【完結】白嶺に染まぬ黒 ~大人のためのウマ娘 プリティーダービー~ (モルトキ)
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第1話  崩れゆく摩天楼

 絶望は、血の味がした。

 全力疾走のなか、疲労にまみれた吐息にそれを感じる。

 丈の長い洋芝が足に絡む。レースコースも、日本のようにお行儀よく整地されていない。自然の地形がそのまま残されており、風になびく絨毯のような連続する凹凸と凄まじい高低差の坂が、みるみるスタミナを奪い取っていく。心臓破りの坂で有名な中山競バ場がハイキングコースのように思えてくる。

 『偽りの直線』を抜け、最後の直線に入る。内にはヨーロッパ各国の最強ウマ娘たちが塊となって競り合う。バ群に飲み込まれたら抜け出すのは不可能だ。脚質が追込であるため、トレーナーとの作戦会議でこの事態は想定していた。先頭集団との差は、それほど開いていない。通常のレースなら、ここから十分差し返せる距離。

 そのわずかな開きが埋まらない。

 脚が重い。喉の奥から鉄臭さがこみ上げる。肺胞がつぶれ、毛細血管から滲みだした自らの血で溺れているかのような錯覚。いつもラストスパートの追込みで勝ってきたはずなのに。国内最高のG1レースでも、並み居る強豪を押しのけて最後はトップに立っていた。それなのに今は、もう先頭集団の背中も見えないほど後方に沈んでいる。

 ゴールに至る前に、敗北を知ったのは、これが初めてだった。この苦痛を終わらせるため、流されるように脚を動かす。自分でも気づかないうちにレースは終わっていた。芝の上に倒れこむ気もおきない。棒立ちになり、肩で息をしながら青い空を仰ぐ。

 パリ・ロンシャン競バ場の確定ランプが灯る。見たくはない。それでも見なければならない。ここで目を背ければ、自らの存在自体が否定されてしまう。何に否定されるのか分からないが、ウマ娘の本能がそう警告していた。

 

 マンハッタンカフェ Prix de l'Arc de Triomphe(凱旋門賞) 13着

 

 URAが日本を代表するウマ娘として、世界最高峰のレースに送り出した逸材。それがマンハッタンカフェだった。去年、体重の大幅減により皐月賞、東京優駿の出走を見送ったのちの菊花賞で劇的勝利、さらに続く有馬記念でも1着をとり、今年の天皇賞春とG1連勝を重ねた。彼女のほかに、クラシックからの長距離G1三連勝をあげたのは、かの『皇帝』シンボリルドルフだけである。

 美しく長い黒髪から、『漆黒の摩天楼』の異名を授かったマンハッタンカフェは、今年度のスターウマ娘だった。長距離レースで勝利するには、純粋なスピードだけでは足りず、豊富なスタミナ、レース運びを見極める冷静さと知能、さらに最後の直線で加速できるだけの精神力など、多くの素養が必要となる。つまり総合的に「強い」ウマ娘でなければ勝利するのは難しい。

 三冠を嘱望される「速い」ウマ娘にとって、菊花賞は鬼門だ。皐月賞2000m、東京優駿2400mを危なげなく勝っても、最後の菊花賞3000mで涙を飲むウマ娘は多い。

 URAが目をつけたのは、マンハッタンカフェの強さだった。欧州のバ場は、日本のものとは全く異なる。芝の種類、地形、急勾配、どれをとっても日本のウマ娘にとっては未知の脅威となる。事実、日本はおろかアジアのウマ娘が、凱旋門賞を勝てたことは一度もない。エルコンドルパサー、ゴールドシップ、ナカヤマフェスタなど、名だたる精鋭たちが挑戦してきたが、ことごとく高すぎる世界の壁に阻まれた。

 スピード最優先のトレーニングを受けてきた日本のウマ娘のなかで、最も欧州バ場に適性があるのは長距離走者となる。シンボリルドルフ以来の快挙を成し遂げたマンハッタンカフェに白羽の矢が立つのは当然だった。

 実は、スターウマ娘の海外遠征は、URAにとって好ましいことではない。スター不在となれば、国内レースは盛り上がりに欠け、収益ダウンに繋がるからだ。そのリスクを冒してでも、1着を取りにいく価値が凱旋門賞にはあった。それはむろん世界一の証明であるが、ウマ娘個人の栄光以上に、レース先進国としてのプライドが、アジア初の偉業を他国に譲るなど絶対に許せなかった。

 かくして日本中の期待を一身に背負い、世界に挑んだマンハッタンカフェだが、G13勝の実力をもってしても、欧州の猛者には歯牙にもかけられぬ結果となった。

 優勝どころか、ウイニングライブの舞台にも立てない。あらゆる言語が飛び交い、互いの健闘を讃え合うなかで、マンハッタンカフェは独り静かにバ場を去っていく。ロンシャンに地下バ道はない。敗北した自分を覆い隠してくれるものは何もなかった。表情を出さず、堂々と耳を立てることだけが、彼女にできるせめてもの抵抗だった。

 悠々と手を振りながらターフを歩く勝者に、観客は釘づけだ。誰も自分のことなど見てはいない。カフェが虚勢を張りたい相手は、このロンシャンに一人しかいない。

「お疲れ様」

 落ち着いた声で、その人物はカフェを労う。勝っても負けても、第一声はこれだった。いつもと変わらない彼女を見て、カフェはようやく耳を垂らすことができた。

「負けました」

 自らのトレーナーに、ぽつりと結末を報告する。

 夏野蘭。それがマンハッタンカフェのパートナーの名前だった。

 国内最高の競走ウマ娘養成機関である、日本ウマ娘トレーニングセンター学園、通称『中央トレセン』。そこで自らのチームを持ち、トレーナーとして勤務している。通常、海外遠征には学園やURAの職員が同行し、マネジメントを行う。日本代表ウマ娘を輩出するようなチームは、所属人数が7名以上の大所帯であることが多い。よってトレーナーは、出走予定の大多数を占める国内レースに向けた調整のため、学園に残らなければならない。しかし、夏野の率いるチーム・シェアトは異例だった。設立して以来ずっと、所属するウマ娘はマンハッタンカフェひとりというワンマンチームだ。そして、トレーナーの同伴をカフェ自身が強く希望していた。凱旋門賞出走の打診があった段階で、学園側に対し、トレーナーが現地入りすることを出走条件として提示した。G1ウマ娘の意向を学園も無視できず、現地でのバックアップは全面的に夏野が行うこととなった。

「着替えてホテル戻ろっか?」

 夏野は言った。5着以内でなければ、鬱陶しいマスコミの相手をする必要もない。そもそも勝利したときでさえ、カフェはインタビューを嫌がる性格だ。どうせこちらが何を言おうと、むこうの都合よく書き換えられるのだから、喋るだけ損だ。

「トレーナーさんも着替えるんですか?」

 予想外の言葉が返ってきた。感情の窺い知れない黄金色の瞳が、まっすぐ夏野を見つめていた。

「あれ、似合ってなかった?」

 苦笑する夏野。今の恰好は、人生初めてとなる正装だった。カフェの勝負服に合わせた、黒を基調とするシンプルなドレス。普段のトレーニングではジャージだし、レース本番でも就活生みたいなスーツしか着たことがなかったため、開き気味の胸元が若干恥ずかしい。本場欧州G1はドレスコードが厳しいため、出国前に急遽あつらえたものだった。

「いいえ。そのままでいてください。ホテルの部屋に着くまでは」

 相変わらず耳は下がっていたが、レース後初めて笑顔を見せた。

 タクシーでパリ市内のホテルに帰る途中、変装用のサングラス越しに、カフェはずっと夏野を見ていた。その隣で、これから起こるだろうことを予感し、夏野は静かに覚悟を固めていた。ホテルの部屋は同室だった。さすがにベッドは別々だが、これもカフェが希望したことだ。

 部屋に通されたとたん、夏野はベッドに押し倒された。手首をつかむ、鋼のような両手。ウマ娘の筋力は、生まれながらにして人間の十倍。抗っても自分の身体を痛めるだけなので、好きにさせておく。

 見上げれば、マンハッタンカフェの顔がある。艶やかな黒髪が滝のように流れ落ち、その中央には、狼のような金色の双眸が冷たく光る。そこらのウマ娘など足元にも及ばない、小さく整った貌。蝋人形じみた真っ白な肌。

 怖気がするほど美しい生き物だ。

「トレーナーさん。わたし、負けちゃいましたよ」

 年頃の少女にしては低く大人びた声色で、カフェが囁く。夏野は彼女の声が好きだった。こんな状況でなければ、もっと穏やかな気持ちで楽しめるのに、とぼんやり考える。

「手、どけてくれる?」

 視線を逸らさず、夏野は言った。それだけで、万力のようだった両手があっさり解かれる。自由になった上半身を起こし、カフェと向かい合う。夏野より頭ひとつぶん背の低いカフェは、膝立ちになっていた。

 担当するウマ娘の前で、夏野はゆっくりとドレスの肩紐をはだける。

 露になる左肩。そこには楕円形の白い傷痕が刻まれている。一年以上前の傷が、いまだ癒えずに残っていた。

 一生忘れないだろう、メイクデビューの悪夢。1番人気に推されながら3着に沈んだ夜、チーム部室にて夏野はマンハッタンカフェに襲撃された。正確には、敗北の衝撃からパニックに陥ったカフェを静止させようとした際、反撃を受けたと言うべきか。夏野の服を破り、その肩に噛みついた。凄まじい激痛。肉体の一部が引き剥がされる恐怖を生まれて初めて知った。それでも夏野はただ、カフェが落ち着くまで抱きしめていた。責任感からくる諦めの気持ちだった。勝てるはずのレースで、勝たせてあげることができなかった。敗戦の責任は、すべて自分にある。その信念から、痛みと暴力を無条件に受け止めた。

ようやく破壊衝動から抜け出せたカフェは、一転して滂沱のごとく涙を流し、謝罪を口にした。放っておけば校舎から飛び降り自殺しかねない精神状態だった。もし今腕を解いて走り出されたら、もう追いつけない。傷から血を滴らせたまま、夏野はカフェを抱擁し続けた。そして彼女の耳元で、何度も繰り返した。

 あなたがそうしたかったんなら構わない。あなたがしたいことを、わたしはこれからも受け入れる。

 それ以来、カフェの衝動が表に出ることはなくなった。レースで負けるたび、左肩を差し出せば落ち着いてくれる。最初のときのように痕が消えないほど強く噛まれることもない。少し痛い程度で、7か月前の日経賞のときの噛み痕は、もう残っていなかった。

「どうぞ」

 短く促す夏野。内心、少し怯えていた。今回の敗北は、これまでとは重みが違う。もしかしたら血を流すことになるかもしれない。

 カフェの顔が近づく。吐息の湿り気を、肌で感じる。こういうとき、自分が女性であることを幸運に思う。もし男性であれば、どちらかがレースの世界から永久追放されるのは時間の問題だったはず。

 しかし、痛みは来なかった。金の瞳は、肩ではなく夏野の眼球を覗き込んでいた。レース直後の激しい情動はどこにもなく、朝のコーヒーを共にするときのような、穏やかに澄んだ色をしていた。

「ごめんなさい。今日はいいです」

 そう言って、カフェは優しい手つきで着崩れたドレスを直す。意表を突かれた夏野だが、すぐに思考を立て直す。

「じゃあ気分転換にさ、ちょっと出かけてみる? シャンゼリゼ通りに、行ってみたいコーヒーショップあったよね」

 夏野が提案してみるも、カフェは首を横に振った。しばらく独りになりたい、夕飯もいらない、とのことだった。こういうときは何も強要してはいけないことを夏野は学習している。健康を害しない程度には、彼女の気持ちを優先させるしかなかった。

 ラフな格好に着替え、部屋をあとにする。

 夕食までの時間をつぶそうと、セーヌ川沿いを歩く。凱旋門賞出走は、トレーナーとしては反対だった。天皇賞春を制したからといってマンハッタンカフェの状態は万全ではなかった。敗北する確率の高いレースに、わざわざ放り込む意味はない。しかし、トレーナー歴わずか2年の自分が、学園やURAに何を言おうが焼石に水だった。

 トレーナーとしての実力不足で敗北するならまだしも、政治力の無さにより押し付けられる屈辱は耐えがたい。つのる鬱憤の勢いにまかせ、近場のビストロで時間を忘れて痛飲した。ホテルに戻ったとき、すでに部屋は暗くなっていた。片方のベッドから規則正しい寝息が聞こえる。夏野も手早くシャワーを浴び、自分のベッドに潜りこむ。

 アルコールが抜けきらず、とろとろと浅い眠りが続いた。

 夢でも見ているかのように、昔の記憶が蘇ってくる。

 中央のライセンス試験に合格し、トレセン学園に赴任してきたのは、ちょうど2年前。夏野は当時26歳であり、トップトレーナーを目指すには少し遅咲きのスタートだった。トレセンのトレーナーと言えば、自分のチームを率いて所属ウマ娘を勝利に導くイメージだが、それができるのは4、5年の下積みを経たあとだ。まずは教官として、チーム未所属のウマ娘に教育を行い、経験を積むなかで少しずつ生徒からの信頼を勝ち取っていく。生徒もまた、自らのキャリアが懸かっているのだから、何の実績もないトレーナーの下につこうとは思わない。

 しかし、どこの世界にも例外は存在する。

 赴任したての夏野は、放課後の学内選抜レースを見学していた。これは、いわばウマ娘にとってのオーディションだ。良い結果を出せれば、強いチームのトレーナーから勧誘の声がかかるかもしれない。チームに所属しなければトゥインクルシリーズに出走すらできないため、模擬レースといえど皆必死に走る。このとき、居並ぶトレーナーの注目を一身に集めていたのがマンハッタンカフェだった。中央トレセンに入学できる時点で、人間でいえば東大合格と同等なのだが、そのなかでもカフェは同年代最強レベルと噂されていた。実際、カフェの走りは圧倒的だった。トレセンの芝2400m。最後の直線で疲れた顔ひとつ見せず、大迫力の追込で1着をつかみ取った。当然、一流から中堅まで、多くのトレーナーたちが彼女に声をかけていた。新米の夏野が見ても、彼女は青田買いする価値のあるウマ娘だった。だが、あれだけ圧倒的な勝利を見せつけ、引く手数多にも関わらず、カフェは少し困った顔をしていた。場当たり的に「考えてみます」と返事をはぐらかし、勧誘ラッシュをのらりくらりと回避している。

 やがて声をかけていないのは夏野だけとなった。別に、勧誘してみようとも思わない。未来のスターウマ娘が、どこの骨とも分からぬ新人トレーナーと契約するはずがないからだ。ところか、意外にもカフェのほうから夏野に接近してきた。

「あなたは、どうでしたか? わたしの走りは、どんなふうに見えましたか?」

 心の奥底まで見透かされそうな鋭い瞳。しかし、正反対に声は小さく、ぼそぼそしていて聞き取り辛い。

 このとき何と答えたのか、夏野はよく覚えていない。緊張もあったし、なにより投げやりな気持ちだった。絶対に担当しないと分かっているから、無礼に思われても構わないと開き直り、感じたことをストレートに語った気がする。

 数秒の沈黙ののち、マンハッタンカフェは何も言わずにターフを去った。やはり相手にされなかったようだ。分かってはいたが、少し物悲しい気分になった。ところが、その一週間後、カフェは再び夏野の前に姿を見せた。周囲の目もはばからず、よく通るアルトで宣言した。

 あなたと契約を結びたい、と。

 それがマンハッタンカフェとの出会いであり、チーム・シェアトの始まりだった。学園の規約上、トレーナーライセンス保持者は、ひとりでもウマ娘と契約を交わせば、チーム設立が認められる。トレセン赴任直後にチームトレーナーになるのは異例中の異例だった。それから、夏野はカフェと二人三脚で走ってきた。その道のりは、挫折と困難ばかりの悪路で、幾度となく衝突もした。それでも、瓦解することなくここまで来られた。

 これからもそうでありたい。

 だけど、マンハッタンカフェの真意はどうだろう。

 肩を噛むことをやめたのは、自分に対する執着が薄れているからではないか。もう自分のもとで走ることに情熱を得られなくなってしまったのでは。ネガティブな思考ばかりが黒い泡のように増殖してきたとき、ふと隣から衣擦れが聞こえた。

 絨毯を渡る、かすかな足音。

 身体を覆うシーツが浮き上がる。人間ほどの質量を伴う何かが、もぞもぞと入り込んでくる。夏野はあえて反応しなかった。これは初めてのパターンだな、と寝たふりをしながら頭を冷静に保つ。

「トレーナーさん。起きていますか?」

 声にもならない囁きが、耳元に聞こえる。瞼を閉じているから、彼女の表情は窺い知れない。ただ規則正しい寝息を演じるしかない。

 ひやりと右腕に冷たいものが触れる。続いて右足にも。カフェの四肢が、絡みついてくる。この行為が、いったい何を意味するのか見当もつかない。親愛の一表現なのか、あるいは絞め殺したいという暗示か。

 いずれにせよ狸寝入りをやめる勇気はなかった。

「あなたは、どうするんでしょうね」

 そう呟くなり、カフェの全身がくたりと横たわる。互いの吐息が混じり合う距離で、カフェは眠りに落ちていった。こういうときは深く考えてはいけない。ドツボに嵌まって睡眠時間を損するだけだと、夏野は知っている。

足に接する違和感について尋ねるのは、明日でも遅くはない。

 

 翌日、夏野が目を覚ますと、隣にカフェはいなかった。すでに着替えをすませ、リビングチェアで大人しく夏野の起床を待っていた。

 今日、ふたりは日本に帰国する。

「昨日どこにも行けなかったし、せめてエッフェル塔だけでも見ていかない?」

 ルームサービスの朝食を終えたのち、夏野が提案する。カフェは気のない声で、いいですよ、とだけ答えた。

早朝のパリは、焼きたてのバゲットの香りがした。欧州の空気に馴染んだ我々の鼻は、日本に帰ったら醤油のにおいを感じるだろうか。他愛もないことを考えながら、エッフェル塔前の公園を歩く。

「次は有馬記念ですか? 頑張らないといけませんね、リベンジのためにも」

 隣のカフェが尋ねる。しばし休養を取ったのち、トレーニングを再開して年末の有馬記念に合わせるのが王道だった。凱旋門賞で負けても、それほど国内の人気には影響しない。グランプリレースはファン投票で出走者が選ばれるため、カフェはほぼ確実に走ることとなるだろう。

 しかし夏野は、肯定も否定もしなかった。

「ねえ。脚、痛くない?」

 率直に尋ねる。カフェは、きょとんとした目で夏野を見上げていた。

「いえ、特には。筋肉疲労の鈍痛はありますが、休めば治ると思います」

 そう答えるカフェの前で、夏野はしゃがみこむ。黒いタイツで覆われた彼女の脚を、両の掌で包み込むように、ゆっくりと触診する。カフェは一瞬、びくりと肩を震わせたが、その後はじっと身を委ねていた。

「ちょっと熱もってる。痺れがあるんじゃない?」

 さらに夏野が問い詰めた。しかしカフェは一歩下って、トレーナーの手から逃れる。

「大丈夫です。それ以上触ったら、蹴り飛ばしてしまうかもしれませんよ?」

 珍しく強い口調だった。ウマ娘の脚力で蹴られたら、当たり所によっては内臓破裂もあり得る。それでも夏野は、躊躇いなくふくらはぎの筋肉を圧迫する。

 一瞬の表情の変化を見逃さなかった。いつもは能面のように美しい貌に、苦痛の皺が寄った。

「帰国したら、すぐ受診するから」

 夏野は言った。返す言葉もなく、カフェは恭順の意を示すかのように耳を垂れた。

 シャルル・ドゴール空港までタクシーを使い、無理を言って早い便に切り替える。幸い席に空きがあった。日本まで約12時間のフライト。それほど症状が重篤ではないのが救いだが、空中の牢獄で気が休まるときはない。離陸前に、マンハッタンカフェ故障の連絡を学園には入れておいた。羽田空港に到着したとき、すでにURAから専用の搬送車が用意されており、そのまま提携病院に向かう。

 その間、マンハッタンカフェは無言だった。楽観も悲観も口にせず、この先の運命を見据えるかのように、金の瞳は微動だにしない。

 自力歩行できるし、骨折の兆候も見られない。それでも夏野の不安が消えないのは、ある病の存在だった。気づかないうちに症状が進行し、痛みや発熱により自覚する頃には走者生命を脅かすほどに深刻化する、ウマ娘特有の脅威。

 病院に到着後、すぐにマンハッタンカフェはウマ娘専用の検査室に通される。夜の待合室でひとり気を揉むこと一時間。ようやく看護師から呼び出される。

 診察室にて、カフェの隣に立つ。

「屈腱炎です」

 初老の主治医は、余計な前置きをせず結論だけを述べる。

 トレーナーならば、ウマ娘のいかなる疾患に対しても毅然としなければならない。それはひとえに、担当する娘たちの心を守るためだ。しかし、理屈では分かっていても、感情はついてきてくれない。

 想像の産物でしかなかった最悪の事態が今、現実となって殴りこんできた。

「中度の炎症を起こしています。すぐ入院となりますので、夏野トレーナーは手続きをお願いします」

 淡々とした声で主治医は言った。

 退出する前、マンハッタンカフェの顔を見た。そこに不安も悲しみもなく、ただ穏やかな瞳で虚空を見つめていた。

 




3月5日は、マンハッタンカフェの誕生日。
愛するウマ娘に祝福の気持ちを込めて、この物語を綴ります。


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第2話  独りのチーム

マンハッタンカフェ初期ボイス

「ええ、お任せを。血に飢えた猟犬のようにレースを制してみせましょう」


 屈腱炎。

 競争ウマ娘の癌とさえ呼ばれる恐ろしい病だ。日々のトレーニングやレースの負荷により、膝下の腱の一部もしくは全体に炎症が生じ、ゆっくりと進行していく。自覚症状はほとんどなく、筋肉痛や疲労と誤解されることが多い。受診が遅れて慢性化した炎症は根治困難であり、たとえ症状が軽快したとしてもトレーニングを始めたとたん、再発・悪化してしまう。そうなれば二度とレースには復帰できない。最近では医学の進歩により、重症でなければ徹底した安静とステロイド等による内科的治療によって寛解した事例も増えつつある。しかし、走れるほどに回復したとしても、レースに出る限りは再発の可能性が永遠につきまとうため、厄介な病気であることに変わりはない。

 詳しい検査の結果、マンハッタンカフェは重症化する一歩手前だったらしい。この段階で発見できたことを、むしろ誇るべきだと主治医に言われた夏野。同期のトレーナーからも、自分を責めてはならないとアドバイスを受けた。しかし、それらの言葉は、なにひとつ慰めにはならなかった。

 愛するウマ娘が、引退の崖っぷちに立たされている。そこまで追い込んだのは、トレーナーである自分自身だ。悔しくて情けなくて眠れない日々が続いた。

 面会が許されたのは、入院から四日後のことだった。

 無機質な病室にて、マンハッタンカフェはぼんやりと窓の外を眺めていた。一週間も経っていないのに、顔がやつれて見える。まるで皐月賞出走を断念したときのように、全身から生気が抜け落ちていた。

お見舞いのため持参したフラワーバスケットが、行き場を失くして宙をさまよう。

「ごめん。わたしが気づかなきゃいけなかった」

 夏野が頭をさげる。全ての責任は、トレーナーたる自分にある。今更どうすることもできないが、これだけは伝えなければならない。

 カフェが夏野のほうを振り返る。その沈黙は、トレーナーが想いの丈を吐き出すまで待つという意思表示だった。

 夏野は訥々と語る。天皇賞春以降、重賞レースを予定しなかったことによるカフェの欲求不満。骨折などの致命的故障を気にするあまり、マンネリ化していたトレーニング。有馬記念を見据えていたにも関わらず、凱旋門賞出走を断りきれなかった優柔不断。

 なにより、マンハッタンカフェ生来の脚の弱さを甘く見ていたこと。

 トレセン学園の平均的なウマ娘よりも、彼女の骨は薄かった。とくに地面と接触し、最も大きい衝撃がかかる節骨から足根骨にかけて脆弱性が目立つ。筋肉をつけすぎると骨にかかる負荷も増すため、メイクデビューで敗北したふたりは、減量トレーニングに舵を切った。トレーニング自体は成功し、二戦目にして初勝利を飾る。しかし、どうしてもスタミナの低下は避けられず、皐月賞の前哨戦となる弥生賞では4着、続くアザレア賞は11着の大敗に終わる。このとき、マンハッタンカフェの体重はデビュー時より12キロも減っていた。一生に一度しか出られない皐月賞、東京優駿を棒に振る決断をしたとき、周囲からの批判や罵倒はすさまじかった。口さがないゴシップ誌は、ド新人が未来のスターを潰すとまで書きたてた。しかし夏野はバ耳東風とばかりに聞き流す。当のマンハッタンカフェが契約続行を望む限り、彼女を手放す選択はあり得なかった。

 トレーニング方法を大幅に見直し、バランスのいい体格を練り上げることで、クラシック最終戦の菊花賞にて雪辱を果たす。さらに年末の大一番たる有馬記念にも勝利し、外野の声をねじ伏せた。だが過酷な長距離レースでの疲労がかさみ、年明けから脚部不安をきたすようになる。これといった病名はつかないが、鈍痛や疲労感といった症状が続いた。そこで夏野は、知己のあった装蹄師に頼み込み、カフェの足を守るため特注の蹄鉄をあしらえた。

 それが鉄橋鉄である。Uの字を描く蹄鉄に、橋板をかけるようにして空白部を埋める。接地時の衝撃を、広く足裏に逃がせる設計だ。骨折以外の身体的不調は蹄鉄で治せるというのが、装蹄師の持論だった。

 しかし、面積が広くなったぶん重量は増し、地面を掻く力が減少するため、雨に濡れた重バ場だと滑りやすくなってしまう。確かに脚部不安は解消され、カフェの走りは安定した。しかし同時に、最後の直線における追込のキレを失い、日経賞は6着に終わった。

 勝てなければ意味がない。

 これを口にしたのは、URAでも学園理事会でもなく、マンハッタンカフェ自身だった。

 天皇賞春は、通常の蹄鉄で挑み、勝利した。国内G1レース最長の3200mを制したことで、長距離最強の評価が揺るぎないものとなった。

 以降、日々のトレーニングにも鉄橋鉄を使うことはなかった。

 ここで判断を誤ったのだと、夏野は内省する。

ウマ娘は一直線に勝利を目指す。しかし、全身全霊であることが、いつも正しい結果をもたらすとは限らない。ゆえに、トレーナーが必要なのだ。戦局を冷静かつ俯瞰的に見つめ、適切なブレーキ役として機能しなければならない。

 愛情と甘やかしをはき違えることは危険だ。座学では基本中の基本である知識が、実践でこうも通用しないことを思い知らされた。

「謝らないで、とは言いません」

 夏野の言葉が途切れてすぐ、カフェは口を開いた。

「許します」

 金の瞳が夏野を射抜く。

「こんな言葉で、あなたの気持ちが救われるなら、いくらでも言います。だからもう一度、わたしをレースに戻してください」

「分かった。うじうじするのはこれで終わり。早く回復できるよう全力でサポートする。そしたら、またトレーニング頑張ろう」

 フラワーバスケットを棚に置き、夏野は笑顔で言った。

 しかしマンハッタンカフェは首を横に振る。

「有馬記念です。治ったらどうとかではありません。グランプリレース、絶対に走りたい。どうかお願いします」

 静かだが、凄まじい圧のこもる声でカフェは言った。ひとまず夏野は肯定するしかなかった。面会時間の終わりが近づいていたし、ここで迂闊に反論すれば、これからのリハビリプランが崩壊しかねない。

 学園に戻り、トレーナー室で夏野はひとり考える。

 どうにも腑に落ちないことがあった。マンハッタンカフェは、勝つことに対して異常な執着を持つウマ娘だ。普段のトレーニングではむしろ理性的なほどだが、出走したレースで負けたときの荒れ方は凄まじい。そんな彼女が、『勝ちたい』と言わなかった。年末の大勝負である有馬記念に対し、『走りたい』という言葉を使ってきた。

 単なる思い過ごしならいいが、凱旋門賞を惨敗したにも関わらず妙に落ち着いているカフェには、嵐の前の静けさを感じてしまう。

 ともかく、有馬記念のことは病状の推移次第だ。予想よりも回復が早ければ、有馬記念に出走することも可能性としてゼロではない。

 あくまで、限りなくゼロに近い可能性だが。

 手元のノートパソコンでは、すでに有馬記念回避の申告書を作成している。マンハッタンカフェは、ここで終わっていいウマ娘ではない。大衆から誹謗中傷を受けようが、カフェに恨まれようが、次のレースで勝つための最善手を打つのみ。

 そのとき、スマホに着信が入る。相手方を見てはっとした。

 シンボリルドルフ。学園の生徒会長にして、現役最強の競走ウマ娘。その呼び出しに、夏野は思わず背筋が伸びる。URAや学園に対する影響力は、並のトレーナーなどより遥かに大きい。

メッセージの内容はシンプルだった。

『学園本部の小会議室まで出頭されたし』。

 用件は見え透いている。唯一の契約ウマ娘であるマンハッタンカフェを欠いた、チーム・シェアトの処遇だろう。

 案の定、会議室には、ルドルフの他に、理事長を含む学園理事が四人いた。秋川理事長を中央にして、上座に五人。対面するように、ぽつんと置かれた椅子に座る。まるで被告人席のようだった。

「忙しいところ、ご足労いただいて済まない。マンハッタンカフェの様子はどうだろうか?」

 ルドルフが口火を切る。どこか同情するような声音だった。

「早くも有馬記念出走に意欲を見せています。彼女ならば、必ず病気を克服し、レースに復帰できるでしょう」

 そう断言しつつ、理事たちの表情をうかがう。純粋にウマ娘のことだけを考えるルドルフは、この場では緩衝材にすぎない。問題は、四人の理事たちだ。URAからの出向である三人は、険しい目で夏野を見ていた。それに対し、若くして理事長に就任した傑物、秋川やよいは終始柔和な笑顔だった。ウマ娘のためなら私財を投げうつこともいとわない猪突猛進な性格だが、こういう政治的な場での彼女は、他の人間よりもよほど腹のうちが読めない。

「とはいえ中等症の腱屈炎だ。治療には最低でも半年はかかる。有馬記念は無理でしょうな」

 理事の一人が言った。他の者も追従するようにうなずく。

「どうだろう。これを期に、チームメンバーを増やしてみては?」

 早速本題が出た。まずは、好きなように喋らせて相手方の情報を引き出すことにする。

「きみのトレーナーとしての能力を、我々は高く評価している。就任直後にチームを持つことは異例だが、初年度でG1三勝を達成した業績もまた異例だ。世論の圧力に屈せず、皐月賞、日本ダービーを回避した手腕も目を見張るものがある」

 恐れ入ります、とだけ夏野は答える。内心、腹立たしかった。なにを今さら。クラシック二戦の回避には、URA内部でもずいぶん批判の声があがったと聞いている。結局、中枢の人間も、夏野のことなど微塵も信頼していなかったのだ。

「しかし、ワンマンチームは、こういった不測の事態に弱い。マンハッタンカフェが治療や医学的リハビリを受けている間は、きみの出番はなくなる。その空いたリソースを使って、将来有望なウマ娘たちをチームに引き入れ、指導してみてはどうか? ルドルフ会長によれば、きみのチームに入りたい娘が増えている。しかし、チーム・シェアトからは一向にメンバー募集がかからない。むろん、メンバーを決めるのはトレーナーであるきみの権限だが、もし正当な理由がないのなら、もっとチームの規模を拡充することを学園側も望んでいる」

 立て板に水のごとく語るが、要はこういうことだ。マンハッタンカフェが故障して暇なのだから、他のウマ娘の育成にもっと協力しろ。レース第一主義たるURAの回し者らしい要求だった。

「予算のこともあるでしょう。今年の勝ち鞍が天皇賞春だけでは、来年のチーム予算配分は、かなり厳しいものとなりますよ」

 ザマス眼鏡の女性理事が付け加える。

 チームには、一年ごとに運営資金が配当される。算出根拠は、チームメンバーの頭数と、年度内にあげた勝利数だ。1着から5着までがカウントされ、レースの格が高いほど点数もあがる。それらを総合してチームランクが決定し、相応の資金が与えられる。チームの格付けは、S>A>B>C>D>E>F>Gとなり、夏野のチーム・シェアトは現在Cランクだ。いかにマンハッタンカフェがG1ウマ娘でも、ひとりで出せる成果には限界がある。学内最強チームであるリギル、スピカは、所属する複数のウマ娘全員が綺羅星のごとき戦績をあげることでSランク評価を勝ち取っている。それでも、運営資金に余裕があるわけではない。練習用シューズや蹄鉄などの消耗品、合宿場所の確保など、強いチームほど出費が嵩む。なかには育成熱心すぎて自腹を切るトレーナーもおり、とくにチーム・スピカのトレーナーは金欠で有名だった。夏野の場合、このままでは年明けにはDランク降格が確実であり、もしマンハッタンカフェが復調せず来年度の勝率が悪ければ、FかGランクまで落ちる可能性もある。そうなれば、G1勝利に向けたトレーニング環境を整えることは難しい。降格による予算減額を防ぐためには、とりあえずチームメンバーを増やすことが最も確実で手っ取り早い方法だった。

 理事たちの連携プレー。育成に協力するなら、予算を増やす。これが当局側の主張だ。

「熟考。すぐに結論を出す必要はないさ」

 秋川理事長が、ようやく口を開いた。

「リハビリプランの作成など、きみも大変な時期だろう。学園はもちろん、マンハッタンカフェがレースに復帰できるよう、全力でバックアップする。そしてこの機会に、考えてみてくれたまえ。きみはこの学園にトレーナーとして勤務している。その能力と熱意は、学園全てのウマ娘に利益をもたらすものでなくてはならない。チーム制を採用しているのは、そのためだ。志を同じくするトレーナーのもと、ライバルであり友人であるチームメンバーと切磋琢磨することで、より高みを目指すことができる。きみは新人であり、ひとりの育成だけで手いっぱいだったろう。これからは、トレーナーとしてさらなる技量の向上に期待する」

 にっこりと笑う理事長。

 彼女の言うことは、まぎれもない正論だ。チームとは本来、メンバー同士が互いに高め合う場所。モチベーションの維持や、不安の解消など、メリットは数多い。しかし、それはあくまで、ごく一般的な性格の範疇のウマ娘同士で相乗効果を発揮する手法だ。

 理事たちは知らない。マンハッタンカフェの異常性を。

メイクデビュー後の傷害行為については、一切学園側に報告していなかった。もしトレーナーを故意に負傷させたとあっては、カフェはレースから永久追放されてしまう。それは夏野の望むことではなかった。例え自らの肉体を犠牲にしてでも。

 彼らが一律に語る『良いチーム』が、あのマンハッタンカフェに対しても同じ結果を生むのか、甚だ疑問だった。

「生徒会としても、チームメンバー選抜に協力していくつもりだ。あなたのもとで、ウマ娘が意気揚々と活躍できる素晴らしいチームを作ってほしい」

 ルドルフがフォローする。

「それでは解散! 夏野トレーナーは職務に戻りたまえ!」

 秋川理事長の一声で、夏野は解放された。

 トレーナー室への廊下を歩いていると、不意に隣から声がかかった。

「お疲れ。思ったより早く終わったな」

 同僚トレーナーの広田翔だった。夏野とは同い年であり、大学の同期だったが、中央のトレーナーとしては広田のほうが3年先輩だ。すでに自分のチームを持ち、中堅トレーナーに匹敵する勝率をあげている。初年度からチームを率いることになり苦悩の連続だった夏野を、陰ながら支えてきたのが広田だった。

「どっと疲れた。なんかおごれ」

 学生時代の口調に戻る夏野。同僚のなかで遠慮なしに話せるのは広田だけだ。

「質より量? 量より質?」

 広田が尋ねる。ストレスで胃がやられているため、夏野は「質」とだけ答える。

 案内されたのは、府中市内の創作料理店だった。予約席のみの二階は、ほどよい喧噪で周囲が気にならない。フレンチを基盤にしたオードブルと、おそらく自家調合のスパイスが食欲をそそる。飲みたい気分だったが、必要以上に弱みを見せたくないので我慢した。

 広田が促す前に、会議室でのやり取りを夏野はとめどなく語る。

「いいことじゃないか。生徒会がサポートしてくれるなら心強いだろう。これからもトレーナーとしてやっていく以上、多くのウマ娘の育成を経験するに越したことはない。うちも個性的なのが多くて大変だが、みんな根はいいやつだよ。だから、何とかなるんじゃないかな」

 しごく真っ当な意見だった。広田が担当するウマ娘のなかで、とくに有名なのは、エアシャカールとアグネスタキオンだった。両者とも、天才と狂人の間を綱渡りしているかのような変人だ。しかし広田が言うには、彼女たちがぶっ飛んで見えるのは、他人よりも優れすぎた知性や、それに基づく奇行ゆえであり、精神の根っこのところはふつうのウマ娘と大差ないらしい。シャカールは機械音痴の広田のためにパソコンやスマホの設定をしてくれるし、タキオンは疲労回復ドリンクを差し入れてくれる。広田曰く、皮膚が発光する副作用があるものの、効果は抜群だそうだ。

 あの二人を育成し、レースに勝たせているのだから、彼の言葉には説得力がある。

 それでも、夏野は不安だった。精神の根っこのところが、ふつうであると断言できないのが、マンハッタンカフェなのだ。

「もし他のウマ娘がチームに入ったら、噛み殺されるかもしれない」

 思わず本音が漏れてしまった。

「まさか。同じウマ娘を傷つけるようなのは、この学園にはいないぞ」

「違うよ。殺されるのはわたし。ことが済んだら、他のウマ娘に興味なんて示さないさ」

 その言葉に、広田は絶句した。夏野とマンハッタンカフェの間には、すでに固い信頼関係ができていると思っていたからだ。そうでなければ、過酷な長距離G1で三連勝もできるはずがない。

「実は菊花賞の前に、カフェに聞いたことがあるんだ。チームメイトが欲しくないかって。そしたら間髪入れずに『いりません』ってさ。狼に睨まれた羊の気分だったよ。それから、そういう話題は出してない。わたしもトレーニングで手いっぱいだったしね」

 夏野は言った。

 どうやら広田が想像しているより、マンハッタンカフェの暗部は根が深いようだった。

「なるほど。じゃあ、こうしたらどうだろう。新しい娘を入れるのが不安なら、まずはチーム連携制度で、他チームの娘を育成してみるんだ。契約じゃなく単なる連携だから、いつでも解消できるし、相手は俺のチームがなるよ」

 まるで答えを用意していたかのように広田は提案する。

 チーム連携。ここ最近、学園側が試行している制度だった。交換留学のように、連携したチーム同士でウマ娘を育成し合う。そうすることで育成方法の幅が広がり、より個人が能力を高めることができる。チーム・アルビレオ所属のセイウンスカイが、この手法で目覚ましい活躍を遂げたのは有名だった。

「今後、本格的にチーム連携が進んでいくだろう。ウマ娘と同じく、トレーナーも互いに協力し、腕を磨いていく時代が訪れようとしている。俺は、おまえとそういう関係になれたらと思っている」

 まっすぐな目で広田は言った。

今すぐに返事はできない。だけど、この男なら、まあいいかと思ってしまう自分がいる。酒も飲んでいないのに、少し顔が熱い。

「トレーナーとしてだけじゃなく、その、個人的な関係としても」

 こういうとき声が上ずってしまうのが、広田たる所以だ。裏表のない直球勝負。だから警戒心だの打算だのを抱かなくて済む。居心地のいい男だ。

「あのさ、蘭。有馬記念が終わったら、俺と―――」

 広田の一世一代の告白を、無情にもスマホの着信音が掻き消す。水を差したのは、夏野のスマホだった。ディスプレイにはマンハッタンカフェが入院している病院の番号が表示されていた。

 通話する夏野の表情が、みるみる強張っていく。何かよからぬ事態が生じたことは、広田にも容易に察しがついた。

 通話を切った彼女は、メイン料理が運ばれてもいないのに席を立つ。

「ごめん。すぐ行かなきゃ」

 椅子をけるように立ち上がりながら夏野は言った。

「何があった?」

 打って変わって泰然とした声で広田が尋ねる。

「カフェが。マンハッタンカフェが病院からいなくなった」

 その語尾は、ほとんど悲鳴に変わっていた。

 

 




アプリウマ娘、楽しいですね。筆者はゲームの才能ゼロのうえ本業社畜の兼業トレーナーのため、育成に苦労しています。


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第3話  生きる悦び

マンハッタンカフェ公式サイト初期設定


 漆黒の黒髪が美しいウマ娘。
 一見、何を考えているかわからないちょっと不気味なところがあるが、実はトレーナーのことが大好きな一途すぎる性格。
 他では得られない快楽を求めて、レースに参加している。本人いわく「もしウマ娘に生まれてなかったら、人生が退屈すぎて、きっと犯罪を犯していたかも……」。
 実は女優業でも活躍中。
 



 病院に到着してすぐ、夏野は担当の看護師から状況を聞き出した。午後の検診を終えてから夕食を配膳するまでの三時間弱で、マンハッタンカフェは忽然と病室から姿を消したらしい。持ち込んだ私服や外套がなかったため、おそらく敷地外に逃亡したものと思われる。

 行先に心当たりがある。機転をきかせ、そう夏野は答えた。下手に騒ぎ立てて学園当局の知るところとなれば、カフェのキャリアに傷がつく。できれば何事もなかったかのように病院へ戻したかった。それに、行先に当てがあるのは、あながち嘘ではなかった。あのエキセントリックウマ娘が、どこをほっつき歩いているのか見当がつかない。しかし、最終的に辿り着く場所は目星がついていた。

 広田には、すでに手を回してもらっていた。彼のチームメンバーを通して、生徒会と寮生にマンハッタンカフェの目撃情報を呼びかけた。学園にはふたつの寮があり、栗東寮の寮長・フジキセキと、美浦寮の寮長・ヒシアマゾンが、それぞれまとめ役となって寮内のウマ娘から情報を募ってくれている。

 おそらくカフェは、学園に戻ってくる。ほぼ確信に近い予感があった。自らのアイデンティティを満たせる唯一の場所。何食わぬ顔で、シェアトのチーム棟にいるかもしれない。ぎらぎらした目で、有馬記念までのトレーニングプランを聞いてくる姿が目に浮かぶ。

 トレセン学園に戻る途中、さっそく広田から電話があった。

 予想通りの内容だった。マンハッタンカフェ発見の知らせが、ヒシアマゾンからあったという。しかし安堵の息をつく暇もなく、現場の状況が伝えられてくる。

 確かにカフェは学園内にいた。しかし、そこはターフの上でもチーム棟でもなかった。

『急いでくれ。あの娘は、おまえ以外じゃどうすることもできない』

 諦めのにじむ声を残し、通話は切られた。

 驚愕を通り越して、笑えてくる。肩に噛みつかれたときもそうだったが、いつもいつも、こちらの想像を斜め上に飛び越えてくるウマ娘だ。

 学園の正面ゲートをくぐり、美浦寮に向かう。寮の入口には、すでに広田が待機していた。ヒシアマゾンが言うには、風呂上りの寮生が屋上のテラスで涼もうとしたとき、偶然見つけたらしい。屋上に出ると、そこにはすでに人だかりができていた。会長のシンボリルドルフに、副会長のナリタブライアン、エアグルーヴ、寮長のフジキセキとヒシアマゾン。それに広田のチームメンバーであるエアシャカールとアグネスタキオン。学園を代表するような錚々たる顔ぶれだが、誰ひとりとしてマンハッタンカフェに近づくことができない。

 実際に目の当たりにすると、異常な光景だった。

 カフェは、テラス席に座っていた。

 転落防止の柵の向こう側、わずかに張り出したスペースに、丸いテーブルと二脚の椅子を置いて。

「夏野トレーナー」

 シンボリルドルフから声がかかる。

「マンハッタンカフェは、あなたを所望しているようです。しかし、自らの命を危険にさらすような状況ですので、応じる義務はありません。我々は引き続き説得にあたりますが、万が一のときは、覚悟しておいてください」

 冷静な声音だが、その両目には悲しみが揺れていた。中央トレセンは激烈な競争社会だ。長年会長を務めるルドルフは、敗れ去った者の末路についても、相応のものを見てきたはずだ。

「行きます。必ず連れ戻します」

 きっぱりと夏野は言った。はじめから迷いなどなかった。夏野にだけ聞こえる声で、ありがとう、とルドルフは囁く。その声は、かすかに震えていた。普段、皇帝の名にふさわしい立ち居振る舞いばかり見てきたから、この娘とて心根は年頃の少女であること夏野は忘れていた。

「頼むよ、夏野さん。あたしの寮から脱落者なんて出したくないからさ」

 ヒシアマゾン寮長が、真剣な顔をしていた。マンハッタンカフェは美浦寮の所属だ。交友関係の少ないカフェを、ずいぶん気にかけてくれていたようだ。

「あの、わたしからも、少しいいですか?」

 今度は、フジキセキ寮長が夏野の前に出る。

「屈腱炎の辛さは、よく知っています。あれは肉体よりも精神に与えるダメージが大きい病気です。わたしの場合、弥生賞の直後に発症しました。多くの人に期待され、わたし自身の夢でもあったクラシック無敗三冠は、挑戦することすらできずに潰えました。あのときは、本当に苦しかった。でも、諦めなければ、諦めさえしなければ、また走れるようになります。どうか、彼女の気持ちに寄り添い、導いてあげてください」

 ウマ娘たらしで有名なフジキセキとは思えない、真摯な眼差しだった。

「分かった。きちんと話してくるよ」

 振り返らず、夏野は歩き出す。ぼうっと座っていたカフェが、不意に群衆を睨んだ。

「ここからは、ふたりきりでお願いします。トレーナーさんが柵を超える前に、全員退出を」

 他人に対してはぼそぼそと喋るカフェが、威圧感さえある鋭い声を飛ばす。夏野は、注意深く彼女の視線の行方を追っていた。

 月明りにきらめく金色の瞳は、学友のウマ娘ではなく、広田をじっと見つめていた。

 ふたり以外の、すべての人影が屋上から消える。夏野は鉄柵を乗り越え、担当ウマ娘のいる屋上の縁に立った。

 丸テーブルを挟んで、カフェの向かい側に、ご丁寧にも一脚の椅子が置かれている。奈落まで一メートルもない距離だが、夏野はどかりと腰を下ろした。

 こういうとき、この娘の前で弱みを見せてはならない。

「ようやく静かになりましたね。あなたとお話しするのに、外野の騒音などいりませんから」

 病院を脱走したことなど悪びれもせず、マンハッタンカフェは穏やかに言い放つ。

 テーブルの上は、この状況とはあまりにミスマッチだった。二対のコーヒーカップとソーサー、さらに小さな焼き菓子が並ぶ小皿。そして、円卓の中央には、夏野が見舞いのために持参したフラワーバスケットの中身が、花の部分だけ無造作に散らされていた。

「久々の夜会です。風がなくてよかった」

 そういって、カフェは銀色のポッドから、フィルターのコーヒー粉に少し熱湯を注ぐ。たちまち泡がドーム状に盛り上がってくる。

「今回は時間がなかったのでストレートの挽き豆ですが、なかなかいいものですよ」

 普段と変わらない調子で、さらに湯を注いでいく。実家が北海道の喫茶店とは聞いていたが、いつ見ても素晴らしい手際だった。

「どうぞ」

 カップの載ったソーサーを、静かに夏野に供する。

 何も言わず、ひと口含む。

「おいしいよ」

 正直な感想を述べる。それだけで、瞳がぱっと輝く。

 マンハッタンカフェとは、夕食後にコーヒータイムを共にすることがあった。その名の通り、コーヒーに拘りがあり、専門の豆店に通っては、ブレンド用の豆を自分で厳選するほどだ。カフェが淹れてくれるコーヒーは、とても香り高い。日によって表情を変える味は、口にする者の気持ちに寄り添ってくれる。毎日飲んでも飽きることはない。

 ここがチーム棟か、学園の食堂内ならば、どれほど心休まるひと時だろうか。

「ああ、やはり違う」

 自分で淹れたコーヒーを啜り、マンハッタンカフェは呟く。

「ひとりで飲めば、ただのおいしいコーヒーだけど、あなたと一緒なら味がひとつ上のレベルにシフトします。不思議なものです」

 焼き菓子をあてにしながら、ゆっくりカップの中身を減らしていく。根っからのコーヒー党でありながら、胃が弱いため少しずつしか飲めない。そんな彼女を見ていると、この異常な環境が、いつもの日常と地続きのように思えてくる。

「本題に入りましょうか?」

 カップの中身を飲み干し、夏野は言った。どうしてこんなことをしたのか、など聞くだけ無駄だ。どうせ、交渉を有利に進めるための演出だろう。奇抜な行動自体に、彼女の本質は表れない。

「もう一度、お願いに参りました」

 カフェが口を開く。美しい貌から微笑が消えていた。

「有馬記念を走らせてください」

「何のために?」

 間髪入れず、夏野が問う。そこを理解しなければ、この娘とは永遠にすれ違ったままだ。

「わたしを終わらせるためです」

 女の子にしては低めの、たおやかな声でマンハッタンカフェは答える。

 ようやく突破口が見えた、と夏野は思った。

「先に言っておきますが、屈腱炎が原因で自暴自棄になっているわけではありません。それ以前に、わたしは競走ウマ娘としての自らの限界を感じていたのです。凱旋門賞に敗北したときから。予感、とでも言うのでしょうか。まったく根拠はないのに、なぜか自分の未来がぼんやりと見えてしまったんです」

 記憶を反芻するように、カフェは言った。

 予感、特別な絆、あるいは縁。言い回しは様々だが、ウマ娘にはある種の第六感が備わっていると昔から噂されてきた。確信の度合いが強いほど、それは高確率で的中する。科学的に実証するすべはないが、トレーナーにとっても無視できないほど、現実味のあるオカルトだった。

「おそらく、わたしはもう勝てない。わたしの求める勝利が手に入ることはない。あの日、わたしは確かに感じたんです。屈腱炎は、そのダメ押しでしかありません」

 カフェの言葉で、ひとつ疑問が氷解した。

 凱旋門賞敗退のあと、なぜ肩を噛まなかったのか。次の勝利につながらないからだ。負けた悔しさや不満足を、トレーナーの身体で埋め合わせることで、次のレースを目指せるようになる。しかし、もう勝てる見込みがない、と本人が思い込んでいるならば、その行為に意味はなくなる。

 確かにマンハッタンカフェは、凱旋門賞直後に未来の勝利を諦めていた。

「負けると分かっている有馬記念ですが、それでもわたしは、走って終わりたいのです。どんな結果でもいい。競走ウマ娘としての自分に決着をつけたいんです。ずるずると走れない日々が続くなかで、G1レースからわたしの存在が忘れ去られていくのは耐えがたい。どうかお願いします。わたしを、ターフの上で終わらせてください」

 本音を吐露していくマンハッタンカフェ。

 競走ウマ娘であれば、いずれ誰もが引退の日を迎える。その原因は様々だ。加齢による脚力の衰え、突発的な事故やケガ、あるいは勝利が見えないことに対する絶望。だが、それらは現象にすぎない。走ることを諦めるのは、その現象を背負ったウマ娘自身だ。

 マンハッタンカフェは、まだ走ることを放棄していない。あくまで走った結果として、ターフから去ろうとしているだけだ。彼女はまだ、走ることを、勝利を欲している。

 ならば、答えは明白だ。

 今度こそ、トレーナーとしての役目を果たさなければならない。

「それはできない」

 きっぱりと夏野は言った。

 カフェは無表情だった。しかし、頭上の耳が、内に秘めた感情を如実に物語っていた。裏側を見せるように、後ろに倒れる両耳。

 今、マンハッタンカフェは猛烈に怒っている。

「せっかく、勇気を振り絞って言ったのに」

 音もなくカフェが立ち上がる。青白い月光の下、ぴったりとした黒の外套をまとう姿は、まるで映画のワンシーンのようだ。

「わたしから提案してあげてるんですよ? あなたは押しに弱いから。狂乱するわたしに、黙って血肉を提供するほどに。だから、わたしから離れてあげると提案してあげてるんです。有馬記念が終わったら、もう金輪際関わり合いにならない、と。それなのに、なぜ拒否するんですか?」

 見開かれた金の瞳に、情炎が揺れる。

「大きなお世話だよ」

 椅子に腰かけたまま夏野は言った。

「わたしは、あなたのトレーナーだ。わたしの意志で、あなたを支えると決めた。契約の一方的な解消なんて認めない」

「ふざけないで!」

 突如として、カフェが叫ぶ。

「あなたにとって、わたしはただの通過点でしかない! 否が応にも時が来ればわたしは去り、あなたは新しい娘をチームに迎え入れるでしょう。わたしとあなたのチーム・シェアトに、どこのウマの骨とも知れない娘が、我がもの顔でのさばるんでしょう。それを何度も、何度も繰り返す」

 能面のようだった貌が、みるみる崩れていく。激しい嫉妬と怒りが、本来あるべき表情となって噴出してくる。

「わたしには、あなたしかいないのに」

 一瞬、泣きそうな少女の顔が、目の前にあった気がした。

「今さらだけど、聞いていいかな?」

 夏野が問いかける。チーム設立から今まで、がむしゃらの毎日だった。マンハッタンカフェの性格や嗜好性も、少しずつ理解できるようになった。しかし、ふたりの関係の始まりとなった部分を、いまだ夏野は知らない。

「どうして、わたしなの?」

 一番訊きたかったはずの疑問を、今ようやく言葉にすることができた。

 しばらくの沈黙ののち、カフェが口を開く。その耳は、もう倒れてはいなかった。

「競走ウマ娘・マンハッタンカフェの本質を見抜いたからです。それも、たった一度の選抜レースで」

 釈然としない夏野に、「憶えていませんか?」と寂しそうに笑う。

「レースで勝った後、たくさんのトレーナーがわたしを勧誘に来ました。そのひとりひとりに、わたしは質問していたんです。『わたしの走りは、どんなふうに見えましたか?』と。それに対する回答は、『素晴らしい』とか、『将来必ずG1で勝てる』とか、『ドリームトロフィーを狙える逸材だ』とか、ひどいものだと『うちのチームに入れば間違いない』とか、てんで的外れなものばかり。この有様では、どのチームに入っても、いずれわたしは持て余され、放逐されるだろう、と確信しました。中央トレセンには選りすぐりの伯楽が揃っていると聞いていたのに。正直、絶望でしたね。どいつもこいつも、上っ面の数字しか見えない節穴です」

 その言葉に、夏野は驚いていた。いかにも奥手といった感じで、ぼそぼそと喋っていたカフェが、内心そのようなことを考えていたとは。

「最後に残ったのが、あなたでした。胸のトレーナーバッジが新品だったし、他のトレーナーに気圧されてるようでしたので、まだチームを持てていない新人だと分かりました。でも、せっかくわたしを見てくれたのだから、あなたにも同じことを聞いたんです」

 一言一句覚えています、と恍惚の表情でカフェは言った。

「『なんか、飢えた猟犬みたいだった。勝ちたいっていうよりは、勝たなきゃ死ぬってくらい必死な感じ。あなたにとっての勝利は、他のウマ娘とは意味が違う気がする』」

 夏野のなかでフラッシュバックする記憶。確か、そんなことを言った気がする。スカウト合戦における先輩トレーナーに対する羨望や劣等感から投げやりな気持ちになり、ずけずけと物申した程度しか覚えていなかった。

「衝撃でした。本物の伯楽に、年齢や経験値、まして性別などまったく関係ないと思い知りました。その後も、幾度かスカウトを受けましたが、わたしの本質を見抜いたのは、あなただけでした。だから、わたしは決めたんです。この人のもとで走ろう、と」

 屋上の端をランウェイのように歩き、距離を詰めてくるマンハッタンカフェ。

「走ること、勝利することは、わたしにとって生きる悦びなのです。ウマ娘は本能的に勝利を求める生物ですが、それはあくまで日常生活の延長線上にあるもの。あわよくば手に入る景品、ご褒美です。レースで結果を残せず、あるいは怪我や病気で引退したウマ娘も、この社会のなかで生きています。しかし、わたしは違う。生きていくために必須の栄養なんです。物心ついたときから感じていた、心の渇き。底なしの渇望を唯一癒してくれるのがレースでした。レースこそ、わたしの生きる原動力なんです」

 奈落を背にして、マンハッタンカフェが夏野の前に立つ。

「もしウマ娘に生まれていなかったら、きっと今頃犯罪者として牢の中でしょうね。それくらい、わたしの渇きは強い。ゆえに、わたしには必要だったんです。わたしのことを分かってくれる人。わたしを解き放ってくれる人を」

「それが、わたしだったわけね」

 目を逸らさぬよう夏野は言った。あと一歩でも後ろに下がれば転落する位置に、カフェはいる。

「はい。絶対勝てるはずだったメイクデビューで負けたとき、わたしに身体を許してくれましたね。あれで、わたしにはこの人しかいないと確信しました。満たされない飢えと渇きまで受け入れてくれる人。でも、あなたはわたしじゃなくてもいいんです。トレーナーの技量をさらに上げて、もっと多くの娘を輝かしい勝利に送り出してやれる。そして、ときが来れば、同じ人間の男とつがう。大切な存在が、どんどんあなたの周囲を固めてしまう。きっとわたしは攻撃するでしょう。わたしとあなたの間に割り込むもの全て。そんなことをあなたが望まないことくらい、分かっているんです。だから、有馬記念を終局の舞台にしたい。わたしが破滅すれば、あなたは解放される。お願いします。どうか、走らせてください」

「ダメだ。わたしの未来を勝手に決めるな」

 夏野が立ち上がる。カフェを引き戻そうと腕を伸ばすが、すげなく振り払われる。

 形の良い唇から、大きなため息がこぼれた。瞳から激情は消え、悟ったような理知の光だけが、じっとりと夏野を見つめている。

「そうですか。わたしのささやかな願いすら聞き届けてくれないなら、仕方ないですね。こんな終わらせ方は、本当は嫌だったのですが」

 そう言って、カフェは外套のポケットから銀色の何かを取り出す。

 ナイフだ。刃渡り十五センチほどのサバイバルナイフ。彼女は、器用に刃を回転させ、柄の部分を夏野に向け、卓上に置いた。

「これから、あなたの首筋を本気で噛みます」

 マンハッタンカフェは言った。その瞳に、狂気の色は微塵もない。まっすぐな眼差しが、まるで慈悲を乞うかのように、夏野に注がれている。

「ウマ娘の全力で噛みつかれたら、致命傷は免れないでしょう。それが嫌なら、ナイフで抵抗してください。具体的には、痛みを与えてから後ろに突き飛ばすといいでしょう。ウマ娘には強力な生存本能が備わっています。あなたがどんなに暴れても、わたしはわたし自身を落とせない。痛みという、より直接的な恐怖で、本能を麻痺させるしかありません。どうぞ、遠慮なさらず。抵抗しなければ、自分が死ぬんですから。悪いのは全部わたしです。わたしのことなんか綺麗さっぱり忘れて、あの男と仲良くやってください」

 一歩、カフェが距離を詰める。

 大した洞察力だ。この期に及んで夏野は感心する。カフェが広田と直接会ったことはないはずだ。屋上での微細なやり取りから、ふたりの関係性を推察したに違いない。

 つくづく、手のかかる娘だと、夏野は苦笑する。

 テーブルのナイフを手に取る。研ぎ澄まされた刃先に、艶めかしく月の光が溜まっている。

「それでいいんです。さあ、抵抗してください。死にたくなければ」

 言葉の激しさとは裏腹に、寂しそうにカフェは笑っていた。

「まあ、確かに死にたくはないよ。まだ28だし、結婚だってしたいし。でもね、わたしはトレーナーなんだよ。あなたの、マンハッタンカフェのトレーナーだ」

 そう言って、夏野はジャケットの襟をはだけ、左首筋を露にする。

「担当ウマ娘を殺すトレーナーがどこにいるのさ? そんなことをするくらいなら、わたしは―――」

 ナイフの刃先を翻し、自らの首に突きつける。

「さよなら」

 そして、腕に力を籠めた。

 スローモーションのように、目の前の少女が動く。ナイフを奪おうと伸びる右手。夏野は真横にナイフを投げ捨て、かわりにカフェの腕を取った。そのまま全身で抱きつき、ごろごろと柵のほうに転がる。

「あなたはッ! なんて、バカなことを……!」

 身じろぎしながら、苦しげにカフェが叫ぶ。押し倒すように担当ウマ娘の頭を抱いた夏野は、声を出して笑った。

「役者でしょ、わたし」

 その言葉で、カフェは急に大人しくなった。全身から力が抜け、借りてきた猫のように夏野に抱かれていた。

「あなたの気持ちは分かった。それでも、わたしはあなたの破滅なんか望まない。エゴでも我儘でもいい。あなたが、その予感とやらをどれだけ信じていたって、わたしは全力で否定してやる。走れなくたって、勝てなくたって、あなたの生きる悦びを、この世界のどこかに必ず見出してやる。だから、まだわたしから離れないで。わたしたちはチーム・シェアト。ふたりでひとつのチームなんだ」

 もう二度と逃がさない。それくらい強く抱擁しながら、夏野は、しおれた耳元で囁く。

「敵いませんね、トレーナーさんには」

 少し震える声でカフェは言った。夏野の背中にも、おずおずと両腕が回される。こういうときは奥手なのか、と少し微笑ましかった。

「従います。そして、わたしはこれからも、あなたに執着し続けるでしょう。嫉妬や怒りといった厄災を周りに振りまきながら。覚悟しておいてくださいね?」

 互いの身体を抱き寄せたまま、唇が触れそうな距離で、猟犬は静かに微笑んだ。

 

 




 初期設定からアプリ出走までの期間、キャラの変更幅が最も大きかったのはマンハッタンカフェでした。
 この作品では、初期設定のマンハッタンカフェをじっくり描いていきたいです。


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第4話  登るウマ娘

マンハッタンカフェのヒミツ



実は、登山好き。


 マンハッタンカフェが退院したのは、11月に入ってすぐだった。

 炎症は落ち着き、日常生活には何ら差し支えない。すなわち、人間と同程度の運動ならば問題なくこなせるということだ。走ったり泳いだり、筋トレもできる。ただし、レース出走、あるいはそれに準じるトレーニングは絶対に禁止だった。

 ウマ娘の最高速度は、時速70キロにも及ぶ。運動生理学的には、一度地面を蹴るごとに、10トン近い衝撃が脚部全体を襲う計算になる。つまり競走ウマ娘は、ただ走るだけで骨折や筋断裂のリスクに晒されることになる。サイレンススズカ、トウカイテイオーといった天才たちも、レース中の骨折により選手生命を脅かされてきた。

 このような激しい運動を再開すれば、炎症は治らないばかりか悪化するのは自明だ。

 フジキセキの言う通り、屈腱炎は肉体よりも精神を蝕む病だった。痛くも痒くもないのに、走ることを許されない。レースに復帰できる保証もないまま、終わりの見えない灰色の日々を生きていく。他のウマ娘の活躍が、自分の情けなさを浮き彫りにする。チームメイトも、トレーナーも、自分から心が離れていく。

 マンハッタンカフェは、それに耐えられないと判断したのだろう。玉砕の許可を貰うための凶行だった。しかし、夏野の献身によって、すんでのところで自殺レースは食い止められた。

 事件ののち、夏野は謝罪とお礼のため、学園内をかけずりまわっていた。広田のチームと両寮長、生徒会に、にんじん菓子折りを持参する。その際、アグネスタキオンから、お見舞いの品として大量の紅茶パックを渡された。あの漆黒娘と、唯一まともにコミュニケーションを取っていたのがタキオンらしかった。夏野は深く感謝し、すぐ病室のカフェに紅茶を届けた。

 マンハッタンカフェは紅茶が大の苦手であることを、夏野は初めて知った。カフェいわく、コーヒー党の自分は、紅茶党のタキオンとは趣味が合わないらしい。つまり、これは単なる嫌がらせであるという。友人としての、愛のある嫌がらせだ。カフェの渋面を見た夏野は、声を殺して笑った。

 生徒会の判断により、カフェの暴挙は当局側に報告されることはなかった。こういう問題が起きたとき、できるだけ誰も傷つかないよう、穏便に事を片付けるのも生徒会の使命であるとルドルフは語る。

「生徒会は、学園の自治組織であると同時に、当局やURAに対する組合でもあるのです。上の人間が望むのは、競争と成果だけです。わたしたちが相争うことで、より華々しいスターが生まれ、レース業界の未来は盤石なものとなる。しかし、我々は使い捨ての駒ではありません。競争しかない社会では、心身ともに摩耗し、負の感情ばかりが膨れ上がってしまう。そうならないよう、現場のウマ娘目線で生徒ひとりひとりに寄り添い、ときには当局に交渉を持ち掛け、生徒全員が切磋琢磨し、相乗効果を生み出せる学園を作っていきたいのです」

 ルドルフの言葉に、夏野は感銘を受けていた。生徒会は、単なるエリートウマ娘の勲章的存在ではなかった。皇帝と女帝と三冠ウマ娘。この面子ならば、理事会と渡り合うこともできるだろう。トレーナーといっても、所詮は雇われの身。首と財布を握られている以上、当局に強く出ることは難しい。真にウマ娘の味方になれるのは、同じ修羅場をくぐってきたウマ娘に他ならない。ルドルフは、皇帝たる自らの強さを、正しい方向に活用していた。

「礼を言うのは、むしろこちらのほうです。担当ウマ娘のために、自分の命さえ顧みないトレーナーが、この学園にどれほどいることか。あなたのような人間こそ、わたしたちの救いなのです。本当にありがとうございました」

 ルドルフと共に頭を下げる、エアグルーヴとナリタブライアン。ときに謙虚で礼儀正しい彼女たちに、夏野はただ感服するばかりだった。

 マンハッタンカフェが退院してすぐ、夏野は休養申請の準備に入った。しかし、トレーニングに該当する一切の行為を禁じる完全休養ではなく、身体機能を回復させるためのリハビリ的休養だった。本当は北海道の実家で気兼ねなく療養してほしかったが、その提案をカフェは拒否した。「トレーナーさんが一緒じゃなければ、わたしは雄大な北海道の大地をタガが外れたように走り回るでしょうね」と、にこりともせずのたまう始末。そのため、休養理由を、リハビリと書き換えるしかなくなった。そうすれば、トレーナーの夏野が同伴できる。

 問題は、リハビリの方法だった。

 通常のトレーニングをせずに、身体機能を向上させなければならない。矛盾する命題は、屈腱炎に立ち向かう多くのトレーナーを苦しめてきた。夏野もまた、トレーナー室で大量の論文と治療データに埋もれ、打開策を見いだせず迷走していた。

 そこに一筋の光明をもたらしたのは、ダダをこねた張本人であるマンハッタンカフェだった。

「高地トレーニングなんてどうでしょう? 標高3200メートル以上の環境であれば、ただ歩くだけでも心肺機能の強化につながります」

 夏野にとっては、目からウロコの意見だった。都会派な彼女から、なぜそんな発想がでてきたのか分からないが、検討に値するとトレーナーの勘が告げていた。詳しく調べてみると、確かにカフェの言う通り、富士山の八合目と呼ばれる約3200メートルを境に、肺胞内の酸素分圧が顕著に低下し、呼吸量が増加する。つまりふつうに歩いているだけで、平地でのジョギングと同じ負荷がかかることになる。ウマ娘にとっても同じだ。ただ、スピード重視の日本のウマ娘にとって、一番のトレーニングはターフを走ることであり、レース場のない山岳地など見向きもされてこなかった。

 もしかしたら、このトレーニング方法は、屈腱炎に苦しむ全てのウマ娘の救いとなるかもしれない。レースが可能になるまで炎症を和らげつつ、筋力とスタミナを落とさず、精神的健康も維持できる。高度は徐々に上げていき、最終的に3200メートルを目指せばいい。

 だが、実現させるとなると、超えるべきハードルは山積みだった。まずは休養地の選定。国内で段階的な高地となると、富士山しかない。一般の登山者も多く、傾斜がきついためトレッキングで使用するのは不向きであり、何より長期間滞在する際の補給の便が悪すぎる。必然的に、海外に目を向けざるを得ない。そうなると、今度は費用がかさむ。トレーニングやレースに起因する怪我の治療と療養費は、チームごと割り当て予算とは別途、学園から支給される。しかし、リハビリのための海外休養など前例がなく、レースに復帰できる保証もないため、理事会が反対するのは目に見えていた。

 このことを広田に相談すると、チームメンバーのひとりから即座に協力の申し出がなされた。

 アグネスタキオンである。

 『超光速の粒子』の異名を持つ実力者だが、学園内ではもっぱらマッドサイエンティストとして有名だった。得体の知れない薬品をジュースか何かのように勧めてくるため、近づく者は少ない。しかし、研究に捧げる熱意と知性は本物であり、彼女が考案したトレーニングによって、チーム未所属のウマ娘も恩恵を受けるほどだった。

 タキオンによれば、屈腱炎のリハビリ法は、ずいぶん前から研究を進めていたそうだ。長時間、安定した運動ができる点では、プール内よりも高地が適しているという結論に達した。しかし実証する機会がなく、現段階では机上の空論としてお蔵入りしているらしかった。

「わたしは、別にカフェのことを特別扱いしているのではない。あくまで自分の研究のためだ。屈腱炎の克服もそうだが、ウマ娘の身体機能、その果てなき向上は、わたし個人の命題だ。貴重なデータを得る、またとない機会。なんだってしてみせるさ」

 真剣な目でタキオンは言った。その言葉どおり、彼女は理事会に対するプレゼン資料を、あっという間に完成させた。トレーナー顔負けの知識量を、素人でも分かりやすく整然とまとめてある。

 タキオンの熱意に後押しされたこともあり、夏野は以前から打診されてきたチーム提携を正式に結んだ。これによりタキオンは一時的にシェアト所属となり、問題視されていたワンマンチーム状態が解消され、理事会を説得する材料がひとつ整った。その間に、夏野は政治的な工作にも奔走していた。生徒会を通して、高地休養の有益性について理事長に根回ししておいた。シンボリフドルフによれば、反応は上々だったらしい。こういうとき、学園のトップが先進的な思想の持ち主だと助かる。

 休養申請の決裁権者は、今のところ秋川理事長だ。理事たちの反発を受けても、彼女さえ説得できれば、どうにかなる。

 そのためには、他ならぬマンハッタンカフェ自身の言葉が必要だった。

 理事長は、誰よりもウマ娘個人の意志を尊重する人だ。自らの権限を振るうかどうかは、必ず本人に確認を取ってから決める。そのことをマンハッタンカフェに伝えると、意外にもあっさり承諾した。

「構いませんよ。提案したのはわたしですから、それくらいの説明責任は果たします」

 その素直さが、夏野にはかえって不気味だった。

 数日後、理事長を前に、カフェは見事な演説をやってのけた。まるで夏野と話すときのように、堂々とした喋り方だった。夏野がしたことといえば、タキオンが制作した資料をプロジェクターに映写するだけだ。

 前日に、タキオンから受けたアドバイスを思い出す。『人間を動かすには、99%の理論と1%の感情が必要だ。どれだけ理論が完璧であっても、起爆剤となる感情の火を灯せなければ意味がない』。

 その1%は、カフェの気持ち次第だった。

「わたしの目標は、もう一度、欧州G1に挑戦することです。屈腱炎を理由に、肉体の弱体化を招くわけにはいきません。高地でのトレーニングにより、むしろ発病前よりも身体機能を強化し、欧州のレースに適した強いウマ娘になりたいのです」

 よどみなく、それでいて熱のこもる声でカフェは語る。

 今の彼女には、聴衆の心に訴えかける1%の感情が、まぎれもなく備わっている。

 ように見える。

 プレゼン終了後、理事長は満面の笑みを浮かべた。

「見事ッ! 難病を克服せんとする意志、レース復帰への想い、確かに受け取った。高地休養の件、必ず裁可してみせよう。きみたちの試みが、ウマ娘の未来を切り拓く先駆けとなることを期待する!」

 秋川理事長は、熱い声でそう言った。

 ありがとうございます、と腰を折るマンハッタンカフェ。流れ落ちる黒髪の隙間から、金色の瞳が、ぎらりと光るのを夏野は見逃さなかった。おそらく夏野にしか分からない、表情未満の機微。あれは憤りの感情だ。

 何に対する怒りなのか推測するには、まだ情報が足りなかった。

 

 プレゼンから二週間後、休養の決裁が下りた。理事会では相当もめたようだが、秋川理事長が、持ち前のポジティブな強引さで押し切ったらしい。しかし、夏野には喜んでいる余裕などなかった。宿泊場所の確保や、リハビリプランの作成、渡航準備など、すべて夏野の仕事だった。何より、あれだけ親身になってくれた理事長を裏切るわけにはいかない。必ず成果を出さなければ。

 新人トレーナーには重すぎる対価。それでも潰れずにいられるのは、広田のおかげだった。アグネスタキオンの派遣に、彼はもうひとつの目的を持っていた。

「万が一、マンハッタンカフェがレースに復帰できなくても、タキオンさえ結果を出すことができれば、高地トレーニングの効果が証明される。それはすなわち、現地で指導したおまえの手柄だ。トレーナーとしての名目も保たれる」

 広田の好意に、危うく涙が零れそうになる。アグネスタキオンは、広田にとって不動のエースだ。自分には何の得にもならないエースの派遣を、あっさりと認めてくれた。

「その代わり、約束してくれ。これからもトレーナーを続けると。おまえは将来、学園を支える存在になる。俺もそのつもりだ。俺たちが育てたウマ娘が、ドリームトロフィーの舞台で競い合うのを見たい」

 広田のトレーナー業に対する熱意は本物だ。リギルやスピカといった一流チームのトレーナーにも並び立つほどに。そんな男に認められていることが嬉しかった。

 11月25日、タキオンが加入したチーム・シェアトの三人は、羽田国際空港から飛び立った。ドイツのフランクフルトで乗り換え、スイスのチューリッヒに入る。そこからバスと鉄道を乗り継ぐ16時間の旅程だ。

 ほぼ格安航空機に缶詰だが、マンハッタンカフェは終始ご機嫌だった。黒のロングコートにグレーのパンツというボーイッシュな格好が妙に似合っている。改めて見ると、悔しいくらい美形だ。ウマ娘は容姿端麗な者ばかりだが、マンハッタンカフェの美しさには、内側から滲みだすような凄みがあった。卑近な言葉を用いるなら、オーラとでも呼ぶのだろうか。

 さすが、映画俳優を務めただけのことはある。

 デビューのきっかけは単純なものだった。過去に活躍した、ある偉大なウマ娘とマンハッタンカフェがそっくりだったのだ。そのウマ娘役のエキストラとして、たまたま街中でスカウトされたのだが、未経験者とは思えない演技力と、天性のオーラによって準主役まで配役が押し上げられた。すでにG1ウマ娘として名が知られていたこともあり、カフェは一躍映画界の寵児となった。本人も俳優業を楽しんでいたが、やはりレースが最優先ということもあり、それ以来、女優としての活動は休止している。

「どうしたんですか。わたしをまじまじと見つめて」

 気がつくと、金色の瞳が夏野を見つめ返していた。年ごろの少女らしい、無邪気な微笑みを浮かべている。

「ご機嫌だなと思ってさ」

 皮肉をこめて口にする。振り回されるこちらの身にもなってほしいが、そんな弱音が通用する相手ではないことくらい、この二年弱で嫌というほど理解していた。

「過去最高に、わたしは上機嫌かもしれません。だって、これから三か月間、トレーナーさんを独り占めできるんですから」

 臆面もなくカフェは言った。

「これで、いちいち気を揉まなくて済みます。トレーナーさんが、他の娘に浮気しないかなとか、わたしに黙って辞職しないかな、とか」

 微笑しつつも、声音は真剣そのものだ。こういうところが怖い。

「あとは、そうですね。一番恐れているのは、異性関係ですかね。どこのウマの骨とも知れない男に掻っ攫われるんじゃないかと、気が気ではありませんでしたよ。学園のトレーナーは男性が多いですからね」

 金の目が、夏野の心まで覗き込むかのように鋭く光る。この様子だと、まだ広田との関係を疑っているようだ。これだけの知性と洞察力を持ち合わせているカフェが、人間の年齢的には、まだ女子高生であることに頭痛がしてくる。

「わたしに言い寄ってくるモノ好きなんていないよ」

 適当にはぐらかす。触らぬカフェに祟りなし。広田との関係性を、正直に教えてやる必要はない。

「トレーナーさんは外見だけでも十分魅力的ですよ。背も高くて、モデルさんみたいです。学園の男どもで、釣り合う奴はいませんね」

 あからさまに牽制の意図を含んだ賛辞。それでも、顔がにやけそうになるのを、ぐっとこらえた。

「おやおや、カフェ。わたしのことは警戒しなくていいのかな?」

 後ろの席から、ぴょこりと顔を出すアグネスタキオン。

「思うに、夏野トレーナーはモルモットとして最適な人材だ。きみのような根暗クレイジーサイコを二年近く相手にできる強靭な精神力が、適正値の高さを証明している。どうだい、夏野トレーナー。わたしの専属モルモットとして、正式に契約を交わさないか?」

「殺しますよ」

 にこりと歯を見せてカフェは言った。

「残念だ。まあ、今回はきみで我慢するとしよう。わたしはね、いつになく高揚しているんだ。ウマ娘の身体機能、その深淵に一歩近づけるんじゃないかと期待している。三か月間、よろしく頼むよ、わたしの可愛いモルモットちゃん」

 言うだけ言って、タキオンは後部座席に引っ込んだ。

「……普段から、あんな感じなの?」

 あっけにとられた夏野が尋ねる。

「そうですね。昔から彼女は、わたしに対して遠慮がない。頭のネジが飛んでいるからなのでしょうけど。トレーナーさん、彼女の発言は全て無視してください。本気で言っているぶん、タチが悪いですから」

 落ち着いた様子でカフェは言った。これもひとつの友情の形、と夏野は思い込むことにした。

 

 目的地のツェルマットは、標高1600メートルほどにある山間の街だ。アルプス山脈の玄関口として、世界各地から旅行者や登山家が集まってくる。そのため、へき地の割には交通網や商業施設が発展しており、生活の拠点としては申し分ない。夏野が手配したのは、中長期滞在者向けのガレージホテルだった。費用を抑えるため、当初は三人部屋を予定していたが、研究に集中したいと主張するタキオンのため個室を用意せねばならなくなり、夏野とカフェは相部屋となった。

 まずは、一週間ほど周囲のトレッキングルートを巡り、高地の空気に肺をなじませる。それから徐々に高度を上げていき、運動距離も伸ばす予定だった。

 ところが、はじめの一週間で、さっそく問題が起きた。

 日本から、身に覚えのない荷物が大量に輸送されてきたのだ。梱包を解くと、使い込まれた登山用品が溢れ出してくる。送り元は、北海道美瑛町。マンハッタンカフェの実家がある場所だった。

「実はわたし、登山が好きなんです。実家にいたころから、大雪山系の山によく登っていました。両親に頼んで、使えそうな道具を送ってもらったのです」

 さらりとカフェは言った。しかし、夏野はその言葉を受け流すことはできなかった。ダウンジャケットや化繊下着、手袋などは分かる。しかし、なぜ先の尖ったハンマーみたいなものや、鳶職人が使っていそうなハーネスとロープ、無数のカラビナは一体何なのか。極めつけは、サイズの小さい吊り下げ式のテントだ。

「こんなの、いつ使うの?」

 嫌な予感が増大していくなか、夏野が尋ねる。

「むろん、山に登るときですよ。危険ですから、自分の身体をロープで確保しながら、少しずつ登っていきます。氷壁の場合は、アイスバイルとアイスピッケルを両手で突き刺し、両脚のアイゼンを蹴りこみます」

 トレーナーである夏野には、彼女の話す言葉の意味が分からなかった。本能的に察知できたのは、自分の考える登山と、カフェの中の登山には、大きな隔たりがあることだけだった。

 これはもう、登山好きというレベルではない。完全なるクライマーの装備品だった。

 おまけに、よく見るとアイスピッケルやらアイゼンやらが、なぜか二組もある。

「トレーナーさんの分もありますよ。母が使っていたものですが、体格はほぼ同じなので問題なく扱えると思います。現地で買うと高くつきますから」

 どんどん話を進めていくカフェ。

 まさか、と夏野に戦慄が走った。あれだけ熱心に高地トレーニングを主張したのは、アルプスの山々を登るためだったのか。もしそうなら、理事長の前で語ったレース復帰への熱い想いは、すべて演技だったことになる。

「……この女優め」

 またしても、してやられた。ほぼ確信に近い直感を得て、夏野は呻いた。

「お願いします。トレーナーさん。いや、夏野さん」

 真剣な顔をしたカフェが目の前に立つ。

「一度燃え上がった脚は、走り続ける限り永遠に鎮火することはありません。わたしの身体は、競走ウマ娘としてはもう限界です。あなたが、トレーナーとしてわたしを大切にしてくれるのは承知していますが、この結論は変わりません。ならば、わたしは次のステージに進まなくてはならない。レースに代わる、生きる悦びを見つけなければなりません」

「それが、登山だっていうの?」

 夏野が問う。

「わたしには、たまたまレースの才能がありました。そして、わたしの求める勝利の快楽を得られるのは、レースしかなかった。もし日本が、ウマ娘に多様な生き方や活躍を認められる国だったなら、わたしは登山家を目指したでしょうね」

 その言葉で、夏野は確信した。マンハッタンカフェは、突飛な思いつきで登山を始めようとしているのではない。彼女のなかに古くからあった、切なる欲求。それと同時に、理事長に対するプレゼンの際、カフェが見せた怒りの理由にも気づいた。あれは理事長に向けられたものではない。レース以外の生き方を認めようとしない学園、URA、ひいては日本という国家全体に対する、ひとりのウマ娘のやりきれない怒りだ。

 応援してやりたい。トレーナーではなく、夏野蘭個人として。そんな気持ちが、強く湧き上がる。一方で、広田や理事長の好意を裏切ることへの罪悪感もまた、腹の底に膨れ上がっていく。

 マンハッタンカフェは競走ウマ娘として、夏野蘭はトレーナーとしての活躍を、周囲は望んでいる。

「お願いします。挑戦させてください。あの日、終焉を望むわたしを踏みとどまらせたときくれた言葉が、まだ生きているのなら」

 カフェは言った。真摯な瞳だった。

 忘れるはずがなかった。『あなたの生きる悦びを、この世界のどこかに必ず見出してやる』。夏野は、確かにそう言った。まさか、こんなに近くて遠いところに存在しているなど、夢にも思わなかったが。

 もう答えは決まっていた。

「分かった。やってみよう。レースを引退した後も、あなたたちの人生は続くんだ。わたしたちトレーナーは、もっと早くから、きちんと向き合うべきだった。終わりの先のことまで」

 迷いなく夏野は言った。

 ありがとうございます、と振り絞るような声でマンハッタンカフェが囁く。

「さて、問題はタキオンだね。レースに復帰する気がないとなると、さすがに見逃してはくれないだろうし」

「あ、それなら問題ありませんよ」

 即座にカフェは言った。

 そのとき、ふと背後に人の気配を感じる。

「とっくに根回しを受けていたからね。そこの根暗サイコウマ娘から」

 いつの間にか部屋に入ってきたアグネスタキオンが、いつもの薄笑いを浮かべていた。

「わたしはカフェと取引をしたのさ。この休養期間中、ありとあらゆるトレーニングや登攀訓練中の身体データと引き換えに、本来のリハビリから逸脱する行為を見逃すと。カフェが何をしようと勝手だが、そのせいで、せっかくの研究機会が奪われるのはごめんだからね」

 そう言って、タキオンはカフェに近づき、肩に手をのせる。

「このときをもって、マンハッタンカフェはわたしのモルモットだ。血中酸素濃度、体温、血圧、呼吸数、脈拍、乳酸値、脳波、精神、足の裏から髪の毛の先まで、すべてのデータはわたしのもの。それが訓練につきあう条件だよ」

「分かっているから離れてください。うっとうしい」

 手を振り払い、低い声でカフェは言った。

「とういうわけで、タキオンさんのことは心配いりません。無視してくれて結構です。彼女が欲しいのは、あくまでわたしから検出される数値だけなので」

 さらりと言ってのけるカフェ。

 目的のためなら手段を選ばない性格が、おそらく本能的にふたりを引き合わせるのだろうと、夏野は遠い目をしながら思った。

「まあ、それはいいとして、わたしは登山技術なんて指導できないよ。レースで勝つためのトレーニングしか知らないし」

「大丈夫です。師(メンター)は、わたしのほうで手配しておきました。合流するのは一か月後です。それまでに高地での運動適正を高めておきましょう。3200メートル以上で問題なく動けるようになるくらいが理想ですね」

 不安が払しょくされたためか、軽い口調でカフェは言った。しかし当の夏野には心配事しかなかった。そもそもウマ娘と人間とでは身体の構造も機能も違う。仮に高名な登山家が師になったとして、ウマ娘にとっての正しい登山技術を指導できるだろうか。日本のウマ娘が国外の名峰に挑んだ例はないから、夏野にとっても未知の領域だった。

 そんなことを考える暇もないほど、一か月はあっという間に過ぎた。拠点となるツェルマットから、ひたすら高所を目指して歩いては引き返す。蒼穹を衝かんばかりの白い峰や、雄大な湖と氷河の色彩は、慣れてしまえば単調な背景と化す。油断すれば、肉体から魂がふわーっと抜けてしまいそうになるトレッキング。基礎体力がつき、3000メートルほどの低酸素状態には肉体が慣れてきた。わざわざ日本から血中酸素濃度(SPO₂)を測るパルスオキシメーターを持ち込んだアグネスタキオンが、喜々として数値の改善を記録していた。

 夏野は、一往復ごとにカフェの脚を入念にチェックしていた。しかし、人間にとって苦しい程度の運動では、屈腱炎に再発の兆しは見られない。むしろ、脚に過度の負担をかけることなく、心肺機能は向上していた。

「そろそろ、師が来る頃じゃない? 一応、実績とか調べておきたいんだけど、どんな人?」

 少し不安そうに夏野が尋ねる。しかし、カフェは悪戯っぽく笑った。

「誰が人間と言いました? 人間だけが登山を許されているのではありません。意志と実力さえあれば、山は誰も拒まない。走ることばかりに固執する日本のウマ娘やトレーナーは一生知らないままかもしれませんね。世界には、登るウマ娘もいることを。わたしたちの師となるのは、ウマ娘ですよ」

 にやりと笑うカフェ。

 驚愕のあまり声も出ない夏野の横で、「走行能力を十全に発揮できない山登りなど、ウマ娘にとっては非合理的行為だ」とタキオンがぼやいていた。

 顔合わせの場所は、ツェルマット中心部のレストランだった。

 山に興味がない自分には時間の無駄だと、タキオンは同行しなかった。夏野とカフェはふたりで、指定されたテーブルにて待つ。

 まだ顔も知らないというのに、夏野は自らの師が誰であるのか瞬時に悟った。群衆のなかにあってさえ、身にまとう気配の違いがはっきり分かる。身長170センチを超える、すらりとした肢体。それでいて、一切体幹のぶれがない。アルプスの雪に染まるかのような真っ白な長髪に、同じ色の長い睫毛に縁取られた銀色の瞳。

 神秘的なまでに美しい、葦毛のウマ娘。

 マンハッタンカフェが立ち上がる。夏野も、半ば呆然としながら、つられて席を立った。ふたりが目に留まると、彼女はにこやかに接近してくる。そして貴族のように優雅な一礼をした。右耳についた、金モールと赤い十字架の飾りが揺れる。

 防寒ジャケットの肩には、フランスの国旗。その下に、アルファベットで名前が縫い付けられている。

 『Blanc Hannibal』。

「初めまして。ハンニバル・ブロンです」

 口から出たのは流暢な日本語だった。

「国際的には、ブラン・ハンニバルの名を使っています。どうか気軽に、ブラン、あるいはハンニバルと呼んでください」

 にっこりと笑う彼女に対し、マンハッタンカフェもまた、笑顔で自己紹介しながら握手する。しかし、その瞳の奥には、レース出走直前のような鋭い闘志が宿っていた。

 

 後に、ウマ娘山岳史に名を刻むこととなる、白と黒の両雄が出会った瞬間だった。

 

 

 

 




いよいよ、本格的な登山が始まります。

走ることだけが、ウマ娘の人生ではない。マンハッタンカフェとトレーナーの行末はいかに。


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第5話  葦毛の怪物

URA

ウマ娘中央レース協会。トゥインクルシリーズが開催される大規模な競技場を所有し、レース業界の全てを取り仕切る組織。政治に対する日本有数の圧力団体であり、トレセン学園においても絶大な影響力を有する。


 ブランハンニバル。

 その名を知る日本人は、ほとんどいない。ウマ娘のスターダムは、トゥインクルシリーズと相場が決まっている。したがって、現役の競走ウマ娘以外が脚光を浴びることは、この国ではあり得ない。

 ところが、ひとたび海外に目を向けると、ウマ娘は実に多様な分野で活躍していることが分かる。そのなかでも、突出して世界の注目を集めているのがブランハンニバルだった。ストラスブールの名家出身であり、元々は競走ウマ娘としてフランスのターフを走っていた。イスパーン賞やサンクルー大賞といったG1にも出走しているが、すべて着外に沈んでおり、現役時代にこれといった功績は残せていない。だが、彼女が頭角を現したのは、ターフを去った後だった。

 引退後、わずか一年で、ウマ娘としては世界初となる、ヨーロッパ最高峰モンブランの冬季単独登頂に成功。それを皮切りに、次々と世界の名峰に挑み、制圧してきた。競走ウマ娘から登山家に転身した7年間で、『ウマ娘世界初』の称号を、無数の勲章のように自らの経歴に連ねている。

 登山素人の夏野でも知っている有名な山の名が、綺羅星のごとく並んでいた。ネットで調べたところ、特に偉業とされているのが、

 

 南米最高峰・アコンカグア(6980m)南壁ルート単独登頂

 北米最高峰・デナリ(6190m)冬季単独登頂

 アイガー北壁 冬季単独登頂

 

 だった。どれも、一流の登山家ですら命を落とすことがままある絶峰だ。登り切っただけでも称賛に値するのだが、彼女はなんと、その全てで下山途中に遭難している。アコンカグアとアイガーでは岸壁下降の途中で滑落し、デナリではヒドゥン・クレバス(目に見えない氷の割れ目)に飲まれた。肋骨骨折、全身打撲を負いながらも、自力でクレバスから這い上がり、痛みに耐えながら救助ヘリも待たず独りで生還した。それらの武勇伝から、『Blanc the immortal』(不死身の白)という二つ名がついた。お嬢様然とした見た目とのギャップも人気を呼び、一部のサイトではアイドルのように愛されていた。

 現在、広告代理店を兼ねた自らの会社法人を持ち、さまざまな企業やフランス国家の後ろ盾を得て、冒険の幅を広げている。今回、スイスのツェルマットに入ったのは、アルプスの角と呼ばれる超名峰・マッターホルンのウマ娘冬季初登頂を狙ってのことだった。これはフランスの国家機関である国立高地研究所のプロジェクトであり、現地での指揮権限をハンニバルに委任していた。

 国をあげて、レース以外でウマ娘の活躍を後押しするなど、日本では考えられないことだった。

 マッターホルンに挑むハンニバル隊は、すでにテオドール氷河のおひざ元であるガンデック小屋付近にベースキャンプを張っていた。ベースといっても、標高は3000mもあり、そこに滞在すること自体が高地トレーニングといっても過言ではない。

 12月中旬、夏野一行はベースキャンプに入った。ここまで来ると、アルプス山脈の威容を肌で感じるようになる。ツェルマットを拠点にしていた頃は、遠く美しい背景でしかなかった世界の屋根が、これから人間が登るべき現実として聳え立つ。数千万年の氷雪をまとい、あらゆる生命を拒む4000mの岩の壁。その中でもひときわ天高く突き出す影が、マッターホルンだ。奇跡のように美しく恐ろしい、アルプスの角。

 自分が登るわけでもないのに、夏野は脚がすくんでいた。

 どう見ても、歩くだけで登頂できる山ではない。あからさまに怯える夏野を、マンハッタンカフェは喜々として訓練場所まで引きずっていく。この様子では、どんな山に登るにしろ、カフェのザイルパートナーは夏野が務めることになりそうだった。アイゼンの装着や、アイスピッケルとアイスバイルの使い方、ロープワークは学んでいたが、それが高地での実戦に通用するかは分からない。トレーナー業とは全く無関係の技術であるが、命がけで学ぶしかなかった。

 マッターホルンの前哨戦としてハンニバル隊が選んだのは、隣にある4164mのブライトホルンだ。アルプス4000m峰のなかでは登りやすい、というのが一般的な評価だが、それはあくまで登山シーズンである春と秋の話だ。アルプスの冬は、あらゆる山を鬼にする。山頂に至る荒々しい岩肌を綺麗に舗装しているかのような雪は、ひとたび雪崩となればチーム全滅の脅威だ。ぱっくりと口を開けた氷の裂け目も、雪がブリッジ状に吹き積もるせいで覆い隠されてしまう。

 クレバス落下を防ぐため、縦列をなす隊は、ひとりずつザイルで連結されている。カフェと夏野はしんがりを務めた。

 前を行くハンニバル隊は、驚くべきことに全てウマ娘だった。ベースキャンプに対する補給や事務管理は人間が行っているが、アタックをかけるのはウマ娘のみ。いわゆる雇われであり、国籍は様々だが、全員同じフランス国旗を肩に貼り付けている。英語でコミュニケーションが取れるため、ベースキャンプにて少しばかり会話もしていた。彼女たちは元競走ウマ娘か、あるいはレースが盛んではない国の出身だった。祖国では認められなかった才能をハンニバルに見出されたという。みんな、ハンニバルのことを慕っていた。

「大丈夫ですか?」

 カフェが、最後尾の夏野を気遣う。夏野だけが、隊のペースについていけず、少し遅れ気味だった。高地での歩行には慣れていたし、体力的にきついルートでもないのに、息があがる。よく考えれば当然だった。ウマ娘と人間とでは筋力も基礎体力も桁違いだ。隊は、あくまでウマ娘のペースで進んでいく。夏野は、ついていくだけで精一杯だった。

「なんとかね」

 まだ言葉を出せるくらいには、肺活量に余裕があった。地道なトレッキングが活きていると早くも実感した。

 緩やかなU字谷を越えたと思えば、すぐそこに最初の難関が立ちはだかる。高さ約30メートルほどの氷壁だ。岩肌に雪と氷が張りついただけで、途方に暮れるほど登れる気がしない。

 そこを単独登攀することが、ブランハンニバルからの最初の課題だった。

 安全のため、まず先遣隊がルートをつくる。この程度の壁なら、転落防止の支点となるアイススクリューやハーケンを打ち込む必要はないが、今回は訓練ということで万全を期していた。

 落ちても死なないが、落ちるようではアルプスに入る資格なし。ハンニバルは笑顔でそう言った。これが、彼女流の登竜門だった。

 まずは、マンハッタンカフェが氷壁にとりつく。両手のピッケルとバイルを氷の表面に突き立て、両脚のアイゼンを同じように蹴りこみ、身をよじるようにして少しずつ登っていく。アイスクライミングにおいて、もっとも基本的なダブルアックスによる登攀だ。氷に刺した刃が効いているかは、手足に伝わる感触だけで判断しなくてはならない。カフェは、最初は両手足を平行にそろえてから、次のスイングを打ち込むXスタイルで登っていたが、やがて氷に慣れてきたのか、手足を互い違いに出していくNスタイルに変更した。スピードは上がるが、バランスを崩しやすい登り方だ。しかし、その後もカフェは一切ペースを崩すことなく、わずか15分で氷壁を登り切った。

「素晴らしいです、カフィ。クライミング経験があるとは聞いていたが、これほど成長が速いとは……」

 夏野の隣で、ハンニバルが銀色の瞳を輝かせていた。彼女は、マンハッタンカフェの名を独特なイントネーションで呼ぶ。それがニックネームのように、隊のなかで浸透していた。

「さて、次はあなたがチャレンジしてみてください。マネージャーといえども、このくらいの壁は登れなければ、のちのちカフィのクライミングをサポートすることは難しい」

 ハンニバルは言った。

 マネージャー。その言葉が、妙に引っ掛かる。日本語は達者なようだが、言葉のニュアンスを誤用しているのだろうか。

「わたしは、マンハッタンカフェのトレーナーです」

 念のため訂正しておく。するとハンニバルは一瞬、不思議そうな顔をした後、何かを悟ったようにうなずいた。

「ああ、レース関係者でしたか。失念していました。しかし、ここは競技場ではありません。人間とウマ娘の間に、何の隔たりもない。さあ、カフィの背を追いかけてください!」

 底知れない笑顔でハンニバルは言った。隔たりがない、という表現は、単純な平等を意味するものではない。圧倒的な身体的優越を誇るウマ娘と、同じ土俵に立たせられる。

 抗いがたい脅威を、夏野は感じていた。

 何も言わず、最初の刃を氷壁に打ち込む。習った通り、手足が平行になるように、右手、左手、右足、左足の順番に、氷を捉えていく。壁を這う尺取虫のような、遅々とした進み。それでも、夏野は一挙手一投足が無駄にならないよう、考えながら登る。ピッケルを氷に打ち込むとき、窪んでいるところにインパクトしなければ、しっかり刃が刺さらない。刺さったとしても、その刃が効いているかどうかは、体重を預けてみないことには分からなかった。ときおり氷が割れたり、もろい雪面に刺さってしまったりで、何度も打ち直す。もし、これが標高差何千メートルの絶壁なら、たった数度の打ち直しでも、積み重なれば膨大な体力を消耗してしまう。

 まだ自分には、本格的なアイスクライミングなど夢のまた夢と思い知らされる。

 時間の間隔が薄れ、どのくらい登ったのかも分からない。腕を振るうだけで、うめき声が漏れるようになった。根性を振り絞らなければ、手も足も前に出ない。防寒対策はしっかりしているが、凍りついた岸壁からは絶えず冷気が放たれ、露出した目や皮膚を苛む。これだけ激しい運動をしているのに、手足には熱が通わず、むしろ冷たくなっていく。

 蒸気機関車のように、もうもうと白い息を吐きながら、夏野はようやくトップまで2メートルのところまで登った。あと少しだ。

 そのとき、インパクトした右手のあたりから、パキリと小さな音がした。

 直後、右上半身が、ふわりと宙に浮いた。右手のピッケルを打ち込んだ氷が、剥がれたのだ。とっさに左手足に力を籠め、壁にへばりつこうとする。しかし、今度は蹴りこみの甘かった左アイゼンの刃が外れた。

 虚空。

 ただ重力に吸い込まれる感覚。残された左手のバイルが、ガリガリガリと凄まじい勢いで氷を削っていく。

 そして衝撃。がくんと身体が揺れる。内臓がひしゃげ、骨が軋む感覚。落下が止まった。ハーネスに繋がられたザイルによって、夏野は宙吊りになっただけで済んだ。すぐに体勢を立て直し、氷壁にとりつく。

 もし身体を確保していなければ、まっすぐ30メートル落下していた。地面は、固い岩と氷。今まさに、自分は死にかけたのだ。身体が宙に浮いた瞬間、骨の髄まで恐怖に浸った。なんとか登り切るまで、ずっと手指の震えが止まらなかった。

「お疲れ様でした」

 マンハッタンカフェが、労いの言葉をかける。

「タイムは?」

 息も絶え絶えに、夏野が尋ねた。

「1時間2分。初心者にしては、いい時計です」

 カフェは上機嫌で言った。しかし、夏野は内心落ち込んでいた。精魂尽き果てたあげく、カフェの四倍近い時間を要した。数値化されると、やはりショックだった。

「さあさあ、夏野トレーナー。心拍数とSPO₂を取らせてくれたまえ!」

 夏野の気も知らず、さっそくタキオンが夏野の腕と指に計器を取りつける。そんな同僚ウマ娘を、カフェは忌まわしげに睨んでいた。

 

 この日以降も、ブライトホルンにて雪上歩行とアイスクライミングの訓練を繰り返した。十二月後半に入ると天気が悪化したため、ハンニバル隊もツェルマットに留まることとなった。キリスト教圏では、年越しは家族や友人が一緒になって、お祭り騒ぎをする。ハンニバル隊が予約していたビストロにて、カフェ一行も年越しパーティーに参加した。騒がしいのは苦手だ、と食べるだけ食べてタキオンはさっさと帰ってしまった。カフェは拙い英語を用いて、他の隊員とクライミング技術について情報交換をしている。

 久々の楽しい時間だった。さわやかな口当たりの白ワインを傾けながら、夏野はカフェを見つめていた。レースに出ていた頃の凄惨なオーラは鳴りを潜め、純粋に楽しそうに語らっている。レース以外に生き方があるのなら登山家を目指したという言葉に、偽りはなさそうだった。

「よい夜ですね、ナツノさん」

 ふと、となりから声がかかる。美しい葦毛のウマ娘が、夏野の隣に腰かける。

「少し、お話ししませんか?」

 酔った様子もなく、ブランハンニバルが尋ねる。彼女に導かれるまま、吹き抜けになった二階のテラス席にあがる。

「日本語、お上手ですよね。過去に滞在したことがあるんですか?」

「いいえ。言語の習得は、なかば趣味のようなものでして。チベット語やネパール語は、仕事にも役立つのですが、フィン語、マジャル語、日本語などの独立系言語は、どのような歴史のなかで文法や単語が育まれてきたか知ること自体が楽しいのです。とくに日本語は、表意文字である漢字と、表音文字である仮名を使い分けます。おまけに、仮名にもひらがなとカタカナのふたつがある。こんなに文字による表現法が多彩な言語は、他にありません」

 すらすらと語るハンニバル。この時点で、非常に高い知性と学習意欲が見て取れる。それに加え、様々な組織の後ろ盾を得て、自らの隊を率いるカリスマ性。自身も単独で山に挑める実力。ウマ娘としては、規格外の才気である。

 それゆえに実家とは絶縁し、レース界からも放逐されたのだろう。

 登山家に転身する前の経歴についても、あらかた調べはついていた。名門貴族の末裔にふさわしい優雅な見た目とは正反対に、相当な気性難だったらしい。フランスの中央トレセンでは何度もトレーナーが変わっている。ケガが理由で引退と公表されていたが、本当は担当トレーナーに暴力行為を働いたことが原因であるとの噂が立っていた。

 夏野の肩の傷も、暴力行為の範疇なのだろうが、愛情の裏帰しであるカフェのそれとは意味が異なる。

 ハンニバルが人間を見る目は、どこか軽薄だった。あからさまな侮蔑の色はないが、まるで愛玩動物に向けるような眼差しで、訓練中の夏野を見ていた。

「さて、話とは何でしょう?」

 心を落ち着けてから、単刀直入に夏野が尋ねる。話が早いといった満足気な顔で、ハンニバルは口を開いた。

「カフィを、正式に我が隊に加えたい」

 夏野は動じなかった。予測していたことだった。

「彼女は天性のクライマーです。初登の壁を難なくクリアするには、スタミナや技術だけでは足りません。一瞬で最高率のルートを見極め、それを達成するために、どこに、どのくらいの力で、どの程度の角度で刃やアイゼンを打ち込むべきか判別がつく。先天的な嗅覚、すなわち登山センスが、彼女には備わっている。後天的な努力で補えるレベルを遥かに超えたところに、すでに彼女はいるのです。この才能を、もっと輝かせたい。わたしのもとで、あらゆるクライミングを経験していけば、必ず世界最高のクライマーになれる。わたしさえ凌駕する絶対的な王者に」

 熱のこもる、本気の声だった。銀の瞳に、もはや夏野の姿は映っていない。遥か彼方、真っ白な氷壁を這い上っていく漆黒のウマ娘を夢想している。

「お二人の経歴は知っています。おそらく、あなたがわたしのことを調べたように、わたしもまたあなた方のことを調査しました。G1三勝は素晴らしい成績です。学園の人間は、必ずカフィを復帰させようとするでしょう。しかし、あなたは理解しているはずです。走るために酷使されてきた脚が、もう限界に達していることを」

 ふたたび瞳の焦点が、夏野の顔に戻ってくる。

「日本は、世界でもトップクラスの競走ウマ娘先進国です。中央トレセンの福利厚生は素晴らしいものだ。しかし、生徒たちは過酷なトレーニングで肉体をすり減らし、その多くが怪我や病気で引退していく。たった6,7年の現役生活を終えれば、あとにはもう何もない。レースでの生き方しか知らないウマ娘は、国から支給されるわずかな年金を頼りに、残りの人生を漠然と消化するしかない。さらには、日本では、ウマ娘の就労に関して厳しい制約がある。あなたもご存じでしょう?」

 ハンニバルの言葉は、全て事実だった。

 建設業や運送業、あるいは兵役など、人間よりも身体機能の優越が発揮される仕事は、ウマ娘に禁止されている。もしそういった職種を希望する場合は、バ籍を抜けて、新たに戸籍と名前を取得し、人間として生きていかなくてはならない。その場合、外見も人間と同じくすることが求められるため、耳や尻尾は意図的に隠す必要がある。

 このような制約が課されるようになったのは、人類の歴史が関係している。

 ウマ娘には、勝ちたいという本能が備わっている。人間はそれを悪用した。二度にわたる世界大戦のおり、勝利欲求の矛先を、『敵に勝つこと』へと捻じ曲げたのだ。公式には明かされていないが、多くのウマ娘が従軍し、その身体機能を人間同士の醜い争いに投じた。これは戦勝国も敗戦国も同じだが、こと敗戦国においては、その歴史がトラウマとなり、ウマ娘に肉体労働を課すことを、ひどく恐れるようになった。

 罪滅ぼしのような形で、戦後、ウマ娘のための組織であるURAが結成され、大々的に開催されるようになったのがトゥインクルシリーズである。

「レースは平和の祭典。人種も国境も関係なく、人々に夢と希望を与えるもの。ウマ娘は人間に愛され、尊ばれる存在となりました。しかし裏を返せば、雛壇に飾られた人形でしかない。円形のターフは、いわばモルモット用の巨大な滑車です。勝ちたい気持ちを発散させ、人間社会から隔離するための」

 ハンニバルが人間を見る目の原因。この言葉で、夏野は少し分かった気がした。

「連合国や中立国では、ウマ娘の社会的地位は高まりつつあります。わたしのようなレース界のはみ出し者でも、実力を示せば国や企業から支援を得られる。ここスイスでは、国防軍にウマ娘の部隊さえある。自らの力で自由と独立を勝ち取ってきた国では、ウマ娘もまた自らの意志により生き方を選べる。しかし、日本は違います。結局、お上の定めた範囲内でしか自由も権利も認められない。競走ウマ娘にとって、トレセン内は楽園かもしれません。しかし、その外側は絶望の淵です。わたしは、そこからカフィを引き上げ、世界の舞台に立たせてやりたいのです」

 夏野を射抜くような瞳だった。ウマ娘のことを第一に考える姿勢は、シンボリルドルフと同じだ。しかしハンニバルは、レースだけがウマ娘の幸福ではないとはっきり態度に示している。

「トレーナーであるあなたに、それができますか? レースで勝てるウマ娘を育てることが至上の目的であるあなたに、身体を壊し引退した娘の余生にまで責任を持てるのですか?」

 ハンニバルが問う。つまり、こういうことだ。

 『マンハッタンカフェとの契約を解除し、彼女をフランスに引き渡せ』。

 夏野は答えなかった。自分が答える必要がなかったからだ。

 音もなく、その漆黒は近づいてくる。気配を悟られないまま、ハンニバルの背後に立った。

「それを決めるのは、夏野さんじゃありません。わたしです」

 普段の、ゆったりとした低い声でカフェは言った。驚いたように振り返るハンニバル。人間より遥かに優れたウマ娘の聴覚をもってしても、カフェの奇襲を察知するのは難しいようだ。

「……きみには、すでにアルプスの大岩壁に挑める実力が備わっている。我々の徹底した事前調査とサポートがあれば、マッターホルンを制することもできるでしょう。わたしと共に、世界初を獲ってみませんか?」

 誘いをかけるハンニバル。しかし、カフェは間髪入れず首を横に振る。

「せっかくですが、御遠慮させてください。わたしが一緒に登るのは、夏野さんです。マッターホルンは素晴らしい山ですが、わたしたちには荷が重い」

「後悔するかもしれませんよ。ウマ娘と人間の格差に」

 険しい視線を向けるハンニバルに、カフェはゆったりと微笑みかける。

「後悔なんて、とっくに過ぎてますよ。わたしたちを隔てる壁が大きいことも、散々思い知らされてきました。それでも、わたしは夏野さんと一緒にいたいんです」

 凛としてカフェは言った。その言葉で、どうしようもなく夏野は胸が熱くなる。

「分かりました。であれば、わたしは師としての役割を全うするのみです。教えてもらえませんか? あなたたちの処女登山について」

 令嬢然とした柔和な顔つきに戻り、ハンニバルが尋ねる。

「まずは、ヨーロッパ最高峰。モンブラン・ノーマルルートを制します」

 迷いなく宣言するカフェ。初耳の夏野は、口が開きそうになる。

 標高4810m。アルプスの女王と呼ばれる、美しくも過酷な山だ。登山シーズンである夏季を含めても、登頂率はわずか20%しかない。冬季の難しさは言わずもがな。そんな山に、ハイキングにでも行くかのように登頂宣言をするカフェ。

「そうですか。あなたたちの行く道に祝福のあらんことを」

 ハンニバルは止めようとしなかった。酔いなど微塵も感じられない優雅な足取りで、階下の騒がしい仲間のもとに戻っていく。

「ちょっと、カフェ! 冬のモンブランって……!」

「大丈夫です。天候次第ですが、わたしたちならやれます。ハンニバルは、本当に優れた師でした。ですが、いずれ弟子は巣立つもの。これからはライバルですよ」

 マンハッタンカフェは勝気に笑う。これはもう、行くしかないと夏野も腹を括った。

 

 1月10日。ハンニバル隊は、いよいよアルプスの角に挑むためツェルマットを発った。その直前に、ささやかなお別れ会が催された。互いの無事と健闘を祈る、隊員とカフェ一行。その際、ハンニバルは餞別としてふたつのものをカフェに与えた。

 ひとつは、ウマ娘専用の防寒耳カバー。もうひとつは、小型高性能カメラだった。

 身体機能に優れるウマ娘だが、寒冷地において唯一の弱点となるのが耳だ。手足の指に比べて血流量が少なく、露出する面積も大きいため、凍傷のリスクが極めて高い。もし耳介を失えば、聴力が極端に落ちてしまう。雪崩やクレバスの回避に不可欠となる、微小な音の変化を察知できなくなる。それを防ぐため、ハンニバルはフランスの登山メーカーと耳カバーを共同開発した。特殊な繊維により、内側の熱を遮断しつつ、外からの空気振動を通す。これにより、保温しながら聴力を保つことができる。一方で、カメラは登山の必需品ではない。ただし、登頂過程や山頂からの景色を記録しておくことは、後々のために役立つ、とだけ聞いていた。

 ツェルマットの駅まで、アグネスタキオンが見送りに来てくれた。通常の高地トレーニングを続けるため、彼女はこの地に留まる。

「死なないでくれたまえよ」

 いつもの人を食ったような薄笑いはなく、かつてのライバルにエールを送る。しかしその後、ちゃっかりパルスオキシメーターや記録用紙を押しつけてきた。

 

 スイス、フランス間の国境を越え、ふもとの街であるシャモニに入る。前日には強烈な風が吹き荒れていたというモンブランの上空に、雲ひとつない。ヨーロッパ最高峰にふさわしい悠然たる姿が、どこまでも真っ白な雪で輝いている。標高3200m付近のテートルース小屋で一泊する予定だったが、未明から出発してもあまり体力を消費せずにすんだため、第二のベースとなるグーテ小屋まで進む決断をした。ノーマルルートならば天候次第というカフェの言葉は正しかった。

 クレバス落下を防ぐため、互いの身体をザイルで結ぶ。先行はカフェが務めた。雪中のわずかな軋みを頼りに、安全なルートを見極めていく。3500mを超えても、まだ高山病の症状は出ていない。ブライトホルンでの過酷なトレーニングが、確実にふたりの肉体を強化していた。できる限り、夏野はカフェの姿をカメラに収め続けた。

 フランスで最も高い場所にあるグーテ小屋を午前4時に出発する。アルプスの稜線を超えて太陽が顔を出し、あらゆる景色を黄金色に染め上げていく。その中を歩く漆黒のウマ娘の姿は、神秘的にさえ見えた。両側が崖のように切り立つナイフリッジも、思ったより恐怖感はなかった。

 午前7時14分。マンハッタンカフェが、夏野に笑いかける。微かに白み、雪の舞う空。眼下には、山脈を超えてどこまでも果てしなく欧州の大陸が広がっている。ここがモンブランの頂点。すなわち、ヨーロッパの頂点だった。畳一枚もない、分厚い氷で覆われたスペースを、勇ましく踏みつける。

「凱旋門の仇は取れたかな?」

 カメラに担当ウマ娘の姿をおさめながら、夏野が尋ねる。

「いいえ。これはメイクデビューにすぎません。世界の頂は、まだ遠い。ですが、やはり嬉しいものです」

 将来のことや下山の消耗戦も忘れ、このときばかりには歓喜に浸る。冬のトップ・オブ・ヨーロッパが初戦とは、末恐ろしいと夏野は苦笑した。

 山頂にいたのは、わずか5分だった。下山は迅速に行うのが、登山界の鉄則だ。この日のモンブランの空は、ふたりの初登頂を祝福するかのように終始機嫌が良かった。

 シャモニで一泊して疲労をとり、ふたりは無傷でツェルマットに戻った。

 駅には、出発時と同じく、アグネスタキオンが出迎えてくれた。しかし、モンブラン制覇をメールで伝えておいた割に、その表情は険しい。

「夏野トレーナー、カフェ。おめでとう、と言いたいところだが、手放しには喜べない状況になった」

 そう言って、間髪入れずに、ふたりの前に複数の新聞を広げる。スイスの日刊紙である20ミヌーテンの他に、フランスのル・モンド、ドイツのディー・ヴェルトもあった。その一面には、尖った岩壁を取り巻く5人のウマ娘の写真が大きく掲載されている。ブランハンニバル隊が、ウマ娘で史上初となるマッターホルン冬季登頂を成し遂げた記事だった。

 それだけなら、ただ同業者の成功を祝うだけでよかった。

 各新聞とも、ハンニバルの記事の横、あるいは下に、別のウマ娘の写真と見出しを載せていた。

 

 日本のウマ娘とトレーナーが快挙。ウマ娘と人間のペアとして、史上初の冬季モンブラン制覇。

 

 英雄のようにヨーロッパの頂を踏みつけるマンハッタンカフェが、各国の代表的な新聞の一面を飾っている。

 夏野には何が起こったのか分からなかった。登頂成功のことは、アグネスタキオンにしか伝えていない。

「このカメラはGPSが搭載されているようです。遭難防止のためでしょうが、映像の通信機能もあったみたいですね。ハンニバルは、単なる老婆心から、これをわたしに与えたのではなさそうです」

 カフェが独り言のように呟く。つまり、モンブラン登頂の事実を各国の新聞社に伝えたのは、ブランハンニバルということになる。

「どうあれ日本のウマ娘が、ヨーロッパ全土を沸かせたのは喜ばしいことだ。しかし、当の日本では、とんでもない騒ぎになっているよ。レースを走るべきウマ娘が、あろうことか山に登ったのだからね。当然、お偉方が黙ってない」

 そう言って、タキオンはノートパソコンを取り出し、画面を夏野に向ける。

 メールにて、学園から即時帰国の命令文が届いていた。休養明けまで、まだ半月あるにも関わらず。

「今から覚悟を決めておきたまえ、夏野トレーナー。きみたちは、学園を、ひいてはURAを敵に回してしまったのだ」

 静かにタキオンは言った。

 全てを理解したうえで、マンハッタンカフェは落ち着いていた。狼狽を隠せない自らのトレーナーを、金色の無機質な瞳で、ひそかに観察していた。

 




実力、才知、ともに怪物のブランハンニバル。

無断登山がバレてしまった夏野とカフェの運命はいかに。


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第6話  楽園追放

プリティーダービーチャンネル


トゥインクルシリーズなどの国内レースを独占的に中継配信する地上波番組。その放送権料は、URAの主要な収入源のひとつとなっている。


 帰国早々、学園まで出頭した夏野に言い渡されたのは、無期限の自宅謹慎だった。

 命令書を手渡す秋川理事長の、困惑と悲しみに歪む顔を、夏野は直視することができなかった。ただ一言、申し訳ありませんでした、と深く頭を下げた。

 マンハッタンカフェと夏野蘭のモンブラン冬季登頂は、あっという間に日本にも伝えられ、連日大ニュースとなっていた。日本初であり世界初の業績。しかし、それに対する民衆の声は、賞賛よりも疑念と反感のほうが大きかった。

 なぜ日本を代表する競走ウマ娘に登山をさせたのか。

 リハビリの目的に反したレジャー行為なのではないか。

 運営資金の無駄遣いだ。

 批判を集約すると、おおむねこの三つに分類される。そのどれに対しても、夏野は反論の言葉を持たなかった。

 山に登ったのは、自分のエゴだ。レースに勝てる競走ウマ娘を育てることがトレーナー第一の責務であり、それを全うしようと思うなら、カフェを拒絶し、止めなければならなかった。契約を切り、チーム解散も辞さない覚悟で。そうしなかったのは、自分がトレーナーの職責を放棄し、個人としてマンハッタンカフェに肩入れしたいと思ったからだ。

 ターフの外側に、彼女の輝きを求めてしまった。

 トレーナー失格だった。

 厳然たる事実と向き合う夏野のもとに、追い討ちをかけるように学園経由でエアメールが届く。夏野宛の私信だった。ベッドに寝転がったまま封を切る。優雅な筆跡には見覚えがあった。

 

 How did you like my present?

 I hope for your brand-new success.

                           tata, BH.

 

 『わたしのプレゼントはお気に召しただろうか。あなたたちの、新たなる成功を祈る。では、また』

 

 わざわざイニシャルなど入れなくても、差出人はすぐ分かる。新たな成功と書くあたり、皮肉の効いた文面だった。ブランハンニバルは、カフェと夏野の退路を断ち、強制的に登山界に引きずり込むため、モンブラン登頂の事実をリークしたのだ。

 怪物め。

 心のなかで毒づく。トレセン学園にいるレースの怪物とは全くの別物。肉体のみならず頭脳でも戦える、権謀術数の魔物だった。

 手紙を放り捨て、ベッドから立ち上がる。謹慎といっても、学園に立ち入ることができないだけで、私的な移動は認められている。今日は、同僚と会う約束があった。府中駅から電車を乗り継ぎ、高田バ場で下車する。大通りの喧噪から少し離れた、学生の頃には縁のなかった高級感のあるワンショットバーに入る。

 広田翔は、すでにカウンターでグラスを傾けていた。少しクリーミーな黄色からして、バレンシアだろうか。ベースのリキュールと、オレンジジュースをシェイクしたカクテル。見た目は体育会系だが、かなりの甘党だった。

 彼の隣に腰かける。マンハッタン、と言いかけて止めた。好きなカクテルだったが、この場にはそぐわない言葉だ。何より、禁断症状のように思われるのが嫌だった。

 代わりに注文したギムレットを、一口飲み下す。きちんとシェイクされているし、氷の量も適切だ。これならば、少し話し込んでも味が緩むことはないだろう。

「URAは怒り心頭だ。せっかくのG1ウマ娘に、なんつう危険なことをさせるんだってな」

 沈んだ声で広田は言った。おそらく大部分のトレーナーも、URAと同じ意見なのだろう。付き合いのあった同僚たちとは音信不通になっていた。かつての仲間から村八分にされたことを別段、恨んではいない。問題児と関わってURAに睨まれたら、今後担当するウマ娘にも迷惑がかかるからだ。

 変わらず付き合ってくれるのは、広田しかいなかった。

「危険どうこうより、レース以外のことでウマ娘が注目されたのが許せないんでしょ。ウマ娘と国民の心がレースから離れたら、URAは財政的に弱体化するし、政治への影響力もなくなる」

 酔いの回らぬうちから、すこし攻撃的な気分になっていた。トレーナーならば、分かっていても口にしてはいけない暗黙の了解を、堂々と破る。そんな夏野を、心配そうに広田は見ていた。

「本音はそうだとしても、話は建前で進んでいくぞ。おまえの罪状は、リハビリ目的から逸脱した危険行為および、それに伴う海外渡航費私的流用の背任行為。このふたつを査問員会に申し立てることで、おまえのトレーナー資格を剥奪する狙いだ。そのうえで、マンハッタンカフェを無罪放免とし、年度代表ウマ娘に選出することも画策している」

「トカゲの尻尾切りってわけね」

 夏野は呟く。切られるのは、国民的人気のG1ウマ娘ではなく、新人トレーナー。組織としては合理的な判断だ。

「秋川理事長と生徒会、あと俺は、おまえの擁護に回っている。確かにモンブラン登頂はやりすぎたかもしれん。しかし、高地でのトレーニングは素晴らしい効果を挙げた。今、シャカールが平地での測定値をまとめているところだ。でもな、数字にしなくても、一目見ただけで分かったよ。タキオンの走りは変わった。以前より、圧倒的にパワーと粘り強さが増している。自分の脚じゃないみたいだ、と本人も言っていた。おまえは、身を削ってウマ娘とトレーニングを共にし、有用性を証明してみせたんだ。生徒会だって、おまえの熱意を認めている。それから、マンハッタンカフェが問題児であることも。どうせ、カフェに強要されたんだろう? 査問会でタキオンに証言させてもいい。あれはトレーナーの意志ではなかったと」

「それはやめて」

 夏野はぴしゃりと遮る。

「仲間を裏切るような真似を、タキオンにさせないで。わたしのために頑張ってくれてるのは、すごく嬉しいし、チーム提携で協力してくれたことも感謝してる。だけど、どんな結末になっても、わたしは受け入れるよ。URAがわたしをお払い箱にしたいっていうなら、それで構わない。カフェの名誉さえ守られるなら、それで。トレーナーの職務に背いたのは事実だから」

 すらすらと言葉が出てくる。しかし、夏野の目に生気はなかった。まるで決まったセリフを読み上げるロボットのようだ。

「なあ、いったいどうしちゃったんだよ」

 広田が詰め寄る。

「おまえ、めちゃくちゃ頑張って中央のライセンス取ったじゃないか。せっかく受かった大手企業辞めて、死ぬほど勉強して、やっと中央のトレーナーになれたんじゃないか。ウマ娘の走る姿が大好きだ、彼女たちと一緒に頑張ってみたいって、ずっと言ってたよな。あのときの情熱は、どこに行ってしまったんだよ?」

 早口にまくしたてる。グラス一杯も空けていないのに、もう酔いが回っているのだろうかと、夏野は内心苦笑する。

 自分でも驚くほど、彼の言葉は胸に響かなかった。

「分からなくなった」

 ぽつりと、夏野は呻いた。

「担当したのがカフェじゃなければ、たぶん何の疑問も抱かなかった。ウマ娘を育てて、レースで勝たせて、引退したらまた次の娘を育てて、そうやって、この先ずっとトレーナーとして生きていたんだと思う。ウマ娘だって、走ること、レースで勝つことを望んで学園に来るんだから、走れるだけ走ったら引退することに疑問は持たない。でも、カフェは違った。いずれ走れなくなる日を見据えて、レースの外側に生きる悦びを見出そうとしていた。わたしひとりじゃ、何十年経っても気づかなかったことに、彼女は気づいていた」

 ときおりギムレットで喉を濡らしながら、夏野は独白を続ける。

「わたしも、気づかされちゃったんだろうね。終わりが見えていることの虚しさに。現役時代に、どれほど目覚ましい活躍をしても、ターフを去れば何もなくなる。勝ちたいという本能だけが、死ぬまで燻り続ける。トレーナーは、何十、何百というウマ娘に、同じことを繰り返す。それがしたくて、トレーナーになったはずなのに」

 広田は黙って聞いていた。まだ夏野は、全てを吐き出していないと思ったからだ。

「スイスでね、あるウマ娘に言われたんだよ。トレセン内は楽園だけど、その外側は絶望の淵だって。わたし、納得しちゃったんだ。URA。日本ウマ娘中央レース協会。日本で最も

大きいウマ娘関係の組織が、『レース』っていう名前を冠している時点で、この国のウマ娘はレース以外に輝ける道は無いんだ。レースで勝つことを目指すかぎり、何不自由ない暮らしが学園内で保障されているけれど、怪我や病気で走れなくなって、学園から放り出されたら、ほんと、この国って何にもないんだよね。わたしの仕事って、ウマ娘を酷使したあげく、使えなくなったら暗闇のなかに捨てることなのかな。そんなことを考えるようになってしまったよ」

 もしかしたら、自分は酔っているのかもしれないと夏野は思う。舌の回るがまま、これまで堰き止めていた本音が、ぼろぼろと溢れ出て止まらない。

 広田は、目の前のグラスを一息にあおる。夏野を見つめる瞳には、怒りとも悲しみともつかない、抑え込まれた激情が揺れていた。

「おまえがマンハッタンカフェの名誉を守りたいように、俺や生徒会は、おまえにトレーナーを続けてほしいと思っている。だから、こっちも勝手にやらせてもらう。どのみち、マンハッタンカフェとの契約は切れる。おまえの指導を受けたい娘たちも大勢いる。それでも辞めたかったら、好きにすればいいさ」

 珍しく、荒い口調だった。

 夏野も、残ったギムレットを飲み干した。

 傍から見たら痴話喧嘩のように見えるだろうか。まだ恋人同士でもないというのに。

「あと、これも伝えておく。たとえおまえがトレーナーを辞めたとしても、俺はおまえから離れるつもりなんてないからな」

 言い放った直後、広田は照れ隠しのように追加のグラスを注文する。

「……都合よく解釈するけど、いい?」

 少し声がうわずってしまう。広田は横を向いたまま、かすかにうなずいた。

「ありがと。それじゃ、ここの払いよろしく」

 明らかにアルコールのせいではない赤面を見られたくなくて、夏野は席を立つ。なにがそれじゃだよと笑う広田も、少し穏やかな顔に戻っていた。

「そうだ、カフェは今どうしてる?」

 去り際に、夏野が尋ねる。

「規定どおり、美浦寮で待機しているよ。ただし、自室じゃなくて地下の懲罰房だが」

 苦々しげに広田は答えた。

 『あまり悪い子だと地下牢に送るぞ』。規則破りのウマ娘に、寮長が使う脅し文句として有名だが、それらは実在する。ウマ娘が本気で暴れたら、人間基準の建築物など、監獄としての用を為さないからだ。

「何をやらかしたの?」

「待機を言い渡されていたにも関わらず、無断で寮を出ようとした。おまえに会いに行くといってな。偶然、寮の外に居合わせた桐生院トレーナーとハッピーミークが止めに入り、乱闘騒ぎに。そのおり、カフェはハッピーミークの腕に食らいつこうとしたそうだ。体格に勝るミークがなんとか踏ん張って、最終的に生徒会の面々に抑え込まれ、地下に収容された」

 言葉の終わりに、長い溜息を添える広田。

「やっぱり、あの娘はどうかしている。俺たちトレーナーの手に負えるウマ娘じゃない。もし査問会をくぐり抜けることができたら、カフェとの契約は理事長権限をもって解除される。それは確定事項だと思っていてくれ」

「そう、分かった」

 夏野は特に驚きもせず席を立った。

 慣れとは恐ろしくも偉大なものだ。地上の人間を急に8000m上空まで持ち上げたら、わずか三分で意識を失い、脳細胞が死滅していく。しかし、段階的に高度順応を行い、身体を慣らしていけば、同じ高さでも死なずに済む。マンハッタンカフェもまた、付き合った時間が長いほど、精神に耐性がついてくる。

 地下牢にいるなら、好都合だ。そのまま査問会が終わるまで大人しくしていればいい。トレーナーの首と引き換えに、名誉だけ受けて学園を去ればいい。例え日本が彼女を持て余したとしても、この世界には輝ける場所があるのだから。

 

 

 3月10日。

 夏野は学園本部に出頭した。トレーナーバッジを胸につけ、白手袋をはめる。就任式以来の正装だった。査問会のメンバーは、秋川理事長以下、常任理事5名と、生徒代表のシンボリルドルフ、さらにURA本部から出張ってきたと思われる中年の男が二名。おそらく、実質的な処分権限を持つ監察官だ。

 まず監察官が、事実確認を行う。トレーニング内容から逸脱した登山を行ったこと、それに伴う費用を学園から交付されたリハビリ休養費から支出したこと。夏野は聞かれるがまま、全てを肯定していく。

 現実の裁判と同じく、これは単なる儀式だ。内部規定にのっとり、淡々と進むだけ。あらかじめ結論は決められており、形だけ弁明の機会が与えられているにすぎない。ゆえに、今さら何を主張しようと無意味だ。処分軽減の嘆願ならば、すでに理事長や生徒会から出されているはずだ。

 最後に、補足したいことはあるかと聞かれた。夏野は、ありませんと首を横に振る。

 全ての手続きを終わらせた監察官は、すました顔で処分内容を読み上げる。

「中央トレーナー資格を剥奪のうえ、免職処分とする。処分の日以降、3年間は新たなトレーナー資格を取得不可とする」

 不服申し立ては3か月以内に、だとか言葉は続いていたが、夏野は早々に一礼する。下された処分に、今さらショックを受けるようなことはなかった。URAがこういう組織であることは、とうに知っている。ただ、今も歯を食いしばるようにして俯く秋川理事長やルドルフの気持ちを考えると、胸が痛くなった。

 ごめんなさい。わたしは、もうトレーナーではいられない。

 自分のために尽力してくれた彼女たちに、報いることができない。それだけが無念だった。退出しようとしたとき、ふとルドルフの顔が見えた。何かを決意したかのような、鋭い目つき。

 その瞬間、場違いな電子音が会場に響いた。

「失礼、緊急の連絡網です」

 ルドルフが制服からスマホを取り出し、応答する。一言、二言話して、すぐに通話を切った。

「みなさん、非常事態が発生しました。美浦寮地下にて拘束されていたマンハッタンカフェが脱走したとのことです」

 朗々たる声でルドルフは言い放つ。にわかにどよめき立つ会場。

「非常に興奮しており、周囲の者に危害を加える可能性があります。居場所が分かるか、生徒会が身柄を確保するまで、安全のためここで待機をお願いします」

 冷静な口調でルドルフは告げる。秋川理事長以外の者は狼狽しきっており、とくに監察官ふたりの怯え方は顕著だった。

 何をするつもりだろう。かつてないほど嫌な予感がこみあげてきた瞬間。

 背後から、爆音がした。

 可燃性の何かが爆発したとしか思えなかった。しかし後ろの壁を振り返ると、火や煙はまったく見えない。そのかわり、あるべきものが、そこにはなかった。

 ドアが、蝶番の金具ごと吹き飛び、床に転がっている。

 丸見えになった廊下に、人影があった。まるで映画のワンシーンのように、右足を高く掲げている。その人物がドアを蹴破ったことを理解するのに、夏野は数秒の時間を要した。

 漆黒のロングコートを身にまとい、ランウェイを歩くかのように優雅な足取りで彼女は入室してくる。

 会議室にいる人間は、誰ひとり、一歩も動けなかった。

 彼女は夏野の隣に立ち、目の前の人間たちに恭しく一礼する。

「査問会の皆さま、ごきげんよう。騒がしくしてしまい申し訳ありません」

 おだやかな微笑みを湛えて、マンハッタンカフェは言った。

 彼女は、G1レース用の勝負服を着ていた。黒の地に、金の装飾がよく映える。おそらく、自分なりの正装のつもりなのだろう。ひとつレースの時と違うのは、口の周辺を拘束具で覆われているところだ。決して噛みつけないよう、会話と呼吸のための鉄格子が並ぶ、金属製のマスク。

「しかし、妙なこともあるものですね。査問されるべきわたしを軟禁し、あまつさえ会場から締め出すとは。おかげで、強硬手段に出ざるを得ませんでした」

 声だけは正気そのものだ。しかし、夏野を除いて、この場の誰も彼女を安全だとは思っていない。高い知性を宿しただけの、血に飢えた猟犬にしか見えなかった。

「不可解。『査問されるべきわたし』とはどういう意味かな。ここは、夏野トレーナーに対する処分を言い渡す場所だ」

 何も言えない監察官に代わって、秋川理事長がカフェに尋ねる。

「いったい何の処分ですか? 夏野トレーナーは、悪意をもって学園に損害を与えたことなど一度もありませんよ。わたしの怪我は単なる不可抗力です」

 小首をかしげながらカフェは言った。

「な、なにを言うか! 夏野トレーナーは、独断で危険な登山をしたばかりか、そんなことのために療養費を使い込んだんだぞ! 懲戒免職くらい当然だ!」

 ようやく監察官のひとりが上ずった声で叫ぶ。しかし、金色の瞳がぎょろりとそちらに向くと、情けない悲鳴をあげながらルドルフの後ろに逃げ隠れてしまった。

「それは大いなる誤解であり、甚だ愚かしい冤罪です」

 一段と低い声で、カフェは言い放つ。

「モンブラン登頂と費用の使い込みは、わたしが彼女に指示し、強制したことです。よって今回の事案の全責任には、わたしにあります」

 何の気負いもなくカフェは言った。

 秋川理事長とシンボリルドルフは、黙ってカフェを見つめていた。夏野だけが、首を横に振りながら、カフェに縋りつく。

「お願い、やめて、カフェ……」

 そんなことを証言すれば、せっかくのキャリアに泥を塗ってしまう。年度代表ウマ娘選出も取り消されてしまうかもしれないよ。震える唇は、そこまで言葉にできない。しかしマンハッタンカフェは、悪戯っぽい微笑みを返すだけだった。

「証拠は、あるのかね?」

 沈黙していた片方の監察官が、カフェに尋ねる。他の理事や監察官が混乱した虫のように部屋の隅に固まっている状況で、彼だけはまだその場に踏ん張っていた。

「きみが夏野トレーナーに、規則違反を強制した証拠はあるかと聞いているんだ。わたしには、きみがトレーナーを庇っているようにしか見えない。もしそうなら、今のうちに発言を撤回しなさい。せっかく年度代表ウマ娘として、URA賞を受賞できるというのに」

 ときおり声を震わせながらも、監察官は果敢に言った。

 黄金の瞳が、ターゲットを捉える。それだけで、憐れな監察官は、蛇に睨まれたカエルのように硬直してしまった。

「あなたはURAの内部規則にお詳しいようですね。では、お尋ねします。中央トレセン所属のウマ娘が、同施設の職員及び担当トレーナーに暴力行為を加えた場合、どのような処分がくだされますか?」

 唐突にカフェが質問する。監察官は、ぽかんと口を開けていたが、なんとか頭の中の知識を絞り出す。

「そんなもの、放校処分のうえ、あらゆるレース競技からの永久追放だ。ウマ娘が、その身体的優越をもって人間を攻撃するなど、最低最悪の愚劣なる行為だ。そんなことをする奴は、二度とこの国で日の目を見ることは許されんぞ!」

 半ば叫ぶように監察官は答える。この場を恐怖で支配するマンハッタンカフェに対する警告でもあった。

 ウマ娘が本気で人間に牙を剥けばどうなるか。ここは、ありえたかもしれない世界の縮図だと、ルドルフは思う。そうならないよう戦後の日本は、URAのもとトゥインクルシリーズを開設し、ウマ娘を人々から愛され、讃えられるアイドルに仕立て上げた。力ある者は学園と競技場に集結し、人間社会から隔絶されるシステム。しかし、全てのウマ娘が、そのシステム内に収まるわけではない。欧米諸国では、すでにウマ娘による公民権運動が成熟し、あらゆる分野への社会進出が始まっている。

 日本はこのままでいいのだろうか。レース以外の生き方を認めないままで。他ならぬレースでの活躍により、今の地位にのしあがった皇帝ルドルフの胸に、仄かな疑念が湧き上がる。

 鉄のマスク越しに、マンハッタンカフェは笑っていた。

「そうですか、そうですか。つまりURAは、そんな最低最悪の愚劣なウマ娘を、年度代表に選出し、賞を与えるのですね。職務に忠実で有能なトレーナーを切り捨てて。これは傑作!」

 作り笑いではない。カフェは本当に笑っていた。楽しそうに、それでいて嘲るように。

「ど、どういう意味かね?」

 震えた声で監察官が尋ねる。

「この場を借りて、わたしの罪を告白します。二年前のメイクデビュー以来、わたしは夏野トレーナーに断続的な暴力を加えてきました。レースで敗北したとき、トレーニングメニューが気に入らなかったとき、彼女を殴りつけ、床に引き倒し、頭を踏みつけました。海外療養のときも、彼女を脅しつけて山に同行させたのですよ。むろん、同行していたアグネスタキオンには悟られないように。ウマ娘として生まれ持った強靭な肉体を使って、か弱くて愚かな人間を屈服させてきました。夏野トレーナーは、よく耐えましたよ。初めての担当、初めてのチームだからと、誰にも打ち明けることなく、孤独に頑張っていました。その責任感の強さにも、わたしはつけこんだわけですが」

 過分に脚色された証言。しかし、理事たちは全員、信じ込んでいる様子だった。顔が青ざめており、卒倒寸前の者もいる。秋川理事長でさえ、苦しそうに唇を噛んでいた。

「う、うそだ。そんなこと、あるはずがない! URAが認めたウマ娘が、そんなこと」

 後ずさりしながら、監察官が言った。

 カフェは、無言で夏野の腰に腕を回した。びくりと身体を震わせるも、されるがままの夏野。こうなっては止めようがない。連れだって歩く夫婦のように、一歩ずつ、監察官に近づいていく。

「いいんですかぁ? 証拠を見せても?」

 低く、ねっとりとした声でカフェが問う。監察官はガタガタ震えたまま何も言えない。

「彼女の肩には、わたしの噛み痕が残っています。あのときは、わたしもずいぶんと荒れたものです。メイクデビューで負けた夜でした。わたしは、思い切り彼女の左肩に噛みつきました。それこそ肉が抉れ、血を啜れるほど、強く。歯型が一致するので、確実にわたしの犯行だと証明できます。URAの内部規定どころか、国の刑法にも触れる犯罪行為ですね。しかし―――」

 不意にカフェは、口の拘束具に両手をかけた。そして、いとも簡単に引き千切る。革が破れ、鉄の砕ける音が、会議室にこだました。

「衆目の前で、女性の肌を晒すものではありません」

 解放された口元で、白い歯が光る。

 マンハッタンカフェは、ゆっくりと監察官に近づく。壁際に追い詰められ、腰を抜かして尻もちをつく。男はもう後に引けない。屠殺を待つ牛のように震えるだけだった。

「代わりに、あなたの身体に歯型を刻んであげましょう。肉を剥ぎ、骨を砕くほどの、一生消えない傷跡を。誰が見てもわかる場所じゃないといけません。手の甲、首筋、いや……」

 黄金の瞳がぎらりと輝く。唇の隙間から赤い舌がのぞく。

「額のほうが、いいですね」

 男の眼前で、ぐわっと口が開いた。

 憐れな監察官は白目を剥いて気絶し、床に倒れ伏した。

「しませんよ、そんなこと。わたしは美食家なんです。こんな下水の魚野郎に、わたしの唾液はもったいない」

 心底軽蔑しきった眼差しで、カフェは男を見下ろしていた。

「さて、みなさん。聞いての通りです。あなたたちURAは、犯罪者を守り、忠義者を切り捨てる選択をした。この事実が世間の知るところとなれば。まあ、言わずともお分かりでしょう」

 悠々とマンハッタンカフェは部屋を横切り、理事席のボイスレコーダーを手に取る。議事録の代わりに、査問会の発言を記録していたものだ。

「これと引き換えに、わたしはふたつのことを要求します。まず第一に、夏野トレーナーは無罪放免のうえ、依願退職とすること。第二に、わたしもまた自らの意志による自主退学とすること。URA賞はいりません。野良犬にでも食わせてください」

 いつもの静かな声に戻り、カフェは言った。依願退職という形なら、トレーナー資格は剥奪されることがなく、夏野の名誉も守られる。

 秋川理事長が、一歩前に出る。

「了承。手続きはこちらで済ませておく。マンハッタンカフェは寮の荷物の整理を始めたまえ。夏野トレーナーは、どうか。退職の意志ありということでいいかな?」

 カフェの要求を鵜呑みにせず、理事長は最後に夏野の意志を確かめる。もう少し迷うかと思ったが、答えはすんなり口から出た。

「はい。今までお世話になりました」

 心からの感謝をこめて、夏野は頭を下げた。それでいい、とばかりに笑う理事長。しかし、その目には、うっすらと涙が溜まっていた。

 学園本部を出て、カフェと連れ立って歩く。このキャンパスもターフも、今日で見納めになる。少しはセンチな気分になるかと思ったが、先ほどの事件のせいで感性が麻痺しているようだった。

「筋書通り、うまくいきました。ルドルフ会長には負担をかけてしまいましたが」

 微笑みながらカフェは言った。冷静になって考えれば、堅牢な地下牢に幽閉されていたはずのカフェが、脱走できること自体おかしい。

「まさか、ルドルフと共謀していたの?」

「はい。暴れて幽閉されたら、会長は必ずわたしを訪問すると見込んでいました。そこでわたしは、取引をもちかけたのです。もし夏野さんが不名誉な形で学園を追われるなら、わたしがしてきた暴力行為を全て公表する。それが嫌ならば、わたしを査問会に出席させろと。頭の回転が早い会長は、瞬時に事の重大さを理解しました。そんなことになれば、トレーナーとウマ娘の信頼関係が揺らぐばかりか、学園全体の信用が損なわれてしまう。彼女は、黙って牢の施錠を外してくれましたよ。査問会の内容は、ルドルフ会長の携帯を通して、わたしに筒抜けでした。夏野さんの処分が確定した瞬間、わたしが通話を切り、もう一度彼女の携帯に決行の連絡を入れたのです。マンハッタンカフェ劇場開演の連絡を」

 さらりと種明かしをするカフェ。その策略家ぶりには、今さらながら舌を巻くしかなかった。

「会長はいまだ現役の競走ウマ娘ですが、いつか引退してURAの要職に就いたときは、この国の全てのウマ娘が幸せを目指せる王道楽土をつくってほしいものです。あの政治力と器の広さを、ターフの上だけに押し込めるのはもったいない」

「それはいいとして、あなたこれからどうするの? 寮を出た後、住むところは?」

「もちろん、夏野さんの自宅です。私物は少ないので、わたしひとりくらい大丈夫ですよ」

 なぜか教えてもいない住所や部屋の間取りをすらすら口にする。夏野には、反論する気力は残っていなかった。

「お疲れのところ悪いのですが、引っ越しが終わったら、すぐに行くところがありますので。わたしたちの今後に関わる、重要な案件です」

 素知らぬ顔でカフェは告げる。

「全部後にして。本当に疲れた」

 そういって、正門を出ていく夏野。

「これから、よろしくお願いしますよ。夏野さん」

 もはやトレーナーではなくなった女性の背中に、満面の笑みでカフェは手を振った。

 

 

 夏野の依願退職が受理されてから一週間後。マンハッタンカフェ電撃引退が新聞の一面を飾った。屈腱炎の根治が見込めないことが、表向きの理由として書かれている。夏野に対するカフェの暴力行為と、査問会での暴れっぷりは、URAによって見事に隠蔽されていた。カフェに弱みを握られている以上、そうせざるを得なかった。

 学園史上稀に見る大事件を起こした本人は、何事もなかったかのように夏野のマンションに転がりこんできた。彼女の言う通り、荷物は少なかった。登山用具一式と、お気に入りのカトラリー、最低限の衣類に、あとは古びた文庫本が一冊。繰り返し読まれているらしく、ページが開き気味になっている。

 タイトルは、『サウスポール・ヒーロー』。表紙には、互いを支え合うようにして真っ白な雪原を歩く男性とウマ娘の姿が描かれていた。

「さて夏野さん。晴れて互いに無職となったわけですが、まずはこれを見てください」

 我が物顔でソファに座るカフェが、夏野の前にスマホを掲げた。

 動画が再生されている。ダウンジャケットに身を包んだマンハッタンカフェが、のこぎりの刃のように切り立つナイフリッジを進んでいく。モンブラン登頂時に、夏野が撮影していた映像の一部だ。どうやらカフェが編集して、大手動画サイトに投稿したらしい。

 夏野が驚いたのは、動画の内容ではなかった。

 桁を読み違えるほどの再生数と、コメントの数。

「おおむね好評です。レース至上主義者からの辛辣なコメントもありますが、多くの視聴者が、我々の登山を、トレーニングがてらのお遊びでないことを認識してくれています」

「もしかして、Utuber(ウマチューバ―)として活動していくってこと?」

 半信半疑で尋ねる夏野。しかしカフェは首を横に振った。

「この動画は収益化していません。誰でも無料で視聴できます。いわば先行投資ですね。これが功を奏して、さっそく、番組出演のオファーが来ました。以前、映画女優としてお世話になったところです。面接のアポを取っているので、支度してください」

 カフェが口にした会社名は、日本人ならば誰もが知っている超有名法人だった。

 URAに次ぐ、ウマ娘関連の大規模組織。戦後、放送業を主軸として発展、国内のあらゆるレースの中継配信権を持つ、URAにとっての一大スポンサー。

 NUK(日本ウマ娘協会)だった。

 夏野はスーツに、カフェはオフィスカジュアルな黒いボウタイブラウスとパンツに着替え、渋谷区の本部ビルを訪れる。カフェとの付き合いが長いと、緊張や焦りといったものが鈍化していく気がした。

 受付で入場許可証をもらったのち9階の役員フロアに通される。

 常任理事室の応接スペースにて、その人物はふたりを待っていた。

「ご足労恐れ入ります。緑川はやてと申します」

 マンハッタンカフェと変わらない背丈ながら、その眼光の鋭さは彼女以上の迫力があった。還暦をとうに過ぎている年齢だが、異様なほど若々しい。

 緑川はやて常任理事。制作畑からの叩き上げであり、今なお現役の番組プロデューサーだった。お堅いイメージのあったNUK内で、バラエティ性に富んだ番組路線の開発に成功した革命者。

「着帽のまま失礼。この国の、これがルールですので」

 笑いながら、緑川はソファに腰を下ろす。ウマ娘の象徴である耳を隠すためのクロッシェ帽を、軽く指ではじく。

「さて、こういうときまずは社交辞令で腹のうちを探り合うのですが、マンハッタン嬢とは以前の映画撮影で知己がある。彼女の性格は理解しています。だから、本題から入らせていただく。あなたたちの登山を、地上波で放送したい。そのためのプロジェクトに参加してもらいたいのです」

 緑川は言った。

 これはまたとないチャンスだ、と夏野は内心息巻く。どんな小さな企画でもいい。NUKが後ろ盾になってくれたなら、後の活動の幅も広がる。

「プロジェクトの内容をお聞かせください。まさか、富士山に登れなんておっしゃるつもりはありませんよね?」

 夏野より先に、カフェが口を開く。緑川は、面白がるように口角をあげた。

「冬のモンブランを制したあなた方に、富士山では役不足でしょう。もっと相応しい舞台を用意するつもりです。ただし―――」

 眼光の鋭さが倍増する。夏野は思わず背筋が冷えた。レース前のシンボリルドルフでも、こんな目はしない。

「リスクは負ってもらうことになります」

 緑川は告げる。登山界においてリスクとは、死の可能性に他ならない。しかし、マンハッタンカフェは逆に瞳を輝かせていた。

「わたしは、どこの山を登れますか?」

 耳をピンと立ててカフェが尋ねる。

 緑川は一呼吸を置いたのち、まっすぐふたりを見つめながら口を開いた。

「成功すれば、ウマ娘において世界初となる挑戦です。日本のウマ娘が、世界の頂点を獲る姿を、わたしは見たい。レースだけではない、あらゆるジャンルにおいて、日本のウマ娘が世界の強豪に並び立ち、飛び越える姿を見たい。あなたたちに挑んでもらうのは、有史以来、ウマ娘未踏の地。この世界の、最も高い場所」

 エヴェレスト8849m。その頂点を踏んでもらいます。

 緑川の言葉が、夏野の頭蓋内でこだました。

 

 




折り返し地点に来ました。あと6話、頑張ります。えい、えい、むん!



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第7話  死の領域

ウマ娘スラング


『いける!』
 思惑通りレースが進み、勝てそうなときに出る内心の呟き。

『むりー!』
 思惑が覆され、もはや勝つのは不可能と悟ったときの悲しき独白。

『ぶっつぶす!』
 特定の相手に対し敵意を剥き出しにする、宣戦布告の言葉。

『La victoire est à moi!』
 直訳すると「勝利は私のもの!」。レース前に使用する場合は「調子に乗んな!」と意訳される。



 緑川の言葉に、しばし夏野は硬直していた。

 エヴェレスト。世界の頂点。ウマ娘未踏の地。同じ言葉が、頭のなかを堂々巡りする。モンブランの倍以上の高さ。この企画に現実味はあるのか、早くも疑念が湧き上がる。

「……番組の放送は、いつになりますか?」

 夏野が尋ねる。

「9月放送の、NUK特番です。タイトルは『プロジェクトU』。わたしが手掛けた番組のなかでも、代表作と言えるものです」

 その名前を聞いて、再度夏野は驚愕する。プロジェクトU。中学生の頃から、テレビで何度も見ていた番組だ。過去から現在に至るまで、ウマ娘の知られざる挑戦をクローズアップしたドキュメンタリー。去年は、水温4℃のベーリング海峡を泳いで横断したロシアのウマ娘の特集が組まれ、年間最高視聴率を記録した。

 年に一度の大型特番。その主役に、マンハッタンカフェが抜擢されようとしている。これはある意味、G1制覇よりも名誉なことだった。日本のウマ娘で、プロジェクトUに取り上げられたのは、たった二人しかいない。開戦の年、軍国主義に傾いていく日本の混乱期に、圧倒的な走力と信念をもって、史上初のクラシック三冠を成し遂げたセントライト。そして、戦後日本の復興の象徴として人々に希望を与えた、二人目の三冠ウマ娘・シンザン。どちらも伝説的な競走ウマ娘であり、実力、功績ともにカフェが敵う相手ではない。

 それは、カフェも理解しているようだった。金色の瞳の瞳孔が、かすかに狭まっている。わずかな表情の変化でも、夏野には分かる。これは警戒の目つきだ。

「モンブラン冬季登頂で知名度は上がりましたが、わたしはG1を三勝しただけの元競走ウマ娘です。クライマーとしてもぽっと出にすぎません。そんなわたしを抜擢したのはなぜです? 無名の新人役者を超大作映画の主役に据えるのも同じこと。あなたも、大きなリスクを背負うことになると思いますが」

 カフェが尋ねる。

 緑川は、真っ向から金色の目を見据えた。

「番組制作に携わる者は、常に一蓮托生。現場の人間に命を賭けろと言っておいて、自分はノーリスクなど示しがつかないし、そのようなプロデューサーの元では良い番組など絶対に作れない。そして、あなたを選んだのは、個人的に気に入っているからさ」

 にやりと笑う緑川。

「映画撮影のときから気づいていたよ。あなたは演じる必要のない女優だと。その心根そのものが、凡庸なる一般人の枠組から逸脱している。気高く、上品で、賢く、行動力があり、容赦がない。産まれながらの異常者、傑物だ。レース業界に収まる器ではないと思っていたが、その通りだった。ターフを走らず、山に登り、あげくの果ての電撃引退。URAのやつら、卒倒寸前だったに違いない」

 心底楽しそうに笑う緑川。やけに獰猛な笑みだった。

「なるほど。わたしは、競走ウマ娘の枠をぶっ壊して世界に飛び出す鉄砲玉なのですね。すなわち、あなたの目的は、わたしという弾丸を使って、この国におけるURAのレース一極支配を打破すること。URAがお嫌いですか。あなたも」

 同じく口角をつりあげ、カフェは言った。

「URAは変わってしまった」

 一転して、すこし寂しそうに緑川は呟く。

「ウマ娘の身体能力を戦争のために搾取された怒り、やるせなさ、それらを胸に戦後の焼け野原から立ち上がった組織だった。団結し、人脈を練り上げ、政治を動かし、二度と愚かな人間をウマ娘の力に触れさせぬよう、レース制度を作り上げた。しかし70年の歳月のうちに理念は風化して、URAはウマ娘ではなくレースを守る組織に変質した。ウマ娘が生み出す巨額の業界益を守る組織に。雲の上で安田と有馬も泣いているだろうよ」

 緑川の双眸に、暗い炎が灯る。

 彼女も、かつては競走ウマ娘だった。しかしレース至上主義、敗者切り捨ての学園風土に嫌気がさして引退。ウマ娘であることを辞め、戸籍と名前を得て、人間として生きていくことを選んだ。レース関係の仕事にはつかず、ウマ娘文化発展に広く寄与することを社則に掲げるNUKに入社した。

「レースの軛を断ち切り、世界に羽ばたいていく日本のウマ娘。この国のウマ娘は、もはやレース全体主義の奴隷ではないことを、日本中、世界中に知らしめたい! その先駆者は、マンハッタンカフェ、きみこそ相応しい」

 情熱的に、断固たる意志をこめて、緑川は言った。

 カフェの瞳孔が緩む。もう説明は要らないようだった。

「オファーを受けるにあたり、ふたつ条件があります」

 穏やかな声でカフェは言った。

「隊に夏野さんを加えること。彼女はマネージャーではありません。わたしのザイルパートナーです。体調が許せば、山頂アタックにも同行してもらいます」

「構わないよ。ふたつ目は?」

 即答する緑川。やや面くらったように一呼吸おいて、カフェは口を開く。

「隊の名前を、わたしが決めたい。URAからは反感を買うかもしれませんが」

「聞かせてもらえるかな?」

 むしろ、笑みを深くしながら緑川は言った。

「ウマ娘による史上初のエヴェレスト登頂を成し遂げる隊の名は、チーム・シェアト。夏野さんがわたしにくれた、初めての贈り物。わたしの誇りです」

 カフェは言った。

 その隣で、夏野は泣きそうになるのを必死にこらえた。

 シェアト。神話に登場する翼をもったウマ娘、ペガサス。その名を冠する星座に連なった、赤く輝く星。3月5日に産まれた、マンハッタンカフェの誕生星だ。初めての担当ウマ娘であるカフェを想ってつけた名前を、カフェもまた大切にしてくれている。それが分かっただけで報われた。

 トレーナーとしての自分に、もう思い残すことはなかった。

「URAを捨てたチームが世界の頂点を獲る、か。素晴らしい!」

 カフェの案に、緑川は破顔した。

 その後、秘書らしき女性が運んできたお茶を口にする暇もなく、緑川から今後の日程について説明を受ける。

 撮影は、日本でのアイスクライミング訓練から始めるとのことだ。その後、すぐにネパールに入り、約2カ月間で高地順応から山頂アタックまで全て行う。順調に進めば、5月中旬には登頂できるプランだった。ルートは、ネパール側から入る南東稜ルート。すなわち、もっとも登頂率が高く、知名度のあるノーマルルートだ。このルートは、半世紀のうちに多くの登頂成功者によってノウハウが確立されており、危険地帯に関する情報も充実している。難所には、あらかじめ固定ロープが張られ、クレバスには梯子をかけることもできる。

 逆に言えば、そこまで徹底的に難易度を下げなければ辿り着くことさえできないのが、8000mを超える世界だった。

 緑川のプランに、カフェは不満を示さなかった。今回の目的は、あくまで登頂すること。物資を整え、人材を選び抜き、安全なルートを使い、酸素ボンベを大量に消費してでも、てっぺんさえ踏めば勝利だ。世界の頂点相手に、手段を選ぶ余裕はない。

「まずは、国内でのアイスクライミングですね。夏野さん、よろしくお願いします。わたしが必ず、世界の頂点まで導いてみせますよ」

 いまだ話のスケールに思考が追いつかない夏野へと、カフェは容赦なく宣言した。

 

 

 撮影は、アイスクライミング訓練から始まった。

 合宿場所は、長野県から山梨県にまたがる八ヶ岳連山だった。ベースからアクセスしやすく、岩壁や雪稜、氷瀑など、目的に合わせて多様なクライミングができる。冬壁登攀の入門にはぴったりのロケ地だった。

 チーム・シェアトの実質的なリーダーとなる登山家と、ここで顔合わせの予定だった。

 カフェにとって、ブランハンニバルに次ぐ二人目の師(メンター)だ。

 その人物は、柔和な笑顔でふたりと握手を交わす。すでにカメラは回っており、カフェは女優の顔で出迎える。

 貫谷久雄。短く刈り上げた髪が、日焼けした精悍な顔によく似合う。身長は180センチ近いが威圧感はなく、むしろ穏健な印象の人物だった。現役のプロ登山ガイドであることは緑川から聞いている。大学在学中にアコンカグア単独登頂に成功し、エヴェレストにもネパール側ノーマルルートから四回、チベット側ノーマルルートから二回の登頂成功歴を持つ。60歳手前だが体力、技術ともに衰えは微塵もない。NUKが用意できる最高の助っ人だった。

 拠点となる赤岳鉱泉に着いて早々、アイスキャンディーと呼ばれる高さ12mほどの人工氷壁を登攀することになった。ツェルマットで本格的なアイスクライミングの手ほどきを受けた事実は公表されていない。よって、カフェと夏野は、基礎的な技術のみを持つ素人を演じなければならない。

 過酷な冬のブライトホルンで、葦毛の怪物にしごき抜かれたふたりにとって、12m程度の素直な氷壁など楽勝だった。あえて登攀スピードを遅くして、苦労しながら慎重に登っているふうな画をつくる。

 撮影スタッフは固唾を飲んで、前代未聞の登るウマ娘の背中を見守っている。

 しかし貫谷は、小首をかしげながら、氷壁の根元でビレイする夏野に近づいた。

「もしかして、アイスの経験、かなりあります?」

 小声で貫谷が尋ねる。夏野は、驚きを顔に出さないだけで精一杯だった。

「……なぜです?」

 懸命にビレイするふりをしながら、夏野が尋ねる。

「道具が、特殊でしたから。アイスピッケルとアイスバイルは、ふつうバイルのほうが、柄が短いんですよ。けど、カフェさんのは、どちらも同じ長さに揃えてある。何百メートルもある氷壁を登るときは、柄の長さがバラバラだと扱いにくいので、統一するんですよね」

 あなたのも、そうですよねと貫谷は指摘した。

 モーションではなく、装備品で見抜かれてしまった。やはりプロの登山家は目の付け所が違う。夏野は観念して、モンブラン登頂前にアイスクライミングの訓練を受けたことを明かした。貫谷は納得した顔で、「内緒にしておきますよ」と言ってくれた。

 その代わり、訓練内容が、当初よりも大幅に厳しく修正された。撮影隊が向かったのは、大同心大滝と呼ばれる高さ20mの氷瀑だ。真っ白なビロードを崖から垂らしたような、美しい氷の滝だった。そこを一気に登るよう指示される。強い西風に煽られるものの、氷の状態はよかった。得意のNスタイルでするする登っていくカフェに、貫谷は両脚を平行に揃えてから、ピッケルとバイルを打ち込むようにアドバイスする。ネパール側ノーマルルートは、登頂数、登頂率ともに最も高いルートだが、最初の難関として立ちはだかるのが、標高5500mから6100mにかけての、クーンブ・アイスフォールである。約600mにわたり、断続的にそびえたつ氷塊を登り切るには、スタミナ消耗をいかに防ぐかが重要だった。もちろん、カフェのように短時間で素早く登ることがベストだが、気候変化の激しいヒマラヤでは、登攀中に何が起こるか分からない。もし近くで雪崩が起きたら、氷壁にへばりついたまま長時間動けなくなる可能性もある。スタミナ消費を抑える登り方に慣れておくべき、というのが貫谷の持論だった。

 同じクライマーでも、登山に対するスタイルや思想哲学は、それぞれ全く異なる。ブランハンニバルは攻めの登山家であり、リスクの高さと引き換えの栄誉を求める。それとは正反対に、貫谷は堅実の登山家だった。『初登』や『セブンサミッター』などの称号には興味はなく、自分が登る価値のある山だと思えば登る。ただし、徹底的な情報収集と、安全対策のうえで。生きて帰ることこそ、登山における彼の至上命題だった。

 師になったのが貫谷で良かった、と夏野は心底思う。カフェは、ハンニバルに対してライバル意識を抱いている。彼女の背中を追いかければ、確実に死のリスクは上昇する。万が一を防ぐためのセーフティネットになってくれることを、新たな師に望んでいた。

 

 4月3日。夏野とカフェは、成田空港のロビーにて、カトマンズ直行便を待っていた。カメラマンやディレクターなど番組関係者が7名、貫谷を筆頭にガイド登山家が4名、そして認定山岳医1名からなる、総勢14名の集団は、空港の一角で異様なオーラを放っていた。

「やあやあ、カフェ! 見送りにきてあげたよ」

 椅子に座っていたカフェに、背後からばさりと抱きつく人影。振り向かなくても声で分かる。元同僚の担当ウマ娘、アグネスタキオンだ。

「結構です」

 鬱陶しそうに腕を払いのけるが、ほんの少しだけ頬が緩んでいるカフェ。

 タキオンがいるということは、彼女のトレーナーも同伴しているはずだ。慌てて立ち上がる夏野の前には、すでに目当ての人物がいた。

「行くんだな」

 広田翔は言った。少し悲しそうな光を目に宿して、厳しい顔で夏野を見つめていた。

「必ず、世界の頂点を踏んでくるよ」

 笑顔を振り絞る。不安を悟られないように、余計な罪悪感を抱かせないように。愛する男は、これからもウマ娘と共に、トレーナーとして生きていく。

 これが今生の別れとなっても構わない。

「出発前に、どうしてもおまえに言いたいことがあるんだ」

 その言葉に、夏野の肩がびくりと震える。

「結果的におまえは、別の道を生きていくことになった。だからといって、俺の言葉は変わらない。『たとえおまえがトレーナーを辞めたとしても、俺はおまえから離れるつもりなんてない』。今日は、この言葉が嘘じゃないことを証明しに来た」

 広田は、上着のポケットから手のひらサイズの箱を取り出す。それを夏野の目の前で開いた。

 白銀に輝く金属の輪。その物体の意味が分かるまで、夏野は数秒の時間を要した。

「俺と、結婚してくれ」

 厳かに、静かな声で広田は言った。

 こんな気持ちになったことが、かつてあっただろうか。身体が熱い。燃えるような歓喜と、胸を締めつける切なさが、溢れ出して止まらない。トレーナーになれた日よりも、カフェがG1で初勝利をあげた瞬間よりも、ただひたすらに幸福だった。

「はい」

 涙をぬぐおうともせず、声の震えるままに夏野は答える。

 周囲から歓声があがった。貫谷をはじめ、スタッフ全員が拍手をしたり、指笛を鳴らしたりしている。ちゃっかりカメラまで回っていた。

「この指輪は、おまえが帰ってきたとき、指に嵌めてやる。今からつけていたら登山の妨げになるだろう。だから、必ず、生きて帰ってこい」

広田は指輪をポケットに戻し、そう言った。

「分かった。当たり前だけど、死ぬつもりなんてないから。絶対にやり遂げてやる。カフェと一緒に」

 決意のこもる瞳に、もう涙はない。覚悟を見せた男と、拳をぶつけあった。

 歓喜の渦中にあるふたりを、少し離れたところからマンハッタンカフェは見つめていた。

 プロポーズの最中、広田はカフェに一瞥もくれなかった。これはふたりだけの問題であると言わんばかりに。

「カフェ。この戦いに、きみの勝機は無いのかもしれない。でも、負けないことはできる。きみが生きている限り、挑み続ける限り、彼女はきみの隣にいるだろう。きみの敗北とは、死だ。きみは死んだら負けだ。よく覚えておきたまえ」

 立ち尽くすカフェのとなりで、アグネスタキオンがそっと囁く。

 カフェは何も言わなかった。嫉妬も怒りもなく、澄んだ湖面のような瞳で、幸せそうな自らの元トレーナーを見つめていた。

 

 

 登山が始まるまでは、ひたすら慌ただしい日程だった。

 首都カトマンズから軍用ヘリをチャーターし、ヒマラヤ山脈のふもとのルクラまで移動する。辺境の街としては珍しく、空港が整備されている。しかし、上空からの見た目は、滑走路というよりは短く寸断された二車線道路みたいだった。そこからは全て徒歩行軍となる。ヤクに機材や荷物を背負わせ、二日かけてナムチェバザールまで移動する。標高3440mにあるこの村は、シェルパ族の故郷として有名だった。棚田の上に家が並んでいるような町並みには、世界各地から集まってきた登山家が行き交い、さながらシルクロードのような異国情緒で溢れている。

 そこで、はじめてチーム・シェアトのメンバーが揃った。

 日本人利用者の多い旅行代理店、コズミックトレイル社が用意した現地シェルパ13名と、コック2名、キッチンスタッフ4名の、計19名。

 総勢30名の大部隊が、チーム・シェアトの全貌だった。

 一晩の交流会を経て、隊はいよいよヒマラヤ山脈に踏み入る。青空を突き破らんばかりに聳え立つ、世界の頂点がくっきり見える。ただし、いきなりエヴェレストに登るのではなく、高地順応を兼ねた肩慣らしとして、隣のロブチェピークの山頂を目指す。ベースキャンプ地で、すでに標高は5000mもある。夏野とカフェにとっては未知の高度だ。しかし春の登山シーズンであり、勾配もそこまできつくないため、余力を残して登ることができた。高山病の症状も、今のところ出ていない。

 しかし、順調なのは昼間だけだった。カフェとふたり、テントの中で身を寄せ合い眠る夏野だったが、異様な寝苦しさに何度も目が覚める。寝袋に入ってから、まだ一時間も経っていないというのに。パルスオキシメーターを指に挟んでみると、血中酸素濃度はたった76%しかなかった。下界ならば、90%を切れば呼吸不全扱いである。睡眠時は呼吸が浅くなるため、どうしてもSPO₂が低下する。高地では、その苦境に身体を慣らすしかない。睡眠時に酸素を使えるのは、エヴェレストのキャンプ3(7300m)より上だけだ。

 こんなところで音をあげていたら、とても8000mの世界では生き残れない。

「眠れませんか?」

 小声でカフェが尋ねる。起こしてしまったらしい。

「ごめん。息苦しくて……」

 答えようとして、盛大にせき込む。空気が喉に痛い。テントの中でも、夜になれば氷点下まで冷え込む。

 夏野は再び横になる。眠れなくても、身体を休ませなければならない。明日は、さらに200m登って一泊し、天候が許せば、明後日には山頂アタックが開始される。

「ちょっと待っててください」

 寝袋からはい出し、ヘッドランプの明かりを頼りにガスコンロで湯をわかすカフェ。気圧が下がれば、水の沸点も低くなる。ここでは、85℃でお湯が沸く。そこに、スポーツドリンクの粉末を溶かす。

「飲めますか?」

 耐熱カップに爽やかな香りの湯を注ぎ、夏野に差し出す。さらに、水色のピルケースから半分に割った錠剤を取り出した。ダイアモックスという、本来はめまいの治療に用いられる薬だが、呼吸量を上昇させる効果があり、睡眠時の酸素欠乏を軽減させることができる。出所は、たぶんアグネスタキオンだろう。

 夏野は錠剤を口に含み、熱いスポーツドリンクで飲み下した。胃の中に温かさが灯り、すこし気分が楽になる。

「ゆっくり慣らしていきましょう。体調に異変があれば、すぐに教えてくださいね」

 そう言って、カップに残った液体を飲み下し、ふたたび横になるカフェ。

「ありがとう」

 夏野は言った。それきりテント内は静かになる。空港での一幕を見ていたにも関わらず、異様に彼女は大人しかった。しかし、その内面を推察できるほど夏野の心身に余裕はなかった。

 翌朝7時から、200mだけ高度を上げて、キャンプ2を設営する。高山病の進行具合を見るためだ。一日目は、1000m登ってもまだ余裕があったのに、今日はたった200mだけで疲労困憊した。出発前にトレーニングを積んできた撮影スタッフでさえ、テントの外で人目も憚らず嘔吐している。夏野も、食欲を失っていた。そんな彼女に気を利かせてくれたのは、コズミック社が雇ったシェルパ族出身の青年、バルテンだった。彼はコックとして、隊員に日々の食事を用意している。バルテンは、野菜を醤油味で煮て、あたかもすき焼きのような味を演出した。ネパールでの食事といえば、炊いた米飯とダルスープと野菜を混ぜた、ダルバートが基本だ。日本風の味を作ってくれた心優しい青年に感謝し、夏野はなんとかキャンプ2での一晩を乗り切った。

 5200mで高山病の洗礼を受けたあとは、山頂を目指すだけだ。幸い好天であり、固定ロープを伝って、日本のスタッフ全員が山頂を踏むことができた。その後、ベースキャンプまで戻って一泊し、三日かけて、ヒマラヤ山脈本丸の足元まで移動を開始する。

 エヴェレスト・ベースキャンプは、標高5350m地点にある。その光景に、夏野は少し驚いた。まるで低山のキャンプ場みたいに、色とりどりのテントがずらりと並んでいる。

「今年は気候いいですから、公募隊も多いみたいですね」

 居住用のテントを設営しながら、貫谷が言った。

 公募隊とは、登山ツアーの一形態である。希望者を募って隊を組み、シェルパの万全なサポートのもと山頂を目指す。つまり、金さえ払えば、誰でもエヴェレストに登頂できるのだ。登山用具の進化と、先人たちの知恵の蓄積により、ネパール側ノーマルルートは、半ば観光資源と化していた。

 ベースキャンプでは、三日間滞在する。過酷なアイスフォール帯に突入する前に、基礎的な順応を確実にしておくためだ。その間、各々は装備の点検をしたり、機材の準備をしたり、自由に過ごす。登山の荷物は軽くするのが鉄則だが、カフェは日本から一冊の本を持ち込んでいた。キャンプ地では、食事以外の娯楽がとにかく少ない。撮影も一段落つき、カフェは手持無沙汰な時間を、ほぼ読書に充てていた。

 『サウスポール・ヒーロー』。

 直訳すると、南極点の英雄。イギリスで出版された冒険記だ。

「興味ありますか?」

 視線に気づいたカフェが夏野に尋ねる。

「わたしの人生のバイブルです。幼い頃から何度も読んでいます。よろしければ夏野さんもどうぞ。わたしは少し、外で身体を動かしてきます」

 カフェは本を手渡す。もともと青白い顔に日焼け止めを塗り、テントの外に出ていった。

 彼女がそこまで入れ込む話とはどんなものか、夏野は興味本位でページをめくる。それは、世界初の南極点到達を争う、イギリスとノルウェーの冒険家の物語だった。この本はイギリス側の視点から描かれている。

 南極点を目指した、イギリス海軍軍人のスコット。彼の隊には、ひとりのウマ娘が参加していた。当時、ウマ娘にはレースを走ることだけが求められていた。しかし、彼女は破天荒かつ不真面目な性格であり、まともに走ろうとしなかった。どこか日本のゴールドシップを思わせる。彼女はトレセンから脱走し、父親の友人であったスコットに冒険に同伴させてくれと頼み込んだ。競走ウマ娘としては役に立たないが、その膂力と異常な頑固さを見込まれ、隊の一員に加わることができた。しかし、南極点に先んじて到達したのは、ノルウェーのアムンセン隊だった。アムンセンが南極点に残した到達証明書を、スコットは持ち帰ることを決意する。ところが、帰還途中に夏季としては異例の猛吹雪に襲われ、10日間ものビバークを強いられる。食料は尽き、栄養不足や凍傷で隊員が次々と死亡していく中、そのウマ娘は自らの防寒着をスコットに与え、食料がデポしてある地点まで彼を支えて吹雪のなかを踏破した。重度の凍傷を負いながらも、彼女とスコットは生還する。命を賭けて、正々堂々アムンセンの勝利を証明したふたりを、イギリス中が称賛した。

 夏野は、本を閉じて表紙を見返す。屈強な男を支え、前だけを見て歩くウマ娘。タイトルの『ヒーロー』とは、スコットではなく、彼女のことであると夏野は気づく。

 イギリスのウマ娘史には、英雄がふたりいる。ひとりはレースの神と呼ばれたエクリプス。もうひとりが、ウマ娘史上初めて南極点に到達した彼女だった。日本ではエクリプスばかり有名だが、カフェはおそらく、ウマ娘の常識を打ち破った彼女のほうに惹かれているのだろう。彼女を皮切りに、ヨーロッパ方面でのウマ娘の職業自由化が進み、人間に対して身体機能の優越を発揮する軍隊や警察にも門戸が開かれるようになった。

 戦争にウマ娘が加わったのは連合国も日本も同じだが、自らの意志で戦いに参加した連合国のウマ娘と、お上の命令で戦わされた日本のウマ娘とでは、その在り方が全く異なる。戦後70年経った今でも、レース先進国の日本は、ウマ娘後進国だった。

 カフェは、いったい何歳のときに、この事実に気づいたのだろうか。

 

 4月21日。ベースキャンプから上に拠点をつくるときが来た。外国隊と情報共有していた貫谷によれば、今のところ大規模な雪崩や事故による死者は出ていないという。

 準備を進めるチーム・シェアトの隣で、にわかに歓声があがった。無酸素登頂に挑むというフランス隊だった。

 彼らがもたらしたニュースに、夏野は戦慄する。

 カラコルム山脈にあるブロードピークに、ウマ娘5名から成るブランハンニバル隊が登頂成功したらしい。標高は8047m。八千メートル峰十四座にウマ娘だけで登頂を果たしたのは、むろん世界初である。しかし、それよりも恐ろしいのは、ブランハンニバル本人は酸素を使わなかったということだ。

 No oxygen. フランス隊から聞こえたこの言葉に、マンハッタンカフェは激しく反応した。まるでメイクデビューで負けたときのように、困惑と焦燥が綯交ぜになった瞳だ。カメラスタッフは優秀であり、カフェのその表情を、しっかり録画していた。

 午前7時10分。風も強くなく、スタッフの体調も問題なかったため、6000m地点のキャンプ1まで進むことになった。ベースキャンプとキャンプ1の間には、エヴェレスト最初の難関が立ち塞がる。落差600mにも及ぶ氷の断崖、クーンブ・アイスフォールである。雑居ビルほどもある氷塊が、その辺にゴロゴロしている。しかし、ここはあらかじめシェルパがルート工作を済ませていた。巨大なクレバスには梯子がかけられ、固定ロープで自分の身体を確保しながら、体力を温存しつつ氷壁登攀ができる。それでも、青い闇の底の見えないクレバスの上を渡り歩くとき、夏野は血の気が引いた。見渡す限り雪と氷の世界だが、クレバスを吹き抜ける風には、かすかに岩のにおいがした。数千年、あるいは数万年にわたり氷河のなかに封じ込められた太古の空気が、今、解き放たれているのだろう。

 幸い、目立ったトラブルもなく、隊はキャンプ1に到達する。

 ここからは、精神と肉体のスタミナ勝負となる。一日のうちに上げていい高度は、500mまでだ。それ以上となると、非常事態に素早く行動できる体力がなくなり、高山病のリスクも高まる。酸素濃度は、平地のわずか半分。全身の細胞がストライキを起こしているかのように、あらゆる力が失われていく。やっとの思いで次のキャンプに移動しても、一泊した翌日には、ひとつ下のキャンプに戻らなければならない。まさに三歩進んで二歩下がる地道な行程。6日間かけてやっと高度7300mのキャンプ3に到達することができる。

 さしものマンハッタンカフェも、7000mを超えるところから体調に異変をきたしはじめた。軽い頭痛から始まり、身体の倦怠感、そして食欲不振。融かしたチョコレートや、あつあつのスポーツドリンクを飲むのが関の山だ。

 夏野は、視線をはるかネパールの地平線に向けた。今いる7000m付近から、明らかに空気の色が変わっている。普段、目に見えない空気が、はっきり『層』になっていることが分かる光景だった。

 キャンプ3に着いた頃、にわかに天気が崩れ、気温は氷点下15℃まで下がる。風に雪が交じる中、急いでテントを設営する。

「各自、テント内で身体を温めてください。湯を沸かして、可能なら糖分と一緒に飲んで」

 貫谷が隊員に指示する。カフェは、すでにテントに引っ込んでしまっていた。しかし、地面は雪と氷、外は零下の寒風。最新式テントの中も極寒だ。ちょうどそのとき、カメラスタッフが撮影のためカフェのテントを訪れた。

「カフェ、出てあげて」

「嫌です。寒いです。寒くてたまらない。なんかもう、いろいろ辛いです」

 思いがけず、この登山で初めて弱音を吐くカフェ。虚ろな瞳は、くすんだ真鍮のように輝きを失っている。仕方なく、夏野がテントの外に出る。

「テント内はどうですか?」

 風に負けない大声で、山岳カメラマンが尋ねる。すると、隣のテントにいる貫谷が、手を振りながら上半身をのぞかせる。

「すごく温かいよ。極楽だよ、極楽!」

 満面の笑みで貫谷は言った。その瞬間、夏野はプロ登山家とのレベル差を思い知った。

 すると、意外にもカフェが顔を出した。入口の隙間から、文字通り顔だけをひょっこり突き出している。笑顔を振りまく貫谷を、じろりと睨んだ。

「こちとら寒くて死にそうなのに、何が極楽ですか」

 無理やり紅茶を飲まされたような渋面。そして、テントから頭だけ出したカフェの滑稽さに、夏野をはじめスタッフ一同は笑いをこらえるのに必死だった。

 食事を終えた後、テント各員に酸素ボンベが供給された。キャンプ3以上では、睡眠時に酸素を使うことが許される。よほど先天的に高度に強い体質でない限り、そのまま眠ると脳や肺に水が溜まり、最悪死亡するリスクもある。

 ところが、マンハッタンカフェは酸素使用を拒んだ。無酸素状態で、どこまで頑張れるか自分を試してみたいと言ってきかない。これにはスタッフも悩んだ。日本のウマ娘として初の試みは、番組としては使い勝手がいい。しかし、そのせいで高山病が悪化し、登頂断念となれば本末転倒だ。結局、貫谷がオーケーを出したことで、カフェの意見が通った。

 スタッフは言いくるめられていたが、夏野は薄々気づいていた。この挑戦の先に、カフェは葦毛の怪物を見据えている。ブロードピークに無酸素登頂。レースに例えるなら、まだオープン戦にも勝てていない自分の隣で、ライバルがG1制覇したようなものだ。

 好きにすればいい。酸素マスクをしっかりと装着し、夏野はシュラフ(寝袋)に潜り込む。もう自分はカフェのトレーナーではない。できるのは、死なないように隣で見守ることだけだ。

 その夜、浅い眠りの合間に、幾度となくうめき声が聞こえた。

 マンハッタンカフェは、地獄の一夜を乗り切った。ほぼ流動食となった朝食を胃に流し込み、力強く立ち上がる。

「手厚いサポートに甘えて、少し腑抜けていました。ここからは、本気の挑戦です」

 カフェは言った。瞳の色が、黄金の輝きに戻っている。

 ここからは、一日おきにキャンプをひとつ下げて、ベースキャンプまで戻る。そこから、山頂アタックの道のりが始まる。再び一日おきにキャンプをひとつあげ、7900m地点のサウスコルのキャンプ4で一泊し、世界の頂を踏む計画だった。

 しかし、ベースキャンプに戻った時点で、ある問題が発生する。それは天候不順でも、隊員の体調でもない。

 世界最高峰に、渋滞が発生していた。

 ベースキャンプでは、アタック隊に天候や日程を伝える支援隊が居残っている。そこで、各隊同士の情報交換も行われるのだが、どうやら頂上直下の危険エリアで、立ち往生している隊が多いらしい。

 ネパール側ノーマルルートの、実質的な最後の難関、ヒラリーステップ。

 魚の背びれのような、断続的な鋭い尾根。もし足を踏み外せば、2500mを一気に滑落することになる。足裏ひとつ分の距離に、常に死が真っ黒な口を開けている。

 頂上に至る、たったひとつのか細い道に、人間が鈴なりになっているのだ。カラフルな防寒着の点線が、途切れることなく稜線に連なっている。地上8000mでの渋滞。いつ天候が急変するか分からず、酸素にも限りがある状態で、しかも滑落すれば即死のナイフリッジで足止めなど身の毛がよだつ。

 ネパール側ノーマルルートは、登山用品の進化やルート整備により、ずいぶん敷居が低くなっている。そこに目をつけた各国の旅行会社は、公募隊という形で登頂希望者を集め、料金と引き換えに登頂までのサポートを行うサービスを展開し始めた。費用は、平均してひとりあたり日本円で700万円ほど。必定その中には、お粗末な会社も混じっている。金儲けのため登山の実力関係なく希望者を集め、自らの顧客を登頂させることしか考えない。そのような公募隊が、周囲との情報連携を怠り、身勝手な登山をして渋滞を発生させる。ひどい場合には、事故で顧客を死なせてしまうこともある。むろん事故死の免責事項もあわせて顧客と契約を結んでいるから、よほど悪質でない限り損害賠償を求められることはない。しかし、迷惑をこうむるのは周囲の登山隊である。

 今回もその例にもれず、レベルの低い公募隊が酸素ボンベのトラブルだとかもたついているらしい。さらに今年は気候が良く、例年よりも登山者の数が多い。膨大な費用と時間をつぎ込んでいるため、なんとしても登頂を果たしたい各隊の思惑が衝突し、ひとたびトラブルが起これば、玉突き事故のように後続の隊にも遅延が生じる。

 チーム・シェアトは、渋滞を見越して12日間の調整日を用意していた。5月下旬になると、エヴェレストも気温が上がっていく。氷雪が緩み、雪崩が多発するようになる。そのため、遅くとも5月20日までに登頂し、ベースキャンプまで戻らなければならない。

 渋滞が緩和されるまでは、好天が続くかぎりキャンプ2までの高度順化が行われた。少し焦りの色が見える制作スタッフをよそに、カフェはむしろ嬉しそうに順化トレーニングを行っていた。

 たぶん、この娘は限界まで酸素を使わないつもりだ。カフェを見ていて、夏野は直感する。

 ブランハンニバルによれば、ウマ娘が人間に対し、身体的優位を保てるのは、高度7500mまでであるらしい。ウマ娘の筋肉は、高い性能と引き換えに膨大な酸素と栄養を必要とする。人間に比べ、ウマ娘が大食いなのはそのためだ。しかし高地では、消化器官の機能低下により食事量が減り、おまけに酸素も薄いので、ウマ娘本来の膂力を発揮できなくなる。さらに8000mを超えると、燃費の悪い身体は、人間以下にまで弱体化するという。

 しかし、それらはあくまで酸素を吸わなかった場合である。十分な酸素さえ供給されたら、ウマ娘はやはり、人間よりもはるかに強力な生物だ。

 人類がどうあがいても適応できない高度8000m。何もせず留まるだけで命が削られていくデス・ゾーンだ。そんな死の領域に無酸素で挑み、生還したウマ娘が、世界にたったひとりだけ存在する。その事実が、マンハッタンカフェを駆り立てていた。

 負けてたまるか、と。

 

 5月9日から13日まで、天候が急変して吹雪が続いた。それが奇しくも、チーム・シェアトの活路を開くことになった。7500m以上での連泊は、それだけで心身の衰弱を招く。好天を狙ってアタックをかけていた公募隊が5月14日、つぎつぎに下山を始めたのだ。それと入れ替わるように、チーム・シェアトは最後のアタックを開始する。

 15日、キャンプ3から、サウスコルにあるキャンプ4に拠点を移した。キャンプ3より先は、移動中も酸素マスクを装着しなければならない。しかし、夏野の予想通り、カフェは無酸素で登った。行動食となる、蜂蜜と砂糖を固めた飴玉を口のなかで溶かしながら、カフェはサウスコルの地を踏んだ。

 見える。青天さえ突き破るかのような白い頂点が。にじり寄る生命になど見向きもせず、泰然と聳え立っている。あと千メートル足らずが、途方もなく遠い。

 いまだ無酸素を貫くマンハッタンカフェは、一睡もできなかった。隣で眠る夏野を見つめていると時間感覚がなくなる。絞られるような胃の痛みと頭痛、全身の倦怠感だけが、まだ自分は生きていると教えてくれる。

 16日、登頂アタックが始まった。ピッケルとバイルの頭を両手に持ち、柄を斜面の雪に突き刺すダガーポジションで登っていく。

 カフェは、足を一歩前に出すことだけに全身全霊をかける。隊に遅れることは許されない。壮麗なヒマラヤの景色を視界に挟む余裕はなかった。一歩ごとに、レース一回分の苦しみが濃縮されているかのようだ。思い切り力を込めているはずなのに、なぜか弱々しく動く肢体は不気味ですらあった。霧でも出ているのかと思ったら、酸欠で目が霞んでいるだけだった。それでも迷わず進めるのは、隣に彼女がいるからだ。

 夏野蘭。

「わたしのことを、全部わかってくれる人……」

 誰にも聞こえない、声にならない声でカフェは呟く。

「わかってくれた上で、思い通りになってくれない人……」

 顔を上げる。隣にいたはずの夏野の背中が、遥か前に見える。

「待ってください。わたしを置いていかないで……」

 バイルの柄に縋りつくように、ずるずると膝から崩れ落ちる。息を乱してしまった。ひたすら肺に空気を送り込むが、まるで真空にいるみたいに、吸っても吸っても苦しみが治まらない。

 ぎゅっと目を閉じる。思考を落ち着かせる。ここは陸地だ。溺れることはない。

 瞼を開くと、腕の高度計が目に入った。

 8062m。

 死の領域。

 マンハッタンカフェは、その身の命を失うことなく、デス・ゾーンに突入していた。

「いける……!」

 寒くてたまらないはずなのに、身体の芯が燃えるように熱くなる。勝ちたい。あらゆる命を拒絶する、この領域に勝利したい。視界がクリアになる。足もまだ動く。

 しかし、彼女はひとりではなかった。

 チーム・シェアトとしてエヴェレストに挑んでいる。デス・ゾーンからは、本来なら一分一秒でも早く離脱しなければならない。キャンプ4以降のアタックは、時間との勝負だ。自らの勝利欲求を優先し、隊の仲間を危険に晒すことはできない。

 師である貫谷の教えが、脳裏によみがえる。『生きて帰れなければ、登山とは呼ばない』。

 様子を見に来た貫谷に、カフェははっきり告げた。

「酸素を使います」

 その言葉で、すぐさまボンベが用意された。カフェは落ち着いてマスクを顔にあてがう。酸素ガスを口元に感じた数秒後、途方もない心地よさが肺から全身に広がっていく。荒地が一面の花畑の変わるかのような、かつて感じたことのない滋養と開放感。毛細血管が広がり、熱が流れ込み、みるみる手足に本来の力が戻ってくる。

 まさに麻薬ではないか。

 初めての酸素使用に、カフェは軽い恐怖を覚えた。

 それ以降、チーム・シェアトのスピードは格段にあがった。ヒラリーステップの直前で、無酸素登頂に挑んでいる6人組の隊を追い越した。全員から生気を感じられず、まるで亡者の群れだった。のろのろと雪面を這うように移動している。

 登山業界では、酸素ボンベのことを『神』と呼ぶらしい。ここでは神の助けがなければ、まともに動くことすらできないのだ。

 固定ロープを伝ってヒラリーステップを抜ける。このシーンは、カフェがチームの先頭を行く。その真後ろに夏野が続いた。

 午前10時46分。

 そこから上には、もう何もない。

 エヴェレスト8849m。世界の頂点を今、マンハッタンカフェの左足が踏みつける。続く貫谷も歓喜を露にしていた。二畳分ほどのスペースにスタッフが高性能カメラを構え、ヒマラヤの全貌を写し取る。

 夏野もまた、その光景に圧倒されていた。地上の全てが、自分の眼下に広がっている。ここはもう、空の中だ。肉体の辛さも未来への不安も、ここに至るまでに全て溶け落ちた。どこまでも突き抜けるような、澄んだ魂だけが、エヴェレストの頂上に辿り着いていた。

「カフェ、やったね……!」

 スタッフに背を向けて立つカフェのもとに駆け寄る。しかし、どこか様子がおかしい。彼女は空も山も見てはいなかった。視線は、自分の足元に注がれている。そこには、登頂に成功した隊が残した国旗や記念品が積みあがっている。

 そのなかに、カフェが見ているものを、夏野も見出すことができた。

 金で縁取りされた、赤い十字架のモニュメント。

 それが何であるのか、夏野にもすぐに分かった。ブランハンニバル隊のシンボルだ。

「なんで、こんなものが……?」

 途方に暮れたように呟く夏野。まさか、ブロードピーク遠征中に、別動隊が登ったのだろうか。いや、ハンニバルの性格上、世界初の栄誉を他人に譲るはずがない。

 マンハッタンカフェは、静かに膝を折る。十字架の底には切り込みがあり、小さな紙片が挟まっている。風で飛ばされないよう、注意深く外して広げた。

 

 

Dear noire.

 

How was your climbing?

Take your time at the top of the world.

 

tata, BH. 5/15

 

『親愛なる黒へ。登山はどうでしたか。世界の頂点をゆっくり楽しんでください』

 

 簡潔極まるメッセージ。紙を持つカフェの両手が震えているのが、分厚い手袋越しでも分かる。手紙の日付は、5月15日。つい昨日だ。

 ありえない、と夏野は思った。ベースキャンプでも、他のキャンプ地でも、カフェ以外のウマ娘はひとりもいなかったし、本当に15日に登頂したのならヒラリーステップからサウスコルまでのルートで必ずすれ違うはずだ。

 だが、立ち上がったカフェは夏野とは真逆の方向を凝視していた。

 ネパール側ではなく、チベット側。一歩足を踏み入れたら、果てしなく転落していきそうな真っ白な雪の急斜面。彼女の視線の意味に気づいたとき、十分酸素を吸っているにも関わらず、夏野は血の気の引く思いだった。

 チベット側ルートは、ネパール側に比べて遥かに急峻であり、キャンプ地も限られているため高度順応が難しい。昨今問題になっている商業公募隊も、チベット側から攻めることは、ほぼ皆無だ。もしハンニバルが、ブロードピーク登頂後、すぐに国境を越えてチベットに移動し、そこから山頂を踏んだとしたら。9日から13日までは吹雪で身動きが取れなかったはず。チベット側北東稜のキャンプで連日ビバークできるのは7700m地点のキャンプ2だけだ。天候が回復した14日に8200mのキャンプ3へ。15日に登頂。これしか考えられない。

 五日間も、死の領域の手前で待ち続けたとしか。

「酸素を、使わなかったのですね……」

 呆然とカフェが呟く。その手のなかで、ぐしゃりと手紙が潰れる。

「そうでなければ、ゆっくり楽しめなんて書けない。あいつは、わたしが酸素を使うことを予見していた! そのうえで自分は無酸素で登ったんだ! わたしより難しいルートで、わたしより先に、『神』の助けも借りず、ウマ娘で初めてエヴェレストを制覇した!」

 怒号。あるいは慟哭か。いずれにせよ、これは敗北の叫びだ。

 時間的には、たった一日の差。しかし、内容的には完敗と言えた。

 マンハッタンカフェは、酸素マスクを引き剥がした。鬼でも登れそうにないチベット側北東稜を、煮えたぎる黄金の瞳で睨みつける。

「ぶっつぶす!」

 もはや背中も見えないライバルに、歯を剥き出して宣戦布告する。たちまち肺が苦しみで満たされ、身体中の筋肉から力が抜けていく。それでもカフェは震える脚で立ち続ける。

「カメラを、向けてください」

 突然の咆哮にぎょっとしていた周囲のスタッフに、カフェは言った。制作班のひとりが、パノラマ撮影とは別に用意していたカメラを正面に構える。

 その瞬間、カフェの顔が変わった。人格が入れ替わったかのように激情が抜け落ち、年相応の少女の顔になる。まっすぐに澄んだ瞳に揺れる、微かなやるせなさ。少し疲れたような影を、表情に帯びている。

 今、彼女は登山家から女優になっていた。

「5月16日、午前10時49分。わたしたちチーム・シェアトは、やり遂げました。世界の頂点、エヴェレストの頂上、この足で踏むことができました。ガイドの登山家の皆さま、番組関係者のみなさま、そしてアタック隊をずっと支えてくれたシェルパの皆さま、本当にありがとうございます。ここで歓喜の声をあげたいのですが、そうもいかなくなってしまいました」

 少し声を詰まらせる。これも演技だと、夏野には分かる。

「世界初となる、ウマ娘によるエヴェレスト制覇。これが、チーム・シェアトの目標でした。わたしは、みんなに支えられて、確かにエヴェレストに登頂できました。しかし、それはもう世界初ではありませんでした」

 黄金の瞳が揺らいだ。そして、幾筋もの涙が、はらはらと頬を伝い始める。

「……フランスのウマ娘、ブランハンニバルが、15日、エヴェレストに登頂しました。たった一日の差です。たった一日の差で、わたしたちは敗れました」

 涙が、あとからあとから凍っていく。白く美しい結晶となって眼窩の縁に煌めく。

「わたしの夢は、日本のウマ娘の夢は、またしてもフランスの王者に奪われました。レースだけではなく、登山でも、日本はフランスに負けたのです。くやしい、くやしい、くやしい、くやしい!」

 ぐしゃぐしゃに歪む顔を俯ける。もう女優がしていい表情ではない。恥も外聞もなく、敗北の悔しさを全面に曝け出す。酸欠で息が詰まろうが、咳が混じろうが、言葉を止めない。

 カフェは再び顔を上げた。猛禽のような黄金の瞳が、まっすぐカメラレンズを射抜く。

「お願いです。わたしを、勝たせてください。日本を、フランスに、世界に勝たせてください! 凱旋門でも、エヴェレストでも、わたしを、日本の夢を、敗北者のまま終わらせないでください! わたしは屈腱炎を発症し、死ぬまでターフを走れません。それでも、このまま朽ちていきたくなかった。挑戦することを諦めたくはなかった。だから、エヴェレストに登りました。しかし、待っていたのは、やはり敗北でした。このまま終わりたくない。打ち負かされたまま、終わりたくはないんです。だから、どうか、どうか、お願いします」

 わたしを、勝たせてください。

 マンハッタンカフェの独白は終わった。

 三分にも満たない時間、誰ひとり彼女から目を離せなかった。これから始まる下山のことも忘れ、ただ彼女の言葉に聞き入っていた。そして、胸に灯った感情の火に気づかされる。

 勝たせてやりたい。レースから引退した、もう一生走れないウマ娘を応援してやりたい。この刹那だけは、全員がそういう気分になっていた。

 ただひとり、夏野を除いて。

 全部演技だ。涙も、歪む顔も、苦しそうな呼吸と咳も、魂の叫びとしか思えない言葉も、何もかも計算の産物。地上最高点における、マンハッタンカフェ劇場だ。

 的確な言葉選びだ。自分の夢を、日本全体の夢にすり替えようとしている。凱旋門賞でもフランスに負けっぱなしという、本来登山とは無関係のコンプレックスまで煽って。後に番組が放送され、ラストでカフェの言葉を聞いた視聴者は、まんまと心動かされるに違いない。

 下山体勢になったカフェを、ふたたび夏野は注視する。

 金の瞳の奥底には終始、暗く冷たい理性の炎が揺れていた。

 彼女は、次の戦いを見据えている。次の勝利を。生きる悦びを。死の領域に揉まれた精神は、ブランハンニバルと双璧をなす怪物に昇華されていた。生きることは登ることであり、その他一切は利用すべき道具にすぎない。本気でそう思っているのではないかと、ヒラリーステップを下りながら、夏野はふと考えてしまった。

 もうトレーナーではない自分が、これからマンハッタンカフェの何に成り得るのだろうか。ベースキャンプに降り、日本に帰国しても、その疑問に答えが出ることはなかった。

 




登山過程を文章化したら、かなり長くなってしまいました。

次回、さらなる地獄へ。


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第8話  バディ

夜明け前が、いちばん暗い。


 ある登山家の日誌

 

 

5月12日

 吹雪がおさまらない。

 ノースコルのC1から、一日で700mも高度を上げなければならなかった。C2は7700m地点。長期の滞在で心身が疲弊していく。仲間の酸素ボンベの残量を見ても、あと三日が限界だ。

 チベット側北東稜は過酷だ。しかし、限られた人員、限られた食料と酸素でエヴェレストを制するには、このルートしかない。ネパール側ルートは混雑する。我々のような少数パーティーにとって、渋滞に巻き込まれることは死を意味する。

 わたしは、もう独りでは登れない。アイガー北壁で悟ったことだ。生還できたのは、幸運としか言いようがない。わたしは、世間が言うような不死身などでは決してない。ウマ娘としての肉体のピークはとうに過ぎ、あとは衰える一方だ。ゆえにマッターホルン以降はチーム戦を挑んできた。単独行よりも、ずっと辛い登山だった。自らの野心のために、他者の命を賭けねばならぬ矛盾と恐怖、そして重圧。

 それでも、わたしは登りたい。

 そして、こんなエゴイストについてきてくれる者がいる。

 前哨戦のブロードピーク、そして今回のエヴェレスト。わたしだけは無酸素で登りたいなどという、無茶な希望につきあってくれた四人の仲間。なんと得難き幸福だろうか。彼女たちを、わたしの元にお導きくださった神に感謝する。

 わたしの命が奪われようとも、彼女たちだけは生きて地上に帰れますよう。

 

 

5月13日

 天気は回復するどころか悪化している。切り出した氷のブロックで守ってはいるが、風圧でテントは押しつぶされ、支柱を何度も打ち直さなければならなかった。

 アナイスに喘鳴の症状が現れる。肺浮腫だ。まだ重篤ではないが、悪化すれば下山もままならなくなる。アタックするにしろ撤退するにしろ、吹雪が終わらなければ身動き取れない。

 わたしは隊長だ。いついかなるときも毅然とふるまい、不敵に笑っていなければならない。アナイスにはアタック隊から外れてもらった。わたしの分の非常用酸素ボンベを彼女に与える。別にかまわない。無酸素登頂の途中でボンベに縋りつき、隊員を死なせたとあっては、もうわたしに生きる価値はない。

 

 

5月14日

 灰色の分厚い雲が、山頂に切り裂かれながら流れ去っていった。

 吹雪が止んだ。しかし、頂に続くルートは積雪で覆われている。ラッセルがうまくいかず、酸素の残量が足りなくなれば、撤退するしかない。アナイスの脱落はかなりの痛手だ。四人だけで道を切り拓けるだろうか。生命の存在を許さぬデス・ゾーンで。

 ネガティブなことを考えていいのは、この紙面の上だけだ。必ず成功すると、隊員には笑顔で語り続けるのみ。だから、彼女たちの前で、ちょっとした細工を用意してみる。ブライトホルンで苦楽を共にした、日本のウマ娘へのメッセージカードだ。

 今シーズンか、来年か。遅かれ早かれ、彼女は到達するだろう。人間と一緒に登るのだから酸素も使うはずだ。それではいけない。劣等種とタッグを組んだところで、能力を無駄にするだけだ。まあ、全てはわたしの予想でしかない。あの狼の目をした少女は、とうに人間など見限って、我々より早く世界の頂点を獲っているかもしれない。それならそれで嬉しいことだ。

 仲間と語り、笑い合えば、気分も少しは晴れてくる。

 明日、早朝に出発する。

 神よ、我が隊を守りたまえ。

 

 

5月15日

 勝った。

 わたしは、わたしたちは世界の頂点をこの足の下に踏んだ。

 アナイスの体調も回復しつつある。下山の準備も万全だ。

 どうか天候が急変しませんよう、雪崩が起きませんよう、神に祈り続ける。地上に戻り、メディアの前に立ち、豪快不遜な勝利宣言を世界に向かって放つまでは、わたしは臆病で敬虔な登山家だ。

 

 

 

 

 

 

 6月。渋谷のNUK本社ビルにて編集会議が行われていた。巨額の費用を投じて成し遂げた、マンハッタンカフェのエヴェレスト登頂。その価値を再定義するためだった。

 5月18日に、ブランハンニバルのエヴェレスト登頂成功が世界中に報じられた。ウマ娘史上初であり、しかも無酸素。意外にもNUKは、このニュースを大々的に取り扱った。ふつうに考えれば、カフェの功績を霞ませる自殺行為だが、特番責任者である緑川はやて常任理事には、まったく別の思惑があった。

 もしあのとき、ハンニバルの初登に気づかず下山していたら、このプロジェクトは水泡に帰していただろう。日本のウマ娘が世界初を獲るという目的は完全に潰えたのだから。そうならなかったのは、ラストシーンのおかげだった。死の領域の最果てで酸素マスクもつけずに行われた、マンハッタンカフェ渾身の演説。凍りつく涙と壮絶な表情は、見る者の心を画面越しに揺さぶる力がある。

「素晴らしい泣き落としだ」

 緑川は言った。夏野と同じく、彼女もこれが演技であることを見抜いていた。

「これを見た人間は、ころっと騙されるだろうよ。日本人は判官贔屓だからね。ブランハンニバルに強い憎悪を抱く反動で、マンハッタンカフェ個人の活動を応援するようになる。それを狙っていたのだろう? 最後の最後でわたしの番組を丸ごと乗っ取って、自分の宣伝に利用したわけだ。さすが女優、転んでもただでは起きないね」

「別にいいじゃないですか。わたしのおかげでこの番組は肩透かしの敗北ドキュメンタリーではなく、次なる挑戦を促す起爆剤としての存在意義を得たのですから。互いにメリットはあるはずですよ」

「それくらいやってもらわなきゃ、4億もの予算をつけた意味がない」

 互いに微笑みあうカフェと緑川。怪物たちが牽制し合っているようにしか見えない光景に、夏野は背筋が寒くなった。

「ひとつ解せないのは、なぜフランスの葦毛ちゃんは、こんなメッセージを残したのかってことだね。どう考えても、きみを利する結果しか生まないというのに。敵に塩を送るのが趣味の篤志家なのか、ただのバカなのか」

 首をひねる緑川。

「出会った頃から、彼女は計り知れない存在でした。登山界では無名だったわたしの願いを受け入れ、懇切丁寧な登攀指導をしてくれたと思ったら、一転して敵対するような行動も取る。同じ登山家として、ちょっとだけ分かる気もしますが」

 孤独は、つらいですからね。

 語尾の小さな呟きは、夏野にしか聞こえなかった。

「まあいいさ。フランス娘の心裏など、我々にはどうでもいいことだ。それより、見たまえ。このシーン。傑作じゃないか」

 緑川が、巨大スクリーンの画像を切り替える。

 そこには、標高7300mのキャンプ3の様子が映されていた。テントの隙間からひょっこり顔だけを出し、貫谷を睨むマンハッタンカフェ。冷蔵庫より寒いテント内で『極楽だよ!』と笑う貫谷に、『何が極楽ですか』と辛辣にもカフェが言い放っている。

「テントから顔を出すマンハッタン嬢のぬいぐるみを売り出そうと思っている。商品名は『極楽カフェ』。表情の変化をつければ、シリーズ化できる。どうだい、グッズ展開の良いアイデアだろう?」

 冗談なのか本気なのか分からない緑川の提案で、会議室内に笑いが起こる。

 あのときと同じ、苦りきった表情のカフェ。しかし文句は言わない。本当にグッズ化されたらロイヤリティが見込めるうえに、自身の良いPRになるからだ。相変わらず、現実的で合理的な判断だった。

 

 

 撮影に二カ月を要した大作『プロジェクトU ターフを去った挑戦者・摩天楼の夢』は、予定通り9月に放送されることになった。夏野はひとまず胸をなでおろす。山頂でのカフェの機転がなければ、容赦なくお蔵入りにされていたはずだ。そんなことになれば、カフェの今後の活動も狭まってしまう。

 しかし当のカフェは、あまり喜んでいる様子はなかった。むしろ、低地での平穏な生活を厭うかのように、日々トレーニングに明け暮れた。意図的に低酸素状態を作り出せる特殊なマスクを眠るときも外そうとしない。それ以外の時間は、谷川岳など近くて良い山に足を運び、実践的な自らのクライミングやテント設営を撮影して動画にまとめ、Utubeのチャンネル『アルペンカフェ』に投稿していた。もはや趣味の範疇を超えた、元G1ウマ娘の登山活動は、若者を中心に少しずつ衆目を集めていった。

 トレーニングは共にしていたものの、撮影に夏野が同行することはなかった。ザイルパートナーが必要なレベルではないと、珍しくカフェのほうから断ってきた。

 カフェが家を空ける日が増えていく。その間、夏野は結婚に向けた準備を進めていた。荷物は極力そぎ落としてから、広田との同棲に臨むつもりだった。カフェは予想通り、独り暮らしを望んだ。ふたりの新婚生活を邪魔するつもりはない、と口では言うものの、内心不服なのは見え透いている。夏野が保証人になることで話はまとまり、この件をカフェが蒸し返すことはなかった。

 後には引けない。これは自分自身が決めたことだ。左手薬指に光るプラチナの指輪を見つめながら、夏野は心を引き締める。

 やるべきことは山積している。6月以降はレースが本格化するため、広田は休日返上で担当ウマ娘の指導に当たっている。新居探しや結婚式の段取りなどの雑務は、自分が引き受けると伝えていた。

 いずれは、互いの実家にも挨拶に伺わなくてはならない。

 今から気が滅入る。夏野は、実家とは絶縁状態だった。大企業を辞めてトレーナーになると伝えたときは罵詈雑言が飛んできたため、それ以来会話を拒否している。モンブラン冬季登頂が報じられたときも、何度もスマホに電話がかかっていたが全て無視した。しかし、今回は自分だけの問題ではないため、会わないわけにはいかなかった。

 どうせ言われることは決まっている。定職につき、子どもを育て、幸せな家庭をつくれ。それらは自分の意思で目指すべきもので、他人に指図されることではない。

 こういう思考回路が、マンハッタンカフェと少し似ているのかもしれない。

 部屋を見渡すと、日々の生活のなかに彼女の気配を感じる。安物の食器にまじる、ドイツ老舗のカップとソーサー。水切り籠のなかで輝きを放つ、純銀製のナイフとフォーク。自分では絶対に使わないコーヒーミル。いつの間にかテーブルの上に飾られていたプリザーブドフラワー。物の数自体は少ないのに、否応なく同居人の存在を主張してくる。

 高尚で高級で非凡な同居人。

 しかし今は、彼女のことを、そう遠くには感じない。

 玄関の鍵が開く音がする。足音と荷物の摩擦音だけで、誰なのか分かる。一週間にも及ぶ撮影から、マンハッタンカフェが帰ってきた。競走ウマ娘だった頃の表面的な華やかさはすっかり剥がれ落ち、鍛え抜かれた刀身のような鋭さが剥き出しになっている。

「シャワー浴びてきますね」

 荷物を置いて早々、空気カットマスクも外さずカフェは言った。

 平地にいようと、彼女は登山家の目をしていた。

「夕食は要りません。あとでコーヒーを淹れてあげます」

 そう言って、カフェは脱衣所に消えた。撮影から帰ってきたときは長風呂だ。その間に、簡単な食事をすませる。考えてみれば、食後のコーヒータイムを共にするのは久々だった。エヴェレストから帰還した直後は胃が弱っていてカフェインなどの刺激物を摂れなかったし、それ以降も互いにずっと忙しかった。

 リビングでくつろいでいると、上下ともぴっちりした黒いスウェット姿でカフェは現れた。ブレンドされた豆の織り成す芳醇な香り。口に含んでみると、少しマイルドな舌触りだった。

 コーヒーの味は、彼女の心情を表している。これはもてなしの意味。つまり交渉の前触れだった。

「8月末から遠征に出たいと思っています」

 こちらの出方をうかがうように、ゆっくりと言葉を紡ぐカフェ。金色の瞳は、わずかな表情の変化も見逃さないよう、夏野を凝視している。ポーカーフェイスを崩さないまま夏野が場所を尋ねると、カフェは南米パタゴニアと答えた。ロッククライミングの聖地として有名な、荒地に強風吹きすさぶ地の果てだ。

「ご迷惑はおかけしません。一人で行ってきます」

 先回りして答える。

「挑戦的な登山ではありません。あくまで技術向上を目的とした遠征です。費用もすべて、わたし一人が負担します。夏野さんは今大切な時期ですから、わたしのことはお気になさらず」

 口調は冷静そのものだった。レースで負けたときのように、激情に任せて行動しているわけではない。それだけは分かる。

「今やる意味はある? 9月に特番が放送されたら、もっと多くのスポンサーが見込める。慣れない環境のせいで怪我したら、後に響くよ」

「怪我のリスクなら、学園にいた頃のほうが遥かに高かったですよ。なにせ走るだけで骨折したり死亡したりする狂気のスポーツでしたからね。あと、わたしが焦っているように見えるなら、あながち間違いじゃないかもしれません。ライバルの背は、まだ遠い」

 そう言って、カフェはカップを口に運ぶ。

「それにしては、落ち着いているように見えるけど? わたしの肩も無事だし」

 思い切って尋ねる夏野。

「あの登山は、敗北ではありません。だって、ふたりで登りきったじゃないですか。あくまで登頂することが勝利条件でしたからね。ハンニバルの登山は、レースに例えるなら、わたしが勝ったG2と同時期に開催されたG1を制したようなものです。これを敗北とは呼ばない。ただ悔しいだけです。悔しいから、わたしはじっとしていられない」

 その言葉で、夏野は納得する。登山において、直接対決が行われることは稀だ。季節やルート、スタイルなど条件には無数の差が出る。その条件がより厳しい登攀を成し遂げた者が、登山史に名を残す。

「わたしと離れ離れになっても?」

 今度は夏野が、相手の懐に駒を進めた。威力偵察。その効果は覿面だった。カフェは不愉快そうに、テーブル上の、ある一点を凝視する。

 夏野の左手薬指。その根元に燦然と輝く、プラチナのリングだ。

「はっきり言っておきますが、わたしは不満です。あんな凡百の男、あなたには相応しくない。でも、そう思っているのは世界でわたしひとりだけみたいですから、どうすることもできません。自分のなかで折り合いをつけるしかないんです。だから、そんな意地悪なこと言わないでください」

 珍しく、露骨に落ち込むカフェ。耳も垂れ下がるままになっている。

「ごめん、カフェ。わたしが悪かった」

 夏野はとっさに謝る。愚かにも、つい失念してしまうのだ。彼女が、まだ多感な年頃の少女であることを。並外れた行動力や賢さ、女優としての振る舞いに目がくらみ、彼女が理解不能な怪物のように見えてしまったら、自分はもうパートナー失格だ。

「結婚式、いつですか?」

 俯いたままカフェが尋ねる。

「9月20日の予定。できれば、カフェにも……」

「出席しますよ。登山家なので確約はできませんが」

 そう言って、カフェは顔をあげる。穏やかな微笑みに似合わず、瞳は鋭く輝いている。その強い意志が、生きて帰ってくることに向かうよう夏野は祈る。

 それ以降は、もう言葉を交わすことはなかった。

 ふたりの将来とって意味のある会話は為されないまま、8月30日にマンハッタンカフェは出発した。

 地の果てパタゴニアではなく、アジア大陸に聳え立つ世界の屋根へと。

 

 

 日本の地方空港と同等の、小さな国際空港にてビザの発給を受ける。タクシーチケットを買って、首都のカトマンズまで移動する。二カ月ほどしか経っていないのに、懐かしい匂いがする。雑踏の中に混ざり合う、土と獣と米とスパイスの匂い。

 マンハッタンカフェは、ひとりこの地に戻ってきた。美しい漆黒の髪と青白い美貌に似合わない、100ℓもの巨大なバックパックを背負って。ウマ娘が、このような大荷物を背負っている光景は珍しい。通行人の視線を集めながら、カフェは黙々と歩く。

 目的地は、旅行代理店だ。アメリカや日本大使館が並ぶ、カトマンズでは最も洗練された中心街。そこにコズミックトレイル社のオフィスがあった。エヴェレスト登頂では、ネパール政府に対する入山申請や登山料の支払い、シェルパの手配など、裏方の仕事を堅実にこなしてくれた。信頼できる会社だと分かっていたため、カフェは個人でコズミック社を利用することを決めた。前回は、ポーター役やコック、キッチンスタッフを合わせて19名ものシェルパを動員したが、今回カフェが雇ったのはひとりだけだ。

 コックとして日々の食事を賄ってくれた、バルテンという名の青年だ。

 シェルパ族出身であり、与えられた仕事に対する責任感が強く、忍耐力もある。それに加え、彼の人柄に好感を抱いていた。高山病で食欲を失った夏野のため、日本風の味付けを考えてくれた。自発的に見返りのない善行ができる人間は、信用に値する。これがカフェの人選眼だった。

 バルテンと共に、カトマンズの市場で食料の買い出しを行った。お馴染みのにんじんやじゃがいも、ピーマン、たまねぎといった野菜に、ダルバート用の豆、保存食として使えるソーセージやツナ缶。しかし、傷みやすい卵や生肉は買わなかった。

 ネパールという国自体が、今回は通過点にすぎないからだ。

 翌日、トレイル社が用意したバスに荷物を積み込み、カトマンズを出発する。この国の首都は標高1300mの盆地にあり、その周囲をぐるりと山に囲まれている。そのため、移動とはすなわち坂を登ることである。標高が1000m上昇するごとに、沿道の景色が変わってくる。棚田の稲が緑っぽくなり、樹木はまばらに紅葉する。少し移動するだけで季節を前倒しするほど、同じ国のなかでも平均気温が下がるのだ。

 やがて、ネパールと中国の国境に近づいてくる。コダリという小さな集落には、町の規模に似合わない大型トラックが列を為して停車している。両国を結ぶ、陸路物流の拠点のひとつだった。

 マンハッタンカフェは、国境を越えて中国のチベット自治区に入ろうとしていた。

 わざわざネパールを経由するのには理由がある。まず、信頼できる登山専門の旅行代理店があること。手数料はかかるが、煩雑な越境手続や入山料の支払いなどを代行してくれる。チベット自治区は政情不安定な地であるため、単身で乗り込むにはハードルが高く、組織の後ろ盾がなければ当局に目をつけられかねない。もうひとつの理由は、バルテンだった。彼は長らく多国籍の登山隊の世話をしてきたため、言語に堪能だった。英語や日本語なら、ある程度は話せる。なにより有難いのは、チベット語も日常会話くらいなら扱えることだ。ベースキャンプまで荷物をあげるために、現地人のヤク使いを雇わなければならず、彼らとのコミュニケーションの取れる者が不可欠だった。

 ネパール側国境事務所の手前でバスから荷物を下ろす。国境は、深い渓谷によって分かたれており、彼我の町を結ぶのは『フレンドシップ・ブリッジ』という名の橋だ。中国とネパールの友好の意味が込められている。バルテンが現地で雇った人夫が、荷物を橋の反対側に運ぶ。カフェとバルテンは、歩いて国境を越えた。そこからは、チベット山岳協会が用意したトラックに荷物を積みなおし、目的地まで向かう。運転手のほかに、もうひとりチベット自治区の人間がいた。国境から山岳地帯まで登山者を案内し、下山後にはネパール側まで送り返すことを任務としている。外国人登山客をサポートしてくれる一方で、彼らが不審な行動をしないか監視する役目も併せ持っている。宿泊場所も、あらかじめ山岳協会が指定しており、自由には選べない。標高3700m、ほぼ富士山頂に等しい高さにあるニェラムという町で一晩を明かす。そこから、チベットの山岳地帯をぐるりと迂回する幹線道路を走り、ヒマラヤ山脈の足元の町までトラックを進める。車窓から見えるのは、世界の終わりのような光景だ。地平線まで延々と続く赤茶けた荒地。遮るものがないため、ひとたび風が吹けば、もうもうと砂埃が舞い上がる。とても窓など開けてはいられない。

 カフェが腕の高度計を見ると、すでに5000m付近を指している。すでにヨーロッパ最高地点を超えてしまっていた。しかし、息苦しさは感じない。日本に戻った後も、ひたむきに低酸素トレーニングを積んでいたおかげだった。

 一行は、二日かけて拠点となる町、ロンブクに到着する。そこでカフェとバルテンは、肉や卵を購入した。人間が生活を営めるのはここまでが限界だ。すなわち、その先からは山が始まる。

 マンハッタンカフェが、星を見るように頭を傾ける。

 帰ってきたのだ。空高くそびえる極地に。モンスーン明けの新雪をかぶる白い山脈が、視界全体に横たわっている。世界の頂点をこの足で踏んだことが、自分でも信じられない。それほどまでに、ヒマラヤは高く巨大だった。

 偉大なる世界の屋根に、ひとりのウマ娘が挑もうとしている。

 荒野の果てで、誰に知られることもなく彼女のリベンジは始まった。

 今年は雪の量が多く、路面は凍結していた。チベット山岳協会は、安全が確保できる限界までトラックを進めてくれた。その後は、バルテンの雇ったチベット人が、ヤクの背中に荷物を括りつけて運ぶ。若い者もいれば、老人もいた。カフェと同い年くらいの少女さえ、大人たちと変わらない手捌きで、自分の身長の二倍以上ある巨大な動物を駆っていく。高地のきつい紫外線で顔は真っ黒に日焼けし、感情のこもらない目で淡々と仕事をこなしている。これが彼女の生業。生きるための手段だ。生まれた環境が違えば、手段を選ぶことさえできないかもしれない。しかし彼女は、そんな可能性を即座に鼻で笑い飛ばす。自らの環境を恵まれたものと思い、謙虚に生きられるなら、今頃北海道の実家で穏やかに年金暮らしをして、適当な男と結婚して流されるままに人生を畳んでいただろう。そうならなかったのは彼女がマンハッタンカフェだからだ。この世で絶対なのは自分の意思のみ。癒えることのない勝利への執念を燃やし続ける。病の炎症とは異なる、精神的な熱を帯びた彼女の両脚は、氷を踏み砕きながら雄々しく進む。

 9月9日。標高5700mのベースキャンプに到着する。積み荷を降ろしたヤク使いたちは、素早く下山していく。色とりどりのテントが集落のように立ち並んでいたネパール側のキャンプとは、まるで別物だ。秋のハイシーズンだというのに、荒涼とした谷間には他のテントがひとつも見当たらない。路面が凍結していたので今年は特に登山者が少ないですねとバルテンが呟く。

 チベット側のベースキャンプ。

 ここから出発するのは、マンハッタンカフェただ一人。

 葦毛の怪物も、同じ景色を見たに違いない。

 ローツェ、ヌプツェの頂を従え、悠々と青空を覆っていたネパール側とはまったく異なる表情。視界には、もうその山しかない。世界の頂点が、一直線に青天まで伸びている。上部にはクーロワールと呼ばれる、急峻な岸壁に沿った溝が刻まれており、まるで眉間に皺を寄せているかのようだ。チベット語でチョモランマ、大地の母神という意味の山は、自らに近づく全ての命に警告していた。

 わたしに登れば死ぬぞ、と。

 カフェの金色の瞳が、鷹揚にその頂を睨み返す。

 標高6000m付近まで登ってからベースキャンプに引き返す基礎順応を行う。心身の準備ができ次第、アタックをかけるつもりだった。

 最低限の人数、装備によるスピーディな登山を、『アルパインスタイル』と呼ぶ。人類で初めて八千メートル峰14座を完登した伝説的登山家ラインホルト・メスナーが大成させたスタイルだ。従来の『極地法』では、大規模な人員と物資を少しずつ移動させ、選び抜かれた隊員だけで最終アタックをかける。安全性と確実性は増すが、そのぶん時間とコストが多大にかさむ。前回のエヴェレスト登頂が、まさに極地法だった。そちらのほうが成功率は格段に上がる。だが、それはあくまで人間の身体能力を前提とした話だ。人間のパワー、スタミナを遥かに上回るウマ娘ならば、有利を保てる7500mまでは膂力に任せて素早く登ったほうがいい。酸素ボンベの有無に関わらず、デス・ゾーンでの登攀に余力を残せるからだ。

 ウマ娘の生理学的には、アルパインスタイルこそが最も合理的な登山方法と言える。

 だが、マンハッタンカフェにとっては、そう易々と選択できないスタイルだった。彼女のパートナーは人間だ。高地順応に天賦の才でもない限り、ウマ娘の登攀速度についていくのは難しい。まして夏野は、それほど順応が得意なほうではなかった。

 アルパインスタイルを選ぶことは、すなわち夏野との別離を意味する。

 ここに至るまで、カフェは内心悩み苦しんでいた。自身の能力を最大限に発揮しなければ、ライバルの背を追えない。しかし、全力で登る自分に人間は追いつけない。少なくとも7500mまでは。

 夏野のことを考える。一度は手に入れた気になっていた。トレーナーを辞めてまで自分についてきてくれた。しかし、どこまでいっても彼女は人間であり、自分はウマ娘だ。彼女には彼女の人生がある。思い出すのも憚られる、忌々しい男の顔。そいつの前で幸せそうに笑う、最愛の元トレーナー。

 現実から逃げるように、帰国直後にカフェは決意した。

 世界の頂点に再戦を挑むには、単独でのアルパインスタイルしかない。その方法でしか、ライバルを上回る勝利は得られないのだ。

 登山において、絶対の価値とはやはり『初登』である。しかし、一度誰かに登頂されたからといって、その山の価値が消失するわけではない。より難しいルート、より短い時間、無酸素、単独など、さまざまな条件を足し合わせ、新たな『初めて』を達成できるからだ。

 ブランハンニバルが成し遂げたのは、チベット側北東稜ルートによる無酸素登頂。山での経験値、技術力、組織力は圧倒的に格上の相手。そんな彼女につけ入る隙は、やはりひとつしかない。

 単独行だ。

 アイガー北壁以来、ハンニバルは単独行をしなくなった。おそらく死の恐怖が名誉欲を上回ったのだろう。別に恥ずべきことではない。合理的な判断だ。彼女の年齢は30を過ぎている。ウマ娘の身体能力のピークは、おおむね14歳から19歳。どうあがいても現役のウマ娘と戦える身体ではない。

 マンハッタンカフェが唯一、ブランハンニバルを上回る能力。それは若さだった。

 しかし、それゆえにカフェは、彼女と同一ルートでの登頂を良しとしなかった。

 肉体の衰えた相手に対し、単独行をもって勝利宣言するなど、カフェのプライドが許さなかった。若者が老人相手に腕相撲で勝って、それを誇れるだろうか。

 むろん客観的に見れば、単独無酸素という実績はハンニバルを上回るだろう。しかし、登山の価値とは、そもそも他人が決めるものではない。

 自分にとって、満足いくものかどうかが、登山の全てだ。他者からの称賛や記録は、自己満足の後についてくるオマケでしかない。競走ウマ娘時代と何も変わらない。

 チベット側北東稜よりも難しいルートを制して初めて、あの葦毛の怪物に完全勝利できる。その信念を胸に、マンハッタンカフェが選んだのは稜線ではなく壁だった。

 エヴェレスト北壁ルート。かのラインホルト・メスナーが無酸素単独登頂を成し遂げたことで、アルパインスタイルの名が世界に轟くきっかけとなったルートだ。北東稜と西稜の間の岩壁は、まさにエヴェレストの裏の顔。年間登頂者が700人もいるエヴェレストだが、ほとんどがネパール側ノーマルルートでの登頂である。チベット側、まして北壁ルートなど、国家の威信をかけた大規模登山隊か、世界最高峰のアルパインクライマーしか挑まない。そのため情報量が少なく、事前対策ができなかった。実際に足を踏み入れてみなければ、雪や岩の状態、岩溝内での環境など見当もつかない。

 カフェは山頂アタックから下山までの日数を6日間と決めた。予備日は設けない。悪天候や雪崩に邪魔されたら、その時点で諦めるしかない。北壁を無酸素単独で落とすには、全身全霊燃やし尽くすだけでは足りない。天運の味方が必要不可欠だった。

 神々の座する頂は、自分を登るにふさわしい者と認めてくれるだろうか。

 アタックの前日、バルテンはカフェのために日本風のカレー味のダルバートに、ピザ、蜂蜜乗せホットケーキなど、ウマ娘の好む味付けの料理を用意してくれた。彼には、GPSの座標モニターを渡してある。それは救助目的ではなく、万が一遭難したときに遺体の場所を特定するためのものだった。発信元となるのは、ライバルとなった葦毛の師からもらった高性能小型カメラだ。

「出発から12日間、わたしがベースキャンプに戻らなければ、死んだものとして扱ってください」

 カフェはそうバルテンに伝えた。彼は真剣な顔で頷く。瞳には純粋な悲しみが揺れていた。この心優しい青年を、困難な単独行に引っ張ってきたことが少し後ろめたい。もし自分が死ねば、彼はその悲しみを一人で受け止めなければならないからだ。金銭での報酬では贖えない、精神の傷だ。

 その夜、カフェは装備品を点検する。食料は、乾燥五目飯や乾燥スープ、ビスケット、粉末ココアといった乾物ばかりだ。アルパインスタイルでは、あらゆるものを軽量化することが基本となる。おそらく7500m以上の環境ではまともな食事がとれなくなるため、固形物は最低限にして、行動食を兼ねたアミノ酸とブドウ糖タブレットを用意しておく。

 悩ましいのは、ハーケンとアイススクリューだ。ハーケンは岩の溝、アイススクリューは氷壁に打ち込み、ザイルを通すことで滑落を予防できる。どちらもチタン製であり、徹底的に軽く作られてはいるが、数が嵩むと厄介だ。酸素が平地の3割ほどになるデス・ゾーンでは、たった100gの重さが命とりになる。しかし、標高7800mから頂上付近まで刻まれた縦方向の岩溝、クーロワールの情報が少ない以上、装備を手薄にすることはできない。壁は、登るより降りるほうが難しい。膂力に任せて一気に登っても、ハーケンやスクリューが足りなければ、下降のための身体の確保ができなくなる。つまり降りられなくなる。

 苦悩の末、カフェは10本ずつ持っていくことにした。装備品ひとつでも計算が狂えば、この山は挑戦者を生きて帰してはくれないだろう。自分の判断を信じるしかなかった。

 9月11日、明朝4時半。朝食の後、バルテンが安全祈願をしてくれた。小さな石塔を積み、カラフルな旗のついたロープを四方に張る。プジャと呼ばれるシェルパ族の伝統儀式だった。

「必ず帰ってきてください。それだけを祈っています」

 バルテンは言った。彼と握手を交わしたのち、カフェは出発のときを迎える。2日間で、標高7000mのキャンプ1に到達する予定だった。しかし、雪の状態が遠目で見るより悪い。傾斜50°を登攀中、固い氷かと思いアイゼンを蹴りこむと、ぬかるみに嵌まったかのように脚が突き刺さる。中身は柔らかい雪のままだった。これでは踏ん張りがきかなし、いちいち足を取られる。できるだけ安定した氷を選んで爪先を蹴りこむ。一挙手一投足の選択だけで時間を浪費する。おまけに、クーロワール帯に至るまでの壁は、ところどころ氷が付着しておらず、岩肌が剥き出しになっている。迂回する余裕はないが、岩壁と出くわすたびアイゼンを外してロッククライミング用の装備に転換するのは不可能だ。山肌は傾斜を増していく。途中で突き当たった落差100mの垂直壁を、身をよじるようにして登る。貫谷から教わった、スタミナを温存できるスタイルを駆使する。雪がついていない剥き出しの岩肌に、なんとかアイゼンの爪先をひっかけ、冷や汗を流しながら慎重に体重をかけていく。アイゼンは、あくまで人間用だ。うっかりウマ娘の膂力で岩に蹴りこめば、最悪刃先が折れてしまう。岩が天井のように突き出した巨大なオーバーハングを横切るときは、さすがに支点を作らざるを得なかった。滑落すれば、1000m下まで真っ逆さまだ。

 神経をすり減らすクライミングが続く。氷壁についた雪は、予想以上に薄かった。しかも固い。アイゼンを蹴りこむと、まるでガラスのようにパキリと割れて奈落に舞い落ちてしまうこともあった。ハーケンとアイススクリューの減りが早い。多めに持ってきたのは正解だった。

 出発から4時間。カフェは、腕の高度計を見て、呻いた。まだ6500mにも到達していない。それなのに、想定よりも早く疲労を感じていた。

「なぜ……」

 歯の隙間から白い息が漏れる。

 順応は、かつてないほどうまくいっていた。体力、気力も十分だった。こんなところで疲労を自覚するなど、ありえない。単独行のプレッシャーが肉体に響いているのだろうか。前回のエヴェレストならば、一呼吸のうちにピッケルとバイルを振るえたが、今回は同じ運動量でも三倍の呼吸が必要だった。

 予定を二時間もオーバーし、なんとかキャンプ1に辿り着く。キャンプ地といっても、氷壁の傾斜が少しだけ緩くなった、畳二枚分ほどのテラス(岩棚)だ。もう動く気力もなかったが、なんとか岩肌にハーケンを打ち込み、吊り下げ式のテントを張った。この作業だけで一時間を要した。アイゼンだけはなんとか外し、テント内に倒れこむ。

 高山病の症状はない。味覚、視覚、聴覚、すべて正常。ただ心身が疲労している。

 ここが、まだ7000m地点であることが信じられない。

 いったい自分の身に何が起こっているのか。いくら考えても分からない。緩慢な動きで湯を沸かし、フリーズドライの五目飯に注ぐ。食欲があるうちに、ビスケットも消費しておく。少し体力が戻ったところで、小型カメラを起動し、自分に向けた。

「北壁ルート、7000mのキャンプ1に到着しました。やや疲労感が強いです。明日は、7800m

のキャンプ2を目指します」

 それだけ喋り、カメラを切る。単独行ではあるが、可能な限り映像記録を残すつもりだった。表情や声、どんな言葉を使っているか、そのときの体調など、後で見返すことに価値がある。カフェは、最初の師の教えを忠実に守っていた。

 就寝前に、念のためダイアモックスを半錠だけ服用する。可能性は低いが、血中酸素濃度の急低下による昏睡を恐れていた。今、自分の肉体が普通でないことは分かる。精神衛生上、リスクはひとつでも潰しておきたかった。

 夢のなかで、懐かしい声を聞いた。

 雨に濡れた芝のうえで、寮の屋上で、あるいは真っ白な雪原で、その人はカフェの名を呼ぶ。その声は次第に強くなっていき、やがて耳元で叫ぶような大音量となる。

 飛び起きたとき、かすかに頭痛がしていた。これが幻聴ではなく、ただの夢であることを祈った。

 9月12日、午前7時。インスタントラーメンとチョコレートの朝食を終え、カフェはテントを畳む。今日は800m高度をあげ、クーロワールの入口に入る予定だった。テラスから頂は見えない。ひらすら白と青黒い壁が、灰色の空に続いている。少し雪が舞い始めたが、風はそれほど強くない。

「いける……」

 一言、自分に言い聞かせる。そうでもしなければ、この非情なる壁の途中で心が折れてしまいそうだった。

 キャンプ1に至るだけでも難しかったが、クーロワール直下の壁は、もはや鬼だった。打ち込もうとしたピッケルやアイゼンの刃先が、弾き返される。雪の数センチ下は岩だった。それも、粘土岩のような、のっぺりした一枚岩だ。ハーケンを打ち込むためのリス(岩の割れ目)が見当たらない。

 ここからは、確保なしで登らなければならなかった。ほとんど足がかりのない岩壁の、わずか数センチの出っ張りにアイゼンの爪先を乗せる。そして、次の目標を見定め、トモに力を込めて身体を引き上げる。それを何度も何度も繰り返す。岩とアイゼンの、1㎠にも満たない接地面積に命を賭けるのだ。地上7500mで、命綱もつけずピアノ線を綱渡りしているようなものだ。

 ほんの数ミリのズレが、生死を分ける。それがエヴェレスト北壁だった。

 キャンプ2まであと100mというところで、目に見えてカフェの動きは鈍くなっていった。

 おかしい。カフェ自身が、謎の不調に首を傾げるしかなかった。スタミナは十分ある。水分も食事も摂取した。それなのに、なぜ今自分は、根性を削って登っているのか。歯を食いしばり、肺を限界まで膨らませ、ピッケルの一振りに全霊を籠める。レースに例えるなら、最後の直線の手前で、すでにいっぱいになっているような状態だ。

 3時間かけて、100mを登り切る。キャンプ2のテラスは、雪が固まり、ほとんど坂のようになっていた。アイスピッケルを使い、できるだけ平坦になるよう氷を切り崩して地均しする。なんとか日が落ちる寸前にテントを張ることができた。もう湯を沸かす余力もなかった。しかし、水分を摂らなければ、死のリスクが一気に高まる。低酸素下では赤血球が増え、血が流れにくくなっている。あらゆる疾病の引き金になるだけではなく、耳や手足の指の凍傷にもつながる。なんとかコッヘルに雪を入れ、沸騰させる。コーンスープにビスケットを溶かして無理やり胃に流し込む。

 本当は、目視でルートを確認しておきたかった。しかし、山頂付近は真っ白なガスで覆われ、雪の勢いも強まっている。天候が悪化すれば、ビバークを強いられるかもしれない。そうなれば、もう登頂は諦めるしかなかった。

 カメラを起動する。

「キャンプ2に到着しました。高度は7800m付近。すでに息が苦しいです。余裕があれば、一気にクーロワールを登ろうとしていた自分が、いかに愚かだったか思い知らされています。しかし、なぜこうも体調が悪いのか……」

 続く言葉が見つからず、カフェは気が沈んだままカメラを切った。

 シュラフに入っても、やはり眠れない。肉体を休めることだけに終始する。強風がテントをバタバタと揺らすが、あまりうるさく感じない。感覚器官の働きが、鈍くなっているのかもしれない。食事にも妙に味がなかった。

 9月13日。疲労が抜けないままテントから顔を出し、上空を睨むカフェ。夜が明けても、空に太陽は見えない。分厚い灰色の雲が、不気味なほどの速さでヒマラヤの空を流れていく。クーロワールの状態を確認したかったが、霞んでよく見えなかった。雪やガスのせいだろうか。

 いや、ちがう。

 霞んでいるのは自分の目だ。テントの中に視線を戻しても、しばらく焦点が合わずにぼやけている。高山病の症状だった。血中酸素の減少で、網膜の働きが悪くなっている。

 ともかく移動しなくてはならない。これ以上風が強まれば、吹き曝しのキャンプ2に留まるのは危険だ。クーロワール直下のキャンプ3ならば、岩溝の壁にテントを吊り下げることで風を避けることができる。

 湯にチョコレートを溶かして飲み込む。

 迷っている時間がもったいなかった。ヒマラヤに絶対はない。秋のハイシーズンだからといって、嵐が来ない保証はどこにもない。テントを畳み、ピッケルとバイルを握りしめる。今回、高度としては100mほどあげるにすぎない。しかし、難易度が高いルートだ。クーロワールの入口まで、断崖絶壁をトラバース(横移動)する。キャンプ3で一晩休まなければ、とうていウマ娘未踏の岩溝に挑むことはできない。

 トラバースは、垂直登攀よりも過酷だった。同じ距離を移動するにしても、ふつうに走るより、横跳びのほうが疲れる。耳音で唸り声をあげる強風。ときおり頭上から、雪に混じって刃物のような氷片が降ってくる。どうか氷塊を頭に落とさないでくれと祈る。剥き出しになった岩壁の色が変わっていることに、ふとカフェは気づいた。青黒かった岩が、少し白みを帯びて、ところどころ黄褐色にも見える。

 かつて、この世界の頂点は海の底にあった。プレート運動によってインド大陸とユーラシア大陸が衝突したことで、数千万年のときを経て海底が押し上げられたのだ。8000m以上の地層から、古代の海棲生物の化石が発見されている。

 エヴェレストは、生きている。今も代謝している。風と雪に削られながらも、地球の力によって成長し続ける。人間が恐れる地震や雪崩は、この山脈にとっては古い角質が落ちた程度のことなのだろう。前回の登山で、夏野が言っていたことを思い出す。エヴェレストの氷からは古代の匂いがする、と。あれはエヴェレストの呼吸だった。吸って吐く、それだけの間に人類の歴史が収まってしまう。

 嗅覚に意識を向けてみる。しかし、カフェには分からなかった。鼻孔を通る空気は、ただ刺すように冷たい無味無臭。

 この巨大な存在に挑む自分とは、いったい何なのか。不用意にも、覗くべきではない深淵を見てしまった。

 何のために登るのか。すでに答えは出ている。生きる悦びのためだ。レースを失い、行き場のなくなった渇きを癒してくれる、美しく残酷な山々。しかしその回答は、今の彼女に力の一片も与えてはくれない。

 この壁のように、自分の心に足がかりが見つからない。

 いろいろなことを覚悟してきたはずだった。単独行をする意味。ライバルを超えたいという執念。道標になるはずだったものが、心身の疲労とともに脆くも崩れ去っていく。

 なぜ前回は、デス・ゾーンであれだけの力が湧いてきたのか。なぜ今回は、追い詰められたら、その分だけそっくり疲弊していくのか。燃え上がる闘志や勝利欲求に変わることなく。

 余計なことを考え、気が緩んだ瞬間、右足のアイゼンの感覚が消えた。

 怖気がするような、岩と金属の摩擦音。

 重力に足首を掴まれる直前、カフェは渾身の力で右手のバイルを振るった。インパクトするのがどこかなど確認する余裕はない。まさにとっさの判断だった。岩ならば弾き返され、氷なら刺さる。

 岩なら死ぬ。氷なら生きる。

 右足を踏み外した体勢のまま、ぴたりとカフェの滑落は止まった。幸運にも、バイルの刃先は氷の部分に刺さっていた。しかし、決して厚い氷ではない。岩壁にへばりついた青いガラスのような氷は、いつ割れるか分からない。みしみしと、嫌な音を立てる氷壁。人間には聞き取れない小さな音も、ウマ娘の耳ならば拾える。

 このままでは剥がれる。

 カフェは再び四肢の力を振り絞り、右足のアイゼンを引き上げる。氷を掴めている間に、足がかりを作らなければ。レースでのラストスパートと同じ、筋肉内のブドウ糖を酸素の消費なしで燃やし尽くす、わずか40秒の勝負。アイゼンから伝わる感触だけで足場を見極める。なんとか岩のでっぱりに爪先をひっかけた。力が四点に分散され、氷の軋みが止まった。

 助かった。

 極限の恐怖と安堵の振れ幅に気持ちがついていかず、しがみついたまま動けなくなる。なんとかキャンプ3まで移動しなければならない。しかし、さっきのインパクトから右腕が重い。痺れにも似た疲労が抜けなかった。これではトラバースできない。

 カフェの体内では、筋肉がガス欠を起こしている状態だった。

 震える手で、アウターのポケットに忍ばせていたタブレットを口に入れる。とにかく糖分を補給しなければ、持久系瞬発系問わず、あらゆる力が出せなくなる。五分ほど壁に身を寄せていると、少しずつ四肢に力が戻り始める。しかし、身体の動き自体は鈍ったままだ。もうすぐ日が落ちる。ヘッドランプの明かりだけで、北壁をトラバースするのは自殺行為だ。天候もますます悪化している。

 戻るのは危険。しかし目的地にたどり着けそうもない。

 カフェは決断する。トラバースルートのどこかでビバークするしかない。足場の確保も難しいほどの絶壁だが、どこかで身体を休めなければ明日から動けなくなる。

 動き続ければ、やがて力尽き、壁に張りついたまま死ぬ。羽化に失敗した蛹のように、永久に凍りつく。

 今日中にキャンプ3まで行けない。それは登山の敗北を意味する。クーロワールの入口にすら辿りつけない完敗だ。しかし、敗北は次の勝利につながる。

 死ねば全てが虚無に帰す。

 アグネスタキオンの言葉が頭をよぎる。

「わたしは、死んだら負けだ……!」

 自分に言い聞かせるように呟く。生きて帰らなければならない。あの人のもとに。

 ようやくカフェは、まだ雪が残っている岩棚を見つけた。なんとかピッケルで氷を削り、テラスを作ろうとするが、やはり岩が露出してしまう。ぎりぎりまで氷を削っても、奥行きはわずか10㎝ほどしかない。しかも断崖に向かって、やや傾斜している。

 テントを置くことはできない。カフェは、粘土質の岩の、わずかな窪みに向かってハーケンを突き立て、バイルを振るった。ウマ娘の膂力で打ち込まれたチタン製のハーケンは、少し岩を削っただけでひしゃげて使い物にならなくなる。今度は、アイススクリューの先端を使って、無理やり岩の割れ目をこじ開ける。本来の使い方ではないが、ハーケンを刺せるようにしなければ、この滑り台のような場所で身体を確保できない。

 二時間かけて、やっと三本のハーケンを打つことができた。もう手持ちは残っていない。この難所で一晩明かしたら、すぐに下山しなければならない。

 カフェは、ふらふらと急ごしらえの岩棚に腰を下ろす。尻を乗せるのがやっとのスペース。斜めになっているせいで、今にもずり落ちそうだ。テントを取り出し、頭からすっぽりとかぶる。これで多少は、体感温度を上げることができる。一息ついたところで、膝の上に抱えたザックからコッヘルとコンロを取り出す。テントの隙間から雪を掴んで、コッヘルに入れて湯を沸かす。口に含んだビスケットやチョコレートと一緒に飲み込む。

 岩棚から投げ出された爪先、違和感を覚えた。凍傷の予兆だ。太ももが圧迫されて血流が悪くなっている。しかし、アイゼンやブーツを外してケアすることはできない。もし落としてしまえば、下降することができなくなる。ふくらはぎの筋肉を意識的に収縮させる。しかし、ふと気づけば動きが止まっている。眠気とは別種の倦怠感が襲ってくる。心身の疲労のため、意識が薄れているのだ。

 もうカメラを構えて喋る余力はなかった。代わりに、手のひらサイズの薄い防水手帳とペンを取り出し、膝の上に乗せる。現状をメモしておく。

 

 

 北壁トラバースルート、7800m付近でビバーク。テラスに腰かけたまま、眠ることもできない。自覚症状、頭のふらつき、目のかすみ、食欲減退。

 帰りたい。

 夏野さんに会

 

 

 はっとしてペンを止める。震える文字が、いつの間にか弱音に変わっている。

 休むことに集中しなくては。目を閉じる。テントを揺さぶる風が強くなっていく。神々の領域に迷い込んだ命を、あの世に引きずりこもうとするかのように。

 朝が来ても、太陽が顔を出すことはなかった。

 テントの外は灰色の渦だ。ポストモンスーン季には珍しい猛吹雪。カフェは感情の死んだ目で、テントを押さえつける。ここがデス・ゾーンより下でよかった。触覚を失い始めた指を見つめながら、カフェは思う。

 風の勢いが和らいだ僅かな隙に、カフェはペンを持つ。

 正気を保つには、これしかない。一文字ずつ、ふだんの十倍の時間をかけて震える文字を綴る。

 

 

 9月14日。

 嵐が来た。この地獄のような場所で、またビバークしなければならない。もう脚の感覚がなくなってきている。身体がずり落ちるため、眠ることもできない。うとうとして、脳をだましだまし休ませるのが限界だ。

 ハーケンは、三本ともまだ無事。強風が続いたら、抜けてしまうかもしれない。どうかもってほしい。下山するには、最低三本は必要だ。あとで回収しなくては。

 もう書くことがない。こんなものが遺書にならないことを祈る。

 

 9月15日。

 嵐はおさまる気配がない。食料を切り詰める。とにかく脚を動かさなくては。血がとどこおったら指を切らなければならないかもしれない。指を失ったら、もうライバルに追いつけなくなる。

 耳もケアしなければ。とくに凍傷になりやすい部分だ。防寒カバーを外して、手でマッサージしている。しかし、指も耳も、互いの冷たさを感じるばかりだ。

 

 9月16日。

 頭がもうろうとしてくる。辛うじて栄養はとれている。しかし、かむのものみこむのも体力をつかう。動きがかんまんになる。

 チョコレートをのんだら、すこし気分がましにになる。

 風が強すぎて、雪をとるのもおっくうになる。風がはいってきてうっとうしい。さむい。さむい。ただひたすらにさむい。

 書きたいことなどない。でもかかなければ、あたまもからだもうごきが止まる。

 さきのことを考えたくはない。かんじょうを空っぽにして、胃だけを満たせばいい。

 

 9月17日。

 からだが重いと思ったら、テントの上に雪がつもっていた。みみのかんかくがない。なげだされたあしは、うごかしてみるまで、わたしにくっついているのかわからない。まだあしはあるのか。ある。うごく。

 かんじを思い出せない。かくのもおっくうだ。のうに水がたまっているのかもしれない。あらしがやむまで、どうにか正気をたもちたい。

 かえりたい。わたしはかえりたいんです。

 なつのさん。

 なつのさん。

 なつのさん。

 いま、むしょうにあなたがこいしい。ほかのだれよりも、あなたに会いたい。たんどくこうをきめたのは、わたしなのに。むしがよすぎますよね。

 生きてかえりたいんです。

 あなたのなまえをあたまのなかでくりかえすと、まだいきていられるきがします。

 

 9月18日。

 山でしぬことにこうかいはない。ただ、ひとつだけ、のこされるひとのことだけがむねんだ。ゆるしをこわなければならない。わたしのつみの、ゆるしを。

 

 

 ペンが、指から零れ落ちた。視界がぼやけて、自分の字さえ見えなくなっている。ゆっくりと瞼を閉じる。嘲るようにテントを打ち据える暴風の音すら、もう聞こえない。消えていく感覚器官のさらに奥、どこにあるのかも分からない魂を使って、マンハッタンカフェは想い続ける。

 生きて帰る。あの人のもとに。

 手に入らずとも、せめて隣に。

 どれくらい経ったか分からない、暗黒のまどろみ。瞼を開けると、まだ身体を動かすことができた。テントの外を除く。吹雪は収まり、ヒマラヤの山々の影がうっすら見える程度には視野が開けている。

 今なら下山できる。

 次、また嵐が来たら終わりだ。食料も底をつく。今日中にキャンプ2、できればキャンプ1まで戻りたい。下降すれば酸素も濃くなる。生還のチャンスだ。

 急いで湯を沸かそうとする。胃を休めることができたのは幸いだ。残ったインスタント麺やスープを消費し、あとは全て行動食に回そう。

 そのとき、カフェは自分の手が震えていることに気づく。

 いや、ちがう。手どころか全身。さらにテント、尻を乗せているテラス自体が微かに振動していた。

 平地ならば、小さな地震としか思わないだろう。しかし、ここはヒマラヤだ。

 山が震える理由は、もうひとつある。

 カフェはとっさに防寒用の耳カバーを外した。鮮明になる外部の音。これと似た音質を知っている。観客スタンド前を駆け抜けるウマ娘たちの走音。あの地鳴りのような低い打撃音が、数百、数千倍に増幅され、直上を駆けおりてくる。

 全身が総毛立つ。

 雪崩が来る!

 声も出せなかった。エヴェレスト全体を揺さぶるような震えが、どんどん激しさを増していく。

 一秒の迷いが生死を分ける。

 カフェは立ち上がり、氷壁にへばりつくように身体を沿わせる。圧倒的な危険や恐怖を前にすると、生物は本能的に身体を丸めてしまうが、雪崩の前では逆効果だ。その威力を全身で受けてしまう。

 テントの幕ごしに、冷たい壁に頬を押し付ける。

 衝撃。

 首の骨が砕けそうになりながらも、カフェは必死に岩壁にしがみつく。しかし獰猛な雪の塊は、小さな命を削ぎ落そうとするかのようにテントを殴りつける。テントに引きずられ、壁から身体が剥がされていく。打ち込んだ三本のハーケンのうち、すでに右端の一本が外れた。このままでは叩き落される。カフェは両腕を上に伸ばし、歯を食いしばってテントを引き裂いた。あっという間に押し流され、アイゼンに引っ掛かりズタボロになる。だが、これで雪崩の圧力を躱すことができる。

 寒気がする浮遊感。右半身が宙に浮く。真ん中のハーケンが外れた。残るは一本のみ。これが耐えられなければ、落ちる。

 祈るような十秒間だった。

 エヴェレストは、その身に積もる雪を振るい落とした。カフェが身体を壁に戻すと、力尽きたように最後のハーケンが、渇いた音を立てて岩肌から抜けた。

 雪崩が終わってからも数分間は、呆然とその場に立ち尽くしていた。

足元には、襤褸切れのようなテント。命は救われた。最善の判断だった。しかし、その判断をもってしても、この神の領域では、寿命を一日かそこら伸ばしたにすぎない。

 カフェは、へなへなとしゃがみこみ、テントの残骸を巻き取った。

 夜の防寒装備を失った以上、次に嵐が来たら終わりだ。低酸素にあえぎながら、必死に考える。この絶望的な状況下で、たったひとつ生還できる道があるとすれば。

 足元の、さらに下を見る。

 白い靄がかかり、底すら見えないエヴェレスト北壁。

 ここを最短ルートで下降するしかない。それは、北壁に挑む者ならば、絶対に通ることのない難所。想定外に次ぐ想定外に見舞われたカフェには、もうそこしか活路が残っていなかった。

 躊躇う時間がもったいない。

 三本のハーケンを回収する。行動食のタブレットを口に含む。アイゼンと両手のピッケル、バイルを確認し、すぐさま下降を開始する。

 クライミングにおいて、下降は登攀よりも遥かに難しい。肉体の悲鳴を押し殺し、見えづらくなった目をきつく細めて、カタツムリが這うような速度で壁をくだっていく。ハーケンは残り三本。支点をつくる余裕はない。一度でも脚を滑らせたら死。

 それでも、少しでも早く、少しでも先へ。

「なつのさん。なつのさん。なつのさん……」

 自分でも気づかないうちに、独り言を口走っていた。その名を呼ぶごとに、疲弊しきった筋肉にかすかな力が蘇る気がした。

 時間経過の感覚はなくなっていた。高度は7010m。下降するほど、氷のつき方がよくなってくる。風も強まってはいない。

 いける。

 そう思った矢先。カフェの脚は、あるはずのない地面についた。

 巨大なオーバーハングに行き当たった。壁の途中で、岩が屋根のようにせり出している。迂回するには相当な時間がかかる。かといって、ロープを使って懸垂下降するには、この岩壁のどこかに支点を作らなければならない。

 そんな余力は、もう搾りかすほども残っていなかった。

 カフェは、ふっと寂しそうに笑う。

 どこまでも思い通りにならない山だ。もうすぐ日が沈む。壁を背に、ずるずると崩れ落ちる。テントの切れ端を身体に巻きつける。できたのは、それくらいだった。

 明日まで生きている確率はどれくらいだろう。例え生きていたとしても、もうオーバーハングを突破できる力はない。

 詰みだった。

「わたし、死ぬのか……」

 どす黒いヒマラヤの空に向かって、カフェは呟く。万人に等しく訪れる結末でありながら、意識してこなかった。今ですら、どこか他人事のような気がしている。

 山で死ぬことに後悔はない。自らの魂が向かう方向に、正直でいられた。命を賭けた何かの途中で死ぬことは、望むべくもない最高の結末だ。

 しかし、最高だと思えるのは、あくまで自分だけだ。

 巻き込んでしまった人がいる。その人には責任を取らなければならない。これからも生き続ける、愛する人の未来に足枷を残さぬよう。

 震える手でカメラを取り出す。電源を入れた。映像は撮れているか分からないが、少なくとも音声は入るだろう。

「9月19日。高度7010m。キャンプ2とキャンプ3の途中から下降を試みるも、オーバーハングに阻まれました」

 一息つき、声に魂を込める。

「わたしは死にます。その前に、伝えなければならないことがあります。わたしの愛する、たったひとりの人のために。夏野蘭さんのために。わたしの犯した罪について」

 胸のうちに仕舞い続けてきた『罪』という言葉を吐き出す。

「あなたが、学園から追われることになった原因、モンブラン登頂。あのニュースをリークしたのは、わたしです。正確には、我が師・ブランハンニバルから賜ったカメラに、衛星通信機能がついていることを知っていました。本人から事前に説明を受けていましたから。知った上で、放置したのです。登頂の事実を秘してくれなど、一言も告げませんでした。ハンニバルも、暗黙のうちにわたしの意図を察してくれました。結果、あなたは学園から追放された。あなたにとって、通過点のひとつでしかないはずのわたしが、永久にあなたの、唯一の担当ウマ娘になることができたのです。そこまでしてでも、あなたが欲しかった。わたしにとってあなたは、人生における一過性の存在ではなかった」

 呼吸を区切りながら、カフェはゆっくりと隠し通すべきだった秘密を暴露していく。

「思惑通りに事は運べました。しかし、人生はわたしが思うよりもずっと、ままならないものでした。幼く愚かなわたしは、愛の力量を見誤っていたのです。表向きは依願退職ですが、実質的には不祥事が原因であることは学園の人間なら誰でも知っています。そんなあなたと結婚するメリットなどない。複数の有能なウマ娘を受け持つトレーナーなら、なおさら。しかし、あの男は、わたしの予測をあっさり覆しました。空港で、あなたにプロポーズしてきたとき、わたしは敗北を自覚したのです。戦闘に勝って、戦争に負けたのだと」

 息が苦しい。もうカメラのレンズさえ見ない。だが、最後まで証言しなければならない。

「本当にわたしは、あなたしか見えていませんでした。あなたの人生に絡んでくる他人のことなど眼中になかった。でも、あなたは、多くの他人と絆を結んでいますし、これからも結び続けるでしょう。夫に子供。血縁は無条件に強い絆です。そこにわたしが割って入る余地などあるでしょうか。きっとあなたの大切な人は、危険な登山など望まないでしょう。いずれ、わたしとあなたは引き離される。そうなる前に、わたしは独り立ちしたかったんです。世界最高峰の難関ルートの、無酸素単独という形で。わたし独りでやっていけると、あなたに示したかった。その末路がこれですから、自分でも笑ってしまいます。夏野さん。わたしはあなたの人生を狂わせました。あなたの、競走ウマ娘に対する愛、レースへの情熱を奪い取ったんです。未来永劫、あなたの隣を独占するために。わたしは狡猾で卑怯で、最低のウマ娘です。だから、わたしの死に負い目など感じないでください。あなたは優しい人だから、きっと嘆き悲しんでくれるでしょう。でも、いつかは癒えます。あなたが愛する全ての人が、その悲しみを癒してくれます。さよなら、夏野さん。明日は結婚式ですよね。出席できなくてごめんなさい。どうか、幸せに生きてください。わたしは幸せです。あなたに見初められた日から、この命が尽きるまで、あなたのウマ娘であれて、わたしは幸せです」

 カメラの電源を切る。

 もう言い残したことはない。あとは、いつになるか分からないが最期の時まで、ここにいるだけだ。

 暗く静かな夜だ。瞼を開けても閉じても変わらない。

 この世界で息をしているのが、自分独りであるかのように。

 幻聴と幻覚。あるいは走馬灯だろうか。鮮やかな音や景色が、脳裏に再生される。ターフを駆け抜ける、無数の人影。雪の道を歩く、巡礼者のような登山家たち。先行く列の中に、あの人の姿もあった。大人びた美しい顔に似合わない無邪気な笑顔で、こちらに手を振っている。

 早くおいで、と呼んでいる。

 愛する人の背に、もう追いつけない。

「やっぱり、寂しいよ、なつのさん」

 涙はすぐに凍りつき、少女の瞳を固く閉ざす。

 どれくらい時間が経っただろう。また幻聴が聞こえる。カフェ、カフェ。懐かしい声とともに夏野蘭が駆け寄ってくる。

「ああ、そんな目でわたしを見ないでください。最期の夢くらい、笑顔で見送ってくれませんか。わたしはそれだけで十分……」

「カフェ! カフェ!」

 さらに幻聴が強まる。少しうるさいくらいだ。うっすら開いた瞼のうちに、夏野の顔がのぞく。怒りと悲しみが綯交ぜになった表情。

 自分を責める顔。

 ―――わたしのような奴には、これがお似合いってことですね。

 寂しく笑うカフェ。その直後、身体が激しく揺さぶられた。

「カフェ! しっかりしろ、このバカ娘!」

 頬がはたかれる。怒鳴り声に驚いて、耳が垂れてしまった。

 凍っていた瞼を、パリパリと見開く。焦点が合ってくる。ここにいるはずのない人が、視界に映っていた。

「夏野さん……?」

 恐る恐る尋ねる。これが幻覚なら、いよいよ自分は危篤状態だろう。しかし、震えながら伸ばした手は、確かにその人の顔に触れた。幻ではない、生身の感触が伝わってくる。

「よかった。生きてた……」

 一転して泣きそうに口を歪める夏野。彼女はザックを下ろし、酸素ボンベのマスクをカフェの口元にあてがう。

 ひと呼吸で、体中の苦しみが消えていく。まさに神の助けだった。

「どうして、ここが?」

 マスク越しに、カフェが尋ねる。おそらく居場所は、バルテンの持つGPS端末を辿ってきたのだろう。しかし、エヴェレスト北壁に挑むことは、バルテンとコズミックトレイル社の人間以外には誰も話していない。

「今回は詰めが甘かったね。カフェは未成年だから、出国には親権者の同意がいる。北海道の御両親に聞いてみたら、ネパール観光に出かけたってさ。パタゴニアじゃなく、ネパール。わたしに嘘ついた時点で、もう嫌な予感しかしなかった。伝手があるとすればコズミック社だけど、さすがに利用者の個人情報までは教えてくれない。けどね、所属してるシェルパのことなら誰でもわかるように社屋内のボードに予定が書かれてるんだよ。前の撮影で一緒だったシェルパのうち、単独行、しかもチベット側からエヴェレストに入っていたのはバルテンだけだったから、ピンときた。あなたもバルテンを気に入っていたし、間違いないと思ったよ」

 湯を沸かしながら夏野は答える。見事な推理だった。

「わたしの居場所が分かったとして、ここまでどうやって……」

 疑問を途中で切り上げる。酸素のおかげで脳が回るようになっていた。ここは、よほどの事情がない限り挑む意味のない難所。中間のキャンプを経由せず辿り着いたということは、もうルートはひとつしかない。

「登ってきたんだよ。直登でね。6500mから酸素を吸った。わたしには登山家のプライドとか無いからね。どんな手を使ってでも、カフェの元に辿り着く。それだけだよ、今回の目的は」

 さらりと夏野は言った。その言葉の裏に、どれほどの危険と困難が隠されているか、実際に壁を降りてきたカフェならわかる。満足に支点をつくることもできない、薄い氷と固い岩。並の登山家では取りつくことすらできないエヴェレスト北壁を、彼女はひとりで登ってきたのだ。

 愛するウマ娘の命を救うために。

「ヘリでの救助も考えたけど、高度限界が4500mくらいらしいし、お金も時間もないから諦めた。悪いけど、ベースキャンプまで自力で降りてもらう。わたしがルート工作をしてきたから大丈夫。カフェなら絶対できるよ」

 沸かした湯に、粉末のスポーツドリンクを入れる。カフェに手渡し、少しずつ飲ませる。アミノ酸と糖分が染み渡り、急速に身体が熱を帯びてくる。細胞が息を吹き返した。さらに夏野が日本から持ち込んだという、暗褐色の物体を湯に溶かして飲み込む。舌が焼けるような甘ったるさに、カフェは思わずむせこんだ。チョコレートに蜂蜜、あとは何の味か分からない。

「タキオン印の圧縮カロリースティック。出国前に持たせてくれた。これ一本で一日分のカロリーらしい。旅客会社に遭難時の非常食として売り込もうかと言っていたよ」

「借りができてしまいました……」

 ひどい後味に苦笑しながら、カフェは言った。タキオンは、カフェが遭難することを見越して、夏野にこれを授けたのだろう。

「ありがとうございます。夏野さん……」

「お礼は後で。説教も後だ。動けるなら行くよ」

 そう言って、夏野はカフェを引き起こす。そのとたん、カフェはまともに歩けず夏野に寄りかかってしまった。義足に置き換わったかのように、両足首から下の感覚がない。夏野はしゃがみこみ、アイゼンを外して、プラスチックブーツを脱がす。オーバーシューズと化繊の防寒靴下をまくると、カフェの脚が見えた。

 もともと色白だった皮膚が、石膏みたいに異様な白に変色していた。

 凍傷の兆候だった。

「……知ってると思うけど、ここは大きなオーバーハングの上だ。わたしは迂回してきたけど、この足じゃ時間的にも難しいね。今日中にベースキャンプまで下りたい。懸垂下降しよう」

 夏野は言った。カフェは首を横に振る。懸垂下降とは、支点からまっすぐ垂れ下がったロープを伝い降りることを意味する。空中では身動きが取れないため、もし雪崩や落石が襲ってきたら回避する術はない。夏野の安全を考えれば、元来た迂回ルートを辿るほうが正解だ。

 しかし夏野は、頑として聞き入れなかった。

「一刻も早くベースキャンプで、足のケアをしないと。100mほど下ったら、わたしがルート工作してきたところまで戻れる。大丈夫、わたしを信じて」

 かつてレース前に見せてくれた穏やかな笑みで、夏野は言った。緊張をほぐそうとしてくれている。トレーナーだった頃と同じように。

 もう反論することはできなかった。

 オーバーハングの尖端に、二本のハーケンを打ち込む。回収するつもりはない。とにかく外れないよう徹底的に食い込ませる。

 先に降りるのはカフェだ。懸垂下降の場合、後に降りるほうが危険だった。先に降りた者は、取りついた先で新たな支点をつくる。後に降りる者は、もし滑落すれば、下降地点から支点、さらにロープの長さの分まで落ちる。夏野が用意したロープは五十メートル。つまり、後発の夏野の場合、二倍の百メートルの高さを滑落することになる。

 カフェは慎重に、しかし力強く壁を蹴りながら下降する。手足の感覚はほとんどないのに、どうしてこうもエネルギーが溢れてくるのか。酸素や栄養だけではない。単独行のときは欠いていた存在が、もうひとつある。

 その答えが出たところで、カフェはエヴェレスト北壁に完全なる白旗をあげた。

 降下地点は、比較的、岩の割れ目が多かった。今のカフェの膂力であれば、ハーケンを打ち込むのは容易だった。合図を送ると、夏野が下りてくる。スムーズな下降だ。まるで歴戦の登山家のように頼もしい姿だった。岩棚に降り立つと、ふたりは身体を寄せ合い、ロープを回収する。この作業を繰り返し、ついに難所を超えて北壁の取りつきまで辿り着いた。

 健闘を讃え合う間もなく、歩き始める。夏野が切り開いてきたルートをなぞる。一時は死を覚悟するほど疲労困憊しているはずだった。それなのに、歩みが淀むことはない。むしろ遭難前よりも力が増しているようにさえ感じた。

 ベースキャンプの青いテントが見えたとき、ようやくカフェは実感した。

 生還できたのだと。

 こちらに気づいたバルテンが駆け寄ってくる。涙を流しながら、「死んだかと思いました、死んだかと思いました」と繰り返した。彼はすぐに、ふたりのためのテントを立て、大量の湯を沸かしてくれた。

 テントのなかで、カフェは両足を湯に浸した。ホルマリン漬けのように漂白された足を、夏野が懸命にマッサージする。ここに来るまでは、両手足指の何本かは切ることになるだろうと冷静に計算していた。しかし、学園にいた頃と変わらず、必死に自らの足をケアしてくれる元トレーナーの姿を見て、理性の奥の感情に火が灯る。

 たとえ小指の一本でも失いたくない。

 最愛の人が、いつまでも大切にしてくれる脚だから。

「……夏野さん。どうかそのまま、聞いてください」

 カメラに吹き込んだ自白を、この場で繰り返す。長い独白の間、夏野は一言もしゃべらず、ひたすら冷たい足に血を送りこみ続けていた。

「許すよ」

 手を止めることなく、夏野は言った。

「こんな言葉で、カフェの気持ちが救われるなら、いくらでも言ってあげる」

 カフェは目を見開いた。屈腱炎で入院したとき、夏野に与えた免罪符をそっくり返されてしまった。

「カフェ。確かに、わたしにはわたしの人生があるよ。退職も結婚も、自分で決めたこと。そして今、結婚式をキャンセルして、あなたを追いかけてきたのも、全部わたしの意志。あなたは、もうわたしの人生の一部なんだ。こんなところで、孤独に死なせたりしない。わたしにとって、マンハッタンカフェは―――」

 少し言い淀む。夏野は探していた。トレーナーではなく、同行者でもない。ふたりの関係を示す、的確な言葉を。

 ささやかな逡巡の後、結論に至る。

「バディ」

 夏野は言った。カフェの目をまっすぐ見つめ、まるでプロポーズでもするかのように真剣な声で。

「命を預け合える、この世でたったひとりの存在。それがわたしたちの関係。だから、わたしは絶対に、あなたを独りになんてさせない。あなたが挑むなら、どこにだって行く。共に命を賭ける。これからもずっと」

 そう言って、夏野蘭はにっこり笑う。

 カフェは何も言えなかった。美しい頬の稜線を、ひとすじの涙が伝う。演技ではない、本物の感情から生まれた熱い雫は、目の縁から次々と溢れ出していく。

 この世に生れ落ちてから、これほどの歓喜があっただろうか。

 不治の病でレースを失った。愛は他の男に簒奪された。それでも、この人は自分のもとに戻ってきてくれた。他の誰にも真似できない、唯一無二の絆を携えて。

「……いいんですか。後悔するかもしれませんよ」

「そうかもね。わたしだけ生き残ったら絶対後悔する。死ぬまで苦しみ続けると思う。バディだからね。死んだくらいで、わたしたちの絆はほどけない」

 夏野はさらりと言った。呪縛であるはずの感情を、彼女は祝福に反転してしまう。

 マンハッタンカフェは悟る。生きる悦びは、彼女の祝福なしには、もはや成り立たないことを。

 涙をぬぐう。

 澄んだ瞳で、カフェは夏野を見つめた。

「夏野さん、わたし、負けました」

 エヴェレスト北壁敗退を、はっきりと口にする。

「肩、貸そうか?」

 穏やかな表情で夏野は尋ねる。

「いいえ。左手を出してください」

 言われたとおり、夏野は左手を伸ばす。その薬指からは、本来あるべき物体が外されていた。

「登山のときは、つけないよ」

 心を見透かすように夏野は言った。カフェは、そっと彼女の手をとり、自らの顔の前にかかげる。そして間髪入れず、薬指を口の奥深くまで咥えこんだ。

 唇の隙間から白い歯がのぞく。舌で支えながら、カフェは指の付け根に軽く歯型をつけていく。優しく、慈愛に満ちた咬合だった。

 熱い口腔内から指が解放されたとき、そこにはぐるりと一周、噛み痕が残っていた。すぐに消えてしまう程度のくぼみ。だが、それはまぎれもなく指輪だった。バディに贈る目に見えない指輪。

「素敵なプレゼントだこと」

 指を広げてかざしながら夏野は笑う。

 カフェも笑った。これでいい。夏野と自分を結ぶのは魂の絆だ。金属の輪っかや、紙切れ一枚の婚姻届など、とうてい及ばない至高の絆。

 登山の敗北と引き換えに、マンハッタンカフェは、人生で最も得難い幸福を手に入れた。

 

 

 




エヴェレスト編、これにて終幕です。
残り4話、マンハッタンカフェと夏野の旅路をお楽しみください。


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第9話  あなたと勝ちたい

ウマ娘必須イベント回。


 北壁での懸垂下降という夏野の英断と献身的なマッサージにより、チベットからネパールに戻る頃には、マンハッタンカフェの脚はだいぶ回復していた。指先まで血が通っているのを確認し、夏野は安堵の息を吐く。会話がしっかりしているので脳機能は正常。肺や気管支から喘鳴も聞こえない。しかし、7000m以上の高地で、横にもなれない過酷なビバークを7日間にわたって強いられた身体は、疲労だけで力尽きそうだった。車中でも宿泊所でも、カフェはほとんど寝て過ごした。

 カトマンズにて、バルテンと別れる。感謝の気持ちをこめて、特別にチップを渡した。正規の料金ではないと彼は拒否したが、次にヒマラヤに挑むとき優先的に仕事を引き受けてもらうための前金だと説明した。アルパインクライマーにとって、信頼できる現地サポーターは、金銭では賄えない価値があった。

 その後、ふたりはタクシーで郊外の国際空港に向かう。

「プロジェクトU、どうでしたか?」

 成田空港行きの機内に乗り込みながら、カフェが尋ねる。

「やっぱプロの制作陣は違うね。場面の切り取り方がうまいというか、わたしも一緒に登ったはずなのに見入っちゃった。あれが編集の力かと思ったよ。大迫力の登山、そのクライマックスで、カフェ渾身の演説。放送直後から、もう日本中すったもんだの大騒ぎ。あなたの狙い通りだね」

 夏野は笑う。マンハッタンカフェの作戦は見事、日本人の心を揺さぶっていた。

 凱旋門で負けて、登山でも負けた、というカフェの主張。レースで負けているのは中央トレセンのウマ娘たちであり、登山で負けたのはカフェ個人なのに、まるで日本という国家そのものがフランスに劣っているかのような印象操作。口さがないネット住人は即座にブランハンニバルを叩き始めた。フランスへの対抗心の反動で、社会全体がカフェの登山活動を容認し、応援する空気に変わりつつあった。

 集団心理とは便利なものだとカフェは思う。ふだん、『わたしは日本人だ』と意識して生活している者はいない。しかし、対抗する集団が大きくなれば、自らの所属意識もまたそれにふさわしい規模にまで自然にシフトする。顕著なのはスポーツの国際試合。ただの個人が、テレビの前でだけ『日本人』に変身して、自国の代表チームを応援するようになる。その心理を利用し、カフェは五分足らずの演説によって、日本国民という漠然とした無意識下の巨大集団を味方に引き入れていた。

「ウマ娘関連の組織で沈黙してるのはURAだけ。何を聞かれても、ノーコメントの一点張り」

「そうでしょうね。下手なことを言えば、世論を敵に回してしまう。かといって放置すれば、国民とウマ娘の関心がレースから離れて、将来的な収益減につながる。さぞ悩ましいことでしょう」

 すこし得意げにカフェは言った。

 URA発足以来の大事件。引き金をひいた張本人はカフェだが、その舞台を整えたのはNUKの緑川常任理事だ。これ以降、日本におけるウマ娘の社会進出の在り方が変わるかもしれない。レース一辺倒ではない、それぞれの意志と能力で、人間との隔絶なく活躍できる国家。

 マンハッタンカフェと夏野は、まさに歴史の転換点に立っていた。

「そういうわけだから、カフェは帰国したら実家で休養ね」

 突然、夏野が言った。そのとたん、リラックスして垂れていた耳が跳ね上がる。

「……何がそういうわけなんです? 一緒に府中に戻るんじゃないんですか? あわよくば、そのままなし崩し的に同棲を」

 はっとして口を紡ぐ。いけない、本音が漏れてしまった。疲労による判断力の低下を、思わぬところで自覚する。

「マスコミは今、日本中の誰よりも、あなたを血眼になって探している。あろうことか日本の元G1ウマ娘がエヴェレストで世界初を競り合っていただなんて、そんな超特ダネをNUKに独占されてしまったからね。あと、実はわたしも追い回されてるんだ。マンハッタンカフェの元トレーナーだってこと、番組内でめちゃくちゃアピールされてた。それはもう感動的に」

 夏野は、自らの肖像権は全て制作側に委ねる、と緑川に伝えていた。その結果、どさくさに撮影された空港でのプロポーズ劇も、番組に盛り込まれた。中央トレーナーの職を辞してまで元担当のカフェを支え、愛する男にプロポーズされても命がけの登山に同行する過程が、視聴者の心を掴むための演出としてナレーションに利用されていた。

 モンブラン登頂をめぐるURAとの確執、辞職の真相、カフェとの関係性など、マスコミにとって夏野はカフェと並ぶネタの宝庫だった。

「わたしも、いっとき東京を離れたい。それで、カフェの御両親に相談したんだ。今後のこととか話し合いたいし、カフェと一緒に―――」

「ぜひ、我が家にいらしてください! 美瑛はいいところですよ。目と鼻の先に大雪山系の山がありますし、トレーニングも休養も思いのままです。気に入ってもらえたなら、いっそ定住してもらっても大丈夫ですよ」

 夏野の言葉を遮るようにカフェが力説する。疲労が抜けきらないせいで、少し掛かり気味になっているな、と夏野は観察する。

「定住はおいといて、カフェの御両親から許可はいただいたよ。バカな娘にしっかりお灸を据えたいから、首根っこ掴んで連れ戻してくれって頼まれた」

 それを聞くと、上機嫌だった耳がみるみる前に垂れ下がる。ごく稀に見せてくれる渋面を、夏野はひそかに『紅茶顔』と呼んでいた。心配をかけた両親に負い目を感じる程度には、まだまだカフェも年頃の少女ということだ。

 紅茶顔を見た夏野は、ふと思い出す。

「そういえば、緑川さんが言ってた例の『極楽カフェ』、ほんとにグッズ化されたよ。表情のバリエーション合わせて全六種類。いまやURAのぱかプチを上回る売れ行きだってさ」

「……あの人ならやりかねないと思っていましたが、やはりそうなりましたか」

 カフェは盛大に溜息をつく。しかし若干、耳が復活していたので、自分のグッズが現役競走ウマ娘のぬいぐるみよりも売れていることは素直に嬉しかったようだ。

 府中に戻ったら、荷物を整理してすぐ羽田空港から旭川まで移動するつもりだった。できるだけパパラッチなどのマスコミ関係者を避けるためだ。しかしカフェは、どうしても一か所寄りたいところがあるという。

「今回のエヴェレスト北壁敗退を、緑川さんに報告しておこうと思います。カメラの映像データと、ビバーク中の手記も含めて。彼女ならばいずれ、うまく料理してくれるでしょう」

 こともなげにカフェは言った。

 内心、夏野は反対だった。カメラには、モンブラン登頂のリークをカフェが意図的に仕組んだことまで記録されている。万が一、情報が流出すれば、カフェは一転して窮地に立たされる。人気が高まっているときほど、それをひっくり返そうとする性根の腐った輩もまた活性化する。しかし、カフェの「彼女を信用しています」という一言で、夏野は反論を胸におさめた。

 成田空港に降り立ってすぐ、夏野は緑川に連絡を取った。常任理事の立場にありながら、緑川は、わざわざふたりのために都内支局に会議室おさえ、そこまで出向いてくれた。そこでカフェは、包み隠さず全てを話した。登山過程のみならず、夏野と両親を騙してまで単独行にこだわった心情さえも。

 たった三人だけの会議室で、緑川は黙って聞いていた。カフェが全てを話し終えても、何かを思案するように目を閉じている。おそらく二手、三手先の情勢を読んでいるのだろう。夏野には想像もつかない、権謀術数の世界。

「情報ありがとう。むろん部外秘として扱うので、安心してくれたまえ」

 しばらくして、緑川は口を開いた。

「しかるべき時がきたら、よろしくお願いします」

 カフェが頭を下げ、緑川はうなずく。それだけで両者には通じ合うものがあるようだった。

「お礼に、こちらからも有益な情報を教えよう。パリ支局の社員から昨日連絡があってね。例の葦毛ちゃんが、インドネシアに向かったらしい」

 その言葉で、カフェの眼光が一気に鋭さを増した。

 登山家の間でインドネシアといえば、オセアニア最高峰・カルステンツピラミッドだ。標高は4884mほどしかないが、恐竜の背びれのような荒々しく切り立つ岩壁を登るには、高度なクライミングスキルが必要となる。

 葦毛の怪物にとっては赤子の手をひねるようなものだろうが。

「カフェが北壁に挑んでいる間に、ハンニバルはフランスのテレビ番組の企画で、キリマンジャロにも登頂してる。カルステンツピラミッドを落としたら、六大陸の最高峰を制した世界初のウマ娘になる」

 夏野が補足する。アフリカ最高峰のキリマンジャロは、トレセン入学前のウマ娘たちを引き連れた『ハンニバルキッズ隊』によって、いとも簡単に登頂された。葦毛の怪物にとって、それはもはや登山ではなくエンターテイメントであり、自らのPR活動にすぎなかった。

「値千金の情報です。ありがとうございました」

 とくに焦りを見せないまま、カフェは緑川に言った。これ以降、ハンニバルについて言及することはなかった。黄金の瞳は、次の戦いだけを見据えるかのように、泰然とした輝きを放っていた。

 

 支局を後にしたふたりは、慌ただしく荷造りをして旭川に飛んだ。徹底した変装で窮屈なはずなのに、カフェは終始ご機嫌だった。しばらくの間、夏野を独占できるからだ。これからは天皇賞秋やジャパンカップ、有馬記念といった大きなレースが続く。北海道までは広田も追って来られまいと、悦に浸っていた。

 旭川から在来線を乗り継ぎ、美瑛町にたどりついたとき、すでに日が暮れていた。

 カフェに案内されたのは、田園地帯を抜けた先にある、小さな喫茶店だった。ログハウス風の、瀟洒な外見。ガラス扉には、『MERU』という店名が印字されている。酒類を提供しない、いわゆる純喫茶だった。

 マンハッタンカフェの両親、石黒和夫・秋穂夫妻は、揃ってふたりを出迎えた。カフェのみならず、夏野にとっても久々の再会だ。初めて顔を合わせたのは、カフェとチームを立ち上げたときだった。夫妻は、遠路はるばる府中まで挨拶に出向いてくれた。ふたりの穏やかで飾らない人柄は、夏野を驚かせた。マンハッタンカフェの底知れぬカリスマ性や女優適性の継承元とは思えなかった。唯一、面影があったのは、母親の外見だけだ。艶やかな漆黒の髪に、はかなげな輪郭の白い肌。元競走ウマ娘であり、現役時代は『サトゥルチェンジ』という名前だった。

 夫妻は、無断登山したカフェを、しこたま叱りつけた。そして、繰り返し夏野に礼を言った。娘の命の恩人である夏野には、これからもカフェの手綱を握っていてほしいと懇願する。

 トレセン入学まで、あのエキセントリック漆黒娘を育ててきた人たち。その気苦労は察して余りある。しかし、彼らは心からカフェを愛していた。カウンターの奥に飾られた、家族での登山写真。そして、出窓の縁には、百面相する極楽カフェがずらりと並んでいた。

 手の込んだ夕食を共にしたのち、カフェはすぐ自室に引っ込んでしまった。疲労もあったのだろうが、大人同士の会話に気をきかせてくれたらしい。

 石黒夫妻とは、カフェの話題で大いに意気投合した。とにかく手のかかる娘であることが、三人の絶対的な共通見解だった。

「正直に申しますと、娘は中央で挫折すると思っていました」

 元競走ウマ娘の秋穂が言った。カフェとよく似た、低く落ち着いた声質。

「あの子の走る姿が他のウマ娘と違っていることは、幼少期からなんとなく分かっていました。でも、理由までは分からなかった。肉体的素質の優れた娘ほど、成長するにしたがって勝ちたいという欲求が強まり、より上のグレードのレースでの活躍を望むようになります。でも、カフェは違いました。たぶん物心ついたときから、ずっと何かに挑み続けていました。競う相手がいなくても、原っぱを駆け回っているんです。楽しいとか、嬉しいとか、そういう気持ちではなさそうでした。お腹のすいた赤ちゃんが泣き叫ぶみたいな、本能的な渇望とでも言うのでしょうか」

「見かねた私たちは、カフェを登山に誘ったんです」

 和夫が口を開く。若い頃は海外の山に挑んでいた、本格的な登山家だった。

「小学校に入る前でした。いつも空虚な目をしていたカフェが、山にいるときは年相応の表情を見せてくれました。たぶん、あの子にとって登ること自体が挑戦だったと思います。ですが、山を共にできたのは、カフェが10歳になるまででした。私では、もう登攀スピードに追い付けなくなりました。辛うじて妻が同伴していましたが、不注意から怪我をしてしまいまして。それ以来、カフェは私たちを登山に誘わなくなりました。関心も、レースに移っていったんです」

 両親の証言で、夏野はカフェの知られざる歴史を垣間見た。カフェは、いわゆる才能に恵まれたウマ娘だった。シンボリフドルフ以来の快挙を成し遂げ、日本代表として凱旋門賞に挑めるほどの。それゆえに、幼少の頃から、ずっと孤独を背負っていたのだろう。

 人間との肉体的格差。

 競走ウマ娘との精神的格差。

 ふと、6月の編集会議で、『孤独はつらいですからね』と呟いたカフェの姿を思い出す。夏野が小学生の頃など、男子と混じって無邪気に校庭を走り回っていた記憶しかない。そのような時分から、カフェは周囲との隔絶を理解し、独り渇き続けていた。走りの才覚が開花し、地元では負けなしとなった後も、娘を中央のレースに挑戦させることを両親は不安に思っていた。

「わたしもトレーナーのもとで走っていたのでわかります。カフェは、間違いなく気性難に分類されるウマ娘です。競走ウマ娘に求められるのは、走って勝つこと。それだけです。そこに余計な矜持や精神的満足感を持ち込まれるのは、トレーナーにとって面倒でしかない。だから、いつか夏野さんとも衝突して、その後はどこのチームにも属せないまま学園から追い出されるんだろうなとさえ思いました。でも、夏野さんは娘をお見捨てになりませんでした。G1三勝だけでも生涯の誉れですのに、まさか怪我で走れなくなったカフェのためにトレーナーを辞してまで、娘の新たな挑戦にお付き合いくださるなど。本当に感謝しかありません。もしわたしの現役時代、あなたがトレーナーであったなら、わたしは絶対の忠誠を誓ったでしょう」

 穏やかな声が、徐々に熱を帯びてくる。この情熱的な語り口は、なるほどカフェの母親だと夏野は思った。心なしか瞳も鋭さを増している。

「ですから夏野さん、娘に無理難題を押し付けられ、本当に命の危険を感じたときは、どうか遠慮なさらず、私どもに伝えてください」

 ヒートアップしかけた妻を遮るように、和夫は言った。

「カフェの、娘の気性は重々承知しています。今までも散々ご迷惑をおかけしたでしょうし、これからも、あなたを振り回すはずです。しかし、あなたは家庭を持つ身です。娘が、あなたのみならず、周りの大切な人まで巻き添えにしてしまったとあっては、我々は世間に顔向けできません。どうか、御自分の心に正直でいてください。その答えが否であれば、私たちが、カフェをあなたから引き離します。命に代えても」

 決意のこもる目で、和夫は言った。

「ありがとうございます。そういうことがあれば、すぐに相談させていただきます」

 夏野は頭を下げる。

 決して大げさな表現ではなかった。現役年齢の暴れるウマ娘を止めるのは、まさに命がけだ。拳の一振りですら、当たり所が悪ければ人間ひとり殺しうる。マンハッタンカフェの親であることは、娘の行いに死すら辞さぬ責任を負うことを意味する。夫婦の覚悟に、素直に感服してしまった。

 その後は、学園でのカフェや、友人アグネスタキオンのことで和やかに歓談した。この一晩のうちに、すっかり夫婦と打ち解けることができた。

 夏野にあてがわれた部屋は、居住スペースとなっている二階。登山シーズンには、親しい友人に宿泊所として提供することもあるゲストルームだった。カフェの部屋の向いだった。同室にしてほしいというカフェの願いは却下されたようで安心する。シャワーを浴び、自室に戻ると、向かいの扉からカフェが顔を出した。

「明日からの予定の相談なのですが……」

 珍しく、遠慮がちに耳をふせるカフェ。両親に絞られたのは、さすがに堪えたようだ。

「分かった。そっち行ってもいい?」

 夏野の言葉で、ぱっと表情が明るくなるカフェ。たまに見せる年頃の少女らしさは、いつも夏野をほっとさせる。

「コーヒーを淹れてきます。ベッドに座って、くつろいでいてください。寝転がってもいいですよ」

 そう言って、そそくさとキッチンに急ぐカフェ。

 トレセン入学までカフェが生活していた空間に、夏野は初めて足を踏み入れる。

 予想通り、シンプルで小奇麗な部屋だった。簡素な木製ベッドと勉強机。登山用具はきちんと整備されて、壁際に立てかけられている。本棚には、背丈のバラバラな書籍が隙間なく詰まっていた。英字のタイトルもある。写真やぬいぐるみなどの装飾は皆無だった。唯一、子どもらしさを偲ばせるのは、壁に貼られた地図だ。

 最初、何の地図なのかピンと来なかった。よく目を凝らすと、見覚えのある形を左下に発見する。逆さまになった日本列島。これは世界地図だ。北極ではなく、南極を頂点にした地球の俯瞰図。

 小学生のカフェは、何を思ってこの一風変わった地図を部屋に掲げたのだろうか。

 しげしげ眺める夏野のもとに、マグカップを携えたカフェが戻ってきた。今日のコーヒーは、いつもより華やかに香り立つ。今宵は寝かさないというストレートな想いが込められた一杯だった。促され、ベッドに座る夏野。

「トレーニングがてら、旭岳・トムラウシ山の縦走に行きませんか?」

 隣に腰を下ろしながら、カフェは言った。ハイキングにでも行こうとばかりの気楽さで、テント泊の縦走を提案してくる。ふたりの実力を考えれば、三泊四日ほどの日程になるはずだった。

「最終日は、ゆったり温泉に浸かれますよ。たまには、のんびり登山を楽しみましょう」

 囁くようにカフェは言った。登山後の温泉。その誘惑に耐えられるはずもなく、あっさり夏野は承諾した。

 翌日、互いに装備を点検したのち、MERUを後にする。夏野の同行を、石黒夫妻は喜んで承諾してくれた。

 麓のロープウェイまではバスで向かう。ここが縦走のスタート地点だ。秋のハイシーズンであり、ロープウェイを使わない登山客も多く見られた。カフェは、今や競走ウマ娘よりも登山家として名を馳せているようで、声をかけてくれる人は皆一様に次の登山の応援をしてくれた。

 今回の縦走は、難易度においてはアルプスやヒマラヤとは比べるべくもない。しかし、夏野にとっては新鮮な体験だった。これまでの、岩と氷ばかりだった山とは違う。微かに漂う硫黄、木々や草のにおい。生命の存在が許される世界。

「トレセンに入る前は、大雪山系をトレイルランしていました。走りと登山を両方味わえる、いいトレーニングでした」

 先導しながらカフェは言った。著名な登山コースは、カフェにとって庭のようなものだった。幼いカフェが、縦横無尽に山岳地帯を駆け抜ける様子が目に浮かぶ。

「歩くだけの登山もいいもんだね。プレッシャーないから、純粋に楽しめる」

 夏野の言葉に、すこし不思議そうな顔をするカフェ。

「……確かに、これは楽しいのかもしれません。久々です、楽しさを実感できるなんて。両親と登ったとき以来です」

 にこりと笑うカフェ。

 不意に訪れる胸の痛みを、夏野は無視した。憐れみや同情など、彼女には不要だ。前を行くバディが求めるのは、共に登っているという現実だけだ。

 行程は順調に進み、雪崩や落石の心配がないテント泊を満喫したのち、最終目的地であるトムラウシ山の温泉旅館に辿りつく。カフェが気を利かせて、宿泊の予約をしてくれていた。

 夕食前に温泉に行こうとカフェに誘われる。ノリノリで応じる夏野だが、大浴場に向かう途中で、ふと気づいた。

 カフェと一緒に入浴したことなど、一度もない。

 トレセンにいた頃はウマ娘寮とトレーナー寮は隔離されていたし、同棲を始めてからも、せまい浴室にふたりで入ることはなかった。

 いったん気にしてしまうと、どうにも落ち着かなくなる。この美しい娘の前に晒していい身体なのか、少し不安でもあった。過酷な登山に耐えるため、トレーナー時代よりも体脂肪率が増えている。だらしない肉体に見えないだろうか。

 悶々とする夏野をよそに、脱衣所にてカフェはさっさと自らの衣服を剝ぎ取っていく。元担当トレーナーだから、カフェの身体など見慣れている。しかしそれは、あくまでレースに関係する部位だけだ。下着で隠されたプライベートゾーンは完全に未知の領域だった。

 同性だから気にする必要などない。分かっていても、彼女の肌を直視することは憚られた。

 何か、神聖なものを侵すような気がしてならなかった。

「先、入ってますね」

 一糸まとわぬ姿になったカフェは、美しい黒髪をなびかせて浴場に入った。おかげで、ひと息入れることができた。勘の鋭いカフェの前で、これ以上挙動不審を晒したくはない。普段どおり身体を洗う。屋内の岩風呂にカフェはいなかった。ここは露天が売りだと聞いていたから、そちらに入っているのだろう。心を決めて外扉を開く。

「夏野さん、こちらです」

 黒髪を結い上げ、とっぷり肩まで浸かったカフェが手を振っている。こちらの姿は、カフェから丸見えだった。気恥ずかしさを押し殺して、ゆっくりカフェの隣に腰を下ろす。トムラウシ川の清流を眺めながら、足を伸ばし、大きく息を吐く。筋繊維と神経がほぐれ、心の淀みさえ湯に溶けだしていくかのような悦楽だった。

 しかし、カフェは目の前の絶景に一瞥もくれない。金色の瞳は、ひたすら夏野に向いていた。景色を眺めるふりをして、夏野はカフェの眼光から視線をそらす。ここの湯は、濁りがほとんどない。今さら隠すに隠せないため、もう好きにしてくれと開き直るしかなかった。

「脚の調子、だいぶ良くなりましたよ。ありがとうございました」

 脚をVの字に広げるカフェ。元トレーナーとしての本能から、つい目線を向けてしまった。現役時代よりも、肉付きのよくなった両脚。鉄条網のような筋肉が詰まっているとは思えない、真っ白でしなやかな曲線を描いている。

 だが、さすがに脚だけをピンポイントで見ることはできない。

 図らずしも、カフェの赤裸々を視界全体に収めることとなった。下心がないとはいえ、頬は上気し、心臓はうるさいくらい高鳴り始める。

 規格外の美しさだった。しみひとつない雪面のような身体、可憐にふくらむ胸部、あどけなさの残る頬の稜線。少女らしい魅力の全てを鋭さに反転させる、底知れない知性と意志の強さを湛えた瞳。

 見惚れないほうが、どうかしている。

 ばしゃりと湯を顔にかける夏野。横目でカフェを見ると、口角をあげてご満悦の表情だった。まさか、自らの裸体を見せつけるために、脚の話題を振ってきたのだろうか。

 たぶんそうだろうな、と夏野は溜息をついた。

「……次に登りたい山なんですが」

 カフェが口を開く。やや声のトーンを落としていた。

「やはり、難易度が高くなります。山自体の難しさより、それを取り巻く環境、辿り着くまでの道のりが桁違いに厄介です」

「いつ?」

 夏野が尋ねる。驚いたように目を見開くカフェ。

「できれば、今年の12月から、来年の1月末くらいまでの旅程を考えています」

 それを聞いた夏野は、しばらく宙を見つめる。

 12月以降は、冬季登山となる。あらゆる山を地獄に変える、魔の季節。しかし、おそらくカフェは冬季登頂の勲章を狙っているわけではない。

「あなたが登りたい山の名前をズバリ当てることができたら、ひとつ、わたしのお願いを聞いてほしいんだけど」

「いいですよ。バディを解消すること以外なら、どんな願いでも叶えてあげます。先に答えからどうぞ」

 少し弾んだ声でカフェは言った。こういう賭け事をもちこむのは、おおむねカフェばかりだったので、夏野から挑戦されたのが嬉しかったようだ。

「北壁に挑んだときの気持ちが消えていないなら、あなたは今もライバルの背中を追っている。わたしたちの師である、葦毛の怪物との決戦を、あなたは望んでいる」

 ゆっくりと推理を披露する。

「ネパール・エヴェレストのときは、ハンニバルの動向が読めなかったけど、今は分かる。彼女は若い頃、モンブラン、デナリ、アコンカグアを登頂している。そして今年、エヴェレスト、キリマンジャロ。今回挑戦しているカルステンツピラミッドを制したら、もう残っている山はひとつしかない。セブンサミット最後の一角。この世界の、あらゆる山のなかで、もっとも人類文明から遠い場所」

 ヴィンソンマシフ。

 夏野は、その名を口にする。

「南極大陸最高峰。ブランハンニバルは、この山を制することで、史上初の七大陸最高峰を完登したウマ娘として歴史に名を刻むことになる。おまけに、ヴィンソンマシフはウマ娘未踏の地。かつて南極点に立ったイギリスのウマ娘と並び称される偉業。まさに世界の頂点を争う大舞台だ。あなたは、そこで戦いたいと思ってる」

 断言する夏野。バディの見解に、カフェは満足そうに微笑んだ。

「正解です。ヴィンソンマシフこそ、登山家マンハッタンカフェの凱旋門。リベンジの地です」

 カフェは言った。夏野を見つめる目が、鋭さを増していく。

「対外的な理由だけではありません。子どもの頃、『サウスポール・ヒーロー』を初めて読んだときから、南極はわたしの憧れでした。強い意志と力がなければ、立ち入ることさえ許さない、雪と氷の世界。その中に聳え立つ山など、極地のなかの極地。地球のてっぺん。わたしは南極点よりも、ヴィンソンマシフに恋焦がれていたのです。むろん、本当に行けるとは思っていませんでした。レースを走っている間は、内なる渇望を忘れることができましたから。でも、今は違います。登山家としての実力があり、知名度があり、時流を味方にしている。何より、あなたというバディを得た。競走ウマ娘である限り、絶対に手に入らなかった永遠の絆を。だから、わたしは挑みたいんです。日本から遥か1万5千キロ。その果てしない夢の舞台に。誰にも譲りたくないんです、この山の初登だけは。どれほど困難で、どれほど危険があろうとも、わたしは―――」

 あなたと勝ちたい。

 マンハッタンカフェは、澄んだ瞳でそう言った。

「いいよ」

 夏野は即答する。もとより、そのつもりだった。対等なバディとして、自らの意志と責任で選び取った人生だ。

「のぼせてきたし、そろそろあがろうか」

 これ以上、話し合うことはないだろう。カフェは欲しかった答えを得たはずだ。夏野は脱衣所に戻る。その後ろを、カフェがついてくる。嬉しそうに尻尾を揺らして。

「ところで、夏野さんのお願いって何ですか?」

 バスタオルで身体をぬぐいながら、カフェが尋ねる。

「髪をね、触ってみたいなって」

 照れたように夏野は言った。一瞬きょとんとするも、可笑しさと落胆が混ざり合ったような、複雑な表情をするカフェ。

「ちょっと内容が軽すぎやしませんか? もう少し大胆にわたしを求めてくれても……」

「いいから。ほら、乾かすよ」

 そう言って、浴衣姿のカフェを鏡の前に座らせる。ドライヤーを当てながら、丁寧に髪を梳く。

 想像していたよりも遥かに、滑らかな手触り。黒の光沢が、さらさらと指の間から流れ落ちていく。真っ白な肌とのコントラストが眩しい。

 マンハッタンカフェの身体で、唯一、無目的に触れてもいい場所。密かに憧れていた、彼女の象徴とも言える漆黒の髪。今のうちに堪能しておく。カフェは気持ちよさそうに、耳を横に倒していた。

 客室に戻り、夕食を共にする。久々の布団の魅力に抗えず、夏野はすぐ眠りについてしまった。

 カフェはひとり、旅館の外に出る。観光客の姿は見えず、旅館の明かりだけが、神々の遊ぶ庭に人の営みを灯している。

 スマホで国際電話をかける。かつての友情を記念して教えてもらった番号だが、使うのは初めてだった。

『ボンジュール』

 ほどなくコールが止まり、馴染みの声が聞こえだす。

『いや、日本はもう夜でしたか。お久しぶりです、カフィ』

「ご無沙汰しています、ブランハンニバル。少々お時間よろしいでしょうか?」

 畏敬と戦意をこめて、師の名を呼ぶ。ハンニバルは、あっさり了承してくれた。弟子から連絡を貰えたことを、素直に喜んでいた。聞かれもしないうちから、現況を喋り始める。

 オセアニア最高峰のカルステンツピラミッドは、葦毛の怪物の前にあっさりと陥落した。今は隊員の労いを兼ねて、会社運営のためフランスに帰国しているらしい。

「6大陸最高峰の登頂、おめでとうございます」

『祝福の言葉は、まだ早いですよ。世界に大陸は七つあり、それぞれに最高峰が存在する。あとひとつ、獲るべき頂点が残っています』

「やはり行くのですね、南極へ」

 カフェの問いに、きっぱり『はい』と答えるハンニバル。その声に、迷いも憂いもなく、ただ絶対的な意志だけが込められていた。

『これを成し遂げて初めて、わたしは声高に宣言できるのです。ウマ娘は、もはや人間の管理下で地べたを駆けずり回るだけの生き物ではない、と。心の渇望が示す道に、自由に進んでいけるのだと証明したい。行く手に障害があるならば、それが人間だろうと何だろうと、自由に跳ねのける権利があることを』

 競走ウマ娘時代から彼女を突き動かしてきた原動力。心のなかで何度も繰り返してきた自由で在りたいという動機を、静かな声でカフェに語り聞かせる。

『言葉にして聞かせたのは、あなたひとりです。本音を振りかざすだけでは、スポンサーはつきませんからね。隊員は薄々、わたしの人間嫌いを察しているようですが』

 愉快そうに笑う葦毛の怪物。

「あなたの野望に、わたしは挑戦します。ヴィンソンマシフは、わたしにとって特別な山です。その初登を譲るつもりはありません」

 カフェもまた、堂々と宣戦布告する。

 ここに、ひとつの山頂をめぐり、白と黒の両雄が激突した。

『いいでしょう。受けて立ちます。あなたも承知の通り、登山にはレースのようなスターティングゲートはありません。身体能力、資金力、人脈、時間、あらゆる要素における総力戦です。しかし、今回は、あなたが同じ山頂を目指していることを知ったので、フランスを発つ日時だけは記者会見で公表します。不意打ちで勝ったなどと思われるのは、わたしのプライドが許しませんから』

 言葉とは裏腹に、嬉しそうにハンニバルは言った。

「わたしも、そうするつもりです。おそらく、公表はあなたのほうが早くなると思いますが。その際は、エヴェレストのときのように利用させてもらいます」

『あの手紙は、どうやら役に立ったようですね。レースしか見えていない日本人を焚きつけることができたなら幸いです』

 笑うハンニバル。カフェの思った通り、彼女は彼女なりの方法で背中を押してくれていた。

『ですが、ここからは、もう敵同士です』

 一息のうちに鋭さを増す口調。空気が変わったのが、スマホ越しでも分かる。

『あなたは、わたしではなく、あの人間を選んだ。そのこと自体、どうこう言うつもりはありません。しかし、あの人間と共に、わたしに挑戦するというのなら、容赦なく叩き潰してあげましょう。これはウマ娘による偉業であって、人間ごときが介入する余地はない。あなたたちの登山は、わたしの思想を根底から否定するものだ。ゆえに絶対、わたしは勝ちます』

 本気になった怪物の声。奈落の底に突き落とされるかのような、まさに命を脅かす神威だった。しかし、カフェは一歩も引かない。その精神は、バディの手でしっかりと確保されている。

「あなたは人間を見限った。わたしは希望を見出した。それだけのことです。絶対に負けません。わたしの夢を叶えるため、そして共に戦ってくれるバディのために、わたしは勝ちます」

 カフェは言った。しばらく沈黙するハンニバル。やがて、乾いた笑い声が聞こえた。

『武運を祈っています。わたしのバディにならないなら、せめてライバルになってください。わたしが競い合うに足るライバルに』

 通話が切れる。

 やはり彼女も孤独だったのだ、と客室に戻りながらカフェは思う。ブランハンニバルとは、在り得たかもしれない自分の姿だ。もし夏野蘭と出会わず、レースでの成績不振や怪我で学園を追い出されたら、人間に絶望していたはずだ。無茶な単独行に挑み、今ごろどこかで野垂れ死んでいたかもしれない。

 孤独は辛い。

 生きることには、あらゆる苦しみがつきまとうが、最期に向き合わなければならないのが孤独だろう。エヴェレスト北壁で死を覚悟したときもそうだった。生きるか死ぬかは、結果論でしかない。死が迫ったとき、この世界にたったひとりでも、魂に寄り添ってくれる存在がいるかどうか。それが重要なのだ。

 暗い部屋。静かに寝息を立てる夏野。バディの布団に、そっと潜り込む。その体温と匂いを全身に浴びて、カフェは現世の幸福を噛みしめる。

「ありがとう、夏野さん。わたしは救われたよ」

 そう呟き、愛しい人間の寝顔を見納めながら、カフェはゆっくりと瞼を閉じた。

 

 




カフェと夏野、久々の休息。

温泉イベントを書けて満足しました。


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第10話 地球のてっぺん

ヤンキー「マンハッタンカフェは南極に行けない? 何言ってんすか番長、カフェはこんなに頑張ってるじゃないっすか!」

番長「頑張ることは誰だってできる。それで行ければ苦労はないさ。もしカフェが南極に行けたら……」

番長「頭を丸めてやるぜ」




 縦走訓練を続けた結果、カフェの脚は完全に復調し、後遺症もないことが明らかになった。10月に入るとすぐに、ふたりは東京に戻った。行先が南極となれば、これまで以上に煩雑な手続きが必要となる。また、スポンサーの確保も急がなければならない。

 まずは、最大手のスポンサー候補であるNUKに情報を伝える。ブランハンニバルのヴィンソンマシフ登頂宣言と、それに対するマンハッタンカフェの挑戦。世界中の、どのメディアも知り得ない特ダネだった。

 カフェの報告を受けて、緑川はやて常任理事は、異例の決断を下した。

 プロジェクトU第二弾。『漆黒の摩天楼・白い大陸への挑戦』と仮題された、新たなるドキュメンタリーの制作だった。同じ主人公で、連続するタイトルの撮影が行われるのは、プロジェクトU史上初めてのことだ。

 緑川によれば、ヴィンソンマシフ登頂にかかる費用は、過去のデータから算出すると、エヴェレストのときより、ひとりあたり200万円ほど安い。人員も、半分の15人程度で賄えるとのことだった。しかし、南極の自然環境は、エヴェレストよりも遥かに厳しい。12月から1月末という短い夏季に、どれほどの悪天候に見舞われるか予想がつかない。チリから航空機で南極入りするのが最短ルートだが、天候次第で何週間もフライトできないこともある。

 そして番組としても、二度目の収録であるため、同じ結末は許されない。勝利しなければ、全てが水泡に帰す。

 それでも挑みたいと、マンハッタンカフェは制作陣に告げた。

 チーム・シェアトの再戦。以前に参加した撮影スタッフは大いに奮起した。貫谷をはじめ、プロのガイド登山家も同行を快く引き受けてくれた。世界の頂点を共にしたチームの絆は、いまだ健在だった。

 しかし、順調なのは、ここまでだった。

 南極旅行には、特別な手続きが必要となる。南極条約の加盟国である日本は、極地の環境を守るため、南極における活動内容を『確認申請』として環境省に届け出なければならない。むろんNUKは、万全の申請書を提出し、全員の渡航が認められた。

 ウマ娘である、マンハッタンカフェを除いては。

 却下理由を読んだ制作陣は愕然とした。南極環境保護法に規定される渡航許可は、あくまで人間を対象としたものであり、ウマ娘は法の埒外であるという見解だった。確かに、これまでウマ娘が南極渡航を望んだ例はないし、これからも想定していない事態だ。しかし、それだけで法の適用範囲を狭めるのは、いくらなんでも恣意的解釈が過ぎる。

 人間とウマ娘。レース至上主義の国で、のらりくらりと息を潜めていた両者の分断が、初めて浮彫になった。

「URAが圧力をかけたんだろう。これ以上、国民の興味がレースから逸れるのを防ぐために。そうでなければ、こんな屁理屈など持ち出さない」

 緊急招集された会議にて、緑川は言った。その目は、冷たい怒りを孕んでいた。

「ハンニバルの動向から、わたしの次の一手を読んでいた者がURAにいたなんて。既得権益に溺れたバカの集団ではないってことですか……」

 低い声でカフェは言った。

「法的に、我々が取り得る手段はふたつ。環境省に対し、不服申し立てをすること。あるいは、裁判所に処分取消の訴えをすること。いずれにせよ、時間がかかりすぎる。審理が終わる頃には、夏季が過ぎてしまう。URAらしい、姑息だが有効な策だ」

 帽子の縁を指ではじきながら、忌々しげに緑川は呻いた。法律の改正など、それこそ何年先になるか分からない。

 打つ手なしと思えた矢先、口を開いたのはカフェだった。

「ひとつだけ、方法があります」

 その言葉に、制作陣全員が注目する。

「南極条約には、加盟国に対する接岸場所の割り当てや物資輸送の方法が定められています。その文言に、あるんですよ」

 カフェは、条項の日本語訳を読み上げる。『加盟国民が南極大陸に立ち入る場合は、割り当ての接岸区域から行うものとする。ウマ娘においても同様である』。本来、この文言は、人権意識に乏しかった敗戦国が、南極でウマ娘に強制労働させることを防ぐためのものだった。しかし、逆に言えば、割り当ての接岸区域であれば、ウマ娘の渡航を認めるという意味になる。

「条約は、国内法よりも上位であると最高裁も判断しています。わたしは空路では南極に入れませんが、海路ならば可能です」

 カフェは言った。現状、唯一の希望。しかし、会議室内は静まり返っていた。

 それが荊の道であることは、全員が理解していた。

 プリンスハラル海岸。敗戦から10年後のブリュッセルで開催された国際会議にて、日本に割り当てられた接岸区域だ。Inaccessible(接岸不可能)とさえ呼ばれ、欧米諸国が匙を投げた場所。分厚い氷に守られ、とても船舶が立ち入れる海域ではない。この会議で、日本は唯一の敗戦国だった。ドイツやイタリアといった白人国を差し置いて、敗戦国の黄色人種が南極探索に加わることを各国は歓迎していなかった。国際社会に日本の底力を見せてやろうと、あらゆる分野の専門家たちが総力を結集し、ついにリュツォホルム湾の海氷を切り拓いた。昭和基地の誕生である。

 今なお、その海岸まで辿り着ける航海能力を持った船は、『砕氷艦しらせ』だけだ。厄介なことに、しらせは民間の船ではない。防衛省海上自衛隊の管理下にある。そして、しらせが南極に向かうのは年に一度だ。越冬交代と呼ばれる、一年間南極で過ごした観測隊員と、新たに派遣された隊員の交代や、燃料物資の補給のため、例年11月末ごろに横須賀から出向する。

 海上自衛隊員のほかに、しらせに乗艦できるのは、気象庁や国土地理院といった国家機関、大学などの研究機関や民間企業から派遣される、南極地域観測隊だけだ。マンハッタンカフェが南極に行くためには、観測隊の一員として参加しなければならない。

 派遣元となる組織が、URAの威光に逆らってまで、カフェを受け入れてくれるかどうか。それが問題だった。

「よし、それでいこう」

 きっぱりと緑川は言った。

「他に手がないのなら、突き進むのみだ。まずは、世論を味方につかなければならない。今回の、マンハッタン嬢に対する環境省の不当処分を、公表しよう」

 迷いのない声だった。メディア戦略はお手のものだ。あくまで公平なる報道者として、カフェの渡航拒否の事実を報じる。そのニュースをどう思うかは、国民の判断だ。URAを直接叩く内容でもないため、NUKの立場が悪くなることもない。そうでなくとも、莫大な放送権料を支払っているNUKに対しては、さしものURAも強気な態度には出られない。

 緑川の隣に座っていた役員は、あからさまに安心した表情を浮かべていた。URAとの関係が、これ以上こじれることを嫌がる穏健派もまた、社内で一定の勢力を保っている。

「それだけでは足りません。『北壁』を使いましょう」

 カフェは言った。ここにいる人間で、その言葉の意味が分かるのは、夏野と緑川だけだった。

「切り札は、使うタイミングが肝心だ。それまでに、わたしは社内各セクションに根回しをしておく。番組の最後には、きみに生出演してもらおう。全国民に直接、訴えるのだ。これを放送すれば、もう後には引けない。URA、そして日本政府との全面戦争になる」

 緑川の発言に、安堵の顔から一転、役員は急激に青ざめていった。制作スタッフ一同もまた、何か途轍もなく巨大な戦いが起ころうとしていることだけは理解できた。

「結果がどうであれ、全責任はわたしが取る」

 朗々たる声で緑川は言った。広がりかけていた動揺が、ぴたりと凪いだ。

「わたしは、マンハッタンカフェに夢を見ている」

 カフェをまっすぐに見つめ、緑川は口を開く。

「この国の常識もルールも蹴散らして、自らの望む未来を切り拓く。そんな若いウマ娘の姿を、きみの背中に見ているのだ。どうか、わたしの夢も連れていってくれ」

 緑川の願いに、カフェは真剣な目で頷いた。

 

 10月6日、全国の報道機関が、環境省のカフェに対する処分を一面ニュースとして取り上げた。緑川は、このネタを独占せず、報道前に各社に情報共有を行っていた。ガソリンを撒いたうえで、野に火を放ったのである。先月に放送された、プロジェクトUの効果は絶大で、瞬く間に環境省に批判のメールや電話が殺到した。さらに追い風となったのは、フランスで行われたブランハンニバルの会見だった。南極最高峰ヴィンソンマシフを落とし、ウマ娘として世界初のセブンサミッターになることを宣言した。万全の体勢を整えたうえで、出発日を12月15日とした。チリ南端から空路で、ふもとのベースキャンプに入る最も合理的なルート選択だった。

 会見の最後で、彼女はセンセーショナルな発言を残した。

『わたしに挑む勇気ある者は、おそらくこの地球上に誰ひとりとしていないでしょう。ターフの上でも山岳においても、フランスが世界最強を頂戴します。フランスだけが勝者です』。

 プロジェクトUでカフェに印象操作された日本国民には、ハンニバルの言葉は喧嘩を売っているようにしか聞こえなかった。

 緑川とカフェは、この瞬間を待っていた。

 NUKだけではなく、全ての報道機関に公開された、マンハッタンカフェの記者会見が行われることになった。生放送でNUKから中継されることも決まっていた。

 10月18日、午後7時。そこでカフェは、自ら撮影した映像を交えて、エヴェレスト北壁での壮絶なビバークと敗退を赤裸々に語った。救助にかけつけてくれた元トレーナーのことも。もう一度、フランスにリベンジさせてくださいと、全国民に頭を下げた。

「走れなくなったわたしでも、夢を追える国であってほしい。ターフの外側でも、ウマ娘が世界と競い合える国であってほしいんです」

 マンハッタンカフェはこの言葉で会見を締めくくった。レース至上主義をもたらしてきた、URAに対する間接的な批判でもあった。

 それでもなお、環境省の処分は覆らなかった。カフェたちも、元より国が判断を翻すことは期待していない。裁判などの法的措置がない限り、絶対に自らの非を認めないのが日本の国家機関だ。観測隊員の派遣元となる企業や研究機関に、カフェをねじこむ余地がないか交渉を重ねていたが、応じてくれた組織はゼロだった。水面下でURAもまた反撃に転じていた。報道機関に圧力をかけ、自らに否定的な論調の記事を差し止めたのである。結果、予想よりも多くのメディアが口を閉ざした。

 ウマ娘は走る存在という固定観念が、いまだこの国には根強く残っている。とくに組織の上層部を占める高齢者集団には。

 日本最大の圧力団体たるURAの影響力は、加熱する世論をもってしても揺るがなかった。その一方で、カフェの支持を表明する団体も増えてきた。地元の北海道では後援会が立ち上がり、地元企業が協賛を名乗り出てくれた。全国の山岳会も、ウマ娘に登山への道が開かれることを歓迎した。彼らは、カフェを南極に送り出すべく署名活動を始めていた。それに応え、カフェも寸暇を惜しんで全国行脚し、講演を行った。登山の魅力から始まり、日本のウマ娘を取り巻く環境が、いかに世界から遅れているかを切々と訴えた。

 支持者は増えていくが、状況は好転しないまま焦燥だけが日々積もっていく。しらせの出港は、11月12日と決まった。あと一か月もない。それまでに隊員に加われなければ、カフェは南極入りする手段を失う。

 そんなとき、意外な人物から夏野に連絡があった。カフェの友人、アグネスタキオンからだった。きわめて重要な話があるので、すぐトレセン学園まで来てほしいとのことだった。

 久々に府中まで戻ってきたふたりが通されたのは、会議室でもトレーナー寮でもなく、生徒会室だった。

「やあやあカフェ! ずいぶんご無沙汰だったじゃないか!」

 扉を開けるなり、抱きつこうとするタキオン。珍しくされるがままになったカフェ。

「生きていてくれてよかった」

「ありがとうございます。あなたのカロリースティックは効きましたよ。甘すぎますけど」

 ふたりの友情を周囲で見守っているのは、タキオンのトレーナーである広田。そして意外にもシンボリルドルフが会長席に座っていた。

「さて、本題に入ろう。きみは南極に行くため身を粉にして頑張っているわけだが、思うように成果が出ない。それは、レース文化の根強いこの国が、きみを南極まで送り届けることにメリットを感じていないからだ。とくにURAにとっては、百害あって一利なし。あらゆる手段で妨害してくる」

 そう言って、タキオンは応接机に、ばさりと紙を広げた。十数ページから構成された論文だった。全て英文で書かれていたが、そのタイトルを読んでカフェは珍しく驚きを露にした。

「『屈腱炎の原因究明とその治療および予防法について』……」

 カフェの呟きに、夏野もまた驚愕せざるを得なかった。

 幾多の競走ウマ娘の選手生命を刈り取ってきた病魔、屈腱炎。走行疲労による慢性的な炎症が原因とされ、これといった予防法や治療法も見出されていない。

 少なくとも、この瞬間までは。

「腱に炎症が起きているのは事実だ。ふつうの炎症なら安静にしていれば治る。骨折と同じように。でも、屈腱炎は治ったように見えても、走行を始めたらすぐに再発し、なおかつ悪化する。それが長年の謎だった。そこでわたしは、その病を発症して引退の瀬戸際に立たされていたカフェに密着したわけさ。時速60キロを超えるターフでのトレーニングに比べたら登山の歩荷訓練の負担は軽いが、本当に炎症が治っていないなら、必ずC-リアクティブ・プロテイン(炎症に伴い発生するタンパク質の一種)の数値が上昇するはずだ。ところが、カフェの血液からは炎症物質は検出されなかった」

 つまり、治っているというわけだ。カフェと夏野の困惑をよそに、タキオンは言った。

「分かるよ、きみたちの疑問は。それなら簡単に再発などしないはずだ。だからわたしは、屈腱炎は、通常の炎症とは異なるダメージを細胞に与えていると仮定した」

 タキオンは、論文のなかから画像の入ったページを引っぱりだす。それはMRI画像だった。通常のMRI診断では、あまり見られることのない、深腱部の詳細な画像が二枚、並列に掲載されている。

「左側の画像が、発症前の腱細胞。鋼線の束みたいに、均質な細胞が詰まっている。対して右側は、軽度の屈腱炎を発症した細胞だ」

 タキオンが、画像の比較を促す。健全な腱に比べ、発症した細胞は、繊維の束が細くなり、大きさもまばらになっていた。

「わたしの脚さ」

 何の気負いもなく、彼女は言った。その一言で、カフェが目を見開く。

「アルプスに同行する以前から、左脚に不調を抱えていてね。帰国後、念のため精密検査してみたら明らかになったというわけさ。幸い、ごく軽度の症状だった。だが、もしもカフェが提供してくれたデータがなければ、過去のウマ娘同様、トレーニングと再発を繰り返して引退を余儀なくされていただろう。屈腱炎の正体は、炎症そのものじゃない。炎症を起因として、腱細胞が不可逆的損傷を受けることにより発症する。では、腱を破壊する炎症の正体は何か、わたしは考えた」

 また一枚、新たな資料をテーブルに置く。そこには、腱の主成分が記載されていた。

「腱は、主にコラーゲンというタンパク質で構成されている。これは、他のタンパク質に比べて熱に弱い性質を持つ。おおむね40℃くらいから変性してしまう。よほど重篤な感染症に罹らない限り、ウマ娘の体温ではありえない。しかし、全筋力を解放するレースならばどうだろう。これは、あくまでわたしのケースだが、模擬レースで芝2000mを走破した直後、脚部の深部体温を測ったところ、40.4℃まで上昇していた。このレース一回では、そう多くの熱変性は起こらない。しかし、並走トレーニングや模擬レース、本番のレースで何度も繰り返すと、腱は少しずつ熱分解されて痩せ細り、脆くなっていく。炎症にも弱くなる。つまり炎症は二次的な症状にすぎない。究極の原因は、熱だったんだよ」

 すらすらと説明していくタキオン。

 夏野は、ただ驚愕のまま聞き入っていた。今この瞬間、競走ウマ娘の歴史が更新されようとしている。数多のウマ娘とトレーナーの希望を、無情にも打ち砕いてきた屈腱炎。難攻不落だった病の王が、ひとりのウマ娘の情熱の前に、とうとう膝をついた。

「ひとたび変性してしまった腱は、数年で元通りになることはない。しかし、症状の進行を止めることはできる。低負荷、低酸素トレーニングは有効だが、いずれレースには出なければならないし、本番さながらの追切も必要だ。そこで全力疾走のあと、すぐさま脚部全体をアイシングすることを思いついた。原始的だが、効果覿面さ。わたしの脚は、これ以上悪化することなく、今もレースで成果を出してくれている」

 カフェ、きみのおかげだ。そうタキオンは微笑む。

「きみの破天荒のおかげで、わたしはプランAを、自分の脚で深淵を目指すことを諦めずに済んだ。走る脚を奪われてもなお、貪欲に勝利を欲し続けるきみがいたから、わたしはこうしてレースを走っていられる。そしてこれからも、わたしのモルモットとして、その脚で極地に挑んでもらいたい。これは、わたしからの感謝と餞別だ」

 タキオンは、広がった論文をまとめる。その表紙にあたるページには、タイトルと執筆者の名前が入っている。

 瞬間、カフェの顔つきが変わった。

「……なぜ、共同名義なんです? これは、あなたの成果だ」

 その声には、微かに怒りが混じっていた。

 アグネスタキオンの名の隣には、URAウマ娘研究所とクレジットされている。言うまでもなく、URA傘下の研究機関だ。タキオンは、単独名義でしか論文を発表しない。共同名義とはすなわち、研究活動という自らの魂を売り渡す行為に他ならない。

「屈腱炎の原因究明と予防法の確立は、URAにとって凱旋門賞制覇に匹敵する成果だ。その見返りに、きみを極地活動のサンプルとして観測隊員に加えるよう主張するのさ。もし断れば、わたしが元々所属していたアメリカの大学に売り渡すと申し添えてね」

「あなたは、あなたという人は……」

 珍しく言葉に詰まるカフェ。その肩が、わずかに震えていた。

「世界的な研究成果をみすみす失ったあげく、それをもたらした立役者であるカフェの妨害をし続けたとあっては、URAの信頼は地の底に落ちる。屈腱炎で苦しむウマ娘を救わないと公言しているも同然だからね」

「でも、それじゃタキオンとチームの立場が」

 夏野が口を挟む。こうも正面きってURAに喧嘩を売れば、学園上層部に冷遇されかねない。しかし広田は、首を横に振った。

「実力で黙らせるだけだ。タキオンの脚が健在なら、まったく問題ない」

 何の迷いもない声だった。

「これは先行投資さ。わたしも、いつかは引退する。学園を去ったとき、自由に夢を追える国であってほしい。こんなところでも、一応わたしの祖国だからね」

 タキオンは言った。広田のチームに加わる前は退学処分寸前であり、拠点を海外に移すことも検討していたらしい。そんな彼女が、再び日本に希望を見出していた。

「わたしたち生徒も、同じ考えだ」

 シンボリフドルフが席を立つ。カフェに差し出したのは、千名を超える数の署名だった。中央トレセンに所属する現役の競走ウマ娘たちが、引退したカフェを支持していた。

「……これは、大きな政治問題になりますよ。生徒会長にして皇帝たるあなたが、ここに名を連ねることの意味はお分かりのはずです」

 カフェが、じっとルドルフを見つめる。署名欄の一番上には、まごうことなきシンボリルドルフの名前が記されていた。

「わたしの夢は、全てのウマ娘が幸せに暮らせる世の中をつくることだ。しかし、狭い学園の中しか知らないわたしは、それがいかに困難であるか、まったく理解できていなかった。マンハッタンカフェ。わたしはきみを尊敬している。引退後の生き方をどうするか、現役時代は考えもしない問題にいち早く気づき、自らの背中で答えを示そうとするきみが、とても眩しく見える。きっと引退した後も、わたしは自分の夢を追い続けることができる。ターフを去るウマ娘たちも、きみの輝きを道しるべに、再び歩き出すだろう」

 ルドルフの夢は、学園の垣根を飛び越えた。彼女の背中を押したのは、マンハッタンカフェの生き様だった。

「この署名は、わたしが学園を代表してURAと政府に提出するつもりだ。どうか、その脚で勝利の頂を踏んでくれ」

 皇帝と摩天楼が、固い握手を交わす。

 小さな一歩だが、日本のウマ娘史は、今ここから新たな門出を迎えた。

「タキオンさん、ルドルフさん、ありがとうございます。本当に、ありがとう。必ずやり遂げます」

 カフェは深く頭を下げる。社交辞令ではなく、本物の感動と感謝から形作られた言葉だった。

 11月4日、屈腱炎原因判明のニュースが全国を駆け巡った。タキオンの論文とルドルフを筆頭とする競走ウマ娘たちの圧力、そして若い世代のカフェを推す声に、ついにURAが屈したのである。ウマ娘研究所が派遣する同行者として、カフェと夏野の乗艦が許された。

 マンハッタンカフェの観測隊加入は、11月6日の公表まで秘匿された。

 全国放送での記者会見は、最後までカフェを支援し続けたNUKならびに大手新聞3社、放送関連企業6社にのみ開放された。これが緑川流の報復だった。URAに尻尾を振ったメディアは締め出され、致命的な特オチを喰らわされた。

 日本のウマ娘文化が世界に比肩する瞬間を、信念なき者がフィルムに収めることを許さなかったのである。

 来たる生放送での会見席で、カフェはまず、自らの支援者たちに礼を述べる。プロジェクトUの制作陣に加え、後援会の協賛企業、そして署名活動をしてくれた中央トレセンのウマ娘たち。多くの人々に背中を押してもらえたからこそ、自分は諦めず挑み続けることができると謙虚な姿勢を示す。走れなくなっても、日本のウマ娘は世界と渡り合える。そういう国に変わっていくのだと高らかに断言した。

 そのうえでカフェは、先に勝利宣言を行った葦毛の怪物に返答する。

「La victoire est à nous」

 調子に乗んな。この一言だけで十分だった。

 かくして、登山隊『チーム・シェアト』二度目の挑戦が始まった。ベテラン山岳ガイドの貫谷でさえ、ヴィンソンマシフを登った経験はない。そこでNUKは、ヴィンソン山登頂4回を誇る登山家をチームに迎えた。さらに、アメリカのツアー会社から専門のガイド登山家を4名雇い入れる。南極は、他のいかなる山よりも物資補給が厳しい。環境に慣れた者たちが、いかに素早く荷揚げを行えるかが勝負の鍵となる。

 隊は、二手に分かれることになった。まずカフェ夏野隊が、オーストラリアのフリーマントルから砕氷艦しらせに乗り込み、昭和基地まで移動。名目上、ふたりは観測隊員であるため、内陸の中継地点からは雪上車にてベースキャンプまで前進する手はずとなっていた。観測隊員の内陸旅行に便乗するわけである。ヴィンソンマシフが位置するエルスワース山脈は、南極半島の付け根にあり、昭和基地とは真逆の方向だ。南極高原のど真ん中を横切る過酷な道のりとなる。天候にもよるが、年末ぎりぎりにベースキャンプに入れる予定だ。そして、貫谷をリーダーとする番組スタッフ隊は、カフェが到着してすぐに荷揚げができるよう、一足早くチリ共和国のプンタアレナスから空路で物資とともにキャンプ入りしておく。

 南極周辺の気候は、技術の進んだ現在でも予測が難しい。ふたつの隊がベストタイミングで合流できるかどうかは、運の要素もある。全てがうまくいったとして、その作戦でハンニバル隊を出し抜けるかは、神のみぞ知るといったところだ。

 旅程が決まったのち、夏野とカフェは大忙しだった。しらせに乗り込むフリーマントルまでは飛行機とバスの乗り継ぎだ。個人の荷物も一緒に輸送する。厳しい重量制限があり、ひとりあたり100kg以内と決まっている。長い船上と基地生活ではゲーム機などの娯楽品も重要だが、ふたりには無縁の品だった。何が起こるか分からない極地では、最低限の登山装備は必ず身につけておかねばならない。ピッケルとバイル、カラビナ、アイススクリュー、アイゼンに、タキオン印のカロリーバーなどを詰め込んでいると、その他の嗜好品を入れる余裕はなかった。

 12月3日、南極観測隊は成田空港に集結した。ここから飛行機とバスを乗り継ぎ、フリーマントルまで向かう。隊は、『隊員』と『同行者』で構成されている。さまざまな観測任務や、それに必要な機材などの設営を行うのが隊員であり、彼らに同行するジャーナリストや外国人共同研究者などが同行者と呼ばれる。カフェと夏野は、観測隊においては、URAウマ娘研究所から派遣された研究員扱いであり、同行者に含まれる。

 総員98名の旅立ちを見届けようと、成田空港は隊員の家族や支援者、マスコミでごった返していた。NUKの撮影班が、カフェと夏野の出発を生中継している。カフェの両親である石黒夫妻が、『がんばれマンハッタンカフェ』の横断幕を掲げていた。別働隊の貫谷をはじめ、チーム・シェアトのメンバーも総出で見送ってくれていた。例年と違うのは、やたら制服姿のウマ娘が多いことだ。中央トレセンの生徒も大勢、カフェの応援に駆けつけていた。その中には、タキオンとルドルフもいた。マスコミ各社は、しっかり競走ウマ娘界の皇帝もカメラに収めていた。

 タキオンの隣にいた広田が、夏野の前に出る。

「何度でも、言うことは変わらない。生きて帰ってこい。カフェと一緒に」

「分かってる。これ、預かってて。わたしが、あなたの傍に帰ってこられるように」

 指輪を外して広田に託した。夫となる男は、夏野の掌ごと契りの輪を包み込む。彼女の手は、トレセンにいた頃よりも、ずっと逞しくなっていた。

「安心してください。夏野さんは、わたしが命に代えても守り抜きます」

 マンハッタンカフェが右手を差し出す。広田は、しっかりと握手を交わした。

「俺たち、初めて目があったんじゃないか? 長い付き合いだったのにな」

「そうですね。わたしも、そんな気がします」

 互いに苦笑する。それと同時に胸がすっと軽くなった。金色の瞳は、どこまでも美しく澄み切っていた。

 心の整理はついている。あとは己の全てを賭して戦うのみ。

 飛行機に乗り込む直前、カフェはギャラリーに向かい、一礼する。たくさんの夢を背負い、力に変えて、その瞳は遥かなる極地を見据えた。

 観測隊を乗せた飛行機は、オーストラリアのパースという都市に着陸する。そこからバスに乗り換え、フリーマントルに至る。長い歴史を持つ港町で、観光名所にもなっている大きな市場や、飲食店などのレジャー施設も揃っている。12月5日、予定どおり砕氷艦しらせが入港した。隊員たちは荷揚げ作業をすませたあと、出港まで自由行動となる。ここを離れたら、しばらく文明の地とはお別れのため、できる限り羽を伸ばしておく。カフェと夏野も、瀟洒なレストランで食事を楽しんだが、それ以外はひたすらトレーニングをして過ごした。同行させてもらう以上、どんな過酷な環境だろうと内陸旅行隊の足を引っ張るわけにはいかないのだ。

 12月10日、いよいよ出港のときが来た。在豪日本人会の人たちが、港から手を振ってくれている。こちらも、帽子を手に取って振り返す。みるみる遠くなっていく陸地。

「感慨深いですね……」

 そうカフェは呟き、自らのジャケットの肩を指さす。そこには、『TEAM SCHEAT』の文字と、その下に日の丸マークがプリントされている。

「一年前だったら、わたしたちのチーム名が日本国旗を携えるなど考えられないことでした。レース以外の事業で、ウマ娘が国家を代表することは皆無でしたから」

「でも、時代は動いた。ターフの外にも栄光は輝いていることをカフェが証明してくれた。その輝きに。日本は夢を託したんだ。わたしも、あなたに突き動かされた一人だよ」

 夏野は言った。

 空に瞬く星々に例えられる、栄誉あるトゥインクルシリーズ。数多のウマ娘が遥か高みを目指すも、やがて怪我や衰えにより、翼を失ったイカロスのように堕ちていく。しかしマンハッタンカフェは、地上にも掴むべき星があることを見出した。

「どちらが欠けても、ここまで辿り着けなかったと思います。勝利は我らの手に」

「絶対やり遂げよう。そして勝とう。一緒に」

 艦上デッキにて、拳を突き合わせるふたり。

 まずは第一の関門、極地を取り巻く荒海を乗り越えなければならない。

 南緯40°より先の海は、常に高波の状態となる。風や海流を弱める大陸がないためだ。日本初の南極観測船『宗谷』から数えて四代目となるしらせは、船体が大きくなり航海能力も飛躍的に増している。波による動揺は、他の大型船に比べると非常に少ない。床に置いていた荷物が部屋の端から端へと往復したり、ベッドが常時ブランコみたいに揺れるようなことは、ほとんどない。

 そう聞いていたため、夏野は油断していた。

 『吠える40°』、『狂う50°』、『絶叫する60°』と呼ばれる亜南極の海は、南緯40°の地点で、すでに絶叫していた。

 海賊映画みたいな暗黒の空に、雷鳴と暴風。そして甲板を丸呑みにする大波。ひどいときは壁にもたれかからなければ、まともに通路すら歩けない。足元の不安定さは、登山家にとって無意識下のストレスになる。

「ザイルで互いの身体を確保しましょうか?」

 冗談めかしてカフェが笑う。しかし、その余裕は長くは続かなかった。

 出港から一週間で、ふたりは強烈な吐き気に見舞われていた。まだ船に慣れないうちに、過去に例を見ない荒波に揺さぶられた結果、船酔いしてしまった。悪意の塊に心臓付近を握り潰されているような不快感が永遠と続く。

「高山病の百倍ひどいです……」

 紅茶顔を通り越して、石膏像みたいになったカフェが、ベッドに横たわっている。夏野も似たような状態だった。エチケット袋は四六時中ポケットに入れてある。船酔いした人間は、よく欄干から身を乗り出して海に吐いているイメージがあるが、この船で同じことをすれば、たちまち波に攫われるか高波の衝撃で放り出される。凍っていなくても水温は0℃に近い。海に落ちることは死を意味する。吐くとしたらトイレだが、最大20°も動揺する廊下は、走ることすら難しい。

「お腹はすいているはずなのに、気持ち悪い。なにこれ、幻覚? 脳みそくんしっかりしてちょうだいよ」

 ゾンビみたいにベッドからはい出して、壁に背をつけながら夏野が呻く。

 娯楽がほぼない船上生活の楽しみは、食事だ。海上自衛隊が提供してくれるごはんは美味しかった。金曜日のカレーは有名だが、月曜日の朝はシリアル、水曜日の朝はパンが出るなど、曜日感覚を失わないためのバリエーションが豊富だ。

 それらを楽しめたのは、最初の5日間だけだった。あとはひたすら船酔い地獄。生ける屍のようなふたりを見かねて、海自の医官が酔い止めの点滴を打ってくれた。少し気分が楽になり、なんとか必要最低限の栄養は確保できた。

 ここまで海が荒れたのは、長い観測隊の歴史でも極めて異例だと、食堂で気象学者が言っていた。地球温暖化の影響だとか、極地では逆に寒冷化の兆しもあるだとか専門的な議論をしていた。

 南緯60°の壁を突破すると、ようやく波が穏やかになってきた。

 小規模ながら流氷が見え始める。その上にはアデリーペンギンがいて、ちょこちょこ歩く愛くるしい姿に、カフェをはじめ南極初体験の者たちは歓声をあげていた。しかし数日経つと誰も見向きもしなくなる。氷山もペンギンも青空も、慣れたら単調な景色の一部でしかない。

 海面に占める氷の面積はさらに増していき、ついに白一色に染まる。平らな雪原が広がっているように見えるが、全て海に浮かぶ氷だ。船首で雪を掻きわけるように、しらせは進んでいく。最初こそ順調に思えたが、すぐに衝撃とともに船体は停止した。海氷が分厚くなりすぎて、最新鋭の艦であっても、これ以上進めなくなったのだ。昭和基地は、まだ影すら見えない。ほぼ陸地と変わらないレベルの海氷こそ、欧米諸国に接岸不可能と言わしめた、南極の門番だった。

 艦内に、ラミング開始のアナウンスが流れる。自衛官や隊員の動きが慌ただしくなった。体力維持のためデッキ周りを走っていたカフェと夏野も、艦橋まで戻った。

 しらせは、300mほど後退したあと、一気に加速して氷の上に乗りあげる。艦体が後ろに傾いたかと思うと、バキバキと音を立てて分厚い氷が割れていき、艦は再び水平になる。これが、しらせ特有のラミング航法だ。艦の自重で氷を割り砕き、少しずつ前進していく。一度のラミングでドラム缶一本分の軽油が吹っ飛ぶが、進めるのはたった10mから50mにすぎない。全身全霊をかけた、ほんのわずかな前進を、ただ愚直に繰り返す。目的地に辿り着くまで、何度も何度も。傍から見れば狂気の沙汰だが、そうするしか接岸不可能のリュツォホルム湾を突破する方法がないのだ。欧米諸国の常識を覆し、日本がこれをなし得たのは、先人たちの技術と努力、そして国際社会への復帰を願う国民のひたむきな情熱だった。

 ラミングの衝撃に乗員たちが慣れてきた頃、あるイベントが開催された。その名も、ラミング回数当てゲーム。目的海域まで、何度のラミングで辿り着けるかを予想する。最も僅差の者には、優勝賞品として海自謹製大盛パフェが提供される。娯楽の少ない艦内では、こういう息抜きが大切だ。カフェと夏野は、海のことは素人なので、交流ついでに研究者や自衛官たちの意見を聞いた。彼らによれば、ラミング回数は年ごとに全く異なるらしい。二千回ほどかかった年もあれば、去年などは、わずか24回で済んだという。しかし、今年はどうも定着氷にぶつかるタイミングが早いうえ、氷も割れにくい。ほとんどの乗員が、千回以上の回数を提示していた。

 カフェと夏野は、相談のうえ2200回と予想する。

 だが、このゲームに勝者は現れなかった。

 予定した海域まで辿り着くことができなかったのだ。海氷の厚さが例年を遥かに上回り、ぶつかり合った氷同士が複雑に絡み合い、山肌のように盛り上がっている。複数回、しらせが全船重をかけても氷が割れない。ラミング回数が三千回を超えた時点で、軽油の消耗が限界ラインを超えた。帰国時にもラミングは必要となる。その結果、昭和基地から500mの位置で定着氷に接岸するはずが、遥か37kmも離れた沖合でしらせは停船を余儀なくされた。

 12月24日、接岸断念が正式に通達される。それでも、引き返すという選択肢は存在しない。昭和基地には、雪と氷と暗闇に閉ざされた世界で一年間頑張ってきた32名の越冬隊員が、食料と燃料の補給を待ちわびている。

 海上自衛隊主導のもと、物資の輸送計画会議が行われた。厄介なことに、またしても天気が崩れて、風が唸り声をあげ始めた。しらせには、輸送ヘリ2機が搭載されている。過去に接岸を断念した経験があり、その際はヘリでの空輸を行ったらしいが、今年は風に煽られて墜落するリスクが高い。仮に飛べたとしても、基地周辺が地吹雪で覆われたら着陸することもできない。

 残された手段は、ただひとつ。雪上車による深夜輸送だった。

 定着氷にも、薄く脆弱な場所があるし、クレバスもあちこちに走っている。そのため氷の状態が安定する深夜帯に、一往復ずつ物資を運ぶ。南極の玄関口を突破するには、雨垂れが石を穿つように、ひたむきな努力を続けるしかない。

 まずは、先遣隊がルート工作を行う。安全な輸送ルートを確立するため、未知の氷原を手探りで突き進む。もっとも危険度の高い任務を、カフェと夏野は率先して引き受けた。ふたりともクレバスの対応はプロ級だ。なによりカフェは優れた聴覚で、氷の変化を聞き取ることができる。

 さっそくふたりは準備に入る。極地用の防寒具に、ハーネスを取り付け、互いの身体をザイルで結ぶ。通常は雪上車に乗り込むが、今回はより正確なルート確保のため、カフェと夏野が徒歩で先導することになった。風は強いが、ブリザードには至らない。もし吹雪いてきたら、すぐ車中に避難できる。

「まさか、初南極上陸が、こんな形になるとはね」

 互いの装備をチェックしながら、夏野は言った。感慨にふけっている暇などない、緊迫した任務。

「正確には、ただの海氷なので南極大陸ではないです。ついでに言えば、昭和基地があるのは東オングル島という名前の、島です。南極大陸とは氷で地続きになっているだけです。初上陸はまだまだ先ですよ」

 カフェが軽口を返す。緊張している様子はない。むしろ登山前のように闘志がみなぎっている。久々の氷だ。夏野もまた、登山家の魂が疼いていた。

 激励を背に受けながら、ふたりは海氷の上に降り立つ。

 ここが南極。ヒマラヤとは異なる極地。深夜だというのに、周囲は夕暮れ時のようなオレンジに染まっている。ここはもう白夜の領域に入っている。遮るもののない、果てしなき赤黒い闇。まるで、あの世まで続いていそうな光景だった。

「行きましょう」

 そう言って、カフェは南極に一歩目のアイゼンを突き刺した。

 夜が明けるまでの6時間で、海氷域を踏破しなければならない。できるだけ歩速を上げつつも、足裏の感触と耳で氷の状態を確かめる。キャタピラでゆっくりと後を追う雪上車から、トランシーバーで進路の指示を受ける夏野。その内容を、前方のカフェに伝える。カフェが前進すれば、そのルートは安全だ。

 カフェは全神経を研ぎ澄ませ、凍りつく海の上を渡っていく。もし自分が作ったルート上で雪上車が海に落ちたら、越冬のための物資が不足する。それを補うためには、内陸移動用の資源を削るしかない。つまりヴィンソンマシフの足元にも辿り着けない事態に陥る。

 南極に来て早々、観測隊と登山隊の命運を背負った綱渡り。

 だが、重圧はあれども恐れはなかった。すぐ後ろに、バディがいる。誰よりも愛する人が、命のたづなを握ってくれている。それだけでカフェの足取りは軽くなる。

 小休憩を挟みながら5時間ほど歩き、ついにふたりは文明の形を視界に見出す。風に舞い上がる粉雪で霞んではいたが、間違いない。高床式倉庫のような、無骨な立方体の建物。日本の南極観測の拠点である昭和基地だった。

 しかし、その全容は、事前に聞いていた姿とは様変わりしていた。南極において12月は夏季だ。昭和基地の周辺は、地面が剥き出しになり、さながら荒野のようになっているはずだった。しかし、今は建物の直下まで氷雪に覆われている。

 カフェと夏野は、基地にいた越冬隊員に迎え入れられた。ふたりのルートをもとに補給線が構築され、明日の深夜から本格的な輸送作戦が始まる。管理棟の入口に、『ようこそ南極へ! チームシェアト御一行様』という垂れ幕が掲げられていた。日本のウマ娘初の南極上陸を祝って、越冬隊員はビールで乾杯する。交流もそこそこに、ふたりは気候についての情報を聞き出す。

「今年は異常だったよ。月の数回のはずのブリザードが、週に二、三回は襲ってきてたからね。そんなわけで、仕事そっちのけで雪かきばかりしてたよ」

 冗談めかして笑う髭面の隊員。どうやら平均気温も、例年より低いようだ。世界全体を見れば温暖化が進んでいるが、南極大陸の内陸では、むしろ寒冷化が起きている。

 接岸できないほどの海氷に阻まれ、スケジュールは大幅に遅れている。貫谷率いる撮影隊が予定通りベースキャンプ入りすると、カフェ隊が到着するまでかなり待たせるかもしれない。

 夏野は越冬隊の隊長に申し出て、衛星電話を使わせてもらった。昭和基地に到着したら、プンタアレナスの貫谷に連絡する手はずになっている。そこで互いの予定を調整する。夏野は、昭和基地に対する補給が遅れることを伝えた。もしかしたらハンニバル隊に先を越されてしまうかもしれない不安も。しかし貫谷は、夏野の危惧を否定する。

『少なくとも、先にベースキャンプに入られることはないと思います。飛行機が、飛ばないんです』

 その言葉に、夏野は一瞬、思考が止まった。

『南極との間の、ドレーク海峡の空が、ずっと荒模様です。観光会社は、どこも客への弁解で大混乱です。例年ならこんなことにはならないと。天候が回復しなければ、ツアー自体が中止になるかもしれません』

 貫谷は現状を伝える。飛行機が飛ばないということは、貫谷隊が南極に入れないということだ。大量の物資をはじめ、プロのガイドや山岳医などの人的支援も受けられなくなる。撮影ができないどころか、まともに登山できる確率が著しく下がる。

「天候回復の見込みはないんですか?」

『予報では、これから一週間ほどは低気圧のせいで風が強まると。それより先のことは、分からないです』

 つまり、打つ手なしということだ。嵐が鎮まることを祈るしかない。しかし、こちらは止まることは許されなかった。しらせ到着が遅れた分、観測隊の予定も前倒しで進んでいく。貫谷隊がベースキャンプに来られないとしても、ふたりは進むしかない。

 夏野は通信を切った。会話は、カフェも聞いていた。計画が崩れることには慣れているが、今回のような地球レベルでの気候変動は想定していない。

「ひとつ幸いなのは、ハンニバルも想定外の足止めを喰らっていることです。ある意味、南極に入ることができた我々のほうが優位なのかもしれません」

 そう言いつつも、表情は険しかった。貫谷隊が南極入りできなかった場合、登山の日程が根底から覆る。とくに食料の配分が厳しい。重量があり嵩張る荷物は、貫谷隊がベースキャンプまで空輸する手はずだった。

「ヴィンソンマシフは、極地のなかの極地です。ハンニバルの言う通り、万全の備えのもと、少しずつ包囲網を狭める極地法で山頂を目指すべきです。しかし、隊の九割が合流できず、物資も足りないとなると、我々は恐ろしい挑戦をしなくてはなりません」

「アルパインスタイルで、ヴィンソンマシフに登る」

 夏野は答える。カフェは苦しそうに頷いた。ブリザードが吹き荒れ、人間の絶えたベースキャンプから、たったふたりで頂点を目指す。最低限の装備と日数で。それ以前に、異常気象の氷の大陸を横断できるかどうかも分からない。

「わたしは、カフェと一緒にいる。地球の裏側だろうと、ついていくだけ」

「今さら、でしたね。夏野さんの命、わたしがお預かりします。必ず、婚約者のもとに帰してあげますから安心してください」

 ふたりは声をあげて笑い合う。絶望的な状況下でも、心が折れることはなかった。

 

 しらせからの補給が一段落した12月29日。カフェと夏野を含む内陸旅行隊が編制された。旅行隊隊長であり気候班の井出隊員、エアロゾル観測班の柏原隊員、設営班の樋口隊員が加わる、合計5名の隊だ。隊員たちはみんな体格が良く、研究者というよりは山男のような外見をしていた。

 任務は、長らく放置されていた内陸の最前線拠点S60の再整備と、南極高原の遠征観測である。南緯80°より内側は、『到達不能極』と呼ばれる、地球上で最も過酷な土地だ。年平均気温がマイナス50℃以下の極寒と吹雪の巣窟。南極高原はその名の通り、2000m以上の分厚い氷に覆われ、富士山頂と変わらない高度となる。

 今回は、そこに初めて足を踏み入れる。

 日本は昭和基地の他に、あすか基地、みずほ基地、ドームふじ基地という隊員が常駐可能な前線基地を持っている。しかし現在、それらは全て閉鎖されている。維持管理が難しすぎるため、主要な研究が終わった後は放置されていた。いちばん遠いドームふじ基地ですら南緯77°に位置するため、いかに到達不能極の環境が厳しいかが分かる。

 ヴィンソンマシフが属するエルスワース山脈は、到達不能極の只中にある。

 30日、昭和基地から海自の輸送ヘリに乗り込む。予定よりも大幅に遅れての出発だ。パイロットは、何度も南極観測に参加しているベテランだが、それでも緊張の色を隠せなかった。

 今年の南極は異常だ。しらせ乗艦時から、全員が肝に銘じていることだった。

 ヘリの窓から見えるのは、東オングル島と大陸本土を結ぶ海氷だ。辛うじて亀裂が見えるのは、大陸との繋ぎ目部分だけだった。かすかな青い線が、ところどころ真っ白な雪の上を走っている。ここから先が、南極大陸だ。

 ただひたすらに白い。生命の気配が完全に絶えた、どこまでも漂白された世界。内陸に向かうにつれ、緩やかに標高があがっていく。カフェの高度計は、1700m付近を示している。大陸の基盤岩自体は、平均して、たった90mほどしかないという。残りの高さは、全て氷だ。地表の淡水の7割を保有する、最大で4000mにもなる圧縮された氷。

 人類文明の進出を許さなかった唯一の大陸。別の惑星かと思うような景色のなかに、ほんの小さな変化が現れる。雪の丘陵のなかに、明らかに不自然な物影がある。アリの行列みたいな、黒い点線が6つほど。井出隊長によれば、S60地点付近にデポしておいた雪上車と橇らしい。登山界でもデポは有効な作戦だ。あらかじめ食料や装備を荷揚げしておき、身軽な状態でベースキャンプからアタックをかける。しかし、旅行隊の命綱とも言える雪上車は、デポというよりは、ただ雪原のど真ん中に放置されているようにしか見えなかった。布やガレージで覆われているわけでもない。

「枠組みを作ったところで、ブリザードで埋もれてしまうからね。大丈夫、掘り出せばちゃんと動くよ」

 こともなげに井出隊長は言った。

 猛烈な雪煙を巻き上げながら、ヘリが降下する。カフェと夏野は、ようやく地球のてっぺんをその足で踏んだ。南極大陸に来た、という実感を持つ暇もないまま、さっそく作業に取り掛かる。雪上車は、風向きに沿うように列を為している。そうすることで、車体への積雪を最小限に抑えることができる。しかし、今年に関しては焼石に水だった。バスほどの大きさがある箱型の車体は、履帯の上部まで埋もれている。しかも、ただの雪ではない。凄まじい風と低温により押し固められたガチガチの氷だ。シャベルの刃が、いとも簡単に弾かれる。氷というよりは岩を削っている気分だった。

 さっそくカフェの膂力が大活躍した。大人四人がかりで、なんとか一両、履帯周りの氷を砕いたのに対し、その間にカフェは残り二両を掘り出していた。その活躍ぶりに、感嘆の声があがった。

「これからは、俺たち研究者よりもウマ娘の隊員を募集したほうがいいんじゃないか?」

 柏原隊員が冗談めかして笑う。カフェもまんざらではなさそうだった。

 日本初のウマ娘隊員のおかげで、荷物の積み込みまでスムーズだった。ヘリから大量に投下される内陸旅行用の物資は、雪上車の後部の橇に詰め込まれる。荷の大部分が食料だ。旅程は、長く見積もって40日を想定している。どれだけ遅延しても、2月1日の越冬交代までには昭和基地に帰還しなければならない。不測の事態に備え、非常食の占める割合も大きい。日々の食事のクオリティには、あまり期待できない。

 エンジンをかけると、排熱により車内はかなり温かくなる。寒さに強い者は、半袖でも過ごせるほどだ。しかし、半日も経たないうちに、車両は停止した。ひとまずの拠点となる、S60に到着したからだ。

「……本当にここなんですか?」

 カフェが怪訝そうに尋ねる。夏野も同意見だった。拠点らしきものが影も形も見えない。

「こりゃ、着いて早々大仕事になるぞ」

 井出隊長が呻く。防寒着をまとい、車両から降りると、彼の言葉の意味が分かった。よく目を凝らしてみると、白い板のようなものが二枚、辛うじて雪面から顔を出している。

「あれが居住棟と発電棟……の屋根だよ」

 早くもうんざりした様子で井出は言った。プレハブ小屋のような建物がふたつ、完全に雪に埋もれている。またしても地獄の雪かきならぬ氷砕きの始まりだった。せめて入口だけは掘り出さなければならない。もし予報にないブリザードが襲来すれば、拠点を持てないまま燃料と食料だけを消費し、そのままあえなく撤退ということもあり得る。みんな、必死だった。雪上車に泊まり込んで、一日がかりで拠点の入口を確保した。

 疲労困憊しながらも、なんとか通信設備を復旧させる。井出隊長は、S60到達と隊員の無事を報告する。昭和基地からの返信はふたつ。大規模なブリザードの予兆は、今のところないこと。そして、カフェと夏野が何より恐れていた事態を知らせる。

 全てのツアー会社が、今季の南極旅行を断念。

 乱気流により飛行機を飛ばせないことが理由だ。つまり、貫谷隊はベースキャンプ入りできないことが確定した。

「戦力の9割を失いました」

 カフェの声は冷静だった。現実を受け止めたうえで、次の行動を考えている。

「僕個人としては、登らないほうがいいと思う」

 井出隊長は言った。

「ベースキャンプまで辿り着けたとしても、登山後に帰還できる保証がない。僕たちには観測任務があるし、食料のことを考えると、長期滞在は難しい。少しでも互いの行動がずれたら、きみたちは到達不能極のなかに取り残される」

 しごく真っ当な意見だった。しかし、最終的に登らないという選択をするとしても、今挑戦を辞めることはできない。

「行きます。行けるところまで行かなくては。どうかわたしたちを導いてください」

 カフェは言った。夏野も共に頭を下げる。

「分かった。登山隊の決定権は、きみたちにある。僕は旅行隊の長として、任務を遂行するとしよう。実は、僕も楽しみにしていたんだ。この南極で、日本のウマ娘が世界初の偉業を成し遂げることを」

 井出はふたりを激励する。柏原と樋口も同じ意見だった。

「俺たち、カフェさんがヴィンソン山に行くって聞いて、内陸旅行隊に志願したんですよ」

 柏原は言った。機材の設営を担当する樋口など、こっそり持ち込んだ極楽カフェキーホルダーに本人のサインを貰っている。

「みなさん、ありがとうございます。よろしくお願いします」

 日本から1万5千キロ先までついてきてくれた三人のファンに、カフェは深く頭を下げた。貫谷隊を失ってもなお、チームシェアトの命運は絶たれていなかった。

 極地の中の極地。南極大陸最高峰ヴィンソンマシフ登頂は、その姿すら見えない場所から始まった。支援者3名、アタック隊2名による、登山史に例のないアルパインスタイルでの挑戦だった。

 

 

 

 




次回、南極が本気出す。


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第11話 氷の栄光

カフェと夏野の冒険、いよいよラストスパート。

過酷なる登山の先に、カフェは何を見出すのか。


 深夜だというのに空は夕焼け色だった。1月1日、午前0時5分。

 年越しは、雪上車のなかで迎えた。二両編成のうちの2号車にみんなで集まり、すき焼きパーティーを行った。大人組はビールで乾杯し、カフェは久々のコーヒーを満喫していた。南極大陸では毎日がビバークのような生活のため、ちょっとした楽しみを全員で増幅させる努力が必要だった。

 談笑しながらも、金色の瞳は、心ここに在らずといった様子で遠くを見つめている。解散後は、1号車に男性陣が、2号車にカフェと夏野が分かれて眠る。燃料節約のため、就寝時間前にエンジンを切る。移動中は防寒着を着ていると暑いくらいだが、エンジンが止まると急速に車内は冷えていく。暑さと寒さの塩梅がちょうどいいタイミングで寝袋にもぐりこまなければならない。朝が来れば、オレンジ色の鉄箱内は、マイナス12℃前後まで冷やされる。もはや冷凍庫と変わらない。

「当初の予定なら、もうベースキャンプで荷揚げを進めているはずですよね」

 二段ベッドの上段から、カフェが呟く。

「大丈夫。飛行機が飛ばないなら、少なくともハンニバル隊はわたしたちより先にベースキャンプに入ることはできないよ」

 そう言って、カフェを安心させようとする。今回の登山に限っては、登り切って終了ではない。先んずべきライバルがいる。かつて南極点初到達をかけて争った、アムンゼンとスコットのように。

「今は南極高原を越えることに集中しよう」

「分かりました。焦りは禁物ですね……」

 それっきり、カフェは大人しく寝息を立て始める。慣れない氷堀りと雪上車の環境に、だいぶ疲れているようだった。

 空路でのベースキャンプ入りを公言していた以上、ハンニバル隊も南米で足止めを喰らっているはずだ。しかし、あの葦毛の怪物は、これまで幾度となく人々の常識を覆してきた。出し抜かれる不安がないと言えば、嘘になる。それを口にしたところでカフェを不安にさせるだけなので、胸の内に押しとどめていた。

 どうか旅程通り進んでくれと夏野は祈る。雪はそれほどでもないが、風は強まっている。四六時中台風が吹き荒れているような状態だ。日本の雪上車は、見た目はともかく性能は世界トップクラスと聞く。燃料がある限り、そう簡単に機能不全には陥らない。死の大陸の真ん中では、それだけが心の拠り所だ。

 走り続けること五日。いよいよ南緯80°の内側に突入する。真っ白の地表をさらさらと流れる霧のような雪煙の向こうに、小高い山群が見えた。到達不能極の入口を知らせる、ベンサコラ山脈。一見すると小さな山の集まりだが、実は富士山と同じ、3000m級の山々の連なりだ。大部分が分厚い氷に埋もれ、頂上付近のごく一部だけが露出している。南極大陸の異常さを象徴する光景だった。

 先頭を行く1号車から無線通信が入る。ここから先は、観測隊にとっても初上陸のため、十分周囲に警戒せよとのことだった。

「警戒といっても、できるだけ平らな氷の上を進むくらいしかできないですね。あとは天運次第ってやつです」

 2号車を運転している樋口が笑う。2号車は、三人の隊員が交代で運転していた。カフェ隊専属運転手の座を巡って争いが起きたため、交代制になったらしい。

 天運という彼の言葉は、的確な表現だった。

 南極の空の気まぐれは、人類の叡智や努力など、いとも簡単にひっくり返してしまう。彼の言葉からわずか数分後、昭和基地の予報になかったブリザードが吹き荒れ始めた。

 1月7日午前11時、全車両が停止した。ブリザードには風の強さや持続時間によって、A級、B級、C級に区別される。最も強いA級では、平均風速は秒速25m以上で、日本ならば街路樹がへし折れ、標識が傾くレベルだ。ところが、今回の突発的なブリザードは、従来の区分を大きく上回る規模だった。風速はゆうに35mを越え、ほんの二、三メートル先の景色が見えない。鋼鉄の車両が、常に左右に揺れていた。

 次の燃料のデポ地点までは、あと40kmほどある。去年、内陸探査に向けて燃料をデポしていたらしいが、ここまでの悪天候は想定していなかった。例年なら問題なく燃料を補給できる間隔だが、何度も超A級のブリザードに阻まれると、デポ地点より手前で燃料が枯渇する惧れがある。

 エンジン付近の排熱により、冷凍された水や食料を溶かしているため、車両機能が停止すれば内部の人間は半日で死ぬ。

 しかし今現在、車内では進むか戻るか以前の問題が発生していた。わずか1時間も経たないうちに、雪上車のドアが雪に埋もれ始めていた。風と向かい合うように車体の方向を揃えていても、夏季とは思えない猛烈な吹雪が両脇に積もっていく。閉じ込められてしまったら給油作業ができない。一日に二回、ドラム缶二本の燃料が必要だった。

 選択の余地はない。猛吹雪の中の雪かきが始まった。夏野は極地用防寒着に加え、目出し帽で完全に皮膚の露出をなくす。外気温はマイナス37℃。エヴェレストでも経験したことのない寒さだ。身体にハーネスを取り付け、カラビナでしっかりロープを車体に固定する。たった数メートルでも、視界のきかないブリザードの中に吹き飛ばされたら遭難だ。自分の吐息で、たちまち目出し帽が凍りつく。息がしづらい。7000mでのキャンプを思い出す。

 当初は交代で雪かきしつつ、男性隊員3人で燃料の補給を行うつもりだった。しかし、カフェはその計画に反対した。

「わたしが燃料を担当します。ドラム缶一本くらいなら片腕で十分です」

 自信に満ちた声だった。最も危険な任務であるため井出隊長は少し迷ったが、カフェの案が隊にとって最善であることは分かり切っていた。

『雪上車の後部まで運搬を頼みます。あとは、僕たちが給油する。どうかご安全に』

 井出から無線が入る。さっそくカフェは装備を身にまとう。2号車の後方には、物資輸送用の橇が牽引されている。カフェは橇まで続く鋼線にカラビナをかけ、雪上車を降りた。とたんに、息ができなくなるほどの暴風に揉まれる。南極のブリザードを肌で感じながら、少しずつ鋼線を辿って橇に近づく。途中、何度も足が浮きかけた。降り積もったばかりの雪にはアイゼンも刺さらない。風防ゴーグルの向こうは、底なしの暗い灰色だ。たった5メートル先にあるはずの橇が影も形も見えない。なんとか飛ばされないように橇の縁につかまり、ドラム缶を両腕で抱きかかえる。その重みを利用して、一歩一歩、雪上車まで戻った。これを四往復して、半日分の燃料を運び出す。

 過酷な運搬作業から戻ったカフェを、夏野はすぐにエンジン近くに呼び寄せた。冷え切った手足に、排熱が染みていく。

「雪かきは大丈夫ですか?」

 カフェが尋ねる。彼女の耳にも凍傷の兆しがないことを確認し、夏野は一息ついた。

「なんとかね。カフェは身体を温めていて」

 そう言って、夏野は再び防寒具をまとった。ブリザードが収まるまで、3時間おきに雪かきをしなければならない。昼も夜もなく、ひたすらマイナス30℃の風に打たれながらドアの前の雪をどける。

『まるで冬季の吹雪だ……』

 無線から、井出隊長の呟きが聞こえた。二百年前にスコット隊を襲ったのも、夏季としては異例のブリザードだった。地球温暖化だのオゾンホールだの最近騒ぎ出した人類を尻目に、南極は太古から気ままに吹き荒れている。

 結局、ブリザードは丸一日以上も続いた。ようやく風雪が落ち着いたとき、隊員たちはもう腕が上がらなくなっていた。隊長の判断で、食事後にすぐ就寝となった。燃料節約のためエンジンを切る狙いもある。

 1月9日早朝、雪上車は息を吹き返した。なんとか今日中に燃料のデポ地点まで辿りつかなければならない。雪が砂塵のように舞う白亜の不毛地帯を進んでいく。分厚い雲に覆われ、宵の口のように周囲は薄暗い。ブリザードの等級は下がったものの、日本ならば立派な吹雪が続いている。

 あと二日ほどでエルスワース山脈が見えるはずだ。ようやくベースキャンプへの道が開ける。デポ地点に至る前の、最後の給油準備していたときのことだった。

「……なんでしょう、これ?」

 おもむろに呟くカフェ。夏野の前で、突然しゃがみこみ、顔を伏せるようにして耳を床に向けた。

「どうかした?」

 夏野が尋ねる。人間よりも遥かに優れたウマ娘の五感が、何かを感じ取ったのかもしれない。

「履帯から伝わる振動音が、微かに変わりました。積雪地帯から氷床に変わったんでしょうか……」

 そう言って窓の外を覗こうとしたとき、いきなりカフェの尾が逆立った。

「今すぐ車両から出てください!」

 カフェが叫ぶ。同時に、地響きのような轟音とともに床が傾き始める。説明している暇はなかった。運転席にいた柏原の腕を掴み、反対側のドアから外に放り出す。

「カフェ!」

 傾きつつある床から間一髪で外に脱した夏野が、カフェに腕を伸ばす。なんとか互いの手を繋ぎ、雪上車の左方向に脱出する。非常事態を察知し、1号車はすでに停止していた。

 すぐさまカフェは車両の反対側に回り込んだ。バキバキと骨身に響く不気味な音とともに、2号車がさらに傾いていく。右側の履帯が、まるでアリ地獄のように雪面に沈んでいた。

 クレバスだ。

 全貌の見えない、ヒドゥン・クレバス。分厚い氷雪が橋状に積もり、その姿を隠していた。人が歩いた程度ではびくともしないブリッジだが、雪上車の重みには耐えきれなかったらしい。

 なおも傾いていく2号車。引きずられる後部の橇。カフェはとっさに、携帯していたアイスピッケルで氷を砕き、そこに踵をかける。そして、橇を牽引していた鋼線を全力で引いた。

「ダメです、傾きが止まりません!」

 カフェがあえいだ。これ以上沈めば、カフェの力をもってしても、11トンの車体を支えることは不可能だ。足元の氷が、みしみしと音を立てて砕けていく。防寒用の手袋が摩擦で引き裂かれ、露出した皮膚に鋼線が食い込む。

 そのとき、クレバスを覆っていた氷雪が崩れ落ちた。真っ白だった大地に、突如として闇が口を開ける。幅4メートルはあろうかという氷床の裂け目。

 雪原に擬態していた巨大生物が、雪上車を飲み込もうとしているかのような光景だった。

「カフェさん! 2号車は放棄します! 橇のロープを外したら手を放してください!」

 設営班の樋口が言った。しかし、カフェは唸り声をあげながら首を横に振る。ここで雪上車を失えば、南極高原を往復できなくなる。つまりヴィンソンマシフ敗退を意味する。

「こんなところで……負けたくない!」

 カフェは吠えた。鋼線を掴む両手から血が滲みだす。滴る前に凍りつき、赤黒いつららを作っていく。そうしている間にも、カフェの身体は、じりじりと奈落に引き寄せられていく。

「分かった! 橇の牽引ロープを1号車に繋ぎかえる! それまで耐えてくれ!」

 井出の判断は早かった。カフェは無言でうなずく。すでに夏野は橇からロープを外す作業に取り掛かっている。1号車がその場で旋回し、2号車とは反対の向きに車体をつける。樋口と柏原のふたりがかりで、重たい鋼線を1号車の後方に取り付けていく。しかしその間にも、カフェは2号車に引きずられる。ピッケルで切った氷の足場が潰れて、ふんばりがきかなくなっていきている。

 いつの間にか血は止まっていた。えぐれた皮膚が鋼線に癒着しているのかもしれない。たとえ肉が抉れようと手放す気はなかった。

「まだ左の履帯は生きています! 合図をくれたら、わたしが乗り込んで後退させます!」

 夏野が叫んだ。それは駄目だとカフェは言いたかったが、もう声を出す余力もない。とうに40秒経過し、筋肉内のブドウ糖が枯渇している。いつ力尽きるか分からない。そうなれば、夏野はカフェと2号車とともに奈落の底だ。

「頼む! 合図はこちらから出す、車両の隣で待機してくれ!」

 運転席の扉から身を乗り出し、井出は言った。

 2号車に向かい、走り出す夏野。途中でカフェと目が合った。冷静な、力ある瞳をしていた。わたしは大丈夫だからカフェも頑張れと、目で訴えていた。

「ロープ固定完了!」

「牽引確認よし!」

 樋口と柏原が井出に報告する。

「全速後退! 夏野さん、お願いします!」

 ありったけの声で井出は叫んだ。それと同時に、夏野が傾いた2号車内に飛び込む。非常時に備えて、一通りの運転は学んでいる。ギアをバックに入れて、左履帯のアクセルを吹かす。車体が左後方にゆっくりと回り始める。その角度が1号車の向きと重なったとき、ふたつの車体の進行方向がひとつになり、合力が生まれる。

 沈んでいた右側の履帯が、ふたたび氷の上に戻る。

 カフェの両腕から、ふっと重量感が抜けた。全隊員の連携により、2号車は氷の奈落から生還した。

 隊員たちの歓声は、カフェの耳には届いていなかった。全身の筋肉から魂が抜けて、その場に膝をつく。しかし、完全に脱力しているのに両手はロープから離れなかった。血が凍結し、ロープと一体化している。動けないことを伝えたかったが、思うように肺が膨らまない。長距離レースのラストスパート後みたいに、身体の自由が利かなくなっていた。

 2号車から飛び降りた夏野が駆け寄ってくる。登山家である彼女だけが、今カフェに起きている現象を理解していた。右手には、車内で沸かしてあったポッドを掴んでいる。雪を掻き集めてポッドの中に入れ、ぬるくなった湯をゆっくりとカフェの両手にかける。夏野は手袋を脱ぎ、素手で湯を揉みこむように、凍った血液を溶かしていく。それを何度も繰り返し、カフェの手は冷たい鋼鉄から解放された。

「ありがとうカフェ。すぐに手当てするから車に戻ろう」

 カフェを支えながら立ち上がる夏野。その手は早くも寒さにやられ、赤と紫の斑に変色している。手袋をつけてくださいというカフェの囁きが聞こえないふりをして、夏野は1号車内に彼女を運び入れた。エンジンルームの傍に座らせ、傷口を消毒して包帯を巻く。処置が早かったため、幸いにも剥がれたのは表皮だけで、皮下部位の凍傷は進んでいなかった。

 隊員たちはカフェの献身を讃えたが、本人はそれをやんわりと拒んだ。誰かひとりでも欠けていたら、2号車は失われていた。全員の力で南極からもぎ取った一勝だった。

 カフェを車両後部で休ませつつ、隊は出発する。休んでいる暇はなかった。また超A級のブリザードに足止めされたらデポ地点まで燃料がもたない。

 南極に絶対はない、と井出は言う。季節外れのブリザードも、巨大なクレバスも、ごく低い確率だが発生するときは発生する。出くわしたら腹を括るしかない。エヴェレストのデスゾーンと同じだ。そこかしこに、死の入口が待ち構えている。

 強まる風に不安を煽られつつも、なんとか最終デポ地点に辿り着いた。しかし、ここからエルスワース山脈までは、雪上車でも、あと二日はかかる。燃料はもちろん、食料の残量も心配だった。

 その夜、カフェは夏野と今後の進路について相談した。翌日、朝食の席で観測隊員にひとつの提案をする。

「最終デポ地点からは、徒歩で進みたいと思います」

 カフェが、その意図を説明する。エルスワース山脈まで雪上車で進めば、また不測のブリザードに襲われた際、復路の燃料が足りなくなる。さらに、データが不十分な南極氷床では、いつどこでクレバスに嵌まるか分からない。登山と観測任務を両方達成するためには、ここで二手に分かれるのが最も合理的だった。

「クレバスの回避は、徒歩のほうが断然正確です。食料を分けていただけたら、わたしたちはヴィンソン山に登った後、最終デポ地点まで戻ってきます」

 夏野が補足する。正規の隊員でなかろうと、生死に対する責任は平等だ。万が一のことがあれば、登山隊を切り捨ててでも隊員には帰還してもらわなければならない。

「手の怪我は大丈夫か?」

 井出隊長が尋ねる。カフェは登山に支障ありませんと答えた。見た目は痛々しいが、筋組織が壊死しているわけではない。凍傷よりは、よほどマシだった。

「よし、そのプランで行こう。僕たちはデポ地点周囲で観測任務を行う。下山してベースキャンプに戻った段階で、一度連絡をくれ」

 少し逡巡したのち、井出隊長は決断した。

 登山スケジュールは、デポ地点出発から最短で10日間を見込んでいた。おそらく順調に進むことはないだろうと、誰もが予見していた。井出ら観測隊は、当初からぎりぎりまでデポ地点に留まる腹積もりだった。自分たちが引き返せば、その時点で登山隊の死は決する。夏野も、明言は避けたが彼らの気持ちを察していた。軽油の残量を考えると、どれだけ粘っても14日間が限界だ。

 1月11日。薄曇りの早朝だった。

 雪上車に積載していた、ボート型の引き橇を下ろす。フィンランド語で『アキオ』と呼ばれ、雪山のレジャー施設では怪我人の救助にも使用される小型の橇だ。そこに必要な分の食料を積み込む。カフェは、自らこの橇を引くことを申し出た。ウマ娘に荷を牽引させることに、夏野は倫理的な抵抗感を覚えた。その光景が、戦争中の強制労働を思い起こさせるからだ。しかし、これが最も合理的な移動手段だとカフェは譲らなかった。その代わり、夏野はテントなどの登山装備ばかりを背負う。食料は道中に消費され、少しずつ軽くなる。せめてこれくらいは貢献しなければ、バディとして気が済まなかった。

「みなさん、ここまでお世話になりました。行ってきます」

 準備を終えた夏野とカフェが頭を下げる。

「こちらこそ、ふたりがいなければ観測任務を全うできなかった。ここで凱旋を待っています。ご安全に!」

 井出が答える。南極氷床での観測に挑む3名の仲間が、登山隊を見送る。

 

 歩き始めて2時間ほどで、雲が晴れてきた。久々に白い太陽がふたりを照らす。しかし、これは祝福の光ではない。気温が急激に上がり始め、アウターを着ていると汗をかくほどだった。衣類は全て化繊だが、大量の汗を吸うと、気化がうまくいかず、知らないうちに凍結する危険がある。温かくなったとはいえ、気温はマイナス10℃。難しい体温調節が、歩くだけで必要以上の体力を奪う。さらに光も厄介だった。不純物のない雪に覆われた大地は、太陽光の90%を反射する。つまり上下から太陽が照りつけているような状態だ。日焼け止めを塗れない眼球には、サングラスが必須だった。裸眼のままだと角膜が傷つき、一時的に視力を失うこともある。

 晴れていようが曇っていようが、南極は脅威しかもたらさない。

 カフェは、足裏の感覚に最大限集中していた。クレバスを覆う氷雪は厚いぶん、感知が難しい。今回は橇を引いているため、万が一にも落ちるわけにはいかない。日が傾くころには、すでに午後10時を回っている。時間間隔が狂う違和感のなか、極地用テントを設営する。強風にも耐えられる円筒型のトンネルテントだが、念のため周囲を氷のブロックで囲んだ。

 風のない、静かな白夜だった。

 真の静寂というものを、ふたりは初めて知った。

 生命の作り出す雑音が完全に絶えた世界。テントの中で寝袋にくるまっていると、耳の奥に心臓の鼓動が聞こえる。砂塵による大気汚染がないため、どれだけ寒くても吐く息は白くならない。カフェも夏野も、ここでは剥き出しの命に過ぎない。膨大なる白に今にも掻き消されそうな、ちっぽけな命がふたつ、この大陸の中枢に挑戦している。

 浅い眠りにつくまで、互いに言葉はなかった。見据える頂点は、ひとつしかない。

 1月13日。雪煙のむこうに、その山が姿を現す。

 数万年かけて氷河に削られた、険しくも優美な山肌の曲線。てっぺんから麓にいたるまで、隙間なく真っ白だった。到達不能極のなかに聳える山脈。南極大陸最高峰、4892mのヴィンソンマシフだ。

 その全貌を見ただけで、震えるような達成感が胸の底から湧いてくる。日本を発ってから41日、やっと足元まで辿り着いた。ここからが本当の勝負だというのに、夏野はひどく疲労感を覚えていた。

 ベースキャンプに荷物を下ろす。テントのなかで、ずっと橇を引いていたカフェの背中をマッサージする。ハーネスが食い込んだ部分は、うっすらと青あざになっていた。

「ハンニバル隊の痕跡はありませんね」

 昼食にインスタントラーメンを食べた後、ココアを淹れながらカフェは言った。今年のベースキャンプには、テントひとつ見当たらない。

「それだけが救いだよ。ずっとチリで足止め喰らっていてほしい」

 夏野は呟くように言った。長い旅路によるバディの疲弊を、カフェは感じ取っていた。ベースキャンプの標高は2140m。3000m以上の順応には、やや高度が足りない。ウマ娘のカフェにとっては酸素と栄養があれば何とかなるが、人間の夏野がアルパインスタイルでの登攀についてこられるのか心配だった。

「ごめん、白夜のせいで生活リズム狂ってるのか、あまり眠れてなくて。でも大丈夫、エヴェレストのキャンプに比べたら全然マシ」

 問われる前に、自分の状況を伝えておく。それでもカフェの金色の瞳は、じっと夏野を観察していた。

「今日は休養日にして、明日からアタックにしませんか? まずはローキャンプ地まで600mを登り、そこで一日順応しましょう」

 カフェが提案する。ヴィンソンマシフのルートには、ふたつのキャンプ地候補がある。2750m地点のローキャンプと、3770m地点のハイキャンプである。通常は、高所順応のためにローキャンプで荷揚げ作業も含めて二日滞在し、ハイキャンプまで移動、その翌日に山頂アタックをかける。これは、全てがスケジュール通りに進んだ場合であり、天候の急変に備えて3、4日は予備日を設けることが前提となる。しかし、日程に自由がきくのは、ツアー会社によるガイド登山家や荷揚げスタッフの支援があるからだ。

 チーム・シェアトには余力が微塵もない。一日の遅れが、確実に死を近づける。自分たちだけではなく、同行した観測隊員も巻き込むことになる。

「今日中に、ローキャンプまで行こう」

 夏野は言った。ベースキャンプからローキャンプまでは、山塊のふもとを迂回する、なだらかな登りとなる。

「予報では、5日後に大きな低気圧が南極半島にかかるらしいけど、今までの経験上、あまり当てにならない。急ぐにこしたことはないと思う。ローキャンプまでなら、体力の消費は少ないから、今日の一晩で順応を進められる。600mあがるだけだから、睡眠中の影響も少ないよ」

 夏野の提案を、カフェは受け入れた。互いの体調が万全なら、ハイキャンプ地まで一気に登りつめたいところだが、無理をすれば後に響く。ここは到達不能極だ。救助ヘリは来ないし、医師のひとりもいない。

 簡易テントで食料の選別を行う。下山後に最終デポ地点まで戻る時間を二日と見積もり、その分は橇とともに残しておく。あたりに野生動物などいないため、氷のブロックで簡単に覆えばデポ完了である。乾物や、行動食となるチョコレートとタブレットをバックパックに詰める。タキオン印のカロリースティックが、こんなに頼もしく見えたことはなかった。

 ローキャンプ地までは、トラブルなく辿り着けた。だが、他の登山者がいないため道は踏み固められておらず、ブリザードの残雪がそのままになっている。緩やかな坂を登るだけでも苦労した。

 かなり体力を消耗したが、結果的に夏野の判断は正しかった。

 突然、エルスワース山脈を雲の傘が覆い始める。殴りつけるような横風が、ローキャンプに吹き荒れた。風はみるみる雪をはらむ。ふたりは急いでテントを組み立て、周囲を氷のブロックで覆う。

 予報にはなかったブリザード。ものの数分も経たないうちに、周囲がホワイトアウトするほどの猛吹雪となった。風に強いはずのトンネルテントが、おもちゃの風船みたいに激しく煽られる。夜になり日が傾くと、テント内の気温はマイナス20℃まで下がった。4時間ほどで雪は小康状態になるも、人が立って歩けないほどの強風が続く。いつまでも終わらない台風のようだった。

 だが、天候よりもカフェが心配していたのはバディの体調だった。ビバーク1日目で、固形物をほとんど受けつけなくなった。この程度の標高ならば、しばらく安静にしていれば高山病の症状は治まってくるはずだが、2日目になっても夏野の食欲は戻らない。むしろ悪化していた。乾物は諦め、わかめスープなどの汁物で栄養補給を試みるも、飲み込んだとたん、テントから身を乗り出して吐いてしまう。行動食のアミノ酸とブドウ糖のタブレットを口に含ませ、ゆっくり唾液と一緒に飲み込ませる。念のため服用させたダイアモックスも効果はなかった。

「大丈夫、エヴェレストのキャンプ3に比べたら全然マシ。大丈夫、大丈夫」

 夏野はうわ言のように大丈夫と繰り返す。

 3日目にして、ようやく風が歩行可能なレベルまで収まってきた。ハイキャンプに移動するチャンスだ。これを逃せば、予報にあった低気圧の本体が迫ってくる。

「行こう」

 荒れた唇で、夏野は言った。その目には、揺るぎない決意が宿っている。カフェはしっかりと夏野と自分のハーネスをロープで結んだ。

 ローキャンプからハイキャンプまでは、約1000mの登りとなる。平均傾斜45°の急斜面だ。ブリザードの雪が、ところどころ腰の高さまで積もっている。カフェは先頭に立ち、その膂力をもって雪を押しのけ、道なき道を切り拓く。

 ここから頂上まで、遮るものの無い稜線を辿る。容赦ない横風が、ふたりに切りつける。体感温度はマイナス40°近くになる。ときおり夏野が遅れて、ロープが張り詰めた。切り立つ稜線では、隣で支えることもできない。しかし、夏野の体勢は崩れなかった。冬季モンブランのナイフリッジや、エヴェレストでのヒラリーステップ。カフェと共にした経験値が彼女を支えていた。

 エヴェレスト北壁に比べたら、技術的に難しい山ではない。人類文明どころか、あらゆる生命を寄せつけない寒さと風こそ、ヴィンソンマシフ最大の脅威だった。

ハイキャンプまであと十数メートルというところで、カフェのハーネスが後ろに引かれた。後ろを拭かえり、カフェは瞳を見開く。夏野が、ナイフリッジの上で膝をついていた。肩を上下させ、苦しそうに喘いでいる。何か身体に異常をきたしているのは明らかだった。慌てて引き返そうとするカフェを、夏野が右手をあげて制止する。ふらつきながらも自力で立ち上がり、せき込みながらカフェの元まで這うように登る。

 ハイキャンプ地に足を踏み入れた瞬間、夏野は崩れ落ちた。四つん這いになり、激しくせき込む。真っ白な雪の上に、赤黒い飛沫が散る。

 血痰だった。

 身体に異常が起きているのは明らかだった。カフェはすぐにテントを立てて、彼女を避難させる。寝袋の上で横になった夏野は身体を丸めて激しく震えており、苦痛に耐えるようにぎゅっと目を閉じていた。その額に手を当ててみると、尋常ならざる熱さ。

「ちょっと失礼しますね」

 アウターをはだけさせ、夏野の胸に耳を伏せるカフェ。収縮する肺から、かすかに雑音が聞こえる。急激な悪寒と高熱、肺雑音。何らかの細菌感染により肺炎を起こしている。

 南極では細菌やウイルスが生存できないため、風邪を引かないという説があるが、正確には間違いである。人間と、人間が持ち込んだ物資には雑菌が付着している。南極入りしてから発病するリスクは常にある。気温が高いときは、観測拠点でも食料を雪の下に埋めなければ腐敗が進む。

 慣れない極地での過酷な旅だ。疲弊した夏野の身体は、日常ならば無害な細菌にさえ抵抗力を失っていた。

 カフェは、ただちに温めたスポーツドリンクで抗生剤を服用させる。本当なら栄養補給も兼ねた点滴がふさわしいのだが、輸液類は凍結してしまうため持ち込めない。嚥下した錠剤とドリンクを吐き戻さないよう、彼女の背中をゆっくりさする。

「しばらく休みましょう。安心してください、わたしが傍にいますから」

 カフェは言った。この薬は、一錠ずつ三日間飲み続ければ7日間は効力が続く。しかし、服用期間中に劇症化が進めば、彼女は死ぬ。携行しているのは最低限の薬剤のみ。目を離すことはできない。

 しかし、夏野は横たわったまま首を横に振った。震える声で、何かを囁いている。

「……北西稜線、見て……」

 その言葉どおり、カフェはテントから出て北西の方角を見つめる。ただ白いばかりの、切り立つ稜線。それを辿っていくと、ふと色彩に違和感を覚える。

 さらに凝視すると、そこにはゴマ粒のような赤い点があった。

 それが何かを理解した瞬間、カフェの全身が総毛立つ。

 テントだ。荒れ狂う異常気象の南極に、自分たち以外の登山者がいる。

「来たんですね、あなたも……!」

 歯を剥きだすように笑いながら、カフェは呟く。もしかしたら、とは思っていた。限りなく低い確率であろうとも、あの葦毛の怪物は成し遂げるかもしれないと。

 そして今、ブランハンニバルは、カフェとほぼ同じ標高にいる。

 ヴィンソンマシフ北西稜。ふつうの登山隊ならば絶対に足を踏み入れない危険ルートだ。そこしか選択肢が無かったのだろう。おそらくハンニバルは、カフェとは真逆の方向からやってきた。空路ではなく、海路で。南アメリカ大陸に向かって、細長く伸びた南極半島に上陸し、陸地と一体化したロンネ棚氷を渡って、エルスワース山脈のふもとに到達したのだ。それしか考えられない。

 雪上車もない、想像を絶する旅路だ。ハンニバルがヴィンソンマシフ登頂にかける想いは、カフェに負けていなかった。

「ハンニバル隊を視認しました」

 テントに戻り、夏野に報告する。

「勝負は五分五分です。頂上までの距離は、こちらのほうが長いですが、敵のルートは難しい。季節外れの強風で相当手こずっているはずです。ひとまず回復を待ちましょう。この状態では、まともに登れません」

 カフェは言った。考えうる限り、最も合理的な選択だった。発熱が治まらなければ、動くこともままならない。もし稜線を移動中に敗血症にでもなれば、彼女を救う術はない。

 しかし、夏野は首を横に振った。

「わたしを置いて行って」

 掠れた声。瞳だけはしっかりと見開き、夏野は言った。

「何をバカなことを。できるわけないじゃないですか!」

 耳を後ろに倒し、カフェは吠えた。南極に来てから、はじめて感情を剥き出しにする。

「……今が勝機だよ。強風と坂は体力を奪う。カフェのほうが断然有利だ。あなたは全力で走れないだけで、体力、筋力は現役の競走ウマ娘に劣らない」

 ときおり咳込みながら、夏野は言った。

「分かってますよ、それくらい。でも、わたしには夏野さんがいないと。あなたがいないとダメなんです。エヴェレスト北壁で思い知ったことです。だから、一緒に頂上を目指しましょう」

 諭すようにカフェは言う。だが、夏野の瞳は頑として揺るがない。

「わたしは足手まといにしかならないよ。熱が下がっても、風の吹きすさぶ稜線を登り切るのは難しい」

 高熱に冒されてなお冷静な判断だった。アタックに参加することが、登頂率どころかバディの生存率まで下げることを夏野は理解していた。

「カフェは、勝たなくちゃいけない」

 自力で上体を起こし、夏野は言った。

「わたしだけじゃない、応援してくれたみんなの夢を背負ってる。ずっと支えてくれた緑川さんも、命がけで応援してくれた観測隊員の仲間も。背負った夢に、応える責任がある」

「それは、あなたの命と天秤にかけるものじゃないんです!」

 カフェは叫んだ。金色の瞳が苦しそうに歪み、唇が震えている。

 『あなたを失うくらいなら負けてもいい』。喉元まで出かかった言葉を、すんでのところで飲み込んだ。

「わたしは死なないよ」

 にこりと夏野は微笑む。ゆっくり右手を伸ばし、カフェの頬をさする。

 荒れ狂っていた感情が凪いだ。窄まっていた瞳孔が緩み、耳は横に垂れる。

「カフェのために、絶対に死なない。生きるために残るんだ。だから、安心して挑んでほしい。山の初登は、一度しかないんだ。一生に一度なんてちっぽけなものじゃない、人類の歴史で、一度しかない。その栄光を掴んでほしい。他の誰でもない、マンハッタンカフェが、ヴィンソンマシフを制した初めてのウマ娘になるんだよ」

 夏野の激励で、カフェの迷いは霧散していく。頬の上で震える右手に、そっと両手を重ねた。

「ありがとう、夏野さん。勝ちます。絶対に」

 黄金の瞳に、決意の火が灯る。

 これでいいと夏野は思う。トレーナーとして出会い、バディとして生死を共にしてきた。ここまで一緒に来られたことが幸せだった。あとは目前の勝利に向かって、背を押してやるのみ。

 夏野の気持ちを受け止め、カフェは決断する。低気圧が接近する前に勝負を決める。そのためには、今すぐ出発しなければならない。白夜の季節であるため視界には困らない。あとはカフェの体力が、ヴィンソンマシフ最後の傾斜に打ち勝てるかどうかだ。 

 夏野は、熱が下がったらローキャンプまで戻る旨をカフェに伝える。手負いの自分は、ひとつでもキャンプを下げることができれば、その後の帰還効率が飛躍的に高まる。

「くれぐれも無理はしないでください。体調が回復しなければ、ここで待機ですよ。あなたが生きていてくれるから、わたしは頑張れるんです」

 カフェが釘を刺す。夏野は嬉しそうに笑った。

 手早く荷物の選別を始める。軽量のタブレットやカロリースティックのほとんどをカフェに持たせた。荷は極限まで軽くしなければならない。一人用の小型ツェルトは、歩行不能なほどのブリザードに捕まったときの保険だ。念のため、予防用の抗生物質を服用しておく。手のひらの怪我は順調に回復しているが、南極では、わずかな隙が命取りになる。

 持っていくべきか一瞬迷ったが、小型カメラもバックパックに押し込んだ。撮影ができなくなった緑川らメディア関係者への、せめてもの土産にするために。

 

「行ってきます」

 振り返らずに、カフェはテントを出ていく。夏野は、横になったままバディの背を見送った。

「勝って、カフェ。あなたの夢を叶えてきて」

 そう呟き、夏野は瞼を閉じる。亡霊の呻き声のような風の音がテント内にこだまする。弱った肉体に、じわじわと忍びよる寒さ。しかし夏野の心は死の気配を寄せつけない。生き残る。バディのために。胸の奥で何度も意志の炎を燃やす。

 

 標高4012m、気温マイナス35℃。

 剥き出しの稜線上を、小さな影が這いあがる。風を考慮すれば、体感温度はマイナス50℃近くになる。新雪に足を取られる。ときには腰の高さまで積もった雪を掻き分けて進む。

 行けども行けども終わらない、白亜の坂。頂上付近は、雪煙に阻まれ白く掻き消されている。しだいに太陽が地平線に近づき、夕焼けのような色彩が山脈を覆っていく。

 息が乱れる。全身に疲労を感じる。そのたびカフェはタブレットを口に放りこみ、嚙み砕く。

 歯を食いしばり、ただ歩く。

 いまだ姿さえ見えない憧れの果てを、まっすぐ黄金の瞳で睨みつけて。

 この道のりは、人生に似ているとカフェは思う。苦しみを抱えた長い旅路。いつ訪れるとも知れない死の瞬間まで、歩き続けることを強要される。競走ウマ娘として、レースで勝つことで飢えを満たしてきた。引退後は、山に登ることで渇きをしのいだ。それを繰り返すことでしか、生きられない。

 レースも登山も変わらない。掴んだとたんに溶けて消える氷の栄光。また飢える。また渇く。次の栄光を欲してやまない。

 その先に待つ結末は同じだというのに。

 苦行のなか、カフェは微笑む。

 もし自分が孤独であったなら、きっと今、笑えていない。牙を剥きだし、目を血走らせ、獣のように猛り、登っていただろう。いずれ命運尽きて死するときまで、苦しみしかない栄光を掻き集め続けただろう。

 しかし今、マンハッタンカフェは独りではない。隣にいなくても、バディは魂に寄り添ってくれる。

「だから、わたしは生きることが楽しい!」

 生命を許さぬ南極大陸に、カフェは叫ぶ。

 氷の栄光で構わない。この偉大なる自然のなかでは、ヒトの一生など刹那の火花にすぎない。だからこそ、一瞬の悦びを積み重ねて生きるのだ。死という結末は同じでも、そこに至るまでの苦しみを幸福に変えるために。

 カフェの想いなど気にもとめず、ヴィンソンマシフは再び風を強める。数分経たないうちに視界が真っ白に染まっていく。カフェは、わずかに岩の切り立つナイフリッジの溝を背に立つ。ツェルトをかぶり、バックパックを脚の間に抱えてしゃがみこむ。

 寒いという感情さえ湧いてこない。タキオンのカロリースティックをかじり、強風に打たれながらじっと息を潜める。過酷なビバークをしているはずなのに、心は微塵も揺るがない。摂取した栄養を、魂が燃焼させる。身体の芯に熱が灯る。

 10時間後、ブリザードはカフェの信念に屈した。雲が晴れ、真っ白な太陽が輝く。まばらな雪が、きらきらと光の結晶のように舞い落ちる。カフェはツェルトを片付け、立ち上がる。純白に輝く稜線。その先に、頂点が見える。

 カフェは、ヘッドランプを外して、かわりにカメラを取り付ける。ラストスパートの光景だけは日本に持ち帰りたかった。

 あと100m。

 稜線を覆う雪に足をとられる。なかば這いつくばるように腰を落とし、ブリザードの置き土産を掻き分け進む。

 あと50m。

 頂上直下のナイフリッジ。最後の難関に差し掛かる。雪に覆われた、切り立つ急斜面。一歩でも踏み外せば命はない。ザイルで安全を確保してくれるバディはここにはいない。しかし、カフェの両脚には、かつてないほど力が漲る。

 あと30m。

 見上げれば、ぎらつく太陽が目に刺さる。下には底の見えない白い奈落。マイナス29℃の大気が肺を焼く。四肢の感覚が薄れていき、雲の中に浮いているような錯覚。たとえ人生がここで終わるとしても、カフェの脚は止まらない。

 あと10m。

 頂上の、わずかな傾斜。未踏の新雪が、鏡のように光っている。燃え尽きていく肉体を精神で突き動かす。

 バディを想う。胸の奥、骨の髄に刻むように、強く、強く、夏野蘭を想う。

 どうか、あと少しの力を。

 一歩。また一歩。小さな歩幅が積み重なり、ついに彼女を最果てに押し上げる。

 視界から白が途絶えた。

 黄金の瞳は、突き抜ける空の青だけで満たされる。

 その場所を左足で踏みしめ、カフェはゆっくりと視線をおろす。膨大なる白。永遠の氷と雪に閉ざされた、波打つような山塊。大地に流れる地吹雪。その全てが今、カフェの眼下に敷かれている。

 標高4892m。南極大陸最高峰。極地の中の極地。マンハッタンカフェは、ウマ娘として世界で初めて、ヴィンソンマシフを制した。

 涙は流れなかった。

 ただ、その光景を瞳に焼きつける。地球上のありとあらゆる命を拒絶する極限の地。その頂点に、ちっぽけな命が、まるで王のように君臨する。

 栄光を掴んだ。世界初の栄光を。人生をかけた夢を。憧れの初登を。歴史に刻まれる偉業を、成し遂げた。

 掴んだ瞬間、その栄光は手のひらから溶け落ちていく。

 それでいいと、カフェは思う。満たされては渇いていく。常にうつろい、繰り返すことが命だと知っている。

 頂上に立っていたのは、わずか五分だった。

 ヴィンソンマシフに背を向ける。カフェの顔は、登山家の表情に戻っていた。すでに新たな戦いは始まっている。

 この極限の地から、バディと共に生きて日本に帰る戦いが。

 

 




次回、最終話。

この作品が完結するまでに、マンハッタンカフェを実装して欲しかった。


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最終話  白嶺に染まぬ黒

ターフを去ったウマ娘と、トレーナーを辞めた人間の物語、ここに完結。


 勝利の余韻に浸る間もなく、カフェはすぐ下山を始める。

 現在、1月17日午前11時。ベースキャンプまで戻るのに最低でも1日はかかる。そこから最終デポ地点までは2日ほどかかるため、接近してくる低気圧を考慮すると、あまり時間の余裕はない。

 快晴だった空が嘘のように曇りはじめ、雪交じりの風が強まる。吹き曝しの稜線では、なお辛い。全身を煽られながらハイキャンプに到着する。テントはない。夏野は自力で撤収することができたようで、ほっとする。

 夏野に会いたい。誰よりも先に勝利の報告をしたい。その一心でカフェは急いだ。7時間ほどで稜線を降りる。すでに立っていられないほど風は激しくなっていた。ブドウ糖タブレットを歯ですり潰しながら、カフェはローキャンプに足を踏み入れる。もうもうたる地吹雪のなか、芋虫のように横たわるオレンジ色のテントを見つけた。

 テントに入ってきた雪まみれのカフェを見るなり、夏野は泣きそうな笑顔で抱きしめた。結果を尋ねずとも、澄んだ金色の瞳が登頂成功を物語っていた。

「やりましたよ、夏野さん」

「おめでとう、カフェ。よかった、本当に」

 夏野の抱擁がさらに強くなる。マイナス20℃でも汗が噴き出しそうなほど、カフェの身体は火照ってしまった。

「体調はどうですか?」

「熱はだいぶ下がった。食欲はまだないけど、ベースキャンプに下るくらいなら大丈夫だよ」

 涙を浮かべながら、夏野は言った。

 バディの顔を見つめていると、カフェの胸がずきりと痛む。この三日だけで、ずいぶん痩せてしまった。感染症の重篤化は抑えられているが、この環境では完治することはない。軽微な不調は、ずっと続くはずだ。一日も早く、医療設備の整った昭和基地まで戻らなくてはならない。

 すぐにテントを撤収し、ベースキャンプまで移動したかったが、ヴィンソンマシフ周辺は夏の嵐に突入していた。風速37m、マイナス40℃のブリザードが吹きすさぶ。テントの土台は夏野が補強しておいてくれたが、風圧に耐えきれず何度も支柱がねじまがる。そのたびトンネル型のテントは形が崩れていき、座っていても頭がつかえるようになる。ついに支柱の一本が完全に圧し折れた。だが外に出ればブリザードに吹き飛ばされるため修理はできない。雪の重みでテントの半分が潰れていく。畳一枚ぶんほどもないスペースに、身体を寄せ合って横になる。荷物を端によせ、互いの脚を重ね合わせる。鬱血を防ぐため、定期的に上下を交代する。

 眠ることはできない。浅いまどろみを繰り返すだけだ。ときおり瞼を開くと、夏野の青白い顔が数センチ先にある。気まぐれに身じろぎでもすれば、唇同士が触れてしまいそうな距離。

「寒いですか?」

 カフェが尋ねる。

「寒くはないよ。痛いだけ。あとは何も感じない……」

 瞼を閉じたまま夏野は答える。その息遣いに異音はない。薬はちゃんと効いている。補給した栄養量を考えれば、低体温症で死ぬこともないはずだ。しかしカフェはさらに身を寄せる。少しでも夏野の不安を和らげることができればと願う。

 大型低気圧が過ぎ去るまで、三日三晩かかった。節約していた食料も、乾物類は底をついた。まだ風は強いが、今日中にベースキャンプにデポしてある橇まで戻らなければならない。予期せぬブリザードが襲来しないことを祈りながら、テントを撤収する。夏野はときおり咳をしていて、動きが鈍い。

 ベースキャンプまで、残り標高差650m。

 互いのハーネスをザイルでしっかり結び、ふたりは最後の下降を始める。傾斜は緩やかだが、すぐ左側に切り立つヴィンソンマシフの山肌から、強烈な風が吹き下り、頭上に直撃する。殴り倒されそうになりながら、ゆっくりと進む。あと200mほどで、ふもと周りのルートから離れ、なだらかな氷河下のベースキャンプに至る。ようやく、この魔の山に背を向けることができる。

 夏野の体力は、もう限界だった。道中、なんどもカフェの歩速に追いつけず、ザイルが張り詰めた。カフェは何も言わず、彼女のペースに合わせる。あと少しだ、持ちこたえてくれ、と心の中で必死に祈った。

 折り返し地点に差し掛かったときだった。

 カフェは眩暈を感じた。ウマ耳の奥の三半規管が突然、何かに反応する。氷の大地を伝う振動。この地震にも似た感触には覚えがあった。思い出しただけで全身が総毛立つ。エヴェレスト北壁での経験。ウマ娘の力をもってしても、到底抗えない自然の猛威。

 カフェは振り返る。

 夏野の向こう側。聳え立つヴィンソンマシフの山肌が、地滑りを起こしたかのように動いている。稜線から中腹にかけて、雷鳴のような轟音とともに崩れていく。それは、もうもうとした煙のように膨れ上がり、一直線に駆け降りてくる。

 雪崩が来る!

 度重なるブリザードにより降り積もった氷雪が、許容量を超えて一気に崩壊したのだ。

 夏野が後ろを見るより先に、カフェは彼女のもとに駆け寄る。考えたり喋ったりする猶予もなかった。夏野を抱きかかえ、氷河を横切るように疾走する。ここからベースキャンプまでは緩やかな下りになっている。同じ方向に逃げたら、雪崩に正面から飲まれる。希望があるすれば、氷河の端に避難すること。U字状の緩やかな傾斜を登れば、そのぶん雪崩の本流から離れることができる。

 これが、今できる唯一の抵抗だった。

 横目に見ただけで、逃げ切れないことが分かる。ウマ娘を遥かに超える速度で、莫大な質量を伴った白煙が押し寄せてくる。エヴェレストのときの雪崩とは違う。柔らかな新雪だけではない。強風に押し固められた、岩のような氷塊が無数に混じっている。雪崩というよりは、土石流に近い。

 こんなものに巻き込まれたらどうなるか、カフェはすでに理解していた。

 それでも走る。夏野を抱いて、疾走する。レースのときには存在しなかった力が両脚に滾る。勝利したどのG1よりも速く、マンハッタンカフェは雪原を駆け抜ける。バディを死の淵から遠ざけるために。ほんの1%でも、生き残る確率を上げるために。

 その足首を、雪崩の先端が捕らえた。

 夏野はカフェにしがみつき、ぎゅっと身体を丸くする。カフェもまた彼女を抱きしめた。絶対に離さない。そう言わんばかりに強く。

 衝撃、そして暗転する視界。

 痛みを感じる間もなく、意識は途絶えた。

 

 

 誰かに全身を引っ掻かれている。

 無数の爪が、皮膚を削り取るように、がりがりと。志半ばで死んでいった登山家たちの無念が、自分を呪っているのだろうか。

 ここでカフェは気づいた。死者に厭われるなら、自分はまだ生きている。

 走馬灯なら、もう少しマシなものを見るはずだ。

 瞼を開く。夢だと思っていた全身の痛みが、現実になる。視界は真っ暗。ほとんど身動きが取れない。雪崩に埋まってしまっている。カフェは痛みと寒さで意識を取り戻した。

「夏野さん……」

 ハーネスに結んだザイルを掴もうとするが、腰まで雪に埋もれている。無理に身じろぎすると、左腕と脇腹に激痛が走った。おそらく折れている。

 もう一度、夏野の名を呼ぶ。やはり返事はない。なんとか身体を動かせるようにしなければならない。息苦しいが窒息はしていないため、幸いにも地表に近いところまで身体が浮上したようだ。かすかに空気の流れを感じる。

 カフェは痛みに呻きながら、右腕を胸の前に寄せる。関節を動かせるだけの空間をつくるため、少しずつ雪を掘っていく。感触を確かめながら、固い氷を避けて、柔らかい雪だけをどけていく。激痛に耐え、右腕だけを何度も動かして、なんとか上体の周りに小さな空間をつくる。

 ゆっくりと息を吐いて、意識を集中する。呼気が吸気に変わる瞬間、一気に両脚を引き抜く。圧迫された腹部に強烈な痛みが炸裂する。歯を食いしばり、涙を滲ませながら悲鳴をこらえる。やっと四肢の自由が利くようになった。もう一度、ザイルを引っぱる。手ごたえがある。切れていはいない。つまり、この先に夏野がいる。

 横向きになり息を整え、上半身からザックを外す。暗闇のなか、手探りでピッケルを取り出し、ザイルに向かって這うように掘り進む。少ない酸素が消費され、さらに息苦しさが増す。肺が膨らむごとに、槍で突かれるような鋭い痛みが脇腹に走る。だが、全身の苦痛を無視してカフェは進んだ。

 暗闇に慣れてきた目が、微かな光を捉える。青白い煌めきが、うっすらと頭上の氷から透けている。地上が近い。

「夏野さん……。夏野さん……」

 カフェは呼びかけ続ける。余計なことを考えず、ひたすら雪を掻き分ける。ザイルのたわみが消えたとき、視界に白以外の色彩が現れる。オレンジの極地用アウター。そして『TEAM SCHEAT』の文字。

「夏野さん!」

 露出した肩をゆする。しかし反応はなかった。こちら側に引っ張り出そうとするがびくともしない。雪に混じった巨大な氷塊が、彼女の身体を押さえ込んでしまっている。

 すぐにでも地上に運び出さなければならない。

 しかし、下手に掘り出せば、氷塊と雪のバランスが崩れて、夏野の身体が完全に押し潰されてしまう。

 迷っている時間はない。カフェはしゃがみこみ、氷塊に背中をぴったりと張りつける。息を吸い込み、全身全霊で押し上げる。ほんのわずかだが、氷が揺らぐ。

「う、う、ううう……!」

 食いしばった歯の隙間から漏れる唸り声。十数トンはあろうかという氷雪が、みしみしと音をたてて浮き上がっていく。酸素を消費しない、わずか40秒間の戦い。圧倒的な質量に負けて、肺から空気が圧し出される。

 筋肉が裂けても、骨が砕けても、構いはしない。脳のリミッターを外し、起重機のようにカフェは全力を込め続ける。

 愛するバディを取り戻すために。

 せり上がる氷塊に引っ張られ、地表の雪が割れていく。隙間から差し込む青白い光。

 まだだ、まだ足りない。

 体中の血が沸騰する。鼻孔の毛細血管が破れ、眼下に赤黒い雫がしたたり落ちる。

 地球を背負っているかのような重みに、何度も潰されそうになる。だがカフェは一瞬たりとも力を緩めない。さらに氷塊を押しのけていく。

 音がしない。皮膚の感覚もない。ただ己のうちに業火を感じる。

 地上に突き出た氷塊が、軋みながらスローモーションのように傾いていく。

 

 

「ううううううううううううああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 

 

 肺に残った空気を振り絞り、咆哮する。

 自分からバディを奪おうとする雪崩に、ヴィンソンマシフに、南極に、魂で喰らいつく。

 ひとりのウマ娘の膂力が、覆いかぶさる雪崩を地表まで押し退けた。低い地響きとともに横たわる氷雪の塊。

 息つく暇もなく、カフェは動かせる右腕で夏野を雪の中から引きずり出す。その顔を見て、カフェは泣きそうになった。生気の絶えた蒼白。紫色の唇。

 血液が循環していない。

 縋りつくように夏野のアウターを剥ぎ取る。力を籠めすぎないよう右手だけで胸部を繰り返し圧迫する。唇を重ね、夏野の肺に息を吹き込む。

 まだ温かい。ほんの一縷の望みがカフェを突き動かす。無我夢中で、蘇生動作を続ける。

「嫌だ、嫌だ、夏野さん……!」

 声に嗚咽が混じる。涙を凍りつかせながら、息を気道に送り込む。ふくらんだ胸が、力なく萎んでいく。

 夏野は息をしてくれない。

「わたしたちは、バディなんです。あなたが死んだら、わたしは一生苦しみますよ。後悔しますよ。だから、死なないでください。あなたは生きなくちゃいけないんです。わたしのために」

 えづきながら、心臓マッサージをする。折れている左腕の痛みを感じる間もなく、祈るように胸を押す。

「お願いです、夏野さん……」

 もう何度目か分からない人工呼吸。かすかな体温さえ失われていく夏野の唇。

「わたしを、独りにしないでよ!」

 感情が決壊するに任せ、カフェは泣き叫んだ。

「今さら、独りにしないでよ……」

 夏野にしがみつき、幼子のように慟哭する。ゆえにカフェは気づいていなかった。防寒手袋に覆われた夏野の指が、ぴくりと動いたことに。

「どうしたの、カフェ……?」

 かすれた声。がばりとカフェは伏せていた顔を上げる。涙と鼻水と、血がぐちゃぐちゃに絡み合い、頬のうえで凍っている。

「ふふ、ひどい顔だよ」

 うっすらと瞼を開き、夏野は微笑む。しかし、すぐにまた昏睡してしまった。カフェは正気を取り戻し、脈と呼吸を確かめる。どちらも、ゆっくりではあるが正常。顔にも血の気が戻り始めている。すぐに外傷のチェックをする。頭部からの出血は、すでに止まっている。ウマ耳を聴診器がわりにして夏野の腹部を探る。内臓、血管ともに致命的な損傷はなさそうだ。しかし、全身打撲と、脳に対する何らかのダメージは間違いない。自力での歩行は不可能だった。

 カフェは、すぐ荷の選別にうつる。夏野のザックは無残に潰されていた。偶然にも氷塊との間に入り込んだことで、夏野を圧死から救ってくれた。歪んだジッパーを開き、非常食のカロリースティックとタブレットだけを回収する。ベースキャンプにデポしてあった荷と橇は雪崩に埋まってしまった。無線で観測隊に連絡を取ることはできない。

 自力で最終デポ地点まで帰還するしかなかった。

 食料をアウターのポケットに詰め込み、カフェはザックの中身を全て捨てた。上下逆にして、肩紐にあたる部分に夏野の両脚を通す。そして、夏野ごとザックを背負いあげた。

 折れた肋骨が、脇腹を突き破るかのような激痛。むりやり悲鳴を噛み殺す。左腕の自由が利かないため、ザイルを胸の前に通して結び、夏野が落下しないように固定する。

「行きますよ、夏野さん……!」

 自分に言い聞かせるようにして、カフェは歩き始めた。脚が折れていないことだけは幸いだった。全力で走れずとも、人間ひとりを背負い、約二日間ぶっ通しで歩くだけの機能さえあればいい。

 風と寒さに比べれば、痛みなど取るに足らない。それが原因で死ぬことはないのだから。

 1月21日、午前11時5分。

 マンハッタンカフェはヴィンソンマシフからの撤退を開始する。橇も燃料もテントも失い、バディは行動不能に陥った絶望的な旅路。デス・ゾーンよりも遅い歩み。足を一歩前に出すだけで、凄まじい苦痛が伴う。一呼吸ごとに肺が悲鳴をあげる。次、ブリザードに襲われたら終わりだ。仮に好天に恵まれたとしても、途中でいずれかの体力が尽きる可能性は高い。とくに夏野は、いつ低体温症で危篤になるか分からない。

 もはやカフェは、気力だけで歩き続けていた。氷原の小さな凹凸にさえ足をとられる。そのたび必死で踏ん張り、夏野を支えた。ときおり思い出したようにカロリースティックをかじる。味がしない。舌の感覚がない。ふと気づけば、足裏の触感もなくなり、雲の上を歩いているかのようだ。

 自我が漂白されていく。意識が身体から溶けだし、この白い大地と同化し始める。

 だが、カフェは歩みを止めない。

 彼女の耳は、かすかな息遣いを拾う。どれだけ極地の風が激しくても、夏野の呼吸音だけは絶対に聞き逃さなかった。その音とも呼べない空気の震えだけが、カフェの命を現実世界に繋ぎ止めている。

 不思議だった。

 人間を背負うという行為が、なぜかしっくり心に馴染む。むしろ、この背の重みが、とうに力尽きているはずの肉体に、一歩を踏み出す気力を与えてくれる。

 そのとき、カフェは唐突に理解した。

 なぜ、ウマ娘のトレーナーは全て人間なのか。疑問に思いつつも当たり前のように受け入れてきた。その答えを、今の自分に見出した。人智を超えた、宿命とも呼べる両者の絆。それがあるから、ウマ娘は人間のもとで走るのだ。人間でしか引き出せない力があるから。

 どれほど歩いただろうか。時間経過を考えることもできなくなったカフェは、その背中に小さな身じろぎを感じる。

「……カフェ?」

 うっすらと瞼を開き、夏野が尋ねる。カフェは無言で、小さな歩みを重ねる。もう喋る余力もなかった。

「助けてくれたんだね、ありがとう」

 耳元で夏野が囁く。意識を取り戻してくれた嬉しさで、濁っていた黄金の瞳にうっすらと涙が滲んだ。

 身体の自由が利かないため、眼球だけを動かして周囲を確認する夏野。太陽の見えない曇天。山影は遠ざかり、進行方向には、灰色がかった雪原がどこまでも広がっている。すぐに夏野は理解する。カフェが最終デポ地点まで歩き通そうとしていること。その肉体はとうに限界を迎えていること。そして、到達不可能と分かっていても、彼女は歩みを止めないことも。

 一歩、また一歩。命を削るようにして、カフェは夏野を運ぶ。

「そのまま、聞いて」

 朦朧とする脳を奮い立たせ、夏野は言った。

「わたしに不安はないよ。後悔もない。カフェと出会ってから、わたしの人生は本当に楽しかった。レースも、登山も、いろんなこと全部、楽しかった。カフェと出会えたことが、わたしの生涯の誇り。だから今、カフェと一緒にいられて、わたしは幸せだよ」

 そう言い終えて、夏野は再び意識を失った。

 カフェは静かに泣いていた。結晶化する涙を、右手で払い落とす。黄金の瞳は爛々と輝いていた。最後の命の灯を燃やし尽くすかのように。

 エヴェレスト北壁のときとは違う。死を前にしても、悲しみも恐怖もない。孤独すらやってこなかった。心を満たすのは、悦びだけだ。人生でいちばん、生きている実感がした。愛する人のために生き、愛する人と共に死ぬ。これほどの悦びはない。

 ゆえにカフェは歩き続ける。

 南極に見せつけるために。マンハッタンカフェの生き様を。

 どれほど時間が経っただろうか。気がつくと、自分の脚は、もうただの一歩も動かなくなっていた。精神だけが、先へ先へと進んでいた。

 それでもカフェは膝をつかない。この白い大陸の一部になるつもりはなかった。力尽きてなお、漆黒の摩天楼は屹立する。悠久の白亜にさえ、彼女を染めることはできない。

 最後の力を振り絞り、カフェは笑う。

 誇り高く、不敵に。人生の勝利者たる悦びをたたえて。

 

 

 

 死の淵に落ちると、いつも幻聴を聞いているような気がする。

 最期に自分を呼ぶのは夏野蘭こそがふさわしい。しかし、カフェの耳をくすぐるのは、まったく別の人物だった。

 ―――なんで、よりによってあなたなんですか。

 幻聴に向かって、鬱陶しそうに文句を言うカフェ。人生の終幕なのだから、もう少し都合のいい感傷に浸らせてほしかった。

 ところが、カフェの抗議を無視して、その声はどんどん強まる。まるであの世に旅立とうとするカフェを妨害するかのように。

「……うるさいですよ」

 睡眠を邪魔された子供のように呻く。

 自らが発した声で、カフェは自我を取り戻した。

 ここは現実だ。瞼を開く。ぼやける視界。一面の白が跡形もなく消え、赤い空が広がっている。焦点があってくると、それがテントの幕であることに気づいた。

 そして、横たわる自分を覗き込むようにしている、銀髪の人物。とても美人だが、彼女をお迎えの天使だとは思いたくない。幸いにも頭上に輪っかはなく、ふたつのウマ耳が揺れていた。

「命の恩人に向かって、ずいぶんな口の利き方ですね、カフィ」

 そのウマ娘は、呆れたように言った。

「ハンニバル? どうして、あなたがここに……?」

「山頂アタックのとき、カメラの電源を入れたでしょう? カメラ映像が、こちらでも確認できるようになったんですよ。その後も、GPSが位置情報だけは発信していましたから、あなたたちの動向は把握していました」

 ブランハンニバルが答える。登頂成功後、カフェはカメラを切ったが、電源自体を落とすのを忘れていた。それが幸運にも救出に繋がったのだ。

「大規模な雪崩の轟音は、反対側にいた我々のところまで聞こえていました。その直後に、あなたの歩みが止まった。3時間ほど動きがなかったので、死んだものだと思っていました。しかし、座標は再び動き出した。しかも、異常なほどゆっくりと。何か致命的なトラブルがあったことは明らかでした。そこで、わたしたちは下山して、追いかけてきたというわけです」

「……夏野さん! 夏野さんは生きてますか?」

 慌てて立ち上がろうとするカフェをハンニバルは寝袋に押し戻す。

「左上腕骨と、肋骨が4本折れています。骨折箇所を固定しているので動かないでください。あなたのパートナーは無事です。骨折や打撲よりも低体温症が危険な状態でしたが、峠は越えました。あなたの隣で眠っています」

 その言葉は聞くなり、カフェは首だけを動かす。すぐ目の前に、夏野の横顔があった。血色がよくなり、穏やかな呼吸をしている。

 カフェは全身の力が抜けていった。涙が、止めでもなく溢れてくる。

「よかった。本当に、よかった。ありがとうございます、ハンニバル。わたしのバディを救ってくれて、ありがとうございます」

 泣きながらカフェは言った。しかしハンニバルは憮然とした顔をしている。

「こちらは日程に余裕がありますから、別に構いません。登山家は助け合うものです。しかし、残念でなりません。せっかく苦労して海を渡って、棚氷を這いずり回り、人員も資源も倍増させて挑んだというのに、最後の最後で風に阻まれるとは。我々が頂点に立ったのは、ブリザードが収まってからでした」

 心底悔しそうにハンニバルは言った。

「あなたは、たったひとりでブリザードを越えて頂点に立った。わたしでは成し得ないことです。もし、わたしがあなたのバディなら、あのとき登れてはいなかった。完敗です。あなたは、わたしのライバルとして相応しい存在であり、わたしが超えるべき壁となりました」

 ふっと表情から力が抜けるハンニバル。寝そべるカフェに、右手を差し出す。

「ヴィンソンマシフ初登、おめでとうございます」

 敬意を込めてハンニバルが告げる。その手を、カフェはしっかりと握り返す。

「ありがとうございます、我が師よ。そして、セブンサミット制覇、おめでとうございます」

 互いの健闘を讃え合う。ハンニバルもまた、ウマ娘として史上初となる七大陸最高峰登頂の偉業を達成した。

「これからも現役を続けるのですね?」

 カフェが尋ねる。

「はい。セブンサミッターになったら、引退して後進の育成に力を注ぐつもりでしたが、まだまだ内なる炎は消えていないようです。あなたを見ていて、そう気づきました」

 そう言い残し、ハンニバルはカフェのもとを去る。

 

 翌日の午前6時、夏野は目を覚ました。ここは死後の世界かなどと勘違いする間もなく、隣で嗚咽をあげるカフェを見て、これが現実であると知る。

 ハンニバル隊の山岳医が、夏野に今の状態を説明する。彼女もまた、人間ではなくウマ娘だった。世界初の、ウマ娘の認定山岳医であるらしい。

 左脛骨、右尺骨、右中指と人差し指を骨折、さらに胸骨にもヒビが入っているとのことだった。全身打撲と低体温のショックで意識不明になっていたが、カフェの応急処置が早かったため奇跡的に一命を取り留めた。

「今のところ、内臓や脳機能に致命的な損傷は見られません。でも、基地に帰ったら、そちらの軍の医療設備で必ず精密検査を受けてください」

 青鹿毛の医者は、英語で夏野に告げた。

 そこで夏野は、自分たちの旅程のことを思い出す。今は1月22日、午後6時。ハンニバルによれば、カフェは雪崩遭難地点から、わずか16kmほどしか進んでいなかったという。自力歩行が不可能な夏野とともに、あと二日で観測隊と合流するのは不可能だった。

「心配には及びません。我々が、チームシェアトを目的地まで送り届けます」

 ハンニバルは言った。隊は、すでに出発の準備を整えている。

「幸いにも、カフィは歩行だけなら可能です。痛み止めを打っても折れた骨には響くでしょうが、そこは辛抱してもらいます。そして、あなたですが―――」

 ハンニバルは、ゆっくりと夏野を抱きかかえる。鎮痛剤が効いているため、あまり痛みはなかった。そのまま外に出て、小さな引き橇に防寒対策を施した夏野を横たえる。

「わたしが橇を引きます。多少揺れますが、我慢してください」

 そう言って、ハンニバルは牽引ロープを自らのハーネスに繋ぐ。

「……いいんですか? 人間を引いて歩くなんて。その、あなたのプライド的に」

 躊躇いがちに尋ねる夏野。ハンニバルが人間に対して差別的な感情を抱いていることは、夏野も気づいていた。しかしハンニバルは、振り向きざまに笑ってみせる。

「確かに、わたしは人間を見下しています。身体能力が劣るばかりか、わたしの能力を満足に引き出すこともできない無能なる種。しかし、あなたは別だ。忘れているかもしれませんが、カフィと同じく、あなたはわたしの弟子なのですよ。人間としては、ただひとりの、わたしの弟子です。師が弟子を助けるのは当然のことです」

 ハンニバルは隊に出発の号令をかける。雪道をもろともせず、力強く橇を引く師の背中に、夏野は心から感謝の言葉を捧げる。橇のすぐ後にはカフェが続いた。

「さすが不死身の白。思ったより衰えていませんね。これは気を抜けませんよ」

 カフェが小さく軽口をたたく。思わず笑ってしまった夏野の前で、「聞こえていますよ」と耳を揺らすハンニバル。

 その後も、ブリザードに見舞われることなく順調な旅路が続いた。カフェと夏野が二日がかりで踏破した道のりを、わずか20時間ほどで乗り越えてみせた。白い地平線近くの最終デポ地点に、豆粒みたいに佇む雪上車が見えてくる。

 チームシェアトが、ヴィンソンマシフから生還した瞬間だった。

「我々が手を貸せるのは、ここまでです。あとは、あなたの手でバディを導いてください」

 ハーネスからロープを外し、ハンニバルは言った。

「十分です。ありがとうございました。どうか、お気をつけて」

 カフェは言った。その瞳には、偽りのない敬意が込められていた。

「また戦いましょう。どこかの山で」

 振り返らず、ハンニバルは進む。淀みない足取りで、ロンネ棚氷を目指して去っていく隊を、ふたりは見送る。その背中は、まだまだ追い越せそうにないとカフェは思った。

「さて、行きましょうか」

 右手でロープを掴み、カフェが牽引する。どこかの骨が折れているとは思えない健脚ぶりだった。雪上車に近づくにつれ、ようやく助かったという実感が湧いてくる夏野。むろん、これから到達不能極を渡り、S60拠点まで戻らなければならない。しかし、その道行に不安は全くなかった。

 橇から荷物を運んでいた井出が、カフェたちに気づく。最初、目を丸くして立ち尽くしていたが、すぐ何事か叫びながら隊員を呼び集めた。彼らはドラム缶を放り出して、カフェたちに駆け寄る。ヴィンソンマシフ登頂と、その後の遭難について説明するカフェ。勝利と生還、ふたつの奇跡に、屈強な男たちは咽び泣いた。すぐに骨折した夏野を雪上車内に担ぎこむ。

 およそ半月ぶりに文明的な室温に触れたカフェは、一気に緊張の糸が切れて、床にへたりこんだ。温かい茶を啜りながら、井出隊長に怪我の状態と、ハンニバル隊に救助されたことを伝える。

「よかった。本当によかった。無線からの連絡がないままだったから、ずっと生きた心地がしなかった」

 涙しながら井出隊長は言った。彼らは、日々の食事を切り詰めてまでカフェたちの帰還を待っていた。それでも、あと二日が限界だったらしい。隊長に苦しい決断をさせずに済んだことがカフェたちは嬉しかった。

 ただちに燃料を補給し、最終デポ地点を出発する。手探りで進んできた往路と違い、復路は精神的な負担も少なく、順調な旅路だった。大きな低気圧が去った後の南極は、夏季本来の天候に戻りつつある。

 来季の観測のため、雪上車はS60拠点にデポしておくことが決まっていた。拠点に到着してすぐ、井上は昭和基地に連絡をとる。迎えのヘリの要請と、チームシェアトの負傷について伝えるためだ。

 通信から1時間後、拠点の小屋近くに、もうもうと雪煙をたてながら着陸する海上自衛隊の輸送ヘリ。衛生科の隊員たちが、夏野の身体を固定して引き上げる。隊員が乗り込んだところで、昭和基地までトンボ帰りする。井出から登頂成功を伝えられていた基地では、すでにお祭り騒ぎだった。貯蔵ビールが開放され、カフェと夏野を祝福する。しかし、当のふたりはパーティーに参加することなく、医務室に直行となった。

 海自医官による精密検査の結果、おおむねハンニバル隊の山岳医の診断どおりだった。しかし、これだけの骨折と全身打撲、さらに低体温症のなか、雪崩から生還できたのは奇跡としか言いようがないと、基地の隊員たちを驚愕させた。

 内陸旅行隊の日程がぎりぎりになったため、慌ただしく越冬交代式が行われる。一年間、極夜の観測任務を勤めあげた越冬隊が、新たな隊にバトンをつなぐ。カフェたちは夏隊の同行者であるため、2月10日をもって昭和基地からしらせに撤収する。

 苦楽を共にした井出、柏原、樋口は今期の越冬隊員でもあった。より過酷な冬の南極に挑むことになる。別れ際、カフェたちは彼らと固い握手を交わした。所属する組織は違えど、彼らは紛れもない、チームシェアトの一員だった。

「またおいで。冬の南極もいいもんだよ」

 そう言って井出は笑った。笑いながら涙する隊員たち。カフェと夏野も、人目を憚らずに泣いた。

「はい。そのときまで、絶対に死にません。だから、皆さんもどうかご安全に。また会いましょう!」

 カフェは言った。金色の瞳は、どこまでも澄み渡っていた。

 新越冬隊に見送られながら、ふたりはヘリでしらせまで戻る。そこからは、また数えきれないラミングと、嵐の海の航海だ。だが、心なしか往路よりも吐き気は緩和されていた。身体が極地に適応してきたのかも、と夏野は笑う。怪我をしていても、艦内ではできるだけ隊員たちと一緒に仕事をこなした。松葉杖なしでは歩けない夏野も、カフェに支えてもらいながら、清掃などをこなす。何かしていないと落ち着かない。完全に南極生活に染まっていた。

 3月25日。しらせは、無事にオーストラリアのシドニーに入港する。そこからは、観測隊員と空路で日本まで帰ることになる。

「成田に着いたら、たぶん報道陣に囲まれますよ。面倒ですね」

 機内でカフェがぼやく。一か月の航海で、だいぶ傷は癒えたが、骨は完全にくっついていない。

「動けるようになったら、感謝のウイニングライブしたらどう? 緑川さんに提案したら、すぐ舞台を用意してくれるよ」

 からかい半部に夏野は言った。

「冗談じゃありません。あの人にそんなこと口を滑らせたら、本当に東京ドームや武道館に立たされます。ライブはもうたくさんです。でも……」

 何かを思いついたように言葉を切る。

「夏野さんが一緒に踊ってくれる条件で、提案するのもアリですね。ライブ」

 にやりと、しかし目には本気の光を宿して、カフェは笑う。小一時間、夏野はカフェのご機嫌とりをする羽目になった。久々に女優の顔に翻弄された。

 

 

 成田空港に降り立ったふたりを迎える、大勢の人間とウマ娘たち。トレセン学園の制服もあれば、社会に出て働くウマ娘もいた。彼女たちは一斉に帽子を脱ぎ捨てて歓声をあげる。カフェによるヴィンソンマシフ初登は、この国のウマ娘史にとって、小さな、しかし決定的な転換点となった。人間であることを強制されず、ウマ娘のまま自由に生きていける社会の第一歩だ。

 群衆のなかに、緑川はやて常任理事の姿もあった。豪快に自らのクロッシェ帽を宙に投げ飛ばす。その下から、まだまだ毛艶のいいウマ耳がぴょこんと飛び出した。そして、帰還したチームシェアトのふたりに拍手を送る。彼女が立っているだけで、カフェの南極行きを応援しなかった外様の報道陣は、主役のふたりに近づくことすらできない。

 すぐにカフェと夏野は、親しい人たちに囲まれた。石黒夫妻は、今度は『おめでとうマンハッタンカフェ』の横断幕を掲げて感涙に咽んでいる。一足先に帰国していた貫谷隊が、ふたりの無事と勝利を祝福する。アグネスタキオンは、真剣な目で、そっとカフェを抱擁した。カフェは無事だった右腕で、彼女の背中を抱き返す。もはや言葉は不要だった。喜びと感謝の気持ちが、互いに直に伝わってくる。

 タキオンを連れてきた広田翔が、夏野の前に立つ。その手には、プラチナの指輪があった。夏野は、そっと左手を差し出す。カフェが、右側から彼女を支える。広田は、ゆっくりと妻となる女の薬指にリングを嵌めた。

「おかえり」

「ただいま」

 命がけの旅の終わりを告げる、何気ない挨拶。夏野蘭は、登山家からひとりの女性に戻ることができた。穏やかな表情のバディを、カフェは微笑みながら見守っていた。

 

 それから、日本はマンハッタンカフェ旋風に湧いた。カフェが撮影したヴィンソンマシフのラストスパートをもとに、これまでの活躍をまとめた特別番組をNUKが放送した。同時に、ブランハンニバルのセブンサミット完登もまた世界中に報じられる。インタビューのなかで、彼女はヴィンソンマシフの初登はカフェであることを証言し、自らの弟子の健闘を讃えた。その姿は、アムンセンの勝利を証明したスコットに例えられるほどの英雄視を受けた。世界中の世論を味方につけてようやく、ハンニバルは本心を口にした。自分を否定し、蔑んできた祖国のレース関係者に一言、「ざまあみろ」と。夏野とカフェが思わず笑ってしまうほどの、無邪気な、すがすがしい笑顔だった。

 マンハッタンカフェは、NUKと、世話になった報道機関や後援組織による記者会見に応じた。その中でカフェは、これからも登山を続けること、ブランハンニバルとの再戦への意気込みを語る。

 カフェがメディアの前に姿を見せたのは、これっきりだった。

 勝利後の自分語りに興味はない。それよりも、バディにとって大切なイベントが間近に迫っている。

 延期すること8カ月。ついに、夏野蘭と広田翔の結婚披露宴が行われた。交流の深い人間と親族のみで行われる、ささやかな式だった。親族といっても、新婦側には父も母もいない。トレーナーとしての人生も登山家としての人生も認めなかった両親を、夏野は容赦なく式から締め出した。その代わり、美瑛町から石黒夫妻が駆けつけてくれた。ふたりは、我が子のように夏野の門出を祝福してくれた。ほかにも、登山活動を支え続けてくれた緑川や貫谷、広田のチームに所属するウマ娘も出席している。アグネスタキオンとエアシャカール、そして未来のトゥインクルシリーズを担う若い戦力たち。ゆえに夏野は、みじんも寂しさを感じない。

 新婦の友人代表として挨拶したのは、他ならぬマンハッタンカフェだった。

「長いようで、短い旅路でした」

 ブライダル会社が用意した挨拶文を全て無視して、カフェが語る。

「およそ一年前、トレセン学園に、マンハッタンカフェという名の奇特なウマ娘がいました。走ることでしか心を満たせない、健気で純粋な儚いウマ娘です」

 嘘つけ、どこが儚いんだ、剛毅で図太いウマ娘の間違いだろ。と広田チームから野次が飛び、会場に笑いが広がる。カフェもまた愉快そうに微笑んでいた。

「そんなウマ娘を担当してくれたのは、やっぱり奇特なトレーナーでした。そのトレーナーは、担当が走れなくなってもチームを続け、担当が学園を去ると、トレーナーの職を辞してまで彼女の隣に立ち続けました。トレーナーから、バディという名に絆の形を変えて。その関係を例えるなら、世界でひとつだけの鍵と錠前です。夏野さんがいないわたしは在り得ず、わたしがいない夏野さんもまた在り得なかった。そう自負しています。わたしたちの出会いは宿命でした」

 少しずつヒートアップしていく語りに、いつの間にか聴衆は惹きつけられている。今のカフェは女優モードだ。その語らいは、まだ彼女の本心に踏み込んでいない。

「だから、彼女にはわたしこそが相応しい。人生を共にするパートナーとして。わたしは本気で思っていました。エヴェレスト北壁に挑むまでは」

 愛と絆の区別が、ついていなかったのです。そうカフェは語る。

「独りよがりの願望でした。夏野さんは、わたしとは違います。社会に根をおろし、周囲の人々と愛を分かち合うことで、次の世代に命を繋いでいける人です。わたしは、『ふつう』の愛を理解できず、勝利の悦びだけを糧に細々と生きながらえる浮草のような存在です。だから、ずいぶん嫉妬しました。彼女の隣に立つ男が、わたしから唯一無二のパートナーを根こそぎ奪っていくかのようで。そして、その男と結ばれることは、夏野さん自身が望む幸福であることもまた、思い知りました」

 臆することなくカフェは広田を見つめていた。広田もまた、まっすぐカフェを見つめ返す。両者の瞳に後ろ暗い感情は全くなかった。

「ゆえに、わたしはエヴェレスト北壁に単独で挑みました。自分ひとりでも、生きていけることを証明するために。そして敗退しました。夏野さんという半身を失ったわたしが勝てる相手ではありませんでした。独り凍りつき、死を迎えるはずだったわたしのもとに、夏野さんは駆けつけてくれました。恋人にも、娘にも、妻にも、夫にもなれないわたしのために、命をかけて。本来行われるはずだった結婚式を放りだしてまで。わたしにとっての生きる悦びを彼女は肯定してくれた。今回の南極渡航とヴィンソンマシフ登頂も、彼女がいてくれたからこそ達成できたのです。わたしたちにはバディの絆があります。だから、人間としての愛と幸福は、広田さんが与えてあげてください。それは、わたしにはできないことです。最後になりましたが、どうかわたしのバディをよろしくお願いします」

 カフェは広田に頭を下げる。広田は覚悟のこもる瞳で、深く頷いた。

「そして、夏野さん。我が最愛のバディ」

 カフェが、夏野を見つめる。トレセンのターフで出会ったときより、はるかに輝きを増した瞳。飢えや渇きではない、生きることへの前向きな熱意が燃えている。十代の少女らしい、希望に満ちた顔。マンハッタンカフェの偽らざる本心だ。

「わたしは、これからもあなたと共にあります。あなたもまた、わたしと共にあり続ける。ふたりの間にどれほどの距離があっても、どれほどの時間が流れても、わたしたちの魂は共に在る。チームシェアトのバディとして。わたしには、それだけで十分幸せなのです。その幸せがあればこそ、一瞬の栄光ばかり追い求める自分の人生を肯定できる。こんなふうにしか生きられない、わたし自身を肯定できるのです。ありがとう、夏野さん。心から、あなたの幸福を祈っています。おめでとう」

 マンハッタンカフェは、深く頭を下げる。穏やかな瞳のまま、ひっそりと舞台から降りていった。

 会場に拍手が響き渡る。夏野は、涙を止められなかった。これまでの旅路が鮮やかに甦る。ターフの上。氷の壁。荒れ狂う海。果てしない白亜の大陸。彼女と共にした時間の全てが愛おしい。敗北の苦しみ、傷の痛みさえも、今は生涯の誇りだった。

 来客の中に消えていくカフェの背中を、夏野はずっと追いかけていた。

 

 

 式はつつがなく終わり、慌ただしい日々が戻ってくる。カフェはしばらくメディアに引っ張りだこであり、女優力を遺憾なく発揮してスポンサーを拡大していった。NUK主導のもと、新たな登山ドキュメンタリー企画が、はやくも持ち上がっているという。一方、夏野は、夫となる男との共同生活のため引っ越しの準備を進めていた。

 カフェとの同棲も、これで終わりとなる。しかし、カフェは即座に、広田のマンションの近隣にワンルームアパートを借りてしまった。生活圏から離れるつもりは毛頭ないようだった。

 カフェの私物を選別する。本人に確認しなくても、すぐ分かる。アンティークのカップ、銀食器、クラシック音楽のCD、洋書など、自分には縁のない品々。

「というか、いるんだったら手伝ってくれない?」

 夏野は、リビングのウマ娘に呼びかける。ソファに我が物顔で腰かける少女は、薫り高いコーヒーを嗜みながら、地図を広げていた。ヒマラヤ・カラコルム山系が一面に広がっている。赤ペンを走らせ、物資の輸送ルートを練っている。

「夏野さんのレベル的に、次はブロードピークなんてどうでしょう? ローツェやマカルーの前哨戦ということで」

 平然と八千メートル峰の名前を出してくるカフェ。もはや名前を聞いただけで、その山の標高と所在地が分かる夏野は、すっかり染められてしまったと苦笑いする。

「言っておきますが、同棲を解消しても、バディは解消しませんよ。プロジェクトUの続きを、わたしと一緒に作ってもらうんですから」

 少し不満げにカフェは言った。瞳には、かすかに不安の色が浮かんでいる。互いに、新たな環境に移るのだから無理もない。未来のことなど誰にも分からない。かつての海底が、今エヴェレストの頂点にあるように。

 だが、望むことはできる。生きてさえいれば、在りたい未来を掴み取ろうと手を伸ばせる。それが命の意味。生きることの意味だ。

 夏野は作業をやめて、カフェの隣に座る。

「当たり前でしょ。わたしたちはチームなんだ」

 夏野は、そっとカフェに寄りかかる。数千メートルの氷壁を攀じ登ってきたとは思えない、華奢な少女の骨格。

「カフェと山に登ることは、もうわたしの人生の一部になってしまった。死ぬまで消えることはない、生きる悦びのひとつに」

 その言葉に、黒い耳がピンと立つ。そして、カフェもまた愛する人に身体を預けた。

「夏野さん。わたしは、これから生きていけるでしょうか?」

 黄金の瞳が、まっすぐこちらを覗き込んでくる。かつては不気味に思い、恐怖したこともある、飢えた狼のような双眸。だが今は違う。その異質さを理解し、受け入れることができる。

「大丈夫」

 夏野は笑顔で答える。

「八千メートル峰14座、各大陸の最高峰、アルプスの北壁。登るべき山は、たくさんある。人間の一生じゃ到底足りないくらい、挑むべき価値のある山が、わたしたちを待ってる。いつまでも、カフェの渇望を満たしてくれるよ」

 夏野は自信をもって断言する。

 他の誰よりも、彼女の生き様を知っている。勝ちたいという本能に、どこまでもまっすぐな魂。燃え尽きるまで走り続けることを宿命づけられた命。死という結末は平等だ。積み上げてきた偉業も栄光も、最期は孤独という虚無に帰す。しかし、そこに至るまでの幸福が失われることはない。絆を分かち合うバディが孤独の闇を打ち払い、それを証明してくれるから。

 夏野にとっても同じだった。マンハッタンカフェと共に歩んだ人生は、悦びに満ちている。死も孤独も、その輝きを奪うことはできない。

「わたしが、ずっと隣にいるからね」

 耳元で夏野は囁く。生涯の愛バに、親愛と決意を込めて。

 そのとたん、カフェは夏野を抱きしめる。もう離さないとばかりに強く、優しく。言葉にならない気持ちを抱擁にこめる。夏野のまた、ゆっくりと彼女の背を抱いた。夏野の左肩に、ひとしずくの涙が落ちる。

 ひとは嬉しいときでも泣くものだと、カフェは知っていた。

「一緒に生きていこうね、夏野さん」

 マンハッタンカフェは、満ち足りた顔で微笑んだ。

 

 

 




 完結まで漕ぎつけることができました。

 マンハッタンカフェの誕生日である3月5日から連載を始めて、はや4カ月と少し。感慨深いです。

 この作品を書いた動機は、ウマ娘には引退した後も幸せであってほしいという願いでした。
 競走馬の引退後は、一部の例外を除き極めて過酷です。ウマ娘が、リアルのサラブレッドの名前と魂を受け継いだ存在ならば、せめてそちらの世界では引退後も満ち足りた人生を送ってほしい。人間に管理されることなく、対等な関係で、自由に勝利を追い求めてほしい。その願いを、マンハッタンカフェに託しました。

 アプリでの実装を心待ちにしています。

 ここまで読んでくださり、ありがとうございました!


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