アストロツイン (山田甲八)
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一 面談

この物語は架空のものであり、登場する人物、団体、場所、施設名等の固有名詞はたとえ実在のものがあるとしてもすべて架空のものとして描かれている。



 四月六日、火曜日の小田急線経堂駅前のハンバーガーショップ。

 蓬田百合花は二階のハイカウンターの席に一人座り、男の到着を待っていた。時計はもう少しで約束の午前十一時ちょうどを迎える。

 この時間がチョイスされたのはモーニングが終わり、ランチタイムの前で店内はガラガラだろうと考えたからだ。

 場所も家の近所の下北沢ではなく、学校のある下高井戸でもなく、家と学校を結ぶ井の頭線の沿線でも京王線の沿線でもなく、ここ経堂が選ばれたのはこれを密会であると考えたからだ。

 しかし、密会の割には、百合花は素顔丸出しで、高校の制服を着ている。まだ、世間は春休みだったが百合花はこの後、学校に行かなければならなかった。入学式の準備に駆り出されているのだ。

 それに今日、初対面の男に自分がすぐに分かるような工夫も必要だった。この制服を着ているということをその男には伝えてある。

 初対面だから百合花は男の顔を知らない。それでも年恰好が自分の父親と同じくらいであることは分かる。

(「パパよりもイケてるだろうか?」)

 百合花はそう考え、刹那にそれを否定した。

 パパよりもイケているわけがない。イケていたら奥さんに逃げられたりはしないだろう。そう思って今度は禿げ上がった頭髪を空想してみた。

 これから会う男は本当の百合花を知らない。百合花の方は男のことをよく知っている。よく知っているというよりも研究してきた。

 百合花が男の存在、そしてその前提となるパパの異変に気付き始めたのはちょうど一年前の今頃だった。女は男よりもはるかに敏感な生き物だ。その敏感さは、百合花のように高校三年生にもなれば十分に身についている。あるいは百合花はその人生の中で最も多感な頃を過ごしている。

 パパの変化に不信感を抱いた百合花はパパのスマホと呼ばれる高機能の携帯電話をのぞいてみた。スマホはパスワードでロックされていたが、それを解除することは簡単だった。なぜなら、パパは娘にパスワードが娘の名前と誕生日の組み合わせであることを何度も口にしていたから。

 パパのいない隙をみて、百合花は認証画面にyurika0518と打ち込んでみた。画面が開くのは一瞬だった。

 百合花はメールフォルダを開けた。そこには膨大な数の、ママではない女性との送受信記録が残されていた。LINEも開けてみた。LINEも同じだった。

 内容も過激で、インターネット検索で調べなければ意味が分からない言葉も使われていた。メールをチェックした百合花は数日間「軽い」うつになるくらいの衝撃を受けた。

 それでも立ち直りは早かった。

 百合花はパパもママも大好きだ。でも、どちらかを選べと言われればママを選ぶ。ママに代わって自分が、本来ならばママがやるべき何かをしなければならないと、そう百合花は感じていた。

 百合花の考えた作戦は単純だった。パパの不倫相手の夫に会い、すべてを暴露する。そうすれば後は自動的に因果関係が進行して問題は解決するだろうと考えた。

百合花がパパに話したところでパパは相手にしないだろう。より狡猾になるだけのことだ。ママに話すと事態はもっと悪くなるだろう。ママを追い詰めてしまうかもしれない。しかし高校三年生の百合花が自分だけの力で解決できる問題でもない。大人の力が必要だ。その大人は不倫相手の夫が、一番手っ取り早かった。

 不倫相手を特定することも、その夫を特定することも他愛無かった。そこは高度情報化社会。世の中は不必要な情報に満ち溢れている。そのいくつかを組み合わせれば本当に必要な情報に化けたりするのだ。

 パパの不倫相手の夫はファイナンシャルプランナーという仕事をやっていて、自前のホームページも持っていた。その「辛口財産診断所」という少し過激なホームページでは連絡先のメールアドレスも載せられていて、百合花は大学を目指す、それでいて学費が心配な一高校三年生として相談のメールを送った。何回かのメールのやり取りがあり、今日の面談が実現した。

 

 時計が午前十一時を指すと同時に、一人の男が階段を昇ってきた。百合花は男と視線を合わせ、軽く頷いた。男も頷き、ハイカウンターの百合花の隣に座った。手にはストローの刺さった使い捨てのコップが握られていて、百合花はストロベリーシェイクだろうと理解した。

「蓬田さんですね?」

 男の声がした。百合花はもう一度頷き、男を観察した。

 男はいかにも安物の吊るしを身に着けていた。ネクタイは近所のスーパーで買った一本、千円のものだろう。この男の妻がこの男からパパにチェンジした理由が分かるような気がした。

 男は黙ったまま、握った紙コップをハイカウンターの上に置き、上着のポケットから名刺入れを出して一枚の名刺を百合花の目の前に置いた。

 

辛口財産診断所

 一級ファイナンシャル・プランニング技能士

 諏訪幸司

 

 名刺はそう語っていた。

 百合花は男を見た。想像と異なり、男の頭髪は保たれていた。

「はじめまして。蓬田百合花といいます。スミマセン。私、名刺を持っていないので」と百合花。

「まだ高校生なんだから持ってなくて当たり前じゃないのかな?それとも今どきの女子高生は名刺を持ってる方が普通なのかな?」と男。

 百合花は男ともう一度視線を合わせ、深呼吸した。

「それと、ごめんなさい。もう一つ、謝らなければならないことがあるんです。……私、嘘をついていました。本当は、相談したいことは学費のことじゃなかったんです」

 百合花がそう言うと男は一瞬、緊張した表情になった。百合花が続けた。

「諏訪さん。初対面なのにこんなことをいきなり言ってごめんなさい。お話ししたいことは……奥様のことです?」

「…妻のこと?」

 男は怪訝そうに言った。

「ビックリしないで聞いてください。…そのっ、…奥様、……不倫しているんです。…そして、…その相手は私のパパ」

 百合花が言うとしばらく沈黙の時間が流れた。

 男は周囲を気にした様子を見せたり、持ってきたシェイクをいじったりした。そして、もう一度百合花を見た。

「そういうことだったのか」

 男は静かに言った。

「ごめんなさい」

「……それで、君はどうしたいっていうんだい?」

「それを相談したいんです。ですから今日、時間を取っていただきました」

「何か希望はあるのかな?」

 男は百合花が拍子抜けするほど冷静だった。

「……希望って?」

「どうしたいのかってことだよ。僕は君の真意が分からない。なぜ僕にそれを告げたのかも分からない。あなたの奥さんはパパがもらうから奥さんのことはもう諦めてくれって言いたいのかな?それともあなたの奥さんがパパのことを誘惑して困るからキチンと監督してくれって言いたいのかな?そのどっちかなんだろうけど、僕を呼び出したってことは僕に何かを望んでるんだろ?」

 そう言われて百合花は少したじろいだ。百合花の言ったことに衝撃を受け、涙の一つでも流すのかと思っていたからだ。百合花はもう一度深呼吸した。

「スミマセン。どうしたいかって言われると、奥様をパパから引き離したいに決まっています」と百合花。

「しかし、それは大人の理屈だ。君が干渉することでもないと思うけど。君のパパも僕の妻も大の大人。自分の責任で行動しているはずだ」と男。

「どうしてそんなに冷静でいられるんですか?それが私にはビックリなんですけど。知っていたんですか?」

「それを君に答える義務はない。それに、今日、僕はまったく別のことを考えていたんだ」

「別のこと?」

「そう。女子高生にすぎない君が学費の相談とかいって見ず知らずの僕に会おうとするのはあまりにも不自然だ」

「そうかもしれません」

「だから、僕はJKビジネスの延長かと思って今日、ここに来たんだよ」

「JKビジネス?」

「少し難しい言葉だったかな。援助交際とでも言えば分かりやすいかな。つまり君の関心は金銭で、僕からそれを巻き上げ、君は君が持っている何かを僕に差し出す。そういうことなんだろうと考えていたんだ」

 それを聞いて百合花はなるほどと思った。自分が目当てでこの男がやって来たというのであれば理解もできる。妻には相手にされていないのだろうし、寂しくはあるのだろう。もしこの男に抱かれるというのであれば、自分の趣味とは真逆ではあるが、それはそれでパパへの復讐にはなるのかもしれない。世界で一番大切にしている娘が不倫相手の夫に抱かれるのだ。父親としてとてつもなく面白くない状況には違いないだろう。

 百合花が黙っていると男はもう一度上着のポケットに手を入れ、再び名刺入れを取り出し、その中から一枚の紙を取り出してハイカウンターの百合花の目の前に置いた。

 

 北沢警察署 生活安全課

 警部補 鈴木義信

 

 そう語る名刺をじっくりと見た百合花はゆっくりと顔を上げ、男と目を合わせた。

「僕の方も謝らなければならない。僕も嘘をついていたんだ。僕は諏訪氏ご本人じゃない。そこに書いてあるとおり北沢警察署の生活安全課のお巡りさんだよ。諏訪さんに今日のことを相談されてね。JKビジネスだと思うけど、もしそうなら適切に対処するべきだって言われたんだよ。君が悪いことをしているのなら警察官として適切に対処しなければならないと思っていたけど、しかし、もっと深刻な問題があったんだね。残念ながら警察は民事不介入が原則なので君の相談に乗ることはできない。それにこれは警察官としてではなく、人生の先輩として言うけど、不倫相手の夫に直接相談するのはあまりにも性急過ぎてお勧めできないよ。やはりお母さんとか、せめて学校の先生とかに相談するべきじゃないのかな。まあ、今日のところは諏訪さんご本人に会わなくて良かったと思ってよ。名刺は置いていくからなんかあったら連絡ください。生活安全課の、そういうのが得意なスタッフもいるから。家出少女の相手とか。家庭内に問題を抱えている子は少なくないから。適切に対応させるから」

 男はそう言うと、持ってきた紙コップを握り、ストローを一啜りして立ち上がった。

「あの~」と百合花。

「ん?」と男。

「諏訪さんには今日のこと、お話しされるんですか?」

「さっきも言ったとおり、警察は民事不介入だ。だから、諏訪さんには予想どおりJKビジネスだったけど、初めてだったので厳重注意の上、帰宅させたと報告しておくよ。パパの不倫のことは内緒にしておく。それともう一言、ついでに君に警告しておこう。大人の事情に首を突っ込まない方がいいと思うよ。君が傷付くだけだ」

 男はそう言うと百合花に背を向け、階段を降りていき、もう百合花を振り返ることはなかった。

 広い店内に取り残された百合花はしばらく呆然とした。そのうち涙も流れてきたが拭くこともできないくらいの疲労感が襲っていた。

 どのくらい時間が経過したのか百合花自身は分からなかったが、スマホがLINEメッセージをキャッチしたその着信音で百合花は我に返った。スマホを覗くと幼馴染の伊波龍一からだった。

 

りゅうちゃん【面談はどうだった?】

りゅうちゃん【こっちは散々】

 

 保育園からずっと一緒に歩いてきた龍一にだけは今日のことを伝えてある。

 百合花がどう打ち返そうか考えているとすぐに次のメッセージが来た。

 

りゅうちゃん【相談したいことがあるんだけど今日会えるかな?】

 

 百合花が我に返り、打ち返す。

 

                         ゆっぴい【これから学校】

                         ゆっぴい【入学式の準備】

                         ゆっぴい【五時頃ならOKかな】

                         ゆっぴい【面談は失敗】

                         ゆっぴい【後で話す】

 

 スマホが次のメッセージを受信する。

 

りゅうちゃん【じゃあ五時に明大前のMACで】

 

                         ゆっぴい【りょ!】

                         ゆっぴい【相談て何?】

 

りゅうちゃん【今日の三者面談】

りゅうちゃん【学費のことで悩みが出た】

 

 百合花はもう打ち返さなかった。頭の中でひらめくものがあった。目の前には北沢警察署の名刺ともう一つファイナンシャルプランナーの名刺がある。龍一が経済的に苦しい状況に置かれていることは昔から知っているから龍一にこの名刺を預け、そのFPと面談させればきっかけはつかめるのではないか。

 そう考えると百合花は少し落ち着き、ファストフード店を出て高校へと向かった。

 

 京王線、下高井戸駅近くの都立高校。

 とある三年生の教室の中では進路指導担当教諭の無機質な声が聞こえる。

 

 ……今日はそんなに難しく考えなくてもいいよ。

 まだ、三年生の春休みだからね。

 進学か就職か、それが決まっているだけで今はいい。

 でも、うちは、レベルはそんなに高くないけど一応、進学校だから。

 今から就職希望だとちょっと肩身が狭いかもね。

 将来の夢というか、なりたい職業はあるのかな?

 医者?なんでまた?

 そうか。幼馴染の実家がお医者さんで子どもの頃から憧れていたってことか。

 でも、今の君には難しいね。

 君は教育支援給付金の十一万八千円を受け取っているのかな。

 先生はそういうことを聞かされてはいないんだよ。

 まあ、事実はどうでもいいけど、もし受け取っているのなら医学部は難しいよ。

 そう、私立はもちろん、国立でも医学部はお金がかかるんだ。

 そりゃあ、防衛医科大学校のようなところもあるけど、偏差値七十五が必要だよ。

 模擬テストを受けたことは?

 ないのか。

 うちの高校、毎年、国公立には一人行くか行かないかで、行かない年の方が多い。

 もちろん、私立はお金がかかる。

 奨学金?私立の医学部だと数千万円はかかるから奨学金だけじゃ無理だよ。

 それに国公立はもちろん、私立でも医学部は人気でレベルが高いから。

 言葉だけじゃ説得力がないから表を見せてあげよう。

 これが私立大学医学部の合格者平均偏差値のランキングさ。

 これはコピーだから君にあげるよ。

 もちろん国公立はこれをはるかに上回ることになる。

 医療に興味があるのは素晴らしいことだよ。

 でも、別に医学部でなくてもいいんじゃない?

 看護学部とか、看護なら専門学校でもいいしね。

 そうすれば学費も節約できるよ。

 もう一年は切ってしまったけど、じっくり考えるしかないね。

 それと、進学するならどこに行くにせよ勉強は必要になるからしっかりね。

 お母さんは何かご意見とかご質問ございますか?

 そうですか。まあ、まだ先は長いですから、何かありましたら。

 今日はお忙しいところご足労いただきありがとうございました。

 

 三者面談を終えた伊波龍一はママの穂香と一緒に学校の敷地を出た。足取りは重い。

 結果は相当程度予想していた。この母子家庭には金銭的な余裕がなく、最初から学費の話になることは分かっていた。

 下高井戸の街を歩く龍一は穂香にファミレスでの一服を提案したが、穂香は刹那に断った。

 龍一はとにかく疲れていて、どうしても一息つきたかったので自分がご馳走するからと言うと穂香は手のひらを返したように付いてきて、さらに安いファミレスにしては高価格帯に位置するメニューを注文した。

「何か感想はある?」と龍一。

「感想って?」と穂香。グラスのコーラをストローで一啜りした。

 ご馳走してもらえるからなのだろうか機嫌が良い。龍一はさらに不機嫌になった。

「今日の、三者面談の感想に決まってるだろ?他に何かあるのかよ」

 龍一は怒った口調で言ったが、穂香には効果がない。それはこの十七年間の二人きりの生活で身に染みて分かっていた。

「ま~、りゅうちゃんそんなに怒らないで。穂香悲しくなっちゃうから」

 穂香は自身が演じているアニメの癒し系キャラのボイスで言った。龍一はため息をついた。

 龍一は産まれてから十七年間、この生命体とときを過ごしてきた。

 父親のことは知らない。保育園以来の付き合いである百合花に父親がいることは物心つく前から知っているから、世の中に父親というもう一つ別の生命体が存在することは理解している。

 オスとメスが出会わなければ自分が産まれてこないことも学習したし、父親に興味を持った時期もあった。しかし、穂香に聞いても「無精生殖だった」とかわされ、余計に傷つけられるだけだったのでもう何年も父親のことは考えないようにしている。

「学費の話が出たよね?」と龍一。

「今はやめようよ」と穂香。

「今やらなかったらいつするんだよ?てか、俺の進路のことなんか興味ないよね?」

「興味深くはあるよ。かわいい一人息子のことだからね。でも、あたし、正直、よく分からないから。高校受験のときも先生にお任せだったし」

 そう言われて思い当たる節はあった。穂香はいつも自分のことに一生懸命で、龍一に構っている余裕はない。一方、百合花のママは百合花をとても気にかけているので、行事なんかは、学校行事も、クリスマスなどの学校外の行事も、いつも百合花、そして百合花のママに引っ張られる形でこなしてきた。

 百合花とは保育園、小学校、中学校が同じだったので中学まではそれでもなんとかなった。しかし、高校は別々になってしまったのでもう龍一は百合花のママを頼ることはできず、自分のことは自分でせざるを得なくなってしまっていた。

「先生っていうより、ゆっぴいママにお任せだったんだろ?高校受験は」と龍一。

「まあ、そうとも言えるけど」と穂香。

 ここで何か言い返してくれれば喧嘩になって、本気で言い合えるのかもしれない。しかし穂香は何も言い返さず、そのことで龍一はいつも欲求不満だった。

「分かってるならいいけど。で、当然、理解できると思うけど、高校は別々になったからゆっぴいやゆっぴいママの力は使えない。どうせゆっぴいは付属だからそのままエスカレーターだし。上の大学には医学部もあるしね」

「じゃあ、りゅうちゃんもそのエスカレーターに乗せてもらえばいいんじゃない?」

 それを聞いて龍一はもう一度深いため息をついた。

「受験のシステムを何も理解してないね?」

「まあ、あたしはこの世界しか知らないからね」

 穂香は声優を生業としていた。それでもそれだけでは食べては行かれないので色々とアルバイトはしているが、本業が声優というプライドは強く持っていた。

だからアルバイトは最小限にとどめているし、声優業優先で、本業に差し支えるような生活もしていない。

 高校生になると当然のように龍一もアルバイトをするようになった。普通の、どこにでもいるような都立高校生ならば自分の小遣い稼ぎのためにアルバイトをして、渋谷や新宿で楽しく遊んでいるのだろう。しかし、龍一は学業に必要なお金も自分の財布から出しているし、今日のように母親にご飯を食べさせたりもしているのだ。

 龍一はそういう生活があたり前であり、百合花のような家庭が特殊だと思っていた。穂香が続けた。

「りゅうちゃんも大学とか難しいこと言ってないでこの世界に入ればいいじゃない。どうせ二次元の住人でしょ?」

 ママの影響で龍一も小さい頃から漫画やアニメに親しんできた。だから、「二次元の住人でしょ?」と言われるとそのとおりではある。

「もう貧乏からは脱出したいよ」

「だから医学部に行きたいとか言ったのね?」

「ゆっぴいみたいな生活に憧れはある」

「じゃあゆっぴいと結婚すれば?逆玉だよね。いいじゃない。仲良しなんだし。相思相愛でしょ?」

 百合花は両親が医者だし、本人もいずれは医者になるのだろうから結婚すれば逆玉には違いないのかもしれない。しかし、龍一の求めていることはそんなことではない。自分の力で前に進みたいのだ。穂香が続けた。

「ああ。でもそれは世間が認めないか。誰がどう見てもデコボコだもんね。でも、人間ハートだし、二人が納得すればそれでいいんじゃないかな」

 穂香の言うことを龍一は理解できたし、それはいつも意識している。しかし、それはすべてを兼ね備えた百合花への憧れのようなものであり、コンプレックスであるとは思っていない。

「確かにゆっぴいはモデル体型でりゅうちゃんはちんちくりんかもしれないけど、いつまでもそれが続くわけじゃないし、ゆっぴいもいずれはおばさん化していくんだろうからね」

 穂香が相変わらずの癒し系ボイスでさらに続けた。龍一はまともに会話をするのを諦め、スマホを取り出し、ママのことは無視するように百合花にLINEメッセージを打った。

 

          りゅうちゃん【面談はどうだった?】

          りゅうちゃん【こっちは散々】

 

 幼馴染の百合花が今日、パパの不倫相手に会うことは聞かされていた。

 共に一人っ子の龍一と百合花は保育園で出会ってから今日まで、双子のように育ってきた。その関係は思春期になっても変わることはなかった。

 既読にはなったが反応がなかったので、龍一はすぐ次を打った

 

          りゅうちゃん【相談したいことがあるんだけど今日会えるかな?】

 

 ほどなく返事が来た。

 

ゆっぴい【これから学校】

ゆっぴい【入学式の準備】

ゆっぴい【五時頃ならOKかな】

ゆっぴい【面談は失敗】

ゆっぴい【後で話す】

 

 龍一が打ち返す。

 

          りゅうちゃん【じゃあ五時に明大前のMACで】

 

ゆっぴい【りょ!】

ゆっぴい【相談て何?】

 

          りゅうちゃん【今日の三者面談】

          りゅうちゃん【学費のことで悩みが出た】

 

 百合花から返事はなかったが龍一は心なしか落ち着き、再び穂香と向き合った。

「ところで、今度はどんな仕事を抱える予定なの?」と龍一。

「聞きたい?」と再び癒し系ボイスの穂香。

「聞いてあげるよ」

 龍一が言うと、穂香は堰を切ったようにしゃべり始めた。原作の漫画のこと、オーディションのこと、自分がどれだけ苦労してその役を勝ち取ったかということ……。

 声優は超がつくほど人気の職業だ。きっと医者以上だろう。声優に憧れている若者は多く、そのための専門学校や養成所は高額な学費にもかかわらず人気が高い。

 人気作品の主役級をいくつかこなしてきた穂香は人気声優の部類に入っている。世間の誰しもが知っている存在ではないが、秋葉原のその方面の領域に行けば、知らない人を探す方が難しい。

 昔は、声優は声の専門職であり、七色の声を自由に操ることができればその職は務まっていた。しかし、インターネット動画が普及した昨今、二.五次元という世界が生まれ、声優も表に顔を出すようになってから久しい。声優もビジュアルが要求される時代になったのであり、見てくれが悪い声優は、少なくとも若者をターゲットにする作品では主役級を演じることはできなくなった。

 穂香の、そのソバージュやネイルやつけまつげに彩られたビジュアルが高校三年生の息子の存在を想像させることはない。

 元来、二次元の住人である龍一にとってはそんなママの存在が誇らしくもあった。小さい頃はアニメのキャラクターを指さし、「この声、ママがやってるんだ」と友達に自慢したこともあった。

 しかし、声優がいかに憧れの職業だったとしてもその人気と収入は比例しない。いや、比例はするのだが、Xの係数が明らかにコンマ以下なのだ。声優に限らず、アニメ業界の住人は同じような境遇なのかもしれない。好きでなければとてもやっていかれない。

「今日の晩御飯はどうするの?」

 一通り話を済ませた穂香は一息ついて、母親のボイスに戻り言った。

「夕方、ゆっぴいに会う約束なんだ。だから晩はマックかな。適当にやるよ」

「そう。ねえ、りゅうちゃん。前にも聞いたと思うけど、ゆっぴいとはお付き合いしてないの?」

「前にも言ったと思うけど、お付き合いって彼女か?ってことでしょ?」

「まあ、そういうことになるね」

「じゃあ答えはノーだよ。確かに俺はゆっぴいとはよく会って、話もするし、遊びに行ったりもするけど、二人が恋人同士かっていうとそんなことはないよ。ただの幼馴染だよ」

「そこがよく分かんないんだよな~。幼馴染だって言われれば保育園から小学校、中学校って一緒でお互いの家を行き来してたんだからそのとおりなんだろうとは思うけど、でも保育園や幼稚園や、あるいは小学校の一、二年生では仲良しでも、周りに冷やかされたりして男女の仲って終わっちゃうんじゃないの?」

「…普通はそうかもしれないけど、ゆっぴいと俺は誰かさんのせいでとても濃い付き合いだったんだよ。双子みたいに育てられたから、それが続いているんだよ。それに…」

「…それに?」

「ゆっぴいはハッキリ言って俺のタイプじゃないんだ。背の高い子は生理的に駄目なんだよ。だから彼女にはならないよ」

「なにおバカなこと言ってるの。あんなモデルさんみたいな子が一緒に遊んでくれるだけでも奇跡なのに。それとも、…りゅうちゃんには他に好きな女子がいるってこと?」

 穂香は癒し系ボイスにチェンジしていたずらっぽく聞いた。

「さあね。たとえそうだったとしてもママには言わないと思うよ」

「ねえ、誰?あたしの知ってる子?」

 穂香がそう言うとようやくランチが運ばれてきて穂香の注意がそっちに向かった。

 



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二 幼馴染

 同じ日の夕方の代沢の都営アパートの一室。

 龍一はダイニングキッチンでテレビゲームに熱中していた。

 龍一の住む鉄筋のアパートは二DKという間取りだ。リビングがない間取りというのも今では珍しいのかもしれないが、このアパートが建てられた当時は画期的だったはずだ。

 このアパートではその二つの部屋を穂香と龍一で分け合っている。しかし、穂香はこのアパートには寝に帰るような生活なのでいつの間にか共有エリアのはずのダイニングは龍一の部屋と化し、龍一の部屋は倉庫のように龍一のモノで埋め尽くされるようになってしまった。

 時計の針は午後五時半頃を指している。

 不意に玄関がノックされ、ドアを解錠する音がして玄関が開き、百合花が入ってきた。両手でテフロン加工の鍋を抱えている。その小さなお尻でドアを閉め、「バタン」という鈍い音がした。

「やっほ~」

 ゲームに集中していた龍一はゲームの画面を見たまま声をかけた。

 約束は明大前のはずだったが、中途半端な時間に龍一は帰宅してしまい、改めて出かけていくのも面倒になったので待ち合わせ場所を代沢の自宅アパートに変更していた。

 百合花の自宅は龍一の住む都営に隣接している高級住宅街にあり、百合花も一度帰宅して、着替えてからママが作った晩のおかずの入った鍋をかかえ、龍一のところに移動した。

「お待たせ~」

 ダイニングに侵入した百合花はそう言って、両手鍋を龍一の前に突き出した。

「カレー?」と龍一。

「ノンノン。ビーフストロガノフ。お腹空いてる?」と百合花。

「そうでもないなあ。ゆっぴいは?」

「あたしはペコペコ。十時頃に朝マックしたっきりだからね。ご飯ある?」

 百合花はそう言いながらキッチンに移動し、両手鍋をガス台の上に置いた。

「四合くらいお釜にあるんじゃないかな?もう冷めてるだろうけど」

「じゃあ温めればいいね」

 百合花がそう言って炊飯器の中を確認すると、ゲームの局面が一段落し、龍一はコントローラーを脇に寄せ、二脚しかないダイニングテーブルの椅子の一つに腰掛けた。百合花は炊飯器の保温ボタンを押してから、龍一の対面に座った。

「どっちから先に話す?」と龍一。

「じゃあ、私から」と百合花。

 百合花は首にぶら下げたポーチから二枚の名刺を取り出し、ダイニングテーブルの上に置いた。

 二人は年齢とほぼ同じ期間、このように過ごしてきた。

 二人の出会いは保育園のゼロ歳児クラスだった。そして二人のママが保育園の保護者会で同じ役職を引き受けたことから二人は必然的にお互いの家を行き来するほど親しくなっていった。

 二人のママは医師と声優で、経済力の差は歴然としていたが、時間という万人に平等に与えられている資源の配分を巡っては共生関係にあった。都立病院に勤務する百合花のママは平日の勤務時間が長く、徹夜になることも稀ではなかった。一方、声優である龍一のママは勤務時間の時間的・場所的拘束が少ない一方、休日にはイベントなどに駆り出され、不在となることが多かった。

 二人のママはお互いにフォローしあった。龍一が百合花の家にお泊りすることは滅多になかったが、百合花は頻繁に龍一の家にお泊りした。その結果、二人は双子のように育ってきた。

 百合花は随分前からこの部屋の鍵も持っていて出入り自由であり、龍一も穂香もそれを当たり前のことと思っていた。

「刑事が来たの?」

 北沢警察署の名刺を見た龍一が言った。

「そう」

「ご本人さんと二人で?」

「いや、そうじゃなくて、…来た男の人は一人だった。そして最初に諏訪さんの名刺を出したもんだから、私はその人がてっきり諏訪さんご本人かと騙されちゃったってわけ」

「その人、刑事だったんだ?」

「援助交際じゃないかって疑った諏訪さんが警察に相談したんだって。それでこのお巡りさんがやってきたの。諏訪さんの名刺持って。私服だったんで最初は分かんなくて、『奥様が浮気してます。うちのパパと』って言っちゃったけどね」

「そっか。本人には会えなかったんだ」

 龍一が言うと百合花は頷いた。

「パパの浮気の話はしたんでしょ?」と龍一。

「でも、警察は民事不介入だからって言われちゃった」と百合花。

「で、これからどうするの?」

「そこでりゅうちゃんに相談なんだなあ」

「相談?」

「りゅうちゃんも相談したいって言ってたよね?学費のことで悩みが出たって」

「うん」

「どうしたの?」

「まあ、予定どおりだよ。三者面談。まずは学費をどうにかしろってことになった」

「先生にはなんて言ったの?」

「これも予定どおり。医学部志望だって言った」

「予定どおり自爆したんだ?」

「そう。自爆した」

「でっ?」

「それでどうしようかって思ってるんだ。偏差値はともかく、学費は自分の力じゃどうしようもないからなあ。奨学金の話もしたけど、それだけじゃ難しいと言われたよ。事実そうなんだろうけど」

「じゃあプロに相談してみたら?」

 百合花は少し微笑みながらそう言ってテーブルの上に置いたFPの名刺を手に取り、龍一に渡した。龍一は名刺をしげしげと見つめる。

「この人に電話するの」と百合花。

「…それで?」と龍一。

「学費がないんだけどどうしたらいいですか?って相談するの。私はそれで釣ろうと思ってたんだけど、りゅうちゃんは釣りじゃなくてホントに相談するの」

「うん」

「要は、この人に実際に会ってみてほしいの」

「それで?」

「それで、……その先はまだ分かんないんだけど、きっかけをつかみたい」

 龍一は少し考えた。目の前の名刺には「辛口財産診断所」と書いてある。

 龍一はお金についてはしっかりしている方だと思っている。別にそれを目指していたわけではなかったが、結果的にそうなった。ママの穂香は宵越しの金は持たない性格で、貯金もしていない。借金もしてはいないから分相応の生活をしているといえなくもないが、家計が苦しいのに家計簿すらつけていない。

 あんまりひどいので仕方なく龍一が家計簿をつけ始めたのは中学に入ってすぐ、給食費の納入が滞るようになってからだ。

 穂香は必要最小限のお金しか家計に入れない、というか金銭感覚が通常ではないので、龍一は中学生にして家計を管理することとなった。

 穂香は仕事第一だが、酒を飲んだり、ギャンブルにつぎ込んだり、龍一を殴ったりすることはない。しかし、本当のプロなので仕事に対する取り組みが尋常ではない。それが収入に対して経費が掛かり過ぎる→貧困から脱せない元凶になっている。

 結果として龍一にはしっかりとした金銭感覚が身に付いた。今の状況で医学部に進学することが難しいことも理解している。ただ、十七歳の今、夢を諦めてしまうのは早すぎるとも感じている。

「……分かった。いいよ。普通に相談してみるね」

 龍一は少し考えてからそう言い、続けた。

「で、どうすればいいのかな?」

「そうだね、いきなりその事務所、場所は千歳烏山かな?…そこの事務所に行くのも不躾だし、アポは取った方がいいとは思うから、取り敢えず電話することかな。学費のことで相談したいんですけどって。私みたいに」

「警戒されないかな?」

「警戒はされるだろうね。『どうしてここの電話番号知ってるんだ?』って話にはなるかもしれない。だから、それは私に紹介されたでいいよ」

「パパの不倫のことも言っていいの?」

「そこまでは言わなくてもいいよ。言ってもいいけど、そうすると警戒してくるだろうから。だからさ、私からその話は聞いていないことにして、あくまでも、学費のことで悩んでたら、私のパパの知人の夫ということで私に紹介されたってことにすればいいよ。事実そうなんだし」

「……分かった。今日はもう遅いから、明日にでも電話してみるね。…ゆっぴいも大変だと思うけど、そういうことなら俺の方もゆっぴいの話は抜きで、ガチで相談してみるからさ」

「ありがとう。そう言ってくれると思ってた。じゃあ、ご飯にするね」

 百合花はそう言ってキッチンに向かい、テフロン加工の両手鍋が乗っかっているガス台に火をつけた。

 

 龍一の通う都立M高等学校は桜の季節を終えようとしていた。

 翌四月七日は入学式でM高校だけでなく、百合花の通う目と鼻の先のN大学付属高等学校でもそれは挙行されていた。

 下高井戸の街はフレッシュマン達であふれていた。

 そんな、街の喧騒をよそに、龍一はM高校の図書室の、入口から一番遠い席に座り、机の上にスマホ、メモ帳、シャーペン、百合花から預かった諏訪幸治の名刺を並べていた。

 図書室には他に誰もいない。静かな時間が流れている。龍一はスマホの電波時計が十三時ちょうどをキャッチするのを待った。

 スマホの時計が十三時を示すと、龍一はゆっくりとスマホを手に取り、電話機能を起動させ、名刺に書いてある〇三から始まる電話番号を押した。

 スマホを耳に近付けると、回線がつながるタイミングが少しあり、コール音が鳴り響いた。三コール半で先方が出た。

「はい、辛口財産診断所です」

 鈍い男の声がした。昨日、何度も百合花と練習したので龍一の声は滑らかにスタートした。

「もしもし。伊波と申します。初めてお電話を差し上げます。お忙しいところ恐縮です。今、お時間よろしいですか?」

「どんなことでしょう?」

 男の声が少しふてぶてしくなった。

「実は僕、高校三年生なんですけど、大学進学を希望してまして、でも家が貧乏で、学費が準備できなくて、それでどうしたらいいかと思って相談させていただきたいんです。そちらはお金の悩みを聴いてくださると聞いているのですが…」

「……どうしてここを?」

 スマホの向こうで怪訝そうな声が聞こえた。

「…友達に紹介されたんです。失礼ですが諏訪幸治さんでいらっしゃいますか?」

「ええ」

「蓬田百合花をご存知でしょうか?僕の、昔からの友達なんですけど、学費のことで悩んでいましたら、彼女の父親の知人でファイナンシャルプランナーがいるから相談してみたら?って言われまして、それでホームページなんかも見せていただいたんですけど、ホームページにも『お気軽にお電話を』って書いてあったりしたもんですから。ですからいきなりで失礼かとは思ったのですが、お電話させていただきました」

「…なるほどね。…君は、…蓬田百合花さんのお友達?」

「はい」

「高校生と言ったね?」

「高校三年生です」

「確かに僕はここでマネーの相談を受け付けてはいるけど、でもボランティアでやっているわけじゃないんだ。一応、商売なんでね。だから、相談に来てくれるのはもちろん構わないのだけど、ただというわけにもいかない。相談料は払えるのかな?」

「相談料…ですか?」

 龍一が予想していない展開だった。確かに弁護士や税理士でもそうなのかもしれないが、相談料を払えと言われれば理解できないことではない。

「難しいよね?学費も払えないくらいなのだろうから」

「ええ、それはまあ」

「じゃあ、こうしよう。ここに来るとなると君は僕に相談料を払わなければならなくなる。でも、僕は世田谷区民向けに区民相談というのを不定期にやっている。たまたま次の火曜日の午後に烏山区民センターでやるからそこに来るといいよ」

「それは…無料…なんですか?」

「無料かと言われれば無料なんだけど、ボランティアというわけじゃない。区から日当が出るんだ。区報に案内が出ていると思うから確認して予約を取るといいよ」

「予約ですか?」

「区役所に電話するんだ。まあ、区報を見てみてよ」

「分かりました。区報、確認してみます」

「じゃあ、火曜日の午後に烏山区民センターで」

「何か持っていくものとかありますか?」

「特には必要ないけど、学費の相談というからには進学希望なんだよね?」

「はい」

「大学かな?」

「そうですね」

「では、その青写真は聞かせてもらうからそのつもりでね。それと、これが大事なんだけど、遠慮はしないでほしい。まだ遠慮する場面じゃないからね。だから、例えば留学したいとかいうのであれば、それはそれで夢を語ってほしい」

「分かりました」

「君は初めてだろうから色々と心配事があるだろうし、緊張もするかもしれないけど、僕の方は別に君が初めてというわけじゃないし、今までに何件もこなしているから気楽に構えてもらって構わないからね。では火曜日に」

 そう言って電話は事務的に切れた。想像していたよりも普通の人というのが龍一の印象だった。すぐに百合花にLINEでメッセージを打った。

 

               りゅうちゃん【電話したよ】

               りゅうちゃん【会うのは次の火曜日の午後になりそう】

 

 ほどなく、百合花から返信が来た。

 

ゆっぴい【お疲れ様】

ゆっぴい【ありがとう】

ゆっぴい【今どこ?】

 

               りゅうちゃん【学校だけど】

 

ゆっぴい【私も学校】

ゆっぴい【もう帰れるのかな?】

 

               りゅうちゃん【うん】

 

ゆっぴい【じゃあ一緒に帰ろう】

ゆっぴい【ご飯は?】

 

               りゅうちゃん【まだ】

               りゅうちゃん【ゆっぴいは?】

 

ゆっぴい【私もまだ】

ゆっぴい【ガストでも行く?】

 

               りゅうちゃん【昨日ママと行ったばっかりなんだよ】

               りゅうちゃん【じゃあ駅の吉牛で食ってるね】

               りゅうちゃん【帰りながらしゃべろう】

 

ゆっぴい【ほいほ~い】

 

 龍一はすぐに区役所のウェブサイトで区民相談を確認し、区役所に電話をして相談の予約を取ってから下高井戸駅へ移動した。

 

 しばらくの後、下高井戸駅橋上駅舎改札外の吉野家で牛丼特盛をつついていると百合花が入ってきてカウンターの龍一の隣に座った。店の中にいた客が男女を問わず、五月雨式に百合花を二度見した。

 ただのどこにでもいる高校三年生に過ぎないはずの百合花は自宅のある代沢、あるいは下北沢、あるいは下高井戸では割と有名人だ。それはひとえにその高校生らしからぬ容姿にある。

 身長は百七十センチを越える八頭身。大きな瞳。つやのあるサラサラストレート。すれ違えば振り返らない男の方が少数派だろう。

 百合花の目の前に温かい緑茶が置かれ、百合花はすかさず「牛丼並と卵」と言い、留学生と思われる店員が復唱した。

「こないだ香港に行ったじゃん。香港にも吉野家あるんだけど、生卵はないんだよね~」と百合花。

「卵の生食は日本独自の食文化だからね」と龍一。

 それから二人はすぐに本題には入らず、今日から始まった新学期の情報を交換した。

 そのうちに百合花の前に牛丼並と生卵が差し出され、百合花は並の上に紅しょうがをのせ、卵を割って醤油を少し入れてからはしで溶き、どんぶりの上に注いでさらにその上に唐辛子をかけてからはしでつついた。

 龍一の通う都立高校と百合花の通う付属高校は目と鼻の先だ。両校とも付属高校の上にある大学のキャンパスと隣接しているので隣同士といってもあながち的外れではない。

本当は百合花も龍一と同じ都立高校に通いたかった。高校でも同じときを刻みたかったのだ。

 しかし、百合花のパパはこれに反対した。パパは自分が果たせなかったK大医学部進学の夢を一人娘に託したかった。

 中学受験からパパは自分の書いたシナリオに娘を乗せようとしていた。しかし、百合花は、小学校で続けていたバスケットボールを中学でも、同じ仲間と続けたいと強く主張し、区立中学に進学した。

 高校受験では同じ仲間とバスケットを続けるという言い訳を使うことはできなかった。それでもなるべく龍一の近くにいたい百合花は龍一の受験する本命の都立高校と目と鼻の先で、上の大学には医学部もあるN大付属高校に進学することでパパと妥協した。

 K大医学部にこだわりのあるパパはもちろんK大付属高校への進学を望み、それについては百合花も大きな抵抗はしなかった。「ハイハイ」と従っていた。K大付属は八十近い偏差値が必要であり、どんなにガリ勉してもそう入れるものではない。第一志望としてK大付属に願書を出し、受けにも行ったが、合格することはなかった。

 結局、高校に進学しても二人の距離は離れることはなく、百合花は放課後や休日の暇な時間を龍一の住む都営で過ごした。思春期をとうに迎えてはいたが、二人の関係が別の形態に進化することもなく、双子のように育てられた二人は引き続き双子のように、アニメを見たり、漫画を描いたり、ゲームをしたり、秋葉原に遊んだりしていた。

 そんな二人を彼氏と彼女のように見ている人もいた。二人は肯定も否定もしなかった。二人の関係は二人が承知していたから。

 おせっかいな百合花の友達は「あんな男と付き合うのはやめろ」と言い、龍一の友達は「お前とは不釣り合いだ」と言った。二人は気にしなかった。

 百合花にとっての龍一は、繁華街を歩けば声をかけてくる無数の男達から守ってくれるボディーガードであり、龍一にとっての百合花はファッションアイテムの一つであるようにも見えた。

「じゃあ、ここは私が払うから」

 牛丼を片付けた百合花は自分の分と龍一の目の前にあるもう一枚の伝票を握ると大きくそれを振って店員を呼んだ。

「いいよ、俺の分は俺が払うよ~」と龍一は一応、言ってはみたものの、「まあまあまあ」と百合花に言われるとそれ以上の抵抗はしなかった。というより、最初から龍一には支払いの意思はなかったという方が正しい。だから特盛を頼んだし、卵もつけたのだ。そもそも百合花が来ないのであれば吉野家が選ばれることもない。

 二人が飲食を共にする時、支払うのは大抵、百合花だ。その対価として百合花は龍一の住む都営の鍵を持ち、龍一の所有する漫画を読み、ゲームソフトで遊び、DVDを見る権利が与えられている。百合花も龍一もそう解釈している。

 お金を持っている百合花とお金以外ならなんでも持っている龍一はお互いのママのように十八年近くの間共生関係にあった。

 勘定を済ませると二人は牛丼屋を出て、向かいの本屋を少し冷やかしてからホームに向かった。

 

「で、どうだった?」

 京王線の上りホームに降りた百合花はようやく本題を切り出した。ちょうど反対側の下りホームで高尾山口行きの準特急電車が通過しているところだった。

「結構、紳士的な人だったよ。それで、今度の火曜日に烏山区民センターで無料相談会をやるからそれに来いって言われたよ」

「無料相談会?」

「法律相談とか税金相談とか、区役所がその道の専門家を用意して、区民からの相談を受け付けるんだって。ゆっぴいにLINEした後、すぐに区役所に電話して聞いたら、火曜日の午後の予約がすぐにとれたよ」

「へ~、なんでまた無料相談会なんだろう?」

「俺が直接、諏訪さんの事務所に行くと諏訪さんとしても相談料を取らなきゃいけなくなるんだって。あくまでも商売だからって。そう言ってた。だから相談料を払わなくてもいい区役所の相談会を勧めてくれたのさ」

「なるほど、そう言われてみると紳士的だね。で、私のことは何か言った?」

「友達の父親の知人が諏訪さんだって説明はした。蓬田百合花っていう名前も出したよ。それについては特に突っ込みはなかった」

 龍一がそう言うと上りホームに新宿行きの各駅停車が入線してきて停まり、ドアが開いて二人は乗り込んだ。

「話、変わるんだけどさ」と龍一。

「ん?」と百合花。

「俺の進路の相談ってことになったけど、ゆっぴいの方はどうなの?進路」

「どうなのって?」

「まあ、医学部に行くんだろうとは思ってはいるよ。だから今まで、俺のことはともかく、ゆっぴいの進路のことは全然話題になって来なかったもんね」

「うん」

「俺は、ゆっぴいも、ゆっぴいのパパもママも同じ考えかもしれないけど、ゆっぴいは内部推薦でN大の医学部に行くと思ってて、それがあまりにもあたり前のことだと思ってきたから今まで、その話題もしてこなかったんだけど、実際にはどうなんだろう?」

「さあ、そうやって改めて聞かれるとよく分からないね。りゅうちゃんの言うとおり、私も、パパもママも、そういう進路があたり前だと思っているのかもしれない。だから、それ以外の希望を私が口にしたりしたら、周りはビックリするかもしれないね」

「実際はどうなの?本当に医学部に行きたいの?ってか医者になりたいの?」

「それ以外の選択肢は考えていなかったからなあ。でも、何になりたいのか?って聞かれると、今、パッと頭にひらめいたんだけど、声優になりたいかな」

「声優?」

「そう、りゅうママだね」

「なんでまた?」

「そりゃ、好きだからに決まってるでしょ」

「こんなに貧乏なのに?」

「だって、りゅうママ、すごく楽しそうじゃない?仕事が。うちのママは、確かにお金は稼いでいるし、ビジネスクラスで海外旅行にも行けるのかもしれないけど、仕事は基本、つまらないよ。そりゃ、時には人の命を助けて感謝されることもあって、やりがいを感じる瞬間もあるのかもしれない。しかし、そんなのは一瞬で、基本は患者やナース、薬屋さんとかなんかの人間関係に忙殺される毎日だと思うよ」

 百合花がそう言うと隣の明大前の駅に到着し、二人は電車から降りた。二人は井の頭線のホームを目指して歩き、エスカレーターを降りた。

 ちょうど渋谷行きの電車が待っていて、二人は、最後は少し小走りに飛び乗り、電車はすぐに走り出した。

「あれ、急行に乗っちゃったね」と龍一。

「いいじゃん。下北で降りれば。それに今はなんか、ちょっと街の空気吸いたい気分だし。ちょっと歩こうよ」と百合花。

 二人の最寄り駅は下北沢より一つ渋谷寄りの池ノ上だ。だから下北沢で各駅停車に乗り換えてしまえばいい話だ。しかし下北沢と池ノ上はあまり離れておらず、歩いて移動できる距離だ。池ノ上は住宅街。それに比べて下北沢は賑やかな街だ。

 心が落ち着かない百合花は、暇な平日の午後、気の合う龍一と少し下北の街をブラブラ歩きたい気分だった。

「さっきの話の続きだけど、医者の仕事が大変だっていうのは俺もゆっぴいママを結構、近くで見てるから分かるんだけど、だからって声優になりたいってのは行き過ぎなんじゃない?」と龍一。

「そうかなあ。あたしはりゅうママに憧れるけど」と百合花。

「憧れねえ。うちのママみたいになりたいの?」

「だって、うちのママはどう見ても年相応。あれでも結構、お金かけてるんだよ。りゅうママはとても年齢どおりには見えないもんね。もちろんりゅうちゃんの妹には見えないけど、ママには絶対見えないよね?」

「でも、それが幸せかどうかは分からないよ」

「幸せだよ。だって、自分の好きなことに打ち込んでいられるんだもん。あの年齢でまだ青春時代。素敵だよね。うちのママはおじいちゃんの敷いたレールの上を走って来ただけ。そして自分もレールを敷いて、娘に走らせようとしている」

 二人の会話はそれだけだったが急行電車は下北沢駅のホームに滑り込み、電車から降りた百合花と龍一は小田急線に乗り換える乗客たちの波に流されながら進んで改札の外に出た。まだ午後二時前だった。

「どうする?まだ時間早いけど。家帰ってゲームかな?」

 下北沢のダラダラ坂を下りながら龍一はそう言って百合花を見た。

「久し振りにカラオケでも行こうかな~。なんか大声出したい気分」

 カラオケボックスの看板が視界に入った百合花がそう言った。

「ヒトカラ?」

「なわけないでしょ?ヒトカラのどこが楽しいの?カラオケってのは自分の下手な歌を他の人に無理やり聴かせるのが楽しいんでしょうが。りゅうちゃん、今日、これからもちろん予定はないよね?」

 百合花はそう言うと強引に龍一の手を掴み、二人はその看板のある雑居ビルの中へと消えていった。

 



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三 烏山区民センター

 翌週、四月十三日の火曜日の午後、龍一は下高井戸駅の下りホームで通過する高尾山口行きの準特急電車を少しイライラしながら見送った。

 準特急はこれから目指す、千歳烏山駅には停車するが、ここ下高井戸は無残にも通過してしまう。なぜ、東急世田谷線の連絡駅である下高井戸を通過し、特に何の変哲もない千歳烏山に停車するのかしばらくの間、龍一には理解できなかった。

 その疑問を解きたいがためにインターネットで調べたこともある。千歳烏山は明大前と調布の間で一番乗降客数が多いということが理由のようだった。

 そんな理由では納得できなかった龍一は下高井戸駅の駅員にも聞いてみた。駅員は準特急を下高井戸に停めると午前中の特定の時間帯に準特急が混雑し、それがダイヤの乱れにもつながるので下高井戸は通過するというような説明をしていて今度は龍一も納得した。下高井戸で世田谷線に乗り換えたいと思う客は多いだろうから、そんな客は各駅停車に乗ってもらって、明大前で井の頭線に乗り換える客だけを特急や準特急は運ぶという鉄道会社の考えは確かにロジカルではある。

 そんなことを考えていると各駅停車がやって来たので、これに乗ると桜上水や八幡山で後続の優等列車に抜かれ、そこでまたイライラさせられるのだろうなと思いながら、龍一はそれに乗り込んだ。

 実際、後続列車に抜かれはしたが、千歳烏山にはすぐに到着した。目的地の烏山区民センターは北口のほぼ駅前といってもいいところにある。他に背の高い建物は周りにはないから迷うこともない。

 龍一がこの区民センターに来るのはほぼ半年ぶりだった。

 ここの区民センターは一階が三百人くらいを収容できるシアターのようになっていて、半年前、とある納税協力団体が主催する、とある講演会が開催され、出かけて行ったことがある。講演者の名前は既に思い出せないが、日本に嫁いできたチベット出身の歌手で、話す内容は面白かった。

 日本に来て水道からお湯が出たのがビックリしたとか、停電しないのがビックリしたとか、何かカルチャーギャップのような話を面白おかしくしていた。家賃の安い都営に住んでいる母子家庭の龍一は、この国では貧困層に位置しているのだと認識している。しかし、各家庭に瞬間湯沸かし器が設置されていて、水道からお湯が出ることは、この国ではあたり前のことであり、停電はあの地震の時以来、経験していない。きっとあの地震がなかったならば産まれてこの方、一度も経験していないだろう。

 区民センターの建物を見た龍一には、半年前、そんなことを考えた記憶が蘇った。

 建物に入ると龍一は、この日、四階のフロアで区民相談会が開催されていることを掲示板で確認し、エレベーターに乗り込んだ。

 約束の午後四時まではまだ少し時間があったので五階の区立図書館で時間を潰そうと考えていたが、場所だけ確認しておこうと思い、エレベーターは四階で降りた。

 エレベーターを降りると正面にはイベントホールのような広い部屋があり、左側に細い廊下があって、ドアの前に「区民相談会場」という看板が出ていた。

 看板の出ている部屋の前に進んで中を覗くと、学校の教室の半分くらいの大きさの部屋に会議用の長机が一つ置かれていて、その向こう側に年恰好五十くらいの中年の男が座っていて覗き込んだ龍一と目が合った。

 男はサッと右手を挙げ、それにつられて龍一は軽く会釈をした。

「随分早いな。まあいいよ。今日の相談は君が最後だから。どうぞ。ああ、ドアは開けっ放しでいいからね」

 そう言われて龍一はその男が諏訪幸治本人であると認識し、「失礼します」言ってから数歩移動し、対面に座った。

「改めましてはじめまして。ファイナンシャルプランナーの諏訪幸治です」

 諏訪はそう言って龍一の目の前に何日か前に見たのと同じ名刺を置いた。

「よろしくお願い致します。電話しました伊波龍一です」

 龍一はそう言って頭を下げた。龍一はもっと何組もごった返している、雑多な光景を想像していたが、狭い空間に二人きりになってしまい、少し緊張した。入口の扉が開いていることでかろうじて閉塞感を感じずに済んでいる。

「今日は、後は君だけだから時間はたっぷりある。一応、相談終了時間は十七時ということになってはいるんだけど、相談を途中で打ち切ることがとても失礼なことであることはセンターも承知しているから、センターから出て行けと言われるまでここでしゃべっていて大丈夫だよ。だからまあ、のんびり話をしてもらって構わない」と諏訪。

「はあ。もっと混雑しているのかと思ってました」と龍一。

「まあ、こんなもんだよ。法律相談とか税金相談とかも区は受け付けてはいるんだろうけど、今日は予約が入らなかったってことかな。それだけ悩んでいる世田谷区民は少ないということさ。この国はうまくまわっているってことだ」

 諏訪はそう言って一枚の紙を龍一に向け差し出し、その上にボールペンを置き、続けた。

「まず最初に受付票に記入してよ。まあ整理票のようなものだから気楽に書いてね。でも、嘘は書いてほしくはないかな」

「嘘を書く人なんかいるんですか?」

 龍一は何か試されているような気がした。ボールペンを手に取り、差し出された整理票に記入していく。

「今日は学費の相談のようだから嘘を書く必然性はないのかもしれないけど、女の人とかだと年齢をさばよんだりすることがあるんだ。マネーの相談だと年齢によってできることやできないことがあるからそういうことされるとこっちも困っちゃうんだよね。保険とか、税制上の優遇措置とかね。でも君は高校三年生だってもう白状しているからそんなことは関係ないけどね。…んんっ?」

 ちょうど生年月日を書き終えたところで諏訪がうなった。

「どうかしましたか?」

「いや、蓬田百合花さんのお友達って聞いたけど、生年月日一緒なんだなあって思って」

 諏訪がそう言ったので龍一は少し混乱した。諏訪と百合花はまだ面識すらないはずだ。それなのに諏訪は百合花のことをよく知っているように言った。龍一としては百合花の紹介ということで諏訪と面会しているので諏訪と百合花に面識がないことを知りながらも、二人には既に面識があるかのように振る舞わなければならない。

「……ええ。アストロツインと言われています」

 少し間があってようやくごまかしの一言が龍一の口をついて出た。

「アストロツイン?」

「ええ、アストロツインです。日本語に訳すと占星術上の双子とでも言うんですかね。生年月日が同じ二人ってことですけど、生年月日が同じってことは星占いでは同じ星の下、同じ運命をたどるってことになるはずですから」

「……なるほどアストロツインか。それで君達は同じ運命をたどっているのかな?」

「いいえ、そんなことはありません。彼女は……ご存知だと思いますけど、大金持ちで…」

 龍一は「医者の娘」と言おうとしたところをぐっと飲み込んだ。諏訪が百合花のことをどの程度知っているのか分からないのだ。不必要な情報を提供するべきではない場面であることを龍一は強く意識した。

「…それで、君は貧乏だと言うのだな?」

 言葉を飲み込んだ龍一の後を諏訪が続けた。

「そのとおりです」

「そうか。それで、この前も電話で言ったけど、君の忌憚のない希望はどういったことなのかな?とにかく今は現実を考えないで夢を語ってもらいたい。宇宙飛行士でもプロ野球選手でもなんでもいいよ」

「実は、……医学部に行きたいと思っています」

 整理票を書き終えた龍一は、紙を諏訪の方向に向けてから素直に言ったつもりだった。諏訪は少し間を置き、言葉を選ぶようなそぶりを見せた。

「……随分と現実的な夢だね。しかし、それは君が本当に望んでいることじゃないんじゃないのかな?」

「……」

 諏訪があっさりと否定したので龍一は何と言い返したらいいのか分からなくなった。諏訪が続けた。

「ゴメンゴメン。ちょっといきなりだったかな。初めに言っておくけど、そこの名刺にも書いてあるけど、僕の事務所の屋号は辛口財産診断所だ。だから口が悪いことは覚悟しておいてもらいたい。多少なりともMっ気がないと僕のクライアントは務まらないということだ。まあそこが僕の売りでもあるんだけどね。世の中にはMっ気のある人、結構、多いから。君がそうかどうかは知らないけど」

「はあ」

「医学部に行きたいと言ったけど、それは君が最終的に望んでいることではないよね?」

「どういうことですか?」

「確かに医学部には行きたいのかもしれない。きっとそうだろう。しかし、医学部に行かれれば、それで満足というわけではないだろう。例えば、中退してもいいのかって聞かれたら答えはノーだろう?」

「それは、…もちろん卒業したいに決まってます」

「卒業だけでは足りないだろう?医学部というからには医師になりたいと思っているのだろうし、医師国家試験に合格して、免許の交付を受け、医業を開始しないとゴールには達しない。しかも、それは君の最終ゴールではないんだろうね、きっと。そこに立ってようやくそこがゴールではなく、スタート地点で、今までやってきたことはこのスタートラインに立つための準備に過ぎなかったんだってことに気が付くんだろうね」

 そこまで言うと諏訪は力強い視線を龍一に投げかけた。龍一の言葉を求めているようだった。

「おっしゃる通りです。医者になる、それすらも諏訪さんの理屈では最終ゴールではありません。むしろスタートラインなのかもしれません」

「じゃあどうなりたいんだ?」

「貧乏から脱したいんです」

「なるほど、貧乏ねえ。君は今の生活が貧乏だと思っているんだね?」

「はい。だから、貧乏から脱出するために、医者になりたいんです。おっしゃる通りです。医者になることも、医学部に進学したいこともすべては手段に過ぎません」

「彼女の、…蓬田百合花さんのご両親みたいになりたいのかな?」

 諏訪にそう言われて龍一はまた軽い衝撃を受けた。この人は一体、百合花のことをどこまで知っているのだろうと思った。実はこの人は百合花のすべてを知っていて、百合花はこの人のことをほとんど何も知らないのではないかと心配になった。

 龍一は少し気持ちを落ち着け、冷静になろうとした。原点に戻ろうとした。龍一は百合花から父親の知人の夫を紹介されただけだ。妻の知人の娘なのだから諏訪が百合花のことを相当程度知っていても不自然ではない。むしろ、龍一が、諏訪が百合花のことを何も知らないはずだと思っている方が不自然だ。

 龍一は諏訪に気付かれないように軽く深呼吸した。

「そうです。というか、貧乏からは脱したいので」

 龍一はかろうじてそう言った。

「君の親御さんは何をしているのかな?差支えがあってもありのまま教えてほしいのだけど。そうでなければ僕は君に的確なアドバイスをすることができない」

「母は声優をやっています。まともに働いているとは言えません」

「…なるほど、声優ね。で、お父さんは?」

「父は、…いません」

「どうしていなくなったのかな?」

「最初からいません。物心つく前からいませんでした。もちろん、世の中に父親というものがいるということは知っていましたけど、でもなんで僕のところに父親がいないのかは分かりませんでした。今でも分かりません」

「お母さんからは聞いていないんだね?」

「はい。何回かチャレンジしましたが、教えてはくれません」

「お母さんのご両親とかにも教えてもらえないのかな?」

「母の両親は、結構、いい生活をしているようなんですけど、声優になるという段階で母は家出をして、勘当されてますから、きっと両親にも母は僕の父親のことを話してはいないと思います」

「今、おじいさんとおばあさんがいい生活をしていると言ったけど、じゃあおじいさんとおばあさんに学費は出してもらえないのかな?お母さんは勘当してしまったかもしれないけど、子どもと孫は別だよね。子どもがどうあれ、孫はかわいいもんだよ。無条件にね」

「いい生活というのは僕に比べてという意味です。祖父も祖母も公務員でした。だから私立の医学部の学費を出すのは無理だと思います。それに、僕は祖父母には会ったことはありますが、いい思い出はありません。いとこは大事にされているみたいですけど」

「頼りにはできないってわけか。それでお父さんのことはどうしても分からないんだね?」

「はい」

「じゃあ、お父さんに学費を出してもらうということもできないね」

「そうですね」

「お母さんが唯一、頼りになる肉親ってわけだ」

「母は声優業に忙しくてまるで頼りになりません。一度、母に会っていただければどのくらい頼りにならないかは一瞬で分かると思います」

「ありがとう。言いにくいことまで言ってもらって。で、希望は医学部に進学したいということだね。特に医学部に希望はあるのかな?国立とか、私立ならK大とか」

「そんなの、…あるわけありません。医学部に進学すること自体、無茶なこと言ってると思ってるんですから」

「医学部ならどこでもいいのかな?」

「進学することすら奇跡だと思ってます」

「やる気はあるんだね?もし仮に進学できたら一生懸命勉強しようという」

「もちろんです」

「なるほど。よく、医者の子どもが、本当はダンサーとか好きなことをやりたいのに無理やり医学部に行かされるエピソードを聞くことがあるけど、それよりはずっといいよね。片や行く気はないけど金はある。片や行く気はあるけど金がない。人生は皮肉だね」

「まあ、僕の場合には偏差値もありませんけど」

「やる気があるだけ立派だよ。さて、偏差値の話が出たところで少し真面目に話をしよう。君の目の前のハードルは高いが数はそんなに多くない。言ってしまえば二つだけだ。学費と偏差値。普通ならこの他に親の反対とかあって、それが結構、一番高いハードルだったりするんだけど、君の場合はそれがない。親御さんは君の考えに賛成だね?」

「賛成というより無関心なだけです」

「まあ、反対されないだけいいと思ってよ。むしろ賛成されるより無関心の方がいいかもしれないよ。下手に賛成されると、介入してきて自分のペースじゃ動けなくなるからね。で、どっちから話そうか。偏差値と学費。まあ、今の君にとっては偏差値より学費の方が、ハードルが高そうだけど」

「そうかもしれません」

「どっちから話す?」

「じゃあ、偏差値の方からお願いします。偏差値だって僕にとっては相当高いハードルですけど」

「本当にそうかな?君、高校はどこだ?」

「M高校です」

「…都立だね?」

「はい」

「偏差値は、五十は超えてるよね?」

「僕は推薦で入ったので、高校受験の時はコンスタントに五十は超えていましたけど、六十には届いた記憶はありません。学校全体では多分、五十に満たないんだと思います。大学受験となると、一応、うちは進学校とは言ってますけど、偏差値五十を超える方が確実に少数派になってしまうのだと思います」

「なるほど。大学受験は高校受験と違って同年代のほとんどすべてが参加してくるわけではないからね。まあ、結論から言うと偏差値はそれほど気にすることはないよ。もちろん君は高校生なんだし、教養は社会で生きていくために必要だから勉強は一生懸命してほしいけど、でも偏差値が低いから医学部を諦めましょうということは考えなくていいし、考えるべきではないし、考えないでほしい」

「しかし、……」

 龍一は持ってきたDバッグのチャックをあけ、中をガサゴソといじり、一枚の紙を取り出し、続けた。

「先週、三者面談があったんですけど、進路指導の先生からこの紙を見せられました」

 龍一はそう言って、先週、渡された私立大学医学部合格者平均偏差値のランキング表を諏訪の前に広げてみせた。

 諏訪は一瞬、ランキング表の方に目をやったが、興味は示さなかった。

「もう三者面談か?随分早いな。担任が決まったばっかりじゃないのかな?」

「いいえ。面談は春休み中です。ですから担任ではなく、進路指導の先生です」

「それにしても早いよね?」

「希望者は春休み中に三者面談を受けられるんです。それと、希望者じゃなくても、学校が、これは、と思った生徒には早め早めに接触するんです。うちは母子家庭で、学校も進路が危ないと思ってるんじゃないんですか。春休み中に三者面談受けることを半強制されました」

「なるほどね。それで、何か言われたのかな?」

「医学部は諦めろというようなことを言われました。もちろんそんな直接的な表現じゃなく、もっと遠まわしですけど」

「君はどう思った?」

「やはり、無理なんだなあと思いました。予定どおり自爆したと。だって、どこの大学も偏差値六十を超えてるじゃないですか。僕はまだ模擬試験を受けていませんけど、きっと五十には達しないでしょう。これからガリ勉するにしても、塾や予備校に行くお金もありませんし」

 龍一は諦め顔でとつとつと語った。

「…なるほど、この表は確かにその先生の考えを裏付けているかもしれない。でも、こんな表に踊らされていては、夢は実現できないよ。ハッキリ言ってこの表に出ている数字はマジックさ。数字のマジックだ。騙されているだけだよ」

「数字のマジック、ですか?」

「まあ、この偏差値表を見てやる気を削がれるのは仕方ないけど、そこは少し冷静になってほしい。よくこの表を見るんだ。合格者の平均偏差値と書いてある。そう。だからあくまでもこれは合格者の平均なのであって、この数字が出せなければ、合格できないということではない。つまり偏差値四十台でも合格している輩が必ずいるはずだということだ」

 それを聞いて龍一は大きなため息をついた。

「確かにそうかもしれません。しかし、そんな人ってそんなに多くはないですよね。たまたま知っている問題が多く出て合格するという奇跡はあるのかもしれませんけど、そんな確率の低い賭けには参加できませんよ」

「そう考えるか。では発想を変えよう。例えば定員百人の医学部で合格者が二百人出るとしよう。それはいいよね?あり得る話だよね?」

「ええ。もちろん、第二志望とか滑り止めで受ける人もいるでしょうから、大学が定員よりも多くの合格者を発表するということはあり得る話だと思います」

「よし。では、その二百人の平均偏差値が例えば六十二としよう。合格者の平均偏差値だ。あくまでも六十二は合格者の平均偏差値だから合格者の中には偏差値七十五の人もいるし、四十五の人もいる。そういう理解でいいね?」

「はい」

「では次のステップ。ここから少し理解が難しくなるかもしれない。今、二百人の合格者がいて、合格者の平均偏差値は六十二と仮定したけど、この二百人が全員、その医学部に入学しなかったとしたらどうなると思う?」

 龍一は質問の意味が分からず黙った。諏訪も黙ったまま、龍一の回答を待っている。仕方なく、龍一の方から口を開いた。

「……スミマセン。質問の意味がよく分からないのですが」

「分からないことはないだろう。思ったままを答えてくれればいい。ある定員百人の私立大学医学部がある。二百人の合格者を出したが一人も入学しなかった。君がその学園の理事長ならどうする?このままだと学園の経営は成り立たないよ」

「……二次募集するとかですか?」

「そんな感じで答えてくれればいいのだけど、答えはブブーだ。正解は補欠合格者を入学させる、だよ」

「補欠合格ですか?」

「そう。その、君の学校の進路指導の先生も見落としているのか、知っていて言わないだけなのかは分からないけれども、どこの私立大学も合格者とは別に大量の補欠合格者を出す。そして、これが案外肝なんだけど、補欠合格者の数は公表されない。受験予備校も補欠合格者の平均偏差値までは計算しない」

「はあ」

「ここからは僕の仮説が多分に入り込むので話半分に聴いておいてもらいたいのだけど、僕は、大学にもよるけど、下位の大学は大量の補欠合格者を出していて、それでも定員割れになっているんじゃないかと思っている」

「大量の、…ですか?」

「そう。本当に、それこそ、受験者全員を補欠合格者にしても定員が埋まらない大学があるんじゃないかと思うくらいだ。大学が多過ぎるのか、少子化が行き過ぎたのか、どちらかなのかは分からないけどね。僕が受験生の頃は浪人なんかあたり前だったけど、今はそうでもなくなってきている」

「確かに浪人は減っているとは思います」

「そうすると、合格できなくても補欠合格できればいいという理屈になる。補欠合格するためには名前くらいは書かなければならないかもしれないけど、合格点を取る必要はない。補欠なんだから。ひょっとすると名前すら書く必要もないのかもしれない。受験票に書かれている、受験番号という何桁かのアラビア数字を答案用紙に書き写すだけでその大学の学生にはなれるかもしれないね」

「それはいくら何でも……」

「言い過ぎだね。今の発言は撤回しよう。大学も学生には一定の質を要求するだろうから、白紙はもちろん、一桁の答案用紙があるだけでも補欠合格者にすらなれないかもしれない。しかし、ある程度やる気があって受験すれば一桁なんてことはない。あるはずがない。大学だって、下位校になれば落とす試験ではなく、拾う試験になる。そんなに難しい問題は出せないよ」

「偏差値はそんなに高いハードルじゃないということでいいんでしょうか?」

「だから最初からそう言ってるじゃないか。もちろん君がT大とかK大とか人気校をめざすなら別だよ。でもとにかく医学部に入れさえすればいいというのであれば偏差値は高いハードルにはならない。学校での勉強を一生懸命やって、その大学の過去問を一生懸命解けば補欠合格者くらいにはなれるということだ」

「過去問ですか?」

「そう。過去問は大事だよ。もっと言うとその大学の過去問と模範解答は過去十年分くらいを完全暗記してしまうといいと思う。そうすると、傾向は分かるから、学校で一生懸命勉強した知識が試験会場で自動的に働いて、補欠合格でなく、正規合格者になれると思うよ。もちろん上位校はそんなに甘くはないけど。まあ、塾や予備校には行く必要はないということだ」

 そこまで言うと諏訪は不意に席を立った。

「ゴメン。しゃべり過ぎで喉が渇いた。何か飲み物を買ってきてもいいかな?」と諏訪。

「ええ、僕は構いませんけど」と龍一。

「何かリクエストあるかな?君の分も買ってこよう」

「いいえ。僕は結構です」

 龍一は普通に遠慮した。

「じゃあ、適当に買ってくるよ。今日は暖かいし、冷たい方がいいよね」

 諏訪は特に龍一に同意を求めることもなく、龍一の視界から消えていった。

 一人残された龍一はスマホを取り出し、百合花にLINEしようとして画面を開き、そしてためらった。

 諏訪が百合花のことを知り過ぎている。そう百合花に伝えたかったのだが、諏訪にはすべてを見透かされていそうで何か気味の悪さを感じた。

 とにかくここは百合花のことは置いておいて、自分のことに集中しよう。そう思った龍一はスマホをしまい、机の上に置かれているランキング表をもう一度見た。

 これが数字のマジックであるならば少なくとも偏差値というハードルは思ったよりもはるかに低いかもしれない。しかし、その次に構えている学費というハードルはとてつもなく高いだろうし、その高さはたとえ諏訪でもどうにもならないだろう。龍一はそんなことを考え、また憂鬱な気分になった。

 



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四 西から昇る太陽

 しばらくするとコーヒーのショート缶を片手に一つずつ持った諏訪が戻ってきて元の席に座り、そのうちの一つを龍一の目の前に置いて、置いた方の手で、どうぞという仕草を見せた。龍一は少しかしこまって軽く頭を下げた。

「この缶コーヒーはジョージアという名前なのだけど、何でジョージアという名前なのか君は知っているかな?」と諏訪。

「さあ」と龍一。

「正解はコカ・コーラの本社がアトランタにあるからだよ」

「……」

 龍一は諏訪の言っていることの意味が分からず、黙ったまま首をひねった。

「この親父、何のこと言ってるんだろうという顔をしているな」

 諏訪は右に持っていたショート缶を左に持ち替えてから言った。

「…ええ」

「ジョージアを作っているのはコカ・コーラだ。コカ・コーラの本社はアトランタにある。そしてジョージア州の州都はアトランタだ」

 そう言いながら諏訪はショート缶を軽く振り、プルタブを起こして、ぐいっと一口飲んだ。

「ああ、そういうことだったんですね。今繋がりました」

「缶コーヒーは日本の文化、というか日本特有の不思議な飲み物だ。アメリカとかにはないんだよね。まあ、まったくないわけじゃないんだろうけど、日本みたいに普及はしていない。でも来日して、飲んで、好きになるアメリカ人もいる。僕はアメリカ人と缶コーヒーを飲むときは必ずジョージアにして、この話をするんだ。結構、受けるよ」

 そう言って、諏訪はもう一口飲み、続けた。

「さて、で、次は学費の話だね。親はもちろん、親戚縁者も頼れないという前提だけど、君はどう考えてる?」

「どう考えてると言いますと?」

「学費が払えないというこの困難な状況を君はどうすれば乗り越えられると思っているのかということだよ。先週、その、進路指導の先生とはどういう話をしたのかな?」

「先生には奨学金の話をしてみました。でも、無理だろうと言われました」

「なるほど、奨学金ねえ。そりゃ、先生も無理だとしか言いようはないだろうなあ。私立の医学部ともなれば準備しなきゃいけない金額が金額だからね。…で、そもそも奨学金っていうのはどういうものか君は知っているのかな。その辺からまずは整理してみよう。つまり、何がやりたいのかというと、これから君と僕は奨学金のことについて話をするわけだけれども、君のイメージしている奨学金と、僕の考えている奨学金が、微妙にでも違っていたりすると話がかみ合わなくなってしまうから、そうならないよう、二人で奨学金についての共通の認識を持っていたいということだ」

「…奨学金って、そんなに人によって違ってしまうものなんですか?」

「別に奨学金でなくても、まったく同じものでも見る方向によって捉え方が違ってしまうってことはままあることだよ。とりわけ珍しい現象じゃない。君は素人、僕はプロ。きっとギャップがあると思うから言ってるんだ。では聞こう。君の言っている、その奨学金って一体なんだ?」

「……スミマセン。僕は、奨学金の定義でそんなに悩むとは正直、思っていませんでした。奨学金って、就学の意思がありながら、経済的な事情のために就学できない人々を救済するための仕組みみたいなものなんじゃないんですか?そういう定義じゃダメでしょうか?」

「なるほど。それはその通りだ。…質問を変えよう。奨学金をもらった学生はそれを返済する義務があるだろうか?」

「…返済義務があるものとないものと、二種類あるように聞いていますが」

「実は今の質問には答えがないというか、答えるのはとても難しい。それは、じゃあ返済義務って一体なんなのか?という哲学的な問題に答えを出さないといけないからだ。まあ、君の考えは大体分かったから話を進めるよ。経済的に困難な学生を救済する仕組みが奨学金だというのは正しい。その通りだ。しかし返済義務があるかどうかということになると議論が分かれることになると思う。本来、奨学金というのは、…欧米で進化してきたその仕組みは返済の必要がないものだ。返済の必要のあるものは、それは教育ローンであって、欧米でいうところの奨学金、英語でいうスカラーシップではない。日本の奨学金は、厳密には借金であって、将来的には返済しなければならないものだ」

「しかし、日本では返済義務のない奨学金の方が珍しいんじゃないんですか?むしろ利息が付くか付かないかということが問題になるくらいですから。進路指導の先生にもそんなことを言われた気がします」

「そのとおり。日本では、というか日本学生支援機構のやっている奨学金は返済義務のあるタイプだよね。だから、あれを奨学金と呼ぶのは本来おかしいんだけど、これほどまでに日本学生支援機構の低利融資を奨学金と呼ぶことが定着してしまった以上、今さら、あれは実は教育ローンだったとは言えないんだろうね。でも、まあ、何の担保もない、将来の収入だけが担保になっている一学生に、あれだけの金額を無利息、あるいはあのくらいの低い利息で貸すか?と言われると街の金融機関は貸さないだろうから、奨学金という言葉を使いたくなる気持ちも分からないではない。…ごめん、何の担保もないは言い過ぎだな。親御さんが保証人になるんだろうから。ただ、奨学金は本来、返済義務のないもの。これは覚えておいた方がいいと思うよ。さっきのジョージアの話じゃないけど、昔、アメリカ人と話していて、奨学金の返済をしているって話をしたことがあるんだけど、そのアメリカ人は大学の先生だったんだけど、奨学金には返済義務はない。それは奨学金じゃなくて教育ローンだって怒られたことがある。英語の能力がないと思われたんだと思うよ」

「そうですか。でもどっちにしても僕には無理そうですよね。借金も無理そうですし、無償の奨学金なんてなおさらです」

「本当にそうかなあ?」

「そうですよ。僕がどこかの経済的支援を受けられるなんて絶対に無理です。しかも、数千万単位だなんて。西から太陽が昇るようなものです」

「……今、何て言った?」

「えっ?」

「今、言ったことだよ」

「今ですか?西から太陽が昇るようなものだと……」

「そうか。じゃあちょっと話を変えよう。地球の自転のスピードはどのくらいだか知ってるかな?」

「はあ?」

「地球の自転のスピードだよ」

「いいえ、知りませんけど」

「じゃあ、計算してみよう。地球の周囲の長さは知っているよね?」

「いいえ」

「子午線の長さくらい、理科で習ったんじゃないの?」

「ああ、一万キロメートルですね。じゃあ、地球の周囲は四万キロメートルですか?」

「まあ、赤道でその位だね。じゃあ自転のスピードは?ここに電卓がある。計算してみるんだ」

 諏訪はそう言って机の上に置いてある電卓を龍一に向けた。

「今までの話と何か関連があるんですか?」

「この話にはオチがある。すまないけどそれまで我慢してついてきてくれ。さあ、地球の自転のスピードは?」

 龍一は電卓に四万を入力し、それを二十四で割った。液晶には一六六六.六六六六六六六六というアラビア数字が現れた。

「千六百六十六コンマ六六六六六…、割り切れません」

「で答えは?」

「四捨五入すると時速千六百六十七キロメートルでしょうか?」

「秒速にすると?」

 龍一は電卓に表示された数字をさらに三千六百で割った。

「コンマ四六二九六二九六二九六。循環少数ですね」

 龍一はそう言って電卓に表示された数字を諏訪に向けた。

「そうだね。まあ、秒速、四百六十三メートルっていったとこかな。意外に速いね」

「はい」

「音速がどのくらいかは知っているかな?」

「音ですか?……たしか、東京タワーと同じという記憶がありますから、秒速三百三十三メートルくらいですか」

「当たらずとも遠からじかな。音の速さは気温や高度にもよるから一概には言えないけど、一般的には秒速三百四十メートルと言われている。ここでは秒速三百四十メートルとしよう。これがマッハ一だ。では、この電卓に表示されているコンマ以下の数字をコンマ三四で割ってみよう」

 諏訪はそう言って電卓を操作し、現れた数字を龍一に見せた。

「つまり、地球の自転の速さはマッハ一.三六ということだ。音速より少し速いね」

「はあ」

「音速を超える飛行機が存在することは知っているよね?」

「コンコルドとかですか?」

「随分、古いな。まあ、それでもいい。戦闘機とかの方が今では主流なんじゃないかな。僕はよくは知らないけど、でも音速を超える超音速ジェット機というのが世の中には存在する。さあ、ここまでは準備。これからが本題だ。想像してほしい。君は真夜中に超音速の飛行機に乗る。旅客機でも戦闘機でもなんでもいいけど、乗客よりはパイロットの方が見栄えがいいだろうな。もう少しでこの話は終わるからもうちょっと我慢して。で、君は真夜中にテイクオフしてマッハ一.三六を超える速さで西に飛ぶんだ。さあ、どうなる?」

「……、スミマセン。チンプンカンプンです」

 龍一はさっさと降参した。

「難しく考えないでくれ。じゃあ、もっと簡単に言おう。君は真夜中にテイクオフして地球の自転よりも早いスピードで西に飛ぶ。さあ、どうなる?」

「…、申し訳ありません。降参です。答えを教えてください」

「真夜中にテイクオフして地球の自転よりも早いスピードで西に飛ぶと、あら不思議、西の空が明るくなったかと思うと、西から太陽がどんどん昇ってくるじゃないか」

「……そういうことですか」

「そう。そういうことだ。君はさっき、学費を調達するなんて、西から太陽が昇るようなものだというようなことを言ったよね。そのとおりだと僕も思うよ。そして、西から太陽が昇るという例えの意味するところは、それが実現不可能なことではなく、とても面倒だけれども、決して不可能ではないということだ」

「…そうかもしれません。でも、ハードルは高過ぎますよね?」

「そのとおり。ハードルは高い。乗り越えられない高さかもしれない」

「どうするんですか?銀行強盗でもしますか?」

「銀行強盗でもいいのかもしれないけど、割に合わないなあ。オレオレ詐欺はもっと割に合わない。もっといい方法を考えよう。また、話を変えてしまうけれども、僕はファイナンシャルプランナーという仕事をやっているけれども、歯医者と同じようにファイナンシャルプランナーも二種類の人間しかいない」

「歯医者、ですか?」

「そう。歯医者。歯医者には色々な人がいるけれども、つまるところ二種類の人間に分けられる。削るのが好きな人と削るのが嫌いな人。FPも基本は二種類だよ。借金が好きな人と借金が嫌いな人。そして僕は後者の方、借金が嫌いなFPだ。僕は徹底した無借金主義だ」

「どう違うんです?」

「借金主義者の気持ちは理解できないでもない。特に一定の節税効果は認めざるを得ないところだね。でも僕が無借金主義なのは、それがリスクを背負うことになってしまうからだよ」

「リスク?」

「そう。例えばさっき言っていた日本学生支援機構の奨学金という名の教育ローンが受けられたとしよう。でも、私立の医学部ともなれば六年間で五、六千万とかにもなるよね?」

「その可能性はあると思います」

「そうなったとき、卒業してすぐに何千万も借金がある状態で社会人生活がスタートするというのに君は耐えられるだろうかということだよ。君に限らず、多くの人は耐えられないんじゃないかな?それで、結局、夢を諦めていく」

「じゃあどうするんです?さっきも話しましたけど、給付型の奨学金は日本にはほとんどないんですよね?あったとしても何千万という金額は無理ですよね?」

「君は『あしながおじさん』という物語を読んだことはあるかな?」

 諏訪がまた話題を変えた。

「…『あしながおじさん』はありませんが、『あしながおじさん』をモチーフにしたと言われている『キャンディキャンディ』は読んだことがありますから何となく筋は分かります」

「…『キャンディキャンディ』を読んだことがあるって?…ホント?だって、あれって僕らくらいの世代だよ」

「確かにそうなんですけど、僕は母の影響でそういうのが好きなんです。学校では、マン研、…漫画研究会のキャプテンやってますし」

「なるほどね。漫画のことなら何でも知っているってわけだ?」

「何でもは言い過ぎですけど、知っている方だとは思います。多分、今、この建物の中にいる人の中では僕が一番詳しいと思います」

「そうか。で、話し戻すけど、君の、というか、君と僕はもはやチームになってしまったので君と僕という言い方になってしまうけど、君と僕のやるべきことはそのあしながおじさんを探すことだ。これが今、考え得る一番現実的な方法だ」

「…さっきの超音速機の話じゃないですけど、ハードル高過ぎやしません?」

「君はそう思うだろうけど、僕もあてずっぽうに言っているのではないよ。世の中うまくできていて、お金がなくて困っている人がいる一方で、お金の使い道がなくて困っている人もいる。僕は商売としてマネーの相談を受け付けているから、そういう人の相談も受けているんだ。あの世まで持っては行かれないし、どうしましょう?って相談だよ」

「そんな人いるんですか?」

「まあ、あてはあるので、今日の君の話をしてみるよ。で、君にはしばらく僕からの連絡を待っていてほしいんだけど、連絡先はここでいいね?」

 諏訪はそう言って整理票に書かれた龍一の携帯番号を指さした。

「ええ。もちろん構いません。てか、どうぞよろしくお願いします」

 龍一はそう言って座ったまま深々と頭を下げた。

「じゃあ今日はこの辺にしよう。うまくいかなくても落ち込まないでね。うまくいかないのがあたり前なんだから。うまくいかなかったらそのときまた一緒に考えよう」

 諏訪はそう言うと帰り支度を始めた。

「一つ聞いていいですか」と龍一。

「うん」と手を休めずに諏訪。

「どうして初対面の僕にそんなに優しくしてくれるんですか?」

「優しくか。確かに優しくはあるかもしれないけど、それは君がアストロツインの蓬田百合花さんの紹介だからだよ。彼女の紹介でなかったらここまではしないと思う」

 それを聞いて龍一はまた訳が分からなくなった。そんな龍一の気持ちはお構いなしに諏訪が続けた。

「まあ、蓬田百合花さんの紹介だからっていっても、別に彼女と僕がそんなに親しいわけじゃない。さっき、君が説明したように彼女は僕の妻の知人の娘に過ぎないし、直接、会ったのは一回だけだからね。だからそんなに親しいわけじゃない」

「えっ?」

 龍一は思わず聞き返した。「一度会ったことがあるんですか?」という言葉が思わず口をついて出そうになったが、それは飲み込んだ。

「でも、うれしいじゃない。そんなに親しくないのに、僕のことをお友達の君に紹介してくれたんでしょ?しかも、お金とか受験とかとてもデリケートな問題でさ。そんなにも僕は彼女に信頼されていたのかなとか思ってね。だから、まあ、僕にどれだけのことができるかは分からないけど、できるだけのことはさせていただくよ」

そう言われて龍一は何と言ったらいいか分からず、とにかく一礼した。心の混乱を諏訪に悟られないよう、平静を装おうとしてもう一つ質問をした。

「スミマセン。もう一つ聞いてもいいですか?」

「ああ、いくつでもいいよ」

「さっきの、奨学金の話なんですけど、返済の義務があるかどうかは哲学の問題だというようなことを言っていたと思うんですけど、何がどう哲学の問題なんですか?」

「なるほど、哲学か。……例えば、金銭消費貸借契約書があって、…金銭消費貸借契約書というのが難しいのであれば借用書とか、証文とかでもいいんだけど、とにかく借金を約束した紙があるのであれば、借りたお金は返さなければならないというのは分かるよね?これは法律的な義務だ」

「はい。分かります」

「一方、給付型の奨学金の場合、奨学生には奨学金を返済する法律上の義務はない。もらいっぱなしだ。これもいいね?」

「ええ。それも分かります」

「問題は、それで本当に終わりなのかということだよ。給付型奨学金の奨学生は奨学金を受け取ってしまったらそれですべて終わりでいいのか?ということだ」

「…終わりだと思いますけど、まだ何かあるんですか?」

「僕はそれで終わりだとは思わないね。だから哲学的な問題だと言ってるんだ。僕は給付型の奨学金を幸運にも受け取ることができた奨学生は、自分が社会に出てビッグになったときには、それまでの恩に報いるために、自分と同じ境遇にいる学生に奨学金を拠出する義務があると思っている。奨学金ってそうやって世代を超えて引き継がれていくんだと思う。もちろん法律上の義務ではない。道義的な責任だ。だから、さっきは、奨学金は返済義務がないものと言ったけれども、それは法律上の返済義務がないという意味で、本当は、道義的な意味では返済義務はあるというのが僕の考えさ」

 そこまで言うと身の回りを整えた諏訪は席を立ち、龍一を促し、龍一も席を立ち、部屋を出て、二人で並んでエレベーターに向かった。

「君は貧乏のようだからこれから晩飯でもご馳走してやりたい気分だけど、家ではお母さんが待っているのかな?」と諏訪。

「はい。今日のこと、報告しないといけませんので」と龍一。

 本当は待っているのは百合花なのだがここは嘘をついた。

 エレベーターのかごが降りてきて二人は乗り込んだ。他にも乗っている人がいて、二人は黙ったまま一階まで降りていった。

「じゃあ、僕は事務室に寄るのでこれで。連絡、待っててね。まあ、一週間くらい音沙汰がなかったら督促の電話をしてくれてもいいから」

 かごから吐き出された諏訪はそう言うと、そのまま龍一の視界から消えていった。

 

 龍一が代沢の都営のドアを開けると電気がついていて、キッチンから高校の制服にエプロンをつけた百合花が現れ、龍一の前にひざまずき、両手をついて頭を下げた。

「お帰りなさいませ。お風呂にしますか?それともお食事にしますか?」と頭を下げたままの百合花。

「じゃあご飯かな」と龍一。

 こんな光景は日常茶飯事なので龍一も今さら驚かない。百合花は、自身のために何か困難なミッションを龍一に与えたとき、龍一にはいつもこんな風に接する。

「どうもお疲れ様でした。ありがとう。疲れちゃったかな?」と頭を上げた百合花。百合花はそのままダイニングテーブルに腰掛け、龍一はその対面に座った。

「思ったよりもいい人で、色々と面白い話も聞けたよ。でも、まずはゆっぴいの話かな」

「うん」

「ちょっと、おや?って思うことがあったんだ。……てか、本当に諏訪さんとは面識ないのかな?」

「ないはずだけど、何かあったの?」

「おや?って思うことは三つあった。一つ目は、受付票のようなものを書かされたんだよね。その受付票のようなものに生年月日を書く欄があったんだけど、書いてたら『蓬田百合花さんと同じだ』って言うんだよ」

「同じって、…誕生日が」

「まあ、誕生日というか、生年月日がね。それからアストロツインの話になったんだけど」

「何で知ってるんだろう?私の生年月日」

「そこまでは確認できなかった、ってか、俺はゆっぴいの紹介で諏訪さんと会っているわけで、ゆっぴいが諏訪さんのことを何にも知らないってことを知らないふりしないといけない。だから、まあ、諏訪さんとゆっぴいは古くからの知り合いで、諏訪さんがゆっぴいの生年月日を知っているのはあたり前ってなふりをしてたんだけどね」

「そういうことか。なるほど。了解。で、二つ目は?」

「二つ目は、諏訪さんがゆっぴいのパパとママが医者だってことを知っていたこと」

「ああ、そうなんだ。これもなんでだろうって感じだね?奥さんに聞いたのかな?……まさかね」

「で、三つ目は最後にどうしてそんなに優しくしてくれるんですか?って聞いたんだよね。そしたら蓬田百合花さんの紹介だからって言うんだよ」

「……なんだか気持ち悪いなあ。最後はハッタリで言えるとしても、生年月日と親の職業は知ってないと言えないよね?」

「そうなんだよ。しかも、諏訪さん、ゆっぴいに一度、会ってるって言うんだ。ゆっぴいは本当に心当りない?」

 龍一にそう言われて百合花は黙って目を閉じた。色々と思いを巡らせるがやはり何も浮かばない。百合花はその大きな瞳を開いた。

「可能性があるとしたら奥様だけど、仮に奥様から不倫相手の娘の話を聞いていたとしても、生年月日まで分かるかなあ?フツー」

「ゆっぴいみたいにメールを覗き見るとか」

「たとえそうだとしても生年月日までは分からないと思うけど」

「そうだよね。でも、諏訪さん、悪い人ではなさそうだったよ。まあ、口は悪かったけど」

「で、りゅうちゃんの方はどうだったの?」

「うん。一蹴されるかと思ったんだけど、結構、まともに話ができたよ。…てか、今、思うと本当に、真剣に相談に乗ってくれたんだと思う」

「うん」

「まず、偏差値は気にしなくていいって言われたよ」

「どういうこと?」

「医学部は、上位校はともかく、中堅以下のところは毎年、大量の補欠合格者を出すんだって。だから、正規合格できなくても補欠合格できればいいから、とにかく学校の勉強を一生懸命やって、過去問をやれって言われたよ。それはなるほどなと思った」

「ふーん。で学費は?」

「これが問題なんだけど、なんでも『あしながおじさん』を探すって言ってたよ」

「『あしながおじさん』って?」

「『あしながおじさん』読んだことないよね?」

「そもそも誰?何者?」

「『あしながおじさん』は本のタイトルで、俺も読んだことはないんだけど、匿名で貧乏な女の子のスポンサーになって、学費を出してあげる金持ちの物語だと思う」

「ああ、なるほどね」

「それで、お金はあるけど、使い道のない人に心当たりがあるみたいなんで、俺の学費を出してくれるかどうか聞いてくれるって言うんだよ」

「……なんか胡散臭くない?初対面だよね?」

「うん」

「初対面の人にそれだけのことってできる?」

「そこなんだよ。俺もそれが気になって聞いてみたんだけど、ゆっぴいの紹介だからって言うんだよね」

「……」

 百合花が沈黙した。龍一が続けた。

「だからゆっぴいに確認したいんだよ。しつこいけど。本当に諏訪さんのこと知らないのかどうか」

「分かった。じっくり考えるからとりあえずご飯にしよう。お腹空いてるよね?」

「ああ。もちろん」

「今日の晩御飯は和牛ステーキ。パパのところに贈り物が来てたんで盗んできた」

「おお、いいね。サンキュー」

 龍一がそう言うと百合花は軽く笑ってキッチンに移動した。

 



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五 あしながおじさん

 その週の土曜日の四月十七日の午前、諏訪は千歳船橋駅行きのバスに乗り、世田谷区を南下していた。

 世田谷区は東京都の山手線より西側の他の地域と同じように、南北の移動が面倒臭い。多くの人が都心を目指すので、東西の移動は発達している。しかし、縦への移動となるとバスくらいしかなく、諏訪はそのバス移動の中でも「便利」の部類に入ると宣伝されている千歳烏山と千歳船橋を結ぶ便の中で不規則に揺られていた。

 終点の千歳船橋駅前はロータリーというものがなく、バス停を作るのも厄介だ。諏訪の地元である千歳烏山もそうで、バスターミナルは駅から徒歩数分離れたところにある。

 ここ千歳船橋はその徒歩数分離れたターミナルもなく、バス停は小田急線とスラッシュに交差する直線道路上にあるので街のゴミゴミ感は否めない。

 諏訪は駅前のバス停で降り、駅とは逆方向に歩いて数分で目指す介護付き老人ホームに到着した。エントランスで受付票に自分の名前とこれから会う人の名前を記入し、続柄欄には「成年後見人」と記入してエレベーターに乗り込んだ。

 世田谷区は法律上の問題から低層の建物が多く、駅前であってもそれほど高い建物はない。この老人ホームも駅前でバス通りにも面している割には、それほど背は高くはなく、諏訪は三階でエレベーターを降りた。

 すぐに施設の職員が諏訪に気が付いて「こんにちは」と言い、周囲を少し見回してから「リビングルームにいらっしゃいます」と言った。

 諏訪はその職員には特に声を掛けず、右手を軽く挙げただけでリビングルームへと移動した。

 リビングルームには正方形のダイニングテーブルが五つ並べられていて、各テーブルには四脚の椅子が置かれていた。そのうちの一つのテーブルに新聞を大きく広げて読んでいる老人がいたが、人の気配を感じた老人は軽く頭を上げ、老眼鏡をかけたまま上目使いで諏訪を認識すると諏訪と目を合わせてニッコリ微笑んだ。諏訪もニッコリ笑い、右手を上げた。

 老人は立ち上がり新聞を畳んだ。諏訪はテーブルの老人に近寄った。

「おはようございます。いつもすみませんねえ。先生もお忙しいでしょうに」と老人。

「いえいえ。もちろん忙しくないと言ったら嘘になりますけど、これも仕事ですから」と諏訪。

「私のことなんか後回しでいいですよ。どうせ対した報酬をお支払いすることはできないんですから」

 老人がそう言うと、諏訪は「いえいえ」と言いながら老人とは対角に座り、少し遅れて老人が座った。

「土曜日の午前は小宮さんのために時間を取っていますから」と諏訪。

「なんだか先生にはスッカリお世話になってしまって。先生がいなかったら、私の人生、最後は本当に孤独に終わっていたんだろうと思います」と小宮。

「何をおっしゃいます。このホームにはお仲間も職員の方もたくさんいらっしゃるじゃありませんか。ボランティアの方だって」

「それはそうですけど、やはり家族がいないのは寂しいものです。私みたいな年寄りがこれからもどんどん増えていくんでしょうね。無駄に長生きしました」

「まだまだ楽しいことはいっぱいあると思いますよ。…ところで今日は一つ相談というか、お願いというか、お話しさせていただきたいことがあります」

「相談はともかく、先生のお願いであれば、それが私にできることであればなんでもやりますよ。先生は私にとって恩人ですからな」

 小宮はそう言って少し笑った。小宮の笑いが落ち着くのを少し待って、諏訪は続けた。

「ありがとうございます。そんなことおっしゃっていただいて。お話しさせていただきたいのは、残される財産の使い道です」

「ああ、何か有効な使い方が見つかりましたかな?」

 小宮は少し前かがみになった。

「ご賛同いただけるとありがたいのですが。長年、教員を務めていらっしゃった、教育者らしい、小宮さんらしい財産の使い道が見つかりました。先日、私のところにある少年が相談にやって来ました。伊波龍一君という、都立M高校の三年生です」

「M高校というと下高井戸ですかな?」

「ご存知ですか?」

「そこでの勤務はありませんが、何度か行ったことはありますので場所は分かります」

「そうですか。それでその伊波君、もちろん私を訪ねてきたわけですから、当然、お金の相談に来たわけですが、大学に進学したいのだけれども、お金がないというのです。それも将来、医者になりたいと言いまして、医者になるにはもちろん医学部に行かなければならないわけですけど、国公立はともかく、私立の医学部ともなると、六年間で数千万円はかかってしまいますから、普通のサラリーマン家庭でも厳しいです」

「分かります」

「しかも、その伊波少年、母子家庭で、医学部はおろか、大学進学に必要な資金がそもそもなく、塾や予備校に通うお金もないというのです」

「その少年に同情したというわけですな?」

「そうですね。そうなのですが、小宮さんは私がなぜ、そんな初対面の少年のためにそこまでするのかを疑問に思われるかもしれませんが、実はまったくの他人というわけでもなく、私の妻の知人の娘さんの小さい頃からのお友達だそうで、その紹介で僕のところにやってきたみたいなんです」

「なるほど」

「だから、とても他人事とは思えませんで、それで、何か方法はないかなあと思っていたところ、小宮さんのことが頭に浮かんだんです。小宮さんも、自分の残していくものが誰かの役に立つというのであれば、願ったり叶ったりなのではないですか?」

 諏訪がそこまで言うと小宮は黙った。そのうち施設の職員がお茶を持ってきて二人の目の前に置いた。諏訪は職員に礼を言って、お茶を一啜りすると、小宮の方を見た。

 小宮はしばらく考えるようなそぶりを見せていたが、そのうち諏訪に鋭い目を向けた。

「一億もあれば足りますかな?」

 小宮から笑顔が消え、その真剣なまなざしに諏訪はビクッとした。諏訪はビクッとした理由が一瞬、分からなかったが、普段、財産管理の全権を諏訪に任せていて、一体、いくら持っているのかすら興味がないように見える小宮が一億円以上の財産を持っていることを言い当てたからだと理解した。この老人は何にも関心がないような振りをしていて、実はすべてを理解しているのではないかと思った。諏訪は少し間を置き、気持ちを落ち着かせた。

「…学費と、もし、下宿するのであれば下宿費や生活費も必要になるかと思いますが、それだけあれば十分だと思います」

「私が、今、一体いくら持っているのか、正直、正確なところは分かりませんけど、基本的に財産の管理はすべて先生にお任せしているんですから、先生が、これがいいと思うやり方でいいですよ。どうせ私には使い道のないお金ですから」

「ありがとうございます。もし、よろしければ、例えば、養子縁組をするとかでもいいかと思いますがいかがでしょう?」

「それは相続税対策とかですか?」

「いいえ。結果的にはそうなりますけど、このままですと、小宮さんは私が看取るとしても、その先、何もなくなってしまうじゃないですか。養子縁組をしておけば、子どもということになるわけですから、お墓参りをしてもらうことだってできるんですよ。何もただで、一億円もの奨学金を与えることはありません。この際ですから、もし小宮さんが何か、この世に残しておきたいものがあるというのであれば、我ままを言ってもいいと思いますけど」

 諏訪がそう言うと、小宮はまた少し考えた。

「……諏訪先生。お言葉はありがたいですけど、私はもうこの世に未練はありませんし、誰にも迷惑はかけたくない。お墓を建てたら誰かが管理しないといけないですからやはり誰かに迷惑をかけてしまう。立つ鳥跡を濁さずですよ。骨は散骨するか、宇宙にでも持って行ってください」

「…分かりました。そのうち、公証人の方も呼んで、正式に遺言状は作成しましょう」

 諏訪が言うと小宮老人は静かにお茶を啜った。

 

 同じ日の昼前、代沢のアパートのダイニングで龍一はゲームに夢中になっている。

 不意に壁の向こうから携帯電話の着信音が鳴り響く。龍一は画面に集中しようとするが着信音は中々鳴りやまない。穂香の携帯の着信音は穂香が自ら歌っているアニメの主題歌で、その歌は龍一も大好きなため気が散らされる。龍一はイライラした。

 そのうちに着信音が鳴りやんだかと思うと、今度は引き戸が開いて穂香が現れ「おはよう」と地声で言った。手にはスマホが握られている。すっぴんで髪の毛はボサボサだったが、それでもなお実年齢よりもかなり若く見える。これでメイクを施せば、制服だって無理なく着られてしまうだろう。時計はそろそろ正午を迎える。

「おはよう。まだ寝てればいいのに。昨日も夜、遅かったんだろ?俺が起きてるうちには帰ってこなかったし」と画面から視線を動かさずに龍一。

「でも起きなきゃ。アキバでイベントがあるの。起きられないとは思ってたので、今、頼んでたモーニングコールが来た」と穂香。

「モーニングコールか。それにしてもよく起きられたね」

「好きでやってることだからね。何か食べるものあるかな?」

「さあ?食パンがまだあると思うけど、でもつけるものはないんじゃないかな。ママの口には合わないかもね」

 龍一がそう言うと今度は龍一のスマホが鳴った。ゲームのコントローラーを持ったまま液晶を見ると「諏訪幸治」と表示されている。ビックリした龍一はゲームがいい局面だったがコントローラーを放り出し、慌てて携帯に出た。

「もしもし」

「諏訪です。伊波君の携帯だね?」

 電話の向こうから諏訪の落ち着いた声が聞こえた。

「はい。先日はありがとうございました」

「今、いいかな?」

「はい。自宅ですので、大丈夫です」

「こないだ言ってたあしながおじさんの話なんだけど、今日、会って話をしてきたよ。まあ、僕は彼の成年後見人をやっていて、基本、彼は自分の財産の管理を完全に僕に任せているから僕の提案は否定しないと思っていたけど、二つ返事でオーケーをもらったよ」

「どっ、どういうことですか?」

「つまり、彼は君のあしながおじさんになるということさ。まあ、話がうま過ぎるからにわかには信じられないだろうけど、これで君は来春からどこかの大学の医学生になるということがほぼ決定したということだ。詳しい話は電話じゃなんだから今度、会ったときに直接話そう。君もそのあしながおじさんに会っておいた方がいいかもしれないし。それで、このことはもうお母さんには話しているよね?」

「えっ、母にですか?」

「こないだ、帰り際に報告するとか言ってたと思うけど」

「はあ」

「ではミッションが成功したとお母さんにも伝えといてね。君は未成年だからこれから色々と書類を作ったりしないといけないけど、お母さんにサインしてもらう場面も少なくないはずだ。もし、君に説明が難しい部分があるなら僕が説明してもいいから。とにかく、お母さんの耳にも入れといてね。じゃあ、また連絡します」

 そう言って電話は一方的に切れた。龍一はしばらく呆然とした。もちろんこの話を穂香にはまだしていない。

 そのうち誰かの視線を感じたので視線の方向を見ると穂香と目が合った。

「誰?」

 穂香は引き戸の脇に立ったまま地声で言った。

「ああ。…その、諏訪さんっていうファイナンシャルプランナーの人だよ」

 龍一はそう言って財布を引き寄せ、中から諏訪の名刺を取り出して穂香に渡した。

「誰なの?この人」

「だから、その名刺に書いてあるとおり、ファイナンシャルプランナーだよ」

「さっきの電話、あたしの話も出てたみたいだけど」

「ああ。お母さんにも話しておくようにって言われたよ」

「何の話?」

「まあ、隠すことでもないし、隠せることでもないから。その代わり、真剣に聴いてね」

 龍一は「真剣に」のところに力を入れて、眼差しにも力を入れて言った。

「う、うん」

 穂香は一瞬、たじろいだ。

「じゃあ、座ってよ」

 龍一がそう言うと穂香はダイニングテーブルに座り、龍一もゲーム機をシャットダウンさせて対面に座った。

「こないだ、三者面談の時、学費のことを先生に言われたよね?」

「うん」

「それで、どうしようかなって思ってたら、ちょうどゆっぴいにこの人を紹介されたんだよ」

 龍一は穂香が手に持っている名刺を指さして言った。

「ゆっぴいに?」

「そう。なんでもゆっぴいのパパのお知り合いの旦那さんなんだって。この人」

「うん」

「で、その名刺にも書いてあるけど、この人、ファイナンシャルプランナーで、辛口財産診断所って屋号にもあるとおり、お金の相談に乗ってくれるんで、学費をどうしたらいいのか相談しに行ったんだよ。医学部に行きたいんだけどって」

「随分、無茶な相談したね」

「ダメ元だったからね。そしたら、その諏訪さんが言うには、世の中うまくできていて、お金の使い道がなくて困っている人もいるから、あしながおじさんを探してくるって言うんだよ」

「あしながおじさんって『キャンディキャンディ』みたいな?」

「まあ、そんなもんだね。貧乏学生のスポンサーってとこかな」

「じゃあ、りゅうちゃん、養子に行っちゃうの?」

「さあ、そこはまだ分からないけど。とにかく、スポンサーは見つかったらしいんだよ。今の電話はその連絡で、俺はまだ未成年だから親が書かなきゃいけない書類とかも出てくるだろうから、それでママのことも出てきたのさ」

「……話、うま過ぎない?」

 しばらく沈黙の後、穂香が相変わらずの地声で言った。

「…うま過ぎるとは思うけど、ゆっぴいの紹介だし、それに、他に方法はないじゃん。ママはあてにならないし」

 龍一が言うと、穂香は少しシュンとなった。

「そうだよね。あたしじゃ全然、頼りにならないもんね」

 そう言うわれてしまうと龍一はもう何も言えない。本当は言い返してほしいのだ。そして喧嘩して、本気でぶつかり合いたい。

「…でもりゅうちゃんのことは心配だから、…この人のこと、ちょっと調べさせてね」

 穂香は、今度は母親キャラのボイスでそう言うと右手で持ったスマホで、左手で持った名刺を撮影した。シャッター音が鳴り響いた。何をどう調べるのか、龍一には分からなかった。

 

 週が明けた月曜日の午前九時前の千歳烏山駅前の雑居ビルの中。諏訪は自分の事務所に現れ、毎朝、必ずそうするようにコーヒーメーカーでコーヒーを沸かした。

 事務所といってもそれは狭く、ワンルーム程度の大きさしかない。他に従業員はおらず、諏訪が一人で切り回している。別にここの事務所がなくてもパソコンと携帯を持ち出せばどこででも仕事はできる。この事務所はある意味、倉庫のようになっていた。

 椅子に腰掛け、新聞を読み始めると呼び鈴が鳴った。インターフォンのモニターを覗くと、液晶には年齢不詳のソバージュが立っていた。強盗ではなさそうなのでインターフォンには出ないで、直接、入り口のガラスドアを少し開け、顔だけを覗かせた。

「はい」

 諏訪がそう言うと、目の前のソバージュは深々と頭を下げた。

「おはようございます。いきなり、何のアポもとらずにやってきて申し訳ありません。あたし、伊波龍一の母親の伊波穂香と申します。息子がお世話になっています」

 穂香は地声ではなく、母親キャラの声色でそう言うともう一度、深々と頭を下げた。諏訪は母親と名乗るその人物のあまりの若作りにしばらく固まった。

「…ああ、お母さんでしたか。あまりにもお若いんでビックリしました。まあ、アポくらいは取ってほしかったけど、まあ、いいですよ。今朝は特に予定は入ってませんで、身辺整理をしようと思っていたくらいですから。どうぞ」

 諏訪はそう言うと穂香を事務所の中に招き入れ、応接セット代わりに使っているダイニングテーブルの四つある椅子の一脚に座らせて、自分はその対面に座った。

「随分と早いですね?まだ九時前なのに」と諏訪。

「実は、外でこの部屋の電気がつくのを見張ってました」と穂香。

「そうでしたか。龍一君から話をお聞きになったんですね?」

「はい」

「それで話があまりにもうま過ぎるんで心配になった。事前にアポを取ると準備されてしまうのでいきなり来た。そんなところですか?」

 諏訪は穂香の緊張をときほぐすように、少しいたずらっぽく言った。

「…そうですね。でも、それは母親としてはあたり前だと思います。それはどうか理解してください。もっともあたしは、…こんなんで、母親を名乗る資格なんてないのかもしれませんけど。母親らしいことは何もしてやれていませんから。それでもやはり一人息子。心配ですから」

「何が心配ですか?…まあ、全部が心配なのかもしれませんけど、僕はその一つ一つを解決していきたいので、ご質問いただければ説明しますよ」

「その、…うまい話には裏があるわけでして、詐欺か何かに巻き込まれていないかと…」

 穂香が言うのを聞いて諏訪は少し笑った。

「詐欺ですか?何かだまし取られると困るような財産でもあるんですか?学費も払えないって聞いてますけど」

「そうですけど、その…臓器とか…。学費は出すけど、その見返りに臓器を提供しろとか言われたりするかもしれないのかと…」

「なるほどね。でも、これは本当にたまたまなのです。たまたま龍一君が学費のことで僕のところに相談に来た。僕はお金の使い道がなくて困っている老人を知っていた。その二人が結びついただけです」

「色々と教えていただきたいんですけど」

「どうぞ」

「その、お金を出して下さる資産家の方。その方はどうしてそんなにも諏訪さんのことを信頼しているんですか?普通、本人にも会わないでオーケーってあり得ないと思いますけど」

「なるほどね。資産家かどうかはともかくとして、その人、…小宮雄二さんっていうんですけど、別に大金持ちってわけではなく、元々は教員でした。だから、億単位の財産は持っているけれども、上場会社の創業社長とかいうわけじゃない。言ってみれば小金持ちといった程度の方です。で、小宮老人と知り合ったのは、僕の母親、…もう故人となってしまって、この世にはいないんですけど、その僕の母親が今、小宮老人が住んでいる介護付き老人ホームにいたんですね。そういう関係で知り合いにはなったけれども、小宮老人が僕を成年後見人に指名するくらい、僕のことを信頼するようになったのはちょっとした事件があったからです」

「事件?」

「まあ、事件というのも大袈裟ですが、ちょっとした出来事です。小宮老人と僕の母はフロアが一緒で、僕は毎週、母のところに顔を出していましたから、必然的に小宮老人とは顔見知りになりました。まあ、あいさつを交わす程度です。事件というのは、何年前か正確には忘れましたが、小宮老人のところに営業の人が二人来ていて、投資話をしていたんですね。それを偶然、僕が立ち聞きしてしまったんです。内容はとてもリスクの高いものでした。それで、営業の人が帰ってから、名刺を渡して、小宮老人に助言したんです。小宮老人はすっかり投資話に騙されていましたから僕の言うことなんか聞く耳を持ちません。それで僕はこれとこれの二つを営業の人に質問してみるように勧めたんです。その日のうちに紙にまとめて渡しました。それから一週間後、また小宮老人に会ったのですが、僕の質問を営業の人にぶつけたそうで、営業の人は何も言えなくなってしまって、青くなって帰ってしまい、連絡も寄こさなくなったって言ってました。それで、僕は彼の財産を守ったヒーロー、恩人ということになり、それから色々とマネーの相談を受けるようになり、僕も真摯にアドバイスしました。そういう時間が流れていって、僕は小宮老人の信頼を得ることになり、成年後見人にも指名されたってわけです」

「それにしたって、見たこともない一少年に億単位のお金をいきなり出すなんて信じられません」

「小宮老人は認知症が進んできているんです。だから、まあ、普通の人のような意思決定はできないと思ってください。それで、僕が彼の代わりに意思決定するんですけど、別に彼の意思に背く決定をするわけじゃない。彼は、残していくお金はあの世まで持っては行かれないし、世の中の役に立つように使いたいと言っていますから。彼が小金持ちになれたのもいわば偶然が重なった結果です。子どもはいなかった。奥さんも同業者だったけど、退職してすぐに亡くなられて、退職金とかそれまでの貯金がそのまま彼のものになった。昭和四十八年、狂乱物価の始まる前に買った北沢の一等地をバブル崩壊の直前に売りに出した。お金のかかる趣味を持たなかった。そういうことの積み重ねです」

「諏訪さんはどうして龍一のためにそこまでやってくださるんですか?別に龍一でなくても使い道はいくらでもあるでしょうに」

「それは、龍一君から聞いていませんか?蓬田百合花さんの紹介だからですよ」

「それは聞いてますけど」

「まあ、別に僕に百合花さんに思い入れがあるわけではなくて、思い入れがあるのは百合花さんのお父さんの方なんですけどね。これで少しはご納得いただけましたか?息子さんはシンデレラボーイになったということです」

「なんだかキツネにつままれたような感じですけど。実感がないです」

「実は、僕もお母さんとはお話ししたいと思っていたので来ていただいてちょうど良かったです」

「穂香です」

「えっ?」

「あたしの名前。それにあたし、諏訪さんのお母さんじゃありません」

「……そうですか。失礼しました。随分と面倒臭く生きているんですね?」

「そうかもしれません。でも、いいじゃないですか」

「分かりました。じゃあ穂香さん」

「呼び捨てでいいですよ。あるいは『ちゃん』づけでも」

 諏訪の話に少し安心した穂香は声色を癒し系にチェンジし、いたずらっぽく言った。

「いきなり電波ですか?」

「お~、諏訪さん。電波だなんて。結構、話が分かる人かもしれませんね」

「クライアントに合わせているだけです。クライアントに合わせるのが僕の仕事ですから。それで、穂香さん。母子家庭と聞いているんですけど、今は独身ですね?」

「ええ」

「龍一君のお父さんはどういう人なんですか?」

「父親はいません。無精生殖です。無精生殖で龍一は産まれたんです」

「また電波ですか?もしお父さんがいるなら、お父さんに龍一君の学費を出させるということも考えたんですけどね」

「父親のことは考えないでください。それで?」

「スミマセン。余計なことを言いました。それで、話を元に戻しますと、穂香さん、今、独身ということは戸籍の配偶者の欄は空いているということですよね?」

「ええ、もちろん」

「では、小宮老人と結婚なさるというのはいかがでしょうか?」

「はあ!」

 ビックリした穂香は思わず地声で叫んだ。

「まあ、難しく考えなくて結構です。結婚という言葉を使いましたけど、つまるところ戸籍を使うという認識で結構です。別に小宮老人と契りを結ぶ必要はないし、一緒に住む必要もない。彼は介護付き老人ホームに住んでいますから。会う必要すらないかもしれない。必要なのは戸籍上、小宮老人と穂香さんが配偶者という関係になるということです」

「なんでまたそんなことを。それこそ電波ですね」

「要は税金対策です。龍一君に一億円くらいが贈与されるとして、贈与税は半端ないものになってしまいます。これを和らげる方法、それがまさに小宮老人と穂香さんの結婚なんです。小宮老人には推定相続人がいません。ですからあなたが今、配偶者になればあなただけが唯一の相続人になります。それで相当の節税になる」

「……」

「どうしました?」

「そんなこと、…無理です…」

「さっき、穂香さんは、母親らしいことは何もしてやれていないっておっしゃいましたよね?龍一君も同じようなことを言っていました。声優業に忙しくてまるで頼りにならないって。もう、彼も十八歳でそろそろあなたの手を離れていく。最後に逆転ですよ。彼のためだと思って」

「でも、…」

「ですから、そんなに難しく考えることはありません。電波少女らしくないですよ。もっと気楽に考えてください。所詮、戸籍が汚れるだけです。戸籍なんて電波少女のあなたからしてみれば何の意味もないじゃありませんか。…ちょっと話が急展開過ぎましたか?コーヒーでも飲みます?」

 そう言って諏訪はコーヒーを入れるために立ち上がった。

 



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六 北沢警察署生活安全課

 一週間後の北澤八幡神社前の公園のブランコで龍一と百合花は揺られていた。正式には区立北沢八幡児童遊園と呼称されるその公園では日が西に傾きかけている。

 彼岸から一ヶ月以上が過ぎ、日もだいぶ長くなった。それでいて酷暑はまだまだ先のことで気持ちの良い季節を迎えている。

 学校帰りの二人はまだ制服のままだ。

「で、どうするの?りゅうママ」と百合花。

「さあね」と龍一。

「あんまり話さないんだ?」

「ここのところあんまり顔合わせてないからね。忙しいのは確かにそのとおりなんだろうとは思う。今度の仕事、主役級っていうか、ほぼ主役だからね。でも何だか、仕事が忙しいことこれ幸いと、俺と距離取ってるような気もするんだよね」

「でもそんなことって前にもあったんじゃないの?」

「そうだけど、今回はなんか違うんだよね。俺に無断で諏訪さんに会いに行ったことに後ろめたさがあるようだし。後ろめたいなんてママにしちゃホント、珍しい現象だけどね」

「そうだね。珍しい」

「胡散臭いということで単身、諏訪さんの事務所に乗り込んでいったのはいいけど、でも、結果的には諏訪さんに説得されたというか、信じ込まされたというか、スッカリ諏訪さんのファンになっちゃったもんね」

「それはりゅうちゃんも同じでしょ?」

「そうかな。もし諏訪さんが本物の詐欺師ならすごいなあと思うよ。短時間であれだけ人を引き付けるんだから」

「で、本物の詐欺師っぽいの?」

「それはママもマジで心配してて、知り合いの人に頼んでFP協会とか、それと諏訪さんは税理士の免許も持っていて、登録もしてるから税理士会とか、知り合いの税理士とか、色んなツテで調べたんだけど、悪い話は一切出てこなかった。地元の烏山でも結構、有名な人で、自治会とか商店街とか色んなところの役員とか世話役とかやってる人だったよ」

「へー。じゃあやっぱり、いい話だったんだ」

「でも分からないのはゆっぴいとの距離だよね?」

「そうだね。結局、思い当ることは何もない」

「でも、一度会ったっていうのも案外、嘘ではないのかもしれないよ。ゆっぴいが覚えてないだけで」

「そうかなあ」

「そうだよ。美人のことは結構、覚えてるもんだよ」

「珍しいね。りゅうちゃんがそんなこと言うなんて」

 百合花は少しはにかんだ。

「まあ、俺にとってはゆっぴいは目の前のあたり前の存在過ぎるけど、男の好みの世間相場ってそういうもんなんでしょ?うちのクラスでも、男子で、まあ女子もだけど、ゆっぴいのこと知らない人はいないよ」

「ありがとう。そんなこと言ってくれて。で、話戻すけど、私と諏訪さんの関係は、本当のところはりゅうママも知らないわけだから、りゅうママすっかり諏訪さんのファンになったっていうのならそのまんま諏訪さんの話に乗ればいいのに。私の話とはもはや別の話になったんだし。何か、いつになくりゅうママ分かりにくいよね?」

「ただ、一つ確実に言えるのは、ママがすごく悩んでいるということ。それは分かる。あんなの今まで見たことなかったからな。今まではさ、ゆっぴいはよく分かると思うけど、うちのママって行動してから考えるタイプでしょ?」

「行動するだけで考えもしてないかもね」

「そうかもね。とにかく感情のままにというか、場当たり的というのか、思いついたことを考えもしないで行動する。それなのに今回はさ、ただ、イエスかノーかだけなのに迷ってんだよね。初めて見るよ。あんな姿。いっつも一瞬の判断で行動して、それでいて後悔なんか絶対にしてこなかったのに。イエスといえば莫大、…とまではいかないのかもしれないけど、これまで見たこともなかったような億単位のお金が手に入る。ただ、イエスって言えばいいだけで、後は全部諏訪さんが手配してくれる。面倒臭いことは何もない。それなのに今回は悩んでる」

「りゅうちゃんはどうなの?」

「どうなのって?」

「りゅうちゃんの気持ち。りゅうママの結婚には賛成?…それとも反対?」

「賛成も反対もないよ。てか、そういうレベルの話じゃないと思うけど。だって、ただの紙の上での話でしょ。籍を入れるか入れないのかっていう。一緒に住むわけじゃないんだし、俺の父親になるわけでもない。…そりゃあ、ママとその小宮さんが本当に結婚するっていうのなら、つまりその、一緒に住んで、夫婦生活始めるっていうなら反対すると思うけど」

「反対?」

「うん」

「何で?」

「何でって、そう言われると気持ちの問題だから説明は難しいけど、…でも、きっとママを他の人に取られたくないんだと思う」

「おお、マザコンだねえ」

 百合花は少し茶化した口調で言った。

「それは仕方ないよ。産まれてから今まで、ずっとママとやってきたんだから。ゆっぴいだって人のこと言えないだろ?ゆっぴいだって俺の立場だったら同じこと思うんじゃないの?そうでなくったって諏訪さんの奥さんにパパを取られて悔しい思いしてるんじゃないの?」

 少し怒った口調で龍一に言われて百合花はハッとなった。龍一の問題と、他人事と思っていたが、きっかけは自分なのだ。百合花は黙った。

「…ゴメン。嫌なこと思い出させちゃったかな?」

 そんな百合花を見て龍一が優しく言った。

「…ううん。私の方こそごめんなさい。…本当は私の問題だったのに、りゅうちゃんをトラブルに巻き込んじゃって」

「確かにトラブルではあるけど、…でもゆっぴいには感謝もしてるよ。絶対に無理だと思っていた夢が実現に向けて歩き出したんだからさ」

「夢が実現ねえ」

「そりゃそうだよ。ほんの一月前までは本当に夢だった。実際に、医学部に行って医者になる自分を夢想していたんだよ。夢想だけじゃない。漫画も描いてたかな。貧乏少年が医者になっていくサクセスストーリー。でも、それは所詮、フィクションだった。でも、それが急に現実味を帯びてきて…」

 龍一がそう言うと百合花の携帯が鳴った。メールを着信したようで、百合花は地面に無造作に置かれた鞄から携帯を取り出し、操作して「パパからだ」と言った。

「どした?」と龍一。

「実は今日、これからパパとおデイトの約束なんだ」と携帯を操作しながら百合花。

「へ~、めずらしいね。パパとデートだなんて」

「随分といいお店に連れて行ってくれるみたいなんだけど、それはエサ。本当は色々と文句を言いたいんだと思う」

「文句って、受験生なのにまだバスケやってることとか?」

「こないだ受けた模試の結果が返ってきたの。それで、パパは私に断りもなく勝手にそれを開封したの」

「ああ、何か受けてたね。どうだった?」

 百合花は携帯を持っていない方の手でもう一度鞄の中をまさぐり、一枚の紙を取り出して龍一に渡した。龍一がその紙を広げてみると模擬試験の成績表だった。

「とてもパパの満足する結果じゃない。偏差値はどれも五十に達しなかったよ。そりゃそうだよね。バスケしてるか、りゅうちゃんの家で遊んでるかのどっちかだったもんね。数学なんて偏差値三十台でさ、パパには三十台の偏差値なんて産まれて初めて見たって言われたよ」

 成績表の第一志望の欄にはK大医学部が記載されていて、合格可能性の欄はアスタリスクで潰されていた。

「ゆっぴいはそのまま上の大学に上がるんじゃないの?」

 百合花はそれには答えず、ブランコを降りた。

「パパ、もう帰宅してスタンバってるんだって。で、アンゴラ大使館の前で私をピックアップすることになった」

 そう言うと百合花は地面に置いた鞄を持ち上げ、肩に担いで東に向かって歩き出し、龍一もブランコを降りて、模擬試験の成績表を手に持ったまま後を追った。

「はい」と龍一は前を早足で歩く百合花に成績表を差し出した。

「りゅうちゃんにあげるよ。そんなの私はもう要らないから」と百合花。

「ゆっぴいも大変だね。親の期待に応えないといけないなんて。俺なんか最初っから期待されてないから」

「りゅうちゃんが今、置かれている状況に比べれば私の抱えている問題なんて大したことないんじゃないのかな。受験も不倫も、どこの家庭でもよくあることだからね。偽装結婚はさすがにどこの家庭でもある話じゃないよね。りゅうちゃん、貴重な経験できそうだね。漫画のネタにできるんじゃない?」

「受験はともかく不倫はそうそうないんじゃないの?」

「ああ、そうとも言えるか。でも、まあこれは自分の問題だからね。受験も不倫も。だから自分で解決するよ。まあ、本音を言えばりゅうちゃんにもっと頼りたいところだけど、そうもいかないよね?りゅうちゃん、自分のことでもっと大変そうだし」

「まあ、そうかもね」

 二人が並んでそのままアンゴラ大使館の前まで行くと、大使館の前には、国産ではあるが最高級の部類に入るクルマがハザートをつけて停まっていた。

 百合花は「じゃあ」と言って龍一に手を振り、百合花は最高級車の後部座席乗り込んだ。

 龍一は手を振ってそのクルマが坂を登っていくのを見送った。

 

 百合花は後部座席で黙っていた。

 パパは運転に集中していた。

 世田谷区内の路地は迷路の様であり、たとえカーナビゲーションシステムが搭載されていたとしても運転には神経の集中が求められる。パパは「ちーっ、一通か」とか叫びながら、左折や右折を繰り返した。

「やれやれ、やっと迷路を脱出したよ」

 パパがそう言ってルームミラーに映る後部座席の百合花と目を合わせたのは環七に入ってからだった。クルマは世田谷区東部を北上した。

「どこに行くの?」と百合花。

「西新宿の超高層ホテルの最上階の夜景の綺麗なレストランだ」とパパ。

「その辺のファミレスで良かったのに」

「お前の大切な進路の話をするんだ。個室の方がいいだろ?」

「……」

 昔はパパのことを格好いいと思っていた頃もあった。一緒に風呂に入ったり、一緒の布団で寝たりもした。今は金にモノを言わせるだけの嫌なおやじにしか見えない。今日の食事も気が進むものではない。ただ、より面倒にならないために付き合っているだけだ。

「相変わらずりゅうちゃんなんだな?」

「えっ?」

「お前も思春期で、少しは遊ぶ相手も変わるかと思ってたけど」

「付き合い長いしね。それに双子みたいに育てられたし」

「…昔、パパがまだ今のお前よりも少し若い頃、松本零士って漫画家が流行ってな。親からは漫画は禁止されてたんだけど、友達の家で読んだりした」

「松本零士なら知ってるよ。りゅうちゃんの家で読んだことがある」

「そうか。その、彼の作品には大抵、背の高い、髪の長い美女と背の低い、さえない少年がコンビで出てきてね、なんだか今のお前とりゅうちゃんがそんな感じかなって感じるときがある」

「……」

「…別にりゅうちゃんのことをバカにするつもりはないんだ。彼のお蔭で助かっている部分もあるからな。少なくともお前に変な虫がつかなくて済んでいるのは彼のお蔭なんだから。まあ、さしずめボディーガードってとこかな」

 パパは自分が気の利いたことを言っていると思っているようで悦に入り、しばらく沈黙の時間があってから続けた。クルマは井の頭通りとクロスする大原二丁目の交差点を通過し、その先の甲州街道とクロスする大原交差点の手前の渋滞に差し掛かった。環七と甲州街道では国道である甲州街道の方が勝つのでオーバー立体はない。

「なあ百合花」

「ん?」

 パパへの興味を失っているリアシートの百合花は気のない返事をした。

「部活はまだ引退しないのか?」

「引退って、三年生になったばっかりだよ。これからインターハイだっていうのに」

「でも、受験勉強を優先するために引退する子もいるだろ?」

「都立ならいるかもしれないけど、うちは上にエスカレーターで上がる子がほとんどだし。それにキャプテンが今、辞めちゃうわけにはいかないよ」

「そうか。受験勉強はしばらくお預けってわけだな?」

「その代わり、授業はちゃんと聴いてるし、居眠りとかしてないし、ノートもちゃんと取ってるし、定期テストではいい点取る自信はあるよ」

「どんなに定期テストを頑張っても受験には役には立たないよ。内部推薦で上の大学に行くというのなら話は別だろうけど。むしろお前には高校での勉強は卒業するための必要悪で、授業中は居眠りしててもいいから、塾でもっと偏差値を上げることを考えてほしいね」

「……」

 パパと百合花は見ている風景が違う。話は最初からかみ合わない。

「…別に浪人してもいいんだぞ。今の実力じゃK大は無理だろうし、来年の受験には間に合わないだろうけど、一年じっくり、専門の予備校でも通って勉強すれば可能性は出て来るんじゃないかな?」

「浪人する気はないよ。そこまでしてK大に入りたいとは思わないし、浪人して入れるとも思ってない」

「パパはそこまでして入ってほしいと思ってるんだけどね」

「どうして?って、その理由はさんざん聞いたよね」

「自分の果たせなかった夢を子どもに託すのは親の特権だ」

「それってただのエゴだと思うけど」

「……お前も反抗期に入ったってことか」

 パパは怒鳴りもせず、冷静に対処した。娘というよりも患者と接している医者のようだ。

「反抗期ならとっくに入ってるよ。私、医者にはなりたくない」

「じゃあどうするっていうんだ。医者の子どもが医者にならなくてどうする?」

「私声優になりたい。りゅうママみたいに」

「何言ってるんだ。…食うに困るだけだろ。誰かに食わせてもらうのか?」

「確かにりゅうちゃんの家はうちよりも裕福ではないかもしれない。でもとっても幸せに見える」

「それはただの隣の芝生じゃないのかな?よく考えろ。いや、よく考えるまでもない。りゅうちゃんのママは業界でもトップクラスだ。それはお前だって理解しているだろう。それでもあのレベルの生活なんだ。それに引き換えうちはどこにでもある医者の家庭だ。パパの精神科医としてのレベルは世間の平均以下かもしれない。それでこのレベルの生活だ。もっと現実を直視しろよ」

「少しは夢を見させてよ。まだ高校生なんだよ。私」

「もちろん夢を見るのは構わないけど、見るならノーベル賞受賞とか、もっと現実的な夢を見ろよ」

「私、医者にはならない。声優になる。いつまでもパパの敷いたレールの上は走らない」

「医学部には行かないっていうのか?」

「医学部には行ってもいいよ。ママもそれを望むだろうしね。でも医者にはならない。別に医学部出たからって医者にならなきゃいけない義務はないよね。格好いいだろうなあ。医学部出身の医師免許を持つ声優」

「そんなのただの宝の持ち腐れじゃないか」

「……ママとは何か話しているの?私の進路について」

「ママもお前が医学部に行くことは承知している。ただ、ママはそのままN大でもいいと思っているようだ」

「ママもそんなこと言ってる。それは分かってるの。私が知りたいのはパパとママが私の進路についてどう話し合ってるのかってこと」

「特に話し合っていることはない」

「ねえ、どうしてもっと夫婦で話さないの?昔はそんなんじゃなかったじゃない」

「お前には関係ない。ってか、お前ももうその歳なんだから分かるだろ?」

 それを聞いて百合花の中の何かが壊れた。

「ゴメン。パパとはご飯食べる気にならない。私降りるね」

「無理だ。もうキャンセルはできないよ」

「じゃあ、諏訪栞さんでも誘ったらいいでしょ。ついでにそのままそのホテルにお泊りしてくれば。私が何にも知らないとでも思ってるの?バカにしないで」

 百合花はそう言うとリアドアのロックを外し、センター寄りのレーンを走っていたにも関わらず、渋滞で止まっていたことをいいことにドアを開けて外に出た。歩道寄りのクルマの間をすり抜け、後ろは振り返らなかった。

 

 百合花は環七を来た方向に向かって走り、京王線のガードをくぐったところで右に曲がった。

 そのまま道なりに進み、踏切を渡り、随分と遠回りして代田橋の駅の中に入った。下り線のホームに着くと鞄からスマホを取り出した。

 カバーを開いて龍一にメールしようとして少しためらった。自分の問題は自分で解決するとさっき言ったばかりであることを思い出したのだ。

 どうしようかと逡巡していると、いきなりスマホがメールを受信した。

 パパからだった。

「何を知っているっていうんだ?」

 それだけだった。百合花は「諏訪栞さんとの肉体関係」とだけ打ち返し、スマホの電源を切った。

 電源を切るとスマホと携帯カバーの間に一枚の小さな紙切れが挟まれていることに気が付いた。引っ張り出してみると先日会った生活安全課の刑事の名刺だった。

 百合花はその刑事が相談に乗ると言っていたことを思い出し、何本か通過電車を見送った後に来た各駅停車に乗り、一つ先の明大前で井の頭線に乗り換えて、さらに一駅乗って東松原で降りた。

 目指す北沢警察署がどこにあるのか、百合花は正確には知らない。ただ、梅丘中学校の隣だったと記憶している。梅丘中学校はバスケットボールの名門であり、百合花も中学時代、何度か足を運んだことがある。

 東松原の駅を出ると坂を下り、やはり迷路の様な路地を左に行ったり右に行ったりしながら税務署のような建物の前を過ぎると梅丘中学校が見えてきた。校舎にはバスケットボールで全国ベストエイトになったことを自慢する垂れ幕が掲げてあった。

 そしてその隣に目指す北沢警察署の立派な建物が見えた。上の階はレジデンスのようであり、きっと警察署と独身寮が合体しているのだろうと百合花は思った。

 正面玄関から中に入り、キョロキョロしていると若い婦人警官に「何かご用ですか?」と丁寧に聞かれた。

「スミマセン。このお巡りさんに会いたいんですけど。…その、…以前、補導されそうになったことがありまして」

 百合花は婦人警官に名刺を差し出しながら言った。

「鈴木警部補ですね。ちょっとお待ちください」

 婦人警官はすべてを理解したようにそう言うと百合花を一人玄関ロビーに残し、階段を昇っていった。

 百合花がしばらく待っているとその階段から頭の薄くなった、スーツ姿に眼鏡の男が降りてきて少しキョロキョロし、百合花と目を合わせると百合花に近付いてきて「私のことを呼びましたか?」と言った。胸には「鈴木」という名札が張り付いている。

「いいえ。私は生活安全課の鈴木さんっていうお巡りさんをお呼びしたんですけど」

 百合花は硬い表情で首を振りそう言った。

「生活安全課の鈴木は私しかいませんけど。ああ、これこれ。これ私の名刺です」

 初老の刑事が百合花の右手の名刺を見てそう言った瞬間、百合花はすべてを理解した。

「ごめんなさい。人違いでした。失礼します」

 百合花は初老の刑事に深々と頭を下げてそう言うと慌てて警察署を飛び出し、元来た道を走った。

 五分くらいで東松原の駅に到着すると、息を切らしながらスマホを取り出し、再び電源を入れてからLINEを起動させメッセージを打った。目の前を渋谷行きの急行電車が通過する。

 

ゆっぴい【今おうちだよね?】

 

 既読が中々つかなくて百合花はイライラした。そのうち各駅停車がやって来たので乗り込むとやっと既読がつき、すぐに返信が来た。

 

                       りゅうちゃん【そうだけど】

 

ゆっぴい【今からそっちに行く】

ゆっぴい【スケッチブック出しといて】

ゆっぴい【あと鉛筆も】

ゆっぴい【描いてもらいたい絵があるの】

 

                       りゅうちゃん【パパとのデートは?】

 

ゆっぴい【喧嘩した】

 

                       りゅうちゃん【今どこ?】

 

ゆっぴい【イノヘッドで新代田通過】

 

                       りゅうちゃん【りょ】

 

 スマホをしまい、百合花はその大きな目を閉じた。自分のバカさ加減に腹が立った。

 

 約十分後、百合花は龍一の家のダイニングに駆け込んだ。息を切らしている。龍一はダイニングテーブルに一人腰掛け、膝にスケッチブックを抱えて百合花の到着を待っていた。テーブルの上には缶コーヒーが二つ置いてある。

「随分と慌ててるようだね。まあ座って落ち着いてよ」と龍一。

 百合花は黙ったまま龍一の対面に座った。龍一が続けた。

「この缶コーヒーはジョージアという名前なんだけど、何でジョージアって名前なのか知ってる?」

「…何で今、そんなこと聞くの?」

 息を切らしながら百合花が言うと、龍一は真面目な顔になった。

「ゆっぴいに落ち着いてほしいんだよ。何かあったんだよね?それは分かる。だからこそ落ち着いて」

「…そうだね。落ち着こう」

 百合花はそう言って缶コーヒーを手に取り、少し振ってプルタブを起こし、一口飲んで続けた。

「この缶コーヒーをなんでジョージアっていうかっていうと、これを作っているのがコカ・コーラでコカ・コーラの本社がジョージア州にあるからだよ」

 百合花は言ってもう一口飲んだ。

「そう、そのとおり。それで、…何を描けばいいのかな?」

 龍一は鉛筆を持ち、スケッチブックを構えて言った。

「諏訪さんを描いて」

「諏訪さん?」

「そう、諏訪さんの顔。今日、ってか今、パパと喧嘩して、マジギレしちゃって、不倫のことも言ったの。初めてね。パパはビックリしたようだった。それでクルマから降りて、誰かに話を聞いてもらいたくて、でもりゅうちゃんは、さっき自分で解決するって言ったばかりだから諦めて、そうしたらこの前、経堂のマックで会った生活安全課のお巡りさんの名刺が出てきたの。あのとき、そのお巡りさん、相談に乗るって言ってたから、じゃああのお巡りさんに聞いてもらおうと思って、それで北沢警察に行ったのね。そしてあの名刺を見せて、そのお巡りさんを呼び出してもらったら全然知らない人が出てきたの。それで、私分かっちゃったの。あれは、あの時のあの人は諏訪さんだったんだって」

「本当に諏訪さんなの?」

「だから描いてほしいの。マン研のキャプテンに」

「なるほど、そういうことね。了解」

 そう言って龍一は対面の百合花には見えないようにスケッチブックを抱え、六Bの鉛筆を動かし始めた。

「私はバカだ。最初からこうすれば良かったのに。マン研キャプテンのりゅうちゃんの実力を過少評価していたよ」

「過少評価っていうより、気が付かなかったってことでしょ?そういう事情じゃ、写実主義だね?」

「もちろん。一切ディフォルメしないで、リアルに描いて。写真みたいに」

「はいはい。まあ、仕方ないね。ゆっぴいもスッカリ騙されたってわけだ」

「そうみたいだね。でもどうして諏訪さんは嘘ついたんだろう?」

「さあ。それを言うならゆっぴいも嘘ついてたんだろ?お互いに騙し合いで諏訪さんの方が、役者が一枚上だったっていうだけじゃないのかな?」

 龍一はそう言い、しばらく集中して鉛筆を動かすと「できた」と言ってスケッチブックを百合花に向けた。

「いかが?」と龍一。

「そう、この人。さすがはりゅうちゃん。…写真みたい。…満足した」と頷きながら百合花。

「で、これからどうするつもりなの?」

「諏訪さんに会わせて」

 百合花はそう言うと缶コーヒーを握り、残りを一気に飲み干して大きく息を吐いた。

 



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七 チンチン電車

 ゴールデンウィークが明けた五月十二日の水曜日の放課後、下高井戸の駅で龍一が一人ブラブラ人待ちしていると手を振っている百合花に気が付き、龍一も手を振った。二人が待ち合わせをする場合、先に気が付くのは大抵、視力のいい百合花の方だ。

「ご無沙汰。少し太った?」と百合花。

「そんなに久し振りでもないじゃん。せいぜい一週間ぶりくらいだろ?」と龍一。

「まあ、しょっちゅう連絡取り合ってるし、そんなにご無沙汰感はないけど、現物見るのは久し振りだからね。で、今日はどうするの?これから梅ヶ丘に移動?LINEじゃ会ってから話すってことだったけど」

「そう。一応、諏訪さんと会う約束は取り付けたんだけど、諏訪さんも忙しいようで、…なんでも七月に都議会議員選挙があるとかで、今、その準備で忙しいんだって」

「…諏訪さん選挙に出るの?」

「いや、本人は出ないんだけど、諏訪さん、都議会議員の選挙事務所の会計係みたいなことやってるんだって。お金の計算はあの人の専門だから色々な仕事が舞い込んでくんじゃないのかな。まあ、立ち話もなんだからとにかくチンチン電車に乗ろう」

「チンチン電車?」

 聞こえてはいたが龍一は答えず、手招きして、東急世田谷線のホームへと平行移動した。

 東急世田谷線は都電荒川線と並び、都内に現存する路面電車の二つのうちの一つだといわれている。ただ、都電と違い、専用軌道しか走ることのない世田谷線を路面電車扱いしない説もある。

 パスモを改札にタッチすると、二人はバスのような車両に乗り込み、龍一と百合花で縦に前後に座った。

「私、この電車乗るの初めてかもしれない」と百合花。

「へ~、下高井戸に二年以上も通ってるのに、三茶とか行ったことないの?」と龍一。

「この電車は、もちろん毎日、見てはいるんだけど、どこに行くんだろうって思ってた。国士舘の方とかに行くのかな?」

「まあ、方角的にはそうだけど」

「これで梅ヶ丘まで行くの?」

「残念ながら梅ヶ丘には停まらないんだ。小田急線とは交差するけど、梅ヶ丘より一つ小田原寄りの豪徳寺だよ。もっとも、この電車には豪徳寺という駅はなくて、豪徳寺で小田急線に連絡する駅名は山下っていうんだけど」

「言ってることがよく分からないけど、要は豪徳寺で小田急線に乗り換えるってこと?」

「まあ、クルマ移動が中心のゆっぴいには東京の電車事情はよく分からないのかもしれないけど、小田急線に乗り換えるつもりはない。豪徳寺から梅ヶ丘までは一駅だし、歩いて移動するつもりだよ。その方が早い」

「ああ、池ノ上と下北みたいなもんか」

「もっと近いかも。それに小田急はそんなに各駅停車走ってないしね」

 話をしているうちに二両編成は世田谷の住宅街へと滑り出した。

 住宅街をなめるように走る低層の電車の車景はなぜか百合花に懐かしさを感じさせた。

 数分で目指す山下駅に到着し、小田急線に乗り換える多くの乗客を吐き出した。二人はその流れに沿いながらも豪徳寺駅の改札には向かわず、小田急線の高架沿いに横に並んで東に向かった。

「私はすぐにでも諏訪さんに会いたい気分だったけど、随分、時間かかったね」と百合花。

「これでもマッハ五くらいは出したつもりだけど」と龍一。

 高架橋に初夏の太陽は遮られ、さわやかな陽気だ。

「でも二週間くらいかかったね。まあ、ゴールデンウィークは挟んだけど」

「諏訪さんも忙しいし、ゆっぴいも動けるのはバスケ定休日の水曜日くらいなもんでしょ?土日は塾、あるんだろうし」

「で、今日はその、梅ヶ丘のどこに行くの?」

「うん。梅ヶ丘に諏訪さんが会計係をしている都議会議員の事務所があって、そこに顔を出して声をかけることになってる。その事務所で話をするのか、別のところに移動するのかは分からないけど」

「私のことは話してないんでしょ?」

「ああ。だから、諏訪さんがゆっぴいの姿を見てどういう反応をするかっていうことは計算に入ってない。そこは仕方ないけど出たとこ勝負だね」

 そんな話をするうちに梅ヶ丘の駅前に到着し、二人は駅のコンコースをくぐって南側に出た。

 梅ヶ丘駅の北側は住宅街と官庁街が合体したような様相で、駅周辺は南側の方が断然栄えている。商店街の一角に目指す選挙事務所はあり、龍一がガラス戸越しに中を覗くと何人かの大人がいたものの、諏訪の姿は見えなかった。

 そのうち、制服姿の龍一に気が付いた中年の女性がガラス戸を開け、「何?」とぶっきらぼうに聞いた。

「あっ、すみません。伊波といいます。諏訪幸治さんにこちらの事務所に来るように言われて来たのですが…」

 龍一がそう言うと、中年女性は「ああ、諏訪さんね」と言って奥の方に消え、すぐに戻ってきた。

「ごめんなさいね。諏訪さん、今、取り込み中で、駅前のマックで待っててって。二十分くらいしたら行くからって」

 そう言われ、龍一は「はい」と言って傍にいる百合花に目配せし、「失礼します」と言って二人は駅の方に引き返した。

「どうする?」と龍一。

「どうするって?」と百合花。

「不意を突こうと思ったけど、マックで待機じゃ諏訪さんに先に気が付かれちゃうかもしれないね。ゆっぴいの存在」

「じゃあ、私はあそこで待ってるね。だから諏訪さんが来たらLINEして」

 百合花は自家焙煎という表示のある近くのカフェを指さして言った。

「了解。じゃあ、また後で」

 龍一は手を振って百合花と別れ、マックのカウンターでストロベリーシェイクのSサイズを注文し、階段を昇った。二階の一番奥の席に階段が見えるように座り、スマホをいじりながら諏訪の到着を待った。

 

 ちょうど二十分が経過した頃、階段を昇ってくる諏訪の姿が見えた。龍一はすかさず百合花に「到着」とだけ打ち、スマホをワイシャツのポケットにしまった。諏訪は龍一に軽く右手を挙げ、対面に座った。

「奇遇だな、君もストロベリーシェイクか」

 そう言って諏訪は手にしていた紙コップに刺さったストローを一啜りして続けた。

「ゴメンね。呼び出しといてこんなところで待たせてしまって」

「いいえ。僕の方こそスミマセン。お時間を作っていただいて」

「まず、最初に種明かしをしてしまうけど、どうして僕が今日、君をここ梅ヶ丘まで呼び出したか分かるかな?」

「…いいえ。お仕事の都合じゃないんですか?」

「君はまだ若いな。まだまだ甘い。ヒントは、さっき君が顔を出したところなんだけど」

 相変わらずの珍問に龍一は首をひねった。

「スミマセン。降参です」

「もう降参か?もうちょっと粘ってほしいんだけどな」

「はあ」

「これから君は入試本番を迎えるわけだけれども、あまり早く降参する癖はつけない方がいいと思うよ」

「とおっしゃいますと?」

「つまり、入試というのはきっと僅差の勝負になるだろうということだよ。一点でも多く得点してやろうと思う者が最終的には勝つ。それに入試の問題は、入試でなくても学校の定期テストでもそうだと思うけど、間違っていたから減点ということにはならないはずだ。白紙でもバツでも等しく零点なはずで、それなら分かりませんということで答案用紙に何も書かないよりも、とりあえずあてずっぽうでも何でも、何かを書いておいておいた方がいいということだ」

「はあ。…何か選挙に関係あるということですか?」

「そう。そのとおり。さっきの選挙事務所の都議会議員、僕は後援会の出納責任者を務めているんだけど、出納責任者を務めているくらいだから当然、彼の支持者だし、今度の七月四日の選挙には当選してもらいたいと思っている」

「分かります」

「そこで君の登場だ。君は今月、誕生日を迎えて選挙権を獲得するね?選挙権を獲得して初めての選挙だ。そして、ぜひ、初めて書く投票用紙には彼の名前を書いてもらいたいということだよ」

「なるほど。そう言われればそうですね。選挙権のことなんて考えていませんでした」

「こういうことは口で説明してもよく理解してもらえないだろうけど、選挙事務所に連れてきてしまえば一目瞭然だ。まあ、これが種明かし。では、本題に入ろう」

 諏訪はもう一度ストロベリーシェイクを啜り、続けた。

「学校に何か言われてるって聞いたけど、具体的にはどういうことなのかな?電話では説明しづらいって言ってたけど」

「はい。まあ、その、…あしながおじさんの話ですけど、話があまりにもうま過ぎるんで先生に信じてもらえないというか、そういうことです。先生にもうまく説明できませんし、……それに…」

「…それに?」

「その~…」

「要は君自身がまだ信じられないので先生にもうまく説明できないということかな」

「…そっ、そのとおりです」

「僕も一つ聞いていいかな?」

「はあ?」

「穂香さんのことだけど、穂香さんに小宮老人との結婚をお勧めしたのは君も知っているだろう?」

「はい。母から聞きました」

「どうかな、穂香さんの反応は。あんまりその話はしていないのかな?確かにこれは穂香さんの問題であって、君の問題ではないとも言えるけど」

「悩んでいます」

「穂香さんが?」

「ええ」

「あの電波少女が?へ~、君はどう思う。そんなお母さんを見て」

「珍しいなあと思います」

「珍しい?」

「はい。母は悩むようなタイプじゃないですから」

「確かに悩むようなタイプには見えなかったね」

「それが、今回はとても悩んでいるんです」

「それでなかなか結論が出ないというわけか。で、何をそんなに悩んでいるんだと君は思う?」

「分かりません」

「分からないか。本人にも何がそんなに悩ましいのか、聞いていないんだね?」

「聞いたこともあるんですけど、本人もよく分からないようです」

「そうか。まあ、人が悩むというのは恋もお金も同じで目の前の現実と自分の中の哲学との間で葛藤があるということなんだろうね」

「急かした方がいいですか?」

「まあ、何年も先延ばしにはしてほしくはないけどね。で、話を戻すけど、君が望むのであれば小宮老人との間で贈与契約を締結することは明日にでも可能だ。契約書を作成することもできるし、公正証書にすることも可能だ」

「契約書?ですか?スミマセン。よく分からないんですけど」

「高校生には少し難しいかな。贈与は単独行為のように思われているかもしれないけど、実は契約だ。あげます、もらいますという双方の意思が合致しないと成立しない。所有権の放棄のような単独行為とは違うよ」

「はあ」

「そして贈与のように、ただ単に君が権利を得るというものであれば未成年者の君でも契約の当事者になることができる。しかし、残念ながら今回の贈与契約は完全な贈与、お年玉のようなものではない。君にも一定の義務を求める贈与だ。負担付贈与と呼ばれるタイプのものだ」

「僕が何かしないといけないんですか?」

「贈与のお金は医学部に進学するための学費にしか使えないという条件を付ける。つまり、君が医学部で六年間一生懸命に勉強して、医師国家試験にも合格して医者になるという条件をつけるんだ。だから負担付贈与ということになる。負担付贈与ということになると、未成年者の君が単独で完全に有効な意思表示はできないから、親権者である穂香さんが代理人として契約することになる。少しややこしい。だから、僕が提示したアイデアを受け入れるかどうかの答えは早めにほしいというのは正直なところだ」

「分かりました。ありがとうございます。母のことは急かしてみます」

「別に今日、明日中に回答をもらわなくてもいいよ。さっきも見ただろうけど、僕はしばらく都議選のことで忙しくなる。六月二十五日告示で七月四日投開票だ。それから締めとかもあるし、その後はなし崩し的に夏休みにも入ってしまうだろうから、回答は九月に入ってからでもいいくらいだ」

「伝えます」

「それより勉強はしているかな?」

「勉強…ですか?」

「ああ。学校の勉強をしっかりするように指示を出しておいたと思うけど」

「はあ。まずまずです」

「まずまずでは困るよ。まあ、そんなに焦ることもないけど。高校での成績はどのくらいかな?」

「まあまあです」

「そうか。では今度の中間テストでは最低でもクラス一位になってね」

「はあ?それはいくらなんでも…」

「本当は学年一位を目指してもらいたいくらいなんだけど、さすがにM高校でも君より努力家で頭のいい生徒は一人くらいはいるだろうからそこまでは求めない」

「無茶ですよ。こないだ諏訪さんはそんなに勉強しなくてもいいと言っていたと思いますけど」

「確かにそうは言ったよ。別にガリ勉して偏差値七十五を出せとは言ってない。せいぜいM高校のクラスナンバーワンだ。偏差値に換算すればせいぜい五十五くらいじゃないのかな?」

「…そうかもしれません」

「僕は別に塾に行けとも言ってない。ただ学校の勉強を一生懸命やってねって言ってるだけだ。君は就学支援金を受け取っているよね?それは税金だ。どうか税金を無駄にしないでもらいたいということだ。それと希望の大学はあるかな?」

「はあ?」

「ここに行ってみたいという。もちろん、学費は気にしなくてもいいけど、偏差値は、少しは気にした方がいいだろう」

「…今のところ、…特にはありませんけど…、というか、よく分かりませんし…」

「なるほど。では質問を変えよう。こういう大学に行ってみたいという希望はあるかな?」

「どういうことです?」

「例えば、君は二次元の世界の住人のようだから、秋葉原にキャンパスのある大学に行きたいとか、そういうことだ。もっとも秋葉原にキャンパスのある大学はないけどね」

 諏訪はそう言うとストローを啜った。龍一は何と言ったらいいか分からないでいたところ、階段を昇ってくる百合花が視界に入った。

 肩に鞄を下げた百合花は静かに二人に接近し、諏訪の背後に立った。龍一が座ったまま百合花を見上げると、諏訪も龍一の視線に気が付き、後ろを振り向き、そして見上げた。

「やあ。またマックで会うとは、何かの縁かな」と百合花と目を合わせた諏訪。

「お話したいことがあります」と静かに百合花。

「今日は最初からこういう展開の予定だったのかな?」

 諏訪はそう言って首を元に戻し、龍一と視線を合わせた。

「別に彼女のことがメインだったわけじゃありません。学校の先生に言われていたのは事実ですし、母のこともあり、僕がお話ししたかったのは間違いありませんから」

「それに百合花さんも乗っかってきたってことかな?」

「最初は僕がゆっぴいに乗っかったのかもしれません」

「でも今ではどっちがメインでどっちがついでだか分からなくなってきたってことか」

「はい」

「正直に言います」と百合花。

 諏訪はもう一度後ろを振り向いて百合花を見上げた。百合花が続けた。

「りゅうちゃんに出てきてもらったのはたまたまです。本当は自分で全部解決しなければならない問題でした。たまたまあの日、経堂のマックでお会いした日の夜、りゅうちゃんに学費のことで相談されたんです。そのとき、私、諏訪さんの名刺持ってましたから。それでりゅうちゃんに諏訪さんに相談するようにお勧めというか、お願いしたんです」

「なるほどね。それで、…君達はお互いにどれだけのことを知り合っているのかな」と龍一と百合花を交互に見ながら諏訪。

「僕達、お互いに隠し事は一切していません。前にも話したかと思いますけど、ゆっぴいと僕は小さい頃から双子のように育てられてきましたから」と龍一。

「なるほど、アストロツインか」

 諏訪がそう言うと二人は頷いた。

「諏訪さん、申し訳ありませんけど、ゆっぴいの話も聞いてあげてくれませんか。僕からもお願いします」と龍一。

 諏訪はストローを啜ってからしばらく考える素振りを見せた。

「…分かった。次の用事があるにはあるけど、まだ時間はあるからそれまではいいよ。君達に付き合おう。その代わり、話す内容が内容になってしまうから場所は変えよう。行きつけのカラオケボックスとかはあるかな?」

「カラオケボックスですか?」

 百合花は龍一と顔を合わせて言った。

「そう。こんな開放的なところではなくて、密閉した空間が必要だということさ。これから僕達のする話をするにはね」

「…下北でもいいですか?」と百合花。

「行きつけがあるんだね?別にいいよ。どうせここからだと下北経由で帰ることになるしね。じゃあ移動しようか」

 諏訪はそう言うとシェイクを持ったまま立ち上がった。

 

 三人は梅ヶ丘の駅から小田急線の各駅停車に乗ったが、諏訪は終始無言で二人とは少し距離を置き、百合花と龍一もお互いにしゃべることはなかった。

 小田急を下北沢で降りると、地下深くからの長いエスカレーターを上り、改札を出て東口から少し坂を下った。

 目指す行きつけのカラオケボックスは徒歩数分の所にあった。一階にカレーとステーキのチェーン店が入っている。

 百合花は慣れた手つきで手続きを済ませると二階の一室に案内された。

 狭い部屋に諏訪を一番奥に腰掛け、その対角に百合花が座って龍一がドアに近い端っこに座り、ワンドリンクを選んだ。

「最初に確認しておくけど、二人の間には本当に隠し事はないということでいいね?」

 まず諏訪がそう言うと二人は顔を合わせて頷きあい、龍一が「はい」と言い、諏訪が続けた。

「なるほど。では百合花さん、この前も言ったと思うけど、君は何がお望みなのかな?」

「その前に一つお聞きしていいですか?」

「うん」

「こないだは、どうして嘘を言ったんですか?」

「それをいうなら君だって嘘をついてたんじゃないか。まあいいよ。ちゃんと答えてあげよう。こないだは君のペースに持って行かれたくなかったからさ。やっぱり嘘には嘘で対抗しないとね」

「私のこと知ってましたね?」

「そうだね。知っていた」

「奥様の不倫のことも」

「ああ。だからこないだ経堂のマックに呼び出された時もその話なんじゃないかと思ってはいた」

「パパとは会ったことはあるんですか?」

「いや。君のパパは僕の存在はもちろん知ってはいるだろうけど、僕が君のパパと僕の妻との関係を知っているとは思ってはいないだろうな」

「どうして私のことを知っているんですか?」

「それはこれからの会話の中で明らかになるよ。もういいだろう?それで君の望みは何なのかな?」

「…私はパパと諏訪さんの奥様の関係を終わらせたいと思っています。そして、元の鞘に戻したい」

「君のパパは君がパパのその不適切な関係について気が付いていることを知っているのかな?」

「ええ。一年くらい黙ってましたけど、ついこないだ、…二週間前くらいですけど、喧嘩してブチ切れましたから」

「そう。それで、元の鞘に戻せると本気で考えてるの?」

「それは…、でもパパとママの中が悪くなったのは諏訪さんの奥様の責任です。諏訪さんの奥様の責任ということは、諏訪さんにもその責任の一端はあるんじゃないんですか?」

「だから僕には君に協力する義務があると、そう言いたいのかな?」

「はい」

「それは違うよ。残念だが因果関係が逆だ」

「因果関係?」

「君は僕の妻のせいで君のパパとママの関係が悪くなったと思いたいみたいだけど逆だ。パパとママの関係が冷え切ったのが先で、それから僕の妻がパパの前に現れたんだよ」

「何をご存じなんですか?」

「全部だよ。君はこないだ全部知っているって言ってたよね?君が知っている全部ってなんだ?何を知っているっていうんだ?」

「パパのメールやLINE。奥様との、パパの栞さんとのやりとりは全部読みました」

「なるほど、彼も脇が甘かったってことか」

「そうですね。ビックリするくらい簡単でした。それで、諏訪さんは何をご存知なんです。諏訪さんの言う、全部って一体何ですか?」

「パパと妻が、…栞がどういう関係かってこと全部だよ。君はせいぜいパパのメールを盗み見した程度だろう。でも僕は君のパパとの関係について栞から全部報告を受けているんだ。それだけじゃない。君の家が、蓬田家がどういう状況にあるかということも全部だ」

「ええっ?」

「だから君のパパが精神科のお医者さんだってことも聞いているし、ママが都立病院にお勤めだってことも、君がN大付属高校の三年生だってことも知ってる。栞がいつどこで君のパパと会い、何をしているのかってことも知ってるよ。もちろんメールの内容もね」

「…どうして?どうして諏訪さんは平気なんですか?もう栞さんのことは愛してないんですか?」

「愛してはいるよ。それは昔も今も変わらないと思う。むしろ強くなっているのかも。僕は栞のことをとても大切にしているし、それは彼女も分かっているはずだ」

「じゃあどうして平気なんですか?」

「平気だなんて一言も言ってないと思うけど」

「じゃあ言葉を変えます。なんで何もしないんですか?」

「僕はどうすべきだと君は思っている?」

「少なくても咎めるべきでは?…それからパパを殴ったりとか、…暴力が嫌なら法的手段に訴えるとか…」

「…栞は病気なんだよ」

「えっ?」

「栞は病気なんだ。だから何を言っても、僕がどう行動しても無駄なんだよ」

「病気?」

「そう。昔、栞は仕事をしていたんだけど心を病んでしまってね。それで、君のパパの前に現れた。君のパパは自分の患者に手を出したんだ」

「……」

 百合花はそれを聞いて気持ち悪くなり黙った。初めてパパの不倫に気付いた時のうつ状態が戻ってきたようだった。

「……パパが栞に手を出したのは、もう君のママとの関係が終わってしまった後だ。だから、栞が君の家族を崩壊させたわけじゃないし、僕にもその責任はない」

「…諏訪さんはパパに復讐したいとは思わないんですか?」

「もちろん思うさ。もっと言ってしまえば、僕が君のパパの存在に気付いてから君のパパのことを考えなかった日は一日たりともないよ」

「……諏訪さん、一緒に手を組んでパパに復讐しませんか?」

「…なるほどね。確かに僕は君のパパのことを恨んでいるかもしれないけど、二つ返事でうんとは言えないなあ。君は僕の妻の不倫相手の娘だし僕は君のパパの不倫相手の夫だ。本来なら利害は対立するはずで、手は組んでみたけど二重スパイだったてなことになったらつまらないからね」

「私、裏切るつもりはありませんけど」

「僕が裏切るかもしれないよ。まあ、君の希望はよく理解できたよ。君は幸せな家庭を崩壊させたパパに復讐をしたいということで、できれば僕にも協力してほしいということだね?」

「はい」

「パパに辛辣な復讐をするとしても、高校三年生の君の力では限界があるだろうから同志であるはずの僕の力を利用したいという話は分からないでもない。でも、すぐに結論は出せないし、出すべきものでもないと思う。少し、というか相当長い時間をくれないかな?」

「相当長いって、どのくらいですか?」

「少なくとも都議選が終わるまでは無理だ。都議選が終わったら僕の方から龍一君に連絡するよ。まあ、僕が連絡する前に龍一君が僕に連絡をくれるかもしれないけどね」

 そう言って諏訪は龍一を見た。二人の会話を静かに聴いていた龍一は我に返り、慌てて「はい」と言って頷いた。

「もっと二人に話したいことはあるけど、今日のところはこの辺にしておこう。特に百合花さんはもうこれ以上消化できないだろうしね。じゃあ、僕はこの辺で。ここの会計は僕が済ませておくから、君達はせいぜい元気が出る歌でも歌うんだな」

 諏訪は言って百合花を見たが、百合花はただ呆然としていた。諏訪が部屋を出て行こうとすると「諏訪さん!」と言う百合花の声がして諏訪は振り返った。

「最後にもう一つだけ教えてください。…どうして私の生年月日まで知っているんですか?」

「ああ、龍一君に聞いたのかな?それは簡単なトリックだよ。君はフェイスブックをやっているね?」

「はい」

「そこに君は不必要な個人情報まで載せている。それを見ただけさ。僕はもちろん君のパパには強い興味を持っているから君や君のママのこともインターネット検索ぐらいはしているんだ」

「そうだったんですか」

「まあ、汚いおじさんから一言アドバイスさせてもらうとネット上には無駄に個人情報を並べない方がいいと思うよ。でも君の一番大切な個人情報であるその容姿を載せていないことは賢明だと言えるかな」

 諏訪はそう言うとドアの取っ手を持ったまま龍一を見た。

「最後にもう一度言うけど、龍一君。くれぐれも学校の勉強を怠けないでね。じゃあ」

 諏訪はドアを開け二人の視界から消えていき、同じタイミングでドリンクが運ばれてきた。

 



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八 期日前投票

 それからしばらくしての五月十八日の火曜日、アストロツインの誕生日がやって来た。

 諏訪と会ってから二週間くらいの時間があったが、百合花も龍一も中間テストへの対応があったりして二人はそれぞれが直面しているはずの問題にまともに向き合えてはいなかった。

 それでも誕生日となると当然、パーティーということになる。本当に小さい頃から双子のように育てられてきた百合花と龍一は、二人そろってパーティーを開くのがあたり前になってしまっていて、十八年も続けていると今さらその習慣を変えることはできない。

 例年、主役の二人の意向はあまり重視されず、今年は百合花の家の広い庭でのバーベキューパーティーということに二人のママが勝手に決定していた。

 臨機応変に対応できる者が一人でもいれば事情も変わってくるのかもしれないが、あいにく、当事者の誰も融通が利かないので、曜日をずらすという発想も十八年の間、一度も持たれたことがない。パーティーは予定どおり、バスケ部定休日の次の日ではなく、週末でもなく、当日に予定された。

 それでも同じことを十八年も続けていると色々なことがスムーズだ。百合花のママは事前に休みを取っていて、穂香も例年、この日だけは何があっても仕事を入れない。

 ママ二人は日頃の慢性的な睡眠不足を解消させるため昼過ぎまで眠ると、午後からは揃って買い出しに出かけ、多めに肉を買い込むと、広い庭でバーベキューのセットを始めた。二人の誕生日を祝うというよりも、本当に楽しみたいのはこのママ二人のようで、まだ子ども達が帰宅していないのに既に二人の体内には少なくないアルコールが注入されている。

 パパは仕事を理由に不在だった。本当に仕事が欠席の理由だったのかは怪しくもあったが、誰も問題にしなかった。

 しばらくしてから一度帰宅して私服に着替えた龍一が登場し、ガスバーナーで炭火コンロの火おこしを始めた。百合花も帰宅し、シャワーを浴びて私服に着替えてから庭に出てくる頃にはバーベキューの準備はすっかり整っていた。

「ゴメンゴメン。のんびりしちゃって」と百合花。

「全然平気。あたし達はもう始めちゃってるようなもんだからね」と穂香。百合花にプラスチックのコップを渡して炭酸飲料を注いだ。

「じゃあ、乾杯しよう。十八歳のお誕生日おめでと~」

 穂香がハスキーなボイスでそう言うと、四人はプラスチックのコップを合わせ、口をつけた。それからコップをテーブルに置いてパチパチと手を叩くとママ二人と龍一は龍一を真ん中にしてテーブルの周囲に置かれた椅子に腰掛け、百合花は生肉の並べられた皿とトングを持ってバーベキューコンロの方に向かった。

「パパは来てないけどゆっぴいはいいの?」と穂香。

 それを聞いて、百合花、そして龍一は少し緊張した。

 二人の高校生は穂香が百合花のパパとママの冷えた関係をどの程度知っているのか承知していない。百合花はママがパパの不倫に気付いてはいないと思っている。いずれにせよ今、パパの話題は避けたいところだった。

「まあプレゼントはくれたからそれで許してあげようかなと」

 まったく許す気のない百合花は肉を焼きながらしれっと言い、龍一に目配せした。龍一はそれを「話題を変えろ」のサインだと解釈した。

「それより小宮さんの話はどうなったんだよ?」

 パパに話題が向かうのはまずいと判断した龍一は無理矢理、穂香に小宮老人の話題を振った。

「……」

「何の話?私も聞いていい話なのかな?」

 穂香が黙ると百合花のママが介入してきた。

「もちろん聞いてもいい、ってか、ママはゆっぴいママにその話してないのかな?ゆっぴいママは聞いたことない?小宮さんの話」と龍一。

 どう見ても歳相応には見えない穂香とどう見ても歳相応あるいはそれ以上にしか見えない百合花のママは十八年間厚い友情で結ばれてきていて、ツーカーのはずだった。

「だから何の話?」と百合花のママ。

「ママ、結婚しないかって言われてるんだ」

「ええっ!お見合いでもしたの?」

 百合花のママは本当に初めて聞いたようでビックリした声を出した。

「そうじゃなくって、…なんて言ったらいいのかなあ…」と地声の穂香。

「やっぱりゆっぴいママには話してないんだ」と龍一。

「初耳だよ。なんで黙ってたの?」と百合花のママ。

「別に内緒にすることでもなかったけど沙織ちゃんとはご無沙汰というか、ここんところあいさつ程度でじっくりお話しできてなかったじゃない?とにかく急な上に複雑怪奇な話でさ。まあ、電波少女のあたしもびっくりって感じなのよ」と穂香。

「では、詳しく聞かせてもらいましょうか」

 沙織は自分だけ仲間外れにされているのが面白くないといった表情で座っている椅子の方向を龍一の先にいる穂香に向けた。

「りゅうちゃん話してよ」

 穂香は面倒臭いのか照れ臭いのか、微妙な表情で龍一に振った。

「自分で話せよ」と龍一。

「どっちでもいいよ。とにかく聞かせてよ」と沙織。

 穂香と龍一が黙っていると、しばらくして「じゃあ、私が話すよ」と言って肉を焼いていた百合花が割り込んできて、龍一を立たせ、生肉ののっている皿とトングを渡して龍一の座っていた椅子に腰かけた。

「その代わり真剣に聴いてね。随分、面倒臭い話なんだから」と百合花。

「真剣に聴くのはいいけど、なんでゆっぴいが知ってるの?」と沙織。百合花は一瞬、言葉に詰まった。

「…それはね、…それは、私とりゅうちゃんの間には隠し事なんかないからだよ。昔から双子みたいに育てられたし」

「そりゃそうだ。それで?」

「四月になってすぐ、りゅうちゃんは個人面談を受けたのね。個人面談というか、三者面談というか」

「学校で?」

「そう」

「早くない?」

「まあ、りゅうちゃんのところは母子家庭だし、早めにフォローしなきゃいけないと学校も思ったんじゃない」

「うん」

「それで、りゅうちゃんは四大への進学希望を表明したんだけど、学費のことをどうするか聞かれて、それでりゅうちゃんは悩んじゃったわけ」

「ふん」

「それで、たまたま私がFPの名刺を持ってて…」

「FP?」

「ファイナンシャルプランナー。お金の相談に乗ったりする人。ママはそういう職業の人知らないのかな?」

「税理士みたいなもんかな?」

「さあ。とにかくファイナンシャルプランナーの人の名刺をたまたま持っていたのね」

「なんでまたゆっぴいが?」

「…さあ。私もよく分からないけど、家の中にあったからパパのところに営業にでも来たんじゃないの」

「ああ、だからたまたまなのか」

 沙織はパパと百合花の微妙な距離感を知っているかのように言った。

「それで、その人、ホームページとかでも相談受け付けたりしていて、随分と敷居は低いようだったから、この人に相談したらってりゅうちゃんにお勧めしてみたの」

「それでりゅうちゃんは相談に行ったってわけか」

「そう。そうしたらホントに劇的に、ドラマみたいに話が進んで、何でもその人、相続人のいないお金持ちの財産相談とかにものってるみたいで、りゅうちゃんの学費を出してくれるっていう人がいるっていうの。まあ、分かりやすく言えばあしながおじさんみたいなもの。分かるかな?あしながおじさん」

「うん。分かる。…そうか、それはいい話じゃない。私も実はりゅうちゃんの進路のことは気になってはいたけど、大学に行くんだね?」

 沙織はそう言って肉を焼いている龍一の方を見た。

「うん。できれば医学部に行きたいと思ってる。ゆっぴいと一緒にね」と龍一。

「え~っ」

 沙織は驚きと喜びの混じった声で叫んだ。

「まあ、ゆっぴいと一緒って言っても、俺はゆっぴいほどレベルは高くはないから医学部という意味においてだけどね」

「なるほど。そんないい話、ちっとも知らなかった。それで穂香ちゃんの結婚話とはどう結びつくの?」

 沙織は再び百合花の方を見た。

「それで、そのあしながおじさんがりゅうちゃんの学費を贈与することは話がついたみたいなんだけど、そうすると贈与税っていうのかな?莫大な税金がかかっちゃうそうなんだよね。それももったいないってそのファイナンシャルプランナーの人は言っていて、税金を安くする方法としてそのあしながおじさんとりゅうママとの結婚話を持ち出して来たってわけ。夫婦になりさえすれば税金が随分と節約できるみたい」

「……財産目当ての結婚、…てわけ?」

「別に財産目当ての結婚ってわけじゃないと思うよ。財産目当ての結婚ていうのは最初から財産が目的であって、結婚はそのための手段で、結婚詐欺みたいなもんでしょ?」

「うん」

「でも、今回のりゅうママの結婚話は、りゅうママはそのあしながおじさんと会ってすらいない。なんでも会う必要すらないみたいで、戸籍上、夫婦ということになりさえすれば良くて、それで相当の節税になるみたいだよ」

 沙織はそこまで聴いて少し黙り、考え事をするような素振りを見せてから穂香と目を合わせた。

「いい話じゃない。シンデレラだね」と沙織。

「……」

 穂香は黙ったままだったので百合花が続けた。

「そう。いい話でしょ?私もそう思うんだけど、りゅうママは悩んでるんだよね」

「…そういうことか」

 沙織はそんな穂香の表情を見て、かつて知ったるように言った。

「そういうことかって、ママの心理分析でもできるの?俺も初めてなんだよね。そんな悩んでるママを見るのって。いっつも悩みなんかせずに、行動してから考えるパターンだったのに」と龍一。

「まあ、私も精神医学が専門じゃないからハッキリしたことは言えないけど、分かる部分もある。穂香ちゃんは何か十字架を背負っちゃうと思ってるんじゃないかな?」と沙織。

「…十字架って?」と穂香。

「まあ、分かってもらえるとは思うけど、穂香ちゃん、今までずっと好き勝手に生きてきたわけじゃない?そんな生き方を私はとてもうらやましいと思ったりするんだけど、形だけとはいえ、結婚して、財産をもらった瞬間に何か、その、小宮さんだっけ?その人に気を使いながらの人生になっちゃうと思ってるんじゃないかな」

「…案外図星かも」

 穂香はそう言って、少し遠くの夕暮れの空を見上げた。

「でも、諏訪さんはあくまでも税金対策。結婚は形だけのモノって言ってたよ」と遠くから肉を焼きながら龍一。

「りゅうちゃんはまだ小さいから分かんないよね。でも、私から一言アドバイスするとしたら自分の気持ちに正直な方が後悔しないと思うよ。今までりゅうちゃんには迷惑かけてきただろうからそれを償って余りあるだけのチャンスには違いないと思う。でもそれがために穂香ちゃんが穂香ちゃんでなくなってしまうのには私は反対だな」

「……」

 沙織がそう言ったが、穂香は相変わらず黙っている。天真爛漫なはずの穂香が静かだとせっかくのバースディーパーティーも盛り上がらない。空気を察した沙織が続けた。

「ゴメンゴメン。せっかくの十八歳のお祝いの席なのになんだか暗くなっちゃったね。じゃあ話題を変えよう。ゆっぴいにインターハイ予選の報告でもしてもらいましょうか」

 沙織が話題を変え、仕方なく百合花もそれに従った。

 

 龍一は悩んでいた。正確に表現すると迷っていた。

 諏訪に連絡を取った方が良いのか、取るべきではないのか。

 龍一は頭の中でそれぞれの理由を並べてみる。

 まず取った方が良いと思う理由。

 最後に接触をしたのはもう一ヵ月以上も前のゴールデンウィーク明けの水曜日だ。それ以来、諏訪との接触はない。SNSでつながっているわけでもない。とても親しければSNSつながりでいつでも接触できるのかもしれないが、そこまで親しくはないし、相手は親の世代でアドレスをゲットするのも簡単ではない。

 まさかとは思うが、諏訪にとって自分のことはすべて冗談だったのではないかという心配もなくはない。百合花のパパのことを快く思ってもいないのだ。

 一方、連絡を取らない方が良いと思う理由。

 諏訪は穂香も気になって調べていたがどうやら信頼できる男のようだ。そして最後に会ったとき、都議会議員選挙の対応でとても忙しいと言っていた。忙しいと言われていて、夏休み明けでも良いとまで言われている以上、ここは諏訪のペースを乱すべきではないし、真剣に悩んでいるママを急かしたくもない。

 バースディーパーティーから一ヶ月以上が経過し、高校生活は一学期の期末テストの時期を迎えている。部活も休みで帰宅時間は必然的に早くなる。しかし勉強する気はなかなか起こらず、かといってゲームや漫画を楽しむ気分にもなれない。

 落ち着かない龍一はしばらくダイニングテーブルを前に腰掛け、自身、穂香そして諏訪のことを考えた。

 不意にダイニングテーブルの上に置かれたスマホが鳴った。ディスプレイを見ると〇九〇から始まる知らない番号が表示されている。龍一はスマホを操作し電話に出た。

「もしもし」

「龍一君だね?諏訪です」

「ご無沙汰しております。スミマセン、母の方はまだ結論が出ていません」

 ちょうど諏訪のことを考えていた龍一は、督促の電話かと思い、とっさにそうあいさつした。

「お母さん?」

「小宮さんと籍を入れる話です」

 龍一がそう言うと諏訪は少し考え事をしたようだった。一瞬、間があった。

「…ああ、あれね。そんなことはどうでもいいよ」

「どうでもいい?」

 龍一はビックリして聞き返した。今の今まで、それを悩んでいたのにどうでもいいと言われてしまったからだ。

「ゴメン。どうでも良くはないけど急ぎではないということだ。今すぐでなくていいから必然的に後回しになる。それより今日、君の所に郵便物が送られて来ただろ?」

「郵便物?」

 諏訪にそう言われて、確かに帰宅の際、郵便ポストから郵便物を取り出したことを思い出した。モノは目の前のダイニングテーブルの上に置かれてある。

「ええ、確かに来ましたが」

 そう言って龍一はダイニングテーブルの上に置かれている封筒を手に取り、宛名を確認した。

「でも、僕あてではなく、母あてですよ。このことでいいですかね?」

「差出人は誰になってる?」

「世田谷区選挙管理委員会ですけど」

「そう。それでいいよ。それが何か分かるかな?」

「開けてみたいところですけど、母あてですし、僕が勝手に開けるわけにはいきませんが」

「じゃあ、中身を教えてあげよう。今日、告示された都議会議員選挙の投票整理券だよ。世帯の人数分入っているはずだから、君と穂香さんの分が入っているということだ」

「投票整理券?」

「君は初めてだから分からないかもしれないけど、いってみれば投票所に入場するためのチケットだよ。それを持って行けば投票所に行って投票できるということだ」

「はあ」

 諏訪の言っていることは一々理解できるのだが、たかだか投票整理券程度でなぜそれほどまで熱くなるのか、龍一には分からない。

「明日は暇かな?」

「まあ、期末テスト直前ですから暇か?と尋ねられたら試験前で忙しいという回答になってしまいますけど」

「そうか。期末テストか。相変わらず学校の勉強はしっかりやっているね?」

「頑張ってはいます」

「よし。では忙しいところ申し訳ないのだけど、明日、少し僕に付き合ってもらいたい。期末テストが迫っているということは特に遊ぶ予定とかは入れていないね?」

「ええ」

「じゃあ、明日。そうだなあ、早い方がいいからちょうどお昼時にしよう。正午、十二時に経堂駅の改札にその整理券を持って来てくれないか?土曜日だし、大丈夫だよね?」

「経堂ですか?」

「場所分かるよね?分からなければ君の幼馴染に聞けばいい。僕は彼女と経堂駅前のマックで一度会ったことがあるから」

「はあ」

「いや、それだけじゃ不十分だ。聞くだけではなくて、明日の正午、その幼馴染も連れてきてくれないかなあ。幼馴染にも投票整理券を持たせてね。どうせ、君が期末テスト前で忙しいということは彼女の方もテスト前で部活とかもないんだろ?」

「ええ、そうですが」

「穂香さんもできれば連れてきてもらいたいのだけど」

「母はイベントがあって無理だと思います。土日は大概そうですから」

「そうか。まあ穂香さんは後でもいいや。それと幼馴染に限らず、君の友達で選挙権を持っている人は連れてきてもらいたい。もちろん投票整理券を持たせてね」

「何をするんですか?」

「期日前投票だよ。まあ来てもらえれば分かる。というより、今この電話で説明しても君には理解できないだろう。詳しいことは明日の正午の経堂で。くれぐれも投票整理券を忘れないでね」

 そう言うと電話は諏訪の方から一方的に切れた。

 龍一は状況を即座に飲み込むことができなかったが、取り敢えず、諏訪が自分のことを忘れていなかったことには安堵した。

 言われた封筒を開けてみると、自分の分の投票整理券も入っていた。初めて見るチケットだが特に感慨は湧かない。

 スマホを手に取ると百合花あてにLINEメッセージを打った。

 

 次の日、小田急線を経堂で降りた龍一と百合花は改札を出る手前で周囲をキョロキョロし、諏訪の姿を探したが見つけることはできなかった。時計は十二時十分前くらいをさしている。

 しばらくして各駅停車が到着するタイミングがあり、下りホームの階段から諏訪が下りてくるのが見えた。百合花が先に発見し、龍一の肩を叩き、指でさして教えた。

 そのうち諏訪の方も二人に気が付き、笑顔で右手を挙げた。

「あれ~、君たち二人だけ?」

 それが諏訪の第一声だった。

「ええ」と龍一。

「お友達を連れて来るように言ったはずだったけど」と諏訪。

「もちろん、声はかけましたよ。マン研はもちろん、クラスの中でもできる限りは。LINEでつながっている連中には全員連絡しました。ゆっぴいも。でも、みんな、その~、投票整理券を持っていなかったんです」

「持っていない?」

「ええ。つまり、みんなまだ十八歳に達していないということです。僕達二人は五月生まれだからたまたま選挙権がありますけど、普通の高校三年生はまだ選挙権年齢には達していないということです」

 龍一がそう言うと諏訪は絶句した。少し沈黙の時間が流れた。

「……そうだったか。そう言われればその通りだ。…残念ながら僕の負けだ。そこまでは考えていなかったよ。僕は二人がたくさんのお友達を連れてきてくれることしか考えてなかった」

「もちろん、何人かはいて、私も声はかけましたけど、さすがに今日は…。今、期末テストの真っ最中なんです」と百合花。

「それは承知している。そこを何とかと思ったんだけど」

「それより誰に入れるんですか?僕は候補者とかよく知らないんですけど」と龍一。

「そうか。その話もしていなかったね。まあ、それはこれから経堂出張所に向かうまでの道すがらに掲示板が出ているだろうからそのときに教えるよ。君達にとっては思い出に残る人物になるはずだ。選挙権を獲得して一番最初に書く人物なのだからね」

「諏訪さんは覚えているんですか?一番最初に書いた政治家の名前」と再び龍一。

「残念ながら僕は、選挙権を得て初めての選挙では白票を投じているよ。その頃の僕は極度の政治不信に陥っていたからね。とにかく君達も試験前で忙しいし、僕も選挙中で、…って僕の選挙じゃないけど、忙しいからさっさと移動しよう」

 そう言って諏訪は二人を手招きし、三人は改札を出た。

「どこに行くんですか?」と龍一。

「経堂出張所とか言ってましたけど」と百合花。

「そのとおり。経堂出張所だよ。歩いてすぐだ。経堂出張所では期日前投票を受け付けているからね。それで…」

 そう言いながら諏訪は近くにある候補者のポスターをすれ違いざまに指さした。

「あの男だ。あの男の名前を書いてもらいたい」

「でもどうして今日なんです?投票日は、…確か七月四日では?」と再び龍一。

「せっかちだと思うかな?しかし、今や期日前投票を呼び掛けるのは選挙の常識だよ」

「七月四日じゃダメなんですか?」

「ダメとは言わないけど好ましくはない。君は朝三暮四という中国故事を知っているかな?」

「ええ、まあ」

「どんな話だ?」

「スミマセン。細かいことは知りませんけど、昔、中国で猿を飼っている男がいて、餌代に事欠くようになってきたので猿に、どんぐり、…だったかな?…それを餌として毎日、朝三つ、夜四つ与えると言ったら猿が怒り出して、では、朝四つ、夜三つ与えると言い直したら今度は手を叩いて喜んだという話だったと思います」

「なるほど。それで何が言いたいのかな?その故事は」

「確か、学校では目先のことに囚われていて肝心なことに気が付かないたとえということで習ったと記憶しています」

「まあ、そんなところだろう。実はこの故事には続きがある。男がそんな猿達をバカにした目で見ていると、年老いた猿が現れるんだ。そしてこう言う。朝四つ、夜三つにした場合、昼間死んでしまう猿はその生涯において一つ余計にとちの実を食べられることになる。肝心なことに気が付いていないのは人間の方だとね」

「はあ」

「言いたいことは分かるだろう?七月四日が投票日かもしれないが、その間に何が起こるか分からない。投票に行くつもりの人が急に行かれなくなることだってあり得るわけだ。あるいは順風と思っていた風が突然、逆風になるってことだってあり得ない話じゃない。だから期日前投票という制度を利用して、獲得できる票は獲得しておこうということを選対としては考えるということだよ」

 そんなことを話しているうちに三人は経堂出張所に到着した。まだ選挙戦も序盤ということもあり期日前投票会場もガラガラで、三人はスムーズに投票を済ませ、会場を出た。

「すまなかったね。お忙しいところ呼び出したりして」と少し腰が低めの諏訪。

「いえいえ」と龍一。

「本当はこれからランチでもご馳走したいところだけど、そんなことしたら確実に選挙違反になっちゃうからね。だからランチはおろかここでは缶ジュースの一本もご馳走することはできない。ケチな親父と思うかもしれないけど、そういうことだ。ともかく、君達二人も期日前投票のやり方は分かっただろうから、試験が終わってからでいいので選挙権のあるお友達をここに連れてきて、僕がやったのと同じように期日前投票を呼び掛けてほしい」

 諏訪がそう言うと龍一と百合花は顔を合わせて頷き、「はい」と言った。

「じゃあ、僕は世田谷線下高井戸経由で烏山に戻るからこれで」

 そう言って右手を挙げ、二人の前を去ろうとする諏訪を龍一が呼び止めた。

「スミマセン。母の回答がまだなんですけど、…大丈夫ですか?」

「大丈夫かっていうと?」

「随分、遅れてしまっているようで申し訳なく思っているんですけど」

「ああ、それなら気にすることはないよ。この前も言ったけど、夏休み明けでも十分間に合うから」

「周りはそろそろ模擬テストとか受け始めているんですけど、相変わらず、学校の勉強を一生懸命やるということで大丈夫ですか?」

「そうだね。でも一つ確認しておきたいんだけど、穂香さんは何をそんなに悩んでいると君は思っている?真実はどうでもいい。君がどう思っているかを聞きたい」

「この前、っていっても一月くらい前になるんですけど、僕とゆっぴいと僕の母とゆっぴいのお母さんの四人でしゃべる機会があったんですけど、ゆっぴいのお母さんは、ご存知の通りお医者さんですけど、今回の小宮さんの話、母は、何か十字架を背負わされると思っているんじゃないかと、だから悩んでいるんじゃないかと、そう分析していました。僕もなるほどなと思いました」

「そうか。十字架か。それならそれでさっさとノーと言えばいいんじゃないのかな?」

「でも僕に今まで苦労をかけてきたことも事実なんで、だから悩んでいるのかと」

「君もそう思う?」

「はい」

「百合花さんはどう思ってるかな?そのおしゃべりの場には君もいたんだろ?」

 諏訪が百合花に振った。

「私もそう思いました。りゅうちゃんの力にはなりたいけど、自分自身を見失いたくない。だから悩んでいるのかと」と百合花。

「そうか。分かった。別に急ぐことじゃないからじっくり考えるように穂香さんには伝えてね。ああ、それと、これは必須じゃないけど、夏休み中に一度、模擬試験は受けておいた方がいいかもしれない。客観的に自分と向き合うためにね。どうせ百合花さんも受けるだろうから、一緒に受けに行くのもいいかも。じゃあ」

 言うと諏訪は経堂駅とは逆方向の世田谷小学校の方に向かって歩いていった。

 



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九 遺言執行人

 都議会議員選挙の世田谷選挙区は定数が八で大田区と並ぶ最大の選挙区だ。同一政党でも複数が参加し、結果、同士討ちのような形にもなって激戦となる。

 結果は僅差の勝負となり、諏訪が出納責任者を務め、龍一と百合花も投票したその候補者は当選者の中ではビリから二番目という、可もなく不可もない、どちらかといえば不可がある成績で再選を果たした。

 そんな出来事から二ヶ月が経とうとしている火曜日の午後、龍一は相変わらず勉強する気になれず、かといって遊ぶ気にもなれず、結果、コンビニでのアルバイトに精を出す、ある意味、充実した夏休みの最終日を迎えていた。

 受験生であるはずなのにレギュラーのバイト、でもそれは龍一と同じような経済的境遇にある高校生にはあたり前の日常だった。真夏の暑い日差しの下では、クーラーのガンガン効いたコンビニでの日中は快適ですらある。その快適な日中が終わり、代沢の都営に帰宅した龍一はダイニングチェアに腰掛け、明日から再開する現実を考えた。

 諏訪に言われていたこともあり、模擬試験は受けに行った。結果通知書は封緘されたまま、もう何日もダイニングテーブルの上に乗っかっている。一緒に受けに行った百合花とこの話題に触れたことはないから、百合花もきっと同じ気持ちなのだろうと龍一は思った。

 ここ数日の間、穂香もこの封筒の存在には気が付いていたはずである。穂香は無関心だった。あるいは知っていて気が付かない振りをしているだけなのか、龍一には分からない。「これなあに?」とか、一言、穂香が関心を示してくれれば、開封する気にもなるし、それをきっかけに自分の進路の問題、そして棚上げになっている穂香の結婚話も進展するのかもしれない。

 穂香は、さっき池ノ上の駅に着いたとのLINEを受け取ったから間もなく帰宅するだろう。まだ午後五時前で穂香にしてはかなり早い帰宅だ。それを予期して、今日はコンビニ弁当を二つ、その封筒の隣に配置してある。

 そのうち玄関の鉄のドアをトントントンと軽く叩く音がしてからドアが開き「ただいま~」というOLのボイスがしてソバージュの頭が現れた。

 穂香はそのままダイニングテーブルの龍一の対面に座ると、龍一よりもテーブルの上に置かれているコンビニ弁当に注意が向いたのが龍一にはハッキリと分かった。

「明日から二学期なんだけど」

 龍一は「おかえり」も言わず、ムッとした表情で事務的に言った。

「それより穂香ちゃんお腹ペコペコなの。朝から何も食べてないんだあ」

 穂香は、今度は自身が演じるアニメのピンク系妹キャラのボイスでそう言うと続いて「これ食べていいのかな?」と言った。

「ああ、いいよ。俺も食べるから」

「どっちにする?」

「どっちでもいいよ」

「じゃあ、あたしは焼肉弁当ね。穂香ちゃん、こう見えても肉食系だから」

 穂香は焼肉弁当を手に取ると、もう一つののり弁を龍一に渡し、傍に置いてある封筒には見向きもせず、ふたを開けて箸を割り、「いただきま~す」と再び妹系ボイスで言うと、弁当にパクついた。そんな穂香を龍一はしばらく黙って見ていた。

「ん~?どうしたの?りゅうちゃんは食べないのかな?」と相変わらず妹系ボイスの穂香。

「そこに置いてある封筒なんだけど」と相変わらずムッとした表情の龍一。

「うん」

「何だか気にならないの?」

「ああ。ずーっとおいてあるなあとは思ってたけど。あて先はりゅうちゃんだし、干渉したらまずいかなあとか思って」

「そんなわけないだろ。差出人は予備校だよ。それに結果通知書って書いてある」

「うん」

「妹系はもういいよ。一旦、キャラから出てきて」

「はい」

 穂香は地声で言った。

「じゃあ開けてみてよ」

 そう言われて穂香は箸を置き、つまらなさそうにビリビリと開封した。この汚い開封が龍一はいつも嫌いだ。「ペーパーナイフ持ってきて」と言われればすぐ手の届くところにそれはあるのだが、その言葉が穂香の口から発せられることはない。

 穂香はあらゆる面でいい加減であり、龍一はあらゆる面で几帳面だ。だから龍一はいつもイライラしている。

「米印みたいなのがたくさんあるね」と成績表を広げての穂香。

「米印じゃなくてアスタリスクね」と怒った口調の龍一。

「どうしてそんなに怒ってるの?」

「どうしてって、ママが俺に何にも関心持ってないからだよ」

「ゴメンゴメン。別に無関心なわけじゃないの。ただ、分からないのよ。受験とか言ったって、大学受験なんてあたし、やったことないし…」

「そこに偏差値が書いてある」

 龍一は成績表の左上の辺りを指さして言った。成績表のフォームは何ヶ月か前に百合花からもらったものがまだ手元にあるので見なくても分かる。

「ハハハ。バカじゃん」

 穂香は軽く笑って言った。

「ふざけるなよ!」

「ゴメンね~、気の利いた一言が言えなくて。でもこれを誉めろっていうのは難しいなあ」

「別に誉めてくれって言ってないよ。その成績を誉めるなんて無理だよ。誉めたら嫌味だよ」

「じゃあどうしろっていうの?」

「だから、もっと俺に関心を持ってほしい」

 龍一がそう言うと穂香は少し悲しそうな表情を見せた。

「だからあたしは何もできないんだって。それはりゅうちゃんもさんざん分かってくれてるでしょ。それに大学は大丈夫だって諏訪さんも言ってたじゃない。あたしよりよっぽど頼りになる」

 穂香は、今度は失恋した女の子のボイスで言った。

「それもある。諏訪さんの話もね。今日がタイムリミットだよ。夏休み中って言ってたよね?結論出してね。小宮さんとの結婚話。どうするのか」

「もちろん気にはなってるけど、…りゅうちゃんはどう思う?」

「どう思うって?」

「あたしはどうすべきかってこと」

「自分で決めろよ」

「自分じゃ決められない」

「…じゃあ、断ろう」

 一瞬の沈黙の後、龍一がキッパリ言った。

「断っちゃうの?」

「じゃあ、オーケーしろよ」

「それは…」

「だろ?じゃあ、断るよ。この前、ゆっぴいママが言ってたけど、やっぱりママは何か重いものを背負っちゃうんじゃないかって思ってるんだと思う。そんなに悩んでるママを見るのは初めてだから。だから。もうママを悩ませたくないから断ろう。それで、俺の医学部進学の話がなくなるわけじゃないと思うし」

「諏訪さん気を悪くしないといいけど。さんざん待たせちゃったしね」

「じゃあ、電話とかじゃなくて、諏訪さんに直接会って断るでいいね?」

「へ~っ。まあ、仕方ないか」と再び妹系ボイスの穂香。龍一は軽くため息をついた。

「じゃあ、諏訪さんに電話して予定聞くけど、駄目な日とか教えてね」

 龍一はそう言ってスマホを手に取り、諏訪へ電話を掛けた。諏訪からは選挙の時に携帯電話から電話をもらっているので携帯の番号も今では分かる。

「もしもーし」

 数コールで諏訪の声が聞こえた。

「伊波です。ご無沙汰しています。今、電話よろしいですか?」

「龍一君だね?実は僕も君に電話しようと思っていたところなんだ」

「母のことですね?」

「それもある。ちょっと状況が変わってね。一度、会って話をしたいと思っていたんだ」

「スミマセン。お待たせしてしまって」

「それはいいよ。それよりなるべく早く会いたいんだけど、ご都合はいかがかな?」

「僕は、それこそいつでも。諏訪さんに合わせますよ。お待たせしてしまいましたし。母も連れていきたいので、母の都合さえ合えばいつでもいいですよ」

「それはありがたい。で、今、どこだ?」

「代沢の自宅ですけど」

「穂香さんもいるかな?」

「はい」

「じゃあ、今からでもいいかな?」

「…今から、ですか?」

 龍一はそう言って穂香に目配せした。穂香は笑顔で頷いた。龍一は続けた。

「ええ、構いませんし、母も大丈夫です」

「じゃあ、どうしよう。じっくり話がしたいから…この前のカラオケボックスにしようか。あそこならゆっくり話ができる。いいかな?」

「はあ。僕は構いませんけど」

「じゃあ、先に行って場所取っといて。どうせ火曜日のまだ早い時間だし、大丈夫だよね?僕は、一時間くらいで到着できると思うから」

「はい。分かりました」

「じゃあ、後程」

 言うと電話は諏訪の方から切れた。龍一はスマホを操作してから正面の穂香を見た。

「電話、聞いてたかな?」と龍一。

「まあ、何となく」と地声の穂香。

「今から来いって」

「どこに?」

「下北にゆっぴいと行きつけのカラオケボックスがあるんだけどそこを指定されたよ」

「カラオケ?歌でも歌うの?」

「この前も一度、カラオケボックスの中で話したことがあるんだけど、カラオケボックスってある意味、密室でしょ。じっくり話ができるってわけだよ」

「なるほどね。いいよ。穂香ちゃん、お弁当食べて元気が出たからリクエストがあればじゃんじゃん歌っちゃうよ。スーパーアリーナ終わったばっかりだし」

 穂香はもう一度妹系ボイスに戻って脳天気に言い、弁当の残りをかき込んだ。

 

 弁当を片付けると、穂香と龍一はまだ残暑の厳しい、日の長い夕暮れの街を徒歩で下北沢に向かった。

 カラオケボックスに到着し、部屋に案内されると穂香はマイクを握り、リモコンを引き寄せ、冊子を見ることもなくその延髄の中に組み込まれている曲コードを入力、送信し、自分の持ち歌を歌い始めた。そんな穂香の行動を龍一は自然現象のように見つめた。

 何曲か歌っているうちにドアがノックされる音が聞こえ、ドアが開いて諏訪が現れた。後ろにアラサーの男性を従えている。

「ハロ~!諏訪さん!元気してましたか~!」

 諏訪を認識した穂香は自分の歌声に酔ったのか、今までの悩みが嘘のようにその曲を主題歌とするアニメの主人公のボイスで叫んだ。

「やあ、お待たせ。早速歌ってるね」

 諏訪は冷静に、それでも少し苦笑いしながら言った。

 穂香は諏訪にマイクを持っていない方の手を振り、ウインクすると構わず歌い続けたので龍一が慌てて「演奏中止」のボタンを押した。演奏は止まり、静寂が訪れた。

「なんだ、別に最後まで歌ってもらっていいのに」

 諏訪はそう言うと同伴者に手のひらを向け「こちら、弁護士の斉藤先生。今日はこの席に同席してもらいます」と言って穂香と龍一に紹介した。

 諏訪に紹介され、弁護士は「斉藤です」と言いながら穂香と龍一に名刺を渡した。名刺には「弁護士 斉藤啓」と記載されている。

「じゃあ、まあ座りましょう」

 諏訪は三人を促し、自らも座り、四人はテーブルを挟んで向き合った。

「スミマセン。返事が遅くなりまして」と龍一。

「いやいや。僕の方こそ急に呼び出してすまなかったね。それで、龍一君の方から電話をもらった話だし、君の方から先に話すでいいよ」と諏訪。

「僕の方からと言いますと?」

「用があったから電話かけてきたんだろ?」

「ああ、はい。この前の小宮さんの話なんですけど、時間がかかってしまってスミマセンでした。では、…それは本人の口から」

 龍一はそう言って穂香を見た。穂香は、さっきまでの歌唱が嘘のように静かになり、諏訪と弁護士の前で少しかしこまり、一礼した。

「スミマセン。いいお話をいただいたんですけど、やっぱりあたしには荷が重いような気がして、…申し訳ないですけど、お断りさせていただきます。…ホントはもっと早くにお返事すればよかったんですけど、ホントに悩んじゃって…」と仕事に失敗したOLのボイスで穂香。

「ああ、あの話ですか。実は僕もそのことで今日、お二人にはお越しいただいたんですよ。色々と悩ませてしまって申し訳なかったんですけど、実はあの話、本当にもうどうでもいい話になってしまいました」と諏訪。

「はあ?」

 穂香と龍一は声をそろえた。

「実は、小宮さんお亡くなりになったんです。五日前に。ホームで倒れられましてね。ホームっていっても駅のホームじゃないですよ。お住いの老人ホームで。心臓だったんですけど、まあ、苦しまずに旅立って行かれたわけでそれはそれで小宮さんのためにも良かったのかなと今では思っています」

「というと…」

 そこまで言って龍一は言葉を飲み込んだ。色々な考えが頭の中を駆け巡った。そんな龍一の頭の中を諏訪はその表情から嗅ぎ取った。

「これまでの話がなかったことになるんじゃないかって心配を、今、君はしているかもしれないけど、それは大丈夫だよ」

「はあ…」

「まあ、別に遠慮することはない。こういうことが起こることは想定の範囲内ではあったからそれなりの準備はもうしている」

「準備?」

「小宮さんは公正証書遺言を作成している。遺言では、残していく財産はすべて伊波龍一君に遺贈することになっている。もちろん、使い道は大学の医学部に進学して医者になることに限定されている負担付遺贈だけどね。負担付遺贈は言葉が難しいけど、意味は分かるよね?」

「はあ。何となく分かります」

「まあ、君は専門家ではないし、詳しく分かる必要はない。それで、これからその遺言書を執行することになる。まずは君がその遺贈を受けるかどうかということだ。負担付遺贈はいつでも断ることができるから気楽に受けてもらいたいのだけど、君が小宮老人の遺贈を受けるかどうかの意思を確認することからしたい」

「はい」

「細かいことは後回しでいいでの、まず概略を説明しよう。小宮老人はお亡くなりになった。小宮老人は公正証書遺言を残していた。公正証書は分からないかもしれないけど、それ自身が公に認められた書類だということだ。まず、小宮老人は僕を遺言執行人に指名している。僕はそれを引き受けてるから僕にはこの遺言の内容を執行する義務がある。それともう一つ、遺言執行人の僕が小宮老人の意思を犠牲にして自分の利益のために行動しないように、僕の行動を監視する監督人も指名している。その監督人が今日、連れてきた弁護士の斉藤先生だ。だから、小宮老人の生前の意思は、客観的に正確に現実のものとなる仕組みはできているということだ」

「分かります」

「よし。では次に相続財産の内容。細かいところは後でリストを渡すから大まかなところを説明するね」

「はい」

「遺産は大まかに二つある。一つは東京郊外のK市にあるアパートだ。そしてもう一つが現預金。アパートは全室ワンルームなんだけど、K駅の近くにあるなかなかの物件で、近くに大学がたくさんあることもあって常に満室の状態だ。家賃は各部屋ほぼ月十万円で八部屋あるから月に八十万円、年に九百六十万円のキャッシュインフローを生んでいる。小宮さんは個人でアパート経営をしていたんだよね。バブルのはじける寸前に北沢の一等地を売り抜けて、それで東京郊外にアパートを建てて、老後の生活資金にしていたんだ。もちろんこれとは別に年金ももらっていたから、預金は増える一方という生活になった」

「そうだったんですか」

「で、僕の作戦ではこの家賃収入を君の大学の学費と生活費に充てようと考えている。そしてもう一つの現預金。これもン千万単位であるんだけど、これは基本的には君にこれから課される莫大な相続税の支払いに充てて、残りは大学生活の始まる際に必要な諸経費に充てたいと考えている」

「よく分かりませんが、よろしくお願いします」

 龍一はそう言って頭を下げたが、穂香はキョトンとしていた。

「まだ、実感は湧かないだろうから、とにかく公正証書のコピーを君に渡しておくよ。君の名前が書いてあるし、公証人の認証もあるから実感してもらえると思う。君は晴れてシンデレラボーイだ」

 そう言って諏訪はスタプラーで綴じられた紙を龍一に渡した。龍一はそれを広げてみて自分の名前が書かれているところにラインマーカーが引かれていることを確認した。

「ありがとうございます」と龍一。

「それで、プロジェクトが具体的になってきたところで君の志望校なのだけれども」と諏訪。

「はい」

「こないだは百合花さんが突然、乱入してきたので聞きそびれてしまったけれども、希望はあるのかな?」

「行きたいところということですか?」

「うん」

「いいえ。特にはというより正直、分かりませんので。諏訪さんの方が情報をたくさんお持ちで、僕にふさわしいところを見つけてくれそうな気がしますけど」

「こないだも言ったけど、秋葉原にキャンパスがあるところとかそんな感じの希望もないのかな?」

「できれば、…今の生活をあまり変えたくないという希望はあります」

「今の生活?」

「ええ」

「なるほど、百合花さんと離れたくないということかな?」

「……」

 龍一が答えなかったので諏訪は隣の穂香に振った。

「穂香さんはいかがです?龍一君の進学先に希望はありますか?」

「いえいえ、希望だなんてそんな。今さっき、りゅうちゃんの成績見たんですけど、あんな成績で入れてくれる大学があるんだったらどこでも結構です」

 穂香は安心したのか、妹系ボイスでそう言った。

 

 二学期が始まって六日が過ぎた月曜日の夜、龍一は自宅のダイニングチェアに腰掛け、「赤本」と呼ばれる類の書物をじっくり読んでいた。「赤本」の表紙には「Y医科大学」と書いてある。

 「赤本」は今日、諏訪から手渡された。志望校をここに決めたと言われたのだ。そして、できれば今学期中に過去問をすべて暗記するように言われた。

 時計はそろそろ次の日を迎える。もう寝る時間だが、龍一は穂香の帰りを待っていた。穂香は龍一の受験にはさして関心を示していないのかもしれないが、それでも志望校決定の報告を、できればLINEとかではなくて口頭でしておきたかった。

 龍一がふと人の気配を感じると、息子がもう眠ってしまっていると気を使ってか、玄関の扉が静かに開き、派手なソバージュが姿を現した。そんなママを見て龍一は静かに「おかえり」と言った。

「あれ~、まだ起きてたんだ?明日も学校でしょ?寝なくていいの?」と久し振りに母親ボイスの穂香。

「うん。ちょっとママに話したいことがあって起きてた。まあ座ってよ」

 龍一にそう言われて、靴を脱いだ穂香はそのままダイニングテーブルの龍一の対面に腰掛けた。

「この本、分かるかな?」

「ああ、何か本屋さんにずらっと並んでるよね。大学の過去問集かな?」

「そう。今日、諏訪さんに会って、この本を渡された。ここの大学を受けることに決まったよ」

「へ~、横浜の大学に行くんだ?」

 表紙に書かれたY医科大学の文字を見て穂香が言った。

「俺も最初はそう思ったんだけど、ここの大学、横浜じゃなくて四国にあるんだって。四国で唯一の私立の医科大学」

「四国?でもYが頭についてるよね?」

「Yは地名じゃなくて創立者の苗字みたいだよ」

「あそう。でも、四国の大学じゃ、ここから通えないんじゃないの?」

「そりゃあたり前だよ。だから当然、下宿ということになるね」

「ええっ、ここから出てっちゃうの?」

 穂香は軽い衝撃を受けたように少しビックリした声で言った。

「どのみち俺はここの家を出て行かなきゃならなくなるんだって」

「なんでまた?まあ、シンデレラにはなったのかもしれないけど、お城があるわけじゃないよね?」

「俺は小宮さんの後を継いでアパート経営をしていることになっているんだ。だから当然、収入があって、それは今のママの稼ぎを凌駕してしまう」

「ふん」

「そういう状況でこのままここに住み続けると、都営の家賃は上がっちゃうし、最悪、ここを追い出されるかもって諏訪さんは言ってた」

「それは困るう。でも家賃の話だったらりゅうちゃんにも負担してもらえばいいんじゃない?お金持ちになるんだし」

 穂香は突然、母親ボイスから妹系ボイスにチェンジして言った。

「それは俺も諏訪さんに言ったんだけど、それはできないんだって。小宮さんの遺産の使い道は俺の進学に限定されてるからそれ以外の使い方はできないんだってさ」

「そっか。しょうがないのかあ。まありゅうちゃんの幸せのためなら我慢するしかないのかもね。寂しくなるけど、そのくらいしか今のあたしにはできないからなあ。でもなんで四国なの?」

「うん。この大学が選ばれたのにもそれなりの理由があるんだ。この大学、偏差値では全国でもビリの方なんだよね。でもすごい田舎にあるから周りには遊ぶ場所とかがない。結果として学生は勉強するしかなくなるから偏差値の割には医師国家試験の合格率が高くて、OB医師の評判もいいんだって」

「へ~」

「それと、偏差値が低いから学科試験よりも小論文と面接の方に重点が置かれているから俺にとっては楽だろうって諏訪さん言ってた」

「小論文なんて書けるの?漫画ばっかり読んでるのに」

「それはこれから諏訪さんが訓練してくれるって。それよりポイントは面接だよ」

「面接?」

「そう。この大学が第一志望、…第一志望っていってもここしか受けないんだけど、ここの大学が選ばれた最大の理由はそれさ。ここ、大学受験では珍しく面接が保護者同伴面接なんだよね。まあ、対象は未成年の受験生なんだけど」

 そう言って龍一は言葉を止め、穂香の表情を観察した。穂香は目が泳いでいた。

「…保護者同伴ってどういうこと?」

 穂香はかつて一度だけやったことがある、容疑者を追及する女刑事のボイスにチェンジして言った。

「読んで字のごとくだよ。受験生と保護者が一緒に面接を受けるんだ」

「りゅうちゃんの保護者って誰?」

「そりゃママに決まってるだろ。父親はいないっていう話なんだから」

「ムリムリムリムリ。あたしにそんな役、務まるわけないじゃない。諏訪さん頭おかしいんじゃないの?」

「俺もそう思ったけど、諏訪さんは、ママはどんな役でもこなせるだろ?って言ってたよ」

「それはホンがあるからでしょ?ホンがないのに役なんてこなせないよ…」

「それは俺も言ったけど、諏訪さんは最初から分かってたよ。ママが登場するのは冗談だった」

「冗談?」

「そう。冗談。諏訪さんは別のシナリオを考えているんだ」

「別のシナリオ?」

「そう。こういうシナリオだよ。俺は医学部を希望しているけど、母子家庭で金がない。ママはあてにならない。それで実の父親を探すんだ。それでようやく見つけた実の父親は、別に家庭を持っている人なんだけど、それなりに成功している人で、今まで何もしてやれなかったことを俺に詫び、学費を出し、面接に同伴することも約束するってシナリオだ」

「実の父親を探すっていうの?」

「そんなことはしないよ。それはシナリオ。それで諏訪さんが俺の父親役を引き受けて面接に登場するってこと」

「ええっ、嘘つくっていうの?」

「まあ、そういうことになるけど、その辺は諏訪さんにお任せだね。どうせDNA鑑定なんかしないんだしって諏訪さんは言ってた」

「すごい話になってきたね。まあいいや。それならうまくいきそうだ」

「俺もその話聞いてなんか行けるような気がしてきてる」

「でも四国に行っちゃうのは寂しいね。ゆっぴいとも別れちゃうんだ?」

「ゆっぴいねえ。まあそういうことになるのかな」

「それはあんまり寂しくないんだ?」

「まあ、寂しくはあるかもしれないけど」

「そっか。ねえ、りゅうちゃん。この前、ゆっぴいじゃなくて別に好きな子がいるとか言ってたよね?」と再び妹系ボイスの穂香。

「そんなこと言ってないけど」

「言ってたよ。その子とも別れちゃうね。その子には告ったの?」

「仮に好きな子がいたとしても今、ちょうど受験勉強最盛期だよ。そんな時期に告るなんてどうかしてると思うけど」

「そうでした。それより穂香ちゃんお腹空いちゃってるんですけど、ご飯ないの?」

「あったけど、全部食べちゃったね。済ませて来るのかと思ってた」

「何か食べるものない?」

「カップラーメンくらいしかないよ」

「またカップラーメン?」

「じゃあ食うなよ」

「分かったよ。修行だと思って食べるよ」

 穂香が言うと龍一はキッチンに回り、やかんに水を入れてガス台にかけた。

「四国の大学受けに行くってことは四国に行くんでしょ?初めてじゃない。飛行機で行くのかなあ?」と相変わらず妹系ボイスの穂香。

「俺もそう思ったんだけどそうではないんだって」と龍一。

「じゃあ夜行バス?まあシンデレラになったからってまだ学生の身分だからね」

「いや、歩いて行くんだ」

 龍一はそう言って三種類のカップラーメンを抱えたまま再び穂香の対面に座り、それを穂香の面前にならべた。

「はあ?歩く?江戸時代じゃないんだよ」

「東京試験っていうのがあるんだって。それがここから目と鼻の先のS大であるんだって。S大知ってるよね?線路の反対側の」

「ああ、なんか聞いたことはある。行ったことはないけど」

「だから、四国の大学は受けに行くけど、試験会場は徒歩十分さ」

 龍一がそう言うと、穂香は頬杖をつきながら目の前に並べられたチキン、シーフード、カレーの三種類のカップラーメンを見渡し、右の人差し指でカレーをつついた。

 



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十 紅葉狩り

 翌々日の水曜日の午後、百合花に呼び出された龍一は明大前の駅の改札を出て、商店街の少し奥にあるファミリーレストランへと向かった。

 百合花と外で会うときは大抵、学校のある下高井戸か家の近くの下北沢だが、周囲の目を気にするような場合には京王線と井の頭線がクロスする明大前で会ったりすることもある。

 目指すファミリーレストランに入り、客席を見回すと龍一に気が付いた百合花が手を振り、龍一も手を振ってそれに応えた。

「お待たせ~」

 そう言って龍一が百合花の対面に座ると百合花はテーブルに広げていた本をそのまま上にあげて「じゃじゃん」と言った。本は「赤本」で表紙には「Y医科大学」と書いてある。

「買っちゃった~」と百合花。

「どっ、どうしたの、それ。受けるの?」と龍一。

「うん。りゅうちゃんにLINEもらって、私もここ受けることにした。まあ、りゅうちゃんには申し訳ないけど、滑り止めとしてね」

「滑り止めって、ゆっぴいは内部推薦で上の大学に行くんじゃないの?」

「まあ、色々な事情があってのことだよ」

「色々な事情?」

「そう。色々な事情。結構複雑だよ。まず、内部推薦は無理そうなので、私はN大、一般入試で受けることになる」

「ああ、そうなんだ。推薦の基準に達しないとか?」

「まあ、そうだね。バスケばっかりやってたし。それに元々うちの学校は附属の中ではレベルが低い方で、相当成績良くないと医学部は無理なんだよね。ここ何年かは、医学部は出ていないって聞いてる」

「へ~、そういうもんなんだ」

「歯学部なら大丈夫だって言われてはいるけど、パパもママも、私もそうだけど、それはパス。それに、パパは相変わらずK大を受けろってうるさいからK大第一志望にするので必然的に内部推薦は辞退することになるの。かっこいいでしょ?基準に達してないくせにK大受けるんで内部推薦は辞退しますって」

「でも本命ではあるのかな?N大が」

「それはそのとおり。結局、K大が第一志望でもこれは絶対に受からないだろうから。志望校の判定がアスタリスクから抜け出したことはないし。N大が本命校、それでY医大が滑り止めってことになるね。Y医大はこれまで眼中になかったから模擬試験でも書いてないけど、きっと十分合格圏に入ると思う。案外、りゅうちゃんとは大学で一緒になれるかもね」

 百合花はニッコリ笑ってそう言った。

「でもY医大は四国だよ?パパはもちろん、ママも受験自体許さないんじゃないの?」

「そうでもないんだなあ。昨日、この話、ママにはしたんだけど、『横浜の大学?』とか言ってて、私はそれに肯定も否定もしなかったんだけど、それ以上の突っ込みはなかった。東京試験会場はS大だし、申し込みからなんから全部自分でやるつもりだからごまかせるとは思うよ」

「なかなかやるね」

「へへへ。ところで諏訪さんからはY医大受験にあたって何か指示みたいなのはあったの?」

「うん。学力試験はとにかく過去問の問題と答えを丸暗記しろって言われてるのでとにかくそれにチャレンジだね」

「丸暗記ねえ」

「それだけでも今の俺には高いハードルだよ。まあ、ポイントを絞って勉強しろってことなんだろうけどね。それと小論文と面接、もう知ってると思うけど、保護者同伴の面接ね。それが重要になってくるからその訓練というか準備に力を入れるって」

「準備って具体的に何やるの?」

「さあ。それは、今は教えてもらってない。もう少ししたら小論文の準備から始めるっていうんだけどね。取り敢えず、それは中間テストが終わってからってことになってる。十一月の初め頃かな?」

「へ~、随分のんびりだね」

「ああ、それと、ラジオ体操を毎朝やるようにって言われたなあ」

「ラジオ体操?」

「そう、ラジオ体操」

「何でまた?」

「さあ。理由は俺も聞いたんだけど、それはまたそのうち教えるって。ただ、これが一番重要で、ラジオ体操を毎朝、決まった時間にできるかどうかが合否を決すると言っても過言ではないって言ってたよ」

「はあ?なんで?」

「さあ。また謎が増えたんだけど、諏訪さんには諏訪さんの計算があるのかな。まあ、規則正しい生活をすることが受験勉強の基本中の基本だっていう単純なオチかもしれないけどね」

 そう言うと龍一の注意が百合花の食べているパフェに向かった。

「それ何?」

 百合花は黙ってメニューを広げ、指でさして「これ」と言った。

「じゃあ俺もそれを」

 龍一はそう言ってワイヤレスチャイムのボタンを押し、店員を呼んだ。

 

 中間テストが終わった後の十一月八日の月曜日、学校を終えた龍一は図書室で少し時間を潰してから時間を確認し、下高井戸駅へと向かった。駅前では背の高い制服の少女が待っていて、龍一に気付くと笑顔で手を振った。

「お待たせ~」と龍一。

「別にお待たせでもないよ。上の本屋で立ち読みしてて、今、降りてきたところだから」

「じゃあ行こうか」

 龍一は言うと百合花を促し、東急世田谷線のホームへと向かった。ちょうど停車中の三軒茶屋行き二両編成の二両目に乗り込み、電車はすぐに発車した。

「私も行って、お邪魔じゃないかな?」

「それは諏訪さんの了解を得てるから大丈夫だよ」

 吊革につかまった二人はそんな言葉を交わし、二両編成はすぐに三つ先の宮の坂に到着した。

 二人は東側の緑の多い静かなエリアに足を踏み入れ、しばらく舗装路面を歩くと仰々しい豪徳寺の門が現れた。

 中に入ると左側に何重かの塔があり、しばらくキョロキョロしながらさらに進むとベンチに座って手を振る諏訪の姿が見えた。二人は近付いて「こんにちは~」と龍一、百合花の順にあいさつした。

「やあ。どうだ。こういう風景もいいだろう?」とベンチに座ったままの諏訪。膝の上にはコンビニの袋が置かれている。

「いいですね。なんか秋って気がします」と百合花。

「スケッチブック持ってくれば良かったです」と龍一。

「スケッチブックか。そうか。絵を描くのは龍一君の特技だったな」

「どうして今日はここに?」

「まあ、僕の事務所や近所のファミレスとかでも芸がないんで、せっかく秋だし、ここに二人を連れて来てみたいと思ってね。ここに来たことはあるのかな?」

「いいえ。世田谷にはもう十八年暮らしてますけど、ここに来るのは初めてです」と龍一。

「私も初めてですけど、なんかいい感じの所ですね。それと、…外国人、多くありません?」

と百合花。

「そうだね。外人さんは多いかな。僕は、あまり承知していないのだけど、海外の日本旅行サイトでこの豪徳寺、結構紹介されているみたいなんだよね。だから日本人よりもむしろ外国人によく知られているようで、東京の穴場ということで外国人がよく来る。ちょうど今、紅葉が見ごろで、…まあ本当の見ごろはあと一、二週間先なんだろうけど、受験勉強で疲れた頭を癒すにはここがいいかなとか思って、今日のミーティング会場はここにしてみたよ。まあ座って肉まんでも食べなよ」

 そう言って諏訪は二人にベンチに座るよう促し、諏訪の右隣に龍一が、龍一のさらに右隣に百合花が座った。

 二人が座ると諏訪は膝の上のコンビニの袋を覗き、肉まんの入った紙袋を取り出して龍一と百合花に渡し、「どうぞ」と言い、二人はほぼ声をそろえて「ありがとうございます」と言った。

「こんな風情の中で肉まん食べるのも情緒がありますね?」と百合花。

「情緒はないだろう。茶会でもやれば別だけど、肉まん程度ではね。でもここに来ると京都に行く必要ないだろ?そう思って地元の集まりやなんかでも意見して、地域の人も好感を示してくれるんだけど、残念ながら行政が動かない。僕としてはもっと宣伝したいところなんだけどね。でも、宣伝し過ぎると人が多く来過ぎて情緒が失われてしまうから、こんな風にひっそりしている方がいいのかもしれないけど。さて、小論文の話だけど、百合花さんもその話が聞きたいということでいいのかな?」と諏訪。

「ええ。私もY医大を受験することになりましたから」と百合花。

「ええっ。なんでまた?」

「滑り止めです。結局、N大の内部推薦は受けられそうになくて、それで一般で臨むんですけど、そういう事情で滑り止めが必要になりましたから。滑り止めだからどこでもいいなと思っていたらりゅうちゃんがY医大を受けるって聞いたんでじゃあ自分もと思って」

「Yはついてるけど、キャンパスは四国だよ」

「それは知ってます。でも滑り止めだし、東京試験あるっていうし、それにりゅうちゃん一緒なら四国でもどこでもなんとかなるかなあと」

 百合花は両手で肉まんの袋を握ったまま言った。

「親御さんは反対しないの?別に東京でも似たようなレベルのところはあると思うけど」

「パパには内緒にしてます。ママはYから始まるので神奈川県の大学と思ってるみたいです」

「……そうか。アストロツインということかな?同じ星の下で運命を共にすると。でも現実はもっと複雑怪奇だけどね。まあいいや。小論文の話をしよう。今まで特に論文を書く練習をしたことはないね?」

「はい。漫画はたくさん描いてきましたけど」と龍一。

「なるほど。では論文とは何か?その辺から始めよう。論文と似て非なるものにエッセイというものがあるけど、君は論文とエッセイの違いって分かるかな?」

「はあ。…エッセイって随筆のことですよね?」

「うん」

「エッセイは軽めのモノとか、生活に密着したものとかそういうことでしょうか?一方、論文は学術的なモノ」

「うん。分かりませんと言わなくなったのはいい傾向だけど、答えはブブーだ。正解は、論文は論理的だがエッセイには、論理は必要ないということだ」

「論理、ですか?」

「論文はロジカルなものだと言ってもあたり前すぎて伝わらないかな?もっと簡単に言うと、論文には説明するのに理由がいるけど、エッセイにはいらないということだ」

「具体的に言うとどういうことでしょう?」

「なるほど、例を挙げた方が分かりやすいかな?例えば、冬にコンビニで一番売れる商品は何か?という問題が出されたとしよう。小論文のテーマとしてね。その場合、冬にコンビニで一番売れる商品は肉まんである。なぜなら、温かくて、安価で、美味しいからであると書くのが論文だ。理由が必ず記載される。一方、エッセイでは、理由は要求されない。冬にコンビニで一番売れる商品は肉まんである。あなたもそう思いませんか?でいいんだ」

「…なるほど。ポイントは理由ということですね?」

「そう。理由。それで、理由も何でもいいから並べればいいというものではない。量と質が肝心となる。まず量。理由は三つ述べなければならない。もちろん問題文に理由を三つあげろなんて書いてない。でも理由をあげる場合、それは三つであるべきで多くても少なくてもいけない。なぜかというと、二つ以下では理由づけが乏しい印象を受けるし、四つ以上では読む方が読みこなせないからだ。だから理由は三つ、まず…、また…、さらに…、そうやって論理を展開していく」

「分かります」

「次に質だけど、これはロジックが合っていないと駄目だということだ。でもこれはそんなに難しくない。例えばさっきの肉まんの話では、冬にコンビニで一番売れる商品は肉まんである。なぜなら今日、ラーメンを食べたからである、という文章では駄目だということだ。文法は完璧だよ。でもロジックが滅茶苦茶だから点はつけようがない」

「論理的であればいいということですか?」

「ただ論理的だというのでは足りないね。それは君自身の経験に基づいた論理でなければならないということだ」

「経験?」

「つまり、個人的な経験を文章にして読み手を読む気にさせるということだよ。一般論は大人なら誰でも知っている。大学教授ともなれば君との人生経験は比べ物にならない。そんな一般論を採点者である大学教授は読む気にはならないよ。でも君の経験だと読まないと分からない。その経験を採点者は知らないんだから分かりようがない。だから経験に基づいた論理が展開されていると、採点者は読む気にならざるを得ず、結果的にいい点が付くということだ」

「しかし、僕はまだ高校生に過ぎませんし、そんなに多くの経験をしているわけではありませんよ。ゆっぴいと違って海外旅行とかもしてないですし」

「何言ってるんだ。君はこれまで数え切れないほどの漫画を読んできたんだろ?別に直接の経験でなくても漫画のような疑似体験でもいい。僕は三年前に○○という漫画を読んだ、というのでも十分だよ」

「ああ、それならなんとか行けそうです」

「だろ?で、実際のテスト対策なのだけど、どうするのかと言われると、それはあらかじめ書いておくという答えになる」

「あらかじめって、どんな問題が出るかなんて分かりませんよ」

「そう。どんな問題が出るかは分からない。でも過去問は公表されているし、傾向は分かる。その傾向から大きく外れる問題は出ないし、出せないだろう。あくまでも医学部の受験なんだから。だから過去七年分くらいを題材にあらかじめ書いておき、それを覚えておく。自分の書いたものだから記憶するのは簡単だ。それを実際の問題に合うようにアレンジする。そのアレンジにたくさん時間を使えばいい」

「そんなんで対応できるんですか?」

「とにかくパターン化することだ。まず最初に結論。そしてその理由を三つ書く。まず、また、さらにとね。それで外すことはないよ」

「過去問を題材に書くのは分かりましたが、書いたやつを諏訪さんはチェックしてくれますか?」

「もちろんだよ。僕がリライトして完璧に近いものを作って、君が記憶するんだ」

「書いたらどうしましょう?原稿用紙はその辺で手に入れられるとは思いますが」

「メール添付で僕に送ってよ。アドレスは分かるだろう?名刺に書いてある」

「アドレスは分かりますけど、僕、パソコン持っていないんで」

「ああそうか。ではスマホで写メでもいいよ」

 諏訪がそう言うと「あの~」と百合花が割り込んできた。

「私も参加させていただいていいですか?その論文の作成チェック」

「それは、…別に構わないけど」と龍一に目配せしての諏訪。

「じゃあ、私のパソコンから諏訪さんのところに送りますね。りゅうちゃんの分も。りゅうちゃんのはスキャナーで読んで」

「ああ、そうしてもらえるとありがたいや」と百合花に続けて龍一。

「じゃあ、そういうことで取り敢えず肉まんを食べよう。冷めちゃったね」

 諏訪はそう言うと袋の中から自分の分の肉まんの入った紙袋を取り出し、袋から頭だけを出してかじり、龍一と百合花に「どうぞ」ともう一度言った。

 諏訪に言われ、二人も紙袋から肉まんの頭を出してかじった。

「スミマセン。後一つ聞いていいですか?」と龍一。

「ああいいよ」と肉まんを咀嚼しながらの諏訪。

「ラジオ体操なんですけど、何の意味があるんですか?」

「ああ、ラジオ体操ね。ちゃんとやってるかな?」

「ええ、ちゃんとやってます」

「六時半に起きて?」

「最近は六時頃起きてます。母にはうるさがられますけど」

「じゃあ、聞くけど、ラジオ体操の始まる前に交通情報が流れるよね?」

「ええ。…はい」

「そのアナウンサーの中で誰が一番好きかな?」

「はあ?」

「道路交通情報センターのアナウンサーの中で誰が一番好きかなって聞いたんだよ。穂香さんは声優だし、君も他の人よりかは声にはうるさいだろ?」

「はあ、…じゃあ、…コエチヒロミさん」

「おお、いいね。ちゃんと時間どおりラジオ体操やってるようだね。まあ、ラジオ体操の理由はまだ内緒だ。そのうち種明かしをしよう。ただ毎日欠かさずやることは忘れないでね。まあ、土日は少しサボってもいいけど」

 諏訪は言うともう一度肉まんにパクついた。

 

 年が明けた一月二十八日の金曜日の午後五時頃、龍一は代沢の自宅アパートで諏訪を待っていた。

 Y医科大学の入学試験は第一次試験の学科及び小論文と第二次試験の面接に分けて行われる。第一次試験を通過した者だけが面接試験に臨めるのであるが、二日前に発表があり、龍一はこの週末に行われる第二次試験へと進んでいた。

 面接は保護者同伴面接であり、穂香ではなく、諏訪が偽の父親役ということで面接に臨むので、諏訪はその打合せにやってくるのだ。

 この日はたまたま仕事が早く上がり、穂香も家にいる。ダイニングチェアは二脚しかないので、穂香は小さい丸椅子に座り、ゲストの到着を待っている。

「ホントにご飯準備しなくていいのかなあ」と母親ボイスの穂香。諏訪と会うのは久し振りだ。

「それは俺もしつこく誘ったんだけど、酒が飲みたくなると駄目だって言われてね。明日、面接本番だし」と龍一。

「それにしたって、こんなボロアパートまで来てもらうんだから」

「まあ、ご飯準備しないのは正解だと思うよ。カップラーメンってわけにはいかないだろうし、我が家のご馳走といえばせいぜい肉の入ったカレーくらいのもんだろ?それも鶏のひき肉で一度作ったら二、三日は続く」

「カレーは一晩寝かせるのが美味しいんだよ」

「それは言い訳でしょ?」

「そうだけど。でもなんでわざわざこのおうちなの?」

「それは諏訪さんなりの配慮。明日が本番、ってか最後だからね。ここで普段と違う行動をして体調崩したら駄目だろうからって」

「この前みたいにカラオケボックスでも良かったのに」

「それって自分が歌いたいだけだろ?」

 母子でそんな会話をしているうちに玄関の鉄の扉をトントンと叩く音がした。立ち上がろうとする龍一を制して穂香が席を立ち、玄関の扉を開けた。開けると諏訪が立っていて、手に買い物袋のようなものをぶら下げている。穂香の目が輝いた。

「ご無沙汰致しております。いつも龍一がお世話になりまして。スミマセン。こんなところまでお越しいただきまして。汚いところですけど、どうぞおあがりください」

 穂香はかつてアニメの母親役で口にしたことがあるようなボイスで言った。

「では失礼します」

 諏訪はそう言って部屋の中に入り、ダイニングテーブルの龍一の対面を勧められて座った。龍一も座り、穂香も元の丸椅子に座った。

 諏訪は持ってきたビニール袋の中から長方形の物体を取り出して龍一と穂香の前に置いていく。

「これはまあ差し入れです」

「きゃー。諏訪さん素敵~っ。こんなことだろうとは思っていたんですけど~」と妹系ボイスにチェンジしての穂香。すかさず龍一が「期待してたのかよ」とたしなめた。

「僕は古い人間でゲンを担ぐんでね。まあ、穂香さんのような電波少女には分からないかもしれないですけど」と諏訪。

「ゲン?」と龍一。

「トンカツ弁当だよ。池ノ上からここに来る間にとんかつ屋があるだろ?そこで買ったのさ。まあ勝ちに行くということでね」

「分からないなんてとんでもありません。スミマセン。久し振りにお肉を見て興奮してしまいました。冷静になります」と妹系ボイスから段階的に母親ボイスにチェンジしての穂香。

「では、まあ、おいしそうなものを前にして長話するのもなんなんですけど、でも、今日、僕がわざわざ出向いてきたのは明日の打合せなわけですから、まず、明日の話からしますね」

「はい」と穂香は母親ボイスで元気に返事をしてかしこまった。

「まずは一次試験合格おめでとう。まあ、こうなるとは思ってはいたけどね」

「ありがとうございます。諏訪さんのお蔭です」と龍一。

「で、面接だ。まず最初に一番大切なことから話しておこう。龍一君。君に質問だ。君の長所、あるいは君が今まで生きてきて自慢できること、これだけは自信のあることってあるかな?」

「はあ。これって、面接の練習ですか?」

「いや、あくまでも打合せだ。だからまずは気楽に答えてもらいたい」

「はい。やはり…漫画ということになりますでしょうか。知識もそうですけど、作品もそれなりのモノを描いてきたと思っていますし。マン研では中学でも高校でもキャプテンやりましたし」

「そうか。残念ながらその答えはブブーだ」

「確かに大学受験の面接の答えとしてはふさわしくないかもしれませんけど、他に思いつくものはありません。漫画なら自信はあります」

「穂香さんはいかがですか?龍一君の長所」

 諏訪は、今度は穂香に振った。

「長所ですか?…考えたことないなあ。…優しいところとか。この子、とっても優しいんですよ。疲れているときはご飯作ってくれたりして。ていってもインスタントとかレトルトとかですけどね。でも時々はご飯炊いてくれたりもして」と落ち着いた母親ボイスの穂香。

「残念ながらそれもブブーですね。正解は、僕は毎朝六時半に起きてラジオ体操をやっています、だよ」

「はあ?」と龍一。穂香もあきれ顔だ。

「なんだそりゃ?と思っているな。でもそれが、僕が君に毎朝六時半のラジオ体操を命じた理由だ。よく考えてみてくれ。毎朝六時半にラジオ体操ができる人間はすべてを兼ね備えていると思わないか?もちろん学力は測れない。だからそれは学力検査で判断すべきことだ。でも人間性はさ。早寝早起きであること。健康であること。毎日続ける忍耐力を持っていること。大学の先生はそんな学生に自分の知識を伝授したいと思うんじゃないのかな?毎朝几帳面に六時半に起きてラジオ体操ができる学生ならきっと自分が与えるどんな困難な課題にも真面目にチャレンジしてくれると期待するんじゃないのかな、ということだ」

「そうかもしれません」と冷静に龍一。

「これが一番大切なことで、もっと言ってしまうと、僕は毎朝六時半に起きてラジオ体操をやっていますと君が面接官の前で言えればその時点で君の合格は決定するだろうと思っている。補欠合格でなくて正規合格だ」

「それはいくらなんでも言い過ぎでは?」

「言い過ぎだとは思わないね。僕が面接官ならそうするよ。君が学科試験最下位でも最後に逆転さ。入学試験なんてそんなもんだと思うよ。ただ一つ問題がある」

「問題?」

「そう。面接官がそういう、君が、僕は毎朝六時半に起きてラジオ体操をやっていますと答えるにふさわしい質問を君に投げかけてくれるかどうかという問題がある。そういう問いかけがなければ君はこのセリフを言うことができない。だから今度は僕の登場だ。僕は面接官がそれにふさわしい質問を投げかけるように面接官を誘導する。そしてチャンスが来たらすかさず決めゼリフを決めてもらいたい」

「……そういうことだったんですか?」

「そういうこと。そしてこのセリフは口から出まかせでは言えない。本当に毎朝六時半にキチンと起きてやっていないとね。その辺は、面接官もプロだから嘘か本当かを見破るはずだ」

「分かりました」

「後はテキトーでいいよ。僕もいるし、何かあれば助け舟を出せると思う。ただ、一つ気を付けてもらいたいのは、僕は君の父親だということ。それは忘れないでね」

「はい」

「面接会場以外でも、待合室とかでも、とにかくS大のキャンパスに入ったら気を付けてほしい。どこに目があって耳があるか分からないからね。僕もそういう風に演技するから」

「そんなところでいいですか?」と今度は妹キャラにチェンジしての穂香。龍一は嫌な予感がした。

「そうですね。そんなところですけど、穂香さんからなにかありますか?」と諏訪。

「トンカツは揚げたてが美味しいと思うんですけど」

 穂香が妹キャラでそう言うと龍一は思いっきり嫌な顔をし、諏訪を見た。諏訪は苦笑いをしていた。

「じゃあ、明日の勝利を祈ってトンカツでもつつきますか」

 諏訪はそう言って弁当に巻かれてる輪ゴムを外し、穂香も「いただきま~す」と言って続き、龍一も続いた。

「ところで一次試験、百合花さんとは一緒だったのかな?」と割り箸を手にして諏訪。

「ええ。試験会場、そんなに広くなかったですし、すぐに分かりましたよ」と龍一。

「まあ、彼女目立つしね」

「目立たなくてもお互いにすぐ分かりますから」

「そりゃそうだけど、面接は時間ずれるのかな?」

「そうですね。集合時間は僕達の方が少し早いと思います」

 そんな二人の会話をよそに、穂香は一口トンカツをほおばると「おいし~」と妹系でもないキャバクラ嬢系のボイスで叫んだ。

 



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十一 東京試験

 翌日の午後二時過ぎ、面接を終えた諏訪と龍一はS大学の校舎から出て冬の陽ざしを浴びたところだった。

 諏訪の作戦どおり、保護者同伴面接のインタビューでは面接官というよりも諏訪が主導権を握り、龍一は「僕は毎朝六時半に起きてラジオ体操をやっています」という決め台詞を言うことができた。面接官にウケたことはその場ですぐに分かり、その瞬間、龍一は合格を確信していた。医学部を希望した理由もお金持ちになりたいからではなく、以前、国境なき医師団をテーマにした漫画を読み、とても感銘を受けたからだと答えた。すべては諏訪のシナリオどおりだった。

 S大のキャンパスを正門に向かって歩いていると、遠くから見覚えのある背の高い制服の少女ときれいに着飾った熟年マダムがこちらに向かって歩いてくるのが視界に入った。

 百合花がニッコリ笑って龍一に手を振ると、龍一は隣を歩く諏訪の耳元に顔を寄せ「ゆっぴいママです」とささやいた。

「やあ、この時間だったんだね。こっちは今終わったところ」と立ち止まって龍一。沙織も立ち止まり、同じく立ち止まった諏訪をしげしげと見つめた。

「りゅうちゃん、…この人は?」と沙織。

「ああ、この人は…」と龍一が言うのを遮って、「初めまして。百合花さんのお母さんですね?諏訪と申します。龍一君の実の父親です。いつも龍一…」と諏訪が話し始めた途端、沙織がスルスルと諏訪に近付き、右の平手で諏訪の左の頬を思いっきり叩いた。

「パチン!」という乾いた音がキャンパスに響いた。幸い、他の誰にも見られてはいなかったが、龍一と百合花は声が出せないほど驚いた。

「穂香ちゃんがあなたのために今までどれだけ苦労してきたのかあなたには分かって?」

 沙織は言って諏訪を睨み付けた。いきなり平手で吹っ飛ばされた諏訪は前かがみになって頬を両手で抑え、身体をすぐには起こすことができなかった。

 そんな二人を前に龍一と百合花は口を開け、目を大きく開いた状態のまま固まっていた。

「…ゆっぴいママ違うんだよ」

 ようやく我に返った龍一が言った。

「何が違うっていうの。りゅうちゃん。あなたこの男のことが許せるの?私は許せない。あなただって穂香ちゃんの傍にずっといたんだから分かるでしょ?穂香ちゃんがどれだけ苦労して、どんな気持ちで今まで過ごしてきたのか」と興奮したままの沙織。

「許せるよ。ってか諏訪さんにはとても感謝してる。諏訪さんに会わせてくれたゆっぴいにも、…いや、俺、何言ってんだろう。違うんだよ。誤解だよ。それは、…ゆっぴいママの誤解だってば!」

「ゆっぴい?…何でゆっぴいが出てくるの?」

 沙織がそう言うと、ようやく諏訪は身体を起こし、沙織の方を向いた。

「蓬田さん、あなたのおっしゃるとおりです」と冷静に諏訪。

「……」

「僕には龍一君の父親を名乗る資格なんかない」

 諏訪がそう言うのを聞いて龍一と百合花はハッとしたが言葉は出てこなかった。諏訪が続けた。

「穂香さんにも大変な苦労をかけてしまいました。そのこともとても申し訳なく思っています。でもうれしかったですよ。蓬田さんにひっぱたかれて。龍一君がそんなにもみんなから気に掛けられて、大切にされていたのかって分かって…」

「…穂香ちゃんには会ったんですか?」と引き続き喧嘩口調の沙織。

「ええ。昨日、代沢のアパートで、三人でトンカツ弁当をつつきましたよ。今日のゲンを担いでトンカツでね。三人で食事をしたのは初めてです」

 それを聞いて沙織は少し冷静になった。

「穂香ちゃんのこと、大切にしてあげてください。色んな事情があるのかもしれませんけど」

「はい。スミマセン、面接前の大切な時間に突然現れまして」

 言って諏訪は百合花の方を向き

「百合花さんも面接頑張ってね。まあ、君は学力試験で相当のアドバンテージがあるだろうから、面接なんてただ座っていればいいだけなのかもしれないけど。どのみち、ここは滑り止めだろうし」

 言って今度は龍一の方を向き

「じゃあ、今日はこの辺で。お疲れ様でした。これで全部終了だね。もう身辺整理に入ってもいいかも。捨てるものは捨てて。また連絡します。穂香さんにもよろしくね」

 言って諏訪は三人に背中を向け、ずんずんと井の頭線の駅の方に早足で歩いて行った。

 そんな諏訪を見送る沙織の後ろで龍一と百合花は呆然と立ち尽くした。あまりにも予想外の展開で言葉が思いつかない。

「…りゅうちゃん。どういうことなの?ゆっぴいも。私、全然話聞いていないんだけど。何で突然、お父さんが現れたの?それに随分と親しそうだったけど」

 諏訪の背中が見えなくなってから振り向いた沙織がそう言い、龍一と百合花はお互いに顔を合わせた。

「…後で話すよ。それよりこれから面接なんでしょ?」と龍一。

「そりゃそうだけど」と沙織。

「終わってから話そう。とてもじゃないけど、一言二言で話せるレベルじゃない。複雑な話なんだ。俺ここで待ってるから」

「分かった。じゃあ、また後で」

 そう言うと沙織は百合花を促し、龍一は校舎の中に消えていく二人の後ろ姿を見送った。

 

 四十分くらいが経過し、再び沙織と百合花はS大正門前に現れた。二人を認識した龍一はそのまま二人が近付くのを待ち、百合花と沙織は龍一の前で立ち止まった。三人に笑顔はない。

「どうする?お茶でもする」と疲れた表情の沙織。

「とにかくここじゃ迷惑だから移動しよう」と龍一。

 三人はS大を出て東京大学駒場リサーチキャンパス沿いを無言で移動し、しばらく歩いて区立北沢一丁目児童公園という表示のある敷地の中に入っていった。

 土曜日の午後ということもあり、園内では父親と幼い子どもが遊んでいた。龍一は邪魔にならないような場所で立ち止まり、振り返って沙織を見た。

「あの人、俺の父親じゃないんだよ」とため息交じりに龍一。

「えっ?」と沙織。百合花は沙織の背後に控えている。

「諏訪さんっていう、俺が学費のことで相談してたファイナンシャルプランナーの人。ママに小宮さんとの結婚を勧めてた人だよ」

「えっ、あそうだったの。…でも、なんでまた?」

「Y医大の面接は保護者同伴でしょ?保護者同伴っていっても、分かると思うけどママじゃ絶対に役不足だし、…そりゃ、ママは声優でどんな役でもこなせるけど、それはホンがあるからで。…台本ね。それがなきゃ、入学試験の面接みたいな臨機応変な対応はママには絶対に無理だから。それで、あの人に俺の父親役をやってもらったんだよ」

 龍一がそう言うと、沙織は恥ずかしそうな表情を見せた。

「ああ、そうだったんだ。それならそうと言ってくれれば良かったのに」

「それは無理だよ。本物の父親のフリをしないといけないから。ばれたらとんでもないことになるからね。だから、とにかく試験会場では何が何でも父親でいるって諏訪さん言ってた。だからひっぱたかれても父親として対応したんだと思う。俺もビックリした」

「…どうしよう、私。早とちりしちゃった…でも、なんでゆっぴいが出てくるの?あの人、ゆっぴいのことよく知ってるみたいだったけど」

 沙織は振り返って百合花を見た。

「……」

「どうしたの?何かあったの?」

黙っている娘に沙織は優しく声をかけた。

「ゆっぴいは関係ないよ。ゆっぴいは俺に付き合ってもらって…」

「いいよもう」

ごまかそうとする龍一を少し大きな声で百合花が制した。

「もういいよ。もういい。いずれこういうときが来ることは分かっていたから。せっかくの機会だから、本当のことを話すよ」と百合花。百合花は龍一、そして沙織に強い視線を送った。

「だってそれは」と龍一。

「また諏訪さんとママは顔を合わせるかもしれないし、そんな時に諏訪さんだけが本当のことを知っているっていうのは良くないと思う」と百合花。

「本当のこと?」と沙織。

「そう。本当のこと……本当のこと、全部話すね。ママには隠しておこうと思っていたけど、いずれはママにも話さないといけないことだから」

 百合花は悲しい口調で沙織の方を見た。

「何?何か隠してるの?」

 百合花は頷いた。

「パパのことだよ」

「パパ?」

「そう。パパ。ビックリしないで聞いてね。パパ、…浮気してるの」

「浮気?」

「そう。その、パパの浮気の相手が、今の諏訪さんの奥様。諏訪さんの奥様が病気になってしまって、パパが奥様の主治医になって、それでパパは自分の患者に手を出したんだって。まったく最低だよね」

 沙織が青ざめていくのが百合花にもハッキリと分かった。百合花は続けた。

「それで、ママに知らせるとママはショックに耐えられないだろうと思ったから、私が何とかしようと思って、諏訪さんに会いに行ったの。でも諏訪さんは相手にしてくれなくて、それで、諏訪さんはファイナンシャルプランナーでお金の相談を受け付けているということだったんで、りゅうちゃんに理由つけて会いに行ってもらったの。諏訪さんとのきっかけを作るために。りゅうちゃんも学費のことで悩んでいたからちょうど良かったし。それで、りゅうちゃんのお蔭できっかけができて、私も諏訪さんに会って、パパのことも話した。諏訪さん、全部知ってたよ。奥様から聞いてたんだって。全部」

「全部って?」

「パパの不倫のことも。全部。それで奥様とパパの仲をぶち壊してくれって頼んだのね。奥様がうちを、蓬田家を滅茶苦茶にしているんだって言って。でも諏訪さんはパパとママの関係が冷めたのが先で、奥様が出てきたのはその後からだって、因果関係が逆だって言ってた。だから奥様をパパから引き離してもパパとママの仲を修復させることはできないって。それでも私はパパが憎かったから、だったら一緒にパパに復讐しようって言った。でも、諏訪さんはそれもできないって。パパのことは恨んでいるけど、今は何もできないって。奥様が病気だからって」

 沙織はしばらく呆然としていた。そのうち涙も流れてきた。そんな沙織を見ながら龍一も百合花も動けずにいた。

「ごめんなさい。急にこんなこと言ってしまって。でも、いつまでも隠せないし、今がちょうどいいタイミングだと思って…」と百合花がしゃべるのを遮って

「ゆっぴい、それは違うの…」と沙織。

「えっ?」

「…パパのことを悪く言わないで。パパは何も悪くないの。悪いのは、…悪いのは全部この私なの?」

「……どういうこと?」

 百合花は沙織の言っていることが理解できなかった。今まで興奮していた自分が嘘のように冷静になって、沙織と向き合った。龍一はその沙織の後ろで黙っている。

「私が全部いけないの。私が、…パパのことを裏切ってしまったの」

「えっ?」

「もう何年も前の話なの。私が…、どうしても我慢できなくなってパパのことを裏切ってしまった」

「ママ…」

「パパからは離婚を切り出された。私もそれは仕方ないと思ったけど、ゆっぴいのことが可哀想で。ゆっぴい、まだ小さかったし。…だからゆっぴいが大人になるまでは仮面夫婦でいたいって我がまま言って、パパはそれを受け入れてくれた」

「そんな…」

「だから、パパがたとえよその奥様と何かあったとしても、そのことをママは咎めることはできないの。…あなたが大人になったら、…あなたが大学に行って、卒業して、医者になったら家族は解散するつもりでいた…」

「…なにそれ、…じゃあ、今までのは、…全部お芝居だったっていうの?私だけでなく、りゅうちゃんやりゅうママも騙してたっていうの?」

 百合花が大声を出した。遠くで遊んでいる父子が百合花の方を見た。

「穂香ちゃんには全部話してある。穂香ちゃんにも随分怒られた。でも私の話は真剣に聴いてくれたよ。穂香ちゃんは。穂香ちゃんだけが、私のただ一人の心を許せる友達だった。じじやばばにも言ってない。じじやばばも私は円満な家庭を築いていると思ってる」

「…最低!…じゃあ、私は何だったの?りゅうちゃんまで巻き込んでバッカみたい」

 百合花はそう言うと突然走り出し、あっという間に龍一と沙織の視界から見えなくなった。公園に二人が取り残された。

「…ゆっぴいママ」

 少し沈黙が流れてから龍一が沙織の後ろ姿に声をかけた。

「ごめんなさいね。私がこんなだったばっかりに」と龍一の方は振り返らずに沙織。

「どういうことなの?よく分かんないよ」

「今言ったとおりだよ。私とパパはもうとっくに終わってるの。本当はもうとっくに離婚もしてるのよ」

「マジかよ?」

「百合花のために蓬田は名乗ってる。同じ屋根の下に住んではいるけど、それは単に同居しているだけ。戸籍とか見ればいずれゆっぴいにも気付かれる話ではあった。だからパパがどの女の人と付き合おうとそれは私が干渉できることじゃないの」

「…それで、…どうするつもりなの?」

「もう家族は解散するね。ちょうどいいタイミングだったかも。ごめんなさい。りゅうちゃんに押し付けちゃうけど。ゆっぴいのこと」

「どういうこと?」

「ゆっぴいがY医大を受けるって聞いて、Y医大が四国にあることに気が付かない振りしていたけど、そんなことは最初から分かってた。私は医者を何年もやってるし、Y医大出身の先生も何人も知ってる。気が付かないわけがない。それで、このままゆっぴいがY医大に行ってくれたら、あの家を出て行ってくれたらどんなにいいだろうかなんて考えてた。そんな本心、おくびにも出さないでね」

「……」

「ごめんなさい。私って本当にズルい女」

 沙織はそう言うと、百合花を追いかけるように小走りで公園から離れて行った。

 真冬の寒い児童公園に龍一は一人、ポツンと取り残された。

 

 合格発表の二日後の二月五日の土曜日の午後、龍一は千歳烏山駅近くの雑居ビルの中にある諏訪の事務所を訪れていた。

 笑顔で諏訪に迎えられた龍一はDバッグを開けて大学から送られてきた合格通知書の入っている大きな封筒を取り出し、諏訪に渡した。

「中身は見たのかな?」と諏訪。

「ええ、手続き関係のものばかりです。生協の案内とかも入ってますけど、取り敢えず、そのまま全部持って来ました」と龍一。

 諏訪は立ったまま事務所に置かれたダイニングテーブルの上に書類を広げ、一番手前に入っていた合格通知書をしげしげと見つめた。

「まあ、何はともあれ合格できて良かったよ。最初からこうなるとは思ってはいたけど、万が一補欠合格だったらこれからまた持久戦になるところだったからね」

「それと…」龍一はそう言ってもう一度Dバッグの中を探り、クリアファイルを取り出し「写真です。取り敢えず、学校で撮ったやつをそのまま全部持って来ました」と言って証明写真の入っているファイルを諏訪に渡した。

「願書に貼ったのと同じやつだね。じゃあ、後の手続きは僕の方でやっておくよ。とにもかくにも九日までに入学金を払い込まなければいけないからね。その後の書類提出はじりじりとやるよ。君の確定申告もやらないといけないしね」

「僕の確定申告ですか?」

「そう。君も不動産所得を申告しないといけない身分になってしまったからね。産まれて初めての確定申告だ。まあ、これはまだ期限が先だし、のんびりやるよ。また、申告書出す時にはこの事務所に来てもらおうかな。君の個人番号カードが必要になるし」

「よく分かりませんがどうぞよろしくお願いします」

 龍一はそう言って諏訪に一礼した。

「まだ、学校はあるのかな?」

「来週の水曜日まで学年末試験です。その後は、週一で登校日があるくらいです」

「いよいよ卒業だね」

「諏訪さんのお蔭でここまでくることができました」

「まあ、身辺整理でもしといてよ。引っ越しの荷物、こないだ君の家にはお邪魔したけど、膨大な量になりそうだね」

「それなんですけど、向こうでの僕の住むところなんですが…」

「何か希望はあるのかな?」

「いいえ。諏訪さんにお任せしたいんですけど、部屋の大きさとかはあらかじめ知っておきたいかなと。持って行くものを早めに決めたいので」

「まあ、プランはあるけど、それはまたもう少し具体化したらお話ししよう。少しヒントを与えておくと、持って行きたいものは全部持って行くことができると思うよ。漫画もDVDもゲームも全部ね」

「そんなに広いところなんですか?」

「まあ、東京では学生の身分じゃワンルームがせいぜいのところかもしれないけど、向こうでは同じ家賃でも一軒家が借りられるということだ。無駄に広いのも迷惑かもしれないけど、君の漫画コレクションくらいは所蔵できる大きさのところを物色しているよ」

「ありがとうございます。では入学手続きの件はそんなところでいいですか?」

「うん。それでまだ何かあるのかな?」

「会ってもらいたい人がいるんです」

 龍一はそう言って事務所のドアを開け、外で待っている待ち人を手招きするタイミングがあり、事務所の中に先日よりは幾分ラフな格好の熟年マダムとその娘が入ってきた。

 二人の入室を見届けると龍一は「じゃあ、僕は、今日はこれで」といい、事務所から出て行った。

 沙織はそのまま諏訪の前に進み、深々と一礼した。

「先日は、知らなかったこととはいえ、大変失礼なことをしました。申し訳ありませんでした。それと蓬田のことも。本当にお詫びの言葉もありません」

 沙織は諏訪と目を合わせることなく、もう一度頭を下げた。

「そうですね。龍一君のお父さんと穂香さんの間にどんな事情があるにせよ、彼をひっぱたく権利はあなたにはなかった」と諏訪。

「そのとおりです。私がいけないんです。私はダメ女です」と沙織。

「僕は同情しませんよ」

「とにかく一言お詫びを申し上げたくてりゅうちゃんに無理を言ってこういう機会を作ってもらいました。本当に申し訳ございませんでした」

 沙織はそう言いながらもう一度深く頭を下げると、最後まで諏訪と目を合わせることはなく、「失礼します」と言って足早に事務所から出て行った。

 百合花は開けっ放しのドアを閉めると諏訪の方に振り返った。狭い空間で諏訪と百合花が向き合った。諏訪が私服姿の百合花を見るのは都議選以来だ。

「諏訪さん」と立ったままの百合花。

「うん」と諏訪。

「諏訪さんは知っていたんですね?ママのことも」

「だから最初からそう言ってるじゃないか。…最初からではないか。随分と前から。僕は妻に聞かされていて蓬田家のことは全部知っているって」

「ママのことも知っていたんですね?」

「そういうこと」

「どうして教えてくれなかったんですか?」

「僕がわざわざ君を傷つける必然性はない」

「私も全部知っているなんて生意気なことを言ってましたけど、肝心なことは全然何も知らなかったんですね」

「そう。だから僕は一番最初に大人の事情に首を突っ込まない方がいいと君に警告したはずだ。北沢警察署の生活安全課のお巡りさんとしてね」

「…教えてください。これから私、どうしたらいいのか」

「自分で一番いいと思った道を選べばいいと思うよ」

「それが分からないから聞いてるんです」

 百合花は少し大きな声で、怒った口調で言った。

「じゃあ、君の幼馴染にでも相談してみれば?」

「りゅうちゃんも分からないって言ってます。諏訪さんに相談してみろと。そう言われて今日、やってきたんです」

「なるほどね。龍一君が、話したいことがあるから一時間くらい時間をくれと言っていたけどこのことだったんだね。分かったよ。いいよ。じゃあ、真剣に答えてやろう。分かりやすいように三択で答えてあげるよ。君がこれから進む道は次の三つのうちのどれかだ。まず最初にプランA。君は嫌なことをすべて忘れるんだ。パパのこともママのことも、嫌なことは全部忘れてしまう。パパの不倫に気が付かなかった頃に戻るんだ。そうすれば周りから見れば誰もが羨むような幸せ三人家族にしか見えない。それでその幸せ家族の幸せな一人娘を演じながらN大医学部で六年間を過ごす。少し肩は凝るかもしれないけど、今までの生活の延長だよ。そんなにひどい話じゃない。今の君ならミスN大くらいにはなれるかもしれないね。次にプランB。君は大人が信じられなくなって自暴自棄になる。そして家出して、夜の仕事でも始めるんだ。君くらいの器量と気立ての良さがあれば夜の世界でもきっと人気者になるだろうね。十分食べて行かれるだろうし、医者よりも稼ぎが良かったりして。でもそれはある意味、若さを売っているだけだから長続きはしない。さっさと玉の輿に乗ることでも考えるんだな。玉の輿に乗ってしまえば、それから先は収容所生活になってしまうかもしれないし、パラダイスかもしれない。それは運次第だし、君次第だ。そして最後にプランC。今までの人生を完全にリセットする。そして四国に旅立ってまったく新しい人生をスタートさせるんだ。まあ、傍には相変わらず同じ星の下の幼馴染がいてくれるだろうからまったく新しい人生ってわけでもないと思うけど。さあどれを選ぶ?」

「……」

 百合花は黙ったまま真剣な眼差しで諏訪を見た。そんな百合花を見て諏訪はニッコリと微笑んだ。

「選択の余地はないかな?」と百合花を試すように諏訪。

「そうですね」としっかりした口調の百合花。

「一択ってことだね?」

 諏訪が言うと百合花は力強く頷いた。

「りゅうちゃんはどうするんですか?」

「どうするって?」

「向こうでの生活。大学の寮に入るのか、それとも大学の近くに下宿するのかとか」

「本人にはまだ話してはいないけど、プランはある」

「お願いがあるんですけど」

「龍一君と一緒に住みたいとか?」

「そこまでは言いませんけど、近くに住めたらいいなって。今までみたいに」

「いいんじゃない。同棲しちゃうのも。これまでも半同棲みたいな生活だったんじゃないの?」

「そんなことありませんよ。もちろん、りゅうちゃんの家には頻繁に泊まってましたけど。それにりゅうちゃんは…私には興味はありませんから」

「何言ってんだ。二人は大の仲良しだろ」

「仲良しですけど、それは兄弟姉妹的な意味合いで、りゅうちゃんは私を女としては見てくれてません」

「どうしてだろう?」

「りゅうちゃん、背の高い女は駄目なんだそうです」

「ホントにそうかなあ?」

「そうですよ」

「君の方が龍一君よりも背は高いよね?」

「ええ。五センチくらい私の方が高いと思います。もっと小さく、かわいく産まれてくれば良かった」

「そんなこと言ってると世界中の女子を敵にするよ」

「…皮肉なもんですよね。声かける男はいくらでもいるのに」

「…なるほどね。君くらいになるともう、男を外見では選ばなくなるってことか?」

「そこまでは言ってません」

「まあ、君のリクエストは理解できた。分かったよ。君にとっても、龍一君にとってもベストなプランを何か考えよう。それと穂香さんにとってもね」

「りゅうママも?」

「だって穂香さん、今度は一人ぼっちになっちゃうからね」

「そういうことですね。でもうちのママとはくっついたまんまだと思います。二人は厚い友情で結ばれてますから」

「戦友みたいなものかな。でも人生って不思議だね。あの時、君のママが変な正義感振りかざして僕をひっぱたかなかったら、今でも彼女は君の優しいママで、君は優しいママのところからN大に通うという六年間を選んでいたんだろうね」

「それを言うなら私がりゅうちゃんを煽って諏訪さんのところに行かせなければ、りゅうちゃんも私も全然違った人生を歩んだんでしょうね」

「そりゃそうだね」

「…でも、これで良かったんだと思います。どこかで膿は出さなきゃいけなかった」

 諏訪は百合花に席を勧め、食器棚からコーヒーカップを二つ取り出してテーブルに並べると、コーヒーメーカーのコーヒーを注いだ。

 



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十二 旅立ち

 それから一ヶ月と何日かが経過した三月の午後、諏訪は百合花と向き合った同じ事務所の中で今度は穂香の襲撃を受けていた。それが襲撃といえればだが。

「……結局、龍一君をダシにしてますけど、今日、ここに来た理由は純粋に穂香さんの個人的な理由ということですよね?」と苛立ちを隠さない諏訪。

「まあ、そう言われるとそうなっちゃうかな。でもいいじゃないですか。りゅうちゃんのもやってくれたんでしょ。確定申告」とキャバ嬢ボイスの穂香。二人は事務所のテーブルを挟んで向かい合って座っている。

「龍一君は僕の大切なクライアントですよ。でも穂香さんはクライアントの親御さんかもしれないけどクライアントではない」

「ケチ臭いこと言わないでくださいよ。何でしたっけ?…電子申告?何かボタンをポチって押せば一秒くらいで申告できちゃうんでしょ。りゅうちゃんに聞きましたよ。あっけないくらいに簡単だったって。それあたしにもやってくださいよ。そのポチってやつを」

「そんなに簡単に言わないでくださいよ。確かにボタンを押せば一秒かもしれないけど、それまでの準備が大変なんですよ。それに僕は今、とてつもなく忙しいんです。今が何月何日何曜日の何時何分か分かってますよね?」

「それはもう」そう言って穂香はスマホをチラッと確認し「三月十四日月曜日の午後三時二十一分三十六秒で~す」と今度は女子高生ボイス。「そう言えばホワイトデーですよね。今日。りゅうちゃん何くれるかなあ」と同じボイスで付け加えた。

「僕はFPがメインですけど税理士業務もやっているんですよ。明日が個人の所得税の申告期限です。忙しいのは分かるでしょ?」

「それは分かってます。だから今日来たんじゃないですか。明日じゃさすがに諏訪さんに悪いなあと思って」と今度は妹系ボイス。

「ベルサール渋谷ファーストに行ってくださいよ。ご存知でしょ?税務署が開設してる申告書の相談会場。今からならまだ間に合いますよ」

「ああ、あそこには行ったんですけど、ムリムリムリムリ。すごく混んじゃって。あたしのイベントよりも混んでた。スーパーアリーナみたいでしたよ」

「それに見たところ帳簿はつけてないようですね。もちろん決算書の作成なんてまだなんでしょうけど」

「でも、領収証はちゃんととってますよ。穂香ちゃん几帳面だから」

 穂香はそう言って紙袋の中身を諏訪に見せた。袋の中には領収証やレシートの類がごちゃごちゃに詰められている。諏訪はそのうちの一枚を手に取った。

「これ何ですか?」

「これは、見て分かりません?パスモにチャージした時の領収証ですよ。あの、券売機から出てくるやつ。交通費は当然、必要経費でいいですよね?」

「そんなことは分かります。僕が聞きたいのは日付ですよ、日付。三年前のじゃないですか。こんなのを昨年分の確定申告の必要経費に入れるつもりなんですか?」

「あ~っ、怖。税務署の人みたい」と今度はバーのママのボイス。諏訪は大きくため息をついた。

「どのみち、今から頑張っても申告期限の明日には間に合いませんよ。僕がこれから徹夜でやってもね」

「そんなあ。あたしを見捨てないでください。もう諏訪さんしか頼る人がいないんです」と今度は試験で赤点を取ってしまった少女のボイス。諏訪はもう一度ため息をついた。

「別に穂香さんをいじめるつもりはありませんよ。ただ今日は個人番号の通知カードも持ってきてないですよね?」

「通知カード?なんでしたっけ?」

「じゃあどだい今日の申告書提出は無理です。申告書にマイナンバーを記載しないといけないんですよ。分かりますよねマイナンバー」

「なんか区役所から手紙が来ていたような。でもどこいったんだろう。分かんないや」

「通知カードは送られた時と同じ状態で龍一君が大事に管理してますよ。だから龍一君の確定申告はできたんです。通知カードは同じ封筒に世帯分送られてくるから穂香さんのカードもその封筒の中にありますよ。だから龍一君に聞けば分かります。でも今、ここで番号が分からないのでは今日の提出は無理ですよ」

「じゃありゅうちゃんにメールかなんかで聞けば?」

「現物で番号確認をしないといけないんです。だから無理です。あきらめてください」

「じゃあどうすればいいんですか。あたしは」

「まあ明日の申告期限には間に合いませんけど、せっかくここまで来ていただいたんですからプロとして少しは役に立つアドバイスはしてあげましょう。ざっと見たところ、源泉徴収税額が多くて還付申告になるみたいだし、青色申告はしてませんよね?」

「ええ。お友達の中には青色申告してる人はいるみたいだけど、青色申告ってそもそも何のことやら穂香ちゃんにはさっぱり」と再び妹系。

「期限内に無理して申告することはないですから、十五日過ぎたら税理士を探して相談するのがいいと思います」

「あれ、十五日までじゃなくていいんですか?」

「もちろん十五日が申告納期限ですけど、今の穂香さんには申告期限を守らなかったからって、それによってそんなに過酷なペナルティが課されることはないということです。加算税だとか延滞税だとか青色申告取消だとか。だから十五日過ぎたら、色んな所で無料税金相談とかやっているでしょうからそこで相談されるといい。とにかく今、ここで無理にとんちんかんな申告をするよりも、期限後になってもいいからじっくりと正しい申告をした方がいいということです」

「諏訪さんはやってくれないんですか?」

「やってもいいですけど、僕の場合は無料というわけにはいきません。商売ですから。それに僕の顧問料は安くはありません。穂香さんには払えませんよ」

「ケチ!」と再びキャバ嬢ボイス。

「金銭感覚があると言ってくださいよ。もっとも僕は他の人のお金を預かる身。金銭感覚がない方がどうかしてると思いますけど。気前がよくてお金の使い方のルーズな人間が大切な息子さんの財産を管理しているとしたら穂香さんだって嫌でしょう?」

 諏訪はそう言って穂香がテーブルの上に広げようとした領収証やレシートを紙袋に戻し、立ち上がって座っている穂香の膝の上に置き、入り口のドアを開けて手のひらを差し出した。

「それと、申告期限に間に合わなくてもいいって言いましたけど、そんなに遅くはならない方がいいとは思います。都の住宅局が都営住宅の家賃の件で課税資料を求めてくるでしょうから」

 言って諏訪は穂香に早期退出を促した。穂香は諦め顔で軽く深呼吸し、立ち上がった。

「まあ、明日中にやらなくてもいいって聞けたことは良かったです。…また来ます」と今度は母親ボイス。

「僕より優しい税理士はたくさんいますよ」

 そう諏訪が言って穂香が事務室から出て行くところを見送ったところで、穂香は不意に振り返り、諏訪を見た。

「それと、もう一年たつんだからいい加減に呼び捨てにしてくださいね。さんづけじゃなくて。それに穂香ちゃんですます調だとうまくしゃべれないから」

 再び妹系ボイスでそう言うと、諏訪に背を向け、諏訪の視界から消えていった。

 

 三月二十六日の朝八時頃、出発の準備を整えた龍一はダイニングチェアに座り、広くなった部屋を見回していた。今日、午前の便で羽田を発つ。しばらくは東京の地を踏む予定はないし、そのつもりもない。

 これまでこのダイニングキッチン、そして自分の部屋を占拠していたおびただしい数の漫画やDVDは数日前に引っ越し業者が運んでいった。自分のモノがないとこの部屋は実はこんなに広かったのかと龍一は感心させられた。

 不意に穂香の部屋でガサゴソと人の動く音がして引き戸が開き、まだ眠そうな穂香が現れた。

「も~っ、起こしてよ」と眠そうな地声の穂香。

「寝てていいのに。昨日も夜、遅かったんだろ?」と龍一。

「一人息子が羽ばたいていくのに見送りくらいさせてよ」

「じゃあ羽田まで来る?」

「…ああ、やっぱりいいや。まだ眠いし。でも玄関で見送るくらいはいいでしょ?」

 穂香は母親ボイスでそう言うとダイニングテーブルの龍一の対面に座った。

「寂しくなるね」

 穂香はしんみりと言った。

「それはゆっぴいママも一緒でしょ。寂しい二人でワイワイやればいい」

「二人して酒に溺れたりして。空の巣症候群。この家ってこんなに広かったんだね」

 穂香は広くなった鉄筋アパートの中を見回して言った。

「初めてここに来た時もこんな感じだったかな。あの頃はもちろん何にもなくて、このダイニングテーブルもなくて、段ボール箱の上でご飯食べたりしてたんだよ。りゅうちゃんはもう忘れちゃったかな?」

「俺が保育園の頃でしょ?」

「もちろん」

「じゃあ、覚えてるわけないじゃん」

「そっか。あたしも独身に戻るんだね」

「ママのことは諏訪さんにお願いしておくよ」

「ダメだよ。あの人ケチだから」

「恩人なんですけど」

「まあそうだけど」

「別にそんなに寂しがることないんじゃない?ビデオ通話だってできるんだし」

「そうだね。そう言われると、電話もなかった昔って、結構、大変だったんだろうね」

「まあ、すぐに慣れるよ。二、三ヶ月は辛いかもしれないけど」

 そう言うと龍一はDバッグを持って立ち上がり、玄関に向かった。移動に最低限必要なモノしか持っていない。

「諏訪さんも一緒なんでしょ?」

「ああ。千歳烏山で合流する」

「ゆっぴいはしばらくこっちだよね?」

「うん。向こうで受け入れ態勢が整ってからだね。四月になってからになると思う。じゃあ、行ってきます。移動中もちょくちょくLINEするね」

 言って玄関のドアノブに触れようとすると「待って!」と穂香がいつもの妹系ボイスで言った。龍一は無言で振り返り、穂香を見た。穂香も立ち上がった。

「出て行く前に、最後に一つだけ教えて」

「……」

「りゅうちゃん、好きな女の子いるって言ってたでしょ?ゆっぴいじゃなくて。あれって誰だったの?あたしの知ってる子かな?」

 龍一はそのまま黙って扉を開け、開け切ったところでもう一度穂香を振り返った。

「ママだよ」

 龍一がそう言うと、鉄の扉は「バタン」と音をたてて閉まった。

 穂香は立ったままあっけに取られていた。

 

 それから一時間くらい後、龍一は北烏山の寺で「小宮家」と彫られた黒い石を前にして、両手を合わせていた。傍に諏訪の姿がある。

「小宮老人は、自分の骨は散骨するか宇宙に持って行ってくれって言ってたけど、結局、小宮老人も常識人で、奥様に先立たれた時にお墓を建てていたんだよね。自宅からそう遠くないところに。それで、夫婦そろってここに眠ってもらったよ」

 合掌を解いた龍一に諏訪が言った。

「小宮さんにはお礼のしようもありません」と龍一。

「でも、だからといって頻繁に墓参りに来るのは小宮老人の遺志ではない。小宮老人はそういうの嫌っていたから。だから、今度、何年先になるか分からないけど、東京に帰って来た時にでもまた線香をあげに来てくれればいいよ」

 諏訪はそう言うと、「じゃあ行こうか」と言って龍一を促し、住職にあいさつをして駐車場に向かった。この界隈は「寺町」と呼ばれるほどお寺が多い。

「世田谷にこんなにお寺が集まっている一角があったんですね。知りませんでした」と龍一。

「そうか?小学校の低学年の時とかに習わなかったかなあ?生活科の時間とかで」と諏訪。

「習ったかもしれませんけど、記憶にありません」

「実は僕の家はこの辺りなんだよ。東京とは思えないくらい、寂しいくらい閑静で。まあ、すぐそこはもう三鷹なんだけどね」

 そんなことを言いながら諏訪は駐車場に止まっているピンクの軽ワゴンに乗り込み、龍一は助手席にまわった。

「免許取りたての君に運転してもらいたいのはヤマヤマだけど、残念ながら保険が未成年に対応していなくて、君には運転させられない」と諏訪。シートベルトを締める。

「保険、ですか?」と龍一。

「自動車保険だよ。自動車保険、このクルマは僕と僕の家族が運転した場合にしか保険がきかないようになっているんだ。そうやって保険料を節約している」

 そう言うと諏訪はエンジンをふかし、軽ワゴンを発進させた。クルマは取り敢えず南に向かった。

「ご家族ですか。そう言えば、僕は諏訪さんのこと何も知らないですね。家もそうですけど、ご家族とか。奥様がいらっしゃるのは聞きましたけど」

「まあ、別に隠すこともないから興味があれば話してあげるよ」

「お子さんはいらっしゃるんですか?」

「おお。いきなりそこをついてくるか。なかなか鋭いね。実はそれが僕のプライベートの核心かもしれない。子どもはいるよ。男の子が一人。しかももっと言ってしまうと、ついこないだM高校を卒業したばかりだよ」

「……はあ?」

 龍一は絶句した。

「どうだビックリしただろう?君は気が付かなかっただろうけど、僕は実は卒業式の会場にいたんだよ」

「全然気が付きませんでした」

「穂香さんも僕には気付いてなかったね。穂香さんは目立ってたけど」

「…スワ?……スワ?…スミマセン思いつきません」

「まあ、あの生徒の数じゃそんなもんだろうな。吹奏楽部ででかいラッパを吹いていたよ」

「そう言われても分かりません」

「僕も調べたけど、君と同じクラスになったことはなかった。だから卒業アルバムを見ても分からないだろうな。でも、息子は君のことを知っていたよ。滅茶苦茶きれいな彼女がいる漫画オタクだって。もちろん僕はその彼女のことを知っているなんて野暮なことは言わないけどね」

「息子さん、進路はどうされたんですか?」

「まあ、うちの息子もM高校だから君と同じでそんなに頭は良くはない。それでも息子にどこに行きたいか聞いたら国公立か私立なら最低限マーチ以上とぬかしやがったよ」

「それでどうしたんです?」

「本人は宇宙物理学を専攻したいと言っていた。それで色々と裏技を探したら東京R大学の第二部に公募推薦制度っていうのがあって、不合格者が毎年ほとんど出ていないことが分かったんだ」

「二部というと夜ですね?」

「そう。二部だから学費も国公立並み、東京R大学だから早慶とマーチの間でマーチ以上という約束も果たすことになる。ということで君と同じで大して勉強もせずに希望のところに進路を決めたよ。まあ、本人はもっと思うところがあったようで、完全に満足してはいないようだけど」

「小宮さんの財産、息子さんのために使った方が良かったんじゃないんですか?」

「そんなことは僕にはできないよ」

 軽ワゴンは中央高速にぶつかって東へと進路を変えた。

「諏訪さん」

「ん?」

「東京を離れる前に二点ほど聞いておきたいことがあるんですけど」

「うん」

「まず、前にも聞いたと思うんですけど、どうして僕にそんなに優しくしてくれたんですか?」

「優しくねえ」

「前はゆっぴいの紹介だからって言ってましたけど、あれは嘘だったんですよね?」

「そうだね。嘘だった」

「じゃあ、なぜ?例えば、実のお子さんのために小宮さんの残していったものを使うことだってできたんじゃないんですか?」

「なるほどね。そう言われればそうだったかもしれない。でも、僕が君を大切にしたのはある意味、あたり前のことだよ。それは、僕がプロだからさ」

「プロ?」

「そう。君は、制服を着た高校三年生に過ぎなかったかもしれないけど、僕のところに相談に来た。きっかけはどうあれ、僕のところに相談に来た以上、僕にとってはクライアントだ。クライアントを大切にするのはプロとしてあたり前だと思うけど」

「それにしても…」

「君もこれからプロになっていくんだろうけど、例えば実の息子ともう一人の患者と、どっちかしか救えないような場面、…そんな場面は普通ないんだろうけど、そういう場面に出くわしたときに悩めばいいよ。プロってどういうものかって」

「分かりました」

「それに、随分と偉そうなこと言ったけど、僕にとっても悪い話じゃないんだ。商売としてね。少なくない手数料が僕の懐に入るのさ。だから、今回のこと、ビジネスマンとしてはごく当たり前のことだよ」

「そうですか。…それともう一つなんですけど」

「うん」

「諏訪さんはどうして僕をY医大に行かせようとしたんですか?」

「それはもう説明済みだと思うけど」

「それ以外にもっと根本的な理由があるんじゃないかと思うんです」

「というと?」

「僕、合格してから結構、暇だったんで、もちろん教習所とかにも通ってましたけど、色々調べてみたんです。受験のこと」

「うん」

「確かに、僕の実力ではN大の医学部に正規合格するのは無理でしたけど、補欠合格者になれる可能性はあったみたいです」

「そうかもしれないね」

「そうしたら別に四国まで行かなくても、今の自宅から、まあ都営の家賃の問題があるから今の自宅からは無理だとしても、自宅の近くから、ゆっぴいと一緒にN大に通うことだってできたはずです。ゆっぴい、N大にも合格したんですから」

「うん」

「僕も諏訪さんに今までの生活をあまり変えたくないとリクエストしていたはずです。でも諏訪さんはわざわざY医大を選んだ。Y医大しか受験させなかった。あたかもそれ以外の選択肢はなかったかのように」

「そうだね」

「どうしてです?」

「どうして君はその疑問を持ったのかな?それはその答えに気が付いたからなんじゃないのかな?」

「そうですね」

「じゃあ、それが答えだよ。そのとおり。それが、僕が君をY医大に進学させた理由だよ」

「どうして気が付いたんですか?いつから分かってました?」

「さあ。結構、最初の方かな」

「どうして?」

「多分、君と会う前に百合花さんに会ったからだと思う。百合花さんに会って、君に会って、穂香さんに会った。この順番じゃなかったら、案外気付けなかったかもしれないよ。どうしてかって言われると説明は難しいけど、きっと君にある種の違和感を覚えたのがきっかけだったんだと思う」

「違和感?」

「そう。違和感。百合花さんみたいなあんなモデルさんみたいなきれいな子が傍にいるのに、君は百合花さんに女性としての魅力を感じていなかった。それは端から見ていてもハッキリ分かったよ。じれったいくらいにね」

「ですからそれは、ゆっぴいと僕は本当に小さい頃から双子のように育てられたからで…」

「僕も最初はそう思っていたけど、でもそれは嘘だったんだな」

「そうですね」

「百合花さんは、自分が、背が高いからだって言ってた。君が背の高い女性はダメなんだと。でもそういう理由でもなかった」

「はい」

「そうなると理由は一つしかない。君の傍に、君にとって百合花さんよりもはるかに魅力的な女性がいたってことだ。すぐ傍に。至近距離に。手を伸ばせば届くところに」

「そのとおりです」

「これまで君は手を伸ばしてはこなかった。でも、君はこれから齢を重ねるごとにどんどんたくましくなっていく。一方の穂香さんは歳を取らない、というよりむしろ若返っていくかもしれない。そんな二人がいつまでも同じ屋根の下に住むことは好ましいことではないよ」

「お節介ですね」

「世話好きと言ってよ。僕は君と穂香さんにいつまでも仲良し親子でいてほしかっただけだ。それに今は君も穂香さんもとっても寂しいかもしれないけど、後二十年もすればきっと僕に感謝すると思うよ」

「そうかもしれません。それで、諏訪さんにお願いなんですけど」

「うん」

「ママのことお願いしてもいいですか?」

「…ママって言ったね」

「えっ?」

「今までは『うちの母』とか気取ってたのに」

「…そうですね。きっと諏訪さんに心を許せるようになったんだと思います。まあ、別に僕はマザコンを無理して隠そうとは思いませんけど」

「なるほどね」

「時々はママに会ってもらってもいいですか?」

「え~っ、それは嫌だなあ」

「ダメですか?」

「こないだ、確定申告の期限の間際に僕のところにいきなり来たのは知ってるよね」

「ええ。ママらしいです」

「ケチって言われたよ」

「それは僕も聞いてます。ですから、これはママからではなく、僕からのお願いなんですけど、諏訪さんは税理士もやってるんですから、ママの顧問税理士になってくれたらと」

「僕には無理だよ。あんないい加減な人は」

「鍛えていただいていいですよ」

「それに、彼女にも言ったけど、僕の顧問料は安くはない。彼女には払えないよ」

「話変わるんですけど、僕の向こうでの家のことなんですけど」

「うん」

「あの家は僕の家ってことになるんですよね?いきなり一軒家なんでビックリしましたけど」

「一軒家っていっても、築四十年の物件だよ。まあ、六年間、どこかを借りて家賃を払うでもいいのだけど、そうするとお金が外に出て行くだけで何も残らない。なら向こうは東京と違って物件も安いから、いっそ購入してしまって、六年住んで、卒業したらそのまま売却してしまえば初期投資資金はそれなりに必要だけどそれは投資だからお金が外に出て行くわけじゃない。そう考えたってわけだ。もちろん君の相続財産からお金は出すから当然君の名義だし、君の家かと聞かれれば君の家ということにはなる」

「実感湧きませんけど。それで、ゆっぴいも一緒に住むわけですよね?」

「まあ、ルームメイトだね。結果的に彼女が一緒に住めるくらいの大きさの物件になったし」

「それで、ゆっぴいから家賃をもらうことになるんですよね?」

「厳密には百合花さんの親御さんからということになるけどね」

「その家賃収入っていうんですか?それは僕が小宮さんの財産をいただいてから、小宮さんの遺志とは無関係に、僕の力量で稼いだお金ということになるんですよね?」

「何が言いたいんだ?」

「スミマセン。まどろっこしくて。言いたいのは、ゆっぴいからもらうお金は小宮さんの負担付遺贈の負担からは自由ということでいいんですよね?ってことです。つまり、僕が僕の意思で自由に使えるお金ということでいいのかを確認したいんです」

「まあ、相続の段階ではもちろん百合花さんから賃貸収入をもらうことは想定していないから、物件は君の名義だし、君の賃貸収入は基本、君が自由に使えるお金ということになるけど」

「じゃあ、そこからママの顧問料を払いますよ」

「はあ?」

「だからママの顧問税理士になってください。顧問料は僕が払います」

「よく分かんないんだよな~」

「はっ?」

「穂香さん、まったく魅力がないわけじゃないけど、むしろ魅力的といえるかもしれないけど、百合花さんと並んだら普通、百合花さんの方を選ぶんじゃない?」

「そうでもないですよ。確かにゆっぴいは僕から見ても魅力的ですけど、飽きちゃうと思いますよ。彼女にするには」

「なるほどね。確かに穂香さんは飽きが来ないかもね。あれだけ連続でトラブルを起こせるような人ってそうはいないだろうし」

「振り回されるのも結構、楽しいかもしれませんよ」

「でも僕は厳しいよ。辛口財産診断所の屋号のとおり」

「じゃあ時々はママと会ってくれるんですね?」

「まあ、顧問税理士ともなれば年に一回は確定申告で会わなければならなくはなるね。でも彼女の場合、それだけではすまないなあ。まず、帳簿のつけ方から教えないといけないから。僕はよその多くの税理士とは違って記帳代行というのはしていないんだ。まあ、ファイナンシャルプランナーがメインで税理士は副業程度に考えてるからなんだけど、あくまでも記帳は本人にやってもらう。そのデータを使って決算して申告するんだけど、そういう事情で面倒でも穂香さんのパソコンに会計ソフトを入れて、毎日、入力するところから始めないといけないね。それだけじゃダメで、青色申告もしてもらわないといけない。青色申告会にも入ってもらって、支部の役員とかにもなってもらおうかな。それから個人事務所を会社にして、法人会にも入って……」

 長々としゃべる諏訪の話を龍一は頼もしく聴いていた。この人がママの傍にいてくれるなら自分がいなくてもきっと大丈夫だろうと思った。

 ふと外を見るとクルマはいつの間にか環八を南下していて交差点の信号にぶら下がる環八船橋の表記が見えた。

 

(了)

 



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