うっかり怪人♀になってしまったっぽいが、ワンパンされたくないので全力で媚びに行きます。 (赤谷ドルフィン)
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寝起き急転直下

ワンパン世界における怪人の成り立ちって結構闇が深そう



 目が覚めたら、部屋が燃えていた。

 それはもう、一瞬で手遅れとわかる程度には。

 

「っ、なんだこれ、」

 

 熱い。煙たい。息が苦しい。

 ぱっと頭に浮かんだのは『火事』の二文字だった。ただ、自分のせいかもとは思わなかった。寝煙草はもちろん、この部屋の暖房器具はエアコンしかない。火の不始末とも思いがたい。

 ──放火?

 それも考えられたが、ここはアパートだ。近隣の部屋で出火した可能性もある。

 まあ、原因なんてどうでもいいのだ。今、どうするかを考えなければ。

 

「どうしたら……」

 

 逃げる。もしくは消防署に通報。

 枕元、いつもスマートフォンを充電している位置に手をやる。が、

 

「ない、」

 

 指先はただ、シーツを掠めただけだった。おかしい。眠る前に絶対、ここに置いたのに。

 そこで、ベッド脇のテーブルに長方形の物体があることに気づく。スマホだ。とっさにそう思って取り上げたが、違和感を覚えた。

 赤い手帳型のカバー。

 

「……俺のじゃない」

 

 何かがおかしい。

 ただ、それを考えている猶予はなさそうだ。見覚えのないスマホを放り投げて、逃げ道を探すほうへと意識をシフトさせる。

 その時だった。

 

「セツナ、セツナ!」

 

 誰かが誰かを呼ぶ声がした。隣の部屋だ。慌てているらしい中年女性の声が聞こえている。

 火事なんだから当たり前か。妙に落ち着いてそう思った。知らない声だった。

 

「起きてるの!?」

 

 しかし妙に近く聞こえる──そう感じた瞬間、開いていたドアからそれが飛び込んできた。

 顔を覗かせる誰か。やはり、見知らぬ女性だった。鬼気迫ったこちらを表情で見つめている。

 そして一言、

 

「セツナ、早く逃げなさい……!」

 

 ──セツナ? 誰だ。

 後ろを振り返る。焼け焦げたカーテンが、ひらひらと夜風に揺れているだけだった。

 

「セツ、────きゃああッ」

 

 その顔がいきなり横にスライドして、視界から消える。その直撃、悲鳴が上がって。

 バキ、ベキン、ゴオォッ。

 不吉な音がした。

 アルコールを染み込ませた小枝をへし折って、火の中に放り込んで燃え盛らせたような音。ただし、壁の向こうにいるのは人間と──誰だ?

 

「ごほっ、」

 

 ダメだ、頭が回らない。

 何もかもが妙でおかしいのに、冷静に考える暇さえない。意識が遠くなってきた。

 もうドアから逃げるのは無理だ。せめて、と開いた窓から顔を出す。煙とともに、闇夜が火花に散った。屋内より多少ましな空気を吸い込む。

 ここから飛び降りられないか。

 ふと思ったが、眼下は闇に飲まれて何も見えない。とてもじゃないが、そんなことをする勇気は出そうになかった。

 

「うっ」

 

 その時いきなり、熱風が背中を舐めていく。生半可な温度ではなかった。激痛で息が詰まる。

 何かが、近づいてきていた。

 意を決して振り返る。

 その先にいたのは──溶岩だった。灼熱のマグマが、人間の形をして歩いている。

 体表を泡立たせ、ぼとぼとと体の一部を落としながら、こちらに近づいてきている。

 

「何なんだよ……!」

 

 明らかに、ヒトではなかった。

 化け物。ひどい火傷を負ったはずの背に、ぞっと寒気のようなものが走る。

 

『燃やせ……燃やせ……』

 

 化け物は地の底を這うような声音で、呪詛のようなものをぶつぶつ唱えていた。こいつがこの火事を起こしたんだ。とっさに理解する。

 

『全部……全部だ、燃やしてやる……』

「やめろ、」

 

 当然、聞く耳は持っていないらしい。

 退路。逃げなければ。

 もう一か八か、この窓から飛び降りるしか。思わず窓枠に掛けた手に、炎のムチが迫る。

 

「ひっ」

 

 痛みと熱さでとっさに飛び退いたところに、化け物が覆いかぶさってきた。まずい、

 

『燃やせ、焦がせ、殺せ……!』

「あ゛あ゛あ゛ッ」

 

 視界が、真っ赤に染まった。

 体が、俺の体が、溶けていく。どろどろに、壁やカーテンみたいに、ぐちゃぐちゃになる。

 

 嫌だ、

 あああ熱い、熱い熱い熱い熱い!

 助けて、違う、冷やさなきゃ、消さなきゃ、

 この火を無くさなきゃ、

 死んでしまう!

 

「消えろ、消えろ、消えろ……!」

 

 火を消せ! 

 死にたくない、それでしか生き残れない!

 何が何だかわからない、でも、こんなところで死んでいられないのは確かだった。

 

『は……』

 

 きつく瞼を閉じる。

 そうして、全てが真っ白になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──ゆっくりと目を開ける。

 部屋が、凍っていた。

 さっきまで、あんなに燃え盛っていたのに。

 

 インテリアはどろどろに焼け焦げて原型を留めていなかったが、それらが全て透き通った氷に閉じ込められている様は、美しかった。

 それにしても、何だかやたら窮屈に感じる。少し身動いだだけで壁にぶつかってしまう。

 おっと。身を竦めたが、

 

『ツメタクナイ』

 

 何も感じなかった。

 思わずぼやいたが、自分のものとは思えないくらい低く、ひび割れた声が聞こえた。

 あの化け物はどこに行ったのだろう。振り返った先で、氷漬けのそいつと目が合った。

 少し驚いたが、動く気配はない。

 

『ハハ……』

 

 俺がやったのかな、これ。

 何だか妙に楽しくなってきた。もっとたくさん凍らせられるんじゃないか。

 このアパート……ううん、何もかもを。

 とても静かで、良いところだ。

 全部、そうしたい。

 

『凍らせろ』

 

 何だか体もおかしいんだ。

 透き通る氷の鱗、氷柱の鉤爪、大きな口から吐く息はダイヤモンドダストのよう。

 

『冷やせ』

 

 一歩踏み出すごとに地響きが鳴り、新たに床が凍りついていく。ああ、面白い。

 

『静かに』

 

 いや……待てよ。

 そもそも、これって何なんだ。

 俺、こんなところで怪獣ごっこしてる場合なのか。何が何だかわからないっていうのに。

 楽しい……いや別に楽しくもないだろ。

 冷静になれ。

 冷静に──ビー・クール。上手いけど、今は笑えない冗談だよな。

 

『チガウ……』

 

 まだ、夢を見てるんじゃないか。

 そうだ。

 俺はきっとまだ夢の中で、起きたらいつもどおり大学に行って、卒論の続きを書かないと。

 こんなのは絶対におかしいのだから。

 

 覚めろ、覚めろ、覚めろ。 

 

 頭をめちゃくちゃに振りたくる。途中であちこちぶつけたが、痛みは感じなかった。

 やっぱりこれは夢なのだ。

 

 覚めろ、覚めろ、覚めろ!

 

 ぱきん。

 何かがひび割れる音がした。

 ──俺の体からだった。

 中心に入ったひびから、ぱらぱらと、鱗が落ちて剥がれていって。“俺”が、崩れていく。

 ぱきぱき、ぱき。

 ばきん。

 

 やがて真っ二つに、割れて。その中から、また“俺”の体が出てきた──ように感じた。

 

「……っ、あ……」

 

 視点が、感覚が、戻ってくる。

 手足を見下ろす。やたら血の気がないが、確かに人間の手のひらだった。

 凍りついたままの部屋で、ぼうっと天井を仰ぐ。やはり、冷たさは感じなかった。

 まだ、覚めない。

 夢じゃ、ない?

 

「なんだ……これ……」

 

 ──そこで、意識が途切れた。



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氷系能力者って主人公になれない

 次に、目が覚めた時。

 俺はやはり、あの“夢”の中だった。

 

 

 

 

 セツナ。

 これは俺の……というか、“俺の意識が入ったこの肉体”の名前であり。

 俺は21歳の男子大学生であったはずが、“セツナ”は既に働いている19歳の女性だった。彼女はこの街の個人経営飲食店に勤務していて、あのマンションで家族とともに暮らしていた。

 ──そして、皆死んだ。

 今回の火災で、従業員も、店長も、家族も。

 セツナが特別運が悪かった訳ではない、ここいら一帯の人間はほとんど死んだのだから。

 

 

 という話を、公園に張られたテント、その簡易ベッドの上で聞かされた。

 そう言われても、ぴんと来なかった。

 悲しくもなかった。

 当然だ。“俺”にとっては赤の他人なのだから。

 俺は、『“たまたま”火の勢いが弱かったマンション』のエントランス付近で倒れていたところを救出されたらしい。あのやらかしは町全体が燃えていたせいで上手く証拠隠滅されたようだ。

 いきなり別人になって、変な化け物に襲われかけて。撃退できたけど、何もかもを失って。

 有り得ないこと続きだったが、気持ちは妙に冷静だった。

 

「セツナ……」

 

 馴染みのない響きだった。

 赤井佑太。それが俺の本当の名前。

 日本で生まれ育った、何の特徴も取り柄もないごく普通の学生だった。色恋沙汰に無縁だったせいか、より平坦な21年間だった。

 それでも何とか内定を掴み取って、卒業見込まで漕ぎ着けたのに。いきなりこんなことって。

 考え込んでいる俺の様子を、スタッフらしき人は落ち込んでいるのだと捉えたらしく。

 

「ご存知かとは思われますが、最近、怪人絡みでこういう大規模な災害がしょっちゅう起きていて……」

 

 さらっと告げられた慰めの言葉の中に、引っ掛かるものがあった。

 

「……怪人?」

 

 フィクションの中でしか聞いたことないワードだった。思わず聞き返してしまったが、スタッフは変わらず神妙な顔をしたままだ。

 確かに、あれは化け物とか怪人とか、そういうワードが相応しい見た目だったが。

 この若い男性の頭がイカれているとは、いくら何でも思いたくない。見るからに真面目でしっかりしていそうな好青年なのに。

 

「ええ……この間はB市でも……すみません、」

 

 B市。疑問に疑問が折り重なる。

 聞いたこともない地名だった。そもそもこんなシンプルすぎる名前が、英語の教科書や数学の設問の世界を飛び出して有り得るとは思えない。

 

「……いや待てよ、」

 

 怪人。B市。

 一見繋がりがないこのワードに、俺は関連性を見出だせてしまった。いやでも、有り得ない。

 そんな。それこそフィクションの。

 

「ちょっと、……ああ、」

 

 例のスタッフを呼び止めようとしたが、彼は既にテントを去っていくところだった。

 クソ、もうひとつワードが揃えば確信を得られたのに。

 

「………………」

 

 事故は本当に大規模で、それ故に、処理する側の人手が足りていないようだった。何せ、病院にさえ運んでもらえていないのだ。

 このテントに他に簡易ベッドはなく、黒っぽい寝袋が所狭しと並べておいてあるだけだ。ちなみに顔を出す部分はない。つまり、お察し。

 戦時中を描いた映画を思い出す。野戦病院の描写が、確かこんなふうだった。

 胸糞悪い。どちらにせよ、こんな場所に長居したくはなかった。

 どこも痛む部分はなく、手足も動く。ベッドから起き上がって、そこで、足元に何かが落ちているのに気づいた。

 黒の長方形。革製でジッパーのついた、

 

「……財布だ」

 

 誰の持ち物だろうか。

 高確率で持ち主は死んでいそうだが。何となく中身をチェック。……思った以上に中身が入っていた。振り込みにでも行く途中だったのか。

 カード類はともかく、これだけ現金があればしばらく問題ないだろう。

 

「すまん、」

 

 まだ見ぬ持ち主へ形だけの懺悔を述べて、テントを出る。

 広い公園内には似たようなテントがずらりと並んでいて、動いている人間は皆、揃いの格好をしていた。俺のように、ボロい着の身着のまま、というのは一人もいない。

 ……もしかして、この街の生存者って本当に俺だけだったのかな。まあ、こっちだって正攻法で生き残った訳じゃないけどさ。

 ふと見やった地平線の彼方は、真っ黒に焼け焦げていて。今も煙がくゆっている。

 何となく苦い気持ちになりながら、その場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここはどうやら、隣町らしい。

 あの町に近いらしい公園付近は災害の余波を受けたようだが、そこから離れたこの大通りは、実に平和な賑わいを見せている。

 

「……とりあえず、新しい服を調達したほうがいいかな……」

 

 今は寝間着であろうジャージ姿、しかもところどころ焦げているし、靴なんかスリッパだ。

 要らぬ衆目を惹いてしまう。

 とりあえず、目についた服屋に駆け込んだ。明らかに高級ブランドではない、子ども服や婦人服なんかを安く売っていそうな店だ。

 

「いらっしゃいませぇ」

 

 気の抜けた店員の挨拶を横目に、適当に服をカゴへ突っ込んでいく。町中を歩いていてもおかしくはなさそうなTシャツと、ジーンズ。

 それにジャケットと、スニーカー。

 試着はいいかと思ったのだが、通路にあった姿見にふと、目が行った。ぎょっとする。

 

「真っ白……」

 

 そう。髪だ。

 胸元まであるストレートの髪は、透き通るような純白だった。

 染めているとは思えない仕上がりだった。何せまつ毛の1本1本に至るまで真っ白なのだ。ただ、地毛だとも思いにくかった。

 とっさに頭へ手をやって、そこで、こめかみに何かがあることに気づく。

 小さな突起。腫れている訳でもなく、妙に表面がつるつるしている。

 

「何だこれ、」

 

 鏡に近づいて、そっと髪を掻き分ける。

 そこにあったのは、

 

「……ツノ……?」

 

 例えて言うなら、溶けかけの氷の欠片。

 それが、側頭部からちょこんと生えていた。もう片側にも似たようなものが。

 頭によぎったのは、あの、妙な体験。鱗があって、鉤爪が生えていた、謎の形態。

 まさか。後遺症?

 

「……不気味だ」

 

 慌てて髪を整える。幸い、普通にしていれば目立たない程度のサイズ感だ。

 ツノもどきをきっちり隠してから、カゴを抱えて会計へと向かう。

 

「いらっしゃいま、…………」

 

 レジスターを何やら操作していたらしい若い店員は、やってきた俺を見て、ちょっと呆気にとられたような顔をした。

 それはそうか。何たってついさっき脱獄してきました、というような有様なのだから。

 

「こほん…………タグ、切ってもらえますか」

 

 ああ、発音の感じに慣れない。

 もっさりとしたダミ声が、いきなり濁りのない美しい響きに変わってしまったのだ。このモデルもかくやという声が自分から出ている、という事実に対する脳の処理が追いつかない。

 ついでに店員側の処理も間に合っていないようで、タグを切るどころかバーコードを読み込んでくれる気配もない。

 

「あの」

「あ、……かしこまりました、」

 

 早くしろ、の意を込めて呼びかけると、ようやく作業がスタートした。

 値段が入力され、タグが切り離され、袋に詰められていくのをじりじりしながら見守る。

 合計、一万円也。

 まあフルコーディネートでこれなら、安いほうなんじゃないだろうか。一万円と、ちょうど分の小銭があったのでそれを置いて、そそくさと店を後にした。レシートなんざいらねえ。

 

「ありがとうごさいましたぁ」

 

 やっぱり気の抜けた店員の見送りを受けて、陽の光が眩しい町中に繰り出す。

 さて。これからどうしたものか。

 ふと、斜向かいにある大きな建物に目が行く。オレンジ色を基調としたその外装を見て、すぐにどんな店かの想像がついた。

 

「……ネカフェ、か」

 

 服を着替えたい。

 調べ物がしたい。

 誰もいない空間で休みたい。

 それら全ての欲求を解決してくれる、ちょうどいい場所だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 やっぱり受付の店員には変な顔をされたが、何とか部屋を確保することに成功した。

 シャワーを浴びて、買ったばかりの服に着替える。そこで下着も買っておけば良かったと思ったが、女性用のそれを吟味する勇気はまだない。いくら体が女性だったとしても、だ。

 壁付テーブル上のデスクトップPC、それとベッドソファもどきがあるだけのシンプルな個室で、ようやく一息つく。

 

「ふう……」

 

 ドリンクバーから調達した麦茶を飲みつつ、濡れた髪をタオルで乾かしていく。

 

「………………」

 

 こうしているとついシャワールームでの光景を思い出して、背筋が熱くなったり冷たくなったり。

 年齢イコール彼女無しなので、裸の女体をナマで見るのはこれが初めてだったが、いやな気まずさしか湧いてこなかった。

 今は自分が動かしているとはいえ、本来は別の女性のものだった体だ。自分で自分の体を洗っているだけなのに、セクハラしているような気まずさがあって集中できなかった。

 かといって、開き直って興奮する気分にもなれない。我ながらそんな高度なナルシシズムは持ち合わせていなかったようで、安心する。

 

「髪が邪魔だな、」

 

 結ぶものを買っておけば良かったと思う。

 髪が長かった時期なんてものはないので、想像力が及ばなかった。

 

「さて……」

 

 シャワーを浴びて、着替えた。

 水分補給もできた。

 あとは、調べ物のほうだ。

 

 PCの電源を入れる。

 どうして俺がいきなり見知らぬ女性になってしまったのか。それももちろん気になるが、そんなことはインターネットで調べられない。

 俺がこの電子の海で知りたいのは、もっと表面的でわかりやすいこと。

 

 【怪人】

 

 馴染みのない検索エンジンのボックスに入力するのは、その1単語だけ。

 元の世界なら、某ライダーのウェブサイトなんかが出てきそうなワードだが。

 

「政府の公式ページ……?」

 

 検索トップに出てきたのは、中央省庁が出しているQ&Aのページだった。

 予想通りといえばそうだが、改めて見ると驚愕と混乱の入り混じった感情が湧いてくる。

 

「初めて出没したのは20年以上前……」

 

 そこでふと、頭に浮かんだ単語。

 

 【ヒーロー協会】

 

 マウスを操作して、検索。ぱっと出てきたのはよくわからないファンサイトらしきもの。

 

「……出てこない、か」

 

 想像したようなサイトは出てこなかった。しかし、それで仮説が揺らいだ訳ではない。

 検索結果に現れない。存在しない。

 しかし、それは“まだ”というだけだろう。いつか必ず、表舞台に出てくる時がやってくる。

 その確信があった。

 

 こめかみに鈍痛を覚える。疑問は解決したが、状況は何も改善する気配がない。

 タブを閉じながら、麦茶の入ったコップを口元に運ぼうとして、 

 

「ん、」

 

 出てこない。まさかもう飲みきってしまったのかと手元に目をやって──

 

「あ」

 

 凍っていた。

 中身が、どころではない。

 コップそのものに、薄く氷の膜が張っている。一晩冷凍庫に放置したかのような有様だったが、それを握りしめている手は、冷たくもなんともなかった。

 マンションでの光景がフラッシュバックする。凍りついた部屋。冷気を感じない体。

 人間、な訳がない。

 

「…………あ゛ー……」

 

 コップを放り出して、天井を仰ぐ。

 

 怪人。アルファベットの地名。ヒーロー。

 一見繋がりのないそれらが結びついて絡みあって、見覚えのある形を成していく。

 ──ワンパンマン。

 ただの漫画でしかないはずのその世界観が、なぜか突然リアリティを纏って、目の前に存在している。俺を包み込んでいる。

 

 しかも。し、か、も、だ。

 ゆるく握りしめていた手を、頭上にかざす。ダイヤモンドの煌めきをばら撒きながら、室内をゆっくりと満たしていく冷気。

 

 ワンパンマンの世界に転生した。

 知らない女性の体に憑依した。

 で、速攻、怪人になってしまった。

 

 人間に敵対する意思がある訳でもない。ただ、生き延びたかった。訳がわからないまま死にたくなかった。ただ、それだけだったのに。

 この世界で俺はもはや、排除されるべき存在になってしまったのだ。

 

「……俺、これからどうしたらいいんだろうな……」

 

 答えてくれる人間は、誰もいない。





炎系より氷系が好きな中二病患者です


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ファーストインプレッションは大事

 あの後。

 気分が落ち込みまくったのでとりあえずひと眠りして、それで何となく、整理がついた。

 

 何となく昨日(一昨日?)の怪人被害を調べていたら、たまたまセツナが働いていた店のホームページに辿り着いてしまって、それでまたちょっと落ち込んだけれど。

 サイトには従業員が働いている姿を映した写真がいくつかあって、そこで、見覚えのある顔を見つけた。

 “俺”ではもう再現するのが難しいであろう優しい笑みを浮かべた、ポニーテールの女性。

 セツナだった。黒髪に茶色い目で血色が良い、という点を除けば、この姿と同じ。

 

「……やっぱり、地毛じゃなかったか」

 

 白の毛先をつまみながら、改めて思う。

 瞳の色もだ。

 昨日、店で覗いた鏡に映る瞳は、このありふれた茶色ではなく薄い青色だった。

 変異してしまった──というのが正しいのだろう。もう、元に戻ることはない。

 今度は気分が沈まなかった。

 逆に、吹っ切れた気持ちになった。

 

 “赤井佑太”は“セツナ”じゃない。

 怪人になって、中身も別の人間になった。順番が前後してしまうが、そう考えて開き直っていくしかない。俺にとっては幸いなことに、“セツナ”を深く知る人間の大半はもうこの世にはいない。

 俺は俺として生きていく。

 

「さて、」

 

 顔を叩いて気を引き締める。

 今からやるべきこと。

 

「単行本の内容をリストアップして、脳ミソに叩き込む」

 

 ……と、いうことで。

 昨日の衣料品店に行って、ツノを隠すためのキャップとリュックサック、その近くにあったコンビニでノートと筆記用具を購入してきた。

 

 昔から、追い詰められるとつい手元にある漫画を最初から読み耽ってしまう悪癖があり、最近よく読んでいたのがワンパンマンだった。

 現実逃避にはスカッとするアクション漫画が最高の薬だ。主人公が最強なのがなお良い。

 だから、大まかな流れはもちろん頭に入っている──のだが、時間が経てば忘れてしまうし、読み直す機会はもうない。

 危険をできる限り避けるため、手元に残る形で書き記しておこうと思ったのだ。

 

「まずはモスキート娘……あ、いや、サイタマの過去からか……?」

 

 四苦八苦しながら、とりあえず読んだところまで内容を書き上げてふと、思うこと。

 

「俺、第二のシババワになれるな……」

 

 どちらかというとサイコス?

 わかるのはガロウ戦あたりまでだけど。

 このノートは絶対に流出させないようにしよう。下手をしたら世界がめちゃくちゃになる。

 ただの100円の紙束から、この世界における特級危険物になってしまったノートを閉じて。

 

「……で、どうすりゃいいんだ?」

 

 次はそれだ。

 俺自身の身の振り方。

 

「死にたくない」

 

 怪人になってしまったけど。

 そもそも、人間を襲う意思はないのだ。少なくとも“この状態”では。でも、それで見逃してもらえるほどこの世界は甘くないだろう。

 疑わしきは罰せず。人権のある人間だから適用される言葉だ。怪人にその権利はない。

 

「安全な場所に行きたい」

 

 そんな場所、あるのだろうか。

 

「守ってもらいたい」

 

 誰に? 

 世界で一番強い誰か──

 

「サイタマ……」

 

 当然、その4文字が自然に浮かんだ。

 ボロスやガロウ、はてはブラストやタツマキに運良く取り入ったとしても(可能かは別として)、彼らがサイタマに勝てる保証はない。何なら前者は公式でばっちり倒されている。

 上手いことサイタマに擦り寄る。

 まあ……ついでにプロヒーローにもなっておくか。なれればの話だが。この危険能力は人間様を守るために使いますよ、と社会に無害をアピールするために。

 生き延びて“平穏”を得るための、今のところ思いつく中では一番現実的な方法だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 完成したノートと筆記用具、財布をリュックに詰めて、気晴らしに町へと繰り出してみる。

 昨日はあんなに一人になりたかったのに、今はもうあの狭苦しい個室に引きこもっていたくはなかった。頭がおかしくなってしまいそうで。

 

 平日の、人の少ない通りをぶらつく。

 何の面白みもない──例えて言うなら北関東の駅前のような町並みを歩きながら考えるのは、今は時間軸で言うといつなのか、ということ。

 サイタマに取り入るにしても、万が一中学生や高校生だったら俺は女とはいえそこそこ不審者、下手をしたら性犯罪者になってしまう訳だ。

 それはちょっと、御免被りたい。

 

 ……まあ、冷静に考えなくてもこれらは全て狸の皮算用。俺のこの計画には強大かつ、根本的な問題が横たわっているのだから。

 

「いや……まずそんな都合よく会える訳、」

「就活はやめだ、かかって来いコラァ!」

 

 瞬間、聞き覚えのある声が耳をつんざいて──

 ──居た。

 

 いつの間にか、住宅地にまで足を踏み入れていたらしく。

 道を挟んだ向かい側、児童公園の前で相対する二足歩行のカニ──と、スーツのジャケットを勢いよく脱ぎ捨てる黒髪の男。

 誰だ、なんて思う訳もなかった。

 カニランテと、サイタマ。

 まだ覚醒していない時の。

 

「…………マジで?」

 

 目を擦ってみても、景色は変わらない。

 間違いなく、1巻のあの組み合わせ。

 伝説の始まり。

 

 そんな都合よく……会えちゃったよ。

 ツイてないことばかりと思ったが、全ての悪運はこの時の布石だったのかもしれない。

 建物の陰に隠れつつ、こっそり距離を詰める。一人と一匹が気づく様子はない。

 で──で、どうする?

 

「さすがにこのチャンスは逃せない、けど、」

 

 中学生でも高校生でもなかったが、ハゲる前のサイタマだ。これが吉と出るか凶と出るか。

 悶々としているうちに、

 

「あああああああああああ!」

 

 濁った絶叫とともに汚い花火を咲かせるカニランテ様。ちょ、原作読んだ時も思ったけどここのサイタマさんしれっと機転が利きすぎです。

 

「お、終わっちゃった……」

 

 この後の展開は描写されていなかったはずだが、放っておいたら当然にこの場を去ってしまうだろう。接触の機会は今しかない。

 

「ン゛ン゛っ、ごほん、」

 

 咳払いをして、そろそろと物陰から出る。

 アスファルトにへたり込んだサイタマは、まだこちらに気づく様子はない。

 清楚、清楚に行くんだ俺。

 ファーストインプレッションでトチったら全てが終わるぞ。それこそ就活と一緒だ。

 クソ、こんなことならTシャツにジーンズじゃなくかわいいワンピースとか買えば良かった。

 背後に立って、

 

「だ、……大丈夫、でしゅか……?」

 

 ヤッバイ噛んだ。最悪。

 時既に遅し、サイタマが振り返って俺を見た。

 

「ぁ……うぐ、」

 

 しかし、彼のほうはそんなマナー違反を気に留めている余裕はないようだった。

 殴られたところが痛むのか、渋い表情で腹を押さえている。ボコボコにされてたもんな。

 

「あのカニランテとかいう野郎……」

「倒した……みたいです」

 

 少し離れたところで地面に伏せる故・カニランテ。死因が脳ミソごと目玉を引きずり出されたことによるショック死なので、かなり画がグロい。

 それを見たサイタマはホッとしたように息を吐いて、まだフサフサの頭を掻いた。

 

「あの、」

 

 いつまでも地面に座り込んだままなので、とりあえず手を差し伸べてみる。

 

「ああ……」

 

 それを握ろうとしたサイタマは、肌が触れ合った瞬間。小さく跳ねて眉をひそめた。

 しかめっ面と目が合う。

 

「……あんた、手冷たいな……」

 

 手が、冷たい。一瞬で、冷水を浴びせられたような心持ちになった。

 異常な温度だったのだろう。

 それこそ、怪物みたいな。

 

「ごめんなさ、」

「いや」

 

 慌てて引っ込めようとした手のひらを、今度こそ躊躇なく握りしめてくるサイタマの。

 

「あ……」

「どうもね」

 

 大きな手だった。いや、俺のが小さいのか。

 骨ばってごつごつとした感触に、改めて性別の違いを感じてしまう。できる限り意識しないようにしながら、その手を引き上げた。

 よっこいせ。

 若さの感じられない掛け声とともに立ち上がったサイタマが、俺を見返してくる。血と、蟹汁にまみれた顔は、それでも精気に満ち溢れていた。

 それを見ながら、ぼんやり問いかける。

 

「……ヒーローって……」

「あー……聞かれてたか」

 

 気恥ずかしそうにはにかんでみせる。

 

「ヒーロー。なりたかったんだよ。……就活連敗の無職が言うと、バカみたいだけどな」

「いえ」

 

 首を横に振ると、彼は少し驚いたような顔をして、黙った。そこへさらに、

 

「格好良かった……です」

 

 若干しどろもどろになったのは、本当にサイタマの立ち回りに惚れ込んだ訳ではなく、こんなセリフを男相手に言う葛藤によるものだが。

 まあ、この状況では効果的には働いたのではなかろうか。

 サイタマはくすぐったそうに目を細めて、

 

「サンキュな」

 

 そんじゃ、あんたも気をつけろよ。

 そう爽やかなセリフとともに、ジャケットを拾い上げ。それを肩に掛けて、颯爽と去っていく。

 その背中を見送ってから、

 

「……まあ、悪くは、なかったかな……」

 

 それなりに喋れたのではなかろうか。

 しかし、コミュニケーションの出来で悦に浸れたのはそこまでだった。

 

「あ、」

 

 これからに向けて、重大なミスをしたことにふと思い至る。せっかく幸運が舞い込んできたのに、

 

「連絡先とか、交換しておけばよかった……」

 

 このままじゃただの通りすがりじゃん。

 全く、詰めが甘い。

 今後の前途多難を思って、俺はひっそり、誰もいない住宅街で肩を落としたのだった。




これを書くにあたって原作を読み返してるんですが、1巻が9年近く前とかで卒倒しそうになりました そんなに前か…


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秘匿的ステークホルダー

 あれから、何事もなく数日が過ぎてしまい。

 サイタマの手がかりを失った俺は、例の児童公園でぼうっと時間を潰す日々を送っていた。

 本当に、何もしない。

 朝、ネットカフェで目を覚ましてから、日が暮れるまで、ただベンチに座っているだけ。

 虚無の極みのような毎日だったが、それ以外に何かする気にもなれなかった。

 

「………………」

 

 ほとんど人が通らない道を眺めるのにも飽きて。じっと、血の気を失った手を見つめる。

 不思議なことに。

 あれからほとんど飲み食いしていないが、腹が空いた感じはしない。たまに口寂しくなってドリンクバーを使ったりはしたが、それだけだ。今も何となく自販機で買ったミネラルウォーターのボトルが手元にあるが、栓を開ける気もしない。

 なのに、体が弱っている感覚もない。

 こんなのは、明らかに変だ。

 おかしい。

 飲む、食う、出す。人間に必要なはずの生理現象が、失われている。それに加えて何となく夜は寝ているが、眠らなくてもきっと平気。

 

「金がかからないのは、いいけど……」

 

 腹に手を当ててみる。そこでふと、思った。みぞおちの下辺りにやっていた手を、さらに下へ。

 食欲、睡眠欲──そして、性欲。

 三大欲求から連想したが、したいかどうかではない。その『機能』があるか。

 

「……無くなってそうだなあ……」

 

 そして、“セツナ”に対する再びの罪悪感。

 体を勝手に乗っ取っておいてこんな下世話な想像までして、本当に申し訳ないです。

 

「はあ」

 

 ……今日はもう、帰ろうかな。

 

 ネットカフェに引きこもっていると頭が云々は確かにそうなのだが、だからといって、こんな寂れた公園で来るともしれない人を(一方的に)待ち続けるのもなかなか精神的にきつい。

 漫画が読みたかった。

 幸い、ネカフェに帰れば、漫画はいくらでも読み放題だ。心置きなく世界に浸れる。

 アクション漫画が良い、できれば不快感ない主人公が無双するヤツ……ああ、俺、もしかしてまた持病を発症しかけてる?

 

「……ん?」

 

 ──そこで、代わり映えしなかった景色に新たな登場人物が現れたことに気づいた。

 出入口付近に、ジャージ姿の男が立っていた。それが、なぜか真っ直ぐ近づいてくる。こっちには自動販売機もないし、トイレもないのだが。

 何なんだ、一体。

 

「あんた、」

 

 その過程で呼びかけられて、ようやく身元に合点がいった。そして、だいぶ驚いた。

 まさか、まさかの、

 

「この間の、だろ」

 

 サイタマだった。

 服装は先日と違ったが。

 小走り程度だった歩調をだんだんと緩めて、自然に俺の目の前で立ち止まる。肩に垂らしたタオルでこめかみの汗を拭う。

 

「サ、…………さ、サラリーマン志望のひと」

「なんじゃそりゃ。就活中だったけどさ」

 

 危ねえ、気が動転して名前呼びそうになった。まだ教えられてもないのに。

 慌てて軌道修正したが、無理がある気がした。幸いサイタマはさらっと流してくれたが。

 

「よく……覚えてましたね」

「まーな。その見た目のおかげかもだ。あんた、結構目立つし」

「う、」

 

 思わずキャップの鍔を引っ張る。

 この髪色と肌の白さのせいだろう。人混みで写真に写り込んだら心霊現象扱いになるかも。

 そのままうつむき加減で当たり障りない話題を振っておく。

 

「……ランニング中ですか?」

「ああ、トレーニング……始めたんだ」

 

 腹筋100回、腕立て伏せ100回、スクワット100回、ランニング10キロ……だっけ。

 ジェノスはこれを『普通』と罵ったし、サイタマの強さがこれのおかげだけとも思わないが、よく考えなくても面倒臭い運動量だと思う。

 

「就活はやめた。ヒーローになる」

 

 そのためのトレーニング。

 にっと、歯を見せて笑ってみせる。実に誇らしげな笑顔だった。

 

「まずは体力つけねーとな」

 

 玉の汗が浮かぶ健康的な顔。そこで、手をつけていないミネラルウォーターのことを思い出した。

 

「あの、これ……どうぞ」

 

 手慰みと化していたそのボトルを差し出す。しばらく膝に乗せていたが、体温が低いおかげで温まったりはしていないはず。

 

「まだ開けてないので……」

「いいのか?」

 

 サイタマのほうは遠慮するでもなく、躊躇なく受け取ってくれた。

 

「くれるんなら、有り難くいただくけどな」

 

 キャップを捻って中身を豪快に呷る。1/3ほど飲み干してから、口元を雑に拭って、

 

「俺、サイタマ。あんたは?」

 

 ようやく情報開示された。その前にうっかり「サイタマさん」と呼んで怪しまれる事態は回避できた訳だ。

 そこでふと、その後ろにくっついた疑問符に意識が行く。聞いているのか。俺に、名前を。

 

「お、……わ、わたし……」

 

 滑った口を慌てて軌道修正する。

 一人称「俺」はちょっと、マズイだろう。

 俺が目指したいのは、若い女性の平均値だ。多数派を演じていきたいのだ。目指せ量産系。

 ──で、名前のほうだが。

 捏造する? まさか前世(仮)の本名を名乗る訳にもいかないだろう。性別が違う、と言ってもこの世界の命名センスは明らかにそういうものを下地にしていなさそうだが。しばらく迷って、

 

「セツナ、です」

 

 結局、元の名前を名乗った。

 好感度が上がりそうな響きがとっさに思い浮かばなかったのもあるし、『清楚な女性』の仮面を被って演じる上では都合が良い気もした。

 

「セツナ」

 

 サイタマは淡々と繰り返して、それで、なぜかベンチの隣に腰掛けてくる。

 

「あんた、この辺りに住んでるのか?」

 

 興味を持ってくれたのか。

 何となく、不思議な感じがした。本編時のサイタマはほとんど他人に無関心、住み込みの弟子として献身的なジェノスをたまに気遣っているくらいで、まあ、それも受け身の姿勢だ。

 3年前まではわりと積極的だった、という解釈でいいのだろうか。

 

「いや……」

 

 しかし、自分の話か。

 どこまで話すべきだろう。

 一瞬悩んだが、同情は引けるだけ引いておいたほうがいい。悲惨な境遇は事実なのだから。

 

「実は……怪人災害で家も、家族も……」

 

 隣で、サイタマが微かに息を詰めたのが聞こえた。

 ジェノスの件を鑑みるに、「フーン」程度で済ませそうなイメージを持っていたが、随分と良い反応をしてくれるものだ。そんな不謹慎なことを考える。

 

「……今はネットカフェで夜を過ごしてますが、これから、どうしたらいいのか……」

 

 続けて口にしたこの悩みは、本心だった。

 

「でも、何もする気になれなくて……」

 

 これも、本心。

 困っている。怖い。つらい。

 一部では、“赤井佑太”の苦痛と“セツナ”の苦痛は重なっている。何もかもを突然奪われて、迫害されるべき存在になってしまったという点では。

 そこで一旦、サイタマに目を向ける。

 

「……それで、…………」

 

 サイタマは、何か言いかけて、わかりやすく言い淀んで。がりがりと荒っぽく髪を掻いた。

 

「あー……その、なんだ、セツナ」

 

 もどかしそうに呼びかけられる。改めて彼の顔を見返したが、視線は逸らされてしまった。

 

「なんかまた、困ったことあったら言えよ。俺、これから毎日この辺走るからさ」

 

 ──思いもよらない申し出に、さすがに二の句が継げなかった。

 その場しのぎで投げかけられた訳ではない、確かな重みを感じる言葉。まさか、サイタマからこんな人間味溢れるセリフが聞けるなんて。

 衝撃を受けたことによる俺の沈黙を何と取ったのか、サイタマはぎょっと目を見開いて、

 

「いや、他意はねーぞ!? 俺はこう、純然たるヒーロー志望の若者としてだな、」

 

 わかりやすい弁明。

 出会って早々に下心かよ引くわ、と心的距離を置いたと思われたらしい。

 もしサイタマに疚しさがあったとして、今の俺は到底彼を非難できる立場にないのだが。

 

「……ありがとう、」

 

 とりあえず、礼だけをつぶやくと。

 ロボットダンスのように両腕をばたつかせていたサイタマの動きが、はたと止まり。その置き場所にさんざん迷う様子を見せてから、

 

「……おう」

 

 最終的に、照れ臭そうに頬を掻くだけに留まった。

 それから、脇に置いていたペットボトルのキャップを開けるなり、ごぼごぼと浴びる勢いで中身を飲み干して。すっくと立ち上がり。

 

「じゃ!」

 

 そう叫んで、ランニングというには大振りな動作で公園を出ていった。……ちなみに、空のボトルはきちんとゴミ箱にシュートされた。

 その一連の動作を見た俺はといえば。

 

「……すごい人間人間してるなー……」

 

 どうこう思う以前に、そんなナメた感想しか出てこなかった。いや、あんな情緒が彼に備わっているとは思っていなかったもので。

 犬にお手を命じたらいきなり喋り出したかのような未知の衝撃を得ている。失礼すぎるか。

 

「ラッキー……ではあるよな」

 

 サイタマからわざわざ接触してくれたのだ。これを逃す手はないだろう。

 

「まあ、今日はとりあえず──」

 

 ネカフェに帰って、主人公が無双するタイプの長編アクション漫画が読みたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから、この児童公園で何となく落ち合う日々がスタートした訳だが。

 最初はただラッキー、と思っていたのが、日が経つに連れて、だんだん不安になってきた。

 だって、都合が良すぎるだろう。

 たまたまサイタマに会えたまではいい。

 その後、何事もなかったのにこんなにあっさりと関係性が続いていることに、違和感しかない。それを単なる幸運で済ませられるほど、今の俺の脳内は平和ではなかったのだ。

 

 今日も今日とて、サイタマは当たり前のように俺の隣に座って、雑談を振ってくる。

 それに不安を覚える。

 しかし、言うべきではないことかもしれない。わざと見ないふりをするべき、わざと放っておくべき要素なのかもしれない。少なくとも、サイタマに面と向かって問うようなことでは。

 ──そう、わかってはいても。

 わかってはいるのだが。

 不安定な計画の上に成り立った俺の精神は、そのひずみには耐えきれそうになかった。この疑問を解決しないことには、前に進めそうにはない。

 

「そんで、」

「サイタマさんは」

 

 慎重に、彼のセリフを遮って。

 

「わたしのことを、変だと思わないんですか?」

 

 できるだけ穏当なワードを並べて、核心に切り込んでみる。お前が俺を気にかける理由とは。捨て置いて構わない一般市民だったはずだ。

 しかし、サイタマは、

 

「……なんて?」

 

 何とも微妙な表情をしただけだった。端的に言うなら、意味不明。そんな顔つきだった。

 

「だからその……不気味だとか」

「別に……思わねーよ」

「そうでしょうか」

「なぁんで食い下がる」

 

 彼は軽く呆れているようだったが、俺には重大な疑問だった。

 

「わたしは“わたし”を不気味だと思うからです」

 

 俺に近づくサイタマが変なら、それを拒まない俺自身もまた、不気味で奇怪な存在だ。

 どうして怪しまないのか。どうして放っておかなかったのか。今の“セツナ”に、そこまでの価値があるとは思えなかった。

 

「うーん」

 

 が、サイタマは、またもや曖昧な受け答え。生返事と唸り声の中間のような声を出しながら、ぐるんと大きく首を捻って。

 ──そこで、何かを思い出したようだった。

 

「……あんた見てるとさ、」

 

 虚空を仰いで、自身の記憶に浸る表情。やがて、閉じていた瞼をゆっくり開いて、

 

「ブタの貯金箱思い出すんだよな」

「ブタの貯金箱」

 

 予想外のワードに、思わず硬直。

 ブタの貯金箱。ブタの貯金箱って、

 

「いや、悪口とかじゃねーから!」

「悪口以前に脳内で人間とブタの貯金箱が結びつくイメージが浮かばないんですが……」

 

 慌てた様子でフォローが入ったが、それ以上に不可解な点が多すぎる。サイタマの家のインテリアにブタの貯金箱なんてあったっけな。

 

「ブタの貯金箱かぁ……」

「だから、見た目の話じゃねーって」

 

 例えそのものに引っかかっている訳ではなく、どうして『サイタマ』の口からそんなワードが飛び出してきたのかを探っていたのだが。

 まあ、そんな超個人的な思考回路を曝け出す訳にもいかず、黙っていたところに。

 サイタマの、思い出話が始まった。

 

「あれは……中学生になったばっかの時期だったかな。あの頃の俺、社会ってつまんねーことばっかりだと思ってた」

 

 ──あ。どこかで見たようなセリフ。

 

「宿題忘れて教師に目ぇつけられるし、不良にボコられるし、カツアゲはされるし」

 

 指を折りながら、当時の苦行を述べていくサイタマ。それで確信が得られた。

 

「でも、社会ってそーゆーもんなんだよな。それで他の奴らは上手く立ち回ってんのにさ。俺は全然上手くやれなかった。負け続きだったよ」

 

 番外編として収録されていた、サイタマの中学生時代。その話を、彼はしているのだ。

 

「……何の話だっけ。そうそう、入学早々宿題忘れて、放課後職員室に呼び出されたところで不良にボコられて、200円取られて──」

 

 それで、ブタの貯金箱の怪人に会った。

 

「──で、ブタの貯金箱に会った」

 

 ほらね。何となく誇らしい気分になる。

 

「貯金箱っつっても、怪人だけどさ。人間の手足が生えてて、キモかった。名前は……忘れた。俺をボコった先輩をボコったそいつを、俺は何でか追いかけてったんだよな」

 

 結局、普通に返り討ちにあったし、俺の200円は返ってこなかったけど。

 一瞬苦い顔になりつつも、すぐに表情を緩めて。ベンチの背もたれに体を預ける。

 で、どうしてサイタマはそんな話を。

 そのイベントについてはまだいい、問題は、どうしてそれを俺に結びつけ──

 

「なんか……そん時の気持ちだな。思い出すの」

 

 ──暴力的な納得が、理解より先にみぞおちに抉り込んできて、呼吸ができなくなった。

 サイタマは。怪人を追いかける彼は。

 あの時、一体どんな独白をした?

 

「つまんねー日常の外側からやってきた。俺は、そういうモノを求めてたんだ」

 

 退屈な日常の外側。

 そこからやってきた存在。

 単純な比喩表現だったのだろうが、俺は息が止まるかと思った。日常の外側──目新しさや特別と言えば聞こえはいいが、つまりは異物だ。

 この世界を“ワンパンマン”と名づけられた創作物として消費し、今もなおメタ的に捉えている俺。

 サイタマはそんな俺を『日常に混入した異物』と認識して、あまつさえそこに惹かれている。

 おそらく、無意識ながらに。

 ぞっとした。

 

「あんたの見た目じゃなくて……もっとこう……ダメだな、上手く言えねー」

 

 サイタマ自身はその肝心な正体を、上手く掴めていないようだったが。

 頼むから、そのままでいてくれと思うほかない。ノートの入ったリュックをきつく抱き締める。

 

「だから……まあ、少なくとも、不気味とは思わないって。気にすんなよ、………………」

 

 彼の的外れな慰めが、宙ぶらりんになる。

 ああ、今の俺は、一体どんな顔を。

 

「……セツナ?」

 

 異物。異物か。

 深く息を吸い込んで、吐き出す。

 

「…………わたしも、同じ気持ちです」

 

 それならそれで、構わない。

 元より俺は彼をどうこう言える立場ではないのだ。開き直りを込めて、その目を見つめ返す。

 

「サイタマさんは……わたしに何か、特別なものをくれる気がして」

「特別ぅ?」

 

 暢気に、素っ頓狂な声を上げるサイタマ。

 彼はまだ、何も知らないのだ。いや、3年後の彼が“それ”に自覚的であるとも思わないが。

 

「特別ったって、なんも持ってねーぞ。……あ、200円ならあるけど」

「お気持ちだけ受け取っておきますね」

 

 あなたがくれる、特別なもの。

 世界で一番、安全な場所。

 

 サイタマが本能で望む『世界の外側』を、俺は見せてやることはできないだろう。なぜならきっと、世界そのものが壊れてしまうから。

 彼はそれでもいいと思うのかもしれない。

 けれど、俺は困るのだ。

 このまま彼の望みを利用するのは、騙しているようで気が引けたが。

 

「サイタマさん」

「うん?」

 

 今さら、後には引けないのだ。

 できる限り優しく、微笑みかける。

 “セツナ”の笑みを思い浮かべて。

 

「あなたに会えて、良かったです」




打算…ッ!圧倒的打算…ッ!


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〇〇一年分の“一年分”ってどういう計算?

 常人ならば「どうして自分に構うんだ」などと面と向かって聞かれたら、あれこれ考え込んで足が遠のいてしまいそうなものだが。

 さすがはサイタマというべきか、彼はその次の日も、平然と俺の前に姿を表した。

 彼が何を考えているのかは相変わらずよくわからない。しかし、その理由の一端は掴めたのだ。

 こちらも開き直って、利用していくことにした。

 

 

 

 

「よ、セツナ」

 

 季節が何度か変わっても、サイタマと俺の関係は進みも、戻りもする気配はなかった。

 今日もまた、サイタマは当たり前のように俺の前に現れたが。少し様子が違った。

 

「サイタマさん……それ、なんです?」

 

 いっぱいに駄菓子が詰まった巨大なビニール袋を、肩に引っ掛けている。

 思わず尋ねると、

 

「ああ、これ……なんか、助けた駄菓子屋のババアからもらった」

「また怪人を倒したんですか?」

 

 彼は自分の手柄について、わざわざアピールしてくるようなことはなかった。けれど、雑談の合間に出てきた分だけでも、結構な戦果だと思う。

 

「すごいです。……政府よりハイペースかも」

「そうか?」

 

 カニランテ討伐から月日が経ち。

 実はヒーロー協会は既に設立されている──のだが、ここで彼にその名を知られては困るのだ。

 下手をしたら、ジェノス弟子入りのイベントが潰れてしまうかもしれない。なので、極力伏せて会話する。

 

「しっかし、邪魔だわこのでけえ袋」

「……サンタさんみたいですね」

「町内会の子ども向けクリスマスイベントで出てくるヤツじゃん」

「ふふ」

 

 雑なコスプレして駄菓子配り歩くヤツな。

 妙に解像度の高い例えが出てきて、思わず笑ってしまった。その眼前に突き出される袋。

 

「ほい。クリスマスじゃねーけど」

 

 どうやら、分けてくれる構えらしい。

 

「良いんですか……サイタマさんの貴重な……」

「貴重言うな。お前だってネカフェ暮らしだろ」

「ええ、まあ……」

 

 ……と言っても、今はシャワーを浴びて休憩するくらいにしか使っていないのだが。

 食費その他がかからないとはいえ、手持ちの金はとうに尽きて、夜はもっぱらアルバイトで時間を潰している最中である。

 常にどこかしらが被災地なので、その片付けのバイトが結構豊富なのだ。怪人災害が起きるたびに溢れかえる失業者支援も含めてなのか。履歴書不要、面接不要のわりに、良い金額をもらえるので良い。

 ウィッグで髪は隠していても性別はバレているだろうが、怪人化した影響か、明らかに成人男性を上回るパワーがあったため問題はなかった。

 閑話休題。

 

「駄菓子一年分なんて食いきれねーし」

 

 袋を改めて受け取って、

 

「……ありがとうございます」

 

 中身を検分する。若干名前は違っていたが、見たことのある駄菓子類がたくさんあった。

 マキャベツ太郎、めまい棒……なんじゃこりゃ。ネーミングセンスがアダルトすぎないか。

 そんな中で、

 

「わ。懐かしい」

「ん?」

 

 すっぱいライムにご用心。

 そう記された細長いパッケージを、覗き込んできたサイタマに見せてやる。こんなイカした果物ではなかった気もするが、まあそれは良い。

 

「ほら。ひとつだけすごく酸っぱいのが混ざってるガムですよ。よく友達とやったなぁ」

 

 バラエティ等でたまに見る、わさび入りシュークリームの子ども版みたいなものである。

 大人はつい敗北経験を気にしてしまうが、子どもは勝敗や当たり外れの概念が好きなのだ。

 

「じゃ、俺とやるか」

「え?」

 

 思い出に浸っていたのが、サイタマの呼びかけで現実に引き戻される。やるかって、

 

「二人だけどな。ちょっとした運試しだよ」

 

 まあ、反対する理由もなかった。

 寄越せ、と自然にアピールしてくる手のひらに、袋を乗せる。サイタマは豪快にそのパッケージを破いて、プラケースに並んだボールガムを差し出してきた。

 薄緑色の同じ球体が、3つ。

 

「……せーの、」

 

 サイタマの掛け声に合わせて、慌てて残った右端のガムを口に放り込んで。

 糖衣を噛み砕いた瞬間、

 

「あっ、酸っぱぁ……」

「ははは!」

 

 きゅっ、と顔をすぼめたくなる衝撃が襲う。無事に1/3を引いてしまったらしい。こんなに酸っぱかったっけ、と首を捻りたくなる強烈な酸味だ。

 サイタマはそんな俺をあっけらかんと笑い飛ばし、既に新しい菓子に手をつけている。

 

「ハズレだな。……お、当たった」

 

 フィルムを捲ると当たり外れがわかる、一口サイズのカップラーメンだった。

 あくまで運試しがしたかっただけで、ガム自体を味わうつもりはないらしい。が、乾麺とガムの食い合わせって悪そうだな、なんて暢気に思う余裕は、今の俺にはなかった。酸っぱい。

 

「サイタマしゃん、運が良いんれすね……」

「すげー顔してんな、大丈夫か?」

「大丈夫れす……」

 

 とにかく酸味を誤魔化したくて、残っていた普通のガムも頬張る。

 それからは、特に会話なく、めいめい好きな菓子をつまむだけの時間が流れた。

 

 ──こんな開けた公園で、年甲斐もなく異性と戯れてしまったが、視線は気にならなかった。

 というか、気にするまでもなく誰もいない。周囲の道にも誰も通らない。

 心配する以前にわかっていることだった。それはそれで問題では、と思わなくもないが。

 

「今日も……静かですね」

「おう」

 

 思わず口に出した言葉に、隣からマイペースな肯定が返ってくる。サイタマは、スルメを噛みつつぐでっとベンチに体を預けながら、

 

「なんか、どんどん人がいなくなってんだよなー」

 

 淡々としたつぶやきだった。

 不安がったり、喜んでいるふうではない。現状を現状として受け止める響きだった。

 その前の道路を、大型トラックがガタゴト音を立てながら走っていく。ここ数か月で見慣れてしまったラッピングだった。

 

「毎日、引っ越し業者のトラック走ってるだろ」

「というか、それしか走ってない……?」

 

 普通の自家用車さえあまり見かけないのだ。なかなかとんでもない状況だった。

 

「最近は怪人出まくってるせいかね。静かなのはいいけど、ちょっと不気味だよな」

 

 サイタマの横顔を見つめながら、思うこと。

 この街の、数年後の姿。

 俺はそれを、既に知っている。人に見捨てられた街。思い浮かべながら、思わず。

 

「……そのうち、ゴーストタウンになっちゃったりして」

 

 げえ。サイタマが低く呻いた。

 

「縁起でもないこと……いやでも、有り得るか……」

 

 そう言いつつも、深く気にしている様子ではなかった。まあ、何があろうがあそこに住み続けた肝っ玉の持ち主だ。想定内の反応、

 

「あんたは怖くねーの?」

 

 ──これもまあ、想定内ではあった。

 サイタマの目に俺を気遣う色はない。まさかどうなっても良いとは思っていないだろうが、本腰入れて心配する気はないらしい。

 

「……怖い?」

「いや……家族とかを怪人にやられたわりには、妙に落ち着いてんなって」

 

 落ち着いている。

 それはそうだ。死んだのは“俺”の家族ではない。だから、将来を悲観している訳でもない。

 この世界で生き延びたい。死にたくない。何だってする。それだけだ。

 そのために、サイタマが必要なのだから。

 

「Z市から離れて──もっと安全な場所に行きたくないのか、っていうことですか」

 

 爪先を見つめながら、言葉を紡いでいく。

 

「……どこへ行っても……同じですよ。単なる引っ越し程度で買える安心なんて、馬鹿げてる」

 

 その感情は嘘じゃない。

 けれど、今ここでそう告げるのは、ただ不安を吐露したいからではない。 

 

「セツナ、」

「サイタマさんを頼っちゃいけませんか」

 

 食い気味に、問いかけて。彼の顔をやや仰ぐ形で、見つめ返す。

 

「引っ越した程度で安心なんかできない。でも、あなたがいるなら、わたし……」

 

 サイタマが、微かに息を詰めたのがわかった。彼はしばらく俺を見つめていたようだったが、やがてゆっくり前に向き直る。

 

「……ああ、大丈夫だ」

 

 それは俺に語りかけているようでもあり、自らに言い聞かせているようでもあった。

 

「俺はヒーローだからな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから、夕方の見回りに行く、というサイタマを、にこやかに見送って。

 その背中が、完全に見えなくなったあたりで。ベンチから腰を上げ、座面にうつ伏せて。

 

「……あ゛ァーッ!」

 

 耐え難い羞恥に足をバタバタ。

 来た。今さら羞恥心が。

 まだ、あんなセリフを言って平気でいられるほどには肝が据わっていなかったようだ。産まれたての肝だから仕方ない。無理をさせすぎた。

 

「何が『あなたがいるならわたし……』だ! ギャルゲーかよ! こんな女現実にいねえよ!」

 

 王様の耳はロバの耳、かのごとく、座面の隙間に吠え散らかす。そうでもしないと内側から溶けてしまいそうだった。

 

「恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい、」

 

 こんな調子で恋のABCなんか進めていけるのか俺。いや、恥ずかしいもんは恥ずかしい。

 昔からラブコメもメロドラマも好きじゃなかったし、耐性がついていないのだ。

 というか、

 

「ちょっと飛ばしすぎた……? 引かれた? こんなヤツ今どき重すぎ? 自立しろみたいな」

 

 サイタマのあの反応、どう見るのが正しいのだろうか。ヒーローを名乗るからには頼られたほうが嬉しいんじゃ、と思うが、都合が良すぎか。

 

「はああ……」

 

 ……ようやくちょっと落ち着いてきた。

 ごろんと、仰向けになって木漏れ日を眺める。

 

 怖い。怖い、か。

 ぼんやり考えを巡らせる。

 “セツナ”だったら、家族も、職場の仲間も、顔見知りさえ残らず死んだ今の現状をどう見たのだろう。

 それこそヤケになって、あのまま怪人として暴れ回っていただろうか。みんな死ねばいい、と。

 ──俺は、他人の不幸を糧にのし上がろうとしている。

 そんな自覚が一瞬、心をざらつかせた。

 

「……考えるのはよそう、」

 

 つぶやいて、振り払う。

 そう思うことさえも己に対する慰撫でしかない。もはや誰も救われることはないのだ。

 俺は、俺のことだけを考えていよう。

 どうせ最低の人間なのは変わらない。

 

「あれから一年……と半分?」

 

 ぼうっと日々を過ごしているうちに、とんでもない時間が経っていた。改めて思う。

 

「……二年近くもネカフェ利用してんのか」

 

 完全にネットカフェ難民だ。

 まあ、圧倒的に民家だの賃貸物件だのが破壊されやすい世界観なので、珍しくはないのかも。

 何たって、働いたら負けかなと思ってるテロリスト集団が『うっかり間違えて』、高層マンション一棟を沈めてくる世紀末社会だ。

 金で買えない安全がある。

 サイタマに言った通り。

 ヒーロー協会本部が位置するはずのA市さえ、ボロス襲来の際には塵芥になったのだから、

 

「いややってられんわ」

 

 不動産業界には申し訳ないが、金を払って手続きをして物件を買うメリットが見当たらない。

 気楽な独り身ならばなおのこと。

 

「ま、いつまでもこのまま、って訳には行かないんだろうけどね……」

 

 身の振り方を考える時期が、来ているのかもしれない。 

 

「……バイト行こ」

 

 起き上がって、リュックを背負い直す。サイタマが去り際に詰め込んでくれた駄菓子が、背後でがさがさ鳴った。

 明日は、どんな話をしよう。

 そんなことを考えながら、寂れていく一方の街へと、足を踏み出す。

 

 

 

 

 ──が、しかし。

 それ以降。なぜかサイタマはぱったりと、俺の前に姿を現さなくなったのだった。




評価や感想等たくさんありがとうございます。


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雹降って地固まる

 サイタマが唐突に顔を見せなくなって、1か月以上が経過した。

 

 

 最初の1週間は、何も考えずにあの公園でぼうっと待っていた。サイタマとて、雨の日も風の日も毎日欠かさず来ていた訳ではなかったからだ。それはこちらも同じこと。

 何かがおかしい、と気づいたのは、2週間が経過した頃。こんなこと、今までなかったのに。

 あまり心配はしていなかった。

 彼のことを言えた立場じゃないと思われるかもしれないが、相手はあのサイタマだ。自分のような怪人もどきなんかとは格が違う。

 

「何でだ?」

 

 それはいいのだが、だからこそ不安にもなるというか。

 原因がわからない。

 原因が、

 

「…………嫌われた?」

 

 思わず漏れたぼやきが、トラックのエンジン音すら聞こえなくなった辺り一帯に虚しく溶けた。

 

「いや、」

 

 そんなこと。

 そんなことは……ない、のだろうか。

 

「本当に?」

 

 痛みを伴う自問自答。

 しかし、今さら目を逸らしてはいられない。サイタマはこの世界で最も最強に近い男だ。言っては悪いが定職についている訳でもない。

 他人の都合に一切振り回されない生活をしているはずなのだ。

 そんな彼が、いきなり姿を見せなくなった時。

 それは他ならぬ『彼の意志である』と考えるのが、一番自然なのではなかろうか。

 

「……いやいやいや……」

 

 自分で結論を出しておいて何だが、気分が悪くなってきた。

 

「大体俺が嫌われる要い、……あったわ」

 

 頭を抱える。

 最後に会った時の会話。自分でも引っかかっていたところではあった。

 急に距離を詰めすぎたか。いや、一年以上定期的に顔合わせといて距離を詰めすぎって何。気が合う男女なら、とっくに付き合って結婚まで意識し始めるような時期なんじゃないか。

 詰め方が好みじゃなかった?

 でも、もうこのスタンスがしっくり来てしまっているし、モテる女性のバリエーションなんてものを終身名誉非モテ男性に求めないでくれ。

 

「選択肢をミスったか」

 

 リアル恋愛の難しさをひしひし感じる。

 ムカついて、それを口にも出さず、目の前から消える程度の嫌われっぷり。

 

「関係修復無理では……」

 

 どうしてと迫ることが逆効果まである。

 頭が痛くなってきた。こんなところで計画が頓挫してしまうなんて。

 自分のコミュ力が、あの強運をプラマイゼロにできるレベルのものだったとは思いたくない。

 

「はあ……」

 

 とはいえ、これで諦めるのも。

 揺らしていた足を揃えて、立ち上がる。このままでは終われない。その気持ちは理屈で抑えられそうになかった。

 鎖が外れかけたブランコを横目に、公園を抜ける。もともと手が入っていなさそうな場所ではあったが、1年も放置されていると寂れるものだ。

 それは街並みも同じ。

 

「……終末世界感出てきたな」

 

 塀が崩れていたり、アスファルトのへこみから雑草が生えていたり、電柱が折れていたり。

 ただ見捨てられた訳ではなく、怪人被害が同時並行なので、廃れ具合が半端ではない。

 平日の朝なのに、死んだように静かだ。

 愛着があってもここに住み続けることは難しいだろう。怪人についてももちろんそうだが、行政の管理を期待できないのだから。

 

「……結局全部めちゃくちゃになるんですけど……」

 

 ガロウ編が終わる頃には、Z市そのものがオシャカになる運命だ。──これはONE版での話だが、きっと似たようなことになるだろう。

 どこへ逃げても同じ。

 自分で口に出した言葉が、今さら自分に突き刺さってくる。立ち止まって、身震いする。

 

「──怖い、」

 

 安全な場所などない。

 

「怖いよ」

 

 あの、マグマ怪人のことを思い返すと、今でも血の気が引く感じがする。恐ろしい。死が俺のすぐ後ろまで迫っていたあの瞬間。

 

「死にたくない、」

 

 “安全”をこの手に収めたと思えるまでは、何だってする。

 女の体とはいえ、男を口説くなんて本当はやりたくないのだ。当たり前の話である。

 加えて“俺”は、サイタマに本物の恋愛感情を抱くことは難しいだろう。もしこの過程で彼を本気で愛してしまえたなら、簡単にそう思えたなら、それはそれで良かったのだけれど。

 サイタマを好ましいと思うのはあくまで友人として、ヒーローとして、利用価値として。

 そんな自分もまた嫌になる。

 

「………………」

 

 俺に生き延びる価値なんかない。そんなこと、俺が一番良くわかってる。

 でも、自分の人生だからこそ諦められない。それもまた当たり前の話だろう。

 すぐ側で何かがひび割れるような音がして、そちらを見る。塀に当てていた手のひら──その周辺の苔に、びっしりと霜が張っていた。

 

「……サイタマを見つけないと、」

 

 手を離して、顔を上げる。

 ──その瞬間。どぉん、と。

 地面が大きく揺れた。

 

「わ、」

 

 バランスを崩しそうになったのを、電柱に掴まることでぎりぎり堪える。

 すわ地震かと思ったが、揺れはすぐ収まった。震源はかなり近い感じがしたが、怪人被害か。

 Z市郊外は怪人の出没が多い。

 わかってはいるつもりだったが、肌感覚で理解できている訳ではない。主な行動範囲であるあの児童公園周辺では、なぜかほとんど怪人を見かけることがないからだ。

 

 すぐに脱兎のごとく逃げ出すほうが危険だろうか。耳を澄ませてみたが、何も聞こえない。

 おそるおそる、建物の角から覗き込む。

 塀にめり込んだ、眼球がたくさんあるわらび餅のような何か──と、その前に立つ、

 

「……サイタマさん……?」

 

 マントをなびかせる、スキンヘッドの男。

 今までの彼とは結びつかない見た目ではあったが、俺にはむしろ、より『サイタマ』として認識できるシルエットだった。

 ──覚醒、したのか。

 そんな俺の驚愕をよそに。こちらに背を向け、濡れたグローブの拳を見つめていた男は、ゆっくり振り返って。

 ぎょっと、その三白眼を見開いた。

 

「だっ、ぁ、セツナ!?」

 

 ……なぜとっさに頭を隠す。

 いや、ハゲだから? ハゲたからか。

 そこまで考えて、ふと。

 

「な、なんでこんなとこに……危ねーぞ……」

 

 きょろきょろと、早送りのように忙しなく視線を彷徨わせるサイタマ。しかしその直後、激しく頭を左右に振ったかと思えば、背を向けて、

 

「……い、いや違う、人違いだ、誰かと間違え、」

「サイタマさん」

 

 遮るように、呼びかける。

 

「……なんで、」

「すみません……つい、心配で」

 

 ──わかった。わかってしまった。

 どうしてサイタマが姿を消したのか。

 同時に、頭を抱えたくなった。

 まずい。これはだいぶ、まずいんじゃ。

 

 覚醒前サイタマなら人間性死んでないからチョロいんじゃね、とか一瞬でも思った自分を殴って土に埋めたい。

 確かに、都合は良かった。しかし必ずこうなることはわかっていて。そこで生まれる巨大なギャップを既知の人間が乗り越えるのは、想像するまでもなく難しい。

 知っているからこそ、もう顔を合わせられないのだ。とんでもない罠だった。

 

「ひ、引いただろ……」

 

 サイタマがぼそぼそと呼びかけてくる。

 第三者からすれば「ハゲ程度で……」、しかも相手はあの『サイタマ』なのだ。

 総合的に見て軽蔑するポイントはひとつもないのだが、どう現実というオブラートに包んで懐柔するか。とっさには言葉が出なかった。

 

「……てか……よくわかったな、」

「ぃ……いえ、」

 

 そっちのほうが見慣れてるからです、とはさすがに言えなかった。

 

「この頭……あんたは女で……いや、女だからこそか、」

 

 サイタマは自身の輝く頭を押さえながら、まだ何かぶつぶつ言っている。

 

 異性にその苦しみが伝わりにくいわりに、容易にジャッジのポイントになる要素というのはつらい。身体的特徴はそう簡単な話でもない。

 気持ち自体はわかる、冗談抜きで。祖父の代から男は若ハゲの家系に産まれたもんでな。

 でもそういう話がしたい訳じゃない。

 大学時代は実家暮らしだったのだが、ちょっと徹夜するたびに父親から「俺みたいになりたくなかったらさっさと寝ろ」とぐちぐち言われたりしていたもんだが、ってだから、そうじゃなくて。

 

 どうでもいい自分語りを追い出して、サイタマに向き直る。今は“セツナ”の話だ。

 幸い、ネタはあるのだから。

 

「あ、あの、」

 

 覚悟を決めて、口を開く。

 サイタマがこちらを見た。

 

「サイタマさんの気持ちは、よくわかります。わたしにも、同じことがあったから」

 

 “セツナ”と“赤井佑太”は別。

 それは、中身だけの話ではない。彼女が知るセツナは黒髪に茶色い目の女性だが、俺が知るセツナは白髪に碧眼の怪物だ。

 

「あなたと出会うのがもっと前だったら、わたしはそのタイミングで会うのをやめていたかもしれません」

 

 “セツナ”だったらそうしただろう。

 突然、怪人になって、今までの知り合いに合わせる顔などないはずだ。

 

「そんな、」

 

 サイタマが微かに眉をひそめる。

 ああ、そういう反応をするだろう。俺だってあんたに対して同じ気持ちだ。ただ、相手の感情だけでは乗り越えられないものがあるだけ。

 

「でも……サイタマさんは、わたしの見た目にこだわっている訳ではないと言ってくれた。それは、わたしも同じつもりです」

 

 そこまで言っても、彼の顔色は変わらなかった。これは一旦退くべきか。

 

「……ごめんなさい。詭弁ですよね、こんな」

 

 とりあえずそれで間を保たす。

 で、それで──どうする?

 これは、切り札を出すしかない、か、

 

「わたしも……変なんです。おかしいんです。普通じゃないんです」

 

 右手を、差し出して。

 その上に、小さな氷塊を浮かべる。それくらいは構えなくても一瞬で出来る。

 超能力。サイタマが、微かに目を瞠ったのがわかった。これはできれば隠し通しておきたかったが、もうこの際、やむを得ないだろう。

 

「それでも、サイタマさんは冷たいわたしの手を取ってくれたから……」

 

 受け入れるから、受け入れてほしい。

 そんな意志を込めて、見つめ返す。

 サイタマは、相変わらず困ったような顔で俺を見ている。何かを、言いかけて。

 最終的に。

 ──その目が、逸れた。

 あ。これ、ヤバい。

 

「…………すまん、」

 

 それだけを、絞り出すように言って。

 次の瞬間には、サイタマは俺の視界から消えていた。とんでもない早業だった。

 無論、止める間もなかった。

 それが彼のアピールなのだ、と思えた。

 

「あ……」

 

 手のひらから、氷塊が転がり落ちて。

 目の前が、一瞬で真っ暗になる。

 まずい、まずいまずい、

 

「……っ、」

 

 ふらついて──今度は踏ん張る元気も出ず。傾きに任せて、壁に頭を打ちつける。

 ごつん。鈍い音がしたが、気にならなかった。

 それよりももっと思考を埋めるもの。

 

「……っ、あ゛ー……やらかしたー……」

 

 どこでミスった?

 嘘はついていないから、不自然ではなかったと思う。でも、サイタマの心は動かせなかった。

 会わないほうがよかったか。彼の気持ちに整理がついて、あちらから接触してくるまで放っておくべきだった?

 原因は色々と思いつく。けれど。

 ……全ては後の祭りだ。

 認めなければ。

 失敗した。俺は失敗した。

 リセットしてやり直すことはできない。俺が生きているのは、かけがえのない現実なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……う、……」

 

 あれから、何もする気になれず。ネットカフェに帰る最中、何度も吐きそうになった。

 これからどうすればいいのか。

 何も頭に浮かばない。

 死にそうな顔をキャップで隠しながら、壁伝いにふらふらと足を進めていく。

 この角。ここを曲がれば、

 

「──────、」

 

 ──目を、疑った。

 夢でも見ているのかと思った。

 

「……ウッ、ソだろ、」

 

 完全に崩落した、ネットカフェの建物。

 それどころか、通りの一角が完全にぐちゃぐちゃになってしまっている。

 既にテープが張られ、一帯に侵入できないようになってはいたが、見間違える訳もない。

 どうして。今朝までは平気だったのに。

 混乱で考えがまとまらない。

 

「怪人災害の後処理中でーす、危険なので近寄らないでくださーい!」

 

 中ではヒーローらしき男女が数名、メガホンでそんなことを呼びかけていた。

 怪人災害。また。

 また、かよ。

 膝から崩れ落ちそうになったが、もはや、どうしようもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 ──結局。Uターンして、あの公園に戻ってきてしまった。

 バイトも、漫画もどうでもいい。

 とにかく一人で休みたかった。

 ふらふらとベンチに歩み寄って、硬い座面に倒れ込む。相変わらず寝心地は最悪だったが、今だけは気にならなかった。

 

「……はあ……」

 

 リュックを枕代わりに、体を丸める。

 戻してしまいそうな気分の悪さがようやく落ち着いた──ような、気がした。

 

「………………」

 

 乾いた目元を擦る。

 涙さえ出てこなかった。

 

「死にたくない」

 

 わかってる。そんなことはわかっている。

 サイタマに頼るだけが全てではないことも。

 彼の存在は最高の十分条件ではあったが、たったひとつの必要条件などではなかった。

 だから、気持ちを切り替えればいい。他にも頼れる存在はたくさんいるし、最悪、俺自身の力を使うという手もある。

 だから、大丈夫。

 

「大丈夫」

 

 ……本当に?

 

「……もう、どうでも、いい」

 

 良くないだろ。

 こんなことで諦めてどうするんだ。ちょっと人間関係失敗したくらいで。死んでもいいのかよ。たった一人の大切な自分が。

 

「うるせー……」

 

 ちょっと黙ってろ。

 今日だけ。今日だけは、これからのことは何も考えず落ち込ませてほしい。

 

「明日から……また頑張る、」

 

 そうだ。

 ここまで何とかやってこれたんだから。

 今日だけ、少しだけ休めば、また頑張れるさ。

 

 そう自分に言い聞かせて、瞼を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──頬に当たる夜風で、意識が覚醒する。

 あれ。俺、何をしていたんだっけ。

 一瞬混乱しかかって、

 

「ん、」

 

 今までのことを思い出す。

 ヤバい。うっかり眠ってしまったか。

 ふて寝の3文字が似合う寝落ちだったと思う。もう、小学生じゃないんだから。

 しかも、既に辺りが暗い。どれだけ長く寝てしまったのだろう。

 やっちまった、の感情を胸に、体を起こそうとして。ふと、間近に気配を感じた。

 頭上に腰掛ける人影。

 

「サ、……」

 

 そのシルエットを認識して、心臓が口から飛び出しそうになった。──サイタマだった。

 昼間見たヒーロースーツではなく、ごく普通のパーカーというラフな格好。

 そこで、サイタマのほうも俺が目覚めたことに気づいたのだろう。呆気に取られたような顔が、瞬時にむすっとむくれる。

 

「なんで、こんなところで寝てるんだよ」

「ぁた」

 

 ぱち、と拙い音を立てて、額で弾ける指先。

 デコピンだった。本気を出せば怪人の1匹や2匹は首なし死体にできるであろう一撃だったが、額に来たのはごく軽い衝撃だった。

 どうしてここに。

 嫌われたんじゃなかったのか。

 もう会いたくないんじゃ。

 聞く勇気は、出なかった。

 

「ここいらにもう人間はいないけどな。それよりもっと危ないのがうろちょろしてるんだぞ」

 

 ……まあ、返す言葉もない。

 死にたくないなどと言っておきながら、世界有数のホットスポットで暢気に野良寝などしていたのだ。俺自身すらドン引きである。

 申し訳なさに顔を上げられないでいたが、

 

「……マジで、超能力なんだな」

 

 その言葉で、思わず彼を見た。

 サイタマはうつむいて座面に触れており──その指先は、氷の膜が張った木目を撫でていた。

 また能力が暴走したのか。

 ちょっと背筋が冷たくなった。ここにいたのがサイタマで良かった。

 わかっていたことだが、負の感情が高まると、制御のリミッターが外れてしまうようで。普段はできる限り意識しているのだが。

 

「ベンチが凍ってる」

 

 どういう反応をすれば。凍ったベンチに長いこと座らせて申し訳ありませんとかだろうか。

 能力が暴走しがちなんですー、などとはさすがに言えない。無駄な危険人物アピールだ。

 とりあえず、順当に疑問を投げかける。

 

「サイタマさん……なんで、」

「知……り合いが、夜に公園のベンチで寝てたら、フツーは声かけるだろ、」

 

 声をかけるというか起きるまで側にいてくれただけな気もするが、ツッコまないでおく。

 サイタマの足元にはネギの飛び出したレジ袋が置かれており、もしかして買い物帰りに見かけてから、ずっとここにいてくれたのか。下手をしたら夕方くらいから。

 

「あ、あの……」

 

 どうしてこんなところにいたか。

 説明はできる。でも、したくなかった。

 これ以上みじめな思いをしたくはなかった。けれど、黙っている訳にもいかない。

 

「ね……ネットカフェが……怪人災害で、」

 

 気分が、沈んでいく。

 1つの音を吐き出すごとに、鉛を喉の奥に詰められていくような感覚。飲み込めない。

 

「何だか全部、どうでもよくなってしまって……」

 

 サイタマの顔なんて、見られる訳がなかった。

 

「どうでもいいなんて言うなよな」

「……どうでも、いいんです」

 

 死にたくない。怖い。

 でも、今はそれと同じくらい何もかもがどうでもいい。そんな気分だった。

 

「人生も……ゲームや漫画と同じです。続きに期待できなければ……期待を裏切られ続ければ、進んでいくのが嫌になってしまう」

 

 サイタマに言うようなことじゃない。

 これ以上好感度を下げてどうする。

 わかっていても、止められなかった。少しでも楽になりたかった。

 

「こんな人はきっとたくさんいるのでしょうね。つらいのはわたしだけじゃない。……でも、」

 

 でも、わたしは。俺は。

 

「セツナ」

 

 ──穏やかに、呼びかけられた。

 重たい頭を持ち上げる。

 

「ん」

 

 差し出された手のひら。

 何、と思うより早く、その指先が催促するように小さく動く。手を出せ、ということか。

 おそるおそる伸ばすと、止まっていた手が動いて、握りしめられた。そのまま引っ張られる。

 

「行くぞ」

 

 どこに。

 疑問はあったが、わざわざ口に出す気にはならなかった。もう片方でレジ袋を持ち上げ、ベンチから立ち上がるサイタマに引きずられるようにして、自分も腰を上げる。

 しかし、手を引かれて公園から出る直前で、サイタマと出会った日のことを思い出した。

 手が冷たい、と言われたこと。

 

「あの……手……」

「冷たくない」

 

 柔らかい、しかしきっぱりした口調だった。彼も思い出していたのか。少し驚いた。

 その言葉を示すように、握り返される。

 

「そこは強くなった甲斐あったな」

 

 肩越しに振り返って、にっと笑いかけてくる。

 その笑顔を見ていたら、何も言えなくなってしまって。うつむいて、のろのろ足を動かす。

 

 ──そのまま、どれほど歩いただろうか。

 サイタマが、唐突に足を止めた。

 見上げる先には、普通の7階建てアパート。1階にテナントが入っているタイプのようだが、今はシャッターが閉まっていた。

 何だここ。ぼんやり尋ねる。

 

「……どこですか」

「俺の住んでるアパート」

 

 えっ。

 予想外の返答に、ひっくり返りそうになった。

 サイタマのアパート。

 何度も作中で見かけたはずの建物だが、特徴がなさすぎてとっさにぴんと来なかった。

 

「え、」

「寝る場所ないんだろ。ここなら部屋、余りまくってるからな。鍵開いてるとこもあるし、適当に借りちまえ」

 

 さらっと言っているが違法行為だ。

 なんつー言い草、と思わなくもなかったが、それが彼の優しさであることはわかった。

 

「ここがぶっ壊れたら俺も同じだ。そんで……まあ……大丈夫」

 

 違法行為を勧める時より、なぜかしどろもどろになるサイタマ。思わずその顔を見たが、彼は明後日の方向を見上げていた。

 

「だから……どうでもいいとか、言うなよ」

 

 何か言うより先に。

 ぱっと、手が放される。

 

「……おやすみ!」

 

 すたすたと、早歩き程度の歩調のはずがとんでもないスピードで建物に消えていく背中。

 呆然と見送るしかできなかったが。

 ぽつんと、一人残された後。

 

「…………いや、開いてる部屋は教えろよ……」

 

 ──でも、ありがとう。

 そんな気持ちで、温もりの残る右手を、そっと撫でた。





コメント欄の皆様、御名答でした(さすがにわかるか…)

読み返しているはずが誤字脱字が非常にひどい 報告ありがとうございます…


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ライト、レフト、そしてアイス

 サイタマと同じアパートに移り住んで、2週間。

 彼の言う通り、鍵が開いたまま、下手をすると家具がそのままで放置されている部屋(持ち主死んでるんじゃないのか)はいくつかあった。

 その中で、彼と同じ階の、1つ部屋を挟んだところが空いていたので、そこを間借りすることに。

 ぎりぎりお隣さんではないが、冷気漏れが怖いので、これで全く構わない。

 

 

 部屋の内装的に、働いている男性の一人暮らしだったのではないかと思う。

 細々としたものは持ち出されているようだが、ベッドやソファはそのまま残っていた。

 まあ、寝るところがあればいい。こちとら公園のベンチで爆睡できる怪人やぞ。

 

「……ふう。大体、片付いたか」

 

 2週間経った。

 ようやく、片付けが一区切りついた。

 いつからいなかったのか廃墟のような有様だったので、できる限り掃除に専念していても、結構な時間がかかってしまった感じがする。

 

「っ、あー、外の空気吸いてえ」

 

 ベランダに出ても良かったのだが、そちらはまだ掃除が済んでいない。

 換気のために掃き出し窓は開けつつ、部屋の外に出ることにした。

 スチール製の扉を開けた先は、今日も良い天気。そして静かだ。

 ゴムで雑に上げていた髪を下ろして、頭を軽く振る。髪を縛るのもだんだん上手くなってきたような気がする。

 廊下を進んで角を曲がろうとしたところで、

 

「お」「あ」

 

 ちょうど階段を上がってきたサイタマと、バッティングした。Tシャツ姿に手ぶらなので、ゴミ捨ての帰りか何かだろうか。

 

「……よ、セツナ」

 

 先に反応したのは、サイタマのほうだった。

 片手を軽く挙げて挨拶してくる。

 

「サイタマさ、……さ、サイタマ」

 

 やべ。

 敬語やめろって言われてたんだった。

 引っ越して早々、「もう敬語使わなくていいだろ(?)」という謎の理屈でそれ以降のタメ口を強要されているのだが、これがなかなか大変。

 『敬語で喋る清楚な女』というプログラムを、基本の性格はそのままに『タメ口だが清楚な女』へアップデートせねばならないのだから。

 

「おはようござ、ま、……ぁ、」

 

 またやった。

 サイタマが芝居がかって片眉を跳ね上げる。

 

「すみませ、……ごめん、」

 

 焦るとなおさらダメだな。

 こわごわ彼の顔色を窺ったが、微笑ましそうな呆れ顔をしているだけだった。

 

「なかなか慣れねーな」

「うーん……」

 

 苦笑で受け流す。

 慣れるも何もこっちはシンプルに無茶振りされてんだよな。役者じゃねえんだぞ。

 

「お、男の人と、今までこんなに仲良くなったことがなくて……」

 

 嘘とも事実とも言えないセリフで誤魔化す。

 実際“セツナ”の容姿は、彼氏いたことあるし全然非処女です、と言われても納得いくものだが。いや悪口とかではないです。

 

「ま、いいけどな。元気か?」

「元気だよ」

「よし」

 

 何が「よし」なのか定かでないが、サイタマはどこか満足そうだ。

 そのまま立ち話に移行する──と思いきや。

 

「じゃーな。気ぃつけろよ」

 

 あ。

 サイタマは自然に俺の隣をすり抜けて。

 無情にも、背後で扉が閉まる音。

 

「あー……」

 

 2週間。ずっと、こんな感じ。

 避けられている、とは思わないけれど。

 物理的距離はかなり近くなったはずが、なぜかコミュニケーションの機会ががくんと減った。

 あの様子だとサイタマに自覚はないようだし、どうしたものか。

 

「……家に押しかけるのも躊躇われるしなー」

 

 サイタマのほうは当然、我が家に上がりこんだりはしてこない。行きたそうにしている素振りも未だ見たことはない。

 

「逆に接点が失われている」

 

 良いのだろうか、これで。

 

「良くはない……けど」

 

 良くはないが、作りようがない。

 一応、きちんとした物件に引っ越して。この体の、もうひとつの欠陥に気づいてしまったのだ。

 ガスが生きていたので、お湯でも沸かそうかと栓を捻り、燃え盛る青い炎を見た瞬間──どっと、冷や汗が出た。

 思わず、消していた。

 それは恐怖、だった。

 怖い。何が。──火が。

 

 原因なんて、考えるまでもなかった。

 あの、火災の後遺症。体だけでなく、心にまで傷跡を残していったなんて。忌々しい。

 悪態をついてもどうにもならない。

 要するに、ガスコンロで調理なんて夢のまた夢な精神状態であった訳だ。

 女性が男性の部屋に押しかけたい時、わりと用いられているであろう手段……必殺「料理作りすぎちゃって」が使えない。手作りでもない出来合いのものじゃ、あまり意味はないだろう。

 

 ──と、いうことで。

 それ以外に自然な絡み方が思い浮かばないため、実質詰んでいる。

 

「飯とか、誘えばいいのかな……俺あんまり街中出たくないけどさ……」

 

 誘った側が楽しくなさそうな姿を見せたら、それはそれで減点だろう。

 少し考えて。

 

「……ま、いいか」

 

 思考を放棄する。

 サイタマは俺を避けなくなった。

 それだけで、今はとりあえず良いか。やるべきことはまだまだあるのだから。

 階段の柱にもたれかかって、伸びをする。限界まで伸びきって、腕を下ろす。

 

「よいしょっ、と」

 

 だんだんと生活も落ち着いてきたところだ。

 次のステップに移ろう。

 ──プロヒーローになる。

 2年近く前、それこそ、この世界にヒーロー協会が設立する以前より考えていたことだ。

 

 あれから色々考えてもみたが、能力が暴発した際、俺を社会的に守ってくれるのはやはり『プロヒーロー』という肩書きだろうと思う。

 作中には『帯電体質の武術家』みたいなのも出てきたりしていた気もするが、まあ、とにかく肩書きがなければただの危険人物なのだ。

 一番手っ取り早いのがヒーローで、ついでにサイタマとの繋がりもできるし、ということ。

 

「……能力開示しちゃったしな」

 

 明らかに無駄な行為だった気がしなくもない。現状、こいつは俺の意思に反して暴走しがちな訳で、やりやすくはなったのかもしれないが。

 白い手を見つめながら、改めて思う。

 

「力を制御できるようにならないと」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今さらの話になるが。

 この世界では、怪人に変異してしまう人間なんてものは、まったく珍しくない。

 理由も言っては悪いがくだらないものも多い。電球の紐でシャドーボクシングしていたら怪人化してしまったとかね。

 ガロウ編では、おそらくサイコスが生み出した『怪人細胞』というアイテムが出てくるが、そもそもの素養があるらしい人間はたくさんいる。“セツナ”もその一人だったという訳だ。

 

「理性があるのは珍しいっぽいが」

 

 というよりは、人間ブッ殺してぇ! みたいな奴らが怪人として目覚めがちなのだろうか。

 順序が逆。その中で、俺やガロウのようなイレギュラーが生まれることもあるという。

 ガロウはヒーローに敵対的ではあったが、一般市民に対する殺意はほぼなかったはず。しかしまあ、

 

「……仲良くしたくはないタイプ」

 

 てか無理。相性最悪。

 俺の胸の内を吐露しようもんなら軟弱者、とか叫ばれてビンタされそうだ。

 

「まあ、とりあえずそれは置いといてだな、」

 

 何となく動かしていた足を止める。

 アパートの裏手にある空き地。ベランダからは死角だし、ちょうどいいのではないか。

 

「さて」

 

 能力を制御、とかっこよく言ってはみたもののそれについての心得なんてある訳がない。

 とりあえず球体をイメージして、手のひらに力を込めてみる。

 

「………………」

 

 サイズも精度もばらばらなものがいくつか生み出された。

 俺が知覚できないだけで、それぞれ力の込め具合に微量な差が生まれた結果なのだろうか。職人技かよ。

 今度は針のような、先端の尖った細いものを思い浮かべる。──長さはちぐはぐだが、それなりに針に見える氷塊ができた。

 そこで何となく楽しくなってしまって、正四面体だとか、ひょうたん型だとか、色々な形状を作り出し始めて。数分後、この近辺だけ局地的な雹に襲われたかのような有様になったところで、ようやく我に返った。

 

「……別に細かいモノを作る必要はないんだよな……」

 

 練習にはちょうどいいかと思ったが、実際に役に立つかは微妙なあたりだ。

 作ったばかりの星型の欠片を放り出し、苔むした塀にもたれかかってちょっと休憩。

 

「アナ雪のエルサとかすげーよな」

 

 思わずそんなことを考えてしまう。

 何をどうやったら、服だの城だの複雑なモノをあんな綺麗に生み出せるのだろう。レリゴーのシーンくらいしかまともに見たことがないので、それ以上のことはよく知らないが。

 

「てかもっとアナ雪見とけばよかったわ」

 

 役立つ場面が色々あった気がしてならない。

 いや、将来的に別世界へ転移して氷系異能力を得ることに備えてそんなことをするのは、間違いなく単なる狂人なんだが。

 

「ふう、……ぅ、?」

 

 その瞬間。

 どかん、とすぐ近くで破壊音がした。

 あ、なんかデジャヴュ。

 既視感に襲われつつ、音のした方角をこっそり覗き込んだ先には。

 ……わかりやすく、怪人だった。

 中心で単眼がぎょろつく人間の手のひらが首から生えており、2本の足もよく見れば腕。

 Tシャツに短パン、そして素足というツッコミどころ溢れる服装であり、シャツには『R』と大きく印字されている。

 

「うおお出てこい、人間どもっ! このライトニング様がぶっ殺してやぁある!」

 

 何やら物騒なことを叫んでいらっしゃる。

 昆布の話を読んだ時も思ったが、こんなところに人間がいる訳ねーだろ。気配で察しろ。

 ワクチンマンだのオロチだのマグマ怪人だの、ガチガチのガチばかりに気を取られるので忘れがちになるが、大半はこんな感じなのだろう。

 いかにも、みたいな。まあ、生身の人間からすればシンプルに脅威なのは間違いない。

 

 例の事件以来、まともに怪人の姿を目の当たりにすることはなかったのだが。

 元気いっぱいのその様を見ても、特に何の感情も湧いてこなかった。炎にはトラウマを植え付けられても、怪人は大丈夫だったらしい。

 ──あいつなら、勝てる。

 本能が囁いてくる。

 

 やるか。

 どちらにせよ、プロヒーローになったら怖いだ何だ言っていられないのだ。

 呼吸を整えて。適当に小さな氷塊を生み出し、怪人ライトニング目掛けて放る。

 

「……ん?」

 

 我が素晴らしきノーコンのせいで当たりはしなかったが、その足元をてんてんと転がって。

 ライトニングが、振り返った。

 俺を見て、単眼を三日月に歪める。

 

「いるじゃねーか、人間」

 

 人間。

 きっぱりとそう言い切られたことに、名状しがたい感情を覚えた。

 

「……人間に見えますか?」

 

 返答を、聞くことはできなかった。

 聞く気もなかった、というのが正しいか。

 次の瞬間にはその姿を飲み込むようにして、目の前にそびえ立つ氷山。標高4mくらい。

 

「うわ」

 

 ……自分の意思でやっておきながら、普通に驚いてしまった。

 攻撃するぞー、くらいの意識だったのだが、こんなに殺意の高い一撃が出るとは。明らかに調節ができていない。力みすぎたか。

 とりあえず、ライトニングからの反撃はないようなので、氷山を砕いて終わらせておく。

 

「……ここまでの出力はいらないんだが……」

 

 練習が何の役にも立っていない。 

 やっぱり制御には実戦あるのみなのか。

 しかし、『ライトニング』というわりにはどこも光ったりしていなかったのは一体、

 

「あああライトニングーッ!」

「えっ何」

 

 背後からいきなり声がした。

 振り返った先では、ライトニングの鏡合わせのような造形の怪人が、わなわな震えながらこちらを睨みつけている。

 

「貴様よくもライトニングを……仇はこのレフトニングが取る!」

 

 あ、ライト/レフトのほうでしたか。造形からして右手、左手ということなのか。

 光るほうのライトはL始まりだしね。しかしレフトニングの絶妙な語呂の悪さがすごい。

 強さは言うまでもなく同程度の予感。

 

「街中で人間殺すとか叫んじゃ駄目ですよ。……ここゴーストタウンだけどな」

 

 力を込める。できる限り、抑え気味で。

 再び、怪人を閉じ込めた小型の氷山が生成された。今度は無事、2m弱くらいのものが。

 

「……あ、そうそう。こんな感じ」

 

 やればできるじゃん。

 同じように粉々にしつつ、自分を褒めておく。災害レベルは狼程度だろうが、初戦果だ。

 

「意外とやれるもんだな、……ッ、」

 

 良い気になったその直後、側頭部を痛みが襲った。耳鳴りを悪化させたような、脳の中心から頭蓋へ突き抜けていく鮮烈な痛み。

 思わず手を当てる。

 

「……なんか、頭痛い」

 

 しかも、俺はこの感覚をよく知っている。

 例えて言うまでもない。

 ──アイスクリーム頭痛のそれだった。

 冷たさを感じなくなった今では、この痛みも感じないはずじゃないのか。そもそも、今はアイスクリームだのかき氷だの食べていないのだが。

 ちょっと不気味な感じがしたが、頭痛はすぐに気にならない程度にまで落ち着いた。

 

「何なんだろ、」

 

 この世界にも、この体にも、摩訶不思議なことがとても多い。

 まあ、そのうちわかるだろう。

 今はそう適当に結論づけて、俺はその空き地を後にしたのだった。





あと何話か、サイタマあんまり出てこないです。すみません。


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ビー・クール

 奇妙な頭痛の原因がわかったのは、その翌日のことだった。

 

 きちんと磨いたユニットバスルームの鏡を、何十回目か覗き込む。映る景色は変わらない。

 そうではないと思いたかった。

 しかし、現実から目を逸らすのはもはや不可能。その事実を改めて突きつけられる。

 

「……大きくなってる、よな」

 

 口に出すと、なおさら気分が沈んだ。

 大きくなっている。

 ──もはや存在を忘れかけていた、側頭部にある透明なツノもどきのこと。

 痛いのは、頭そのものではなかった。このツノの部分に痛みが走っていたのだ。

 

「………………」

 

 もう一度、頭髪をかき分け、鏡を見返しても同じ。明らかに一回り近く巨大化している。

 サイズそのものは、相変わらずぎりぎり隠れる程度だ。しかし、2年以上こいつと付き合ってきた俺には、違いがはっきりわかる。

 

「なんで今さら、」

 

 言ってはみたが、なんで、も何もない。

 原因は先ほど言った通り。あの頭痛であり、ひいては能力をたくさん使ったこと。

 そうとしか考えられなかった。

 暑い日も寒い日もあったし、落ち込んだ日も嬉しかった日もあったが、そのどれでもこのツノの大きさは変わらなかったのに。断言できる。

 しばらく狭いバスルームを右往左往した後、結局、部屋に戻ってベッドにダイブした。

 まだ少し埃っぽい布団をきつく抱きしめて、霧散しそうになる思考を何とか繋ぎとめる。

 

「落ち着け俺……」

 

 いや、これが落ち着いていられるかって。

 動悸が収まらない。

 あの能力の代償……なのだろうか。いや。というよりは、今の姿は何らかのストッパーがかかった結果、維持されていると考えるほうか正しい?

 俺は無意識のうちに、この人間体が本来の姿だと考えていたが、そうではなかったとしたら?

 既に取り返しのつかない状態であり、ふとした拍子にあの化物に戻りかねない、あちらが本来の姿になってしまっている、と?

 

「つまり、」

 

 能力を意図的に使い続けると、人間の姿からあの怪獣に近づく可能性がある、ということ。

 こめかみに触れる。

 この、ツノ。どんどん大きく立派になって、その次は鉤爪か、鱗か、翼か。そうなったらどうする。また人間体になれる保証はない。

 

「……落ち着け、」

 

 知らぬ間にそうなる訳ではない。

 変化の前兆には、頭痛、というわかりやすい壁が存在している。それを無視するとまずい。

 そこさえ意識していれば、急激な変化が進むことはない、だろう。

 そう思いたい、だけかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから数日。

 ベッドの上で、何もせず過ごした。

 その間、良いことと、悪いことがあった。

 

 まず良いこと。

 大きくなったツノは、いつの間にかもとのサイズに戻っていた。メジャーできっちり測ったのでこれは確か。少なくとも小さくはなっている。

 つまり、ちょっとした使いすぎなら、時間を置けばある程度もとに戻るようだ。

 そして、悪いこと。

 

「ヒーロー試験、…………」

 

 プロヒーローに対する意気込みが、すっかり削がれてしまった。

 当たり前といえば当たり前。

 想定外のリスクが目の前に降ってきて、それで意志もぐんにゃり曲がってしまった。

 今すぐヒーローにならなきゃ怪人扱いされて殺される、という状況ではないが、ヒーローになって能力を使い続ければ、それこそ怪人に変化して殺されるかもしれない。

 今回の一件で、手段と目的の行く末がめちゃくちゃになってしまった感覚がある。

 ──俺は、この世界で一体、どうなりたかったんだっけ?

 

「あー」

 

 そもそも、前提に無茶があったのを認めるべき時期なのかもしれない。

 サイタマに取り入る、プロヒーローになる、能力を制御する。どれもまったく簡単ではないのに、それら全ての成功を礎とした未来を単純に夢見てしまった。できると思ってしまった。

 無責任にも。

 ……何故?

 

「女だからイケると思ったんだよ……」

 

 俺が地味で冴えない“赤井佑太”のままだったら、おとなしく自死を選んでいたかもしれない。

 若く、それなりに美しい“セツナ”の体を得て、その上で怪人になって、上手く行くんじゃないかと思い込んでしまった。全く別の存在になって、できないことができると思ってしまった。

 そう、結論づけるしかなかった。

 意識していなかったし、認めたくなかったことでもあるけれど。

 “セツナ”が同じ計画を立てても、きっと今の俺以上にたくさん思い悩んだだろう。女だから何とかなるなどと適当には考えなかっただろう。

 でも、俺は何かすごいアイテムを得たような気になって、それで。

 

「……あー……」

 

 今さらこんなこと考えたって仕方ないのに。

 ごめん。ごめんなさい。

 捨てたはずの懺悔が、何の価値もない謝罪が、脳内で折り重なってぐちゃぐちゃになる。

 ──じゃあ、今すぐ死ぬ?

 ──全てを諦めて、怪人になる?

 ……少し、考えて。絞り出した答えは、どちらも「NO」だった。

 ほらな。俺はやっぱり、誰のことも可哀想なんて思っちゃいないんだ。

 ただ、我が身が可愛いだけ。

 

「外の空気、吸おう……」

 

 ほとんど這いつくばるようにして、玄関へと向かう。

 ドアノブを支えに、何とか立ち上がって。部屋の外に足を踏み出したところで、

 

「あ……セツナ、」

 

 サイタマが、廊下にいた。

 日光浴でもしていたのか、手すりに頬杖をついてそこからの景色を眺めていたようだった。

 俺を見て、驚いたような、安堵したような、何とも言えない表情を浮かべてみせる。

 

「相変わらず暗い顔してんな」

 

 適当に相槌を返そうと思ったが、いや『相変わらず』って何だ。ずっとそう思われてたんかい。

 まあ、最初から今に至るまで、俺には思い悩むことが多すぎる、というのはあるけれど。

 

「なあ」

 

 そのまま会話が終わると思いきや、なぜかさらに呼びかけてくるサイタマ。

 

「昼、もう食ったか?」

 

 まず頭をよぎったのは、今は一体何時なのだっけということだった。

 心配されているのか。昼どころか、ここ最近まともな食事を摂った覚えもないが。

 しかし、そんなことを言ったらまた気遣われてしまうだろうか。返答を逡巡した結果、微妙な沈黙が流れてしまったが。サイタマは、それについてはあまり気にしていないような顔で、

 

「カレー作りすぎちまったんだけど……食う?」

 

 ……おい。俺が誘われてどーする。

 

 

 

 

 

 

 

 「料理作りすぎちゃって……」を、まさか攻略対象の男から仕掛けられるという予想外の事態。

 女子の矜持と好感度を天秤にかけ、もちろん後者を選んだのでお呼ばれすることとなった。

 漫画で何度も見たリビング(思ったより綺麗だった)で、ついていないテレビを前に配膳を待つ。

 というか、

 

「……料理が女子力みたいなのも今日び古い?」

「ん? なんか言ったか?」

「ぃ、いや……?」

 

 やべ、独り言。

 一人で過ごし、一人で考え込む時間が長すぎたせいで、すっかり癖になってしまったらしい。

 キッチンから出てきたサイタマにはぎりぎり聞き咎められなかったようだ。セーフ。

 

「ほい。飲み物は水でいいよな」

 

 カレー皿で湯気を立たせる白米と、ルー。それと、スプーンとコップが置かれる。

 ごく普通に美味しそうなカレーライスだった。

 

「い、いただきます……」

「おー。……男の自炊だから期待すんなよ」

 

 ニヒルに微笑むサイタマ。

 包丁すらロクに握らない男子大学生よりは優れたスキルをお持ちだと断言できる。

 そんな彼は既に食べ終えてしまったようで、向かい側で頬杖をついて俺を観察する構え。見られてると食べづらいんですけどー。

 とりあえず、スプーンでひと口掬って、

 

「……美味しい」

 

 思ったよりも辛くなかった。かと言って甘くもなく、ちょうどいい風味。優しい味だった。

 

「そりゃどーも、だ」

「サイタマ、料理上手……だね」

「そうか? フツーだろ」

 

 まあ、俺よりはということで。

 それ以降は特に会話もなく、黙々とスプーンを進めていたが、

 

「……俺が口出すようなことじゃねーけど、お前ちゃんとメシ食ってんのか?」

「え? あ……うん、」

 

 やはりそれが本題か。

 必要ないので食べてません、顔色悪く見えるのは人間じゃないからです、とは言えなかった。

 

「腹減ると元気も出ねーぞ」

 

 水を飲みながら、そんなアドバイス。……うん、そう言われると、そもそものネタ元であろうアンパンのヒーローが頭をちらつくのだが。

 まあ、真理なのは違いない。

 戦争帰りの人間が辿り着いた正義の形だ。確かな重みが存在している。サイタマのほうがそのあたりを意識しているかは置いといて。

 

「……そうだね」

「だろ?」

 

 なぜか得意気なサイタマ。

 思わず噴き出したら、笑うなよ、と拗ねたように咎められた。

 

 

 

 

「はー、ごちそうさま」

 

 最後の米粒まで綺麗に片付けて、満たされた気持ちで両手を合わせる。

 食事の喜びなんてとうに忘れたと思い込んでいたが、美味しいものを完食した時に湧き上がってくるこの感覚は、馴染み深いものだった。

 食の幸福、馬鹿にならない。

 いらないから、といって安易に邪険にするようなものではないことは改めてわかった。QOLが下がる。

 それを見るサイタマは苦笑して、

 

「……満足そうにしてるとこ悪いが、ついてんぞ」

「あ、ごめん……むぐ」

 

 古典的なドジをやらかしていたらしい。

 どこだろうと手をのばすより早く、わざわざティッシュを取って、頬を拭ってくれる。

 ありがとう、を返す前に、

 

「ちょっとは良い顔になったな」

 

 そんなことを言われて、一瞬、言葉に詰まってしまった。

 言語化できない感情の群れが、弾丸のようにシナプスを駆け巡る。それら全てをとりあえず飲み込んでから、ありきたりなことを言った。

 

「あー……うん。色々あって考え込んでたんだけど……サイタマのおかげで、元気出たかな」

 

 こんなことを口に出したい訳じゃないんだが。

 俺が今言いたいのは、もっと単純で、もっと“俺”らしい言葉。そう、

 

「ありがとう、」

 

 サイタマが眠たげな瞳を微かに瞬いた。

 それから、緩慢に目が逸らされる。

 

「……おー」

 

 つるりとした頭を掻いたかと思えば、俺が食べ終えた食器をさっと纏めて、なぜかキッチンへ向かってしまった。ちょ、タダ飯食わせてもらって片付けまでさせるのはシンプルに人として。

 さすがに慌てたが、

 

「洗い物、」

「いーから。俺がやっとく。出かけるとこだったんじゃねーの?」

「え、っと……まあ、」

 

 スムーズに遠慮されてしまった。

 外の空気を吸いに出ただけだったのだが、ここで食い下がっても、特に意味がないか。……最後の良心が痛むのは間違いないけれど。

 お言葉に甘えて、席を立つ。

 そんな俺を、

 

「またな」

 

 サイタマが、自然な微笑みで見送ってくれる。

 

「……うん。また」

 

 その笑顔に手を振って、部屋を出た。

 扉を閉め、自分の部屋へ向かって。

 

 ──ドアノブに手を掛ける前に、扉を背に、ずるずるとへたり込んだ。

 廊下に行儀悪く足を伸ばす。

 

「…………はー……」

 

 深く息を吐き出して。

 拍子抜けするというか、何というか。なんとなく、不思議な気分だった。

 軽くなった胸に手を当てる。

 次に、満たされた腹に。

 サイタマが何か俺に言った訳ではない。素晴らしいアドバイスをくれた訳ではない。でも、あれでじゅうぶんだった。

 我ながら単純なヤツ、と思うがそれはしょうがない。

 ぼうっと空を仰ぐ。

 

「……懐柔しようとしてたヤツに助けられるとはね」

 

 人生ってのはわからないもんだ。

 サイタマが生身の存在であることを、改めて意識する。俺がただ干渉するだけではなく、サイタマも俺に影響を与えているのだ。

 そんな単純なことを、ここに来てようやく噛み締めた。

 いつだって彼はそうしてくれていたのに。

 

「でも、それは最初に俺が関わったから」

 

 俺があの日、あの時、手を差し伸べたから。

 そしてサイタマは、“セツナ”の見た目に惹かれた訳ではないと言った。喜ばしい意味ではないのかもしれないし、それがどこまで真実なのか、確かめる術はないけれど。

 出会った頃のことが、ようやく鮮明に蘇ってきた。ずっと、忘れかけていたこと。

 俺自身が選んで、歩んできた道だ。

 

「……“赤井佑太”にも、まだできることはあるよな」

 

 そう思いたい、と思った。

 たった一人の大切な、自分自身のために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──眼前には、ドーム型の建物。

 少し視線を手前に戻すと、『ヒーロー認定試験』の縦書きゴシックが目に入る。

 天気は快晴、風もなし。

 あれからまた、月日が経って。

 今までの経緯は……説明するまでもない。

 指定された簡単な履歴書とエントリーシートを提出して、それがあっさり通って。それ以降何事もなく、試験当日を迎えてしまった。

 いや。迎えられたのだ。

 喜ばしいことに。

 

「……ああ、落ち着け」

 

 読み込んだ参考書をぎゅっと胸に抱いて、暴れたがる心臓を必死に抑え込む。

 練習は死ぬほどした。

 勉強もした。下調べだってもちろん。

 それに、

 

「……このままじっとしていても、状況が悪くなるだけ」

 

 ジェノス、ソニック、バング、フブキ。

 放っておけば、順当に集ってしまうだろう。

 サイタマの強さに惹かれる彼らが、すぐ近くにいる俺の存在を都合よく無視してくれるとも思えなかった。残念ながら、サイタマの擁護にも説得力を期待できない。

 2年以上が経ってしまった。

 もう、猶予はあまり残されていない。

 やれる時にやれることをやる。

 それだけだ。

 

「そうだろ、“俺”」

 

 ああ、そうだよな。

 

「行きますか」

 

 いざ、プロヒーロー試験へ。




サイタマ氏の出番、ちょっと増えました。
主人公常に病んでますね。趣味です。

あとヒーローネーム、候補はいくつかあるんですがまだ決まってないです…


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人格とその多面性について

 まずは、最初にして最大の関門。

 出入り口の生体認証センサー。

 

「…………セーフ、」

 

 びっくびくで通ったが、無反応だった。

 予想通りの結果で安心。

 事前に、自動ドアのセンサーに引っかからない遊びをする男児がごとく、シェルターの出入り口をうろちょろして試しておいた甲斐があった。

 しかしこのセンサー、何をどう判断しているのかが永遠の謎。ヒーロー協会の中でも「こいつアウトだろ」みたいな輩は無限にいる訳だが。

 特殊部隊じみた装備の警備員を横目に、ホール内を進む。

 

「試験なんて何年ぶりだろ」

 

 大学在学中に、資格試験や就職試験はいくつか受けたものの、そんな記憶はもう忘却の彼方。

 基本的に思い出す必要のないことなので、朧気になっていくスピードが凄まじかった。

 

「……おお、」

 

 ホールにはおそらく受験者と思しき人間がひしめいている──のだが、皆なんか厳つい。

 今にもヒャッハーとか言いながら、火炎放射器で汚物を消毒してきそうなタンクトッパーばかりだ。やめてくれその技は俺に効く。

 ここが世紀末か。頭ひとつ分小さい俺に注目が集まってくるのを感じるが、幸い、表立って煽ってくるような輩はいない。

 平和に行こう、平和に。

 

「あの……受験番号z360011の……セツナですが」

 

 その後、何とか受付に辿り着き、受験票を女性の担当者に渡せた。

 ヒーロー協会の女性スタッフの服って可愛いよな。今の俺が着ても胸元映えなさそうだけど。

 彼女は手元のタブレットと受け取った受験票を見比べ、

 

「特別査定をご希望の方ですね」

 

 ──特別査定。

 そう。さすが、タツマキフブキのエスパー姉妹を擁する機関だけあって、エントリーシートの希望欄にそういう項目が設けられていたのだ。

 一応、いわゆる超能力者の雇用にも積極的な姿勢は見せているらしい。

 

「……はい、」

「承っております。ですがまずは、他の受験者の方と同じく筆記テストを受けていただきます」

 

 筆記テスト、か。

 参考書やネットの情報を見るに、

 

 ・小論文

 ・精神分析マークシート

 ・知能検査マークシート

 

 の、3種類が主な内容らしい。

 過去問からして、一番引っかかりそうな知能検査は高校レベルの内容、なのだが。

 

 

 

 

「……やっぱりちょっと難しくなってたな」

 

 全ての筆記試験を終え、会場から追い出されてまず初めに思ったことは、それだった。

 なにせ、参考書側が『応募者の増加で問題のレベルは常に右肩上がり、この本もあんまり参考にならないかもよ(大意)』みたいなことを、巻頭に載せてしまうくらいなのだ。

 ヒーロー協会もまだ設立して5年足らず、という新しい組織で、色々手探りなんだろう。

 大卒見込みとはいえ私立文系、しかも在籍は数年前の身では多少厳しい部分もあったが。まあ大丈夫だろう、と思うしかない。

 小論文は……ノーコメントとして、

 

「精神分析マークシート、教習所の効果測定みたいな内容だった……」

 

 ドライバーの適性ならぬ、ヒーローとしての適性を炙り出すようなものだったのか。

 良い人を意識して演じようとすると、内容に乖離が生じるので、あまり考えずやるべし。そんな教えに従ってほぼノー勉で挑んだが。

 とりあえず、筆記については『終わった』と割り切るしかない。

 これからもまだテストはあるのだから。

 

 ロビーにて。

 緊張を紛らわすため、持ち込んだ水筒をちびちび傾けていると。

 

「あ」

 

 受付にいたのとはまた別の女性スタッフが、こちらに小走りで近づいてきた。

 

「セツナさんはこちらへ」

 

 そのまま、誘導される。

 まさか早々に呼び出しかよ──とは、思わなかった。

 特別査定を希望する受験者は、個別に試験が行われる。あらかじめ聞かされていたことだ。

 訳知り顔の俺を見つつ、しかしこれはマニュアルだと言わんばかりに解説を始めるスタッフ。

 

「本来ならば、筆記テスト後には体力テストを一律で行っていただく予定なのですが──」

 

 

 

 

『──今から、模擬戦闘を行ってもらう』

 

 それから案内されたのは、『第2訓練場』と出入り口のプレートに示された巨大な部屋。

 部屋というか、ひたすらに何もない空間だ。床も壁も白く、全体的に丸い。

 その中心で、

 

「でか」

 

 胸に『鉄人』と記された、巨大なロボットが棒立ちで待ち構えていた。iPhoneの新しいカメラみたいな顔しやがって。

 ……え、てか今、何て言った?

 模擬戦闘。こいつと?

 いきなりハードル上がりすぎじゃ。

 天井隅のスピーカーから響いているらしい男の声に、意識を傾ける。渋い、厳かな響きだった。どうやら別室から監視されているようだ。

 

『ルールは単純。きみの能力で、その査定用“鉄人ゴー君”を行動不能にしてくれればいい』

「ちょっとぎりぎりなネーミングでは……?」

 

 転移者の感覚だが。

 童帝とかが開発したんだろうか。そもそも彼の名前自体がわりとぎりぎりである。

 いや、そんなことはどうでもいいんだよ。あーヤバい緊張してきた。本番に弱いタイプで。

 倒す。こいつを倒す。よし。

 

『準備はいいかね?』

 

 良くはないが、待ってとも言えない。

 必死に呼吸を整え、ロボットを見据える。いつもどおり。いつもどおりにやるだけだ、俺。

 

『では──始めッ』

「ふっ、」

 

 返事は聞いてない、とばかりにさっさと切られた戦いの火蓋。

 まずは“鉄人ゴー君”の、パンチンググローブに包まれた鉄の拳が降り注──がなかった。俺の反射神経のほうが勝っていたらしく、一瞬で首から下が凍りついたロボットが、肢体を軋ませる。

 動きは抑えられたが、それだけだ。

 このまま砕いても、ダメージにはならない。

 

「げ、生物じゃないから有効打にならない?」

 

 なーにがいつもどおり、だ。

 想像したよりも凍らなかった。材質によって力の効き具合が違うのか。苦い気持ちになる。

 思いもよらない弱点だった。

 今まで機械系の怪人には会わなかったから。

 こんな大事な場面で、勉強不足が丸わかりの成長を遂げたくはなかったが、

 

「仕方ない、」

 

 こめかみに指先を押し当てる。

 イメージしろ。俺が作り出したいもの。

 急ごしらえの氷結トラップはいつ破壊されてもおかしくない。ひび割れ、崩れる音が聞こえる。

 集中。集中、集中、

 

「──よしっ!」

 

 バキッ。

 鈍い音がした。

 “鉄人ゴー君”がトラップを突破した音ではない。その顔面を、氷の槍が貫いた音だった。

 鉄の体がその場に崩折れる。

 

『──コマンド、エラー。機能停止。コマンド、エラー。機能停止』

 

 やがて。淡々とした機械音声が、スピーカーから聞こえてきた。

 ロボットが再び起き上がる気配はない。

 

「倒した……?」

『……ああ。試験は終わりだ』 

 

 こちらの声が聞こえているのかいないのか、タイミングばっちりにそう呼びかけられる。

 

『もう、戻ってくれて構わない』

 

 

 

 

「……ふー」

 

 訓練場を出て、溜め息。

 終わりよければ全てよし……とはよく言ったものだが、なかなかアレな出来だったことは認めざるを得ないか。俺はまだ、超能力者としても未熟な存在なのだろう。学ぶべきことは多い。

 頭痛の徴候はないので、そこはオッケー。

 ロビーに戻ると──そこのモニター前に集まっていたらしい受験者たちが、一斉に俺を見た。

 

「…………え?」

 

 思わずモニターに目をやると、画面には先ほど俺が破壊した鉄人ゴー君の姿。まさか、査定風景が中継されていたのか。聞いてないが。

 え、ちょっと恥ずかしい。

 ヒーローになろうとする人間が思うようなことではないのかもしれないが。

 というか、彼らの向こうにあるロッカーに用があるのだけれど。一歩踏み出すと、

 

「え、」

 

 ざっ、と。

 モーゼの再来かな、と言わんレベルで、人混みが退いた。目の前に空間が生まれる。

 

「……ど、」

 

 先頭にいた、いかにもなモヒカンの彼が、どもりながら口を開く。……ど?

 

「ど、どうぞ……」

 

 何かと思えば、紳士的に誘導してくれただけだった。周囲もなぜかそれに倣う。

 

「あ、はい」

 

 絡まれたりしなくてラッキー、程度の気持ちで用を済ませ、その場を後にしたが。

 廊下を歩きながら、ふと。

 頭に浮かんだこと。

 

「……もしかして、ビビられてる?」

 

 理由は考えるまでもない、さっきの模擬戦闘中継のせいで。危険人物だと思われた?

 

「サイタマ以外とほぼ会ってなかったからな」

 

 この能力が、一般人の目にどう映るかというのがよくわかっていない。そもそも、そのサイタマにさえ見せたことはないのだ。

 氷系能力。

 本能的に恐怖を感じるなら炎系や雷系なのではと思うが、どうなんだろう。俺自体、そんなに法外なパワーを持ち合わせている訳でもないし。

 サイタマに見せたところでもちろん驚きも、怖がりもしないだろう。

 うーむ。

 

「──まあ、ナメられないのは良いことだ」

 

 ……結局、そこに落ち着いた。

 若い女なんてなおさら場違いだろうし、変に軽く見られたりするより、よっぽどやりやすい。

 

「次は……体力テストか」

 

 気合い入れてこう。

 

 

 

 

 ──結果から言うと。 

 

「B級」

 

 合格は、した。

 87点。筆記47点、体力(特別査定含む)40点。

 70点以上がC、80点以上がB、90点以上がA、100点満点でS。そういう区分けらしいので、もう少し頑張ればA級になれたようだが。

 ……特別査定はともかく、その後の体力テストでそこそこドジを晒したのが原因だろうか。

 成人男性を上回るパワーとはいえノーコン、しかもあの世紀末集団では中の下。悪目立ちするような結果だったので仕方ない。

 思い出すと羞恥で体温が上がりそうになるので、目の前の現実に意識を向ける。

 

「B級……B級かあ……」

 

 C級だったら落ち込んだし、A級だったら喜んだかもしれない。S級はそもそもありえない。

 その中で、B級。

 

「まあ最初のランクとしてはすごい……のか?」

 

 人数分布がピラミッド型なのはわかるが、実際どういう扱いなのかはよくわからない。

 いや、まず合格したことを喜ぶべきか。

 スポーツウェアの上にトレーナーを被り直したちょうどその時、

 

『──セツナ様、本日16時より合格者セミナーを行います。第3ホールにお越しください』

 

 どこからか聞こえてきたアナウンスに追い立てられるようにして、誰もいない女子更衣室を出た。

 

 

 

 

 そして、呼び出された第3ホールにて。

 

「合格おめでとう」

 

 俺を出迎えてくれたのは“鉄人ゴー君”……ではなく、蛇柄のスーツに身を包んだ男性。

 非常に見覚えのある顔だった。

 

「どうぞ、掛けてくれ」

「……どうも……」

 

 着席を促されるが、見渡す限りガラガラなので逆にどこへ座るべきか迷う。結局、ホワイトボードから一番近い椅子を選んだ。

 

「今日のセミナーを担当させてもらう、A級ヒーロー“蛇咬拳のスネック”だ」

「えっと……セツナと言います」

「ああ。では、始めよう」

 

 ……このまま始めてしまうのか。俺以外まだ誰も来ていないが。

 そんな驚愕が顔に出すぎていたのか、スネックはこほん、とひとつ咳払いして。

 

「残念ながら、今回の合格者はきみ一人だった」

「……そうなんですか?」

 

 想定外の事態だった。俺より屈強そうな受験者は山ほどいたのに。誰も残れなかったのか。

 しかし、彼のほうはやむを得ない、と言うような訳知り顔。

 

「S級やA級の活躍──それとメディア露出で、ここ1、2年の倍率は驚くべき数値になっている」

 

 ペンのキャップを抜いて、ホワイトボードに巨大なLの字、その中に右肩上がりの曲線を描く。

 

「試験の基準も年々厳しくなり、プロヒーローは既に誰でも目指せる職業ではなくなった」

 

 もともと命懸けですしね。

 ここまで普通に会話しておいてなんだが、セミナーにおけるスネックといえば、姑息な新人狩りのイメージが強い。強硬手段に出るほど気にしているなら、こういった場では常に新人をいびっていそう、と思ったりもしたものだが。

 今、俺の前にいるスネックは『普通』。

 年齢や性別でああだこうだ言うこともなく、真面目に業務をこなしているように見える。

 

「まず、協会から支給されるプロヒーローパックを渡しておく。必ず中身を検めておいてくれ」

「ありがとうございます」

 

 手渡されるA4サイズの白封筒。

 大きくヒーロー協会のロゴが印字されている。この猛禽類っぽい鳥は鷲、それとも鷹?

 そんな無益なことを考えていると、

 

「超能力者、か」

 

 つぶやきが、耳に入ってきた。

 独りごちるような口調だった。思わず顔を上げてスネックを見ると、彼は少し慌てたように、

 

「いや。俺はヒーローネームの通り、拳法が専門だからな。講師をやっておきながら、きみの手本にはなれそうにないのが申し訳ない」

 

 ……原作で抱いたイメージ以上に、良い人なのかもしれない。

 まあ、あれはまずサイタマの態度に問題がありすぎたとか、だとしても新人狩りをするのは人間性がどうなんだとか、色々思う部分はあるが。

 今も、超能力という全く違う分野の話なので優しくできるとか、そういう後ろ暗い感情があるのかもしれないけれど。

 

「……いえ。お気持ちだけでも嬉しいです」

 

 対人関係は『相手がどう思っているか』ではなく、『自分がどう思ったか』が大事。

 俺はスネックを良いヤツだな、と感じた。とりあえずそれでいいだろう。

 

 

 

 

 合格者セミナーは、何事もなく終了し。

 スネックにも穏やかに見送られ、会場から離れた今の今までも、追ってくる気配はなし。

 ようやく、終わった。

 ──合格した。ヒーローに、なった。

 じわじわと、時間差で嬉しさがこみ上げてくる。言葉にしにくい喜びだった。

 帰ったらさっそくサイタマに……サイ……いやだからサイタマに教えちゃダメなんだってばよ。

 

「…………やったー」

 

 とりあえず、一人で喜んでおく。

 俺の生活にサイタマ以外の彩りがなかったのが悪い。共有できない喜怒哀楽が多すぎる。

 

「わーい。……ふう」

 

 喜びタイム終わり。

 さて。B級か。

 今さら査定結果にはうだうだ言わない。

 それよりも、B級になった以上避けられない、目の上のたんこぶの処理を考えなければ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 触れたら溶けて消えてしまいそうな、白いレースのワンピース。財布くらいしか入りそうにない、おしゃれな小さいハンドバッグ。ベルトサンダルはあまりヒールがないものを。

 

「……よし、」

 

 こうやってショーウィンドウで服装を確認するのは、今日何度目だろう。

 時間はかかったが、無事綺麗に仕上がった三つ編みを再び背中へ流し。前髪を整える。

 古着屋で、残り少ない貯金をはたいて購入した渾身の『清楚』コーデ……と言っても、雑誌の表紙にあったものを見様見真似でパクっただけだが。

 

 ──プロヒーロー試験を終えて、3日。 

 こんなにも見た目に気合を入れて、俺がどこへ向かおうとしているのかといえば。

 サイタマとのデートではない。

 実際そうすることがあっても、ここまではしないだろうと思う。彼が気にしたり、逆に自分の服装に気を使うとも思えない。

 閑話、休題。

 

 S級の童帝。

 A級のアマイマスク。

 そしてB級の、フブキ率いるフブキ組。

 ヒーロー活動をしていく上で、ぱっと思いつく目の上のたんこぶたち。逆撫でするのはもちろんNGだが、サイタマのことがある以上、安易に取り込まれてしまうこともできない。

 しかし、フブキ組は単に放っておくのが最も悪手、と言える集団だろう。

 サイタマがB級昇格した際にはゴーストタウンにまで押し掛け、強襲した前科(実際にはまだだが)があるのだから。とりあえず、本編より早く突撃される前に、顔見せだけでもしとこう。

 ──ということで、やって参りましたフブキ組事務所。

 ネットで住所を調べた結果、普通の雑居ビルの2階に入っているらしい。辿り着いても思う。普通の雑居ビルだ。

 ……ドア横に『フブキ組』と立派な書体で表札がかかっているが、指定暴力団感が増している。

 

「……これ普通にピンポン押していいのかな」

 

 素朴なドアチャイムが備えつけられているのを、押すべきか押さないべきか迷って。

 背後から迫る気高いヒールの靴音に、気づかなかった。

 

「──あなた、そこで何してるの?」

「ぇあ」

 

 呼びかけられて、とっさに振り返る。

 その先にあったのは、タイトな黒いドレスの中で一際存在を主張する──

 

「でッ、………………」

 

 自主規制。

 いや違う、で、で──

 

「出口はどこですか?」

「えっ迷ったの?」

 

 セクシャルハラスメントから軌道修正を試みた結果、雑居ビルで惑う狂人が誕生してしまった。

 当然、怪訝な顔をするドレスの女性──俺が会いに来た人物、B級ヒーロー“地獄のフブキ”。それはラッキーなのだが、口の滑り方がまったくアンラッキーだった。自業自得とも言う。

 

「い、いえ……」

 

 うつむいた先、自分の控えめな胸元が目に入って何とも言えない気分になった。白って膨張色じゃなかったっけ。

 いや、落ち着け赤井佑太。

 フブキにもセツナにも超失礼だぞ。大体、サイタマを口説くのに云々という建前を踏まえても、彼はそんなフブキを『知り合い』と一蹴しているのだから。スタイルは関係ないのだ。

 何の話だったか、

 

「見かけない顔だけど……うちに何か用?」

 

 優雅に腕を組み直すフブキ。個人的な感想だがやはり非の打ち所がない美形だと思う。

 切り揃えられた緑の黒髪が流れ、澄んだ翡翠色の瞳が不思議そうに瞬いている。いや、見惚れている場合じゃない、自己紹介しないと。

 

「えっと……はじめまして。つい最近、ヒーロー認定試験に合格しました、セツナと申します」

 

 セツナ。フブキがぼそっと復唱する。

 

「幸いにも、同じB級として活躍させていただけることとなりまして……ご挨拶を、と」

「ああ、」

 

 こんなことはもはや慣れっこなのか、彼女の反応は予想以上に淡白だった。しかし、

 

「超能力者の端くれとして、フブキさんはずっとわたしの憧れでした。お会いできて嬉しいです」

「えっ」

 

 そこで、目の色が変わった。口に手を当て、わかりやすく驚いてみせる。

 

「そ……そうだったの?」

 

 ……そんなに食いつくところか?

 実際に、社会で超能力者として生きてきた訳ではないので、彼女やタツマキの感覚がわからない部分は多々ありそうだが。

 

「超能力?」

「ええ、まあ……大した力ではないのですが……」

「今見せられる?」

 

 今。とりあえず手を出して、その上に小さな氷塊を発生させてみる。サイタマに見せたのと似たようなものだ。フブキは微かに唸って、

 

「面白い能力ね、冷気を発生させる……?」

 

 それからなぜか、黙ってしまった。顎に指を当てて何か考え込んでいるようでもあったが、おもむろに、ぱっと表情を綻ばせて。

 

「……で! もちろん、私の……フブキ組のことは知っているのよね? それで、」

 

 ヤバい。やっぱり勧誘に来たか。というか、入れてほしくて来たと思われている?

 

「っ、あ、あの……大変、心苦しいのですが」

「……? どうしたの」

 

 きょとんと、首を傾げるフブキ。普段の仕草は完全無欠なのに、たまにこういう無邪気さみたいなものが垣間見えるのが良いよな、じゃなくて。

 ひとつ咳払いして、再び手を差し出す。

 

「わたしの体は、おそらく常に微弱な冷気を発生させています。集団行動に不向きなのです。他の方々の健康を害してしまうかもしれません」

 

 嘘を言っている訳ではない。

 というか、この距離なら彼女にも何となく伝わっているのではないかとも思う。

 

「そんな……」

 

 一気にしょげた風のフブキだったが、何とかなる、とは強弁してこなかった。

 他の組員に迷惑がかかる。

 彼女もフブキ組のトップとして、その部分を重く見ているのだろう。フブキのためのチームだが、彼女のためだけのチームでもないのだ。

 

「えっと……そうね、籍だけ置くのでも私は……」

 

 それでもまだ諦めきれないらしい。

 モテモテだなあと他人事のように喜びつつ、今のところは優しく梯子を外しておく。

 

「……まだ、わたしはデビューして1週間も経っていない若輩者ですから。フブキさんが実際に活躍を見て……その上で御眼鏡に適うようなことがあればまた、お誘いいただければ」

「……そう……そうよね……わかってるわ、」

 

 そんなわかりやすく落ち込む?

 もしかして対タツマキのための戦力として既に見出されているのか。荷が重すぎる。

 とりあえず、今日は退散しよう。

 

「フブキさん。お話しできてよかったです、ありがとうございます」

「……ええ、」

「はい……では」

 

 気落ちした風のフブキにさっさと頭を下げて、足早にその場を後にした。

 

 

 

 

 ──雑居ビルの前まで、(当たり前ながら)迷うことなく無事に降りてきて。

 まず、口をついて出てきたのは。

 

「いやめちゃ美人やんけ……」

 

 美人だ美人だと思ってはいたが、リアルで見ても普通に綺麗だった。しかもわりと優しかった。

 スネックの時も思ったことだが、本性はどうであれ、多少の礼節をもって接すればそれなりに応えてもらえるんだな。

 冷静に考えるまでもなく、サイタマは他人と接する時に礼を欠きすぎるきらいがある。ちょっとさすがに擁護できないレベルで。

 しかしまあ、

 

「思ったより興味を持ってもらえたな」

 

 これが吉と出るか、凶と出るか。

 サイタマの時も思ったことだが、フブキはふんわりながら彼と敵対することが既に決まっている。

 その際、俺はどうするべきなのか。

 サイタマに嫌われるのは最も避けるべきだが、フブキを敵に回しても面倒だ。

 頭が痛くなってくる。

 

「……なんとか知らんぷりして誤魔化してぇー……」

 

 言語化しきれない不安を抱えつつ、のろのろと帰路につく。

 

 タイムリミットはあと数か月。

 平穏を得るまで俺はあと、いくつのXdayを乗り越えなければならないのだろう。




ONE版ガロウ編集盤のとあるシーンで「豚神って訳わからんと思ってたけどわりと常識ある良いヤツかも」と思ったんですが、村田版最新23巻のおまけがそのあたりをフィーチャーした内容(と自分は感じた)ですごい良かったですね。関係ない話ですね。


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釣った魚に餌をやる

「ギャハハ! 我らは怪人戦隊ツマーズ!」

「貴様は食べられず捨てられてばかりの刺し身のツマの気持ちを考えたことがあるか!?」

「我々の痛みを知れェーッ!」

 

 Z市中心街──静かな昼下り、突如その平穏を乱す危険因子が姿を現した。

 おそらく、ゴーストタウンとなった郊外から乗り込んできたのであろうその3体は、歩行者天国を悠々と占拠し。

 

「紫蘇が化身、ツマーズ・ワイフ!」

「大根が化身、ツマーズ・ソード!」

「生姜が化身、ツマーズ・ホット!」

 

 格好は子ども向け番組のヒーロースーツのようだが、その顔面はそれぞれ、巨大な青じそ・大根の千切り・すりおろししょうがで覆われている。

 イメージカラーは、そのスーツの色から察するに上から緑、白、黄か。

 突然、交差点の中央に現れた異様な集団に。

 道行く人々の間には一瞬の沈黙が流れ。

 

「……うわあああ!」

「なんか変なのが出たぞぉお、逃げろーっ!」

 

 それから、蜘蛛の子を散らすように大通りから走り去っていった。そんな中でぽつんと取り残される、一般通行人Aこと──俺。

 

「……ん?」

 

 最初に俺へ目をつけたのは、ツマーズ・ソードだった。刺し身の下に敷かれてる大根って、ドリップを吸うから生臭くなるんだよな。

 

「逃げないとはいい度胸だな人間……我々の味わってきた苦痛、たっぷりその身に刻み込んでやる!」

「一枚の紫蘇にも五分の魂!」

「山葵にお株を奪われがちなこの苦しみ、貴殿に受け止められるかな!?」

 

 紫蘇、大根、生姜。

 確かにそこそこ代表的なツマだ。確かにしょうがは、わさびであるほうが多い気もするが。

 しかし、何かが足りない。

 そんな気がする。

 何か、何かが──

 

「食用菊の化身はいないんです?」

 

 ぴたっ、と。3体の動きが止まり。

 

「………………」

 

 無言で異形の顔を見合わせてから、

 

「最近プラスチックで代替されがちだし妙に高い自意識がウザかったからリストラした」

「くく……ヤツは我らが戦隊の中でも最弱」

「ツマーズの面汚しよ……俺と色カブってたし」

「えっ仲間割れしたんですか?」

 

 驚愕の事実だった。同じ怪人、同じチームの中でもカーストは存在してしまうのか。

 

「弱いもの同士でいじめ合ってどーする」

「ギャアアア!!」

 

 3体まとめて急速冷凍のち、破壊。

 まだ見ぬ食用菊の化身に、合掌。名前はツマーズ・スメルとかだろうか……知らんけど。

 

「……ふー」

 

 誰もいない交差点の中心で、細く息を吐く。

 実は午前中にも一体倒してきたばかりなのだが、本当にZ市は怪人のメッカだ。特にレベルが高いとかそういうことはない、というのが、唯一の救いだろうか。

 

「もう帰ろうかな」

 

 そろそろ頭痛が来そうな感じもするし。

 今日はもう、じゅうぶんに仕事しただろう。緊急事態なら出動はやぶさかでないが、こんな虎だか狼だかのレベルなら他に任せたい。

 踵を返して、彼らがやって来たであろう、ゴーストタウンの方角を目指す。

 

 

 ──気づけば、ヒーロー活動を始めて早1か月。

 今のところ代わり映えしない日々を送っているが、それについて特に不満はない。

 順位は上がったり下がったり。

 C級ほどではないがB級もそこそこ激戦区で、フブキ組以外のメンツはわりと変動が激しい。

 

「おちんぎんが出たのは嬉しかったな」

 

 歩きながら、数日前に振り込まれたばかりの初任給についてぼんやり考える。

 大した値段ではなかったが、俺の場合、すぐに家賃や光熱費に消える訳ではないので良い。じゅうぶんありがたい金額だ。

 怪人をちょっと倒せば、金が貰える。なるほど、額面通り捉えれば、確かにスイリューの言うとおり割のいい仕事なのかもしれない。

 ただし、

 

「……このまま、無理しない程度に続けられればいいんだが……」

 

 “無理しない程度に”。

 それが可能なら、という話だが。

 自分じゃ敵わないレベルの怪人というのは必ずいるし、身内の争いも面倒臭い。

 何より、俺について言えば『怪人化』という爆弾を常に抱えながらやっている訳で。楽な仕事とはとても言えない。

 

「協会に報告もそこそこ面倒臭いし」

 

 指定の報告書に必要事項を記入して提出。必須ではないが、しないと業績に繋がりにくい。

 これがまたややこしいわりに細かくて。記入ミスがあると普通に送り返されてくる。死。

 そこまで考えて、

 

「……普通の会社と変わらんかも」

 

 下手に自由な分、面倒臭いまである。

 信号が変わった横断歩道を渡ろうとして。

 路肩に止まった黒塗りのセダンから、エスコートされて現れた黒髪の女性。

 見覚えがあって。それが誰かに思い当たり、やべえ、と思うより早く。

 目が、合ってしまった。

 

「──あら、セツナ」

 

 げ。

 ……を飲み込んで、笑顔を取り繕う。

 

「……こんにちは、フブキさん」

 

 どういう訳だか、あの初顔合わせで何やら彼女の琴線に触れるものがあったらしく。

 妙に、良くしてもらっている。

 申し訳ないが、適当にあしらってくれたほうがよっぽど心穏やかだった。いつサイタマとのバッティングが発生するか、ひやひやものである。

 

「仕事終わりかしら」

「ええ……今、倒してきたところで……」

 

 それに、あんなワンピースを仕事で普段使いなんてできず。結局、ポニーテールにスポーツウェアのラフな格好を晒しまくっている。

 せめてもの抵抗でキャップの鍔を引き下げ、パーカーのフードを被り直す。

 その下を、なぜか腰を屈めてまでわざわざ覗き込んでくるフブキさん。

 

「………………」

「…………あの……?」

 

 綺麗な顔が近くて嬉しい、とは思えなかった。

 意図が読めなさすぎて、単純に怖い。おそるおそる聞き返すと、

 

「あなた……メイクとかしてる?」

 

 ──!?

 予想外の問いかけに、頭が真っ白になる。

 化粧? ケア? ……してる訳がない。

 髪を梳かすくらいなものだ。

 俺は前世でだって美意識なんか欠片もなかったのだ。容姿が変わったからって、それをきちんと活かそうなんて気にはとてもならなかった。

 つまり、盲点だった。

 

「ぃ……いえ……すみません……」

 

 震えて縮こまる俺、微かに目を瞠るフブキ。

 女子力たったの5か……ゴミめ……とか思われたんだろうか。

 言うまでもなく、俺はスカートでしずしず歩くことなんてできないし、ハイヒールを履けば1歩ですっ転ぶだろう。女性的な美しさを演出する努力なんて、何ひとつしてこなかった。

 しかし、フブキは穏やかに、

 

「いいのよ。……あなた、基本的なケアはすごくしっかりしてるみたいだから、ちょっともったいないなと思っただけ」

 

 いや、それはそれで。

 基本的なケアって、脱毛とか眉毛カットとか肌ケアとか歯列矯正とかでしょうか。

 そこを頑張っていたのは“俺”ではなく“セツナ”さんで、俺は単にその甘い汁を流れで吸っているだけなんですが。毛が伸びたりとかそういった代謝も失われてしまい、何もしなくても綺麗な状態が保たれているだけで。

 “俺”に美容の知識はいっこもないです。

 さらに肝が冷える俺の頬に、

 

「…………そうね……でも、チークを入れるだけでも顔色が良く見えるんじゃない?」

「ひぇ」

 

 フブキの、白魚のような手が触れてくる。

 戦うヒーローのそれとは対極に位置する、なめらかで美しい指。冷たいんじゃ、などとはとても口に出せなかった。緊張しすぎて。

 

「どう?」

 

 どう、とは。この状況で逃げ道があるのか。

 というか、何に誘われているんだ。

 

「……お、お言葉に甘えて……?」

 

 とりあえず、頷いておく。

 決まりね。フブキは嬉しそうに手を叩いて、立ち話に合わせて直立不動だった部下に向け、顎をしゃくる。確かヒーローネームは山猿、の彼が再び開けてくれたドアに乗り込むフブキ。

 山猿に頭を下げ、俺も後を追う。

 

「ありがとうございます……素敵なお車ですね」

「そうでしょ? ほら、隣座って」

 

 おそらく、フブキ組が頑張って金を貯めて購入した車だろう。

 座席を軽く叩いて催促してくれるので、ありがたくそこに腰掛ける。新しい革の匂いだ。

 バックミラー越しに、睫毛バシバシの男性と目が合った。

 

「……フブキ様、その女性は……?」

「最近B級に入ったセツナよ。話したでしょ」

 

 いや話したって何をっすか。

 言い知れぬ不安を覚えつつ、とりあえず、幸いにも記憶があった部下の彼らに挨拶する。フブキに次いで2位と3位のコンビだ。

 

「は、はじめまして……マツゲさん、山猿さん」

「ああ、どうも……」

 

 続いて、同じシートの一番端で縮こまる小柄な人影に気づいた。

 頭に花が(物理的に)咲いてる系女子。アイスブルーのメッシュがおしゃれ。

 

「こんにちは、三節棍のリリーさん」

「あ……ご存知でしたか」

「ええ、まあ……」

 

 確か70位半ばとか。こっちは単にかわいい女子だったから覚えてたとか言えねえ。

 なぜか照れるリリー。かわいい。

 

「予定が変わったわ。事務所に向かってちょうだい」

「かしこまりました、フブキ様」

 

 ワンパン世界のヒーロー……男にもアマイマスクという美意識の権化がいるし、性別はもはや言い訳にならないんだよなあ。

 そんなことを考えながら、スムーズに発進するセダンのシートに体を預けた。

 

 

 

 

「──見違えましたねえ、」

 

 事務所に連れ込まれ、ドレッサーの前に座らせられて、早30分。

 とりあえずはこれで良いんじゃない、というフブキのつぶやきを受け、俺の顔を覗き込んだリリーの第一声だった。見違えた。見違えたって、

 

「あ、いや、もともとお綺麗でしたよ!?」

 

 微妙に顔に出てしまっていたのか、14歳に気を遣わせてしまった。申し訳ない。

 

「……ありがとう」

「そうよね、セツナは元が美人だもの」

 

 自他ともに認めるクールビューティーであろうフブキさんに言われると、むずむずしますが。

 つい頭に手をやろうとして、髪も弄くられたことを思い出し、すんでで止める。髪型自体は同じポニーテールだが、大人っぽく抜け感を出したとか。何すかそれ。

 

「で……どう?」

 

 椅子を回されて、再び視界いっぱいに“セツナ”の顔が飛び込んでくる。

 惚けたような表情で、こちらをじっと見つめる若い女性。白髪に薄いブルーの瞳は既に人間離れしている、と言えるかもしれない。

 けれど。例え、色のついた粉で彩られた偽物だとしても。その薄紅色の頬も、唇も、確かに温かい血が通っているように見えた。

 

「……普通の人間みたいです」

 

 思わず、そんなことを言った。

 耳元でフブキがくすっと笑みをこぼす。

 

「そんな、大袈裟よ。顔色は良く見えるけど」

 

 大袈裟──か。

 鏡越しに、フブキの顔を見つめる。ここまで手ほどきをしてくれたのだから、彼女は言うまでもなく完璧にメイクを済ませているのだろう。

 けれど、彼女の肌は温かいはずだ。その皮膚の下には間違いなく熱い血潮が流れている。

 その差は、絶対に埋められない。

 

「まあ、今後するかしないかはあなたの自由だけれどね。モチベーションアップにも繋がるし、気が向いたら自分でもやってみて」

 

 肩を叩かれて、我に返る。

 ──意味のない思考だ。フブキはあくまで、善意からやってくれているのだから。

 そして、彼女が俺の事情を知ることは永遠にない。できれば、そうあってほしい。

 

「……ありがとうございます、フブキさん」

 

 鏡に映る“セツナ”の顔は、いつかホームページで見たあの笑顔に、似ている気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──家まで送る、とフブキは言ってくれたが、今ゴーストタウンまで来られるのは非常に困る。

 ということで、昼間、ツマーズを倒した交差点付近まで車で運んでもらった。あの時とは違い、既に陽は落ちかけていて、街は薄紫色に染まっている。

 いつものように顔をキャップで隠そうとして、髪型が崩れるか、と思い直した。参ったな。

 できる限り裏道から帰ろうかな、と視線を彷徨わせたところで。再び、目が合った。

 

「……サイタマ、」

「セツナじゃねーか」

 

 げ、とは思わなかったが、ちょっとタイミングがずれていたらフブキと顔を合わせていた?

 全く、心臓に悪いことこの上ない。

 そんな俺の心境など、おそらくは知る由もなく。渡ろうとしていた横断歩道に背を向け、躊躇なくこちらに近づいてくるサイタマ。

 

「バイトでも行ってたのか?」

「まあ……そんなところだよ」

「ふーん?」

 

 もしかして、俺を探す用でもあったのか。

 思ったが、サイタマの反応は至って淡白だった。それから思い出したように、

 

「ま、ちょうど良かった。メシ食い行こーぜ。ネズミ寿司」

 

 ネズミ寿司。覚えのない名前だが、この世界ではチェーン展開している回転寿司店だ。

 前にサイタマと一度行ったことがあり、彼にはそれなりに行きつけの店らしかったが。

 そこでふと、頭に浮かんだこと。

 

「……今日はわたしが奢るよ」

「え、」

 

 初任給の使いみち。

 恩を返す親はもういないしな、なんて思っていたが、今の俺で一番近いのはサイタマか。

 彼は少し驚いたようだったが、

 

「いいのかよ。……いや、もともと割り勘の予定ではあったけど」

「うん」

 

 ついででそこを暴露してしまうあたりが、非常にサイタマらしい。

 普通の女性が彼に惚れたとして、まかり間違っても金銭的な甲斐性は期待しなさそう──と思うのは俺だけだろうか。

 

 

 

 

 まだぎりぎり夕方のネズミ寿司は、人が増え始めたかな、というくらいで。

 テーブル席も余裕で空いていた。目立たない端のテーブルを陣取って、一息つく。

 そうだ、ネズミ寿司といえば。

 

「……スタンプ貯まってきた?」

「おう。半分くらいか」

 

 元気よく答えてくれるが、別にそのわくわく感は共有できないし、したくもなかった。

 ちょっと安くて味は普通、というこのチェーンの特色。──クッソブサイクなマスコットキャラクター。もはやおぞましいまである。

 サイタマがコツコツとカードにスタンプを集めているのは、そのクッソブサイクなキャラクターのTシャツ欲しさなのである。

 全く、共感できない。

 

「お前も集めたら?」

「わたしは……大丈夫かな」

 

 あんなTシャツは罰ゲームだと思うし、それを着たサイタマの隣ははっきり言って歩きたくない。

 しかし、それを口に出さないのもまた優しさであろう。ただの自己中心主義ともいう。

 

「……お、サーモン」 

 

 マイペースに流れてきたネタを取るサイタマの横顔を、ぼんやり眺める。食欲がそもそもあまりないせいで、こういうビュッフェ的なスタイルだとちょっと困ってしまう部分はある。

 一品注文して終わり、勝手に料理が運ばれて終わり、というシステムのほうが楽。

 何もせず見ていたのを、同じモノを食べたいと勘違いされたのか。

 

「食うか? サーモン」

 

 2皿目を取って、なぜかこちらに差し出してくる。それを惰性で受け取りつつ。

 そういえば、見た目に何の言及もないのに気づいた。いや、それおかしくないか。

 

「ねえ、サイタマ……」

 

 湯呑みを傾けていたサイタマが、俺を見た。

 美的感覚ゼロの俺でさえ、ぱっと見て違いに気づいたのに。何か褒めたりしてほしい訳じゃないけど。誓って、何となく。

 

「わ……わたし、」

 

 何か──何か、思うこと、

 

「……そういえば、今日のお前──」

 

 来た。若干の緊張が走る。

 おそるおそる待った、次の言葉は。

 

「なんか……元気そうに見えるな!」

 

 ──なんか。元気そうに。見える。

 その瞬間、脳裏に、宇宙が広がった気がした。

 

「どした?」

「………………いや、」

 

 ちょっと、呆然としてしまった。

 男子は本当に気づかないんだなあ。

 前世の俺も含めての話だけれど。これじゃ、女子は大変な訳だ。

 

「……あははっ、」

 

 でも、次に込み上がってきたのは、笑いだった。どうして、というのは上手く言えない。

 それでも何となく可笑しくて、悪い気分ではなかった。ひとしきり笑って、涙を拭って。

 

「え、」

「ありがとう」

 

 テーブルへ無造作に置かれていたサイタマの左手に、そっと右手を重ねる。

 元気そうに見える。

 勘違いレベルでも、彼はそれを良いことだと思って口に出してくれたのだろう。それだけで、今は良い気がした。

 ……面白いのは間違いないけれど。

 サイタマは、困ったような、慌てたような表情で俺を見つめている。

 

「な……なんだよ……」

「ううん」

 

 思惑どおりには行かなかったが、不思議な満足感は得られた気がした。骨ばった手の甲を、そっと撫でる。

 

「元気なのは、サイタマのおかげだよ」

 

 彼は一瞬、呆気に取られたような表情をして。

 それからちょっと唇を尖らせて、顔を背けてしまった。非常に、わかりやすい仕草だった。

 重ねていた手も引っこ抜かれて、代わりに放置されていた皿を、こちらに押し出して──

 

「…………とりあえず、サーモン食えよ」

 

 いや、どんだけサーモン食わしたいねん。





次からようやく本編。やっと。

ありがたいことにたくさんの方に見ていただいたので、ワンパンマンの小説もなんやかんやで増えるかなと思ったんですが、今のところ全然そんなことはなさそうでちょっとショックです。


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全部、夏のせいだ。

 今年もまた、夏が来た。

 

 そうめん茹でるから来いよ、というサイタマの厚意に便乗して、遅い昼食を済ませた昼下り。

 今日も外はドン引きするくらい天気が良くて、開いた窓から吹き込んでくる風は気持ち悪いくらい生温い。

 そうめんは美味しかったが、それ以上何もする気になれず。

 ただ、テーブルに突っ伏して、だらけている真っ最中である。近頃なんか、ものすごくだるいのだ。

 

「今日もだるそうだな、セツナ」

 

 カーテンのように顔へうちかかっていた長髪を、優しくかき上げてくる指。クリアになった視界で、サイタマが笑っている。

 明らかにやる気が普段の4割減なのに、その一言で済ませてくれる彼は優しい。

 

「……んー……」

 

 でも、今はそれに対して淑やかに応じる余裕もない。だるいんじゃクソボケ、とか口に出していないだけで偉いほうだと思う。個人的に。

 しかしまあ、体調不良の際には不機嫌になるのが普通なんだろうか。無理をして抑えるのも……とはいえ、『好きな人』の前では配慮をするか。

 ああ、考えがまとまらない。

 

「眠い。何でだろう」

 

 手足の骨が蕩けてしまったかのよう。

 立ち上がる気にも、姿勢を変える気にさえなれない。眠い、と言ったが、頭が回らない、というほうが正しいか。ぼうっと、生あくび。

 サイタマはそんな俺を神妙に観察していたようだったが、やがてぽつりと、

 

「暑いからじゃね?」

 

 暑いから。気温……季節のせい?

 

「……夏だから?」

「お前気づいてなかったのかよ」

 

 3年越しの“気づき”を得た。確かに、毎年同じ時期に体が怠くなっていたような。

 

「気温の変化をあまり感じなくて……」

「まあ、夏も冬も同じ格好だったよな」

 

 それにしても、季節と不調を結びつけられないのは思考能力がヤバいと言わざるを得ない。

 無意識のうちに人間らしい判断力が奪われているような気がする。

 

「大丈夫か?」

「んん……まあ、去年も一昨年も大丈夫だったから」

 

 雪女じゃあるまいし、気温では死なないだろう。

 いやしかし、彼が「生理か?」とか言い出さなくて良かったかもしれない。女性の不調としては的を射ている気もするが、そういうの無いカラダなんです、とは色んな意味で答えにくい。

 サイタマは横目でテレビを眺めている。無料の災害チャンネルしか映らないそうだが、あまり気にしている様子はなさそうだ。

 頬杖が崩れて、その指先がスキンヘッドの額を掻く。暇潰しというよりは、執拗に一箇所を。痒いのかな、とぼんやり考えて、ふと。

 

「……蚊に刺されたの?」

「おう。マジでムカつくよなあいつら」

 

 あっさり肯定された。サイタマにダメージを与えられる昆虫、政府が保護するべきだと思う。

 

「この部屋、ムヒとかねーんだよ」

「ああ」

 

 当然そんなもの俺の部屋にもない訳だが、話を振った以上そっかー、で終わらすのもどうかという気がしてきた。確か、蚊に刺された時の応急処置に使える豆知識があったような。

 

「刺されたところを冷やすといいとか」

「冷やす? ……お前が?」

「……? うん」

 

 よくわからない問いにとりあえず頷く。

 俺がいるのに冷凍庫からわざわざ氷を持ってきたりするのは、何の意義もない無駄行為では。

 

「触るだけで冷たいでしょ」

 

 サイタマは温冷感に鈍いようなので、触るくらいじゃあまり益にならない気もするが。

 特に異論が返ってこなかったので、そのまま進めようとして。直前で、はたと止まる。

 

「……あれ、温めるといいんだったかな。どっちだっけ、忘れちゃったかも」

 

 冷やすのが正解か、温めるのが正解か。

 クイズ番組の影響でそういう選択肢までは出てくるのだが、肝心の答えがくだらない引っ掛け演出の記憶に邪魔されて出てこない。

 ここで調べ直すのも興醒めかと思い、諦めることにした。すまんサイタマ。

 

「……よく覚えてないや。ごめんね」

「え」

「もし悪化すると良くないし」

 

 申し訳ないが、我慢してくれ。

 そういう謝罪を暗に忍ばせ、身を引く。くだらない会話の一幕であるし、サイタマも適当に流してくれると思ったが、

 

「い、いや……なんか冷たくするといいって聞いたことあるけどな?」

「そう?」

 

 本人がそう言うなら、構わないのだろうか。もしかして結構痒かったり?

 改めて身を乗り出して、微かに赤く腫れた部分へ手を当てる。

 

「どうかな」 

「おー……なんか効いてる気がする」

 

 そんなことをしたり顔で言うサイタマ。

 雑学的にもあくまで気休めで、根本的解決にはならないんだが。可笑しくなってしまう。

 

「何だよ」

「ううん。サイタマでも、蚊に刺されたら痒くなるんだね」

 

 まあな、と頷いてから、俺を見て。

 

「お前は刺されなさそうで羨ましいな」

「そういえばそうかも」

 

 こちらも今さらの気づき。

 肌が冷たいせいか。蚊が寄ってくるのは吐き出す二酸化炭素を検知しているとか、聞いたことがある気もするが。

 花粉症も、蚊に刺された痒みも、悩まされないだけで全く意識しなくなるもんなんだな。

 この体、意外と便利になっているのかもしれない。だからといって、尊んだり他人に勧めたりする理由には全くならないが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いくら夏でだるくても、ずっと家でだらだらという訳にはいかない。

 実際、昨日や一昨日なんかはそうしていたが、今日くらいは仕事をするべきだろう。

 ──という訳で、サイタマと別れて、街の見回りに出てきた。ああ、空が青い。雲が大きい。外に出るとより一層しんどい気がする。

 

「ん」

 

 危険区域を出て、住宅街に差し掛かったところで。ラインパンツのポケットに入れていた携帯が、耳障りなバイブ音を奏でた。

 これはヒーロー協会からの支給品で、しかも折りたたみ式。おいおい今の20代はガラケーなんてほとんど触ってねーよと思いつつ、ボタンがカコカコする感覚はちょっと楽しい。

 私的なものではないので、プライベートな通知ではないと思うが、何だろう。

 ぱかっと開いて、その小さなディスプレイを流れていく文字を読んで。

 息が、止まった。

 

 ──Z市 蚊の大群が発生 災害レベル“鬼”

 

 同時に、街頭のスピーカーがノイズを吐き出して。それから、流暢に避難を呼びかけ始めた。

 周りでちらほらと姿を見かけた一般人が、ばたばたと家のあるほうへ走り去っていく。開いていた窓は速攻で閉められ、カーテンが引かれる。

 さすがホットスポットの住人だけあって、非常にスムーズだ。俺が誘導するまでもない。住宅街は、ものの数分で元の静寂を取り戻した。

 生活音さえ失われた街角で、一人、携帯の画面を睨みながら思う。

 ああ。

 

「………………」

 

 昆虫も災害レベルに当てはめられるんだ、などと暢気なことは考えなかった。

 災害指定される蚊が恐ろしい訳でもない。

 これは。

 

「……今日かよ、」

 

 舌打ちを飲み込んで、ポケットに携帯を押し込む。

 夏が来たからそろそろかとは思っていたが、よりにもよって今とは。昨日にしてくれよ。

 いや、無駄な御託はいらない。今は、

 

「帰ろ、」

 

 原因であるモスキート娘はサイタマとまだ見ぬジェノスに任せて、安全圏への避難を試みる。

 思わず見上げた空の向こうに、うねり、形を変える黒い靄のようなものが見えた。

 彼女と交戦になるのはまだマシなほうで、ジェノスの一撃でふっ飛ばされるのが怖い。サイタマは全裸で済んだが、俺は死ぬかも。

 どこまで逃げれば安全か。

 位置関係がよくわからないが、ジェノスの発言からして、あれはわりとゴーストタウン寄りの場所な気もする。まあそれにしても、あのアパートまで帰れば心配はないか。

 あそこが崩れたような描写はなかった、し──

 

「むっ」「ぎゃ」

 

 ──曲がり角を過ぎた瞬間、ゼロ距離から狙撃されそうになった。

 脳内をぐるぐる巡っていた思考が、その衝撃で綺麗さっぱり吹っ飛ぶ。

 運悪くぶつかりそうになった訳ではない。とっさにそう感じた。どうやらこちらを待ち構えていたらしい。

 いや、誰が、どんな理由で。

 

 何とか意識をたぐり寄せて、目の前に立ちはだかる人影を見上げる。

 おそらく若い男──なのだが、明らかに様子がおかしい。俺を強襲した青年は、改めてこちらの姿を見下ろしながら、柔らかみのない仕草で首を傾げてみせる。

 

「人間……? いや、」

 

 奇しくも、同じ疑問を抱いたところだった。

 金の髪、人間離れした配色の瞳、メカニックな体のパーツ────ジェノス。

 その名前がとっさによぎり、息を呑む。

 会って、しまった。

 サイタマよりも先に。運が良いのか悪いのか、とにかくどんな確率だ。

 それにしても、間近で見てはっきりわかること。

 首から上は人間と似ていると思っていたが、明らかに材質が人体のそれではない。出来のいい人形がスムーズに動いている感じだ。

 そんな部分に気を取られていたら、

 

「……深部温度が15℃を割っている。通常ならば有り得ない体温だ」

 

 ジェノスが冷徹に投げかけた言葉の内容を、意識するのが遅れた。15℃。有り得ない。

 

「…………ええ?」

 

 人間とは思えない。

 つまり、これは実質的な排除宣言?

 そこまで思考が追いついて、ざっと血の気が引いた感じがした。こいつ、たまたま見つけた俺を怪しんで、殺すためにここで張っていたのか。体温が低すぎておかしいという理由で。

 クソ、ジェノスのサーチ能力を甘く見ていたようだ。確率とかそういう話じゃなかった。

 まさか、この騒動の原因と思われているまである?

 その眉間に容赦なく突きつけられる、穴の空いた手のひら。

 

「擬態した怪人か? 正体を表せ」

 

 やべえ殺される。

 いや言ってることは何も間違ってません。俺は人間に擬態した怪人以外の何者でもない。

 でもここで消されるのは困る!

 

「わ、わたし、プロのヒーローです!」

 

 この紋所が目に入らぬか、ということで、携帯に収められている認定証を慌てて見せつける。

 例えば、駆動騎士がただの駆動騎士としてその辺にいたらやべーやつだが、S級ヒーローという肩書きさえあれば『頼れる希望』と化すのだ。

 明らかに人間じゃない輩がいたって、そいつがプロヒーローとして認定を受けていれば、

 

「ヒーロー協会のか」

 

 ほら、この通り。

 焼却砲を引っ込めるその姿に胸を撫で下ろす。

 俗世から離れすぎているサイタマと違い、ジェノスはこの時点でもばっちり協会の知識があったらしく。それにより、即滅殺は免れたらしい。

 

「……B級下位なので、一般の方はご存知ないかもしれませんが。少しだけ超能力が使えるんです」

 

 ヒーローになっておいて良かった。

 間違った資格の使い方だが、俺にとっては最も期待していた要素だ。上手く働いて安心。

 とりあえず警戒を解いたらしいジェノスは、悪びれるでもなく、

 

「今回の件、協会が動いたのか?」

「いえ……」

 

 俺も別に問題解決に尽力している訳ではなく、ただ逃げようとしてるだけなんですけどね。

 ふん。ジェノスが小さく鼻を鳴らした。

 

「所詮、肥大化した組織などそんなものだ」

 

 おっと、想定した以上に辛辣。

 

「金や名誉、不要なものにばかり足を取られ、動きが鈍くなる……“正義”を見失っている」

 

 おいおい、初対面でめちゃくちゃ敵意向けてくるじゃんよ。

 そもそも俺はヒーロー協会の幹部でも何でもないんだが。このヘイトスピーチを聞いて一体どうすりゃいいんでしょう。別に怒りも湧いてこない。

 

「はあ……すみません、」

「奴らは俺が排除する。邪魔だけはするな」

 

 遠回しな戦力外通告っすか。言われなくても逃げます。

 もともときみの巻き添えにされないために逃げようとしてたのに、その過程でなぜかきみに直接殺されそうになっただけなんだぜ。

 まあ、変なところでボロを出さないために、名前だけ聞いておくべきか。

 

「……あなたは?」

 

 呼びかけに対して、ジェノスはちらと、異色の瞳を俺に向け。

 

「名乗る必要を感じない」

 

 それを言い終わるか言い終わらないかのうちに、俺の横を華麗にすり抜けていった。

 ──さすがにちょっと、呆然とした。

 悪態吐くだけ吐いて行っちゃったよ。ま、感じ悪い。

 どうせサイタマが絡むとお前の手のひらブンブンゴマになるんだから黙っとれ。

 

「帰ろう……」

 

 ジェノスが引っかき回してくれたせいでより萎えぽよになりつつも、再びとぼとぼと歩き出す。

 

「……なんであんなヤツがモテるんだろーな」

 

 いや、きみは何も間違ってないんだけどさ。冷静に考えればね。コミュ力はアレとしても。

 何もかも嘘だらけの、俺が悪い。

 モテない男の醜い嫉妬さ。硬派でクールなイケメンは好かれるなんて、常識すぎて言うまでも。

 

 ──“正義”を見失っている。

 そこで、ふと。

 そんな彼の一言が、おもむろに頭をよぎった。

 正義。耳が痛い言葉だ、と素直に思った。

 正義、か、

 

「──正義って何?」

 

 思わずつぶやいた疑問が、抜けるように青い空へと吸い込まれていく。

 返事は当然、誰からもなかった。

 

「……くだらねー」

 

 何となく胸を満たす虚無感を、言葉に乗せて吐き出した。少なくとも、俺が口に出せるようなセリフでないことは確かだ。

 ため息ひとつで吹き飛ばして、今度こそ家路を急いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アパートの入口まで帰ってきて、一安心。

 日陰になる位置で、壁にもたれかかって、ぼんやり考える。

 

「とうとうジェノス登場か」

 

 最後のピース。身が引き締まる。

 これでいよいよ、ワンパンマン本編の軌道に乗り始めたということである。

 そしてサイタマは彼と出会い、良くも悪くも彼が与える情報の影響を多分に受けていく。俺が今まで不自然なほど隠していたことについて、ようやく知識を得る時が来た、のだろう。

 というか、事情もないのにサイタマが世情を知らなすぎなだけの気もする。

 

「……上手くやってくれよ」

 

 そのあたりはジェノスに丸投げで。

 俺が考えるべきことは他にもたくさんある。どうして今まで黙っていたのかについての釈明、サイタマと一緒にいる理由は、などなど。

 しかし、あの調子ではジェノスと仲良くできそうな気がしないのだが。大丈夫なのか。

 

「俺とジェノスが揉めて、サイタマが俺を取ってもそれはそれで困るんだよなー」

 

 それで弟子入りイベント消失なんて日には。

 目先の安全で考えればぜひそうしていただきたいのだが、後々どう響くかが読めなさすぎて怖い。できる限り敷かれたレールは守りたい。

 

「……ま、俺も上手いことやろう」

 

 作戦:バッチリがんばれ。

 フブキの件で悟ってしまったが、原作知識だけで生きた人間の彼らを手玉に取るのは不可能、というほかない。確実に予想外の行動をしてくる。その時どうアドリブを利かせられるかだ。

 言動がプリミティブの極みなあのサイタマでさえ、御しきれているとは思えないし。

 

「うわ、」

 

 そうこうしているうちに、激しい地揺れと爆発音。思ったよりも近くてビビる。

 

「やっ……てないんだった」

 

 やったか禁止。

 これはジェノスの爆裂攻撃ならぬ蚊取り閃光だ。本当に、巻き込まれなくて良かった。

 続いて、ビルの崩落音。

 

「……やったな」

 

 サイタマがビンタでモスキート娘を吹っ飛ばした時のものだろう。

 まさか、この状況でサイタマがトチるような改変が起こっているとも思わない。これで、とりあえず『終わった』のだろう。

 あとは進化の家だが──俺がついていく必要を感じない。

 ジーナスとアーマードゴリラはそこそこの重要人物だが、人体改造に積極的な彼らに顔見せしに行くメリットがわからない。

 何時間も山中を走るなんて御免だし、俺がヒーローであることはまだ知らないサイタマは、普通にいい顔はしないだろう。というか、そうあってほしい。

 それはいい、として。

 

「ジェノスに身元開示しちゃったのがな」

 

 しかもヒーローとしてだ。

 まあ、ジェノスがサイタマに俺の存在をチクるとも思いにくい、そして、サイタマがジェノスに俺の存在を匂わせるとも思いにくい。

 ……思いたくない、だけかもしれない。

 とにかく、そんなことをわざわざする要素がない、というのだけは客観的事実だ。

 会話のはずみで出てきたら避けようがないが、まだ一応そんな仲じゃないだろきみたち。

 

「……うーん……」

 

 考えてみて、改めて思うこと。

 先ほども言ったことだが、やっぱり、何事も想定通りには上手く行かないということだ。人付き合いは難しい。

 下手に原作を守ることに命を懸けすぎると、逆に怪しまれて立場が危うくなるかも。

 特に俺はそうなったらまずい。

 

「……あ、」

 

 考え込んでいたせいで、間近に迫ってくる人影に気づかなかった。

 モスキート娘を討伐してすっきりしたサイタマが、戻ってきていたらしい。

 いつもより肌色多め(というかそれしかない)ヒーローのご帰還だ。いや、ゴーストタウンとはいえ本当に全裸のまま帰ってきたんかい。

 ジェノスもあのまま帰すなよ。命の恩人が猥褻物陳列罪で捕まっても良くないだろ。

 

「……おかえり、サイタマ」

 

 微妙な感動のようなものを胸に受けつつ、とりあえず挨拶だけしておく。しかし、こちらに気づいたらしいサイタマからは何の反応もなし。

 ……ん、“全裸”?

 

「………………」

 

 ほんの数メートルの距離で、お互い、何とも言えない顔を突き合わせて。

 

「あ゛っ」

 

 サイタマは下を、俺は上をとっさに両手で覆い隠す。いや、全裸って、全裸じゃん!

 そんなイベントあったわーくらいのノリで流してしまったがこれは現実、いきなり裸の人間が現れて無反応なのは明らかにおかしい。いや、これはジェノス君に対するdisとかではないです!

 

「お……ゎ……ワタシナニモミテナイカラ」

 

 真っ暗な視界で今さらのフォロー。

 いや、見たけど。ねちねち眺める意志はなかったけど普通にばっちり見た。

 

「ゴメンネ」

「い、いや……俺も……すまん、いたんだな、お前……」

 

 上ずるサイタマの謝罪。

 ジェノスには全裸を見られて平然としていたのに、“セツナ”だと焦るんだな。さすがに知り合いの異性なら当たり前か。いや、赤の他人の青年に見せてしまった時でも普通に焦ってほしい。

 恥ずかしい。恥ずかしいのはサイタマか。

 

「つ……通報とかしないから、……もしかしてこっちが通報されるべき?」

「いやその理屈はおかしいだろ」

 

 慌ててそんなことを言ったが、この状況だと辱められたのはサイタマのほうだ。

 法律的にはアウトだが、別に俺へ見せびらかそうとして来た訳ではないのだから。

 

「望まぬ状況で……裸体をじろじろ見てしまって」

 

 顔を覆いながら、脇に避ける。

 

「ごめんなさい、本当……このまま先に行って」

「お、おう……」

 

 ざらついたアスファルトの砂利を噛む音。それから、均されたコンクリートを歩く素足の音がてちてち、と隣を通って、階段を上がっていく。

 

 その気配が完全に消えても、俺は被せた手のひらを外せなかった。

 

「……あ゛ー」

 

 その場にしゃがみ込む。

 まずい。何がって、色々。

 彼の、体を。

 紙面上でただの『描写』として見ていた二次元の存在とは違う──三次元の、自分と同じリアルな存在として、意識してしまった。

 単なる記号ではなく、意志を持ち、形を成し、俺に直接の影響を与え得るもの。

 そんなの当たり前じゃん。

 思うかもしれない。でも、裸体だぞ。しかも、色気も何もないようなあのサイタマの。

 腹筋バキバキなのはまあ……知っていたが。漫画では都合よく隠される部分も、それはもう、惜しげもなく丸見えで。

 だから……こう、下も毛ないんだなとか、でかかったなとか、いや、

 

「いや違うんだって!」

 

 見てない。俺は何も、見てない。

 両手を振って慌てて掻き消す。

 ああ、上手く言えない、何というか、いきなり生々しさを肌で感じるようになって戸惑っている。混乱している。

 AVやエロ漫画の見過ぎか。

 裸体と人格そのものが結びつかない感覚とでも言うべきか。あくまでフィクションのものと認識していたのに、今まで普通に話していた知人からそんなモノが出てくるなんて思っていなかった、というか。

 ……あれ。こんなことを『性愛の対象外』に感じるなんて、変なのだろうか。

 『同性』の体に心乱されるなんて。

 これじゃまるで、

 

「……い、いや……それは違う、」

 

 違う。違うから。

 サイタマがぼけっとしたただのハゲと見せかけて、あんなイイ体しているのが悪い。

 ギャップで余計そう感じるだけ。

 ていうか夏のせいだろ。暑いから。

 そう。オッケー?

 

「オッケー、」

 

 はい。この話はこれで終わり。

 これ以上考えるのはサイタマへのセクハラだ。内心の自由は守られているが、俺の良心が耐えられそうにない。

 

「今日はもう……寝よう」

 

 寝たらきっと、忘れる。

 明日はきっと大丈夫。

 そう、信じるしかない。

 そんな淡い期待を抱いて、ようやく、蒸し暑い屋外から避難したのだった。




男キャラの中だとスティンガーが好きです。
でも、ジェノスはもーっと好きです。


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勝手に踊ってろ

 前略。

 ジェノス、俺、サイタマが一堂に会する可能性が怖すぎて、数日家に帰っていない。

 

 ──賑やかな市街地の公園で、ただベンチに佇むだけの不審者こと、俺。

 

「………………」

 

 我が子を遊ばせている親御さんがたの視線がそろそろ痛い。こいつずっと居るじゃんみたいな。ずっと居ます。

 ──彼らと会うことの何が怖いって。

 それはもう、わかりきっている。

 ジェノスは俺がサイタマと親しいことを知らないし、サイタマは俺がヒーローであることを知らない。そのどちらも、知られて俺にいいことがあるとはあまり思えない。

 いや、元はと言えば、俺が謎多き存在すぎるのが悪いのだ。別にこっちも好きでミステリアスを装っている訳ではない。

 こんなもんがモテるのに役立つとは思わない。ただ邪魔なだけだ。

 

「…………はあ、」

 

 ジェノス来訪までにタイムラグが存在するとはいえ、『進化の家』の騒動は、おそらくその日のうちに終わってしまうことである。

 そしてそれは、近所のスーパーの特売日と重なっている。もっと言えば、土曜日。

 数少ない時間の判断に役立ちそうな部分なので、必死に思い出してメモしておいて良かった。

 

「しかし、曜日感覚のある“新人類”って……」

 

 妙なところでみみっちい。

 社会の規範を全て破ることが“新人類”らしさとは思わないが、湧き上がってくるこの「しょぼい」という感情は抑えられそうにない。

 阿修羅カブト。

 ワクチンマンや地底人、マルゴリらとはもちろん、その後のボロスやガロウとも一線を画す存在だと個人的には思う。何せ、サイタマの実力を戦う以前に見抜いたのだから。

 言ってしまえば、物語的に必要な解説役だったのだろうが、結果的に特殊な立ち位置を確保することになった。普通にワンパンで死んだけど。

 

「ジーナス自体はすごい人だしな」

 

 伊達にゾンビマンを造っていない。

 ワンパンマン世界では、メタルナイトことボフォイや、弱冠10歳の童帝などなど、トンデモ博士が暗躍しているが。その中でも、彼の能力は全く見劣りしていないと思う。

 ……だらだらと、何の益もない話をしたが。

 いい加減、本題に入ろう。親御さんの目にも耐えられなくなってきたところだし。

 膝上に畳んでいた携帯を、ぱこっと開く。ディスプレイに表示される、ドットの日付。 

 

「……今日は土曜日」

 

 そして、むなげやの特売日。

 サイタマが利用するスーパーはこの微妙に汚らわしい名前のチェーン店以外にもあるが、チラシを取っているのはここくらいのようだ。

 つまり今日、『進化の家』が彼らの手によって崩壊する可能性は高い。

 ──何を探偵ぶっているのか、と思われそうだ。実際、俺自身が一番そう感じている。

 携帯をしまい、大きく伸びをする。

 

「一旦、帰るか……」

 

 数日顔を合わせないなんてことはざらにあったので、サイタマは別に怪しんではいないはずだけれど。

 とはいえ、来週の土曜日まで会わないという選択肢はない。逆に怪しまれそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぼんやりと街中を歩く。

 喧騒が、どこか遠い。

 俺だけ世界に取り残されているような、そんな錯覚。いや、それは確かなのだろう。

 ずっと思っていたことだった。感じていたことだった。それが重みを持って、この身にまとわりついてくる。

 この世界に相応しくない。

 一歩踏み出す度に、地面が沈み込んでいく不愉快な感覚。世界は俺を望んでいない。

 ──俺の居場所はここじゃない。

 

「あの」

 

 その時だった。

 くぐもったようなざわめきの中で。その、簡素な呼びかけだけが、妙にはっきり聞こえた。

 ただ、聞こえただけなのに。

 俺を呼んでいる。

 そう、はっきり感じた。

 

「ちょっと……いいですか」

 

 振り返る。振り返って──“彼女”を見た。

 波打つ浅葱色の長髪が、豊かな胸元にかかっている。美しい女性だった。

 知的なスクエアフレームの奥から、澄んだ切れ長の瞳がこちらを見つめている。

 美しく──そして、おぞましい。

 “俺”は彼女を知っている。

 そして俺を見つめ、

 

「あなた、人間から離れかけてますよね」

 

 そう、歌うように囁いた。

 

「──────、」

 

 空気が一瞬、歪んだような気さえした。

 どこかで聞いたようなセリフだ。

 けれど、そんなことを噛み締めている余裕はなかった。

 そのセリフは、俺に向けられているのだから。

 人間から離れかけている。ふざけている、とは思わなかった。だって、この体はもう。

 どうして、なぜ、は考えない。

 息を、浅く吸い込んで。

 その目を見つめ返す。

 

「……宗教のお誘いですか? わたし、無宗教ですが……」

 

 笑みとともに、とぼけたセリフが自然と口から転がり出た。彼女も、同じように微笑んだ。

 

「いいえ」

 

 NOを。穏やかに、そして躊躇なく、突きつけてくる。望むものはそれではない、と。

 

「あ、もしかして超能力者のグループ?」

「いいえ」

 

 超能力者のグループではあっただろ。

 そんなくだらない言葉が、新幹線のようにシナプスを通過していく。

 怖い、とは思わなかった。

 怒りや衝撃も湧いてこなかった。

 ただ、ふつふつと、何かが燃えていた。言語化できない熱が、泡が、胸を沸かせる。

 ああ。

 お前に“俺”は、一体どう見えている?

 

「あなたもわかっているでしょう?」

 

 わかっている。知っている。

 きっと、お前が見た以上の未来を。

 

「……何を?」

 

 それを知って、お前は俺の前にいるのか?

 ──彼女が、静かに指を持ち上げる。花のような微笑を浮かべたまま、俺を指差し。

 

「あなたの魂が知っている」

 

 魂。……馬鹿げている。

 

「言ったろ」

 

 やめろ。俺に触るな。覗くな。黙れ。

 むりやり、()()()()()。不思議とそれができた。

 お前に俺は救えない。

 俺の居場所を与えさせはしない。

 じっと、彼女を見据える。

 俺の悲しみも、怒りも、恐怖さえ最期まで俺のものだ。一欠片だって奪わせはしない。

 

「俺は“神”を信じない」

 

 俺はお前のものにはならない。

 彼女は、ただ、笑みを深めただけだった。

 風もないのに白いドレスの裾がなびく。形の良い耳たぶで、『∞』の蛇が揺れている。

 

「──また、会いましょう」

 

 その瞬間。

 ふっと、周囲のざわめきが耳に入ってきた。

 急に、五感がクリアになった。まるでプールの中から上がった時のよう。全ての音が、匂いが、響きが、現実のものとして染み込んでくる。

 

「っ、」

 

 瞼を閉じたまま、耳を押さえる。

 次に瞼を開けた時、“彼女”の姿はもう、雑踏のどこにもなかった。

 横断歩道で立ち尽くす俺の姿を、横を通り過ぎる人間の何人かが不審そうに見てくる。

 そんな奇異の目も、今は気にならなかった。夢でも見ていたかのようだ。

 けれど、あれが幻覚でないことは、俺の“知識”が証明してくれている。──ああ、随分と無防備な姿で登場してくれたものだ、

 

「……サイコス……」

 

 その名を口にしたならば。

 どんな顔をするのか見てやりたかった。

 そんな仄暗い破滅願望を腹に抱えながら、青信号の点滅する横断歩道から、踵を返した。

 

 

 

 

 早足で歩を進めながら、頭に次々浮かんでは弾ける思考とも呼べない泡の数々を思う。

 そうでもしないと、何もかもがばらばらになってしまいそうだった。

 ──サイコスが、現れた。

 あの、サイコスだ。

 怪人協会の親玉と呼んでいい存在。

 まだ本格的には動く時期ではないだろう。俺のせいでそれが早まったとも考えにくい。

 ならば、なぜ俺の前に。

 いや、そんな表層的なことじゃないだろう。気に留めているのは、もっと核心的なこと。

 3年前のあの日。全てが始まった災害。

 俺が問いたいのは、つまり。

 

 ──怪人によるあの火災は“実験”だった?

 

 どうしてそんなことを思い悩むのか。

 サイコスは作中でガロウの問いに対し、「ヒトや怪人で数え切れないほど試した」という旨の返答をしている。

 そのひとつがゴウケツである訳だが。彼は協会に与する怪人に敗北し、そこでサイコスの手ほどきを受け、“災害レベル 竜”として目覚めた。

 思いつく限りのことをやった。

 彼女はそう言った。

 全ての怪人災害に、サイコスの息吹がかかっているとはさすがに思わない。

 けれど、あの火災が彼女の仕込みでない、と言い切れる証拠はどこにある?

 何パターンかの痛みやストレスを与えたり。

 怒りや憎しみを増幅させたり。

 あの街一帯を焼かせて、それで怪人の一匹でも生み出せれば御の字、という試験だったんじゃないか。

 いや、

 

「……落ち着け」

 

 俺は、今まで“セツナ”がサイコスによって見出されたことを前提に話を進めていたが。

 それならば、あの時即座に俺の前へ現れていないのはおかしい。どこの誰が、実験に成功した個体を1年も2年も放ったらかしておくのだろう。

 その間に、俺はプロのヒーローにまでなってしまった。

 まさか、俺が人間に擬態しつつ、裏で怪人として暴れ回ることを期待していたとは思えない。

 そんなことを曖昧な自由意志に委ねて、何の得があるのだろう。

 彼女とて暇潰し──それこそ趣味、で怪人を生み出していた訳ではあるまい。

 

 ──大体、“俺”と“セツナ”は違う存在だ。

 

 最も初歩的な、そして、重大なこと。

 その時点で実験の前提条件が狂っている、と言わざるを得ない。

 家族を焼き殺されてつらい。苦しい。

 俺はあの時、そんな感情を抱いた訳ではない。

 訳もわからず、とにかく生き延びたかっただけだ。死にたくなかっただけだ。

 まさか、そこまで織り込み済みなんてことはないよな?

 サイコスがどれだけトチ狂っていたとしても、この世界を二次元的に捉える人間の意識を、この世界の人間へ組み込むなんて不可能だろう。

 “俺”の記憶は神の視点。

 けれど、極端で不完全すぎて、使い物にはならない。そんなものをわざわざ用意するなんて。

 ダメだ、混乱してきた。

 

 ──“セツナ”の肉体にそもそも、じゅうぶんな素質があったのか。

 ──“赤井佑太”という異分子による化学反応で、特別に目覚めたのか。

 

 わからない。

 俺は“セツナ”をどこにでもいる、平凡な人間だと考えていたが。それは本当に合っているのか?

 

「不確定要素が多すぎる」

 

 わからないことだらけだ。

 “セツナ”の過去も、あの怪獣のことも、探る術さえないのに。気分が悪くなってくる。

 大体だ。サイコスが絡むガロウ編そのものが、村田版ではまだ終わりを迎えていなかった。大体の流れはONE版で想像がつくが、細かい部分がどうなるかはもはや確かめようがないのだ。

 探偵ごっこも、ここまで確定した情報が無い中ではやりようがない。

 焦りばかりが積み重なっていく。

 

 ──いや。いつかは、わかることだ。

 

 ゆっくりと、目を閉じる。

 見るな、言うな、聞くな。

 

「……ああ、」

 

 ガロウが悪役として名乗りを上げ──怪人協会が暴れ始めれば、自ずと。

 その時にはまた、サイコスとその部下は俺の前に現れるだろう。

 再び彼女を迎え撃つ俺は、ヒーローなのか、怪人なのか──

 

「今は、まだ」

 

 伏せた瞼の裏に、よぎる“彼”の横顔。

 今はまだ。

 まだ、選ぶようなことじゃない。

 

 

 

 

「………………」

 

 ふと、足を止める。

 気づけば、アパートの前まで戻ってきてしまっていた。

 サイタマやジェノスがいないか、と一瞬ぎくりとしたが、どうやら彼らがいる様子はない。

 

「……酷い荒れ様だ」

 

 崩れた家並み、焼けたアスファルト。

 もともと手が入っていなくて荒れ放題だったのが、破壊が合わさってより悲惨に見える。

 やはり獣王一味と交戦したのか。

 それで、その足で進化の家を潰しに向かったのだろう。今日が土曜日とも知らず。

 

「うーん……」

 

 焦げ臭いニオイが辺りに充満している。ボヤは既に鎮火したようで、それは何よりなのだが。

 

「うわ」

 

 一番酷いのが、アパートの前。

 右手にはカエル男とナメクジャラスのミンチ、左手には建物に空いた大穴。改めて、1巻の時点でこんなめちゃくちゃにされていたんだな。

 もう既に住みたくない感じの有様になっているのだが、これからどんどん悪化するのか。

 とりあえず、腐って異臭を放つ前に、死体は凍らせて処理しておく。南無。

 ナマモノはこれでいいか。あ、でも獣王の死体がまだあるんだっけ、と歩きながら視線を巡らせたところで。

 

「あっ」「あ、」

 

 ──ゴリラと、目が合ってしまった。

 新人類が一人、アーマードゴリラ。

 今は四肢をもがれていて痛々しいが。ジェノスに敗北してから、まだ退散できていなかったらしい。しかし、本当にただ武装したゴリラだな。

 ゴリラは俺と目が合った直後、視線を泳がせてから、数度咳払いして。

 

「貴様モ、アノ男ノ仲間カ……すみません殺さないでください」

「そんなことはしませんが……」

 

 カッコいい片言からの流暢な命乞い。

 適当にあしらってもいいのだが、とりあえずは無関係ですよアピールをしておく。

 

「あの……どちら様です?」

「え、」

「このアパートの住人ではあるんですが」

 

 ゴリラはきょとんとしていたが、すぐに神妙な顔になって、

 

「確か、博士が……いや、」

 

 いきなりジーナスの名前が出てきた。

 彼は俺のことを把握していたのか。モスキート娘撃破には関わっていないが、このゴーストタウンで同じアパートに住んでいたということで、仲間だと思われていた?

 まあ、こちらは強制的にさらいに来なかった時点で、大した興味も持たれていなかったはずだ。

 どちらにせよ、ジーナスは俺の今後にはあまり関係のない存在か。すごいすごいと散々褒めたが、あの倫理観のなさゆえ関わりたくない。

 

「あの男の仲間って」

「ハゲ……あ、いや、髪の無い……」

「ああ。サイタマさんなら、ただのご近所さんですよ」

 

 強いて言うならスキンヘッドね。

 特に意味のない問いかけだったが、そんなツッコミが頭をよぎる。まあ、今回の件は俺と関係ない場所でつつがなく終わりそうだ。

 

「ホントごめんなさい、すぐ退きますんで……」

 

 ゴリラはまだ何か言っている。

 それをぼんやり、聞き流す。

 ──アーマードゴリラは、マーシャルゴリラを知らなかった。ひいては怪人協会の存在を。

 ジーナスは今回のことで、陰謀論めいた策略からは完全に手を引く。ガロウを巡る怪人協会との騒動にも関わることはない。

 

「………………」

 

 思えば村田版の連載は、本当に中途半端なところだったよな。でも、サイコスが敗北するところまでは確定しているのか?

 

「……あ、あの?」

 

 あんなエイリアンvsアバターみたいなのに巻き込まれては堪ったものではないが……

 と、そこまで思って、ゴリラを前に長々と考え込んでしまっていたことに気づく。不安がらせてしまったか。

 

「やっぱり怒って……」

「いえ、」

 

 一人で考えることでしか、状況を整理できないのだが。考えてもしょうがないことはある。

 俺が目指す平穏に『サイコスと怪人協会』というS級の悩みのタネが加わってしまったが、だからといってこれからやるべきことが大きく変わる訳ではない。

 

「急がなくても大丈夫ですよ」

 

 俺が早急に対応すべき問題は、ジェノスとサイタマだ。

 

「わたしはこれから……スーパーの特売に行ってくるので」

 

 サイタマの代わりにね。

 恩は、売れる時に売っておく。それが俺こと、“赤井佑太”のポリシーなのである。




必要ではあるが特に面白みのない回。
今さらですが、原作がどういう終わり方を迎えるにしても、ガロウ編を目安に一区切りつけに行こうと思っています。

自分の頭にある流れを描きたいペースで話にしていくのは難しいですね。1話から読み返しても「これ展開駆け足すぎねえか…」という印象が強い。


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攻略レベル:竜

 スチール製の扉を、丸めた拳の背で軽く叩く。

 数秒、静寂が流れた後。

 内側から近寄ってくる足音がしたかと思えば、荒っぽくドアが開いた。

 

「だぁから、弟子は取らねえって、…………」

 

 噛みつくようなサイタマの勢い。

 それが、俺と目が合った瞬間、針を突き立てられた風船のように一気に萎む。

 

「……セツナ、」

「おはよう」

 

 少し驚いたが、発言の内容からしてジェノスと勘違いされたのだろうか。サイタマはバツが悪そうになめらかな頭皮を掻いて、

 

「お前か……まあ、入れよ」

「うん。お邪魔します」

 

 ──あれから日を跨いで、日曜日。

 無事に特売日という戦場を切り抜けた俺は、その戦果物をサイタマに分け与えるべく、彼の部屋を訪れていた。……で、上記のやり取りに繋がる。

 ジェノス、進化の家、曜日間違え、と立て続けにサイタマのキャパシティを圧迫する事態が起きたせいか、全裸を見た見られた、については既に頭に残っていないようだ。何でもなさげに応じてくれるのに、ちょっと安心。

 俺も思い出したくないので、良かった。

 靴を脱いで揃えて、その最中に、邪魔になった買い物袋を彼に差し出す。

 

「これ、おすそ分け」

 

 とりあえず、という雰囲気でそれを受け取ったサイタマは、その中を見てあ、と声を上げる。

 

「昨日の……」

「サイタマってば、せっかくの特売日なのにどこにもいなかったから。野菜がすごく安かったよ」

「あー……いや、その……進化の家とかいう悪いヤツらのせいでな?」

 

 言っちゃうんだそれ。

 普通の人間だったら「進化の家って何?」と食いついていたかもしれないが、俺は知っている上に面倒なので、適当に話を流す。

 

「そっか。大変だったんだね」

「まあな……で、これ」

 

 相槌もそこそこに、落ち着きない様子で袋を指差し。

 

「……良いのかよ」

 

 なんでこんなところで遠慮を見せるのか。

 ちょっと可笑しい気持ちになりつつ、改めて頷いてやる。

 

「いつもお世話になってるから、そのお礼だと思って受け取って」

 

 その瞬間、ぱっと、わかりやすく嬉しそうな顔になる。改めて自分のものになった野菜を検分しつつ、

 

「おー、ナス! 目ぇつけてたんだよなぁ。あ、ついでに茶淹れてくるから、待ってろ」

 

 足音軽くキッチンに向かっていくのが微笑ましい。

 サイタマは食に貪欲だが、残念ながら俺は彼の胃袋を掴めそうにない。そのぶん、こういうところでアピールしていかなければ。

 気分良く、ついていないテレビの前に腰を落ち着ける。それから間もなく、

 

「ほい」

「ありがとう」

 

 テーブルに置かれる、ガラスコップに入った水出しの緑茶。積み重なった氷がからん、と涼しげな音を立てて回る。

 冷たい飲み物なら、麦茶より、緑茶のほうが爽やかな感じがして好きだ。それを眺めながら、

 

「……さっき、誰かと間違えた?」

 

 コップを傾けかかったサイタマの手が、止まった。

 

「ああ……なんか、ちょっと前からジェノスとかいうヤツがな……」

 

 飲もうとしていたのをやめ、代わりにからからと氷を揺らしながら、そう答えてくれる。

 そこでふと、何か気づいたように。

 

「男だぞ?」「え、うん」

 

 それは知ってるけど。

 

「その……ジェノス君? がどうしたの」

「なんか、弟子にしてほしいんだと」

「弟子?」

 

 この調子だと、俺の話は出なかったらしい。内心でほっとしながら驚いておく。

 

「すごいね」

「何がだよ」

「サイタマが強いのをちゃんと知ってる人が現れたってことじゃない」

 

 はいはい、茶番茶番。

 我ながら堂に入りすぎてちょっとビビる。これくらいなら特に考えなくても、自然に口から出てくるようになった。タレントの才能があるかも。

 

「良くねーよ、いきなり先生とか呼んでくるし……なんかぞわぞわするっつーの」

「嫌なの?」

「いやまあ……強くなりたいってのは別に……」

「………………」

 

 サイタマの反応を見るに、その意気や良し、でも面倒くさーい、というあたりなのだろうか。

 わざわざ下手に出なくとも、彼の性格的にはなし崩しが有効な手段になってしまうんだよな。サイタマが俺をそこまで好ましいと思わなかったとしても、最悪、既成事実を強引に作って関係を結ぶことだって可能だっただろう。

 少なくとも同性間ならそれが成り立つことを、ジェノスの存在が証明している。最初は完全に一方的な関係ながら、サイタマは普通にジェノスへ情を抱くまでに至っているのだから。

 そんなことを考える。

 まあ、そういうのは俺のほうが御免だ。勢いで押し倒せてもそれ以上はできそうにない。

 

 ──そこで、サイタマがこちらの様子を不思議そうに窺っているのに気づいた。

 いけない、サイコスと会ってからというもの、一人で考え込む悪癖が加速している。

 

「……サイタマ先生?」

 

 適当にじゃれついて茶を濁しておいた。サイタマはくしゃっと顔を歪めて、

 

「やーめーろ」

「ふふ、ごめんね」

 

 無事に誤魔化せたらしい。

 まあ、彼の成人男性らしからぬ淡白さに救われている部分もあるのだろう。

 早急に組み敷いてくるような男だったら、さすがにこちらもついていけなかったところだ。

 はあ。サイタマの嘆息で、また我に返る。

 

「お前は嫌じゃねーのかよ、変な騒がしいヤツが増えて」

「うーん」

 

 別に、静寂を好んで移り住んだ訳ではない。

 それもそうだし、ここで「嫌かも」などと言うメリットは特にない。できるだけ、不自然でない程度にジェノスを擁護しておかなければ。

 

「まあ……賑やかなのはいいことなんじゃないのかな。わたしがその子と仲良くなれるかは、わからないけど」

 

 否定的な訳ではない、ということは、とりあえず伝わったようだ。

 サイタマはゆるい苦笑を浮かべて、

 

「お前、一番弟子ですかとか聞かれたらちゃんと否定しておけよ」

「……とてもそんな感じには見えないと思うよ?」

 

 ジェノスの目もそこまで節穴ではないだろう。

 俺の『程度』自体は既に見抜かれているだろうし。言ったところで相応しくない、と切り捨てられて終わりそうだ。

 

 ──ひとまず和やかな雰囲気が流れたその時、

 

「先生! サイタマ先生!」

「うわっまた来た」

 

 ナイスタイミング、なのだろうか。

 ジェノスがやってきたらしい。扉を貫通する声量に、サイタマが渋い顔をする。

 まずい、とは思わなかった。

 今日の俺は、そこまで織り込み済みでここに来ている。ジェノス来訪が恐ろしかったなら、玄関先で野菜を渡してとっとと逃げ帰っていた。

 昨日のあれこれで多少吹っ切れた、というのはあるだろう。何もかもが後手後手に回るよりは、先手を打って対処したほうがまだマシ。あれは、そんな気持ちにさせられる出来事だった。

 とにかく、サイタマを応対させなければ。そんな気持ちで振り返ったが、

 

「出なくていいの……むぐ」

「居留守だ居留守。静かにしてりゃバレねーよ」

 

 背後から回ってきたサイタマの手のひらが、口を覆ってくる。

 結構勢いが良かったので、体勢が崩れて、その肩口に寄りかかる形になってしまった。小声には聞こえない声量の囁きが、至近距離で耳に吹き込まれる。──が、

 

「先生!」

 

 ジェノスの呼びかけは止まらない。そもそも、口頭での居留守が通じる相手なのだろうか。

 

「家にいること見抜かれてるんじゃない?」

 

 ただ雑に口元へ当てられているだけなので、発声自体は普通にできてしまう。とりあえずサイタマを真似たひそひそ声でそう返すと、

 

「いやそんな……あっあいつサイボーグだったか」

「ん、サイタマ、息がくすぐったいよ」

 

 肩を抱く亜種のような形で引き寄せられているので、顔が近い。耳元で喋られるのはこそばゆいし、頭のそばに顔があるのは何となく嫌だ。

 やんわり押し返すと、サイタマはその勢いで立ち上がり。

 足音荒く扉に近づいていったかと思えば、勢いよく開けた音が聞こえた。そのまま、玄関先で小競り合い始める2人。

 

「だから、もう来んなって!」

「しかし俺は先生の弟子として……」

「弟子じゃねーよ!」

 

 強く抵抗しているように見えて、サイタマは普通に押し負けている。実際、ジェノスはどんどん部屋の中に足を踏み入れてきているのだ。

 押しに弱い男、サイタマ。そんな失礼なキャッチコピーが思わず頭をよぎる。

 で、彼が今さら押し返せる訳もなく、順調にリビングまで入ってきたジェノスは、そこでくつろぐ俺を見て。

 

「………………」

 

 あ然。まさに、そんな表情をした。

 

「なぜこの女がここに?」

「いやこの女言うな……えっ知り合い?」

「え?」

 

 怪訝な顔を突き合わせるジェノスとサイタマ。嫌な沈黙が流れ──やがて彼らは、当然のように揃って俺へ視線を向けた。

 

「……えっと、この間、蚊の大群が出た時に……」

 

 まさか殺されそうになりました、とは言えないので、適当に語尾を濁す。

 しかし、ジェノスのほうはまだまだ殺意の賞味期限が切れていなかったようで。人工の皮膚にリアルな青筋を立て、

 

「……どういうつもりだ? あの時は見逃したが」

「あーあーあー」

「え、もう仲悪いのお前ら?」

 

 案の定の板挟み。ちゃんと説明しろ、の目線が左右からちくちくと迫ってくる。

 埒が明かない。

 さて、どちらから手をつけるべきか。今のところ明らかに重要性が高いのは──

 

「ジェノス君」

 

 ジェノスがこちらを見て。途端、なんで名前知ってんだこのアマ、みたいな顔をした。

 いやきみの尊敬するサイタマさんが教えてくれたんですよ、その辺は察してください。

 

「ちょっと……外で話そうか、ね?」

「おい、俺に触るな」

 

 わかりやすく邪険にされつつ、その背中を押して、玄関へと向かわせる。幸い、そこまで大きな抵抗は返ってこなかった。

 

「ごめんねサイタマ、すぐ戻ってくるから」

「お、おう……?」

 

 無事に帰ってこれればいいけど。

 それはさすがに口に出さなかったが、そんな気持ちがあったことは確かだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋から出てすぐ、ジェノスは自然に俺を先に歩かせて。

 そのまま、階段を降りていくまでは何事もなくついてきたが。

 その途中で、様子が変わった。

 エントランスに繋がる最後の階段の2段目、そこへ踏み出そうとして──できなかった。 

 後頭部に押し当てられる、硬い感触。とっさに身動ぎしようとして、

 

「動くな」

 

 冷え切った声とともに、より強くめり込む焼却砲の発射口。そんなに肌に近づけると、下手をしたら凍って使えなくなるのでは。

 

「──何を、考えている?」

 

 あくまで淡々と問うてくるジェノス。

 ……ちょっと異常な疑われ方だと思う。が、それは俺の自己認識が甘いだけなのだろうか。

 その甘さと、ジェノスの妄執が化学反応を起こした結果、こんなことになっている?

 さすがにこれは過剰な反応だとは思うが、こういう目で見られることも普通に有り得る、と考えたほうがいいのかもしれない。

 

「……どうしてそんなこと聞くの?」

 

 ひとまず、聞き返してみる。

 ──我ながら、妙に冷静だ、と思う。

 死ぬのは怖い。でも、今まさに、俺は彼の手で殺されそうだ。主要な登場人物はそこまでのことはしない、と無意識下で踏んでいるのだろうか。そんな保証はどこにもないのに。

 よく、わからない。

 まあこの状況で慌てて良いことはない、か。背後のジェノスへ再び意識を向ける。

 

「なぜ先生につきまとう? わざわざ同じアパートにまで住んで……何が目的だ? 先生から見えない場所に連れ出して、俺を始末する気か?」

 

 いっそ、笑えてくる疑われようだった。

 お前に何がわかるのか。

 そんな、乾いた笑いが込み上げてくる。今になっても怒りは湧かず、空虚な可笑しさだけが転がっていた。

 

「ジェノス君から見て、そんなにわたしは怪しいかな」

「当たり前だ。お前からは生体反応がほとんど感じ取れない。人間である保証がない」

 

 それを、お前が言うのか。

 

「ふうん……」

 

 胸元に垂れた髪の一房をつまんで、目の高さまで持ち上げる。透き通るように白い毛先。

 シロクマの毛は白でなく透明なのだ、と教えてくれたのは、誰だったろうか。

 

「わたしからすれば、ジェノス君だってじゅうぶん怪しい人だけどね」

 

 動くか、と思ったが。

 そういった気配はない。その幸運に便乗して、言葉を続ける。中途半端な姿勢で、いい加減足腰がつらくなってきた。

 

「全部機械で──人間じゃないみたい」

 

 ジェノスは、何も言わなかった。

 痛いところを突かれた、と思っているのか。それとも戯言だ、と切り捨てるつもりなのか。

 人間じゃない。

 サイボーグになれば、怪人にはならなくて済むのかな。今普通に生きている人たちは、怪人になるのが怖くないのかな。

 ──どうでもいい思考だった。

 

「どうしてサイタマの弟子になりたいの? プロのヒーローでもない、有名な武道家でもない人間にわざわざつきまとって、何が目的? きみが人間であることはどう証明できる?」

 

 簡単にひっくり返せてしまう理屈。

 ジェノスがもう少し口が上手くて、思慮深かったならば、俺は普通に殺されていただろう。

 もしくは、彼が論理の矛盾など一切気にしない猪突猛進の男だったとしても、同じこと。

 俺は、ジェノスの中途半端な『若さ』に付け込んでいる。それに今さら、罪悪感は覚えない。

 

「わたしはサイタマが心配。だから、怪しいきみのことを排除したい」

 

 毛先をぽい、と放り投げる。

 彼は、まだ黙っている。

 

「同じことが言えるんだよ。……言おうとすればね」

 

 同じなんかじゃない。

 俺はジェノスより何倍も汚くて、間違いなく排除されるべき存在。そんなのはわかってる。

 わかった上で、俺は死にたくないんだよ。

 

「でも、わたしはそんなことをきみに言いたくない。理由は簡単。同じことが言えてしまうから」

 

 言えない気持ちを、小さな氷の結晶に変えて空気に漂わせる。数秒舞って、すぐに溶けて見えなくなった。

 俺の過去も、本心も、全部こうやってなかったことになればいいのに。

 

「……それだけだよ」

 

 それから。

 永遠にも思える沈黙が、流れて。

 

「…………わかった、」

 

 絞り出すようなつぶやきとともに、後頭部から離れていく腕。──とりあえず、今回は首の皮一枚繋がったらしい。それは死んでる定期。

 後ろ髪を整え、振り返って、踊り場に立つジェノスを見上げる。

 

「しかし、何かしら理由があるはずだろう」

 

 彼はまだ、険しい顔で俺を見下ろしていた。 

 

「俺は、サイタマ先生のような強さを手に入れたい。……手に、入れなければならない。そのため、あの人に師事することを決めた」

 

 狂サイボーグを倒すため、か。

 俺にはそんな立派な理由はないけれど。

 

「わざわざそれを隠すようなら、やはり、俺はお前を疑わなければならない」

 

 一度は引っ込めた焼却砲を、再びわざとらしくスタンバイさせてみせるジェノス。おいおい、結局は武力行使での脅しかよ。

 

「……理由、」

 

 理由。理由、ね。

 男と女がいるだけでそんな邪推を、と憤る人はいるかもしれないが、今回ばかりはそうしていただいたほうが有り難い。

 その力に惹かれた訳ではない。ならば、消去法的にわかりそうなものだが、

 

「わからない?」

 

 とりあえず、意味深に笑いかけてみたが。

 

「………………」

「…………ぇ……」

 

 ジェノスは冷めた無反応。

 ん。何か雰囲気がおかしい。

 いやほら、さっきまでいい感じにアダルティな空気が流れてたじゃん。ねえ。

 

「だ、だからぁ……男の人と女の人が……」

「は?」

 

 あっダメだコイツ、全く察する気配がない。

 残念ながら、ジェノスの洞察力には期待できそうもないようだ。──と、いうことは。

 

「……えっと……だからですね……」

 

 ──俺が、言うしかない?

 いや、ただ口に出すだけだ。3年間、あれだけ頑張ってこれたじゃないか。今さらそれを言うくらいなんだ、ほら、言え、さあ、

 

「サイタマのことが……す、……好き、なの……」

 

 い──言えた。

 それだけで激しく脱力しながら、最後の力でジェノスの顔色を窺う。彼は、

 

「好き?」

 

 大した感慨もなさそうな顔で、淡々とそう繰り返して。その時点で微妙に嫌な予感がした、というのはとりあえず置いとくとしても、

 

「俺も先生には深い敬愛の念を抱いている」

「いやそういうのじゃなくて」

 

 思わずずっこけそうになった。

 小学生かよ。いや、万が一同じ気持ちだったら逆にヤバいんですけどね。危険な三角関係。

 虚無に囚われかける俺の前で、

 

「違う? どういうことだ」

 

 なぜかさらに詰め寄ってくるジェノス。

 どういうことってお前がどういうことだよ。人間性15歳で止まってんのか?

 

「だ……だから……その……」

 

 え、マジで言語化しなきゃダメ?

 未知のストレスが脳に強くかかっているのを感じる。もうこれ拷問としてジュネーブ条約で禁じられてるだろ。

 というか、どう伝えればいいんだ。

 この様子を見るに、詩的な表現を用いた内容では一切通じないと思われる。つまり、もっと直接的な、? 小学生でも一瞬で通じる内容、

 

「っ、……セ、ぁ……ぇと……」

 

 ダメだこれはエグすぎる、もっと、もっとメンタルに優しくてわかりやすい例え、

 

「き……キス、したいとか……そういうのだよ……」

 

 羞恥心が脳内でブレイクダンスしている。

 許されるなら今すぐこの場でのたうち回りたいくらいだ。恥ずかしすぎて吐きそう。

 なんで俺は男に対して男への生々しい恋愛感情を吐露させられてるワケ? 今のところ登場人物が全員男なんだけど。

 しかし、情緒がめちゃくちゃになった甲斐あってか、ジェノスには無事伝わったらしい。

 

「……なるほど」

 

 くっと、鷹揚に顎を上げて。

 

「サイタマ先生に対して性的に欲情しているということだな」

「言い方?」

 

 しかも微妙に汚いものを見る目やめろ。いいだろ別に。健全な成人した人間だぞ。

 

「そしてその思いを果たす機会を間近で虎視眈々と狙っている、と」

「狙ってねーよ」

 

 人を性犯罪者みたいに言うな。

 語弊しかない解釈に思わず清楚の皮も剥がれる。ジェノス、もしかするとワンパンマン世界で一番『強い』男かもしれない。

 

「……ま、まあ……ゆくゆくは……でも、今はまだそういうことじゃないから……」

 

 それ以上の解像度を求めるのは困難と判断した結果、とりあえず肯定しつつ、否定もする。

 19歳に性欲を持て余す女と思われるのはシンプルにつらいものがある。持て余してねえし。

 

「好きな人とは一緒にいたい、し、サイタマにもわたしのことを好きになってもらいたい。だから、できるだけそばにいたい」

 

 何とか、綺麗にまとめておく。

 ジェノスのためではない、俺のメンタルを守るためだ。このままだと死因が羞恥になる。

 

「わ……わかってくれた?」

「……まあ……」

 

 理解不能だが理屈はわかる、の顔。

 今のやり取りだけで寿命が20年くらい縮まった気がした。

 これでようやく、本題に入れる。

 

「──それと、わたしがヒーローをやっていることは、サイタマに言わないでほしい」

 

 来たるべき時までの、口止め。ジェノスが口を滑らせさえしなければ、サイタマの対処については考える必要がなくなるのだから。

 

「何故?」

「……わたしだって、強い意志があってそうしている訳じゃないからね」

 

 理由は、適当にでっち上げる。

 

「そうするしかなかっただけ。きみだって、ヒーロー協会を信用している訳じゃない。そんな場所に大切な人をわざわざ引き込めないよ」

「……ああ、」

 

 ジェノスが要らぬヘイトを撒き散らしてくれたことが、こんな場面で生きてくるとは。

 

「あと、もうひとつ」

 

 これは、言わずに済みそうならそうして置きたかったけれど。全くそうではなさそうなので、仕方なく付け加える。

 

「わたしのことをサイタマ並みに尊敬してくれる必要はまったくないけど、少なくともサイタマの前では邪険に扱わないほうがいい。将を射んと欲すれば先ず馬を射よ……たとえ嫌でも、信用されるには大事なことだと思うよ、」

 

 いや、何が悲しくて「自分を大事に扱え」などと主張せねばならないのか。

 発言しながら再びの虚無に陥りそうになったが、当のサイタマが「この女」程度で引っかかっているのを見るに、必要な忠告だろう。

 

「……本当に……こんなことはあんまり言いたくないんだけど……」

 

 というか、常識として察してほしい。

 改めて言葉にすると、めちゃくちゃ嫌なお局様みたいなセリフだ。もし自分が言われるような場面があったら、「気持ちわりーな死ね」くらいのことは普通に思ったかもしれない。

 言われたジェノスはふん、と冷たく鼻を鳴らし。

 

「愛を告げる勇気はなくともサイタマ先生から好意を持たれている自覚はあるということか?」

「め、めんどくさ……いや、まあ、うん……一応付き合い自体はだいぶ長いんだよ……?」

 

 お前に人間らしい感情があれば、こんな不気味な会話はせずに済んだんですけどね。

 空気を読む力って大切なんだなって。

 

「と、とにかく。きみやサイタマの邪魔をしたい訳じゃないから、放っておいてほしいの。役に立てることがあれば、できる限り手伝ってあげたいと思ってる。サイタマに限らず、きみもね」

 

 ジェノスはすっ、と。静かに目を細め、

 

「その必要はない」

「いやその意思があるって話なんだけど」

 

 こいつ全く話通じないな。

 サイタマの心労を疑似体験している。

 

「例えば……住み込みで学びたいとか、そういう希望があれば、わたしが仲介してあげるし」

 

 既に薄っすら考えているであろうことを、それとなくくすぐっておく。

 案の定、顎に手を当てて何かを考え始めるジェノス。

 

「……住み込みか……」

 

 ……その危険性ゆえにあまり意識していなかったが、一番扱いやすいかもしれない。

 まあ、サイタマにもある程度乗りこなせてしまうレベルの実直さであるし。あそこまでの単純さはサイタマにしか発揮されなさそうだが。

 まだ悩んでいるらしい彼に、呼びかける。

 

「わたし、セツナ」

 

 名前は知ったが、まだこちらからは名乗っていなかった。

 

「これからよろしく、ジェノス君」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──今日は一旦このまま帰る、というジェノスと、エントランスで別れて。一人で、サイタマの部屋まで戻った。

 

「ただいま、」

 

 家主であるサイタマは、すっかりだらけた姿勢で漫画の単行本を捲っている。時計を見ると、たっぷり30分は話し込んでしまっていたようだ。待たせて申し訳ない。

 

「おー」

 

 気だるく左手を上げて応じてくれるのを見ながら、再びリビングへと足を踏み入れる。

 ふと、テーブルの上に目をやって、緑茶が手つかずのままだったことを思い出した。

 氷はすっかり溶けきって、容量は既に限界だ。表面張力で膨れて、揺れている。

 もったいない。

 指先を向け、薄くなってしまった緑茶で氷の塊をいくつか作る。それを直接、口に運んで放り込んだ。ぼりぼりとスナック感覚で噛み砕く。

 そこへ起き上がってきたサイタマが、

 

「どうだった」

「うーん……? まあ……普通にお喋りしただけかな……」

 

 どうもこうも。

 有り体に言えば騙して命拾いし、ついでに口止めした、という凶悪な手口を使っただけだ。

 そしてサイタマは、ジェノスが帰ってきていないことをあまり気に留めていない様子。気づいていないか、追い出す術が省けてラッキー、とでも思っているのか。

 そこで、去り際に言われたことを思い返す。

 住み込みの件について。

 

「ねえ、サイタマ」

「んー?」

 

 垂らした餌に引っかかってくれたぶんは、きっちり還元してやらないと。

 原作の流れからして、ここで言質を取る必要はないが、ワンクッションくらいは与えておいたほうがいいか。

 

「ジェノス君がね、ここに住みたいって思ってるらしいんだけど……どうかな?」

 

 ──軽い、ジャブ程度のつもりだった。

 しかし、サイタマはその瞬間、動きを止め。

 漂白された表情で、俺を静かに見た。何の感情も読み取れない、見たことのない顔だった。

 え、

 

「……なんでお前がそんなこと言うんだ?」

 

 それから。平坦に、尋ねてくる。

 なんで、そんなこと、?

 

「……え?」

 

 一体、どういう意味だ。

 何が聞きたい。何が知りたい。さっぱりわからず、無防備に聞き返したが。

 

「いや、」

 

 すぐにその目は逸らされてしまう。

 住み込み、ね。

 サイタマは淡々とそうつぶやいて、

 

「……ま、考えとく」

 

 頭を掻きながらそんなことを言って。空になった2つのコップを手に、さっさとキッチンへと引っ込んでしまった。取り付く島もなかった。

 

「あ……うん……」

 

 ──何なんだ。

 俺、なんか変なこと言ったか?

 サイタマがあんな反応をしたことがあった?

 問いただしたい気持ちでいっぱいだったが、今聞いてもきっとはぐらかされるだろう。

 

「………………」

 

 何とも言えないもやもやとした感情を抱えつつ。ひとまず、サイタマが置いていった単行本を広げることで、疑問を紛らわせた。

 まあ、いつかわかるだろう。





主人公のやってること、完全に悪役ムーブ。

ジェノスはあの愛想のなさが好きです。


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働いたら負けかなと思ってる

 アパートの内階段は、夏でも薄暗く涼しく、ぼうっとするには良いスポットだ。

 

 部屋にいてもいいのだが、どうせほとんど廃墟に等しいのだから、普通のアパートではできない使い方をしてみたい。

 そうして無駄なもったいない精神を発揮し、敷地内をうろうろした結果、ここがわりと過ごしやすいということに気づいた。あくまでわりと、だが、このアパートなら住民を気にせずだらだら過ごせる。

 と言っても、暇潰しの道具なんてものは持っていないので、本当にただ時間を過ごすだけだ。

 仕事は早朝に何体か済ませてきたし、これからの暑くなる時間はできれば外に出たくない。

 

「ふう……」

 

 階段に腰掛けて、とっくに切れた天井の蛍光灯をぼんやり仰ぐ。

 やっぱり、何だかんだで一人が一番落ち着く。

 俺は抱えた秘密が多すぎる。

 サイタマから得られる安全は欲しいが、全てを預けられる日は半永久的に来ないだろう。

 サイタマ──か、

 

「……あの時、ジェノスにはああ言ったけど」

 

 キスしたいと思う。

 そういう感情を、サイタマに抱いている、と。俺にとっての『恋愛感情』。関係性の終着点。

 

「………………」

 

 ごつん。側頭部で鈍い音。

 俺が壁に頭を打ちつけた音だった。

 ──いや、今さらこの程度の想像で恥じている場合じゃない。それは本当に、その通り。

 

「弱い、よな」

 

 されどキス、たかがキス、なのだ。

 キスも、セッ……クスも、別にゴール地点ではないんじゃないか。

 目指すのはともかく、それ自体は縛りつける効力を持たないし、好き同士でなくともできる。サイタマはそういう貞操観念の人間ではないだろう、ということを踏まえてもだ。

 何かもっと……強い力が欲しい。

 全世界に胸を張って、サイタマとの繋がりをアピールできるような何か──

 

「……結婚?」

 

 脳内に浮かぶシルバーリング、舞う紙吹雪、純白のドレスに身を包んだ笑顔の女性。

 ──えっ、結婚?

 俺がサイタマと? お揃いの指輪嵌めて? 結婚式場でリンゴンと鐘が鳴る中、誓いのキス?

 そして、守るべき家族に。

 

「い……いやいやいや……?」

 

 飛躍しすぎ──とも、言えないか。

 国家からお墨つきを与えられた仲、つまりはそういうことなのだし。

 でも、全く想像がつかない。

 俺がサイタマのお嫁さん、なんて。自分が怪人になる以上に遠い遠い話のように思える。

 そもそも、俺が知っている範疇でもプロヒーローの婚姻率はなかなか凄まじいし。特にS級なんてほとんどが未婚なんじゃないか。まあ、こちらはさまざまな要因が合わさった結果とも言える。

 根本的に、職場内恋愛だとか、そこから派生した結婚なんかとは遠い職種なのだと思う。

 それゆえ、女性の身になったとしても別に色恋沙汰への圧力は感じていない。自分ごととして意識する要素が今に至るまでない。

 

「あ、でもブラストは子持ちなのか……」

 

 肝心の妻の描写は……記憶にない。

 まさかブラストが産んだ訳ではあるまいが。少年漫画で両親の片方が透明化されがち、というのはわりとよくある話かもしれない。

 シババワも、特に描写はないながらも子持ちならぬ孫持ちだったし。

 

「……いや、……」

 

 落ち着け。話が脇道にずれている。

 まず大前提として、俺とサイタマは付き合ってすらないんですけど。

 結婚するしない以前に、それが選択肢として使える段階にすら来られていない。付き合ってもないのに「結婚しましょう」じゃ、ただのサイコ扱いされて終わりだ。

 なら、さっさと付き合っちゃえばいいじゃん。3年も一緒にいるのに。

 そう思うかもしれない。──が、

 

「……付き合うって……何だ……?」

 

 前世が非モテの弊害がこんなところに。

 男女のお付き合いってつまりどういうこと?

 どっちかが告白することで交際がスタート、というのはわかるが、女性はどういう感じでいくのが好ましいんだ。『良い雰囲気』の読み方なんて非モテに求めないでほしい。

 おそらく、失敗を避けるならば『気がある』とされる状況でアタックするのが望ましいのだろうが。

 

「……そもそもサイタマって俺に気があんの?」

 

 友情と愛情の違いとは。

 ていうか、俺は友達もあんまりいなかったんだよな。高校まで小学校時代の友達とずるずるやって、大学はゼミ仲間との薄い付き合いしかなかった。友達の作り方さえよくわからない。

 さらに言えば、今まで非モテ非モテとさんざん言ってきたが、誰かを強く好きになったことさえもない。

 そりゃ、可愛い娘と同じクラスになれれば嬉しかったし、話せればテンションも上がったが。誰と付き合ってヤったヤらない、みたいな話にはついていけなかった。

 サイタマに対しても、俺は何か明確な勝算があってモーションをかけていた訳ではない。

 今のところ、俺が『清楚』と思っているムーブを勝手に押しつけているだけ。それが結果的に何を生んでいるかは──よくわからない。

 友人までは漕ぎ着けた気もするが、長いことそれ以上進展できていない感じもするし。

 

「恋愛不適合者……」

 

 その誹りは甘んじて受けるから、ゲームみたいにわかりやすく好感度表して。

 サイタマが酔った勢いでもなんでも、さっさと告白してくれればそれで済む話なんだが。俺はいつでも受け入れ体制ばっちりです。

 

「いや、それは人任せすぎ」

 

 手探りでも頑張っていくしかない、か。

 それに、せっかく(一応)ジェノスという第三者を味方につけたのだから、彼の口から上手いこと誘導すれば──いやあのジェノスだから厳しいか、

 

「おい」

「うわっ」

 

 突然背後から呼びかけられて、尻から転げ落ちそうになった。

 何とか手すりにしがみつき、体勢を立て直す。振り返った先には、

 

「な、なんだ、ジェノス君か……びっくりした……」

 

 踊り場に仁王立ちする若きサイボーグ。

 脇に大学ノートらしき冊子を抱えている。今日はなぜか、袖の長い上着を羽織っていた。

 

「……わたしに何か用?」

 

 エントランスから入ってきた気配はなかったのだが、まさか屋根かどこかから移ってきて、そこから降りてきたのだろうか。

 

「お前こそ、こんな場所で何をしている」

「何も。ぼうっとしてただけだよ」

 

 腕を広げて、何も持っていないことを見せつける。ポケットには携帯が入っているが、いじってはいなかった。

 

「プロヒーローは随分と暇な職業なんだな」

「暑いとパフォーマンスが落ちるからね。仕事は涼しい明け方のうちに済ませてきたよ」

 

 嫌味なんだか素で言ってるのか判別しかねるあたりが怖い。どちらにせよ、何かこちらを良い気持ちにさせたくて言っている訳ではないのは間違いない。

 

「まあいい」

 

 言いながら、なぜか隣に座ってくる。そして膝上に広げられる例のノート。今思い出したが、サイタマの教えを書き記すとかいう代物だろうか。

 一応、聞いてみる。

 

「……何のノート?」

「………………」

 

 無視かーい。

 本当、嫌われすぎだろ。ジェノスにとって敵視される要素しかないのが問題なのか。

 しかし、何しに来たんだ、と思ったその時、

 

「お前は」

 

 金属の指で、ペンを器用に回してみせる。

 

「サイタマ先生の強さをどう考えている?」

 

 またその話か。弟子入り志願者と恋する乙女を同列に並べないでほしい。

 俺より強えヤツと愛し合いてえ、みたいな危険思想を持っているとでも思われているのか?

 

「……わたしは別に……」

「先生の庇護を求めているんだろう」

 

 ──ニブいヤツ、と思っていたが。

 サイタマよりも聡いのかもしれない。俺がサイタマに見出しているものを見抜くなんて。

 いや、実際に『恋する乙女』ならこんなことを言われたら屈辱なのだろうか。思いを寄せる相手を、ただ防空壕扱いしているかのように言われたら。

 でも、俺に限っては事実だし、そこに憤慨したり否定する要素はない。

 少し考えて、

 

「わたしより強いジェノス君より強い」

 

 与えられた選択肢の中ではわりと良いアンサーを出せたと思ったのだが、ジェノスの反応は淡泊を通り越して、辛辣だった。

 

「少しはプロヒーローらしい回答をしろ」

 

 そういうことか。

 しかし、S級もしくは幹部ならともかく、B級風情に何を期待しているのやら。共闘ができるような能力でもない。とりあえず、経験ではなく知識をもとに答えを述べる。

 

「タツマキより強い」

「……なぜ2位を例に挙げた?」

「ブラストをそもそもよく知らないから」

 

 それはプロヒーローの立場としても同じことだろう。S級の活躍や顔は視界に入っても、ブラストのそれを見かけることはほとんどない。

 ONE版ではそもそもまともに登場していないし、村田版にしても『なんか神とバトってるっぽい』くらいのことしかわからない。

 

「理由は?」

「勘……かな」

 

 我ながら、非常に曖昧な返答。

 当然、ジェノスは納得いかない様子で、ノートをぱたんと閉じ。ペンを胸ポケットに差す。

 

「やはりお前の言語野は頼りにならないな」

 

 俺との会話で得られるものは何もないと判断した、という意思表明なのだろうか。

 まあ、こういう強い弱いに関しては頼りにせず放っておいてくれるのが一番有り難いのだが。俺にとってヒーロー活動はほとんどパフォーマンス、おまけみたいなものだし。

 ジェノスは、ノートをしまい込まず。手のひらに乗せて見つめたまま、

 

「これは──日記だ。日々、学んだことを書き留めている」

「へえ」

 

 それ自体は知っていたが、具体的にどういった記述がなされているのかは少し気になった。

 

「どういうこと書いてあるのか見てもいい?」

「………………」

「いや……そんなめちゃくちゃ嫌そうな顔するなら見せなくていいけど……」

 

 今にもくっ、殺せ……とか言い出しそうな表情だったので撤回した。あいにく、真面目なイケメンを虐めて愉しむ趣味などない。

 俺にも見られたくないノートはあるので、そういう意味でも譲歩はしてやりたい。

 

「……で、ジェノス君はそんなことをわたしに聞くためにここへ来たのかな?」

「いや」

 

 おっと、即座に否定された。

 まさかまたお命頂戴、

 

「先生を尾行し、その強さの秘密を探る。お前も付き合え」

 

 拒否権を匂わせない口調でびしっと言い放たれる。なるほど、先ほどまでの疑問はただの前座で本題はサイタマを尾行、……尾行?

 

「…………んッ!?」

 

 想定外の要求に、思考が吹っ飛ぶ。

 原作にこんなシーンはなかったはずだが、俺という存在が加わったことで、ジェノスの思考回路に変化が生じたということなのか。一人ならば思いつかなかったことを思いついた、と。

 

「な……なんでわたし?」

「同年代の女を連れていれば、傍目からはつがいだと思われるはずだ。尾行のカモフラージュには好都合だろう」

 

 カップルを『つがい』って呼ぶ人初めて見た。

 やはり“セツナ”という女性の存在によって、予想外の行動パターンを見せているらしい。

 ううむ、何もしなければ放っておいてくれると考えていたこと自体が甘かったのか。俺のアクションに関わらず、存在そのものが思考基盤に影響を与えることもあるということだ。

 まあ、それはそのとおり。

 極端な話、本来選ばれるはずだったキャラの代わりに、特に理由もなく俺が入ってくる、などということは普通に有り得る。

 

「これはお前の監視も兼ねている」

「ご、合理的……」

 

 しかも、そういうことらしい。

 監視対象に監視の旨を伝えてしまっているのがいいか悪いかは置いておいて、ジェノスは未だ俺に目をつけているようだ。

 嫌だと言っても引きずって連れて行かれそうだな、と思った矢先、

 

「うわ、何?」

 

 アパートのすぐ側で、そこそこの地響き。何かを地面に落としたような音だった。

 

「──サイタマ先生だ、出動したらしい」

 

 即座にジェノスの解析が入る。便利ね。

 部屋にいたのにこんな近くで普通に尾行云々言ってたんかい、というのはともかく。

 

「怪人発生か?」

「ちょっと待ってね、」

 

 目線で急かしてくるのを感じつつ、支給品の携帯で災害情報をチェック。

 Z市にはレベル鬼以上の出現なし、それ以外の市でも虎、狼と小粒の案件が並ぶ中。ふと、目を引く文字列があった。

 

「……“桃源団”……F市にテロリストの集団が出現したみたいだよ」

 

 ──覚えのある名前だった。

 関わらずに済む事件だと思っていたのだが、こんなところで接点が生まれるとは。

 ジェノスはふむ、と唸って、

 

「テロリスト……あの先生がわざわざ動く必要のある事件とも思えないが」

「まあ……働かないで楽に暮らしていきたいからテロ起こします、みたいな人たちだしね……」

 

 厄介な存在なのは間違いないが、主張の程度が低いこともまた事実。

 しかし、桃源団はともかく音速のあいつが絡んでくる以上、できれば関わり合いになりたくないのだが。もはや抜けますとは言えそうにないし、上手いこと接触を回避するしかないのか。

 ああ、また悩みのタネが増える。

 

「構成員が全員スキンヘッドらしくて、たぶん風評被害を恐れてるんだと思うけど……」

「しかしテロリストごときとはいえ社会の不穏分子には変わりない……細部に至るまで正義執行の手を緩めない先生の姿、勉強になります」

「話聞いてる?」

 

 サイタマの姿を壁に幻視しないでほしい。

 やっぱりこいつ苦手だわ、と今後を不安視していたところに。ジェノスがきりっと振り返ってくる。

 

「行くぞ。……ダッシュでな」

 

 キメ顔してるところ悪いが。

 ここからF市は、結ッッ構、遠い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 案の定。自動車のウッディ人形がごとくジェノスに引きずられること、数十分。

 無事(ではない)、F市に到着した。

 ジェノスに言われるがまま、髪を上げてキャップに押し込み、サングラスをかけて急ごしらえの変装。今日に限って彼が袖付きの上着を羽織っていたのは、こちらも変装のつもりだったらしい。

 といっても、こちらはほぼジャージのままなので、とてもデートなどには見えそうもないが。

 せっかく白いワンピースがタンスの肥やしと化しているのに、何だかもったいない。

 

 歩調を合わせる気など欠片もなさそうなジェノスの背中を追いかけながら、ふと、思うこと。

 付き合っている男女を装う。

 俺たちはそれが偽装だと知っているし、あくまでもカモフラージュでしかないのだが。

 もし、これをサイタマが見たら、?

 何となく、ぞわっとした。

 

「……ねえ、」

「何だ」

「そもそも尾行からしてそうなんだけど、これサイタマにバレたら本当にまず、ぃ……!」

 

 そこで。おもむろに、点と点とが繋がった。

 サイタマと俺。俺とジェノス。

 先日の、サイタマの妙な反応。

 ジェノスは若いし、文句なしの美形だ。そんな彼のフォローを女である俺がするということ。

 ──あまりに初歩的なことすぎて、見落としていた。あれだけ訴えかけてきた人間の情というものを、都合よく見て見ぬ振りしてしまったのだ。

 原作は絶対、という思い込みでもって。

 サイタマはもしかして、俺がジェノスを。

 

「…………しくったぁあ……」

「おい、立て。怪しまれる」

 

 ヤバい。完全に、やらかしたかも。

 思わずその場に崩折れたのを、そんな内心など知る由もないジェノスが厳しく叱咤してくる。

 いや、どんだけ自分に自信ないんだ。

 3年間一緒にいた女が、ぽっと出のイケメンにかっさらわれることに対して何の疑問もない?

 ──こんな考えになるからこそ、恋愛不適合者なのだろうか。人心の機微に疎すぎるか。

 

「ちょ、ちょっと待って……」

 

 焦れたらしいジェノスに、むりやり二の腕を掴まれて引き上げられた。力持ちすぎて膝が軽く浮いている。

 タイム、というかもう帰りたい。

 今きみとここにいるこの瞬間が、一番心臓に悪い。今度こそ何もかも手遅れになりそう。

 しかし、ジェノスはしかめっ面をぐっとこちらに寄せてきたかと思えば、

 

「これは等価交換だ。お前がサイタマ先生への思いを果たすのに協力してやる代わりに、お前は俺の修行に手を貸せ」

「えっそういうこと? いや待てサイタマに余計なこと言ってないよなオイ」

「しっ、先生だ」

 

 それでまた、こんなことに付き合わせているのか。

 新たな納得と不安があったが、やはりジェノスに取り合う気はないようで。彼の視線は既に、俺から街中へと移っている。

 ──サイタマを見つけたらしい。見つめる先を追うと、確かに見慣れた赤白黄色があった。

 原作で見た通りだが、スキンヘッドのテロリスト集団が出ているのにいつものヒーロースーツで繰り出すのはいかがなものか。

 

「サイタマ、今あの格好だと目立つんじゃ……」

 

 仲間という疑いが晴れても、下手をしたら愉快犯か模倣犯と思われるかも。

 案の定、騒ぎを巻き起こしているサイタマ。俺はテロリストじゃない、と叫んでいるのが聞こえるが、やむを得ない部分はあるだろう。

 ……とはいえ、そんな社会常識は通じないのがサイタマと、ここにいるジェノス君なのである。

 こわごわ隣を窺った先、

 

「あいつら……」

「ステイステイステイ!」

 

 今にも罪のない一般市民を焼却しに行きそうだったのを、羽交い締めにして慌てて止める。

 

「ジェノス君落ち着いて、わたしたちだって今は一応変装してるよね。だから、普通ならこういう時は空気を読んで……あっなんかそんなつもりはなかったのに結果としてサイタマを罵ってしまった」

 

 常識的に考えて、擁護するポイントがない。ジェノスはなんか「くっ……」とか言っているが、人間らしい感情があればある程度察せそうなものだと思う。

 

「スキンヘッドに気をつけろ、みたいな警報もだいぶアバウトすぎると思うけど……」

「おい、何とか切り抜けたようだぞ」

 

 ジャケットの裾を軽く引っ張られて、再びサイタマに視線を戻す。

 状況を見るに切り抜けたというか、強引に振り切ったというか。

 とにかく、警察やヒーローと揉め事になることもなく、市街地を抜けられたようだ。

 すったかと走り去っていく背中を、ジェノスとともにそれとなく追いかける。やがて、いきなり街外れに現れた巨大な森の中へ、迷いなく消えていった。

 

「……林に入っていくね」

「あの先はゼニール邸……そういうことか」

 

 広大な緑の向こうから飛び出す、一際目立つ高層ビル。

 どっかで見たような黄金のオブジェが、半壊しつつも屋上に乗っかっている。それを見上げるジェノスはしたり顔で、

 

「奴ら、F市最大の資産家である彼を逆恨みして襲撃しようとしているんだろう。生産性のないルサンチマンの塊が考えるようなことだ」

 

 ボロクソ言うじゃん。さすが、ブサモンに目をつけられまくるだけはある男だ。いや苦労してない訳じゃないんですけどねこの子も。

 しかしあの壊れかけたオブジェ、よく見れば前世で見かけた筋斗雲ではなく──

 

「あ、あれ見て」

 

 その正体にようやく合点が行ったところで、思わずジェノスの肩を叩いていた。

 思いのほか素直に顔を向けてくれるのに、何となく気を良くしたのが良くなかったのだろうか。思わず、口が滑った。

 

「金のウンコ! あんなものわざわざ乗っけるなんて、悪趣味だな〜」

「…………」

 

 まさか、ぎゃははマジでウンコだ〜みたいな返しを期待していた訳ではないが。ジェノスの反応は、予想以上に冷淡だった。

 

「………………」

 

 あまりの冷ややかさに、こちらもつられてすん……となる。しかもそのタイミングで、

 

「……性別によってそういう発言をむやみに指摘するのは確かにバイアスと言えなくはないが冷静に考えてそういった女性をパートナーに選びたいかというと」

「ごめんなさいね!! 以後気をつけます!!」

 

 平謝り一択。

 なんでこういう時だけ恋愛相談に『本気(マジ)』になるんですかね。有り難いけども。

 

「そしてあれはゼニール氏のトレードマークである髪型を模したものであり、デフォルメされた排泄物などではない」

「えっ……そうなの……?」

 

 ジェノス君やはり引くほど博識。

 でもみんな絶対ウンコだと思ってるよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 林に足を踏み入れてみても、交戦しているらしき音や声などは聞こえない。

 ジェノスも周囲に意識は向けているものの、特に目立った反応は見せていない。

 ──既にソニックによる粛清は終わった、と見ていいのだろうか。

 あとは、さっさとサイタマに敗北してくれていることを願うしかない。容姿からして残党と間違われることはないだろうが、今のジェノスではヤツを振り切れないかもしれない。

 そこで、ふと。

 

「……変な臭いがする」

 

 そよ風に乗って鼻をついた、嫌なニオイ。爽やかな緑のそれとはかけ離れた生臭さだった。

 思わず足を止めた俺を、振り返るジェノス。やや首を傾げて、

 

「……臭い?」

「うん。人間の……わからないかな」

 

 ジェノスは怪訝な顔のままだ。味覚は搭載しているらしいが、嗅覚はどうなのだろう。

 発生源には何となく想像がついてしまったが、だからといって向かわない選択肢はない。おそらくソニックはもう現場を離れているだろう。

 

 ──悪臭を辿りながら、ふらふらと林の中を彷徨うこと数分。

 崖際で、首と胴体が離れた死体が大量に転がっているのを発見した。

 

「……これは、」

 

 ……人間のグロテスクな死骸をこの目で見るのは、初めてかもしれない。しかし、恐ろしいだとか、気分が悪いだとかは思わなかった。

 不思議と落ち着いた気持ちで、トマトのようにスライスされた頭部のそばに膝を折る。

 はっきり血の臭いだとは感じなかった。人間の“内側の臭い”というのは、血液の鉄錆臭さ以外のものももたらすらしい。腐るまでもなく、そもそも中身はいい匂いではないという訳だ。

 桃源団。ジェノスが呻くようにつぶやいた。

 

「……先生、か?」

「そんな訳ないでしょ」

 

 サイタマを残虐非道の男と考えているのか、テロリストなんて死んで当然と思っているのか。

 どちらでもいいが、これは彼の仕業ではない。

 ──音速のソニック。

 やはり、今の時点では出会したくないヴィランの一人なのには間違いないか。

 

「切り口が鋭利すぎる。……サイタマは得物なんて持っていないもの」

 

 とりあえず、それだけをぼやかして伝える。ジェノスとしても、まさか本気でサイタマがやったなどとは思っていなかったようで。

 

「ゼニール氏が雇った刺客という訳か」

「そういうことかな」

 

 サイタマが絡まないと途端にかしこさが上がるなこいつ。

 

「死体は……放っておこう。刺客さんに目をつけられても面倒だからね」

 

 一応、証拠隠滅……と思ったが、どうせこれらはゼニールが内々に処理するのだろう。

 そもそも表沙汰になることはない虐殺。ソニック以外の誰かがここに訪れた、などとは思わないはずだ。

 

「人数を見るにほぼ壊滅……」

 

 ハンマーヘッドがいないけどね。

 思って、そもそもジェノスはニュース自体を真面目に見ていた訳ではないのに気づく。どいつが仕切っていたかなど、まず彼は知らないのだ。

 

「所詮は烏合の衆ということ。やはり、先生が手を下すまでもなかったな」

「まあ……そうだね」

 

 何となく、脱力。結果のわかりきっていた無駄足だった。不要なリスクを添えて。

 

「徒労だったが、やむを得ない」

 

 当然のように徒労に巻き込んだことへの謝罪などない。ジェノサイド──ジェノスの価値観に振り回されること。次の広辞苑に載せよう。

 

「……帰るの?」

「ああ」

 

 やっぱりすたすたと先に行ってしまうジェノス。しょーがねーな、とその後を追おうとして。

 

「──う、」

 

 瞬間。目眩がした。

 頭蓋骨を両手で掴まれて、激しくシェイクされているかのような不快感。立っていられず、思わずその場に膝をつく。

 しばらく目を瞑ってじっとしていたら、何とか立てるまでには回復したが。

 言うまでもなく、その頃には、

 

「……いや置いてくんかーい」

 

 案の定、既にどこにも姿が見えない。

 あのクソガキがよ。

 わざわざ戻ってくるとか、そういうことも期待しないほうがいいだろう。ヤツは愛ゆえではなく、無関心から我が子を崖から突き落としても平気なタイプのライオンだ。

 

「しんど、……」

 

 急激に不調を自覚する。

 原因はわかりきっていた。この炎天下に、屋外でジェノスに引っ張り回されていたからだ。

 本来ならば外出を避ける時間帯。

 緊張感で休憩もとっていなかった。

 とはいえ、こんな場所でじっとしていても、何ら解決には繋がらない。

 

「どっちから来たっけ……」

 

 手頃な樹木にしがみついて、何とか体勢を立て直す。おいおい、こんなところで干からびて死ぬなんて洒落にならんぞ。

 ここまで来たのもジェノスのサーチ機能頼りだったので、俺は自力で帰る術を持たない。万が一この林を抜けられても、どうやってZ市まで帰ればいいのだろう。公共交通機関か。

 

 

 

 

 

 とにかく、うろ覚えで深い茂みを抜けた先。

 

「あ」

 

 ──少し、ひらけた場所に出て。

 そこに佇む、赤白黄色の立ち姿。

 彼は俺を見た瞬間。

 ぎょっと目を瞠って、大きく手を振りながら、

 

「いやっ、だから俺はテロリストじゃな、」

「サイタマ」

 

 思わず、名前を呼んで。サイタマがその奇妙な動きをぴたりと止める。

 

「セツナ?」

 

 すぐには気づかれなかった。もしかして、このお粗末な変装が功を奏していたのだろうか。

 同じ林の中にいたとはいえ、こうして遭遇できるとは思わなかった。

 サイタマが下草を踏みしだきながら近づいてくる。その表情は当然、不可解な困り顔。

 

「お前、何でこんなとこいるんだよ」

「ま……迷っちゃって……」

「もしかして、お前も桃源団探しに来たのか? もう俺が倒したけどな」

「そ、そういう訳じゃ……ないけど……」

 

 我ながら厳しすぎる言い訳だとは思うが、サイタマはあまり気にしていないようだ。

 とりあえず、もう意味を成していないキャップとサングラスを外して、髪ゴムを解く。こんなに疲れているのに、汗が一滴も出ていないのは不思議な感じがした。

 

「お……おい、大丈夫か?」

「つかれた……」

 

 乾く前にサイタマと出会えた幸運を喜ぶ元気もない。ずるずるとその場にへたり込む。

 

「あ……そうだ」

 

 そのままぼうっと膝上のキャップを見下ろしていて、働かない頭に浮かんだこと。

 

「はい。……それで街に出たら、テロリストだって騒がれちゃうよ」

 

 屈み込んだサイタマのスキンヘッドに、ぽすんと軽くかぶせてやる。俺が使っていたものだが、汗はかいていないのでいいだろう。

 しかし、

 

「いやいや、俺の心配してる場合じゃねーだろ」

 

 即座にこちらの頭へ戻してきた。そのまま鍔を引き下げてくる。

 

「暑いからしんどいんだろ。何の用があったのか知らねーけど、こういう日はうちで寝てろよ」

「ごめん……」

 

 岡目八目というか、こちらは伊達に長く付き合っている訳ではないようだ。

 いやジェノス君のせいでね、とは言いにくく、場繋ぎの謝罪で濁す。

 ああ、手足が重い、気分が悪い。

 だらだらお喋りを続ける気力さえない。

 

「………………」

 

 しばし、無言が流れて。

 

「……ほら、」

 

 先に動いたのは、彼のほうだった。

 俺の視界に映るのは、白いマントの背中。サイタマが、こちらに背を向けてしゃがみ込んでいる。

 

「誰も見てねーし……いいだろ」

 

 いきなり何を、と思ったが。

 どうやら、疲れた俺をおぶって連れ帰ってくれる構えらしい。え、おんぶ?

 今朝方あんなことを考えたので、ちょっと妙に意識してしまう。人命救助の範疇であるおんぶは恋のABCのどこに入りますか。

 まさかジェノス、これを予見して……?

 いやでも全然グッジョブじゃねーし足の小指折れろ。これ本来バレちゃいけない尾行だし。

 

「う、うん……」

「あ……いや、お前が嫌じゃねーならな、」

「え?」

 

 頭の中でどうやったらジェノスの指を折れるのかをシミュレートしていたら、サイタマのつぶやきに対する反応が遅れた。

 

「ごめん、嫌だった……?」

「や、だからお前のほう……」

「なんで、」

「…………」

「…………?」

 

 何について尋ねているのか。問いだけが絶妙にバッティングして、全貌が見えてこない。

 

「…………えーと、」

 

 先ほどから、若干会話が噛み合っていない気がする。

 ──もしかして、ジェノスに惚れていると勘違いしているゆえに謎の遠慮を見せている?

 おぞましい仮定にたどり着いて、ぞわっと背筋が粟立った。ジェノスのことは嫌いじゃない、でもあいつに迫るなんてサイタマ以上に拷問だ。

 良いとこハニートラップを仕掛けていると思われ抹殺されて終わり、だろう。

 しかし、どうやってこの誤解を解けばいいのやら。

 考え込んでいると、

 

「わ、」「よいせっ、と」

 

 ずれた会話の修正に飽きたのか。足元を崩されて、倒れ込んだところを背負い上げられる。

 おぶられてしまったものはしょうがないので、収まりのいい場所に上体を落ち着けた。

 サイタマは俺の体を器用に片手で支えたまま、もう片方の手でキャップを再び取り上げ、被り直してみせる。そのまま、安定した足取りで草むらを歩き始めた。

 随分と迷いない進み方だが、帰り道がわかっているのだろうか。そんなことを考えていると、

 

「なあ」

 

 話しかけられた。さっきのあれがあったので、ちょっとどきりとしながら次の言葉を待ったが。

 

「俺の知名度って……そんっな、低いか?」

 

 はあ。知名度。

 

「…………うん?」

「いやだから……俺って、お前も知ってる通り、3年前から趣味でヒーローやってるけど? 俺の活躍、ほとんど知られてねーよな? 色んな怪人だの地底怪獣だのテロリストだの悪の軍団だのを退治してきたのに、他のヒーローが俺並みの解決してるとこ見たことあるか? 無いだろ」

 

 ぶつぶつと、ノンストップで垂れ流される愚痴。

 俺という話し相手がいるせいで、本来ジェノスにぶつけられるはずの不平不満が急遽こちらに向かっているようだ。やべえ。

 

「な、なんでだろーねー?」

 

 ここでプロヒーローが云々、という話をしてもしょうがない。ので、適当にぼかす。

 サイタマが、帰ってジェノスと顔を合わせるその時まで憤りを持続させてくれることを祈ろう。

 下を見ていると揺れて気持ち悪くなりそうなので、視界を流れる緑をぼんやり眺める。鳥のさえずり、木の葉が擦れ合う音。平和なBGMだ。

 

「──ハンマーヘッド」

 

 その中で、ふと。

 サイタマのそんなつぶやきが、やけに鮮明に、鼓膜を揺らした。そんな気がした。

 

「ニュース。見てたか? 桃源団のボスの」

「うん……」

 

 ──いつの間にか、話題が変わっていたらしい。いつもより低く感じるサイタマの声。

 

「働きたくないって」

「ああ」

 

 そこでちょっと笑った、ような気がした。けれど、緩んだ雰囲気はすぐに引き締まる。

 

「お前から見て……あいつと俺、何が違う?」

 

 原作の彼が、自問自答した問いが。

 ごく当然のように、投げかけられる。

 社会への失望。そんなワードが出てきた気がするが、俺には彼の気持ちはよくわからなかった。

 考えて、

 

「……ヒーローしてること?」

 

 つまらないことを言った。

 

「っ、はは、ああ……そうだな」

 

 サイタマは少し笑みをこぼして。それ以上、話題を続けようとはしなかった。

 何となく、思うこと。

 

「………………」

 

 サイタマは。

 俺がいたおかげで、ヒーローを続けられている部分がある、と思っているのだろうか。

 彼が認識している通り、俺は『異物』であり。この世界に“俺”というピースが嵌まる箇所など、どこにもありはしないのだ。

 

「……大丈夫だよ」

 

 誰にともなく、つぶやく。

 今、気づいた。

 世界に割り込むことでしか危険から逃れられないことはわかっているのに、サイタマにはそんな考えを持ってほしくない、とも思っているのだ。

 “ヒーロー”はそうじゃないだろ、と。

 俺はサイタマに“男”を求めているのに。

 剣を握ったままでは何とやら、というやつか。その二者択一を迫られているのは、拳を握る側のサイタマではなくその腕に抱かれる俺な訳だが。

 話はそう単純ではないのかもしれない。ジェノスのことも、サイタマのことも、俺のことも。

 

 ──なんか、色々と上手くいかないなあ。

 

 思ったよりずっと。

 どんどん世界は複雑に、難しくなっている。

 そんな茫洋とした不安を覚えながら、今はただ、広い背中に頬を預けた。




有り難いことにちょくちょく日間ランキングに入っているみたいなんですが、タイトルの長さで浮いている気がしてちょっと恥ずかしいです。長すぎて省略されてるとダサさが3割増な気がします。

音速氏はまだ出てきません。


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刹那のモーメント

 目立たないようビルを足場代わりに、ようやくアパート前に戻ってきたサイタマは開口一番。

 

「うわ」

 

 何を見てそう口に出したか、考えるまでもなかった。

 道端で燃え盛る炎、それを感情のない目で見つめるサイボーグの青年──ジェノス。無事に、とは言いたくないが、一足先に戻れていたらしい。

 こちらとしても路上キャンプファイヤーがいきなり視界に入ってうわ、だった。

 

 ──結局あの後、俺のペースに合わせていると永遠にZ市へ辿り着けない、ということで。

 林を出た後も、ここまでサイタマにおぶられたままだった訳だが。さすが宇宙最強の男、今に至るまで全く体幹にブレがない。

 まあそんな恥ずかしい瑣末事は置いておいて、ジェノスのほうだ。

 

「サイタマ先生!」

 

 師を認めるなり、きりっとした顔でこちらに駆け寄ってくる見事な忠犬仕草。しかし、犬は犬でもこいつはバグったaiboだ。

 当然、サイタマは良い顔をしない。まさか彼も、この男に桃源団討伐をストーキングで監視されていたなどとは思わないだろう。

 

「お、お前またいんのかよ……」

「弟子ですので」

「取った覚えねーよ、帰れよ他人なんだから」

 

 というか、俺についてはガン無視かい。

 尾行隠蔽のために無視している場合でも、単に存在が視界に入らない場合でも、どちらにせよ好感度は上がらないパターンなのだが。

 サイタマはジェノスから、アスファルトの上で逞しく燃え上がる炎に視線を移し。

 

「で……何してんの?」

 

 同時に、再び俺の頭に戻ってくる帽子。鍔が引っ張られて視界が遮られる。サイタマに行ったり俺に戻ってきたり、お前も忙しいな。

 

「怪人の死骸がアパート前に溜まってきていたようだったので、まとめて焼却をと」

「それはいいんだけど……セツナが火とか嫌いだから、できればうちの近くでやるなよ」

 

 帽子はサイタマなりの配慮だったらしい。

 これに関しては全くの善意でやってくれているのだろうから、少し申し訳ない気もする。

 

「……何か燃えてるのを見るのがあんまり好きじゃないだけ」

 

 首に回していた手を少し振って、鎮火。残った燃えカスは凍らせて、砕く。

 炎を見て気分が悪くなったとはいえ、サイタマが運搬してくれていたおかげで、少し力を使うくらいの余裕は戻っていた。

 

「死体ならわたしが片付けるから」

 

 ジェノスはノーコメント。不満気な様子はないが、だからといって安心はできない。

 そこへ割って入ってくるサイタマ。

 

「とにかく。今の俺は重大な問題に気づいて非常にショックを受けてんだよ。傷心なの」

 

 傷心の男は女をおぶって帰ってきたりなどしないような気もする。

 が、世界の全てがサイタマを中心に回っているジェノスは今度こそ神妙な顔で、

 

「問題……? 先生ほどの人が抱える問題とは何ですか? 教えてください」

「…………知名度が低い」

 

 いや、できるからって俺を背負ったまま会話をすな。買い物袋じゃないんだぞ。

 

「知名度……」

「今日なんか……今日なんかなあ……テロリストに間違われた挙げ句『お前なんか知らん』だとよ。ハンマーヘッドは俺が倒したのに。いや桃源団に限った話じゃねえ、こんだけ活躍してるのに誰も俺のことなんか覚えちゃいない……!」

 

 迫真のトーンでこの世の不条理を訴えてみせるサイタマ。その背中で同じように震わせられている俺の存在が完全に浮いている。

 

「……ニュースでは別のヒーローが桃源団を倒したと速報がありましたが」

「マジかよ……まあそれは別にいいんだけど」

 

 いや、いいんかい。確かに、キングが「サイタマの手柄を横取りしていたかも」と告白した時も、あまり気にしていないようだったけども。

 相変わらずよくわからん人だな。

 ジェノスは真面目な顔でサイタマを見つめている。何やら考え込んでいるようでもあった。

 

「……趣味でヒーロー、……」

 

 ──そこでなぜか俺に目配せしてくる。それは一体どういう意味を含んでいるんだ。

 真意を計りかねて何もしないでいると、ジェノスは何か吹っ切れたような表情で、

 

「サイタマ先生」

「ん?」

「ヒーロー名簿というものについてご存知でしょうか」

 

 原作よりはだいぶ穏当──というか、淡々とした追及。

 しかし、それを受け止めるサイタマはやはり見事に硬直し。眉間を押さえる。

 

「え……何それ知らん……」

「はい……ヒーロー名簿とはですね──」

 

 ──全国にあるヒーロー協会の施設以下略。

 ただでさえ、ページの下半分をびっしり埋め尽くす文章量。それとジェノスの微に入り細を穿つ解説が相まって、聞いているこちらが眠くなりそうな時間が流れたものの。

 真剣な態度で聞き終えたサイタマは一言、

 

「…………知らなかった……」

 

 圧倒的、絶望。そんな雰囲気で頭を垂れる。

 それに同情したのもつかの間。

 しばらく黙ってサイタマを見守っていたジェノスがしれっと、

 

「プロのヒーローとしては例えば……サイタマ先生の背中にいるそれなどが当てはまります」

「だからそれとか……は?」

「ちょ」

 

 おいおいおい死ぬわ俺。

 いきなりの流れ弾で致命傷を負わされた。

 いやなんで……なんでやねん。

 無事瀕死になってしまったが、そこでサイタマが見逃してくれる訳もなく。

 容赦なく死体蹴りしてくる構えらしい。本気(マジ)顔で見つめてくるのが怖すぎる。

 

「セツナ……どういうことだ?」

「え、……えっとですね……」

 

 どうしてこうなった。

 なんでおんぶされてる最中に激詰めされてるんだ俺。既に生殺与奪の権を握られている。

 てかお前がどういうことだよジェノス。息を吸うように約束を反故にしてくる。もうお前とは一生口利かねえよ。嘘、サイタマが心配するし。

 何か、良い感じのことを言わねば。

 いくらサイタマとはいえ、機が熟すのを待ってましたなんてバカ正直に言ったら、色々な意味で関係に亀裂が入りかねない。

 

「わ……わたしは……今も正義感からヒーローやっている訳じゃないし……ただ、この厄介な力を何とかお金に換えられるかな……と思っていて……」

 

 真実ではあるが、エクスキューズとしては弱いか。ジェノス相手には有効だったかもしれない。

 サイタマは微妙な顔で俺を見ている。

 

「後ろめたかったのはあるし……サイタマを誘うのも違うなと思っていたし、…………」

 

 駄目だ、何を言っても嘘臭い。

 当たり前である、嘘っぱちなのだから。誤魔化しようがない。もうここはいっそ、開き直ろう。

 開き直って、サイタマを刺そう。

 

「というかサイタマが未だにヒーロー名簿を知らないなんて思わなかったから」

「え、お前……」

「思わなかったの」

 

 振り切って他責に舵を切った結果、そこそこのダメージを与えることに成功したようだ。

 取り調べをする警察官の顔から、一気にブルータスに裏切られたカエサルのような顔になったサイタマ。本当に、押しと勢いに弱い。

 

「それがサイタマのスタンスなのかと」

「ちょ……ジェノス、」

「いえ、まあ……はい。そうですね……はい」

「いやなんかフォローしろよ」

 

 ジェノスとしてもさすがに知っとるだろ……という心境だったのか、有耶無耶に終わった。

 というか、この状況でサイタマに味方して俺を責め出したりしたら本当にどつき回すぞ、というあたりである。ソニックの前に俺とお前の家庭内戦争を勃発させたろか。

 

「先ほども言いましたが、プロのヒーローが出てきたのはほんの3年ほど前の話で……」

「ふーん……」

 

 いつもの魂が抜けたような顔に戻ったサイタマは、ぼんやり空を仰いでから。

 

「……で、ジェノスは登録してんの?」

「いえ俺はいいです」

 

 隙のない否定。というか拒絶。

 常人ならばつい、そっか……などと退いてしまいそうな局面ではあるが。

 

「………………」

 

 その常識が通じないのがサイタマであり、そしてこのジェノスなのであった。

 

「セツナもしてるし、登録しようぜ! ついでに登録してくれたら弟子にしてやるから!」

「行きましょう!」

 

 ──うむ、清々しく狂人しかいない。

 しかしそのおかげで九死に一生を得たのもまた事実。変な奴らしかいなくて良かった。これが他の少年漫画だったら大体死んでた。

 とりあえず、再びぎりぎりでXdayを突破できたところで。サイタマに恐る恐る申し出る。

 

「も、……もう大丈夫、歩けるから……ここまでありがとう、サイタマ」

「ん、ああ」 

 

 軽い返事とともに、あっさり降ろしてくれた。

 いや、いつまで俺はサイタマの背中にいればいいのかと思っていたところだった。しかしこれだけ長く密着して無反応ということは、改めて『当たるモノが無い』ということでよろしいか。

 こっちも全然息苦しかったりしなかったもんな。やかましいわ。

 

 そのまますたすたとエントランスに入っていくサイタマ、なぜか立ち止まって俺を見てくるジェノス。

 何だよ裏切り者、と思うより早く、

 

「……良かったな」

「カスのマッチポンプじゃん」

 

 本日のトラブル、全部お前が引き金になってるんだが。

 

 

 

 

 ──アパート内へ戻り、何となく自室ではなくサイタマの部屋に入ってしまったが、特に家主からの咎めはなかった。それどころか、

 

「スポドリ。なんか冷蔵庫の底に残ってた」

「あ、ありがとう……」

 

 未開封のペットボトルを手渡される。

 喉が渇いているというような感覚はなかったが、とりあえずありがたく頂いておく。爽やかな甘みが体に嬉しい。

 ようやく一息ついた俺を見て、サイタマはやや真剣な顔つきで、

 

「お前、溶岩地帯とか行ったら溶けたりしそうで怖いな……」

「…………」

 

 溶岩地帯では、大抵の生物は焼けるか溶けるかしてしまうだろう。儚さの例えとしてもパンチが効きすぎており、コメントに困る。

 サイタマは当然ながら、そんな微妙な比喩に拘泥する気はないようで。俺の向かいできちんと正座するジェノスにじとっとした目を向ける。

 俺と同じように入ってきただけなのだが、こちらには引っかかりを覚えるらしい。

 

「……で、お前はまだなんか用あんの?」

「先生から強さを学ぶという、」

「あーはいはい」

 

 何の意味もなくやってきて清涼飲料水にありついている女よりはまともな理由なのだが、サイタマのハートにはさして響かないようだ。

 いや、響かれても困るが。

 

「……そういやなんか、今日変なヤツに会ったな」

 

 ジェノスを横目で見ていたサイタマが、ふと思い出したように、いきなりそんなことを言った。

 

「変なヤツ……ですか」

「うん。お前見てて思い出したわ」

 

 サイタマ氏、それはナチュラルな罵倒なのでは。

 

「何だっけ名前……ああ、音速のソニックとかいう男なんだけど。ハンマーヘッド倒した後にな」

「音速のソニック」

 

 何度聞いても芸術的な名前である。

 あの里の出身全員これなので、紅魔族とはまた違うヤバさを感じるのだが、どんな教育の賜物なのだろうか。気になるようなならないような。

 女性がおらず妙にセクシーな男ばかりというのも何となく闇の深さを感じる。

 

「……頭痛が痛いみたいな名前ですね」

 

 言いながら、それとなくこちらに視線を送ってくるジェノス。

 彼も察しているのだろう。その人物が桃源団を壊滅させた『雇われの護衛』ということに。

 

「そいつが何か?」

「よくわからん。いきなり現れたと思ったらライバル宣言して去っていった」

「先生がお困りならば俺が消しますが」

「お前も厄介だな」

 

 そこでなぜか俺に向き直り、 

 

「セツナは何か知らねーの? プロなんだろ」

 

 なるほど、そう来たか。

 

「うーん……一応、怪人以外にも賞金首の指定みたいなものはあるから、もしかしたらそこに載ってる人なのかもしれないけど。わたしは能力の都合上、そういうのはあんまり見ないからなあ」

「そうか……」

 

 これは本当。殺してはいけない案件なんて、この力には荷が重すぎる。手加減できても凍傷、低体温症などの後遺症を負わせかねないのだし。

 サイタマは案の定、感慨の薄そうな顔で相槌をうって。

 

「ま、どーでもいい話だな!」

 

 まともな話の種にもなり得なかった音速のソニック氏に、合掌。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 善は急げとばかりに、2人は最短でヒーロー試験の申し込みをしたらしく。

 そこから1週間も経たないうちに、受験日が来たというので、とりあえずその日は俺も会場までついていくことにした。

 結果がわかっているとはいえ、『試験勉強』とは無縁のスケジュールにビビらなかったと言えば嘘になる。「どういう問題がある?」みたいな質問さえ一切されなかったからな。最初からナメ方がフルスロットルだ。そんじょそこらのヤンキーとは格が違う。

 

 ──そろそろ日も落ちる、という頃。

 揃って試験会場から出てきた2人を出迎えた。2人とも、特に感慨のなさそうな顔をしている。

 

「どうだった?」

 

 尋ねると、サイタマは卒業証書並みに速攻で丸められてしまった認定書で肩を叩きつつ。

 

「合格したよ。……C級だけどな」

「そっか。おめでとう」

 

 ええっあなたがC級なんて、みたいな驚き方をするべきだっただろうか、と遅れて考える。

 しかし、合格は合格だしな。ジェノスのようなモンペ対応も何か違う気がする。

 

「お前はどのランクだったっけ?」

「わたしはB級だけど……でも、サイタマがC級ってどういうこと?」

 

 経験者としてお前はC級相当だよな、みたいな反応はアレか、と結論づけた結果。それとなく、素朴な疑問として付け加えるに留めておく。

 が、サイタマは別にこの判定自体に不満はなかったらしく、若干苦い顔で。

 

「お前もジェノスみたいなこと言うんだな……なんつーか、筆記がその……アレでな……」

「な、なるほど……?」

 

 渋かった表情が、尻切れトンボの語尾に近づくほど影を帯びていく。配慮をしたつもりが、無駄に死体を蹴ってしまっただけかもしれない。

 

「俺は今からでも関係者に直訴、」

「あー、やめい!」

 

 しかも副産物として狂信者を特殊召喚しそうになった。俺が悪かった、鎮まりたまえ。

 

「ジェ……ジェノス君は?」

 

 とりあえず話題を振って墓地に送る。

 どうせ無視されるか、サイタマへのお伺いを挟むかと思ったが、ジェノスは案外素直に、

 

「S級だ」

「え、満点だったってこと? すごいね」

「ああ」

 

 大した内容じゃなかった、普通は100点が取れるなどとは言ってこなかった。まあすぐ隣にぎりぎり合格マンがいる以上、俺を殴ってもそちらにより深くえぐり込むだけだからな。

 

「しっかし、つまんねえセミナーだったぜ。お前もよく飽きなかったな」

「まあ、うん……?」

 

 やれやれ顔で腕を組むサイタマ。

 大体の人は資格を取れた後のセミナーが退屈だからといって、ガムをくちゃくちゃやったりはしない、というようなことをどう穏便に伝えたらいいのか。

 そこへジェノスがずい、と入ってくる。

 

「サイタマ先生。……これでもう、先生も胸を張って活動できますよ。そして俺も──」 

 

 何となく、背筋に冷たいものを迸らせてくるような囁きだった。

 

「──これで正式に弟子ですね」

 

 虹彩の消えた恍惚の笑みを浮かべるジェノス、それとは対照的に顔を引きつらせるサイタマ。

 

「お、おう……」

「今後もご指導のほど、よろしくお願いします」

 

 ぺこーっと勢いよく頭を下げてくるのを引き気味に眺めるサイタマが、こちらに耳打ちしてくる。

 

「……これ、安請け合いしないほうが良かったかもしれん……」

「うーん……?」

 

 今さらっすか。

 彼の軽率っぷりは「思考回路を全て鉛筆転がしか何かに担わせているのか?」というレベルなのだが、『後悔』という感情は人並みに備わっていそうなのは正直、不思議である。

 

「ま、いいか」

 

 そのぶん諦め──というか、開き直りも異常に早いのだが。すん、と元の表情に戻ったサイタマは、気負いなくジェノスに手を振ってみせる。

 

「じゃーな、ジェノス」

「はい、先生。では、今日はこれで」

 

 いやこっちは無視かい、などと天丼のツッコミはもうしない。なぜなら俺もまた、彼にとって特別な存在ではないからです。

 

 

 

 

 ジェノスと別れて。サイタマと2人、夕暮れ時の土手を、並んで歩く。

 

「なんか」

「うん?」

「……ジェノスって実はすごいヤツだったのかもな」

「そうだね……いきなり、S級だからね」

 

 幹部は2年ぶり、と言っていたような気がするが、S級の成り立ちからして、試験でそこに振り分けられた人間はほとんどいなさそうだ。

 そもそも、C級〜B級に埋まっていた原石を発掘したものだと認識していたのだが、サイタマの処遇を見るにきちんと機能していなさそう。100点満点だけが選ばれる今の文武両道システム、おそらくアマイマスクの思想なんだろうが、S級の現状にはそぐわないのではと思う。

 まさしくサイタマのような存在を寄せ集めたチームだったはずなのに。今の試験を受けて『S』が取れる現S級が一体何人いるのやら。

 

「──なあ、」

 

 呼びかけられて、ふと我に返る。

 

「プロヒーローのことはよくわかんねーけど。……お前、これでジェノスのこと見直したりしたか?」

 

 思わず見やったサイタマの顔は、真っ直ぐ前を見据えていた。オレンジ色に照らされる横顔から視線を逸らして、俺も前を向く。

 

「……どうだろう。あんまり、考えたことなかったな」

 

 ここで大真面目に「そうだね」などと返したら単に権威主義の嫌なヤツなのだが、サイタマは別にそこを意識している訳ではなさそうだ。

 サイタマよりジェノスのほうがすごい──世間はきっとそう思う。思い続ける。

 そんなもの。そんな『当たり前』の考え、俺には何の価値もないのに。

 

「ランクや点数で、仲良くする人を決めている訳じゃないしね。わたしにとってジェノス君はジェノス君、サイタマはサイタマだもの……」

 

 その瞬間。ぬるい風が強く、吹き抜けた。

 

「あ」

 

 下ろした髪を押さえるより、キャップを押さえたほうが良かったかもしれない。

 あっという間に舞い上がり、茜色の空でくるくる踊る帽子を呆然と見上げる。

 

「帽子が……」

「あー……取りに行ってやるよ」

「ああ、いいよいいよ……ほら、あそこの植え込みに落ちたみたい」

 

 土手を下って道路を挟んだ先にある、レンガで囲われた植え込み。花が散ってしまった緑の中に、黒いスポーツキャップが引っかかっているのが見える。

 

「ごめん、ちょっと拾いに行ってくるね」

「おう」

 

 彼に背を向けて、ふと頭に浮かんだこと。

 ──サイタマとの問答でうっかり忘れそうになっていたが。

 本来ならば、スネックが新人狩りと称してサイタマを強襲しているタイミングだ。さしものスネックも俺ごとまとめてブッ潰す、などというイカれた気概は持ち合わせていなかったのか、それともイベント自体が消失してしまったか。

 サイタマには何も残るものはなかったようだが、ここで鼻っ柱が折れなかったスネックは今後どういう行動を取るのだろう。いや、どちらにせよ今後は負け続きなのだし、関係はない?

 ああ、考えるのが面倒臭い。

 

「ついてこなきゃ良かったかな……いや、冷たいヤツだと思われるか」

 

 車通りのない道路を横断して、キャップを拾い上げる。葉っぱをはたき落として──そこで、後ろから近づいてくる足音に気づいた。

 確かにこちらへ真っ直ぐ向かっているのを、振り返って確認する。

 サイタマだった。少し、驚いた。

 

「……どうしたの?」

 

 さっきの会話からして、待っている、というような雰囲気だと思ったのだが。

 あの状況で、わざわざ来るような理由があるとも思えない。しかし、俺の目の前で立ち止まったサイタマは、驚くべきことを口にした。

 

「なんか……さっき、新人狩りとかいうのに遭ったんだが」

 

 ──スネック。

 まさか、今あそこで? サイタマが一人になるのを虎視眈々と狙っていたのか、偶然か。

 どちらにせよ、さらなる驚きだった。

 

「え、大丈夫だった?」

「ああ。殴り返したら普通にどっか行ったし……」

 

 逃げたような口ぶりだが、衝撃で吹っ飛ばされただけだろう。自業自得ながら同情する。

 思いもよらない形でフラグが回収されてしまった。心配が速攻で杞憂に変わった訳だ。

 

「それより。お前こそ大丈夫だったのか?」

 

 ……どういう意味だろう。

 このタイミングで新たな疑問を提供してくれるサイタマ。意図が全く掴めない。あくまで彼は真面目に心配そうな顔をしているし。

 

「……何が?」

「新人狩りだよ、新人狩り。お前も試験に合格して、セミナーとか受けたんだろ。呼び出されたり目つけられたりしてないかって話」

 

 ああ、そういうことか。

 実際に何事もなかったので、頭の隅に追いやってしまっていた。

 

「特に、そういうのはなかったけど」

 

 サイタマとは前提条件が違いすぎるし──とは当然、言わないでおく。本気で心配してくれているらしいのは事実なのだし。

 一応、その人相を尋ねてみる。

 

「新人狩りって、どんな人? 合格者セミナーの講師の人なの?」

「そうなんだけど……えー……なんか、蛇っぽいスーツ着てたな、」

 

 それだけ見ているのならば、サイタマの人間観察としては上々のレベルだろう。

 

「蛇咬拳のスネックさんかな。A級の」

「知ってんのか」

「うん。わたしも同じ人が講師だったから」

 

 しらばっくれが板についてきた。もうこのくらいじゃ俺のステージフェイスは剥がせないぜ。

 

「でも……何もなかったよ?」

「………………」

 

 サイタマはなぜか微妙に不服顔。何かあってほしかった訳でもあるまいに、どうしてそんな顔をするんだか。よくわからない。

 

「……じゃあ……食事に誘われたりとか」

「なかったってば。若い女だからって超能力者に粉かけるような人、なかなかいないと思う」

 

 あの模擬戦闘を見てなおこちらに迫ってくるような男、逆に肝が据わっている。

 サイタマはおそらく俺をか弱い女と思っている節があり、彼からすれば何も間違っていないのだが。大抵の人間からすれば俺は『脅威』だろう、

 

「なら……新人狩りやる側か?」

「いやどうしてそういう話になるのかな?」

 

 前言撤回。別にか弱いとは思われていなかったかもしれない。じゃあ何の心配だったんだよ。

 

「やってないよ、そんなこと」

 

 サイタマの中の俺は一体どうなってるんだ。聞きたいような聞きたくないような、だ。

 

「お給料はランキングで決まるけど。順位がわたしの強さを担保してくれる訳ではないからね」

 

 ありきたりな正論で話題を濁しておく。

 それをふんふんと聞いていたサイタマは、やや首を傾げるようにして。

 

「……お前はさ。しっかりしてるよな」

「そう?」

 

 きみがちょっといきあたりばったりすぎるんじゃないのかね。

 そんなことを脳内でツッコミながら。キャップを被り直して、歩き出す。

 背後に立つサイタマは。

 

「うん……なんつーか、偉いよ」

 

 ──なぜかついてこなかった。

 数歩で足を止め、振り返った。

 ポケットに両手を入れたサイタマが、薄っすら微笑を浮かべて、俺を見つめている。

 ただ、佇んでいる。

 

「よくわかんねーくらい偉い」

 

 ふざけて言っている訳ではないようだった。優しい笑みが、夕陽に照らされている。

 レジ袋のゴミが、数メートルの距離の間を風に吹かれて転がっていく。

 数歩。また数歩、進めば詰められる距離だ。

 でも、俺は。

 

「……そう、かな」

 

 サイタマは、動く気配がない。

 俺の足も、動かなかった。

 乾くはずのない喉が、乾いていた。言葉が舌に張りついて、上手く出てこない。

 

「そんなことない……と思うけど」

 

 無価値な否定が、風に吹かれて転がっていく。

 視界が歪んで、暗くなる。

 サイタマは。俺が、何のために生きていると思っているのだろう。

 よくわかんないくらい必死こいて、頑張っているのは、何のためだと。偉い訳じゃない。偉いと思ってほしい訳でもない。そこでお前に手の届かない存在だと思われたら、何の意味も、

 

「サイタマ」

 

 彼が、眠そうな目を瞬いた。

 頬を鬱陶しく撫でていく髪の束を、手で押さえて。指先で流して、耳に掛ける。

 

「わたしはただ、サイタマがいるあのアパートに帰りたいだけなんだよ」

 

 お前を置いていくのは俺じゃない。

 お前が俺を置いていくんだ。だから。

 だから、俺は。

 

「……それだけっ」

 

 くるっと、勢いづけて背を向ける。

 それと同時に再び、

 

「──わ、」

 

 帽子がまた舞い上が、──らなかった。

 頭上で静止するスポーツキャップ。

 すぐ背後に立ったサイタマが、その鍔をしっかりキャッチしていた。

 

「今日は風が強いな」

 

 あっけらかんと言いながら、頭に戻してくれる。

 

「帰ろーぜ」

 

 メッシュ生地越しに軽くぽんぽん、と頭を叩かれる。鍔を押し上げて覗き見たサイタマの顔は、いつもどおりの気の抜けた表情だった。

 それに、何となくほっとした。

 

「あ、でも、どっかで飯食ってくか」

「……うん、」

 

 遠ざかっていく背中を、慌てて追いかける。

 ──よくわかんないくらい偉い、か。

 まあ、俺にも反省の余地はあるかもしれない。

 

 人生何事も、ほどほどが一番。




自分がぼけっとしていたのが悪いのですが、前話の誤字報告で
1.シババワ☓→シワババ○ という報告が入る
2.何も考えず修正を入れてしまう
3.当然間違っているので別の人からシワババ☓→シババワ○という新しい報告が速攻で入る
4.最初から合っていたことに気づく
というコントのような流れが起きてしまってました

“シババワ”ですね もう間違えないようにしたいです


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AV(オーディオ・ビジュアル)

 サイタマがヒーロー試験に合格した翌日。

 さっそく活動しようかと思ったが、大きな事件がなかったから──という彼に、スーパーの特売日の頭数として呼び出された。

 今回は卵で、お一人様1パックまで。

 体質的に人混みに揉まれるのは、と思ったが、平日の午前中ということでそこそこ空いていた。

 

 

 スーパーを出て、並んで歩く。

 しばらくは他愛ない話をしていたが──やがて話題が切れた。もともと、共通点の少ない関係なのだ。俺もサイタマもお喋りではないし。

 何となく無言が嫌で、目についたことをとりあえず、口に出した。

 

「サイタマ、よくそのTシャツ着てるよね」

「ん? ああ、これか」

 

 サイタマが自分の胸元を引っ張る。

 白地に黒色で印字された、シンプルなデザインだ。ローマ字で記されたその文字は、

 

「おっぱい」

 

 ちょうど大胸筋のあたりに、ご丁寧にもデフォルメされた乳房が描かれている。着ていたら普通に眉をひそめられそうなデザインだが、サイタマの神経はそんな細部まで張り巡らされていない。

 ──と思いきや、

 

「ちょっ……おま、そういうこと、」

 

 なぜか慌て出すサイタマ。

 

「えっ……サイタマが着てるのに……?」

「とにかく!」

 

 よくわからん。

 もじりで論っているならともかく、サイタマの着ているそのTシャツは紛れもなく『おっぱい』であり、恥ずかしいのは彼のほうじゃないのか。

 こちらが痴女扱いは納得いかない。

 そこまで考えて、先日ジェノス相手にやらかした失態を思い出した。親しい友人と同じノリで下ネタを異性にぶちかますのはアレか。場合によってはセクハラだし、心象も良くない。

 大事なのは清楚。オッケー。

 

「……うん。いきなりごめんね」

「お、おう……」 

 

 数秒、無言の時間が流れて。

 さしものサイタマも、このままでは空気が悪いと思ったのか。新しい話題を振ってきた。

 

「なんか……せっかくヒーローになっても暇だな」

 

 今のサイタマは暇とか言ってる場合ではなく、さっさとC級ノルマをこなしに行くべきなのだが。

 音ソニさんを確実にブタ箱へぶち込んでもらわないと困るので、ここは勝手に黙秘。

 

「平和なのは良いことだよ」

「そりゃそーだけどな……あ、そういや、お前の部屋、なんか面白いもんねーの?」

「面白いもの?」

「前の住人が置いてった漫画とか」

 

 面白いものというわりには素朴なアイテムに着地したな。

 原作を読んでいる限り、サイタマの趣味は漫画にゲーム(とヒーロー活動)であり、何となく平成中期の独身男性という感じだ。もう少し年代が後にズレていたら、動画投稿サイトとソシャゲを反復横跳びさせられていたかもしれない。

 閑話休題。

 置いていった娯楽品、か。

 前の住人……と言っても、それがどういった人物なのかを知る術がないので何とも言えないが。

 

「……というか、今わたしがいる部屋はそもそもどんな人が住んでたの?」

「えぁー……覚えてねーな」

「一応、一人暮らしの男の人って感じのインテリアだったけど」

「うん。まったく思い出せねー」

 

 にべもないサイタマ。

 まあ、他の住人に少しでも関心があれば、あんなところに住み続けたりはしないか。

 

「面白いものかぁ……」

 

 一応、内装を思い浮かべてもみたが──大きな家具が取り残されているというだけの雰囲気で、小物はほとんどない部屋なのだ、あそこは。

 

「あの部屋、テレビももうないし、本棚もほとんど空っぽなんだよね」

「ふーん。ちゃっかりしてんな」

 

 ちゃっかりしてるのはその部屋で勝手に借りぐらししている俺のほうである。普通に犯罪だ。

 テレビもゲーム機もパソコンもDVDプレーヤーもない、独房じみたインテリアの中で、サイタマのお眼鏡に適いそうな面白いもの。

 

「……あ、でも、テレビ台の中とか、まだ覗いたことなかったかも」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「DVDの収納ケースがあったよ」

「おー」

 

 一度も開けていなかった場所だったが、幸いと言うべきか、暇潰しになりそうなものがあった。

 嬉しそうな顔で受け取ったサイタマは、ジッパーを開けてケースを開き。一瞬で、不可解そうな表情になった。

 

「……何も書いてなくね?」

 

 つまみ上げたCDのレーベル面には、ただの薄いクリーム色が広がっている。ケースに収められた他のCDも、概ね同じ雰囲気のようだった。

 しかしその隅に小さく、

 

「日付? みたいなものがマジックペンで書き込んであるけど」

 

 持ち主の神経質な性格が読み取れる、きっちりしたフォントだった。ただ、他にタイトルのようなものは書かれていない。

 

「録画した番組をダビングしたものかな?」

「ま、とりあえず見てみるか」

 

 暇を持て余しているらしいサイタマは、こんなことにも妙に乗り気だ。

 中身が何かわからないのに、と今さら水を差すのも気が引けて、プレーヤーにDVDを挿入。サイタマの部屋、何も観るようなものはないわりに、そういうAV機器だけはあるらしい。

 

 当然のように新作情報や制作会社のロゴムービーはなく、スムーズに始まる本編。

 わざわざ録画内容を編集して、不要な部分はカットしているらしい。やはりまめな性格だったのだろうか。

 

「何だこれ」

「映画の地上波放送……かな」

 

 そのまま特に会話もなく、違法すれすれの映画鑑賞がスタートした。

 ストーリーは至ってシンプル。

 職場のいけ好かない上司が実はヒーローで、助けてもらったところを正体がわからないままに惚れてしまい──で、何やかんやで思いが通じ合うけどそのせいで悪い奴らにさらわれてピンチ。

 ヒーロー怒って助けに行く。

 たぶん、最終的には主人公が救出されて普通にハッピーエンドなのだろう。

 悪く言えばチープ、よく言えば王道なボーイ・レスキュー・ガールの系譜だ。

 

「あ、アマイマスクだ」

 

 ──ヒーロー役の男、どこかで見たと思っていたらイケメン仮面アマイマスクだった。

 髪型も顔もころころ変わるので、ぱっと見ただけでは個人が特定しにくい。

 しかし、リアルプロのヒーローがヒーロー役というのは何というか……世の女性の需要に応えた結果なのか。自己投影用というか。

 

「……こいつのこと、知ってんのか?」

 

 サイタマが口を挟んでくる。

 

「うん。というか……この人はプロのヒーローもやってて、A級の1位だからね」

「……へー」

 

 微妙な反応。軟禁されている訳でもないのに、A級の1位にさえ覚えのないサイタマのほうが、この世界では異常な存在だろう。

 彼は興味なさげに相槌をうった後、ぼうっと天井を仰ぎながら。

 

「A級……S級の下ってことは、ビミョーなのか」

 

 アマイマスク本人が聞いたら卒倒しそうな解釈だ。彼自身は、自分はS級4位のアトミック侍よりも強い、と豪語していたけれど。

 

「どうなんだろう。もしかしたら下位のS級よりは強いのかもね。次のクラスでトップを取るのは難しそうだから、残留して1位を保持するっていうのは結構、珍しくもないみたいだし」

 

 考えれば、名誉S級1位のブラストを除けば、大体がそんな感じ。

 まあブラストを超えない限りいくらでも上がいるので、『S級未満の1位に留まっている』という事象自体が示唆に富んでいる気もする。

 

「鶏口となるも牛後となるなかれ、ってことなのかな。イメージ戦略的には正しいのかも」

「ほー……」

「ま、そういうわたしはB級の中途半端な位置なんだけどさ」

 

 目立ちたくないので問題はないが、大きな顔で口を出せる立場ではないのは事実だ。

 感慨無さげに聞いていたサイタマは、そこで頬杖をついて。薄い唇を尖らせ、

 

「……なんか……俺のなりたかったヒーローとは違う気がすんだよな。新人狩りもそうだけど」

 

 ──まただ。

 サイタマの内心だけで消費されるはずだった感情が、言語となって俺にぶつけられている。

 良いことなのだろうか。

 その是非はともかくとしても、それらは概ね、答えの出ていない問いだ。サイタマ本人も、話を聞いてほしいだけで素晴らしい回答を求めている訳ではない、と言えるかもしれないが。

 だからといって、適当にあしらっていいというような気持ちにはなれない。

 

「あいつ……ソニックだっけ?」

「いやそれは別の人」

「何でもいいけど、A級なんだろ。そのくせにC級の俺を潰そうとするとか、よくわかんねーよな」

 

 漠然とした失望の匂いを感じる。

 とはいえ、少し大きい組織に入るのならば、清濁併せ呑む覚悟は避けて通れないだろう。

 良いか悪いかは別として、サイタマは『地位』という清い水と引き換えに、協会内部に渦巻く濁り水をも含むこととなっただけなのだ。本人にそんな意識は欠片もなさそうだが。

 ただ、そんな事実を突きつけることが最善とも思わない。最悪、協会に染まったと思われて失望されかねない。

 

「まあ……ライバルとはいえ、他のヒーローなら傷つけていいなんて、おかしいよね……」

 

 適当に薄味の正論を並べておく。

 いや、なんでメロドラマ見ながらヒーロー談義してるんだ俺ら。雰囲気どこ行った。

 

「なあ」

「うん?」

 

 まだこんな話を続ける気かと思いきや。

 画面を見つめたままのサイタマは一言、

 

「こういうヤツが好きなのか?」

 

 こういうヤツが。好き。

 

「………う〜〜〜〜ん?」

 

 かきもしない冷や汗がどっと噴き出した錯覚に襲われた。

 攻略対象とする恋バナと異性の好み談義ほど脳に負荷がかかる会話はない。良い雰囲気になりたかっただけで、こんな高度な心理戦はしとうない。デスノートじゃないんだから。

 

「か……顔、とかってこと……?」

「……まあ」

 

 何が「まあ」やねん。

 頭と胃が急速に痛くなってくる。

 ちょっと待って、いきなりピンチ。こんな時、どんな返事をすればいいのか分からないの。

 

「あ……あんまりそういうのは……ない、かな……」

 

 とりあえず、誤魔化せばいいと思うよ。

 いや良くないか、どうすればいい。

 アマイマスクが適当な男性俳優だったら「そうだねーかっこいいしねー」くらいで流す選択肢があったかもしれないが、彼の立ち位置を考えると適当な発言は慎むべきだろう。かと言って「全然好きじゃない」と断言するのは逆張りすぎる。

 百戦錬磨の女性なら、上手い受け流し方を知っていたりするのだろうか。ジェノスの件があった分、こういう話題はかなり心臓に悪い。

 

「ないっていうか……うん、……」

 

 そもそも男の顔に好みなんぞないが。

 ジェノスやアマイマスクを『美形』と認識はできても、そこに俺の趣味嗜好は関係ない。みんなが美形と言っていて、それに対して異論も興味もないだけだ。根本的に解像度が低いのだ。

 

「まあ……人気、だよね」

「ふーん。俳優でもヒーローでも大人気か。すげえな」

「わたしはそういうの、よくわからないけど……」

 

 ぐだぐだと関係のない話をしている間に、画面の中の物語は佳境に入っていた。

 崩壊する敵の基地をバックに、濃厚なキスをかますヒーローとヒロイン。うーん、こういう演出、古き良き洋画のかほり。

 ヒーローがヒロインをお姫様抱っこして、飛び立つ光景をバックにエンディングが流れ始める。

 めでたしめでたし。

 もしかすると俺が目指すべき景色なのかもしれないが、何の感慨も湧かなかった。

 

「終わったな」

「うん……」

「なんか、よくわかんねー話だったけど……お前はこういうの面白いっつーか、憧れんのか」 

 

 また変な探りかと思ったが、今回は真面目に取り合う気力もなかった。

 

「……どうだろう」

 

 強いて言うなら不快感があるのだが、俺の置かれた環境と近すぎたせいかもしれない。

 フィクションをフィクションとして楽しめるのはそれが自分と遠い位置にある時だけで、嫌な没入感を得てしまう状況では不愉快なものだ。受験が近い時期に、リアルな受験シーンがある作品は息抜きとして楽しめないようなものだろう。

 

「まあ、ほかのも見てみようよ」

 

 持ち主がラブコメマニアだったら本当に最悪だな、と思いつつ、隣のディスクを取り出す。

 元のディスクと取り替え、うぃーん、と気の抜けた音で飲み込まれていくのを眺める。さて、今度はどんな映画だろう。

 

 ──まさか、そう暢気に構えていたこと自体が間違いだったとでもいうのだろうか。

 ぱっと画面に映し出されたのは、オレンジ色の光に照らされたベッドルーム。

 そして純白のシーツの上で重なり合う、

 

「えっ」「あ、」

 

 全裸の男女、ピストン運動、母音のみのセリフ。

 これらから導き出されるものとは。

 アで始まってオで終わる、付き合ってもない異性とは到底見るべきではない映像。

 エローい、なんて思う余裕はどこにもなかった。ヤバい。何もかもが。

 予想外であった視覚の暴力に、つい硬直してしまったが。

 

「──失礼しますサイタマ先生!!」

「おわーッ!!」

「あーっ!?」

 

 そして唐突に現れるジェノス。

 動揺してプレーヤーを引っこ抜くサイタマ。

 一歩遅れて暗転した画面に覆いかぶさる俺。

 運悪く三者三様の地獄絵図が形成されてしまったが、ひとまず最悪の事態は免れたようだ。プレーヤー君が無事かはさておくこととする。

 いやまさか、えっちな動画が流れるなんて誰も思わないじゃないか。よくある映画の隣に入れてあったディスクだぞ。単なる濡れ場の雰囲気ではなかったので、明らかに“そういう”DVDだ。

 この世界にAVとかあったんだな。

 

「な、何だねジェノス君!?」

「すみません、お取り込み中でしたか」

 

 しかし彼も異様な気配だけは察知したらしく、そんな心臓に悪いことを聞いてくる。

 

「いや全然ヒマ! マジでヒマすぎて困っちゃうな〜、なっ、セツナ!」

「う、うん!」

 

 サイタマは明らかに慌てているが、この場合、ヤバいのは彼ではなく俺。

 一般的な解釈としては、ものすごく強いて言うならサイタマのせい、という見方になりそうだがジェノスは違う。

 なにせ、師に対し性欲を持て余す女と思われているのだ。色仕掛けのためにAV見せやがったなんて勘違いされた日には、アパートから武力をもって追い出されかねない。

 

「せ、セツナ」

「な……何かな、サイタマ」

「このDVD、何も映らなかったよな?」

「そ、ソウダネ……」

「うん、壊れてたんだなきっと!」

 

 言いながら、抱きしめていたプレーヤーを脇にぶん投げるサイタマ。いや機器自体が壊れる。

 ああ、恥ずかしくて顔から氷が出そう。

 ジェノスが乱入しようがこの気まずさと気恥ずかしさは変わらなかっただろう。まさか、2人っきりだったらそういう雰囲気……いや、無いよな?

 単なる事故だし。『おっぱい』で悪ノリしてくるようなこともない男だぞ。

 

「え、えっと……で、なんか用……カナ?」

「はい……今日は先生に、折り入って頼みたいことがあります」

 

 きっちり正座をして、サイタマと向き合うジェノス。何を言い出すのかと思えば、

 

「俺と、手合わせをしていただきたく」

 

 そういえば、そんなイベントもあった。

 本来ならば全く乗り気でないだろう誘いだったが、とにかく話を逸らしたいらしいサイタマは、

 

「あ、手合わせね、おう、行く行く!」

「先生もやる気を出されておられる……! 俺、精一杯頑張ります!」

 

 ……まあ、これはこれで、ジェノスの機嫌が向上したので怪我の功名……なのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 サイタマは当然、俺をアパートに置いていくつもりだったようだが。

 ジェノスの「お前もヒーローならついて来い」の謎根性論で、無事連れ出されることとなった。

 

 手合わせの舞台は、特撮ヒーローのロケ地に使われてない? と聞きたくなるような、切り立った崖に囲まれただだっ広い砂地。

 特撮モノといえば、というまでに見慣れたこういう場所、採石場らしいね。知らんけど。

 まあ、間近で2人の戦いが見られるならば……と思ったのもつかの間。

 サイタマからは「巻き込まれたら嫌だろ」、ジェノスからは「邪魔」、要するに両方とも同じ「近づくな」という理由で、遠くに追いやられてしまった。連れてきておいて。

 で、メートルどころかキロ以上離れた場所で、ゴマ粒にしか見えない2人をぼーっと観察。いくら平野が広がっているとはいえ、会話なんて聞こえる訳もない距離だ。

 

 そして、肝心の手合わせだが。

 ──端的に言って、『何となく瞬きしたら全てが終わっていた』というレベル。

 原作でも読んだシーンだが、実際のスピード感をナメていた。

 改めて、漫画やアニメのコマ割りは偉大だ。

 読者や視聴者に『魅せる』ことが目的なのだから当然だが、わかりやすく場面がカットされ、アングルが調節されている。リアル恋愛も難しいが、リアルの戦闘はもっと難しい。

 

「何が何だか……」

 

 単純なパワーが上がっても、目の分解能が低いままでは使いものにならないのだ。

 ジェノスのように生体反応をサーチするような機能がある訳でもないし、今の俺は本当に『不思議な力を持っているだけ』の存在なのだ。B級判定はある意味妥当と言えよう。

 

「こういうのって修行でどうにかなるもんなのかな」

 

 バングへの弟子入りを真面目に考えようか。

 そんなことを考えているうち、

 

「おー、セツナ」

 

 無傷のサイタマが、暢気に手を振りながらこちらへと歩いてくる。

 動揺が戦闘に影響するかと思いきや、そんなことはなかったらしい。こちらにも、つい先ほどあんな事故があったとは思えない平熱の対応をしてくる。

 俺はまだ、前触れなく思い出して能力が暴走しそうになるくらいなのに。まあ……長々と引きずられても困るな。

 

「終わったから、メシ食い行くぞ」

 

 かったるい会議が終わった、かのごとき軽薄な晴れ晴れ感。ジェノスが報われない。

 で、サイタマの背後を、やや影を背負いつつ歩いていた彼はといえば。

 

「……待ってください、先生」

「ん?」

 

 サイタマを謎に呼び止めてくる。おいおいこんなシーンあったかな、と首を捻るより早く、ジェノスの手が俺を指差して。

 

「おい」

 

 案の定で俺絡みか。

 と、まあまあ暢気に考えられていたのはそこまでだった。

 

「ついでだ。俺と手合わせしろ」

 ──えっ嫌だ……

 

 瞬間的に「嫌」の気持ちが溢れてしまったが、口に出すことはぎりぎり避けられた。

 ジェノスと手合わせ。

 実質的な公開処刑をなぜ甘受しなければならないのか。ヒーロー業に意欲なんぞないと再三言っておろうが。なぜわからぬのじゃ。

 もしかしてそれが目的でわざわざ連れてきたんだろうか。ついてこなきゃよかったな。

 

「な、なんでかな……?」

「なぜも何も……お前もヒーローの端くれならば、誤魔化しなく力を示してみせろ。まだ俺はお前の戦い方を把握していない」

 

 武人の価値観。普通についていけない。

 

「え、えっとぉ……?」

 

 助けてくれ、の意を込めてサイタマを見つめてもみたが、彼は暢気に頭の後ろで手を組んで。

 

「……ま、いんじゃね?」

「えっ」

「やるだけやってみろよ。見ててやるから」

 

 こっちにも武人が。何目線のアドバイスだ。

 本気で行きます、ってサイタマはそれで無事だったかもしれないけど、俺は死んじゃうんだよ。軽いノリで死刑台に送らないでください。

 

「……良いんですか?」

「良いも何も……俺がやめろとか口出すようなことじゃねーだろ。こいつは自分でヒーローやってる訳だし」

 

 ジェノスにもその過保護っぷりの一端は伝わっていたのか、若干驚いていたようだが。援護射撃にはならなかったようだ。

 巻き込まれたら危ないみたいなこと言ってたのは何だったんだよ。

 

「セツナの能力に興味あるんだろ? 俺もちゃんと見たことないしな」

 

 駄目だこいつ、手合わせを『スマブラのトレーニングモード』くらいにしか考えていない。

 こっちがやってるのは生死の懸かった『刹那の見斬り じぇのす:難』なんだよな。

 

「あ、」

 

 再び頭と胃がキリキリ痛み始めたところに、サイタマが声を上げる。今からでも遅くないから有耶無耶にしてくれという祈りも虚しく、

 

「でも腹減ったからなる早でな」

 

 おいこのハゲ。

 

 

 

 

 ──先ほどまで眺めていた戦場に、立つ。

 ジェノスと、向かい合う。

 やってきた時とは違い、崖は崩れ、地面は抉れる荒廃っぷりだが、俺は今からその下手人と一対一で戦わねばならないのだ。

 

「お……お手柔らかに」

 

 頼むから今日を命日にしないでくれ。

 サイタマはまさかジェノスが俺をブチ殺すなどとは思っていないだろうが、ジェノスはそこに悪意があろうがなかろうが、『事故でした』で全てを済ませかねない人間性をお持ちなのだ。

 やはり真の敵は内にあり、か。

 俺が警戒すべきはヒーロー協会や怪人協会などではなく、こいつなのかもしれない。

 ジェノスは何か構えを取っているようだが、俺も真似するべきだろうか。サイタマと同じ棒立ちだが、彼のような素晴らしい肉体は無い、

 

「──行くぞ、」

 

 ジェノスの呼びかけが、風に乗って耳に届いた──と思った、次の瞬間。

 

「──────、」

 

 目を、開けて。

 何が起こったか、わからなかった。

 ただ、砂煙が晴れる頃、視界に映ったのは。

 地面から生えた氷柱に飲み込まれるジェノスの姿。そして、目と鼻の先にある鉄の拳。

 動く気配はない。確かに、拘束されていた。

 ジェノスは俺に殴りかかる寸前──“俺”の能力で氷漬けにされた、とでもいうのか。

 そんなことをした覚えは全くない。大体、あの一瞬では何か考える時間さえありはしなかった。

 でも、これは。

 

「っぐ……」

 

 オートガード。

 ゲーム脳なワードが頭をよぎる。

 怪人の本能だろうか。俺が視認するより早く攻撃を察知し、ぎりぎりで防御した、と。

 普段は抑えられている能力が、命の危機で一瞬だけ解放された?

 殺してしまったかと焦ったが、鉄人ゴー君の件といい、生身以外には効きが悪いらしく。ジェノスは不愉快そうな顔で俺を睨んでいるだけだ。

 便利かと思いきや、おそらくソニックやサイタマ、遠距離攻撃してくるタイプのヒーローには通用しないだろう。奥の手のひとつくらいに思っておいたほうがいいかもしれない。

 

 そこで、静観していたらしいサイタマがとことこと気負いなく近寄ってくる。

 

「おいジェノス、大丈夫か? セツナも……もう良いだろ、出してやれよ」

「あ、うん……」

 

 出してやれと言われても、自分の意思で生み出したものではないので少し難しい。

 内部には入り込んでいないだろうが、表面に少しずつひびを入れていく。最終的に、焦れたらしいジェノスが内側から粉砕して終わった。

 すたっ、と華麗に着地してみせるのに、ひとまず安堵したが。

 ──何というか、その口や腕から、もくもくと黒い煙が上がっているように見える。ダイオキシンとか出てそう。

 

「……ジェノス君? 大丈夫?」

「オーバークール……過冷却状態だ」

 

 生命活動に支障はないようで、冷静に返された。

 

「動力温度が適正以下になり……内蔵燃焼機能が著しく低下。この黒煙は不完全燃焼の結果です」

 

 しばらくすれば止まります。

 そう言うジェノスに対してサイタマは、実に興味なさげな調子で。

 

「ふーん……負けたのか?」

「いえ」

「すごい食い気味に否定するね」

 

 強い意志を感じる。

 サイタマに負けるのは良くても俺に負けるのは嫌なのか。それって要するに、ジェノスの中で俺と音速のソニックは同じ枠ってこと?

 まあ、拍子抜けする終わり方だったが。とりあえずこれで危機を脱したのは間違いな、

 

「ただ……ヤツの出力を見くびっていました。今回はともかく、次はもっと上手くやります」

「ひえ……」

 

 取り留めたばかりの一命に再び負荷がかかる。

 二度とその機会がないことを祈るほかない。次こそ殺されそうだ。

 実際、ジェノスが接近戦に持ち込まなければ、普通に負けていた可能性のほうが高い。

 それなりに学びのあった(かもしれない)手合わせだったが、それは彼も同じだったようで。

 

「サイタマ先生と初めて出会った時も俺は油断により自爆寸前まで追い込まれていました、今の俺に必要なのは学習、そして相手の能力を」

「いやもう何でもいいけど、うどん食いに行こーぜ。お前もこれで気が済んだろ」

 

 20文字以内に纏めろ、という学習が速攻で生かされていないやり取りでしたね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「セツナはもうヒーローネーム決まってんの?」

 

 ──近隣のうどん屋にて。

 注文後、箸袋を折るなどして暇を潰していたようだったサイタマが、そんなことを言い出した。

 実に手合わせ以来のまともな会話のタネだ。

 俺、ジェノス、サイタマの三竦みだと、どういう訳だか異常に会話が進まないんだよな。関係性が悪すぎるのが一番の問題かもしれない。

 

「まだかな。何も言われていないし」

「ふーん……じゃあ、」

 

 作りかけのバッタを放棄し。こちらに向け、びしっと指を差して。

 

「………………」

 

 眉を上げた得意気な表情のまま、なぜか無言で硬直してしまうサイタマ。半開きの口がいかにもフリーズ感を醸し出している。

 沈黙に耐えかねて、どうしたの、と聞く直前でいつものふにゃっとした顔に戻り、

 

「お前特徴なくて難しいな」

 

 そういうことらしい。

 ハゲ×マントとイケメン×サイボーグの組み合わせと比べればまあ、見劣りはするだろう。

 

「雪……冬……うーん」

「“歩く製氷機”はどうでしょう」

「ワードの組み立て方が嫌なあだ名をつける時のそれなんだけど……」

 

 芸術性を求めている訳ではないが、サイタマとジェノスに案を出させるよりは、協会のコンプラ意識ゼロ幹部に委ねたほうがマシそう。

 適当に話題の修正を図る。

 

「何になるんだろうね。まあきっとしょうもないもじりだよ。協会の幹部はセンスが無いから」

「……お前がそこまで言うんだからよっぽどなんだろうな……」

 

 サイタマがまだ他人事顔をしているのが切ない。

 これがあと数か月もしないうちにヒーロー協会の名付けのせいで闇堕ちするのかと思うと、いたたまれなかった。協会は宇宙最強の男をクソダサネームに狂わされたモンスターにしてしまったことをもっと重く見ろ。人類の損失だぞ。

 

「お前はどうなんだよ」

「え?」

 

 再びバッタを折りながら、サイタマが話しかけてくる。直後に完成させて、当然のように隣のジェノスの箸袋まで折り始めた。

 退屈に強いと思いきや、細かいところで落ち着きがないタイプか。

 

「例えば……ハゲマントじゃない俺のヒーローネームとか。思いつかねーの?」

「ハゲマント……」

 

 実際に人の口から聞くと、なおさらパンチを感じるネーミングだ。

 

「いや見たまんまならそうなっちゃうだろ!?」

「語感だけは良いね」

 

 5文字なので川柳にもぴったり。

 ──ハゲマント ああハゲマント ハゲマント

 いや、そんなことはどうでもいいのだが。

 

「……うーん……」

 

 ヒーローネーム、か。

 ハゲマントの語呂が良すぎて、まともな代替案が捻り出せない。さっそく脳内語彙がミーム汚染されつつある。

 つるぴかマントマンとか……いや駄目だ、なんか混ざってる気がする。翔んでサイタマ……これ別作品だし。

 少し真面目に考えて、最終的に残ったのは。

 

「──ワンパンマン、とか」

 

 未だに回収されていないタイトル。

 色々な意味でドキドキしながら発言したが、それを聞いたサイタマの反応は。

 

「なんじゃそりゃ」

 

 何だかしっくり来ていないような顔。

 

「なんか……皮肉っぽくてアレだな」

「そ……そう?」

「まあハゲマントよりは全然いいけど」

 

 いやどんだけハゲマント嫌なんだ。

 “ワンパンマン”についての好悪以前に「ハゲマントじゃなければもう何でもいい」という強い要望しか読み取れない。スリザリンかよ。

 

「わかめうどんのお客様ぁ」

「お、来た来た」

 

 煮詰まりそうな話題を転換するまでもなく、サイタマの意識は運ばれてきたわかめうどんに移ったようだった。湯気くゆるどんぶりをぼうっと眺める。

 全く今日は忙しい一日だった。大きなイベントに突入しなくても、心労のタネはあちこちに埋まっているものなんだな、と実感させられた。

 しかし、ヒーローネームか。

 サイタマとジェノスはともかく、俺の名前がどうなるのかは全くの未知。

 そろそろ決まってもおかしくない時期なんじゃないかと思うが……一体、どうなることやら。





ヒーローネーム、そろそろ決まってもおかしくない時期なんじゃないかと思うが…(作者)

どうも、赤谷ドルフィンです。


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幕間 木枯らし一号

 一人でランニングをしていると、様々なことが頭をよぎっては、消えていく。

 ヒーローのこと、袂を分かった仲間のこと、これまでのこと、これからのこと。

 

 

「……ふう、」

 

 走り続けてどれだけ経ったのか。息が上がり、黒縁眼鏡のレンズが吐息で曇る。

 トレードマークが台無しになったまま走り続けるのも何となく気が引けて、緩やかにペースを落とし、やがて路側帯で足を止めた。

 ジャージのポケットから出したクロスで、丁寧にレンズを磨いていく。

 ──1日10キロ、と目標を決めて走り始めて1週間。ランニング自体はヒーローになる以前から行っていたが、それよりも量を増やした。

 まだ体が追いついている感じがしないが、続けていけば、ということだろう。

 そこに期待するしかない。

 

「伸びしろ、か……」

 

 スキンヘッドが眩しかった、彼のことを思う。

 不安がない、と言えば嘘になる。

 自分にはできないかもしれない。

 明日の自分は、今日の自分を超えられないかもしれない。

 

「いや、」

 

 考えるのはやめよう。

 今できるのはただ、努力を重ねることだけだ。

 そう決意を新たにしたその時、

 

「……えっ」

 

 一瞬、目を疑うような光景が飛び込んできた。

 道を挟んだ向かい側にある児童公園。輪郭に沿って植わった桜の樹──その、特に枝ぶりのいい一本の上に、人影があった。

 ただ木登りを楽しんでいるという風ではない。枝に跨って、必死に手を伸ばしている。

 どうやら、枝先に犬だか猫だかがいるのを捕まえようとしているらしい。根本で不安げにそれを見上げている少年は、飼い主だろうか。

 慌ててそちらへ足を向ける。

 

「も、もうちょっと……」

 

 近づいてみてわかったが、上にいるのは細身の女性のようだ。

 しかし太い枝という訳でもないので、ちょっと身動ぎするたびに、みしみしと不安な音を立てて揺れている。あともう少し、と前進したのがよくなかったのか。

 とうとう、樹皮の裂ける鈍い音がし始めたのが、こちらの耳にも届いてきた。

 

「枝、枝が折れそうだ!」

 

 とにかく手を大きく振って、それだけを叫ぶ。女性もこちらに気づいたようだったが、 

 

「え? ──おわッ」

 

 勢いよく振り向いたのが致命傷になったか。

 瞬間。ばきっ、と耳を塞ぎたくなる音を立てて、その枝が幹からへし折れた。

 女性は驚きながらも、ぎりぎりで目当ての動物を両手で捕まえ──それを、こちらに向かって放り投げてきた。しかし不安定な姿勢での投擲だったので、距離が足りない。

 

「うがぁ!」

 

 最後の意地で、決死のスライディング。

 小さな毛の塊は、地面に激突する前に差し出した両手の中に収まった。

 ボタンのような目をした、白い子犬。

 それを認識するより早く、

 

「わっ」

 

 目の前に、巨大な『氷の華』が咲いた。

 そうとしか形容のできない情景だった。

 子犬とは違い、誰にも受け止められることなく墜落した彼女を中心に広がる、透明な花びら。けれどその先端は鋭利に尖っており、触れるもの全てを傷つけかねない美しさだった。

 それで、彼女はどうなった。

 背筋が冷たくなりかけたところに。

 

「いてて……ナイスキャッチ、です」

 

 そんな暢気な声が聞こえた。

 ぱりぱりと氷柱を踏み壊しながら起き上がってくる人影。氷の中から平然と、彼女が姿を現す。

 頭を振るってスポーツキャップを被り直し、マウンテンジャケットの裾を叩いて、ふう、と一息。見るからに無傷であった。

 

「だ、大丈夫ですか」

「ええ、わたしは全然……あ、」

 

 わん。腕の中にいた子犬が一声鳴くなり飛び出して、すったか少年のほうへ駆けていく。少年は目を潤ませてそれを抱きとめた。

 わん太、大丈夫だったか。わんわん。

 そんな平和な会話が繰り広げられるのをぼうっと眺めていたところに、

 

「すみません、メガネが……」

 

 女性が、控えめに声をかけてくる。

 振り返った先、彼女は手のひらに乗せた黒縁眼鏡の霜を払っており。どうやら、スライディングの衝撃で外れて、しかもあの氷塊に飲み込まれてしまっていたらしい。

 

「はい」

 

 きちんと折り畳まれたそれを、手渡してくる。

 受け取って、かけ直す。確かに、うっかり冷凍庫へ入れてしまったかのように冷たかった。

 

「B級のメガネさん……ですよね?」

 

 かけ心地を確かめていたところに。

 そんな、予想外の呼びかけが降ってきた。

 

「あ……はい」

 

 とっさに気の抜けた対応をしてしまったが、彼女はその話題には、特に興味がないようだった。

 静かに、背後へ視線を向け。へし折れ、先端が地面にめり込んだ桜の枝を無感動に見つめたまま、

 

「木が折れちゃった」

 

 ぽつりと、そう呟いた。

 

「あ、あの!」

 

 その微妙な雰囲気の中に割り込んでくる、子犬を抱いた少年。今の彼にとっては、おそらく飼い犬が無事に戻ってきたことが全てなのだろう。

 

「ありがとうございました!」

 

 ぺこっと勢いよく頭を下げる少年に、彼女は若干面食らったようだったが。

 

「……無事で良かったです。気をつけて」

 

 そう優しく告げて、場を収めた。

 少年はもう一度、こちらにも深く頭を下げて、それから小走りで公園を出ていった。

 ぽつんと取り残される、男と女。

 少年の後ろ姿を黙って見送る彼女の横顔に、声をかける。

 

「セツナさん、ですか」

 

 白い肌、白い髪に、アイスブルーの瞳。

 得物や服飾を除いても、それなりに目を引くその容姿には、こちらも見覚えがあった。

 B級ヒーロー、セツナ。自分以上に新人で、まだヒーローネームもついていなかったはずだ。

 

「ええ、まあ……ご存知でしたか」

 

 品良くはにかんでみせるセツナ。こめかみから垂れ下がる髪の一房を、耳にかけ直す。

 

「ご迷惑かけたお詫びにコーヒーでも……奢らせてください」

 

 缶コーヒーになっちゃいますけど。

 おどけて言うセツナに、ぎこちなく微笑み返すことしかできなかった。

 

 ──下心や、疚しい気持ちがあって、彼女について覚えていた訳ではない。

 生まれ持った超能力で怪人を倒す、珍しいタイプのヒーロー。

 戦慄のタツマキ、地獄のフブキ、そして。

 その出自を、才能を、羨んでやまなかった。それだけで、彼女の名前を記憶していたのだ。

 そのほろ苦さを今、コーヒーの味以上に鮮明に、思い出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 B級ヒーローともなると、飛び抜けて我の強いタイプが多くなってくる。

 能力のない人間は生き残れないし、能力があっても踏ん張れない人間もまた、生き残れない。弱い人間は当然に軽んじられるし、年齢や性別だけで陰口を叩くような輩だって平気でいる。

 ヒーロー協会の体質には問題がある。

 下手をすれば、一般の企業以上に。

 それが今までの見解であったし──それを踏まえて、『目立った活躍もない、若くおとなしい女性』であるセツナが後ろ盾なくB級で生き残っているのは、少し不思議ではあった。

 今も彼女はマイペースに、購入したゼリー入り炭酸飲料に苦戦している。アルミ缶を振っては傾け、振っては傾けしているが、なかなかゼリーがクラッシュしないらしい。

 ベンチに腰掛け、浮いた爪先がそのもどかしさを表すようにゆらゆら揺れている。

 

 ──のんきだ、と思う。

 これならば、形式上『上司』として仕えていた14歳の少女のほうが、よほどしっかりしていたと言えるかもしれない。

 超能力者として恵まれているからか、それとも本人の気質によるものか。

 

「──フブキ組を抜けられたとか、」

 

 ジュースを飲もうと頑張るのに飽きたのか、セツナが唐突に話題を振ってきた。

 

「……え、」

 

 驚きのあまり、とうに中身を飲み干したコーヒーの空き缶を取り落としそうになった。

 まさか、知っていたとは。

 何と言っても、ほんの1週間しか経っていないのだ。見かけによらず顔が広いというか、お喋り好きなのか。

 

「……よく、ご存知で」

「広いようで狭い世界ですからね。意識せずとも耳に入ってくることはあります」

 

 淡々と、ぼやかした言い方だった。

 物腰柔らかなだけで、別にこちらに心を開いている訳ではないのだ。そう思った。

 ……セツナは、フブキについてどう思っているのだろう。

 

「……セツナさんは、フブキ組には入らないんですか」

 

 気づいたら、そんなことを尋ねていた。

 フブキとセツナ。変な意味ではなく、お似合いの2人だと思った。自信に満ち溢れたフブキと、控えめで穏やかなセツナ。黒と、白。

 

「わたしですか?」

 

 しかし、当のセツナはきょとんと、思いもよらないことを聞かれたような顔をして。

 

「うーん……わたしの能力だと、ご迷惑がかかるかもと思って」

 

 そんな、のんびりとした解答。

 別に、特別なこととも思っていない風な。

 フブキ組の末端に縋りついていた自分では、最後まで至れなかったであろう境地だった。

 

 ──特別な生まれ。

 それに対する憧れを断ち切れたかといえば、これもまた嘘になった。

 努力では超えられない明確な“壁”。フブキはその能力を生まれ持った特別なものと言って憚らなかったし、事実、客観的にそうであった。

 セツナはどう思っているのだろう。

 自身を、恵まれた存在だと思うのか。

 ヒーローの中でも選ばれし者だと。

 

「……いいですね、超能力……」

 

 つい、そう口に出して。

 

「そうですか」

 

 ──セツナの返しは、思っていた以上に冷淡だった。

 今までとは違い、突き放すような、尖った雰囲気の漂う一言。え、と思わず顔を上げ、彼女の表情を窺おうとしたその瞬間。

 背後で激しい爆発音。

 ややくぐもって聞こえる距離感だった。

 とっさに顔を向けたその方角から、もくもくと黒煙が上がっているのが見える。

 

「今の、」

「……近いですね。怪人でしょうか」

 

 言いながら、立ち上がるセツナ。数秒黙って立ち昇る煙を眺め、それから歩き出す。明らかにそちらへと向かう雰囲気だった。

 

「い、行くんですか?」

「まあ……そうしようかと」

 

 この期に及んでのんきな言い草。

 慌ててポケットから端末を取り出し、災害情報をチェックする。この近辺ではまだ、それらしき情報は出ていない。

 

「まだ警報も出てないのに、」

「警報?」

「だから、虎とか、狼とか……」

 

 ああ。セツナが興味なさげに喉を鳴らす。

 

「現場で見ればわかることですよ」

 

 やんわりと、窘めるような口調だった。

 相変わらずマイペースで──けれど、つけ入る隙のない反駁だった。

 

「他のヒーローの応援は、」

「市街地みたいですし、勝手に集まってくるんじゃないでしょうか」

 

 どうしてここまで突っかかるのか。

 放っておけばいいじゃないか。

 自分でも不思議なくらいだった。

 余計な心配か、それとも自己防衛の言い訳か。そのどちらとも判別がつかぬまま、けれど、口をつぐんで見送る気にはなれなかったのだ。

 ──しかし、

 

「でも、」

 

 そこで、妙な雰囲気に気づいて。

 おそるおそる顔を上げて、息が止まる。

 ──セツナが、全くの無表情でこちらを見下ろしていた。

 まるで、踏みにじられた蟻の死骸を眺めるかのような、温かみのない眼差し。

 ぞっと怖気が走ったのもつかの間、

 

「──大丈夫ですよ、」

 

 にこっ、と。

 先ほどの冷ややかさが嘘のように、可憐な微笑みを浮かべてみせる。

 

「メガネさんなら、お一人でもきっと素敵なヒーローとしてやっていけます」

 

 穏やかに弾む声音。凍てつく邪気など欠片も読み取れない、無垢なエールだった。

 

「わたし、応援していますから」

 

 何でも相談してくださいね。

 最後にそう自然な社交辞令を残して、セツナは躊躇なくこちらに背を向けた。そのまま振り返ることなく、公園を出ていく。

 小走りで去っていくその背中を、最後まで見送ることができなかった。

 

 ──全く、関係のない話題で茶を濁された。そして、逃げられた。

 けれど、そこに憤慨したり呆れたりする余裕はもはやなかった。

 

「──っ、はぁあ、……」

 

 どっと嫌な汗が噴き出すのを感じながら、ベンチの背もたれに体を預ける。

 死ぬかと思った。

 ……いや、殺されると思った?

 そんなまさか。いやでも。

 

「……なんか……怖い感じの人だったな……」

 

 冷ややかなアイスブルーと目が合ったあの瞬間の重圧、言葉では説明ができない。

 形容しがたい凄みとでもいうべきか。

 タツマキのそれと似ているようでいて、それよりも漠然と恐ろしいもののような気がした。

 たまたま恵まれただけの、ごく普通の女性。性格は穏やかで、すこぶるのんき。

 そんな勝手な脳内イメージが、がらがらと音を立てて崩れ去っていく。

 ヒーロー然、というよりは、何かもっと違うもののように見えたが──

 

「……俺も、頑張らないとな」

 

 ヒーローという憧れに現を抜かして死ぬなんて、無様な真似はするな。

 限界は何をもって誰が決める。

 大丈夫ですよ。

 他人と自分を比べてどうする。誰が楽で誰が楽じゃないなんて、どうやって決めるんだ。

 戦うべきは明日の、自分だ。

 

「はあ……」

 

 うなだれた手の中で、コーヒーの空き缶が中途半端に凹んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暴動でも起きたのか、と聞きたくなるほど荒れ果てた交差点の一角にて。

 

「あ」

 

 彼女は、彼を見つけた。

 

「なんだ、サイタマだったの……」

 

 確かに現場は、既に後処理の段階に入っていたが。鎮めたのはこの広義の隣人だった訳だ。

 見慣れたヒーロースーツを身に纏った男──サイタマは、その呼びかけに顔を上げる。彼女を認めて、退屈そうな表情に僅かながら色が乗った。

 

「セツナじゃん。どうした?」

「いや……爆発音が聞こえたからね。様子を見に来たんだけど……」

 

 ちょうどその脇を、ドップラー効果で音を引きずりながら走り抜けていく救急車。セツナはそれを見るともなしに目で追ってから、

 

「終わったみたいだね」

 

 それだけを口に出した。

 この程度の荒れ具合はもはや日常茶飯事と化しており、被害者ですら淡々と事後処理に取り掛かっている。彼と彼女の感性も例に漏れず、この程度ではもはや微動だにしなかった。

 

「大丈夫?」

「おう」

 

 とりあえず、という調子で振られた安否確認を、同じ程度の熱量で打ち返したサイタマは、ぽつぽつと事の流れを説明し始める。

 

「前も言ったナントカのパニック……だっけ? そいつがいきなり暴れ出してさ」

 

 手刀でコンクリートに沈んだ彼は、特に何事もなく不審者として連行されていったが。高ランクの賞金首として騒ぎになるのはこれからの話だ。

 しかしどちらにせよ、2人にはもはや関係のない話であった。

 

「ま、バッチリ倒したし、問題ねーよ。これでC級ノルマも達成だな」

 

 ぶい、とエナメルグローブに包まれた手でピースサインを作ってみせる。

 

「ノルマ?」

「ああ……C級はなんか数が多いとかで、週1でヒーロー活動しねーとクビなんだってよ」

「え、そうだったの」

 

 彼の弟子たる若きサイボーグはS級、そしてセツナはB級のため、そんなルールは知る由もなく。サイタマがこうして首の皮一枚繋がったことは、ほとんど奇跡に近い事象であった。

 セツナは献身的な弟子と同じく、表立ってサイタマの怠慢を揶揄することはなく。神妙に眉を下げてみせる。

 

「大変だね……」

「面倒くせーけど、ランク上げれば済む話っぽいし。なんとかなるだろ、まあ」

 

 語尾が大あくびに飲み込まれ。その勢いに任せて、力いっぱい伸びをするサイタマ。

 

「とりあえず……帰ろーぜ」

「……そうだね」

 

 一仕事終えた、とばかりのサイタマに、苦笑交じりに同意を示して、セツナが隣に並ぶ。

 2つの影が、顔の形に凹んでひび割れたアスファルトに長く伸びていく。いつの間にか、もうすぐ日が暮れそうだった。

 セツナはその傾いた陽をぼんやり眺めて、小さくため息。

 

「……なんか、色々と大変な1日だったなー」

「おー、お前もか」

 

 今日もまた、何も知らない彼と彼女の1日が、穏やかに終わっていく。




何となく書きたかっただけの話です。
サイタマ周りの重要な話だけピックアップして書いていくと、超スピードでストーリーが終わってしまうので、本編に関係ない話も(書きたいので)書いていこうと思ってます。そんなに長い寄り道はしないつもりですが。
番外編抜きで書くと本当に速攻で完結しそうな予感がします。

それと、主人公の支援絵を頂きました(HIyOgIさんより)。ありがとうございます。
絵が描けない人間として本当にすげー!となったので、挿絵や主人公のイメージにこだわりのない方はぜひ見ていただきたいです。

【挿絵表示】


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ヒーローですから

 何日か経って。トラブルの原因となったあのDVDケースを回収しに、ようやくサイタマ宅を訪れた時のことだった。

 

「あ」

 

 冷たい緑茶を出されたのでありがたく頂いて、テレビ番組を肴に、だらだらと飲み交わしていたものの。

 やがてピッチャーの中身が切れたので足しに行こうとしたら、茶のパックそのものがないことに気づいた。勝手知ったるサイタマの部屋、他の場所に予備があるとは考えにくい。

 空の外装パッケージを捨てながら、リビングにいるであろうサイタマに呼びかける。

 

「サイタマ、お茶パックが切れてるよ」

 

 しかし、返事がない。

 

「サイタマ?」

 

 聞こえなかったんだろうか、とカウンターから身を乗り出して。

 当のサイタマが、既に床へ横たわってしまっていることに気づいた。声をかけて無反応ということは、うつらうつらというレベルではないようだ。先ほどまで起きて普通に話していたのに、いつの間に。

 

「……寝てるのか」

 

 この状況で眠くなって、そして寝ようと思うことがすごい。

 とりあえず空のピッチャーは洗って、水切りかごに立てかけておく。手を拭いて、何となく忍び足でリビングに戻った。

 

「おーい……」

 

 当然、反応はなし。

 近くにあった漫画本を枕に、仰向けに寝そべっている。白いTシャツの胸元が規則正しく上下しており、すっかり寝入っているようだ。

 雑な動作でその枕元に座り込んでも、ぴくりともしない。

 

「暢気なこって」

 

 信用されているのか、サイタマが単に無防備すぎるのか。

 どちらにしても気分のいい話ではないな、と思った。

 

「……帰ろうかな……」

 

 幸い、目的のブツは既にあるのだし。

 テーブルの上へ無造作に放置されていたケースを手に取る。ジッパーを開けて、その中身が揃っていることを確認する。

 

「……う、」

 

 ……つい、思い出してしまった。

 新鮮な恥ずかしさが蘇ってくる。

 しかし、サイタマがああいう反応を見せたのは意外だった。

 いや、ぽけっとしているだけで普通の成人男性なのだし、そこまで無知な訳はないか。何となく、サイタマの解像度が上がった気がした。

 と、いうことは。

 

 ──俺が迫ったら、流されてくれるのか。

 

 たびたび浮かんでいた選択肢が、急に現実性を帯びてくる。既成事実。そんな犯罪じみたワードが頭をよぎった。

 何でもかんでもまあいっか、で済ませる押しと勢いに激弱な男なのだ。

 ちらっと、未だ平和な寝息を立てるサイタマの顔を見やって。

 

「……いや寝込みを襲うのは普通に犯罪だろ……」

 

 それこそ性犯罪者じゃないか。

 あの潔癖ジェノスにバレたら、師匠の御身を穢した大罪人として焼却されかねない。

 

「大体、」

 

 男とセックスなんてできるのか?

 体感としては、路上で全裸になれと命じられている感覚に近い。めちゃめちゃ恥ずかしいしめちゃめちゃ気分が悪いが、不可能ではない。

 命が懸かったら、やれる踏ん切りがつくかもしれない。そういうレベルの話だ。

 いや。

 ……重く考えすぎなのだろうか。

 この体は女で、男とヤるなんて普通のことで、サイタマとそうして何かが失われる訳でもない。強いて考えるなら、膜くらいなものだ。

 手順を踏めば誰に責められるようなことでもないのだ。全裸を強要されるのとは、そこが違う。

 まあ、好きでもない男、というのが肝心か。大多数の女性は女性だからといってハニートラップや枕営業に耐性があるか、といえばそんなこたあないだろう。ようやらんわ。

 

「考え方の問題、か……」

 

 怪しいオンラインサロンに出てきそうな響きだが、それなりに納得はした。

 サイタマは未だ、すやすやと寝入っている。と思ったら、右手が動いて少し驚いたが、乱れた裾から出た腹を掻いただけだった。

 

「………………」

 

 膝を使って、距離を詰める。

 改めて思うことだが、彼からはおよそ体臭というものが感じ取れない。ジェノスは当然そう(たまにオイルや煙の臭いはする)だが、サイタマも同じなので、部屋から生活感が奪われている。

 毛がないせいか、と彼が聞いたら怒り出しそうなことを思いつつ、上体を屈めた。

 起きる気配はない。

 眉もまつ毛も細いが、無い訳じゃないんだな。この距離まで近づいてもムダ毛一本ない綺麗な肌なのは、女子ならば羨ましいのではないか。

 薄い唇が半開きになって、浅い呼吸を繰り返している。

 それを数秒、見つめて、

 

「……だから、犯罪なんだって」

 

 冷静になれ、俺。

 恋愛漫画のワンシーンなら画になるだけだが、リアルでやったら『恐怖!睡姦女』だ。

 

「拒否られたら詰むし」

 

 セックスが目的と思われたら困るのだ。

 それに対してサイタマが嫌悪感を抱こうが、罪悪感を抱こうが、良い方向には行かないだろう。

 とにかく、今考えることじゃない。

 姿勢を正して、距離を取って、

 

「──先生、ただいま戻りました!」

「うばぁ」

 

 背後から飛び込んでくる狂犬サイボーグの吠え声。相変わらずタイミング良いのか悪いのか。

 驚きのあまり、バンジョーとカズーイの大冒険に出てくる雑魚敵のような声を上げて仰け反ってしまったが。ジェノスはすたすたと室内に入ってきて、サイタマと、その傍らの俺を見て。

 

「………………」

「……え、えっと、ジェノス君……?」

 

 何だよその目は。やめろ。未遂だぞ。

 

「サイタマなら、寝てるけど……?」

 

 ジェノスは、それには特に反応しなかった。背負っていた荷物を床に置き、持っていた新聞紙をテーブルの上に投げ。

 

「ここに住むことになった」

「あ、そうだったの……」

 

 予想はしていたが、結局は俺を介すことなく間借りに漕ぎ着けたらしい。まあ、これはこれである意味朗報だ、と思った矢先、

 

「余計なことはするなよ」

 

 余計なこと──って、何すか。

 意味深な忠告だった。

 思わずジェノスのほうを見たが、彼はこちらを見ることもなく荷解きを始めている。

 何なんだ。イケメンサイボーグと半同棲生活、ならともかく(俺は別にしたくないが)、イケメンサイボーグと嫁姑関係、は誰に需要があるのか。

 

「──んが、」

 

 背後で、鼻にかかった呻き声。

 

「あー……寝てた」

 

 どうやら、サイタマが目を覚ましたらしい。さすがに会話が耳についたのか。

 振り返った先、頭を抱えて起き上がるサイタマ。豪快なあくびとともに、寝ぼけ眼を擦りながらこちらに向けて。

 

「ジェノスか……」

 

 それから俺に流し目をくれて、盛大に伸びをしてみせる。

 

「……おはよう」

「ん……お前が起こすと思ったんだけどな」

「いや、まあね……」

 

 疚しい気持ちが皆無だったとは言い切れず、きちんと目を見て答えられなかった。

 遊びに来ておいて、寝ていたのを起こさないなんておかしいだろうか。ジェノスはともかく、サイタマがその疑問に気づいたらまずい。

 今は長居しても良いことはないか。

 

「じゃあ、わたし……帰るね」

 

 ケースを抱えて、逃げるようにサイタマの部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自室に帰り、ケースを棚に戻しても、そのままそこにいる気にはなれず。

 何となく、街へ出た。こうしてぶらついているだけでも『見回り』として仕事の一貫になるのだから、自由な職業ではある。

 

「はあ、」

 

 街角で足を止めて、眉間を揉む。

 ──ジェノスの扱いが、想像以上に悩ましい。

 再婚相手がデカい継子を連れてきた時のストレスって、こんな感じだろうか。

 どう接してやればいいのか──いや、別に無理して仲良くなる必要はないんだが。

 しかし、ジェノスが住み着くならいよいよサイタマの家に行きづらくなるな。

 これからどうするか。石塀にもたれて、ぼうっと通りを眺めているうち。

 

「ん……」

 

 “違和感”に気づいた。

 この景色、何かがおかしい。

 

「……何だ?」

 

 同じ車──スモークガラスで目隠しされた黒塗りのセダンが、延々と道に連なっている。

 ひとつの方角から来ているようだ。赤信号で足止めされた先頭の車両から、ずっと視線を這わせていって。──その先には、見慣れた巨大な建築物があるのに気づいた。

 ヒーロー協会、Z市支部。

 この広々とした大通りは、その支部の出入り口から真っ直ぐ伸びていることを思い出した。

 同じ車。内側が見えない。

 支部から同じ場所に向かっている。 いや、逃げている? 何のために。

 そこまで考えて浮かんだのは、

 

「隕石……」

 

 プロヒーロー試験合格。C級ノルマ達成の後に来るイベントといえば。

 巨大隕石が近づいてきて、ここZ市に墜ちる、と判明する。それが今日なのだ。

 さて。どうしよう。

 どうするべきか。

 はっきり言って、これは放っておいても何ら問題のない災害だ。

 隕石はサイタマが破壊する。俺はそれを、遠くから黙って見ていればいいだけ、

 

 ──少しはプロヒーローらしい解答をしろ。

 

 どうしてだか。いつかのジェノスの呟きが、ふっと脳裏を掠めていった。

 ヒーローらしさ。

 正義とは。

 

「そんなもの、俺にはないんだよ……」

 

 プロヒーローたちも、正義という概念も、俺を救ってくれる訳ではない。

 俺が語る資格さえない。

 ジェノスは俺に何を求めているんだろう。何も求めてはいないのか。

 けれど、お前はヒーロー失格だ、と言われたことはなかった。

 眉間を押さえる。

 

「………………」

 

 ヒーロー。ヒーローか。

 サイタマは“強い”というただ一点でヒーローだ。

 俺は彼のようになることはできないが。

 せめて“それらしくあること”がお前の望み、俺に唯一求めることならば。

 手を離して、顔を上げた。

 

「……行くか、」

 

 ダッシュでな。

 

 

 

 

 ──あんなに近く見えていた支部は、あの交差点からは思ったよりも距離があった。

 だいぶ走って、ようやく広大な玄関アプローチの下まで辿り着いたところで。

 ぽつんと一人で、そこを下りてくる人影に気づいた。やや曲がった腰と、後ろへ流した白髪。

 

「……シルバーファングさん!」

 

 階段下から声を張り上げる。

 ジェノスには間に合わなかったか。まあ、サイタマ然りビルで八艘飛びができる人種とスピード比べなんか、最初からできようがない。

 シルバーファングことバングもそのタイプであるようで、先ほどまでののんびりした歩みから、目にも留まらぬ速さで下までやってきた。ヒーローネームで特定されたあたりで急用だと思われたのだろうか。

 俺の前へ音もなく着地したバングは、年季と場数の刻まれた顔を俺に向け、

 

「儂に何か御用かな?」

「あ、あの……」

 

 彼と出会えたのはラッキーだったが、特に明確な算段があった訳でもない。

 どう切り出すか迷って、

 

「男の子、見ませんでしたか? 金髪の、サイボーグなんですけど……」

 

 駄目だ、呼吸が整わない。

 全力で走りすぎた。髪もボサボサだし。

 手癖で何とか整えている間に、

 

「金髪の……ははあ、」

 

 バングは口髭をいじりながら、なぜかしたり顔。それから、

 

「お嬢さん……きみは彼の『コレ』かね?」

 

 にやっと不敵に笑って、小指を立ててみせる。何の話だと普通に首を捻りかけて、小指──

 

「──げっほ、」

 

 理解した瞬間、何もないのに勢いよく噎せた。

 『コレ』ってつまり。おぞましい勘違いとその衝撃に、視界が暗くなったり明るくなったり。

 いやてかジェスチャー古っ、今の20代にはもう通じないだろ!

 この状況でそんなことを口にする時点から、嫌な意味で時代を感じているが。

 

「なるほど、彼はきみを守るためになあ」

「ち、違います……違いますから、」

「照れんでも大丈夫だぜ」

 

 話が通じていない。

 大切な人と〜 → 無視して現場に直行、の事前の流れが勘違いに一役買っているのだろうか。ジェノス君が今回のことで守りたいのは俺じゃなく、家で漫画読んでる同性のハゲです。

 しかしそんなことを馬鹿真面目に伝えたところで、ふざけていると思われて終わりか。

 どうしよう。どう説明したらいい。

 

「わ、わたし……」

 

 ぐるぐると、様々なワードが頭を巡って。

 

「わたし、……好きな人がいるので!」

 

 ──最終的に、その手札を切った。

 別に100%嘘ではないし、バング相手にはそれなりに効果的だったようで。目を瞠ったかと思えば、

 

「……おお。そりゃ、気分の悪い勘違いを。すまんかった」

「い、いえ……」

 

 驚くほど簡単に話が収まった。とりあえず、妙な誤解は解けたようだ。

 気まずそうな顔のバングは、ごほんとわざとらしい咳払いをひとつ。

 

「それで……どうしたいんだね?」

 

 ジェノスに用があるのは確かなのだろう。

 未だ輝きを失わない鋼の瞳が、真っ直ぐこちらを見つめてくる。武道家であり、ヒーローの目だった。

 何が、したいのか。

 

「──彼のもとに行くなら、一緒に連れていってください」

 

 バングは、今度こそ驚かなかった。落ち着いた仕草で、腰に回した腕を組み直す。

 

「危険じゃぞ」

「問題ありません」

 

 お前はそうすべき存在なのだ、と。

 彼なら言うかもしれないから。

 

「ヒーローですから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「しかし、同業者だったとは」

 

 俺を背負いながら超スピードでビルを八艘飛びしている最中、バングがそんなことを口にした。

 運んでもらっておいて何だが、一般ピープルは暢気にお喋りできるような環境ではない。

 

「重ね重ね申し訳ない」

「いえ……わたしなんか、シルバーファングさんの足元にも及ばないようなランクでひゅ、」

 

 危ね、舌噛みそうになった。

 このスピードだと口内炎ができるに留まらず、舌ごと持っていかれそうで怖い。

 

「……すみません、冷たいですよね」

「気にせんでいい。無礼の詫びとでも思ってくれ」

 

 干支が1周/十二支が5周くらい違うおじいちゃんに超速でおぶられている、という意味不明な状況だが、謎の安心感があった。

 身長はしっかり背筋を正しても俺とほぼ変わらないのに。畳の匂いがするからか。

 

「む、」

「ぐべ」

 

 そこで、なぜかおもむろに急停止するバング。

 トランスフォームジェノスちょっと見たかったな、とか完全に油断していたところだったので、慣性で舌以前に頭が持っていかれそうになった。

 痛む首を叱咤して、バングと同じく空を仰ぐ。その瞬間、上空で炸裂する、

 

「わっ」

 

 おそらく、ミサイル。

 五感を破壊しかねない轟音、そして閃光。青空を覆い隠す膨大な黒煙。

 

「あれは……メタルナイトか!」

 

 バングが叫んだその瞬間、その煙の膜を破って現れる──隕石。原作通りの内容ではあるが、改めて目の当たりにすると、純粋に驚きがあった。

 

「あの威力でも破壊できないなんて」

「さすがは災害レベル竜、と言ったところじゃな……おっと、ジェノス君も近くにいるらしい」

 

 どんな視力だ、俺には何も見えないが。

 

「……しかし、あの坊やとは知り合いなんじゃろ?」

「えっと……直接の関係ではないといいますか」

 

 知り合いの弟子、という関係なので、のちのサイタマとチャランコの間柄に近いものがある。

 要するに他人なのだが、サイタマのこともあるし、俺たちは物理的に距離が近いから。

 

「……仲間として、友人として……わたしなりに、大切に思っているつもりではあります」

「そうか」

 

 それからは、特に会話もなく。ジェノスのもとへ急ぐバングの背で揺られるだけだった。

 

 

 

 

 そして、ジェノスが佇むビルの屋上にて。

 隕石は既に、目視で落下してきているのが確認できる程度に近づいていた。ここが落下地点のようだし、最も近く見えて当たり前なのだが。

 微妙な姿勢で立ち竦むジェノスは、何か必死に考え込んでいるようだった。

 それこそ、俺たちがここに降り立って、近づいていっても気づかないほどに。

 

「まあ落ち着け、」

 

 バングの一声で、いつもよりメカニックなその肩が小さく跳ねる。

 

「心に乱れが見える。……お主は失敗を考えるのにはまだ、若すぎるのう……」

 

 土壇場こそ、適当がベスト。

 そう語るバングに視線をやったジェノスは、ついで、その隣の俺を見て。少し、驚いたような顔をした。

 

「お前……」

「だ、大丈夫だよ、ジェノス君ならできる」

 

 ここまで来て何ができる訳でもないので、とりあえず応援しておく。

 今の俺のパワーでは、あの隕石をぶち壊すのは確実に無理。それなら、その後に来るであろう破片の処理に力を回したい。

 

「いや……何をしようとしているのかはよくわからないけど……」

「………………」

 

 やべ、余計な一言だったかな。

 ジェノスの無言にそう思ったが、彼はただ、ふっと短く息を吐き出して。

 

「……お前らしいな」

 

 そう言ったかと思えば、着ていたノースリーブパーカーを勢いよくむしり出した。

 豪快な脱衣ショーのち、御開帳した胸部から取り出したコアを腕のソケットにねじ込む。男のコってこういうのが好きなんでしょ、だ。

 

「──2人とも、伏せていろ!」

「ほ」「ぅわっ」

 

 天空に向けて、一閃。

 幾筋もの光と熱の矢が、隕石を穿たんと屋上から伸びていく。その規模は、メタルナイトのミサイルの比ではない。うるさいなんて言葉じゃ済まない轟音が辺りに鳴り響く。

 しかし、“決着”は残酷にも、その数秒で決まってしまったらしい。

 

「駄目だ、破壊できるようなものじゃない!」

 

 暖簾に腕押し、を自覚してしまったジェノスが悲痛に声を張り上げる。

 

「いや、だが気のせいか、隕石が勢いを落としているように見える!!」

「本当か!?」

「あいや、気のせいじゃった!!」

「クソジジィめ!!」

「言ってる場合かな!?」

 

 いつもとは別ベクトルで頭が痛い。

 隕石破壊RTAというか、もはや鼓膜破壊RTAだ。バングはよくこの状況で耳から血を出さずにいられるな、鼓膜が強化硝子か何かでできてるのか?

 

 ──やがて、ジェノスの全身全霊を注いだであろう特大の焼却砲は音もなく収束し。

 彼が、膝をつく。

 残り8秒。

 

「……逃げるんだ、バングさん…………セツナ、」

 

 その瞬間。よく磨かれたブーツでコンクリートに降り立つ、軽やかな足音がした。

 振り返った先、白いマントが爆風の名残をはらんではためいている。その持ち主は、

 

「セツナ。ジェノス、任せたぞ」

「……サイタマ」

 

 思わずその名を呟いた俺とは対照的に、

 

「だ──誰じゃね、きみは!?」

 

 彼──サイタマは、それに対してただ、にっ、と不敵な微笑みを浮かべて。

 

「俺は、ヒーローをやっている者だ」

 

 避難してな。

 そう言った次の瞬間、大きく上体を屈めたように見えた。──見えた、だけだった。

 既にその姿は屋上にはなく、ただ、彼が巻き起こした砂埃が舞うのみ。

 

「先生ッ!?」

 

 ジェノスにつられて空を仰いだが、やはり何も見えない、聞こえない。

 と、思ったその時。

 もはや暴力としか思えない爆音が、天から降り注いできた。メタルナイトのミサイルより、ジェノスの焼却砲より、もっともっと大きい衝撃。

 隕石が、割れたのだ。本能でそう感じた。

 

「砕きおった、信じられん!」

「でも、落ちてきます!」

 

 ようやく立ちん坊以外の仕事が回ってきた。

 想定外の喧しさに邪魔されたが、まあ問題はないだろう。

 額に指先を当てる。何度もイメージトレーニングしたように、能力の“網”を薄く、広く、上空へ広げていく。

 いちいち視認して破壊するのでは遅すぎる。俺の動体視力より、反射のほうが優秀なのだ。

 少し前から考えていた、防衛本能の転用みたいなもの。発生自体はそれに任せて、俺はその範囲を調節すればいい。

 これに掛かった破片はみな凍って、砕ける。はず。練習ではわりと成功していたが、実戦ではどうか。

 

「超能力か!」

「このビルの周辺が限界ですが、っ……」

 

 無事、それなりの形になっているようだが。

 案の定、消耗が馬鹿にならない。

 能力自体はおそらくいくらでも使えるのだが、それを発動させる俺の体が追いつかないのだ。

 弾が無尽蔵に湧き出る銃があったとしても、永遠に撃ち続けることはできない。銃身自体が駄目になってしまうから。それと似た話である。

 これでも、最初期に比べたらキャパシティが増えてきているような気はするのだけど。

 

「はあ、」

 

 第一波は何とか凌いだが、頭の奥がきりきり痛み始めた。

 

「とにかく……退散するか。ジェノス君はまだ動けんじゃろう。儂が運んでいこう」

「くっ……」

「セツナ君は大丈夫か?」

「え、ええ……」

 

 ……原作とは異なりビルは崩壊しなかったが、やはりそういう話になるのか。

 ジェノスを小脇に抱えて飛び立つバングの背中を慌てて追いかけた。ちょ、これ俺はどうやって着地すれば?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──で、何とか3人で地上に避難して。

 オーバーヒートで動けない、というジェノスの体を、とりあえず能力で冷ましてみる。

 アツアツの隕石を壊すのと比べれば、朝飯前なんて慣用句さえ大袈裟に感じる作業だ。

 

「便利な力じゃの」

「使い勝手はそれなりに良いんですが、いかんせんわたし自身のキャパが少ないので……」

 

 これで制限なく自由に使えていたら、S級末席くらいには食い込んでいたかもしれない。……同じ超能力者としてタツマキが許さないか。アマイマスクのことも怖いし。

 

「……大丈夫?」

「うむ、だいぶ冷えたな」

 

 座り込んだままのジェノスの肩口をぺたぺた触るバングは、そんな感想。

 とりあえず、人間が触って火傷しない程度には下がったのだろうか。相手がバングなのであまり参考にはならないかも。

 当のジェノス曰く、

 

「体内温度は活動可能域まで下がったが……どちらにせよエネルギーが尽きている……復旧までには時間がかかるかもしれない」

「そっか、」

 

 まあ、勝手にパシって申し訳ないがここには彼もいるし。サイタマなり、クセーノ博士なりが来るまでここに放置しても大丈夫だろう。

 

「シルバーファングさん。すみませんが少しの間、ジェノス君をよろしくお願いします」

「おお、」

 

 気さくに片手を挙げて応じてくれる。間違いなく良い人である。

 

「わたしはちょっと、見回りを。消火活動が必要になってくるかもしれないので」

「そうか……気をつけてな」

 

 そろそろまずそうなので、どれだけ役に立てるかはわからないけれど。とりあえず、無理はしないようにやれるだけのことはやってみよう。

 住人の避難を誘導するだけでも意味はあるのだし──と、背を向けたその時。

 

「おい」

 

 なぜか、ジェノスに呼び止められた。

 今度は何の嫌味だ、と呆れ半分で肩越しに振り返る。……異色の瞳が、思いがけず真摯にこちらを見据えていた。

 

「……火は、大丈夫なのか」

 

 火。はっとした。──サイタマが言ったことを覚えていたのか。

 まさか、ジェノスが。

 確かに、既にあちこちで火事が起きていて。そういう意味でも気分の良くない光景だが。

 今さら何を、とは思わなかった。

 そう言ってもらえただけで、今はじゅうぶんな気もした。

 

「……心配してくれてありがとう。でも、それがわたしの仕事だもの」

 

 プロのヒーローとして。

 それくらいしかできない。

 

 何となく、ジェノスの顔が見られなくて。

 向き直って、振り返らずに燃え盛る街へと足を踏み出した。

 

 ──俺、ヒーローらしくできてるんだろうか。

 

 答えてくれる人は、誰もいない。




ジェノスは俺が“守護”る……!!


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名は体を表す

 3日、経った。

 

「……まだちょっと頭が重い感じがするけど」

 

 隕石破壊の事後処理を済ませた後、今の今まで自室でだらだら過ごしていた。

 案の定、ツノは肥大化したし、前回は意識していなかったが不調に見舞われたりもした。倦怠感と目眩。眠気を伴う訳ではないが、寝て時間を潰したほうが体が楽だった。

 それで、しばらく何もせず休んでいたのだが。

 件のツノも今朝にはほとんど元の大きさに戻ったので、何となく部屋の外に出たところ。

 

「セツナ」

 

 ほぼ同タイミングで部屋から出てきたジェノスに、呼び止められた。 

 

「……ジェノス君」

 

 こう言っては何だが、なんとなく、雰囲気が柔らかくなったような気がする。具体的に言うと俺への風当たりというか、掛ける声の調子が。

 隕石破壊の一件から評価を改めるポイントでも見つけたのだろうか。

 

「ごめん……もしかして、探してた?」

 

 待ち構えていたかのような顔の出し方だったな、と思った。

 ジェノスはそこについては特に触れることはなく、しかし用があったのは事実のようで、

 

「隕石破壊についての報道は見たか?」

 

 そんなことを聞いてきた。

 いやしかし、何でこの子いつも直立の仁王立ちなんだろうな。威圧感がすごい。

 今回の件で何か今後に繋がるようなことがあっただろうかと考えつつ、とりあえず、

 

「いや……うち、テレビ無いから……」

「………………」

 

 即座に使えねーなコイツ、みたいな顔をされた。

 雰囲気が柔らかく、と言ったが俺の愚かな勘違いだったのかもしれない。

 

「えっと、それが何か……」

 

 めげずに話題を続けようと試みたところで、なぜか手渡されるA4のペラ紙数枚。ご丁寧に左端をホッチキスで綴じてある。

 

「何これ」

「読め」

「ネットニュース?」

 

 読め、じゃあないんだよ、と思いつつ、ざっと目を通す。ネットのスクリーンショットを印刷したもののようで、そのサイト名に馴染みはなかったが、何となくジャンルの想像はついた。

 ──新聞や週刊誌の電子版、といった風情ではない。もっと俗なもののように思えた。

 Z市における隕石襲来をプロヒーローが食い止めた、という内容であり、

 

「どれもサイタマが悪く書かれてる」

 

 それ以外の共通点を挙げるとすれば、そういうことだった。

 S級の金魚の糞。イカサマ。売名行為。

 どんな理論の組み立て方だよと思うものばかりだったが、ネットニュースの民度なんてわりとこんなものか。感情を煽ってアクセス数が稼げればそれでいい、と思っているのだろう。

 

「今回の件で、先生がZ市半壊の原因である、と考えているらしい人間が一部ながら存在する」

 

 なるほど。漠然と合点する。

 本来ならばジェノスの胸の内に留まっていただけの話だったのが、俺がいたことで共同戦線を張ろうという気になったのか。

 とはいえ、強い憤りを覚えた訳ではなかった。

 無論、サイタマが悪者だという意見には賛同しない。けれどそれは『事実ではない』からだ。

 そこに俺の感情が入る余地はない。

 サイタマの自業自得だとか、ネットの誹謗中傷なんか大したことないとか、そういうことを思っている訳でもない──と、思う。

 所詮は筋書き通りに進んでいるだけ。

 そういう傍観の意識が一番強いから、かもしれない。上手く、説明できない。

 

「……タツマキでもないのに、あんなたくさん降ってくる隕石の破片なんか防げなーい、ってね」

 

 入りはとりあえず、サイタマに味方する方向で茶化しておく。ジェノスの反感を買ってもいいことはない。

 

「まあ、一般人にヒーローの事情を汲め、ってこちらから押しつけて黙らせるのは健全な関係じゃないと思うし……良い関係を築いていけたらいいんだけど」

 

 次に、市民の意見にも寄り添ってみる。我ながら芸術的な『どっちもどっち』ムーヴだ。俺はこういう振る舞いするヤツが一番嫌いなんだよ。

 しかし彼は、それについては何も言わなかった。

 ただ静かに目を伏せて、一言。

 

「俺はいつまでもサイタマ先生の味方だ」

 

 ──ジェノスは。

 他人の評価など気にしない猪突猛進の男に見えて、こういうところは妙に客観的で、冷静だ。

 “ヒーロー”という称号は最終的には名乗るものではなく、他者に与えられて存在するものだということを理解している。

 味方。味方、か。

 

「……、うん」

 

 そして俺は、サイタマの“味方”ではない。

 改めて、それを噛み締める。

 サイタマはともかく、ジェノスは俺を許さないかもしれない。いつか、敵対する日が来たら。

 

「………………」

 

 あまり、考えたくないことだと思った。少なくとも今は。

 それとなく話題の転換を図る。

 

「……サイタマは?」

「つい先ほど、見回りに行かれた」

「そっか」

 

 評判もといヒーローランクを上げるための見回り先でタンクトップ兄弟にあんな絡み方をされてしまうのだから、彼も不憫ではある。

 

「せっかくだから、わたしも行こうかな。もう、じゅうぶん休んだし」

 

 やんわり紙の束を突っ返して、微笑んでおく。無言でそれを受け取ったジェノスの脇を通り抜けようとしたその時、

 

「……時が解決する問題だ。お前も余計なことは言うなよ」

 

 ──また“余計なこと”か。

 しかし、そんなうんざりはおくびにも出さないようにして。ただ、笑い返しておいた。

 

「わかっているよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「荒れてんなぁ……」

 

 何とか動いていた自販機からゲットした缶コーヒーを片手に、文字通り半壊した街をぶらつく。

 Z市という街そのものに思い入れがある訳ではなかったが、見知った建物が崩れていたりするのを見るのはさすがに心が痛んだ。

 死人は出なかったようだが、命あっての物種、が通じるのは災害が起きて夜が明けるまでくらいなものだ。生き残ったということは、これからも生き続けなければならないということなのだから。

 

「主要道路の整備くらいは済んだみたいだが」

 

 車が走れるくらいには回復しているが、路肩の瓦礫はまだまだそのままだ。救命活動が必要ないとはいえ、復興にはいつまでかかることやら。

 さて。

 ジェノスには見回りに行く、と言って出てきたが、それが真の目的という訳ではない。

 俺の記憶とノートの記述が正しければ、今日はサイタマが街中で他のヒーローに難癖つけられる日だ。まあ、そこで何か口を挟んで彼の評価を守ってあげたい、とかそういう欲求がある訳でもなく。

 シンプルに、物見遊山である。

 ジェノスに知られたら普通に絞め殺されそうだな、と他人事のように思った。

 

「……サイタマはどこ、」

「──ァアニキィィイイイッ!! 例のヤツがいたぞぉぉおおおッ!!」

「いやうるさ」

 

 思わず耳を塞ぐ。

 探すまでもなく彼らの居場所がわかってしまった。声がデカすぎる。鼓膜にまたダメージが。

 今の声は確か、タンクトップタイガー。C級ノルマの時にサイタマに絡んできた、タンクトップ一派(タンクトップ一派って何?)のヒーローだ。

 

「あっちか、」

 

 方向までバッチリだったのだけが救いか。

 斜め後ろから聞こえてきた声に向かって踵を返した。

 

 

 

 

 ──住宅街から少し外れた大通り。

 そこに、疎らな人だかりができていた。

 その中心には言わずもがな見慣れたスキンヘッド。晴れの日の視認性が半端じゃない。

 

「こんな大惨事を起こしてぇ、まだヒーローを続ける気かッ!!」

 

 で、少し離れて耳障りな金切り声を張り続けているタンクトップブラックホール。

 そして、彼と同じ目をしてサイタマを睨みつける住人たち。わかりやすく四面楚歌である。

 それを見た俺はといえば、おーやってるやってる、みたいな感情になってしまった。炎上騒ぎを祭りだなんだと言ったりもするが、それを部外者として眺める心情としてはまさにそんな感じなのである。

 まあ、別に楽しみを覚えている訳ではない。単なる誹謗中傷なのには間違いないし。

 

「お前の軽はずみな行動の裏ではぁ、こんなにも被害者が出ているんだぞ!!」

 

 ネットニュースに負けず劣らずむちゃくちゃな理屈だ、とぼんやり思う。

 まあ、こういうのは被害者感情に訴えかけつつ、ノリと勢いで押し切れれば何でも、

 

「──なるほど、こっちが本命じゃったか」

「ごぶっ、」

 

 今回こそ、普通に含んでいたコーヒーを噴き出した。

 背後から、聞き覚えのある声。

 だばだばと顎を汚すコーヒーをお行儀悪く袖で拭いながら、振り返る。

 声の主には既に見当がついていたが、実際にその姿を目にすると驚きのほうが大きかった。腰の曲がった、柔和な立ち姿。太陽の光に煌めくロマンスグレー。

 

「ぶえ、ば、バングさ、」

 

 S級3位、シルバーファングこと、バングが俺を優しく見上げていた。

 いやちょっと、大丈夫? 今の俺いたいけな乙女がしちゃいけない顔になってないか?

 

「“ミス・フロスト”」

 

 しかし、にこやかな態度を崩さないバングは、そんな耳慣れない単語を口にした。何でしょうと聞き返す余裕もなかったが、その種明かしはすぐに訪れる。

 

「ヒーローネーム命名おめでとうさん」

 

 ヒーローネーム。

 ヒーローネームって。

 ──そういえばそんなもんあったな。

 その程度の感慨だったが、まさかヒーロー協会のメールではなくバングからそれを知ることになるなんて。響き以上にそちらに意識が向く。

 慌ててポケットに入れたきりだった端末を開いて、昨日ぶりに通知欄を確認すると。確かに今朝方、それらしきメールが送られてきていた。

 

「ぜ、……全然把握してませんでした……」

「ホホッ」

 

 S級から言われてヒーローネームを知るなんて、B級風情としては前代未聞ではなかろうか。もしかしてジェノスやサイタマは既に把握していたり?

 

「ミス・フロスト……」

 

 どういう意味──と言っても、文字通りか。強いて言うなら、“霜男”と訳されて寒さの具現化とされるジャック・フロストのもじりだろうか。

 安直な横文字なのが若干意外だったが、そういえば超能力者っぽいヒーローは大体そうなのだった。グリーン然り、ブルーファイア然り。タツマキフブキが例外なだけだろう。

 シンプルすぎて、好きとか嫌いとかの私情が挟まるスペースのない単語の並びだ。

 

「協会のセンスはよくわからんの」

 

 いやバングにも言われてるよ。

 確かにシルバーファング、サイタマも認める通り良い名前ではあるけれど、ここから彼の技を読み取るのは難しい。言われて武道家だ、とぴんと来る人間がどれだけいるのだろう。

 

「ぁ、あの……本命、がどう、とか……」

「うん? サイタマ君じゃろ?」

 

 事も無げに断定してくれる。その謎の自信は一体どこから。嫌な汗の錯覚が再び。

 

「ヒーローやめろォーっ!!」

「違うのか?」

「いやちがッ…………くはないんですけどぉ、」

「消・え・ろ!! 消・え・ろ!!」

 

 すごい、当の本人がすぐ近くで誹謗中傷されている状況で交わされる恋バナ。異次元すぎる。

 さっそく市民総出の消えろコールが最高潮だが、サイタマは実にどうでも良さそう。誇張抜きで何も考えていなさそうな顔だった。

 

 ──しかし、バングは何か思いつめたような様子で、群衆に囲まれるサイタマに目をやり。

 

「これが現実」

 

 そう、重々しく呟いた。

 現実。ヒーロー業とは決して、華やかな舞台ではない。万事が思った通りに上手く行く訳ではないし。世間はその当たり前を許してはくれない。

 

「おそらくきみも知っている通り、サイタマ君は強い。非常に、強い。こんな業界で腐っていく姿は……見たくないと思ってしまう」

 

 武道家とプロヒーローの二足のわらじを履いてきた、バングらしい含蓄のある言葉だった。

 

「辞めるのもひとつの道じゃ」

 

 当然のことを言っている、のだろう。

 そしてそれは優しさだ。バングは、心の底からサイタマの身を案じている。

 けれど、“俺”は。

 

「──辞めませんよ、」

 

 地面を踏みしめ。真っ直ぐ立って、前だけを見据えるサイタマの、その横顔を見つめる。

 

「あの人は誰にも──何にも負けません」

 

 それが、サイタマという男。

 “ワンパンマン”というヒーロー。

 信じている訳ではない。これは期待だなんて甘えた感情ではない。

 

「知ってますから」

 

 そこで数秒、沈黙が流れて。

 

「……愛じゃのう」

「え、」

 

 今、なんて?

 思わずバングを振り返ったが、彼はただ、したり顔で顎をさすりながら、

 

「うむ、若さとは正しくそういうことよな。儂も何だか元気を貰ったわい」

 

 ……よくわからないが、何か染み入るものがあったらしい。

 愛、とは。しかし、ここでその意味をいちいち聞くのも野暮な気がした。悪く思われるよりはいいか、と気を取り直す。

 

「それじゃあな、“フロスト”」

 

 片手を挙げて、のんびりと去っていくバング。

 フロスト。ミス・フロスト。

 俺の、ヒーローとしての名前。何となく、変な感じがしたが。悪い気分ではなかった。

 

「……はい。シルバーファングさん」

 

 遠ざかっていく背中に、頭を下げる。

 おじいちゃんというには立派すぎるし、威厳がありすぎるが、彼と話していると、やっぱりほっとする部分はある。周囲には同年代か年下かばかりな訳で、頼れる年上というのは貴重だ。

 ……まあ、今後はサイタマに片想い(?)しているという点でからかわれるのかと思うと、ちょっと気が重いけれど。

 

「……ま、いいか」

 

 俺の周りには、何だかんだいい人が多い。

 バング然り、フブキ然り、ジェノス然り。俺はそういう人たちに支えられてここまで来たのだ、と改めて思った。

 バングを見送ってから、群衆に向き直る。

 その中心にいるサイタマはちょうど、掴みかかってきたタンクトップブラックホールを一発で泣かせたところだった。

 

「隕石をぶっ壊したのは俺だ!! 文句がありゃ言ってみろ!!」

 

 彼の魂の叫びがびりびりと、空気を揺らす。

 

「てめぇらの被害なんて知るかバカどもッ!! 恨みたきゃ勝手に恨め、このハゲ!!」

 

 気持ちの良い、しかしとんでもない暴言だ。ジェノスが聞いたら何て言うだろうか、と無意味な思考を巡らせつつ、未だ吠え散らかし続けるサイタマへと近づいていく。

 

「サイタマ」

 

 ミス・フロストだ、と群衆の誰かが呟いた──ような気がした。

 今朝方発表されたばかりのヒーローネームなのに、もう知れ渡っているのか。それとも、俺が知らないだけで、隕石の件で俺の名前が報道されたりしたのだろうか。

 

「お前、び、……B級の、」

「セツナ?」

 

 息も絶え絶えなブラックホールの呟きを遮って、サイタマが俺の名を呼ぶ。掴んでいた手を放り出して、とことこ近づいてきた。

 

「お前、こんなところで何してるんだよ」

 

 やはり、先ほどまで自分が公開処刑されかかっていたことなど歯牙にもかけぬ口ぶりだった。

 

「何、って……」

 

 そこで、ブラックホールと目が合った。半べそのままの彼は俺を見て、びくっと身を竦ませる。

 

「初めまして、タンクトップブラックホールさん」

 

 きちんと笑顔で挨拶したのに、彼からの返事はなかった。すぐに逸らされた目を追うことはせず、困ったような顔で頬を掻くサイタマに向き直る。

 

「サイタマも、瓦礫撤去しに来たの?」

「え、」

 

 お説教も、義憤も、俺の仕事じゃない。

 そういうのは昔から合わないのだ。そんな立場でもないし、肌の内側がむず痒くなる。

 

「わたし、こういう片付けのバイトは昔よくやってたから、慣れてるんだ。一緒にやろうよ」

「お、……おう」

「わたしも何日かお休みしてたから、あんまり偉そうなことは言えないんだけどね。どうかな」

「まあ……うん、……やってやるよ」

「ありがとう」

 

 まだ何となく納得が行かない様子のサイタマの手を取って、路肩に引っ張っていく。

 罵声の大合唱には参加せず、遠巻きに騒ぎを眺めていたらしい人だかり。彼らの脇には、中途半端な作業の名残がそのまま残されている。

 

「こんにちは。お手伝いしていいですか?」

 

 にこやかに話しかけると、何かのボランティア団体らしい彼らは硬直した顔を互いに見合わせて。

 

「え、……ええ……」

「ありがとう、ございます……」

 

 ぎこちなくだが頷いて、頭を下げてきた。

 

「はい、お願いします。ほら、サイタマも」

「おー」

 

 サイタマとともにその隣に並んで、崩れた壁の破片をトラックの荷台に積む作業に移る。

 

 しばらく黙々と作業していたところで、サイタマがそういえば、と間の抜けた声を上げた。

 

「お前も。順位上がったんだってな」

 

 ヒーローランキングの話だろうか。そういえば、サイタマとジェノスは上がっていたのだっけ。

 

「……そうだったの?」

「おう。ジェノスが言ってた」

 

 ずっこけそうになった。

 なんでそれを俺に言わずサイタマに言う。当然把握していると思われているだけか?

 それに、明らかに大したことはしていないのだが、まあ一応活躍したのは事実か、

 

「ヒーローネームも決まったんだろ?」

 

 いやだから以下略。

 俺の情報をなんでお前がサイタマに伝えてんだよジェノス。マジでどういう優しさなんだ。

 

「フロスト……ミス・フロストかー、超能力者っぽいななんか」

 

 サイタマにからかう意図はないようだが、連呼されるとシンプルに恥ずかしい。これから色んな人にこれで呼ばれるのか、と思うと、今から何だか落ち着かないような気もした。

 けれど、彼は至って気負いなく、

 

「ま、良い名前じゃん。頑張れよ」

 

 そう、俺に言った。

 セツナとして。プロヒーローとして。

 ──ヒーローネーム。

 あまり意識していなかったイベントだが、それなりにモチベーションというか、心境の変化のようなものを与えてくれた。

 ヒーローらしく。

 ジェノスに言われたことを何度目か、頭に浮かべる。今回こそ卑屈にはならなかった。

 そうあることは実際できないかもしれないし、俺自身ヒーローに期待している訳ではない。

 けれど。それでも。

 

「……うん。頑張るよ」

 

 とりあえず。

 今だけは前向きな気持ちで、足元に転がる瓦礫のひとつを拾い上げた。




一番来てた候補は多分「オニゴーリ」でした
漢字というか和風なのもいいなと思ったんですが、女性らしい響きにすると怪人っぽさが出ちゃうかな、と個人的に思った結果です


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猫かぶり同盟

 深海族来訪を、(おそらく)間近に控えて。

 俺こと“恋する乙女”の思考を占有していたのは、それとは全く関係ないとある『発明』だった。

 

 

 それは。

 ──非モテで男の俺が四苦八苦してサイタマとの関係を進めなくても、周囲が囃し立ててくれれば良い感じに纏まるんじゃね。

 と、いうこと。

 

 バングの件も、最初は恥ずかしいなー、なんて思ったりしていたが、よく考えたら超ラク。

 色仕掛けだの告白だのに頭を悩ませるまでもなく、誰かがサイタマに刷り込んでくれれば。もしくは、その気にさせてくれればいいのだ。

 だから、つまり。『発明』の内容としては。

 何たって面倒くさがりと考え無しが魔融合してできた男だから、近しい何人かが「そうらしい」ということにしてくれれば、なあなあでステップアップできるんじゃないか。

 俺はただいつもどおり近くでにこにこしていればいいだけ。取っ掛かりさえあれば、あとはまあ、なんか勝手に好意的に解釈してくれるだろう。男とはそういうもんなのだ。

 セコい狡いと言われようが俺は一向に構わん。

 

「うむ」

 

 我ながら最高に最低な人任せの名案だ。

 しかし心情としてはマジでそうしたい、もう机上の域を出ない告白のシミュレーションとかで頭を悩ませたくない。

 よしよし、さっそくそうしよう。

 と、ここで俺の中の東方仗助が囁く。

 ──なるほど完璧な作戦っスねーっ、他人頼りという点に目を瞑ればよぉ〜〜〜、と。

 そうなのである。

 間違いなくかかる労力は減るだろうけれど、それって本当に確実なメリットか、という話。いつまでかかって、どう転がるかさえわからないものに任せていられるのか?

 

「……でもまあ、味方は増える訳だし」

 

 単純な根回し、という観点でも有効?

 という訳でやっていこう──と思ったが、今後主要キャラとなるフブキもキングも、未だサイタマとは接触していない。よく考えなくとも、この時点でまだ単行本の1/4程度の進みなのだ。

 消去法的に、ジェノスが残る訳だが。

 ジェノス。ジェノスかあ、

 

「うーん……」

 

 最近とみに思うことだが、ジェノスの存在は俺にとって目の上のたんこぶすぎる。

 彼を構成するありとあらゆる要素が俺の障害なのだ。異物の分際でこんなことを言うのはあまりに図々しいのだが、そこにいるだけで邪魔。ずっとラボにいてほしい。そんなレベル。

 しかし、彼はその辺にいるまともな19歳の男のコではないので、その感情に従って邪険にするとシンプルに命の危険がある。意味もなくつらく当たってみたりしてみろ、あっという間に可燃ごみ行きだ。

 

「最重要ポジションなんだよな」

 

 色んな意味で手をつけたくない部分なのだが、だからといって後回しにしていい訳ではない。

 ジェノスを懐柔する。

 サイタマ攻略において味方につける。

 どちらも譲れない要素だ。

 

「……とりあえず、思い立ったが吉日」

 

 ベッドの上でごろごろ転がりながら考えを巡らせていたのが、ひとまず体を起こす。

 乱れた髪を整え、上着を羽織って部屋を出る。通路の手摺から身を乗り出すと、ナイスタイミングでこのアパートに向かって道路を歩いてくる黄色と黒のツートンカラーが見えた。よく考えたらこの色、警戒色なんだよな。

 慌てて階段を駆け下りて、エントランスから飛び出す。

 ちょうど彼の行く手を塞ぐ形になり、うわ出た、みたいな顔で立ち止まってくれた。あまりにも存在に対する不快感を隠す気がない。

 しかし無論、今さらこんなことでめげる俺でもない。ジェノス君はツンデレだからなあ、という超好意的解釈でダメージを軽減しておく。

 

「……何か用か」

 

 幸いながら、強引に突破してやろうという感情までは持たれなかったようで、いつもの仁王立ちで腕を組み直してみせるジェノス。

 

「お……おはよう」

「昼過ぎだ」

 

 今日も今日とて取りつく島もない。

 こんにちはー、ってそれなりに近しい人間には言いにくくないか。宗教の勧誘みたいで、じゃなくて、

 

「ねえジェノス君」

「断る」

「ま、まだ何も言ってないんじゃないかなー?」

 

 震え声。

 まさか何か言う前から先手を打たれて拒まれるなんて。どんだけ信用ないんだよ。

 しかも、ジェノスのほうはその先行ブロックに明確な根拠があるようで。

 

「お前が俺に呼びかけてくる時点でろくなことでないのは確定的だ。サイタマ先生への嫌がらせに俺を巻き込むな。俺も先生も忙しい身だ、お前のお遊びにかまけている暇などない」

 

 めちゃくちゃ丁寧に拒絶した理由を述べてくれる。今度こそ良い感じのダメージが入った。

 別にサイタマに嫌がらせをしている訳ではないのだが、ジェノスにはそう見えているらしい。

 

「……いや予知能力者じゃん……」

「お前の行動指針が安直すぎるだけだ」

「なんでそういうこと言うの? 心荒みストリートなんだけど」

 

 今日の単語は“暗澹”。

 まあこんな調子でも、出会い頭にお命頂戴しようとしていた頃に比べれば『優しい』と形容できてしまうのが恐ろしい。最初が悪すぎた。

 ふう、と対面のジェノスが溜め息を吐いて、意識を引き戻される。

 

「結局、サイタマ先生についてか」

「う」

 

 ぎくりとした。まあ、それはそう。そうなんです。否定する余地はない。

 わかりやすく顔を引きつらせたであろう俺を見て、ジェノスは再び嘆息。

 

「……さっさと告白でも何でも、してしまえばいいだろう」

 

 呆れたような言い草だった。

 まさか年下の、情緒が15歳で止まっているような男に恋のいろはを説かれるなんて。ショックだったが、それ以上に衝撃だった。ジェノスはこの関係に勝算があると思っているのか、

 

「じゃ、じゃあ、逆に、逆にだよ、ジェノス君的にサイタマはわたしのことをどう思ってると考えてるのかな?」

「知らん」

 

 断言。いや適当に言っただけかーい。

 暇を持て余した中学生女子ではないジェノスは、俺たちの間柄にはおよそ関心というものを持っていないようだ。

 それはわかる。わかるのだが、

 

「……どうしても、失敗したくないの」

 

 今さら良識や恥じらいなど持っていたところで無駄なだけだ。自分以外でも使えそうなものは何でも使う。そういう気概で行かないと。

 

「だから……そのあたりに探りを入れてきてほしくて……」

「探り?」

 

 平坦ながら予想外に食いついてくる。

 探り──というか、「こっちは全然興味ないタイプだけどお前はどうなん?」を自然にやってほしいのだ。安全圏に避難しつつ、同性間ならではのコメントを引き出す高度なテクニック。そんなもんジェノスには無理だろとか言ってはいけない。

 

「くだらんな。甘えた考えだ」

 

 案の定、それを聞く耳自体は持っていないようだった。しかし、今日の俺は一味違う。

 

「与り知らぬところで適当なこと言われても困るから、お互いの端末を通話モードにしたままお願いしたいんだけど」

 

 弩級の厚かましさへさらに分厚い面の皮を貼り重ねていく。実際に端末を差し出してみせると、そのしかめっ面の眉が小さく動いた。

 いつもどおり、知らん鬱陶しい、で退かなかったのが意外だったのか。

 

「………………」

「………………」

 

 そのまま、両者一歩も退かぬ膠着状態。ほとんどメンチの切り合いに等しい目で見つめ合う。

 瞬きさえ堪えてどれだけ時間が経ったのか、

 

「……貸せ」

 

 ──折れたのは、ジェノスのほうだった。

 メカニカルな手を億劫そうに突き出してくる。

 

「え、」

「俺がやる」

 

 半ば奪取される形で折り畳み携帯がジェノスの手に渡り、硬そうな指が器用にかこかことキーを叩く。ついで、パーカーのポケットに入っていたらしい自分のそれも開いていじくって。

 投げるように返ってきた端末をキャッチして画面を見ると、確かにジェノスと通話中になっていた。

 

「あ、ありがとう……」

「このままお前と対話を続けるほうが時間の浪費だと判断しただけだ」

 

 自分のものをポケットに放り込みながら、そう吐き捨てるジェノス。一応手を貸してやる、と言った手前なのか、妙に物分かりが良い。

 なんだ意外と可愛いところある、

 

「お前の肉体に性的興奮を覚えるかどうかを尋ねてくればいいんだろう」

「違います」

 

 スン……になってしまった。常に全く嬉しくない形で予想を裏切ってくれるなこの男は。

 素でやっているのであろうあたりが凄まじい。携帯がさっそく何の抑止力にもなっていない。

 そんなことを同居している男弟子に聞かれるサイタマのほうが不憫だ。というか、なんで?→あの女は先生の貞操を狙っています、のコンボが成立してしまうのは目に見えているので、そんな恐ろしいスタートダッシュは切らせられない。

 

「恋愛対象として意識してるかどうかだけ聞いてくれればいいから、シモの話は一切しないで、あとわたしはサイタマの貞操を狙っていないし性欲を持て余していない」

「………………」

 

 それだけを一息で告げると、ジェノスはむすっとした顔のまま、無言でエントランスに入っていった。

 納得してくれた──ということで、いいのだろうか。まさか、不貞腐れて逃げるような真似をあのジェノスがするとも思えないが。

 

 

 

 

 その背中を見送ってから。

 恐る恐る、携帯を耳に押し当ててみる。

 聞こえてきたのは、階段を一定のリズムで上がる靴音。それが止んだかと思えば、それよりもアップテンポな平地を歩く音が少しして。 

 

『──先生、ただいま戻りました』

 

 がちゃん、と扉が開いて。少しくぐもったジェノスの声がスピーカー越しに聞こえる。

 

『おー』

 

 そして、さらに小さなサイタマの応える声。それだけのことなのに、少しどきりとした。

 とにかく、聞こえ方に問題はなさそうだ。もちろんはっきり聞こえる訳ではないが、会話の内容を読み取るくらいならばじゅうぶん可能である。

 靴を脱ぐ衣擦れの響き、コンクリートを歩くよりも鈍く柔らかい、フローリングを踏みしめる靴下の足音。生活音だけをこうして聞いていると、何だか不思議な感じ……というか、盗聴しているみたいで気まずい、

 

『……そーいやお前、セツナ見なかった?』

 

 ──噎せそうになった。

 いや、こんないきなり話題に上がることある?

 たまたまにしても心臓に悪い。というか、サイタマは普段こんなラフにジェノスへ俺の話を振ってるのかよ。俺たちの関係性ちゃんと考えて。

 

『……見ていませんが……あいつが何か?』

 

 さしもの鬼サイボーグにも一応『動揺』という感情は備わっていたようで、珍しく言葉に詰まりながら答えてみせるジェノス。

 良かった、息を吸うように裏切ってくる男だからマジで信用していなかったけど、何とか努めを果たそうとはしているようだ。

 

『なんか、さっき声かけに行ったら部屋にいなくてな。別に、大した用はねーんだけど……帰ってくる途中で会ったりしてねーかと思っただけ』

『そうですか』

 

 おもむろに控えめな水音。キッチンで洗い物か何かを始めたらしい。

 それ以降、なぜか会話が途切れてしまった。というか、彼らの距離感がこんなもんなのか。

 

『………………』

 

 自然な無言が続く中。口火を切ったのは、サイタマの話題をぶった切って終わらせたジェノスのほうだった。

 

『……サイタマ先生は、』

 

 抑え気味な、淡々とした呼びかけ。

 

『うん?』

 

 やや重苦しいそれに対して、サイタマの返しはごくごく暢気な調子。ジェノスが、絞り出すように言葉を続ける。

 

『いつも、あの女の話をしていますね』

 

 ──来た。

 思わず心拍が跳ね上がる。

 やれ、とは言ったけれど、まさか本当におとなしく探りを入れてくれるなんて。

 先ほどの無言はジェノスなりに、切り出し方を窺っていたつもりだったのだろうか。

 

『……そうか?』

『はい』

 

 とはいえ、この期に及んでも、サイタマは照れたり焦ったりする様子はない。合点がいったようないっていないような、曖昧な返答だった。

 そこへさらに斬り込んでいく。

 

『サイタマ先生は、あの女……セツナについて、どうお考えなのでしょうか』

 

 ──行った。行きやがった。

 愚直が服を着たようなジェノスらしい、全くぼかしのない直球勝負。サイタマの情緒レベルもおそらくどっこいどっこいなので、変にぼかすと永久に伝わらない、というのはとりあえず脇に置いておく。

 

『…………どうって、……』

 

 沈黙の後、サイタマがやや困惑したふうでそう呟いた。どう来る。どう返すんだ。

 どきどきしながら待った次の言葉は、

 

『……なんだよお前、セツナに惚れてんの?』

「いやなんッでや!!!!」

 

 携帯を地面に叩きつけそうになった。

 どういうことなんだよ。

 大して深刻そうな言い草でもなく、しかし過剰にふざけている訳でもなさそうなのがまた不安を煽られる。なん……何……マジで何故?

 

『今なんか聞こえなかったか?』

『……申し訳ありません先生、ボディのメンテナンスがじゅうぶんではなかったようで……』

『ふーん?』

 

 心からの叫びが大きすぎて、ジェノス側のスピーカーから漏れてしまっていたようだが。彼の神・フォローも頭に入ってこない。

 ジェノスが、俺を、好き。

 そうはならんやろ。

 いやなっとるやろがい(サイタマの解釈的に)。

 

『いや、気持ちはわかるけどさ……お前も機械のクセにちゃっかりオトコだな〜!』

 

 しかも言い方がオッサン臭すぎる。25歳が19歳にかけていい言葉選びじゃない。

 というか、ジェノスはまだ何も言っていないのにサイタマの中で話が完結しすぎだろ。

 

『アイツ、恋愛とか興味なさそうだけど……お前レベルならまんざらでもねーだろ、たぶん』

 

 勘違いなんだからジェノスも何か言えよ。この状況だと藪蛇でしかないと判断した結果なのか。それでも何か言えよ。こっちの心境的に。

 

『ま、頑張れよ』

 

 サイタマは結局、言いたいことだけ言ってジェノスを放り出し。当のジェノスは、

 

『……………………はい』

 

 いや「はい」じゃない。「はい」じゃないんだが。

 

『すみません先生、用事を思い出しました』

『おう?』

『失礼します』

 

 そして、最後まで何の反駁もなく、ぬるっと部屋を出てきてしまった。

 

 再び階段を降りる足音。

 そして、エントランスホールから出てくる黄色と黒の人影。

 端末の通話を切って、真顔でこちらに近づいてくるジェノスに向き直る。

 

「………………」

「………………」

 

 しばし、お互い無言で見つめ合い。その沈黙を破ったのは、やはり彼だった。

 

「……やや厳しいのでは……」

「なんでそんな時だけ察し良くなんの!? やめろよマジで!」

 

 “理解”に辿り着いてしまった彼からの、有り難い死刑宣告。

 絶対無理、と断言しないあたりに蔑んだ憐れみのようなものが感じられて最悪である。憐憫されるくらいなら警戒されていたほうがマシ。

 いやてかお前お前お前。お前のせいでこんなことになってるんだぞ。

 いや特に思わせぶりな対応とか何もされてないはずなんだけどね。殺意を匂わせる対応ならめちゃくちゃされているけど。

 頭が痛くなってきた。

 

「ちょ、……ちょっと待て、一旦サイタマのところ行ってくる」

 

 駄目だ、サイタマが何考えてんのかさっぱりわからん!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お、お邪魔しまぁす……」

 

 ジェノスとほぼ入れ代わりで、サイタマ宅にそろそろと足を踏み入れる。

 ここまで来ておいてなんだが、ほとんど勢いでやってしまったせいで特に来訪の理由が思いつかないんだよな。どうしよう。

 

「おー、セツナ」

 

 とはいえ、俺がやってくるのはいつもどおりなので、マイペースに出迎えてくれるサイタマ。

 タンクトップにジョガーパンツというラフすぎる格好でテレビの前に寝そべり、漫画本を捲っている。別にさっきまでのことを引きずっている訳ではなさそうだ、と安堵したのもつかの間、

 

「ジェノスとすれ違わなかったか?」

「え゛ッ」

 

 トラックに勢いよく轢き潰された絶叫チキンのような悲鳴を上げてしまったが、サイタマは特に他意のなさそうな顔で俺を見上げているだけだ。

 

「な……なんで……?」

「いやさっき出てったからだけど」

 

 そりゃそうか。……そうか?

 

「へ、へえ……ちょっと、ワカンナイカナー……?」

 

 正直にイエスと答えても問題なさそうな局面ではあったが、とりあえず濁しておく。

 全く、心臓に悪すぎる。

 さてこれからどうすべきか。耐えきれずサイタマのところに駆け込んできたはいいが、どうしたら自然に誤解を解けるのかが全くわからない。下手に自分から話題を切り出しても、要らぬ地雷を踏むだけだろうか。

 

「なあ」

 

 ──話しかけられた。それだけのことなのに、口から心臓が飛び出そうになった。

 大丈夫? 今の俺冷気出てない?

 落ち着け、サイタマのことだ、どうでもいい世間話かもしれないだろ、

 

「お前さ、……あいつ……ジェノスのことどう思ってる?」

「どッッ」

 

 どうでもいい世間話じゃなかったー。

 心臓どころか胃の中身をぶち撒けそうになった、あまりの衝撃で。ちょっと待って、いきなりこんなストレス耐えられない。死ぬ。

 

「どっ、どどど、ど、どう、って?」

 

 保身のためにはむしろ落ち着いて対応すべき場面なのだろうが、体が追いつかず500回くらい舌を噛んだ。これが慌てずにいられるか。

 

「だから、カッコいいとかイケメンとか……そーゆーのだよ」

 

 唇を尖らせながら、ぼそぼそと返してくる。

 例えを出してくれるのはいいが、そのふたつのワードはほとんど同じですよサイタマさんや。

 

「恋愛感情的なものないのかっつー話」

 

 恋愛感情。

 サイタマが。あのサイタマの口から『恋愛感情』なる単語が出てくるなんて。

 ちょっと感動しちゃっ──いや、感動してる場合じゃない、俺はそのせいで、今まさにこれ以上ない窮地に立たされているのだから。

 

「な、なんでいきなりそんなこと聞くの……?」

「別に……深い意味はねーけど」

 

 嘘こけぶん殴るぞ。万が一深い意味がないほうが邪悪だけどな。ノーコンキューピッドがよ。

 いけない、過負荷のあまり罵詈雑言を吐いてしまった。サイタマは悪くない、俺が悪い。

 

「俺が言えたことじゃないけどさ。今のうちに若くてイイ男とくっついて、安定した生活とか、欲しくねーのかなと思って。そんだけ」

 

 いい男とくっついて、安定した生活。

 復讐に身を焦がし3日と間を空けず半壊しまくってるようなサイボーグとくっついてどこに安寧があるんだよ毎日不安まみれだわ、という当然のツッコミすら出てこず。

 俺の頭を占めていたのは、『サイタマは俺とジェノスをくっつけたがっている』という衝撃の事実のみだった。

 駄目だ。なんでそういう思考になったとか、今はどうでもいい。もう、何も考えられない。

 

「まあ、俺があれこれ言う話でもねーか。お前のにーちゃんじゃあるまいし、」「サイタマ」

 

 はい、キャパオーバーです。顔の表面だけに薄っぺらい笑みを貼りつける。

 

「わたし……忘れ物しちゃった」

「お、おう?」

「また来るね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何十回と階段を踏み外しながら、どうにかこうにかエントランスから出る。

 アパート前の通りで、ジェノスは変わらず俺の帰りを待っていたようだが。俺の顔を見て、何かを察してしまったらしかった。鉄の表情に再びの憐れみが浮かぶ。

 そこで、抑えていた諸々の感情が決壊した。彼の懐を飛び込んで、その機械の胸元を両手の拳で力いっぱい叩く。いや硬っ。

 

「ジェーノースぅ!」

「コアを叩くな」

 

 なんで、こんな、ことに。

 当然すぐさまべりっと引き剥がされたが、それで冷静になれる訳もなく。

 

「誤解を生んでる! 最悪の誤解を生んでるよ! ちょっとマジで“セツナとか許容範囲じゃないんで……”みたいなこと言っといてくれる!?」

「……わかった」

「あっ待って今行くとさらなる誤解を生みそう、後で、後でそれとなくな!」

 

 ああ、考えがまとまらない。何が正解で何が逆効果なのかもよくわからない。もう動けば動くほど状況を悪くしていくような気さえする。

 どうして。なぜ。

 ──サイタマは、あの隕石の一件を、バングと同じように恋心の発露だと考えたのか?

 それで、ジェノスと俺を両想いにすべくあんなかまをかけてみせた? 解釈が恣意的すぎるだろう。

 大体、身も蓋もないことを言えば、サイタマを助けに行かなければいけない、なんて状況は半永久的に存在しない。パフォーマンスとしても足手まといになるのは明らかなのだから、しないほうがマシ。

 サイタマの好感度を上げるために、俺はジェノスを積極的に見捨てるべきだった。もしくは、今後もそうするべき。

 

「……いや……」 

 

 嫌な決意だ。

 そこまで非道になりたいとも思えなかった。

 でも、それって甘えた考えなんじゃないか。

 俺は既に何度もサイタマ含めたジェノスの危機を意図的に見過ごしており、今さら「ジェノスを見捨てるなんて無理」なんて言えた立場なのだろうか。開き直ると決めたはずなのに、後味が悪いというだけの理由で善人ぶるなんて。

 いや、というよりは。

 ヒーローらしく。ヒーローとして。

 半端にこんな欲を出すんじゃなかった。それだけの話なのかもしれない。

 この自意識のせいでありとあらゆるピンチが呼び込まれている。そんな気がした。

 俺はやはり、ヒーローの器ではないのだ。

 

「大体俺にジェノスが惚れるなんて有り得な、」

 

 そこまで考えて、

 

「……そんなに美人?」

「客観的に判断して……」

 

 淡々と肯定される。なるほど。

 鏡で初めてこの顔を見た時、めっちゃ美人、などと思った覚えはないのだが、確かに悪い部分は出てこなかった。

 欠点が思い浮かばない顔立ちというのは、消去法で美形の域に入るのかもしれない。平均的な顔こそが美男美女、というヤツか。非モテのせいで目が肥えすぎていたのかもしれない。

 俺の微妙な沈黙を何ととったのか、

 

「外見などただの器に過ぎない。容姿だけがお前の全てではないだろう」

「それはそうなんだろうがジェノスに言われるとクソ嫌味にしか聞こえない」

 

 一般人の人気投票で速攻上位に来るような男に言われてもね、という素朴な感情。

 

「そして俺はお前に特別な感情などない」

「いや明らかにそっちのほうがありがたいんだけど、俺はサイタマが好きって言ったよね?」

 

 ハゲとサイボーグに取り合われる怒気怒気☆ラブライフってか。やかましいわ。

 

「どーしよ……」

 

 頭を抱える。

 後から悔やむと書いて後悔である。つまり、全ては手後れなのだが、今だけはその無意味な感情に浸らせてほしかった。もう何も建設的な案なんて思い浮かびそうに──

 

「ジェノス」

「なんだ」

「今から熟女モノのAVを買い込んできて、それとなくジェノスの布団の下に隠そう」

「断る」

 

 現実は非情である。





今回はまず初めにお詫びを。
「レディ・フロスト」ですが、既に別の商業作品で使われていた名前でしたので、ちょこっと変えました。
誰でも思いつきそうな響きではあるのですが、同じヒーローものかつ氷の能力者、というところで(こちらの作品を同時に知ってらっしゃる方もいるようですし)、二次創作の分際でさすがにノイズになるだろうと考えた結果です。
というか、自分のリサーチ不足が一番の問題で、それくらい前もって調べておけよというだけの話なんですが……そういう訳で、変更のお知らせとお詫びです。
投稿翌日くらいには把握していたんですが、ばたばたしていて手をつける暇がなく。対応が遅くなったという点でも申し訳ありませんでした。

と、いう訳で、ずっと書きたかったお話です。ままならねえーみたいな描写を書くのが好きなんだと思います。


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自分さえ良ければいいなんてそんなの当たり前じゃないか

 ジェノスと別れ、部屋に引きこもり。

 まんじりともせず夜を明かして、朝。

 

「……協会からメール……?」

 

 朝陽射し込む部屋のベッドで、そんな通知を見た。どうやらZ支部から出動の呼び出しらしい。

 それはまだいいのだが、

 

「まさか海人族絡みじゃないよな……」

 

 どうしても頭をよぎるそのワード。時期が時期なので恐ろしい。

 とはいえ、そんなことを馬鹿正直に言って辞退する訳にもいかない。ついでに見た災害情報、J市の部分に『海』の文字は未だなかった。

 

 

 

 

 で、とりあえず。

 断る訳にもいかないし……としぶしぶ向かった先のエントランスホールで、何となく覚えのある柄物スーツの男性を見かけた。

 てらてらと、エナメルでもないのに生々しく光り輝いているあの複雑な斑点模様は。

 

「……スネックさん?」

 

 思わず名前を呼ぶと、スーツの襟元を整えていた彼がこちらを見た。神経質そうな顔に、驚き混じりの優しい笑みを浮かべてみせる。

 

「ミス・フロスト。……久しぶりだな」

 

 ──A級ヒーロー、蛇咬拳のスネック。

 共同任務、と文面にちらっと出てきたあたりで嫌な予感はしていたのだが、案の定、適当に寄せ集められたヒーローと組まされる流れらしい。俺の能力が集団行動に向かないことくらい、ちょっと考えればわかることだろ。

 しかし、苦虫を噛み潰したような俺の心境とは別に、スネックの態度は非常に友好的だ。

 

「ヒーローネーム命名、おめでとう。セミナーの講師でしかない立場だが、俺も誇らしいよ」

「あ、ありがとうございます……」

 

 予想外にちゃんと先輩として祝福されている。

 あっサイタマにワンパンされた傷はもう癒えたんすね、みたいな感想しか出てこないのが申し訳なくなってきた。というか、普通に顔と名前を覚えられていたのが意外だった。

 そこで、少し離れた位置で雑談していた3人組の存在に気づく。みな若い男で、2人は普通の一般人のようにも見えたが、もう片方は何というか、玩具のロボットじみた見た目だった。

 

「あちらの方々は……?」

「ああ……一緒に招集されたヒーローだろう」

 

 まだいたのか、しかしさすがに2人きりということはなかなか無いよな、と思いつつ。

 話題に上がったことに気づいて、こちらに近づいてくるその3人組に、ふと。違和感のようなものを覚えた。もっと言うならば──胸騒ぎ。

 背筋がざわつく。散らばっていた点と点が結びついて、不吉な形を成していく。

 

「既に名前は知っているかもしれないが……B級ランカーであり、超能力者のミス・フロストだ」

 

 スネックの紹介に、なぜか微かなどよめきが起こったが。今の俺は、それについていちいち反応している余裕もなかった。

 

「こっちは、」

「……オールバックマン、ジェットナイスガイ、ブンブンマン……」

 

 思わず、スネックから奪う形で彼らのヒーローネームを呟いていた。3人は純粋に、怪訝に微かな喜びの混じった表情を浮かべてみせる。

 

「なんだ、知ってたのか」

「あんたB級だろ? C級の俺をよく……」

「俺も有名になったってことかな」

 

 順当に考えて思いつくであろう的外れな疑問、感想。口々に述べる彼らの顔には、ヒーロー然とした自信が薄っすらと滲んでいる──まだ。

 でも、そんなことは俺にはどうでもいい。

 

「……ええ、まあ」

 

 適当に微笑んで、場を濁した。

 本当のことなんて、言える訳がない。なぜ、俺が彼らの名前を知っているのか。その並びに何を覚えたのか、なんて。

 強いて言うなら、どうしてこんな状況になっているのかの疑問はあった。

 

「どんな任務かは知らんが……A級と超能力者がいるなら心強いぜ」

 

 ジェットナイスガイが無邪気に笑う。

 そのタイミングで、奥から出てくる黒スーツ。ヒーロー協会のロゴが記されたタブレットを抱えた彼は、俺たち5人を据わった目で見比べ。

 

「集まったようだな」

 

 手元のタブレットを何やら操作したと思えば、延々とプロモーションムービーを流していたホールのスクリーンが、ぱっと切り替わり。

 ──端的に言えば、空飛ぶ巨大な亀、が街中を飛翔する粗い映像が映し出された。

 

「時間が無いので手短に話す。……J市の砂浜に打ち上げられ、Z市の研究所で調査していた巨大な卵らしきもの──それから孵ったウミガメの怪物が集団で逃走して、街に被害を及ぼしている」

 

 依頼内容はもはや言わずともわかる。

 つまり、シンプルに管理ミスの案件、しかもその事後処理を押し付けられたということらしい。

 

「きみたちには、その討伐を頼みたい」

 

 嘆かわしいとは思いつつ、それでも深く失望したりはしなかった。グリズニャーに始まり、原始人スッポン、ウロコドンと、そういった単純かつ重大なヒューマンエラーには事欠かない世界だ。

 呼び集められた彼らも、そこを今さら問い詰めようというつもりはないようで、

 

「そいつらは今どこに?」

「しばらくZ市街をうろついていたが、つい先ほどから一方向に……J市に向かっているらしい。海に帰ろうとしているようだ」

「卵の時点で壊せばよかったんじゃないのか?」

「外殻が異常に硬く、S級の力を借りても破壊するのが困難だった……」

 

 無理に手を出そうとせず、海に放り込むなりして放置しておけばよかったのではないか。

 怪人を飼いたい研究したい、という欲求はよくわからない。容姿にかかわらず俺はできれば近づきたくもないが。ブーメラン発言でしたね。

 

「わざわざ来てもらったところ悪いが。今すぐJ市方面に向かって、ウミガメ──海獣バタバタメットの群れを追いかけてほしい」

 

 またぎりぎりのネーミングセンスだよ、とか、そういうところは気にならなかった。

 

「……J市……」

 

 不思議と落ち着いた気持ちで反復する。

 しっかり嵌まり込んだ、その最後のピースを。全ての理由を。協会の男が不審そうな顔をした。

 

「……何か?」

「いえ、」

 

 やんわりと、首を横に振る。

 でき得る限り笑みを取り繕って。

 

 ──今まで、避けられる危険、避けられるイベントはできるだけキャンセルしてきた。

 けれど──事件が向こうから転がり込んでくることもある。それを改めて噛み締めていた。

 きっと、今さら逃げても無駄なのだろう。極りきった運命は、必ず元の位置に収束していく。

 俺という異物を組み込む形で、もう事態は動き始めている。

 今は、この案件についてだけを考えよう。

 

 拳を強く握り締める。きつく。

 恐ろしい、という感情はなぜか無く。

 漠然と、武者震いのようなものだけを感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局、協会の社用車を借りて、それでバタバタメットを追うことになった。

 リアルタイムでその群れを追尾しているらしい特殊なナビの案内に従って、道路を爆走する。運転担当は、オールバックマンにじゃんけん勝負で負けたブンブンマン──B級以上は主要な戦力だろうから、と譲ってくれた結果だった。

 助手席、開け放した窓から身を乗り出しつつ、後部座席のスネックに呼びかける。束ねた髪が強風に煽られて鬱陶しい。

 

「説明がなかったですけど」

 

 この位置から顔を上げると、屋根の上で待機しているジェットナイスガイがちらっと見える。5人が詰めて乗ると狭いし、自分はサイボーグなので良いということらしい。ナイスガイである。

 

「どうしてこのメンツなんでしょう」

 

 それを眺めながら、言葉を続ける。

 原作通り深海王を迎え撃つための布石、単なる結果論だとしても、その理由は気になった。

 シートにもたれかかり、腕を組んでいたスネックはふむ、と小さく唸って、

 

「Z市付近にいたヒーローに一通り呼びかけた結果だろう……きみはあそこに住んでいるんだよな?」

「まあ、はい」

 

 思った以上にシンプルな結果だった。

 もしかして、サイタマや無免ライダーにも声が掛かっていたりして。おそらくそれに従うと原作に示されるストーリーと変わってしまうから、現状の通り、無視するなり気づかないなりでスルーしたのだろうけど。

 

「そろそろ近いぞ!」

「あ、あれじゃないか!?」

 

 オールバックマンとジェットナイスガイの声で、視線を前に戻す。

 確かに、前方数十メートル先を優雅に浮遊する平べったい何か。ウミガメと呼ぶには甲羅の主張が激しいし、無駄に小さな羽が生えている。

 

「デカいし、確かに飛んでる……低空だけど」

「海に帰る必要はなさそうだが」

 

 ひっきりなしに警報が流れているおかげか、通りにもはや人や車の姿はほとんどない。それはいいのだが、高度が微妙すぎるせいで、ちょくちょくビルの角に当たって外壁が削れたりしている。

 

「どうしたものか」

「うーん……墜落させればいいんですかね?」

 

 ブンブンマンが視認しやすいぎりぎりまで車を寄せてくれたので。とりあえず目を凝らして、ぱたぱたと上下に動く白い翼を凍らせてみる。

 すると、急激に浮力を失ったらしい体がすうっとシームレスに落下し始めて。それなりの地響きを立てて、コンクリートの地面に激突した。

 見守っていた他のヒーローにも驚きの光景だったらしく、風切り音に混じって微かに息を呑む音が耳に届いてくる。

 

「羽が弱点か!」

「あんな小さな翼でよく飛べるな……」

 

 道路を塞ぐ形でめり込んだバタバタメットの前で、セダンがスムーズに停車する。そこから華麗に降り立つジェットナイスガイ、そしてスネック。

 

「よし、撃墜されたものから倒していくぞ」

 

 

 

 

 

 バタバタメット自体は、生まれたての幼体だったということが幸いしてか。

 大して人間に敵意がある訳でも、戦闘能力が高い訳でもなく、あっさりと討伐が完了してしまった。海に潜んでいるのだろう成体のことを考えると少し恐ろしいが、今はとりあえず良い。

 頭を潰して仕留めた最後の1体を背に、やり遂げた、という顔でこちらに歩いてくるジェットナイスガイ。

 

「これで最後か?」

「結局、J市のほうまで来ちゃったなあ」

「ええ……」

 

 まあ、そうなのだ。

 そういうシナリオであるからとはいえ、兄弟を殺されたバタバタメットは『全力逃走』という形で抵抗を見せ。結局、J市に入る辺りまで引きずられることになってしまった。

 ネクタイを緩めていたスネックが、ぼうっと空を仰いで、渋い顔をする。

 

「天気が悪いな」

 

 つられて、顔を上げる。Z市を出た頃には晴天が広がっていた空だったが、今は確かに、錆びたような色の雲がびっしり敷き詰められている。

 気味の悪い景色だった。

 

「雨、……降りそうですね」

 

 意図せず、そう口に出していた。脳裏に、同じことを呟いた存在の姿を思い浮かべながら。

 

「そうだな……ん?」

 

 協会に報告するためだろうか。軽い調子で応えながら、ジャケットの内側から端末を取り出したスネックが、妙な顔をした。

 その瞬間、嫌な痺れが背筋に走った──ような、気がした。

 

「おい。……J市に新しく警報が出ていたらしい」

 

 呆然の滲むそんな呼びかけで。

 現実逃避から、ゆっくりと引き戻される。

 俺が生きるこの世界から、“ワンパンマン”という漫画がなぞらざるを得ない『現実』へと。

 

「災害レベル虎。海人族を名乗る怪獣が数体、J市南部の浜辺から上陸、だそうだ」

「どうりで人が少ないと……この様子なら、住民はもう避難を始めているようだな」

 

 何も知らない彼らは、真面目な顔でこれからのことを話し始めている。

 その怪人は、虎じゃなくて、鬼になります。その兵士よりももっと強い個体が出てきます。

 あなたたちは、敵わないと知りながら。死ぬような目に遭います。

 思う。思うけれど──言えない。

 言わない。

 

「海岸沿いだとここからまだ距離があるな……とりあえず、このまま向かうぞ!」

 

 頷き合った彼らは──真っ直ぐ、指示が出ているのであろう方角に走り去っていった。

 きっと、俺も当然ついてくるもの、として見ているのだろう。けれど、俺は彼らの背中を黙って見送った。

 すぐについていく気分には到底、なれなかった。それはどうしてなのだろう。

 拳を握り締め直す。

 

 ──落ち着け。

 いや、落ち着いてはいる。

 自分で言うのも何だが、今の俺の心境は、不気味なくらいに凪いでいる。言い換えるならば、それ以外の感情の揺らぎさえ抑え込もうとしている状態だ。冷静に──冷静に。

 何をするべきかはわかっているはずだ。

 選び取れ。迷うな。

 見るな、言うな、聞くな。

 よりよい未来を。

 人類ではなく、怪人ではなく、俺のために。

 

 

 

 

「あ──あのっ!」

 

 背後から呼びかけられて、ふっと。

 自我に沈み込んでいた意識が浮上する。

 思わず振り返った先、8つの瞳が不安そうにこちらを見上げていた。

 

「ミス・フロスト……さん、ですよね」

「ヒーローの、」

 

 はしゃいだ格好の、男女4人組。若い、ととっさに思った。まだ学生だろうか。

 住民は避難したはずなのに、どうしてまだこんなところに、という疑問と、なぜ話しかけてきたんだろう、という疑問が、“ヒーローネーム”という中点をもって線で繋がっていく。

 ああ。今の俺はまだ、ヒーローということになっているのだっけ。

 

「えっと……お、俺たち、他の市から遊びに来てたんですけど、いきなりこんなことになっちゃって……」

「シェルターの場所とかよくわかんないしで……」

「助けてくれたらなーって」

 

 へらへらと、媚びるような笑みを振りまきながら、それでも口々に不安を訴えてくる。

 つまり、海人族の警報は恐ろしいが、土地勘がないので避難の誘導をしてほしいと。……待て、こいつらはどこに連れて行けと言った?

 

「シェルター……」

 

 ──なるほど。

 随分と入念な“伏線”だこって。冷めた気分でそう思った。嫌味ったらしくさえあった。

 丁寧に逃げ道を防がれて、それでもまだ俺は落ち着いていた。少なくとも、気分の上だけでは。

 浅く息を吸って、吐き出す。

 ミス・フロストとして。

 

「わかりました。一緒に行きましょう」

「あ、ありがとうございます!」

 

 幸い、シェルターの場所はすぐ見当がついた。道を挟んだ先に見えている、あの巨大なドーム型の建物だろう。

 という訳で少なくとも見える位置にはある訳だが、彼らに探す気がないというよりは、一般人だけで街をうろつくのを避けた結果と言えよう。この時点ではまだ海人族の残党がいるはずなので、その判断はある意味では正しい。

 そこまではまあ良かったのだが、彼らを引き連れ始めて間もなく、

 

「フツーに美人じゃん」

「な。フブキもそうだけどさ……電話番号とか聞いたら教えてもらえんのかな」

 

 男子2人の囁きが、耳に届いてきた。

 で、ちょっとやめなよ、と女子の仲裁。

 ……別に、こちらもいちいち「時と場所を考えろ」と目くじらを立てるような感性ではないが。

 それでも何というか、男のこういうアレって、一歩その輪から外れると本当に馬鹿馬鹿しくて鬱陶しいんだな、というような発見はあった。薄ぼんやりと共感性羞恥を覚える。当人らは楽しいのだから、それでいいのかもしれないが。

 

 そんなことを考えつつ、角を曲がろうとしたところで。

 

「──まだ、人間が残っていたとはな、」

 

 その“海人族の残党”と、どんな因果かばったり出会してしまった。

 強いて言うなら2足歩行のチョウチンアンコウといった風情の見た目。こちらとしても海人族の残党がまだいたとはな、という感想である。

 

「ひっ、」

 

 災害レベルは見るからに虎か狼だが、丸腰の一般人である4人は当然驚き、怯えているようだった。男子2人のふざけた会話が速攻で引きつった悲鳴へと様変わりしてしまう。

 

「まあ良い、王への手土産に──」

 

 だらだらと前置きがうざったい。

 こちらは名前を名乗ることさえ面倒臭がっているというのに、随分と自分に自信があるようで。

 その間に凍らせて、粉々に砕いてやる。水分量の多いナマモノは力の通りがだいぶ良い。

 物言わぬクラッシュアイスになった海人族から、黙ってしまった学生を振り返る。

 

「皆さん、」

 

 すっかり青褪めてしまった彼らは、その呼びかけだけで可哀想なくらい肩を震わせた。

 

「絶対に、私から離れないでくださいね」

 

 ひとまず、それだけを告げておくと。

 蒼白の顔をぎこちなく見合わせて、

 

「は……はい……」

 

 良い返事が聞けたので、前に向き直る。

 シェルターはまだ遠い。

 着いたら何をしよう。何をするべきだろう。

 気分は落ち着いている──落ち着いている、はずだ。むしろやや急いている、といったほうが正しいのかもしれない。常に一歩先を進んでいるような、奇妙なちぐはぐさを覚えている。

 いや。問題ない。やれる。

 大丈夫。俺は、大丈夫。

 そう、内心だけで繰り返す。

 

 途端、ごろごろと空が鳴いて、視線を上げた。

 濁った雲の群れに走る不気味な閃光。乾いた鼻先を、重く湿った空気が這っていく。

 いよいよ、雨が降りそうだった。




主要イベントを今までがっつりスキップしまくっていたことに改めて気づきました
全然関係ないけど最初から読み返してたらやっぱりサイタマ中学生から始まるTSFおねショタ見てぇーという感情になってしまいました(※犯罪) 中学生は別にショタではない?


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freeeeeeeeze!!

 やがて、ぽつぽつと。

 降り出した雨が本降りになるまでは、ほんの一瞬だった。

 

「やば、降ってきた」

「傘持ってないよー」

「予報だと1日晴れじゃなかった?」

 

 背後で密やかに交わされる、場違いに浮わついた会話を聞き流す。大学生とは世界一暢気で、無敵な生き物だ。数年前まで自分もそれをやっていたことは棚に上げて、そんなことを思った。

 ざあざあ降りになった雨粒が髪を濡らし、水たまりに突っ込んだスニーカーが靴下ごとぐちゃぐちゃになっても、不快感は覚えなかった。

 冷えきった体の中で、バクバクと心臓だけが駆け足のビートを刻んでいる。

 ──全員すっかり濡れねずみになったところで、ようやくドームの入口に辿り着いた。

 

「あ……シェルターだ」

「助かったぁ」

 

 ここに来て、とぼとぼと力なくついてきていたのが、いきなり元気良く追い越してくる。

 彼らの背中を見送って。なんとなく、後ろを振り返ってみたが。

 豪雨で烟る街並みには、何の姿も見えなかった。

 

 

 

 

 一歩遅れてシェルターの内部に足を踏み入れると、彼らは出入り口脇で、スタッフらしき人間にタオルを手渡されているところだった。

 東京ドーム並に広々とした空間には、既に避難してきたのであろう人々がひしめき合っており。服や髪からの湿り気が放熱で温まって、妙な蒸し暑さを醸し出していた。

 真夏のプールの更衣室、とでも言えばいいのだろうか。とにかく不快指数は高そうだ。

 

「最悪、髪ぐちゃぐちゃになっちゃった」

 

 暢気に憂う女子学生の隣を通り抜けて、内部の様子をぐるっと窺う。

 皆不安そうな顔をしているが、それでも追い詰められた様子はあまりない。見ての通り、まだ深海王の襲撃は起こっていないようだ。スネックやブンブンマンは既にやって来ているのだろうか。

 

「あの……タオル、」

「大丈夫ですから」

 

 もう一人の、黒髪ボブカットの女子学生が気を使ってタオルを差し出してくれたが。受け取っているような余裕はなかった。言葉少なに断っておく。

 濡れて額に張りつく前髪はとりあえず後ろにかき上げて、なでつけておいた。

 雑音にしか聞こえないざわめきの中でも、はっきり耳に入り込んでくる怯えた囁き。

 

「……なんか、S級がやられたんだって……」

「え、嘘、誰……?」

「災害レベルが虎から鬼に上がったとか……」

「ヤバいでしょ」

「スティンガーも負けたって聞いたけど」

 

 ──ぷりぷりプリズナー。

 もうそこまで情報が来ているのか。

 まだ全体に蔓延している訳ではないようだが、ショッキングな情報だけあって、辺りに動揺が広がり始めているのを肌で感じる。

 A級で勝てないなら、S級で勝てないなら、ここにいるB級風情に勝てる訳はない。

 それを言い出す人間はまだいないが、彼らがその事実に辿り着くのは時間の問題だろう。役立たず。そう思われるのはつらい。そんなことを脳の表面だけで思った。

 

「すみません、」

 

 呼びかけられて、振り返る。

 タオルを俺に渡しそびれた学生だった。まだ渡す気があるのかと一瞬身構えたが、

 

「変なこと……聞いていいですか」

 

 身長はほとんど同じはずなのに、やや上目遣いになりながら尋ねてくる。その胸元では、彼女の落ち着かない心境を示すように、細い10本の指が不気味に蠢いていた。

 

「ここにいれば、安全、……なんですよね?」

 

 安全。──馬鹿みたいな言葉だ、と思った。

 彼女は事実に興味がある訳ではない。ただ、俺に「そうだ」と頷いてほしいだけなのだ。

 これもヒーローの仕事なのだろうか。

 

「……もちろん、」

 

 意味もなくそれを肯定して。

 無意味な安堵の微笑みを浮かべる彼女から、そっと目を逸らした。

 

 

 ──その瞬間。

 地響きとも、地鳴りともつかない轟音が鳴り響いて。長らく掃除されていないのであろう天井から、ぱらぱらと埃や何かの破片が落ちてくる。

 それに汚い、と身を竦めるより早く。

 ふっ、と。前触れなく明かりが落ちた。

 突然暗闇に飲まれたドーム内に、きゃあ、と誰かの悲鳴が響き渡る。

 採光用の天窓がいくつかついているものの、雨が降っているだけあって、その朧気な光は地上まで届きはしない。

 

「や、やだ……!」

 

 なぜか俺にしがみついてくる女子学生。冷たくないのだろうか、と他人事じみて思った。

 誰かに抱きつかれる、それも若い女性になんて生まれて初めての経験だったが、今はそれを喜んだり噛み締めているような場合ではない。意識の隅でがたがた震える彼女を支えながら、薄暗い天井をじっと睨む。

 来る。深海王が。

 

 そして、ドゴン──最初の一撃で、屋根の一部が物の見事に吹っ飛んだ。それが見えた。

 ここからは一番遠い位置。

 安心する材料としてはあまりにチープだが、それでも仮初めの安堵感を覚える。

 やがて、崩れた瓦礫を綿埃のように払いながら、砂煙の中からのっそり現れる巨体。

 深海王。降雨のおかげで人間態の名残を欠片も残していないその瞳が、呆然と立ち竦む人間の群れを睥睨する。

 

「初めまして──さようなら」

 

 しんと静まり返っていたせいで、その死刑宣告は離れたこちらにまで聞こえていた。直後、引き攣ったどよめきがさざ波のように広がっていく。

 遠目で見てもわかる。そこいらの人間では、束になっても到底敵わないサイズだ。……学生に一際強くしがみつかれて、よろけそうになった。

 でも、今は彼女を案じている場合ではない。この次、どう出てくるか。

 

「ま──待った!」

 

 ──思った通り、声が上がった。

 想定した以上に悲痛な呼びかけだったが。

 かなり前方で、やはり姿は見えない。しかし、声の主は鮮明に思い浮かぶ。オールバックマンだ。

 

「我々は降参する! 何か要求があればその通りにしよう!」

 

 途端、背後で「降参……?」と不安げなつぶやきが聞こえた。それはそうだ。反撃する意思などない、そもそも不可能な立場だとしても、ノータイムで全ての権利を明け渡されれば不安は募る。

 

「だから……攻撃しないでくれ、」

 

 無茶な要望だ。改めて思う。彼も何か勝算があって言っている訳ではないのだろうけど。

 当然、深海王のほうも聞く耳を持つ気はさらさらないらしく。

 

「降参? してもしなくてもどのみち死ぬわよ……私が殺すもの」

 

 不気味な笑い声混じりに、そんな発言。

 極度の緊張と、深い絶望。子どもの泣き声すら上がらない、死んだような空気。

 けれど、“ヒーロー”はやってくる。大衆が望んだからではない。そういう筋書きだからだ。

  

「──はあッ!」

 

 まずは、ジェットナイスガイ。

 次にブンブンマン。

 そして、最後にスネック。

 予想した通りのメンツだった。あれから4人で海人族討伐に乗り出して、けれど災害レベルが上がったので、シェルターに避難した。原作と同じ流れを辿ったらしい。

 ヒーロー。

 おそらく一堂に会したらしい彼らに、お通夜のように静まり返っていた住人たちがにわかに活気づく。

 

「ヒーローだ!! 助かるぞ!!」

 

 そんな訳ないじゃん。

 思ったけれど、言えなかった。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──結局。

 その空元気は、数分と保たなかった。

 最後に殴り飛ばされたスネックの体が、ちょうど俺の頭上を通過して。パン生地を捏ねるように壁へ叩きつけられたところで、ジェットナイスガイの時には上がっていた悲鳴すら消え失せた。

 それをただ傍観している俺はといえば。

 心ここにあらず。気持ちばかりが急いて、意識がまったく休まらない。地面から爪先が浮いているような気さえする。

 思わず、深海王に向けて歩を進めようとしたところで。

 

「え、」

 

 ダッコちゃん人形のようにしがみついていた学生に引き戻されて、それで我に返った。

 振り返る。ビー玉のように澄んだ瞳に涙をいっぱい溜めて、彼女が俺を見上げていた。目が合って、ぎこちなく首を横に振る。

 

「む……無理ですよ、」

 

 無理。あなたじゃ無理だ。

 彼女は怯えながらもそう断言した。

 俺では深海王に敵わない。相対的なイメージか、確固たる自信があるのか。実際のところはわからないけれど、確かにそう思われている。

 憤慨はしなかった。

 落胆もしなかった。

 ただ、そうだろうな、と思った。

 

「──ええ。あなたは正しい」

 

 向き直って、彼女の両肩をやんわり掴む。潤んだその瞳を真っ直ぐに見つめ返す。息を吸って、

 

「ここに居なさい。皆が逃げ始めたらその流れに乗って外へ逃げなさい。相手は生物です。目立つ行動を取ってはいけない。瓦礫が落ちてくるかもしれないから、とにかく頭を守る姿勢を取って」

 

 一息にそれだけを言った。それくらいしか言えなかった。俺には何の責任も取れない。

 

「他の者にもそう伝えるように」

 

 言って、彼女に背を向けた。背後で、待って、と悲痛に呼び止める声が聞こえたような気がしたけれど、錯覚だということにしておいた。

 とにかく、ここで立ち止まっているとおかしくなってしまいそうだった。気分が悪かった。

 マネキンのようにその場に固定された人混みを何とかかき分けて、前に進む。

 どうしてだ?

 落ち着け。いや、落ち着いていられない。

 改めてそれを実感する。この衝動は理屈じゃない。もちろん義憤や武者震いでもない。

 これが正しい行動か、なんて考えたくない。

 多分、正しくないのだと思う。

 人混みに紛れてじっとしていれば終わる事件。俺じゃ敵わない。サイタマが助けてくれる。

 俺はずっと、そういうのを期待していたんじゃないのか?

 

 

 ガシャン、と頭上で天窓の割れる音。

 ジェノスだ、と思った。足は止まらなかった。もう何もわからない。

 

「──海人族というのはお前か、」

 

 こちらを見据えていた深海王が、振り返る。ここからではまだ彼の姿は見えない。

 

「排除する」

 

 そして、閃光。気づいたら、再びシェルターの外壁が破壊されていて。深海王の姿はもう、どこにもなかった。

 レベルが違う。──そのジェノスが敵わないのだから、俺なんかが勝てる訳がないのだ。

 

「敵は──今ので最後なのか?」

 

 深海王を吹き飛ばし、振り返ったジェノスの呼びかけに、群衆が再びわっと沸き立つ。

 けれど、そのぬか喜びはやはり長続きしない。次の瞬間にはもう、耳を塞ぎたくなるような鈍い音がして。

 

「キレたわ」

 

 空いた穴に仁王立ちする深海王が、ジェノスからもぎ取った右腕を、使い終わった爪楊枝を投げ捨てるように放り投げていた。

 

「グチャグチャにしてあげる」

 

 ボロボロの服、煮崩れたような顔。それでも深海王は余裕を崩さない。

 それだけで、一瞬で半壊まで追い込まれたジェノスは彼我の差を悟ってしまったようだった。

 もう、だいぶ近づいてきた。

 起き上がろうとする彼の体が、不吉に軋んでいるのさえ耳で捉えられる。

 

「シェルターから逃げ出せる者は今すぐ行け!

俺が勝てるとは限らない!」

 

 ヒーローの声だった。

 じくじくと、胸が締め付けられる。

 偉い。偉いよ。俺なんかよりよっぽど頑張ってるじゃないか。それこそ、よくわからないくらい。

 何だか、他人事みたいだ。

 他人事なんだよ。

 むしろ、そうであってほしい。俺は、ジェノスの復讐にもサイタマのヒーロー道にもこの世界の未来にも巻き込まれたくない。傍観者でありたかったんだ。関わり合いになりたくないんだ。

 じゃあ、何でこんな必死こいて、人混みに逆らってまで走ってんの?

 どうしようもなく泣きたい気分だった。

 自分が何をしたいかさえわからないなんて。するべきことはわかっているはずなのに。

 流れもしない汗を、涙を、拭うふりをした。

 血も汗も涙もない。

 人間じゃないんだから。

 

 ──俺には関係ない!

 

 そうだ。どうでもいいことじゃねーか、

 

「が……がんばれ、お兄ちゃん!」

 

 目の前で。

 うさぎのぬいぐるみを抱いた少女が、ジェノスを見て。そう、声を枯らして叫んだ。

 ジェノスが、深海王が、彼女を見た。

 

「──うるさい」

 

 呆れたような一言だった。それとともに、唇から噴き出す黄色がかった液体。

 ──溶解液。

 

「ガキは溶けてなさい」

 

 蹲っていたジェノスが、立ち上がって。

 でも、それより俺のほうが早かった。

 伸ばした手から空を走る能力が、宙を舞う溶解液を凍らせて。誰に掛かるでもなく、粉々に砕け散った。きらきらとその破片が煌めいて、

 

「セツ、────」

 

 その向こう側で、ジェノスが俺を見ていた。

 彼が何かを言って。

 その意味を捉えるより早く、ぶつっと。

 線でも抜いたかのように五感が途切れた。

 

 

 

 

「っ、……」

 

 深海王に、シェルターの外まで殴り飛ばされたのだ、と気づいたのは、それから少し経って。

 雨の降りしきる道路に倒れているのを知覚してからだった。

 起き上がろうとして。

 上手くできない。頭蓋が割れそうなほど脳味噌が激しく脈打っていて、気持ちが悪かった。

 まだ生きている。それが不思議なくらいだった。

 

「ごぷっ、」

 

 途端に喉の奥から迫り上がってくる鉄錆臭さ。衝動に逆らわずぶち撒けると、手のひらと濡れた地面に鮮烈な赤が広がった。

 吐血するなんて初めてだった。何だか漫画みたいだ。ぼたぼたと血を唇の端からこぼし続けながら、そんなことをぼんやり思う。

 痛くはなかったが、苦しかった。

 体が思ったように動かない。どこかの骨でも折れているのだろうか。

 ああ。

 

 ──本当、何やってるんだろうな、俺。

 

 とっさに体が動いていた。

 子どもを助けたかった。違う。

 ジェノスを助けたかった。

 違う。

 

 ──何のために?

 

 自己満足、自己満足、自己満足。

 自分の衝動を満たすための自慰行為。

 吐き気がする。あ、もう吐いてるか。

 くだらない。

 心の底から噛みしめる。

 お前なんか生きてる価値ないよ。

 そうとしか言えない。自分の人生ってものを思い返してみて、何か意味のあることを成した経験がひとつでもあるか?

 挫折さえない人生が一番つまらない。

 人に語れるようなことは何ひとつ無いんだ、本当に。運と時勢でできたレールを走る『普通』というトロッコにたまたま乗れただけ。

 それが一番良いのかもしれない。でも、それって俺が何かすごかった結果じゃないだろ?

 誇るようなことじゃない。

 だから、何が言いたいかってさ。人間って、こんな人生でも「死にたくない」って思えるんだなって。驚いてるんだよ……ちょっと。

 親の顔さえもう満足に思い出せないのに。そう。21年間世話になったはずの人間のことを、今の今まですっかり忘れていた。最低だと思う。

 なんで生きてるんだろうな。

 俺だって俺みたいなヤツは嫌いだよ。うじうじして、鬱陶しくて、自己愛だけは強い間抜け。利己的な矛盾と自己の正当化、その繰り返し。見ているだけで気分が悪くなってくる。

 死にたくない。

 馬鹿らしい。あああ、馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿、

 どうせ誰からも嫌われる勇気なんかないくせに。世界に居場所がないならいっそ死んでしまいたいと思っている。人は一人では生きられない。これは呪いだ。

 死んじまえ。

 

 ──じゃあさ。例えばの話だよ。

 

 好きな作品に転生できたら、何がしたい?

 昔はよく見たチートでハーレムとか、馬鹿っぽいなと思ったりもするけど。やっぱりそれくらいじゃないと、転生した旨味がないじゃん。

 俺は最強主人公になりたい訳で。

 楽して生きたいんだ。

 だから──今みたいな状況とか、全然望んでない。何が悲しくて殺されかけてんだよ。

 もっとさあ。もっと、なんかないの。

 ていうか、もっと上手くやれると思ってたんだよな。なんか、全然上手くいかないけどさ──

 

「また鬱陶しいのが出てきたわね」

 

 深海王が、優雅に道路へ降り立つ。

 でも、そんなのはもうどうでもいいんだ。

 

 ──俺、小さい頃ヒーローになりたかったんだよ。

 

 誰かが言った。スーツ姿の誰かだった。

 そっか。俺はなりたくなかったよ。

 ヒーローなんかなりたくなかった。

 ずっと誰かに守ってほしかった。何の責任も負いたくなかったし。誰も助けたくなかった。

 男らしくない?

 でも、そんなの誰だって同じじゃないか。

 俺は悪くない。

 永遠に被害者でいたかった。誰かを傷つけるくらいなら俺が傷ついていたほうがマシだった。

 だってそれなら誰かが悪いことになる。

 

 深海王の巨大な手が、ねずみでもつまむように俺の体を捉えて。簡単に持ち上げる。その右手は凍りついていて、オートガード自体は作用していたんだな、とぼんやり考えた。

 至近距離で睨みつけられる。抵抗する余力も気力ももう、出てきそうになかった。

 重篤なダメージを受けたせいか、能力の出し方がよくわからなくなっている。

 

「効果が見せられなかったじゃないの」

 

 死にたくない。死んでしまいたい。

 俺の人生に価値がないなんて、俺が一番良くわかってるんだよ。だから、

 

「あなたで試してあげるわね」

 

 あーあ。死んじゃった。

 終わる時はあっさりしたもんだよ。怖いとか、死にたくないとか、案外思わないもんだ。

 死んだらどうなるんだろう。

 どこに行くんだろう。

 初めての死亡者だ。だって、深海王編ではあれだけされて誰も死んでなかったんだぜ。みんな、どう思うんだろうな。

 俺が死んだら。

 

 

 俺が死んだら、サイタマは、?

 

「──────、」

 

 まとまりも意味もない走馬灯が、そこでおもむろに打ち切られた。

 ぐっと後ろに引っ張られる感覚がして、尻から濡れたアスファルトに着地する。

 痛え。そう思った。

 一体何が。解放されたのか? 何故。

 というか、重いんだけど。何かが思いきり伸し掛かってきている。

 回らない頭で、肩口に覆いかぶさるその“何か”に目をやって──頭が真っ白になった。

 

「…………ジェノス?」

 

 びっくりするくらい、間抜けな声が出た。

 背中全体が溶け落ちて、頭蓋が露出した機械のボディが、力なく俺にもたれかかっていた。

 見覚えのある光景だった。

 そして、防いだはずの光景だった。

 深海王の溶解液──いや違う、おかしい、こんなのは有り得ないんだ。

 確かに助けたはずだ。フラグを折ったはずだ。

 それだけが俺の意味だったはずなのに。

 

 ──その彼がなぜ、今。俺の膝の上で、溶解液のダメージに苦しんでいるんだ?

 

 わからない。何も、わからなかった。

 混乱の極みの中で、未だ白煙を上げ続ける彼の体に手を伸ばそうとして。

 

「触るんじゃない、」

 

 ノイズ混じりの、けれど聞き覚えのある声で咎められる。

 ジェノスだ。本当に、ジェノスなんだ。

 馬鹿みたいな話だが、そこでようやく事態を飲み込めた。涙が出そうになった。

 ジェノスが、少女ではなく、俺を助けて。溶解液を浴びた。結末としては“原作通り”に。

 事象は収束する。

 そんな、どこかで聞いたような決まり文句さえ頭に浮かんでこなかった。何で。なんで、

 

「なんで……俺を……」

 

 口元を押さえる。また吐きそうだった。

 俺が彼から『ヒーロー』を奪ってしまった。一般人を助けてヒーローになるはずの彼だった。俺なんかを助けることで傷ついてしまった。

 違う。違うんだ。

 こんなのはおかしい。

 こんな事態を望んでいた訳じゃない。それじゃ、俺は一体、何のために。

 

「……ぉえ、」

 

 えずいても、血が数滴垂れただけだった。

 

「あなた一人ならあんな溶解液躱すくらい、簡単だったでしょうね」

 

 深海王が、淡々と呼びかけてくる。

 どこかで聞いたようなセリフだ。そう思った。

 

「まさか雑魚を庇って自滅するなんて、私も考えつかな、────」

 

 雑魚。違う。“ガキ”じゃない。

 やり直したい。何もかもやり直したかった。

 そこの席には、あの女の子が座るはずだったのに。それが彼をヒーローたらしめてくれるはずだったのに。何の価値もない、こんな──

 

『静かに』

 

 ──深海王が、突然黙った。

 否。俺が“黙らせた”。

 巨大な氷柱が閂代わりに突き刺さった間抜けな顔で、彼だか彼女だか──よくわからない、とにかく怪人が、俺を呆然と見下ろしている。

 それを真っ直ぐ、睨みつける。

 もういい。もう、わかった。

 もうじゅうぶんだ。

 

「その通りだ」

 

 そうだ。

 全部、俺が悪い。

 

「うるさいんだよ、お前」

 

 唇の血を手の甲で拭って。ジェノスの体を慎重に脇へ退けて。立ち上がる。もう、不思議と体は動くようになっていた。

 手足がはっきりと、自分の物として動く。指先まで確かに神経が通っているのがわかる。能力の網も、糸も、今ははっきり感じ取れた。

 俺が生きているこの世界と。“ワンパンマン”という原作の世界が、ゆっくり、重なり合って。

 ずれていたそれらが、ひとつになる。

 ゲームのラグがようやく直ったような感覚。

 俺は今、ここに立っている。

 

「はあ……」

 

 ぐるっと、首を大きく回す。雨は相変わらずドン引きするくらい元気に降り続いている。

 一歩、足を踏み出す。

 さざ波が広がるように、冷気が地を這って広がっていくのを感じる。踏みしめた部分から、早送りのように凍りついていく。

 深海王もこちらに身を乗り出そうとして、

 

「……あら?」

 

 その両足は、既に地面へ張りついている。あっという間に、道路一帯がスケートリンクの如く様変わりしていく。そして、

 

「……雪……?」

 

 野次馬の誰かがそう呟いた。

 急激に気温が下がったせいか。雨の代わりに、ちらちらと大気を舞い始める白いもの。

 氷柱を引き抜いた深海王が、不気味そうに顔を歪めた。

 

「何なの、あなた」

「……何なんだろうな……」

 

 俺が何者か。俺が聞きたいくらいだよ。

 ただ、凍りついた世界はどうしようもなく落ち着いて、居心地が良かった。息を吐く。雨が降っているより、燃えているより、ずっと良い。

 ただ、深海王にはあまり良くない環境なのは間違いないようだった。

 顔の傷が治りきっていない。やはり、治癒能力は周囲の環境頼りだったか。

 あとは、全身凍らせればいい。こいつは水棲生物だから、機械を相手取るより楽なはずだ。

 そう思った、けれど。

 

「っ、」

 

 手をかざした瞬間に、ずきんと、頭が痛んだ。

 慣れてしまったいつもの頭痛。

 こんな時に。

 まだ始めたばかりじゃないか。せっかく、こんな、タイミングが悪すぎる。苦い気持ちになる。

 能力を使いすぎた。それとも、ここに至るまでにダメージを受けすぎたか?

 こんなふうじゃこいつを倒しきれない。

 いつもよりずっとハイペースで頭痛が襲ってくる。目眩がする。思わずふらついた。

 深海王が侮蔑したように鼻を鳴らしたのがぼんやり聞こえた。

 

「……具合悪そうじゃない」

「お前もな、」

 

 最悪の根比べだ。

 こいつがくたばるのが先か、俺がダウンするのが先か。とにかく気温を保ち続けなければ、こいつの再生能力に太刀打ちできないのに。

 

「う……」

 

 我慢。我慢だ、耐えろ。

 ここを凌ぎさえすれば、もう何でもいいんだから。こいつを倒すだけ。今の俺にとっては赤子の手をひねるようなものじゃないか。

 

「……っ、」

 

 手のひらにぬるっとした感触が広がる。

 いつの間にか、鼻血が出ていた。

 痛い。頭だけではない、もはや全身くまなく。立っているのが不思議なくらいだ。

 ガンガンと、頭蓋に大音量のスピーカーを貼りつけたような、耐え難い痛みが襲い続けている。

 頭そのものが脈打っている。

 ぐにゃぐにゃと視界が歪んで、全く焦点が定まらない。嘔吐感と目眩が交互にやってくる。

 絶望が、胸の内側で膨らんでいく。

 ここで俺がヤツに勝てないのも、シナリオ通りだと?

 

 ──……ろ…………

 

 そこで。

 どくどくざあざあと、ノイズのような血流の音に混じって、何かが聞こえてくることに気づいた。こんな経験は初めてだった。

 何だ。わざわざ耳を澄ますまでもなく、その声だけがみるみるクリアになっていく。

 

『凍らせろ』

 

 淡々とした、命令口調。

 どこかで聞いたような声だ、と思った。

 ──俺の声だった。

 

『冷やせ』

 

 俺に言っているのか。呼びかけているというよりは、ただ繰り返しているような調子。でも、その呼びかけはどんどん大きくなっていく。

 

『静かに』

 

 もう、何も聞こえない。周囲の音は何ひとつ耳に入ってこない。この呟きだけが。

 内なる自分、なんて綺麗なものではない。

 あの、怪物が。キャパシティの向こう側から顔を覗かせて、俺に語りかけている。

 

『何もかもを』

 

 途端、フラッシュバックするあの景色。

 燃え盛るアパートの一室。近づいてくるマグマ人間。どうして。終わったことなのに。

 嫌だ、

 

 あああ熱い、熱い熱い熱い熱い!

 助けて、違う、冷やさなきゃ、消さなきゃ、

 この火を無くさなきゃ、

 死んでしまう!

 

「消えろ、消えろ、消えろ……」

 

 火を消せ! 

 死にたくない、それでしか生き残れない。

 だから、違う!

 

「うるさい、」

『殺せ!』

 

 殺せ、殺せ、殺せ。

 最終的には、壊れたレコードのように、それしか繰り返さなくなった。

 怪人になれ!

 そして殺せ。

 何を。何もかもを。──人間を?

 

 

「──ジャスティスクラッシュ!」

 

 その瞬間。ふっ、と。

 その叫び声が、耳に飛び込んできた。何の前触れもなく、いきなりのことだった。

 沈み込んでいた意識が内側から外側へ、勢いよく引き戻されて。ようやく静かになった五感で、声の主を捉えた。

 緑色のヘルメット。ゴーグル。黒いスーツ。

 それが、深海王を見据えていた。すうっと、深く息を吸い込んで、

 

「正義の自転車乗り、無免ライダー参上!!」

 

 無免ライダーだ。

 無免ライダーが来てくれた。

 戦いを見守っていたらしい住民の誰かが、震える声でそう口に出した。

 でも。

 

「加勢に来たぞ!」

 

 彼──無免ライダーは俺を見て、頷き。それだけをはっきりした声で告げた。

 

「加勢……」

 

 加勢。ヒーローに、ヒーローとして。

 そんな資格ない。俺はヒーローじゃない。それはわかっていても、どうしようもなく安堵する自分がいた。紛れもない事実だった。

 無免ライダーが、優しい笑みを浮かべてみせる。

 

「もう、大丈夫だ。俺に任せてくれ」

 

 ただ、面白くないのが深海王だ。俺という異分子の登場で、明らかに原作より追い詰められた様子の彼は苛立った様子で舌打ちをする。

 

「……また使えなさそうなのが、」「黙れ」

 

 無免ライダーのおかげで、少し冷静になれた。減らず口を叩こうとする口を、最後の力を絞って再び氷柱で縫いつけてやる。

 

「口を開けば罵倒に嘲笑。王の器じゃねーな」

 

 その口枷を牙で噛み砕いて処理しながら、わかりやすく青筋を立てる深海王。ああ。お前がここまで平常心を失った姿が見られるなら、やってきたことは無駄じゃなかったと思うよ。

 

「何を、」

「とうッ!」

 

 俺に気を取られたところで、深海王の背後を取って殴りかかる無免ライダー。

 

「鬱陶しいのよッ」

「ぐふっ」

 

 しかし、残念ながら彼我の差は冷静さを失った程度で埋められるようなものではなく。羽虫を払うような一撃で、地に沈むその姿。

 そこからさらにアスファルトへ叩きつけ、最終的に天へと殴り飛ばす。明らかにオーバーキルだった。

 肩をいからす深海王はこちらに向き直り、

 

「まず……あなたから殺、」

 

 その死刑宣告が、中途半端に途切れた。深海王が、ゆっくりと肩越しに背後を振り返る。

 

「あう、ううぅ……」

 

 ズタボロの無免ライダーが、それでもがっちりとその腰にしがみついていた。 

 

「……期待されてないのは、わかってるんだ……っぷ、」

 

 再び、一撃で弾き飛ばされる。けれど、無免ライダーの語りは止まらない。

 ──C級ヒーローが大して役に立たないなんてこと、俺が一番良くわかってるんだ。

 特別な力も何もない。

 俺じゃB級で通用しない。

 

「──自分が弱いって事は、ちゃんとわかってるんだ!」

 

 彼の吠える声が、鉛色の空に響く。

 胸が痛かった。

 何度も見たセリフだ。反復したセリフだ。

 『感動の名場面』だとかラベリングして、好き勝手に消費していたワンシーンだ。手垢がついて擦り切れたと思い込んでいた場面だった。

 

「俺がお前に勝てないなんて事は、ッ……俺が、一番、よくわかってるんだよぉッ……!」

 

 地面を叩いて。震える手足で、体を起こす。

 

「それでも……やるしかないんだ、」

 

 立ち上がろうとする。──立ち上がる。

 ああ。弱いよ。俺は弱い。

 どうしようもなく弱いんだ。そんなこと、言われなくてもわかってる。

 

「彼女と同じだ、……勝てる勝てないじゃない、ここで俺は、お前に立ち向かわなくちゃいけないんだ!」

 

 いつの間にか、再び降り出した雨に濡れて。

 無免ライダーは確かに、そう叫んだ。

 

「……無免ライダー!」

 

 思わず、俺が叫んだのを皮切りに。

 

「……頑張れええ!」「そいつをやっつけてくれええ!」「あんたが頼りなんだよおお!」「無免ライダー!」「口から吐く液に気をつけてぇえ!」

 

 ──恐ろしいほどの大合唱になった。

 隕石落下の時と同じだ。人の気持ちは、どうとでもなるものなのだ。それは失望ではなく、希望だった。

 深海王が再び舌を打って、そちらに意識が引き戻される。

 

「だから無駄だって、」

「無駄」

 

 彼に向かって振り下ろそうとした拳を、凍りつかせる。

 もう余力なんてない。ほとんど絞りカス、最後の意地だった。どうしてもムカついた。何の権利があってお前がそんなことを言ってるんだ。

 

「無駄、無駄、無駄……!」

 

 無駄。何が無駄?

 無駄なのはお前のほうだ。

 怪人なんて、

 

「怪人なんて誰でもできるくせに」

 

 誰だってなれる。なりたくなくたってなれる。

 電気の紐でシャドーボクシングしているだけで、警察官に逆恨みしただけで、死にたくなかっただけで。それだけで、簡単になれてしまう。

 こいつはいわゆる怪人じゃないが、それでも自分の意志で勝手に地上へ乗り出してきただけだ。そんなこと誰だって考えつく。

 それが。そんなものが。ヒーローより素晴らしいなんて、今の俺にはどうしても思えなかった。

 なんも偉くねーんだよ、そんなもん。

 何が王だよ馬鹿馬鹿しい、誰でもできる無駄なことで他人見下して。

 本当に気持ち悪いよ、お前。

 

「……はァ?」

「ふふ……ははっ、……ああ……」

 

 怪人にはなりたくなかったよ。

 誰かにずっと守られていたかった。

 ヒーローにはなりたかった……のかもしれない。本当は。

 でも、俺にはもう無理だ。俺は間違いだらけで、自分さえ良ければ本当にそれで良いんだ。

 ジェノスは偉い。俺なんかよりずっと偉い。無免ライダーもスネックもブンブンマンもジェットナイスガイもオールバックマンも、本当に偉い。

 怪人なんかより、ずっと尊いものだった。

 今、なんとなくそう思った。

 

「よくやった」

 

 ──そうして、“彼”が現れる。

 

「ナイスファイト」

 

 ふらふらだった無免ライダーをしっかり背後で支える、マントにヒーロースーツ姿のスキンヘッド。まだ意識があったらしい彼が、その姿を見上げて小さく息を呑んだ。

 

「きみは、……」

「おう」

 

 軽い調子で答えてから、地面に蹲るジェノスに視線をやって、目を剥く。

 

「お、おいジェノス、おま……生きてんのかそれ!?」

「先……生……」

 

 それから、膝をついた俺を見て。

 

「……セツナ、」

 

 少し、驚いたようだった。いや、違うかもしれない。何と形容したらいいのかわからない顔をして。

 誤魔化すように、スキンヘッドを掻いて。

 

「まあ……心配すんな。ちょっと待ってろ」

 

 サイタマ。サイタマが何か言っている。

 でも、もう限界だった。顔を見たら、どっと疲れが出たような気がする。座っているのももうしんどいくらいで。

 

「今。海珍族とやらをぶっ飛ばすからな」

 

 意識があったのは、そこまでだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──気づいたら、全てが終わっていて。

 腹に風穴の空いた深海王は地面で干乾び、群衆はサイタマを遠巻きに冷めた目で眺めていた。

 それで、俺は。なぜか、そのサイタマの膝を枕にした状態で、目が覚めた。

 

「セツナ」

 

 目が合って。サイタマが、ほっとしたような声音で俺の名前を呼んだ。グローブの指が、体液で酷いことになっているだろう頬を撫でる。

 濡れた地面に座って嫌じゃないのかとか、一番大事な時に味方になってやれなくてごめんとか、色々言いたいことはあったけれど。

 

「スーツ、……汚れる……」

「何言ってんだ」

 

 軽く笑い飛ばされて、よいしょ、と。何の予備動作もなく、横抱きの姿勢で抱き上げられた。

 

「ジェノスも無事だったよ」

 

 それは良かった。

 良かったけれど、彼は俺のせいで。

 

「……帰ろうぜ、」

 

 支える手に、少しだけ力がこもった気がしたけれど。それを意識するより早く、サイタマが晴れ晴れとした顔で、青が広がる空を仰ぐ。

 

「よし。雨も止んだな」

 

 つられて、空を見た。

 数時間ぶりの陽射しが、刺すように目に染みたけれど。もう、涙も出なかった。





超能力者が鼻血出すの好きなんですよね


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泥濘に堕つ

 ──夢を見た。

 

 コンクリートの長い階段。その天辺にある車止めに腰掛けて、女が街を見下ろしている。

 白い長髪が風に揺れていた。景色に不釣り合いな、縞模様のパジャマ姿を身に着けていた。

 鉛色に鈍く陰った空の欠片が剥がれ落ちて、はらはらと宙を舞っている。

 ぶらぶらと、裸足の爪先が揺れる。

 何の迷いも憂いもなさげに。

 

『──────、』

 

 白い街。冷たい街。静かな街。

 自らで作り出した芸術作品を、満ち足りた気持ちで眺め回す。今まで味わったことのない充足感だった。

 ああ。良い気分だ。

 二度と晴れることのない空を仰いで、研ぎ澄まされた刃のような空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。

 素敵だ。素晴らしい景色だ。

 

『────せ、』

 

 もう、何もつらいことはない。

 悲しいことも、頭を悩ますようなこともない。全て、凍って無くなってしまった。

 これまで何に苦しんできたのだろう。本当に馬鹿げた時間だった。

 そこで、はたと我に返る。

 いや、待てよ。

 どうして“俺”はこんな気持ちに?

 

 

 ──女が、ゆらりとこちらを振り返る。

 “目が合った”。

 血の気のない唇を真一文字につぐみ。凍りついたような無表情のまま、瞬きもせずにじっと、その目で射抜いてくる。

 青い瞳。透き通ったアイスブルーの虹彩。不気味に光り輝くそれが、“俺”を見て。

 薄い唇が、

 

『殺せ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ッ、」

 

 そこで──おもむろに意識が浮上した。

 びくっと、雷に打たれでもしたかのように跳ね上がる手足。それを思考の外で知覚した。

 ぼやけたようだった五感が、四肢の感触が、自らのものとしてはっきりと感じられる。

 真っ暗な部屋。そのベッドの中で、体を丸めている。

 一瞬混乱しそうになって、すぐに思い出した。

 深海王をサイタマが倒して──あの後。

 ヒーロー協会から「病院に行け」というような旨の連絡が来たけれど、断った。当然だ。ただ生活しているだけでひやひやしているのに、あれこれ体を検査されたりしてはたまらない。

 それから、サイタマとZ市まで帰ってきた。

 

「…………ゆめ、」

 

 夢。思わず、呟いていた。

 そうであれ、と祈る響きがこもっていた。

 気持ちの悪いほどリアルな夢だった。握りしめた、錆でざらついた車止めの感覚がまだ手に残っている。いや。違う。あの女は俺じゃない。

 頭を振って、掻き消す。

 ──大丈夫。

 大丈夫。あれは夢。現実じゃない。

 大丈夫のはず、なのに、

 

「う……」 

 

 口元を押さえる。

 頭が重い。視界が安定しない。

 何だか、ものすごく気持ち悪かった。アパートに辿り着いてからの記憶がないが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 気分が悪い。じっとしていられない。

 言語化できない焦燥感に突き動かされて、這うようにしてベッドから出る。

 今は何時なのだろう。

 ええと、それで、何だっけ──

 

『殺せ』

 

 ざっと。頭の中にノイズが走った。

 また、“あの声”だった。

 

「違う、」

 

 ぞわり、背筋が戦慄く。

 悪寒と、目眩。

 よろけて、壁に手をついた。そこで、ぼんやりとした違和感を覚えた。壁紙の触り心地が、やたらとなめらかに感じる。

 まず、手のひらを見て。何ら変わりないそれから目を離し、ふと壁に目をやって。

 ぎょっとした。

 

「……なんだこれ、」

 

 ──部屋が、凍っている。

 そうとしか形容のできない景色で。何度目か、見覚えのある風景だった。

 固く閉ざされたカーテン、白く粉をまぶされたようなインテリア。死んだような空気。

 吐きそうになりながら、明らかに異質な室内を恐る恐る見渡す。

 俺がやったのか、無意識のうちに。

 覚えがあるゆえに、気分が悪い。楽しいなんて微塵も思わなかった。

 

「っ……」

 

 掴んだ寝間着の胸元から、生地が凍っていく。

 今までこんなことなかったのに。そんな焦りが微かに脳の表面をよぎって、気分の悪さですぐに押し流されていく。

 縞模様がさらさらと、砂のように崩れていくのを呆然と見守って。考えが追いつかないのに、おぞましい現状だけが次々と視界に流れ込んでくる。

 

『凍らせろ』

「やめろ……」

 

 侵食は止まらない。ついに、身に着けていたものが全て氷屑と化して。露わになった自分の体が何ともないのが、不思議なくらいだった。

 一糸纏わぬ姿になってしまったが、今さらそれに対する気恥ずかしさは感じなかった。この状態では新しい服を探しても無駄だろうし、それ以上の恐怖が胸を占めていた。

 部屋の外は──どうなってる? 街は?

 とっさに想像して、怖気が走った。

 もし。もし、既に街さえ凍らせてしまっていたとしたら。俺が昔、思い浮かべた通りに。

 夢と同じ風景に。

 心の底から望んだように。

 

『冷やせ』

 

 原因はわかっている。

 能力が暴走した。

 何故、と困惑はしなかった。原因はわかっている。既に前例があるのだから。

 深海王の一件で、つい力を使いすぎた。そのしっぺ返しが来たということだ。

 なんで。どうして。いや、全ては自業自得だ。

 悔やんだって全ては手遅れ。

 

 ──もう、戻れないかもしれない。

 

 それを今さら知覚して、呼吸が荒くなる。ジェノスの姿が、無免ライダーの顔が、泡のように浮かんでは消えていく。昨日のことなのに、もはや遠い昔のように感じられた。

 

「ヒーロー、」

 

 うわ言のように繰り返す。

 ヒーロー。ヒーロー、ヒーロー……馬鹿げてる。なれる訳ないだろ、こんな体で。

 なりたかったよ。

 でも、俺じゃなれない。期待や努力を超えた次元での諦めが、喉につっかえて飲み込めない。

 心構えや勇気の問題じゃない。

 俺は普通じゃない。怪人なんだから。

 頑張るんじゃなかった。あんな、何のために俺は。違う、こんなこと考えたくない。

 放っておけばよかった。

 違う。

 

「嫌だ……」

 

 もう、何もかもがぐちゃぐちゃだった。

 その場で蹲り。

 思わず、頭を抱えて。

 

「──────、」

 

 そのこめかみから伸びる違和感に、叫び出しそうになった。

 鏡を覗くまでもない。そんなレベルではもはや収まっていなかった。側頭部から髪をかき分けて生えた──ねじくれたツノ。

 到底隠せるようなサイズではない。キャップでさえ誤魔化せそうにはなかった。

 もちろん、ここまで肥大化したことなんてない。元に戻るかさえわからなかった。

 

「あ、ぁあ」

 

 掠れて引き攣れた悲鳴が、喉奥から漏れた。

 落ち着け。落ち着いてなんかいられない。

 冷静に──ビー・クール。笑えない冗談だ。改めてそう思った。

 ツノ。ツノが。どうしよう。

 このまま戻らなかったらどうしよう。本当に怪物になってしまったらどうしよう。

 冷え切って沈黙した部屋の中で、ばくばくと心臓だけが落ち着きなく脈打っている。

 

『静かに』

「違う」

 

 寒くなんてないのに震えが止まらない。両肩を抱いて、がたがた震える。

 違う。こんなのはおかしい。

 おかしいんだ。

 俺が望んだ現実じゃない。

 

「……覚めろ、」

 

 気づけば、そう口に出していた。

 そうだ。これこそが忌むべき悪夢。俺が本当に目覚めなければいけない暗闇なのだ。

 背中を丸めて、ひたすら自らの頭を拳で叩く。気が狂ったとしか思えない光景だったが、そうでもしないと正気を失ってしまいそうだった。

 否、もうおかしくなっているのかもしれない。

 

「覚めろ、覚めろ、覚めろ……」

 

 呪文のようにぶつぶつ呟く。

 夢ならどうか覚めてくれ。何もかも、悪い夢の延長線上であってほしかった。

 ああ、ほら。

 俺はこんなにも弱い。

 いっそ狂えてしまえば良かったのに。

 

 

 

 

 ──そんな調子だったので、扉の外から気配が近づいてきていたのに、全く気づけなかった。

 

「………………」

 

 嘆くのにも、いい加減疲れ果て。

 ふと顔を上げたところで、ようやく外で、話し声のようなものがしているのに気づいたけれど。

 時すでに遅し。

 ばこっ、と鈍い音がした。

 

「あっ、…………」

 

 そして、「やべっ」みたいな声。

 暗闇に近かった室内に、さあっと四角形の光が降り注ぐ。それが爪先を掠めて、投げ出していた足をとっさに引っ込めた。

 何事だ。閉じこもっていた殻を強引に剥かれて壊された気分で、出入り口方面に目をやる。

 誰かが、立っていた。

 大きな長方形を片手に佇む人影。逆光で、顔がよく見えない。その人影はゆらりと面を上げ、

 

「い──いや! 別にそんな……壊して入ろうと思った訳じゃねーぞ!? 鍵かかってないのにやたら重いからちょっと引っ張ったらそれで、」

 

 慌てた様子で言葉を紡ぐ。

 サイタマ──彼にドアを破壊されたのだ。そこでやっと状況を理解した。

 鍵をかけた覚えは確かに無かったが、霜が張った影響で開かなくなってしまっていたのだろう。

 ちょっと引っ張った程度で扉が蝶番もろとも取れるかよ、とか、どう直すんだ、とか、言うべきことは色々あるのかもしれないけれど。今は、そのどれも口に出す余裕はなかった。

 サイタマが。サイタマが来てしまった。

 

 ──何故。いや、わざわざ探るような理由なんかないのか。あれだけボロボロで、治療を拒否したら当然のように心配する?

 

 そんなことはどうでもいい。

 どうしよう、どうしたらいい。

 見られたら。この姿が、知れたら。どうしても頭をよぎるワード。

 

 ──怪人。

 

 言い逃れしようがない。排除すべき危険分子。殺される。殺される、殺される、

 ただでさえ落ち着かなかった心拍が、ますますテンポを上げていく。胸を押さえる。

 

「…………セツナ?」

 

 異変に気づいてしまったらしい彼が、いつもより慎重な口ぶりで俺の名前を呼んだ。

 やめろ。帰ってくれ、頼むから。

 どうしたら、彼を穏便に追い出せるだろう。駄目だ、頭が回らない。そんな魔法みたいな解決方法が存在するとも思えなかった。

 

「そんなとこで何やってんだよ」

 

 のんびりと、気の抜けた呼びかけ。普段なら安心するはずのそれに、今は恐怖しか覚えない。 

 殺される。つい、頭をよぎる。

 死にたくない、死にたくない、死にたくない、

 

「ていうかこれ、」「来るな」

 

 ──思った以上に冷たい声が出て。

 ざくざくと、テンポ良く霜を踏みしだいていた足音が不自然に止まった。

 発言を宙ぶらりんにしたまま、サイタマが俺の背後に立ち竦んでいる。

 怖い。恐ろしい。……惨めだった。

 怪人だとか、バレたら殺されるかもしれないとか関係なく。こんな惨めな姿、見せられない。

 見てほしくない。

 死んでしまいたい。

 

「……見ないで、」

 

 せめてもの抵抗で、頭を抱え込むように、より深く背を丸めていく。

 サイタマはまだ黙っている。

 嫌われたのかもしれない。そりゃそうだ、幻滅されても、不気味がられても仕方ないだろう。

 

「……はあ」

 

 低く、息を吐き出す響き。それだけで、むりやりちぢこめた肩が勝手に跳ねる。

 けれど。サイタマは、その場から踵を返すことも、俺を罵ることもしなかった。

 その代わりに、

 

「なんかさ、」

 

 不自然に弾んだ声が、虚空に木霊する。空元気を出そうとして、強引にトーンを上げたような響きだった。

 

「冷凍庫みてーだな。俺、スーパーでバイトしてた時期あってさ。こういうとこから品出しとかしてた……今、ちょっと思い出したわ」

 

 言いながら、再び足音が近づいてくる。ほっと胸を撫で下ろすと同時に、恐ろしさを覚えた。

 サイタマは、何を考えているんだ。これから何をするつもりなんだ。全くわからない。

 今の俺は、普通じゃない。

 いや、ずっとなんだ。

 平気になったふりをして、実のところ、何も大丈夫なんかじゃなかった。3年前からずっと。

 変わってきたふりをしてきただけだ。

 

「サイタマ、」

 

 目的が、意味がわからない。恐ろしい。

 咎める意味を込めて呼びかけても、サイタマはとうとう止まってはくれなかった。

 恐ろしくて──惨めだった。どこまでも。

 負の感情がごちゃ混ぜになって、思考回路がぐちゃぐちゃに腐り落ちていく。

 嫌がっていようが関係ない、俺の意思なんてどうでもいいと思ってるんだろ。違う、どうして俺はこんな卑屈なこと考えてるんだ?

 どうなってでも生きていたい気持ちと、こんな恥を晒してまで生きていたくない気持ちと。

 耐えきれないから殺してくれ。

 嫌だ、死にたくない。

 サイタマなんて嫌いだ。

 サイタマだけじゃない、ジェノスも、ヒーローも、この世界も、みんなみんな大ッ嫌い──自分の居場所が見つけられないからガキ臭く拗ねてるだけだ、そんなこと俺が一番よくわかってる、

 

「ぉぼぁ」

 

 ──サイタマの濁った叫びで、我に返った。

 とっさに顔を上げる。彼が、グローブの両手で目元を覆った半端な格好で仰け反っていた。

 何、と身を竦ませるより早く、

 

「ぉ……おま、なんつー格好、」

 

 らしくもなく上ずって震えた声。

 それで、見当がついた。そういえば、着ていた寝間着がボロボロになって、裸同然なのだっけ。今さら他人事のように認識する。

 でも、そんな表層的な羞恥心は、この精神状態では響いてこなかった。今、恥ずかしい、見せたくない、と思うのは、もっと深い部分。アイデンティティとしての悲惨さ。

 とはいえ、サイタマとしてはまったくそうではないようで。

 

「ちょ、ちょっと待て!」

 

 勢いよく背を向けて、何かいそいそと作業していたかと思えば。ふわりと視界を覆う白。

 

「と、……とりあえず、これで、いいだろ……」

 

 肩から被さった布──彼が、ヒーロースーツの一部として身につけていたマントだった。

 わざわざ肩当てから外して、簡易的な着衣として貸し与えてくれたらしい。ひとまず、緩く掛かっていただけだったそれの前を軽く合わせて、一応前面を隠す。

 すっぽり包まる形になって、それでようやく見るに耐える格好になったらしい。わざとらしく壁を見上げていたサイタマが、俺に向き直る。

 ……何となく、こちらも拍子抜けというか。毒気を抜かれたような気分になってしまった。

 微妙な空気の中、頬を掻きながら、

 

「あー……えっと、」

 

 気まずそうに呼びかけてくる。けれど、改めて俺と目を合わせて、眉を下げてみせた。

 何か言いかけて、口をつぐんで。音にならないそれを数回繰り返して。

 最終的に、ぎこちない仕草で、しかし自然にこちらの肩を引き寄せてきた。壊れ物に触れるような手つきだった。

 しかし。

 ──触れ合うことに、反射的に強い恐怖心を抱いたのが良くなかったのだろうか。

 サイタマのグローブにさあっと霜が張り。その首筋に、氷の蔦が這う。その現象を間近で目の当たりにして、背筋が粟立った。

 存在しているだけで生まれる加害性。

 生きていることが害。呼吸することが悪。

 あのノイズが一瞬で脳を埋め尽くす。

 

 ──殺してしまう!

 

「嫌だ、」「セツナ」

 

 離れなければ。強迫観念に駆られて。

 とっさに飛び退いたところで、背後から強い語気で名前を呼ばれた。

 結局、足がもつれてその場に倒れ込む。そこに勢いよく重なってくる影。俺に覆いかぶさったサイタマが、間近でこちらを見下ろしていた。

 緊張で乱れた呼吸が整わないまま、彼を見上げる。いつもよりは引き締まったサイタマの表情。

 

「大丈夫だから。……生きてるだろ?」

 

 見つめ合ったまま、噛んで含めるように呼びかけられて、少しだけ平静を取り戻す。

 大丈夫。サイタマは無事で、生きている。

 まだ、触れるのは怖かった。しかし、ここからさらに抵抗するのも気が引けた。

 悩んでいるうちに、彼は俺を慎重に抱き起こし。その肩口にもたれかからせてしまう。

 触れて、しまった。

 

「平気だって」

 

 まだ、体が強張っているのがわかるのだろう。なだめるようにそう囁いてきた。

 そう言う彼の触れ方だって、おっかなびっくりがあからさまなものだ。まるで初めて赤ん坊に触る子どもみたいな動き。

 緊張をほぐすように、輪郭を撫で、髪を梳いてくる。

 

「だから……もう泣くな」

 

 ──泣いてないよ。

 言い返す気力もなかった。ただ、脱力して、こわごわといったふうにあやしてくる彼の手に身を任せるだけ。

 恐怖も、羞恥ももはやどこにもなく。今はただ、ひたすらに疲れていた。

 

「ほら」

 

 彼が、グローブを取った左手で、投げ出していた俺の右手を掬い上げる。目線の高さまで持ち上げて、ゆっくり指を絡めてくる。

 今度は、凍らなかった。

 

「冷たくない。な?」

 

 数度、感覚を確かめるように握り返す。

 深く指を組むと、手の甲まで覆えてしまいそうだった。大きな手。3年前と同じことを思った。

 重なった手越しに、目が合って。なぜか、得意げに微笑まれた。

 

「………………」

 

 組んでいた指をほどき。

 恐る恐る手を伸ばして、その頬に触れる。普通の人間と何ら変わりないように見える肌。だから、壊してしまうんじゃないかと怖かった。

 けれど。サイタマはただ、くすぐったそうに三白眼を細めただけだった。

 生きている。

 そっと指を滑らせて、首筋に当てた。とくとくと、皮膚の下で脈打つ血の流れを感じる。

 温かった。この世の果てのようなこの部屋の中で、サイタマは平然と、いつもどおりに息をしている。彼が。彼だけが。

 

「……サイタマ」

「おう」

 

 ごく短いやり取り。それだけでじゅうぶんだった。満ち足りていた。

 それ以降は、沈黙だけが流れた。

 サイタマの肩に半身を預けて目を閉じて、どれだけそうしていたのか。

 先に動いたのは、彼のほうだった。慎重な動作で体を離したかと思えば、こめかみ辺りに触れてくる。ずっと気になっていたが、口に出す機会がなかったのかもしれないもの。

 

「これ……何だ? ツノ?」

 

 ──どきりとした。

 誤魔化しようがないほど成長したそれに触れるサイタマの口調は、単純に興味深そうなだけであったが。それでも、収まりかけていた焦燥感と怯えが、再びぐつりと沸き上がるのを感じた。

 何もかも、このツノが悪い。

 こんなものがあるからいけないのだ。

 これのせいで俺は。

 胸の内で渦巻くその感情は、今さらどうにも抑えられそうになかった。衝動に任せて、告げる。

 

「折って」

 

 無くなりさえすれば、少しはマシになる。

 化け物の姿からは解放される。

 そんな安直な考えだったが、当然というべきか、サイタマの反応は鈍かった。

 

「え、」

「これ……」

 

 ツノに触れるサイタマの手に、自分の手をさらに重ねて、握らせる。感覚はやはり薄く、例えて言うなら毛先に触られているのと同じような、それよりももっと鈍いレベルだ。

 

「折る、って……お前から生えてるヤツだろ」

 

 漠然とした口ぶり。怪人化とか、そういったレイヤーにまで到達していなさそうな軽さだった。

 予想以上に、サイタマはこのツノの理由について深く考える気はないらしい。考え込まれても困るが、怪しいくらい拍子抜けだった。単なる動力源くらいに思っているのだろうか。

 まあ、今はそれについて色々と思考を巡らすのはよそう。すぐに面倒なことにはならない。

 とりあえず、それだけでいい。

 

「こんな、……いらない、」

 

 そんなサイタマにも、俺の迫真の訴えはそれなりに響いたらしい。明らかに気が進まないようではありつつ、しかし、拒む様子も見せなかった。

 日常生活に支障がありそうだから、というようなぼんやりした理由なのか、それとも俺の剣幕を汲んでの話なのか。それはわからないが。

 ふう、とひとつ息を吐いてから、感触を確かめる以上の強さでツノを握り込んでくる。首に負担が掛からないようにするためか、もう片方の手で頭をしっかり胸元に抱き込まれて、少しどきりとした。

 

「血ぃとか通ってないよな」

 

 ぶつぶつと、小声で呟いたかと思えば。ぐっと頭部に衝撃が走り──ぽきん。

 

「……折れたぞ」「っ、…………」

 

 ごく軽い音とともに、なぜか全身を襲い来る異常な倦怠感。やはり力の源的な部分ではあったのか、いきなり四肢に力が入らない。

 

「結構、根元から綺麗に……痛かったか?」

 

 突然もたれかかってきたのを何と捉えたのか、気遣わしげに顔を覗き込んでくるサイタマ。

 それは有り難いのだが、ここまで来たからにはちゃっちゃと済ませてほしい。サイタマの手のひらに載ったツノは、ただのねじれた氷柱に見えた。彼はそれをぽい、と床に気軽な仕草で投げ捨てる。

 何となく、ほっとした。

 

「だいじょう、ぶ……残った、ほうも」

「お、おお……」

 

 息も絶え絶えになりながら訴えた結果、もう片方も無事にぽきん、と除去された。

 少し触っただけでもわかる、単なる氷ではない材質と強度だったのだが、随分と簡単に折れたものだ。いや、これはサイタマだからこそ、だったのだろうか。もしかすると、普通の人間や器具には歯も立たない硬度だったのかもしれない。

 とりあえず、悩みの種はなくなった。

 これで、見た目だけでも人間に戻れた。

 それはいい、のだが──

 

「セツナ?」

「……ねむい……」

 

 そうか。これは眠気、だ。

 ようやくぴんと来る。

 3年以上、原始的な欲求とは無縁の生活をしていたせいで、この特徴的な脱力感が一体何なのかをすっかり忘れていた。

 全てを放り出して目を閉じてしまいたい強烈な欲求。抗いがたい衝動。久しぶりに覚える。

 

「………………」

 

 人間らしく、それに逆らわず、瞼を下ろしてサイタマに寄りかかったところで。

 

「……とりあえず」

「わ、」

 

 突如全身を襲った浮遊感に、意識が勢いよく浮上した。──サイタマに、マントに包まれたまま横抱きで抱きかかえられていた。

 これも昨日ぶりか、とどこか他人事じみて捉える。眠たいとはいえ昨日の満身創痍よりは覚醒した状況で、こんな運搬のされ方は恥ずかしい。

 しかも、マントがあるとはいえ俺は全裸なのだ。恥ずかしいはずなのに、上手く口に出せなかった。

 

「こんなとこじゃ気分も休まらねーだろ」

 

 薄暗く、死んだように静かな部屋を見渡して、サイタマはそんなコメント。

 それから、唯一の光源である、プライバシーをかなぐり捨てた出入り口を見やって。

 

「ドア…………壊しちゃったしな」

 

 いや、冷静になってみれば、本当に明日からこれはどうすればいいんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まあ、ちょっとここで休んどけよ」

「あ、ありがとう……」

 

 結局。サイタマの部屋までやってきて、敷きっぱなしだったらしい布団に寝かされた。

 他人の布団にほぼ全裸で入る、人生で未だかつてない、そして今後も起こらないで(いてほしい)あろう経験だった。とはいえ、今さら「ちょっと」などと抵抗するのは逆に厚かましいだろう。

 できる限り何も意識しないようにしつつ、掛け布団を首元まで引き上げる。

 当のサイタマは、その枕元に胡座をかいて。

 

「……冷気も落ち着いたみたいだな」

 

 崩れた前髪を慎重な手つきでかき上げて、その下の表情を覗き込んでくる。

 

「お前いっつも顔色悪いから、調子良いんだか悪いんだかよくわかんねー」

 

 からからと、軽妙に笑い飛ばしてくれるその空気が有り難くて。……てっきり、もう少し話してくれるものだと勝手に期待していた。

 母親が熱心に看病してくれるものだと信じ込んでいる、風邪っぴきの子どもみたいに。

 

「ま、ゆっくり寝ろって」

 

 でも、サイタマは躊躇なく腰を上げて。俺に背を向けて離れていこうとする。その手を──

 

「行かないで」

 

 ──思わず、掴んで引き留めていた。その肌に爪が食い込むほど強く。

 そうせざるを得なかった。

 そうしないと、死んでしまう。

 少しは落ち着いたのかもしれない、と思った。サイタマも、そう思っていたのだろう。やや驚いたような顔で、肩越しに俺を見た。

 でも、駄目だった。

 一人にされると思うと、怖くて、焦って、眠るどころじゃなくなってしまう気がした。

 もう大丈夫、と思っていた不安が、ちょっとしたことで一気に噴出して、心の表面を覆う。急転直下の不安定ぶりに、自分でも驚いているくらいだった。

 惨めで、女々しい。25にもなろうかという男が抱くような不安ではない。わかってはいても、もはやどうしようもできなかった。

 恐ろしいのだ。到底、一人なんかで立ってはいられない。自分じゃ何も考えられない。

 

「怖いよ」

 

 ──怖い。

 

 思わず漏れたその一言に、サイタマが静かに目を細めた──ような気がした。

 ゆっくり、踵を返して。再び、元いた位置に腰を下ろす。それだけで、どうしようもなく安堵している自分がいた。

 半端な位置で掴んだ手を、しっかり握り直して。そうして、彼は穏やかに尋ねてきた。落ち着いた、大人の男の声だった。

 

「……お前は、何が怖いんだ?」

 

 何が? ……何もかもが。

 怖い。

 怪人協会が。サイコスが。ガロウが。アマイマスクが。ヒーロー協会が。ジェノスが。

 俺の体を受け入れない人間たちが。

 俺の魂が座る席のないこの世界が。

 ありとあらゆる全てが。

 怖くて怖くてたまらない。

 死んでしまいたい。

 

「どうしたら、お前を安心させてやれる?」

 

 ──どうしたら。

 そんなの、決まっている。

 重い瞼を上げて、彼の目を見つめ返す。

 確かな光の灯った、ヒーローの瞳を。その輝きはとても眩くて、これさえあれば、どんな暗闇でも生きていけるんじゃないかと思った。

 彼さえいれば。

 握られた手を、強く強く、握り返す。

 

「サイタマがそばにいてくれたら」

 

 それでいい。それだけがいい。

 人々から、世界から。

 俺の全てを守って。助けて。壊してくれ──俺のヒーロー、ワンパンマン。

 

 この世界で俺の手を握っていられるのはもう、お前しかいない。





短くなりそう(〜5000字くらい?)と思ってたら全然2倍近くあったので書き終わりませんでした。
サブのスマホがいきなり起動しなくなって病んでました。そんな感じです。


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ゆうべはおたのしみでしたね

 いつの間にか、眠っていた。

 夢は見なかった。

 

 

 小鳥のさえずりで、重い瞼を開ける。

 眩しい。半端に開いたカーテンから、日光が燦燦と射し込んでいるのを肌で感じる。

 

「……ん……」

 

 開ききらない目を擦りながら、あくび。

 前世からそうだったのだが、朝はいつもぼうっとしてしまう。体が変わっても改善の傾向が見られないのは、“セツナ”も同じ体質だったのか、それとも精神的な問題なのか。

 ともかく、まだ眠いとか怠いとか、そういう寝足りなさがある訳ではなかった。

 わりとすっきりした目覚め。布団に包まった状態に名残惜しさを覚えるでもなく、自然に体を起こす。

 一晩眠って、だいぶ気持ちは落ち着いていた。

 訳のわからない焦燥感も、悲しみも、気分の悪さも既にどこにもない。そこでふとこめかみに手をやったが、薄く土台のようなものが残っているだけで、頭痛もしなかった。

 ほっと、胸を撫で下ろす。

 首の皮一枚繋がっただけだとしても、少なくとも今だけはこの安堵感は揺るぎないものだ。

 大丈夫。言い聞かせる訳ではなく、淡々と、事実としてそれを認識した。

 ……何だか色々恥ずかしいことがあった気がしたけれど、それも済んだこととして水に流そう。

 

 ──部屋の中は、見慣れない景色。

 寝起きの頭では一瞬、理解が追いつかなかったが。そういえば、サイタマの部屋で布団を借りたのだっけ、と思い返す。ここ数日、イレギュラーばかりでいつもどおりに落ち着いて目覚められていない気がする。

 サイタマといえば、その当の家主はどこにいるのだろうか。狭い部屋だというのに、目の届く範囲にあの目立つスキンヘッドの姿はない。

 ……ついでにジェノスもいない。

 まあ、半壊したのが昨日の今日なので、まだ研究所で修理しているだけだろうが。

 外出中かと首を捻りかけたところで、

 

「──お。起きたか?」

 

 廊下の奥、玄関付近から声がした。

 やっぱり出かけていたのかと思ったが、短い廊下をぺたぺた素足を鳴らしてやって来た彼は。

 半裸で、湯気をくゆらせていた。

 

「全然目ぇ覚まさないから心配──」

 

 タオルで汗を拭いつつ部屋に入ってくる無防備なその姿に、妙な焦りや慌てのようなものを覚えるよりも早く。

 

「ばッ……だからお前……!」

 

 なぜか。

 サイタマのほうが目を剥いて、素早くキッチンに隠れてしまった。尻切れトンボの雑談が虚しく部屋の空気に溶ける。

 しかし、何事と思考を巡らす余地はなかった。

 言うまでもなく、今の俺は全裸で。しかも他人の家、ということをまるっきり忘れて、普通に布団から起き上がっていたのだから。

 ──つまり、乳が丸出し。

 

「あ゛っ」

 

 それを今さら認識して、慌てて布団の裾で胸元を隠す。これもサイタマの私物なのだが、そんなところで躊躇っていられない。

 昨日のどたばたとこの格好で眠ったことで、すっかり裸体に慣れてしまっていた。

 男の時だったらサイタマの如く気にしなかっただろうけれど、さすがに女性の胸となれば話は別だ。自分の認識も違ってくるし、何より社会の目が180度変わってしまう。

 “俺”の体じゃないから、と割り切ることなんてもうできなかった。見られた。公道で出してたら捕まるような部分を。テレビに映せない箇所を。

 いや、昨日はもっとすごいところまで見られてしまったのだっけ? でも暗かったから。

 ていうか、俺は過去、既にサイタマの裸を見てしまっている?

 じゃあこれでようやくおあいこだね、ってんな訳あるか。

 ああ、混乱してきた。とにかく恥ずかしい。時間を巻き戻したい。何が水に流そうだ、朝っぱらから新鮮な恥を上塗りしてしまった。

 

「……ご、ごめん……?」

「い、いや……俺も悪かった……」

 

 とりあえず謝っておくと、サイタマからも漠然とした謝罪が返ってきた。

 駄目だ、こんな状況で「わたしもサイタマの裸見たし」とか言えない。そもそも今が羞恥心の限界なのに、忘れようと努力していたセンシティブなシーンなんて思い出したくない。

 「見た?」なんてもっと聞ける訳ねー。

 絶対見たし。ほぼ正面で目合ったし。

 

「まあ……よく眠れたみてーだな」

 

 カウンターの裏に隠れたまま、サイタマがくぐもった声で雰囲気の軌道修正を図ってくる。

 

「うん……ありがとう」

 

 こちらもそれに有り難く便乗して、ひとまず建設的な話題に移る。壊れたドア──もそうなのだが、それ以上に火急の事態。

 

「服……どうしよう、」

 

 扉は放っておいてもいいかもしれないが、どう考えても服はこのままではいられない。裸族にも少し慣れてきたが、文明社会においては歓迎されない生活体系だ。

 サイタマは、顎を擦りながらふうむと唸って、

 

「うーん……お前の部屋は冷凍庫だし、俺がなんかテキトーに買ってくるしかねーか」

 

 そうなのだ。衣服も下着ももちろん予備が何着かあるが、あの状況ではもう使い物にならないだろう。

 

「別に、俺の貸してもいいけど……下着もないんじゃなぁ」

「そうだよね……」

 

 こちらとしても嫌悪感がある訳ではないが、下着含めた一式を借りるのは躊躇いがあった。部屋の洗濯機は当然壊れているから、洗って返すにもサイタマの部屋のものを使わなくてはいけないし。

 

「とりあえず、買ってくるか」

 

 ……まあ、こうやって使いっ走りにするのとどちらの程度がマシかという話ではあるが。

 せめて金は出そう、財布の中のキャッシュカードはまだ生きているだろうか、そもそも財布どこだよと思ったところで、

 

「センスには期待すんなよ。……お前のシュミとは合わねーらしいし」

「あ、はは……」

 

 何とも言えない表情を浮かべるサイタマ。

 服の話題ではそれなりに話を合わせていたつもりが、微妙に本心を見抜かれていたらしい。

 いや、サイタマ以外の誰があんなクッソブサイクなネズミのマスコットだの“毛”とひたすらに印字されたアロハシャツだのを好むんだよ。

 ……とはさすがに言えず黙っていたが、彼自身はあまり気にしていないようで。そうだ、といきなり声のトーンを上げて、

 

「お前もうちの風呂で良ければシャワー浴び、」

「──サイタマ先生!! 不肖ジェノス、ただいま戻りました!!」

「…………れば……」

 

 サイタマの気遣い溢れる提案に颯爽と割り込んでくる、150デシベル級の帰還宣言──ジェノス。

 喜ぶべきところ、なのだろう。

 あんなズタボロだったのがぴかぴかに直って、しかも俺を庇ってなのだから、平謝りして歓喜を露わにすべき場面であるのは確かだった。

 しかしタイミングがまずかった。

 あまりにも、まずすぎた。

 ついでにポジションも悪かった。布団が敷いてあった位置は、ほぼ廊下の突き当たりだった。

 突然かつ最悪の闖入者にサイタマは当然会話をやめて黙り込み、俺も言葉が出ない。

 

「………………」

 

 で、当の、無事に完全復活を遂げたらしい金髪イケメンサイボーグことジェノスは。

 まず異様な雰囲気を察知して、玄関で静止し。次にキッチンに立つ風呂上がりの師匠と、布団の中で明らかに全裸の俺を無の表情で見比べ。

 何か“理解った”顔で、

 

「…………お取り込み中でしたね」

 

 そう言い残してビデオの巻き戻しかの如くシームレスに部屋を出て行き、

 

「ジェノス!!」

 

 とんでもない勘違いの発生に秒で理解に至ったサイタマが、韋駄天でそれを引き留めに行く。

 まさか俺が全裸でその役目を果たす訳にもいかないので、部屋の中でおとなしくその顛末に聞き耳を立てることにしたはいいが、

 

「誤解だ、戻ってこい!!」

 

 その言い方だと俺がジェノスとサイタマの仲を引き裂いた泥棒猫みたいなんですがそれは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──で、数分後。

 説得の甲斐なく強硬手段で捕縛されたらしいジェノスが改めて帰宅。

 明らかに仏頂面の彼を中央に据えて、世界一参加したくない家族会議(偽)が始まった。ちなみにその際こいつまだ裸かよみたいな顔をされたが、そもそも着るものがないのでしょうがない。

 お通夜のような雰囲気の中、口火を切ったのはやはりサイタマだった。毛のない頭をがしがしと力任せに掻いて、

 

「だから……違うんだよ、お前が思ってるようなことは何もなかったっつーの!」

 

 で、そのクソの役にも立たなさそうな釈明を聞くジェノスのほうはといえば。

 

「そうですか……」

 

 一応は丁寧に受け答えしつつ、あーはいはいセックスセックス、みたいな表情が隠しきれていない。

 こいつがサイタマに対してこんなやさぐれた顔することあるんだな。俺がサイタマとヤりたがっている(誤解)ことに対しても良い気はしていなかったらしいし、潔癖気味なのかもしれない。

 そこまで深く考えるまでもなく、男子中学生マインドで色恋沙汰が嫌いなだけか。

 

「俺は別に、サイタマ先生の私的な関係に対しては何の権限も持っていませんし」

 

 これ以上言い訳を聞いても無駄と判断したのか、澄まし顔でそんなことを言い出す。

 

「先生のお好きなようにしていただければ」

「お前な……」

 

 オブラートに包んだ放任の宣言。

 まあ、状況証拠が揃いすぎていて深読みするなというほうが無理があるか。しかし、これに便乗して既成事実ムーヴをするガッツもなかった。

 ……さっきからサイタマがちらちらと「援護射撃しろ」みたいな目で見てくるが、この空気で一体俺は何を言えばいいんだよ。

 

「う、うーん……?」

 

 とりあえず苦笑してみる。

 全裸で家主の布団に入ってヤってません、じゃあ何したんだよという話である。逆に不気味。

 とはいえ、ジェノス相手に真実を話すのはまた別の意味で身の危険を感じる。わざとかどうかは知らんがサイタマもその辺りの話はぼかしているようだし、この勘違いへ曖昧に便乗しておくのが得策か、

 

「……それで、いつまでお前は全身を露出させているつもりなんだ。サイタマ先生の寝所で」

「えっ」

 

 いきなり話題を振られた。さっそくヤったヤらないの暖簾問答には飽きたらしい。

 シンプルに直視したくないのか配慮の結果なのか、視線を前に向けたまま話しかけられたので反応が遅れてしまった。というか、その意味深な倒置法は何だ。

 

「え、……えーと、ね……」

 

 どう答えるべきか。しかし、真実そのものが嘘臭いとはいえ、この場を上手く切り抜けられるようなでっちあげなんかもっと捻り出せない。

 諦めて、そのまま言うことにした。

 

「ふ、服がない、の……着れる服が……」

 

 ジェノス君、何言ってんだ馬鹿か、の顔。

 何だか今日はいつも以上に表情豊かだね、と現実逃避してみる。研究所でついでに表情筋のアップデートでもしてもらったのかな?

 

「本当なんだっつの。……これでわかったろ、何も起きてねーんだよ」

「はあ……」

 

 サイタマが付け足して、それでようやく納得してやろうという気になったらしい。

 

「で……帰ってきて早々でわりーけど、買ってきてやってくんね?」

「わかりました」

 

 で、即答。この狂・イエスマンがよ。

 サイタマ絡みでは特に即決即断即行動が基本のジェノスは、即座にそのアバウトな命令を完遂すべく立ち上がろうとして。

 

「あの」

 

 ──止まった。

 

「何、」

「……下着も、ですか?」

「………………」

 

 “本質”を突く質問に、沈黙が落ちる。

 男2人が「微妙に尿意がある」みたいな中途半端な表情で顔を見合わせ。最初に静寂を破ったのは、発端であるサイタマのほうだった。 

 

「ん……まあ……そう、だな」

「ええ……はい」

 

 男として買いづらいからノーブラノーパンで過ごせ、とまではさすがに言えない。

 そんな2人の内心がありありとわかるやり取りだった。俺もわかる。だって男だもん。

 

「そのへんもなんかテキトーに見繕って、」

「先生」

 

 ぼんやりした会話が続きそうになった中、ジェノスがいきなり確固たる意思を滲ませた口調で割り込んできた。

 

「ご存知かもしれませんが、女性の胸部には個人差が大きく、それを支えるアンダーウェアにも細かいサイズ規定が存在します」

「お、おう?」

 ──ええ……?

 

 そしてなぜかおもむろに始まるバストサイズ講座。いやそんなところまでテクニカルに詳しくならなくていいから。さっきまでの中学生キッズムーヴはどこ行ったんだよ。

 

「異性同性関係なく、目測で決めてどうにかなるものではありません」

 

 目測、という部分で、サイタマが一瞬俺の胸元に横目をやってすぐに戻した。何。

 

「合わないサイズだと揺れて痛みを生じたり、もしくは圧迫感で日常生活に支障を来す恐れも……」

「ふーん……」

 

 バストサイズというワードをキャラ紹介についているスリーサイズくらいでしか見たことのないキモオタだったので、俺としても「へえ〜」な内容だった。

 

「……女って大変なんだな……」

 

 サイタマの他人事感マシマシな感嘆。

 いや本当にな。一応今は女体の俺より、未経験のジェノスのが詳しいのどういうこと。まあ揺れるモノがないからね。やかましいわ。

 

「じゃあ……そのサイズどおりのを買ってこなきゃいけねーのか?」

「はい」

 

 いやもう上から乳首透けなきゃなんでもいいんすけど、とは今さら口を出せず、とりあえず神妙な顔で同調の姿勢を取っておく。

 

「──と、いう訳で」

 

 そこで。意味深な繋ぎとともに、ジェノスが控えめな仕草でこちらに向き直ってくる。

 

「………………」

「……………え?」

 

 そして沈黙。何を求めているんだよ、と一瞬困惑したが、この話の流れからして、まさか。

 

「…………えっ……?」

 

 乳の。サイズを。聞かれている。

 ワッツユアバストサイズ?

 色んな意味で固まってしまったところで、

 

「……いや……さすがにそんなこと家族でもない男に言いたくねーだろ……」

 

 相変わらず『ひそひそ』というオノマトペをつけるのが躊躇われる声量のサイタマの耳打ち。

 

「確かにプライベートな部分ですが……」

 

 しかし規定されたものに対するこだわりが謎にあるらしいジェノス、譲る姿勢がない。

 嫌、嫌か、確かに普通の女子なら恥ずかしくて伝えたくないのかもしれない、でも俺はそれ以前の問題だった。

 

「い、嫌っていうかぁ……?」

 

 そもそも俺は俺のバストサイズなぞ知らん。

 女として普通に知っているていで話が進んでいるが、俺は思春期をこの体で過ごした訳ではないし。AカップはぺたんこでGカップはでけえ、くらいの半端なエロ知識しかないのだが。

 

「……ちゃ、……ちゃんと測ったことがない……かな……?」

「は?」

 

 なんでそこでキレんの? 女としてカスだと思われている? ヤバい、どうすりゃいいんだ。

 

「え、えっとぉ……」

 

 そろそろ視線が痛い。もうここは適当にAとかBとか答えるか、いやでも童貞オタクの目分量なんか信用できねーだろ、しかしもう会話の引き延ばしにも限界が──

 

「…………か、」

「か?」

 

 結局、追い詰められたその口から出てきたのは。

 

「カップ付きのキャミソールでいいから、早く買ってきてください!!」

 

 これが俺の答えや。

 え、普段着てるヤツ? スポブラかキャミソールに決まってんだろ言わせんな恥ずかしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 で、何とかジェノスを送り出し。

 ようやくサイタマの厚意に甘えてシャワーを浴びている最中に、もう帰ってきた。すりガラス越しに人影が動いているのが見えて、最初ちょっとぎょっとしてしまったが。

 

「……脱衣かごに入れておくぞ」

「あ、ありがとう……」

 

 やべえ出ようかなと思ってたところだった。

 これ以上傷を広げなくてよかった、と胸を撫で下ろし、いなくなったのを確認してバスルームから出る。

 まずタオルを取って体を拭きつつ、その隣にきちんと畳まれた新品の服を何となくつまみ上げて。

 

「……スカート?」

 

 膝丈の、袖の短い白ワンピース。

 それに、可愛らしいレースの白いキャミソールと、似たようなデザインの白いショーツ。黒のレギンス以外は真っ白々である。

 普通に普段着ているジャージとかを想像していたのだが、どうしてこうなった。

 似たようなの持ってはいるけど、お前に会う時にワンピースなんか着てた試しがないだろ。明らかにイメージだけで選んだ服装なんだが。

 

「まあ……着るけど」

 

 それ以外に選択肢無いし。

 これだけ無駄な足労を強いておいてなんだが、よくわからないチョイスであった。

 とりあえず袖を通して、髪をタオルで乾かしながら部屋に戻る。言うまでもなくドライヤーなどない。

 ああ、久々にスカートを穿いたが、やっぱり股ぐらががら空きな感じがして気持ち悪い。ズボン最高。

 

「着替えたかー? ……お、おお、」

 

 何だサイタマその反応は。

 隣でPCのキーボードを叩くジェノスは自分で選んだだけあってガン無視。

 

「へ……変かな?」

 

 少し悩んで試着室から出てきた女子っぽいことを言ってみたが、やべ、今度はジェノスからの“圧”を感じる。選んで金出してやった服に文句つけんのかテメェ、という反感を買った顔だ。

 

「別に……いんじゃねーの?」

「そっか、……良かった」

 

 サイタマの反応云々よりジェノスが普通に怖いので、そこそこに切り上げておく。まあもう変に衆目を集めたりわいせつ物扱いされたりしない格好じゃなけりゃ何でもいいです。

 

「ま、あとはドアだな!」

 

 で、サイタマはそれを元気良く話題に出したものの、

 

「……うーん……」

 

 この数分では特に解決策など思い浮かばなかったようで、すぐにへたれた表情になる。

 

「直すにしてもこんなヘンピなとこじゃ修理業者も呼べねーし……どうすっかな」

 

 現状確認しつつ腕を組んで、数秒唸って。その顔にぴん、と色が灯った。何か思い浮かぶことがあったらしい。

 

「なあジェノス」

「はい」

「お前んとこの……ルセーゾ博士だっけ?」

「クセーノ博士です先生」

 

 ジェノスのデフォルトで圧強めな訂正にも一切揺らぐことなく、言葉を続けていく。

 

「前にさ……進化の家? の奴らが襲ってきて天井ブッ壊された時、そいつのおかげで直ったんだよな?」

「確かに知恵はお借りしましたが……」

「アパートのドアも直せんじゃねーの?」

 

 そういえば、そんなこともあったな。

 いつの間にか壊されていて、いつの間にか直っていた。あまり意識していなかったけれど。

 問われたジェノスはやや首を傾げるようにして、

 

「……採寸がわかれば、恐らくは」

「よし。んじゃ、それで」

「わかりました。連絡しておきます」

 

 上司としてあるまじき仕事の振り方なのだが、固有スキルが『献身(しかしサイタマ限定)』の彼は全く気分を害した様子もなく、即行で端末を取り出して博士にメール。街中にあるローン契約の看板並みに即断即決が売りの男である。

 

「良いよな?」

「う、うん……色々……ありがとうね」

 

 一応、主体である俺が完全に蚊帳の外のまま、部屋の工事の手筈が整ってしまった。有り難いのは間違いないので、後は新しいドアが届くまでに冷凍庫が解消されているのを祈るばかりだ。

 

「じゃ、色々解決したとこで……メシにすっか!」

 

 晴れやかな表情。服を買ってドアを直す算段がついただけなのだが、悩み事と長話が世界一嫌いですみたいな顔をしているだけあって、その程度の案件でもだいぶすっきりできるらしい。

 

「お前、なんか食いてーもんとかある?」

「え……うーん……?」

 

 さらに、なぜかナチュラルに選択権を譲渡されて、普通に考え込んでしまった。

 何か食べて美味しいと思う感覚は備わっていても、肝心の腹が減らないので特定の何が食べたい、というのがすぐに出てこない。寿司、ハンバーガー、どれも何となくぴんと来ない。

 少し、考えて。

 

「……サイタマの作ったカレーが食べたいな」

 

 頭に浮かんだ、一番ほっとできるもの。

 つらかった時、作りすぎたから、と言って食べさせてくれたあの味。カレーそのものが食べたい訳じゃなく、彼が作ってくれたものが良くて。あの温かさを思い出したかった。

 しかしサイタマは、

 

「……え、」

 

 ──反応が鈍い。

 あれ、と首を捻って、すぐに自分が勘違いをしていた可能性に思い至る。それで、軽く血の気が引いた。

 

「あ……ごめん、そういう気分じゃなかった……?」

 

 景気よく回らない寿司食いに行こうとか、そういうノリだったのだろうか。

 人にはわざわざ料理をしたくない日がある、それくらいの情緒は実家住まいで親に頼っていても何となくわかる。ナチュラルに寄生思考で申し訳ない。

 一瞬で水を差してごめん、というすまなさでいっぱいになってしまったが、

 

「いや、」

 

 彼は別に気分を悪くした訳ではないらしく。あまり見ない、柔らかい微笑みを浮かべて。

 

「カレーな。気合い入れて美味いの作ってやるよ」

 

 それからくしゃくしゃと、まだ乾ききっていない髪をかき混ぜられる。……何だか子ども扱いされている気がしたが、悪い気分ではなかった。

 

「とりあえず──買い物行くか」

 

 

 

 

 

 ──よく行くスーパーは隕石被害で店舗が壊れてまだ直っていないらしく。少し電車に乗って、3人で遠くの大きな業務用スーパーに行った。

 安く買えたけれどこれじゃ電車代でトントンだ、と愚痴るサイタマと野菜を切ったり、煮込んだりして、カレーライスを作って食べた。

 味は良かったけれど、俺が切った具材とサイタマの切った具材のサイズが違いすぎて、埋められない家事スキルの差を感じてしまった。

 

 ……こうやって書き出すと、小学生の日記みたいで恥ずかしい。

 でも実際、こういうちょっとした日常があることが、一番幸せなのだと思う。

 ギャンブル紛いのゲームや、酒に溺れるうちに見えなくなっていた原風景。いつの間にか失ってしまっていたもの。家族がいて、それなりに恵まれた生活をしていたはずの俺でもそう思う。

 

 

 で、捨てようと思っていた古い布団がたまたまあったから、という理由で、今晩もこの部屋を借りることになった。

 ただでさえ狭い部屋なので、成人が3人並んで寝ると窮屈どころの話ではない。

 結局、机を廊下にむりやり追いやって、それでようやく布団が敷けた。

 俺が窓際で、自然にサイタマを挟む形になった。いわゆる川の字の並びだ。

 それ以降、特に会話もなく。ジェノスが部屋の電気を消して、おのおの布団に入って。

 ──静かだったのが、より冴えた静寂に包まれた。

 

「………………」

 

 かちかちと、時計の秒針。

 冷蔵庫の音なのか、それともジェノスから鳴っているのかわからないモーター音。

 布団をぴったりくっつけて並べていても、サイタマの寝息は聞こえてこない。

 無人街の夜は静かだ。

 

「……ふう……」

 

 上手く、寝つけない。

 薄暗い天井を見上げて、細く息を吐く。

 たくさん寝たから眠れない、なんてことだったら本当に小学生みたいだが、そもそも俺は何もなければ眠気を覚えない体質なのだ。

 それでも、普段は目を閉じていればいつの間にか眠っているのだが。

 今日はそれもできそうになかった。

 何もない空間を見ているのが暇で、何となく、隣のサイタマに視線を移す。

 仰向けで瞼を下ろして口を閉じた、安らかというよりは死んでいるようにも見える寝顔。掛け布団の胸元が、微かに上下している。

 寝つきは良いほうだろうなと勝手に思っていたけれど、やはりそうらしい。

 

 ──この3日間、色々とあった。

 

 それをしみじみと考える。

 

 ──今までの人生で一番大変な3日間だった。

 

 良いこともまあ、あったかな。

 

 ──怪人になるとか、ヒーローになるとか。

 

 まだ、決められそうにないけど。

 でも、俺の周りには良い人がたくさんいる。何もかもが怖いのが本心ならば、これもまた、紛れもない本心。俺はたくさんの人たちに支えられてここまでやって来れた。

 

 ──サイタマ。

 

 その中でも──サイタマがいたからだ。

 もともと彼を頼るつもりではあったけれど、それ以上に助けられている。それを強く感じる。

 作中で最強のキャラクター、という枠組みを超えて、俺に影響を与えている存在だった。

 会えて良かった。決められた出会いだったとしても、偶然だったとしても。

 改めて、サイタマの横顔を盗み見る。

 さっきも見たはずの変わらない寝顔なのに、何となく、心拍数が上がったような気がした。

 そういえば、一緒に寝るのは初めてだ。

 まあ、同じひとつ屋根の下に暮らしている訳でもないのだから、当然なのだが。

 サイタマ、

 

 ──触れても平気な人。

 

 冷たくない。大丈夫。

 サイタマの呼びかけが脳裏に蘇ってくる。それだけで、温かいような気持ちになる。

 ──触れたい、とふと思った。

 誰かの体温を感じたい。

 すぐに、こんなこと考えるなんておかしい、と思い直したけれど、それでは収まらなかった。

 サイタマは今、寝ているし。

 社会的にもキスはまずいけど、ちょっと触るくらいなら。変な部分じゃない、手だけだ。

 だから、いい。問題ない。

 そう、誰に言うでもなく言い訳をして。胸元で組んでいた左手を、そろそろと布団から出す。

 天井を見つめたまま、シーツを撫でるようにサイタマの手を探して。──あった。

 まあ、指をちょっと握るくらいなら、とおそるおそるさらに探ろうとして、

 

「……っ、」

 

 急に。手のひら全体で、握り返された。

 突然、何の前触れもなかった。

 そのままスムーズに、しっかり指と指を組み合わせる形に繋ぎ直される。

 起きてる。……起こした?

 驚いてサイタマのほうを見たが、彼の表情には全く変化がない。穏やかな寝顔のままだ。

 

 ──何なんだ。

 

 起きていてやっているのか、それとも夢うつつの反射行動みたいなものか。

 後者はほとんど希望的観測みたいなものだったが、確かめようがない。

 どちらにせよ、予想外に反応が返ってきて、冷静ではいられなかった。が、振りほどくこともできなかった。そうしたいと思えなかった。

 重なった手が、温かい。

 

「ん……」

 

 できる限り自然を装って、握り返す。

 まだ少し、ドキドキしていた。

 もともと無いに等しかった眠気が、跡形もなく吹き飛んでしまったのを感じる。

 でも、この胸の高鳴りはいきなりで驚いたからだ。別に、それ以外に理由なんてない。

 誓って、本当に。

 だってこんな、おかしいだろ。

 有り得ない。

 

「………………」

 

 一体、何なんだよ。

 心の中だけでがむしゃらに叫びつつ、ひたすらに暗い天井を睨みつけて過ごす。

 

 ──結局、その日は朝までほとんど眠れなかった。




クソ日常回だ!気をつけろ!


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残渣

「──ぅわ、」

 

 昼。上空から響く爆音で目が覚めた。

 

 ──あの一件以来、少し疲れやすくなった気がする。部屋のドアは無事修理したし、冷凍庫と化していた室内の片付けもあらかた済んだ。

 でも、それ以上何かする気も起きなくて、ずっと引きこもってうつらうつらしていた。

 やっぱりあのツノを折ったせいだろうか。別に後悔はしていないけれど、関連性を見出さずにはいられなかった。

 まあ、それについては今はどうでもいい。

 

「え、なに空襲?」

 

 で、おもむろに響いたこの音の話だ。

 形容が難しく、強いて言うなら耳元でいきなりマシンガンをぶっ放されたかのような響き。

 とりあえず、直りたてほやほやの扉を開けて、アパートの廊下に出る。手すりから身を乗り出して、晴れ渡った空を仰いだ。すると、

 

「あ、」

 

 ちょうどアパートの真上辺りを飛行していた黒い物体──小型のヘリ?──が、何かを地面に向けて投下したところだった。思わず身構えたが、箱状のそれはすぐにパラシュートを展開し、ふわふわとした動きでアスファルトに着陸する。

 それを見届けて、次に役目は果たしたとばかりに遠ざかっていくヘリに目を凝らす。

 

「ひ、……ヒーロー、アソシエーション……?」

 

 機体下部に、英字でペイントしてあった。

 文字を読むのがやっとで、その訳は頭に浮かばなかったが。何となく、意味はわかった。

 ヒーロー協会。

 どうして、と考えかけて、深海王襲来の後にはファンレターが送られてくるということを思い出した。深海王のほうで色々とありすぎて、すっかり頭から抜け落ちていた。

 

「サイタマは……いないのか」

 

 部屋から出てくる気配はない。あれだけの音がしてまだ寝こけている、とも思えなかった。

 とりあえず先に確認しようか、と階段を降りようと足を踏み出した時。

 

「何だこりゃ」

 

 そんな暢気な声が階下から聞こえた。

 どうやらタイミング良く、出かけていたサイタマ(withジェノス)が帰還したらしい。ひとまず、そのままエントランスに降りて、外に出る。

 

「おー、ただいま」

「……おかえり、」

 

 ちょうど玄関口の目の前で、買い物袋を提げた2人と出会した。ジェノスは相変わらずいないかのように俺を無視してくるが、それよりは人の心があるサイタマは片手を挙げてのんびりご挨拶。

 パンパンのレジ袋を物ともせず、その手をそのまま街路樹に引っかかった箱に向け、

 

「お前、今日もさっきまで家にいたんだろ。これ何だかわかるか?」

 

 さらっと引きこもりを黙認されているあたりは置いておくとして、件の投下物の話だ。

 間近で見るとそれなりに大きく、ひと抱えはあるような雰囲気。中身に見当はついているが、もはやルーチンワークでしらばっくれる。

 

「わからない……さっき、ヘリが落として行ったみたいだけど」

「ヘリ?」

「ヒーロー協会の、かな……たぶん」

 

 何となく空を見上げる。当然ながらもう、あの黒い機体の姿はどこにもなかった。

 

「郵便ですね」

 

 そこで、引きこもりどころか俺の存在自体を黙殺していたジェノスがようやく口を挟んでくる。

 もちろん俺ではなくサイタマを見ながら、

 

「協会からの転送──ここには配達員が来られないので、パラシュートで投下してくれます」

「あぁそう……」

 

 それを聞くサイタマは実に気のない返事。さっそく届け物には興味を失ったようで、ぽりぽりと後頭部を掻きながらこちらに向き直る。

 

「てか、お前また寝てたのか。大丈夫か?」

「うーん……」

 

 確かに、よく寝ている。暇さえあれば家でだらだら、が常のサイタマにさえ心配されるほど。

 体調が悪い訳ではないのだが、起きていると何となく怠くて、つい。そこでふと、自身の首から下に目が行った。サテン風の、紺色の上下。

 

「あ、……寝間着のままだったね」

 

 今さら気づいて、恥ずかしくなった。

 サイタマも何か言えよ。

 ジェノスはとっくに会話から離脱して、地面に降ろしたダンボール箱の開封を始めている。その中身であるファンレター(概ね)も気になったが、わかりきったイベントより目先の場違い。

 着替えてくるね、とだけ伝えて、一足先に部屋に戻ることとした。

 

 

 

 

 

 この間ジェノスが買ってきてくれた一式がたまたま洗濯してしまわれていたので、それを速攻で身に着け。

 再び廊下に出たところで、

 

「セツナ」

 

 当のジェノスが俺を待ち構えていた。

 相変わらずいつもの仁王立ちだ。その手に、薄っぺらい何かを持っている。

 

「……ジェノス?」

「お前の分だ」

 

 言いながら、それを差し出してくる。

 煌めくシールで彩られた、長方形の封筒。似たようなものが数枚。

 お前の分、という言葉の意味が一瞬理解できなくて、フリーズしかけたが。先ほどの話の流れからして──ファンレター。俺宛の。

 納得はしたが、思考が追いつかなかった。

 逆に混乱しそうになる。原作ではジェノスとサイタマ宛のものしかなかったはずだ。いや、この世界では俺も一応活躍したのだっけ?

 嫌な汗が滲む感覚。

 

「ど、……どういうこと?」

 

 焦って、つい変なことを聞いた。ジェノスは当然、ちょっと困ったような顔をして、

 

「……質問の意図がわからないが……とにかく、これはお前宛だ」

 

 それだけを繰り返しながら、封筒をこちらに押しつけてくる。まあ、「は?」とか言わないだけ穏当な対応だろうと思う。

 俺が求める答えをジェノスが持ち合わせていないのも確かなので、ひとまず受け取った。

 俺は俺を“異物”として認識しているけれど、周囲の人間は違う。原作に従うために都合よく存在を省いてくれたりはしない。

 それを改めて意識して、少し、身が竦んだ。恐ろしいことだ、と思った。

 とはいえ突っ返すこともできず、胸に抱いたまま立ち尽くしていると。

 

「え、お前にも来てたの? さっきの荷物、ファンレターだったらしいぞ!」

 

 サイタマが顔を出してくる。ジェノスは何も言わずに部屋を出ていったらしい。

 しかし、妙に元気の良い呼びかけ方だったな、と思ったら、

 

「早く見てみようぜ!」

 

 おお。わくわくしてらっしゃる。

 サイタマの欲望は意外と俗物的というか、ヒーロー活動も承認欲求を基礎にしている節がある。とはいえ、個人的な趣味の比重が一番大きいのだろうけど。……こう書くと、オタクが創作活動する上での理想的なメンタリティという感じだ。

 変に聖人ぶらず、かと言ってガツガツしている訳でもない。まあ、その塩梅が一番難しいのだと言ってしまえばそれで終わりだ。

 ……話を戻そう。

 サイタマのファンレター(仮)。ほとんどが誹謗中傷なんだよな、とぼんやり思う。

 本人は気にしていなかったけど。どうせ暇なら俺が書いてこっそり紛れさせておけば良かったかな。無免ライダーみたいに。

 別に、そんなことしても喜ばないか。ほぼ身内みたいなもんだし。

 

 ──考えつつ、ジェノスの後を追って部屋に入った。

 ジェノスのほうはあくまでいつもどおりの雰囲気だったが、サイタマの動きが普段よりやけにきびきびしている。まるでクリスマスプレゼントを貰った子どもみたいだ、と何となく思った。

 食べ物の袋を開封する時にハサミ使ったことありません、みたいな男なのに、手紙の封をこの上なく慎重に切っている。間違いなく微笑ましい光景ではあったが、

 

「………………」

 

 取り出した瞬間、纏っていた期待混じりの緊張感がすうっと解けて霧散する。

 

 ──ヒキョウ者のインチキ野郎 お前なんか誰も応援しない

 ──ヒーロー失格!! 恥!!

 ──やめちまえ!! ボ金の無駄

 

 どれも、白のA4紙にでかでかと書き殴られていた。ペンを変えただけで同一人物が出したのではと思わせる筆跡の粗さと、漢字の弱さ。

 直球の誹謗中傷に、見つめるジェノスの瞳孔がきりきりと引き絞られていく。

 

「こいつら……ちょっと差出人調べて俺が、」

「暇な奴がいるもんだな」

 

 しかし、その低く抑えた呟きは、サイタマの平熱な感想に遮られた。ぽい、と手紙を投げ捨て、それでおしまい。強がっているふうでもなく、全く平坦な声音だった。

 師との温度差に毒気を抜かれたらしいジェノスはそれで黙り込んでしまったが。俺は、そうしなかった。床に落ちたそれを拾い上げる。

 

「一度協会を通しているはずなのに、こうやって手紙で個人に届くのは良くない状況だよね」

 

 “俺”がこの世界の住人だったならば、当然の処遇だとサイタマを蔑んだのだろうか。

 セツナは? “彼女”ならば。

 ジェノスの反応は、今この場でも過剰だと感じる。俺は、サイタマが誹謗中傷されていることに憤りを覚えていないのだろうか。

 そんなことを頭のどこかで考えながら、机に乗ったままの封筒を見る。送り主の名は載っていなかった。

 卑怯者。無味乾燥に罵倒を打ち返す。

 

「別に俺は、」

「こういう人間はサイタマがせっかく庇ったヒーローにも同じことをするよ」

 

 自分さえ我慢すれば。

 良くある美談だが、実際問題、その精神で解決することなんてほとんど無いのだろう。過ちは繰り返され続ける。世界はそんなに狭くはない。

 まあ、サイタマにそんな『忍耐の美徳』が備わっているなどとはまさか思わないが。

 で、今度は当の彼が呆気にとられたような顔をして。やや首を傾げながら、

 

「しっかりしてんな、お前」

「そうかな……」

 

 迷惑がっているふうではなかったが、どうしたらいいかわからない、という困惑は読み取れた。

 ──ジェノスは。師を思う故に、サイタマが望まなければこういったことにも口を出さない。態度が完全に一貫している。

 全てはサイタマの思うようにあればいい、とだけ思っているのだ。

 でも、俺はそこまで忠義を尽くせない。

 だからといって、原作通りだから、と全て見て見ぬ振りもできない。

 けれど、義憤もお説教も俺の仕事じゃない。

 卑怯者。お前なんか誰も応援しない。

 サイタマ宛の手紙が、俺の深いところにじりじりと突き刺さっていく。でも、そういう矛盾をなかったことにはできないんだよな。完璧な人間にはなれない。なりたくても、なれない。

 ここ数日で、気づいてしまった。

 駄目でも、卑怯でも、受け入れて生きていかなければ。死にたくないと思う以上は。最後に誰が許さなくても、せめて俺くらいは。

 

 ジェノスが、俺を見ていた。

 じっと、瞬きもせず真っ直ぐに。

 余計なことをするな。繰り返し釘を刺された記憶が、頭をよぎる。これは、余計なことだな。

 

「……ごめんね」

 

 前を向いたまま、小さな声で謝って。

 

「……いや、」

 

 でも、彼は何も言ってこなかった。珍しく言葉を濁して、それとなくサイタマに向き直る。

 

「お、まだあるじゃん」

 

 サイタマは、先ほどのやり取りなどすっかり忘れたふうで、残った封筒に手を付け始めたところだった。今度はさらっと封を開けて、取り出したその内容はといえば。

 ──ヒーロー サイタマ君へという宛名から始まり、丁寧な書き出しが上からマジックペンで黒く塗りつぶされていた。代わりに、横書きの罫線を無視した「ありがとう!!」が、縦書きで残りの白紙を大きく飾っている。

 誹謗中傷の類ではないが個性的な内容に、ジェノスが控えめに探りを入れてくる。

 

「……知り合いでしょうか」 

「さあ……知らんけど、感謝されてる」

 

 ありがとう、の文字を見つめながら、見たままの淡白な感想を述べるサイタマ。それでもジェノスは嬉しそうに目を細めて、

 

「どこかで助けられた誰かですよ、きっと」

「うーん?」

 

 合点がいかない様子で首を捻りながら、すぐさまその内容には飽きてしまったようで。やや離れた位置にいた俺目掛けて、肩を入れてくる。

 

「で、そういうお前はどうなんだ、よっ」

「わ」

 

 完全に油断していたところへの体当たりだったので、普通に転びそうになったが。

 そういえば、自分宛のものはまだ一通も確認していなかった。何となく気乗りしないながら、とりあえず上にあった一枚を開封してみる。

 

 ──ヒーロー ミス・フロストへ

 

 そんな書き出しから始まった手紙は、最後の行までびっしり文字で埋め尽くされていた。

 どこかで見たような字体。今度はマジックペンで消されることなく、時候の挨拶から始まり、丁寧な感謝の文で締めくくられている。

 サイタマもさすがに類似点に気づいたようで、先ほどの一枚と見比べて、

 

「……同じヤツか?」

 

 ──無免ライダー。今は、その名前は口に出さないでおいた。封筒にも書いていなかったし。

 

「うん……なんか感謝されてる」

「良かったじゃねーか」

 

 ぽんぽんと、軽く肩を叩かれる。良かった。良かった、か。複雑な気分だった。

 湧き出た感情を誤魔化すために、次の封筒に手を付ける。装丁もよく見ずに開けて、

 

「……あ、」

 

 ピンク色の便箋に、クーピーペンシルで描かれたイラストが同封されていた。

 拙い──というと語弊があるが、児童らしいみずみずしく自由なタッチのイラスト。長い白髪の人間と、金髪の人間の隣で、二足歩行のうさぎと手を繋いだ子どもが微笑んでいる。

 便箋を、見る。うさぎのイラストが散りばめられた枠の中に、予想以上に読みやすく、綺麗な文字で感謝の念が綴られていた。

 あの少女だ。

 とっさに、そう思った。

 次に、俺が貰っていいものじゃない、とも思った。その祈りは、俺ではなくジェノスに捧げられるべきものだった。ヒーローを奪われた彼に。

 胸が痛くて、思わず隣の彼に呼びかける。

 

「ほら、ジェノス」

「……? 何だ」

 

 便箋と、イラストを差し出した。

 当然、ジェノスは怪訝な顔。俺と2枚の紙を見比べて、普段よりは柔らかく眉根を寄せる。

 

「何がしたい?」

「いや……」

 

 これは本来きみが受け取るべきものだったんだよ、なんて言えないよなあ。

 原作でも届いていたであろう手紙だが、描写はなかったし、ジェノスは他のファンレターと同じ熱量でこれを取り扱ったのだろう。下手をすると、気づいていなかったかもしれない。

 

「そういや、俺のあと一通は?」

 

 肩越しに俺の手元を覗き込んでいたサイタマが、ふと思い出したように暢気な声を上げた。

 

「……これは協会からですね」

「クビ通知か? 別にいいけど」

 

 さらっと恐ろしいことを言いつつ、手を伸ばして催促する。受け取って、今日イチ雑な手つきで開封。そういや隕石の時もクビがどうとか言ってたな。

 

「ん……何だこれ」

 

 中身を検めて──すぐに変な顔をした。ぐねぐねとソーラースイングのように首を左右に動かしながら、読み上げたのは『C級1位』。

 

「それが何か?」

「よくわからんけど、呼び出されてるっぽいな。クビの宣告じゃね。ははは」

 

 いやどんだけヒーロー辞めたいんだよ。

 重要なことはそれ以上何も言わず、気負いなく立ち上がる。サイタマが手放した後の書類を横目で盗み見たが、彼の認識以上に重要そうな内容が記されていることだけは何となくわかった。

 

「ま、とにかく、ちょっと行ってくるわ」

「はい」

 

 それで、サイタマのほうは。着のみ着のまま、本当にその足で部屋を出て行ってしまった。

 

 ──今に始まったことじゃないが。

 ジェノスと2人きりは、正直気まずい。できれば避けたい状況だ。ボロを出したくないというのもあるし、サイタマに勘違いされたくないというのももちろんある。

 サイタマがいなくなったからと言ってジェノスが突然話題を振ってくるようなこともなく、彼も大量の手紙の検分に戻るだけ。

 と、いう訳で。

 

「わたしもちょっと……出かけてこようかな」

 

 やりたいことが、ひとつあったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 サイタマの後を追うようにアパートを出て、向かった先は、とある病院だった。

 ──深海王の件で、治療を受けろと案内された場所。ならばおそらく他のヒーローも搬送されているだろう、と見当をつけてのことだった。

 

 

 受付で告げられた個室に、スーパーで適当に購入したフルーツ盛り合わせを携えて向かう。一応見舞いとして必要かと思ったからだ。

 そう。これは見舞いだ。

 タンクトップマスターがそうであったように、ランクが高かろうが、個室が問答無用であてがわれたりはしないようで。看護師に言われて辿り着いたのは、よくある大部屋だった。

 開け放たれた引き戸から、中に入る。

 リノリウムの床に、窓から射し込む昼の日差しが眩しかった。

 見える景色をぼんやり眺めながら、通路をゆっくり歩いて。

 

「……ミス・フロスト、」

 

 ──呼び止められた。

 振り返ると、斜め後ろのベッドから、包帯にまみれた男が体を起こしてこちらを窺っているのが見えた。蛇のような鋭い眼光──スネック。

 

「ご無沙汰してます、」

 

 とりあえず、その場で頭を下げておく。

 

「きみが見舞いに来てくれるとはな」

 

 スネックは少し、気恥ずかしそうであった。それはそうと、サイボーグのジェットナイスガイはともかく、残りの2人の姿が見えないが、大丈夫なのだろうか。とりあえず、決り文句で場を繋ぐ。

 

「お加減、いかがですか?」

「いや……何とか、大丈夫そうだ」

 

 とにかく、この1週間で起き上がれるくらいには回復したようだった。

 ……前々から思っていたことだが、この世界の人間の肉体は、明らかに前世のそれと異なっているような気がする。怪人化の因子を秘めているのもそうだが、丈夫すぎるだろう。普通に。

 まあ、それはいい。

 

「すみません。……すぐ、加勢に入れなくて」

 

 なぜわざわざ見舞いに来たか。

 これはさすがに物見遊山などではなく、純粋に様子が気になったからだ。少なくともスネックとジェットナイスガイは、今後の本編に五体満足で登場するが、だからといって完全に放っておこうという気にはなれなかっただけ。

 ……元気そうな顔が見られて、少し安心した。

 それに、途中ではぐれてしまった申し訳なさもある。もしかしたら探してくれたかもしれないのに。

 しかしスネックは苦笑して、

 

「良いんだ。俺も、……」

 

 俺も、逃げたから。逃げようとしたから。

 言わんとすることはわかったけれど、彼は口には出さなかった。俺も、言わなかった。

 ヒーロー失格。殴り書きが脳裏に浮かぶ。

 彼は、短く息を吸って、吐いて。

 

「──きみは、実際にあの深海王と対峙して戦ったんだろう。ヒーローとして、素晴らしい姿勢だと思う」

 

 それだけを、きっぱりと言い放った。

 ヒーローとして。ヒーローらしく。俺がこのまま在り続ける限り、呪いのように付き纏ってくる言葉なのだろうと思った。

 憂鬱ではなかったけれど、ほんの少しだけ、恐ろしかった。

 でも、そんな俺の心中など知る由もない彼は、憂い気な顔で目を伏せてみせる。

 

「情けないところを見せてしまったな」

 

 スネックが謝るようなことじゃない。

 彼は、間違いなく“ヒーロー”なのだから。何より尊く、得がたいものだった。そんな本音を押し隠して、窓越しに景色を仰ぐ。

 

「皆、同じですよ」

 

 

 

 

 ──それから、二言三言会話をして。

 俺が身を案じていた2人は、とうに退院していたことが判明した。この世界の人間、軒並み丈夫すぎるだろ。

 それでとりあえず用は済んだので、お大事に、とだけ言い残して病室を出た。ロビーまで降りて自動ドアを抜けたところで、

 

「きみは……」

 

 また、見知った顔と出会した。

 とはいえ、見慣れた姿ではなかったので、そうだと気づくのに若干の時間を要したけれど。

 

「無免ライダーさん、」

 

 ようやく思い当たってその名を呼ぶと、ギプス姿の彼は、小さく会釈してみせた。

 見るからにボロボロで痛々しくはあったが、それでも活力に満ち溢れたその顔。眼鏡の奥で、サイタマと同じ光を湛えた瞳が輝いている。

 まさか、会えるとは思わなかったが。

 偶然の僥倖だった。

 

「その節は、どうも」

 

 無免ライダーは、空いた右手で不自由そうに自転車を押していた。その前カゴには壊れかけのヘルメットと、ゴーグルが入っている。

 

「元気そうで……何より」

 

 言ってから、ああ、と声を上げて。

 

「“彼”も、元気にしているかな」

 

 ──サイタマのことだろう。

 彼が本当に恩義を感じているのは、俺ではなくサイタマ。その事実を肌で感じて、どうしようもなく安堵した。俺は、彼からはヒーローを奪わずに済んだのだ。

 

「……ええ、いつも通りに。無免ライダーさんも、よくご無事で」

 

 お互い、定型文の会話が済んで。先に話題を切り出したのは、無免ライダーだった。

 

「聞いておいてなんだけど、やっぱり知り合いだったんだね」

「え?」

「ほら……彼がきみと、S級のジェノス君を連れて帰ったから」

「ああ、」

 

 意識があったせいか、その辺りもばっちり見られていたらしい。ジェノスと仲を勘違いされても困るが、あの状況でサイタマと深い関係と思われてもあまりメリットがなさそうだ。残念ながら。

 

「今日は通院の帰りかな」

「いえ……ただ、今回の件で負傷した方々のお見舞いに、と」

「そうか」

 

 息を吐き出すようにして、相槌を打って。虚空を仰いでみせる。今日は。まず、そう口に出して。

 

「会えて良かった」

 

 絞り出すような呟きだった。感情の乗り切らない淡々とした口ぶりが、むしろ心に染み入ってくる。

 

「元気そうで……安心したよ」

 

 飾らない言葉が、有り難かった。

 俺はヒーローという言葉に、生き方に縛られながら、たくさんの人に支えられて生きている。それはきっと、どちらかといえば救いだった。

 

「そういえば、彼──サイタマ君は?」

 

 来るだろうな、と思っていたことをとうとう尋ねられた。

 本当ならば、触れずに誤魔化しておきたいあたりではあったが。それは無理だろうな、というのもわかっていた。ここで茶を濁すのも不自然だ。素直に、状況からわかる程度のことを述べる。

 

「今、たぶん協会に行っていて」

「ヒーロー協会に? ……昇格か」

 

 疑問の途中でぴんと来たようで、声のトーンがいきなり跳ね上がる。元1位として、やはり彼の耳にも入っていたらしかった。

 半年以上守ってきた座をおもむろに奪われて、通過点として踏み台にされて。けれど、彼はフブキのように憤りを露わにすることはなかった。

 ただ、うつむいて眦を押さえて。

 

「そうか……そうか、」

 

 深く、噛み締める響きだった。言語化しきれない巨大な感情の揺らぎが伝わってくるような、そんな呟きだった。

 

「きっと、会えると思います」

 

 それだけ、告げておいた。

 きっとじゃなく、これは絶対。そうなることを俺は知っている。

 でも、言わない。必要のないことだから。

 無免ライダーはちょっとだけ笑って。

 

「ありがとう」

 

 それじゃあ、また。

 言って、ゆっくりと自転車を押しながら、遠ざかっていく。

 その背中を見つめながら、深く、息を吐く。

 何となく。胸のつかえが下りたような。

 ようやく、全ての後始末が済んだような感覚。

 久しぶりに、少しだけ清々しいような気分になれた。そんな気がしただけかもしれない。

 

「……帰るか、」

 

 去り際、何となく、空を見た。

 今日もまた雲ひとつない、憎たらしいくらいの清々しい晴天だった。





長い。
深海王編ようやく終わりました。
これに限った話ではないですが、書いてると「全然書きたくないけどストーリー的には必要(と個人的には強く思う)」みたいな話の部分でめちゃくちゃ筆が止まります。難しいですね。


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おうちにかえろう

 ──バングのジイサンが面白いもん見せてくれるらしーから、お前も来いよ。

 

 

 サイタマのそんな誘いにホイホイ乗ってしまったのが、運の尽きだった。

 

「………………」

 

 板張りの床はよく磨かれていて、きっと触り心地もいいはずだが。腰から下の感覚がない。渡されたペットボトルの水を開封する元気もなく、ただ握りしめているだけ。

 

「……大丈夫か?」

 

 サイタマの気遣わしげな呼びかけに反応する余裕さえない。

 

「軟弱だな」

「………………」

 

 サイボーグと宇宙最強の男とスタミナを比較されている理不尽に反抗する余力もない。

 ──バングの道場。

 めちゃくちゃ山の上にあるような描写をされていたが、めちゃくちゃ山の上にあるということはつまりめちゃくちゃ山の上にあるということなのだ。……何を言っているのかわからねーと思われるかもしれないが、要するに扉絵でさらっと描かれていたクソ長階段が、リアルに俺の足腰へダメージを与えてきたということだ。

 身を以て理解した。

 変に意地を張って「自分の足で歩く」なんて言わなきゃ良かった。2人には不要な時間を取らせたし、俺の体はもうボドボドである。

 

「自分の足でここまで来るとは、さすが、セツナ君もヒーローじゃのう」

 

 水をくれたバングが、煽ってんだか褒めてんだかわからない発言を飛ばしてくる。

 これって何待ち? ……俺の回復待ちか。どうせバングの道場に入るつもりはないのだから、こんな軟弱者は放ってさっさと話を始めてほしい。

 

「あ、あの!」

 

 それ以降バング、サイタマ、ジェノスが微妙な沈黙を守る中。この場に若干不釣り合いな、切羽詰まったような声で呼びかけられる。

 振り返って──緊張にむりやり笑みを塗り重ねたような中途半端な表情が見えた。どこか間の抜けた印象を与えてくる四白眼と目が合う。

 

「ミス・フロストさん……ですよね?」

 

 爆発したような橙色の髪に、白い道着。

 誰だっけと一瞬考えて。

 自称バングの一番弟子である、チャランコの名を思い出す。声を掛けてこなかったので勝手に存在を抹消していたが、ずっと近くにいたらしい。

 

「あ……はい……?」

「活躍、テレビで見てました!」

「あ、ありがとうございます……?」

 

 おっと、サイタマやジェノスに対するのとは全く違う態度。それはそうとして、疲労感と節々の痛みで会話がいまいち頭に入ってこない。

 

「こんな綺麗で強いひとがヒーロー協会にいたなんて、俺全然知らなかったなァ〜……!」

「………………」

 

 ……先ほどから「で?」としか言えない話題の振られ方をしている気がするが、これはどう対応するのが正解なのだろうか。サイタマやジェノスも微妙な顔でチャランコを観察しているし。

 

「あ、俺、チャランコって言います! バング先生の一番弟子やらせてもらってて……」

「ど、どうも……」

 

 それは知ってます。というか、顔が近い。足が痛くて機敏に動けないので、仰け反って距離を保つ形になる。

 しかし、明らかに無理な避け方をしているのに気づいていないらしいチャランコは、爛々と小さな目を輝かせながら、

 

「あの、良かったら連絡先、」

「やめんかチャランコ、はしたない!」

「ぐえッ」

 

 おもむろに、仔猫のように首根っこを掴まれて引き剥がされていく。バングだった。

 チャランコの体をぽい、と放ったバングはひとつ咳払いをして、こちらに向き直り。

 

「全く……すまんの、セツナ君。ウチの弟子がとんだ失礼を」

「い、いえ……?」

 

 別にそんな剣幕で怒るようなことでもなかっただろ……と思ってしまったが、弟子がいきなり客人をナンパし出したらキレてもやむを得ないか。例えて言うならジェノスがいきなり──いや、前提条件が違いすぎて何も思い浮かばなかった。

 そんなことを考えている間にも、バングは悠然とサイタマに向き直り、

 

「……な、サイタマ君」

「おっ、おう……?」

 

 いきなり話題を振られたサイタマ、明らかにとりあえずというふうで相槌。そりゃそうだ。

 

「ま、まあ……何でもいいけど、とっとと本題に入ってくれよ。セツナも……もう大丈夫だろ?」

「う、うん」

 

 それからなぜか姿勢を正して、やや後方に座っていた俺のほうににじり寄ってくる。

 チャランコが離(さ)れたと思ったら、今度はサイタマが妙に近い。汗をかかない体質で良かった、と心底思った。

 

「ふむ」

 

 催促されたバングは自らの顎を撫で、

 

「説明するよりは見せたほうが早いかの」

 

 言うなり、バックステップで我々から若干距離を取り。優雅に、構えを取る。

 彼の『見せたかったもの』は、本当に一瞬だった。

 ちょっと目の分解能が上がった程度では、到底視認できない流麗な乱舞。クソザコ怪人である俺には、ああ原作で示されていたあの軌道はサイタマかジェノスの視点だったんですね、と速攻で匙を投げることしかできなかった。

 

「──流水岩砕拳、」

 

 バングの呟きで、我に返る。

 

「まあ、こんな感じじゃ。どうじゃ、やってみんか?」

 

 何もわからないが、瓦割りのノリで勧誘していいレベルの武術ではないことだけは確かである。

 

「サイタマ君やジェノス君なら勘が良さそうだから、すぐに身につけることができるかもしれんぞ?」

 

 呼びかけからしれっと俺が省かれているが、正しい判断です。

 しかし、武術界の生ける至宝からそれなりの評価を得ていることに何ら感慨のないらしいサイタマ並びにジェノスは、

 

「何だよジイサン……面白いもん見せてくれるっつーからわざわざ来たのに、勧誘かよ。興味ねーよ、ジェノスお前やっとけ」

「いや……俺も遠慮します。俺が求めるものは護身術ではなく、絶対的な破壊力です」

 

 門下生が聞いたらひっくり返りそうな塩対応。

 護身目的で流水岩砕拳を使おうもんなら、不審者は確実になます切りになってしまう訳だが。

 

「……セツナ君はどうじゃ?」

「えっ」

 

 最終的におまけみたいなノリで声を掛けてもらえはしたが、答えは当然NOである。弟子入りしてみようかなと考えたこともあるけれど、やっぱり俺の身では非現実的。

 

「わ……わたしの体質は格闘技には向いていないと思うんですよね……」

 

 身も蓋もない話をすれば、近接戦闘に頼らない遠距離攻撃が強みなのに、わざわざそちらを学ぶ必要性があるのかということであり。まあ、基礎を学ぶという点では意味がない訳ではない。俺には戦闘の基本的な心得など何もないのだから。

 

「そうか……」

 

 で、なんかちょっと寂しそうになってしまうバングおじいちゃま。孫におやつを断られた祖父か。

 

「まあ……わたしが特にそういう戦い方だからというのもあるかもしれませんが魅力的ではある、」

「そうですよね!」

「オイさっきから何なんだコイツ」

 

 申し訳程度のお世辞に食いついてくる復活したチャランコ、それを受けて味付けの薄い顔に迷惑と若干の青筋を浮かべてみせるサイタマ。

 彼が何らかの感情を会ったばかりの他人に向けるなんて珍しいな、とぼんやり思った。何せ、原作ではとことん無視を決め込んでいた相手だし。

 

「つーかお前ら、さっきから黙って聞いていたら……流水岩砕拳を愚弄する気か!? 一番弟子であるこのチャランコが許さないぞ!」

 

 負けじと青筋を立ててみせる自称一番弟子。原作を読んだ時も思ったが、一番弟子ってそんな繰り上げ式だったっけ?

 

「ぐえッ」

 

 ……で、師匠の危機(ではない)に師匠よりも早く反応したこちらのリアル一番弟子に一撃で仕留められる、と。残念ながらこっちはイカれ度合いがちげーんですわ。

 

「……これが一番弟子?」

 

 チャランコをバイオレンス壁ドンでK.O.したジェノスが、明らかな失望の滲んだ声音で淡々と呟く。いや武術を習ってる程度の人間は大体きみより弱いと思う。

 

「バング。お前の道場は実力者揃いと聞いていたんだが」

「ん……まあ、弟子の一人が暴れおっての……」

 

 馴れ馴れしく呼びかけられたことに腹を立てる素振りも見せず、微妙に歯切れの悪い口調で事の次第を話し出す。

 

「実力派の弟子たちを全て再起不能にしてしまったせいで、他の門下生も恐れて辞めてしもうたわ」

「……そいつ強いのか? 名前は?」

 

 そこで初めて話題に興味が湧いたのか、黙って聞いていたサイタマが口を挟んでくる。

 問われたバングは、絞り出すように、

 

「……ガロウ……」

 

 ──ガロウ。

 今後の中核を担うその名を初めて登場人物の口から耳にして、どくんと心臓が跳ねた。

 まだ。……今はまだ、関係ない。

 

「当時一番弟子じゃったが……儂がボコボコにして、破門にしてやったわ」

 

 複雑な感情が窺える一言だったが、もとより人心の機微には疎いサイタマは呑気に、

 

「ジイサン強いんだな〜〜」

「貴様! あの、ヒーロー“シルバーファング”を知らないのか!?」

 

 S級ヒーローランキング3位、“シルバーファング”。流水の動きで相手を翻弄し、激流の如き一撃で以て巨岩をも粉砕する武術の達人。

 はい、説明どうも。

 

「お前最近B級ヒーローになったばかりのひよっこらしいじゃないか!? バング先生をナメてると痛い目に、」

「チャランコ! 恥をかかせるな! 儂よりサイタマ君のほうが何倍も強いわ!」

 

 怒られてばっかりだなこの子。

 

「ちょ、先生ご冗談を……」

 

 あまりの剣幕と発言に青ざめるチャランコ──というか、そう考えるとバングは本当に人間ができている。

 チャランコの反応が普通で、本来ならばバングも「こんなB級風情が自分より強い訳がない」と意固地になっていてもおかしくないあたりだ。確かにあの隕石破壊は誤魔化しようがない状況だったかもしれないけれど、手合わせした訳でもないのにすんなりその強さを認めているのだから、S級にあるまじき頭の柔らかさである。

 ──しかし、そんな無意味な感傷に浸れていたのはほんの一瞬で。

 

「シルバーファング様ッ!」

 

 息も絶え絶えに駆け込んできた黒スーツに、一気に皆の目線が集まる。

 が、彼はそんな異様な空気も気にせず……というか、意識している余裕がないようで、

 

「ひ……ヒーロー協会の者ですッ! この度、S級ヒーローに非常招集が掛けられました! 協会本部まで御足労願います!」

 

 いや、この人あの階段を自力でめっちゃ急いで登ってきたんだよな。そう考えるとすげえわ。俺よりヒーローの素質がある。

 

「やや! そこにいるのはジェノス様ですね!? S級は全員集合せよとのことなので、ジェノス様にも来ていただきます!」

「レベル“竜”が来たか?」

 

 災害レベル竜──ボロスだ。

 何となく、身が引き締まる思いがする。今日一日でA市は更地になり、大勢が死ぬ。

 ……深海王のそれとは比べものにならない被害だ。何せ、主要な都市がほんの一瞬でぺんぺん草も生えない荒野へ様変わりするのだから。

 俺にはそれを止める術がない。

 止める気も、ない。

 

「……やれやれ。チャランコ、留守を頼む」

「お、お気をつけて!」

「S級が呼ばれるということは、先生の力も必要になるかもしれない。一緒に来てくれますか?」

「いいぜ、暇だから」

 

 相変わらず恐ろしい理由で戦地へ赴くことを快諾している。そんなサイタマをぼーっと眺めていたら、目が合った。

 

「……お前はどーする?」

 

 え、なんて?

 ……今ほど歴代のラブコメ主人公に倣って難聴になりたいと思ったことはない。ソーリー、悪いが聞こえないよ、耳にワカメが入っててな。

 というかサイタマは俺の実力を一体どう見積もって、

 

「先生、コイツがいても足手まといになるだけかと」

「おい」

 

 思わず素でツッコんでしまった。いや、そりゃそうなんだけどさ。中身は宇宙最強のサイタマとは違って、俺はB級相当の戦いしかできない。

 

「まあ、そうだよな」

 

 幸い、サイタマも特に深い意味なく口に出してみただけのようで、あっさり引いてくれた。

 セーフ。命の危険が危ないのは何よりとして、S級のメンツに顔見せしに行くメリットがどこにもない。じゃあわたしは本部の外で待ってるね、の選択肢は掃討射撃で即死コースだし。

 

「じゃあ……わたしも、もう……」

「え、」

 

 この流れに便乗してお暇しよう──と試みはしたが。そうはチャランコが卸さなかったようで。

 

「お……お茶くらい出しますよ!」

「………………」

 

 相変わらず元気良く粘着してきてくれる。

 というか、今思い出したが、コイツは結構な女好きだったんだよな。若くてそこそこ容姿がいいというだけで目をつけられているのか。なるほど、女性は大変である。

 

「まったく……チャランコ、セツナ君にあまり迷惑を掛けるなよ」

 

 溜息を吐くバング、そしてそれを少し離れたところから冷めた目で眺めるジェノスは、

 

「バング。……お前のところの“一番弟子”には、武の強さ以上に追い求めるものがあるらしいな」

 

 激・嫌味。コイツが女だったらより一層最悪の人種になっていただろうな、というのは容易に想像がつく。

 

「お恥ずかしい限りでな」

 

 そう言って、一足先に出て行くバング。その後をジェノスが無言で追い、サイタマも黙って出て行くかと思いきや。

 

「……じゃ。行ってくるからな、セツナ」

 

 いきなり振り返って、いつもより若干真面目な表情で、そんなことを言ってきた。

 何だよ急に改まって、と面白がる気持ちがない訳ではなかったが、なんか……家族みたいでいいなとか思っちゃったり、いや、ちょっとだけだから。全然どきっとしたとかではないから。

 

「うん。いってらっしゃい……気をつけて」

 

 とりあえず、平静を装ってテンプレの返答。

 サイタマは軽く顎を引いて、今度こそマントをはたかめかせつつ出て行ってしまった。

 その背中を、何となく見送って。

 

「……やっぱりわたし、帰ります」

「え……」

 

 ここにいてもしょうがない。

 多少、強い意志があるのが伝わったのか。捨てられた仔犬のような目で覗き込んでくるチャランコに、微笑み返して。

 

「用事を思い出したので」

「あ……そうですか、」

「ええ」

 

 やんわりNOを突きつけておく。

 きみに一切罪はないが、宇宙最強になってから出直してこい。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はー……だる、」

 

 ──颯爽と道場を出てきたはいいが、結局あのクソ長階段に再びダメージを与えられるハメになった。

 今度は慌てずのんびり降りてきたが、それでも疲労が消える訳ではない。痛む腰をさすりつつ、田舎道をよたよた進む。……ここから家がまた遠いんだよな、公共交通機関に頼ろうにも、電車もバスもろくに通っていない辺境の地だし。

 帰る頃には夜になっていそう。

 本当に、笑い事ではなく。

 

「ん、」

 

 ジャージのポケットに入れっぱなしだった端末のバイブレーションを、肌で感じる。

 ……何となく、予想はついていた。

 それでも、見ないという選択肢はなかった。空いた左手で取り出して、ウインドウを開く。

 ぱっと飛び込んできたのは。

 

 ──未確認飛行物体によりA市が壊滅

 

「………………」

 

 推定災害レベル、竜。その文字列を実際に目にしても、何ら感慨は湧いてこなかった。

 

「……戦場くらいは選ばせてくれよな」

 

 ぱちんと、端末を閉じる。

 そしてまた一歩、家路を急ぐ歩みを進めたところで。

 

「おい」

 

 声を、掛けられた。

 たったの2文字から棘の滲む、嫌なトーン。人間のそれにしては妙に濁ったそれに、怯えというよりはうんざりとした気持ちを抱えながら。振り返る。

 ──例えて言うなら、赤青緑の小鬼のようなものが、道を塞ぐようにして並んでいた。おじゃる丸でこんな感じの光景見た。

 

「……どちら様ですか?」

 

 怪人。しかも明らかに雑魚、とわかる佇まい。

 またこいつらも場違いなところで暴れたがっているタイプか、と思ったが、

 

「お前……ギョロギョロのヤツが言ってた人間怪人だな?」

 

 どうやら、違ったらしい。

 少なくとも、想像していたよりは深刻な案件であった。

 怪人協会。……思ったより、何も感じなかった。強いて言うなら、想像していたより動き出すのが早かったな、というくらいなもので。

 妙に、冷めていた。

 地に足のつかない、嫌な感覚。サイコスと初めて対峙した時と同じ。心臓だけが、体を置き去りにして早鐘を打っている。

 

「ギョロギョロがお前を連れて来い、とよ」

「超能力を使うヒーローねえ……」

「人間相手にゃ誤魔化せるかもしれねーが……俺たちならニオイでわかるぜ」

 

 そうなのか。

 今まで会った中で俺を怪人だと看破してきたのはサイコスくらいなもので、深海王も別に気づいていないようだったし。もしかすると、俺はわりと擬態が上手いほうなのかもしれないな。笑えもしない自画自賛だけが一瞬、頭をよぎって。

 ふう。ひとつ、息を吐く。

 

「失せろ」

 

 少し考えて、それだけ吐き捨てた。

 殺しをするような気分ではなかった。疲れていたし、どうせ協会には報告できない案件だ。

 これでも命を削ってやっているんだから、無償奉仕は勘弁願いたい。こいつらの目当ては俺だけなのだろうから、他に手頃な人質もいないこのド田舎なら放っておいても大丈夫だろう。

 しかし、当然あちらはその処遇に納得がいかないようで。チッと舌を打って、

 

「怪人のクセに、プロヒーローなんか気取りやがって……正義の味方ぶってんじゃねーぞ!」

 

 あからさまな捨て台詞に、歩みが絡め取られる。誰にも言われなかった──それでも変えようのない事実が、背中に突き刺さる。

 怪人。ヒーロー。正義の味方。

 飲み込めない、ぐちゃぐちゃのスープみたい。いや、これは俺自身? ぐるぐる、ぐるぐると回る、回って、

 

「そうだ、今すぐお前の仲間に正体バラしてやっても────」

 

 ああ。

 お前、鬱陶しいんだよ。

 

 

 

 

 

 ──気がついたら、血溜まりの中で一人、立ち竦んでいた。

 

「…………ぁ、?」

 

 先ほどまで俺に絡んでいたはずの怪人たちは、おそらく既に原型を留めていない。俺の足元に散らばるぐちゃぐちゃの肉塊が、状況から推察するに“そうだったモノ”なのだろう。

 スープみたいだ。何だか、不味そう。

 ここに至るまでの記憶が飛んでいて、過程がよく思い出せないけれど。ああ、何だか頭が痛い。

 

 ──俺、何をしていたんだっけ。

 

 こんな汚い殺し方なんてできたっけな。

 普通に、凍らせて砕けば済む話だったのに。

 血濡れた手で痛むこめかみを押さえながら。ぼんやりと、脳味噌の表面だけで考える。

 無駄に時間を食い潰すだけの思考は、おもむろに内から湧き上がってきた強い欲望によって、跡形もなく掻き消された。

 否。もはやそれは、衝動であった。

 

「……帰らないと、」

 

 空を仰いで、呟く。

 あのアパートへ。サイタマの居る場所へ。

 帰りたい。ふと、そう思った。

 唐突に、何の前触れもなく。帰りたい──いや、帰らなくては。

 それだけ。それだけが全てだった。

 それさえあれば、他には何もいらない。

 彼さえいれば。

 ああ、それなのに、どいつもこいつも余計なことばかり──本当に、鬱陶しい。

 

 ──もう誰にも、俺の邪魔はさせない。

 

 邪魔はさせない。邪魔はさせない。

 ヒーロー協会にも、怪人協会にも──ジェノスやバングにさえ。

 ふつふつと湧き上がる、闘志にも似た冷たい感情。強迫的とさえ呼べる確固たる意志に支えられ、爛々と瞳が煌めく。

 その輝きがどこからもたらされたものなのか。今の俺は、考えようともしなかった。




2ヶ月も間が空いてしまったな。
忙しかったり今後の展開を考えたり漫画読んだりしてました。生きてます。


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幕間 夏だ!!海だ!!以下略

コメント欄に預言者がいましたね



 ──深海王の一件で。

 海水浴やオーシャンビューが絡んだ観光業で有名なJ市に(はからずも)足を踏み入れたものの、実際に海を見ることはできなかった。

 前世も内陸寄りの生まれだったし、今世では言うまでもなく引きこもりがちなせいで、最後に海に触れたのはトータル何年前になることやら。

 

 ……そんな訳で、ばったり通路で出会したサイタマとの雑談でぽろっと「海行きたいなー」なんてこぼしたのが良くなかったのだろうか。

 考え無しと行動力の融合召喚であるところの彼はあっさりと、「じゃあ明日にでも行くか」と返してくれた。

 軽い気持ちでも口に出した手前断るのも気が引けて、その結果は、推して知るべし。

 

 

 

 

 

 

 

 ……というか、明日?

 明日っていつの明日よ、じゃなくて、海に行くならそれなりの装備が必要なんじゃないか。例えば水着とか、水着とか、水着とか。

 なんも持ってねえぞ。

 ──ということにテンパりつつもぎりぎり思い当たった結果。サイタマと別れた後、速攻で街に出て、今は適当に目をつけたショッピングモールの中に居る。

 はい、ようやく現状に戻ってこられた。

 

「……水着……」

 

 それが売っている店の前で、頭を抱える。

 なんか謎にはしゃいでというか慌ててしまったが、さっそく賢者タイムに入ってしまった。

 女子の水着。甘美な響きではあるが、今の俺はそれを鑑賞する側ではなく、実着する身なのである。

 要するに、ドキワクなイベントではなく己の羞恥心との戦いな訳だ。ウヒョー女の姿なら売ってる水着見放題だぜとかそういう気分にもなれない。既にストレスがヤバイ。

 

「はあ……」

 

 緊張で嫌な汗をかきそう。かかないが。

 未だにスカートを穿くことさえ少し躊躇ってしまうのに、水着なんてレベルが高すぎる。

 “露出度は下着とほぼ同じなのに水着だと恥ずかしがらないの草”みたいなツイートが昔バズっていたような気もするが、つまり≒下着姿なのだ。いきなりそんなところまで割り切れない。

 

「でも、アピールチャンスではある、よな……」

 

 不可抗力ながら全裸まで見せておいて何だと思われるかもしれないが、これは合法的に肌を露出するチャンスかもしれない。

 日常生活でホットパンツを穿いたりへそを出したりするのは一般的な格好とは呼べないが、ビーチでビキニ姿なのは何もおかしくない。おかしくはないが、男は皆、そういう際どい水着姿にあらぬ妄想を膨らませる訳で。

 

 ──行くしかない、か。

 

 “覚悟”を決めて一歩足を踏み出したところで、

 

「──あら、セツナじゃない?」

 

 おゲェーッ。

 なんか聞きたくない懐かしい声が聞こえた気がした。

 できれば幻聴ということで処理したかったが、俺の脳内円卓会議は満場一致で『現実』という裁決を下している。

 

「久しぶりね」

 

 しぶしぶ振り返った先、圧倒的な存在感を持って佇む黒髪のクールビューティこと、地獄のフブキ。体感的にホント久しぶりですね。

 

「……じゃなくて、ミス・フロスト、のほうが良かったかしら」

 

 イカしたセリフにも苦笑いしか返せない、いや会いたくなかったマジで。

 

「……お久しぶりです、フブキさん」

 

 いよいよサイタマ襲撃のXdayが近づいているんだよな、と考えるだけで胃が痛い。どういう対応が一番波風を立てないだろう。何も思い浮かばねえんだけど。

 ……と、冷や汗だらだらの俺の内心など露知らずなフブキは優美に頬へ手を当て、

 

「まあ……私もセツナのほうがしっくり来るわね」

 

 ヒーローらしさをかなぐり捨てて名前呼びを選んだと思われた? いや、フブキさんのヒーローネームって本名ガン入りじゃないっすか。

 

「深海王の件、大丈夫だったの?」

「え、ええ、まあ……」

「肉体は最悪何とかなっても、脳はやられたらおしまいなんだから。超能力者はそういうところに気を使って戦わないとダメよ。……元気そうで良かったわ」

 

 これまた心臓に悪い世間話だぜ。頼むから一緒に映ってたハゲとかサイボーグとかとの関係性を邪推しないでください。

 

「で、今日はどうしたの? 一人でショッピング?」

 

 オイオイ、どう足掻いても全方位メンタルに厳しい話題しか来ないじゃねーかよキャサリン。これだから会いたくなかったんだよこの人と。

 

「……実は、海に行くのに水着を買おうかと」

 

 精神に過負荷が掛かることはもはや避けられないが、ここで嘘をつくメリットがなさすぎる。

 長期的に見て必要に迫られない限り、できるだけ正直に生きたいのだ。という訳で、シンプルに事の次第を伝えてはみたが。

 フブキは途端、綺麗なエメラルドグリーンの瞳をそれこそ宝石のように煌めかせて、

 

「えっ誰と? お付き合いしてる人?」

「と、友だちです、友だち!」

「ふぅん?」

 

 やべえ何か話が一周してないか?

 こっちはサイタマやジェノスから離れた話がしたいんだってば。やっぱり女性は恋バナ好きだねえとかのほほんとしてる場合じゃない。

 

「水着ね……どういうのがいいとかはあるの?」

 

 まあ何とか、意味深な「ふぅん?」を頂戴しただけでその場は凌げたようだが。今度はまた別の角度から刺された。水着の種類なんぞ知らん。

 

「あ、えっと……よく知らないんですけど、とりあえずビキニみたいなのがいいかなって」

 

 上下繋がってるスク水型(正式名称知らん)がメンタルには優しいが、やっぱり水着っつったらビキニだろ、という性欲を抑えられなかった。どうせ恥をかくなら最大限の見返りを求めていきたい。

 

「……ビキニ……」

 

 えっその“間”は何。怖いんだが。

 

「そうね、ビキニタイプ……」

 

 ……なぜかフブキの反応が悪い。気がする。何なんだよ、俺何か女子的に地雷踏むようなこと言った?

 俺がどぎまぎしている間に、フブキはするっと俺の脇を通り抜けいやめちゃくちゃ良い匂いした。閑話休題。一足先に店に入り、スムーズな動きでハンガーに掛かった一着を手に取る。

 

「……こういうのはどう?」

 

 下は普通のショーツ型で、上は……何だこれ。肩紐が無くて、ひらひらした布がぐるっと一周あるだけ。見慣れないフォルムだった。

 

「オフショルダーのフレアトップ」

 

 何それ、復活の呪文とか?

 

「そういうのもあるんですね」

 

 キモいオタクなので、ツイッターで見る魔改造されたビキニか白スク水くらいしか水着のボキャブラリーがなかった。婦女子がインスタに上げるナイトプール写真にありそうな、性をいたずらに強調しないオシャンなデザインである。

 

「そうよ。露出が気になるなら……ほら、ああいう、ほとんど洋服みたいなタイプもあるし」

「はあ」

 

 フブキ氏が指し示すは、てっきり普通のお洋服かと思っていた一角。あれも水着なの、ソシャゲで実装したら阿鼻叫喚の大地獄になりそう。

 

「まあ、私はせっかくそういう場に行くなら肌を出したいと思っちゃうタイプだけれど」

 

 そうでしょうねとボクは19巻裏表紙の美麗イラストを思い浮かべました。というかこの人、扉絵とかでちょくちょく露出多めの格好してるな。

 まあ顔とスタイルが良いだけはある。

 

「この色とか、似合うんじゃないかしら。雰囲気がマリンっぽくもあるし、あなたらしくて良いわよね」

 

 で、おしゃれ番長フブキが手に取ったのは、ネイビーブルーに白のラインが一本入ったデザインのもの。腰の左右にはリボンがついていて、これって二次元だけのものじゃなかったんだと思った。さっきから二次元の話しかしてねえ。

 

「ほら……こういうフレアなら、体型のカバーも可愛く出来るし……ね?」

 

 ん? 

 体型のカバーとな。

 つまり──ぺえがねえからこれでサイズ感を誤魔化せと仰っている?

 ぺえも無エ

 ケツも無エ

 太ももそれほど育ってねエ

 俺らこんなカラダ……いや勝手に乗っ取っておいて嫌とかいうのは失礼とかの次元ではない。すみません。

 しかし『貧乳』とかいうちくちく言葉を『見せるならカバーしたほうがいい体型』というふわふわ言葉に変えるフブキ組の首領の手腕には恐れ入っ……いや普通に傷ついたわ、意味変わんないんだもん。というかフブキに「コイツ乳ねえな」という感想を抱かれていた事実に傷ついた。

 

「そう……ですね……」

 

 とりあえず生返事しつつ、視線はついタイトなドレスを押し上げる質量に行く。相変わらず我が不毛の地と比べるのもおこがましい豊穣地帯である。

 まあ、総括すっとビキニっつうのはそもそもぺえが豊かな人種が着けるモンで、無ぇ人種はせめてフリルで荒野をカバーしろっつうことだな! ひゃー、オラたまげちまった!(CV. 野沢雅子)

 

「ありがとうございます、わたし、こういうの詳しくなくて……」

「ふふ、見ていれば何となくわかるわよ。まあ、そういう面倒見てあげたくなるところもあなたの魅力かもしれないわね」

 

 おい、もうこれ中身男の激喪女ってことがバレてねえか? 恵まれた容姿からクソみたいな人格。本当に申し訳ないと思っている。

 

「──あら、もうこんな時間? じゃ、私はもう行くけれど……今度行きたくなった時は声掛けてちょうだいね」

「アッハイ……」

 

 おしゃれな腕時計を一瞥、後。そう言って、おしゃれ番長は颯爽と店から去って行った。

 微々たるおしゃれ知識を得た代わりに回復不可能なダメージを負った気がする。──あ、とりあえず、勧められた水着は買いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 で、翌日。

 

「……海だー」

 

 思いもよらぬ傷を負ってしまったが、それでも何とかJ市の海岸にはやってきた。移動方法は言うまでもなくウッディ人形再びであり、そういった面で肉体的にもダメージを受けた気がする。

 

「海だな」

 

 隣に立つサイタマはいつも通りのTシャツにサルエルパンツ、サンダル姿。近所にゴミを捨てに行くのと同レベルのコーディネート。

 

「先生」

 

 それでこっちは当然のように無言で着いてきたジェノス君。もうお前が狂サイボーグだ。

 

「……セツナはともかく、」

「ん?」

 

 耳打ちしたいんだかしたくないんだかわからない微妙な声量で繰り広げられる会話、なんかイライラするな。

 

「サイタマ先生は深海王の一件で市民に目をつけられています。変装もなく人目につく場所へ向かうのは得策ではないかと」

「わぁってるって。目立たねー端っことか行きゃいいんだろ?」

 

 会社や学校なら明らかに「わかってないよね」とツッコミが入るお返事だったが、サイタマ全肯定マシーンのジェノスは当然そんな正論に踏み込むことはなく。不承不承が滲む顔で、

 

「……まあ……」

 

 一瞬、この女さえいなければ、みたいな目で見られた気がしてぞくっとした。ホントこの子怖い。

 

 

 

 

「海だなー」

「海だね……ほらサイタマ、コンブが打ち上げられてる」

「なんでそれを俺に報告した?」

「それは形状からしてワカメだ、間違えるな」

「うん、そういう問題じゃねえんだけど」

「拾ったら食べれるかな」

「先生、海藻の発毛作用には医学的根拠はなく……」

「だからなんでそれを俺に言う!?」

 

 ビーチの端の端、砂浜よりも岩場が目立つような辺境の海辺を、駄弁りながら並んで歩く。

 潮の満ち引きだとか海の荒れ模様だとかの知識はさっぱりだが、不安にならない程度に穏やかに寄せては返す白波を、ただ眺める。一番海に近い位置のサイタマがやけに海岸線から距離を取っているので、わざわざ詰める気にもなれず。

 磯臭いなあとよくわからないライブ感を楽しみつつ、打ち上げられた海藻やゴミを横目に、砂浜を踏みしめるだけのお散歩である。

 

 ──大した距離もないビーチなので、数分も歩けば行き止まりらしいテトラポッドの山まで辿り着いてしまった。

 それで、次は何をするつもりなんだとこわごわ振り返ったサイタマ曰く、

 

「……じゃ、帰るか」

 

 衝撃の発言。

 

「は?」「え?」

 

 いや……衝撃の発言。

 思わず素で聞き返してしまったが、サイタマは相変わらずのきょとん顔。

 

「帰るって……」

「いや……見ただろ海。え、ダメ?」

 

 見ただろ!? ちょっと衝撃的すぎて思考回路についていけないのだが、『海に行く』というお出かけプランが『鑑賞』で終了することある?

 

「み……見て終わりなの? そんな……お年玉上げるよって言って持ち上げてハイあーげた、みたいな」

「うん……? ちょ、」

「紅葉狩りじゃないんだからそんな……えっこっちの解釈が間違って」

「い、いやわかった、わかったから騒ぐなって!」

 

 サイタマには、そこまで捲し立ててようやく俺の最大級の困惑が伝わったようで、

 

「泳ぐ気だったのかよ」

「あ……当たり前じゃん」

「へー……」

「浮かれるな」

 

 いやなんで俺がマイノリティみてえな雰囲気なんだ。海来たら泳ぐだろ。見て終わりなんてそんなことあるか? 

 こっちはわざわざオフショルダーの水着をTシャツに捩じ込んでまで、小学生のプール時間並みに準備万端で挑んできてんだよ。

 

「大体お前、水着とかあんの?」

「あ、あるよ、ていうか着てきたんだよ!」

「あー、ああわざわざ見せなくていいわかったから!! な!?」

「すみません更衣室外でいきなり衣服を脱ぎ出した露出狂が」

「いやスムーズに通報しようとすな、下は水着なんだっつってんだろ!!」

 

 以下省略。

 一瞬、阿鼻叫喚の大地獄になりかけたが、何とか自然鎮火に持ち込めた。

 結局、俺の一歩も譲らない姿勢が伝わったのか、折れたのはサイタマのほうで。ポリポリとやる気なさげに禿頭を掻きつつも、

 

「お前が……わざわざそういうの着てきたんなら俺も買うって。……な、ジェノス」

「いえ俺は泳ぎませんが」

 

 ごくナチュラルに頑なである。肩肘張っているとかを全く匂わせない自然体な拒否、俺でなきゃ見逃しちゃうね。

 

「俺は周囲を見張っていますので、どうぞ、先生はヤツと海水浴をお楽しみください」

「あ、そう……」

 

 まあ、確かきみ裏表紙で沈んでたしね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 紆余曲折あったものの、水着を買ってくる、というサイタマを浅瀬でちゃぷちゃぷしつつ待機。

 何となく想像はついていたが、冷たいとも温かいとも感じないな。人があまり来ないせいか、そこそこ澄んだ海水の流れを肌で楽しむ。

 海上だと、うなじを撫でる潮風が気持ちいい。今日は完全に上げきる形で髪を纏めているので、単なる1つ縛りの時とはまた違う感触だ。

 ……これも、海に入るからとわざわざ鏡の前で悪戦苦闘した結果の産物なんだよな。危うく無に帰されるところだったけど──と噂をすれば、

 

「あ、サイタマ……お、おう」

 

 気負いなく砂浜を歩いてくる半裸の人影。

 たかが海水浴に黒のブーメランパンツは攻め過ぎだろ、と思うのは俺だけでしょうか。

 

「ほら」

 

 両手に持っていた何かの片方を、自然な動作で放ってくる。ドーナツ型の半透明な、

 

「……何これ、浮輪? てか何この柄」

「なんか、ジェノスが使えってさ」

「いや柄……」

 

 臓物と人骨がプリントされた浮輪、明らかに夏のバカンスには不釣り合いだろ。どこで買ってきたんだよこんなもん。ヴィレヴァン?

 

「アイツも変なとこで心配性だな」

「………………」

 

 ジェノスの狂・思考をトレースしつつある俺にはわかるのだが、おそらくヤツは溺れた俺がサイタマとの人工呼吸へもつれ込むことを阻止しているに過ぎない。もしくはその演技でサイタマの唇を意図的に奪うことを。

 ……自分で言っていてちょっと不快になってきたが、ジェノスという男はそういう異常な『かもしれない運転』をするタイプなのだ。行動力とその想定の妥当性が比例しないタイプ。要するに狂人である。

 

「よっこいせ」

 

 若さの感じられない掛け声とともに、『NAIZOU』浮輪で大海原に乗り出すサイタマ。

 こちらとしてもわざわざ買ってもらったのに使わないのも気が引けて、ビニールの輪へ同じように体を嵌め込む。おお、懐かしい浮遊感。

 

「ふぃー。磯クセーな」

 

 情緒のない一言。まあ、サイタマに四季を楽しむ趣なんてものは期待するだけ無駄か。

 

「お前そんなに泳ぎたかったのか?」

「いや……まあ……うん」

 

 オニューの水着を見せたくて……とはさすがに恥ずかしくて口に出せなかった。さすがに。

 デリカシーが無い男なら、貧乳のクセにビキニかよとか言ってしまいそうなものだが、そもそもそこまでの閾値にさえ達していないサイタマからは何のコメントもない様子。水着だなあ、以上の解像度を求めるのはむしろ酷であろう。

 こちらとしても、コメントがないほうが正直、気は楽。

 

「海とかしばらく……行ってなかったから」

「ま、そーだよな。Z市には海ねーし」

 

 サイタマが揺れる水面を手で掬う。指の間から滴り落ちる塩水。

 

「お前は下手に海水浴場とか行けねーし」

 

 ……半裸をまじまじ見る状況など普通は有り得ないので当然なのだが、何もしていない状態でも鍛えていることがわかる体つきだな、と思った。

 ボディビルダーのようにキマっている訳でもなく、少女漫画の細マッチョのように物足りない訳でもない。理想的な体型だ。

 これで顔が良ければ、顔──

 

「サイタマちょっと……白菜のこと考えてみて」

「は? 白菜?」

「うん。例えば白菜が……何というか、異常気象で今年は全然収穫できないみたいな状態を」

 

 我ながら意味不明な例えだが、サイタマはそれを馬鹿らしいと一蹴するでもなく。

 

「……全然収穫できない……」

 

 本気モードの7割程度真面目そうな顔になって、状況のシミュレートに入ってくれる。

 ぐっと目が近づいて、薄味ながらきりりとした彫りの深い顔立ちになる。

 

「………………」

 

 なんか……普通にモテそうで怖いんだよな。

 原作にはサイタマの顔面のつくりに着目しているキャラはいなかった(はず)だけれど、性格と弟子に難があることを除けば、まあ優良物件だ。

 ハゲもといスキンヘッドがネックになっている部分はあるか。

 というかアマイマスクなんかにはモテ……いや、立場が似ている俺ってもしかしてアイツと同じ穴の狢? 若干不愉快になってきた。

 

「……で、白菜がどうしたんだよ。食いたいのか?」

「ぇあ」

 

 思考がトリップしかかっていたところに呼びかけられて、危うく転覆しそうになった。

 

「いや……そういう訳じゃない、けど……」

「ふーん?」

 

 いつもの間の抜けた表情に戻った彼が、くるりと水平線を振り返り。

 

「ま、来れてよかったな」

 

 あっさりと放たれたその一言に、一瞬、息が詰まりそうになった。

 

「お前がどっか行きたいとか言うの、珍しいだろ。だから、来れてよかった」

 

 特に何か、しんみりしているふうでもない雰囲気だった。それが一層、心に染み渡る。

 

「楽しいか?」

「……うん。楽しいよ」

 

 楽しい。

 もう二度と、得ることはないかもしれないと思っていた純粋な感情。それを俺が持つことを素直に喜んでくれる存在がいる事実を、今更ながらに尊ぶ。

 

「つーかお前、ちょっとずつ離れてんぞ」

「潮の流れかな……あ、」

 

 ぐっと。自然な動作で手首を掴まれて、引き寄せられる。それが思ったより力強い動きで、浮輪がぶつかるくらいの位置まで近づいてしまった。

 いきなり距離が縮まって一瞬どきりとしてしまったが、当のサイタマは妙に上の空で。凪いだ水面──というか、その底をじっと見つめている。

 

「サイタマ……?」

 

 その横顔が何だか憂鬱そうに見えて、思わずその名を呼んだのと同時に。

 

「……海、こんだけ広くて深いんだから、深海王以外にもつえーヤツっていたりすんのかな」

「………………」

 

 いや戦闘の話かーい。

 ずっこけそうになった。ジェノスの影に隠れて忘れがちだが、彼は元祖戦闘狂なのである。

 しかし、サイタマも変わらないな、と暢気に捉えられていたのは、そこまでだった。

 

「……そう考えねーと、なんか、ヤになるんだよな」

 

 続いて何気なく紡がれた言葉に、何となくどきりとした──ような、気がした。

 

「……嫌になる?」

「おー」

 

 当のサイタマはいまいちシリアス感の足りない雰囲気だが、投げられた内容自体は深刻だ。

 サイタマという男の、根幹を成す問題。

 

「なんつーか……上手く言えねーけどさ。このままだとなんもかんも、どーでも良くなりそうで」

 

 何もかも、どうでも良くなりそう。

 漠然とした口ぶりだったが、それゆえに滲み出す切実さを感じる。乾いて、冷たい感情。

 

「嫌なのに……どうしようもねーっていうか……」

 

 ──俺にサイタマは救えない。

 とっさに、そう思った。

 彼は俺に影響を与え得る存在であるが、俺に彼の歩む道筋を変えることはできない。

 そこまで考えてふと、思い出したことがあった。

 

「……つまらない日常の外側からやって来た」

 

 ブタの貯金箱と、“俺”。

 強すぎる彼の退屈を満たすモノ。この世界における、最後のパンドラの匣。

 崩壊への一手となり得るかもしれない。

 けれど、それで彼を手繰り寄せられるなら。それでもいい、と思った。ほんの一瞬でも。

 

「まだ、そう思う?」

 

 どこか遠くを見つめていたサイタマの瞳が、戻ってくる。何も映していなかった三白眼を、俺の瞳がジャックする。

 

「……セツナ、」

 

 絞り出すように名前を呼ばれて。

 ──その瞬間、遠くのほうで爆発音のようなものが聞こえた……気がした。

 

「え、」

 

 サイタマが屈めていた背を正して、そちらを振り返る。怠そうに首の後ろへ手をやりながら、

 

「……なんか、向こうが騒がしいな」

 

 よく見れば、煙のようなものが上がっているのも見える。

 海水浴場で何かトラブルでも起きたのだろうか。

 何となく落ち着かない気持ちできょろきょろ辺りを見回していたら、

 

「ジェノス」

 

 防波堤の上でこちらを見ているらしいサイボーグの姿が見えた。

 何かを呼びかけているようだが、距離がありすぎるのと波の音がうるさすぎるせいで、何も聞き取れない。もしかして、もしかしなくても、あの騒動に関係することだろうか。

 

「なにか言ってる?」

「え、遠すぎてわかんねえ」

 

 宇宙最強の五感を以てしても、ジェノスのアピールが意味するところは理解できていないようで。ちょっと安堵するとともに、事態が全く解決に動かない不安感が募る。

 

「アイツ……小刻みにチカチカ光ってねーか」

「わかんない、モールス信号とかじゃない?」

「フツーに伝えろや!」

 

 こっちに来て直接言うか、もしくは自分で何とかすればいいのに、そのこだわりは何だ。

 

「まあどーせ怪人とかだろうけど……」

 

 明らかに面倒臭いですの顔をしつつも、海から上がる姿勢を取るサイタマ。ジェノスの忠告を全て無視して、解決に動き出す構えらしい。さすが腐っても趣味がヒーロー活動の男である。

 怪人、か。まあこの世界では、何か騒動が起こったらそれは大体怪人のせいなんだよな。

 ビーチに出没する怪人。

 そこまでぼんやり考えて。

 ぱっと頭に思い浮かんだことは、奇しくもサイタマと同じだったらしい。

 無言で無表情を突き合わせる。

 

「まさか、深海王の残党……?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ガハハハハ! 俺は海水浴場での盗撮を咎められた恨みで怪人になった怪人ヒモホドキ! 無防備な女どもの水着の紐を解いて、あられもない姿にしてやるぜェーッ!」

 

 ──ん、で。

 すわ親玉の弔い合戦か──と慌て気味にビーチへ駆けつけた俺たちを出迎えてくれたのは。

 まあ……ノーコメントで。

 

「逃げろ、変態だーッ!」

「きゃああっ、気持ち悪いぃ!」

「自業自得だろうが!」

 

 めちゃくちゃ正当な言葉の暴力で殴られまくっているが、さすが超絶独りよがりな私怨で怪人化したタイプというべきか。全く落ち込んだ様子もなく、さっそく手近な女性客を襲おうとしている。

 いや──というか、

 

「そこは残党の流れだろ」

「ビキニ!」

 

 断末魔まで気色悪いまま、怪人ヒモホドキは俺の能力で氷結のち四散した。描写するのを躊躇われる容姿をしていたな。女性の敵。

 

「水着の紐?」

 

 ワンパンの出番がなかったサイタマが、退屈そうにぐるぐる右肩を回しながら声を掛けてくる。

 

「たぶん腰とか、背中とかについてるのだよ……わたしのもほら、」

「おお」

 

 会話しながら、できる限り早足でその場を離れることに尽力する。怪人が出たのでやむなく顔を出したが、ジェノスが言った通り、今サイタマがここで衆目を集めても何も良いことがない。

 しかしサイタマ、予想はしていたが、そういったちょっとアブない男の欲望みたいなものには全く興味がないんだな。相変わらず、デンジから毒気を全て抜いたような性格をしている。

 

 ──早々に人混みから離れて、もとの静かな海岸にまで戻ってきたところで。

 

「じゃあ危なかったじゃねーか、良かったな解かれなくて」

 

 ……小学生みたいな感想だな。心配してくれているらしいことはわかるけど。

 というか、ヒモホドキの時も思ったが、サイタマも──まあ、男として生きていたら気づかないものか。

 そこで何となく、優越感のようなものが湧いた。

 ちょっとした豆知識があって、それを披露する機会があれば、やってみたいと思うのが人間というものだろう。

 と、いうことで。

 

「……解いてみる?」

 

 腰元のリボン。

 その端をつまんで、差し出してみる。

 ちょっとした自慢の流れのつもりだった。しかし、サイタマは。

 

「……え、」「え?」

 

 めちゃくちゃ淡白な顔で静止してしまった。あまりの固まり具合に、うっかり能力でも使ってしまったかと慌てたくらいだ。

 サイタマはたっぷり数秒その場でフリーズしてから、今度はなぜか慌てた様子で、

 

「いや、お前、そ、…………」

「うん?」

 

 なぜかきょろきょろと不安げに周囲を見回すサイタマ。無論、他の人影などある訳もない。

 

「…………良いのか?」

 

 なんでそんな本気顔をする。

 

「良いけど」

 

 ただ女性の体になって知ったことを自慢したいだけなのに、こんな茶番を真面目に長引かせるのはこちらとしても気が引ける。

 だから、そろそろと近づいてリボンの端をつまんだ手を、

 

「あっ」

 

 ぐいっと、引っ張った。

 緩く蝶々に結ばれただけのそれは、スムーズにしゅるりと解けて。ただの紐となる。

 解けて──何も、起こらない。

 ゴムで支えられた水着は微動だにしない。そう、女性になって知ったことのひとつ。

 大半の水着は、紐で簡単に外れるような脆弱な作りはしていない。

 解いて取れるなんてフィクションの中くらいなもの。そりゃそうだ、実際に海水浴場やプールで脱げてしまったら猥褻物陳列罪扱いなのだから。

 

 ──馬鹿なんだよな、あの怪人。

 

「あっ──はは、だからこんなの単なる飾りなんだって、ば……え、どうしたのサイタマ……?」

 

 優越と愉快の混ぜものが、腹の底でぐつぐつと煮えたぎって。──サイタマの反応で、すうっと冷めた。

 

「………………」

「……え、なに……?」

 

 超、真顔。

 スン……というオノマトペが相応しい表情でこちらを見つめてくるサイタマに、原因を掴みきれない焦りが浮かんでくる。

 何。どうした。夢を壊されて怒ってるのか。さっきの怪人の時は全然そんな反応してなかったじゃん。

 焦る俺の前、というか背後に、

 

「うわっ」

 

 瞬間移動ですかと聞きたくなる勢いで現れたジェノス。しかも虹彩の消えた意味深な表情で、

 

「……公共の場で風紀を乱すな」

「みみみ乱してないが?!」

 

 だからまた端末を意味深に構えようとすな、お前はうさみちゃんか? 通報が趣味なのか?

 

「……もー、帰るぞ! お前ら!」

 

 サイタマはサイタマで、復活したと思えば何かご機嫌斜めだし。俺、また何かやっちゃいました? リアルになろう主人公の気分だ。 

 

「はい、先生」

 

 その鶴の一声で俺に圧を掛けるのを即座にやめ、一も二もなくその背を追うジェノス。

 俺だけが訳もわからず置き去りにされている。

 本当に、何なんだ。

 そう憤慨する気持ちも、なくはなかったけれど。まあ。

 

「……帰るかぁ」

 

 楽しかったから、いいか。

 それなりに晴れやかな気持ちで二人の後を追う。

 濡れていた時は良かったが、砂やら海藻やらが乾き始めた肌に張りついて気持ちが悪いな。

 

 ──さっさと着替えたい。

 

 そこまで思ったところで。

 ふと。

 

「あ」

 

 気づきたくないことに気づいてしまった、かもしれない。

 俺の不穏な呟きに、二人が揃って振り返る。

 気づきたくなかった。

 ……いや、もとはといえば過去の俺が悪いのだ。あそこで、あそこで気づいていれば。

 悔やんでも悔やみきれない。そんな悔恨を抱えながら、戦々恐々とこちらを窺う師弟に、声を絞り出す。

 

「…………下着忘れた」

「………………」

「………………」

 

 はい、現実ではあんまりやりたくないタイプのお約束でしたね。

 どっとはらい。





この幕間はただ書きたくて書いてるだけの番外編なので、時系列等はあまり気にしないでいただければ


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男と生まれたからには誰でも一生のうち一度は夢見る「地上最強の男」

 サイタマ宅のテレビで、唯一視聴が可能な無料の災害放送。

 普段は怪人の出没情報などを報せてくれるはずのそれは、ここ数日、A市を襲った悲劇とその復興状況についてしか触れていない。

 つまり、何もなければテレビが点けっぱなしなこのリビングでは、その惨劇がほぼ垂れ流しの状態という訳で。いつ遊びに行っても変わらない景色が流れている、というような事態が発生している。

 

 ──まあ、一緒に住んでいる訳でもないのにこんな頻繁に部屋を訪れるほうがおかしい?

 

 今さらの疑問を漠然と反芻しながら、出される以前に自分で淹れた茶を啜る。

 今日だって特に理由なんかなく、話したいことがある訳でもないのに、何となくサイタマの部屋で時間を潰している。無言の時間が居心地悪い訳ではないが、その間を保ってくれるのが更地にされた主要都市のライブ映像、というのはいささか気まずい。というか、見飽きた。

 俺以上にそんな感想を抱いているであろう家主が、視界の端でおもむろにリモコンへ手を伸ばし。自然な動きで、テレビの電源を落とす。

 胡座から立て膝に体勢を直し、

 

「そーいや、」

 

 気負いないふうで、話題を切り出してくる。

 一体何の話かと思ったのもつかの間、

 

「A市に行った時、S級のヤツらに会ったぜ」

 

 確かに直近のイベントだったとはいえ、サイタマの口からその類のワードが出てくるなんて少し、驚いた。

 代わり映えしないテレビの映像に飽きたのか、それとも一応は被災者である俺に気を使って別の話を振ったのか。……共感能力が欠如しているとしか思えない原作での立ち振る舞いを見る限り、前者だろう。

 で、どういう反応が正解なんだろうか。

 

「……そうなんだ?」

「おー。お前みたいな超能力者もいたし」

 

 とりあえず、生返事。しかし、サイタマは予想以上にこの会話を掘り下げる気があるようで。

 彼がそもそも他人のことを覚えているのが珍しい──と思いつつ、話の種になると考えてわざわざ頭の片隅に置いていたのだろうか、と都合の良い解釈。

 

「超能力……戦慄のタツマキかな。2位の」

「名前は知らねーけど。緑のちびっこいのだよ」

 

 命が惜しくないとしか思えない発言である。

 

「ま、超能力っつったって、小石を巻き上げるくらいなもんだろ? お前と大して変わんねーよ」

「………………」

 

 またもやTPOによっては早々にZ市が半壊しかねない爆弾発言だったが、ゲリュガンシュプをその小石で仕留め、タツマキの攻撃をものともしなかった男の口から出たとなると名状しがたい重みを感じる。

 ──で、興味があるだろうと話を振ってくれたところ悪いのだが。俺も別に、プロヒーローに特別の関心がある訳ではない。

 

「……誰か、気になる人でもいた?」

 

 まあ、ここで話を終わらせるのも何だし……と当たり障りない問いを投げてみる。

 色良い反応を期待していた訳ではなかったが、サイタマは予想通り、薄味の表情で眉根を寄せて。

 

「気になる人ぉ?」

「うん」

 

 場もたせに啜っていた緑茶が、底をつきかけている。ただ、改めて注ぎに行くのもタイミングが悪い気がして。ほとんど空になったコップを、手の中で弄ぶ。

 

「一応、プロヒーローの中ではトップクラスの人たちだからね」

 

 ライバル視、もしくは神聖視。普通にプロのヒーローをやっていて、彼らの存在を全く無視できるような人間は、サイタマくらいなものだろう。

 

「別に……そもそも俺はよく知らねーし。お前こそ、ファンやってるヤツとかいないのかよ」

 

 ……意図的かどうかは知らないが、翻ってこちらを刺してきた。だから心臓に悪い話題なのでやめてください。

 

「俺より長くヒーローやってるんだろ?」

 

 頬杖をつきながら、こちらを横目で見上げてくるサイタマ。特に他意はなさそうだが、

 

「……えー……?」

 

 それにしても、返答に困ってしまう。

 好きなS級ヒーロー、いるだろうか。

 同じ世界で、同じ職業をやっているからこそ、前世と同じような目では見られない。

 畏怖の対象だ。二重の意味で。

 

「いねーの?」

 

 黙ってしまった俺に、サイタマが控えめに呼びかけてくる。

 おかしいだろうか。

 自分ではよくわからない。どう答えるべきか迷って結局、

 

「だって、サイタマより強い人いないじゃない」

 

 間違いなく、素朴な本心ではある。

 サイタマも納得してくれるかと思ったのだが、彼はなぜか飲もうとしていた茶で軽く噎せた。

 

「……なに?」

「いや、」

 

 思わず尋ねてしまったが、サイタマはすすっと湯呑みを指先で遠ざけ。曖昧な否定。

 その様子を見ているうち、ぽんと頭に浮かんだ人物があった。この場面で口に出しても妙な雰囲気にはならなさそうなヒーロー、

 

「まあ……バングさんには色々お世話になったからね。そういう意味では、応援してるかな」

 

 サイタマが一番最初に出会ったS級ヒーローが、彼で良かった。

 そういったことは、今でもたまに思う。バングの存在がまさかサイタマの抱くS級の印象に一役買ったなどとは思わないが、それでもだ。

 当のサイタマは案の定ふうん、と気の無い返事をしてから。頭と同様、毛のない顎に手を当て。

 

「S級か……」

 

 ……想像していたより、意味深な反応だなと思った。

 

「目指してるの?」

「まーな」

 

 お、これまた予想外……といっても、サイタマは原作のモノローグでも似たようなことを考えていた気がする。少なくとも、昇級の意志は見せている訳だし。

 

「そういうのにこだわりないかと思ってた」

「興味はねーけど……ジェノスがS級なのに、俺がいつまでもB級だのC級だのにいるのもなんか……アレだろ?」

 

 相変わらず、根拠と理由の曖昧な思いつきである。

 

「……サイタマならすぐなれるよ、」

 

 そう返して、今度こそ茶を補充するために、席を立った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ひじきそんなに何に使うの?」

 

 次にサイタマと出会したのは、Z市の町中でのことだった。言うまでもなくwithジェノス。

 買い物帰りらしい彼らは膨らんだレジ袋を提げていたが、ジェノスはそれに加えて、右手に小さなダンボール箱を抱えていた。

 ひじき、お徳用パック。

 で、冒頭の発言に戻る。

 その文字列を視認した瞬間、とっさに上記の疑問を口に出してしまっていたが。痛いところを突かれたと思ったらしいサイタマは、大袈裟に慌て出す。

 

「べッ……別にぃ!? ちょっと……テレビで見て食いたくなっただけっつーか!?」

「あー、うん、はいはい……」

 

 今さら何を隠したり恥じらうことがあるのだろうと思いつつ。彼の残り少ない人間性の発露だと考えると、何となく可愛らしくもある。

 

「レパートリーが煮物しか思い浮かばないけど」

「だから……作るんだよ、ひじきの煮物」

「もう業者のレベルじゃんそれ」

 

 唇を尖らせて、拗ねたような表情になるサイタマ。これ以上問い詰めてもしょうがないか。ひじきの煮物、美味しいしな。

 

「できたらわたしにも味見させてね」

「卑しいな」

「何? わたしをdisるタイミング窺ってた?」

 

 ジェノス君、黙って話を聞いていたかと思えば、ナチュラルに乱入して罵ってきた。

 

「いいけど、お前も作るの手伝えよな」

 

 むくれた顔のまま、サイタマがそう話を締めくくって。

 

「……で、こんなところで何してるんだよ」

 

 すぐに元のスンとした顔に戻って、新しい話題を振ってくる。 

 

「何って……仕事帰り、」

「先生」

 

 わざとやったとしか思えないタイミングで、師匠に声を掛けるジェノス。思考がロケット鉛筆式のサイタマはそれで素直に顔を上げる。

 

「……なに?」

「キングです」

「誰?」

 

 ノータイムのフーイズイット。会話を続ける気がないとしか思えない反応である。

 しかし、ジェノスのほうもサイタマのそんな無味無臭の対応には慣れっこで、淡々と言葉を続ける。

 

「S級集会にも来ていたヒーロー……サイタマ先生を差し置いて“最強”の称号を手にしている男です」

 

 当然のように私怨を混ぜ込んでくる。

 で、それを聞くサイタマは──こちらも当然のごとく興味ゼロ。ある意味では釣り合いの取れた関係性ではある……のか?

 そんなことを考えながら、少し先を行く長身の人影を見る。フードを目深に被った後ろ姿。

 

「……キング……」

 

 運が良いのか悪いのか、キングとの顔合わせとなるシーンに遭遇してしまったらしい。

 ……うーむ、特に何の感情も湧いてこない。

 警戒するも何も、キングそのものは無害な訳だからな。万が一、秘密がバレるようなことがあっても簡単に“口封じ”ができる──まあ、彼の立ち位置的にこの世界の補正に邪魔されそうだが。

 

「こんなところで一体何を……」

「きゃあああ!!」

 

 ジェノスの呟きを遮る、女性の悲鳴。

 今の今までぼけっとしていたサイタマが、さすがヒーローとでも言うべきか、それで瞬時に声のしたほうを見る。

 

「怪人よぉおおお!!」

「怪人だと? 先生、すぐに消して──いや、」

 

 良いことを思いついたような顔で、人助けを踏みとどまるジェノス。ここから続く発言は予想がつく、というか知ってるけど──

 

「キングの実力を見る良い機会かもしれません。様子を見ましょう!」

 

 ……前々から思ってたけど、こいつも大概だな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『──1分経った。殺戮を開始する』

 

 結局。

 トイレに逃げたきり、キングは戻って来ず。

 さしものジェノスも人的被害は見過ごせなかったらしく、代わりに彼が戦うこととなった。

 まあ、これも原作通り。

 

「ジェノス、手貸そうか」

 

 防戦一方、という訳でもないが、明らかに実力が上回っているふうでもない機神G4との戦闘風景に、サイタマが気怠く口を出す。

 

「いえッ!!」

 

 そして確固たる信念を滲ませその申し出を辞退するジェノス。固辞の2文字がよく似合う。

 

「先生に出された課題、『S級ランキングで10位以内を目指せ』を達成するためには……!」

 

 で、またもや蚊帳の外に追いやられた俺ことセツナは、機神G4ってカービィに出てくるラスボスみてぇだなとか全然関係ないことを考えていた。ロボボプラネットとかにいそう。

 

「これしきの相手! 独力で倒せるようでなくては!」

 

 きみ、さっき最低でも災害レベル鬼とか言ってなかったっけか。別に独力で倒せる必要ないんじゃ……と思ったが、口に出せる雰囲気ではなかった。

 

「そうか。んじゃ負けんなよ」

「はい!!」

 

 よく言えば弟子を信用している、めちゃくちゃ率直に言えばあんまり興味がないサイタマは、良いお返事をバックに躊躇なく背を向ける。代わりに俺と目が合った。

 

「行こうぜ、セツナ」

「え……ぁ、うん」

 

 当然のように呼びかけられて、ついていかざるを得なかった。断る理由もないし。

 ということで、ジェノスが持っていた荷物を代わりに抱えて、サイタマの後を追う。しばらく歩いても背後からはジェノスとG4の交戦する音が聞こえていたが、サイタマは気にする素振りも見せなかった。

 わりと興味を示していたようなのになぜ、と一瞬思ったが、その答え合わせはすぐに訪れる。

 

「……なんでアイツ、来なかったんだろーな」

 

 ──キングのことを考えていたらしい。

 そりゃそうか、とワンテンポ遅れて納得。それが高じて家にまで突撃したのだから、彼にしては相当気にかけていたのだろう。

 

「なんでだろ……ぶぇ、」

 

 まさかここで答えを言う訳にもいかず、適当に相槌を打とうとしたところで。急に立ち止まった彼の肩口に、わりと勢いよく顔面をぶつけた。

 隣を歩くのを躊躇われるセンスのシャツと濃厚接触をかましてしまい、慌てて離れる。うえ、繊維が口に入ったんだけど。

 何で立ち止まったんだと顔を上げたちょうどその時、

 

「なあ、アレ、キングじゃね?」

 

 児童公園、その片隅の公衆トイレを指差すサイタマ。そこから出てくる大柄な人影。

 

「え……? あ、ほんとだ……」

 

 下手な抜き足差し足忍び足で立ち去ろうとする、端的に言って滑稽な後ろ姿……まさか、こんな場面までばっちり見られていたなんて。

 というか、サイタマはこの後キング宅にアポ無し訪問する予定な訳で、そうなると当然帰り道のどこかで目撃するという流れになるのか。若干面倒くさいことになったな、適当に理由つけてあの場で解散すれば良かった。

 

「どこ行くんだ?」

 

 サイタマが低く呟く。プロヒーローの身でありながら、戦闘を放棄しておいて。言外にそんな詰めの響きが滲む、シリアスな呟きだった。

 その次に、

 

「追いかけようぜ」

「えっ」

「え?」

 

 追いかけようぜ、て。

 まあ、そうなるんだろうけど。

 

「だから……追いかけて、ホントのとこを確かめてみようぜ」

「う、うーん……?」

 

 改めて、ストーカー行為に対するノリが軽すぎる。まあ、窓からの不法侵入に一切の躊躇いがない男だからな。怖すぎる。

 

「わ、……わたしは別に、いいかな……」

「そうか?」

 

 高層ビルでスパイダーマンごっこは正直御免だし、そこまでして会いに行く意義があるとも思えなかった。それに、下手に部外者がいたらキングも秘密を暴露できないかもしれない。

 

「ま、いーけど。じゃあな」

 

 その一言で、サイタマはあっけらかんと会話を切り上げて。すたすたと、キングの背中を追いかけて遠ざかっていってしまう。

 

「……はあ、」

 

 ……俺だけが一人、残された。

 足元を吹き抜けるビル風が、誰かの捨てた空のペットボトルをさらっていく。

 からんころん、と軽妙な音を立てながら転がっていくそれを、何となく目で追って。その向かう先が、もと来た方角だとふと、気づいた。

 少し、考える。

 

「……ジェノスの様子でも……見に行こうかな」

 

 どうせ周囲に被害が及ばないことはわかっているのだし、遠巻きに眺めるくらいならまあ、問題ないだろう。

 

 

 

 

 

 ……で、とんぼ返りしてきたはいいが。

 

「もう後半戦だな……」 

 

 この短時間に、G4はご立派な鎧をひん剥かれてちっこくなっており。巻き添えを恐れたらしい野次馬は、皆さっさと姿を消していた。

 人混みに紛れる作戦が無事、無に帰されたため、仕方なく手近な電柱の影に隠れる。ぎりぎり視認できるかできないか程度の距離なので、流れ弾が飛んでくることはまあ無いだろう。

 しかし、ここに来た意味はマジで無かったな。暇つぶしにもなりはしない。

 どうせジェノスは問題なくG4を倒してしまうのだろうし──

 

「ぁ、」

 

 ──と、思っていたのだが。

 結果は知っていても、その過程までは描写されていなかった。彼がどの程度、余力を残してG4を撃破したかまでは、知り得ない情報だった。

 だから。

 おそらく、自爆システムが組み込まれていたのだろう。地に倒れ伏したG4の体がかっと閃光を放ち、間近に立つジェノスの顔が引き攣って。

 

「チッ、」

 

 その瞬間。とっさに道路へ躍り出て、その光へ能力をぶつけていた。

 その甲斐あってか、ドカン──とはならず。大通りを埋め尽くすほどの光は、だんだんとフェードアウトしていく。そして、シュウン、と微かな電子音を最後に、機神G4は完全に沈黙した。

 凍りついたその機体を見て、ジェノスはすぐさま下手人に思い至ったのだろう。

 

「……っ、! セツナ、」

 

 当然のように名前を呼ばれて、やむなく彼の前に姿を表す。

 

「は、はぁい……」

 

 改めて間近で見る、原作よりもおそらく損壊具合がだいぶマシなその立ち姿。左腕も取れていないし、頭部にも派手な外傷はない。

 で、そのジェノスは俺を見るなり反転したその瞳を尖らせ、

 

「何故ここにいる」

「いや……まあ……色々ありましてですね……」

 

 暇を持て余して物見遊山──とはさすがに口に出せなかった。

 明らかに挙動不審な俺の弁解を聞いて、ジェノスはまだ何か言いたげだったが。

 

「……まあいい、」

 

 その一言でひとまず詰問を切り上げ、動かなくなったG4から容赦なくパーツをむしり取り始める。モンスターハンターか羅生門の老婆かというような手際の良さだった。さては常習犯だな?

 数十秒ほどでその剥ぎ取りも済んでしまったようで、パーツを小脇に抱えて、すたすたと俺の横を通り抜けていく。いないかのような扱い。

 

「……どこ行くの? 帰るの?」

 

 俺がその後ろをめげずに追いかけても、無視。

 まあ、行き先自体はわかっている。彼はこのパーツを持って、クセーノ研究所に行くのだ。

 

「ねーぇ、」

 

 と、いうことは、さすがに帰り道で振り切られてしまうか。

 そんなことをぼんやり考えながら、しゃんと伸びた背中を追いかけるうち。真っ直ぐ歩いていたはずの彼はいきなり、ほぼ直角の動きで左へ舵を切った。

 慌てて追尾する。その先は──建物と建物のほんの狭い隙間、いわゆる路地裏、だった。

 

「……こんなとこ通るの?」

 

 狭いし、暗いし、埃臭い。

 パーツがあると目立つからだろうか、と暢気に思案を巡らせていたのもつかの間。

 

「えっちょっと、ジェノス?」

 

 ──それこそ、機械のように精確な歩みを続けていたジェノスが、おもむろにふらついて。

 そのまま、ずるずると壁伝いに崩折れた。大事そうに抱えていたパーツが、ばらばら音を立てて汚い床に散らばる。

 ジェノスはその過程で器用に半身を捻って、壁を背にする形で地面に腰を落ち着けた。

 

「ねえ、ほんとに……」

 

 とりあえず、気を失ったとかではないようで安心したが。……いきなり、どうしたのだろう。

 急に地面に座り込む。

 サイボーグにはあまり相応しくない、というか結びつきにくいシチュエーションだ。

 覗き込んだ彼の顔はどことなく、疲れているように見えた。

 

「大丈夫?」

「………………」

 

 この期に及んで無視……というか、無言。ホントこの子扱いづらいな。うんとかすんとか言えよ。

 片膝を立て、微動だにせずうつむいたその姿は、生物というよりは精巧な美術品にも見える。

 

「………………」

 

 誰の気配もしない、静かな路地裏。

 大通りの喧騒もどこか遠い。

 退屈のあまり、フィルターに何かが詰まっていそうな室外機の唸りに耳を傾ける。

 

 ──うーむ、案の定めちゃくちゃ気まずい。話すようなこともない。

 

 ジェノスと2人きりの状況、今まで意図的に避けてきたので、なおのこと乗り切り方がわからない。

 無理矢理でも何でも、適当にこちらから話を切り上げて解散すべきかもしれない。

 ジェノスが実際、そこまでのダメージを受けていないことは原作の描写からも明らかなのだし、

 

「……セツナ」

「んぁ」

 

 ──いきなり呼びかけられて、寝起きみたいな声が出てしまった。

 しかし、当のジェノスはそんなツッコミ必須の醜態には構うことなく。じっと、睨むように自分の爪先を見つめている。

 何となく、思いつめているように見えた。

 

「お前は、…………」

 

 数秒の沈黙、の後、口を開いて。すぐにつぐんでしまう。珍しく、歯切れが悪い口ぶりだった。

 考えながら言葉を選んでいるような。

 どんな嫌味も悪態も、何の躊躇なく口に出すような男だ。嫌な予感がしたが、その予感は、何とも言えない形で裏切られた。

 

「お前は……自分一人が生き残ったことに、何か理由が存在すると思うか?」

 

 予想外の発言に一瞬、思考が飛ぶ。

 自分一人が生き残った。

 3年前の怪人火災のことを言っているのか、と推察するのに、数秒の時間を要した。

 ……先ほどの流れから、どうしてこの質問に繋がるのだろう。考えたけれど、わからなかった。

 そもそも、ジェノスにこの話をしたことはあっただろうか?

 

「……何の話?」

 

 思いのほか、落ち着いた声が出た。

 焦りもなかった。ただ、俺の心臓が最初からそうであるように、冷めきっていた。

 

「先生から聞いた。……お前も、怪人災害の生き残りだと」

 

 サイタマが。……どういう風の吹き回しだ、とまず思った。

 まさか、面白がって話のネタにした訳ではないだろうけれど。まあ、何せあのサイタマだし、雑談の弾みでぽろっと口にした、というようなこともじゅうぶん有り得る。

 いつ頃知ったか、なんて推察しようがない。けれど、それをジェノスは、覚えていたのだ。

 少し、驚いた。

 しかしジェノスはそんな俺の驚愕をよそに、淡々と、どこかで聞いたような話を始める。

 

「──15歳の時だ。とある暴走サイボーグに、俺は全てを奪われた。故郷も、家族も、何もかもを。そして、俺だけが無事だった。俺だけが……」

 

 膝上で、ぐっと握りしめられる鉄の拳。

 4年経ってなお癒えない痛み、冷めない熱。俺とは正反対だ、とぼんやり思った。

 

「クセーノ博士に出会っていなかったら、俺もいずれはあの町で朽ちていただろう」

 

 握られていた拳が、ゆっくり解かれる。

 何もない手のひらを──焼却砲の砲口をじっと見つめて、低く、呻くように呟く。

 

「これを“奇跡”と呼ぶのか? ……いや、」

 

 ゆるく頭を振る。少し焦げた金髪同士がぶつかり合って、ぱさぱさと軽い音を立てた。

 

「……俺だけが生き残ったことに、何か意味があったのか?」

 

 俺に答えを求めているようであり、己の中に答えを探しているようでもあった。

 対象となる人物を挿げ替えたその疑問が、じわりじわりと俺を包み込んでいく。

 どうして。

 どうして、“自分”だったのか。

 

「一人、命を取り留めた。それが他でもない、誰でもない“俺”であったことに、理由があるのか?」

 

 どうして。どうして。どうして?

 悲痛な祈りだ、と思った。

 拷問のひとつに、掘らせた穴を元通りに埋めさせるだけ、というようなモノがあると、かつて聞いたことがある。ヒトは“無意味”に耐えられない。

 偶然に耐えられないから、神罰に縋る。

 意味の無い死に『原因と結果』を“作り出す”。それが良きものであれ、悪しきものであれ。

 ああ、何だか、他人事みたいだ。

 ジェノスが顔を上げる。

 

「お前一人が、あの火事から逃れて……生きて──今まで生き延びたことに、何か意味があるのか?」

 

 この男は、“セツナ”に何を求めているのだろう。

 同病相哀れむ。

 まさか、傷の舐め合いを欲している訳でもあるまい。ジェノスは“俺”に、何と言ってほしいのだろう。

 思い浮かぶ言葉はいくつかあったが、どれも、口に出す気にはなれなかった。

 

「………………」

 

 ふう。微かな吐息が、澱んだ空気を揺らす。

 何気なく逸らした視線が、軒下の殺虫灯に群がる羽虫の群れを捉える。その鉄枠にこびりついた、哀れな亡骸を。

 

「……考えたこともなかったなぁ、」

 

 暢気な呟きが、思わずこぼれていた。

 うつむいていたジェノスが、顔を上げる。異色の瞳が、縋るようにこちらを見つめている。

 どうして、自分だったのか。

 どうして、セツナだったのか。

 怪人協会の実験──が一瞬頭をよぎって、彼はそういうことが聞きたいわけじゃないんだろうな、と思った。もし。あの火災に、怪人協会の手が入っていなかったとして──何故?

 ……意味の無い問いだった。

 考える必要すらない、わかりきった問答だった。その答えは最初から知っていた。探る必要すらなかった。

 

「ジェノス」

 

 指を滑らせ、ひび割れた頬に触れる。人間の温かみを感じない、硬質ななめらかさ。

 彼が小さく剥き出しの肩を跳ねさせる。

 ジェノスは、その答えを求めていた。

 ──でもね。

 

「わたしがどうして生き残ったのか──わたしにはわかるよ、」

 

 ぐっと、腰を屈めて。煤けた頬を、優しく撫でる。間近で見つめるジェノスの瞳に、見知らぬ女が映っている。

 

「わたしには、わたし以上に大切なものが無かったから」

 

 ──怪人化とは、究極の自己愛の発露である。

 

 他人と同じでは嫌。

 自分さえ良ければいい、自分の望みさえ叶えられればいい、それ以外はどうなってもいい。

 そんな己を何より愛し、尊んだ。

 それゆえに。

 

「だから、意味なんて無いんだよ」

 

 俺が生き残ったのは、運命の悪戯などではない。どこまでも無意味で無価値な必然の結果。

 俺が“セツナ”ではなく、“赤井佑太”であったから。

 俺はその無意味さに怯えない。

 それでまったく、構わない。

 

「……ね、」

 

 さらり、指の間から金糸が逃げていく。明らかに人間のそれとは感触の違う、合成物。

 ジェノスは呆然と俺を見上げていた。可愛いな。何となく、そう思った。

 軽いバックステップで距離を取り、その位置から彼の顔を覗き込む。

 

「帰ろうよ。それともどこか、寄るところがある?」

 

 その呼びかけにジェノスは一瞬、口ごもって。

 僅かに目を泳がせた後、

 

「……クセーノ博士の……ところに……」

「そっか」

 

 わかっていたことだった。何の感情も芽生えなかった。

 

「……はい、これ。大事なものでしょ」

 

 地面に落ちた機械の破片をかき集めて、緩慢な動きで立ち上がった彼に押しつける。

 ジェノスが腕を動かして受け止めたのを見届けた。背を翻して、陽の光を浴びる。

 

「──じゃ。またね、ジェノス」

 

 ジェノスからの返事は、なかった。

 別段、欲しいとも思わなかった。

 

 

 

 

 ──ジェノスは、俺とは違う存在。

 だからこそ、彼が望むかもしれない言葉を与えてはやれない。そうしない、と決めた。

 

「……それで良い、」

 

 この感情は。

 彼が敵として邪魔だと思うゆえなのか、それとも仲間として愛しているからなのか。

 その、どちらなのか。今は、区別をつける気にはなれなかった。──今だけは。





タイトル全然関係ねえ…


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