もしBanG Dream!のヒロインと付き合っていたら… (エノキノコ)
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もし紗夜さんと付き合っていたら…

8月も終わるという日の夜、暦上(こよみじょう)夏はそろそろ退場するはずなのに関わらず、じっとりとした暑さが容赦なく全身から汗を噴き出させる。

これが9月の半ばまで続くとニュースキャスターが朝のテレビで言っていた時は、冷房が充分に行き渡ったリビングにいたのでなんとなく聞き流していたのだが、実際に外に出て被害を受けると暑さが去る9月に…いっそのこと過ごしやすい10月くらいが早く訪れるのを願わずにはいられない。

そんなことを熱でダウンしかけた頭で考えながら、さっき自販機で買ったばかりなのにもう温くなった飲料水を(あお)ってまで暑さに対抗して外に(とど)まっているのは、近くの商店街で絶賛開催中の夏祭りを回るためである。

去年までの自分なら、そんなことは意に介さずにバイトを入れたり、部屋で惰性(だせい)の限りを尽くしたり、期限間近の宿題をひーひー言いながら片付けていたに違いない。というか、今現在の自分でも1人ならそうしていた。そう、1人なら。

「こんばんは」

かたんかたん、という足音とともに、待ちに待った声が聞こえてくる。

遠くからでも見える祭りの光から視線を切り離して声のした方を向くと、そこにはちょうど1年前に付き合い始めた彼女、氷川(ひかわ) 紗夜(さよ)が微笑を口元に浮かべていた。

「もしかして待たせてしまいましたか?」

気が早まりすぎて約束の30分前には来ていたが、漫画の主人公のように今来たところと言うことを、この場に着いてすぐに決めていた。

そんな用意していた台詞を口にするに絶好のチャンスである問いかけは、右から左に流れてしまった。なぜなら、彼女の服装が見慣れた私服や彼女の通う高校の制服ではなく、夏の風物詩とも言える浴衣だったからだ。

淡い水色に黄色や青で縁取(ふちど)った白い花を咲かせた浴衣を着る彼女は、普段は下ろしているエメラルドグリーンの長髪(ちょうはつ)を三つ編みにして右肩に流している。

どんなモデルや女優が同じ浴衣を着ても、絶対に彼女よりは着こなせない。そう確信できるほどに調和された美しさにただ見惚れていると、彼女は少し心配そうな表情でこちらを覗き込んだ。

「・・・汗も酷いですし、顔も赤いです…もしかして熱中症!?今救急車を呼びますから座って安静に—」

持っていた巾着からスマホを取り出す彼女を慌てて制し、羞恥心を押しやって着物姿に見惚れてたと素直に伝える。

焦りでいっぱいだった彼女の顔が一瞬きょとんとしてから、みるみる赤に染まっていく。

「そ、その…ありがとう、ございます…」

翡翠色(ひすいいろ)の瞳を伏せて消えそうな声でお礼を呟くその動作は、夏の暑さに(あぶ)られた思考能力を奪うには充分だった。

結果、彼女を見つめる形で動きを停止してしまい、耳まで朱色に染めている彼女はこちらの視線に困ったように瞳を左右させる。

「じ、時間もありませんし、屋台を回りに行きましょう!」

我に返ってこくこく頷くこちらに、紗夜さんは華奢(きゃしゃ)な手を差し出すので指を絡めてぎゅっと握ると、彼女は未だに赤い頰を緩めた。

実はこのように手を繋ぎ始めたのはわりと最近で、その時は例外なく表情が固くなってしまっていた彼女が慣れつつあることに内心ホッとしてから、楽しげな声と太鼓の音が混じって聞こえてくる商店街中央へ、どこか浮き足立っている彼女と並んで歩き始めた。

 

道中(どうちゅう)隙間なく並ぶ屋台は射的や金魚すくいなどのアトラクション系が多く、気になったところを見つけては寄り道を繰り返して大量の戦果が両手を塞いだ頃には、2つの腹の音が重なってしまい、顔を合わせて苦笑してしまった。

祭りのために設置されていたテーブルが使えればよかったのだが、どこも満席で空く気配もなかったため、喧騒(けんそう)からある程度遠ざかった場所にあるベンチで紗夜さんに荷物を預けて足早に屋台へと向かう。

ここまでの散策(さんさく)でなんとなくわかったのだが、紗夜さんを狙う(やから)がそこそこいた。まあ気持ちはわかる、話してみたい、お近づきになりたい、そう考える奴が何人か出てくるのは仕方ないくらい、彼女は美人だ。さらに今夜限定で浴衣姿なことが、その事象に拍車(はくしゃ)をかけている。紗夜さんが1人でいるとナンパされかねない。

そのため、比較的空いていた焼きそばとたこ焼き、わたあめにラムネをふたつずつ買って可能な限り迅速に戻ると、射的で手に入れていた大きな犬のぬいぐるみを抱きしめていた彼女は、少し大きく開いた瞳でこちらを映した。

「そこまで急がなくても…そんなにお腹が空いていたんですか?」

ここで君が心配だったから、と言ったらさっきのように顔を赤めてお礼を言ってくれそうだと気付いてかなり葛藤したが、そこまで恩着せがましくはなりたくないので代わりにひとつの頷きを返すと、彼女は呆れを混ぜた苦笑を優しい微笑に変えた。

「それでは早速食べましょうか。貰ってもいいですか?」

紙袋に入れてもらった長方形のプラスチックパックと、プラスチックの蓋がされた(ふね)に似た形の容器を渡す。右手に持ったビニールのカバーがかかったわたあめは、彼女が食べ終えたあとに渡そうと左手に持ったまま、右手のみで焼きそばのパックを開ける。

「ちょっと失礼しますね」

どうやって割り箸を割ろうか四苦八苦していた時、紗夜さんがこちらの膝に乗っていた焼きそばを左手に持ち、さっきまで自分のを食べるのに使っていたであろう割り箸で茶色い中華麺を掴んでこちらへと向けてきた。

普段の彼女からは想像できないほど大胆な行動に、周囲の人々から容赦なく視線が降り注いでくる。嫉妬と憎悪が大多数を占めるその視線に気付いていないと思われる紗夜さんは、不思議そうにしながらも体制を崩さずこちらが食べるのを待っていた。

この行為がいかに大胆なことかを伝えるべきか否かを、コンマ数秒の中で考えた。多分無意識のうちにしている行動なのだから、少し触れればすぐに頬を赤くして手を引っ込めることは想像に(かた)くない。

しかし、その場合は彼女が食べ終わるまで左手が空かない関係上、こちらが焼きそばやたこ焼きにありつけない。彼女のためならば1時間も満たない時間くらい空腹など耐えれないわけないが、空っぽの胃袋が行儀良く待っていられるかは確証がないし、盛大に鳴ってしまえば彼女は多少なりとも罪悪感を感じてしまう。別にそんなことで心を痛めなくてもいいと思うのだが、小さなことでも負い目に感じてしまうほど、彼女が真面目で優しい性格なことを知っている。

そんな思考を重ねた結果、羞恥心を蹴り飛ばして彼女の差し出す焼きそばを頬張(ほおば)り、一層増した黒い視線に耐えながら咀嚼(そしゃく)する。

濃いめのソースが絡まった細麺とキャベツや豚肉はTHE()・屋台の焼きそばだったが、 彼女が食べさせてくれたからか、今まで食べたどの焼きそばより美味しかった。

「美味しいですか?」

彼女の問いかけにこちらが深く頷くと、嬉しそうな笑みを溢してから再び焼きそばを差し出してくる。

周囲の天井無しに登っていく怨嗟(えんさ)の意は、自分がなんらかの罰を受けない限り収まらないという確信を抱きながら、せめて紗夜さんに被害が及ばないことを祈って口を開いた。

 

それから、焼きそばがたこ焼きに変わり、再び焼きそばになったところで彼女の手は止まった。

正確にはこちらが、これ以上食べたら紗夜さんの分がなくなるからと必死に制止したからなのだが、少し不満げな彼女の表情を見ると、止めなかったら全部自分が食べさせられていたのではと思わずにはいられなかった。

肌から黒い感情が外れていくのにほっとしつつ目の当たりにした紗夜さんの音を立てない上品な食べ方は、とてもじゃないが屋台の焼きそばを食べる作法ではなく、高級レストランにいるお金持ちを連想させる。彼女の貴族のような綺麗な風貌ならなおさら—

そんなことを考えながら彼女の横顔を見ていると、突然紗夜さんの動きが止まった。じっと見られるのが嫌だったのかと思って視線を外そうとしたが、彼女の視界がこちらを映すことなく箸を見つめ続けていることで全てを察し、使われないと思っていた右手の割り箸をそっと差し出す。

彼女は小さな、とても小さなお礼を呟いてからそれを受け取り、代わりにさっきまで使っていた箸をこちらに渡す。

彼女の手に握られた箸は、こちらの手にある綺麗に割れた箸とは違い、頭の部分が(いびつ)な形になっていた。

 

紗夜さんは黙々と箸を動かし、デザートとして取って置いたわたあめを受け取ったあとも、ひと言も話すことはなかった。

それが不機嫌だからではなく、十数センチの間に流れる濃密な気まずい空気の所為なのを、同じ理由で白い綿菓子を頬張ることしかできないこちらも理解しているが、せっかくのデートがこのまま終わるのも嫌なのでなんとかできないかラムネを飲みながら考えていると、遠い喧騒(けんそう)と太鼓の音にかき消されてしまいそうな声が、ひさしぶりに空気を揺らした。

「あの…これはどうやって開けるのでしょうか」

紗夜さんは青い半透明の瓶を両手で控えめに持ち上げて訊ねてくる。

瓶を受け取り、小学生の頃よく飲んでいただけあって覚えている開け方を披露して再び紗夜さんの手元に戻すと、お礼を述べた彼女は一拍(ひとはく)置いてから意を決したように口を開いた。

「あ、あの…!さっきはすみませんでした!こういうお祭りに来るのは初めてで舞い上がってしまって…」

今日彼女のテンションが高い理由に得心しつつ、子供の頃に行かなかったのかと訊ねてみる。すると彼女は、少し(うつむ)き気味に答えてくれた。

「私が小学1年生の時、運動会や遠足が雨で延期になったり、振替日にも雨が降って中止になったりしたんです。でも、2年生の遠足は私は熱で行けなくて…その日は雲ひとつ無い晴天で…その時から、私がなにか行動を起こしたら雨が降ってしまう、そう思うようになったんです」

黒い過去を告白した紗夜さんは、自身の手を膝の上に下ろす。その手を、気付かぬうちに握っていた。

驚く紗夜さんの顔をしっかりと見据えながら、瓶を握っているせいで少し冷えている手のひらを温めつつ、言う。

──じゃあ、今日は雨降らなくて良かったね──と。

この言葉のあとに流れた静寂と、きょとんとした紗夜さんの顔を見て、自身が盛大に滑ったことを自覚させられた。

顔が人生最大級に熱くなるのを意識しながら、彼女から目を逸らす。肝心なところで上手くやれない自分に心底嫌気が差していると、短い笑い声が隣から聞こえてきた。

「ふふっ、そうですね。本当に晴れてよかったです」

悲しそうな顔をしていた彼女を、笑わせられただけでも上出来か。そう納得しかけた時、大きな炸裂音が響く。

雲ひとつ無い星空を見上げると、そこには赤と黄の花弁を持った大輪が咲いていた。

その残滓(ざんし)が消え去る前に、左右に3色の青の花が開く。

それからも次々と夜空を彩る花たちに見入っていたが、ふとした時に、隣の彼女が気になり視線を揺らす。

今日、彼女はよく笑っていたが、花火を瞳に映す彼女は大人びた笑みではなく、子供のようなあどけなさを含んだ笑顔を咲かせていた。

そこから音が止むまで、エメラルドグリーンの髪の少女の横顔にただ見惚れていた。

 

花火が打ち上げ終わると、祭りの活気は急速に収束していった。片付けを始める屋台の(あいだ)を、多大な人の流れに身を任せながら進んでいく。

今までずっと聞こえていた太鼓の音が止んでいることに一抹(いちまつ)の寂しさを感じながら、射的の景品入れの袋に詰め込まれた今日の戦利品の重さが左腕にのしかかってくるのを耐えていると、はぐれない様しっかりと手を繋いだ紗夜さんがこちらを向いて微笑んだ。

「来年も来ましょうね、その時は貴方も浴衣を着て欲しいです」

そんな要望を聞き、思わず苦笑いしてしまう。ひとつ目の願いはこちらこそと即答できるが、残念ながらふたつ目は、家の押し入れに小学生の頃に着ていたものしかない以上難しい。

そんな事実を包み隠さず伝えると、彼女は笑みを深めて言った。

「じゃあ私が選んであげます。今週にでも買いにいきましょう」

それに対しても、こちらは苦笑を浮かべるほかなかった。今年はもうこの手の祭りは近くで開かれないし、来年の浴衣を今買うのは気が早過ぎる。

でも案外今の時期は安売りしているかもしれないとあっさり納得して、今日割と使ったせいで心配な財布の中身を思い出しながら互いの予定を確認しているうちに、あっという間に彼女の家の前に着いた。

真反対にある自宅に帰るべく(きびす)を返した時、急に呼び止められ、なにかあったかと振り返る。

紗夜さんは少し迷ったように瞳を揺らしたが、意を決したように頷くと、少し離れていた距離を普段より近い場所まで詰めた。彼女の瞳に映る自身の顔さえ確認できる近さにドギマギしていると、少し早口で彼女が(まく)し立てる。

「きょ、今日は本当にありがとうございました。雨が降るのが怖かったですけど、貴方のおかげで一歩踏み出すことができたんです」

ここでイケてる奴なら謙遜(けんそん)の言葉を口にするのだろうが、そんな余裕が1ミリも無いこちらはぎこちなくお礼を言うと、彼女は頬に宿していた朱色を深める。

「ですから…これは、お礼です…!」

お礼?サヨさんはなにも持っていない—

そんな思考は背伸びした彼女との触れ合いに、(またた)()に溶かされた。

唇に触れた一瞬の柔らかさに硬直したこちらには目もくれず、「さ、さよなら!」という言葉と共に彼女は家に逃げ込んでいった。ばたんとドアを閉める音が耳に届いても、しばらく思考能力は戻らなかった。

そんな状態で帰路に着いたのにも関わらず事故に遭わなかったのは、幸運以外のなにものでもなかっただろう。

しかし、その代償か、今日の戦利品を全て持って帰ってきたことに寝る直前に気付き、次の日彼女の家に届けに行って死ぬほど気まずかったのはまた別の話。

 




初めまして、エノキノコです。まずは、この小説を最後まで読んでいただきありがとうございます。
人生初めての小説なので色々欠点はあるでしょうが、少しでも楽しんでもらえたら幸いです。
次の投稿予定は未定ですが、Roseliaのメンバーは全員やりたいので最後まで付き合ってもらえると嬉しいです。
では、2話目で会いましょう。


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もし友希那さんと付き合っていたら…

若い緑が無愛想(ぶあいそ)だった木の枝を彩り始めた季節。今日は朝から風が少し強く、灰色の雲が隙間なく漂っている。

普通なら外に出るのが若干憂鬱(ゆううつ)になってしまう空の下を、自分は浮き足立ちながら歩いていた。

周囲の人たちから変な目で見られていそうだが、そんなことはほとんど意識することもなく、先週から一緒に出かける約束をしていた人物の家に到着する。

急かす気持ちを抑えてインターホンを鳴らし、機械越(きかいご)しに短い会話をしてから出てきたのは、銀を溶かしたかのような長髪(ちょうはつ)の少女。3ヶ月ほど前に(つの)った恋慕(れんぼ)を告げて結ばれることができた(みなと) 友希那(ゆきな)だった。

風と遊ぶ髪をなだめるように撫でる彼女は絵画のような美しさを(かも)し出していて思わず見入(みい)ってしまったが、そんな視線に気づいた様子もなく、友希那さんは不機嫌な空を(あお)ぐ。

「天気が悪いわね…日を改める?」

その提案に、頭が飛んでいくのではないかというほど大きく首を振った。

彼女は超絶的な実力と人気を併せ持つバンドのボーカルで、練習やライブでスケジュールはほとんど埋まっている。

実際、今日を合わせても一緒に出かけた回数は片手の指の数にも満たないし、今日無理だと次行けるのは来月末辺りになってしまう。

そんな根拠の上必死に拒否するこちらが面白かったのか、彼女は短い笑みを(こぼ)した。

「冗談よ。私もこれくらいで貴方との時間を先送りにするのは嫌だもの」

ほっと胸を撫で下ろすこちらをもう一度笑ってから、「行きましょう」と一言かけて歩き出す友希那さんの隣に並ぶ。

濃い灰色の(あいだ)から必死に顔を出そうとする太陽の奮闘(ふんとう)が、実を結ぶことを祈った。

 

今日行く場所は決めてあると言う友希那さんの案内の元、会話を交えながら駅へと向かう。しかし電車を待つホームや、天候が影響しているのか少し空いている車両の中でも、話題は変わらず音楽関連のものばかりだ。

真剣に音楽と付き合う友希那さんらしいのだが、どれだけ甘く見積もっても素人に毛が生えた程度の知識しかない自分では、度々(たびたび)彼女の話に付いていけない。

その時は毎回わかりやすい説明をしてくれるが、言葉を選ぶように話す彼女を見ると、どうしても考えてしまうことがある。なぜ、彼女は告白を受けてくれたのか。

彼女は多忙だし、FUTURE WORLD FES(フューチャー ワールド フェス)という大きな大会に出るのを目標にしているらしいので、出会った当初は音楽以外のものに()く時間は無いと言っていた。告白したのも気持ちが抑えきれなくなった(ゆえ)の当たって砕けろ精神のもので、OKをもらえた時には驚きのあまり訊き直してしまったほどだ。

だからこそ、考えてしまう。そんな輝かしい彼女に、特にこれといったものを持たない自分はふさわしい存在なのかと。

「・・・どうかした?」

彼女の言葉で我に返り、どうにかして口元に笑みを浮かべてかぶりを振る。彼女は一瞬心配そうな顔をしたものの、追求することなくドアの方を指差した。

「次の駅で降りて少し歩くのだけど…平気かしら」

頷きで答えると彼女は下車のために立ち上がり、揺れる車内をドアに向かって進み始める。それを追うために腰を上げた瞬間—

「きゃっ!」

急な減速がかかり、目の前の少女がバランスを崩す。肩を押す大きな重力に逆らって彼女に手を伸ばし、なんとか転倒直前の彼女を抱きとめることに成功した。

大丈夫か訊ねると、腕の中の少女は(ほお)朱色(しゅいろ)に染めながら小さく首を上下させる。顔を赤くした彼女を見るのはいつ振りだろうと記憶を(さかのぼ)りかけたところで、自身が公共の場でとんでもないことをしているのに気付いた。

慌てて腕を(ほど)き、車内アナウンスと共に謝罪の言葉を何度も口にする。耳まで赤くなっているであろうこちらに、彼女は(しゅ)を少し薄めながらかぶりを振った。

「謝る必要なんてないわ、貴方は私を助けてくれたんだもの。・・・ありがとう」

穏やかな笑みを浮かべて言われたお礼にぎこちなく返事をすると、それと同時に電車も再び動き出し、緩やかな振動が車内を包む。

今度こそドアの前に移動する彼女の隣に立つと、次の駅が近いことを機械的な声が車内全体に伝えた。

 

それから駅を出て、ラーメン屋や八百屋などを素通りして歩くこと10分ちょい。猫の肉球やしっぽのデザインが特徴的な看板が屋根の上に立てられている建物の前で、彼女は止まった。

道中あったライブハウスも一瞥(いちべつ)しただけで通り過ぎただけだったので、ここが目的地だということはなんとなくわかる。

しかし、こういう可愛い系統のお店は彼女には少し意外なように思えた。お品書きに書いてあるものを見る限りカフェっぽいが、ここにも猫を彷彿(ほうふつ)させるデザインが散りばめられている。

一応、本当にこの場所であっているのか訊ねると、彼女はしっかりと首を縦に振った。

「ええ、ここよ。大丈夫、貴方もきっと気に入るわ」

そう言うとなんの躊躇(ためら)いもなくドアを開ける彼女に、こういう雰囲気のお店に入るのは初めてな自分は少しドキドキしながらついていく。

猫の小物がいっぱいのカウンターを挟んだ女性店員さんは一瞬こちらを見たのち、友希那さんと小声でなにかを話し始めた。

断片的(だんぺんてき)な声では内容を特定することは不可能だったが、2人の女性から時々飛んでくる視線が自分のことを話しているのをなんとなく予想させる。もしかして、男性禁止のお店だったりしたのだろうか。

緊張しつつ待機すること数分、話し終えた友希那さんがこちらの危惧(きぐ)を払うかのように「付いて来て」と声をかけ、カウンターから右にあるドアに向かう。

彼女がドアノブを回したのと、自分が彼女の隣に立ったのはほとんど同時で、そこに広がる光景は、なぜこのお店のデザインが猫に(かたよ)っているのかを雄弁(ゆうべん)に物語っていた。

弾力性に()んだマットレスが()()められた床には、ぱっと見ただけでも5匹の猫がいた。全身真っ黒なのが尻尾をこちらに見せて座っていたり、丸っこい体に薄茶と白の毛を縞模様に生やしたのが丸まって寝ていたり、焦げ茶と黒のまだらの子はこちらに向かってとことこ歩いてくる。他のお客さんの姿は見当たらない。

そう、ここはただのカフェではなく、猫カフェだったのだ。

「にゃーんちゃん…!お出迎えしてくれたの?」

そんな思考を、彼女の口から聞いたことのない上擦(うわず)った声が吹っ飛ばす。

ばっ、と音が出る勢いで右を向くと、そこには慣れた手つきで猫を持ち上げて口元を弛緩(しかん)させる銀髪の少女の姿があった。普段はあまり感情を顔に出さない彼女の面影はどこにも存在しない。

硬直したこちらを置いて、彼女は猫を抱いたままクッションに座ると、自身の膝に乗せた猫の背中をゆっくりと撫でた。膝の子は嫌がる素振(そぶ)りを見せず心地よさそうに喉を鳴らし、周囲の猫も続々と彼女の元へ集まっていく。

「貴方も入っていいのよ」

声をかけられたことでようやく正気に戻り、彼女の近くにあったクッションに腰を下ろす。とはいっても、この手の動物と触れ合う系の場所に来るのは小学生の時に行った動物園くらいなので、どうすればいいのかまるでわからない。

一頻(ひとしき)り考えたのち、とりあえず友希那さんに(なら)って猫と触れ合うことにして、さっきまで寝ていた縞模様の子に手を伸ばす。

しかし、猫は丸っこい体からは想像できないほどの俊敏さでこちらの手を避けると、低い声で威嚇(いかく)して友希那さんの方へ向かってしまった。

中途半端に手を伸ばしたままのこちらに、彼女は苦労を思い出すかのような笑みを浮かべる。

「いきなり触ろうとしたらダメよ。にゃーんちゃんのことをよく見て、撫でてもいいか確かめないと」

そう言うと彼女はさっきの猫、彼女で言うところのにゃーんちゃんの頭を数回撫でただけでたちまち白いお腹を(あら)わにさせた。豊かなお腹を右手で撫でつつ、左手では黒猫の喉に触れている。

店員さんと親しそうに話していたり、猫が異様なほどに寄ってきていることから考えるに、彼女はきっと常連なのだろう。

経験ゆえの凄技を捉えていた視線が、ほぼ無意識に彼女の横顔へとフォーカスされる。

そこには、彼女が音楽に向けるものとは違う、しかしどこか似ている感情があった。歌っている時の凛々(りり)しい顔と違ってどこか(おさな)げがあるその顔は、前者に劣らぬ美しさを内包していた。

「・・・どうしたの?」

時間を忘れて彼女を見ていると、流石に視線に気づいた友希那さんが首を(かし)げる。

なんでもないと首を振り、彼女の助言を実践するべく周囲に視線を飛ばす。しかし、この部屋にいる猫は全員友希那さんに集まってしまっているのか、彼女の周囲以外には1匹も—

そう確定しかけて背後(うしろ)を見ると、そこには灰色の毛並みを持った小柄な猫が、そろりそろりと近づいてきていた。

だが、こちらの視線に気付くと、すぐさま部屋の(すみ)っこに逃げてしまう。

もしかして猫に嫌われる人種なのかと、軽くへこんでいる自分の隣に、猫1匹を抱いた友希那さんが腰掛ける。肩が触れ合いそうなほどの距離に心拍数が少し上昇し始めたこちらに、彼女は()瀬無(せな)さを(にじ)ませた苦笑を浮かべた。

「・・・あの子は、道端(みちばた)に捨てられていたのをここの店員さんが保護した子なの。でも、なかなか人に懐かなくて…きっと捨てられる前は酷い目にあっていたんでしょうね…」

沈んだ表情で呟く友希那さんにこちらがなにかを言う前に、彼女の腕の中にいる子が心配するかのようにひと鳴きする。

それにより柔らかな笑みを取り戻した友希那さんは、言葉をかけることもできなかった情けないこちらより、何倍も気が利く猫を差し出した。

「ごめんなさい、暗い話をしてしまって。私が言いたかったのは、あの子に嫌われてるのは貴方のせいじゃないってことよ。反対にこの子は人懐っこい性格だから、すぐに仲良くなれるはずだわ」

じっとこちらを見つめる黒い瞳には、敵意の色は微塵(みじん)もない。むしろ、大量の好奇心を秘めているように思える。

確かに、この子とならすぐに打ち解けることができそうだ。でも—

彼女に謝罪の言葉を口にしてから、隅に固まっているあの子と仲良くなりたい(むね)を伝える。それに対して彼女がなにか言う前に、彼女に抱きしめられた猫に友希那さんを励ましてくれたお礼と、遊んであげられない謝罪の意を込めて頭を撫でた。

拒絶されなかったことに安堵しつつ、部屋の隅で縮こまる灰色の子へと歩み寄る。

少し距離を空けたところに座ると、その子はびくりと体を震わせたものの、逃げ出そうとはしなかった。

・・・やはり、この子は根っこでは誰かと関わりたいのだ。だが、それを今までの恐怖が許容しないのだろう。

でも、この子はさっき勇気を振り絞ってこちらと関わろうとした。恐怖を乗り越えようとした。その小さな勇気を、取りこぼさないようにしてあげれば、もしかすれば。

背を壁につけ、両足を伸ばした体勢で、正面に視線を固定したまま待機する。すると、左側からなにかが動くのを感じれた。

それは本当にゆっくりな速度で、しかし確実に近づいてきて…いる気がする。自分の目で(じか)に見たいのは山々だが、そうするとさっきの二の舞になってしまうため、意志力の限りで前を向き続ける。

やがて隣にたどり着いたと思われる灰色の子は、しばらくそこに留まり続けた。

触ってもいいのかわからず動かないままのこちらの膝に、なにやら柔らかいものがわずかな重量を伝えてくる。それが触れていいサインなのかどうか考えるこちらの耳に、控えめな、しかし、今まで聞いたどんな同種の動物のものより綺麗な鳴き声が届いた。

音源である膝元に視線を下ろすと、小さな金色の瞳がこちらを見上げていた。もう一度同じように鳴くと、少しだけ頭を下げる。

なにを要求されているのかなんとなく汲み取れたので、右手を持ち上げて頭を撫でてみた。

自分でもわかるほどぎこちない動きだったが、灰色の子は気持ちよさそうに眼を細めると、ごろりと横たわった。

右手を今度は丸くなった背中の(はし)から端までゆっくり行き来させる。少ししてから、小さな寝息(ねいき)がわずかに耳を通り過ぎた。

 

「貴方…やっぱり凄いわね」

あのあと、いつのまにか窓から差し込む陽光が純白から橙色(だいだいいろ)に変わっていたので、やむなく寝ている灰色の子を部屋の隅に置いて帰路についていると、隣を歩く友希那さんが呟く。

その意味がわからず首を傾げてしまうこちらを見た彼女は、どこか悔しそうな笑みを浮かべた。

「あの子、私がいくら頑張っても懐いてくれなかったのよ。それなのに貴方はすぐに仲良くなるなんて」

そうぼやく彼女に、友希那さんでもできたと、掛け値ない本音を口にするが、彼女はさっとかぶりを振った。

「わかるの。あの子はきっと、優しく寄り添ってくれたから心を開いたんだと思うわ。・・・昔の私に、貴方がしてくれたように」

夕陽に照らされた銀色と微笑は、息を呑むほど美麗(びれい)なものだった。しかしその微笑は、冬の終わりに降ってきた一粒の雪のように儚く消えてしまう。

立ち止まった彼女は、少し遅れて止まったこちらに、瞬きひとつで真剣な光を纏わせた瞳でしっかりこちらを見据(みす)え、言った。

「・・・だから、私も貴方の力になりたいの。なんで時々思い悩んだような顔をするのか、教えてくれない?」

・・・自分的には隠し通せていた気でいたのだが、どうやら彼女にはバレていたらしい。本当のことを言うべきか悩んだが、残念ながら彼女が納得できそうな理由を思いつくことができなかったので、意を決して口を開く。

そうして、自身が友希那さんの相手として釣り合うかどうかで悩んでいたことを打ち明けると、彼女は呆れたような、怒っているかのような顔をした。

「・・・貴方は自分を無能だと決めつけてるけど、少なくとも私は、貴方がどんな人よりもすごいものを持っている人だって知ってる。だから貴方が私と釣り合ってないなんて微塵(みじん)も思わないわ」

それに思わず、友希那さんよりかと、他ならぬ本人に訊ねてしまう。

彼女は少し驚きながらもすぐに首を縦に降るので、立て続けにそれがなんなのかも訊いたが、今度は左右にきっぱりと振られてしまう。

「さあ、なんなのかしらね」

そう言って駅の方へ歩いて行ってしまう友希那さんに再び訊ねようと思ったが、しばらくは彼女の隣で考えてみようと思い直して、揺れる銀色を追いかけた。

オレンジ一色の空のように、胸の中にはもう濁った色はかけらもなかった。




こんにちは、エノキノコです。まずは最後までこの小説を読んでいただきありがとうございます。
嬉しいことにたくさんの人の目に前回の話が留まっていただけたので、それに応えるべく頑張って執筆したのですが…いかがだったでしょうか?前回と比べるとラブコメ成分が薄めですが、少しでも楽しんでもらえれば幸いです。
そして、前回の話でひとつ謝罪したい件があるのですが…ヒロインである氷川紗夜さんの名字の振り仮名を《ひかわ》ではなく《ひょうかわ》と間違えてしまう渾身のミスをしました…。誠に申し訳ございません!次からは気を付けます…!
次の投稿は遅くても来週の同じ時間にできると思います。
最後に、星9という高評価を付けてくれたkasasiさん、むら₂₄_‎(๑˃̵ᴗ˂̵)و♥♥♥さん(期待に添えるよう頑張ります!)、お気に入り登録をしてくださったみなさん(想像以上に多かったので、失礼ながら名前の表記は割愛させていただきます。ごめんなさい…!)、紗夜さんの名字を指摘してくれたハリさん(指摘されなかったら絶対に気付きませんでした…)、そして、長くなってしまった後書きに最後まで付き合ってくれたあなたに、この場を借りてお礼をさせてもらいます。ありがとうございました!


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もしりんりんと付き合っていたら…

ガルパ4周年記念投稿です!


今日の気候は雲ひとつない晴天(せいてん)、春先なだけあって温度はぽかぽか暖かく、穏やかな風が花の香りを運んできてくれる。しかし、春の風どころか陽光(ようこう)でさえ、こちらには届かない。

理由はいたって単純、黒に近い茶色の岩肌が、半円型(はんえんがた)で通路に(おお)い被さっている場所—つまり、洞窟の中にいるからだ。

眠気を誘ってくる()の光の代わりを務めるのは、壁にこびり付く(こけ)が発する(おぼろ)げな光で、洞窟全体の明度は(くも)りの日より少し暗い。だが、この手の場所では明るい方で、前行った場所は3メートル先も見えない暗闇を歩かされたのだから、それに比べれば随分(ずいぶん)マシだ。

その代わり、地面は人の手が全く加えられていない証に凹凸(おうとつ)が不規則に発生していて、歩きやすいとはとてもじゃないが言えない。

今日のように天候が良好な日くらい、じめじめした洞窟に潜るのではなく街でのんびりしたかったと、未練がましい思考を頭の中に漂わせていると、まるでそれを見抜いたかのように、隣を歩く黒髪の少女が口元に苦笑を滲ませた。

「そんな、わかりやすく…拗ねないで、ください…。今度…一緒に、ピクニック…行って、あげますから…」

旅のパートナーであり、人生の伴侶でもある少女、RinRin(りんりん)の発言に、少しだけ元気を取り戻す。それに、元はといえばここに来たのは自分のためなのだから、彼女に(なぐさ)められているようではいけない。

ここの最深部には市場(しじょう)にはまず出回らない、出回ったとしても一等地に城が建つレベルでお高い鉱石が存在するらしい。

言ってしまえばただの石っころにそんな値段が付いているのは、単純に希少性が高いことがひとつ。ある場所でその鉱石が取れると、そこでは2度と入手できなくなり、一定の時間を置いたあと世界のどこかに音もなく現れる。

そして2つ目の理由に、鉱石とこちらを挟む形で、必ず守護者(しゅごしゃ)というべき巨大な怪物が出てくるゆえの入手難度の高さにある。

その怪物は龍だったり巨人だったり獣だったりと様々な見た目をしているのだが、唯一の共通点として鬼のように強いという特徴を持っている。どれくらい強いかというと、50人の強者(つわもの)の集団が3分経たずに全滅させられるほど。

そんな相手にたった2人で挑むのは自殺行為に等しいのだが、決して勝算が無いわけではない。隣の女性が持つ1本の杖がなによりの証拠だ。

(つや)のある木で出来た杖の先端は、緩く弧を描いていて、その円の中には紫の緻密(ちみつ)に加工された宝石が支えもなく浮かんでいる。自ら発光し、壁際(かべぎわ)から提供される光をわずかに上書きする宝石こそ、今現在取りに行こうとしている鉱石で、数ヶ月前に2人で取ったものである。

もちろん守護者とも出くわしたのだが、あの時は本当に幸運だった。

相手が単純な物理攻撃しかしてこなかったこと。それを自分1人で(さば)けたこと。そして相手の魔法耐性がそこまで高くなかったこと。ひとつでも欠ければ間違いなく手に入らなかった鉱石を最初、彼女はこちらにくれるつもりだった。彼女は、より戦闘に貢献(こうけん)した方がもらうべきだと主張し、それは遠くからただ魔法を打っていた自分ではなく、攻撃を捌き続けたこちらだと言い張った。

それが、旅の経験と実力を上回る方、りんりんの方が持つべきだというこちらの意見と反発して、最終的にこちらが折れたふりをして武器屋に鉱石を持ち込み、魔法使いである彼女の主武器(しゅぶき)となる杖を作って決着となった。

杖を見せた時彼女はすごく怒り、丸1日口を聞いてくれなかったが、なんとか謝り倒して怒りの炎を(しず)めると、ようやく受け取ってくれた杖を胸に収め、大輪(たいりん)のような笑顔を見せてくれた。

それだけで守護者相手に奮闘(ふんとう)した甲斐(かい)があったとしみじみ思い、これで鉱石の話はいい感じに幕を下ろした…と思っていたのだが。

どうやら彼女は、こちらに内緒で鉱石が次現れる場所を探していたらしい。冒険に行こうと言われるまま彼女に付いて行き、ここの入り口で鉱石の話をされた時にはまさかと思ったが、ここを見つけるまでの道のりを聞かされたら納得せざるを得なかった。

・・・まあ、もらえるなら両手を上げて受け取りたい。あの鉱石で作った武器はその希少さに見合った性能をしているので、欲しくない奴などいるはずがない。

しかし、欲しいと思ったら手に入るほど、あれの価値は軽くない。いくら場所を突き止めたところで、守護者の形状によっては軽く蹴散(けち)らされて終わりだということを彼女は気付いているのだろうか。

それをりんりんに(たず)ねようとした直前に、道が(ひら)け、最深部であろう部屋にたどり着く。円状である部屋の中央には、鈍色(にびいろ)の身体で光を反射しているゴーレムの姿があった。

型はオーソドックスな人型だが、大きさが(すさ)まじい。大木のような太さの足は、膝まででもうこちらの背丈ほど高さがあり、全長は10メートル以上は余裕である。部屋の天井の高さは通路より余分に用意されているのだが、それでもジャンプするだけで頭突きをかまして洞窟を崩壊(ほうかい)させかねない。しかし、あの姿なら流石に火を吐いたりはしないだろう。

さっきの危惧(きぐ)が薄れていくのを感じていると、りんりんはそれを完全に取り除くことを口にした。

「あのゴーレムの…攻撃、パターンは…両手の、パンチ…と、足による…スタンプ…あとは、正面に、留まり続けると…足で払ってくる…ので…気を付けて…ください…」

お礼を言いつつ、もらった情報を頭の中で反復する。確かにこれなら、自分が引き付け続ければ遠距離の魔法で滅多打(めったう)ちにできるだろうが、なぜ彼女はこんなことを知っているのだろうか。

それを訊ねる前に彼女は部屋へ踏み込んで行ってしまうので、戦闘が終わったあと訊こうと疑問を頭の(すみ)に押しやって彼女を追う。

まるでこちらが部屋に入るのを待っていたかのように、ゴーレムが眼を赤く輝かせて大きな雄叫(おたけ)びを上げた。耳をつんざく叫び声に、洞窟全体が激しく揺れる。

それに(おく)することなくりんりんは呪文の詠唱(えいしょう)を開始するので、こちらも自分の役目を果たすべく、ゴーレム目掛けて突進する。

ゴーレムは口を閉じ、五指(ごし)を揃えた拳を打ち出してきた。拳の速度はそこまでじゃないが、その分威力は天井知らずなことは容易に想像できる。

左に飛んで回避すると、文字通りの鉄拳が地面を穿(うが)ち、その振動そのものが鋭利(えいり)な刃のように地面を()う。しかし、宙にまでは切っ先は届かない。

揺れがある程度収まったと同時に着地し、転ばないようしっかりと地面を踏みしめながら、挨拶代わりの軽い攻撃を左ふくらはぎの側面に繰り出す。

鉄筋コンクリートを素手で殴ったような手応えの無さに思わず短く舌を鳴らした直後、後方から赤い熱の塊が複数飛んでくる。それらは全てゴーレムの顔にぶつかり、ゴーレムは数歩後退(あとずさ)りしながら右手で顔を(おお)った。

魔法はある程度効いているのを感じつつ、敵の隙に半ば勝手に身体が動いて、自身が使える中でかなり高等な技を放つ。

さっきよりかはかなりマシな手応えと共に、赤い眼が憎らしげにこちらを見下ろした瞬間、氷の(やり)が火球が着弾(ちゃくだん)したのと同じ場所を(つらぬ)く。

今度は手を顔に持っていくことも、下がることもなかった鉄の巨人は、視線を遠くで呪文を唱える女性へ向けた。

基本的に相手の攻撃対象の決定方法は、<攻撃の種類>と<ダメージの量>によって決まる。

普通は魔法より物理の方が相手の意識を奪えるのだが、魔法ダメージの割合が高く、物理のダメージが低いと今回のように均衡(きんこう)が崩れてしまうことがある。

慌てて小技を数度連続して左足に打ち込むと、敵の意識がこちらに戻る。ほっと一息つく()もなく、こちらを踏みつけようと持ち上げられた足が降下した瞬間に退避。執拗(しつよう)に左足を攻撃していると、今度は風の(やいば)飛来(ひらい)した。

先の魔法と同じく基本的な魔法なのだが、杖のおかげでそこらの魔法使いが使える最大魔法と同等以上の威力が出ている。しかしこの場合、倒す時間は大幅に短縮される代わりに、敵の意識がこちらから離れることが増えることを意味している。

普段より攻撃の回転を上げる必要があることを感じながら、後方の魔法使いに向かって右足を踏み出す巨人へと、攻撃を繰り出した。

 

それからは何回か敵の意識がりんりんに向いてしまうことがあったが、遠距離技を持たないゴーレムが彼女を攻撃圏内(こうげきけんない)(とら)える前にこちらに意識を引き戻せたので、特に問題という問題も無く戦闘は進んでいった。

そして、あと少しで倒せる、ゴーレムの焦るような動きからそう感じ取りつつも、油断せず武器を握り直した時、リンリンから鋭い指示が飛んできた。

「下がってください…!!」

珍しい彼女の大声に内心驚きながら、指示通りに後ろへ下がる。

急に距離を開けたこちらに鉄の巨人が怒号を上げながら踏み出した右足に、左足が続くことはなかった。

奴の足元に巨大な魔法陣が(えが)かれ、そこから炎と氷の旋風(せんぷう)が巻き起こったからだ。たちまち巨体を飲み込んだ竜巻は、鈍色の巨人を燃え(さか)る炎で焦がし、青みがかるほど白い氷で()て付かせ、鋭い風で切り裂いた。

おそらくりんりんは、大技を当てれば倒し切れると踏んだのだろう。実際、さっきまでの怒りの咆哮(ほうこう)はか細い悲鳴へとすり替わっていて、このまま倒せると確信させるには充分だった。

しかし、こちらが理想的な想像をし過ぎたのか、それとも守護者たる者の意地なのか、竜巻を()き分けたゴーレムはかつてない声量(せいりょう)で叫び、(ひとみ)真紅(しんく)の光を輝かせた。大きく踏み出された一歩目が、激しい振動を生む。

強者が死に(ぎわ)に放つ強烈(きょうれつ)覇気(はき)に飲まれかけた自分を我に返してくれたのは、綺麗(きれい)な声が(つむ)ぐ呪文だった。ほとんど回転を止めていた思考が、彼女の意図を察すると同時に再び動き始める。

りんりんは接近してくる前に魔法の追撃でとどめを刺すつもりなのだ。なら、前衛の自分は少しでも相手の進行を遅らせ、詠唱の時間を稼ぐ。

瞬時にそう判断し、思い切り地面を蹴り飛ばそうとした直前、とてつもない違和感が足を(しば)った。

こちらが思考に費やした数秒のあいだに、ゴーレムは次の一歩を踏み出すどころか身動きひとつしていない。そもそも、りんりんに襲いかかろうとした時は奴は必ず右足から入ったはずだ。しかし、踏み出されたのは左足、そして両眼から放たれている血のような赤色が洞窟を包み込んでいく…。

鉄の巨人がなにをしようとしているのかわかってしまい、すぐさま進路を前方から背後に変えた。彼女も敵の異変に気付いたのか、詠唱の速度が急減速していくが、声を張り上げて詠唱を続けるよう伝える。

彼女との距離が5メートルを切ったところでゴーレムと相対すると、それを待っていたかのようにひときわ激しい光が瞬き、こちらへと凄まじい速度で迫ってくる。やはり、危惧した通りの熱線攻撃だった。回避するなら、今すぐ左右どちらかに跳ばなくては間に合わない。

しかし、そんな選択肢は頭の中に存在すらしなかった。

彼女を守る、それが自身がすべき唯一のことだから。

盾代わりにした武器に高熱の弾丸が触れた瞬間、爆発が身を焼き、身体が天井まで吹き飛ばされる。上昇は音のように早かったのに、落下はやけに遅く感じた。色素(しきそ)を失った視界に、雷に打たれ地に伏せる巨人が映る。徐々に機能を失っていく耳に届くのは、名前を呼ぶりんりんの声。

なによりも安らぎを与えてくれるその声を、最後の瞬間まで魂に刻みつける。長い長い降下が終わり、地面に叩き落とされるのを最後に、意識がブラックアウトした。

 

ぎしりと音を鳴らして背もたれに寄りかかると、完全なる漆黒に塗り潰されたPCの画面、そこに赤いフォントででかでかと表記された[You are dead]の英文にちらりと視線をやってから、細々(ほそぼそ)と息を吐いた。

MMORPGである<ネオ・ファンタジー・オンライン>、通称<NFO>の死亡画面を見るのは結構久しぶりだ。操作に慣れ、装備も上質なものを揃えた頃からめっきりと見る機会は減っていた。

序盤(じょばん)は嫌になる程見ていた画面に一種の懐かしさを感じつつ、死んだ時の罰則(ばっそく)、<デス・ペナルティー>を取り戻すのが大変だなぁ…と思いつつも、鉱石を手に入れる代価なら安いものかと納得しようとした時、今日最も大きな声がヘッドホン越しに鼓膜を揺らす。

『ご、ごめんなさい…!!わたし、のせいで…』

今にも泣き出しそうな彼女に慌てて大丈夫だと伝え、鉱石は手に入ったか訊ねる。

『ちょっと、待ってください…』

そう呟いたあと、少し間を置いてヘッドホンから歓喜の声が漏れ出てくる。

ちゃんと入手できたと喜ぶりんりんと武器屋の前で合流するのを約束して、街中(まちなか)蘇生(そせい)していた自身のアバターをキーボードを使って動かし始めた。

街を移動するこちらとは違い、りんりんはフィールドから戻ってくるので少し待つと思っていたのだが、なぜか彼女の方が先に着いていた。

どうやって戻ってきたのか訊ねると、最近転移魔法なるものを取得したのだと、少し自慢げに教えてくれた。

それならこちらより早かったのは納得だが、同時に、なんで行きにその魔法を使わなかったのだろうと新たな疑問が浮かんでくる。

消費MPが多いのかなと、勝手に想像しているうちに彼女は武器屋に入り、杖を手がけてくれたプレイヤーに例の鉱石を渡す。その人はチャットで、この鉱石を2度も仕事で使えるとは思わなかったと驚いていた。

それに対してりんりんが、[彼が一緒だったおかげです( ´ ▽ ` )]と答えるものだから、思わず口元が緩んでしまう。

幸い、ビデオ通話をしているわけではないので顔を見られる心配はないが、そうやって油断していると文章に(にじ)み出そうなので気を付けつつ、完成品の受け取りを明日の同じ時間に取り付けると、2人揃って店を出る。

自室の時計は午後8時を過ぎたことを示していて、いつもならレベリングやスキルの熟練度上げにフィールドへ繰り出す時間帯なのだが、今日はボス戦で少し疲れているし、自主的に言い出す気にはならなかったのでリンリンに合わせようと、これからどうするかマイクを通して訊ねた。

すると、彼女は少し黙り込んでから、やや緊迫(きんぱく)した声で予想もしていないことを口にした。

『あ、あの…!今から…会えません、か…?』

いきなりの誘いに驚いたが、特に予定もないので承諾する。

安心したように息をつく音が聞こえたのち、『じゃあ…いつもの、場所で…待ってます…!』という言葉を最後に、画面の女性が姿を消した。

こちらも彼女と同じように自身の分身を異世界から一時的に消滅させると、適当に上着を羽織って待ち合わせ場所まで走る。

彼女と夜に会うこと自体は初めてなわけではない。人混みを好まない彼女は、静かに過ごしたい時に夜の公園で話そうと誘ってくれる。

その時間は2人の空間を邪魔されない自分も好きな時間なのだが、いつもは3日前くらいに、遅くても前日には予定を訊ねてくるので、当日の、しかも直前にお願いされたのは初めてだった。

わりと距離のある公園までの道のりをバテるぎりぎりの速度で駆け抜けて、たどり着いた小さな公園のベンチには、画面の中にいた少女が魔法使いのロープではなく、白いワンピースを着て座っていた。

目立った柄はなにひとつないが、白いフリルが膝下まで丈のあるスカートなどを効果的に飾り付けていて、ドレスのような印象を感じさせる。星夜のわずかな光に照らされた横顔は、画面の中にいた彼女の分身の何倍も美しいが、どこか悲しそうな色が浮かんでいた。

少し乱れた呼吸を整え、彼女の名前を呼ぶ。弾かれたようにこちらを向いて立ち上がったりんりんは足早に近づいてくると、限界まで腰を折り曲げた。

「ご、ごめんなさい…!!わたしの、わがままに…付き合わせてしまって…」

いきなり過ぎてついていけないこちらに、彼女はよくわからない謝罪を口にする。

混乱した頭でなんとか考えてみるものの、わがままなんて言われた覚えはない。強いて言うのならこの呼び出しが該当するのだろうが、こちらはそんなふうに捉えていないし、そうじゃないとしてもちょっと大袈裟すぎる気がする。

それを伝えても、彼女は顔を上げてはくれなかった。代わりに、()れた声で覚束(おぼつか)なく言葉を紡ぐ。

「今日の、戦いも…わたしが…無理やり、連れ出した…のに…わたしが…決着を、急いだせいで…あなたが…死ん、じゃって…迷惑、だって…わかっても…直接…謝り、たかった、んです…あなたに…嫌われたら…わたし、わたし…!」

それ以上は言葉にならないと嗚咽(おえつ)をこぼし続けるリンリンを、どうすれば泣き止ませられるのか、自分にはわからなかった。

だから代わりに、彼女の肩に触れて上体を起こさせると、濡れた紫の瞳を見据(みす)えてたったひとつ、決して変わることのないことを告げた。

—どんなことがあっても、自分は燐子のことを嫌いになんてならない—と。

彼女は止まりかけていた大粒の涙をぽろぽろと溢しながら、胸に飛び込んでくる。

子供のように泣きじゃくる少女の背を、ゆっくりと撫でた。胸を濡らす涙が枯れるまで、夜に響く嗚咽が止むまで、ずっと。

 

泣き止んだりんりんの手を引き、さっき彼女が座っていたベンチに並んで座ってから、彼女との間には会話どころか言葉のひとつすら行き交わなかった。

理由は、さっきの言動が今更恥ずかしくなってきたからだ。

もちろん、彼女に伝えた言葉は掛け値無しの本心だが、よく考えたら…いや、そんなに考えなくてもかなりクサい台詞だったのは明白で、さらには今までりんりん呼びだったのを勢いで下の名前で呼んでしまった。

そして、1番怖いのは彼女もさっきからひと言も喋らないことである。もしかして気付かぬうちに逆鱗(げきりん)に触れてしまったのか心配になってしまう。

謝った方がいいのか頭を悩ませていると、しばらく続いていた沈黙が、隣の少女によって破られた。

「・・・あの、ひとつだけ…お願い、してもいいですか…?」

なにを要求されるかまるでわからないままなし崩し的に頷くと、彼女は少し(ほお)を赤くして呟いた。

「もう、一回だけ…下の名前で、呼んで…くれませんか…?」

予想だにもしていなかった願いに変な声が出てしまう。それを拒否と受け取ったか、彼女は顔を真っ赤にして座ったまま頭を下げた。

「すみません…!やっぱり、嫌…ですよね…」

みるみる(しお)れていく表情をそのままにしておくなんてことはできず、少しの気恥ずかしさを蹴り飛ばして、ゲームの中のではなく、こちらの世界での彼女の名前を呼ぶ。

ぎこちなく発された名前が耳に入った途端(とたん)、彼女はぱあっと顔を(ほころ)ばせた。ここまで喜んでもらえると羞恥(しゅうち)より嬉しさの方が(まさ)り、これからはできる限り燐子と呼んであげようと考える。

そんな密かな企みを知らない彼女は余韻(よいん)を噛みしめるかのようににこにこしていたが、突如(とつじょ)吹いてきた風に身体を震わせた。

いくら春とはいえ、夜はまだ冷える。大して防寒機能(ぼうかんきのう)(そな)わっていないワンピース1枚で外にいるのは少し厳しいだろう。

彼女に着せるために上着を脱ごうとすると、燐子はそれを察して大きく首を振った。

「だ、大丈夫です…これくらいなら、我慢でき…へくちっ!」

可愛らしいくしゃみをする彼女に言わんこっちゃないと思ってしまう。

脱いだ上着を彼女に渡そうとしたが、再び吹いた風に今度はこちらが盛大なくしゃみをしてしまった。彼女は「だから…大丈夫…って、言ったのに…」と呟いたのち、少し考え込んでから赤くなりつつも真剣な眼差しをこちらに向けた。

「ふ、2人で…温まる、方法が…あるんですけど…手伝って、くれますか…?」

そんな方法があるのかと、深く考えずに頷く。すると彼女は、なぜか足を少し開いてくれとお願いしてくるので、疑問に思いながらも注文通りに足を開く。

彼女はお礼を言ったものの、迷ったように視線を左右させたが、やがてガタリと立ち上がり、再び座った。隣ではなく、スペースの空いたこちらの前に。

胸を彼女の長い黒髪がくすぐってきたが、そんな些細(ささい)なことは意識の外だった。

こちらを向いた燐子が、頰に朱色を宿しながら期待するかのような瞳を向けてきたからだ。彼女がなにを期待しているのかは、なんとなくわかる。わかるのだが…下の名前も呼ぶのにひと苦労している自分が、それを実行できるかどうかはまた別の問題だった。

どうしようか悩んでいると、彼女が2回目のくしゃみをするので、ええいままよと両手を持ち上げ、華奢(きゃしゃ)な身体を軽く引き寄せる。

彼女は一回大きく身体を震わせたが、幸い嫌がる様子もなく目を細めた。彼女の髪から香るフローラルの香りや、女子特有の体の柔らかさから意識を遠ざけるべく、NFOのスキル構成やイベントの走る予定などを全力で考えていると、思考の海に潜る自分を燐子のひと言が引きずり出す。

「温かいですね…」

むしろ暑いくらいだということは口にせず、こくこく頷くと、彼女は赤い頰を(ゆる)ませ、こちらに身体を預けてきた。

少しだけこの状況に慣れてきたので、回した腕の力を強めてみる。短い吐息が間近で響き、心拍数を限りなく上昇させる。

もう随分な夜更(よふ)けだというのも忘れ、月の光に照らされるまま、1人の少女と寄り添い続けた。




こんにちは、エノキノコです。まずは通常の倍近くの量になってしまったこの小説を最後まで読んでいただきありがとうございます。
そして前半、いえ、物語の8割がラブコメ皆無の戦闘描写ですみません!作者的にNFOを舞台にして書きたい欲求があったんですが、現実世界でキャラがPCをかちかちするだけだと迫力に欠けますし、だからといってゲーム内のアバター視点のみで進めるのもどうかと思ったので、前半NFO、後半は現実でのラブコメを書こうと思ったのですが…書いているうちにこんな惨状になってしまい、ガルパ4周年に間に合わせたかったため書き直すこともできず(実際半分ぐらいは作者の貧乏性のせいです…)、こんな偏ったものになってしまいました…。次はラブコメを目一杯詰め込むので大目に見てもらえると幸いです。
次回は3月20日に投稿予定ですが…これも間に合うかは微妙です。ただ間に合うよう全力を尽くしますので、待っていてもらえると嬉しいです。
最後に、星9という充分過ぎるほどの高評価を付けてもらった通りすがりの(くぐい)さん(励みになります!)付けれる数に限りがある星10を付けてくださったエイタイさん(思わず二度見してしまうほど驚きました!)、お気に入り登録をしてくれた皆さん(またもや多くの人にしてもらったので、名前の表記は割愛させていただきます。すみません…)、感想を送ってくれたでっひーーさん(初めての感想が好意的なもので嬉しかったです!)、そして、本編同様過去最長になってしまった後書きに最後まで付き合ってくださったあなたに、この場を借りてお礼の言葉を送らせてもらいます。ありがとうございました!


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もし日菜ちゃんと付き合っていたら…

氷川姉妹誕生日記念です!


ただでさえ冷える1年最後の月、年の瀬という実感などほとんど湧かない時期でも、夜は一層冷え込み体温を奪おうとする。

しかし、舗装(ほそう)はされているもののそこそこの角度を有した山道を望遠鏡を背負って歩いていると、それすらも少し物足りない。

「おーい!早く早くー!」

厚着してきたことを後悔しつつ、荒い呼吸を繰り返しているこちらに、昨日急に出かけようと誘いのメールを送ってきて、説明無しにここまで引っ張ってきた、付き合い始めてある程度(とき)が過ぎた少女、氷川(ひかわ) 日菜(ひな)が上から手を振って急かしてくる。

開いた距離を詰められる声量を出すべく息を整えていると、その隙に彼女は「先行くねー!」と疲れを感じない声を響かせてあっという間に背中を小さくした。

そんな彼女に負けじと荷物を背負い直し、疲労が溜まった身体を(ふる)()たせる。星の光に照らされる、終わりが見えない道に早くも意思を(けず)られたが、弱気な思考を頭の中から振り落とすと、重りを付けられたかのように動きが(にぶ)い足を踏み出した。

 

そこから実に30分以上かけて頂上に達し、割と混雑している展望スペースの(すみ)に設置されたベンチにふらつきながら座り込む。

近くの邪魔にならない場所に望遠鏡を横たえて(むさぼ)った(かわ)いた空気は、血流を徐々に沈めていったが、代わりに(のど)(かわ)きを()()りにした。

「はい、これ」

水分を求めて自販機を探そうと持ち上げられた視界に、透明な水が入ったペットボトルが割り込んでくるので、キャップを持つ指を(さかのぼ)っていく。終着点には、無慈悲(むじひ)にもこちらを置いて先にここにたどり着いていた日菜が悪びれることなく軽い笑みを浮かべていた。

なぜ受け取らないのか不思議そうに首をかしげる彼女に文句のひとつでも口にしようか悩んだが、原始的な衝動に(あらが)ことが出来ず、お礼を言って受け取ると、抵抗感なく回るキャップを外した矢先に喉を盛大(せいだい)に鳴らしながら一気に飲み干す。

ただのミネラルウォーターがここまで美味く感じるのに軽い感動を覚えていると、隣に座った日菜がいたずらな(ひとみ)でこちらを見ていた。あの目をするのはこちらをからかう予備動作(よびどうさ)だということを、彼女と付き合う前から身を(もっ)て知っている。

どうせ遅れたことに対することでなにか言われるだろうと、(あらかじ)め返答を用意しようとしたこちらに、日菜はまだ少し中身が残っているペットボトルを指差し、言った。

「それ、あたしの飲みかけだよ」

完全に予想外の言葉に、口に出す予定だった反論は意味のない叫びに変換(へんかん)された。日菜はこちらの手から(こぼ)れたペットボトルを危なげなくキャッチすると、愉快そうな笑い声を響かせる。

「あはははっ!相変わらず面白いな〜」

顔に紅色(べにいろ)が広がってしまったこちらを一頻り(ひとしきり)笑った彼女は、「残りもらうねー」と躊躇(ちゅうちょ)なく水に口を付ける。

頰の表面温度(ひょうめんおんど)幾分(いくぶん)か上昇しているのを自覚しつつその(さま)を見ていると、ペットボトルを空にした彼女は口元をわざとらしく湾曲(わんきょく)させた。

「君は意識し過ぎだってば。あたしたち付き合ってるんだから、間接キスくらい普通でしょ?」

それはそうなのかもしれないが、こちらはさして恋愛経験が豊富なわけではないので、どうしてもドギマギしてしまう。

出したら間違いなく追撃を(もら)うだけの言い訳を、口の中でもごもご(とど)めていたが、彼女はすべてお見通しと言わんばかりに浮かべていた笑みを深めると、短い距離を無くす勢いで近づき、こちらの右腕を両手で(から)め取《と》って胸に引き寄せた。

右腕に集中した熱が逃げ場を求めるように全身へと回り、それでもなお余りあるエネルギーは肌の色素へと変換される。

赤く染まっていくこちらを見た彼女は再び声を出して笑ったのち、なぜか周囲を見渡した。

「まだ平気っぽいし、しばらく話そうよ。・・・そういえば、前の撮影現場で面白いことがあってねー…」

日菜が楽しそうに話し始めるが、右腕に彼女の身体の感触が()えず送られ続けているので、内容がほとんど頭に残らず流れていく。

なんとか右腕から意識を外そうとするこちらの努力を、日菜は両手に込める力を強めることで粉々に打ち砕いた。

実に1時間以上の間、右腕は異常な熱を(たも)(つづ)けた。

 

それから、アイドルの話から星の講座に変わっても、一向に意識の大半は右腕に集中したままだった。

なんとかしようとは思ったものの、話の流れによって不規則に変化する感触をシャットアウトするのは至難(しなん)の技だし、少し離れてと言っても逆に密着してくるのでこちらができることがなくなってしまった。

だが、なんとかこの状況にも少しずつ慣れ始め、彼女が指差す星の光を楽しめるようになってきた頃。日菜は今までの会話でも何度か挟んでいた周りの様子を確認する挙動を見せたのち、急にこちらの腕を解放して立ち上がった。

一度はそれを頼んだはずなのに、いざそうなると一抹(いちまつ)の寂しさがちらついてくる。

「ちょっとお腹減ったから、なんか買ってくるねー。・・・心配しなくてもちゃんと君の分も買ってくるから平気だって〜」

今回は心情を読まれなかったことに胸を撫で下ろしつつ、これ使ってとポケットから財布を取り出す。

お礼を言って、来た頃より密度を増した人波に飛び込もうとしていた彼女は、なにかを思い出したかのような顔をしてこちらに戻ってくる。

小走りの勢いを落とさずに両手を背に回してきた日菜は、心拍数(しんぱくすう)が跳ね上がったこちらに(さら)なる爆弾を投下(ばくだん)した。

「戻ってきたらまた腕組んであげるから、それまでこれで我慢してね」

吐息混じりの(ささや)きが背筋をぞくりと(ふる)わせる。抱擁(ほうよう)が強くなり、彼女の体温がこちらに移り変わった瞬間、大きな笑みを目の前で咲かせてから今度こそ走っていってしまった。

身体に()びる熱は彼女が帰ってくる(あいだ)どころか、1日中心身(しんしん)共々(ともども)温めてくれそうだったが、このままだと冬なのに熱中症で倒れてしまいそうなので、気を(まぎ)らわせようと紺色(こんいろ)純白(じゅんぱく)の点を散りばめた空を眺める。

しかし、無意識に残っていた彼女の解説が(よみがえ)り、それに付随(ふずい)してさっきの(くだり)も脳内で再生されてしまうので全く景色に集中できなかった。

時間が過ぎていることすらほとんど意識せずに頭を抱えているうちに、袋片手に戻ってきた日菜がこちらに財布を返したあと、躊躇(ためら)わずに腕に飛び付く。

一向に落ち着かない心臓を(なだ)めるべく四苦八苦(しくはっく)していると、日菜は冷たくなった手を温めようと、こちらの腕に自身の手を強く押しつけながら頬を(ふく)らませた。

「あたしたちもう付き合って結構経つんだよ?そりゃ無反応よりかは今の君の方がいいけど、もうちょっと慣れて欲しいなー」

昨日だったら反発していたであろう言葉が、(みょう)にすんなり入ってくる。

今までは彼女の距離が近過ぎることが原因だったと思っていたが、単純に自身がヘタレなこともあるのかもしれない。

小さく謝罪の言葉を呟くと、彼女は慌てた素振りで首を左右に振った。

「あ、謝って欲しかったわけじゃないよ!ほら、ポテトでも食べて元気出して!」

彼女は袋から取り出したフライドポテトの一本を差し出してくる。ジャンクフード、特にフライドポテトが大好きな彼女が最初の一本を食べさせようとしてきたあたり、自分は相当(ひど)い顔をしていたのだろう。

少しの気恥ずかしさはあったものの、彼女の気遣(きづか)いを無下(むげ)にはしたくなかったのでお礼を言って食べると、塩味(えんみ)が薄く口の中に広がった。

「美味しい?元気出た?」

日菜がこちらの顔を(のぞ)()むようにして(たず)ねてくるので、身を引きながらも(うなず)く。安堵(あんど)したように笑顔を(ほころ)ばせた彼女は、ポテトを2、3本ひょいひょいと口に放り込むと、心底嬉しそうな顔をする。

あっという間に紙で出来た容器を空にした彼女は、袋から新たなポテトを取り出す。ちらりと見えた中には同じような容器が6つほど所狭(ところせま)しと詰められていた。

緊張で誤魔化(ごまか)されていた空腹が徐々に顔を出してくるのと同時に、日菜がもうひとつ袋から取り出し、こちらに渡してくる。

お礼を言って受け取り、何本か(たば)ねて口に入れると、こちらはバーベキュー風味の味付けなのだろうか、スパイシーさが舌を刺激した。シンプルな塩もいいが、こちらも劣らぬほど美味い。

「そっちも美味しそー…あたしにもちょーだい!」

特に断る理由もないので、瞳を輝かせる彼女の方に入れ物を差し出すが、彼女は自身で取ろうとせずに口を開けて待っている。

食べさせられるのと比べればなんてことないと自身に言い聞かせ、ぎこちない動作でポテトを一本引き抜き、口の近くまで持っていってやると、彼女はこちらの指ごとぱくついた。

指先に今まで感じたことのない感触が襲いかかり、思考が完全に停止する。

首を傾げる少女と見つめ合う形で硬直した意識を引き戻したのは、周囲の歓声だった。「あっ!始まったよ!」とはしゃぐ彼女が指差す空を見上げると、紺碧(こんぺき)のキャンパスに細く白い一筆(いっぴつ)が入れられる。一筋の純白はすぐに消えてしまうが、違う位置から再び現れ、2本3本と増えていく。

あっという間に夜空を埋め尽くした光の雨は、今日(いだ)いた自身への嫌悪感(けんおかん)を洗い流してくれた。

 

最後の一粒が夜空に溶けても、しばらく紺碧を見つめていた自分は、ふと我に返って日菜の方を向いた。

ずっとこちらを見つめていたであろう彼女は、視線が交錯(こうさく)するや優しく微笑み、ベンチに転がっていたこちらの手を握る。

いつもは赤くなる場面でも、さっきの風景のおかげか、自然に握り返すことができた。

「・・・帰ろっか」

(なが)いようで一瞬の静寂(せいじゃく)(あいだ)翡翠(ひすい)色の瞳にこちらを映し続けた少女の呟きにゆっくり頷くと、結局出番のなかった望遠鏡を拾いつつ立ち上がる。

存在を忘れられていたことを抗議するかのような重量感を背に預けていると、日菜は少し残念そうな顔をした。

「結局それ、使わなかったね。せっかく使えるチャンスだったのになー」

学校から引っ張り出してきたと言っていた彼女がちぇー、と口をとんがらせる。

その様子に苦笑しつつ、また来ればいいと伝えると、日菜は意外そうに瞳を見開いた。

そんな彼女の手を急かすように引っ張り、行動とは真逆の遅鈍(ちどん)な足取りで(ふもと)へと歩き始めた。

ビックイベントが終わってある程度時間が経過していたからか、人気(ひとけ)の無い道を星を眺めながらたどる。

来たばかりに見たものよりずっと強く光って見える星々を見上げているうちに、いつもは話しかけてきそうな日菜が口を開きすらしないことに違和感を感じ、どうかしたのか訊ねると、彼女はほんのりと熱い手のひらをこちらの手に重ねながら、表情の全てを見せないようにそっぽを向きつつぼそりと呟いた。

「なんかいつもと雰囲気違うじゃん。望遠鏡のこととか絶対なんか言われると思ってたのに、調子狂っちゃうよ…」

確かに、いつもの自分なら小言のひとつでも口にすると思うが、そう指摘されても特に怒りや呆れは湧いてこない。

さっきの流星群の効力?本当にそれだけなのか、立ち止まり、自身に問いかけてみる。いつもなら言い逃れする本心は、誤魔化すことなく答えをくれた。

自身の心に深く刻まれたあの夜空は、彼女がいなかったら見れなかった。あの風景を見るきっかけをくれた感謝の念が、いつも以上に彼女に優しくしている理由なのだ。

その思考を流れるままに言葉として紡ぎ、最後に改めてお礼を口にする。それを聞いた彼女は突然手を離すと、真正面から抱きついてきた。いつもの勢いのついたハグではなく、()()うような抱擁(ほうよう)

落ち着いていた鼓動が、徐々に速くなるのを感じる。日菜の顔はこちらの胸に(うず)めているので見えないが、耳は鮮やかに赤みがかっていた。

「ずるいよ…そうやって不意打ちして…」

現在進行形で不意打ちしてきているそちらには言われたくない。そんな反論をしようとしても、口がぎこちなく開閉するだけだった。

思考を声にするのを諦めるのと、彼女が上目遣(うわめづか)いでこちらを見るのはほとんど同時で、からかい好きな彼女の顔は、今まで見たことないほど紅潮(こうちょう)していた。

「でもね、あたしは、カッコいい君も、優しい君も、恥ずかしがってる君も、全部好き。大好き…!」

振り絞るような告白をした彼女は、背に回している腕に力を込め、こちらの胸に顔を隠してしまう。

そんな彼女に、こちらも言うべきことがあった。星の加護(かご)は消え去ったし、心臓は張り裂けそうだが、これはむしろ、こっちのなんの力も借りていない素の自分で伝えるべき言葉だ。

溶接されたかのような喉から、最初に伝えた時と変わらぬ彼女への想いを告げる。たった一言、それを途切れ途切れになってしまっても、どうにかして繋げ終えると、日菜はばっとこちらを見つめ、続いて大きな笑顔を咲かせる。

散々と輝く太陽のような笑みが胸に満たしてくれた温もりは、流星群がもたらしたものと少し似ていたが、星の群れには感じなかった狂おしいほどの愛おしさを内包(ないほう)されていた。

その感情に突き動かされるまま、彼女の背に腕を回す。少し窮屈(きゅうくつ)に感じるほど抱き締められているはずの日菜は、「またそうやって…」と小さく文句を口にしたが、離れる素振りは見せなかった。

冬の寒さを感じさせない温かさを胸の中に収めながら、しばらくのあいだ、翡翠髪(ひすいがみ)の少女を抱き締め続けた。




こんにちは、エノキノコです。まずはこの小説を最後まで読んでいただきありがとうございます。
今回は色々初めてのことに挑戦しています。Roselia以外のキャラを書いてみたり、主人公の性格を今までとは違う感じにしてみたり、暗い雰囲気を極力避けてみたりしましたが、成功していたかどうかは読者の皆様に委ねます。もしよければ感想などで教えてもらえると嬉しいです。
今回で3月の分の投稿は一区切り付けようと思っていますが、もしかしたら今月末に1話くらいなら上げられるかもしれません。気長に待ってもらえると助かります。
最後にこの作品に星9を付けてくれたグルッペン閣下さん、依空千夜さん(おかげさまで評価バーに色が…!)、お気に入り登録をしてくれた皆さん(久々に見たらすごく増えていてびっくりしました!)、感想を送ってくれたゆぎさん(執筆の励みになります!)、そして後書きまで全て読んでくれたあなたに感謝を!ありがとうございました!


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もしあこちゃんと付き合っていたら…

穏やかな陽気と柔らかい風は季節の移り目と共に過ぎ去り、空気は水気を存分に吸い始めた。空は日を(また)いで黒い雲を着込み、時々雨粒を(したた)らせる。

こんな日に遊びに出かけようとするなど、普段の行動模範からはあり得ないのだが、今日は例え槍が降っても行かなければならない理由があった。

幸い天気予報は小雨を所々(ところどころ)挟むだけで本降りはないと言っていたし、今日行く場所は天候に左右されないので問題はないのだが、一応バックに折りたたみ傘を(しの)ばせると、いつもより歩調を早めて家をあとにした。

 

道中少しだけ霧雨(きりさめ)に巻かれたが気にせず突っ切り、駅近くにあるショッピングモールに駆け込むと、そのまま小走りでさまざまな店が並ぶ通りを抜ける。

奥に位置付けられた待ち合わせ場所である映画館の前には、落ち合う人物の姿は見られないので、映画館と隣の雑貨店を区切る白い円柱(えんちゅう)に寄りかかり、今やっている映画のポスターをぼんやり眺めていると、弾むような声が人混みを飛び越えてこちらへと投げかけられた。

「あっ!おーい!!」

待ち人が訪れたことを(さと)り、ポスターから目を離して正面に視線を振る。そして、そこにいる人物を視界に入れた瞬間、驚きのあまり声を出してしまった。その声は周囲の喧噪(けんそう)(まぎ)れたが、湧き上がった驚愕(きょうがく)は消えることはなかった。

身長は150cmに少し届かず、紫の髪を左右に結んだ実年齢より2回(ふたまわ)りくらい幼い風貌(ふうぼう)をする少女は、今日一緒に映画を見ようと約束し、3ヶ月ほど前に顔を真っ赤にして告白してきた宇田川(うたがわ) あこで間違いない。

だが、服装があまりにも様変わりしている。普段は赤や黒を基調とし、チェーンなどの金属アクセが付いた服装を好んで着ているのだが、今日彼女が身に(まと)っている衣服には、光沢を放つ装飾品の(たぐい)は一切ない。代わりに緩やかなフリルやリボンがひらひらと揺れている。

「どうどう?似合ってる?」

その場でくるくる回る少女に頷き、言葉でも感想を伝えると、彼女は屈折(くっせつ)のない笑顔を浮かべてなお回転した。このままの流れで、なぜいつもと違う意匠(いしょう)の服を着ているのか訊ねてみようとしたが、疑問を言葉にする前にあこは足をもつれさせ、バランスを崩す。

「わわわっ!」

彼女は腕をバタバタさせてバランスを取ろうとするが、奮闘(ふんとう)(むな)しく身体は(かたむ)き始めるので、心の中で謝罪してから両手を彼女の脇に差し込んで持ち上げた。

見た目通り軽いなーと、逃避的(とうひてき)な感想を(いだ)きつつ、彼女を直立させてから手を引っ込めると、危なそうだったからという言い訳と共に今度はちゃんと声に出して謝罪したのだが、彼女はそれに対してなにも言わず、赤くなった(ほお)をむくれさせた。

「むぅ…せっかくいい感じだったのに…」

尖った口から(こぼ)れた(つぶや)きに首を(かし)げていると、あこは恨めしげに上目遣いでこちらを見上げてくる。しかし、幼い見た目のせいで迫力に欠ける彼女が今の格好で怒っていても、可愛らしさが際立(きわだ)つだけだった。苦笑するこちらの耳に、あこは再び謎の独り言を小さく口にする。

「・・・デートは始まったばっかだし、まだチャンスはあるよね」

さっきまでの機嫌が嘘だったかのように彼女は表情に明るさを取り戻すと、こちらの手を取ってぐいぐいと引っ張った。

「早くチケット買いに行こっ!今日もあこが選んでいい?」

その提案に頷きで返すと、彼女は笑みを深めてお礼を言い、手を繋いだまま券売機へと向かってそのパネルを操作する。

映画館に来た時は、基本的に見る作品は彼女に(ゆだ)ねていて、自分で選ぶことはほとんどない。それゆえに彼女の好みもある程度わかってきていて、アニメやアクション系の映画を好んでいることを知った。

そんな(ふるい)にかけても複数の映画が残るので、いつもは直前までなにを見るのかわからないのだが、しかし、今日だけはどの作品を見るのかを、その作品の宣伝ポスターを待ち時間で発見した瞬間に察した。

それは、超王道のファンタジーアニメの劇場版で、あこが大好きな作品なのだ。

彼女が作品を選択する画面をスクロールし、予想通りの名前をタップ…する寸前、不自然に指を宙に止める。

悩むように(うな)る姿が心配になってきたが、やがて彼女はツインテールをぶんぶん左右に振り回すと、アニメの名前よりひとつ上のタイトルを選択した。ポスターで見た限り恋愛ものぽかったが、あの作品を押しやってまで彼女が見たいものとは思えない。

実際あまり納得していなさそうな彼女に、アニメの方を見なくていいのか訊ねると、未練がべったり張り付いた顔で頷く。

「あ、あこだってアニメばっかじゃなくてこういう映画もみるもんっ!」

言葉の勢いのまま彼女は席を選び、こちらが財布を出す前に2人分のお金を機械に入れてしまう。

・・・まあ、本人がそう言うならこれ以上は水を差さないでおこう。

余計な口出しをしてしまったことと、チケット代を出させてしまったことに対するお詫びに、ジュースやポップコーンなどの出費をこちらで出し、同じ映画を見ようと並んでいるであろう人たちが作る列の最後尾に並ぶ。

入場の際にチケットを見たスタッフさんが驚いた顔をしつつ口頭で案内してくれた5番スクリーンの扉を開け、指定された席に座ると、まだ広告すら流れ始めていないにも関わらず、あこはキャラメル味のポップコーンを(つま)んでいた。

幸せそうに目を細める彼女に、こちらも自然と口元が(ゆる)む。胸に広がる温かさを感じながらその横顔をじっと見つめていると、流石に視線に気づいたらしく、彼女はこちらと視線を交錯(こうさく)させたのち、もう2割ほど食べてしまっている容器をこちらに差し出す。

「あこのキャラメルあげるから、そっちの塩も食べていい?」

その提案を快諾すると、彼女は「やった!」と左右の髪を揺らして喜んだ。

プラスチックで出来たふたを開けて容器の口ぎりぎりの中身を彼女が取りやすい位置に持っていく。ポップコーンをこれまた美味しそうに食べている微笑(ほほえ)ましい様子をただ見ているうちに、いつのまにか周囲の明度(めいど)が低くなっていた。

大音量で流れる広告映像にはあこを葛藤(かっとう)させたアニメのものもあり、未練がましくスクリーンを眺める彼女に苦笑いしつつ、ストローで冷たい液体を吸い出していると、ちょうど全ての広告が流れ終わったらしく、暗闇に静寂が染み出していく。

飲み物を入れるために開けられている穴を意図通りに利用し、背もたれに寄りかかると、肘掛けに放置していた手に小さな温もりが重ねられた。

視線を振った先にいた少女は、暗闇で息を(ひそ)めた頬の朱色(しゅいろ)がやけに色っぽく見え、いつもの純粋な笑顔ではなく、小悪魔のような笑みを浮かべている。

普段映画を見る時とは違う心拍数の上昇に少しだけ戸惑いつつも、しっかりと小さい手を握り返し、本編を映し始めたスクリーンへと視線を戻した。

あまりこういうジャンルの映画は見ないのだが、冒頭はすんなりと頭に入ってきたので、この調子なら楽しめるかも—そう思っていたのだが…

中盤から年齢制限ギリギリを攻めているのか疑わしくなるほど登場人物の愛情表現が過激になり、見てるだけで恥ずかしくなってくる。

この演出を知っていてこの映画を選んだなら、自分の彼女は見た目と反してずいぶん進んでいるが、耳まで真っ赤な顔を見る限り、その可能性は低いだろう。

内容的にはおそらく半分を折り返したくらいなので、途中で退室するか彼女に訊ねたが、小さく首を振ってストローを(くわ)えた。しかし、すでに中身は氷だけなのか、少し大きな音が響くのみだった。

こちらはまだ中身は残っているので、(いま)だ中身を吸い出そうとしている彼女にこっちも飲んでいいと小声で(うなが)すと、なぜか迷う素振りを見せたが、自身の身体に回る熱には敵わなかったのか、こちらの飲み物を手に取る。

徐々に顔の赤みが薄れていく彼女の様子を見てとりあえずほっとひと息つきつつも、大々的に流れ続ける映像の過激さが落ち着いていくことを願わずにはいられなかった。

 

自身の願いは残念ながら届かず、あれからも同じように物語は続き、スタッフロールが流れてきた時には、彼女の顔はゆでだこのように真っ赤だった。

出口周辺が落ち着いてから席を立ち、とりあえず彼女の手を引く形でフードコートに流れ着くと、適当な席に座らせてからハンバーガーショップで照り焼きバーガーとポテト、ドリンクのセットを注文する。2つずつ頼んだそれを持って彼女の元へ戻り、ひとつを彼女の前に、もうひとつを自分の前に置いた。

いつものあこなら喜んでハンバーガーを頬張るのだが、今はちまちまとポテトを(かじ)っているのみで、笑顔ひとつ見せてくれない。

どうすれば彼女をいつもの調子に戻せるか、喉に冷たい液体を流し込みながら考えていると、周囲の雑音に消えてしまいそうな声で彼女が呟いた。

「ほんとはこれ、見ようと思ってたの…」

剣のキーホルダーが付いたスマホの画面を見ると、そこには確かに映画館の壁にあったポスターと同じ画像が表示されていた。見たところ、ジャンルは青春ラブコメといったところか。

だとしてもさっきの映画とタイトルが似ているわけでもないので、選択し直せばよかったのではないかと思ったが、それを阻害したのは操作の途中で口を挟んだこちらだと気付く。

すぐさま謝罪の言葉を口にすると、彼女は首を思いっきり左右に振った。

「ち、違うの!ほんとに悪いのはあこで…」

そこまで言うとばっと両手で口を塞ぐ彼女にどういうことか訊ねると、彼女は赤色の瞳をわかりやすく泳がせたのち、自棄(やけ)気味に口を開く。

「だって君はあこのこと全然意識してくれないじゃん!だから頑張って女の子っぽくしようとしたのに…結局あんま変わんなかったし…そんなんじゃ、本当にあこのこと好きでいてくれてるか、自信なくなっちゃうよ…」

徐々に言葉が速度を落とし、それに付随(ふずい)させて視線も下に向ける彼女の告白に、彼女にそんな心配をさせてしまった自身の不甲斐無(ふがいな)さに、(くちびる)を強く()()めた。しかし、悔恨(かいこん)(ひた)る前に自分にはやるべきことがある。

—出会った当初から、彼女は色々な表情を見せてくれた。それは日を重ねるごとに深く色鮮やかになり、いつしか、誰よりも近くでもっと彼女を見ていたいという感情が胸の中に芽生えていた。

だから、彼女が告白してきた時は嬉しかった。彼女も自分と一緒にいたい気持ちは同じなんだと、安心することができた。だが、自分は今の今まで好意を伝える言葉を口にしたことは一度もない。それがどれだけ彼女を不安にさせたか知らずにここまできてしまった。しかし、まだ間に合うはずだ。

小さな手を両手でしっかり包み込むと、見開いた瞳にこちらを映しながら「え…えっ、えっ!?」と一音(いちおん)を連発する彼女に構わず、好きだ、ずっと一緒にいたいと、躊躇(ためら)いなく口にする。

(いつわ)らざる本心を赤い耳に入れたあこは、やがて小さく頷いた。それがなにを意味するものなのか、こちらが察する前に、突然の拍手にびくりと身体が反応する。

そこでようやく、ここがフードコートという第三者の視線に晒され放題な場所だったことを思い出した。

周囲の人たちはさっきの一部始終を見てカップルができたのかと、手を鳴らして盛大に祝ってくれているのだろうが、ただただ恥ずかしいので出来れば控えてほしい。

しかし、相手は善意でやっていることなので声を出して指摘することはできず、代わりに苦笑を滲ませていると、目の前の少女は顔を隠すように(うつぶ)した。

 

それから拍手はすぐ止んだものの、この場にいると生温かい視線を受け続けてしまうので、自身の分を胃袋に詰め込んだあと、Sサイズのポテトをテイクアウトで購入する。

最初にセットを買った時より自然な笑みを浮かべた店員さんから袋を受け取ると、未だ突っ伏したままのあこの分を袋に入れ、俯く少女の手を取って席をあとにした。

とりあえずフードコートから距離を置こうとしたが、その前にあこがぼそりと呟く。

「今日はもう帰ろ…」

肉体的な疲れではなく、精神的な疲労が溜まってしまったのだろう。疲労困憊(ひろうこんぱい)と言った様子の少女に優しく笑いかけて頷いたこちらに、彼女は自身の身を預けるように腕に密着してくる。

そのまま近くの出口を跨ぐと、数量はそこまでないものの、しっかりとした(しずく)黒雲(こくうん)から降り注がれていた。

備えておいて正解だったと、こんな時のために用意していたものを取り出す。傘を開く間は気を利かせて離れてくれたあこは、こちらの腕に再びくっついた。

「・・・さっきの、ほんと?」

しばらく動かずに黙り込んでいた彼女は少し不安そうな瞳でこちらの顔を見上げ、小さな声で訊ねてくる。

さっきというのがフードコートで言った、場所に似つかぬ発言のことだと察し、安心させられるよう同じ内容を反復すると、顔に纏わりついていた暗い感情を拭いながら、彼女はなお問いかけてきた。

「ほんとにほんと?嘘じゃない?」

真紅の瞳をしっかり見つめ、強く頷くと、あこは今までの中でも一番輝いた笑顔を見せてくれた。

「うん!ずっと一緒だよ!」

腕と同化してしまいそうなくらい密着してくる少女が小さな傘でも濡れないように、こちらも身体を彼女の方へ寄せて歩く。

未だ灰色に染まった空の隙間から、一瞬だけ陽光がこちらを照らしたような気がした。




こんにちは、エノキノコです。まずはこの小説を最後まで読んでいただきありがとうございます。
月末に投稿するかもと言いましたが、思ったより筆の進みが良かったので投稿しました。あこちゃんらしさが出ているかどうかはわかりませんが、楽しんでもらえたなら幸いです。
そして、謝罪…というよりかは自身の力不足への嘆きと言いますか…。この小説の投稿日である3月25日はパレオちゃんの、2日前の23日はりみちゃんの誕生日だったわけですが、彼女らメインの小説を一度は検討したものの、前回の日菜ちゃんと合わせると恐ろしいハードスケジュールになる関係で断念してしまいました…。来年リベンジを…と考えてはみたのですが、そこまでの期間で2人を上げてないのは、それはそれで執筆ペースに問題があるので何とか代案を考えているところです。
そして、投稿日のうちに活動報告の方でキャラのリクエストも募集しているはずですので、覗いていってもらえると嬉しいです。次回は31日〜4月最初の週辺りに投稿できたらと思っています。
最後に、星9を付けてくださったたく丸さん、弱い男さん(高い評価を裏切らないよう頑張ります!)、お気に入り登録をしてくださった皆さん(いつも割愛してしまってすみません…!)、そして、後書きを最後まで読んでくださったあなたに感謝の言葉を送ります!ありがとうございました!



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もしましろちゃんと付き合っていたら…

年を越してからそれなりの月日が経った頃、昼間でも充分に強力だった冷気が陽の光から解放されたことによりさらに鋭く研ぎ澄まされ、こちらの熱を奪おうと窓の隙間から侵入しようとしてくる。

それを全開の暖房で迎撃(げいげき)しつつ、ベットに寝転がって数十分もの(あいだ)、自分の手に収まったスマホを見ながら(うな)り声をあげていた。

画面には今やほとんどの人が使っているメッセージアプリのトーク履歴が映り、短い文章やスタンプが積み重なっている。最下段は[明日、予定ある?]というこちらの発言から変化しておらず、まだ気付いていないだけという(あわ)い希望を、送ってすぐに表示された既読の文字が打ち砕いていた。

画面の右上に表記された[倉田(くらた) ましろ]の名前を一瞥(いちべつ)し、この短時間で何度したかわからない深いため息をつく。それらは全て、これまでの不甲斐無(ふがいな)い自身に向けられたものだった。

倉田さんは、1週間前に告白した女の子だ。出会った頃は常に周囲に怯えているような子で、守ってあげなきゃいけない印象が強かった。

でも、ここ最近でみるみる強くなっていく彼女を間近で見続けているうちに、押し付けがましく矮小(わいしょう)な義務感が()がれ落ち、彼女はこのまま自分から遠く離れてしまうのではないかと、焦りに似た思考に(さいな)まれるようになった。

そして、(えぐ)るような痛みに耐え始めて何度目かの夜に、初めて気付いた。自分の胸の奥深くに根付いていた、彼女への恋心に。

・・・別れるなら、この想いを伝えてからにしよう。そう決心してからは早かった。

彼女から空いた時間を聞き出し、人生で一番長く感じた時間を過ごして訪れた約束の日、オレンジで染め上げられた無人の公園で半ば自棄気味(やけぎみ)に想いを吐き出した。

どうせ失恋するだろうと、漠然(はくぜん)とした予想がありながらの告白は、しばらくの沈黙(ちんもく)のうち、顔を夕陽より赤く染め上げた彼女がこくんと小さく(うなず)いて決着がついた。

まるで予期していなかった結果に思考が完全にフリーズしてしまい、まるで会話がないまま彼女を家に送り届けたものの、どうすればいいのかまるでわからなかったことと、2人の予定が合わなかったこともあり、一度も会う機会がないまま1週間経ってしまった。

さすがにこれじゃマズいと、それとなくデートの約束を取り付けようとしたのだが、人類の叡智(えいち)が詰まった長方形の板は、ただ沈黙を貫いている。

今倉田さんは、どう断るか考えているのだろうか。彼女は優しいから、こちらを傷付けまいと頭を悩ましているに違いない。

そんな思考が頭をよぎり、彼女に助け舟を出そうとしたその時、音もなく画面の一番下に文章が追加される。

[大丈夫、空いてるよ]

たった一言で落ちていた気分がV字回復していくのをはっきりと感じながら、明日の10時頃に駅前で落ち合おうと約束する。

[楽しみにしてるね]という最後の一文で限界まで引き上げられた高揚感(こうようかん)に導かれるままブラウザを起動し、明日はどこを回ろうかと、駅周辺のお店を調べ始めた。

 

そして次の日、あっさり寝坊した。

休みの日はアラームをかけない自身の(くせ)を呪いつつ、近くの停留所(ていりゅうじょ)に止まったばかりのバスに乗り込むと、唯一綺麗(きれい)に空いていた2人用座席に腰掛け、微々たる振動の中、荒ぶった呼吸を少しずつ(しず)めていく。

近くに倉田さんの家があることを考えられるほどには落ち着いてきたところで、ハッとしてスマホを取り出した。ロック画面に設定された、青みがかった白色の髪の少女とのツーショット写真に奪われそうになる視線をどうにかして時刻へと向ける。4つの数字の羅列は、約束の時間を30分以上過ぎていることを淡々(たんたん)と物語っていた。

揺れが止まり、ドアの開閉音が車内に響くなか、メッセージアプリを開いて倉田さんに遅れる(むね)を伝える文を送ろうとした時、控えめな声量で名前を呼ばれ、肩を()れられる。

まさかと思い画面から視線を引き剥がし、見上げた先には、もう駅前でこちらを待っているはずの少女が、驚いた様子でこちらを見ていた。

なぜここにいるのか(たず)ねる前にガタンと車内が揺れるので、限界まで窓際に寄って作ったスペースに彼女を座らせてから、改めて先の疑問を口にする。

「実は、昨日夜更かししちゃって…。昨日誘ってくれたから、早く寝れるよう頑張ったんだけど…」

()き通った水色の瞳を申し訳なさそうに伏せる彼女に、ぶんぶんと首を振り、自分も同じような理由でこの場にいることを告げると、倉田さんは(わず)かに赤らめた頬を(ほころ)ばせた。

「そっか…なんか嬉しいな」

そう(つぶや)く彼女に目を奪われていると、視線に気付いた彼女が照れたように両手で顔を隠す。しかしその仕草も、こちらを釘付けにするには充分過ぎる威力が内包(ないほう)されていた。

このままでは言葉を()わさず、ただひたすら彼女に見惚(みほ)れてしまいそうだったので、なんとかして固定された意識を離すべく話題の種を探していたこちらに、彼女は(のぞ)き込むようにして疑問をぶつけてくる。

「そういえば、なんで夜遅くまで起きてたの?」

デートの計画を誘ったその夜に考えていたという、無計画なことこの上ない事実を伝えるかどうか悩んだが、純粋無垢(じゅんすいむく)な瞳でこちらを見つめる彼女に嘘をつくのも気が(とが)めるので正直に白状する。

「っ!?そ、そっか・・・デート、なんだ」

顔の色度を急激に上昇させた彼女は、えへへと短く笑った。

デートだと思われていなかったのは少し(さび)しいが、そう認識してからの彼女はどこかテンションが高い気がするので、それを差し引いても充分なものがある。

胸を満たす温かな気持ちが冷める前に、終点の駅前が窓の外から見え、同時に機械めいた女性の声が到着を予告する。車体が止まった瞬間、列を作って下車していく集団の最後列に位置取ってレンガ造りの地面を踏んだ。

「じゃあ、どこ行こっか」

自分より先に出ていた彼女はどこか弾んだ声で行き先を(ゆだ)ねてくるので、その期待に応えるべく、下調べで見つけた場所を指差して歩き始める。

白髪(しろかみ)を揺らしながらこちらの隣に並んだ倉田さんと手を繋ぎたいと思ったが、許可を取らずにして嫌がられたり、訊ねて言葉に詰まられるのを想像して尻込みしてしまい、右手を開いては閉じてを繰り返しているうちに、目的の喫茶店に着いてしまった。

黒い(つや)を持つ木製のドアにくっついている取っ手に半開きの手を押し付け、鈴の()とともに開いたドアの先には、お昼時なのにも関わらず、客の姿は見当たらない。

ドアと同じ素材で出来たカウンター席の奥にある棚にはボトルが綺麗に並べられていて、未成年が入っていい場所か不安になるが、グラスを拭く女性が好きな場所に座るのを勧めてくるので問題無い…はず。

ネットで下調べをしたのだから平気なことはわかってはいるものの、それでも入口近くにある4人掛けのテーブルに遠慮気味に座ると、隣に座った倉田さんがしばらく店員さんをぼーっと見たのち、感嘆(かんたん)の混じった息を吐いた。

「・・・すごいきれいな人だね…」

そのコメントに全面的に肯定の意を示してから、彼女の視線を追う形で店員さんの方を向く。

大人っぽさを(ただよ)わせながらも、老いなど一切感じさせない横顔は大半の人が同じ感想を(いだ)くと思うが、個人的なことを言わせてもらえれば、隣の少女も負けないくらい、なんならそれ以上に魅力的(みりょくてき)な女性だ。

そんな贔屓目(ひいきめ)が確実に入っている批評(ひひょう)を口にする度胸などあるはずもないので、代わりにテーブルに置いてあるメニュー表に手を伸ばす。

声をかけると我に返ったように店員さんから視線を外した倉田さんは、メニューにビーフシチューの名前を見つけると、パアッと表情を明るめた。そんな彼女を見ると、嬉しくなると同時に血の巡りが少しだけ早くなる。

本当に好きなんだなと思いながら、メニュー表の上部分を大きく占拠しているこのお店の看板メニューであるスペアリブを頼むことを決めると、そんな思考を読んでいたかのように、店員さんはカウンターの向こうからお(ひや)を自分と倉田さんの前に並べた。

途端に表情を強張らせる倉田さんの分もまとめてしたこちらの注文を、女性はきれいに反復したあと厨房(ちゅうぼう)の方に向かって行く。オーダーを伝えた女性に低く野太い声が返されたのを微かに耳が捉えたこちらに、隣の少女が緊張を解きつつある声でぼやいた。

「ごめんね、私の分まで頼んでもらっちゃって」

気にしてないとかぶりを振ったが、彼女は鏡写しのように髪を左右に揺らす。

「ううん、私はあなたに助けてもらってばかりだから、少しでもそれを減らして、今度はあなたに返していきたいの」

まっすぐにこちらを見て笑う彼女に触発(しょくはつ)され、胸の奥からありのままのことを告げてしまいたい衝動に()られた。自分は、頼られる快感に酔いしれていただけで、その行為には善意などかけらも存在しなかったことを吐き出してしまいたかった。

しかし、それを知ったあとに浴びせられるであろう彼女の(さげす)む視線に耐えられる気がしなかった自分がなにかを口にする前に、さっきの店員さんが料理を運んできてくれる。

喉の奥まで出掛けていた(よご)れた感情を冷水で無理やり流し込むと、早速スプーンを握っている彼女に(なら)って、こちらもナイフで骨と分離させた肉をフォークで突き刺し頬張(ほおば)った。よく煮込まれて柔らかくなった豚肉は、ソースの味がしっかり染みていて、両手を動かすペースを否応(いやおう)なく上げさせられる。

あっという間に骨だけになった皿を一瞥してから、満足感で満ちたため息をつくと、同じような意味が含められた吐息と重なった。

「美味しかったね…」

そう呟いた彼女の手元にある底深(そこぶか)のお皿は綺麗(きれい)(から)になっていた。

それもそのはず、今日ここのお店を選んだ理由は、彼女の好物であるビーフシチューに、他のお店では大なり小なり存在する彼女が苦手とする野菜類が写真で見た限りでは確認できなかったからなのだ。

いつも残すことに罪悪感を感じている彼女に気兼(きが)ねなく好物を食べてほしいという目論見(もくろみ)(こう)()し、両手で持ったコップに口をつけている彼女を見ていると、店員さんが近づいてくる。

周囲を見回してもレジっぽいものは見つけられないので、もしかしたら会計かもしれないと、ポケットから財布を取り出そうとしたが、その前に女性はテーブルに、二等辺三角形に切り分けられたチーズケーキと赤と紫のベリー系フルーツが()()められたタルトをひとつずつ、きめ細かく泡立った薄茶(うすちゃ)の液体が注がれたグラスをふたつずつ置く。

注文した(おぼ)えのないものが次々とテーブルを占拠(せんきょ)していく光景にフリーズしてしまったこちらに、女性は柔らかな微笑(びしょう)を作り、コックが美味しそうに食べてくれた自分達へのサービスだと説明してくれた。

財布の心配をせずに済んで胸を撫で下ろしつつ、コックさんの分も合わせてお礼を口にすると、(ほの)かに笑みを深めた女性はゆっくりしていってねと告げて、空になったお皿を厨房の方へ運んでいった。

今日は他にも回ってみたい場所があったが、ここまでサービスされたのにパッパッと移動するのもどうかと思うので、倉田さんにこれからどうするか委ねると、彼女は迷うように視線を右往左往(うおうさおう)させる。

「えっと…あなたが退屈じゃなかったら、ここでお話ししたいな」

その提案に()を置くことなく(うなず)いたこちらに、彼女は安堵の笑みを見せる。(けが)れの無いその笑みは、自己保身(じこほしん)(ゆえ)に都合の悪いことを隠している自身の醜悪(しゅうあく)さを否応なく突きつけ、微かな鈍痛(どんつう)が胸を打った。

 

それから、タルトを食べながら近況(きんきょう)を話す倉田さんに、チーズケーキを口に運びつつ耳を(かたむ)けた。

ケーキは確かに絶品だったのに、酸味だけがやけに強く口の中に残った。それを喉越しのいいコーヒー風味の生クリーム、カフェ・シェケラートと言うらしい飲み物で消そうとすると、今度は(わず)かな苦さが際立(きわだ)ってしまう。

結局彼女の話を半分も意識に残せないで時間が過ぎ、会計の時にまた来てねと微笑む店員さんに気の抜けた返しをして店の外に出ると、オレンジと紺碧(こんぺき)で上下が(わか)たれた空を、白髪の少女が近くのベンチに座って眺めていた。

彼女がなにかに夢中になっている時のみ見せる、可憐(かれん)さと美しさが同居した横顔にしばらく見惚(みと)れてから、彼女の隣に腰掛ける。

彼女は少ししてからこちらに気付き、申し訳なさそうに頭を下げた。

「ご、ごめんね。私が財布忘れちゃったせいで全部払わせちゃって…」

平気だと伝えても、彼女の表情は晴れない。実際払ったのはスペアリブとビーフシチューの分のみなので、これくらいなんの問題もないのだが、彼女が気にしているのは金額の方ではあるまい。彼女はこちらに支払わせたこと自体に負い目を感じているのだ。

どうすれば彼女のそれを消せるか考えていると、方法を思いつく前に彼女が苦笑いを浮かべる。

「これじゃあ、いつになったら恩を返せるようになるかわからないね」

・・・違う、返すべき立場なのはこちらだ。偽物(にせもの)の善意を振りかざし、(ひそ)かに快楽を得続(えつづ)けているこちらが、なんらかの代償を支払うべきなのだ。

喉を(ふる)わせたのではないかと錯覚(さっかく)してしまうほどの強い思念は眼前の少女に伝わった様子はないが、表情として出てしまったのだろう、心配そうにこちらを(のぞ)()んでくる。

そんな彼女に、いつも通り(うそ)で固めた言葉を吐くか、全て告白するか、今までで一番悩んだ。長い葛藤(かっとう)(すえ)口から出たのは、どちらつかずの中途半端なものだった。

— ・・・恩なんて感じなくていい、ただ助けたいだけだから—

その言葉に、彼女は顔に(さび)しさを垣間見(かいまみ)せ、小さく頷いた。最近は見ていなかった(しお)れた表情が、胸を鋭い痛みで貫く。

幻想的(げんそうてき)だった空は、その面影が見えないほど無機質な暗闇(くらやみ)に塗り潰されていた。

 

バスに乗り込み、彼女が乗ってきた停留所で2人で降りたあとも、会話らしい会話はなかった。

終わりのない沈黙(ちんもく)を冬の寒さが一層全身に(から)めつけようとするなか、倉田さんの家の前に着いたので、相変わらず俯き気味のまま彼女に手を振って、独り暗い道に去ろうとしたが、少し歩いたところで、振り終えて力無くぶら下げた手のひらを確かな温かさが包む。

後方を映した視界には、こちらの手を握った少女が、そのスカイブルーの瞳に強い意志を(うかが)わせていた。

「・・・私、頑張るね。早くあなたを助けられるよう、頑張るから。・・・だから…えっと…」

言葉の勢いを急減速させた彼女は続く言葉を探し始めるが、それでも握る力を緩めない彼女の手からこちらの手に流れ込んでくる温もりだけで、自分は充分過ぎるほど救われていた。

逆の方の手も持ち上げて彼女の手の甲に触れると、少し冷えた白い手をぎゅっと握る。

今日までのあらゆる場面で、助けているつもりが本当は助けられていた少女に、ありがとうと、胸に湧き上がる感謝の念を言葉にして伝えると、彼女は湯気が出そうなくらい真っ赤になりながらあわあわし始め、やがてプシューという音が鳴っていそうな様子で下を向いて顔を隠した。

彼女の手が発する熱が増加すると同時に、さっき胸を満たしていた自己嫌悪も溶けて沈んでいく。いつか、もしかしたら近いうちにまた顔を出す時が訪れても、彼女が隣にいてくれるのなら大丈夫に思えた。

そして、今までの分とこれからの分、彼女に助けてもらった以上に、自身のためではなく彼女のために倉田さんを助けることを心に強く決めてから手を離すと、彼女はいつになく俊敏(しゅんびん)に家に引っ込んでいった。

今更熱くなる頬を冷たい夜風が撫でる。いつのまにか浮き上がってきていたいくつかの星と(いびつ)楕円(だえん)の形をした月の光が僅かに届く帰路を、白髪の少女が消えていったドアを一瞥してから辿(たど)っていった。




こんにちは、エノキノコです。まずはこの小説を最後まで読んでいただきありがとうございます。
先日初めてリクエストをいただいて、減少気味から一気に跳ね上がったモチベーションをリクエスト作品に注ぎたいと思い、書きかけを放り出して執筆しました。
そんな今回のお話なんですが、過去最大レベルで(といってもまだ6話目なんですが)暗い&恋愛要素が薄い回になってしまいました…。誠に申し訳ございません!ただ、あらすじにもあるように、この作品は作者の妄想を書き綴ったものでして、そして作者は一度は暗くなるけど最後はハッピーエンドみたいな構成が大好きっぽいです。いままでの5話も、上下の振り幅には差がありますが、大体がそんな構成で出来ていることに最近気付きました。しかし、リクエスト回でこんな重い話をするなと言われてしまえば返す言葉もありません…。本当にごめんなさい…!
次の投稿は4月6日の予定です。後書きを書いている今現在ではヒロインくらいしか決まっていないので、間に合うかはわかりませんが、なんとか間に合うように頑張ります!
そして最後に、お気に入り登録をしてくださった皆さん(たくさんの方々にしてもらえて嬉しい限りです!)、リクエストを送ってくださったラウ・ル・クルーゼさん(おかげさまでまた頑張れそうです!)、そして、後書きまで読んでくださった方々、本当にありがとうございました!!


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もし千聖さんと付き合っていたら…

遅刻してすみません!千聖さん誕生日記念です!


のしかかるような暑さは最近徐々に重量を下げていったが、日中は充分と汗が肌を(つた)う。しかし、陽が沈んだあとは冷たく心地よい風がこちらを包んでくれていた。

未だ緑が多いものの、着々に黄色や赤の割合を増やしている周囲の樹々(きぎ)に新たな季節の訪れをまざまざと感じつつ、行き交う人や車の雑音の隙間から(こぼ)れてくる枝葉が揺れる音を拾いながら街路を進むと、駅前にてごった返した集団に巻き込まれる。

ここからある1人を探し当てなくてはならないのは普通なら至難(しなん)の技だが、ある種の誘引力(ゆういんりょく)に導かれるまま動かした視線に、金色の(きら)めきが飛び込んだ。

改札近くの壁に寄りかかり、群衆をどこか(さび)しそうに眺めている少女に人の流れをかき分けて近づくと、少女は微笑(びしょう)と共に軽く手を振ってくれる。赤紫(あかむらさき)色の瞳を揺れていた(うす)い感情は、幻のように(まばた)きひとつで消滅していた。

少女がちらつかせた感情が見間違(みまちが)いだったことを願いつつ、待たせてしまったか(たず)ねるこちらに、小柄ながらもどこか大人びた雰囲気を持つ女性、白鷺(しらさぎ) 千聖(ちさと)は背中に流した金色の長髪(ちょうはつ)を小さく左右に振った。

「大丈夫、私も今来たところだから」

一見気遣いに聞こえるが、以前5分遅刻して小言を(かさ)ねられた経験がただ真実を口にしているだけだと裏付けてくれる。それに、彼女は今をときめくアイドル(けん)10年以上のキャリアがある人気女優なので、こんな大勢の中で長時間バレないのは難しいだろう。

そこまで考えたところでなにか引っかかるものを感じたが、その正体が明らかになる前に彼女が華奢(きゃしゃ)な白い手を差し出してくるので、とりあえず疑問を(たな)に上げて彼女の手を取った。夜風で少し冷たくなっている手のひらに、少しでも温度を分けて上げたいと、細い指の隙間(すきま)に自身の指を(すべ)り込ませる。

こちらを追いかけるように手に込める力を強めた彼女は、今日初めて湿(しめ)った感情を晴らした顔に笑顔を咲かせてくれた。胸の動悸(どうき)が浮き上がってくるのを意識しながら、星が(かす)んでしまうほどの光と息苦しさを感じるほどの人々が()()う街を、1人の少女と肩を並べて歩き始めた。

 

彼女に行き先を(ゆだ)ねて足を動かしていくと、人口密度と明度(めいど)は徐々に減少傾向(けいこう)にありつつあった。立ち並ぶ店々(みせみせ)が照明を落としているので、当然と言えば当然なのだが、同時に彼女がどこに向かおうとしているのか心配になってくる。

そんな思慮を置き去りにして半歩先を行く彼女の迷いのない足取りが止まったのは、長方形のガラスを白い木で縁取(ふちど)ったドアの前だった。ガラスの向こうからは作られた光が通り抜けてくるが、[CLOSE]という掛け札が人の立ち入りを(はば)んでいる。

なぜここで足を止めたのか訊ねても、彼女は口元に(ほの)かな笑みを浮かべるのみで、意図が分からず首を(かし)げてしまうこちらを見て笑みを深めた彼女は、()んだ高さの鈴の()を響かせてドアを開け、中に入っていった。

金色の髪が反射した光の残滓(ざんし)を追いかけるべきか、そんな悩みは(つな)がれた手の引力に流され、店内に()()り込まれてしまう。追い出されると思い強張ったこちらを、なぜか店員さんは笑顔で席へ案内してくれた。

予期していたものとは真逆の対応に戸惑ってしまっている様子を見た彼女は、耐えられないかのようにくすくす笑い声を(こぼ)してしまう。

「安心して、ちゃんとお店に話はつけてあるから」

その言葉にようやく緊張が解けていくのを感じつつ、なぜ教えてくれなかったのか、ささやかな講義をしたところ、慌てる(さま)を見てみたかったからと、向かい合った位置に座る少女は表情を変えずに答える。

(とし)相応の女の子らしく笑う彼女を見ると、いつもならドギマギしてしまうのだが、今回はまんまと()められた悔しさが混ざって複雑な気分だった。

「ほら、そんな顔しないで。好きなもの頼んでいいから」

その発言にとりあえず胸の気持ちを押しやって、勘定(かんじょう)はこっちが持つと言ったのだが、彼女は即座にかぶりを振った。

「いいえ、こんな時間に無理言って呼び出したのは私なんだから、そのお()びくらいさせてちょうだい」

いつもと同じ微笑(ほほえ)みのはずなのに、どこか無理して笑っているように感じる彼女に向かって右手を伸ばすと、前髪の奥にある(ひたい)を人差し指でつついた。彼女は笑顔を崩し、驚愕(きょうがく)の色がまじまじと見られる瞳を少し大きめに開いている。

彼女が多忙(たぼう)ゆえに日中に時間が取れないことなど付き合う前から重々承知しているし、それでもなお時間を作ってくれる彼女にお礼こそあれど詫びてもらう必要はない。さらに言ってしまえば、時間などいつだっていいのだ。自分は、彼女と少しでも一緒にいれればそれでいいのだから。

そんな口にするのが大変恥ずかしい思想を聞いた彼女は、しばらくのあいだ表情が変えずに固まってしまう。

本心を告げた羞恥心(しゅうちしん)が徐々に、勢いで変なことを口走ってしまった後悔によって上書きされていく静寂(せいじゃく)を破ったのは、目の前の少女の呆れた声だった。

「あなたってたまにそういうキザなことを言うわよね。・・・もしかして、狙って言ってるのかしら」

浮ついた言葉を意図して口にしている(やから)だと認識されるのは絶対に嫌なので、全力で首を左右に振って必死に否定するこちらの様子に彼女は短く笑みを(こぼ)す。

「わかってるわよ、ただ、ちょっとからかってみたくなっただけ」

遅まきながら、またしてもしてやられたことを認識し、この手のやりとりでは彼女には敵わないという、何度したかわからない確信と共にテーブルに沈み込む。

そんなこちらに彼女が向けてきた笑顔は、一緒に差し出してきたメニュー表で顔を隠すことを強要させた。

 

注文してから十分足らずで、店員さんが同じケーキと紅茶をふたつずつ、テーブルに並べてくれた。

店員さんに一礼してから優雅(ゆうが)にティーカップに口を付ける彼女の姿は実に様になっていて、思わず吸い取られていきそうな視線をどうにかしてケーキへとフォーカスする。

長く考えたが熱に冒された頭では中々決められず、千聖と一緒のものを頼む形で運ばれてきたケーキは、生クリームを塗られたスポンジの(あいだ)に色とりどりの果物が挟まれ、混じり気のない純白の最上段にも彩りを与えている。

三角形に切られたケーキの半分ほどにフォークを落とし込むと、(わず)かな反発感と共に分断された2つのうち、三角の頂点だった方を頬張(ほおば)った。クリームは甘さが控えめに抑えられていて、フルーツの味が阻害されずに舌に伝わってくる。

続いて飲んだ紅茶が甘さの余韻(よいん)をゆっくり溶かしていくのを感じつつ、このふたつの組み合わせを作った眼前の少女のセンスを素直に賞賛(しょうさん)していると、少女は僅かにはにかむ。

「そんな大袈裟(おおげさ)に言うほどじゃないわよ。・・・でも、そんなふうに言ってくれると、店長さんに頼んだ甲斐(かい)があったわ」

彼女がなにを頼んだかは、少し考えればすぐに思い当たった。閉店した喫茶店でお茶できているのは、彼女が事前に話をつけてくれたおかげなのだ。

店長の人と交渉してまでここに案内してくれた彼女にお礼を口にすると、彼女は首を左右に振る。

「お礼なんていいわよ。私、ここの常連だから結構顔が()くの」

そう言う彼女の声は、少し、ほんの少しだけ沈んだ感情が含まれてる気がした。それを裏付けるように、笑顔にも薄い(きり)がかかっている。

そんな(さび)しそうな少女の手を、気付いたら握っていた。驚く彼女に、なにかあったか訊ねると、()を置いてから千聖は大きく息を吐き出す。

「・・・あなたに、隠し事はできないわね。・・・大したことじゃないのよ、ただ、女優の肩書きを外した私に、価値があるのか考えちゃう時があるの」

隠していた感情を徐々にあらわにしていった彼女は、瞳を伏せながら続ける。

「今ここでお茶できてるのも、私が女優だからこそなんだと思うの。それに、あなたが私を好きになったのも…」

その先の言葉を察して、すぐさま否定の声で続きを遮った。

確かに、女優の彼女は魅力的だ。手を伸ばしても絶対に届かない場所で見せる彼女の微笑みは、雑味(ざつみ)ひとつ含まれていない純白のような美しさがある。それが自身の彼女への好意に影響していないと言うことは、断言することはできない。

しかし、様々な色を混ぜながら隣で咲く笑顔が一番好きなのは、なんの迷いもなく断言できる。後者が、決して前者に劣るものではないことも。

でもおそらく、揺れる(かな)しげな瞳は言葉だけじゃ光を取り戻すことができない。だから—

「でも、私は…んっ!?」

なにか言おうとした(くちびる)を、こちらの口で(ふさ)ぐ。クリームよりずっとずっと甘い一瞬の触れ合いを終えたあと、白い肌を赤く染め上げた少女の名前を呼び、胸の内を凝縮(ぎょうしゅく)したひと言を投げかける。

彼女は小さくお礼を(つぶや)き、顔を隠すように右手を持ち上げた。

 

それから、残ったケーキと紅茶を食べ終え、店を出て駅へと向かう間、千聖と言葉どころか視線すら交わらなかった。理由は間違いなくあの出来事だというのは、事後から今現在まで流れている気まずい空気からも明らかなのだが、空気が変わってから襲いかかってきた羞恥心の対処のせいで、謝罪する余裕など残っていなかった。

悶々(もんもん)とした状態で駅まで着いてしまい、どうするか悩みながらもICカードをタッチして改札を通る。彼女の家の位置からして、使う路線が違うのでここで別れようとしたこちらの手がなんの合図もなく握られた。

「ねえ…一緒に帰りましょう…?」

すごく久しぶりに聞いた気がする彼女の声は、いつもの毅然(きぜん)とした声質ではなく、雑多にかき消されてしまいそうなほどか細いものだった。さっきの(くだり)でまともな思考ができなくなっている頭がさらに熱を上昇させ、特に理由を訊くこともせず首を上下に動かす。

「じゃあ、お願いね」

手の繋がりをぎゅっと強める彼女の顔が直視できないまま、右手に伝わる温度や柔らかさに耐えつつ、彼女の家の方面の電車に乗り込んだ。

しかし、帰宅時間と多少被っていたのか、小さい間隔(かんかく)で人が()()められた車内では、結果として彼女と密着してしまう。

こうなった以上電車から降りる前には謝罪できたらと思っていたが、半ば抱きつかれるような体勢では、謝るどころか心臓が飛び跳ねるのを(なだ)めるので手一杯になっているうちに、もう彼女が下車する駅に着いてしまいそうになってしまった。

次いつ会えるかわからないので、せめて謝罪だけはしておこうとこちらが口を開く前に、赤紫の瞳がこちらを見上げてくる。

「さっきはありがとう。ちょっと驚いたけれど、本当に嬉しかったわ」

上目遣いにドキッとしてしまうこちらに、頬にまだ朱色(しゅいろ)を宿らせた彼女は周囲に聞こえない声で(ささや)き始める。揺れが(ゆる)やかに収まっていくなか、彼女は続けた。

「でもあれ、私のファーストキスだったのよ。もう少しロマンチックなムードでしたかったわ」

残念そうに呟く彼女に周囲に聞こえないぎりぎりの声量で謝ったものの、彼女は表情を明るめてくれない。

どうしようか悩んでるうちに電車が止まり、ドアが開くので、外に流れる人々に合流するため、彼女はこちらから離れる—

寸前に、彼女と顔を合わせる関係上(うつむ)き気味だった顔が引き寄せられ、唇に再び柔らかい感触が、今度は強く押しつけられる。

接触を終えてもまっさらなままの思考に、彼女が甘い言葉を一滴(いってき)垂らした。

「これで許してあげる。・・・私も大好きよ」

()(だこ)のように赤くなってるであろうこちらにいたずらに微笑んだ彼女が出て行ったあとに、ドアが閉まってやや強い揺れが起きる。

それによって転びかけたものの、意識は未だ唇に残る彼女の熱に持っていかれていた。




こんにちは、エノキノコです。まずはこの小説を読んでいただきありがとうございます。
今回は普段よりかなり短く、さらに誕生日祝いと言いつつ日付が過ぎてしまって申し訳ありません!納得いくまで過筆修正(かひつしゅうせい)しているうちに、気づいたら次の日になってました…。
次回の投稿は4月の10日に出来たらいいな…と思っていますが、こちらも多分間に合いません!間に合わないとわかっているのに無茶な目標を掲げているのは、その日が次書く予定のヒロインの誕生日だからなのですが、もう千聖さんでこの有様なので、本当に期待せずにお待ちください。もちろん間に合うように努力はします!
最後に、お気に入り登録をしてくださった皆さん(名前の方は今回も割愛させてもらいます。すみません…!)、星8をつけてもらいました如月刹那さん(高評価ありがとうございます!)、感想をくださったなかムーさん(評価の方もありがとうございます!)、星10をつけてくださったrain/虹さん(小説、いつも楽しく読ませてもらっています!)、そして最後に、本編と反比例して長くなった後書きを読んでくださったあなたにこの場を借りてお礼をさせてもらいます。ありがとうございました!!


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もし美竹さんと付き合っていたら…

一年(いちねん)最初の日の、()(とお)った青空にある太陽が、(いま)だ浅い位置に収まっている時間帯。

普段なら間違いなく布団の中にいる身体が引き起こした軽い身震(みぶる)いをどうにかしようと四苦八苦しながら、こんな時間に呼び出した人物の家を一瞥(いちべつ)する。

ここだけ違う時代を切り抜いてきたかのような、周囲の家とは一回(ひとまわ)り大きさが違う和風のお屋敷(やしき)に取り付けられているのが多少の違和感があるインターホンを鳴らすと、少ししてからガラガラと引き戸が開く音が耳に届いた。

ゆっくりと戸を閉める女性が(まと)っている振袖(ふりそで)、その下地は赤と紺色(こんいろ)を組み合わせたもので、昔の絵によくある横伸びの雲の下に、金色の縁取(ふちど)りがされた赤と白の花が咲いている。

彼女の和服姿自体は今までも何回か見たことがあるのに、未だ最初と同じく圧倒的な美麗(びれい)さの前で視線を動かせなくなってしまうこちらに近づいてきた少女、美竹(みたけ) (らん)は黒いボブの左側、赤いメッシュを入れた一房(ひとふさ)をさらりと撫でて位置を整えると、短い第一声(だいいっせい)を発した。

「・・・あけましておめでとう」

無愛想に投げかけられた挨拶にこちらが苦笑しつつ返事をしたあと、なぜか彼女は黙り込んでじっと見つめてくる。

赤が強い紫色をこちらも覗き込んで10秒、見つめ合うのが恥ずかしくなったのか、(ほお)に熱を宿らせた彼女はそっぽを向いた。

「・・・なんかないの」

その催促(さいそく)振袖(ふりそで)に対する感想だというのを解釈するのに数秒(つい)やした頭で、具体的な感想を構築しようと(こころ)みる。しかし、女性のファッションに対する知識など皆無の自分がどれだけ頑張っても、ろくな文脈が作れない。

それでもどうにかできないものか、(うな)りながら奮闘(ふんとう)しているこちらに、蘭は大きなため息をついて身体ごと違う方向を向いた。

「もういい、さっさと行くよ」

早足で進んでいってしまう彼女の右手を慌てて掴むと、不機嫌さを全面的に出した表情が一瞬(いっしゅん)強張(こわば)った気がするが、それをほとんど意識しないまま、振袖が似合っていることをなんの加工もしないで声にした。

「次からそんな短いこと言うのに時間かけないで」

彼女は急激に顔色を赤く変化させ、こちらに顔が見られないよう首を(よじ)ると、すたすたと歩いて行ってしまう。その際、彼女の手から自身の右手が離れてしまうと、足は止めずも(さび)しそうな視線をこちらに送ってくるので、少量の罪悪感と後悔が混じって心の表面に(にじ)む。

そんな感情を頭を左右に振って落とすと、距離が空いてしまった彼女の隣へと()を早めた。

 

近くにあるそれなりの規模の神社は、元旦のわりには人の密度がなかった。

初日が出てから時間が()っているし、それらしいイベントごともやっていないのが関係しているのだろう。

だとすれば、人付き合いが不器用な彼女がこんな時間を指定してきたことも納得なのだが、それでも少なくない人数はいて、テンションが多少下がってしまうのは避けられない。これが1人で来ているのであれば、人混みに巻き込まれてまで参拝(さんぱい)する気など起きずに家にUターンするだろう。

自分が考えを行動に移さず、(かろ)うじてこの場に足を(とど)める要因(よういん)になっている少女は、本殿(ほんでん)に続く列へ視線を飛ばし、少々げんなりしつつも口を開いた。

「・・・これ以上長くなる前に並んどこう」

反対する理由はないので(うなず)いたが、今並ぶのが一番効率的だとしてもあれの最後尾(さいこうび)に付くのは(いささ)か抵抗感がある。

そんなことを考えていると、長蛇(ちょうだ)がその身をまた長くしたので、並ぶしかないかとこちらが腹を(くく)った頃には、既に蘭は列の後ろへと歩き始めていた。

重い足を慌てた歩調(ほちょう)で動かして彼女の隣に着いた直後、後ろに男女の2人組が陣取る。それだけなら特になにもないのだが、腕を組んで互いに甘い言葉を掛け合う姿は、思わず一歩引いた態度を取らざるを得ない。

別にリア充()ぜるべきなどと言う過激派に同調するわけではないが、なぜわざわざ人目のつく場所で過剰(かじょう)に触れ合うのかは、同じ立場になった今でもいまいち理解できない。

・・・でもまあ、もし自分があんな目に毒な行為をしたいと思っても、あの人たちのようにはならないだろう。

隣で後方にちらちら視線をやっている蘭を見ながらそんなことを考えていると、忙しなく動く(ひとみ)と視線と交錯(こうさく)した。

「ち、違うから!!」

頬をメッシュと同じ色の染めた彼女はそう叫んでから、ぷいっと顔を背けてしまう。

なにが違うかはまるでわからなかったが、彼女の大声に驚き、後ろのカップルが黙り込んだので、待ち時間ずっと後ろでアツいやりとりをされると覚悟していた分少し楽になった。時間が経てばまた同じようにいちゃつき始めるかもしれないが、ぶっ通しでやられるよりかは随分(ずいぶん)マシだろう。

だが、その引き換えとして隣の少女が一気に不機嫌になってしまった問題に気づいたのは本殿が見えてきた頃で、そこからはどう彼女の機嫌をどう取るかに思考の全てを費やしていたせいからか、正面の人たちが()けたことがほとんど意識に留まらなかった。

「・・・もう順番来たけど」

服の袖を引っ張り、熟考(じゅっこう)していたこちらの意識を引き上げてくれた彼女の声音(こわね)には、負の感情(ただよ)う低音は含まれていない。

なんで機嫌が悪かったのかはわからないが、とりあえず普段の彼女に戻っているならその疑問は棚上(たなあ)げしておいて、赤と白が混じり合った(つな)を揺らして鈴を鳴らす。

特に考えず財布から取り出した10円玉を賽銭箱(さいせんばこ)に投げると、蘭は少し遅れて10円3枚と5円1枚を軽く放り、そのまま手を2回拍手してから(まぶた)を下ろした。

その綺麗(きれい)な横顔に数秒意識を奪われたが、すぐにせっかく賽銭投げたのだからなにか願わなくてはと、慌てて頭の中を探し始める。

しかし、びっくりするぐらいなにもない。昔はやれこれが欲しいや、お金が足りないなど(なげ)いていたくせに、それらはほぼゼロに等しいくらいまで減少していて、いつのまにか悟りでも開いたのか疑ってしまう。

そんな無欲無心の精神が宿った理由には心当たりがある。多分、隣の少女と付き合い始めてから、出会ってからの日々が充実しているおかげで、余計な物欲がぼろぼろと(こぼ)()ちていたのかもしれない。

—だとしたら、彼女が隣にいるこの日々が、永遠に続きますように—

ようやく見つけた願いを強く念じてから隣に視線を振ると、下ろしている最中(さいちゅう)の両手を中途半端な位置で停止させた少女が、口元をもごもごさせていた。

なにか言いたげな彼女が言い出すのを待ってあげたいのはやまやまだが、背後にはすっかり静かになったバカップルを含めてたくさんの人が順番を待っているので、この場に長居するのは周囲の迷惑になってしまう。

未だ同じ状態で思考の整理が出来ていない蘭の手を引いて、邪魔にならないような場所まで誘導してからどうしたか(たず)ねてみると、彼女は散々熟考したのち、ぼそりと(つぶや)いた。

「・・・なんでもない」

それが嘘なのはさすがにわかるが、ここで無理やり口を開かせようとしてもへそを曲げられるだけなのも知っている(ゆえ)に、そっかのひと言で流す。

(さいわ)いにもその対応を不服には思わなかったのであろう彼女は、続く言葉でこれからの予定を口にした。

「・・・お守り買うのとおみくじ引くの付き合って」

こちらが了承すると、彼女はすぐさま人混みの(あいだ)をすり抜けていくので、慌てて遠ざかる背を追いかける。

しかし、いつもの倍とも言える歩行速度で簡単に見失ってしまい、迷走しつつもなんとか彼女を見つけた時には、蘭は販売所でなにを買うか検討していた。

長い黒髪を持つ巫女さんに相談しながら真剣な眼差しでお守りを見比べる彼女に話しかけるのは(はばか)られるので、少し距離をとった場所で唸る彼女を見守って10分ほど、6つのお守りを巫女さんに渡した少女の瞳が、まるで初めから位置を知っていたかのように最短のコースでこちらを映す。

赤い瞳を普段より少し大きく開いた彼女は、まず頬を朱色(しゅいろ)に染めたのち、(まゆ)を釣り上げた。

来いと問答無用で(うった)えかける眼力に従うまま足を動かすと、目の前まで来たこちらに彼女はキレ気味で問いを口にした。

「・・・なんで隠れてこっち見てたの」

正確には隠れていたわけではなく、ただ距離を置いていただけなのだが、周囲の人の邪魔にならないように道の(すみ)にいたせいでそう思われてしまったのかもしれないと思考を自己完結させ、邪魔したら悪いと思ったからと、離れて見ていた理由のみを口にした。

「変な気遣(きづか)()らないから。次からはやめてよ」

下から(にら)んでくる彼女が怖いと感じつつも、場違いなことに可愛いと思ってしまったこちらが遅れてこくこく頷く。

そんな心情を知らない彼女が怒りの切先を収めると同時に、巫女さんがふたつの紙包(かみづつ)みを少女に差し出した。代金を払ってから受け取った蘭に、巫女さんは小声でなにかを伝える。

「なっ!?なに言ってるんですか!?」

蘭の赤くなりながらの反論を(かす)かに呆れが感じられる微笑みでスルーした巫女さんは、多少混じっていた感情を完全に排除し(はいじょ)した綺麗な笑顔をこちらに近づけてきた。端正(たんせい)な顔が、鼻先同士触れ合う寸前の距離まで詰められ、顔に少し熱が()びる。

しかし、思わず()らした視線の先には、頬に(とも)った色を反転させるには充分過ぎるプレッシャーを放っている少女の姿があった。

もしかしたら今までの彼女の中で一番鋭い目つきで睨んでくる蘭が、いきなりこちらの(うで)を掴んで巫女さんとかなりの距離を取らせる。

「なに赤くなってるの」

鋭い視線を深々と身体に刺しながらの指摘に、いきなりあんなことされて緊張しない人なんていないと反論すると、彼女はこちらの顔を両手で確保して自身の方へと引き寄せた。

普段なら絶対にしないであろう彼女の行動に、さっきより感情が色濃く顔に現れたことを意識させたが、目の前の少女は間違いなくこちらより羞恥をあらわにしている。

「・・・まあ、これならいいよ」

なにがいいのか、そんな言及は残念ながら叶わなかった。自分と彼女が、周囲が妙にざわざわし始めたのに気づいてしまったからだ。

しかし、周囲が反応するのも当然だろう。こんな群衆(ぐんしゅう)の目に(さら)されたところで男女が、(くちびる)が触れ合いそうなレベルで顔を近づけていたら、そりゃ目立つに決まってる。

そのことをこちらに遅れて気付いた蘭は耳の先まで朱色で固め、こちらの手を問答無用で引っ張ってこの場から離脱(りだつ)した。

引きずられるように走らされる直前、ちらりと後方にやった視界では、巫女さんが微笑(びしょう)を浮かべ、生温かい光を宿した瞳でこちらを見送っていた。

 

神社を出てすぐの場所にあった公園のベンチに腰掛ける彼女の隣に座り、近くの自販機で売っていた微糖の缶コーヒーを差し出す。

小さくお礼を言ってから控えめに口をつける彼女に、なにかあったのか訊ねた。参拝したあとからというものの、明らかに様子がおかしいので、それが自分のせいなのなら、解決はできなくても謝罪くらいはしておきたい。

「・・・あんたが変なこと言うからでしょ」

そんな真意がある問いに対する返答は、半分は予想した通りのものだったが、彼女の言っている変なことというのにはまるで心当たりがなかった。

首を(かし)げて彼女を乱してしまった言葉を捜索(そうさく)するこちらに、彼女は未だ大部分が朱色だった顔に呆れを押し出す。

「・・・あれ、無意識だったの」

あれとはいったいなんなのか、そんな疑問が頭に浮かんだ瞬間に訊ねると、彼女は視線を逸らして呟いた。

「ずっと、私と一緒にいたい…みたいなこと」

彼女のその言葉にしばらく放心したのち、ひとつの答えが湧き上がってきた。

つまり、あまりに強い思念が(のど)を震わせ、聞かれるのがかなり恥ずかしい願い事が、1番聞かれたくない相手の耳に入ってしまったのか。

それを認識した途端(とたん)、今までの人生で感じた分をまとめても追いつかない量の羞恥(しゅうち)が一気に押し寄せ、腰を丸め、頭を抱えて悶絶(もんぜつ)する。

「変なこと願わないでよ」

そんなこちらに投げられた辛辣(しんらつ)な言葉は、続く言葉によってこちらの解釈を180度ひっくり返した。

「・・・神様なんかに頼らなくても、ずっと一緒にきまってるじゃん」

思わず振り向いた先には、蘭がこちらに負けず劣らずの熱を顔に帯びさせ、ぎこちなく手を差し伸べている。

彼女が要求していることを感じ取り、白く細い指に自身の指を絡めると、彼女はびくりと体を振るわせたが、合っていたことを示すように確かに握り返した。

そういえば、こんなふうに改まって手を(つな)ぐのは初めてかもしれない。口にした気付きと同じようなことを彼女も思い浮かべたらしく、短く頷く。

「あんたがなにもしてくれなかったからね。・・・まあ、あたしが恥ずかしがってたこともあるけど…」

こちらがなにもしなかったのも、彼女が拒絶するかもしれないからという憶測(おくそく)故だったのだが、それを言ってもいい方向に進む未来は見えないし、それがなかったとしても、羞恥心が邪魔しなかったとは断言できないので、代わりにふと思い出したおみくじを引いてないことを伝える。

彼女は最初、完全に忘れていたような反応をしたが、すぐになんの未練もない笑顔を浮かべた。

「まあいいや、来年また一緒に来ればいいから」

そう言うと彼女は、声は無くとも視線だけで、そうでしょと問いかけてくる。手に伝わってくる熱が強まるのを感じながら、肯定(こうてい)の意を示すべく、こちらも彼女の手を強く握り返した。




こんにちは、エノキノコです。まずはこの小説を最後まで読んでいただきありがとうございます。
危惧していた通り、4月10日に上げるという掲げた目標を達成できませんでしたが、まさか+3日もかかるとは思いもしてませんでした…。ちょっとだけ言い訳をさせて貰えると、4月に入ってからリアルがそこそこ忙しくなり、徹夜という手段が使えなくなってしまったのが原因だと思います。多分これからは今までより更新ペースが下がりますが、週に1話は上げられるよう頑張りますので、ご理解の方よろしくお願いします。
次回の詳しい日時は未定ですが、ヒロインはリクエストをもらったひまりちゃんの予定です。
最後に、お気に入り登録してくださったみなさん(たくさんの方々にしてもらい、嬉しい限りです!)、星1をつけてくださったナコトさん(精進します…!)、星7を付けてくださったチルッティドラグーンさん(誤字報告や、感想でのご指摘、助かりました!)、星10を付けてくださったtamukazuさん(数少ない最高評価をこの作品に使ってもらい、ありがとうございます!!)、そして、待たせてしまった読者のみなさんに、最大限の謝罪と感謝を!!!


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もしひまりちゃんと付き合っていたら…

冷えた風が鮮やかな(あか)い葉を連れていき、木々は茶色く無機質な全身を少しずつ(あら)わにされつつある。

いつもならこの現象を目にすれば一抹(いちまつ)(さび)しさが胸に(うす)く広がっていくのだが、今日に限っては、周囲の人たちがこちらに刺してくる視線がそんな感傷(かんしょう)(ひた)ることを許さなかった。視線の元手(もとで)が、女子高の生徒たちだとしたらなおさらだ。

普段なら女子の視線を集めているなんて妄想は、自意識過剰(じいしきかじょう)一蹴(いっしゅう)するが、今回はそう確信するには充分過ぎるほどの状況的証拠が()がっている。

なんせ他の人たちからしてみれば、自身の通う高校の前に、どこから()いてきたかわからない人間が立っているのだ。そんな奴が警戒されないほうがおかしいし、逆の立場なら間違いなくこちらも同じような懐疑(かいぎ)の目を向ける。いつここの教員が飛んできてもなんら不思議ではない。

そんな危険を背負いながらも、校門近くで(たたず)み続ける理由はたったひとつ。1か月前に告白され、一歩踏み込んだ関係性になった女の子に、彼女が通う高校の校門前で待ってていてほしいといわれているからだ。

深夜帯にかかってきた着信にたたき起こされた頭が思考能力を取り戻す前に、放課後にデートがしたいという熱量に押し切られて承諾(しょうだく)したのだが、睡魔(すいま)に負けずにちゃんと協議していれば、こんな(さら)し者にならずにすんでいたと思うと、今度からは彼女のデートプランは根掘り葉掘り()いておくべきだろう。

「あー…き、奇遇(きぐう)だねー…」

そんな多数の視線に晒されて得た教訓を心に(きざ)んでいると、その要因となった少女の声が耳に入る。(うつむ)き気味だった顔を上げた先には、短く(むす)んだ桃色の髪を両肩に()らした少女の姿があった。

彼女こそが自分を呼び出した人物、上原(うえはら) ひまりなのだが、服装が灰色のブレザーに(こん)のチェック(がら)のスカートという制服ではなく、ピンクのウェアの上に白いジャケット、パステルイエローのミニスカートを身に(まと)っている。

ここで普段のとは違う格好(かっこう)をしている彼女を()められるのがいい彼氏なのかもしれないが、さっきの言動が(みょう)に引っかかる。奇遇もなにも、呼び出したのはそっちではないか。

そのことを指摘すると、彼女はわかりやすく目を泳がせる。途端(とたん)に感じ始めた嫌な予感は、目の前の少女が盛大に音を立てて両手を合わせたあとの言葉によって見事的中した。

「ご、ごめん!今日部活あるのすっかり忘れててた!」

深々と頭を下げる彼女に()み上げてきた呆れを(から)くも飲み込み、なぜわかった時点で連絡しなかったのか問いただすと、ひまりは顔を上げたものの、緑色の(ひとみ)はこちらから()らして言葉を(つむ)ぎ始める。

「だって、夜中に電話かけて頼んだくせにやっぱ無理なんて言ったら、嫌われると思って…」

彼女の言い分に今度こそ長い溜息(ためいき)()き出し、ピンクの頭に手刀を落とした。

彼女が()いた危惧(きぐ)は全くもって的外れなものだ。自分は背景の事情を教えてくれれば目くじらなんぞ立てないし、細かいことでいちいち嫌いになるような相手とはそもそも付き合わない。

そんな思考を呆れをふんだんに混ぜ込んだ声伝えると、手刀を落とされた箇所(かしょ)を両手で押さえ、上目遣(うわめづか)いでこちらを見ていた彼女は、不安と思慮(しりょ)が同居していた表情を笑顔で上書きした。

(ほお)に赤みを帯びさせた笑みを見て遅まきながら恥ずかしいセリフを口にしたことを自覚し、目の前の少女に(さと)られる前に今日のデートの振替日(ふりかえび)を決めるべく、口早に都合の良い日を(たず)ねると、彼女は可愛らしい手帳を取り出し、スケジュールを確認し始める。

ちょうど1週間後の日は今度こそなんの予定も無いらしいので、その日にもう一度約束を取り付け、帰ろうとしたこちらの手が、背を向けたひまりによって(ひか)えめに(にぎ)られた。文末に疑問符がついた言葉を投げかけつつ振り返ると、ひまりは遠慮気味(えんりょぎみ)(つぶや)く。

「あ、あのね…もし予定がないなら、部活終わるまで待っててくれる?」

(あわ)い期待を乗せた視線とともに投げかけられた願いを断ることなどできず、なし崩し的に(うなず)いたこちらの目の前で、安堵を押し出した笑顔を(ほころ)ばせた少女は、途端にとんでもないことを言い出した。

「じゃあ2時間待っててね!帰ったりしたら許さないから!」

あまりの待ち時間に思わず大きな声が出てしまったこちらを気にせず、彼女はまっすぐ走っていってしまう。

振り返る素振(そぶ)りを見せなかったのは信頼してくれていたからかもしれないが、流石に2時間は無理だ。ただ根気を見せればいいだけならなんとかするが、そんな長時間校門の前にいたら間違いなく教師が()けつけ、最悪警察沙汰(けいさつざた)になってしまう。

だとしても信頼を裏切るのも論外なので、どうすればいいかしばらく考え込み浮かんだ案は、今はどこかで時間を潰し、約束の時間前に戻ってくるというものだった。充分現実的な案を特に迷うことなく採用することにして、もうかなり遠ざかっている桃色を一瞥(いちべつ)してから、特に当てもなく歩き始めた。

 

それから、体感では倍以上に感じた時間をなんとか浪費(ろうひ)させ、()(しず)みかけた頃合(ころあ)いで戻ってきた学校の前では、壁に寄りかかっているひまりの姿があった。俯いた顔は全貌(ぜんぼう)さえ(うかが)えないものの、今の空模様と同じように暗い感情が大半を()めている。

そんな不安そうな表情を見た瞬間(しゅんかん)、無意識に口から彼女の名前が(こぼ)れ落ちた。決して大きいとは言えないその呼びかけを逃さず拾った彼女は、ほとんど消えかけていた明るい色を顔全体に広めていったが、すぐに(まゆ)()り上げて駆け寄ってくる。

「もー!なんでどこかいっちゃうの!心配したじゃん!」

丸めた手をこちらの胸にぶつけてくる彼女の瞳は、(かす)かに(うる)んでいるように見えた(ゆえ)に、いつもする言い訳は心の奥にしまい、素直に謝罪すると、彼女は丸くした目をぱちくりさせた。

「まあ、ちゃんと反省してるならいいけど…。・・・でも今度からはちゃんと私に伝えること!」

こちらの鼻先に人差し指を突きつけて注意してくる彼女に、思わず人のこと言えないからと指摘する。

「うぐっ…!と、とにかく!ちゃんと反省しなさい!」

言葉を詰まらせ、無理やり話を着地させようとするので、呆れの混じった苦笑を飛ばすと、彼女は完全にヘソを曲げてしまった。

そっぽを向き、頬を(ふく)らませる姿が可愛く感じたが、今考えることは別にあると、目の前の少女の機嫌(きげん)を直す方法を探すことに思考をシフトする。

色々と検討した結果、一番確実な手段を取ることにして、コンビニでスイーツ(おご)ってあげると()げると、彼女の耳がぴくりと動いた。しばらくしてから、頬は(しぼ)ませたものの、不満げな感情は残ったままの緑の瞳がこちらを映す。

「・・・私の機嫌がスイーツだけで取れると思わないでね」

じゃあいらないのかと言った瞬間にもらうと即答する彼女が単純すぎて、そのうち詐欺に引っかかりそうだなというこちらの思慮を読み取ったように、ひまりは表情に懐疑を色濃く反映し、粘着力(ねんちゃくりょく)の高い視線でこちらを掴んだ。

「なんか失礼なこと考えてるでしょ」

いきなり言い当てられるものだから少し片言になってしまったこちらの返答に、彼女はさらに感情を深くするので、さらなる言及(げんきゅう)が飛んでくる前に、ふらついていた時に見つけた近場のコンビニ目指して()を進めようとしたが、逃さまいと腕をがっしり固定され、その(さい)、こちらの腕が彼女の(ゆた)かな胸に押し付けられてフリーズ状態に(おちい)ってしまう。

そんなこちらの反応を知らずして、彼女はほとんど引っ張る形でさっき逃げようとした方向へと歩き始め、それから目的地のコンビニに着くあいだ、普段の2割増しで血流が良かった。

 

「えーっと、まずは(いちご)のショートケーキでしょー、それからプリンとシュークリームは外せないし、あっ!新作のモンブラン出てる!」

入店から5分も経たずして彼女は迷うことなく手に取ったスイーツを、こちらが持ったカゴに放り込んでいく。その数、実に4つ。しかも恐ろしいことに、そのペースは一向(いっこう)(おとろ)えない。

コンビニに入った瞬間に腕が解放されたことで回数を減らしていた心拍数(しんぱくすう)が、さっきとは違う意味で上昇していくのをまじまじと感じながら、8つ目の品である抹茶ロールを食べることを決めたひまりに、そろそろご容赦願(ようしゃねが)うと、意図せず(ふる)えた声で伝えたが、彼女はイタズラな笑みを口元に宿す。

「え〜、どうしよっかな〜。私的にはまだまだいけるんだけどな〜」

普段とは完全に逆転してしまった立場に、金額の上限を設けておくべきだったと歯噛(はが)みしたこちらの様子を見た彼女は、勝ち誇った表情でふふんと鼻を鳴らす。

「まあ今回はこれくらいで勘弁(かんべん)してあげようかな」

そう言ってチョコケーキをカゴに入れた彼女はカフェエリアへと向かっていくので、今月はかなりの節約を()いられることを確信しながらレジにカゴを置く。

店員の人が最終的に提示した金額は、5千円札を余さず()らい()くした。追加で()(さら)われた5百円の残骸(ざんがい)である13円を見て大きく息を吐いてから、重々(おもおも)としたレジ袋を長テーブルに置くと、ひまりは瞳を燦々(さんさん)と輝かせ、モンブランに手をつける。

プラスチックのフォークで分けた半分を一口で頬張る彼女は実に幸せそうで、それだけで出費のことはどこ吹く風…にするには少し額がでかすぎるが、ある程度損失との相殺はできた。

あんな(がく)を負担したのだからこれくらいは許されるだろうと、スイーツを食べるひまりをただただ眺めていると、視線に気づいた彼女はスイーツの山を左手でさっと隠す。

「そんなもの欲しそうな顔しても上げないから!」

別にたかるつもりはないのだが、金銭への未練が顔にでも出ていたのだろうか。

しかし、こんな理由を言ったらどう転んでも悪い未来しか見えないので、そんなに食い意地張ってたら太るぞと誤魔化(ごまか)したところ、彼女は急にチョコケーキが突き刺さったフォークを持つ右手を止めた。

「今日は部活で体動かしたから、だ、大丈夫だもん…!」

彼女の述べた逃げ道は、流石に苦しいと思う。2時間の運動で9個のスイーツ分のカロリーを消費しようとすれば、プロのスポーツ選手のプランでもやらなければとても追いつかない。少なくとも、学生の部活で完全にカバーできるとは思えなかった。

それは彼女もわかっているのだろう、(うな)り声をあげて葛藤(かっとう)している姿がなんだかいたたまれなくなってきたので、今日くらいいいのではと言ってみたのだが、彼女は(にく)らし気な視線を刺すばかりだった。

「そもそも君が言わなきゃこんなふうに悩んでないから!」

確かにそうだ。見事に納得したこちらを置いてさらに悩んでいた彼女は、なにか思いついたのか右手を再び持ち上げる。

吹っ切れたのならよかったと思ったのだが、彼女は刺さったままだったケーキの片鱗(へんりん)を自身の口ではなくこちらへ向けてきた。

「ほら、あげる」

さっきまで意地でも渡さない様子だった彼女の変わり身に()き上がり、そのまま流れ出た疑問を、彼女は心残りがありありと感じられる声で答えた。

「だって私が食べれないなら、君に食べてもらうしかないじゃん。ほらほら、わかったら口開けて」

押し付けられる形で食べさせられたチョコケーキは、数多のコンビニスイーツを食べてきたらしい彼女のお眼鏡に叶っているだけあって普通に美味しかった。スポンジもクリームも、ビターなチョコレートの味をしっかり舌に伝えてくる。

これならいくらか高めの値段設定も納得なのだが、問題は、まだ未開封のスイーツが4つほど残っているということだ。甘味類は嫌いではないものの、あそこまで食べると()きが訪れないとは言い切れない。

「どう?美味しい?・・・やっぱりそうだよね!じゃあ次はこれなんだけど…」

しかし、味に対する素直な感想を()べた瞬間、彼女がいつになく嬉しそうにするものだから、途中で飽きたからやめるなんてとてもじゃないが言い出せなかったので、彼女のセンスが味飽きにも対策を(ほどこ)していることを心底願いながら、運ばれてきたロールケーキのかけらを頬張った。

 

残っていたスイーツの中には、甘味料のくどい甘さで誤魔化されているものがなかったので、舌が飽きてしまうこともなく、彼女の手によって胃袋に収まったあとの余韻(よいん)はそこまで悪くはなかった。これを身近なコンビニで食べられるのであれば、彼女がハマってしまうのもわからなくもない。

「ほんと!じゃあ今度の日曜日もスイーツ食べに行こうよ!」

そんな感想をすっかり暗くなった帰り道で何気なく呟くと、隣の少女はものすごい速度で食いついてくる。

今日一番の笑顔を見せながらされた提案に、今日自分がスイーツに関心を持った根本的な理由を忘れているように思えたが、こちらも行ってみたいので今回はなにも指摘せずにひまりの案に賛成の意を示した。

「じゃあ決まりね!予定空けておいてよ!」

それから、嬉しそうにはにかんだ彼女が矢継ぎ早に繰り出すスイーツ話を聞いているうちに、彼女の家の前に着いたので、軽く挨拶して立ち去ろうとしたのだが、なぜかひまりに呼び止められる。

どうかしたのか訊ねたこちらに、彼女は強張った声で指示した。

「す、少しのあいだだけでいいからしゃがんで、あと目も閉じて!」

明らかに急いだ様子で言われた要望だけで、彼女がなにをしたいかはなんとなくわかったが、()えて何故か問うと、彼女は言葉を詰まらせたのち、半ば自棄気味(やけぎみ)に返答してくる。

「今日色々わがまま言っちゃったからそのお()び!いいから早く!」

いっそう()かしてくる彼女に、自分は少し考えたあと、きっぱりいらないとかぶりを振った。予想にもしてなかったであろうこちらの対応に、彼女の表情からは大きなショックが窺える。

しかし、彼女がやろうとしていることは、勢い任せではなく、もっとちゃんとした場面で行いたい。それになにより…

—するなら…こっちからしたい—

「!?…そ、それなら、やめとく…」

今拒む最大の理由を恥ずかしながら口にすると、彼女は顔を一瞬(ほう)けさせたのち、耳まで鮮やかな赤に染めた。そんな彼女の言葉を皮切りに流れた空気に耐えきれず、こちらが自宅へ逃げようとする直前、ひまりが再び口を開く。

「じゃあ、待ってるから…!」

それを最後に、ドアの開閉音が辺りに大きく響いた。しばらくその場に立ち尽くしたあと、深々と呼吸をおこなって、肺に冷たく(かわ)いた空気を充満(じゅうまん)させる。

どんな理由であれ、勇気を振り絞った彼女の行動を()()けてしまったのは自分だ。なら、近いうちに挽回(ばんかい)しなければならないだろう。

新たな決意を胸に歩く道の先の空は紫苑(しおん)に染まっており、浮かぶ月は薄い雲によって輪郭(りんかく)(おぼろ)げに揺らしながらも、すり抜けてきた柔らかな光が地上に手を伸ばしていた。




こんにちは、エノキノコです。まずはこの小説を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
そして、かなり期間が空いた投稿になってしまってすみません!ひまりちゃんのキャラを掴むのにかなり苦戦してしまい、話の構成も四苦八苦していたらものすごい時間が過ぎてました…。
そんな今回の話ですが、作者的にはあまり納得してません。リクエストで頼まれたのを中途半端にするのはどうなのか、そう考えはしたのですが、そうなるといつ出せるかわかったものじゃないので、納得できるかできないかはひとまず置いておいて、今書ける精一杯を上げさせてもらいました。いつかリベンジ・・・できたらいいなぁ…。
そして、この小説の投稿日の前日はRoseliaの映画上映日ですね。作者はこれを上げたら映画館に行ってきます。できれば4月中にするであろう次の投稿の後書きか、活動報告の方でネタバレしない程度の短い感想を書きたいなーと思っていますが、おそらく次の投稿は5月になる気がします…。気長に待ってもらえると幸いです。
最後に、お気に入り登録をしてくださったみなさん(名前の表記は割愛させていただきます。ごめんなさい…!)、星9評価をつけてくださったくりとしさん、なかムーさん、たく丸さん(評価に見合った作品を書けるよう頑張ります!)、ひまりちゃんのリクエストをくださったエイダタイセルプスレクス(元エイタイ)さん(こんな微妙な感じになってしまってすみません…!)、そして、かなりボリューミーになってしまった後書きに付き合ってくださったみなさん、本当にありがとうございました!!


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もしリサ姉と付き合っていたら…

雲ひとつない空で唯一浮かぶ太陽は、直視するのが不可能なほど(まばゆ)い光を放ち、(にぶ)い灰色を(わず)かに反射するアスファルトを焦がす。

夏真っただ中の昨今(さっこん)でも、今日は一番の最高気温を(ほこ)るからか、(ゆが)んで見える景色の中を、人々が重い足取りで()()っていた。

周囲が暑さに(あえ)ぐ中、陽光の当たらない駅の改札前に退避(たいひ)したものの、重苦しい空気のせいで無下限(むかげん)なく()き出してくる汗をだいぶ水気(みずけ)の含んだ服の(そで)(ぬぐ)いながら、待ち人が来るまでの時間をスマホゲームで怠惰的(たいだてき)(つぶ)していると、突然視界が暗闇に(おお)われた。一瞬何事かと思ったが、反射的に降ろした(まぶた)に伝わってくる陽光のものではない温もりが、背後から手で覆われていることを悟らせる。

そして、街中(まちなか)でそんなことをする人物は、自分が知る限り一人しかいない。

「さ~、君の後ろにいるのはだれでしょ~か♪」

その問いに頭に浮かんでいた人物の名前を即時に答えてやると、眩い光が瞼越しに押し寄せてくる。

またもや急な出来事に軽く(ひる)んだこちらの肩を掴み、振り返させたのは、今の今まで待っていた、そして想像していた通りの人物、今井(いまい) リサだった。

「お~、流石、大正解☆」

細く開いていた目を徐々に(あら)わにしていくこちらに軽く拍手するリサに、声を聞けば普通はわかると告げると、彼女は少し不満そうな顏で呟いた。

「う~ん、そりゃそうかもしれないけどさ~…もうちょっと違う言い方がよかったな」

違う言い方とはいったい、そう訊ねたこちらに、彼女はいたずらな笑みを浮かべる。

「オレのリサの声を間違えるわけないだろ、とかだったらドキドキしちゃったかもな~」

作った低い声で挙げられた例を、熱に(さら)されて思考能力を失っていた頭が受け止められた瞬間、少量の戦慄(せんりつ)のままぶるぶると首を左右に振った。

そんなキザなセリフを口にできるのは、よほどな天然かイケメンくらいだろう。少なくとも、容姿も能力も平凡な自分にはどちらにも当てはまらない。

「はははっ!そんな顔しなくても、キミがそういう性格じゃないことくらい知ってるから。ただ、ちょっと言ってみただけ」

自分の考えは全て筒抜けかのように、彼女はすぐさま先の発言を取り下げたが、湾曲(わんきょく)する口元には、(かす)かな(さび)しさを宿らせている気がした。

不確かな直感でしかないそれが本当なのか確かめるべく、彼女の笑顔を凝視(ぎょうし)していると、不思議そうに首を(かし)げ、こちらの顔を(のぞ)(かえ)したリサは、突然肩にかけていたバックから落ち着いたオレンジ色の水筒を取り出し、焦った様子で口を動かした。

「すごい汗かいてるし、水分()ったほうがいいよ。ほら、これ飲んで」

差し出された水筒をお礼を言ってから受け取り、一気に(あお)ると、飲料水の冷たさが、体に(こも)った熱を徐々に中和していった。ライチの存在が色濃く主張されているにも関わらず、(くど)さを一切感じない味はかなり好みで、半分以上飲み干してしまってから、これが自分のものではないのを思い出す。

遅いとわかっていても謝罪しようとしたこちらに、なぜかリサはにこにこと笑みを浮かべて視線を送っていた。

「美味しかった?」

こんな猛暑(もうしょ)の中、自身の水源を半分以上奪われたのに怒る様子ひとつ見せない彼女の問いに恐る恐る首を縦に振ると、彼女はさらに笑みを深める。

「じゃあもうあんまり残ってないと思うけど、それいる?」

その提案に、こちらは瞬時にかぶりを振った。半分飲んでおいてなにをいまさらと思うが、さすがにこれ以上、彼女の厚意(こうい)に甘えるわけにもいかない。

しかし彼女は、こちらよりもさらに大きく首を振り、(ゆる)くウェーブのかかった長い茶髪を左右に揺らした。

「平気平気!駅のホームに自販機あるから、そこでいいなにか買えばいいだけだし」

・・・確かに、今返しても水筒の中には大した量が残っているわけでもないし、結局どこかで飲み物を購入しなくてはならない状況に陥るはずだ。彼女もこう言っているし、早いうちに新しいものを用意したほうが、後々(のちのち)彼女のためになるのかもしれない。

ならばせめてその飲み物代はこちらが出そうと決め、改めてお礼を言うと、彼女は優しく微笑(ほほえ)んだ。

「どういたしまして。さっ、そろそろ行こっか」

くるりと回り、早い歩調(ほちょう)で改札に向かっていく彼女の横顔には、先のような暗い感情は嘘のように消えていた。

あまりの面影のなさに違和感を様々と感じてしまうが、見間違いだったのならそれに越したことはないだろうと自身の納得させてから、少し離れた場所でこちらを急かす彼女のもとへと走った。

 

それから、出発時間ぎりぎりで滑り込めた電車の中で、隣に座るリサは最近のバンド活動のことなり作ったお菓子のことを楽しそうに話していた。

特に彼女の幼馴染である湊さんのことについては相変わらず細かい仕草まで詳しく話すので、よく見てるんだなぁという、いつも心の中で抱いている感想が、今日はうっかり口から零れる。

耳に入ったこちらのぼやきに彼女は(ほこ)らしげに胸を張って頷くと、目的の駅間近なことを伝えるアナウンスとともに腰を上げた。

「まあ友希那とは付き合い長いからね~。でも」

そこで彼女はいったん言葉を区切り、遅れて腰を上げたこちらと腕を(から)めてから再び紡いだ。

「今は友希那と同じくらい、キミのことも見てるよ☆」

いきなりの不意打ちに(ほお)を発熱させてしまい、その様を彼女は面白そうに見つめてくる。

どう返答すべきか困って硬直してしまったこちらを開いたドアの先に連行した彼女は、外へ踏み出した途端、あまりの温度差に眉を(ひそ)めてしまった。こちらも思わず暑さへの愚痴(ぐち)(こぼ)してしまったが、背後にはまだ降りる人がいるので、ひとまず頭の中にこんがらがった思考は棚上(たなあ)げして、人混みに身を任せるように階段を上っていく。

そのまま改札を抜け、続く道の先に広がっていたのは、終わりを知らない深い青だった。(しお)の香りを運んでくる風に(なび)いた髪をそっと()き上げるリサの姿に、少しだけ鼓動(こどう)が高まる。

「じゃあアタシ着替えてくるね。待ち合わせ場所は…あそこの海の家でいい?」

彼女の提案に遠くなっていた意識が呼び戻され、ぎこちない(うなず)きを返す。幸いと言っていいのか、こちらの反応の遅れを暑さが原因だと思った彼女は、ちゃんと水分補給するよう釘を刺してから、更衣室がある方向へと歩いていった。

束ねた(あわ)い茶色のポニーテールが人混みによって隠されてから、リサからもらった水筒をバックから取り出し、残り少ない中身をちびちびと(のど)に通していく。

すっきりとしたライチの味も、少し痛いくらいの冷たさもさっきとまるで変わらないのに、身体に(とも)った熱はなかなか消えようとしなかった。

 

あまり混雑していなかった更衣室で、丈の長めのサーフパンツとパーカーに着替えて訪れた海の家は、ちょうどお昼時だということもあり、更衣室とは真逆の賑わいを誇っていた。

栗色の髪を持つ少女の姿を探すが、外から覗ったばかりでは店内はもちろん、かなりの全長がある長蛇(ちょうだ)の列の中にも見つけることができない。

おそらくここで昼食を取るのだろうから、彼女が来る前に列に並んで席を確保しておこうか考えたが、それまでテーブルひとつを占領するのは、この炎天下(えんてんか)の中並んでいる人たちや(せわ)しなく働く店員さんにも迷惑だろう。

そう結論付け、邪魔にならないような場所で昼食になにをを食べようか考えようと辺りを見渡した際、1人の少女が視界に映った。

赤みの強い(だいだい)色に南国の花をちりばめた(がら)のビキニの上に、フリルのついた白いビキニを重ね、ハイビスカスの髪留めで髪を後ろに束ねる少女は、間違いなく周囲の視線を一手に()きつけていて、それは彼女の連れである自分も例外ではなかった。

多くの人に(まぎ)れ、声すらかけることもできずにただ見惚れていたこちらのいる場所を知っていたかのように、リサは若葉(わかば)色の(ひとみ)をまっすぐにこちらへと向ける。

しかし、彼女がこちらの方向へ足を踏み出そうとした時、突然現れた男がリサの目の前に立ちふさがった。筋肉質の両手で彼女の手をしっかりホールドしている状況に、どう動けばいいか無駄に考えてしまい、足が砂に埋まっているかのように動かない。どう動くべきかなど、考えずとも決まっているのに、自己保身の思考がいつまで経っても足を(しば)ってくる。

胸に込み上げてきた、あまりにも情けない自分への嫌悪感(けんおかん)が視線を徐々に降下させていったその時、やたら遠くに感じる少女の視線とぶつかった。

困った表情を浮かべた彼女を見た途端、(くも)っていた考えが一気に晴れる。さっきまでの重量が嘘のように消えた足で彼女の元に向かい、右手で男の手首を(つか)むと、驚愕(きょうがく)の色が(うかが)える男の顔を思い切り(にら)みつけた。

—人の彼女に手出しするな—

腹の底から()き上がってくる(おび)えを跳ね除けるくらい強く吐き出し、男を力尽くでもリサから()()がそうとしたが、空いた左手を使う前に、男の方から彼女から手を引いた。

あっさり過ぎる反応に呆気(あっけ)に取られ、右手で手首を強く(にぎ)ったままのこちらに嫌な素振(そぶ)りひとつせず、生暖かい視線を注いでくる男は、栗色の長髪を持つ少女に向かって、いい彼氏さんだねと、見た目からは想像もできないほど優しい声を投げかける。初対面なら知るはずのない彼女の名前を、言葉の前にしっかり付けて。

重苦しい陽光のせいではない汗が背に流れるのを感じながら、()びついた機械のようなぎこちない動作で振り返ると、頬を真っ赤に染めたリサが、極々(ごくごく)僅かに頷いた。

・・・これはあとから聞いた話なのだが、この男性は待ち合わせ場所に指定した海の家、[see cafe]の店長で、リサは以前see cafeのヘルプに入ったことがあるらしい。

今日はただでさえ忙しい期間中に病欠の人が出たせいで人手が足りず、てんやわんやしていた時に、以前凄まじい仕事ぶりを見せたリサを見かけたので、(わら)にも(すが)る気持ちでヘルプを頼もうとしたとのことだ。

しかし、その背景を知っていようが知らまいが、自分が盛大な勘違いをしたということに気づくのには少しのタイムラグがあるのみで、時差に思考が追いついた瞬間、間違いなく人生で一番の羞恥(しゅうち)(おそ)い、多大な熱に変換されて身体中を駆け巡った。夏の熱気など、もはや些細(ささい)過ぎるものだった。

 

日中多くの人々を苦しめた熱源は空から姿を消し、代わりを務めている満月は(おぼろ)げな光で、太陽が姿を消した青い水平線に純白を()らす。

さざ波の音色だけが(ひび)く夜の海を砂浜に座り込んで眺めながら、残量の心許ない水筒を呷りつつ、流れるように過ぎていった時間を(さかのぼ)っていった。

あれから、2人で楽しんでという店長さんを無理やり丸め込み、海の家の手助けをした。

元々店長さんは本気で困って頼んできているので、彼を説得させることはそこまで難しくないと見込んでいたが、リサまでこちらの意見に同調してくれたのは嬉しい誤算もあり、想像以上に早く話を進めることができた。

依頼主の店長さんが一番納得していないという奇妙な終着点だったが、あの雰囲気ではリサと恋人らしく過ごすどころか、目を合わせることすらできる気がしなかったので、彼女と関わるには少し時間が欲しかった。

そういう意味では彼女がキッチン担当で、こちらが裏方の力仕事だったのは助かったのだが、今度は逆にどう話しかければいいかわからず、夕食をふるまってくれると豪語(ごうご)する店長さんが厨房(ちゅうぼう)に立ち、リサが他の従業員さんと話しているうちに海の家を抜け出して、今に(いた)っている。

いつの間にか(から)になっている水筒を惜しみつつも口から離すと、そろそろ戻るべきだと頭の片隅(かたすみ)で注意喚起が表示されるが、重い腰を上げる理由になりうるには足りず、このまましばらく海を眺めていようと決断した直後、思いもよらない声に名前を呼ばれた。

声のしたほうへ顔を持ち上げると、そこには今一番顔を合わせづらく、一番言葉を()わしたい相手がいた。

「もう料理できたって。一緒に戻ろ」

彼女の言葉に対してはなにも返さず、なんでここに自分がいるのがわかったのか(たず)ねる。

この場は海の家からそれなりに距離があるので、話題逸らしの意図がなくとも()いていたと思われる問いに、彼女はこちらの隣に腰掛けてから答えた。

「う~ん…キミの彼女だから、かな」

その発言にしっかり頬が発熱するのを感じながら、視線を彼女からできる限り遠ざけると、僅かな笑い声のあとに、くすぐったいほど優しい声が鼓膜(こまく)を揺らす。

「お昼の時は、助けてくれようとしてありがとね。カッコよかったよ」

にこりと笑っているだろう彼女のお礼を、(だま)って受け取るのは簡単だ。でも、最初に動けなかったことを棚上げして受け取ってしまえば、もう二度と、彼女の()(とお)った瞳をまっすぐ見られなくなってしまいそうだった。

だから、喉を(ふる)わせ、口から零す。自分が結局、自分自身のことを第一に考えてしまう人間だと、例えそれで彼女に嫌われようと、若葉色の瞳をしっかり見据(みす)えて。

だが、彼女は最後まで聞き終えたあとも、微笑(びしょう)を崩すことはなかった。

そっと手を伸ばし、こちらの頭を自身の胸に預けさせた彼女は、赤子(あかご)をあやすかのようにゆっくりと髪を撫でる。

「・・・それでも、アタシは知ってるよ。キミが困ってる人のために動ける人だって。周りの人が、キミがどれだけ自分を(おとし)めても、キミが誰かを思いやれる人だって、アタシは信じてるから」

彼女の言葉は、心にじんわりと浸透(しんとう)し、目頭に熱の塊を()まらせる。

彼女の評価は過剰(かじょう)だと思う。しかし、純粋なまでの信頼は、いつかそれくらい強い人間になろうと、強く、強く決意させてくれた。

でも、今日は、今だけは、弱い自分を受け止めてほしい。

温かさ伝わる胸の中で小刻みに震え、短い嗚咽(おえつ)を零し続ける自分を、リサはひたすら受け止め、(なだ)める。

波が静かに寄り添いあう音が、辺りにゆっくりと流れていた。




こんにちはエノキノコです。まずはこの小説を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
またもや大きく期間が空いてしまいましたが、とりあえず1話の後書きで掲げた《Roselia全員を書く》という目標をようやく達成できました。これもこの作品に目を通してくださる読者のみなさんのおかげです!ありがとうございます!
次は各バンド1人ずつ書くことを目標にしようと思っていますが(そうは言っても、あと書いていないバンドは3バンドのみですが)、実はPoppin‘Party以外のバンドは、誰を書くかなんとなく決まってたりします。次の投稿までにポピパのキャラでリクエストがなかった場合、アンケートをやってみたいと考えていますので、その時はご協力してもらえると幸いです。
次回は近々誕生日で、リクエストもあった花音ちゃんがヒロインの話になる予定ですが、千聖さんや蘭ちゃんのように、誕生日に上げられる確率はかなり低いです…。作者も可能な限り頑張りますので、気長に待ってもらえると助かります…!
最後に、お気に入り登録をしてくださったみなさん(おかげさまで200人を突破することができました!)、星4をつけてくださった桜咲く季節♪さん、(もっといい作品を書けるよう頑張ります…!)、リサ姉のリクエストをくださった栗おこわさん(少しでも楽しんでもらえたなら嬉しいです)、そして後書きを最後まで読んでくださったみなさん、本当にありがとうございました!!


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もし花音ちゃんと付き合っていたら…

春の象徴といえる桃色はどこかに吹き去り、若々しい緑がようやく日常に定着し始めた頃。

休みの日にしては相当早い時間に()(ひび)くアラーム音を止め、二度寝の誘惑(ゆうわく)を振り払って起き上がって窓を(さえぎ)る布を左右に(わか)つ。

連続して空模様が不機嫌(ふきげん)になる時期が迫っていることを気にも止めず、燦爛(さんらん)と空に居座る太陽に今日は感謝しつつ、陽光を全身に浴びていると、睡眠時間を(けず)った代償か、自分しかいない部屋に大きなあくびがこだまし、それが引き金となって絡みついてくる眠気を脳から追い出そうと、頭を左右にぶんぶん振るが、残念ながらあまり効果はない。

この調子だと強い引力を放つベットに倒れ込んでしまいそうなので、昨日に(あらかじ)見繕(みつくろ)っていた服に手早く着替えると、長居しても二度寝のリスクがあるだけの寝室を(あと)にした。眠気を少しでも軽減しようと顔を洗ったが、朝食を済ませたあとも、欲求は一向に(おとろ)えようとしない。

壁に掛けられた時計をちらりと一瞥(いちべつ)する。今から出ると予定している時間を少々前のめりで到着してしまうが、気付かぬうちに意識を飛ばすよりかはマシかと判断し、頭の中に()(きり)(ただよ)わせたまま家を出た。

道中見つけた自販機で買ったコーヒーをぐびぐび飲んで、睡魔を強い苦みで追い払っているあいだに着いた一軒家のインターホンを押したあと、指を伸ばしたまま硬直させる。

予定していた時間より早めの来訪は、今日出かける少女にとって迷惑かもしれないと遅まきながら気付き、軽いパニック状態の思考が落ち着きを取り戻す前に、ドアの開閉音(かいへいおん)が耳に届いた。

鳴らしたインターホンに反応して出てきてくれた水色の長髪(ちょうはつ)を持つ少女は、こちらに視線をフォーカスさせると、(やわ)らかな笑みを向けてくれる。

先の杞憂(きゆう)そっちのけで跳ね上がる鼓動(こどう)を悟られる前に落ち着ける努力をしつつ、精一杯自然に挨拶(あいさつ)を口にすると、変わらぬ笑みで返してくれた少女、松原(まつはら) 花音(かのん)はこてんと首を(かし)げた。

「約束の時間よりちょっと早いね。なにかあったの?」

彼女の問いを聞いた途端(とたん)、思考の(すみ)に追いやられていた自らの失敗がその存在を大々と主張し、慌てて腰を折ったこちらに、花音は左に()ったサイドテールをぶんぶん揺らした。

「あ、謝って欲しかったんじゃないんだ。私、今日早く起きちゃって、手持(ても)無沙汰(ぶさた)になっちゃってたから」

結果的に迷惑になっていなかったことにホッと胸を()()ろしかけたが、次も同じような幸運が続くとは限らないと、しっかり自身の行動を(いまし)めておく。

しかし、そんなこちらの決意を、続く彼女の言葉は粉々に打ち砕いた。

「それに、私は君と一緒にいられる時間が長くなるならむしろ嬉しいな」

純白(じゅんぱく)微笑(ほほえ)みで告げられた言葉によって、口の(はし)が自分の意思とは関係なく湾曲(わんきょく)してしまう。咄嗟(とっさ)に右手で(おお)(かく)したあとも(ゆる)みっぱなしの口元を、どうにか戻そうと四苦八苦しているこちらを見つめる彼女は、実に不思議そうな顔をしていて、自身がどれだけ破壊力のある発言をしたかの認識がまるでなかった。

しかし、ずっとこちらが照れていれば流石(さすが)に彼女も勘付(かんづ)くだろうし、自覚さえあれば普通に照れる。

そして照れた花音はさっきの発言など些細(ささい)なことに感じてしまうくらい可愛らしく、相対してしまえば収拾が着くのに余裕のある時間がかなり圧迫されてしまうので、なんとか口を()()め、湧き上がってくる感情を押し殺すと、これ以上心を乱される前に早く行こうと彼女を()かす。

「うん。せっかくのお出かけだし、楽しもうね」

そこそこ無理のある舵切(かじき)りをしているのにも関わらず、僅かにすら表情を(くも)らせない彼女は、なんの躊躇(ためら)いもなくこちらの手を取った。彼女と付き合ってから何度されたかわからない不意打ちに、未だ慣れずに(ほお)が熱を()びる。

他者と比べて圧倒的に道に迷いやすい花音は、こちらと(はぐ)れないよう手を(つな)いでいるだけだと、自身に必死に言い聞かせているあいだにも、右手の(うち)にある柔らかな感触が流してくる温度は身体にみるみる循環(じゅんかん)し、花音に悟られないよう努めるのを強要(きょうよう)させられた。

 

それから休日ゆえに混雑していた電車に詰め込まれ、人の流れのまま吐き出されて改札を通り抜けた頃には、体力を最大値の半分程度ごっそり持っていかれていた。そんな状態でも決して解けなかった手を少し(ほこ)らしく思いながらたどり着いたのは、花音が熱烈(ねつれつ)に行きたいと言っていた大規模な水族館だった。

「わあ…!すごい人だね!」

高めのテンションが滲み出ている彼女を見て微笑ましく思いつつ、入場券を買って長い列に並ぶ。

ある程度待つであろうあいだに、なぜここに来たかったのか花音に(たず)ねると、彼女は握っているこちらの手に温もりを強く感じさせた。

「ここの水族館はね、くらげの飼育数が日本で一番多いんだよ。他の場所じゃ見れないような子もいるから、絶対1度は来てみたかったんだ」

(むらさき)(ひとみ)をキラキラ輝かせる彼女がそこまで熱中するものに少し興味が湧いたので、例えばどんなクラゲがいるのか()いてみると、花音は照明を数倍強くした瞳でこちらを見上げる。

「もしかして君もクラゲに興味を持ってくれたの?嬉しい!ここには本当にいろんな子がいるんだけど、その中でも代表的なのは…」

矢継(やつ)(ばや)に繰り出されるクラゲの知識に圧倒させられているこちらを置き去りにして、彼女はどんどんクラゲの魅力(みりょく)を重ねていった。

あっという間に置き去りにされた解説に終止符を打ったのは、列の終着点である水族館の入り口にいたスタッフさんだった。

入場券の確認を求めるスタッフさんにまとめて買った2枚を差し出すと、代わりに(ととの)()ぎた笑顔とパンフレットをくれる。

一度途切れた流れを再び(つな)がれることになれば、クラゲ講座だけでいつの間に日が沈んでいるなんて冗談めいた未来が恐ろしいほど現実味を帯びるので、せめて彼女の目当てであるものだけでも見納(みおさ)められるよう、パンフレットを(ひら)いてクラゲの水槽(すいそう)の場所を探し、彼女を案内しようとしたのだが、その前に花音は予想だにしてなかった提案を口にした。

「行きたい場所あったかな?もしあるなら、先にそっちに行ってもいいよ」

特に行きたい場所があるわけではないが、あんなに楽しみにしている彼女よりこちらの意見を優先していいものかと、思わず訊き直してしまったこちらに、彼女は躊躇(ためら)うことなく首を縦に振る。

「私1人じゃ絶対ここまで来れてないし、私の都合(つごう)で連れてきちゃったから。こんなことじゃ、お()びになるかわからないけど…」

その言葉を聞いた時に湧き上がった極小の感情の名前を、自分は知らなかった。怒りや悲しみでもない、確かな熱を帯びる感情のまま、力なく笑う少女の手をほとんど無意識で握り直す。無理して一緒に来たわけじゃないからお詫びなんていらないと、少し強めな声が(のど)()らした。

「・・・そうだよね。変なこと言ってごめんね。…ありがとう」

こちらの発言を受け止めた彼女との(あいだ)刹那(せつな)沈黙(ちんもく)が流れ、やがて小さい謝罪が耳に(すべ)()む。それに続いた確かなありがとうの言葉に対してこちらが反応を返す前に、低く間延(まの)びした音が鳴り響いた。・・・こちらの腹部(ふくぶ)から。

雰囲気(ふんいき)にそぐわな過ぎる音にきょとんとしてしまった彼女が、短い笑い声を口から(こぼ)す。

抑えることのできない生理現象のタイミングの悪さを心底恨んでいると、花音は小さな子供に向けるような優しい笑顔を浮かべた。

「見て回るより先にご飯にしよっか」

その提案に顔を赤くしながら黙って頷くこちらにもう一度微笑みかけた彼女は、しっかりと繋がれた手を引いて歩き始める。しかし、彼女が絶大なる方向音痴だったことを思い出したのは、さまざまな魚が行き交う水槽に囲まれた道をしばらく彷徨(さまよ)ったあとで、2人揃って広大な施設の中を迷ったなか、パンフレットだけを頼りになんとかたどり着いた水族館内にあるレストランは、お昼のピークに乗り遅れたおかげと言っていいのか、2人席が奇跡的にひとつだけ空いていた。

案内してくれたスタッフさんが置いていったお冷を口につけるものの、満足する(きざ)しすら見えない空の胃袋を早急に満たすべく、2つあるメニュー表の片方を対面で座る花音に渡し、もう片方を手元で開く。

水族館らしく、魚の形を型どったものが多い料理の写真を見つめ、片面の大部分を占領(せんりょう)する、クラゲをモチーフにしたホワイトソースが卵の黄色を丸々隠したオムライスを食べようと決めて視線を上げた先には、水髪(みずかみ)の少女が優しい表情でこちらを眺めていた。

紫の瞳とぶつかった視線を咄嗟にずらしつつ、さっきからこちらに同じような温かい視線を送ってくる彼女に、自分を見てて楽しいか訊ねると、彼女は簡単に首を(たて)に振る。

「うん、好きな人ならずっと見てても飽きないよ」

ドストレートな理由に頬を朱色(しゅいろ)に染まった顔を(そむ)けたこちらに、微笑を向け続ける彼女との(せめ)()いを強制的に終わらせるべく、ボタン式のベルで店員さんを呼び出し、注文の片手間(かたてま)、雰囲気をリセットしようと目論(もくろ)んだものの、入口での時のようにはいかず、彼女は料理が運ばれてきたあともこちらに視線を注ぎ続けた。

空腹のスパイスが効いたはずのオムライスも、舌への味覚の伝達は(うす)く済ませ、早々に腹に蓄積(ちくせき)されていくのみだった。

 

こちらに少し遅れて食事を終えた花音と、次どこに行くかで話し合ってからレストランを出る。行き先がこの水族館に来る第一の理由となった場所なのに関わらず、彼女が浮かない顔をしている原因を、またもやこちらに対しての罪悪感のせいだと勘繰(かんぐ)り、同じような言葉を口にした自分に、彼女はかぶりを振ったのちに真っ直ぐこちらを見つめてきた。

「無理して付いて来てないのは、さっき言ってもらったからわかってるよ。でもだからこそ、私は君にも楽しんで欲しいんだ。・・・だから、私に遠慮(えんりょ)してるなら、そんなことしないで素直に言って」

かつてないほど真剣味を増した表情で問いただしている彼女に、こちらも躊躇いなく首を振った。

別にこちらは、水族館にいる生き物で特段好きな生き物がいるわけではない。それに、見て回る分にはレストランまでの長い道のりで充分満足できている。

・・・そんな理性的な言い分は、正直そこまで大きな割合を占めているわけではない。本当の理由は、それとは真逆の直情的なものだ。

口にするか散々葛藤したが、前者の理由を述べても彼女の思慮を払うには足りない気がしたので、腹を決めて口を開いた。

—・・・花音と一緒ならどこでだって楽しい—

思ったよりずっと小さくなった声量を拾った彼女がなんらかの反応を示す前に、華奢(きゃしゃ)な手を引いて目的地の水槽へと向かっていく。

飛び交う雑多な声に紛れていた微笑の声音(こわね)は聞こえなかったことにして、ただひたすらに歩き続けた先にあった光景に、2つの息を呑む音が重なった。鮮やかな青藍色を、千単位くらいはいるかもしれない海月(くらげ)が群れを成し、優雅に泳ぐ様はこの世界とは断絶されているかのような印象を持たせる。

しばらく囚われたままだった思考を手繰り寄せてなんとか取り返したあと、隣の少女に同意を求めるべく口を開こうとした。しかし、未だ幻想の世界に(とど)まったままの横顔を見た瞬間、喉から出ていく寸前だった言葉を踏み止ませ、ずっと待ち続けて訪れた時間を邪魔するのは野暮(やぼ)だと、再びガラス越しの海を視界の全面に映す。

周囲の存在や流れていく時間も忘れて、目の前の光景へと沈み込んでいるあいだも、手のひらから伝わってくる温もりだけは鮮明に感じ取れた。

 

「ご、ごめんね…。こんな時間まで居残っちゃって…」

夜の帳が下り切った街を背景に、電車は微々たる揺れをベースに大きな揺れを織り交ぜながら走る。

振動の二重奏(にじゅうそう)に足を取られないよう、白い輪っかに手を伸ばした彼女が口にした謝罪に、こちらは苦い笑いを(こぼ)すしかなかった。

あれからどんどん人がいなくなっても、集中力の切れたこちらと違い、彼女は旅立った世界から帰ってくる兆しすら見えなかった。

閉館時間が迫っているのを知らせるアナウンスが館内に流れてもそれは変わらず、やむなく声をかけ、(から)くも戻って来てくれた彼女と共に出口に急いだのだが、その際花音は頬を真っ赤に染めていた。

今日初めて見る彼女の羞恥(しゅうち)の表情に、思考を止めずに動けたのは自分でも褒めてやりたい。しかし、彼女に対するフォローがまるで出来なかったため、今の彼女の表情には、こちらへの申し訳なさが全面的に押し出されていて、どうしたものか頭を悩ませているうちに、電車が次の駅に止まる。

2人並びには座れないものの、吊り革に掴まっている人は自分たち以外いない現状が大きく変化しないといいなという理想は、扉のガラス部分から(うかが)える、ホームの人口密度であっさり霧散(むさん)した。

「ひゃっ!」

雪崩(なだ)()んでくる人波に()まれかけた花音を、ぎりぎりのところでこちらに引き寄せる。彼女の肩に腕を回した状態で続く勢いをやり過ごしたのち、密着した彼女の身体を意識してしまう前に離れようとしたが、指一本動かせば周囲の誰かに触れてしまう状態では、彼女と距離を取ることなどできるはずがなかった。

正面から押し付けられる柔らかな感触と(わず)かな柑橘系(かんきつけい)の匂いが、心拍数を否応(いやおう)なく上昇させる。押し寄せてくる血流に対処し切れず、脳がショート寸前なこちらにさらなる追い討ちをかけるように、彼女の情報が急に強く押し寄せて来た。

彼女からもこちらを抱きしめているという事実が頭を(よぎ)る前に、ただでさえ瀬戸際(せとぎわ)だった思考の限界容量が一線を悠々(ゆうゆう)と飛び越し、こちらの胸に身を任せる少女の顔を、見下ろすだけで口をぎこちなく開閉させる自分に、彼女は容赦なくトドメを刺した。

「あ、あのね…。吊り革、空いてないし…、しばらくこのまま掴まってても、いい、かな…?」

赤一色に頬を染め、少し(うる)んだ瞳を上目にしながらされた懇願(こんがん)に僅かな余力すら(うば)()くされたこちらには、返事のセリフを頭の中に浮かべることすらできずにただ頷く。

ぼそりとお礼を言ってから胸に顔を埋めてきた花音とその()というもの、彼女の自宅に送り届けるまでのあいだ、ろくに目を合わせることもできなかった。




こんにちは、エノキノコです。まずはこの小説を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
そして、この小説史上最も間隔の空いた投稿になってしまって本当に申し訳ありません…!!当初の予定ではゴールデンウィークに花音ちゃんとマスキさんのお話を書いて連投しようと淡い希望を抱いていたのですが、まさか誕生日から6日経って投稿することになるなんて思いもしてませんでした…。連休全てをリサ姉に取られたなんて事実、GW前の自分に言っても絶対に信じないと思います。
次のヒロインは美咲ちゃんの予定で、投稿日は来週までには出せるように頑張る所存です。執筆速度撃遅の作者ではありますが、愛想尽かさず待っていてもらえると幸いです。
最後に、お気に入り登録をしてくださったみなさん(たくさんの方にしていただき、嬉しい限りです!)、星9を付けてくださったDottperuさん(高評価に恥じない作品を書けるよう頑張ります!)、花音ちゃんのリクエストをくださったShun1114さん(リクエスト告知のアドバイス、本当に助かりました!)、そして後書きに最後まで付き合ってくださったみなさん、本当にありがとうございました!!


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もし美咲ちゃんと付き合っていたら…

ある秋の月末、法に触れない限りどんな格好で外を闊歩(かっぽ)しようが許される日に、自分はもやもやした気持ちを心中(しんちゅう)(はら)ませながらベットに寝そべり、娯楽だけに特化した電子機器の使用に(いそ)しんでいた。

しかし、やる気も集中力もままならず、今日一日で何度も見た敗北を告げるリザルト画面ににうんざりしてゲーム機を枕元(まくらもと)(ほお)()げると、ノロノロと立ち上がり、窓の方へ(にじ)()る。

周囲の樹々(きぎ)と同じくして赤く染まっている空が見える外との繋がりを(はば)む透明な壁を右にスライドすると、はしゃぐ子供たちの声がコミカルな音楽に乗って窓の隙間から(わず)かに通り抜けてきた。楽しげな風の発生源である商店街ではハロウィンのお祭りが開催されていて、夏祭りには幾分(いくぶん)(おと)るものの、売店や出し物もそれなりの規模で行われている。

そんな祭典に、自分も最近できた彼女、奥沢(おくさわ) 美咲(みさき)を誘って久しぶりに足を運ぼうと思っていたのだが、彼女は当日予定があると断られてしまって、残念がりながら1人で行こうかなとぼやいたところ、何故か絶対来るなと釘を刺されてしまった。

なので渋々(しぶしぶ)家の中での活動に(あま)んじているが、こうして楽しげな様子が(うかが)えると、一度行く気になっていた身としてはすぐさま家を飛び出して行きたい衝動に()られてしまうことは避けられない。

彼女の言いつけを守るべきという考えと、少しぐらい(のぞ)くなら別に問題ないのではという意見が、脳内で真正面からぶつかり合い、しばらく続いた欲望と理性の(せめ)()いに決着が着くと、開けたばかりの窓をしっかり施錠(せじょう)してから、部屋着を脱ぎ捨てた。タンスを(あさ)って適当な服を見繕(みつくろ)い、財布とスマホをズボンのポケットに突っ込んで商店街へと向かう。

目指す場所に近づくごとに増していく黄色い声たちに引っ張られるように、歩調は自然と速くなっていった。

 

予想以上の盛況(せいきょう)を見せる商店街を(にぎ)わすのは、ほとんどが自分の腰程度の背丈(せたけ)である子供たちだった。しかもその服装は大半がおばけやアニメのキャラを()していて、普段と変わらぬ格好をしている自分を、違う世界に迷い込ませたように錯覚(さっかく)させる。

込み上げてくる高揚感(こうようかん)(みちび)かれるまま、弾む音楽が流れてくる中心部へと進んでいくと、設置された特設ステージに立ったバンドが会場を(わか)せていた。人混みの隙間(すきま)から遠くにあるステージの様子が視界に入った瞬間、驚愕(きょうがく)のあまり思考が止まってしまう。

なんと、ピンクのクマがDJをしていたのだ。

バク転しながら平然と歌を歌い続けるボーカルや、一挙一動で女性からの黄色い声援を飛び交わせるギターなど、明らかに他の人たちとは一線を分けた人物がいるが、ステージに立つ5人中4人が容姿端麗(ようしたんれい)の少女なのにも関わらず、最後の1人がピンクのクマ、正確にはデフォルメなデザインの着ぐるみだとしても、真っ先に視線を奪われてしまうのは避けられない。

だがしばらく経ち、出会(であ)(がしら)衝撃(しょうげき)が薄まってきてから気付く。あの着ぐるみの人の(すご)さを。

着ぐるみの人が扱っている機具(きぐ)は遠目から見ても楽器というよりかは機械のイメージが強く、精密(せいみつ)な操作が必要なように思える。

自分は音楽にそこまで流通しているわけではないが、それを(じか)の手ではなく、厚手(あつで)の手袋をしているような状態でおこなうには、余程(よほど)の経験による慣れがない限り不可能なのではないだろうか。

己の憶測(おくそく)前提(ぜんてい)に、中の人の技術にただただ感嘆(かんたん)しているうちに最後の曲が終わり、終幕(しゅうまく)のちょっとしたトークが繰り広げられる。

ボーカルのぶっ飛んだ発言に肯定的(こうていてき)な反応を示したギターやベースに、すかさずツッコミが入ったのだが、その呆れた声を聞いた途端(とたん)、先のものを一足跳びに凌駕(りょうが)する驚きが短い(あえ)(ごえ)となって空気を()らした。

聞き覚えがある、どころの話ではない。その声は、つい昨日この場に来ないよう告げてきた声と瓜二(うりふた)つで、自然と脳裏に長めの黒髪ボブの少女が浮かび上がってくる。同時に、ある可能性も。

半信半疑の自身の予想によって湧き上がった、動揺(どうよう)と困惑を頭に同居させるこちらを置き去りにして、アンコールのイントロが辺りに(ひび)(わた)る。

最高潮に沸き上がった観客の中で(おの)がただ1人のみが、空気感に相応(ふさわ)しくない(うな)(ごえ)を上げていた。

 

アンコール曲も終了し、大盛況のままステージは幕を降りた。

どうやら全体的な出し物もこれが最後だったらしく、機材を片付けるスタッフたちを背に、人々は出店を回り直す、または帰路に着くため、まばらに散っていく。行き先はバラバラなのに、その面々には決まって満足げな笑みが浮かんでいた。

魔法にかけられたかのように、周囲が一糸乱れぬリアクションを見せるのに対して、自分だけはその恩恵(おんけい)を受けることができずに両の(まゆ)を中央へと寄せて頭を悩ませていた。

(かがみ)()()らずとも自身が思い詰めた顔をしているのをさまざまと感じつつ、人波の隙間をすり抜けてたどり着いた、雑多(ざった)とした賑わいに置いていかれた通りにぽつんと(たたず)むベンチに腰掛ける。背もたれから(にぶ)い音を立たせて見上げた空は、一番星が僅かな光でその存在を主張し始めていた。

夕色を侵食(しんしょく)している紫苑(しおん)(またた)く星の光を完全にシャットダウンしてから、ずっと思考の大半を占拠(せんきょ)している疑問に深く(もぐ)っていく。

・・・なぜ、ステージの上から彼女の、美咲の声が聞こえたのか。それについては、予想だけならなんとなくできている。

しかし、彼女の言動を見る限り、自分がそこまで踏み込んで良かったかがわからない。もしかしたら彼女は、すっぱり全て忘れることを望むかもしれないという予知が、こちらの頭を()えず悩ませ続けている。

しばらく考え込んでいると、夜風に肌を()でられて軽く身震(みぶる)いしてしまうので、やむなく白紙の回答を手に帰り道を辿(たど)るべく立ち上がろうとしたこちらの鼓膜(こまく)に、(いま)だ残っている余韻(よいん)と全く同じ振動が入力された。

「・・・なんであんたがここにいるの?」

真正面から浴びせられた問いを、回しに回して疲弊(ひへい)していた頭が受け入れる前に、黒い毛先を肩に触れさせた少女はわざと音を立てて隣の空間を陣取(じんど)る。

懐疑的(かいぎてき)な感情を宿したグレーの視線が突き刺さってくるのをありありと感じつつ、もう随分(ずいぶん)と時間によって流されたように思える、まだ夕陽が沈む前の記憶を()()こし、(ひま)だから足を運んだという情緒(じょうちょ)のへったくれもない理由を恐る恐る口にすると、彼女は模範解答のようなため息をひとつ()いた。

「・・・ちなみに、いつ来た?」

不気味な沈黙(ちんもく)のあとに投げられてきたのが、言いつけを破ったお(とが)めではなかったことに内心ホッと一息ついたのだが、追加の質疑(しつぎ)(こた)(そこ)ねたらどうなるかわからないので、慎重(しんちょう)審議(しんぎ)してから事実を()べると、美咲は表情に秘めた心情の色を深め、今度は間髪(かんぱつ)入れずに口を開いた。

「そんな終わるギリギリの時間に来てなにするつもりだったの…」

確かに、今()かれると返す言葉が見当たらないのだが、あの時の自分はこの場に行くかどうかの次元で考えており、なにをするかなど考えてすらいなかった。

先の2問とは違う理由で伝えることを(しぶ)っているこちらに、美咲は根本(こんぽん)の感情は変えなかったものの、口元に(あわ)い笑みを浮かべて紙袋を(ほお)ってくる。

勢いはほとんどゼロだったが、いきなりの投擲(とうてき)(ほの)かな熱を持つ薄茶の袋が何度か手元でその身を(おど)らせた。

(から)くも地面に落とさずに済んだ袋を(ひら)くと、鮮やかな狐色(きつねいろ)の肌を持つパンが姿を現した。同時に甘い空気が(うち)から一気に押し寄せ、(から)の胃袋を強く刺激する。

音となってそれを示したこちらに彼女は、呆れた声でやっぱりと呟いた。

「まったく…、その様子だと、どうせろくなもの食べてなかったんでしょ」

普段なら返答に()まる指摘(してき)も、どんどん肥大(ひだい)していく空腹を満たすことに意識の大半を持っていかれていた今の自分にはほとんど届いておらず、生半可(なまはんか)な返事だけをして袋の中へ右手を向かわせ、ひとつだけで袋の空間を圧迫(あっぱく)している存在を引っ張り出す。

すぐさまかぶりつきたい欲求をなんとか抑えてパンを半分に割くと、黄赤色(きあかいろ)のペーストが顔を覗かせた。

口の中に(つば)が湧き上がってくるのをまざまざと感じつつ、片割れを隣に座る少女に差し出すと、どこか不満げな光を揺らめかせていた彼女の(ひとみ)が大きく見開(みひら)かれる。

「いやお腹空いてるんでしょ。私の分はいいから」

そう言ってこちらが差し出していた左手を押し返した美咲に、本当にいらないのかもう一度確認を取ったところ、さっき違うもの食べさせられたから大丈夫と、苦い顔をして答えるので、あまり深く追求はせずにふわふわもちもちのパンと(なめ)らかな舌触(したざわ)りのカボチャのペースト、それぞれ違う角度の甘味を同時に味わう贅沢(ぜいたく)な行為に勤しみ始めた。

「あんたって…、変なところ律儀(りちぎ)だよね」

突如(とつじょ)とした彼女の指摘に内包された意図を()()れず、あっという間に空っぽになった右手から視線をスライドさせてから首を(‘かし)げたこちらに対して、彼女は大きな吐息を(ひび)かせる。真っ直ぐこちらを見据(みす)えるグレーの瞳には、いつになく真剣な光が宿っていた。

「無理して私の約束守ろうとしたり、自分のもの分けようとするやつのこと。・・・別にそこまで私に気を()わなくていいから」

・・・確かに、今日のことを俯瞰(ふかん)して見れば、彼女にそういうふうに感じ取られてしまうのも仕方がないのかもしれない。自身のことを後回しにして、彼女を優先していたのは列記とした事実なのだから。しかし、それをしているのは彼女が考えていそうな暗いものではないのだけは、自分自身が一番わかっている。

それを伝えるべく、彼女が送ってくる視線をしっかり受け止め、キッパリとかぶりを振ったのち、掛け値ない本心を宙に(すべ)らせた。

—好きな人に喜んでもらえるのなら、少しくらい無理したくなる—

言い終えたあとに小っ恥ずかしいセリフが口から飛び出していったことを認識(にんしき)し、誤魔化(ごまか)すように視線を()らしてから持ったままのパンを(むさぼ)ったものの、先の片割れとは違い、味を楽しめずに胃袋へと向かっていってしまった。

一瞬で手持(ても)無沙汰(ぶさた)になった途端に、普段なら小言のひとつやふたつを飛ばしてくるはずの美咲が不自然に沈黙(ちんもく)を貫いているのが気になり、視界が自然と隣に流れていく。

いつもの呆れた表情をしているだろうと、脳裏になんとなく浮かび上がっていた想像は、耳の先まで真紅に染めた彼女を見て跡形もなく消滅した。

予想と180度違った代償で身も心も硬直(こうちょく)()いられた故に固定された視線が、それに気付いた美咲の視線と(まじ)わった瞬間(しゅんかん)、彼女は回らぬ舌で(まく)()て始める。

「み、見んな!ていうかいきなり変なこと言うな!」

さっきまでの静寂(せいじゃく)()()まれていた分が一気に押し寄せ、両手を合わせて謝罪する対処しかできないこちらをひと(にら)みしてから、美咲は可動限界まで首を()()げてしまった。

再び訪れた声のない時間はしかしして、両者のあいだに吹く夜風の温度は完全に別物だった。

 

それから(まばた)きひとつすら躊躇(ためら)う空気にメスを入れたのは、立ち上がった美咲がかろうじて拾える音量でした、帰るという短い(つぶや)きだった。彼女がいなくなるなら自分もこの場に長居する理由は皆無(かいむ)なので、遠ざかっていく足音を追う形で互いに帰路を辿(たど)る。

彼女の家の延長上にこちらの自宅があることを知っているからか、自分が隣を歩くことに彼女は特段言及を飛ばさなかったが、相変わらず肌を撫でる風の冷たさは変わらぬままだった。ご機嫌斜めな彼女を放置してこの空気を明日以降(いこう)()()すのは嫌なので、どうにかしようと思ってはいるのだが、具体的な案がまるっきり思いつかない。

「・・・じゃ、またね」

唸り声を喉に秘めながら考え込んでいるうちに、いつの間にか彼女の自宅前まで歩いてきてしまったらしく、美咲はこちらにひと言投げかけるのみで、視線すらくれずにドアの方へと()を進めていった。

結局策などひとつも浮かんでいないが、このまま別れるのが1番マズイのがわからないほど思考能力は死んでないので、彼女が玄関(げんかん)のドアノブへと手を触れる寸前に、肺にあった空気をフルに活用し、詰まり気味だった喉から言葉を押し出して彼女を呼び止める。振り返った彼女が望む言葉を知らない自分は、また愚直(ぐちょく)に謝罪することしかできなかった。

せめてもの誠意を見せるために、限界まで腰を折ったこちらの頭上に、しばらくしてから今日何度も聞いた大きなため息がのしかかった。

「・・・別に怒ってない。いきなりあんなこと言われて驚いただけだから」

彼女の声が途切れてから、少しずつ視線を上昇させていく。長い時間をかけて前を映した視界の中には、いつも通り呆れに内包されて見えづらくなってはいるものの、優しい光を確かに宿らせた瞳でこちらを見つめていた。

気付かぬうちに強張っていた全身がゆっくりと弛緩(しかん)していくのを感じ、深い呼吸をひとつ(はさ)んでから、軽く手を振って(きびす)を返したこちらの背を、今度は彼女の声がしっかりと掴む。

振り返り様にどうしたか(たず)ねると、黒髪の少女は少し躊躇うような様子を見せたのち、ゆっくり言葉を(つむ)(はじ)めた。

「・・・今はまだ言えないけど、いつか、あんたに伝えたいことがあるからさ。その時は、お願いね」

こちらがなんらかの反応を示す前に、パタンという音に続いてドアの施錠音が僅かに鼓膜を揺らす。

美咲がなにを伝えようとしているのか、それを知るのは彼女本人のみで自分は漠然と想像することしかできないが、夕焼けに照らされたステージを見ていた時から胸につっかえていたなにかは、今はその存在を(つゆ)と散らしていて、(じつ)()(わた)った心境で両手を夜空へ思いっきり伸ばしてから、仄かな光が照らす帰路を再び歩み始めた。




こんにちは、エノキノコです。まずはこの小説を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
そして、またもや更新間隔が大幅に空いてしまい誠に申し訳ございません…!!流石に次の投稿はここまで期間が空かないようにします…!ヒロインは沙綾の予定です!
そしてもうひとつ謝罪したい件が…。作者の活動報告で募集していたリクエストを、この話の投稿日から一時的に締め切らせていただきます。
理由は主にふたつありまして、ひとつは送られてくるリクエストの数が作者の想像以上に多く、このまま募集し続けると、応えるのが大幅に遅れてしまうリクエストが増えてしまうからで、とりあえず今は送られてきているものを書き終えようと思っています。これから送ろうとしていた方には大変申し訳ないのですが、どうかご理解の方をよろしくお願いします。
そして2つ目は、この作品以外で新たに新連載を上げたいなー…と、漠然とした願望を叶えたいからです。これに関してはまだどんな内容にするか、原作をBanG Dreamにするかも定まっていないので、年内に叶うかも疑問ですが、もしよかったら楽しみにしてもらえると幸いです。
最後に、お気に入りに登録してくださったみなさん(名前の表記は割愛させていただきます。本当にすみません…!)、星9評価を付けてくださった鋼のムーンサルトさん、斉藤努さん(おかげさまで評価バーがまたひとつ長くなりました!)、美咲ちゃんのリクエストを送ってくださった天呆鳥さん(1ヶ月以上待たせてしまい、本当にごめんなさい!)、そしてこの作品に目を通してくださったみなさんのおかげで、UAが40000を突破しました!本当にありがとうございます!!これからも応援よろしくお願いします!!


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もし沙綾と付き合っていたら…

(こころよ)い春風は徐々に重量を増していき、肌に張り付く不快感を(はら)み始めた季節。空も灰色の雲が(おお)う日が多くなり、雨水(あまみず)が地面に張られることも日常になりつつあった。

実際、休日なのにも関わらず、()が上り切る前の時間から鳴り響くアラームを止め、睡魔(すいま)がこちらの思考を(しば)る前に起き上がって開いたカーテンの先に映る景色も、例外なく季節の特徴を(あら)わにしている。

外からにじり寄ってくる湿気が(うち)のものと混ざり合って、寝起きのローテンションに拍車を掛けようとするが、すっかりこの時間帯に起床することが習慣付いた身体が半自動的に寝間着(ねまき)外着(そとぎ)へ包む衣服を変えた頃には、頭のエンジンはほぼ完全に準備を終えていた。両手を思い切り伸ばして体をほぐしたあと、()えて冷蔵庫は開かずにそのまま玄関へと向かう。

(かさ)の持ち手に伸ばした方とは逆の手で(にぎ)ったドアノブは、この季節にしては珍しい温度を、じんわりと手のひらに伝えてきた。

 

色形(いろかたち)が異なる住宅に挟まれた道を、水たまりを踏まぬよう慎重になりながら歩んでいく。

晴れていればジョギングや犬の散歩をしている人たちが数回横切るのだが、雨雲が空を支配している日は決まって、雨粒(あまつぶ)が弾ける音のみが周囲に響いていた。

人の温かさが遮断(しゃだん)され、しずくが落ちる音のみに包み込まれたある種の沈黙(ちんもく)に満ちた道のりを、自分でも気づかぬうちにゆっくりになっていった足取りでたどっていく。

決して嫌いではない静寂(せいじゃく)が破られたのは、届かぬ太陽の光の代わりを(つと)める街灯(がいとう)がおぼろげに揺れる商店街に足を踏み入れてからだった。雨水の香りををふんだんに含んだ空気が(ただ)ようなかでも自身が構える店を開くのを(おこた)らない人々の声が、(わず)かな明度(めいど)をこの場に宿す。

取って代わられたものに(まさ)っても劣ることない雰囲気を肌身に感じながら、もうほとんど目と鼻の先となった目的地へと足を速めると、小麦の焼ける匂いが重量感のある空気の隙間を()って鼻腔(びこう)をくすぐった。

腹の虫を鳴かせる原因の発生源であり、空の機嫌が悪いなか歩いてきた理由でもあるパン屋の、青みが深い緑色の屋根が作った水を知らないレンガ造りの地面にくっきりとした足跡をつけると、(たた)んだ傘に(したた)る雨粒を振り払う。

「おはよう。こんな天気の中お疲れ様」

まだら模様をレンガの上に(えが)いていると、()んだ鈴の()を響かせてすぐ近くのドアを開いた人物が挨拶を投げかけてくるので、細くまとめた傘から視線を横移動させて返しの言葉を口にすると、雨風を(しの)いでもらっているパン屋、山吹ベーカリーの看板娘にして、恋仲と呼べるようになってからそれなりの月日が過ぎた少女、山吹(やまぶき) 沙綾(さあや)は、微量(びりょう)の呆れを含んだ笑みを(ほころ)ばせた。

「前から言っているけど、少しでも都合が合わなかったら手伝わなくても大丈夫だからね」

もう何度聞いたかわからない彼女の気遣(きづか)いを受け取るのはやぶさかではないのだが、彼女は一人で(かか)()みがちなところがあり、実際、彼女の母親が体調不良で倒れた時、彼女は誰にも共有しようとせず背負い込んでいたため、今度はできる限り(そば)にいて、些細(ささい)な変化を見逃さないようにしたかった。

しかし、それを伝えて今以上に心の底を(かく)そうとされると本末転倒(ほんまつてんとう)なので、給料代わりのパンを朝食にしてるから、自分で作る手間が(はぶ)けてむしろ助かっていると、いつもと変わらぬ返答を口にしたところ、彼女は子供を見る母親のような視線を注いできたのち、口元に微笑(びしょう)を浮かべる。年不相当(としふそうとう)の雰囲気によって、少しだけ早くなった心拍数を見抜かれないよう無愛想(ぶあいそう)な表情を貼り付けたこちらの(ほお)に、一陣(いちじん)の風と共に冷たい(つゆ)がぶつかってきた。

見栄(みえ)()る自分に対して、冷やかすような態度(たいど)を取る天を見上げてから、親指で流れる粒を(ぬぐ)っていると、沙綾は(かたむ)き始めた雨粒たちを一瞥(いちべつ)したのち、出てきたばかりのドアを指差す。

「ここじゃ()れちゃうし、とりあえず中入ろっか」

特に考えることもなく首を上下させて了承(りょうしょう)()を示したあと、ふとした疑問が()き上がったが、それを口に出す前に彼女はドアの向こうに消えてしまうので、とりあえず疑問を(のど)の途中に待機させてあとを追う。

雨の侵入(しんにゅう)(こば)むため、ドアをしっかり閉めてから、(くつ)の底に張り付いた水滴を出入り口前に()かれたマットレスを何回か踏むことで振り落としていると、沙綾が店奥にしまってあるモップをこちらに差し出してくるので、デザインも大きさもそれぞれ異なる4本が()()った傘立てに自身の傘を突き立ててから、使い慣れたモップの()(にぎ)った。どうせなら受け取ったついでに(たず)ねておこうと、寝かせておいた疑問、なんでさっき外に出てきたのかという問いを投げかける。

外に用があるなら自分と一緒に中に入ってくるわけがないし、それなら外に出てくる理由なんてないのでは、そんな問いかけに彼女は、何故か少し朱色(しゅいろ)()めた頬をかいて青色の(ひとみ)を泳がせた。

返答を(しぶ)られた理由を(さっ)せず、自然と首が傾いてしまったこちらを見て、(あわ)いブラウンの長髪(ちょうはつ)を後ろに(たば)ねた少女は、(はん)(あきら)めた笑みを(こぼ)した口をぎこちなく動かす。

「好きな人を出迎えたかったから…かな」

認識するのに多少のラグがあったその発言が思考に溶けた瞬間(しゅんかん)、視界の中央に収まっていた彼女の顔が徐々(じょじょ)にフェードアウトしていく。頬に熱が()びさせながら連呼(れんこ)される当たり障《さわ》りのない肯定(こうてい)の言葉の()をくぐり抜け、外から響いてくる雨音を(つらぬ)いて耳に収まった(かわ)いた笑みは、じんわり(はだ)に広がる汗を一際(ひときわ)強く意識させた。

 

普段なら軽い会話を挟みつつこなす開店前の清掃(せいそう)は、(おどろ)くほどの静寂に包まれながらおこなわれた。

モップを握る両手を動かすと並列に、自らの質疑(しつぎ)で形成された気不味(きまず)い空気を打破(だは)する方法を考えていたが、木造(きづく)りの床が綺麗(きれい)になる一方、頭の中はあーでもないこうでもないとごちゃつくばかりで、解決策はなにひとつ思いつかない。

結局、有効な思想など手にすることすらできずに床を()き終え、下に向いていた視線を持ち上げると、空白の陳列棚(ちんれつだな)を拭いている沙綾にぶつかった。彼女は自身の仕事を真面目に取り組んできたが、やがて固定されていたこちらの視線に気付いたのか、視線をこちらのものと合わせてくる。

見つめ合う状況に羞恥心(しゅうちしん)がくすぐられる(ひま)もなく、静まったあと初めて訪れたチャンスを(ぼう)に振らないよう話題の詮索(せんさく)(つと)めたが、まるで成果を挙げられず、冷たいものが背を(つた)っていったこちらを見つめ返していた沙綾は、一切の色を(うかが)わせなかった表情を(またた)()に黄色へと染め上げた。

目の前の少女見せた予想外のリアクションに置いてけぼりにされたこちらに向かって、沙綾はさっきまで横一文字(よこいちもんじ)だった(くちびる)を面白おかしそうに釣り上げる。

「君、さっきのこと気にしすぎだよ。そんなに好きな人って言われたのが恥ずかしかったの?」

軽く口にされただけで少しテンポが上がる胸の鼓動(こどう)が、彼女の指摘が実に(まと)を得ていることを物語っているものの、それをただ鵜呑(うの)みにして(はずかし)めを受けるだけなのは(いや)なので、沙綾も赤くなってたことをへの指摘でせめてもの反撃を(こころ)みると、彼女は言葉を()まらせたのち、一旦(いったん)下げた口角(こうかく)を今度はたどたどしく湾曲(わんきょく)させた。

「まあ、否定しないけど…。そもそもあれは、出来れば自分で気づいて欲しかったなぁ…」

こちらの言葉への返答ついでに投げられた彼女の願望(がんぼう)は、胸の痛い場所に吸い込まれるように深々と突き刺さった。

・・・確かに、あんな少し考えればわかるようなことを気付けないなんて、彼氏彼女の関係上なら致命的(ちめいてき)なのかもしれない。彼女の心境の変化を見過ごさないよう時間を作っているのなら、なおさら。

途端(とたん)にこの場に居座ることがとてつもなくおかしく感じてしまい、ドアに向かって走り出したくなる衝動に()られるが、左の手首を逆の手で思い切り握りしめて発散し、寸前(すんぜん)のところで両の足へ流れ込むことを阻止(そし)する。

この開店前の作業を手伝うと名乗り出たのが自分であれば、持続を望んだのも自分だ。そのくせしてこっちの都合で放り出すことなど許されないと、自らの心の奥から絶えず湧き上がってくる感情を(しず)めるべくして人知れず吸い込んだ重い空気を、細く()き出そうとした、直前だった。

前から差し伸べられた手が、(うつむ)き気味だったこちらの顔を包み込むように触れた。(のど)の途中で行き場を無くして詰まった吐息を意識してしばらく経ったあとに、頬に()えられた温もりはゆっくりと上昇し、前を向くよう(うなが)してくる。

なされるがままになり、完全に正面を見た途端、純粋に誰かを心配する真っ直ぐな優しさを(たずさ)えた青い瞳と視線が交錯(こうさく)した。()き彫《ぼ》りになってきた息苦しさが(うそ)のように遠ざかり、静まり返った小さな世界の中に響く、雨粒が弾ける音、身体に(せわ)しなく血液を(めぐ)らせる心拍音、目の前の少女の息遣(いきづか)いまでもが取り零しひとつなく耳が拾い、色とりどりに鼓膜(こまく)()らす。

「・・・ごめんね。そんな顔させるつもりで言ったわけじゃないんだ」

ゆっくりと言葉を(つむ)いだ少女に、(あやま)る必要はないことを伝えたかった。しかし、喉は閉じたまま一向(いっこう)に言葉を作ろうとしない。

「・・・もし辛いことがあったなら、言って欲しいな。解決することはできなくても、寄りかかってもらえるくらいなら、私にも出来るから」

そんな不甲斐(ふがい)ない自分に彼女が投げかけたのは、自分が彼女に伝えたいことだった。今の今まで、ずっと遠回りしてもなお、(こと)の葉に乗せることが叶わなかった気持ち。

喉に詰まっていたものが、口をほどいた風船のように(しぼ)んでいき、内容物が腹の底へ(かえ)っていく。しかし、今までなかった鈍痛が胸に走り始める。

(さえぎ)るものはなくなったのにも関わらず、ぼやきひとつ押し出せない(みずか)らに嫌気(いやけ)が差し、再び視線を落とそうとしたこちらが、茶髪の少女を視界から()()がす前に、沙綾はさっきまでの真剣みを帯びさせながらも柔らかな声を(はず)ませ、予想だにもしていなかった提案を持ちかけた。

「ねえ、今日は上で一緒に食べない?」

上、2階建てとなるこのお店で、彼女とその家族が暮らす居住(きょじゅう)スペースとなっている空間に、これまでを通しても初めて招待されていることを理解した瞬間、胸の(うち)に存在する暗い感情が押し流され、その勢いのまま思い切り首を左右に振る。

家族の人たちとは、(すで)幾分(いくぶん)か交流する機会はあったし、それなりの関係は(きず)けていると思うが、向こうがこちらに悪い感情を持っていないとは限らない。

それに、行き着く先は赤の他人である自分が、家族の時間に割り込むことに対して言い難いほどの忌避感(きひかん)があった。

「遠慮しなくて大丈夫だよ。さっ、こっちに階段あるから」

しかし、こちらがなんらかの抗弁(こうべん)を口走る前に、彼女はいつのまにか背後に回り込み、階段の方へと歩かされる。先の閉塞感(へいそくかん)が嘘のように口を重ねて逃れようとするこちらに対して、彼女は大丈夫のひと言で片付け、木製の階段を有無を言わさず上らせ、知らぬうちに最後の一段まで上り切ってしまう。

真っ直ぐ伸びる廊下(ろうか)、その1番手前のドアを開いた先にあった居間に腰を下ろさせられた自分をここまで連れてきた張本人である少女は、先の服装の上からエプロンを着けながら口を開いた。

「じゃあ、ちょっと待ってて。すぐ作っちゃうから」

こちらの言い分を聞かずして、沙綾は台所の方へ向かってしまう。台所と居間は壁で(へだ)たれてはいないので、知らない場所に1人取り残されたわけではないのだが、初めて来る場所、しかもそれが彼女の実家で、さらには朝食を頂こうとしているという状況を頭が(いま)だに飲み込めず、気分がどうしても落ち着かない。

当てもなく周囲を見渡(みわた)して数分。ようやく、なにもせずただご飯だけもらうのは流石(さすが)にマズイだろうという、(いた)って当たり前のことに気づき、1本に()った淡いブラウンの髪を背に流す少女になにか手伝うことはないかと、立ち上がり(ざま)に訊ねる。劇的(げきてき)に料理の腕が立つというわけではないが、壊滅的(かいめつてき)に出来ないということもないので、なんらかの手助けは出来るだろうという漠然(ばくぜん)とした思考は、予想を大きく裏切る彼女の頼みによって(つゆ)となった。

「じゃあ鍋見ててくれる?私、(じゅん)紗南(さな)起こしてくるから」

弟と妹の名前を出す彼女の頼みを、一瞬戸惑(とまど)ってしまったものの、首を(たて)に振り了承すると、彼女はお礼を言ってからドアの向こうへと消えていく。

ドアの開閉音が(ひか)えめに空気を揺らす余韻(よいん)が去ってから、改めて台所を一瞥すると、そこにはほとんど下準備を終えた食材たちが綺麗に整頓されており、自分が手を付ける隙などまるでなかった。

彼女の手際(てぎわ)の良さに感嘆(かんたん)しつつ、皿洗いは絶対に自分が引き受けようと決心してから、漆黒(しっこく)に一滴の緑を落とした色の海藻(かいそう)が浮かぶ味噌汁の入った鍋を、それに半身を沈めていたお玉でゆっくりとかき混ぜた。

 

2人の少年少女が母親と(たわむ)れている黄色い声と、その様子を横目で見守りながら長女が掃除機で床に蔓延(はびこ)(ほこり)を吸い取る音が、背後の居間で盛大に(から)まり合って聴覚の大半を支配する。生活感溢れる空間を背中に感じてほっこりしつつ、自分は希望していた皿洗いを淡々(たんたん)とこなしていた。

あれから沙綾は、起こすと言っていた弟と妹はもちろん、それに加えて彼女の母親を連れて戻ってきた。

慌てて機械的に味噌汁をかき混ぜていた手を止め、わかりやすいくらい体を強張(こわば)らせながら挨拶すると、お母さんは沙綾から事情を聞いていたらしく、沙綾とよく似た優しい微笑(ほほえ)みを見せてから歓迎してくれた。

流石に純と紗南は驚いていたが、完成した朝食が食卓に並んだ頃には、すっかりいつもの調子でじゃれてきて逆に戸惑っていたこちらに、少し遅れてやってきたお父さんに毎日食べに来ていいと言われた時には、頭が取れるんじゃないかと思うくらい強くかぶりを振ってしまい、大人の2人には笑われ、未成年組はわりと真剣に残念がっていた。

食事中にもう一度同じことを言われた際には、とりあえず保留にさせてもらったが、果たしてどう答えるのが正解なのだろうか。

「手伝おうか?」

先延(さきの)ばしの返答をしてからずっと頭を悩ませている難題を、最後の一枚を洗い終え、白い布巾で濡れた食器を拭き始めてなお考え続けていると、さっきまで掃除機をかけていた少女が、自分と同じ布巾(ふきん)を持って(となり)で訊ねてくる。

あとは拭くだけだから大丈夫と断るこちらに、彼女は(じつ)に楽しそうな笑みを浮かべた。

「でも、拭いたあとどこに食器しまうか分からないでしょ?」

的の中心を正確に貫いた指摘に言葉を詰まらせ、力なく頷いたこちらを見て短い笑みを零す彼女に、なら自分が拭くからそれをしまっていってと伝えたのだが、なぜか彼女は隣に居座って食器を拭き始める。

「2人でやった方が効率いいよ」

効率云々(うんぬん)の話をするのなら、それぞれ役割分担する方が作業は早く終わると思うのだが、さっきと同じ地雷を踏むような気がしたので、特になにも言うことはせずに黙々(もくもく)と手を動かしていると、隣からやたら飛んでくる視線が頬をなぞってくる。

一旦手を止め、段々とくすぐったくなってくるそれを注ぐ少女にどうしたか訊ねると、彼女は飾り気のない笑顔を(ほころ)ばせ、言った。

「いや、さっきよりは元気そうで良かったな〜って」

特に(とどこお)ることもなく発された、短くも長くもない言葉は、なぜ彼女がやや強引にこの場へ招待し、朝食の場を一緒にしようと(さそ)った理由、気付かぬうちに思想の外で放置していたその核心に触れさせたように思えた。

彼女はひどく情けない顔をしていたであろうこちらの心情を察し、案じてくれたのだろう。胸のうちに広がっていた暗雲(あんうん)を払おうと、気を遣ってくれたのだろう。

そんな強引な行動の裏を読み解けたあと、真っ先に口から零れたのは、彼女の優しさに対する感謝でも、申し訳なさからくる謝罪の念でもなかった。

—沙綾は強いな—

彼女は強い。1人で自分が背負いたいものを背負えるくらいに。悪意など微塵(みじん)も存在しない言葉で勝手に(つまず)く自分が、支えようとする必要すらなかった。

「・・・強くないよ」

そう強く思い込んでいたからか、彼女がすぐに否定のかぶりを振ったことには率直(そっちょく)に驚いた。

「私は1人だと弱いまま。それでも強くいられるのは、みんなが、家族が、そして君が隣にいてくれるからだよ」

彼女の言葉に思わず、自分も入っているのかと()き直してしまうと、沙綾は珍しく不機嫌そうに当然と断言するが、それでもあまり実感が湧かず、首を傾げてしまうこちらを見て、彼女は怒りを通り越した呆れを吐息に込める。

「まあ、分からなくてもいいよ。ただ、知っててね。私の隣には君が必要なこと」

そう言って微笑む彼女に頷き返してから、躊躇(ためら)いがちに(ちぢ)まろうとする喉を無理やり開き、自分の隣にも沙綾が必要だと告げる。こちらの顔がはっきりと映る青色の瞳を大きく見開いた少女に、だからずっと一緒にいてほしいという、自身の望みを()えて。

ちゃんと気持ちを伝えることができたことには少量の安堵(あんど)を得られたが、すぐにそれを吹き飛ばすレベルの羞恥(しゅうち)が胸の内で()()れ、思わず視線を()らして作業を再開したが、次の瞬間、ただでさえ混沌(こんとん)なこちらの心情を、さらに()(みだ)す指摘が飛んできた。

「・・・なんかさっきの、プロポーズみたいだったね…」

吹けば飛んでいくくらいの小さな声の呟きによって危うく食器を落としかけたこちらに、普段なら投げかけられるであろう零れ落ちた微笑は、いつまで経っても空気を揺らさない。

静まり返ったこの状況をどうにかして打破したい気持ちがあるものの、さっきの働きが幻だったかのように、喉は言葉を発する機能を停止させていた。

施錠(せじょう)された機能をこじ開けるのに奮闘(ふんとう)しつつ、なにを言うべきか加速させた思考が、あるひと言を浮かび上がらせた。普段なら絶対に口にできない言葉だったが、もうこれ以上恥ずかしい思いをしても大して変わらないと、いずれかはそういうのを目指してると半ば自棄気味(やけぎみ)に言葉を押し出した。

「そ、そっか、うん…。・・・私も、同じ」

隣同士でどう頑張っても視界に収まってしまう、耳の先から首元まで一部の隙もなく赤くなった彼女と、同等以上に赤面してるであろう自分とのあいだを()()った言葉を最後に、2人して黙々と家事をこなし始める。

未だ去らない雨の足音や、居間で響く黄色い声をやたら遠くに位置付け、自らの心臓が忙しなく飛び跳ねるリズムだけが強い印象を刻んで再来した無音の時は、一度立ち去る前に持っていた息苦しさを捨て、代わりに倒れそうになるほどの熱を持ち帰ってきた。




こんにちは、エノキノコです。まずはこの小説を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
そして、更新が大幅に遅れてしまい、本当に申し訳ありませんでした…!!普段の超遅行執筆もひとつの理由としてはあるのですが、1番の戦犯は、データが吹っ飛んだというわけではなく、納得いかないゆえにこの話を一度丸々書き直したからです。
・・・はい、なに馬鹿なことしてるんだと言われることはわかっています。しかし、山吹 沙綾ちゃん、本当に書くのが難しかったんです…。具体的に言うと、恋人同士というより夫婦感が出てしまい、この2人結婚してない?みたいな感想しか湧かず、流石にそれはタイトル詐欺もいいところなので、やむなく書き直したわけですが、筆を動かしているうちに話がどんどん長引き、いつのまにか作者の想像を遥かに超える8700文字オーバーまで膨らんでしまい、それと比例して執筆日数も増えていってしまいました…。作者の勝手でみなさんを待たせてしまい、本当にすみません…!
そしてもうひとつ謝罪を…。前回の後書きでリクエスト終了の理由をふたつと書いたのにも関わらず、ひとつしか書いていませんでした…!完全に書き忘れです!ふたつ目の理由は新連載を書きたいというもので、ジャンルどころか原作をなににするかも定まっていませんが、もしよければ楽しみにしていてもらえると幸いです。
そして次の投稿なのですが、間違いなく来月になってしまうと思われます…。せめて上旬までには出せるよう頑張りますので、気長に待っていてもらえると助かります…!ヒロインはこころちゃんになる予定です。
そして最後に、お気に入りに登録してくださったみなさん(たくさんの人たちにしていただき、本当に嬉しいです!)、星9を付けてくださった希望光さん、天下不滅の無一文さん(付けてもらった評価に恥じぬものを書き続けられるよう頑張ります!)、感想を書いてくださったポッポテェ… さん(久々の感想にテンションが上がってしまい、返信が長文になってしまいました…。申し訳ありません…!)、沙綾ちゃんのリクエストをくださった春採 慎吾さん(待たせてしまった分、少しでも楽しんでもらえていたら幸いです!)そして、後書きまで読んでくださったみなさん、本当にありがとうございました!!


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もしこころんと付き合っていたら…

本年(ほんねん)の締め切りまで最後の1週を踏み込んだその日、降りた紺色(こんいろ)(とばり)など意にも介さぬように、あちこちの壁に星や赤い靴下の装飾(そうしょく)、色とりどりなイルミネーションが今日のためだけに取り付けられ、目を細めたくなるくらいの(まぶし)さを解き放っていた。

そんな明度がスタンダードな街の中央には、壁より1段と豪華に飾り付けられているステージの上にいる5人組のバンドが、人の子ひとり入り込めない密度で並び立つ観客を()かしている。

自分も、金色の燐光(りんこう)を惜しげもなく()()き、(かがや)聖夜(せいや)に相応しい弾む歌声を全身に浴びながら、周囲の老若男女(ろうにゃくなんにょ)と天井を(もう)けられていないテンションを分かち合う…予定だったのだが、残念なことにチケット抽選に外れてしまい、あの場に立ち会うことは叶わず、しかも両親はかねてより予約していた豪勢(ごうせい)なディナーと高級ホテルの宿泊コースに行ってしまったため、結果的に一緒に過ごす相手もいなくなってしまった。

正確にいうと両親には自分も誘われはしたものの、チケットの抽選の結果がまだ出ていなかったので断ってしまい、その次の日に()えなく現実を叩きつけられた。

そんな事情により見事に予定が無くなった自らの運の無さを呪いつつ、空白の時間を埋めるようにケーキショップの日雇いバイトに精を出しているのだが、さすがクリスマス当日ということあって、行列は絶えぬわケーキは飛ぶ勢いで売れるわで仕事の手が一向に止まらず、遠くから(わず)かに聞こえてくる歌声だけを唯一(ゆいいつ)の頼りに踏ん張っている。

正直、恐ろしい仕事量に処理能力が追いつかなくなりそうだが、その分入ってくる額は日雇いにしては破格の金額なので、臨時収入(りんじしゅうにゅう)で買う物を想起(そうき)してから気合を入れ直し、途切れる予兆も感じられない音楽に力を貰ってから、忙しない労働の波へと舵を切った。

 

数字に換算(かんさん)すれば3時間程度、しかし体感では半日くらい働いたと思うほどの濃密(のうみつ)な労働の果てに残ったのは、ショルダータイプのバックが(なまり)のように感じさせるほどの疲労と、予想以上に(ふく)らんだ財布だった。

あれから、まるで遠のくことを知らなかった客足は全てのケーキが売れるまで途絶(とだ)えず、そのうえ頼みの(つな)はいつの間にか(かげ)も形もなく立ち去ってしまったので、自分も含めた従業員は大多数が(しかばね)のように閉店作業をおこなっていた。その分、予想以上の売れ行きに気を良くした店長が事前に知らされていた金額からさらに上乗せしてくれたのが唯一の救いで、それなりの達成感を抱いて帰路に着いたのだが、静まっていった街並みの住人は男女平均が限りなく均等に近く、男女のペアが肩を並べて仲睦(なかむつ)まじく歩いている現状を(かえり)みると、どうしても若干の(さび)しさが冬の寒さと共に身に染みてくる。

この現象はケーキショップに訪れていたお客さんの種類で、なんなら情報としてはずっと前から知っていたのだが、ケーキを買いに来た人たちの中には家族連れも多かったし、そもそもクリスマスのこの時間帯に外に出ることなど今の今までなかったので、ここまで胃もたれしそうな空間だったなんてまるで想定していなかった。

自然と足取りが早くなるなか、聞いているだけで恥ずかしくなってくる言葉がするりと耳に忍び込んで来るたびに、胸から()き上がってくる共感性羞恥(きょうかんせいしゅうち)が表に出てくるのをなんとか阻止(そし)していると、自分が周囲の男女と同じ関係を(きず)いている1人の女の子の顔が頭の中に(えが)かれる。今日は友達と遊ぶと満面の笑みで()げられてしまえば、後出しで一緒に過ごそうなんて口が()けても言えなかった少女は、今も自分に向けていた表情でいられているのだろうかと、考えなくてもわかる問いを真剣に考えてしまい、胸に蔓延(はびこ)るセンチな感情を長い吐息と共に外に追いやった。明るい街並みの中を周りの人たちは複数で楽しんでいる状況が自身の孤独(こどく)(きわ)どさせた結果、知らぬうちに思考が下向きになっているのかもしれない。

こういう日はさっさと帰って寝るに限ると、過重労働(かじゅうろうどう)(さら)され(よわ)足腰(あしこし)(むち)打とうとした時、紺に塗りつぶされた空の下だろうがお構いなしの大きな声で名前を呼ばれる。声の持ち主を頭に想起(そうき)し、驚愕(きょうがく)と共に振り返る、そんな僅かなアクションを敢行(かんこう)するのさえ(はさ)(ひま)なく、背に強い衝撃(しょうげき)がぶつかってきた。

疲労が溜まりに溜まった足がその負担に耐えられるはずもなく、呆気なく地面にうつ伏せたこちらに、歌声を聞けなかったのを悔やみに悔やみ、先の思慮(しりょ)を参照すればここにいるはずがない少女が、実に不思議そうに首を(かし)げている。

「どうしたの?もしかして疲れていたかしら?」

コンクリートに叩き付けられ、訪れた長い痛みの余韻(よいん)をなんとか弱音ひとつ吐かずにやり過ごし、まあそんなところだと、こんな体勢でナチュナルに会話をし始める自分に違和感を覚えながらも答えるこちらに、相変わらずボリュームのつまみを回すことなく彼女は言葉を(つむ)いだ。

「それは大変だわ!そうだ、歌を歌いましょう!歌えばきっと元気になるわ!」

(にご)りのない金色の(ひとみ)で断言する少女が本格的に歌い出す前に、とりあえずどいてくれないかと、(いま)だ背に馬乗りになったままの少女に伝えたところ、少女は大きな返事の次には勢いよく立ち上がった。弱った体には十分凶器な重量が取り除かれたことに一息ついてから、彼女とは相反するよろめいた起立をする。

胸にはジリジリとした痛みが残っているが、冬の中でも今日は特に寒さが激しい(ゆえ)に厚着をしていたことで出血等はなかったのを不幸中の幸いとして、この件は頭の(すみ)に追いやると、目の前の少女、弦巻(つるまき) こころに、今日はライブ終わりにみんなと遊ぶはずだったのになぜここにいるのか訊ねると、金色の長髪を背に流している少女は、とても満足げに告げた。

「パーティなら昨日やったわ!とっても楽しかったわよ!」

それはよかったなと返答しかけてから、なぜにここにいるのかという問いに対する答えが手にできていないことに気付き、もう一度言及(げんきゅう)を重ねようと口を開きかけたところで、周囲の視線がこちらに集まっているのを肌身に感じ、視界を左右に揺らすと、案の定注目を集めに集めていた。

あんな派手に押し倒された現場を目撃されれば、無意識下でも視線がそちらに固定されてしまうのは自然な事象なので、周りの人たちに文句を言うつもりはないし、イロモノを見るような不快な肌触りのものは一切ないのだが、流石にここまで注目の的になっているのにも関わらず、立ち話ができるほどハートが強くはない。目の前の少女は、まるで意に介さずに笑顔を浮かべ続けているが。

とにかく、この状況に自分は耐えられないので、彼女の手を引いてとりあえずこの場を去り、人目を()けたと確信してから道路沿いの道にあった人混みに(まぎ)れたが、ここから先に残念ながら行く当てはひとつもない。中断された話を再開するだけなら、近くのカフェやなんなら自宅に帰る途中でも可能だが、返答がフランクなものでなかった場合、その答えが公共の場に流れてしまうという危険がある。

自分のような一般人なら気にしすぎだと一蹴(いっしゅう)できるが、彼女はチケット抽選落選者が結構な数出るほどには人気バンドのボーカル(けん)リーダー、しかも半端ではないレベルの裕福(ゆうふく)な家の一人娘という、気を張る理由にこれでもかと囲まれた立場なのだ。正直、さっきの騒動(そうどう)で彼女になんらかのマイナスなイメージが付かないか、遅まきながら内心冷や汗をかき始めてしまっている。

しかし、あとのことはもうどうにもならないので、せめてそれを繰り返さないよう、彼女がこの場にいる訳を知るのは少し先延(さきの)ばしになってしまうが、続きは自宅で聞こうと決め、彼女にも同意を求めた。

「もちろんいいわよ!早速行きましょう!」

拒否するわけないと言わんばかりの眩しい笑顔で即答する彼女と一緒に駅に向かうべく、頭の中にここ周辺の地図を広げていると、突然、右手のうちにあった心の手のひらから伝達していた温もりが、一層強く伝わってくる。

ここ最近でもわりと寒い部類に入る今日に、なんの対策もせずに白い肌を晒す華奢(かしゃ)な手を無意識に握り返すと、いつの間にか肩の()()いが起きるくらいの距離まで身体を()()わせていた彼女は(ほの)かに、だが確かな朱色(しゅいろ)を宿らせた(ほお)を緩ませた。先の元気いっぱいの笑顔ではなく、しっとりとした柔らかな微笑(びしょう)

先の周囲の目を気にする云々を考慮(こうりょ)する余裕を、子供のような無邪気さが目立つ彼女が時折見せる女性らしい挙動(きょどう)(うば)われ、いつまで経っても慣れることのない心臓が不規則に飛び跳ねて身体にじんわりと熱を回す。

普段通りの元気な振る舞いでこちらに話しかけてくる、こちらの胸の(うち)をひとつの表情で振り回した少女と歩いた帰り道は、最初にこの道を辿(たど)った時の風景とは違って見えた。

 

何故かやたら気疲れしたように思える帰路を最後まで歩き終えて自宅に着いた頃には、夜はすっかり更け、目がチカチカするほど壁を(いろど)らせていたイルミネーションは、星の光が(せめ)ぎ合える程度までその輝きを薄めていた。普段ならこんなに帰宅が遅くなってしまうと、両親に(そろ)って大目玉を食らうのだが、今日は今頃、結構な値段のするホテルの窓から夫婦水入らずで夜景でも楽しんでいるはずなので、周囲の家にあった明るい光も和気藹々(わきあいあい)とした声も窓からこぼれ落ちてはこない。

「お邪魔するわよー!」

バイトの肉体的疲労ものしかかってすっかり満身創痍(まんしんそうい)なこちらとは正反対に、身体中から元気を満ち溢れさせているこころは、自分が覚束ない手つきで(かぎ)を回して開けた(とびら)の中へと飛び込んだ。当然(つな)いでいた手は(ほど)けていて、どこか寂しい気持ちを玄関まで行き届いていた人工の熱風で空の手のひらを暖めていると、開きっぱなしだった玄関すぐのリビングへのドアから、金髪の少女が顔を(のぞ)かせる。

挨拶(あいさつ)しようと思ったのだけれど、あなたのお父さんとお母さんが見当たらないわ」

少し残念そうに首を傾げる彼女の言葉に苦笑いしつつ、両親の不在とその理由について話すと、こころは金色の長髪を飛び跳ねさせながらこちらの前に駆けてきた。

「じゃあ私たちも同じことをしましょう!そうね…、まずはなにか食べましょう!私、ケーキが食べたいわ!」

こちらの良否(りょうひ)を確認する前に彼女は強引に手を取り、抵抗する体力の残っていない自分を容赦(ようしゃ)なくリビングへと引っ張っていくと、疲れひとつ見えない笑顔を咲かせてから目的を開示(かいじ)した。

突然のリクエストに少々面を食らいつつも、現在進行形で稼働率(かどうりつ)が低下中の頭を使ってなんとか彼女の意図を()()るべく努力した結果、彼女は両親が今日したものを辿りたいのかもしれないという漠然(はくぜん)した予想が浮かび上がってくるが、それがここで達成できるかどうかが心配でしょうがない。なんせ、この家には高い食材や腕の良いコックもいなければ、窓から外を眺めても変哲(へんてつ)のない住宅街が見えるだけなのだから。

しかし、それで彼女が他のなにかをしようと言い出すとは思わないので、なるようになるだろうと、若干の(あきら)めを()()ぜながらも肯定(こうてい)の意を示したこちらに、彼女はもう一度笑顔を(ひらめ)かせてから冷蔵庫へと早足で向かっていく。

なにか作る気なのであろうこころが冷蔵庫を開けるのと僅かな差で彼女に追いついた自分が、それなりの期待を持って中を覗くと、そこには予想を遥かに凌駕(りょうが)する光景が広がっていた。

・・・なにもない。肉も、魚も、野菜も、面影(おもかげ)ひとつ存在しなかった。内容物が0にならない苦し紛れのように存在する卵と牛乳以外は、料理の材料になりそうなものは存在しない。両親は、1人残した子供の晩ごはんをどうするつもりだったのか。

今すぐ電話して問いただしたかったが、そうしてもこの惨状(さんじょう)を打破できるわけではないので、湧き上がってくる欲求をグッと堪えていると、金色の長髪を持つ少女の顔色が些細(ささい)にだが確かに(くも)った。

「・・・なにもないわね」

ここ最近どころか彼女と出会ってからでも片手で数えられる程しかない感情の沈みを(さっ)した途端、両親への不満など綿(わた)くずの(ごと)く吹き飛び、彼女の笑顔を取り戻すことを最重要ミッションに設定して台所のあらゆる場所を(あさ)り始める。

調味料や即席麺(そくせきめん)という、(たな)に並べられた少女の要望に応えられなそうな物を()()けて数分、奥にひっそりと存在した可能性に手に取ると、念のため賞味期限が切れていないことを確認してから、冷凍庫や野菜室も探していたこころにそれを見せた。

「・・・ホットケーキミックス?一体なにかしら?」

まさかのホットケーキを知らないこころに驚愕を覚えたが、よく考えてみればホットケーキは庶民(しょみん)のおやつというイメージがあるので、彼女が知らないことにそこまで大きな違和感はないように思える。それにこころの場合、クリームやフルーツを豪勢に飾りつけたホットケーキの上位互換である、パンケーキの方が所縁(ゆかり)のあるものかもしれない。

しかし、名前にケーキと付いているだけで、彼女の下向きになっていた気持ちを持ち上げるには充分だったらしく、瞳のうちには未知への好奇心が(きら)めいている。

その期待に少しでも応えられるポテンシャルが、ホットケーキに秘められていることを祈りながら、冷蔵庫の中にあった食材へと手を伸ばした。

 

最初は絶望的だと思っていた晩ごはんは、自分が見つけたホットケーキの他にも、こころの興味を()いた冷凍食品や即席麺の(たぐい)が並べられたため、想定していたものよりかは随分(ずいぶん)と豪華なものとなった。食卓に並べられた茶色い食べ物たちを(から)の胃袋に次々と詰め込み、多大な満足感を得られたのだが、お腹が膨れた途端に強烈(きょうれつ)睡魔(すいま)が意識を落とそうと(おそ)いかかってくる。

時より大きなあくびを挟みながら、頭を支えるので精一杯になっている自分がソファの背もたれに体を預けていると、まだまだ元気そうなこころがすぐ隣にどさりと腰掛ける。楽しそうに舌鼓を打つ姿が(もや)のかかった意識の中でも形を(たも)って残っている少女はいつ帰るのだろうと思って時計の針の位置を(うかが)うと、もう既に日付が変わるまで1時間を切っていた。

いくら寝ぼけていても、年頃の女の子がこんな時間に異性の家にいるのがマズいことだと判断する知性は健在(けんざい)で、背に(つた)う冷や汗のおかげで眠気が流され、回るようになった口で帰らなくても良いのかこころに訊ねると、彼女は表情ひとつ変えずに(さら)なる驚愕をこちらに与えた。

「今日は泊めさせてもらおうと思うの!家にはさっき電話したから大丈夫よ!」

もう酷使(こくし)することを予想せずに閉まりかかった(のど)が、突如と噴き上がった感情に対応するのに遅れている(かん)、彼女はなにか思い出したかのように両の手を合わせて音を出す。

「そうだ!見せたいものがあるの!」

それより先に急に決まってしまっている宿泊の件についてしっかり論議(ろんぎ)したいのだが、相変わらず強引に手を引かれ、白いレースに隠された窓の近くまで連れて行かれてしまう。

彼女の無茶振りに巻き込まれるのはもう慣れ切っているし、何なら楽しいことも多いので許容可能なのだが、今回ばかりは実行する前に相談してくれと、彼女にお願いする目的で吸い込んだ息は、一気にカーテンを取り払われたことにより(あら)わになった外の景色によって飲み込ませた。星が散りばめられた夜空をバックに並ぶ、明かりの(とも)された家々。普段の風景に純白(純白)の雪がゆったりと舞い降りてくる。

しばらくのあいだ、突然訪れたホワイトクリスマスに見入ってしまっていたこちらに、こころは大きく湾曲(わんきょく)させた口で言葉を紡いだ。

「ようやく笑顔が見られたわね!」

彼女にそう指摘されてから、自らの口角がわずかながら上がっているのを意識し、思わず恥ずかしさに囚われてしまっていると、こころはにこにこしたまま、すっかり忘れていた疑問を紐解(ひもと)いてくれる。

「今日はあなたの笑顔が見たかったの!最近、元気がなかったじゃない」

ライブの抽選が当たらずに(へこ)んでいた状態に対する指摘に、思わずさっき自分がしたという笑みとは違う、苦々しい笑いが口から(こぼ)れるが、ひとつ(せき)を挟んでそうだったかなと、自分でもわかるくらい不自然に()(よど)んで誤魔化(ごまか)したものの、こころは下手な誤魔化し方にはかけらも気にかけず、こちらの言葉に返答を投げてくれた。

「ええ!だからあなたを笑顔にしてあげたかったんだけど、逆に私が笑顔にさせられちゃったわ」

笑顔を()やすことなどほとんどない彼女の発言を思わず、そんなことはないと瞬時に切り返してしまったが、再び女性らしい穏やかな笑みを見せ、こちらの心拍数を無意識に掻き乱す少女は、ゆっくりとかぶりを振り、こちらの意見を柔らかに否定する。

「他のみんなと遊ぶのも楽しいのだけれど、あなたと一緒にいると、みんなといる時とは違う気持ちになるの」

なんでかしらね。そう(つぶや)くのを最後に窓に写った少女の頬は、ほんのりと赤く染まっていて、彼女の心情を察せないわけもないが、少々迷って末にそれを口にする必要はないと静かに判断したあと、今日のツケが回ってきたのか、今までで1番の睡魔の波に飲み込まれた。

抗うのは不可能だと悟り、隣の少女にもう寝てもいいか懇願(こんがん)しようと口を開く前に、彼女はこちらに一瞥(いちべつ)をくれたのち、またもや突発的にこちらの手を握ってソファの前に引きずり戻すと、自分だけ端に座って膝をぽんぽんと叩く。通常時なら、なんらかのリアクションを起こすであろう仕草も、脳の8割強が寝ている状態では、羞恥よりも早く寝てしまいたいという欲求が(まさ)ってしまい、半ば倒れるようにして横たわり、彼女の(ひざ)に頭を乗せた。即時性の催眠でもかかったかのように急激に意識を手放すことを余儀なくされたこちらの髪を、こころはそっと右手で撫でる。

「おやすみなさい…、大好きよ」

彼女の(ささや)きに(おぼろ)げに返答したのを最後に(まぶた)を下ろすと、底知れない微睡(まどろみ)の奥に沈んでいった。最愛の人の温もりを、1番近くに感じながら。




こんにちは、エノキノコです。まずはこの小説を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
そして、前回までとはいかないものの、2週間強も待たせてしまい、本当にすみません…!連載当初は週1ペースで投稿できていたのにも関わらず、ここまで間が空くようになってしまった理由を自分でも考えてみると色々出てきてキリがないのですが、来月にはどうしてもやりたいことがあり、余裕のあるスケジュールにしたいので、今月はあと2話は上げたいとは思っています。次のヒロインはパレオちゃんの予定です。
最後に、お気に入り登録をしてくださった方々(名前の記載は省略させてもらいます。申し訳ございません…)、星8を付けてくださった敬助さん、星9の評価をしていただいた神埼遼哉さん(高評価に応えていけるよう、これからも努力させてもらいます!)、リクエストをくださった春はるさん(遅くなってしまい、本当にごめんなさい…!)、そして、後書きまで最後まで読んでくださったみなさん、本当にありがとうございました!!


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もしパレオちゃんと付き合っていたら…

立春(りっしゅん)してからそう遠くない休日。春が訪れたというにはまだまだ寒い日が続く中、ふと空を見上げれば、細い枝の焦げ茶とは対照的な薄い桃色が、確かに芽吹いて景色に彩りを与えていた。

肌を()でる(かわ)いた風も、近いうちに眠気を(さそ)う温かい春風(しゅんぷう)へと変化するのを期待しながら、上着の(えり)を引き寄せたくなる道を、その先に待っている人物に会うために辿(たど)っていくと、しばらくしてここ周辺で最大規模のショッピングモールが見えてきた。駅から近く、さらには休日の昼過ぎなことも相まって大勢の人が出入りする目的地は人で溢れかえっていたが、この場に誘った人物を見つけるのには、さして時間はかからなかった。

行き交う人々の進行を邪魔しないよう配慮(はいりょ)しているのか、大きめの自動ドアから大きく離れた場所で、辺りをきょろきょろしている少女へと近づき、純粋なピンクと水色の2色の長髪(ちょうはつ)をツインテールに(こしら)え、いつもは被っていない白いキャップのつばに隠れていたルビーの(ひとみ)と視線が交わると、少女の顔に(あわ)い笑みが浮かんだ。

彼女の笑顔に釣られて口元が(わず)かに(ゆる)んだまま、軽く手を持ち上げて挨拶を投げかけると、最近話題のバンドのキーボードを担当であり、自分と恋仲である少女、鳩原(にゅうばら) 令王那(れおな)は、にこやかにこちらの名前を呼びつつ、言葉を返してくれる。

しかし、令王那はそこから次なる会話に(つな)げることはせず、期待した眼差しを下から浴びせながら、普段からよく着ている白いパーカーに、ピンクの()末端(まったん)が空色のフリルで(かざ)り付けられたスカートの組み合わせではなく、黒ベースの(そで)が白いスカジャン、(ひざ)に届かない程度の白黒チェックが入ったスカートの上に、倍の(たけ)はある薄ピンクのレーススカートという、初めて見る服装を見せびらかしてきた。

最初のデートから毎回されるこの行動に、初めての時はどう対応すればいいか分からずフリーズしてしまったが、流石に何回か経験を重ねてきた今なら、何を要求されているかわかっているので、ひとつ()き込み()き上がってくる羞恥(しゅうち)(しず)めると、今日も可愛いよという、歯浮き立つことこの上ないセリフを口にした。

「ふふっ、ありがとうございます♪」

いくら言っても()れるものではない言葉に、彼女は実に満足そうな笑顔を見せてから、今一度自身の身なりをこちらに見せるべく、その場でくるりと一回転する。

玲於奈が(うれ)しそうならいいだろうと、いつもと変わらぬ納得の仕方で無意識に僅かな熱を()びていた頬の色を平常に戻してから、今日はなにをするのか(たず)ねると、令王那は満点の笑顔で答えてくれた。

「今日はゲームセンターに行きたいんです!バンドメンバーが話していたゲームをやりたいんですけど、2人で出来るものだから、キミとやりたいと思って」

いいですかね?そう確認してくる少女に()を開けずに(うなず)きを返すと、彼女はお礼と共に手を差し伸べてくるので、少しの緊張を胸の鼓動(こどう)に変換しつつ、自身の指を彼女の指と(から)めさせる。

これも、彼女と出かけている時には毎回していることなのだが、自分が初心(しょしん)なままだからか、それとも繋いだ手から送られてくる体温がそうさせるのか、どうしても(ほお)の色が赤みを増してしまう。目の前の少女が、(いと)おしそうに目を細めながら微笑(ほほえ)むのならなおさら。

「じゃあ、いきましょうか」

いつになったら慣れることかわからぬ自分に苦い笑みが(こぼ)しつつ、別に急ぐ必要はないという漠然(はくぜん)な考えの存在を頭の片隅(かたすみ)に確かに意識しながら、人混みの中を1人の少女と肩を並べて歩き始めた。割と頻繁(ひんぱん)に顔を合わせたり、連絡を取り合っているのにも関わらず、会話を途切れさせない彼女のトークスキルに内心脱帽(だつぼう)しているうちに、様々な音がごった返すゲームセンターに足を踏み入れる。

入り口付近に設置された両替機で、2人して一枚の札を10枚の金貨に変えたのち、律儀(りちぎ)に手を繋ぎ直してから周囲に視線を飛ばしつつ、彼女がどんなものをプレイしたがっているのか、周りのゲーム機を物色(ぶっしょく)しながら予想していると、令王那がひとつの筐体(きょうたい)を指差した。

「あっ!ありました!」

バンドやってるし音ゲーとかなのかな、などと、安直な予想しかできない自分の隣の少女がどこか(きら)めいている瞳に映したのは、迫り来るゾンビを撃ち抜くシューティングゲームだった。それなりの規模があるゲームセンターには、必ずあるんじゃないかと思うくらいメジャーなタイプのゲームだが、画面に向かって黒い無骨(ぶこつ)拳銃(けんじゅう)の引き金を(しぼ)る姿は、あまりにも彼女のイメージとはかけ離れていたので、思わずあれかと確認を取ると、可愛らしい色で全身をコーディネートしている少女は、躊躇(ためら)いなく首を縦に振る。

「はい、そうですよ。・・・もしかして、ゾンビとか苦手でしたか?」

彼女の問いにすぐさまかぶりを振ってから、なんか意外だったからと、胸の中になった感想を率直に()べると、令王那は(かわ)いた笑みを口元に宿した。

「ははは…、まあ、確かに私のイメージとは合わないですよね…。でも、私も意外とこういうのに興味があるんですよ」

たどたどしく湾曲(わんきょく)していた口端(くちはし)を、(またた)く間に自然な微笑(びしょう)へとすり替えて言葉を(つむ)ぐ少女が興味を()かれているのは、ゾンビか銃火器どちらなのか、そんな自分の疑問を令王那にぶつける前に、彼女は無人の筐体へと歩み寄り、迷うことなくお金を入れる。

盛大な電子音と共に切り替わった画面を見たのち、振り返った少女の瞳は、強めの光が飛び交うこの施設の中でも、確かに煌めいて見えた。

言葉にせずとも、早くプレイしたいと物語っているその視線に()てられた自分も、彼女に遅れて硬貨を投入すると、遊び方の選択画面でグレーアウトしていた2人プレイが、鮮やかな色素を取り戻してその存在を主張する。

ざっと見てみたが、十字キーや決定ボタンの類は存在せずに銃型のコントローラーが2つあるのみだったので、この手のゲームをやったことのない身としてはどうするべきがわからずに令王那へ視線を送ると、彼女は銃をホルスターから引っこ抜いて画面に向け、赤色のターゲットを銃口の先に出現させた。そのまま2人プレイのアイコンへターゲットを合わせて引き金を引くと、銃声と共に画面に操作説明が表示される。

令王那が進行方法を知っていたことにほっと胸を撫で下ろしつつ、操作説明を食い入るように凝視すると、特に複雑な操作が必要になるわけではなく、敵に弾丸に当てればダメージが与えられ、頭に当てればさらに大きくHPを削れる、残弾の6発を打ち切るとリロードされるまで攻撃不可というものだけで、全部で5つあるステージの奥に存在するボスを全て倒せばゲームクリアの、初見の人にもやりやすい設定となっていた。

「もう進めてもいいですか?」

ルールが飲み込めたところで、頷いて令王那に了承(りょうしょう)の意を伝えると、彼女は手早く引き金を引いてゲームを進行させる。あまりの手際の良さに、本当に初見なのか()いてみると、彼女は自慢げな笑顔を浮かべながら言った。

「ふふーん♪下調べはしっかりしてきましたから!全部のステージをクリアするつもりで行きますよ!」

自分の想像よりずっとやる気だった令王那が、 銃を握っていない左拳(ひだりこぶし)を天井へと(かが)げるので、自分も釣られて空いた手を控えめに持ち上げると、[GAME START]の英列と共に画面が切り替わり、荒廃(こうはい)した世界が現れる。

途端(とたん)に目に真剣な光が宿る彼女の足を引っ張らないよう、改めてひと呼吸を置いて気合を入れ直すと、()ちたビルの(かげ)から顔を出したゾンビにターゲットを合わせた。

・・・しかし、実力とは気合ではなく、経験や知識と直結するもので、どちらも持ち得ていない自分は彼女より先にHPが尽きてしまい、大部分を令王那1人で戦わせる事態となっている。

それはチャレンジ回数5回目となり、初めて3rd(サード)ステージを突破できた今現在もそれは例外ではなく、4つ目のステージ冒頭で容易(たやす)(ひね)られた自分の援護無くして、たった1人奮闘する令王那の図が今回も展開されてしまっていた。

しかし、元々2人プレイのゲームとして敵の数が設定されているため、1人で全てのゾンビを(さば)き切るのは困難なのも5回のプレイで(すで)にわかりきっていて、物量に押されて令王那のHPが削り切られ決着が着くということを繰り返している。

「あー…。負けちゃいました…」

画面に向けていた銃を下げる彼女が、回数を重ねるほどにしょんぼりしていくのを目の当たりにしていくと、罪悪感が無尽蔵(むじんぞう)に積み重なっていき、かいを増すごとに沈んでいくこちらの謝罪に対し、令王那はぶんぶんと首を振った。

「いえいえ!むしろ知らないゲームにここまで順応(じゅんおう)できるのはすごいです!私、何度も助けられてますし!」

助けた10倍は救われているのにも関わらず、優し過ぎるフォローをかけてくれる少女が直視できずにいる(あいだ)に、彼女は手に持っていた銃をホルスターにしまうと、両手を重ねて笑顔を作る。

「一旦休憩にしませんか?私、少しお腹すいちゃいました」

その提案を聞いた瞬間、こちらがお金を出して少量でも負債を返済しようと考え、久方(ひさかた)に平常時以上の早さで回る口でなにを食べるか訊ねた。しかし、令王那は少々前傾気味(ぜんけいぎみ)だったこちらの肩を(なだ)めるような優しい手つきで押さえ、口元には笑みを浮かべたまま話を進める。

「いえいえ、今日付き合ってもらってるのは私ですし、勘定(かんじょう)は私が持ちますよ」

自分が訊ねたのは食べたいものなのに、出費を(おぎな)う方はどちらかへ会話の(かじ)を切っている時点で、完全にこちらの考えを読まれて気を(つか)われているが、ここで彼女の優しさに甘んじるとそれこそメンツが立たないどころの話じゃないので、なんとかこちらが持つと必死に説得すると、彼女は少し不満そうな顔をしつつも首を(たて)に振ってくれた。

「・・・わかりました。なら、食べるものは君が決めてくださいね」

2度目の質問で今度こそ食べたいものはなにか訊き出そうとしていたこちらに、令王那は予想外の条件を突きつけてくる。正直、そんなことを言われても自分は今特段食べたいものがあるわけではないので、出来れば彼女に決めてもらったほうがこちらとしても助かるのだが、ここで彼女から無理に意見をもらおうとして勘定云々(うんぬん)の話に逆行するとマズいので、とりあえずこの条件を飲む方向に決め、ゲームセンターを出てすぐ近くにあるフードコートへと足を運ぶ。

ジャンクフード特有の空腹の自覚を誘う強烈(きょうれつ)嗅覚(きゅうかく)への攻撃に、盛大な腹の(おと)を人混みの喧騒(けんそう)に溶かしながら、今一度なにを食べようか考えてみるが、自分がともかく令王那がどこまでおなかが減ってるのかや、どんなものが食べたいかなどが一切の光明(こうみょう)がない。

こちらが選んだものでいいと言ってくれたのだから、その通りの采配を振るのが正解なのかもしれないが、どうせ食べてもらうなら、玲於奈がより喜んでくれるものを選びたいと思ってしまうので、自分の(いだ)いている彼女へのイメージで選ぼうと視線を巡らせる。

そんな自分勝手な疑いのある思考に(したが)って、出店している店舗(てんぽ)を見定めていると、ひとつのクレープショップに目が止まった。ショーケースに飾られた、女子受けがよさそうな可憐(かれん)な見た目のデザートは、今どきの女子である令王那が喜んでくれる姿を容易に想像できた。

しかし、休日の小腹が空いてくる時間帯だからか、短くない列がレジ前から伸びていて、さらにそれを形成するのは自分とは異性の人のみという、なかなかに違うお店を選ぶ理由を考えたくなる状況だが、あの場所以上に令王那を喜ばせられるような出店は見つけられないので、刹那(せつな)思慮(しりょ)の果てに、肌に張り付くであろう視線を()えることを決め、少し重くなっていた足を前へと動かした。

 

結論から言えば、周囲の反応は予想していたものよりずっと軽度なもので、自分の思慮が無駄に(はば)を取ったものだということを思い知った。

もしかしたら、令王那への配慮(はいりょ)もそうなのではないかと考えさせられつつ、完成を伝えてくれるアラームを2人分の代金と引き換えに会計の女性から受け取ると、長い間待たせている少女のもとへ早足で向かう。今日だけで結構やり込んだシューティングゲームの筐体付近で、変わらず自分を待ち続けてくれた令王那にかけようとした声は、彼女と会話を弾ませる2人の女性の姿を見て(のど)の奥底に引っかかった。

とりあえず足を止めて様子を(うかが)い、両者険悪(けんあく)とは無縁な雰囲気で話していることが確認できると、見知らぬ人に絡まれているわけではなさそうだと胸を撫で下ろすが、自分がずけずけ割り込んでいいのかわからず、思わず近くのクレーンゲーム機の影に身を隠してしまう。

(はた)から見たら完全に不審者(ふしんしゃ)なことを自覚しつつも、結局最後まで出ていけないうちに見知らぬ女性たちと令王那の会話が終わり、自分とは遠ざかる形で女性たちの背中が人混みに消えたその時、ずっと視界に収めていた少女の表情が僅かに(くも)った。

少し前まで顔に目いっぱい浮かべていた感情とは反転するその顔色に、床に張り付いていた靴底(くつぞこ)が持ち上がる。だが、いろいろな情報でごった返す空間にぽつんと(たたず)む少女へ駆け寄る寸前に、ズボンのポケットに入れていたアラームが、人声(ひとごえ)や電子音を押しのけて高々に鳴り響いた。

周りの視線が集まってくるのを肌身で感じながら、追い打ちをかけるように煌めく赤色の瞳と目が合ってしまい、じっとりとした汗が背に(つた)う。

確かに大きな音を響かせたのはマズかったかもしれないが、別に故意でした行為なわけではないしと、誰に言うものでもない言い訳を胸の内で零してから、口元を意識的に湾曲させて右手を振ったが、雑多(ざった)の中でも視界にはっきり映る少女は、帽子を目深くかぶり直すと、瞬く間に合間を詰めてこちらの手を問答無用に引っ張った。やっぱりなにかマズいことをしたらしいと、紛らわしていた直感が顔を出す。

自分の直感が針を刺す場所を探している(あいだ)も、ひと言も発することなく走り続けた令王那が、人波がある程度落ち付いた場所で足を止めると、こちらに向け続けていた背中を久方ぶりに隠した。同時に紅玉色の瞳がこちらを映すので、反射的に謝罪の言葉が喉から飛び出す。

「すみませんいきなり…ってええっ!?」

いまだ選定途中の謝る理由のうち、どれに対して彼女が苦い思いをしているのかがわからないまま頭を下げていると、困惑と焦り混ざり合い、どこか呆れがほんのり帯びた声が落ちてきた。

「・・・え、えっと、とりあえず顔を上げてください」

その通りに元の高さに戻した視線の先にいる少女は、声質と同じ感情が顔に示されており、続く言葉は隠し味程度だった色が幅を利かせている。

「なんであなたが謝ってるのかは割と予想がつきますけど…。私、別に怒っていませんよ」

完全に(きょ)を突かれてぽかんとしたこちらの表情に、小さくため息を吐いた令王那は、両手をこちらの頬に伸ばすと呆れた表情をこちらの視界に収めさせた。

いきなり距離を縮められて顔に熱を籠らせるこちらの瞳に対し、少女は一ミリたりとも目を逸らすことなく口を開く。

「私に気を遣ってくれるのは嬉しいです。でも、私のことを気にしすぎて自分の声を飲み込むのはだめですからね」

わかりましたか?そうひと(きわ)近づいて念押しをしてくる彼女に、首をこくこく上下に振ると、彼女は満面の笑みを浮かべて頷いた。彼女は己の温度をこちらの頬から離すと、いまだに体温が上振れ気味なこちらに固定されていた視線を左右に動かしたのち、なにかを誤魔化(ごまか)すかのようにはにかむ。

「あの、すぐに連れ出してしまった私が言うのは変かもしれないですけど、・・・さっき鳴っていたアラームは確認しなくて大丈夫ですか?」

ほとんど意識の外に追いやられていたことを指摘され、硬直、焦りの思考の緩急(かんきゅう)を刹那におこない、慌ててクレープの呼び出しを無視しっぱなしになっているのを伝えると、彼女はまたもやこちらの手を引き、走ってきた道を駆け抜けるための一歩を踏み出した。

「なら、早く受け取りに、他にも楽しいことをいっぱいしに行きましょう!」

ついさっき同じように連れられたのにもかかわらず、重心が前のめりになるこちらへ、ちらりと見せた少女の表情は、目を細めるほどまぶしい笑顔だった。

 

「はぁ~、今日は楽しかったですね~…」

すっかり紺色に染まった空の下で、一人の少女は月に背を向けて器用に歩きながらぼそりと呟く。

文末に若干の哀愁(あいしゅう)を漂わせているのは、少し生地が固くなったクレープを胃袋に収めたのちに、さんざん苦汁(くじゅう)を飲まされたシューティングゲームで初の4th(フォース)ステージまで進めたものの、あっさりと二人して瞬殺されたからだと思われるが、それにしては言葉に悔しさの面影を見せていないのは、手こずった壁を乗り越えられた達成感なのか、それとも、リベンジの機会を近日中に設けたからなのか。

ゲームオーバー画面の前で令王那と約束を交わした時を、霧雨状(きりさめじょう)の疲労が広がる脳内でぼんやり思い出していると、思考の隅っこのほうで引っかかってるなにかに気づき、まどろっこしい欠片を拾うべく手を伸ばすが、形のあやふやな記憶は中々捕まらない。そんな欠片を引っかからない指先に近づけてくれたのは、歩幅を縮めた令王那が投げかけた言葉だった。

「今日は私に付き合ってくれて、ありがとうございました。すごく連れまわしてしまったので、迷惑だったかもしれないですけど…」

乾いた笑みを響かせる令王那に、大きくかぶりを振る。連れ回されたと言えば二重の意味でそうかもしれないが、それで迷惑なんてことは絶対になく、むしろ今日一日楽しめたので、むしろこっちが感謝したいくらいなのだから。それに元はといえば、バタバタした理由を作ったのは自分で…。

そんな思考を流動的(りゅうどうてき)に口から出していると、届きそうで届かなかった破片が手のうちに転がり込んできた。一片の記憶は、喧騒に包まれた場所で自分の知らない人と話し、そのあと1人悲しそうな表情を浮かべる少女の横顔を呼び覚ます。

鋭利(えいり)な感情が胸を突っつき、さっきまでの饒舌(じょうぜつ)さが嘘のように黙り込んでしまった。そんなこちらを見て令王那は心配してくれたのだろう、俯き気味になっていた顔を(のぞ)いてくるが、痛みと共に心の奥から湧き上がってきたこの疑問をどうするべきかわからず、彼女の視線を避けようとするものの、視線を逃がす前に両の頬が捕まってしまう。

「またなにか我慢しようとしていますね!」

若干の痛みを与えながら左右への伸び縮みを繰り返させて令王那は自白を強要させてくるが、こればかりは本当に言っていいのか断言できない以上、我慢比(がまんくら)べを持ち掛けるほかない。

「・・・まあ、そこまで言いたくないならいいです」

そう腹を決めかけた矢先、眼前の少女はやけにあっさり手を降ろした。同時に口から飛び出た字面(じずら)は不機嫌さを(かも)し出していて、テンポの上がった心臓が、冷たい汗を肌に伝わせる。

閉ざしていた口をすぐさま開き、思いっきり頭を下げながら謝罪をするが、少女はあくまで変わらぬトーンの声を頭に投げかけた。

「・・・あなたがここまで気を遣うってことは、何か理由があるってことですから。別にそこまで気に病む必要はないですよ」

だから頭を上げてくださいという、少し柔らかくなった声のままにしたのち、どこかで話せたら話したいというセリフの代わりに、謝罪の言葉を重ねるこちらへ、令王那は呆れと諦めがブレンドされた吐息で返答する。

本当は一度飲み込んだ言葉を伝えたい。しかし、彼女の優しさに甘えた結果、彼女を傷つけることだけは、絶対にしたくないのだ。

—本当に、ごめん…—

それでも、本質は令王那を想っての意思決定だとしても、彼女からしてみれば交わしたばかりの約束を破られたわけなのだから、こちらが責められてもなんの不条理もない。

そんな思考だけが頭の中にぽつんと残っている状態で零れた声は、泣きじゃくる子供のように情けなかった。それでも、それでも、ただ謝罪の言葉を重ねるしか、彼女に誠意の伝える方法を、今の自分は思いつかない。

「・・・ごめんなさい。ちょっと意地悪でしたね」

突如ぐいっと顔を持ち上げられ、もう一度同じように震わせようとした喉にあった空気が、胸の奥へ還っていく。視界の全てを独占する少女の表情は、胸に詰まる感情が涙になってしまいそうなくらい優しいものだった。

「私がキミに意見を伝えて欲しいのは、キミに苦しくなってほしくないからです。口に出すのが嫌なら、無理やり言葉にしないでも大丈夫。私は、キミに笑ってて欲しいだけですから」

そう言う少女の微笑みに連れられるまま、自分も口元に笑みを宿す。それは酷く不恰好なものだったが、令王那は満足気に大輪の笑みを見せると、こちらの腕に自らの手を絡めて身体を預けてくる。

寒さ引き立つ夜でさえ、強い熱を分けてくれる、少し駆け足気味で、とても愛おしいリズムが、ずっと隣にあるよう願いを込めて、少女と手を強く繋いだ。いずれ大輪へと成る未熟な(つぼみ)が、夜風に吹かれて大きく揺れた。




こんにちは、エノキノコです。まずは、この小説を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
そして、本当にお久しぶりです…!前回の更新が7月11日ですから、実に40日も待たせてしまい、誠に申し訳ございませんでした…!!お気に入り登録も減ってるだろうと覚悟しておりましたが、むしろ増えていてびっくりしました…。こんな筆の進みが遅い作者を見捨てないでくれた読者の方々には、本当に感謝の念でいっぱいです。本当にありがとうございます!
そして、次の投稿なのですが、おそらく来週中には上げます。色々と初の試みをしてみているので、皆さんのニーズに合うかは分かりませんが、良ければ楽しみにしていてくれると幸いです。
最後に、お気に入り登録をしてくださっている皆さん(これからもよろしくお願いします!)、星8を付けてくださったテレフォン31さん、春はるさん(高い評価を付けていただき、光栄です!)、星10評価を付けてくださった碧翠さん、でっひーーさん、おたか丸さん(投票できる数に限りのある星10が知らないあいだにここまで増えていることに驚いてます…!)、感想をくださった春はるさん、ポッポテェ…さん(作者の励みになっています!)、そして、久々の後書きを最後まで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございました!!


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もしリサ姉が付き合っていたら…

※このお話は[もしリサ姉と付き合っていたら…]の続きになるよう意識したものなので、未読の方はそちらを先に一読することをオススメします。


最初に浴びた時には早く終わるよう願った灼熱(しゃくねつ)の日差しも、気づけば暑さの上限を緩やかに下げていき、それに伴うように耳が痛くなるセミの合唱も少し落ち着きを見せてきた月末間近。それでも両者共々(りょうしゃともども)、行き交う人々の顔をしかめさせるほどには残っている力を存分発揮していたが、陽が落ち月が昇れば、その喧騒は嘘のようにすっと静まり返っていた。

「はぁ…」

数多(あまた)の星が(またた)く夏の夜空を窓の外に、物静かなエアコンが吐き出す冷たい風が充満した自室のベットに仰向(あおむ)きで寝転がっていると、日が沈む寸前まで打ち込んだバンド練習で集中力の欠如(けつじょ)を何度も指摘されたことを思い出し、心に重い(なまり)が沈み、生まれた波紋(はもん)がため息となって口から(こぼ)れる。

今日だけではなく、1週間前から何度も()れ出している吐息(といき)既視感(きしかん)を覚えつつ、このままではいけないと1人改善を(こころ)みてはいるのだが、それが振るわない結果に終わっているのは、今の状況を(かえり)みれば明らかだった。

このまま1人で悩んでも状況は好転しない、それは分かっているし、なら誰かに助けを求めればいいということも理解してはいるのだが、この悩みを誰かと共有するのは少し、いやかなり恥ずかしい。

「彼氏に会えなくて(さび)しい、なんてなぁ…」

他者のいる空間では絶対声に出来ない悩みをぼそりと(つぶや)き、カーテンを隙間(すきま)()く閉めた窓の向きへ静かに寝返(ねがえ)りを打つと、ずっと頭の中で居座り続ける悩みの根源(こんげん)になっている、2週間前、大切な少年と共に赴いた海での出来事を、ぼんやりと追走し始めた。

—最初は、ただ彼と一緒に出かけたいだけだった。アタシにはRoseliaの練習やコンビニのバイトがあり、夏休みと言えど無くなることのない予定は彼と過ごす時間を確実に圧迫(あっぱく)してしまう。そのため、完全にこちらの都合で会えない日が続き、申し訳なさで押しつぶされそうだった時期に、偶然、丸1日彼と過ごせる日が確保出来た。

急激(きゅうげき)に跳ね上がったテンションのまま、彼と一緒に海へ行く計画を立てて、手作りのお弁当や飲み物まで持ち込み、思いっきり楽しもうと砂浜を踏んだ矢先、顔見知りの海の家店長が、唯一の繁忙期(はんぼうき)に2人も病欠で人員に穴が空いた問題を抱えて、以前にも同じような状況で手伝った経緯(けいい)を持つアタシに泣きついてきた。

目の(はし)湿(しめ)らせる筋肉隆々(きんにくりゅうりゅう)の男性が頭を低くし懇願(こんがん)する(さま)はいかに事が深刻だと物語っており、反射的に助け(ぶね)をだしたくなったのだが、一緒に来た少年とちょうど着替えで行動を別にしており、自分単独で決めれる状況ではない。そんな現状を店長に伝えようとした寸前、このやり取りをナンパだと勘違いした彼が駆け付け、創作物(そうさくぶつ)顔負けのセリフを店長に吐き捨てた。

幸いすぐに誤解は解けたものの、羞恥(しゅうち)のあまり2人して顔を合わせられないうちに、デートの横槍(よこやり)は入れたくないと足早に持ち場に戻りかけた店長を無理やり引き留めて、人員の穴を埋めることを承認させるという、今考えればなかなかに奇妙(きみょう)な過程で手伝いに入ったわけだが、あそこでもし店長の好意に甘えていれば、彼と思いっきり遊ぶことが出来ていたのだろうか。

「・・・でもまあ、無理だっただろうなぁ…」

あんな空気感では間違いなく場が持たず、ただ時間を浪費(ろうひ)して気まずい空気のまま帰る光景しか想像出来ないし、万が一空気を入れ替えられたとしても、困っていた店長を手伝わなかったことが心のどこかに引っかかって真に楽しめなかったであろう。だから結局、あの選択が最善だったはず。

しかし、理屈(りくつ)として分かっていながらも、最後までその理屈を押し通すことができないのは、仕事終わりの食事の場で、1ヶ月の間の仕事を手伝ってほしいという唐突(とつとつ)な勧誘を、スケジュールがカツカツで断った自分と反して少年が引き受けたからだろうか。

わざわざ毎日電車を乗り継ぐわけにもいかないため、店長の家で寝泊まりすることになる長丁場(ながちょうば)の仕事を彼の両親が電話越しであっさり許可したとなれば、自分がどうこう言えることはないのだが、彼の予定がバイトで埋まってしまったことにより、今年の夏はもう一緒に遊べないのはもちろん、直接顔を合わせるのすら少し難しくなってしまった。

それでもメッセージも届くし電話も通じるので、最初のうちは今までとあまり変わらないと自分を誤魔化(ごまか)し、彼を応援していたものの、調子は段々と下り気味になって現在、会う友人全員に心配されるくらい調子は目に見えて(ひど)くなっている。

だが、いつまでも(へこ)んでいるわけにもいけない。夏休みが終盤(しゅうばん)だろうとお構いなしに予定帳はバンド活動やバイトのシフトで()()くされているし、それらにいつまでも集中できないのはかなり問題なので、明日こそ気持ちの流れを元に戻せるよう、今日は早めに眠ってしまうことに決め、部屋の照明を消して視界を閉ざす。

しかし、何度(かか)げたかわからない目標は、その勢いを空回らせて意識を手放すのを阻害(そがい)してしまう。結果、(じれ)ったいほど遅鈍(ちどん)な足取りで歩み寄ってくる睡魔(すいま)が、永久とも思える長い道のりを辿(たど)ったのちにこちらを眠りの大海へと導くのを、暗がりの中1人待ち続けた。

 

結局あんまり寝た気になれないまま夜が明け、(さわ)がしい太陽が顔を出す。どんな位置を陣取(じんど)ろうと関係なく重苦しい熱波(ねっぱ)を与えてくるそれに、ひとつふたつの愚痴(ぐち)を内心で零しながら出勤したバイト先は、少し肌寒いほどの冷気を充満(じゅうまん)させていた。

家なら衝動(しょうどう)()られて脱力してしまうところを、職場だからと胸に詰まった息を小さく吐き出すに(とど)める。従業員以外立ち入り禁止の扉の向こうへ足を踏み入れ、支度を済ませて昨晩(さくばん)の決心を今一度確認すると、気持ち新たに肺の中を入れ替え、早速休憩室を後にして仕事に取り掛かった。

切り替えがしっかりできたおかげか、今日は集中力が短いスパンで途切れることはなかったが、それでもふとした時に彼のことが頭によぎる。そのたびに仕事に没頭(ぼっとう)して誤魔化すのを繰り返すうち、最も(いそが)しい昼下がりまで時間は進み、思考を}掘《ほ》り()げる余裕などなくなっていった。

「ご来店ありがとうございました!またのご来店をお待ちしております!」

所有権の(うつ)った商品を手渡したお客さんが、軽快な音楽と共に開く自動ドアの先へと消えていくのを笑顔で見届ける。(あふ)(かえ)っていた客足が久方(ひさかた)ぶりに途切れたのを、眼前(がんぜん)に商品が置かれないことで実感すると、肩の力を抜くと同時に喉に詰まっていた息を吐きだした。

仕事のかき入れ時の関係上、お昼ご飯が入っていないお腹は、少し力を入れていないと大きな音を響いてしまいそうで、遅めの昼休憩を検討するも、仕事に集中していた時には片隅(かたすみ)に押しやっていた悩みの種が思考容量をたちまち(むし)ばみ、たちまち芽を伸ばしていく。

「・・・いけないけない!今は仕事中だし、集中しないと!」

どんどん下降(かこう)していく気持ちをリセットすべく、ぶんぶん頭を左右に振ってみるものの、そんな容易に制御できるものならこんな長い期間悩まされていない。

重ねるたくて重ねたわけじゃない経験は、止まる予兆もなく育ち続ける不安をこの場でどうにかできないものか四苦八苦しながら考えるより、無難に仕事に打ち込んだほうが意識を逸らせるという結論にたどり着かせるのみだった。

「もうひと働き、しちゃいますか~…」

「・・・つーっと」

「ひゃわっ!?」

気を紛らわせるべく商品の品出しをしようとした直前に、背後からいきなり首筋をなぞられる。身構えていなかった自分は思わず変な声を出してしまい、その様子を同じ学校の1学年下の後輩で、同僚の中でも特段気を許せるバイト仲間の青葉 モカが、後ろに向けた視線の先でしてやったりとほくそ笑んでいた。

「だめですよリサさーん。モカちゃんの前でそんなぼーっとするのは、いたずらしてくれって言ってるようなものですから~」

「えっ、そんな気が抜けてた?アタシ」

言われるほど集中力を欠いていた自覚のないアタシが、つつかれるや否や間髪入れずに問いを投げかけると、モカはゆったりとした口調とは裏腹に、すぐさま答えを投げ返す。

「はいー。何度か声かけても反応が返ってこないくらいぼーっとしてましたよー」

「ほ、ほんと?無視してごめん…」

どうやら仕事に集中するあまり、他のものに気を()くことができなかったらしい。重症な自分の|容態に若干のショックを受けつつ、口から零れた謝罪の言葉を受けたモカは、わざとらしい泣きまねをしながら言葉を紡いだ。

「モカちゃん傷ついちゃったなー。これはリサさんのお弁当のおかずをひとつ、いや、ふたつはもらわないと立ち直れないな~。・・・というわけで」

「ちょ、モカ!?」

こちらが返事をする前に、するりとこちらの背後に回ったモカに背を押され、問答無用で休憩室へと歩を進ませる。彼女の咄嗟の行動にあたふたしている合間に、誰もいない部屋に足を踏み入れたアタシへ、マイペースな少女は催促(さいそく)の言葉を投げかけた。

「さあさあ、早くお弁当出してくださいね~」

未だ整理をつけられていないアタシを差し置き、モカは自分のロッカーを開け、自身の昼食を両手に抱えてこちらを向くと、胸に抱く4つのパンを近くにある机に散りばめ、席に着く。いくらパンが好物とはいえ、女性にしてはだいぶ多い昼ご飯を映していた緑色の(ひとみ)が、じっとこちらに視線を飛ばしてくるので、ようやく落ち着きを取り戻しつつあったアタシはオレンジの巾着(きんちゃく)を手にモカの(となり)に腰掛けると、巾着の口を開いてお弁当を取り出した。

「おー、相変わらずおいしそうですねー」

「そ、そうかな」

あまり手の込んだものは入れられなかったお弁当の中を吟味(ぎんみ)したモカは、数少ない手作りである卵焼きをどこからか持ってきた割りばしで拾い上げ、ひと口で頬張る。

口端を仄かに持ち上げる彼女の表情からして、失敗せず作れていたのをくみ取れて内心ほっとしながら麦茶を(あお)っていると、メロンパンに大きな歯形(はがた)を作った少女が、口元に付いたクッキー生地を親指に移して舐め取ったのち、思いもよらない言葉を投げかけてきた。

「それで…彼氏さんとなにかあったんですか~」

「んんっ!?・・・な、なんのこと…?」

今胸の内にある悩みを的確に撃ち抜いた質問により、口に含んでいたお茶が気道へと舵を切りかける。それをなんとか阻止して本来の進路に戻したのち、もはや手遅れな素面に(つくろ)ったが、そんなものを気にかけることをせず、彼女は言葉を紡いだ。

「前にリサさんバンドのことで悩んでたじゃないですかー。ここ数日のリサさん、あの時のすごい思いつめた顔と似た表情してるなーと」

普段は飄々(ひょうひょう)とした雰囲気を(まと)わせる同僚が、(まれ)にしか見せないまじめな表情でこちらへ詰め寄ってくる。全てを見透かすような瞳で射抜(いぬ)かれてしまえば、言い逃れは無理かと思い、(くちびる)に重量を感じながら正直に全てを話し始め、彼との悩みについて嘘偽(うそいつわ)りなく告げると、モカは情報をかみ砕くように数回頷き、やがて(ひと)(ごと)のようにボソリと呟いた。

「リサさんは、もう少しわがままでもいいと思いますけどねー」

「えっ…」

すぐ空気に溶けて消えてしまった言葉は、アタシの意識の奥深くで大きな残響(ざんきょう)をもたらす。わがままでいい、それはアタシが彼にしている態度の改善(かいぜん)を指していると思われたが、見慣れぬ場所で奮闘(ふんとう)している少年に対し、そんな態度を取っていいのかわからず困惑したアタシの思考は、更なる助言を眼前(がんぜん)の少女に求めた。しかしモカはそれ以上話を続けることなく、代わりにひとつの問いを口にする。

「今日何日か、覚えてますか?」

「えっと…、8月の24…だっけ」

さっきの(つぶや)きについて(たず)ねようとしたアタシより一手早く質問を投げかけるモカに言葉を()まらせつつも、質問に答えるべく急遽(きゅうきょ)引っ張り出した今日の日付を恐る恐る言葉にすると、なにか心当たりはないか質疑を重ねてくる。口にした日にちに間違いがなさそうなことに安堵(あんど)したものの、どれだけ記憶を掘り起こしたところで8月24日に特別な意味を見出せない。

焦りが背を()い上がってくるのをひしひし感じながらも、該当(がいとう)する記憶を見つけるべく尽力していると、その様子を見ていた少女が形を(とら)えさせない(やわ)らかな表情でこちらの肩を叩いた。

「大丈夫ですよリサさん、あたしの予想では遅くても明日には、彼氏さんの方からコンタクトがあるはずですから」

「え、えぇ〜…、ほんとに…?」

「はい〜、モカちゃんの推理は百発百中ですよ〜」

今の質問からなにか得たらしいモカが、やけに自信満々のドヤ顔と共に突拍子(とっぴょうし)のない推理を披露(ひろう)する。信憑性(しんぴょうせい)の薄さが目を引く少女の言葉に、なんらかの根拠を見いだすのは困難だったが、彼女の推測が高い命中率を(ほこ)ることは、今までの付き合いや今回のアタシが悩む原因を言い当てたことから一定の信頼を(きず)いているので、一応記憶に留めておこうと思った途端、言葉は抵抗感ひとつなく胸の内へと収まり、安心感を()しみなく振りまいた。裏の取れてなさそうな言葉がここまでの効力を発揮するあたり、自分はかなり追い詰められていたことを改めて認識させられる。

「・・・ありがと、モカ」

「いえいえ〜、また彼氏さんとの惚気話(のろけばなし)を聞かせてもらえればそれでいいですよー」

「うん、わかっ・・・え?」

自然と口にしたお礼の要求に対し、流れのまま(たて)に振りかけた首を中途半端な場所で急停止させる。さっきのモカのセリフが頭の中でリピートされ、でかでかと主張されたある一つの単語に対する真意を知るべく、いつの間にか最後のパンに手を伸ばした少女に向け、自覚できるくらい(ふる)えた声を出した。

「ねえ、モカ…、惚気話って…」

「ああ、リサさんってバンドやメンバーの話題以外だと、彼氏さんとの話しかしなかったんですよー。でも最近、めっきり話題に上げることがなくなったので喧嘩(けんか)でもしたのか心配してましたけど、()()苦労(ぐろう)で安心しました〜」

チョココロネの尻尾(しっぽ)を口の中に放り投げ、パンの山を完食したモカは、割りばしを使ってアタシお手製のきんぴらごぼうをお弁当から掻っ攫う。卵焼きの時と同じ感想をアタシにくれたベージュの髪色の少女は、先に戻りますねーとだけ告げて休憩室を後にした。なぜアタシが落ち込んでいた理由を瞬時に見極められたかの解を手渡して。

・・・そこから先の事象を、熱暴走した脳はほとんど記憶しなかった。ただ、過去最高に集中が欠如(けつじょ)した時間だったことだけは、鮮明に頭の中に焼き付いていた。

 

「お母さん~…、ただいまー…」

バイト終わりの帰り道。いつにも増して押し寄せてきた気疲れを見ないふりして駆け抜け、ドアに背中を預けたまま浅い呼吸が落ち着いたのちに絞り出した声に、空腹をくすぐる香りを漂わせながらリビングのドアから出てくるなり、()(あし)でお風呂場からタオルを持ってきてくれる。

夕陽が溶けた空を瞬く()(おお)った灰色の(くも)がもたらした豪雨に巻き込まれたアタシが、お礼を言いつつ受け取ったタオルで髪を拭いていると、エプロンを身に付けたお母さんは、早くお風呂に入りなさいとだけ言い残して夕食の支度に戻っていった。

施錠音(せじょうおん)を鳴らしたドアの向こうに返事をしてから、存分に水を吸った(くつ)靴下(くつした)を脱ぎ、浴場(よくじょう)へと続く廊下に乗り上げる。それを歩き切った先にある、脱衣所の(とびら)(かぎ)をかけたのち、ずぶ()れの服を脱いで浴室に足を踏み入れた。

外とほぼ変わらない高温高湿度の場所なのに、不快感など入り込む余地のない空間でひと(きわ)強い誘因力(ゆういんりょく)(ほこ)浴槽(よくそう)に身を沈めたい欲求をぐっとこらえ、まずはシャワーを頭から浴びる。

冷たい雨水がみるみる温水に上書きされていくのを感じながら、今日1日で(つちか)った汚れをシャンプーやボディソープを使ってしっかり落としてから、満を持してたっぷりのお湯に肩まで浸かった。

「ふ〜…」

無意識に脱力しきった声が出てしまうほどの幸福感が身体を包み、溜まった疲れも一気に溶けていくのだが、まっさらになった胸の内から、近年稀に見るレベルで恥ずかしかった指摘が浮き上がってきた。声にならない叫びがお風呂場に短くこだまし、お湯に顔の半分ほどを沈めながら物思いにふける。

・・・確かにモカの言う通り、話の内容が(かたよ)っていたのは自覚できてる。でも、自分で思い出す限り、服やドラマなどの話も一定数していたはずで、バンドと彼との二極化とまではいっていないのではないだろうか。まあそこからバンドメンバーや彼の話へと移っている例しか記憶にない以上、モカの言い分も間違ってはいないのかもしれないが。

そこからあーでもないこーでもないと頭の中で論議(ろんぎ)を繰り返していたところ、羞恥(しゅうち)に埋もれたまま放置されていた呟きが掘り出された。こちらが深く踏み込む前に足を止めさせたのち、踏み入れる余裕を根こそぎ(うば)って真相が謎に包まれたままの言葉について今一度考えてみるものの、結局自分が彼に対してわがままを言えるような立場じゃないことぐらいしか思いつかない。モカにメッセージを飛ばして訊いてみようかとも考えたが、あの様子じゃおそらくのらりくらりと(かわ)されるだけだろう。

なら自分で考え出すほかないと思い直した矢先、頭に熱がこもっていることを自覚した。思ったより早く時間が流れていることに気づき、このままじゃのぼせてしまうと慌てて湯船から体を起こす。

続きは部屋で考えようと水玉を滴らせながら浴室を出ると、すぐ近くにある棚からつまみ出したタオルで拭き、湿った髪をドライヤーで乾かすこと数分、予め置いてある寝巻きに袖を通して脱衣室を出て真っ先に視界に映ったのは、ドアを開ける寸前のお母さんの背中だった。

「お母さん、どこいくの?」

「あ、リサ。今日はいつもより長かったわね」

「あー…、今日は普段より疲れてたからかも」

恥ずかしい思想の全容を伝えるわけにもいかず、茶色の長髪をたなびかせながら振り返ったお母さんの指摘に引きつった笑みを浮かべる。幸い母はアタシの反応を「あらそう」のひと言で片付けると、自身の質問で上書きしていた問いに答えた。

「それが交通機関が止まったらしくて、お父さんが職場から帰ってこれなくなっちゃったのよ。だからちょっと迎えに行ってくるわ」

「そっか、雨ひどそうだし、気をつけてね」

アタシの憶測(おくそく)にお母さんは左手に持った車のキーをちゃりんと鳴らして見せると、(かさ)を持った右手でドアを押し開ける。垣間(かいま)()えた外の様子はアタシの予想をはるかに上回っており、すべての音を消し去るほどの雨水が地面へと押し寄せていていた。これに比べれば、自分が被害を受けた頃の天候はかなりマシだっただろう。

「・・・そうだ。ご飯はラップしてあるけど、さっき出来上がったばっかだから温めなくても食べれるから」

かなり荒れた空の(もと)へ踏み出す直前に口にするにはあまりにも能天気なセリフに、(あき)れ半分尊敬(そんけい)半分な感情を抱くアタシの耳から雨の足音が薄れ、(かぎ)施錠音(せじょうおん)が廊下に(ひび)いた。

随分(ずいぶん)パワフルな母親だなぁ…、そんな物心ついた時から数え切れないほど浮かんだ感想を飲み込み、移動した先のリビングの机には、先ほど母の口から聞かされたことの経緯(けいい)(つづ)られた書き置き付きの夕食が、大雑把ながらもしっかりラップされている。

(はし)とコップも(あらかじ)め用意されていたので、冷蔵庫から作り置きされている麦茶を取り出すと、お母さんが残した言葉の通り、熱が帯びたままの器からラップを外す。一汁三菜(いちしるさんさい)の並びに両手を合わせてから、今日のメインディッシュである(ぶり)の照り焼きを口に運んだ。自分も料理の腕にはそれなりの自信があるものの、主婦歴が長い母親の味を超えることは中々に難しい。

甘塩っぱいタレを纏った絶妙な焼き加減の鰤をおかずに、白米に手を伸ばす。付け合わせの筑前煮(ちくぜんに)の絶品さに舌を巻きつつ、大根の味噌汁を喉に通すと、いつもは会話を交えて進める箸が、いつもの倍速で手から離れた。

手のひらを合わせて食後のあいさつを小さく呟き、さて食器を洗おうかと腰を持ち上げた瞬間、インターホンが鳴り響く。

お母さんが忘れ物でもしたのかと一瞬考えたが、それならわざわざインターホンを鳴らさずとも自前の鍵で開ければいい。僅かな懐疑(かいぎ)が胸に立ち込めるも、流石に確認しないわけにもいかないため恐る恐るモニターを覗き見る。

「えっ!?」

画面越しに確認した玄関前には、本来そこにいるはずのない人物の姿があった。驚愕の声を溢しながら抱いていた懐疑心を放り投げ、慌ただしい足取りで玄関へと向かう。

鍵を開けるのもまどろっこしく感じながらドアの先には、右手に持つ傘が意味をなさなかったのか、服の所々が色濃くした思い人が、こちらの姿を見てぎこちない笑みを浮かべた。

 

「き、着替え、ここに置いておくね」

さっきまで自分が入っていた浴室でシャワーを浴びる少年に言葉をかけつつ、すぐ見つけられそうな場所にお父さんの服を置く。返ってきたお礼の言葉にぎこちなく口を動かし、足早に脱衣所を後にした。歩幅を縮めることなくリビングへと逃げ込み、放置していた食器を流しへ持っていくが、泡立たせたスポンジをいくら食器に擦り付けていても、気が紛らう予兆はない。

—あのあと、遠方にある海の家に泊まり込みで働いているはずの少年に対して色々な訊ねようとした直前、彼が大きなくしゃみがこちらの出鼻を挫いた。のちに少年が大きく身体を震わせるものだから、とりあえず疑問を棚上げして、すぐ帰ると言う彼を無理やり家に向かい入れて有無を言わさずお風呂に入れたのだが、もしかしたらこの行動は変な誤解を招くのではないだろうか。

着替えを借りる(むね)を父に伝えてもらうために一報を入れたお母さんに指摘されて気づいた現状に対し、そうでもしないと彼が風邪を引いてしまわないか不安だったしと、母にも投げた言い分を自身に言い聞かせていると、いつの間にか流しは泡に底を隠されていた。

慌てて全ての泡を排水口へ向かわせ、拭いた食器を棚に戻すと、ソファに横たわる。相変わらず忙しない働きを響かせる心臓をどうにかしようと思考を深めていると、全く間隔(かんかく)(ゆる)めずにいる心拍音とドアの開閉音が重なった。電気ショックでも受けたかのように大きく跳ねた身体を即刻起こして座り直し、視線をドアのほうへと向けると、その先には髪をささやかに湿らせた少年が自らのカバン片手に立っており、お風呂貸してくれてありがとうと、お礼の言葉を口にする。

「い、いやいや、入るよう言ったのはアタシだし、お礼なんて…あはは〜…」

ぎこちない口調で(まく)し立てるアタシの隣に、少年は一声かけたのちに腰掛けた。途端に電源が落ちたかの如く口が動かなくなり、時計の針が進む音が部屋を支配する様を傍観(ぼうかん)していると、不意に少年が気持ちの入った声で話を切り出す。

「は、はい!」

夜分(やぶん)に相応しくない声量を気にする余裕すら与えられずに、改まった表情を浮かべた少年がこちらの手を取った。久方の触れ合いで瞬く間に(ほお)を無制限に赤色一色にしたアタシが、ぱくぱく開閉を繰り返す口から声にならない叫びを上げている最中、渡したいものがあると真っ直ぐ目を見て言われ、壊れたおもちゃのように首を上下に振っていると、少年はリュックから容量をかなり占拠していたと思われる、オレンジのリボンで口を閉じた白いプラスチックの袋を取り出してアタシに差し出した。ゆっくりと触れたそれは、柔らかな感触を指に伝えてくる。

「・・・これは…?」

状況が飲み込めないアタシが零した疑問に対し、彼は緊張感を(はら)む声色で誕生日プレゼントだと呟く。その言葉をきっかけに、もう数時間もしないうちに自らが生まれた日、8月25日を迎えるのを、今更なタイミングで思い出した。

「でも、なんで今日に…?」

しかし、なぜ当日ではなく今日なのか。悪天候に見舞われてもなお、遠方から時間をかけてでも渡しに来たのには、相応の理由があるはず。今この瞬間まで誕生日を忘れていた不名誉(ふめいよ)を棚上げしたアタシの、文末に疑問符を付けた言葉に対する返答を、彼はあっさりと口にした。当日は家族やバンドの人達から祝われるからという、呆れるほどお人好しな理由を。

「・・・そういうの、イヤ」

疑問が解けた今、本来ならプレゼントくれた彼に伝えるべきお礼の代わりに零れた言葉は、少年の表情を驚愕、焦りの順で浮き彫りにさせてみせる。そんな彼のわずかに揺れる瞳をしっかり見つめながら、胸に(とどこお)る感情を言葉に換えて紡いだ。

「アタシは、キミとの時間を前座みたいにして終わりにしたくない。アタシにとってキミとの思い出は、家族やRoseliaのみんなと作るものと同じ、ぞんざいになんて扱いたくないから」

・・・彼の気遣いは、きっと的外れなものではない。豪雨(ごうう)(はば)むなか、足を運んでくれた彼にお礼の言葉はあれど、こんなふうにいちゃもんをつけるのはお門違いだと自分でも思う。しかし、久々に顔を合わせられた理由が、少し距離を感じるような接し方故だったことが、どうしようもなく寂しかった。

—・・・ごめん—

しばらく|漂[ただよ》った沈黙を破ったのは、数度の瞬きで揺らぎを消した視線を真っ直ぐこちらに向けた少年だった。先の自分勝手な御託(ごたく)を取り消そうとした自分が、声に乗せる寸前だった言葉を投げかけてくるものだから、逆にこちらが動揺してしまう。

「い、いやいや!アタシも久しぶりに会えたからってちょっと変なこと言っちゃったし!」

撤回する寸前にこんな反応が返ってくるとは(つゆ)ほども想像していなかったアタシが、髪を左右に激しくはためかせた。しかし、少年はゆっくりかぶりを振り、自分もリサとの時間は大切だからと、真っ直ぐすぎる言葉を投げかけてくるので、否応にも頬に微熱が走る。そんなアタシを見て彼も顔を赤くして視線をずらし、また雨水が(したた)る音が部屋を支配した。

ひと月足らず会わないだけで会話がここまで難しくなることに歯痒(はがゆ)さを覚えながら、羞恥や緊張感で会話の糸口が掴めずにいると、()(たたま)れそうにしていた少年が、明日早いからもう戻らなきゃと、ゆっくり腰を持ち上げる。

「そっか…。玄関まで送るね」

まだ行かないで、もう少しだけ一緒に。喉の奥まで出掛けて飲み込んだ願望の代わりに、せめてもの願いを言葉にしたアタシは、口を閉めたリュックを背負い直す少年を見送るため、胸に袋を抱いたままソファから立って彼のすぐ背後をついて行く。どれだけ足取りを遅くしても数十秒で辿り着いてしまった玄関に座り込み、靴紐(くつひも)を結ぶ彼の手を止めさせたい欲求を心の内に留めさせていることに努めていると、名残惜しそうに表情の明度が下がっている少年は、こちらと視線を合わせながら短く謝罪を口にした。

「ううん、仕事だから仕方ないよ。頑張ってね」

少なくとも別れを(こば)みたいのが自分だけではないことを少し嬉しく思ったが、決して心の風向きは良い方向へは向いてくれない。それでも彼の後ろ髪を引かないためなんとか笑顔を作ってみたものの、眼前の少年にはお見通しだったらしく、ごめんの言葉を重ねたのちに、無理に作っているのが丸わかりの笑みを浮かべながら、明日は楽しんでという言葉を投げかけた。

「・・・・・」

彼の言葉が皮切りとなり、抑えつけていた感情が隙間から一滴ずつ溢れ出していく。最初は返事や頷きをさせないよう口と首を固定するに止まっていた感情は、やがてある行動を指し示すことで、アタシを大きな葛藤に(さいな)ませた。

・・・この行動は、今日の彼の努力を無に還してしまうものだ。さらには目の前の少年に更なる苦労を与えてしまうものであり、それを口にするのはどうしても(はばか)られたが、普段は押さえつけることができる感情が、今だけは大人しくしてくれない。

彼に対する気配りと、自身の本音。ぶつかり合う二つの感情どちらを優先すればいいか分からず、葛藤(かっとう)の波に()まれかけたその時、間伸びしているのに、どこかきっちりとした女性の声が聞こえてきた。

『リサさんは、もう少しわがままでもいいと思いますけどねー』

・・・いいのかな、少し、わがままになっても…。

友人の言葉に後押しされて大きく(ふく)らんだ感情は、もらってから一度も手放すことなく抱きしめていた袋を持つ両手を動かし始める。込めた力を確かな弾力で押し返してくるプレゼントを、元の持ち主である少年の胸に軽く触れさせると、彼はその表情に困惑と驚愕を同居させてみせた。

「これは、明日渡してほしい。どれだけ時間がかかってもいい、一瞬会うだけでもいいから…。だから、お願い…」

彼にこちらの行動を訊ねられるより先に、自分から口を動かし喉を(ふる)わせる。例え彼にどれだけの負担がかかってしまっても、前座のような扱いではなく当日にしっかりと誕生日を共に過ごしてほしいという、自分中心の勝手な考えを吐露(とろ)してしまったことに対する(せき)がのしかかった。重圧で落ちた視界から彼の顔が消えるのに続き、拒絶され、嫌われてしまうのではないか、そんな冷たい予測がよぎって彼の表情を見る勇気を持つことができない。

そうしてしばらく顔を持ち上げることができなかったアタシの手のひらを、音もなく温もりが触れた。続いて了承を伝える言葉が、強い意志を含んだ声に乗せられて耳に届く。

まるで予想していなかった結果に動揺を隠せなかったアタシが、持ち上げるだけにも時間がかかった視線の先にあった瞳は、アタシ1人が寄りかかったところでびくともしなそうなほど、力強い意志が灯っていた。

「あの、えっと…」

なにか言うべきだと思ったが、伝えるべき言葉は形にならずに口から零れて、大した意味を持たない字面を並び立てる。なかなか考えを固められない自分に歯痒さを覚えながらも、必死に想いをまとめようとしていたアタシに、眼前の少年は微笑みかけ、言った。必ず明日、リサに会いに行くと。

「・・・うん、待ってる」

こねくり回していた感情を置き去りにしてひとつ頷くと、自然と口元は緩やかな曲線を描いた。久しぶりに浮かべた作り物じゃない笑顔に対して、彼は強く頷き返し、アタシの手から袋を受け取る。類を見ない悪天候の中、わざわざここに足を運んでくれた意味を無に帰されたのにも関わらず、少年は不満など一挙一動にすら微塵(みじん)(にじ)ませることなくリュックに袋をしまい、背負い直すと、また明日とだけ言って踵を返した。

相変わらずの空模様が広がるドアの向こうが、ひとつの音が鳴り響くと同時に視覚から完全に姿を消す。雨音をしばらく呆然(ぼうぜん)と聞いていると、長い間容量ギリギリだった精神にようやく空きが出来始めたのを感じられた。しかし同時に疲れを強く自覚させられたので、疲労を誤魔化すように細い吐息を零しつつ、休息を取るべく自室に戻ろうと踵を返したところ、てっきり心の奥に引っ込んだと思っていた後ろ向きの感情が、彼との会話の粗探(あらさが)しでもするかのように焼き付いたばかりの記憶を再生させていく。

滞ることなく流れる記憶の本流を止めようとして、思わず軽く頭を振ると、いつもは空振りで終わる行動が、暗い残滓(ざんし)霧散(むさん)させた。変に気持ちが沈まずに済んだで良かったと、胸を撫で下ろしたのも束の間、あるひとつのことに気付く。

「・・・お礼、言えてなかったな…」

荒れた天候にも怯まずに足を運んでくれ、アタシのわがままを嫌な顔ひとつせず受け入れてくれた少年に対し、謝罪の言葉を重ねていれど、感謝の一つも口にできていない。

自分の意志を押し出すかについてしか考えられず、簡単な、しかしなによりも重要なことを言葉にするのを忘れていたアタシ自身に対し、強烈な嫌悪感が湧いてくる。あったはずの言うタイミングを何度見逃した鈍感さにも、確かな怒りを抱く。

だが、いつもなら頭の中を支配するはずの黒い靄は、こちらの思考を惑わすことはなかった。

それはきっと、未だ耳に残った少年の言葉のおかげ。明日会えるという約束が挽回の機会があることを示唆して、凹んでいる暇などないと教えてくれる。

—明日は絶対、感謝の気持ちを伝えよう。今日の分はもちろん、今までの分も全部、届くように。

そう強く決意してから踏み出した足は決して軽くなかったが、前を覆う靄が無き歩みは、少しだって遅くなることはなかった。




こんにちは、エノキノコです。まずはこの小説を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
そして、またもや投稿期間が大幅に空いてしまい、誠に申し訳ございません…!現実の方で色々あり、精神的に少しきつい状況だったので、執筆する気力が湧かない期間がありまして、そこから回復しても、ただでさえ遅い筆がしばらく書いていなかったツケでさらに遅くなり、こうして作品を一つ書き上げるのにもかなりの時間を要する事態になってしまいました…。さらには連絡も(おこた)ってしまったことも、重ねてお詫び申し上げます。本当にすみません…!
そしてもう一つ、謝罪すべき事が…!前回のパレオちゃん回で、ヒロインの苗字である鳩原の振り仮名を、《にゅうばら》ではなく、《はとはら》と表記していました…!完全に知識不足です…。紗夜さんに続いて2回も同じミスをしてしまい、すみませんでした…!そしてそのことを教えてくださったラウ・ル・クルーゼさん、本当にありがとうございました!
そんな多大な迷惑をかけてしまった身として図々しいかもしれませんが、小説本編の方にも触れさせてください。
このタイトルの他のお話を読んでくださっている方々にはお分かりでしょうが、今回のお話はタイトル初のヒロイン視点となっております。さらには前書きに書いております[もしリサ姉と付き合っていたら…]の続きだったり、ヒロイン以外にもセリフに「」が付いていたりと、かなり風呂敷を広げて書いてみました。結果、地の文とセリフの接続やキャラの言動に違和感を感じた方もいるかと思います。そういう方は感想などでご指摘して頂くと、おそらく次があるであろうヒロイン視点の話へ反映できるので、もし良ければお願いします。
そして次の投稿ですが、ヒロインはモカちゃんになると思います。もう半年以上前に募集したリクエストをこれ以上待たせるわけにはいかないので、年中には全て書き終えたい願望があるのですが、なんせこの作者の筆の遅さは投稿の間隔でお察しの通り激遅なので、達成できるかはかなり怪しいところではあります…。しかしここで挑みすらしないのは、待ち続けてくださった読者の皆様に失礼だと思うので、できる限りの手は尽くします!期待はしないでお待ちください!
最後に、こんな長い間音沙汰がない小説をお気に入り登録してくださった皆さん(減るどころか増えていて感謝の思いでいっぱいです…!)、星9評価をつけてくださった武大563さん、藤木真沙さん、智如さん(評価に恥じない小説を書いていけるよう、頑張ります!)、星6評価をつけてくださった月の向日葵さん(これからも精進します!)、感想をくださったポッポテェ…さん(毎回書いていただき、嬉しい限りです!)、そして、過去最長の後書きを最後まで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございました!!


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