お化け狩りの夜が廻る (甲乙)
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はじまり  -Prologue-

 そうさね(Yes indeed)

 

 そこはヤーナム。

 

 はるか東、人里離れた山間にある忘れられた街のことさね。

 

 

 

 

 そこは呪われた街。昔から奇妙な病、「獣の病」が蔓延っていてね。

 

 獣の病に罹った者は、その名の通り獣憑きになって人としての理性を失う。

 

 そして夜な夜な「狩人」たちが、そうした、もはや人でない獣を狩っていたのさ。

 

 

 

 

 

 だがね、呪われた街はまた、古い医療の街でもあった。

 

 多くの救われぬ病み人たちが、あの怪しげな医療を求めて、ヤーナムを訪れたもんだ。

 

 

 

 

 あんたも、そうなのかい?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 霧の向こうに、尖塔が霞んで見えた。

 だが、土地柄から冷たく湿った空気は濃い霧をつくりだし、山風が悪意を持ったように、その特徴的な尖塔の群れを覆い隠してしまう。

 それを見ていた女は、ひとつ溜息をついてから、肩に食い込む重い荷物を担ぎなおした。

 

 

 

 

 急な傾斜の山道を慎重に下りていく。

 一応、ここは街に続く街道ということらしいが、使われなくなって久しい。

 看板のひとつも無く、雑草に埋もれたそこは、街道というより獣道に近かった。

 獣。

 そう、獣だ。

 あの街には、「獣」がいた。

 あの人から、そう聞いていた。

 今はもう、いないはずだが。あの街では、何が起こっても不思議ではない。

 それも、あの人から聞いていた。

 ゾッとしない想像を、頭を振って追い出す。

 女の細い腰まで伸びた雑草をかきわけて、ようやく街の前に辿りついた。

 

 

 

 

 見れば見るほど、立派な街だった。

 見上げるような大量の尖塔が、(ひし)めくようにして天を衝いている。

 こんな人里はなれた山の中で、いったい建造にどれだけの手間と年月をかけたのか、想像するだけでうすら寒いものを感じる。

 上に向けていた視線をげんなりと下げれば、歪んだ門扉が女を出迎えていた。

 まがりなりにも街の入り口だろうに、そこには「ヤーナム(Yharnam)」とも「ようこそ(Welcome)」とも書かれてはいない。

 ただ、過剰なほどに分厚い鉄の扉が、来訪者に無言の警告を示しているようだった。

 

 

 

 

 わずかに空いた隙間から、街の中の空気が風となって女に吹き付ける。

 その冷たく湿った風は、埃と、煤と、そして血と獣の臭いを孕んでいた。

 今更ながら、女の脳裏に後ろ向きな、あるいは前向きな考えが過る。

 近づくべきでは、ないかもしれない。……と。

 

 

 

 

 だがもう、ここまで来てしまった。

 ここに来るまでにも、相応の手間と時間と金銭を使ってしまったのだ。

 ええいままよ、と。

 女は、鉄の門扉を押し開けた。

 

 

 

 

 鉄が軋む音が鳴り響き、獣の唸りのような風鳴りが混じる。

 

 血と獣の臭いとともに、風が女の長い髪と、そこに結ばれたリボンを揺らした。

 



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かりうど  -The Hunter-

 狩人の共通点とは、何であろうか。

 

 多くの狩人たちは言った。

 速さを重視し、様式美を重んじることだと。

 

 ある古狩人は言った。

 狩りに優れ、無慈悲で、血に酔っていることだと。

 

 ある連盟の長は言った。

 汚物塗れの人の世を知り、だが心折れぬことだと。

 

 最初の狩人は言った。

 何も考えず、ただ獣を狩ることだと。

 

 

 

 

 どれも正しく、また間違っているのだろう。

 狩人と、その夜の数だけ、答えはあるのだから。

 だが私は、ここにひとつの答えを加えたい。

 

 

 

 

「狩人は、リボンの少女を見捨てない」

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 貴方は、狩人だ。

 

 病に侵され、このヤーナムの地に訪れ、そしてあの診療所で全てを失い、狩人となった。

 それから、まあ色々とあって、今はこの異空間「狩人の夢」の主である。

 獣を狩り、眷属を狩り、上位者を狩り、時には同じ狩人を狩り、

 遂には最初の狩人と、彼を支配していた月の魔物までをも狩った。

 

 月の香りの狩人

 

 元の名前を失った貴方の、今の名前がそれだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ※ ※ ※

 

 夜廻さんたちへの、よくわかる解説!

 

 狩人とは、医療教会とかいう頭のおかしい集団によってバラ撒かれた「獣の病」で獣と化した人間を狩る、頭のおかしい集団である!

 皆が、右手に仕掛け武器という頭のおかしい武器を持ち、左手に鉄砲を持っているのが特徴だ!

 あとはその武器を使って獣を……なんというか、こう、子どもには見せられないような有様にしてしまうのが仕事だ!

 だから基本的に血まみれで、むしろその血を吸って回復するぞ!

 あいつら本当に頭おかしいな!

 

 夜廻に例えて言うなら、

 ①山の神とかコトワリさまを捕まえて、血を搾り取る。

 ②その血を人間に輸血する。

 ③人間が生きたままお化けになる。

 ④そのお化けを狩る除霊者集団 ←狩人

 ⑤やっぱり頭おかしい。

 

 ※ ※ ※

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな貴方は、今日も簡易祭壇の前で待ちぼうけである。いくら待とうとも、狩人呼びの鐘は聞こえてこない。

 あまりにも永い夜を過ごしてきた貴方の時間感覚など、もはや全マイ並の役立たずである。もしかしたら、外の世界ではもう長い年月が経っているのかもしれない。

 ならば誰にも呼ばれないのも納得というものだ。貴方は溜息をひとつ零してから、工房に戻った。

 

「お帰りなさい。狩人さま」

 

 涼やかな声が、ささくれ立っていた貴方の心を癒す。

 彼女こそ、この狩人の夢で貴方の世話をしてくれる美しい人形、その名もずばり「人形」である。

 

 非人間的な冷たい美貌を完全再現した、わずかにひび割れた白い顔。

 過剰に着飾った、どこか妄執を感じさせるほどに華美な装束。

 球体関節の指と、見上げるような長身。

 

 いったいどれだけ頭のおかしい創造主が生み出したのか。万雷の拍手を送りたい。

 そんな人形の足に抱きついていると、貴方の装束をくいくい引っ張るモノたちがいた。

 

『Aaa……』

 

 小人を木乃伊(ミイラ)にしたような、悍ましい姿。夢の使者。

 だがどこか愛嬌のある仕草が特徴の、その名の通りの「使者」たちだ。その使者たちが、貴方に紙きれを差し出していた。

 人形に甘えるのに忙しい貴方は無視しようとも思ったが、使者があまりにしつこかったので、しぶしぶ紙きれを手に取る。

 

 

 

 

【幼いリボンの少女たちが危機に陥っています】

 

【助けに向かいますか?】

 

 

 

 

 貴方は、全身から血を噴き出した。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

「どこにいるの……? ハル……っ!」

 

 見つからない。見つからない。見つからない。

 黒い子犬をつれた、赤いリボンの少女――ユイは、夜の町で絶望的な声をあげた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 <○> <○> <○>

 

 狩人の貴公たちへの、よく分かる解説!

 

 ユイちゃんとは、ポニーテールと赤いリボンが特徴の小学生!

 親友のハルちゃんの為ならばどんな危険も厭わない勇敢な(イケメン)少女だ!

 意味深に巻かれた額の包帯が、陰のある魅力を醸しだしているぞ!

 

 <○> <○> <○>

 

 

 

 

 

 

 

 

 親友のハルが、消えた。

 学校、公園、図書館、ゴミの森……。町のどこを探しても見つからない。

 

『あのね、実はわたし、8月いっぱいで……遠くの町に引っ越すことになったの』

 

 夕方にハルから告げられた、衝撃の言葉。

 ハルの前では強がっていたけど、ユイも内心では動揺していた。泣きそうだった。

 でも、ハルの前で泣いたりしたら、それこそハルが悲しむ。だからガマンした。

 それに、引っ越すハルの方がつらいのだ。

 そんな、心が傷だらけになっているハルが、いなくなった。

 

 ――おねがい、無事でいて……!

 

 でももう、探せる場所はぜんぶ探した。焦燥に頭を抱えるユイの耳に、子犬の泣き声が響いた。

 

「クロ……?」

 

 どこに行っていたのか、暗い夜道の向こうから、黒毛の子犬――クロが走り寄ってくる。その口に、妙な物を咥えて。

 それは、鐘だった。

 絵本にしか出てこないような、古いハンドベル。茶色く変色した紙きれまで付いている。

 

「えーと、“助けが……なら、……を、鳴らしたまえ”?」

 

 難しい漢字は読めなかったが、助けてほしいなら鐘を鳴らせということだろうか。

 足元のクロを見下ろすと、つぶらな目が見返してくる。当然、返事は無い。

 見るからに怪しい鐘。いったい、どこでこんな物を拾ってきたのか。

 

「……ああ、もうっ!」

 

 こうしている間にも、ハルはどこかで泣いているのかもしれない。

 手伝ってくれるなら、もう誰でもいい。

 ええいままよと、ユイは鐘を鳴らした。

 

 

 カランカラ――ン

 

  カランカラ――ン

 

 

 きれいな、でもどこか不気味な音が響き渡る。

 鐘の音が、夜の闇にすいこまれ、また耳が痛むほどの静けさが戻ってきたとき。

 

 

 オオォォォ――――――

 

 

 風の音のような、地鳴りのような、聞いたこともない音が聞こえてくる。

 いや、これは音ですらないのかもしれない。

 空気ではなく、もっと別のナニカを震わせている、音に似たナニカ。

 

 

 そして、ユイの目の前に、異形が現れた。

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 まず少女の目に飛び込んできたのは、黒いボロ布だった。

 突如として地面から生えてきたそれの下に、人の足のような物が覗いている。

 だから、それが服なのだと分かった。

 だから、その服の左右から生えているのは腕だと思った。思ったのに。

 その腕は青白く、2本ではなかった。正確には、腕は2本だがその先は2本ではなかった。

 無数に枝分かれしたソレは腕というには細く、指というには太すぎる。それは、まさに触手だった。

 まさに異形。

 だが、最後に現れたモノの前には、そんなモノたちはまだ常識の範囲内でしかない。

 頭だと思われる部分に生えたモノ。

 それは、樹だった。

 それは、苗床だった。

 それは、形を得た声だった。

 きっとそれは、見た者によって変わる。答えなど無いのだ。

 だが少女にはこう見えた。

 カリフラワーだ、と。

 

 異形のカリフラワーは、ぬるりと立ち上がる。

 ゆっくりと、その右腕だと思われるモノで、真上を指した。

 無数の触手が、無数の星を指している。

 それが意味するところなど、ひとつしかない。

 

 そう、宇宙は空にある、と。

 

 やがて、カリフラワーはその身をよじり、明らかに人体の限界を超えた角度まで傾ぐ。

 無数の触手が、己をかき抱くように、その身に絡みついた。

 

 

“ウアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!”

 

 

 声なき咆哮と共に、その身から神秘の光があふれだす。

 

 間近でその光を目にした少女の脳に、宇宙悪夢的な超次元思考が流し込まれた。

 その幼い脳が、許容を遥かに超えた負荷に耐えきれず発狂する!

 

 

 

 

 ……前に、少女の背後に現れた使者が、その首筋に手刀を叩き込む。

 一瞬で意識を刈られた少女を別の使者が優しく受け止め、その口に薄めた鎮静剤を流し込んだ。

 なんという手際か。

 使者たちの見せたファインプレーによって、少女の脳はこの記憶を海馬の最奥に埋め立てることに成功した。

 ちなみにクロは、異形が現れた時点で大きな壺をかぶせられていた。

 

 そして異形のカリフラワー、つまり「苗床」のカレル文字を脳に刻んだ貴方はというと、使者たちによって夢に強制連行された上で、人形から教育的指導を受けていた。

 具体的には、落葉を抜刀(バキィン)した人形にシバき倒された。

 

『第一印象が大事だと思った。今は反省している』

 

 人形の前で正座しながら、貴方はそう供述している。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

「――――はっ!?」

 

 頬を舐められる感触に、ユイは飛び起きた。

 主を起こそうと頑張っていたクロが、嬉しそうに飛びついてくる。

 たしか、変な鐘を鳴らして……。その前に、ハルが……。

 焦燥に再び立ち上がったユイに、夜の闇よりも暗い影がかかった。

 

「だ……っ」

 

 ――誰?

 

 目の前にいたのは、背の高い大人だった。

 夏だというのに、真っ黒なコートを着ている。足には長靴(ブーツ)を、両手には手袋(グローブ)もした完全装備。

 顔も目から下は黒いマスクで覆われ、目から上は変わった形の帽子で覆われていた。

 目元以外を完全に隠した装束。体型から、かろうじて男の人だと分かるぐらい。

 まるで映画の悪役のような、見るからに怪しい人だった。

 

「おじさん……誰?」

 

 さすがのユイも、恐怖を禁じ得ない。じりじりと距離を取りながら、とりあえず会話を試みる。

 黒衣の男――狩人は、そのマスクで覆われた口を開いた。

 

「Did you invite me here?」

「……へ?」

 

 ――英語!?

 

 外国の人だった。

 よく見れば、背がすごく高くて足も長い。マスクと帽子の間から見える目も、青白く光っていた。

 

「Where are the Beasts?」

「え、え、あ、えっと、あの」

 

 ユイは混乱した。

 混乱した頭でもなんとか、テレビで見た英語の教育番組を思い出す。

 

「……な、ないすちゅみーちゅーっ!」

 

 噛んだ。

 ユイは赤面した。

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 人形に渡された普通の装束、つまり狩人装束に着替えた貴方は、再び少女の前に召喚された。

 気を失っている少女の傍らには黒い子犬が立ちはだかり、貴方を威嚇している。

 獣。

 獣だ。

 ギラリと目を輝かせる貴方に対し、子犬は一歩も退かない。その小さな牙を剥きだしにし、グルルと唸り続けていた。

 ほう、と。貴方はわずかに認識を改める。

 この子犬は、貴方に勝てないことなど分かっているのだろう。それでもその心は折れていない。その、小さな主を守るために。

 貴方は思いをはせた。

 

 犬……犬……。

 ヤーナム市街では犬の素早い動きに翻弄され、その隙に市民たちに袋叩きにされた。

 ヘムウィックの墓地街では、全身に刃を括り付けられた猟犬に追い回され、猟銃を構えた市民たちにハチの巣にされた。

 聖杯ダンジョンでは……赤い目の……あの……番犬……に……。

 

 やっぱり犬は狩ろう。

 犬ほど恐ろしいモノはないのだ、いつだかに出会った鎧騎士(ふしびと)もそう言っていたではないか。

 どんなに勇敢な忠犬であっても、それでもやっぱり犬ではないか。狩人は、そう考える。

 そう結論づけた貴方の左腕に血の遺志が渦を巻き……。

 

「……ぅ、うー……ん」

 

 気を失っていた少女の唇からかすかなうめき声が聞こえ、その切れ長な目が薄く開かれた。

 黒い子犬がすぐに傍にかけより、その白い頬を舐め始める。その頬には絆創膏が何枚か貼られていた。

 

「――――はっ!?」

 

 覚醒した少女はすぐに立ち上がり、近くに立っていた貴方に警戒心を露わにする。

 誰だと問いかけてくる少女に対して貴方は、自分を召喚したのは貴公か、獣はどこだと問うた。

 狩り主との合流と、敵が何の獣なのかを知ることは何よりも大事だ。お米よりも。

 しかし何故か少女は焦った様子で、

 

「ハ、ハジメマチテ!」

 

 と、拙い英語で挨拶してきた。

 なんという心遣いか。貴方はあまりの感動に目頭を押さえ、涙の代わりに血を流した。基本的に貴方の体液はすべて血である。

 ヤーナムでは、こんな丁寧な挨拶などついぞ聞けることは無かった。

 

『失せろ! 失せろ!』

『この汚らしい獣が!』

『死ね!』

 

 あのヤーナム式の挨()がいかに礼を欠いたモノだったのかを貴方は痛感した。

 挨拶は大事。お米と同じぐらい大事だ。

 少女の礼に応えるべく、貴方も最大限の敬意を以て「拝謁」の姿勢をとる。それを見た少女は「わぁ……」と小さく拍手を返してくれた。

 なにせ本物の女王仕込みの作法(ジェスチャー)である。あの方は肉片になっても美しかった……。

 目を上げた貴方は、改めて狩り主である少女を観察する。

 

 年の頃は10を超えるかどうかだが、その体の芯はしっかりとしており、高い運動能力を持っていることを窺わせる。

 武器らしい物は持っておらず、その手には強い光を放つ、見たことのない道具が握られていた。

 切れ長の意思が強そうな眼差し。だがどこか歳不相応な(かげ)を感じさせる瞳だった。

 何故かその額には包帯が巻かれており、その手足にも小さな怪我が目立つ。

 亜麻色の髪は後ろでくくられ(ポニーテール)、その髪には……赤い……血のように赤い……リボン、が………。

 

 

 

 

 黄昏の街……狂った群衆……もの悲しいオルゴールの音色……。

 

 神父だった狩人……狩人だった獣……父親だった獣……母親だった死体……。

 

 真っ赤なブローチ……少女の泣き声……リボンの少女……。

 

 穢れた下水道……醜い大豚……。

 

 その(はらわた)から抉り出した……赤い……血のように赤い……リボン……。

 

 

 

 

 貴方はまた、全身から血を噴き出した。

 よくあることである為、足元の使者も「またか」とでも言いたげな動きで鎮静剤を投げ渡してくる。

 しかし少女はそうでもなかったようで、ひどく驚いた顔で尻もちをついていた。

 貴方は、ただの持病であるため心配はいらないことを伝えるが、少女はまた困った顔をしてしまう。

 どうやら言葉が通じていないらしい。

 人の限界を遥かに超える啓蒙を得た貴方であれば超次元思考でどのような言語も理解できるが、喋る方はそうもいかない。

 ふむ、と思案した貴方は、足元の使者に目をやった。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 その男の人は、いきなり体から血をふき出した。

 さすがのユイでもこれには腰を抜かざるを得ない。いったいどこの世界に、風船が割れるみたいに血を撒きちらす人がいるというのか。目の前にいる。

 また英語で何か言ってくるけど、ユイにはもうチンプンカンプンである。

 頭を抱えていると、ユイの靴下(ソックス)を何かが引っ張った。

 

「……ひっ!?」

 

 そこにいたのは、小人だった。

 でも、まったくヒトではない小人だった。

 冷たく湿った白い肌。骨と皮だけの体。縦に裂けた口。がらんどうの目。

 どこまでも悍ましい小人みたいなナニカが、上半身だけを地面から生やしていた。

 思わず掴まれていた足を引きはがすと、すかさずクロが間に入ってくる。

 すぐにでも小人に噛みつかんばかりのクロに対し、小人は動じた様子もなく手に持った紙きれをユイに投げてくる。

 

言葉(ことば)有効(ゆうこう)だ だから この(さき)英語(えいご)()いぞ】

 

 日本語。しかも振り仮名つきであった。よく分からないが、通訳してくれるということだろうか。

 

「あ、ありがとう」

『Uaea』

 

 小人は、その小さな手をヒラヒラと振る。

 見た目は怖いけれど、その仕草には案外、愛嬌のようなモノを感じなくもない、かな……?

 小人――使者を眺めているユイの手に、さらに数枚の手記が手渡された。

 

【探索の時間だ そして 協力者を忘れるな】

【ああ、狩人よ! つまり 私】

【宇宙は空にある】

 

「っ! そうだ、ハルを探さないと!」

 

 立て続けに異常現象に見舞われて忘れかけていたけれど、ユイは消えた親友を探しているのだ。

 そしてこの怪しい男の人は、何故だかそれを手伝ってくれるらしい。最後の宇宙がどうとかは、あまり深く考えない方がよさそうだ。ユイは切り替えのできる子だった。

 見れば、男の人――狩人はじっと町の北側、大きな山の影を見ている。

 ユイの頭にも、閃きがはしる。

 そうだ、山だ。

 ハルは山で、何かに呼ばれていると言っていた。町のどこを探しても見つからないのだから、もうあの山にいるとしか思えない。

 

「おじさん、来て! こっち――」

 

 

 

 

“ ァァァァァァァァ…… ”

 

 

 

 

 狩人とクロをつれて山に向かおうとしたユイの前に、またアレが現れた。

 ソレは、白い霞だった。

 かろうじて人に似た形をしている。でもよく見ればまったく人型じゃない。

 顔のような部分には目と口らしいモノがあるけれど、その大きさも位置もデタラメだ。

 

 ()()()

 

 太陽が沈んでから、幾度となくユイの邪魔をしてきた怪異が、また現れたのだ。

 白いお化けは、うめき声に似た不気味な声をあげつつ、ユイ達に迫ってくる。

 

「もうっ! 邪魔しないでよ!」

 

 とはいえ、もう何度もあしらってきた相手でもある。小石でお化けの気を引こうと、足元の石を拾い上げた時、

 

 

 パアァァンッ!

 

 

 間近で響いた轟音に、ユイの耳がキンとする。

 同時に、お化けの頭に4つ目の穴があいて、霧散するように消えてしまう。

 更に、お化けの向こう側にあった自動販売機が変な形に歪み、取り出し口から缶ジュースをゴロゴロと吐き出していた。

 音の発生源である狩人を見れば、その両手にはいつの間にか物騒な物が握られている。

 

 まず右手に持っているのは、斧だった。

 斧。どう見ても斧だった。

 ホームセンターで売っているような物とは比べものにならないぐらい大きくて、重そうな斧。

 それこそ、絵本に出てくる怪物(モンスター)が持っているような。

 

 そして左手に持っているのは、どう見ても鉄砲だった。

 お巡りさんや、映画の主人公が持っているような拳銃ではない。

 それもまた絵本に出てくる、海賊なんかが持っているような短銃(ピストル)

 銃口から白い煙があがっているあたり、それでお化けを撃ったのだろう。

 

 呆然としていたユイは、ハッと我に返ると、

 

 

「ばかぁ――っ!」

 

 

 狩人に飛び蹴りした。

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 貴方は、町の向こうにある山の巨影を睨んでいた。

 

 上位者の、においがする。

 

 上位者。神のごとき、何者か。

 この空の上、遥かな宇宙から来たりし、偉大なるモノたち。

 そして、貴方の狩りの対象。

 アメンドーズなら毎日のように狩っているが、やはり連中の血はたまらない。

 上位者狩り。上位者狩り!

 昂る獣性を啓蒙で抑え込むと、血の遺志の中から得物を取り出す。

 右手に、獣狩りの斧を。

 左手に、獣狩りの短銃を。

 今にも山に走り出さんとする貴方の耳に、少女の声と、そして異様なうめき声が聞こえた。

 

“ ァァァァァ――パアァァンッ!

 

 とりあえず、撃った。

 初見の獣、いや亡霊ではあったが、まず一発撃ってから様子を見よう。貴方はそう思った。

 挨拶がわりに銃弾を。ヤーナムでは日常茶飯事(よくあること)である。

 だが予想に反して、たった一発の水銀弾で亡霊は消し飛んでしまった。継承した血の遺志も、ほんの僅か。まだ市街の肥満烏のほうが良い遺志を持っている。

 ついでに、向こう側にあった四角い箱のような物に流れ弾が当たると、何かの缶がゴロゴロ出てきていた。

 何かを割れば中身が出てくる。それが頭蓋骨でも目玉でも同じことだ。貴方は見ないふりをした。

 しかし、少女はそれを許してくれないらしい。

 

「ばかぁ――っ!」

 

 少女の飛び蹴りが、良い角度で貴方の腰に入った。

 狩人の戦闘スタイルは、速さを重視している。

 巨大な獣の膂力に対しては鎧など無意味であり、同じく、どのような攻撃でも当たらなければ無意味だ。

 回避こそが狩人の生命線。獣の爪牙を紙一重で掻い潜る、狩人の歩法(ヤーナムステップ)

 まあ、つまり。

 割と打たれ弱い貴方は、少女の蹴りに悶絶していた。

 

「いきなり鉄砲なんて撃っちゃダメじゃないの! 危ないし、お巡りさんに捕まっちゃうよ!?」

 

 少女の前で正座しながら聞かされたことによると、なんとこの町では銃はもちろん、武器の携帯さえ禁じられているのだという。

 なんと恐ろしい町か。

 穢れた獣、気色の悪いナメクジ、頭のおかしい医療者ども。そんな相手に素手で挑めというのだ。

 さすがの貴方も、この町の住人の異常さには戦慄(ドンびき)した。

 

「……言っておくけど、おかしいのはおじさんの方だからね」

 

 思考まで読まれた。この少女、啓蒙が高すぎるのではないだろうか……?

 

 

 

 

 なんやかんやで結局、銃の使用は絶対に禁止(ダメぜったい)とのことで、貴方はしぶしぶ銃を遺志の中にしまう。

 ユイと名乗った少女から「おじさん、明かりは持ってないの?」と聞かれたため松明を取り出すと、また蹴られた。

 炎もダメだというのか。

 炎も持たずに獣狩りなど! ……と強がって見せても貴方はすでに涙目である。目も真っ赤だ。文字通りの意味で。

 もういやだ、この少女こわい。

 

「あーもう、仕方ないな。ハイこれ」

 

 ユイから、その手に持っていた道具を手渡された。

 

 

 


 

【お化け狩りの懐中電灯】

 

 赤いリボンの少女、ユイから渡された狩り道具

 

 雷光の力により強い光を発する

 ごくありふれた、だが高度な技術による品

 

 ある種のお化けは、光の中でしかその姿を見せない

 しかし、ときには闇の中でしか見えないモノもある

 光はよい。だが、過信することなかれ

 


 

 

 

 なんということか。

 感動のあまり、貴方は両目から滝のような(なみだ)を流した。

 嗚呼、アーチボルドよ。貴公の探求は決して無駄ではなかった。

 見れば、この狩り道具だけでなく、そこら中にある街灯や妙な箱も、すべて雷光の力を纏っているのが分かる。

 宇宙は空にあった。そして、地上は雷光の中にこそあったのだ。

 両目から血を流しながらスイッチをカチカチしていると、ユイはナメクジでも見るような目で貴方を見ていた。

 そんな彼女に、貴方はそっと「雷光の狩人証」をさしだす。

 これは雷光に魅入られ、その光に生涯を捧げた探求者が発行した物。仲間の証。

 バチバチと雷光を走らせるその首飾りを一瞥してユイは、

 

「いらない」

 

 あんまりじゃあないか。

 



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ねずみ   -for Answer-

 この世で狩りにまさる(たの)しみなど無い。

 

 狩人にこそ、血の杯はあわだちあふれる。

 

 鐘の響きを聞いて、夜に身を潜め。

 

 闇を抜け、火をこえて、獣を追う。

 

 王者の愉悦。

 

 男の夢!

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ユイは、クロ達をつれて山の麓まで来ていた。

 何度かハルとも来たことのある山だったけれど、そこはもう、お化け達の楽園になっていた。

 町とは比べものにならないほどの、お化け、お化け、お化けの群れ。

 恐怖をぐっと抑え込んだユイは、ハルがさらわれたのはここに違いないと確信する。

 とはいえ、あまりに数が多い。まだ町なら、逃げたり隠れたりすることでやり過ごせていたけれど、どこを向いてもお化けがいるようなここでは、それも簡単ではない。

 ユイとクロのみであれば。

 

「うわぁ……」

 

 目の前の惨状に、ユイは何度目かも分からない呆れた声を出す。惨状の原因はもう一人の連れ合い、狩人のせいであった。

 ぶおん、と片手で振るわれた斧がまたお化けの脳天に直撃する。頭をかち割られたお化けは霧散してしまい、狩人はさっさと次の獲物に向かう。

 速い。とんでもなく速い。

 地面を滑るように走り、あんなに重そうな斧を片手で軽々と振り回す。黒一色の装束も相まって、それこそ映画に出てくるヒーローか悪役のようだけれど、左手に持った懐中電灯がいろんな意味で台無しだった。

 ユイが貸した物を何故かひどく気に入ったらしい。お礼のつもりなのか、バチバチと電気を発している変なアクセサリーをくれようとしたけど断った。危なそうだし。

 なんにせよ、非常に怪しい人物ではあっても、お化け退治は得意らしい。あれなら山の頂上まで簡単に行けるだろう。

 狩人のみであれば。

 

『わんッ!』

「うわぁっと!」

 

 クロの鋭い鳴き声に振り向けば、別のお化けが間近まで迫っていた。手に持った小石を放り投げて気を引かせても、その後ろにはまた別のお化けがいる。

 小石は、もう無い。

 

「ひゃっ!?」

 

 風のように走り戻ってきた狩人に担がれ、お化けの包囲網を潜り抜けて山を駆け下りる。クロも遅れずについてきた。

 これで実に4度目の撤退である。

 何度繰り返しても結果は同じ。狩人はいとも簡単にお化けを退治してしまう。でもユイとクロはそうもいかない。狩人がどんなに強くても、それ以上にお化けの数が多すぎるのだ。

 

「ごめんね、おじさん……」

 

 完全に足を引っ張っている。これでは助けを呼んだ意味もない。

 こうしている間にも、ハルは何かひどい目にあっているのかもしれないのだ。焦燥に頭を掻きむしるユイに、足元に生えた使者が手記を手渡す。

 

【敵の大群のにおいがする】

【銃を思い出せ だから 素晴らしい武器】

【この街を清潔にいたしましょう……】

 

 ドガシャン! と不吉な音に目を上げると、狩人の手には巨大な銃……というか機関砲(ガトリング)が握られていた。

 それこそ派手なアクション映画でしか見たことのないような兵器にユイが顔を引きつらせていると、狩人は使者に投げられた火炎瓶が頭に命中して転げまわる。狩人と使者の取っ組み合いを横目に、ユイは頭を抱えていた。

 こんな物を使ってしまえば、お巡りさんにつかまってしまうかもしれない。

 じゃあ、どうするのか。このままハルがひどい目にあうのを待っているのか。

 すこしぐらいバレないんじゃないか。

 ハルのためなら、わたしはどうなってもいい。

 ユイが無謀な決意を固めた時、またクロの鳴き声が聞こえた。見れば、クロはこちらに吠えながら山道をはずれて茂みの向こうへと走っていく。

 

「まってよ、クロ!」

 

 ユイがその後を追うと、狩人もついてくる。黒焦げになっていたはずの帽子は、何故か元通りになっていた。

 

 

 

 

 クロの鳴き声を辿り、まばらにいたお化けを狩人が片付けながら先に進むと、開けた場所に出た。

 山の斜面から突き出るように、コンクリート製の素っ気ない出入口がある。教科書で見た防空壕にも似たそれの前に、クロはいた。

 

「……ここから行こうって?」

 

 ユイの言葉を分かっているのかいないのか、クロは「わんッ」とひとつ吠える。

 鉄格子でふさがれた入り口は真っ暗な闇で満たされ、その奥から嗅いだこともないような悪臭が漂ってくる。赤い文字で書かれた「立入禁止」の看板がユイに警告していた。

 ごくりと唾を飲みこむユイの肩に、大きな手が置かれる。

 

「おじさん?」

 

 狩人はその青白い目でユイを見下ろすと徐に鉄格子に手をかけ、いとも簡単に開けてしまった。

 その扉ごと。

 

「おじさん……」

 

 狩人は、じっとりとしたユイの視線を受け、手に持っていた扉を茂みに隠すと素知らぬ顔で月を見上げた。遅れて鍵を拾ってきたらしいクロも、どこか呆れたような視線を向ける。

 一人と一匹の視線から逃れるように狩人は暗闇の中に足を踏み入れた。ユイもそれを追うと、すぐに戻ってきた狩人に担がれて入り口から飛び出す。

 どうしたのかと目を白黒させていると、入り口から小さな生き物が大量に走り出てきた。

 ネズミだ。

 

「もしかして、ネズミが怖いの?」

 

 ダラダラと冷や汗のように血を流している狩人を見て、ユイはすこしだけ口元を緩める。あんなに強いのにネズミが怖いだなんて、変なの。

 なおもジリジリと入り口を警戒している狩人の手を引いて、ユイは暗い通路に足を踏み入れた。

 

 

 

 

 ぬるぬるとした配管。水垢まみれの壁。あちこちに口を開いたトンネルに、黒とも緑ともつかない色のヘドロがぐずぐずと流れていく。

 ここは、ダムの水を管理するための施設のようだ。学校の授業で聞いたことを思い出したユイは、鼻をつまみながら顔をしかめた。

 ひどい臭いだ。クロもどこか元気が無い。犬の嗅覚は人間の何倍も鋭いという話も思い出したユイは足を速めた。早く抜けないと、クロの鼻がおかしくなってしまう。

 幸いというかなんというか、出てくるお化けは狩人が片っ端から始末してくれていた。

 ヘドロが人間の形になろうとすれば、人型になる前にバラバラにされる。

 水路の中から水草のような腕が飛び出せば、逆に手首をつかまれて引きずり出される。

 天井に張り付いて待ち伏せしていたヘドロも、石ころを投げつけられて落とされる。

 狭い通路の中では、お化けも少しずつしか出てこない。前を歩く狩人が道を開き、後ろはクロが睨みを利かせる。クロがひとつ吠えれば、狩人が振り向きざまに投げた石ころがヘドロの頭を撃ちぬいた。

 巨大な人の顔をはりつけた蟹が現れた時はさすがにユイも腰を抜かしたけど、結局は狩人の敵ではなかった。

 懐中電灯を腰のベルトに差し、ガキンッという金属音と共に斧の柄を伸ばして「変形」させる。狩人の身長ほどに長くなった斧を両手で振り回せば、お化けガニは……その、すごい事になってしまった。もうカニみそは食べられないな、とユイは思った。

 この上なく順調な足取り……と思っていたのに。

 

「ちょっと! 大丈夫だってば!」

 

 キチキチと小さな歯をかみ合わせる音の群れを耳にした途端、くるりと後退する狩人に担がれながらユイは抗議した。

 こちらの様子をうかがうようなネズミの群れは、クロの一吠えで暗がりへと消えていく。今にも火炎瓶を投擲しそうな狩人の手からそれを没収すると、足元の使者に手渡した。もう何度目になるかも分からないやり取りに、ユイは溜息をつく。

 いったいどういう怖がり方なのか。

 あんな大きなお化けガニにも恐れずつっこんでいくのに、小さなネズミの群れには脱兎のごとく逃げ出す。ネズミが怖いのかと思えば、猫のように大きなお化けネズミが一匹だけ現れてもまったく怖がらない。

 世の中にはいろんな恐怖症があるというけど、この人は「小さなネズミの群れ恐怖症」なんだろうか。

 

 ――変な狩人さん。

 

 だいたい、狩人を名乗るのに小動物が苦手でいいんだろうか。お化けガニに何度も斧を振り下ろすたびに飛んでいくハサミや足から目をそらしつつ、もうカニかまも食べられないな、とユイは思った。

 

 

 

 

 だいぶ上の方まで上ってきた。

 水路はほとんど見なくなり、配管やよく分からない機械ばかりが目立つようになる。カンカンと鉄製の通路をわたりながら、狩人に投げ飛ばされたお化けが遥か下まで落ちていくのを見てユイは息をのんだ。自分たちがとんでもなく高いところにいることを実感して、足がすくみそうになる。

 

 ――ハル……。

 

 何も握っていない右の掌をじっと見る。

 怖がりのハルは、高いところも苦手。歩道橋ですら上がりたがらないし、ユイが木登りすればハルの方が泣きそうな顔になってしまう。ユイだって高いところが怖くないわけじゃない。でもハルがそばにいれば、ユイ以上に怖がるハルの手を握ってあげれば、逆に怖くなくなる。

 でも、今ここにハルはいない。

 止まりそうな足をなんとか動かし、汗ばんだ手で冷たい手すりをギュッと握る。下を見ないようにしながら、前を歩く狩人の黒い背中を追った。

 

 ――ハル、まってて。いま、いくよ。

 

 勇気を振り絞って前に進む。

 進んだのに、またネズミの群れに逃げ出した狩人に担がれる。不安定な足場を逃走したことでグラグラ揺れる視界に、今度こそユイは悲鳴をあげた。

 

 

 

 

 やっと外に出られた。

 ユイも狩人も、いろんな意味で疲れていた。クロがユイを元気づけるように細い足にじゃれつき、使者は情けない狩人の頭に鎮静剤をぶつける。地面から生える使者相手にモグラ叩きのようなことをしている狩人を横目に、ユイは予備の懐中電灯であたりを照らした。

 コンクリートの大きな橋に出たのかと思ったけれど、違う。ここはダムの上の堤体だった。気付いた途端に感じる澄んだ夜の空気に思わず深呼吸してしまう。肺にたまっていた淀んだ空気を入れ替えると、鉄柵に手をかけてダムの下を見下ろした。

 月明りに照らされた、半壊した建物がいくつも見える。どれも赤茶けた泥に覆われているそれらは、ダムの底に沈んだ廃村だ。今年はあまり雨が降らなかったから、ダムの水が減って姿を現したのだ。夏休みが始まる前、節水するように学校の先生が言っていたのを思い出す。

 ……元から水の出ないユイの家では、気にすることでもなかったが。

 頭を振って余計な考えを振り払うと、じっと目を凝らして廃村を見る。村の向こうに大きな山の影が見えた。このままダムを下りて、あの廃村を抜ければ山に入られるかもしれない。

 使者の群れに袋叩きにされている狩人を後目に通路の先を照らすと、道の端に何かを見つけた。ネズミではない、もっと大きな……。

 

「うっ……!」

 

 死体だった。

 ネズミでも犬でも猫でもない、人間の死体。それも一体ではない、何人分もの白骨死体が、黄色いヘルメットや黒い作業服を着たまま折り重なっていた。

 きっと、このダムで働いていた人たちだ。死体の近くには、その人たちの持ち物がちらばっている。指輪、腕時計、財布……。誰かも分からない家族の集合写真と、黒縁眼鏡を見てユイは表情を曇らせる。

 この死体の人にも家族がいたのだ。もしかしたら、誰かの父親だったのかもしれない。

 ……この人の家族も、おかしくなってしまうのだろうか。

 ズキンと額の傷が痛んだ。ぎゅっと唇を噛んで、死体に手を合わせる。

 

 ――あとで、かならず警察の人に言います。

 ――でもいまは、友だちを助けないといけないんです。

 ――すこしだけ、待っていてください。

 

 誰かも分からない死体に祈るユイの姿を、狩人はじっと見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

“ワタシはするどいキバがあるか”

 

 

 

 

 

 

 

 

 唐突に響いた問いに、ユイは顔を上げた。狩人の方を見れば、彼も周囲を見回している。空耳ではない。

 

 

“ワタシはツバサがついているか”

 

 

 まさかと死体を見てみる。当然ながら何の反応もない。風に揺れる作業服の袖が「ちがうよ」と手を振っているようだった。足元の使者は、首を横に振って答える。

 

 

“ワタシはおおきなカギヅメをもっているか”

 

 

 問いだけが続く。

 ヒトじゃないモノが、ヒトの言葉をつぎはぎして発したような声だった。高いような低いような声で、遠いのか近いのかも分からない。今にも耳元で囁かれそうな予感がして、せわしなくユイは周囲を見回す。

 狩人は、じっと夜空を見上げていた。

 その夜空に、赤い光が、ふたつ並ぶ。

 

 

 

 

“ワタシはなにものか、しっているか”

 

 

 

 

 ユイは、空に「死」を見た。

 空に浮かぶ、巨大な頭蓋骨。男なのか女なのか、子どもなのか大人なのかも分からない、骨だけの顔。

 

 だってそうだろう?

 死ねば、みんな、この顔になる。

 男も、女も、子供も、大人も。

 おまえも。

 おまえの友だちも、最後はこうなるんだよ。

 

 言葉もなく、その絶望的な真実を、その巨大なお化けはユイに見せつけていた。赤い人魂のような目が、ユイを見据える。

 ユイは、その目を睨み返した。懐中電灯を剣のように構え、ガクガクと震える足で立ち上がる。

 

 やだ。

 そんなのやだ。

 ハルが死んで、あんな冷たい顔になってしまうなんて、絶対にいやだ!

 

 ユイに勝ち目なんて無い。あの死体の人たちは、このお化けに殺されてしまったんだ。小さなお化けにも勝てない自分にできることなんて、何も無い。

 でも、降参だけはしたくない。ハルが、自分の助けを待っているんだ!

 なおも心折れないユイの眼差しに対し、頭蓋骨はその赤い目を輝かせる。

 

 クルシイ コワイ ドウシテ

 ドウシテ ドウシテ ニクイ コワイ ニクイ

 

 赤い目と視線を合わせたユイの頭に、悍ましい声の濁流が流れ込んでくる。

 理不尽な怒りが、やり場のない憎しみが、癒えることのない悲しみが、どうしようもない恐怖が、ユイにのしかかる。

 折れろ、折れろと、その心を一方的に叩きのめしてくる。

 ユイは、ただ耐えた。

 耐えることには、慣れてしまっていた。

 それでも、心の奥底に入った亀裂から漏れ出すように、その両目から涙があふれ出す。

 涙で滲んだ夜空に、自分を叩きつぶそうとする巨大な骨の腕と、

 

 (からす)のように飛び上がる、狩人の影を、見た。

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

“ワタシはなにものか、しっているか”

 

 ああ、知っているとも。

 獣だ。

 

 

 ――――【問う者たち】

 

 

 夜空に浮かぶ巨大な獣の脳天に、その金槌を叩き込む。確かな芯を捉えた手ごたえに、貴方は獣性が高まるのを感じた。

 貴方の右手に握られているのは、獣狩りの斧ではない。撃鉄を持った巨大な金槌、仕掛け武器「爆発金槌」だ。

 見るからに堅そうな獣だったが故の選択だったが、その効果は覿面だった。中に脳など無かろうに、フラフラとよろめくように挙動が不安定になっている。赤い目をぎょろりとこちらに向けた獣は、その両腕を振り上げた。

 着地した貴方を叩き潰さんとする腕に対し、貴方は一歩も退かない。むしろ前に出る。

 巨大な獣相手に後退することは死を意味する。それは、わざわざ獣が屠りやすい間合いに立ってやることでしかないのだ。故に、前に避ける。

 凶暴な獣に対し、自ら間合いを詰める。言葉にするほど容易ではない。だが狩人なら皆できることだ。できない者は死ぬのだから。

 振り下ろされた右腕を避け、振り向きざまに金槌を叩き下ろす。まだ「仕掛け」を使っていないにも関わらず、その一撃は手首にあたる部分を打ち砕いた。ボロボロと骨が崩れて、ダムの底へと落ちていく。

 獣の分際で多少の思考は持っているのか、今度は左腕で通路全体をなぎ払おうとしているのが見えた。

 貴方は、チラと後ろを見やる。ユイは既に通路の奥へと退避していた。勇敢だが利口な少女だ。今ここで自分がするべきことを分かっている。

 守る者はいない。そして見張る者も。

 懐中電灯をベルトに差し、左手に新たな武器を呼び出す。それは一見、金細工を施された美術品のように華美な代物だった。だが引き金に指をかけると同時に、その折りたたまれた銃身が本来の位置へと戻る。

 獣が、その左腕をなぎ払おうとする刹那、貴方は引き金を弾く。轟音と共に、その長い銃身から散弾が放たれた。

 ルドウイークの長銃。獣ではなく、もっと別の怪異を狩るための銃。目の前に浮かぶ、この巨大な頭蓋骨のような。

 長射程・高密度の散弾がその一撃を挫く。まるで体勢を崩したかのように、その巨大な頭蓋骨が堤体の上に落ちた。

 ちょうど、貴方の目の前に。

 血除けのマスクが無ければ、耳まで裂けたような笑みが見られたであろう昂りと共に、貴方は金槌の「仕掛け」を起動した。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 狩人の邪魔をしないよう、クロと共に堤体を走り抜けたユイは、背後から聞こえてくる轟音に転びそうになった。

 後ろを見れば、大きなお化けが虫をつぶそうとするように、何度も手を振り下ろしている。そのたびにユイ達が立っている足場もグラグラと揺れ、まるで怪獣が暴れているような光景にユイは呆然とする。

 

「そんな……」

 

 いくら狩人が強くても、あんな大きなお化けに勝てるんだろうか。あの死体の人たちに仲間入りしている狩人の姿を想像してしまい、思わず戻ろうとするユイの足を小さな手がつかんだ。足元の使者が、首を横に振っている。

 ユイは唇を噛んだ。戻っても足手まといになるのは分かっている。分かっているけど!

 

 

 ドオォォンッ!

 

 

 銃声だった。

 それもピストルじゃない、もっと大きな。

 ユイは噛んでいた唇をひくつかせ、クロですら溜息をつく。足元の使者が額に手を当てた。

 言ったのに。鉄砲は撃っちゃダメって言ったのに。でも、あのお化け相手なら仕方ないのかな?

 身を守るためなのは分かるけど、わたしがいなくなった途端に撃つってどうなの?

 そういうのって、先生に怒られちゃうよ? でも死んじゃったら元も子もないし……。

 発砲した狩人の是非を悩むユイの耳に、小さな鳴き声が聞こえた。

 振り返れば、ダムの堤体の端、山肌はすぐそこだった。山に足を踏み入れ、耳をすませて鳴き声を辿り、

 

「これって……」

 

 小さなネズミの群れが守る、ソレを見た。

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 この世で狩りにまさる愉しみなど無い。

 月の魔物を狩り、青ざめた血を得、上位者と化した貴方であっても、狩りに酔うことは避けられない。

 何故なら、貴方は良い狩人なのだから。

 

“ワタシはなにものか、しっているか”

 

 倒れ伏した獣が、なおも貴方に問いかける。

 その赤い目を、貴方は青白い目で見返した。目を通し、脳に芽生えた瞳が、その意思を読み取る。

 獣と貴方は、瞳だけで会話した。

 

 

 我らが何者なのかを知っているか。

 おまえ達が、己のために何を犠牲にしたのか、知っているか。

 我らが落ちたあの地獄を、知っているか。

 この怒りを、憎しみを、悲しみを、恐れを、知っているか。

 知っているか!

 

 

 知らぬよ。そして知っているとも。

 貴公が何者であったかなど知らぬ。だが今の貴公は獣だ。

 あの哀れな男たちを喰らったのは貴公だろう?

 己のために、彼らを喰らったのだろう?

 ならば、貴公は獣だ。

 そして、私は狩人だ。

 狩りに優れ、無慈悲で、血に酔った、良い狩人なのだよ!

 

 

 爆発金槌を、振りかぶる。

 仕掛けにより、仕込まれた炉がごうごうと炎を滾らせる。振り下ろせば脳天を砕き、同時に炸裂する炎が内から焼き尽くすだろう。

 どこまでも獣を憎んだ者が生み出した、この狂気の凶器(さんぶつ)を、貴方は目の前の獣に……。

 

 

「やめて!」

 

 

 

 

   ※

 

 

 

「もう、いいよ。おじさん」

 

 ユイの手には、ネズミの死骸が抱かれていた。

 ネズミの群れが守っていたモノ、それがこの死骸だった。

 ネズミというには異様に大きな死骸を抱きながら、ユイは歩みを進める。狩人とお化けは、ただそれを見ていた。

 右を見る。

 ダムに沈んだ村が見えた。ただ静かに生きていたこのネズミたちは、みんな水にのみ込まれたんだろう。なんで、どうしてこんな目に、と。水の底でもがいて苦しんで、死んでいったんだろう。

 左を見る。

 お化けに殺された人たちの死体が見えた。ただ真面目に働いていたのに、家族のために働いていたのに。なんで、どうしてこんな目に、と。心の底まで恐怖を味わって、死んでいったんだろう。

 目を閉じる。

 ユイには、難しいことは分からない。まだ10年しか生きていないのだから。きっと大人であっても、正しい答えなんて分からないのに。

 ユイは目を開けて、倒れ伏した頭蓋骨と目を合わせた。

 

「もう、いいでしょ?」

 

 ただ、それだけ。

 諭すような、願うような言葉を聞いたのか、聞かなかったのか。

 命の灯が消えるように、その赤い眼光が消えた。

 ボロボロと、頭蓋骨が崩れていく。無数の、ネズミの死骸になって。

 ダムの底で溺れ、ヒトを呪いながら死んでいったネズミたちがダムに降り注ぎ、その堤体に積もることもなく消えていく。

 後に残ったのは、一匹の死骸を抱くユイと、クロと、死体たちと、

 

「おじさん……」

 

 ネズミの群れに恐れをなし、ユイを担いで逃げ去る狩人だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 廃村を見渡せる場所に、小さな穴を掘る。ネズミの死骸を横たえて、土をかぶせた。近くにあった石をその上に乗せる。

 簡単なお墓だけど、ユイたちは先を急いでいる。あの死体の人たちのことだって、忘れてはいけない。

 狩人はその青白い目でユイを見下ろし、両手を合わせる姿をどこか不思議そうに眺めていた。

 

「こうやるんだよ」

 

 ピンと伸ばした掌をしっかりと合わせる。そうして見せると、狩人はぎこちない動きでユイの真似をした。その足元で使者も同じ動きをしているのがおかしくて、ユイは笑った。

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 慈悲深い少女だ。そして強い。

 ユイを見下ろしながら、貴方はあの鴉羽(からすば)の狩人を思い出していた

 血に酔った狩人を狩る、狩人狩り。呪われたその業を受け継ぐ者には、それ故に類い稀な資質を求められた。

 

 まず強く、血に酔わず、仲間を狩るに尊厳を忘れない。

 

 貴方は、そうなれなかったのだろう。

 だから貴方は、彼女から受け継いだ「鴉の狩人証」をそっとユイに差し出した。貴公にこそ、これは相応しいと。

 不吉な鴉を象り、影のように真っ黒な首飾りを一瞥してユイは、

 

「いらない」

 

 あんまりじゃあないか。

 



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はさみ   -Crimson scissors-


 

 【共鳴する不吉な鐘】

 

 地下遺跡で発見された血塗れの鐘

 音が次元を跨ぐ共鳴鐘の一種であるが

 これはあらゆる不吉な鐘に共鳴する

 

 不吉な鐘など、すべからく暗い情念や呪いの類であり

 この鐘を鳴らす者は、別世界の狩人の敵となるだろう

 

 それが狩人であろうと、なかろうと

 


 

 

 

 

 

 

 

 

「――あれ?」

 

 気が付けば、暗い闇の中にいた。

 どこを見回しても真っ暗で、怖い夢でも見ているのかと思ったけれど、冷たい風が頬を撫でる。

 青いリボンの少女――ハルは、絶望的な暗闇にその大きな目を潤ませた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 <○> <○> <○>

 

 狩人の貴公たちへの、よく分かる解説!

 

 ハルちゃんとは、日本人離れした金髪と青いリボンが特徴の小学生!

 親友のユイちゃんにべったりな弱気(ヘタレ)少女だ!

 霊感は強いのに、怖がり屋の寂しがり屋で勉強も運動も苦手という、わりと残念な子だったりもするぞ!

 だがそこがいい!

 

 <○> <○> <○>

 

 

 

 

 

 

 

 

「うぅ、暗いよぉ……」

 

 自分のつま先も見えないような、暗闇。

 前を見ても後ろを見ても、何も見えない。あちこち見回しすぎて、元々どちらを向いていたのかも分からなくなってしまった。恐る恐る伸ばされた手が何か固い物に触れて、ハルは悲鳴をあげる。

 怖い。帰りたい。行かなきゃ。でも動きたくない。でもここにいたくない。

 ぐるぐると回る思考に、だんだんと息が苦しくなってくる。

 怖いよ。苦しいよ。助けてよ。お父さん! お母さん! ……ユイ!

 

『ほら、深呼吸だよ。ハル』

 

 以前、同じように息が苦しくなった時にユイから言われたことを思い出した。

 目を閉じて、胸に手を当てる。すーはーすーはー、と深く呼吸していると、ドキドキしていた心臓も落ち着いてきた。

 涙をぬぐって、そっと目を開ける。目を開けていても閉じていても変わらないほどに、暗い。

 もう一度、前に手を伸ばす。ゴツゴツとした、固い樹皮の感触。木だ。

 足を動かす。ザリ、と土を掻いた音がした。膝を草にくすぐられて、びくりと後ずさる。

 たぶん、山の中にいる。ハルはそう思った。山なら、下のほうに向かえば、お家に帰れるかも。

 なんとなく下っていると感じる方に、すこしずつ足を進める。木にぶつからないように、両手をふらふらと前に出す。

 暗闇の中に、怪物がいる。

 そんな怖い想像を振り払うように、ユイの顔だけを思い浮かべるようにした。

 

『泣かないで、ハル』

 

 夏が終わったら遠くの町に引っ越すことを、今日、ユイに伝えた。

 夕日に照らされたユイの顔は笑っていたけれど、その声は震えていた。

 やっぱり言わなければよかった。引っ越しなんてしたくない。ユイとお別れしたくない。

 いつも通りにユイと手をつなぎながら家に帰って、でも暗い気持ちばかりがどんどん大きくなって、それから、それから……?

 

 ――どうしたんだっけ……?

 

 記憶にぽっかりと空いた穴にハルが気付いたと同時に、その足が何かを蹴った。

 

 

 カラ――――ン

 

 

 ハルの絶叫が山に響いた。

 その場に尻もちをつき、ぎゅっと目を閉じてすーはーすーはー! と深呼吸を繰り返す。頭の中でユイの笑顔をぐるぐる回してようやく落ち着いたハルは、足元に落ちていた物を拾った。

 冷たい金属の取っ手。その先は、花のつぼみのような形をしている。カラカラと、動かすたびに音が鳴った。

 鐘だ。

 こんな山の中に、どうしてこんな物が。普段のハルなら、絶対に触らなかった。ましてや、鳴らしてみようだなんて。

 でもなんだか、さっき聞いた音色が忘れられない。無性に、また聞きたくなった。

 

「一回だけ……」

 

 誰に断るでもなく、ハルはその鐘を鳴らした。

 

 

 カラ――――ン……

 

 

 冷たい、澄んだ音色だった。

 それを聞いていると、ハルは気持ちが落ち着いてくるのを感じた。

 

 

 カラ――――ン……

 

 

 怖い気持ち。不安な気持ちが落ち着いてくる。

 いや、消えていく。

 

 

 カラ――――ン……

 

 

 ハルは、ただ鐘を鳴らす。

 もし明るければ触りもしなかった、血に塗れた不吉な鐘を。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 干上がったダムの底、廃村に足を踏み入れたユイは、遠くの山に目を向けた。

 急に足を止めたユイに、前を歩いていた狩人もその青白い目を向けてくる。

 

「いま、なにか聞こえなかった?」

 

 狩人は耳に手を当て、耳を澄ますような仕草をして、首を横に振る。その足元で使者も首を振っていた。クロは分かっているのかいないのか、その鼻をスンスンと鳴らしている。

 でもユイには聞こえた気がしたのだ。ハルの、叫び声が。

 

「ハル……!」

 

 声が聞こえたということは、近くにいるかもしれないということ。でも悲鳴をあげるような状況が、良い状況であるわけがない。

 ユイは足を速め、前を歩く狩人を追い抜こうとして、大きな手に肩をつかまれた。

 邪魔をする狩人に抗議しようと振り向いたユイに対し、狩人は「静かに」と指を立てる。こちらを見据える鋭い眼光にユイが言葉を無くすと、狩人は横にある廃墟の陰を指さした。

 

 ――あいつは……!

 

 ユイも目を向けた先に、真っ赤な(はさみ)を持つ、異形のナニカが、いた。

 

 

 

 

 それは、学校でささやかれる「こわい噂」のひとつだ。

 

 真夜中に「言ってはいけない言葉」を口にすると、コトワリさまが現れ、鋏で手足をバラバラに切られてしまう。

 助かりたければ、手と足と首のある物を代わりに差しださなければならない。

 

 よくある話だった。探せば似たような話はいくつも見つかりそうな、典型的な怖い話。ユイもお化けの名前や、その言葉が何なのかまでは忘れてしまった。

 でも、ユイはその話を信じていた。

 別にオカルト好きというわけじゃない。信じた理由は、ハルだ。

 ハルは昔から変なことを言う子だった。誰もいないのに誰かがいたとか、何も聞こえないのに何か聞こえたとか。

 ハルがそんな嘘をつく子じゃないということは、ユイもよく知っている。だから、世の中には「そういったモノ」もいるんだと、ユイは思っていた。

 そして何よりも、ユイは既にアレと遭っている。

 

「おじさん、気を付けて。……アレは、今までのお化けとは、ちがう」

 

 ユイは、数時間前のことを鮮明に思い出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

『泣かないで、ハル』

 

 夏が終わったら遠くの町に引っ越すことを、今日、ハルから伝えられた。

 きっとずっと言い出せずにいたんだろう、朝から元気の無かったハル。絞り出すようにその言葉を告げた泣き虫な親友は、やっぱり泣き出してしまった。

 ユイは、なんとか元気づけようとした。

 泣いてる暇なんて無い。今年で最後ならいっぱい思い出を作らないと。明日の花火大会はぜったい一緒に行こう。そんなことを言った……気がする。

 その時、ユイの頭は真っ白だったから。

 ハルがいなくなるなんて想像したことも無かった。あまりに突然で、悲しいとか寂しいとかいう気持ちすら感じなかった。

 なんとか笑顔を貼りつけたままハルを家まで送って、花火大会に行く約束をして、一人で家に帰ろうとして。

 

『もう……いやだ』

 

 後ろから、小さなハルの弱音が聞こえて。

 そして、アレが現れた。

 ハルの悲鳴に振り向いたユイには、それが巨大な「手」に見えた。大きな鋏を持った、大きな手。

 その赤い鋏の切っ先がハルの首を挟もうとしていて、ハルの手を取って必死に逃げた。

 黄昏に沈もうとしている町を、二人で走った。後ろからは何の足音も聞こえず、ただ金属をこすり合わせるような音だけが追ってきた。

 どこをどう走ったのかも覚えていない。アレはただの酔っ払いだよとか、意味の分からないごまかしをハルにした気もする。

 気が付けば金属音も聞こえなくなって、後ろを見ても何もいなかった。その後、改めてハルを家まで送ったのだ。

 そして、ハルはいなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――なんで、ハルを一人にしたの……!

 

 アレが、ユイが初めて見た「ヒトじゃないナニカ」だった。初めてはっきりと見えた怪異に、動揺していたんだと思う。

 でもあの時、ユイは別のことにも気を取られていた。

 

 ……これから、どうしよう。

 ……ずっとハルを頼りにしてきたのに。

 ……これから、わたしは何のために生きていればいいんだろう。

 

 自分のことで頭がいっぱいで、つい先にハルの手を離してしまった。一人で家に帰る途中、やっぱりハルが心配になって戻ったけれど、その時にはもう遅かった。

 バカな自分を(はた)き倒してやりたい気持ちになりながら、ユイは物陰からお化けを観察する。

 

 ダム底に沈んでいた廃村に、街灯なんてものは当然ない。だから暗がりの中にいるソレの姿も、じっと目をこらしてもはっきりとは見えなかった。

 ただ、その大きくて赤い鋏だけが異様な存在感を放っている。

 どちらを向いているのかも分からないけれど、ユイ達に気付いた様子は無い。その鋏で何かを切っているような音が聞こえてくる。

 

 ゾクリと。真夏とは思えない寒気を感じて、ユイは自分の肩を抱いた。

 怖い。

 今日はじめてお化けを見たユイでも分かるのだ。アレは他のお化けとは格が違う。ダムで襲ってきたあのネズミ達でさえ、アレに比べればかわいいものだ。

 はじめて見たお化けがアレほど怖いモノだったからこそ、その後の雑多なお化けにも恐れずにユイは進んでこられたのかもしれない。

 

 ――大丈夫、まだ見つかってない。

 

 深呼吸して、気持ちを落ち着かせる。

 戦う必要なんて無いのだ。見つかってもいないというのなら、こっそりと通り抜ければいいだけ。そう、戦う必要なんて無い。無いのだ。

 だから。

 

「ダメだってば! もう!」

 

 ギラギラと目を輝かせている狩人に対し、小声で叱りつける。その右手にはすでに、大きな鋏を分解したような曲がった刃物が握られていた。

 今にも飛び出さんばかりの狩人の前に立ちふさがり、両手をバッテンしながら首を振って見せると、それを見た狩人はすぐに頷いた。

 頷いて、何を勘違いしたのかその武器を変形させた。

 背中に背負っていた骨のようなパーツに、その曲がった刃物を叩きつける。骨と刃が連結したのと同時に、その骨が展開して長い柄になった。

 それは鎌だった。絵本の死神や悪魔が持っているような、大きな鎌。

 たぶん、お化けの大鋏に対抗してその武器を選んだんだろう。それはユイにも分かる。分かるのだが。

 

 無言の飛び蹴りが、狩人の鳩尾に突き刺さった。

 

 隠れているこの状況で、ガシャンッブオンッ! と大きな音を立てた狩人を黙らせると、ユイは慌てて物陰からお化けを再び観察する。

 視界の端で悶絶する狩人と、その頭を細いナイフでつっついている使者が見えた。無視。

 お化けは、こっちを見ていた。

 見ていたと言っても、そのお化けに目は無かった。ただ大きな口だけがこちらを向いている。そしてその赤い鋏も。

 すぐに顔をひっこめると、口を押さえて悲鳴をこらえる。ドキドキと鳴りやまない心臓も押さえるように、もう片方の手を胸に当てた。

 ギュッと目を閉じていると、耳だけがやたらと敏感になる。金属をこすり合わせるような、きっとあの鋏を動かしている音が聞こえる。その合間に、低い唸り声と荒い息遣いも。

 その音はしばらくの間、近くなったり遠くなったりして、だんだんと小さくなって、やがて聞こえなくなった。

 

 注意深く耳をすましていたユイはようやく目を開けると、そっと目だけを物陰から出す。

 何もいない。

 ただ、水風船を割ったような赤黒い染みだけが地面にこびりついていた。

 懐中電灯の光を当て、それが人ではない、ましてやハルではないことを確かめて、ようやくユイは息を吐く。あのお化けの餌食になっていたのは、かわいそうなカラスだった。

 

「…………」

 

 しゃがんで、足元にいたクロの頭を撫でた。お化けは人も動物もお構いなしに襲う。そろそろ、潮時なのかもしれない。

 

「……ねえ、クロ」

 

 愛犬に、あることを告げようとしたユイの肩を、誰かがトントンと叩いた。

 今ここでそんなことをするのは一人しかいない。だからユイは上向きに振り返ったのに、そこに狩人はいなかった。

 

「……んん?」

 

 いや、やっぱりいた。

 いたけれど、まるでお化けのようにその姿は透き通っている。試しにその手をつかんでみると、硬質な革に包まれた固い腕がたしかにあった。

 

【隠密の時間だ】

【医療者を許しはしない しかし 素晴らしいアイテム】

【脳 つまり 遺志】

 

 なぜか半透明になった狩人から何かを手渡される。どういう仕組みなのか、それはユイの手におさまると同時にはっきりとした姿へと変わった。

 それは、青い液体の詰まった小瓶だった。学校の理科室でも見たことのないような、変わった色をしている。変色したラベルには、これもまた見たことのない文字が書かれていた。

 

「……透明になる薬ってこと?」

 

 しかめっ面でユイは問いかける。目に力をいれないと狩人が見えないのと、この薬があまりにも怪しいからだ。そんなユイの視線にも動じず、狩人はうんうんと頷いている。

 足元の使者を見ると、特に何の反応も無かった。ここ数時間で、この使者がだいぶユイに好意的なことは分かっていたから、かえってその無反応が気になる。まるで、止めるか止めないか迷っているような……。

 とはいえ、あのお化けがまだ近くにいるかもしれないのだ。透明になってやり過ごすことができるのなら、それ以上のことは無い。

 それに、ハルが危ない。ユイは決心した。

 

 ――なむさん!

 

 映画か何かで聞いた、意味はよく知らない言葉を心中で唱え、ユイは青い薬を一気飲みした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 色とりどりのステンドグラスが、お日様の光を通して輝いていた。

 たくさんの人が、「主役」の登場を今か今かと待ちわびている。ユイも、その中にいた。

 もう待ちきれなかった。花びらでいっぱいの籠を手に、そわそわと体を揺らす。

 それをたしなめるように、両肩に手が置かれた。

 右を見上げると、お父さんがいた。弱気そうな目を黒縁眼鏡で覆った、だいすきなお父さん。

 左を見上げると、お母さんがいた。強気そうな目でもやさしく微笑む、だいすきなお母さん。

 周りにも、たくさんの人たちがいた。

 ハルのお父さんとお母さんに、お爺ちゃんとお婆ちゃん。学校の先生、友達、お父さんの大学の先生、学生さん。

 手に鍬や松明を持った、たくさんのおじさん達。車いすに座って、大きな鉄砲を抱えたお爺さん。

 左目に眼帯をした女の子。セーラー服のお姉さん。天井に頭をぶつけそうなほど大きなムカデ。

 うめき声をあげる白い人型に、子どもの落書きみたいな人型。人の顔をしたわんちゃん、目が一つだけのわんちゃん。

 みんなみんな、わくわくした顔で主役の登場を待っている。

 そして、大きな扉が開かれて、主役――ハルが入ってきた。

 

 大人になったハルは、びっくりするぐらい綺麗だった。

 真っ白なドレス。金色の髪。三つ編みの先に結ばれた、青いリボン。

 右手には黒い手錠がはめられて、左手は無くなっていた。そのお腹の部分には、赤い血が染みをつくっている。

 白いベール越しでも、ハルの笑顔はきらきらと輝くようだった。

 

 その足元を、クロとチャコが跳ねるようくるくる回っている。二匹の背中には、それぞれリングピローを手にした使者が生えていた。

 ユイが、バージンロードを先に立って歩く。籠の花びらを撒きながら、ゆっくりと歩いた。ユイの首に巻かれた赤いリードが、教会の絨毯をすべっていく。

 やがて辿りついた祭壇には、すごく体の大きな神父さまが立っていた。黒い帽子の下に、包帯でぐるぐる巻きにされた両目が見える。

 フラワーガールの役を終えたユイは両親の元に戻り、花嫁衣裳のハルが、恐竜の頭蓋骨みたいな物が乗った祭壇の前に立った。

 その横に、灰色のタキシードを着た新郎がいた。その顔には、白い円状の仮面のような物がくっついている。何本もある腕が、大きな袋を3つ抱えていた。

 ハルが、その腕の一本に指輪をはめる。新郎はまず、血と脂がこびりついた義手をハルの左肩にはめてから、その作り物の手に指輪をはめた。

 大きな神父さまが獣の姿に変わって、大きな声で叫ぶ、それに合わせて新郎が、その腕でハルの両手両足をつかんでベールをめくり、身動きできないハルに、その仮面が口づけた。

 割れるような拍手が、みんなの歓声が、獣の咆哮が、銃声が教会に響きわたる。

 ユイも感激して涙が止まらなかった。もっとよく見ようとぴょんぴょんジャンプしていると、隣にいた狩人が首のリードを持ちあげてくれる。

 首だけでぶら下がりながら拍手していると、天井に張り付いていた大きなナニカが見えた。腕が7本もあって、アーモンドみたいな頭をしている。

 そのアーモンド頭のナニカが、その腕で大きなウエディングケーキをハル達の前に置いた。ケーキ入刀だ。

 ハルが、左の義手を動かすとガシャンと音がして、肘にくっついていた赤い鋏でケーキをバラバラにする。飛んできたケーキをユイも食べた。すごくおいしい!

 狩人の分も食べてしまうと、いつの間にか目の前にハルがいた。

 クリームがついてるよ。そう笑って、ユイのほっぺたをペロペロ舐めはじめる。

 うわあダメだよハル!

 そういうことはだんなさまにしてあげてよはずかしいじゃないみんなみてるよくすぐったいってばもういやだうれしいけどとにかくおめでとうわたしもすごくうれしいよハルハルハルハルハルハ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――はっ!?」

 

 頬を舐められる感触に、ユイは飛び起きた。

 主を起こそうと頑張っていたクロが、嬉しそうに飛びついてくる。

 数時間前にも同じようなことがあった気がする。今も何か、幸せなようなそうでないような夢を見ていた気がしたけれど、よく思い出せない。

 きっと思い出さない方がいい。なぜかそう思った。

 まだボンヤリとする頭を無理やり働かせて、ひどく怠い体も無理やり動かす。ガラガラと、まわりにゴミが落ちてきた。

 

「なに……ここ……?」

 

 ユイは、ゴミの中にいた。

 正確には、ゴミだらけの神社の中にいた。神社自体もボロボロで、見ているとなんだか悲しくなった。

 なんとか立ち上がって、服についた汚れをはたき落とす。黒やら茶色やら、何かも分かりたくないような汚物がこびりついていて、ユイは顔をしかめる。しかめながら、記憶をたどった。

 ええと、たしか、ダムの底の村に入って、ハルの声が聞こえた気がして、大きな鋏のお化けがいて、それから……。

 

 

 

()アァァ――――ッ!”

 

 

 

 

 とつぜん聞こえてきた雄叫びに、ユイの体がびくりと跳ねた。人の声でも動物の声でもない、聞いただけで体が動かなくなるような声。

 しゃがんでゴミの陰に隠れながら、そっと顔を出す。

 狩人が、お化けと戦っていた。

 

 狩人の姿は、もう半透明じゃなかった。でも、その動きがあまりにも速い。速すぎて、ユイには黒い物がびゅんびゅん動いているようにしか見えなかった。

 あの大きな鎌は持っていなくて、かわりに小さめな武器を持っている。見たこともない形をしていて、ユイには上手く(たと)えられない。

 大きな銃声がして、また左手に鉄砲を持っているのが分かった。ダメだと言ったのに。

 

 相手は、あの赤い鋏を持ったお化けだった。

 大きな、それこそ人間も真っ二つにできそうな鋏。それを何本もある腕で掴んでいた。鋏を掴みそこなった腕が、背中の部分でウネウネと動いている。

 ヒトらしい部分といえばその腕ぐらいで、あとは頭も無ければ足も無い。体の部分は赤黒い霞が塊になって、そこにある大きな口がまた雄叫びをあげていた。

 

「ぁ――ッ!」

 

 あぶない、と叫びそうになってあわてて口を押さえた。

 突進したお化けの鋏が、ジョキン! と寒気のするような金属音を響かせて、狩人は姿がかき消えるように避ける。すれ違いざまに、その右手に持った武器でお化けを殴りつけた。お化けの背中に生えた腕の一本がちぎれ飛んで、思わずユイは目を背ける。

 頭をひっこめると、足元にいた使者が「静かに」と指を口に当てていた。それに頷きかえしてから、ユイは気持ちを落ち着かせる。

 何がどうなったのかは分からないけれど、結局はあのお化けに見つかったんだ。それで狩人はユイとクロをゴミの中に隠して、ひとり戦っている。狩人に任せっきりなのは悪いと思うけれど、ユイが出て行っても足手まといになってしまう。

 

 ――大丈夫、あのおじさんは強い。

 

 そんじょそこらのお化けでは狩人の敵ではないということは、もうユイにも分かっていた。ダムで出てきた大きなお化けだって、一人で倒してしまったのだ。あの鋏お化けは別格だと思うけれど、それでもあの狩人ならきっと大丈夫。だから、ユイは彼の邪魔をしないよう、ここでジッとしているのが一番……。

 

 ガンッ! と、何かがユイ達が隠れているゴミに当たり、ユイはなんとか悲鳴を押さえこんだ。飛んできた何かがユイの目の前に落ちる。

 それは、武骨で大きな鉄砲だった。最初に狩人が持っていたピストルよりも、ふた回りほど大きい。こんな物をどうやって片手で使っているんだろう、なんて呑気に考えるユイの目に、真っ赤な血が飛び込んでくる。持ち手の部分にべっとりと付いた血。誰の物かなんて、考えるまでもない。

 あわててゴミから顔を出すと、狩人の左手には何も握られていなかった。その手は、ダラリと力なく垂れさがっている。それを見たユイの頭は、またあの噂を思い出していた。

 

 ――真夜中に「言ってはいけない言葉」を口にすると、コトワリさまが現れ、鋏で手足をバラバラに切られてしまう。

 

 そうだ思い出した。「コトワリさま」だ。いや名前なんかどうでもいい。

 もしかして、狩人は左手を切られてしまったんじゃないか。ユイは青ざめた。

 こんなところで一人だけ待っているわけにはいかなくなった。何か手助けできることはないか、何か。必死に回転させるユイの頭に、噂の後半部分が思い出された。

 

 ――助かりたければ、手と足と首のある物を代わりに差しださなければならない。

 

 それだ!

 何か持っていないかと、ナップサックの中身を漁る。筆箱、色鉛筆、絵日記帳、赤いリード、クロとチャコのおやつ、そして。

 

「……」

 

 あちこちの糸がほつれた、青いリボンの女の子の人形。

 コトワリさまに差しだすには、うってつけの物だった。でも。

 でも、この人形は……。

 

 後ろから、何かがゴミの山につっこんだような音がした。コトワリさまの雄叫びも。

 

「…………」

 

 この人形をもらった時のことを思い出す。

 誰からも「おかえり」を言ってもらえない自分のために、ハルが作ってくれた、ハルの人形。

 不器用なハルの指は、絆創膏だらけでミイラみたいになっていた。

 

「………………ッ!」

 

 狩人が走る音。

 コトワリさまの声。

 ハルの笑顔。

 

 ユイは、ゴミの山から飛び出した。

 

 

 

 

   ◎

 

 

 

 

 ガリガリと(なた)を引きずりながら、そのお化けは山中をさまよっていた。

 血が。

 血が見たかった。

 それが何故かなんて、お化けには分からない。

 理由などというものが必要である理由が分からない。

 血を。

 血を流すのだ。この鉈で。

 それが誰の物でもいい。ナニの物でもいい。

 だから探す。ナニかいないか探す。

 

 

 カラ――――ン

 

 

 音が、聞こえた。

 何の音かは分からない。

 だが、音がするということは、ナニかいるということだ。それは分かった。

 音のする方に、進む。

 

 

 カラ――――ン

 

 

 木々を抜け、狭い道を抜け、開けた場所に出る。

 そこに、ナニかいた。

 ヒトだ。ヒトの、子どもだ。

 座って、こちらに背を向けて、何かを鳴らして、そこまで考えて、もう何も考えられなくなった。

 血だ。

 血だ!

 お化けは、その鉈を振り下ろした。

 鐘を鳴らす、その少女に、振り下ろした。

 

 

 カラ――――ン

 

 

 また、鐘が鳴った。

 



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たたかい  -Death match-

 この地も呪われているのだろう。

 

 水の底に沈んでいた廃村に足を踏み入れた貴方は、そう思った。

 大量の水とは何かを断絶する物であり、それはつまり蓋だ。だが蓋をするということは、そこに触れるべきでない物があるということでもある。

 あの神秘の湖の底に、秘匿を守る蜘蛛がいたように。

 あの悪夢の海の傍に、呪いに満ちた漁村があったように。

 町にしてもそうだ。狩り主である少女――ユイの町は、どこかヤーナムに似ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ※ ※ ※

 

 夜廻さんたちへの、よくわかる解説!

 

 ヤーナムとは、ヴィクトリア朝っぽい雰囲気のおしゃれな街である!

 すっごい田舎にあるけど、すぐれた医療の街でもあるぞ!

 とりあえず怪しい血を輸血すればみんな完治だ! かわりに獣の病になるけどね!

 毎晩のように、獣になったおじさん達が獣を狩っているぞ!

 何を言っているのか分からないだろうけど、獣狩りとはそういうものだよ! じき慣れる!

 

 夜廻に例えて言うなら、

 ①夜になるとお化けが出てくる。

 ②お化けになったおじさん達が、みんなで除霊しようとする。

 ③おじさん達は自分がお化けだと気付いていない。

 ④むしろ少女たちをお化けだと言って襲ってくる。

 ⑤地獄絵図。

 

 ※ ※ ※

 

 

 

 

 

 

 

 

 深夜とはいえ、あまりにも人気が無さ過ぎた。どの家も門扉を固く閉ざし、まるで夜を恐れているよう。

 きっと住民たちは知っているのだろう。夜になれば、怪異が町を埋め尽くすのだと。

 そもそも、こんな年端もいかぬ少女が一人で町をさまよっている時点でおかしい。住民たちもヤーナム民のように排他的なのか、あるいは大人を頼れない事情があるのか……。

 そして何よりも、上位者の気配が強い。

 

 上位者。それは、神に似た何か。

 あの空の果て、宇宙から来た、何者か。

 

 上位者は存在するだけで、あらゆるモノに影響を与える。

 時には上位者が人に干渉し、人を狂わせる。時には人が上位者を求め、やはり人を狂わせる。

 時には上位者の力が土地を狂わせ、時には狂った人が土地を狂わせる。

 この地の町はヤーナムほど狂ってはいなかったが、これからもそうだとは限らない。跋扈(ばっこ)する怪異に心を狂わせ、その力を求める狂人が現れない保証など、あろうものか。

 故に、上位者は狩らねばならない。

 月の魔物を狩り、人の身で上位者に至った貴方にしか出来ない、貴方だけの狩り。

 すなわち、上位者狩り。

 例外は無い。そう、あの赤い裁ち鋏を持った、異形の上位者もだ。

 

「おじさん、気を付けて。……アレは、今までのお化けとは、ちがう」

 

 ああ少女よ、分かっているとも。

 アレは亡霊などではない。そんな、人から生まれた物などではない。人ならざる、もっと恐ろしい何かだ。

 だから、貴方は特別な武器を抜いた。

 上位者狩りに相応しい、ふたつとない武器。最初の狩人が用いた、全ての仕掛け武器のマスターピース。

 最初の仕掛け武器、その銘を「葬送の刃」という。

 上位者を相手に出し惜しみなど愚策。刃を連結し、その真の姿である大鎌を構える。

 そのまま、こちらに背を向けている上位者に先手を取ろうとした貴方にユイは、

 

 

 ユイの無言の飛び蹴りが貴方の鳩尾に突き刺さった。

 

 

 存外に打たれ弱い貴方は再び悶絶した。

 召喚されて数時間、だんだんと扱いが雑になっている気がする。最初からナメクジを見る目で見られていた気がしないでもないが。

 そんな貴方に、使者は気遣うどころかスローイングナイフで頭を突っついてくる。やめたまえよ、お気に入りの帽子に穴が開くだろうに。

 どうやら、ユイは戦いを避けて進むことを望んでいるようだ。

 未だ詳しい事情など聞いてはいないが、ユイは誰かを探している。この慈悲深い少女のことだ、きっと大切な誰かなのだろう。

 貴方は改めて、ヤーナムの少女に思いを馳せた。狩人の力を得ても救えなかった、あの少女を。

 

『……あなた、だあれ?』

『知らない声。でも、なんだか懐かしい臭いもするの』

『もしかして、獣狩りの人かな?』

『だったら、お願い。お母さんを探してほしいの』

 

 少女の父親はもういなかった。

 神父であり狩人でもあった彼女の父は、獣となっていた。そして貴方に狩られたのだ。

 少女の母親ももういない。

 神父と同じ場所で骸となっていた。それを見て神父は狂ったのか、あるいは狂った神父に殺されたのか。

 どんなに力を得ようと、結局は。

 

 ユイには気付かれないまま全身から血を噴き出した貴方は、立ち上がって頭を振った。

 ユイをあの少女に重ねていないと言えば嘘になるが、狩り主が誰であろうとやることは変わらない。

 狩り主を守り、敵を狩る。

 遺志の中から青い秘薬を2本取り出し、1本を呷る。たちまち姿を朧気にした貴方は、ユイにもそれを手渡した。

 はじめは胡乱な目で貴方と秘薬を見ていたユイだったが、飲むことに決めたようだ。意を決したように秘薬を飲み込み、そして。

 

 


 

 【青い秘薬】

 

 医療教会の上位医療者が、怪しげな実験に用いる飲み薬

 それは脳を麻痺させる、精神麻酔の類である

 

 だが狩人は、遺志により意識を保ち、その副作用だけを利用する

 すなわち、動きを止め、己が存在そのものを薄れさせるのだ

 

 

 ※訳※

 あたまのおかしいひとたちがつくった、へんなくすり

 のむと、あたまが ぐるぐるになっちゃう

 

 でも かりうどさんは、きあいで なんとかするみたい

 すがたが とうめいになる

 


 

 

 ユイを担いで、廃村を歩く。

 秘薬の効能で極端に気配を薄くした貴方たちは、お化けに気付かれることもない。元より小さく、黒い毛並みが闇に溶け込むクロも問題は無いようだ。

 脳を麻痺させ、意識を薄くすることで気配を断つ。あまりに気配が希薄になることで、まるで姿が透けたように幻視するのだ。

 狩人であればその遺志の力で意識だけを保つこともできるが、どうもユイにはまだ早かったらしい。さっきからガブガブとクロが貴方の足を咬んで抗議してくる。やめたまえよ、痛いから。

 当のユイはといえば、貴方の肩の上で気を失っている。「えへへへ」「おめでとうはる」と緩んだ口から譫言(うわごと)が止まらない状態だ。何か幸せな幻覚(ゆめ)でも見ているのだろう。悪夢よりはマシかと、貴方はそっとしておくことにした。

 

 

 

 

 やがて、長い階段へとたどり着いた。貴方には見たこともない様式だが、どこか聖堂街の大階段を彷彿とさせる。

 一歩一歩、石段を登っていく。登るほどに、上位者の気配が強くなっていく。

 登り切った貴方たちを出迎えたのは、木製の巨大な門のような物だった。たしか鳥居と言う、人と神の境界を隔てる結界だという話を聞いたことがある気がした。それがいつの記憶であったのかは曖昧だが。

 ならばこの先は神の領域ということになるが、どうにもそうは思えない。

 何故なら、貴方の目に飛び込んできたのは、無数のゴミであった。奥の朽ち果てた拝殿が見えなくなるほどの、ゴミ、ゴミ、ゴミの山。

 

 ――――穢れた廃神社

 

 そんな地名が貴方の脳に浮かんだ時、肩の上のユイがモゾモゾ動き出した。秘薬の効果が切れたのだろう。

 

「ぉめでとぅ……おめでとう、ハリュ……」

「ぅうん、だめだって……」

()()……()()()、ハル、みんなみてるってばぁ……」

 

 ……若干、あられもない譫言になってきた。これ以上アレなことを口走らない内に起こした方が良いだろう。貴方は少女には優しいのだ。

 

 

 

 

 ジョキン

 

 

 

 

 背後から、金属音が聞こえた。

 貴方は振り返ることもなく、すばやくユイをゴミの山に隠す。クロがすぐさまそれに続いた。懐中電灯を腰に差し、曲剣を大鎌へと変形させながら振り返る。

 そして、遂に貴方はソレと対峙した。

 

 それこそが本体であると言わんばかりに巨大な赤い鋏。

 鋏に群がる無数の腕は、すべてが死体のような色をしている。鎌首を(もた)げた数本の腕が、その全体を「手」のように見せていた。

 赤黒い霞で成された体は形が判然とせず、そこに巨大な口だけが確かに存在している。

 

 

 ――――【裁断者】

 

 

 異形の上位者が、貴方にその赤い刃を向けた。

 向けた時には、もう貴方は間合いを詰めていた。

 先手必勝。

 甲高い音を響かせながら、曲がった大刃が振り下ろされる。

 それを上位者は、その鋏で、()()()

 貴方は青白い目を見開く。

 異形の姿に似つかわしくない、極めて精緻な防御技術。その意外性に、貴方の体幹がわずかにぶれた。

 

()アァッ!”

 

 短い叫びと共に、鋏が突き出される。隙を的確に突いた、まさに致命の一撃。長大な二つの刃が貴方の胴体を両断する刹那。

 貴方の体が「加速」する。

 後ろに退いても間に合わない。故に鋏をくぐり、前に避けた。上位者の背後を取った貴方はその背に一撃を加える……ことはなく、加速した勢いのまま距離を取る。ゴミ山に激突する直前で足を止めた貴方と、音もなく振り返った上位者。

 時間にすれば、戦闘開始から5秒と経っていない。だというのに、貴方はたしかな消耗を覚えた。

 

 ああ、少女よ。たしかに、アレは違うな。

 

 今度は上位者が先に動いた。正面からではない。音もなく横方向に動き出し、貴方を中心に円を描くように旋回する。貴方は動かず、じっと気を尖らせた。

 実体など無いのか、相手はゴミ山もすり抜けて移動している。音もなく、障害物も無効。奇襲にはうってつけ。

 ギ、

 金属が軋む前の、わずかな擦過音。四時方向にいた上位者に斬りかかる。

 鋏は既に開かれている。閉じた瞬間を、否。閉じようとする瞬間を狙った一撃。隕鉄で鍛えられた刃は、その速度が上がるほどに切れ味を増す。加速した速さを十全に乗せられた刃は、甲高い音を響かせながら死体の如き腕、その2本を斬り飛ばした。

 だが上位者の腕は、2本だけではない。すぐさま別の腕が鋏に群がり、その刃を支える。

 だがもう遅い。鋏という異質な得物の特性上、その攻撃は刃を閉じることでしか――

 

 

 

 脳に走った警告に、再び加速して大きく距離を取った。

 その足元を、猛然と横に薙ぎ払われた刃が掠める。

 下段で振るわれた鋏は、地面に綺麗な円状の(わだち)を描いていた。

 あの上位者は、貴方の武器が速さであることを既に見抜いていたのだ。故に、その足を断とうとした。

 だからこその下段。だからこその横薙ぎ。

 腕を断たれた故の咄嗟の判断か、あるいは最初から腕を犠牲にするつもりだったのか。

 どちらにせよ。

 

 くく、と。貴方は肩を揺らす。

 嗚呼、少女よ。たしかに、アレは。

 

 上位者が鋏を開き。

 貴方は、大鎌をかき消した。

 

 突然の武装解除に、上位者もその動きを止める。それに対し、貴方は「狩人の一礼」で応えた。

 上位者などと一括りにして悪かった。二度と言うまい。

 その技、その意思。貴公の強さには、確かな芯がある。

 借り物の武器で狩ろうなど、烏滸(おこ)がましいにも程があった。

 右手に、ノコギリ鉈を。

 左手に、獣狩りの散弾銃を。

 貴方が最初に手にした、貴方自身の仕掛け武器を手に、貴方は青白い目を輝かせた。

 

 

 

 

 貴方の狩りを、知らしめるために。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

 

 

 

 鐘が、鳴っていた。

 

 鉈を、ふりおろす。

 下にあるものが、ふたつになった。

 

 鉈を、ふりおろす。

 赤いものが、顔についた。

 

 鉈を、ふりおろす。

 赤いものが、口にはいった。あまい。

 

 鉈を、ふりおろす。

 みっつになった。

 

 鉈を、ふりおろす。

 よっつ。つかれた。

 

 遠くで、なにかが戦っている。

 

 鐘が、また鳴った。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 月明りに照らされた、廃神社。

 そこで、二つの影が乱舞していた。

 ひとつは、黒い人型。ギザ刃のついた大鉈と長銃を手に、風のように疾走する。

 ひとつは、赤い異形。真紅の大裁ち鋏を無数の腕で抱え、影のように蠕動(ぜんどう)する。

 狩人が、獣のように身を低くしたまま走る。前に、右に、左に、稲妻のように鋭角な軌道で間合いを詰める。

 右手のノコギリ鉈――対獣に特化された仕掛け武器が、裁断者に牙を剥いた。

 その名の通り、鉈の峰部分がノコギリとなったそれは、肉に一度食い込めば獣皮ごと抉り飛ばす凶器。

 その殺意に満ちた武器を、裁断者は鋏で迎え撃った。

 弾く。

 流すように、弾く。

 一度、二度、三度と振るわれるノコギリを弾く。弾く度に、橙色の火花が闇夜を照らした。

 無数の腕で握っているとは思えない、いや、だからこその精密動作。やがて、芯を捉えた弾きに、ひときわ大きな火花が散る。

 潮目が、変わる。

 

()ゥンッ!”

 

 鋏ではない。裁断者の腕の一つが拳を握り、狩人に振り下ろす。

 狩人は半歩下がるだけの動きで回避。だが、それはもう鋏の間合いで。

 

()ォァッ!”

 

 ジョキン!

 鋏が閉じられ、山積みされていたゴミをまとめて両断する。

 狩人は、その刃の下にいた。

 顎が地につく程の低姿勢。特徴的な帽子の陰から、青白い目だけがギラギラ輝いている。

 裁断者の攻撃は止まらない。先ほどの意趣返しとばかりの連撃。幾度となく閉じられる刃が、ゴミを次々と両断していった。

 

 

 

 膨れあがる、裁断の意思。

 ぐるりとその体ごと回転した裁断者の鋏が、ゴミと地面をえぐり飛ばしながら狩人の足を断たんとする。

 

 狩人とは、跳ぶことをしない。

 人とは地を這う生き物であり、その身を空中に晒すことはつまり死だ。

 狩人とは、退くことをしない。

 巨大で素早い獣相手に後ろに退くことは、その身を差し出すことを同じだ。

 狩人とは、防ぐことをしない。

 強大な獣の膂力に、それはあまりに無力だからだ。

 

 故に、裁断者の放った下段は必殺。防ぐことも、避けることもできない。詰み。

 だが、それで狩られるようならば、ヤーナムの狩人はとうに死に絶えていただろう。

 銃声。

 狩人の左手に握られた散弾銃。

 精度も威力も度外視され、ただ相手の動きを止めることだけに特化された銃撃。

 広範囲にバラ撒かれた水銀弾が、一瞬だけの強固な盾となる。鋏が、止まった。

 ノコギリが唸る。

 その巨大な口を更に裂くように、ノコギリが食い込んだ。赤黒い霞が血煙のように舞う。

 

()アァァ――――ッ!”

 

 明確な傷を与えられても、裁断者は怯まない。どれだけ強靭な意思がそうさせるのか、鋏が、拳が、狩人を捉えんと乱舞する。

 狩人は退かない。前に、前に避ける。食らいつく。

 一度で狩れぬなら、幾度でも狩る。

 バチン、と新たな水銀弾を装填した銃の照準を、正面の裁断者に合わせる。

 

 背後から、擦過音。

 

「ッ!」

 

 ありえない挟撃。

 銃だけを背後に向けて発砲。その反動を利用して更に加速。くるりと身を翻し、正面の鋏をすり抜ける。

 ジョキキン。二つの金属音。

 大きく距離を取る。裁断者は、二体いた。

 否、うち一体は霞のように消える。幻か。

 否、その鋏はたしかに、狩人の左手を掠めていた。幻ではない。

 

 だらりと下がる狩人の左手。散弾銃は遠くに飛ばされていた。

 裁断者の口は大きく裂け、赤黒い霞に塗れていた。

 

 狩人は怯まない。右手のノコギリ鉈を構え、真正面から打って出る。

 裁断者は怯まない。裂けた口を食いしばり、真正面から迎え撃つ。

 

 狩人が加速する。限界を超えた加速に両足から血が噴き出し、風圧がゴミ山を吹き飛ばした。

 裁断者が咆哮する。己を奮い立たせるような大音声が、ゴミ山を吹き飛ばした。

 

 狩人が接近する。ノコギリ鉈の間合いはごく短い。近く、もっと近く。

 裁断者が構える。ギリギリと鋏に力を込めていく。強く、もっと強く。

 

 狩人がノコギリ鉈を振り上げる。まだ遠い。だが構える。

 裁断者の動きが止まる。すでに鋏の間合い。だが止まる。

 

 狩人が隠し札を切った。ノコギリが変形し、鉈へと変わる。倍に伸びる間合い。変形攻撃。

 裁断者もまた隠し札で応えた。再び現れる分身。1体、2体、まだ増える。その数、3体。

 

 大型の鉈が、裁断者を引き裂かんと。

 4つの鋏が、狩人の四肢を断たんと。

 

 

 

 

 

 

 

「コトワリさま!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 少女の叫び。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

 

 

 

 この人形に、どれだけ救われたのか分からない。

 ユイは子どもだから、暗くなれば家に帰らなければいけない。ハルと別れなければいけない。

 家に帰っても、誰もいないのに。

 そんな時は、この人形に「ただいま」を言った。「おかえり」と返してはくれないけど、すこしだけ心が暖かくなった。

 寝る時は、この人形に「おやすみ」を言った。傷が痛む時は、この人形を抱いて寝た。すこしだけ痛くなくなった。

 起きたら「おはよう」を言ってから「ありがとう」と言う。つらい夜をのりこえさせてくれたお礼を。

 ユイは、ずっとハルを頼りにしてきた。

 ハルがいない時は、この人形を頼りにしてきた。

 でももう、ハルは遠くの町に引っ越してしまう。

 だから、これからはずっと、この人形だけを頼りにしなければいけない。

 その人形を、ユイは。

 

「コトワリさま!」

 

 放り投げた。

 あの人形をあげれば、コトワリさまは見逃してくれる。そうしないと、狩人は手足をバラバラに切られてしまう。

 人形か、人の命か。

 どっちが大事かなんて、ユイでも分かる。それが、どんなに大切な人形でも。

 

 ――ごめんなさい、ハル……。

 

 人形をくれたハルの笑顔を、忘れたことはない。

 それをユイが捨てたと知ったら、ハルは泣くかもしれない。嫌われるかもしれない。

 ハルも、ハルの人形も、ハルの笑顔も、ぜんぶ無くなってしまうのだ。

 落ちていく人形の姿が、滲んでいく。

 ユイの目から涙があふれて、人形が、コトワリさまの前に、

 

 

 

 

 

 

 

 

 地面から生えた使者が、人形をキャッチした。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………へ?」

 

 ユイの口から、間の抜けた声が漏れた。

 見れば、狩人もコトワリさまも、ただ立っていた。狩人の手にはもう何も握られていなくて、コトワリさまもただフワフワ浮かんでいる。

 狩人はじっとコトワリさまを見ていて、コトワリさまには目が無いけど、狩人をじっと見返している……気がした。

 戦いは終わったのか。

 ゆっくりと慎重に狩人のところに歩くユイの足が、光る石畳を踏む。

 

「わぁ……」

 

 思わず、ため息をもらしてしまった。

 辺りを埋めつくしていたゴミの山。それがすっかりと無くなっている。たぶん、狩人とコトワリさまの戦いで、神社の端に飛んでいってしまったんだろう。

 ゴミに隠れていた石畳は、不思議な光を放っている。しかも、よく見るとそれは大きな人型をしていた。

 

 ――助かりたければ、手と足と首のある物を代わりに差しださなければならない。

 

 もしかして、これのおかげだろうか。コトワリさまは、あいかわらず怖い見た目をしているけど、今はどこか穏やかな様子に見えた。

 ちら、とユイの方を見たような動きの後で、ふわりと空に浮かぶ。そのまま、夜にとけこむように消えてしまった。

 一つの、置き土産を残して。

 

 

 

 

「おじさん! 大丈夫?」

 

 駆け寄ると、狩人はまた青白い目でユイを見下ろす。ケガしているはずの左手に触ろうとすると、狩人はそれを避けるように一歩退いた。

 代わりに、使者が手記を差し出す。

 

【私はやった! つまり、勝利!】

 

 一枚だけの手記を読んで、ユイは安堵に顔をほころばせる。使者は、さらにいくつかの物を手渡してくる。

 無事に帰ってきた人形の青いリボンを優しく撫で、一度は捨ててしまったことを心の中で謝った。丁寧にナップサックに仕舞ってから、最後に渡された物を手に取る。

 

「これって……」

 

 それは、真っ赤な裁ち鋏だった。

 刃も、持ち手の部分まで赤い、大きな鋏。見まちがえようもない、コトワリさまの持っていた鋏だ。

 

 


 

 【縁切りの刃】

 

 慈悲深き上位者、コトワリさまから授けられた双刃

 

 これはその神威を借りた紛い物にすぎないが、その刃は重く鋭い

 二つの刃を仕掛けにより連結することで、真の姿が明らかとなる

 

 縁とは、しばしば血と赤に喩えられる

 故にその刃は血に塗れたように赤く、また温かい

 


 

 

 さすがに本物よりは小さいけど、鋏としては巨大と言っていい。子どものユイが持てば、それはほとんど剣か何かのようだった。

 

「うわぁっと!?」

 

 両手で抱えるように持つと、二つの刃が外れてしまい、ユイは悲鳴をあげる。

 もしかして壊してしまったのか。またコトワリさまが怒ったらどうしようと焦っていると、足元の使者が両手を合わせるような動きをして見せる。

 動きをマネしてみると、カチリときれいな音がして、また鋏の姿に戻った。

 しかし、重い。これは狩人が持つべきじゃないかと、視線を上げると、狩人はいつの間にか拝殿に座りこんでいた。

 

「……おじさん?」

 

 狩人は何も答えず、ただ使者が手記を渡してくる。

 

【ひと休みの時間だ】

【この先、武器が必要だ だから、貴公】

【血の加護がありますように…】

 

 ハッと顔を上げる。こちらを見る狩人は、ひどく疲れているように見えた。あれだけ動き回ったのだから当然だ。

 不安を抑えこむように、鋏を強く握りしめる。

 狩人は、がんばってくれた。彼がいなければ、ユイも無事にここまで来られなかったかもしれない。

 だから、次はユイの番だ。

 

「……分かった、ここで待っててね。後で、ハルといっしょに迎えにくるから!」

 

 重すぎる鋏は分解して、片方はナップサックに結びつけて背負う。

 右手に赤い鋏を。

 左手に懐中電灯を。

 それこそ狩人のような姿になったユイは、狩人と使者に背を向けて、

 

「クロ、お願いがあるんだ」

 

 愛犬に、あることを告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗い山の中に走っていく小さな背中を見送り、貴方はひとり息を吐いた。

 足元では、使者がいつになく大人しい様子で貴方を見ている。

 すこし離れた場所で、黒い子犬が姿勢よく座り、貴方を見張っていた。

 

『クロは、おじさんをお願い』

『見張ってないと、また変なことしちゃうから』

『朝になったら、ハルとチャコもいっしょに、お散歩にいこうね』

 

 どこまでも慈悲深い少女だ。

 この小さな獣をこれ以上の危険にさらすまいと、ここに置いていったのだろう。

 それを理解しているのかいないのか、(クロ)は主の言いつけを忠実に守っている。

 もう戦えない貴方を、見守っている。

 

 

 ボトリ

 

 

 今まで意思の力でなんとか保っていた左手が、地に落ちた。見事な()()筋で断たれた断面から、血が流れ落ちる。

 それに、右手と両足が続いた。四肢をすべて失った姿で拝殿によりかかり、貴方は月を見上げる。

 

 また、守れなかったのだ。

 

 あの少女ならば大丈夫だろうか。

 否、ここまで上位者の気配に満ちた地で、武器をひとつ手にしただけの少女が無事でいられるはずが……。

 

 

 

 

 無念の(なみだ)を、目から一筋だけ流して、貴方の体は、夢へと還っていった。

 

 

 

 

   ◎

 

 

 

 

 クロは、夢のように消えていった狩人の跡を鼻で辿る。

 そこには、もう何の匂いも、残っていなかった。

 



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ともだち  -Lost friend-

 ひとり、暗い鎮守の森を進む。

 山の麓ほどではないが、ここにもお化けがたくさんいた。

 今のユイは本当にひとりだ。狩人もいない。使者もいない。クロもいない。

 でも、武器ならあった。

 

「えいっ!」

 

 目の前に迫っていた白い人型に、赤い鋏を突き刺す。

 分解した片っぽだけの刃なのに、それだけでお化けは煙のように消えてしまった。別のお化けに囲まれる前に、すばやく走り抜ける。

 手ごたえなんて無いけど、それでも気分の良いものじゃない。

 コトワリさまの力で、切ってはいけないモノを無理やり切っている気がする。それに、お化けだって好きでお化けになったわけじゃない。あのダムにいた、かわいそうなネズミ達みたいに。

 だから、ユイは逃げた。逃げて、隠れて、小石を投げて、それでも無理な時だけ鋏を使った。

 こちらに走り寄ってきた、腕のないお化けの頭に鋏を振り下ろす。

 ズキン、と額の傷が痛んだ。傷つけられる痛さは、ユイもよく知っている。

 

 ――ごめんなさい、でも急がないといけないの。

 

 それでも、ユイには絶対に譲れないものがあったから。赤い鋏を手に、ユイは暗い森を駆け抜けていった。

 

 

 

 

 道が、だんだんと細くなっていた。懐中電灯を左右に振りながら注意深く進む。

 お化けもだんだんと少なくなって、ついには出てこなくなった。襲われないに越したことはないのに、何故かユイは胸騒ぎを覚える。

 ハルが近くにいる気がした。なのに、イヤな予感ばかりがぶくぶく膨らんでくる。

 辺りは異様に静かだった。虫の声も聞こえない。その中で、ユイの耳が音をとらえた。

 

 

 ドシュ……ズズ……

 ドシュ……ズズズ……

 

 

 とても、生々しい音だった。狩人がお化けに斧を振り下ろした時、こんな音がしていた。

 何かで、何かを叩いている音。

 

「ハル……っ!」

 

 頭に浮かんだ最悪の想像をふり払う。ふり払って、走り出した。もう、周りを見ている余裕なんて無かった。

 大きく振られる左手に合わせて、懐中電灯の光もあちこちを照らす。どこにもお化けはいなかった。まるで、お化けもナニカを怖がっているみたいに。

 生々しい音だけが、だんだんと大きくなっていく。ずっと、何かを叩いている。

 暗い細道を、ユイは走って、走って、そして開けた場所に出た。

 

 

 

 

 そこは、山の中にぽっかりと空いたような、広い草原だった。

 月明りに照らされた、その真ん中に。

 

「ハル!」

 

 ハルが、いた。

 草の上に座り込んだ小さな背中。月に照らされた三つ編み。ユイとおそろいの青いリボン。

 見まちがえなんてしない。やっと見つけた親友の姿に、ユイは駆け出した。

 

 まずはハルをギュッとしよう。無事を確かめて、ケガしてたら絆創膏を貼ってあげて。

 何があったのか聞いて、遅くなってゴメンって謝って。

 狩人のことも紹介しないと。きっと怖がるから、すごく変だけど悪い人じゃないって教えて。

 泣いたら背中をさすってあげて、手をつないで、いっしょにお家に帰って、

 それから、それから――。

 

 

 

 

 ハルが、鉈を振り上げた。

 

 

 

 

「え」

 

 ユイが足を止めて、頭の中はもっと止まってしまって。

 ハルが、鉈を振り下ろした。

 

 ドシュッ

 

 ユイに背中を向けたままのハルは、何かに鉈を振り下ろした。何度も、何度も。

 その度に生々しい音が響いて、ピタ、とユイの頬に冷たい感触があった。雨なんて降っていないのに。

 手で触ると、ぬるりとした。懐中電灯で照らす。赤い。

 手だけじゃない。

 光に照らされた草原は、ハルを中心に真っ赤に染まっていた。

 

「ハ、ル…………?」

 

 その声を聞いたのか、ひときわ大きな音と共に鉈を振り下ろしてから、ハルの動きが止まった。

 

「ユイ?」

 

 いつも通りのハルの声だった。こんな、血の海の中なのに。

 ハルが、ぐるりと首だけをユイに向ける。

 

「――――っ!?」

 

 悲鳴は、なんとか堪えられた。

 離してしまった懐中電灯が足元に転がる。

 その光が、血の海の中心に転がる、白いお化けの、バラバラになった残骸を照らし出した。

 

「ユイだ!」

 

 ハルが笑った。

 いつも通りの、満面の、きれいな笑顔だった。

 その色白の顔も、白いシャツも、返り血で染めながら、ハルは笑った。

 

 

 

 

 ――――【鐘を鳴らす少女、ハル】

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 簡易祭壇の前で、貴方は目覚めた。

 見上げた空は茫洋と色が定まらず、奈落の底から天上までをいくつもの石柱が貫いている。そして、いつまでも変わらない巨大な月。

 狩人の夢。

 

「お帰りなさい。狩人さま」

 

 涼やかな声が頭上からかけられ、逆さまになった人形の顔が見えた。頭の下には、柔らかくて固い感触。

 作り物の膝を枕にしながら、貴方は人形の顔に手を伸ばした。裁断者に断ち切られた四肢は、すべて元に戻っている。今更、遅いのだけれど。

 

「泣いているのですか?」

 

 人形の白く冷たい頬を撫でていると、同じように目元を撫でられる。人形の球体関節の指先は、赤く染まっていた。

 その手を取り、起き上がりざまに人形に抱きついた。その固い胸に顔を埋めても、何の温かさも感じはしない。それでも、すり減った貴方の心よりは、冷たくなかっただろう。

 傷から血が流れるように、貴方の口から懺悔の言葉が流れ出てくる。

 

 また、守れなかったのだと。

 この血塗れの手では、ただ狩り殺すことしかできないのだと。

 今までも、これからも、自分は誰も助けられないのだと。

 

 きっと人形は、その言葉に何も感じてはいない。何も感じることができないのだから。

 ただ貴方が泣いているから。ただ慰めとして、その背中をさすってくれた。

 時々、貴方はこうなる。だからいつものように、人形は小さなオルゴールを鳴らす。

 

 怖気がするほどに優しい音色だけが、狩人の夢に響いていた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

「まって、まってよー」

 

 後ろから、ハルの声が追いかけてくる。その声から逃げようと、ひたすらユイは草原を走りまわっていた。

 ハルとは毎日のように遊んでいた。鬼ごっこだって何度もやった。いつも、ユイの勝ちだった。

 それなのに。

 

「やめてよハル! どうしちゃったの!?」

 

 血塗れのハルが追いかけてくる。手には、やっぱり血塗れの鉈。ハルが持つには大きすぎるそれを、ガリガリと引きずりながら追いかけてくる。

 いっそ、お化けなら良かったのに。ハルの偽物だったら良かったのに。

 でもその声も、姿も、ヘタクソな走り方まで、ハルそのものだった。

 

「ユイ、なんで逃げるの?」

 

 血塗れの、困った顔でハルが追ってくる。その表情もユイがとても見慣れた顔で、ハルが本気で困っていることが分かる。

 何故ユイが逃げるのか、本当に分かっていないのだ。

 

「待って! 話をきいて!」

 

 だから、ユイは逃げるのをやめた。

 もしかしたら、ハルは混乱しているだけなんじゃないか。

 とても怖い目にあって、拾った武器を手放せないだけなんじゃないか。

 ハルには、ユイを傷つけるつもりなんて……。

 

「ユイ!」

 

 ハルの顔がパッと明るくなって、ユイに向かって両手を広げるように、鉈を振りあげた。

 鉈は、咄嗟にしゃがんだユイの頭上の木にめりこんだ。深々と埋まった刃にユイは総毛だつ。

 抜けそうな腰と、折れそうな心をなんとか動かして、転がるように距離をとった。

 本気だ。いま、本気でハルは……。

 当のハルは、木にめりこんだ鉈を抜こうと四苦八苦している。うんうん唸っている様子は、いつものハルにしか見えない。

 

「とれないよぉ……。ユイ、手伝ってくれない?」

 

 この状況で助けを求めてくるハルに、ユイの頭はもう限界だった。もしかして、おかしいのは自分の方なんじゃないか。そんな考えまで浮かんでくる。

 そんなはずはないと、頭を振るユイの耳に、鐘の音が聞こえた。

 

 カラ――――ン

 

 ひどく、不気味な音色だった。その音に反応したのか、ハルがまた鉈を握る。

 メリメリと音を立てて鉈が引き抜かれた。どう見ても、普段のハルの力じゃない。

 

「とれた!」

 

 振り返ったハルはまた笑っていて、全身が赤い光に包まれていた。元からそうだったのかもしれない。光が、強くなっているのだ。

 

「やめて……やめてよ、ハル……」

 

 鉈を引きずって歩いてくる親友に、ユイは懇願する。尻もちをつきながら、手足をばたつかせて後ずさる。

 心が錆びついてくる。もう、折れそうだった。

 なんで、どうしてこんなことになっているの。わたしは、ハルに何をされているの。

 

「いっしょに帰ろう、ユイ」

 

 ホッとしたような顔で、ハルが鉈を振り上げた。

 

 

 ……その姿が、ユイに手を振り上げるあの人の姿に、かさなって

 

 

 反射的に、手で頭をかばう。

 持ったままだった赤い鋏に、鉈が当たって、砕け散った。

 

「へ?」

 

 ハルの、気の抜けた声。

 ユイは、歯を食いしばって、ハルに飛びついた。

 

「ひゃあっ!?」

「しっかりしてハル! しっかりするのっ!」

 

 馬乗りになって、その顔を両手でつかむ。間近で怒鳴りつけても、ハルの様子は変わらない。

 いや、元々いつも通りのハルなのだ。いつも通りのハルのまま、ユイを傷つけようとする。

 痛い痛いともがくハルをなんとか押さえつけているユイの耳に、またあの鐘の音が聞こえた。

 

 ――アレのせいだ!

 

 草原の端に、人魂のような光を見つけた。赤い、ハルを覆う光と同じ色。さっきまで見えなかったけど、今は光が強くなってはっきりと見える。

 宙に浮かぶ、鐘。

 町でユイが鳴らした鐘に似ていたけど、あれよりずっと不気味な形をしている。まるで見えない誰かが振ったみたいに、また鐘が鳴った。

 

 

 する、と背中で何かが動いた。

 

 

 今までの比じゃない寒気を感じて、ユイは飛び起きる。

 その眼前を、赤い何かが通り過ぎて、ユイの亜麻色の髪が、パラパラと落ちた。

 ゆらりと起き上がったハルの手には、赤い鋏が握られていた。ナップサックに結びつけてあった物を抜きとられたのだ。

 

「怖い、よ」

 

 もう片方の鋏を握りしめて、ユイは親友と対峙する。

 

「怖いよぅ、ユイぃ……!」

 

 真っ赤なハルが、そこにいた。

 顔も服も返り血に染まって、全身を赤い光に覆われて、右手に赤い鋏を握って、その両目も真っ赤に輝かせて。

 

「怖いよぉ――ッ!」

 

 悲鳴をあげながら、ハルが突進してくる。両手で握った鋏が、ぎらぎら輝いている。

 ユイは、もう迷わなかった。

 ハルに背を向けて、全速力で走る。目指すは、あの不気味な鐘。

 あの鐘が、ハルをおかしくしているに違いない。アレを壊せば、きっとハルは正気にもどる。この鋏なら、きっと壊せる!

 運動の得意なユイと、苦手なハルでは走る速さが全然ちがう。だから、この命がけの鬼ごっこでユイが負けるはずはない。

 なのに、ユイのすぐ後ろまでハルは追いついてきた。

 

「っ!」

 

 転ぶように倒れこんだユイの頭上を鋏が通り過ぎる。すぐに起き上がると、もうハルはこちらに振り返っていた。

 運動音痴のハルとは思えない、鋭い動き。

 

 ――火事になったりすると、人は普段の倍以上の力で動くことがある。

 

 以前、そんな話を聞いた。きっと今のハルがそうなのだ。でも、強すぎる力は自分の体も壊してしまうのだと、そうも聞いていた。

 急がないといけない。このままでは、ユイもハルも共倒れだ。

 ユイは走って、避けて、時には戻って、少しずつ、着実に鐘へと近づいていった。

 

「痛いよぉ、痛いぃ!」

 

 足を痛めたのか、変な走り方でハルが追ってくる。それでもその速さはまったく変わらない。

 痛みに泣きながら、それでもユイを追うことをやめない。やめられないんだ、あの鐘のせいで。

 

「もうすこし……もうすこしだからっ!」

 

 自分に言い聞かせるように、ハルを励ますように叫ぶ。叫びながら、ユイはひたすら鐘を目指す。

 そして、ついに辿りついた。

 

「やあぁ――――ッ!」

 

 渾身の力で、鋏を振り下ろす。

 

 

 

 

 ガラ――――ン

 

 

 

 

 鐘は、壊れなかった。

 

「そんな……!」

 

 もう一度と、鋏を振り上げたユイの後ろで、ハルのうめき声が聞こえた。

 振り返れば、ハルは頭を抱えて苦しんでいる。その赤い光は、もうハルの姿を覆い隠すほどに強くなっていた。

 ハッと鐘を見て、ユイは青ざめる。

 この鐘が鳴るたびに光は強くなっていた。そして、今またユイが鳴らしてしまったのだ。

 

「怖い」

「怖いよ怖い」

「怖いよ怖いよユイ怖い怖い助けて怖いユイ怖いおいていかないでたすけてユイたすけて」

 

 ドロドロと血が流れるみたいに、助けを求める声が流れ出てくる。

 赤い光は強くなりすぎて、まるでハルが燃えているみたいだった。

 

「いやだ怖いよさみしいよいきたくないいきたくないずっとユイといたいのになんでどうして」

 

 ユイは、ぺたりと草の上に座り込んだ。

 鐘は壊せない。ハルも元に戻らない。もう、何もできない。

 

「ユイどこにいるのたすけて怖いよユイいきたくないひっこしたくないいっしょにいたいのに」

 

 真っ赤なお化けのようになったハルが、足と鋏を引きずりながら迫ってくる。

 ユイはもう、動かなかった。

 ただ、座り込んでいた。

 

「ユイたすけていっしょにいてずっといっしょずっとともだちだからずっとずっとユイずっと」

 

 ハルが、鋏を振り上げる。

 ユイは、首をさしだすように項垂れたまま。

 

 

 

 

 鮮血が、舞った。

 

 

 

 

 首筋に感じた温かい感触に、ユイは顔を上げる。痛みは無かった。

 見上げたハルの顔は、苦痛に歪んでいる。赤い光も、消えていた。

 ポタポタと、また温かいものがユイの頭を濡らす。

 見上げた先で、ハルの手が、赤い鋏の刃をつかんでいた。

 

「にげ……ユ……」

 

 鋏を振り下ろそうとする右手に、左手で逆らうようにして、ハルは刃をつかんでいる。

 その左手から、鮮血を流しながら。その両目から、涙を流しながら。

 ハルのその言葉が、その涙が、その血の温かさが。

 ユイに最後の力を与える。

 

「……ッあああぁぁっ!」

 

 再び赤い光に覆われたハルが、叫びと同時に、今度こそ鋏を振り下ろした。

 ユイは、目を見開いてそれを見る。

 極度の集中が、すべてをスローモーションのように見せていた。

 脳裏に、狩人とコトワリさまの戦いがよぎる。

 コトワリさまが持っていたのは何だった。

 あの時、狩人はどうした。

 ハルが、その鋏を振り。

 ユイは、その引き金を弾く。

 

 

 光がハルの目をつらぬいた。

 

 

 鋏が振り下ろされる瞬間、スイッチを入れられた懐中電灯がハルの目を照らす。

 

 暗闇に慣れていた目が光に焼かれ、ハルの体が硬直した。狩人が、散弾銃で鋏を弾いたように。

 

 懐中電灯を投げ捨て、ユイは立ち上がる。

 

 ハルの手を取り、その鋏と、ユイの持つ鋏をかさねた。

 

 カチリ。鋏が元の姿に戻る。

 

 ふたりで鋏を握り、倒れこむようにして。

 

 不吉な鐘を、その刃ではさみ。

 

 まっぷたつに、断ち切った。

 

 

 

 

 鐘の音が、やんだ。

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 オルゴールの音が、やんだ。

 再び人形の膝を枕にしていた貴方は、目を開けてオルゴールを片付ける人形を見る。

 

「狩人さま、お客さまがお見えです」

 

 客?

 この狩人の夢に、来客などあろうはずもない。貴方は不審に思ったが、人形がそんな冗談を口にするわけもない。

 気だるげに立ち上がると、ゆっくりと歩く人形の後に続き、鉄柵を開けて庭園に出た。

 

 

 そこに、貴方もはじめて見る怪異がいた。

 

 

 灰色の闇のような体色。

 その形はどの生物にも似ておらず、強いて近い物を挙げれば、蛞蝓(ナメクジ)に似ていた。

 つるりとした何も無い触手を何本も生やし、それで大きな袋を3つ抱えている。

 

 ソレと正面から対峙した瞬間。

 貴方の脳が、瞳を見開いた。

 

 そこにあったのは、白い円だった。

 純白の真円に、純黒の直線だけが引かれた、何か。

 それは顔だった。

 それは閉じた瞳だった。

 あるいは、それらを隠す仮面だった。

 そして何よりも。

 目の前のソレからは、何の意思も、感情も感じられなかった。

 

 上位者。否、それですらないナニカ。

 

 貴方は、何も語らずに武器を握った。

 千景。呪われた血族が用いた、呪われた刀剣。

 それに応えるように、怪異もまた姿を変えた。

 

 ぐるん

 怪異が、裏返る。

 

 ああ、それが貴公の本当の姿か。それとも逆か? あるいは、姿形に意味など無いか?

 まあ、どれでも良い。

 

 自身の血で満たされた鞘から、刀身を引き抜く。

 べっとりと血を纏った刃の呪いが貴方自身も蝕んでいくが、知ったことではない。

 今の貴方は気が立っているのだ。

 少女(ユイ)を助けられなかった自分自身に、少女を害そうとする何者かに。

 この怪異を狩れば、すこしは気休めになるかもしれない。

 自棄にも似た獣性のまま、貴方は刃を振り上げた。

 

 

 

 

 ――――【夜の廻送者】

 

 



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いたみ   -Phantom pain-

 古都ヤーナム

 

 

 遥か東、人里離れた山間にある忘れられたこの街は呪われた街として知られ、古くから奇妙な風土病「獣の病」が蔓延っている。

 

 獣の病の罹患者は、その名の通り獣憑きとなり人としての理性を失う。

 

 そして夜な夜な「狩人」たちが、そうした、もはや人でない獣を狩っているのだと言う。

 

 だが、呪われた街はまた、古い医療の街でもある。

 

 数多くの救われぬ病み人たちが、この怪しげな医療行為を求め、長旅の末ヤーナムを訪れる。

 

 

 彼もまた、そうした病み人の一人であった。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ハルは、ぼんやりと月を見上げていた。

 頭がボーっとして、何も考える気にならない。

 体もすごく怠くて、起き上がる気にならない。

 どうしてこんな所にいるのか、思い出そうとしても頭が働かない。なんだか眠くなってきて、もう寝てしまおうかと、そんな気になる。

 でも、お腹の上に何かが乗っていて、寝る前にどかそうと左手を動かす。

 

 ズキン、と左手が痛んだ。

 

 感じたこともない痛みに思わず悲鳴をあげる。それを引き金に、全身の痛みが一気に襲ってきてハルは悶絶した。

 涙をぬぐいながら左手を見ると、掌にハンカチが巻かれている。元は白かったみたいなのに、今は真っ赤に染まっていた。

 左足も痛い。挫いたみたいに、足首のあたりがジンジン痛む。

 ギシギシと軋む体をなんとか起こして、お腹の上にあったものを見る。

 

「ユイ!?」

 

 ぐったりとしたユイが、ハルに覆いかぶさるように倒れていた。

 なんとか仰向けにして、顔を軽く叩いてみても、まったく起きない。月明りに照らされた顔は、真っ白だった。

 血の気が引いたハルは、あわててユイの胸に耳を当てる。トクトクと小さな音が聞こえて、心底ホッとした。

 

 すこしだけ落ち着いたハルは、周囲を見回す。

 校庭ぐらいの広さの草原だった。周りはぐるりと木に囲まれている。近くに、スイッチが入れっぱなしの懐中電灯が落ちていた。たぶん、ユイの物だ。

 月明りだけでは心もとなかったから、その光はとてもありがたい。ホッと息をついて懐中電灯を拾い、その光が真っ赤な鋏を照らしてハルを腰を抜かした。

 

 ――この鋏……。

 

 ようやく思い出してきた。

 夕方、家の前でユイと別れた後で赤い鋏のお化け――コトワリさまに襲われたのだ。ユイといっしょになんとか逃げて、町中を走り回った。

 また家に帰ってから、ユイと花火大会に行く約束をして、ユイの背中を見送って、それから、

 

 

 

 

“帰りたい?”

 

 

 

 

 そう、こんな声が聞こえてきて……。

 

「……え?」

 

 ハルは周囲を見回す。誰もいない。もちろんユイも起きていない。だいたい、ぜんぜんユイの声じゃなかった。

 男の人のような、女の人のような、とにかく甘い、すごく、すごく安心する声。

 その「声」は続けて言った。

 

“お家に帰りたい?”

 

 ハルの不安を包みこんでくれるような声だった。思わず、ハルは「はい」と答えてしまった。

 

 

“いっしょに帰りたい?”

 

 帰りたかった。ユイと一緒に帰りたかった。「はい」以外の答えなんて、ハルには無かった。

 

 

“ずっといっしょにいたい?”

 

 決まってる。「はい」に決まってる。

 

 

“じゃあ、その鋏を持って”

 

 分かった。持ったよ。

 

 

“その鋏で、その子の首を”

 

 ユイの首を? どうすればいいの?

 

 

“切ッテ”

 

 

 

 

 左手の傷が、焼けるように痛んだ。

 

 

 

 

 まるで、鋏が熱を持ったように掌の傷を焼いた。声にもならない悲鳴をあげて、鋏を投げ捨てる。手を押さえて草の上を転げまわりながら、ハルは我に返った。

 いま、自分は何をしようとした?

 全身の血が凍ったみたいな寒気だった。両手で肩を抱いて、それでも震えが止まらなかった。

 自分がユイを傷つけようとしたことが信じられない。しかも、それは初めてじゃなかった。

 

 

 カラ――――ン

 

 

 とても綺麗で、澄んだ、聞き覚えのある音だった。そして、もう二度と聞きたくなかった音。

 すぐ近くで、真っ二つになった鐘が浮かんでいる。

 カチャカチャと元の形に戻ろうとしながら、音を鳴らしている。それが動く死体か何かのように見えて、ハルはゾッとした。

 

“キッテ キッテ キッテ”

 

 カラ――――ン

 

 声が、鐘の音が、競い合うようにハルの耳に入りこんでくる。ハルの正気を取り合うようにその強さを増してくる。

 声と音によってたかって責め立てられて、ハルは耳をふさいで蹲った。

 

 ――聞いちゃダメ。どっちも聞いちゃダメ!

 

 とても甘い声がハルを誘惑する。ハルが望む答えを導いてくる。

 とても綺麗な音がハルを魅了する。ずっと聞いていたいほどに綺麗な音色。

 それらに逆らうことは、とても苦しかった。苦しくて、でも我慢して、やっぱり苦しくて。

 その「声」が、よくがんばったね、もう大丈夫だよと甘く囁いてくる。もう我慢しなくていいんだよって。

 めちゃくちゃになった心に染みわたるように、綺麗な綺麗な「音」がハルを慰めてくれる。ずっと聞いていたい。

 苦しめて、慰めて、また苦しめて、ハルの心を弄んでくる。言いなりにしようとする。

 どんどん、ハルの力を奪っていく。

 

 そんな中で、その手の「痛み」だけがハルに力をくれた。

 

 心が(しぼ)んでいくハルに喝を入れるように、掌の傷が焼ける。その痛みはどこまでも厳しくて、そして優しかった。

 カッと見開かれた瞳に、ユイが映る。傷だらけになって、疲れ果てて眠る、ハルのいちばんの友だち。

 いつもハルを助けてくれて、今も助けてくれた。そんなユイを、自分は二度も傷つけようとした。

 それを謝らなければいけない。

 だから、わたしは――!

 左手の傍に、投げ捨てたはずの鋏があった。まるで、自分から戻ってきてくれたみたいに。それを、掴む。

 

「うるさい! うるさい! もう黙ってよ!」

 

 大きくて重いそれを、両手に力を入れて持ちあげる。睨みつけた鐘が、怯えるように大きく鳴った。

 

「わたしは、ユイといっしょに帰るんだ!」

 

 地面ごと断ち切るように、鐘に向かって鋏を閉じた。

 元から壊れかけだった鐘は、あっさりと、今度こそガラクタに変わる。

 最後に、断末魔のような鐘の音を残して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 座り込んだハルの左手が、チクリと痛んだ。まだ終わっていない、と諭すように。

 

「うん、分かってる」

 

 立ち上がって、鋏を握りしめる。

 何がどうなったのかは分からないけど、コトワリさまは自分に力を貸してくれている。ただ助けるんじゃなくて、挫けそうなハルの心を引っぱたいてくれる。

 その厳しさが、今のハルには心強い。

 ユイを守るように立ち、周囲を警戒する。もう「声」は聞こえない。でもイヤな気配だけは強くなってくる。

 気を尖らせていると、不意に風を感じた。

 

 風が流れる方に向き、ハルはそこに「穴」を見た。

 

 鐘の残骸。その上の空間に空いた、赤黒い穴。天体の図鑑で見た、ブラックホールの絵に似ていた。

 指先ぐらいの大きさだったそれは、徐々に大きくなっていく。野球ボールぐらいになって、サッカーボールぐらいになった頃、それは突風のような強さですべてを吸いこもうとしていた。

 だから、意識の無いユイがそれに逆らうことなんてできなくて。

 

「ユイ!」

 

 ユイの体をつかんだ時にはもう、ハルも穴に飲みこまれていた。

 視界は赤黒く染まって、ハルも意識を手放す直前に。

 大きな、鐘の音を聞いた気がした。

 

 

 

 

 不吉な鐘の残骸が、力を使い果たしたように塵となって消える。

 月明りに照らされた、山上の草原。静寂に満ちたそこには、もう誰もいなかった。

 ただ、赤い鋏だけが地に突き刺さっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

   <○>

 

 

 

 

 

 

 

 

『ほう……“青ざめた血”ねえ……』

 

『確かに、君は正しく、そして幸運だ』

 

『まさにヤーナムの血の医療、その秘密だけが君を導くだろう』

 

『だが、よそ者に語るべき法もない』

 

『だから君、まずは我ら、ヤーナムの血を受け入れたまえよ』

 

『なあに、何も心配することはない』

 

 

 

 

『何があっても……悪い夢のようなものさね……』

 

 

 

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

 

 

 ピチョン。

 水滴が落ちる音で、ハルは目が覚めた。今までのことを思い出して、すぐに飛び起きる。

 でも、吸った空気のあまりの臭さに、ハルは激しくむせ返った。

 ユイと河原で遊んだ時、大きな土管の中で嗅いだ臭いを思い出す。土と水が腐ったような臭い。

 なんとか咳が落ち着いた後で周りを見渡しても、やっぱり暗くて足元しか見えない。

 

「……ユイ?」

 

 返事は無かった。まだ眠っているのか、それとも……。

 手探りでなんとか懐中電灯を探し出し、スイッチを入れる。レンガでできた高い壁が照らしだされた。そのまま周囲を照らして、ユイを探す。

 ユイは、すぐ近くにいた。でも、やっぱり意識は無いまま。見たところ大きなケガはしていない。

 ……「寝ぼけて階段から落ちた」と言っていた、頭の傷はそのままだけど。

 しばらくの間、ハルは周囲を警戒する。あの声も鐘の音も聞こえない。時々、水滴が落ちる音だけが響いていた。

 赤い鋏は、どこにも無かった。置いてきてしまったみたいだ。

 

 ――どうしよう。

 

 ここがどこなのか。何がおこったのか。何も分からなかった。帰りたいけど、どこに行けばいいのかも分からない。

 ……ここで待っていれば、その内だれかが助けにきてくれるかな。

 ……危ないし、へたに動かない方が良いよね。

 

「痛っ!」

 

 ハルの甘い考えを叱るように、掌の傷が痛んだ。「進め」ということだろうか。

 流れそうになっていた涙を拭って、ハルは立ち上がった。

 

 

 

 

 泥が固まったような、グズグズした地面を歩く。

 ハルと、背負ったユイの二人分の体重が脆い地面を崩して、何度も転びそうになる。このままじゃ懐中電灯が持てないから、二人のナップサックを使ってユイの体をハルに括りつけた。

 歩いても歩いても、同じような道が続いている。足元は乾いた泥のような土。汚れたレンガの壁。天井は無くて、ずっと上に暗い空が見えるけど、壁は高くて登れそうもない。

 いったい、ここはどこなのか。ハル達の町に、こんな場所はあっただろうか。

 

「はあ……、はあ……っ」

 

 息が切れる。歩くたびに左足が痛んだ。背負ったユイが重い。

 せめて地面が平らだったらいいのに。壁の上は、ここよりはきれいな地面になっているように見える。途中で梯子のような物は見たけれど、どれも壊れていたり、ハルに意地悪するように高い位置にあった。

 とにかく上に行こう。上に行ける梯子か、できれば階段を見つける。そう決めて、足を進めた。

 

 

 

 

 どれぐらい歩いただろう。

 壁はまだ途切れず、上に登る道も見つからない。ぜえぜえと吐く息が白くて、夏とは思えないほど気温が低いことに今さら気付いた。でも、汗だくになったハルには大して関係のないことだった。

 汗がしみる目をこすって前を見る。懐中電灯が今までとは違う物を照らして、ハルは速足で進んだ。

 それは、トンネルだった。レンガの壁を、半円状にくりぬいたトンネル。

 それ自体はハルも見慣れたものだけど、ここには電灯なんてない。懐中電灯の光も飲みこむような暗闇に、ハルの足が無意識に後ずさった。

 でも、他に道なんて無い。傷の痛みに背中を押される前に、ハルは進みだした。

 

 

 

 

 懐中電灯で足元を照らしながら、一歩ずつ進む。

 さっきまでは星空が見えていたから、すこしは明るかった。でも今は完全な暗闇の中。聞こえるのも、ハルの息遣いと反響する足音だけ。出口も、まだ見えない。

 ……今なら引き返せるんじゃないかな。

 ……こんな暗いところ、ぜったいに危ないよ。

 ……他の道を探したほうがいいんじゃ。

 弱気な考えが頭をよぎる度に、傷がチクチクと痛んだ。それにお尻を叩かれるようにしてハルは進む。

 そして、背負ったユイの体温と、小さな寝息がハルの心を支えてくれた。ユイは疲れている。いつだって助けてくれたユイを、今はハルが助ける番だ。

 それに、暗いけど、お化けが出るわけじゃ……。

 

 ドスン

 

 まるでハルの期待に悪い意味で応えるように、重い音が聞こえた。

 足を止めて耳を澄ませるハルの耳に、その音は続けて聞こえてくる。ドスン、ドスンと、重い音の中に、聞いたことのあるような鳴き声も混じっていた。犬じゃない、猫でもない、これは。

 奥の暗闇に、ぼうと浮かび上がるように、それはハルに答え合わせをした。

 豚だった。

 顔の肉をだらしなく緩ませた、どこか悪意のあるような顔をした豚。

 でも、おかしい。遠くにいるはずなのに、どうしてこんなに顔が大きく見えるのか。これじゃまるで、あの豚がとんでもなく大きいみたいな……。

 

“ブヒィィィィ――――ッ!”

 

 可愛らしさの欠片もない鳴き声を響かせて、トンネルを埋めつくすぐらい巨大な豚が突進してくる。

 

「ひゃあぁ――――っ!?」

 

 豚に負けないほどの悲鳴をあげて、ハルは逃げ出した。

 だって、あんなのもうどうしようもない。それこそ、トンネルの中で電車の前に立っているのと同じだ。もう逃げるしかない!

 足の痛みもユイの重さも忘れて、固い泥の上を必死でハルは走った。これだけの悪条件でも、きっと運動会の時より速く走っていた。それでも、足音はどんどん大きくなってくる!

 はやくはやくとにかくまえにはしってはしってはしってもっとはやく!

 気が付けば、トンネルの入り口から飛び出して、レンガの壁が目前に迫っていた。

 

「ぶえっ!?」

 

 なんとか両手を前に出して、顔から激突することは避ける。それでも頬を壁にはりつけるように停止して変な声がでた。

 足音は、もう聞こえなかった。

 

「……へ?」

 

 恐る恐る振り返っても、暗いトンネルがあるだけ。巨大豚なんて、どこにもいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「これ……」

 

 再びトンネルの中に足を踏み入れ、おっかなびっくり進んで辿りついた場所に、それはあった。

 大きな、動物の骨。

 遠足で博物館に行った時に見た、恐竜の化石みたいに大きな骨格だった。豚の骨がどんな風になっているのかなんて知らないけど、きっとあの巨大豚のものだと、ハルは思った。

 

 ――大きな豚さんの、お化けだったのかな。

 

 すこしだけ手を合わせてから、奥に進む。小さな横道を見つけて中に入ると、わずかに風を感じた。

 出口が近い。そう思うと足も軽くなる。狭い道を進んで、その先に。

 

 

「うそ…………」

 

 

 断崖にはりついたような通路に立つハルが見たのは、月明りに照らされた、ハルのまったく知らない、滅びた街だった。

 

 

 

 

 ――――廃都ヤーナム

 

 

 

 

   <○>

 

 

 

 

 ――ああ、狩人様を見つけたのですね。

 

 



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はいきょ  -Yharnam-

 いったい、どれが両親の墓だというのか。

 女は、目の前に広がる墓石の墓場と化した惨状に、その碧眼を伏せた。

 

 元より、この街はあまりにも墓が多かった。

 街のいたる所に墓がある。それがどれだけ異常なことだったのか、街を出るまで知らなかった。

 棺とは、鉄で拵えて鎖で雁字搦めにするものではなかったのか。中身が二度と出てこないように。

 この街では、死が日常だった。

 安らかに死ねるということは、この街ではこの上ない幸せなのだと、そう教えられていたのだ。父に。

 

 その父は、この墓地で死んだのだと聞いた。母と共に。

 だがもうそこは、墓石も瓦礫も()い交ぜになって、それらを草が覆い隠そうとしている。

 仕方なく、女は手近にあった状態の良い墓石の前に跪く。ランタンを置いて、鞄から白い花を取り出して供えた。

 祈りの言葉は、この街のものとは異なる。異邦人でもあった父から教わったものだ。

 開いた碧眼に涙は無かった。両親が死んだのは、もう何年も前なのだから。

 

 見上げた空は、もう黄昏を過ぎている。ランタンを持ち直して、墓地を後にした。

 金の髪に結ばれた、白いリボンを揺らしながら。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ハルは途方に暮れていた。

 やっとの思いで暗い通路を抜け出して、これでユイと家に帰れると思ったのに、目の前には見たこともない街が広がっている。

 こんなの、ハルじゃなくても心が折れる。

 

「起きて、起きてよぉ、ユイぃ……」

 

 甘ったれた声で、意識のない親友の肩を揺する。

 今はとにかくユイに起きてほしかった。ユイならきっと、こんな知らない街でもなんとかしてくれる。ハルの手を引いてくれる。でも願いも虚しく、ユイの目はぴったりと閉じられたまま。

 深いため息をつくと、ハルは寝かせたユイの横に並んだ。もう疲れた。限界だった。全身はひどい筋肉痛みたいな状態だし、足首もたぶん挫いている。そしてやっぱり左の掌が痛い。

 

「もう、ちょっとは休ませてよ……」

 

 掌の傷を通して、コトワリさまが「立って進め」とチクチク叱ってくる。お尻を叩いてくれるのはありがたいけど、今はもうさすがに無理だった。

 がんばれ、がんばれって言うだけじゃなくて、たまには助けてくれてもいいのに。

 そんなハルが内心でもらした愚痴が通じたのかどうか、ハルの目に奇妙な物が映った。

 

「……うん?」

 

 赤い糸だった。

 掌に巻かれたハンカチからひょろりと出てきた糸が、街の方へと伸びている。たぶん傷から出てきているその糸は、触ろうとしても触れない。その赤色は、コトワリさまの鋏によく似ていた。

 

 ――道しるべってことかな。

 

 知らない街でも、進む方向さえ分かればなんとかなるかも。すこしだけ元気の出てきたハルは立ち上がった。

 心の中でコトワリさまにお礼を言って、ユイを背負い直す。パチンと自分の顔を両手で叩くと、再びハルは歩きだした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 まるで、絵本から出てきたような街だった。あるいは、ハル達が絵本の中に迷いこんでしまったと言うべきかもしれない。

 建物も、ハルの町の物とはまるで違う形をしている。自販機や電信柱はひとつも無いし、自動車の代わりに馬車が道に停まっていた。夢見がちな少女が憧れるような、もっと幼かった時にはハルも憧れていたような優雅な街並み。でも。

 

 ――ぜんぶ、ボロボロ。

 

 月明りに照らされた街並みは、すべてが朽ち果てていた。

 街そのものが死んでしまったみたいに、しんと静まりかえっている。ボロボロになった馬車の傍に、馬だと思われる骨がたくさん転がっていた。

 建物の窓にはどれも洒落た形の鉄格子が付けられていて、たまに大きく歪んでいたり、壊れていたりした。まるで怪物が壊して中に入ったか、中から怪物が出てきたみたい……。そんな想像をしてしまって、ハルは身震いする。

 空気は冷たく湿っていて、薄着な上に汗で冷えた体には厳しい。背負ったユイの体温がありがたいけれど、このままじゃユイも風邪をひいてしまう。道しるべの赤い糸は街の奥まで続いていて、ハルも先を急ぎたかったのだけれど……。

 

「っ!」

 

 心臓がぎゅっと締めつけられるような感覚に、ハルは道端に山積みされた棺桶の陰に隠れる。息を潜めていると、やがてその影たちは現れた。

 背の高い、人型の黒い影。でも左手の部分だけはやけに影が長くて、右手にはそれぞれ違う物を持っている。斧や鉈、中には長い鉄砲のような物を持った影まで。ぞろぞろと現れた5人分もの影が、道を歩いていく。先頭の影が掲げた松明が、赤々とした炎を燃やしていた。所々にある焚火の跡のような物や、どこか焦げ臭い空気はアレのせいなのかもしれない。

 うるさい心臓を押さえるように胸に手を当てながら、ハルは影たちが通りすぎるのを待つ。松明が弾ける音が遠く過ぎ去り、そっと目だけを出して影たちが通りの角を曲がるのを確認してから、やっとハルは立ち上がった。

 あの影のお化けたちとは、これでもう何度目かの遭遇だった。アレらは必ず複数で現れ、何かを探すように街を巡回している。しかも、どう見たって好意的なお化けじゃない。見つかれば、捕まってしまえばどうなるかなんて、考えたくもなかった。

 周囲にお化けや松明の火が見えないことを何度も確信して、ハルはホッと息をつく。その直後に、積まれた棺桶がガタガタ揺れ出してハルは悲鳴をあげた。

 

 

 

 

 赤い糸を辿るほどに周りの建物は大きく、多くなっていく。たぶん、街の中心の方に向かっているとハルは思った。今思えば、最初に目が覚めた通路は下水道か何かだったのかもしれない。顔をしかめて、靴についた泥を石畳になすりつけながら歩く。

 カラカラと斧を引きずる音を聞いて、ハルは素早く物陰に隠れ、懐中電灯のスイッチを切る。そのまま、影たちが通り過ぎるまでじっと息を潜めた。

 あのお化け達のやり過ごし方もだいぶ慣れてきた。でもそれは、お化けとの遭遇が多くなってきたということでもある。街の中心に向かうほどにお化けは多くなる。まるで、生きた人間と同じように。

 

 ――じゃあ、あのお化けは……。

 

 もし、アレらがこの街の住人の成れの果てだとすれば、いったいこの街で何が起こったんだろう。そして、それと同じことがハルの町で起こったら、どうなるんだろう。

 お父さんや近所のおじさん達が、武器を手に夜の町を歩き回る。そんなことになるのはきっと、すごく怖くて悲しいことだった。

 

 

 

 

 ドンドンドン……ドンドンドン……ドンドンドン……

 

 ノックというには重い音がずっと響いている。いつまでたっても鳴りやまない音に、仕方なくハルはベンチの下から這い出した。ユイの頭がぶつからないように、そっと。

 角を曲がった先には、また影のお化けがいた。もう何度も見た人型の黒い影が、大きな扉をひたすら叩いている。扉を壊そうとしているのか、誰かに開けてほしいのかは分からなかった。

 問題は、その影の大きさだった。

 縦にも横にも、ハルの倍以上はある大きな影。実際に見たことはないけれど、シロクマなんかと同じぐらい大きいように見えた。きっと力もすごく強い。あんなに大きな扉もぐらぐら揺れているのだから。

 幸い、あのお化けは扉を叩くのに夢中で周囲を見回している様子もない。大きなノックの音がハルの足音もかき消してくれる。そっと通り抜ければ大丈夫。そう、ハルが油断した時だった。

 一歩踏み出したハルの足が、道に転がっていた容器を蹴飛ばした。

 ブリキのような金属でできた軽い容器は、甲高い音を立てながら遠くまで転がっていく。ハルは頭が真っ白になって、顔は真っ青になって、そしてノックの音が止んだ。

 大きな、大きな人影がゆっくりと振り向く。それを見ることなく、ハルは元のベンチまで全力で走っていた。頭から滑り込むようにしてベンチの下に潜り込む。ゴン、とユイの頭がベンチに当たったような音がして、ハルは心の中で何度も謝った。

 影のお化けは足音がしない。しないのに、ドスドスと聞こえてきそうな動きと大きさだった。お化けはきょろきょろと辺りを見回している。体の大きさには似合わない、どこか子どもみたいな動きだった。あの大きさなら視点も高い。ベンチの下にいるハル達の姿は見えないはず。また、そうハルが油断した時だった。

 

“Aaa――!”

 

 お化けが大声をあげて、ベンチを投げ飛ばす。大人が3人は座れそうなベンチが、3階はありそうな建物の屋根の上まで飛んで行ってしまった。悪い冗談としか思えない光景に、ハルは顔を引きつらせた。

 お化けは次のベンチに手をかける。ハルが隠れているベンチの、ふたつ隣だ。

 冗談じゃない。

 真っ白になった頭を必死に働かせる。ユイはまだ起きない。コトワリさまも何もしてくれない。ハルがどうにかするしかない。でもどうやって!?

 ベンチの下に隠れたまま、あちこちを見回す。

 すこし遠くに、ブリキの缶が見えた。

 すぐ近くに、石ころが落ちていた。

 隣のベンチが、飛んで行った。

 もう時間が、無かった。

 石ころを、掴む。

 

 ――当たって! お願い!

 

 ハルは運動が苦手だ。球技なんてもっと苦手だ。体育の授業で球技がある日は、朝から憂鬱になるほど苦手だ。

 だから、投げた石ころがブリキの缶に命中する自信なんて、ハルには無かった。でも投げるしかない。ほとんど自棄になって、目をつぶったままハルは石ころを投げようとした。

 

 石を握った左手の傷から、血が噴き出した。

 

 悲鳴はなんとか堪えた。堪えて、血塗れになった石ころを投げた。ブリキの缶には、当たらなかった。

 絶望するハルの目の前を、大きな足の影が通り過ぎていく。影は、ハルの血に塗れた石ころを愛でるように撫でていた。まるっきり、子どもみたいな様子で。

 呆然としていると傷の痛みに叩き起こされ、ハルはベンチの下から這い出ると、そっと走り去った。

 

 

 

 

 広場の真ん中に、大きな十字架のような物が立てられていた。それを囲むように、影のお化けたちが集まっている。その数は、30を軽く超えるほど。

 絶望するには充分な数だった。さっきまでのハルであれば。

 コロリと転がってきた石ころに、影たちが群がっていく。真っ赤な血を塗られたそれを取り合い、中には武器で同士討ちを始める影までいた。それを横目に、ハルは広場の端を静かに走り去る。

 

 ――血が好きなのかな。

 

 まるで吸血鬼みたい。掌の傷から流れる血を石ころに塗りながら、ハルは思った。そう考えると、この古びた優雅な街並みも、いかにもそれっぽい。吸血鬼の街だなんて、ハルには御免だったけれど。

 広場に血の石ころを投げ入れながら、ハルは進んでいく。半分ほど過ぎたあたりで、中央の十字架が近くに見えた。

 そこには、大きな骨格が括りつけられていた。下水道で見た巨大豚の骨とは違う、全体的に細長い、どこかヒトにも似た骨格。周りには、松明を持っている影がたくさんいる。

 火あぶり。

 歴史の教科書で見た、昔の怖い出来事を思い出してハルは青ざめる。もしかしたら、あの影たちは火あぶりにする獲物を探しているのかもしれない。

 ここに来て、抑え込んでいたハルの恐怖がぶり返してきた。

 見つかっちゃいけない。見つかったら、つかまって、火あぶりにされてしまう!

 血を塗りたくった石ころを、何個も広場に投げ入れる。棺桶の陰を、ほとんど這うようにして進んでいく。慎重に、臆病に、ゆっくりとハルは進んでいった。

 ハルに油断は無かった。でも、それが(あだ)となってしまった。

 投げられた石ころ、その一つが十字架に括りつけられた骨に当たった。その血が、骨にかかってしまった。

 じゅう、と。骨に血が染み込む音は、ハルに届かなかった。

 

 

 

 

“Beast!”

 

 背後から聞こえた声に、馬車の陰から出ようとしていたハルは再び頭をひっこめた。そのまま待っていても、声は止まない。それどころか、どんどん多くなってきた。

 

“Cursed beast!”

“Beast! You foul beast!”

“Away! Away!”

 

 見つかってしまったのかと思えば、影たちは慌ただしい様子で馬車の傍を通り過ぎていく。朧気な姿には似合わない、はっきりとした言葉を発しながら。ハルも恐る恐る顔を出し、そしてそれを見た。

 

 

 ギシギシと音を立てながら、十字架が揺れている。影たちが揺らしているのではない。揺らしているのは、括りつけられた骨だった。

 どこかヒトに似たその骨が、束縛から逃れようともがいている。動くはずもないモノが、動いている。

 そして、元から朽ちていた十字架が折れ、それを背負ったままで骨が地面に降り立った。その異様に長い四本の足で、しっかりと。獣のように。

 骨の獣が、吠える。

 

 

“GeeOoAaaaaaaaa――――!”

 

 

 聞いたこともない鳴き声だった。犬の遠吠えをすごく高くして、カラスの鳴き声を混ぜて、そこに人の悲鳴も足したような、悍ましい鳴き声。

 骨の獣に、影たちが群がっていく。もう一度、獣を火あぶりにしようとする。その時ばかりは、影たちが頼もしく見えてしまった。それほど、あの獣は怖かった。

 

“Gyoaaaaa――!”

 

 咆哮と共に、獣がその前足をなぎ払った。ただそれだけで、影たちはあっさりと掻き消えてしまう。その手に持っていた武器だけを残して。

 影を消す度に、獣の頭のあたりに黒い影が纏わりつき始めた。まるで、人影を食べてその影を血肉にしたみたいに。

 ほんの一分も経たない内に、獣は影たちを平らげてしまった。獣の頭には、影がベールのように揺れている。

 獣は、血の付いた石ころの匂いを嗅ぐような動きをしてから、首を巡らせた。

 ぐるりと、ハルの方へと。

 

 

 ――――【血に渇いた骨獣】

 

 

「やだ、やだよぉ……」

 

 来ないでよ。やだよ。

 尻もちをついたまま、ずりずり後ずさるハルに対し、骨獣はゆっくりと歩み寄ってくる。コツコツと骨が石畳を叩く音がする。

 足音がする。お化けじゃない。骨が動いてる。なんで? わからないよ。なんにもわからない。

 気付けば、すぐ目の前に骨獣の頭があった。影のベールに半分隠されたような頭が、ハルの顔を舐めるように撫でる。

 ハルはもう、恐怖を感じてはいなかった。心がもう、現実を拒否していた。そのまま意識を手放そうとした時。

 

「――――ぅ……ん」

 

 背中のユイが、呻いた。

 白目を剥こうとしていたハルの目が骨獣を捉える。振り下ろされようとする前足を見て横に飛んだ。一拍遅れて、骨が馬車を叩く音が響いた。

 立ち上がって、バチンッ! とまた自分の顔を両手で叩く。叩いて、骨獣を睨みつけてやった。

 

「……ぜったいに、ここから出てやる」

 

 まったくハルらしくない、強い言葉だった。それは自分に向けた決意で、骨獣に向けた宣戦布告だった。

 今のハルは一人じゃない。ハルが諦めてしまえば、ユイも死んでしまう。

 そんなのはイヤだった。ぜったいに、ユイと一緒に、家に帰りたかった。

 そのために。

 

「ぜったいに、ここから出てやる!」

 

 ハルは走り出す。もう、掌の傷は痛まなかった。

 



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けもの   -Beast hunt-

 ユイと鬼ごっこをしていると、ハルはよく怒られた。

 

『ダメだよ、今のわたしは怖い鬼なんだから』

『走りで負けるのはしかたないけど、先に気持ちで負けちゃダメだよ』

『鬼なんかに、心で負けちゃダメだよ』

 

 走るのが苦手なハルは、運動神経抜群のユイに勝てることなんてほとんど無かった。

 ユイには勝てない。ユイになら負けてもいい。

 そんな諦めが伝わると、普段はやさしいユイがすごく怒る。

 なんでそんなに怒るんだろうと、気持ちがいじけてしまうこともあったけれど、今なら分かる。

 こういう時の為に、ユイは怒ってくれていたんだ。

 

 

 

 

 カツン、と足音とは違う音が聞こえたと同時に、飛び込むようにして倒れる。

 ハルの頭上を何かがびゅんと通り過ぎて、近くの窓のガラスが割れた。

 骨獣が前足を戻す間に立ち上がって、走り出す。擦りむいた手足と顔がじんじん痛んだ。

 知るもんか。

 背中にはユイがいる。ハルが避けないと、ユイが怪我をしてしまう。これ以上、ユイの怪我を増やしたくない。諦める理由にはならない。

 走る先には二つの道。階段か、まっすぐか。

 赤い糸は、まっすぐ伸びている。迷わず進む。

 知らない街の知らない場所でも、コトワリさまが案内してくれる。諦める理由にはならない。

 角から、お化けたちが出てくる。ぞろぞろと、5人か6人。

 ハルか、骨獣か、もしかしたらどちらも捕まえる気なのかもしれない。捕まえて、火あぶりにしようとしている。

 諦める理由には、ならない。

 

「どい、てっ!」

 

 全力で走って、一人目をすり抜ける。二人目は大きく避けて、三人目が鉈を振り下ろす前に、足の間に飛び込んでくぐり抜ける。地面に顔を打って目がチカチカするけど、無視。

 あと何人いるか分からないけど、もう何も考えずに走った。口から血の味がする。ただの鼻血。

 

“Gyeeaaa――!”

 

 骨獣の鳴き声。

 

“Die! Die!”

“You filthy Beast!”

“I'll mess up your brain!”

 

 お化けたちの叫び。

 骨獣もお化けも、相手に見境は無い。同士討ちしている間に距離を稼ぐ。どうせ骨獣が勝つ。そんなに時間もかからない。

 肩越しに後ろを見れば、散乱した武器の中で骨獣がまた雄叫びをあげている。頭の黒いベールはどんどん大きくなって、動きも速く、滑らかになっていく。

 元の姿に戻っているんだと思った。だけど、そうだとしたら、あのベールはいったい何なのか。きっと、元からとても怖い姿をしていたに違いない。

 追いかける骨獣の足はどんどん速くなる。逃げるハルの足は、遅くなっていた。

 

「はあ……、はあ……っ!」

 

 左の足首の感覚が無い。

 元から痛めていた足で、ユイを背負って歩き続けた。街に出てからは走りっぱなしだ。無理に無理を重ねた足は、もう痛みすら感じない。

 それでも、降参だけはしたくない。ユイがいる。コトワリさまが導いてくれる。諦める理由にはならない。

 ハルの心は折れなかった。

 それでも、限界はある。

 

「あっ!?」

 

 ズルリと足が滑った。

 背中から倒れそうになって、ユイを下敷きにしないように身をひねる。そのせいで、変な姿勢で胸を打ち付けた。息ができなくて、目の前が暗くなる。

 耳が聞こえない。霞んだ視界に、近づいてくる骨獣が見える。立たないと。

 また足を滑らせて転んだ。血だった。血を踏んだんじゃなくて、左足から流れた血で滑ったんだと分かった。

 やっと立ち上がる。体が軽かった。ユイがいない!

 

 人形のように転がるユイ。

 それに近づく骨獣。

 ハルの頭の中で、何かが切れた。

 

 

 

 

   <○>

 

 

 

 

 悪夢のような光景だった。

 

 女がこの街に立ち寄ったのは、ただの気まぐれだ。

 仕事で次の街に向かう際に偶然、近くを通った。だから、もう何年も戻っていない故郷に寄ってみる気になったのだ。

 この街が滅んだことは知っていたから、無人の廃墟になった街を見ても驚かなかった。悲しみも、また無かった。

 故郷ではあるが、この街が好きだったわけではない。滅ぶべくして滅んだ。そうとしか思えなかった。

 両親が死んだという墓地に花を供え、次は生家のある市街に向かった。そこでしばらく感傷にでも浸って、そしてここにはもう二度と近付かないでおこう。

 そう、考えていたのに。

 

「なんなのよ、これ……」

 

 夜の街は、獣狩りの群衆が闊歩していた。ありえないことだった。昼間は、耳が痛くなるほどの静寂に満たされていたというのに。

 だからと言うべきか、群衆は生身の人間ではなかった。体は黒い霞のような影になり、しかし手に持つ凶器と狩りの狂熱だけは失っていない。

 やはり、この街は呪われているのだ。

 近付くべきではなかった。馬車の陰に隠れながら、女は激しく後悔していた。

 このまま朝を待つという手もあるが、この街に限っては、いつも通りに朝が来るとは限らない。

 危険でも、街の外を目指すべき。そう考えて、群衆の目を盗みながら街を忍び歩いていた時だった。

 

 遠くから、獣の声がした。

 

 それが耳に届いた途端、女の心は少女の時まで遡った。

 幼い時から、いや生まれた時から刷り込まれていた恐怖。

 獣狩りの夜に眠れたことなどない。ずっと母にしがみついていた。あの鳴き声が近くに聞こえた時は、母だって震えていた。頼りの父はいない。父は狩人だったのだから。

 獣は、恐怖の象徴だった。

 だから、広場で獣が暴れまわっているのを見た時、女は矢も楯も無く逃げ出そうとした。

 小さな少女が、獣に飛び掛かるのを見るまでは。

 

 

 

 

 悪夢のような光景など、この街ではありふれていただろう。

 だが、今のこの光景だけは、誰も見たことがないのではないだろうか。

 その獣には血も肉も無く、ただ骨格だけが動いていた。頭からは、黒い影がベールのように揺れている。

 信じられない姿の獣。それと対峙しているのもまた、信じられない存在だった。

 

 年の頃は10かそこらの、幼い少女。

 年相応に小柄な体を包むのは、あまり見たことのない様式の服。元は白かったであろうその上衣は、血に赤く染まっている。

 あの骨獣が血を流すわけもない。ならば、すべて少女自身の血なのだろう。

 なんの武器も持たない少女がひとり、獣と戦っていた。

 

「――――ッ!」

 

 少女が叫ぶ。何と言ったのかは聞き取れなかった。言葉ですらなかったのか、あるいは女が知らない言語なのか。

 叫びながら、少女が骨獣の頭に飛びつく。飛びついて、小さな手で殴りつけていた。何度も、何度も。

 骨獣は、頭についた草か虫でも払うように、少女を容易に振りほどく。小さな体が転がり、廃墟の壁に当たって止まった。

 女は、息をのんだ。

 少女は、すぐに立ち上がった。その幼い顔はやはり血塗れだったが、大きな目は爛々と戦意を滾らせている。まだ戦う気なのだ。

 少女の背後には、別の少女が倒れていた。何故あそこまで戦うのか、容易に想像できた。

 だが職業柄、女の目はそれが無謀だと見抜いていた。出血が多すぎる。そしてあの左足は、確実に折れている。

 

 そこからは、体が勝手に動いていた。

 

 護身用に用意していた火炎瓶を鞄から取り出す。まさか使うことになるとは思っていなかった。

 ランタンの火で着火し、隠れていた路地裏から飛び出す。

 

「こっちよ!」

 

 大声で叫ぶと、少女と骨獣が同時に振り向いた。特に骨獣から目の無い視線を向けられて足が竦む。怯えを振り払うように、火炎瓶を投げつけた。

 骨獣を狙って投げたそれは、命中しなかった。筋力も技術も足りない投擲は、ただ石畳に油と炎を撒き散らしただけで終わる。

 だが。

 

“Aaaaaaaaa――――!?”

 

 骨獣の咆哮。いや、それは悲鳴だった。

「ある種の獣は、病的に炎を恐れる」いつか父から聞いた、獣の習性を今になって思い出す。骨獣は炎の熱と光から己を守るように、前足で頭を覆って動かない。

 今しかない。

 

「行くわよ! 立って!」

「――!? ――、――――!」

 

 呆然とした様子の少女を抱きあげて逃げようとするも、当の少女は激しく抵抗した。やはり女の知らない言語で喚きながら、必死に逃げようとする。

 見知らぬ女を警戒しているのか。あるいは、もう一人の少女を気にかけているのか。おそらく後者だろう。

 女とて、彼女を見捨てたい訳もない。だが狩人でもない自分では、一人を助けるだけで精一杯なのだ。そう自分に言い訳し、暴れる少女を押さえこんで無理矢理に抱き上げる。

 そうこうしている内に、火炎瓶の油が燃え尽きた。

 炎が消える。

 火炎瓶は、もう無い。

 骨獣が、頭を上げる。

 女と少女は、それを見た。

 

 

 骨獣に松明を振り下ろす、その姿を。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 何がなんだか分からなかった。

 

 狩人と別れて、クロも置いていって、草原でハルを見つけて、変な鐘のせいでハルはおかしくなっていて、なんとか鐘を壊して、ハルの左手の傷にハンカチを巻いて……。

 そして気がつけば、この状況だった。

 昔お父さんにおんぶされていた時のような揺れを感じて、固い地面に落とされたような感覚に叩き起こされて、痛む頭を押さえながら目を開ければ、見たこともない街にいる。

 すぐ近くには恐竜の化石みたいな骨がひとりでに動き回っていて、思わず死んだフリをした。

 そして、聞きなれた声と、見慣れた姿を見て、……それが血塗れになっているのを見て、もう全部どうでも良くなった。

 

「ハルを、いじめるな――――っ!」

 

 頭に血が上って、目の前が真っ赤になって、近くにあった木の棒で骨獣の頭を殴りつける。木の棒の先には炎がメラメラ燃えていて、それが松明という物だと殴ってから気付いた。

 思い切り殴ったのに、あまり効いた気はしなかった。相手の頭は大きくて、すごく固かったから。やっぱり、狩人のようにはいかない。

 それなのに、骨獣はひどく暴れた。炎を嫌がっているんだと、すぐに気付く。

 横目でハルを見る。隣には知らない女の人がいてギョッとしたけど、お化けではなさそうだった。

 ハルの体は、傷だらけだった。誰にやられたかなんて、考えるまでもない。

 キッと骨獣を睨みつけてやる。

 許さない。

 仕返しだ。

 

「狩りの時間だよ!」

 

 狩人の口癖を真似して、松明を手にユイは飛び掛かった。

 

 

 

 

 ユイは運動が得意だ。

 もっと幼い頃から、走り回ったり飛び回ったりして遊んでいた。

 鬼ごっこも、鉄棒も、木登りだって誰にも負けない。体育の球技では、男子も顔負けの大活躍だ。

 それでも、今この時ほど冴えてはいなかった。

 

「――っ!」

 

 振り下ろされた骨獣の前足を避ける。後ろでも横でもない、()()

 狩人が教えてくれた、自分より大きくて速い相手との戦い方。

 前に避けて、骨獣の後ろをとる。よく狙って、松明を突き出した。

 

“Geaaaaa――!?”

 

 狙うのは頭じゃなくて、背中。なぜか背中に括りつけられた、木でできた十字架のような何か。

 それに炎を移すように押し付けてやる。ブスブスと焦げ臭いにおいがする。でもまだ燃えない。

 骨獣が頭だけをこちらに向ける。長い尻尾の骨が振り払われた。

 ユイの腰ほどの高さの、下段攻撃。

 今までのユイなら、跳んで避けていた。でも狩人は、そうしなかった。

 地面にへばりつくように体を低くする。両足はしっかりと地面につけたまま。

 頭の上の赤いリボンを、尻尾が掠める。

 すぐに蹴りだされた後ろ脚を、前に転がって避ける。

 跳んでいたら当たっていた。でもユイは、そうしなかった。

 

 ――ありがとう、おじさん。

 

 もう一緒にはいなくても、狩人はユイを助けてくれていた。

 ほんのすこしでも、その(わざ)はユイに継承されていた。

 骨獣の足を、尻尾を、噛みつきを、ユイは避ける。

 避けて、後ろを取って、松明を押し付ける。

 そして、ついに十字架が燃えだした。

 

“GyeeeeeAhaaaaaaaaa――――!”

 

 今まででいちばん大きな悲鳴をあげて、骨獣が暴れ出す。

 手足を滅茶苦茶に振り回して、ひっくり返って背中を地面にこすりつける。

 そうやって、動きを止めてしまった骨獣に、女の人が何かを投げつけた。

 感覚が冴えわたっていたユイには、投げられたそれが良く見えた。

 カンテラとか、ランタンとか言う、火を灯すための昔の道具。

 パリン、と。割れたガラスも、飛び散る油も、ユイには見えていた。

 ユイは顔を覆う。

 

 頭から油をかぶって、骨獣が激しく燃え上がった。

 

 もう悲鳴も聞こえない。

 手足をバタつかせても、それは却って炎を大きくするだけ。

 頭を覆っていた黒いベールも、炎にかき消される。

 その内に、骨獣は動かなくなって、油と十字架が燃え尽きた後、そこにはもう骨も残っていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「大丈夫? ハル」

 

 骨獣がいなくなって、他のお化けがいないか周りも確認してから、やっとハルに声をかけられた。

 近くで見れば、やっぱりハルは傷だらけだった。立つこともできないのか、知らない女の人に抱きかかえられるようにして座っている。もう絆創膏なんかで、どうこうできるような傷じゃなかった。

 朧気に、誰かにおんぶされていたのを覚えている。きっと、ハルがここまで背負ってきてくれたんだ。

 目覚めた時、ハルが骨獣と戦っているのを見た。あの怖がりなハルが、あんな怖いお化けを相手に。

 ユイの為に、こんな傷だらけになって、がんばってくれた。

 

「……ごめんね、ありがとう。がんばったね、ハル……っ!」

 

 まだ呆然とした様子のハルをぎゅっと抱きしめる。ユイも、目がじんと熱かった。

 ユイの言葉が耳に届いたのか、ハルはふるふると震え出して、いつもみたいに、泣きだした。

 

「こわかった……。こわかったよぅ、ユイぃ……!」

 

 きっと、ずっと怖い気持ちを抑えこんでいたんだ。

 さっき見た、強そうな表情なんてまったく無い、いつも通りのハルだった。

 夕方に別れてから、やっといつものハルに会えた。

 離れ離れになっていたのは、ほんの数時間のはずなのに、もう何日も会っていないような気がした。

 ハルの体と涙の温かさをもっと感じるように強く、強く抱きしめる。

 

 

 ……もうすぐ、この温かさともお別れしなければいけないという事実からは、目をそらして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……あと、すぐ横で微笑ましいものを見るような顔をしている女の人からも、恥ずかしくて目をそらした。

 



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かおり   -Moon scent-

 夢に囚われた狩人は、不死となる。

 

 死なないわけではない。死んでも生き返るのだ。

 血の遺志を取り込み、肉体と血をどれだけ強化しようと、ヒトの肉体など獣に比べれば脆弱に過ぎる。

 だから貴方も、ヤーナムの夜の中で何度も死んだ。

 群衆に斬られ、刺され、撃たれて死んだ。

 ネズミに、犬に、蜘蛛に、群がられ、喰らわれて死んだ。

 巨大な獣に、強大な上位者に潰されて死んだ。

 時には、同じ狩人に狩られて死んだ。

 何度も何度も死に、そして覚えた。相手の動きを、癖を、習性を、そして攻略の糸口を。

 十回負けようとも、十一回目に勝てば良い。百回死のうとも、百一回目に生き残れば良い。

 命も時間も、無限にあるのだから。

 相手が死ぬか、貴方の心が折れるまで狩りは続く。

 貴方の心は折れなかった。だから貴方はここまで来た。来てしまった。

 

 逆に言えば、そうしなければ貴方は勝てないということでもある。

 相手がよほどの格下でもない限り、初戦の相手に勝てたことなどほとんど無い。

 裁断者とてもう一度、いやもう三度ほど挑めば勝てるだろうか。

 だが敗北したことは変わらない。……だからユイも守れなかったのだ。

 

 そしてまた、あの怪異――夜の廻送者にも未だ勝てていなかった。

 

 何度目かの死から目覚めた貴方は、そこが狩人の夢ではないことに気付く。

 背中に感じる固く冷たい鉄の感触。充満する鉄錆の臭い。遠くから響く重い金属音。

 松明を取り出しながら起き上がり、ひどく狭い部屋――否、箱の中にいると分かった。

 閉じ込められた。

 ならば破るまでとパイルハンマーを取り出すが、扉はあっさりと開いた。

 外もまた、暗い闇夜と鉄がどこまでも続いている。

 ユイと歩いた地下水路の施設と似ているが、ここは更に広大だ。もはや小さな街と言っていい。

 固く薄い鉄の床。壁には鉄の管が内臓のように張り付いている。貴方には見たことのない、獣の死骸のような鉄の塊。

 

 鉄の街。

 そしてその闇の先に、廻送者がいた。

 

 何度も戦い、敗北したあの姿ではない。灰色の体に3つの袋を担いだ姿で、闇の中に佇んでいる。

 閉じた瞳にも無表情な顔にも見えるその白円からは、やはり何の感情も感じられない。

 貴方が武器を構える前に、廻送者はずりずりと進みだした。貴方に背を向けて。

 

「……」

 

 ついてこい。

 そう言われた気がして、貴方は後を追った。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 薄暗い室内に、ハルの絶叫が響いた。

 小さな体が跳ねる度に、革のベルトがぎちぎちと軋む。寝台に拘束され、猿轡まで噛まされたハルの姿は見ているだけで痛々しい。

 必死な様子のハルの頭を胸に抱くようにしながら、ユイも必死に励ましていた。

 

「もうすこし、もうすこしだから!」

 

 本当にもうすこしなのかはユイにも分からないけれど、そうであってほしかった。

 視線を上げれば、女の人はまだ難しそうな顔をしてハルの左足を触っている。すっと息を吸ってから、体重をかけるようにハルの足を押した。

 

 ゴキン

 

 身の毛もよだつような音だった。ひときわ大きなハルの悲鳴が響いて、ユイも泣きそうになる。

 

「……Did it」

 

 女の人もホッとしたような顔でこちらを見る。汗をぬぐいながら、すこしだけ笑いかけてきた。

 ハルの足に木の棒を添えて、包帯でグルグルと巻いていく。やっと終わった、とユイも心底ホッとする。

 ひんひんと泣いているハルの猿轡を外して、その頭を撫でた。

 

「終わったみたい。がんばったね、ハル」

 

 答える気力も無いのか、涙と鼻水でぐずぐずの顔になったハルはこくこくと頷いた。

 そのままハルの胴体と腕を固定しているベルトも外そうとしたユイの手を、白くて細い手が止める。

 ぎぎ、とユイとハルが視線を向けた先には、ガーゼみたいな布に何か液体を染み込ませる女の人の姿。

 保健室の匂い。消毒液だ。そして、ハルの体は傷だらけで。

 また、ハルの絶叫が響き渡った。

 

 

 

 

 骨獣との戦いの後、三人は近くの大きな建物の中に入った。

 中はやっぱり荒れ果てていたけれど、ベッドや点滴スタンドのような物がたくさん置かれていた。ここは病院だったのかもしれない。

 少しだけ落ち着いたところで、女の人が話しだした。

 

 長い金髪と青い目をした、いかにもな外国の人。

 すごく大人っぽい雰囲気だったけれど、よく見るとまだ若いお姉さんだった。

 地味で丈夫そうな服を着ていて、なんとなく狩人の服を思い出す。

 金髪を適当に束ねる白いリボンが、やけに目に残った。

 

 やっぱり英語で話しかけてきて、ユイにもハルにも意味は分からない。

 お姉さんも日本語は話せないみたいだったけど、身振り手振りや手帳に絵を描いてくれたりして、なんとか意味を伝えようとしてくれた。

 その内に、ユイ達が簡単な英単語なら分かることに気付くと、もっと分かりやすく話してくれた。言葉が通じない人と話すことに慣れているのかもしれない、とユイは思った。

 彼女は、お医者さんだと名乗った。そして、ハルの左足は骨折しているから、今すぐ治療しないといけない。……たぶん、そんなことを言われた、と思う。

 ハルは真っ青な顔をして、助けを求めるような目でユイを見てきた。

 こんな知らない街の、ボロボロの病院で、ついさっき会った人に大怪我を診てもらう。そんなのユイでも不安になる。怖がりのハルなら尚更だった。

 でも、ハルの左足は青黒く腫れていて、そのままにしておくのは危ないとユイでも分かった。だから、お姉さんと二人でなんとか説得して、ハルに治療を受けさせたのだ。

 ……寝台にハルを拘束しはじめた時は、ユイもギョッとしてしまったけど。

 よく見れば、この病院のベッドや椅子にはどれもベルトのような物がたくさん付いている。ここは普通の病院だったのか、ユイは不安になってきた。そして、それを当たり前のように使うお姉さんも。

 

 ――悪い人じゃなさそうだけど。

 

 ハルの悲鳴も無視して治療を強行する様子は怖かったけど、そのぶん時間はかからなかった。心の準備なんて、ハルにとっては怖がる時間を長くするだけなんだから、あれで良かったのかもしれない。ようやく寝台から開放されて泣くハルの背中をさすりながら、ユイはそう思った。

 そのユイの肩を、お姉さんの手ががっしりと掴んだ。

 見上げた先の青い目は、既にユイの体の傷を確認するように動いている。思わず逃げようと足が動いた時にはもう、ユイは抱きかかえられていて。

 

「あ、あの、わたし大丈夫だから、ねえ」

 

 言葉は通じないことも忘れて逃げ腰な言葉が口から出てくるけど、お姉さんは聞く耳を持たない。あっという間に寝台に乗せられて、次々と手足を固定されていく。なぜかハルまでいそいそと手伝っていた。

 今度は、ユイの絶叫が病院に響いた。

 

 

 

 

 三人で蝋燭の明かりを囲む。

 お姉さんがくれた飴玉を口の中でコロコロと転がすと、あまり食べなれない味がした。ひどく甘いけど、疲れた体に染み込むようで思わず声が出そうになる。隣を見れば、ハルも顔が緩んで変な表情になっていた。

 ようやく一息ついたところで、今までのことをハルと話す。

 夕方にハルと別れてから、ずっと探していたこと。町の中はお化けだらけだったこと。クロが拾ってきた変な鐘を鳴らしたら、変な狩人が来たこと。その変な狩人のおかげでハルを見つけたこと。でも見つけたハルはおかしくなっていて、不気味な鐘を壊した後でハルもユイも気を失ったこと。

 自分で話しておいて信じられないような話だったけど、その後でハルから聞いた話も大概だった。

 気が付いたら真っ暗な山の中にいて、不気味な鐘を鳴らしてしまったこと。鐘の音を聞いていたら心が滅茶苦茶になって、ユイを傷つけようとしてしまったこと。正気に戻った後で、奇妙な「声」を聞いたこと。鐘の残骸に吸い込まれて、ユイといっしょにこの街に来たこと。ユイを背負って歩いていたら、たくさんのお化けとあの骨獣に襲われたこと。

 黙って二人の話を聞いているお姉さんが、時々むずかしい顔をしているのがユイには見えていた。もしかしたら、お姉さんも簡単な日本語ならすこし知っているのかもしれない。そうユイが考えた時。

 

「ごめんなさいっ!」

 

 ハルが突然、謝った。

 床に座り込んだ状態で深々と頭を下げて、ほとんど土下座でもしているような状態だった。突飛な行動にユイは飴玉を喉に詰まらせそうになって、お姉さんも目を丸くする。

 

「わたし……わたし、ユイにひどいことしちゃった! ユイは、わたしを探してくれてたのに!」

 

 ハルとは思えないような大きな声だった。ボロボロの病院に、ハルの声が響く。でも、それは……。

 

「ハルは悪くないよ! あの変な鐘のせいじゃない!」

「そうだけど! でも鐘を鳴らしちゃったのはわたしだし……」

「もういいじゃない、わたしは怪我なんてしてないんだから!」

「でも、わたしはユイを……」

「あー、もう!」

 

 後ろ向きなハルの悪い癖が出て、ユイもやきもきしてくる。どうしたものかと頭をぼりぼり掻いていると、お姉さんがハルの口に飴玉をつっこんだ。

 

「んーっ!?」

「Be quiet」

 

 ダメ押しのように3個目を追加されて、ハルはモガモガ言いながらお姉さんに抗議の視線を向ける。でも、お姉さんが据わった目で見返すと、しゅんと小さくなってしまった。

 きれいな人だけど、それが余計に怖い。ハルも距離をとるようにじりじりとユイの傍に寄ってきた。溜息をひとつしてから、そのおでこにデコピンしてやる。

 

「もがっ?」

「お返し。これで許してあげる」

 

 納得したのかしていないのか、ハルはおでこを押さえながら涙目で見返してくる。ほっぺたは飴玉で膨らんだままで、その顔がおかしくてユイは笑った。

 顔を真っ赤にしたハルはそっぽを向いてしまって、お姉さんも笑いをこらえるように口を押さえていた。

 

 

 

 

 歪んだ扉を、3人でなんとか押し開ける。

 冷えた埃っぽい空気が流れてきて、ユイはぶるりと体を震わせた。暗がりを懐中電灯で照らすと、穴だらけの床に注射器や鋏、他にもよく分からない物が散乱している。燭台に蝋燭を乗せたお姉さんが先を歩いた。

 さっき懐中電灯を点けた時、お姉さんはすごく驚いた顔をしていた。狩人も同じような反応をしていたのを思い出す。あの人は、ちゃんとおとなしくしているだろうか。クロも置いてきたから、変なことはしていないと思うけど。

 危険がないことを確かめたお姉さんが手招きして、ハルがそれに続く。ハルの手には、病院の入り口で拾った木の杖が握られていた。包帯でグルグル巻きにされた左足を浮かせながら、よたよた歩く。左手を前に出して、じっと中空を睨んでいた。

 ハルの左手の傷だけは、お姉さんも触っていない。傷をじっと見た後で、何もせずに包帯だけを巻いていた。とても難しい顔をしながら。

 あれはコトワリさまの鋏でついた傷だ。ハルが言うには、あの傷を通してコトワリさまが助けてくれたらしい。そして今も、赤い糸で道案内をしてくれているのだと。その糸はユイにもお姉さんにも見えていない。でも、ハルは昔から「そういうモノ」が見える子だった。ユイも疑ってはいない。

 ハルの背中を守るように、ユイが最後尾を歩く。何度も後ろを見て、お化けがいないことを確認した。廃病院だなんて、いかにもな場所だ。何が出てきても不思議じゃない。

 でも、そんなユイの不安をよそに、3人はあっさりと病院の奥に辿りついた。

 

「……これだ」

 

 そこには、不自然に床から生えたランプがあった。その意匠にユイはどこか既視感を覚える。

 ランプは暗がりから浮き出るようにうっすらと光っていて、どう見ても普通じゃない。でも、不思議と忌避感は抱かなかった。

 このランプに赤い糸は繋がっているらしい。ハルが、おっかなびっくりな様子で手を触れる。

 

「ひゃあっ!?」

 

 ランプが紫色に光りだした。

 驚いたハルが悲鳴といっしょに飛び上がって、転びそうになったところをユイが支える。怖がりなハルらしい反応だったけど、ただランプが光ったからだけじゃなかったらしい。

 

「な、なにアレ……」

「……あっ!」

 

 しがみついてくるハルを支えながら、ユイは見覚えのあるその姿に声をあげた。

 使者だ。

 何体もの使者が、ランプを囲んで祈っている。ユイがそっと手を差し出すと、使者の一体が握手するように指に触れた。

 

「ユ、ユイ? 大丈夫なの?」

平気(へーき)平気(へーき)。さっき話した狩人さんの友だちだよ」

 

「けっこう可愛いんだよ」とハルの手をとって使者に近づける。小さな手がぺたぺたとハルの手に触れて「ひいぃ」とハルが震えあがった。助けを求めるようにハルが涙目を向けてくる。可愛いのに。

 お姉さんは特に驚かなかった。驚かなかったというか、こちらを見てもいなかった。ユイ達に背を向けて、壁際に立っている。

 

「……お姉さん?」

 

 その様子がどこか気になって、ハルと一緒に近づく。そこには。

 

「ひっ!?」

「うっ……!」

 

 お姉さんの前には、死体があった。

 ダムの上で見たような、ボロボロの服を着た、白骨死体。寝台の上に寝かされたそれは、とてもきれいな状態で、まるで眠ったまま骨になったみたいだった。

 お姉さんは、どこか悲しそうな顔で、それを見下ろしていた。

 ひくりと、ユイにしがみついていたハルの鼻が動いた。そのまま、クロやチャコみたいに鼻をスンスン鳴らす。

 

「どうしたの?」

「うん……なんだろう。お月さまの匂い……? みたいな……」

 

 また、ハルが妙なことを言いだす。

 ユイは月の匂いなんて知らない。そんなもの、誰も知らないだろう。これも、ハルにだけ見えたり聞こえたりするナニカと同じようなモノなのか。そうユイが考えた時。

 

「“ツキ”……Moon?」

 

 お姉さんが、振り返った。

“ムーン”ならユイも知っている。月のことだ。ハルも「ムーン」と返しながら自分の鼻を指す。

 目を見開いたお姉さんがハルに歩み寄った。そのままハルの頭を抱くようにして、髪に顔を埋める。突然のことに固まるハルを離すと、今度は同じように固まっていたユイの頭も抱いた。

 

「え、なに? なに?」

 

 匂いを嗅がれている。

 でも今日はまだ体を洗っていないし、もうずっと歩いたり走ったりしていたから、絶対に汗臭い。だんだん恥ずかしくなってきたけど、お姉さんはなかなかユイを離してくれなかった。

 

「……Moon scent」

「Moon scented Hunter……」

 

 間近で見たお姉さんの青い目から、涙が一筋流れる。

 でもその顔は微笑んでいて、不思議なランプの光の中で見た笑顔は、とても綺麗だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、行くよ?」

「う、うん」

 

 ふたりで、ランプの前に座る。ハルの手をしっかりと握りながら、もう片方の手をランプに伸ばした。

 これで元の町に帰られるかどうかは分からない。でも他に方法なんて無いし、今はハルとコトワリさまを信じるしかない。

 ランプに手を触れると、視界がぐにゃりと歪んだ。深い眠りの夢から目覚める時に似た、引き上げられるような浮遊感を感じる。

 意識が完全に閉ざされる前に、後ろを見た。

 

「ありがとうございました!」

「さよなら! 元気でね!」

 

 すこし離れた場所でユイ達を見守っていたお姉さんにお礼を言う。ほんの少しの間だったけど、お世話になった。ハルの怪我も診てもらったし、やっぱり年上の人がいたのは安心できた。こんな知らない場所でも、確かな休息になった。

 ユイ達には、これから最後の戦いが待っているのだから。

 お姉さんが何かを投げて、ユイの顔に当たる。それが白いリボンだと分かって、お姉さんが手を振っているのが見えて、ユイが口を開く前に、意識は闇に閉ざされた。

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 芋虫のような体を蠕動させながら廻送者は進む。貴方はただ黙ってそれを追った。

 鉄の街を出て、暗い夜の町を歩く。ユイと会った町と似た風景だったが、ここは更に静かだ。どの家も門扉を閉ざし、窓からも明かりは見えない。人の気配はまるで無く、亡霊すらもその姿を見せない。

 この町も夜を恐れている。そして、その夜もまたナニカを恐れている。

 おそらくは、貴方の前を進むこのナニカを。

 

 今なら、狩れるだろうか。

 

 音もなく右手に直剣を呼び出す。その刃を背の巨大な鞘と連結させても、廻送者は振り返らない。気付いていない筈もなかろうに、何の反応も返さない。

 余裕の表れだろうか。それとも、己の生死にも貴方の生死にも関心が無いのか。

 あるいは、そんなヒトの物差しで計れる存在ではないのか。勝利と敗北。生と死。そんな物に当てはめること自体が間違いなのかもしれない。

 如何にして狩るか、そもそも狩るべきか否か。考えあぐねる貴方をよそに、廻送者は進み続ける。町の出入り口らしき場所をくぐり、暗い街道を抜け、また別の町へと。

 その町は、貴方にも見覚えのあるものだった。他でもない、ユイに呼ばれた町だ。

 

「!」

 

 それを裏付けるように、目の前にユイが現れる。幼い矮躯も、後ろ髪をくくるリボンもそのままの姿で。

 だが、その姿は無機質な灰色に染まっており、現実の存在でないことは明らかだった。途方に暮れたような顔をしているその髪に触れても、貴方の手はすり抜けてしまう。

 過去の残像か。貴方はそう考えた。

 少女の残像は、子犬の残像をつれて町の北側へと駆けていく。そこに、貴方の残像は無い。

 振り返れば、廻送者は消えていた。

 

「……」

 

 これを見せる為につれて来たのだろう。

 貴方は踵を返して、ユイの残像を追った。貴方が召喚されなかった次元(せかい)の過去、あるいは未来。

 それを見届ける為に。

 



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あくむ   -Nightmare-

 暗い森を、獣が駆けてゆく。

 藪を突っ切り、木の根を飛び越え、上へ、上へと。

 傍らには、己の片割れがいる。生まれ出でた時より共にある片割れが。

 後ろには、軍勢がいる。弱く、穢れた、だが誇り高き遺志に率いられた軍勢が。

 獣たちは森を駆ける。

 小さな主を救う為に。

 愛しい主に会う為に。

 その大恩を返す為に。

 獣たちは、森を駆け続けた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 左手に熱を感じて、ハルは目を開けた。

 あの廃病院でランプに触れた姿勢のまま、目の前に突き刺さった赤い鋏に触れている。

 掌の傷から伸びた赤い糸は、ずっとこの鋏に繋がっていたのだ。

 

 ――ありがとうございます。

 

 少しだけ目を閉じて、心の中でコトワリさまにお礼を言う。

 もう何度も助けてもらった。そして今からもう一度、力を貸してもらわないといけない。

 

「……ユイ」

「うん、見えてる」

 

 すぐ隣で目覚めたユイは、もう立ち上がっていた。立って、暗い夜空を睨んでいる。

 ハルも、それに並んだ。

 

 

“帰りたい?”

 

 

 また、あの「声」が聞こえてくる。

 甘い、どこまでも甘い声で、ハルを包み込んでくる。

 

“お家に帰りたい?”

“いっしょにいたい?”

“引っ越したくない?”

“ずっといっしょにいたい?”

 

 ハルは、何も答えなかった。ただ、じっと夜空を睨み返した。

 きっとユイにも聞こえている。でも、ユイも黙って夜空を睨んでいた。

 その内に「声」は聞こえなくなって、耳が痛いほどの静けさが戻ってくる。

 睨み続ける夜空に、星とは違う光が増えた。

 血のように真っ赤なその光は、少しずつ大きくなって、それが目だったのだと分かる。

 ひとつじゃない。ふたつ、みっつ、よっつ……。どんどん増えていく。

 やがて、雲が流れて大きな月が現れると、ソレの全貌が明らかになった。

 

 ソレは、大きな蜘蛛(クモ)のように見えた。

 死体のように白い巨体は、ヒトの手や指をデタラメに組み合わせて作られている。

 顔を両手で覆っているけど、その手にも全身にも赤い目がくっついていて何の意味も無い。

 裂けるような大口が(わら)っているように見えて、何から何まで悪意に満ちた姿をしていた。

 

 

 ――――【醜い蜘蛛神】

 

 

「ずっと、わたしを呼んでいたのは……あなたなの?」

 

 逆さまになって夜空に張り付く蜘蛛神に、ハルは問いかけた。

 もうずっと前から、自分は何かに呼ばれていた。今思えば、それはこの山に近付いた時ばかりだった。

 

「あなたは何? お化け? それとも、神さま?」

 

 こんな悍ましい姿をしたモノに、自分は呼ばれていたのだ。

 コトワリさまは、あんな怖い姿をしているのに自分を助けてくれた。お化けや神さまを、見た目で判断してはいけないのかもしれない。

 それでも、この目で見て確信した。

 あの蜘蛛神は、ハルたちに悪意しか抱いていない。

 元が何であっても、今のアレは悪意の塊のような、お化けだ。

 だから、ハルも、ユイも、その鋏を抜く。

 赤い刃を二つに分けて、突きつける。すべての赤い目を睨み返して、構えた。

 

 蜘蛛神は、悪意で以てそれに応えた。

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 蜘蛛神の悪意は、貴方の想像を超えていた。

 

 ユイとクロは、よく戦ったと言えるだろう。

 何の武器も力も持たない少女と子犬が、次々と湧いてくる亡霊たちをかいくぐり、山を駆けあがった。

 元より傷だらけだった小さな体は満身創痍で、それでもユイたちは進んだ。

 そして山頂に至り、封じられた洞窟を見つけ、その最奥で、ソレと対峙した。

 

 死体で形作られた蜘蛛のような、異形の上位者。

 今まさに、もう一人の少女を害そうとしていたソレに、ユイたちは戦いを挑んだ。

 

 その戦いは、戦いにもならない筈だった。

 何をどうしようと、ユイ達に勝ち目など無い。貴方と違い、彼女らの命はひとつしか無いのだから。

 その巨大な足で踏みつぶせば一瞬だろう。その赤い糸を操る秘儀で貫いても一瞬だろう。

 だがその上位者――蜘蛛神は、そうしなかった。

 自らは手を下さず、ただその出口を赤い糸で塞いだ。

 自らは手を下さず、ただ子グモたちに任せた。

 自らは手を下さず、ただ気を失った少女を糸で吊るして見せた。

 嬲ったのだ。

 弄んだのだ。

 嘲ったのだ。

 出口を塞ぎ、玩具(おもちゃ)が逃げられないようにした。

 子グモたちに命じ、ユイとクロの小さな体を少しずつ齧らせた。

 釣り餌を垂らすように、ユイの頭上で少女を躍らせた。

 いったい、どれほどの悪意がそうさせるのか。貴方はそれを理解できなかった。

 

 

 

 

 ユイは心折れなかった。

 子グモを蹴り飛ばし、石を投げ、石で殴り、その背に噛みついた子グモをふり払う。

 群がる子グモたちを飛び越え、ぶらぶらと揺らされる少女の元に走り続ける。

 頭上に揺れる少女の足を両手で掴み、そのせいで無防備になった体に子グモが群がった。

 ユイの顔が苦悶に歪む。

 手を離せば、少女はまた遠くに連れ攫われる。

 手を離さなければ、子グモたちに甚振(いたぶ)られ続ける。

 ユイは手を離さず、子グモに体を晒し続けた。ただ、歯を食いしばりながら。

 子グモたちは、無抵抗な少女の体を存分に嬲った。その牙で、その爪で、少しずつ、少しずつ。

 蜘蛛神は、ただそれを見ていた。いくつもの赤い目を蠢かせ、食い入るように、愉しそうに見ていた。

 いったい、その光景に何の愉悦を見出せるのか。貴方はそれを理解できなかった。

 

 

 

 

 蜘蛛神は、ユイの苦しむ様をもっと間近で見ようとしたのか、その醜悪な顔を下ろす。

 その隙を、小さな獣は見逃さなかった。

 クロが俊敏に駆け、蜘蛛神の足を踏み台にして跳ぶ。そして、その目の一つに食らいついた。

 蜘蛛神が絶叫し、その巨体を揺らす。洞窟がグラグラと揺れ、天井から瓦礫が舞った。

 クロがふり払われ、蜘蛛神の巨大な足が、その小さな体を蹴り飛ばす。

 ただそれだけで、クロは死んだ。

 叫ぶユイの顔。動かないクロの体。

 蜘蛛神は潰された目と残った目でそれらを見て、目を細めて。

 そして、その姿を消した。

 蜘蛛神も、子グモたちも、赤い糸も忽然と消え、二人の少女と、一匹の死骸だけが残された。

 いったい、それに何の意味があるのか。貴方はそれを理解できなかった。

 

 

 

 

 ユイは、少女の無事を確かめ、クロの死を確かめ、泣き崩れた。

 泣いて、涙を拭って、クロを抱き、少女を担いで、歩きだした。

 朝日を浴びながら山を下り、山の麓に子犬がもう一匹いた。

 

『……チャコ』

 

 ユイが子犬の名を呼び、その茶色い毛並みを撫でる。憔悴しきった顔に、わずかに笑みの影が掠めた。

 何も理解していない様子のチャコは、しきりにクロの死骸の匂いを嗅いでいる。

 その首に赤いリードをつけ、再びユイは歩きだした。

 

 

 

 

 少女を自宅の玄関に座らせる。

 朝日に照らされたその顔は、午睡(ひるね)でもしているように穏やかで、ユイはただそれを見下ろしていた。

 

『――またね、ハル』

 

 ぽつりと、眠る少女――ハルに言い残し、ユイは背を向ける。

 ユイは家に帰らず、ボロボロの体を引きずるように、町を歩いた。

 ユイは町を歩き、その間にも太陽は寸分の狂いなく動き続ける。

 ユイは歩き続け、やがて町が黄昏に沈む頃、山に戻った。

 再び山を上り、町を一望できる場所に、ユイは墓を掘った。

 クロの墓の前で泣き、涙を拭い、そして、鞄から何かを取り出す。

 それは手記。いや、日記だろうか。

 太腿を机代わりにして、その場でユイは日記にペンを走らせる。

 貴方の脳の瞳が、その文字を余すところなく読み込んだ。

 

 あれだけの事があっても、ユイは絶望していなかった。

 数日後にはこの町を去るというハルとの別れに名残を惜しみ、だが悲観はせず。

 今日この日に花火を共に見ると、手紙を書くと、いずれまた会いに行くと。

 だから、がんばろう。

 最後に、力強い文字で、そう綴った。

 

 

 

 

 風が止み、音が消え、上位者のにおいが、した。

 

 

 

 

 動きを止めていたユイが、再びペンを走らせる。

 だがその日記には、今度は悲哀と絶望だけが綴られていた。

 さようなら。

 最後にそう綴ったページを破り取り、紙飛行機にして飛ばす。

 そして、ユイは。

 ユイは、貴方が見ている前で、首を吊った。

 

 

 

 

 何が起こった。

 燃えるような赤い空を背に、ぶらぶらと揺れる少女の死体を、貴方は呆然と見ていた。

 死体も、死も、貴方には見慣れたものだった。幾千幾万と、見てきたはずだった。

 なのに、何故ここまで脳を、心を揺さぶられるのか。貴方は理解できなかった。

 何が起こったのか。あの蜘蛛神だ。

 あの蜘蛛神が、ユイの思考を操ったのだ。あの、姿なき上位者のように。

 だからユイは自死した。

 だからあの時、蜘蛛神はユイ達を逃がした。より凄惨で、より残酷な運命を与える為に。

 ボトリと。

 ユイの死体が地に落ちる。そして、当然のように立ち上がり、その姿を消した。

 気が付けば、貴方も別の場所にいた。

 黄昏の町で、ユイとハルが、笑い合っている。手を繋ぎ、山へと走っていく。

 何事も、無かったように。

 

 

 

 

 そして、深い夜が廻り。

 

 夜が明けた時。

 

 左手を失くしたハルが一人、泣いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 貴公は、これを見せたかったのか。

 

 振り返らず、貴方は背後の廻送者に問うた。

 廻送者は、何も答えない。

 それでも、貴方は問い続ける。

 

 何故、ユイは死ななければならなかった。

 何故、蜘蛛神は彼女を殺めた。

 何故、少女たちは苦しまなければならなかった。

 何故、何故だ。

 廻送者は、何も答えない。答えてくれない。

 

 残酷な死など、見慣れたものだった。

 凄惨な殺戮も、見飽きたものだった。

 だが、貴方が見たそれらには全て、因果があった。

 狂った街にいたから、力を持たなかったから、知るべきでない事を知ったから、敗れたから。

 獣が憎かったから、血に酔っていたから、より高次の存在になりたかったから、勝ったから。

 獣となった群衆も、血に酔った狩人も、叡智に狂った医療者も。

 医療教会も、聖歌隊も、メンシス学派も、処刑隊も、連盟も、血族も、ビルゲンワースも。

 もはや(ことごと)くが死に果てた、ヤーナムの狂気に生み出された者たち。

 だが彼らはすべて、何かの為に死んだはずだ。何かの為に、殺されたはずだ。

 どんなに残酷でも、どんなに凄惨であっても、そこには因果があった。

 少女たちには、それが無い。

 

 

 

 

 貴方は、理解した。

 ぼたぼたと、両目から(なみだ)を流しながら膝を折る。

 

 あんまりじゃあないか。

 あんまりにも、憐れじゃあないか。

 

 廻送者は、何も答えなかった。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 蜘蛛神が糸を捏ね繰り回して、その中からボトボトと子グモが落ちてくる。

 子グモと言っても、その胴体はユイの頭より大きい。蜘蛛神と同じように手と指でできた不気味な姿で、ウジャウジャと這いよってくる様は悪い夢でも見ているよう。

 でも、今のユイ達は丸腰じゃない。

 飛び掛かってきた子グモに鋏を突き刺す。それだけで、子グモは赤い霧になって消えてしまった。

 コトワリさまの鋏は、ユイの手に余る程に強力な武器だった。これなら、あの蜘蛛神も倒せるかもしれない。

 そう、思っていたのに。

 

 ――何匹いるの!?

 

 刺しても刺しても、子グモの数はぜんぜん減らない。それどころか、どんどん増えていく。

 最初は一匹ずつ襲ってきていた。次は二匹ずつ。その次は四匹。その次は……。もう今となっては、目の前にいる子グモの数も数えられない。数えている暇なんてない。

 蜘蛛神は悠々と空に陣取り、ただただ子グモ達を放ち続けてくる。

 

「うわっ!?」

 

 後ろからハルの悲鳴が聞こえて、振り向けばハルが地面に引き倒されていた。目の前にいた子グモも無視して、ハルの足を引っ張っていた子グモの頭に鋏を振り下ろす。

 

「ごめん!」

「大丈夫!」

 

 ハルを引っ張り起こして、反対の手に持った鋏で間近に迫っていた子グモの爪を受け止める。爪の方が焼け落ちるように消えて、すかさず胴体に鋏を突き刺した。

 ハルと背中合わせになって、近付いてきた子グモに片っ端から鋏を突き立てる。

 

「は……っ、はぁ……っ!」

 

 息が苦しい。鋏が重い。汗が目に入って視界が歪む。

 それでも鋏を振り回す。そうしないと、子グモが減らない。

 どんどん増えていく。どんどん、どんどん……。

 狩人が、なんであんなにネズミの群れを怖がっていたのか分かった。

 一匹一匹が弱くても、数が多いということはそれだけで怖い。どんなに強い武器を持っていても、一度に倒せるのは一匹だけ。その間に二匹目が迫ってくる。それを倒しても三匹目が。

 数の暴力。

 その恐ろしさを、ユイ達は知った。

 

「あぅ!」

 

 死角から飛びついてきた子グモに押し倒される。振りほどこうとしている間に二匹目に頭を押さえられて、三匹目と四匹目がユイの両手に噛みついた。そのまま綱引きでもするみたいに引っ張られて、思わずユイは悲鳴をあげる。

 

「ユイ!?」

 

 ハルが必死な顔を向けてくるけど、ハルは左足を骨折している。骨折しているのに、杖も使わずに走ってきた。そのまま、飛び込むようにして鋏を突き刺す。

 右手を開放されたユイは鋏を勘で頭上に突き出し、背中が軽くなったところで起き上がりざまに残りの子グモを倒す。

 ハルは、まだ倒れたままだった。足が痛むのか、なかなか立ち上がれない。ユイが助け起こそうとすると、目の前に子グモが壁を作る。

 

「どいて!」

 

 必死に子グモの壁を崩す、その向こうで、子グモに群がられるハルが見えた。手足を押さえるように圧し掛かられて、その折れた左足を、子グモが蹴った。

 ハルの悲鳴が響いて、でも壁はまだ崩せない。

 

「ハル!? やめて! やめてよっ!」

 

 子グモたちは、楽器でも鳴らすみたいにハルの左足を叩く。叩いて、叩いて、ハルに悲鳴をあげさせる。

 それを邪魔させまいと、間近で見せつけるようにユイを足止めする。

 遊ばれている。

 子グモたちは明らかに、ユイ達を痛めつけて楽しんでいる。

 本当は、何十匹でも一度に群がって、ユイもハルも、あっという間に骨も残さず食べてしまえるに違いない。

 でも、そうしない。

 少しずつ、少しずつ、襲う数を増やしていって、ユイ達がぎりぎり抵抗できる数だけで襲ってくる。

 ハルが足を怪我していることに気付いて、執拗にハルを狙ってくる。ハルを痛めつけて、それをユイに見せつける。

 どれだけユイが鋏を振り回しても、子グモの壁が崩せない。崩した分だけ、子グモが集まってくる。

 

「あぁっ!?」

 

 ユイを足止めするのに飽きたのか、壁になっていた子グモたちが土砂崩れのようにユイを押しつぶした。手も足も押さえつけられて、仰向けに拘束されたユイの顔を、子グモが覗き込んでくる。

 その赤い目を睨み返してやると、嗤うようにギチギチと鳴く。そして、その爪でユイの額の包帯を剥ぎ取った。

 そこには、前髪に隠れるようにして、真新しい裂傷の痕が走っていた。

 ハルには、階段から落ちたと言った傷。本当は、あの人につけられた傷。

 その傷を、爪でなぞられる。

 声にもならない悲鳴が口から出てきて、それに味を占めた子グモがまた傷をなぞる。なんとか反抗の意思を振るい立たせて、悲鳴を堪えた。

 キッと目を見開いて……ハルと、目が合った。

 

「――――ぁ」

 

 今度はユイの苦しむ様をハルに見せようとしたのだろう。間近まで運ばれていたハルに、傷を見られた。どう見ても、階段から落ちて出来た傷じゃない。

 ずっと隠していたそれを、見られてしまった。

 拷問じみた子グモたちの仕打ちに涙していたハルの目が、信じられないものを見たように見開かれる。その目は、何よりもユイの心を抉った。ユイの脱力を感じ取ったのか、子グモたちがギチギチと一斉に嗤いだした。

 夜空に張り付いた蜘蛛神が、愉しそうにそれを見ている。

 取り囲む子グモたちが、ユイを辱めるように嗤い続ける。

 折れた足をぐりぐりと捩じられて、またハルが絶叫する。

 ユイはもう、それに抗えない。見ていることしか、できない。

 絶望の影が、ユイの心を侵食する。

 

 ――なんで、こんなひどいことするの。

 ――わたしたちが、なにをしたの。

 ――やめてよ、もうやめて。

 ――もう、ゆるして。

 

 凄惨な暴力と悪意に晒され、気丈なユイの心にもついに亀裂が入った。

 元より、ユイはただの10歳の少女に過ぎない。

 ただ、怖がりな親友の前では強がっていただけ。

 ただ、耐えることに慣れてしまっていただけ。

 その心も体も、とっくに傷だらけだった。

 それを更に抉られればどうなるかなんて、決まっていた。

 それを見逃す蜘蛛神ではない。

 その弱りきった心に囁きかけるべく、その醜悪な顔を下ろす。

 

 

 

 

 

 

 

 その隙を、小さな獣は見逃さなかった。

 



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いきて   -Dear my friend-

 灰色の怪異、夜の廻送者――よまわりさんは、それを視ていた。

 

 突きつけられた剣の切っ先。

 

 それを持つ、人型のナニカ。

 

 青白い目に宿る、苛烈な意思。

 

 

 ――つれていけ。

 

 

 その言葉に、返す言葉をよまわりさんは持たない。

 

 ただ、その袋を振り上げた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 月明りに照らされた草原に、蜘蛛神の絶叫が響いた。

 その全身に開いた赤い目、その一つに、小さな黒い影が食らいついている。光の無い目でそれを見ていたユイが、呆然と口を開いた。

 

「クロ……?」

 

 見まちがえようもない。コトワリさまの神社に置いてきたはずの黒毛の子犬――クロが、蜘蛛神の目に噛みついている。

 なんでここにいるのか。

 狩人はどうしたのか。

 いや、そんなことよりも。

 

「だめ! 逃げて!」

 

 助けが来た、などと喜べるはずもない。

 あの巨大なお化けと、無数の子グモ。一匹の子犬でどうにかできるはずもない。

 クロがどうなってしまうかなんて火を見るより明らかで、そしてユイの目の前でそれは現実になろうとしていた。

 蜘蛛神が巨体を震わせ、虫けらを払うようにクロを弾き飛ばす。

 ゴムボールのように地面を跳ねて転がるクロを踏みつぶそうと、その巨大な足が動く。

 ユイの目が再び絶望に染まろうとして、そして、皆が動きを止めた。

 

 

 

 

 足を止めた蜘蛛神が、その全身の目をギョロギョロと動かす。

 子グモたちが、せわしなく周囲を見回す。

 執拗に痛めつけられていたハルが、地に伏せたままその揺れを感じ取った。

 ユイの目が、誰よりも先にそれを捉えた。

 夜の闇の中でもひときわ目立つ、赤茶色の毛並み。ピンと立った尻尾が、旗印のように揺れる。

 

「チャコ!?」

 

 クロの片割れ。もう一匹の子犬。

 ハルと別れる以前から姿を消していた怖がりな愛犬が、草原を駆けてくる。

 そして、その背後には。

 

 

 

 

 それは、ネズミだった。

 何百、何千、もしかしたら万も超えるほどの、ネズミの群れ。

 雪崩のように、津波のように、地響きをあげながら、そのネズミの大群は草原に押し寄せてきた。

 ネズミ達が子グモに殺到する。足を伝って体に取りつき、その鋭い牙で齧って、齧って、齧ってゆく。何十匹ものネズミに群がられた子グモが次々と赤い霧になって消えていく。

 子グモもやられっ放しではない。ユイとハルを散々痛めつけたように、その牙と爪で反撃する。あっさりと小さな体を貫かれて、ネズミは霞のように消えてしまう。お化けのネズミの大群だったのだ。でも、ネズミ達は決して怯まない。次々と子グモに襲いかかる。

 草原の中は、たちまち戦場のようになった。蜘蛛神は焦ったように子グモを放ち続けて、放たれた先からネズミに群がられる。右を見ても左を見ても、ネズミと子グモの大群ばかり。子グモから解放されて、その光景を呆然と眺めていたユイの足を、柔らかな和毛(にこげ)がくすぐった。

 

「あなた達が呼んだの?」

 

 行儀よく並んで尻尾を振るクロとチャコの頭を、両手で撫でる。チャコを連れてきたのは当然クロだろうし、あのネズミはダムにいた子達だろう。

 ユイがあのかわいそうなネズミを弔ってあげたことに対する、恩返しだろうか。あるいは、クロ達との間で何らかのやり取りがあったのかもしれない。どちらにせよ、それはもうユイには理解できない世界のことだった。

 

「……ありがとう」

 

 二匹(ふたり)を、ぎゅっと抱きしめる。ボロボロになっていたユイの心に、すこしだけ希望が湧いてきた。ハルの他にも味方がいればきっと――。

 

「――ハル!」

 

 やっと我に返ったユイは、鋏を拾って立ち上がった。辺りを見回して、すぐに人形のように打ち捨てられたハルを見つける。駆け寄って、絶句した。

 ハルは、虚ろな顔で横たわっていた。元から傷だらけだった体は更にたくさんの傷を刻まれて、特にその左足は見るに堪えない。お姉さんに巻かれた包帯も添え木も剥ぎ取られて、青黒く腫れた足には何か所も噛まれた痕があった。

 子グモ達に、散々弄ばれた痕だ。

 

「ごめんね、ごめんなさい……! もっと、わたし……」

 

 どうして、あの時すぐにハルを助けられなかったのか。どうして、ハルをちゃんと見ていてあげられなかったのか、どうして、どうして……。

 ユイが後悔と自責に沈もうとして、それを虚ろな目で見上げていたハルが、

 

「――――痛っ!」

 

 突然、飛び起きた。

 しかも、何故か左足よりも左手を痛がっているように見える。しばらく唸っていたハルが、涙目で笑った。

 

「……また怒られちゃった。“立て”って」

 

 ユイにはよく分からないことを言って、「いたた」と顔をしかめながらハルが頭を振る。涙をぬぐって、顔を向けてきた。

 

「ユイは大丈夫? それ、痛くない?」

 

 意外なほどにしっかりとした声に答えを返そうとして、ユイは顔を青くした。ハルの視線が上の方、ユイの額に向けられている。

 思わず、両手で額を覆って背を向けてしまった。

 

「だ、大丈夫だよっ。これは、階段から落ちて」

「……、……じっとして」

 

 上ずった声で言い訳を並べようとすると、後ろから何かを額に巻かれた。柔らかな布の感触と、薬の匂い。お姉さんから貰っていた予備の包帯だ。

 もともと不器用なハルは、慣れない作業に苦戦しているようだった。何度も巻き直されている間、ユイの目がじわりと熱くなる。

 自分が、情けなくて。

 

 ――なにやってるんだろう、わたし。

 

 ハルの方がよっぽど傷だらけなのに。この包帯だって、本当はハルが使わないといけないのに。

 こんな時にまで傷を隠して。ハルに嘘をついて。

 ハルを助けにきたのに。わたしが、ハルを助けないといけないのに。

 

「聞いて、ユイ」

 

 包帯を巻きながらハルが声をかけてくる。すこしだけ頭を動かして、それに応えた。

 

「やっぱり、あのお化けは、やっつけないとダメなんだと思う」

 

 いま、ここで。そう続けたハルの言葉にユイは振り向く。包帯はもう、固く結ばれていた。

 ユイの目を正面から見返して、ハルは続ける。

 

「あのお化けを放っておいたら、きっとまた悪いことをする」

「いろんな人をさらって、ひどいことをする」

「だから、やらなきゃ」

 

 ハルの手には、もう鋏が握られていた。ぎり、と強く握る音が聞こえるほどに。

 その手の震えを、抑えるみたいに。

 

「ねえ、だから、ユイ」

「……」

 

 ユイは、答えられなかった。俯いて、ハルから目をそらした。

 

 

 

 

 ユイは、逃げるつもりだった。

 怖かった。

 ハルの為なら、怖くないと思っていた。

 ハルといっしょなら、何でもできると思っていた。

 でも負けた。

 狩人から戦い方を学んでも、コトワリさまから強い武器をもらっても、それでも勝てなかった。

 結局は、手も足も出なくて。玩具にされて、遊び半分に痛めつけられて。

 クロと、チャコと、ネズミ達が助けにきてくれて。

 あれだけの味方がいればきっと、ハルとクロとチャコを連れて、()()()()()

 そう、考えていた。考えてしまった。

 

 ――無理だよ。勝てっこないよ。

 

 喉から転がり落ちようとしていた本音を、なんとか抑えこむ。

 もう折れかけの心を奮い立たそうとしても、ついさっきまで晒されていた痛みと恐怖に塗りつぶされてしまう。

 耐えることには慣れていた。痛いことをされるのは、ユイにとって日常だった。

 でもそれは、決して平気ということじゃない。

 お化けに傷つけられる度に、あの人の姿と重なった。痛くて、怖くて、つらかった。

 ハルは、どうして平気なんだろう。

 あんなにひどいことをされたのに、どうしてまだ戦おうとするんだろう。

 どうして、心が折れないんだろう。

 

 

 

 

 バチン! と、頬を張る音がユイの耳に響いた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ハルは、必死に戦っていた。

 臆病な自分と、弱気な自分と、卑怯な自分と、必死に戦っていた。

 

 ……怖いよ。もう痛いのはたくさんだよ。

 ――そうだよ。だから、あのお化けをやっつけないといけないんじゃない。

 

 ……勝てないよ。あんな大きなお化け相手に。

 ――勝てるよ。勝つ方法ならあるもん。

 

 ……わたしには無理だよ。ユイに任せればいいじゃない。いつもみたいに。

 ――ユイも精いっぱいなんだよ。こんなに傷だらけなんだよ。

 

 ……どうして戦わないといけないの? 逃げればいいじゃない。

 ――逃げてどうするの。あのお化けが、他の人に、ユイにまたひどいことしちゃうじゃない。

 

 ……わたしには関係ないでしょ? だって、わたしはもう、

 ――ちがう。ちがうよ。

 

 ……わたしはもう、引っ越すんだから関係ないじゃない!

 ――ちがう!

 

 左手で、おもいきり自分の頬を張った。

 加減のない一発に、頭がぐらりとする。口の中を切って、血の味でいっぱいになる。涙で滲んだ視界の中で、ユイが目を丸くしていた。

 

 

 

 

 夏が終われば、自分は引っ越さなければいけない。

 生まれ育った家とも、通い慣れた学校とも、思い出でいっぱいの町とも、親友のユイとも、お別れしなければいけない。

 嫌だった。嫌に決まっている。

 でも、ハルはまだ子どもで。一人で生きていくことはできなくて。結局は、親に従うしかない。

 でも、ハルはまだ子どもだから。

 

『ハルはまだ子どもなんだから』

『まだまだ、ハルの人生は長いんだよ』

『ユイちゃんとも、また会えばいいじゃない』

 

 泣きつくハルに、祖母はそう答えた。

 あの時は分からなかった。引っ越さなくてもいいよって、お婆ちゃんがなんとかしてあげるよって、そう言ってほしかったから。

 でも今なら分かる。嫌でも、分かってしまう。

 一時のお別れと、本当のお別れは、ぜんぜん違うってことを。

 今なら、逃げられる。あのネズミ達を囮にして、逃げ帰ればいい。そして引っ越してしまえば、ハルは助かる。あのお化けだって、きっと遠い町まで追ってはこない。

 でも、ユイは?

 この町に残るユイは、どうなるの?

 あのお化けを野放しにしたまま、ユイとお別れするの?

 ユイとのお別れを、もう二度と会えない「本当のお別れ」にしてしまうの?

 そんなの、

 

「そんなの、いやだ」

 

 左手の傷が、じんと熱を持った気がした。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

「わたし、8月いっぱいで……遠くの町に引っ越すことになったの」

 

 夕方に告げられた言葉を、ハルはもう一度口にした。聞くのは二度目なのに、その言葉はまたユイの心を揺さぶる。

 なんで今、そんなことを言うの。

 思わず恨めしげな視線を向けてしまっても、ハルは目をそらさなかった。

 

「ほんとは嫌だよ。引っ越したくないよ」

 

 でもね。

 そう、続けて。

 

 

「死んじゃうのは、もっと嫌なの」

 

 

 ハルの目には、恐怖があった。怖がりなハルらしい目。

 でも、その目に暗さは無かった。強く、輝いていた。

 

「わたしが死ぬのは嫌。ユイが死んじゃうのは、もっと嫌!」

「ユイだって見たでしょ? お化けは、みんな辛そうだったよね」

「自分が誰かも分からなくなって、ずっと、ずっと、同じことをくりかえすの」

「わたしや、ユイが、そうなっちゃうなんて……、ぜったいに、いや」

 

 人は、生き物は、生きるために、危ないものを怖がる。

 そんな話を、ユイは思い出していた。

 

「ユイとは、もうすぐお別れになっちゃう」

「でも、わたしは、またユイと会いたい!」

「引っ越しても、手紙を書くよ! 電車に乗って、ユイに会いに帰ってくるよ!」

 

 ハルは、生きようとしている。

 別れを受け入れて、その先も見つめて。

 だから死ぬことを怖がって。だから立ち向かって。前に、進もうとしている。

 ユイは、どうだろうか。

 ハルの為ならどうなってもいいとか、ハルがいなくなったら生きている意味が無いとか。

 自分の命を、ハルに押しつけていなかったか。

 もし、このまま逃げ帰って。ハルとお別れして。またあのお化けに襲われたら。

 その時、ユイは一人で戦えるだろうか。簡単に、ぜんぶ諦めてしまうんじゃないか。

 死を、選んでしまうんじゃないか。

 

「ねえ、だから、ユイ!」

 

 ユイの両肩をつかみながら、ハルは泣いていた。その涙は、何の涙だろうか。

 

 

「わたしといっしょに、戦って!」

 

 

 生きて。

 そうも、言われた気がした。

 

「…………」

 

 ユイは、ただハルの目を見た。

 口を、開こうとして。

 

 

 

 

 

“ウゴクナ”

 

 

 

 

 ぎしり、と。

 ユイの体が固まった。

 ユイだけじゃない。ハルも、クロも、チャコも、ネズミ達も、子グモですら。

 蜘蛛神の「声」が頭に響いた瞬間、体が金縛りになった。

 

 そして、無数の赤い糸が、子グモごとネズミ達を貫いた。

 

 赤い花が炸裂するように地面から伸びる糸は、針のような鋭さで獲物を次々と貫いていく。百匹近いネズミ達が霞に消えて、それの巻き添えになった子グモも赤い霧になる。

 ユイ達の金縛りが解けた時にはもう、戦場の一角にぽっかりと穴が空いていた。同じく金縛りが解けたネズミと子グモが穴になだれこんできて、また乱戦の騒がしさが戻ってくる。

 その真上で、蜘蛛神が戦場を見下ろしていた。裂けた口はもう嗤っていなくて、ただただ憎々しげに歪められている。何かを探すように赤い目をギョロギョロ動かして、そしてユイ達を見た。

 ゾッとユイは総毛立つ。

 蜘蛛神はもう、遊んでいない。本気だ。本気で、ユイ達を殺す気でいる。

 

“ウゴクナ”

 

 また声が頭に響いて、体が固まる。同時に、赤い糸の奔流が地面を切り裂きながら迫ってきた。

 それに立ちふさがるように、ユイの前でハルが両手を広げている。自分を盾にしたままで、ハルは固まっていた。

 

 その絶望的な光景を、ユイは加速した時間の中で見ていた。急速に色を失くしていく無音の世界で、糸がゆっくりと迫ってくる。

 

 でも、体が動かない。もう少しで動きそうなのに。先に糸が来る。

 

 死ぬ。

 

 死んじゃう。

 

 嫌。

 

 嫌!

 

 怖い! 死にたくない!

 

 わたし死にたくない! ハルが死ぬのも嫌!

 

 だから、だから! わたしの体!

 

 

 

 

「うごいて――っ!」

 

 

 

 

 ユイの叫びと、盾が糸に貫かれるのは、まったくの同時だった。

 

 

 

 

 電動ノコギリが木材を削るように、盾――ひと固まりになったネズミの群れを糸が削りつくしていく。

 その盾を糸が貫く瞬間、その一瞬前に、ユイはハルを抱えて横に跳んだ。糸はユイのつま先を掠めて草原の端までを切り裂いていく。

 跳びながら、消えていくネズミ達を見た。無駄になんてできない。それになにより。

 

 ああやっぱり、死にたくない。

 

 跳んだ勢いのままゴロゴロと転がって、その勢いを使って飛び起きる。

 上を見れば、蜘蛛神は全部の目をこちらに向けていた。

 また次が来る。時間が無い!

 

「どうすればいいの!?」

 

 焦る気持ちのまま、腕の中のハルに質問をぶつける。ハルは、目をキョトンとした。

 

「え、ユ、」

「教えて! どうすれば、あいつをやっつけられるの!?」

 

 ここまで言ってもポカンとしている親友の顔に、ユイはひとつだけ深呼吸した。落ち着いて、ちゃんと伝えないと。

 しっかりと目を合わせて、言った。

 

 

「わたしも戦うよ! ハルといっしょに!」

 

 

「だから教えて!」そう続けて、すこしだけ間が空いて、やっとハルは笑ってくれた。笑って、頷いて、そして。

 

 

「おんぶ!」

「…………は?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 草原を、駆ける。

 サクサクと草を踏み、入り乱れる子グモとネズミをすり抜け、飛び越え、駆け抜ける。

 ユイの健脚は、軽やかに地面を駆ける。その背負ったものの重みを感じさせないほど。

 ユイは走り続けた。ケラケラと笑いながら。

 

「もうっ! 笑うことないじゃない!」

「ご、ごめんって! でも、だって! “おんぶ”って! あんなかっこいいこと言ったのに、おんぶって!」

「しかたないでしょ! もう走れないんだからっ!」

 

 ぷりぷりとご立腹なハルを背負いながら、ユイは走っていた。上機嫌な主人の後を、クロとチャコが跳ねるようについてくる。

 

「はあ……っ、はあっ、は、ひ、ふふへへっ! お、おんぶ!」

「やめてってば! ユイのばか!」

 

 完全に笑いのツボに入ってしまった上での全力疾走。ひどく息苦しくてお腹も痛いけど、心は軽かった。ぺしりと頭を叩かれても、それすら心地よい。

 まるで馬鹿になったみたいに、笑いながら走る。心も、体も軽い。

 

「止まって!」

 

 ハルの声に従って足を止めると、そこは草原の端だった。特に何も、変わった物は無い。

 何も無いのに、ハルは迷わずその手に持った物――連結させた赤い鋏の刃を閉じた。

 

 

 ジョキン

 

 

 ハルが何も無い所で鋏を閉じると、確かに何かを切った音がした。同時に、一瞬だけユイにも見えた。太くて赤い、糸のような物が。

 

“――――!?”

 

 同時に、頭上から蜘蛛神の狼狽えたような声が聞こえた。見上げれば、夜空に張り付いていた蜘蛛神が、大きく傾いている。まるで、バランスを崩したみたいに。

 

「やっぱり!」

 

 ユイの背中で、ハルの歓声をあげた。

 

「あのお化けは浮かんでるんじゃない。クモと同じだよ、糸で巣を作ってる!」

「! じゃあ、」

「うん! 落とせるよ! 次に行こうユイ、このまままっすぐ!」

「了解!」

 

 再び、ユイは走り出した。

 悠然と夜空に浮かんでいるように見えた蜘蛛神は、今はもうみっともない程に取り乱した様子で、糸を張り直そうとしている。

 よっぽど落ちたくないんだ。もしかしたら、コトワリさまの鋏が怖いのかもしれない。

 このまま糸を切って、あのお化けを落とす。落として、直接鋏を突き刺せば、もしかしたら。

 ユイにその糸は見えない。でも、ハルには見えている。

 ハルはもう走れない。でも、ユイはまだ走れる。

 普通は切れない糸。でも、この鋏なら切れる。

 ハルの目と、ユイの足と、コトワリさまの鋏。蜘蛛神を地に落とす為の駒は揃っていた。

 

“ウゴクナ!”

 

 そうはさせじと、ひときわ大きな蜘蛛神の声が響く。ユイの足が固まる。

 でも。

 

 ――()()

 

 心で強く叫べば、絡まった糸を引きちぎるみたいに足が動く。更に、後ろから迫っていた赤い糸をくるりと身を翻して避けた。

 なんてことはない。

 あの声は催眠術と同じだ。気持ちを、心を強く保っていれば効かない。その程度のもの。

 だから、あの蜘蛛神はユイ達をあんなに痛めつけた。嗤って、弄んで、ひどい事をして、心を弱らせた。そうしないと効かないから。

 今のユイには、通用しない。

 

「そこ! もうちょっと右!」

「ここ!?」

「行きすぎ! もどって!」

 

 矢継ぎ早なハルの指示どおりに動いて、見えない糸を探す。それがなんだかやけに楽しい。まるでハルと遊んでいるみたいで、いつもみたいにユイは笑った。

 それが、またユイに力をくれる。

 糸が切られて、またバランスを崩す蜘蛛神に向けて「あっかんべー」してやってから、ユイは走り出した。

 

 

 

 

 ユイ達の反撃が始まった。

 頭に響く「声」を跳ねのけ、赤い糸の攻撃を躱し、蜘蛛神の巣を支える糸を探す。糸を切り、蜘蛛神を少しずつ地に落としていく。

 でも、蜘蛛神もやられっ放しではない。

 

「っ! ユイ、うしろ!」

「おっと!」

 

 追いすがってきた子グモの爪を前に跳んで躱す。すかさずハルが鋏を振り下ろして、子グモを霧に変えた。

 

「ありがと!」

「まだいるよ!」

 

 今度は前に並ぶ3匹の子グモを大きく迂回する。すぐにネズミ達が加勢に来たけど、倒せたのは2匹だけだった。残りの1匹が追いかけてくる。

 子グモの数が増えてきていた。対して、ネズミの数は目に見えて減りはじめている。

 

「あいつ……!」

 

 ユイは、傾いたままで子グモを放ち続ける蜘蛛神を睨んだ。

 気が付けば、蜘蛛神の「声」も赤い糸の攻撃もほとんど無くなっている。ユイ達には通じないとみて、子グモを放つことに注力しだしたのだ。

 いくらネズミの数が多くても、それは減っていく一方。減った端から補充される子グモにはいつか逆転されてしまう。

 そうなれば、始まるのはまた数の暴力による一方的な蹂躙だ。ユイもハルも、今度はもっとひどいことをされるかもしれない。

 ユイ達が嫌がることを、あの蜘蛛神はよく知っているのだ。

 ユイ達が糸を切り終わるのが先か、子グモ達がネズミを削りつくすのが先か。

 戦況は五分五分。ユイ達が確実に勝利するには、あともう一押しが必要だった。

 あと一押し。

 例えば、あの蜘蛛神みたいなお化け相手でも一人で戦えてしまうような、そんな超人みたいな存在が……。

 ユイの頭に、ある一人の男の姿がよぎった時。

 

 

 

 

 月が、真っ赤に輝いた。

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

【上位者狩りの時間だ】

 

 

 

 



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つき    -Moonlight-

 真っ赤な月光が、草原を照らし出した。

 

 ユイも足を止めて、それに見入る。

 背中のハルも、足元のクロとチャコも、蜘蛛神も、子グモも、ネズミ達も。

 

 月は、あんなに大きなモノだっただろうか。

 空は、あんな色をしていただろうか。

 あんな、青ざめた――血のような。

 

 そして、巨大な満月を背にして、異形の影が浮かんでいた。

 ゆらゆらと黒い触手を蠢かせるソレはだんだんと大きくなって、それでも正体が判然としない。

 

 あんなモノ、見たことがない。

 

 やがて、ソレは音も無く草原の中央に降り立った。

 その、顔にあたるだろう部分には、顔じゃないナニカが張り付いている。

 目のようで目じゃない、口のようで口じゃない、顔のようで顔じゃないナニカが。

 

 ゆらりと。

 ソレが顔じゃないナニカで蜘蛛神を見上げるような動きをした。

 蜘蛛神は動かない。動けないのだ、きっと。

 睥睨されたように子グモもネズミも等しく固まっている。

 

 ユイも、ハルも、動けなかった。

 

 アレは、どんなお化けとも違う。

 蜘蛛神とも、コトワリさまとも違う。

 この世の何者とも違う、別のナニカ。

 

 動けなかった。

 目を離せなかった。

 何も考えられなかった。

 いつだってうるさかった心臓の音も、まったく聞こえない。

 まるで、止められてしまったみたいに。

 

 

 

 

 ソレが、その触手を――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その触手で抱えた袋を、放り投げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………へ?」

 

 我に返ったユイが、素っ頓狂な声をあげる。

 降り立ったナニカ――灰色の怪異が抱えていたのは、大きな袋だった。

 三つも抱えていたその袋の一つを、触手で無造作に投げたのだ。「ポイッ」とそんな音が聞こえてきそうな程に適当な投げ方だったのに、その袋はとんでもない速さで飛んでいく。

 蜘蛛神の顔面に向けて。

 

“アアアァァァッ!?”

 

 その醜悪な顔に袋が直撃して、蜘蛛神が声をあげた。衝撃で、あの巨体が見えない糸の上でぐらぐら揺れる。ユイですらほんの少しだけ同情してしまうほど痛そうだった。

 袋は、その勢いのまま跳ね返って、今度はユイ達の前に落ちてくる。

 まるで隕石でも降ってきたみたいな音が響いて、土と草を長々と抉って、跳ねてゴロゴロと転がって、袋はやっと止まった。

 そして、その袋から、

 

 

「おじさん!?」

 

 

 狩人が、出てきた。

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 あの廻送者、次はぜったい狩る。

 ズタボロになった体を起こしながら、貴方は心に誓った。

 確かに連れていけと言ったが、誰が投擲武器にしろと言った。青白い目を血走らせながら振り返っても、やはりあの灰色の怪異の姿は無い。

 昂る獣性をなんとか抑えていると、目の前に小さな人影が見えた。

 

「おじさん!?」

 

 そこにいたのは、赤いリボンの少女――ユイだった。

 元から傷だらけだった体は更に傷を増やしており、同じく傷だらけの少女を背負っている。

 背負われた青いリボンの少女――ハルは、初めて見る貴方の姿に不安そうな目を向けていた。

 足元のクロは使者と挨拶するようにその匂いを嗅ぐ。チャコは使者の姿に怯えているのか、ユイの足に隠れていた。

 

「え、だ、ユイ? ……知り合いなの?」

「ああ、ほら、このおじさんだよ、さっき話した狩人さん」

「えぇ……」

 

 いったいどういう紹介をしたのか。

 ハルは変質者かナメクジでも見るような目で貴方を見てくる。貴方はすこし……いや、非常に傷ついた。

 

「……あの、大丈夫ですか?」

 

 それでも、折れた手足をぶらつかせている貴方を見て、ハルはおずおずと声をかけてきた。

 やはり慈悲深い少女だ。ユイとはまた違う、慈愛のような温かさを感じる。

 ゴキゴキと手足の骨を自分で戻しながら、ハルのリボンを見てまた貴方は全身から血を噴き出した。飛び散った血をユイは慣れた様子で回避し、ハルは悲鳴をあげる。

 

「なに!? なんなのっ!?」

「へーきへーき。このおじさん、小さい女の子を見ると鼻血が出る病気なだけだから」

 

 その言い方は誤解を招くから訂正してくれないだろうか。

 どこか温度の下がった目で貴方を見ていたハルの目が、緊張に見開かれる。

 

「あぶないっ!」

 

 背後に散弾銃を向ける。放たれた無数の水銀弾が子グモを数匹まとめて消し飛ばした。

 見れば、草原の中はネズミと子グモに埋め尽くされている。「群れ」を苦手とする貴方には刺激の強い光景であったが、今の貴方は意気軒昂(いきけんこう)。鎮静剤をたった3本飲むだけで血を噴き出さずに済んだ。

 ユイとハルも、気持ちを切り替えるようにその瞳をキリと尖らせる。

 

「おじさん、聞いて」

 

 ユイが早口で状況を説明する。

 ネズミの群れは味方であること、蜘蛛神の多様な能力、その攻略法、そして。

 

「いっしょに戦って。おねがい」

 

 前と変わらない意思の強い瞳。だがその奥にあった、どこか死に惹かれたような陰りはもう見えなかった。

 ああ、少女よ。よい目になってきたな。

 苦難を超えて、超えて、超えて。絶望に塗れた夜を知り。だが折れぬ、狩人の目だ。

 

「その……、わたしも、おねがいします!」

 

 もう一人の少女、ハルもその瞳を向けてくる。

 ユイ以上に満身創痍で、もう自分で立つことすらできない身でありながら、その心は折れていない。

 二人の足元で、二匹の子犬が胸を張るように貴方を見上げている。

 

 

 

 

 先刻に視た残像を、貴方は思い出す。

 自死し、亡霊となったユイ。

 小さな墓穴に埋まるクロ。

 夜をさまようチャコ。

 そして、左手を失くしたハル。

 長い夜が明けた時、彼女らはあまりに多くを失くしていた。

 あの時は、ユイとクロだけだった。

 だが今は違う。

 ユイの隣には、ハルがいる。もう守られるだけの存在ではなくなった、ユイの親友が。

 クロとチャコがいる。どこか主とその友に似た、二匹の忠犬が。

 問う者(ネズミ)たちがいる。ユイの慈悲によって繋がれた縁に殉じる、誇り高き軍勢が。

 

 貴方がいる。だが、今ここに貴方がいなくとも、彼女達はきっと勝利を得ていただろう。

 

 貴方は自覚していた。

 貴方は、あの悲劇の連鎖に投じられた、ひとつの石ころに過ぎない。

 しかし、たかがひとつ、されどひとつ。

 残酷に組み上げられた歯車は、そのひとつの石ころによって狂わされたのだ。

 だからユイ達は今ここにいる。そして貴方も。

 ユイはもう、ひとりではない。

 故に、貴方がユイに語ることもそう多くはなかった。

 

 

【狩人は、一人じゃない そして 貴公】

 

「――うん!」

 

 

 走り出すユイ達を見送り、貴方は剣を抜いた。

 貴方が持つ仕掛け武器の中でもっとも強く、そして神秘に満ちた、その剣を。

 

「…………」

“…………”

 

 青白い目で、貴方は蜘蛛神を見上げる。

 全ての赤い目で、蜘蛛神は貴方を見下ろす。

 気に入らない。

 貴方は剣の刀身を撫で、導きの光を露わにした。神秘の結晶たる大刃がその姿を現し、それを見た蜘蛛神の目が見開かれる。

 しかし、所詮は剣。空中に陣取る自身に届きはしない。……とでも考えたか、蜘蛛神の目はすぐに愉悦の色を浮かばせた。

 その目が、貴方は気に入らなかった。

 

 見下ろすんじゃあない。降りてきたまえよ。

 

 光の刃が、蜘蛛神の顔面を斬り裂いた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 後ろから聞こえた、聞いたこともないような甲高い音と、蜘蛛神の悲鳴にユイは振り返った。

 殺到する赤い糸を次々と回避する黒い人影と、蜘蛛神に向かって撃ちだされる(みどり)色の光が目に焼き付くよう。

 

「すごい……」

「ね? デタラメでしょ、あのおじさん」

 

 ハルは、初めて見る狩人の超人ぶりに呆然とした様子だった。

 ユイも足は止めないまま、狩人の異常性を改めて認める。薄々思ってはいたけど、あの人は普通の人間じゃないのかもしれない。

 それでも、今は。

 

「ハル! おねがい!」

「うん! このまままっすぐ! あの木の横!」

 

 今は、やるべきことをしよう。ユイは足を速める。

 狩人が蜘蛛神を引きつけてくれて、子グモの数は増えなくなった。それでも、ネズミ達が押されているのは変わらない。

 ネズミと戦っている子グモを避けて、ユイ達を追ってくる子グモの横をすり抜ける。

 立ちふさがる子グモにクロとチャコが噛みついて、その隙にハルが鋏を突き刺した。

 ユイは、ただひたすらに走った。

 

「ここ!」

 

 ハルが思いきり手を伸ばして鋏を閉じる。ジョキン、と糸を切った音。

 蜘蛛神が更に大きく傾いて、ほとんど横向きになった憎々しげな顔を向けてくる。その顔に、翠の光がまた浴びせられた。

 

「次!」

「あっち!」

 

 ユイは、一人じゃない。

 それだけで、力が湧いてくるみたいだった。

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 やりづらい敵だ。

 

 貴方は蜘蛛神を内心でそう評した。

 単純な攻撃性や暴力性に限れば、ヤーナムの獣や上位者には遠く及ばないだろう。だが、蜘蛛神の真の力は戦いで発揮されるものではない。

 アレは、人の心というものを知悉(ちしつ)している。

 その獲物が、どう囁けば言いなりにできるのか。どうすれば心を弱らせるのか。何を欲するのか、何を恐れるのか。

 洗脳と煽動。そして悪意によって人の心を操ることに長けた上位者。それがあの蜘蛛神だ。

 故に、アレは貴方が嫌がることも知っている。

 ギョロリと、赤い目の一つが遠くを駆ける少女達を見た。ユイ達を狙って、赤い糸を操る秘儀を放とうとする。

 そして、それをやらせる貴方ではない。

 両手で握った剣の刀身が翡翠(ひすい)色に輝く。その銘の通りに月光を纏った刃を振りぬけば、神秘の光が刃となって飛んだ。

 

“アアアアア!”

“イタイ! イタイ! イタイ!”

“ヒドイ! ヒドイ! ヨクモ!”

 

 光波が、蜘蛛神の醜い顔を深々と斬り裂く。悲鳴とも怒号ともつかない声をあげ、全ての赤い目が貴方に向けられた。

 怒り。憎悪。そして悪意。その目からは、赤々とした負の感情しか読み取れない。

 いったい、どれ程の負念をその身に抱いているのか。いままで、どれ程の負念をその身に溜め込んだのか。

 アレがこの地で神として信仰されていた上位者ならば、その負念は人間のものなのだろう。人間の負念が、あの上位者をあそこまで穢したのだろう。

 だが、貴方は見抜いていた。

 

 愉しんでいただろう?

 

 はじめは、何かの為に人を死なせていたのだろう。その為に心を弱らせていたのだろう。その為に人を痛めつけていたのだろう。

 だが得てして、手段と目的とは容易に入れ替わるものだ。

 獣を憎んだ狩人が、最後は狩りそのものに酔ったように。力を求めた墓暴きが、最後は血晶石そのものに狂ったように。

 いつしか、あの蜘蛛神は悪意で人を弄ぶことを愉しみだした。それ自体を、目的としてしまった。

 元が何者であったかなど関係無い。今のアレは獣だ。悪意の塊と化した、お化け(けもの)だ。

 そして何よりも。

 

 よくも、やってくれたな。

 

 貴方は見ていた。

 蜘蛛神が、この次元でユイ達にした残酷な仕打ちを。あの次元で、ユイ達にした凄惨な仕打ちを。

 少女たちを弄んだ。ハルを苦しめた。ユイを殺めた。

 許せるはずもない。故に狩る。

 どこまでも単純(シンプル)な意思のままに、貴方はまた月光を振りぬいた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 これで何本目か。ユイはまだ走り続けていた。

 ハルを背負いながら走って、子グモをかいくぐりながら走って、糸を切って、また走る。どんなに運動が得意でも限界はある。ユイの体力は底をつこうとしていた。

 

「ユイ、もういいよ! 無理しないで!」

「……」

 

 ユイの様子を感じとったのか、ハルが背中から下りようとする。それに言葉で答える余力は無くて、ただハルの足を支える手に力を込めた。ひどく傷ついた、その足を。

 ハルは、ずっと背負ってくれた。知らない街に飛ばされて、たった一人で、ユイを背負いながら戦っていた。足が、折れてしまうまで。

 それに比べれば、こんなの!

 ユイの気持ちは萎えてはいなかった。でも、体はもう言うことを聞かなかった。

 

「……ぁっ!」

 

 足がもつれて、転ぶ。

 ハルの足をぎゅっと掴んで、ユイの代わりにハルが両手をついて、二人でゴロゴロと草の上を転がった。

 一瞬、意識が飛ぶ。

 気が付けば夜空を見上げるように仰向けになっていて、状況も忘れてその満天の星空に見入ってしまう。

 どっと疲れが押し寄せてきて、そのまま寝てしまいそうになる。

 寝ちゃダメ。起きないとダメ。ハルが、クロが、チャコが、おじさんが。

 ぐい、と手を引かれた。

 

「ユイ! しっかり!」

 

 ハルが、肩を貸してくれた。でも

 

「っ! あぐっ……!」

「無理してるのはどっち!」

 

 ハルの左足にはもう添え木も包帯も無い。骨折した上に痛めつけられたその足で立とうだなんて無茶だった。だから、ユイも肩を貸す。

 ちょうど、二人三脚でもするみたいに歩き出した。十歩ほど歩けば、ユイもハルもコツをつかむ。速足で前に進んだ。

 そういえば、去年の運動会に二人三脚の種目があって、ハルといっしょに練習したっけ。

 

「……なつかしいね」

 

 ハルも同じことを考えていたのか、息を切らしながらもポツリと呟いた。

 

「いっぱい転んだよね」

「ごめんなさい……」

「ハルも泣いちゃうし」

「ほ、本番では泣かなかったもん!」

 

 こんな時なのに笑いがこみあげてきて、少しだけ二人で笑った。糸を切って、また歩き出す。

 糸は、あと一本。

 今年の運動会に、ハルはいない。

 ハルと二人三脚ができるのは、これで最後。

 

 ――ちがうよね。

 

 最後じゃない。

 最後にしないために、ユイたちは歩いた。  

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 月光の聖剣。

 医療教会における最初の狩人にして「英雄」ルドウイークの剣。彼を導き、そして惑わした欺瞞の光。その起源は深く秘匿され、今となっては知る由も無い。

 確かなのは、その強大な神秘の力。そして、この剣の本来の使い手はかの英雄であり、貴方ではないということ。

 故に、その力の行使には代償が必要となる。

 刀身に力を注ぎ、その月光を大きく膨らませる。限界まで高まった光を解き放ち、蜘蛛神に浴びせた。もう何度目かも分からないその攻撃は蜘蛛神に確かな手傷を負わせるが、それと同等に貴方も消耗していた。

 水銀弾も輸血液もとうに使い果たしている。捧げられるのは、貴方の血だけ。徐々に、指先の感覚が遠くなってきていた。

 対して、蜘蛛神の巨体は未だ空にあった。醜い顔から鮮血を垂れ流しながらも、空中に張り巡らされた不可視の糸に執念深くしがみついている。

 

「…………」

 

 ()()()()()()()

 昂る戦意とは裏腹に、貴方の脳は冷静にそう判断してもいた。

 地の利は完全に蜘蛛神にある。あの高さに陣取られては、近接戦闘でこそ真価を発揮する貴方の攻撃は届かない。

 故に、貴方の持ち得る中で最も強力な遠距離攻撃を繰り返してきたが、どうも削り切れない。腐っても上位者ということか、あるいは神秘に耐性があるのか、なかなかにしぶとい。

 ユイ達が糸を切り、蜘蛛神が地に落ちるのを待つ手もあるが、そうすればこの悪辣(あくらつ)な上位者は少女達を狙うだろう。攻撃の手を緩めるわけにはいかない。

 貴方は悟った。この根比べは、わずかな差で蜘蛛神に軍配が上がる。

 だが。

 

 それがどうした。

 

 元より夢に囚われた身。幾たび死のうと、容易に蘇る呪われた命。

 そして、例え今ここで倒れようと、少女たちは己の力で勝利する。貴方はそう、確信している。

 ならば、この身が果てることに何を躊躇するというのか。

 光波を放ち、その隙を見て蜘蛛神が反撃に出た。四方から赤い糸が伸び、貴方を貫かんとする。

 一本、二本、三本と回避し、四本目が首を掠めた。パッと鮮血が舞い、蜘蛛神が目を細める。

 

 何がおかしい。

 

 手近にいた子グモに剣を突き立て、その返り血を存分に浴びる。その血で、その感触で、生きる意思を奪還(リゲイン)する。

 最後は倒れても構わない。だがまだ早い。

 勝利などいらない。勝つのは少女たちだけで良い。

 貴方は、蜘蛛神に血塗れの月光を突きつける。

 

 続きだ。血の一滴まで付き合ってもらう。

 

 それに応えるように、蜘蛛神がニタリと嗤った。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 目の前でまた、ネズミが踏みつぶされた。ネズミは霞になって消えて、振り返る前にハルが子グモの頭に鋏を突き刺す。

 その隙をつくように、別の子グモがユイに迫ってきた。

 

「このっ!」

 

 鋏を持っていないユイは、子グモの頭を蹴り飛ばした。でもそれだけじゃ倒せなくて、足に組みつかれる。鋭い牙が肌に食いこむ感触に、歯を食いしばって耐えた。

 唸り声をあげて、クロとチャコが子グモの足に噛みつく。鬱陶しげに振り回される足に食らいついて離れない。

 

「ユイ!」

 

 カチンと音がして、半分になった鋏をハルが投げつける。子グモの頭に刺さったそれをユイが引き抜いて赤い霧に変えた。また、うじゃうじゃと子グモが寄ってくる。

 糸はあと一本。

 でも、その一本までがどうしようもなく遠い。

 ネズミの姿はほとんど見えなくなっていた。また、子グモに取り囲まれようとしている。

 ユイもハルも、もう走れない。お互いに肩を貸してゆっくりとしか進めないのが、気が狂いそうな程もどかしい。

 そんなユイ達を嘲笑うように、いや嘲笑いながら、子グモ達が壁を作る。

 いくつもの赤い目がユイ達を嗤う。ギチギチと、ハル達を嗤う。

 それを睨み返すユイ達の前で、子グモの壁が燃えあがった。

 

「え!?」

 

 暗闇に慣れた目には、あまりにも眩しい炎の光。

 思わず手で顔をかばうユイの耳に、パリン、ガシャンとガラス瓶が割れるような音が続いて響く。そのたびに子グモの壁が燃えあがって、ついには消えてなくなってしまった。

 

『Oaea!』

 

 使者だった。

 地面から生える使者の小さな手には、火のついた小瓶が握られている。それを次々と子グモに放り投げていった。

 

「ありがとう!」

 

 開かれた道を、急いで歩く。

 一歩踏み出すたびに、すぐ隣でハルが小さく呻いた。唇をぎゅうと噛みしめて、足の痛みを堪えているのが分かる。

 無理はさせたくない。でも、今は頑張らないと。

 

「……っ、あの木、あそこ……」

 

 震える手で、ハルが前を指す。もう、あとすこしだった。

 ユイは力を振り絞って歩く。ハルが歯を食いしばってそれに続いた。

 クロが先導するように前を走る。チャコが励ますように何度も振り返った。

 ネズミ達はもうずっと怯まず戦い続けている。使者がそれを援護した。

 歩いて、走って、戦って。

 ついに、最後の糸に辿りついて、

 

「そんな……っ!」

 

 ハルが、絶望の声をあげる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 蜘蛛神がそれを見て、ニタリと嗤っていた。

 



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みちびき  -Guidance-

 あの少女のことを忘れたことは、一度として無い。

 

 診療所で目覚め、全ての過去を失った。

 獣に、群衆に喰われ、殺された。延々と続く、黄昏の地獄。

 死んで、夢に目覚め、また死んで、また夢に目覚め。

 どれだけ死のうと死ぬことはできず、どれだけ待っても時は過ぎず。

 逃げ場など、どこにも無くて。

 死んで、死んで、死んで、生きて。

 負けて、負けて、負けて、勝って。

 数え切れぬほど己の屍を積み上げて、ついにあの聖職者の獣を狩った。

 

 貴方は、力を手に入れた。

 

 欠片ほどとはいえ、人ならざる智慧を得た。

 狩人の夢。そこに打ち捨てられた人形が動き出した。当たり前のように。

 (あまね)く遺志を、貴方の力とする。

 なんでも良かった。強くなれるなら、この地獄から抜け出せるなら、なんでも。

 獣を狩り、力を得る。その力で、獣を狩る。

 貴方は、狩る側になった。狩人になった。

 

 だから、助けられると思ったのだ。

 

 もの悲しいオルゴールの音色。少女の泣き声。

 いなくなった母親を探してほしい。

 一も二も無く承諾した。力に驕った、その目で。

 立ち塞がる、狂った狩人。

 貴方を獣だと、そう断じる狩人。隔絶した実力。狩人の(わざ)

 死んで、死んで、死んで、勝った。

 狩人が獣に変わる。人が獣となる。何故、狩人はそうならないなどと思ったのか。

 死んで、死んで、死んで、狩った。

 灰舞う地下墓の端。女性の死体。真っ赤なブローチ。少女の母親。ヴィオラ。

 脳が囁く狩人の名。オルゴールに飾られた古い手紙。少女の父親。ガスコイン。

 

 誰も、助けられなかったのだ。

 

 震える手でブローチを渡す。

 少女の慟哭。貴方は去った。逃げるように。

 獣のせいだ。

 すべて、獣のせいなのだ。

 だから狩ろう。獣を狩り尽くせば、こんな夜は終わるはず。

 貴方は狩りに戻った。何も考えず、ただ獣を狩った。

 終わるはずも、なかったというのに。

 

 

 

 

 少女は、暗い下水道にいた。

 

 貴方はそれを視ていた。

 

 灯りも持たず、何も持たず、顔を手で覆いながら、穢れた地面を歩いていた。

 髪に巻かれたリボンを、揺らしながら。

 現れる豚。巨大な豚。人を喰う豚。

 

 貴方はそれを視ていた。

 

 ボトリと、豚の口から少女の首が落ちる。

 ゴロリと、転がったそれは貴方の足に当たって止まる。

 貴方を見上げるそれは、ユイの顔をしていた。

 

 貴方は、それを視ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 全身から血が噴き出した。

 脳の奥底に刻まれた、忘れようのない記憶。それを抉り出され、目の前に突きつけられる。

 抗いようのない絶望が狂気と化し、許容を超えたそれが出血という形で現れたのだ。

 いつものことだった。

 だが、何故いま。

 

 

 気付いた時には、頭上から死体が降り注いでいた。

 

 

 誰のものかも分からぬ、実体のない死体。

 秘儀によって生み出されたそれらが、今は確かな存在となって貴方を押し潰していた。

 蜘蛛神の隠し札。心の底のもっとも見たくないものを見せつける精神攻撃。

 さらにもう一枚。足元から伸びる赤い糸とは真逆の、頭上からの不意打ち。

 二枚の隠し札を切って、蜘蛛神は貴方を無力化した。

 

“カワイソウ! カワイソウ!”

 

 蜘蛛神が哄笑のように、憐みの言葉を囁く。優しげな甘い声で、貴方を嘲笑う。

 嘲笑いながら、死体の山ごと赤い糸で貴方を貫く。

 百を超える糸が貴方の全身を貫き、地に縫い止められる。

 手足の感覚が途絶え、聖剣が光を失い、ただの大剣へと戻る。

 もう、貴方にできることは無かった。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

「そんな……っ!」

 

 最後の一本の糸を視て、ハルは絶望的な声をあげた。

 その糸は、大きな木のてっぺんから伸びていた。建物なら3階建て、いや4階建てはありそうな高さ。

 手なんて、届くはずもない。

 

 ――あいつ! あいつ!

 

 悔しさのあまり、地面を何度も叩く。蜘蛛神の悪辣さに吐き気すら覚えた。

 なんて卑怯なんだろう。なんて(ずる)いんだろう。

 ハル達なんて、あのお化けにとっては虫けらも同然なのに、生命線の一つをあんな所に繋ぐ臆病さ。

 どんな相手にも絶対に優位を渡したくないという嫌らしさ。悪意。

 蜘蛛神の悪意が、最後の最後で、ハル達を嘲笑った。

 

「ひどい! ひどいよ! あぁ!」

「ハル!」

 

 悔しさと、怒りと、絶望と、もうめちゃくちゃになった頭を掻きむしるハルの肩を、ユイが掴む。

 

「あいつ! くそ! くそっ!」

「ハルっ!」

 

 ぱちん、と。

 ユイの両手がハルの頬を挟んだ。悔し涙で滲んだ視界に、ユイの顔が映る。

 

「……深呼吸だよ。忘れたの?」

 

 場違いなほどに静かな、ユイの声。ユイだって、焦っていないはずもないのに。

 白い小人――使者がユイに何か赤黒い小瓶を渡そうとしていたけど、「いらないよ」とユイが苦笑した。

 背中をさすられながら、「すってーはいてー」と耳元で優しく繰り返される。

 ハルは、深呼吸しなかった。ただ、ユイの声だけで落ち着くことができた。

 でも、悔しさと怒りが鎮まった後は、絶望しか残っていなかった。俯いた顔から、涙がポロポロ落ちていく。

 

「ハル、糸はどこ?」

「……」

 

 黙って、上を指さした。どうあがいても届かない、最後の一本。

 こんなに、がんばったのに。

 暗い山の中で、知らない街で、この草原で、あんなに怖い目にあったのに。

 ユイと、みんなと、こんなに一生懸命、戦ったのに。

 

 ――やっぱり、無理なのかな。

 

 心が錆びついてくる。廃れていく。

 本来の、臆病で弱気なハルの根っこが顔を出してしまいそうになった時。

 

 

「貸して」

 

 

 する、と手から鋏を抜き取られた。

 見上げれば、ユイが連結させた鋏をナップサックに結んでいる。呆然としているハルに懐中電灯を渡してきて、

 

「じゃ、いってくるね。案内よろしく」

 

 なんでもないように、スタスタと木に向かって歩くユイの姿に、やっとハルは我に返った。

 

「ま、待って、なにする気!?」

「え? 木のぼり」

「き……っ!」

 

 改めて木を見上げて、その高さに青ざめる。

 こんな高い木に、しかも夜に登るだなんて冗談じゃない!

 

「やめてよ! 落ちたら死んじゃうよ!」

「へーきへーき、わたしが木のぼり得意だって、知ってるでしょ?」

 

 ハルが駆けよった時にはもう、ユイは高い枝の上に立っていた。思い出したように足が痛みだして、ハルは座り込む。

 もう、ユイに手は届かない。

 

「すぐに戻るから」

 

 ウインクをひとつしてから、ユイはするすると暗闇の中に登っていく。止められなかった。その声も手足も、震えているのをハルは気付いていたのに。

 

 ――ああ、やっぱり、ユイはすごい。

 

 ハルは、ずっとユイに頼りっぱなしだった。おんぶに抱っこだった。

 あの街で、この戦いで、すこしだけ強くなれた気がしていた。

 ユイだってつらい。頼りきりじゃいけない。わたしだって、ユイを助けないといけない。そう考えていた。

 それはきっと間違いなんかじゃない。

 でも、それでも。

 

「……わかった。おねがい、ユイ!」

 

 ユイは、勇気があって、力強くて、いつだって頼りになる、ハルの親友。

 今は、それを信じよう。信じて、ユイを頼りにしよう。

 親友にすべてを託して、ハルは懐中電灯を掲げた。

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 また負けた。

 まあ当然か。

 死体に埋もれながら、貴方はひどく冷めた心地で己を客観視していた。

 元より貴方の戦いはずっと前から、死と敗北に塗れたものだった。

 最後には勝ってきた。だがそれは、幾度もの敗北を積み上げた末でのものだ。初戦で勝てた相手など数えられるほどしかいない。蜘蛛神はそうではなかった。それだけのことだった。

 だから、貴方は誰も守れなどしないのだ。

 だが構わない。あの少女達は強い。貴方などいなくとも、己の力で勝利するだろう。

 貴方など、いなくとも。

 

 ならば何故、貴方(おまえ)はここに来たというのか。

 

 ほんの僅かでも、少女達の助けとなる為に。そして、あの上位者が許せなかった故に。

 時間は充分に稼いだ。蜘蛛神が狩れなかったのは無念だが、初戦なのだから仕方ない。

 

 貴方(おまえ)は本当に、そう思っているのか。

 

 仮に本心でなかったとして、だから何だというのか。

 気持ちだけで勝てるのならば苦労はしない。戦いは力こそがすべて。

 血も力も尽きた。もう、できることなど何も無い。

 

 忘れたか、貴方(おまえ)が何者かを。

 

 忘れたことなど無い。忘れようにも、忘れられる筈もない。

 過去も、名前すらも失くしたこの身には、それだけが唯一の(よすが)なのだから。

 

 貴方(おまえ)は狩人。

 一夜の夢に囚われた、月の香りの狩人だ。

 

 瞳を閉じた暗闇に、光の糸が、いたずらに瞬き舞った。

 

 


 

 【「導き」】

 

 かつて月光の聖剣と共に、狩人ルドウイークが見出したカレル

 リゲイン量を高める効果がある

 

 目を閉じた暗闇に、あるいは虚空に、彼は光の小人を見出し

 いたずらに瞬き舞うそれに「導き」の意味を与えたという

 故に、ルドウイークは心折れぬ。ただ狩りの中でならば

 

 貴方とて、それは同じこと

 


 

 

   ※

 

 

 

 

 光に照らされた枝を掴む。掴めば、後は登るだけ。上へ上へと、ユイは登り続けた。

 暗闇がかえってありがたかった。うっかり下を向いてしまっても、何も見えないから。ただ、ユイの行き先を照らしてくれるハルの懐中電灯だけが見えていた。

 

「もっと、もっと上!」

 

 ハルの声はもう遠い。だいぶ高い所まで来た。あまり考えないようにする。ただ、登ることだけを考える。

 でも、高い視点は否応なしにユイに現実を伝えようとしていた。

 糸からぶら下がる蜘蛛神。それに放たれる翠色の光が、だんだんと小さくなっていた。狩人の時間稼ぎも、そろそろ限界が近い。

 草原にポツポツと光る、子グモ達の赤い目。未だ数の多いそれが、こちらに近づいてきていた。

 クロかチャコの、鳴き声がした。ハルが振り返って、懐中電灯の光が無くなる。

 

「ハル! どうしたの!?」

「ごめん! 大丈夫!」

 

 本当に大丈夫なのか。

 でも、今更それを気にしてもどうにもならない。ユイはただ、木を登り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 木の上を照らしながら、ハルはギチギチと耳障りな音を聞いた。

 無防備なハルの背中に近付いてきた子グモに、クロとチャコが噛みつく。子グモの真下に現れた使者が、とがったナイフを腹に突き刺した。

 鋏はユイが持っている。ハルに武器は無い。

 だんだんと、子グモの数が増えてきた。でももう、ハルはユイを信じて待つしかない。

 

 最悪、クロとチャコだけでも木の上に逃がす。

 ハルはまた痛めつけられるけど、子グモはそれを楽しむだろうから、すぐに殺されはしない。

 ハルがそれに耐えれば耐えるだけ、ユイが糸を切る時間を稼げる。

 何をされても我慢すればいい。何をされても……。

 

 カチカチと鳴りそうな歯を噛みしめながら、ハルは懐中電灯を掲げ続けた。

 やがて、たくさんの子グモの足音が集まってきて、ハルは覚悟を決める。クロとチャコを抱き上げようとして、

 

「君たち……」

 

 高い鳴き声と共に、ネズミ達がハルの元に駆け付けた。

 ハルを守るように円陣を組むネズミ達は、もう百匹ほどまで数を減らしていた。生き残ったすべてのネズミが、子グモの前に立ちはだかる。

 その円陣の内側で、十体ほどの使者が列を組んだ。火炎瓶やナイフ、石ころや変な薬まで様々な武器を小さな手に構える。

 最後に、二匹の子犬がハルのすぐ傍に陣取った。

 

「すごいね、ユイ……」

 

 彼らのことを、ハルは何も知らない。

 どうして、こんなにたくさんのお化けネズミが助けてくれるのか。この小人達は何者なのか。子犬も、つい昨日に紹介されたばかりだ。

 ハルが知らないのなら、それは全てユイとの縁によるものだ。

 ユイを助ける為に、こんなにたくさんの、ヒトじゃないモノたちが集まってくれている。

 

「ハル! どうしたの!?」

 

 ずっと上から、ユイの心配そうな大声が聞こえてくる。思わぬ援軍の登場に、木を照らすのを忘れてしまっていた。

 

「ごめん! 大丈夫!」

 

 すぐにユイの傍を照らす。

 きっと大丈夫。ユイの背中を見守りながら、ハルは仲間たちに背中を預けた。

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 目を開ければ、目の前の死体と目が合った。生気の無い土気色の死に顔は、もう男なのか女なのかも分からない。

 蜘蛛神の犠牲者。そう、確信した。

 うず高く積み上げられた死体に埋もれながら、貴方もそれに仲間入りしようとしている。

 

「……」

 

 それが、たまらなく嫌だった。

 右手を伸ばす。ぶちぶちと、腕を貫く糸か腕そのものかが千切れる音が聞こえた。死体と死体の間をまさぐって、剣の柄を探し出す。

 ようやく手に戻った剣から、翡翠色の光が再びあふれ出した。悍ましい死体の山が、神秘の光に照らしだされる。

 あの狩人の悪夢で見た、あの死体溜まりで、あの英雄が目覚めた時のように。

 

 

 ――夜にありて迷わず(Shrouded by night but with steady stride)血に塗れて酔わず(Colored by blood but always clear of mind)

 

 

 唱えるのは、教会の狩人たちの祈りの言葉。

 いつかどこかで聞いただけの聖句。それが、貴方の脳からこぼれ出すように言葉となって出てくる。

 

 

 ――名誉ある教会の狩人よ(Proud hunter of the church)

 

 

 貴方は、医療教会など嫌いだ。

 血を恵むだの獣を祓うだのと嘘八百を並べて、病と呪いを撒き散らした血狂い共。

 

 

 ――獣は呪い(Beasts are a curse)呪いは軛(and a curse is a shackle)

 

 

 あの英雄にしても、同情こそすれど尊敬はできなかった。

 あれだけの力を、強い意思を持っていたのならば、もっとどうにかできなかったのか、と。

 

 

 ――そして君たちは、教会の剣とならん(Only ye are the true blades of the church)

 

 

 それでも連中は、彼等は、貴方には無いものを持っていた。

 それは、己の欲を押し通す傲慢さであり、己の信念を貫き通す高潔さであり。

 ただ唯々諾々(いいだくだく)と他者の頼みを聞き、ただ自己犠牲を重ねるだけの貴方とは違って。

 結局のところ、それが貴方に足りないものだったのだ。

 それを、今になって思い出した。

 あの始まりの黄昏で、諦めてしまったもの。

 一度でいい。

 勝ってみたい。

 守ってみたい。

 あの少女たちの、笑顔を見てみたい。

 この身を、生き永らえさせたままで。

 

 ――導きの(My guiding)

 

 その為なら、今だけ連中を信じてやる。

 その祈りも、信仰も、欺瞞も、導きも、己の物としてやる。

 少女たちの為だけではなく、己のために。

 ()()()()()

 

 

 ――月光よ(Moonlight)

 

 

 光が、炸裂した。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 迫りくる子グモの群れに、ネズミ達は最後の突撃を始めた。

 既に数の利は失われている。それでも、いやだからこそ打って出る。

 子グモの足を上り、その目に食らいつく。ふり払われ、踏みつぶされることを分かっていても。

 時間を稼ぐ、一秒でも長く。足止めする、一匹でも多く。

 その覚悟に応えるように、使者達が火を放った。

 火炎瓶が、油壺が、ネズミ諸共に子グモを焼き払っていく。時には怪しげな薬品を浴びせられた子グモが発狂死し、接近した末に使者のナイフと肉弾戦を繰り広げる。

 ネズミと使者を突破した子グモには、最後の砦たる二匹の子犬が立ちはだかった。

 その血の一滴の、ほんの僅かな狼の残滓を奮い立たせるように、小さな牙を剥きだしにして子グモに食らいつく。

 怪異と怪異と獣と獣による奇妙奇天烈な合戦の最中、ただ一人のヒトであるハルは戦場を背に懐中電灯を掲げていた。

 

「まだ上! それ、その枝の上!」

 

 目をこらして赤い糸を視て、声を張りあげてユイを案内する。なんとか懐中電灯でユイを照らそうとしても、遠すぎてもうほとんど照らせていない。

 あんな高い所を、ユイは真っ暗な中で登っている。

 本当はすぐにでも下りてきてほしいけど、もう他に糸を切る方法はない。ハルにできるのは、ユイを信じて糸を視ることだけ。

 暗闇に向けて目を見開く。まばたきすることも忘れて、じっと、ただじっと糸を視た。

 祈るように左手を握る。傷がすこしだけ熱を持って、糸の姿が鮮明になった、……気がした。

 そして、ユイが糸の真下まで登る。

 

「そこ! 頭の上だよ、ユイ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――さて、どうしようかな。

 

 ついに大木のてっぺんまで登りつめたユイは、ぐらぐら揺れる幹に掴まりながら考えていた。

 下にいるハルでは分からないだろうけど、もう枝はかなり細くなっている。ユイの体重も支えられるかどうか怪しいところだった。

 高い所に来たせいか、風も強い。しかも暗くて、何よりもユイに糸は見えない。

 幹から両手を離し、細い枝の上に立って、ハルの案内を聞きながら鋏を閉じる。厳しすぎて笑うしかない。

 でも、やるしかない。

 蜘蛛神への攻撃が止んでいた。狩人はどうなったのか。無事なのか。蜘蛛神がこっちに来る。子グモが増える。ネズミはまだ戦っているのか。使者は、クロは、チャコは。

 ハルは。

 だからユイはもう、考えるのをやめた。

 

「ハル! 合図して!」

 

 大声で叫んで、返事も待たずに。

 ユイは、跳んだ。

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 聖剣で、死体の山を斬り払う。

 幻であり実体でもあるそれらを斬り裂いた感触が、赤い霞とも血煙ともつかないそれらが、貴方に再び力を与える。

 狩人とは、遺志を継承し、意思で動く存在。

 例え四肢を断たれようと、臓腑を抉られようと、生きる意思が折れない限り動き続ける。

 まるで、亡霊(おばけ)のように。

 蜘蛛神が生み出した死体の幻を斬り裂き、その遺志と意思を以て、狩人たる貴方は再び立ち上がった。

 ゴロリと、誰のものかも分からない死体の頭が貴方を見上げる。その顔面に、迷わず剣を突き立てた。

 その遺志を、無念を継承し、脳に刻まれた「導き」がそれを(かさ)ます。

 ありったけの意思を血に変え、血を神秘に注ぎ、神秘が月光となって刃を成す。

 蜘蛛神がこちらを見る。見て、嗤った。

 まあ、そうだろう。

 どう見ても死に体。悪足掻き。そんな風にしか見えないだろう。事実そうなのだから。

 光波は放ててあと一度。だが一度では到底足りない。

 だから貴方は、光波を放つことをやめた。

 

 見下ろすんじゃあない。降りてきたまえよ。

 

 剣を振り上げ、力任せに。

 投げ放った。

 

 

 

 

   ◎

 

 

 

 

「ユイ!」

 

 

 すべて、同時だった。

 

 ハルが、合図とも悲鳴ともつかない叫びをあげるのも。

 

 ユイが、枝から身を投げ出しながら鋏を閉じるのも。

 

 狩人が、月光の聖剣を空に投げ放つのも。

 

 クロとチャコが、最後の子グモを咬み倒すのも。

 

 使者とネズミが、その役目を終えたのも。

 

 

 

 

“アアアアアア――――ッ!?”

 

 

 

 

 蜘蛛神が、剣に顔面を貫かれるのも。

 蜘蛛神が、その足場を失うのも。

 蜘蛛神が、地に落ちるのも。

 

 すべて、同時だった。

 

 

 

 

 万のネズミ。

 夢の使者達。

 二匹の子犬。

 縁切りの神。

 灰色の怪異。

 二人の少女。

 一人の狩人。

 

 怪異と、上位者と、獣と、ヒトと、ヒトに似たナニカの、すべての力を以て。

 醜い蜘蛛神を、地に落とした瞬間だった。

 



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いのり   -Requiescat-

『ユイは、大きくなったら何になりたい?』

 

 父の痩せた背中に飛びついて、無理矢理おんぶしてもらう。ひょろりとした父はよろけてしまったけど、怒ることもなくユイを背負ってくれた。

 その黒縁眼鏡を外して自分で着けてみたりして遊んでいると、ユイはそう聞かれた。

 将来の夢。よく聞かれることだけど、8歳のユイにまだこれといった夢は無い。うーん、と考えていると、父はいくつか候補をあげてくれる。

 

『体育の先生とかどうだい? ユイは運動が得意だから』

 

 大学の先生でもあった父らしい言葉だった。もしかしたら、ユイにもそうなってほしかったのかもしれない。でも、当時のユイにとって体育の先生とはつまり怖い先生のことで。

 だから「やだ」と即答すると、父はすこし落ちこんでしまった。

 

『じゃあやっぱり、お嫁さんかな?』

 

 きっと「お父さんの」と付け足してほしいんだな、とユイは思った。ユイは鋭いのだ。父のことは好きだけど、でもそういうんじゃないな、とも思った。

 だから、すこしの意地悪と、本音をまぜて言ったのだ。

 

『ハルの友だちになりたい!』

 

「もうなってるじゃないか」と苦笑する父に、「これからもずっと!」とユイは答えた。

 

 

 

 

 そう、これからもずっと。

 大好きなお父さんも、お母さんも、ハルも。

 ずっと傍にいるんだと、信じて疑わなかった。

 

 

 

 

 なぜ、今こんなことを思い出しているのか。

 これは、やっぱり。

 

 ――やっぱり、無理だったかも!

 

 何も考えずに飛びおりたけど、さすがに無茶だったかもしれない。

 真っ逆さまに落下する中、頭の中でぐるぐる回る走馬灯と、ぐんぐん近づいてくる地面を見ながら、ユイは思う。

 手応えはあった。鋏で、見えない糸を確かに切った感触があった。

 あとは、なんとか上手く着地すれば足を折るぐらいで済むかもしれない。でもそう甘くはなかった。

 ユイは頭から落ちているし、しかも下ではハルが両手を広げてユイを受け止めようとしている。

 

 ――だめ! よけて!

 

 これじゃハルまで巻きぞえだ。

 今更になって自分の無茶を後悔しはじめたけど、もう何もかも遅くてすぐそこにハルがいてよけておねがいだからたすけてだれか!

 

 

 ガクン! と。

 

 

 ()()()()()()()みたいに、握ったままの鋏が宙に止まった。

 落下していたユイも急停止して、腕が引っこぬけそうな衝撃と痛みが両肩に走る。鉄棒のように鋏にぶら下がったユイの足元で、ハルがぽかんと口を開けていた。

 そのまま、ゆっくりと降りる鋏に合わせて、ユイもハルの前に音もなく着地。やっと地面につけられた足に、クロとチャコがじゃれついてくる。ハルは、まだユイを見たまま固まっていた。

 

「えーっと、その」

 

 気まずい。何と言ったらいいんだろう。

 

「た、ただいま……?」

「…………」

 

 苦しいな、と。自分で言っておいてそう思った。現に、ハルはどうも許してくれそうもない。

 じわじわとハルの目に涙がたまってきて、ふるふると体が震えはじめて、でもその口は盛大にへの字に曲がっていて。

 

 

 ぷいっ! と。

 

 

 そっぽを向いてしまった。

 ハルは、たまにこうなる。ハルが本気で怒った時の、怒り方だった。

 クロとチャコは、そそくさと逃げた上で遠巻きに二人を眺めている。使者が赤黒い小瓶を渡してくるけど、たぶん飲んでくれないと思う。

 

 ――さて、どうしようかな。

 

 ご立腹な親友にどうやって機嫌を直してもらおうか。狩人の加勢にだって行かないといけない。

 そう考えるユイの耳に、その叫びは聞こえてきた。

 

 

 

 

   ◎

 

 

 

 

“イタイ! イタイ! アア!”

 

 蜘蛛神は、必死にもがいていた。

 あのヒトに似たナニカ、ヒト擬きが投げた光る剣。あれに顔を貫かれた上に、落とされないはずの足場まで落とされたのだ。

 その巨体を地面に墜落させ、瘤だらけの足は何本かひしゃげていた。全身の赤い目は潰れ、無事な目はもうほとんど残っていない。

 その目に映る逆さまの視界の中で、黒い人型が近付いてくる。

 足音というには、ひどく重い音を引きずりながら。

 

 

 ずりずり ずずず ごりっ

 ずりずりずり ごりっ ずりずり

 

 

 その人型――ヒト擬きの手に握られているのは、あの光る剣ではなかった。

 そもそも武器ではなく、あるいは道具ですらなかった。ヒト擬きが引きずる物、それは丸く巨大な。

 車輪、であった。

 

 ぐしゃり、と。

 

 まるで挨拶でもするかのようにヒト擬きは、蜘蛛神の顔の裂傷に車輪を叩きつけてきた。

 ぐりぐりと、丹念に、執拗に、その傷を抉るように。

 痛みに、屈辱に、蜘蛛神は叫んだ。

 

“イタイ! イタイ! イタイ!”

“ヒドイ! ヒドイ! ヒドイ!”

 

 それを間近で聞いたヒト擬きは、ナメクジが首を(もた)げるような動きで目を覗きこんでくる。

 その青白い目は――喜悦に歪んでいた。

 怨敵の首を取ったような。満願を成就させたような。嗜虐の悦びに悶えるような。

 狩人が、獲物を追い詰めたような。

 その悍ましい目に戦慄する蜘蛛神の前で、ヒト擬きは車輪の形を変えて見せる。

 

 

 オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛――――ッ!

 

 

 封を解かれたように噴き出す、赤黒い瘴気。

 怨念じみた、否、まさしく怨念そのもののそれは、車輪が回転する程に勢いを増してゆく。

 そして、凄惨な「処刑」が始まった。

 叩き潰される。轢き潰される。摺り潰される。

 ナニカの怨念が、当たり散らすように蜘蛛神を焼き潰す。

 夥しい返り血を浴びても、ヒト擬きは怯まない。それどころか、より一層に狂喜を増している。

 めり込んだ車輪を引き剥がされる度に、蜘蛛神の内にあった「それら」も血のように噴き出した。

 それは、仄かに輝く光の玉。

 蜘蛛神が弄び、死に繋ぎ、喰らってきた、ヒトの魂。それらを巻き取るように車輪が回り、魂が渦を巻いて車輪を覆い始める。

 車輪が叩きつけられる。バキバキと、蜘蛛神の血肉を潰していく。

 車輪が叩きつけられる。ズルズルと、溜め込んでいた魂を引きずり出される。

 車輪が叩きつけられる。ユラユラと、人型を成した魂が蜘蛛神に憤怒の表情を向ける。

 車輪が叩きつけられる。ゲラゲラと、ヒト擬きが哄笑をあげる。

 

“アアアアアアアアアアアッ!”

“ヤメテ! ヤメテ! ヤメテ!”

“オネガイ! オネガイ!”

 

 苦痛と、絶望と、屈辱と、悲嘆と、憎悪と、怨嗟と、ありとあらゆる負念が蜘蛛神を支配した。

 負念に支配されながらも、全ての足を断ち潰された蜘蛛神はもがくこともできない。

 ただただ車輪に潰され、ただただ魂に焼かれ続けた。

 やがて、地面ごと抉るような一撃にその頭を打ち上げられる。

 

 落下する中で、一つだけ残った目に最後に映ったのは。

 

 何も持たない右手を構えるヒト擬きと。

 

 それに重なるように右手を引く、()()()()()()の魂。

 

 二つの右手が、蜘蛛神の目を貫く。

 

 貫き、抉り、その頭に詰まったモノを確と掴み取り。

 

 抜き出した。

 

 

“――――――――ッ!?”

 

 

 もはや、痛みすら感じられない。

 何も見えず、何も考えられなくなった中、ただ触覚と聴覚だけが残った。

 その触覚に、ひどく冷たく、ひどく太い何かを感じる。

 その聴覚に、ヒト擬きの声を聞く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 炎が炸裂し、蜘蛛神の(からだ)は、木端微塵に吹き飛んだ。

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 貴方は、絶頂の中にあった。

 

 艱難辛苦(かんなんしんく)の果てに()っくき蜘蛛神を地に落とし、ローゲリウスの車輪を以てその身を轢き潰してやった。

 全ての足を叩き折った末に、内臓攻撃を以てその脳髄と臓腑を抉り出してやった。

 最後は、その裂けた大口に大砲を捻じ込んで、何もかも消し飛ばしてやった。

 

 勝った。

 勝ったのだ!

 この身を犠牲にしないまま! 少女たちも無事なまま! 一度も死なないまま!

 勝利だ!

 負け続けたこの自分が! 死に続けたこの自分が!

 はじめて! 勝った!

 もはや、言葉になどできなかった。

 だから、無意識に「彼」の言葉を借りていたのだろう。

 雨のように降り注ぐ蜘蛛神の血を浴びながら、両手を広げて、貴方は高らかに叫んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 少女たちよ、ご覧あれ!

 

 私はやりました、やりましたぞ!

 

 この醜い蜘蛛を、潰して潰して潰して、赤色の血煙に変えてやりましたぞ!

 

 どうだ、お化けめが!

 

 如何にお前が悪辣だとて、血肉をすべて吹き飛ばされれば、何ものも唆せないだろう!

 

 すべて血煙、粉微塵に消えたその姿こそが、おぞましい貴様には丁度よいわ!

 

 ヒャハ、ヒャハッ

 

 

 私はやったんだあ――――っ!!

 

 

 ヒャハハハハハハァ――――ッ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

「……」

 

 血の雨が止み、声が涸れ、鎮静剤を5本ほど飲んでようやく落ち着いた貴方が見たのは。

 穢れた獣か、気色悪いナメクジか、頭のイカれた医療者か。夜に蠢く汚物でも見るような目を向けてくる、二人の少女の姿であった。

 あんまりじゃあないか。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

「おじさん、そのままハルに近づいたら蹴るからね」

 

 ぷるぷるとチャコみたいに震えているハルを遠ざけながら、ユイは尖った目で狩人を牽制した。

 恩人に向ける言葉としてはあんまりかもしれないけど、その恩人は頭から足元まで血でずぶ濡れなんだから仕方ないとユイは思う。今まで見てきたお化け達より、よっぽどお化けだった。

 ショックを受けた様子で打ちひしがれる狩人に、使者たちが霧吹きみたいな物を浴びせる。きれいにはなっていくけど、何故か転げまわる狩人を横目にして、ハルに向き直る。

 

「大丈夫? 気持ち悪くない?」

「…………うん」

 

 色白なハルの顔はさらに青くなっていた。怖い映画どころかアニメの血が出るシーンでも目を覆ってしまうようなハルだ。狩人の、あまりにもあんまりな行いを見てしまってショックを受けているに違いない。

 ハルの背中をさすりながら、自分のナップサックを漁る。たしか、お姉さんからもらった飴玉が残っていたはず。見つけた飴玉を口に入れてあげると、すこしだけハルの表情が和らぐ。

 その顔を見て、ユイもやっと人心地ついて……そこで、ハルが何かを思い出したみたいにユイから距離をとった。そのまま、腕を組んでそっぽを向いてしまう。

 

「……ごめんってば。ハル」

「……」

 

 つーん。

 あわよくばこのまま忘れてほしかったけど、そこまで甘くはないらしい。飴玉いっこで機嫌を良くしてしまっても、それはそれで心配ではあるけれど。

 

「無茶してごめんなさい! 反省しています! もうしません!」

 

 ダメ押しに「このとーり!」と下げた頭の上で両手をすり合わせても、ハルはまだこっちを見てくれなかった。今日のハルはどうにも手ごわい。

 

【この先、血はないぞ だから、私を思い出せ】

【発狂? ならば、素晴らしいアイテム】

 

 見れば、いったい何を吹きかけられていたのか、ずいぶんと小綺麗になってテカテカしている狩人が、ハルに赤黒い小瓶を差し出していた。使者といい狩人といい、あの怪しい薬がそんなに好きなんだろうか。

 当然、ハルはそれを受け取らずにじりじりと狩人から距離をとっていく。そして結局は、ユイの背中に隠れてしまった。またショックを受けたような狩人。そんな二人の様子がおかしくて、ユイは噴き出してしまう。

 

「……もうっ! ユイ!」

「ごめんって!」

 

 緊張の糸が切れたせいか、なかなか笑いが収まらない。頬を膨らませたハルにデコピンされて、それすらもなんだかおかしい。ケラケラと笑うユイにそっぽを向きつつも、ハルも傍を離れようとはしなかった。多少は打ち解けた様子のユイたちに安心したのか、クロとチャコも尻尾を振りながら駆け寄ってくる。

 狩人は、すこし離れた場所からそれを見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふわりと、淡い光が浮かぶ。

 

「……わぁ」

 

 どちらが漏らしたのか、感嘆の声をあげるユイとハルの前で、その光は徐々に数を増やしていく。やがて、無数の蛍が飛び立ったみたいに、草原は幻想的な光で照らしだされた。

 その光は、一瞬だけネズミの姿や、あるいは人の姿になって、また宙に消えていく。

 役目を終えたネズミたちが、蜘蛛神から解放された人たちが、今度こそ本当の眠りにつこうとしている。そう、ユイには見えていた。

 

 ――ありがとう。

 ――そして、おやすみなさい。

 

 だから、ユイはただ手を合わせた。言葉もなく、ただ目を閉じて、ただ祈った。

 狩人と使者が、それを真似るようにぎこちなく手を合わせる。

 クロとチャコが、魂の行く末を見届けるように夜空を見上げる。

 ハルだけは、ただ一点を見つめていた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 ――あの人……。

 

 目を閉じて祈るユイのすぐ横に、その人はいた。

 

 色の無い、半透明の残像。

 ひょろりと痩せた体つき。温和で気弱そうな表情。その(まなじり)を覆う黒縁眼鏡。

 そして、何かに断ち切られたように無くなっている左手。

 

 その男性の魂、あるいはお化けは、白黒写真みたいに動かないままユイを見下ろしている。ユイにも、狩人にも、その姿は見えていないみたいだった。

 男性の顔に見覚えは無い。無いはずだけど、どこかで見たことがある気もする。

 なんとか記憶を探っても思い出せなくて、もう一度ハルが顔を上げた時、男性と目が合った。

 やっぱり、その男性は動かない。でもその表情は、ハルに何かを伝えようとしているみたいに険しい。

 

 ズキン、と左手の傷が疼いて。

 

 視界の端に、小さな赤い光が映る。

 

 ハルの全身に、緊張が戻ってきた。

 

 

「――――あそこ!」

 

 

 今までにないぐらい大きな声が出た。

 さっきまで赤い光が見えていた、今は何も見えない暗闇に向けて、左手で指さす。

 突然の大声に子犬たちが飛び跳ねて、ほぼ同時に轟音が響いた。

 狩人の左手に握られた、冗談みたいな大砲。そこから撃ち出された砲弾が草原の一角を吹き飛ばして、強烈な閃光が舞い上がる草と土を一瞬だけ照らし出す。

 

 その光の中で。

 吹き飛ばされた、蜘蛛のような影と。

 そして、それに飛びつく、小さな人影をハルは見た。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 バスケットボールをキャッチするみたいに、ユイは逃げ去ろうとする影を捕まえた。そのまま、両手で地面に叩きつける。手加減なんて、しない。

 

“イタイ! イタイ!”

“ハナシテ! ハナシテ!”

 

 蜘蛛神は、子グモと同じぐらいに小さくなっていた。縮んだのか、子グモに乗り移ったのかは分からない。

 だけど、どうでもいい。どちらにせよ、ユイのやることは変わらないのだから。

 

「……よかった」

 

 ボソリと優しげな口調で呟く。でもそう呟くユイの目は、闇夜にギラギラと輝いていた。その手に握った、真っ赤な鋏と同じように。

 

「やっぱり、アンタだけは、わたしが……っ!」

 

 その気色悪い顔を鋏で挟む。両手で力をこめると、蜘蛛神もその足で刃をつかんで抵抗する。

 

“ヤメテ! ヤメテ! ヤメテ!”

“ユルシテ! ユルシテ!”

“カワイソウ! カワイソウ!”

 

 甘い、悲痛な声で訴えてくる。思わず同情したくなるような、そんな声で。

 そんな声なのに、余った足はユイの手を爪で引っ掻いてくる。言っている事とやっている事がまるで滅茶苦茶だった。

 

「うるさい……」

 

 きっと、こいつにとってはユイたちの言葉も、心も、命も、何の価値も無いんだ。石ころと同じで、気まぐれに蹴飛ばして、水に投げてしまう。そんな物でしかないんだ。

 だったら。

 わたしだって、そうしてやる!

 

「うるさい……!」

 

 アンタは何をした。

 ずっと前からハルのことをつけ狙って、ハルをさらって、ハルにあんなひどいことをして。

 ハルだけじゃない、おじさんにだって、わたしにだって、あんなにたくさんの人たちにだって!

 

“カワイソウ! カワイソウ!”

 

「うるさい! 思ってもないくせに! もう喋らないでよ!」

 

 叫んで、体重をかけて、全力をこめて、鋏の柄を握る。

 蜘蛛神の爪が手に食いこんで血が流れても、力だけは絶対に緩めない。

 

「アンタなんか……、アンタなんか……!」

 

“ヤメテ! ヤメテ! ユルシテ!”

 

 

 

 

「わたしが、狩ってやる!」

 

 

 

 

 ジョキン

 

 

 

 

 金属音がして、真っ二つになった蜘蛛神から、噴水みたいに血が噴き出す。それを、ユイは頭から浴びた。

 

カワイソウ…… カワイソウ…… カワィ……

 

 声だけは悲痛な断末魔が、すこしずつ小さくなっていく。

 その声も止んで、全身の赤い目玉から光が消える。

 くたりと脱力した爪がユイの手から抜け落ちて、草の上に投げ出される。

 そして、遂に蜘蛛神は赤い霧になって、跡形もなく消えていった。

 口にまで入ってきた蜘蛛神の血を吐き捨てながらユイは、

 

「自分でいわないでよ」

 

 呆れたように呟いて、血まみれのままユイは大の字になって寝転ぶ。

 星が、きれいだった。このまま、眠ってしまいそう。

 

「……やったよ……ハル」

 

 すぐそばで草を踏む音がした。

 首を動かすこともできない。気を抜けば閉じてしまいそうな瞼をなんとかこじ開けて、その足を見る。乾いた泥のついた靴。血で汚れた靴下(ソックス)

 意識を手放そうとする頭の上から、自分の名を優しく呼ぶ声を聞いた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 文字通り、頭から冷や水を浴びせられてユイは飛び起きた。

 

「ひやぁぁっ!?」

 

 起き上がった先から、次の水壺を手にしたハルに中身を浴びせられる。顔面を水で叩かれて、ユイはまた草の上に倒れた。

 

「は、ハル! ちょっとまぶえぇ!」

 

 まるでバケツリレーでもするみたいに、使者は次々とハルに壺を手渡している。

 血まみれになってしまったユイの為にやっているのは分かるけど、その割にハルの顔はずいぶんと楽しそうだった。

 これはきっとあれだ。

 ハルはまだ怒っていて、その仕返しなんだ。

 

「……もう、このっ!」

 

 でもいくらなんでも限度がある。髪の毛もリボンも服も下着も靴下も靴も、もう水浸しだ。

 ハルの手から壺を奪い取って、その顔に水をかける。ユイの反撃に驚いたのか、尻もちをついたその頭から二個めの壺を浴びせてやった。

 

「つめたいっ!」

「おかえしだよっ!」

 

 怒ったような、でも楽しそうな顔のハルがまた壺を手にして、不敵に笑ったユイも次の壺を持つ。

 ばしゃり、ばしゃりと、お互いに水をかけあう。

 チャコは水が気持ちいいのか、二人の足元で水を浴びてはブルブルと体を震わせている。

 クロは濡れるのが嫌なのか、すこし離れた場所で欠伸をしている。

 使者たちは、二人の為に黙々と水壺を手渡して、空の壺を回収していく。

 離れた場所で、狩人がひとり寂しく焚火の準備を始める。

 満天の星空の下、水音と、少女たちの楽しげな声だけが響く。

 

 

 

 

 片手の男の残像だけは、微動だにせずそれを見つめていた。

 



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たすけて  -Dear my friend-

 

 長い夜が明けようとしていた。

 

 貴方は、いつになく晴れやかな気分で山を下りていく。

 足取りは軽く、背負ったハルの重みもまるで感じない。気を抜けばスキップしだしてもおかしくないような気分であった。鼻歌をらんらんと口遊(くちずさ)みながら、水を差してくるお化けを石ころで撃ちぬいて歩みを進める。

 極めて順調。何の障害もなく、山道の出口へと辿りつこうとしていた。

 

 山道を下りる少女たちを見るのは、これで三度目だった。

 廻送者が、貴方に見せた次元。

 一度目は、ユイとハルだけだった。クロは、小さな死骸となっていた。

 二度目は、ハルだけだった。ユイは、虚ろな亡霊となっていた。

 だが、今は。

 ユイとハル。クロとチャコ。満身創痍であれど、四者が揃って帰路につこうとしていた。

 これが、勝利。誰を犠牲とすることもなく、誰を欠くこともなく、皆が揃った結末。

 貴方が、はじめて得た明確な勝利。

 

 ああ、悪くない。

 

 死と敗北と犠牲を積み重ねた末の、血塗れの勝利。そこに達成感などなく、あったのはどこまでも虚ろな安堵だけ。今となっては、そんな物にはもう何の価値も見いだせなかった。

 はじめての勝利の味を噛みしめながら、貴方は歩く。

 

 だから、後ろを歩くユイが何故あんなに暗い顔をしているのか、貴方は理解できなかった。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 狩人の大きな背中に揺られながら、ハルはそっと後ろを見る。

 狩人の後ろをクロが歩いて、チャコは落ち着きなく歩き回っている。最後に、ユイが踵を引きずるみたいに歩いていた。ハルと目が合うと、サッと表情を明るくする。

 

「なに?」

「……ううん、別に」

 

 もう何度目かのやり取りだった。視線を前に戻して、ハルは小さく溜息をつく。

 

 あの後、濡れた服を焚火で簡単に乾かしてからすぐ、みんなで山を下りた。

 狩人は、ハルの左足に添え木と包帯を巻き直した上に背負ってくれている。はじめはなんだか怖くて変な人だと思ったけど、そこまで怖い人じゃないみたいだった。現に、今はなんだかすごく機嫌も良さそう。

 ハルも、やっと緊張から解放されてほっとしていた。

 昨日の夕方からずっと、ほとんど休むこともなく走り回って、戦っていた。痛い目にも怖い目にもいっぱい遭った。あの大きなお化けも、やっとの思いでやっつけられた。

 もうくたくただった。左足は痛いし、左手の傷だって治っていない。お腹もすいた。お風呂に入ってベッドで眠りたい。

 だから、家に帰られるのは嬉しいことのはずなのに。でも、ユイだけが暗い顔をしていた。

 

「…………」

 

 その理由を、ハルはもう気付き始めていた。

 切っ掛けは、あの時に見てしまったユイの額の傷。あれは、階段から落ちた傷というより、誰かに殴られたような(あと)に見えた。

 そう思ってしまえば、あとはドミノ倒しみたいに気付きが繋がっていく。 

 ユイが、よく転んで怪我をするようになったのは、いつ頃からだったか。

 ユイが、あまり家に帰りたがらなくなったのは、いつ頃からだったか。

 ユイの両親の仕事が忙しくなったのは、いつ頃からだったか。

 ユイの家に呼ばれなくなったのは、いつ頃からだったか。

 ぜんぶ、同じ頃からじゃなかったか。

 去年、いやもっと前から、ずっと。

 家に帰る時、ユイは今みたいに暗い顔をしてはいなかったか。

 また、そっと後ろを見る。

 暗い顔で足元を見ながら歩くユイは、ハルの視線に気づかない。その後ろに、まだあの人はいた。

 左手がない、眼鏡をかけた男の人。

 白黒写真みたいなその人は、体はピクリとも動かさないまま、ずっとついてきている。

 つかず離れず、そんな距離で、ユイにぴったりと。

 

「…………」

 

 ハルは視線を戻した。

 ユイが、自慢の父親の話をしなくなったのは、いつ頃からだったか。

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、またね。ハル」

 

 朝霧が濃い町中を歩いて、やっとハルの家の前に辿りついてすぐ、ユイは足早に立ち去ろうとした。

 

「ユイ……」

「うん?」

 

 貼りつけたような笑顔で、ユイが振り返る。

 何かを言わないといけないのに、何を言えばいいのか、結局ハルには分からなかった。口をモゴモゴさせるハルに、ユイはいつも通り(たしな)めるような声をかけてくる。

 

「ほら、今日はもう帰ろう」

「ちゃんとお父さんとお母さんに電話して、病院に行かないとダメだよ」

「花火は……、また、今度にすればいいじゃない」

 

 帰る。お父さん。お母さん。花火。

 そんな、なんでもない言葉を口にするたび、ユイのお面みたいな笑顔が崩れそうになっていた。ハルが口を開こうとすると、ユイは早口で狩人に水を向ける。

 

「そうだ。おじさん、まだ時間はある?」

「ハルのお家、今日はまだ誰もいないんだ」

「一人じゃハルも心細いだろうし、しばらく一緒にいてあげて?」

 

 狩人は、じっと青白い目でユイを見下ろしていた。探るようなその視線から目をそらして、ユイは一歩後ずさる。

 

「……じゃあね!」

「ユイ!」

 

 手をつかもうとしたハルの手が空を切って、転びそうになった体を狩人が支えてくれた。

 ユイは一瞬だけ立ち止まってから、逃げるように走り去ってしまう。クロとチャコが、躊躇いがちにそれに続いた。

 

「ユイ……」

 

 人気のない静かな町の中を、ユイと子犬たちの足音が遠ざかっていく。

 夜明け前の一際暗い空の下で、ハルと狩人は顔を見合わせた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 はあ、とユイの溜息が朝霧に溶けていく。ズリズリと引きずられる踵は、疲れのせいだけじゃない。いつものことだった。

 そう、家に帰る時は、帰らないといけない時は、いつもこうだった。

 

「……」

 

 町には、まるで人気がない。夜明けが近いからなのか、お化けすらいなかった。耳鳴りがしそうな静けさの中、ユイが足を引きずる音だけが陰鬱に響く。

 ハルはさっき家に送った。狩人と使者はもういない。クロとチャコは空き地においてきた。一人で、暗い道を歩く。

 帰りたくはない。でも早く帰らないと、それはそれでまた痛い思いをすることになる。額の包帯を撫でながら、疲れと憂鬱で止まりそうな足をなんとか速めた。

 どうか、あの人が帰ってきていませんように。

 そんな暗い願い事をしている自分が、心底イヤになった。

 

 

 

 

 願いも虚しく、ユイの家の前には人影があった。

 ウロウロと落ち着きなく玄関の前を行ったり来たりしているその人を見て、ユイは足を止める。

 胸がギュッと苦しくなって、お腹がキリキリする。手足が冷えて、呼吸も浅くなった。ズキズキと、額の傷が痛みだす。

 

 

「……お母さん」

 

 

 その人を、ユイはそう呼んだ。

 消えそうな声が聞こえたのか、朝霧の中に佇むユイを見たのか、その人――母が、振り返る。

 久しぶりに見た母は、ひどくやつれていた。

 こけた頬。疲れ切った顔。ぼさぼさの髪。よれよれのブラウス。皺だらけのスカート。

 まるで、お化けみたいだった。

 

「…………ユイ?」

 

 母の虚ろな目が自分に焦点を結んだ時、ユイの心に湧いたのは安堵ではなく、ただ恐怖だけ。

 母の青白い顔が一瞬だけ柔らかくなって、すぐに真っ赤な険しい(かお)に変わる。

 

「ユイ……っ!」

 

 つかつかと歩み寄ってくる母の姿に、ユイはひゅっと息を飲んだ。思わず逃げ出したくなる足を必死に押さえこむ。

 

「今まで、どこに行っていたの!」

 

 明け方まで家に帰らなかった娘に対する言葉としては、不自然ではなかった。

 ただ、あまりにも慣れた様子で振り上げられた、その手を除いては。

 

 ――ああ、まただ。

 

 ユイはただ、涸れた眼差しで母を見上げていた。こうなってしまえば、この人にはもう何を言っても無駄なんだと、知ってしまっていたから。

 だからいつも通り、ただ歯を食いしばって、目と心を閉じた。

 

 パン、と。頬を張る音が響く。

 

 

 

 

「…………?」

 

 

 

 

 聞きなれた音だけで、慣れない痛みは一向にやってこない。

 そろりと片目を開けると、そこには。

 

「……ハル?」

 

 道路に倒れる、ハルと。

 

「……か、ぁ……っ!」

 

 狩人に腕を捻りあげられる、母の姿。

 

「な……」

 

 状況に、頭がおいつかない。

 頭が真っ白になっているユイの足元で、のろのろとハルが体を起こす。その色白な頬には赤い手形がくっきりと残っていて。自分の代わりに叩かれたんだと、すぐに分かった。ユイの顔から、血の気が引く。

 

「ご、ごめんハル! 大丈夫!? ねえ!」

 

 ハルの体を起こして、鼻血を拭こうとポケットを探って、ハンカチはもうハルの傷に使ってしまったんだと思い出して、母のうめき声に慌てて狩人を止める。

 

「やめて! お母さんをはなして!」

 

 狩人の青白い目は剣呑な光を放っていて、ユイの懇願にも納得はしていなさそうだった。それでもその目を見返していると、小さく息をついた狩人が母を開放する。

 その直後、狩人の手が母の首を掴む。そのまま何かをしたのか、気絶した母が道路に倒れこんだ。

 

「やめてってば!」

「ユイ」

 

 母の前に立って狩人を睨みつけるユイの耳に、ハルの声が届く。

 振り向くと、顔を腫らしたハルが、まっすぐユイを見つめていた。その傷と瞳から目を逸らして、ユイは俯く。

 

「わたしが頼んだの。いっしょにユイの様子を見に行こうって」

「……なんで、わたし、なにも」

「ユイ」

 

 ハルの手が、ユイの頬を挟む。涙が滲みだしたハルの目は、どこまでもまっすぐにユイの瞳の芯を捉えていた。

 

 

「――本当に、ごめんなさい」

 

 

 突然の謝罪に、ユイは目を丸くした。

 ハルは、顔を腫らしながら、鼻血を垂らしながら、涙を流しながら、ユイに謝り続ける。

 

「気付いてあげられなくて、ごめんなさい」

「いつも頼ってばっかりで、ごめんなさい」

「こんな、ダメな友だちで、ごめんなさい」

 

 懺悔するみたいに、ハルは頭を垂れた。ポタポタと、ユイの足元に、ハルの血と涙が落ちていく。

 

「ユイにだって、助けてほしい時があったんだよね」

「でも、わたしが弱虫だから、ユイに助けてもらってばかりだから」

「誰にも、助けてって、言えなかったんだよね」

 

 違う。

 それは違う。

 ユイはずっとハルを頼りにしてきた。ハルがいるから、ハルがただいてくれるだけで、ユイは頑張れていた。

 ……でも、本当にそれだけで良いと思っていたんだろうか。

 

「わたしは、卑怯だよね」

「あんな、ぬいぐるみなんかで、ユイを助けた気になってた」

「わたし、ほんとに……最低だ」

 

 違う。

 違う!

 ハルがくれたあの人形はユイの宝物! ずっと、毎日、あの人形がユイを助けてくれていた!

 ……でも、本当にそれだけで良いと思っていたんだろうか。

 

「そうだよ。わたしじゃなきゃ。わたしじゃないと、ダメだったのに」

 

 ……本当は、ずっと。

 

 

 

 

「でも、今なら言えるよ」

 

 

 

 

 ハルが、顔を上げて。折れたその足で、立ち上がる。涙に濡れた目で、ユイの瞳を捉え続ける。

 

「わたしだって、ユイを助けたい!」

 

 ハルは、怖がりで、寂しがりで、放っておけない妹みたいな子。

 

「助けるよ! ぜったい! 約束する!」

 

 でも、きっと、本当は。その心は、自分なんかよりずっと強い。

 

「だから、ユイ!」

 

 この夜で強くなった。いや、ずっと前から強かった。

 

「言ってよ! ユイ!」

 

 ……本当は、ずっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………たす、けて」

 

 

 

 

 たすけて、ほしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

 

 

 

 ユイは語りだした。

 

 今から2年前、父親がいなくなった。

 予兆はあった。まるで、ナニカに話しかけられているみたいに、独り言ばかり言っていた。

「私ひとりで行く」ある晩にそう言って、いなくなってしまった。

 

 それから、母親がおかしくなった。

 滅多に家に帰らなくなった。掃除も料理も一切やらなくなった。

「お父さんは他の女のひとの所に行った」そう言って、他の男のひとを連れてくるようになった。

 ユイのことも放っておくようになった。

 それなのに、ユイが家に帰らないとすごく怒った。何度も叩かれた。

 

 ユイの家はもう、ゴミで溢れかえっている。

 電気も、ガスも、水道も、もうずっと止まっている。

 ユイのごはんは、母親がくれる千円札。

 ユイのお風呂は、公園の水道。

 帰りたくなんてない。

 でも帰らないと、また叩かれる。

 

 ぜんぶ、嘘。

 お父さんとお母さんの仕事が忙しいなんて、嘘。

 クロとチャコを飼うのに反対されたなんて、嘘。

 転んで、階段から落ちて怪我をしたなんて、嘘。

 ぜんぶ、ぜんぶ、嘘。

 ずっと、嘘をついていた。

 ぜんぶ、ずっと、ハルに隠していた。

 

 ハルに、心配させたくなかったから。

 ハルに、迷惑かけたくなかったから。

 ハルに……嫌われたくなかったから。

 

 ずっと、ハルを頼りにしていた。

 ハルと遊んでいる時だけ、つらいことも忘れられた。

 ハルがいたから、ユイは心折れずに頑張れていた。

 

 でも、もうハルは引っ越してしまう。

 でも、それは一時のお別れ。また会える。手紙だって書く。

 そのために、あのお化けをやっつけた。

 

 でも。

 

 それでも。

 

 やっぱり。

 

 

 

 

「つらいよ」

 

 ハルにしがみつきながら、絞り出すみたいにユイは言った。

 

「やだよ、もう痛いのは、やだ」

「なんで、わたしばっかり、こんな目にあうの」

「わたしが何をしたの、なんにもしてないのに」

「お父さんは、いつ帰ってくるの」

「お母さんは、いつ元に戻るの」

「ハルまで、なんで遠くにいっちゃうの」

「ひどいよ。あんまりだよ」

 

「たすけてよ、ハル……」

 

 

 

 くしゃくしゃの顔で、ユイは泣いた。

 泣いて、しがみついて、ハルに助けを求めていた。

 はじめて、ユイが泣いているのを見た。

 はじめて、ユイの泣き言を聞いた。

 はじめて、ユイに助けを求められた。

 その重さに、ハルは絶望すら覚える。

 こんなに重いなんて。

 人から助けを求められるのは、こんなにも重い。

 それも知らずに、自分はユイに助けてもらってばかりいた。

 こんなに重いのに、いつもユイは助けてくれていた。

 助けないといけない。他の誰でもない、ハルが。ハル自身がそう約束した。

 どうする。

 どうすればいい。

 目を閉じて考えて、考えて、何も浮かばない。

 目を見開いて、ハルは辺りを見回す。何でもいい。何か、何かヒント、手がかり、閃き、何でもいいから、何か!

 

 自分にしがみつくユイ。

 道路に倒れたユイの母親。

 腕を組んで佇む狩人。

 白黒の、眼鏡の男性。

 

 

「……ユイ、ひとつ教えて」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハル達は、山に戻った。

 気絶したユイの母親を、狩人が担いで歩く。

 その前を、不安げなユイが歩く。

 いちばん前を、杖をついたハルが足を引きずって歩いていた。

 

「ハル、無理しないで」

 

 ユイが背負うと何度も言われた。

 でも、これは自分の足で歩かないといけない。ハルはそう思っていた。だから、狩人が貸してくれた金属製の杖にしがみつくようにして、山道を歩き続ける。

 その前を、あの男性のお化けは先導するみたいに進んでいった。写真みたいに動かず、こちらを向いたまま、後ろ向きに、山の奥へ奥へと。

 

 あの人が、ユイの父親なのはもう間違いない。

 

 ユイから聞いた外見の特徴はすべて当てはまっていた。ナニカの声を聞いていたというのも、きっとあのお化けのせいに決まっている。

 つまり、ユイの父親はもう亡くなっている。

 だからこの先にあるのは、ユイ達にとって残酷な真実なのかもしれない。知らない方がいい事なのかもしれない。

 でももう、ハルにできることはこれしか無かった。

 

 ――おねがいします。

 ――どうか、どうか。

 

 いったい何に、何をお願いしているのか自分でも分からない。

 なんでもいいから、信じたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 真っ白な木だった。

 暗がりの中でもよく目立つ、まるで光っているような白い木。

 その木の下に、ユイの父親の残像は吸いこまれるみたいに消えていった。

 その木の下の、白骨死体に。

 

「……ハル」

 

 それを懐中電灯で照らしていたユイが、青ざめた顔で振り返る。困惑したような、絶望したような、縋るような、そんな顔で。

 その顔から、ハルは目を逸らさない。逸らしては、いけない。

 

「ユイ、きっと、この遺体は――」

 

 

 

 

 ハルは、すべてを話した。

 ユイは、もう泣かなかった。

 ただ、「そっか」と消えそうな声を漏らしただけで。虚ろな笑みを浮かべながら、その頭蓋骨を撫でる。

 

「こんな、ちかくにいたんだね」

 

 平坦な声で父親に語りかけるユイの背中を、ハルはただ見ていた。

 ユイは、まるでネクタイを直してあげるみたいに、父親の首からロープの残骸を解く。きっと、あのお化けのせいで首を吊らされた跡を。

 やがて、父親の頭を元の位置に戻したユイが振り返る。

 

「ありがとう、ハル」

「なんだか、すっきりしたよ」

 

 ユイの目にはもう、涙は無かった。

 涙も、悲しさも、ぜんぶ涸れ果てたみたいだった。どこまでも暗い、夜みたいに真っ暗な、諦めだけがあった。

 その目を見返しながら、ハルは杖を握りしめる。

 こんなものなのか。

 こんなことしか、自分はできないのか。

 あんな偉そうなことを言っておいて、こんなことしか。

 ギリギリと握りしめる杖に、血が垂れていく。力を入れすぎたせいか、それともコトワリさまの叱責なのか、傷が痛んだ。

 左手を、見下ろす。

 

 ――左手……?

 

 気付きに、ハルは顔をあげる。

 あの人には、左手が無かった。

 何故?

 そんな目立つ特徴、聞けばユイはまっさきに挙げたはず。だから、左手を失くしたのは失踪した後、ここで首を吊る直前のこと。

 何故?

 あのお化けのせい? それもない。首を吊らせるなら、両手があった方が都合がいいはず。

 なら何故?

 何故?

 

 今度こそ、傷がたしかに熱を持った。ハルは、左手の傷を視下ろす。

 

 ――あなたが、切ったの?

 

 (そうだ)、と。コトワリさまが応えた。

 



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かぞく   -Reunion-

『――()()()()()

 

 

 その弱音(ことば)を聞いた時、ハルには何故かそれが「たすけて」と聞こえた。

 

 見える景色が、コマ落としみたいに変わっていく。

 

 ゴミだらけの神社から暗い山道に。山道から見慣れた夜の町に。町から、資材置き場に。

 

 まわりは暗いのに、視界は赤く染まっている。何か良くない血をかぶりすぎたみたいに、穢れていた。

 

 赤くて暗い視界のまんなかに、あの人がいる。

 

 ユイのお父さん。

 

 気弱そうな、やさしそうな顔を、ひどくやつれさせて。

 

 その顔を、恐怖と、諦観と、安堵に緩ませて。

 

 その左手を、こちらに差し出して。

 

 

 そして、コトワリさま(ハル)は、その()を断ち切った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「っ!?」

 

 意識が戻ってきた。

 ひどい立ち眩みみたいに視界が揺れて、倒れそうになったところをユイに支えられる。

 

 ――今のは……。

 

 ユイが何か言っているけど、それも耳に入ってこない。ただ、今見た光景だけがぐるぐると頭の中をまわっていた。

 

 あの人は、コトワリさまに左手を切られた。いや、()()()()()()()

 それが何の為なのかは分からない。でも、何か意味はあったはず。

 確かなのは、あの人は最後まで正気を失くしてはいなかったということ。

 なら、何か。

 

 ユイの手も振りほどいて、ハルは遺体の近くを探りはじめた。

 木の周りをぐるぐると歩いて、茂みに頭をつっこむ。大きな石を片っ端からひっくり返して、目的の物を探す。

 そんなハルの様子を見かねたのか、ユイはただ懐中電灯で手元を照らしてくれていた。

 そして、落ち葉をかき出した下、ほとんど土に埋もれるようにしていた「それ」を見つけた。

 

「あった……!」

 

 それは何の変哲もない、ただのノート。

 地面から掘り出すと、たくさんの虫がハルの手を這っていく。でももう、そんなことも気にならない。

 ページを開こうとして、止めた。開かないまま、すぐ傍にいたユイに向き直る。

 

「……ユイ」

「……うん」

 

 ノートと懐中電灯を交換する。

 これが父親の遺書だということは、きっとユイにも分かっていた。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 父らしい、整った字だった。

 整ったその字で、父の最期が綴られていた。

 

 

 

 

 大学で神社や神さまの研究をしていた父は、ある神――あの蜘蛛神の禁忌に触れてしまった。

 蜘蛛神は頭に響く声と巧みな話術を以て、父の命を狙い始めた。

 父だけではない。

 妻と娘。つまり母とユイの命も共に差し出せと、父に強要した。

 父はそれを拒み、しかし頭に響く声は日に日に強くなっていく。

 このままでは、愛する家族も巻き込んでしまう。

 だから父は、禁断の方法を使ったのだ。

 この土地に祀られていた、縁切りの神――コトワリさまの力を使って、自らと家族との縁を切った。

 その代償に、左手も失って。

 そして、本当にただ一人となった父は、ここで首を吊った。

 たった、ひとりで。

 

 

 

 

 バサリ、とノートが足元に落ちる。震える手で、ユイは顔を覆った。

 

「……お、とう、さん」

 

 崩れそうな体を、今度はハルが支えてくれた。

 足に力が入らない。体中の血がぜんぶ、胸の中に集まっていくみたいに。

 

「おとうさん……っ!」

 

 熱かった。

 ドクドクと、胸の中に血が集まっていく。冷え切って、凝り固まったそこに、また血が通いだす。

 火傷しそうなほど、熱い。

 

「お父さん――!」

 

 父の名を呼びながら、ユイが縋ったのは母だった。気絶したままの母にしがみついて、揺り起こす。

 母が、濃い隈のある両目を開いた。

 

「ユ……」

「お母さん! お父さんだよ! お父さんがいたよ!」

 

 ユイの顔はもう、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。そんなことにも構わず、吐息もかかりそうな近さで母に捲したてる。

 尋常でない娘の様子に呆然とする母に、荒れ狂う感情のままにユイは叫び続ける。

 

 お父さんは、裏切ってなんかいない。

 わたしたちを捨てたりなんてしてなかった。

 ぜんぶ、わたしたちのためだった。

 お母さんとわたしを守るために、お父さんは死んじゃった。

 ずっと、ここにいた。

 ずっと、わたしたちを守ってくれていた。

 

 混乱の極みにあるような様子の母も、少しずつ状況を理解していった。

 夫の名前が書かれた遺書を読んで、夫の服を着た白骨死体を見て、泣き続ける娘の姿を見て、母も、泣き崩れた。

 ごめんなさい。譫言みたいに、ずっと、そう繰り返していた。

 ユイは、ただ泣いた。

 2年分の涙を流し尽くすまで、ただ、泣き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ユイ」

 

 どれぐらい泣いたのか。

 木々の間から、白み始めた空が見える。その中でユイを呼んだのはハルではなく、母だった。

 

「その……」

 

 父の亡骸の傍に座り込んだまま、母が手を伸ばしてくる。

 その手に、ユイの体は反射的に身構えた。

 それを見た母の顔が、悲痛そうに歪む。

 

「ユイ、今まで、本当にごめんなさい」

「謝って済むことじゃないのは、分かっているけど」

「でも、こんなお母さんでも、許しては、くれないかしら……」

 

「…………」

 

 母に謝られるのは、いつものことだった。

 ユイのことは放っておいていた母は、でもユイに依存してもいた。

 叩かれた後は、いつも謝られた。謝られて、抱きしめられた。

 そして、次の日にはまた叩かれるのだ。

 でも、今度こそ。

 今度こそ、大丈夫だろうか。

 そう、考えて。ユイも手を伸ばした。

 震える手が、母に触れる瞬間。

 

 母の姿が、消えた。

 

「――え」

 

 突然消えた母に呆然とする中、今度は頬を張るような、いやもっと大きな音が聞こえた。

 同時に、母のうめき声も。

 

「あ――ぇ?」

 

 何の言葉も出てこない。目の前の光景を、頭が理解できない。

 ハルが、誰かの足にしがみついている。しがみついて、何か叫んでいる。

 誰かが、誰かの髪の毛をつかんで、その顔を殴り飛ばしている。何度も、何度も。

 狩人が、母を殴り続けている。

 

「――」

 

 土の上に倒れた母のお腹に、狩人の長靴(ブーツ)がめりこんだ。

 ほとんど意識も飛んでいたような母が、体をくの字にして悶える。

 

「……、めて」

 

 血のまじった吐瀉物を口から垂らした母の顔に、狩人は容赦なく膝を打ち込む。

 崩れ落ちそうな体を髪の毛をつかんで引きずって、頭をボールみたいに蹴飛ばした。

 

「やめて……」

 

 手加減はしているんだろう。

 そうじゃなければ、母の体はとっくにバラバラになっている。

 だからって、あんなの。

 

「やめて、やめてよ!」

 

 やっと動き出した体で、ハルと同じように狩人の腰にしがみつく。

 でも、狩人は止まらない。

 ハルとユイの力なんて、狩人には何の枷にもなっていない。ぐったりとした母を、更に殴ろうと引き起こす。

 

「やめてってば! お母さんが、お母さんが……!」

 

 死んじゃう。

 そう考えて、頭が真っ白になって、目の前が真っ赤になって。

 

 

 

 

 赤い刃が、狩人の頭を打ち据えた。

 

 

 

 

 ぜんぶの音がやんだ。

 狩人を止めるハルの叫び声も、母のうめき声も、狩人が殴る音も。

 ただ、ユイの荒い息遣いだけが流れた。

 じぐじぐと、赤い鋏を通して、人の体を打った感触が手に響く。赤い刃の先端に、同じぐらい赤い血がこびりついていた。

 衝撃で下を向いた狩人の頭から、特徴的な帽子が脱げ落ちる。

 

「お母さんを、はなして」

 

 狩人の額には、ユイと同じような裂傷が刻まれていた。ユイが、ユイの意思でつけた傷。流れる血の赤さに、ユイの心が締め付けられる。

 

「おじさんでも、ゆるさないから……っ!」

 

 震える足で、震える手で、震える声で、ユイは狩人に鋏を向ける。

 もう頭がぐちゃぐちゃだった。

 勝ち目なんてない。なんで狩人があんなことをするのか分からない。恩人なのに傷つけてしまった。お母さんが死んじゃう。

 もうぐちゃぐちゃで、なんにも分からなくて、でも、だから、ユイは狩人に戦いを挑んだ。

 そうしないと、いけないと思ったから。

 それが、ユイの意思だったから。

 

 

 ――――【月の香りの狩人】

 

 

 下を向いたままだった狩人が、ゆっくりと顔を上げる。

 額から流れる血が両目に入っても、その青白い目は閉じないままで。

 その眼光が、ユイを射貫く。

 

「――――ぁ」

 

 それだけで、もうユイは動けなかった。

 手足が死んでしまったみたいに冷たい。動くことも、逃げることもできない。

 狩人が左手を上げる。その手に握られた短銃が、ぴたりとユイの額を捉えた。

 

 死ぬ。

 

 死

 

 銃声が響いて、木々から鳥たちが一斉に飛び立つ音を聞いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 真っ暗で、何も見えない。

 

 あたたかい物が、ユイの頭を包み込んでいる。

 

 嗅ぎなれた匂いがした。

 

 この一晩で慣れてしまった、血の匂い。

 

 そして、自分を抱きしめる母の匂いが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぐらり、と。母の体が倒れた。

 母が地に伏せる音で、ユイは我に返った。

 

「……お母さん……? お母さん!?」

 

 死体みたいに動かない母を必死に抱き起す。自分を庇った母の背中をまさぐって、撃たれた傷跡を探す。

 でも、どこにもそんな痕は無かった。

 混乱するユイの腕の中で、母がうめき声をあげて、口を開く。

 

「……い、たい」

 

 母の顔は、腫れと痣で別人みたいになっていた。口から、折れた歯が転がり落ちる。

 そんな有様なのに、ユイには何故か母が笑っているように見えた。

 

「こんなに、痛かったのね」

 

 母の目から流れる涙が、腫れあがった頬を伝っていく。自然と、ユイの指はそれを拭っていた。

 

「ごめん、……ごめんなさい、ユイ」

「こんなに、痛い思いをさせていたのね」

「ずっと、ずっと……」

 

 母の体が崩れ落ちて、座り込んだユイの足元に頭を埋める。

 

 

「ごめんなさい、ユイ……」

 

 

 母は、もう「許して」とは言わなかった。

 ユイは許したかった。

 ずっと、許してあげたかった。

 許したかったけど、許し方を知らなかった。

 今だって、分からない。

 でも。

 でも。

 

「――――」

 

 何も考えないまま、ユイは母を抱きしめていた。

 2年前、家族が壊れてしまってから初めて、ユイは自分から母に手を伸ばした。

 ユイに難しいことは分からない。まだ10年しか生きていないのだから。

 きっと、大人でも分からないのに。

 ただ、母の命の危機に娘が身を挺して。

 ただ、娘の命の危機に母が身を挺した。

 それは、母娘(おやこ)の絆としては、不足だろうか。

 答えなんて、誰にも分からないまま、母娘は抱きしめ合った。

 

 

 

 

 夜が明ける。

 

 朝日が、木漏れ日となって差す中で、真っ白な木の下で。

 

 死体となった父と、傷だらけの母娘は、再会を果たした。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハルは、その光景をただ見ていた。

 これで、良かったんだろうか。

 自分は、すこしでも、ユイを助けられたんだろうか。

 

 ――そんなの……。

 

 そんなの、ハルに分かるわけもない。

 ユイがあれで幸せになれるのかは、ユイにしか分からない。

 ハルは、ただ全力を尽くした。尽くすことしかできなかった。

 これが、誰かを助けるということなんだろうか?

 左手の傷がチクリと疼く。それが肯定なのか否定なのかは、ハルにも分からない。

 

 ――何度も、ありがとうございます。

 

 苦笑しながら、ハルは左手を握ってコトワリさまに感謝を捧げる。

 自分だけではダメだった。

 ハルと、ユイと、ユイの両親と、コトワリさまと、そして……。

 

 狩人は、空に向けていた短銃を下ろした。

 まるで、ユイ達のいる日だまりを避けるみたいに、木陰で佇んでいる。

 そして、ハルが声をかける前に踵を返した。

 

「あ、まって!」

 

 いつの間にか杖は無くなっていて、片足で跳びながら狩人を追う。声が聞こえていないはずもないのに、狩人は止まってくれない。どんどん、距離が広がっていく。

 だから、ハルは大声で叫んだ。

 

「まってください!」

「ちゃんと、ちゃんとユイに言ってください!」

「このままじゃ、こんなの!」

 

 ちょっと怖くて変な人だけど、悪い人ではなかった。

 あんなことをしたのも、きっとユイ達のためだった。ユイ達のために、悪者になってくれた。

 ユイだって、絶対に分かってくれる。

 だから、だから!

 

 狩人は何も答えない。

 何も答えず、振り返りもせず、ただ奇妙な形の銃を空に向けた。

 

「ま――」

 

 引き金が引かれて、音じゃない何かが響いたのをハルは聞いた。

 何かが切れたような、破れたような、言いようのない感覚をハルが感じた後、

 木陰の中には、もう誰もいなかった。

 

 

 

 

   ◎

 

 

 

 

 長い夜が、ついに明けた。

 

 

 怪異に溢れた町を、滅びた街を、悪夢を、歩き廻り、駆け抜けた夜が。

 

 多くのお化けが、怪異が、獣が、上位者が、人々が、戦い抜けた夜が。

 

 その夜を、二人の少女は生き延びた。

 

 多くを失うはずだった少女達は、ある怪異と狩人の介入により、その運命を変えた。

 

 新たな運命が、その縁が、より良いものであったのかは、まだ誰にも分からない。

 

 運命も縁も、まだ始まったばかりなのだから。

 

 

 夜は明け、太陽は寸分の狂いもなく動き続ける。

 

 何事もなかったかのように、昼の世界が動き出す。

 

 

 だがその中に、ヤーナムの狩人の姿だけは、どこにも無かった。

 

 まるで、すべてが夢だったかのように。

 



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そうじ   -Farewell-

 蝉の大合唱が鳴り響く。

 ほぼ真上から容赦なく降り注ぐ日差しが、人型の石畳にくっきりとユイの影を焼きつけていた。大きく膨らんだゴミ袋でさえ、柔らかく溶けてしまいそう。

 暑すぎる。

 滴り落ちる汗をタオルで拭いながら、ユイは一時撤退を決めた。

 

「ハル、休憩!」

 

 箒で石畳を掃いていたハルが、杖をつきながら拝殿の方に歩いてくる。

 おぼつかない足取りは、ギプスを外したばかりの左足のせいだけじゃないことは、よれよれになったハルの表情からも明らかだった。麦わら帽子の下の青いリボンも、心なしか萎れたように見える。

 大きな水筒から冷えた麦茶を注いであげて、干からびたような親友に手渡す。それをゆっくりと飲み干してから、やっとハルは元気を取り戻したみたいだった。

 

「うー、あづい……」

「だから家で待っててって言ったのに」

「うー……」

 

 喋る元気は取り戻せても、動く元気にはまだ足りないみたい。

 すっかり参った様子のハルに呆れながら、ユイは保冷バッグを広げる。遠くから、12時を報せるサイレンが聞こえた。

 

 

 

 

 あの夜から、もう半月あまりが過ぎていた。その間、ユイとハルは忙しない日々を送っている。

 

 ハルは、すぐに病院に担ぎ込まれた。

 傷の量も深さもユイの比じゃなく、お見舞いに行った時は完全なミイラ状態だったものだから、最初はハルだと分からなかった。

 ハルの家族もてんやわんやだったと言う。元々、遠くの町への引っ越しを目前としていた中での、娘の入院。色々と大混乱だったことは想像に難くない。

 幸い、左足は後遺症もなく経過は順調。今はもう杖をついて山道だって歩けている。

 ただ、左掌の傷だけは完治しないそうだった。

 

「まさか、コトワリさまが神様だったなんてね」

 

 弁当箱からおにぎりを摘まみながら、しみじみとユイは呟く。

 目の前には、あの夜に比べて格段にきれいになった境内が広がっている。大きな人型の石畳にも小石ひとつ落ちていない。何日もかけてユイが掃除した成果だった。石碑に刻まれたコトワリさまのいわれも、その時に読んだのだ。

 

 ――理様(コトワリさま)は、縁を司る慈悲深い神さま。

 ――「もういやだ」と唱え、頭と手足のある物を捧げれば、望んだ悪縁を断ってくれる。

 ――そして、悪縁ではない繋がり。「絆」を断ち切るための禁じ手。

 

 コトワリさまの怪談は、その逸話が歪んだ形で伝わったものだった。あの恐ろしげな姿のせいなのか、それとも歪んだ信仰のせいであの姿になってしまったのかは、ユイには分からない。

 

「まあ……見た目が怖いからね」

 

 ハルもそう言いながら、左手の傷を撫でている。もしかしたら、怒られたのかもしれない。

 コトワリさまの鋏でついた傷は、まだハルの掌に残っている。時々、ハルを導くみたいに痛んだり疼いたりするらしい。一生ものの傷になってしまったけど、「でも心強いよ」とハルは満更でもないみたいだった。

 そのハルは、塩おにぎりを頬張って梅干しみたいな顔になっている。

 

「うぅ、しょっぱい……」

「汗いっぱいかくからね。お塩多めでってお母さんに頼んだ」

「うー……」

 

 何杯目かの麦茶を飲むハルに苦笑して、母に作ってもらったお弁当をつつく。

 

 

 

 

 あの後、ユイと母がまず向かったのは病院ではなく、警察署だった。

 行方不明扱いだった父の死を、正式に届け出る必要があったから。

 当然、発見した時の状況も聞かれたけど、あの山で見つけたと言った途端に警察の人は黙りこんでしまった。結局、ろくに何も聞かれないまま手続きは終わった。

 ダムで亡くなっていた人たちのことも忘れずに伝えたけど、それも施設に忍びこんだことを注意されただけ。

 母曰く、この町の大人たちは皆、お化けのことを知っているのだそうだ。知っていて、知らないふりをしているのだと。だから、ハルの怪我の原因と同じように、お化けが関わることにはすぐ蓋をしてしまう。

 大人ってずるいな、とユイは思った。

 

 でも、ユイの怪我についてだけは、そうはいかなかった。

 母は、ユイに暴力を振るっていたことを、すべて警察の人に話した。ユイは止めたけど、母は「けじめ」だと言って聞かなかったのだ。

 だから、ユイはしばらく母と離れて暮らす羽目になってしまった。保護とかなんとか言われて連れていかれた先で、施設の人に何度も訴えた。

 母は変わった、もう大丈夫だから家に帰してほしいと、何度も、何度も訴えた。あれだけ帰りたくなかった家に、今は必死に帰ろうとしているのがひどい皮肉に思えた。

 何日か後、ようやく帰れた家からゴミは消えていた。

 元々、家事が得意な母だったのだ。かつてのようにきれいになった家で母に出迎えられた時、ユイは涙が止まらなかった。そんなユイを、母も胸に抱きながら泣いていた。

 

 その後も、ユイは様々なことに忙殺された。

 父の葬儀をあげた。クロとチャコを家で飼う準備をした。ハルのお見舞いに行った。コトワリさまの神社を少しずつ掃除した。夏休みの宿題だって忘れてはいけない。

 日々は瞬く間に過ぎていって、そしてついにこの日が来てしまった。

 

「……明日だね」

「……うん」

 

 明日、ハルはこの町から引っ越す。

 夏が、終わろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「これあげる」

「あれ、ユイってカリフラワー嫌いだったっけ?」

「嫌いじゃないけど……なんか、なんとなく」

「?」

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

「わぷっ」

 

 布団に寝転んだハルの顔に、またチャコが飛びついた。引きはがしても、ボールみたいに跳ねまわるチャコはハルの長い髪にもじゃれついて、まるで落ち着きが無い。

 ユイは溜息をついて、ハルの背中にくっついていたチャコを摘まみ上げた。

 

「チャコ! だめ!」

 

 精いっぱい怖い顔をして叱りつけると、チャコはしゅんと耳と尻尾を下げる。思わず撫でたくなるけど、ここは心を鬼にして表情を保ち続けた。

 その内、チャコは尻尾を引きずるみたいにすごすごと寝床へ戻っていく。先に寝ていたクロが、片目だけを開けてそれを迎えた。

 

「ごめんね、うるさくて」

「いいよ、にぎやかだし」

 

 並べた布団の上で、パジャマ姿のハルがいつも通りに微笑んだ。

 ハルは、ユイの家に泊まりにきていた。

 あれ以来ほとんど一緒に遊べていない二人を見かねたのか、お互いの親が提案してくれたのだ。最後なのだから、夜通し起きていても良いという特別な夜。

 家にいるのは、二人と子犬たちだけ。母も、今日はハルの家にお邪魔している。

 お菓子とジュースをたくさん並べて、寝ころんだまま行儀悪く飲み食いした。そんなことだって今夜は許される。

 トランプ、ボードゲーム、スケッチブック、色々と準備したけど、結局はハルとお喋りするのが一番楽しい。

 面白い話、こわい話、なぞなぞ。お腹をかかえて笑ったり、悲鳴をあげたり、頭をひねったり、楽しい時間はどんどん過ぎていく。

 夜が更けて、話題も尽きて、瞼が重くなってきた頃、話はあの夜のことになった。

 

「ほんと、大変だったよね」

 

 ユイは、今も勉強机の上に置かれた赤い鋏を見る。

 夕方、ユイたちはこの鋏をコトワリさまに返そうとした。やっとのことで掃除を終えた神社で、拝殿に鋏と藁人形を供えると、コトワリさまが二人の前に現れた。

 久しぶりに見るその姿は相変わらず怖かったけど、蜘蛛神みたいに嫌な感じは一切しなかった。本当はやさしい神さまだということを知った後だからか、余計にそう感じた。

 でも結局、返そうとした鋏はまた返されてしまった。だから、この鋏はありがたく頂戴することにしたのだ。

 ……ユイの頭すれすれに鋏が突き刺さった時は、さすがに悲鳴をあげてしまったけど。

 

「あの街は、なんだったのかな」

 

 眠そうな目をこすりながら、ハルがつぶやく。

 ハルと一緒に迷いこんだ、あの大きな街のことはユイも気になってはいた。

 気になってはいたけど、あの時のユイはずっと気を失っていたのだ。実際に街を歩いたハルにも分からないのなら、ユイに分かるはずもない。

 

「あのお姉さんに、もっといろいろ聞けば良かったね」

「う、うん……」

 

 つい「治療」のことを思い出したのか、ハルの眉が下がっていた。たぶん無意識に、自分の左足を撫でている。

 ほぼ同じ目にあったユイとしても怖くないわけじゃなかったけど、とても親切な人だった。ハルの足を診てくれた上に、包帯や飴玉も持たせてくれて……。

 

「……あ」

 

 そういえば。

 ユイは立ち上がって、椅子にかけられたナップサックを探る。あれから本当に色々とありすぎて、今の今まですっかり忘れていた。

 

「なに、それ……?」

「最後にね、お姉さんがくれたの」

 

 ハルが欠伸まじりに聞いてくるそれは、真っ白なリボンだった。輝くような光沢といい、繊細なレースといい、相当に上質な物だということがユイにも分かる。

 こんな高そうな物、本当にもらって良かったんだろうか。

 

「あれ?」

 

 すべすべとした手触りを楽しんでいると、リボンが途中で千切れていた。補修したような跡もあって、元から千切れていたことが分かる。きれいなのに、なんだかもったいない。

 せっかくだから髪に結んであげようとハルの方を向いて、ユイは苦笑する。

 ハルはもう寝息を立てていた。口を半開きにして、すっかり眠ってしまっている。

 朝までお話できないのは残念だけど、ユイもそろそろ限界だった。ハルにタオルケットをかけてあげて、部屋の明かりを消す。隣の布団にユイも寝ころんだ。

 

「……おやすみ、ハル」

 

 寝て、朝になれば、それでお別れ。

 涙を一粒だけ流して、投げ出されたハルの左手に右手を重ねる。そして、ユイも目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ◎

 

 

 

 

 

 

 

 

 丑三つ時。

 

 もっとも夜が深く、陰の濃いこの時。

 様々なお化けが跋扈する町中とは異なり、少女たちが眠る部屋は静寂に満たされていた。

 聞こえるのは、微かな二人の寝息のみ。

 その静寂の中、音もなく輝くものが三つあった。

 

 一つは、赤い裁ち鋏。縁神より授けられた、正真正銘の神器。

 一つは、白いリボン。かの地より持ち帰られた、ある縁物。

 一つは、刃に残った血。人を超え、人を失ったモノの、()()()()()

 

 心の奥底で少女が願ったか、あるいは文字通りの神の悪戯か。

 欠片ほどであっても、啓かれた蒙が成した交信か。

 

 その夜、少女たちの魂は「夢」へと至った。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

 

 

 

 月のにおいがした。

 

 薄く開いた目に映ったのは、斑色(まだらいろ)の空。

 青空でもない、曇り空でもない。夕焼け空でも、夜空でもない。

 見たことのない、そんな色の空。

 そこに浮かぶ、真ん丸の、とても大きな、月。

 

「……」

 

 それを見てから、ユイは目を閉じる。

 ゆっくりと10数えてもう一度、目をあけた。月がユイを見返している。

 

「……勘弁してよ」

 

 そろそろ、このパターンにも飽きてきた。

 気絶したり眠ったりした後は、たいてい大変な目にしかあっていない。それが、こんな現実味のない場所なら尚更だった。静かに体を起こすと、パジャマから伸びる手足をさわさわとくすぐられる感触に身震いする。

 辺り一面が、真っ白な花に埋め尽くされていた。

 この世のものとは思えない、それこそ天国かどこかと言われた方がよっぽど納得できそうな光景。ただ、所々に立てられた木の十字架みたいな物が、この場所をどこか不気味に見せてもいた。

 とりあえず動かないことには始まらない。ひとつ息を吐いてから立ち上がろうとして。

 

「……ハル?」

 

 すぐ隣に、ハルが寝ていた。ユイの手を握ったまま、呑気にすぴすぴ寝息を立てている。

 起こしたハルが腰を抜かしたのは、もう言うまでもなかった。

 

 

 

 

「とりあえず行こっか」

「なんだか、慣れちゃったね」

 

 二人で苦笑して、自然に手を繋ぎながら歩きだす。

 すぐそこに、とても大きな木が立っていた。木の周りにはお墓みたいな石がいくつも並んでいて、それほどに太くて立派な木。その根本に置かれた、古びた車椅子がユイの目にとまる。

 

「乗る?」

 

 冗談半分、心配半分でハルに言う。杖なしではまだ左足が痛むみたいだから、使ってみたらどうかと思ったのだけど。

 

「……あれ?」

 

 ハルが自分の足を見下ろす。そのまま、左足を撫でたり叩いたり、ぴょんぴょん跳んだりしはじめる。

 

「痛くない」

 

 やっぱり夢?

 そう言って、ほっぺたをつねるハルの目に涙が滲んで、夢じゃないことが分かった。さくさくと、花畑を二人で歩く。遠くに洋館みたいな建物が見えていた。

 

 

 

 

 匂いが、だんだん鮮明になってくる。

 イヤな匂いではないけど、今まで嗅いだどんな匂いとも違う。とにかく不思議な匂い。そもそもこれは本当に「匂い」なのか、だんだんユイにも分からなくなってきた。

 すん、とハルも鼻を鳴らす。

 

「この匂い、やっぱり」

「月の匂い?」

「そう、それ!」

 

 あの時、あの街の廃病院、奥に寝かされていた白骨死体からも同じ匂いがするとハルは言っていた。そして、たぶんあのお姉さんも。

 これがハルの言う「月の匂い」かと、ユイも深呼吸してみる。澄んだ空気の中に花の匂いと、少しだけ血の匂いもした。

 

「……そういえばね」

 

 ハルが、どこか言いにくそうに口を開く。

 

「あの狩人さんからも、同じ匂いがしたよ」

「……」

 

 狩人。

 その名前を聞いて、ユイの表情が曇った。

 あの後、気が付けば狩人の姿はなくて、ハルが後を追ったけれど、目の前で突然消えてしまったのだという。

 あれだけ助けてもらったのに、最後はあんなお別れになってしまった。それは今でもユイの心に小さな棘になって残っている。

 

 ――もし、また会えたら……。

 

 そう思ってやまなかったけれど、どこにいるのかも分からない、それどころか本当にこの世の人間なのかも分からない相手にもう一度会える可能性なんて、無いのと同じだった。

 ため息をひとつだけして、頭を振る。今はそのことを考えている場合じゃない。ユイは頭を切り替えた。

 花畑を囲むような鉄柵に辿りついて、アーチ状の出入り口に設けられた扉に手をかける。ハルと二人で扉を開けようとした、その時。

 

 

 

 

 ガチャン! と、目の前の扉が勢いよく開かれた。

 

 

 

 

 弾かれたみたいにハルと後ろに跳ぶ。

 すぐにハルの手を引いて走れるよう、重心を落として――。

 

「…………へ?」

「…………は?」

 

 二人で、馬鹿みたいな声を漏らす。それほど、目の前のモノに言葉をなくしてしまった。

 

 まず何よりも目立つのは、その頭。顔は見えない。その()()()には、一切の覗き穴も模様も無かったから。

 その色は黄金。何かを見せつけるように、ギラギラと光を反射している。

 右手には巨大な車輪を担いで、左手にはまた巨大な大砲を括り付けている。その人間離れ常識離れした装備に、ユイは見覚えがあった。

 そして何より。目の前のソレは、あとは薄手のハーフパンツしか身に着けていなかった。

 固く引き絞られた筋肉で形作られた裸体が、少女たちの目に惜しげもなく晒されている。

 

 

 変態だ。

 

 

「きゃあぁ――――っ!?」

「うわあぁ――――っ!?」

 

 ハルの悲鳴と、ユイの絶叫と共に。

 変態の鳩尾にユイの飛び蹴りが火を吹いた。

 

 ――あれ、なんか……。

 

 割れに割れた腹筋に、ユイの素足が突き刺さる。

 その蹴った感触にひどい既視感を覚えて、ユイはげんなりとため息をついた。

 



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ゆめ    -His dream-

 主の様子がおかしい。

 己にしがみついている狩人の背中を撫でながら、人形は首を傾げた。

 それ自体はなんら珍しいことではない。

 また誰にも呼ばれなかっただの、血晶石が出なかっただの、あの赤蜘蛛ぜったい許さんだの、何かというと人形に抱きついて精神の均衡を図るのは狩人の常であった。

 それに不満など無い。己はその為に創られた存在であり、そもそも何かに不満などを抱けるようにも出来てはいない。

 

 故に、珍しく血塗れでなく、何故か額にだけ傷を残した狩人が戻ってきた時、一も二もなく抱きついてきた彼を慰めるのもいつもの事であった。

 

 だが狩人は何も語らず、ただ人形の固い胸に顔を埋めるばかり。

 愚痴をもらすわけでもなく、怨嗟の声をあげるわけでもなく、後悔に(なみだ)を流すわけでもない。

 また何か、ひどく悲しいことでもあったのだろうか?

 それにしては、一瞬だけ見た狩人の顔はどこか穏やかにも見えた。まるで、別人のように。

 なんであれ、心のない己に分かることではない。

 そうして、いつものようにオルゴールを鳴らしながら狩人の背中を撫でた。

 いつものように。もうずっと、そうしてきたように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ※ ※ ※

 

 夜廻さんたちへの、よくわかる解説!

 

 月の香りの狩人とは、悪夢の上位者によって夢に囚われた狩人である!

 何度死んでも蘇って、いつまでも終わらない夜をさまようことになるぞ!

 悪夢の中を永遠にさまよって、獣を延々と狩り続ける!

 

 まるで、お化けのように。

 

 ※ ※ ※

 

 

 

 

 

 

 

 

「狩人さま、お客さまがお見えです」

 

 どれぐらいそうしていたのか。

 この夢に正常な時間などあろうはずもなく、ただオルゴールを千回ほど巻き直した頃だったか。

 前触れもなく現れた来訪者の気配に、人形は死体のように動かなかった狩人をやさしく揺り起こした。

 のろのろと起き上がった狩人は、何かを感じたのか、以前の客を思い出したのか、あるいはただ呆けているのか、装束を脱ぎだす。ほぼ全ての服を脱ぎ散らかした上に金のアルデオのみをかぶり、車輪と大砲を担いでフラフラ歩いていく主を見送り、人形も立ち上がった。

 散乱した装束を畳み、スカートの中から双刃を備えた長刀――落葉を取り出す。

 また指導が必要なのかもしれない。これもまた己の存在意義だと人形は認識していた。助言者は既になく、上位者の赤子たる主の伴侶であり母であることが人形の役目なのだ。

 だが己が手を下すまでもなく庭園からは悲鳴と怒号が木霊し、人形はまた首を傾げた。

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 まるで犬でも躾けるかのように、ユイは腕を組んでこちらを見下ろしていた。だがその目は、以前よりもずいぶんと冷たい。

 

「ハルになんてもの見せてくれるの、おじさん」

 

 最近、そういうのすごく厳しいからね? そうじゃなくても捕まっちゃうけどさ。だいたい……。

 こんこんと続くユイの説教を聞かせられながら、正座する半裸の変態――つまり貴方はその巨大な三角形(あたま)を項垂れる。

 脱いだ理由は特にない。強いて言えば、ただなんとなく(脱ぎたかったから)だ。だがそう言ってしまえば、目の前の少女の怒りに油を注ぐことになるのは明白だった。

 ハルはといえば、真っ赤な顔でまだ向こうを向いたままだった。時々チラとこちらを見ては、また慌てて顔を逸らしている。視線があった瞬間にさりげなくサイドチェストを決めると、火が出そうな顔を両手で覆ってしまった。……だが小さな手の指の隙間から瞳が覗くあたり、彼女の好奇心も限界と見える。

 そんな貴方の態度に業を煮やしたのか、ユイの蹴りが再びアルデオに炸裂した。

 衝撃でグルグルと回転する金色三角を少女らしからぬ力で掴んで止めた後、ユイが眼前(?)まで笑顔を近づけてくる。

 

「聞いてる? おじさん」

 

 貴方の脳に人形の姿が浮かんだ。

 

『聞いていらっしゃるのですか? 狩人さま』

 

 そう言いながら、球体関節の手に握られた長刀と短刀はどこまでも流麗に、冷酷に貴方の体を斬り刻む。人形は時々ああなる。心など無いはずなのに、いや無いからこそ、あそこまで容赦の無い指導を貴方に施すのだろう。

 全身から冷や(あせ)を流しながらも、体はガタガタと震えてくる。今こうしている間にも、人形は落葉を抜刀(バキィン)しているかもしれないのだ。

 貴方はユイに懇願した。

 

 そろそろ服を着ても良いだろうか。寒いし、これでは刃からも身を守れない。

 

 そもそも狩人の装束とは総じて軽量であり、着ていても脱いでいても動きへの影響は少ない。だが当然、身を守る効果には雲泥の差がある。つまりは、半裸であることには何の利点も無いのだ。

 それを聞いたユイは、にこりと微笑んで。

 

「じゃあ最初から脱がなきゃ良かったよね?」

 

 ユイは正しく、そして正論であった。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

「お客さま、たいへん失礼をいたしました」

 

 背後の、高い位置からかけられた涼やかな声に、ユイはぞっと総毛だった。

 驚いた猫みたいに飛び退って、ハルを背中に庇う。視線を向けた先には、こんな近くに来られるまで気付かなかったのが不思議なほど、大きな女の人がいた。

 

 怖気がするほど綺麗な人だった。

 狩人より更に大きな、2メートルを軽く超える長身。それでいて、その体型は完璧なバランスを保っている。

 血の気のない真っ白な顔には表情が無くて、色の無い目がユイ達を見下ろしていた。

 顔も体型も大人の女性なのに、身につけているのは着せ替え人形みたいな可愛らしい服。それがどこかアンバランスで、不気味なのに似合っている。

 そして、腰の前で行儀よく重ねられた指が……。

 

「はじめまして、私は人形。この夢で、狩人さまのお世話をしているものです」

 

 球体関節をしゃなりと動かしながら、その動く人形は、人形を名乗った。

 ハルと二人で口をあんぐりと開けていると、「ひゃっ」というハルの声で我に返る。見れば、二人の足元には見慣れた使者たちが何体も生えてきていた。

 思わずハルと顔を見合わせて、また苦笑する。

 

「慣れちゃったね」

「もう、いちいち驚いてられないって」

 

 この夏で、すっかり不思議なものに慣れてしまった。人形が動いて喋ったぐらいでなんだというのか。

 ユイ達を見て首を傾げる人形がなんだかおかしくて、また二人で笑った。

 

 

 

 

 人形から手渡される服を着ながら狩人が言うことには、ここは「狩人の夢」という場所らしい。

 でも、ある街の捨てられた古工房が本来の場所であって、ここはそこを元にした別の世界でなんとかかんとか。

 最初は、お化けみたいなモノが作り出した世界だったけど、それを狩人がやっつけたから今は狩人の世界だとかなんとかかんとか。

 人形も、使者たちも、この世界の住人であって現実には存在しないとかなんとかかんとか。

 

「うん、分かった。どうせ分かんないって分かったから、もういいや」

 

 ユイは理解を放棄した。ユイに難しいことは分からないけど、たぶんユイじゃなくても分からないと思う。

 隣にいるハルは、分かったような分かっていないような顔をしている。

 そのハルが、不思議そうな顔で呟いた。

 

「ねえユイ。なんで、わたしたち英語が分かるのかな……」

「……あ!」

 

 いま気付いた。狩人も人形も、さっきから英語しか話していない。なのに、何故かユイ達にはそれが聞き取れていた。

 服を着終わった狩人が、頭の三角形(アルデオ)を外しながら答えてくれる。

 

 ここは私の脳の中のようなものだ。故に、言葉も通じるのだろう。

 

 耳から聞こえるのは英語なのに、頭では意味を理解できる。でもその内容はさっぱり理解不能で、いろんな意味でユイは頭痛がしてきた。

 それも、狩人の素顔を見た時にはもう、どうだって良くなってしまう。

 

 狩人の顔は想像していたよりもずっと、普通だった。

 人魂みたいに光る青白い目だけはそのままだけど、それ以外はどこにでもいそうな男の人。

 普通の男の人に、あの変わった目玉を後からくっつけた。そんな印象をユイは覚えた。

 そして、その額に走る裂傷。

 

 その傷から、ユイは目を逸らした。

 あの時はユイも必死で、母に暴力を振るう狩人を止めることで頭がいっぱいで、気が付いたら鋏で殴ってしまっていた。

 今はもう、狩人があえて悪役を演じてくれたんだということはユイにも分かっている。荒療治もいいところだったけれど、あれのおかげでユイと母は本当の意味で仲直りできたのだ。

 言いたいことも、言わなければいけないこともあったはずなのに、いざ目の前にすると言葉が出てこない。視線をさまよわせていると、ハルに背中を押された。一歩前に出てしまって、狩人と目が合う。

 

「……あ、おじさん、あのね」

 

 言葉を選んでいたら気持ちが萎みそうだった。ええいままよ、とユイは思うままに口を開く。

 

「殴っちゃって、ごめんなさい! もう訳がわかんなくて、それでつい!」

「で、でもおじさんもどうかと思うなっ! いきなりお母さんボコボコにしちゃってさ!」

「ていうか、言ってよね! 言ってくれないと分かんないって!」

「それで、それで、あの後……、お母さんと、仲直りできたんだ」

「おじさんの、おかげで。だから、その」

 

「ありが、とう……」

 

 最後は消えるような声だったけど、何の音もないこの夢ではよく響いた。

 謝って、お礼を言っただけなのに、やけに顔が熱かった。なんだか気恥ずかしくなって、ぷいと顔を逸らす。

 

 ハルが、「素直じゃないの」と呆れたみたいに呟く。……後で仕返ししてやろうと心に決めた。

 使者が、【かわいい奴】と手記を掲げている。じっとり睨んでやると地面の下に逃げていった。

 人形が、首を傾げながらパチパチと拍手している。分からないならほっといてほしい。

 狩人が、表情は変えないままで目と鼻と耳と口から血を流していた。それどういう反応なの!?

 

 その内にハルが笑いだして、思わずそのおでこにデコピンしてやる。それをまたハルが笑って、すぐに鬼ごっこが始まった。

 迷路みたいな坂道をぐるぐると走り回っていると、そこら中から使者が生えてきて応援でもするみたいに呻き声をあげる。

 ずらりと並んだ祭壇に置かれていた器みたいな物を蹴飛ばしてしまって、狩人がまた血を噴き出していた。

 人形の背中に隠れたハルを捕まえようとして、三人でもみくちゃになった時は、人形の顔もどこか困っているように見えた。

 ハルの笑い声はずっと絶えなくて、最後はユイも笑っていた。

 二人で遊ぶのは、ずいぶんと久しぶりだったから。

 

 

 

 

 息が切れるまで走り回った後、ハルと二人で階段に腰掛ける。

 笑って、走って、ひとまずは満足できたけど、まだまだ物足りない。

 人形がいる洋館の中からは、カチャカチャと食器が鳴る音と甘い香りがしてきて、思わず期待してしまった。

 隣に座ったハルは、長い髪をかきあげて汗ばんだ首をパタパタ仰いでいた。

 ユイもハルも寝る前だったから、髪は下ろしたまま。お気に入りのリボンも外してしまっている。

 

「こんなことなら、結んでおけば良かったね」

「せっかくだからさ、これ使おうよ」

 

 ポケットに入っていた、白いリボン。それでハルの髪を結んであげようとした時、食器が散乱したような音が響き渡った。

 人形が食器を割ったのかと思ったけど、その人形はどこか不思議そうな様子で洋館から顔を出している。

 

「……おじさん?」

 

 音の発生源は、狩人だった。

 さっきまで変な祭壇に変な器やら変な花やら変なカビやらを供えていた狩人は、今は呆然とした顔でこちらを見ている。その足元で、落ちた器がカラカラ揺れていた。

 そのまま、ふらふらした足取りでユイ達に近づいてくる。その間も、青白い目はユイの手元をずっと凝視していた。

 震える手がユイの手に握られたリボンを掴もうとして、触れる直前で止まる。

 

 貴公、それは、どこで手に入れた。

 

 ハルと顔を見合わせる。

 どこで手に入れたか。つまり、あの街がどこだったのかは、ユイ達の方こそ知りたかった。しかも、どう伝えたものか。

 仕方なく、あの夜に狩人と別れた後からのことを順を追って話す。

 ハルを見つけたこと。変な鐘に吸い込まれて、ボロボロの街に飛ばされたこと。

 そこで出会った、若い女の人から貰ったこと。不思議なランプに触って、なんとか戻ってこられたこと。

 話していくほどに、狩人は何か信じられない事を聞いたみたいに、わなわな震えだす。最後は口を覆いながら頭を抱えてしまって、なんだか変な姿勢になっていた。

 よく分からないけど……。

 

「気になるなら、もっとよく見てみたら?」

 

 特に何も考えず、開かれていた狩人の手に、リボンを乗せた時。

 青白い目が、見開かれた。

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 この感覚には、覚えがあった。

 あの大聖堂で、獣と化した教区長を狩った後。祭壇に祀られていた異形の頭蓋骨に触れた時。

 その物の過去を、遺志を脳の瞳で覗く、この感覚。

 

 ああ、ならば。

 ならば、これは。

 本当に、君なのか。

 

 貴方の意識は、遺志の中へと溶けていった。

 



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ありがとう -for You-

 狩人なんて、ほんとうに勝手だ。

 

 

 

 

『……え、えっ……』

 

 窓ごしにわたされた、真っ赤なブローチ。

 とても大きくて、とても綺麗なブローチ。いつも、母の胸で光っていた。

 今はもう、その色も褪せて見えるほどの鮮やかな血に塗れている。

 誰の血かなんて、考えるまでもない。

 

『獣狩りさん……本当なの?』

 

 獣狩りの夜にひとりぼっちになっていた私の前に現れた、獣狩りの狩人さん。

 ぜんぜん知らない声で、でも懐かしい香りがした狩人さん。この街ではありえない程に親切で、私のお願いを聞いてくれた。

 母を、探しにいってくれた。

 

『……お母さん……お母さん……』

 

 その人は、たしかに母を見つけてくれた。でも、母はもう帰ってこない。

 私はもう二度と、母には会えない。

 

『ひとりはいやだよう……』

 

 狩人であった父は、もういくつも前の夜から帰ってきていない。

 この街で、行方知れずになった人が帰ってくることなどない。見つからないか、見つかっても、死体か獣になっている。

 私は、ひとりになってしまった。この街の、この獣狩りの夜で、ひとりに。

 私は泣いた。

 悲しさと、寂しさと、恐怖と、絶望と。でも心の底ではこうなると思っていたという、諦め。

 私が泣いている間に、あの人は行ってしまった。何も言わずに。

 そのまま、もう二度と戻ってはこなかった。

 

 

 狩人なんて、ほんとうに勝手だ。

 

 

 泣き尽くした時にはもう、家の外も中も完全な夜に満たされていた。

 獣狩りの夜は、特別な夜。いつも通りに朝が来るとは限らない。獣除けの香もいずれ無くなる。父も母も、もう帰ってはこない。

 私は、外に出た。

 もうここにはいられない。何も考えず、ランタンだけを持って、獣狩りの夜を廻りだした。

 

 

 

 

 街の中は通れない。街中はもう、獣になった人たちで埋め尽くされていた。

 だから私は、人気のない方へ、人がいない方へと進んだ。

 行きついた先は、下水道。

 たしかに人はいなかったけど、だからといって安全ではなかった。

 死肉を啄みすぎて飛べない程に肥えたカラス、ブヨブヨした腫瘍をぶらさげた大ネズミ、そして、巨大な人食い豚。

 走った。ただひたすら、走って逃げた。

 汚物と汚泥でいっぱいの道を、後ろから迫る重い足音と汚い鳴き声から。

 走って、走って、走って、逃げて、逃げて、逃げて。

 髪に結んでいたお気に入りのリボンを半分食いちぎられたところで、小道に飛び込んだ。

 助かった。怖かった。

 怖くて、怖くて、手も足も、体も体の中も血もぜんぶが震えて、もう一歩も動けなかった。

 なんで、こんな怖い思いをしないといけないの。私が、何をしたの。

 もう、すべてが嫌になった。

 道端に置かれた鉄の棺桶。なんとか、その中に入る。

 目と耳と、心もふさいで、体を丸めた。

 外は地獄。行く場所も無い。だったら、ずっとこの中にいよう。

 すべてを拒絶して、私は眠りに落ちていった。

 

 

 

 

 どこか遠くで、赤ん坊の泣き声が聞こえて、そして止んだ。

 

 

 

 

 棺桶の隙間から差し込む光で、目を覚ました。

 重い蓋をこじ開けて外に這い出ると、街は朝日に照らされていた。

 夜明けだ。

 私は、生き残った。

 獣狩りの夜が、終わった。

 でももう、この街もすべてが終わってしまっていた。

 崩れた廃墟。焼かれた廃屋。そこら中に散乱する骨、骨、骨……。

 人の声も獣の声もしない、耳が痛いほどの静寂。

 ほんの一夜だったはずなのに、何もかもが朽ち果てていた。

 いったい、何が起こったのか。

 本当は、私も死んだんじゃないか。

 フラフラと歩く私の影に、もう一つの影が重なった。

 

『あんた……』

 

 振り返った先に、(カラス)がいた。

 

 

 

 

 一目で、狩人だと分かった。それほど、その人は異様な姿をしていた。

 くたびれた帽子の下に見えるのは、鳥の嘴のような医療者の仮面(ペストマスク)

 ありふれた狩装束の上から、黒い羽根でできたマントを羽織っている。

 まるで鴉のような、いや、明らかに鴉を模した姿。

 

『まさか、(あたし)の他に生き残りがいるなんてね』

 

 でも何よりも驚いたのは、その狩人が女性――しかも母よりも年上そうな声だったこと。

 その英語には独特な訛りがあって、蓮っ葉な口調なのにどこか安心する声でもあった。

 何も答えられず固まっている私を、その人は仮面の目穴ごしにじろじろと見てから。

 

『あんた、ガスコインの(ガキ)かい』

 

 唐突に響いた父の名前に、気が付けば私はその人に掴みかかっていた。

 お父さんを知っているの。どこにいるの。お母さんもいないの。いっしょにさがさないと。

 そんなことを言った、気がする。

 

『死んだよ』

 

 鋭利な刃のような答えだった。

 なんの前置きもなく、なんの気遣いもなく、斬り捨てるように、その人は事実を口にした。

 

『あんたの親父は獣になったのさ』

『獣になって、狩人に狩られた』

『女房……あんたの母親も、同じ場所で死体を見たよ』

 

 私は手を離した。涙は、出なかった。

 きっと本当は、分かっていたから。

 

『目を逸らすんじゃないよ』

『あんたの親は二人とも死んだ。死んだんだ』

『……しっかりしな』

 

 この街では、死が日常だった。

 安らかに死ねるということは、この街ではこの上ない幸せなのだと、そう父は言っていた。

 狩人であった父のその最期は、幸せな死だったのだろうか。

 どちらにせよ、父は遠くに行ってしまった。母を連れて、私ひとりを置いて。

 

 

 狩人なんて、ほんとうに勝手だ。

 

 

『来な』

『ここにいても、野垂れ死ぬだけさ』

 

 どれぐらい呆としていたのか。

 その人はそう言うと、さっさと歩きだしてしまった。もう何も無くなってしまった私には、それを追いかけることしかできなくて。

『死に損なっちまったよ、まったく』と吐き捨てるような呟きが聞こえた。

 

 

 

 

 そして、私はその人――おば様と、街の外に出た。

 

 

 

 

 おば様との旅は、過酷だった。

 街へと続いていた雑草だらけの街道を、ただひたすら歩く。

 こんなに長い距離を歩くなんて初めてだった私は、すぐに足を痛めた。

 でも、おば様はどこまでも冷たくて厳しかった。

 私を背負ってくれることも、手を引いてくれることもなく、座り込む私を置いてさっさと行ってしまった。

 そうなれば私はもう、自分の足で歩くか、ここで死ぬしかない。

 泣いたってなんにもならない。誰も助けてくれない。助けてくれる人は、二人とも死んでしまった。

 涙をぬぐって、半分になったリボンで髪を縛る。

 長いスカートの裾を裂いて、短く仕立て直す。

 可愛いだけの靴は脱ぎ捨てて、スカートの切れ端を血豆だらけの素足に巻いた。

 拾った木の枝を杖にして、私は歩きだす。

 

 死にたくなかった。

 

 あの街では、死が日常だった。

 安らかな死は幸せだと父は言っていたけど、あの死んだ街を見た後では信じられなかった。

 道端に散乱した骨。炭化した十字架に括りつけられた骨。誰にも顧みられない、消えていくだけの、骨。

 あれが死後に待っていることのすべてだというのなら、ひとりで死ぬことはとても怖くて寂しいことだと思った。

 生きたかった。

 生きて、生きている人に会いたかった。

 そのために、私は歩き続けた。

 

 

 

 

 篝火の傍に座っていたおば様は、ようやく追いついた私に、黙って肉をくれた。

 何の肉を焼いたのかもよく分からないそれを、私は夢中で頬張った。

 涙が止まらなかった。

 

 

 

 

 おば様との旅は続いた。

 いくつかの街を点々として、でもおば様は冷たいままだった。すこしでも私が甘えようとすれば、冷たく突き放された。

 ろくに会話も無い。おば様は名前も教えてはくれなかったし、私の名前だって聞かなかった。

 ただ、父とはどういう関係なのかを聞いた時。

 

『ただの腐れ縁さね』

 

 それだけは、答えてくれた。

 

 

 

 

 今まででいちばん大きな街に着いた。

 おば様は私を安宿に放り込んだ後、いつものようにふらりといなくなった。

 そして、そのまま帰ってこなかった。

 途方に暮れる私を訪ねてきたのは、気難しそうな老人。老人は、おば様と似た訛りで、どうでもよさそうに話し始めた。

 

 おば様の古い知り合いだというその老人は、この街で診療所を営んでいる医者。

 そして私は、成人するまでの間、診療所の下働きとして住み込みで働くことになった。

 すべて話はついている。

 

 そんなことを、言った。

 そんなことを言われても、急すぎて頭がついていかない。

 混乱する頭で、おば様はどこにいるのか、それだけはなんとか聞いた。

 老人は、すこし間をおいてから『知らん』と、どうでもよさそうに答えた。

 

 

 

 

 狩人なんて、ほんとうに勝手だ。

 父も、おば様も、「あの人」も、みんな勝手だ。

 私を守るだけ守って、助けるだけ助けて。最後は、ほったらかし。

 みんな、私を置いていなくなってしまう。

 

 

 

 

 ――しっかりするんだよ。

 

 

 

 

 おば様のその口癖だけが、頭に響いて。

 私はまた、歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 

 

 

 

 泣き崩れる狩人を、ユイとハルはただ見ていた。

 白いリボンに顔を埋めるみたいにして泣き続ける狩人の目からは、血じゃなくて透明の涙が流れていた。

 ユイには、狩人が泣いている理由なんて分からない。

 思えば、狩人のことは何ひとつ知らなかったし、ユイ自身のことだってほとんど何も話してはいなかった。

 それは恩人、いや、友だちに対しては、あんまりではなかったか。

 

 ――あとで、いっぱいお話しようね、おじさん。

 

 でも今はとりあえず、この変わった友だちが泣き止むのを待つのが先。

 狩人の背中を撫でる人形に並んで、ユイもその大きな背中を撫でてあげることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

   <○>

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝日に掲げた頭蓋骨からは、まだ微かに月の香りがした。

 

 

 

 

 診療所の廃墟で不思議な少女たちを見送った私は、そのまま朝を待った。

 獣狩りの夜がまだ続いていたなら朝が来る保証は無かったけど、幸いにもそうではなかったらしい。

 廃墟となったこの街――ヤーナムが朝日に照らされ、群衆の影も見えなくなったのを確認してから、足早に街を脱した。

 鞄に、診療台の上にあった人骨を詰め込んで。

 

 

 

 

 あの時、おば様と歩いた街道を今度は一人で歩く。

 私はまた、ひとりで歩いている。

 

 

 

 

 私が成人してすぐ、老人――先生は亡くなった。

 あとは勝手にしろと。ただそれだけを言い遺して。

 先生の元で働きながら知ったのは、ヤーナムの医療は外の世界より異常なほどに進んでいたこと。そして、あまりにも道を外れていたこと。

 今なら分かる。ヤーナムの医療者たちに、患者を救いたいという意思なんて欠片も無かった。求めていたのは、もっと別の何か。

 それを知りたいとは思わない。それはきっと、獣だとか、あの影たちだとか、ああいう恐ろしいモノに違いないのだから。

 私は新米の医者として診療所を継いだかたわらで、旅医者の真似事も始めた。

 街の中だけでなく外にも、より遠くに、より多くの人に医療を届けられるように。ヤーナムより数段遅れた、でも正しい医療を。

 私なんかがいてもいなくても、第二のヤーナムが生まれるとは思わないけれど。ほんの一滴でも流れる血と涙を減らせるのなら、私は医者を続けたいと思う。

 

 

 

 

 ヤーナムからすこし離れた、街の尖塔が霞んで見えるか見えないか、そんな場所の樹の下に、骨を埋めた。

 適当に摘んできた花を供えて、異邦の祈りを捧げる。簡素な木の墓標に刻む名前を、私は知らない。

 

 

 

 

 父から聞いた、狩人達に伝わる不思議な話。

 

 狩人は、一度だけ「夢」を見る。

 その夢は一夜だけのものだけど、何かを果たすまで夜が明けることはなく、夜が明けるまで死ぬこともない。

 その「何か」は夢を見た当人しか知らず、夢から覚めた狩人も、そのことは忘れてしまう。

 だから、誰にも分からない。

 そして、夢を見る狩人は「月の香り」を身に纏っているから、勘が良ければすぐに分かるのだと。

 

 その夢を父も見たことがあるのか。すぐにそう聞いた私に、父は苦笑して包帯に閉ざされた目を天井に向けた。それが肯定だったのか否定だったのかは、当時の私には分からなかった。

 ただ、あの夜に私の前に現れた「あの人」から感じた懐かしい香り。あれは、いつか父から感じた香りではなかったか。

 そしていま埋めた骨と、あの赤いリボンの少女からも、同じ香りがしていた。

 

 ――獣狩りさん。

 

 診療所の白骨死体。

 あれが、あの人の成れの果てだという証拠はない。ただ、月の残り香しか。

 ただ、言葉と態度から異邦人だったことは確かなあの人が、ヤーナムの医療を求めた旅人だったと考えれば、全ての辻褄は合ってしまう。

 私の前からいなくなった後、診療所で力尽きたのか。()()()()()()()()()()

 あの街の夜では、何が起こっても不思議じゃない。

 だから、もしかしたら、遠いどこかでまた誰かを助けているかもしれないあの人に伝えたくて、少女にリボンを託した。

 少女が帰った先にあの人がいるかも分からない。いたとしても伝わるかも分からない。そんなことに両親から贈られたリボンを使ってしまったけど、後悔はしていない。

 それに、形見は一つではないのだから。

 鞄の奥からブローチを取り出す。血から生まれた石で作られたというそれは、今でも鮮血のように赤く輝いていた。

 狩人であった父から母に送られ、そして、あの人から私に渡されたブローチ。

 

 ――ああ、もしかして。

 

 父を狩ったのは、救ってくれたのは。

 だから貴方は、私にこれを渡していなくなってしまったのだろうか。

 私から父を奪ったと、母を救ってくれなかったと、私が憎んでいると、そう思ったのだろうか。

 そんなこと、あるわけがないのに。

 だって、私が今ひとりでも歩いていられるのは、生きていられるのは。

 

 私を生み、愛してくれた母が。

 私を守り、狩りを続けてくれた父が。

 私を助け、全ての切っ掛けをくれたあの人が。

 私を拾い、外の世界に導いてくれたおば様が。

 私を育て、医者の端くれにしてくれた先生が。

 そして、奇妙な出会いと縁を与えてくれた、二人の少女が。

 

 たくさんの人たちとの、たくさんの縁を辿った末に、今の私がある。

 今はひとりで歩いていても、それまでの道には、たくさんの人たちがいた。

 だから、貴方に伝えたい。

 

 

 

 

 ありがとう。獣狩りさん。

 

 貴方のおかげで、私は、生きています。

 

 つらいこともたくさんあったけど、それでも、生きていたいと思います。

 

 いつか私が老いて、父と母の元で眠りにつく、その時まで。

 

 その時、貴方にも会えるかは分からないけれど。

 

 どうか。どうか。

 

 貴方の眠りが、安らかなものでありますように。

 

 

 

 



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よあけ   -R.I.P.-

【「青ざめた血」を求めよ。狩りを全うするために】

 

 

 

 

 それが、すべての始まり。

 

 気が付けば、ヤーナムという街の診療所にいた。

 それ以前の記憶は曖昧で、おそらくは不治の病に侵された病人だったと思われる。

 ヤーナムとは、東の果てにある辺境の地。極めて排他的で、人が獣に変わる「獣の病」という風土病まで流行っている。

 しかし、街を牛耳る医療教会という組織が施す「血の医療」は、どんな病でも治してしまうと言われていた。

 己も、その医療を求めて旅してきたのだろう。たしかに怪しい輸血を受けることで病は完治したが、かわりに「夢」に囚われてしまった。

 それが、この狩人の夢。

 かつてここにいた、助言者を名乗る老狩人に言われるがまま、狩人になった。

 狩人になって、獣を狩り続けた。

 獣をすべて狩り尽くせば、獣狩りの夜は終わる。

 獣狩りの夜が終われば、元の世界に戻れる。

 そう信じて。

 

 だが、いくら狩っても獣は尽きず。

 そのうち、生きていた人間まで獣に変わり始めた。同じ狩人でさえ。

 夜が濃くなるにつれ獣は増え、もっと恐ろしいモノたちまで現れた。

 上位者。神のようなナニカ。

 常人には理解できない。理解すれば正気ではいられない。そんなモノたち。いつしか、街はそんなモノで溢れていた。

 いや、最初からいたのだ。視えていなかっただけで。一度視えてしまえば、どこを視ても街は神秘と狂気ばかりに満ちていた。

 すべてが悪夢であってほしいぐらいに。

 

 狩り続けた。

 獣も人も。狩人も医療者も。上位者も、その眷属も。

 ヤーナムの街を、医療教会を、それらに端を発したあらゆる場所を、組織を、悪夢を。

 狩って、狩って、狩り尽くして。

 最後はこの夢で、助言者と、すべての根源である「魔物」をも狩った。

 

 そして己はついに人ですらなくなった。

 上位者の赤子。人を超え、人を失ったナニカ。

 

 それから、どれだけの時間が流れたのか分からない。

 この夢に時間は無く、そしてヤーナムの街の夜は未だ明けていない。

 生きている人間などとっくにいなくなった街で、なのに湧き続ける獣を狩り続けている。

 時折、力を求めて神の墓を暴き、その力で更に獣を狩った。

 時折、別次元の狩人が符丁の鐘を鳴らすのを聞き、助けに向かった。

 だが、その鐘すら聞こえなくなって久しい。

 もう、どの次元にも他の狩人はおらず、己が最後の狩人なのではないか。

 

 そんな時、久しぶりに聞いた鐘の音が、ユイのものだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「よく分かんない」

 

 貴方の話を、ユイはその一言で切り捨てた。元より口下手な貴方も頑張って話したというのに、あまりにもあんまりな反応。

 空になっていたティーカップに鎮静剤を注ぎ、飲み下してなんとか血を噴き出すことは避ける。せっかく人形が用意してくれた茶の席に血を撒き散らすわけにはいかない。

 そんなことをしてしまえば、後で改めて庭園に血を撒き散らすことになるだろう。最近の人形は厳しいのだ。

 ユイの隣で焼き菓子をつまんでいたハルも、慌てた様子でユイを窘める。

 

「ちょっと、ユイ! それはひどいよ」

「じゃあ、ハルは分かったの?」

「それは……」

 

 淡々と返された問いに、ハルは目を泳がせながら誤魔化すようにカップを傾ける。もう中身は空だろうに。

 夜の闇に似た失意と絶望を胸に、貴方はテーブルに突っ伏した。

 

【心が折れそうだ……】

 

 視線の先で、使者が手記で貴方の心境を代弁している。表情などないはずのその顔が、ニヤニヤと嗤っているのを幻視した。

 誰か、私の癒しを知らないだろうか。ここはずっと冷たいのだよ……。

 さめざめと涙を流す貴方の肩に、そっと柔らかく触れる固い手の感触。

 

「狩人さま、顔をお上げください」

 

 宇宙は空にある。聖歌隊のその気付きは、かつて突然に訪れたという。

 同じく、貴方の癒しはそこにあった。

 それは天啓にも似て、だが到底理解などできぬものであり誰に理解される必要もないものだ!

 

「テーブルクロスが汚れてしまいます」

 

 あんまりじゃあないか。

 

 

 

 

   ※

 

 

 

 

 この「夢」には好きなだけいても良い。

 

 狩人は、ユイ達にそう言った。

 だから、ユイはここでめいっぱいハルと遊ぶことにした。

 なにせ、ここには時間というものが無いのだという。しかもユイとハルの体の怪我はきれいさっぱり消えているし、いくら遊んでも眠くならない。

 お腹もすかないけれど、人形が用意してくれるお菓子やお茶はとてもおいしい。

 花畑で飽きるまで鬼ごっこをした。

 大きな木のてっぺんまで登った。

 ハルと二人で作った花冠を人形と使者にかぶせてあげた。

 人形と同じ服を着てもらったハルはすごくかわいかった。

 洋館の中にある不思議な本を読んだ。

 天井からぶら下がった変な道具を触ろうとしたら狩人に取り上げられた。

 棺桶みたいな箱に入っていた、色んな形の石でおはじきをしていたら狩人が悲鳴をあげた。

 人形が、狩人(おじさん)以外の狩人の話をしてくれた。

 ユイたちも、お化けや神さまの話を人形と狩人に聞かせてあげた。

 人形が鳴らしてくれたオルゴールは、とても綺麗で哀しい音色だった。

 

 ユイとハルは、時間を忘れて遊んだ。

 今まで遊べなかった分を取り戻すみたいに遊んだ。

 この夢が覚めれば、もう当分の間は会えなくなる。その隙間を埋めるみたいに、遊んだ。

 

 

 

 

 遊びつくして、ついにやることがなくなったユイたちは、ただ花畑で寝ころんでいた。

 もう話すこともなく、並んで、手をつないだまま、斑色の空と大きな月を見上げていた。

 風は無く、聞こえるのは隣にいるハルの小さな吐息だけ。

 つないだ手は、あたたかい。

 

 

 ……放したく、ないな。

 

 

 むくりと、ユイの中で良くない考えが首を擡げる。

 

 ……帰りたくないな。

 ……このまま、ここでずっと。

 ……ハルと、

 

 ハルの左手が、びくんと震えた。

 

「いったぁ……っ!」

 

 涙目になったハルが、左手を押さえて転げまわる。あの痛がりよう、コトワリさまはずいぶんとお怒りなようだった。

 ユイの目にも、いつの間にか涙が滲んでいて、お互い涙目で笑い合う。

 

「同じこと考えてた?」

「そうみたい」

 

 二人で起き上がって、正面から目を合わせる。きっと、思っていることも同じ。

 

「……狩人さんは、ひとりぼっちなのかな」

 

 悲しげな声で、ハルは言った。

 狩人の話は、ユイには半分も分からなかった。

 分かったのは、狩人がもう人間ではないこと、そして、この夢から出られないこと。

 ここでは時間が過ぎない。きっと歳をとることもない。

 ずっと同じ姿で、ずっとここに居続ける。

 それは、まるで。

 

「お化け、みたいだね」

 

 ユイが見てきたお化けは、みんな悲しそうだった。

 望んでお化けになったわけじゃない。なんで、どうしてと、やり場のない怒りと悲しみをユイに向けてきた。

 ハルが見てきたお化けは、みんな苦しそうだった。

 あの街の影たちは、ああやってずっと火あぶりにする相手を探し続けるのだろうか。これからも、ずっと。

 この夢に留まるということは、ユイ達も「そう」なるということ。

 

「そんなの……」

「やだよね」

 

 ユイもハルも、まだ子どもで。

 これから、まだまだ大きくなる。大きくなりたい。

 いろんな事をして、知って、いろんな所に行って、いろんな物を見て、聞いて、食べて。

 嫌なことも、つらいこともたくさんある。

 それでも、いや、だからこそ。

 ハルの目は、涙に濡れて強く輝いていた。その目に、ユイの目も映っている。

 もう一度、手を繋ぐ。立ち上がって、決心が萎まない内に歩き出した。

 

「帰ろう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 貴公たちに渡したいものがある。

 

 帰ることを伝えると、だしぬけに狩人はそう言った。

 両手をそれぞれユイとハルの前に差し出して、手袋に包まれた黒い手を開く。

 

「これ……」

「え……?」

 

 白いリボンだった。でも、何故か二本ある。

 一本は、ユイが渡した物。あの街で、お姉さんから貰ったリボン。なら、もう一本は?

 またユイの手に戻ってきたリボンを撫でつつ、ハルの手にある方を見る。その端にも、千切れた跡があった。

 

「元は一本だったってこと?」

 

 狩人が頷く。

 ユイの中で、たくさんの糸が一本に繋がった。それこそ、その白いリボンみたいに。ハルも気付いた様子だった。

 

「じゃあ、あの街が……」

「ヤーナム……」

 

 でもまだ疑問はある。

 あのお姉さんは何者だったのか。狩人との関係は。どうして千切れたリボンを二人で持っているのか。

 そして、ヤーナムはどこにあるのか。そもそも、この世の街なのか。

 聞きたいことは山ほどある。あるけど、それは。

 ユイは、不敵に微笑む。

 

「また来るからね、おじさん」

「その時に、たっぷり聞かせてもらうから」

「……ひとりじゃ、寂しいだろうし」

 

 最後の一言は余計だったかもしれない。

 また熱くなりだした顔を背けていると、隣でハルが噴き出していた。……起きたら覚えててよ、とユイは思った。

 そんなユイたちを、狩人は青白い目で見つめている。その目は、今までにないほど穏やかだった。

 そして、口を開く。

 

 

 

 

 いいや、さようならだ。

 

 

 

 

 ユイは思わず顔を上げる。口だけが開いて、声が出てこない。

 狩人が続けた。

 

 ヤーナムは呪われた地。

 あの地に関わるすべては悉く狂気に侵されている。

 そんなものに、貴公たちが関わることはない。

 私とて、それは同じこと。

 これ以上、ヤーナムによって不幸な人々が増えるのは――。

 

 狩人が、左手を掲げた。

 ユイは、止めようとした。

 ハルは、動けなかった。

 

 

 

 

 ()()()()()

 

 

 

 

 金属音が響いて、狩人の左手が地面に落ちる。

 同時に、あの時ランプに触れた時と同じ、夢から引き上げられる強烈な浮遊感がユイを襲った。

 でも今度はもっとひどい。地面が崩れてしまったみたいに、天地がぐるぐるになってしまったみたいに足元がおぼつかない。

 夢との、縁を断たれた。

 そう確信した時、ボロボロなのに力強い腕がユイの腰を掴む。

 立て続けに起こる異常に混乱するユイの目に、赤い鋏を持ったコトワリさまの姿が映った。別の腕にはハルも掴まっている。

 

「まって! コトワリさま! ……おじさんっ!」

 

 もうどちらが上でどちらが下かも分からない。何もかもが曖昧になっていく中で、狩人らしい影がいる方にユイは叫んだ。

 だって、まだ話したいことがたくさんあった。聞きたいことだって、たくさん。

 名前すら、聞けていないのに!

 ぐるぐると回る視界の中で、ほんの一瞬だけ狩人と目が合う。

 一瞬なのに、時間までバラバラになったのか、スローモーションみたいゆっくりで。

 

 貴公たちに血の加護が……ああ、いや。

 

 狩人が、はじめて微笑んで。

 

 

「元気で」

 

 

 その声を最後に、ユイは目覚めに落ちていった。

 一滴だけ零れた、透明な涙を狩人の足元に残して。

 

 

 

 

 

 

 

 

   <●>

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢に静寂が戻った。

 ユイたちから聞いた言葉(まじない)を口にし、裁断者に少女たちとの(きずな)を切らせた貴方は、ぐらりと体を揺らめかせる。

 手足を失うことによる平衡感覚の狂いなど慣れたもののはずが、何故か足元がおぼつかない。

 ひどく重要な何かを失った、あるいは開放されたような。

 倒れ伏す直前に、人形が貴方の体を抱きとめる。そのまま、いつものように固い膝に頭を預けた。

 そしてまたいつものように、見上げた満月を背景にして、人形の美しい顔が逆さまになって貴方を見下ろしていた。

 

 貴公(きみ)は、いつ見ても美しいな。

 

 人形が首を傾げる。どうやら、声に出ていたらしい。貴方は苦笑して、垂れてきた人形の灰髪を右手で弄った。

 ひどく疲れていた。体が怠い。脳に霞がかかる。

 いや、これは。

 貴方は、大きく欠伸をした。

 

「狩人さま?」

 

 また人形が首を傾げる。それを、眠い目をこすりながら貴方は見上げる。

 眠い。

 そう、眠いのだ。

 あの診療所で目覚めてから、死ぬことは幾度とあれど、ついに一度も眠ることはなかった貴方が。

 

 ……枷が、外れたと、貴公は言ったな。

「はい、狩人さま」

 

 時計塔のマリア。人形の原型(モデル)であった彼女を狩った後、人形はそう語った。

 いま貴方が感じているのは、それと同じものではないだろうか。

 裁断者が断ち切ったのは、少女たちとの縁だけだったのか。

 それとも、あのリボンに込められた遺志を視たからだろうか。

 あるいは……。

 

 人形は、変わらず貴方を見下ろしている。ずっと、貴方を見守っていてくれた。

 失っていないほうの右手()でその固い頬に触れると、自然な仕草で人形が手を重ねてくる。

 

 ――貴公に、伝えたいことがたくさんあるんだ。

 ――貴公にこそ、聞いてほしいんだ。

 ――こんな、血塗れの私でも、あの子たちを助けられたんだ。

 ――あの子だって、死んではいなかったんだ。

 ――彼女に助太刀したことだって、無駄じゃあなかったんだ。

 ――私が、狩人になったのも、無駄じゃあ、なかったんだ。

 

 人形の指が、貴方の目元を撫でる。その指はもう、赤く染まってはいなかった。

 視界が、どんどん暗くなっていく。狭くなっていく。

 瞼が重くて、もう眠気を堪えられない。

 

 

 ――目が覚めたら、すべて貴公に伝えたい。

 ――伝えたいことが、数えきれないほどある。

 

 

 ――目が、覚めたら……。

 

 

 

 

 ずっと忘れていた、眠りに落ちる前の安息に沈みながら、

 貴方は、目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「狩人さま?」

 

 人形は、重くなった主の右手をそっと下ろした。

 顔を覗き込めば、その目はぴたりと閉じられ、(わらし)のように穏やかな寝顔をさらしている。

 そのままの姿で、ぴくりとも動かなかった。

 

「……」

 

 両手で、その頬を包み込む。胸の内から湧き上がってきた何かを、人形が解することはない。

 もう、その時間も無いのだから。

 

 

 

 

 パチパチと、火が弾ける音が聞こえる。

 人形たちのすぐ傍で工房が燃えていた。夜明けと目覚めの兆し。人形はもう幾度もそれを見てきた。

 だが、今回は違う。炎は工房だけでなく、その他すべてにも燃え広がっていく。

 目覚めの墓石に、聖杯の祭壇に、庭園に、大樹に。炎はすべてを飲みこんでいく。

 

 夢が終わる。

 

 遥か遠くの石柱が、音もなく崩れていくのが見える。

 斑色の空に亀裂が入り、硝子のように砕けていく。

 巨大な満月が、朧に消えていく。

 いつしか、人形と狩人の周りには使者たちが集まっていた。その小さな手を組んで、祈りを捧げている。

 炎は、使者も、狩人も、人形も包み込もうとしていた。

 

 炎の熱を感じながらも、人形には元より何の痛痒もない。

 ただいつものように、懐からオルゴールを取り出す。

 ゼンマイを巻こうとして、手を止めた。何故そうしたのかは、人形には分からない。もう分かることもない。

 ただ、主の頭を抱きながら、歌った。

 幾千回、幾万回と聞いた、オルゴールの音色を真似て、歌った。

 ごうごうと、炎が夢を飲みこんでいく。

 その中で、人形の涼やかな歌声が、最初で最後の子守歌が響き渡っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 明けない夜は無い。

 

 それが、どれほど(なが)い夜であっても。

 

 それが、どれほど(くら)い夜であっても。

 

 望まれようと望まれまいと、夜は明ける。

 

 いつか、必ず。

 

 

 

 

 月も太陽も(ことわり)のまま廻り続け。

 

 夜は廻り続け。

 

 時には、深い夜が廻ってくる。

 

 幾度も、幾度も。

 

 

 

 

 だが、獣狩りの夜だけは廻らない。

 

 もう二度と、廻ることはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――おやすみなさい。狩人さま。

 

 ――貴方の眠りが、安らかなものでありますように。

 

 

 

 



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よまわり  -Night Alone-

 

 

 狩人さんへ

 

 お元気ですか、ユイです

 この手紙がとどくかどうかは分かりませんが、それでも書きたいとおもいます

 

 

 あのあと、わたしはハルとおわかれしました

 もう泣かないと言っていたけど、やっぱりハルは泣いてしまいました

 わたしも、すこしだけ泣きました

 車にのってとおくにいくハルに、わたしと、おかあさんと、クロと、チャコと、手をふりました

 ハルも、ずっと手をふっていました

 ハルが見えなくなってから、わたしは、もういっかい泣きました

 ぜったい、ハルも泣いたとおもいます

 

 

 でも、今はもう泣いてません

 さっそく、ハルにさいしょの手紙を書きました

 もうすこししたら、でんわもしてみたいとおもいます

 冬休みには、わたしがハルに会いにいくやくそくをしました

 春休みにも、いきたいとおもっています

 そして、らいねんの夏休みには、こんどこそいっしょに花火を見ます

 いまから、とても楽しみです

 

 

 夏やすみがおわったので、今は学校にいっています

 ハルはもういないけど、ハルのほかにも友だちはいます

 でも、いちばんの友だちはハルです

 それだけは、かわりません

 狩人さんは、にばんめです、ごめんなさい

 ハルにも、わたしのほかに友だちができるといいなとおもいます

 でも、いちばんめは、わたしです

 ぜったい、そうです

 

 

 おかあさんとは、なかよくしています

 おしごとはいそがしいけど、ちゃんと夜にはかえってきます

 おかあさんはいそがしいから、家のおしごとをわたしも手つだっています

 お料理も、すこしだけできるようになりました

 こんど、ハルにも食べてもらいます

 クロとチャコも元気です

 クロはだんだん大きくなっています、でもチャコは小さいままです

 もしかしたら、しゅるいがちがうのかもしれません

 でも、きっとずっと、なかよしです

 

 

 

 

 狩人さんは、今どうしていますか?

 人形さんに おこられていませんか?

 小人さんとは なかよくしていますか?

 また変なことや、あぶないことはしていませんか?

 ちゃんと服は きていますか?

 わたしは、すごくしんぱいです

 狩人さんは、さよならと言ったけど、わたしもハルも、さよならは言っていません

 いつか、かならず会いにいきます

 その時は、けってやりますから、かくごしておいてください

 

ユイより 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 酸漿(ほおずき)色の空が町を染めていく。

 黄昏に沈む町を一望できる山の高台で、ユイは自分で書いた手紙を読み返していた。

 最後の一文は消そうかとも思ったけど、あの人には蹴りの一回でもいれるぐらいがちょうどいい。そう考えて、そのままにした。

 便箋を丁寧に三つ折りしてから、封筒に収める。切手と宛名は必要ない。ポストに入れたって届いたりはしないのだから。

 

「こら、だめだってば」

 

 振り返ると、木に結んでいた風船にチャコがじゃれついていた。割られたりしたら大変だから、チャコの毛並みを撫でつつリードを先につけた。クロは最初からずっとのんびり座っている。

 昼間、近所のスーパーで配られていた赤い風船。その紐の先に手紙を括りつける。すこしだけ待って、風が吹いてきたのを見計らって「えいっ」と風船を投げた。

 

 夏が終わる前、小学校の女子たちの間ですこしだけ流行った遊び。

 イヤなことでも、内緒のことでも、将来の夢でも、なんでもいい。書いた手紙を紙飛行機にして飛ばす。ただそれだけの遊び。

 それを、ユイは形を変えてやってみた。

 人形から聞いた、狩人たちのお話。「狩人狩り」の、怖くて優しいお話。

 狩りすぎて、狩りをやめられなくなってしまった狩人を、止めてあげる人たち。その人たちは、みんな鴉の恰好をしていたらしい。

 遠い国の、鳥葬という文化。体を鳥たちに食べさせるかわりに、魂を天国まで連れていってもらう。

 あの「夢」も空の上にあるのだと、そう言っていたから。

 

 赤い風船と白い手紙は、風にのってぐんぐんと高く遠く飛んでいく。

 きっと、あの手紙は狩人には届かない。

 ユイには分かっている。ユイはまだ子どもだけど、そこまで子どもじゃない。

 でも元からあれは、誰が読んでもいい、誰が受け取ってもいい、そういう遊び。予想もしなかった場所に()ちて、想像もしなかった人に拾われる。

 それは、もしかしたらハルかもしれない。

 ハルは特にあの遊びが好きで、紙飛行機が飛んでいるのを見たら夢中で追いかけていたから。

 まってまってと、風船と追いかけっこするハルの姿を想像して、ユイはくすりと笑った。

 

 

 

 

 風船が点になって赤い空に消えるころ、遠くから夕方を報せるサイレンが聞こえた。

 蝶々に遊ばれているチャコのリードを引いて、眠たそうにしていたクロにもリードをつけて、ユイは足早に山を下りる。

 今日は、夜廻りの日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 日が沈みきる前に、なんとか家に帰ることができた。家に誰もいないのは変わらないけど、暗い玄関を開けるユイの顔に暗さは微塵も無い。

 

「ただいまー!」

 

 下駄箱の上に鎮座した、フェルトの人形と写真に挨拶。「おかえり」とは言ってくれないけど、人形の青いリボンを撫でて、クロとチャコのリードを外した。跳ねるみたいにリビングへ駆けていくチャコを追って、クロがのそのそと歩いていく。

 リビングとキッチンの電気を点けて、冷蔵庫の中をざっと見る。今日は焼き飯にしようと決めて、手を洗ってから夕食の準備にとりかかった。

 

 

 

 

「いただきまーす」

 

 ユイの声と同時に、専用のお皿の前で今か今かと待っていたチャコがドッグフードを食べ始める。一拍遅れて、クロがもそもそ食べ始めた。

 それを横目に、ユイは焼き飯を頬張りながらテレビのスイッチを入れた。地元のニュースにチャンネルを合わせて、何か事件は無いか確認する。

 行方不明とか交通事故のニュースは特に要注意。幸い、今日は平和な一日だったらしい。最後に天気予報を見てスイッチを切った。今夜は、朝まで雨は降らない。

 

「ごちそうさまー」

 

 焼き飯の残りはラップをかけて冷蔵庫に入れる。「ごはん あるよ」と冷蔵庫にメモを貼った。今日も母は帰りが遅くなると言っていたから。

 自分が使った食器と子犬たちの皿とフライパンその他諸々を手早く洗って、ユイは2階の自室に向かった。

 

 

 

 

 懐中電灯よし。電池よし。小石よし。紙飛行機よし。お塩よし。マッチよし。絆創膏よし。

 必需品を確認して、ナップサックに詰め込む。気合いを入れるために髪も結いなおして、赤いリボンで結んだ。

 最後に、机の上に置かれていた赤い鋏を手に取る。神さまの鋏が錆びるとは思わないけど、念のため確認してから、自作した腰のホルスターに差した。

 

「……よしっ」

 

 これで準備完了。顔を両手でパチンと叩いてから、部屋を後にした。

 

 

 

 

「おっと」

 

 忘れるところだった。

 もう一度部屋に戻って、机の引き出しを開ける。中から、白いリボンを取り出した。

 鏡の前で、襟に通してリボンタイにする。輝くような白さが、黒いシャツによく映えた。

 今度こそ準備完了。もう一度気合いを入れて、階段を降りた。

 

 

 

 

 クロとチャコは、もう玄関で待っていた。

 いつものんびりしているクロは、いつになくキリッとした顔で姿勢よく座っている。いつも落ち着きがないチャコは、いつになく緊張した様子でそわそわ座っていた。

 頼もしい二匹(ふたり)の頭を撫でて、ユイも靴を履く。夜、外に出る時はリードもつけない。

 

「……いってきます」

 

 ハルの人形と、父の写真に目を合わせて、言う。

 無茶はしない。危なくなったら逃げる。かならず無事で帰る。心の中でそう約束して、ユイは玄関の外に出た。

 

 

 

 

 夜の町はもう、昼とはその姿を変えていた。

 どこを見ても見慣れたはずの道には見えない。見るたびに建物が変わっている気さえしてくる。

 そしてもう、そこかしこに、()()

 電柱の陰に、看板の裏に、塀の上に、自販機の下に、いろんな姿の、いろんなお化けたちが。

 以前までは、ユイには視えていなかった。

 でも、ハルとずっと一緒にいたからか、あの夜の戦いを経験したからか、今はユイにも視えている。

 この町は、きっと元からこうだった。蜘蛛神を倒したからって、それは変わらない。

 変わったのは、ユイの方。ユイの目が、瞳が、心が、脳が変わったから。

 それが良いことなのか悪いことなのかは分からないけど、ユイがやることは決まっていた。

 

「いくよ!」

 

 ユイの声に、二匹が頼もしく鳴いて応える。

 右手に赤い鋏を。

 左手に懐中電灯を。

 服はあえて普段着を。かならず昼の世界に、家に帰るという意思の表明。様式美(おしゃれ)だって忘れない。

 ある街の、ある狩人たちの流儀そのままに、ユイは夜の町に駆けだした。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 追伸

 

 わたしは今、夜の町の見まわりをしています

 まい日はできないけど、お休みのまえや、天気のいい日には、やっています

 おかあさんも、いいと言ってくれました

 でも、ぜったい朝にはかえるように、と言われました

 だから、むりはしません

 

 

 

 

 夜の町には、たくさんのお化けがいます

 かわいそうなお化けがいたり、悪いお化けにこまっている人がいたら、助けたいとおもいます

 あの時、ハルと狩人さんが、わたしを助けてくれたみたいに、助けられたらいいなとおもいます

 わたしは、そうおもっています

 

 

 

 

 今日も、わたしは夜の町を廻っています

 

 とても、深い夜を廻っています

 

 

 

 

 夜が、わたしを見つめています

 

 

 

 



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おしまい  -Epilogue-

 ええいままよ、と。

 女は、鉄の門扉を押し開けた。

 

 鉄が軋む音が鳴り響き、獣の唸りのような風鳴りが混じる。

 

 血と獣の臭いとともに、風が女の長い髪と、そこに結ばれたリボンを揺らし……。

 

 

 

 

「まって、まってよー」

 

 

 

 

 後ろから聞こえてきた、なんとも間の抜けた声に女は振り返り、ようやく追いついてきた親友に呆れた顔を向けた。

 

「遅すぎ」

「しかた、ないでしょ、山登りなんて、きいて、ないしっ」

 

 昔から運動が苦手な親友は、あれから何年も経っているのに相変わらずだった。

 はあはあ、ひいひい、と肩で息をしている親友の色白な額には、玉のような汗がにじんでいる。こんなに寒いのに。

 

「しかたないなぁ、ちょっと休憩しようか」

「賛成……」

 

 重い荷物を土の上に下ろして、ハンカチで親友の汗を拭いてあげる。

 つい最近に成人したばかりとはいえ、もう少女とは呼べない相手に対する行いとしては子ども扱いもいいところだが、親友はされるがままになっていた。

 普段は顔を真っ赤にしてぷりぷりと怒り出すのに、今は周囲に人目がないためか、あるいはその余裕もないのか、ひどくおとなしい。明るい色の髪にくっついた葉っぱを取り除いて、この際だから三つ編みも結いなおしてあげた。

 人里はなれた山の中。だというのに周りからは虫の声も聞こえない。静寂の中で、徐々に鎮まっていく親友の吐息の音だけが微かに聞こえていた。

 

「来ちゃったね……」

「うん……」

 

 どちらからともなく、言う。

 緊張。好奇。不安。期待。恐怖。様々な感情が渦巻いて、この旅の発案者でもある女でさえ二の足を踏みそうになっていたのだ。子どもの頃から怖がりだった親友なら尚更だろう。

 ……とはいえ、一緒に行きたいと言い出したのは、その親友なのだが。

 あの頃より倍近くまで伸びた髪を最後まで編み、その先を白いリボンで結ぶ。次に青いリボンのカチューシャを頭に巻いて完成。

 左掌の傷を撫でていた親友の肩を「いくよ」と叩いて、二人で門をくぐった。

 

 

 

 

 無人の廃墟が、そこにあった。

 周囲は濃い霧に包まれ、巨大な尖塔を持つ建物の影ですら茫洋としている。石畳の目地からは雑草が伸び放題で、レンガの壁は苔に侵食されていた。

 道端に置かれた鉄製の棺桶は錆で赤茶けており、その傍らに木製であっただろう棺桶の成れの果てが散乱している。

 不自然なまでに形を保った乳母車が道の真ん中に置かれていて、恐る恐る覗き込むと、中には何も無かった。

 完全なる廃墟。すべて、記憶の中のままの。

 

「ここだよ、間違いない……!」

 

 親友が興奮気味に声をあげる。そこまで大きな声でもなかったのに、廃墟の中ではよく響いた。そして、さっきからぎゅうぎゅうと掴まれている左腕が痛い。

 

「ちょっと、痛いってば」

 

 親友にそう言えば、渋々といった様子で手を離してくれた。急に軽くなった左腕に寂しさを覚えなくもなかったが、女は努めて感じないふりをした。

 

「まあ、ここまで来て間違いでしたじゃあ、さすがに悲惨でしょ」

「うん、たくさん調べたかいがあったね」

 

 荷物の中から分厚い本やら古い地図やらを取り出しては「やっぱり間違いない」と確認している親友を横目に、女はただ深呼吸をした。

 埃の臭い。煤の臭い。かすかな血と獣の臭い。そして、ほんのわずかな月の香り。

 記憶と嗅覚には密接な関わりがあるという話を女は思い出し、さらに確信を深めた。

 

 ――ここは、あの人と同じにおいがする。

 

 何事も理詰めで判断しようとする親友には「野生児」だの「第六感お化け」だの散々な言われようの女だが、自らの勘を信じるのは子ども時代からの特技でもあった。

 

「ここが、ヤーナム」

 

 なんにせよ、ついに目的の地に辿りついたことを、二人は同時に確信した。

 

 

 

 

 コツコツと、二人分の足音だけが響く。

 昼のヤーナムは、光と影がまじりあった街だった。異様に高く、また密集した建造物がそうさせるのか、昼間であっても影となる部分は夜のように暗い。明るい場所と暗い場所を不規則に歩くせいか、一向に目が慣れてくれないのだ。

 その内、ある意味ではありがたいことに、密集した建物の影で夜と化した一角に出た。すかさず、荷物から取り出した懐中電灯で通りを照らす。それを見た親友が、くすりと笑いをもらした。

 

「なんだか、懐かしいね」

「そう?」

 

 今でも定期的に夜廻りをしている女にとっては日常そのものだが、親友にとってはそうでもないらしい。もっとも「視える」度合いに関しては、親友のそれは女の比ではない。子どもの時から、ずっとそうだ。

 暗がりを懐中電灯で削りながら歩く。マンホール、ベンチ、木箱……。ごく見慣れた物であっても、暗闇の中で照らされるだけで、こうも違う物に見えてくる。

 だんだんと、親友の口数が減ってきた。心なしか、歩く距離も近い。そして。

 

「……ねえ、ユイ」

 

 親友が、女の名を呼ぶ。その声音にどこか既視感を覚えた。

 

「なに?」

 

 嫌な予感はしつつも、女――ユイはあえて視線を前に向けたまま返す。

 

「手を、繋いでいてくれる?」

 

 ピタリと。二人は歩みを止めた。じっとりとした目で親友を見返すと、落ち着かない様子で三つ編みを弄っていた。

 

「ハル」

「う、うん」

 

 親友――ハルに、窘めるように声をかける。自分がハルに甘いことはとっくに自覚しているユイではあったが、さすがにそれはどうかと思ったのだ。

 

「今、何歳(いくつ)?」

「………………はたち」

 

 あれから10年も経ったというのに、ハルは相変わらずだった。

 傷が疼くのか、しきりに左掌を撫でている。コトワリさまも叱るならちゃんとしてほしい。まさか神様までハルに甘くなっているのではないだろうか。

 その内に大きな目に涙が滲みだしたのを見て、さすがのユイもギョッとする。不安で幼児退行でも起こしたのか。

 

 ――ああ、まったく。

 

「ほら、代わりにこれ持って」

「うわわ」

 

 結局は、自分も相変わらずだった。ハルの頼みは断れない。

 さっさと左手でハルの手を握り、懐中電灯をハルに押し付ける。そして、懐のホルスターからそれを抜いた。

 

「それ、よく空港で見つからなかったよね」

「まあ、神様の鋏だしね」

 

 赤い鋏は、10年経っても錆とも刃こぼれとも無縁だった。それでも、手入れを欠かしたことは無いが。

 あの時には剣のように感じていたそれも、今ではナイフのように扱える。クルクルと指先で回して、二つの刃を付けたり外したりしているとハルが小さく悲鳴をあげた。

 

「さて、ちゃっちゃと行こう。ハルだって、ここで野宿はしたくないでしょ?」

「やめてよ、縁起でもない!」

 

 きゃあきゃあと、二人の姦しい声が廃墟へと木霊する。

 いくらか明るくなった雰囲気と共に、ユイとハルは、ヤーナムの奥へと足を踏み入れていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 狩人さん、お元気でしょうか。

 

 遅くなってしまいましたが、私もハルも、会いに来ました。

 もう、貴方がここにいるのかは分からないけれど。

 それでも何か、貴方との縁があるものを見つけたくて、ここまで来ました。

 

 ところで、大きくなったハルはどうでしょうか?

 とても綺麗になったと思いませんか?

 私はそう思っています。

 私はどうでしょうか?

 もし会えたら、ぜひ感想を聞かせてもらいたいです。

 

 でも、貴方のことだから、私だとは分からないかもしれませんね。

 その時は、また私のキックをお見舞いしてやりますから、覚悟しておいてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 私たちは、街の奥へ奥へと進んでいく。

 この後、このヤーナムで私たちは、またとんでもなく大変な目にあってしまうのだけれど……。

 

 

「ひゃあっ! いま、誰か触った!」

「ちょっと! ハルこそ、どこ触ってるの!」

 

 

 それはまた、別のお話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


【お化け狩りの夜が廻る】

おわり


 



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