じじキャン△ (足洗)
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1話 旧馴染み

性懲りもなく新たな原作に手を出す(愚)
10話程度で終わる(はず)
完結の目途は立っている(はず)


 

 

 自室の窓から西日の茜の濃さに気付く。

 ふと尋ね事を思いついて居間に降りた。けれど、目当ての人物の姿はない。つい先程までダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいた筈なのに。

 そこへ洗濯カゴを持って通り掛かった母を呼び止めた。

 

「ねぇ、おじいちゃんは?」

「え? ああ、ついさっき出てったわよ」

「え、も、もう?」

 

 てっきり家に泊っていくものと思っていた。

 当てが外れて、がっかりとした気持ちが顔に現れたらしい。母は笑った。

 そうして、鼻から軽く吐息する。何故か一瞬、母のその表情に翳りが見えたような気がした。

 

「……もう一年経ったんだ。早いものねぇ」

「? なんのこと」

「忘れたの? ほら、今日はおじいちゃんのお友達の」

 

 そこで母は言葉を区切った。けれど、それで思い出すには十分だった。

 毎年この時期、この日、おじいちゃんは必ず山梨に来る。その理由。

 

「覚えてる? 昔はよく遊んでもらってたわよね。じん爺じん爺って。ふふふ」

「お、覚えてないよ。そんな昔のことなんて……」

 

 嘘だ。よく覚えてる。不思議なほど鮮明に。あの人は、祖父と共にこの家を訪れては私を可愛がってくれた。旅行が趣味で、毎回お土産を山ほど携えて、土産話もたくさん聞かせてくれた。

 

「やんちゃな人でね。リンも一緒になってはしゃぐもんだから、よく転んで膝とか擦りむいてわんわん泣いて。で、その度に父さんがあの人を叱るの。叱るっていうか喧嘩ね。もういい年して子供みたいにああだこうだ言い合いして、でもそうすると余計にリンが泣きじゃくって。ふふっ、おじいちゃん二人が慌ててあやしたりなだめたり。ふふ、あはははっ」

「う、嘘!」

「ホントホント。二人ともリンにはでれでれだったんだから」

 

 なんだか本当に覚えのない記憶まで掘り起こされそうだ。

 まだ小学校に上がる前。自分にとっては遠い遠い過去のことのようだった。咄嗟に思い出せなかったのは、それを思い出すことも少なくなったから。

 でも……きっと、それだけじゃない。思い出せなかったんじゃなくて、私は思い出さないようにしてきた。

 

「もう五年にもなるのね。それとも、まだ五年かな……そりゃ父さんにとってはほんの最近よね」

「……」

 

 寂しげに笑う母に、返事はできなかった。

 私は思い出す。五年前を。黒い背広を着た祖父の、その寂しげな背中を。

 ぼんやりと、祖父は煙草を吸っていた。祖父が煙草を吸っている姿を見たのはそれが初めてだった。

 ダイニングテーブルに置かれた灰皿には、もう一本火の付いた煙草があって、それはただ真っ直ぐ天井に煙の帯を伸ばしていた。

 物悲しかった。胸が(つか)えるような苦しさを覚えた。鼻の奥につんと、痛みが走る。

 その光景が、私は嫌だった。説明のできない感情に何かが溢れてしまうのをひどく怖れた。早く、早くと、忘れてしまいたいと願って、努めてそうした。

 

「……」

「あ、そうそう。本栖湖で一泊したらそのまま帰るって言ってたわよ。用があるんなら電話してみればいいんじゃない?」

「……本栖湖」

 

 移動手段が自転車しかなかった頃は、あの距離と道のりは結構きつかったけど。

 今は原付がある。行って戻っても、夕ご飯前には帰って────。

 

「ダメ!」

「うぐ……ま、まだなにも言ってないよ……?」

「どうせ追い掛けて行って、ついでに自分もキャンプしようとか考えてるんでしょ。ダメよ、絶対」

 

 完全に思考を読まれてしまった。あわよくば、という企みまで見破られて。

 母はじっとこちらを睨んでから、小さく溜息を吐いた。

 

「好きなことできないのは可哀想だけど、近ごろ物騒なんだから。ホントに気を付けてよ。あんたは行動力あるから、ふらっと出掛けてっちゃいそうで私も渉さんも父さんも気が気じゃないんだから」

「も、もうわかったってば。諦めるから……ごめん」

 

 母の言い様を大袈裟、とは言えなかった。

 なんせここのところは本当に、洒落にならないくらい“物騒”なのだから。

 

「……おじいちゃん、大丈夫かな」

「止めたけど、聞いてくれなかったわ。頑固なんだから……無理もないけど」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 爆ぜる木切れの音色は心を落ち着かせる。学術的にもそれは確かなことであるらしい。

 別段、精神快癒の為にこんなことをしていたつもりはないが。

 それでも、火を前にして沁み入るものがあることは理解できる。自分が思いの外、それを求めて止まないことも。

 ナイフでサラミを切り取り、そのまま口に運ぶ。こんなところを咲に見られたら行儀が悪い、と小言を投げられるだろう。

 チタン製のスキットルでストレートを呷る。喉奥から腑の底までも炙られる心地だった。旨い。

 冬も終わりが見え始め、初春は目前と世間に言うが、とてもそうは思えない。

 夜空を鏡写す本栖湖の畔は、今日も一入に寒気で冴えていた。

 

 ────寒空の下で落ち葉焚きだぁ? 気が知れねぇな

 

 枯れた風に騒ぐ淋れた枝葉。その最中に、伝法な悪態が聞こえた気がした。

 

「……」

 

 もう一本、薪をくべる。

 今年の山梨はより一層に冷える。雪こそ多くはないものの、夜気は滅法鋭く尖り肌身を刺す。

 あるいは。

 四季の移ろいの狭間にあるから、気候の微かな差異を実感してのこと……ではないのかもしれない、と。

 一人(ソロ)でここにいる。そのことにまだ馴れていないのか。

 馬鹿馬鹿しい。さんざ一人で何処へでも単車を転がしながら旅をしてきたのだ。気儘で自儘に自由な時間の使い途。なんとも贅沢だと自分自身でさえ感じる。そして間違いなくその時間に充実を覚えた。今も、それは変わらない。呆れるほど変わり無い。

 変わったのは自分ではない。

 変わり、消えた。なくなった。

 また一人、友人が逝った。

 六十の坂も半ばを越えて七十の合が見え始め、同世代の人間が鬼籍に入ることも格別珍しくはなくなった。そんな身空を思えば今このようにして趣味を満喫できるのは間違いなく僥倖だろう。感謝して生きねばならない。謹厳実直を気取る訳でも義務感や気負いでそう思うのでもない。ただ、自らの生涯を振り返った時、ふと胸に湧いて出るのは、懐古と郷愁、そして身近な人々に対する感謝であったから。そう帰結できることこそ紛うことなき幸いであるから。

 それでも、人の命は無常なりなどと、悟ったふりはできなかった。

 彼は────奴は無二の輩であった。親友……そう呼んでも差し支えない。まあ呼んだ日には、奴はその口をへの字に曲げてこう言うだろう。

 

 ────ケツが痒くならぁ

 

「ふっ」

 

 そういう偏屈な男だった。

 

「……」

 

 また一口、ウイスキーを嘗める。焚火よりも濃く、苦い、煙味(ピート)が鼻を抜ける。

 奴が死んだのは丁度五年前。そして今日が、五回目の命日であった。

 末期の肺癌だった。宣告余命は半年だったそうだ。暫くは投薬治療を続けたが、病状は一進しても一退はなく。ゆっくりと、真っ直ぐに……それは静かな死出の旅路。

 三月もした頃、奴は外泊の申請をした。元来が入院生活など大人しく過ごせるような性質ではない。むしろよくも三ヶ月もの間我慢が利いたと思う。

 申請はあっさりと受理された。それが終末期の患者に対する憐れみなのだと知っていた。誰あろう奴自身が。

 そんな自身の病床まで私を呼び付け、奴は開口一番に。

 

 ────お前さんの道楽に付き合ってやる

 

 そうしてこの本栖湖を訪れた。

 月が煌々と照らし出す富士の峰。湖畔で並び、その景色を望んだ。

 酸素ボンベから伸びた吸入用のチューブを鼻から抜いて、奴は深く息を吸う。途端、荒く苦しげな咳が静謐な夜気を乱す。

 思わず背中を擦ってやると、奴は私の肩を軽く叩いて、にやりと笑みを浮かべた。

 

 ────いい眺めだなぁ。お前さんが年甲斐なくキャンプなんぞに嵌まるのも、これを見てると、あぁ……少しゃわかってくる。冥土の土産としちゃ、悪くねぇ

 

 薄ら笑いは皮肉げで、どこまでも素直さなどというものからは程遠い口振り。

 小石でも放るように、続けて奴は。

 

 ────ありがとうよ

 

 この男の顔はまるで猛禽類のように鋭い(かたち)をしている。生まれ持ったものでもあるし、その職業柄鍛えられたという面もあるのだろうが。

 くゆる炎を映す目は、ひどく穏やかで。

 私は咄嗟に、何も言い返せなかった。憎まれ口も嫌味も、どういたしましてなんて神妙を装った皮肉さえ。

 ただ曖昧に笑う。この痛ましさを隠して。

 奴はきっと気付いていたろう。私の胸中の惑乱を。

 けれど奴も何も言わなかった。

 それでいいのだと、私を許した。

 

 ────あぁあぁ、寒ぃ寒ぃ。とっとと(けえ)るぞ。寝袋はやっぱ駄目だな。布団が恋しいったらねぇや。体中痛ぇのなんの

 

 一夜を明かし帰路につく頃には、あのしおらしさなど嘘であったかのように、元通りの皮肉屋がそこには在った。

 白日の富士を横目にしてボンネビルを疾駆する。サイドカーから憎まれ口を叩き、こちらとても叩き返しながら、高速の鉄塊で山間を貫通する。

 

 ────悪くねぇ

「ああ、悪くない」

 

 その翌朝、奴は自宅の床で息を引き取った。

 奥方に先立たれ、子もいない。身寄りと呼べる親戚もいない。寡男の葬儀はしかし、驚くほど淀みなく執り行われた。いや、処理されたのだ。自宅は殆ど空っぽだった。枕元の書状は、直葬の段取り、遺品整理業者の手入れ、その他の死亡後手続きが既に済んでいるという旨が綴られるのみ。遺言状と呼ぶのも憚られるほど、それは簡素な内容であった。

 最期を看取る者さえなく、独りの老人がいともあっさりとこの世を去った。

 それが、その事実が、遣り切れない。

 

 爆ぜ木が火の粉を散らす。煙と共にそれは群青の闇へ溶け去った。

 少し、感傷が過ぎるか。

 今日が奴の命日であるからそう思うのか。それとも寄る年波が。気勢が、心が、険を失い丸みを帯びながら、同時に昔よりも確実に弱っている所為か。

 ローチェアに深く沈む。酔いの所為だと、精々言い張ろう。

 

 ぱきり、そんな音が響いた。

 焚火の薪が鳴いたそれではない。枝か枯草を折るような、それが一定の間隔で鳴りながら近付いてくる。

 何かが、林の奥からこちらへと歩み寄っている。日が暮れてから随分と経つ、こんな夜更けに誰が。

 

「……」

 

 本栖湖はもとより、富士河口湖町周辺の山林には当然、熊や猪も多く生息している。ここは比較的人間の生活圏に寄っているが、だからといって絶対に野生動物に出くわさないとは限らないのだ。

 今頃は、熊は冬眠に入っている時期の筈。しかし北海道には穴持たずなどと呼ばれる羆がいることを思い出した。埒もない想像だ。

 ローテーブルからナイフを手に取る。こんな玩具一本で何の足しになるやら。

 熊や猪相手では何の意味もあるまい。

 

(まったく……嫌な時世だ)

 

 嫌気が差す。こんな心構えをしなければならない、この現実が。

 獣相手ならばまだ諦めもつく……問題は、その相手が獣でなかった場合だ。

 悪意ある人間こそが最も恐ろしい。特にここ数ヶ月、剣呑な“事件”がそれをまざまざと知らしめた。

 じりじりとひり付く警戒の念。遂に林の闇間から、月明りの下にそれが現れた。

 人だった。青いウインドブレーカーを羽織った、少年である。見当で年の頃は十代半ば。そう、高校生かそこらの。

 

「……」

 

 努めて浅く吐息する。剣術の要は呼吸にある。残心は(たい)ではなく(しん)の納刀に他ならない。

 肺は静かに使うもんだ──奴は、確かそう言っていたか。

 剣術使いでもない自分がそんなことに腐心するのはまったく滑稽だ。これも奴に毒された結果といえる。

 今一度、少年を見て……静めた警戒が再浮上した。警戒、というより、疑念。戸惑い。

 少年は泥だらけだ。土と言わず砂と言わず上着やジーンズはそれらに塗れ、松の木特有の針のように細い葉が山嵐のように身体中至るところにへばり付いている。

 なにより、その左腕。右手で押さえた腕には白いタオルが当てがわれており、それが──赤々と血で染まっているのだ。

 異様だった。風体も、背にした場景も、月の照るこの時刻も相まって。

 見てはならないものを見ているのだろうか。かの霊峰に呼ばれ、この世ならざるところから現れた何かが目の前に。

 馬鹿馬鹿しい。幾度目か、内心に吐き捨ててこの愚にもつかない考えを払い除ける。

 

「大丈夫か」

 

 走り寄りながら声を掛ける。怪我人を前にしたならまず真っ先にすべきことがあろうに。

 自戒して、少年を見る。

 

「とりあえず火の傍に来なさい。一人かい。親御さんか連れは」

「…………」

「?」

 

 こちらの言葉に対して少年の反応は頗る鈍かった。一声とて上げず。

 いや、そうではない。

 少年の反応は劇的だ。返答をしないだけで、目を見開き、表情はある一色で染まっている。

 返答が叶わぬほどに、少年はひたすら驚愕を顕にしていた。

 一体、何に。

 

「────はっ」

 

 その声は渇いていた。長らく喉の使い方を忘れていたかのような、掠れて、いがらっぽい。

 

「カッハハハハハハハハハハハハハハッッ」

 

 少年は笑った。呵呵呵と実に子供らしくない笑声で。それこそまるで、老人のような皺首の喉笛を吹く。

 錯覚だ。この耳には確かに若い、幼さすら残す男声が聞こえている。

 しかしなおもって不可解だった。一体この少年は何を笑う。何故、このような笑い方をする。

 怪奇だった。ふいと薄ら寒い風に背筋を撫でられる。

 とはいえこのままではいられない。怪訝にはっきりと顔を歪めて、問いを重ねようとした。

 

「君は」

「相っ変わらず」

 

 問いは、その言によって殺がれた。

 

「独り寂しく落ち葉焚きかぃ。こんの物好きが」

 

 その伝法な、悪態に。



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2話 黄泉帰り

※ゆるキャン△の優しい世界が好きな方は御注意ください。




 

「…………なにを、言ってるんだ」

「こんな寒空の下、何を好き好んで湖畔なんぞに陣取るかねぇ……あぁ、ここぁ、本栖湖か」

 

 少年がその場から進み出る。自身を横切り、小波を立てる湖の縁へ。

 月明かりに晒された富士の山景。湖は天然の写し鏡。夜空に山を浮かべ見る。

 少年は暫時沈黙し、その遠景を仰いでいた。その目はひどく遠く、遠くを見ていた。

 

「……律儀な」

 

 その、穏やかな目は。

 

「愛知から本栖湖くんだりまでわざわざ。わざわざよぅ。ご苦労なこった。山梨(ここ)にゃ足繫く参るほど立派な墓もねぇだろうが。今時分、冷えるだろうに。痩せ枯れの爺ひとり死んだ日がそんなに大事かねぇ。はんっ、馬鹿くせぇ」

「……き、君は、誰だ」

「誰たぁご挨拶だな。えぇ? わからねぇかい」

「お前は誰だ!?」

 

 湖上を響く怒声。夜気は、声に宿った怒りの熱気すら貪欲に食い散らす。

 漣が寄せて返す。静かな筈の波音がいやに耳孔を突く。執拗に、不快なほど。

 そうして今一度波が立った時、その少年は……少年のようなモノは口を開いた。

 

不二崎(ふじさき)甚三郎(じんざぶろう)

「ふざけるなッ……!」

 

 不二崎。

 不二崎だと。

 あの不二崎甚三郎だと。

 五年前、この本栖湖で今生を別ったあの。腐れ縁。旧馴染み。無二の友。独り死んでいった、独り逝かせてしまった老爺。

 それを名乗るのか。それを、騙るのか。

 

「奴は死んだ! 死んだんだ! 五年前にな!」

「……」

「お前が、不二崎だって? 馬鹿も休み休み言え。そんな……そんな訳がない」

 

 あの御霊山の霊験が、本当に死者を呼び出してしまったとでもいうのか。くだらない。時期外れもいいところだ。枯れ尾花の方がまだしも季節感と趣はあったろう。

 突然現れ、見も知らぬ輩が何故、よりによって何故、今日この日に、その名を口にする。あの男を称する。

 隠しようもない怒気が腑を煮立たせた。

 それを──満身の力でなんとか鎮める。

 

「……君はあの男の、親類か何かなのか。だから奴の名前を、奴の……口調を知っているんだな」

「……」

「冗談にしても質が悪いぞ。それは、奴の」

 

 冒涜だ。

 ……過大な物言いだろうか。ああきっと、大仰だ、と。奴は苦言を漏らすだろう。

 だが譲れない。奴との記憶は、過去は、間違いなく私を形作る一部。新城(しんしろ)(はじめ)の重い重い血肉なのだ。

 穢させはしない。

 

「信じられんか」

「当たり前だ」

 

 険ばかり尖っていくこちらに比して、少年の態度は変わらない。落ち着き払って、不敵に笑う。

 いっそ、親しみさえ籠めて。

 

「だろうな。俺も信じらんねぇよ」

 

 とても投げやりで、深く自嘲するような、渇いた笑声をこぼす。

 

「何と言やぁ信じる? 昔話でも咲かすか? お前さんが最初に買った単車はトライアンフのボンネビルだ。そうそう買った初日だ、てめぇ伊勢神峠のカーブで盛大にスッ転んで左膝を十二針縫ったろ。あん時は血が滝か川かってぇくれぇどばどば出て肝潰したぜ」

「…………」

 

 覚えている。十八の時だ。調子に乗って加速をつけ過ぎたからだろう。タイヤが横滑りしてそのまま林に突っ込んだのだ。左膝には今もその縦傷が残っている。

 あの時は、私よりも奴の方が泡を食っていた。どこからか調達してきたトラックに私とバイクを載せて、文字通り病院に担ぎ込まれた。

 

「おぉ、今はスラクストンか。前のやつぁどした? (サイドカー)が邪魔んなったか? カッカッカッ」

「……」

「峠を流した後は必ず立ち寄った、あぁマルボロだかピースだか気取った名前の喫茶があったろう。覚えてるか? ブレンドの糞不味いあの店よ。格好つける為だけによく二人してあの泥水を啜りに行った。ウエイトレスの、ほれあの看板娘、なんてった。あの子目当てに男共がこぞって通い詰めてたなぁ」

「……キミちゃん、だったか」

「そうだそれよ! キミちゃんだよ! いや顔は正直いまひとつだったが、腰付きが妙に色っぽかった。くふふ、眼福眼福ってな」

「お前は……不二崎の奴は、あんまりにも露骨に眺めるものだから怒った彼女にトレイでよく叩かれていた」

「あぁ? てめぇだってそうだったろうが」

「さあな。忘れたよ」

 

 視線を咎められて金属のトレイを頭に喰らうのは、不二崎と私それぞれ2:1といったところだった。

 それがあの店での、私達のコミュニケーションだった。

 

「二一だぁ? 嘘こけこのトンチキ。取り澄ましてやがっただけで、てめぇだってあのまぁるい尻さんざ拝ませてもらった癖によ」

「……お前ほど助平根性が据わってなかったんでな。それと……」

 

 驚くほどに鮮明にその口から語られるエピソードの中に、しかし遂に見付けたぞ。瑕疵。誤答を。

 それは。

 

「俺が見ていたのは脚だ」

「……」

 

 きょとんと目を開き、二度三度と瞬いてから。

 少年は──奴は、破顔した。

 

「くはっ! おおそうだった。そうだったなぁ、ふ、ふはははっ。にこりともしねぇ真面目面突き合わせて、形がいいだのなんだの糞真面目に品評し合ったなぁ……ハハハハ!」

「若かった。そして馬鹿だったよ」

「ああ……本当にな」

 

 その幼い筈の顔を彩る褪せた懐古の情念。自分の顔に、同じ色を映さない自信が私にはなかった。

 

「大昔のことだってのに、やけにはっきり思い出す。脳味噌が若ぇからか? はっ、いったいなんなんだろうな、この己ってぇやつぁ」

 

 夜空を仰いで独りごちる。達者で、どこまでも人を食った弁舌だった者が。

 そんな男が今もなおひたすらに、途方に暮れている。

 

「黄泉路に迷った亡霊か……あるいは気を違えて、手前(てめぇ)を不二崎の甚三郎と思い込んでる何処かの誰かか。手前自身にしてからが、(てめぇ)ってものがわからなかった。つい、さっきまではよ」

 

 皮肉気な言い様は、しかしこちらに向けられたものではなかった。

 少年は依然、少年自身を嘲り、恥じている。まるで気後れを誤魔化すような笑み。

 

「なぁ、新の字」

「……」

「お前さんの顔見たら腑に落ちたぜ。俺ぁ不二崎甚三郎だ。とうの昔にくたばった筈の糞爺よ。どういう訳だか知らねぇが、この坊主にとり憑いて現世に蘇っちまったらしい。お笑い種だ。いい面の皮だよ! 笑ってくれぃ、笑ってくれよ。なぁ新の字」

 

 新の字。

 新城でも、肇でもなく、奴は……この男はいつも私をそのように呼んだ。そのこてこての江戸訛りと相まって当時にしてから実に時代錯誤甚だしかった。だから何度もやめろと言った。何度も何度も言ってきたのに、一向に聞く耳を持たないのだ。

 ────まさか死んでも、治らないとは。

 

「ふざけてる」

「おう、ふざけた話だ」

「ありえん」

「あっちまったんだからしょうがねぇだろうが」

「開き直るな……これは現実なのか。転寝(うたたね)して夢でも見てるんじゃないのか、私は」

「一発ぶん殴ってやろうか?」

「やめろ。余計に腹が立つ」

 

 頭痛の兆しを覚えて額を覆う。

 飲み過ぎた酔いの淵で見ている夢。そうであったなら、それこそこの男の言ではないが腑に落ちる。

 私は感傷に浸るがあまり、記憶の奥底からこんな幻想を掘り起こしてしまったのだ、と。こんな。

 

「うぅさぶさぶっ! ここいらぁ相っ変わらず寒々しいったらありゃしねぇ……だが、まあ」

 

 相変わらずの寒がりは、両腕を擦って悪態を吐く。

 水面の月と富士の白肌を望み、その目に焚火のくゆりを灯して男は懐かしそうに言った。

 

「眺めだけは悪くねぇ。眺めだけは、な?」

 

 嫌味を添えるのも忘れない。偏屈な男がそこに在る。

 こんな都合の良い、夢が、そこに佇んでいる。

 

「不二崎……なのか」

「カッ、そうらしい」

 

 顔立ちは似ても似つかない。あの猛禽類の如き鋭さは、青瓢箪なその容貌にはどこにも見当たらない。

 似ても似つかぬ筈のその姿が、けれど、不二崎なのだ。どうしてか、どうしようもなく、不二崎なのだ。もはや私にはこの少年を少年と看做すことができなくなった。

 憎らしいほど変わらない。目を(すが)めた歪んだ笑い。偏屈と皮肉屋を気取っていながら、時に同齢の自分でさえ驚くほどの達観と老獪さを持つ。

 少年の姿をして、あの老爺がここにいる。

 

「そうか……そう、か」

「……」

 

 顔を覆い、溢れたものを手に受け止める。

 不二崎は何も言わず、私の肩を軽く叩いた。

 

 

 

 

 

 

 

「何がどうして()()なっちまったか、その辺は考えても始まらん」

「だろうな」

 

 積んだ薪木を椅子代わりにして座り、焚き火で揉み手を暖めながら少年は──少年の姿をした不二崎甚三郎は言った。

 然したる逡巡もなく、頷く。何処かの高名で明晰な学者先生であればこの現象に対して何かしら科学的理屈をでっち上げてくれるかもしれないが、それは現状において無意味だ。

 

「元に戻らねば、戻してやらねばなるまい」

「その体の持ち主が誰か分からないのか?」

「待て。たしか……」

 

 不二崎は自身のポケットを探り、二つ折りの黒い財布を取り出した。

 

「悪いな。ちょいと失敬するぜ」

「どうだ。免許証か、保険証でもいい。ないのか」

「急かすんじゃねぇ……おっ、学生証だ。本栖高校一年、薙原(なぎはら)哲也(てつや)。よしよし住所もある」

「本栖高校? リンと同じ学校なのか」

「あ? ちょっと待て。リンちゃんと同じっておめぇ、リンちゃんもう高校生か!?」

「ああそうだ。十六になる」

「十六ぅ? ついこないだ五年生ンなったばっかりだろ」

「馬鹿、さっき言っただろう。お前が死んでから五年にもなる。リンだってそれだけ大きくなってるんだ」

「かぁぁ……」

 

 不二崎は腹の底から、驚愕だか驚嘆だか、そういう色濃いものを深く吐き出した。

 

「てめぇが生き返ったことなんかよりそっちのがよっぽどびっくりこいたぜ。子供の成長ってなぁ……こんなに早ぇかい」

「まあな。それに関しては、私も毎年痛感させられる」

 

 こればかりは子を持ち、孫を持った誰もが得るものだろう。この感慨は。

 斯くも奇妙な体験を前にしているのに、なにやらひどくしみじみと、そんな当たり前を思い知っている。

 学生証、そして念の為に保険証にも記載されている住所とを見比べる。

 

「家は身延か」

「親御さんに事情を話す訳には……」

「行くまいよ。到底正気の沙汰じゃあねぇ。お前さん相手だったから今こうしていられるが、我が子がこんな豹変見せた日にゃ即刻病院送りだろうぜ」

「……私がここに居たことで、お前を呼び寄せてしまったのか」

「さあな……良か悪かは置いて、それを(えにし)と言うのだろうよ。そしてその緒を結ぶのは、神だか仏だか天魔だかの勝手な仕儀だ。人がどうこうできるもんじゃねぇ。お前さんが気にするこっちゃねぇ」

「……」

 

 神仏を蹴散らすかの威勢で奴は吐き捨てる。お前の所為ではない、と。

 

「何か切欠はなかったのか。そもそもいつからだ。お前がその、哲也君の体に乗り移ったのは」

「己が己であると……仰々しいな。まあなんだ。()()に気が付いたのはそこの林の奥で目を覚ました時だ」

 

 不二崎は親指で松林を、濃密な闇を孕んだ木々の群を指す。

 

「ほんの小一時間前まで、地面にぶっ倒れていた。節々痛むところみると、昏倒してたのぁもっと長い。たっぷり数時間は気を失っていたらしい。そして少なくとも意識を失うまで、この身体は確かに『薙原哲也』のものだった筈だ」

「何かが起こり、その子は気絶した。そうしてそこへお前が宿った」

「ああ、そしてその何かってぇやつぁはっきりしてる。見な」

 

 言うや、不二崎は左腕のタオルを取り払い、灯りの下に晒した。

 半ば凝固した血が水気の無い絵の具のようにこびり付いて、薄汚れたポリエステル繊維、そしてその下に着られた長袖のロングTシャツまでも、ぱっくりと裂け割れている。

 上腕の外側だった。細く、斜めに走った傷口が今も赤々と血を滲ませていた。

 

「それは……」

「刃傷だ」

「! 斬られたのか!?」

「そのようだぜ。石や枝ではこうはならん。しかもこの大振りで肉厚な刃筋……軍用のナイフか山刀ってぇところか。キャンプ地に持ち込むんなら打って付けだろう」

 

 持っていても怪しまれず、用途に言い訳も利く。

 忌々しいほどに最適な──凶器。

 

「不届きな野郎が居たもんだ」

「……ああ、ここ最近は、特にな」

「? 最近?」

「事の始まりは二ヶ月前、昨年末からだ」

 

 苦いものを噛むような心地で、その記憶に新しい文言を思い起こす。

 

『キャンパー切り裂き魔』

 

 今まさに静岡、山梨、長野の巷間を騒がせているその凶事は、人口にそう膾炙(かいしゃ)されていた。

 最初の凶行は12月24日、世間が無邪気にクリスマスイブに浮かれる聖夜に起こる。場所は富士宮市『朝霧高原キャンプ場』。キャンプに訪れていた会社員の男性(28)が刃物で切り付けられたという。

 犯人はすぐに逃走。被害男性の証言を基に容疑者の特徴とイメージイラストが公開され、周辺地域への注意喚起が為された。

 

「……事件のあらましと、ガイ者の証言は見られるか。あぁー、インターネットだか、なんだかでよ」

「ネットニュースの記事程度なら……これだ」

 

 スマートフォンの画面にサイトを映し、不二崎に手渡す。

 しかし、年を越して間もない1月4日、第二の凶刃は振るわれる。場所は甲府市帯那山沿いにある『林間キャンプ場』。深夜、キャンプ場内の林道を歩いていた自営業の男性(36)が襲われた。暗がりを背後から、まず鈍器のような物で殴られ、転倒したところに足と手を切られたという。

 男性はすぐ警察に通報したが、街灯もない林の中で犯人の姿は見えなかったそうだ。ただその時、遠くで走り去るバイクの音を聞いたと証言している。

 この際、被害者の傷跡から、使用された凶器の形状、刃長等が、前回の犯行に使用された物とほぼ同様であったことが判明、同一犯の可能性があるとして報道された。

 

「…………」

「……」

 

 黙して画面上の文章を追うその目が、徐々に形を変えていく。研ぎ澄まされ、鋭く尖る。猛禽、さながら鷹の目のように。

 そして、それから一月と経たぬまま1月28日、第三の事件は発生した。場所は大きく移り長野県は駒ケ根市戸倉山の『山間キャンプ場』。夫婦で訪れていた飲食店従業員の女性(32)がトイレに行く途上で襲われた。こちらもまず鈍器のような物で殴られ、そのまま女性は昏倒。気が付いた時には前回の男性同様に手足が刃物で切られていたそうだ。こちらは目撃情報すら見付かっていない。

 いずれの犯行も共通するのは二点。使用された凶器、そして狙われた被害者が皆キャンパーであること。

 

 この連続通り魔事件は今や大々的に報道され、テレビや新聞、ネットでも話題を浚っている。しかし、取り沙汰す世間の熱とは裏腹に、未だ警察の捜査に大きな進展はなかった。

 

「一件目の犯行からこっち、目撃情報が碌々拾えねぇたぁ……どうなってやがる」

「年末年始に掛けて山梨は雪が降った。路面凍結もあって車両の行き来が一時ストップしたのが、捜査難航の原因の一つ……と、ニュースでは言っていたが」

「くだらねぇ。んな程度で警察が手ぇ緩めるかよ。事あるごとに県を跨ぎやがることの方が厄介だが……南アルプスってのはどうしてこうキャンプ地が多いかねぇ」

「行楽地でもある。一時期営業自粛は叫ばれたが客足が絶えた印象はないな」

「っ、どいつもこいつも道楽もんがよ」

「ふっ、お前にしてみればそうだろうな」

「そうだ、そうだてめぇ! この御時勢になにキャンプなんぞしてやがる! 通り魔がその辺うろついてるなぁ先刻承知の筈じゃあねぇのか!?」

 

 目を剥き、怒気も灼熱させ喝が飛ぶ。乱暴だが至極正論を浴びせられ、思わず苦笑する。

 そんなこちらの態度が気に入らないのだろう。不二崎の背中で、怒気がまた一段膨れ上がるのが見て取れた。

 

「馬鹿野郎ッ! てめぇには帰る家も、待ってる家族もいるだろうが! いい歳こいた爺が()けた真似するんじゃあねぇ!!」

「……返す言葉もないな」

「当たりめぇだこのすっとこどっこい!」

「流石、元刑事だ。説教も堂に入っている」

 

 この男は、山梨県警の刑事を定年まで勤め上げた。

 その少年の姿容からは想像もできない胆力、迫力、そして覇気が、湖上を渡って山までも震わせそうだ。

 

「おい、減らず口が聞こえるぞ? 本当にわかってんのか?」

「ああ、わかった。すまん」

「けっ……」

 

 不二崎は腹立ち紛れに唾を吐き捨てる。悪態な様はまるっきり無頼か、今は悪童だ。

 懐かしさを堪え切れず、また笑声が鼻を抜けた。

 

「しかし、それにしてもお前の訛りは酷いな。昔からだが、本当に愛知出身なのか疑わしくなる」

「るっせぇな。己の祖母(ばばあ)に言いやがれぃ。あの(アマ)の癖がそっくり感染(うつ)っちまったんだ」

「お祖母さんは東京出身だったか」

「ああ、例によって空襲で焼け出された口よ。それが流れ流れてどう転んだかねぇ……結局愛知に骨埋めやがった」

 

 昔話は尽きず、切りもない。

 竈に掛けた鉄瓶が沸いていた。煤で焦げるままにした瓶底はもはや元の色も質感も定かでない。

 淹れたインスタントコーヒーを共々啜り、ようやく人心地つく。

 

「なんにせよ、その切り裂き魔が鍵だ。おそらく薙原哲也はその野郎に襲われた。襲われたショックか、あるいは助けを求めたのか、その後、己がその体に憑りついた」

「まさかその犯人が薙原君の体の中身を入れ替えた、なんてことを言わないだろうな」

「流石にそんな妖術使いみてぇな手合いではなかろうや。この野郎はただの被疑者だ。昔から変わらず何処にでも現れる、現れちまうただの犯罪者よ。こればっかりは馴染みの臭いだ。間違いねぇ」

「ふっ、含蓄深いことだ」

「へっ、有り難くもねぇがな」

 

 皮肉げな笑みを突き合わせる。

 通り魔に襲われた少年。その少年に乗り移った元刑事の老人。そしてそこに居合わせた旧馴染みのキャンパー。

 奇妙な、そして実に運命的な取り合わせだった。

 

「手掛かりはそいつしかあるめぇ。捕るぜ」

「はあ……お前はそう言うだろうと思ったよ」

「それしかやり様はねぇだろう。こちとら文字通り、暗中模索なんだからよ。この犯人(ホシ)を挙げりゃ、あわよくば薙原哲也が戻るかもしれねぇ。戻らぬにしても、どんな状況で哲也がこうなっちまったかをそいつから訊き出せる」

「……警察に任せる訳にはいかないのか」

「ああ、本来ならそうすべきだ。だが被疑者が一度警察の手に渡れば、もはや俺達にはどうあっても手出しできなくなっちまう。これだけの傷害事件、実刑は確実だ。起訴され裁判に掛け判決が下り懲役刑……親族でもねぇ人間に面会が許可されるようになるまでどれだけ時間が掛かるか」

 

 時間の猶予は定められていない。今のところは。

 だが後々に逼迫した理由が表見しないとは限らないのだ。

 最悪なのは、元に戻ることができるタイムリミットがあった場合。手を(こまね)く内に、薙原哲也という少年がこの世から消えてなくなる。

 

「死に損ないの爺の亡霊に体を乗っ取られるなんざ、あんまりに憐れでならん」

「……」

 

 ぽつりと落した呟きを焚火にくべて、不二崎はコーヒーを飲み干した。

 

「お前さんもそう思うだろ……新の字」

「……ああ」

 

 ほんの、ほんの半瞬、応えの声が出遅れたのは。

 私の迷いなのか。それとも。

 

「ん? おい」

「なんだ」

 

 不二崎は手にしたままのスマートフォンを掲げる。

 年中マナーモードに入れっぱなしのそれは、矢鱈に煩い無音の振動を発していた。

 

「電話だぜ。お」

「?」

 

 その顔に驚きの色が映る。

 差し出された端末を受け取り表示を見ると、そこには。

 

『リン』

 

 画面をタップして受話口を耳に当てがう。

 

「もしもし」

『あ、おじいちゃん? 今大丈夫?』

「ああ、どうしたんだい」

 

 なにやらおずおずとした愛孫の声に目が細まるのを感じる。

 しかしこの時刻に電話を掛けてくるというのは、この子にしては珍しいことだった。なにせ思慮深く機微に聡い子なのだ。

 

『キャンプのことでちょっと聞きたいことがあって。眺めの良さそうなところ、どこか知らない?』

「リン、今の時期にキャンプに行くのは止しなさい」

 

 昨今のニュースはもとより、学校にも警察から指導が入っているだろう。この子も承知している筈。危険だ物騒だと今更こちらから滔々と説明するまでもない。ないが、しかし。

 

「犯人はまだ捕まっていない。リンがソロキャンパーとして一人前の技量なのは私も認める。だがこればかりは駄目だ。万が一にもリンが危険な目に遭えば、咲も渉君も、無論私も、後悔してもし切れない」

『あっ、わ、わかってる! わかってるよ! ……お母さんにも同じこと言われた』

「ふふ、そうだろうな」

 

 我が娘との奇妙な以心伝心に肩を竦める……そこに喜ばしいものを覚えないかと言えば、噓になるが。

 ふと、傍らを見る。こちらを見据える半目と目が合う。

 不二崎は声なく口唇で「お、ま、え、が、ゆ、う、な」と形作った。

 払い手でし、し、とそれを遠ざける。

 

『通り魔が逮捕されるまではキャンプには行かないから。ただ……結局、去年からずっと行けず仕舞いだし、せめて次に行く場所の目星くらいはつけておきたいなって、思ったから……ダメ?』

「……いいや、下調べは大事な備えだ。リンは正しいよ」

 

 いじらしいその申し出を跳ね付けに出来る親などこの世にはいまい。断じて在り得ない。

 そして、自身の(おや)馬鹿さ加減には呆れる他ない。危ういと言った舌の根も乾かぬ内に、記憶野から出来る限り孫娘の希望にそぐうものを検索する。

 

「御前崎の方は海の景勝地として有名だ。私も一度バイクで流したが、良いところだったよ」

『へぇ……いいなぁ、海……原付でも大丈夫かな』

「ああ、道も綺麗で走るには打って付けだ。ただあの辺りは西風が強いから原付では大変だろう。暖かくなれば多少はマシになるが……念の為に風防(スクリーン)を付けた方がいいかもしれない。それと、海沿いのキャンプ場だったかな? それなら磐田に竜洋の森というところがある。芝生サイトから少し歩くだけで海辺に出る。散策はし易いだろう」

『磐田……そっか、そっちにもキャンプ場あったんだ。盲点だ……』

 

 しみじみとした呟きが妙に可笑しいというか、無性に愛らしい。

 その後も静岡臨海のキャンプ場を幾つかピックアップして教えた。声音を聞くにどうやら満足いってくれたようだ。

 

『ありがとう、おじいちゃん』

「構わないよ。もう遅い。暖かくして寝なさい」

『うん、おやすみ』

「おやすみ、リン」

 

 二呼吸分ほどの間を置いてから終了をタップする。

 それを明らかに見計らって、不二崎はオーバーな所作で頭を抱えた。

 

「リンちゃんがキャンプだぁ? あぁあぁ可哀想に。爺に毒されちまってまあ」

「ふん、リンはお前と違ってこの趣を理解できる豊かな感性があるんだ」

「そこは疑っちゃいねぇよ。爺が一人侘しく野焼きしてるよかよっぽど画になるだろうぜ」

「口の減らない奴だ」

「お互いにな」

 

 打てば打ち返ってきた。

 減らず口の応酬。戯れ合い。

 いい歳して、と言う咲の呆れ笑いが目に浮かぶ。

 

志摩(こちら)の家の皆は元気にしてるかい」

「ああ、皆変わりない」

「リンちゃんはすっかり活動的になったなぁ」

「最近は原付の免許を取って一人でどこへでも小旅行している。ああ、アルバイトも始めたらしくてな。キャンプの資金を自分で稼いでるんだぞ?」

「ほう! そりゃあすげぇや。偉いなぁあの子は」

「ああ、本当にしっかりした子だよ」

 

 自慢の孫娘だった。厚顔に、しかし胸を張ってそう言える。

 

「いい子に育ってくれた」

「……そうかい。そいつぁいい。哲也にゃ悪いが、そいつを聞けただけでも死に損なった甲斐はあったぜ」

「……」

「ははは、そうかぁ。もう高校生かぁ。あのリンちゃんがなぁ……はは、はははは」

 

 感慨深く、深く、溜息を吐いて老爺は頷く。頻りに、何度も。それが、そのことが、嬉しくて嬉しくて堪らないと。

 この男にとって、リンは旧友の孫娘でしかない。親類縁者でもなく、家同士の繋がりとてありはしない。赤の他人と言わばそれまでの間柄。

 それが、ただそれだけのものが、この天涯孤独の老人にとってどれほど重く、大切か。得難かったものか。

 

「他人様の子供だってのにな……かかっ、何様の分際かねぇ、俺ぁ」

「……不二崎」

「あぁやだやだ。これだから嫌だねぇ寂しい老い耄れってなぁ。くっ、ふふふ」

 

 自嘲の色濃い呟きは、自戒か、それとも羞恥か。

 

「さ! そろそろ寝るか。毛布かなんか寄越してくれ。いっくら体が若ぇったって風邪っ引きは御免だぜ」

「……」

 

 腹式で発した一声が温い暖気を吹き飛ばす。

 先の一瞬に過った霍乱を払うように、すっくと男は立ち上がり伸びをする。

 

「夜が明けたら哲也の荷物を探さねばな。十中八九キャンプ道具だろうが」

「ほう、どうやら私達のような同好の士はお前が思うよりずっと多いようだな」

「へっ、んなことで勝ち誇るんじゃねぇや」

「お前もどうだ。哲也君の道具を借りてキャンプをするのは。実にいい機会じゃないか」

「御免被る……と言いてぇところだが、捜査となりゃあ否が応もなかろうな」

 

 予備のブランケットを投げ寄越す。

 それを受け取りながら、不二崎は独り言のように言う。

 

「なにはなくとも現場を当たるしかあるめぇ」

「キャンプ場を一つ一つ巡るのか?」

「応さ。国家権力も人手も持ち合わせねぇ伝手すら辿れねぇ元不良警官に出来る捜査なんざ、足使う以外にねぇだろうがよ」

 

 お道化てみせる不二崎を、しかし笑う気にはなれなかった。

 この男は本気だ。本気で、独力で犯人を捕まえようとしている……その先に何が待っているかを知りながら。

 

「ひょっこり戻って来てくれりゃあ、一番造作もねぇンだがな。くくく」

 

 それが、その行く末が、やはりどうしようとてなく────死出の旅路と知りながら。

 

「……」

「明日から忙しくなる。悪いがお前さんにも働いてもらうぜ、新の字」

「ふんっ、欠片も悪びれていない癖に」

「ご明察。ふはっ、ハハハハ!」

「ははは!」

 

 笑う。笑い合う。その最期を理解して、素知らぬ風に。

 焚き火はくゆり、薪木は焦げて、炎は上がる。

 富士の峰が泰然と、我々を見下ろしていた。

 

 

 

 

 



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3話 お前は誰だ

 

 

 

 不二崎甚三郎。

 

 己は己である。己はそれである。

 己はそれ以外の何者ではない。

 そんな下らぬ確認行為を必要とするほどに、今この時この場、この世界とかいうものの中に存在するこの身は不確かであった。不審であり、不信であった。

 それを、どうにか、なんとかして繋ぎ止めたのは、旧馴染みのあの男────新城肇。

 あの男が、己が不二崎甚三郎であることの証左。唯一の(よすが)だった。情けない話だがそれほどに、己は惑い、霍乱していたのだ。

 熱砂の陽炎。実体無き朧。それが今の己。

 他人の肉体に宿り、奪い、のうのうと現世に蘇った。

 まったく、悪い冗談だ。

 

 姓は不二崎、名は甚三郎。

 姓はともかく、この名が曲者だ。何処ぞの荒武者か侠客かといった具合に仰々しい。猛々しい。

 名が好かぬ。よくもまあこんなものを付けてくれたと頻りに文句を垂れた。

 その度に、名付け親の祖母(ばばあ)に拳骨を喰らったもの。罰当たりが。不孝もんが。生意気吐くんじゃあねぇこのすっとこどっこい等々。口の悪さはきっちりと譲り受けちまった。

 しかし警官を()り出すと、これが存外箔になる。吐かせの甚三郎。剣術屋甚三郎。鬼甚。好き勝手に呼ばれた。塀の奥へ打ち込んだ悪党、娑婆で永らえる悪党共、そして何故か同業からも。

 それを喜ばしいと思ったことは一度としてないが。まあ、呼ばわりたければ呼べばいい。悪党に当ってはその名の通り振舞ってやるに吝かではない。

 己を鬼と言わば言え。

 ならば獄卒(おに)のようにその罪を問うてやる。

 

 ……だが、一度。

 名を呼ばれて、嬉しかったことが、一度。

 あった気がする。いいや、あったとも。

 

 ────じん爺!

 

 その舌ったらずで、甘ったるい声で。

 あの子は呼んでくれたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 白んだ朝焼けに眼が眩む。

 ドアパネルのファスナーから覗いた外は、清々しいというより白々しいほどに晴れ渡っている。

 強烈な放射冷却で地表の熱という熱が根こそぎ奪われたのだろう。ワンタッチテントにフライシート……代わりのビニールシートをほっ被せても、この寒さは到底防げないらしい。

 身震いしながら寝袋を出る。寝床の暖かみを名残惜しむこともできやしない。

 半ば霜の浮いた芝生の、冴えた緑が視界を席巻する。

 朝霧高原キャンプ場。遠く富士山を望む野っ原は、朝日の下であればなるほど是絶景哉。

 

「寒いったらねぇな畜生め……」

 

 景観を尊ぶ殊勝な心持ちは刹那と保てず悪態が口をつく。

 マフラーに埋めた顔から、周囲に視線を這わせる。

 広大な芝生の丘にも関わらずテントは疎ら、どころか片手で数えるほどであった。キャンパーだけを狙う通り魔が近県を彷徨(うろつ)いているのだから当然といえば当然だが。

 凝り固まった筋骨を解し、伸びをする。

 その時、ポケットの中で端末が鳴動した。

 画面を改める。『新』の一字がでかでかと表示されている。

 

「……よ、ほ、く……えぇいなんで、押しボタンが、ねぇんだ! こいつはよぉ」

 

 画面に直接触れるという行為もさることながら、このクリックだかフリックだかいう操作が如何ともし難い。

 無駄に労苦してようやくに電話を繋いだ。

 

『まだ寝ていたのか』

 

 受話口から重低音が響く。耳に馴染んだバリトンは、相変わらず地下空洞の深みで鳴るような厚みと太さをしていた。

 

「とっくに起きてるよ。このスマートホーンとかいう機械がろくすっぽ言うこと聞きゃしねぇんだ」

『ふっ、若返っても機械音痴は変わらず、か』

「うるせぇ」

『そっちはどんな様子だ?』

「静かなもんだ。事件から二ヶ月近く経ちゃあこんなもんだろうな。客足もゼロじゃあねぇ」

 

 第一の事件現場、朝霧高原キャンプ場。

 その名の通り薄く朝霧に煙る原を少し歩けば、すぐにその虎縞の非常線が現れる。といって、有るのはその名残。三角コーンと制止のバーが申し訳程度に並べ置かれてあるだけだ。

 テント等、キャンプ道具諸々はとうの昔に証拠品として押収された後。

 二ヶ月あれば雨は降るし踏み均された芝生も元通りに繁る。

 痕跡と呼べるだけのものがもはやここには残っていなかった。

 

「まあ、そりゃ跡形もねぇやな。ただ現状を直に見たかったのよ」

『何かわかるか』

「そうさな……とりあえず、ここは管理事務所からは確実に死角だ。入口と事務所は丘の向こうの林の向こう。ここで何が起ころうが何をしてようが、即座には気付けまい」

 

 キャンプ客に対する配慮でもあったのだろうが犯罪を目論む者にとってはこれほど都合のよい立地もなかろう。

 他のテント同士も相当の距離を置いている。今が冬場の閑散期にあること、客同士が互いの視線を嫌うこと、その上このサイトの広大さも相俟って、殊に犯行現場の目撃者は望み薄か。

 

「しかもこのキャンプ場、防犯カメラがほとんど設置されておらん。あるのは受付窓口、事務所の表玄関口と裏口だけだ。正面ゲートにも一つあったが、そいつぁ事件の後、警察の指導が入ってから取り付けたもんらしい」

『……確かに、車両の出入りだけならそこは事務所を素通りできる。受付を済ませる前に車でサイトに乗り付けて先んじて場所を確保しようとする客は多い』

「無精者ってなぁ何処にでも湧きやがる」

 

 貼り紙や口頭での注意はあったろうが、半ば黙認されていたのだろう。そのツケがこの事件(ヤマ)か。笑えぬ話だ。

 

「リンちゃんも可哀想に」

『本当にな』

 

 溢した独り言に、実に深々とした肯きが返ってきた。

 こればかりは否定の余地がなかった。

 事件当夜、事件現場であるこの朝霧高原キャンプ場に……なんとリンちゃんは居合わせていたのだという。

 本栖高校の倶楽部。『野外活動サークル』というそのグループに同道して、友達数人とキャンプをしていたそうだ。

 

「あの子は容疑者らしき人物を目撃したんだったな」

『ああ……事情聴取をされたと言っていたよ』

 

 黒いコートを着た人影がサイトから走り去っていく姿を見た、と。

 

 ────えっと、たしか午後8時頃だったと、思います。カセットコンロのガスが切れて、代えを最寄りのコンビニに買い出しに行こうとして。駐車場に原付を取りに行ったら……誰かがサイトから走って出ていくのを見ました。膝くらいまで丈のある黒っぽいコート姿で、顔はフードを被っててわかりませんでした。それに暗かったし……

 

 新城から伝え聞いたリンちゃんの証言はこんなところか。想像で補った部分もあるが、まあそこは御愛嬌。

 返す返す肝の冷える話だった。通り魔とあの娘、それらが肉薄していたという事実が。

 犯行時刻、もとい実際に県警へ通報が入ったのは午後8時4分。証言とも合致する。

 

「施設の職員によると、被害者は二人連れ(アベック)で来ていたそうだ。通報者は本人じゃあなく女の方らしい。まず事務所に女が駆け込んできて、そこの固定電話を使って通報した」

『……携帯電話を使わずに、か?』

「使わずに、だ。妙だろ」

『女の行動も奇妙だが……被害者はその場で警察に連絡できないほど重傷だったのか?』

「それなんだが、この職員の姉さんってのがなかなかの出歯亀でな、救急搬送される男の様子を遠目から見てたらしい。これがどうも、()()を切られてたんだとよ」

『もの?』

「おうさ、男はみんな股の間にぶら下げてる、例のブツだよ」

『……なるほど。被害者本人が通報できない訳だ』

 

 男同士、したくもない連帯感など覚える。

 

『そうなると、犯人は被害者に恨みのある人間ということか』

「ああ、まず真っ先に怨恨の線を疑うだろうな。俺とてもそうさ。特に痴情の縺れってぇやつを。警察もその辺りに対する探り手に余念はなかったろう。にも拘らず、未だに犯人(ホシ)が挙がらねぇところを見ると、物証が何一つ見付かってねぇんだろうぜ。そうこうする内に二件目が起こっちまった」

 

 この間、十日余り。警察側の動きの鈍さは否めない。年末年始にかけての寒波の影響で出鼻を挫かれた……などという言い訳は聞きたくもないが。

 加えて、二件目以降の犯行はどう見ても通り魔的である。怨恨で的を絞っていただろう彼らからすれば、突き付けられたこの矛盾はなかなかに巨大だ。なまじ未発見のままだった凶器と同一のものが使用された事実も、矛盾に拍車を掛けてくる。

 

「捜査本部はさぞ混乱したろうなぁ。初動の判断を誤ったとあっちゃ、捜査方針を根っこから見直さなきゃならん。上から雷落とされ下からは突き上げを喰らい世間からは叩かれる。可哀想に」

『他人事だな』

「ま、所詮古巣だ。己が今更庇い立てても仕様があるめぇ。問題なのぁ、これだけ時間を掛けて捜査が手詰まりになっちまってる不甲斐なさよ」

『手掛かりは被害者の証言だけか』

「それと、リンちゃんのな」

『…………』

 

 新城は押し黙る。

 当然だ。可愛い孫娘がなにやら凶悪な事件と微かにだが関りを持ってしまっている。良い気分である筈がない。いや、最低最悪だろう。

 誰あろう己の胃の腑にも、そういう最低最悪が蟠っているのだから。

 なによりも。

 

「とっとと犯人ふん捕まえてやらねぇとな。あの子が折角見付けた趣味だ。キャンプ? ああ、如何にも真っ当な楽しみじゃあねぇか」

『……嬉しかったよ。リンが自分からキャンプを始めてくれたのは。あれこれわからないことを聞いてくれるのが、なんだか無性にな』

 

 望外の幸いを得たのだと、新城は言う。その深く感じ入る声音を聞く。

 

「へっ、爺冥利じゃあねぇかよ」

『羨ましいか?』

「馬ァ鹿。なに言ってやがる」

 

 如何にも自慢げな挑発に、鼻息で失笑を呉れてやる。

 

「羨ましいに決まってんだろうが」

『ふ……そうか』

「そうだよ。くくくっ」

『ふっ、ふふ』

 

 当たり前のこと。

 今更、言うまでもないこと。天涯孤独のこの老い耄れが、あの幼な子の健気を、羨望せぬ筈もなかろうに。

 ゆえに笑う。笑い話なのだ。こんなものは。

 

『……ところで、その職員もよくそこまで詳しく状況を教えてくれたな』

「本栖高校の生徒だと身分を明かしたら、ぺらぺらとくっ喋ってくれた。居合わせた本栖の子供らはある種の被害者だからな。頼みもしねぇのに、いや実に同情的で親身になってくれたぜ? へへへ」

『狡賢い奴だ』

「狡は余計だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 懸念はあった。なかなかに大きな懸念が。

 薙原哲也という少年の生活。そこへ不二崎甚三郎の霊魂だか精神だかが介在する場合、必ず生むであろう齟齬。

 別人が他人の人生を曲りなりにもその他人として、()()()生きようというのだ。なるほど無理が出る。馬脚が顕れる。確実に。

 

『……本当に行くのか』

「行かんでどうする。高等学校だってタダじゃねぇんだ。出席を疎かにして単位落っことしちまいました、なんてぇ始末。それこそ哲也が可哀想だろ」

『顔見知りに彼の豹変を知られたら不味いんじゃなかったのか。下手な真似を打って、いざ彼に身体を返した時、問題が残っていたらどうする』

「その問題ってぇのに頭悩ませられんのも、元に戻れりゃの話よ」

 

 授業の予定表通りの科目を鞄に詰め込み、制服に袖を通して襟を正す。

 糊の利いたブレザーの着心地が実に体に馴染まない。縒れた安物スーツのあの粗さを恋しがる日が来ようとは。

 

「いやなに、学生の本分は勉強也などと口幅ったいこと言いてぇ訳じゃねぇ。魂胆があってのことでな」

『魂胆?』

 

 耳と肩に挟んだ端末を手に取ってキャスター付きの椅子に腰を下ろす。疲労したスプリングが甲高く軋んだ。

 年季の入った勉強机には細かな傷が多い。卓上に肘を突いて、その表面の傷を視線でなぞった。

 

「ああ、野外活動サークルだったか? 現場に居合わせちまったというその子らから事件当夜の様子を聴き込みてぇのさ。なにせ現状、手掛かりが殊に少ねぇ」

『……それはまあ、そうだが。くれぐれも行動は慎めよ。お前は昔から無鉄砲だからな』

「あぁ? てめぇに言われたかねぇや。いの一番敵陣に鉄砲玉みたく突っ込んでくのはいつもてめぇだったろうが」

『いいや。相手の喧嘩を買うのはいつもお前が先だった。私はそれに付き合ってやっていたんだ』

「嘘こけ頓痴気。忘れてねぇぞ、ほれ、あの、隣町の族連中! 山岳部の後輩のぉ、佐山だ! 佐山がそいつらにカツアゲ喰らったのを見て、一も二もなくてめぇ副官の野郎の顔面に蹴り入れやがった。前歯ごっそり折れて、開けっ広げた航空機格納庫みてぇになっちまってたろう」

『大昔のことを持ち出すな! それにあれはあの男こそ無法だった。金だけじゃなく佐山が大事にしていたトレッキングシューズを奪って目の前で燃やした。あれは親父さんの形見だったんだぞ? 憤るのが普通だろう』

「かっかっ! 加減しろって言ってんだ。知ってるか? 野郎、前歯失くしてから渾名がハンガーになったんだぜ」

『ぷっ……そうだったか?』

「そうだよ。顔見かける度に笑っちまうから往生したぜ」

『あれ以来、連中こっちの校区には入って来なくなったからな。知らなかったよ』

「おめぇを恐がってたのさ」

『俺達を、だろう?』

 

 一吹き笑う。その言に否やはなかった。

 

「てっちゃーん。時間大丈夫ー?」

「おっと。もうこんな時間か」

 

 台所からの声に、壁の掛け時計を見上げた。哲也は身延から電車通学である。駅までの所要時間を思えばとっとと家を出なければならない。

 

「進展があればまた連絡する」

『わかった。こっちも色々と備えはしておこう』

「あいよ」

 

 画面を強か叩いてどうにか通話を終了させ、部屋を出る。

 玄関……ではなく、仏間へ。

 仏壇には位牌が二つ安置されている。

 線香をあげ、両手を合わせた。それは日毎の礼拝であり、欠かすことの出来ぬ謝罪でもあった。

 己がここに在ること、一人息子の肉体を乗っ取るが如きこの暴挙に対する詫び言。

 そして誓い。必ず取り戻すという決意表明。約束。

 

「御子息を、お預かり致す」

 

 ────薙原哲也の両親は五年前に他界していた。交通事故だったそうだ。

 

「てっちゃん。もう随分遅いよ。急ぎぃ」

「はいはい、ただ今」

 

 襖からひょっこり顔を出した哲也の祖母が柔らかく言う。

 両親亡き後、哲也は祖父母の手によって育てられた。そうして今や、高校に進学も叶っている。立派なことだった。心底より、そう思う。

 

「いってらっしゃい」

「いってきます」

 

 不思議というか、明らかに変調しているだろうこちらに対して、哲也の祖母は疑う様子を見せなかった。大らかな性質なのか、もしや呆としてしまっているのか。

 ……あるいは、覚ってなお。

 それはしかし、考えるだけ無駄であろう。現状、即時元通りとなる術などないのだ。今はただ素知らぬふりをして一刻も早くこの体を哲也に返す方法を探すまで。

 見送りに玄関に立つ老女へ手を振り返す。罪悪感よりも、それは使命感を刺激した。激して、燃やした。

 

 

 

 

 



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4話 死後の手習い

アニメでも原作でもなでしこさん登場する度にいちいち可愛い。可愛い(迫真)




 

 

 哲也の学生証には幸いにも所属学級まできっちりと記載があった。

 

「てっちゃんおはよう!」

「おう、おはようさん」

「……」

 

 一年C組。教室に足を踏み入れるや朗らかな挨拶をしてきた男子生徒に、向き直り返事をする。

 が、相手はこちらの応えを受けると目を瞬いて押し黙ってしまった。

 

「どうした? 鳩が豆鉄砲喰らったような面ァしてよ」

「いや……どうしたってそりゃこっちのセリフなんすけど……てっちゃん?」

「そうだよ。てっちゃんだよ。今日も元気なてっちゃんだ。お前さんは元気かい?」

「う、うん。元気」

「そうかい。そりゃよかった。ところで俺の席はどれだったかねぇ。教えてくれんか?」

「え、うん」

「ありがとよ」

 

 戸惑いながらも、明るい茶髪の少年は素直に席まで案内してくれた。眉毛と色が変わらぬところを見るに、どうも地毛らしい。随所に束を持たせた髪、毛先はワックスか何かで遊んでいる。

 着崩したシャツやブレザー、如何にも今時の高校生といった風情。それと同級生面で相対する己はやはり、何やら可笑しかった。

 

「あぁどっこいしょ、っとくら。通学っつうのもなかなか手間だな。えぇ? そう思わんか」

「……てっちゃんどうしちゃったん。なんか()()()()違くない……?」

「男子三日会わざればなんとやらってぇ言うだろう」

「いやわかんないけど、先週は金曜に会ってたし、休み土日だけだったよ」

「細けぇこたぁ気にすんなって。今はちょいとこういう伝法な語りに凝ってんのさ。その内すぅぐ飽きて元に戻る。きっとな」

「ふーん……ま、いっか! りょーかいりょーかい。そういうキャラでいくんだね。任してよ。オレ合わせんの得意だから」

「ははは、そうかい。あんがとよ」

 

 下手に演じたところで襤褸が出るのは必定。要は開き直ってみた訳だが。

 思いの外、最近の子供らはその辺り柔軟であるらしい。多少心配になるほど疑いも薄く。

 茶髪の少年は髪色同様に明るく、世間話に興じ始めた。ネット動画がどうの音楽がどうのそしゃげ(?)がどうの、内容は正直幾らも理解できなかったが、若者の興味関心の向きはどうやら今も昔も大差がない。

 

「てっちゃんは最近どうよ」

「唐突だなおい」

「だってさ~、そんなキャラ変するくらいだしなんかあったんじゃないの? しんきょーの変化みたいなの」

「そうさな、まあぼちぼちだ。飴ちゃん食うか?」

「うわぁ露骨な誤魔化しじゃん。もらうー」

「くくっ」

 

 包みに入ったイチゴミルクのキャンディーを一つ、放ってやる。

 茶髪が包みを開くと、イチゴの甘ったるい香りが広がった。

 それゆえか否か。隣から突如、猫の唸り声のような低音が響いた。音に目をやればそこに。

 つい今しがた教室に入ってきたのだろう。肩に学生鞄を提げた少女が佇んでいた。分厚いマフラーの下からこちらを、いやさキャンディーの袋を見下ろして。

 淡い撫子色の髪が豊かに、小滝のようにマフラーから溢れている。

 そうしてやはりじっと、目を輝かせてキャンディーを見詰めて。

 

 ぐぅう

 

 その小さな腹の中の獣がまた低く唸った。

 

「お一つどうだい?」

「いいの!? やったー!」

 

 差し出した飴玉を、それこそ飛び付く勢いで受け取り、少女は頬張る。

 途端に、その顔は飴のように蕩け、綻んだ。

 

「ん~っ、あまぁ~」

「朝飯は食わなかったのかい? いけねぇよぅ一日の資本を抜いちゃ」

「いへへ~、ちゃんと食パン三枚食べたんだけどねぃ。学校まで歩いたらなんだかもうお腹空いてきちゃって」

「ほぉ! そいつぁ健啖。いや結構結構」

 

 恥ずかしそうに頭を掻く少女に、キャンディの袋ごと寄越す。

 

「菓子だけってなぁよろしかねぇんだがまあ、育ち盛りだ。たくさん食いな」

「え!? でもこれ、こんなにいいの?」

「いいからいいから。いやな、お前さんの食いっぷり見てると、むしろこっちの方がいい心持ちになるんだ。不思議とな」

「えー、えへへ……ありがとう!」

 

 はにかんで、少女はへにゃりと笑う。

 たかが飴玉がそうも嬉しいか、るんるんとした足取りで少女は自分の席に向かった。

 その始終を見終えた茶髪が深々と溜息を吐いて。

 

「くぁー、やっぱ各務原(かがみはら)さんいいなー」

「お、なんだぃ。気があんのかお前さん」

「や、そういうんじゃないけどさ。可愛いよねって話」

「ははっ、そうだな」

 

 仔犬がオヤツを強請(ねだ)ってくるのを邪険には出来まい。あの少女には実に、そんな愛くるしさがあった。

 我ながらしっくり来る喩えだと内心で自賛していると、おもむろに茶髪は笑みを浮かべた。ニヤニヤとした人の悪い顔だ。

 

「そうだよなー。てっちゃんは年上好きだもんなー。各務原さんは射程圏外かー」

「まあ圏外と言やぁ圏外だが」

「にしし、にしてもよかったね~。田原センセ辞めなくて」

「田原?」

 

 聞き返すこちらが、さも惚けていると言わんばかりに茶髪は笑った。

 

「物好きだよねーてっちゃん。あんな性格キツそうなのが好みって。そりゃ結婚流れちゃったのは可哀想だけどさ~、前にも増して厳しいってか、オレらのこと目のカタキ? 八つ当たり? みたいに当たり強いんだもん」

 

 田原という女教師にどうやら哲也少年はお熱だったらしい。当人の意思を確かめる術が無い今、軽々に頷くべきかどうか。

 無難に。

 

「……しょうがねぇさ。教師ってなぁ、なかなか激務だって言うぜ? 私生活と両立できねぇんじゃ、鬱憤も相応に溜まるもんだろうや」

「そうかもだけどさー。課題忘れただけでめっちゃキレるじゃん。あぁいいなーB組は! 歴史の受け持ち鳥羽センセでー! 優しいし美人だし最高じゃん! あーオレも野クル入りてー」

「しゃんと座らねぇかだらしねぇ。ほれ。んで、なんだいそりゃ。のくる?」

 

 机に突っ伏して襤褸布のようにだらける茶髪少年を起こし、席に着かせる。首の据わらぬ赤子のように、だらりと従順に少年は椅子に腰かけた。

 

「野外活動サークル。ほら、去年新しく出来たやつ。て言っても、女子しかいないっぽいから無理なんだけどさー」

「ほう」

 

 期せず、胆に据えた目的が話題に上った。

 

「鳥羽先生、ってのが、そのサークルの顧問なのかい」

「そうそう。入ってきてすぐ部活の顧問になってくれたんだって。いいなー」

「はっ、羨んでばかりいねぇで、腹据えて入部してみりゃいいじゃねぇか」

「無理無理! 自分以外女子だけとか気まずいって!」

「そうかい? ならば俺がいっちょ立候補してくるかね」

「うえぇっ!?」

 

 頓狂な声を上げて茶髪は机に乗り出した。

 教室中に響くその咆哮。教室中の視線が一瞬、窓辺のこの席に集約される。

 しかし茶髪はそんなもの意にも介さずと、被り付きで詰め寄ってきた。

 

「マジで!? ガチで野クル入んの!? て、てっちゃん勇者~!」

「馬ァ鹿。軽口だよ。座れ座れ鬱陶しい」

「なぁんだー。てっちゃん行くなら乗っかろうと思ったのに~」

 

 調子のいいことを(のたま)う少年、その額を指で弾いてやる。少年は大袈裟に痛がった後、盛大に笑った。なるほど箸が転がる程度でも、この少年ならば存分に楽しめるだろう。

 ふと、前の席に目が行く。というより、こちらに注がれる視線を気取る。

 それは先程の、撫子色の髪の娘子。そう、各務原と言ったか。

 少女は己を見て、にぱっと笑った。日輪を追う向日葵も斯くやの、朗らかな笑顔。

 手を振ってやる。すると向こうも手を振り返してきた。

 

「えへへ~」

 

 近々見ない、なんとも愛嬌に溢れた娘である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 現役の高校生が受けている授業内容には、もはや懐かしさを覚える余地などなく、ただただ悪戦苦闘を強いられた。若い時分の怠慢が、まさかこの期に及んで報いを(もたら)そうとは。

 落第点だけは取らぬよう精々足掻こう。

 

「あ゛ぁ~……しかしこりゃ、ちと難行だな……」

「くたびれてるねーてっちゃん。帰りどっか寄ってく? 気晴らしに甲府まで遠征しちゃう? 月曜だけど」

「甲府ぅ!? 今からか?」

「そだよ? 大丈夫っしょ。てっちゃんちは門限緩いじゃん。おばあちゃん優しいし」

 

 茶髪少年はあっけらかんとして言った。

 なるほど若い子の遊び場なんざそこまで出張らなければ碌々ありはせんか。それにしたとてこの元気(バイタリティ)。流石は十代、恐れ入る。

 

「すまねぇが所用があってな。また今度誘ってくれや」

「あららーそっか。うん、りょーかい」

「遊ぶなとは言わねぇが、程々にして帰れよ」

「うわっ、てっちゃんうちの爺ちゃんと同じこと言ってるし」

「あ? かっかっかっ! そうかい。そりゃ奇遇だ。いやいや実に矍鑠(かくしゃく)。良いこと言う祖父君じゃあねぇか」

「いいことないってー。うちは父ちゃんが大人しい分爺ちゃんが厳しいんよ」

「そりゃいい塩梅だ」

 

 辟易と突っ伏す少年の肩を叩き、席を立つ。

 しかしそこでふと、思い立つ。

 

「ところでよ、この辺りにミリタリーショップはねぇか。防犯用品の取り扱い店でも構わねぇんだが」

「え? ミリタリー? なになにてっちゃんそういう趣味あったの? てっきりキャンプだけかと思ってた。多趣味~」

「はっ、まあそんなとこだ」

「ネットで調べたらいいじゃん」

 

 あっさり言い放つ少年に、諸手を上げて()()()()を見せる。

 

「それができりゃあ苦労はねぇ……」

「できないってなんさ」

「できねぇもんはできねぇの」

 

 今所持しているスマートホーンは哲也のものだが、それを抜きにしても無理が勝つ。己がこれで操作できるのは通話だけだ。それ以外はわからぬ。わからぬ。わからぬのだ。

 

「?? じゃあオレ調べよっか?」

「お願ぇしやす」

 

 拝み手で礼する。恥も外聞もありゃしない。

 

「って言ってもそれこそ甲府くらいしかないんじゃない?」

「近場にありゃ楽だってだけの話だ。ありそうかい?」

「うーんと……お、一件ヒット。波高島駅の方に新しいのが開店したって」

「よしよしお誂えだ。住所見せてくれぃ」

 

 向けられた画面の文字列を学生手帳に書き写す。

 

「助かったぜ。ありがとうよ」

「ぜんぜんいいけど。ははは、てっちゃんマジで爺ちゃんみたいになっちゃったね」

「うるせぇ」

 

 部活動に行く者、帰宅する者、友達同士遊びの算段やら駄弁る者、がやがやめいめいに騒がしい教室から抜け出して、向かうは一路。

 職員室。

 

 

 

 

 

 

 

 教職員にとって放課後こそは繁忙を極める。受け持ちの部活動があればそれを監督し、後日そのまた後日分の授業の準備、課題の作成、試験の採点、添削、催事行事の類が絡めばその段取りまで、仕事は多岐に亘る。

 教職とは事程左様に激務であった。

 職員室を忙しなく行き交う彼らを見て取って、そんな他人事の感慨を抱く。

 目当ての人物は室内半ば、デスクでなにやら作業の最中であった。

 頬の片側に垂らした黒髪、白いカーディガン、面差しは柔らかで細めた目は優しげ、そしてなにより端正だった。

 鳥羽美波。去年新任したばかりの歴史教師──とは同級生達の受け売りだが。

 

「どうもお疲れ様です。今ちょいとよろしいてすかな、鳥羽先生」

「えっ、あ、はい! ……って、あら?」

 

 肩を跳ねさせながらこちらに向き直った若手教員は、己の姿を見て取って小首を傾げる。

 

「おっと、驚かしちまいましたか。いやこいつぁすみませんな、背後から突然」

「あ、いえいえ! 大丈夫です。お気になさらず。ただその……今一瞬、校長先生がいらしたのかと」

「おやまあ」

 

 こんな年寄り臭い調子で話し掛けてくる心当たりが校長だけなのだろう。少なくともこの学校では。

 面白がるこちらに、しかし対手は如何にも申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「ご、ごめんなさい。失礼なことを……」

「かかっ、失した礼なぞありゃあしませんぜ。まさに分相応で。いや流石は教師、人を見る目が養われておいでだ」

「はあ……? 薙原くん、でしたよね。C組の。私に何か御用でしょうか」

 

 鳥羽教諭は不思議を通り越して怪訝な顔をする。

 さもありなん。不審を買う前に本題を済ませよう。

 

「実はちょいとお尋ねしたいことが……」

 

 言い掛けて、ふとデスクの脇に目が行く。床には一抱えほどの段ボール箱が三段積み重なっており、その一番上の箱だけ蓋が開いていた。

 ちらと見えた中身は、どうやらプリントの束。内容は日本史のようだ。

 

「随分な大荷物ですなぁ。今度の課題か何かで? おっと目を触れちゃ不味かったですかい」

「ああ、これは大丈夫です。もう使い終わった資料ですから。保管庫に移そうと思って箱詰めしていたんです」

「お一人でこいつを?」

「ええ、ほんの三往復」

 

 眉尻を下げ、お道化た調子で彼女は言った。

 なるほど。

 最下段の箱に両手を掛けて持ち上げる。ずしりと骨身に響く。

 

「うお、こいつぁ重てぇや!」

「あっ、そんな、いいんですよ薙原くん。日直でもないのに」

「いいからいいから。さ、行きやしょう。保管庫ってなぁどこです? いやぁ未だに校舎ン中が不案内でいけねぇや」

「あぁ持ちます! 私も持ちますから!」

 

 

 

 

 

 



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5話 悩める少女達

文章表現、キャラ描写、原作設定。なにか手落ち等ありましたらどうかご教示くださると嬉しいです

ご意見、ご感想、どうぞお気軽にお願い申し上げます(欲しがり屋並感)




 

 

 

 資料保管庫は職員室から校舎を移った別棟、部室棟のさらに最果てにあった。

 傍らの細腕を盗み見る。こんなところへこの大荷物をこの娘一人で運ぶのは、言ってはなんだが酷である。

 

「教室で暇こいてるのが幾らでも居るんだ。扱き使ってやりゃあいいじゃあねぇですかぃ」

「いえ。部活動がある人はもちろん、これから帰宅しようとしている人に頼み事をするのは悪いですし」

「悪いなどとんでもねぇ。先生みてぇな別嬪に一声かけられた日にゃ野郎共は喜んで馬車馬になりますぜ」

「えぇ……もぉ、揶揄(からか)わないでください」

「なんの。本音を言ったまでですよ」

 

 さなきだに歯の浮いた物言いではあるが、歴とした事実である。現に一人確実な心当たりが居るのだから。

 鳥羽教諭は困ったような笑みを浮かべる。生徒のガキから口説き文句染みたことを口走られれば然もあろう。

 手荷物があるので腰を折るのは諦め、目礼気味に顎を引く。

 

「いや軽口が過ぎ申した。平に」

「えっ、い、いえいえ!」

 

 濡れ羽色の黒髪を宙に泳がせ、慌てるように彼女はぶんぶんと首を左右した。

 窓の外ではバレー部員が二列縦隊でランニングに励んでいる。

 それを横目に廊下を行くこと暫し、行く先に保管庫の札が見えた。重労働からの解放を目前に控えて足取りも軽くなった、その時。

 

「……自分の仕事は、自分でやらないと……ですから」

 

 若い女性教諭は独り言めいて呟いた。微かに……気鬱の暗色滲む声で。

 そこには深い疲れが見えた。先にも見た通り教職とは激務。放課後の今、疲労に身体を重くする様子は何も不思議なことではないが。

 

「……」

 

 どうにも、そればかりではないような。

 その細い両肩を重くするのものは、あるいはもっと別の、罹り事に思えてならぬ。

 過ぎた考えであろうか。殊人情などというものに対して、微に入り細を穿つような鋭敏な見識をまさか己のような粗略漢が持ち合わせている訳もない。見当違い、全くの勘違いと判ずるがまだしも妥当か。

 まあ、それならそれでよかろう。阿呆が余計な気を回して馬鹿を見るだけだ。

 

「先生はなんぞ御趣味などありますかな」

「はい?」

 

 まっこと唐突な話題振りに、当然ながら教諭は返答など出来ず反問した。

 その当惑にしかし、あえて取り合わず。

 

「趣味などと言うと大仰かね。もっと気楽に、そう気を楽ぅにする某。楽しみってぇやつですよ。ありますかぃ」

「え、えぇと、そうですね……お酒、とか」

「へぇ、何を飲まれるんで?」

「う、うーん? なんでも飲みますよ。ビールも日本酒も洋酒も。カクテルとか、市販のチューハイ、珍しいリキュールを見付けたら試してみたり」

「ほっ! そいつぁ豪気だ! 近頃の若ぇ連中は酒なんぞに興味はねぇもんかと思っておりやしたが、先生はイケる口でしたかぃ。いやぁ立派立派」

「あはは、そんな。全然大したものじゃないです。ただ好きってだけで」

「いやいや一番の上等じゃござんせんか。好きこそものの上手なれ、と。特にここいら富士の麓は水が良い。水が良い土地は地酒が旨ぇときたもんだ。お召しになったこたぁありますかね、富士河口湖の方にある醸造店の」

「知ってます! 富士山の伏流水を使ってるんですよね! 冷涼な気候では育ち難いお米を、それでも土地の水で育てて使用するこだわりっぷりで。正真正銘富士産の地酒! 湧き水みたいに澄んで、いぃい味なんです……」

「そいつぁ今の時期こそ、あえて冷でいきてぇとこだなぁ」

「いいですねぇ……鍋物で温まった体にキューっと!」

「それもいいがね、ありゃあなんつっても臭ぇもんがべらぼうに合うのよ。炙ったあん肝とやった日にゃこいつぁもう堪えられんぜ」

「あん肝ぉ。いいなぁあん肝。自炊だとなかなか手が出なくて」

「ちょいと足伸ばせば幾らでも旨ぇ店があるんだがねぇ。おぉ、なんなら一軒見繕うぜ。どうだいこの後一杯」

「いいですね! 是非────」

 

 疲れも吹き飛ぶ晴れやかな笑顔がこちらを向き、そのままの形で凝り固まる。さながら酔いから醒めたといった風情で。

 それは少なからず、己の身にも詰まされる心持ち。つい口が滑り、調子よく滑って、一時己が身の上を失念した。

 

「……と、まあ、うちの爺さんなら言うでしょうなぁそらもう一も二もなく。先生のような可愛らしいお嬢さんと一献酌み交わせるとなりゃ冥途の土産に釣りと特典が乗るような具合で……ねぇ?」

「薙原くん」

「へい」

 

 娘さんから、教師の声音へ。

 真剣みのある呼ばわりに背筋を伸ばし、傾聴の体を作る。

 暫時、こちらをじっと見詰めた鳥羽教諭は、深く溜息を吐いた。

 

「……ダメですからね」

「あいや無論で」

「真面目に」

「へい、御心配なく。未成年飲酒は御法度ですからな。うむ」

「…………もぉ、調子に乗って話合わせちゃった私も悪いですけど」

 

 若き女性教諭はその場でこんこんと、自らの言動を恥じた。恥じ入るというか、恥じらうように。

 その様がなんとも愛らしく、可笑しい。

 

「あっ、今笑いましたか!? 笑いましたね!?」

「いえいえ滅相も」

「本当にダメなんですからね!? 若い内からアルコールと仲良くしてるとバカになりますよ!?」

 

 冗談めかし、などではなく。妙に実感の篭った警告であった。

 なにやら思った以上の時間を費やして、我々はようやく保管庫の扉の前まで辿り着いた。

 ぷりぷりと怒りながら、彼女は抱えた段ボール箱を、己の腕にある箱の上に置く。容赦のない荷重が連鎖して全身に響くが、むくれ面の娘さんはそんなもの知らないとばかり。保管庫の鍵を悠々ポケットから取り出し。

 

「と、鳥羽先生!」

「はい?」

 

 不意に呼ばわれる。それは元来た、廊下の向こうから。

 一人、女子生徒が歩み寄ってくる。やや落ち着いた色味の茶髪は緩く巻かれ、それが側頭に一つ髪留めで結われている。なにやらひどく、()()垂れ目と眉をした少女であった。

 その足取りが淀む。目当ての人物を見付けたにも拘わらず。迷い、躊躇うように、少女は実におずおずとして。

 鳥羽教諭、そして教諭の影に立つ己の姿を見て取り、遂にその足を止めてしまった。

 

「犬山さん? どうかしたんですか」

「え、あ……い、いや、その」

「?」

 

 要領を得なかった。台本を紛失して当日舞台に立たされた役者のような。用意した言葉全て、喉奥へ叩き戻され。

 少女は途方に暮れる。今にも、泣き出してしまいそうな顔で。

 この世の終わりめいている。助けを求める迷い子の……大仰であろうか? この心証。この読解は。

 否。迷いなく否やと言える。

 何故なら己はそれを、この必死な顔を、苛まれる目を──知っている。不二崎甚三郎()()()日に見たことがあるのだから。

 

「……」

「……犬山さん、ここでは言い辛いことなのね?」

「鳥羽先生、荷物(こいつ)は己が放り込んでおきやしょう。鍵だけ失敬できますか」

「……そうですね。すみませんが薙原くん、あとをお願いできますか?」

「ええ、では」

 

 教諭は実に機微に聡かった。己の申し出などなくともこの場を預ける程度の機転は働いたことだろう。

 とりあえず、と。鳥羽教諭は手ずから扉に鍵を差し込んだ。

 

「あら? 開いて……」

 

 なにやら訝ってそう呟いた瞬間、突如、扉が引き開けられた。

 開け放たれた保管庫の内側に、人影が立っている。

 紺のスーツを着た女。女性教諭である。

 

「た、田原先生。いらしたんですか」

 

 呼ばわりに銀縁眼鏡の奥、切れ長な目が鋭く細められる。

 教諭、田原は無言で扉から進み出た。行く手を空ける為に鳥羽教諭が後退る。しかしそれはまるで目の前の人物を恐れ、気圧されてたじろぐかの様相だった。

 伏し目がちに、鳥羽教諭は顎を引いた。

 田原教諭の視線がこちらに向く。己、というか己の抱えた荷物に。

 

「まだ資料の整理をしていたんですか、鳥羽先生。随分とゆっくりですね」

「す、すみません」

「生徒の手を借りないとこの程度もお一人では片付けられませんか? でしたら今後は、もうお頼みしない方がよろしいかしら」

「い、いえ! そんなこと」

「無理に引き受けていただかなくても結構です。お忙しいんでしょう? ()()()()()()をされたらいいわ」

 

 反問、抗弁の余地すら与えない。取り付く島もない撥ね付け様。言い回しはどこまでも慇懃であったが、その手触りは実に鋭利。耳孔を針で刺すかの辛辣さだった。

 見る間に鳥羽教諭は肩身を縮ませる。真正面から無能の烙印を捺されたのだ。心穏やかで居ろという方が無理な話だろう。

 そしてその萎縮した姿はなお一層に、対手の不興を買った。

 

「ご不満があるようなら遠慮なく教頭か校長に申告なさってください。私は一向に構いませんよ」

「そんなっ! そんなつもり、ありません」

「ならさっさと雑用くらい済ませてください。期末試験だって近いのにもたもたと。いつまでも新任気分でいられては困るのですけど」

「……すみません」

「謝罪ではなく、その勤務態度を改めたらどうなんです? だいたい以前から、貴女は生徒との距離感を少し取り違えてる節があるようで。友達感覚で接していれば人気が取れるとでも考えたんでしょう。不謹慎ね。若くて容姿に自信のある人は人生生き易そうで羨ましいわ」

「っ」

「これもそうなんでしょう? 大方そっちの男子に、色目でも使って────」

「どっこい……」

 

 両腕を開く。一挙に、左右へ。

 そうするとどうなるか。当然自然の成り行きで、腕に抱えていた物体が支えを失くす。

 宙に投げ出され、そのまま自由落下する。

 ずどん、と重い音を立て。廊下に三箱分の紙束を収めた段ボールが倒れもせず積み重なったまま着地する。

 

「しょっとぉ。あぁあぁ重てぇ重てぇ」

「……」

「おっと話の腰を折っちまいましたかな。いやこれはこれは、失礼仕った」

 

 言って、頭を垂れる。慇懃無礼にならぬよう心掛けてはいるが、さて。

 

「……貴方」

「ん?」

 

 田原は己の顔を見て、刹那静止した。一呼吸にも満たぬ微かな間。有るか無きかすら判然とせぬほどの。

 しかし確かに、かの女性教諭はこちらを認識した途端……驚いていた。

 

「っ、とにかく、雑用は手早く終わらせて本業に戻ってください」

 

 捨て台詞もつんけんと、田原教諭はその場から歩き去る。廊下を打つ靴音さえ怒らせて。

 その背中が廊下の曲がり角に消え足音ももはや聞こえぬまでに遠ざかったその頃合いで。

 

「感じワっっル!!」

「犬山さん……」

「いやあれはあかんわ。あれはホンマにあかんて。なんなんあの暴言。いくらなんでも失礼過ぎやろ」

 

 苦笑するばかりの当人に成り代わってくれようとでも言うように、少女は、犬山という女子生徒は憤慨を露わにした。

 怒れる少女を鳥羽教諭は依然落ち着いた様子で、両の手で宥める。

 

「なかなか、厳しいお人のようで」

「ええ……そうですね」

「厳しいとかいう問題!? あんなんただの八つ当たりやん! 自分の不幸を笠に着て……!」

「犬山さん!」

 

 ぴしゃりと、一声が響く。たおやかで柔らかだった気配を鮮烈にして。

 萎縮した様などもはや微塵とてありはしない。真剣な顔で鳥羽“先生”は女子生徒を叱り付けた。

 

「田原先生の言葉はとても厳しいです。ですが、全部が間違っている訳ではありませんから」

「でも……」

「ありがとう」

 

 労しげな少女に鳥羽教諭は微笑んだ。

 その微笑がこちらを向く。それがなにやらまた一層に、華やいだように見えた。

 

「薙原くんも」

「はて、俺ぁただ荷物運んでつるっと落っことしただけですがね」

「ふふ、そうでしょうか」

「そうですとも」

「じゃあ、そういうことにしておきますね」

 

 軽やかに言ってから、鳥羽教諭は思い出したように女子生徒へ向き直った。

 

「あ、そうだ犬山さん」

「え」

「何かお話があったんですよね。今からなら時間作れますから」

「あ……で、でも! お仕事あるんですよね? そんな重要な話ちゃいますから、また今度! 今度また時間のある時に」

「え、でも……」

「ほな、さよならー!」

 

 矢継ぎ早に捲し立てるや、少女は慌てて踵を返し立ち去った。

 教諭の呼び止める声から、まるで逃げるように。

 

「犬山さん……どうしたのかしら」

「……」

 

 その気遣わしげな呟きに、もはや先程帯びていた気鬱など一切なく、ただただ一心に生徒を慮るばかりであった。

 まったくもって教職とは激務。そして……聖職だ。

 

「さてさて先生よぅ、この大荷物は何処に放りやしょうかね」

「あ、はいただ今!」

 

 そんなこんな、ようやく整理もついた頃。

 何やら余計に懸案は増えたような気もするが。

 作業の最中から今もなお心配顔の娘に笑みを向ける。

 

「然らば一つ、不肖この薙原が遣わされましょう」

「はい?」

 

 またしても唐突なる物言いに可愛らしく戸惑った顔をした後、然したる間もなくその目に得心の光を見せる。

 しかし次いで、その表情は翳る。この身に対する不信からくる不安、ではなく。

 ひどく、労しげに。

 

「いえ、いいえ。それは、私の役目です。私は犬山さんの、貴方達の先生ですよ」

「なればこそ。あの娘は先生を慮ったんでしょうよ」

「そんな……」

「いやいや責めに思わんであげな。子供ってなぁ大人の思う以上に大人に気を遣いやがるのさ。心の、感度ってやつですかい? そいつが一等鋭敏な年頃なんでしょうなぁ」

「…………」

「それを見て放っておけねぇ、頼って欲しい我が儘言って欲しいってぇ思えるあんたは、いややはり立っ派な先生だ。その誠実さをしかし今一時曲げて、待ってやっちゃあいただけやせんか」

 

 どうして……声ならぬ疑問がその全身から発露している。

 

「ほんの一度、己を噛ませてくださればいい。潰しの利く緩衝材とでも考えなすって」

「……同年代同士の方が、話し易いこともあるでしょうか」

「は? あ、そいつぁ、まあ、そうやもしれませんな。ハハハッ! うんうん」

「?」

 

 早速出そうになった襤褸を飲み込んで笑う。誤魔化しに笑い飛ばす。

 今度こそ不思議そうな鳥羽教諭の視線から身を逸らし、頭を掻いた。

 

「……なんだか、不思議な人ですね。薙原くんって」

「そんなこたぁないとあっしは思うんですがね」

「あっし? あ、いえ、別に変だって言ってる訳じゃないですよ? ただ、そう、まるで……私の方がフォローされて、生徒の相談事まで引き受けてくれようとしてる……不甲斐ない私なんかより、頼り甲斐があって」

「んな大仰な」

「ふふっ、まるで、ずっと年上の方みたいで」

「気の所為でござんすよぅ。えぇそらもう、気の所為で」

 

 背中に快ろしくない汗を掻いた。

 くすくすと愛らしく笑う娘子が今ばかりは少々厄介だった。

 

 

 

 

 

 

 目当ての背中は部室棟二階の最奥で見付かった。

 頭の片側に結われた茶髪が、その足取りと共に揺れ動く。軽やかとは言い難い、淀み、重い歩み。

 それは迷いが生むものか。思い悩むゆえの忘我。

 いや、今少し違う。そう己の勘は告げる。

 それを確かめる為に、己は歩を進めた。努めて、大きく、甲高く足音を立てて。

 

「っ!」

「……」

 

 背後からでも見て取れる。少女の肩が大きく震えた。

 背筋の強張り、小刻みな震撼。その怯えを、ありありと感じられる。

 少女は怯え、竦み、こちらに振り返ることすらしない。

 しかし取り合わず、なお一歩また一歩と近付いていく。足音は、おそらくその小造りな耳孔を盛大に叩いていよう。

 もうあと五歩、それで間合はなくなる。

 その時、遂に少女はこちらを向いた。決死の覚悟を滲ませた、恐怖に歪んだ顔がそこにはあった。

 

「! あ、え、と……薙原くん……? やったっけ」

「おう、そうだよ。薙原哲也ってもんだ。お前さんとは以前に……話しぃ、したこたぁあったかい?」

「う、ううん。ない、と思うわ。うん、たぶん」

「そうかい。ならば改めて、どうもはじめまして」

「あ、これはどうもご丁寧に……」

 

 その場で辞儀する。すると眼前で娘子もちらに倣った。

 間の抜けた応酬であった。だが、それがほんの僅か、少女から緊張を取り去ったのは確かなようだ。

 

「わ、私になんか用?」

「ああ、ちょいと確かめてぇことが一つ」

「確かめる……?」

 

 困惑の色滲む顔で、少女は小首を傾げる。

 

「随分、後ろを気にしてるな。足音が恐いかい」

「え……」

「ポケットに入ってんのは携帯じゃあねぇな。防犯ブザーか? そうだろ」

「っ!? なん、で」

 

 廊下を歩く背中を見付けた時から、この娘はスカートのポケットに常に手を入れていた。まるでそうしなければならぬと己自身を強迫するように。

 そうしなければ、不安で立ち行かぬというように。

 

「なんで、わかったん」

「なに。お前さんのような子供を、昔よく見てたんでな」

「……」

「もし間違ってんならそう言いな。そうすりゃ己は黙って立ち去る。気を悪くしたってんならそれこそ、もう二度と近寄りゃしねぇからよ」

 

 なるたけ優しく、いや自然態にそう言い置いて。

 

「お前さん、誰かに付き纏われてるんじゃあねぇかい?」

「!?」

 

 出会ってからより一際に、少女はその身を震わせた。核心を衝いたのだ。

 瞳が惑乱する。視線は足元や、廊下の窓や、こちらを忙しなく行き来し、最後にきつく瞼が閉じられた。観念したと言うように。

 推測は正当したが、何一つ喜ばしいものはない。外れていて欲しかったと心底思う。

 しかし現実に事案は発生している。今もなお。ならば。

 

「ちょいと話を聞かせてくれんか。何か力になれるやもしれん」

「……でも」

「本当は鳥羽先生に相談するつもりだったんじゃあねぇか?」

「……」

「それを己が邪魔しちまった。すまんかったな」

「ちっ、あれはちゃうよ! しゃーないわ。田原先生もおったし、タイミング悪かっただけで、薙原くんの所為とはちゃうて」

「勇気の要ったことだろう。悩みを打ち明けるってなぁ機を逸するとなかなか難しいもんだよなぁ。申し訳ねぇことをしたよ」

「っ、そんな、そんなこと……ない、よ……?」

 

 滲む。その瞳、その声音が。ほろほろと少女の相好が崩れる。

 

「っ……!」

「先生はいつ何時だってお前さんが話しに来てくれるのを待ってるさ。おぉこいつぁ請け合いだ。あの子はいい先生だ。それでも、どうしても心の準備が付きそうにねぇんなら、一つ己に吐き出してみちゃくんねぇか? なぁに、鳥羽先生にも言ったが、己は緩衝材か練習台とでも思ってくれりゃいい」

 

 笑みを向けると、呆然と少女は己を見返した。この男が何故こうも踏み込んで来ようとするのか、それが不可解なのだろう。不審もまた必然。

 しかし、藁をも掴むその心持ちはありありと見えた。

 

「あの……」

「うん」

「あ、あんな……私……」

 

 おずおずと絞り出すように言を継ぐ。

 それをどっしりと待つ。急かさず強請らず、丸一日でも待ち受ける気組で。

 待つ。待とうとした。

 己が背後から、廊下を蹴る軽快な音が響いた。

 

「ぅ、うぉおああああああ!!」

「あ?」

 

 振り返ればリノリウムの上を叫びながら駆けてくる人一人。黒縁眼鏡、頭の両側で二つに結われた髪が蔓のように宙を後追う。女子生徒であった。

 手には木製の自在箒が握られている。間もなく間境。少女はそれをまるで槍か刺股のように一息でこちらへと突き入れてきた。

 半身を翻して、それをやり過ごす。

 躱されたことに驚いて、少女は一瞬つんのめり、どうにか持ち直した勢いで犬山ちゃんの傍へ駆け寄った。

 

「アキ!? ちょ、なにしとんの!?」

「い、イヌ子に近寄んじゃねぇ! こ、こ、このストーカー野郎!!」

「いやいやいやなに言うねん!?」

「ぬぉらぁああああああ!!」

 

 怒号もなにやら小動物染みて、迫力よりも可笑しみが勝る。

 笑う無礼を堪えつつ、振り下ろされた箒の柄を躱し──躱し様にその握りの手元を捕った。

 

「うえっ!?」

「いよっと」

 

 ぐ、と柄を引き込む。

 すると当然に少女は全身を強張らせてそれに抗おうとする。

 

「うぐ、ぐぐっ、うがぁああ放せー!!」

「あいよ」

「へ」

 

 その細身が退く為に足を引き体を流した、その瞬機にそっと、その方向へ押しやってやる。

 当然、体重心の移動と共に、少女は仰け反って倒れ込んだ。

 

「お、おぉうわぁ!?」

 

 すってんころりと廊下にその小さな尻餅を突く。

 からから転がった箒を拾い上げていると、少女は尻を擦って掠れた悲鳴を上げた。

 

「いぃ痛ててて……」

「くく、大丈夫かい。そら、掴まんな」

 

 差し出した手をきょとんと見上げて、少女が目を瞬く。

 こわごわと持ち上げられた手を掴み、思い切り引き上げた。

 

「うわっとっと!?」

「怪我ぁねぇかい?」

「あ、はい。どうも……」

「アァァァキィィィ……」

「ひょ?」

 

 背後から地響きの如くに低く、呼ばわれる。油切れのブリキ人形の様相で眼鏡がそちらを向くと、甘い垂れ目を三角にして怒れる少女がそこにいた。

 

「なんちゅうことしとんねんアホたれぇ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 



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6話 ストーカー被害

あんな可愛い子がいるスーパーそりゃ通い詰めるわ(迫真)




 そこはまさしく鰻の寝床と表するがぴったりの居室であった。

 横幅一畳半ほどの長細い奥行。用具入れと呼ぶ方がまだしも適当に思える。

 そんな狭苦しい野外活動サークルの室内の只中、地べたに正座などして少女がこちらに頭を下げている。なかなかに姿の良い土下座である。

 

「すんまっせんした!」

「もっとちゃんと謝らんかい」

 

 噛み付かんばかりの犬山ちゃんに恐れ戦く眼鏡の娘っ子、大垣千明。

 

「ご、ごめんなさい……危ないことしました」

「ストーカー呼ばわりしとったな」

「ストーカーとか言ってすみません」

「お詫びに桔梗信玄餅買ってきます」

「信玄餅買って……っておい」

「あぁあぁもうよいよい。詫びはきっちり受け取ったよ」

 

 気の置けない間柄であることはすぐに見て取れた。

 こちらが宥めてやると、両者は顔を見合わせ何やら此度の許否を裁決したらしい。

 

「俺ぁ薙原哲也。(おんな)し一年の筈だが、見知ったこたぁあったかい?」

「いやぁ絡みはねぇっす。たぶん」

「左様か。ならば改めてはじめまして」

「あ、はい。はじめまして大垣っす」

「ってかアキ。なんやのん箒なんて持ち出していきなり」

「や、だって……知らない奴だったから、つい」

「同じ学校の生徒やったらそう言うとるわ。もぉ、早とちりやわぁ」

 

 背の低い長棚に腰を下ろし、大垣を見下ろしながら犬山、もといイヌ子ちゃんは溜息を吐いた。

 

「ハハハハハッ! いいじゃあねぇか。いやいや今時見ねぇ威勢と思い切りの良さだったぜ?」

「いやーそれほどでも!」

「照れんなし。恥じぃ」

「それに、友達が善からぬ輩に絡まれてると見て一も二もなく駆け付ける。そう出来るこっちゃねぇ。(てぇ)したもんだ。流石、まさしく大の字だ」

「いやーあっははは! ……大の字?」

「ぷっ、大の字」

「わ、笑うな!」

「くくく」

 

 気の置けない、気安い仲。ゆえに()()()既に通じていると見える。

 心置きなく本題へ入れる。

 

「ストーカー被害に遭ってるんだな?」

「────」

 

 じゃれ合いにお道化ていた顔に一筋、陰が差す。それはイヌ子ちゃん、そして大の字の方も同じ。

 言葉を失くし、数秒。少女らは互いに顔を見合わせ、最後にイヌ子ちゃんが頷きを返した。

 

「……気ぃ付いたんは、去年の12月くらい、やったと思う」

 

 犬山あおいは波高島駅近くにあるスーパーマーケット『ゼブラ』でスタッフとしてアルバイトをしている。

 その日、客足も落ち着く午後七時半、レジ打ちをするあおいの前に客の男が買い物カゴを持って現れた。あおいが通り一遍の接客を済ませ商品と釣銭を渡すと、男は代わりに紙片を寄越した。そこには男の名前と、携帯の番号とメールアドレスが記されていた。所謂、ナンパであった。

 

「受け取ったのかい、その連絡先を」

「ううん。その時は断って返したんよ。それまでも何回か違う人から似たような感じで連絡先もろたり、話し掛けられたりしたことあって、ああまたかー、くらいにしか思てへんかったから……」

「あたしはそんなの一回もないけどなー。このモテ女め」

「まあまあ、大の字の色気の無さ置いといてだな」

「おい」

「その後も来たんだな。同じ野郎が」

「うん……それも、レジ打ちん時やなくて、バイト終わりに、従業員用の裏口に立っとって……」

 

 あおいを待ち受けていた男は、再び同じ内容の紙片を手渡し。

 

 ──俺と付き合ってください

 

「はっ、直球というか捨て身というか」

「いきなり過ぎだよなぁ」

「うん、私もいきなり言われて困ったし、よく知らん人やし、ごめんなさい無理です言うて断ってん……そしたら」

 

 次の日から、男は毎日のようにあおいを待ち伏せるようになった。

 バイトのシフトを調べるのは然程難しくはあるまい。一週間の終日の勤退を見張れば済む。しかも学生、高校生となれば、土日を除けば出勤は必ず放課後以降。

 

「初めは偶然かと思てん。近くに住んどる人なら、あのスーパーもよく使うやろうし、こっちが自意識過剰になっとんのかなて……でもやっぱり、明らかに私のシフトの日に決まって居るなって気付いて……バイトの始めから終わりの時間までずっと居る時もあって……」

「そいつは話し掛けて来たかい?」

「一回だけ、また同じように連絡先渡してきて……でも、私……私それを……」

「それも断ったんだな。その時、お前さんから、何か言ったのかい?」

「……」

 

 イヌ子ちゃんは一瞬言葉を詰める。一呼吸の躊躇。そうして。

 

「……キショいからやめて。迷惑です。もう来んといてくださいって」

「いやそりゃ言うって! 実際めちゃキんモいし!! なんでイヌ子がそのこと気にすんだよ」

 

 大の字の感想は実に忌憚がなかった。しかしイヌ子ちゃんはその同意に首を振る。

 

「でも……それが原因かもしれへんやん……」

「さてな。どう言い方を変えようが、お前さんに気が無いのは変わらねぇんだ。きっぱりと断りを告げられただけお前さんの応対は上等さ」

「…………うん」

 

 こちらの言が果たして僅かな慰めにでもならぬものか。

 曖昧に頷く少女の目は、なお暗い。

 発端は、単純な男の側からの岡惚れ。そしてその玉砕だ。涙を飲んで終わってしまえばそれまでのことを。

 しかし、事は終局しなかった。むしろここから始まった。

 

「つきまとわれてることに気が付いたのは何時から、何処でだい?」

「……バイト中とか、裏口で待ち伏せされへんようになって、ああよかったって、思てたら……」

 

 学校からの帰り、波高島駅のホームに降り立った時、あおいはその男を見付けたそうだ。ホームのベンチに一人座り、明らかに電車ではなくあおいを待って。

 制服を見れば学校の特定など容易だろう。あおいが本栖高校最寄りの駅からこの駅で下車することを男は把握していたのだ。

 話し掛けに近寄るでもなく、あおいがホームから改札へ、改札を抜けて駅から出ると、男もそれを追ってきた。

 住宅街、商店通り、路線バスに乗って富山橋を越え富士川街道沿いにあるバイト先のスーパーまで、ぴたりと張り付いてきた。

 その間もやはり、男から話し掛けてくることはなかった。ただ黙って後を追ってくる。何をするでもなく、追ってくる。

 遂には、自宅の前まで。

 

「警察へは通報しなかったのか」

「だって、ただ後つけてくるだけで、なんかされた言う訳でもないし、そんなんで警察行ったかて……」

「何かされてからじゃ遅いだろ!?」

 

 千明は悲鳴を上げるように言った。だがまったくもってその通り。

 イヌ子ちゃんは俯き、肩身を縮める。このやり取りも、幾度となく繰り返したものなのだろう。

 そして、少女が警察への報せに二の足を踏む心理も、無理からぬ。ストーカー規制法が施行されて早二十年以上経つが、改められたりとはいえこういった事案における警察対応への不信感は根強い。民事不介入の体質未だ根深く、本格的な実働は明確な被害、実害の発生があった後だったという話も少なくなかった。

 それこそ強かに、身に詰まされる話だ。己が現役であった頃などはさらに酷かった。

 

「不甲斐ねぇ。申し訳ねぇ」

「え……」

「もしや、ご家族にもこのことは打ち明けておらんのではないかな」

「…………あかり、うちの妹な? あの子を、恐がらしたなかってん」

 

 それを軽々に不用心ななどとどうして謗れよう。

 年齢不相応なほど自立し、成熟し、他者を慮る優しい心根が、心配を掛けまいと自らの口を重くしたのだ。相談に赴く為の足取りを淀ませたのだ。

 ようやく親しい教員に、やっとの思いで決心して助けを求めに行ったというのに、この身がとんだ邪魔を働いてしまった。

 重ね重ね、申し訳が立たぬ。

 子供が一人懊悩を抱えて身動きも出来ぬまで追い詰められている。それを、何とかしてやれない大人が、その一人たる己が、情けない。

 

「今からでも遅くはない。警察が信用ならねぇんなら、それこそ先生に相談してみちゃどうだい」

「…………」

「気が進まねぇか……そうか。お前さんは優しい子だなぁ」

 

 イヌ子ちゃんは首を振った。

 

「ちゃうねん……そんな、優しなんてない……ただ、私……学校で噂されんのが嫌なだけやねん」

「噂?」

「……ストーカーにつきまとわれてるって、皆に噂されて、あることないこと言われんのが、恐いだけやねん……薙原くんが言うみたいな、えらいもんとちゃう……」

 

 恥ずかしげに、罪悪に肩を重くして少女は言った。

 そうして、顔を背ける。まるで後ろめたさを隠すように。

 

「……私、田原先生の悪口、言うてたやろ。鳥羽先生に止められたけど。私は他人のこと、他人が居らんところでボロクソ言おうとしとった……自分がそれをされんのん、いっちばん嫌がっとる癖に……」

「イヌ子……」

「アホやね、私……」

 

 打ち沈んだ声がぽつりと冷たい床面に落ちる。後悔と、自嘲、そしてどうにもならぬ今に、望みを失くして。

 事情は概ね理解した。状況もまた大凡は掴めているだろう。

 ならば。

 胡坐を掻いた膝を打つ。

 少女ら二人の瞳を見返して、頷く。

 

「相わかった! 此度の一件、この不二ぃ……薙原哲也が請け負うぜ」

「え?」

「は?」

 

 ぽかんと口を開ける少女らを一旦置いて、立ち上がる。

 

「地図が要るな。ちょいと調達してくる。待ってな」

「え、いや、ちょ、ちょっと」

「請け負うったって、どうすんだよ」

「やり様はある。なぁに、手馴れたもんさ。だが機動力が足りねぇ。助っ人が要るなこりゃ」

 

 なにがなにやらといった風情の大の字と戸惑うイヌ子ちゃんを横切り、ポケットの携帯を抜く。

 発信先はリダイヤルでいい。『新』の一字がでかでかと画面を占有する。

 

「おう俺だ。今どこにいる?」

『藪から棒になんだ。身延に着いたところだ』

「お、まだ山梨に居たのか」

『いや、今朝愛知を発ってきた。お前も知ってる“舟付き”を駆ってな』

「ハハァッ、そいつぁお誂えだ。悪ぃがひとっ走り波高島駅まで来てくれ。切り裂き魔とは別件だが、火急の案件だ」

『お前から寄越される用件で火急でなかったことがあったか?』

「うるせぇ、五時半目掛けて駅前の駐車場で落ち合うぞ」

『わかった』

 

 話も手早く通話を終える。

 ふと振り返れば、少女二人が益々もって理解不能といった顔をしている。

 それに笑って手を振った。

 

「悪いようにゃしねぇからよ。任せときな」

「なんで、なんで薙原くんが、そこまで……」

「うん? 袖振り合うも他生の縁、とよく言うだろう? (えにし)は大事にするもんさ。そうすりゃ、思わぬところでそいつが助勢に変わることもある」

「「???」」

「ハハハハハッ」

 

 疑問符を乱れ飛ばす娘子らが実に愛らしかった。

 

「なぁイヌ子ちゃん。大人ってやつぁ勝手だな。困ってるそん時に当てにできねぇ、出しゃばってくんのはいつも事が起こっちまった後だ。お前さんみてぇな気ぃ遣いの優しい子には堪ったもんじゃねぇだろうな」

「……ううん、私なんて」

「いいや。お前さんはいい子だ。我慢強い子だ。よく一人で耐えたよ。だからな、そろそろ頼って欲しいのさ。鳥羽先生もきっとそう思ったろうぜ。そして、この俺もな」

「へ……」

 

 ぽかんと、虚を衝かれたその顔に笑みを返し、扉を開く。

 さあ、犯人(ホシ)を挙げるぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 



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7話 目には目を歯には歯を

やんちゃで片付かないことをしていますが御愛嬌で。



 波高島駅の周囲は田畑と住宅。長閑と言えば聞こえはいいが、空疎な感は否めない。

 とはいえ、時刻は五時半を回り、放課後、退勤後の学生や社会人が帰宅の途につく頃合い。無人駅にも相応に人通りがあった。

 

「しかし学校の後にアルバイトってな、学生もなかなか大変だな」

「まあ、うちは活動内容的に予算が嵩むからなぁ」

「いやはや立派じゃあねぇかよ」

「へへへ、そりゃどーも」

 

 駅舎から出てすぐの広場。はにかんで、大垣は歯を見せて笑う。

 大垣のアルバイト先は酒類販売店。イヌ子ちゃんの通うスーパーとは隣接している。今日も出勤日であるこの娘子は、念の為にここで一旦別れて行く。

 

「薙原……」

「ん?」

 

 大通りへ向かって先に駅前に出たイヌ子ちゃんを見送りながら、大垣は突然こちらに頭を下げた。

 

「イヌ子のこと、頼む!」

「おう、(しか)と承った」

 

 その肩を軽く叩き、笑みを向ける。少女のその必死を、幾分かでも労わってやれればいいが。

 

 

 

 駐車場に赴くと、そこには既にその黒い車体が鎮座していた。

 丸い一つ目のヘッドライト、野太いサスペンション、重厚極まるあらゆる機関が臓器のように(ひし)めくボディ。五年ぶりになるか。流線形をした大きな(サイドカー)を横付けしたその姿を見るのは。

 ボンネビルから降り立って、新城がヘルメットを脱ぎながらこちらに歩み寄ってくる。

 

「よう」

「ああ」

「かかっ、まだ持ってやがったのか。そのデカ物」

「倉庫の肥やしだよ。引っ張り出すのに苦労した」

「愛知までわざわざ乗り換えに帰ったってか」

「どうせお前のことだ。足が要るだのなんだの、気安く注文をつけてくるだろうと見越した」

「そいつぁ御明察だこって」

 

 嫌味ったらしく言ってやると、勝ち誇った笑みが返ってくる。それを鼻で笑い返し、携帯を抜いた。

 

「事のあらましはさっき電話で言った通りだ。今その子は通りのバス停で待機してる。一先ずゼブラ手前までバスで移動して、そっからは徒歩でその後ろを張るぜ」

 

 駅のホームで待ち伏せていたのは最初の一度だけ。それ以後は道を歩いている最中に、気付けば背後をストーキングされているという。さしもの岡惚れ野郎も一つ処に留まることの通報のリスクに想像が及んだらしい。

 

「ストーカーか。存外身近に居るものだな」

「犯罪を起こすなぁいつだって人間だ。見な、人間なんざそこいら中に居るじゃあねぇか」

「ふ、そうだな」

 

 笑えぬ皮肉を笑って飛ばす。

 それで今、子供が一人泣かされている。こんな蹴った糞悪いことはない。

 真新しい番号を呼び出す。呼び出し音もそこそこにイヌ子ちゃんはすぐ電話に出た。

 少女の潜めた声音には、隠し切れない緊張を孕んでいる。

 

『も、もしもし』

「薙原だ。今駐車場から出てそっちに向かってる。そろそろ動いてくれるかい」

『わ、わかりました』

「通話は切らずに、このままだ。行くぜ」

「ああ」

 

 手筈は至極単純。

 まず、イヌ子ちゃんを普段の帰り路で先行させ、それを尾行しに現れたストーカーを後方からさらに我々が尾行する。二重尾行、というより少女を囮にしての釣り込みだ。

 確実性を求めるならもっと良い方法が幾らでもあったろう。それこそイヌ子ちゃんの自宅前で張り込みをすればいい。奴がそこまで突き止めてストーキングを行っていることは既に知れている。

 

「連絡先を手渡されたと言っていなかったか。そこから呼び出して捕まえられないのか」

「恐くて捨てちまったんだとよ」

「そうか……ああ、無理もない」

「それもあってな。とっとと動いてやりたかったのさ。今までさんざ恐い思いさせられて、一人で不安だったろうに」

 

 この上悠長な手段を用いて無駄にその不安を長引かせてしまうくらいなら、足を使って派手に動き、早期決着を図る方が幾分マシだ。

 

「己の気性にも合うしな」

「確かに、慎重丁寧などお前には合わんな」

「けっ、改めて言うんじゃねぇや」

 

 イヌ子ちゃんには予め、地図を引っ張り出して進行ルートを指示してある。

 富士川街道をさらに上った先、河原を望む交差点にはドーナツ屋があるので、彼女にはそこを目指して歩いてもらう。

 その間、この道程で、犯人が網に掛かればよいのだが。

 

「とはいえだ、そうそう上手くは行くまい。ここから奴さんがのこのこ現れてくれるかどうかは賭けに近ぇや。この先は、長丁場を覚悟せねばならんぞ」

「そうだろうな。精々付き合ってやる」

「そいつぁどうも。有り難や有り難や」

 

 バスで富山橋を越える。

 幅云百メートル近い河川は空の色を大映しにした茜。そろりと青黒い夜闇が湧いて出ようという時刻。

 逢魔ヶ刻の字義に倣って、出てはくれぬか後追い魔。などと、下らぬ思惑を弄んでいた。

 橋の終わり、商店建ち並ぶ街道で下車し、バス停からイヌ子ちゃんが離れていくのを見送る。

 ちらりと振り返った少女に笑みを向け頷いて見せた。

 距離にして100メートル前後。夕刻の繁盛な車の往来を横目に、少女の華奢な背中を追う。

 歩くこと暫し。日暮れは加速する。暗闇は刻一刻とその勢力を拡大する。

 そうして目にも眩いほどに煌々としたコンビニの灯りを通り過ぎた時だった──そこで、見計らっていたのだろう。

 つい、と。その背はコンビニの建屋の影から現れた。

 

「……」

「……」

 

 黒いブルゾン。青いジーンズ。背格好は長身とは言わぬまでも低くはない。170の半ばかもっとか。

 髪はやや明るい。無精に見られぬ程度に整えられている。靴も洗い晒しのように真新しいスニーカー。

 一見してただの通行人だが。

 違和。

 その足取りに常ならぬものが見える。歩みの速度が歩幅に合わぬ。まるでそれ以上進みたくない、いや距離を縮めることを厭うかのような。

 ラーメン屋の立て看板に共々身を隠す。

 己の様子を見た新城が訝った。

 

「まさか……あれなのか」

「そうらしい」

「動き出してから10分も経っていないぞ」

「一本釣りってぇやつかねぇ。こうも早々姿見せるたぁな。よっぽどあの娘に首っ丈らしい。呆れるやら感心するやら」

 

 新城の顔には呆ればかりが湛えられた。

 その心持ちは解るが。

 それは捨て置く。まず先にすべきは被害者の安否確認。

 

「イヌ子ちゃん」

『薙原くん薙原くん薙原くん! おる! 後ろにもうおるよぉ……!』

 

 繋ぎっぱなしの携帯を耳に当てるや否や、その焦燥に焼かれた声が響く。既にして尾行者に気が付いたのは、この少女が自身の背後の気配にすっかりと敏感になってしまっているからだろう。

 

「ああこっちからも見えてる。ちゃんと見てるぜ」

『う、ぅ……っ……』

「気を確かに持ちな。振り返っちゃいけねぇよ。前だけ見て、歩き続けるんだぜ」

『うん……わかった。わかっとるよ……あぁ、でも恐いっ、やっぱり恐いよぉ、薙原くん、こわいぃ……!』

 

 気丈であれたのもほんの僅か、途端に怯え切った震え声が己の耳孔を揺さぶった。それは耳に入り、血管を通って心の臓腑の、その奥さえ揺さぶった。

 それは義憤に近しい炎であった。

 頼れる者がない折は、否が応でも耐え、忍ばねばならなかったのだろう。恐怖を噛み殺し、怯えを踏み散らし。

 それがようやくに許されたのだ。少女は遂に、素直に怯え竦み、嫌々と恐怖を訴えることができた。

 

「大丈夫。心配ねぇよぅ。俺達がついてる。すぐそこにいるからな。何が起きたってすぅぐ駆け付けっちまえるくらい近くにだ。いや、何も起こさせねぇよ。あの野郎にゃ何もさせねぇ。イヌ子ちゃんに指一本触れさせやしねぇからよ。だから歩くんだ。真っ直ぐ、歩き続けな。いいかい?」

『うんっ……うん!』

「よし、いい子だ」

 

 一旦通話を終える。

 マル被、もといストーカー男は依然として速度を抑えた不揃いな足運びで、少女の後を追い続ける。

 すると、不意に。奴はブルゾンのポケットから携帯端末を取り出し構えた。一見、画面内にメールだかゲームだかの所用があるような素振りだが、あれは。

 

「新の字、あれを撮れるか」

「よし」

 

 そもそもこちらが言うより前から、新城は自身の携帯でカメラを呼び出していた。まったく周到。

 シャッター音が鳴る。それは横合いを通り過ぎるトラックのエンジン音で塵も残さず搔き消えた。

 

「……盗撮の証拠写真、というには無理があるか」

「いいや上等だ」

 

 画面上の光景は、男が端末を持ち、前方の女子生徒を狙っている……ように見えなくもないという程度。決定的瞬間の切り写しと呼ぶには少々弱かろう。法的に視てもおそらく証拠能力は無い。

 が、今この時においてこの写真には実に良い使い途がある。

 

「あの倉庫」

「うん?」

「無人みてぇだな」

 

 道の前方に町工場の跡地と思しい古びた建屋が見える。進入禁止の鉄柵は錆びて半ばから折れ、まるでそこだけ人の出入りの為に誂えたような有様だ。

 本当に、お誂えな。

 

「三つ数えたら仕掛けるぜ」

「まったく……手早くやれ」

 

 深々と溜息を吐いて新城は端末を仕舞い、次いで周囲に視線を這わせる。人気といえば車道の車通りばかり、人通りはほとんどない。無いが、目撃者は少ないに越したこともないのだ。

 

「三、二、一……」

 

 瞬発する。蹴り脚は発条(バネ)仕掛けのように跳ね返り、身体を風と為す。疾駆する。

 50メートルほどの距離、舗装の甘さを差し引いてもこの脚ならば6秒少々といったところ。

 黒い背中は既に眼前。

 

「よう!」

「は?」

 

 呼び掛けに対して男の反応は鈍重を極めた。

 その腕を取り、背中に捻り上げるだけの暇をたっぷりと与えてくれた。

 

「いっ……!?」

 

 痛い。そのように叫ぼうとしたのかもしれない。しかし結局それは叶わなかった。

 遅れて現れた新城の両腕が、男の顔面をロックして、今まさに引き摺り込んだのだ。

 鉄柵を通り抜け、工場の半開きの扉へ三人で雪崩れ込む。電灯など無論点いていない工場内は、しかし存外に明るかった。

 トタン屋根に空いた大穴が、夕空の残り日をここまで降らせてくれている。

 コンクリートの床へ男を放った。腕と顔面、そして尻餅を突いた痛みすら忘れたか、奴は目と顔色を白黒させながら我々を見上げた。

 それを見下し、笑む。

 

「よう兄さん。精が出るな」

「な、なんなんだあんたら……なんでっ、こんな、俺に何の用だよ!? くっそ、痛ぇ! ぼ、暴行だぞ。警察を呼ぶぞ!」

 

 思ったより若い。顔立ちや声質から見て二十代半ばか、三十には届くまい。

 先程背中に捻り上げた方の肩を抑えながら、男、いや青年はなおも警察だ暴力だと至極真っ当そうなことを喚く。叫ぶ。

 それを無視して、新城に視線を送る。

 奴は反問もなくポケットから取り出した端末を操作し、先程の写真を映し出した。見易いようにと、画面をまるで印籠の如くに突き出してやる親切ぶり。

 きゃんきゃんとした鳴き声が止んだ。

 

「警察ぅ? いいねぇ呼んでみな。てめぇの囀った通り、俺達ゃ立派な暴行傷害犯。起訴され刑事罰を受けるだろうな。で? てめぇはどうなると思う?」

「…………」

「ストーカー規制法、聞いたことくれぇあるだろ? つきまとい、待ち伏せ、押し掛け、うろつき諸々の迷惑行為に対しては一年以下の懲役または100万円以下の罰金に処す、と。まあ初犯で自首扱いとして、執行猶予くれぇは付くかもしれん。傷害なんかとは比べものにならねぇ微罪だ。割に合わねぇなぁ。なぁ?」

 

 新城に水を向ける。しかし男はただ黙して、蹲った青年を真っ直ぐ見据えていた。

 肩を竦め、再び青年に向き直る。

 

「帳尻が合わねぇから、この写真は方々にばら撒くことに決めた」

「はぁッ!?!?」

「てめぇの家族、勤務先、旧新の友人知人これからなるかもしれねぇ友人知人。これからてめぇが赴くありとあらゆる場所に、盗撮の証拠写真とてめぇのストーカー行為の全容事細かく紙に認めて配り捲ってやらぁ」

 

 赤く昂っていた顔から血の気が引き、土気色がそのまま青白く色を失くしていく。実にわかりやすい絶望彩色。

 

「お、そうだそうだ。今はあれだろ。エスエヌエスとか言う便利なもんがあったな。そいつを使えば全世界にてめぇがやった行為を発信できるって寸法だ。いい時代になったもんだなぁおい」

「け、警察……いや、いや、べ、べ、弁護士を呼ぶ! あんたらの言ったこと、あ、あんたらの脅迫も全部告発してやる! そうしたら」

 

 息を吹き返したというより、精一杯の健気な虚勢を張り直して、泣き顔を怒り顔に見せ掛けながら、青年は杓子定規な論理を口にした。法律、法理、常識、条理。

 それは至極真っ当な論法だ。脅迫などは犯罪以外のなにものでもない。

 どんな理由があろうとも遵法の精神忘るるべからざり。

 己がまだ────警察手帳を持っていたなら、それを守っていたのだろうか。

 なお言い募ろうと口を開いた青年が、一声発するその前に、その明ら髪を引っ掴む。顔を上げさせ、眼を見下ろす。

 

「ガタガタ抜かすんじゃあねぇ若造ォッッ!!」

「ひぃっ」

「てめぇがどうしようが知るか。てめぇが何をしようがてめぇの所業は全て暴き立ててくれるわ。何処に逃げようが、何に守られようが関りねぇ。てめぇが、その罪咎を悔い、改め、戒めるまで絶対に逃がさん」

 

 涙が滂沱される。鼻水が顎まで伝っている。それでも放さず、眼を開けさせその奥に突き刺す。

 

「────絶対に許さん」

「ひ、ぁ」

 

 髪ごと頭を放り投げる。地面に倒れ込んだのも一瞬、青年は仰け反り、後退り、這うようにしてその場を逃げ去った。

 それを見送ること数秒。

 

「うし、こんなもんか」

「未だにお前がどうして警察官になれたのか、私には皆目わからん」

 

 嫌味を無視して、端末を取り出す。

 咳払いで喉に蟠った()()を出来るだけ取り除いておく。この上娘子を恐がらせては意味が無いのだ。

 

『薙原くん!? だ、大丈夫なん!? なんか突然、ストーカーも薙原くん達もいなくなってもうて』

「おっと驚かしちまったか。いやそいつぁすまんかったな。ともあれ、無事済んだぜ」

『えっ、済んだ、て』

「ああ、丸く収まった。もう心配要らねぇよ」

 

 受話口から固唾を呑むような、感極まるような息遣いを聞く。

 それは安堵と呼ばれる吐息だった。深く、それは深く。

 

「ドーナツ屋で集合の予定だったが、今日はもう遅い。イヌ子ちゃんはこのまま家帰んな」

『で、でも……ええんかな。こんな、あっさり。私、なんもしとらんよ?』

「いいんだよぅ」

『だって、お礼。お礼もちゃんと、できとらんのに……』

「ハハハッ、それでいいんだよ。さ、早く帰んな。ああすまねぇが大の字にゃイヌ子ちゃんから一報入れてやってくれるかい? あいつも随分心配してるだろう」

『うん……わかった』

「おう、そいじゃあな」

 

 まだ何か言葉を詰まらせる少女の声に取り合わず、通話を終える。

 傍らで腕を組んだ新城が己を見る。

 

「で? これからどうする」

「無論、こっからが大詰めよ」

 

 そう笑い掛けて、ポケットの中からそれを取り出した。

 灰色の長財布。それは哲也のものでもなければ、勿論新城のものでもない。

 

「お前……スリ盗ったのか! なんて手癖の悪い奴だ」

「へっ、器用だって素直に誉めやがれぃ」

 

 してやったり。新城は今度こそ呆れと感心をない交ぜに噴き出し、笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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8話 お焚き上げ

五話を跨いでやっとキャンプ要素が出せました()




 

 

 

 

 

「ちっと寄りてぇところがある」

「なんだこの期に及んで」

「せっかく奴さんの御宅(やさ)にお邪魔するんだ。着の身着のままじゃあ失礼ってもんだろ? 正装してくのさ、正装」

「……また善からぬことを考えているな」

「いいから出せよ。駅からすぐだから。ほれほれ」

 

 群青の夜闇の中でさえ豁然とした漆黒の車体。投げ寄越されたメットを被り、サイドカーに飛び乗る。

 革張りのシートのスプリングが軋む。なにやらひどく、懐かしい匂いがした。

 

「またこの狭っ苦しい舟に肩身押し込む日がくるたぁな」

「文句があるなら振り落としてやる」

「へんっ、やれるもんならやってみがれ。行こうぜ」

「ああ」

 

 閑静な夜気を吹き飛ばす。鉄騎が咆哮を上げて駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 自宅アパートの扉を押し倒す勢いで、山元優樹は室内へ飛び込んだ。

 見られた知られた写真に撮られた。自分のやったこと。やってきたことを、暴くという。糾弾し、白日の下に晒すと、あの男は言った。

 あれは不断、絶対だ。

 あの恐ろしい眼は自分に言った。そして絶対にその決定を曲げはしない。やると言ったらやる。その確信、おかしな信頼感さえ抱く。

 

 どうしようどうしようどうしようどうしよう

 

 頭の中は掻き回され、混濁している。パニックだった。

 出来心、魔が差して、言い訳は湧水のように溢れてくる。けれど、それでも、どうしても。

 一目惚れだった。

 仕事帰りに出来合いの惣菜を買う為だけに立ち寄るスーパー。そこで働くあの娘を、一目見て夢中になった。

 告白は有り体に言って玉砕。無理もない。よく知りもしない相手となんて。

 理屈の上ではわかる。わかるのだ。

 でも、ああどうしても、諦められなかった。

 その可愛い顔を歪めてこちらを見る彼女に、悪し様に追い払われてしまった後もその気持ちは変わらなかった。変われなかった。

 仕方ないじゃないか。好きになってしまったんだ。

 自分が悪いのか。

 後を尾け家を突き止め帰り道を待ち伏せ、遂にはその姿を写真に収めるようになった。

 犯罪だった。悪くない筈がなかった。

 後ろめたさで背中から押し潰されそうだ。後悔が喉の奥から吐瀉物と一緒に溢れそうになる。

 止めよう。こんなことは終わりにしよう。

 少なくとも……ほとぼりが冷めるまでは。

 時間を置いて、一旦、一度、止めて。

 そして、そうしたら────

 

 ──ピンポーン

 

 心臓が跳ねた。耳馴れたその音が今は耳をつんざくように煩い。

 息を詰めて、身動ぎ一つ殺した。

 

 ──ピンポーン

 

 居留守を決め込むこちらのことなどお構いなしに来訪者は無遠慮に、呼鈴を鳴らし続けた。

 

 ──ムサシ急便です。山元さん、御在宅ですか

 

 重く低い男声がした。

 おそるおそる扉に近寄り、そっとスコープを覗き込む。青いキャップに青い作業着。いつも見る宅配業者の出で立ちだった。

 軽く安堵に息を吐き、サムターンを回す。

 そうしてノブを回した──瞬間、弾けるように扉が()()()。外開きの扉が機構通りに外へと開け放たれたのだ。

 自身の意思とは関わりなく。

 

「よう、若ぇの。また会ったな」

「ひっ」

 

 青いキャップの下から笑みが現れる。つい三十分前に見た凶相、猛禽のような凶暴さ。無遠慮に、傍若無人に、男は玄関から室内に上がり込んだ。

 扉の影からもう一人。豊かな白髪と白髭。ライダースジャケットに身を包んだ精悍な老人が同じく扉から滑り込む。

 

「ほとぼりが冷めちまえば済むとでも考えてたか? ハハハハハハハハハハッ! ……逃さんと言ったろう、若造」

 

 

 

 

 

 

 

一二三(ひふみ)コンビ?」

「そう、そういう渾名というか、いや通り名だったそうだよ」

 

 ダイニングテーブルで対面に座った父・渉がそう言って笑った。

 食後の団欒、もとい満腹の眠気でぼんやりとする時間、どういう流れか話題は祖父とその友達であるあの人の事。

 

「お義父さんの名前が(はじめ)だから、それを(はじめ)、一に。不二崎さんの名前は甚三郎だから、苗字と名前から二と三を。二人合わせて一、二、三になる。だから一二三コンビ、らしいよ」

「へぇ~」

「幼馴染で付き合いも長かったそうだけど、愛知の地元だと同じ年代の人達の間では有名なんだ。僕も向こうの御実家で話を聞いた時はびっくりしたよ。ははは、相当やんちゃだったんだってさ」

「じんじ……ふ、不二崎、さんはなんとなくイメージあるけど、おじいちゃんも?」

「そうそう。意外なことにね」

「リーン、早くお風呂入っちゃいなさい。もうあんたが最後よ」

「あ、はーい。お父さん、また後で聞かせてね」

 

 名残を惜しみながら、母と入れ替わりにダイニングを出た。

 

 

 

 

 リンが脱衣所に入ったのを見計らい、咲は溜息を吐いてから夫を睨んだ。

 渉の誤魔化しな笑顔にも取り合わない。

 

「もぉ、あの子に変なこと教えないでよー」

「ごめんごめん。リンが不二崎さんのこと聞きたがってね。昔話のついでに、つい」

「はあ……実家に帰る度に親戚皆して語り草にするんだもん。あぁ恥ずかしい」

「お酒が入ると皆やっぱり思い出話がしたくなるんだよ。でも、なかなか頓智が利いたいい名前だよね『一二三コンビ』なんて」

「こじ付けでしょ。しかも自称じゃない」

 

 肇が一で、不二崎甚三郎が二、三。二人合わせて一二三コンビ……多少捻りのあるものの、当たり障りのないただの渾名。語彙合わせの言葉遊び。実に、平和的な。

 しかしこれが、自称なのだった。建前なのだった。

 本来の意味を誤魔化す為の。

 

 一二三コンビに近寄るな。(まなこ)合わせて()()()と数えりゃ鬼も蛇もなく襲ってくる。

 一二三コンビを敵に回すな。逃さず許さず手心なく()()()を数えずあの世逝き。

 

 そんな冗談のような数え唄が地元で出回っている。音にも聞くというか目にも見よというか、

 

「でもすごいよね。まさに武勇伝って感じで、いやぁちょっと憧れちゃうな……」

「…………」

「な、なぁんて、ね? あはははは」

 

 乾いた笑声を上げながら、渉は既に空になったカップに口を付ける。

 それに半目を送り付け、そうして両肩を脱力した。鼻から吐息して、独り言ちる。

 

「……まったく、幾つになっても」

 

 男ってバカね。

 そんな風に言えば、あの人はきっと大笑いするに違いない。

 

 ──そうさそうとも。咲ちゃんの言う通り! 敵わねぇなぁ

 

 ……なんて。

 

「……もうそろそろ、許してくれるかな。お墓参り」

「そうだね……いいんじゃないかな。叱られるとしたらそれは僕だし」

「ふふ」

 

 ──墓参りぃ? 要らねぇ要らねぇ鬱陶しい。何の為に馬鹿高ぇ金払って永代供養なんぞ入ってると思ってんだ。他人(ひと)んちの墓石拝みに来る暇があんなら、女房子供連れて富士山でも眺めに行きゃがれぃ

 

 年を取ってくるとどうしたってそんな話題が増えていく。

 早くに奥様を亡くし、家族のない不二崎を慮って渉が墓守を買って出ようとしたことがある。

 あの人は乱暴にそう言ってまったく取り合ってはくれなかった。

 

「不思議ね。なんだか最近は、よくおじさんのこと思い出すの」

「僕もだよ。ついこの前が命日だったからかな。案外近くにいるのかも」

「あはは」

 

 

 

 

 

 

 

 

 電灯も点けず仄暗い室内の中央で仰け反ってこちらを見上げる青年一人。先の工場での光景を焼き直している。

 理解不能を顔一面に露わとする青年へ、それを放る。

 

「そら、返すぜ」

「えっ……あっ」

 

 自分の財布をあたふた両手で受け止めて、青年はさらに驚愕した。

 

「今日の今日にまた襲われるたぁ思わなかったかぃ? 兄さんそいつぁ甘めぇぜ」

「────」

「しっかし」

 

 茫然自失する青年を見限り、それを見た。部屋の有り様。男の独り住まいにしては小綺麗に整理されている。ごく一般的な1K八畳間だが。

 右側の壁面、そこには写真が飾られていた。丁寧に神経質に、絵画を飾るかのように。

 横幅2メートルはあろう大きなコルクボードが掛けられている。賃貸の壁に直に貼付するのを厭うその気遣いが滑稽だった。

 そしてその一面に、犬山あおい。

 スーパーの接客姿、帰り路を歩く姿、駅でぼんやりと物思う姿、千明と談笑する姿、夥しいまでの犬山あおいの姿がそこには貼り付けられていた。

 

「撮りも撮ったり、よくまあここまで」

「……」

「おいおい通学路以外もあるな。いってぇ何処まで追い掛け回して────」

 

 ────その中の一枚に、目が止まる。

 期せず見付けた。行き会うた。これは、これはまさか。

 

「…………」

 

 デジタルなシャッター音が響く。己の隣で新城が、心底うんざりとした顔で携帯端末のカメラを向ける。シャッター、シャッター、またシャッター。

 もはや言い逃れの余地もない盗撮行為の物的証拠だった。

 

「と、撮らないでくれぇ!!」

「ふっ、てめぇはさんざ撮り捲っておいてそりゃねぇだろ」

「っっ、ごごごめんなさい! すすみませんでした! 俺、俺、ホント出来心で!! ただ……ただ……あの子のこと、あの子が」

「惚れてた、とでも言いてぇのかい」

「そ、そうです。本当に、俺、真剣で、こんなに人を好きになったことなくて……それで、だから……」

 

 なおも言い募ろうとする青年を、斬って捨てたのは己、ではなく傍らの老爺であった。

 

「君はあの子の気持ちを少しでも考えたのか」

「それ、は」

「軽々に好きだと君は言うが、好きな相手なら何故考えようとしない。君は自分の気持ちを押し付けて、自己満足な行為で自分の心を慰めているだけじゃないか」

「ぅ、うぅ……」

「大の大人が、子供を脅かして、怯えさせて、結果見も知らない我々のような人間を頼らざるを得なくなるまで追い詰めた。人として、恥ずかしいと思わないのか!?」

「う、ぅ、あぁっ……」

 

 青年は呻き、喘ぎ、涙と言わず洟と言わず、顔の穴という穴から液体を溢す。どうにか取り繕ってきた自尊心が今、ぽっきりと折れてしまったのだろう。

 

「うぐ、わ、ぁあ、あ……!」

「あーあー泣いちまったよ」

 

 新城は一層眼差しの厳しさを強め、青年を見下ろした。

 無理もない。道理なのだから。此度の被害者は愛しい孫娘の同級生だ。その心中、心情が穏やかでいられないのは必定。正当な怒り、義憤をこの男は燃やしている。

 人の親たる者の正常なる有様。

 それが己には少し、眩い。

 

「なあ兄さんよ。お前さん、あの子を見初めてすぐ直に気持ちを伝えに行ったそうだな」

「ぃ、ぐ、ふ……」

「いや正直な、そいつを聞いた時、この野郎いい度胸じゃあねぇかと思った。皮肉じゃあねぇぜ? 大したもんだよ実際。今時見ねぇ思い切りの良さだ。ま、当たりに行って結果砕けちまった訳だが」

「ふぐぅ……!」

「ハハハッ、しょげんなしょげんな。敗けられるってぇこたぁ一度は勝負に出た証よ。逃げずに進み、前のめりに倒れた。男じゃねぇかおい!」

「…………」

「その男気を、今一度見せちゃくれねぇかい」

 

 その場で屈み、青年を正面から見詰める。泣きべその酷い顔に笑みを送る。

 

「あの子のこと、すっぱりと諦めてやってくれ。もうつきまとわねぇ、待ち伏せねぇ、隠し撮りもしねぇ。二度と近寄らぬと約束してくれ」

「……」

「言っておくが、こいつぁ脅しじゃねぇ。約束だ。山元優樹って男に持ち掛けてる、ただの約束だ。破るなぁ簡単だぜ。全部お前さん次第。どうする?」

「………………」

 

 青年は涙目を瞬き、それでもこちらを必死に見返した。

 滲む目の奥底を覗く。黒い穴のその中身、何を想い、何を思う。その心の動き。

 これで駄目なら、いよいよと────

 

「……はい、約束、します……ず、ずびばぜんでした」

「おう、心得た」

「謝る相手が違うだろう」

「っ! はいぃ……」

「おぉ恐ぇ恐ぇ。爺さんはまだお怒りのようだ」

 

 険を孕む重低音に青年が竦み上がる。

 えいこらと立ち上がり、今一度部屋の光景を見渡した。

 

「ならばケジメを付けて、鎮まってもらおうかい。なあ優ちゃん」

「はえ……?」

 

 なにがなにやらといった呆け面に歯を見せて笑い掛け、自身の後ろ腰をまさぐる。

 その“柄”を、掴み出す。

 ざらりとした滑り止めの手触り、握り込み、横一文字に振るえば()()が飛び出す。

 

「ひぃっ!?」

 

 三段伸縮式特殊警棒。

 護身・逮捕用棍棒。つまりは凶器。

 青年は今度こそ腰を抜かして床を這った。

 ケジメという言葉に最速で最悪の想像が及んだのだろう。

 

「ハハハハハハハハッ! そう怯えんな。別にお前さんを痛め付けるつもりはねぇよ。ただ」

 

 一歩、踏み込む。フローリングに踏鳴を立て、体を前へ、全身移動力を前へ。

 そして上段から、その全てを込めて、警棒を打ち下ろす。

 警棒は過たず、コルクボードを両断した。鈍器で木材を裂くという、謂わば大道芸の手並。

 真っ二つに割れたボードが落ち、飾ってあった写真もまたばさばさと舞い散る。

 警棒を仕舞い込みながら声を張った。

 

「さあ片付けるぞぉ。写真、あるならフィルム、データまで根こそぎ全部だ。荷物まとめな。ほれ優ちゃんも立った立った。ああそれと新の字よ」

「なんだ」

「この辺に、焚火が出来る場所はあるかい?」

 

 

 

 

 

 

 

 富士川を下流に1kmほど。広範な砂利の河原は、平素はバーベキューを楽しむ客で賑わっているという。

 日も暮れて随分と経った。時期外れも手伝って、河原に人影は皆無であった。

 実に好都合であった。

 

「そら優ちゃん、一気にやりな一気に」

「うっ、は、はい……」

 

 新聞紙で作った火口には既に火が点けられ、あとはそれを目の前で積み上がった木屑紙屑の山に放り込むだけ。

 震える手付きは未練たらたら、躊躇は湯水の如し。名残惜しみ、迷い、出して戻しを繰り返すこと数分。

 

「……あづっ!? あぁっ!?」

 

 遂に手元にまで浸食した火が青年の指先を焼いた。そしてそれに耐えかねて青年は火口を手放す。

 火は、砕いて振り撒いた着火剤を飲み、一気に燃え上がった。

 昇る昇る。火の粉が昇る。

 あらゆる意味で後ろ暗いものが、くしゃりくしゃりと焼け崩れていく。

 

「も~えろよもえろ~よ~ってか」

「あぁ……あぁぁああ……」

「ハハハッ、情けねぇ声出すんじゃねぇや」

 

 しょげ返る青年の肩を強かぶっ叩く。

 

「こいつで全部チャラ、ってぇ訳にもいかん。お前さんがてめぇのやったことで責めを取る方法は一つっきりだ。わかるな?」

「……はい」

「そうかい」

 

 燃え残りを寄せ集め、また火を掛ける。また燃え残りを集め、そして火を掛ける。

 繰り返すこと四度。もはや何もかも判別の出来ない消し炭になった頃。

 男三人、おかしなお焚き上げ(キャンプファイヤー)は終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 川縁(かわべり)に停めたボンネビル。己は舟に、新城はバイクのシートに腰を預け。

 (せせらぎ)と無遠慮な車の往来の二重奏を、二人して聞いている。

 

「……あれでよかったのか」

「良いも悪いもあるめぇ。事を表立てずに終わらせるにゃ、ああするのが一番だったろう」

「まあな、硬軟織り交ぜた見事な脅迫だった」

「ありゃあ真心篭った説得と言うんだよ」

 

 被害者本人が、警察にも学校にも知られてしまうことを厭うたのだ。多感な時期の娘子の心理。この粗略漢が珍しくその微妙な心情を斟酌した。それだけの話。

 

「再犯は無いと言い切れるのか」

「無い」

「……」

「信用ならんか?」

「……いや、元刑事の言葉だ。信じよう」

「先刻は散々な言い様だった癖によ」

「自業自得と言うんだ」

「けっ」

 

 吐き捨てるように鼻を鳴らす。見なくとも、厭味な笑みを傍らに感じた。

 ふと思い出して、ポケットからそれを取り出す。

 A4サイズの用紙。それは一枚の画像のコピーである。

 

「……棚から牡丹餅ってか」

「……まさかそんなものが出てくるとはな」

 

 それは高原の景観だ。広大な芝生の丘陵をその上から撮影したもの。坂の半ばには例によって、犬山あおいの姿がある。何故か転がる千明を追い掛けて坂を駆け下っているという妙な場面写。

 しかし問題はそれではない。

 その奥。坂の終わりに植えられた雑木林の傍、その立地は風を除けようとの思惑なのだろう。

 小さく写り込んだそれ。テントが一つ建っていた。薄緑をしたやや大振りの、ツールームテントと呼ばれる造り。その傍には赤い軽自動車が停まっている。

 何の変哲もない。車で乗り付けたキャンプ客。

 だが、そこは────富士宮、朝霧高原キャンプ場。日時は12月24日午後3時20分。

 第一の通り魔事件現場。その当日、発生前の光景がある。

 

「……ん?」

「どうかしたか」

「電話だ」

 

 ポケットの中で喧しくがなる携帯端末を取り出す。

 画面上に目を這わせ、思わず瞬いた。

 

「もしもし、どうしたイヌ子ちゃん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 愛想の良い店員とショーケースに並ぶ色とりどりのドーナツ達を横切って真っ直ぐに、飲食スペースへ歩を進める。

 一等奥、窓に向いたカウンター席に覚えのある背中を二つ、見付けた。

 忍び足で近付いて行き、直近、背後で。

 

「こぉら、不良娘共!」

「んごっ!?」

「んひゃいっ!?」

 

 ドーナツを頬張った千明と、ジュースのストローを咥えたあおいが、それぞれ目を丸くしてこちらを見上げた。

 

「まったく、こんな時間までなに油売ってやがる。とっとと帰らねぇか。家の人が心配すんだろ」

「なな、薙原! びっくりすんだろが!」

「心臓止まるかと思たわ……」

「ハハハッ」

 

 少女らの抗議を笑い飛ばし、隣の席に座る。

 帰宅を先延ばしてでもこの子らがここに居残った理由は、大凡察しが付く。というより当然の懸念であろう。

 

「電話で言った通り、きっちりと落とし前はつけさせたぜ。もう二度と近寄らねぇとさ」

「そ、そう、ですか」

「まあ、己が信用ならねぇと言われっちまえば返す言葉もねぇんだが」

「そんなことない!」

 

 椅子を蹴倒す勢いで、イヌ子ちゃんは立ち上がり頭を振った。自身の剣幕に自分で驚いたのか、イヌ子ちゃんは恥ずかしそうに肩を縮めて席に座る。

 

「な、薙原くんが信用できんとか、そんなんない。そんなん絶対思わん……」

「そう言ってくれるかい」

「うん……うんっ、ホンマにありがとう。薙原くん」

 

 固く、膝の上に両手を組む。握り合わせたその上に、一雫、二雫。滔々と零れて落ちるその涙。

 どれほどに堪え続けてきたものか。気丈を脱いで、少女は安堵に涙した。

 

「ホンマに、ありがとうっ……!」

 

 その背をそっと千明が擦った。

 

「あぁもう、ぐずぐずじゃんかイヌ子」

「だってぇ……」

 

 子供をあやすような優しさで宥め労る。その関りの深さをつくづくに見て取れた。

 不意に、それが改まって。

 

「あの、薙原」

「なんだぃ」

「その、私が言えた筋合いじゃないけどさ……私からも、ホント……本当に、ありがとう」

「かっ」

 

 席を立つ。用は済んだ。

 これ以上は尻がむず痒くっていけねぇ。

 

「じゃあな、夜道は気を付けて帰ぇるんだぜ大の字」

「ぐっ、やっぱ大の字ってなんか響きが……」

「イヌ子ちゃんも、今日はよく頑張ったな。偉いぜ」

「っ!」

 

 手を振りながらに歩き去る。去ろうとしたその時。

 

「薙原くんっ!」

「ん?」

 

 呼ばわりに足を止め、振り返る。

 律儀に席を立ったイヌ子ちゃんが、口を開き、また閉じた。発しかけた言葉を留めて、しかしやはり口にしようとする。その繰り返し。

 両手をこね繰り、下を向き上を向き目を閉じてようやくに、意を決するのが見えた。

 顔を赤らめ、上目遣いにこちらを見る。

 

「あ……あおい、でええよ」

 

 それだけ言って、また一段と顔を赤くした。

 

「……ふははは! そうかい? わかった。また明日な、あおいちゃん」

「う、うん! また明日」

「大の字もな」

「そこは私も名前で呼べ! 流れで!」

「ハハハッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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9話 闇間に見ゆるホシ

正直、犬山家のおばあちゃんがわりとドストライク。



 

 

 

 齷齪ひいこら用心棒紛いを(こな)してみせたところで、得られたのはあくまでも娘子の日常。

 我が日常は依然として変わらず、齷齪ひいこら学業という重石を運ぶが如く。いやさ学生というやつもなかなかに多忙だ。

 己の時分はどうだったろうかなどと、懐かしむにはちと遠すぎる。気の遠くなるほど遥かな昔。若気の至りこの上もなく、新城を巻き込んでよく悪さをしたもの。

 ……口を開けば思い出話をしたがるのはそれこそ年寄りの証か。

 望みもしない奇跡に与り、二度目の学生生活など送っている。今日も今日とて学習机にかじりつき、腹を下しそうになりながら一日の時間割(カリキュラム)を消化した。

 

 待ち侘びた放課後だ。

 級友らに挨拶を済ませ、またぞろ向かうは職員室。前回は結局、他事にかまけて話を訊きそびれてしまった。

 今回こそはと息巻いて廊下を歩いていると、目的地に着かずして目的の人物を見付けた。

 教室から廊下へ出て入って。鳥羽教諭は両腕で荷物を抱え、なにやら作業の最中。

 近く、覚えのある光景だった。既視感というやつ。

 

「後ろから失敬しますよ、先生」

「はい! あっ、薙原くん」

 

 多少は抑えたつもりだったが、それでもやはり背中に掛かった声に娘さんは驚いた様子だ。

 しかしこちらを認めると、その面持ちが少し和らいだように見えた。

 

「何か御用ですか」

「ええまあ些少なこって。しっかし、お忙しそうですな」

「あはは……いろいろと立て込んでしまって」

 

 先の折は印刷した紙の束であったが、此度は装丁を施された歴とした資料教本のようだ。一クラスか二クラスか、生徒の人数分の冊数積み上がった分厚い書物。それを彼女はビニール紐で数十に小分けしている。

 当然の如く今日も、一人で。

 

()()、ですかい?」

「ええ、また」

 

 皮肉を噛むようなこちらの言に、女性教諭はひどく可憐に笑みを浮かべた。溜息のように微か、それは諦めの笑みだった。

 

「田原先生は相変わらず手厳しいようで」

「あ、いえ。この作業は田原先生の指示という訳ではなくて。彼女の仕事を引き継いだと言いますか。教頭先生が気を遣って……」

「上役伝てで体よく押し付けられた、と」

「お、押し付けなんてそんな……教頭先生も困っていらっしゃったので、なら私がって手を上げただけですよ」

「……」

 

 田原教諭のあの態度は、なにもこの娘にのみ限って向けられたものではないようだ。上司、同僚には腫物扱い。後輩からは萎縮される。

 当人がなにより改めるべきこと。しかし、そこを折衝に働くのも上役の務めの内であろうに。

 孤立無援とまでは言うまいが、どうにもこの新任教員が憐れでならぬ。

 

「さても、こいつぁちょいと荷が勝ちましょうや。暫し待たれ。台車か何か調達して来ますよ」

「……はい。ありがとうございます、薙原くん」

 

 この上に固辞する意義を探しあぐねたのだろう。鳥羽教諭は申し訳なさそうに眉尻を下げて、微笑んだ。

 

 

 

 

 

「ごめんなさい。いつもいつも面倒を掛けてしまって……」

「なんの。お近付きになる良い口実が出来て、己としちゃ願ったりですぜ」

「ふふっ……もぉ、またそんなこと言って」

「これはしたり。ハハハッ」

「ふふふ」

 

 二山の教本を載せて台車を押す鳥羽教諭に並び、載り切らぬ荷物を抱えて歩く。

 この分では、三度目もありそうだ。

 

「そういえば、何か私に用事があったんですよね。そうそう、先日も……すみませんでした。何かと時間を作れなくて」

「詫びなど無用に。ああそうだ。あおいちゃんのことですがね。無事、解決しましたよ。もう心配するこたぁねぇ」

「えっ……そう、なんですか。それは、薙原くんが?」

「いやいや。俺ぁただ話を聞いただけ、大したこたぁしちゃおりやせん。落し処に話が落ち着いた。自然の成り行きってぇやつですよ」

 

 白々しくならぬよう留意したつもりだが、鳥羽教諭は己の横顔を暫時見詰めていた。

 素知らぬ風で前を向く。吹奏楽部の奏でる金管が校舎の何処からか響いていた。

 

「……そうですか……そう。ああ、でも、よかった──よかった」

「御懸念、晴れましたかな」

「はい、お蔭様で。ええ本当に」

 

 安堵の沁みる声が吐息交じりに零れた。肩に乗る罹り事の内、一匙分程度は掬い取れたか。

 まっこと責任感が強いというのも考え物だ。善い先生ほど労苦を抱え込む。

 そんな娘子へこれを尋ねてよいものか、僅かに逡巡し、しかしそれを断って問いを投げた。

 

「先生は朝霧高原へ行かれたそうで。あのサークルの、あー、野クルでしたか」

「え? ええ、行きましたよ。サークル活動の一環で……それが、なにか」

「いや災難でしたな。まさか現地で、あんな事件に行き会うとは」

「……ええ」

 

 応えの声がほんの四半音ばかり低くなる。なるほど面白からぬ話題には違いないが、しかしそれだけであろうか。それだけを理由とせぬ、喉奥の(つか)えのようなものが感じられる。己の勘は、その微かな……秘め事の毛先に触れた。

 

「なんせ通り魔が始まった場所だ。気の毒に、悪ぃ方で随分と有名になっちまって。当夜は大騒ぎになったんでしょうなぁ。パトだ救急車だと」

「そうですね……警察の人達がたくさん来て、びっくりしました」

「傷害事件、それも犯人が逃走してるとなりゃそりゃあもう浮き足立ったろうな。奴等ぁ無遠慮に手当たり次第そこいら中嗅ぎ回りやがる。迷惑なこった」

「それも警察の仕事でしょうから。仕方ないです」

「まあそうでしょうがね。聴取もされたでしょう? 根掘り葉掘り」

「はい……」

「被害者の様子はどんなもんでした。聞いたところによるってぇと男女の連れ合いで、男の方が襲われっちまったとか。女性の方はさぞ恐ぇ思いをしたでしょうなぁ。いやしかし気丈なこと、通報したのはその女性の方だってぇ言うじゃあねぇですか」

「薙原くん!」

 

 突如、こちらの言葉を遮って呼ばわれる。それ以上の問いを拒むその意図を以て。

 鳥羽教諭は、険しい顔で己を見た。

 

「ごめんなさい、大きな声を出して。でも、それは、興味本位で訊ねるような話ではありません。被害を受けた方がいるのに、不謹慎でしょう」

 

 正論。ただ正しい理屈を教諭は並べ、この身を諭している。

 だのに表情は強張り、視線は俯く。

 己で発した言葉を、己自身にしてから納得していない。まるで、そう、その白々しさを恥じるかの気息。

 

「……いや、仰る通り。これはまた不躾を申しました。お詫び致す」

「い、いえ。いえ。そんな、謝る必要なんてありません。私こそごめんなさい……偉そうに」

 

 今度こそ深く、その美しい形の(おとがい)が下を向く。しゅんと肩を落とす姿はまるきり少女のそれ。

 

「謝る必要がねぇのは先生こそですよぅ。いや、恐ぇ目に遭ったなぁむしろ御身であろうに」

「そ、そんなことありません! 可哀想なのは野クルの皆さんです! せっかく、仲の良い友達と予定も合わせて、一月以上も前から計画も立ててようやく叶ったクリスマスキャンプだったんです。それなのに、あんなことに……」

「……」

 

 そう言って自責に面を暗める。労しいのはどちらやら。

 両腕の荷物を廊下に置き、両膝に手を付いて、その俯き顔を覗き込んだ。

 不思議そうなその眼差しを見上げて、笑みを送る。

 

「無事でよかった。子供らと、お前さんが無事で。それが一等の、何よりじゃあねぇですかぃ」

「っ!」

「ねぇ、先生」

「はいっ……そうですね。本当に、そうです……」

 

 声を詰まらせ、娘は頷く。

 これ以上はできんか。尋問のような真似をするには、この娘子はあまりに労しい。

 そう情に肯く内心で……しかし、冷徹な肚の底にはある推測が生まれていた。そして、それはおそらく正答である。

 女性教諭は口止めをされている。いや、この教諭個人に限った話ではない。謂わば緘口令の如きものが布かれたのだ。

 真っ当な教師が凶悪事件の顛末を生徒にべらべらと吹聴する訳もないが。キャンプ場職員の女の口はその意味で、羽毛より軽かった。

 

「最近、県の教育委員会の決定で教職員が近隣の見回りをしているんです。早朝から夕方や夜間、主に生徒の登下校の時刻に」

「ほう、そいつぁご苦労ですなぁ。ただでさえお忙しかろうに」

「生徒の安全の為ですから仕方がないです。私は身延の辺りを担当させてもらっていますが、もっと遠く、甲府や長野の近縁にまで駆り出される人だって居ます」

「長野!? そいつぁ幾らなんでも乱暴だ」

「あははは……もちろん希望者の人が、代休ありきで、ですけど……山梨近県との合同計画なので、人員を割けないところはそういう無茶なことに」

 

 学校関係者への指示。この本栖高校に勤務する職員に、緘口の措置が為されている。そう考えるが自然か。

 何故。

 広まっては不味いからだ。

 何が不味い。

 学外に風評が及び、評価を下げること。教育機関特有の潔癖さゆえ。

 風評被害とは。

 事件の当事者に──学校関係者が居る。それが噂として広まることを恐れている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 雑用を終え、再三に亘る鳥羽教諭からの感謝と謝罪に送られながら校舎を後にする。

 彼女の誠心には悪いが、収穫はあった。思い掛けない方向で。

 それが何を表し、何に繋がり得るのか。それはまだわからぬ。しかし、近付いている筈だ。

 確実にホシへ。暗闇の奥に潜むその凶きモノへ。

 

 暗い暗いと思えば、外は既に夕闇の帳の下。西日が沈み切ったのは何時の頃か。

 瞬き始めた星空を仰ぎ、校門に差し掛かった。

 

「な、薙原くん!」

「うん?」

 

 門柱の傍にいた少女が一人、こちらに駆け寄ってくる。

 声を聞けばそれが誰なのかは瞭然で、あおいちゃんは白い息を切らせながら己の前に立った。学生鞄を提げ、分厚く巻かれたマフラーに顔を埋める様は帰り支度のそれ。

 

「どうしたんだぃ、こんなとこで」

「あ、うん。あの……あんな……一緒に……薙原くんと、一緒に帰ろう思て……」

「おぉ? 己を待ってたのか。かぁっ、こんな寒空の下で、あぁあぁ寒かったろう」

「う、ううん、全然大丈夫やよ」

 

 気恥ずかしそうにあおいちゃんははにかんだ。

 

「一人かい? 大の字はどうした」

「先帰ったわぁ(帰らしたわ)」

 

 一瞬、おかしな色合いで目が泳いだが、まあよかろう。

 娘子一人帰り路を歩かせるより幾分は。なにより、当てにしてくれるというなら応えるに吝かではない。

 

(けえ)るかい。不肖この薙原、道々エスコートいたしやしょう」

「うむ、苦しゅうないで。えへへっ」

 

 ほわりと仄暖かに、あおいちゃんは笑った。

 

 

 道中の会話はさぞ難儀するものと思っていたが、存外に少女は話し上手の聞き上手。今時の子供ららしい一面と、何処か歳に似合わぬ大人びた振舞い。

 しっかりとした娘だ。将来が楽しみだなどと、またぞろ分際を弁えぬ感慨を覚える。

 

「へぇ、そいじゃああのサークルはあおいちゃん達が起ち上げたのかい」

「うん、まあ私はアキが勢いで作るぞー! いうてたのを手伝っただけなんやけどね」

「いやいや大したもんじゃねぇか。好きなことの為に地固めを怠らぬ。若ぇのにしっかりしてんだねぇ」

「あははは、なに言うとるん。薙原くんかてタメやんかぁ」

「おっと、そうだったそうだった。この爺臭ぇのが災いしてなぁ、時折ぽろーんと忘れっちまうのさ」

「あっはははは」

 

 お道化てみせると、少女は楽しげに笑ってくれた。

 波高島駅から歩くこと10分ほど。生垣に囲われた日本家屋が見えてくる。木製の表札には達筆な犬山の文字も。

 なんだかんだと、自宅まで同道してしまった。しかし、鳥羽教諭の言ではないが、今の時世で安全を買うならこの程度に過保護である方がむしろよいのやもしれない。

 ストーカーに、通り魔。

 世も末……いや、初頭も初頭、四半世紀すら未だ数えぬというに。

 

「薙原くんありがとなぁ。家まで送ってもろて……」

「構わねぇよ。いや己もな、話が楽しくってすっかり付きっ切りになっちまった」

「え? えへへへっ、そっかぁ……それやったらよかったわぁ」

 

 マフラーに顔を埋め、少女はもごもごと呟いた。手のこね繰り、伏し目がちにこちらを見ては逸らす。

 

「ではな」

「あっ……あの!」

「うん? なんだい」

 

 踵を返し掛けた己に手が伸ばされる。それは肩に触れようとして躊躇い、腕に触れようとしてまた躊躇い、最後に裾をその白い指が摘まむ。

 少女の顔は朱色、吐息の白が、それをより引き立たせる。家の灯が映るのか、瞳がやけに輝いて見えた。

 

「あの、あんな……あの……っ……」

「おう、どうした。ゆっくりでいい。ゆっくりで」

「…………私、私っ……!」

 

 遂に、少女が決する。心か覚悟か……想い願いか。

 尋常には口に出来ない大きな決意をその瞳に宿して、今一歩、少女が己に近付き。

 ────からら、そんな音色にびたりと止まる。

 少女は急停止して、次いでぎこちなく横を向いた。油切れのブリキ人形も斯くやといった風情。

 彼女の自宅の玄関、四枚引き戸が僅かに開き、その隙間からこちらを覗く碧い瞳と目が合った。

 小さなあおいちゃん。その童女の顔立ちはまさしくそう表するが適当だ。

 

「…………」

「…………」

「こんばんは。そんなとこに突っ立ってちゃ冷えるぜ、お嬢ちゃん」

 

 無言で見詰め合う両者の膠着を解す心持ちでそう言うと、まず反応を示したのは童女の方だった。

 

「こんばんは~」

 

 にこりと笑い、挨拶をして、そのまま玄関を取って返す。框を駆け上がり、廊下をドタドタと駆け抜けて、子供らしい高く響きの良い声で。

 

「おばあちゃーん! あおいちゃんが彼氏連れてきたでー!」

「あかりぃーー!!」

 

 号砲を鳴らされたスプリンターの如くあおいちゃんは玄関から自宅へ突貫した。

 暫時、家内から床板を蹴る足音と童女の楽しげな悲鳴が木霊する。

 戸だけ閉めて暇しようかと考え及んだ頃、玄関先に人影が立った。

 

「あぁあぁすみませんねぇ、玄関先に立たせたまんま」

 

 ぴんと背筋の伸びた女性であった。短く整えられた白髪、面差しはやはりあの少女によく似ている。

 己が老い耄れである所為か、対手を老女と呼ぶのは躊躇われた。母親と言われても信じたろう。それほどに矍鑠として、いやさ若々しい。

 

「あおいの祖母です。孫娘をわざわざ送っていただいて、ありがとうございます」

「いえ、小忙な時刻にこちらこそ申し訳ない。すぐ退散しますゆえ」

「あらあら滅相もないですわ。もう、あーおーいー! こちらがお帰りや言うてらっしゃるのに、いつまで遊んどんの」

「はーい! はい! ごめん! 薙原くんあのっ、あかりはアホやねん! アホがアホなこと言うただけやからね! 気にせんといてね! ね!?」

「あたしアホちゃうもーん」

「あんたぁちょい黙っとれ!」

「おぉおぉ、わかったわかった。確と心得たぞぉ。ふっ、ハハハッ」

 

 こちらが笑うと、あおいちゃんは沸騰した土瓶のように蒸気を吹いた。無論、喩えであるが。

 そんな孫娘をどう見たか。そしてこの身をどう見たか。

 祖母上は一つ頷き、己に笑む。

 

「よろしかったら一緒にお夕飯でもどうです」

「ちょっ、おばあちゃん!?」

「なんの用意もありませんけど……せやねぇ、今晩はたまたまお赤飯炊いてすき焼き拵えまっさかい、お客さんお一人くらいやったら大丈夫やわ。いやホンマにたまたま」

「嘘つけぇ!! どこがたまたまやねん!? どこにたまたまの要素があんねん!?」

「やったぁすき焼きや! でもなんでお赤飯なん?」

「女が大人になる時はそういう決まりやねんで。あかりも覚えとき」

「はーい」

「覚えんでええわ! てか薙原くんの前でっ、なに言うねん!?」

 

 打てば響く祖母上の言葉に逐一あおいちゃんが怒号を飛ばす。妹御のあかりちゃんは実に暢気、マイペースだった。

 愉快な家族である。

 

「いや、お心遣いまこと有り難く存ずる。が、今日の所は御相伴は遠慮させていただく。拙宅でもう用意がございますのでな」

「あらぁ、そうですか」

「折角のお招きを頂いておいて、いやいや不躾千万、平に」

「あぁ薙原くんが謝らんといて! ええねんええねん! おばあちゃんが無理言うのが悪いねん」

「ふーん、あおいはこちらとお食事したないんか。せやったら今度は、(わて)と二人でどないです、薙原くん」

「なんでやねん」

「えーせやったら私も一緒に行きたいぃ」

「なら私とあかりと薙原くんでお寿司でも食べ行こか。次のお休みにでも」

「そいつぁなかなか楽しそうですな」

「薙原くんまで!?」

「ハハハハッ」

「フフフ」

 

 揶揄(からか)い上手な祖母上と二人、笑い合う。顔を赤くするあおいちゃんには申し訳ないが。

 

「また明日な、あおいちゃん」

「ふんだっ、薙原くんなんて知らんもん」

「ほななーお兄ちゃん。次はあかりとも遊んでやー」

「おう、いいとも」

「またいらっしゃいましな」

「御厚意有り難く頂戴する。では、失礼を」

 

 今一度、辞儀してその場を後にした。

 それはひどく暖かな、愉快な心持ち。それは己には実に、実に得難く、望外なものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あんたもまた、随分けったいなお人選んでもうたな」

「……ええやろ別にぃ。どんな人選んだって」

「悪い言うとるんちゃうよ。ただ気ぃつけや。ああいう人は、女泣かせやで」

「薙原くんはそんなんちゃうし! 軟派……ではない、思うけど。わりと女馴れしとる感あるけど、大丈夫……たぶん、きっと」

「そうやない」

 

 居間の炬燵へ両膝を埋め、祖母のみね子は溜息を吐いた。

 

「ああいう男はな、女より義理を取る。仁義を取りおる。ホンマ、憎らしいくらい迷わんとな」

「? なんなんそれ。どういう意味」

「捕まえるんやったら急がなあかんでぇいうことよ。身も心も骨抜きにするくらいの気概で行かんとすぐどっか消えてってまうで」

「えぇ……」

 

 対面の卓に行儀悪く突っ伏す孫娘に、みね子はしかし、叱る言葉を持たなかった。

 

「筋道通す為やったら……命も惜しまん、そういう眼ぇしとったわ。あんお人は」

「……いや、いやいや、それは言い過ぎ」

 

 笑うあおいに、みね子は穏やかな眼差しを向ける。

 

「なんにしても、後悔のないようにね」

「……うん」

「あんたが手ぇこまねいとるんやったら私が先に手ぇ出すで」

「なんでやねん!? 齢考えぇや!」

「気風のええ男前やったねぇ薙原くん。私があと二十年、うーん二十五年若かったらいてもうてたかもしれんわ」

「五十年遅いで、おばあちゃん」

「あおい、あんたの夕飯、木綿豆腐だけや」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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10話 凶兆

そうそう通り魔になんて遭遇するわけないって!()




 

 甲府市帯那山の山間。山を賑わす木々の枝ぶりは未だ侘しい。

 ただし、見通しの良さは一入であった。遠く山々の連なりと、それらを覆う空の暗幕。墨を落としたかの黒海には針で空けた穴、ピンホールめいて細やかな光が点々、点々と、無数に舞い散る。

 真夜の枯れ林、闇夜に沈む山は異界であった。

 客の為に拓かれた平らかな土にローチェアを置き、焚き火を囲んで隣り合う。

 第二の事件現場、山間キャンプ場には己らを除いて客足は皆無であった。

 

「警察の方にも進展はねぇようだな」

 

 例によって新城から受け取ったスマートホーンの画面を睨みながら独り言ちる。ネットニュースの情報に更新はなく、捜査の難航と広く情報提供を求める旨が添えられるばかり。

 

「これだけ時間を掛けても犯人を見付けられないものなのか」

「時間掛けりゃいいってもんでもねぇがな、どうやら相当に手詰まりらしい。初動捜査を完全に失敗してやがる」

「初動……この事件は、ただの通り魔ではない、と?」

「二件目、三件目は紛うことなき通り魔だ。いや……計画的な傷害犯といった方がしっくりくる。キャンプ地の人目の無さ、脆弱な防犯状況、悪路狭路にも対応できる逃走手段(バイク)、犯行現場の辺鄙な立地も警察の迅速な展開を妨げている。手口も、獲物を甚振らず、鈍器で昏倒させてから手足を切るだけに留める自制。相手から行動力を奪うってぇ意味でも無駄のねぇ鮮やかな手際だ」

「絶賛だな」

「戯け。反吐が出らぁ」

 

 薪を一本、炎の中に放り込む。火の粉が散り、舞い、闇間に解けた。

 

「だが、一件目、こいつぁいただけねぇ。他二件とは比べ物にならぬ杜撰さだ」

「確かに。人目が少ないとはいえ、芝生サイトのキャンプ場に、それもテントに押し入って襲ったんだったな」

「そうだ。街灯のない林道、山道、二件目三件目はどちらも暗所から奇襲と離脱を考慮した電撃的な犯行……だってぇのに、朝霧高原の手口はその精彩がまるでねぇ。ほとんど考え無しに突っ込み、無様に草原を走って逃げていやがる。案の定、居合わせた客──リンちゃんにその様を目撃された」

「……やはり一件目だけは衝動的な、怨恨による事件に思えるな」

「ああ、だから前にも言った通り、警察も当初はそう動いた。だが、犯人はおろか物証も出ない。状況証拠は幾らか出たかもしれんが……二件、そして三件目、完全に通り魔として完成された事件が発生した。初動の捜査方針は怨恨から計画犯罪へ、根底から軌道修正を強いられ混乱した。きっと今も本部()()付いてるだろうぜ」

 

 古巣の無様を想像しようとして、鼻息と共にそれを払う。

 新城はコーヒーを注いだチタンのマグカップをこちらへ寄越した。

 受け取るなり、啜る。苦みが、皮肉を噛む口内を洗ってくれる。

 

「俺ぁこの一件目、それもこの被害者が臭ぇと睨んでる」

「被害者?」

「ああ、厳密には、被害者の連れの女だ。事件当時の行動の不自然さがどうも気に入らねぇ」

「それは私も感じてはいたが……その女が犯人だと、お前は考えているのか」

「公算は高ぇ筈だ」

 

 新城は視線を炎に落とし、その目に猜疑の色を映した。

 

「警察がその可能性を見落とすだろうか。まず真っ先に疑われるのは被害者と、被害者周辺の人物じゃないのか」

「間違いなく手入れはされたろうな。犯行時刻のアリバイ、指紋、凶器、人間関係とそこに絡む縁故……疑わしいなら容赦なく調べ尽くすのが警察だ。思うに、容疑者は既に絞られている。任意同行、その後の令状も取り、家宅捜索程度はもう終わってるんじゃあねぇか」

「それでも逮捕されていないということは」

「何も出なかった。少なくとも、逮捕に踏み切っちまえるだけの決め手は」

 

 とりわけ物的な、犯行に使われた乗り物や衣服は無論のこと、なにより凶器が、未だに見付かっていない。

 

「だが、被害者は? 被害者の男が何の証言もしないのは何故だ。犯人が交際相手だというなら……いや、だから庇っているのか? 口裏を合わせて警察の捜査を切り抜けている……?」

「かもしれん。が、そこはまだ想像するしかねぇな。人間の思惑なんざ軽々にわかるものかよ。その御当人ですら時に判然としねぇんだ」

「……厄介だな」

「まったくよ」

 

 被害者が犯人の手助けをする。これ以上に厄介で、かつ意表外な、有効な手段もないのだから。

 しかし、その程度で腐る訳にもいくまい。そしてこちらには期せず一枚、手札がある。果たしてこれが切り札なのか、ただ徒に場を混迷させるだけのジョーカーなのか、それは未だ判ずること能わぬ……が。

 尻ポケットから取り出したA4用紙のカラーコピーを開く。

 

「事件当日の現場写真、こいつに何の意味があるかだ」

 

 犬山あおいと大垣千明がはしゃぐ、その奥に小さく写った一棟のテントと一台の車。

 

「ハッチバックの軽自動車のように見えるが……女の車に同乗してきたのか」

「おいおい爺さん、偏見はよしな。男のものかもしれんぜ」

「ふん、悪かったな。こういう小振りなものは趣味じゃないんだ」

「かかっ、ま、己もこいつぁ女の持ちもんだろうと踏んでる。キャンプが趣味だと抜かす野郎が、こんな車種を選ぶとも思えん。SUVだのワゴンだのってぇならいざ知らずよ」

 

 その理屈で言えば、わざわざこの車を使ってキャンプに赴いていることが既にして奇妙ではある。

 不合理、不自然、粗を探し始めれば切りがない。脳味噌の煮え立ちを覚え、腹から唸り声を上げて夜天を仰いだ。

 澄んだ無間の闇に、川の濁流めいて星々が光っていた。外から眺める山の峰ではなく、山の中から望む景色も悪くはない。景色だけは。

 舌打ちして。

 

「寒ぃ! くっそ寒ぃ。あぁあぁ現場百遍なんて誰が言い出したかねぇ」

「お前だ」

「そうよ、この俺よ。糞ったれ」

 

 春の息吹は未だ覚えず、冬の名残と呼ぶのも憚る極寒気が強かに山を覆っていた。雪とてまだまだ融け残って、ここが冬山であることを主張する。

 

「何が楽しくてこんな面倒をやりたがるかねぇ、キャンパーってぇ連中はよ。寒いわ、寝床は固ぇわ、洟は煤で真っ黒だわ、輪を掛けて寒いわ! はぁっ、気が知れねぇ」

「お前に堪え性が無いんだ。いい齢の老人が文句ばかりまったく。子供の方がまだしも楽しみ方を心得てるだろうな」

「へんっ、俺ぁ世の意見を忌憚なく代弁してやってんのさ。アウトドアなんてハイカラに言いやがって、ただの野営じゃねぇかこんなもんはよ」

「身も蓋も情緒もないことを言うな! なおかつ烏滸がましいぞ。魅力を理解しろとは言わないが、世の中がお前のような偏屈者と同意見なものか」

 

 尤もな叱責を馬耳東風と、暖かなコーヒーを飲み干してせめて胃の腑に熱を蓄える。

 生粋の寒がりにとって冬のキャンプなど苦行か荒行の類。体を温められるだけ温めたなら、とっとと寝袋に納まって寝入ってしまうのが上策だ。

 情緒もへったくれもない。自然の只中で過ごすことの趣など、己には無縁の楽しみであった。

 

「本当に筋金入りだよ、お前は。よくそれでキャンパーを襲う切り裂き魔相手に血道を上げられるな」

「どういう意味だこら。キャンプ嫌いだから見過ごすとでも言いてぇのかおい。このすっとこどっこい」

「そうは言わん。しかし、不思議ではあった。初めからお前はこの犯人に随分と憤っていたろう」

 

 真面目腐った面で何を言い出すかと思えば。下らぬ。今更、犯罪行為の是非を法学者よろしく論議する気は毛頭ない。そんな上等な、叡哲な思考遊戯を弄ぶ趣味もない。

 この粗略漢がそんな真似をしたとて、門前の小僧のような愛嬌すら望めぬだろう。

 ひとえに下らぬ。

 我が身を衝き動かす理由に、そんな大層なものは不要だ。

 

「気に入らねぇのさ」

「……」

「真っ当な堅気衆、真っ当に生きる市民をよ。どういう訳か知りゃしねぇが、無法に脅かす奴輩が俺ぁ気に入らねぇ。己の勘だが、この犯人(ホシ)は通り魔ってぇものに仄暗ぇ悦びを見出しているように思える。陰湿な執念が、独り善がりの憎しみが滲んでいる。そう思えてならねぇ」

「それはまた、立派な正義感だな」

「馬鹿野郎、そんなんじゃねぇ」

 

 茶化す旧馴染みに睨みを呉れてから、砕けて昇る炎に目を落とす。

 

「俺ぁキャンプは嫌ぇだが、キャンプしてる物好き見んなぁ嫌いじゃねぇ。それだけだ」

「……ふっ、ははっ、なんだそれは」

 

 吐き捨てるように言うと、新城は噴き出して笑い始めた。

 

「うるせぇよ。あ゛ぁ寒ぃ! 俺ぁもう寝るぜ。えぇいくそ寝袋も(でぇ)嫌ぇだ。寒い上に節々痛みやがる」

「マットはないのか。敷けば多少はマシになるぞ」

「んな上等なもんはねぇよ。体はともかく哲也本人は寒さに強かったらしいぜ」

「ふむ……使い古しのフォームマットがあった気がするが」

「お、あるのか」

「志摩の家にだ」

「んだよ」

「……明日、取りに行ってみるか」

 

 ぽつりと新城は言った。何気なしの風を装って。

 問い質すまでもなく含むものがある。なにやら込み入った、気兼ねが。

 一体この老い耄れは何を慮ったのだろう。どんな要らぬ世話を焼こうと言うのだろう。

 

「ならば有り難く、借りるとするかね。このまんまじゃ遠からず風邪っぴきだ」

「……そうか」

 

 そして己も知らぬふりで応える。それがなんであれ、応えてやらねばなるまい。

 あと幾度、その機会が巡るだろう。あとどれほど、己には時間が残っているのか。

 

「顔見に行くくれぇなら罰は当たらねぇだろ」

「…………」

 

 爆ぜ木が鳴いた。

 朱く火の粉が舞い、天へ昇る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「キャンプがしたい」

 

 その呟きは思った以上に切実な響きで漏れた。

 もう二ヶ月近く、どこにも行けていない。最後に赴いたのは富士宮の朝霧高原、鳥羽先生引率のもと野クルメンバーに斎藤と自分を加えたグルキャン、クリスマスキャンプだった。

 初体験のグルキャンは、自分の想像よりも、幾分、いや正直に言えばかなり、楽しかった。焚火を大勢で囲む賑やかさはひたすら新鮮で、寂しさや静けさとは縁遠い。

 ソロキャンとグルキャンには、まったく違った魅力があった。

 その再確認を得られたことは自分にとってはむしろ幸いで。それは次のソロキャンに対する高いモチベーションにもなった。

 キャンプに行きたい。ソロキャンをしたい。

 自分が思ったより、キャンプという趣味にドハマりしていることを知る。最初は祖父のお下がりを実際に使ってみたかったという程度だった。慣れない設営や寒空の焚火のあの暖かさ、キャンプご飯の失敗と、母が持たせてくれたカレー麺の味。そういう全部が、自分は嫌いじゃないと気が付いた。

 

 ────リンちゃんは、好きなことやれてるかい

 

 うん。一つ、見付けたよ

 

 縁側に座るその人に私は駆け寄る。

 するとじん爺は大きな手で頭を撫でてくれた。節くれ立った武骨で、太い指で、分厚い掌で。

 

 ────リンちゃんはいい子だなぁ。あぁいい子だ。とってもいい子だ

 

 何度も何度もじん爺はそう言って、私の頭を撫でてくれる。それが嬉しいから、私も何度もそれをねだった。

 じん爺が家に来なくなったのは、いつからだったろう。

 いつから私は、じん爺を思い出さないようにしていたのだろう。

 祖父の寂しげな背中を見た時。母が電話口で涙を流すのを見た時。父が辛そうな顔でその肩を抱いていた時。

 違う。

 

 ────ごめんな、リンちゃん

 

 やだ

 

 ────じん爺もう、ここへは来れねんだ

 

 やだよ

 

 ────元気でな

 

 いかないで。また、来てよ。私、いい子にするから。いい子にして、待ってるから。だから。

 

 

 いっちゃやだ!

 

 

 

 玄関戸は細心の注意を払って閉じる。我ながら無音を貫けた。

 がさがさと鳴るダウンコートの衣擦れが厭わしい。予め積んでおく訳にもいかなかった各種大荷物を一挙に抱えて、愛車ビーノが鎮座する玄関脇へそそくさ。

 サイドバック、座席後部に荷物を積み込み、手押しで家から離れる。エンジン音を聞かれて母に見咎められればもはや言い逃れもできない。

 言い逃れ……。

 

「下見、だから……これは下見……! キャンパーとして当然の、備え……!」

 

 なにやら以前千明が持ってきていた漫画にしこたまインスパイアされた自己正当化を自分に施して、家から十分に遠ざかり、エンジンを掛ける。

 

「……ごめんお母さん、夜までには帰るから」

 

 謝罪を口にしてからふと思い立ち、スマホの電源を落とした。念の為。

 置手紙に気付いたら、母から鬼のように電話がかかってくるだろう。

 

「いってきます」

 

 

 

 

 

 

 



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11話 肉薄

※優しい世界崩壊中!※優しい世界崩壊中!




 

 

 

 眼下に反木(そろき)川を望む。ガードレールに阻まれ、岩壁を剃り上げるように国道が走っている。志摩家は山肌に寄り添うようにしてそこにあった。五年前と何一つ変わらぬ姿で。

 建屋の脇にシルバーのSUVが見えない。どうやら渉君は既に仕事に出ているようだ。

 代わりにそこへ側車付のボンネビルを押し込んだ。

 

「たかだか五、六年ぶりだってぇのに、なんだな。矢鱈に懐かしいぜ」

「……その間、お前は何をしていたんだ。死後の世界とやらにいたのか」

「さて、どうだったかねぇ」

「……」

 

 隣に立った新城と家屋を仰ぐ。二階建ての一軒家は、小造だが良い姿をしている。団欒と快語、幼子のはしゃぐ声が満堂する。耳孔に響くものは懐古だった。

 

「ま、ここほど良いところでも、聞くほど悪ぃところでもねぇ」

「……そうか」

「お前さんは精々ゆっくり来な。てめぇの面ぁそろそろ見飽きちまってよ。もう暫くは拝みたかねぇや。かっかっかっ!」

「ふっ、お前の憎まれ口を死んでからも聞かされる身にもなれ」

「有り難く思いな」

「馬鹿め」

 

 言って新城がインターホンを押し、一応とノブを回す。用心なこと、きちんと鍵は掛かっているようだ。

 見知らぬ少年を連れて訪れた父親、そして祖父を、咲ちゃんらはどう思うやら。腹の中でなんぞ上手い言い訳はないものかと一つ二つ練っていると、扉の向こうで足音が立った。扉脇の曇りガラス越しに人影を見止める。

 

「はい……?」

「私だ。少し用があって寄った」

「!」

 

 短く息を切るような、どうしてかそんな気配を覚えた。

 サムターンが回され、扉が引かれる。そこには当然に声の主が、その懐かしい姿があった。

 病床で迎えた切りだったが、驚くほど変わっていない。短く柔らかな形で切り揃えられた髪は清潔だが洒落っ気もある。灰色の徳利セーターと赤いズボン。落ち着いた装いは大人びている筈なのだが、この眼には一向にその姿は娘子のようにしか映らないのだ。

 子供の頃からこの娘は、咲ちゃんは変わらない。

 変わらず愛らしいその顔が今────恐慌に翳っていた。焦り、乱れ、不安を露わにして。

 

「父さん! 山梨に来てたのね……」

「あ、ああ。どうしたんだ一体」

「リンがっ、リンが」

 

 居間に取って返し、戻ってきた咲ちゃんは一枚の紙を新城へ差し出す。その肩越しに紙面を覗いた。

 それはどうやらリンちゃんの認めた手紙であった。

 

 ────

 

 静岡の磐田にある竜洋の森キャンプ場に行ってきます。

 宿泊はしません。日帰りで済ませます。

 現地に着いたら一度連絡するので、ご心配なく。

 帰る時間はちょっと遅くなるかもしれません。ごめんなさい。

 

 リン

 

 ────

 

 可愛らしい綺麗な字で実に端的に要件をまとめてある。

 実に端的で、(すこぶ)る肝の冷える内容であった。

 

「お昼が要るか聞きに行ったらそれが部屋の机に……私てっきりまた本に集中して、中に篭ってるんだとばっかり。あぁもうあの子ったら! 物騒だからってあれほど言ったのに!」

「咲、咲! 落ち着くんだ。最後にリンを見たのは何時だい」

 

 咲ちゃん、いや母御は額に手の甲を押し付けて焦燥する。

 その肩に手をやって、極力静謐に、その父たる新城は問うた。

 

「……朝ご飯は食べてた。制服をクリーニングに出すから居間に置いといてって……9時頃にはもう姿が見えなかった」

「そうか……」

 

 今の時刻は15時前。

 原付で一般道を走るとして磐田まで四、五時間といったところか。早ければ既に目的地に到着している頃合いだ。

 喘鳴交じりの吐息。咲ちゃんは顔を覆って俯いた。

 

「……そうそう滅多なことなんて起きない。心配のし過ぎだって……わかってる。わかってるけど、でも……あの子携帯にも出なくてっ」

「いいや、当然のことだ。渉くんには連絡したのか?」

「ついさっき……職場から車で迎えに行くって言ってたけど……」

「そうか」

「……もぉ、リン……!」

 

 そう呼ばわる声には叱るような険と、ただ想い遣るばかりの憂いが同居する。母が子を想って、涙を堪えていた。

 その様をして大袈裟と誰が笑おう。仮に、軽々に事なかれなどと浅慮を吹く輩がこの場に在らば、その口を縫い合わせてやる。

 ……焦れているのは己も同じか。

 ならばそのように、慌て、急いて、迅速に動くまで。

 密かに強張るその背中、誰あろう娘の前で不安など晒すまいとするその男の、ライダースジャケットの肩を叩いた。

 

「高速なら二時間弱だ」

「!」

「行くぜ」

「ああ」

 

 反問反駁の要は一切合切あらぬ。

 己がまずボンネビルに乗り込み、シートのヘルメットを新城へ投げる。

 それを受け取り装着しながら新城は、父は再び娘の肩に手を置いた。

 咲ちゃんは戸惑いの目で父親を見上げて、次いでこちらを見る。居合わせただけの、何処の誰ともわからぬ少年を。

 

「あの、あなたは……?」

「うぅん? そうさな……この爺さんの悪さ仲間ってぇとこさ。現地で娘さん探すにしろ分ける手は多い方がよかろうや」

「は、はあ……」

「不安であろうが、今暫く辛抱してくんな」

 

 新城がエンジンを掛ける。吐息するように電装が起ち上がり、次いで金属質な獣の咆哮がアスファルトを吹き払った。

 ギアをローから半クラッチへ、タイヤが地を噛み、牛歩の如き前進を始める。しかしそれもほんの一瞬、次の瞬間にはアクセルが解き放たれ、鉄騎は爆発的な疾駆に達する。

 その僅かな、刹那に。

 大きくなった娘子の、昔も今も立派な母で在り続けるその子の姿に、己は微笑んでいた。

 

「立派になったな、咲ちゃん」

「え」

「そんでちっとも変わらねぇ。相っ変わらずの美人だ。ハハハッ!」

 

 困惑か、もの問いか、あるいはもっと別の何かを口にしようとした咲ちゃんの声を内燃機関の嘶きが掻き消した。

 単車が奔り出す。道程は長い。だが一跨ぎだ。

 逸る心持ちをそう欺瞞して一路、磐田を目指した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「海、よかった……」

 

 御前崎の臨海道路を、寒さに震えながら疾駆すること数時間。目的地の竜洋の森キャンプ場に着く頃には顔から手先からすっかり凍えてしまっていた。

 とはいえ、眩しいくらいの快晴と雄大な海原の景色は、最高だった。

 

「でもやっぱり、スクリーン無しは無謀だったかも……」

 

 自販機で買ったミルクティーで暖を取りながら、芝生サイトに荷物を放る。日帰りだし、それほど時間に余裕もないのでテントは置いてきた。

 ローチェアと焚火台を設置して、何はともあれ火を熾す。

 薪を削り上げて作ったフェザースティックの使い勝手に地味に感動を覚えながら、立ち昇る炎を前にようやく人心地ついた。

 

「はあ……もうこんな時間か」

 

 赤い太陽が海と陸の丁度境目に沈もうとしている。家を出たのは11時過ぎ。出発が遅かったとはいえ、寄り道も多かったし結構時間が掛かってしまった。

 まだまだキャンパーにとってはオフシーズン、客足が少ないのは自然なことだ。けれど、そういう理由を差し引いても、周囲には自分以外人っ子一人、普段なら一定数は居てもおかしくない閑散期を狙ったキャンパーすら、姿がなかった。

 ご時勢というやつ。通り魔のニュースは一月下旬を最後にふっつりと途切れたが、未だに犯人が逮捕されたなんて報道もされていない。

 それなのに、自分はこんなところで焚火に当って海を眺めている。

 沸々と罪悪感がわいた。随分、今更だけど。

 

「帰ったらちゃんと謝らないとな……」

 

 その前にまず母から、正座でお説教コースは確定だ。そしてきっと、キャンプどころかちょっとした遠出すら禁止令が発されるに違いない。キャンプ道具、下手をすれば原付まで取り上げられて……は、早まったかな。もしかしなくても、かなり。下見下見と言い訳をして無理を押して来る必要はなかったんじゃないだろうか。

 後悔が背筋をにじり上ってくる。間違いなく、今更だった。

 

「ぐっ……ならせめて」

 

 夕焼け小焼けの大海原をこの目に焼き付けて帰ろう。それは多分、死刑執行を前に最期の希望を融通される囚人と似たような心理だったけれど。

 考えないように、ただ、素晴らしい景色を求めて。

 火を消し、しっかりと燃え残りを処理してからサイトを出た。

 

「ミルクティー飲み過ぎた……」

 

 ついでに、いい場所にトイレを探しに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新城の駆るボンネビルがキャンプ場の駐車場に滑り込んだ時には、既に西日は隠れていた。辺りは刻刻、夜闇のビロードが一枚また一枚と厚みを増していく。視界が鮮明さを失っていくにつれ、潮騒がやけに耳に障る。

 まず真っ先に管理棟の受付へ飛び込んだ。

 客足の無さが功を奏し、リンちゃんの人相風体を従業員はしっかりと覚えていた。

 

「チェックアウトした……!?」

「は、はい。ほんの20分くらい前に」

 

 間の悪さ、験の悪さが鼻につく。項の辺りに嫌な疼痛を覚えた。

 予感などという実質なんの役にも立たぬただひたすらの、この不快感。そして性質の悪いことに、悪いものほどよく当たる。

 駐車場に取って返し、屋外照明に浮かび上がる黒い車体を囲んだ。

 

「そう遠くへは行っていまい。手分けするぞ」

「私は大通り沿いを西へ流す」

「なら俺ぁ海岸沿いを東だ。10分置きに定期連絡」

「了解」

 

 法定速度に喧嘩を売る走りっぷりのこちらに対して、渉君は常識的な範囲を守って急ぎ向かっている。むしろ好都合、相対で向かい合いながらであれば捜索もよりつぶさに叶う。

 駐車場から走り去るボンネビルを横目に、海岸線に寄り添う道へ飛び出す。

 走りながら周囲へ視線を這わせ、少女の姿を探した。おそらく、この老いた記憶よりもずっと大きくなった姿を。

 だがわかる。わからいでか。誰を忘れても、あの娘子を見間違えるものかよ。

 

「っ! えぇい……!」

 

 舌打ち、そして苛立ちの呻きが喉から溢れる。止め処なく。

 焦燥、焦燥、全身を焼くこの、悪寒。

 ────犯人(ホシ)は狙ってか偶然にか、山間から麓まで、兎角山野森林の色濃いキャンプ地を襲った。人目が無く逃走が容易であるから。当然警察もその辺りに対する警邏巡回を強化したろう。二件目から三件目に掛けてのインターバルの長さ、長野くんだりまで足を伸ばしやがったのもそれが所以。

 その意表を衝くなら(ここ)だ。

 単純計算、短絡思考、その極み。だが、どうしてそれを笑えよう。その可能性、切って捨ててしまえる。

 地を踏む蹴り脚は一歩毎に鋭さを増した。疾走する。

 身に纏い付く潮騒を引き裂いて、走る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 海沿いの霊園を横目に過ぎて、もう暫く走るとそこにはテトラポットで区切られた小さな海岸があった。区切ったといっても、別に土地を切り分けてこうなったという訳ではないのだろう。

 白波が、もっと白い砂浜で寄せて返す。堤防もない。海水浴客用の建屋もない。真っ新な浜辺、海。まるでプライベートビーチのような光景だった。

 

「おお……あ」

 

 進行方向の果て、海岸の終わり、暗闇の中にぽつりと灯りが見える。

 公衆トイレだった。運がいい。なんてったって……漏れそうだったから。

 サイトを出る時に済ませておけばよかったと気付いたのは出発した後のこと。無計画過ぎる。それも旅の醍醐味とか関係なしの、ただの考え無しに。

 とにもかくにも原付を停めて、そそくさとトイレに入った。

 その時、不意に。

 

「……?」

 

 近付いてくるバイクの音を聞いた。

 

 

 数分もせず小用を済ませて、洗った手をハンカチで拭う。癖というか、ルーティンというか、ポケットからスマホを取り出し電源ボタンを押し……押しても画面が明転しないことに気が付いた。当然だ。電源自体を落としているんだから。

 

「ぁ……」

 

 どうして電源を切ったのだったろうかと記憶が一日を遡りその瞬間──どっ、と全身から冷や汗が吹き出した。

 自分は置手紙になんと書いた。一体どれほどの時間、着信を無視し続けていたのか。

 震える手で、電源を長押しし端末を起動する。機種のロゴと読み込み中を示す光の回転グラフィックが実にじれったい。でも半ば、このまま点かないで欲しいとも思った。いやわりと本気で願った。

 ホーム画面が表れた瞬間、スマホが震え上がる。

 

「のぉっ!」

 

 もちろんそれは普段通りのバイブレーションなのだけれど、そこになにか母の烈火の怒りを感じた。後ろめたさが見せる錯覚である。

 

「あ」

 

 錯覚でも恐いものは恐い。思わず、スマホを手元から取り落としてしまった。

 反射的に、落ちるスマホを追って上体を屈む。

 

 ぶおん

 

 風切り。

 それは音。そして、今度こそ錯覚ではなく現実の。

 

「──へ?」

 

 後頭部を素早く、何かが過った。そういう感触。そうとしか言えない。髪に僅かな乱れを覚えた。

 振り返る。そこに。

 

 

 ────黒い影が立っていた。

 

 

 影は人の形をしていた。違う。影は人だ。

 トイレの薄暗い蛍光灯、日暮れ直後の深い暗闇。そんな中で、その人は黒いコートを着ているものだから、人型の影のように輪郭がぼやけてしまう。

 膝丈のコート、すっぽりとフードを被っている。そのフードの下の穴に、顔が無い。どうしてか見えない。

 常識で考えれば、覆面か何かしているから、表情もなにも見て取れないだけなのだろう。だのに、自分には、フードの下に空いた洞穴が、どこまでもどこまでも底無しに暗黒へ、この世でないどこかへと繋がっているように。

 そんな風に見えた。

 左手で鈍く、蛍光灯に照らされ光沢を放つものが握られている。金槌だった。

 思い至る。そうか、さっきはそれで、私は殴られそうになったのだ。緩慢な理解がミルクのように脳を満たす。どこまでもゆっくりと。

 そして、その右手に。

 それは自ら発光して見えた。それもまたそう見えるだけだ。自分がそう()()()()だけだ。

 だって。

 だって。

 あんまりにも、おそろしいから。その。

 その大鉈が。

 自分が普段使う薪を切る為のものと、全然違う。あまりに違う。

 長くて、大きくて、分厚くて、鋭い。漫画に出てくる剣のようだ。枝どころか、人の腕だって切ってしまえそうだ。

 

 ────犯人は大振りな、山刀と呼ばれる刃物を使っていると見られ

 

 聞き流しにしていたニュースキャスターの言葉を思い出す。

 犯人は、山刀を。

 犯人。通り魔。

 キャンパー切り裂き魔。

 私の前に、切り裂き魔が立っている。

 切り裂き魔が──山刀を振り上げた。

 何も考えていなかった。考えることなんてできなかった。ただ無意識に、腕で顔を庇った。防御しようなんて意図じゃない、ただの反射。

 足はばたばたと、ただひたすら後ろへ後ろへと下がった。縁石に踵をぶつけて尻餅をつく。

 空気を一際鋭く甲高く、引き裂く音色。さっきとはまるで違う、痛い音。音がもう痛かった。

 そして、腕が熱い。

 左腕がかっと、焚火の火を直に浴びたように熱かった。

 

「はっ、はぁ、はぁっ、ひ、は、はぁ、はっ、あ、ぁ、ひ、ぃ、い……!」

 

 声は出なかった。叫ぶこともできない。喉からは下手くそな縦笛みたいな息が漏れ出るだけ。

 呼吸すらままならない。息ができない。

 恐くて、体が竦む。恐くて立てない。恐くて動けない。何も、何もできない。

 黒い影が来る。一歩、一歩、こちらに近付いてくる。

 恐い。恐いよ。恐いよ。

 いやだ。恐い。助けて。恐い。誰か。誰か。

 お母さん、お父さん。

 助けて、おじいちゃん。

 

 助けて────じん爺

 

 夜空に、刃が閃いた。

 私は目を閉じ、息を止めた。

 

 

「おいッ!!!」

 

 

 体が震え上がる。その音のあまりの強さに。音が現実の衝撃になって私の体を叩いた。

 さっきの鋭くて、無機質な音とは違う。それはもっと破壊的なものだ。それはどこまでも熱を持っている。感情そのものを音にして放ったような烈しさで。

 震えたのは黒い影の方も同じだった。弾けたように声の出所に振り返る。

 足音。地面を削り飛ばすような勢いで、その人は来た。

 青いウインドブレーカー、暗がりを裂くような、目の醒めるような青が。

 黒い影がまた、動く。金槌だ。走り寄ってくるその人に一息で、釘でも打つみたいに上から叩き付けた。

 

 かしゅん

 

 青い誰かの、その右手が振るわれる。そんな軽い音を立てて、それはまるで手の中から突然現れたみたいに。

 金属の棒が伸びて、下から掬い上げる。金槌を。

 弾き飛ばした。

 金槌が宙を泳ぐ。夜空を回転するそれはスローモーションのように鮮明で、どこか間が抜けてた。

 影は、動揺した。驚きに肩を跳ねさせて、後退る。影に、初めて人間らしい所作を見た。

 青い人、何故か驚いてしまうほど幼い顔が私を見た。どう見ても同い年くらいの少年。少年にしか見えない。

 その人の眼が、不思議だった。

 そこにはたくさんの色があった。驚いて、戸惑って、ほんの一瞬だけ和らいだ。感情という色があんまりにもたくさん混ざり過ぎて、元の色をわからなくしてる。

 でも、何故か。一つだけ、わかる。どうしてそんなことを思ったのか自分でもわからない。意味不明だった。けど、確かに。

 ────私はこの人に愛されてる。

 少年の眼が前を向く。一瞬の優しさは消えてなくなって、そこにあるのは一つだけ。

 

「やりやがったな」

 

 それは前に、その影に向けられていた。

 山刀を持った切り裂き魔を睨み付けて、その人は、腹の底から火を噴くように。

 

「おのれぇッッ……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒コート、手に山刀。打ち飛ばした金槌。揃った。確定だ。現行犯である。

 眼前に立つものこそはこの巷間を騒がせし切り裂き魔。探し求めた唯一の手掛かり。

 そんなことはどうでもいい。

 今すぐに縄をくれてやる。

 手心なく、容赦せず、断じて許さん。

 傍らのへたり込んだ少女の左腕に走った裂傷から、赤いものが滲んでいた。

 

「得物を捨ててそこに直れ。二度は言わん」

 

 三段伸縮式特殊警棒の尖端を向け、言い放つ。

 切り裂き魔はしかし、動かず。こちらの意図を汲み逃したなどという言い訳は聞かぬ。

 踏み込む。

 一撃で済む。凶器を握るその右手首を粉砕し、警棒で腕を絡めそのまま引き倒す。

 これらは一挙に能う。

 一呼吸の間で、終わらせてくれる。

 踏鳴の足下が地を打ち抜く。上段、対手の構えもままらぬ内に、その手首を外側から────

 

 ────視界が、色を失くす。

 

「!?」

 

 遠ざかる。全てが。視覚から聴覚、嗅覚、味覚、触覚すら。

 全てが消えてなくなる。

 それを理解できぬ。この現象。この不調。しかし確実に言えることが一つ。

 この打ち込みは────仕損じる。

 それでも警棒は命中した。対手の右手首を打った。しかし浅い。あまりにも。凶器を取り落とさせることすらできぬ。

 

「っ」

 

 舌打ちして、さらに前進。この儀、この上、逃すものか。

 肉体が満足にこちらの命令を聞けぬと言うなら、相手の体を掴み、組み伏せ、己が身を重石として捕える。

 それでいい。それで、万事は解決へ。

 その時、影が、打たれた右手を振るった。不十分な威力とはいえ、相応の痛みと傷みを負ったそんな腕では、それこそ凶器など満足に振るえまい。

 しかし、敵は凶器を振るったのではなかった。

 投げたのだ。

 あろうことか、背後の少女目掛けて。

 

「戯けろッ!!」

 

 転身、時計回りに体軸を回す。

 刃は己の左肩を逸れ、行き過ぎようとしている。

 それを、警棒で迎え打つ。バットの左打ちの要領で叩き飛ばす。

 山刀は空中を高速回転した後、落下して少女のすぐ背後、地面へ突き刺さった。

 それを認め、安堵を噛む暇もない。

 振り返った時、その黒コート姿はトイレの真裏から飛び出してきた。

 赤い車体が咆哮する。それはオフロードバイクだった。

 バイクは脇道を抜けて走り去っていった。後塵を拝するというならせめて、と目を凝らす。しかしナンバープレートにもしっかりと覆いがされていた。

 エンジン音が遠ざかる。それをただ、己は見送るよりなかった。

 

「……間抜け」

 

 悪態で己が身を打つ。それ以外にやり様もなかった。

 そして今、この時、真にすべきことはそんな自己満足ではない。

 踵を返して、未だに地面に座り込んだ少女のもとへ。

 

「大丈夫かい」

「へ……ぁ、は、はい……」

 

 呆然と、少女の応えは鈍かった。この状況の、全てが未だに咀嚼できていないのだ。無理もなかった。

 

「腕、見せてくれるかい?」

「……」

「ありがとう」

 

 言われるがまま、緩慢な動作で左腕が差し出される。

 ダウンコートと肌着、その下の重ね着も手伝って傷は予想より浅い。またしても吐き出しそうになる安堵の気息を飲み下し、ポケットからハンドタオルを取り出す。

 

「こいつで傷口を押さえるんだ。服の上からでいい。痛ぇかもしれねぇが我慢してくれ」

「は、ぃ」

「……」

 

 言われた通りに少女は動く。こちらの言葉を理解はしている。

 だが、心はまだ凍り付いたままだ。凍らせねば耐えられなかったろう。

 害される恐怖など、この娘に、味わわせてしまった。

 

「……今、おじいちゃんを呼ぶからな」

「……おじい、ちゃん……? どうし、て」

「うん? 俺達ゃちょっとした……友達なのさ」

 

 携帯端末で新の字を呼び出す。

 呼び出し音もそこそこに、新城へ端的な現状と、場所を伝えた。

 

『リンは!? 無事なんだな!?』

「命に別状はねぇ。病院へはお前さんが連れてってやれ。俺は現場で警察を待つ……新の字」

 

 そうして通話を切る直前。

 

「……すまねぇ」

『……お前の所為じゃない』

 

 噛み締めるように新城は言った。

 返すべき言葉などなかった。通話を終える。

 次に警察への通報を済ませてしまえば、後は待つしかない。

 傍らで縮こまる少女の、その華奢な肩に脱いだ上着を掛けた。全身を細かに伝う震え。底冷えする恐怖に、少女はただ俯いた。

 

「……」

 

 その姿が、痛ましい。労しい。

 己は今ようやく、望外の、在り得ぬ奇跡の価値を知った。もはや見ることなどできない筈だった、その姿。成長したこの娘子の姿を、遂に望むことが叶ったというのに。

 こんな、こんな、憐れな。

 

「……すまんかったな」

「……」

 

 ぼんやりとして、少女は己を見上げた。

 その顔に笑みを向ける。間違いなく不格好な、下手糞な笑みを。自己の痛みすら隠し果せぬ、笑み。

 

「恐かったろう……痛かったろう……可哀想になぁ……すまねぇなぁ。すまねぇ……」

「ぁ……」

 

 そっとその頭を撫でる。うっかりと潰してしまうのではないかと思うほど小さな。そして繊細な感触の髪を。

 労しかった。

 

「っ、あ……ぅ……っ、うぁ……」

 

 少女はしゃくり上げ、その大きな目を涙で一杯にした。

 凍っていたものが溢れ出る。ようやく、ようやくに。

 

「あぁっ、あぁぁあああッッ! っ! うぅ、ぁああぁあ!」

 

 泣き声を上げて胸に縋る少女の、細い背中を擦る。

 夜闇に響くその声はひたすらに、己の胸を衝いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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12話 人の親たる

前半が苦過ぎたので後半は甘酸っぱい感じに仕上げ、られたらいいなぁ(遠い夢)
え、ラブコメってどうやって書くの……?


 

 

 あの男の病室を訪ねるとき、いつもそれを嗅いでいた。

 

 

 病院の救急外来に人気はなかった。受付に向かって待ち合いの為のシートがずらりと並んでいるが、座っているのは自分一人。

 時折、廊下の先の丁字路を忙しなく看護師の白い姿が横切った。遠く切れ切れに響く音が、話し声なのか医療器具の震動なのか、それとももっと別の……何れにせよ、わからない。

 しかし、わかることも一つ。

 この消毒液と各種薬品臭には馴染みがある。不二崎が入院していた山梨県立総合病院も、自身が掛かり付ける個人医院も、どの病院であっても、この臭いの本質は変わらない。

 死。

 潔癖の極みのようなこの白い空間には、その中心に、血の滴めいて眼にも痛ましいそんなものが静止している。

 勿論、それは目に見えず、聞こえず、触れられもしない。

 ただ、臭い立つのだ。死の香とは。鼻腔から脳幹を直に撫で付ける粘性を持った気体、のようなもの。

 齢を数えるほど五感は次々に衰えていくというのに、この臭いはより一層なお色濃く芳醇に強く、強く。この身に親しむ。

 それは、きっと正しい。老いとはそういうものだ。そう在るべきものだ。

 いつか来るその時を、心静かに待てばいい。

 しかし、これは。

 これは駄目だ。在ってはならない。在ってよい筈がない。

 老い先も数えるほどの自分ではなく、何故。何の罪も咎もないあの娘が、何故。

 あの娘が、この香の中にいる。その事実に、自身は戦慄する。

 無窮の恐怖を覚えた。

 病気や事故、天命とやらがもたらす出来事ならばまだ、諦めもつく。覚悟も負えよう。

 しかしこれは。こんな。人災に。まるで煮えた泥のような悪意にあの娘が曝されるなど。

 握った拳が震える。怒りと憎しみ、そして……恐れが。

 大切なものが傷つけられてしまった。その事実が全身を震撼させる。何度でも。

 

「……」

「新の字」

「!」

 

 忘我の境に差し込まれる声。はっとして上げたその面前に、少年が佇んでいた。

 少年の、薙原哲也の姿をした────

 

「不二崎……来ていたのか」

「今し方な。こってり絞られたよ」

 

 口の端を上げ、肩を竦める。

 不二崎はそのまま三人掛けのシートの端に腰掛けた。

 

「リンちゃんの容態はどうだった」

「お前の見立ての通り、軽い切り傷だ。きちんと養生すれば痕も残らないと医者は言っていた」

「……そうか」

 

 男は音もなく吐息する。肺腑に蟠っていたものを少しずつ注意深く切り分けて取り除くように。

 軽々に安堵を噛もうとしない。それは、この男なりの自戒……自罰なのかもしれない。

 

「まず真っ先にお前さんを呼び出したなぁ我ながら巧い手配りだった。救急なんて目じゃねぇ速さだ」

「褒められたことではない」

「あと警棒だ。ありゃお前さんに預けて正解だったぜ。あんなもん見咎められた日にゃ今頃も俺ぁ警察署で足止めだったろうよ」

「それに関しては、むしろその方がよかったかもしれん」

「勘弁しろぃ。この齢で懇々説教喰らう身にもなれってんだ」

 

 言って、辟易と椅子の背もたれに沈む。まるきり非行少年の有様だ。

 

「……通報から五分で緊急配備が布かれたらしいが、取り逃がした」

「……」

 

 安堵の代わりとばかりに不二崎は胆を嘗め、苦汁を噛み締めて飲み下した。歪む面相、尖る眼光。男は憤怒していた。

 ごりごりと奥歯から軋みが上がる。握り固められた拳は血流が滞り色を変えた。

 

「……」

「凶器は押収された。標的を殴打する為の金槌、そして例の山刀だ。二ヶ月掛けてようやく物証が出てきた訳だ。もしかすりゃ物から足がつくかもしれん」

「……逮捕も、時間の問題か」

「ああ。認めたかねぇが、今までは間違いなく犯人に天運があった。警察は後手後手、出る筈の証拠が出ず、被害者の一人に至っては犯人に助勢したかもしれねぇときた。が……それもこれまでよ」

 

 不二崎は言う。己自身を詰り、そう言い聞かせ、吼えるように。

 

「……なんてな。もし俺が本部長張るとなったら、こう言って面子を鼓舞したかもしれねぇ」

「……ふ」

 

 冗談めかしな言い様に、一吹き分笑う。

 

「となれば、急がねばなるまい」

「……なに」

 

 続け様に不二崎は言った。当然の、それは決心に対する再確認行為

 この男は、まだ。

 

「警察が犯人を確保するより先に見付け出し、今度こそ捕らえてくれる」

「お前は」

「なぁに当てがねぇ訳じゃねぇ。こいつはまだ推測の域を出ねぇことだが、第一の事件の被害者ってぇのはもしかすりゃ……」

「お前はまだ、続けるつもりなのか」

 

 僅かに見開かれた目がこちらを捉える。意表外、そんな顔で。

 

「当たりめぇだ。俺達の目的を忘れたかよ。この体を元の持ち主に、哲也に返してやるんだろうが。その為にゃ、この切り裂き魔と差し向かう必要がある。どうしたってな」

「……その果てにどうなる」

「おい……何が言いてぇ」

「お前は、どうなる」

「どうもこうも、元通りさ」

「死ぬというのか」

「死んだんだよ、とっくの昔に。不二崎甚三郎なんてぇ爺は」

「それに………………何の意味がある」

「────」

 

 今度こそ、不二崎は絶句した。

 そして次の刹那に、その眼は猛禽の鋭さに変わる。

 

「新の字……てめぇ妙なことを抜かす気じゃあねぇだろうな」

「お前こそ。元に戻る、体を返すと軽々しく言うが、それが叶う保証がどこにある」

「保証なんてもんは初めっからどこにもありゃしねぇよ。まるっきり手探りだ。だがやらねぇ訳にいくか」

「切り裂き魔に会えば、哲也くんが戻るとでも言うのか」

「わからん」

「哲也くんが……生きているという保証は、あるのか」

「……」

 

 証、証、それを見せろとこの口は宣う。そんなものがどこにもありはしないと知りながら。

 知りながら、それでも私は難題を無責任に押し付けた。隣り合うその、少年の姿をした友に。

 あるいは……あるいは別の道も、と。

 

「仮に……その体の中でまだ、薙原哲也という少年の精神が眠っているなら、それこそ待てばいい。切り裂き魔なんてものは警察に投げろ。犯罪者を逮捕するのが警察の仕事だ。職務だ。時間の問題と言うなら、それで……時間に、任せてしまえばいい。それが何かの病なら、自然に治癒するかもしれない。ある日、突然に……ある日突然にお前が、不二崎甚三郎が宿ってしまったように、彼も戻ってくるかもしれない」

「……」

「お前は言ったな。これは神か天魔の仕業だと。人間の手では届かない奈辺の意思だと。なら……それは奇跡だ」

 

 欺瞞。虚言。空言。理解する。自身の口にするそれらの、意味。魂胆を。

 

「生き返ったとは、思えないか。第二の人生を与えられたとは……!」

 

 恥を知らない。厚顔なる言い様。

 それを圧して、それでも私は。私は。

 

「……生きてるさ。生きてるじゃあねぇか、この通り」

「…………」

 

 ふ、とその表情が和らぐ。先程までの猛々しさは消え失せ、代わりに表出したのは、私を見るその目は。

 憐れみと労りと、そして、どうしてか、想像外のその──羨望。

 不二崎は息を吐いた。それは得心の気息。奴は笑みを浮かべた。いつか見たことがある。いつだってそれに驚かされた。穏やかで、ひどく老獪なその貌に。

 

「そうか。そうだな。切り裂き魔、傷害犯、そうとも。そんなものは警察の仕事だ。警察が自負する責務だ。本当なら関わり合いになんざなっちゃいけねぇ。ただの素人(トーシロ)風情が、訳知り顔で横から嘴挿んでいい筈がねぇ。真っ当な人間は、そうでなきゃいけねぇ」

「……」

「真っ当に、お前さんはもう立派な、人の親だもんなぁ」

「!」

「けっ、その上可愛い孫娘までいやがる」

 

 さも羨ましげに不二崎は言った。

 見通されていた。奴は、この胸の内にあるものを知っている。

 この恐怖を、理解している。

 

「そうだそうだ。己が吐いた科白じゃあねぇか。お前さんには帰る家も、家族も、あるんだ」

「っ」

「失うもんが多すぎらぁ。無理もねぇ。それでどうして無茶が出来る。切り裂き魔なんて糞くだらねぇヤマとどうして関り合いにならなくっちゃあいけねぇ。そんな道理は、どこにもねぇさ」

 

 とても、とても晴れやかに不二崎は笑う。解悟へと至った僧侶の在り様で。

 

「引き際だ、新の字。お前さんはここで落伍だ」

「私はっ……」

「……真っ当な親として、家族を守ってやりな。かっかっ、子無し寡男の言えた義理じゃねぇか? ハハハハハハッ」

 

 気後れを自嘲と笑みで覆い隠して、軽やかな皮肉を最後に奴は立ち上がる。

 

「だがな新の字。一コだけ、てめぇは間違えてやがる」

 

 静謐な目が私を見下ろす。

 責めるでもない。嘲るでもない。それは諌めと、優しさだった。

 

「哲也の祖父さんと祖母さんは、今も孫の帰りを待ってんだ」

「っ! ……あぁ……」

「やらねばならん。たとえ誰が諦めようとも、己だけは断じてやらねば、ならんのだ」

 

 男が踵を返す。踏み出し進む。それは驚くほど、迷いない足取りで。

 その先に死が待ち受けていることを知っている。死出の旅路を踏み越えて、それでも奴は、迷わない。

 遺される者にすら顧みず。

 

「待て……待て、不二崎」

 

 遠ざかる背中は、もはや振り返らなかった。

 

「不二崎!」

「父さん?」

「っ!」

 

 呼び声に思わず目をやると、廊下の向こうから咲が、そして渉くんとリンが来ていた。

 戸惑いの目でこちら見て。

 

「今、不二崎って……」

 

 その問いに満足な返答をしかねた。

 半ば逃げの体で再び前を行く男を見る。

 きっと聞こえていた筈だ。それでも奴は立ち止まらない。

 暖かなものに背を向けて、また奴は独り去ってゆくつもりだ。 

 そのままゆかせてはならないと、頭でわかっているというのに、この足は縫い留められたかの如く動かない。踏み出せない。

 正面玄関をあっさりと抜けて、奴の背中は扉の向こうへ消えた。

 独り、消えて逝く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どんな事件が身の回りを掻き乱そうと、日々の暮らし向きというやつは一度期の待ったすら許してはくれない。日常は今日とても留まることなく始まる。

 薙原の祖父母には多大な心労を強いたことだろう。孫が通り魔の矢面に自ら赴いたなどと知って、その心の喧騒如何ばかりか。

 それでも、彼らはどこまでも暖かに哲也を迎え、その無事な姿を心から喜んだ。

 本来、それに浴さねばならぬ少年を差し置いて。

 

 

 警察からの聴取は既に済んでいる。

 事件当夜、任意で所轄署へと同行した己は無論のこと、当の被害者たるリンちゃんはおそらく病院に押し掛けた捜査員が、無遠慮に根掘り葉掘りと。

 碌な進展も見せられない連続通り魔事件にようやく確たる物証と目撃者が表れた。なるほどなればこそ、警察は涎を垂らしてその真偽追窮に心血を注ぐだろう。

 

 

 週を明けて月曜日。

 登校早々、己と、そしてリンちゃんは、校内応接室へ呼び出しを喰らった。

 待ち受けていたのは二人組の刑事と一名の婦人警官。二度目の事情聴取であった。

 ガラス机を挟み、ソファで差し向かう。

 

「やっぱり、犯人の顔は思い出せませんか? 志摩さん」

「すみません……暗くて、よく見えなくて。フードもあったし。それに……っ……ごめんなさい」

 

 右隣に座る少女。その小さな肩が一瞬、ひくりと震えた。

 なお問いを重ねようとする若い刑事の言に割り込む。

 

「覆面か、かなり大きなマスクのようなものを被っていた。暗がりに便所の薄汚れた蛍光灯で、黒子紛いの人相まで見抜けなんて仰せはちょいと無理難題じゃあねぇですかい」

「そ、そうか。そうだったね。じゃあ、えっと、薙原くんはどうかな。何か新たに思い出したこととかないですか?」

「さて、先夜お話した以上のこたぁ一向に……赤いオフロードバイクってなぁなかなか目立ちそうなもんですが、通り掛かりに目撃した人はいらっしゃらなかったんでしょうかねぇ?」

「それが皆目。高速でも使ってくれればNシステムで一発だったろうけど、一般道、それも小路を使ったみたいで。どうも、かなりバイクの扱いに長けた人物らしい。でもそれにしたって、まるで幽霊みたいに消えちゃって僕らもビックリ」

「ん゛んっ、おい」

 

 壮年の刑事が露骨な咳を吐き、ぎろりと横目で睨みを呉れる。若い方は途端に縮み上がった。

 

「ひっ……あ、あはははは! す、すみません。捜査情報ですので」

「いえいえこちらこそ、立ち入ったことをお訊ねしちまった」

 

 渇いた笑いに笑みで応える。己がもしまだ壮年の方の立場なら、この場で怒鳴り散らしていたろう。

 とはいえ口の軽い輩は、今ばかりは大歓迎だ。若い方から受け取った名刺は大事にブレザーの内ポケットへ仕舞っておいた。

 

「なんでも、どんな些細なことでもいいので。何か気付いたことがあったら連絡してください」

「何かあったらまず警察に通報しなさい。いいね?」

 

 壮年刑事は終始、己の方を睨みながらに言った。いや人相が凶悪ゆえに睨んだような目つきになっているだけか。

 他人の事を言えた義理ではないが。

 

「肝に命じておきやしょう」

「……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 応接室を後に廊下を歩く。

 期せず、この娘子を伴いながらに。

 学年は同じで教室は同じ校舎の同じ階に並んでいるのだから、行く先はほぼ同じ。連れ立って歩くになんの不思議もない。

 その、ない筈の不可思議を覚えている。強かに、胸を衝くほどに。

 

「……」

「……」

「傷の具合はどうだい」

「えっ、う、うん。大丈夫、だよ。もうそんなに痛くない」

「そうかい……そうかい」

「……」

 

 我ながら滲み出すような声だった。

 一体、どの分際で。

 娘の左手に目やって、胸中に呟く。

 

「……薙、原くん」

「うん? なんだい」

「あの、あの……ありがとう。助けてくれて」

「……」

「お礼、言えてなかったから」

 

 礼など受ける資格はない。それがあると嘯くなら何故、この娘は傷を負っている。あんな恐怖を目の当たりにさせられる。

 凍え悴むように震える体、嗚咽、熱い涙、涙、涙────瞼の裏にはそればかりが焼き付いていた。

 それでも気丈に、あるいは当然の礼儀を払う。咲ちゃんと渉くんは本当に良い親御であった。返す返すにそう思う。

 

「いい子だなぁ、お前さんは」

「へ、そ、そう、ですか……」

「ああ、いい子だ。本当に……いい子だ」

 

 変わらず。あの頃とちっとも変わらない。良い子に、育ってくれた。

 それがどうにも、嬉しくて堪らないのだ。

 気付けばそっと、その小さな頭を撫でていた。

 

「ふぇっ」

「おっと」

 

 ぱっと片手を上げる。

 瞬く目が、くりくりとした大きな瞳が己を見上げている。戸惑いと驚きの色味。

 親しくもない男が気安く触れてきたのだ然もあろう。……場合によっては通報事案である。

 そして幸か不幸か折も良く間も悪く、敷地内では未だ刑事と婦人警官が帰り支度の最中だ。

 なるほど、絶体絶命とはこのことか。

 

「短ぇ余生だったな」

「あ、諦めが早い……」

 

 軽口は置くにしても、その場で頭を垂れた。

 

「相すまん。御寛恕賜りたく存ずるが」

「い、いいよ! そんな、謝らなくても。ちょっとびっくりしただけで、気にしてなんて……」

 

 ふと、俯きに言が途切れる。

 

「どうした? やっぱり胸が悪くなったかい」

「ち、違うよ……違う、けど……わかんない。なんで、こんなに……うぅ、わかんない……!」

「?」

 

 異なることを口にして、少女の顔はさらに下を向く。もはやどのような顔をしているのかさえ。

 

「……ぃ、やじゃ……ぃです」

「? なんと言ったかな。よく」

「イヤじゃ、ないから……」

 

 切れ切れに、語尾は掠れて消えゆくほど小さな囁き声。それをどうにか耳孔に捉える。

 一拍か二拍か、冷えた廊下に降る静けさ。

 それにまさしく耐えかねて、娘は顔を上げ、己を見上げた。

 

「わかんないの! ……自分でもわかんないんだってばぁ……!」

「おぉ、どうどう」

「ふぐぅぅ……」

 

 小動物の威嚇染みて、それは実に迫力に欠け、愛嬌に溢れていた。

 わからぬと嘆く娘の様子に、しかし生憎こちらとて納得の行く答えを与えてはやれぬ。

 ……あるいは。

 何かを、思い出して、懐かしんでくれたのなら。

 それは無上の幸福なのだが。まさか、言えまい。その昔、この手を甚く気に入ってくれた娘子がいたのだなどと、どうして言えよう。

 どうして、言えよう。

 

「……はっ、未練だぜ」

「え……?」

 

 その髪を梳り、流し、撫でる。昔日の思い出の中でそうしたように。その記憶ばかりは光るようだった。

 ぴくりと震え、惑いを映したその瞳が閉じられる。娘は黙して、この手を受け入れてくれた。

 

「っ……わかんない。どうして……」

「……」

「どうしてこんなに、懐かしいの……」

 

 瞼が開く。光の揺らぐ大きな瞳が己を見上げる。その光輝に誰かを映して。とうの昔、遥か過去に消えて去った誰かを。

 

「あなたは、誰……?」

 

 過去を映すは己とても同じ。己が眼に現れたのは、あの日の幼子。告げられた別離(わかれ)の意味など理解できず、ただ泣きじゃくる幼子。

 

「リンちゃーん!」

「!」

「え」

 

 不意に、溌溂とした声が廊下を木霊した。

 溌溂などと。いやさその声音は胸一杯の心配を形にしたかのような響き。軽快な、複数の足音に振り返る。

 廊下の向こうにまず見えたのは、豊かにそよぐ撫子色だった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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13話 徒惚れの話

これぞまさしく箸休めの回。
おじいちゃん同士の会話ならなんぼでも書けるのに女の子の会話が五時間悩んでも一向に書けないバグ。
ワイかてもっとキャッキャウフフしたやつ書きたいんや! 書きたいんや……。




 

 

 先頭を駆けてきた撫子色の髪の少女は、一も二もなくリンちゃんに飛び付いた。

 

「リンちゃんリンちゃんリぃンちゃん!」

「うわ、わ、わ、ちょ、な、なでしこ!?」

「リンちゃぁぁあん!!」

 

 その身を固く抱き締めて、涙声で少女はリンちゃんを繰り返した。ぐずくずと(はな)を啜り、わなわなと声は震え、なんと言ったものか、えらく水っぽい有り様で。

 

「うえぇ! ひぐ、ぐすっ、リンぢゃんが、どおりま゙にあったっで……! 怪我したっでぎいでぇぇぇ……!!」

「う、うん、うん。大丈夫だよ。私はこの通り大丈夫。心配かけてごめん、なでしこ」

「ふぎゅっ、うぅ、う、リンちゃん、会えてよかった……! また会えたっ……!」

「うん、私も嬉しいよ」

「よがったぁ……!」

「あぁ、だからもうっ……っ! 泣くなったらぁ……!」

「よ゙がったよぉ~!!」

 

 穏やかだった話し振りも、相好も脆く崩れる。泣きじゃくる娘っ子にリンちゃんは根負けしたらしい。

 それは見事な貰い泣きであった。

 

「リンッ!」

「リンちゃん!」

「リン!」

 

 するとそこへまたしても、今度は三者三様に呼ばわる声。

 千明にあおいちゃん、そしてもう一人。こざっぱりとした黒髪の少女は初顔だ。

 駆け寄ってきた三人もまた、その勢いでリンちゃんを取り囲む。今まさにその安否を確かめるかのように。確かめずには置けない。そんな焦燥。

 

「大丈夫なのか!? 怪我ってどんな具合なんだ!?」

「リンちゃんっ、あぁもぉ恐かったやろ……ホンマ、大変やったねぇ……!」

「っ……ぅ、っ、ぁ……! リンっ……!」

 

 黒髪の少女は声を詰まらせ、撫子髪の子と共にリンちゃんに縋り付いた。喜び、悲しみ、同情、恐れ、暗雲のような不安が今ようやくに晴れ間を見せた。その安堵。どれほどに深く、重かろう。

 リンちゃんは自身を取り巻いた泣き顔の友人らをその涙目で順に見返し、笑みを浮かべた。唇の震えを堪え、しゃくる喉を叱咤して。

 

「心配かけてごめん。怪我は大したことないし、本当にもう大丈夫。みんな……ありがとう」

 

 娘子のその気丈さに己は瞑目する。

 また一つ、暖かなものを見られた。一時の、此度の神憑りの我が転生(てんしょう)は傍迷惑この上ないが、土産にだけは事欠かぬ。

 良き友人に囲まれたリンちゃんの姿を、胸奥深くの魂とやらに焼き付けた。

 これで十分。いやさ十二分よ。

 

「あんっ、待ってぇな薙原くん!」

 

 そそくさ歩き出した己の背に声を掛けたのはあおいちゃんだった。それだけに留まらず、腕を掴みその場に引き留める念の入れよう。

 制止というより、逃がしてなるものか! といった風情を覚えた。

 

「もぉ、なんで行ってまうのん」

「おいおい堪忍しとくれ。場違い者ぁとっとと退散させていただきますからよぅ」

「えぇなんでぇな。場違いなんかやあらへんよぉ」

「いや、最初に話聞いたときからなんかそんな気はしてたけどさ……やっぱ薙原かーい!」

 

 こちらの鼻面に指を差して千明が大仰な見栄を切る。

 

「人に指を差すんじゃあねぇよ行儀の悪ぃ」

「あ、すんません」

「とはいえ、勘働きは冴えてたな。大の字」

「じゃあやっぱり薙原くんがリンちゃんのこと助けてくれたんや」

「んな恩着せがましいこっちゃねぇさ。偶々通り掛かった己に、泡食った下手人が尻尾巻いて逃げてったってだけの話だ。なぁリンちゃん?」

「……」

「えっ、えっと……」

 

 己がそのように呼ばわり見やれば自然、千明らもリンちゃんを見る。

 片目を瞑った己の笑みに、娘は逡巡もそこそこに頷いた。実に物分かりの良いこと。

 

「うん……そんな感じ」

「……」

「なーんだ。あたしはてっきり薙原が前のストーカーの時みたいに通り魔まで追っ払ったかと思ったぜー」

「ぐすんっ、ストーカー……?」

「え、なになに。なんかあったのアキちゃん」

「あっ」

 

 撫子髪ちゃんと黒髪ちゃんが泣き腫らしの目できょとんと千明を見上げる。

 あおいちゃんは無言で千明の首に腕を絡め、裸絞め(チョーク)を極めた。二秒を待たずタップが入るが、あおいちゃんは聞く耳を持たなかった。

 

「ぶへはぁっっ!! はぁっ、ひぃ、ふぅ、はぁ……!」

「なにはともあれ、リンちゃんが無事でよかったわぁ!」

「お、おう」

 

 息も絶え絶えの千明を放り捨てて、あおいちゃんは晴れやかに笑った。

 ふと気付けば、撫子髪ちゃんがなにやらじっとこちらを見詰めている。

 それに小首を傾げて笑い掛けると、ぱっと灯りが点るような笑顔が返ってきた。

 

「あー! イチゴミルクの人だー!」

「そうだよ。飴ちゃんのおいちゃんだよ」

「イチゴ?」

「ミルク?」

「??」

 

 たったっと、軽やかに駆け寄ってきた娘子の大きな瞳が己を見上げてくる。新鮮な驚きと、意外な出来事に喜ぶ弾むような好奇心。懐っこい仔犬のようだ。その姿の後ろに、見えぬ筈の尻尾が左右に振れて見える気がする。

 

「お前さんもリンちゃんの友達だったんだなぁ。いやはや合縁奇縁。間違いなく良縁だ」

「えへへ~……各務原なでしこです! 同じC組、よろしくね!」

「あはは、じゃあ私も。斉藤恵那です。よろしくね、薙原くん」

「こちらこそ。薙原哲也、よろしくしてやってくれぃ」

「ごっほごほっ……は、はぁ、お、おし、お前ら、経緯はどうあれ、リンを助けてくれたことに変わりないんだ。薙原さんにちゃんとお礼言っとけ!」

 

 いやに鷹揚な言い様の千明にしかし三人は即応して、その場で御辞儀をした。

 

「「「「あぁりがとぉーございました~!」」」」

「小学生か」

「幼稚園生ってぇとこじゃねぇかな、ははは」

 

 賑々しいこと頑是無いほど。子らのはしゃぐ様ひたすらに快く。

 リンちゃんが今、幸せであることを重ね重ねに知った。

 そうして知らず、笑みなど浮かべている。

 

「……」

「……ん? なんだい、あおいちゃん」

 

 それを繁々と見られていた。あおいちゃんは実に注意深く、己の顔をつぶさに観察し、吟味している。

 はて、なにゆえにか。

 

「……リンちゃんと、薙原くんて、もしかして前から知り合いやったんかな?」

「え、それは……」

「いいや、今回の件が初対面だ」

 

 少なくとも()()()がこの娘と対面して言葉を交わしたのは、あの折が初。穏当な出会いとはお世辞にも言えまいが。

 小賢しい詭弁をさらりと吐いた己をしかし、偽りなく賢いあおいちゃんは信用しなかった。疑わしげな上目が己の顔を覗き込む。

 

「……ホンマに?」

「本当だとも。な? リンちゃん」

「うん、薙原くんとはクラスも違うし」

「ほら、また」

「?」

「“リンちゃん”て呼んどるもん!」

 

 重箱の隅に張り付いた胡麻でもほじり出すような、そうした目敏さがあった。

 きゅっと引き結んだ唇、頬を膨らませないのは年頃の少女なりの抵抗か羞恥か。さりとてその様は十分に幼気(いたいけ)だ。

 

「ハハハッ、俺ぁ誰彼構わず馴れ馴れしくっていけねぇや」

「そうだぞ。あたしなんて大の字だぞ」

「ビッグセンテンスちゃんはどうでもええねん」

「ビッグセンテンス!? また別の渾名が派生してんじゃねぇか! 微妙に長いし!」

「私ん時はイヌ子ちゃんやったのに……」

 

 ぽつりと呟きを一つ、あおいちゃんは俯いて床に落とす。やけに切なげな響きで。

 それを見て取って千明はにんまりと意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「オホホ、ご覧になって恵那さん。この子ったらヤキモチ焼いますわよヤキモチ」

「まあまあ本当ですわ。可愛いですねービッグセンテンスさん」

「あわわ、リ、リンちゃんどうしよう!? なんだかあおいちゃんがおこだよ!?」

「えぇっ!? わ、私に言われても」

 

 めいめい好き勝手に囃すやら慌てるやら。

 笑い掛けても、あおいちゃんのむくれ面は変わらない。誤魔化しは許さないとばかり。

 浮気の証拠を女房殿に掴まれた心境だ。

 

「己が勝手に呼んだのをこの子が許してくれたのさ。あおいちゃんがそうしてくれたのと同じだよぅ」

「さっき……」

「んん?」

「……リンちゃんの頭撫でとったやん」

 

 嘗て実際にそんな確証を突き付けられた経験は、幸いにしてないのだが。

 なるほど生きた心地はしない。

 特にこんな、灯火の如き純心は、枯れた老木には熱すぎる。

 

「あー、その、さ。ここって向こうの校舎からだと窓から丸見えでさ」

「うん、丸見えだったー」

「えへへ、リンちゃん、なんだか小っちゃい子みたいで可愛かったねぃ」

「ななななななっ!?」

 

 即座慌てふためいたのは己ではなくリンちゃんの方だった。

 

「ちがっ、別に、そんなっ、私と薙原くんは、そんなんじゃ!」

「いやこの粗忽者がな、ついつい気安くそういうことをやっちまう。いけねぇいけねぇ。女の子の御髪(おぐし)になんてまあ大それたこと。まさに打ち首獄門の科よ。やぁおそろしい! すまん、リンちゃん。御一同にもこの通り、お詫びいたすゆえ、お許しくだされ。平に平に」

 

 拝み手にへこへこと何度も頭を下げる。緋色法衣に大袈裟を着けたかの物言いを、胡散臭いと取るか不真面目と取るか。

 なでしこが不思議そうに唇に指を当てた。

 

「んー、そんなにダメかな。頭ぽんぽんするの」

「いやまー、人によるだろ」

「そうだねー。仲の良い男の子でも私はちょっとヤかな」

「ん~?」

「あ、なでしこ、もしかして薙原で想像してるか?」

「え、うん」

「そうじゃなくて、もっと別のやつ、クラスのよく知らない男子にやられたと思ってみ」

「…………あー、うーん、それはちょっと、イヤかなー。あははは……」

 

 女心の精妙微細なこと、うっかり手先を誤れば大火傷必定のおそるべきものよ。

 

「いやはや撫子髪ちゃんはお心が広くてらっしゃる」

「でへへ~、そうかな~」

「優しい子には飴ちゃんを進ぜよう」

「わーい!」

 

 少女は包みを開き、ころんころん口の中で転がす。

 一袋幾らのフルーツキャンディーをこうも旨そうに、幸せそうに頬張ってくれるとあらば、なるほど寄進のし甲斐というもの。

 

「私は、イヤちゃうよ……? 薙原くんやったら……」

「うん?」

「おぉーっとイヌ子選手ここで話題のインターセプトだ! どうですか今のボール確保は。解説の斉藤さん」

「そうですね。まず最初に頭撫でぇ……という流れを作った上で、自分にそれを引き戻すとても巧みな展開操作です。実況のビッグセンテンス・アキさん」

「んま~、んむ、薙原くん大人気だねぃ、リンちゃん」

「だ、だから私に言うなってば!」

 

 乱暴に言ってリンちゃんは赤くなった顔を逸らす。そうした機微に、恥ずかしさを覚える齢になったのだ。その相手役が己なのがなかなか奇々怪々ではあるが。

 不意に、手を取られた。あおいちゃんが、その両手で己のそれを引き寄せている。

 

「こっち、見てぇな」

「おぉ……」

「わぁ……」

「ふわぁ……あおいちゃん大胆だぁ」

「…………」

 

 ひしとこの手を包む柔手、その小ささに驚くことはない。その縋るような瞳に、おかしなところは何もない。

 己に取り、その幼さは当然の自然の、労しき感慨。厭う心持ちは微塵もありはしない。ただ愛らしいと思う。()()、愛らしいと思う。

 そこに宿るものがたとえなんであっても、たとえどんなに繊細で、必死な、乞い願いであっても、変わらない。変えられない。

 

「お?」

「っ!」

 

 それは、あおいちゃんに握られた左手ではなくもう片方の。

 右手をそっと握られた。

 リンちゃんが己の手を、人差し指を取って、きゅっと包む。

 

「な、なんとぉ」

「あはっ、そうきちゃうかー」

「リンちゃん……」

 

 娘子はむしろ、自分自身の行動に驚いているようだった。ただでさえ赤い顔が沸騰した土瓶のように蒸気を吹く。

 それを、ひどく懐かしく思う。背は伸びてこんなに大きくなったのに……手の握り方はあの頃のままだ。

 

「……」

「……」

 

 娘子二人、視線が交錯する。針の穴に糸を通すかの緊張感。

 軽口を吐いていた三人すら黙り込み、廊下には今や静謐が我が物顔で横たわる。

 一吹き、息を吐いた。

 

「お二人さん、こりゃまるで大岡裁きだ。放してくれねぇと己が越前守に叱られっちまうよぅ。な? いい子だから」

「……」

「……」

 

 あおいちゃんは依然として変わらず、むむむと真剣面で放してなるものかといった様子。

 リンちゃんは黙ったまま、表情も一見して平常に、ただ人差し指を握る手に力が篭った。

 龍虎譲らず。その真ん中に屹立した老樹はただただ途方に暮れるばかり。

 

「貴方達!」

 

 そこへ降り来った天の助けは、誰あろう鳥羽教諭であった。廊下の先から小走りに来やる。

 

「そらそら南町奉行様の御成りだぜ」

「誰が大岡忠相ですか!? って……どうしたんですか。えっ、子争い?」

 

 両の手をそれぞれ二人に引っ張られ往生する様はまさしくそれであろう。

 困惑もそこそこに、鳥羽教諭はきりりと表情を改める。

 

「皆さん、もうとっくに授業は始まっています。早く教室に戻りなさい」

「うぇ!? マジか!」

「あははは、来る途中に予鈴鳴ってたしそりゃそっかー」

「いやいやならそん時に言えよ! うわぁ焦っててまったく気付かなかった!」

「あおいちゃん、リンちゃんもだ。さあ、さあ、もう行かねぇと」

 

 納得とは言えぬ顔。いや、程遠いことは目を見ればわかる。

 それでも順繰り、娘らを見詰めて笑ってやる。

 そうしてようやく、す、す、するりと、惜しむ名残の多いこと多いこと。それでも手は離れ、暫時の間を置き、少女ら五人は連れ立って教室へ歩き始めた。まあ、先生の前で走る訳にもいくまい。

 その背を、鳥羽教諭と共々に追う。

 

「……薙原くん」

「なんですかい」

「差し出口というか、いえ、こういうことはきちんとしないと、やっぱり……」

「?」

「その、あの、ふ……不純異性交遊は、先生、その、感心できないです」

「……」

「二股とか……よくないです、よ……?」

「あんたは可愛い子だよ」

「はいっ?」

 

 あるいは前を歩く娘ら以上に、幼気で。乙女らしく恥じらう様が実に愛くるしいのだ。この娘は。

 溜息交じりに、悩みの種の芽吹きを覚えた。こんな老い耄れが、こんな身の上で、この期に及んで、と。

 ちらとこちらに振り返る横顔。その切なさが、ひどく悩ましい。

 

「どうしたもんかねぇ」

「……悩み事なら相談に乗りますよ。普段から……今回のことだって、私は貴方に助けられてばかりですから」

「そいつぁ、有り難ぇお申し出だ」

 

 皮肉の色を乗せぬよう、目礼気味にそう応える。事実、愚痴の一つ二つ垂れたい心持ちだった。

 それを遠慮なく吐ける相手は……今ばかりは、絶無なのだから。

 

「一献ぐれぇはお許しいただけませんかぃ。よよよ、憐れと思ってお恵みを~」

「っ、ぜ、絶対ダメです!」

「ハハハッ、こりゃ手厳しい。(すこぶ)る燗に合う、天麩羅の旨い良いぃ店を知ってんですがねぇ」

「もぉ! 薙原くん!」

 

 ぷんぷんと細目を吊り上げ、上気して鳥羽先生がお叱りくださる。

 己は不謹慎に笑った。笑う笑う。笑うしかあるまい。

 老い耄れが徒惚れに行き合った。それも、孫ほどの娘から。それが笑い話でなくてなんだという。

 笑うしか、ねぇだろうが。

 

 

 

 

 

 

 



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14話 慕情

話が進まなくて申し訳ねぇ。



 放課後、部活の準備に勤しむ者、戯れつく子ら、駄弁に花咲かす子ら、各色十色の賑やかな校舎を抜け出し、その裏手に回る。

 植木と金網で区切られた学校敷地の端、教職員用の駐車場である。

 

「……」

 

 停められた種々の車両を観察する。

 しかし残念ながら目当ての車種は存在しなかった。

 赤い軽自動車。富士宮は朝霧高原に乗り付けられていた被害者の連れ合いの持ち物は。

 この推測を裏付ける物証としてそれ以上のものもない。が、そうそう都合好くそんなものが転がっている筈もなし。

 ────本栖高校の教員の中に、容疑者が紛れ込んでいるなど。

 学校関係者が疑わしいという。ならば差し当たり近場からと、我ながら浅知恵を働かせてみたまで。

 無論、犯人が何かしらの証拠隠滅の為に乗り換えた、あるいは複数台自動車を所有している可能性とて否定はできない。現に奴は犯行時の移動手段として車ではなくバイクを使用している。

 

「とはいえ、手詰まりだな……」

 

 まさか県内、隣県の学校と呼ばわる施設全ての駐車場を一つ一つ見回る訳にもいくまい。

 如何に聴き込みをし、現場を密につぶさに検証したところで、所詮公権力を帯びぬ独力には限度がある。特に、個人情報、人物特定に際しては、あの警察手帳(いんろう)の効能に頼るところ甚大なれば。

 その上、この身はただの高校生のガキである。子供に捜査情報を嬉々として流してくれる頭のイかれた警官の知り合いはいない。あのお喋りの若手刑事でさえ、おそらく今一片の分別くらいはあろう。

 

 ────まるで幽霊みたいに

 

 戯言である。しかし、勘案の必要はあった。

 警察車両の追跡から斯くも鮮やかに逃げ果せるなど運転技量の一語に片付けるには無理がある。

 まずもって、何処かにあのバイクを隠した。然る後に車両を乗り換え、警察の配備を脱した。そう考えるのが自然。

 各所に検問が布かれた筈だ。それを掻い潜った方法も、犯人が教育機関関係者なれば推察は容易い。

 

 ────県の教育委員会の決定で

 

 現在、教員らはそれぞれに割り当てられた地区の見回りを実施している。その計画はおそらく立案の段階から既に警察にも届出が為されたことだろう。

 見回りの教職員を騙る。これ以上無い身許の保証だ。

 

「……」

 

 無論、これまで弄した思索全てが己の早合点、妄想である可能性も大いにあり得る。

 通り魔は完全な外部犯。世を拗ねた何処ぞの不届き者が起こした惨事でないと断言し切れようか。

 

「いかんいかん」

 

 頭を振って、迷いと惑いをそこから追い払う。全ての可能性を考慮することなど出来はしない。一つの可能性を絞り、洗い、蝨潰すしかないのだ。

 神ならぬ人に能うのは愚直のみ。少なくとも今は、こちらから当たる。それだけだ。

 なにはなくとも、情報源を欲した。学内側の事情に通ずる誰かを。

 そして心当たりは一人きり。

 鳥羽教諭から訊き出すより外、道はない。

 ……正直に言えば、乗り気はせなんだ。

 身内の恥と、罪を告発するも同じ仕儀。その苦悩を偲ぶ心持ちは確かにある。

 しかしなにより、あの娘は職責を重んずる。教職に携わる一員たる自負。いやもっと衒わず言えば、あの子はとても良い先生だ。生徒のことを心から慮れる、優しい子なのだ。

 そんな彼女が果たして、今や生徒の一人であるこの己に学校内の生臭い実情を吐露してくれようか。

 難しかろう。事実一度、己は聴き取りに失敗している。

 いずれも泣き言よ。今はどうしたとて、事の真偽を検める必要がある。なればどうにかして、あの娘の口を割らせる算段を練らねばなるまい。

 

「さても、さても……」

 

 腕を組みつ頭を捻り、歩み止まりまた歩む。

 不意のエンジン音に目を向ける。軽トラックがやって来ていた。

 ふと見ると、裏門の側には廃品の古紙や平に潰された段ボールが積み重なってる。用務員と思しい中年の男が荷台にそれらを積み込み始めた。

 その専心労働に勤しむ姿を目にして、この場でただ二の足を踏むばかりの己に呆れる。

 とにもかくにも、動くのみ。産まず案ずるは時間の湯尽なり。

 そろそろ日課と嘯けようかい。一路、職員室へ足を向けた。

 

 

 

 

「あぁ? 帰った?」

「あー一足遅かったね。というか鳥羽先生、今日は見回りの当番日でねー。学校には戻らずにそのまま直帰されるんだ。何か用事があるなら、明日出直してくれるかな?」

「かぁー、左様で……」

 

 出鼻を挫かれるとはこのこと。

 近場の教諭を捕まえて返ってきたのが先の通り。

 例の夜回りの日取りを先に把握しておくべきだった。そうすれば幾らでも合わせて動けたものを。

 とはいえ、居ないものは仕様もない。

 相も変わらず忙しない職員室内を一望する。デスクに向かう者も幾人か。

 とりあえず、直近の大町教諭に向かう。努めて世間話の体を取り。

 

「近頃、登山部の方の活動はどうですかい」

「いやー開店休業だね。なんてったって物騒だからさ」

「でしょうなぁ。部員の子らも可哀想に」

「まったくだよ。なんとかトレッキングくらいはさせてあげたいんだけど、万一があっちゃどうしようもないからね。特に最近はほら、志摩さんの件があったから」

「……なるほど」

 

 反駁の余地はなかった。生徒の安全を買う最良の担保は、活動の自粛以外にない。

 如何にも大賛成といった格好を作り、大仰に頷く。

 

「まさにまさに。いやしかしそれにしても、アウトドアの御趣味を持たれた方は返す返す災難ですな。迷惑千万な輩の為に」

「やぁホントそうなんだよ。私なんかも休日が手持ち無沙汰になっちゃって」

「ははぁ、特に先生方には酷でしょうや。鳥羽先生然り、体育の木内先生もでしたかな。お! そういえばもう一方居られましたでしょう」

「うん? もう一人? アウトドア趣味の人? えぇーっと、いたかな」

「ほぉれ、あの────赤い軽自動車に乗られてる」

 

 さて、どうか。

 大町教諭の顔を、目を密かに覗き、返答を待つ。

 

「いやぁ……? うちの学校に赤い軽に乗られてる方はいなかったと思うよ」

 

 そこに……偽りの色なし。

 単に知らぬということもあり得るが、学内駐車場には入ったところで所詮十数台。彼が忘れていると考えるより、無いと踏んだ方が妥当であろう。

 通勤車として用立てておらぬのか、あるいはそもそも本栖(ここ)に容疑者などおらぬのか。

 あわよくばとの薄い期待であったが、やはりどうにも空振りの感は否めない。

 

「赤いSUVなら田原先生が乗ってらっしゃるんだけどね」

「田原……?」

 

 空を切った刃先にしかし、掠めるかの如く。

 目の前の教諭は思わぬ名前を口にした。

 

「あ、そうか! もう一人って田原先生のことか。たしかキャンプが趣味って仰ってたし」

「へぇ……そいつぁ初耳だ。あの田原先生がねぇ」

「意外だよねー。なんでも婚約者の方ともその縁で……っと、ととと!」

 

 しまった──大町教諭の面相をそのような文言が走る。

 逃さず、その尾を掴む。

 

「ほう、御婚約者の方共々アウトドア趣味であられる」

「……キャンプ場で知り合って、良い仲になったんだってさ」

「いやいや素敵なことじゃあございやせんか。同好の士から(わり)無い仲になれるなんざ。それがまたどうしてか……お流れとか?」

「上手くいかんもんですよねぇ、ホント。結納まで済んでたって話で……あっ、いや、こ、ここだけの話ね」

「はぁいはい、そらもう心得ておりますとも」

 

 汗して今更に声を潜める大町教諭は、滑稽というよりむしろ剽軽であった。

 人の悪い笑みで口の端を汚し、決して褒められぬ密約に頷く。

 得るものはあった。望外の手掛かりが。

 

「今日は田原先生をお見かけしませんな」

「ああ、体調を崩されたとかでお休みだよ」

「左様で」

「君も、用事がないなら暗くなる前に早く帰りなよ」

「えぇえぇ勿論。お忙しいところ失礼しました」

 

 一礼してその場を離れる。

 暗中に一筋、毛先の如く微細な光明を認む。果たしてそれは蛇か鬼か、魔か。

 田原。

 手繰らぬ理由はないな。

 

 

 

 

 

 

 登校と帰宅は必ず送迎で。

 あの事件から家路につく時、両親にそう約束させられた。

 

 

 身延駅の正面入り口から階段を下りる。ロータリーを見渡すと見慣れたシルバーの車を見付けた。

 近付いていくと、後ろの扉が開く。母が中から手招きしていた。

 駆け寄って、後部座席に乗り込む。

 

「お母さん、なんで乗ってるの? ま、まさか、今日から毎日二人で迎えに来る気なの……?」

「今日だけよ。普段はお父さんが帰り道であんたを拾って帰るわ」

「残業になりそうな時は連絡するから。その都度、お母さんと交代制で必ず迎えに行くよ」

 

 静かに車が動き出す。運転席から前を向いたまま父が言った。

 家族会議という名のリビング法廷におけるお母さん裁判長およびお父さん検事による弾劾の末、なにかと取り決めが増えた。学校に着いた時と学校を出る時それぞれに定時連絡、スマホには子守アプリがインストールされ、電源オフは基本的に禁止。

 当然、原付は没収。キャンプどころか遠出は向こう数ヶ月間、少なくとも通り魔事件が解決されるまでお預けである。

 

「はーい」

 

 息苦しさは感じたけれど、不平も不満も胸の奥で大人しくしている。なんせ言い訳のしようもないほど、自業自得だから。

 病院で、泣きながら私を抱き締めた母の震える体を忘れない。普段の穏やかな父からは想像もできないほど厳しい口調で私を叱り付けた後、安堵に涙ぐむ父の姿を忘れない。

 私はそれだけのことを仕出かしたのだ。

 

「……ごめんなさい」

「もういいのよ。リンが昔から物分かりの良い子だって、知ってるもの」

 

 柔らかな手が髪を梳く。

 焚き火の暖かさような安心と、針のような罪悪感が胸を衝く。また、泣いてしまいそうになる。

 それを堪えて、私は母を見上げた。

 ずずい、と。目の前にそれが差し出された。

 

「へ?」

「はいこれ」

「なにこれ」

 

 それは小さなピルケースくらいの正方形の箱で、表面はウッド調のブラウン。そして真ん中に焼き印、のようなデザインでイラストが描かれていた。

 二本角のデフォルメされた鹿。

 

「知らない? カリブーくんって言うのよ。可愛いでしょ」

\ソウダネ/

「いやそれは知ってるけど……」

 

 そのものずばり『カリブー』というアウトドア用品店のマスコットキャラクターだ。ネットの通販サイトなんかでもちょくちょく目にしたことがある。

 

「じゃなくて、この箱って」

「ジーピーエスぅ、発信器っていうんだっけ? こんな小さいので20,000円近くするんだから」

\ソウダネ/

「……はい?」

「ストラップ付いてるから、どこかに結んで……リン、スカート上げて、ほら」

「ちょっ!?」

 

 おもむろに母はスカートの裾を摘まみ、内側に手を入れてきた。

 

「タグにでも引っ掛けときましょ。こういうときズボンみたいにベルト通しとかあれば楽なんだけどねー」

「ひやぁーッ!?」

「あぁんっ、もぉー動かないでリン」

「動くよ! 見えっ、見えちゃうよ! た、助けてお父さん!?」

「ごめんリン。お父さん今運転中だから。でも大丈夫。ここからじゃ見えないから大丈夫」

「外から見えるでしょ!? ひぅうー!?」

「HAHAHAHA! ダイジョーブダイジョーブ!」

\ソウダネ/

「あううううう!?」

 

 ……そんなこんなで。

 

「よし。まあいいでしょ」

「…………」

「これ、このフックの留め具で付け外しできるから、クリーニングに出す前は必ず外すのよ? 一応防水だけど洗濯したら壊れちゃうから」

「…………」

「スマホだと手放したり、鞄に入れっぱなしで忘れちゃうかもだし、こうすれば確実よね。さっすが渉さん、冴えてる~」

「いやー、それほどでも」

「…………」

 

 恨みを込めたこっちの視線に素知らぬ風で笑い合う二人。

 飲み込んだ不平不満、吐き出しちゃおっかな。喚き散らしちゃおっかな。

 

「拗ねないの。安全第一なんだから」

「ふんだ」

「もうすぐ着くよ」

 

 苔生した石垣を横目に、杉木の山道を登って行く。

 曲がり、くねりながら、崖沿いにひたすら進んだ先、突然視界が拓けた。

 疎らに葉をつけ始めた桜の木が何本も、駐車場の回りを取り囲んでいる。春にはきっと、綺麗な景色を作るのだろう。

 車を降りる。枯れた風が髪をさらう。

 道を挟んだ向こう側に、ずらりと四角柱の石が、墓石が見えた。

 

「……」

「リンは来るの初めてよね。不二崎さんのお墓」

「……うん」

 

 とっくの昔に納骨されたお墓に、けれど、参る機会はこの五年間一度もなかった。どうしてか、父と母が赴いていたという記憶もない。

 

「遺言なの。墓参りになんて来るな、って……酷いわよね。薄情な話よ、まったく」

「……じん爺が?」

「そう、おじさんの言い草が……それと、そんな約束をわざわざ守ってた私達も」

「……」

 

 母は墓地を見ていた。空風に吹かれる杉並木の中で整然と屹立する灰と黒の石の群。

 そこに、居る筈のない誰かを見ていた。

 

「行こっか」

 

 

 

 石畳を歩いてすぐ。比較的こじんまりとした灰色の墓石には、確かに不二崎家之墓と刻まれていた。

 ふと見ると、線香立てに数本、既に煙を上げるものがある。

 

「これは、お義父さんかな?」

「え、あらホントだ。もぉ一緒に来ればいいのに」

「……」

 

 お墓は綺麗だった。表面はきちんと磨かれて、塵や埃は払われて、雑草だって一本も生えてない。

 きっと、おじいちゃんは今もずっと、折に触れて通い続けているんだ。友達の墓に、参り続けてる。

 それが普通だと言ってしまえばそれまでだけど、私はそれが何故か悲壮に思えて、何故かひどく……寂しい。

 墓石の傍らには、立て看板のような形をした平べったい墓石がもう一つ。墓誌、と言うんだったっけ。

 そこには甚三郎、そしてもう一人、綺理枝と書かれている。

 

「きりえ、さん……?」

「そう。おじさんの奥様よ」

 

 深く、懐かしそうに母は言った。

 

「名前と同じ、とっても綺麗な人だったわぁ。それですっごく優しいの。不二崎さんの御実家に来られた時なんか、うちにもよく訪ねてきてくれてね」

「そうだったんだ……」

「いい人だった。私のこと、まるで姪っ子みたいに可愛がってくれたわ……私が中学の頃、突然亡くなられたの。体の丈夫な方じゃなかったみたい……病気がちで入退院を繰り返してたそうだけど、そんなの全然素振りも見せずに、いつも軽やかで、明るかった……」

 

 囁くような語尾が、風にさらわれる。

 どんな人だったのか、私には想像することしかできない。ただその人が母にとって、掛け替えのない人だったということはすぐにわかった。

 

「今でも覚えてる。おじさんの、寂しそうな背中……見てるだけで、胸が潰れちゃいそうになって……」

 

 瞳がほんの一瞬、揺らぐ。母のそんな目、初めて見た。

 そっと火を点けた線香を父が差し出す。

 母と共にそれを受け取って、空いた線香立てに差した。

 両手を合わせて、目を瞑る。祈るのも悼むのも何かしっくりこない。見たこともないその素敵な人に、迷った末、私はまず初対面の挨拶をした。

 頬を撫でる微風。そこに暖かなものを感じたのは、錯覚だろうか。それとも……応えてくれたのだろうか。

 

 

 花を手向けて、車に引き返す石畳の道すがら。

 不意に、母は言った。

 

「ね、薙原くんってどんな子?」

「え、どんなって……なに、突然」

「突然もなにも、あんたのこと助けてくれた人じゃない。きちんとしたお礼だってまだ出来てないのよ。明日学校で会ったら、ちゃんと連絡先と住所、聞いておいてよね」

「えぇ!?」

「うーん、手土産は~、身延饅頭とかでいいかしら。日用品を贈るっていうのもなんか違うし」

「消え物の方が無難だね。奇を衒わずに桔梗信玄餅なんかもいいんじゃないかな」

「ちょ、ちょっと」

「ご迷惑お掛けしたんだから、こっちから伺うのは当たり前でしょ? ごねないの」

「ぐぅ……」

 

 ぐうの音を漏らしたって許してはくれない。確定事項がまた一つ増えてしまった。

 男子に連絡先を訊ねるというミッションに無駄にくよくよする私を母はからからと笑う。

 

「それで? どういう感じの人なの?」

「どういうって……同級生の男子で……それだけ、で」

「不二崎さんに……おじさんに似てた?」

「……」

「だっておじいちゃんが、父さんが、あんな風に呼ぶんだもん。気になっちゃうじゃない」

「僕もだよ。親戚の子なのかな?」

「もしかして、おじさんの隠し子だったりして? ふふふっ!」

「か、隠し子ぉ!?」

 

 あの薙原くんが、じん爺の。

 

「冗談よ。真に受けない」

「だ、だって……!」

「ふーん。リンがそんなに反応するってことは、ホントに似てるんだ。その子と、おじさんと」

「……」

 

 したり顔の母に言い出し掛けた批難の声が、失せる。

 思い出す。彼の顔を、彼の声を、彼の目、あの人の手。

 

「……似てないよ。顔も、声も、なんにも似てなんかない。似てなんか、ない、のに。でも……」

「……」

「すごく懐かしかった。あの人が、来てくれた時、すごく安心した。涙が出るくらい……」

 

 頭を撫でてくれるその手が、嬉しかった。とても嬉しかった。

 あなたは誰、そう訊ねる私に曖昧な笑みで応えるあの人が、もどかしかった。寂しかった。切なかった。

 

 ────私はこの人に愛されてる

 

 あの時、切り裂き魔の前に立ちはだかり、私の前に庇い出てくれたあの人の、私を振り返った目にそれを感じた。どうして、何故、これは、こんな。混乱する。その、()()に。見も知らない筈の少年から向けられた慈愛を、私は理解も出来ず、ただ持て余した。

 かっと火入れしたみたいに顔が熱を持つ。

 

「わ、真っ赤」

「っ!」

 

 顔を背けて腕で覆う。

 わからない。自分の感情が。恥ずかしいのか嬉しいのか……悲しいのか。

 慌てふためく私に、母はにんまり笑顔で。

 

「これは益々会ってみなくっちゃね」

「僕も……どうやら色々と話をしなくっちゃいけないようだね。その薙原くんと」

 

 声を低めて、努めて、努めて穏やかそうに父は言った。

 それが何かを勘繰った言い様だということはすぐにわかった。

 

「や、やめてよもう! な、薙原くんとはそんなんじゃないから!」

「えーそーなのー?」

「HAHAHA! なんなら一度家に招待したらどうだい? その方がゆぅっくり話ができる。そうだねそうしようか!? HAHAHA!」

「やめてってばぁ!!」

 

 

 

 

 

 



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15話 不貞の兇気

ただただ鳥羽先生が可愛いだけの話。



 

 

 

 日が没してより幾らも経ったか。街灯が照らす歩道、行き交う車を横目にして真実宛て処なく彷徨い歩む。

 

「ええ、今晩は外で済ませます……いやこちらこそ申し訳ない。ええ、では」

 

 言って、通話を終える。

 哲也の祖母君はこちらの都合に反問もせず、ただ穏やかに許しをくれた。他人様の孫を好き勝手に連れ回しているような心地だ。

 それでも独り思索の時間が欲しかった。手掛かり、手繰れる緒の端を摘まみはしたものの、当の本人に直接当たることが叶うのは明日以後。学校に田原が来なければどうしようもない。

 まさか調べる手立てもない自宅の住所を突き止め、直接乗り込むという訳にもいくまい。校内の更衣室で荷物を漁る……盗人よりある種質が悪かろう。

 いよいよ万策が尽きた時、その狂った手段を取るやも知れぬが。

 それまではせめて、真人間らしく在ろうや。

 真人間なればこそ一丁前に腹も減る。

 

「お」

 

 道の先に看板を認めた。

 手打ち蕎麦屋。今の気分にぴったり嵌まる。

 逡巡もなく店の暖簾を潜った。

 

 

 

 平日とはいえ夕飯時だが、それにしては客入りはやや大人しい。流行っておらぬと言うよりは、偶さか閑古な狭間に訪れたのだろう。

 落ち着いて飯にありつけるならそれに越したこともない。

 暖かな店内に踏み入る。するとすぐそこに、店員と思しい後ろ姿を認めた。

 しかし、どうしたことか入店した人間に応対するでもなく店員はその場を動かず。なんとなれば屈み込み、レジスターの載るテーブルの影に身を潜ませていた。

 一体なにを。

 

「お嬢さん、入れるかい?」

「はいぃ!?」

 

 なるべく穏やかに声を掛けたつもりだったが、その細い背中がびくりと跳ねる。

 

「すすすみません! いらっしゃいませ! お一人様で……あれ」

「おぉ」

 

 振り返った店員の女性、少女は見覚えも新しい。あの健啖家の撫子髪ちゃんであった。

 

「わぁ! 哲也くんだぁ! こんばんは~」

「おう、こんばんは。今日はよくよく縁があるなぁ」

 

 にぱっと晴れやかに少女の笑顔が咲いたのも束の間のこと。

 撫子髪ちゃんははっとして、またレジカウンターの影に引っ込んだ。

 少女がこちらを手招く。

 それに倣って己も屈む。依然として意味は不明であるが。

 

「んで、どうしたんだい」

「あれあれ」

 

 両手の人差し指で少女が指し示すものを見る。

 そこには然して不可思議な光景はなかった。店の端、窓辺の席に一人客がある。卓には天麩羅の盛合せと出汁巻き卵とたっぷりの大根おろし。燗を合わせればさぞ具合が好かろうや。

 異なる、というか奇なるのはその人物であった。

 二合瓶を手酌で傾ける。注ぐ先はしかし猪口ではなく透明なコップ。とくとくならぬどぷどぷと中身を浪々と注ぎ込んだ。風情もへったくれもない。飲兵衛ならではな大雑把で、その女はカップをあおった。あたかも運動の後の水分補給と言わんばかり。

 

「ん、ん、ん……ぶっはぁ!! キクわぁ!」

 

 鳥羽教諭……と思わしき女が酒をかっ喰らっていた。

 威勢も良く景気もなお宜しく、吐く息は如何にも酒臭そうだ。

 間違っても教職員が生徒に晒してよい姿ではなかった。

 

「なるほど、ああも飲んだくれられちゃあ出難かろうな」

「あはは~、そうなんだー。バイトのことはちゃんと学校に言ってあるし、なんにも悪いことしてる訳じゃないんだけど、こう、反射的にしゅばば! って。それに……」

「ん?」

「最近は先生、見回りの仕事とかで忙しいし、せっかく好きなお酒飲める時間だもん。邪魔したら可哀想だよ」

 

 なにやら神妙に少女は言う。

 胸奥に陽気を覚えた。木漏れ日の柔らに似てそれは毒気だの険だのを溶かし解く。やにわに牧歌的な心持ちにさせられる。

 

「ふははっ、いい子だなぁお前さんは」

「へ? んへへ、またまた~。そんなことありゃしませんよぅ。照れるじゃないさお前さん」

「誰の芝居なんだぃそりゃ」

「田舎のおばあちゃん、あと哲也くんの真似~」

「あぁん? こいつめ」

「えへへ」

 

 軽く娘子の額を小突いてやり、立ち上がる。

 

「とりあえず相席で頼む。いいかい、店員さん」

「えっ」

 

 返事は待たずに奥の席へ向かう。

 鳥羽の娘子は瓶を振って中身の滴をコップに落とす作業で忙しいらしく、こちらに気付いた様子はない。麗峰とロゴの貼られたフロストボトルの空瓶が五本。なんとまあ、噂に違わぬ蟒蛇っぷり。

 

「蕎麦屋で一人飲みってなぁなかなか風流だがよ、ちょいと節操がねぇな。肝臓と財布に悪ぃぞ」

「あによー、私の勝手でしょー」

「まあまあそう邪険にしなさんな。ほんの老婆心だ。お冷だったらお酌しますぜ、お嬢さん」

「うっさい! ナンパなら他所でやっ……て……」

 

 思いの外時間を掛けて、対手はようやく対面に座った己を認めたようだ。

 酒精も香る赤ら顔が別の風合いで色味を増していく。

 

「こんばんは、先生」

「薙原くん!? なんで!?」

 

 まさかこんなところで生徒に出くわすなどと思いもせなんだといった様相である。

 

「激務を終えた帰りの一杯だ。いやさぞ格別と存ずる。それを水差しにごちゃごちゃとケチを付けたかねぇんだが、バイトの子がすっかり困ってるんでな。ほれ」

「ぁ……か、各務原さん……そっか、バイト先の飲食店ってここ……」

 

 こちらの視線に少女がはっとする。暫時迷ってから、少女はそっとこちらに手を振った。

 手を振り返して卓に向き直る。

 鳥羽教諭はひどく気まずそうにその黒い(びん)を掻き上げた。

 

「うぅ……そうよね、身延だし、そりゃあ鉢合わせちゃうか……でも、あぁうわぁ油断したぁ……」

 

 わっと頭を抱えて卓上に突っ伏す鳥羽嬢の様に、申し訳ないが笑みを堪えた。

 

「きっちり仕事をこなした後に稼いだ身銭でお(まんま)食らって何をか咎めることあらんや……と、俺共なんぞは思っちまうんですがね。そうも行きませんかい」

「……私だって、自由にお酒くらい飲みに行きたいわよ。生徒と、なにより親御さんの手前もあるし。教師はいつでもどこでも素行を見張られてるんだから。学区のお店で外食なんて滅多にできるもんじゃないし、誰かと街を歩いてるだけでもすぐ噂されるし……」

 

 すっかり不貞腐れて娘は独り言ちた。気苦労さぞ多かろうとは感じられたものだが、どうやら累積した鬱憤は己の想像以上らしい。

 

「校長も教頭もお小言ばっっかり。そりゃ勤務態度とかカリキュラムの進捗とかに注意してくださるのは当然だし有り難いことだけどさ、どーして私生活にまで口出しされなきゃいけないわけぇ!? 彼氏の有無ってそんなに大事!? 彼氏いたら男子生徒の扱い方に活かせるでしょ、だって……馬っ鹿じゃないの!? ってかこれフツーにセクハラじゃない? セクハラよね直球の!?」

「ああ違ぇねぇ。そいつぁセクハラだ」

「でっしょー!」

 

 卓上に乗り出して娘は吠えた。

 

「あぁー! 思い出したらまたムカついてきた。仕事と関係ない話すんじゃねぇよおっさん共! こっちにはまだまだやらなきゃなんないこと山積みなんだってぇの!」

「おぉまったく迷惑千万だな」

「ホントよ。世間話に時間取るならその分時給寄越しなさいよ」

「サービス残業ってやつか。いやぁ世知辛いねぇ」

「今日も無給で頑張っております! 泣きそう! うえーん!!」

「あぁあぁ」

 

 娘子は宣言通りわっと泣き喚き始めた。鬱々と塞ぐよりはまだマシと思うべきか。

 元気よく泣きべそを晒す鳥羽教諭を宥めながら、片手で店員の少女を手招く。

 先刻から心配そうにこちらの様子を窺っていた撫子髪ちゃんが、こそこそと近寄ってくる。

 

()()を一枚、それにしし唐の天麩羅と……お、生姜のかき揚げか。いいね。こいつも一皿」

「あ、はい。えーっともりそばとしし唐、生姜かき揚げ、と」

「それとすまねぇが一本浸けてくれるかい」

「え? でも、えっと、お酒でいいの?」

「ああ、ぬる燗くれぇでよかろう。ちょっとした労いにな」

 

 腕に顔を埋めてぐずぐずと呻く鳥羽教諭に目をやる。撫子髪ちゃんは困り顔に微笑を浮かべた。

 

「しょーがないな~」

「いやはやありがてぇ。ありがたついでに、器を二ついただけるとおいちゃん嬉しいんだが」

「ふえ!? だ、ダメだよ! 哲也くんまだ高校生でしょ!」

「そこをなんとか」

「めっ!」

 

 子供でも叱るように言い置いて、少女は厨房へ行ってしまった。

 

「ありゃりゃ怒られっちまったよ」

「あったりまえです~。お子ちゃまにポン酒なんて贅沢なんだから」

「そういう話かね」

「大人になったら嫌でも飲めるわよ。飲まなきゃやってらんなくなるのよ~だ」

「かかっ、そうだな。いやまったく、その通り」

 

 大根おろしに醤油を垂らし、娘はそれをちびちびと箸で摘まむ。とっくに空になったコップを一嘗め、それがなにやら無性に寂し気であった。

 

「お酒は大好きだけど、付き合わされるお酒ってなーんであんなに不味いのかなぁ。大学の頃もさ、友達とする宅飲みってすっごい楽しいけど、ゼミのよく知らない人とする飲み会ってお店がどんなに豪勢でもぜんっぜん美味しくないの。わかる? これ。このジレンマ」

「おうおう、わかるわかる」

 

 酔っ払いらしく話し振りは実に唐突で取り留めもない。

 思い出話かと思えば、身を乗り出してこちらに細い指を突き付ける。

 

「言っとくけど、そうそこな男子! 薙原くんもよく聞きなさい! 酔わせてお持ち帰りしてやろうとかそういう魂胆はお店に集合した時点から女子達(こっち)には筒抜けだということをね!」

「ハハハッ、男の下心か。そりゃあ見え透いてるだろうなぁ」

「もうがっつがつよ。鼻息荒いっちゅうの。こっちがお酒好きなの分かった途端どんどん飲ませようとするの」

「そりゃあ不届きな野郎だ」

「それ! めっちゃフトドキでしょ。だからそういう奴は逆に酔い潰してやんのよ」

「ほぉ! かかかっ、そいつぁ大したもんだ」

「ふふーん無敗よ無敗。何人を地べたに這いつくばらせたことか」

 

 得意げに鼻を高くしたのも束の間、教諭は椅子の背もたれにぐでんと寄りかかる。上体が傾き、視線は天井の吊り行灯をぼんやりと撫でる。

 

「男なんてどーせ顔か体しか見てないもんね」

「そんな手合いも多かろうな」

「みーんなそうよ。どいつもこいつもそんなんばっか……田原先生だってその被害者よ」

「……ほう、田原先生が」

「美人でスタイルいいからすごくモテたんだって。でもそんな浅い評価なんて歯牙にもかけない人だからねあの人。仕事人間! っていうか。完璧主義! っていうか。とにかく出来る女って感じ。厳しいけど、めっちゃくちゃ厳しいけど、優秀な人なんだから。すごい人なんだから! それを……それなのに、婚約した相手が」

「お相手が、なんぞよろしからん男だったかい」

「……浮気だって」

「……」

「婚約して結納まで済ませて、それでもへーきで他の女に手ぇ出すとか……最低」

「ああ、まったくだ」

 

 切なげに、娘は呟く。行灯の光の中に浮かべた誰かを、憐れんで。

 くた、と娘が再び卓に突っ伏す。上目遣いの視線が己を見る。

 

「薙原くんはそんな大人になっちゃダメだからね。絶対。絶対よ?」

「相承った。努々肝に銘じやしょう」

「よろしい! ふへへぇ」

 

 にへらと満足そうな笑みを浮かべる。この娘子が益々幼気に見える。

 

「お待ち遠さまでっす!」

 

 そこへ早くも注文の品が届いた。遅まきの夕食に細やかな酒肴を添えて。

 猪口を娘の前に置き、暖かな徳利の口を向けた。

 ややも丸まった目が己を見返して来る。

 

「何はともあれ今日も骨折りだ。先生は、よく頑張っておいでだよ。不肖の身から一献、貰ってやってくれますか」

「ぁ……い、いただきます」

 

 やにわに居住まいを正して、猪口を両手に戴く。その神妙さがなんとも可笑しい。

 注がれたぬる燗に娘はそっと口付ける。目を閉じ、酒精を口に含む。そうすればなるほど、味も一入染み入ろう。

 

「……ほぅ」

 

 吐息は柔らかな熱を帯び、五臓六腑の酒気を今少し和らげるだろう。温めの燗は水より体に良い……とは流石に酔漢の戯言だが。

 娘ははにかんで、下を向いた。

 

「生徒にお酌されちゃった」

「偶にはよかろうさ。さ、もう一杯」

「あ、はい」

「生姜は悪酔いを防ぐそうだ。ま、焼石に水だろうが燗には合うだろう。やりなやりな」

「ん、じゃあもらう」

 

 妙に舌ったらずにそう言って、娘子は生姜のかき揚げを熱々と頬張った。

 

「旨いかい」

「……うん」

「そうかい。もっと食いなよ。空きっ腹に冷酒なんざ毒にしかならんぜ。飲兵衛はこれだからいけねぇや」

「い、いつもはちゃんと食べてから飲むもん。チェイサー挟め……って(りょうこ)が怒るから」

「ほほう、妹御か。いやはやその子は姉君に似ずしっかりとしとるようだのう」

「むー……私だって普段しっかりやってるからいいでしょー」

「ふっ、そうだな。偉い偉い」

「あー褒め方がテキトー。ダメですやり直し」

「あぁん?」

「もっと心を込めて、優しーく労ってくださーい」

「酔っ払いめ」

「酔ってないもん。ほぉらぁ、ほーめーてー」

「先生はよっく頑張ってるよぅ。偉い子だ。いぃい子だなぁ」

「先生じゃなーくーて、美波ぃ」

「へいへい。美波ちゃんはいい子だよ。頑張り屋でしっかり者で、本当は可愛い子だよぅ」

「ふへへへへ~」

 

 とろりと瞳を蕩かせて、娘は卓上の腕に頬を乗せる。

 

「ん~、なんか気持ちよくなってきたぁ」

「ははぁ、眠いんだろ」

「違うもん。楽しいだけだもん。久しぶりに……楽しいお酒だから。えへへ。薙原くんも早く大人になってよー。そうしたら一緒に飲もう! うんにゃ! 今飲もう! 各務原さーん! 熱燗お代わりー!」

「こら、もう止せ止せ」

「えぇ~やぁだぁ。薙原くんと飲むのぉ」

「また今度な。いい子だから、な?」

「むぇー……約束だかんねぇ……指切り……げんまん……」

 

 譫言が寝言に変わり、娘は静かな寝息を立て始めた。

 さっさともり蕎麦やら天麩羅やらを片付け、再三に撫子髪ちゃんを呼び付ける。

 

「わ、先生寝ちゃったの?」

「ああ、すまねぇが勘定と、タクシーを一台呼んでくれるかい」

「あ、哲也くんちょっと待ってて」

「?」

 

 言うや、少女は踵を返し、店の扉を潜って表に出て行ってしまった。

 そうして程なく、少女が戻ってくる。眉尻を下げた困り顔で。

 

「ど、どうしよう。先生、車で来てたみたい」

「あん? うむ、ならそうすっと、代行か」

「そ、それがね。身延って運転代行あんまりないみたいで。呼ぶとしたら甲府からになっちゃうんだって」

「ありゃま」

 

 少女はわざわざスマートホーンで調べてくれた検索結果の画面をこちらに示す。

 なるほど、確かに。デジタルの地図には点在する運転代行サービスの位置を鋲のポンチ絵で表記されてあるのだが、甲府周辺の賑わいとは打って変わって身延近郊にはさっぱりとそれが見当たらない。

 

「妙なところで不便だな、ここいらは。まあ仕方ねぇ。車は置いて先生はタクシーで帰そう。店長さんには俺からナシ付けさせて」

「あ! そうだ!」

「おぉどした」

 

 突如、電球を点灯させたかのように少女はなにやら思い付いたようだ。

 少女は背もたれに掛けられた鳥羽教諭のコートをまさぐり、何かを探る。

 

「あった!」

 

 取り出したのはスマートホーンであった。

 少女は手際よくボタンを押し、画面に指を滑らせる。

 

「えとえと……あっ、ど、どうしよう。ロック掛かってるよ!?」

「うん? こいつぁなんだ。ぱすわーどとかいうのを打ち込むのか」

「ううん、たぶん顔認証じゃないかな……あ」

 

 己が寝こける教諭を背後から抱き起し、少女はスマホを教諭の面前に翳した。

 

「やったー! ついた!」

「防犯効果は絶無だな」

 

 教諭のセキュリティ意識の低さは今後お身内方に議論を尽くしていただくとして。

 少女はどうやら連絡先一覧から誰かの宛名を探している。

 

「り、り、り、あった。涼子さん!」

 

 

 

 

 

 此方の事情は実に淀みなく彼方へと伝わった。なるほどこの娘のこうした始末は今晩が初めてではないのだろう。いとも容易に想像が及ぶ。

 店内の席で、鳥羽教諭の寝顔を眺めていること暫し。緩み切った赤ら顔が涎を垂らしそうになった頃、妹御・鳥羽涼子が現れた。短く切り揃えた黒髪にダウンコートの前を空けている。

 駅から徒歩で、いやさ走って来たのだろう。息せき切らせながら開口一番、妹御は頭を垂れて。

 

「うちのバカ姉がほんっとーにすみません!」

「いやいや滅相もない。こちらこそ呼び付けるような真似をして」

「い、いえいえいえ! 100パーセントで悪いのはそこの酔っ払いですから! そこの……ああもう! いい加減起きてよ! 起きろ! お姉ちゃん!?」

「うぅ~ん……次はぁ、お湯割りでぇ……あん肝ぉ……んへへ」

「お姉ちゃんっ!!」

「ハハハハハッ、疲れておいでなんだろうよ。どら、車まで送ろう」

 

 一向起きる様子もない。起きたところで一人で歩けるかも怪しいが。

 背負って行こうと傍に屈んだところで、撫子髪ちゃんの待ったが掛かる。

 

「あ、あ、哲也くん、先生スカートだよ」

「おっと? そうかい」

「いやもう丸見えでも全然いいですよ。酔っ払いに相応しい末路で」

「妹さん!?」

 

 何やら歪んだ笑みで投げやりに言い放つ妹御の申し出はさて置いて。

 ならばここは一つ。鳥羽教諭の背と両膝の裏に腕を入れ、後方へ一気に引き上げる。

 一度ぐらりと揺れたことで、反射的に娘の方も自らこちらの首に掴まってくれた。よしよし。

 

「そ、そこまでしてくれなくても……」

「いいからいいから。ああすまねぇが扉開けてくれるかい」

「あ、はい! すみません」

「わぁー! お姫様抱っこだー!」

 

 なにやら目を輝かせてはしゃぐ撫子髪ちゃんに付き添われながら、駐車場の小型SUVに向かう。

 後部座席に大荷物よろしく積み込んで出ようとする己を、しかし娘子の腕は放さなかった。己の首にぶら下がるようにして嫌々をする。まるで赤子か幼児の有様。

 

「やぁだぁ。薙原くんもぉ。うん! 二次会いこ二次会っ! カラオケバーがいい!」

「ちょっとマジでいい加減にしなよお姉ちゃん!?」

「おいおい先生。もう家帰るんだぜ。明日もあるんだから」

「むぅー!」

 

 眼下で駄々を捏ねる娘子に、呆れるやら和むやら。宥めるように、そして労うように、頭をくしゃくしゃと撫で回す。

 

「んにゃにゃにゃ」

「ゆっくり休みなよ、美波ちゃん。また明日、ちゃんと学校来るんだぜ?」

「……はーい」

「よし、いい子だ」

 

 不承不承、それでも腕を解いて、教諭は席に座り直ししっかりとシートベルトまで締めた。

 扉を静かに閉めてから後ろを振り返ると、妹御がぽかんと目を瞬いていた。

 

「おぅい、どうかしたかい」

「え!? あ、いや、な、なんでもないです! あ、今日は本当にすみませんでした! じ、じゃあ私はこれで」

「ああ、ご足労お掛けした。道中気を付けて」

「は、はい。どうも……」

 

 そそくさと逃げるように鳥羽涼子は運転席に乗り込む。

 滑るように静かに車は駐車場を出、極めて安全運転で遠ざかって行った。

 律儀なこと。撫子髪ちゃんは最後まで手を振ってそれを見送っていた。

 

「さてさて、己もそろそろ帰るとしよう。何かと騒がせて悪かったな」

「ううん! 私はぜんっぜん大丈夫だよー。えへへ、なんならちょっと面白かったしねぃ」

 

 にまにま含んだ笑みを湛えてこちらを見上げてくる。なんとも、企て顔の似合わぬ娘だ。

 

「哲也くんは女()()()だねぃ」

「誑しか? まったく、人聞きの悪ぃこと言いやがるなぁこの口か」

「んへへ」

 

 軽く頬を抓ると、どうしてか娘子は嬉しそうに綻んだ。しかしまたその頬の柔いこと柔いこと。

 

「あ、ほうは!」

「今度はなんだい」

 

 頬を抓られながら娘が手を打つ。

 取って置きの思い付きとばかり、晴れやかに笑って。

 

「今日この後、お姉ちゃんが迎えに来てくれるんだ」

「へぇそうかい……まあこんな御時勢だ」

 

 むしろこの娘一人、この時刻からどのように帰宅するのかと要らぬ節介が湧いたものだが。

 それを聞いて筋違いな安堵など噛んでいる。近く危うい事態を痛感したばかり。その点ではある種、臆病にもなろうか。

 すると、娘は思いも寄らぬことを言い出した。

 

「哲也くんも一緒に帰ろうよ!」

 

 

 

 

 

 

 



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16話 それぞれの帰り路

リハビリ




 

 

 身延の駅前通りを過ぎ、右手に富士川を望む。

 赤信号を前にブレーキを踏んで、鳥羽涼子は握ったハンドルのクラクションへ向かって溜息を落とした。

 

「あぁー……びっくりした」

「なーにがー」

「さっきの」

「んえー?」

「さっきの人! 本栖の生徒さんでしょ?」

 

 酒に焼かれて溶けてだらけて緩みきった声がなおも後部座席から響く。

 信号を気にしながら、涼子は後ろを振り返った。

 そこには相変わらず酔いどれのアホ面が……見当たらなかった。

 

「……」

「お姉ちゃん?」

 

 姉は遮光ガラスの向こう側をぼんやりと眺めていた。いや、あるいは、もっと別の何かを。

 その目は、ひどく遠くを見ていた。河原の向こう、河面を越えて、その向こう岸の街景さえ過ぎ去って。ここではないどこか、誰かを。

 

「んー……」

 

 美波はただ応答とも呻きともつかない声を上げた。

 

「どうしたのさ今日は。いつになくダウナーじゃない?」

「べっつにー」

「今更生徒にお酌させたのが後ろめたくなってきたとか?」

「そんなんじゃないしー。それにあれは薙原くんからしてくれたもーん」

「いや、言っとくけどそれなんの免罪符にもなってないからね」

 

 開き直るどころかいっそ自慢げな姉の様に涼子は危惧を覚えた。社会倫理的な意味で。

 

「……異様に様にはなりそうだけど。ホントに高校生? あの人」

「当ったり前でしょー。あんたこそなに言ってんのよぅ」

「や、だって……あんな雰囲気の男の子、大学にだっていないもん。なんていうかすごい、大人びてて。途中からどっちが年上だかわかんなくなったし」

「でっしょー! すごいのよー薙原くん。優しくて気が利いてて、力仕事とか率先して手伝ってくれるの。なんかねー頼り甲斐あるもんだから、こっちもいろんなこと話しやすくてぇ。嫌な顔せずにいろんなこと聞いてれてぇ。ホンっトいい人……いい人、なんだぁ……うへへ」

「……」

 

 バックミラーには蕩けた笑顔、にやにやとだらしなく姉は笑い声を漏らす。絵に描いたような上機嫌だった。けれど、しかし、どうしてか、姉のその様子は妹にとり、ひどくひどく不穏に思えてならなかった。

 

「ねぇ、お姉ちゃん。まさか、だけど……」

「え~?」

「こ、高校生の子相手に、まさか変な気起こしたりしてないよね……?」

 

 我ながらなんてことを聞いているんだろうと涼子は自分自身に呆れる。現役女性教師が、未成年に、まして自身の教え子に不埒な存念を抱いているなどと。

 だから涼子は、当然に飛んでくるだろう怒声を覚悟して肩身を強張らせた。

 しかし、いつまで経っても返答はない。

 程なく信号は赤から青へ。ゆるくアクセルを踏み込みながらも、ちらとバックミラーで姉の顔を覗う。

 そこには、赤い顔があった。そしてそれは、明らかにアルコールによる血色の増加ではない……それは見事な、羞恥の紅潮。どんな深酒をした日でも、この姉がこんなに赤くなったところを見たことはなかった。

 

「……え、マジで?」

「んな、な訳、ないでしょっ……! な、な、薙原くんは、生徒! 生徒にゃんだから! ばっ、ばか言わないでよ、もう……」

「…………」

 

 狼狽も露に語気を荒げる美波の有り様は、まるきり図星を突かれた子供同然で。

 

「そ、そりゃ最近は何かと声掛けてくれるから他の生徒より仲は良いかもだけど……さり気なく労わってくれてるんだなーっていうのが伝わってきて……そういうの、すごく嬉しいけど……だ、だからって別に!」

「…………」

「べ、べつに……うぅ……」

 

 みっともない慌てぶりを晒していることを自覚してか、途端、美波は黙りこんだ。

 

「お姉ちゃん」

「な、なに」

「本当に、本当にお願いだからさ。新聞に載るようなことだけは、しちゃダメだからね?」

「しないわよ!!」

 

 心底神妙な妹の言い様に発憤する。酒癖を(たしな)められるより遥かに心外な心配をされている。

 

「……する訳、ないでしょ……」

 

 見当違いも甚だしい筈のそんな指摘に……こんなにも狼狽えている。

 鳥羽美波は憤った。なにより今、激しく早鐘を打つこの心臓が、憎らしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蕎麦屋の駐車場に滑り込んできたのは、目の醒めるような鮮やかさの青い車体。角張ったフォルムに見られるレトロ感を、丸目にカスタムされたヘッドライトが程よく和らげ、なんとも可愛らしい姿。

 停車したラシーンの運転席に撫子髪ちゃんが近寄る。パワーウィンドウの奥に座る女性が、どうやら件の姉御である。

 二、三の問答の末、撫子髪ちゃんがこちらを手招く。

 

「哲也くーん、乗って乗って!」

「あいよぅ」

 

 後部座席のドアを開け、乗り込む。

 ベージュの革張りシートの手触りはやや固い。フロント同様に内装もチューンされてからまだ日が浅いのやもしれぬ。

 車種の懐かしさと小綺麗な真新しさを面白がる、よりも前に、己はまずこの(しろ)の主に向き合った。

 やや大きな黒のセルフレーム眼鏡、車内灯の控えめな暖光の下でなお一層に濃く深い紫紺の髪、面差しはなるほど撫子髪ちゃんとよく似ている。しかし朗らかな妹御に比べ、こちらは年相応に落ち着いた印象を纏う。まさしく怜悧と呼ばわるのが相応しい。

 各務原の姉御前は、控えめな愛想笑いで己を出迎えた。

 

「こんばんは」

「ええ、こんばんは。突然に申し訳ない。図々しく妹さんの配慮に(あやか)っちまって、手数お掛けします」

「えっ、あ、いえいえ」

「あはは、そんなこと気にしなくてもいいのに~。さあさあ遠慮なく寛いでいきなされ」

「あんたが言うな」

「あたっ」

 

 下げた頭の向こうで、姉妹らしい遣り取りを聞く。先程居合わせた鳥羽姉妹とはまた違った忌憚の無さ。

 今度こそ、その可笑しみに笑みが零れた。

 

「一応電話で聞いたけど、家は駅向こうだっけ?」

「えぇえぇ、ほんのすぐそこで。とりあえず波高島に向かって通りを上っていただけますかい」

「了解」

「よしなに」

 

 

 

 

 

 午後八時。帰宅ラッシュのピークなどとうの昔に過ぎた頃合い。車通りは落ち着き、疎らに横切る店の灯りを車窓から望む。左手には富士川の穏やかな川面の波立ちが見えた。

 

「にへへ~」

「なんだぃ。えらく上機嫌だな。なんぞ、良いことでもあったか?」

 

 そして右隣では、少女がなにやら嬉しそうにこちらを見上げてくる。

 撫子髪ちゃんはどうしてか、助手席ではなく後部座席に乗り込んできた。

 

「むふふふ、あるよあるよ。すっごいあるよ。それはね……」

 

 如何にも勿体付けて、おもむろに娘子はブレザーのポケットを(まさぐ)った。取り出された手には紙片が握られている。折り畳まれていたそれを広げ、まるで印籠の如く少女はその紙面を己に掲げ見せた。

 A4用紙。その題字には。

 

「入部届?」

「じゃじゃーん! ようこそ野クルへ!」

 

 喜色満面の笑顔で娘は言った。

 反してこちらは応えも鈍く、というよりなんのことやら訳もわからぬ。

 

「哲也くん、前教室で言ってたもんね! 野クル入ってみたいって」

「……あぁ、あれか。いやありゃあなぁ……」

「でも哲也くんもキャンプが趣味だなんて知らなかったよ~。もっと早く教えてくれればよかったのに! シャイボーイだねぃこのこの~」

「そうともその通り。俺ぁシャイなあんちきしょうなのよ。うん、だからな」

「えへへ、これで部員も四人! 部に昇格できるから部室も広くなるし、あぁあとあと! 部費が増えてもっといろんなところにキャンプ行けるんだって!」

 

 宝石も斯くやの輝きを放って大きくてまぁるい瞳が二つ、ずずいと己の面前に迫る。

 

「リンちゃんと斉藤さんも誘って、今度は哲也くんともグルキャンやりたい! 先生も合わせて今度は七人! 絶対楽しいよ!」

 

 朗らかさと同じくして、なかなかどうして押しも強い。撫子髪ちゃんは実に無邪気であった。

 無邪気に、己のサークルへの参入を確信していた。決定事項とばかりに。

 

「ね、ね、哲也くんはテントとかシュラフどんなの使ってるの!? 私はねぇ~」

「ちょいちょい、待っておくれなお嬢さん。一体全体なんでまたそう話がスッ転んじまったんだぃ。周到にそんな紙っぺらまで用意してよ」

「え? これ? アキちゃんが今日くれたんだ!」

 

『薙原はもはや野クル準メンバーも同然……いい機会だからなでしこちょっとこれ持って薙原のこと入部させといて。なでしこ相手ならまああいつも観念するだろうなっはははは!』

 

 眼鏡のちんちくりんが高笑いする様が克明に脳裏を過る。

 どうもあの娘は、快活なのだが随所に乱暴だ。交友ってものの機微が雑でいけねぇ。

 

「気持ちは嬉しいんだが、悪ぃな。そいつぁまたの機会に見送らせてくれるかい」

「え……」

 

 白熱電球が突如通電不良を起こしたかのよう。明るく華やいでいた娘の表情から灯が消える。

 

「ど、どうして? 野クル楽しいよ」

「いやいやそこは疑っちゃいねぇとも。お前さん達見てりゃよぉくわかる。くく、だからこそよ。己のようにシャイな男子は楽しい女子(おなご)所帯の邪魔なんざしたかねぇのさ」

「えー! 邪魔なんかじゃないよ~」

「それがそうもいかん。こう、良い絵面というものがあってな。いやぁそれの難しいのなんの」

「なにそれぇ意味わかんないです~」

「ははは」

 

 唇を尖らせぶう垂れる。打って変わった満面の不満顔で、娘は己の肩を揺すった。

 

「入ろうよ~。入った方がいいよ~。今なら信玄餅もついてくるよ~」

「時折無性に食いたくなるなぁ。おぉ、そんならどうだい。今度信玄餅工場のぉほれ、なんとかいうテーマパークでも行ってみるかぃ。信玄餅造る様子を見学できるってぇ話でなかなか面白ぇそうだぜ? 中にゃ出来立てを頂けるカフェーもあるとか」

「え!? そんなのあるの!? 出来立て信玄餅食べたい! ……って、誤魔化されないよ!?」

「ははっ! 駄目か」

「むぅ~!!」

 

 ぐわんぐわんとメトロノームのように揺れ揺られ、そろそろ三半規管の悲鳴が聞こえてこようかという頃。

 

「なでしこ、いい加減にしな」

「お姉ちゃん……」

「本栖って部活動強制じゃないんでしょ。本人が入らないって決めてるんだから、無理強いすんじゃないわよ」

 

 前方の車列を見ながら、各務原の姉君はぴしゃりと妹御に言い切った。流石姉妹。叱る語気にも巧拙あるが、姉御のそれは実にしっかりと躾の行き届きが感じられる。

 

「で、でもでも、せっかくこうやって知り合えたんだし、ほ、ほら! 哲也くんも言ってたでしょ、あ、あ、アイエーキエー! って」

「合縁奇縁な」

 

 そのような奇声を上げた覚えはない。

 

「哲也くんが入ってくれたら、絶対楽しいのに……」

「ははぁ嬉しいこと言ってくれるなぁ、撫子髪ちゃんは」

「…………」

 

 寂しげに呟きを落とす娘子の頭にそっと掌を置く。鮮やかな撫子の色味が、車内の暗がりであっても華やかだ。

 しかし、そんないじらしい求めにも、おいそれと応えてやることはできない。部活動は学校生活における主戦場の一処。それをこの爺の一存で決める訳にはいくまい。退き際というなら、この辺り。

 苦笑を噛む。さんざ好き勝手動き回っておいて、今更と、言われっちまえばそれまでだが。

 

「そうさな。もしやすれば()()()の気が変わって、むしろこちらからどうか郎党に加えてくだされと懇願しに参るやもしれん。そん時ゃそりゃあもう、今日今宵のことを引き合いに精々焦らしてやってくんな。この野郎掌返しやがって、なんつってな」

「……ふーんだ。後悔したって遅いんだからねー」

「ハハハハ! いやまったく、とんだ罰当たり者よ。ハハハハハッ!」

 

 柔らかに髪を撫で梳いてやると、娘子は仔犬のように頭を擦り付けてきた。それは愛らしかったが、それがなにやらいじらしく、労しい。

 おそらくは、叶えてやれない。責めを取れもせぬ死人の老爺が、子供と約束を交わすこの不遜。あるいは罪でさえある。

 すまぬ。腑の底にぽつりと一つ詫びの言葉を吞み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あんたにしては珍しいじゃない」

「え? なに」

 

 少年を自宅近くに下ろし、帰路を走る道すがら。出し抜けに桜は口を開いた。

 助手席に座り直したなでしこが、運転席の姉の横顔を見上げる。

 

「随分しつこく食い下がってたから」

「あ~、にへへ、そうかなー」

 

 何故か照れ顔で頭を掻く妹を、横目に盗み見て桜は、僅かに目を見開いた。

 妹の相も変わらない暢気な様、そこに微か……誤魔化しの色、のようなものが見えたから。

 天真爛漫、悪く言えば天然おバカなこの妹。そんな子が、なにやら物思い、またその本心めいたものを隠そうとする。ひどく、新鮮だった。

 

「……ふーん」

「な、なに? どうしたのお姉ちゃん?」

「あんたも、そろそろそういうことに興味持つ齢なんだって、思っただけ」

「へっ」

「薙原、哲也くん? だっけ。結構しっかりした人だし、あんたとならバランス良さそうじゃない?」

「えへへそうかなぁ……って、ち、違うよぉ!」

 

 照れ顔が慌てふためいて赤らむ。驚きと戸惑いが半々。色恋的な甘さ酸っぱさは、あるようなないような。

 当てが外れたか、桜は内心に首を捻る。

 

「哲也くんのことは、べつに、そんな風には……う、うーん? ち、違うと思う。たぶん……」

「……」

 

 迂闊なことを言ったかもしれない。火の手もないところに、むしろ燃料を注いで焚き付けてしまったような。

 あまりに無垢な妹に呆れ、それに妙な示唆を与えてしまった自分に桜は溜息を吐いた。

 姉のそんな自戒を知る由もなく、なでしこはむむむと考え込む。

 

「というか、哲也くんにはもうあおいちゃんが……」

「……へぇ、そうなんだ。まあ高校生だもんね」

「あ、でも、リンちゃんも」

「え?」

「これってやっぱり三角関係なのかな? そ、それとも哲也くんの、浮気……?」

「…………なでしこ、とりあえず家に着いたら詳しく聞かせなさい」

 

 不穏当な妹の発言に眉根を寄せて桜はアクセルを踏む足に力を入れた。

 胸中に湧くのは期せず現れた妹のボーイフレンドに対する不信……ではなく、瑞々しい好奇心。香ばしいゴシップの匂いがぷんぷんと。

 満更でもない妹の顔が、なお一層に面白そ、もとい興味を誘う。

 母を交えて、今夜は家族会議に花が咲きそうだ。

 

 

 

 

 

 

 



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17話 年寄の冷や水と勧誘と確信

 

 

 ビジネスホテルのシングルルーム。一人掛けのソファに丸テーブル、化粧台にシングルベッドが狭苦しく押し込められた一室に踏み入る。

 バイクのキーをテーブルへ放り、固いソファに身を沈めてようやく人心地つける。

 新城肇は天井へ向け唸り、息を吹き上げた。

 

「……」

 

 二日掛けで、山梨近縁のキャンプ場やバーベキュー等に向けて拓かれた屋外レジャー施設を巡り、職員や近隣住民に聴き込みを行った。例の朝霧キャンプ場で撮影された写真のコピーを手掛かりに赤い軽自動車の目撃談を探ったが……収穫は無い。

 もとより、期待は薄かった。素人の聴き込み程度で何かしら証言が拾えるなら警察の捜査がこれほど難航する筈もないのだから。

 わかりきっていた結果だった。とはいえ、骨身の損耗を覚えずにはおれない。肩身に圧し掛かる疲労感は何も肉体のそればかりでなく、むしろ精神にこそ重く。

 この老いた心根には、重く。

 

「まったく……」

 

 柄にもない、そして年甲斐もないことをさせてくれる。

 旧き友。善しも悪しきも併せて共にしてきた。それがもはや思い出の中に仕舞われるばかりの記憶なのだと割り切った筈だ。

 しかし、奴は戻った。今際の際の向こうから、冥土の深みか浄土の高みから。

 非常識な話だ。まったくふざけている。

 だが、それでも、死に水すら取らせず独り今生を去った男に憎まれ口を叩かれ、また叩き返せる。それがどれほど……どれほどに。

 

「…………」

 

 そして、間違いなく天道正理を逸したこと。世の常、正しい営みを乱す。死んだ者が蘇るなど、あってはならないのだ。まして、それが一人の若者の生命の上に降って涌いた奇事となれば、もはやそれは災いでしかない。

 奴の、不二崎の言の通り。

 あの日、リンの治療を待つ病院のエントランスで、自分の気は確かに迷った。期せず得たこの再会を、名残惜しんだ。薙原哲也という一人の少年の一生涯を犠牲にさせようとさえ考えた。その短慮、軽挙妄動は反論の余地もない。

 愛孫に及んだ凶手に心底より憤怒(いか)り、そして魂で戦慄(おそ)れたが為。喪失を思い知った。いや、それがまざまざと思い出させた。

 死とはこんなにも近く、隣り合っているのだと。

 

「……ふ、齢はとりたくないな」

 

 肺から煙でも吐く心地で失笑する。

 気の迷い、それとも気の弱りか。己の心身が年齢相応に耄碌してきた、ただそれだけのことなのだ。

 

 ────カッ! 年寄の冷や水だぜ

 

 ふと、ジャケットのポケットに違和感を覚える。硬い感触が、皮革の下に埋まっている。

 ざらりとした質感のグリップ。畳まれた三段伸縮式特殊警棒であった。あの夜、奴から預かったまま忘れていたらしい。

 武骨な黒々とした鉄器が、どうしてか自分を笑ったような気がした。

 

「年甲斐もないのはお互い様だ」

 

 今ここには居ない、しかし今ここに()()そいつにいつもの調子で悪態を飛ばしたその時、不意にスマホが震えた。

 画面には、一人娘の名前が表示されていた。

 

「もしもし」

『もしもーし。今大丈夫だった?』

「ああ、どうした」

『うん、ちょっとね』

 

 電話口の遠間にリンと、おそらくは渉くんの声が聞こえる。脳裏にダイニングとリビングの光景が浮かぶ。夕食を済ませた後なのだろう。

 

『あ、そうだ。別の用も思い出した』

「うん?」

『ねぇ、薙原くんって子のこといい加減教えて欲しいんだけど~』

「……うむ」

 

 途端、口唇が重くなる。そしてこちらのだんまりの気配を嗅ぎ取った咲が、いやに呆れ深い溜息を吐くのが聞こえた。

 

『おじさんの親戚? それとも、綺理枝さん?』

「……奴の遠縁の子だ。血の繋がりはないらしい」

『ふーん……』

 

 嘘ではない。限りなく無に等しいが、奇妙な一本の縁によって結ばれた間柄ではある。ただの詭弁だが。

 しかし我が愛娘はどうも父に似ず、母より譲り受けて勘の冴えた子であった。納得の色から程遠いその声に、嫌な汗が浮かぶ。

 

『実はおじさんの子供か孫だったり、しない?』

「それはない。奴は骨の髄から綺理ちゃんに惚れぬいてる。間違ってもありえん」

『……そっか。ごめん』

「いや」

 

 彼女はいつだって日向のようだった。人生を軽やかに、どんなことがあっても心から楽しみながら過ごせる稀有な人だった。不幸さえ彼女に掛かれば一つの大切な思い出に変わる。

 大切な、思い出になって彼女は今も、今も奴の中に。

 

『おじさんの親戚の子なら一度くらい会ってみたいな。父さんが思わず不二崎! なぁんて呼ぶくらいだもんね。ふふふ』

「あれは……」

『いい子なんでしょ、きっと。おじさんみたいに、いい人なんだって、父さん見てたらなんとなくわかるわ……ふふ、それに私のこと美人だって褒めてくれたしね』

 

 お道化て笑う娘に何と返したものやら。誤魔化しに笑声混じりの吐息が鼻を抜ける。

 今生の別れと思えばこそ許せた言い様だったが、あの軽口屋め。

 

「あー……そう。そうだ。それで、肝心の本題はなんだったんだ」

『ああそうそう忘れるとこだった! お父さんのスマホにアプリを入れて欲しくて』

「アプリ? なんのだい」

『前みたいなことがないようにって渉さんと相談して買ったやつなんだけど。リンに持たせた防犯グッズがね────』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝晴れの突き刺さるような冷えに肩身を縮め、逃げ込むように校内へ踏み入る。

 己の下駄箱を探して右往左往彷徨うことももはやなくなり、一直線、上履きを取り出す為に薙原と表札の張られた小さな扉を開く。すると、そこに見慣れないものを見付けた。

 

「ん?」

 

 折り畳まれた紙である。つるりと滑らかな上質紙にレーザープリントを施されたチラシだ。

 開いてまず目に飛び込んでくる富士の峰と湖の風景。今春新たに開園するキャンプ場の告知ビラであった。敷地面積も然ることながら、小洒落たコテージや各種レンタル備品、豊富なアメニティ雑貨はキャンプ初心者には有り難かろう。加えてシャワー室は勿論テント型のサウナまで完備と、なかなか至れり尽くせりなレジャー施設である。

 ここまでの規模、昨日今日始まった創業計画でもあるまい。こんな時期に開業を余儀なくされる商売(あきない)の不条理を憐れに思う。とは余談だが。

 

「誰の仕業かねぇ」

 

 下駄箱に納められるものとしては色気がない。恋文を送る習慣が今時の子らにまだ残っているかは知らぬが。

 紙をブレザーのポケットに仕舞い、教室に向かう。

 

「……」

「……」

 

 エントランスの柱の影に二人。こちらを覗う目があった。悪巧みの好きそうな眼鏡の悪戯子猿と、その頭に覆い被さる雄大な二山の乳房。

 声を掛けてもよかったが、気付かぬふりで素通りに歩き去る。隠密ごっこは楽しそうだ。水を差すのも悪かろう。

 

 

 

 

「おーっす薙原」

「おう、おはようさん。ほれしゃんとしろ、襟が曲がってるぜ」

「薙原くんおふぁよぉ~~」

「おはよう。カッカッ、豪快な欠伸だなぁおい。夜更かしも程々にな」

 

 教室の戸を潜り、擦れ違う級友らに挨拶を交わす。そうして窓際の己の席を見やれば、異変は一目瞭然であった。

 卓上になにやら、先日帰宅した際には確かに無かった筈の品々が並べ置かれている。

 BIVOUACと題字された雑誌が数冊。卓の中央にはアンティーク調の洒落たガスランタンが鎮座し、脇には松ぼっくりが二つに、何故かツナ缶が一つ。

 花でも活けられていたなら、性質の悪い悪戯か、あるいは凄まじく察しの良いクラスメイトによるこの爺への餞と目せたやもしれんが、どうも趣が違う。

 卓上を指して、既に隣席に座っていた茶髪少年に首を傾ぐ。

 

「この土産はお前さんからかい?」

「ちーがーいーまーすー。向こう向こう」

「んー?」

 

 教室前方、座席の影からひょっこりと撫子色の頭が見える。その娘は努めて注意深くじぃ~っとこちらの様子を盗み見ている、つもりのようだ。

 なるほど。得心するものはあった。ブレザーのポケットにあるビラと合わせ、これはどうやらあの子らなりの勧誘らしい。

 茶髪の坊は唇を尖らせた。

 

「なーんかー、てっちゃん各務原さんとめっちゃ仲良くなってないっすかー」

「さて、なんぞ特別なこともしちゃあいねぇんだが、どこに懐いてくれたかねぇ。あぁ、飴ちゃんがよっぽど旨かったのかもしれん」

「違うもん!」

 

 ひょこひょこと近寄ってきていた撫子髪ちゃんが叫ぶ。心外極まれりとばかり。

 

「おやつ目的じゃないもん! 哲也くんの、哲也くんのぉ……センス? テクニック?」

 

 運動部でもあるまいに。素人のアウトドアレジャーにセンスとテクニックを問われる項目があるのかどうか。

 腕組みしてうんうん唸るまま三つほど数えた時、ぽんと手を打って娘は。

 

「哲也くんの体目当てなんだもん!」

「でけぇ声で不埒なことを言うんじゃねぇや」

「およ?」

 

 瞬時、教室内の空気が氷結した。とはいえすぐにそれも融ける。級友ら一同、発言の主を見て取って即座それが呆けた戯言と理解したようだ。

 娘子の人徳というか、扱いが知れるというか。

 

「とにかくほら! これ、このランプ見て見て! 可愛いでしょ~!」

「うん? こいつぁ撫子髪ちゃんの持ちもんか」

「うん! 初めてのバイト代で買ったんだぁ。一回家の中で点けてみたんだけどね、すっごくいいんだよ! 光があったかくてね、ほっこりするの。きっと夜のキャンプ場ならもっと雰囲気出ると思うんだ~……チラチラ」

「そりゃいい買い物をしたな。大の字とあおいちゃんに精々自慢してやれぃ」

「むむむ……あっ、じゃあじゃあこれは!?」

 

 娘が卓上のBIVOUACを一冊取り上げ、ページを開く。

 

「寒がりの哲也くんにイチオシなのはこれ! 電気ヒーター付きブランケット! これすごいよ。モバイルバッテリーを繋いでボタンを押すと電気毛布みたいになるんだって! これでどんなに寒い日もキャンプし放題だよ!」

「おぉ? 俺が寒がりだなんてぇのをよっく知ってたなぁ」

「ふふふ~。調べはついてるんだよ哲也くん……って言っても、リンちゃんに教えてもらったんだけどねい」

 

 はにかみ顔で撫子髪ちゃんは頬を掻いた。

 確かに。通り魔を取り逃がした夜、新の字の到着まで間を持たせようと、あの娘にはそんな箸にも棒にも掛からぬ話を聞かせてやった気がする。それを覚えていたとは。

 

「ほー羽織りのように着られるのかこいつぁ。ははぁ、自宅で使うにも取り回しが良さそうだな」

「えぇ~!? 違うよぉ。キャンプで使おうよぉ」

「いや活動的な撫子髪ちゃんにゃ申し訳ねぇが、残念。今の時期は特にだが、家でぬくぬくと惰眠を貪る方が己の性には合ってんのさ」

「むぅぅう嘘だ~! リンちゃんのお祖父ちゃんとバイクでツーリングしてるって聞いたもん!」

 

 どうも撫子髪ちゃんと相対した時に限り、リンちゃんの口の戸は閂が不具合を起こすようだ。筒抜け、という。

 仔犬の威嚇染みた睨みを呉れながら、撫子髪ちゃんは己のブレザーの裾をぐいぐいと引っ張った。

 

「ぬーん! 哲也くんの意地悪ー!」

「各務原さん無駄無駄、てっちゃんの本命は同級じゃないもん」

「え」

「てっちゃんはぁ田原センセ一筋だもんな~?」

 

 嫌味ったらしくと言おうか底意地悪しと謗ろうか。茶髪少年はにやにやと口端を吊り上げ言った。

 瞬かれながら大きな瞳が己を見上げる。

 

「そ、そうなの……?」

「さて、そこまで純に熱上げてた覚えは、生憎とねぇなぁ」

 

 哲也の記憶やら想い願いを己が覚えている訳がないのだから、嘘はない。所謂一つの、詭弁である。

 

「うーそーだー、てっちゃん田原の授業ん時はいつも超熱視線だったじゃーん。むしろ俺らが引くくらい。わっかんないわー。あんなキツイ年上好みとか。いや年はこの際いいけどさ、性格がヤバいじゃんあの人。誰も彼も嫌いっぽい感じだし」

「そんなことないよ!」

 

 キン、と鼓膜に負荷を覚える高音圧。それを発したのは誰あろう傍らの娘子。

 なでしこはそれ自身の声にこそ驚いたかの様で、恥ずかしげに俯いた。

 

「……田原先生、悪い人なんかじゃないよ。普段はすごく厳しいし、恐い時もあるけど……けど、ホントはすっごく優しいんだよ?」

「そうなのかい」

「うん! だってクリキャンの時も────あ」

 

 突如少女は自分自身の口を両手で覆った。それはさも、しまったという風情で。

 くりきゃん……クリスマスキャンプ。

 

「クリスマスのキャンプ。野クルの面子と、あの斉藤という娘さんと、リンちゃん。皆で朝霧のキャンプ場に赴いたそうだな」

「うん……」

「そのキャンプのことで、お前さんに田原先生がなにか言ったのか?」

「…………」

 

 娘は即座、返事をしなかった。ただ誤魔化しに嘘や出任せを口にすることもなく、その表情ばかりが沈痛に翳っていく。

 近く覚えがあった。この姿、この光景、この遣り取り。鳥羽教諭との問答で、彼女が口を噤んだあの時の貌。

 同じ。同じものを、この娘も呑み込んでいる。

 この明朗快活な少女がそれでも口を閉じ腹の底に秘め置く事実。秘め密めなければならないと決心させるほどの事柄。辛かろうに。

 その心の痛みを理解しながら、それでも問いを重ねる。刑事の性分(さが)、あるいはもはや業の領域だ。

 こんな幼子に、俺は。

 娘に一歩近寄って、その耳元に顔を寄せる。教室内の誰にも聞き取れぬほど潜めた声で。

 

「なでしこちゃん。一つだけ、教えてくれ。その一つさえ聞ければ、俺はこれ以上何もお前さんに訊ねたりしねぇ。だから頼む。これから言うことがもし当たってたんなら、頷いてくれるだけでいい」

「……」

「あの日、12月24日の夜、朝霧のキャンプ場で……田原先生に会ったんだな?」

「…………」

 

 少女は微か、ほんの微かに────頷いた。

 ひどく無遠慮な音色で間延びした予鈴が鳴った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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18話 試金石の一投

先生が可愛いだけの話にしたかった(願望)




 

 

「はぁああ……」

 

 教室を出て廊下を歩くことしばし。生徒達の視界から離れたのを見計らい、腹腔に溜まった大きな大きな息を吐いた。

 幸い朝までにアルコールはきちんと抜ききって来た。酒臭い吐息を神聖な学舎に撒き散らすような真似はせずに済む。

 神聖な、そう神聖な学校の誉れある教職に従事するのが今の自分だ。第一学年副担を奉職するのが今の私、鳥羽美波で……。

 

「はぁあああやっちゃったなぁもぉおおおお」

 

 教科書に額を押し付けて、埒も立たない後悔を吐く。

 己の酒癖が遂に悪報をもたらした。自業自得の四文字がずしりと背中に圧し掛かる。

 生徒の前で醜態をさらすのは、ぶっちゃけ初めてではない。プライベートで赴いた四尾連湖キャンプ場での各務原さん、志摩さん二人との遭遇はまあ奇遇の不運と言い訳できる。クリスマスに行ったサークル活動としてのキャンプでは、例の事件の所為でそもそも深酒する暇も余裕もなかった。はて、それは幸か不幸か。

 だから昨夜の始末はその意味で、完全無欠な失態と言える。

 

 ────美波ちゃんはいい子だよ。頑張り屋でしっかり者で、本当は

 

「可愛い子……えへ、可愛い子、だってぇ……えへへへへへ」

 

 優しいけど、どこか呆れた風な、しょうがないなみたいな、そんな口調で褒めてくれた。

 ふにゃふにゃとゆるむ頬と背骨、肩肘の凝りも柔らかくなる心地だった。口元を教科書で隠しながら、無意識にイヤイヤと体が揺れる。

 揺れて揺れて。

 

「えへへじゃないでしょぉおおおおおお」

 

 教科書で額をばんばんぶっ叩いた。脳から惚けた邪念を追い払う。

 お酌されたぬる燗で酔っぱらって猫撫で声で何を要求してるのか。●歳年下の男の子に、いやそれ以前に生徒に。自分の学校の生徒に!

 妹からの迫真の心配を心外だの不当だのとどうして文句をつけられた。犯罪すれっすれ。まかり間違って一献酌み交わしちゃったり、二次会とかふざけたことをもし実行して深夜中連れ回しちゃったりなんかしちゃったりした日には。

 

 じ・えんど

 

 未成年に対する飲酒の強要、未成年の略取誘拐、果ては……淫行。

 

「短い教員生活だったなぁ……」

 

 窓のサッシに手を付いて、項垂れたまま独り言ちる。

 幸いに、寸でのところで昨夜は帰路につけた。妹のお蔭というより、当の彼の良識的対応が功を奏してというところが大人として非常に残念だけど。

 C組の歴史担当でなかったのが不幸中の幸いだ。一体どんな顔で彼と差し向かえばよいのやら。

 

「……」

 

 学生時代にも、良い人はいた。そうした人と深い関係に至らなかったのは、当時の興味関心が専ら勉強であり行く行く目指す教職という分野に一目散向かっていたからだ。

 恋愛に関心がない訳じゃない。ごく人並に惹かれるものはある。確かに、経験は薄いし、疎いけれど。

 でも、だけれども、まさか、よりによって、ようやくそれらしい気配を感じた相手があろうことか自分の生徒だなんて。

 

「どうしよぉ……」

 

 情けない声をリノリウムの床に落とす。聞かれると大いに困る独り言を、今ばかりは堪え切れず。

 誰に相談できる。こんなこと。誰にも言えない。言える訳がない。

 

「野クルの……いやいやいやいやいやバカなの美波」

 

 とち狂った発想に走るほど迷走を始めた頭をぶんぶん振って、重い足取りを持ち上げる。独身女の迷妄など、教育委員会による厳正なカリキュラムは一瞬と待ってはくれない。

 早く次の教室へ。

 僅かに逸る心地で渡り廊下に向かう、その途上。

 

「……あれ?」

 

 窓から見える渡り廊下。校舎を繋ぐその架橋の最中に、記憶にも真新しい姿を見付けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 二時間目の授業を終えてすぐに教室を出る。

 思えば、校内で人目を忍んで誰かと対話を望むなら、昼休みや放課後はむしろ悪手である。いずれも人流が最も盛んに校内を行き来する。加えて、所用を持ってその人物の元に訪れる生徒や他の教職員があるやもしれない。

 彼女が確実に一人となり、かつ誰かしらの介入の可能性を最小限に留められる機。それは。

 それはこの、授業間に設けられた10分足らずの休憩時間。

 教員にとり、他クラスへの移動時間であり、その移動経路上以外にない。

 田原教諭の受け持ちは歴史。一、ニ時間目は一年生教室で。三時間目は二年生教室で授業を行う、とはかの茶髪少年からのタレコミだ。

 この学校は二年の教室だけ校舎が異なる。別棟へ移動するには二階渡り廊下を通るのが最短。

 かつかつと、硬質な音色が廊下を反響している。近付いてくるその靴音が不意に、止まる。彼女は渡り廊下の出口で待ち受ける己の姿を認めたのだ。

 

「……」

 

 相対した女の面相、表情、目の動向を見る。この刹那だけだ。意表外の対峙であるこの刹那にのみ、対する女の真が顕れる。即座に隠され消えるそれらを(つぶさ)に、見止め、逃さぬ。

 見取ったのは驚きと、僅かな怯み、そして……。

 

「こんにちは、田原先生」

「……こんにちは」

 

 微かな────怒り? 火口ほどにも満たぬ、燻りか、火の粉。それほどに小さな発露。

 意味も意図も知れぬ。わからぬ。

 ゆえに、確かめねばならぬ。この事件においてかの女生に如何なる関わりがあるのか、その端緒を掴み、手繰り寄せる。

 

「私に何か用かしら」

「ええ、ちょいとお尋ねしてぇことがありましてね」

「今は、遠慮してもらえる? 授業があるので」

 

 言うや己の脇を摺り抜けようとする田原に半歩詰め寄る。それこそ通せんぼ、といった風情で。

 

「なぁになに! ほんの一分で済みますよ」

「……些細なことならそれこそ後にしてください。あぁ……それなら、そう」

 

 ふと、尖る。険が宿る。その目に、瞳に、隠しようもなく。

 田原女史は己を睨み、低く言った。

 

「鳥羽先生でも頼りなさいな。とっても仲がよろしいみたいですし」

 

 鳥羽教諭を引き合いに出されることは、然程意外でもない。以前の遭遇時、己は彼女に味方したも同然の恰好であった。

 寄って集って悪者扱いされては厭味の一つも湧こうて。しかし。

 どうにもそれだけとは思えぬ気色が、ある。

 

「いや生憎そうもいきません。お訊ねしたい儀というのは、なんせ田原先生御自身のことなんで」

「私の……?」

 

 警戒の念が立ち昇る。火口から燃え移った焚火のように。その火勢に彼女の心根が隠れるより前に。

 核心へ踏み込む。

 

「連続通り魔事件第一の犠牲者は、あんたの婚約者だな」

「っ!」

「事件当夜、被害者が犯人に斬り付けられた後、あんたは管理事務所に赴きそこの固定電話を使って通報。同時刻には犯人らしき人間がキャンプ場から走り去る姿を目撃もされている」

「……鳥羽先生に、聞いたの」

「いいや。あの子は俺が執拗に問い質しても、頑として事件の詳細を口にゃしなかったよ。特に、あんたのこたぁね」

 

 教師としての義務感ばかりではない。あの娘は確かに心から、田原を慮っていた。

 

「己が殊更嗅ぎ回ることに長けておるのさ。無遠慮に、ずけずけとな。だがお蔭で朝霧での一件だけは、その全容が見えてきた」

「なにを、言って」

 

 田原は戸惑っている。目の前に立つ自身の生徒……の皮を被った訳知り顔の男、その得体を見失っている。

 

「後続する通り魔()()の手口は実に冷徹だ」

「ぇ…………っ、意味がわからない。失礼します!」

 

 刹那、銀フレームの眼鏡の奥で瞳に過った感情。

 それを押し殺して女史は歩き出す。靴底が一歩、床面を苛立たしげに打った。

 それに追い縋る。体ではなく言によって。

 

「対して、臭い立つほどの敵意で以て犯行に及んだ一件目。初めから奇妙だった。だがその動機が──婚約者の不義密通ならば、納得もゆく」

「ッッ!? 貴方……!」

 

 今度こそ、新鮮な敵意が我が身を射貫く。当然自然の憤りを露わに己を睨み付ける田原へ、向き合う。正対する。

 

「いい加減にして! 警察の真似事のつもり!? 人の事情に勝手な想像を当て込んでっ、何様なの……!?」

「なあ先生。あんたはあの日、12月24日、本当に朝霧高原へキャンプに行ったのか」

「はぁ!? 事件が起きて私が通報した、今貴方が言ったことよ!」

「ならばこう訊ねりゃわかるかい。()()()()()()()()()()()朝霧高原に入っていたなぁ誰だ」

「────」

 

 女の顔が凝固する。皮膚の下の表情筋が残らず石塊に変わったかのように。

 愕然と。

 

「やはり、そうなんだな」

「ど……どう、して……」

「あの日朝霧高原に婚約者と来ていたのはあんたじゃあなく、浮気相手の女だった」

「っ!」

 

 先のストーカー事件。その押収物である盗撮写真に写っていた、高原に乗り付けられた赤い軽自動車の正体が見えた。いやさ矛盾が。

 キャンプが趣味だと抜かす男、そして同じくアウトドアレジャーに通じSUVを乗り回す田原教諭。この両者の持ち物として、ちんけな軽などは到底適さない車種だ。

 それがキャンプだのアウトドアだの微塵の興味もない女の車となれば合点が行く。男の側がわざわざそちらに同乗したのも、おそらくは浮気の証拠が残るのを嫌ってのことだろう。走行距離やナビの履歴、あるいはもっと単純に髪の毛や残り香等々の女の痕跡……車という密室には使用者の動向が如実に残留する。

 甚だ浅ましい話だが。

 

「し、知らない。私は、そんなこと……!」

「あんたが携帯を使わず、あえて管理事務所にまで出向いて固定電話から通報したのは、犯人が逃げ去る姿を目撃されたその同時刻に、自分の姿を職員に確認させる為だ。そう、黒尽くめに変装させた浮気相手の女を使って。自分が犯人ではないという証明と、犯行に使用した凶器や服を現場から隠滅できる。一挙両得ってぇところか」

「ちがっ、違う」

 

 女史はたじろぎ、蹈鞴を踏んだ。肩身を伝うその震えが見える。

 瞳に宿る、その怯えが見える。

 

「は……はぁ……はぁっ……」

「先生、もはや隠し果せるものではないぞ」

「っ、ぃ……!」

 

 喉奥に悲鳴を飲んで、女はとうとう身を翻した。足取りを乱してその場から逃げようとする。

 咄嗟に踏み込み、手を伸ばす。

 遠退く女に追い付き、その……右手首を掴んだ。

 

「う、あっ……」

「……」

 

 強く、握り込む。袖の縫い目が皮膚を圧するほど。その奥の、骨の手応えを覚えるほど、強く。

 強く握って、田原教諭を見据えた。その顔を、注意深く見た。看た。

 そこには変わらず怯えに歪んだ表情があった。()()()()()()()。少なくない恐慌と、そして────失望が。

 

「!」

「あなた、まで……」

 

 か細く、脆弱に、女は呟いた。それは恐怖と後悔と、深い深い悲しみの貌だった。

 己の手を振り解いて女は駆けていく。渡り廊下を抜け、視界の外へと早逃げ去っていく。

 

「……」

 

 己はそれを追わなかった。この期に及び彼女が逃走を図るとは考え難い。

 しかし、この脚を縫い留めたのはそうした打算目算の類ではなかった。

 一つの可能性が確信に変わった。到底喜ばしきからは程遠い。

 

 ────犯人(ホシ)は一人じゃあねぇ

 

 

 

 

 

 

 



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19話 あなたであれば

映画が凄まじく素晴らしかった。
斉藤さんとチクワが心が辛くなるほど愛らしかった。





 

 

 田原教諭の後ろ姿を見送ったその足で、己は職員室へ向かった。

 室内に教員の姿は疎らである。今は授業直前の短い休憩時間なのだから、受け持ちがある教員は準備や移動をとうに始めている頃合だ。

 そんな人気の少ない職員室に、しかし好都合。見知った顔を見付ける。大町教諭だ。

 

「どうも、大町先生」

「あれ? 薙原? どうしたんだい。もう授業始まっちゃうぞ」

「ええわかってます。ちょいと野暮用がありましてな。大したことでもないんで、空き時間に済ませっちまおうと思ったんですよ」

「野暮用?」

 

 こちらの勿体つけた言い回しに焦れたか興味を引かれたか、教諭は先を促してくれる。

 我が意を得たり。

 

「それがですな、以前に鳥羽先生のお手伝いで保管庫に資料を運んだんですが、その時にうっかり学生証を落としちまったんですよう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 冷えた空気が顔を撫でる。踏み行った室内、埃臭い保管庫には幸いにして他の教員や生徒といった先客の姿はない。

 手にした鍵を目の前まで持ち上げ、軽く揺する。己の口から出任せを欠片も疑うことなく、大町教諭は実に快く、実にあっさりとこれを貸し出してくれた。

 人が好いというか気前が良いというか、少々迂闊である。騙し取った当の己が言えた筋合ではないが。

 あるいは、これもまた時代の変遷なのやもしれぬ。己の若い時分など、こんな密室の鍵が気軽に手に入ると知れた日には悪戯に使う輩が後を絶つまい。それにひきかえ今の子らは大層行儀が良いのだ。

 行儀の悪い老い耄れは、精々粛々と、そして手早く用事を済ませてしまおう。

 

「……」

 

 保管庫はその名にし負う通り物で溢れ返っている。様々な紙媒体資料、授業教材、備品が、棚や段ボール箱に仕舞われているならば良い方で、雑然と床に積み上げられ放置されているものも少なくない。

 木を隠すなら、の習いに則れば、ここは物を隠すのにうってつけの場所であろう。

 特にそう────犯罪に使用した物品を一時的に隠蔽するならば。

 

「……物証か」

 

 思えば、その疑問は旧友と再会し、剣呑な事件の顛末を聞いたあの時から常にこの胃に(もた)れていた。

 何故こうまで()()()。こうも捜査状況が進展しない。

 指紋、下足痕、犯行時身に付けていた服飾品、その繊維質でもいい。

 閑散期のキャンプ地、山間という犯行現場の辺鄙な立地。然ればこそ目撃証言が碌々集まらぬ事由も理解はできる。

 だが、警察発表が今日に至るまでここまで梨の礫に終始するなど、己の経験から言って有り得ぬことだ。

 どんなに周到に犯行を遂げようが、どんなに物的状況的証拠を注意深く隠滅しようが、それは残る。必ず残る。この世の存在である人間が為した行いは、この世に必ず爪痕を刻む。否が応にも。

 センセーショナルな連続傷害事件だ。口さがない世論の批評は後を絶たず、マスコミは悪評において手加減をしない。警察上層部の周章狼狽が目に浮かぶわ。

 警察はもはや手抜かりを許されない。少ない予算、足りない人員を掻き集め、人海戦術も厭わず、血眼の捜査が為されているだろう。

 だがそれでも、何も出ない。

 先日の()()が唯一であった。その時彼奴が手放した山刀と金槌がようやくの、初の物的証拠品。

 情けなし、の一語で片付けるにはあまりに不可解である。

 偶然や奇跡のような仕儀で証拠が消え去ったなどとは冗談にもならぬ。奇跡というなら、あの世から迷い出たこの身一つで十二分、嫌気が差す程度に足りている。

 何者かの、当然ながら犯人の作為によってそれらは今以て隠し果せられている筈だ。

 そして、それを可能にする術は、確かにあった。

 警察の目を欺き、捜査の手から逃れることの能う、方法、絶好の場所が。

 

「やはり学校(ここ)か」

 

 高等学校の生徒募集にありがちな“開かれた校風”などという謳い文句が、まさしく語るに落ちている。日本の学校とは兎角閉鎖環境だ。内部の様子は未成年者保護の観点からも基本的に見えず、漏れないよう留意されている。また逆に、外部からの干渉を嫌う……監査、調査等、第三者からの()()()を排除する傾向にある。警察沙汰などは最たる事案だ。リンちゃんや己に対して行われた事情聴取はその意味で、学校側にとっても例外的な已むを得ぬ措置であったのだろう。まず以て、警察を校内に招いて大掛かりな捜索を軽々に許諾などするまい。特に高等学校ともなれば毎年の受験者獲得の為に必死だ。下手な噂話一つが命取りになる。

 無論、この本栖高校が犯人の証拠隠蔽に直接協力しているなどということはあるまい。しかし警察の捜査に学校側が非協力的、いや協力に消極的である、それだけでも犯人にすれば利するところ大である。

 

「カァッ……まったく」

 

 胸に湧いた不快感を気息と共に吐き散らす。

 この発想の(おぞ)ましさを真に理解できるのは、我が旧友のような、人の親なればこそ。何を置いても耐え難かろう。

 我が子、可愛い孫娘の通う学校に、犯罪の証拠品が隠されているかもしれぬなどと。

 馬鹿馬鹿しい。くだらぬ。妄想にしても不謹慎だ。そう詰られて然るべき、飛躍した考えだ。

 だが筋は通る。理に合う。

 第一の事件の被害者にして被疑者と目され、丹念に執拗にその捜査対象とされた田原教諭。それでもなお、女の周囲から一片の手掛かりすら出ず、停滞する捜査状況。もし、もう一人、存在するかもしれない田原の共犯者ないし主犯格が彼女の職業的地位と職場環境を利用しようと発想したなら。

 公算は、そう低くはない。

 段ボール箱を手当たり次第に開き、積み上がった教材を掻き分け、棚を総浚いし、底板まで検めていく。

 何か。何かがある筈だ。ここには。この保管庫には。

 その確信、勘働き。そうだ。それは最初、己が薙原哲也に憑りつき、登校したその初日。

 大荷物に難儀していた鳥羽教諭を手伝い、ここまで資料の束を運び込んだ。あの日。

 

 あの時────何故、田原は保管庫(ここ)にいた?

 

 鳥羽教諭に雑用を任せておきながら何故、自らこんな部室棟の辺境に足を運んでいた。

 それはあれが、田原にとって予期せぬ事態であったからではないのか。雑用を任せた、との口ぶりであったが、実際のところ実情は異なるのではないか。

 校長や教頭が、田原の処遇を扱いかねていると鳥羽教諭は言葉を濁しながらも漏らしていた。本来は上役から田原に言い付ける筈の雑事を、面倒を嫌って他の教員に回している、と。

 あの時もそうだったのだ。

 田原は、鳥羽教諭に先んじて保管庫へ赴く必要があった。鳥羽教諭に見られては不味い“何か”を処理する為に。

 また一山、大型の書架の隣に積まれた資料を退ける。すると。

 

「!」

 

 木目調の床材。その表面に、日焼けしていない直角の痕、そして擦り傷がある。まるで、棚を無理矢理動かしてできたかのような。

 書架を窓際に押しやった?

 

「どら」

 

 書架の隙間と棚の縁に手を掛け、引っ張る。元の位置に戻す。

 そうしたなら当然、曝け出される。

 窓辺の支柱と書架の間に空いたデッドスペース。そこには。

 何もない。あるのは空間だ。書架と壁でできた死腔。

 しかし、それはあった。書架の背後に隠れていた。

 床の辺りの壁紙が薄汚れている。掌大の染み。日焼けではこうはなるまい。何かしら水気を浴び、吸い込み、渇き、茶褐色に変色を来たしていた。

 考えられるのは塗料。飲食物という線も、いや醤油だのコーヒーだのこんなところに持ち寄る物好きがいるならの話だが。ならば土か、泥か、山林の腐葉土あたりが妥当か。あるいは。

 もしやすれば、これは────

 

「……血液か」

 

 ポケットからハンカチを取り出し、壁紙の表面を()()()

 白い布地に茶褐色が移り、細かな粒が付着する。それを畳み、仕舞う。

 微量であろうと、成分を鑑定すればこれが何処の山の土壌であるか……誰の血液であるかを特定できる。

 物的証拠としては決定的だ。

 しかし、これを正式な能力ある証拠品とするには、令状を提示した上でここに鑑識を入れる必要がある。

 それ自体は簡単に実現する。俺が、今この場で通報すればいい。

 だが、意気揚々と警察が学校へ踏み込むような事態になれば、当然主犯(ホンボシ)は逃走を図るだろう。被疑者として警察から認知されている田原はともかく、未だその正体の掴めていないもう一人、真の切り裂き魔は、リンちゃんを襲ったであろう奴輩めは……取り逃がす。

 許さぬ。

 逃してなるものかよ。

 あの可愛い娘子の平穏を脅かした真犯人に対して憤怒が燃え盛っておらぬなどと言えば、嘘になる。元刑事の(さが)が犯罪者の跳梁を看過できぬと血を騒がせているのも本当だ。

 しかしなにより己は為さねばならぬ。この肉体を少年に、薙原哲也に返さなければ。

 その為に、真犯人と相対する。そしてそれはおそらく、不可欠の条件だった。

 己の勘働きはそう告げている。なんとも身勝手で、始末に悪い話だが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 放課後、図書委員の仕事もそこそこにカウンターで読書に耽る。

 図書室は自分一人。ストーブの傍に陣取って、静かな時間を独占した。

 また一項、ページを捲る。指先を手繰るだけのほんの些細な動作。それが少し、腕の傷を疼かせた。

 

「んっ」

 

 痛みに届かないくらいの微かな刺激。

 右腕の外側には、今も薄っすらとした縦傷がある。あの夜、切り裂き魔につけられた。

 

「っ……」

 

 まだダメだった。一瞬、思い出すだけで背筋に怖気が走る。

 呼吸が乱れて、手足が冷たくなる。

 心に根付いた恐怖はなかなか払拭できなかった。通院先のお医者さんも、時折連絡をくれる警察の人も、無理する必要はない、辛いなら学校を休んでもいいと言っていた。

 でも、それはむしろ逆効果に思えた。家の自室に一人でいたら、余計に思い出してしまう。

 黒い影、光る山刀、煙るような悪意。

 だから私は思い起こす。努めて記憶を呼び覚ます。その()()を。あの人を。

 あの人の、黒い影の怖さなんか蹴散らすくらい恐い顔を、頼もしい横顔を。そして、それから、あの目。優しくて、複雑で、不思議な。

 思い出すだけで、熱く、暖かくなる。

 私を────愛してくれる、あの人の眼差しを。

 

「……えへへ」

「あー、リン笑ってる~」

「うひゃお!?」

 

 思いがけないほど近く、横合いから掛かった声に飛び上がる。辛うじて椅子から転げ落ちることはなかったけど。

 恨みを込めて、カウンターに肘をつく斉藤の笑顔を睨む。

 

「いるならいるって言え」

「えー結構前からいたよ? なのにリンがずっと気付いてくれなくて、なんかにんまり顔でぽーってなってるから」

「な、なってない」

「嘘だー。あ、じゃあ写真撮って見せたげる」

「やめろ」

「なんならラインで皆にもジャッジしてもらおっか。うん、そうしよー」

「いやだからやめっ、やめろー!」

 

 暫く、斉藤とスマホの奪い合いを続けた。

 ストーブの暖気が暑苦しく感じる程度に疲れた頃、斉藤とカウンターを挟み向かい合う。いつもの駄弁の定位置。

 斎藤は終始にこにこ顔で、私のリアクションを面白がっていた。

 

「誰のこと考えてたの~」

「別に……」

「薙原くんのこと?」

「……」

「あはは、わかりやすいなぁリンは」

 

 内心を見透かされてるみたいでちょっと腹が立つ。

 言い訳するのも癪なので、返事はせず膝に置いた本のページに目を落とした。

 

「面白い人だよね。喋り方とか、時代劇の役者さんみたいで」

「下町言葉ってやつでしょ。今時珍しいけど使う人がいないわけじゃない」

 

 使っていた人を、私は現に一人知ってる。

 時代がかった言い回し、立て板に水のような流暢さで。おじいちゃんはあの人の口調を伝法だ、と言ってた。乱暴なとか粗暴なとかそういう意味らしい。

 おじいちゃんとあの人はよく言い合いをしていた。

 

『まったく年甲斐もない。いい加減その口調はなんとかならないのか』

『大きなお世話だすっとこどっこい』

 

 お母さんが呆れるくらい、いつもいつも。

 いつも、楽しそうに。

 私は好きだった。巻き舌気味に早口で、それでいて調子よくおじいちゃんと冗談を交わすあの人が。

 私と話をする時は、それがびっくりするくらい柔らかで、優しい口調に変わるのが。

 好き、だった。

 もう聞けない。荒々しくて優しいあの声を、言葉を、私が聞くことはもうできない。

 ないと、思っていた。ないと思ったから、私は必死に、あの人を、あの人との思い出を記憶の奥底へ押し隠してきた。けど。

 けれど彼は現れた。

 あの人のような言葉遣い、あの人のような眼差しの、彼が。

 重なる。どうしようもなく。似ている。

 顔も声も全然違う。だのに、言葉は、なによりその目が、私にあの人を想起させる。

 まるで、あの人が乗り移ったみたいに。

 自分の考えに呆れる。ありえない。そんな非現実的なこと、起こる訳がない。

 わかってる。母の言う通り、彼はあの人の親戚か何かなんだろう。そう考えるのが自然だし理屈に合う。

 わかってる。わかってるのに。私は。

 何かを、期待してる。ありえない、非現実的な、何かを。

 

「……あのね、リン。これは別に薙原くんのことを悪く言うんじゃないんだけど」

「?」

 

 おずおずとしたその前置きに思わず顔を上げて斉藤を見る。

 

「私、一年の頃、美化委員で薙原くんと同じ班だったんだ」

「そうなの?」

「うん……それで、ね。当たり前だけど、委員の仕事とか段取りとか、話したりすることも多かったの」

「ふーん……え? でも、前に」

 

 警察の人達と話をした後、廊下で皆と彼が顔を合わせた時、たしか斉藤は。

 

「うん、この前会った時、私初対面みたいな態度とっちゃったでしょ? 薙原くんは気を遣って話を合わせてくれたんだと思うけど。私、本当に最初気が付かなくて」

「忘れてたってこと? それはちょっと、可哀想というか……」

「ち、違うの! そうじゃなくて! 私が知ってる頃の薙原くんと、あの時の薙原くんが、なんていうか、重ならなくて。まるで……」

 

 斉藤は少しだけ躊躇して。

 

「まるで人が変わったみたいで……」

「…………」

 

 奇妙な話だった。薙原哲也という人と自分はクラスも違うし以前からの交流もなかった。判断などつかない印象だ。そんな違和感を理解しようもない。

 けれど不思議と、信じられた。斉藤がこういう話題で質の悪い嘘を吐かない人間だと知っているから。

 だけど、それ以上に。私は、私の心はその話を()()()()()()いた。

 

「…………」

「ご、ごめんリン! ホントに悪口とかじゃないの。ただ、不思議だなって思ったって、それだけだから……」

「え、あ、う、うん。わかってるよ」

 

 押し黙った私が、気分を害したように見えたらしい。斉藤は申し訳なさそうに目を伏せる。

 図書室に沈黙が下りる。時折、赤熱したストーブの金属が熱膨張で小さく軋んだ。

 その時、静寂を破って図書室の扉が開かれた。

 

「お! いたいた。リンに恵那! 揃い踏みだな」

「こんちはぁ」

「よかったー! 二人ともまだ帰ってなかった」

 

 入って来たのは千明にあおいさん、そしてなでしこ。いつもの野クルメンバーだった。

 放課後という時間帯、それぞれマフラーを巻きバッグを肩に提げた帰り支度の様子は、特に不思議ではないのだけれど。

 

「なになに、リンと私のこと探してたの?」

「ふ、とっくに調べはついてたぜ。お前達がこの時間、図書室に入り浸っていることはなぁ!」

「誰目線の物言いやねん」

「それにすっげぇテンション高……」

「くくく、後はもう一人の下手人を捕らえれば我が計画を実行に移せる」

 

 芝居がかった調子のセリフで頻りに眼鏡をくいくいと動かす。こいつのテンションの乱高下は正直、仲良くなった今でも苦手だ。

 あくどい顔の千明を横目に、燦々と笑顔のなでしこがカウンターに乗り出す。

 

「あのね、これから皆でカリブー行こうって話してたんだ」

「キャンプは行けず仕舞いやけどバイト代だけは溜まってくからなぁ」

「部活はほとんど自粛状態で校庭で落ち葉焚きもできないし。ならいっそ今後のグルキャンの計画をフルメンバーで相談しようって思ってさ。キャンプ用品見ながらの方がインスピレーションも湧きそうじゃん?」

「それは……」

 

 魅力的な提案だった。キャンプ以前に遠出自体が難しい今の自分にとって、近場のキャンプ用品店に行くことだって十分貴重な機会だ。

 近頃覗いていなかった分、何か面白い新製品が入荷しているかもしれない。

 しかし、それこそ今の自分には両親から許可が必要だった。そして晴れて前科者である自分にそれが与えられる訳もない。

 

「ごめん、私は……」

「とりあえず二人にはこれから薙原捜索隊に加わってもら……ん? なんか言ったか、リン」

「いや。ちょっと待って。そ、捜索隊?」

「せやで。薙原くんも誘て、先生も交えてゆくゆくは七人で」

「新グルキャン計画だよ! リンちゃん!」

 

 ぱっと花が咲くように笑いながら、なでしこはそう締め括った。

 本人の同意は……たぶん得てないのだろう。今まさに自分と斉藤が寝耳に水を食らっているのだから。

 でも、それは正直、少し、いや実際、かなり……心が惹かれる。

 

「でもアキちゃん、放課後に寄り道って大丈夫?」

「ふふふ、抜かりはないぞ恵那。鳥羽先生には報告済みだし、なんと帰りは車で送ってくれるって言質まで取れた」

「取ったいうか完全に先生の厚意やろがい」

「往きの道も問題ない。なんといっても強力なボディガードを用意している」

「用意も何もそれをこれから薙原くんに頼みに行くんやろがい」

「うんうん! というわけでリンちゃん恵那ちゃん! 哲也くん探すの手伝って欲しいんだ!」

 

 あれよあれよと話が進む。この自分には無い勢いというかハチャメチャ感は流石、野クルだと思う。

 

薙原(あいつ)部活やってないって話だしもう帰ったかと思ったんだが」

「荷物は席にそのまんま置いてあったわ」

「授業終わってすぐにどこか行っちゃって、リンちゃん恵那ちゃん、見てなぁい?」

「うーん、私もすぐに図書室に来てたから……」

 

 自分の遠出禁止と門限について言いそびれてしまった。勿論、このまま親に黙って寄り道をして行こうとは思わないけど。

 

「あ、薙原くんだ」

「え!? マジか」

「どこどこ」

「ほら、あそこ」

「あ」

 

 それはいつかの、不意の再会のように。

 図書室の窓の外、あの時はここにいる野クルの面子がテントを組み立てていた、中庭に。

 彼の姿はあった。実にあっさりと見付かったことに拍子抜けというか、噂をすれば影というか。

 

「……なにしてんだあいつ」

「さあ……?」

 

 彼はなにやら植え込みや花壇に身を屈めて土を弄っている。帰宅部から園芸部に鞍替えでもしたのだろうか。なんて首を傾げた傍から。

 たったった、そんな軽快な足音がした。

 なでしこが駆けていく。仔犬みたいに真っ直ぐ、無邪気にはしゃいで。今度はちゃんと窓を開いて。

 

「哲也くん!」

 

 それはやっぱりいつかの光景で。

 文字通り身を乗り出して、なでしこは言った。

 

「一緒にキャンプ、やろうよ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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20話 目に入れても痛くない

 

 

 

 校内の探索は、足で稼ぐより他術はなかった。

 放課後、授業終了の鐘が鳴るや否や外へ出る。春風と呼ぶには寒々しい。日暮れ間近の刺すような冷気の中、校舎の周囲を巡る。

 まさか証拠品がその辺りに放り捨てられている、などと突拍子もないことは無論考えていない。

 

(埋める、だろうな)

 

 特に剥き出しの地面、花壇や未整地の校舎裏等をつぶさに観察する。

 おそらく校庭にはない。運動場の舗装に使用される真砂土は踏み締める地盤として優れているだけに固すぎる。掘り返すような真似をすれば痕跡は相当に目立つだろう。

 証拠品の隠滅と聞いて、焼却してしまえばよいと考える者は多い。実際、方法として不足はない。燃焼の際に不可避の噴煙や臭気を周辺の人々に覚らせず、かつ燃え滓と化した(ぶつ)を完全に処理してしまえる化学知識(ノウハウ)、なによりそれらの作業を行える場所と道具を提供してくれるような後ろ暗い伝手があるのなら。

 非現実的である。

 あるいは、焚火を許可されたキャンプ地ならばどうか? 三ヶ月前ならばなるほど、可能性はあっただろう。しかし今、とりわけ山梨・静岡・長野のキャンプ地や屋外で火の取り扱いを許された施設で、軽々に証拠隠滅作業など出来よう筈がない。誰あろう犯人自らの凶行によって警察の警邏巡回は強化の一途だ。血走った目が、それらのレジャー施設を厳に見張っている。

 学校の焼却炉などは論外中の論外だ。ダイオキシンだの煤煙だの大騒ぎで取り沙汰されたのはさて何年前だったか。大気汚染問題に神経過敏な今時分、焼却炉が残っている学校の方が少なかろう。仮にあったとして、迂闊に使用すれば絶対に見咎められる。悪くすれば通報案件だ。

 つい先日、警察の出入りがあったこの本栖高校においては特に、そんな暴挙は犯せまい。

 なんとなれば同様の理由から校外へ持ち出すことすら困難になった筈だ。というより証拠品を隠し持つリスクが高過ぎる。街に警邏の警察が増えた現在、職質、検問もまた確実に増えた。

 以上要項を踏まえて、結論。

 

()()学校の何処かに、ある)

 

 本栖高校。この平穏で長閑な学び舎に。

 奇縁と言わざるを得ない。運命の悪戯。旧友に吐いた科白がまんまと己に返ってきた、天魔の仕儀と。

 とうの昔に死んだ筈の老人の魂に、肉体を乗っ取られた少年。その少年を襲ったキャンパー切り裂き魔は少年が通う学校関係者、そしてその決定的な証拠がかの母校に眠っているやもしれぬ。など。

 縁。縁か。

 

「……」

 

 偶然の一語で片付けられる次元はもはや過ぎた。

 意味が、あるのだ。少年と切り裂き魔、そしてこの身。

 あるいは己は来るべくしてここに来た……願われ、現世(ここ)に、少年(ここ)に。

 俺を、呼んだのは。

 

「哲也くん!」

「お」

 

 中庭の花壇、屈み込んで睨み付けていた土から顔を上げる。

 窓辺から身を乗り出して、無邪気にこちらへ手を振る娘子。風に踊る撫子色の美しい髪とその眩しい笑顔を見た。

 

「一緒にキャンプ、やろうよ!」

「んん?」

 

 晴れやかに、高らかに、半ば決定事項と言わんばかり。

 なでしこ、明朗快活なこの娘の言葉は思わず頷きたくなるのだから不思議だ。強引、とはまた違う。それこそその人徳が人の心を惹き付ける。

 

「ハハハ、なんだいどうした藪から棒に」

 

 手についた土を叩き落としながら歩み寄る。

 先日、娘からの熱心なお誘いを無下に断ったばかり。それでもめげず懲りずにこうして声を掛けてくれる。

 さてはてなんと言って宥めようか。そんな心持ちでもう一歩、図書室の窓に近付いた。その時。

 突如、なでしこの背後から人影が乗り出した。

 

「「確保ー!」」

 

 二人分、四本の腕が己の両腕を掴み、絡む。

 娘子とはいえ二人分の腕力。引き寄せられるまま窓辺で腹がつんのめる。

 

「おぉっとととと! こらこら危ねぇ! こっちゃ土足だぞ!」

「にっひひひひ、まんまとなでしこトラップに掛かったなぁ薙原ぁ」

「ごめんなぁ。でもこうでもせんと薙原くんすーぐ逃げてってまうやんか」

 

 右腕を千明が引っ掴み、左腕をあおいちゃんに抱かれ、窓の縁に天日干しの布団のように垂れ下がる。

 身を起こして見やれば、室内には見知った面子が揃っていた。

 斉藤、恵那ちゃんだったか、が小さく手を振る。そして書籍の貸し出しカウンターには、リンちゃんの姿。

 娘は己を見て、途端に視線を右往左往し、慌てて手元の本で顔を隠した。隠しながら、頻りに伏し目がちな様子でこちらを覗いた。

 

「それで? 御用の向きはなんだい」

「キャンプだよ哲也くん! キャンプ! 野クルと恵那ちゃんリンちゃんに先生、それから哲也くんの七人キャンプ!」

「あーまあ、といっても近々すぐにって訳じゃないぞ。なでしこはこう言ってるけどさ」

「やっぱり通り魔犯が捕まらんことには、まだちょっと難しいやろしねぇ……」

「むぅ……で、でも、そうだよ! 時間があるんだから今の内からじっっくり計画を練れば、本番はすっっっごい最高のキャンプができると思うんだ!」

「そうだ! 我々野クルの活動は計画立案の段階から既に始まっている!」

「元気だのぅ。撫子髪ちゃんも大の字も」

「せやろぉ。賑やかさ倍増しや」

「そこでだ。新たにメンバーに加わった薙原の親睦も兼ねて、私達はこれからカリブーに繰り出すのだ!」

 

 身振り手振りも大仰に千明は宣言した。さて、己は一体いつの間にそのメンバーとやらに加え入れられていたのか。勿論身に覚えはない。

 親しんでくれるという。それは素直に喜ばしいが。

 

「やめときな。少なくとも今の時期は」

「えー。いいじゃんかよー。そうそう鳥羽先生が帰りは送ってくれるって」

「それでもだ。通り魔なんてもんが万に一つとはいえその辺をうろついてるかもしれねぇんだぜ。親御さんもきっと毎日心配しながらお前さん方の帰りを待ってる。寄り道は控えて、日の出ている内に帰りな」

「いや、まあ、そりゃわかるけどさ」

「あんな、往き道は薙原くんに付いてってもらおう思てん。前の……私の時にみたいに、薙原くんなら守ってくれるて……それでもあかんかな?」

「頼りにしてくれんなぁ嬉しいが、あの時とは事情が変わっちまった」

 

 実害が、現実に凶刃が一人の少女を襲った。

 一人の、たった一人の大事な、この目に入れても痛まぬ子。旧友の孫娘を。

 無意識にも己は見詰めていた。カウンターに座する小さな娘子を。

 僅かに戸惑いを映した瞳がこちらを見返す。それに笑みを返して、鼻から息を吐いた。

 

「……不甲斐ねぇものよ。己など」

 

 自儘な自嘲をその吐息で払う。

 千明もあおいちゃんも、言って聞かぬほど強情ではない。むしろ真逆。事情を理解して我慢ができる賢い子らだ。

 腕から離れる子らの手に名残を惜しむような感触を覚える。

 可哀想に。友達と遊びに出掛ける、そんな当然の時間さえ自由にならないなど。

 だが、それでもやはり、子らの安全には代えられない。

 

「あの」

 

 おずおずと進み出てくる。いつの間にかカウンターを出て、リンちゃんは己の前に立っていた。

 真っ直ぐには定まらず、瞳はどこかよそよそしく揺らぐ。

 

「私、その、前の……無断外出があって、学校の行き帰り、お父さんとお母さんに送迎してもらってて」

「そうなのかい。ああ、そりゃ……無理もない」

 

 愛娘が事件に巻き込まれ、怪我まで負ってしまった。咲ちゃんと渉くんの心配と危惧は当然のものだ。登下校の付き添いにしても何一つ大袈裟ではないだろう。

 

「それで、今日はお母さんが最寄りの駅まで迎えに来てくれるんだ。だから、もし薙原くんがよかったら、なんだけど」

「うん?」

「車でなら、一緒に行ける?」

 

 恐々と問い。

 遠慮がちに、それでいて期待するような、ひどく幼気な目だった。ひどく、懐かしい目。

 この子にこの目をされると己は弱い。滅法弱い。揺らぎそうになる胸中を自覚しながら、どうにか反駁を練ろうとした。

 

「あ! 私のお姉ちゃんも車だよ。それでね、今日は大学の帰りに身延に寄るって言ってたから、乗せてってくれるか頼んでみるね!」

「お、おいおい」

「薙原くんはお店に着くまでの道が心配なんでしょ?」

 

 そう言って恵那ちゃんが小首を傾げる。

 

「リンのお母さんとなでしこちゃんのお姉さんに頼んでもし車で移動させてもらえたら、薙原くんの心配もなくなるよね?」

「……まあ、そうなるか」

「! いいの!?」

 

 ぱっと華やぐなでしこの顔に、もはや言説を翻しようもなかった。所謂、言質というやつ。

 己の意志の弱さに呆れ返る。

 反して、千明とあおいちゃんはリンちゃんとなでしこを囲んで諸手を上げた。

 

「ナイスだ! リンになでしこ!」

「グレート! グレートやで二人とも!」

 

 傍らでしたり顔の恵那ちゃんに見下ろされる。言葉選び、それに機先を見る目。実に強かな娘さんだ。

 そうして、スマートホーンを片手に佇むリンちゃんと再び目が合う。それはやはり、どこか遠慮がちで、自信なさげな、叱られる前の仔犬のような目だった。

 参った。初めから勝敗は決している。

 この子の我儘を、俺に拒める筈がないのだ。わかりきったこと。

 

「行こうか、リンちゃん」

「ぁ……うん」

 

 娘ははにかんで、ふわりと笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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21話 敵わぬ道理

ゆるキャン△最カワはしまりんママ、異論は認めぬ。



 

 

 

 

 身延駅からも程近い、車で数分ばかりの距離にその店はあった。

 アウトドア用品専門店『カリブー』。

 外観は航空機のガレージを思わせる波状の金属外壁。入り口に施された装飾の趣はヴィンテージアメリカンといったところ。

 どちらかと言えば()()世代の派手派手しい古びた看板やら錆びた灰皿、私物なのか展示物なのかハーレーなんてものまで飾ってある。

 

「わっほーい! カリブーだー!」

「なんやちょっと来ぉへんかっただけやのに、えらい久しぶりに感じるわぁ」

「ぐふふふ、なんだかんだ結構ご無沙汰だったからな。使い途のなかったバイト代がたんまりあるぜぇ。豪遊……! 散財……!」

「すごーい、身延にこんなところあったんだね」

「斉藤は来るの初めてだっけ?」

 

 いの一番に車を飛び出したなでしこを先頭に面々が続く。あおいちゃんの言う通り、近頃はこうして足を伸ばして遊びに出掛ける機会さえ少なかったろう。久方振りの遊興という奴だ。千明ならずとも娘らは実に賑やかで、大層楽しげだった。

 駐車場の適当な場所に停まった青いラシーンと白のコンパクトカーから、なでしこの姉君と咲ちゃんが出てくる。彼女ら共々、姦しい娘子らの後を追う。

 

「どうもすみませんな。お二方とも、とんだご足労をお掛けして」

「えっ? いえいえ。全然そんなの気にしなくていいのよ?」

「私も。どうせ帰り道になでしこを拾うつもりだっし」

「ハハッそう言っていただけますか。いやありがとうございます」

「哲也くーん! 早く早くー!」

「あいよぅ」

 

 待ちきれぬ様子のなでしこに手を振り返す。悠長な歩みのこちらに先んじて五人は入り口を潜っていった。

 

「妙なご時世になっちまって。可哀想に、あの子らも随分と窮屈な思いをしてるだろう」

「……そうね」

「あの、リンちゃんは、もう、大丈夫ですか……?」

 

 なでしこの姉御、各務原桜はどうやら慎重に慎重に言葉を選んだ末、素朴にそう尋ねた。

 

「あ、ええ。怪我は大したことなくて済んだし、本人ももう平気だって言ってます」

「そうですか……よかった。本当に」

「ふふ、それもこれも勇敢な人が守ってくれたお陰よ。ね? 薙原くん」

「ん? いや、俺ぁ大したこたぁ何もしちゃおりませんよ」

「大したことよ。間違いなく。だって、リンが無事に帰ってきてくれたんだもの……本当にありがとう。ありがとう、ございました」

 

 咲ちゃんは立ち止まり、その場で深々とこちらに頭を下げた。

 形の良い旋毛を前に、立つ瀬がないのは誰あろう己であった。

 己の前には母がいる。子を想う。心から想い遣る。その健やかなることに感謝を捧げる、母御の姿が。

 不思議なものだ。俺は彼女が揺り籠で眠る様も、成人式の晴れ着姿も知っている。初めて手に入れた自前のバイクで山梨の拙宅を訪ねてくれたことも覚えている。

 立派になった。奴め、新城め、本当に良い子を授かりやがって。本当に良い子に、育て上げやがって。

 筋違いの感慨に、微かに、胸が詰まる。ああ、まったく分際ではない。他人様の子供に何を思う。老い耄れが、寡男が、何を。

 

「なでしこから少しだけ事情は聞いてたけど……通り魔を追い払ったって本当なのね。凄い、って言っていいのかな」

「だぁめぇよ! ホントなら絶対ダメ。本来は逃げなきゃダメだったの。犯罪者に立ち向かおうなんて真っ当な人間は考えちゃダメ。考える必要だってない。それは警察の仕事、責務なんだから……それを盗ったら可哀想でしょ」

「そいつぁ」

「昔ね。私のお父さんのお友達に言われたの。ふふっ、叱られたっていうのかな。ああその人、元は刑事さんでね。私がちょっとやんちゃしたりすると、すぐにそう言い聞かせてくるの」

 

 遠く、咲ちゃんの目は今ではないところへ向かう。昔日を見て、彼女は微笑んだ。

 僅かばかりでも良い思い出であってくれたなら、それは幸いだ。とても、とても。

 次の瞬間には母御の顔になり、咲ちゃんが己に向き合う。自然、こちらは傾聴の姿勢を取らざるを得まい。

 

「いい? 薙原くん。いくら貴方が強くても、それは危ないことをしていい理由にはならないの」

「ええ、その通りです」

「貴方が危険な目に遭えば親御さんが悲しむわ。私だって悲しい。リンだって、すごく悲しむ。ふふ、あの子、貴方にとっても懐いてるみたいだから……だから、約束してね。もう無茶なことはしない、って」

「……肝に命じましょう」

 

 約束はできない。

 傲然と、俺は欺瞞を口にした。

 危険を冒してでも果たさねばならぬことがあった。この誠実で優しい娘子の言葉に背いても、この愚かな男にはやらねばならぬ責務があった。

 すまねぇ、咲ちゃん。喉奥で詫び言を押し殺す。

 己の吐いた素直とは程遠い言葉に、対する母御はどうやら御不満だ。じと、とした疑わしげな眼差し。子供の時分とそう変わらぬ顔立ちと相俟って、湧き出る懐かさに難儀する。

 

「……ちゃんとわかってるんでしょうね」

「勿論ですとも」

「うわ、すっごい胡散臭い」

「カカッ! いやはやまったく耳が痛い。御母君には、敵わねぇなぁ」

「っ……!?」

 

 不意に、彼女は息を呑む。まるで思いがけないものを目の当たりにしたかのような。

 見開かれた両目に晒され、先程とはまた別種の居心地の悪さを覚えた。

 おもむろに手が伸びてくる。咲ちゃんは己の顔やら頭やらを両手でぺたぺたと触り捏ね繰り、どうやら検めていた。

 

「似てない……ぜんっぜん似てない……似てない筈なのに……」

「あ、あのー、し、志摩さん?」

 

 己などより、むしろ傍らで様子を見守っていた桜嬢こそ困惑していた。

 娘の友達とはいえ、成人女性がいきなり男子高校生の顔をべたべたと触り始めれば驚きもしよう。

 はっとして正気を取り戻した咲ちゃんが手を放す。

 気恥ずかしそうな娘子の姿に、己はただ曖昧に笑みを返すより他なかった。

 

「……薙原くん、私ね。実はなでしこからもう一つ面白い話を聞いてるの」

「うん?」

 

 眼鏡美人の姉君は、茜の緋色を映えさせるレンズ越しに己を見据えた。

 獲物を狙うように。

 何故か、そんな剣呑な語彙が浮かぶ。

 

「キミ、年上好きなんですってね」

「んん?」

「あらやだ」

 

 何故か、咲ちゃんは自身の頬に両手を添えて恥じらった。

 

「でもあおいちゃんともいい感じらしいじゃない」

「んんん?」

「……あら、私はてっきり、うちのリンに()()()()くれてるものかと思ってたんだけど」

 

 打って変わって冷えていく声色に肩身が縮まる。夕暮れ時の寒気(かんき)に依らぬ寒気(さむけ)。いやこれは、怖気かね。

 対して、桜嬢の変化に乏しい表情の中に、なにやら溌溂とした色が見え隠れしていた。それこそ桜色の好奇が。

 

「プレイボーイね、薙原くん」

「誠実さって大事だと思うの、ねぇ薙原くん」

「いやぁあっしにゃあ皆目」

「中に休憩スペースってあったかしら」

「そうね。アウトドアチェアでも見ながらゆっくりお話ししましょうか」

「子供らの様子も見に行かねば」

「大丈夫よ。ああそれともあおいちゃんも混ぜた方がいい?」

「リンも呼んであげた方がフェアかしら」

「最近の揺り椅子は物が良いそうですな! いや楽しみだなこん畜生!」

 

 もとより承知。既知の事実。恋に花咲き恋バナ咲かせる女性(にょしょう)に、己が弁舌で敵う道理などないと。

 刑務官に伴われる囚人の心持ちで、己はカリブーの扉を潜った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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22話 昔日の夢

最近ドロドロ殺伐とした話ばかり書いてたからこそゆるふわした話を書きたいのに。
なんか暗い方へ行ってしまう。何故だ(A.性癖)


 

 

 

 200坪ほどの陳列スペースには、それこそ所狭しとアウトドア用品が居並んでいた。

 ランタンを初めとした屋外照明器具。コンロ・グリル、クッカー各種はガス式電気式直火用等実に多種多様である。鍋一つとっても大きさから性能、用途まで様々なものが陳列棚を満たしている。

 テント周りの品数の充実っぷりは素人裸足の夥しさだった。野外の()()()の良し悪しを決定付けるのだから、拘りだせば切りがないのだろう。

 通路の中央を中洲のように陣取って、テント、タープ、テーブル、グリル、チェア等一式が洒落っ気たっぷりに展示されている。

 その中の一つ、スチール製のハイチェアにどっかりと腰を下ろし、沈み込むようにして身体を預ける。あまり行儀の宜しくない使い方だ。店員に見咎められたその時は、粛々とお詫び申し上げよう。

 ゆえにどうかそれまでは、そっとしておいてやってくれ。なんせ死ぬほど草臥れちまってる。

 

「あおいちゃんとの馴れ初め、聞かせてよ。やっぱりキャンプ? それとも他に何かぁ、ありそうよねぇその感じだと。切っ掛けがあったとか?」

「リンちゃんとも仲良いのね。うちのなでしこも懐いてるみたいだし、女誑しっていうのは本当みたい。ふふ」

「薙原くーん! このマウンテンパーカどない? サロペットと合わせてみたんやけど。薙原くんの、その、好みとか、教えてくれたら……た、他意はないで!?」

「薙原ー、このワンポールテントのポール持って立っててくれー。これグルキャン向きの超でかくてしっかりしたやつだから、ぐっぐぐ! テント被せたままだと、ぐぉぉお、めちゃ重っ、重いんだよ……!」

「リンとのこともそうだけど、私としては父さんとどうやって知り合ったのかが気になるのよね。父さんに聞いてもはぐらかされるし。ね、薙原くんってやっぱり小父さんの……不二崎さんの」

「流石に、学校の先生とそういうのは……うん。鳥羽先生お綺麗だし、憧れるのはわかるけど……え? もしかして逆? まさか鳥羽先生の方が!? その辺り詳しくお願い」

「薙原くんハットとか被らへん? これとかほらトレッキング用のやつ、私も色ちで買おかなーなんて……ホンマ他意はないんやけども!」

「薙原という肉体労働要因が加わるなら荷物持ちとか設営とかに労力割けるし、山奥とか難所で敬遠してたキャンプ場も候補に入れられる。くくく、野クルの活動幅爆増じゃねーか! 薙原ー! この薪ストーブとか持ち上げられるか!? いやお前ならやれる! やってみせろよ薙原!」

 

 矢継ぎ早、あるいは自動小銃の掃射の如き質問責めと子供らからの催促を宥め賺し時に躱し熟して気付けば早一時間。ようやくそこから解放され、小休止をお許しいただいた。

 

「かかっ、まったく、年寄りはもっと労わるもんだぜ……」

 

 自儘な埒もない小言を呟く。

 子供らのはしゃぎ様はともかく、まさか咲ちゃんにああまで詰められるとは思わなんだ。己の見通しの甘さが招いたこととはいえ、考えが及ばなかった。

 存外に、彼女は覚えていてくれた。不二崎甚三郎という老爺のことを。

 存外の、慮外の強さで。

 

『小父さんったら薄情よ……最期くらい、看取らせてくれたっていいじゃない。ねぇ』

 

 それは独り言のような、愚痴のような。あるいはまるで、この少年の姿に潜んだ、この老人に向けて不平を溢すような。

 うっかり詫びの言葉が口から零れそうになる。娘子の我儘一つ叶えてやれない、やれなかった。その不甲斐なさを、苦みを何度となく味わう。 

 

「……」

 

 深く息を吸い、深く吐き出す。深呼吸はむしろ、身体に蟠った疲労を己により実感させるばかりだった。

 欠伸を噛み殺す。近頃、眠気が酷い。

 平日の放課後や休日は専ら事件現場に足を運び、収拾した事件の資料と夜通し睨めっこの毎日。若い体に甘えたツケだろう。好き勝手されて哲也少年もいい迷惑に違いない。謝罪は草葉の陰に引っ込んでから改めて送るとして。

 だがもう少し。あと、もう数歩。

 これもまた勘働き。捜一時代には幾度もこの予感を覚えた。犯人(ホシ)は近い。手の届く距離にある。我方(こちら)が大掛かりに動けば、彼方(あちら)はその動きを気取る。謂わば一足一刀の間合。

 迂闊な真似は厳に戒めねばならぬ。警戒感に毛を逆立てているだろう犯人は、状況の些細な変化にすら泡を食って逃げ出す。鼠のように。

 それが窮鼠となるか、それとも闇の中へ失せるか。

 己の出方次第。だがそれは逆を言えば、こちらがあからさまな騒動を起こせば、対手を揺さぶれる。行動を誘発できる。

 さすれば。

 

「…………くぁ」

 

 また一つ欠伸を噛み殺す。思考が要所へ差し掛かった途端、脳髄の運行は緩慢に鈍っていった。

 背もたれに身を沈め、目を閉じる。寝るつもりはなかった。ただ照明が少し眩しかっただけだ。

 少し、目を休める。それだけ。ほんの数分。

 

「ふぅ……」

 

 瞼の裏に淡い光を見る。血の巡り、やや遠くに娘達の姦しい話声。

 意識は、背骨からゆっくりと薄闇の中へ落ちていった。

 靴音がする。軽く、控えめな足運びで。それはこちらへ近寄ってきて程なく止まる。

 隣で、金属の軋む音が────

 

 

 

 啜り泣きが聞こえる。ひどく、幼い。

 生白い廊下の待合所。長椅子の隣で子供が泣いている。

 薬臭いところだった。慌ただしい足音。早足に扉を出入りする白衣。

 薬と、血の臭い。死の臭い。

 嗅ぎ馴れた、馴れ親しんだ空気。老いさらばえた己にとっては友のようなもの。

 だが、この子は。こんな小さな、少年には、あまり似つかわしくない。

 こんな場所に何故こんな子が。そして何故に泣く。そんなにも深く、悲しみ、不安げに。

 小さな膝小僧の上で握り締められた小さな拳。小学生くらいだろう。

 堪らなかった。旧友の孫娘と同じくらいの子供が、こんな泣き方をしている。駄々を捏ねるでもない。嫌々と泣きじゃくるでもない。ただ、ただ、重い悲しみに肩身を圧し潰され、涙を流す、その様が。

 胸を潰す。

 

「坊主」

 

 己は何と言ったのだったか。

 何と、言わずにはおれなかったのか。

 

 

 

 

 

 末期との診断が下り、晴れて入院生活が始まった。敢えて報せるようなこともない。そんな悪足掻きを試みたものの、新の字を通じて志摩の家の人々には即知られてしまった。

 だからすぐに、渉くんや咲ちゃんには見舞いになど来るなと言い含めた。

 それを薄情と詰られて否定の仕様もなかった。

 弱った姿を見られるのが、どうにも耐え難かったのだ。心底下らぬ見栄だ。老い耄れが古惚けたプライドを守る為に愚昧なことをしたと今更に思う。

 けれど、痩せ衰えた己の姿など、あの子に見せるのは忍びない。病院の臭いなど無理に嗅ぐことはないのだ。この、死の臭いは、子供にはきつかろう。

 愚かしい。返す返す、そう思う。

 そんなことだから、この様だ。しっかり死に損なって生き恥を晒している。

 恥。そう、恥と知りながら俺は。

 俺は果たさねばならない。約束を。

 

 

 

 

 

 ────ジン

 

 転寝していると、お前はいつもそうやって俺に笑い掛けた。

 なにやら懐かしい。まさかお前の顔を忘れる筈がないのに。

 遺影の写真は毎朝仏壇で見ている。あぁ、いや、もうそんなことをする必要もなかったのだったか。

 

「なんだ、もう迎えに来ちまったのか……綺理枝」

 

 後光でも差しているみたいな笑顔だ。日向のような、暖かな。

 明るい女だった。眩しく笑う女だった。

 その頬に触れる。血色の良い柔らかな触り心地。ひどく生きた心地がする。

 これに参っちまったんだったなぁ、俺は────

 

 

 

 

 

 

「て、哲也くん……?」

 

 一際深く息を吸ったことで急速に意識が浮上する。水底で浮袋を膨らませたかのようだ。

 鮮やかな撫子色の髪が手の甲を擽っている。

 己を覗き込む幼い面差し。戸惑い、はにかんだ顔。己はどうやらなでしこの頬を撫でていた。

 

「おぉ……こりゃあすまん」

「んーん、いいよ。けど……」

「すっかり寝惚けちまってたらしいや。カカカッ」

 

 誤魔化しに伸びをして筋骨を解し、立ち上がる。

 娘は不思議そうに己を見上げた。

 それに薄く笑い掛けて。

 

「なぁ、なでしこちゃん。俺ぁ、何か寝言吐いてたかい。おかしなことを」

「えっ!? う、ううん! べつに、な、なんにも、変なことはなんにも言ってない、よ? ねっ! リンちゃん!」

「!」

 

 振り返る。己が腰を下ろしていたハイチェアの傍らにはもう一脚、同じものが展示されてあった。

 おそらくは先程までそこに座っていたのだろう。リンちゃんが、その場に立っている。こちらに顔を向けず、俯いたまま。

 

「リンちゃん……?」

「リーン! なでしこちゃーん! 哲也くーん! そろそろ行くわよー」

 

 咲ちゃんの声に振り返る。

 何かを尋ねる間もなく、リンちゃんは小走りに母御のもとへ行ってしまった。

 

「リンちゃん……どうしちゃったんだろ」

「……」

 

 娘子は何を聞いた。俺は何を言うべきだった。

 逃げるように遠ざかる背中を、己はただ愚昧に見送ることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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バッドエンドルート(1)

これは逃避である。
これは本筋に光明を見出せない愚か者の妄想である。
これは幸福なバッドエンドのその後である。

(訳:映画が素晴らしくて衝動で書きました。続きも書かずにごめんなさい)



 

 

 

 俺は誰だ。

 毎朝鏡の前に立つ度に己は己に問う。問い続ける。

 それは義務だ。己がこの世に在るという罪の証立て。業を鳴らす為の取り調べだ。

 馴れたものだった。昔から勤め先の取調室で幾人もの容疑者にそれをやってお飯食わせてもらってきたのだ。そうして今となっては、その現場仕事へ逆戻りを果たしている。おかしなことに。

 であれば今更、それも自分自身に対して出来ぬ道理はない。

 お前は罪人なのだ。不二崎甚三郎。

 

「そうとも……」

 

 一人の子供の未来を奪った。乗っ取った大罪人なのだ。

 生き汚い、生き恥晒しの、恥知らずの徒よ。

 責め問い続ける。

 俺は誰だ。

 お前は誰だと。

 

「俺は、薙原哲也だ」

 

 お前が押し潰した若人。お前の間借りするこの肉体の真の持ち主。

 不二崎甚三郎に殺された罪無き少年。その名は薙原哲也。

 哲也。

 

「……今日も、よろしくな」

 

 今年で二十六になる。俺は鏡の中の元少年に笑い掛けた。

 

 

 

 

 

 高校卒業後、己は()()警察学校に入り、警察官となった。

 そこから一年ばかりの交番勤務を経て機動隊に入隊。厳しい訓練を重ね、警備警邏に駆り出され、時には防護服を纏い警棒と盾を手に荒事を鎮圧した三年間。

 そうして現在、山梨県警の生活安全課に異動して約一年。

 課内に宛がわれたデスクでその日の事務仕事を消化している。定時間際、珍しく手元には残務らしい残務もない。

 身支度を整えていたところ、座席の傍らに大柄が立った。

 

「なんだ、珍しく定時上がりか?」

「ええ、今日は課長に見付かる前にとっとと退散します」

「ははっ」

 

 藤堂誠。同県警交通課勤務の巡査部長。今生の勤続年数では随分先輩に当たる。

 

「薙原、お前そろそろ昇任受けられるんだろ。刑事課に行かないのか。向いてると思うぞ」

「そうですかねぇ。自分じゃあわかりませんが」

「捜査には熱心だし、なんといっても粘り強い。この前の強盗(オシコミ)も一課が二の足踏んでたところをすぱっとマルヒ上げたのはお前だろ」

「偶々ですよ。この課は市民の声がよく聞こえてくる。なもんで目撃証言みてぇなものが自然と集まってくる。巡回警邏なんかするついでにその辺り確かめてみりゃあ、案の定と」

「実際それができる奴がどれくらいいると思ってんだ。最近の若い連中はすぐに山を見限るが」

「藤堂さんよ。その言い回しを使い出したら、立派な糞爺ですぜ」

「ああ知ってるよ! よく言われる! まったく、なんでもかんでもパワハラだセクハラだと……」

「愚痴なら他所でやりねぇ。こっちゃあいろいろ忙しいんだ」

「こいつ。上司を上司と思ってねぇな? ……またその山か」

「……」

 

 うっかりデスクに置いていたバインダーを目敏く見付けて、男は呆れたように言った。

 

「とっくに犯人は出頭して今も模範囚として服役してるってのに、それでも納得いかないか?」

「そんなもんじゃあねぇ。こいつぁただの、残務処理ですよ」

「残務?」

「お気になさらず。では、お先に」

「あ、おい。別にそれのケチ付けにきた訳じゃないって。交通課の若手で飲みに行くんだよ。薙原も来い」

「おっと、そいつぁ残念。先約があるんでさぁ」

「あぁん? ああ、もしかして(これ)か?」

「そういう古くせぇことすっから若ぇ子に煙たがられんだよ」

 

 下卑た面でそれらしく小指を立てる若造に失笑する。この男もまだ三十代半ばだった筈だ。

 

「うるせぇよ! ってか否定しないのな」

「おうとも、御明察だ。とびきり可愛い娘と約束があんのさ」

「けっ、爆発しろ!」

「爆破予告とは剣呑だな」

「いやこれただのネットスラングだよ。知らねぇか?」

「……知らねぇな」

「古臭いのはどっちだよ」

「うるっせぇ。では不肖薙原巡査、ここらで失礼させていただきます」

「うーい。お疲れー」

 

 お道化て敬礼しながら事務所を後にする。

 擦れ違う同僚や上司と挨拶を交わしながら、俺は携えたバインダーを強く握り込んだ。

 とうの昔に終わった事件(ヤマ)。八年、いやそろそろ九年にもなる。

 だが、終わってなどいない。終わってなどいない。

 終わらせはしない。哲也、お前が戻ってくるまで。

 

「……」

 

 戻して、やらねば。

 虚しく時ばかりが過ぎて行った。

 ただ意気込むばかりで、何もしてやれぬまま。

 俺は望外の他生を今もなお貪っている。

 

 

 

 

 

 

 警察署からその足で目的地へ向かう。

 地方在住者には手放し難い自動車(あし)は近頃買い求めたランクル。型式は古いが内装が広く、工夫すれば車中泊もできなくはない。

 ほんの一時間足らずで薄汚れた赤褐色の車体は到着した。

 本栖湖。

 富士の峰を望む。水面に鏡写しになる逆しまの白い頂を。

 

「いつもながら、眺めだけは……」

 

 人気のない湖畔の砂利の上で独り言ちる。

 年末の閑散期。湖上を走り吹き込む寒風に身を縮めた。

 

「……」

 

 ここで再生した。友との再会を果たした。その時、自身に抱いた喜びを俺は偽れない。

 ここで眠りについた。一人の少年が凶刃に見舞われ、何処か深くに隠れてしまった。

 ずっと探し続けている。

 今日も湖畔や松林一帯を散策し、手掛かりがないか見回ったが、当然のように収穫は皆無だった。

 

「……はぁ」

 

 白い息を落とし、野営の準備を始める。

 火を熾して暖を確保する。

 防寒着を重ねたとて真冬の夕刻。風邪をひいては事だ。今日は己一人ではないのだ。

 

 

 火が落ち、ローチェアで微睡んでいると不意に。

 遠く響いてくる。エンジン音。けたたましくもあり、不思議とどこか穏やかでもある。

 懐かしい音色。トライアンフのスラクストン。あの男ほどではないが、もう馴染みと言っても差し支えあるまい。

 草を踏む足音が近付いてくる。

 焚火の揺らめく灯りに映し出されたのは、旧馴染みの老いた友人……ではなく、実にほっそりとした少女の姿。いや、少女扱いは流石に失礼だろう。

 さっぱり髪を短くしたリンちゃんは、己の姿を見付けて微笑んだ。

 

「こんばんは、リンちゃん」

「じんじっ……小父さん、久しぶり」

 

 咄嗟に発したその呼び名に、リンちゃんは恥ずかしそうにはにかんだ。

 今ではもう立派な社会人だが、己にとってはやはりいつまでも小さく可愛い娘子なのだ。

 

 

 リンちゃんは手早く自身のテントを組み立てた。

 そうして己の傍らにローチェアを広げ、深く腰を下ろす。肺腑から吹き出すようなその吐息には疲労の色が見えた。

 

「名古屋からここまで遠かったろう。その上バイクだ。あんまり無理しちゃいけねぇよぅ」

「ん、無理とかしてないよ。片道三時間くらい。今日は仕事も早く片付いたし、明日は休みだし」

「そうは言うが、久々の土曜休みなんだろ? 休息だって社会人のお勤めだ。こんな爺に付き合うこたぁねぇんだぜ」

「いいの! 私のお休みなんだから、私の好きなようにする。それだけ!」

「まあそらぁそうなんだがな」

 

 娘はむくれっ面でそっぽを向く。こうやって子供のように振る舞ってくれることに、己はむしろ嬉しさなど感じている。

 打って変わってリンちゃんは神妙に呟いた。

 

「……迷惑だった?」

「んなことある筈ぁねぇさ。そうじゃなくてな、リンちゃんにも付き合いってもんがあるだろう。新しい勤め先で交友するなぁ大事だ。それが楽しくなってくれりゃあ尚のこと上々だ。己としちゃあ、その邪魔はしたかぁねぇ。や、や、気の回し過ぎだってぇのは承知よ。それでもな、若い時分、今のリンちゃんの時間というか、年頃はだな、そら値千金。代えの利かねぇ大切な時期だ」

「……」

「こんな老い耄れの為にそれを蕩尽させたくねぇのさ。今しかできんことは多い。今しか会えぬ人はなお多い。己なんぞにゃいつだって会える……」

「いつまで会えるかなんて、わかんないよ」

 

 す、と冷えた声音が己の語尾を捕え、刺した。

 それは責めるようでも、縋るようでもあった。

 

「嬉しかった。また会えて。また話ができて。嬉しかったよ。嬉しかったの」

「……」

 

 リンちゃんに己の存在を知られたのは、己が警察学校を卒業して間もなくの頃。

 全寮制であることに託けて、この娘との接触を避けてきた。他人の人生を奪ったこの身が、この子に会う資格などないと思っていた。

 そして不敏なる己などとは大違いに、リンちゃんはその意図を見抜いていたのだ。

 幾度か、会う会わぬの押し問答が続き、新の字に志摩の家族、野クルの面子まで巻き込んで一悶着があった後。

 綺理枝の墓前で、遂に俺は追い詰められた。

 

『じん爺なんでしょ!?』

 

 泣きながら縋り付いてくる少女に、もはや言い逃れなどできはしなかった。

 

「……じん爺がこうして、こんな風になったのだって、突然起きた奇跡みたいなものでしょ。なら、ある日突然、いなくなっちゃうことだって……あるかもしれない」

「……そうかもしれねぇが」

「私、我慢しないよ」

「リンちゃん……」

「もう置いてかれるのは……あんなお別れは、嫌だから」

 

 真っ直ぐにこちらを見詰める大きな瞳。それが痛く胸を衝く。

 癌が見付かり入院が決まり、志摩の家で一方的に別離の挨拶をした日、泣きながら追い縋ってきた幼い姿。いつ思い出しても胸が潰れる。

 この子に泣かれて、己に為す術などあろう筈がないのだ。

 鼻から息を吐く。観念して、自嘲して。

 

「……ココア飲むかい。あぁコーヒーの方がいいかね」

「ん、甘いのがいい」

「くくっ」

「なに?」

「いいや。大きくはなっても、味の好みってぇやつぁなかなか変わらねぇもんらしいや」

「むぅ、子供っぽいってこと?」

「可愛らしいってこと」

「変わんないでしょそれ!」

「くっはははは」

「ふんっ、いいもん。子供っぽくて。じんじっ、小父さんの前だけだから」

「そうかい。ははっ、そいつぁ爺冥利だねぇ」

 

 幸福を噛んでいる。烏滸がましく、恥知らずに。

 望外の機会を得て、俺は親友の愛孫と一夜を明かした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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バッドエンドルート(2)

 

 

 

 遅い夕食の支度に取り掛かる。

 ビーフシチューは切った具材を煮込み、市販のルーと赤ワインで味付けしたシンプルなもの。

 変わり種は、リンちゃんの持参したパン生地だ。家で捏ねて発酵させたものを冷凍して持ってきたという。

 ダッジオーブンで焼き上げると、それは丸々ふっくらと膨らんだ。

 

「焼き立てパンとデミグラスのシチュー……すごく合う」

「おぉ、パンがえらく香ばしいな。ん、旨い」

「ローストした小麦胚芽だと良い香りになるんだって。うん、今日のは我ながら上手くできた」

「ほー、調べて作ったのかい? いやいや大したもんだ。こりゃあパン屋も裸足だな」

「大袈裟だなぁ」

 

 リンちゃんは呆れた声音で顔を綻ばせた。 

 湖上の寒気が小波に乗って岸辺を満たす。松の林が柔らかに風を受け止めた。

 キャンプをしている最中、リンちゃんの口数は多くない。景色を望み、火に当たり、空気を味わう。時には本を読み耽ってそのまま転寝してしまうことも屡々だ。

 ソロキャンプが好きだと少女は言っていたが、気付けばこうして野営を同じくすることが増えた。

 己がキャンプに赴く時、娘はどこからかそれを聞き付けて付いてくる。

 それを厭う心持ちは皆無だ。喜びこそ抱けど。

 しかし、ふと物思う。俺は、俺の存在は、この子の折角見付けた趣味を、心安らげる場所を冒しているのではないかと。それは再三の気の回し過ぎというやつだったが。

 

「……」

「どうしたの?」

「いや、他人様の孫娘さんにこう良くしてもらっちまうと、いやはや立つ瀬がねぇなと思うのさ。新の字にまた嫌味を言われっちまう。かかかっ」

「昨日、お爺ちゃんにも声掛けたんだけど、町内会の寄り合いがあるからって」

「そうかい」

 

 当然だがそれは嘘ではないのだろう。しかし、以前なら、ほんの数年前までならあの男は単車を駆って愛知から山梨の夜道を越え平然とここに現れたのだろう。

 孫娘にスラクストンを譲り、以来遠出することが減ったという。定年を迎え、気儘に西へ東へ日本狭しとばかり旅から旅へ、年甲斐もなく走り回っていた男が。

 

『年寄りに無茶を言うな』

 

 いつか、警察学校近くの小料理屋で燗を酌み交わした夜。

 奴は笑った。皺の増えた目尻。光が減り、深みの増した眼。ゆっくりと、そして確実に、老境を歩み往く姿。

 俺は何も言えなかった。悪態のようなものを吐いた気がする。厭味か皮肉か、そんなものを一つ二つ垂れた覚えもある。

 だが、老いてゆく友人を見送る。そんな当たり前が目前に在る。その事実に今更、今更になって気が付いた。

 此度は己の番か。

 

「……ところで、どうだい。近頃野クルの面子とは」

「相変わらず、かな。休みが合うたび集まってるよ」

「そりゃあ重畳重畳」

「皆仕事は忙しいみたいで一時期途絶えそうになっちゃったけど」

「まあ無理もねぇや。新米社会人は忙しなかろうなぁ。己の方もまさか二度もそれを味わうことになろうとは思いもせなんだが」

「うん、普通はないからね。あははっ……小父さんのお蔭だよ」

「ん?」

「大学の合格記念にやったグルキャンから結構間が空いちゃって。皆と連絡はまめに取り合ってたけど、なかなか都合がつかないことも増えて、計画が立ち枯れしちゃったりして……そんな時に、じん爺までどこかに行っちゃった」

「別に失踪したって訳じゃねぇんだが」

「連絡もほとんどくれなかった。何かと理由をつけて会ってもくれなかった。明らかに避けられてた」

「いやその節は不躾仕った。平に平に」

「もぅ……でも、小父さんがいなくなっちゃったからこそ、私と野クル、斉藤や先生も皆が集合したんだよ。絶対捕まえてやるって」

「俺ぁ逃亡犯か何かかい? ……まさか寮に全員で押し掛けてくるたぁな。あん時は胆潰したぜ」

 

 警察学校とは、国民の安全と秩序を守護する公安職公務員を教練する場。限りなく完全な閉鎖世界だ。教育期間中は外部との連絡も最低限に制限される。当然スマホも没収され、外出外泊もそうそう許可が下りることはない。

 そんなところへ果たして如何にしてか、彼女らは立ち現れた。

 なんでも鳥羽先生が警察OBの伝手を辿りに手繰りやらかした荒業であったとか。

 教官にはこってりと絞られ、ついでに茶化された。同期の者達は己を指して女誑し、ハーレム野郎、時には女衒などと口汚く罵った。

 他人事であったなら己とて大いに笑ったことだろう。

 

「……ごめんなさい」

「謝るこたぁねぇさ。今にして思えばなかなか面白かった。なまじっか美人揃いなもんだから、寮の男共の目の血走りようったら。ぷっ、くくく」

「あー。確かに、皆すんごい見られてたね。あおいなんかは特に」

 

 他人事に娘は呟く。その点で言えば、リンちゃんとて負けず劣らずの人気だったが。

 まあ口にはすまい。

 

「……あ、あおいで思い出した」

「お? なんぞあったかい」

「惚けないでよ。あったのは小父さんの方でしょ」

「おや」

 

 なにやら詰問のような調子で娘はむくれた。

 格別、隠し立てている訳ではない。

 

「あおいちゃんの勤め先に行ったことか? なんだ、女衆じゃもう内通済みかい」

「……すっごい嬉しそうにグループメッセージで載せてたから」

 

 スマホを操作して、リンちゃんが画面をこちらに見せる。

 

[制服哲也くん!]

[めっちゃレア!]

 

 エクスクラメーションマークとハートマークが乱れ飛んだメッセージの下に、あおいちゃんと紺の制服・制帽姿の己が並び立った写真がある。

 

「交通安全の指導でな。鰍沢富士見小学校に呼ばれた時だ」

「小父さんって生活安全課じゃなかったっけ?」

「あおいちゃんから直に連絡を貰ったのさ。そうやって窓口になった手前、人任せってのも片手落ちだ。まあ白状しちまえば人手不足で駆り出されたってのが本当のとこだが」

「ふーん……」

 

 納得とは遠い声が娘の鼻から漏れる。

 

「あおいに呼ばれたらすぐに来るんだ」

「んん? いや、今回はほれ、小父ちゃんの職務でもあってだな。子供らに交通安全の大切さを学んで欲しいと、あおいちゃん達ての希望で」

「私の時はいっつも何かと前置きがあるけど。仕事忙しくないかーとか、きちんと休まなきゃダメだーとか」

「休んで体調管理することも大事な……ごめんな。すまん。許してくれぃ。な? リンちゃん。頼むよ。この通り。どら、帰りに甘いもんでも食いに行くか。河口湖の方で旨いプリンがあるらしいぜ。プリン好きだろ?」

「……三つね」

「おうとも、三つと言わず十でも二十でも買ったげよう」

「……ふふっ、そんなに食べられないよ」

 

 

 

 

 

 

 秋口にあおいちゃんから連絡を受けて、山梨県警交通課安全教育係から鰍沢富士見小学校へ交通指導に赴いた。

 同僚の女性警官とマスコットのふじさん君を引き連れて、児童の前で講習を開く。子供は元気だ。なにより反応が良い。マスコットに抱き着いたり弄んだりして喜ぶ子、交通マナーについてじっと真剣に聞き入る子、茶々を入れたり忙しく動き回ったりやんちゃな子。

 己にとり孫どころか曾孫と言っても差し支えない幼い子らは、皆それぞれに個性があり、そして皆一様に可愛かった。

 

「兄ちゃん兄ちゃん! ピストル撃ったことある?」

「あるぞぉ。訓練でな」

「すっげぇ! ボクも撃ちたい! 貸して貸して!」

「だぁめ。あれはおじちゃんの。撃ちたかったら警察官になるか……そうだ、ハワイに行くといいぜ」

「ハワイ? ピストル撃っていいの?」

「そうだぞ。一杯撃てるぞ」

「ほわぁ、ボクハワイ行きたい! あおいちゃん! ボクハワイ行くね!」

「いや子供になに勧めとんねんお巡りさん」

 

 生徒用の表玄関。男の子と戯れる己の背中に小気味良いツッコミが降ってくる。

 ゆったりとしたパンツルック。ブラウンのカーディガンを羽織ったあおいちゃんが立っていた。

 犬山あおいちゃん。彼女は今や立派な、鰍沢富士見小学校の教員なのだ。

 廊下の向こうで子供らが屯している。少年はそちらの方へ小走りに駆けていく。

 

「あ、こらぁ! 廊下は走らん!」

「はーい!」

「まったくもう……」

 

 それは実に先生らしい佇まいだった。

 しかし振り返ったあおいちゃんは、己の目には今でも少女のようである。

 

「久しぶりやねぇ、哲也くん」

「ああ筆不精で面目ない。あおいちゃ……いや御苦労様です。犬山先生」

「はい、こちらこそご指導ありがとうございます、お巡りさん……ふふふ」

「ふははっ、いやぁ立派になったなぁあおいちゃん」

 

 しみじみと年寄臭く頷く己に、あおいちゃんはむしろ一層目尻を甘く垂らした。感じ入るように。

 

「ありがと……でもごめんな。すっかり哲也くんの方で執り成してもろて」

「なぁに構わねぇよ。むしろ交通課の安全教育ってのが俺ぁ初めてでな。いい勉強になった」

「ん、せやったらええねんけど。私こそ、なんや、その、口実みたいにしてもうて……みゃははは」

 

 気後れを隠すようにあおいちゃんが苦笑する。

 そうして、ぽつりと。

 

「……会いたかってん」

「んん? いやそいつぁ光栄だが、それこそ己個人に連絡をくれりゃ」

「むぅ、だって哲也くん、むっちゃ忙しいやん。機動隊、やったっけ? めちゃくちゃ厳しいとこに異動なってからほとんど休みなしや言うて……そんなん、気安く呼ばれへんわ」

「あぁ、まあ、そうか。そいつぁまた気を遣わせちまったな。すまん」

「あ、でも今は生活安全課で、基本昼勤なんやろ?」

「おぉ? よく知ってるな」

「野クルは皆知っとるでー」

 

 自身の勤務状況が娘らに筒抜けというのも如何なものか。

 

「また全員揃ってキャンプでもするかい。おおかた大の字あたりは道具に給金注ぎ込んで」

「全員でグルキャンもええけどぉ……私は別にペアでもええんやで? 哲也くん」

 

 上目遣いに甘い垂れ目が己を見上げる。教師としての姿とは打って変わった、甘え上手な娘子の仕草。

 なんと応えたものか、粗忽な男が頭を掻いていた時。

 

「あおいちゃん!」

「あ、こら! あおいちゃんやなくて先生」

「その人ってあおいちゃんの彼氏?」

「あおいちゃんの彼氏!? どれどれ?」

「警察の人だ! すげぇ!」

 

 帰り支度を済ませた児童達。ませた女子は目を輝かせ、男子もそれに乗じて囃し立てる。

 なんとまあ、若い教員に対するある意味で洗礼のような遣り取りだ。

 微笑ましい心持ちで、俺はあおいちゃんと顔を見合わせた。

 あおいちゃんは溜息交じりに。

 

「せやでー。カッコええやろ」

「おいこら先生」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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バッドエンドルート(3)

 

 

 

「えっ、じゃあキャンプの約束したの? 二人っきりで!?」

「や、や、返事はまだしてねぇんだぜ? 流石に野郎の独り趣味に娘さん付き合わせるってのも気が引けてな」

 

 薪を一本火に放り込む。火勢を増し、夜気に一筋白い煙がくゆる。

 

「学校のことでいろいろ立て込んでるってんで、まあ仕事が一段落着いたらと」

「それほとんど言質じゃん」

「やっぱりそう思うかい?」

「……」

「いや、あの子も今時分は気苦労多いようでな。勤め先の小学校の廃校が決まったそうだ」

「えっ、そうなの」

「ああ、市内校区の定住者が減り児童数は輪を掛けて減った。過疎と少子化も随分極まってきたらしいや。教育実習終えて初めて担任を持てたのがあの小学校だったんだろ? 気丈に振る舞っちゃいたが、気落ちせずにおれるかい。娘っ子一人、何か労ってやれるならしてやりてぇと、この爺めは偉そうに思ったのよ」

「……そっか」

 

 吐息するようにぽつりとリンちゃんは声を漏らす。

 少子高齢化が避けられない時流とはいえ、懸命に努力した末に立派に教師を奉職してみせた娘にそれは実に酷な仕打ちだった。

 

「おぉ、そういえば早速あおいちゃんからキャンプ地の候補が送られて来たんだが」

「あ、うん。どんなとこ」

「星のやどうこういう……グランピングっつうのか? 随分豪勢なところらしい」

 

 スマホの画面に、あおいちゃんから送られてきたアドレスを表示する。

 リンちゃんはそれを受け取って暫し見下ろし、みるみる表情を硬くしていった。

 

「……ここがっつりカップル用の高級リゾートじゃん」

「あぁまあ値段はそこそこ」

(しかもキャビン一部屋で、キ、キングサイズベッド!? ろ、露骨すぎる……!?)

「かかっ、口幅ったいのは承知だが、こいつぁもうキャンプじゃねぇな。いいとこコテージか、いや気取ったホテルだぜ」

「ソーダネー」

 

 どうしてか、娘は本栖湖の水面のように色のない目をしていた。

 

「……私の方でも良さげなキャンプ場何個かピックアップしとくよ。だから必ず、絶対、事前に声かけてね。じん爺。いい? 約束だよ?」

「お、おう。まあ、爺一人より見知った友達呼び集めて慰労会、ってな方があおいちゃんも嬉しいだろうぜ」

「ソーダネー」

 

 薪が爆ぜる。火の粉が散る。

 火のように熱く燃えるは若き血潮か。

 はてさて、この老い耄れめは何を期待され、何を勘繰られているのやら。

 

 

 

 

 

 夜も更け、寒さは一入。

 食事で身体が暖まったのを見計らい、リンちゃんはテントに入った。

 

「小父さんはまだ寝ないの?」

「火の始末したらとっとと寝るよ。そらそら、冷えねぇ内に寝袋被っちまいな」

「うん……」

 

 いそいそと寝床を調える娘を見守る。

 

「おやすみなさい」

「ああ、おやすみ。リンちゃん」

 

 律儀に己の方を確かめて、リンちゃんはテントの口をそっと閉じた。

 

「……」

 

 飲み掛けの冷めたコーヒーを平らげる。そうして、ローチェアの傍らに置いたバッグから俺はバインダーを取り出した。

 焚火の灯りと光度を絞ったLEDランタンで十分に内容は読み取れる。というか、読むまでもない。バインダーに綴じられた記録、写真、走り書きに至るまで全て、もはや諳んじることができる。できるまでに読み込んだ。ここ九年間、毎日、毎晩、これを続けてきた。

 ページを捲る。また最初から読み返す。全てを。

 小波と微風、枝葉の樂。その中に、紙を捲る音が加わって。

 夜は深まっていった。

 

 

 

 

 

 

 テントの外から、静かに紙を捲る音がする。

 その穏やかな奏では私を微睡の奥へ誘う。夜の静寂の中、自分は一人ではないのだと安堵する。傍に、祖父が、祖父のような人が居てくれる、その事実が堪らなく心地よくて。

 同時に。

 私はその意味を知って、泣きたくなる。

 あの人が毎夜、そのバインダーを開いていることを知っている。その中に何が記されているのかも、何故それをあの人が繰り返し繰り返し確かめ続けているのかも。

 私は知っている。

 じん爺が何を、誰を探し続けているのかを。

 

「……」

 

 寝袋の中で丸くなり、胸の奥に湧いたこの感情を押し殺す。

 安堵と同じくらい強く、私は不安で、ひどく悲しくなった。

 じん爺は居なくなったその人を探して、取り戻そうとしている。この九年間ずっと、片時も忘れずに。

 本来そこに居るべき人。本物の、薙原哲也さんを。

 じん爺は正しい。すべきことをしようとしている。自分が奪ってしまったものを何としてもその人に返そうと足掻き続けてきた。

 ……でも、でもね。

 それはつまり、また、また逝ってしまうということだ。貴方は去っていくということなのだ。

 あの時のように。

 ダイニングで煙草をくゆらせる祖父の背中の向こう。葬儀は、記憶に残らないくらいしめやかで、簡素だった。あらゆる手続きは済まされていて、あの人の遺体は気付けばあっさりと荼毘にふされていた。

 

『こんなの、ないわよ……なにもさせてくれないなんて……なにも遺してくれないなんて……馬鹿じゃないの。小父さんの、馬鹿ぁ……!』

 

 その手際の良さと自分自身に対する無慈悲さに、母が随分憤っていたことを後に知った。

 ここではない何処か。手の届かない何処か。

 老いて死ぬ。そんな当たり前。粛々と自分自身を処理してしまった貴方。

 わかってるよ。わかってるの。でも!

 

「……やだよぉ」

 

 いっちゃやだ。いなくなっちゃやだよ

 

 駄々を捏ねる子供になって、私は声を殺し吐露する。

 他人の人生に再生した大切な人。その存在の、罪深さを知りながら。

 それでも私は。

 私は、じん爺に。

 生きていて欲しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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バッドエンドルート(4)

 

 

 

 

 

 土曜の昼下がり。そろそろ夕飯の算段を付けようかと思案する時刻。

 身延の一軒家、寡男の独り住まいにメッセージが届いた。

 

[備えよ!薙原隊員!]

 

 スマホの画面越しにもひしひしと伝わるこの騒々しさ。大垣千明の唐突さは、高校時代の初対面から何一つ変わらない。

 社会人三年目になっても、まるで忙しい子供のようだ。

 

「かかっ、またぞろ何か企んでやがるな」

 

 変わらず愉快な娘子に思わず笑声がこぼれる。

 厄介事と同じほど、この娘は面白い騒動を呼び込んで来る。良きにつけ悪しきにつけ。

 

[いざ行かん!名古屋!]

 

「あん?」

 

 本当に油断ならぬ。まんまと意表を衝いてくる。

 仏壇の父母と祖父母に挨拶を済ませ、身支度してランクルに乗り込む。

 駅まで迎えに来いとの仰せだ。そしておそらく。

 片道三時間強の運転、その覚悟を終えて車体は静かに滑り出す。

 

 

 

 

 

「いやぁはははは! 悪いな薙原、お休みんところ付き合わせちゃって!」

「お? なんだ、ちったぁ悪いと思ってたのか? そいつは気付かなかった」

 

 助手席でけらけら笑う娘に皮肉一つ。

 悪びれた様子で千明は頬を掻く。

 

「いつの間に山梨に戻ってたんだ? イベント会社の方は」

「ああ、転職した」

 

 あっけらかんと娘は宣う。

 

「今は山梨の公益法人で……まあその辺のことはリンと合流してから話すわ」

「さいで」

「薙原は相変わらず警官やってんの? 年末とかめちゃ忙しそうだよな」

「まあ課にもよるが、当直ともなりゃ交通整理に初詣の警備に巡回警邏、人の往来が増えるだけやる事だらけだ。少なくとも三箇日が明けるまでは休めねぇだろう」

「うへぇ。大変だなぁ」

「市民の安全と安心を守るのが私共の務めでございますでな」

「毎度お勤めご苦労様です! こちら粗品の缶コーヒーになります」

「うむ、苦しゅうない」

 

 寸劇も馴染んだもの。恭しく差し出された缶を片手で受け取り、プルタブを指で起こす。

 口を付けてから気付く。微糖は少々甘すぎた。

 

「でもそうかー。年末は野クルに恵那に鳥羽先生で初詣行こうって話でさ。薙原も誘おうって思ってたんだけど」

「ああ、あおいちゃんから連絡来てたぜ」

「お、おう。流石、行動早いなイヌ子……うぷぷぷ、わかりやすい女だぜぃ」

「電話で済ませっちまったが、大の字の方からも宜しく言っておいてくれ」

「うーい。けどリンもリンで編集部の取材が年始からあるとかでさ。なかなか全員集合できないもんだよな」

「それでもこうやって強行軍で友達に会いに行こうとする輩がいるんだ。機会ってやつぁ作れるもんだ。いや、捻り出すもんだ」

「や、輩て……私はそんなトラブルメーカーじゃないぞー! 強いて言えばムード盛り上げ爆弾だ!」

「騒々しいってぇ意味じゃ似たり寄ったり。いやなお悪い」

「うむむむ、いやいやごめんて薙原大先生。名古屋で一杯奢るからさ。もぉ手羽先も付けちゃう!」

「馬鹿野郎。運転手に酒勧めるやつがあるかぃ」

「えぇいいじゃん。明日休みだろ。車は駅前かどっかにうっちゃってさ。朝まで三人飲み明かそうぜ~!」

「お前さん、ほとほと鳥羽先生に似てきたな」

「どうも二代目グビ姉襲名いたしました! コンゴトモヨロシク。よろしくついでに生一丁!」

「おい、まさかもう酔ってんのか?」

「失礼な! 缶ビール一本くらいじゃ酔わないって~。薙原だっていける口だろ? 付き合えよぅ。あ! なんならリンの家で宅飲みに雪崩れ込むって手もあるなぁ。宿代は浮く。薙原は可愛い女子二人に囲まれて役得。方々丸く収まるナイスなアイディアだろ!?」

「呑兵衛め」

 

 助手席のパワーウインドウを全開にする。

 年の瀬も押し迫った宵の口。高速道路を突っ切る車体は寒風を一身に纏い、開いた窓から車内へとそれは容赦なく吹き込んで来る。

 

「ひぃぃいいいさぶっさぶっ! 寒い寒い寒い!! 薙原さん!? 薙原大先生ってば!?」

 

 一頻り寒稽古をさせてから窓を閉じた。

 身を縮めて暖房の温風に両手を擦り合わせる様は小動物的というか、地獄谷の温泉猿風というか。愛嬌はある。見ていると悪戯心を刺激されるような、そういう類の。

 

「はあっ、はぁぁあっ……薙原はホント昔から私の扱い雑だよな、ったく」

「おや、そうだったかい?」

「そうだよ! リンとかイヌ子とか恵那なんかは女の子って感じに対応するのに……なでしこはー、まあ小っちゃい子って感じだったけど……どうせ私のこと男友達かなんかだと思ってんだろ」

「そいつぁ違う。さしづめ親戚の腕白な甥っ子ってぇところかね」

「ランク、上がってる……? のかもしれないけど! 肝心の男扱い変わんねぇじゃん!」

「かかかっ! ならどうする? お嬢さんとでも呼べば満足か」

「くくく、呼ぶだけじゃ足りないなー。ぜんっぜん足りない。もっとこう、一人前のレディをエスコートする感じでだな……」

「運転中にまた難しい注文つけやがる」

 

 そう軽口を吐き返した直後のことだった。

 右車線から大型トラックが車線変更してくる。かなり無理のあるタイミングだ。幅寄せの意図があるのか、こちらの存在に気付いていないのか。

 ブレーキを踏み込む。急制動は避けたが、それでも慣性は車内の人間を前方方向に押しやろうとする。

 

「うわっ」

 

 助手席の千明がダッシュボードにつんのめる前に、差し伸ばした左腕で身体を受け止めた。

 

「大丈夫か?」

「あ、う、うん」

「驚かせたな。すまん」

「えっ、いや、全然……あっ、ごめん」

 

 千明は自分がしがみ付いたままだったこちらの左腕に気付き、解放する。

 

「……ってか悪いのは今のトラックだろ! あ、ほらやっぱり! 次のインターで出たかったから無理矢理割り込みやがったんだ! バッカヤロー!!」

 

 千晶は車窓を全開にして大声で叫ぶ。それはまるで、気恥ずかしさを空怒りで取り繕っているようだった。

 

「怪我がなくてなによりだよ、お嬢さん」

「う……や、やっぱりやめてくんない? それ。なんか、その、擽ったいからさ」

「そうかい。俺ぁ一向構わねぇんだが。ああところで千明」

「ち、ちあ、ひゃい」

「微糖は俺にゃあちょいと甘すぎる。悪いが代わりに飲んでくれんか?」

「あ、う、うん……か、間接……いやいやいや中学生か私は!?」

「可愛らしいじゃあねぇか。思えば千明は、高坊の頃からずっと可愛らしい子だったなぁ」

「あっ、い、今のやつ! 今の可愛いは違う! なでしこと同じ感じのやつだ! そうだろ!?」

「かかかっ! バレたか。お前さんは今も昔もおぼこくてな、実に可愛らしいと俺ぁ思うぜ?」

「嬉しくねぇし!」

 

 冷えて頬が焼けたか。赤みを増す娘の顔を横目に笑う。

 千明は拗ねた顔で、己の左肩を突き続けた。

 

「ふんだっ、見てろ。名古屋の栄なんか歩けば、私だってナンパされ放題なんだからな」

「ほー、そいつぁ大したもんだ」

「イケメンに声掛けられた後になって謝って来ても遅いんだからな!」

「そりゃあ御尤もだ。精々警護を固めねばなるまい。こんな可愛い子を盗られんように」

「うっせバーカ」

 

 千明は苛立ち紛れに微糖のコーヒーを飲み干す。

 そうしてバッグを漁り、案の定持参していた缶ビールを取り出した。迷いなくプルタブを上げ、そのまま呷った。

 泡の付いた口端を拭いもせず、己の横顔に指を差して。

 

「今夜は帰さないからな!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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バッドエンドルート(5)

 

 

 

 駅前で千明を降ろし、近場の立体駐車場に車を納めた。大都市らしい人と車の氾濫地、滞りなく駐車スペースにありつけたのは実に運がいい。

 飲み屋街目指して人混みを歩いているとスマホが震えた。リンちゃんからだ。

 

『小父さん? 私だけど』

「おう、今向かってるよ。悪かったね。突然押し掛けちまって」

『ふふ、気にしないで』

「大の字とは合流できたかい」

『うん。すぐ見付けた。今』

『薙原ー。早く来いよー。ビールが切れそうだぞー。早く充填しないと私が大変なことになるぞー』

『千明うるさい。じゃあ錦通りのファミマで待ち合わせしよ。大きなマネキンの近く。わかる?』

「おぉあの不気味な人形か。あいよ。ちょいと待っててくんな」

 

 年末の名古屋駅は賑わっていた。仕事納めを目前にして、通行人も皆やや浮足立ったような空気を醸す。

 金時計を横目に駅構内のショッピングモールを抜け、西口を降りる。表へ出てすぐに、夜天を貫かんばかりの一際大きなビルを仰いだ。硝子が曲面状に貼られ、巨大な捻じれたオブジェのようだった。

 

「パパ!」

 

 透き通るような声が交差点を越えて耳孔に届く。

 向かいの通りで女の子が父親と思しい男性に抱き上げられ、はしゃいだ。母親も合流し、三人家族が夜景の中を歩いていく。

 ありふれた風景。幸福の象徴。素朴な暖かみが胸に宿った。

 同時に、こんな将来が、こんな安らぎが、あるいは────哲也にも訪れたのかもしれない。本来なら。

 この不二崎甚三郎さえ居らなんだなら。

 そんなことを考えた。今それを思索したところでどうすることもできまいが。詮無いこと。愚昧なことを。

 

「……」

 

 待ち合わせ場所のコンビニエンスストアは駅を出てしまえば目と鼻の先だった。

 錦通りを真っ直ぐ東進すれば、すぐに盛り場へ行き着く。お誂えな集合場所と言える。

 そうしてふと、店の前の街路樹を見ると。

 

「だから、私ら人と待ち合わせてるんで!」

「そんな寂しいこと言わないで。ね? 僕らお姉さん達に一目惚れしちゃったんです!」

「一杯だけ奢らせて! お酒大丈夫? めっちゃ好きそうだよね。俺マジ美味いとこ知ってるよ」

「いえ、ホントに、結構ですから……」

 

 若い男が二人、リンちゃんと千明に纏わり付いている。無論それは比喩で、彼らは娘ら二人に指一本触れてはいない。警察沙汰の線引きを心得ている。手馴れているのだろう。その癖、粘る。断りの文句を聞き流して、彼らは執拗に同道を迫った。

 しかし、噂をすれば影とはよく言ったもの。

 まさか千明の世迷言がこうも早々現実になろうとは。

 妙な感心を覚えながら、俺は男達に近寄った。

 

「おぅい、遅れてすまんな」

「あ、小父さっ、んん゛、哲也さん」

「あ?」

 

 己の姿を見て取るや、ぱっと笑顔の花が咲く。素直というか愛らしいというか、どうしてここまで懐いてくれるのか。

 贅沢な疑問を弄ぶ。そうして表情を和らげる己の様が、若い男達には嘲弄と映ったらしい。

 片割れの高身長な方が一歩詰め寄ってくる。

 

「おい、やめろって」

「女の子の前でイキりたくなっちゃった? あ?」

「そうさな。粋がるついでに言うと、気のない娘さんに執拗(しつ)こく言い寄る男ってなぁ無闇矢鱈に滑稽だ。悪いこたぁ言わねぇ、多少気を付けた方がいい」

「んだとこら」

 

 微かに酒気が臭う。どうやらこの男、一杯引っ掛けた後のようだ。気が大きくなって猛っている。

 腕が持ち上がる。振り被られようとしている。

 筋骨の強張りからその兆候を察知できた。

 半歩、男に詰め寄った。両脚の間に踏み込み、腕を掴む。機先を制する。

 

「うおっ」

「こらこら兄さん。酔いにあかせてそんなことしちゃいけねぇよぅ。酒は楽しく飲もうや。えぇ?」

「こん、の……!」

「納得いかねぇなら存分に話は聞くぜ? こちとらそれが仕事なもんでな」

 

 面前に開いた警察手帳を翳してやると、男はぎょっとして身を退いた。

 

「名刺は要るかい?」

 

 男達は返答もせず、そのまま小走りに立ち去って行った。

 週末の夜。気分よくナンパに繰り出してこの始末では。とぼとぼと人混みに消えていく背中にはむしろ憐れみを覚えた。

 リンちゃんと千明に向き直る。

 なにやら照れ臭そうにするリンちゃんと、弱々しく苦笑する千明が対照的だった。

 

「い、いやぁ、まさか予言が現実になるとは、この大垣千明の目をもってしても読めなかったぜ。あははは!」

「ナンパだって分かった途端私の後ろに隠れてた癖に。意外とこういうのに弱いよね、千明って」

「な、なにをぉ!? そんなことないぞ! 上京してからの私はそれはもう男をとっかえひっかえ!」

「妙なことで張り合うんじゃねぇよ」

「……しょ、しょうがないじゃん。私ナンパとかされたことないし……」

「かかっ、そいつぁ意外だ。こんなに可愛らしいお嬢さんを放っておくたぁ、東京の男共は見る目がねぇなぁ、ん? かっははは」

 

 仔犬のようにしょげる娘子の頭を撫でる。

 頬が紅潮する。ずれた眼鏡の奥から、恨めしげな上目遣いが己を睨んだ。

 

「くっそぉ……こうなったら飲んでやる! 今日はとことん飲んでやるぞ! 薙原の奢りで! そんで潰れたら介抱もよろしく!」

「調子のいいこと言いやがる」

「うっせうっせ! 乙女の純情弄ぶ奴が悪い! この女誑し! 若爺!」

 

 肩を怒らせて千明は通りをずんずん歩いて行った。

 リンちゃんと顔を見合わせ、それに付いていく。

 

「いつも助けてくれてありがとう」

「ん? どうした藪から棒に」

「だって、前の時もそうだったから……私が、約束破って磐田のキャンプ場に一人で行って……切り裂き魔に襲われた時も」

「……あの時は結局間に合わなかった。怪我ぁさせちまった。すまんかったな、リンちゃん」

「間に合ったよ、ちゃんと。だから謝らないで。小父さんが来てくれて嬉しかった。さっきもすごく、安心した」

「……そうかい」

 

 不意に、手を握られる。

 見れば娘の小さな手が、己の節くれ立ったそれを柔らかく包んでいた。

 華奢な指の感触は、やはり変わらない。幼いあの頃、再会したあの夜、そうして今夜この時すら。

 小さな可愛い娘子のままに。

 

「千明の言うこと、一理あるかも」

「?」

「小父さんはいつまで経っても私のこと、私達のこと、子供扱いなんだもん」

「そりゃあまあ」

 

 当たり前だ。リンちゃんも、野クルの面々も恵那ちゃんも、新田先生にしたとて己にとっては。

 

「子供のままじゃないよ。私も、皆も」

 

 娘を見下ろす。

 赤みの差した頬、摩天楼を星明りのように映す瞳、濡れる瞳が。

 小さな手が離れた。恥ずかしそうに両手を胸に抱いて、リンちゃんは先を急いで行く。

 気付けばそこには女性が一人。仕事に就き、糧を得て、独り立つ。

 一人前の女の背中が在った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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バッドエンドルート(6)

 

 

 

 あっと言う間に、そのビールジョッキは空になった。

 口の周りを泡の白髭で覆った千明が爛々目を輝かせて叫ぶ。

 

「作るぞ! 私達のキャンプ場!!」

 

 大衆居酒屋で互いの近況報告を済ませた頃合で、千明は自身の転職と、現在の再就職先について話し出した。

 やまなし観光推進機構。

 字義通りの、様々な地域振興事業を行う公益社団法人が今のこの娘子の巣であるとか。

 千明はスマホに、高下(たかおり)地区にある古びた施設の写真を表示した。

 山間に位置する元青少年自然センター。古びた建屋と幾つかの施設、東屋、鉄骨剥き出しのドームケージ。

 

「五年くらい手付かずの土地なんだけど、潰して更地にするだけじゃ寂しいし費用嵩むばっかだしなーんかいい使い途はないかなーって思ってたら、リンの一声でぴんと来た!」

「鶴みたいに言うな。っていうか、なんとなくの思い付きだから本気にしないでよ」

「まあ土地を遊ばせとくよかよっぽど良い案だとは思うぜ。手入れだけでも相当手間だろうが」

「うむ! 薙原隊員の疑問も尤もだ! ならばまずは皆で現場を見てその辺りを判断しようじゃないか!」

「「は?」」

「お勘定! それとタクシー一台!」

 

 呼び付けたタクシーにリンちゃん共々押し込まれ、高速に乗りトイレ休憩を二度挟み、パーキングエリアで買い求めたビールとチューハイでアルコールを補充する千明に呆れながらあれよあれよと四時間弱。

 気付けば我々三人は、山梨県富士川町高下地区、寂れた自然公園に立っていた。山の中腹に拓かれ、棚田の如く傾斜地に段々となった土地を見下ろす。

 遠く列なる山々の向こうに抜きん出て、美しい霊峰の尖頭が白み始めた空を背にして映える。日の出が近いらしい。

 

「本当に手付かずみてぇだな」

「雑草ぼうぼう……建物も廃墟だ」

「五年間ほったらかしだかんなー。原型留めてるだけ上等だってー」

「まあ今日明日に崩れるようなことはねぇだろうが……思ったより広いな。こりゃ業者を入れるとなるとなかなか、何をとは言わんが馬鹿にならんぞ」

「予算会議とか、私はそこまで関わったことはないけど、厳しそうだね」

「頭の痛ぇ話だ。つくづく平の公務員でよかったと思うよ」

「あはは……で? これからどうすんの、千明……」

 

 リンちゃんが呼ばわりに振り向くと、そこにはベンチで鼾をかく眼鏡っ子があった。

 リンちゃんと顔を見合わせ、互いに白い溜息を落とした。

 氷のような微風が背筋を撫でる。夜明け前、標高も高い。人間なれば十分に凍え死ねる気温だ。

 寒空の下、剛胆にも無防備な寝顔を晒す千明に、コートを脱いで掛けようとした。

 

「いいよ、小父さん。そんなことしてやんなくても」

「いやしかしこのままじゃあ風邪をひく。いくらこやつがバ、剽軽者でもな」

「こいつにはこれで十分」

 

 何処から拾って来たのやら、リンちゃんはその段ボールを千明にひっ被せた。

 

「……ホームレ」

「言うてやるな」

 

 段ボール紙は優れた断熱材であり、その道の御仁方にとっては必需品である。新聞紙でもあれば丸めて上着の内側に突っ込んでやってもよかったが。

 肺も凍りそうな冷気を吸い込む。

 傍らで密かに震え上がる娘の肩に己のモッズコートを掛けた。

 

「ん、別にいいのに……小父さんだって寒いでしょ」

「酒が入ってる所為かね、むしろいい塩梅だ。コーヒー飲むかい?」

「……ありがとう」

 

 コートの前を寄せて娘はそっと囁いた。

 自然、己の口には笑みが浮かんだ。

 温かな缶コーヒーを啜りながら、園内をぐるりと巡る。

 膝まである雑草、腐り始めた木製階段、錆び付いた鉄製ドーム。どれも千明から見せられた写真の通りの有り様だったが、実物を間近にすればなるほど、それらには趣を感じられた。

 静謐な山間、周囲には果樹園と疎らな集落があるばかり。都会の喧騒が遥か遠く異界の出来事のように思えてくる。

 

「水回りとか、案外しっかり作られてるし……確かに、いいキャンプ場になるかも」

「そうだな。リンちゃんがそう言うなら間違いねぇや」

「もぉ、だから私のはただの思い付きだってば」

「いいじゃねぇか。もしそうなら、もしこうだったら、想像するだけで楽しいもんさ」

「そうだけどさ」

 

 富士が輝き出す。後光を纏う白い偉容。

 朝日が、霊山の奥からゆっくりと昇り始めた。ダイヤのような輝彩が富士山の中腹で燃えている。

 冬真っ盛りの早朝、それもこんな山の中だ。己のような寒がりは酒精を帯びていなければ平気の平左ではいられまい。

 しかし。

 

「……眺めだけは悪くねぇ」

「……」

 

 あの男なら喜んで訪れそうだ。ここは。年甲斐もなく鉄騎を駆り、寒空の下、好き好んで焚火なぞを肴にして酒をやる。

 容易に想像がついた。ただ。

 ただ、もうその機会は、多くはないのだろう。

 

「……」

 

 ふと、その視線に気付く。頬を控えめに刺す娘子の。

 リンちゃんはどうしてか、この見事な朝焼けも眺めずに、己の横顔を見ていたらしかった。

 

「どうかしたかい?」

「じん爺こそ」

「俺ぁどうもしねぇさ。ただ、そう、物好きの爺が一人いたなと、思い出してた。もしここがキャンプ場になるんなら、あの野郎を引っ張ってきてやってもいい……なんてな」

「……そうだね。喜ぶと思う」

「いやぁ奴のこと、ソロ以外は性に合わねぇ、なんて文句を垂れそうだ」

「ううん、きっと喜ぶよ。お爺ちゃん」

「……そうか」

 

 新の字、新城肇は今も健在だ。その気になれば、いや、名古屋からの帰り道にでも顔を見に行ける。

 己とは違い死病に見舞われている訳でもない。老境で心身の弱りはあろうが、奴はまだまだ生きられる。いや生きなくてどうする。こんな可愛い孫娘と、立派な娘夫婦を置いて逝くにはまだ早過ぎる。

 これはただの感傷だ。己の不義の、言い訳だ。今生の別れを今に至るまで踏み倒し続けてきたゆえの。

 離苦を覚悟で覆い隠す。老獪さからは程遠い、浅ましい予防線に過ぎない。

 いずれ。いずれは、奴も、俺も。

 

「年甲斐もねぇな。体が若ぇからかね。死に損ないが、生き汚ぇったら……あぁいや」

「……」

「すまねぇな。埒もねぇこと口走っちまった。お耳汚しってぇやつだ。爺の愚痴なんてなぁ頼むから聞き流してくれぃ。すまんなぁリンちゃ……」

「っ!」

 

 娘は袖口を摘まんで、黙って引き寄せた。赤子の指のような強さで、ひしと手繰り寄せた。それこそまるで、決して放すまいと。

 

 

 

「リーンちゃーん! 哲也くーん!」

「お」

「! なでしこ!?」

 

 広場に停まったジムニーから降りて、その娘は元気一杯に手を振った。

 短く切り揃えた撫子色の髪。天真爛漫が服を着たような、朝日より明るい笑顔。

 なでしこは、白く息せき切らせて駆け寄ってくる。

 

「なでしこちゃんか! 久しぶりだな」

「哲也くん久しぶりー! わぁ、もしかしてまた背ぇ伸びた?」

「かかっ、お前さんもな」

「いや、でもなんでなでしこがここに?」

「うん、あきちゃんがここに集合って言ってたから」

 

 なでしこはスマホのメッセージ画面をこちらに見せた。

 そこには果たして、酔いどれの千明が撮ったリンちゃんや己の写真。[現地集合!]と銘打たれ、わざわざ手書きで目印まで施された地図を貼付する念の入れよう。

 折良く、欠伸混じりに歩み寄ってきた千明を引っ張り込む。

 

「え? え? あ、やっべ」

「あおいと斉藤にも送ってんじゃん……」

「うおっ、イヌ子から鬼のようにメッセージ来てるし……」

 

[哲也くんも名古屋行くとか聞いとらんねんけど]

[てかさりげに哲也くんに送ってもろたとか知らんねんけど]

[ドライブデートか。長距離ドライブデートか]

[あき、返事待ってます。言い訳をしてください]

[山梨おるんやね。今から向かいます]

[首を洗って待っていてください]

 

「標準語なんですけど。敬語なんですけど! 怖いんですけど!?」

「あー」

「私知ーらない」

 

 なでしこちゃんは戸惑いながら状況を察し、リンちゃんは処置無しとコートの襟を寄り合わせ顔を埋めた。

 

「た、助けて薙原ー!」

「すまねぇが、俺ぁ名古屋に取って返して車を転がして来なけりゃならんのでな。力にはなってやれん。骨は拾ってくれるさ、なでしこちゃんが」

「私!?」

「NoooooOOOO!?」

 

 頭を抱える千明を後目に、なでしこちゃんが両手を打つ。

 

「そうだ! うちでお鍋するから、皆で食べに来てよ。哲也くんも食べてからで大丈夫?」

「ほう、そいつぁ有り難ぇ。是非とも御相伴に与ろう」

「えへへ~」

 

 変わらないふにゃけた笑顔に我知らず安堵を覚えた。

 死刑宣告を受けた受刑者のような千明を引き摺って、我らはなでしこちゃんの車に便乗した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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バッドエンドルート(7)

 

 

 身延郊外の真新しい一軒家。各務原家の佇まいは遠目にも大きな庭付き二階建てである。

 と言って、高校一年の頃に浜松から引っ越してきたというのだから築年数はそこそこだろうが。

 薙原祖父母家の平屋とは違い、モダンな造りが己には物珍しいのだろう。などと愚昧なことを思う。

 なでしこちゃんのジムニーを降りてすぐ、庭先で作業する父御の姿を見付けた。

 

「お父さーん。リンちゃん達連れて来たよー」

「おー! おかえりなでしこ! 皆さんもようこそいらっしゃい!」

「お邪魔します」

「どうも! 蟹食べに来ました!」

 

 控えめなリンちゃんと食い気を隠し立てしない千明。各務原の父御はむしろ一層上機嫌な髭面で娘らを出迎えた。

 

「ご無沙汰してます、各務原さん。突然押し掛けてしまって」

「やーやー哲也くん! 久しぶりだねぇ! すっかり立派になって! いやますますハンサムになって!」

「かかっ! 嬉しいこと言ってくれちまって。各務原さんこそご壮健、いやぁ益々精気が漲ってますな。食道楽斯く在るべしと」

「あっはははは! 相変わらず煽て上手だなぁキミは!」

「もーあなたー。嬉しいのは分かるけど、ちゃっちゃとテーブル出してくださーい。お鍋が煮えちゃいますよー」

 

 勝手口から顔を出したのは、眼鏡を掛けた母君であった。

 

「おっとそうだったそうだった」

「お手伝いしますよ。倉庫の前に出てるあれですかね」

「いやすまんね哲也くん」

「ごめんなさい哲也くん。せっかく久しぶりに来てくれたのに」

「なんのなんの。骨身を惜しまず働きますぜ。四、五年ぶりになりますかぃ? いや各務原の母君、あの時分からちっともお変わりなくお若くてらっしゃる」

「まあ! 哲也くんったらお上手なんだから! カニ味噌好き? 大吟醸しかないけどいいかしら」

「こらこら哲也くん。人妻を口説いちゃいかんよ!」

「こいつぁとんだ失礼をしやした。オシドリ夫婦への、まあ独りもんの僻みと思ってここは一つご容赦を」

 

「「「アッハハハハハ!」」」

 

「……もぉお父さん、お母さんまで、玄関先で世間話に花咲かせてないで、早く準備してよ」

 

 キッチンからもう一人、各務原の姉御、桜嬢の呆れ顔が覗く。

 

「相変わらず薙原は年齢不詳だよな」

「お父さんと話してる時の哲也くん、なんか同級生じゃないみたいだよねぃ」

「……うん、まあ、そうだね」

 

 

 

 肉厚なベニズワイガニの身は実に食べ応えがある。

 カニ味噌の苦味の奥には芳醇な旨味が広がった。勧められるまま大吟醸を嘗めたが、これはいけない。深酒した翌日だというのに。

 盃を干さずにおられない。

 注がれるまま冷やを一杯、燗を一献、また一献酌み交わし。興の乗った父御が倉庫から七輪を引っ張り出して甲羅を炭火で炙った。余分な水気を飛ばすことで香ばしく焼き上げた天然の器。そこへ惜しげもなく清酒を注ぐ。

 香りだけでも酔えそうな果実に似た甘味と白刃めいて鋭い辛味。そこにえもいわれぬカニの旨味の香ばしさが、喉奥まで焼き付き離れない。しかし、その珠玉の旨味も、残雪が陽光にやがて溶かし流されるように舌から、喉から、敢えなく消え去る。後味の素気なさはむしろこの味への己が執着を一層深めさせた。

 甲羅酒。斯くも単純な製法の飲み物が、まさかこれほど美味だとは。

 この老木をして知らなんだ。桜嬢の手土産というこのズワイガニほどの上質の品を今まで味わう機会に巡り会えなかったそれこそが不幸。

 

「桜ちゃんや」

「なぁに、哲也くん」

「お年玉はたんと奮発させてもらわねばならんな、この蟹はまっこと堪らん。いやぁ……堪らんぜ」

「あっははは! 本当にいける口だねぇ哲也くんは! 見ているだけでこっちまで旨さが染み入るような飲みっぷりだよ。母さん、私にも一杯!」

「ダメよ。哲也くんは強いけどお父さんの肝臓雑魚なんだから、酔っぱらって皆の迷惑になるでしょ」

 

 桜嬢の一刀両断の沙汰が下る。父御は悲しげに肩を落とした。

 

「っていうかお姉ちゃん哲也くんからお年玉もらえるの!? いいな! いいなー!」

「年齢的には普通逆なんじゃ」

「千明ちゃんは、お前の方こそお年玉あげる歳だろこの年増、ってそう言いたいのね」

「滅相もありません!!」

 

 よく躾られた犬のように、座面と背もたれに対して最小の接触面積で背筋も真っ直ぐぴたりと静止して千明は着座する。

 桜ちゃんはテーブルに頬杖をつき、眼鏡の奥から流し目でこちらを見やった。

 

「くれるなら貰うわよ。期待せずに待ってる。代わりに……次は魚の美味しいところ連れてってあげる」

「そいつぁ楽しみだ。桜ちゃんは美食家だからなぁ」

「じゃあ年明け4日くらいに甲府のお店予約しとくわ」

「ん??」

「次……?」

 

 言うや、即断即決に桜嬢はスマホを弄り始めた。

 

「な、なんでお年玉からそういう話に」

「次ってことは、お姉ちゃんと哲也くん、よくご飯食べに行ったりするの?」

「時々な」

「わりと頻繁に」

「それは私も初耳やな~」

 

 振り返ればそこにあおいちゃんが立っていた。路肩ではハザードランプを焚いたコンパクトカーが停められている。

 蟹に夢中で気付かなかったのか。気付かれぬよう彼女が忍び寄ってきたのか。それはわからない。

 

「どうもー、各務原のお父さんお母さん御無沙汰してます~」

「や、やぁあおいちゃん! よく来てくれたね。さあさ、あおいちゃんも食べて食べて!」

「まあ嬉しいわー。じゃあお呼ばれさしていただきますね。おおきにです~」

 

 朗らかな笑顔で、あおいちゃんは折り畳み椅子を己の隣に広げて腰を下ろした。

 沈黙が降りた。

 その場の誰も蟹に手を付けていないというのに。奇妙な緊張感が外気を満たしていく。

 

「相変わらずよね、哲也くんって。節操がないっていうか」

「年下の男の子に粉掛けるんは節操ないって言わへんのんやね~。知らんかったわ」

(これは修羅場!? もしかして各務原家の食卓始まって以来の修羅場なのかい!?)

(青春ね! 若い頃思い出すわ~。私も昔他の娘と修一郎さんを取り合って牽制の嵐で)

(ど、どどどうしよう! あおいちゃん怒ってる? すっごく怒ってるよね!?)

(まあ不機嫌な原因の大半は千明の所為だと思う)

(私!? あ、いや、私か……で、でもなでしこ姉の参戦とか私に予想できるわけないだろ! なんでこんな喧嘩腰なんだよ!)

(え? お姉ちゃん、別に怒ってないよ? むしろ帰ってきてからすごく機嫌良くてびっくりしたくらい)

(えぇ……あれで?)

 

 テーブルの下で五人が顔を突き合わせ、ひそひそと、いやこうも寄り集まっていては潜めるものも潜められまいが。

 あることないこと囁き合っている。

 桜嬢を見やれば確かに、変化の薄い顔容に微かに色めく笑みの形。

 この娘の妙に悪戯好きなところは出会った頃から変わらぬままだ。

 悋気、というなら、あおいちゃんのそれはとても分かりやすく見て取れる。当人が意図的に露にしているのだろう。

 

「あまり煮立たせると身が固くなる」

 

 カセットコンロの火を弱めた。

 そして、剥いた蟹の身を器に盛ってあおいちゃんの前に置く。

 

「とりあえず、旨いものは旨い内に食った方がよかろう。己の不躾についてはこの後にたっぷり伺わせていただくゆえ……それじゃダメかい、あおいちゃん」

「その場凌ぎばっかり上手いのよね」

「ホンマやわ」

 

 突如連帯して、娘らは蟹の身に箸をつけた。各々が己の器のそれを奪っていった。

 綺麗に空になった小鉢を見下ろす。

 各務原の父御に労しげに肩を叩かれ、己は結局渇いた笑声を吹いた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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バッドエンドルート(8)

 

 

 なでしこの部屋はがらんとしていた。

 棚や机に物はなく、シーツを取り払われて剥き出しのマットレスになでしこが腰掛ける。内装の飾り気と言えば精々がカーテンくらい。

 東京に引っ越す時、私物のほとんどはそっちに移してしまったという。

 ローテーブルの前にあおいと千明が並んで座り、私はその向かい側に座る。

 蟹鍋がお開きになってからずっとあおいは膨れ面だ。

 

「むっすー」

「なぁイヌ子ぉ、そろそろ機嫌治してくれよー。薙原を引っ張ってったのは謝るからさー」

「……それはもうええねん。昨日は職員会議やらなんやらで結局深夜まで残業やったし、どーせ合流もできひんかったやろし」

「だ、だよな! いや私もさ、一応気を遣ってたわけでさ」

「車窓から眺める名古屋の夜景は綺麗なんやろねー」

「ぬおおお許してイヌ子さーん!!」

「ぷっ、ふふふ、冗談やよ。流石にそこまでワガママ言わへんわ」

 

 床の上に平身低頭で突っ伏す千明にあおいは笑った。

 一頻り笑って、ふ、と吐息。

 

「ま、いつまで恋する乙女してられるかわからんしね。できる内は、ちょっとめんどい女くらいの方が相手の心に残るやん? 名残惜しさとか……罪悪感とか」

 

 そう囁いた時のあおいの目は、仄かに暗くて、甘くて────ひどく妖艶だった。

 

「ああいう難物な人やと特に」

「難物って……」

「どう考えてもそうやん。高校の頃からアプローチしとるんよこっちは!」

 

 それはどこか、抗議するみたいな響きだった。

 あんたの所為でもあるんだぞ、って。

 

「高一からやから足掛けぇ……あかん。あっかん。年数かぞえたら目眩してきた」

「まあなんだかんだで私らもそろそろアラサー」

「チェストォ!!」

「ぐえええっ……!?」

 

 とてもデリケートなことを考え無しに口にしようとした千明は、喉笛にあおいのチョップをもろに喰らって白目を剥いた。合掌しとこう。南無。

 

「……我ながら気ぃ長いわ、私も。ほんで今日は今日で各務原姉にめっちゃおちょくられるし! なんやねんあの昔の女ムーヴ!」

「む、昔の女て」

「あ、あははは。お姉ちゃん、哲也くんもあおいちゃんも気に入ってるから……でもホントに一途な乙女なんだねぃ、あおいちゃん」

「くぅ、桜さんは意地悪やけど、なでしこちゃんは()え風に言うてくれるからホンマ大好きやわぁ!」

「あおいちゃん……! 私も好きだよ! 大好き!」

「なでしこちゃん!」

 

 ひし、となでしことあおいは抱き合った。

 なんだこれ。

 

「……朴念仁とか鈍感とかなら、まだ愛想尽きましたぁて、言い張れんねんけどなぁ」

「……」

 

 人の心に無思慮で、無関心な人なら。

 そんな人だったなら、きっとあんな風に悩んだりしない。苦しんだりしない。

 若返って、人生再スタート、なんて無邪気に喜べたのだろう。それが誰かの人生でも、仕方ないって言い訳して、罪悪感に蓋をして。

 だってそうじゃないか。魂が現世に帰ってきて、その上他人の体に宿り、生き返る。そんな奇跡に対面したとして、それは人間にどうこうできる物事だろうか。じん爺は言ってた。天魔の仕儀だと。どうにもできはしない。神様とか、悪魔とか、そんなものの悪戯なんだから。

 仕方ないって諦める。私でもそうする。

 そう、してくれたら。

 もしそれができるような人だったら。

 きっとそれは幸福なことだ。苦悩を抱えず、義務も罪業も負わず。

 ただ、再会を喜んだ。私は嬉しかった。

 貴方も、そうだといいな。

 これからもそうならそれはなによりの。

 ────それじゃあダメなの?

 ダメに、決まってる。

 

「…………」

「リンちゃんずるいわ」

「えっ」

 

 ぎくりと、心臓が一段鼓動を早めた。まるで隠していた罪を鳴らされたように。

 あおいは、少し寂しそうに。

 

「だって、リンちゃんは哲也くんの特別やもん」

 

 

 

 

 

「わりと露骨に依怙贔屓するわよね、哲也くんって」

「やにわになんだい」

 

 名古屋駅に放置した車を取りに今日中に名古屋と山梨を往復する必要がある己は、息巻く千明の作戦会議とやらを辞して各務原家を後にした。

 そこへ、駅まで送る、との桜嬢の申し出を有り難く賜り、己は今彼女の運転するラシーンの助手席に収まっている。

 昼日中、豪勢な早めの昼食を済ませてより。太陽はとうに天頂まで昇っている筈だが、今日は朝から気温が上がらずやけに肌寒かった。

 この上、心胆寒からしめるようなことを宣うのではあるまいな。

 

「リンちゃんが好きなの?」

「勿論だ」

 

 あの子は良い子だ。良い子に育ってくれた。新の字、咲ちゃん、渉くん。立派な人の親になった彼ら、彼女を見上げて思う。よくぞ育て上げてくれた、と……他人様の御子に烏滸がましくも、しかし思わずにおれぬ。

 あんな子をどうして恵愛(あい)せずにおれようか。

 

「……やっぱり違う」

「何がだい」

「他の娘にはそんな顔しないもの、キミ」

「前見て運転しねぇか」

「赤信号よ」

 

 停車した小さな鉄の箱の中、黒いセルフレームの眼鏡越しに桜の瞳が己を射貫く。

 

「俺ぁそんな妙ちきな顔をしてたかねぇ」

「してたわよ。孫娘を見守る好々爺って感じの」

「かっ」

 

 とんだ慧眼だ。

 

「お前さんだってなでしこちゃん相手なら同じようなもんだろう」

「誰がババアだ」

 

 右肩を殴られる。なかなか強烈な裏拳だった。

 

「哲也くんにとっては結局、みんな子供扱いってわけね。リンちゃんも、あおいちゃんも、千明ちゃんも、なでしこも」

「皆立派な社会人だと俺ぁ思ってるがね」

「私みたいな三十路女は?」

「こう言っちゃなんだが、あの子らとお前さんと己にしてみりゃ大差がねぇのよ」

「あらありがとう。じゃあ美波ちゃんは?」

「さっきっからこいつぁ何の尋問だぃ」

 

 矢継ぎ早に知己の名を並べ立てる娘の意図は、なんとはなしに察するものとてある。

 俺は責められているのだろう。咎められているのだろう。

 

「罪作りも大概にしときなって話よ。特に美波ちゃんなんか、健気に卒業まで待っててくれたのに」

「……そりゃ初耳だな」

「本気で言ってる? もう一発殴るわよ」

「せめて運転中はよしてくれ。後ほど、頂戴仕る」

「まあ半分くらいは淡い期待なんでしょうけど、その淡い期待だけで二十代棒に振っちゃうような子だって理解した方が身の為よ」

 

 一呼吸、桜嬢は間を置いた。

 

「この際はっきり言っておくけど」

 

 歩行者信号が点滅する。

 目前の信号もまた間もなく、赤から青へ。

 

「処女を弄ぶと後が怖いわよ」

「もう少しこう、手心をくれんか。いや己にではなく鳥羽先生にな」

「美波ちゃんの歳だと拗れるわよ。それはもう拗れるわ。三十過ぎた処女は流石にやば」

「わかった。悪かった。己が全て悪い。だから許してやってくれ後生だ。頼む」

 

 歯に衣着せぬとは言うが、神経まで剥き出しでは遠からず血を見るぞ。

 

「うやむやにのらりくらり躱せる男の尻をいつまでも追い掛ける憐れな女には、本来これくらいはっきり言ってやった方がいいのよ」

 

 この娘とて、その辛辣な口ぶりほどに放埓な恋愛経験がある訳ではなかろうが……。

 右腿に鋭い痛み。器用に前を向いたまま、桜嬢は力の限り己の右脚の皮膚を抓った。

 

「こんな偏屈な野郎に構うこたぁねぇんだ。先生なら引く手数多だろうに」

「本人に言ってあげれば」

「何べんも申し上げたんだがなぁ」

「うわ、ひどっ」

「このガキ、舌の根も乾かぬうちに翻しおった」

「なんでそう猫可愛がりしかできないわけ」

「実際、可愛いんでな。リンちゃんも、あの子らも」

「女として見られないくらい?」

「女の子扱いはしてるとも」

「またそうやって子供扱い」

 

 エンジンが嘶く。アクセルを踏むその右足に力が入るのがわかる。

 

「現職警官乗っけてんだ。法定速度は守ってくれよ」

「キミの中では私達って恋愛対象にはならないのね。それはキミの精神年齢が異常な所為? それとも好みの娘がいないとか? それとも、他に好きな人がいる、とか?」

 

 愛した女はいた。

 掻き毟るほど愛しい女が、一人。

 こんなこと、口には出すまい。綺理枝には笑われてしまうだろうから。

 

「二つ、正解だ。己の頭はイカれてるし、己という奴はいなくなった女を今だに引き摺る情けねぇ野郎だ」

「……」

「間違っても娘さんの純な好意なぞ、賜ってよい分際じゃあない」

 

 車窓に映る阿呆面は決して哲也の所為ではない。身の内、魂と性根の腐りが、耄碌が滲み出したがゆえ、こんな腑抜けた面が顕れる。

 恥知らずめ。

 俺は俺の魂に毒を吐き捨てた。

 

「…………ねぇ」

「なんだい」

「……慰めてあげよっか」

 

 駅前、路肩にゆっくりと車を着けながら、女が囁いた。

 その目を真っ直ぐ見返して、己は微笑んだ。

 

「ありがとよ、桜ちゃん。お前さんやっぱり、優しい子だな」

「……」

 

 そっと娘は身を乗り出す。その桜色の唇が近寄って、己はそれを右の頬で受けた。

 

「……」

 

 桜ちゃんは儚げに笑って。

 ────右手で己の左頬を張った。

 快音と痛打が骨身に染みる。

 

「ばか」

 

 己が降車してすぐ、ラシーンの冴えた青色が身延駅のロータリーを去っていく。

 マフラーから吹き出る排煙が、まるで乙女の怒りを表しているようで。

 右の頬を擦る。打たれもせんのに、そこだけやけに熱いのだ。

 

 

 

 

 

 

 



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バッドエンドルート(9)

 

 

 

[それぞれ役割分担を決めて、とりあえず後日本格的な打ち合わせをやることになりました]

[県庁の会議室を借りられないか交渉中とのことなので、集合の日時は千明からの報告待ちです]

[名古屋にはもう着きましたか?]

 

 スマホに届いたメッセージを確認して、その律儀な文面に思わず笑みが溢れる。そしてどうやら、己もきっちりその高下キャンプ場計画とやらの面子に数えられているらしい

 適当な返事を考えながら、名古屋駅前の賑々しい雑踏を流した。

 

[車を回収したら名古屋を出る]

[入れ違いになるが、リンちゃんも帰り道は気を付けて行くんだぞ]

 

 お世辞にも達者とは言えない操作で、それでもどうにか文章を打ち込んでいたその時。

 着信。

 スマホに表示された名は……“新城”。旧馴染みのあの男。

 

「……よう、息災か。爺さん」

『若作りが偉そうに。そっちこそ愛知に寄るなら連絡くらい寄越せ。筆不精め』

「かかっ」

 

 悪態に間髪入れず厭味が返る。

 相変わらず地下空洞の鳴動のように低く艶気のある声で、老爺もまた笑った。

 

 

 

 

 名古屋駅近く。幹線道路からの車通りが多く、通行人などはむしろ疎らな商店街。そこから小道に入ってすぐ、こぢんまりとした純喫茶がある。

 窓際、革張りのソファー席に二人、向かい合って座る。

 注文したコーヒーが届くまで会話らしい会話はなかった。今更それを苦痛と思える瑞々しい間柄でもない。気の置けないというか、腐れ縁が極まって互いに古木か枯木のような心持で。

 澄んだアメリカンを啜る。

 なにやらひどく懐かしかった。

 思い出されるのは、新城肇と()()()不二崎甚三郎がまだ学生だった時分に通ったあの喫茶。ここのコーヒーは、あそこで飲んだ泥水とは比べ物にならない旨さだが。

 舌が変わった所為か、それとも散々歳を食ってコーヒーの味わい方をようやく会得できたからか。

 俺は老いたのか。それとも、若返ったのか。

 

「キャンプ場を作るそうだな。リンから連絡が来ていたよ」

「妙な話の運びでな。高下の山ん中だ。ちと辺鄙だが、お前さんなら嬉々として通いそうなところだったぜ」

「ほう」

 

 カップを握る指。開襟シャツから覗く首筋。以前よりも確実に痩せ細り、衰えた姿。

 旧友は老いてゆく。人として正しく、真っ当に、経る歳を重ねて歩んでいる。慌てもせず狼狽えもせず泰然と、ゆっくりと。

 その事実が眩しい。

 その当たり前を、少しだけ羨んだ。

 

「キャンプを趣味にしてた娘さん方が、遂に自らキャンプ場を作っちまおうってんだから、すげぇ時代になったもんだ」

「老け込むのはいいが、お前もその人足に指名されたんだろう」

「へいへい、精々娘っ子共に扱き使われてやりますともよぅ」

「物の役に立てばいいが」

「言ってろ」

 

 薄ら笑ってカップに口をつける。口中に広がる渋味を楽しんだ。

 

「近頃、どうなんだ」

「なんのこった」

「相変わらず、捜査を続けてるのか。お前は」

「……まあな」

 

 わざわざ聞き返すまでもなく、老爺の問いの真意はわかっている。

 お前はいつまでそれを続けるつもりだ、と。

 

「無論、事件が解決するまでだ。そうすればきっと……きっと」

「そうか」

 

 新の字はカップの水面を見下ろしながら、静かに言った。

 

「もうとやかく言う気はない。お前のやろうとしていることは正しいことだ」

「かかっ、殊勝な言い様だな。あの時からの反省が行き届いてるらしいや」

「ああ、惨いことを口にしたと今でも思う。お前に対しても、哲也くんに対しても」

「……」

 

 十年前、高校一年生のリンちゃんが切り裂き魔に襲われた日。救急外来の待合所で俺達は一度袂を別った。いや、そんな大それたものではなく、互いに譲れぬ一線を検め合ったというだけの話だ。

 この男は人の親たる者として当然の情を持ち、正理を持ち合わせている。

 そして俺には俺の正すべき法理があった。

 今もそれは変わらない。

 

「お前が帰ってきて十年にもなる。それだけ掛かってようやく私なりに整理が着いた。勝手な話だが」

「まったくだ。子供の駄々じゃあるめぇし」

「ふ、そうだな。いい歳をして、我が儘を言ったよ」

 

 こちらの厭味に新の字は言い返してこなかった。ただ穏やかに笑むばかりで。

 

「ただ、こうも思うんだ。お前が帰ってきて十年、お前が薙原哲也くんとして生きてもう十年だ。不二崎甚三郎の心を持った薙原哲也の十年間。それはもう、もはや、別の人間の人生なんじゃないのか、と」

「そんな訳があるか。今ここに在る己なんてものは所詮苟且(かりそめ)だ。持ち主が現れねぇのをいいことに居座る不法占拠者だ。いいとこ中継ぎよ。真の肉体の主が、いつ哲也が帰ってきてもいいように。せめて、きちんと生きてるってだけの」

「哲也くんの代理だとお前は言い張るだろう。それが間違ってるとは言わん。だがな、お前のそういう存念があったとしても、お前が生きてきたこの十年はお前の人生だ。どうしたところでこれは覆らない。薙原哲也を、その性格から能力まで寸分違わず演じられるというならまだしも。そんなことは土台不可能だ」

「…………」

 

 一昨年からその暮にかけて、哲也の祖父母が立て続けに亡くなった。そうして薙原哲也は真に天涯孤独となった。家族郎党と死別してしまったこと、親類縁者が絶えたこと、薙原哲也の存在を現世に繋ぐ人の縁はひどく希薄だった。

 薙原哲也の小中学生時代の友人に話を聞き回っていた時期がある。彼をどうにかしてこの世に繋ぎ止める手掛かりが欲しかったのだ。

 収穫は乏しかった。真面目で大人しかったという。友人達にとって彼の幼少時代の印象は薄弱としている。

 不慮の事故で両親を亡くした幼児に活発に人生を過ごせという方が無理な話だ。

 それでも、少年は時間を掛けて打ち沈んだ心を育んでいく筈だった。高校時代などは特に、物心ついた子供が情緒を築く為に使う大切な時期だった。繊細なその心を静養する為のモラトリアムを、取り返しのつかないただ一度限りの時間を、俺は根こそぎ奪い取ったのだ。

 死に損ないの老害が、子供の人生を食い潰したのだ。

 

「お前に救われた人がいる。お前を好いてくれる人がいる。薙原哲也でも、その内に宿った不二崎甚三郎でもない。今ここにいる“薙原哲也(おまえ)”と関わった多くの人が、お前の人生の軌跡に触れた人々が、確かにいる」

「他人の顔で、偉そうに生きてる俺が、それそこどの面下げて」

「その面でだ。生きていくしかあるまい。少なくとも今はまだ、お前にはたっぷりと寿命がある」

「ッ……!」

 

 歯軋りして顔を歪める己を、対する老人は静かな眼差しで見詰めていた。

 ひどく老獪な、それはまるで老いた狼のように叡哲な目だ。

 どうしてだろうか。歳は同じ筈なのにな。

 自分が幼く思えてならない。

 斟酌の間で相対したこの旧友の姿が、遠い。

 

「十年は、長いぞ。不二崎。人との付き合いというなら尚の事な。置いて行かれる者には辛い」

「……」

「お前には酷な話だろうが」

 

 老爺はそれ以上なにも言わなかった。

 ただ胸を衝かれる思いで、俺はこの十年を反芻する。

 薙原哲也でもなく、ましてや不二崎甚三郎ですらない。どっちつかずの老若も曖昧な男として生きてきた。

 俺は、何者なのだろう。

 俺は一体、誰なのだろう。

 

 

 

 

 

 

 なでしこのジムニーに同乗して、日暮れで茜に染まる波木井川を横目に眺めた。

 ちら、とスマホのメッセージ欄を見る。

 

「……」

「哲也くんから返事来た?」

「え、ううん、まだだけど」

「そっか。リンちゃん、ずぅっと待ち遠しそうにしてたから」

「うっ」

 

 普段はこんな風にはならない。なってはいない、つもり。

 ただ今日に関しては、不安があったからだ。

 キャンプ場作りのリーダーに抜擢されて、何となく責任を重く感じてる。

 県の許可を得て行う、謂わば公益事業。物理的にも広大な規模のプロジェクトを、曲りなりにも先導する役目。

 気負い過ぎだとは、自覚している。けれどこういう時、真っ先に頼ろうと思ったのはやはりあの人だった。

 アドバイスでも、ほんの些細な励ましでもいい。何かを言って欲しかった。

 

「大丈夫だよ、リンちゃん。哲也くんはリンちゃんのこと絶対助けてくれるよ。きっと地球の裏側に居たってすぐに駆け付けてくれると思う! 空飛ぶテントで!」

「なにその謎の乗り物」

「それにもちろん私達も。リーダー役だからって全部しょい込んじゃダメだからね。これは皆のキャンプ場作りなんだから」

「……うん。ごめん。一人で抱え込みそうになってた」

「えへへ、リンちゃんは漢気の人だからねぃ」

「誰が漢じゃ」

 

 にまにまとしたなでしこの笑みが不意に穏やかな形になる。

 

「今回の話ね。哲也くんも参加してくれてよかった。一時期、哲也くんすごく一人で悩んでたから」

「えっ」

「何を悩んでるのかとか、教えてくれなかったけど。何かに一人で苦しんでるみたいで。高校卒業してすぐ皆と距離を置いたのもそれを一人で解決しようとしてたからなんじゃないかな。すごいことだと思う。進路もすぐに決めて、躊躇いなく行動して……でも、ちょっと寂しかった」

 

 なでしこは知らない。彼の中に宿った人のこと。

 じん爺の何年もの苦闘を。

 けれど、なでしこは表情を翳らせた。初めて見る。いつでもどんな時でも天真爛漫だった友達の、寂寥。

 

「野クルで一緒にキャンプに行ったり、他にもたくさん遊んで、勉強したり、実は私の進路の相談に乗ってくれたりもしたんだよ? なんだか、ずっと年上の先輩みたいに。頼れる大人って感じで。でも、そんな人だって悩みがあるのは当たり前で、でもそれを誰かに相談したり、頼ったりできずに苦しんでたんだって……私や皆じゃ助けになってあげられなかったことが、悲しかった」

「…………」

「今も哲也くんが何か抱えて生きてるんだとしたら、私は少しでもそれが楽になるようにしてあげたい。キャンプ場作りっていう、楽しいこと、楽しい時間、楽しい場所を他のいろんな人に伝える輪の中に、哲也くんを繋げてあげたい」

「……うん、そうだね」

 

 輪の中に在る。私もなでしこも皆も、あの人も。

 今、この世界に生きていることを。

 貴方として生きていることを、知って欲しい。わかって欲しい。

 なでしこのその純粋な想いとは違う。私のこれはただひたすらのワガママだった。

 それでも、願う。私は貴方を願う。

 どうしようもなく。

 

「あ! そうそう実はね、鳥羽先生にキャンプ場のこと話したんだけど」

「……え゛」

 

 とても朗らかになでしこは言った。

 私はといえば、我ながらひどく濁った呻き声が喉から漏れた。

 

「手伝いに来てくれるんだって! やったね! 野クルフルメンバーだよ!」

「……他に、何か言ってなかった?」

「んーとね。哲也くんの、シフト? が決まったら教えてって」

「Oh……」

 

 騒動の予感がした。正直自分にはあまり馴染みのない、色恋の拗れる音が。

 十年は長い。当たり前のことを再確認する。

 十年は、長いのだ。たった一人を想い、患うには、あまりにも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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バッドエンドルート(10)

 

 

 

「週末戦士!」

 

 11月も終わりの見え始めた頃。

 寂れ草臥れ廃墟同然の自然公園に五人の娘っ子達が大見得切って居並んだ。

 

『作業着レンジャー!』

 

 作業着姿が様になるやらならぬやら。可愛らしいレンジャー隊員達に拍手を送り、冬晴れの薄い青空を仰いだ。気温は例年に比べてやや高く、予報によれば雨も降らない。屋外作業をするには良い日和だ。

 

「さて! 県庁会議室でのアイデア出しを受けて、今日は現場検証兼清掃と草刈りを行う!」

「わかってるじゃねぇか大の字。新米だろうが古株だろうが現場百遍巡ってようやく半人前よ」

「いや刑事じゃないんだから……刑事だったね、そういえば……」

「元な。元」

 

 リンちゃんの耳打ちにこそっと付け足す。

 ふと、崖際から広場を見下ろして恵那ちゃんが感嘆する。

 

「おー、思ってたよりずっと広いねぇ」

「中段下段とテントサイトにスペースを割いても十分余る。いやドッグランってぇのは本当に良い思い付きだったなぁ」

「ふふふ~、もっと褒めてくれてもいいんだよー? まあでも、私がちくわとそういうキャンプ場に行きたかっただけなんだけど」

「なんの。それこそが肝要よ。好きこそもののなんとやらってな。ちくわは元気してるかい?」

「うん! いっぱい食べていっぱいお昼寝してる」

 

 恵那ちゃんの飼っているチワワとは己もよく遊んでもらったものだ。

 最初に会ったのは、波木井川の土手で彼女らが散歩中のこと。すばしっこく、懐っこいあの可愛らしいワン公も今は随分年を取ったろう。

 

「よけりゃあまた顔見させてくれな。土産はササミソーセージでいいかい?」

「あ! それなら、作業が一段落着いたらここに連れて来てもいいかな」

「おぉ、そいつぁ楽しみが一つ増えたな」

「哲也くんもすっかりちくわファンだねぃ」

「私も、ワンコの癒しがあれば作業が捗る」

 

 着手もせぬ内から、文字通り毛むくじゃらの皮算用を弾く。

 煩悩でも目的に据えればそれは確かな原動力だ。などと、偉そうに考えていたその時。

 背後に、そろりと。

 

「ワンちゃん相手だと甲斐甲斐しいんですね」

「うおっ」

 

 耳元に囁かれ、思わず半歩身を躱す。

 振り返ればそこに縁なしの眼鏡が光沢を纏って己を見ていた。長い髪を束ねて後頭に結い上げ、それはワークキャップの中に仕舞われている。頬に一筋ゆらりと髪を垂らすのは、娘子なりの洒落っ気なのだろう。

 作業着というなかなか珍しい出で立ちの、鳥羽美波教諭であった。

 

「私もペット、飼おうかしら。そうしたら誰かさんが足繫く通ってくれるんでしょう」

「動物を迎えようってのに、そりゃ不純な動機だな」

「もちろん責任を持って最期まで面倒看ますよ。ただ、多少なりと責任の一端を感じてくれればそれで」

 

 ちくりちくりと、柔らかな声で尖った言葉が刺さる。

 県庁で集合した時はまだしも和やかだったのだが。

 

「いやしかし鳥羽先生、すっかり無沙汰しておりやした」

「ええ本当に。でも、警察の方ってお忙しいでしょうから無理もないですよ。メールの返信も儘ならないくらいですもの」

「は、はははっ、まったく! 公務員の辛い所ですな。おまけに年末ともなりゃ上は当直だ交代勤務だと気安く宣いやがるもんだから」

「そうなんですか。ってことは、お正月が明けたら時間が取れるんですね。私の地元ってね、酒蔵が多いんです。良い酒米が育つので。前々からずっと狙ってた超稀少な純米大吟醸を伝手を手繰って手繰ってようやく一瓶譲っていただけたんです。よければ飲みに来られませんか?」

「お、もしやそいつぁあの無濾過生の」

「そうです! 個人での入手はほぼ無理と言われるあの!」

「おぉっ! そりゃ是非に一献ご相伴してぇところだなぁ」

「こらこらこら」

 

 ネックウォーマーを後ろから引っ張られ、潰れた蛙のような呻きを吹く。

 にっこりと迫力のある笑顔。あおいちゃんだった。

 

「……ペットとお酒で釣り出したら、もう終わりなんちゃいますか、先生」

「そうですか? 誘い込む方法なんてどうでもいいでしょう。一度居着かせれば私の勝ち、ですから」

「束縛する女は嫌われまっせー」

「それはお互い様じゃないですか」

「……」

「……」

 

 娘ら二人は暫し、無言で見詰め合った。

 遠くで鷺が鳴いている。嗤っているのか、怯えているのか。それはおそらく聞き手各々の心情に依るのだろう。

 

「集合! 鳥羽先生とイヌ子以外!」

 

 千明が叫び、五人で寄り集まる。

 

「初日から空気が最悪です。どうしてくれんだ薙原この野郎」

「案の定だったね……」

「ご、ごめんね。私が考え無しにキャンプ場のこと報告しちゃったから……」

「なでしこちゃんは悪くないよ~。悪いのはこのプレイボーイさん」

 

 誰一人とも遊び(プレイ)などしちゃおらんのだが。

 それはまあ人として当然の話ではあるが、だからとて公然と口にするのはあまりにも品性に欠けた。娘子らを前にしては尚の事。

 

「何はともあれ作業をしねぇことには始まらん。今一時ばかりは、お二人には重労働に就いていろいろと忘れていただこう」

「本当にその場凌ぎだな」

「うるせぇ」

 

 千明の言は甚く尤もだ。尤も過ぎてその内に耳が千切れそうだ。

 

「具体的な方針を固めつつ並行して整備をやり、作業員達のメンタルケアにまで配慮する。両方やらなくっちゃあならないってのが公益法人の辛いところだぜ」

「阿呆なこと言ってねぇで手ぇ貸してくれ。作業に使えそうな道具は一通り揃えたが、これがなかなか嵩張るのなんの」

 

 草刈り鎌、草刈り機、鋸、電動ノコギリ、スコップ、鍬、鋤、熊手、猫車、工具類一式、補修用の部材等々。軽トラックに積めるだけ持ってきたが、はてさてどれほど活用できるか。

 

「お、おぉ……すんげぇ気合入ってるなぁ、薙原」

「毎度全員が集まれる訳じゃあねぇんだ。進められる時進めちまうのが良かろうさ」

「これってチェーンソー? ど、どうやって使うの……?」

「なぁに覚えちまえば簡単だ。ただちゃんと保護具は着けるんだよ。慌てるこたぁねぇから、慎重に、ゆっくりな」

 

 おっかなびっくり道具に触れるリンちゃんの姿に思わず笑む。

 

「……やーっぱりリンちゃん相手やと」

「顔つきが変わるんですよねー」

「さあ仕事に掛かるぞー!」

 

 おかしな話だが。

 まるで競うように親の仇の如く草を刈り尽くす二人と、追われるようにえっちらおっちら働く己と、引き摺られるように続く四人の、尽力というか心理的強制労働によって。

 当初は一日がかりと思われた作業は、半日を要さず完了したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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バッドエンドルート(11)

 

 

 管理棟の清掃を終え、小綺麗になった木製ベンチに各々が座り、テーブルクロスを敷いて昼餉を広げる。

 黒漆に四割菱紋の金箔をあしらった三段重が、異様な迫力で卓上に鎮座している。

 並べたお重の中は、それこそ仕出し弁当のように彩り豊かで、炊かれた人参に飾り包丁を施す細やかさ。課と思えば献立が随所に家庭料理のそれであることからも、全て手作りなのが窺える。

 

「こいつは豪勢ですなぁ」

「ふふ、お味噌汁もあるので、よかったら」

 

 鳥羽教諭は紙の椀と魔法瓶を差し出して来る。遠慮するのもおかしな話、湯気を立ち昇らせ椀を包む手がじわりと温まる。合わせ出汁の良い香りがした。

 

「卵焼きは甘い方がお好きでしたね」

「ええ。こればっかりはどうもガキの時分から食べ慣れた味が恋しくなる」

「鰤の照り焼き、我ながら今回は綺麗に煮詰めたと思うんですけど……」

「どら、頂きます……うむ、こいつは、いやこいつぁ旨ぇや! 酒と醤油の塩梅がいい。身もふっくらしてて……いっくらでもいけるぜこりゃ」

「よかった! 哲也くんの好物ですから、作る時もつい肩に力が入っちゃって」

「ははぁ、そりゃますます心して味わわねぇとな」

「もぉ、やめてください! 恥ずかしいじゃないですかぁ!」

 

 己の肩を叩きながら、教諭は頬を赤らめた。

 

 

 

 

「いやー、今日の先生はなんつーかいろんな意味で“獲り”に来てるよな」

「すごい、おかずの品目、全部哲也くんの好物だ」

「あーだから微妙に渋いチョイスが多いんだね」

「でも全部すっごく美味しいよぉ~。このふろふき大根なんか仄かにいい香りで、んむむ、田楽味噌がより甘じょっぱくなってうんまぁ……」

「盤外戦術で来たか……くぅ、今日は打ち合わせがメインや思て油断しとったぁ……!」

「イヌ子ー、あんま強く握ると割り箸折れるぞー」

 

 実に和やかな昼食だった。

 麗らかな冬晴れ、午後には程よい日差しが肌身を暖めてくれよう。

 

「鶏のつみれです。はい、哲也くん、あーん」

「んん? ははっ、いやぁそりゃちょいと気恥ずかしいなぁ」

「まあまあ気にしないで。さ、ぱくっとやっちゃってください。ほら、ぱくって」

「まあまあやないわ! ええ大人がとんちきな張り合い方せんとってください!」

「張り合ってなんかいないですぅー。ただのスキンシップですぅー」

「ですぅー、て……三十路女のかわい子ぶりっ子とか勘弁してください痛ましい」

「────犬山さん、貴女言ってはならないことを言いましたね。覚悟してください。いえ、覚悟する暇も与えません」

「上等!」

「やーめーろ! イヌ子も先生もステイ! ハウス! 組み合うな! 躊躇なく肉弾戦に走るな!」

「ちょちょちょ、二人とも! 落ち着いて! あおいは眼鏡取らないで! 先生はおっぱい掴まないで!」

「作業着でよかったね~。動きやすいし技も掛けやすいよ!」

「恵那も煽ってんじゃねぇよ!?」

「ほれ、なでしこちゃん、あーん」

「あーむ……ん~! つみれジューシーでうんまぁ~い」

「現実逃避してんじゃねぇよ!? 薙原も止ーめーろー!」

 

 

 

 

 

 

 大騒ぎしていたわりに作業の進捗は悪くなかった。

 各サイトの草刈り、管理棟・倉庫の整理、水回りの清掃、廃棄物の分別と収集。下準備の五割は終わったと言える。細かな修繕や塗装は徐々にやるとして、今後はやはり整地やインフラの開通が急務だろう。

 

「キャンプ場としての改装はそこからか」

「あ、そうそう資材のことなんだけどさ、新しいの全部を買い揃えるとなると予算的にかなり厳しい。そこで、近隣の農家さんや住民の方々に事情を話して、廃品や廃材を譲ってもらえないか交渉しようと思う」

「おぉ、なるほどな。大の字の人徳が活きてくるわけだ」

「へへへ~、まあなー」

 

 千晶はそうして照れ臭そうに鼻を掻く。

 崖際から娘らと並んで広大な敷地を見下ろした。ドッグラン、キッズエリア、サイトを繋ぐ階段、東屋等々、おおよその目測を立てる。資材は多いに越したことはないだろう。

 

「己の方でも幾つか伝手を当たるか……工務店に勤めてる知り合いが何人かいる。修繕用の木っ端な木材くれぇならすぐに調達できるだろう」

「マジか! グレートだぜ薙原! 資材とか部品とかの費用が浮くなら、他の場所に予算当ててクオリティ上げられるんじゃないか? 水回り、トイレとか、あとぉ、調理スペースなんかも!」

「いいねいいね! 水道とか、家族連れにはちょっと狭いかもって思ってたんだ」

 

 スケッチブック片手に、なでしこちゃんが内装の案を描き出した。以前、金丸山のキャンプ場にソロで赴いた炊事場の竈だとか、ベンチや作業台があればなお良いとか。

 

「わぁ、なんかすっごい順調みたい」

「まさか一日でここまで進むとは……」

「みたいじゃないって! 想像の十倍は早く進んでるぞ! いやぁやっぱ薙原を巻き込んで正解だったな! この分じゃ春までにはキャンプ場として形にできるかも……うくくく!」

「あ! じゃあじゃあ、次からは早速ドッグランとかキッズエリアとか作り始められそうだね! デザイン案、いろいろ考えたよ~」

 

 なでしこちゃんがページを捲ると、誰よりも先に食い付いたのはあおいちゃんだった。

 

「あはっ、私的にはメインディッシュや! ん~、遊具とか入れられたらもっとええねんけど」

「……犬山さん、廃棄予定の遊具なら、もしかしたら」

「えっ? ……あ! そうですね! もしかしたら」

「私の方も学校関係者に話を聞いてみます。キッズエリア、充実させたいですしね」

「はい!」

 

 あおいちゃんと鳥羽教諭が面突き合わせ、なにやら熱心に計画を練っているではないか。

 

「教職を奉じておられる者同士、通ずるところも多かろうな」

「普段はああして先生談義弾ませてめっちゃ仲良さそうなんだよ。薙原が絡まなければ」

「哲也くんのこととなるとね~」

「……剥き出しになるよね。いろいろと」

「げにおそろしきは女の子の情熱、だねぃ。哲也くん」

「情念と言いたいのかな、なでしこちゃん」

 

 まあ意味は然して変わらないが。昔から朗らかな面をして存外に鋭いことを言うてくる娘だ。

 だがそれを強いているのは、誰でもないこの身である。

 分不相応なものを差しだされておきながら、それでもなお。応えることも、拒むことすら瞭然とせず。

 

「……さて、日が暮れちまう前に引き揚げるとしよう」

「そうだなー。作業の道具は管理棟に放り込んどくとして」

「あ、私ゴミ集めるね」

「私も手伝う」

 

 そうして皆ゆるゆると動き出す。

 始まったばかりの、娘子らの一大計画。できれば成功させてやりたい。己にできることなら何でもしてやりたい。

 ふと足下に目をやる。知らず踏んでいた切り落とされた小枝を拾い上げる。

 娘らの邪魔になるなら、とっとと消えてしまえばよいものを。この小枝と同じく、切り捨ててしまえばよかったのだ。

 縁も、絆も、愛も。

 本来得る筈だった者を差し置いて、俺は何をしているのか。

 

「小父さん」

「ん」

 

 袋片手にリンちゃんが近寄る。刈り取った草や木を集め、まとめているのだろう。

 

「終わったら一緒に帰ろ。久しぶりに家に寄ってってよ。お母さん達が哲也くんを連れて来いってうるさくてさ」

「……」

「? 小父さん?」

「……ああ、ありがとよ」

「う、うん……?」

 

 隠遁し、何もかもから逃げ去れば、それはおそらく最も安楽だ。誰も傷付けず、何の軋轢も生まず。

 不思議そうに首を傾げて、リンちゃんはふわりと笑う。

 

 ────置いて行かれる者には辛い

 

 もう遅い。手遅れだ。

 道は既に誤った。だからとて歩みを止める訳にはいかない。

 せめて、道半ば倒れることのないように、この身体が生きて前へ進めるように。

 俺にできることなど。

 俺に、できることなど。

 

 

 

 

 

 

 

 



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