真・女神転生▷《プレイ》世界が終わるまでは… (五十貝ボタン)
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第一部 新宿
序奏(イントロ)


 部屋は赤く染まっていた。

 

 壁といわず、床といわず、見渡す限りの場所が、そこに生物が()()()()()証で埋め尽くされていた。不規則な血だまりが幾つも並び、怪奇な呪文を刻印しているかのようだった。

 

 血だけではない。肉片。砕けた骨。臓物。入口のすぐそばでは、()()()()()()()が壁に叩きつけられて頭蓋骨の右半分がつぶれ、ひしゃげた目玉がだらりとこぼれだしていた。

 

 別の一角には、焼け焦げた死体が無造作に転がっている。焼けただれた肌が不気味に変色し、体のどこかでくすぶった残り火が煙を部屋の中に広げていた。快いとはとても言えない、吐き気を催すにおいが、換気の悪い地下室に漂っている。

 

 死が空間を支配している。

 

 人間の破片がばらばらにまき散らされている。マッシュにとっては、上司だった一等警官たちだ。

 

 少年がその部屋に踏み込んだ時、生きているものは一人だけだった。いや、それが「ヒト」と呼ぶべきものなのか、マッシュにはわからなかった。

 

「まだ残ってたか」

 

 その男は異様な姿をしていた。体と半ば一体化した甲冑を纏っている。鎧武者のようだ……だが、202X年に武者なんて、ばかげている。

 

 男は硫黄結晶のような危うい光をたたえた双眸でマッシュを見据えると、獲物を前にした狼の笑みを浮かべた。

 

「その腕の機械、お前は悪魔使いだな? すこしは歯ごたえがありそうだ」

 

 顔についた返り血を拭いながら、男が振り向く。濃密な魔力(生体マグネタイト)が、熱となって立ち上っている。

 

「あんたが……やったのか」

 

 逃げられない、と本能でわかった。背中を向けた瞬間に、のど元に喰らいつかれる確信があった。

 

「くだらないことを聞くな」

 

 一等警官を皆殺しにした張本人は、余裕を見せつけるように笑っていた。

 

「何者だ……」

 

「今度はまともな質問をしたな」

 

 マッシュには、その口が耳元まで裂けているように見えた。

 

「自由の使者……そんなにいいものじゃねえか。力の体現者……フン、俺はもっと強くなるはずだ……そうだな、敢えて言うなら……」

 

 男は自分の手を顔の前に掲げた。掌に張り付いて乾いた血が剥がれ落ちる。まるで、古い皮を脱ぎ捨てて新たな体が(あらわ)れたかのようだった。

 

混沌の主体者(カオスヒーロー)。そうだな、それがいい」

 

 地獄の支配者となった悪魔たちと同じ色で、男の瞳がひときわ強く輝いた。

 

「こいつらは力で新宿を支配してきた。ハッ! 悪魔におびえる市民たちを従わせて、さぞかし楽しかっただろうな。だが、この連中よりも俺のほうが強かった。だったら、俺に殺されても文句は言えない。そうだろ?」

 

「全員が望んでやったわけじゃない。逆らったら何をされるかわからなかった……」

 

 マッシュの反論が、男の逆鱗に触れた。

 

「逆らう力がないなら同罪だ!」

 

 男の魔力が掌に集まり、(ゴウ)と炎へ変わった。熱気が部屋の中に一気に広がり、赤い血以上に赤い炎が天井を嘗める。

 

(俺は死ぬのか)

 

 恐怖がマッシュの体を駆け巡る。

 

(弱いからってだけで、死ななきゃいけないのか)

 

 目を閉じた。恐怖の主体から逃れようとする本能的な反射だった。

 

(けっきょく、新宿の地下から出られないまま死んでいくのか。いやだ……死にたくない!)

 

 目を閉じても、暴力が消えてなくなるわけではない。肌に、熱が迫るのを感じる。皮膚を焼き、臓腑を沸騰させる破壊的な炎が。

 

 脳裏に、走馬灯のように記憶が駆け巡った。

 

 哀れにも文明が滅びた世界に生まれた少年の記憶が、再生(PLAY)されてゆく――



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1-01_Boys & Girls

(地上には壁がないって、本当だろうか?)

 

 マッシュは生まれた時からの地下街育ちだ。彼の世界にはいつも壁があった。

 黄色がかった灰色の壁。新宿地下街はどこでも同じコンクリートの壁で覆われている。

 世界の形に疑問を持ち始めたのは、12歳の時だった。ある少女が、マッシュに手渡したものがあった。銀色の塗装がはげかかった四角い箱だった。その機器の名が「MDプレイヤー」だということは、後から知った。

 

 (PLAY)のマークが描かれたボタンを押すと、少年がいままで考えたこともなかった複雑な音が流れ出した。

 その音楽は、マッシュが知らない『外』の世界を高らかに歌っていた。

 

太陽が燃えている ギラギラと燃えている

二人が愛し合うために 他に何もいらないだろう

 

 地上には太陽が昇るらしい。日差しだとか晴れだとか曇りだとか、雨だとか雪だとか、マッシュは見たことがない。

 

いつまでも続くのか 吐き捨てて寝転んだ

俺もまた輝くだろう 今宵の月のように

 

 夜になると、太陽の代わりに月が昇る……らしい。地下街には昼も夜もない。

 

この長い長い下り坂を君を自転車の後ろに乗せて

ブレーキいっぱい握りしめて ゆっくりゆっくり下ってく

 

 下り坂も。自転車も。

 すべて、地下街にはないものだった。

 

 マッシュの心は音楽に奪われた。たった3枚のミニディスクを入れ替え、その中に入っている36曲を何度も聴いた。やがて少年の中で、「外」への想いは抑えきれないほどに膨らんでいた。

 

 いまも、マッシュはMDプレイヤーにイヤホンをつなぎ、音楽に没頭していた。プレイヤーはリピート再生で、一曲目の女性ボーカルへと切り替わっていた。

 

輝きだした 僕達を誰が止めることなど出来るだろう

はばたきだした彼女達を誰に止める権利があったのだろう

 

「もしもーし」

 とつぜん、イヤホンが取り去られて、別の女の声が耳へと飛び込んできた。

 

「うわぁっ!」

 座っていたステンレスの椅子ごと崩れ落ちそうになって、マッシュは慌てて壁に手をついた。

 

「音量上げすぎ。長官に呼び出されたらどうするの?」

 マッシュから奪ったイヤホンを手にしたまま、声の主はケラケラと笑った。

『木琴みたいな声だ』と、誰かが言っていた。だったら、木琴というのはきっと耳に心地よく、甲高くて、ひっきりなしに休みなく鳴り続けるのだろう。彼女はそんな声をしていた。

 

「ミクミク、どうやって入ってきたんだ」

 もう片方のイヤホンを外して、マッシュは少女に向きなおった。

 さらりとした黒髪を左右にまとめて、『お団子』にしている。マッシュが知っている『お団子』は髪型だけだ。昔は、別の意味があったらしい。

 紫がかったおおきな瞳。つぎはぎだらけのパーカーに、ショートパンツと黒いタイツ。すり減った靴底のパンプス。

 

「すごいでしょ。修行したんだ」

 少女――ミクミクは手の中のヘアピンをくるくると回して見せた。解錠術をガイア教が教えているという噂はマッシュも聞いていたが、まさか有料の技術を学びに行く知り合いがいるとは思っていなかった。

「最初はマッシュに見せたくて」

 

 マッシュがあきれている間に、ミクミクはすらりとした体をひねって、マッシュの部屋の壁に寄りかかった。

 

「俺に見せるために俺の部屋の鍵をこじ開けたのか?」

「かわいい妹分のかわいいイタズラだと思ってよ」

「同い年だろ」

「精神的には妹なの!」

「はいはい。甘えん坊なところは変わらないな」

「そういうふうに言われたら反発したくなってきた!」

 

 ミクミクもマッシュと同じように、新宿地下街の外に出たことがない。狭い世界で、数少ない心を許せる相手だ。お互いに、こんなふうに軽口をたたける相手は他にはいない。

 

「ミクミクは……外に出たいって思ったこと、あるか?」

 ふと、少女から視線を外すと、壁に貼ってあるカレンダーが見えた。1999年の7月――はるか過去の日付が記されている。何の役にも立たないが、そこには海の写真がプリントされている。すっかり色落ちしているが、この写真を見るたび、マッシュは本物の海に思いをはせているのだった。

 

「外って、新宿の外? 地上ってこと?」

 ミクミクは細い指を立てて、まっすぐに上を指さした。灰色の天井のさらに上には、彼らが見たことのない「地面」があるらしい。

 

「ああ。空とか、海とか、東京タワーとか……見たいと思ったこと、あるか?」

「地上には悪魔がいるんでしょ? あたしなんかがのこのこ出ていったら、すぐに食べられちゃうよ」

 細い肩をすくめる。厚手のパーカーの裾が重たげに揺れた。

 

「でも、ここで暮らすのは不自由だ。何をするにもオザワや長官の顔色をうかがわなきゃいけない」

「それ、ほかの人にも言ってないよね?」

「言うわけない。ミクミクだけだよ」

「ふーん」

 なぜかうれしそうに笑ってから、壁に貼られたポスターを眺めた。

 

「外の世界でも、同じでしょ。強い悪魔がいて、そいつらの気にくわなかったら殺されちゃう。それか、単に気まぐれで。それって、オザワが威張ってるのと同じでしょ。自由を味わえるのは、力があって強い方だけ」

 彼女にしては珍しい、冷めた口調だった。取り繕いようもない。ミクミクだけでなく、新宿地下街に暮らすものは、みんながわかっている……いま彼らが生かされているのは、この街の支配者たちの気まぐれに過ぎないのだ。

 

「俺に力があれば……」

「あたしを連れ去ってくれる? 『眠れる森の美女』みたいに」

「それ、本当にそんな話なのか?」

「どうかな。聞いたのは、ずいぶん前だから……」

 思い出そうとしているのか、ミクミクは額を指でぐりぐりやりながら、部屋の端にある作業台に目を向けた。そこには、配線が絡みつく機器がくみ上げられている。

 

「なに、これ? またジャンクを集めて何か作ったの?」

 マッシュは、新宿地下街では貴重な技師だ。新宿には、かつての文明が残したゴミの山から掘り出してきたがらくた(ジャンク)が集まってくる。それらを組みあわせて機械を作るのはお手の物だ。

 

「アームターミナルだ」

「じゃあ、持ち運べるコンピュータ? OSを見つけたの?」

「見た目はボロボロだったけど、まだ生きてた。クリーニングしたら、動いてくれたよ」

「ね、マッシュ、着けてみて」

 話を聞いているのかいないのか、少女はすっかり興奮した様子だ。こうなると、止めても仕方ない。やってみせる方が早い。

 

 マッシュはターミナルを腕に着けて、ベルトで固定した。同じように、頭部にもインタフェース機器を着ける。コンピュータが処理している情報が、そこに表示されるのだ。

 

「すごいね。ぴったりじゃない?」

「当たり前だろ、俺が作ったんだから」

 強引なミクミクにいくらかあきれながら、マッシュは首を振った。でも、一人でコツコツとくみ上げていた機械を最初に見せるのが、幼なじみと言ってもいい彼女だったことはいくらから気分がよかった。

 

「ここにプレイヤーも着けられるんだ。こうすれば、イヤホンで音楽も聴ける」

 アームターミナルの側面に作った固定部に、愛用のMDプレイヤーをはめ込む。カチリと音がして、形状がかみ合った。

 

「それじゃあ、本当に自分で使うために作ったんだ。これで悪魔を呼び出せるの? 時々やってくる、悪魔召喚師みたいに?」

「無理だよ。パーツは整ってるけど、中身がない」

「『中身』って?」

 

「悪魔召喚プログラム。新しく手に入れるのは難しいんだ。悪魔召喚師からコピーさせてもらいたいけど、いくらマッカがかかるかわかったもんじゃない」

「ふーん」

 装着させたところで、ミクミクはすっかり満足したらしい。ほかに面白いものがないか、キョロキョロしはじめている。

 

「とにかく、いまは形だけ。そのうち、もしもプログラムが手に入ったら……」

 

(俺も、悪魔を使うことができる)

 それを口にするのは、さすがにためらわれた。悪魔のいない新宿で悪魔の力を求めているなんてことが周りに知れたら、どんな目に遭うかわかったものじゃない。

 自由を手にするには……安全を感じるには……どちらにしろ、強さが必用だ。この街の支配者、オザワのように。

 

「ねえ、マッシュ、これは……」

 思考に沈んでいた意識が、唐突に引き戻された。ミクミクはおおきな南京錠がかけられた木箱に手を伸ばそうとしていた。

 

「触るな!」

「ひゃっ!?」

 大声をあげたマッシュに驚き、ミクミクが手を引っ込める。大きな目に、おびえの色が浮かんでいた。

 

「し、心配しなくても、こんな大きいカギ、開けられないってば」

「いや、その……ごめん。つい、大声が出ただけだ。ミクミク、その箱は……気にしないでくれ」

「う、うん……マッシュがあんな剣幕で怒鳴るところ、初めて見た」

 

(嘘だ)

 驚いて身をすくめるミクミクの姿に安堵を覚えながら、マッシュは思った。

(二度目のはずだ。あのときも、俺は怒っていた)

 

 記憶が蘇りそうになって、マッシュは手を押さえた。こんなとき、一人だったらMDプレイヤーの音楽に聴き入ることで忘れるのだが……

 きまずい空気が部屋に流れた時、入り口のそばにある赤いランプがチカチカと光った。

 

「呼び出しだ」

「長官から?」

「ああ。DJのことだろうな」

 物憂げに、マッシュはつぶやいた。その名を聞いて、ミクミクも下を向いた。長い睫が瞳を隠す。

 

「刑期はあと何年?」

「5年。まだ半分だ」

「そっか。長いね……」

「ミクミクのせいじゃない。気に病まないでくれ」

「マッシュが頼んでも、出してくれないの?」

「俺は単なる警官だ。長官に頼みごとなんかできないよ。特別な功績でもあれば別だけど……」

「……うん」

 

 ミクミクは繰り返し頷いた。彼女も、オザワの施設警察を取り仕切る長官の権力はよくわかっている。

 

 だがやがて、無理に笑顔を作ってみせた。

「行ってらっしゃい。DJによろしくね」

「じゃなくて、先に出てくれないとカギを閉められないだろ」

「ばれたか。部屋の中を探ってやろーと思ったのに」

「ばれるに決まってるだろ」

 

 こうしてマッシュはミクミクを部屋から出して、カギを閉めて『指令』に向かったのだった。

 留守の間に彼女がまたカギをこじ開けることを心配する必要はなかった。

 

 マッシュがいない部屋に用事などないということは、よくわかっている。

 

 

 ▷▷

 

 

 『大破壊』によって東京の地上は焼き払われたが、地下はかろうじて被害を免れていた。

 新宿地下に広がる巨大空間は、現在の東京ではとりわけおおきな役目を果たしている。オザワという男がいち早く街の機能を回復させ、多数の人間を生活させている。

 地下街の電気配線や水道はまだ稼働していた。どうやってオザワがそれらの機能を維持しているのかを17歳のマッシュには知る由もないが、悪魔の力を使っているのだともっぱらの噂だ。

 

 オザワは強大な悪魔と契約し、その力でほかの悪魔を従えている。そのおかげで、新宿地下街には悪魔はおらず、安全な暮らしが守られている……ただし、その安全にはオザワに目をつけられさえしなければ、という条件がつく。

 地下街には、オザワが組織した私設警察が目を光らせている。警察といっても、かつての日本に存在したといわれる警察のように、正義感と奉仕の精神を併せ持つ警官などひとりもいない。警官は誰もがオザワと、オザワの手下である警察長官に取り入ることだけを考えている。

 

 それは、マッシュも同じだ。

 

(力は必要だ)

 

 地下街の鬱蒼とした廊下を歩きながら、マッシュは心の中でつぶやいた。地下の道は、あらゆる場所が薄暗い。明るい道を見たことなどなかった。

 

(長官に気に入られれば、俺も権力を振るう側になれる。そうすれば、外に出ることもできる。悪魔召喚プログラムも手に入るかもしれない。そうすれば……)

 そこまで考えて、はたと足が止まった。

 

(悪魔の力を手に入れれば強くなれるかもしれない。でも、その力でオザワに勝てるのか? オザワよりも強くなったとして、もっと強いやつが現れたら? どこまで強くなれば、自由と安全を手に入れられるんだ?)

 気づけば、私設警察の詰め所に着いていた。とりとめなく広がっていきそうな思考を押しとどめて、マッシュは首を振った。

 

(いや、考えても仕方ない。まず力が必要なんだ。その後のことは、その後考えればいい)

 ドアをノックする。「入れ」と、短い返事が聞こえた。

 

「マッシュ三等警官です」

 ドアをくぐると、独特のにおいが部屋の中から立ちこめてきた。合成皮革のにおい。マッシュはこのにおいが苦手だった。胸がむかむかするが、顔には出さずにかかとをそろえて敬礼した。

 

「遅いぞ。何をしとったんだ」

 合皮のソファに座った男が、いらだった声で言う。

「ランプが着いてすぐに来ました。5分も経っていないはず……」

「言い訳は聞きたくない!」

 自分で聞いたんだろう、という文句を飲み込んで、マッシュは口をつぐんだ。

 

 この男こそ、オザワの片腕にして、新宿の『治安』を守る私設警察の長官である。

「私は忙しいんだ。わかってるんだろうな?」

「もちろんです」

 そんなに待つのが嫌なら部屋まで訪ねてくればいいだろうに……というのも、飲み込んでおく。

 

「お前の仕事はわかってるだろう。さっさと行くぞ」

 重そうな尻を上げて、長官が立ち上がる。胸に光るいくつものバッジが、じゃらじゃらと音を立てた。誰が何をたたえてこの男を表彰したのか、誰も知らない。

 

「まったく。テクラがあんなプロテクトをほどこしていなければ、こんな手間はかけないですんだのに」

「DJならプログラミングし直せます。彼にコードを解析させれば……」

「やつにそんな自由はない」

 マッシュが口を開くだけでも不愉快だと言わんばかりに、長官が睨めつけてくる。

 

「お前は私が言うとおりにやっていればいい」

 長官の腰には、黒いピストルが光っている。ヒマさえあれば磨いているおかげで、いつでもピカピカだ。その労力の一部でも、市民への思いやりに回せないものか。

 数人の警官が、長官の脇に着く。彼らは銃を持つことを許された『一等警官』だ。つまり、長官にうまく取り入って気に入られた連中である。

 

「……はい」

 マッシュは黙って彼らのあとに続いた。逆らえるわけがない。

 

 

 ▷▷

 

 

 新宿地下街の、さらに地下……マッシュが知る限り、そこはもっとも深い場所だった。

 階段を降りてすぐに、分厚い防火扉が閉まっている。その脇にある端末に、マッシュは向きあっている。

 

「おい、早くしろ」

 長官がいらだちをあらわに告げる。

「パスワードを間違えると操作できなくなります」

「わかっている! 早く、間違えないように入力しろ」

 

 長官の横暴な振る舞いに嘆息しながら、マッシュは端末に表示される文字列をのぞき込んだ。

 

 新宿最深部のこの場所には、厳重なプロテクトがかけられている。正しいパスワードを入力しなければ、防火扉は開かない。その上、パスワードは一定時間ごとに変化する。表示される文字列にはいくつかのパターンがあり、その内容を解析してパスワードを割り出さなければならないのだ。

 

 そして、その解析パターンを知っているのは、マッシュともう一人だけ。

 じゃらっ、と鎖の音がした。階段の上から、鎖で両腕を繋がれた男が降りてくる。その脇には、一等警官が銃を手にして鎖を引いている。

 

「お前のせいで、私が毎週手間をかけることになってしまった」

 長官は普段よりもさらに不機嫌らしい。背中を向けているマッシュにも、嫌みったらしい視線を感じられるほどだった。

「お前がテクラを殺したからだ」

 鎖に繋がれた男は、何も答えない。

 

「聞いているのか、DJ!」

 長官が叫ぶ。繋がれた男、DJはなおも答えずに黙っている。

「テクラはいいやつだった。このターミナルの地下サーバーのすべてを把握していた。お前が5年前、自分の師匠を撃ち殺したせいで私たちはいい迷惑だ。だいたい……」

 

「解除しました」

 ますますヒートアップしていく長官のぼやきをさえぎって、マッシュは振り返った。端末には「UNLOCK」の文字が表示され、防火扉が左右にスライドして開いていく。

 

「とっとと終わらせろ」

 長官があごをしゃくる。DJの鎖が解かれて、腕をぶらぶらさせながら中へとはいっていった。

 

 扉の中は、重低音をひっきりなしに立てる機械の群れが設置されている。複雑にコードが絡み合い、基盤を備えたコンピュータがいくつも繋がれている。そのひとつひとつが、マッシュのくみ上げたアームターミナルの数十倍の処理能力を備えているはずだ。

 照明が切れ、交換されていないせいで暗闇と言ってもいい状態だ。チカチカと点滅するLEDと、薄緑のモニターが発する明かりを頼りにDJが歩いて行く。

 

 痩せ細った身体だ。骨が浮き上がりそうな腕をほぐそうと、何度も手を握ったり開いたりしている。髪は剃り上げられている……私設警察は囚人に対して丸刈りを強要しているのだ。

 

「マッシュ」

 ぼそりと、DJが言った。低くかすれた、力のない声だ。それでも、どこかギラギラとした鋭さがあった。

「手伝ってくれ。最近、眼がかすれてきた。栄養失調のせいかもしれない」

 それが方便だということはマッシュにもわかった。二人はテクラの弟子だった。新宿で唯一、ターミナルを管理できる技師だったテクラは、DJが14歳、マッシュが12歳の時に撃ち殺された。

 

 DJの手によって。

 

 ふらつくDJの傍らに寄り添って、マッシュはその肩を支える。

「手間をかけるよ、マッシュ。いつもだ」

「謝らないでくれ、DJ。あんたがやらなきゃ、俺がやってた」

 冷え冷えとした冷気が、部屋の中には広がっている。ここは東京に張りめぐらされたターミナル・ネットワークのサーバー室だ。いまでも生き残っているターミナルの間でおこなわれている通信の仲介地点。

 

 ターミナル・ネットワークは大破壊を生き延びた都市をつなぎ、情報のみならず物質の転送さえ可能にしている。さらには、ネットワークは空間を超えて魔界に接続することすらできるらしい。

 このサーバー室には、それらの通信の記録が保存される。ターミナルの設計者がなぜ新宿の地下深くにサーバーを設置したのかはわからない。気温の変化の影響を受けにくいからか。それとも、核ミサイルで爆撃されてもネットワークが機能するようにか……まさか、そんなはずはないだろうが。

 

「早くしろ!」

 背後から、長官のヒステリックな叫びが聞こえる。

 

「部屋から出られないから、足の力が弱ってる」

 DJが憎々しげにつぶやく。マッシュに身体を預けながら、枯れ木のように細い足を引きずるように歩いている。囚人服というよりは、重病人に着せる患者着のようなガウンを着せられている。

 

「頭と手があれば技術者は動けると思ってるのさ」

 五年ものあいだ、DJは監禁され続けている。そして、このサーバーの保守作業に従事しているのだ。師であるテクラを殺害した罪による刑期は、まだ五年分残っている。

 DJは機械の怪物のようなサーバー群の中にあるモニターをのぞき込んだ。頬骨が浮き上がるほどに痩せこけた顔が、青白く浮き上がる。頭蓋骨にかろうじて肌が張り付いているかのようだった。頬には「罪」の刺青。

 

「DJ、俺が警官として出世したら……」

「いいんだ、マッシュ。永遠に続くわけじゃない」

 19歳の青年は、17歳の少年の肩をたたき、制御盤に骨の浮き上がった指を滑らせた。

 

 いかに優れたプログラムでも、継続して稼働するためにはメンテナンスは欠かせない。東京に広がっているターミナル・ネットワークの保守が、ここでおこなわれているのだ。

 通信ログの解析と圧縮。DJの手つきは慣れたもので、つまり、彼にとっては退屈きわまりない作業なのだろう。表示される文字列の意味は、マッシュにもすべて理解できるわけではない。師に教わった時間のぶん、技術者としての腕にも青年は一日の長があった。

 

「この5年、ターミナルが停止したことはない。軽微なエラーが起きることはあっても、自動的に修正される。破綻が起きないように完璧なプログラムが組まれているのか、それとも、俺以外にも誰かがネットワークを監視しているのか……」

 低い駆動音を立て続けるサーバーの間に、DJのかすれた声がしみこんでいくようだった。

 

「データ化した悪魔を通信しているなんて、いまでも信じられないよ」

 新宿には、悪魔がいない。オザワの契約した悪魔が守っているから、他の悪魔は入ってくることができないのだ。だというのに、ターミナルは毎日のように悪魔や、時には人間をデータ化して転送している。それらのデータはこのサーバーも経由しているのだ。

 次々に表示されては消えていく情報。そのどれが、破壊的な力を持つ悪魔のものなのか、マッシュには分からない……だが、デジタル情報として悪魔が処理され、転送されているのだから……このサーバーの中から悪魔の情報をコピーし、召喚することもできるはずだ。

 

 悪魔召喚プログラムさえあれば。

 

「それ、自分で作ったのか?」

 DJがちらりと視線を向けていた。青い光を反射する目は、マッシュの左腕に注がれていた。着けっぱなしにしてきたアームターミナルに。

「ああ。でも……見た目だけだ。それと、OSが動くだけ。ソフトウェアは何も入っていないんだ」

「そうか。使えるようになるといいな」

 

 DJが視線を戻そうとした時……

 

 ビーーッ!

 

 警告を示すブザーが鳴り響き、サーバー室の中の赤いランプが点灯した。

「なんだ!? なにがあった!?」

 長官がいち早く他の警官の後ろに隠れるのが見えた。警官達はそれぞれに銃を抜いている。だが、的になるものといえばサーバー室の中にいるふたりだけだ。囚人と同僚に銃口を向けてどうしようというのか。

 

「エラーだ。おそらく、悪魔からのハッキング」

「冷静に言っている場合か! なんとかせんか!」

 DJの落ち着き払った言葉とは対照的に、長官は怒りと混乱を露わにしている。

 

「いま、やってる」

 DJが制御盤に指を滑らせる。エラーを起こしたことのないネットワークがはじめて起こしたエラー。だが、19歳の技術者は、それに対応しているように思えた。

 バチッ、と白い光が瞬いた。見れば、サーバー室の中央部……通行用のわずかな空間に、球状の穴、とでも表現すべきものが現れていた。それが、発光を放っているのである。

 

「DJ、あれは……」

「魔界への門だ。悪魔がここに現れようとしている」

「嘘だろ!」

 

 新宿には、この30年悪魔が現れたことはない。警察官たちは武装しているといっても、ほとんどが悪魔との戦闘経験などない……マッシュも含めてだ。いずれ騒ぎを聞きつけたオザワと親衛隊がやってきて、悪魔に対処するだろうが、それまでにここにいる全員が皆殺しになっているだろう。

 

(仮に生きのびたとして……この事態を止められなかったら、出世の目はない)

 強くなる、という目標のためには、オザワに取り入る必要があるのだ。

 マッシュは決意を固めて、アームターミナルを起動した。

 

「二人がかりなら……!」

 アームターミナルからコードを延ばして、サーバー群に接続する。OSが起動し、サーバーから流れこんでくる文字列をマッシュの視覚に投影していく。膨大な情報の中から、いま起きているエラーの箇所を特定していく……

 

「マッシュ、待て。様子を……」

「悪魔が一匹でも新宿に現れたら終わりだ!」

 

(ゲートウェイ……問題なし。外部からのリアルタイムハッキングじゃない。誰かがサーバーの中に悪魔を潜ませて、何かの拍子に起動するように仕込んだんだ)

 

 トロイの木馬、というやつだ。プログラムがコンピュータ内に入り込んだ時には無害に見える。だが、何かをきっかけに本来のプログラムが実行される……この場合は、悪魔の召喚が。

 

(誰が潜ませたんだ? いや、とにかくこの場を収めてからだ)

 

 アームターミナルに表示される情報を次々に解析していく。悪意あるプログラム(マルウェア)なら、自己複製はしていない。つまり、サーバーの中のどれかでプログラムが稼働しているはずだ。

 

(トロイの木馬が侵入したサーバーを見つけて、電源を落とせば……!)

 

 サーバー室内に開いた『門』の中で、燃えさかるような赤い瞳が輝いていた。獣のうなり声が、今やサーバーの駆動音以上に大きく響いている。

 

「構えろ!」

「よせ、撃つな!」

 長官の指示で銃の引き金に手をかける警官たちを手を上げて制する。その時、アームターミナルが解析したサーバー名の一覧が表示された。

 

///

Alice...OK

Ariel...OK

Aurora...OK

Belle...Error

Cinderella...OK

Jasmine...OK

///

 

「Belle……くそ、どれだ!?」

 マッシュは立ち上がった。サーバーラックの左上に小さく掲げられているネームプレートを確かめる。サーバー設計者は几帳面にもABC順にラックを並べてくれているらしかった。

 

『Belle』というプレートは、開こうとしている『門』のすぐ横にあった。

 

「アオオオーーーーン!」

 この世のものとは思えない獣の叫びが、耳をつんざくほどの音量で響いた。赤い瞳を持った獣が、『門』から姿を現そうとしている。

 

 長官や警官たちが状況を理解できているわけがない。

 DJの足では間に合わない。

 

(俺がやるしかない)

 マッシュは息を大きく吸い込んだ。そして、一気に駆け出した。

 

「アオーーン!」

 獣の声と同時、するどい爪を備えた脚が門の中から現れた。すんでのところでかがみ込み、体ごと床に転がりながらサーバーラックに取り付く。

「殺す気かよ!」

 全身に逆立つような寒気を感じながら、それを吹き飛ばそうとマッシュは叫んだ。

 

 腕を伸ばして、ラックの裏にある電源ケーブルをひっつかむ。

 門の中の悪魔と目があった。破壊的な暴力衝動に満ちた赤い瞳が、マッシュを見据えていた。

 

「魔界とやらに……帰れ!」

 魔獣が口を開く。牙がびっしりと生えそろった口の奥から、逆巻く炎が溢れ……その瞬間、マッシュの手がBelleサーバーのケーブルを抜き取った。

 

 魔界へと通じる『門』は唐突に縮み、怪物もまたその中に飲み込まれていった。一瞬、生まれた熱気だけがマッシュの顔を撫でた。

 

「せ……セーフ……」

 極度の緊張で、腰が立たない。さらに大騒ぎする長官や警官達の声を聞きながら、マッシュはDJに向けて親指を立てた。

 

「マッシュ……お前も危なかったんだぞ」

 だが、DJはハンドサインで答えてはくれなかった。

 

「ああするしかなかった。マルウェアを排除しよう。俺も手伝うよ」

「……ああ」

 

 DJはぼそりと応えた。赤いランプが消え、『罪』の字が刻まれた頬を照らすのはモニターからのわずかな照明だけに戻った。

 

 だから、彼がどんな顔をしているのか、マッシュにはわからなかった。



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1-02_HELLO

 サーバー室での騒動から1時間後。

 マッシュとDJはマルウェアへの対処を追えた。サーバー群は問題なく再稼働した。まるで、何事もなかったかのように。

 

「この私まで危険にさらされるところだった」

 長官は合皮のソファに片脚を上げながら、琥珀色の酒をぐっと飲み干した。その一杯だけで、マッシュの月給は吹き飛んでしまうだろう。

 

「DJの罰則を強化しなければ。二度とこんなことが起きないように」

「お言葉ですが、あれはDJのせいではありません。むしろ、週に一度だけでなく、もっとDJに時間を与えたほうが……」

 敬礼の姿勢を保ったまま、マッシュが進言するが……

 

「いま起きたことを私はオザワ様に伝えなければならないんだぞ!」

 帰って来たのは怒号だった。

 

「誰の責任で起きたことか、彼に言わなければならない。もちろん、DJの責任だ! テクラが保守管理していた25年でこんなことは一度もなかった。奴がテクラを撃ったせいだ!」

「それには理由が……」

「理由など関係ない。すべての責任はあの男にある。そうだ、刑期を伸ばそう。今回の件であと5年足せばいい」

 

「そんな、無茶苦茶な……」

「私は長官だ。三等警官に意見する権利があると思っているのか!」

 血走った目がマッシュを睨みつける。長官はただでさえ権威主義の横暴者だが、先ほどのショックで判断力を失っている。今は、何も言わずやり過ごすべきだろう。

 

「いえ……失礼しました」

「ふん……さっさと警邏任務に戻れ」

 

(お前の命を救ってやったのに、ひと言の礼もなしか)

 唇を噛みながら、マッシュは詰め所の扉をくぐった。

 

(ターミナルの管理権限はDJと俺にしかない。でも、俺は半人前だ。テクラから技術を全て教わったのはDJだけ。もしDJが栄養失調で動けなくなったら、新宿は終わりだ)

 新宿のために果たしている役割の大きさを考えれば、DJは長官と同じレベルの待遇を受けてもおかしくないはずだ。だというのに、一方は手下を働かせて酒をあおり、一方は鎖に繋がれている。

 

「俺がなんとかしないと。長官に取り入っても無駄だ。やっぱり……」

 

 オザワ。

 その名前が再び頭に浮かぶ。

 

 新宿の王に認められるしかない。長官がオザワの右腕なら、DJとマッシュの師であるテクラは左腕だった。そのテクラがいなくなったとき、長官は私設警察の権力を活用してオザワの周りを囲い込んだ。今や、オザワと直接対面できるのはわずかな側近と長官だけだ。

 

「どうすればいい? 今日のことで長官には目をつけられた。コツコツ出世するなんて、無理そうだ。直接、オザワの目に留まるようなことをしないと……」

 警邏の間も、マッシュの頭は同じことを考え続けた。

 警邏といっても、警官の制服を見せびらかしながら歩き回るだけだ。私設警察を見かけた新宿の住民たちは、気まずそうに下を向くか舌打ちして目をそらす。尊敬などされるわけがない。

 

 我知らず、左手に着けっぱなしのアームターミナルに手を触れていた。そこに装着したMDプレイヤーへ。

 

 落ち込んだ時や気持ちがふさがったときには、いつも音楽を聴いていた。この地下世界で、音楽だけがマッシュの気持ちを慰めてくれる。

 イヤホンを片耳に伸ばして、▷(PLAY)のボタンを押した。すぐに、軽快な弦の音がイヤホンから流れ出してきた。

 

(ギターって、どんな楽器だろう?)

 

 夢想する。大崩壊の前を知る老人は、たくさんの楽器を知っていた。12歳のマッシュは彼らの話とMDプレイヤーの音を何度も聞いて、在りし日の世界を思い浮かべていた。

 

 飢えのない世界。

 青空の下の世界。

 音楽の鳴り響く世界。

 名も知らぬ男が、イヤホンの中で歌っている。

 

ガラスの夜空 君を映すとき

叶わぬ夢数えて 眠れない夜

恋が走り出したら 君が止まらない

 

(恋……恋ってなんだろう?)

 

まだ誰も知らない ときめき抱きしめて

君と笑顔 つかまえるのさ きっと

 

(恋をしたら、俺もこんなふうに楽しい気持ちになれるんだろうか?)

 それとも、もうこの世界に恋なんてものはないのだろうか。大破壊をもたらした核ミサイルで、「ガラスの夜空」とやらは粉々に砕かれてしまったのだろうか。

 

 上を見上げた。シミだらけの天井にパイプが走っている。

 マッシュは空を見たことがない。

 

(俺が、この歌を歌ってる男だったらよかったのに)

 この曲をどんな人が歌っているのかも、よく知らない。MDプレイヤーが表示する情報は、タイトル、そして歌手の名前だけだ。

(フクヤマ マサハル……俺もフクヤマ マサハルになりたいよ。そんなこと、昔の人間は思いもしなかっただろうな)

 途端に自分が惨めに思えてきた。一度でもいいから、「ときめき」を感じてみたい。コンクリートだらけの地下道を歩きながら、少年は何度目かのため息を漏らした。

 

 

▷▷

 

 

 新宿地下街で最も大きな権威を誇っているのは私設警察だ。マッシュもその一員である。

 だが、それだけが全てではない。新宿の東側にはメシア教が、西側にはガイア教が、それぞれの拠点を設置している。

 

 メシア教は、いつか到来する救世主(メシア)が世界を救済することを信じる教えだ。神が人に与えたという法と秩序を守ることを説いている。

 ガイア教は、自然との調和を至上とする教えだ。混沌のあるがままを受け入れることを旨とし、自らを鍛え上げるよう奨めている。

 

 どちらも、東京において大きな勢力を持っている。二つの宗派を受け入れているからこそ、新宿の治安は保たれているとも言える。もしもオザワが両教会の設置を認めなかったら、とっくに新宿は滅ぼされていただろう。どちらかだけを受け入れていたら、もう一方との血みどろの戦いが繰り広げられていたに違いない。

 

 どちらの教徒に対しても、オザワは新宿で教えを広めることを許している。だが、どちらも新宿での勢力は少数派にとどまっている。彼らの言う『試練』や『修行』のために新宿から悪魔の居る外界へ出て行こうとするものは滅多にいないからだ。新宿の人々はほとんどが都合がいいときに両方を頼るのだった。

 

 かくして、外界では血を血を洗う戦いを繰り広げているメシア教とガイア教は、新宿においては奇妙なバランスで共存していた。

 

 そして、今……地下街の中央部。商店が軒を連ねる広間で、その二つの勢力が向かい合っていた。

 

「おや、ジンカイ和尚。困りますな、私の巡回説教の道を塞がれては」

 にこやかに告げる男は、白いローブに身を包み、青い旗を掲げている。メシア教のメイガス、アクター神父である。

 

「拙僧は托鉢の途中。少し脇へ逸れてもらえれば、黙って通り過ぎるのみ」

 低い声で答える男は、剃りあげた頭に法衣を着込み、首に大きな数珠をかけている。ガイア教の闇法師、ジンカイ和尚だ。

 

 アクター神父は新宿におけるメシア教会の指導者であり、ジンカイ和尚は同じく新宿におけるガイア教を主導する立場である。要するに、両勢力のリーダーだ。

 その二人が、同じ道を両側から歩いてきた。間の悪いことに、二人とも通路の真ん中にいる。だが、対立する相手に道を譲ったとなれば、それぞれにとって恥である。

 

「いやいや、手間は取らせません。ひとり分、横にずれてもらえればいいのです」

 コツコツと、アクター神父は道の中央を歩き続ける。

 

「神父殿こそ一歩だけかわせばよろしい。衝突を避けたければそれが賢明であろう」

 ズカズカと、ジンカイ和尚も歩を止めない。

 

 いずれも上背がある。アクターは微笑み、ジンカイは無表情のままだが、2人の距離が縮まっていくにしたがって、周囲にプレッシャーが広がっていく。路面販売の店主が、いつでも逃げ出せるように身構えていた。

 

 五歩の距離で、二人は立ち止まった。その視線の間に、電光がひらめく。

 

「ジンカイ和尚ともあろう方が、理路をご存じないようですね。救世主に仕える者に道を譲れば、救世主を助けたのと同じ。いずれ訪れる千年王国に、その魂が迎えられるかもしれませんよ」

 分厚い胸板を誇るように張りながら、アクター神父が一歩踏み出した。

 

「我らガイア教は『自由』こそを尊ぶのだ。アクター殿、貴殿にはこのまま拙僧とぶつかる自由も、かわす自由もある。衝突はメシア教の教える『平和』の理念に反するのではないかな?」

 負けじとジンカイ和尚が一歩踏み出す。禿頭に浮かぶ血管が、力強く脈打っている。

 

「では和尚、交渉してはいかがでしょう? 道を譲る自由を、私からマッカで買い取ればよろしい。メシア教会に百マッカを寄付し、寛大な心を示したことを法話になされば、信徒たちも感銘を受けることでしょう」

「マッカを払わせた上に道まで譲ってもらおうとは、それが神父殿の考える秩序というものか。いやはや、ガイア教徒でよかった。理不尽に対しては力で抗えというのが、混沌に与する者の考え方なのだ」

 

 互いに決して譲るつもりはない。二人が一歩ずつ踏み出すと、距離はたった一歩のみ。アクターとジンカイのどちらかでも身じろぎすれば、体がぶつかってしまう。

 

 すでに路面販売の店主は逃げ出していた。必要とあれば五秒で売り物をくるんで立ち去るのも、才覚というものだ。

 

「以前から秩序の有りようを教えて差し上げようと考えていました」

「拙僧こそ、自由がいかなるものかを語って進ぜようと思っていたのだ」

 二人の間からは熱気のようなものが立ちのぼっている。緊張が最高潮に達したとき……

 

「ストーップ!」

 二人の間に腕が差し込まれる。私設警察の制服。マッシュだ。

「何をやってんですか二人して! 道を譲るかどうかでいきなり抗争はじめないでくださいよ」

 

「マッシュくん……体からキノコを生やしていた君が、こんなに立派になって」

「いつの話をしてるんですか。十年は前ですよ」

 アクターの胸をぐいぐいと押しながら、過去の話を振り払っておく。神父はマッシュが知る限り、ずっと新宿メシア教会を統率している。

 

「拙僧はただこの道をまっすぐ歩きたいだけだ。神父殿が右か左に退けばよい」

 ジンカイ和尚の目はアクターのほうを向いたままだ。

 

「どっちが避けたって、誰も何も言いませんよ」

「マッシュくん、それは違う。私たちは新宿の人々に安らぎを与えているんだ」

 アクターの言う『私たち』というのは、もちろんメシア教会のことだ。

 

「安らぎ……?」

「悪魔のはびこる世界で生きていくには安らぎが必要だ。いずれメシアが現れ、世界を救うこと。そのために仕え、教えを守ること……そういった心の救いがなければ、この東京で生きるのはつらすぎる」

 

「必要なのは活力だ」

 と、ジンカイ和尚が口を挟んだ。

「悪魔がいかに凶暴であっても、力さえあれば対抗できる。己を鼓舞し、悪魔に立ち向かうための活力を持たなければならん。ガイアの教えは、すなわち活力を求め続けることだ」

 

「お互いに面目があるのは分かりましたけど、そのために道の真ん中でメイガスと闇法師が戦いだしたら安らぎも活力もないでしょう」

 マッシュが両手で二人を引き剥がす。ようやく、神父と和尚は一歩ずつ下がって違いを見やった。

 

(なんでこの人たちはいつもこんなことばかり……)

 マッシュの心中でため息が漏れた。メシア教とガイア教は新宿地下街の東西に拠点を構え、ことある毎に意見を対立させている。さすがのオザワも両者の意見を無視することはできず、どちらかの意見を尊重したら次はもう一方に利益を計り、パワーバランスを拮抗させ続けている。

 理想的なメイガスと言われるアクターと、闇法師の鏡とたたえられるジンカイ。ともに勢力を代表する二人は、オザワの目が届かないところでも、たびたび対立しているのだった。

 

(どうやっていさめたものか……)

 たまたまその場に遭遇したというだけで挟まれるマッシュにとっては、溜まったものではない。

 

「力でも寛容でもなんでもいいですけど、地下街は狭いんです。本気で暴れられたら、大騒ぎになりますよ」

 なんとか、メンツをつぶさないようにして場を収めなければならない。マッシュが全力で思考を回転させている時、ふとジンカイ和尚がつぶやいた。

 

「『強くなければ生きていけない』」

 すぐさま、アクター神父が応じた。

「『優しくなければ生きている資格がない』」

 そして、二人は声を合わせて笑った。

 

 笑い声は新宿の中央部に鳴り響いた。みんな逃げ出して、静かになっていたのだ。

 

「何ですかいきなり……」

 対立している教えの信奉者たちがとつぜん笑い出して、マッシュはあっけにとられていた。しばらく呆然としてから、ようやく警察官としての職分を思い出した。

 

「とにかく、ここは互いに半歩ずつ譲ってください。それなら、すれ違えるでしょう」

「マッシュ殿とオザワ殿の顔を立てるとしよう」

「異論はありません」

 そう言って、ジンカイ和尚は右へ、アクター神父は左へ体をズラした。

 

 つまり、向かい合っているから同じ方向ということだ。二人は再びまっすぐに向かい合った。

 

「和尚様、私はもう半歩譲りましたので、逆方向に一歩動いてもらえますか?」

「神父殿こそ、一歩分譲ればよろしい」

「いいかげんにしてくれ……」

 神父と和尚をなだめて歩き出させるために、マッシュは昼まで時間を費やした。

 

 

 ▷▷

 

 

「緊急召集ーッ!」

 新宿じゅうに、長官の叫びがこだました。

 

「二等警官および三等警官は警察本部へ集合せよ!」

 時刻は午後五時。マッシュの警邏はちょうど終わるところだった。部屋に戻って休めると思った矢先のことだ。

 

 疲れていたが、もしも召集に遅れたらどんな扱いをされるか分かったものじゃない。長官は人前で手下をなぶるのが趣味と言ってもいいほどだ。退屈なわりに疲弊感の大きい仕事を割り当てられている三等警官たちは、みな同じような顔で集まっていた。

 

「よぉーし、揃ったな?」

 長官はねぎらいの言葉もなく、警官たちを威圧するように睨めつけてから話し始めた。

 

「お前らの中で、パシリに行きたいやつはいるか?」

 ざわめきが広がった。パシリとは、地下街の警邏ではなく、新宿の外での任務のことだ。

 

(悪魔がうろついてる外に自分から行きたいやつなんて、いるわけがない)

 マッシュはいぶかしんだ。危険なことをさせるつもりだろう。だから、一等警官がいないのだ。一等警官は長官のお気に入りだ。

 

「いいか、お前たちに重大な任務を与えてやる。お前たちには過ぎた使命だが、私の温情により……」

 

「もういい。私が話す」

 長官の口上をさえぎって、低い男の声がした。

 ざわめきが、いっそう大きくなった。濃紺のスーツを着た男が、警察本部の奥から現れた。見たこともない上等な生地はつやが浮かんでいる。貴重な化学繊維はまぶしく感じられるほどだった。

 現れた男は、老人といっていい年齢だ。だが眼光は鋭く、背筋はまっすぐ。矍鑠(かくしゃく)たる姿だ。

 

(オザワ……!)

 新宿の住民なら、誰でもこの男を知っている。悪魔と契約を交わし、新宿を悪魔のいない街にした男。新宿の王だ。

 

(なぜ、こんなところに……いや、それより)

 この召集は、オザワが長官に命じたものに違いない。となれば、「パシリ」も、オザワのための指令に違いない。

 

(チャンスだ。オザワに取り入ることができれば……!)

 はやる気持ちをおさえて、オザワの一挙手一投足に注目する。意図をただしく理解しなければ。新宿の王に気に入られることはできない。

 

「メシア教の聖女を知ってるか?」

 オザワは静かに、だが断固とした調子が話し始めた。問いかけてはいるが、疑問を挟ませるつもりなどまるでない。怜悧な眼光が、暴力沙汰には慣れているはずの警官達をおびえさせていた。

 

救世主(メシア)に次ぐ存在として、連中が担ぎ出した女だ。傷や病気をたちどころに癒やす力を持っているらしい。まァ、メシア教が『特別な力』を持ったやつを集めてるってのは公然の秘密だ。おおかた、いつまで経っても現れない救世主の代わりに、信者に言うことを聞かせるお飾りとしてそういう名前を与えたというところか」

 

 聖女の噂は、マッシュも聞いたことがある。アクター神父の説法につきあわされた時に、その名が出たのだ。

 

「たしか、(サン)プリンシパリティって……」

「おい、オザワ様の話に口をはさむな!」

 思わずつぶやいた言葉を、長官がとがめる。だが、オザワが長官をにらみつけて制した。

 

「そのプリンシパリティ様とやらは、いま渋谷にいる。そして、この新宿を訪問することになっている」

 

「勘弁してくれ……」

 誰かが声を漏らした。反射的にそう思うのも無理はない。メシア教の重要人物が新宿を訪れれば、ガイア教との緊張が高まる。治安を守らなければならない私設警察官にとっては、騒動の種だ。

 

「その聖女の訪問を、私設警察が迎える」

 オザワが顎をしゃくると、長官が地図を広げた。舎弟根性がしみついた長官ではなく、その地図に注目する……まだ文明が残っていたころの、市街道路地図だ。

 密集した建物群と、その間をうねる道路群。その中の、「新宿」と「渋谷」がマルで囲まれ、その中間にバツが打たれている。

 

「神宮前、か……もう誰も、そんな呼び方はしないな」

 不意に、オザワがぽつりと漏らした。今までの厳粛な声とは違って、どこか寂しげにも思える声音だった。

 だが、新宿の王はすぐに首を振った。地図から顔を上げた時、眼光には元の鋭さが戻っている。

 

「お前達のうち何人かがこの地点へ向かい、聖女を無事にこの警察本部まで連れてこい。アシは用意してある。今から1時間後に出発だ」

 断固とした口調で、オザワが告げた。

 

「あの……メシア教の聖女なら、メシア教徒が護衛するのが自然では?」

 警官の誰かが言った。その声には「やりたくない」という本音がにじんでいるが、マッシュも同じことを疑問に思っていた。

 

「そうだ。メシア教徒が彼女を連れてくる予定になっている」

「え?」

「だが、外界には悪魔がうろついている。聖女を護送するテンプルナイトたちが、悪魔に襲われて全滅する()()()()()()

 オザワの声は、その言葉の内容とは裏腹に、確固とした響きをともなっている。

 

「そこに、周辺の警らをしていた新宿警察が()()()()()()、聖女を守り抜いたとなれば、むしろメシア教に恩を売ることができる」

「それは、つまり……誰も見ていないところで、メシア教の護衛を始末しろということですか?」

 警官がごくりと喉を鳴らした。

 

「滅多なことを言うな。メシア教より先に聖女たちと合流すればいい。教会の代わりに護衛することになったとでも言ってここに連れてこい。とにかくプリンシパリティを確保すれば、後のことは私がどうとでもする。教会より先にポイントに着くんだ」

 

(それで、1時間後、か……)

 早急すぎると思ったが、おそらく、オザワも聖女の来訪を知らされていなかったのだろう。メシア教会の考えは分からないが、新宿の王は教会のVIPがナワバリを訪れるこの機会を利用することにしたのだ。

 

()()()()警官隊が聖女を保護し、新宿へ無事に連れてきた……と言い張って、優位に立つ気か。そうやって自分のほうが有利な状況を無理やり作りつづけて、今の地位にいるんだ、この男は)

 だったら、自分も利用してやる。

 周囲の警官たちのざわつきが収まる前に、マッシュは手を挙げた。

 

「やります。やらせてください」

「ほぉ」

 オザワの怜悧な眼光が、マッシュに向けられた。その視線が、腕のハンドヘルドコンピュータに留まる。

 

「テクラの弟子だな。たしか、名前は――」

「マッシュです」

「親がつけた名前とは思えないな。みなしごか」

 小さくうなずく。オザワやテクラのような「名字」を持たないことはマッシュにとっては劣等感(コンプレックス)だが、そんな子どもは珍しくない。今や、誰が自分の親かを知っている人間は恵まれている。

 

「いいだろう。1時間で準備しろ。長官、他に何人か見繕っておけ」

 そう言い残して、オザワは扉の奥へと去って行った。

 

「チッ……」

 長官はマッシュに敵意の舌打ちを向ける。だが、オザワが決めたことに逆らうような根性はない。

 

「1時間後に東口に集合しろ。準備を怠るな!」

 

 

▷▷

 

 

 マッシュは自分の部屋へと取って返した。

「地下街の外に出る……」

 悪魔が跳梁跋扈する世界。恐れはあった。だが、同時にどこか喜びを覚えている自分を感じていた。

 

 オザワに取り入って権力を得られるから……だけではない。今まで一歩も出たことがない地下の世界から、『ここではない場所』へ踏み出すことに対して、希望のようなものを感じていた。

 

(警邏用の装備じゃ足りない。たしか、ここにあったはず……)

 荷物置き場になっている片隅をひっくり返して、使えそうなものを引っ張り出して、重装備を整えていく。

 

 サバイバーベストから、ケブラーベストへ。

 ヘッドギアから、フリッツヘルムへ。

 レザーグラブから、リベットナックルへ。

 コンバットブーツから、ライダーブーツへ。

 

 いずれも新宿地下街では高値で取引されている。いつか、こんな時のために用意しておいたのだ。長官に目をつけられないように、少しずつ。その努力も、あまり意味はなかったが。

 

(あとは、武器だけど……)

 狭い部屋を探してみても、使えそうなものは出てこなかった。警察官に与えられる警棒を使うしかない。

 

「これだけじゃ、ダメだ。こうなったら……」

 つぶやいて、振り返った。

 南京錠のかけられた木箱。厳重に鍵をかけられたその箱に手を伸ばそうとしたとき――

 

「それ、何が入ってるの?」

 背後から声をかけられて、どきりとした。

 もういちど、振り返る――つぎはぎだらけのパーカーを着た少女と目が合った。

 

「……ミクミク、また勝手に……」

「カギはかかってなかったよ。それより……教えてよ。何が入ってるの?」

 視線は木箱に向けられている。

 

「ミクミクに教えたくない。出ていってくれ」

「どうして? なんで私には教えたくないの?」

「なんでもいいだろ」

「マッシュ、なんかヘンだよ。うわついてるみたい」

 

「任務で、新宿の外に出る」

 途端に、少女の顔が青くなった。

 

「うそ。なんで、そんなこと」

「オザワに近づいて、DJを釈放するために必要なんだ。あと30分で東口に行かなきゃいけない」

「どうして、そんな急に」

 ミクミクがショックを受けたのは明らかだ。お団子頭を左右に振って、マッシュにすがりついてくる。

 

「やめようよ。DJのことは心配だけど、マッシュが命をかけることない。地道にやってれば、誰かが見てくれるって和尚様も言ってた。だから……」

「チャンスを棒に振るわけにはいかない」

 ミクミクの肩に手をやって、引き剥がす。いつからか意識しなくなっていたが、自分に比べてずっと細い肩だと思った。

 

 5年前には、大した違いなんてなかったのに。

 

「ダメ、そんなの。マッシュがいなくなったら、あたし一人になっちゃうんだよ」

 非難するような目で見られると、ずきりと心が痛んだ。時間がない。彼女にかんしゃくを起こされて、手間取るわけにはいかなかった。

 

(ミクミクに会えるのも、最後になるかもしれない)

 これから『外』へ出るのだ。悪魔たちの世界へ。そう思うと、途端に気弱になった。隠し立てをしていることが、彼女のためにもならない、という思いがわき上がってきたのだ。

 

「銃だ」

「えっ?」

 急な言葉に不意を打たれて、ミクミクがまばたきをする。

 

「この箱の中にはテクラを撃った銃が入ってる。あのときの銃だ」

「それって……」

 ミクミクの顔は、青を通り越して白くなっていた。

 

(フラッシュバックだ……思い出させないようにしてたのに)

 箱の中の、ずっしりと重いもの……その引き金が引かれたとき、ミクミクがどんな目に遭っていたか、マッシュは知っている。

 背中を撃たれたテクラは、彼女に覆いかぶさって死んだ。テクラが死んだとき、ミクミクは最も近い場所にいたのだ。最悪の形で。

 

「ご、ごめん、あたし……」

「ち、ちがう。今のは……」

「わかってる、隠してくれてたのに。あたしが余計なこと、聞いたから……」

 ミクミクの片目が引き攣っている。その目から(ボウ)とこぼれた涙が頬を伝い落ちていった。

 

「ごめん、ごめんね、マッシュ。あたし、もう……行くから」

 ふらついた足取りで、ミクミクが立ち止まる。

 

「待て、ミクミク……」

 追いかけて止めようか、迷った。

 追いかけないことに決めたのではない。迷っているうちに、ミクミクはもういなくなってきた。迷うことしかできなかった。

 

 銃を封印したのは、ミクミクのためだった。彼女が『その時のこと』を思い出さないように。

 

(なのに、思い出させるようなことを言うなんて……)

 後悔で胸が押しつぶされそうだ。少しの時間を惜しんで、彼女の気持ちを無視するなんて。

 

「くそ……時間がない」

 マッシュは、任務にすがった。後悔の念で足が動かなくなる前に、自分に課せられた使命を果たさなければと思い込むことにした。

 

「戻ってきたら、お詫びをするから……」

 そのためにも、任務を果たさなければならない。

 誰よりも自分自身に言い聞かせて、マッシュは木箱を元の位置に戻した。

 

(これに頼るわけにはいかない。……平気だ、他の警官もいる)

 行って、戻ってくるだけ。簡単な仕事だ。

 

「聖女を連れて帰ってくるだけだ。きっと、そうすればうまくいくんだ。何もかも」



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1-03_東京は夜の七時

 新宿地下街から地上へ通じる出入口は、東西に一つずつ。

 オザワが新宿をナワバリとして選んだ理由のひとつは、この閉鎖性ゆえだろう。

 たった二つの入り口を見張れば、外から悪魔が入ってくることはない。もちろん、住民が外に逃げ出すことも防げる。数少ない来訪者が新宿に入るためには警察官たちに頭を下げねばならず、外に出るためにはオザワの機嫌をうかがう必要がある。東京を支配する二大勢力、メシア教やガイア教であってもだ。

 

 地下街と外界を隔てる出入り口への階段をのぼっていく。それが許されたことさえ、マッシュにとっては初めてだった。

 階段の頂上には、2人の警官が並んでいた。マッシュと同じ三等警官だ。思い思いに武装していた。三等警官が手に入れることができる装備などたかが知れている。マッシュ自身も同様だ。

 彼らはエントランスのスペースに並んでいた。防火扉は開かれていたが、その奥には進みにくいらしい。気まずそうにただ立っている。

 

「何かあったのか?」

 マッシュが問いかけると、警官達は気まずそうにエントランスを示した。普段は設置されているバリケードがどけられて、見なれないものが鎮座していた。

 見なれない、といっても、マッシュはそれが何かを知っていた。白く塗られていたであろうボディは剥げてサビが浮かんでいる。車輪の溝は長年の使用で削られて浅くなっていた。

 

「セダンだ」

「カローラだ」

「どっちだよ」

 どちらも正しい。白い自家用車がそこに収まっていた。

 

「もう時間だろ。早く出発しないと……」

「シーッ。見ろよ、あれ」

 警官のひとりが運転席を指さした。そこにも、ひとり男がいた。片手をハンドルにかけたまま、シートに体を預けて寝息を立てている。腕章からすると、一等警官だ。

 

「一等だぞ。声をかけられるわけないだろ」

「でも、あの人がオザワ……様の命令を受けてるんだろ」

 三等警官だけで任務を遂行できるわけがない。現場で指揮を執る役目が一等警官に与えられているはずだ。

 

(指揮官が集合時間に寝こけてるんじゃ、どうしようもないな)

 一等警官といっても、しょせんはオザワの言いなりになっている飼い犬だ。萎縮している同僚達のなかから進み出て、運転席の窓ガラスをノックした。

 

「んが……」

 運転席の男がイビキを途切れさせて目を開けた。初老にさしかかる程度の年かさだ。年齢でいえば、マッシュらよりもオザワや長官に近いだろう。

 

「いつの間にか寝てたか。お前たちが遅いからだぞ。はやく乗れ」

「乗れって……これで行くのか?」

 一等警官はダッシュボードに置いてあった帽子を取って、自分の頭に被せた。テンガロンハットというやつだ。

 

「今頃、メシア教徒の門弟(ネオファイト)たちが西門から出発してる。俺たちはこいつで先回りして聖女様のいるポイントに行く。で、メシア教徒が着く前に聖女様を連れてここに戻ってくる。わかったか?」

 マッシュは頷いて、ドアグリップに手をかけた。

 

「全員乗ったらすぐに出発するぜ。俺は新宿イチのドライバーだ。ま、今どき車の運転なんかできるやつは他にいないんだが。本当はこんなファミリーカーじゃなくて、もっとパワーがあるやつがいいよな。フォードとか、シボレーとか……」

「全員乗り終わった」

 マッシュは、運転席のすぐ後ろにりこんだ。残りの二人も、助手席と後部座席に乗り込む。プロテクターをつけた男がふたり乗っているとはいえ、後部座席の中央にはまだひとりぶんのスペースがある。

 

「チッ……若い奴にアメ車なんて分かるわけないか。まあいい。行くぞ」

 一等警官がハンドルの下に手を伸ばし、何かを操作するのがわかった。車体がぶるんと震えだす。

「うおお……?」

 地下街で生まれ育った若い警官達にとっては、エンジンの駆動音は衝撃だ。体の下で何かが震えている妙な感覚に、マッシュは唇を引き結んだ。

 

「エンジンが動いてるだけだ。おとなしく座っていろ、行くぞ」

 カローラは滑り出すように走り出した。傷だらけの道路は、かろうじてかつてのなごりを残していた。

 

 

 ▷▷

 

 

 東口の出入り口にともされていたライトを遙か後方に残して、車は走り出した。

 マッシュは見るとはなしに窓の外を見ていた。はじめての地上だ。

 

「天井がない」

 頭上。車の薄いルーフの上には、何もなかった。マッシュが知る限り、頭の上には常に天井があった。だというのに、地上ではそれがない。青いような、赤いような、なんとも言えない色彩が、ただ広がっている。

 

「空だ。見るのは初めてか?」

 一等警官の操作で、ヘッドランプがついた。道はところどころに穴が空き、石や瓦礫が転がっている。器用にそれらを避けて、アスファルトの上を走って行く。

 

「俺は車もはじめてだ。すげえ、こんなに速く……」

 三等警官たちはあっけにとられていた。建物だったらしい残骸が、前方に現れては後方に消えていく。駆動音が腹の下で絶え間なしに響いている。

 

「酔うやつもいるから、窓を開けてろ。絶対に外に顔を出すなよ。破片がぶつかる」

 年かさの男は、上機嫌だった。若い連中が驚いているのを見て、まるでその光景が自分のものであるかのように自慢げに言う。

 

「30分はかかる。昔なら半分の時間で行けたんだが、今じゃ道がボロボロだからな……空を見てるといいぞ。だんだん色が変わってくる」

「色? どうして?」

 マッシュが問いかけると、男は運転席に寄りかからせている肩をすくめた。

 

「今は日没してすぐ。黄昏時だ。これから夜になる。昔は黄昏時に悪魔が出るなんて言ったものだが、今じゃ時間は関係ない」

 ハッとして、マッシュは身を固くした。

(そうだ、地上には悪魔がいるんだった)

 だが、走る車からそれらしき姿は見えない。

 

「わざわざ走ってる車に襲いかかってくる悪魔はいないよ。あいつらもバカじゃない、襲ってくるのは、自分より弱いと判断したときだけだ)

「悪魔より弱いと思われたら、襲われるってことか」

 助手席の警官が嫌悪感もあらわに漏らした。

 

「そういうこった。暗くなると悪魔が増える。さっさと終わらせるぞ」

 一等警官が告げたころ、車が右に曲がった。マッシュからすると、まるで地上の広大な風景が、自分たちを中心にぐるっと回ったように見えた。くらくらしそうになって、シートに深く座り直す。

 

「昔、ここは外縁西通りって呼ばれてた。道にも名前があったんだ。右に新宿御苑。もうすぐ首都高の下をくぐる。そしたら国立競技場だ。懐かしいなあ、俺、ヴェルディのサポーターだったんだ」

「悪いけど、何を言ってるのかわからない」

「そうだよな。お前達にわかるわけない……」

 男が寂しげにつぶやいた。

 

 残骸の合間を縫うように走る車が、やがて陸橋の下をくぐり抜けた。

 

「今のが首都高だ」

 一等警官がつぶやくように言った。マッシュには、どこに『国立競技場』があったのかは分からなかった。

 

 車内に重い沈黙が立ちこめる。

「俺はツイてるよ。こんな世界で、まだ車に乗れるなんて。オザワには感謝してる。昔からアイツの運転手させられて、大変だったけどな」

 乾いた笑い声。誰も返事をしなかった。

 

 男の言葉に嘘はないらしい。車内が静かになると、その口から歌が漏れ出した。

 

Nobody gonna take my car

I'm gonna race it to the ground

Nobody gonna beat my car

It's gonna break the speed of sound

 

 調子外れで音程は無茶苦茶だったが、一等警官は楽しそうだった。

 

「俺も歌が好きだ」

 思わず、言葉がマッシュの口をついて出た。

「でも、知らない曲だ」

「洋楽だよ。知ってるわけがない」

「音楽があった時代を知ってるあんたがうらやましい」

「そうだろうな。ギターが最高なんだよ、ブラックモアの速弾きは伝説だった」

 

 彼が何を言ってるのかは分からなかったが、なぜかマッシュは嬉しくなった。はじめて話が通じた気がした。

 

「俺、マッシュって呼ばれてる。アンタは?」

「クロダ」

 クロダは車体をもう一度右折させた。建ち並ぶ廃墟の中を進む。時おり、どこかで何かが闇の中を這うような音がした。空はクロダの言葉の通り、深い藍色に変わっている。

 

「もうすぐ到着だ。武器を用意しておけ」

 

 

 ▷▷

 

 

「ここは昔、学校だった。小学校って言ってな。お前らよりもっとガキが集められてたんだ」

 クロダが車を止めた。サイドブレーキを引く。エンジンを止めると、腹の下に感じていた震動が収まった。

 

「あんた、昔話ばっかりだな」

 警官のひとりが軽口を叩く。

「お前もジジイになれば昔話ばかりするようになる」

 クロダがドアを開けて車を降りる。身振りで、全員に降りるように示した。

 

「聖女様はどこにいるんだ?」

「このあたりに隠れてるはずだ。任せろ、合言葉を聞き出してる」

 メシア教の暗号だろうに、どうやってオザワがその情報を手に入れたのか……興味はあったが、聞いている余裕はなかった。

 

「マッシュ、トランクに聖女様への贈り物がある。そいつが必要になる。取り出してくれ。残りは俺についてこい」

 クロダはそう言って、懐中電灯を懐から取り出した。ボロボロの塀の隙間を通って、『小学校』の敷地……もはや誰のものでもない場所に入っていく。その空間を校庭と呼ぶことも、マッシュは知らない。

 

 車を降りると、余計に周囲の広さを感じた。地下では視界がきくのはせいぜい数十メートルくらいだ。なのに、ここからは遙か彼方の廃墟が見えた。

 

(逆さまに落ちていきそうだ……)

 上を見ると、何もない空間が無限に広がっている。黒いのとは違う。真っ暗だ。その中に、ぽつぽつと見なれない色の光があった。

 夜が来て、星が見える。知識としては知っていたが、自分の目で見ると、それはとても異様な光景に感じられた。上下のどちらにも床と天井があるのが当たり前だったのに、今や片方にしかそれがない。左右さえ見失いそうだった。

 

「早くしろ、マッシュ!」

 クロダたちはすでに校庭の中ほどまで進んでいる。ようやく命令を思い出して、マッシュは車の後ろに回った。細い懐中電灯を口にくわえて、手探りでカチリとスイッチを押し込んで、トランクを開けると……

 

「あっ」

 車の中から覗く、大きな目が見えた。紫がかった、夜の色と同じ色の瞳。

「……!?」

 ぎょっとして、思わずのけぞる。トランクの中に人が入っていたのだ。

 

「しーっ、マッシュ、静かに……!」

 しかも、見覚えがあった。黒いお団子頭につぎはぎだらけのパーカー。懐中電灯をあてると、「ぎゃっ」と声をあげて縮こまる。

 

「ミクミク! 何してるんだ、お前……!」

「だって、マッシュのことが心配で! 東口に行くっていうからせめて見送ろうと思ったんだけど、この車があったから……ついて行ってあげようと……」

「お前がいても何の役にも立たないだろ。どうするつもりだったんだよ」

「それはー……何かできるかもしれないし……」

 

 クロダがいたはずの車の中にどうやって乗り込んだのか、問いただそうとしたが……

 

「マッシュ、まだか?」

 校庭から声がかかる。ここで騒いでミクミクが見つかったら、自分の立場が危ない。

「いま行きます! ……ミクミク、先に何か入ってなかったか?」

 声を潜めて、トランクの中をのぞき込む。ミクミクは細い体をねじるようにして、ナカを探った。

 

「これでしょ? ちゃんとつぶさないようにしてたんだから」

 そう言って取り出したのは、紙袋だ。タータンチェックの柄。小さく、「ISETAN」と書かれている。紙袋なんて、今では目にすることは少ない。

 

「これが贈り物か? 宝石かマッカだと思ったのに」

「何が入ってるの?」

「わかんないけど、軽いな」

 

 紙袋の底には、白い紙箱が入っている。さすがに、その中まで見るのはまずいだろう。

 

「ミクミク、帰ったらなんとかして見つからないように出してやるから、おとなしくしてろよ」

「待って、このなか息苦しいし油のにおいがすごくて。もうちょっとだけ……」

「頭を下げてろ」

 

 バタン。

 ミクミクを押さえ込むようにして、再びトランクを閉める。

 

「まったく、気苦労を増やすなよな……」

 ふと上を見ると、ひときわ大きな星が空に浮かんでいることに気づいた。それが「月」と呼ばれていることを思い出すには時間がかかった。

 半月(HALF MOON)に見下ろされながら、マッシュは校庭で待つクロダたちのもとへと駆けていった。

 

 

 ▷▷

 

 

「よし。メシア教徒が追いつく前に(サン)プリンシパリティを回収する」

 マッシュが紙袋を持ってきたのを確かめて、クロダは言った。

「あっちはメシア教会が迎えに来ると思ってるだろうから、警戒されるかもしれない。ダダを捏ねられないように、そいつを使う」

 確認するように言ってから、クロダは顔を上げた。

 

「もう向こうは俺たちに気づいているはずだ。まずは合言葉だな……」

 クロダは校舎の方へ懐中電灯を振りながら声をあげた。

「『沖へこぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』」

 しんとした夜に、しゃがれた声が吸い込まれていく。

 

「どういう意味だ?」

「さあ……メシア教の暗号だろ」

 警官達がつぶやいているうちに、校舎の窓から人の姿が見えた。白装束のところどころに、メシア教の聖なるマークが描かれている。全員が女性だ。

 

「あなた方は? メシア教会のネオファイトではないのですか?」

 旗を掲げた女が言った。アクター神父と同じメイガスだろう。白い頭巾(ウィンプル)をかぶっている。

 

(この人が聖女か?)

 彼女だけが、顔が見えるタイプの頭巾だ。他の信者たちは顔まで頭巾で覆っている。薄布で、内側からは外が見えるのだろうが、外から顔を見ることはできなかった。

 

 落ち着いた声には存在感がある。他者を癒やす力がある、という噂も嘘では無さそうな説得力があった。

 

「新宿の私設警察です。我々には車があるので、メシア教会よりも速く、安全にプリンシパリティ様をお連れすることができるので、代わりに来ました」

 メシア教徒たちがざわつくのが分かった。話が本当かどうか、ひそひそ声で話し合っている。

 

「オザワから聖女様へ贈り物があります。……マッシュ」

「はい」

 その前に進み出ていく。紙袋を胸の高さに差し出すと、メイガスがそれを受けとった。

「これは……」

 そして、信者たちの前で袋から紙箱を取り出す。さらにそのフタを開けると……

 

「わぁっ!」

 と、教徒のひとりが高い声をあげた。

()()()! 嘘でしょ、食べてみたかったの!」

 そして、あっと思う間もなく自分の頭巾を脱ぎ去った。

 長い髪が月明かりに輝いた。その色は、不思議なことに金と黒が入りまじった二色(ツートンカラー)になっている。金髪と黒髪が、同じ人間の頭から伸びているのだ。

 

 二色髪の女は紙箱の中から白いものを取り出して、ぱっと口の中に放り込んだ。細面の頬がぷくっと膨らむほどにほおばっている。そうしていると、彼女はマッシュとさほど変わらない少女だと分かった。夢中で口を動かしている様子は、もっと幼く見えるほどだ。

 

「むぐ……あむ。甘い……美味しい……!」

 じーんと涙を目にうかべながら、彼女はさらに紙箱の中のお菓子を取り上げる。まだ口の中に残っているだろうに、さらに詰め込んでいく。

 

「それは聖女に……」

「お静かに」

 ぴしゃりと、メイガスが言い放った。

 

(サン)プリンシパリティがお食事中です」

 

「えっ……」

 マッシュは思わず絶句した。ということは、ほっぺたを膨らませて大福をほおばっているこの少女こそが、メシア教が崇める聖女……ということらしい。

 

「何よ、そんな顔しなくてもいいでしょ」

 口の周りに白い粉をつけながら、少女――プリンシパリティ。

「私だって分かってますよ、お菓子なんて贅沢品だって。みんな我慢してるのに、ひとりで食べて意地汚いと思ってるんでしょ」

 

「いや……」

 まさか年端もいかない少女がメシア教の重大人物だと思っていなかっただけなのだが、彼女の口ぶりからするとかなり負い目を感じているらしい。

「でも、好きなものは仕方ないでしょ。我慢できないの。ただでさえいつも教会で我慢してるのに――」

 

「プリンシパリティ様」

 メイガスが言葉をさえぎった。はたと口を押さえて、少女がコクコクと頷く。豊かなツートン髪がさらさらと揺れた。

 

「話は分かりました。教会から信任を受けているのですね?」

「あ……ああ。アクター神父から」

 プリンシパリティは口調と声音を変えて聖女らしく振る舞おうとしているようだが、口元には大福の粉がついたままだ。これで威厳を感じろというほうが難しい。

 

「シスターバーバラ、この人たちを信じることにします」

「……わかりました」

 メイガスはもの言いたげだったが、聖女の言葉に従うことにしたようだ。静かに頷いてプリンシパリティの後ろへと下がる。

 

「私がプリンシパリティです。新宿までの案内をお願いします」

(ちょろいな)

 オザワやクロダの警戒ぶりからして、もっと話がこじれると思っていた。だが、聖女は豆大福を食べただけであっさり承服したようだ。

 

 もちろん、彼女の言うとおり大福は高級品だ……マッシュのような三等警官では甘い物を口にする機会すらない。だが、何日も食いつなげるほどの量ならともかく、一食分にも満たない食物で言うことを聞いてくれるのなら、安いように思えた。

 

「それじゃあ、善は急げだ。マッシュ、聖女様を車に案内しろ」

「はい」

 短く返事をして、マッシュは歩き出した。そのすぐ後ろに、プリンシパリティが続く。

 

「ねえ、その腕につけてるのって……」

 校庭を横切る間に、少女がマッシュに声をかける。

「アームターミナルか? こいつで悪魔召喚はできないよ、安心してくれ」

「そうじゃなくて、その……ええと」

 プリンシパリティが言葉に詰まる。何かを思い出そうとしているのか、表現が思いつかないのか……曖昧な様子だ。

 

「言いたいことがあるなら、はっきり……」

 振り返った時。ふと、違和感に気づいた。

 

 そびえ立つ校舎は、夜空の星々を遮って四角いシルエットを残している。その屋根の上に月が昇り……月の前に、()()がいた。

 巨体。月の前に立つ()()は、獣にまたがっていた。その獣が馬、と呼ばれるものであることを、マッシュは知らなかった。

 馬の背に乗った()()は鎧を着ていた。そして、長い槍を構えている。月明かりを反射して、その槍の穂先がぎらりと赤く輝いた。

 

「ここまでどうも。あとは任せてくれ」

「握手などしませんよ」

 校庭にいる警官と信者たちは、その姿に気づいていないようだった。クロダがにこやかにさしだした手を意に介さず、シスターバーバラと呼ばれていたメイガスが首を振っている。

 

「思い出した! それって、ウォークマ……」

「みんな、上を見ろ!」

 何かを言いかけたプリンシパリティをさえぎって、マッシュは叫んだ。

 指さした方向に、一同の視線が集まる。だが、その時には屋根の上にあったはずの姿はなくなっていた。

 

「おいマッシュ、大きな声を出すなよ。このあたりにも悪魔がいるんだ」

「いや、でも、たしかに……」

 見間違いだったのか? 思わずマッシュが目を擦ったとき……

 

 ドッ、と重いものが落ちる音がした。同時に、赤い槍がクロダの胸を貫いて地面に縫い止めた。

 

「えっ……」

 ごぼ、とクロダの口から赤いものが亜振り出した。びちゃびちゃと地面へ飛び散る飛沫。槍を伝って、さらに大量の血がクロダの胸から飛び散っていく。

 

「うわあああっ!」

 とつぜんの出来事に、警官が悲鳴を上げた。その眼前に、悪魔が飛び降りてきた。

 

「……」

 甲冑の中で、悪魔の瞳が燃えるように赤く浮かび上がる。真っ赤な馬の背にまたがった悪魔がクロダの体に突き刺さった槍を無造作に引き抜いた。馬の蹄が振り下ろされて、クロダの頭を押さえ込む。熟した果実を床に落としたかのように、男の頭が砕け散った。

 

「嘘だろ……」

 クロダが死んだ。

 マッシュが呆然としている間にも、悪魔は馬上で槍を振るう。マッシュと共にやってきた警官の首が鋭い刃で切り飛ばされ、てんてんと跳ねた。かつてこの校庭に転がっていたサッカーボールと同じように。

 

「おのれ、悪魔め……!」

 メイガスがもっとも速く反応した。旗を振り上げると、その先端から電撃が放たれた。

「……!」

 悪魔は体を仰け反らせたが、それもわずかな時間だった。メイガスに向けて手を差し出すと、その掌から赤い炎がほとばしる。逆巻く炎が白い衣を巻き込んで爆ぜる。

 

「シスターバーバラ!」

 身をすくませていたプリンシパリティが叫ぶ。炎に体を包まれたメイガスの体が、ゆっくりと崩れ落ちていく。

 

《我はベリス……》

「……えっ?」

 ごく小さな声が聞こえた。その声が、赤い馬に跨がった悪魔のものだと、なぜかわかった……だが、悪魔から聞こえてきたのではない。

 声の出所を確かめるよりも速く、悪魔が跨がる馬が棹立ちになって、高くいなないた。槍が次々にふるわれる。そのたび、信者たちの死体がひとつ増えていった。

 

「みんな……!」

 プリンシパリティが駆け出そうとする。だが、その腕を摑んでマッシュが引き留めた。

「やめろ、あの悪魔は俺たちより強いから襲ってきたんだ。勝てっこない!」

「でも、みんなが。離して!」

「ダメだ! 逃げないと!」

 

(プリンシパリティを新宿へ連れ戻さないと。オザワに取り入る唯一の手段だ。いや、それより――死にたくない!)

 混乱した頭の中で、マッシュは叫んでいた。地下街にいたころに感じたことのない恐怖で、足がすくむ。だが、プリンシパリティをつかんだ手を離すわけにはいかない。ひとりで逃げ戻っても、また元の生活に戻るだけだ。彼女を連れて帰らないと。

 

「こっちへ来るんだ!」

 強引に、少女の腕を引っ張る。自動車のほうへ。抵抗するプリンシパリティだが、力は強くない。悪魔が信者たちを槍で次々に屠っている間に、少しずつ近づいていく。

 

「こんなのイヤ、みんなを助けないと……!」

 プリンシパリティが叫ぶ。マッシュは引き剥がそうとする彼女を抱えるように、強引に引っ張っていく。

「声をあげるな、悪魔の気を引くつもりか!」

「自分だけ助かるつもりなの? あなたの仲間も殺されてるのよ!」

「全滅するよりマシだ!」

 

 ようやく、車に辿りついた。聖女を強引に車内に押し込めて、運転席に飛び込む。

「待ってくれ! 俺も……俺も助けて……」

 もうひとり、共にやってきた警官の残りが車へ向かって駆け寄ってくる。

「速くしろ!」

 マッシュも叫び返す。他人に構っている余裕などなかったが、見殺しにするほど冷酷にもなれなかった。

 

 三等警官は足がもつれて転びかけ、四つん這いになりながら車へと駆け寄ってくる。だが、赤い影がその背中に追いついたかと思うと、

 ――ドスッ。

 悪魔の膂力で背中から槍が突き立てられた。

 

「げ……」

 声にならない声をあげながら、警官は崩れ落ちた。

 

「いやぁっ!」

 プリンシパリティが叫ぶ。マッシュは必死になってハンドルに手をかけ――

 

(――どうやって動かすんだ?)

 その時になってはじめて、クロダがエンジンをかけるところを自分が見ていないことを思いだした。

(たしか、このあたりで何かをいじっていた。くそ、何をどうしたんだ?)

 ハンドルの下を探る。凹凸のひとつひとつを確かめる。だが、スイッチらしきものに触っても、エンジンがかかるどころか何の反応も返ってこない。

 

 生まれてからこの日まで、地下で暮らしてきた少年には知る由もなかった。自動車を動かすために鍵が必要になることなど。思い当たるはずもない。実物の自動車を見るのさえ、はじめてだったのだ。

 

(ムリだ。俺じゃ動かせない……どうする? こうなったら、俺ひとりで逃げるか……いや、ダメだ。いま逃げ出しても、新宿に帰りつくまでに他の悪魔に襲われる。こうなったら……)

 

「頭を下げろ。声を出すな。……悪魔が俺たちに興味を失うかもしれない……」

 後部座席の少女にそう声をかけて……頭を押さえて、助手席の上に上半身を丸め込んだ。自分でも情けないと思ったが、それしか思いつかなかった。

 

『車に襲いかかってくる悪魔はいないよ』

 クロダが言ったことだけが頼りだった。自動車には悪魔が嫌がる何かがあって、襲いかかってこないのかもしれない。無知な少年はおぼろげな記憶にすがりついていた。

 

「そんなこと……っ!」

 後部座席の少女は非難しようとしたらしい。だが、何を思ったのか、すぐに口を閉じた。

 

 突如、沈黙が訪れた。コツ、コツ……悪魔が立てる蹄の音が、少しずつ近づいてくる。

 叫びたかった。恐怖のままに声をあげたかった。心臓の音が悪魔に聞こえてしまうんじゃないかと思った。声をあげなかったのは、少女がまだ叫んでないから。それ以外に理由はなかった。

 

 コツ……。

 悪魔の足音が止まった。車のすぐ近くだった。空気がよどむような嫌な気配が、ドアを挟んですぐそばに感じられた。

 

 そのとき……

 

「悪魔がいるぞ!」

「プリンシパリティ様に何かあったのか!」

 別の方向から声があがった。複数人の声だ。

 

(メシア教のネオファイトか……!)

 本当なら、追いつかれたくなかったはずの相手だ。だが、このときばかりは、本当に神が助けを送ってくれたと思った。

 

《もっと……血を捧げろ!》

 今度は、もっと近くから聞こえた。同時に、悪魔が声がした方に駆けだしていくのが分かった。

 

「ぎゃああああっ!」

「ひるむな! 戦え!」

「メシアの名の下に!」

 勇ましい掛け声が上がる。だが、その声もすぐに聞こえなくなった。

 

 沈黙。音のない時間が流れる。

 何も聞こえない。真っ暗な夜の下で、マッシュは何もできずに震えていた。

 

 ドンッ。

「ッ……!」

 物音がして、心臓が跳ね上がった。硬直して伏せていたせいで、腰に痛みを感じた。

 

「マッシュ? いるの? ねえ、何かあったの? さっき、すごい声がしてたけど……」

 トランクから、ミクミクの聞き慣れた声がした。

(いなくなった……のか……?)

 恐る恐る、顔を上げる。窓の外には黒々とした闇が広がって……そして、悪魔の気配はすでに消え去っていた。

 

「助かった……」

 思わず、喉から声が漏れた。

 

 

▷▷

 

 

 脱力する体をなんとか起こして、車から這い出る。

 力が入らないが、精神力だけで車の背部(リア)にまわり、トランクを開けた。

 

「あっ、マッシュ! よかった、ねえ、何かあったの? 暗くて怖かったんだから。ねえ、誰か叫んでたでしょ?」

 ずっとトランクの中にいたミクミクは状況を把握していないようだ。緊迫した状況と落差のある脳天気な声。その場に崩れ落ちてしまいそうだった。

 

「自動車で戻るのは無理だ。歩いて帰るぞ」

「誰か……いるの?」

 後部座席から、プリンシパリティのツートンの髪が見えた。その声もまた、憔悴したように聞こえる。

 

「ええと……」

 なんと言えばいいか。説明に詰まってしまう。

(まずは、ミクミクに状況を説明して……いや、それより紹介したほうがいいのか? 今さら挨拶させても……)

 

 その時。

 

《ヒーホー! こんなところで人間を見つけるなんて、オイラってばツイてるぜー!》

 いつの間にか、暗闇の中に悪魔の姿があった。

 大きなカボチャにボロ布を引っかけたような姿をしている。手にはちらちらと炎が揺れるランタンを持っている。

 

(嘘だろ……! どうやって悪魔と戦えばいい……!?)

 マッシュの手には武器さえなかった。どこかで落としてしまったのだ。

 ハンドルの横のコンソールにデジタル液晶が取り付けられている。かろうじて、まだ表示されている時刻がわかった。

 

『19:01』

 

 夜ははじまったばかりだった。



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1-04_BE TOGETHER

《ヒーホー! 若い人間の肉は美味いんだホ!》

 暗闇のなかに、オレンジ色の炎が踊りながら現れた。すぐに、それを掲げている悪魔の姿も見えた。ぽっかりと中身がくりぬかれたかのようなカボチャの頭。目の形にくりぬかれた穴の奥に、言い知れぬ光が宿っている。

 

(この声は、どこから聞こえてくるんだ……?)

 悪魔に対する恐怖もあった。だが、マッシュの気がかりは別にあった。自分のすぐそばから、小さな声が聞こえるのだ。その声が悪魔が出しているものだという確信めいた直感があった。

 

「ま、マッシュ、どうするの!」

 車のトランクから顔を出したばかりのミクミクが、マッシュの袖を掴んでいる。当然、悪魔を見るのはこれがはじめてだ。

 

「私たちの数が少なくなったから、人間を恐れずに近づいてきたんだ……」

 後部座席から、(サン)プリンシパリティがつぶやく。

 

(逆に言えば、さっきの悪魔……堕天使ベリスほどは強くない。でも、俺ひとりで戦えるか……? まともな武器もない。戦う以外の方法で、なんとかできないか?)

 

 焦るうちに、さらに悪魔の姿がはっきりと分かった。カボチャ頭の下には、布きれがまとわりついている。そこにどんな体が隠されているのかは、分からない……脚がないのだ。いや、それどころか、布の中に体があるのかどうかも分からない。手だけは、布の中から突き出し、ちろちろと揺れる炎を宿した角灯(ランタン)を握っている。

 

《3人もいるから焼き具合を比べられるホ。レア、ミディアム、ウェルダン……どれをどう焼くか迷うホ~》

「俺たちは試食コーナーじゃない。焼き具合のお試しに使われてたまるか」

 聞こえてきた声に思わず言い返すと、悪魔は驚いたように目を見開いた。カボチャにくりぬいた目が見開かれることに驚きたいのはこっちだ。

 

《ヒホ!? 人間にオイラの言葉が分かるホ!?》

 また、声が聞こえた。マッシュは耳に意識を集中して、その音の出所を探っていた。

 

(もしかして、これ……か?)

 マッシュの左腕に着けたアームターミナル。さらに、そこに搭載されたMDプレイヤー……そこから伸びるイヤホンだ。モノラルのイヤホンを引き出すと、直接耳に当てる。

《そういえばそのキカイ、なんとなく知ってるホ! きみ、悪魔使いだホ!?》

 今度は、はっきり聞こえた。間違いない。イヤホンから悪魔の声がしている。

 

(なんで、俺のイヤホンから……どうなってる?)

 アームターミナルのコンソールに指を滑らせた。キーを叩いた瞬間、モニターには見たこともないインタフェースが表示された。表示されている文字列が、実行(ラン)しているコードのタイトルを告げている。

 

 悪魔召喚プログラム。

 

 翻訳(TRANSLATE)の機能が実行されていることが分かる。つまり……

(いつの間にか、俺のアームターミナルに悪魔召喚プログラムがインストールされてる。その上、悪魔の言葉を翻訳して、音声化してイヤホンから流している……)

 そうとしか考えられない。疑問は山ほどあった……だが、その疑問をひとつずつ解決していられる状況ではない。

 

「そうだ。俺は悪魔使いだ」

 口から出るのに任せて、答えた。

「マッシュ……悪魔と話してるの?」

 トランクに体を隠しているミクミクが、見上げてきている。マッシュは一瞥だけを向けて、小さく頷いた。

 

《これはまた、珍しいホ。ここのところ面白いことがなかったから、退屈してたんだホ》

 悪魔が興味を向けたようだ。攻撃的な雰囲気が和らいでいる。

 

「戦いたくはない」

《それじゃあ、力を抜いて楽にしておくホ。優しく食べてあげるホ》

「食べられたくもない」

《わがままだホ~》

「そうかなあ……」

 

 悪魔との会話は人間を相手にするのとは勝手が違うようだ。言葉をそのままの意味で受けとるし、思考が野放図だ。もっと話を続ければ、癖が読めるかもしれない。

(悪魔使いは悪魔と交渉をするって聞く。何かを渡して見逃してもらったり、逆に自分と契約させることもあるらしい。うまくやれば……悪魔と戦わずに済むはずだ)

 コンソールに指で触れて、悪魔召喚プログラムの状態を確かめる。「解析(ANALYZE)」のメニューを選ぶと、目の前の悪魔に関わる情報が表示された。

 妖精ジャックランタン。それが悪魔の名前だ。

 

「ジャックランタン、何か欲しいものはないか? 俺たちに出せるものがあるかもしれない」

 とにかく話をしなければならない。ダメで元々だ。話さえ続ければ、悪魔の気が変わるかも知れない。

《ヒホ? それならオイラ、魔石が欲しいホ!》

 腕を振り上げて、ジャックランタンが主張する。

 

「魔石……って、何か分かるか?」

 マッシュは後ろに目を向けて、聞いた。

「悪魔が好む鉱石です。生体エネルギーの元になる……みたい」

 車のドアを開けて、プリンシパリティが降りてきた。ツートンカラーの髪は黒が闇に溶け込み、金が浮かび上がる。彼女がいるだけで、錯視じみた光景に思える。

「持ってるか?」

 プリンシパリティは首を振った。念のためにミクミクを見たが、黒髪のお団子頭も横に振られた。

 

「魔石はない」

《なんだとお?》

 ジャックランタンの瞳にぼおっと光が浮かんだ。

(まずい、怒らせたか……!?)

 思わず身構えた瞬間、ジャックランタンは声音をがらりと変えた。

 

「じゃあ、マッカが欲しいホ。212マッカでいいホ」

 魔貨(マッカ)は、崩壊後の世界で流通している貨幣だ。魔界で作られているらしい。悪魔と同じように、デジタルデータ化して持ち運ぶこともできる。

(世界が崩壊する前にも、カネはあったんだろうか……)

 アームターミナルに備えられたMDプレイヤーを見ていると、つい思考が引っ張られてしまう。ダメだ、悪魔と戦わず、生きのびることに集中しないと。

 

「わかった。ここにある……持っていけ」

 懐を探って、カネをさしだした。妖精がどこから生えているのかよく分からない手でそれを受けとった。

《やったホ! いい人間ホね》

 悪魔が何にマッカを使うのか知らない。単に、たくさんあればあるほど嬉しいものなのかもしれない。

 

「なけなしの給料でしょ。あー、もったいない……」

「仕方ないだろ。カネより命だ」

 同じ地下暮らしのミクミクが、悪魔の手にわたる額を名残惜しげに見ている。彼女のものではないのだが、ジャンク漁りやウェイトレスで稼げる額は、マッシュの日給よりもさらに少ないのだ。カネにうるさくなるのも仕方ない。

 

《じゃあ、次は……》

「待て、マッカは払っただろ。見逃してくれよ」

《ヒホ? カネを払ったら見逃すなんて誰も約束してないホ。証拠あるんか? 何時何分何十秒、金星が何回夜明けに輝いたときだホ?》

「うぐ……」

 子供のようなだだをこねる悪魔。だが、思い返してみれば、たしかに「マッカの代わりに見逃す」という約束はしていない。悪魔の狡猾さに歯がみする思いだ。

 

《それじゃあ、もうひとつオイラが欲しいものを出してくれたら見逃してやるホ》

 イヤホンから流れる悪魔の声。今度の提案ははっきりと「見逃す」と言っている。

「……わかった、何が欲しいんだ?」

 ジャックランタンは灯火を掲げて、くりぬかれた口でニタリと笑った。

 

《イケニエが欲しいホ》

「なに?」

 思わず聞き返すと、ジャックランタンはその明かりをゆらゆらと横に振った。

 

《三人いるんだから、一人くらいいなくなっても構わないホ。オイラの要求は単純(シンプル)だホ》

 悪魔の笑みにあわせて、目の奥の光が揺らめいた。

 

《その子か》

 悪魔のランタンが車のサイドを照らした。金と黒のツートンの髪、白い衣装を黒いベルトで留めた少女が緊張した表情を浮かべている。

《その子を》

 悪魔のランタンが車のトランクを照らす。黒髪のお団子頭。少女は状況が飲み込めているのかどうか、不思議そうに首を傾げいる。

《オイラに食わせるホ》

 

 悪魔の表情は、冗談や言葉遊びとは思えない。イエスと答えれば、本当に少女のうちどちらかを頭からむさぼるつもりだろう。

「マッシュ、なんて言ってるの?」

 そうとは知らず、ミクミクの声音は気楽だ。先ほどの惨状も見ておらず、状況が分かっていないのだろう。

 

(どちらかを差し出せば、少なくとも俺は助かることができる……)

 答えられずに、マッシュは押し黙った。

(それは、俺がたまたま悪魔と会話できるからだ。決断できるのが、たまたま俺だけだからだ。もし、自分がミクミクやプリンシパリティの立場だったら……自分に権利がなかったからって差し出されて納得できるわけがない)

 迷った。悩んだ。だが、けっきょくは正直に伝えることに決めた。

 

「誰かが生贄になれば残りを見逃す、って言ってる」

「生贄!?」

 驚きに目を見開いて、ミクミクが叫んだ。

「そ、それって、あの悪魔に殺されるってこと?」

《指さすんじゃねーホ》

 悪魔がぼそりと言った。悪魔召喚プログラムの力だろうか。どうやら、周りの人間が話していることは悪魔にも伝わっているらしい。

 

「やだやだ! 言葉も通じない悪魔に食べられるなんて絶対やだ! あんなふざけた頭の悪魔なんか倒しちゃってよ!」

 ミクミクの言うとおり、もう一つ手はある。マッシュが悪魔に襲いかかり、その間に二人を逃がす……だが、それはその後のことに対して責任を負わないということだ。勝てる確信があればいいが、マッシュは悪魔と戦ったことなどない。警官としての訓練が悪魔にどれぐらい通用するのか、分からない。

 

「分かりました」

 叫ぶミクミクを尻目に、プリンシパリティが進み出た。自らの胸に手を置いて、彼女は毅然と言った。

「私を生贄にしてください」

「なっ……」

 あまりにもいきなりの言葉だったので、マッシュは言葉を失ってしまった。

 

「何言ってんの! あなた、その格好からしてメシア教の司祭か何かでしょ。そんな立場ある人がいきなり自分を犠牲にしようなんて、教徒が悲しむよ!」

 ミクミクがトランクを乗り越えて、飛び出してきた。

「マッシュ、この子のためにここまで来たんでしょ? だったら、あたしを生贄にするしかない。二人で新宿に帰り着けば、もっと自由になれるんでしょ?」

 ぐっとマッシュに迫るように身を乗り出して、ミクミクが主張する。紫がかった瞳にすぐそばで見つめられて、おもわずマッシュは仰け反った。

 

「いや、でも……」

 答えに窮している間に、ミクミクはさらに言葉を続ける。

「あたしなんて、勝手についてきただけだし。外に出るために車に乗ったときに、もう覚悟ができてる。マッシュの役に立てるなら、無駄じゃないってことだもん。あたしを差しだして」

 

「いいえ!」

 別の声が割り込んだ。プリンシパリティだ。

「仰るとおり、私には立場というものがあります。迷える人々のため、この体を(なげう)つことこそ私の使命。聖女の立場にあるものが、他の命を犠牲にして生きのびるなど、メシアの教えに反することです。……その罪に今も耐えているのですから、これ以上罪を重ねることはできません。生贄にするなら、私を」

 

 プリンシパリティが詰め寄ってくる。

 

「はぁ? 罪を他人に着せるのはいいってわけ!? あなたたちっていつもそう。自分に都合のいいように善悪を解釈して、けっきょく言い訳を重ねて行動を正当化したいんでしょ。自分の立場を考えてものをしゃべってよね。あたしみたいな場末のウェイトレスより、メシア教の聖女様とやらが生き残ったほうができることが多いに決まってるでしょ!」

 ずい、とミクミクが進み出る。

 

「私だってなりたくて聖女なんかになったわけじゃないですよ! 生まれつき力があるからってアクター神父に見いだされて、品川につれていかれて毎日毎日教会でお祈りと、じめじめした地下室で勉強ばかり! 久しぶりに新宿に戻れると思ったら、仲間がみんな死んじゃって! こんな思いを味わわされるくらいなら、悪魔の生贄になったほうがずっとマシ!」

 ずずい、とプリンシパリティが踏み出した。

 

「それが無責任だって言ってんの! それじゃ、ようやく教会から離れて自由に動ける立場になったってことでしょ。自由になって最初にやりたいことが死ぬことなんて、聖女が聞いて呆れるわ!」

 

「だったらあなたはどうなんですか! 自分は聖女じゃないから死んでもいいとでも? この悪魔使いとあなたは知り合いなんでしょう。知り合いが目の前で悪魔に殺されるところなんか見せて、彼がどんな思いをするか考えられないんですか。私が死んでも彼が負う傷は浅いと思って言ってるのに、自分勝手なことを言ってるのはどっちですか!」

 

「どーーーーーせあたしは半分悪魔なんだから、こんなところで死んだって気に病まれないわよ!」

 

「おい、ミクミク……」

 売り言葉に買い言葉というやつか。いきなり重大な告白をする幼なじみを制止しようと手を掲げるが……

「人の言葉をしゃべり、同じように怒ったり泣いたりする相手を切り捨てられるものですか!」

「泣いてない!」

「泣いてます!」

 二人の口論はますますヒートアップしていた。口論と言えるのかどうかはともかく。

 

《こういうとき、普通はどっちが生き残るかでケンカするんじゃないホ?》

「いや、まあ……普通はそうだと思うけど」

 黙って眺めていたジャックランタンが、不思議そうに首をかしげている。

 

「死にたくないなら正直に認めたらどうなの!」

「それはこっちのセリフです!」

 火花を散らした二人が、直後、マッシュへそろって目を向けた。そして声を合わせて、叫ぶ。

 

「どっちにするの!」

 

 あまりの剣幕に圧されて、マッシュはたたらを踏んだ。ミクミクが泣いているかどうかは、暗くてわからない。

「……わかった、決めたよ」

 二人の声が止まると、途端にあたりに静寂が戻った。ここは新宿地下街ではない。悪魔が巣くう魔の世界だ。

 

「ジャックランタン。生贄は……」

 二人の前に進み出て、悪魔と向き合う。それから、意味を取り違えられないよう、ゆっくりと、しかしはっきりと告げる。

「出さない。誰も生贄にはしない」

 

「マッシュ!」

「何を……」

 二人から非難するような声が上がる。だが、振り返らない。

 

《オイラが見逃すと言ってるのに、助かるチャンスを棒に振る気かい?》

「そうだ。これ以上誰かを犠牲にして助かるつもりはない。お前のほうが俺より強くても、お前の言うとおりには従わない」

 カボチャ頭にどんな表情が浮かんだか、マッシュには分からなかった。いつでも、腰に差した警棒を抜く準備をしていた。

 

 だが……

《分かったホ。生贄は諦めるホ》

 あっさりと、悪魔は引き下がった。

「え……いいのか?」

 思わず面食らうマッシュに、悪魔はごく当然というように頷いた。

 

《魔石だって諦めてやったホ》

「たしかにそうだけど……」

 人間の命も、石も悪魔にとっては大した違いはないらしい。愕然とするマッシュに対して、悪魔は踊るように布きれのすそを揺らした。

 

《それより、オイラを仲魔にしない? キミたちといれば退屈しなさそうだホ》

「……なに?」

 面食らうのは一度ではなかった。

 

《さっきの話、聞かせてもらったホ。ヒジョーに興味深いやりとりだったホ。オイラもこのあたりをナワバリにして長いことやってきたけど、そろそろフリーランスにも飽きてきたところだホ。しばらくの間、ニンゲンに連れられてやってもいいホ》

「それって、俺と契約して……助けてくれるってことか?」

《そう言ってるホ》

 

 マッシュは耳を疑った。悪魔が自ら助けてくれると言っているのだ。はるか古代の悪魔使いのように、この妖精を使役して戦わせることができる。噂に聞く悪魔召喚師(デビルサマナー)のように、力と名を上げてのし上がることができる……

 

「……契約しよう」

《ニンゲンよ、力が欲しいか……》

「お前のほうから言ってきたんだろ」

《いちど言ってみたかったんだホ》

 マッシュはコンソールに手を触れて、悪魔召喚プログラムを操作する。悪魔との契約にはおおよその見当がついていた。簡単な操作と実行キーを押すと、目の前の妖精との間に契約が結ばれて……

 

《オイラは妖精ジャックランタンだホ。今後ともよろしホ!》

 悪魔の体がデジタルデータに分解され、アームターミナルのメモリーへと吸い込まれていった。

 

「信じられない……」

 契約が完了したことを示すメッセージが表示されてはじめて、実感がわき上がってきた。

 

 助かった。

 乗り切った。

 悪魔の力を得た。

 

「いったい……どうなったの?」

 プリンシパリティとミクミクが顔を見合わせている。マッシュは唸りながら、状況をまとめようとした。

「二人とも、死ななくていい。悪魔は俺を助けてくれるそうだ」

 

「やったぁ、マッシュ、すごい!」

 歓喜の叫びを上げて、ミクミクが抱きついてくる。

「お、おい……」

 パーカーの中の柔らかな体の感触がわずかに感じられる。死を目前にした緊張感で研ぎ澄まされた神経は、少女の体をはっきりと感じ取っていた。

 

 

▷▷

 

 

「これから、どうするのですか?」

 プリンシパリティが問いかけてくる。ミクミクをなんとか引き離しながら、マッシュは考えた。

 

「安全な場所へ行かないと。またいつ悪魔に襲われるか分からない」

「となると、渋谷か新宿へ……」

「新宿だ」

 オザワから与えられた使命はまだ続いている。マッシュは、プリンシパリティを新宿へ送り届けなければならないのだ。もし渋谷に行って、彼女が新宿へ行くのをやめると言い出したら、その指令に失敗したことになる。

 

(オザワに取り入って、もっと強くなるんだ。今はその途中。気を抜くな)

 自分に言い聞かせながら、周りを見回す。

「でも、夜中に歩き回るのは危険だ。どこか、休めそうな場所を探そう」

「しかし、こんなに暗くてはどこに何があるか……」

 プリンシパリティの言葉の通り。地下街はいつでも蛍光灯が灯っていたが、地上には電灯はない……あったのかもしれないが、生きてはいない。暗闇を照らすのは、半月と星々のわずかな明かりだけだ。

 

「さっきの悪魔が明かりを持ってたんじゃない?」

「それだ!」

 ミクミクの提案に乗って、マッシュはコンソールを叩いた。悪魔召喚プログラムを起動。召喚(SUMMON)のコマンドを実行する。

 いちどデジタルデータに分解されたジャックランタンが、生体マグネタイトで再び呼び出された。代償に、データとして蓄積されたマッカのいくらかが失われていく。

 

《ヒホ? いきなりなんだホ》

「わあ、しゃべった!」

 今度はイヤホンではなく、ジャックランタンの口のあたりから声が聞こえた。カボチャ頭の口が本当に口なのかは、怪しいところだが。

 

「契約した悪魔の言葉は、プログラムが訳してくれるのか。いったいどういうプログラムを書けばこんなことができるのか……」

《それより、何の用だホ?》

 先ほど契約したばかりで級に呼び出されたとは思っていなかったのだろう。急かされるのはお気に召さないらしい。だが、契約している悪魔が襲いかかってくることはない……ほとんどの場合は。そのように、プログラムを通じて取り決めがなされているのだ。悪魔が契約に反した行動を取ることは、まずないと言ってもいい。

 

「ああ。そのランタンで道を照らしてくれ。俺たちは暗いとよく見えなくてな」

《お安いご用だホ》

 ジャックランタンが手の中の角灯を掲げると、明かりが道を照らした。明かりではっきりと見えるようになるのはせいぜい十数メートルだが、ないよりははるかにいい。

 

「すごい! あなたって役に立つのね!」

 ミクミクがぺたぺたとカボチャの頭を撫でる。

《やめるホ! 帽子がズレる!》

 三角帽子がどうやって乗っているのかも不明だが、とにかく動くことはできそうだ。

 

「行こう、狭い道を通ったほうが良さそうだ」

 明かりは、他の悪魔からもよく見えるに違いない。広い場所では見つかりやすいはずだ。大通りを避けて、一行は歩き始めた。

 

 

▷▷

 

 

「でも、プログラムは入ってないって言ってなかったっけ?」

 歩きながら、ミクミクが不意につぶやいた。

 声を出すなと言おうかとも思ったが、無言で歩いていたら気分が沈みそうだ。何か、気が紛れるようなことを話したほうがいいだろう。

 

「そのはずだったんだけど……いつの間にか、俺のアームターミナルにこのプログラムがインストールされてた」

 一番前をジャックランが進んでいる。脚はないから、胸ほどの高さに浮かんでいるのだ。悪魔が持つ明かりが届く範囲に、マッシュとふたりの少女は並んでいる。ミクミクはマッシュのすぐ隣に、少し後ろをプリンシパリティが進んでいる。

 

「いつの間にかって……そんなことある?」

「いや、でも……事実なんだ」

 身に覚えがない。ふつうなら、これだけ複雑なソフトウェアをインストールしようとしたら、そのデータがある別のコンピュータに接続しなければならない。

(接続……?)

 その時、ふと思い当たった。

 

「あのとき……そうだ、たしかに接続してた」

「なんのこと?」

「DJと一緒にサーバールームに入ったんだ。保守のためだよ。その時に、サーバーがエラーを起こした」

「げっ! それ、平気なの?」

「平気……と言いたいけど、ちょっと危なかった。このアームターミナルをサーバーに接続して、エラーを解析した。電源を切ったから収まったけど……」

 

 その時、たしかに東京に広がるネットワークに、アームターミナルを接続した。

 だが、やったことはサーバーの情報を閲覧しただけだ。ソフトウェアのダウンロードもインストールもした覚えはない。

 

「もし、このソフトウェアがダウンロードされたとしたら、その時しか考えられない……でも、繋いでたのは一分足らずだ。あっという間だったのに、その間に侵入してきたのか?」

 マッシュも、若いが技術者(エンジニア)だ。アームターミナルに搭載したOSには、セキュリティを設定してある。そう簡単に突破できるようなものではない。

 

(でも、他にダウンロードできるようなタイミングじゃない。コンピュータが接続したら、一方的にソフトウェアを送り込むような仕掛けがされていたのか? いったいどうすれば、そんな風にプログラムを組めるんだ……?)

 

「でも、とにかく……そのプログラムのおかげで助かりました」

 プリンシパリティが、小さくつぶやいた。

「選り好みしていられる状況ではありません。新宿に辿り着くまで、その力に頼るしかない……」

 

「その通りだ」

 マッシュは頷いて、アームターミナルを着けた腕をさすった。

 音楽を聴いて心を落ち着けたかったが、悪魔と会話するためにイヤホンは必要だ。音楽を聴きながら、会話もできるのかは分からない。ぶっつけ本番で試してみる気にもなれなかった。

 

「得体が知れないけど、使えるものはなんでも使う」

《それって、オイラのことかい?》

 ジャックランタンがぼそりと言った。

 

「まあ、そうだな」

《ひどいホー。この世は悪魔の天下なのに、ニンゲンはいつまでもえらそうにしてるホ》

「契約したのに、生意気なやつだなあ」

《口を閉じる契約はしてないホ》

「そうでしょうね」

 肩をふるわせて、プリンシパリティが笑っている。

 

「ねえ、さっきはごめんね、あたし、ひどいこと言っちゃった気がする。必死だったからあんまり覚えてないけど」

 ミクミクが歩調を落として、プリンシパリティに並んだ。空気が和らいだところで、声を掛けやすくなったのだろう。

「ううん。私も……お互い様だから。こっちこそ、ごめんなさい」

 ツートンカラーの頭が深々と下げられる。

 

「わ、ちょっと。そんなに謝らないでよ。……そうだ、あたしはミクミク。あなたは……」

(サン)プリンシパリティ、です」

「ちょっと長いね」

「そうでしょうか」

「まあ、俺たちはあんまり長い名前に慣れてないな」

 地下街には、そこまで長い名前の住人はいなかった。そんなに長い名前が必要になるほど、住人がいない、というほうが正しいのだが。

 

「聖っていうのはなんとか『さん』みたいなものでしょ。ずっと着けてるのも変だし……じゃあ、縮めてプリンっていうのは?」

「プリン……」

 繰り返した聖女が、ごくっと喉を鳴らした。

「一度、口にしてみたい……」

「よく分からないけど、気に入ってくれたみたいだね!」

「そうかあ?」

 

 聖女……プリンが言い返さなかったので、もうミクミクの中では決まってしまったようだ。

「そういえばプリン、聞きたいことがあったんだけど」

「あっ、そういえば、私もミクミクさんに聞きたいことが」

「ミクミクでいいよ。さんなんて、むずむずしちゃう」

 雰囲気は明るくなったようだ。マッシュは安心して、前を向いた。

 

《オイラの名前も長いホ?》

「ジャックって呼んだら、ややこしいんじゃないか? なんとなくそんな気がする」

 首を傾げているジャックランタンと気楽に話をする程度には、マッシュにも余裕が出てきた。

 

「新宿にいたって……」

「半分は悪魔って……」

 うしろで少女たちがそれぞれに疑問を口にしようとしたとき……

「待て、何かいる!」

 マッシュが鋭く叫んだ。ジャックランタンが掲げる明かりの中に、いつの間にか暗い影が現れ始めていた。

 

《オォォォォォォォオオオォォ……》

 粘ついた木が擦れ合ってざわめくような、不愉快な声がイヤホンから漏れ出してきた。悪魔召喚プログラムの翻訳機能を介しても、その意味はうかがい知れない。

「まずい。いつの間にか悪魔の群れに囲まれている……」

 

 暗闇の中で、さらに濃い影がいくつも立ち上がる。細い道を選んだことが返って仇となった。

 行く手も、逃げ道も防がれている。

 安全な場所にはほど遠い。戦いは避けられなかった。




メガテン二次創作あるある:最初に仲魔になる悪魔がだいたい妖精


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1-05_今宵の月のように

 路地に腐臭が漂っている。

 

 建物と建物の間を縫って進むことを選んだのは、そのほうが悪魔に見つかりにくいと思ったからだ。

 だが、それがかえって危機を招く結果になった。

 

 路地の物陰から、いくつもの人影が這い出してくる。人影、といったが、人の形をしているものもあれば、そうでもないものもあった。

 乾燥して色あせた体は骨の形を浮き上がれている。腕が一本しかないのもいれば、足がねじれて左右で別の方向を向いているものもいた。目玉が眼下から外れて垂れ下がっているものもいるし、腹に大きく穴が空いているのもいた。

 

『幽鬼グール』

 アームターミナルの解析(ANALYZE)システムが、その悪魔の名前を表示している。

 

《オォォォォォォォオオオォォ……》

(意味のある言葉を話してない)

 マッシュが耳につけたイヤホンからは、無数の呻き声が聞こえるばかりだ。

(すべての悪魔の言葉を翻訳できるわけじゃないのか、それとも、この悪魔たちが意味のある思考をしていないのか)

 少なくとも……ジャックランタンのように、コミュニケーションを取ることは不可能ということらしい。

 

「マッシュ、どうするの……!」

 背中に隠れるようにして、ミクミクが叫んだ。紫色の瞳が、不安げに揺れている。

「気をつけて、後ろにも……」

 メシア教の聖女……(サン)プリンシパリティが、背後に目を向けている。どこに身を潜めていたのか、彼らがやってきた路地を遮るように、別のグールの群れが這い出してきた。

 

「戦うしかない」

 腰に着けた警棒を抜き放つ。手には馴染んでいるが、人間ならぬ幽鬼相手にどれほど通じるのかは分からない。

(それに、数が多い。二人を守りながら戦わないと……!)

 

《こいつら生き物の肉を食うことにしか興味ないホ。オイラのほうが上品にいただけるホ》

 マッシュが唇を引き結んで構えた時、その隣で明かりを掲げていた悪魔、妖精ジャックランタンがつぶやいた。

《今からでもオイラにアンタたちの肉を囓らせてみない?》

「そんなことできるか。……いや、そうか。ジャックランタン、俺の命令を聞くんだったな?」

《契約した以上は、召喚者に従うホ》

 

 マッシュは再び、悪魔解析(デビルアナライズ)の結果に目を向けた。

 名前だけではない。そこには幽鬼グールに関する情報が表示されている。そして、その中にはっきりと、こう書かれている。

『火炎に弱い』

「炎だ。ジャックランタン、炎の魔法を!」

 

《召喚者の頼みなら仕方ないホ。やってやるホ!》

 カボチャ頭の奥の瞳を光らせて、ジャックランタンが気合いをみなぎらせる。掲げた角灯(ランタン)の炎が、大きく閃いた。

《マハラギ!》

 (カッ)と炎が閃いた。角灯から噴き上がった炎が、ひび割れたアスファルトの上を踊り狂い、マッシュたちの周囲に炎の壁となって噴き上がる。

 

《オオオオォォォォ……》

 炎が幽鬼(グール)たちを飲み込んで行く。乾燥した体は丸めた紙のように激しく燃えさかる。人間の形をしたものが、あっという間に黒い焦げカスの塊になって崩れ落ちていく。

 

「す、すごい……」

 赤い炎にミクミクの驚愕の表情が浮かび上がる。月の明かりだけで照らされていた路地に激しい炎が踊って、まぶしさに目を細める。

《いやー、ざっとこんなもんだホ!》

 ジャックランタンが胸を張っている。胸があるのかどうか、わからないが。

 

「データは正しかった」

 幽鬼たちに燃え広がる火の手は、尋常ではなかった。普通の生き物なら――東京に悪魔ではない普通の生き物は、もはやほとんど残っていないが――あれほど勢いよく燃えることはないだろう。

「マッシュ、どうしてあの悪魔に炎が聞くって分かったの?」

 ミクミクの問いかけに、アームターミナルの表示を指さして答える。

 

「この中に悪魔のデータが入ってる。たぶん、悪魔召喚師たちが集めたデータがサーバーに蓄積されていて……俺はそれに接続することができた」

 悪魔解析(デビルアナライズ)のデータベースが、悪魔召喚プログラムと共にダウンロードされていたに違いない。

 東京じゅうにいる悪魔召喚師たちが集めたデータが、マッシュのアームターミナルに収められている。

 コンソールを操作して確かめると、ほかにも百種以上の悪魔の能力や弱点を、閲覧することができた。

 

「悪魔と戦うためのプログラムか……ほんとうに、これを作ったやつは恐ろしいほどの頭脳を持ってたに違いない」

 情報さえあれば、人間でも悪魔と対等に渡り合うことができる。悪魔の力を借りることができるとなれば、なおさらだ。

 

「悪魔の力は……あらためて、恐ろしい……」

 プリンはむしろ、脅威を覚えているようだった。あれほど恐ろしく見えた悪魔たちが、たったひとつの呪文であっという間に壊滅したのだ。

「俺との契約でこいつは言うことを聞いてくれる。心配はいらないよ」

《そうだホ。油断しなきゃ大丈夫だホ》

「本人に言われても、安心できません」

 ツートンカラーの髪を直しながら、プリンは肩をすくめた。

 

「とにかく、先を急ぎましょう」

「ああ。夜は危険だ。朝まで安全に過ごせる場所を探そう」

 

 

▷▷

 

 

 方針を変えることにした。狭い路地では、また悪魔に囲まれるかもしれない。しばらく歩くと、大きな通りに出た。

「ヒ……ツキ……シ……ダイ」

 色あせた看板に書かれた文字を見て、ミクミクが首を傾げるが……

「メイジ通り、と書かれています」

 プリンがそっと訂正した。

 

「すごい、漢字が読めるの?」

「教会で教育を受けていますから……」

「メイジって、魔法使いのことか?」

 悪魔召喚と同様に、魔法の力を扱うものをそう呼んだ……と、聞いたことがある。

 

「うーん、それとは違うような気がします」

「昔は、道の一本ずつにも名前があった……らしい」

 受け売りの知識。そっと首を振って、脳裏によぎるクロダの最期の姿を振り払う。

「きっと、何か意味があって着けられた名前に違いない」

「『メイジ』って、どういう意味?」

「意味……難しい質問ですね。たぶん、世の中が正しい状態にあるという意味……でしょう」

 プリンがつぶやいて、ランタンに照らされた道の先を見た。

 

 瓦礫がうずたかく積まれている。半ばから折れたビルディングが道をところどころ塞いで、大きな地割れが通りを切り刻んでいる。

「今の状態が正しいとは、とても言えないな」

 ため息が漏れる。かつては人々が行き交っていたに違いない。悪魔が溢れ、ミサイルで東京が破壊し尽くされる前にこの道がどんな姿をしていたのか、マッシュにはもはや知る術もないのだ。

 

《ニンゲンなのにニンゲンの言葉がわかんねえホ?》

「たくさんのことが失われたんだ」

 かつての東京に思いをはせていたところで……ふと、マッシュの耳に声が聞こえた。

 

《お前のせいでいい迷惑だ! なんだって同じ姿をしてるんだ!》

《仕方ねえだろうが! もともと同じようなものなんだよ!》

 言い争っている。悪魔召喚プログラムが翻訳したということは、悪魔の声だ。

 道の先を見ると……二匹の悪魔が、互いに剣のようなものを振り上げながら威嚇しあっているのが見えた。

 

「悪魔のケンカか。好きにさせておけばいい。明かりを小さくして、通り過ぎよう」

 悪魔どうしの争いなど、東京のそこかしこで起きているに違いない。今は、安全な場所へ辿り着くことが優先だ。

 さいわい、通りは広い。言い争いに夢中になっているようだし、さっさと通り過ぎてしまえば気づかれないだろう。

 ……というのは、甘い見積もりだった。

 

《待てェい! ニンゲン、こっちを見ろ!》

 悪魔の怒鳴り声が響く。契約している悪魔ではないから、その言葉の意味が分かるのはマッシュだけだ。しかし、悪魔が騒いでいることは、同行している二人にもわかる。

「逃げますか?」

「いや……もっと大声を出されて、他の悪魔の注目を集めたら面倒だ。話が通じるようだし、会話で解決しよう」

 悪魔どうしでいがみあっているから、一緒に襲ってくる様子はなさそうだ。マッシュはランタンの明かりを向けさせて、二匹の悪魔の元へ進み出た。

 

《俺は地霊ブッカブー》

《俺は妖鬼ボーグル》

 二匹の悪魔が、それぞれに名乗りをあげる。

「わっ。……同じ悪魔だ」

 ミクミクが二匹の悪魔の姿を見て、小さく声を漏らした。

 

 彼女の言葉通り、いがみ合っている悪魔はそっくりな姿をしている。男性的な体つきに、鋭い目つきとまばらな牙の生えた口元。簡素な鎧らしきものを身にまとって、剣を持っている。

 夜の暗がりの中では、ほとんど見分けられないほどだ。ごくわずかに、肌の色合いが違う程度の差だ。

 

「俺はマッシュ、悪魔召喚師だ。いったい何を言い争ってたんだ?」

 できるだけ声を低くして、名乗り返す。体が大きく見えるように肩をいからせ、胸を張る。

(少しずつ分かってきた。悪魔と対峙する時は、堂々と振る舞うべきだ。弱いと思われたら、つけ込まれる)

 案の定、悪魔たちはマッシュを舐めてかかってはいけないと思ったらしい。二匹の悪魔が、同じような仕草で掌を見せた。彼らなりの挨拶だろう。

 

《見てくれ、この混沌に与する見下げた妖鬼が、俺とそっくりな姿をしているんだ》

《不愉快なのはこっちの方だ。秩序に従う地霊と見間違えられる俺の気持ちがわかるか?》

 ブッカブーとボーグルが交互に主張する。

 

《他の悪魔と話していて、何か話がすれ違うなと思ったら、そいつは俺のことを地霊だと思ってやがったことがしょっちゅうあるんだ》

《迷惑なのはこっちだ。道ばたで『よぉ! 今日も血に飢えてるな!』だと。俺がそんな風に見えるか?》

 話し方もそっくりだ。悪魔召喚プログラムを通じて合成された機械音声だから、なおさら同じに聞こえる。

 

「なんの話をしているのでしょうか……」

「わかんないけど、マッシュに任せるしかないよ」

 少女達は暗がりの周囲に視線をむけている。この騒ぎにまぎれて他の悪魔に襲われないかを心配しているのだ。

 

《こいつら、もともとおんなじような妖精だったんだホ》

 ジャックランタンの表情は読み取りにくいが、それでも呆れているのは分かった。

《ボガートとかボギーとかブギーマンとか、いろんな名前があるホ。たぶん呼び分けられているうちに、別の悪魔に分かれちゃったんだホ》

 同じ妖精のことなら任せろと、事情通ぶって語る仲魔の説明に、マッシュは小さく頷いた。

 

「なるほど。だから、似ている姿をしてるわけか。でもどうして妖精じゃなくなってるんだ?」

《あんまり醜いと妖精の王様が追放しちゃうホ》

「……ああ」

 いがみあっている悪魔たちの姿は、お世辞にも美しいとは言えない。ならカボチャ頭なら美しいのかということは疑問だったが、悪魔の審美眼に人間が口を挟むのも野暮というものだろう。

 

《もうこれ以上似たもの扱いされるのはたまらねえ!》

《いっそ、どっちかが消えてしまったほうが間違われなくて済む!》

《もともと同じ存在だったなら、一緒になって元の姿になればいいんだけどよ……》

《俺たち自身も、もともとどんな姿だったかよく分からないんだ……》

 そこまで語ると、悪魔たちは一斉に肩を落とした。

 

《ルーツを失ってただ生きるだけの日々に意味なんてあるのかと自問自答する日々だよ……》

《破壊と殺戮を繰り返しても、心が満たされねえのさ……》

「悪魔も自分のことがわからなくなって悩むんだな」

《こいつがいなけりゃ悩むことはねえのに!》

《あぁー!? こっちのセリフだこの野郎!》

 再び剣を振り上げて威嚇しあう。

 

《でも、こいつを殺しても安心できるのはわずかな時間だ》

《そう、すぐにまた別のこいつが現れる。俺たち悪魔は複雑なんだよ》

 目の前の悪魔がいなくなっても、またどこかから姿を現す……そういうものらしい。

 

(要するに、こいつらは決着がつかないから、いがみ合っているわけか……)

 マッシュは二匹の悪魔を眺めて、考えた。

(仲魔が増えれば、生きのびられる確率は高まる。どっちかでも、連れて行けないだろうか)

 放っておけば、また口論に戻るだけだろう。やってみても損はなさそうだ。

 

(まずは悪魔にいい印象を与える。それから、うまく話を誘導するんだ)

 ジャックランタンとの会話で、悪魔が人間とは少し違った思考をすることは分かっている。だが、基本は同じだ。好ましいと思わせれば、こっちのもの。

「でも、俺はそんなに似てるとは思わないけどな」

 堂々とした態度はそのまま、マッシュははっきりと言い張った。

 

《なに?》

《どっちがどっちかわかるのか?》

「ああ、もう覚えたよ。あんたがボーグル、あんたがブッカブー、だろ?」

《なん……だと……》

 二匹の悪魔が声を揃えて戦慄した。

 

《ヒホ!? 一瞬で見抜いたホ!?》

 同じ悪魔であるジャックランタンからしても、見分けがつかないらしい。マッシュは自信ありげに頷いた。

「あのコンピュータが解析してくれるからでは……」

「しーっ」

 プリンとミクミクは話の流れを断片的にしか把握できていないが、マッシュのしゃべっている内容は分かる。いささか正直すぎるプリンに、ミクミクが制止をかけた。

 

《一瞬で俺たちを見分けるとは、この人間……ただ者じゃない!》

「そんなことないさ。他の悪魔の目が節穴なんじゃないか?」

《いや、お前の悪魔召喚師としての実力に違いねえぜ……!》

 悪魔たちはマッシュの選別眼に感服したらしい。警戒するような仕草はまったくなくなっている。

 

「たしかに、俺は悪魔には詳しい。……そういえば、あんたたち、自分たちの元々の姿が分からない、とか言ってたな」

《おうよ。それがもう一つの悩みの種だ》

「悪魔召喚士として、その悩みを解決できるかも」

《なんだと? おい、どうするのか言ってみろ》

「いや、でも、あんたたちが承服するかどうか……」

 あまり前のめりになりすぎのも逆効果だ。あえて引いてみせるのも、会話のテクニックという奴だ……新宿地下街での値引き考証で、マッシュは学んでいる。

 

《細かいことはいい! とにかく話せ!》

 ボーグルだかブッカブーだかが怒鳴った。本人としては脅しているつもりなのだろうが、実際にはマッシュに懇願しているようなものだ。人違いされることは、悪魔にとってそれだけショックなのだろう。いや、悪魔違いか。

「わかったよ、あんたたちが聞いたんだからな」

《ゴタクはいいから早く言えよ!》

 焦らされた悪魔は、すっかりマッシュにペースを握られている。方便を使いこなす商人たちの駆け引きに比べれば、悪魔達は素直すぎるといってもいいぐらいだった。

 

「悪魔合体」

 と、マッシュは言った。

「秘術を使って、悪魔どうしを融合させる。そうすれば、あんたたちをひとつにくっつけることができる。そしたら……元の姿に近づけるんじゃないか?」

 マッシュ自身に、悪魔合体の経験はない。当たり前だ。悪魔召喚プログラムを手に入れたことに気づいたのさえ、ほんの一時間前だ。ただ、新宿に訪れる悪魔召喚師たちの話を盗み聞きして、知識を得ているだけである。

 

《聞いたことがある。人間は悪魔のデータを合わせて、より強い悪魔を作ると……》

《じゃあ、もともとは同じ悪魔だった俺たちを融合させれば……》

「いまのあんたたちより強い悪魔になるはずだ」

 悪魔合体の仕組みは複雑だ。どんな悪魔が生まれるかは、やってみなければ分からない。だから、『元の姿がわかるはず』とは答えられない。

 はぐらかして答えたかのように見せかけるのも一種の技術だ。

 

《なるほどな。俺も興味があるぜ》

《俺もだ。こいつの真似をするわけじゃないが》

「でも、悪魔合体のためには、まず俺と契約してもらわないと。じゃないと、あんたたちの希望を叶えられない」

 自分が仲魔を欲しがっている、なんてことはおくびにも出さない。まるで悪魔のほうから頼まれているかのように、話を運んでいた。

 

《いいぜ。お前の仲魔になれば見間違えられることもなさそうだしな》

《こいつと同じメモリに入るってのは気に食わないが……》

「両方入ってくれないと合体できない」

《わかっってんだよそんなことはよぉ! はやく契約しろ!》

「よし。交渉成立だ!」

 悪魔の気が変わらないうちに、マッシュはプログラムを走らせる。悪魔達との間に情報がやりとりされ、自動化された儀式が完了した。

 

《俺は地霊ブッカブーだ》

《俺は妖鬼ボーグルだ》

「マッシュだ。改めて、よろしく頼む」

 契約書へのサインの代わりにリターンキーを押して、プログラムが正常に完了したことを確かめる。二匹の悪魔はデータへと変換されて、アームターミナルの中へ吸い込まれていった。

 

「いちどに二匹を仲魔にしてしまったのですか?」

 会話の行方を見守っていたプリンが、驚くような表情で言った。

「ああ。ハッタリが通じてくれてよかった。もし怒らせて、二人がかりで襲われてたら危なかった」

《はっきり言って二匹ともオイラよりだんぜん強いホ》

 マッシュも、力の差は理解している。解析されたデータを見るに、ブッカブーもボーグルも、ジャックランタンよりずっと強い悪魔だ。

 

「あれ、でも悪魔は自分より強い相手にしか従わないんじゃなかった?」

 ふと、ミクミクが首を傾げる。ジャックランタンより強い悪魔がマッシュと契約したということは……

「さっき、グールを何匹も倒したおかげかな……新宿を出る前よりも、強くなってる気がする」

 修羅場をくぐり抜けた経験によるものか。悪魔を見ておびえることもなく、気が大きくなっているだけかもしれない。だが実感として、マッシュは自分が以前よりも成長しているのを感じていた。地下で暮らしていたときには、なかった感触だ。

 

(悪魔は人間を食って強くなれると信じてるらしいが……悪魔召喚師が悪魔を倒すのも、似たようなものかもしれない)

 強い悪魔を従え、さらに強い悪魔を倒す……それが、悪魔が人間を生贄にして強くなることとどれだけ違いがあるだろうか。

 

「……まだ、歩き続けないと」

 聖女はマッシュを一瞥してから、先を示した。

(警戒されてるな)

 当然だ。彼女とは会ったばかりだ。十年来の付き合いがあるミクミクとは違う。そして、彼女が仲間を大勢失う原因になったのは悪魔である。その悪魔を使役しているマッシュに対して信用しきれないのも当然のことだ。

 

(でも、悪魔の力がないとここでは生きていけない……彼女も、俺も)

 ジャックランタンが掲げる明かりがなければ、道を見通すこともできないのだ。

 妖精を先行させて、再び歩き始める。その後ろを、少女たちがついていく。

 

「あっ……ねえ、建物が残ってる」

 ふと、ミクミクが言った。紫の瞳は暗がりがもっともよく見通せるようだ。

 彼女が指さした先を見ると……真四角な印象の建物がうっすらと闇の中に浮かび上がって来た。

 窓ガラスは割れているが、建物の外観はしっかりと残っている。腕章のように、看板が掲げられていた。

 

『原宿警察署』

 

 

▷▷

 

 

「ビルの中なら、悪魔に見つかる心配は減らせそうだ……先に悪魔に占領されていなければ、だけど」

 建物の入り口のガラス戸は吹き飛んで扉としての機能を果たしていない。おそるおそる覗き込んでみると……

「うわっ……!」

 ずんぐりした、大きな機械が立ちはだかっていた。四本の足が半球型のボディを支えている。

 

「なになに、悪魔!?」

 ミクミクに大声をあげるのをやめろと言ってやりたいが、もっと大声で反論されそうなのでやめておいた。

「……違う、マシンだ。警察が使っていた機械だよ。でも、電源が切れてるみたいだ」

 ランタンの明かりをかざしても、ぴくりとも反応しない。動かなくなってから、もう何年も経っているのだろう。

 

「こいつが睨みをきかせてくれているおかげで、悪魔がよりつかないみたいだ」

「それじゃあ、ここなら朝まで休めるかな?」

「できるだけ頑丈で外から見つかりにくい部屋を探そう」

「やった!」

 ミクミクは両手をあげて喜びを表現した。声は大きいが、建物の外までは響かないだろう。

 

「よかった。……ありがとうございます」

 プリンの声は、心底ほっとしているようだった。

「礼を言うのは新宿についてからにしてくれ」

 ここで休んだからといって、安全になるわけではない。マッシュの受けている任務は、彼女を新宿へ……オザワの元へ連れて行くことだ。

 

「あなたがいなかったら、私はここまで来られなかった。新宿に辿り着けるかどうかは分からないから、ここまでの分のお礼を言わせて」

 聖女と呼ばれる少女は、はっきりとした唇とまっすぐな目で告げる。警戒されているはずなのに、感謝はてらいもなく口にする……

(うらやましい。人を疑わないで生きてきたんだな、この人は)

 新宿地下街には、そんなやつはいない。いたのかもしれないが、いなくなった。

 

「わかった。ここまでのぶんだけ受けとっておく。休める部屋を探そう」

 悪魔を引っかけて仲魔にした自分が恥ずかしくなりそうだ。だが、悪魔に対してそうだったように、マッシュは自分を強く見せることを覚えていた。

 

 窓からは月が覗いている。さっき見上げたときよりも、高い位置にいる。月が動くことは知っていたが、自分で目にするとその現象はずいぶん奇妙に思えた。

「もう少しだ。朝になったら、二人と一緒に新宿へ帰る。そうすれば、オザワが俺のことを覚えるだろう。たった一人の生存者だ。クロダの変わりに、一等警官になれるかもしれない」

 そうすれば、任務は成功に近づいている。悪魔の力があれば、もっと強くなれる。

 

 地下から権力者にこびへつらって生きていかなくてもいい。自分自身で望む場所にいることができるのだ。

 ちょうど、今宵の月のように。

 

 

▷▷

 

 

 いくつもある部屋の中から、目的にかなう部屋は簡単に見つかった。

 窓はなく、しっかりとした壁に覆われている。

「これは、なんて書いてある?」

「取調室」

「いいなぁ、あたしも難しい漢字が読めるようになりたいよ」

 ミクミクとプリンが話しているのが聞こえる。

 

「別の部屋に、寝るのに使えそうな毛布があった。古いけど……何もないよりはマシだと思う」

「じゃあ、この『トリシラベシツ』に運び込んで使おう」

 休む準備は、すぐに整えることができそうだった。拍子抜けするほど、簡単に。

 

「ジャックランタン、二人についてやってくれ。何かあったら俺に知らせてくれ」

「マッシュさんは?」

「さっきのマシンから、何か情報を引き出せないかアクセスしてみる」

 アームターミナルを示してみせる。なにせ、新宿への道のりもおぼろげなのだ。周辺地図のデータが手に入れば、生きのびる確率も高まる。他にも、何かわかるかもしれない。

「うん、分かった……気をつけて」

 ミクミクは手を振り、プリンは指を組み合わせてその背中を見送った。

 

「それじゃ、さっさとやっちゃおう!」

 別の部屋……『仮眠室』から、毛布を運んで『取調室』の床に敷き詰める。冷たい床に寝るよりは、ずっと居心地がいい。

 マッシュがいなくなると、ジャックランタンが何を言っているのか二人には分からなかったが、襲ってこないのなら大した問題ではなかった。

 

「これぐらいでよさそうですね」

「ここは天井があるから、少し落ち着く」

 ミクミクが毛布の上に腰を下ろした。歩き回って突っ張った足をもみほぐす。

 それにならうように、プリンも毛布の上に座った。悪魔がどこから襲ってくるかわからない状況から解放されると、一気に全身から力が抜けるような気がした。

 

「お二人は、新宿地下街から?」

 沈黙が訪れる前に、プリンが聞く。

「そう。マッシュは警察官。あたしはウェイトレス。外って広いんだね。夜だから、遠くまでは見えないけど。頭の上に何にもないから、クラクラしちゃう」

「警察官……ということは、彼はオザワの部下なんですね」

 ミクミクは世間話のつもりだったが、プリンはそうではないらしい。しまった、と思い直して、ミクミクは自分の口に触れた。

 

「もしかしてあたしから情報を聞き出そうとしてる?」

「悪魔と話してるんじゃないんですから、緊張しなくてもいいですよ」

 その反応は、聖女にとって不本意だったらしい。

「ごめん。不安だよね、自分だけ仲間はずれなのって」

「そういう意味では……」

 プリンにしてみれば、メシア教のテンプルナイトが護送してくれるはずだったのだ。それが、実際には初対面の男女が二人で連れていくとなれば、不安にもなる。

 

「あなたたちのことを知っておこうと思ったんです。そうすれば、力を合わせられるかも」

「プリンこそ、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」

 ミクミクは気楽な様子で足を投げ出している。

「マッシュがなんとかしてくれる」

「……ミクミクさんは、彼のことを信頼してるんですね」

「マッシュは特別。あたしを助けてくれたから。特別な男はもう一人いるけど、もうだいぶ会ってない。その人は牢屋に入ってるんだ」

 ふう……と、ミクミクの顔に影が差した。

 

「でも、ほら……大昔の歌でも言うでしょう?」

 少女の気分が沈みそうになったことを察して、プリンは明るい調子で一節を口にした。

「♪男は狼なのよ 気をつけなさい」

「知ってる、その歌! ディスコで流れてた!」

 フレーズを聞いた途端、ミクミクの表情はぱっと明るくなった。ランタンの明かりに、紫の瞳がきらきらと輝く。

「♪年頃になったなら 慎みなさい」

 歌の続きを、ミクミクが口ずさむ。プリンは微笑んで、さらに続けた。

 

「♪羊の顔していても 心の中は」

「♪狼が牙をむく そういうものよ」

 

 いつしか二人の声は重なって、狭い部屋の中で響き合っていた。

 

このひとだけは 大丈夫だなんて

うっかり信じたら

駄目 駄目 あー駄目駄目よ

 

「……ふふふ」

 どちらからともなく、笑い合っていた。少女たちはその年頃らしく、ごく自然に笑っていた。

「マッシュが何かしようとしたら、あたしが守ってあげる」

「二人がかりなら、きっと大丈夫ね」

 こうして、マッシュのあずかり知らぬところで、同盟が結ばれているのだった。




今回登場している原宿警察署は移転前のものです。2008年までは千駄ヶ谷にありました。
本作は1999年に大破壊が起きた設定なので、現在の東京とは建物が違うので当時のことを調べながら書いています。


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1-06_夜空ノムコウ

 アームターミナルのケーブルを引き出す。半円形のボディを四脚で支えるマシンの基板部に接続すると、モニターに情報が出力された。

『T95C/P』

 それが、このマシンの名前らしい。白と青の塗装は剥げかかっていて、素体のにぶい銀色が覗いている。

 

 内部のエネルギーは(EMPTY)だ。システムを起動するには、ターミナルからマグネタイトを供給する必要があった。

 さいわいにも、マシンの制御プログラムはマッシュのよく知った言語と形式で書かれている。だから、侵入するためのプログラムをその場で組み上げることは簡単だった。

 

(テクラはこのマシンとなにか関係があったのか? 東京が滅びる前、警察のためにプログラムを作っていたとか……)

 システムに侵入しながら、ふと考えた。プログラムが、あまりにも見なれたものだったからだ。

 新宿のターミナル・サーバーを保守していたテクラ。自分の親代わりでもあり師でもある男がどんな出自を持っていたのか、マッシュはまるで知らない。

 

(テクラはオザワや長官と古い知り合いだった。でも……新宿を支配している連中は、いったいどこから来たんだ?)

 自分が生まれるよりも前のことだ。東京が在った時代。人間や動物が、たくさんいた世界。

 

(よそう。考えても仕方ない)

 聖女を新宿まで送り届ける任務を終えれば、オザワに近づける。もしオザワが知っているなら、それから聞けばいいことだ。

 老人はみんな、昔話が好きだ。クロダがそうだったように。

 きっと、オザワも話してくれる。希望的観測なのはわかっていたが、希望にすがるしかない。

 

(今は、生きて新宿に帰り着く。その後のことは、その後で考えるんだ)

 プログラムに向き合っている時だけは、雑念を振り払うことができた。

 

 セキュリティの突破には多少の時間が必要だったが、警報システムを切断してエネルギー供給を支配しているのだから、何度でも挑戦することができた。

 再起動を繰り返して何度も侵入(ハック)していくうちに、マッシュはすっかりマシンのシステムを掌握していた。

 

 没頭していた。

 

「このまま新宿につれていくこともできそうだ」

(いや、それは現実的じゃない)

 ひとり言と内面とで葛藤するようにつぶやく。

「内部システムを動かすだけならほんの少しのエネルギーで済む。でも、ハードウェアを動かすとなるとマグネタイトを大量に消費する」

(残念だ。運ぶことさえできれば、新宿の警備に使えそうなのに)

「でも、使えるデータはたくさんある。役に立ちそうだ」

 

 マシンが現役だった時代のデータが大量に内部に残っている。ターミナルの容量には余裕があるから、片っ端からダウンロードしておいた。

 新宿の外の世界の地図。マシンのハードウェア構造。かつての警官が使っていた暗号もあった。

 かつてのネットワークにアクセスするためのパスワードらしきものもあった。いつかどこかで役に立つかもしれない。

 

「それに……これは使えそうだ」

 データ群の奥深くに、デジタル化された魔貨(マッカ)も見つけた。マッシュの月給の数倍にもなりそうな額だ。

(マッカは悪魔達との交渉に使える。新宿まで生きて帰れる可能性がぐっと上がった)

 

 悪魔召喚プログラム。それにマッカ。すでに契約を結んだ仲魔もいる。プリンとミクミク、ふたりを守りながらでも帰れる目算がついた。

 コードの接続を解除しながら、マッシュはここが危険な場所であることをすっかり忘れていたことに気づいた。

 アルファベットと数字と記号が織りなす複雑な世界に心が入り込んでいた。集中していたし、驚くほど気持ちが落ち着いていた。それほど、プログラムとの格闘にのめり込んでいたのだった。

 

(俺は技術者なんだろう、たぶん)

 これが性根に合っている、と思った。

(警官なんてガラじゃない。悪魔に立ち向かうなんて、本当は二度とゴメンだ)

 コンピュータと音楽があれば、満足する人間なんだ、と思った。だが、《大破壊》でどちらも失われてしまった。だから、ほんのわずかな遺産にすがって生きている。

 

「こんなところか……」

 ターミナルが示す時間は、すっかり深夜だ。

 長くかがみ込んでいたせいでこわばった腰を伸ばしながら、ふとマシンを見下ろす。

 建物――警察署――を守るためにしているマシンは、まるで飼い主に言われるがままに給餌を待ち続けている番犬を思わせた。

 

「もう少しだけ、見張っていてくれ。今夜だけでいいから」

 もはや吠えることのない番犬の外装を撫でてから、マッシュは旅の連れ合いの待つ場所へ向かった。

 

 

▷▷

 

 

「時間が掛かったね」

 ジャックランタンの持つ灯りを目印に『取調室』へやってきたマッシュを、ミクミクが出迎えた。暗い場所では、紫色の瞳がますますイタズラっぽく輝くように思えた。警察署の中は驚くほどに静かだった。

「何か見つかりましたか?」

 クッションを抱えて、鉄製の扉からプリンが顔を覗かせた。金と黒、ツートンの髪。この髪が生まれつきなのか、それとも『メシア教の聖女』の神性を見せつけるために染めているのか……聞き出すのは少々気が引ける。彼女自身にとって、本意なのかはわからない。

 

「地図をダウンロードした。これで新宿までの道のりがわかる。それに、マッカもあるから悪魔とも交渉しやすくなる」

「食べものは……ないんですか?」

 プリンの表情が、露骨に落胆の色を増した。

(さっき食べただろう。豆大福を)

 聖女の食い意地には驚かされるが、それだけ飢えになれていないということだろう。マッシュやミクミクにとっては丸一日なにも口に出来ないことなど珍しくはないが、プリンにとってはそうではないのだ。

 

「まあまあ、そんな顔しないでよ、プリン」

 ミクミクが進み出て、大きく胸を張ってみせる。

「こんなおおきな建物だったら、どこかに何かあるんじゃないかと思って調べてたんだよねぇ」

 そして、どうやって隠していたのやら、金属製の缶を取り出した。

「いつの間に」

「鼻がきくってやつかな」

 ミクミクが缶を振ると、カラカラと乾いた音がした。その表面には、文字が書いてある。これはマッシュにも読めた。

 

 カンパン。

 

「乾いたパン、ってことでしょうか」

「あんまりおいしくなさそうだけど……」

「保存食なんだろう。おかげで、今まで残っててくれたわけだ」

 当たり前のようにミクミクが缶を渡してきたので、マッシュはプルトップに指をかけて、その缶の口を開いた。その中には褐色のビスケットのようなものが詰まっていた。水気はない。うっすらと小麦のにおいがした。もうずいぶん嗅いでいないから、嗅覚が鋭敏に嗅ぎ分けた。

 

「あんまり美味しそうじゃないけど……貴重な食料だ。分け合おう」

「マッシュの体が大きいんだから、多めに食べたほうがいいんじゃない?」

「俺は慣れてる。ミクミクは新宿から離れるのなんて初めてだろ」

「マッシュもでしょ」 

「とにかく、食べるんだ」

 

 マッシュは缶を床に置いて、取調室に敷かれた毛布の上に座った。ミクミクとプリンもそれにならってぐるっと缶を取り囲む。

「オイラは……」

「見張りを頼む」

 部屋の中をうかがうように見ていたジャックランタンに告げる。食事は必要ないはずだが、悪魔は恨みがましそうににらみつけてからそっぽを向いた。

 

「うん。結構イケるよ、これ」

 さっそくビスケットを口に運びながら、ミクミクがつぶやく。少しずつかじって食べる様子は、どことなく小動物っぽい。

「たしかに、活力になりそうだ」

 マッシュも一つかじってみた。ガリガリと固い感触。飲み込むために噛んでいるうちに唾液と混ざって、ほのかに甘みがわいてくる。

 

「氷砂糖!」

 ふいに、プリンが声を上げた。ビスケットに埋もれるように、いくつかの白い塊が入っている……その一つをつまみあげて、聖女が「信じられない」というように目を輝かせた。

「ああ、こんなところで甘いものが食べられるなんて。メシアに感謝します」

 胸元で祈る仕草を見せるが早いか、聖女はそれを口の中に放り込んだ。声をかける隙も与えない早業だった。

「甘い……」

 聖女は泣き出しそうなほどに感動しているようだった。

「甘いものが好きなんだな」

 マッシュは、「校庭」での彼女の様子を思い出していた。あまり思い出したくないが、豆大福を見るなり口に詰め込んでいた姿はなかなか忘れられるものではない。

 

「あ、いえ、まあ、そのー……つい」

 指摘されたプリンは、はっとしたように口元を抑えていた。もじもじと周囲に視線を踊らせてから、はぁ、と息をつく。

「五年の間、品川の大聖堂で過ごしました。私だけではなく、たくさんの女の子がいて。彼女たちとともに、メシア教の教えや読み書き、他にもいろいろなことを学びました。それに、訓練も」

「訓練って?」

 口を動かしながらミクミクが聞く。ゆっくり味わっている様子のプリントは違い、ミクミクは氷砂糖をガリガリと噛んでいた。

 

「魔法です。治癒や破魔の術……私には治癒の力があるようで。多くの人を治療してきました」

「けがを治せるのか?」

「天使たちにやり方を教えてもらいました。勉強でも魔法でも、うまくできたときには神父様からご褒美がもらえたんです。バターサンド、スポンジケーキ、たいやき、モンブラン……」

「プリン、よだれが」

 味を思い出していたのだろうか。唇の端から伝う唾液を指摘されて、聖女は恥ずかしそうに口元を抑えた。

 

(甘いものはがんばったご褒美ってわけか)

 さすが、東京を二分する勢力を持つメシア教というところか。新宿では聞いたこともないお菓子の名前をプリンが並べ立てるのは、どこか遠い世界の話を聞かされているような気分だった。

「……とにかく、甘いものを食べられるのは特別なときだけで。それに、みんなが食べられるわけでもなかったから……」

「早く食べないと、他の子に食べられちゃう?」

 ミクミクが冗談めかして問いかけた。同性から見ても、メシア教の聖女の食欲は意外だったのだろう。その原因に興味津々だ。

「そんなこと。分け合えればよかったんですけど、私が食べなかったからと言って他の子に与えられるわけじゃなかったから。食べられない子のぶんまで、味わいなさいと教えられました」

 

(メシア教のエリート教育か)

 マッシュは新宿の警官として、メシア教と付き合いがあった。だから、彼らのやり方をいくらかは知っている。

 アクター神父のように優れた指導者がいるのは、メシア教の優れた教育の賜物だ。品川には『大破壊』の以前から残されている書物や記録媒体(ストレージ)がある。それらに保存された高度な技術を、今もメシア教会は伝えている。それは東京におおきな利益をもたらしていた。一方で、教会はけっしてその知識を外部には開陳しない。少数のエリートによって知識と技術を独占し、大衆を導くのはあくまで自分たちだというスタンスを保ち続けているわけだ。

 

「……私だけが美味しいものを食べることに罪悪感はあります。でも、目の前にするとどうしても我慢できなくて」

「わかる気がする。食べちゃいけないと思うものほど美味しいもんね」

 ミクミクがどれぐらいプリンの内心をおもんぱかっているのかはわからない。

「今は遠慮しなくていい。どうせ、これだけだしな」

 噛むのに時間がかかるビスケットも、話しながら食べているうちにどんどん減っていく。食への貪欲さを隠さなくなったプリンが最後のひとかけをとった。

 

「休みましょう。ここで夜を過ごして、明るくなってから動いたほうが安全です」

 もぐもぐと咀嚼しながら、目元だけはきりりとさせて聖女が言う。

「ほんとうに明るくなるのか?」

「えっ?」

 マッシュの質問は、彼女にとって相当に予想外だったらしい。ぽかんとして顔を見返される。

 

「俺たちは地上に出たのは初めてなんだ。夜になるところは見たけど、夜が終わるのは見てないんだ。だから、どうも……実感がなくて」

「マッシュ、プリンが困ってるでしょ」

「すまない。つまり……夜は終わるんだな?」

 ミクミクの、プリンをかばうような態度に若干の疎外感があった。マッシュは自分がおかしな質問をしていることを恥じた。不安から来る恥じらいだったのだが、極力そぶりには出すまいとしていた。いまはマッシュが彼女たちを守らなければならないのだ。

 

「だいじょうぶ、安心して」

 ところが、不安はプリンに筒抜けだった。白く細い手がマッシュのグローブに添えられると、思わずどきりとする。

「朝が来れば日が上ります。悪魔は夜のほうが活発ですから、私たちは明るいときの方が動きやすくなるはずです」

「……わかった」

 それとなく手を引きながら、マッシュは頷いた。

 

「いつの間に仲良くなったんだ?」

 マッシュの問いかけに、プリンとミクミクは一瞬、顔を見合わせた。それから肩をすくめる。

「ちょっとね」

 このとき、マッシュはいつの間にか二人の少女の間で同盟が交わされ、自分がその外にいることに気づいたのだった。

 

「休もう。明日になれば状況がよくなるはずだ」

「オイラは?」

「見張りを頼む」

 入り口の隙間から顔を覗かせるジャックランタンに、マッシュはあっさりと告げた。悪魔には疲れもないはずだあ。だが、やはり悪魔は苦々しげに目元をゆがませるのだった。

 

 

▷▷

 

 

 眠りに落ちるのはいつも不安だ。

 眠っている間も、起きているときと同じように時間が流れているはずだ。それなのに、その時間を自分はうまく認識できないのだ。

 自分が意識を手放している間、無防備な身体がそこにあるのだと思うとぞっとする。

 新宿地下街には悪魔はいないが、よからぬことを考える人間はいくらでもいる。すみかを持たず、路上で寝泊まりする者が襲われたり、ものを盗まれたりすることはよくある。警官であるマッシュはよく知っている。

 

 ましてや、ここは新宿ではない。

 悪魔がはびこる荒野のただ中だ。人間のにおいを嗅ぎつけた悪魔が警察署の中に入ってきたら、自分が戦って少女たちを守らなければならない。

 マッシュはアームターミナルを身につけたまま横になった。これがなければ、自分が従えている悪魔さえ何を言っているのか理解できないのだ。

 

 眠れないでいると、ミクミクが毛布の上をもぞもぞと這ってきて、手を握ってきた。

「寝て、マッシュ」

 かすれ気味のささやきが引き金になったように、マッシュは眠りに落ちた。

 

 夢は見なかった。

 

 

▷▷

 

 

 鉄格子がはめられた窓から、光が差し込んでいる。

 目覚めて最初に、マッシュは違和感を覚えた。窓から入り込んでくる明かりだけで、部屋中の隅まで明るくなるほどの光量。明かり取りの窓だけで、こんなに明るくなるなんて信じられなかった。

「……これが朝なのか?」

「そう、夜は終わりました」

 部屋の壁一面を閉める鏡に向かって、プリンが髪を櫛でとかしていた。ツートンカラーの髪が、窓から差し込む光にきらめいて見えた。

 

「おはよ、マッシュ。よく眠れた?」

 ミクミクは黒い髪を慣れた手つきでまとめ上げ、いつもの「お団子」にしているところだった。マッシュがいちばん遅くまで眠っていたらしい。

「ああ……たぶん」

 戸惑いながら、ジャケットの緩めていたベルトを締め直した。現実感がないような気がした。

 

 マシンは相変わらずそこにいた。陽光に照らされると、塗装がはげたところだけが光を反射してきらきらと光った。

 外の世界は驚くほどに明るかった。昨夜みたのと同じようながれきの街が立体的に照らされ、光と影のコントラストを作り出していた。不気味な凹凸がそびえ立っているようにしか見えなかった景色が、今ではここで育った文明の偉容をありありと主張している。

「東京は大きいんだな」

 誰にいうでもなく、つぶやいていた。心の隙間から漏れ出したような感想だった。

 

「広いですよ、東京は」

 風が吹いてプリンの髪がさらりと流れる。通風口もないのに風が吹いているのが不思議だった。そして、砂埃を含みながら舞う風が少女の二色の髪を舞いあげることが、何かの奇跡のように思えた。

「いや……大きい。大きいよ」

「マッシュ、しっかりして」

 心を奪われているマッシュを引き戻すように、ミクミクが袖を引いた。

 

「新宿まで帰らなきゃいけないんでしょ。まぶしいからってぼーっとしてちゃだめだよ」

「ああ……そうだな。わかってる」

 深呼吸して、気合いを入れ直す。腹を膨らませて息を吸ったあと、三つ数えて、今度は腹をへこませて息を吐く。気持ちが落ち着くと同時に、新宿に行かなければ、という気持ちを思いだした。

「警察署で地図を手に入れたから、迷わなくてすむ。昔の地図だけど、道の形や向きは今でも使えるはずだ」

 COMPを操作して、モニタに3D描画された東京の地図データを表示した。幅広の押しピンのようなマークが、いまいる場所を表していた。

 

「まっすぐ北に向かう。北は……」

「日が昇るのが東だから、こっちの方角ですね」

 プリンが、手でひさしを作りながら太陽の位置を確かめて別の方向を指さした。

「わかるんだな、そういうことが」

「決まりを知っていれば、導いてくれるものですから」

「出発しよう」

 

 夜の方が悪魔が活発だというのは確かなようだ。

 できるだけおおきな通りを選んで進んでいった。悪魔が影から飛び出してくる危険性が少ないからだ。

 はるか上空には妖鳥たちが飛び回っている。時折獲物を見定めて襲ってくるが、マッシュは召喚した悪魔に命じて撃退した。

 妖鳥を追い払いながら。あるいはひたすらに歩きながら、マッシュは空を見ていた。

 

(ほんとうに青いんだな)

 

 その色はマッシュが見たことがない色合いだった。

 塗りつけて色を増やしているのではない、透明な青。同じ色が一面に広がっているように見えて、目をこらすとその中にも複雑な色の違いがある。光が空気の中で反射して青くなっているのだと聞いた気がした。無数の青色が重なり合って、この空を作っているのだろうか。

 

(外はいいな)

 

 壁がないことの不安はすっかり薄れていた。青い空を見ていると、どこまでも歩いて行ける気持ちになる。

 悪魔たちがうごめく廃墟の東京も、親しみを感じられる気がした。

(新宿に戻ったら、東京に出られるような役職につけてもらおう)

 オザワの運転手だったクロダがいなくなった。生きて帰ってきたのはマッシュだけだし、聖女の身柄を無事に新宿に送り届ければ、オザワはメシア教に対して有利に働きかけることができる。新宿が得る利益を考えれば、マッシュにもそれなりの待遇があるはずだ。新宿の外に出ることができる権限を手に入れたら、今よりももっとできることが増える。

 

「あとどれぐらい?」

 地図を確かめるマッシュに、ミクミクが問いかける。顔を上げると、陸橋が目に入った。

「今のが首都高だ」

 高い位置に作られた道路には見覚えがあった。クロダの運転で下を通ったことを覚えている。首都高は新宿のすぐ近くだ。陸橋の下をくぐると、ビル群の立ち並ぐ新宿の姿が見えた。

 

 大破壊を経ても、新宿はそれほどおおきなダメージを受けていない……らしい。

 いくつもの建築物が、昔の姿のまま残されている。特に、地下街の上層にあたるビルは太陽を受けてキラキラと輝いている。

「ここが新宿? 地上は真っ平らなんだとおもってた」

 地下から出たことのないミクミクが、その光景に目を丸くしている。

 

「オザワの仲間たちだけが地上にいる。ごく一部の特権階級だけが太陽を目にすることができるわけだ」

「……」

 プリンがもの言いたげに口をつぐむ。マッシュは気づいていないふりをして、新宿地上層のひときわ立派なビルを指さした。ガラス窓が欠けることなくそろい、太陽光をピカピカと反射している。

「あのビルにオザワがいるはずだ」

 

(俺の役目はプリンをオザワの元まで連れて行くこと。そうすれば、これで彼女との仲は終わりだ)

 太陽の下で輝かんばかりの白いおもてを盗み見る。砂埃まみれの道を歩いてきたにも関わらず、きめの細かい肌は磨いた大理石のように白く感じられた。

(その後、どうなるかは……まあ、俺の知ったことじゃない)

 彼女がどうなってもかまわない。マッシュにとって大事なのは、その見返りに彼自身が何を手に入れることができるかだけだ。

 

「あそこまで行く。さあ……」

 指さしたビルに向かって歩き出そうとしたとき……

 

 ボンッ!

 

 その指さした先のビルの窓が吹き飛び、空気がビリビリと震えた。

「……なんだ!?」

 ビルの上層階で電光がひらめき、火炎が踊っているのが見えた。新宿の王オザワがいるはずの場所で、戦いが起きている!

「……行くぞ!」

 マッシュは走り出した。何が起きているのか想像もつかなかったが、何かがおきていることはわかった。

 

 取り返しのつかない何かが。

 

 

▷▷

 

 

「止まれ、止まれーっ!」

 新宿地下街の入り口のひとつにたどり着いたとき、警棒を振りかざした警官がマッシュたちを呼び止めた。

「検問だ。お前たち、いったい何だ?」

「マッシュ三等警官だ。オザワ様の特命で、メシア教の聖女、(サン)プリンシパリティをお連れした」

「そうか、ご苦労だったな。通っていいぞ」

 バリケードの通り道を示して、警官が言う。マッシュの制服と、その後ろにいるプリンの常人ならざる雰囲気を見て理解してくれたのだろう。

 

「何も聞いていないのか?」

「何って?」

 きょとんとする警官に、説明すべきか迷った。

(もしオザワが襲われたとしたら大事だ。でも……末端の警官が騒いでパニックにならないようにしてるのかも)

 思考をめぐらせる。新宿の支配者たちが何を考えるか、どういうシステムを敷いているか……いち警官にすぎないマッシュにわかるはずがない。

 

「いや、なんでもない。まずは署長に合わせてくれ」

 警官たちは「おう」と答えた。

 マッシュは不信に思われないように、できるだけ歩く速さを抑えながら地下道を進んでいく。

「署長のところに行くの?」

 緊張したようにミクミクが尋ねる。

「オザワに何かあったとき、最初に連絡を受けるのは署長のはずだ。私設警察たちが知らないってことは、署長が情報を止めてる……だったら、まずは署長に報告するべきだ」

 

 オザワは強力な悪魔を従えていると聞く。誰かに襲撃されたのではなく、その悪魔が暴れ出したのかもしれない。そうだとすれば、オザワは隠したがるだろう。

(たぶん、そうだ)

 オザワの飼っている悪魔が暴走し、暴れ出した。それを隠したまま、なにもなかったかのように処理したがっている……そう考えれば、誰も騒いでいないことに納得がいく。

(そのことを俺たちだけが気づいているなら、むしろチャンスだ。オザワは俺を黙らせるためにマッカを払うかもしれない。運が巡ってきてるかも……)

 

 新宿地下街の中央部、私設警察署にたどり着いた。あたりは静かで、なにも起きていないとことさらに主張しているかのように思えた。

「大丈夫ですか?」

 プリンが心配げに問いかけてくる。マッシュはすっかり落ち着いていた。

 

「平気だ。署長から褒美をもらえるかも知れない」

 マッシュは警察署の入り口に向かって、できるだけ自信満々に、扉を開いた。

 

 最初に目に入ったのは、赤い色だった。なぜなら、目に入るものすべてが赤だったからだ。

 

 部屋は赤く染まっていた。

 

 壁といわず、床といわず、見渡す限りの場所が、そこに生物が()()()()()証で埋め尽くされていた。不規則な血だまりが幾つも並び、怪奇な呪文を刻印しているかのようだった。

 血だけではない。肉片。砕けた骨。臓物。入口のすぐそばでは、()()()()()()()が壁に叩きつけられて頭蓋骨の右半分がつぶれ、ひしゃげた目玉がだらりとこぼれだしていた。

 別の一角には、焼け焦げた死体が無造作に転がっている。焼けただれた肌が不気味に変色し、体のどこかでくすぶった残り火が煙を部屋の中に広げていた。快いとはとても言えない、吐き気を催すにおいが、換気の悪い地下室に漂っている。

 

 死が空間を支配している。

「まだ残ってたか」

 

 その男は異様な姿をしていた。体と半ば一体化した甲冑を纏っている。鎧武者のようだ……だが、202X年に武者なんて、ばかげている。

 男は硫黄結晶のような危うい光をたたえた双眸でマッシュを見据えると、獲物を前にした狼の笑みを浮かべた。

 

「その腕の機械、お前は悪魔使いだな? すこしは歯ごたえがありそうだ」

 顔についた返り血を拭いながら、男が振り向く。濃密な魔力(生体マグネタイト)が、熱となて立ち上っている。

 

「あんたが……やったのか」

 逃げられない、と本能でわかった。背中を向けた瞬間に、のど元に喰らいつかれる確信があった。

「くだらないことを聞くな」

 一等警官を皆殺しにした張本人は、余裕を見せつけるように笑っていた。

 

「何者だ……」

「今度はまともな質問をしたな」

 マッシュには、その口が耳元まで裂けているように見えた。

混沌の主体者(カオスヒーロー)

 地獄の支配者となった悪魔たちと同じ色で、男の瞳がひときわ強く輝いた。

 

「こいつらは力で新宿を支配してきた。ハッ! 悪魔におびえる市民たちを従わせて、さぞかし楽しかっただろうな。だが、この連中よりも俺のほうが強かった。だったら、俺に殺されても文句は言えない。そうだろ?」

「全員が望んでやったわけじゃない。逆らったら何をされるかわからなかった……」

 マッシュの反論が、男の逆鱗に触れた。

 

「逆らう力がないなら同罪だ!」

 男の魔力が掌に集まり、(ゴウ)と炎へ変わった。熱気が部屋の中に一気に広がり、赤い血以上に赤い炎が天井を嘗める。

(俺は死ぬのか)

 恐怖がマッシュの体を駆け巡る。

(弱いからってだけで、死ななきゃいけないのか)

 目を閉じた。恐怖の主体から逃れようとする本能的な反射だった。

 

「祈るなよ。祈るやつは嫌いだ」

 カオスヒーローとやらがそうつぶやくのが聞こえた。

「一瞬で楽にしてやる」

 熱気が再び、部屋の中に広がっていった――



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1-07_WOW WAR TONIGHT~時には起こせよムーヴメント~

 脳裏に駆け巡る記憶。一瞬のうちに、マッシュはこれまでの旅を思い出していた。

 オザワに取り入り、新宿での地位を高めようと思ったこと。

 クロダの運転で、はじめて車に乗ったこと。

 ミクミクが勝手についてきたこと。

 聖プリンシパリティと出会い、彼女を連れて帰ると決めたこと。

 

 走馬灯のように再生(PLAY)された記憶が現代に追いついた。

 目の前には熱気をほとばしらせる男が立っていた。手のひらには赤い炎が宿っている。硫黄結晶のようにギラギラした瞳がマッシュを見ている。抑えきれない怒りと破壊衝動がたぎっていた。

(弱いやつは死ぬしかない)

 それはこの新宿において、不変のルールだった。そして新宿を出て目にした東京でも同じ。いやむしろ、さらに過酷だった。

 

(死にたくない。でも……)

 アームターミナルのデータが、男の力量を示している。体内にため込んだ魔力(生体マグネタイト)の量が、マッシュが従えている悪魔たちとは段違いだ。死力を尽くして戦っても、勝つ見込みはない。

(受け入れるしかない)

 一瞬だ、と男は言った。苦しみながら死ぬよりも、地獄のようなこの世界から去れるのなら、そう悪くないかも知れない――

 

 そうおもったとき。

 

「やめて!」

 開きっぱなしになっていた背後の扉から、小柄な影が飛び出してきた。

 お団子頭にぶかぶかのパーカー姿。ミクミクだ。

「なんだか知らないけど、もう十分でしょ!」

 あろうことか、ミクミクは両腕を広げてカオスヒーローとやらの前に立ちはだかっていた。マッシュよりもちいさな体で、幼なじみをかばっている。

 

「へえ」

 それまで怒りに満ちていたカオスヒーローの表情に、別の色が混じった。興味か、驚きか。それとも……哀れみか。

 鎧武者のような兜の奥で、その瞳が光る。一歩、二歩、とミクミクへの距離を詰めていく。熱気は収まっていた。

 

「な、何よ」

 少女は精一杯に虚勢を張るが……力の差は明らかだ。この男が腕一本振るっただけで、細い体をバラバラにされてしまう。それでも、ミクミクは男に向きあっていた。

 勇気というよりも、意地に近い。飛び出してしまった以上、逃げるわけにはいかなかった。

 カオスヒーローがミクミクの瞳をのぞき込んだ。紫水晶のような輝きを見つめてから、面白がるように目元をゆがめた。

 

「お前は、悪魔との混血(ハーフ)だな」

「っ……!?」

 ミクミクが驚きに身をすくませたのがわかった。

「俺は自分から悪魔になったが、そうか。生まれつきとはな」

「どっ……どうでもいいでしょ」

 ミクミクの声はわずかに震えていた。マッシュはその細い肩に手を置いて、再び自分が前に出た。

 

「そうだ、関係ない。ミクミクは人間として生きているんだ。悪魔じゃない」

「それは考え方次第だろう」

 カオスヒーローは肩をすくめた。

「どっちにしろ、俺の興味は強いか弱いかだけだ」

 その顔からは、先ほどまでみなぎっていた怒りが消え失せている。

 

「弱いやつは殺すんだろう?」

「俺の気が向いたらな。だが、そんな気分じゃなくなった」

 カオスヒーローの言葉は、そのまま気分次第で好きなときに殺せる、と言っているのと同じだった。

「お前たちはここで利権をむさぼっていた連中とは違うようだ。これからもっと強くなるかも知れない」

 血まみれの室内をぐるっと指さしてから、悪魔人間は歩き出した。マッシュたちを迂回して、出口に向かっていく。

 

「次に会ったときに今より強くなってなかったら、そのときは殺してやるよ」

「……待て!」

 余裕の足取りで部屋を出ようとする男に、マッシュは声をかけた。ギラリと、硫黄結晶のごとき輝きがマッシュに向けられる。

 

「オザワに何があったか知ってるのか?」

 オザワが住むビルでの爆発。それと、この男が無関係とは思えなかった。たった今、オザワの腹心を殺したのだから。

「オザワは死んだ」

 マッシュにもなかば答えはわかっていた。この男がどこから来たのかはわからない。だが、何をしに来たのかは、肌でわかっていた。

 新宿に混沌(カオス)をもたらしに来たのだ。 

 

「俺たちが殺した」

「俺たち?」

 ミクミクが問い返すと、カオスヒーローはわずかに、さびしげに笑った。

「仲間がいた」

 その仲間がどうなったのか、聞くことはできなかった。カオスヒーローは背中を向けて、扉をくぐった。

 耳をそばだてていたプリンを一瞥したが、たいした興味は示さなかったようだ。

 

「オザワが死んだ今、この街を守るものはない」

 最後に振り返り、いかにも面白そうに男は笑った。

「悪魔が新宿にやってくるぞ。せいぜい生き延びることだな」

 

 

▷▷

 

 

 新宿地下街、西口――

 

 ふたりの警官が並んで立っている。

 どちらも二十代半ばといったところだろう。つぎはぎされた警官の制服に身を包んでいる。同じ制服がもう手に入らないので、他の警官の「お下がり」を直しながら使っているのだ。

 言うまでもないが、誰かに制服が譲られるのは制服を着る警官がひとりいなくなったときだ。つまり、一人警官が死ぬと、その警官が使っていた制服を着る警官が一人補充される。

 この制服の数が私設警察の人数の上限を決めていた。

 

「ヒマだな」

「いつものことだろ」

 文句がましく、警官たちが話している。もう二時間以上も立ちっぱなしなのだ。

 新宿と外部の監視は、二等警官の役目だ。交代制で、新宿の外から勝手に入ってくるものがいないか見張っているのだ。もちろん、内側から出ていくものも。

 とはいえ、新宿がオザワによって守られていることはよく知られている。鬼神タケミナカタという強力な悪魔がオザワと契約し、新宿全体に一種の結界を張っているのだ。

 だから、ほとんどの悪魔は新宿に近寄りもしない。ときどき近づいてくる悪魔がいても、オザワとタケミナカタの名前を出すだけで震え上がって逃げていく。

 

「さっきから気になってたんだけど……それ、ベレッタか?」

「おっ、そうなんだよ。見ろよ。ピカピカだろ」

 一方の警官が腰に着けていた拳銃を取り出し、掲げてみせる。陽光を受けて、磨かれた表面がぴかぴかと輝いていた。

 新宿の内部を警邏する三等警官とは違い、二等警官には銃の携行が許可されていた。

 といっても、私設警察が銃を用意してくれるわけではない。ほとんどの警官は死んだ警官が使っていたものを引き継ぐか、もしくはなけなしの給料で、どこかから流通してくる銃を手に入れるのだった。

 そのほとんどは、大破壊前の警察が使っていたというニューナンブM60だ。警官が見せつけているのは、それより高値で取引されているベレッタ92である。

 

「偶然、ジャンク屋に流れてきたみたいでな」

「おまえ、そんなにため込んでたのか?」

「ばーか、ローンだよ。おかげでこの先、半年はカツカツだよ」

「それじゃ、俺たちが見張ってるときに金持ちが来たら、そいつで脅してカネをせしめてやろうぜ。通行料つってな」

「お、いいねえ。オザワ様に上納するマッカがちょっとくらい俺たちの懐に入ったってわかりゃしねえよな」

 

「ねえっ」

 警官たちが話しているところに、不意に人影が現れた。いや、人ではない。悪魔だ。

 血の通わない白い肌。長い髪は風に揺られてぼうぼうとたなびき、極度に裾の短い、体型を強調した(ボディコンシャスな)服。

 幽鬼マンイーターである。

 

「うおっ。なんだ?」

「君たち、美味しそうね。お姉さんたちと遊ばない?」

 見れば、マンイーターの後ろにはぞろぞろと同じようなボディコン姿の悪魔が続いている。

「おい、近づくな。新宿は悪魔立ち入り禁止だ」

 もとは人間だったからだろうか。マンイーターは人間の言葉が通じるようだ。

 

「あら、遅れてるのね」

 マンイーターたちは顔を見合わせて笑い合った。

「遅れてる?」

「オザワはもういないのよ」

 最初に声をかけた悪魔が、警官の一人を抱きしめた。有無を言わさず唇を重ねる。

 

「むぐっ!?」

 悪魔のキスにとろけるような愉悦を味わったのもつかの間、警官の体内からみるみる生命力が吸い出されていく。男はジタバタともがくが、女悪魔の筋力がそれを押さえつけていた。

 男の体が空気の抜けた風船のようにしぼんでいく。骨と皮だけになった姿で、地面に崩れ落ちた。

「おいしそう。私が目玉をもらうわ!」

「ずるい! それじゃあ私が心臓よ!」

「ねえ、二つぶら下がってるのを分け合わない?」

 男の体に、悪魔たちが群がっていく。そして鋭い歯を覗かせ、ガツガツと食いついていく。

 

「や、やめろ! お前ら、新宿私設警察に逆らったらどうなるかわかってんのか!?」

 残った警官は銃を抜いた。新品のベレッタが「ぱんっ」と乾いた音を立てて、9mm弾が発射される。

 だが、もとより死体であるマンイーターの腹に弾痕を作っただけだ。人間と違って出血もしない。傷つく内臓もない。

「あら……」

 悪魔の、生気のない暗い瞳が男を見据える。

 

「ひっ……」

 警官には、悪魔と戦った経験などない。当たり前だ。私設警察はオザワに守られている。オザワの権力を使って、市民をいたぶることが彼らの仕事なのだ。

 男はパニックに陥り、無我夢中で引き金を引いた。カチカチという音を聞いてはじめて、弾切れに気づいた。

 だが悪魔は平然とそれを受け止めていた。銃弾で死体は殺せない。

 

「おイタが過ぎると……お仕置きしちゃうわよ♡」

 弾痕だらけの悪魔が鋭い牙をむき出して笑った。

 

 10分以内に応援の警官が駆けつけたが、すでにバリケードは突破され、二等警官の乾いた死体が転がっていた。

 新宿地下街に、悪魔がなだれ込んでいく。

 

 

▷▷

 

 

 新宿地下街東部。メシア教会前――

 

「悪魔が地下街に! どうして!?」

「私設警察は何をしてるんだ!」

 悲鳴と怒号が入り交じって、低い天井に反響している。新宿市民は逃げ惑い、その後を悪魔たちが追い回していた。飢えを満たそうとする幽鬼、面白がってふざける妖精。生け贄として血肉を求める堕天使もいた。

 

「待ちなさい!」

 悪魔たちの前に立ちはだかるものがあった。メシア教のシンボルが描かれた旗を掲げた偉丈夫。メイガスのアクター神父である。

「新宿への立ち入りは禁じられているはず。なぜ地下街で人を襲うのか」

 神父の問いかけに、悪魔たちは笑った。そして、再び人間たちへ襲いかかろうとする。

 

「やはり話は通じないか……。ならば!」

 神父が懐からロザリオを取り出す。メシア教会の聖なる水で清められた十字から、破魔の力が光となって発せられた。

「いやぁ! もっと踊りたいのに!」

 口元を真っ赤な血で染めた幽鬼マンイーターたちが、悲鳴を上げながら崩れていく。

 

「神父さま、いったい何が……」

 悪魔に襲われた市民は血を流している。そのにおいに惹かれて、ますます悪魔たちが集まってくるだろう。

「今のうちに教会の中へ。手当を受けてください。ここはメシア教会が守ります」

 修道士(ネオファイト)たちが市民を教会の中へ誘導している。アクター神父は傷ついた男を抱き起こし、彼らにその身を預けた。

 

「神父様、悪魔がどんどん増えていきます」

「ここを突破されるわけにはいかない。全力で守りなさい!」

 力を失ったロザリオの代わりに、聖水を振りまく。悪魔を払いのける役には立つが、高位の堕天使には通じない。

「血に飢えた悪魔どもよ、この先に進めると思うな!」

 神父の掲げた旗から、衝撃(ザンマ)が噴き出す。フリスビーのように吹っ飛ばされた堕天使が分厚い壁に激突し、マグネタイトとなって崩れ落ちた。

 

 神父を筆頭に、メシア教徒たちは教会に市民をかくまい、よく戦っていた。だが、なだれ込んでくる悪魔の数にはキリがない。一方で、教会が持つ聖水やロザリオには限りがある。

(オザワに何かあったのか……)

 街を守っているはずの力が失われたとしか考えられない。突然の襲撃に、教会は準備ができていなかった。

 どれだけ戦えばいいのか、思いをめぐらせたとき……

 

「神父様、後ろ!」

「なにっ……!」

 反射的に身をかがめた瞬間、背中に熱い痛みが走った。斬りつけてきたのは、アクター神父が小柄に見えるほどのおおきな悪魔……古代の鎧に身を包んだ妖鬼モムノフだ。

「なぜ後ろから……!」

 東口から突入してくる悪魔たちと戦っていたはずだ。その背後を突かれたということは、西口からやってきたのか……いや、それはさすがに早すぎる。

 

「まさか、新宿の中からも……?」

 いぶかるうちに、妖鬼が剣を振り上げた。悪魔の言葉でなにかを叫んでいる。

「まずい!」

 考えているうちに反応が遅れた。飛びすさろうとするが、痛みで引きつる体が言うことを聞かない。

 アクター神父の血をまとわりつかせた剣が振り下ろされようとしたとき……

 

《ジオンガだぜーっ》

 電撃がほとばしった。大柄なモムノフの背中に直撃し、しびれた悪魔の背筋をがつ、と硬いもので叩く音がした。

 マグネタイトとなって崩れ落ちる悪魔の背後に、見慣れた制服姿があった。

「アクター神父!」

「マッシュくん」

 若き警官がアームターミナルを操作すると、彼が従える悪魔たちが威嚇の声を上げた。地霊ブッカブーと妖鬼ボーグルだ。この悪魔を使って、モムノフを撃退したらしい。

 

「君が助けてくれなければやられていた。ありがとう」

「助け合わないとまずい状況です。アクター神父に会わせたい人がいて」

 マッシュに遅れて、ふたりの少女がやってきた。一方は見覚えがある。ディスコのウェイトレスであるミクミクだ。もう一方は……

「あなたは、まさか……!」

 金と黒、ツートンの髪を持った少女はマッシュの横を駆け抜け、アクター神父の背に触れた。

 

「すぐに癒やします」

 少女の手からあたたかい光があふれた。見る間に、モムノフに斬りつけられた背中の傷が塞がっていく。

「この癒やしの力。(サン)プリンシパリティ様とお見受けしました」

「はい。アクター神父、ようやくお会いできました」

 少女が微笑むと、その周囲まで清らかになったように思えた。危機的な状況に、まさに光明が差し込んできたようだった。

 

「教会のネオファイトたちを迎えに送ったはずですが……」

「彼らは……合流地点で悪魔に襲われ、そのまま」

「そうでしたか」

 聖女護衛のために送り出した修道士たちひとりひとりの顔を思い浮かべて、アクター神父は略式の祈りをささげた。

 

「代わりに、俺が彼女をここまで」

「感謝します。教会のために素晴らしいことをしてくれました。これが片付いたら、君をテンプルナイトに推薦しますよ」

「い、いや……」

 なぜかマッシュは気まずそうだった。地下街の警邏担当のはずのマッシュがなぜ外にいたのか……ということを神父は察さないでもなかったが、それを議論している場合ではない。

 

「それより、伝えることがあります」

 マッシュは悪魔に命じて戦わせながら、アクター神父にささやくように声を低めた。

「オザワが死にました」

「やはり……そうでしたか」

 意外なことではなかった。悪魔たちが新宿に侵入してきた理由を考えれば、当然の帰結とさえいえる。

 

「オザワがいなくなったから悪魔たちが新宿に入ってくるのはわかるけど。どうしてこんなにいっぺんに襲いかかってくるの!」

 ミクミクはなかば怒りで我を失っているようだった。この地下街で育った子だ。故郷を荒らされて怒るのは当然だろう。

「長らく禁止されていたことが解禁になったのです。お祭り騒ぎみたいなものでしょう」

 旗を掲げ続ける。地下は見通しがきかないが、それでもこの旗を目印に人々が集まってくるはずだ。

 

「お祭りって。人を殺すのが?」

「悪魔にとってはな」

 マッシュの口調は冷めたものだった。悪魔召喚士として、短い時間で悪魔のことを理解しはじめているのだろう。

「だとしたら……この状況は長くても一晩でしょう」

 神父の内心には確信があった。

 

「悪魔たちは一種の狂乱状態に陥っています。満月の夜には、似たようなことが起きます。ですが、今は勢いに任せて盛り上がっているだけ。流行、ノリ、バイブス……に身を任せている状態です」

「そのうちに収まるはず……ということですか?」

 聖女の問いかけに、アクター神父は大きく頷いた。

「新宿を攻めるのがたやすいことではないとわかれば、秩序が回復するはずです。それまで、東口は必ず私たち、メシア教会が守ります」

「でも、新宿にはもうひとつ入り口が」

 プリンが不安げに後ろを振り返った。新宿地下街のもう一つの入り口……西口のほうを。東口が突破された以上、そっちは警察隊が持ちこたえてくれていると期待するのは難しいだろう。

 

「問題ないでしょう」

 アクター神父は冷静に答えた。

「ガイア教団が守るはずです」

「ガイア教を信用するのですか?」

 聖女の表情には驚きとためらいがあった。異教徒への不信を教育されてきたのだ。当然の反応だろう。

 

「この街で私たちとガイア教団は同居してきました。直に対面し、幾度も言葉を交わして、彼らのことを少しは知っているつもりです。法と秩序に背を向け、力と混沌を奉ずる者たち……」

「彼らの自分たちが助けるためにこの街を捨てて逃げるかもしれません」

「そんなことない」

 プリンをさえぎるように、ミクミクが強い調子で答えた。

 

「ガイア教団は自由のために戦ってる。自由って、自分の決めた通りに生きるってことでしょ。教団はこの街で生きてくって決めたんだ。なのに、この街で一緒に生きてる仲間を見捨てるわけがない」

 神父はミクミクの言葉に耳を傾けていた。5年前、行く当てのなくなった彼女をメシア教会は受け入れることができなかった。ミクミクに悪魔の血が流れていたからだ。ほんとうは彼女を柔らかい毛布で受け止め、聖水を額に垂らしてあげたかった。だがそうすれば、彼女を苦しませてしまう。

 みなしごだった彼女を引き取り、育てたのはガイア教団だ。メシア教の外に、それを補う勢力があることに神父は奇妙な安心を覚えていた。

 

 メシア教に救われぬものにはガイア教があり、ガイア教に馴染めないものにはメシア教がある。

 東京の覇権を巡って争う二つの勢力だったが、この新宿でだけは、そうした奇妙な共存関係が成立していた。

 

「でも……」

「聖女様、ここでは私の指示に従ってください」

 まだ納得しきれていないプリンの前で指を立て、アクター神父は告げた。

「東口はメシア教が、西口はガイア教が守ります。そう信じるしかありません。教会だけでは、両方を守り切ることはできません」

「……わかりました」

 渋々ながら、プリンは神父の言葉を受け入れた。

 

「とにかく、一晩耐えればいい。この悪魔たちは誰かが指揮してるわけじゃないんだ。追い返してやればいいだけさ」

 マッシュはターミナルが表示するデータを確かめながらつぶやく。

 悪魔たちの行動はバラバラだ。作戦や戦略のようなものは見られない。それだけに予測がつきにくいが、互いをかばい合って戦うメシア教徒たちのほうが、いくらか優勢だろう。

 

「新宿を、人々を守るのです!」

 アクター神父が信徒を鼓舞する。神父が立って戦っているうちは、彼らの士気もくじけない。

「けがをした方は、私が癒やします。皆さん、命を大事にしてください」

 メシア教の聖女がともにいるとなればなおさらだ。

 東口の悪魔たちは今や押し返され、地下街への侵入を拒まれている。

 

(この調子なら問題ない。だが……)

 神父の内心には、いまだ払拭されない疑問が渦巻いていた。

(あの妖鬼は新宿の内側から現れた。一体誰が?)

 

 

▷▷

 

 

「なるほど、おもったよりやるな」

 その声は、通路中央から聞こえた。

 マッシュにとっては、よく知った声だった。

 

「DJ……」

 剃り上げられたスキンヘッド。痩せ細った身体を支えるために杖をついている。

 マッシュの兄弟子にして新宿地下街の主任技術者。地下サーバーの管理者であるDJだ。

 

「DJ、外に出られたの!?」

 ミクミクの表情がぱっと明るくなった。戦いのさなかであっても、五年ぶりに幼なじみと出会えたのだ。喜びもひとしおだろう。

 駆け寄ってくる少女に、DJはこけた頬にしわを刻むように笑いかけた。

 

「オザワや署長がいなくなったから、もう俺を拘束する命令は無効だ。無罪放免だよ」

「でも……どうやって拘束を外したんだ? 誰かが助けてくれたのか?」

 鎖に繋がれていたDJが、自力で脱出することなど不可能に思える。ましてや、長年の拘束により、彼の足は杖がなければ歩くことも困難なほどなのだ。

 

「実は、な。外そうと思えばいつでも外すことができた」

「そ……そうなの?」

「俺にはテクラが残したあのサーバーがあった。わかるだろ、マッシュ。あの中には悪魔召喚プログラムも搭載されている」

 低くかすれた声。杖でコンコンと床を叩き、地下サーバーを示す。

 

「悪魔を呼び出して、鎖を外させたのか」

「そう。署長に監視されている間はできなかった……呼びだした瞬間に撃たれていただろうからな」

 ふらつくDJを、マッシュが支える。やはり足の力は戻っていないようだ。

「マッシュ、お前もわかるだろ。悪魔の力は偉大だ」

「……知ってたのか」

「サーバーに誰かが接続したら、プログラムをコピーするように設定しておいた。俺以外でアクセスするのはお前だけだからな。助けになりたかった」

「助け?」

 

 DJはマッシュの肩を支えに、疲労感を抑えるように大きく息を吐いた。

「ほんとうなら、もっとゆっくりやるつもりだった……。お前に悪魔召喚プログラムを渡し、強くなってくれるまで待つつもりだった。でも、まさかふらっと現れたよそ者がオザワを殺してしまうなんてな」

「誰がオザワをやったのか、知ってるのか?」

「ああ。新宿の監視カメラは俺の支配下にある。でも、誰がやったかは問題じゃない。問題なのは……」

 DJがさらりと腕をなでる。そこには、小型化されたCOMP(アームターミナル)がある。無線通信で、もっと大きな本体に入力をおこなうためのものだろう。

 

「問題なのは、誰がオザワに成り代わるかだ」

「オザワみたいになるつもりなの?」

 驚いたように、ミクミクが聞き返した。

「オザワは悪魔との契約で街を守っていた。俺も同じようにする。この新宿には、ターミナルシステムのサーバーがあるんだ。その中身を知っているのは俺たちだけだ。あれを使えばどんな悪魔でも使役することができる。だったら、マッシュ……俺とお前で、新宿を支配すべきだ。そうは思わないか?」

 

 マッシュはじっとDJの顔を見た。痩せた男の眼光には、欲望と怒りが渦巻いていた。今まで閉じ込められてきたこと。その復讐の相手が突然いなくなってしまったこと。そのフラストレーションを、支配欲に変えようとしているに違いない。

 兄弟同然に育ってきた相手だ。彼のことはよく知っている。そして、DJもマッシュのことをよく知っている……つもりだろう。

 なのに、彼と同じものを欲しいとは、マッシュは思えなかった。

 

(DJも、新宿から出たことがない……)

 たった一晩の経験の違いだ。

(新宿にずっといるより、もっと広い世界を見てみたい)

 マッシュは知ってしまった。空の青さを。星の瞬きを。文明のかけらが東京のあちこちに眠っていることを。

 マッシュの心は、いまや新宿への執着を失っていた。いちど巣を旅立った小鳥が、もう二度と親鳥の巣には戻ってこないのに似ていた。

 

「オザワがいなくなって、みんなが混乱してる。俺も……みんなを守れるのはDJしかいないと思う」

「たしかに! オザワの手下も、警察官も役立たずばっかりだし。あっ、もちろんマッシュは別だけど」

 ミクミクは軟禁されていたDJが自由になったことを誰よりも喜んでいるようだ。

「ねえDJ、悪魔と交渉できるんでしょ。あいつらに帰るように言ってあげて」

「だめだ」

 かすれた声で、DJが答えた。

 

「もっと苦しませる必要がある。悪魔の脅威を、身にしみて理解させないと」

「なに言ってるの、このままじゃ、誰か死んじゃうよ!」

「もう何人も死んでるよ。でも、必要なことなんだ。誰かがいなくなって、残ったものが強くなる……」

 DJの節くれ立った手が、ミクミクの頬に添えられる。妹に言い聞かせる口調だ。

「わかるだろう、ミクミク。俺たちと同じだ」

「っ……やめて、そんな言い方!」

 

 ぞっとしたものを感じて、ミクミクは思わずその手を払いのけた。DJは数歩たたらをふみ、杖をついて体勢を整える。

「テクラがいなくなって、俺たちの絆は強まったんだ。俺がお前たちを守っていた……この街も同じだ。オザワがいなくなって、たくさんの血が流れる。そこに俺たちが現れて、みんなを守ってやるんだ。じゃないと、絆が生まれない」

「やめてくれ、DJ。そんなことをしなくても、受け入れてもらえる」

「マッシュ、お前は子供だからまだわからないだけだ。メシア教会やガイア教団は必ず増長する。最初に誰がいちばん強いかをわからせてやる必要があるんだ。オザワはそうしてた。だからうまくいってたんだ」

「うまくいかなかった。けっきょく、どこかからもっと強いやつが現れて奪っていくだけだ」

「俺は誰よりプログラムを理解している。俺はもっとうまくやれる!」

 DJがCOMPを叩くように操作した。マグネタイトの赤い光が、大きな悪魔の形を作っていく。

 

「急なことで混乱してるのはわかるよ、マッシュ。でも、俺は今までずっと準備してきたんだ。必ず俺の言うとおりになる。お前たちにも、誰が群れのアルファ(リーダー)なのかを教えてやる」

 DJの隣に、硫黄のにおいをまとった獣が現れた。白い毛並み。燃えさかるような赤い瞳。鋭い爪が、タイルにあっさりと食い込んで深い傷をつけた。

 

「魔獣ケルベロス」

 DJが悪魔の首筋を叩いた。目に宿る怒りは憎悪となって、マッシュを見据えていた。

「殺すなよ。足を食いちぎってやれ」



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1-08_揺れる想い

「だめだ、DJ!」

 兄同然の幼なじみが悪魔を呼びだした時、マッシュの脳裏に浮かんだのは、まず何よりも、止めなければ、という思いだった。

(悪魔召喚プログラムには召喚者を守る機能がない。自分より強い悪魔を呼びだしたら、殺される!)

 DJが召喚した悪魔はすでにマグネタイトから実体を持ち始めている。ひときわ大きな体躯と、発せられる熱量からして、新宿でいま暴れている悪魔たちなど比較にもならないような強大な悪魔に違いない。

 対して、DJは杖がなければ歩けないような状態だ。技術者としての腕はマッシュ以上だろうが、プログラミングの腕前を悪魔が頓着してくれるわけではない。

 

「このために準備をしてきたんだ」

 DJは頭蓋骨の形が浮かぶような顔に笑みを浮かべてみせた。プログラムの実行はキャンセルされない。陽炎を身にまとった魔犬ケルベロスが姿を表した。

《ダレダ オレサマヲ ヨビダシタノハ……》

 イヤホンを通じて、悪魔の叫びが伝わってくる。魔獣は赤い瞳で周囲をぐるりと見回した。新宿東口を巡って争っていた悪魔たちやメシア教徒も、その圧倒的な存在感を目にして動きを止めている。

 

《キサマカ!》

「そうだ」

 DJは堂々と答えた。あたまから丸呑みにされそうな獣の偉容を前にしても、たじろぐ様子さえない。

《オレサマ ヨワイヤツニハ シタガワナイ!》

 ケルベロスがあぎとを開く。真っ赤な熱気がその中からあふれ、逆巻く炎となってこぼれだしていく……

 

「やめろ!」

 マッシュは兄弟子を守るため、警棒を抜いて魔獣に殴りかかった。だが、腹部を守る獣毛は鋼のように硬く、まともな手応えさえ感じられない。

 (カッ)と炎がひらめいた。DJの全身が赤い炎に包まれる。冥界の炎は、痩せぎすの男の体など、一瞬で灰に変えてしまうだろう……

 と、思ったその直後。

 

「無駄だ、ケルベロス」

 炎がはれると、その中から平然とした顔のDJが現れた。

「俺が契約主だ。俺に傷はつけられない」

「えっ……ど、どうなってるの?」

 マッシュの後ろに隠れていたミクミクが目を白黒させる。

 

(悪魔召喚プログラムは、契約の儀式をコンピュータ上で実行する。でも、そのために儀式の一部を省略している……たとえば、昔は召喚者の身を守る魔方陣を書くとかして、悪魔に襲われないようにしていたらしいけど。プログラムだけじゃそんなことはできないから、自分より強い悪魔を召喚しないのが原則だ)

《グル……》

 ケルベロスも、炎の中からけろりとした顔で現れた人間に戸惑っているようだ。

「DJは魔方陣を書いたのか? 悪魔に襲われないように」

「そうだ。さすがマッシュ、よくわかってるな」

 なぞなぞの答えを明かすような表情で、DJは大きく頷いた。

 

「新宿の地下には俺が管理しているサーバーがある。そして、ケーブル網が新宿中に張りめぐらされている。長年の保守作業をしながらケーブルにプログラムを走らせ、古めかしい魔方陣を再現した。その効力は、新宿地下街全体に及んでいる」

 DJが自分の腕に取り付けた小型ターミナルを示した。五芒星がチカチカと点滅しながら浮かんでいる。

「つまり……どういうこと?」

 ミクミクが大きく首をかしげている。彼女は、テクラの庇護下にはいたが、プログラムも魔術儀式も学んでいないのだ。

 

「新宿にいる限り、DJは悪魔によって傷つけられることがない」

「だから強い悪魔をいくらでも呼び出せる。そして、みんな俺の言うことを聞くしかないわけだ」

 冷徹に、DJの目がマッシュを射すくめた。

(そういうことか……)

 兄弟子であり、幼なじみであるこの男が考えていることを、マッシュはようやく理解した。

 

 DJはサーバーの管理権を持っている。そして、ターミナル以上のスーパーコンピュータのパワーを使って、自由に悪魔を呼びだすことができる。そのうえ、自分だけは安全なようにプログラムを作り替えることにも成功した。

 だが、脅威がひとつある。マッシュだ。

 マッシュはDJと同じように、サーバーの管理権を与えられている。そして、プログラムにアクセスし、内容を書き換えることもできる。

 つまり、DJにとっては、今やメシア教会やガイア教団以上に、マッシュの存在が脅威なのだ。

 

「俺を殺すつもりなのか?」

「俺たちは兄弟みたいなものだろ。殺すなんてことはできないよ。でも、清算する必要がある」

「清算……?」

「俺が牢に繋がれ、お前が自由を謳歌していた五年のぶん。対等な関係に戻るために、今度はお前に不自由を味わわせないと」

 DJの瞳に宿る色は憎悪だった。鎖に繋がれ、孤独にさいなまれている間、その怒りは牢に繋いだオザワや署長ではなく、同じ立場でありながら牢の外にいたマッシュに向けられていたのか。

 

「やれ、ケルベロス!」

《アオーン!》

 悪魔が身を躍らせる。攻撃が通用しないDJを、召喚者として認めてしまったらしい。

「っ……」

 巨体が猛烈な勢いで突進してくる。判断は一瞬でおこなわなければならなかった。

 警棒で防御。無理だ。魔獣の爪は合金の警棒などやすやすとへし折ってしまうだろう。悪魔を使って突進を受け止める……これも無理だ。ジャックランタンもボーグルも、ケルベロスの強さにとてもかなわない。

 

 床に転がって攻撃をかわす……これしかないように思われる。だが、マッシュの背後には、未だに状況が飲み込みきれず、混乱した様子のミクミクがいた。

 マッシュが身をかわせば、悪魔の突撃は少女が代わりに受け止めることになる。それだけはできない。

(DJは、俺を殺すつもりはないらしい……)

 加速する思考のなかで、そんな打算があたまをかすめた。

(いいさ、手足がなくなるくらい。ミクミクがいなくなるよりましだ)

 両腕で頭をかばう。魔獣の爪が骨まで引き裂くだろう。それでいいと思えた。いま新宿でもっとも強いものがあ、これからどうなるのかを決めればいい。今までとそう大きくは変わらない。また、弱者なりの役割が与えられるはずだ……

 

 覚悟を決めて目を閉じた。だが、不意に横からの衝撃でマッシュは床に突き飛ばされた。

「ぐっ……!」

 白い装束が見えた。それが、どっと赤く染まっていく。

「……アクター神父!」

 マッシュの眼前に、メシア教のメイガスが立ちはだかっていた。神父はマッシュを突き飛ばし、代わりにケルベロスの突進を受け止め、その牙によって左肩の肉を食いちぎられていた。

 

「悪魔よ去れ!」

 神父が最後のロザリオを掲げた。白い光はケルベロスを消し去りはしなかったが、たじろがせることはできた。

《マズイ!》

 神父の肩からえぐり取った血と肉を吐き出し、ケルベロスは新宿地下街の入り組んだ廊下を駆けだしていった。

「ちっ、まだ命令に従わないか……」

 逃げ出した悪魔へ毒づき、DJはその後を追う。

 

「アクター神父!」

 マッシュは神父に駆け寄る。まだ息があることを確かめ、

「誰か来てくれ! 神父様をプリンシパリティのところへ!」

 教会の裏手で起きていた戦いを察して、ネオファイトたちが集まってくる。メシア教会に運べば、まだ命は助かるかも知れない。

 

「あ……っ……」

 ミクミクは立ち尽くしていた。マッシュが教会へ向かう。DJの背中が見えなくなりそうだ。

 長い逡巡があった。五年をともに過ごしたマッシュと、五年会うことができなかったDJ。悪魔に対し、マッシュと自分を襲うように命じたDJは恐ろしかった。

(でも……)

 彼の心中で何が起きたのか、少女にははかり知れない。五年という時間は、あまりにも長すぎた。

(でも、DJは独りなんだ)

 どんなに寂しく、怖く、悲しかっただろう。ほんのわずかの同情が、ミクミクの心の天秤をDJへと傾かせた。

 

「わかってる」

 マッシュは短く答えた。DJのほうが強いのだから。ミクミクにとっては、彼といるほうが安全だ。だったら、それを止めることなどできるわけがない。

「DJに悪魔を止められないか、言ってみる」

 そして、ミクミクは駆けだした。

 

 マッシュはその背中を一度だけ見つめてから、担架を運んでくるネオファイトたちを守るよう、仲魔に命じる。

「神父様を教会の中へ。東口の門じゃなくて、教会を拠点にして戦うんだ!」

 悪魔との戦線がわずかに下がることになる。被害は拡大するだろう。

(ミクミクがDJを説得してくれることを祈るしかない)

 

 

▷▷

 

 

「神父様!」

 装束を血で染めたアクター神父が担ぎ込まれてきたのを見て、プリンが悲鳴を上げた。

 すでに、メシア教会の中にはけが人が運び込まれている。聖女はその負傷が深刻な順に治癒の力で癒やしていた。

 悪魔との戦いで傷ついたネオファイトたちや、突然の襲撃で傷を負った市民にとって、メシア教の聖女の力はまさに奇跡だった。手をかざすだけで傷が癒やされていくのだ。

 普段は排他的な新宿の住民も、この状況にあってはプリンを受け入れ、どころか崇めはじめていた。

 

「いったい、何が?」

 青ざめた表情で神父のけがを確かめるプリンに、マッシュは目を伏せながら答えた。

「悪魔を呼びだして、戦わせているやつがいる。そいつが呼びだした悪魔から、俺をかばって……」

「その悪魔は……」

「まだ新宿にいる」

 聖女は愕然としたあとに、すぐに表情を引き締めた。アクター神父がこの状態では、自分がしっかりしなければ。

 

「治せるか?」

「やってみる」

 プリンは額の汗を拭い、両手をあわせた。アクター神父のえぐれた肩に手をかざし、祈祷をつぶやく。

「主は常にあなたを導き、焼け付く地であなたの渇きを癒やし、骨に力を与えてくださる。あなたは潤されたその、水の涸れない泉となる」

 マッシュにはその祈念の意味はわからなかったが、プリンの手から強い光があふれ出し、見る間に出血が止まっていく。その力は、彼女自身の体内からあふれ出しているように思えた。

 

(祈ることで魔力や集中力が高まるのか。俺がプログラムを打っているときに我を忘れるのと同じだ)

 マッシュはメシア教の洗礼も受けていないし、ミクミクのようなガイア教の修行もしていない。だが、プリンのこの(わざ)を見れば、信仰心がもたらす力を認めないわけにはいかなかった。

「……くっ」

 魔力を限界まで使ったのだろう。プリンの体が大きく傾いた。

 マッシュはとっさにその体を支えた。発熱しているかのようだ。二色の髪が汗でうなじに張り付いていた。

 

「なんということだ……」

 アクター神父が、低くうなるようにつぶやいた。傷が癒やされて、意識を取り戻したようだ。

「神父様、しっかりしてください」

「あの……悪魔が、新宿を……」

 のぞき込むプリンが見えていないかのように、神父の目は虚空をにらみつけていた。

 

「教会を……守らなければ」

「神父様」

 戦いが続いている。ネオファイトたちは教会の入り口にバリケードを急造して悪魔を食い止めている。だが、東口を守ることはできなくなった。新宿の外からなだれ込んでくる幽鬼や死霊が、徐々に地下街に広がっていく。

 私設警察はカオスヒーローによって壊滅状態。中心部にはケルベロスがうろついている。

 

「聖女様」

 震える手がプリンの細い手を握る。血の気が失われた手のひらは冷たい。

「もはや私は助かりません」

「そんなことは……っ!」

 プリンが悲鳴じみた声を上げる。だが、マッシュにはわかっていた。出血が多すぎる。それでも、普段の状況なら……メシア教の施設で時間をかけて治療することもできただろう。だが、今の状況ではとても無理だ。

 

「秘儀を……使う……」

 アクター神父の目配せを感じ取り、ニオファイトが周囲を取り囲んだ。それぞれの手に祭具らしきものを持っている。

「駄目です、そんなことをしては、神父様の命が……!」

 プリンがすがりつくようにアクター神父の手を握る。だが、返事の代わりに神父は聖句を唱え始めた。

 神父の詠唱を、ニオファイトたちが繰り返す。異様な雰囲気がメシア教会を包んだ。

 

「プリン」

 マッシュはそっと聖女の肩に触れた。神父の唱える聖句の意味はわからなかったが、彼らの儀式の目的は召喚士として察せられた。

「止めるべきじゃない」

「でも……命を引き換えにする儀式なんて」

 すがりつくように、聖女が握る拳がマッシュの胸に添えられる。震えていた。

 

「自分の命の使い方は、アクター神父が決めることだ」

 (サン)プリンシパリティは声もなく泣き崩れた。止められないことはわかっていた。止めたところで、神父は助からない。

「父と……子と……聖霊の……御名に……おいて」

 弱々しく、聖句の最後を唱える。それが神父の最後の言葉になった。ニオファイトたちが唱和した直後、その肉体が白い光に包まれる。

 

 命の光。メイガスの体がマグネタイトに変換されていく。その手順は方法の違いがあるとはいえ、悪魔召喚プログラムが実行するのと同じことだった。

 異界への扉が開かれる。メシア教徒たちの助けを求める声に応じて、光に包まれた天使が姿を表した。

《私は、天使アークエンジェル》

 剣を携えた天使は輝く瞳で周囲を見回した。メシア教徒の中に混じった悪魔使いに一度目を留めたが、すぐに興味を失ったようだ。

 

《この教会を守護しよう》

 言うが早いか、光芒を残して教会の出口へと飛び出していった。輝く銀の剣を振るうと、教会へと押し寄せようとする悪魔たちを次々に切り伏せていく。

「おお……なんと神々しい!」

「天使様が私たちを助けてくれるぞ!」

 教会へ逃げ込んだ市民が、めちゃくちゃな形に手を組んで祈りを捧げる。困ったときの神頼み、というやつか。

 

 新宿に押し寄せる悪魔たちのなかで、数が多いのは幽鬼や死霊たちだ。『大破壊』からさまよい続けてきたのだろうか。その悪魔たちに大して、天使の力は覿面に効果があるようだ。輝く光を浴びると、破魔の力で悪魔の体が崩れていく。

(ここは天使に任せるべきだ)

 その戦いに巻き込まれて、仲魔が倒されてしまってはたまらない。マッシュはCOMPを操作し、悪魔たちを送還した。

 

「これでもう安心だ。ありがとうございます、天使様!」

 市民は跪いて天使を崇めている。だが……

(この場所は、しばらくは安全だろう。でも……さっきの魔獣が現れたら、あの天使では勝てない)

 悪魔召喚プログラムの解析(アナライズ)は正直だ。アクター神父が命と引き換えに呼びだした天使よりも魔獣ケルベロスは強い。

 

「DJはあの魔獣をコントロールしきれていない。でも、これだけ派手に戦っていれば、気を引いてしまうかも知れない……」

 行動するなら、早くしなければ。すでにケルベロスが血に飢えて市民を襲っているかもしれないのだ。

「プリン、みんなを励ましてやってくれ。俺はDJを止めないと」

 アクター神父なき今、聖女と天使がニオファイトたちの支柱だ。ここにプリンがいることが、彼らの精神に闘志という炎を燃やすエネルギーになっているのだ。

 

「でも、どうするのですか?」

 プリンは白い頬をおさえている。アクター神父の死によるショックに加え、魔力の消耗が激しい。いずれにしろ、休ませる必要がある。

「ガイア教団の力を借りる。それしかない」

 

 

▷▷

 

 

「待って、DJ!」

 ミクミクの声は地下街の長い通路に何度も反響した。東西の入り口では大混乱が起きているというのに、中央部は奇妙なほど静かだった。

 住民のほとんどは狭い部屋に閉じこもって息を殺しているか、メシア教やガイア教を頼って逃げ込んだのだろう。ほとんど人気(ひとけ)が感じられない。

「ミクミク……」

 DJは壁に手をつき、肩で息をしていた。歩くことに体が慣れていないのだ。

 

「無理しないで。ずっと閉じ込められてたのに」

 少女が手を取る。DJは壁に背中を預けて立ち止まった。

「くそ、この程度で……」

 五年ぶりの再開だった。やつれてはいるが、面影がある。静かな地下道で二人になると、妙に懐かしい気持ちがあふれてきた。

 

「ねえ、こんなことやめようよ。悪魔はDJに手を出せないんでしょう? だったら、こんなことしなくても新宿のリーダーになれるよ」

「駄目だ。新宿にいる限り悪魔は俺を殺せないが、人間は手出しできる……」

 男の目は油断なく通路を見回している。他の人間を恐れているのだ。

「だったら、助けを借りればいいでしょ? 他の人と協力して街を守れば……」

「そんなことはできない」

 DJの口調には、はっきりとした確信があった。

 

「人間は心変わりする。一時は正しいことをしようと思っても、仲良くしようと思っても、状況が変われば正義を信じられなくなる。仲間もだ」

「でも……」

「知ってるはずだろ、ミクミク」

 低いささやき。かつては少年だった青年の言葉は、背筋を冷やすような響きがあった。

 

「テクラのことを忘れたわけじゃないだろ。あいつは俺たちを育ててくれた。いい人だと思ってたよ」

「そう……だったと思う。でも、あのとき……あたし、たぶん、チカラが……」

 少女の声が震える。紫の瞳に涙がにじみ、かっと目元が熱くなった。

「わかってる。ミクミクが悪いわけじゃない」

 テクラの骨張った指が頬に触れる。細く長い指。この指が新宿地下街に悪魔を呼び込んだなんて信じられない。

 

「今は、魔力を使いこなせるようになったんだろう?」

 DJの目が紫の瞳をのぞき込む。思わず、ミクミクは目をそらした。

「やめて。自信がないの。時々、自分が信じられなくなる」

「力を持っているのにそれを使わないなんてこと、すべきじゃない」

「夢魔のチカラなんて要らない!」

 思わず叫び、DJの体を突き飛ばしそうになったのをぐっとこらえた。代わりに、その腕にぎゅっとしがみついた。

 

「時々、誰かに甘えたくて仕方なくなるの。それに、からかって遊んだり。急にキスしたくなあることもある。どれが自分の気持ちで、どれが夢魔の本能なのかわからない。ダメって思っても、止められない」

「魔力を使ったのか?」

「少しだけ。マッシュが新宿を出るって聞いて、遠くに行っちゃうみたいに思えて……見送ろうと思ったの。出口のところで。でも、車があって、乗ってるのはひとりだけだった。そのとき、あたしも一緒にいけるんじゃないかと思って。気づいた時には、眠らせてた。それで、トランクに潜り込んで……」

「催眠か」

 DJが体を起こす。片手には杖を持ち、もう片手をミクミクの肩に回していた。ミクミクはその体の軽さに驚き、なぜそう思ったのかを反芻した。マッシュと比べたからだ。

 

「その力があれば、他の奴らを支配できる」

「あたしがやらなくても、DJは悪魔の力を借りられるんでしょ?」

「好きなんだな、マッシュのことが」

 とつぜん指摘されて、ミクミクがぎくりと背筋を震わせた。

 

「なに言ってるの、いきなり!」

「マッシュと一緒にいたくて、力を使ったんだ。夢魔はそういう気持ちのためにエネルギーを使うことを惜しまない」

「あたしのこと、悪魔だと思ってるの?」

「その血が流れていることは消し去れない。だったら、自分の一部として受け入れるべきだ」

 DJが歩き始める。ミクミクはその体を支えて、一緒に歩く。DJの言葉はショックだったが、どうしても見捨てられなかった。

 

「お前が欲しい」

 DJの声は一面では力強く、一面では弱々しかった。ミクミクが断れないことを確信している一方で、助けてもらわなければ生きていけないのだと懇願もしていた。

「他の奴らは信用できない。でも、お前の力があればいざというときに言うことを聞かせることもできるはずだ」

「うまくいかないよ……そんなの」

「俺は悪魔使いだ。悪魔の力の使い方を、教えることができるはずだ」

 

「でも……」

 悪魔として他人から求められるなんてことを考えたこともなかった。半悪魔として虐げられてきたのだ。テクラが死んでから……目の前の青年に育ての親が撃ち殺されてから、ガイア教団に引き取られ、悪魔の力を抑える修行をしてきた。人として受け入れられてきた。

 驚きや悲しみとともに、どこか安心しているのを感じていた。

 今まで誰にも認められなかった力を、幼なじみが求めてくれているのだ。

 

「でも。あたしたち、家族だと思ってた」

「また家族になれるさ」

「マッシュも?」

「ああ。でも、俺がいちばんだ。家族には順序が必要だから」

 DJが地下室に向かっているのがわかった。そこにあるサーバーで何かをするつもりなのだろう。ケルベロスを制御するのか、それとも新しい悪魔を召喚するつもりかもしれない。

 

「マッシュを閉じ込めるって、本気なの?」

「サーバーやターミナルを管理するために、俺のサポートが必要だ。それができるのはマッシュしかいない。でも、マッシュが俺に逆らったら、その時はどちらかが死ぬまでやり合うしかないだろうな」

「イヤだよ、そんなの。仲良くして欲しい」

「ああ、俺もだ。でも、マッシュが変な気を起こすかもしれない」

「そんなことないよ。マッシュはDJを裏切ったりしない」

「ミクミクには、そう見えるんだな」

 地下へ降りていく階段の手摺りに手をかけて、DJが振り返って少女の顔を見据えた。

 

「マッシュには監視をつける必要がある。なあ、ミクミク。俺と契約しないか?」

「契約って、悪魔として?」

「そうだ。そうすれば、お前は俺に逆らえない。そして、お前がマッシュを監視していれば……」

「マッシュも逆らえない……って、こと?」

「ああ。変わらないな、賢い子だ」

 DJが暗い地下へと降りていく。このまま下へ降りていったら、彼に従うことになる……。

 

「そうしたら、また家族に戻れるの?」

「ああ。俺がお前たちを守ってやれる。ずっとマッシュと一緒にいられるぞ」

(昔みたいに?)

 ミクミクは階段の入り口に立ち尽くしていた。DJが一段ずつ階段を降りていく。暗い深淵に、彼が向かっていくのを呆然と見ていた。

(あたしが悪魔になって、DJに使われることを受け入れさえすれば……)

 ずっと昔のことが思い出される……

 

 家族だった頃。

 テクラがいた頃。

 新宿が、大きく変わってしまった頃。

 

 ずっと心に引っかかっていた思い出が、堰を切ったようにあふれ出してきた。



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1-09_First Love

 新宿西口直下、ガイア教団寺院――

 

「マッシュ殿、よくぞ来られた」

 ジンカイ和尚が差し出した緑黄色の茶は、ケミカルなにおいを放っている。なかなか口をつける気になれず、マッシュは急いでいるフリをすることにした。

 

「ご存じと思いますが、オザワが死にました。私設警察は壊滅状態。新宿には悪魔が入り放題です」

「うむ……なんとかバリケードを構築し、対処しておる」

 東口と同様に、西口にも悪魔が押しかけてきたようだ。だが、ケルベロスによってアクター神父を倒されてしまったメシア教会とは違い、西口を守るガイア教団は指揮系統が生きている。今のところ、戦線を保っているようだ。

 こうして、来客に応じる余裕も保つことができる。

 

「オザワを殺したのは別のものですが、新宿に悪魔を呼び込んでいるのは、俺の兄弟子であるDJです。地下サーバーを使って魔界への門を開き、強力な悪魔を呼びだしている」

「おおかた、オザワに成り代わって新宿を支配しようとしているのであろう」

 和尚の予想は正しい。というより、この状況では当然の連想と言うべきか。

 

「我々は新宿が誰のものになろうと構わぬ。だが、混乱状態を一刻も早く治めたい。おぬしなら、DJ殿を止めることができると思ってよいのだな?」

 闇法師の視線がマッシュに向けられる。その気になれば、呪言で人の命を絶つことさえできる高僧だ。さすがに緊張が走る。

「外から来る悪魔は数が多いけど、それほど脅威じゃない。問題はDJが召喚する悪魔です。俺なら、DJが動かしているプログラムを解析し、止めることができます」

 

「それほど強い悪魔を呼びだしているのか?」

「アクター神父が殉教しました」

「なんと……」

 闇法師は数珠を鳴らして合唱をした。ガイア教団の祈り方だ。

 

「あいわかった。して、作戦は?」

「俺が地下のサーバールームへ向かい、このアームターミナルで接続します。そのために、俺にも強い悪魔が必要です」

「邪教の館か」

 さすがに新宿の事情に詳しいジンカイ和尚は、すぐにマッシュの考えを察した。

 

「新宿北東にある邪教の館へ向かい、悪魔合体で強い悪魔を仲魔にします。それまでに時間が欲しい」

「よかろう。だが、もう一つ聞きたい」

 闇法師の視線がマッシュを見据える。おそらく、嘘は通じないだろう。

 

「おぬしがDJにつけば我らを新宿から追い出すこともできよう。そうしないという確証が欲しい」

「確証なんて……」

 立てようがない。だが、ジンカイ和尚は首を横に振って続けた。

「拙僧はこの街には新参だ。テクラという男のことも知らない。何と戦おうとしているのか、知っておきたい」

 マッシュは大きく息をついた。あまり思い出したくない記憶がたくさんある。だが、ガイア教徒にとって大事なものが何かはよく知っている。納得できないことには決して加担しない。だから、自分の腹を割ってみせる必要がある。

 

「……俺たちはテクラを殺した」

 

 

◁◁

 

 

 五年前。マッシュは十二歳、DJは十四歳だった。

 その日、マッシュはテクラに連れられて、新宿地下街の高セキュリティエリアにいた。オザワがいるビルの地下へ繋がるエリアであり、彼の手下のヤクザたちがたむろしている場所だ。

 

「おう、テクラじゃねえか」

 サイケデリックな柄のシャツを着た男が、門を見張っていた。人間というものは、このモノが不足する時代でも見栄えを気にするものらしい。パンチパーマも、袖からこれ見よがしに覗いている刺青も、昔からの伝統を守り続けているスタイルだ。

 

「オザワに会わせてくれないか?」

 テクラはひょろりとした印象の、背が高い男だった。映画だかゲームだかのシャツがプリントされたTシャツを好んで着ていた。この日はドットを追いかけるパックマンの柄だった。よく覚えている。

 

「オザワ様に何の用だ?」

「ネットワークの監視結果だよ。何か大きなことが起きようとしている。特に、上野と品川で……」

「俺に言われてもわかんねえよ」

 ヤクザの下っ端は、すごみをきかせて声を荒げた。マッシュは内心では大人の恐ろしさに逃げ出したい気持ちだったが、表面上は平気なフリをした。そうしないと、悪魔よりもしつこい連中が足下を見てくる。

 

「俺に言うことを聞いて欲しければ……わかってるだろ?」

 オザワが組織するヤクザ連中には、組織とは名ばかりの腐敗がはびこっている。オザワが悪魔から新宿を守っているから、誰もオザワには逆らえない。だから、手下どもがいくら横暴に振る舞っても誰も文句は言わない。

 テクラはその中で、彼らに意見できる数少ない例外だった。新宿のターミナルと地下サーバーを保守できるのは、彼とその弟子しかいなかったのだから。

 

「ああ。ほら……約束のものだよ」

 テクラが差し出した麻袋の中を、ヤクザが確かめる。

「おい、俺が言ったこと、覚えてるか?」

「もちろん。『粉末コーヒーを頼む。もしタバコがあったら、半ダース欲しい』と」

「で、これは?」

「粉末コーヒーが六パックあるはずだけど」

「なんでコーヒーばっかり六つも持ってきたんだ?」

「タバコがあったから」

 テクラはにこやかに答えた。インスタントコーヒーと紙タバコはどちらも人気の嗜好品だ。大崩壊前に作られたものが人気だが、粗悪なコピー品も出回っている。新宿ではもっぱらヤクザへの賄賂として使われていた。

「はぁ……まあいい。おい、ガキはおいていけ」

「マッシュ。今からオザワと大事な話をしてくる。いつもみたいに、少し待っていてくれ」

「うん……」

 マッシュは物静かな子供だった。テクラやDJの後をついて周り、めったに自分の意見を口にすることはない。この日も、言われるがままにテクラに連れられてきた。そして、言われた通りに、そばにある部屋の中で待つことにした。

 

「ったく……うちは託児所じゃねえんだぞ」

 ヤクザの男がつぶやきながら、マッシュを入れた部屋のカギを閉めた。どういうわけか、外からのみカギがかけられるらしい。

 黄ばんだ壁に覆われた部屋。見慣れた光景だった――というより、地下街の部屋はみんな同じようなものだ。だが、その日は違った。先に人がいた。

 

 少女だ。年はマッシュと同じくらいだろう。長く艶やかな髪は、この世のものとは思えなかった。髪を清潔に、美しく保つのは至難の業だ。瑪瑙のような艶のある黒髪など、このときはじめて目にした。

 そして、白い服を着ていた。レースの刺繍がついた、白いローブ。メシア教会の聖歌隊服だということは、後に知った。

 その子は、壁際にもたれかかって目を閉じていた。あまりにも静かできれいだったので、人形かと思ったほどだ。だが、その首がゆっくりと左右に揺れているのは、彼女が生きていることを間違いなく表していた。

 

「えっと……」

 同じ部屋の中に閉じ込められて、ただ立っているのも間抜けに思えた。マッシュはなんとか声をかけようとしたが、その少女は反応しなかった。

「こ、こんにちは?」

「……」

 近くで声をかけたが、反応は変わらない。目を閉じて、決まったペースで首を揺らしている。

 

(変わった子だ)

 そう結論づけて、マッシュは肩をすくめた。

 と、その瞬間に、不意に目が合った。少女が閉じていた目を開いて、まっすぐにこちらを見ていた。

「わ……」

 射すくめられたように、マッシュは動けなくなった。目の前にいるのが同じ人間だとは信じられなかった。

 

 一方、少女のほうも驚いたようだった。大きな目をますます大きく見開いて、マッシュの顔を見ていた。

 マッシュが何か言おうとしているうちに、少女は白い手のひらを掲げてそれを制止した。

「まって」

 そして、彼女が手を長い髪の中に差し入れて、耳からケーブルを引き抜いた……少なくとも、そう見えた。

 

「音楽を聴いてたから」

「音楽?」

 きょとんとしていると、少女は耳から外したばかりのそれを示した。よく見ると、マッシュが見知ったケーブルとは違っていた……イヤホンだ。

「耳につけるの。ほら」

 そう言って、少女は髪をかき上げてみせた。もう一方の耳には、確かにそのイヤホンが着けられていた。

 

「う、うん」

 隠されていた耳を見ただけで、なぜかドギマギしていた。それを隠すように、マッシュは『もちろん知っている』という仕草で、彼女がしているのと同じように、イヤホンを耳につけた。

 

 明日の今頃には

 あなたはどこにいるんだろう

 誰を想っているんだろう

 

 女の声だった。突然、目の前が開けた気がした。

 今までに考えたことがない何かがそこにあった。渇望と飛躍。調和と連続性。暗い地下街で暮らしていたマッシュには、明日のことを考えたことさえなかった。

 マッシュの脳裏に音楽が刻み込まれた時、少女はただその表情を眺めていた。

 

「これ……は……なに?」

「ウタダ」

「うた……」

 歌を聞いたことがないわけではない。だが、ディスコから出てきた連中が騒いでいる時の調子が外れた声とは、何かが違う気がした。誰かが自分を表現するための歌。そんなことが許されるのかと思った。

 

 衝撃に身を震わせて、マッシュはただイヤホンから流れる音を聞いていた。2~3曲の間だったろう。その間、少年と少女はイヤホンを片方ずつ共有して、ただ静かに向きあっていた。

 それから、ドアがノックされた。ドアを開けたのはアクター神父だった。

「おや。君はキノコの……」

 マッシュがたちの悪い寄生キノコに感染したのは八歳の時だ。その頃はまだ信任だったアクター神父のいるメシア教会にテクラが運び込み、治療して貰って以来、知らない仲ではない。

 

「ソプラノ七番、シブヤへ出発する時間です」

「はい」

 むすっとしているマッシュには構わず、神父が少女を呼んだ。その番号が彼女の名前らしい。

 ふと、少女がイヤホンを外した。そして、懐にしまってあった機械を差し出した。

「それ、あなたにあげる」

 銀色の四角い機械。MDプレイヤーという名前なのは、後で知った。

 

「いいのですか?」

「私よりも彼に必要みたいだから。それに、施しはよいことだと教えられました」

 驚いているマッシュを尻目に、少女は胸の前で印を切り、さらりと長い髪を揺らした。

「神のご加護のあらんことを」

 

 マッシュは返事を返すこともできなかったまま、手元に残った機械を見つめていた。イヤホンから聞こえてくる音楽に夢中になった。MDのなかに入っていたのは十二曲だけだったが、地下の世界しか知らないマッシュにとって、それは時間も空間も超えて知る、はじめての『外』だった。

「マッシュ」

 声をかけられたのは、どれぐらい経ってからだろうか。音楽にのめり込んで、座ることも忘れていた。

 入り口からテクラに呼びかけられて、はじめて我に返った。見慣れた部屋の中は、今まで以上に狭く感じた。

 

「それ、もらったのか」

 うまく答えられなかった。自分でも、美しい少女と音楽のことはまるで夢の仲のことのように感じられた。

「懐かしいな。ウォークマンなんて。俺も昔は自分の好きな曲を集めて専用のディスクを作ったりしたよ」

 新宿地下街の長い通路を歩きながら、テクラの昔話を聞いていた。それから、テクラの居室に戻った。今ではマッシュが独りで使っている部屋だが、当時は四人で住んでいた。テクラとマッシュ、DJ、そしてミクミク。

 

「おかえり」

「ただいま」

 出迎えたのはミクミクだった。十二歳のミクミクは小柄で痩せぎすな子供だった。紫の瞳だけは、いつもらんらんと輝いていた。

「マッシュ、おかえり」

 テクラだけが返事をしたことが不満だったのだろう。ミクミクはわざわざ近づいてまで声をかけてきた。

 

「うん……」

 音楽の衝撃さめやらぬマッシュは、あまり返事をする気になれなかった。部屋の隅に座り込み、イヤホンをつけて音楽に没頭した。すっかり心を奪われていた。

 

「DJ、マッシュがムシする」

「新しいオモチャに夢中なんだろ」

 DJは黙々と本に向きあっていた。少なくともこの頃、DJは好んで本を読んでいた。テクラが持っていた、すり切れた技術書ではない。架空の世界のことを描いた本だった。マッシュは漢字になれていなかったから、そこになにが書いてあるのかはよく分かたなかった。

 

「DJ、お使い頼んでいいか?」

 テクラが錠剤をいくつかより分けながら聞く。彼のどこが悪いのか、マッシュは知らない。だが、一日にあまり多く運動はできないらしかった。今日はオザワのいるところまで往復したから、もう部屋からは出られないだろう。

 

「ん。なんだ?」

「サーバーの解析をしてきてくれ。特に、品川のターミナル……天使どもの活動がどうも怪しい」

「何かしようとしてる?」

「大聖堂の再建よりも活発だ。何か作っているらしいが……」

「東京を建て直そうとしてるんじゃないか?」

「そう単純なことならいいんだけどな。パワーバランスを崩しかねないものを感じる。情報を集めておきたい」

「わかった」

 本を懐に入れて、DJが部屋を出ていった。

 

 マッシュは部屋の隅でただ音楽を聴いていた。

 その日は一見、今までの日となにも変わらない日だったように思えた。だが、同じような日が二度と来ることはなかった。

 少年がはじめて出会った音楽に夢中になっている間に、それは起きていた。

 

「パパ、何かあったの?」

 ベッドに座ったテクラの膝にもたれて、ミクミクが聞いた。テクラが引き取った子供は、みんな身寄りがなかった。特にミクミクは、悪魔の子として恐れられていた。孤立する彼女を引き取り、育てた彼に少女はよくなついていた。

「オザワが心配してるよ。仕事を任せられるやつがいないってね」

「任せるって?」

「彼はもう年だ。それに、長く独りで居すぎた。今から他人を信用するのは難しいだろうな……」

 伸ばしっぱなしの髪を掻いて、テクラは嘆息した。

 

「でも、いつか何かが変わる時が来る。準備が整っていなくても、いつかは何かが起きてしまう」

 遠い目をするテクラが、ミクミクには妙に不安そうに思えたようだ。紫の瞳が、父代わりの男の顔を見つめていた。

「パパも?」

「俺は少しは準備してるつもりだよ。DJやマッシュも、やり方を覚えてくれてる。あと五年もすれば、二人とも立派な技術者だ」

「あたしは?」

 テクラはミクミクには技術を教えていなかった。プログラムもハードウェアも、彼女は知らない。テクラが伝えなかった理由は、今となってはわからない……単に、悪魔の子として忌み嫌われていた彼女を不憫に思ってのことかもしれない。

 

「ミクミクは……」

 テクラは返答に窮した。それを聞いたミクミクは、急に不安になった。自分に役割がないことに思い至ったのだ。

「あたしは……」

 その時、少女の内側で魔力が湧き上がった。テクラが感じた不安が伝染して、何倍にも膨れ上がった。不意の寂しさが身を焦がし、抑えきれない衝動となってあふれ出した。

 

 ミクミクが夢魔の血を継いでたから、夢魔の魔力がテクラの精神を揺さぶったのかもしれない。――だが、夢魔の血を継いでいなかったら、この場に彼女はいなかった。

 テクラが未来に不安を感じたから、未熟な魔法にかけられたのかもしれない。――だが、不安を感じないようなら、彼が子供を育てることもなかった。

 

「イヤっ!」

 マッシュが音楽の魔法から冷めたのは、ミクミクの悲痛な叫びを聞いたときだった。

 何が起きているのか、すぐにはわからなかった。ミクミクの細い――だが、もう小さいとはいえない体を、テクラがベッドに押し倒していた。

 テクラは甲高い声で何かを叫んでいた。それはきっと、ミクミクの問いに対する答えだったのだろう……だが、聞き取れなくてよかった。それはテクラが理性で押しとどめていた、恐ろしい言葉に違いなかったから。

 

「助けて、マッシュ!」

 反射的に飛び上がって、テクラの体をひっつかんだ。ミクミクが足で押し、マッシュが引っ張る。二人がかりの力で、ようやく引き剥がした。

「邪魔するなよ」

 テクラは下半身から服を脱ぎ去っていた。幼いマッシュには、膨張したシルエットが異様に恐ろしく感じれた。

 

「俺のおかげで生きてるんだ」

 テクラは拳を振り上げてマッシュを打ち据えた。理性のタガが外れ、正気を失っているのは明らかだった。

「俺がいなけりゃ、お前らなんか悪魔に食われてたんだぞ!」

 マッシュを殴りつけながらテクラは叫んだ。

 

(本気じゃないはずだ)とマッシュは思った。(何かヘンだ。まともな状態じゃない)

 パニックを起こしたテクラの言葉がどれほど彼にとって本気だったのかはわからない。弱いものに手を差し伸べたに違いない。だが、弱い子供が大人になっていくことを受け入れがたいのも、また本音だったのかも知れない。

「やめて……」

 信頼する師に幾度も叩かれて、まぶたを腫らしながらマッシュは訴えた。だが、テクラは殴ることを止めなかった。

 

「マッシュ!」

 ベッドの上で震えているミクミクの姿が見えた。その時、耳に流れていたフレーズが聞こえてきた。

 

自分で動き出さなきゃ名にも怒らない夜に何かを叫んで自分を壊せ!

 

 マッシュが音楽にのめり込んでいなければ、それが起きる前に止められたかもしれない。――だが、音楽を聴いていなかったら、彼が反抗することもなかった。

 

「うわあああああああっ」

 夢中で声を上げて、テクラに全身でぶつかった。テクラが病で体力を失っていたこともあり、数歩押しのける程度のことはできた。

 だが、それで大人を止められるはずがない。体格の差はどうしようもなかった。

「こいつ……」

 テクラの目が怒りで赤く光ったように思えた。正気を失った彼が、さらに激しい怒りをむき出しにして壁に向かった。そして、そこにかけられていた()()を手にした。

 

 黒光りする銃。ソードオフされたイサカM37……散弾銃だ。

 新宿地下街において、武器の携行が許されているのは警官だけだ。なかでも、銃の装備は一等警官の特権だ。そうして、オザワと私設警察は自分たちの権力を保持しているわけだ。

 だが、テクラは新宿の主任技術者として、特別待遇を受けていた。

 

 人を殺すための道具を向けられたマッシュは、恐怖で身がすくみ、その場に崩れ落ちた。

「そうだ、それでいい。誰が強いのか、わかるだろ」

 マッシュが抵抗の意思を失ったのを見て、テクラは銃を下ろした。だが、正気に戻った訳ではなかった。

 銃をベッドサイドに置き、再びミクミクの手首をつかんだ。

「お前たちは俺の言うことを聞いてればいい」

 まるで優しく諭すような口ぶりだった。子供たちを自分の支配下に置く気持ちが、正気ではないにせよ彼の奥底にあったことの証明なのかもしれない。

 

「イヤっ、あたし、そんなつもりじゃ……」

「どうせいつかは誰かがするんだ」

 自分を説得しようとしているようでもあった。魔力に翻弄された心が、保たれていた理性を食い破ろうとしている。

 魅了(CHARM)にかけられた男は、それがきっかけで精神の平衡を失ったらしい。娘として接してきた相手に怒張したファルスを向けて、興奮にたぎった目を向けていた……

 

 ミクミクがいくら抵抗しても、力でかなうはずがない。マッシュは奮い立てようとした勇気をくじかれ、うずくまっていた。

 DJが部屋に戻ってきたのはその時だった。少年がその光景を見て何を思ったのか……泣き叫ぶミクミクと顔を腫らして鼻血を垂らすマッシュを見たDJは、すぐに動いた。

 ベッドサイドに置かれた散弾銃を素早くつかみ、少女に覆い被さろうとしているテクラの背中に砲身を向けた。

 

 ガン、と鳴った銃声は一度きりだった。それがすべてを決定的に変えてしまった。

 

 

 ▷▷

 

 

「来てくれたか」

 新宿の震央。無数の光点が明滅するサーバー室。痩せた男が頷いた。

「DJ……」

 階段を降りきって、地下の薄明かりのなかに姿を表すミクミクは、わずかな時間で血の気を失っているように見えた。

 

「ずっと聞きたかった。あのとき、どうして……撃ったの?」

「お前を守るためだ」

 DJはいくつも並べたモニターに向きあっていた。地下街に点在している監視カメラの映像が映し出されている。西口と東口は、どちらも戦線が維持されているようだ。外部からの悪魔はまだ突破できていないらしい。

「DJなら、テクラを押さえつけて止めることもできたかも……」

 十二歳だったマッシュならともかく、DJは十四歳だった。体格は大人になりきっていなかったとはいえ、テクラにも疾患があった。体力で敵わないわけではなかったはずだ。

「確実な方法をとったんだ」

 DJの視線はモニターを見据えている。魔獣ケルベロスの姿はない。カメラに映っていない場所にいるのだあろう。

 

「テクラが邪魔になったんじゃないの?」

 DJはモニターに目を向けたまま返事をしなかった。

「テクラさえいなくなれば、新宿でいちばんの技術者は自分だから……」

「あんなことをしなくても、いずれはこうなってた」

 モニターから目を離し、男は自分の腕に着けたデバイスをなでるように操作した。

 

「だから、いままでできなかったことをこうやってやり直してる。見ろ、俺は新宿一の悪魔使いだ」

 複雑なプログラムが実行され、立体投影されたビジョンが幾何学的な模様を描き出していく。マグネタイトがざわざわと形をとっていく……

「ケルベロスはあとでなんとかするとして、まずはこの場所の安全を確保する……ミクミク、こっちに来い」

 有無を言わさぬ口調。遠い日の恐怖に身をすくませていたミクミクは思わずその声に従った。

 

 すぐに、サーバー室につながる階段が騒がしくなった。

「ここか!」

「機械いじりしか能がないくせに、調子に乗りやがって!」

 幾人かの男たちが駆け込んできた。私設警察の制服を着ている……壊滅同然の私設警察の生き残りだろう。悪魔が暴れている原因を探して、たまたまここにたどり着いたのかもしれない。

 

「こういう連中が入ってくるからな。ここを守れ、邪龍コカトライス」

 集積したマグネタイトが悪魔の姿をとる。鳥のような頭と大きな翼、蛇の尾を持つ化け物が、甲高い叫びとともに姿を表した。見上げるほどの大きさだ。

 

「なんだ、見たことない悪魔だ……!」

「ひるむな、やれっ!」

 警官たちはアタックナイフやスパイクロッドを手に、果敢にも突撃する。ここさえ押さえれば制圧できると考えているのだろう。

 だが、悪魔の体表を覆う羽毛は、生半可な刃を通さない。攻撃の意思をみせた人間たちを翼で打ち付け、かぎ爪が人体をあっさりと引き裂いた。

 

「ひぃい……!」

 最後の警官が背中を向けて駆けだしていく。その背中を、コカトライスのくちばしがついばみ、背中の肉をえぐり取った。

「誰かに伝えないと……」

 傷の痛みに耐えながら、警官が走る。だが、そのうごきが徐々に緩慢になっていく……出口にたどり着く前に、そのうごきは完全に止まった。男の体が石に変わっていた。

 

「そんな……」

 あっという間に警官隊を全滅させた悪魔を見て、ミクミクは口を塞いだ。声を上げれば、今度は自分が襲われるかもしれないと思ったのだ。

「石化の毒だ。よし、ちゃんと俺の言うことを聞くみたいだな」

 コカトライスはサーバー室の入り口を見張るようにどっしりと立っている。

 

「俺に従ってる限りは、安全だ。一緒にいてくれ、ミクミク」

 命令と懇願がないまぜになった言葉。

(それって脅迫だ)

 ミクミクは目を伏せた。

(でも、悪魔のいる世界で生きてくってことは、脅迫するか脅迫に従うしかない……)

 

「どうするの、これから?」

「メシア教会とガイア教団が弱るのを待つ。壊滅する直前に救いの手を差し伸べて、俺に従うことを約束させるんだ」

「人がたくさん死ぬんだね」

「今までもそうだった」

 

 DJの決意は固い……この五年、このときのことを考えて生きてきたのだろう。その選択をいまさら曲げさせることは不可能に思えた。

(説得はできない。でも、もし私が力を使ってDJを眠らせたら、きっとコカトライスに襲われる……)

 止めようがない。

(マッシュ、どうしよう)

 

 

 ▷▷

 

 

「では、参ろうか」

「なにも、ジンカイ和尚が出なくても……」

「いや、強力な悪魔が徘徊していると聞く。弟子たちでは歯が立たないだろう」

 数珠を手にした闇法師と並んで、マッシュは悪魔が広がらんとしている通路を見据えた。

 

(DJを止める……そのためには、邪教の館に行かないと)

 邪教の館は地下街の北西部だ。ガイア神殿からは遠くない。さっそく、歩き出そうとしたとき……

 

《アオーーーン》

 ビリビリと壁を震わせる咆哮が響く。進む先の廊下から、のそりと巨体が進み出てくる。

「魔獣ケルベロス……」

 行く手を阻むように、赤い瞳がマッシュをにらみつけていた。



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1-10_名もなき詩

 魔獣の体からは、じりじりと周囲の空気をあぶるような熱気が噴き出していた。

 人の頭蓋骨を容易にかみ砕くことができる大きなあぎとから、青白い炎がちらちらと覗いている。

 真っ赤な瞳は地獄からのぞき込むような異様な迫力をたたえていた。

 

 地獄の門番、魔獣ケルベロス。

 

「早速のお出ましとは、やるしかないか……!」

 数珠をじゃらりとならし、ジンカイ和尚が構える。が……

 

「いや、待ってください。話をしてみたい」

 それを制して、マッシュが前へ進み出た。

「しかし、悪魔と……それも、獣と対話など」

「できるはずです。ただ暴れてるだけじゃないはずだ」

 アームターミナルを操作して、イヤホンを耳に当てる。悪魔との対話は、聴覚情報として出力されるようプログラムされている。

 

「ケルベロス、話がしたい」

 相手がどんなに強大な悪魔でも、交渉の基本は同じだ。話をしたほうが得だと思わせること。交渉の相手として認められること。そのためには、自分を強そうに見せる必要がある。

「俺は悪魔召喚師のマッシュ。お前の力になれるかもしれない」

 ターミナルのコンソールを操作して、自分が悪魔使いだと伝える。妖鬼ボーグルと地霊ブッカブーを召喚して背後に控えさせた。

 

《弱ソウナ悪魔ダ》

 ケルベロスはあざ笑うように悪魔たちを一瞥したあと、マッシュに目を向けた。たしかに冥界の番犬に比べれば、マッシュの仲魔は格下といえる。だが、悪魔を使役することができる召喚士には興味をひかれたのだろう。

 

「なぜ召喚したDJに従わないんだ?」

 マッシュが問いかけると、悪魔は恨めしげに喉をうならせた。

《アノ男ハ我ノ主人デハナイ》

「お前のほうが強いからか?」

《ソウダ》

 

 悪魔は自分より弱い召喚士には従わない……今や、東京では常識と言ってもいい。

「だったら、何もここで人間を襲わなくてもいいだろう? 新宿地下街は、狩り場には向いてないんじゃないか。ガイア教もメシア教も団結してる。いくらお前が強い悪魔でも、いつかケガをするぞ」

 実のところ、この強大な悪魔に対して新宿が戦えるのかはわからない。だが、強そうに見せかける必要はあるだろう。勝てないと思わせれば、出ていってくれるかもしれない。

 

《オレサマハコノ街カラ出ラレナイ》

 ケルベロスが悔しげにうめく。

《ソウ契約サセラレテイル》

「DJは新宿イチのプログラマだからな……召喚の時に、何か仕込まれたのか」

 そして、新宿にいる限りDJは悪魔によって傷つけられない。結果として、新宿から出られないケルベロスはDJ以外の人間を襲うしかないわけだ。

 

「つまり、DJがいる限りお前は自由になれない」

《ソウダ》

「DJを新宿から追い出すか、もしくは彼を守っている『新宿魔方陣』を解けば、悪魔が彼を攻撃できるようになる」

《ソウナレバ、オレサマガ奴ヲ殺ス》

 

 にらまれただけで冷や汗が止まらない。だが、できるだけ平静を装いながらマッシュは考えた。

(つまり、この魔獣の目的は第一に自由になることだ。そのためにDJを倒したいが、新宿に張りめぐらされた魔方陣のせいで手出しができない)

 ケルベロスが人間を襲っているのは、他にやることがないから、飢えを満たしている……それだけのことなのだろう。

(俺もDJを止めたい。だが、殺したくはない……この悪魔を言いくるめて、みんなに手出しさせないようにしないと)

 

「わかった。だったら、俺がなんとかする。つまり、彼を追い出すか、魔方陣を破壊する。それまで新宿で暴れるのをやめてくれ」

《オレサマニ何ノ得ガアル?》

 威圧するように、ケルベロスが身を乗り出した。

(いいぞ)

 マッシュは内心で大きく頷いた。

 

(条件さえあえば、俺の要求をのむつもりがあるってことだ)

 だが、悪魔が納得できるものが示せなければ、人を襲い続けるだろう。慎重に考えなければならない。

「人間の肉より好きなものはないのか?」

 悪魔に対して愚かな質問だと思ったが、少しでも手がかりが欲しい。

《甘味ヲ食ワセロ》

「なに?」

 

 ケルベロスは大きな尻尾を揺らしながら、赤い舌を覗かせた。

《甘イモノだ。ぷしゅけートイウ女ノけーきハ美味カッタ》

「そんなでかい体で、甘党なのか?」

《オレサマノ好ミニ文句ガアルノカ?》

「いや、いや! すこし待ってくれ。何かあるはず……」

 

 助けを求めてジンカイ和尚に視線を剥ける。アームターミナルの力で、会話の内容は彼にも伝わっているはずだ。

「拙僧は精進料理しか口にせん」

 自由を旨とするガイア教団のなかでも、伝統派の修行僧である。戦力としてはともかく、スイーツを探す役には立たなさそうだ。

 

「困ったな。ディスコやバーを探せば何かあると思うけど……」

《オレサマ、我慢デキナイ! 今スグ甘味ヲ持ッテコイ!》

 この調子では、探しに行く時間はなさそうだ……

 

「話は聞かせてもらいました!」

 その時だ。通路の向こうから若い女の子絵がした。金と黒、ツートンカラーの髪を整えながら、急ぎ足にやってくる。

「プリン。東口はいいのか?」

「アークエンジェルのおかげで、かなり持ち直しています。今は、その魔獣のほうが重要です」

 聖女は悪魔に向きあい、ゆっくりと深呼吸した。

 

「こ、これを……」

 そして、苦渋の表情で、懐から何かを取り出した。きらりと照明を浴びて光る透明なもの。宝石のようにもみえるが……

「それ、警察署にあった氷砂糖か?」

「あとでこっそり食べようと思って、とっておいたんです」

 目をそらしながら、プリンがつぶやく。ただでさえ多めに食べていたのに、そのうえ二人の目を盗んで自分の分をとっていたらしい。

 

(すごい食い意地だ。でも、助かった)

 聖女の甘味への執着心には驚かされるが、とにかくケルベロスが求めるものが用意できたのだ。幸運と言うべきだろう。

《ホウ……》

 魔獣が巨体を揺らしながらプリンへ近寄っていく。その細い手のうえの氷砂糖をクンクンと嗅ぎ、大きな舌でべろりと絡め取った。

 

「っ……」

 手のひらを怪物になめられて、プリンが悲鳴を押さえ込む。だが、ケルベロスは人間の恐怖など知ったことではないとちいさな菓子を味わっていた。

《美味イ!》

 氷砂糖を口にして、その味に満足したらしい。ケルベロスはどっかりとその場に横たわった。

 

《人間ヲ食ウノハ、少シダケ我慢シテヤル。一時間経ッタラ、マタ甘イモノヲ持ッテコイ》

 貢ぎ物を要求する神様の立場だ。もしくは、人質を取った立てこもり犯か。

「とりあえず、目の前の危機は抑えられた……」

 緊張が解けて、ようやく額の汗を拭う。

 

「マッシュ、どうするのですか?」

「俺とジンカイ和尚で、DJを止める。まずは邪教の館で仲魔を強くする。それから、DJのいる場所……たぶんサーバー室に向かって、彼を……」

《殺スノハ、オレサマニ任セロ》

 ケルベロスが口を挟んだ。この悪魔は、マッシュもDJを倒そうとしていると思っているのだ。

 

《魔方陣ノぷろぐらむヲ無効(でぃせーぶる)ニスルンダ》

「なんで魔獣がそんな言葉を知ってるんだ……」

《悪魔デハこーどヲはっくデキナイ。人間ナラ脆弱性ヲ突ケルハズダ》

「プログラマに飼われてたことでもあるのか?」

「マッシュ殿、話している場合ではない」

 ジンカイ和尚が数珠を鳴らして会話を引き留める。

 

「プリン、余裕があったら誰かにディスコの場所を聞いて、甘いものがないか探しておいてくれ。ミクミクが居ればすぐにわかるんだけど……」

 何せ、ミクミクはディスコのウェイトレスだったのだ。だが、ミクミクはDJと一緒にいるはずだ。

「わかりました。新宿の外からの侵入はなんとしても止めていますから、彼を止めてください」

「任せてくれ。それじゃあ……行こう」

 

《悪魔合体させてくれる約束だからな!》

《ウオー! ついに俺がほんらいの力を取り戻せるぞ!》

 ケルベロスを恐れてずっと黙っていたボーグルとブッカブーが勢いこんで叫ぶ。

「こいつらを合体させて、DJが使っているのより強い悪魔を作る。それに賭けよう」

 

 

 ▷

 

 

「役たたずめ」

 監視カメラの映像を眺めながら、DJがつぶやいた。

「いや、扱える悪魔かどうかを確かめずに呼びだした俺のせいか……。だが、まずいな。俺に対抗できるのは、もうマッシュだけだろう」

 サーバー室に折りたたんで置いてあったパイプ椅子に座っている。歩くのがやっとの足を休めなければならない。今のところ、これが『新宿の王』の玉座だ。

 

「マッシュを殺すの?」

 そばに控えたミクミクが、控えめに聞く。あきらかに、その表情はおびえていた。

 彼女の背後では邪龍コカトライスがサーバー室の入り口を見張っている。すでに、この場所に侵入しようとした連中が何人も石になって並んでいた。

 

「マッシュを死なせるわけにはいかない。ここのメンテナンスをさせないといけないからな。だが、俺に刃向かえないようにする」

 左手の小型ターミナルを操作しながら、DJは考えを巡らせた。

「悪魔使いを無力化するには、やはり悪魔を奪うことだな」

 そして、再びプログラムを起動する。サーバーに蓄積された大量のマグネタイトを使えば、悪魔召喚は容易だ。

 

「出でよ、堕天使フォルネウス!」

 マグネタイトの奔流から、エイともサメともつかない奇妙なシルエットの悪魔が現れた。

《我を呼ぶものは誰だ?》

「俺は弾正(だんじょう)。DJって呼ばれてる。悪魔召喚士だ」

 奇妙な悪魔は空中を泳ぐように体をうねらせながら、DJの姿を見下ろしていた。とうてい、強力な悪魔使いにはみえない。だが、召喚された以上は契約に従わなければならない……その契約の内容は緻密で正確だ。肉体は脆弱でも、相当な知性と周到さがある。

 

《何を望む?》

「この男……マッシュと契約している悪魔を皆殺しにしてくれ」

 監視モニタに映るマッシュは、通路を急いでいた。

「ついでに、こいつも」

 付け足すように、その隣にいるジンカイ和尚を示した。

 

《いいだろう》

 堕天使フォルネウスがにやりと笑い、サーバー室の冷たい空気のなかを泳いでいく。

 邪龍コカトライスの頭上を通って、新宿地下街へ飛びだしていった。

 

「マッシュがDJに従ったら、家族に戻れるんだよね?」

 恐る恐る問いかけるミクミクに、DJは振り返らずに頷いた。

「そうだ」

「和尚まで……殺す必要があるの?」

 ミクミクはこの五年、ガイア教団に身を寄せていた。半悪魔の少女が生きるには、後ろ盾が必用だったのだ。

 ジンカイ和尚は、新宿における教団の指導者だ。厳しい修行を乗り越えた破戒僧である……破戒はガイア教の教えへの忠実さであり美徳だ。ミクミクには和尚の語る説法は難しかったが、自分への厳しさを他人に向けない人柄の持ち主だった。

 

「いま悪魔たちに戦わせてるのはそのためだ」

 DJはモニタをにらみつけながら、足を揉んでいた。

「新宿で俺に抵抗できる勢力は潰しておく。メシア教の神父はやったから、ガイア教のアタマも押さえ込む必用がある」

「絶対に……どうしても?」

「俺たちの自由と平和のためだ。これからはこの街のことは何でも俺が決める。誰にも意見はさせない」

 

「でも……」

「ミクミク、俺に従うなら口答えはするんじゃない」

 低く、静かに、だがはっきりとした口調でDJが告げる。

「これが最後だ。新宿が俺のものになれば、誰も傷つかないでよくなる」

 

 

 ▷

 

 

 新宿北西部。なぜこんな場所に悪魔合体をおこなう邪教の館があるのかについては、様々な説があった。

 オザワとその側近が悪魔を支配して彼らから利益をかすめ取るための施設だとか。時折やってくる悪魔対峙の専門家、デビルバスターたちが新宿を訪れるために残してあるとか。

 いずれにせよ、市民はこんな場所にめったに近寄らない。何かの間違いであらわれた悪魔に襲われては貯まらないからだ。

 

「悪魔に襲われたりは……してないみたいだな」

 マッシュも警官だ。警邏のなかで訪れたことがある。悪魔召喚への興味と知識はあったから、ここで何がおこなわれていたのかは知っている。だが、中に入ったことは一度もない。

 

「協力してくれればいいけど……」

 一見、外観では新宿に並ぶ他のブロックと大きな違いはない。だが、部屋の中からは一種の妖気のようなものが漂ってくる気がした。

 ためらいながら、マッシュが扉に手をかけたとき……

 

《待て》

 

 合成音声が響いた。エイともサメともつかない悪魔が、通路を泳ぐように接近してくる。

 

《あれは、堕天使フォルネウス!》

 召喚したままになっている妖鬼ボーグルが叫んだ。

「強いのか?」

《堕天使っていえば、由緒ある魔界の貴族だ。カオス陣営の大物だぜ》

 と、こちらは地霊ブッカブー。

 

「DJに言われてきたのか?」

《そうだ》

(ということは、DJは俺より強い悪魔を呼びだして使役しているわけだ……)

 東京の旅で強くなったつもりでいたが、DJは五年かけて今日のために準備してきたというのだから、執念が違う。相手のほうが強力な悪魔を使っていることを思うと、これからの戦いの困難さに思い至らざるを得ない。

 

「ここは引き受けよう」

 ふと、横合いから声がかけられた。ジンカイ和尚だ。

「しかし……」

「サーバーに侵入できるのはマッシュ殿だけ。その前に戦うのは拙僧に任せてくだされ」

 ジンカイの言うことはもっともだ。ここで仲魔を倒されても合体ができなくなり、マッシュにとっては痛手である。

 

「わかった。無事を祈るよ」

 マッシュが再び扉に手をかけ……

《やらせん!》

 フォルネウスの周囲の冷気が急速に高まり、氷のつぶてとなって放たれる。が……

 

「オンベイシラマンダヤソワカ」

 ジンカイの口から低い呪言が発せられた。その力が中空で渦巻く火の玉となって、氷のつぶてにぶつかる。

 二人の放った術は空中でぶつかり、激しい水蒸気を残して消え去った。

 

《貴様、ガイア教徒であろう》

「いかにも」

《なぜカオスの使徒である私に逆らう?》

「悪魔使いなどに使役されていない時に聞くべきであったな」

 数珠と錫杖を両手に構えて、ジンカイは低い呪言をつぶやき始めた。

 

《おのれ、不信心者め!》

 フォルネウスの魔力が極低温の冷気となってジンカイを包んでいく。するとジンカイは呪文とともに錫杖を振り、全身から熱波を放った。体から汗がにじみ出るほどである。

《人間ごときが我に逆らうとは!》

 堕天使は怒りに震えていた。尻尾を立てると、バチバチと電撃が充電されていく。

 

「いつもならば、堕天使殿との邂逅など、喜んで話を聞くのだがな」

 大ぶりの珠がついた数珠をひとつひとつ指でこすりながら、ジンカイは堕天使をにらみつけた。

「今日この時だけは、おぬしを呼びだした悪魔使いに屈するわけにはいかぬ」

《なぜだ。強いものには従うのが教団の教えだろう》

「くっくっ。だとしたら、拙僧は教団にとっては三流の法師かもしれんな」

 

《何が言いたい!》

 フォルネウスの尾から電撃が放たれる。青白い雷光がジンカイに直撃し、袈裟を焼き切った。胸には電撃による激しい火傷が刻まれる。

 だが法師はますます筋肉を漲らせ、猛烈な熱気を放ちながら悪魔へとにじり寄っていく。

 

「拙僧がただ一人、この街でおそれ敬っていた者が死んだ。おぬしの主に殺されたのだ」

《ほう、仲間か?》

「いいや。メシア教徒だ」

《バカなことを言うな。メシア教徒のために命をかけるガイア教徒などいるものか!》

 鋭い牙をむき出しにして、フォルネウスが飛びかかる。横腹を食い破り、はらわたを引きずり出す人食い鮫の動きだ。

 

「バカなどではない」

 飛びかかってきたフォルネウスの鋭い牙に、ジンカイは自らの太い腕を押しつけて腹を守った。がちっと前腕の骨に悪魔の牙が食い込む。

「ガイアには救えぬ者が居る。メシアには見捨てられた者も居る。我らは二つあって互いを補うことができるのだ。少なくとも、この現世では」

 

《坊主が、狂ったか!》

 フォルネウスの尾がひらめいた。鋭い針がついた尾の先が、ジンカイの額を狙う。

 ガッ、と、その直前で法師は尾をつかんだ。手のひらに針が突き刺さる。両手が悪魔に塞がれた格好だ。

「何事も極端へ走れば安定するが、それは同時に馴染めないものを切り捨てるということだ。我らは互いに切り捨てたものたちを慰めることができた。ともに歩めるはずだった……」

 ジンカイの両手の筋肉がみるみる盛り上がっていく。食い込んだ牙を、突き刺さった針を抜こうとしてもびくともしない。

 

《おのれ……やめろ!》

 悪魔の声に恐怖が混じった。フォルネウスのアゴと尾を、ジンカイが強くつかむ。

「共存できた時間は終わってしまった。過ぎたことを攻めようとは思わぬ。だが弔いくらいはさせてもらうぞ」

 悪魔の体の両端をつかみ、頭上に掲げる。白い腹がびちっと伸びてさらに張力をかけられていく……

 

《やめろ……やめろ!!》

 かの堕天使も、こうなっては体をくねらせて暴れることしかできない。まな板の上の鯉にそっくりな動作だ。

「ノウマクサンマンダバザラダンカン」

 一言を放つたびに、ジンカイの腕に力がこもる。両腕が太く盛り上がり、悪魔の体をひっつかんだまま、思い切り左右に引き延ばし、ついには体を引き裂いた。

 

《ぐおおおおおお……!》

 フォルネウスの腹が裂け、赤いマグネタイトが血のように噴出する。真っ二つに引き裂かれた悪魔は二度三度と体を折り曲げ、何かを求めるように空中を泳いだが……

「破ッ!」

 背後から火の玉を浴びせられ、ついには消え去った。

 

「アクター殿……」

 火傷と出血の手当よりも先に、ジンカイは両手を合わせて祈った。

「おぬしのためにも新宿を不逞の輩には渡さぬ」

 邪教の館の扉をちらりと見て、つぶやいた。

「マッシュ殿が仇をとってくれるとよいのだが」

 

 

 ▷

 

 

「悪魔が集いし邪教の館へようこそ」

 その老人はいつもと変わることなくそこにたたずんでいた。

 怪しげなローブに身を包み、長い白ひげを蓄えている。館と言ってはいるが、実際には新宿地下街の一室だ。

 所狭しと様々な機械が並べられ、特段巨大な召喚陣が描かれた場所には何十ものケーブルが繋がれている。

 

「ええと……やあ。俺はマッシュ、悪魔使いになったばかりだ」

「もちろん存じておりますよ。三等警官のマッシュ様」

 何もかもを見通している、というように、老人がひげの奥の口をゆがめた。

「悪魔合体をしたい」

「大歓迎ですとも。テクラ様にはずいぶん世話になりました。もっとも、誰であろうとも力をお貸しするのが我らの役目です」

 

(怪しいやつだが、今は頼るしかない)

 疑問は尽きない。何のために悪魔を合体させるなんて危険極まることをしているのか。なぜそんなことが可能なのか。「我ら」と言いつつひとりしかいないこともだ。

 だが、今は問答をしている場合ではない。こうしている間にも、新宿の東西から悪魔が押し寄せて人々を襲っているのだ。

 

《約束はまもってくれるんだろうなあ》

《そうだ。俺たちを合体させて強い悪魔にする約束だぞ!》

 連れてきたボーグルとブッカブーが手を振り上げて主張する。

「ああ。ルーツが近くて似たような悪魔として扱われることが我慢できないから、合体させたらどんな悪魔になるか知りたいんだったな」

 二匹の悪魔が激しく頷く。

 

「そういうわけだ。こいつらを合体させてくれ」

「ほう。しかし、近すぎる存在を合体させることは大きなリスクを伴いますぞ」

《俺たちはそのために人間なんかについてきたんだぞ!》

《そうだ! 合体させなきゃここまで来た意味がねー!》

 二匹は今にも暴れ出しそうだ。マッシュは頭を抱えたくなる気持ちを抑えながら、邪教の館の主人に目配せした。

 

「やってくれ、頼む」

「よいでしょう」

 もはや問答は不要と思ったのだろう。主人が進めるままに、ガラスで覆われた筒に悪魔たちを誘導する。

「ここで悪魔のデータを解析して吸い上げ、中央の召喚陣で合体させた悪魔を呼びだします」

 複雑で奇妙な機械だ。どういう仕組みになっているのか調べたい気もしたが、今はあまりに時間がない。

 

「機械のなかにハエが入っていないかよぉくお確かめください。恐ろしいことが起きてしまいます」

「今じゃ虫もめったに見かけない。平気だ」

「おっと、これは失礼」

 怪しげな書物を手にした主人が、怪しげな機械のスイッチを操作しながら怪しげな呪文を怪しげに読み上げる。

 

(まったく、奇妙な儀式だ)

 東京じゅうの悪魔使いがこんなことをしているのかと思うと気が遠くなりそうだ。

 主人が大きなレバーを引くと、ボーグルが入った筒が光を放つ。次の瞬間、ボーグルの体が電子の光に分解されて筒の上部に吸い込まれていった。

 すぐに、ブッカブーにも同じことが起きる。

 

(だが、これでもっと強い悪魔が生まれるなら……やっとDJに対抗できる)

「悪魔合体の秘儀を見よ――!」

 召喚陣が繰り返し輝きを放つ。マグネタイトと悪魔たちの情報が入り交じり、新たな姿をとった。

 

《オレハァァァァァァ! 外道スライムぅぅぅ……! 今後トモぉぉぉぉ ヨロシクぅぅぅ!》

 ぶよぶよした肉体を泡立たせた、見るに堪えない悪魔の姿がそこにあった。

 アームターミナルに搭載されたアナライズシステムが即座に解析結果をはじき出す。

 

「……元になった悪魔より弱くなってるじゃないか!?」

 マッシュが知る限り、悪魔合体は悪魔を強くする。いわば、2体を生け贄に捧げてそのデータから新たな悪魔を抽出する行為なのだ。元の悪魔よりもより強い悪魔を呼び出せるはずなのだ。

 だが、今召喚陣にあらわれた悪魔……外道スライムは、ボーグルやブッカブーよりもデータの総量……いわば程度(レベル)が低くなっていた。

 

「ふぅむ、やはりこうなってしまいましたか」

「わかっててやったのか?」

「ええ、まあ、どうしてもとおっしゃいましたので」

 攻めたいが、確かにその通りだ。強行したことについて、主人を攻めるわけにはいかない。

 

「あまりにも近縁の悪魔同士を合体させると、抽出できる情報が重複するためにエラーを起こしてしまうのです」

「で、エラーの結果が」

「情報の澱とも言うべき悪魔ですな」

《うぉぉぉりぃぃぃをぉぉぉ探せぇぇぇぇ》 

 ずるずると不愉快な粘液を分泌しながら、スライムが近づいてきた。

 

「自分たちが何だったのか覚えてないのか?」

「おそらく、アイデンティティに悩むような知性は残っておりません。悩みからは解放されたようですな」

「……そうか」

 約束したことを果たしたのだから、気に病むことはない。マッシュは自分を説得して、気持ちを切り替えることにした。

 

「この悪魔と他の悪魔を合体させたらどうなる?」

「スライムには合体に使えるような有効なデータがほとんどありません。故に、他の悪魔と合体させた場合は……ほとんどは元の悪魔と同じものができます」

「つまり……たとえば、ジャックランタンと合体させた場合は?」

「ジャックランタンになりますな」

「役立たずか……」

 ますます頭を抱えた。強化しようとしてここに来たのに、より弱い悪魔を生み出してしまうとは。

 

「何かの役に立つかもしれませんぞ。見ての通り、ぶよぶよして剣や銃ではなかなか傷つきません。毒や麻痺にもかかりにくいですから」

《今後ともヨロシクぅぅぅ……》

「わかった、わかった。今は使えるものは使うしかない」

 アームターミナルを操作して、メモリーのなかにスライムを戻した。においにちょっぴり耐えられなかったのだ。

 

(こんなことでDJに勝てるのか……? しかし、やるしかない)

 不安は高まる一方だったが、とにかく……やるだけのことはやったと言うべきだろう。

 

「時間がない。DJを止めないと」

 悪魔たちが騒いでいるのはせいぜい一晩だとアクターは言った。だが、その騒ぎをDJが先導している以上、新宿が彼に従うと決めるまでこの状況を続けるつもりだろう。

 アクター神父を失ったいま、東口の守りは薄くなっている。戦力としては十分でも、メシア教とたちの士気の低下は避けられない。

 東口が突破されてしまえば、新宿は悪魔の巣窟になる。そうなる前に、DJを止める必用があった。



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1-11_BE WITH YOU

「和尚!」

 邪教の館を出たマッシュが目にしたのは、満身創痍のジンカイの姿だった。

 袈裟は炭化し、胸から腹にかけてひどい火傷を負っている。帯を巻き付けて止血しているが、両腕に傷を負い、出血している。

 壁にもたれかかっていたジンカイはマッシュに気づくと、よろよろと身を起こした。

 

「悪魔を強化できたのだな」

「あ、ああ、もちろん」

 命がけで戦ってくれたに違いない相手に対して、役立たずが増えただけとはとてもじゃないがいえるわけがない。

 

「よかった。拙僧はもう戦えそうにない。ついて行っても足手まといになるだけであろう」

「いえ。感謝します。ガイア教団までお送りします」

「いや、この体でも、這って教団までいくことくらいはできる。今は一刻を争う時だ。拙僧のことより、早く地下へ」

「しかし……」

 じっと、ジンカイの黒い瞳がマッシュを捉えた。

 

 アクター神父ほど付き合いが長いわけではなかったが、この僧侶のことはマッシュも知っているつもりだ。こうなったら、てこでも動かない。

「わかりました。どうかご無事で」

「マッシュ殿も、武運を祈る」

 壁に手をつきながら、法師が歩いて行く。歩くだけでも激痛のはずだ。驚嘆すべき精神力である。

 

(俺がDJをとめないと、いずれにせよ和尚は殺される)

 結局は、マッシュの肩に新宿の市民全員の命運がかかっているのだ。

 

 

 ▷

 

 

 サーバー室からはひんやりとした冷気が漏れ出していた。

 半ば魔界と化した東京では電源を気にする必要はない。適切な電源装置さえあれば、大気中に充満するエーテルからエネルギーを取り出し、電力として使うことができる。しかし、サーバー室に使われるような大型のコンピュータは排熱も大きい。そのため、室内は常に冷房されている。

 階段を降りていくに従って、冷気も増していく。まるで、冥府へおりていくような心地だった。

 

(最後にここに来たときは、DJは長官に監禁されていた)

 そして二人でエラーに対処した。その時、空っぽだったマッシュのアームターミナルに悪魔召喚プログラムがインストールされたのだ。思えば、あのエラーもDJが仕込んでいたのかも知れない。

(長官は死んだ。オザワもだ。DJは自由になれたけど、こういう形で自由になって欲しかったわけじゃない)

 もう戻ってこない時間のことを考えるのをやめて、今の状況について思いをはせる。

 

(ミクミクの説得は失敗したと考えるべきだろう。無理もない。あいつにとっては命の恩人だ)

 やはり、戦うしかない。

(おそらくDJは悪魔を呼びだしてサーバーを守らせている。入り口が一つしかない以上、隠れるのは無理だ)

 手のなかにあるものでなんとかするしかない。

 準備が足りない。だが、それはDJも同じはずだ。むしろ、DJがサーバーを手にしている以上、時間をかけるほど不利になっていくだろう。

 

 階段をおりながら、すっかり慣れた手つきでコンソールを操作する。妖精ジャックランタンを呼び出した。

《ヒホー。なんだか強そうな悪魔の気配がするホ》

「鋭いな。これから、お前より強い悪魔と戦う」

《ケーヤクだからやれって言われればやるけど、避けられる戦いは避けるものだホ。長生きしたければ、今からでも逃げる方がいいホ》

 悪魔の言葉に虚を突かれて、マッシュは思わず立ち止まった。

 

「そうだな。確かにそうだ」

 それから、すぐにまた階段を降りていく。

「でも、やるよ。やらなきゃ生きてても甲斐がない」

《ニンゲンのいちばん面倒くさいところが出ちゃったホ》

 呆れるジャックランタンを連れて、たどり着いた扉を押し開けた。

 

 最初に目に入ったのは、石の群れだった。突入してきた警官たちだろう。悪魔の力で石像となって立ち尽くしていた。十人近くはいそうだ。

 サーバー室の薄暗い明かりの奥から、のっそりと巨体が進み出てきた。

 発達したくちばしと赤く光る瞳。発達した腿は、さながら巨大化した軍鶏だ。蛇が絡みつく尾を揺らめかせて、新たな犠牲者となるべくやってきたマッシュをにらみ、甲高い叫びを上げた。

 

「自分から飛び込んできてくれるとは、探す手間が省けた」

 パイプ椅子に座ったまま、DJが目を細めた。

「知ってたんだろ。俺がここに来ることは」

 DJの背後にはモニターが並んでいる。新宿地下街に仕掛けられた監視カメラの映像だ。ほんらいなら私設警察署に繋がっているはずだが、ハッキングを仕掛けて映像を映しているのだろう。廊下を這うジンカイ和尚の姿がちらっと見えた。

 

「マッシュ……」

 傍らにはミクミクがいた。所在なさげに立って、紫の瞳をマッシュに向けていた。

「今からでもやめられない? あたし、ふたりに争って欲しくない」

「ごめん、ミクミク。いま覚悟を決めてきたところだ。俺は新宿を誰かのものにはしたくない。一部だけが自由と平和を享受できるようじゃ駄目なんだ」

「無理なことはわかってるだろ、マッシュ。誰かが支配しないと自由も平和も守ってやれない。それができるのは俺たちだけだ」

 

 DJが指を立てると、邪龍コカトライスがかまくびをもたげる。

「地下に閉じ込められてるだけの自由と平和なんか、俺はもうごめんだ」

「閉じ込められるほうがましな目に遭わせて、後悔させてやる」

 その指がマッシュを指した。同時に、コカトライスが猛然と突っ込んでくる。

 

「ジャックランタン!」

《アギラオ!》

 火の玉が龍の顔面に突き刺さる。だが、火傷した様子もない。赤い目に闘志を漲らせてさらに突撃してくる。

「力の差がありすぎるな」

 マッシュは飛びすさった。周囲にはすでに石にされたものたちがいる。それを盾にして、くちばしを防ぐ。

 

 目くらましのため、丸めた布を放った。ジンカイの袈裟の切れ端だ。止血の際に破ったものである。

 コカトライスはくちばしを振るい、その布を払った。布は床に落ちるまでの間に石に変わって、カンと音を立てた。

(石にするのは、くちばしの力か)

 くちばしに含まれる毒が作用しているのだろう。それだけは食らうわけにはいかない。

 

《アギラオ!》

 忠実な妖精が魔法を放ち続けている。コカトライスの注意が頭上にそれたところで、マッシュは警棒を抜いた。

「なら!」

 体勢を低くして、滑り込みながら足下を狙う。巨大な爪は痛そうだが、石化のくちばしを受けるよりはマシだ。

 啄みをかわして両足の間に滑り込む。巨体が災いして、自分の股にアタマを突っ込むことはできないようだ。

 

「くらえ!」

 力の限り警棒を振り下ろす。しょせん鳥の足、もろいに違いないと踏んだのだ。

 関節を逆から思いっきり殴ったことで、コカトライスの足は「ごぎっ」と音を立ててあらぬ方向にねじ曲がった。

「やったか!」

 だが、悪魔の獰猛性を甘く見ていた。片足を折られた龍は戦意を失うどころか猛然と怒り、残った足でマッシュを踏みつけた。

 

「げ……ッ」

 肺が押されて、空気が漏れる。肋骨が圧迫されてろくに息を吸うこともできない。

 コカトライスの尻尾の蛇が、シュルシュルと音を立ててマッシュの首を這う。

 

「マッシュ!」

「心配するな。反省するまで石にするだけだ」

 かけだそうとするミクミクの手首をつかみ、DJはささやく。

「これでいいんだ。俺の方が強いとわかれば、マッシュも逆らえなくなる。あとはジンカイを殺して、新宿じゅうに俺が支配者だとしらしめるんだ」

 ミクミクの目に涙がにじむ。DJの想定どおりにことが運んでいるとしても、マッシュが傷つくことに耐えられないのだ。

 

「つらいだろうが、俺の命令だ。これからもつらいことがたくさん起きる。いいか、俺の言うとおりにするんだ。そうすれば、やがてつらいとも感じられなくなる」

「DJの命令どおりにすれば……?」

「そうだ。もうミクミクが苦しまなくてもいいんだ」

 涙を拭おうとするが、次から次にあふれてくる。止まらない。手のひらをすっかりぬらして、ミクミクはマッシュを見た。

 

「ミクミク、プリンを……」

 コカトライスがマッシュの胸へ向けてくちばしを突き立てた。言葉を終える前に、その体が石に変わっていく。

「あとで石化は解ける。癒やしの力がある悪魔でも呼びだして治させればいいさ」

 DJはそう言って、モニターに目を向け直した。あとの心配はジンカイだけだ。

 

 ミクミクは石像と化したマッシュを見ていた。最後に自分に向けられていた表情が、何かを懇願するようなものだった。

「プリンを……」

 反芻するように、最後の言葉を繰り返す。マッシュが伝えたかったことは……

(プリンなら、石化を解けるはずってことだ……!)

 メシア教の『聖女』には癒やしの力がある。その力を使えば、コカトライスの毒だか呪いだかによる石化を打ち払うくらいならなんてこともないだろう。

 

「やめろ、ミクミク」

 彼女の葛藤を悟ったのだろう。DJが目もくれないまま告げる。

「もう苦しまないで済むんだ。俺の言うとおりにしろ」

 DJは……嘘はついていないだろう。ジンカイを殺し、マッシュの石化を解いて、自分に従属することを誓わせる。

 そして、自分がオザワに成り代わり、マッシュには自分の代わりにサーバーの保守をさせる……そういうつもりに違いない。

 

(DJの言うとおりにすれば、昔みたいに一緒に暮らせる)

 そう思うたびに心の中に湧き上がってくる光景があった。ボンネットが開いた瞬間。マッシュの後ろに見えた、きらめく星々。世界にこんなにたくさんの光があるのかと思った。

(でも、DJの言うとおりにしたら……きっと二度と新宿から出られない)

 ミクミクもまた、「外」への憧憬を捨てられなかった。

 葛藤は一瞬だった。DJの命令を聞くか、マッシュの懇願をかなえるか。どっちが彼女にとって安全なのかは言うまでもない。

 

「ミクミク、やめろ!」

 気づいた時には走り出していた。足が弱いDJは追ってこられない。マッシュを踏みつけにしていた悪魔が高く鳴き、翼を広げて威嚇する。

「邪魔しないで!」

 叫びとともに、ミクミクの体から魔力が放たれた。誰から教わったわけでもない術はひどく不安定だったが、邪龍の意識を一瞬、幸福感(HAPPY)で満たした。その一瞬の間に、折れた側の足の横をすり抜ける。

 

「ちっ……結局、誰も俺には従わないのか」

 サーバー室から飛び出していく小柄な背中をにらみつけ、DJは呻いた。

「仕方ない。俺に逆らったらどうなるか……思い知らせてやる」

 

 

 ▷

 

 

 新宿地下街、東口……メシア教会前広場。

 

「どうどう……」

《グルルル……》

 ちょっとした広場になっているその場所には静寂が訪れていた。

 広場の中央には魔獣ケルベロスが寝そべっている。金と黒、二色の髪を持つ(サン)プリンシパリティはその傍らで、たてがみを整えるようになでてやっていた。

 それを見守るように、天使アークエンジェルが翼を広げている。アクターが命と引き換えに召喚したあの天使だ。

 

 おそろしい悪魔が二体も入り口を見張っていては、新宿の周辺にいる野良の悪魔など近寄れるはずもない。時々東口からちらっと顔を覗かせるが、ケルベロスが一瞥しただけで引っ込んでいく。

《ソロソロ約束ノ時間ダ》

「まだ四十分しか経っていません」

《ホトンド一時間ダ!》

 

 プリンはケルベロスの機嫌をとりながら、この魔犬がいるだけで悪魔が近づいてこないことに気づいて、ひっそりと番犬として使っていた。「広いところのほうがのんびりできるでしょう」と広場に連れてきたのである。

 その分、ネオファイトたちには市民の手当や周囲の安全の確保に当たらせている。

「聖女様、ありました!」

 その時、広場にネオファイトが駆け込んできた。マッシュの指示どおりにディスコを探らせていたのだ。

 

「これは……カップケーキ!」

 包みのなかを確かめる。うっすらと蜂蜜のにおいが漂うカップケーキが二つ並んでいた。もっとも、蜂は絶滅したはずなので、ほんとうに蜂蜜なのかはわからない。

《アオーン! オレサマノ大好物!》

 ケーキと聞いては黙っていられないケルベロスが大きく口を開ける。

「約束の時間より早いですが……」

 悪魔の機嫌を損ねたら、市民の命に関わる。プリンはカップをとって、ふわふわのケーキをケルベロスの口の中へと差し出した。

 

《ムグ! フム!》

 鋭い牙が生えそろった口で器用に咀嚼して、ケルベロスがぶんぶんと尻尾を振る。冥府の番犬の好物がケーキとは意外だが、人間を襲うよりもこっちの方がうれしいというのなら願ってもないことだ。

「アークエンジェルもひとつ、いかがですか?」

 市民のために働いてくれている天使へと差し出してみる……が、天使は無言で首を振った。

 

「それでは、もう一つは一時間後のため、ということに……」

 また一時間経てば、ケルベロスにお菓子を差し出す約束になっている。

「マッシュ、一刻も早く解決してください。そうすれば、このケーキを悪魔に渡す必要もなくなります……」

 ごくり、と聖女の喉が鳴った。

 

《食ベタイノカ?》

「もしも……もしも悪魔に渡す必要がなくなるのであれば、誰かが食べられるなあと、思っているだけです!」

《悪魔並ミの食イ意地ダナ》

 ケルベロスは契約どおりにお菓子がもらえれば文句はないらしい。口の中に残ったケーキの甘みを堪能しながら、またごろりと転がった。

 

 そこへ……

「プリン!」

 さらに、駆け込んでくる人影。サイズのあっていない大きなパーカー姿。

「ミクミク。無事だったんですね」

「あたしはだいじょうぶ。でも、マッシュが……」

「落ち着いて。誰か、水を持ってきて」

 あまり騒いでケルベロスを刺激したくない。そのことを察したネオファイトたちが、静かに、しかし迅速に飲み水を持ってきた。その整然とした動作には、ミクミクが驚かされたほどである。

 

「ありがとう。でも、急がないと」

 喉を潤したのち、呼吸を整えたミクミクはプリンの手をとって、紫の瞳できっと顔をのぞき込んだ。

「あたしたちでマッシュを助けよう。DJを止めないと」

「いったい、何が……」

 その時だ。甲高いノイズがなり、新宿じゅうに仕掛けられたメガホンが起動した。私設警察が緊急招集の際に使っていた放送網だ。

 

『新宿市民全員に次ぐ。俺はDJ、すでに新宿の機械はすべて俺の支配下にある』

 ざわめきが周囲に広がった。誰かがこの状況をコントロールしていることは皆気づきつつあったが、その本人からのメッセージが告げられるのは初めてである。

『俺のプログラムで、新宿から再び悪魔を追い出すことができる。悪魔がまた新宿に入って来られないようにするんだ。だが、そのためには、お前たち全員に俺への忠誠を誓ってもらう必要がある』

 

「忠誠を誓えば、もう悪魔に襲われなくて済むのか……?」

 市民たちに葛藤が広がっていく。この十数年、オザワが統治している間は一度も悪魔に襲われたことがなかったのだ。そこにこの苦難を経験すれば、逃れたいと思うのが素直な心情だろう。

 

『そこで、忠誠を示す方法だが……』

 キーンとノイズが混じった。イヤな感覚が背筋に走るのをプリンは感じた。

『ふたりだけ、お前たちの手で殺して差し出してもらおう。ひとりはガイア教団の住職ジンカイ。もう一人はディスコのウェイトレスのミクミクだ』

 一斉に、人々の目がミクミクに集まった。プリンが彼女の名を呼んだのを聞いている。

 

『二人の首を並べて俺の前に持ってこい。そうすれば、お前たちはこの先、永遠に安全だ』

 ぶつ、と放送が切れた。

「ウソでしょ……」

 ミクミクはDJが告げた言葉に驚き、頭の中が白く染まるのを感じていた。DJを裏切ったのは確かだ。命令に従うよりも、マッシュを助けたいと思った。だが、その見返りが……兄のように慕った相手から、命を奪われることだとは考えていなかった。

 

「聖女様、その娘は……」

 ネオファイトと市民たちが、広場に集まってくる。逃げ場を塞ぐように、少女たちの周囲を取り囲んでいく。

「確かに、この人がミクミク……放送した方が言っていた人です」

 プリンはミクミクをかばうように立ち上がり、両腕を広げた。ケルベロスは我関さずといった様子で寝転んでいる。

 

「私は、差し出すつもりはありません。人を殺して安全を得たとしても、また次の犠牲を求められるだけです」

「しかし、今は悪魔たちをなんとかしなければ……」

 ざわざわとネオファイトたちが顔を見合わせる。誰も、自分の手で聖女を押しのけようとは思っていないが、助かりたいという気持ちはあるのだろう。

 

(そういうこと……)

 プリンは理解した。ただミクミクを殺させることだけがDJの目的ではない。こうして、時間稼ぎをしているのだ。

 一晩耐えきればいい状況はもう終わった。今はむしろ、新宿を掌握しようとしているDJにとっては時間があればあるほどできることが増えるはずだ。

 メシア教とガイア教、二つの勢力が彼に従うべきかを迷っている間に、新たな悪魔を召喚して力をつけることができる。時間をかけて議論をすれば、ノーと答えたとしても彼の思い通りというわけだ。

 

「プリン、どうしよう……」

 ミクミクはおびえてあたりを見回していた。ガイア教徒である彼女にとっては、メシア教会のネオファイトたちは恐ろしい存在に違いない。

「必ず守ります。信じて」

 プリンはこの街でできた友人の手を握って、決意とともに伝えた。何よりも自分自身に言い聞かせているかのようだった。

 

 

 ▷

 

 

「ジンカイ和尚だな?」

 新宿西口からやや北の通路。ガイア教団の新宿本部まであとわずかの路地で、ジンカイを呼び止めるものがいた。

「さっきの放送を聞いただろう」

 三人の男たちだった。いずれも、私設警察の制服を着ている。混乱に巻き込まれたものの、悪魔から逃れることができたのだろう。銃を装備していることからして、一等警官だ。

 

「いかにも……」

 出血を抑えながら、無理矢理体を動かしている状態だ。意識が混濁しつつある。気力だけで這い進んでいたジンカイに、しらを切る余力はなかった。

(これで駄目なら天命だ)

 自然との合一を信じるガイア教徒にとっては、死もひとつの経過に過ぎない。おそれるよりも受け入れる……ジンカイにとっては、その方が自然に思えた。

 

「DJのことは知ってる。かわいそうな奴だが、プログラマとしての腕は確かだ。ほんとうのことを言ってるんだろうよ」

 三人のなかでもリーダー格らしい男が合図をすると、二人の警官がジンカイを捕まえた。腕をとって引っ張り上げる。

「あんたを殺せば、ほんとうに悪魔から俺たちを守ってくれるんだろう。俺たちは安心して生活できるわけだ」

 体格ではジンカイが勝っている。だが、今や振りほどくほどの力も残っていない。

 

「構わん。やるだけのことはやった……」

 両腕をつかまれ、抱えられた。腹でも頭でも、撃ち抜かれれば終わりだろう。

 心残りは多いが、「その時」をおそれず受け入れることもガイアの修行のうちだ。

 ジンカイはゆっくり目を閉じた。

 

「和尚、いいことを教えてやるぜ」

 一等警官がふんと鼻をならした。

「俺たちゃあんたに感謝してるんだ。殺すなんてとんでもない」

 

 

 ▷

 

 

「隣人を愛せよ、がメシアの教えだ」

 ネオファイトの誰かが、そう言った。

「そうだ。同じ新宿に住む者として、苦難を分かち合うのが教会の教え。一人を差し出して助かったとしたら、我々は命を救って信心を捨てることになる!」

「我々が仕えるのはメシアにのみ! 悪魔召喚師などに従ってたまるものか!」

 メシア教徒たちは祈りの形に手を組みあわせ、口々に叫んだ。

 

「命よりも信心を!」

 

 その様を、ミクミクはぽかんとして見ていた。

「ウソでしょ。てっきり、あたし……」

「アクター神父のお力――でしょうね」

 プリンがその肩を支えて、引き起こした。

 

「信心という種がこの教会から新宿に蒔かれていたのです。彼らはその教えに従っただけ」

「メシア教徒ってもっと心が狭いんだと思ってた」

「たしかに、そういう部分があることは否定できません。神父様が時間をかけて変えていったのかも。ここは……品川から遠いですから」

 遠い目をしてつぶやいてから、聖女は手を上げて周囲の注目を集めてから、宣言した。

 

「聞いてください。私たちはDJという悪魔召喚師の元に向かいます。どうか、ここを守ってください。あと一息です」

 ネオファイトたちの士気は、むしろ高まっていた。苦難を前に意見が統一されたことで、結束もまた強まっている。

「ここにはアークエンジェルの加護があります。私たちも、きっと成し遂げてみせます!」

 メシア教の祈りを繰り返して、信徒たちが応える。天井近くでそれを見下ろすアークエンジェルも頷いて応えた。

 

《オレサマハ手伝ワナイゾ》

 ケルベロスへ寝そべったままあくびをしていた。

「あなたの目的は、DJという召喚師を殺すことなのでしょう?」

「ええっ……」

 ミクミクが口元を抑えた。自分が彼を裏切り、命を狙われているとしても、その相手の死を望んではいない。未練のような同情のような気持ちが残っている。

 

「だったら、その時のために彼の近くにいた方がいいのでは? どうでしょう、私たちと一緒にいらしては」

《確カニ、オレサマノ爪デ引キ裂イテヤリタイ》

 のそりと、ケルベロスは体を起こした。巨体から熱気をみなぎらせて、怒るようにうなった。

《ダガ、手伝ワナイゾ》

「わかってます」

 

(DJを守ってる魔方陣を解けるのはマッシュだけ……でも、プリンがマッシュの石化を治しても、またすぐコカトライスにやられちゃう)

 ミクミクは思案した。できればDJを殺したくはない。だが殺すにせよ殺さないにせよ、この状況を打破するには、プログラムに精通したマッシュが必要だ。

 

「うん……よし。行こう。プリン、あたしについてきて。えっと……大きいワンちゃんも」

《魔獣ケルベロスダ》

「あたしに考えがある。ちょっと寄り道するよ」

 少女二人は大きくうなずき合って、歩き出した。

 

 

 ▷

 

 

「ジンカイ和尚!」

「ひどいケガだ。手当と治癒の祈祷の準備を!」

 ガイア教団まで運ばれたジンカイは、他のけが人たちとともに手当を受けることとなった。

 

「和尚の生命力なら、死ぬってことはなくなっただろう」

 彼をここまで運んできた一等警官たちが指を立てて笑い合った。

「おぬしら……なぜ」

 痛みを抑える呼吸を保ちながら、ジンカイ和尚が問いかけると、警官たちは照れくさそうに頭を掻いた。

 

「俺たち、ろくなことしてこなかったけど、新宿を守りたい気持ちはほんとうなんだぜ」

「じゃなきゃ、警官なんてならないしな」

「お前は甘い汁を吸いたかっただけだろ」

「あんたは新宿のために尽力してくれた。ガイア教団の助けがなきゃ、この街はもっとひどいことになってたよ」

 それにメシア教会も……と付け足すのは、さすがにこの場でははばかられたのだろう。肩をすくめる。

 

「長官やオザワはイヤな奴だったけど、さすがに上司をぶっ殺されていきなり鞍替えってわけにもな」

 実際には、オザワや長官を殺したのはDJではない。だが、とつぜん街を訪れたよそ者が彼ら重要人物を殺したと考えるよりも、いまこの状況を掌握しているDJがやったと考えるのが、警官たちにとっては自然だった。

 

「まあ、いよいよ駄目だってなったら、尻尾を振るしかないかもしれねえけど」

「まだそこまでじゃない。だったら、味方したい側につくのが人情ってもんだろ?」

「そうか……」

 ジンカイのもとへガイア教の僧侶たちがやってくる。傷を癒やす祈祷の儀式を始めようとしているのだ。

 

「それじゃあ、俺たちは外から来る悪魔たちと戦ってくらぁ」

「つーか、それがほんらいの仕事なんだけどな」

「たまたまサボってて命拾いしたな。ハハハ!」

 銃を手にして、警官たちが西口へ向かっていく。

 

 DJが要求した『忠誠の証』は、けっきょくどちらも出されることはなかった。

 新宿の市民たちは、服従ではなく抵抗の道を選んだのだ。

 メシア教会とガイア教団の意向が合致したのは、皮肉にもこれが初めてのことだったかもしれない。

 

 

 ▷

 

 

「……っと、その前に少しだけ」

 足を止めて、プリンは傍らのカップケーキを手に取った。二つあったうち、一つはケルベロスに与えたから、残りの一つだ。

「一時間以内に決着がつくことでしょう。これはもう必要ありませんね!」

 そう言って、勢いよく自分の口に放り込んだ。甘い小麦と蜂蜜(のような何か)の香りが口いっぱいに広がった。

 

「……さあ、行きましょう!」

「プリン……我慢できなかったんだね」



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1-12_白い雲のように

 並べたモニターの様子を見つめ、DJは高まってくる焦燥に体の奥をあぶられるような思いだった。

 オザワに変わって新宿の王になるために、彼はふたりの人物を『イケニエ』として差し出すことを要求した。一人はガイア教の闇法師ジンカイ。もう一人は彼自身の幼なじみでもあるミクミクだ。

 

 DJは長い時間をかけて、新宿の地下に張りめぐらされたネットワーク網に仕掛けをほどこしてきた。複雑に広がったケーブルの形状を把握し、それらを独自の手法で儀式化、新宿全土を覆う魔方陣として作り上げた。

 これにより、今や新宿地下街すべてが彼のプログラムの支配下にある。この魔方陣が及ぶ範囲では、悪魔は彼に危害を加えることができない。

 強大な魔獣ケルベロスを呼びだすことができたのもそのためだ。言うことを聞きこそしなかったが、魔犬もDJに手を出せないのだ。

 

「俺のおそろしさは、もう十分に伝えたはずだがな……」

 入り口の方を見やる。もともとは新宿の支配者であった警官たちが石に変えられて並んでいる。邪龍コカトライスを召喚し、このサーバー室の見張りに当たらせているのだ。

 そのなかには、彼とともに技術を学んだマッシュの姿もある。

 もはや誰も、逆らえない。逆らえないはずだ。

 

「身の程がわかってないのか?」

 焦れはますます強まっていく。

 新宿の住民たちは、未だに『イケニエ』を出してこない。それどころか、ますます団結し、東西から押し寄せる悪魔たちと戦い始めている。

 嘆息とともに、マイクを引き寄せた。私設警察の機材をハックして、ここから放送ができるようにしている。

 

「もう待つことはできない。今から十分以内に二人を連れてこい。でなければ、もっと凶悪な悪魔を呼びだしてお前たちを襲わせる。いいな、十分以内に……」

「その必要はないよ」

 背後から、声がかけられた。

 入り口……警官たちの石像の向こうから、紫の瞳がDJを見ていた。

 

「ミクミク。頭を下げて謝りに来たのか?」

 パイプ椅子にもたれかかったまま振り返る。足はまだ思い通りに動かない。立ち上がるのにも、かなりの気力が必要だ。長い牢獄生活が恨めしい。

「謝って済むんだったらそうしたい。でも、もうそれどころじゃなくなってるよ」

 ミクミクは何やら細長い箱を小脇に抱えていた。自信があるように見えるのはそのせいか。

 

「それに……メシア教の聖女様か。一方的に見てたぜ」

 ミクミクに続いて、金と黒、二色の髪を持つ女がやって来ていた。

(聖女は癒やしの力を持つと聞く。まずいな。石化を解くこともできるのか?)

 余裕の表情を保ったまま、DJは手元の小型ターミナルを操作した。コカトライスへ、(サン)プリンシパリティを攻撃するように命じようとしたのだが……

 

「待て、そいつは……」

 さらに、プリンに続くものがいた。巨体を窮屈そうに縮めて入り口をくぐったのは、他ならぬ魔獣ケルベロスだ。DJ自身が召喚したが、彼に従わなかった悪魔である。

(聖女の力で、魔獣を従わせたのか?)

 そんなことが可能なのか。メシア教の秘蔵っ子だ。できるのかもしれない。だとしたら……

 

(ケルベロスはコカトライスよりも強い。もっと強い悪魔を召喚しなければ)

 実際には……ケルベロスは、ただミクミクとプリンについてきただけだ。従っているわけではない。

 だが、召喚者であるDJを殺さなければケルベロスは自由になれない契約を交わしている。となれば、悪魔が彼の命を狙ってくるのは当然だ。新宿魔方陣がある限り、悪魔はDJには手が出せない。だが、コカトライスを襲うことくらいはできる。

 連れてきたからには、何か意味があるに違いない。合理主義者のDJはそう考えた。

 

「コカトライス、手を出すな、様子を見ていろ」

 そう命じて、さらなるプログラムを走らせる。蓄積された解析(ANALYSE)データベースから、ケルベロスに勝ちうる悪魔を探し出す。サーバーのマシンパワーを強引に動員して、契約を持ちかけるのだ。

 

《グルル……》

 ケルベロスは不敵に笑っていた。誰かが魔方陣の力を解除してくれるというから、それを待っている。魔獣には他の悪魔と戦うつもりなどなかった……もちろん、襲われた時には別だが。

 かくして、コカトライスとケルベロスがにらみ合ったまま動きを止めた。

 

「プリン、今のうちに」

「はい」

《ヒホー》

 ジャックランタンが、暗がりのなかで明かりを掲げた。その下には、床に押し倒された格好で石と化したマッシュがいる。

 

「あんた、まだ居たの?」

《契約者が居ないのに他の悪魔と戦う筋合いはないホ。逃げようとするとにらまれるから、じっとしてたんだホ》

「ありがとう、マッシュの居場所を教えてくれたんですね」

《それほどでもないホ》

 石と化したマッシュの元に二人で駆け寄る。プリンが石像の表面に手を触れる……単なる石ではない。確かに、生命が内側に閉じ込められている。

 

「治せる?」

「たぶん……。でも、気をつけて」

 石と化したマッシュの胸に手を置きながら、プリンが肩越しに様子を見る。DJはコンソールに指を添えて何かを起こそうとしていた。

 

「コカトライス、そいつらを見張っていろ。手を出すまではケルベロスは何もしてこないみたいだ」

 ケルベロスにはもとより人間を守るつもりなどないのだが、DJがその意図を深読みするのも無理はない。

「その間に、やつより強い悪魔を召喚する。時間とエネルギーはかかるし、俺の言うことは聞かないだろうがこの際、仕方ない」

 データベースから見つけ出した悪魔を名指しして、召喚の儀式を実行する。

 

「妖獣フェンリル! 俺の元へ来い!」

 サーバー室の中央に、渦巻く魔力の奔流があらわれた。悪魔召喚プログラムによって魔界への(ゲート)が開かれようとしているのである。

 その奥からは、冷たいプレッシャーのような存在感が感じられる。ケルベロスよりもさらに巨大な存在が、その向こう側に待ち受けているのだ。

 

「まずいよ、プリン。急いで!」

「わかっています。マッシュ、あんな悪魔の毒なんかに負けないで……!」

 胸に触れた手から、白い光が放たれる。聖女の力が煌々と注がれていく。すると、石と化したマッシュの体がみるみるうちに活力を取り戻していく。石が肉に置き換わっていく。コカトライスの毒が解かれていっているのだ。

 

「新宿を支配してるプログラムを解除できるのは、マッシュだけ……」

 ミクミクは祈るような気持ちでつぶやいた。祈りを聞き届けてくれるのなら、メシア教の奉じる神だろうと構わないと思った。

「あたしにはどうすればいいかわからない。でも、マッシュなら」

 そのマッシュの石化を解いているのはプリンだ。自分には何もできない、とミクミクは思った。

 

 でも構わない。誰かに頼ることしかできなくても。

 誰に頼るのかを、自分で決めたのだから。

 

 

 ▷

 

 

 石になっている間も、マッシュの意識は続いていた。

 眠っているのか起きているのか自分でもわからない、半覚醒状態に近い。

 周囲の音や光の情報はぼんやりと入ってきていた。だが、入ってくる情報のどこかに集中することができない。

 

 誰かが部屋の中に駆け込んできたのがわかった。それがミクミクとプリンだということに、しばらく経ってから思い至った。それほど、石の中に閉じ込められた精神は鈍かった。

 

 曖昧な意識のなかに、柔らかい光が差し込んできた。冷たく冷えた石の体が急速に暖められていく。

 ドクン、と血が巡るのを感じて、マッシュは目を開いた。

 

「――マッシュ!」

 真上から、顔をのぞき込むプリンの顔が見えた。

(美人だな)

 場違いなことを考えてしまう。こんなに近くで顔を見るのは初めてだった。

「ありがとう」

 見とれていたかったが、そうはいかない。

 

 身動きできるようになったばかりの手足に命じて、体を起こした。

 強い魔力を感じた。サーバー室の中央に、目で見えるほどのマグネタイトが集まり、魔界との間に門を開こうとしている。

「DJ! 無茶だ、こんな量のマグネタイトで召喚する悪魔が、言うことを聞くはずがない」

「ケルベロスより強ければなんでもいい。邪魔をするな」

 DJはゲートのすぐそばに居た。

 

(自分は安全だから、強い悪魔を呼びだしても構わないと考えたわけか)

 部屋の隅には、油断なくDJを見張る魔犬ケルベロスの姿もあった。あの魔獣に害される前に手を打とうと考えたに違いない。

「マッシュ、どうするの?」

 ミクミクの姿もある。プリンをここに連れてきてくれたのだろう。

 

「このサーバーの管理権は俺にもある。接続して、この召喚を中止させる。キャンセルコマンドは一瞬で実行できるからな」

「させるな、コカトライス!」

《クェェエエエエエ!》

 邪龍が叫びをあげて、マッシュへと突撃してくる。一度石化させられた相手だ。イヤな思い出をぐっと飲み込んで、マッシュはアームターミナルに手を伸ばした。

 

(作戦どおりだ)

 プリンやミクミクが襲われていない理由はわからないが、DJの気が変われば彼女たちが狙われる。そうなる前に、自分へ意識を向けさせた。

「出ろ!」

 召喚コマンドを素早く実行する。契約済みの悪魔を呼びだすのは、DJがやっている昔ながらの悪魔召喚よりもはるかに早い。

 

 マッシュの足下からしみ出すように悪魔が現れた。それはすぐに体を大きく伸ばして、コカトライズの頭部にまとわりつく。

《ウォオオオオオ……》

 外道スライム。毒にはめっぽう強い……という情報どおり。コカトライズの頭をすっぽり覆っても、くちばしの毒で石にはなっていないようだ。

 

《クェエエェェェ!》

 スライムを引き剥がそうと、コカトライスが翼をむちゃくちゃに振って暴れる。精密機器の塊であるサーバーの表面がへこみ、削れ、時にはケーブルがちぎれていく。

「おい、やめろ、なんてことを!」

 DJが命令しても、悪魔は言うことを聞かない。

 

「よし。ジャックランタン、とどめを刺せ!」

《無理だホ》

 頭上で待機していたジャックランタンが、ふよふよと浮き上がったまま首を振った。

《魔力切れだホ。オイラの攻撃力じゃ、あのでかい悪魔を倒すことなんかできないホ》

「じゃあ……どうするかな」

 マッシュが立てた作戦はここまでだった。とっさに考えたにしては、うまくいった方だと自分を褒めておく。

 

「マッシュ、これ!」

 ミクミクが、見覚えのある木箱を持っていた。

「カギがかけてあったはずだろ!」

「外しといた」

 髪の中に隠したヘアピンを示して、ミクミクはいたずらっぽく笑った。

 

「でも、それは……」

 ミクミクが箱を開けた。中からは、黒光りする散弾銃(ショットガン)。イサカM37。

 テクラの命を奪い、DJが監禁され、ミクミクが新宿をさまよう原因になった銃だ。ミクミクにとっては、触ることさえ……いや、見ることさえ、考えることさえしたくないもののはずだ。

 

「悪魔に対抗する力が必要でしょ。あたしも、あの時から前に進みたい」

 震える手を伸ばして、銃を手にした。スライドする部分を動かして、弾を装填する。

 ずっしりと重かった。実際の重みよりもはるかに重く感じた。

 無言のまま、マッシュは銃を構えた。私設警察の訓練で、エアガンでの射撃練習はよくやっていた。銃を与えるつもりもないくせに何の役に立つのかと思っていたが、こんな時に役立つとは。

 

《クエエエエエエ!》

《ウォーーーレハァァァァァア誰ナンダアアアアアアア》

 意味のない叫びをあげながら、スライムはますますコカトライスにまとわりついていく。身動きは封じているが、一時的なものだろう。邪龍の力強い翼に負けて、スライムはどんどん小さくなっている。

 

(この引き金を引いたら、もう後には引けない……)

 テクラが死んだことから、すべては始まった。この銃を使わなくてもいいように、権力を持とうとした。DJを助けるために。ミクミクをイヤな思い出から解放するために。

 なのに、DJが呼びだした悪魔を倒すために、ミクミクにこの銃を持ってきてもらったなんて。

 

「うまくいかないな」

 嘆息したが、同時に納得もした。

 たぶん、きっと、東京で生きていくことはそういうことなのだろう。

 うまくいかない中で、自分が決断するしかない。

 

 マッシュは引き金を引いた。

 ガン、と音を立てて、散弾銃から飛び出した弾丸がコカトライスの横腹にいくつもの穴を開け、衝撃で巨体を傾がせた。

 青黒い悪魔の血がこぼれだしていく。だがまだ致命ではない。

 

「呼びだされただけのお前には悪いけど、石にされた恨みだ」

 ソードオフされた銃では、精度は低い。数歩歩み寄って、悪魔が身を起こす前に体の真ん中に銃口を向けた。

 

 ガン、と重い音がして、コカトライスは消え去った。

 

 

 ▷

 

 

「くそっ……!」

 DJは焦っていた。一度石にしたマッシュが復活しただけでなく、養父の銃を使ってコカトライスを倒してしまったのだ。

 門番として申し分ない悪魔だったはずだ。あの銃を持ち出してくるなんて。

 

「その銃も、このサーバーも俺のものだ。マッシュ、お前は二番目だったはずだ」

「そうだ。俺だって、DJに譲りたい……でも、誰かを支配するために使いたくはない」

「どうせ誰かが支配を始めるんだ。誰かが誰かを踏みつけないと、力を合わせることもできない」

 ちらっと小型アームターミナルに目を向ける。召喚プロセスは70%まで進んでいた。

 

(話をするでもなんでもいい。時間を稼いでフェンリルを召喚しさえすれば……)

 ケルベロスよりも強い悪魔だ。ショットガンでも歯が立たないだろう。新宿魔方陣の力でDJだけは安全だ。そうなったら、ゆっくりやり方を考えればいい。

 そのためには、まずプロセスを実行すること。それまで、マッシュの気を引く話でもしてやればいい。

 

「考えてみろ。俺とお前にどれほどの差があるか……」

 だが、マッシュは乗ってこなかった。

「俺はこれからサーバーに接続して、まずその召喚をキャンセルする」

 銃を手にして、つかつかと硬質なサーバー室の床を進んでくる。

「それから、魔方陣の設定を書き換えて、悪魔がDJに手を出せない状態も消し去るつもりだ」

 

「やめろ、マッシュ。俺たちが導いてやらないと、いずれ全員が死ぬんだ」

 足にチカラが入らない。だが、全力を振り絞ってマッシュにつかみかかった。

「みんな望んでここに居るんだ」

 マッシュを押し倒そうとするが、びくともしなかった。痩せたDJの腕力と体重では、警官の装備に身を包んでいる弟分を倒すことはできなかった。

 

「魔方陣の設定を変えれば、ケルベロスがDJを殺してしまう」

「やめろ……!」

「でも、あの悪魔と取引をした。やらないわけにはいかない」

「やめるんだ!」

 マッシュは銃を放り捨てて、両腕でDJの体を持ち上げた。

 

「DJ、たくさん世話になった。でも、新宿にもう王はいらない」

「やめろ、マッシュ!」

 筋肉の衰えた足では、押し返すこともできない。

「こうするしかない。いや……俺はこうする。きっともう会えないけど、今までありがとう」

 マッシュの両手が、思いっきりDJを突き飛ばした。背後には……魔界へつながる(ゲート)

 

「いつかは誰かが支配を始める。後悔するぞ!」

 叫びとともに、DJの体は門の中へ吸い込まれていった。

 

 

 ▷▷

 

 

 召喚プロセスをキャンセルするのに、手間はかからなかった。

 アームターミナルからサーバーに接続し、停止の命令を送る。すぐにゲートは跡形もなく消え去った。

 これで、魔狼フェンリルなどという、名前を聞くだにおそろしい悪魔が召喚されることはない。

 

《殺サセルツモリハナカッタノカ》

 ケルベロスが恨みがましくマッシュをにらみつける。

「俺が約束したのは、魔方陣を壊すか、DJを追い出すことだ。見ての通り、DJを追い出した。君はもう自由だ」

 魔獣は低くうなったが、やがて納得したらしい。

 

《イイダロウ。確カニ約束ハ果タサレタ》

 そして、地下室から魔犬は飛び出していった。おそらく、新宿からも去って行ったのだろう。

 

 魔界へと追放したDJのことは、考えても仕方ない。少しでも生きていられる可能性に賭けたのだ。ケルベロスによって殺されることを避けたことで感謝されるとも想っていない。おそらくは恨まれるだろう。自分で下した決断だ。マッシュにとっては、そう納得するしかなかった。

 

「さて、あとは……」

 サーバーに接続し、管理する権利を持っているのはもはやマッシュただ一人だけだ。

 新宿魔方陣の対象を自分に変えて、DJと同じように悪魔から身を守ることもできる。そうすれば、新宿にいる限り安全だ。

 

《これで強い悪魔も呼び出し放題だホ?》

 ケルベロスから隠れていたジャックランタンが顔を出した。

「お前にも言われたな、イケニエを出せって」

「確かに。あたしなんか二回もイケニエにされかかったんだよ」

 安全とみて、ミクミクは床に座り込んでいる。

 

「でも、結局は一度もイケニエにはならなかったじゃないですか」

 プリンは地下室の石像たちを順番に癒やしている。警官たちは混乱しつつも、聖女に救われたことを感謝していた。

 

「そうだな……」

 どうするか決める権利が、自分だけにある。今なら、自由と力、平和と安心を手にすることができる。

 プログラムを書き換えるだけで、『新宿の王』になることができる。

 

 だが、マッシュの脳裏に私設警察署で見た光景が浮かんだ。

 カオスヒーロー。新宿の住民や弱い悪魔たちを踏みつけにしても、いずれ誰かが、自由や平和を奪いに来る。

 

「決めたよ、ジャックランタン」

《なんでオイラに言うんだホ》

「退屈させるわけにはいかないからな」

 コンソールに指を走らせて、マッシュは『新宿魔方陣』を書き換えた。他の誰かが使うことを考えて居なかったのだろう。侵入も書き換えも、驚くほど簡単だった。

 

 

 ▷▷

 

 

 翌朝、新宿東口――

 

「未だに慣れないな、天井がないのって」

 新宿の外に踏み出して、マッシュはぽつりとつぶやいた。

 左腕にはアームターミナル。右の腰には、即席のホルスターで散弾銃が治められている。

 

「んー……っ、広くてくらくらするけど、明るいのはいいかも」

 その隣で、ミクミクがゆっくりのびをした。日差しの下でみると、紫の瞳が宝石のようにキラキラ光るように思えた。

 こっちは相変わらずの大きなパーカー姿だ。

 

「みて、ほら。ガイア教団にいた元警官にもらったんだよ」

 と、懐に隠した銃を見せる。ベレッタ92Fだ。

「整備の仕方を教えてね」

 銃を怖がる気持ちは、なくなったらしい……前向きになった証だと、マッシュは想うことにした。

 

「でも、いいの? 悪魔が入り放題になっちゃったけど」

 ちらっと目を向ける。今も、幽鬼マンイーターが東口を外から中へと通り抜けていった。新宿のディスコの評判がどこから広まったのか。死んでも踊り続けたい屍鬼たちが集まってきているらしい。

 

「ああ。DJが自分を守るために使っていた新宿魔方陣の設定を変えたから。今は()宿()()()()()()()悪魔に害されない」

「直接食べられることはなくなっても、トラブルは起きそうだけど……」

「そこはなんとかやっていくしかない。オザワが何でも決めてた時と違って、これからは全員で自分たちのやり方を考えないと」

「まあ……ね」

 市民たちが常に善良で賢明な判断をするわけではないことは、ミクミクもよく知っている。だが、今回は彼らに救われたのだ。信じてみる気になっていた。

 

「遅くなりました」

 日の下へ、別の人物が歩み出てきた。金と黒の二色(ツートン)の髪。白い服を新調したらしい。首元には銀のロザリオがかけられていた。

「私が新宿を離れることを、教会の皆さんが反対して……」

「よく説得できたな」

「アクター神父の教えを受けたあなた方ならだいじょうぶ、と伝えました」

 

「ジンカイ和尚もいるしね」

「まあ……そのうち、それなりのバランスができるだろう」

 ジンカイ和尚は一命を取り留めた。マッシュとミクミクに深く感謝し、いくつかの『手土産』を持たせてくれた。

 マッシュの見立てでは、いくらジンカイがメシア教会を尊重しているとしても、ガイア教団が勢力を増していくことだろう。

 

(どちらかといえば……カオスの街になっていくんだろうな。私設警察ももうないんだ。この地下街にいる人たちが決めればいい)

 とにかく、悪魔にむやみに襲われることはなくなった。完全に安全とも、完全に自由とも言いがたいが、以前よりも窮屈ではなくなったはずだ。

 

「で、新宿のサーバーを管理できる唯一のエンジニアが旅に出るのはどうして?」

 問われて、マッシュは空を見上げた。

 どこまでも続く空のなかで、白い雲が風に吹かれて流れていく。

 

「もっと東京を見てみたい」

「サーバーの管理は?」

「ほんらいは必要ないんだ。悪魔召喚やターミナルのプログラムを書いた人は恐ろしい天才だよ。エラーはDJが引き起こしているものだったけど、ソレさえなければ一〇〇年は誰も管理しなくても動き続けるはずだ」

「ふうん」

 聞いたくせに、ミクミクはあまり興味なさそうだった。

 

「そういうミクミクは、どうして?」

「あたしなんか、残ったってウェイトレスをやるだけだし。マッシュと一緒にいたいから」

 肩をすくめて見せてから、迷うように紫の目を泳がせた。

「……それに、探してる人がいるんだ。たぶん……東京のどこかにいるから。旅してまわるうちに見つかるかも知れない」

 

「プリンは……」

「あれです」

 そう言って、プリンは居並ぶビルのひとつを指し示した。

 

 新宿アルト……設置されているスクリーンに、ひとりの男が映っていた。

 スーツをきっちりと着ている。白髪だが、肌は若々しい。グリーンの目がらんらんと生気を放っている。

『東京の皆さん、こんにちは。私は、マイケル・サンデー。メシア教()()顧問デス。この東京タワーから、これからの正義について発信していマス』

 男の声らしい。ボロボロになった東京のなかでも、このスクリーンの音響は生きていた。

 

『私たちは今、行方不明になった聖女を探していマス。(サン)プリンシパリティという、とても尊い方デス。彼女を見かけた方は、どうか我々のところへ。この東京タワーまで連れてきてくださったら、十分な謝礼を用意していマス』

「知り合いか?」

「ええ、品川大聖堂でメシア教の哲学を教えていただきました」

 

 マッシュは後ろめたい気持ちを押し殺していた。

 もとはといえば、オザワの命令でメシア教会の護送を横取りしたせいでプリンは仲間を失い、不安に晒されているのだ。もっとも、マッシュがあのとき、オザワの命令に従わなかったとしても、外から来た誰かがオザワを殺していた。

 やらなかったらどうなっていたのかを考えても仕方ない。だが、少なくとも彼女にとっては、自分と関わらないほうがいくらかはマシだったかもしれないと想像してしまうのだ。

 

「手伝うよ。マップもあるし」

 新宿から東京タワーまで、たった3キロメートル。だが、地下街しか知らないマッシュにとっては、かなりの距離に思えた。

 

(サン)プリンシパリティの捜索にご協力を。それでは、今回はメシアの作る千年王国について話しましょう……』

 スクリーンでは、サンデーの語りが続いている。生放送なのか、録画したものを受信しているのか、マッシュにはわからなかった。

 

「それじゃ、決まりだね。東京タワーへ!」

 ミクミクが空の彼方を指さして、元気よく叫んだ。

「そっちは西です」

 そう言って、プリンが体ごとミクミクの向きを変えさせる……南東。青くかすむ地平に、高々とそびえる塔があった。

 

「オモチャみたいだ」

「東京でいちばん高い建物です」

 新宿との間にあっただろうビル群は、ほとんどががれきに変わっている。かつては、それらに隠れて見えなかったのだろう。

 赤と白の塗装もくっきり残っているその建築物は、まるで崩れ落ちた東京を見張っているようだった。

 

「とりあえず、渋谷を目指そう」

「そうですね」

「えっ、まっすぐ行けばいいんじゃないの?」

「大きい川があって渡れない。それに、街がある場所をたどっていったほうが安全だよ」

「ふうん……」

 ミクミクはよくわかっていない時の反応をしている。

 

「まっ、あたしはマッシュについてくよ。道案内はよろしくね」

「私からも、あらためてよろしくお願いします」

「ああ……」

 頭上の雲はどこに流れていくのだろうか。知るすべはないが、きっとどこかにたどりつくはずだ。

「今後とも、よろしく」

 

 こうして旅が始まった。




 ここまでが第一部です。
 全三部の後奏を立てて書いていたのですが、途中で創作以外にもやることが増えて更新が一年近く滞ってしまいました。
 6月に更新を再開してからは、週のノルマを決めて毎週更新できるようにしています。
 なかなかいいペースで書けているので、しばらくは(本作が完結するくらいまでは……)これを続けてみようと思います。

 せっかくここまで読んでいただけたので、ついでに↓の「評価」をお願いします。
(8点以上もらえたらうれしいですが、何点でも評価をもらえるだけでありがたいです!)

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第二部 東京
2-01_カブトムシ


「チュンチュン」

 鳥のさえずりらしきものが聞こえる。

 202X年の東京には、もう野生の鳥は生き残っていない……妖鳥や凶鳥と呼ばれる悪魔たちに取って代わられたのだ。

 だから、これは鳥のさえずりではない。そんなことはわかり切っている。

 

「よ、よく寝たなあ。……もう朝か」

 マッシュはベッドから体を起こした。こんなに上等な寝具を使ったことは今までにない。

「そうだ。お……音楽でも聞くか」

 自分でもわかるぐらいにうわずった声。ベッドの脇に置いてあったアームターミナルを腕に着けた。セットされているMD(ミニディスク)を確かめて、(PLAY)のボタンを押した。

 

 鼻先をくすぐる春

 リンと立つのは空の青い夏

 袖を風が過ぎるは秋中

 そう 気がつけば真横を通る冬

 

「んっ……マッシュ?」

 ベッドの上から声をかけられた。ゆっくりと体を起こすのは、黒と金、二色(ツートン)の髪を持つ少女だ。

「悪い、起こしちゃったか?」

「ううん。それより、朝ご飯、どうしよう?」

「ええ……と、そうだな。缶詰めでも開けて……」

 言葉に詰まったマッシュが目を泳がせる。

 

 なぜプリンと同じベッドに寝ていたのか。

 ()()()()()()()()()()()のだ。

 そういう設定で演じてくれと言われても、セリフが出てくるわけがない。

 

「ぜんぜんダメ」

 囁くようなウィスパーボイス。だが、その静かな声音の中には、明らかな怒りが含まれていた。

「こういうとき、大人は一緒にコーヒーを飲むんでしょ」

「そんなこと言われても、俺たちはコーヒーなんて滅多に飲めないんだ」

「私、苦いコーヒーは苦手です」

 どこからか聞こえてきた声に、マッシュとプリンが続けて反論する……と。

 

「今はそういう()()でしょ」

 光のない、暗い瞳が二人を覗き込んでいた。その瞳でさえ、()()()()()()()()()()()()

 血が通っていないのかと思うほどの白い肌。金糸のような輝く髪。人形のように整った顔立ち……愛らしいと思うべきなのかもしれないが、()()()()()()()()()()()()に対して、そんな感情を抱く余裕はない。

 

「でもさ、アリス……」

「友達の言うことが聞けないの?」

 自分の十倍以上も大きい相手から睨まれると、さすがに身がすくむ。

「もう一回。やり直して。あと音楽ももっと明るい曲にしてね」

 パンパン、と手を叩く音さえ、花火が打ち鳴らされているかのように感じる。

 

「だいじょうぶ、満足すれば解放されるはずだから……」

 傍らのプリンに目を向ける。彼女は諦めたように頷き、そっと肩を撫でて慰めてくれた。

(六本木なんかに来なければよかった)

 

 

 ◁◁

 

 

 マッシュ、プリン、ミクミクの三人は、新宿を出たあと、まずは渋谷に向かった。

 途中、遭遇する悪魔を仲魔に加えて旅は順調に進んでいた。

 渋谷センター街で聞き込みを行ったところ、目的地である東京タワーへの道のりは六本木からの地下道が通るのがいいだろうという結論に達した。

 

「六本木から帰って来たやつはいないんだ。よほど楽しいところなんだろう」

 ……という、不穏な情報もないではなかったが、とにかく行ってみるしかない。

 

「この街は赤伯爵の結界に守られていて安全だぜ。悪魔も入って来られないんだ」

「だから私たち、ずっと遊んでいていいのよ!」

 バーにたむろする男女はそんな風に語っていた。

 

「悪魔のいない街……か」

「前の新宿と同じだ。なんだか、イヤな感じがする」

 パーカーのポケットに両手を突っ込んで、ミクミクは落ち着かない様子で当たりを見回した。

「ここにいる人たち、生気がないっていうか、盛り上がってるフリしてるだけっていうか……」

 ミクミクは元・新宿のディスコのウェイトレスだ。夜ごと盛り上がる場所の経験は豊富である。

 

「たしかに、不自然な印象です」

 プリンも同調する。メシア教の聖女として教育を受けた彼女にも、感じるものがあるらしい。

「俺たちはここを通って地下道を通りたいだけだ。そうすれば、銀座まで行くことができる」

 アームターミナルにダウンロードされている地図(マップ)データを確かめながら、マッシュは肩をすくめた。

 

「問題は、赤伯爵とやらが張った結界がある限り、地下道が使えないってことだ」

「じゃあ、どうするの?」

「頼んでみるしかないでしょうね」

 プリンがおっくうそうに肩を落とした。

 

「プリンは品川から渋谷に来たんだろ? その時はどうしたんだ?」

「霊鳥の力を借りて川を渡りました。ですから、この街には来ていません」

「俺たちもメシア教会の力を借りられればいいけど……」

「新宿の事件と、渋谷のメシアのことで手一杯みたい」

 新宿メシア教会は指導者だったアクター神父を失って、急速に縮小している。渋谷から援護の人員が送られる……はずだが、渋谷は渋谷で教会にとっての大事件が起きているらしい。

 

 とにかく、いかにプリンが教会にとってのVIPだからといって、教会の支援は期待できないということだ。

 

「町ごと結界で覆えるような力の持ち主だ。交渉できるかどうかはわからないけど、会えるものなら会ってみよう」

 はたして六本木ビルの上層、この街の支配者である赤伯爵のいるフロアまでやってきた、のだが……

 

「赤伯爵様は、ただいま私の主人と面会をしています」

 すらりとした美女が頭を下げる。超然とした雰囲気で、気品を感じさせる。ハッとするほどの美貌を持ちながら、これといった特徴が感じられない顔だ。視界から離れたら、次の瞬間にはどんな顔だったか忘れてしまいそうだ。

 彼女の傍らには、なぜかラクダが立っていた。

 

「どれぐらいかかるんですか?」

「さて……お二人とも、ふつうの感性とはかなり違った方ですからなんとも」

 遠い目をして、美女はため息をついた。

 

「赤伯爵には会えないらしい」

 ラクダの様子をうかがっている少女達に言いながら、少し身をひいた。

「どうしよう?」

「待つしかないような……」

「困ってるの?」

 不意に、聞き覚えのない声が混じった。

 

「うわっ!?」

 いつの間にか、三人の輪の中に別の姿が混じっていた。

「びっくりした?」

 少女だ。ミクミクやプリンよりもさらに幼い。未発達な、心配になるほど細い肩をくすくすとふるわせて笑っている。

 白粉を塗り付けたかのように真っ白な肌。金色の髪。ドレスのような青い服を着ている。東京ではおよそ見かけることがないような姿だ。

 

「こ、こんにちは。あなたは……」

「私、アリス。ねえねえ、お兄ちゃんたち、どこから来たの?」

「新宿から……」

 あまりにも幼い姿に驚かされて、正直に返事をする。

 

「新宿って、最近人がたくさん死んだんでしょ? お兄ちゃんたちはまだ死んでないの?」

「死んだって……」

 無邪気な表情と声色から、当然のように言われてあっけにとられてしまう。

 

「亡くなった人のためにたくさん祈りました。私たちは、銀座に行きたいの」

「ふーん……じゃあ、通してもらえるように赤おじさんにお願いしにきたんでしょ?」

 言い含めるようなプリンの言葉をさらりとかわして、アリスは通路の先をちらりと見た。赤伯爵の部屋の扉の前にいる美女は、微動だにせず直立し続けている。

 

「私が手伝ってあげようか?」

「手伝うって言っても……」

「私が言うことなら、赤おじさんはなーんでも聞いてくれるんだよ」

「ほんとう?」

「もちろん。この街だって、アリスのために赤おじさんと黒おじさんが作ってくれたのよ」

 突拍子もない言いぶりだが、アリスは自信満々だ。少なくとも彼女にとっては、それが本当のことだと思っているのだろう。

 

「アリスと友達になりたいでしょ?」

 三人は顔を見合わせた。子どもの遊びに付き合うのもシャクだが、今は他に手がかりがない。

(どうせ面会とやらが終わるまで何もできないんだ。もしかしたら本当に赤伯爵がこの子の言うことを聞いてくれるかもしれない)

 プリンとミクミクも、おおむね同じような結論に達したようだ。

 

「プレゼントが欲しいな」

 アリスはにっこり笑っている。自信満々……どころか、傲岸不遜と言ってもいいほどの笑顔だ。世界が自分を中心に回っていると信じて疑わない姿だ。

 

「プレゼントって、マッカのことか?」

「マッカなんて、ぜんぜんつまんない! 女の子へのプレゼントにお金を渡すなんて、何にもわかってないんだから」

「たしかに、そうですね」

「マッシュ、もっと気づかいを学んだ方がいいよ」

「なんで俺が批難されてるんだ……」

 すっかり女性陣から共通の敵にされてしまっている。

 

「いいのがあるよ」

 そう言って、ミクミクがウエストバッグをごそごそとやってから、何かを取りだした。

 丸い、卵形のおもちゃだ。ボタンが三つついている。てっぺんについているボールチェーンをミクミクが握って、ぶら下げたそれをアリスの胸元にさしだした。

 

「なに、これ?」

「大破壊前のおもちゃだって。もう電源は入らないみたいなんだけど。丸くてかわいいでしょ」

「うん! 安っぽいけど、それが逆にかわいいかも」

 アリスはそれなりに気に入ってくれたようだ。人からものをもらうのが好きなのだろう。

 

「そんなもの、どこで手に入れたんだ?」

「渋谷のジャンク屋で、ちょっとね」

「買ったのか?」

「いやー……あはは」

「盗んだんですか?」

 信じられない、という顔でプリンが口元を押さえる。

 

「ちがう、ちがうって! ジャンク屋の床に落ちてたの。落ちてるものは売り物じゃないでしょ」

「何かの拍子に落っこちたんじゃないか?」

「だとしても、大事な商品ならすぐに戻すはずでしょ。だったら、なくなっても気づかないくらいどうでもいいものだったんだよ」

「そういう時は、店主に声をかけて売り物かどうか確かめるのが決まりでは?」

「どこにもそんなこと書いてなかったよ。あたしだって、書いてあったらそうしたけど」

「だからって……!」

 

「あはっ、おもしろい!」

 プリンとミクミクが言い争う姿を見て、アリスが大きな声で笑い出した。

 廊下に寝そべるラクダがぼんやりと眠たげな目でそれを見ている。

 

「お姉ちゃんは、ガイア教徒ね?」

 ミクミクのおもちゃを受け取りながら、アリスが微笑む。

「こっちの白いお姉ちゃんは、メシア教徒」

「ええ……」

「ガイアとメシアが一緒に旅をしてるなんてふしぎ! すぐ敵同士になっちゃうのに」

「滅多なことを言わないでくれ」

「プレゼントは大したことないけど、おもしろいから気に入ったわ。ねえ、私の部屋に来て」

 

 白い(おもて)に妖しい笑みを浮かべて、少女はスカートを摘まみ、片膝を曲げて礼をした。カーテシーというやつだ。

 

「お茶会に招待するわ」

 

 

 ▷▷

 

 

「これは……すごいな」

 六本木ビルの一角。アリスが案内してくれた部屋は、感じたことのない空気に包まれていた。

 細やかな模様の描かれた壁紙。金糸のふちどりがされたカーテン。輝きそうなほどに白いテーブルと椅子。ベッドシーツにはレースの刺繍が入っている。少女の全身を映すことができる姿見なんて、この東京にどれほど現存しているのだろうか。

 そのうえ、そのどれもがまるで生者との関わりを絶っているかのように清潔だ。

 

「これって、ドールハウスですか? 初めて見ました」

 プリンが興味をひかれたのは、一角の壁に飾られた豪華なミニチュアだ。二階建ての屋敷の一面の壁を取り除いたような姿をしている。その中には細かな家具が整然と置かれ、文明が破壊されるはるか以前の暮らしを再現しているのが見て取れる。

 

「そう。私のお気に入りなのよ」

「でも、家だけ? こういうのって人形を使って遊ぶんじゃないの?」

「いいの。私には私の遊び方があるから」

 アリスはツンと背を向けてから、ワゴンに乗せたティーセットを運んできた。

 

「それより、お茶を飲みましょう」

 アリスがティーカップを並べ始めた。ミクミクが「手伝おうか」と言ったが、「お客さんにさせるわけにはいかない」と断られた。

(一種のごっこ遊びだろうか)

 マッシュは居心地悪く、ただ座っていた。こんなことをしていて赤伯爵に会えるのかどうか、さっぱりわからない。

 

「ケーキもありましてよ」

 大人ぶった仕草で、一口サイズに切り分けたパウンドケーキを皿に乗せる。

「ずいぶん用意がいいんだな」

「いつお客さんが来てもいいように、いつも準備しているの」

 楽しそうに少女が笑う。どうやら彼女はこの状況を心の底から楽しんでいるらしい。

 

「ケーキ!」

 プリンが両手を組み合わせ、「主への感謝」を伝える祈りの仕草をとった。

「何か書いてあるけど……なんだろ」

「『EAT ME(私を食べて)』……とありますね」

「本人に言われたら、食べるしかないな」

 おのおのがケーキを取った。マッシュは手づかみで。ミクミクはフォークに刺し、プリンはふたつに切り分けてから口元へ運んだ。

 

「いただきまーす!」

 アリスはにこにこ笑いながらその姿を見ていた。

「今日はとっても素敵な日だわ。ねえ、もっと遊びましょう」

「ああ……赤伯爵の用事はまだ終わらないのかな?」

「マッシュ、いま言うことじゃないよ」

 ミクミクが咎めるが、マッシュにとってはいつまでこの少女の遊びとやらに付き合わなければならないのかと気が気でない。

 

「マッシュは少し気が短いのよ。アリス、お姉ちゃん達と遊びましょう」

 プリンが笑みを返す。が、ふとアリスの表情から笑みが消えた。

「うーん、ちょっと違うかな」

 そして、ゆっくりと言い含めるように続けた。

「アリス()お姉ちゃん達()遊ぶんだよ」

 

「何を言って……っ?」

 くらっと目の前が揺れた。急に視界が縮まっていく。テーブルの上を見ていたはずなのに、いつの間にかその裏側を見ている……見上げている。

「お茶会はもうおしまい」

 はるか頭上から、アリスの声が聞こえてくる。

「お人形遊びをしましょう」

 

 

 ▷▷

 

 

「お兄ちゃんはこのお屋敷の旦那様。白いお姉ちゃんは奥様ね」

 白い少女の右手がマッシュを、左手がプリンを掴んでいる。少女の胸の高さまで持ち上げられただけで、床がはるか遠くに見える。ぞっとするほどの高さだ。

 

「俺たちに何をした……」

 頭がくらくらする。なんとか首を上にあげると、人形のように整ったアリスの顔が見えた。ただし、その顔だけでマッシュよりも大きい。

「体が小さくなるケーキを食べさせたの」

 悪戯が成功したときのように、アリスは楽しそうに笑っている。

 

「12分の1よ。このお屋敷と同じ大きさ」

 マッシュとプリンは、並べてドールハウスの2階に置かれた。

「こっちのお姉ちゃんはお屋敷のメイドさん。うふ、よく見ると目が紫で綺麗ね」

「あ、アリス。これって元に戻るんだよね」

 間近で見つめられて、ミクミクの身が恐怖にすくむ。

 

「遊び終わったら戻してあげる。でも、つまんなかったら……」

 アリスの指がミクミクの首を摘まんだ。そのまま捻れば、ちぎり取ることもできそうだ。

「じょ……冗談だよね」

「うふふふ……」

 アリスの瞳が、妖しく光った。

 

「悪魔だ……」

 その時、ようやくマッシュは思い至った。少女の正体に。

「悪魔なら、そのコンピューターでわかるハズなんじゃ?」

「高位の悪魔が正体を隠してたら、そう簡単に解析できない。まずい、これだけ人間に化けられるってことは、相当強い悪魔のはずだ。油断した……近づくべきじゃなかった」

 後悔している場合ではない。こうなったら、生き残ることを考えなければ。

 

(俺が契約してる悪魔じゃ、勝てないだろう。召喚したら、怒りを買うかもしれない)

 この状態で出てくる悪魔もミニチュアサイズなのか興味はあるが、試す気にはなれなかった。

 

「わかった、アリス! 俺たちはどうすればいい?」

「今のお兄ちゃんたちはアリスのお人形よ。うーん、じゃあまずは、朝のお目覚めからにしましょう」

 アリスはドールハウスの1階にミクミクを立たせると、2階にある寝室にマッシュとミクミクを運んだ。

 

「ほら、ベッドに入って」

(これのどこが「お人形遊び」なんだ)

 心の中でぼやきながらも、逆らうわけには行かない。今や、マッシュの体は12分の1まで縮んでいるのだ。アリスの細腕にも敵うわけがない。散弾銃も、このサイズではとうてい通用しないだろう。

 

「どうしましょうか……」

 無理やり押し込まれたベッドの上で、プリンが不安げにつぶやく。

「悪魔が言ったとおりに、満足させて元の大きさに戻してもらうしかない」

 ベッドに潜り込みながら、密かに囁きあう。プリンの体温を感じた。失うわけにはいかないと思った。

 

「朝になって鳥が鳴いたらはじめてね」

 

 この場を支配する暴君となった少女が、楽しそうに笑っていた。

 

 

 ▷▷

 

 

「それじゃあ、朝ご飯のためにメイドさんを呼びましょ」

 ドールハウスのなかを覗き込む瞳を輝かせながら、アリスは1階にいたミクミクを掴んだ。

「ぎゃっ……」

 夫婦の寝室の扉の前に、そのままミクミクを立たせる。力の差は歴然だ。

 

「お邪魔しまーす」

「失礼します、でしょ」

「し、しつれいします」

 細かい演技指導にも、笑顔で応じるしかない。

 

「ええと……ごはんができてます」

 ミクミクなりに、メイドらしく振る舞おうとしているのだろう。もちろん、メイドなんて見たこともない。

「ありがとう」

「す、すぐに行くわ」

 マッシュにしてもプリンにしても、よくわからないままそれらしく演じるしかない。

 

「うーん、ぎこちないなあ……」

 暴君の気に召さないらしい。アリスはしばらく考えてから、不意にぽんと手を打った。

「そうだ。実は夫婦の仲は冷え切っていて、もう二人の間に愛はないんだわ」

 そうして、今度はプリンの体を掴む。

 

「あ、アリス。もっと幸せな家庭のほうが……」

「こっちのほうが面白いわ」

 子どもらしい不機嫌さでプリンを睨み、アリスがぐい、と胸の辺りに力を込める。

「うっ……」

 呼吸が塞がれる。体が小さくなっている今、息をするのさえ少女の気分次第だ。

 

「『先にダイニングに行っているわね、あなた』」

 アリスが声色を変えてプリンを1階に動かす。今度は、部屋のなかにマッシュとミクミクが残された。

「そして、実は旦那様とメイドは禁断の恋をしているの」

「えぇ!? そんなこと言われても……」

 もはや文句を聞くつもりさえないらしい。アリスは寝室にいるマッシュとミクミクの背を指で押した。

 

「奥様の目を盗んでは、熱い抱擁やキスをするのよ」

「お、おい……」

 年端もいかない少女の指で無理やりに押され、二人の体が密着する。人形遊びそのままの扱いだ。

 

「い、痛いよ」

「早く抱き合って」

「わかったから、押さないでくれ!」

 背中を無理やり押されると、今やマッチ棒よりも細い肋骨が折れてしまいそうだ。先に折れるのは、ミクミクの方だろう。

 

「ミクミク……」

(少しだけガマンしてくれ)

 アイコンタクトを送り、体に手を回す。ミクミクはふだん、体型がわかりにくい服を着ているから、改めて体を触れあわせるとその細さに驚かされる。

「マッシュ……」

 見つめられたミクミクのほうは、さっと顔を伏せて視線を逸らした。意図が伝わっているのかどうかはわからない。

 

 二人はしばし抱き合ったまま動きを止めていた。精巧に作られたミニチュアの部屋の中は、今まで見てきた世界とはまるで別物だった。

 暗くよどんだ新宿地下街とも、粉々の瓦礫が積み上がる東京ともまったく違う。清潔で美しく、調和の取れた世界。

(こんな場所で暮らせたら、どんなによかったか……)

 よく知った少女の体温を感じると、いまの危機も忘れてしまいそうになる。

 

「それじゃあ、次はキスよ」

 アリスは楽しそうにドールハウスの中をのぞき込みながら、口元を指で隠している。まるで純情可憐な少女のようだ。少なくとも、見た目は完全にそう見える。

「アリス、そういうことは無理強いしては……」

「いい子ぶらないで」

 一転、プリンへ向ける目は氷でできているかのように冷え切っていた。

 

「やっぱり、メシア教徒ってキライ。捨てちゃおうかな……」

「ま、待て。わかった。こっちを見てくれ」

 悪魔の気を逸らさなければならない。マッシュは声をあげて、腕の中のミクミクを抱き寄せる。

 

「マッシュ……あたしは、いいから」

 ぎゅっと体をあずけながら、ミクミクが小さく囁いた。

「いいって……でも」

「いまさら、やらないわけにはいかないでしょ。ほら……」

 ミクミクがつま先立ちになる。二人の身長差は18センチ。今は1.5センチだ。

 

「うふふ。身分違いの恋ね……」

 アリスは夢中になってその姿を見つめている。

(子どものくせに、マセすぎだ……)

 だが、機嫌を損ねれば三人とも殺されてしまう。

(でも、ミクミクは……)

 幼い頃から共に過ごした相手だ。妹のようなものだ。そんな相手と、ましてや少女のご機嫌取りをするためにキスなんて、妹分の貞操を軽く扱いすぎだ……そんな葛藤で、マッシュが動きを止める。

 

「どうしたの? 早くして」

 コクハクな声が頭上から降ってくる。このままでは、アリスが機嫌を損ねてしまう……

(こんなこと、いいのか……ええい、仕方ない!)

 心の中で決断を下したとき……

「ごめん、マッシュ」

 閉じていたミクミクの目が開き、紫の瞳が妖しく輝いた。かと思った瞬間、マッシュの全身が硬直した。

 

「……っ!?」

「まあ、大変! 旦那様はきっとご病気なんだわ!」

 金縛り(BIND)にあったマッシュの体をベッドに倒しながら、演技がかった口調でミクミクが叫ぶ。

 

「まあ!」

 アリスは口を押さえて驚いている。意外な展開と、ミクミクが見せた妖しい術を気に入ったらしい。

「それで、どうなるの?」

「あたしなんかじゃなくて、奥様の愛がこもったキスじゃないと治らないわ、きっと」

(なんだ、その気の使い方は……!)

 ミクミクは、マッシュがキスするのをイヤがったのだと思ったらしい。プリンに惚れていると勝手に思い込んだのか。それで、兄貴分の思いを叶えてあげることにしたようだ。

 

「ちょ、ちょっと!」

「ほら奥様、早くいらして」

 1階で抗議の声をあげるプリン。ミクミクは2階の床の端から下を覗き込んで手招きした。

「わ、私は、そういうことは……」

 口元を隠して、プリンは首を振る。もちろん、メシア教の聖女にとって、異性との触れ合いは望ましい行いではない。

 

「そんなの、面白くないわ」

 不意に、アリスが冷めた目でつぶやいた。

「真実の愛なんかで誰かが助かったりしないの。そうだ、こうしましょう」

 アリスは再び、プリンの胴を掴んでドールハウスからひっぱり出した。

「きゃ……っ!」

 今まで以上に乱暴な掴みかただ。そのまま、アリスは部屋の隅からカーテンで隠されたカゴを持ってくる。

 

「旦那様の病気は奥様がかけた呪いのせいだったの」

 カーテンがかかったカゴと、プリンを並べてテーブルの上に置く。

「ど、どういうつもり?」

 恐ろしげに声を震わせながら、プリンがアリスを見上げる。聖女の恐怖の表情を、悪魔はサディスティックに見下ろした。

 

「呪いをかけた奥様は、その代償として悪魔に体を差し出すことにしたの……」

 陶酔したように、アリスが語る。そして、カゴにかけたカーテンを開いた。

《クルルルルル……》

 カゴの中から、不気味な鳴き声とともにぬっと影が姿を現した。

 

「魔界の妖虫よ。黒おじさんが私のために捕まえてきてくれたの」

 黒々とした甲羅に包まれた甲虫だ。だが、腹から下はナメクジのようにねばねばした軟体になっている。

「あら。お姉ちゃんのことを気に入ったみたいよ」

 妖虫はプリンの姿を認めると、頭部のツノを突き出した。カブトムシのツノに似ているが、そのなかから赤黒い肉の突起が現れて、白く濁った粘液をぼたぼたと垂らした。

 

「やめて、こんなこと……」

 胸元のロザリオを握りながら、プリンが懇願する。

「愛の力でなんとかしてみたら?」

 プリンが逃げられるのはテーブルの端までが限界だ。小さくなった体では、床に飛び降りるだけでも致命傷に違いない。

 

「アリス、こっちで遊ぼう。あたし、なんでもするから……」

 ミクミクも妖虫を止めようとするが、ドールハウスからでは魔力が届かない。できることは、支配者に助けを求めることだけだ。

(くそ……)

 マッシュは金縛りのまま、身動きが取れない。ただ心中で毒づくだけだ。

 

(俺にもっと力があれば……)

 無力感に苛まれていたとき……

 

 コン、コン。

 

 不意に扉がノックされた。

「アリス。閣下に挨拶をしなさい」

 

 

 ▷

 

 

「赤おじさん?」

「そうだ。入るぞ、アリス」

 繊細な飾りが彫られた扉が開かれる。その向こうから、誰かが入ってきたらしい。

 その存在感を感じてか、妖虫がぴたりと動きを止めた。

 

(赤伯爵か……?)

 金縛りにあったマッシュに見えるのは、ドールハウスの天井だけだ。だが、部屋の中の空気が大きく変わるのを感じていた。

「こちらです」

 赤伯爵に続いて、誰かが入ってくる……その姿はマッシュからは見えなかったが、アリスの表情が引き攣っていくのがわかる。

 

「ふむ……」

 入ってきた『誰か』が、部屋の中を見回すのがわかった。低く、落ち着いた男の声だった。

「ここは東京の東西をつなぐ要所だ。だから、最も信頼できる部下に任せたわけだが……」

 蕩々と男の声が語る。赤伯爵もアリスも、その誰かの表情を伺っていた。プリンも、ミクミクも身動きできなくなっている。

 

「ご……ごきげんよう、サイファー様……」

 アリスはすでにこの場所の支配者ではなかった。かしこまりながら、深々と礼をする。万が一にでも機嫌を損ねてはならないと感じているのが目に見えるようだった。

 

「やあ、アリス。君のことは赤伯爵から聞いているよ。遊んでいるところを邪魔してしまったかな?」

「い、いえ……」

「さて、伯爵」

 声の主の足音が、テーブルに近づいていく。

 

「結界を張って街を守るのはいい。人間もかなりの数が集まっているようだ。さすがの手腕だ」

「あ、ありがとうございます」

「だから、多少の『お楽しみ』には目をつぶるつもりだ。だが……」

 テーブルの上には、プリンと妖虫がいるはずだ。声の主が注目を向けると……

 

《ピギッ!》

 妖虫が断末魔の声をあげた。

(睨んだだけで殺したのか……?)

 状況がわからない。だが、いかに低位の悪魔とはいえ、どれだけの力があればそんなことができるのか。

 

「伯爵、()()()()()()()()()()()()()()?」

 男の声音が変わったわけではない。だが、異様なプレッシャーが部屋に満ちていくのがわかった。

「い、いや、その……」

「私は自由を何よりも重んじている。だから、君が人間どもから搾り取ったエネルギーを使ってしたいことが本当にこんなことなら、大いにやればいい」

 

「赤おじさん……」

 アリスの声は震えていた。

 

「もう一度聞くぞ。伯爵、()()()()()()()()()()()()()()?」

「そ、それは……」

 沈黙の時間はごくわずかだった。

 

「アリス、子供じみた遊びはほどほどにしなさい……」

 明らかに、赤伯爵の言葉は本意ではなかった。それほど、もう一人の男を恐れているのだ。

「ご、ごめんなさい。がっかりしないで……」

「がっかりなどしていないよ、アリス。ただ、伯爵には知っていてほしかったんだ。私はいつでも君たちのことを気にかけているとね」

 そして、男は部屋を出て行った。赤伯爵もそれに続く。

 

 あとには、泣きじゃくるアリスが残されている。

 

「なにがどうなって……」

 ようやく、金縛りが解けた。いや、すでに解けていたがプレッシャーで体を動かせなかったのかもしれない。

 

「あなたたちのせいだわ」

 アリスはかんしゃくを起こした子どもそのままの姿で叫んだ。

「街から出て行って! もう顔も見たくない!」

 

 

 ▷▷

 

 

 それからはすぐだった。三人が床に並べられ、アリスがコーラ瓶の中身を振りかけると、体の大きさはすっかり元に戻った。その液体はひどくすっぱいにおいがして、少なくともコーラではないことはたしかだった。

「生きてる人間なんて嫌い。次からは、友達にはまず死んでもらわなきゃ」

 というのが、彼女にとっての反省の言らしい。

 

 そのまま、六本木の住人に結界の外まで連れ出された。

 

「……六本木の地下道から銀座方面に行くのは……もう諦めたほうがいいだろうな」

「アリスに見つかったら今度こそ殺されるよ、絶対」

 いま無事であることを信じられない、というように、ミクミクは自分の手を見つめていた。

 

「別の手段を探しましょう。きっと、他の道があるはず」

「そうだな。渋谷に戻ろう」

「今日のこと、一生忘れられなさそう」

「俺もだ」

 

 空は夜だった。

 どこへ辿り着くともしれない流れ星が一筋きらめいた。




第二部はオムニバス的に各地を巡る話になります。


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2-02_ぼくらが旅に出る理由

 渋谷――

 参拝者が作る長い列が、建物の外まで続いている。

 破壊された渋谷において、長らく人々の中心になっていたのは、渋谷メシア教会を中心としたセンター街だ。

 だが現在は、その機能はほとんど停止状態にある。理由は……

 

「この街にいたメシア様に、悪魔が取り憑いてしまったんです」

 プリン――(サン)プリンシパリティの声はあきらかな落胆を含んでいた。

「元はといえば、私が品川から東京の西側にやってきたのは、彼女を癒やすためでした」

 

「悪魔が取り憑いたって、ほんとう?」

 長い列の最後尾に加わりながら、ミクミクが問いかける。

「はい。そうとしか考えられません。肉体の傷なら、私の力で癒やすことができます。しかし、心の奥底に何かが潜んでいたようなのです。肉体は万全でも、心が乱れてしまっては……」

 プリンの声は沈んでいる。黒と金の二色(ツートン)の髪は、かなり目立つ。彼女の姿に気づいた参拝者たちが、時折声をかけてきた。

 

「その姿は、聖女様では? メシア様に会うのでしたら、お先にどうぞ」

 と、プリンに順番を譲ろうとするのだが、そのたび彼女は、

「メシアの前に人は平等です。でしたら、そのお姿を拝する順番も、平等に並んだ順とすべきです」

 といって、断るのだった。

 

(妙だ)

 と、マッシュは感じていた。

(メシアっていうのがほんとうに世界を導くほど強い存在なら、悪魔なんかにとりつかれるはずがない)

 メシア教の重要人物であるプリンの前で言うことははばかられたが、疑問は尽きない。

(だいいち、メシア教の喧伝ではメシアは完全な存在のはず。悪魔がつけいるような隙が生まれるのは、『渋谷のメシア』の心が不完全だからじゃないか)

 

 マッシュの疑念をよそに、ふたりの会話は続いている。

「そのメシアとプリンは知り合いなの?」

「はい。品川にある修道院でともに過ごしました」

「修道院?」

「メシア教の司祭となるために教育を賜る場所です。いろいろなことをともに学びました」

 プリンが懐かしげに彼方を見上げた。ふだん、あまり見ることのない表情だ。

 

「メシア教が特別な力を持った子供を集めていたっていう施設か」

「マッシュ、そういう言い方ってないでしょ。プリンにとっては故郷みたいなものなんだよ」

「いえ……確かに、戒律に縛られた厳しいところでした。メシアは、私にとっては姉……のようなものでしょうか」

「お姉さん? そんなに親しかったんだ」

 お互い、同年代の友人が少なかったからだろうか。少女らの会話はよく弾むようだ。

 

「はい。とても優れた方で、なにをしても修道院で一番でした。私はいつも二番で……」

「プリンもじゅうぶん、すごいと思うけどな」

「いえ、そんな。あの方とは比べるべくもありません」

 その時、長い列の前方がざわつき始めた。すぐにざわつきは大きくなって、三人のところまでとどく。

 

「本日、あまりにも参拝者の数が多いので、メシアへの拝礼を制限します。メシアの様子を鑑みて、拝礼は女性だけ! 男性は本日、拝礼できません!」

 メシア教のネオファイトたちが声を上げ、列のなかから男を見つけては追い出しているようだ。

「……どうする?」

「ふたりだけで行ってくれ。俺は適当に時間を潰すよ」

 こんなところで無理を通す必要はない。『渋谷のメシア』がメシア教会の言うとおりの存在なのかを確かめたくはあったが、見るだけでそれがわかることもないだろう。

 

「ご無事で」

「平気だよ。仲魔も増えたし」

「じゃあ、後で……待ち合わせは、決めたとおり、あそこでね」

 二人に手を振って、マッシュは列を離れた。

 

 

 ▷

 

 

 かつては、このあたりに「駅」があったらしい。そして、いまマッシュがいる場所は「広場」だった。残念ながら、周囲の建物のほとんどががれきとかして、どこまでが広場だったのかはよくわからない。

「ほんとうに犬の像が立ってるんだな」

 なんてことのない犬の像。マッシュに読める漢字はあまり多くないが、像の台座に書かれている『ハチ公』の字は読み取ることができた。

 

 犬は、この東京でも時折姿を見かけることがある。人間と同じく、しぶとく生き延びている生き物だ。

「あの様子だと、二人が戻ってくるまで何時間もかかりそうだ」

 待ち合わせ場所に先にやって来たのはいいが、いつ彼女らが戻ってくるかわからない。

 

(まあ、いいさ。いつも時間の潰し方は決まってる)

 マッシュはアームターミナルに設置したMDプレイヤーを操作して、イヤホンを耳につけた。

 音楽。新宿地下街では、一人でいる時間はとても長かった。だから、いつもこうして曲を聞いていた。たった36曲だけを、繰り返し。

 

 東京タワーから続いてく道 君は完全にはしゃいでるのさ

 

 遠い時代の誰かの声。おそらくは、男だろう。こんなに澄んだ男の声を、マッシュは聞いたことがない。

(俺たちのことを歌っているみたいだ)

 はるか昔に作られた歌のはずなのに、まるで自分のために作られた歌のように聞こえた。それが流行歌というものだなんて、彼には知りようもない。

 

 ぼくらの住むこの世界では旅に出る理由があり

 誰もみな手をふってはしばし別れる

 

 知らぬ間に口ずさんでいる。何度も何度も繰り返し聞いてきたから、聞かなくても歌えるほどだ。

(新宿を出て旅に出る理由……)

 プリンを品川に連れて行くためだ。だが、それだけではないはずだ。この旅路には、危険がついてまわるはずだ。すでに六本木で死ぬようなめに遭っている。それでも、マッシュは旅を続けたいと思っている。

 

(ここで、プリンをメシア教会に預けるべきだろうか?)

 渋谷のメシアの件で、渋谷は大あらわだ。

 あたりから漏れ聞こえてくる噂によれば、

「メシア様が動けないからって、ガイア教の連中が襲ってきて。教会の再建には何千マッカもかかるらしい」

 事実、センター街ですら荒らされ、こうして野ざらしの広場にはぼろ切れを身にまとった浮浪者があふれている。

 

 渋谷メシア教会に聖女を守り切るほどの力が残っているかはわからない。だが、それでも一介の悪魔使いが護衛をしているよりはよほど安全ではないか。

(時間はかかっても、いつかメシア教会が東京タワーまで届けてくれるだろう。俺なんて、どうやって連れて行くかも決まってない)

 東京の東西を繋ぐ地下道は六本木の赤伯爵のせいで通ることができない。あとは川を超えるしかないが、危険な水棲悪魔が居るなかを悠長に泳いで渡るわけにもいかない。

 そんなことを考えているうちに……

 

「おい、まだこんなところにいたか。いい加減、帰ってこない兄貴なんか待つのはやめてうちに来い!」

 がなり立てる声が、イヤホンの向こうから聞こえた。

 見れば、ボロを身にまとった少女らに男が絡んでいるようだ。

 

「ま……まだ、お兄ちゃんが帰ってくるかも知れない」

 少女のうち、年長のほうが応えた。年長と行っても、十歳にとどくかどうかだろう。痩せた、か細い少女だ。

「お前たち、まだ兄貴を信じてるのか? わかるだろう、あいつはお前たちを見捨てて逃げ出したんだ」

「そんなことないもん! 宝石を見つけて帰ってくるんだもん!」

 少女の金切り声が重なる。あたりの人々は、面倒ごとを避けてさっさと逃げ出したようだ。

 

 あとは、幼い少女らの腕を引っ張る男と、マッシュだけが広場に残っている。

「何見てんだ、てめー」

 お決まりの因縁をつけて、男がすごんだ。

 相手のほうから声をかけてきたのだ。無視するわけにもいかなくなって、マッシュはイヤホンを外した。

 

「その子たちをどうするつもりなんだ?」

「こいつらの兄貴はなあ、俺にたっぷり借金があるんだ」

 刺青された顔からして、このあたりに勢力を持っているヤクザの生き残りだろうか。オザワの手下たちに似た雰囲気がある。

 

「だったら、その兄貴とやらから取り立てるのが筋だろう」

「こいつらを残してどこかへ行っちまったんだ。宝石の鉱脈の噂を聞きつけたらしいが、見つかりやしないぜ、そんなもの」

 宝石は、この荒れ果てた東京でも価値がある。欲しがる悪魔が少なくないのだ。だから、悪魔と取引をするために人間にとっても資産になる。

 

「だから代わりにこいつらを俺のカフェで働かせるのさ!」

「カフェ?」

「そう。若い女に鬼や死神の格好で接客をさせる……名付けて冥土(メイド)カフェだ!」

「それ、客が入るのか?」

「俺の計算ではガイア教徒を中心にかなりの客入りが見込めるはずなんだよ!」

 男がどんな客入りを想定しているのかはともかく……つまり、渋谷周辺にたむろするガイア教徒を狙った商売ということだろう。メシア教の勢力が弱っているところにつけ込むつもりなのだ。

 

「お兄ちゃんは帰ってくるもん!」

 助けてくれると思ったのか、少女らは男の腕を振り払ってマッシュの背に隠れた。

「借りた金はいつまでに返す約束なんだ?」

「次の新月まで……」

 年長の少女がうつむきがちに応える。

「明日の夜か」

 

「うちの冥土カフェは明日オープンの予定だが、今日は特別な客を入れて接待する予定なのさ」

「何も知らない子供にいきなり接待させても仕方ないんじゃないか?」

「気に入らなけりゃ悪魔のイケニエにしてもらっていいことになってるんだ。子供が好きな悪魔は多いからな」

 どんなカフェだ、と思わないでもなかったが、つまり『特別な客』とは悪魔使いなのだろう。

 

「まさか、お前がこいつらの借金を肩代わりしてくれるっつーのか?」

「それはできない」

 借金の額がいくらかはともかく……マッシュにとってマッカは悪魔との交渉に必要な重要資源だ。見ず知らずの子供のために使えるものではない。

「でも、約束の期限までは待つべきだ」

 道理を説くつもりはないが、ただ一方的に強い側の思い通りになるのを見過ごすのはマッシュの心情に反する行いだった。

 

「たった一日だぞ」

「あと一日の間は、彼女らからは何も奪えないってことだ」

 マッシュに引く気がないことがわかると、ヤクザはますますすごみをきかせた。

「じゃあ、うちのカフェのプレオープンイベントはどうしてくれるんだあ?」

「それは経営者が考えることだろ。どうしても彼女らが必要だっていうんなら、あんたがマッカを払って雇うべきだ」

 

「どうせ悪魔に食われるやつらにカネを積むなんて、俺の主義に反する!」

 どうやら、この男は最初から彼女らを悪魔へのイケニエに差し出す算段だったらしい。

「だったら……」

 ふと、マッシュの脳裏にアイデアが浮かんだ。

 

「君たち、名前は?」

「カズミ」

「ノリコ」

「二人に頼みがある。聞いてくれるか?」

 

 

 ▷

 

 

「さっき、メシアはお姉さんみたいなものだって言ってたけど……」

 長蛇の列がようやく建物の中に入った。なぜか迷路のような構造の渋谷センター街の景色を眺めながら、ミクミクが口を開いた。

「あたしにもお姉ちゃんがいるんだ」

 

「そう……なんですか?」

 プリンは大きく驚いたようにその顔を見返した。

「うん。私ね、捨て子だったんだ。新宿地下街の入り口に、赤ん坊が二人いっしょに置かれてたんだって」

 紫の瞳を伏せて、ミクミクは言葉を続けた。

 

「悪魔との子供だって、丁寧に手紙までついてたらしくてさ。それで、引き取り手がなかなか見つからなくて……最終的にあたしはテクラが預かることになったみたい」

 テクラがどういうつもりで赤ん坊を引き取ったのか、なぜミクミクにはプログラムを教えなかったのか、考えないようにしている。今となっては知りようがないことだし、少なくとも父親代わりに接してくれたことに感謝しているからだ。

 

「でも、お姉ちゃんのほうはどこに行ったのかよくわかんない。あ、あたしが勝手にお姉ちゃんだと思ってるだけで、妹かもしれないけど」

 細い肩をすくめる。せめて手紙が残っていれば手がかりになったのかもしれないが、テクラの元にミクミクがまわってくる頃には、残っていなかったらしい。

 

「生きてるかどうかもわからないけど、あたしと同じで夜魔の血が流れてるなら、たぶんガイア教を頼ってるんじゃないかと思う。だから、東京じゅうのガイア教団に聞いてまわれば、見つかるかもしれない」

「それで、一緒に旅をすることにしたんですか?」

「マッシュと一緒に居たかったっていうのもあるけど、ね」

 列はゆっくりと進んでいく。本人たちが急いでいても遅らせようとしても、進む速度は変わらないことはたくさんある。

 

「あたしの名前、ヘンでしょ」

「そんなことは……」

「いいの。目立つように名乗ってるんだから」

 ミクミクが紫の両目を、それぞれの人差し指で指してみせた。

 

「双子だってわかるように名前を二回繰り返してるの。そしたら、どこかでお姉ちゃんがあたしの名前を聞きつけるかもしれないと思って」

「見つかるといいですね」

「ありがとう。プリンのお姉さんも、よくなるといいね」

「もう一度、癒やせないか確かめるつもりですが……」

 プリンはじっと両手を見下ろした。新宿での経験で、以前より力が増しているのを感じる。だが、彼女にあるのは癒やしの力であって、悪魔祓いには使えない。

 

「彼女を救う運命は、誰か別の人が持っているのかも……」

 

 

 ▷

 

 

 夕暮れが近づく頃、渋谷の廃墟にふらりと一人の男が現れた。

 子供のようにちいさな体つきだが、髪は漂白したように白い。長い前髪の間から覗く目には一種のすごみがあった。やるときにはためらいなくやる、そういう目だ。

 

「シゲルさん。よく来てくれました」

 顔に刺青をした男が、精一杯の笑顔で出迎える。引きつった笑みは、シゲルと呼ばれた男を恐れているのがありありと伝わってくるかのようだ。

 体重なら半分もなさそうな相手を恐れる理由は、男が胸と手につけた機械にあることは明らかだった。シゲルは悪魔使いなのだ。

 

「ああ。楽しそうなことは、見逃したくないんだ」

 シゲルの口調は端的で、男に話しかけていてもどこか独り言のようだった。

「いい雰囲気じゃないか」

「ええ、ええ! 冥土ってコンセプトでやってますから。廃墟の雰囲気を利用してます。居抜き物件というやつです」

 

 廃墟のなかにぽつぽつと明かりがともされている。電球ではない。かがり火が吊されて時折風で揺れているのは人魂をイメージしているのだろう。

「冥土カフェか。ほんとうに、地獄に来たみたいだ」

 言葉遣いは無愛想だが、白髪の男はあんがいに調子がいいらしい。

 

「どこ、座ればいい?」

「はい、こっちです、こっち」

 刺青男がひいた椅子に、シゲルが腰を落ち着ける。やや椅子が高かったらしく、足が床にとどいていない。

 

「約束は、確かだろうね」

「はい、ええ、気に入らなかったら、従業員はシゲルさんの好きにしてもらっていいと、はい」

 男は汗を浮かべながら、ぺこぺこと頭を下げた。

(なんで俺が、こんな小男に頭を下げないとならないんだ)

 心の中では不満たらたらだったが、逆らうわけにはいかない。

 

 白髪と老け顔を除けば子供にしか見えないシゲルは、ガイア教団が抱える殺し屋(ヒットマン)なのだ。

 教団は、メシア教会ほど広く手堅い組織を持っていない。上野にある総本山が何かを決めても、各地の支部がそれに従うとは限らない。

 そこで、ガイア教の教えが役に立つわけだ。すなわち、『力こそ正義』である。

 総本山の指示に従わない者や、邪魔をする者には殺し屋が差し向けられる。そのなかでも、シゲルは腕利きとして知られていた。凄腕の悪魔使いなのだ。

 

「ウォッカトニック」

「おーい! ウォッカトニックだ!」

「はぁーい」

 男の呼び声に応えて、若い女の声が帰ってきた。ほどなく、店の奥からトレイを持った女が現れた。

 

「お待たせしましたぁー」

 ウォッカトニックを運んできたのは、長い髪に尖った耳の女悪魔だ。それが、着流しを着せられている。

「悪魔か」

 シゲルがつぶやくのを、刺青男はヒヤヒヤしながら聞いていた。

 

(あの悪魔使いめ。悪魔に接客させるなんて……もしシゲルさんが気を損ねたらあいつのせいだ)

 マッシュはカズミとノリコの代わりに、彼が契約した悪魔に接客するよう提案したのだ。

 気に入らなければ悪魔に食わせてしまってもいい、とシゲルに約束している。なのに悪魔が出てきたら、まるでお前にやるイケニエはいないと言っているようなものではないか。

 とにかく、シゲルの神経を逆なでしないことを祈るしかなかった。

 

「いいな。ディードみたいだ」

 妖精エルフをしばし眺めたあと、シゲルはぼそりと言った。

「服が全然似合ってないけど、雑誌のピンナップっぽくていいよ」

「わぁーい、ありがとー」

 エルフは気楽な様子で返事を返した。褒め言葉として受け取っているらしい。

 

(喜んでいる……のか?)

 刺青男は判断しかねていた。シゲルの表情はまったく変わらない。無表情というか、ポーカーフェイスというか、口をぼそぼそと動かすぐらいしかしないのだ。

 だが、見ている間に悪魔使いはグラスの中身を飲み干した。

「もう一杯、くれ」

「はい、ただいま!」

 すぐさま目配せすると、別の女悪魔が次のグラスを運んできた。

 

「魔獣ネコマタでーす」

 愛想を振りまいて尻尾を振りながら、魔獣がグラスを差し出す。シゲルは今度はゆっくり飲み始めた。

「いいね。語尾に『にょ』って着けてくれ」

「なんでにょ?」

「目からビーム、出るかい?」

「マッカを消滅させるビームかにょ?」

「そんなもの、撃っても誰も得しないよ」

 談笑している……ように見える。笑っていないことを除けば。

 

 かしこまっている男の方へ、シゲルが一瞥をくれた。

「悪魔使い、いるんだろ。挨拶したい」

「は、はい」

 もはやいいなりである。男が店の奥へ引っ込み、別の男が姿を現した。マッシュだ。

 

「若いな」

 シゲルはその姿を見てぽつりとつぶやいた。背は高いが、細い。黒々とした髪を伸ばしている。まるで補色のようだ。

「ぼくはシゲルだ」

 呼びつけた者として、あるいは年上としてだろうか。シゲルは座ったまま目を細めた。

 

「俺はマッシュ」

すりつぶす(MASH)? 変わった名前だ」

「……そう呼ばれてる」

 マッシュの名前の由来は、幼い頃の不衛生な環境で体に生えたキノコ(MUSHROOM)からだ。だが、直接聞かれない限りは言わないことにしている。

 

「きみ、女悪魔ばかり仲魔にしてるの?」

 テーブルのそばでにこにこしているエルフとネコマタを見回す。彼女らはただにこにこしていた。命令されてやっているだけで、接客のことなど悪魔が知っているはずがない。

「まさか。たまたま、仲魔にいただけだ」

「そういう悪魔使いも、いるからね」

 シゲルは口元だけでにやりと笑った。女悪魔ばかりを従えた悪魔使いが何をしているのかは、あまり詮索しないほうがいいだろう。

 

「悪魔なんか使って、何をしてるんだい?」

 じっとマッシュの顔を見て、シゲルは問いかけた。

「使えるものは使う。俺はプログラマーなんだ」

「油断、しないほうがいい。眠っている間に、悪魔に、体を乗っ取られるかもしれないからね」

 シゲルは歯を見せて笑った。悪魔使いの間では定番のジョークだが、マッシュには通じなかった。他の悪魔使いとあまり会ったことがないのだろう。

 

「そういうあんたも、悪魔使いだ」

 マッシュは立ったままシゲルの胸から腕を覆っている装置を示した。小柄なせいで、片腕だけではアームターミナルを装着しきれないのだろう。

 シゲルは頷いて、自分の胸の装置をトントンと指先で叩いた。

「ぼくは、世界がもっと滅茶苦茶になればいいと思ってる」

 ぎょろりとした目をマッシュに向けたまま、シゲルは言った。

 

「滅茶苦茶って、混沌(カオス)ってことか?」

「そうだ。でも、カオスのすべてが好きなわけじゃない。力があるかないかに関わらず、みんな自由にあるべきだ」

「そんなこと……できるわけがない」

「だから、ぼくは力があるものを消す仕事をしている」

「それも、ガイア教のためじゃないのか?」

「時にはね。でも、時にはカオスの要人や悪魔を殺す。力があるから自由に振る舞えるんじゃいけない。東京でも、東京の外でも、なんでも自由にあるべきだ」

「東京の外を見たことがあるのか?」

「もう、ずいぶん前だ。今の世界も、気に入ってるけどね」

「歌を知ってるか?」

「歌?」

「昔の歌だ。俺は歌が好きだ。いつもこれで聞いてる」

 

 マッシュがMDウォークマンを示すと、シゲルは、ああ、と頷いた。

 

「いつも、思い出す歌がある。偉大な悪魔使いの歌だ」

 そして、シゲルはテーブルの端を指で叩いて調子を取り始めた。

 

 エロイムエッサイム

 エロイムエッサイム

 さあ! バランガバランガ呪文を唱えよう

 エロイムエッサイム

 エロイムエッサイム

 ほら! バランガバランガ

 僕らの悪魔くん

 

「いい歌だ」

「いい歌がたくさんあった。歌だけじゃない、アニメやマンガも……」

 シゲルは目を閉じて、ゆっくり首を振った。

 

「昔の思い出を胸にしまって生きてる奴が、たくさんいる」

「うらやましいよ」

「いいことばかりじゃない。ぼくは、折り合いをつけてる。でも、うまくできないやつもいる」

「うまくできなかったら、どうなるんだ?」

 悪魔使い同士が見つめあう。マッシュはシゲルから懐旧を、シゲルはマッシュから羨望を見て取っていた。

 

「そのうち、イヤでもわかるよ」

 そう言って、年かさの悪魔使いは立ち上がった。

「楽しかったよ。カフェ、うまくいくといいね」

 そして、振り向きもせずに去って行った。

 

 男がおそるおそる刺青を入れた顔を覗かせ、シゲルの姿が見えなくなったことを確かめた。

「やるじゃないか! 客を乗せて歌わせるなんて、ホストの才能あるぞ」

「ホストって?」

「わかるわけないよなあ」

 ヤクザものは思い切りよく笑っていた。

 

 

 ▷

 

 

「あ、来た。マッシュ、遅いよ!」

 すでに日が沈んでいた。ジャックランタンを従えてハチ公前に戻ってきた時には、ミクミクとプリンが肩を並べていた。

 

「悪い。取り込んでたんだ」

「事情は聞きました。見ず知らずの人の助けになるなんて、立派なことです」

 プリンがにっこりと微笑んで言った。そばには、カズミとノリコがいた。

 

「そんなにたいしたことじゃない。たった一日だけだ」

「横暴に振る舞ってるやつにばーんと言ってやったんでしょ。かっこいいじゃん」

「話が大げさになってるな」

 幼い少女らに、旅の連れへの伝言を頼んだのは確かだ。だが、マッシュに感謝するあまり、彼女らは伝言にかなり大きめの尾ひれを着けたようだった。

 

「お兄さんが、戻ってくるといいですね」

 プリンは朗らかだが、マッシュはそこまで希望的にはなれなかった。

「俺は、約束を守らせただけだ。でも、いちおう……そう簡単には悪魔に食わせるなって言っておいた」

「うん」

 カズミが小さく頷いた。時限が迫っていることを、わかっているのだろう。

 

「ほんとうは、兄貴のために君たちが自由を奪われるべきじゃない。でも、自分たちの力だけじゃどうしようもないこともある……」

「マッシュ、でも」

 言葉をさえぎろうとしたプリンを、ミクミクが制した。

「聞かせた方がいいよ」

 

「強い奴に逆らうなってことじゃない。自分より強い奴は必ずいる。他人の力を利用して生きることが必要な時もある」

「うん。ありがとう!」

 ノリコは無邪気に頭を下げた。

(いつかわかる時が来るだろう)

 わかる時まで、生きていれば。それを願うよりほかにない。

 

「妹と助け合ってくれ。それができない人もいる」

 カズミに言い含めて、マッシュはハチ公前でけなげに兄を待つ少女たちに別れを告げた。

 

「メシアは……」

「やはり、目を覚ましませんでした。誰かの名前を呼び続けるばかりで……」

「誰かって?」

「聞き覚えのない名前で、誰のことだか」

「残念だ」

 聖女の癒やしの力を持ってしても、メシアを救うことができないのは、メシア教会にとってはスキャンダルだろう。

 

「マッシュ、次の行く先の当てはあるの?」

「ああ。カズミとノリコから聞いたんだ。彼女らの兄貴は、宝石を掘り当てるための掘削機を世田谷で作るつもりだったらしい」

「クッサクキ?」

「岩盤に穴を開けるドリルだよ。ツルハシを使って地道にやるより早く掘れる」

「それが、行く先と関係あるのですか?」

「機械工作に強いやつが、世田谷にいるってことだ。そういうやつは、だいたい悪魔の力を利用して工作をやってる。そいつに頼んで……」

「川を渡る機械を作ってもらう?」

「そうだ」

 

 すでに夜だ。今すぐ出発というわけにはいかないが、行く当ては決まった。

「朝になったら、ここからもっと南に向かおう」

 

 

 ▷

 

 

 上野・ガイア教総本山のふもとには、殺し屋(ヒットマン)たちがたむろする酒場があった。

 その壁には、一面にガイア教から懸賞金をかけられた賞金首の一覧(ヒットリスト)がある。

 ガイア教の高僧がその壁に向かい、ある一枚の手配書を剥がした。

 

「オザワは死んだ。ここに居る誰の手でもなく、ふらっとあらわれた何者かによって殺されたらしい」

 酒場にざわつきが広がった。オザワといえば、リストのいちばん上、東京でもっとも高い懸賞金をかけられた男の名前だ。

「代わりの手配書を持ってきた」

 そして、オザワの手配書があった場所に、別の名を貼り付ける。

 

(サン)プリンシパリシティ』

 

 殺し屋たちが集まり、手配書に書かれていることを読み上げる。

「髪が二色? 見つければすぐにわかるな」

「こんな小娘を殺すだけで三万マッカも? チョロい仕事だ」

「なんでも、メシア教の重要人物らしい」

「ガイア教としては、さっさと消えてほしいわけだ」

「連れの悪魔使いには五千マッカの値がついてる」

「ウェイトレスは二千だ」

「なんでウェイトレスの命を狙うんだ?」

生死不問(デッドオアアライブ)だ。生け捕りでも死体でも、ここに持ってくればカネになる」

 

 そうなれば、考えることは皆同じだ。

「俺が先に殺す」

「いや、拙者が」

「いや、私が」

「こうはしていられない」

 我先にと、殺し屋たちが店を飛び出していく。

 

 白い髪の悪魔使いが、店の奥でその様を眺めていた。シゲルだ。

「さて、どうなるかな……」

 あのとき……渋谷の冥土カフェで、若い悪魔使いに歌った歌の続きが口を突いて出た。

 

 手強い敵は ウジャウジャいるぞ!

 ここにもそこにも あそこにも!!



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2-03_明日、春が来たら

 東京・世田谷。マッシュたちは、渋谷からさらに南東へと向かった。

 

 目的地は、すぐにわかった。荒野が広がる東京で、その場所はひときわ異彩を放っていた。

 もうもうと上がる黒煙。機械があげるうなり声。金属がぶつかり合う甲高い音。

 そこでは、工業がおこなわれていた。

 

 コンクリート造りの建物には、人と悪魔が行き交っている。

 悪魔の多くは地霊だ。ドワーフの姿をよく見かけたが、ゴブリンやワードッグの姿もあった。

 

「世田谷ギルドへよく来たな。俺がロッコウだ。まわりからは『工場長』って呼ばれてる」

 ねじりはちまきにツナギ姿の老人が、マッシュたちを出迎えた。代表者に会いたい、と話をしたら、すぐに彼の名前が挙がったのだ。

 第一会議室、とプレートがかけられた部屋のなかで、老人は奇妙な三人組を見渡した。

 

「俺はマッシュ。悪魔使いで、プログラマーだ」

「プログラマー! そりゃあいい、俺ぁソフトのことはさっぱりだからね、歓迎するぜ。それに、美人の嬢ちゃんたちもな」

 ロッコウは禿頭に無精ひげを生やしている。長いパイプを口にくわえて、そこからもくもくと白い煙をくゆらせていた。

 本人は普通にしゃべっているつもりなのかもしれないが、威勢のいい怒鳴り声は老人とは思えない声量で、耳が痛くなりそうだ。

 

「美人だって。プリンのことだよ」

「たち、とおっしゃったんですから、ミクミクもでしょう」

 マッシュの後ろで、少女らがささやきあう。外見を褒められてわるい気はしないらしい。

 

「悪いんだが、ギルドに入りたいってわけじゃない。いくつか取引をしたいんだ」

 マッシュは、交渉の段取りを考えていた。まずは確実に聞いてもらえる頼みから持ちかけるのがセオリーだ。

「まずは、弾丸が欲しい。俺にはショットシェル。それから、彼女の9mm弾もだ」

「獲物、見せてみな」

 腰のホルスターからショットガンを抜き、ロッコウに渡した。同じように、ミクミクも腰の拳銃を見せる。どちらも、弾は抜いてある。

 

「イサカM37か。合衆国には昔、こいつが山ほどあったらしいな。こっちはベレッタM92。何度見ても惚れ惚れするねえ。ふーむ」

 ロッコウが銃の動作を確かめる。老人とは思えないあざやかな手つきだ。

 

「さび付きもないし、よく手入れされてる。誰がメンテしてるんだ?」

「俺たちだ、もちろん」

「あたしは、マッシュにやり方を教えてもらってるところだけど」

「銃にも詳しいのか?」

「新宿で警官をやっていた」

「おお、それは……なるほどな」

 新宿の顛末は、いまや東京じゅうに知れ渡っているようだ。なにかを察したように、老人が頷いた。

 

「いいだろう。道具を見りゃあきちんと使ってるのがわかるってもんだ。銃弾はうちの稼ぎ頭だからな、マッカさえくれればいくらでも用意してやる」

「感謝する」

「ありがと!」

 返してもらった銃をホルスターに戻す。ミクミクも頭を下げた。

 

「あの、ここで銃弾を作っているんですか?」

 プリンが疑問を口にすると、ロッコウはにやりと笑った。自慢したくて仕方がないという表情だ。

「ここは昔、工業高校って呼ばれてたんだ。俺はちいさな工場の工員だったけどよ、この施設と、生き残ってる機械を集めればまだものが作れるんじゃないかと思った。それに、悪魔の力も借りてな……なんとかかんとか、昔みたいにエンジニアリングができるようになった。銃弾もそのひとつだ。金属のありかは悪魔が教えてくれるし、火薬の材料を作ってくれる悪魔もいる。となりゃあ、あとは人間様の手でモノを作るだけよ」

 上機嫌にパイプの煙をくゆらせて、『工場長』は背筋をはって見せた。

 

「あんた、メシアンだね?」

「はい。その通りです」

 胸元のロザリオを示して、プリンは頷いた。

 

「メシア教会には世話になってるよ。なんでも大きなものを作るらしくて、建築用の機械まで組み立てたんだ。いやー、あれほどやりがいのある仕事はなかなかないね。何に使ってるんだか知らないけど、これからもどんどん発注してくれ」

「私が発注するわけではないですけど……機会があえば、伝えておきます」

「まあ、ガイアーズも悪いってわけじゃないけどな。あいつら、作るより壊すほうが好きだろ。おかげで修理の仕事はひっきりなしだけど、どうもねえ。道具は大事に使ってもらいたいもんだよ」

 

「次の取引の話をしていいか?」

「おっと! 年をとると話が長くなっていけねえ。おうよ、なんでも言ってくれ」

「アームターミナルに使える部品がないか探してる」

「見上げた心がけだ。でも、俺は電子工作にはとんと疎いもんでな……でも、わかりそうなやつの心当たりはある」

 ロッコウが「どっこいしょ」と声を出しながら立ち上がった。

 

「ついてきな」

 

 

 ▷

 

 

「おうい、ナナはどこだ?」

 ロッコウたちが「工場」と呼んでいる場所では、人と悪魔が入り乱れて作業を続けていた。

 マッシュたちが見ても、そのひとつひとつが何をしているのかはよくわからない。回転盤で何かを削っているものもいれば、魔獣がはく炎で溶接をしているものもいる。また別の一角では、妖精が集めてきた蜜を缶に詰めているようだった。

 

「ああ、工場長。主任ならジャンク倉庫のほうです」

 扇風機の前で休んでいた工員が応えた。その扇風機は、精霊の力で動かしているらしい。コンセントがごちゃごちゃとした変換器をいくつも通して、精霊を封じたケースに繋がっている。

「そりゃちょうどいい」

 ロッコウはあごをしゃくってついてくるように示し、工場から離れた建物へと向かう。

 

「あんな風に働かされて、悪魔はいやじゃないのかな?」

「悪魔は対価さえもらえれば文句はないさ。人間とは機微が違うんだ」

 一度かわした契約を反故にしてサボるようなことはめったにない……というのが悪魔使いとしての意見だが、すべての悪魔がそうだとは一概にはいえない。

「それに、働いてくれる悪魔を使ってるんだろう」

 

 ロッコウの先導で、無機質なコンクリートの建物の前へたどり着いた。扉は開けっぱなしになっている。

「ナナ、いるか?」

 ロッコウのがなり声が倉庫に反響する。しばらくして、返事が返ってきた。

「そんなに大声出さなくても聞こえてるよ!」

 ごちゃごちゃと積み上げられた機械部品の中をぬって、女が現れた。

 

 背が高い、二十歳そこそこの女だ。

 ロッコウと同じようなツナギを着ているが、上半身に袖は通さず、腰のあたりで袖を結んでいる。おかげで、ランニングシャツ一枚の上半身が日に焼けているのがよくわかる。

 マスク代わりにしていたのだろう、顔に巻き付けていたタオルをほどくと、造作はいいが油汚れのついた顔が見える。すぐに、タオルはざっくり切りそろえられている髪の上に巻かれた。

 

「この兄ちゃんがコンピュータのパーツを探してるんだと」

 と、ロッコウがマッシュを指さした。

「へえ、あんた悪魔使いか」

「ああ。マッシュだ」

「あたしはナナ。機械工(メカニック)だ」

 

 そして、ナナは自分の後ろの倉庫を親指で示した。

「ここは、使い道が決まってない機械を適当に放り込んどく倉庫なんだ。何か使えるものがあるかもしれない。あんたも、自分の機械の面倒ぐらいは見れるだろ」

「ああ。そうだな……改造のために道具を借りられるか?」

「構わないよ、誰も使ってなけりゃね」

「助かる……が、時間がかかりそうだ」

 雑然と積み上げられた機械を前に、マッシュは閉口した。

 

「それじゃあ、俺たちはお茶でも飲んでるか」

「工場長なのに、いいんですか?」

「俺が何もしなくても弟子たちがたいていのことはやってくれる。ま、自分が作りたいものは、まだ弟子には譲らんがな」

 スタスタと、ロッコウが建物……「本校舎」と呼んでいるほうに歩いて行く。

 

 ついていこうとするプリンとミクミクに、ナナが声をかけた。

「お嬢ちゃんたち、気をつけなよ。その爺さん、スケベだから。なにせ、いま三歳の子供がいるんだよ」

「えっ! ……マジ?」

「だははっ! 俺は二人の嫁ひとすじだから大丈夫だよ」

「それは、ひとすじとは言わないんじゃないでしょうか」

 

 遠ざかっていく声を聞きながら、マッシュは装置の山に取りかかった。

 

 

 ▷

 

 

 世田谷ギルドは賑やかだった。こんな場所があるのかと、マッシュは思ったほどだ。

 一方で、納得もしていた。この場所には力があった。悪魔の使い方を知った悪魔使いと、機械に詳しい技師たちが協力している。銃や銃弾を作ることもできるから、悪魔たちや他の勢力もおいそれと手を出せない。

 戦う力以上に、ものを作り出す力は大きい。荒野となった東京で、新しくものを作ることができる場所がどれだけあるだろう。

 

「この基板は使えないか?」

「ダメだね。それじゃ古いよ」

「見ただけでわかるのか?」

「型番が書いてあるだろ。それを読んでるのさ」

 

 職人たちが、どれほどの苦労をしてその技術を身につけたのか、マッシュには想像もつかない。

 マッシュ自身も、テクラからプログラムの手ほどきを受けている。だが、ナナはそれ以上に広い知識と理解を持っていることがうかがい知れた。

 マッシュのCOMPの改造に使えそうな部品を見つけ、それを組み込んだ頃には、もう昼を過ぎていた。

 

「お帰りなさい」

 第一会議室で出迎えたプリンが、顔の汚れを拭ってくれた。

「ふたりとも、無事だったか?」

「平気。あたしたち、同盟を組んでるから」

「SOSのね」

 ミクミクとプリンが顔を見合わせて、クスクスと笑う。

 

「なんのことだ?」

「マッシュは知らなくていいよ。そっちはどう? 改造できた?」

「ああ。悪魔の言語を翻訳する機能を改良した。契約してない悪魔でも、このCOMPの近くなら俺以外にも言葉がわかるようになるはずだ」

「へー……そういえば、ジャックランタンの時なんか、マッシュしか言葉がわかってなかったもんね」

「でも、新宿の中では悪魔と会話できただろ? 新宿全体がサーバーの影響下にあったからだ。一種のフィールドを作る装置があれば、俺のCOMPでも周囲に影響が与えられるはずだ」

「よくわからないけど、うまくいったならよかったです」

 

「この人は筋がいいよ。知識もそうだけど、カンが冴えてる」

 と、ナナがマッシュの肩を叩いた。

「エンジニアでもやってける」

「俺もそう思うぜ。流しの悪魔使いなんてやってるのはもったいない」

 ロッコウも同調して頷いた。

 

「どうだい、ここに腰を据えるのは? プログラミングが必要な仕事はごまんとある」

「悪いけど、まだやることがあるんだ。そのために、力を借りたい」

 ロッコウとナナが顔を見合わせ、互いに肩をすくめた。粘っても仕方ないと思ったのだろう。

 

「俺たちは東京タワーを目指してる。でも、その間にある川を渡らないといけない。手こぎボートじゃ水の中の悪魔や妖鳥に襲われるから、もっと足が速い乗り物がいる」

「だったら、モーターボートだな」

 パイプをくゆらせながら、ロッコウ。

 

「モーターボートって?」

「スクリューを回して高速で動く船だ。原理は簡単だけど、原動機(エンジン)を用意しないといけない。ナナ、使えそうなエンジンはあるか?」

「いや……ちょうど今は切らしてる。イチから作るのには時間がかかるね」

「エンジンから作るってなるとマッカがかかるぞ。用意できるか?」

 聞かれて、マッシュは口をつぐんだ。弾丸も買ったことだし、あまり手持ちに余裕があるとはいえない。冥土カフェの時に悪魔を召喚するために使ったマッカはカフェ側から払わせたが、ロッコウが提示した額は桁が違った。

 

「困ったな。エンジンさえあれば、あとは作れるんだよね」

「ああ。それ以外は簡単さ」

「エンジン……エンジンか」

 マッシュは腕を組んだ。どうにも頭に引っかかるような感じがする。

(どこかで聞いたぞ。確か……)

 その言葉が、頭の片隅に引っかかる感じがした。モヤモヤとした記憶が、徐々に形になっていく。

 

『エンジンが動いただけだ。おとなしく座ってろ』

 

「クロダのカローラだ!」

 間違いない。あのとき……はじめて新宿地下街の外に出たとき。クロダが運転する自動車で聞いたのだ。

「カローラ? 懐かしい名前だな」

「この前、自動車に乗ったんだ。自動車にはエンジンが使われてるだろ」

「生きてる自動車がまだあったのか? そりゃすごい、ほんとうならお宝だぞ」

「分解して使えるパーツを持ってくれば、いくらでも使い道がありそうだ。そりゃどこにあったんだい?」

「オザワが神宮前って呼んでた場所だ。案内できる」

 

 ロッコウとナナが視線を交わす。長い付き合いなのだろう。それだけで、彼らの意思疎通は完了したらしい。

「坊主、その話がほんとうなら、マッカはいらねえ。ナナを連れていけ。分解して、エンジン以外の使えそうなパーツは俺たちが貰う」

「ああ、分解したパーツは悪魔に運ばせるよ」

「決まりだ。日が暮れる前に行って帰ってこられる。あたしも出かける準備をしないとね」

 言うが早いか、ナナは会議室を飛び出していった。

 

「プリン、なんとかなりそうだよ」

「よかった。それでは、いちど神宮前に戻って……」

「いや、二人はここに残ってくれ」

 マッシュとしては、彼女らを思いやってのことだ。カローラがあるのは、私設警察とメシア教とが悪魔に皆殺しにされた現場だ。特に、プリンにとってはつらい思い出の場所だ。

 

「ここには、旅に使えるものが他にあるかもしれない。俺がいない間に、探しておいてくれ」

「でも……」

 ミクミクは、マッシュと離れたくないようだが……

「頼むよ。同盟を組んでるんだろ?」

 そう言われると、諦めたように息をついた。

 

「わかった。プリンのことは任せて」

「私がミクミクを守りますから」

 冗談めかしてプリンが応える。マッシュの気づかいを察してくれたのかもしれない。

 

 アームターミナルを操作して神宮前の位置を確かめる。あのときは何が何だかわからなかったが、今ならマップの位置も正確に読み取ることができる。

 ナナの言うとおり、徒歩でも半日で行って帰ってくることができる距離だ。

「すぐ戻ってくるよ」

 

 

 ▷

 

 

 マッシュとナナを見送って、プリンとミクミクは世田谷ギルドに残された。

 

「……旅に役立つものって言っても、ね」

 マッシュの口実を真に受けるわけではないが、ミクミクはあまりマッカを持っていない。マッカがデータを変換してコンピュータに記録できるから、ほとんどはマッシュが持ち運んでいるのだ。

 

「少し休めると思いましょう。ここはいいところですから」

「プリンのそういう前向きなところ、憧れるよ」

「嬢ちゃんたちは、何か作ったりしないのか?」

 会議室に残ったロッコウが、窓際でパイプを吹かしながら聞いた。

 

「私は、手慰みの手芸ぐらいしか」

「お酒があれば、カクテル作るぐらいはできるよ。あたしは飲めないけど」

「十分だ。ものを作るのは楽しいだろ。壊すよりずっといい」

 開きっぱなしの窓からは、ひっきりなしに作業の音が聞こえてくる。工場では人と悪魔が一緒になってものを作り続けている。

 

「俺もな、昔はろくなものじゃなかった。ケンカとバイクだけが楽しみだったよ。でも幸い、バイクを自分でいじってるうちに気づいたんだ。ケンカよりこっちの方が楽しいってな。それに、たまたま才能もあったみたいだ。それで、必死にない頭で勉強したよ。自動車整備の資格を取ったときにはうれしかったなあ」

「その経験を、今も生かしてるんですね」

「ああ。悪魔の力を使ってもっと複雑なことをしてるけど、基本は変わらねえ」

 遠くを見るように、ロッコウは窓の外のどこかを見ていた。荒れ果てた東京の景色が、老人の目にはどう映っているのだろうか。

 

「でも、俺みたいに気づけなかったやつもたくさんいる」

「……というと?」

「昔は、暴走族って呼ばれてた。俺たちの時代は、社会に反抗するのが若さだと思ってたんだ。いま思えば幸せなことだよ。反抗できる社会がまだあったんだからな」

 今では、東京に社会は残っていなかった。分断された共同体がかろうじてあるだけだ。

 

「今が楽しけりゃいいって、将来のことなんか考えないでむちゃくちゃをやってたやつがたくさんいた……俺が暴走族を抜けるって言ったら、モリって奴がカンカンに怒ってな。半殺しにされたよ」

 パイプの煙が窓の外へ流れていく。ロッコウの顔のしわが、顔に影をつくっていた。

 

「なあ、これから世の中がよくなっていくと思うか?」

「それは……」

 ミクミクには答えられなかった。少なくとも彼女が生まれてから、世界がマシになったと思えるようなことはなかった。

 

 だが、プリンにとっては違った。

「なります、必ず」

 聖女の目はまっすぐにロッコウを見ていた。見据えられたロッコウはまぶしそうに片目をすがめた。

「俺も、そうなればいいと思っちゃいる。でも、よくなるところを俺が見ることはできないだろう。いつか……お前たち若者や、俺の子供たちがもっとマシになった明日を迎えられるようにしたい」

 

「そう……なったらいいね」

 ミクミクは切なげに目を伏せた。明日がどうなるか、誰にもわからないのだ。

「明日のことを諦めないでくれ。今だけでいいって考えに囚われたら、何も作ることができなくなくなる」

 

 

 ▷

 

 

「あんた、どっちとデキてるんだい」

 砂埃が舞う道を歩いている時に、ふとナナが聞いてきた。

「どっちって……何の話だ?」

 妙な質問に、マッシュは思わずその姿を見返した。今は、ナナもケブラーベストを身につけている。ヘッドギアと防塵マスクを着けて顔を隠しているから、長身の体つきは一見すると男のように見える。

 

「決まってるだろ、男女の仲の話だよ」

 ナナは構わず歩き続けている。マッシュは歩を進めて追いつきながら、首を振った。

「そういうんじゃないよ。二人とも、一緒に旅をしてるだけだ」

「男と女が一緒にいて、何もないってことはないだろ。野良猫だって、春になったら子供をこさえてるんだ」

「俺たちは猫じゃない……にょ」

「にょ?」

「なんでもない」

 

 気を取り直すように、マッシュはアームターミナルで座標を確認した。

 そうしながら、プリンのことを考えた。二色の髪の少女。メシア教の聖女。癒やしの力を持つ手。

「プリンのことを東京タワーまで連れて行くんだ。そこで別れるんだから、そんなこと考えられない」

「でも、好きだから助けになってやりたいんだろう?」

「力になりたいとは思うけど、好き嫌いじゃない。俺が招いたことだから――」

「恋愛なんてのは、半分は言い訳の積み重ねさ。どっちも何かと理由を着けて、惚れた弱みを出さないようにするんだ。もう一人の子はどうなんだい?」

 

 ナナに水を向けられて、マッシュは思わず考え込んだ。紫の瞳の少女。ガイア教徒。催眠の魔力に目覚めている。

「ミクミクは――妹みたいなものだ。昔から一緒にいた。今さら、そんな目では見られない」

「ほらあ、言い訳がましい。あんたは知らないかもしれないけど、『妹みたいな』っていうのは、いかにも()()()()だよ。あの子のほうは、あんたのことを兄だとは思ってないんじゃないか?」

「兄は俺じゃない」

「だったら、なおさらだね」

 砂埃が絡む髪を払いながら、ナナが肩をすくめた。

 

「みんなが()()()()関係にならなきゃいけないわけじゃない。師弟だって友人だって大事な人には変わりない」

「確かにね。でも、男には男の、女には女の本能があるじゃないか」

「俺たちは今を生きるので精一杯だ。そんな余裕はないよ」

「明日のことを考えられないなんて悲しいじゃないか」

「子供を作ることだけが未来じゃないだろう。なあ、どうして絡むんだ?」

 問いかけると、ナナはきゅっと唇を結んだ。

 

「あたしには子供ができないんだ。熱にやられてからね……」

「……すまない」

「いいさ。今さら、気にしても仕方ない。あんたの言うとおり、それだけが未来じゃないよ」

「しばらくは北にまっすぐ歩けばいい。あとは……」

 マッシュが道を示した先に、ふと砂煙のようなものが舞っているのが見えた。

 

「あれは……」

 でこぼこの道に、爆音が鳴り響く。悪魔も避けるエンジン音。

「まずい、処刑ライダーだ!」

 改造バイクでところ構わず走り回るガイア教の構成員だ。高い機動力でメシア教のテンプルナイトに比肩する戦力として、東京じゅうで恐れられている。

 

「あいつら、貴重なガソリンを無駄遣いしやがって」

「道を譲って通り過ぎてもらうしか……」

「ヒャッハーァ! 命が惜しけりゃ身ぐるみ脱いで置いていきな!」

「そういうわけにはいかないようだ」

 もとより、走って逃げ切れるわけがない。すぐに、処刑ライダーたちが二人を取り囲んだ。

 

「へっへっへ、こんな昼間に俺たちと出くわすとは、ツイてないな」

「ガイア教のためになりたいだろぉ?」

(3人か……)

 弱者を追いつめるのは得意らしく、処刑ライダー隊は見事にマシンを横にして逃げ道を塞いでいる。いずれも銃を装備しているようだ。

 

「あんたたちは経典を盾にして暴れたいだけだろ」

 ナナが言い返すと、ライダーの一人がぺろっと唇をなめた。

「おっと、こっちは女か。いいねぇ、俺は体と態度がでかい女が好きなんだ」

「あいつはあたしがやる。残り二人を頼む」

 マッシュに聞こえるように小声で言って、ナナが一歩進み出た。

 

(やるしかない)

 マッシュはすでに準備を終えていた。アームターミナルのキーを叩いて、召喚(SUMMON)プログラムを実行する。

「エルフ!」

《ジオンガぁ!》

 空中から踊るように飛び出た妖精が、指先から電光を放つ。マッシュから向かって右手のライダーに直撃した。

 

「ぐぁ!」

 電撃に撃たれた男が、身をしびれさせてマシンごと倒れた。起き上がるだけで一苦労に違いない。

「このやろう、ふざけやがって!」

 激昂した左手のライダーが、銃を抜き放つ。だが、マシンにまたがったままでは身をひねって構えなければ狙いをつけられない。先制攻撃を仕掛けられたならともかく、わざわざ一度止まってくれたのだから、同じ動作ならマッシュの方が早く構えられた。

 

「ふざけてるつもりはない」

 ドンッ。ショットガンが重い音を立てて火を噴いた。激しい衝撃は、バイクの上のライダーの胸を直撃し、アーマーをぶち抜いて穴を開けた。赤黒い血が飛び散る。

(やらなければやられていた)

 警官として訓練した通りに引き金を引いた。銃は見事にその機能を果たしてくれた。

 

「んのヤロっ! アマっ! ざけやがっ!」

 ナナと向かい合ったライダーが、銃を構えた。だが、引き金を引くときに一瞬のためらいがあった。

 そのわずかなためらいの間に、ナナは背中からMP5マシンガンを抜き放ち、引き金を引いていた。

 連射される弾丸が胸から喉へと降り注ぎ、肺の中の空気が血を押し出してはじけた。

「だおらっ!」

「何言ってんだかわかりゃしないよ」

 油断なく銃口を向けたまま、女はつぶやいた。地面に突っ伏した体から赤黒い血だまりが広がっていく。

 

「ひ、ひぃーっ! おたすけぇっ!」

 電撃を受けたライダーがようやく起き上がった。

「仲間に伝えろ。悪魔使いかどうかぐらい、襲う前に見極めろって」

《かわいい悪魔にはトゲがあるんだゾ》

 召喚されたエルフがウィンクを決めながら脅し文句を補強してくれた。

 

「お、俺たちに手を出したら、モリさんが黙ってねえぞ」

「モリ?」

「そ、そうだ。堕天使オセの力を得ている、恐ろしいお方なんだ」

「知ったことかい。調子に乗って世田谷で単車転がすんじゃないって、そいつに伝えな」

「お、覚えてやがれ!」

 定番の捨て台詞を口にしながら、処刑ライダーはその名にふさわしくないへっぴり腰でマシンにまたがり、尻尾(テール)を巻くように揺らしながら逃げていった。

 

「なんとかなってよかった」

「あたしが女だから撃つのを躊躇したんだ。女じゃなけりゃやられてた……」

「あんただから撃ち返せたんだ」

「ああ、わかってるよ。気にしてるわけじゃない」

 つぶやいてから、ナナは二台残されたバイクを見た。

 

「こいつにもエンジンがあるな」

「ああ。せっかくだから貰っていこう。……あんた、乗れるかい?」

「いや、わからない」

「教えてやるよ。こいつに乗っていったほうが早そうだ」

 しばしの間、いきなりの路上教習が始まったのだった。

 

 

 ▷

 

 

 ドラム缶にたいた火の周りに、男たちが円をなして並んでいる。その周囲にはガイア教のシンボルやドクロマークをペイントされたバイクが並んでいる。

 新宿周辺を縄張りとする、処刑ライダーの一群である。

「……で、のこのこ逃げ帰ってきたのか?」

 中央にいるのは、ひときわ体格の大きい偉丈夫だ。呼吸のたびに、荒い鼻息がシュウっと音を立てる。

 

「で、でも二対一で!」

 跪いた男が言い訳がましく叫んだ。マッシュとナナから逃げ延びた処刑ライダーだ。

「いつも言ってるよな。俺たち(ゾク)はナメられたら終わりだ」

「で、でもモリさん……」

「処刑ライダーは死ぬまで戦うって思われてるから恐れられてるんだろうが、なぁ!」

 大声が空気を震わせる。叫ばれた本人だけでなく、周囲の男たちまでが、びくっと身を震わせた。

 

「気合入れてやる。歯ぁ食いしばれ!」

「でも……」

「ライダーパンチ!」

 腰をひねりながら、モリが拳を突き出した。ゴキ、という生々しい音とともに、硬いグローブで覆われた拳が男の頬骨を陥没させる。

 体をひねって倒れるライダーを見下ろしながら、モリはもう一度鼻をシュウっと鳴らした。

 

「世田谷でそんな生意気な女って言えば、ロッコウのところのナナに違いねえ。今から借りを返しに行くぞ。おい、聞いてんのか?」

「……死んでます」

 モリの側近だろう。ピアスだらけの男が頭蓋を砕かれた男の脈を確かめていた。

 

「そうか。そいつのマシンは誰かテキトーなやつにくれてやれ」

 人を殺したばかりの拳を払いながら、モリは叫んだ。

「“殴り込み(カチコミ)”だ、オラァ!?」



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2-04_夜桜お七

 東京に吹く風はいつも同じ向きなのだろうかと、マッシュは考えていた。

 雲はいつも同じ方角に流れているのか。夕暮れの空から星々が現れる時、順番はいつも決まっているのか。

 はるか昔、人類の祖先も、空を見上げて同じことを思ったのか。

 

「ぼーっとするんじゃないよ」

 隣を行くナナが声を張り上げた。

 因縁ぶかい明治通りを、マッシュとナナは北へ走っていた。走るといっても足は動かしていない。処刑ライダーから奪ったバイクを使っているのだ。

 

「処刑ライダーどもみたいに、スピードを出さなくてもいい。歩くよりは速いんだからね。それより、手元を狂わせて転ばないようにしな」

 ナナが大声をあげるのは、バイクの排気音に負けないようにだ。エンジンはみんな音が大きいのかと思ったが、ナナによれば、「音が大きくなるように改造している」らしい。悪魔を威嚇するためだろうか。

 

「すまない」

 空に見とれていたことに気づいて、ハンドルをしっかりと握り直す。

「次を右に曲がる。そうしたら、小学校とやらがあるはずだ」

 ナナが頷いた。

 マッシュは気が乗らなかった。クロダと最後に会った場所……神宮前の小学校に近づくにつれ、無力感が増してくる気がした。

 

(あのときより少しは強くなったけど……)

 悪魔召喚プログラムを手に入れた。戦いの技も身につけた。それにバイクにも乗れるようになった。

 だが、同じ状況になった時、今度は皆を守れるだろうか。

 自分より強い悪魔に立ち向かう勇気があるのか……。

 

 クロダのカローラは、変わらない姿で同じ場所に残っていた。

 

「なるほど、これが新宿のオザワが使ってた車か」

 ナナは白いカローラのボンネットを開けた。なかには複雑な機械が絡み合っている。

「いい状態だ。きっと運転手がきっちり整備してたんだね。ムダにはしないよ」

 マッシュにはどの部品がなんのためのものなのかよく分からなかった。コンピュータなら見れば用途を理解できるのだが。

 

「分解するよ」

「手伝おうか?」

「悪魔が近づいてこないよう、見張っててくれ。エンジン以外にも、使える部品がありそうだ」

 マッシュは素直に頷いた。機械工作はナナの専門だ。自分にできることは少ない。

 

 妖鳥コカクチョウを呼び出して、上空をくるくると飛び回らせた。他の悪魔を威嚇しているのだ。コカクチョウより強い悪魔が現れれば、大声を出して知らせる手はずである。

 これで、以前のように頭上から不意を打たれる心配はない。

(失敗から学ぶことはできる。失敗する前に学べれば、もっといいんだけど)

 マッシュはアームターミナルを操作しながら胸中でつぶやいた。

 

(さっきのガイア教徒、気になることを言っていた。モリっていうリーダーが、堕天使オセの力を得ているとか……)

 堕天使オセ……ターミナルに収められた解析(ANALYZE)データベースを検索する。マッシュのプログラムは新宿地下のサーバーからダウンロードしたものだ。東京じゅうの悪魔のデータが入っている。

 

(強い。もしこの堕天使が現れたら、今の俺では敵わないな)

 いまのマッシュがかなう位階(レベル)ではない。

 思い出される。小学校でクロダたちを全滅させた堕天使よりも、さらに高位の存在だ。

 

「……おい、聞いてるのかい?」

 考え事はナナの言葉で中断された。

「いや……すまない、考え事をしてた」

「まったく、あんまりぼーっとしないでくれよ」

「見張りは悪魔がやってくれてる」

「そうじゃなくて……」

 

 ナナは呆れた様子で、モンキーレンチで自動車を示した。すでに、ボンネットからいくつかのパーツが抜き取られている。

「車の裏側を見る。力自慢の悪魔を呼び出して、持ち上げさせてくれ」

「わかった。……モムノフ!」

 召喚プログラムを走らせると、今度は古めかしい甲冑を着た悪魔が現れた。悪魔は大きな体格にふさわしい力を発揮して、カローラのフロントバンパーを掴み、ひっくり返さんばかりに持ち上げた。

 

「いいね。しばらくそのままにさせてくれ」

 マッシュは頷いた。モムノフは文句もなく従った。

 カブトムシの裏側を思わせる自動車の車体をナナは眺め、いくらか部品を確かめていた。マッシュには何をやっているのか分からないので、また悪魔のデータベースを眺めることにした。

 

「あんた、腕利きの悪魔使いだろ」

 背中を向けたままだ。マッシュもデータベースを確かめながら応えた。

「少しは。でも、もっと強いやつはたくさんいる」

「十分だ。上野や池袋には、腕利きの賞金稼ぎたちが集まってるらしいけど、そんな恐ろしい連中と戦おうっていうんじゃない。でも、あたしたちにだって敵はいる。私たちが使ってる鉄や宝石を狙ってるんだ」

「それにマッカも」

「まあね。今のところ、メシア教はあたしたちをいい取引相手だと思ってくれてる。でも、あいつらが作ってる何かが完成したら、どういう扱いを受けるかわかったものじゃない」

「何かって?」

 

大聖堂(カテドラル)

 その言葉には、背筋をぞくぞく震わせるような、妙な予感があった。

「目下の所、メシア教はそれを作ることに夢中らしい。人間もマッカも惜しみなくつぎ込んでる。あたしとしては、東京をいたずらに荒らしてるガイア教の連中よりははるかにいいと思ってるよ」

 マッシュは黙って話を聞いていた。頭上のコカクチョウは輪を描いて飛び続けている。威嚇するような強い悪魔は、あたりにはいないようだ。

 

「だから、あんたがメシア教のためになることをしてるなら、力を貸すよ。でもさ、うちだって余裕があるわけじゃない。あんたみたいに有能なやつが仲間になってくれたら……」

「プリンを東京タワーまで連れていかないと」

「わかってる。その後でもいいよ。あんたは悪魔も使えるし、ソフトウェアに詳しい。それに、バイクの扱いも筋がいい。うちには戦えるやつが少ないんだ」

 世田谷は、今や東京の片隅と言っていいだろう。大崩壊を生き残ったビル群からは遠く離れている。新宿や渋谷のように、街を一種の要塞として守るのは難しい。

 

 メシア教徒ガイア教、双方から役に立つと思われているから襲われていないだけだ。彼らがその気になれば、暴力で従わせることもできるはずだ。

 それぐらいのことは、部外者のマッシュにも想像できた。

 

「……考えておくよ」

 世田谷ベースが自分の居場所になるだろうか。マッシュは未来に思いをはせたが、プリンを無事にメシア教に引き渡したあとのことは想像もできなかった。

 

「よし。いよいよエンジンを外すよ。車をおろしてくれ。そっとだよ」

 クロダのカローラは、ひとまわり小さく見えた。

 

 

 ▷

 

 

 日が沈みはじめていた。

「今日は終わりだ。夜間作業はやめろ! 安全第一!」

 ロッコウが手に持った鈴をガランガランと鳴らしながら怒鳴り声を上げた。世田谷ベースの職人達は親方の手ひどい罰則のことを思い出し、次々に手を止めた。

「飯にしよう。今日の成果を聞かせてくれ」

 

 食堂、と呼ばれている場所に数十人の人間が集まっていた。職人と見習い。男も女もいた。

「紹介するよ。俺の嫁だ。こっちがアキコ、こっちがカコだ」

 プリンとミクミクに、ロッコウは二人の女性を引き合わせた。アキコと呼ばれたほうは、食堂を仕切っているらしい。世田谷ベースの料理長というところか。カコのほうは、まだせいぜい二十代に見えた。

 

「まあ。カコちゃんより若い子なんて何年ぶりやろか。たくさん食べなさいよ」

 根菜を煮込んだ汁を器に注いで、アキコがさしだした。

「ほんとにふたりと結婚してるの?」

 両手でその器を受け取りながら、ミクミクは聞いて見た。

「まあ、いろいろあって……ね」

 カコは寡黙なタイプらしい。

 

「この子のお兄さんがうちの人に弟子入りしに来はったんやけどね。女も手に技つけなあかんって言うて、色々教えてあげてるうちに……」

 大して、アキコは新しい話し相手が嬉しくて仕方ないらしかった。

「話は食いながらでいいだろ」

「はぁーい」

 一日働きづめの職人達に、アキコたちが料理を配っていく。

 

「ここの人たち、すごいエネルギーね」

 食事中も冗談を飛ばし合う職人達を遠巻きに見ながら、プリンとミクミクは隅に腰を下ろした。

「ほんと。新宿の人が元気になるのはディスコだけだったのに」

「ディスコで踊り疲れて普段は暗くなっちゃうんじゃない?」

「言えてる!」

 エネルギーにあてられたせいか、ふたりの口ぶりまではつらつとしている。

 

「まあ。若い子だけで話してはるの?」

 アキコが割烹着を畳みながら様子をうかがいに来た。その後ろでロッコウがちらちらと様子をうかがっている。なるほど、こうして夫婦で協力して話題を伺っているのだろう。

 

「私たち、新宿から来たものですから。こことはずいぶん雰囲気が違って驚きました」

「そうかもしれんねえ。うちらは半分外で暮らしてるようなものやから。地下暮らしのお人らとは、ずいぶん感じが違うやろうね」

 そう言って、アキコは窓の外を示した。世田谷ベースの外にはテントがいくつも張られている。そこで寝泊まりしている職人もいるらしい。

 

「外に出たら悪魔に襲われるぞって言われて育ってきたけど、地下に閉じこもってるほうが悪影響だったかもね」

「ま、まあ、おかげで無事に過ごすことができたわけだし……」

 プリンの語尾が小さくなっていく。悪魔との戦いを避けてきた新宿も、けっきょくは戦いから逃げることはできなかったわけだ。

 

「うちらも、なんとかやっていけてるのは、悪魔使いが手伝ってくれてるおかげよ」

 アキコは食堂のなかを見渡しながら言った。そのなかにも、幾人かの悪魔使いがいるのだろう。

「最初の頃はしょっちゅう悪魔やガイア教徒が襲ってきてたし、メシア教からも手下になるように言われててね。こうやって安心してご飯が食べられるようになるのに10年はかかったんよ」

「なんというか……」

 プリンは思わず胸のロザリオに手をかけた。メシア教徒としては気まずい話である。ミク三雲それとなく眼を伏せていた。彼女はガイア教徒だ。

 

「昔のことは、まあええやないの。いつまでも昔にこだわってたら仕方あらへんよ」

「そうかな。でもこの時間だって明日には過去になってるんだよ」

 ミクミクがつぶやくと、アキコはゆっくり首を振った。

「明日はきっと、もっといい日になる」

「そうなるといいんですが……」

「そう信じるしかあらへんよ」

 

 その時だ。ふと視界の隅で、赤いものが立ち上がった。

 それがあまりにとつぜんだったので、窓際にいた三人は同時にその方向に目を向けた。

 炎だ。世田谷ベースのテントに炎が上がっていた。

 

「ロッコウ! 火が!」

 アキコが叫んだ。職人達が一斉に立ち上がる。

「誰か消し忘れたのか?」

「そんなわけない、テントには子ども達もいるんだよ!」

「消火器持って来い! おい、子どもらを安全な場所へ!」

 穏やかな食事が一転する。だが、職人達は火の扱いには慣れているらしい。テントの延焼も、一度や二度ではなかったのだろう。消火の準備が進められるが……

 

 職人達がまだ経験していないのは、この先だった。

 

 ぱっ、ぱっ、と火花を散らすように炎があちこちで上がった。プリンとミクミクがいる窓のすぐ前にも赤い炎が飛んできたかと思うと、ガシャンと砕けた。地面に炎が広がった。

 

「火炎ビンだ!」

「誰かが火を付けてやがるんだ! クソッ!」

 

 ブゥウウウウウウウン!

 

 唸るような轟音が、静かな夜に響いた。

 燃え上がる炎から、一台のバイクが飛び出して来たのだ。

 装甲バイクに跨がっているのは、大柄な男だった。フルフェイスのヘルメットをかぶっている。何を思ってか、ヘルメットのバイザーには赤い丸が二つ描かれていた。

 

「モリ……!」

 ロッコウがその男を睨んでいた。

「モリって、暴走族の?」

「あの野郎、まだゾクやってやがったのか。年甲斐もなく……」

 

 炎のただ中にバイクを止めた男は、校舎にいる職人達に向けて叫んだ。

「処刑ライダーをナメるんじゃねえ!」

 ブゥウウウウン! ブゥウウウウウウウン!

 その叫びに呼応するように、いくつものエンジン音が鳴り響き、ヘッドライトが点灯した。

 

「二〇人はいるよ!」

「俺たちを殺す気だ!」

「戦うための悪魔なんかほとんどいねえってのに!」

 慌てふためく職人達の姿を見て、処刑ライダーは笑っていた。顔は見えなくても、それが分かった。

 

「モリ! 何しに来やがった!」

 ロッコウは職人達に目配せしてから、窓枠を乗り越えて火が上がる校庭に飛び出した。その間に、職人達はテントの火を消しに向かう。だが、今や世田谷ベースが使っている旧工業高校の周囲は、処刑ライダー達のバイクに囲まれていた。

「ロッコウ……」

 処刑ライダーの頭目はひと言つぶやいてから、両手を強く握った。あまりに強く握るので、グローブがギシギシと軋んだ。

 

 そして、とつぜん振り返ると、バイクに無理やりくくりつけた年代もののステレオのスイッチを押した。

 最大音量で、ガサガサのテープが再生された。

 

君は見たか愛が 真っ()に燃えるのを

 

「なに? この歌……」

 ミクミクはただうろたえていた。それから、自分のポーチに入っているベレッタのことを思い出した。処刑ライダーたちが世田谷ベースに敵意を向けているのは明らかだった。もつれそうになる手で、なんとか拳銃を取りだした。

「燃えてるのはあんたたちが火を付けたからでしょ!」

 

熱く燃やせ 涙流せ 明日という日に

 

 モリは握っていた手を振りまわした。それは一種の儀式に違いなかった。

「処刑ライダー……BLACK!」

 カッ、と光が輝いた。怪しげな燐光をまとったイバラのようなものがヘルメットの上に絡みつき、冠のようになった。

 

「ふざけるなーっ!」

 ミクミクはまっすぐにベレッタを構えて引き金を引いた。9mm弾はヘルメットの中央に突き刺さった。

「やった!」

 顔のド真ん中に銃弾を受けたモリは、ひび割れたバイザーを引き剥がして放り捨てた。 血走った目がミクミクを睨み、シュウっと鼻息を鳴らした。

 

「嘘でしょ……」

 弾丸はモリの眉間に突き刺さっていた。だが、モリはそれを指でつまんで放り捨てた。皮膚が焦げ付いていたが、それだけだった。

 

「オセ様の力だ!」

「うおおおおっ! 処刑ライダー最強!」

 エンジンを噴かして処刑ライダーたちが叫ぶ。そのバイクが、世田谷ベースのテントを踏みつけていく。

 

「やめろ! 子どももいるんだぞ!」

 ようやく、職人達が消火器を持って校庭に出たところだった。だが処刑ライダーたちがニヤニヤしながら銃を向けている。にらみあいになった。すぐに職人のひとりが堪えきれなくなり、消化剤を噴射した。

 バンッ!

 ライダーのひとりがショットシェルを発射した。職人は足を撃たれたが、それでも火を消そうとしていた。

 

「今まで見逃してやってたが……」

 モリは鼻息をシュウシュウならしながら、ロッコウをにらみつけた。

「今日こそは許さん!」

 ボッ!

 拳がロッコウを打ち据えた。職人の体はその衝撃で浮き上がり、壁際まで吹っ飛ばされた。

 

「やめろー!」

 ミクミクはベレッタの引き金を幾度も引いた。驚くべきことに、半狂乱の状態でも弾丸はすべて性格にモリに当たっていた。だが、その全てがダメージにはならなかった。

「銃弾が効かない!? どうして……」

「今の俺は無敵の処刑ライダーBLACKだ!」

 モリは鼻息荒く叫びながら、拳を振り下ろした。ロッコウが転がってかわすと、その拳はコンクリートを砕いて突き刺さった。

 

「モリ、お前……悪魔の力を……」

「ロッコウさん!」

 殴られた腹を押さえながらうめくロッコウへ、プリンが駆け寄る。掌から癒やしの光をかざし、その傷を癒やしていく。

 

「メシア教の聖女か。運がいい」

 モリがヘルメットからギラギラと光る目を向けて笑った。

「お前を殺してガイア教に首を差し出せば、三万マッカも手に入る」

「……っ!」

 新宿の大事件で、メシア教の聖女の存在は東京じゅうに知られることになった。ガイア教は敵対勢力の重要人物が品川大聖堂から離れている機会に消すつもりだ。

 

「に、逃げろ」

 ロッコウが呻いた。

「モリとは長い付き合いだ。性格は分かってる。あんたが逃げれば、先に俺を狙うはず……」

「逃げません」

 胸のロザリオを握って、プリンは首を振った。

「ここで待つ約束ですから」

 

 処刑ライダーたちが放つ銃弾の音がいくつも重なった。悲鳴。怒号。職人たちも撃ち返している。あるいは、悪魔使いが悪魔を使って戦っていた。

「全員、“(キル)”してやる」

 モリが鼻をならした。ヘルメットの頭頂に絡みつく魔力のイバラが輝く。

「あぶない!」

 ミクミクは無我夢中で引き金を引いた。だが、すでにベレッタの弾倉には弾がない。

 

「なんでも試してみろよ。銃も炎も俺には通じない!」

 火炎瓶が巻き上げる炎のなかに、モリは自ら突っ込んだ。赤い炎に全身が包まれる。だが、モリは笑い続けていた。

(どういう仕組みか分からないけど、この人は悪魔の力に魅せられてる)

 ミクミクには直感的に理解できた。自分にも同じような経験がある。

(だったら……!)

 両手の指が長く伸びて、男の体の中に入り込むことをイメージした。その指で心臓をつかまえて、最も弱い部分をいましめる。ただの夢想でしかないが、ミクミクには夢想を叶える力があった。

 

 魔力だ。

 

「《シバブー》!」

 魔界の言葉を口にすると、目には見えない魔力の糸がモリの体を縛り上げた。

「ぬっ……!」

 炎に包まれたモリが苦悶の声をあげた。二の腕が盛り上がるほどに力を込めても、その魔力を破ることはできない。

 

「本当にホントの無敵じゃないんだ!」

「こんなもの、痛くもかゆくもないぞ! 傷を付けられない以上、俺は倒せん!」

「でも動きは止められる! 今のうちに他の連中を倒さないと」

 処刑ライダーが乗り回すバイクが校庭を走り回っている。他人を襲って奪うことが生きがいの暴走族くずれどもが、職人たちを相手に暴れ回っている。

 

「任せて」

 ロッコウの治療を終えたプリンは、握ったロザリオを胸の前で構えた。カッと白い光が迸る。

「アークエンジェル!」

 ロザリオから放たれた光が、天使の形になって飛翔した。現れた天使(アークエンジェル)は、手にした剣で処刑ライダーを一体切り倒し、また炎を放って別のひとりを倒す。

 

「あ、あんた天使を召喚できるのか?」

「今は説明してる時間がありません。職人さんたちに言って、ケガをしている人をどこかに集めさせて。私が治します」

 聖女は逃げるのではなく、戦うことを選んだ。ロッコウは戦女神のような横顔を見つめてから、起き上がった。

「体育館へ行ってくれ。あそこなら丈夫だし、人を集められる」

「はい!」

 

「俺を忘れるとは、許さん!」

 燃えさかるモリが叫んだ。ミクミクのかけた金縛り(シバブー)が解けたのだ。

「お前達は全員、“(キル)”してやっ……」

 ドゴッ!

 そのとき、横から飛び込んできたバイクがモリを()ねとばした。

 

「ぐおおおおっ!」

 モリの巨体が数メートルも地面を転がった。

「……やりすぎたか?」

 ()ねた本人が、思わずつぶやいた。

 

「マッシュ!」

 ミクミクは、炎に照らされたその横顔を見て思わず叫んでいた。

「火が見えたから急いで帰ってきたけど……嫌な予感がしたんだ」

「マッシュ、ここは頼みます!」

 プリンに親指を立てて答える。ロッコウの呼びかけで、職人たちは体育館に集まりつつあった。

 

「こいつがモリか」

 処刑ライダーたちを相手に、アークエンジェルや世田谷ベースの悪魔たちが戦っている。となれば、マッシュは最強の敵に対処するのが役目だろう。

「お前か、手下を襲ってバイクを奪ったのは」

 処刑ライダーのボスは、焼け焦げたジャケットを脱ぎ捨てて起き上がった。キズひとつない。

 

「いや、襲われたから奪ったんだ」

「同じことだ!」

 モリが怒りにまかせて突進する。マッシュはバイクのアクセルを噴かしてモリに向かわせ、自分は飛び降りる。

「ぐんぬうううううううっ!」

 暴走族の(ヘッド)は力任せにバイクを投げ飛ばした。バイクはひしゃげてねじれ、見るも無惨な姿になった。

 

「なんて力だ」

 マッシュは舌を巻いた。

「本当に悪魔の力を身につけているらしい」

「気をつけて。あいつ、銃が効かないんだ!」

 ミクミクはマッシュの隣に並びながら、ようやく弾倉を交換したところだった。

 

「そうさ。無敵の処刑ライダーBLACKにはどんな攻撃も通用しない」

 マッシュは腰の散弾銃に伸ばしかけた手をターミナルに動かした。

「何か手はないのか?」

「金縛りなら。でも、倒せるわけじゃない」

 ミクミクは再び金縛りの魔法を実演して見せた。モリの体が再び見えない力にいましめられる。だが、処刑ライダーは笑い続けていた。

 

「こんなことをいくらしても俺にはキズひとつつけられないぞ!」

「いや……わかった。来い、ナイトメア!」

 召喚(SUMMON)プログラムが走り、子どものような姿の悪魔が呼び出された。

「あいつを金縛りにしろ。何度でもかけ直せ」

《がっちゃ!》

 了解、の意味らしい。召喚された夜魔は魔力を操り、モリを縛り付けた。

 

「それから……どうするの?」

 ミクミクとナイトメアが二人がかりで金縛りにしている。モリはひたすらもがき続け、脱したところですぐにまた縛られる。

「手下が全員やられても、俺がお前ら全員を殺す! こんなことは時間稼ぎにしかならないぞ!」

「あんたの手下から聞いたよ。堕天使オセと契約して力を借りているらしいな」

 ナイトメアへの命令を続けながら、マッシュはアームターミナルを操作した。

 

「さいわい、俺のCOMPにはオセのことが乗っていた。オセは恐ろしい悪魔で、王にも等しい力を人間に与えてくれるらしい」

 モリのヘルメットには、イバラのような輝きが宿っていた。それはたしかに、いびつな王冠のようにも見える。

「そうだ。だから俺は無敵の王、処刑ライダーBLACKに……」

「だが、その力は一時間しか保たない」

 データベースから呼び出したオセの情報を眺める。その情報が、マッシュの力だった。

 

「だから時間稼ぎをすればいい。もう俺たちが勝ってるよ」

 

 ――二〇分か、三〇分か、四〇分か。

 ひたすら金縛りにかけ続けるうち、やがてモリのヘルメットに絡みつくイバラの王冠は消えた。同時に、モリの体にみなぎっていたエネルギーも失われた。まるで空気が抜けていくゴム人形のようだった。

 処刑ライダーたちはアークエンジェルがけちらしていた。彼らはモリに助けを求めようとしたが、(ヘッド)が身動きできない状態なのを見て逃げ出したようだ。

 火はなかなか消えなかった。だが、職人達と家族は……少なくとも生きているものは……体育館に避難し、プリンの治療を受けることができた。

 

 

「くそ、くそっ! 誰だ、オセの名前を出したのは。間抜けな手下のせいで……」

「いや、あんたがここを襲わなきゃよかったんだ」

 マッシュは腰の散弾銃を抜いて、モリの額に銃口をつけた。

「やめろ……」

 モリが怯えをにじませて、マッシュを見上げた。

 

 マッシュは首を振った。

 

 

 ▷

 

 

 朝になった。

 世田谷ベースの校庭は焼け跡で見るも無惨な姿になっていた。生活に必要な物資の多くが失われていた。

 火の手が強すぎて、消火は間に合わなかったのだ。

 

「すまない、俺たちが処刑ライダーどもの怒りに触れたんだ。たぶん」

「いや、俺たちを守るために戦ってくれたんだ」

 夜通し火の始末をしていたロッコウが顔の煤を拭いながら、マッシュの肩を叩いた。

「それに、どうせいずれはやるつもりだったんだろう。モリにとどめを刺してくれてありがとよ。俺にはずっとできなかったことだ」

 

 体育館のなかにいる職人たちは、生きる気力を失っていなかった。技があれば、必ずやり直せる……そう信じているようだった。

 

「マッシュ、こっちに来てくれ」

 ナナだ。帰り道では、バラした自動車のパーツを急ごしらえの台車に乗せてバイクで()いていた。しかも、炎を見たマッシュが飛び出していったので、彼女が世田谷ベースに着いたのは、モリとの決着がついた後だった。

 結果としてナナは戦いに巻き込まれなかったのだが、本人はかなり悔しがっていた。

 

「グラスファイバーのボートにエンジンをつけた。これで西東京湾(にしとうきょうわん)を渡れるはずさ」

 四人乗りの小型ボートだ。本来は手こぎ用の船の背部に、強引にエンジンとスクリューが据え付けられている。

「作ってくれたのか?」

「約束だったからね。何かしてやらないと自分が情けなくて」

 ナナは肩をすくめて、改造ボートを示した。

 

「海辺まで運ぶのは力持ちの悪魔にやらせてくれ」

「ああ」

「旅が終わったあとどうするか迷ったら、世田谷に戻ってきておくれ」

 マッシュが返事をする前にナナは寝袋を引っ張り出した。

「それじゃ、あたしは寝るから」

「職人はみんな口下手なんだよ」

 ロッコウがつぶやく。ナナは寝ころんだまま中指を一本立てた。

 

 

 ▷

 

 

 エンジンがけたたましく音を立ててスクリューを回し、ボートが前進する。みるみるうちに加速し、あっという間に陸から離れていく。

「すごい。こんな機械もあるんですね」

 プリンがブルブルと震えながらスクリューを回すエンジンをおっかなびっくり見つめている。波風に吹かれて、二色の髪が乱れるのを手で押さえていた。

 

「さすがだ。これならすぐに東京タワーの方まで行けるはずだ」

 ターミナルの中のマップを確かめる。六本木と品川の間は大破壊によってできた亀裂に海が流れこんでいた。ふつうなら渡るのは面倒なところが、ナナの改造モーターボートならむしろ好都合なくらいだ。

 

「そうだ! アキコさんにパンもらったんだ。マッシュ、食べさせてあげるよ」

 ミクミクが抱えていた袋から硬そうなパンを取りだした。旅の間の食糧を管理するのは彼女の仕事だった。プリンに任せると食欲に負けてしまいそうだからだ。

「お、おい……」

 マッシュは船の舵を取っていた。舵といっても、スクリューの後ろについた板を動かすだけだが、押さえていないとどっちに向かうか分からない。乗っている間、マッシュは手を離せないのだった。

 ミクミクが面白がってパンを口元につきつけ、プリンは楽しげにそれを眺めていた。

 

 その時……

「船を止めろ」

 一行の誰でもない、第四の声があがった。

 

「ここから先はボクの土地だ。勝手に上がらせるわけにはいかない」

 いつの間にか、ボートの舳先(へさき)に誰かが立っていた。逆光の中でも、髪が銀色に輝いていた。

「誰だ!?」

 反射的に叫ぶマッシュを見下ろしながら、銀髪の人物は腰の剣に手をかけた。

「ボクは……」

 その剣には刃がなく、代わりに光が刀身のように伸びていた。

 

「妖精騎士、タムラ・リン」



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