Lightning Sword (ブッカーP)
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分の章

 

 

「……お二人は、同じクロスベル警察特務支援課の同僚同士であり、そこで自然と親しくなったと聞いております。ご存じの通り、特務支援課はクロスベルの独立にあたり多大な貢献を為した部署であります。ここ数年、クロスベル自治州には数多の事件に見舞われましたが、そのたびに、お二人と、同僚の方々は試練を乗り越えて参りました。今後は特務支援課と家庭を両立するということになりますが、お二人であれば、悩みも簡単に解決できるものと確信しております。我がラインフォルト・クロスベル社も、クロスベル自治州の一員として、陰ながらサポートできれば幸いであります。

 長くなりましたが、おふたりの輝かしい未来をお祈りしまして、お祝いのあいさつとさせていただきます。それでは、ロイドさん、エリィさん、末永くお幸せに」

 

 

 

 クロスベル自治州ミシュラム迎賓館ーー

 

 その場所では、誰もが友人だった。

 

 もちろん、職場のライバルとか、商売敵とか、日常では対立関係にある人々も居たが、その場所ではそういう対立関係は一時預かりするものとされた。当人たちもそれを当然のこととして受け入れた。祝宴の席では争いごとは避けるべきだ、というのが暗黙のルールであった。

 

 祝宴の参加者は、争うようにしてホストに群がり、お祝いの言葉を述べていた。新郎ロイド・バニングスには、警察の同僚達が、そして新婦エリィ・マクダエルには、学生時代の同僚達や警備隊の知人達、そして祖父繋がりであろう州政府のお偉方達が。

 

 そんな中、一人だけ所在無げにぽつねんと壁に寄りかかっている男が居た。手にウィスキーロックのグラスを持ち、場内の雰囲気を観察するようにぼやーと眺めていた。顔には少し赤みがさしている。

 

「教官!」

 

 彼をそう呼んだのはピンク髪の女性だった。ワインレッドのワンピースを着て、ミネラルウォーターの入ったタンブラーを持っている。

 

「教官、お久しぶりです!」

 

「ユウナか。久しぶりだな。また会えて嬉しいよ」

 

「そんな他人行儀なー。リィンさんがこちらに来たと聞いて、すぐにでも会いに行こうと思ったんですけど、会う機会作れなくて、ついつい延び延びにしてしまいました。すいません」

 

「それは俺も同じだよ。新しい仕事はとにかく時間がなくてね。仕事の関係者と挨拶回りをするだけで手一杯だったんだ」

 

「さっきまで大変でしたよねー。お偉方というお偉方が取り巻いていたじゃないですか。エリィさんへの挨拶もそこそこに」

 

「だから来たくなかったんだけどね。でも、ロイド君とエリィさんに招待されれば来ないわけにはいかないじゃないか」

 

「でも、挨拶はちゃんとしていましたよ」

 

「こういう仕事をしているとね、練習する機会はいくらでもあるんだよ。ところで、ユウナは士官学院の方、大丈夫かい」

 

「私の方は問題ないです。ミュゼもアルもクルト君もアッシュも、みんな頑張っていますよ」

 

「警察学校の方に戻ると思っていたんだけどな。帝国がああなってしまった以上、帝国に居ることもないだろうと思ったんだけど」

 

 ピンク髪の女性、ユウナ・クロフォードはトールズ士官学院第二分校の二年生である。

 彼女はクロスベル自治州がエレボニア帝国に併合されている最中にトールズ士官学院に入学した。この時期の誰もがそうであるように、帝国の呪いによって彼女の学院生活も翻弄された。クロスベルの再独立が成り、世界もようやく落ち着いた頃に、彼女もクロスベルに戻るという選択肢を考えたことがあった。

 しかし、彼女は帝国に残ることを選択した。トールズを卒業し、アルテリア法国の高等教育機関に進学して、刑法を学ぶことにしたのだった。再独立を果たしたクロスベルにはそういう人材が必要だと、そう勧められたそうであった。

 

「とすると、これが終わったら戻るのかい?」

 

「そうですね。ヘイムダル行きの最終便のチケットは取ってますから、それに乗れば帰れます。だからギリギリまで粘りますよ。」

 

「そうか。くれぐれも羽目は外しすぎるなよ。久しぶりに知り合いとかと会うのだろうけどさ」

 

「教官はどうするんですか?」

 

「一通り終わったら退散するさ。帰ったらやることがあるからね。それにさーー」

 

「それに?」

 

「それに教官はよしてくれ。もう俺はトールズの教官ではないから」

 

「私にとって、教官は教官です。それに、今でも似合わないと思うんですよ。リィン・シュバルツァー社長だなんて」

 

「それは俺も同感だよ。トールズの教師からいきなり社長になるなんて考えてもみなかったよ。どれだけ勉強しても足りないことだらけさ。まぁ、部下がちゃんとやってくれるから、その点はありがたいけどね」

 

 事実だった。帝国最大の重工業企業(そして軍需企業)であるラインフォルトグループは、1年前の<ヨルムンガンド戦役>の責任を問われ、多額の賠償支払いを余儀なくされていた(一説には百億ミラ前後と言われている)。如何に優良企業と言えどもその支払いに耐えられるわけもなく、保有資産の切り売りに奔走せざるを得なかった。

 その資産の買い手の一つがクロスベル自治州だった。ラインフォルト社がクロスベル自治州領内に建設した軍需工廠を元に立ち上げた新会社がラインフォルト・クロスベル社だったのである。

 

 ラインフォルト本社側は、工廠から列車砲や機兵といった軍需品の製造ラインを撤去し、民生用の製造ラインに差し替える(これ自体は戦後のプランとして事前に存在していた)。そして、差し替えが完了した後、クロスベル自治州に譲渡するというプランになっていた。リィンが社長に就任したのは、契約を確実に履行するために、ラインフォルト社から「人質」を取ったのではないか、というもっぱらの噂だった。事実、トップが居ないと回らないような会社では譲渡のしようがない。それに、リィンがトップに居ればラインフォルト本社側も、この会社を粗略には扱わないだろう、と期待されていた。

 

 

「そういえば、奥様はお変わりないですか?」

 

ユウナが悪戯っぽく笑って言った。

 

「ははは。奥様なんて、ユウナにまでそんな他人行儀な言い方をされると、俺も傷つくなぁ。アリサは、まだ本社でてんてこ舞いでね。俺だってそう簡単に会うことはできないんだよ」

 

「うーん。折角の新婚家庭なのにもったいない」

 

「それはありがとう。俺もそう思っているけどね、でも二人で話して決めたことなんだ。アリサはラインフォルトという会社に責任を持っている。少なくとも彼女はそう信じている。なら、俺はそれを支えるだけなんだ」

 

「でも、式には呼んでもらいたかったです」

 

「それは済まない。でも、そう言われると思ったから、誰にも言わなかったんだけどな」

 

 リィンとアリサが結婚式を挙げたのは丁度半年ぐらい前、4月末のことだった。参列した人といえば二人の親族ぐらいで十人にも満たない数であった。二人の立場からすれば王侯貴族のそれに劣らない式典だって用意できたであろうが(むしろそれを当然と考える人が大多数だった)、黄昏の後の混乱を鑑みて、ということで式自体は非常に、非常に簡素に行われた。

 

「あんな手紙一枚で終わりだなんて、結構ショックだったんですよ」

 

 関係者が二人の結婚を知ったのは、二人から送られた手紙によってだった。そこには、結婚したという報告と、招待できなかったことの謝罪の言葉がつづられていた。

 

「みんな呼ぶことも考えたんだ。でも、みんな忙しくしているし一年先のスケジュールだって空かない人も居た。それに、俺達も待てなかったんだ。いろいろと」

 

「ミュゼなんて泣いてましたからね」

 

「彼女に悪いことをしたのは認める。彼女が俺をどう思っているかは知っていた。でも、これだけは譲れなかった」

 

「ひゅう」

 

ユウナは口をすぼめた。ユウナが二人の結婚を知ったのは、ミュゼからのARCUS通信だった。涙目の彼女から、届いたばかりの手紙に何が書いてあるかをユウナは教えてもらったのだった。ユウナも心の整理がつくまで数日の時間を要した。トールズの授業が無ければもっと時間がかかっていたかもしれない。

 

「そこまでなら、アリサさんを大事にしてくださいよ。でなきゃ、私達が不憫です」

 

「それについては努力するよ。」

 

「それでは、また今度!」

 

そう言うとユウナは、ロイドの取り巻きの方へ歩いていった。警察には知り合いが沢山いるのだろうと想像はついた。トールズは生徒をだらだらと休ませるような所ではないから、ユウナは久しぶりの休暇を有意義に使うはずである。多分、二次会にも参加するだろう。リィン自身はもちろん参加するつもりはない。妻帯者に二次会の居場所など無いからだ。

 

 

 パーティーも時間が経つと、人の動きは幾分か落ち着いてきた。幾つかのグループが出来て、その中で談笑するようになってきていた。挨拶とかそういう儀礼は大体終わったのだろう、リィンはそう想像した。

 

「これはこれは新社長殿」

 

慇懃無礼な声にリィンは振り返る。紺色の上下に白のネクタイと、ごく普通の礼装ではあるが、リィンの頭の中のイメージとはかけ離れていて、リィンにとってそれが驚きだった。

 

「社長就任、おめでとうございます」

 

「これはどうもありがとうございます。あーー」

 

「ツァオ・リーです。」

 

 目の前の紫髪を短髪にまとめた男はそう言った。名前だけ言えばあとは分かるだろうという態度だった。もちろんリィンも知っていた。ラインフォルト社がまとめた、クロスベル自治州の重要人物レポートに載っていたのだった。

 

「これはすいませんでした、ツァオ・リー殿。こんなところで会うとは思いませんでした。先週の経済界懇談会にもいらしていましたか?」

 

「ええ。ですが、その節は挨拶もできず、申し訳ございません」

 

口調こそ丁寧だが、眼はあくまで自分を値定めしているのが分かる。黒月貿易公司の社長にしてクロスベル裏社会の指導者、ツァオ・リーとはそういう男である。

 

「貴方とは話をしてみたかった。それは事実です。ですが、この場所は似つかわしくない」

 

「確かにその通りです。ですが、興味を惹かれるとどうしても話をしたくなる性分でして」

 

 ツァオ・リーは笑顔を崩さない。

 

「ここには招待されたのですか?」

 

「まさか。私はただの付き添いです。招待されたのは」

 

あの方です、とツァオは指し示した。奥のテーブルで半べそをかきながらオレンジジュースを飲んでいる少年がいた。

 

「あれが……シン君ですか」

共和国黒社会組織のリーダー、その親族にして将来の要注意人物、クロスベル在住歴があり、将来クロスベル政界に関与する予定あり。リィンが読んだレポートにはそう書いてあった。

 

「よくご存知で。シン様もエリィ嬢に思うところが多く、式に出ると言って聞きませんでして。それで、少しばかり協力してもらったのですよ。シン様もこの日のために、わざわざ共和国からここまでやってきたのです」

 

「それはそれは」

 

「本来なら式に出席して、そのまま帰る予定ではありましたが、あまりにも興味深い人がいらっしゃるので、挨拶だけでもと」

 

「別にこんなところで話をすることもないでしょう。もっと適当な場所があるはずだ」

 

リィンは何とかあしらおうとしたが、ツァオはまだ食い下がる。

 

「もちろん、別な場所でお話することもできるでしょう。ラインフォルト社社長が黒月関係者と密談、と新聞に書かれたくなければ」

 

リィンは顔をしかめた。ここだってツァオ・リーのような人物と立ち話をしているなんてのは見られたくないのだが。

 

「何か聞きたいことがあるようですね」

 

ツァオ・リーは一つうなずいた。

 

「ご真意は奈辺に?」

 

「ご真意?」

 

「ええ。貴方がこのクロスベルに来た、本当の理由です。それを教えていただければ、すぐにでも退散しますよ」

 

ツァオの笑みはさらに大きくなった。

 

「そんなことを言われてもね……私がここに来たのは、ラインフォルト社とクロスベル自治州の合弁会社の立ち上げのためです。それ以外の何物でもありません」

 

「フフフ……まぁそうでしょうね。シュヴァルツァーさん。ですが、貴方がクロスベル入りした前後で、興味深い方々がこのクロスベルにやってきている。いや、帰ってきているのもまた事実です。」

 

 リィンそう聞いて、わずかにたじろいだのをツァオは見逃さなかった。

 

「貴方に教えられることはない。本当に知らないんだ。貴方の知りたいことは。第一、興味深い方々と言われても誰のことか分からない」

 

「おやおや。少しはサービスしてもらえると思ったのですが。こう見えて私もビジネスマンですからね。職業上の秘密は守りますよ」

 

 そう言われて、リィンは少し考え込んで、やがて口を開いた。

 

「そうですか。なら、ビジネスマンらしく振舞うことをお勧めします。法律と不文律は遵守して競争する。天下が静謐になるまで。本当はその後もそうしてもらいたいですが」

 

「??」

 

「今のところ、サービスといえばこれぐらいしかできそうにありません。申し訳ありませんが」

 

一瞬怪訝そうな顔をしたツァオであったが、リィンからそう言われて元の笑顔に戻った。お時間取らせて申し訳ございませんと一礼した後、シンがいるテーブルに戻ったのだった。

 

 

 

 

 

 



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秒の章

 クロスベル警察捜査一課長、アレックス・ダドリーは多忙な男である。洋の東西を問わず、凶悪事件を担当する捜査員が多忙なのは共通事項であるが、ダドリーにはそれ以外の仕事が山のように積みあがっていた。クロスベル自治州の再独立からこのかた、近隣各国との捜査協力についての実務者協議に、自治州再独立による捜査関係の法律の勉強会、さらに導力ネットワーク犯罪の専門部署の立ち上げときては帰る暇もないというのが実情だった。実際、今日の朝に家に帰るまで、警察での寝泊りは3日におよんでいた(部下が止めなければ一週間になっていたかもしれない)。

 

 そんなわけで、彼が犯行現場に急行したにも関わらずすっかり出遅れてしまったのは、そんな彼の事情を鑑みて、即時に叩き起こすことを捜査員達がためらったからだった。ダドリーは現場にたどり着くや否や、捜査員達に雷を落としたのだが、彼等にとっては不幸な出来事だったかもしれない。

 

 

 犯行現場には非常線が敷かれ、中を見ようとする野次馬と、させまいとする警察官で押し合いへしあいになっている。現場は、ウルスラ間道の砂浜、その奥にあった。

 

 現場には既に鑑識が陣取っており、探し忘れた証拠がないか、必死に見て回っている。

 

「被害者は?」

 

「こちらです」

警官がダドリーを案内した。現場のさらに奥に平坦な場所があり、そこに毛布に覆われた塊が5つある。ダドリーはその一つを捲り、顔をしかめて元に戻した。同じように他の4つもちらと確認する。

 

「5人とはな。派手にやられたな。身元の調査は?」

 

「は、裏付け調査中ですが」

 

 現場指揮にあたる警官が答えた。クロスベルの大企業の息子で放蕩ぶりが知られている一団があり、服から出てきた運転免許証からその可能性が高いとのことだった。女性の方は、身なりからすると「買われた」商売女というところだろう。

 

「みんな同じか」

 

「はい。袈裟懸けにばっさり」

 

「凶器は?」

 

「やはり同じです。鋭利な刃物、斬れ方からすると刀系」

 

「死亡推定時刻は?」

 

「午前1時あたりかと」

 

「物証でもあったか」

 

「いや、証言がありました」

 

「だとしたら、何故発見が遅れたか、だな。早朝に連絡が入っても良いはずだ」

 

「間道の作業員が、浜辺で乱行パーティーをしていると証言しています。間道の夜間工事をやっていた作業員が目撃しているそうです。いや、連中が大音量で音楽を流して馬鹿騒ぎをしていたのを聞いただけだから目撃ではないですかな。その時間に叫び声のようなものが聞こえたそうですが、気に留めなかったとのことです。そして昼過ぎにここを通りかかった釣り客があの車」

 

 警官は顎をしゃくった。現場から少し離れた場所に大型の導力車が停めてある。まだ買ったばかりであろうピカピカの新車だった。

 

「あの車がここにあって物音もしないので、不審に思って覗いてみたら……ということだそうです」

 

「夜中に市街から出て不用心に騒ぐからそうなる。当然の結果だ」

 ダドリーは吐き捨てた。

 

「いくら治安が安定してきたとはいえ、魔獣がこの世からいなくなったわけでもない。衛士隊の破落戸(ごろつき)共だってまだ居るだろう」

 

「連続切り裂き魔もいますからね」

 

 ダドリーはギッと警官を睨みつけた。

 

「余計なことは言わんでいい。第一、まだ連続殺人と決まったわけではない」

 

「ですが、同一犯だとしたら」

 

「同一犯だとしたら捜査本部設置だな。でも、同一犯でなくともそうなる。5人だからな」

 

 ダドリーはため息をついた。再独立からこのかた、揉め事の種は減るどころか増える一方だ。帝国占領期の方がまだマシだったのではないか。

 

「警部!」

 

 ダドリーは振り返った。捜査一課の新人刑事がこちらに駆け寄ってくる。

 

「これを」

 

 刑事 ーー 名前をマニングと言った ーー が機械のようなものを差し出す。

 

「何だこれは」

 

「導力カメラですよ。ヴェルヌ製の最新式です。連中、これで自分達を撮影しようと思っていたんですかね」

 

「どこにあった」

 

「あの岩場です。岩場の中の水たまり」

 

 マニングは少し離れた岩場の方を指差す。

 

「何かの拍子に立て掛けてあった所から落ちたのでしょう。ズーム機能を使えば現場周辺を全部撮影することが可能です」

 

「何故見つけた」

 

「いやー、休憩ついでに煙草を吸おうと思って……いい場所がないかと思って探していたら偶然目に入ってですね」

 

「馬鹿者!!警官たるもの勝手に現場を荒らす奴があるか!さっさとその物証を鑑識に引き渡せ!いや、導力捜査課とヴェルヌ社に問い合わせろ!!」

 

 マニングはダドリーから二度雷を落とされることになった。

 

 

 

 

 クロスベルにおけるリィンの住処は、新市街(未だに旧市街と呼びたがるクロスベル人は多い)にある。帝国統治時代に大規模な再開発が行われ、この界隈は戸建て住宅やアパルトメントが建ち並ぶ典型的な住宅街になった。もちろん、それは帝国民や帝国軍人のために供されたのであるが、いまや帝国は去り、沢山の空き家が残された。そして、世界各国からやってきた沢山の人がその空き家を埋めていった。リィンは数少ない例外といえるかもしれない。

 

 リィンの家は典型的なファミリー向けの二階建て住宅である。リィンは最初、東通りあたりに独居用の部屋でも借りようと思っていたのだが、そのことを総務課の担当者に告げたら真っ青になって止めてきた。いわく、社長がそんなところに住んでいたら下の者に示しが付かないとのことだった。一体何が示しが付かないのかリィンには理解できなかったが、アリサにそのことを言ったら、社長がアパルトメントに住んだら、家を記者が取り囲んだ時どう言い訳するのかと説教されてしまった。結局言われるがままに会社の用意した住居に住んでいる。

 

 それにしても広すぎるーーリィンの感想はそれに尽きた。一人しか済まないのにベッドルームは2つも要らないし、キッチンもテーブルも大きすぎる。トールズやリーヴスの寄宿舎住まいに慣れていた彼にとっては、あまりに広すぎる家も却って迷惑というものだった。第一自炊なんかしなくたって何とかなるし、手の届く範囲で何とかやっていく方が性にあっていた。何より気にいらないのは、風呂がなくシャワーだけでという点であった。

 

 そんなこんなで、立派な4LDKの住まいなのに、実際に利用されているのは一部屋のみである。リィンはそこに、かつての寄宿舎と同じような生活スペースを作り上げていた。ベッドにクローゼットに姿見と書き物机とラジオ。ただひとつの例外はといえばーー

 

「次のニュースです。クロスベル株式市場は本日発表された工業生産指数の値を受けて全面高となりました。株価指数はプラス23.1、指定銘柄平均株価はーー」

 

 導力ラジオの横に置かれたディスプレイは、クロスベル自治州の事件や各種経済問題についてのニュースを放送していた。別に放送自体は珍しくもない。帝国にもラジオはあり、放送番組は当たり前のようにあった。ディスプレイによる動画の表示も珍しくない。カレイジャスのような指揮施設のある場所では当たり前のように見た光景だった。問題は、ここは単なる一般家庭でカレイジャスではないということだった。

 

 クロスベルでは、試験的ではあるが、動画放送が始まっているのである。

 

 

 

「ARCUSの画像通信と原理は同じだよ」

 

 ARCUSの向こうのトワ・ハーシェルはそう言っていた。一、二時間ほど前、別の用事でトワがARCUSで通信してきた時、リィンの部屋にある動画放送端末の話になり、動画放送の仕組みの話になったのだった。

 

「……ううん、だったら何でこんなことができるんだ?確か、動画の視聴は同時に見られる人数に制限があるんだろう?それに使えない場所も結構あったはずだ。一部の人しか受信できないとなったら、こんなことをしても意味がないはずだ」

 

「リィン君、カレイジャスのレーダーは全方向に導力波を出すことによって、360度全部の物体を探すことができるよね。あれは物体に当たったら導力波が消えるから分かるんだけど、最近、導力波で物体に当たっても消えにくい波が見つかったんだって。だから、その波で出力がもっともっと強い波でやればどうなると思う?そして、物体の方は導力波を受信しやすい仕組みになっていたとしたら?」

 

「みんなが導力波を受け取れる、ということか?」

 

「そうだよ。今まで動画の通信は、動画を送る方と受け取る方が双方向で通信することを前提としていたから、受信できる人数に制限があったけど、導力ラジオと同じように、送る方は動画を送るだけ、受信する方は受け取った動画を表示するだけなら、人数の制限もないんだよ。そういう仕組みで、大出力の導力波をばーっと流せば、みんなが画像を見ることができるってわけ」

 

 リィンはクロスベルの街頭受信装置を思い出していた。あれはあれで導力通信を利用して画像を出しているのだが、有線の通信を使用していると聞いたことがあった。トワはそこから導力の周波数とか信号の原理とかいろいろ話してくれたが、リィンにとってはほとんどちんぷんかんぷんだった。

 

 

 

「技術的にARCUSと変わらないとしたらーー何で今までやろうとしなかったんだ?値段だって大して高くないだろう。導力端末と大して変わらないはずだ」

 

「それはね、たくさんの人に画像を送るには、新型導力波だと高い所から波を送らなければいけないからだよ。低い所から送るとラジオみたいに色んなところに通信塔を立てなきゃならなくて費用が高くなるんだって。帝都でも計画があるみたいだけど、バルフレイム宮のすぐ近くに300アージュぐらいの高さの通信塔を建てないとーーバルフレイム宮自体が導力波にとって障害物だから、影響を避けるにはもう少し高い塔にしないとって意見もあるみたいーー」

 

そこまで聞いてリィンは思わず吹き出した。なるほど、それでは大貴族が賛成するはずもない。帝国で画像放送が普及するのはもう少し先になりそうだ。

 

「オルキスタワーなら問題は無かったわけだ」

 

「そうだね。屋上のアンテナは本来そういう風に使うものだったんだって」

 

 なるほど「本来」ねーーリィンは独りごちた。マリアベル・クロイスの顔を思い出す。果たしてどちらが「本来」だったのだろうか?

 

 リィンもトワも、数年もすると動画放送が世界を変えてしまうことについては想像がつかなかった。300アージュの塔を建てなくても、ヘイムダルに動画放送を提供できる方法が考え出されるのはもう少し後のことだった。

 

 

 

 目の前のディスプレイは、今度始まるという新番組の宣伝をやっていた。何でも、著名な演奏家の演奏を放送するらしい。音楽の演奏ならラジオでもいいだろう、リィンはそう思った。エリオットならどう思うのだろうか?面白い試みだと思うだろうか?

 

 リィンはそんなこと考えながら、ディスプレイの電源を切った。今の彼にはやることがある。家の照明を切り、外套を羽織って夜の新市街へと出て行った。

 

 腰に愛用の太刀を佩いて。

 

 

 

 

 



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糸の章

 第三の事件から数日経って後ーー

 

 クロスベル州警察庁舎2Fの大会議室は人で埋まっていた。捜査一課は全員、二課~四課、鑑識課、導力捜査課も主要メンバーが駆けつけている。入口には「1207年度自治州内連続斬殺事件捜査本部」と張り紙がしてあった。

 

「ただいまより、件の連続斬殺事件捜査本部を開設する。今回は、合同捜査会議の第一回である。各自、忌憚のない意見を開陳するように。ダドリー課長、議事進行をお願いする」

 

 最前列大型ディスプレイの横に座っているピエール副局長が甲高い声をあげた。ディスプレイを挟んで反対側に座っているダドリーを見て小さくうなずく。

 

「ご紹介にあずかりました、捜査一課長、ダドリーであります。最初に、これまでに発生した3件の殺人事件、いずれも同一犯の可能性が疑われているものであります ―― について概略を説明します。マニング君ーー」

 

 ダドリーは隣に座っているマニングに促した。マニングはマニングでがちがちに緊張している。無理もない、捜査一課に配属されて初めての大仕事がこの殺人事件であった。冒頭のブリーフィングだけとはいえ、彼にとって(現時点での)一世一代の大仕事であった。このためにわざわざ一晩警察に泊まり込んで作業している。

 

「あー、第一の事件でありますが —― 」

 

 そこまで言って大げさに咳き込む。わずかだが失笑が漏れている。だが、そこで緊張がほぐれたのか、以後は大過なく説明が進んでいった。

 

 第一の事件は、一か月ほど前、クロスベル東口から出てすぐの個所で発生した。街道沿いに斬殺体が発見されたのだった。身なりは浮浪者という表現すら憚られるぐらいのみすぼらしいもので、捜査によれば最近このあたりや東通りを俳諧しているホームレスとのことだった。身元は未だに分かっていない。刀傷については、長めの曲刀の可能性が指摘され、衛士隊の残党による犯行が有力ということで捜査が続けられていた。

 

 しかし、第二の事件がそれを覆した。二週間ほど前に星見の塔近くで、新たな斬殺体が発見されたのだった。第一の事件と違って身元はほどなく判明した。帝国の命令に従わずクロスベルに残留していた衛士隊員 —― なぜか3月の一連の騒動には関与していなかった —― であることが分かったのだった。死因は胴体を斜めに切り裂く刀傷で、真っ二つに分かれた状態で発見されたという。

 

 衛士隊員による内ゲバか、最初はそう疑われたが否定された。衛士隊員はそこまで剣術を重視しておらず、通常使用している曲刀では真っ二つになるほどの斬撃を与えることは困難だったからだ。発見されたのが星見の塔近くである、ということで魔獣や機械人形の暴走という可能性も考えられたが、そのような痕跡を発見することはできず、捜査は長引いていった。

 

 そして第三の事件 —― 被害者は想定通り、クロスベル自治州のとある大企業の社長のどら息子3名、そして遊興目的で同伴した女性2名だった。女性の方は歓楽街アーケードで客引きをしていた街娼だった。事件も3回目、被害者が5人となるとさすがにマスコミも黙っているわけもなく、クロスベル自治州の各紙こぞって「切り裂き魔、第三の事件」と書き立てていた。今回捜査本部が立ち上げられた直接の原因は、マスコミに追い回された副局長がダドリーに捻じ込んだことにある。

 

 「事件の概略は以上であります。これより各事件の詳細について情報を展開します ーー 」

 ダドリーは捜査情報のメモを読み上げていった。といっても、大したものはない。事件というのは初動捜査が肝心なのは鉄則であるが、事件現場はいずれもクロスベル市街ではなく、犯行時刻はいずれも深夜となれば目撃情報も少ない。

 

「二課の方はどうか」

 

 ダドリーは話を振った。捜査二課は薬物や反社会勢力犯罪が担当である。

 

「残念ながら申し上げられることはございません。衛士隊の検挙と関連して薬物の流通も低下しております。また、黒月も最近は違法活動をぱったりと取り止めています。いずれ元に戻るとは思いますが。気味悪いぐらい平穏というのが現状です」

 

 ダドリーはむすっとして、今度は三課に話を振った。三課は窃盗事件が担当だ。殺人事件は門外漢だが、それに繋がる情報を持っているのかもしれない。

 

「三課の業務はいつもと変わりありませんが、今回の件に繋がるような情報は今のところありません。元衛士隊の一斉検挙からこのかた、取扱件数は減少傾向にあり、想定被害額もーー」

 

 つまりは平穏な日々が訪れつつあるということであった。この連続殺人を除けば、であるが。

 

「導力捜査課はどうか」

 

 設立されたばかりの導力捜査課課長が立ち上がった。専門的な知識が必要なこと、最新の技術についていかなければならない関係上、課長としてはずいぶんと若い。ティオ・プラトーなら「ヨナがまっとう方面に成長したような人」と称したであろうか。

 

「現場で発見されました導力カメラでありますが、つい先ほど一応の解析が終了しました。カメラは水分の侵入が激しく、記憶素子の再稼働は困難でしたが(彼はここを強調した)、一部、視聴可能な部分があります」

 

「事件の瞬間も映っているということかね」

 

「その可能性が高いと申し上げます。一課長殿」

 

 会議室がざわついた。スリやひったくりの現行犯逮捕ならともかく、事件の瞬間を目撃するというのは警察官のキャリアでも滅多にあることではない。なんだよそれ、という不満の声も聞こえる。最初から答えが分かっているなら何故捜査本部を立ち上げたのか、そう言いたいらしかった。

 

「映写可能か」

 

 導力捜査課長はうなずいた。端末を操作する。映写の準備は既に整えていたらしい。あー、これからお見せするのはカメラの記憶素子に保存されていた映像を適宜編集したものであります。

 

 映像が映し出された。馬鹿でかい音量で音楽がかかっているのが分かる。焚き火が焚かれ、5人の男女が酒を片手に談笑している。いや、呂律が回っていないから相当アルコールが入っているのであろう。

 突如悲鳴が響く。黒い人影が現れたと思うと、一番左に居た男性がぱたりと倒れた。一瞬の後、その横に居た女性、更にその横に居た男性と倒れていく。危機に気づいたのか、人影の方に残りの二人が向き直ったがそれまでだった。叫ぶことも命乞いをすることもなく、斬り伏せられていった。最初の惨劇から10秒も経っていない。

 

 会議室は沈黙に支配された。あまりの光景に音を立てることすら忘れてしまったかのようだった。沈黙を破ったのは、トイレに駆け込む女性職員だった。コーヒーを出しに行って、必要もないのに映像を見てしまったのは不幸と言う他ない。

 

「なんだこれ……」捜査二課長が言った。

 

「あのボンクラ共に同情したくなりましたな」捜査三課長が言う。あれじゃ素人はおろか、経験を積んだ兵士ですら対応できない。

 

「本当に人なのか。幽霊じゃないのか」

 

「斬撃なら得物が見えるはずだが」

 

「最後にチラッと映っていた白い棒がそれだろう。最後の3秒をコマ送りで」

 

導力捜査課長は誰に言われたのかも確認せずにコマ送りを始めた。スローで見ると確かに棒状のものがちらと煌めいて見える。それにしてもとんでもない速さだ。

 

「ホシの映像はこれ以外ないのか」捜査一課の職員が訊く。

 

「人影が見えるのはこの一瞬しかありません。導力カメラというのは光源に合わせてレンズの設定を自動で変えるもので、このような夜間で光源の及ばない箇所にはーー」

 

「鑑識課はどうか。」ダドリーが遮って聞く。この映像に繋がるような物証はないのか。

 

「捜査進展に繋がる有力な物証はないかーーとおっしゃいたいのでしょうが、今のところは何も。死亡推定時刻が当日午前一時あたりであることは確定と言っていいと思いますが、なにぶん事件発生から半日近く経過した後では、有力な物証は難しい。それにですな。こんな情報があるとするならば、一刻も早く伝えて頂かないと。ただでさえ現場の保存は困難を極めるのにーー」

 

「映像の解析が終わったのはつい一時間前であります!第一このカメラを発見したのは鑑識課ではなく捜査一課でーー」

 

「静粛に!」

 ダドリーは机を叩いた。どうも導力捜査課長はこの一件に入れ込みすぎる傾向がある。ダドリーは思った。出来て間もない部署であるから仕方がないにせよ、導力に明るい(言い換えれば忌避感を持たない)人間を何とかかき集めて部署を作ればこれか。このままだと先が思いやられる。

 

 結局、第一回合同捜査会議はカメラの映像以外、大した収穫なく終わった。映像を拡大したりスローにしたりと努力が続けられたが、フード付きのコートを着た黒づくめの人物、それ以外何も分からなかった。いや、映像だからそう見えるだけであって、本当に黒いコートを着ているかどうかも分からない。背格好についても、やや高めの背であること、一眼でわかる肥満体ではないこと、それぐらいしか分からない。結局、不審人物のリストアップに努めること、夜間の警戒を強めること、それだけが合意されて散開した。

 

 今のところ犯行は市外、それも夜間に限定されている。それはそれで一つの安心材料ではあるが、逆に言うと即時決着の切り札に欠けるということである。

 

 長引くかもなーー

 

 ダドリーはそう思った。

 

 

 

 捜査会議から数日の後

 

 ダドリーはデスクでコーヒーを飲んでいた。連続殺人事件このかた、「本来の業務ではない」仕事は大方延期になり、事件捜査に集中する環境が生まれてきていた。とはいえ、事件の発生件数も下火になっている。誰もが黒い人影に恐れ慄いているようだった。今やクロスベルタイムズやニュース放送ですら「黒い人影」を連呼する有様である。

 

 緘口令を敷いてたのに。

 

 ダドリーは臍を噛む思いだった。本人達は知らないし、これからも知られることは無いのだが、リークしたのはピエール副局長であった。もちろん本人がマスコミに漏らしたのではない。妻に黒い人影に気をつけろと言っただけだった。

 

 兎にも角にも情報が少なすぎる。

 

 ダドリー(と州警察)の悩みはそこだった。「黒い人影」について目撃情報は山のように寄せられているが、殆どが信頼性のないものだった。そのため、事件発生場所に近い箇所で、丹念に証拠や情報を探し回る羽目になっている。それでも大した情報はないので、捜査範囲はエルム湖畔全体に広がっている。ウルスラ医科大学やミシュラムで事が起こっては、クロスベル自治州全体の問題になるからだった。泥縄ではあるが、監視カメラの設置も始まっている。元々クロスベル市内に設置されるはずのものを強引に分捕ったのだった。

 

 報告書類をためつすがめつしているダドリーの机に、一人の男がやってきた。若手刑事のマニングである。

 

「課長」

 

「なんだ。報告書類ならそこに置いておいてくれ」

 

「これをご覧になりましたか」

 

 マニングが突き出してきたのは、クロスベルで発売されている経済誌だった。暇さえあればグラビア週刊誌を眺めているようなマニングには似つかわしくない。

 

「何だこれは」

 

「これですよ」

 

 マニングは表紙をとんとんと小突いてみせた。シュバルツァー新社長独占インタビュー、ラインフォルト・クロスベル社新事業の展望、とあった。リィンの顔写真も大写しになっている。

 

「ラインフォルトの若旦那がどうかしたのか」

 

「ええ。何でも東方剣術の達人だそうで。最近免許皆伝を受けたとか」

 

「だからどうした」

 

 ダドリーはぶっきらぼうに答える。

 事件の捜査にあたり、剣術の熟練者を洗うべしという意見は根強かった。第三の事件で、事件の撮影映像が発見されてから、その声は更に強くなった。余程の熟練者でないとこのようなことはできない、確かに道理である。

 

 風の剣聖、アリオス・マクレインーー

 

 剣術の達人と聞いて、誰もがアリオスのことを思い浮かべた。だが、事件との関連性は早々に否定された。現在、クロスベル警備隊の顧問に就任しているアリオスは、自治州の警備ネットワーク構築のために、クロスベルとレマン自治州を往復する日々を送っている。アリバイはすぐに証明された。

 

「あの若旦那とは面識がある。好んで人を斬りたがる人間には見えなかったがな」

 

「面識は無いですけど、この顔には見覚えはありますよ。いや、見覚えない人なんていないでしょ。帝国時報で散々見せられましたから」

 

 確かにその通りである。クロスベル経済界としては新顔かもしれないが、帝国の若き英雄、無敵の騎神を操る「灰色の騎士」リィン・シュバルツァーの名前は、一時期喧伝され続けていた。ルーファス・アルバレア元総督と共に、女性人気も大したものだったはずだ。

 

「シュバルツァーがやったと思うのか」

 

「分かりません。ですが、これまでの事件について、彼奴にはアリバイがありません。それは紛れもない事実です」

 

「なんだって」

 

 ダドリーが顔をあげた。

 

「何故分かる。まさかラインフォルトに聞いたわけではあるまい」

 

「まさか。秘書課にコネがあって情報収集に使わせてもらいました。最近、会社に同業者と思えない面々が社長に会いに来ているとか。それに、夜になるとまっすぐ家に帰っているそうですよ。会合も夜遅くなるものは殆ど断っているとか。新婚なのはそうですが、家に帰っても女房がいるわけでもなし、そんな事を言ってましたね」

 

 これではラインフォルトのセキュリティも多寡が知れているな、ダドリーはそう思ったが口には出さなかった。

 

「帝国の若き英雄にして、20代で社長就任、嫁は帝国一の才媛にして大金持ちーー天は二物を与えずとか言ったのはどこのどいつなんだろうな。そして趣味は人斬りだと?」

 

「エリートの考えることなんて分かるわけもないでしょう。課長。第一、趣味のために人斬りをしていると断定はしていません」

 

「じゃあ何のために」

 

「それは……帝国の謀略とか。クロスベル自治州に社会不安を起こして、再併合を図るとか」

 

「マニング君、マニング君。君は陰謀論がお好きかね。陰謀論を語りたいなら出版社へ行くといい。第一、私は君にミシュラム近辺での聞き込みを頼んでいたはずだが、それはどうした」

 

 マニングは答えなかった。恐らく、リィン・シュバルツァーのアリバイ調査とやらに注力していたのであろう。

 

「ならば任務に戻りたまえ」

 

 ダドリーはマニングを追い返した。マニングは忘れていったふうで経済誌と一枚のメモを置いていった。ここ1ヶ月のリィンのスケジュールが記入してある。よほど自信があったのであろう。

 

 ダドリーは考え込んだ。

 

 多分、警察内でマニングと同じような考えを持っている奴は少なくない。そして、同調する人間は増えていくだろう。何しろ、リィンは顔が知られすぎている。有名なだけで誹謗中傷に晒されるのは社会の宿痾と言っていい。それに加えて、リィンは帝国の大スターである。少なくともこのクロスベルでは。だからこそ、という予断は厳しく排除されるべきだが、予断そのものを防止することなどできはしない。

 

 これで次の事件が起きたらどうなるーー予断は警察だけではなく一般社会にも広まっていくだろう。「思い込み」「誤報」がいつの間にか止められなくなってしまうことは避けなければならない。ならば先手を打つしかない。

 

 ダドリーはARCUSを手に取った。連絡先をタイプする。

 

「バニングスか。今どこにいる……なるほど。なら一時間後に庁舎に来てくれ。第二小会議室を取っておく」

 

「くれぐれも、内密にな」

 



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忽の章

「あの噂は本当なの?」

 

 夕食の箸を取るのもそこそこにエリィが話を切り出した。

 

「噂ってなんだい」

 

 何のことか分からぬ体でロイドはとぼけて見せた。もちろんエリィが何を言いたいのか、十分承知している。

 

 バニングス家の新居は東通り市街地のとあるアパルトメントである。流石に新婚家庭なのに特務支援課のビルに寝泊まりするわけにはいかなかった。ついでに言うと、妻帯者に支払われる住居手当が結構な額だったので、新居を借りる余裕ができたというのもある。

 朝は二人で家から仕事場に通い、夜はめいめい家に帰る。一人ずつの時もあれば、二人一緒の時もある。そんな日常であった。

 

「切り裂き魔のことよ。マスコミもそうだけど、お隣さんもみんなこの話で持ちきりなのよ。今日、一人で帰る途中に捕まっちゃって、根掘り葉掘り聞かれて……」

 

「とは言ってもなぁ。ウチは一課じゃないのになぁ。合同捜査本部にも呼ばれなかったし」

呼ばれたくなかったけど、とロイドは心の中で付け加えた。

 

「今日、ダドリーさんに呼ばれたのでしょう?」

 

「呼ばれたよ」

 

「そのことじゃないの?」

 

「半分くらい当たりかな。夜間の巡回を強化するから参加しろ、だってさ」

 

「特務支援課に来ている依頼はどうするの?今でも溜まっているんじゃなかったのかしら」

 

「予算はつけるから遊撃士協会に依頼しろ、だってさ。」

 

「特務支援課がそんなことでいいのかしら」

 

「良くないと言えば良くない。けど、最近の特務支援課は特務支援課の体を為してないよなぁ。ランディはずっと警備隊に行ってるし、ティオは導力捜査課の手伝い仕事、エリィだってお爺様の手伝いが忙しくなる一方だろう?」

 

「お爺様はあと半月くらいしたら仕事も一段落するって言ってるわ。ランディさんも来月までの話のはずだし、ティオちゃんも……そろそろ戻ってきて欲しいわね。課長に話さないとダメかしら」

 

「そうだなぁ。なんだかんだはぐらかして期限を延ばされるのもいい加減やめにして欲しいよな。」

 

「キーアちゃんも寂しそうだし……って、ちょっと話がそれたけど、一課がシュバルツァーさんを捜査しているって、本当なの?」

 

「誰に聞いたんだい?」

 

「誰って……」

 エリィは警察にいる知り合いの女子職員の名前を挙げた。一連の斬殺事件は剣術の熟練者による犯行であるという線が濃厚で、それを元に容疑者のリストアップをしているという噂だった。

 

「それ、まずいなぁ。そんなこと、誰にも言ってないよね」

 

「もちろんよ」

 エリィは憤然として答えた。

 

「まずいってことは、本当なの?」

 

「いや、ダドリーさんは何も言ってなかったよ」

 

「本当?」

 

「嘘をついてどうするんだい」

 

「嘘をつく時、露骨に目線を泳がせる癖、やめた方がいいわよ」

 

「……!って、なんでそう言い切るのさ」

 

「ロイドにいい捜査官になって欲しいからよ。お兄さんを超えるんでしょ?ならば、私はその夢の実現に協力するしかないのよ。で、どうなの?」

 

「ノーコメント」

 

「ノーコメントなし!こないだ三課の女性職員と飲み会行った時にそれ使ったでしょ」

 

「それでもノーコメント。言えるようになったら言うから」

 

 ロイドは話を強制中断して、飯をかきこみ始めた。東通りに住んでいると食事も自然と東方風が多くなるものらしい。ロイドもエリィもクロスベル生まれのクロスベル育ちだからそれを苦にするわけではなかったが、最近エリィがダイエットに凝り始めたらしく、食事がいまいち物足りないのがロイドの悩みのタネだった。卓の中央に盛られた青椒肉絲が何故か味気ないと思ったら、肉が入っていないのである。

 

 そんなに体重増えているのかなぁ。別にエリィは今のままでも十分いいと思うんだけど。

 

 ロイドが食事の不満を述べるようになるのには、もう少し時間がかかるようだった。今の二人はあまりに新婚すぎた。

 

 

 

翌日夜7時頃ーー

 

「Ladies and gentleman. Boys and girls, welcome to Michelam Wonder Land. For your enjoyment,Michelam Wonder Land will be open until 10 p,m.」

 

 船内にはアナウンスが繰り返し流れ、陽気な音楽がBGMとして流れ続けている。客席は親子連れ、カップル、あるいはおひとり様で船内はごった返している。ロイド・バニングスはそんなミシュラム行き定期便の中でまんじりともせず座っている。

 

 なんでこうなっちゃったんだろうなーーエリィに嘘までついて。

 

 直接的な原因については、もちろん理由がある。最前列に居座っているリィン・シュバルツァーと、そしてダドリーからの命令だった。

 

 何なんだろうな。リィン・シュバルツァーを尾行しろ、だなんて。

 

 

 

前日の昼に時間軸を一旦戻す

 

「説明してもらえませんか」

 

 ロイドはダドリーに突っかかった。誰もいない会議室でダドリーと二人きりになり、腰を下ろすなりシュバルツァーを尾行しろと言われればそうなるというものだ。

 

「説明の必要などない。シュバルツァーは今回の事件について、要調査人物だ」

 

「それでは説明になってません。第一俺は合同捜査本部に参加してません。依頼を受けるにしても、情報が無い限り受けるわけにはいきません」

 

「その通りだ。だが、なればこそだ。もし、情報を明かしたら、いや、明かさなくてもお前はシュバルツァーに会いに行くだろう。違うか」

 

「それは……」

ロイドは口籠もった。ダドリーからリィンを尾行しろと言われた時、真っ先に頭の中に浮かんだ疑問がそれだったからだ。疑問に思うことがあるなら直接聞けばいい。何故聞かないのか。

 

「とある事情により、シュバルツァーは今回の事件において要調査対象となっている」

 

「容疑者じゃないんですか」

 

「容疑者であればとっくの昔に聴取している。容疑者と比定するに足る情報などない」

ダドリーはきっぱりと言った。

 

「だが、今回の件、いたずらに長引かせるわけにもいかん。それは分かるな」

 

んなこと言ったって、もう十分長引いているだろ。ロイドはそう思ったが口には出さない。

 

「これはメッセージというものだ。」

 

「シュバルツァーがホンボシだとしたら、だが。特務支援課が秘密裏に動いていること、それはいずれ伝わる。としたら、シュバルツァーのルーティンに変化が出てくるはずだ。そこが重要だ」

 

「俺が尾行をしくじると?」

 

「相手を正当に評価しろ、バニングス。シュバルツァーを舐めてかかるな」

 ロイドが秘密裏の尾行を得手としていないことには触れないダドリーである。

 

「……わかりました。特務支援課、リィン・シュバルツァーの尾行調査にあたります」

 

「特務支援課ではない」

 

「は?」

 

「尾行に参加するのはお前一人だ。そして、今からお前は合同捜査本部付きとなる」

 

 ダドリーはクリップボードを突き出した。そこには、ロイドが合同捜査本部付き人員となる通知書が挟まれており、セルゲイ課長のサインがあった。

 

「私以外の誰にも言うな。いいな、バニングス」

 

 

 

 程なくして連絡船はミシュラムの波止場に着いた。リィンが波止場に降りてしばらくの後、ロイドも船を降りて尾行を開始する。リィンはアーケードに入るとぶらぶらと店舗を見て回っている。時間は少し遅くはあるが、それでも良くある光景である。同じようにショッピングに興じる客は他にも沢山いる。

 

 だが、閉園まではあと二時間、もしリィンに目的があるとするならば、それまでに行動を起こすはず、なのである。もちろん、韜晦のためにらしい行動を見せて周囲を振り回す、というのはある。そうなると、今度は向こうとこちらの我慢比べということになるが……あるいはダドリーの言う通り、向こうがしびれを切らして尻尾を出してくるか。

 

「というかだ。何故ミシュラムなんだ?」

 ロイドは独りごちた。ダドリーから渡された情報によると、リィンの行動範囲は(どこからこの情報が出てきたか聞くことはできなかった)、ウルスラ間道、星見の塔といった、湖の「こちら側」が主であり、「向こう側」のミシュラムは行動範囲にないはずだった。

 

 リィンはなおも、あちこちの店に入っていっては、出ていくということを繰り返している。行動としては、普通のウィンドウショッピングと何ら変わるところはない。店の中に入って監視しようかと思ったが、やめにすることにした。ミシュラムアーケードの店内は大して広くないからだ。

 リィンは3軒目の店、ブティック「コルセリカ」に入っていった。ロイドとしては、リィンの今日の目的について、見当をつけなければならない段階に入っている。閉園まであと一時間、今日はただの様子見なのか、あるいは本当に、今回の事件と関係ない目的のために動いているのかーーもしかしたら、本当に誰かのためのプレゼントを買うためなのかもしれない。こんなんだったら近親者の情報も調べておくべきだったーーロイドが異変に気が付いたのは、そこまで思考をめぐらせてからだった。

 

 リィンが出てこない。今まで5分もすれば出てきたリィンが、10分経過しているのに出てきていないのだ。どうするロイド。もし出くわしたらそれはそれでまずいことになるがーーそれもダドリーの計画のうちかもしれない。

 ロイドは「コルセリカ」に踏み込んだ。案の定、店内には誰もいなかった。カウンターの店員に警察手帳を見せて尋ねる。

 

「あの、クロスベル警察ですがーー」

 

「あらバニングスさん。奥様へのプレゼントですか?」

 ほれみろ、とロイドは心の奥で苦虫を嚙み潰した。尾行は世間に隠れるから上手くいくのであって、尾行する方が顔ばれしていては上手くいくはずもない。店員だって、ロイドの左手薬指に指輪があるからそう言っているわけではない。要はそれだけ特務支援課というのは注目の的(になってしまっている)ということだった。

 

「あ、いえ……それはいずれ……それはそうと、この人がこちらに来ませんでしたか?」

 

「ああ。シュバルツァーさんですか?先ほどお手洗いを貸してほしいと、え、あの?」

 

 ロイドは店員の話も聞かずバックヤードに乱入した。予想通り、事務所のトイレは使用した形跡がない。そして、事務所はロックがかかっておらず、開けるとミシュラムアーケードの廊下に出る。

 ロイドは、自分が初歩的なミスを犯したことを認めざるを得なかった。

 

 

 幸いなことに、「初歩的なミス」は何とか取り返せそうだった。別にロイドが奮励努力したわけではなかった。単に、リィン・シュバルツァーも目立つ存在だった。それだけだった。程なくして、リィンはビーチの方に向かったことまでは判明した。そしてそこで消息が途絶えていることも。

 

 本来ならここで捜索を断念する局面だった。だが、ロイドとしては単に「間抜け警官」として動く意図はなかった。懐から犬笛を取り出し吹き鳴らす。程なくして白い大型犬ーー普通の人が見たらそう表現するであろうーーが駆け寄ってくる。

「ツァイト!こっちだ!」

ロイドはビーチの人目につかない箇所を見つけてツァイトを連れ込んだ。

 

「ごめん。やっぱりバレていたみたいだ」

 

「ロイドよ。あのような初歩的な手でやられるのは先が思いやられるぞ」

 

 ツァイトの返答は、念話の形でリィンの脳に直接流れ込んでくる。最初は勝手が分からず戸惑ったが今は慣れたものである。第一、警察犬と直接コミュニケーションが取れるなど天の配剤としか言いようがない。

 

「この件が終わったら精進することにするよ。まずはツァイト、リィンの行き先が分かるか?」

 

「もう見当はついているのであろう?」

 

「俺はその先を聞いている」

 

「そうか」

 

ならば、とツァイトはビーチの奥にある壁に向かって首を振った。

 

「湿地帯の方、その奥ということか。一体どうやって……」

 

「そういう裏事情を探るのは後にしたほうがいいぞ。匂いも足跡も長くは残っていまい」

 

「そうだな」

 

 ロイドは職員に鍵を借りるとミシュランビーチの奥ーーエルム湖湿地帯に踏み込んだ。

 

 

 湿地帯を支配するのは、夜の闇と静寂だった。不夜城ミシュラムの喧騒とは正反対である。視力が低いと、暗視カメラでもないと移動もままならない。幸いロイドは視力に自信はあったし、ツァイトのサポートもある。

 月の光だけでリィンを追うのは、本来なら一苦労の仕事のはずだが、幸いなことに苦労の大部分はツァイトが引き受けてくれた。匂いとか、足跡を探してロイドに道を示してくれる。

 

「助かるよツァイト」

 

「ふむ。ロイド」

 

「何だい?」

 

 ツァイトが突然歩みを止めたのでロイドは訊いた。追いつくなら休息など取ってはいられないはずだが。

 

「妙だ」

 

「妙?」

 

「ロイドよ。今日の目的は人探しと聞いたが」

 

「そうだよ」

 

「今追っている足跡、これが目的の人物ということで間違いないな」

 

「そりゃそうだよ。他に何が?」

 

「匂いが強くなった」

 

「??」

 

「まだ分からないか。ロイドにも足跡は見えるはずだ」

 

 ロイドは目を凝らす。単に見ている分には何が起きているか分からないが、今までの追跡行でツァイトが足跡を教えてくれているから、足跡らしきものを辛うじて見分けることができる。この足跡がどう続いているかというと……

 

「この樹に寄りかかったか」

 ロイドは一つの樹に近づき、ライトで足下を照らし出した。今まではっきりしていなかった足跡がここでは明確に残っている。それだけではなく、同じ箇所に複数の足跡がある。

 

「休息……じゃないよな」

 単に休息するのなら足場が悪すぎる。合理的ではない。

 

「で、あるな。今まで真ん中を歩いていたらしいが、ここから端を歩くようになった」

 ここで行動パターンが変わったということだ。何がどう変わったのだろうか。

 

「リィンは何かを探しているのか?」

 

「かもしれん」

 

「どうして分かるんだ?ツァイト」

 

「はるかに弱いが、匂いに何か混じっている。湿地帯由来のものではない」

 

「!??それを先に言ってよ!」

 

「確信が持てなかったから言わなかっただけだ。いずれにしても」

 

「ああ。どうやら『当たった』な」

 

「ならば急がねば」

 

 ロイドはライトを再度取り出した。今まで気取られることを恐れて使うのを控えてきたが状況は変化した。ライトを使えば、足跡の捜索はずっと楽になる。実際、足取りの捜索はスピードアップした。

 幸いなことに、彼らの努力は結ばれた。

 

 

 異変に気づいたのは、ほんの少しロイドの方が先だった。

「……ツァイト!」

 

「……戦場音楽だな。それも古風な」

 斬り合いの音が聞こえるとツァイトは言っていた。鋭利な刃物がぶつかり合うキーンという音は、現代では滅多に聞くことはない。

「遠いな。ツァイト、方角は?」

 ツァイトは少し首を振った。ここから見て2時方向。

 

「……なんか引っかかるな。何だろう……そうか!」

 そこにはかつて騎神が顕現した場所がある。因縁というのはこのことかーー

 ロイドは駆け出した。

 

 湿地帯の最奥にたどり着いたとき、ロイドは自分の目を疑った。二人の男が超高速で斬り合いを行っている。別れては斬り結び、そして間合いを取っては再度鍔迫り合いに至るーーそんな光景が繰り広げられていた。いや、それがまるでコマ送りの動画のような速さで繰り広げられている。

 二人の背格好はほぼ同じ。片方はビジネス用スーツの上下、もう片方は真っ黒のフード付きマント姿である。スーツの方はリィン・シュバルツァー、マントの方はロイドには面識がなかった。

 

「まずいなロイドーー圧倒的だ」

 ツァイトからそう言われて見直すと、状況は一進一退に見えてそうでないことが分かる。速さではひいき目に見て五分五分だが、マントの男の方が打ち込みの力で圧倒していることが見て取れた。リィンはそれを受け流したり、躱したり、あるいは剣気で動きを止めてその間に距離を取ることを繰り返している。時間を稼いでいるのか、それとも目の前の状況を挽回するのに精一杯なのかーーまぁ、両者に明確な違いがあるかというとそうではない。勝てるなら勝ってしまえばいいのだから。そうすれば命だって落とさずに済む。

 

「ロイド!」

 ツァイトから再度念話で呼びかけられて、ロイドは我に返った。そうだ。現在の状況は傍観していいものではない。何とか止めないと。警察官であればなおさらのことだ。だが、どうやってーー

 ロイドが逡巡している間に状況は悪化していた。なんとか劣勢を打開しようとして、大振りでの打ち込みを試みたリィンが突如バランスを崩し、マントの男がリィンの刀を打ち飛ばしてしまったのだった。つんのめったリィンはそのまま倒れて動かなくなる。死合という意味では勝負はついてしまったのだった。

 

 ロイドは身構えた。こうなったら、丸腰でも踏み込んであの黒マントを無力化しなければならない。こんなんだったら、拳銃かライフルでも持っていくべきだった。尾行だと思って警棒まで置いていったのは痛恨のミスだが、やらなければーー

 

「ツァイト。向こう側で注意を引いてくれ。同時に飛び込む」

 

「ロイド。勇気と無謀は同義語ではないと思うが」

 

「じゃあなんだ。目の前で人が殺されるのを見ていろとーー」

 

 その次の瞬間、戦場は突如、轟音と閃光に包まれた。

 

 

 

 




どこぞのドキュメンタリーですが、始めた人は終わらせる義務があるそうですよ。
(大体みんな見ているあのドキュメンタリーです)

とりあえず自分は「アッハイ」と言うしかない。


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毫の章

「あなたが想像できることは、すべて現実なのだ。」
パブロ・ピカソ


 リィンに対して思うところがある時、アリサ・ラインフォルトはリィンのことを「あの男」と呼ぶ。口に出すのは一人の時だけだが。

 

 アリサ・ラインフォルトは急いでいた。リィン襲撃さる(と負傷)の一報を受けたのは今日の未明、すぐにでも逢いに行きたいところではあったが、ルーレからクロスベルの飛空艇直行便は全て満席で、ヘイムダル経由の便しかチケットを取れなかったのだった。おかげで、どんなに急いでもクロスベルの到着は正午になってしまった。

 

 こんなのだったら重役専用のプライベートプレーンを導入しておくんだった、と後悔したが今更後の祭りである。もっとも、ヨルムンガンド戦役このかた資金欠乏に悩んでいるラインフォルトが、そのような「贅沢」をする余裕はなかっただろうけど。

 

 それにしてもあの男は、何でもかんでも頼まれごとをほいほい引き受けすぎる。

 アリサは思った。

 今回の件に関しても断ろうと思えばできたのに、二つ返事で引き受けてしまったと聞いて怒るより先に呆れてしまったものだった。

 

 あの男はいつまで経っても変わらない。相克を終えてあり得たかもしれない選択肢と向き合い、少しは変わったかと思いきやちっっっとも変わっていない!

 そんなことしてても世界は良くならない。世の中はもっといい加減に生きるものだと何故分からないのだろうか。

 

 そんなこんなを頭の中で弄んでいるうち、列車はウルスラ医科大学病院駅に到着した。本来ならクロスベルから直接車で乗りつけたかった所だが、今、ウルスラ医科大学前は大渋滞なのだという。理由は想像はついたが深く考えないことにした。

 

 ウルスラ医科大学駅の出口を出て、予想通りマスコミや警察関係者でごった返している受付を何とか抜け、特別病棟へと急ぐ。目的地のVIPルームへ入るにはパスカードが必要らしかったが、シャロンは当然とばかりにすっとカードをアリサに差し出した。一体いつの間にカードを入手したのか、アリサには想像もつかなかった。

 

 特別病棟に入り、ばたんとドアを大開きにすると、あの男ーーリィン・シュバルツァーは、何人かの人間に取り囲まれていた。頭に包帯を巻いている以外は問題は無さそうだ。リィンと取り巻きは一斉にドアの方に振り向く。

 

「……アリサ?」

 リィンが困惑したような表情を浮かべる。

 

 アリサには、会った時に説教してやろうと思っていたことが、十指に余るほどあるはずだった。しかし、リィンの顔を見た瞬間、そんなものは綺麗さっぱり吹き飛んでいた。アリサはつかつかと駆け寄り、愚かな夫を強く抱きしめたのだった。

 

「ア、アリサ……アリサさん……何でここに……ルーレに居るんじゃなかった?」

 リィンは言ったがアリサは答えない。えぐえぐと泣きじゃくりながら何かを言っているようだけど、リィンには聞き取れなかった。

 

「あの……だから落ち着いて。せめて泣くのをやめてくれないか……折角の美人が台無しだから……」

 

 結局、二人の時間を中断させるには、部外者の介入が必要だった。

 

 

 

「アリサ。お取り込み中のところ悪いけど事情聴取中」

 

 誰かがアリサの肩を掴んで強引に引き剥がした。折角の再会を中断させられたアリサは、文句の一つも言おうと思って向き直ると、そこには小柄の少女が立っていた。

 

「……フィー?」

 

「ん。分かっていると思うけど私だけじゃない」

 

 よくよく見ると、病室の中は人で溢れていた。フィーだけではなく、クロスベル市警、遊撃士と思しき人、聖杯騎士にその従騎士、医師に看護士と十人以上が室内にいる。気まずそうな顔をする者、にやにや笑いをする者、見なかったふりをする者、あらあらうふふと笑顔を浮かべる者、反応は人それぞれであれど、アリサが場を読んでいないことだけは確かだった。

 この期に及んで、思っていた以上に人がいることをようやく認識し、それまで泣きじゃくっていたことも忘れてアリサはひどく赤面した。誤魔化すかのようにドアの方に顔を向けると、そこには一緒について来たシャロンがいつもの笑みを浮かべて立っている。ただ、口の端がわずかに引き攣っていることをアリサは見逃さなかった。どうやら、事情聴取中だと思われるから気を付けるようにというのを言い忘れたか、言えなかったらしい。

 

「……ごめん」

 

「ん。分かればいい。ところでみんな」

 

 フィーが室内を見渡した。

 

「時間もないから。一応紹介しとく。アリサ・ラインフォルト……って、みんな知ってるか。いや、知らない人もいる」

 

 フィーがダドリーの方を見る。

 

「アリサ、挨拶して」

 そう言われてアリサは室内をきょろきょろ見回した。数瞬して、部屋の端で面白くなさそうにむっつり黙っている眼鏡の男性のことであると分かった。

 

「あ……大変失礼致しました。アリサ・ラインフォルトです。この度はリィンが大変ご迷惑をおかけしまして……」

 

「いえいえ。クロスベル州警察、アレックス・ダドリー警部であります。これは州警察として当然の義務ーー」

 

「挨拶終わったら元に戻る」

 

 フィーに会議を仕切らせると(それ自体が非常に珍しいことだが)強引に過ぎるらしい。

 

「で、ロイド。リィンを再び発見した時は既に戦闘状態だったと」

 

 突然話を振られてロイドはまごついたが、何とか持ち直す。

 

「え……あ、はい。リィンさんともう一人の人物と思われる存在が斬り合いをしているのを見ました。月明かりしかなかったから、見えづらいところがあったけど暗色系のマント、顔は……見えてないです」

 

「ん……暗い中そこまで見えるって、さすが捜査官」

 

「それで、リィンさんが滑って倒れて、動かなくなって……踏み込もうと思ったその瞬間に、周囲が光って物凄い音がして……そうか、フラッシュバン?」

 

「そう。止めようと思って投げたら、丁度いいタイミングでみんなの動きが止まったから助かった。斬り合いの途中で使ったら、何が起こるか分からなかったから」

 

「それで、閃光に目がやられて、視力が元に戻ったら、男はいなくて……フィーさんが居たんですよ」

 

「ロイド、大丈夫。男は目を塞いで沼地の奥に消えていったから。多分ロイドと同じで目が眩んだんだと思う。呻き声あげてたから、症状はもっと酷いかも。これで大体の話は繋がった。ところでリィンーー」

 

 フィーはリィンの方に顔を向けた。

 

「リィン。距離を取って相手の動きを止める、そういう約束だったよね。あんなに飛び回ったら銃撃はできない。だったら、待ってくれても良かったのに」

 

「時間稼ぎがうまくいかなかった。いきなり刀を振り上げてかかってくるとは思わなかった。それにあの剣圧と振りの速さ……」

 

「フラッシュグレネードを使わなかったらどうするつもりだった?」

 

「……やられてたかも。ビジネススーツで斬り合いするんじゃなかった。踏み込みで滑って岩に頭をぶつけるなんて……剣聖失格だ」

リィンは頬をかいた。

 

「精進だね、リィン。それとも社長やって身体がなまってる?トレーニングしてあげようか?」

 

「……辞退します……フィー相手にトレーニングというとアイゼンガルド連峰で山籠りとかになりそうだから」

 

「冗談。あ、そうだ」

フィーがアリサの方に向き直った。胸ポケットから細長い直方体の包みを取り出す。

 

「はい、これ。結婚おめでとう」

 

「え、あ、あの……」

 

「いいから受け取って」

 

 アリサはなおも逡巡していたが、結局フィーの気迫に押し切られる形で包みを受け取った。祝福というよりは自分自身のけじめ、あるいは式に呼ばなかったことの嫌味だったかもしれない。後になってアリサはそう思い返すのだった。

 

「いい加減にしてくれないかね」

 さっきから置いていかれているダドリーが爆発した。

 

「連絡を受けて急行したら精密検査が一段落するまで入室禁止、入室禁止が解けたらいつの間にかここは部外者が入り込んで、挙げ句の果てにこちらから知っていることを全部話せですと!第一何故遊撃士協会や聖杯騎士がここに居るのですか」

 ダドリーの口調は辛うじて丁寧だったが顔には憤懣が滲み出ている。

 

「クロスベル州警察には封聖省から連絡が行っている筈ですが」

 聖杯騎士ーートマス・ライサンダーが言った。ダドリーの憤懣などどこ吹く風という感じである。

 

「つい一時間前ですぞ!」

 

「まぁもう少し落ち着いて。封聖省も事件の解決には協力を惜しみません。遊撃士協会もそのはずです。

 

 

 ダドリーとトマスの仲介をしたのはリィンだった。

「どうですか、トマス先生。もう隠しておける段階ではないと思うのですが。それに、次が空振りだと後の影響が大きすぎる」

 

「……やむを得ませんな。ダドリー殿」

 

「何でしょう」

 

「少々、警察から人数をお貸し願えますかな。いや、少々ではないかもしれないが。それも早急に」

 

「協力したいのは山々だが、私の一存では何とも言えません。上を説得することについては協力しますが、せめて貴方がたが何をここでやろうとしているのか、教えていただかないと」

 

 しばしの逡巡の後、トマスは口を開いた。方針は固まったようだった。

 

「ダドリーさん、ロイドさん……天正自顕流(てんしょうじけんりゅう)という流派をご存じですかな?」

 

 

 

「天正自顕流?」

 

 ダドリーはオウム返しに聞き返した。

 

「でしょうね。カルバード共和国、東方にかつて存在した古代剣術だそうです。古代といっても、ゼムリア文明時代の話ですけどね。剣術でも速さと攻撃に特化した流派だそうです。刀を無駄なく振り下ろすために、右肩の上で刀を構え、肘から先だけで振り下ろすのだそうです」

 

「肩の上……」

 

 ロイドはポーズを真似してみた。脇を締め、右肩の上で刀を構えてみる。肘から先だけを使って剣を振り下ろす真似をする。八葉一刀流の正眼の構えと比べると違和感がある。

 

「確かに……あの男もそういえばこんな感じで振り下ろしていた……けど、信じられない。あんなに早くて威力のある剣になるんですか?」

 

「そのために厳しい修行を積むのだそうですよ。解読された文書によりますと、

 

『一呼吸を分と呼び、

 それを八つに割ったものを秒と呼ぶ。

 秒の十分の一が糸、

 糸の十分の一が忽、

 忽の十分の一が亳、

 亳の十分の一が雲耀、雲耀とはすなわち稲妻のこと也

 

 一撃の速さ、進退、雲耀の如く』

 

 だそうです。剣の振り下ろしだけでなく、進退の速さもこの流派の特徴です。一般的な剣術が想定する間合いより遠くから一気に差を詰め、主導権を奪ってしまう。まさに攻撃に全てを賭けるやり方です。そして、この剣術に熟練した者が達し得る境地、それこそが『雲耀の太刀(ライトニングソード)』と呼ばれるものだそうです。」

 

 一同、声もない。

 

「三か月ほど前、カルバード共和国のとある場所で、アーティファクトの封印と移動作戦が行われました。天正自顕流の修行のために用いられていた刀だそうです。その力は、持った者の意識を支配し、強制的に流派の型を使わせるものだった、伝承にはそうありました。単に意識を支配するだけでなく、使用する人の潜在能力を大幅に引き出す効果もあったようです」

 

「問題は、修行の過程で実戦を経験させるということでした。つまりですねーー剣術の上達のために魔獣、あるいは人を斬るということです。悪用を危惧した協会は、この刀を封印し保管しようと試みましたが、移送途中に結社<身喰らう蛇>に襲撃され、この刀を奪われてしまいました

 封聖省はすぐさまアーティファクトの奪還を試みましたが、結社もこのアーティファクトを失い、行方が分からなくなったことが判明しました。恐らく、結社内の何者かが勝手に持ち去ったのでしょう。そして、アーティファクトの所在が最後に確認されたのが、ここクロスベル自治州だったのです」

 

「ちょっと待ってくれ。」

ダドリーが遮った。

 

「ということはだ。七曜教会は、そんな危険なものがクロスベルにあることを知りながら、黙っていたということか」

 

「七曜教会でも、アーティファクトに関わるのはごく一部です。黙っていたのは、封聖省と言うべきでしょうな」

 トマスはしれっと答えた。

 

「では、封聖省が黙っていた、という認識でよろしいか。封聖省はこの三か月、クロスベル自治州の市民の生命を危機に晒したということなのか!」

 ダドリーは語気荒く詰め寄った。

 

「その通りですな。全くその通り。ただ、不幸中の幸いだったのが、アーティファクトが引き出し、増幅させた潜在能力が<夜目>だったということです。この刀を持つ者にとって、昼間はもちろん、夜でも街灯がある箇所は明るすぎ、近寄りにくいらしいのですよ。連続殺人事件のパターン、収集した情報から、我々はそういう仮説を立てていました。仮説が確信に変わったのは、フィーさんのお手柄ですけどね」

 

「だから心配はしなくてよかった、と」

 ダドリーの怒りは納まらない。

 

「そこまで突き放したつもりはありません。ですが、我々が総力を挙げたとして、一体何ができたでしょう?クロスベル自治州内のどこかに潜んでいる人間を探し出すなど、藁の山から針を探し出すようなものです。捜索作戦は最初検討されましたが、野山をかき分けて探すなど非現実的と、結局却下されました。代わりに、アーティファクトの消耗を待つ、そういう作戦に切り替えたのです」

 

「消耗?」

 

「アーティファクトは奇跡を実現しますが、代償がないわけではない。大抵は、霊力の消耗という代償を支払います。霊力が消耗しきったアーティファクトは、回復のためにクロスベルに存在する地脈、そのいずれかに現れるに違いない、そう推測したのです。

 聖杯騎士団は、遊撃士協会とその他有志に協力を依頼し、クロスベルに存在する地脈を監視することにしたのです。ただ、誰にでもできることではありません。相手は剣術の達人。それに加えスピードは予測不可能、となれば、速さに自信のある接近戦の達人でなければ難しいミッションでした。」

 聖杯騎士団の方はそうも言ってられませんでしたが、トマスは付け加えた。

 

「だからリィンが夜な夜な歩き回っていた、というわけなんですか」

 ロイドが訊く。トマスはうなずいた。

 

「消耗して現れたところを叩いて、可能ならば封印する、そういう手筈でしたが、アーティファクトの威力は想像以上だったようです。恐らく、乗っ取った人も相当の使い手だったのでしょう。リィンさんが不覚を取る可能性はかなり高いものでした」

 

 リィンは僅かに背筋を震わせる。フィーが閃光手榴弾を使うことを思いつかなければ。

 

「ですが、様々な幸運によって、情勢はこちらに有利となっています。アーティファクトの霊力は依然消耗しており、回復が必要であることに変わりありません。さらに、閃光手榴弾の光をまともに見てしまったために、視力もしばらくは低下しているでしょう。今が千載一遇のチャンスです」

 

「近いうちに男が……いや、アーティファクトがどこかの地脈に戻ってくると?」

 

「そうですロイドさん。人海戦術で網を張り、追い詰め、再封印するのです。今まで霊力反応の大きい地脈に限って監視してきましたが、今度は監視範囲を広げ、確実な捕捉を目指します。」

 

「失敗したらどうなる」

 ダドリーが訊く。

 

「アーティファクトが霊力を回復してどういう奇跡が起きるかは予測不可能です。確実に言えるのは、連続殺人事件がこれからも続くーー少なくとも使用者が剣の道を極めるまでは」

 トマスの答えにダドリーは歯を噛み鳴らした。

 

 

 

 リィン・シュバルツァー襲撃さる、のニュースはクロスベル州を震撼させた。相手が切り裂き魔となればなおさらである。記者会見会場には記者が押しかけて入りきれない程となり、報道官は質問の嵐に晒された。

 しかし、報道官は質問のほとんどにノーコメントを貫き、今回の事件捜査のため、警察と警備隊合同で自治州内の捜索作戦を行う、とだけ述べた。

 



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雲耀の章

 

 最初は、ほんの出来心だった。

 

 上からの命令で、自分の所属する猟兵団に古代秘宝を教会から奪取するという命令が出た。団はそれを受け、実行した(上は古代秘宝であるとは言わなかったが教会相手のドンパチならそうに決まっていた)。作戦自体は他愛もないもので、それはあっけなく手に入った。教会の連中の警備はお粗末に過ぎた。

 

 作戦終了後、秘宝を輸送するということになり、自分は秘宝の警備を命じられた。本来、警備が一人の人間に任せきりになることはあり得なかったが、たまたま人数が足りず、そういうことになった。

 

 警備というのは暇なものだ。そして、真面目にやろうとすればとてつもなく緊張して疲労することになる。そもそも、襲撃の心配がない飛空艇で、対象を直接警護するなどナンセンスだ。仲間内でそう話したし、同意する連中も居た。

 

 そんな「暇」が3日続いた後、「秘宝」をどうしても見たくなった。もちろん秘宝に触れることそれ自体が懲罰ものであるが、細長いケースに入った「それ」の中身を見た者は誰もいない。触れたことを証明することなどできはしない。少なくともその時はそう思った。

 

 中身は東方風の太刀だった。少し古ぼけたデザインであることを除けばただの刀にしか見えなかった。

 

 こんな古刀に何の価値がーー

 

 手に取ってしまうのは必然だった。少なくとも自分は、今でもそう思っている。

 

 その後のことは、そう、何と言ったらいいか……体の中が突然燃え上がるように熱くなり、全身が筋肉痛もかくやと思うような激痛に見舞われた。あまりの痛さと暑さにしばしのたうち回ったが、それは突然収まった。逆に体がものすごく軽くなったような感じになった。刀を振ると、まるで竹刀でも振るかのように軽々と振れるのだった。

 

 そして「声」が聞こえてきた。頭の中だけに響くような感じで「聞こえて」きた。曰く、

 

 斬れーー

 

 と。

 猟兵というのは、殺人を愛する精神倒錯者のような扱いを受けることがあるが、自分に言わせるならそれは全くの誤解である。任務と関係ない殺人は、猟兵の最も忌むものだった。そのはずだった。

 

 そのはずだったがーー偶然近くをソイツが通りかかった。ソイツは、ここ数年同じ戦場を駆け、死戦を潜り抜けた「戦友」だったが、手にかけることに何の躊躇もなかった。数秒後、戦友は骸と果てていた。自分の変化に気づくのが遅すぎた故の悲劇だった。

 

 飛空艇内は大騒ぎになったが、やることは決まっていた。迷いなどなかった。頭の中だけに声が聞こえ、それに従っていれば万事上手くいった。パラシュートを着け、船尾にあるドロップゲートの扉を開けて脱出すれば問題なかった。間抜けなのは教会だけでなく自分達もそうだった。

 

 そして剣と「声」との共生が始まった。声は朝晩の修練ーーひたすら型に従った素振りーーを強要した。そんな剣士ごっこに付き合うつもりはなかったが、やらざるを得なかった。やらなければあの筋肉痛が待っていたし、剣を手放そうとしてもどうしても手から剣が離れないのだった。

 

 代わりに食事を摂ることがなくなった。水すら飲まずに生きることができた。二、三日に一回、クロスベルにいくつかある霊脈に行き、しばらく待っていれば空腹も渇きもなくなるのだった。恐るべきことに、剣の刃こぼれや曲がりすら勝手に修復するのだった。

 

 それからは剣の声に抗うことはやめた。声に従い、さまざまなものを斬っていった。そのほとんどは魔獣だったが、時たま人間を斬ることもあった。体に起こった変化は剣とか、食事とかそれだけに留まらなかった。視力、聴力、触覚、全てがはるかに研ぎ澄まされた状態になった。人間を警戒して徘徊するはずの魔獣相手に奇襲をかけるなど造作もなかった。

 

 感覚が研ぎ澄まされたことは良いことばかりではなかった。暑さ寒さは身にこたえたし、昼間は眩しすぎて出歩くことは叶わなかった。コートを着て縮こまることしか出来なかった。

 

 しかし、戦士としての実力は以前とは段違いに向上した。どんな相手にも、どんな魔獣にも打ち勝つだけの自信があった。結社の大型人形兵器すら、余裕で戦えるだけの自信があった。

 その自信が確信に変わったのは、一週間前だった。エルム湖湿地帯の霊脈で霊力を補充している時だった。そこに、とある男が現れた。

 男は自分の正体ーーいや、刀の正体を知っていた。悪いことは言わないから、その刀を引き渡せ。引き渡さないと重大な結果を招くだろうと言った。

 

 今更何を言うのだろうか。

 

 この刀を握ってからこのかた、放したくても放せないのに、どうして引き渡すことができようか。それからは断る、引き渡せの押し問答が何回か続き、しびれを切らしたのか、男は佩いた太刀を抜き払った。あくまで断るなら、実力行使止む無しと。

 

 さすがに今までのような戦いとはいかなかったが、実力は圧倒的だった。

 

 相手は八葉一刀流を名乗っていたが、その八葉一刀流の剣すら、スローモーションでしかなかった。余裕を持って受け流すことができたし、剣を振る速さに圧倒的な差があることもすぐ分かった。それでもこちらの剣が受け流されたのは、向こうが超一流の剣士である証明であった。それでも、彼我の実力差は圧倒的という言葉すら足らない。追い詰められた敵は、捨て身の攻撃に出たーーが、滑って転んで気絶するという滑稽な結末に終わった。八葉一刀流の最期としてはまことにあっけないものであった。

 我に敵はなし。使徒とすら互角以上に渡り合えるーー

 

 自分は勝利の余韻に浸った。いや、浸りすぎた。

 

 おかげで、あの時、目の前に転がってきたものが閃光手榴弾であることに気づくのが、ほんの一瞬、遅れた。本来ならすぐに目を閉じ、口を大きく開けて耳を塞ぐ状況だった。猟兵として受けていた訓練により、機械的にそれができるはずだった。実際は、それすらできていなかった。

 結果は壊滅的だった。真夜中でも、昼間のように見通すことができた視力は、今はまったく機能していない。耳もほとんど聞こえない。人の話し声を聞くことすらできない。医者に行けば補聴器をすすめられるかもしれなかった。あの場を何とか切り抜けられたのは、直後に乱入してきた新手の敵が、あの剣士の救助に専念したから。それだけだった。

 

「問題ないーー」

 それでも剣はそう言い続けている。霊力が消耗しているから回復ができないが、霊力さえ補給すれば、身体の損耗などすぐに元に戻る。だから、さぁ、霊脈に戻るのだーー

 

 それが出来ないから問題なのだ。

 

 剣にそう問いかけても、まともな返答は来ない。霊脈に戻れ、それだけである。もしかしたら、剣も「本当に困っている」のかもしれなかった。

 

 事情が変わったのはその翌日(六日前)だった。 

 それまで見当違いの捜査をしていたクロスベルが、突如、州内全ての霊脈、その警備強化に乗り出した。全ての霊脈に警備隊が配置されたらしかった。隠れて偵察した霊脈では、夜通し照明弾が焚かれ、一個小隊程度の警備隊員が見回りを行っていた。自分が明所に弱いこと、敵がそれを知っていることは明らかだった。

 一個小隊なら無理すればいける……そう考えたこともあった。しかし、飛空艇まで動員してパトロールしているのが分かって、それも断念した。たとえ地上部隊を悉く屠ろうと、空から銃撃されながら霊力を回復することなど不可能だったからだ。それに、小型の霊脈では霊力の回復が中途半端になる。完全回復を目指すならあの場所ーーエルム湖湿地帯の霊脈を目指すしかなかった。

 

 本当なら行きたくはなかった。自分一人だけなら、とっくの昔に自治州を去っていただろう。自治州内にしか霊脈がないわけではない(数は多いのだが)。

 しかし、刀の要求に逆らうことは難しかった。警戒の薄い霊脈を探してはみたが、結局無駄足を踏んだだけだった。あの場所へ行くしかなかったのである。

 

 そして、やはり奴は居たーー

 

 

 

 一週間ぶりに再開した敵は、着ている背広姿に変わりはなかった。しかし、靴は野外行動用の半長靴だし、臙脂色の防寒ジャケットを羽織っている。ネクタイも無い。太刀佩き用のゴツいベルトが妙に目立っていた。

 

「待ちかねたよ。ここで警戒線を張ってから4日目だ」

 目の前の奴ーーリィン・シュバルツァーは霊脈の傍に立っていた。霊力の作用によるものか、リィンの声だけははっきりと聞こえた。聴覚はほとんど麻痺していたはずだったのだが。

 

「ふん。とっとと尻尾を巻いて逃げたのではなかったのか。」

 

「自分の恥は自分で雪ぐ。本来なら、そのアーティファクトだけ封印すれば良かったのだが、八葉一刀流の剣士として、落とし前をつけなければならなくなった。自分の責任だ。」

 

「落とし前?八葉一刀流など多寡が知れている。恥を晒す前に自害したらどうだ」

 

「だからこそだ。貴様さえ斃してしまえば、帳尻は合わせられる」

 

「ぬかせ。所詮、導力と馴れ合った剣術に、剣の極みなど見えるものか」

 

 リィンは男の挑発に動じる様子はない。彼の中で為すべきことは既に決まっているのだった。

魔剣の隷属者(セイバーのサーヴァント)風情が吐かすなよ。いずれにせよ、決着は今、ここで決める。最後に立っているのはどちらか一人だけだ」

 そう言うとリィンは鞘からすらりと太刀を抜き放った。

 

「安心しろ。手出しは無用と伝えてある。来いよ。アーティファクトと一緒に葬ってやる」

 

 返答は、甲高い叫び声だった。

 

 両者共に飛ぶように間合いを詰め、まずは一合打ち合う。同時に間合いを開け、直後、詰めて数合ほど打ち合う。

 

 予想通り。

 リィンは確信した。

 

 剣を受けていて、前とは違いがあるのが分かる。やはり、軸が微妙にずれているし、霊力を消耗しているのか、剣にも前のような力はない。前は躱したり受け流したりするのがやっとだったが、これなら何とかしのげそうだ。だとしたら、次はどうやって勝つか……

 

 しかし、だ。

 見えてない。

 見えてないはずだ。

 見えてないはずなのに!

 

 これが視力が奪われているはずの男の斬撃か!並の剣士ならとうにやられているであろう。それに、目の前の男が自分の想像通りだとしたらーー

 

 

 

「凄いな……」

 霊脈から少し離れた所で、ロイド、フィー、トマスの三人は仕合を観戦していた。前と違って、そう一方的に押し込まれる展開になっていないから、隙を見て狙撃してしまえば討ち取れるかもしれない。周辺に展開しているクロスベル警察もそう思っているかもしれなかった。

 しかし、仕合への手出しはリィンによって固く止められていた。剣士として、流派としての面子というものがある。リィンはそう言っていた。

 

 ロイドが言った。

「アリオスさんを思い出しますね。いや、それ以上かもしれない」

 

「第一線を退いても剣聖は剣聖ですか」とトマス。

 

「リィンにはそのつもりはないはず。でもおかしいね」とフィー。

 

「どうして?」

「このままいけばリィンが負けることはないけど、リィンは何かを恐れている。リィンは全力が必要だと思えば全力を出す。リィンの全力は、こんなものじゃないはず」

 

「そうなのか?」とロイド。

「でしょうね」

 トマスは昨日リィンと話していたことを思い出した。曰く、アーティファクトの自己防衛とはどのようなものか。と。

 

 

 

 死合は既に50合を超え、流石に双方とも息をつき始めていた。打ち合いもあり、鍔迫り合いの力勝負もあり、勝負の行方は未だに混沌としていたが、双方ともに押し切るというよりは、相手の隙がいつできるか、を待っているような感じになった。もちろん隙ができたら即座に叩き斬るわけである。

 

 男は焦っていた。佚を以て労を待つ状態に進んで踏み込んでいて、何の芸もなくだらだらと斬り合いを続けている。気力十分なら即座にペースを上げて押し切ってしまうが、気力十分ではないのだからどうしようもない。やれることといえば、相手が隙を見せた時を見計らって逆襲をかけることだが、相手もそこまで気前が良くないらしい。とすると、相手のゲームに付き合いつつ、どこかで主導権を取らなければならない。

 

 男は裂帛の気合いで剣を振り下ろす。しかしリィンは刀を当てて僅かに軌道を逸らすと、剣は虚空を切り裂いた。すかさず横に薙いでみるがこれもリィンが一歩退いて避けてしまう。今度は間髪入れずリィンが飛び込む。上段からの振り下ろしを男が受け、しばしの鍔迫り合いが行われた。

 

 刀を通じた力比べが行われる。今や、力量では明らかにリィンが有利である。力で相手を押しているのが分かる。さすがにそのままというわけにはいかないので、男の方が気合で押し返し、リィンが引いたところで男も引いて距離を取る。

 

「どうした。お前の全力はそんなものか」

 リィンが挑発する。

 

「……いい気になるなよ。もう勝ったつもりか」

 

 男の返答にリィンは一言だけ言った。

剣の従者(サーヴァント)に用はない。俺が相手をしているのはそのアーティファクトだ」

 

 男の動きが止まった。何故かマントについているフードを外して捨てた。頭髪を短く刈り込んだ、やくざな男の顔だった。顔には斜めに大きな傷がついている。

 

 直後、大きな叫び声と共に、男の顔に無数の血管が浮き上がった。目も飛び出して、すんでのところで顔から取れてしまいそうだ。

 変化は顔だけではない。体全体から気が溢れ出ているのが感じられる。まるで男を中心に霊脈が新たに出来たかのようだ。

 

「……来たか。さぁ、お前の全力を見せてみろ」

 リィンはわずかにたじろいたが、それでも構えを崩すことはない。まるでそれを待っていたかのように。

 

「そうか……それを待っていたんだね」フィーが眼前の光景を見ながら言う。

「ですね」トマスが答える。

「何ですかあれ!?」ロイドは、眼前の状況に混乱している。

 

 トマスは目を離さずに答えた。

「リィン君は待っていたんですよ。アーティファクトが最後のカードを切ってくるのを。アーティファクトは自身に危機が迫ると、強制的に操者の意識を乗っ取ります。ああなっては、もう元には戻れませんが……ここから先がアーティファクトの本当の実力でしょう」

 

「ここからが本当の死合ーー行くぞ、『冥我・神気合一』!」

 リィンも負けじと全力を解放する。数々の修行と実戦のもとに編み出された、己の実力と感性を限界まで引き出す八葉一刀流の秘術ーーリィンの体からもそれまでにない闘気が溢れだしていた。

 

 それからの数十合は、今までのものとは比較にならないスピードとパワーで繰り広げられることとなる。

 

 男の迅さーーはさすがに今までと比べ物にならない。さすがにリィンも悠々と応対するわけにはいかなかった。斬撃をすんでのところで避け、髪の毛が何本か持ってかれる。息をつく暇もなく返しの刃がやってくる。さすがに受けると危ないので、多めに距離を取る。

 アーティファクトの介入によって、腕力と剣のスピードは段違いに向上している。だが、それ故なのかフットワークが若干鈍っている。おかげで、距離を取ることに専念すれば、連続で打撃に対処することはなくなり、何とか処理が可能である。といっても、そう言えるのはリィンが潜在能力を限界まで引き出しているからなのだが。

 

 双方ともに一息つき、構えを直した。極限の状態にありつつも、無限に剣を振り続けるわけにはいかない。時間が止まるのはほんの一瞬、呼吸さえ整えばすぐに戦闘は再開される。

 今度はリィンが一直線に向かってくる。男はーーいや剣はーーリィンと同じく距離を詰め、反射的に剣を振り下ろした。

 リィンが、まっすぐ男に向かっているように見えてほんの少し(男から見て)右に体をずらしていることに気づいたときには既に遅すぎた。リィンが相手の剣その軌道を読み切って、ぎりぎり躱せる程度に体をずらしていること、いつの間にか面を狙うのではなく、胴を斬る体制に変えていることには、ついぞ気づくことがなかった。

 

 アーティファクトの斬撃はまたも虚空を切り裂いた。

 

 次の瞬間、リィンの剣が男の胴体を横薙ぎに切り裂いた。

 

 男の姿勢がぐらりと揺らぐ。リィンはリィンで飛びすさり距離を取った後で慎重に相手を観察する。

 もう相手は動けないはずだ。あれだけ斬られては、大量出血のショックでそう長くは生きられない。

 

 まさかーー

 

 男はまだ動いている。

 それでも剣を振り上げ、構えようとしている。

 

「リィン君!アーティファクトに人間の常識を当てはめるな!まだ終わっちゃいない!!」後ろから叫んだのはトマスだった。

 

 直後、誰もが一生忘れないぐらいの絶叫と共に男は斬りかかってきた。

 リィンは男の斬撃をほんの少し躱すと、返しざまに男の首を斬り飛ばした。

 

 

 

 静寂が戻った霊脈で、首無し死体をトマスが検分する。警察官でない人間が現場を荒らすのは本来あってはならないことだが、トマスは気にする風もない。何か気になるものがあったのか、上着を破って右肩を確認する。やはり、見知った刺青がそこにあった。

 

「『結社』の猟兵ですか。道理で」

 アーティファクトの力をそれなりに使いこなせたんですな、とトマスは続けた。

 

「とんでもないね、そのアーティファクトは」

激闘の末、へたりこんだリィンが、肩で息をしながら言った。手負の剣士相手に、本気で100合も打ち込むなんて……師匠との稽古だってここまではいかなかった。

 

「とんでもないものですよ。アーティファクトは。しかしこれは、少々我々も見くびっていたのかもしれません。今からでも封印しておかないと」

 

 トマスは「匣」を作ると、アーティファクトに対する封印を行なった。霊力でできた匣で囲われたアーティファクトは、余人がおいそれと触れることはできないだろう。後は、飛空艇を呼んで、然るべき場所へ移動する。今度こそ確実にやらないと。

 

 直後、がやがやと十人近くの人間が入ってきた。アレックス・ダドリーとクロスベル州警察の面々である。さすが警察ーーと言うべきなのか、首と胴体の離れた死体にも眉一つ動かすことなく、現場検証を開始した。あれこれ指示を出したダドリーは、リィンを見つけると近寄ってくる。へたりこんだままのリィンに構うことなく、一礼した。

 

「シュヴァルツァー殿。この度のご協力、誠に痛み居る」

 

「え、ええ。いや、当然のことをしたまでです」

 慌ててリィンは立ち上がって答えた。

 

「今回は借りを作りました。まぁ、それはそうとーー」

 ダドリーはトマスの方に向き直る。

 

「最初からこうしていれば、ここまで大事にはならなかった。そうは思いませんか。聖杯騎士殿」

 

「ええ、まったくです。ですが、最初からこうならないのが人の世。そうですよね」

 

「なるほど。借りを返す必要はない、ということですか」

 

「そうは言っていません。おたくの導力捜査課、単なる導力技術の捜査専任にしておくには勿体ない、そう思いますよ。やりよう如何によっては、貸しを返してもらうことができるかもしれない」

 

「なっーー」

 ダドリーは絶句した。聖杯騎士団がクロスベル州警察の内情に知悉していることを知らされたのだから、それも当然である。

 

 この後、警察がどう事件を処理したかについては省略する。当然、本当のことを言うわけにはいかないので、公式には精神に異常をきたした元猟兵の犯行ということにされた。クロスベル州警察の狙撃班が、捜索作戦の結果、犯人を発見し射殺したと言うことになった。真実と合っているのは元猟兵というところだけである。事件は解決し、平穏が戻った。ごく一部の人々を除けば、それで全く問題なかった。

 

 

 

 

その翌日、クロスベル空港VIP待合室ーー

 

「ねぇリィン」

 

「どうした?」

 

 リィン・シュバルツァーは目をくりくりさせてアリサを見つめてきた。高級な調度が置かれたVIPルームにはリィンとアリサ二人きり。久々のプライベート空間とも言えたが、これが確保されるのは長くても30分と決まっている。クロスベルからルーレへの飛ぶ飛空艇の便が30分後に出るからだった。

 

 アリサはこれからルーレのラインフォルト本社に帰らねばならない。業務を一週間も空けてしまったので、帰ったら山のように仕事が待っていることであろう。せめて一日ぐらいは二人でゆっくりなされては、とシャロンはそう言ったがアリサの方が辞退した。第一、今回のあれこれについてリィンの方が忙殺されている。「二人でゆっくりする」のは当分先のことになるだろう。こうやってリィンと二人でコーヒーを飲むのすら、貴重な時間なのだった。

 

 リィンはふてぶてしくなった。

 アリサは久しぶりに見るリィンの姿を見てそう思った。以前のリィンに良く見られた、いつ何時でもどこか遠慮しているように見えるあの感じは、影を潜めているように見えた。良く言えば堂々としている、悪く言えば傲然としているというわけだ。TPOさえ弁えてくれれば、悪くない兆候だとアリサは思うが(リィンほどの立場にある人間がおどおどしていては周りも困るだろう)、リィンのそういう変化の要因について把握できていないのは、アリサとしては腹立たしくもあった。今も高級ソファにどっしりと体を預けながら、コーヒーを美味そうに飲んでいる。

 まずいコーヒーを美味そうに飲むのはビジネススキルの範疇にはないはずだけどーーそう思いながら、アリサは心中の疑問を口にした。

 

「リィン」

 

「どうしたの?」

 

「こんなことを言いたくはないけど……いつまでこんなことを続けるつもり?あたしはリィンが教会や遊撃士協会とつるんであれこれやってほしくない。どうせこうなるんだから。」

 

「……」

 

「貴方が八葉一刀流の剣聖であることも、神気合一をものにしたことも理解しているつもりよ。協会や遊撃士といろいろ付き合いがあることも。でも、どんな優秀な戦士であったって、戦場に出れば敵弾を浴びる。」

 

「そして弾丸は等しく生命を奪っていく。それが刀だって同じはずよ。リィン、それが分かっていて、何故前線に出たがるのかしら。協力したければ、別の方法だってあるはずよ。」

 

 リィンはそれを聞いて困ったような顔をした。

「君はもう分かっていると思っていたけど」

 

「何も説明を受けていないのに?貴方は勝手にアーティファクトの事案に首をつっこんで、すんでの所で死にかけた。私が知ってるのはそれだけよ」

 

 まだ何か言いたそうなアリサを手で押しとどめると、リィンは答えた。

「約束したからだよ。『俺の可能性』と」

 

「どういうこと?」

 

 リィンはさらに困惑した表情をうかべ、しばらくして話し出した。

「アリサ。君だって『バベル』を見ていたから分かるはずだ。この世界を統べているのは何だと思う?」

 

「??」

 

「少なくとも帝国ではない。もちろん共和国でもない。結社でも教会でもない。でなければ、アーティファクトが大手を振って歩けるものか。『可能性』は言っていた。遠からず世界は危機に見舞われると。彼らすら翻弄する何かが動き出している。それが導き出すものは、ギリアス・オズボーンが仕組んだ『相克』すら児戯に見える何かになるはずだ」

 

「リィン、あなたはーー」

 

「そして、俺はそれに抗い勝利する、と答えたんだ。約束したからには守らなければならない。そのためには、力が必要だ」

 

 アリサは信じられないという感じで言う。

「どういうこと?まさか、ラインフォルトを利用するために私と結婚したというの?」

 

「アリサーー君がそんな風に思っていたなんてがっかりだな。いずれ逃れられぬ嵐とあらば、君と一緒に立ち向かいたい。そのつもりだったんだけど。ラインフォルトはそのついでさ。まさか、ラインフォルトが俺や君を守ってくれると思ってるんじゃないだろう?もちろん、利用できるなら有難いことだけどさ」

 

 アリサは目のリィンの笑顔を見て、背筋が震えるのを感じた。目の前の男――彼女が世界で最も愛する男は、まぎれもなくギリアス・オズボーンの息子であることを改めて確信したのだった。

 




本作品の構想、執筆にあたり以下の資料を参考にさせて頂いた。

とみ新蔵、津本陽(原作)「薩南示現流」
前阪茂樹、村山輝志(鹿屋体育大学)「示現流の教法」(武道学研究26-(2),1993)


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補遺 ー ラインフォルト家怪文書

ルーレ経済新聞 11月1日朝刊

「ラインフォルト社激震、経営陣大幅刷新へ

 

 10月30日、ラインフォルト社は経営者人事の発表を行った。内容は、アリサ・ラインフォルト第四事業部長、常務取締役の解任及び関連会社であるラインフォルト・クロスベル社社長リィン・シュバルツァー氏の退任が主となる。

 アリサ・ラインフォルト氏は、現会長イリーナ・ラインフォルト氏の実娘であり、ラインフォルトグループの民生転換路線の旗振り役と見なされていたが、帝国賠償問題に伴う社内コスト削減にも大きく関わっており、社内の不満と向き合う形となっていた。後者については、年内の社長交代が確実視されており既定路線とも言えるが、先週クロスベル自治州内の交通事故で入院したこともあり、体調不良が長引く可能性も考えての人事と見られる。このような経営刷新は、ルーレ株式市場及び帝国株式指数にも大きな影響を与えるものと見られーー」

 

「母様、これは一体どういうーー」

 

 会長室のドアをばたんと開けたアリサは、会長室に普段滅多に見ない祖父の姿を見て固まった。

 

「お爺様?」

 

 お爺様と呼ばれたグエン・ラインフォルトは何の反応も示さない。代わって応対したのは母親の方のイリーナ・ラインフォルトだった。

 

「アリサ。ここに座りなさい。シャロン、コーヒーを用意して頂戴」

 

 アリサは少し気後れしつつも、応接用ソファに座って母親と相対した。確かに、朝の新聞を見て仰天したアリサは取るものもとりあえず会長室に押しかけたのだから。そして、イリーナがコーヒーを所望する時は、重大な問題について話し合う時であることをアリサは知っていた。

 

「アリサ……そう、新聞を読んだのね。では言うまでもないわね」

 

「言うまでもないってどういうこと!事業部長解任って、あたしを放り出す気!?」

 

「それ以外の何かに聞こえたかしら。まぁ、放り出すというのは言い過ぎね。アリサ、貴方には休養が必要よ」

 

「母様。貴方の口から休養って言われても悪い冗談にしか聞こえない。それは分かるわよね」

 イリーナが相手に馘首を申し渡すとき、似たようなことを言っていることを指しているのだった。

 

「これは私個人の感想ではないわ。取締役会も同じ意見よ」

 

「あたしだって取締役の一員よ!第一いつ取締役会の通知を出したっていうのよ!」

 

「臨時取締役会はね、取締役3分の2の同意があれば開けるのよ。それに、取締役会の通知はシャロンに伝えてあったはず。もし聞いていないなら貴方が聞かなかっただけのことね」

 

 思い返してアリサははっとした。クロスベルから帰る時、リィンと話をする直前にシャロンから通信があるという話を聞いていたのだった。そして相手がイリーナだと聞いて、人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られてしまえと返してしまったことを。

 

「いいこと、アリサ。ヨルムンガンド戦役からこのかた、私は会社の表舞台に出ることをなるべく避けてきた。少なくともそのつもりだった。貴方がリィンを連れて来た時も別に反対するつもりはなかった。知らない相手じゃないし。」

 

「……」

 

「でも、結婚して自分の手許に置いておくかと思ったら、クロスベルに放り出して挙げ句の果てに死にかけるってどういうことかしら?」

 

「リィンをモノみたいに言わないで!あのアーティファクトの件はリィンが勝手にーーそれは私にも責任はあるけどーーそれはそうとクロスベルの件は、向こうから話が来て母様が話を進めて、リィンが遠慮したからそうなったのよ。その時反対すれば良かったじゃない!」

 

「貴方が強硬に反対すればリィンだって折れるでしょう。それが妻の役目じゃなくて?妻が夫を放り出して姑が止めるってどんな家庭よ!」

 

「母様が出てこなければ会社が回らないのに、それを丸投げされたらこっちが仕事人間にならなきゃいけないのよ。自分のことを棚に上げてーー」

 

「アリサよーー」

 

 険悪な空気をしばし押し留めたのはグエンの一言だった。

 

「イリーナが仕事人間になったのはフランツが居なくなってからじゃよ。アリサ。忘れたのかね」

 

「……」

 

 グエンは咳払いして続ける。

「覚えていると思ったがね。フランツが居なくなった後のイリーナの沈みようは見ていられないほどじゃった。イリーナが仕事に没頭したのは、ラインフォルトにフランツの思い出を見たからじゃ……それが良いことだったのかは、まだ分からん。だがなアリサ。イリーナの表面だけ見て、イリーナを超えようというのはあまりに安直に過ぎる。親の超え方というのはいろいろ手段があると思うのじゃ」

 

「アリサ。私は貴方じゃないから、リィンのことをどう思っているかを当てることはできないし、その気もない。だけど、キラキラ輝いているからって、遠くから眺めてそれでよしとするのはおやめなさい。」

 

「母様、もしかしてリィンが浮気でもすると思ってるの?」

 

「もし浮気なら、そっちの方が何倍もマシよ。相手は生きているんだから。女として一番辛いのはーー」

 

「愛する男がある日突然、目の前から消えてしまうこと。そうではなくて?」

 

「もうええやろ」

 

「騙し打ちだの騙し打たないだと、そんなことはどうでもええ。フランツが居なくなったのはまだ事故かもしれんが、リィンが居なくなるとしたら、半分は彼の、もう半分はアリサの責任と言えるのではないかね。少なくとも、儂とイリーナはそういう風に思っておる」

 

「お爺様までーー」

 

「兎にも角にも、貴方が孫を連れて来るまで、このラインフォルト社の敷居を跨ぐことは許しません。あと、共和国に行かれると面倒だから、シャロンに監視させるわ。良くって?」

 

「!!??!!ーーー!!」

 




親の心子知らず。そして、子の心親知らず。


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