魔槍の姫 (旅のマテリア売り)
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Prologue.

  

 

「クククッ! クハッハハハハッ!!」

 

 蒼穹の下、高く聳える山の麓に存在する深い森の中。高く、鋼を打ち鳴らすような男の笑い声が響く。輝く様な白い肌に黒の髪を振り乱し、手には輝く剣を持った美青年だ。しかし分厚い筋肉で覆われた彼のその胸には長い、2m以上ありそうな何かが生えており、口から血を吐き、傷口からは夥しい血を流している。

 胸から生えているそれは、槍だった。余計な装飾の一切無い、銛の様な形状をしている槍だ。鋼でも石でもない、ましてや木でもない何かから作られているのだろう。それは妖しくも、何とも言えない独特の光沢を放っている。いかなる理由か、単なる武器とは違う何かが感じられる。

おそらく心臓を穿っているだろう槍だが、彼はそんな事は些事とでも言うかのように高笑いを続けている。凄絶な光景だ。

 

「まさかな! まさかこの俺がこの様な、多少武芸の心得がある程度の外国(そとつくに)の小娘に不覚を取るとはな! 少々余裕が過ぎた、と言うところかな!?」

 

 言いつつ、彼は槍を抜こうともせずその目を下に向ける。

 やや離れた地点には彼の姿の他に、一つの影が横たわっていた。

 女だ。まだ13、4歳程度だろう、年若い少女だ。彼女もまた高笑いする男性と同じ、いやそれ以上に深い傷を全身に負い、多量の血をその傷口から流して沈んでいる。顔色は蒼白で、おそらく意識は無いのだろう。茶色の髪は血でぐっしょりと濡れ、薄く開いて見える琥珀色の瞳に光は無い。ピクリとも動かず、死ぬ一歩手前と見える。微かに聞こえる、途切れる様に浅い呼吸音から辛うじて生きている事が分かるくらいで、普通に見れば既に死んでいても可笑しくない重症だ。

 ボロボロの状態で自らの血の中に横たわっている少女の周囲には粉々に砕けた、石でも鉄でもない、不可思議な光沢を放つ何かの破片がある。

 

「おうおうおう! この俺の神力がこの小娘の体に流れ込んでいるのが分かるぞ! となれば次に来るのは……おお、来たな! 愚者の妻、忌まわしき魔王どもの支援者めが!」

 

 男性がそう言って少女を見ると、何時の間に居たのか、彼女とは別の少女の姿が側に在った。薄紫色にも桃色にも見える長い髪を、人間には無い尖った耳の上で二つに結い、純白の衣装で身を包んだ少女。歳の頃は14、5歳と言ったところか、天真爛漫な印象を抱かせる可憐な少女だ。

 しかしその表情と身に纏う雰囲気は外見年齢以上に蠱惑的で、少女である以前に一人の「女」である事をハッキリと示している。

 

「あらあら、お初にお目にかかると言うのに随分な仰り様ですわね。クー・フーリン様」

 

 血を流す男性に対し、忽然と現れた女性は可憐な笑みを浮かべつつそう言った。

 クー・フーリン。クー・クランともク・ホリンとも呼ばれる、アルスター……現在で言うアイルランドに存在したとされる半神半人の英雄である。父にケルト神話の主神である太陽神『長腕のルー』を、母にコノア王の妹デヒテラを持つ「赤枝の騎士団」に所属した騎士だ。幼少時に城に招かれた鍛冶師クランの番犬を殺めてしまい、嘆いた飼い主に「その犬の子が育つまでは自分が代わりに番犬となる」と宣言した事から「クランの猛犬(クー・フーリン)」の異名を持つ。

 フォルガルの娘エメルを娶る為に冥界でもある『影の国』に渡り、その国の女王たる女神スカアハに師事し跳躍術である鮭飛の術と、雷鳴の様な速度であらゆる物を突き穿ち、一撃で殺す魔槍ゲイボルグを得て帰国。結婚を許さなかったフォルガルを打倒しエメルを娶った。

 しかし、彼がその魔槍を振るった回数は少なく、普段はクルージン・カサド・ヒャンと言う光り輝く剣と有り触れた投擲具のみで戦っていた。彼がはっきりとゲイボルグを使ったのはほんの数度、彼と同格かそれ以上の力を持つ相手との戦いのみだ。

 半神半人故か、「クーリーの牛争い」が原因となったコノート王国との戦いでは、アルスターの男の力を出せなくするマッハの呪いが唯一その効果を発揮せず、一対一の決闘の形式をとってただ一人奮戦したが、修行時代の親友である騎士フェルディアをその槍で殺し、さらにオイフェとの間に生まれ、自らの言葉を守り誰にも名を明かさずに父を訪ねて『影の国』より来た息子のコンラすらもそうと知らずにその槍で殺してしまう。自身も敵国であるコノートの女王メイヴの策略により「ゲッシュ」を次々に破られ、半身が麻痺した所で敵にゲイボルグを奪われ、愛馬の片割れと御者の命を奪われた後に命を落とす。その際に零れ落ちた内臓を水で洗って腹に押し込み自らを岩あるいは石柱に縛り付け、倒れる事を良しとせずに立ったまま息絶えたと言う凄絶な伝説を持つ。

 ちなみにアーサー王伝説に出てくる英雄の一人、「太陽の騎士」とも呼ばれる騎士ガウェインとは一部の伝承――「首切りゲーム」と「緑の騎士」の物語だ――がクー・フーリンの物と似通っている為に彼と起源を同じくするか、クー・フーリンと同一人物とする説、或いは伝承が統合されたのでは、と言う説がある。

 かつて、イングランド北西部にはセタンティ族と言う部族が存在していたと言う。クー・フーリンの本名はセタンタであり、この部族名と非常に似通った名前だ。もしかしたら、彼は元々この部族の英雄的存在だったのかもしれない。その記憶を残すために、彼の物語をセタンティ族の子孫達が語り継ぐ中でガウェインの起源となる存在と統合された可能性は大いにある。

 ガウェインはその物語の起源を太陽神とする説を持つ英雄であり、「五月の鷹」と言う意味を持つウェールズの英雄グワルフマイと同一人物ともされる。古代ケルト社会において五月は夏の始まりを意味し、太陽との関係性を指し示す。鷹は多くの神話で鷲と混同される事が多く有り、鷲は鳥の王とされ太陽神や天空神と言った存在の聖鳥である。

 また、ガウェインは午前9時から正午までの3時間、力が3倍になると言う特殊能力を持っていた。太陽は正午にこそ最も強く輝き、それ以降は輝きを徐々に弱めて行く。この事からも、彼が太陽に強く関係する英雄である事が読み取れる。彼が持つ剣であるガラティーンも資料は少ないが、彼と同じく正午に最も力を発揮する剣だと言われている。太陽神の息子であるクー・フーリンとはある種、近しい存在であるとも言えるだろう。ガウェインを表す紋章はグリフォンであり、この獣は鷲或いは鷹と獅子との合成獣だ。その楯には聖母マリアを意味する五芒星が描かれていたという。

 五芒星はケルトで冥府の女神にして戦女神モリガンを象徴し、その名は「大いなる女王」を意味する。彼女は怒りと豊穣を司るヴァハ、大鴉に化身するバズヴと同体を成す三相一体の女神であり、大地母神ダーナやアーサー王伝説に出る湖の乙女の一人モルガン・ル・フェとも同一視される、闇と大地と死を司る女神である。バズヴが化身する烏は、ギリシア神話では太陽神アポロンに仕え、エジプト神話では太陽を表す聖なる鳥とされるが、北欧神話やケルト神話では戦場に死を齎す者、或いはその斥候として恐れられた。有名どころでは北欧神話の主神であり、死と戦争を司る神オーディンが情報収集の為に世界に放つ二羽のワタリガラス、思考のフギンと記憶のムニンがいる。

 モリガンはクー・フーリンとも関係がある女神であり、彼に求愛するもすげなく断られ怒り呪いをかけ、鰻や海蛇、狼、牝牛の姿に化身して襲い掛かる。牝牛も蛇も、竜、獅子と同じくどの神話でも地母神の象徴だ。結果として足を切り落とされ、さらに目を潰され返り討ちに遭うも命は奪われず、彼に傷を癒されたことでその協力者となる。彼の最期にはワタリガラスの姿でその肩に留まり、死を看取ったという。

 

「目敏いものだな、魔女め! 噂に違わぬ足の早さよ」

「当然ですわ。あたしは神と人、そのどちらもが居る場所に必ず顕現し、災厄と一掴みの希望を与える魔女ですもの。距離なんて言う概念は意味を為しませんわ」

 

 アルスターの大英雄の名で呼ばれた男性に笑みを含んだ声でそう答えつつ、新たに現れた女性は血の海に倒れ伏す少女に妖しい、しかし同時に優しげな眼差しを向けた。

 

「この子があたしの新しい子供かしら? ふふっ、娘が出来るのは大体6年ぶりね。瀕死みたいだけど……多分大丈夫よね。苦しい? でも我慢なさいな。今感じているその痛みと苦しみは、貴女と言う存在をただの人間から最強の高みへと押し上げる代償だもの。大丈夫よ、すぐに終わるから」

 

 言いながら女性は少女の髪を優しく撫で、天を仰ぎ、声を張り上げる。

 

「さあ、皆様! 新たにこの世に生まれ落ちた神殺し、あたしの新しい娘に祝福と憎悪を与えて頂戴! 最も年若い魔王となり神々と戦う運命を得たこの子に、その生誕を言祝ぐ聖なる言霊を捧げて頂戴!」

「良いだろう……小娘! 神を殺す者として新生する貴様に、このクー・フーリンが祝福と憎悪をくれてやる! 貴様はこれより多くの神々と戦う事になるだろう! 或いは同朋たる魔王どもと争う事にもなるやもしれん! だが決して負けるなかれ! この俺から奪いし権能でもって血に塗れた道を征き、並居る勝者どもを打ち下し最強の戦士となれ!! そして貴様が最強となったその時こそ、俺が雪辱を果たす時よ!!」 

 

 言って、クー・フーリンの体は光を発しながら解けるようにその輪郭を崩していき、笑いながら虚空へと消えて行った。側に居た筈の女性もいつの間にか消えており、其処に居るのは倒れている少女唯一人のみ。だが彼女の体には傷痕は一つも残っていない。傷痕の名残はズタズタに破れ、血で汚れている服と滑らかな素肌だけだった。

 

 ●

 

 ガヤガヤと、雑踏の中に居る様な五月蝿い音が微かに聞こえる。

 パチパチと何かが燃え、爆ぜる様な音とサイレンの様な甲高い音が遠く、耳に届く。

 燃え盛る火でも側に有るのか、やけに体が火照っている様に感じる。同時に、鼻にツン、と油が燃えるようないやな臭いが鼻に届く。

 五月蝿く、臭く、そして熱い。さらに濡れているのか、服が体に張り付く嫌な感触も有る。嫌な環境だ。その所為か、それとも別の理由か、呼吸も苦しく感じる。

 

『誰か、誰か意識のある人は居ませんか! 居たら返事をしてください!』

『一体どんなことすりゃこんだけ車両がグシャグシャになるんだよ……クソッ! 消火急げ! 生存者の捜索もだ!! 絶対に見過ごすな!!』

『おい、しっかりしろ! ……くそっ、駄目だ……』

 

 声が聞こえた。聞き慣れた言葉ではなく、しかし初めて聞く言葉でも無い。この三日間の内に父も母も喋っていた、割と良く聞いた言語だ。何を言っているのかはよく分からなかったが。

 そこまで考え、ふと疑問に思う。父母はともかく、自分はこの国の言葉は良く分からなかった筈だ。それは今朝も変わらなかった。

 だが今はその言葉が理解できる。喋る事が出来るかは分からないが、少なくとも先程聞こえた言葉の意味を理解する事は出来た。何故だろうと、そう疑問に思う。

 しかし先の言葉が確かなら、今居るこの場は危険なようだ。車両がグシャグシャ……自分達はバスに乗っていた筈だから、おそらく事故にでも合ったのだろう。父母は無事だろうか。

 立ち上がり、足を踏み出すが多少よろけ、手を木について体を支える。

 

「ぇ……?」

 

 小さく、困惑を含んだ声を少女は漏らした。

 自分は両親と共にバスに乗っていた筈だ。それが、何故バスの外、森の中に立っている?

 思い、手を着いた木に目を向ける。目に入ったのは少女自身の手だった。滑らかな肌色をした、シミやくすみ一つ無い幼い女の肌だ。

 しかし今、彼女の手には肌色の他に黒ずんだ、赤い色が有る。ぬめり、金臭いそれは、あらゆる命に流れる物……血だ。

 それを見て少女は暫し茫然とし、しかしすぐに自分の体を見る。身に纏うのは水色のワンピースで、それは母にねだって買ってもらった少女のお気に入りの服だった。ホテルを出る前には新品同様に綺麗な色をしていた筈のソレは、しかし何があったのか、血で紅く汚れ、さらに刃物で切り裂かれたぼろ布の様にズタズタになっている。

 だが、そんな状態の服に反して少女の体には傷一つ無い。血で汚れてこそいるが、それ以外は異常の無い滑らかな肌が晒されている。

 これは一体どう言う事か。分からず、少女は混乱し、父と母の姿を探したが見つからない。

 それでも少女は辺りを見回し、視線の先に小さな、紅い光を見つけた。何かが慌ただしく動く気配も有る。おそらく人が居るのだろう。

 あそこに父母が居るかもしれない。居なくても、最悪人は居るだろう。そう思い、少女は足を動かし、その光の元に向かう。僅かに体が気だるい気もするが、おそらく気の所為だろう。

 そして――

 

「……なに、これ……」

 

 目に入ったのは、おそらく自分が乗っていたであろうバスだった。いや、正確にはその残骸、と言ったところか。何となくだがそう直感する。何が有ったのか車両は横転しガラスも砕け、グシャグシャになり、その原型を辛うじて留めている程度だ。さらにガソリンに引火でもしているのか、所々で爆発し、火の手も上がっている。

 

「お父さん……お母、さん……?」

 

 ふらりと、一歩足を踏み出す。何でこんな事になっているのか、どうして自分はボロボロの服で外に出ているのか、いや、それ以前に両親は無事なのか。様々な思いが頭の中に浮かび上がり、少女の思考を掻き乱す。

 一歩一歩ゆっくりと、フラフラとした足取りで燃える車両に近付いて行く。

 

『! 居たぞ、生存者だ!』

『君、大丈夫か!?』

『こんなボロボロの服で、そんな訳ないでしょ! 血塗れじゃない……って、傷がない? 何で?』

『見た所、東洋人の様だが……旅行者の子供か?』

 

 その少女を見つけ、数人の大人が近寄って来る。同じ衣装の服を着ている辺り、同僚か何かなのだろう。

 しかし少女はその人達に気を向けず、ただじっと車両を見ているだけだった。しかし、その表情は非常に強張っている。

 疑問に思った大人の一人がその視線を追う。

 

『っ! 見ちゃいかん!』

 

 叫ぶ様にそう言い、少女の目を塞ぐ。だが既に遅かった。

 少女はハッキリとその目に見た。燃える炎の中、潰れ、血を流す人々。その中に――自分の両親の姿を、見つけてしまっていた。

 直後、少女の意識は闇へと墜ちた。直前に、幼い女の声を聞きながら。

 

 この日、東の果てに在る島国から来た少女は家族を喪い、そして――神話より生まれ出し、天上の神々と戦う運命を得た。

 



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1話 静寂を望む羅刹女

 

 【とある老魔術師の手記より】

 

 カンピオーネ。

 それは極一部の人間にのみ与えられる称号である。神話の存在たる神々を打倒し、生還する事に成功した勝者の称号。数多の魔術師たちの王であり、『エピメテウスの落とし子』『魔王』『堕天使』『羅刹の君』など、様々な異名で呼ばれる勝者の事。

 彼等彼女等は人間でありながら、彼らより遥かに強大な存在である神々、神話より逸脱し世に顕現した『まつろわぬ神』を弑逆し、その至高の力たる権能を己が物にする事に成功した覇者たる存在であり、魔術界で多大な影響力を持つ。しかしその達成条件の厳しさから、神殺しを為し得た人間は長い歴史の中でも数える程度しか居ない。

 神殺したる彼等に求められる事は唯一つのみ。即ち、人類に害を与える『まつろわぬ神』と戦い勝利し、人々を守護することである。その役割を果たすのならば、何をしようが許されると言う暗黙の了解まである。その絶大な力に単なる人間が抗う事など出来ず、それが出来るのは同類である神殺しか、彼等と戦う宿命に有る神々のみであるからだ。

 

 現在、世界に存在するとされる神殺しは六人。

 バルカン半島に拠点を置き、獲物たる神を求めて世界中を巡り、或いは召喚し、多くの権能を簒奪した最古参の『暴君』サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン侯爵。

 エジプトのアレキサンドリアに拠点を置き、しかし100年近く隠棲している最古参の魔王の一人、『妖しき洞窟の女王』『永遠の美少女』アイーシャ夫人。

 同じく最古参の魔王の一人にして、武術と方術の両方を究めたとされる中国の魔術結社、五嶽聖教の『教主』羅濠翠蓮。

 北アメリカを領域とし、人々からはそれなりに受けの良い年齢不詳の仮面の怪人、『ロサンゼルスの守護聖人』ジョン・プルートー・スミス。

 イギリスはコーンウォールに拠点を構える王立工廠の長。冒険家にして探索者である魔道具の強奪者、『黒王子』アレクことアレクサンドル・ガスコイン。

 そしてイタリアを拠点とする欧州最強の剣士にして『剣の王』サルバトーレ・ドニ。彼ら六人は皆、他に並ぶ者なき強者、カンピオーネである。

 

 しかしつい最近、彼等の同輩である新たな魔王が現れた。名を草薙護堂。東の果ての国、日本に住んでいる神殺しだ。歴史上日本初とされる魔王となった彼は、イタリアのサルデーニャ島にて顕現した『まつろわぬ神』メルカルトと争っていたペルシアの軍神ウルスラグナを倒し、その権能を簒奪せしめた最も年若い魔王である。

 彼が簒奪した権能の名は『東方の軍神』。グリニッジの賢人議会のレポートによれば、ウルスラグナが持つ10の化身の力を状況に応じて適宜使い分け戦う、アメリカを守護する魔王ジョン・プルートー・スミスの『超変身』と同じく一つの権能で複数の能力を使う事が出来る珍しいタイプの権能である。

 

 世間では彼は七人目の、そして日本初の王とされている。六人目の王、サルバトーレ・ドニの後に生まれた東の果ての国の魔王だと。他の王たちも、魔術結社の重鎮たちも、おそらくはそう思っている事だろう。

 だが、この情報は実際には誤りである、と私は言いたい。彼は七人目ではなく、『八人目』の魔王である。驚く事だろうが、彼以前に既に七人目の魔王が生まれていたのだ。おそらくこの事実は、現在私と彼の王のみが知っている事だろう。もしかしたら、フットワークの軽い王である『黒王子』やヴォバン侯爵、天の位を極めた魔女である賢人議会のプリンセス、地の位を極めたサルデーニャの魔女辺りは出会っているのなら気付いているかもしれないが、その可能性は低いだろう。

 では、その本当の七人目は誰なのか、疑問に思うだろう。

 私は二年前、運良くと言うべきか、運悪くと言うべきか、偶然にもその七人目の王と出会い、話しをする事が出来た。七人目の王は、なんと三人目となる女性の魔王であった。彼女は現在より四年前にカンピオーネとなったらしい。ギリシアで夜と死、神託に類する「まつろわぬ神」を倒した帰りだったらしく、出会った当時の時点で既に三つの権能を簒奪していた。

 彼の王の名を記したいが、本人の命令故にそれは出来ない。あらゆる事を許される特権を持っている身でありながら、彼の王は目立つ事を極端に嫌っているのだ。だが、その容姿や出身国、人種、年齢等は記す事は出来る。故に、それをここに記そうと思う。

 彼の王の髪は薄い亜麻色。元は栗色だったらしいが、何らかの理由で変色してしまったらしい。

 彼の王の瞳は琥珀。宝石にもある最上の琥珀をそのまま瞳に変化させたような、美しい琥珀色。

 歳の頃は16、7歳だったが、今は18、9歳程だろう。東洋風の顔立ちでありながら、東洋らしくない髪の色を持つ姫君。物静かな、しかしその目の奥には燃える激情を秘めた荒ぶる魔王。

 西の島の『鋼』の英雄神を討ち下し、魔槍の権能を簒奪し魔王となった彼の姫王。その出生地は――

(ここから先は血で塗り潰され、さらにズタズタに裂かれて読む事が出来ない)

 

 ●

 

 夢を見ていた。かつてあった事故、己が魔王となった切欠とも言える、両親を喪った車両事故を。

 燃え盛る炎。響く爆音。人々の怒号。降り注ぐ雨の冷たさ。そして流れる血と、焼かれる肉と脂の匂い。その光景を、記憶を、感覚を、まるでつい先ほど見て、経験して来たばかりの様に思い浮かべる事が出来る。当然だ。この記憶に有る出来事は、今の自分が生まれる為に払った代償なのだから。忘れようがない。

 視線をずらす。視界に入れるのは事故現場ではなく、側に有る森の一角だ。そこにはボロボロの服を来た一人の少女――かつての、こんな体に変わってしまう前の自分が居た。血の赤に汚れ、茫然と炎を見ている。そして一歩足を踏み出し、フラフラと近付いて行く。それを数人の大人が引き留め、少女の目を覆う。

 ここから先を、自分は覚えていない。気付けば病院に居て、身体の検査をし、そして何らかの手続きをして飛行機に乗り、両親の遺体と共に帰国していたのだ。

 今では自分よりも背が低くなってしまった義母は言っていた。今の自分の身は、神話の神を生贄として初めて完成する儀式による物だと。それは間違いではないのだろう。クー・フーリンを殺してしまった後から、自分の体が異常なまでに頑丈になった事は自覚していた。彼を殺して得た権能は不死ではないが。

 初めて自分が殺した神である彼の事を、義母は『鋼』の系譜だと言っていた。何の事か最初は分からなかったが、何度か話を聞き、伝承を調べてそれにも納得がいった。

 クー・フーリンの伝説の一つに、彼が狂乱の英雄だと言う物が有る。戦場で暴れ狂い、敵味方関係なく破壊し血をまき散らした彼は、その周辺一帯を濃い霧に包み込んだと言う。それを鎮めるために若い裸体の乙女達に出迎えさせ彼を羞恥させ、冷たい水を満たした巨大な桶の中に彼を三度浸したと言う。

 『鋼』は『刃金』であり、それは鉄を炎で溶かし、鍛え、水で引き締め完成する。戦闘による狂乱と彼を羞恥させるのは『溶解』と『焼き入れ』に、水に浸すのは『引き締め』に相当するのだろう。そして彼は、物語の後半では地母神であり戦女神でもあるモリガンに勝ち、彼女を癒してその支援を得た。

 『鋼』の軍神、英雄は大地母神をまつろわせ、彼女達を妻に迎えるか、その支援者とするらしい。モリガンの支援を得たクー・フーリンは、水に関する出生と狂乱の伝承から『鋼』の英雄だと言えるだろう。

 かつて聞いた義母の言葉に頷きつつ、ふと思った。製鉄の起源で見れば、自分もまたある意味で『鋼』か、と。

 今の自分はかの『鋼』の英雄神だけでなく、己の両親や、まるで関係ない人々まで生贄にしてしまった果て。魔槍の英雄神を贄に炎で己が身を溶かし、鍛え上げ、両親を含めた多くの人々の血と命によって引き締められた……呪われた、『鋼』だと。

 

 そこまで思って、夢が切り替わった。広がる景色は先程の事故現場の光景ではなく、何処とも知れない闇の中だった。夜の闇、暗き闇。かつての時代に普通だった、死と密接に関わっていた暗黒。冥界の具現。

 その中に、二つの影が有った。

 一つは銀の髪を持つ、植物の冠を頭に戴く少女。手には大鎌を持ち、鳥と蛇を従えもう一つの影を攻め立てている。何となくだが、この闇の主の様に思える。大地母神の係累だろうか、神殺しとしての本能の他に、自分の中の『鋼』の部分が反応している気がする。

 もう一つは少年。それなりに整った顔の、おそらく自分より歳下だろう黒髪の少年だ。彼から神が持つような強大な力を二桁近く感じる。そのどれもが、力の方向性こそ違えど同じ質だと言うのは疑問だが。何やら、厄介極まる能力を持っていると感じる。が、この少年は少女の攻撃を避け、逃げている。

 周囲一帯が黒に覆われている中で、その二つはやけに目立つ。逃げる少年と追う少女。その二人はある程度進んだ所で止まり、ぶつかり――

 

 ジリリリリリリン!

 

 ●

 

 ジリリリリリリン! と言う甲高い音を耳に入れ、少女は閉じていたその目を開いた。翡翠に輝く瞳が露わになり――しかし一瞬後、琥珀色に変色した。本来の色に戻ったのだ。

 音を聞きつつ身を起こし、少女はある方向を見る。年齢は18歳と言う所か、薄い亜麻色の長髪が美しい少女だ。

 目に入ったのは丸く、上部に金属の円盤が付いている物――俗に言う目覚まし時計、と言う奴だった。それは未だに、けたたましい金属音を立てている。実に喧しい。

 手を伸ばし、パチンと叩いてその音を止める。時計を見れば午前四時半。早起きする人は起きているが、眠っている人はまだ寝ている時間だ。朝の静寂が戻って来た。

 

「……また、勝手に発動したのね」

 

 始まりの記憶を見ていた筈だったのに、次いで厄介な夢を見た物だと、僅かに痛む頭に手を当てつつ、少女は溜息を吐いた。少女が見たのは、曰く、予知夢と言う奴だった。権能の自動発動で見た物だ。

 巫女と言う存在が在る。日本でもおなじみの、神に使える女性達の事だ。彼女達は霊視と呼ばれる能力で見えない物――魔術的な繋がりを見破り、儀式を以て神から神託を得る事が出来る存在でもある。

 三番目に得たこの権能は、その巫女が持つ霊視や神託を齎し、また与える権能だ。神託・霊視と言った能力は相手の神に関する情報を得るには極めて重宝する能力である。直接的な攻撃には一切使えないが、情報収集には極めて有用な権能だ。情報が物を言う権能と組み合わせれば、かなりの相性を誇るだろう……生憎と、そんな権能は持ってないのだが。

 

「あの時と同じ様な事になるのかしら? だとしたら、本気で嫌ね……」

 

 呟き、初めてこの権能が発動した時の事を記憶の淵から浮上させる。

 初めて発動したのは確か二年前、旅行で行ったギリシアでの神殺しを終えた三日後だった。丁度この権能を簒奪した後だったが、その時にも妙な夢を見た。その内容は大嵐で飛行機が動かなくなると言う物だったのだが――実際に現実になり、帰国が予定より三日も遅れる事になったので堪ったものではなかった。

 二年経った現在ではほぼ掌握し、ある程度自由に発動できるのだが、それでも眠っている時に勝手に発動してしまう事が何度かあった。その数、4。しかも自動発動したら、見た夢が近いうち――最短で五日以内――に確実に現実の物になると言う実に嫌な権能だ。日常的に使えるので、厄介事の回避などにも使えると言えば使えるのだが。

 ベッドから出て風呂場に向かい、シャワーを浴びつつそう思う。薄い亜麻色の髪が肌に張り付き、体のラインを浮かび上がらせる。全体的にすらりとした、しかし出る所は出て引っ込む所は引っ込んでいる理想的なスタイルだ。

 

(厄介事は大嫌いなんだけど……)

 

 夢の内容を思い出しながら思う。ギリシアで得た権能が自動発動したと言う事は、その夢が近いうちに現実になってしまうと言う事だ。今回の場合、まず間違いなく『まつろわぬ神』関係だろう。あの銀髪の少女を夢でとは言え見て、体が戦闘状態になってしまったのだから。

 そこまで考えて、もう一人の少年の事も思い出した。確か彼は、『まつろわぬ神』であろう少女とぶつかり合っていた。

 唯の人間が神と戦う筈がない。そんな事をしても、抵抗むなしく蹂躙されるのが当然だからだ。高位の魔術師なら多少は抵抗できるだろうが、それでも人間。結局やられてしまう事は目に見えている。

 だが、あの少年はただの人間と言う様にも、魔術師や呪術師と言う風にも見えなかった。おそらく、いやほぼ確実に自分の同朋だろう。

 しかし情報に有る同朋で、あんな少年は知らない。男性と言う点では一応四人居るが、一人は歳がいの無い肉食老人でもう一人は能天気の戦闘バカ。三人目は常に仏頂面と言って良いらしくあの少年には当て嵌まらない。四人目に至っては本当に男性か怪しいものだ。となれば……。

 

「八人目……と言う事ね」

 

 思い至った可能性は、疑問形ではなく断定の形で口を出た。思えば夢で感じたあの力も、神から奪い取った権能であるのならば納得がいく。

 彼から感じた力の数は二桁近く。しかしそのどれもが、同じ力の質をしていた。おそらく一人の『まつろわぬ神』から簒奪したのだろう。どのような神格の神か知らないが、おそらく何かに化身する神だったのだろう。中々面白い神を殺したようだ。

 

「なら、押し付けても大丈夫ね」

 

 言って、シャワーを止めて風呂場から出る。

 年齢も名前も知らないが、彼が同じカンピオーネなら、きっと喜んで神との戦いに身を投じるだろう。戦いは彼に押し付けて、自分は静かにのんびりと過ごしたい。

 自分の邪魔をする、或いは仕掛けてくれば戦うが、『彼』以外の神と進んで戦おうとは思えない。そのこだわりの所為で周りの人間がどうなろうが、知った事ではないのだ。

 そう思いながらバスタオルで体を拭き、着替えてリビングに向かう。広く、のんびりできそうな場所だが、生活感は余り感じられない。それもある種当然だろう。この家には少女一人と、一匹の犬しか住んでいないのだから。

 作ってあった弁当を鞄に入れ、少女は別の部屋に入る。

 室内には仏壇が在った。華美ではなく、どちらかと言えば質素に見える仏壇が壁際に存在していた。小さな位牌が少女を出迎える。

 仏壇の前に座り、少女は位牌に対して手を合わせ、目を閉じる。この位牌こそ少女の両親の物。事故で亡くなった、最も大切だった両親の存在した証。

 

「父さん、母さん。行って来るね」

 

 閉じていた目を開いてそう言って、少女は立ち上がり部屋を出て行った。玄関に向かい靴を履き替え、家を出て鍵をかける。

 

 ヒャン!

 

 と、犬の吠える様な声が聞こえた。その方向に少女が目を向けると、灰白色の毛を持つ子犬――見ようによっては狼の様にも見える――が一匹、尻尾を振りながら少女に向かって走って来ていた。そして少女に飛びかかり、彼女の顔を舐めまわす。

 

「っぷ、ふふっ。マーナ、くすぐったいわ」

 

 子犬を抱きとめ、顔を舐めまわされながら少女は止めるように言わない。なんだかんだで嬉しいのだろう。

 一頻り子犬に舐められた後で、少女は子犬を地面に下ろして唾液まみれの顔を拭いた。子犬はブンブンと、勢いよく尻尾を振っている。

 

「じゃ、今日も留守番お願いね、マーナ」

 

 ヒャン!

 

 少女の言葉に元気よくそう返し、子犬は玄関前に座って少女を見送る。その様子を、早起きしていたご近所さん達が微笑ましそうに見ている。

 

「あら、咲月ちゃん。今日も早いのねぇ」

「お早うございます、おばさん。もう慣れちゃったんで」

「健康的だねぇ、ウチの旦那にも見習ってほしいもんだよ。あ、あの子の餌はいつもの時間で良いのかい?」

「あ、はい。お願いします」

 

 ご近所さんに挨拶しながら振りかえって見つつ、少女は家から離れて行った。

 

 少女の名前は和泉咲月(いずみさつき)。4年前、家族でアイルランドに旅行した折にクー・フーリンを弑逆し、その権能を簒奪し神殺しとなった『七人目』のカンピオーネである。

 



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2話 来たるだろう神

 

 午前六時。朝早い時間だからか静かで、人通りも少ない閑静な住宅街の道を、咲月は薄い亜麻色の長髪を涼やかな朝の微風に靡かせながら学校へ向かって歩いていた。すっと伸ばされた背筋と僅かに釣り気味の琥珀の双眸が、見る者に凛々しい印象を与える。

 常に午前四時から五時の間に目を覚ます彼女の朝は、同年代の中でも早い方だと言えよう。しかし彼女は別に、朝練をするような部に所属している訳ではない。単純に、その時間帯に起きれば洗濯物を干したり、朝食や昼食用の弁当を作るのに丁度良いからである。

 何故こんな早い時間から家を出ているかと言うと、生来物静かな性格である彼女は騒々しい事や場所を苦手としており、朝早い時間帯や神社、学校の屋上、そして森の中と言った静かな場所を好んでいるからだ。その為必然的に、騒音や人通りの少ない朝早くに家を出る事になっている。

 静寂の中、朝の爽やかな空気を胸一杯に吸い込みながら咲月は進む。暫くして、彼女の目的地である学校の姿が見えて来た。

 人通りも疎らな道と、開かれた門の向こうに見える、広い敷地の中。鉄筋コンクリートで作られた、広く、高い学舎がある。建てられてからそう長い月日は経っていないのだろう。新築の輝く様な、と言うにはくすんだ色合いの、しかし古すぎる感じでも無い白い壁面の校舎。

 私立城楠学院。進学校としてそれなりに有名なこの学院の高等部三年に、咲月は属していた。

 

「お早うございます、先生」

「おお、和泉か。部活とかをやってないのに、相変わらず朝早いな。もう少し遅く来ても十分間に合うだろうに」

 

 校門の側に立っていた教師を見つけ、挨拶する。いつもの事なのだろう、挨拶された教師も珍しいと思った風も無く、朗らかな笑みを浮かべて返す。

 

「この時間帯に家を出るのが習慣付いていますから。朝の涼しい空気は気持ちいいですし。それに私は……」

「静かなのが好き、だろう? 和泉らしいと言えばらしいんだが、だからと言って、登校後すぐに図書室に向かうのはどうかと思うぞ?」

 

 教師の言葉にそう返し、しかし教師にも返される。

 静寂を好む咲月は、高等部に進学してからの三年間、ほぼ毎日の様に図書室に通ってその蔵書を読んでいた。友人は居ない事は無く、数人だが仲の良い女子は居る。その友人達と談笑したりする事も多いが、それ以上に咲月は図書室へと通っていたのだ。

 花で例えるなら、睡蓮の様な可憐な容貌を持っている彼女は、両親が既に死んでいると言う事もあってすぐさま学校中で有名になり、お近づきになろうとする男子生徒達も多く居た。

 しかし彼女は、一端本を読み始めたらどれだけ周囲で騒ごうとも、耳に入っていないかのように完全に無視して本を読む集中力を持っていた。話しかけようとも、本を読んでいる彼女とはまともに会話する事すら出来ず、その為に付けられた渾名が『沈黙の詠み姫』である。

 何も言わず、ただ黙々と本を読み進める彼女の姿は、図書室ではある意味名物と化している。

 

「借りてから教室で読んでも良いだろうに」

「それはそうなんですけど、ずっと図書室で読んでいたので、あそこの方が落ち着いて読めるんです。他の場所だと、どうしても音が……」

「……言っちゃなんだが、ある意味もう病気だな」

 

 咲月の言葉に小さく溜息を吐きながら教師はそう言う。それを聞き、彼女は苦笑を漏らした。自分でも自覚はあったのだろう。

 それ以外にも少し話をしてから、咲月は校舎の中に入って行った。昇降口に入り、靴を履き替え向かう場所は勿論、図書室だった。

 が、途中で進行方向を変え、鍵を借りる為に職員室へと歩いて行った。

 

 ●

 

 城楠学院の図書室には結構な量の蔵書がある。それは学生に必須の参考書であったり、詩集であったり、翻訳した哲学書であったり、歴史書であったりと様々だ。進学校に相応しく、主に収められている物は勉強や、それに関係ある書物だ。

 しかし中には若者が好む様な――学生は全員若者だが――娯楽用の品もそれなりに存在する。早い話、ライトノベルやマンガと言った物だ。こう言った本は多くの学生に好まれていたりするが、咲月はそう言った本を好んでいないのか、読まないどころか一切手に取らない。

 職員室で鍵を借りた咲月は扉の鍵を開け、図書室の中に入る。本の匂いがする室内には、当然ながら彼女以外の人間は居ない。

 その事に薄く笑みを浮かべながら、咲月は机の一つに鞄を置き、まず室内の掃除を始めた。本来図書委員を始めとした担当者がするべき事だが、自分から進んでやっている。その理由は静かに且つ快適に本を読む為だ。

 箒で埃を掃き集め、塵取で取り、その後雑巾で拭く。流石に本格的にやっては時間が無くなるので軽くしただけだが、元々あまり汚れが無かった事もあってサッパリした感じにはなった。うんと頷き一つ。

 現在の時刻、六時四十分。朝礼が始まるのは八時からなので、一時間二十分は余裕がある。掃除を終えた彼女は適当な本棚――マンガの棚は避けている――から一冊の本を手に取り、鞄を置いていた席に着いて本を開いた。

 おそらく外国の本なのだろう、日本語ではない文字で題名が書かれている。その本を、普通に読めているかのように咲月は結構な速度で読み進めていく。文字を追っている目がかなりの速度で左右を行き来している。何年も本を読むうちに習得した速読術だ。

 何を言うでもなく、咲月はただ一心に文字を読み進める。朝の陽射しが窓から射し込み、彼女の横顔を照らしていた。

 

 ●

 

 どれほどの時間そうしていたのか、ふと我に返った咲月は壁に掛けられている時計を見た。時刻は七時四十分。朝礼の時間まで、あと二十分だ。

 流石にこれ以上読むのは難しいだろう。そう思った彼女は、三分の二ほど読み終えた本を棚に戻し、鞄を手に図書室を出て教室へ向かう。途中で教師の一人に会い挨拶し、鍵を返して廊下を歩く。

 

「うん……?」

 

 廊下を歩き、階段を降りていると何かが感覚に引っかかり、思わず足を止めてしまう。

 ざわざわと、何とも言い難い奇妙な感覚を与えてくるこれは……

 

「呪力……? 何でこんな所で……?」

 

 感じたそれは、自分も戦闘時に使用する力――呪力だった。弱い訳ではないが、しかしそこまで強い訳でもない。カンピオーネとなって引き延ばされた感覚だからこそ捉える事が出来たのだろう。

 この学院に呪術関係者が居る事を咲月は知っている。自分の後輩でもある、一年の万里谷祐理の事だ。

 七雄神社で巫女を務めている彼女は同時に、日本の呪術師を統括する組織、『正史編纂委員会』にも関わりある武蔵野の媛巫女であり、自分がカンピオーネとなった四年前にはバルカン半島のヴォバン侯爵によって何らかの儀式――集めた情報によれば、まつろわぬ神招来の儀――に関わらされ、生き残った数少ない女子の一人だ。あの狼侯爵は、自分の戦闘欲を満たす為に多くの巫女や魔女を利用し、神を呼び寄せたらしい。その儀式で、呼び集めた巫女たちの実に三分の二が犠牲となったとか。

 尤も、それだけの犠牲を払い、苦労して呼び出した『鋼』の英雄神、『まつろわぬジークフリート』は侯爵と戦うことはなく、イタリアの剣の王サルバトーレに、鳶に油揚げを掻っ攫われるが如く横取りされたらしいが。

 

 彼女は霊視と呼ばれる、精神感応系の特殊能力を持っている。霊視と言うのは肉眼では見る事の適わない魔術的・呪術的な存在や繋がりを見る事が出来、また呪力によって歪められた存在の正体を見破る事が出来る能力だ。さらに高位の巫女である『媛』の名を持つ彼女は、そう言った物に加えて天啓や神託を得る事も出来る。

 しかしその的中率は極めて低く、良くて一割に届くかどうかだ。霊視が出来る存在はそれなりに居るが、誰もが的中率一割にも届かない能力者だ。

 そんな良い所がない様に聞こえる能力だが、彼女の霊視の的中率は六割以上と極めて高い。修行によって引き延ばされた事もあるのだろうが、彼女の才の非凡さも窺える。

 ちなみにこれは余談だが、強大な霊視能力を持つ彼女はしかし、咲月がカンピオーネである事には気付いていない。何故かと問われれば簡単だ。単純に学年が違うので出会う機会は少なく、知り合いだと言う訳でも無いのである。咲月が一方的に呪術関係者だと知っているだけだ。

 

 媛巫女と言う、高位の存在である彼女が、呪力をこの様に垂れ流す訳がない。それ以前に、現在感じるこの呪力は彼女の物とは質がまるで違う。

 祐理の呪力は、分かりやすく言うならば穏やかだが強い、春風をイメージさせる。気真面目な彼女らしい呪力だと言えるだろう。

 しかし現在感じている呪力は、微かにだが非常に濃い闇と大地の気配を感じる。まるで今朝方夢で見た、あの銀髪の女神の様な……。自分の中の『鋼』の部分が微かにだが反応している気がする。

 

「……嫌な予感がするわね」

 

 感じる呪力に小さくそう零し、教室に向かう。まだ時間的に余裕はあるから、十分に間に合うだろう。そう思いながらも、一応早足で自分の教室に向かって歩く。

 その途中で、一人の男子の姿を視界に入れた。

 

「っ……?」

 

 感じる違和感。視界に収めた彼は、名は知らないがそれなりに顔立ちの整った男子である。それだけならやや格好いいと言うだけの、何処にでも居る様な普通の少年の筈だ。

 しかし彼からは何か、妙な気配を感じる。自分と近い様な、しかし同時に敵でもある様な、そんな何とも言い難い何かを。

 何なのだろうか。そう思い、咲月は訝しげな眼で男子生徒を見る。集中して見れば、彼からは二種類の呪力を感じ取る事が出来た。

 一つは、イメージで言うなら光。同質でありながら違う方向性を持つ、巨大かつ強大な光が幾つも彼の中に存在している。

 もう一つは闇、そして大地。今現在も感じている、垂れ流しの呪力とまったく同じ物だ。気の所為でなければ、蛇の気配を感じ取れる。

 何もせずに読み取る事が出来たイメージはそれだけである。もっと詳しく知る為には、権能を使う必要があるだろう。

 しかし咲月はその選択をせず、視線を外した。必要最低限とは言え情報を入手したのもあるが、余りに見過ぎたのか、男子生徒の方も咲月の方を向いたからだ。

 ほんの一瞬だけだが、少年の黒い瞳と視線が交差する。彼が僅かにだが目を見開いたのが横目に確認できた。

 しかしそんな事を気にせずに、咲月は教室へと歩いて行った。

 

 ●

 

「あの人……?」

 

 廊下に立ち、少年は階段の方を見る。その理由は誰かの視線を感じたからなのだが、彼の視線の先には誰も居ない。つい先ほどまでは少女が一人居たのだが、彼と目が合う寸前に階段を下りて行ってしまったのだ。薄い亜麻色の髪が特徴的な女子だった。

 

「何だったんだ?」

 

 感じた視線は何と言うか、嫌な感じを与える物だった。動物を観察する様な、何かを見定める様な視線だった、と思う。

 自分は彼女とは初対面である。気に障る様な事や興味を引くような事は、何もしていない筈だ。

 イタリアでの事はあるが、アレは数ヶ月前の事だ。つい先日も自称愛人に呼び出され、半ば押し付けられる形で奇妙なメダル――押し付けてきた彼女はゴルゴネイオンと呼んでいた――を持って帰りはしたが、それも含めて先程の女子が知っているとは思えない。

 ……さすがにコロッセオ崩壊事件は知っているかもしれないが。

 

「おーい護堂。ボーっと立ってたら教室に間に合わねえぞ」

「あ、ああ……」

 

 クラスメイトの声に振りかえり、少年――草薙護堂は自分の教室へと歩いて行った。

 

 ●

 

 午前の授業はつつがなく終わり、昼休み。咲月は弁当を食べながら、午前中に感じた呪力について考えていた。

 あの少年から感じた光の気配と、闇と大地の気配。微かだが非常に濃いあの気配は、まず間違いなく神に関する物だろう。

 おそらく、いやほぼ間違いなく、彼が八人目の魔王なのだろう。万里谷祐理に勘付かれる危険性が高い為、神託の権能は使っていないが、そう直感していた。思い返せば、夢に出て来た少年と色々似通っている部分もあった。

 彼の権能は、予想するに光の気配の方だろう。闇の気配の方は、権能とするには弱い感じがしたからだ。

 だが、それでもしっかりと感じ取れた辺り、呪具に類するものなのかも知れない。下手をすれば、そう言った属性を秘めた神具の可能性もある。

 

(僅かだけど、とても濃い気配だった……もし神具だとしたら、間違いなく地母神に関係があると断言できる程……)

 

 闇と大地は、大地母神を始めとした大地の神に関係深い属性だ。植物は春に芽吹き、夏に葉を生い茂らせ、秋に実りを齎し、そして冬に枯れ、春になれば再び芽吹く。そう言う四季の巡り、生と死、滅びと再生の永遠の円環を大地の神は司っているのだ。故に彼女達は、生と死の両方を司る不死の存在なのだ。

 有名どころで言えば、ギリシア神話のガイアやヘラ、北欧神話のフリッグにフレイヤ、アナトリア神話のキュベレー辺りか。他にも、アルテミスやアプロディテ、イシュタル、ティアマトもいる。意外かもしれないだろうが月の女神アルテミス、愛の女神アプロディテ、そして悪魔として名高いアスタロトも、元は生と死、豊穣を司る大地の女神、大地母神の係累だ。

 大地の女神達と深い関係にある動物は、主に竜蛇を始めとして牝牛、獅子そして鳥が居る。場所や神によっては狼や豚、羊も関係付けられる。狼は闇と大地に属する獣であり、豚や羊はその繁殖力や育てやすさから豊穣に結び付けられるのだ。

 

「………………」

 

 おそらく、彼は大地に関する神の神具を所持している。それがどんな物なのかは分かり得ないが、所持している事だけは間違いがないだろう。

 神具と、それに関係する『まつろわぬ神』は惹かれ合う。互いが己の半身である別たれた存在を求めるのだ。神具は半身である神が眠っている時は眠りより呼び覚まし、起きているのならその神を呼び寄せ、元に戻ろうとする。神もまた同じだ。半身である神具を求め、あるべき姿に戻ろうとする。

 あの少年がどの神の神具を持っているのかは分からない。だが、読み取る事の出来たあの気配の濃さから、非常に強力な神格を持つ神の物だと予想できる。感じる呪力の気配の濃さから、おそらく半身である神は目覚めているのだろう。間違いなく呼んでいる。

 彼が自分と同じカンピオーネなら、その呪力を感じ取れない事は無い筈だ。分からずに持っている、と言う事は有り得ないだろう。……誰にも邪魔されずに戦う為だろうか?

 

(私は、私に危害が及ばなければ別にどうでも良いけれど……)

 

 そう思うが、神と神殺しの戦いは大規模な物になりやすい。互いの力が強力すぎる故に、加減しながら戦うという選択肢が存在しないからだ。一つ判断を誤れば死に直結するのだから、加減すると言う選択肢がないのは当然だが。

 最悪、自分も巻き込まれる可能性がある。戦う事は嫌いではないが、かと言って好きだと言う程でも無い。出来る事なら、戦わずにやり過ごしたい。主に自分の平穏の為に。

 だが相手は神だ。こちらの都合など知った事ではないだろう。『まつろわぬ神』と『神殺し』は、神話の時代からの仇敵同士なのだから。

 

(予知夢で見た内容は、最短五日以内で現実になる。最悪の場合、私が出張る必要があるかしら? だとしたら、情報収集は必要ね。それだけでも、どんな能力や攻撃手段を持っているか、ある程度予測が立てられる)

 

 昼休みの終わりを告げるチャイムを耳にしながら、咲月は権能を使う決意をした。出来る事なら、やって来るだろう神をあの少年が倒してくれる事を望みながら。

 

 ●

 

 一日の授業の全てを終え、放課後。咲月は校舎の屋上で一人、風を感じながら佇んでいた。

 校舎内に生徒の影は、ほぼ無い。殆どの生徒が既に帰宅しているからだ。その中には、自分の正体を見破る危険性を持つ万里谷祐理も居る。これで多少だが、自分がカンピオーネだとばれる危険性が減った。

 紅い夕陽が、校舎と咲月の姿を紅く染め上げる。それにかつての出来事を思い出しつつ、校舎に残った僅かな呪力を感じながら、咲月は権能を発動する為の聖句を口に詠う。

 

「夢より詠え、夢より紡げ。冥府の扉の近くより来れ。敬虔なる者に真実を、愚かなる者に偽りを告げよ、夢を統べる夜の子よ」

 

 言葉に込められた言霊に呼応し、咲月の体から呪力が噴き上がる。同時に、琥珀色の瞳が鮮やかな翡翠色に変色する。望む情報を得る為に、神託の権能が発動した。

 イメージが脳裏に浮かぶ。

 豊穣と死を司る、輪廻する蛇。雷に奪い取られた、無限の叡智。冥府と現世を行き来する鳥、梟。聖なる存在でありながら、醜き化物へと貶しめられた大いなる母。牝牛。獅子。戦争と知恵を司る処女。梟の目を持つとも言われる、英雄達の庇護者。主神の娘。

 知恵の母、不死の蛇、そして戦争と死を担う乙女の三相一体。

 地中海沿岸に広く分布し、しかし元は一柱の女神だった存在。天地、そして現世と冥府を統べる大いなる母の、その原形の一つ。最強の女神の一柱。

 その名は――

 

「……冗談でしょ?」

 

 アテナ。

 



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3話 まつろわぬ気配

 

 アテナ。

 パラス・アテナともグラウコーピス・アテーネーとも呼ばれる古代ギリシアの神々の一柱で、その頂点とも言える『オリュンポス十二神』の一柱にも数えられる、知恵と工芸、そして戦略を司る女神である。

 父にクロノスとレアーの末の息子、神々の王たる天空神ゼウスを。母にオケアノスとテテュスの娘である無限の叡智を持つ知恵の女神メティスを持つ彼女は、父であるゼウスの頭を割り、甲冑をその身に纏い成人した状態で世に生まれ出た。

 彼の女神は月を司る女神アルテミスや、竈の炎を司る女神ヘスティアと同じく処女神として存在する。

 ギリシアの女神として知られるこの女神は、しばしばカナン神話の女神アスタロト――イシュタルやアナト、エジプト神話の女神ネイトやイシスと同一視される、地中海最古の神の一柱だ。その原形となった神はギリシアではなく、北アフリカを出自とする。

 この女神達には共通した属性がある。「戦争」と「主神に最も近い女神」、そして「豊穣神」と言う点だ。

 太陽神ラーを産み出した牝牛ネイト、嵐と豊穣の神バアルの陪神であるアスタロトとアナト、そして天空神ゼウスの娘とされたアテナ。彼女達は皆、戦を司る女神と豊穣神と言う属性を持っている。

 アテナは大地に属し、確かに豊穣神としての属性を持っている。しかし、彼女自身の属性としては、どちらかと言えば弱い。寧ろ、戦争を司っている辺り冥府の神、死神としての属性の方が強いだろう。これはイシュタルにも、アナトにも、ネイトにも言える事だが。

 では何故、彼女が強力な豊穣神の属性を持っているかと言うと、その理由はペルセウスの神話が関わって来る。

 ペルセウスの物語で最も有名な物は、やはり麗しき王女アンドロメダを助け、妻とすると言う物だろう。彼はアンドロメダを助ける為に、ポセイドンの放った海のバケモノ――これはティアマトともされる――を倒す為に、多くの神々の助力と武装を借り受ける。

 即ち、伝令神ヘルメスより空駆ける黄金のサンダル(タラリア)(ハルパー)、ゼウスの兄であり冥府を統べる王ハデスの持つ姿を見えなくする隠れ兜を、泉のニンフより金糸銀糸で織られた布で作られたとも、ゼウスの乳母である山羊アマルテイアの皮で作られたとも言われる(キビシス)を、そしてアテナよりあらゆる攻撃を防ぐとされる最強の防御を誇る(アイギス)を。

 これらの武器を持って彼は、ゴルゴン三姉妹の中で唯一不死ではない石化の邪眼を持つ蛇のバケモノ、メドゥーサを打倒し、その首を以て海のバケモノを退治する。そして、メドゥーサの首はアテナに献上され、その盾に埋め込まれより強力になったと言う。

 このメドゥーサは、元は北アフリカのリビアで生まれ、アマゾーン族――アマゾネスに信仰された大地の女神であった。その名の意味は「支配する者」、即ち女王である。大地を統べる女王として生まれた彼女は当然、大地母神としての属性も持っていた。

 オリュンポス十二神の一柱であり、海と馬の神でもあるポセイドンの妻とも愛人とも、また強姦されたともされる彼女は、その名の語源をアテナの母メティスとしており、一説にはアテナの原形ともなった女神である。

 女神アテナの象徴は梟とオリーブ、そして蛇だ。オリーブは平和と知恵を象徴し、蛇は知恵と永遠の命の輪廻、豊穣を象徴する。メドゥーサは蛇の女神であり、アテナの母であるメティスもまた、人頭蛇身の女神であると説によっては伝えられており、アテナの子供も半身が蛇だ。

 梟もまた知恵を司り、冥府と現世を自在に行き来する鳥だと考えられた。現代の様に明るくない、真実暗黒だと言えた古代の夜を我が物顔で飛び回る梟は、さながら死神の使いと思われただろう。

 知恵を司る蛇の女神の娘であり、大地の象徴である蛇の女神と共に在る死の女神。大地の豊穣を担うメドゥーサと、叡智と不死を担うメティス、そして戦争と死を担うアテナの三相一体。

 母と娘、蛇の三姉妹に分解された、闇夜と死を統べる暗黒の、地中海最強の太母神。

 それが、咲月が神託の権能で得たアテナの『原形神』の情報であった。

 

 ●

 

「……よりにもよって、『始まり』のアテナだなんて……」

 

 紅い夕陽に照らされた校舎の屋上で、咲月は頭痛を感じながら呻く。

 神託の権能で得たアテナの情報は膨大である。何せ、地中海沿岸の女神達全員と関係があると言っても良い世界最古の女神の一柱なのだ、その情報量は恐ろしい程にある。頭痛を感じるのもある意味で当然だろう。

 だが咲月が呻いている理由はそれだけではない。彼女が呻いている理由は、神話を紐解いてみても、権能で情報を洗ってみても、弱点らしい弱点がアテナには存在していないからだ。

 いや、正確に言うなら有るには有る。彼の女神が闇と大地を統べる女神であるのなら、太陽を始めとした『光』の属性を持つ権能か、『鋼』の権能がそれに当たるだろう。強い光は闇を引き裂き、鋼は大地母神にとって自身を征服した存在だからだ。

 幸い自分は、『光』に属する権能は無くても『鋼』に属する英雄神クー・フーリンを殺し、その権能を簒奪している。ある程度は有利に戦う事は出来るだろう。

 しかし、神具を求めてくるだろう女神は、原形とは言え『アテナ』として世に顕現しているのだ。大地母神としての属性も当然あるだろうが、それ以上にアテナをアテナたらしめるのは主として知恵と、戦。闇と死を齎す、闘争の死神である。大地の属性を持っている以上、弱点は確かに『光』と『鋼』だろうが、アテナは強大な闇の女神、地中海沿岸の地母神達の原形の一つだ。生半可な『光』や『鋼』ではダメージを与えられるかも疑わしい。

 さらに原形である大地母神としての彼女は、蛇の象徴でもある『不死』の神性をも持っている。倒しても復活してくる可能性は非常に高い。

 

「最悪だわ……。あの男子、とんでもない神具を持っているものね。一体何処で入手したのかしら……」

 

 自分の魔王としての後輩であり、ある意味で義弟とも言える男子に悪態を吐く。彼が持っているだろう神具から感じ取れた呪力の気配には、闇と大地、蛇の匂いがあった。

 アテナの三相一体で蛇に強い関係を持つのはメティスとメドゥーサ。母であるとされるメティスは知恵を担う水の蛇であるので、感じた気配はおそらくメドゥーサのものだろう。彼女は大地より生まれた蛇の女神だからだ。

 確実に目覚めているだろうアテナは、何処とも知れぬ国から――と言っても、地中海沿岸の何処かからだろうが――あの男子学生が持っている神具を求めて、この日本に来るのだろう。

 だがそれは、つまり……

 

(メティスの知恵の神としての要素とアテナの闘神としての要素は揃っていても、メドゥーサが持つ大地を統べる太母としての要素は欠けていると言う事……)

 

 神具と『まつろわぬ神』は惹かれ合う。それは、互いが己の半身である別たれた存在を求めあい、あるべき元の状態に戻ろうとするからだ。完全な状態であるのなら別たれた存在を求めはせず、そもそも別たれた状態で顕現などしないだろう。

 つまり、現在のアテナは完全な状態ではないと言う事だ。それでも神であるのでかなりの力は持っているだろうが、現在のアテナの状態で闘うとしたら、其処に勝機があるだろう。そんなアテナを倒しても権能は増えないかもしれないが、その場合は仕方ない。

 自分の平穏の為、正体を隠す為だ。躊躇せず、一切の容赦なく、全力で以て殺すとしよう。どんな攻撃をして来るのか、どれほど強いのか、楽しみだ。

 

(っ……今、私は何を考えていた?)

 

 そこまで考えて、咲月はいつの間にか、自分がまつろわぬアテナと積極的に戦おうと考えていた事に気付いた。

 自分の平穏を守る為なら戦うが、今回はあの男子学生に対処を押し付けて――原因は彼にあるのだから、押し付けるというのはおかしいか――自分はひっそりと息を潜めていようと思っていた筈だ。それがいつの間にか、積極的に闘争を望んでいる。

 神と神殺しの戦いは大規模な物になり易い。人里離れた山奥などならいざ知らず、こんな都心で戦ったら正体を隠すどころか逆にばらす様なものだ。

 そうなれば、今までの四年間が台無しになる。

 

(神殺しとしての本能、か……結局私も、他の魔王と同じく狂人の一人、と言うことね……)

 

 無意識のうちにアテナとの闘争を望んでいた自分に自嘲する。

 かつて、何処かの誰かが「カンピオーネになる様な人間は、殆どが狂人や猛獣の様なものだ」と言っていたような気がするが、真実その通りだった訳だ。静寂や安寧を何よりも望んでいた筈の自分が、神との闘争を思い浮かべただけで、こんなにも心躍らせていると言うのだから。体は戦闘状態に移行していないが、心の方は既にそうなっている様で、いやに昂っている。おそらくだが、顔にも非常に獰猛な笑みを浮かべていただろう。

 

(義母さんに体を作り変えられた影響かしら……? 確か、神殺しに転生させる呪法には変な所が多いとか言っていた様な気がするし……? あら? 何時そんな事言われたのかしら?)

 

 クー・フーリンを殺した時に、自分の体が作り変えられた事は何となくだが理解していた。自分の義母であり支援者となったのは、やけにテンションが高く、軽い感じの性格をした外見美少女の女神だと言う事も。

 だが、聞いた筈の言葉を何時聞いたのかが思い出せない。一体、何時聞いたのか……。

 

「まぁ、いいわ。何かあったとしても、あの男子が対応するでしょうし。それよりも、もう帰るとしましょう。いい加減、夜も遅くなるし」

 

 見れば、校舎は既に夜の闇に沈んでいた。時間を確認するためにポケットから懐中時計――銀製の、父親の形見だ――を取り出し、蓋を開く。時刻7時半。神託を使ったのは6時10分かそこらだったので、1時間以上も風が吹く屋上で考え込んでいたことになる。予想以上に長居した。

 いつもならこの時間にはもう帰宅しており、食事も終えている。

 しかし今日は夕飯の準備も何もせずに学校へ来た。今から帰って作るとしても、そう凝った物は作れないだろう。パスタかラーメンか、蕎麦辺りか。

 

(流石にそれだけって言うのも、ね……コンビニかスーパーで既成品でも買おうかしら? 一食抜くって言う手も有るけど、それをするとマーナが不機嫌になるし……)

 

 夕飯をどうするか考える。

 自分は一食程度抜いても大丈夫だが、留守番している子犬――狼にも見える――はそれをすると文句を言う様に吠えてくる。ずっと独り暮らしと言うのも寂しいので外に出して飼い始めたら、食事の味を覚えたのか、やけにグルメになってしまったのだ。

 あの子犬は何でも食べるのだが、中でも咲月の手料理を好んでいる。犬が火を通した肉類を食べるのはどうかと思うが、今ではドッグフードを出そうものなら、噛みついてくる始末である。噛むと言っても甘噛みだが、あからさまに不満そうにして来るので割と性質が悪い。

 

(取り敢えず、明日のお弁当用に材料は買わないと。確か今日は、人参とじゃがいも、鶏肉が安かった筈……あまり時間は無いから、急がないと)

 

 頭の中で買う物をリストアップし、咲月は財布の中を確認する。必要な材料を買うには十分な金が入っていた。買い物用の袋も鞄の中に有る。

 それに一つ頷いて、咲月は鞄を持ち、グラウンドや近くの道に人が居ないことを確認すると、助走を付けて柵に向かって走り出した。かなり早く、このままだと柵に突っ込んでしまう。

 しかし咲月は、ある程度の距離まで近づくと足裏で呪力を弾けさせ、柵に跳び上り片足をかけた。呪力を弾けさせた場所には罅が走っている。

 直後、再度足裏で呪力を弾けさせ、柵の外に躍り出る。その衝撃で柵がひしゃげるが、咲月は気にせず空中に飛び出した。制服のスカートが翻り、薄い亜麻色の髪が風にたなびく。

 彼女は次いで木の枝や電柱を足場に跳び進み、ある程度進んだ所で公園に降りて食材などを買いにスーパーに寄り、帰って行った。

 

 ●

 

 咲月が跳び去って暫く後。城楠学院周辺の道に一人の男が音も無く現れた。

 年齢は二十代後半と言った所だろう。眼鏡をかけた若い男性だ。

 しかし、着ている背広はくたびれ、だらしなく着崩されており、さらに無精ひげも生えているので実際の年齢よりも老けて見える。

 彼の名は甘粕冬馬。全体的にだらしのない印象を見る者に与える外見をしているが、これでも日本の呪術界を統括する組織『正史編纂委員会』に属している公務員だ。

 

「さて、確かここらだったと思うんですが……少々遅かったみたいですね」

 

 ぼりぼりと頭を掻きながら甘粕は周辺を見回す。視界に入るのは闇と電柱、街灯のみで、人影は一つも無い。

 呪力が弾ける感覚。それを彼が感じ取ったのは本当に偶然だった。

 武蔵野の媛巫女である万里谷祐理に、カンピオーネの可能性がある草薙護堂の正体を見極める事を依頼し、他にも色々と仕事を片付けて報告に戻る途中だったのだが、呪力が弾ける感覚を感じ取り、在野の呪術師が何かしでかしたのではと調べる為にやってきたのだ。

 

「ふむ……別に呪術を何かにかけた、と言う感じは無いですね。単純に、呪力を弾けさせただけ、と言ったところでしょうか」

 

 空気中に漂う呪力の残滓を感じ取りながら、何があったかを分析する。残っている呪力の感じから、単に弾けさせただけの様だ。

 しかし、分かったのはそれだけ。霊視は彼には出来ないので、これ以上の情報を集める事は自分では難しいだろう。

 

「危険な感じはしませんが……一応、報告はしておきますか。場合によっては彼女に霊視を頼む必要もありますか。やれやれ、これ以上仕事を増やさないで欲しいんですけどねぇ」

 

 まるで面倒臭そうに感じられない口調でそう言い、甘粕は現れた時と同様に、音も無く道を歩いて行った。

 

 ●

 

 とある港に、その少女は佇んでいた。

 月の様な銀色の髪と、夜の闇の様に暗い目を持つその少女は、何をするでもなくただ港に佇み、潮風に髪を揺らしながら海を見ていた。

 いや、正確に言うのなら、海の向こうに存在する自分を呼ぶ何かを。

 

「古の蛇……この海の向こうへと持ち去ったのは、古き帝都で会った若き神殺しか」

 

 目を閉じ思い返すのは、ローマと呼ばれている古都で出会った異邦の神殺しの事だ。あの時には自分が探し求める神具の事を優先していたので、久方ぶりに出会った宿敵と言うだけしか思わなかった。

 その時には神具を持っていなかったので余り気に留めず、僅かばかり話して見て抱いた印象は、神殺しらしからぬ、度し難い程に甘い男だった。倒すにしても、『蛇』を得てからでいいだろうと、その時はそう思った。

 が、その男が去ったと同時に、求める『蛇』の気配が遥か東へと進んで行くのを感じた。間違いなくあの男が持ち去ったのだろう。戦う事を望んでいないと言っておきながら、中々どうして、やってくれる。

 目を開く。この海の先に有る国に、求める『蛇』の気配がある。自分を読んでいるのを感じる。

 

「我が求めるは蛇……古の、蛇」

 



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4話 夢での邂逅、現世での邂逅

 

 白。白い、何処までも白い空間。

 霧がかかったように霞んでいる足元も、見上げる空も、右も左も、前も後ろも、果ては地平線の向こうまでもがただ白一色に染まっている空間。

 そんな空間に、気付けば咲月は一人、ぽつんと立っていた。

 

「ここって、確か『生と不死の境界』よね……? なんでいきなり……」

 

 何も無い、白一色の周囲を見回しながら咲月は疑問に思う。

 現在彼女が居る白い空間は『生と不死の境界』と呼ばれる場所だ。欧州魔術界ではアストラル界、中国では幽冥界、そして日本では幽世と呼ばれている、宇宙開闢からのあらゆる記録が存在している場所でもある。

 アカシックレコードとも呼ばれており、霊視能力を持つ者や神託を託宣される巫女や魔女たちは、この場所から世界の記録を読み取る事が出来る。神託の権能を持つ咲月にとっては、ある意味でよく知った場所でもある。

 だが、確か自分は食事を取った後に明日の弁当用のおかずを何品か作り、マーナの毛をブラッシングした後風呂に入って床に着いた筈だ。眠る前に権能を使った覚えはないし、そもそも自分は、この幽世に渡れる魔術は知らないし、同じ様な効果を持つ権能も持っていない。

 となると、知らないうちに扉が開いて落とし込まれたか、若しくは意識だけがこちらに呼び込まれたかのどちらかだろう。

 が、前者の可能性は限りなく低い。そんなことをされれば、いくら眠っていても気付く。

 だとすれば、残りは意識だけが呼び込まれたという考察だが……

 

「そう言えば、前にも同じような事があったような……?」

 

 思い当たる事があったのか、記憶からその情報を探る。

 以前に来た時は確か、北欧で二つ目の権能を簒奪した時だったか。あの時も確か、宿で眠っている時にいつの間にか……。

 だが、思い出そうとした所で頭に鋭い痛みが奔る。ギリギリと頭を締め上げる様に鈍く、それでいて針を刺す様に鋭い痛みだ。

 

「ぃ、あっ! つ、ぁあっ……!」

 

 突然の激痛に頭を抑え、咲月は堪え切れずに膝を着く。鏡が無いので咲月には確認できないが、琥珀色のその目は、神託発動時の鮮やかな翡翠色に変色していた。おそらく、覚えていない記憶を思い出そうとした事で自動発動したのだろう。

 幽世は宇宙開闢からの記録が全て存在している場所である。そんな場所で、幽世から情報を引き出し読み取る神託の権能を使おうものなら脳に多大な負荷が生じるのは自明の理。

 頭の中に入って来る膨大な量の情報によって生じる激痛を、涙を流しそうになり、歯を食いしばって耐えながら、咲月は権能の発動を止めようと集中する。

 

「あらら、また無茶するわね。ここでは記憶を繋げると痛い目を見るって、前にも言ったのに」

 

 何とか発動を止め、しかし痛みで頭を抱えたまま座りこんでいると、背後から声をかけられた。小さな女の子が出す様な高い声だ。

 痛みを堪えて背後を向くと、そこには声の主であろう少女が居た。長い髪を二つに結った、純白のドレスの様な衣装を身に纏った少女だ。歳の頃は14、5歳と言った所で、咲月より背丈も低い。可憐な少女だ。

 だが、その雰囲気は決して少女の物ではなく、何より『女』を感じさせる。蟲惑的な、世の男性全てを魅了してしまうような『女』だ。

 

「やっほー、サツキ。久しぶりね。元気にしてる?」

「義母さん……これが元気そうに見えるんだったら、今すぐ眼科に行く事をお勧めするわ……」

 

 軽い感じで声をかけてくる明らかに歳下だろう少女に、咲月は親愛の情と皮肉を多分に込めた、半ば以上に恨めしそうな口調でそう返した。

 咲月の前に現れた彼女の名はパンドラ。咲月を含めた神殺し、カンピオーネ達の元締めであり支援者、そして義母であり、簒奪の儀を担う女神である。

 外見は完全に自分よりも歳下の、幼い少女のそれだが、実際年齢は存命しているカンピオーネ達の誰よりも上だ。何せ、不死の領域に引き籠もっているとは言え、神話の時代から生き続けているのだから。

 とは言え、その事を言ったら被害に遭うので口には出さない。具体的に言えば、揉まれる。

 

「ここに病院なんてないから無理ねー。そもそも行く必要も無いし。まぁ、それはいいとして、頭はもう大丈夫?」

「……どうにか。おかげで前も同じ事をして悶えた事も思い出したわ。どうせまた忘れる事になるんでしょうけど」

 

 皮肉はあっさりと流された。

 小さく溜息を吐く咲月に、パンドラは生温かな笑みを向けている。

 咲月が彼女と出会うのは三度目だが、神殺しとして転生した時には意識が殆ど無い状態だったので記憶の通りに考えれば二度目である。前に呼び出された時に「義母と呼んでもいい」と呼ばれたので、その時からそう呼んでいるのだが、この性格や口調の軽さは相変わらずのようだ。

 幼い外見の義母を見て、咲月はそう思った。

 

「それで、今回はどんな用事なの? 前は権能簒奪の時に死にかけていたからって思い出したけれど、今回は何も無い筈よ?」

「ああ、単に話をする為」

「……え?」

「いえね、最近誰も来ないから、暇なの。私も神だからそうそう不死の領域から出張する訳にもいかないし、でもこっちに呼んでも、咲月以外は誰も「お義母さん」って呼んでくれないし。他にも理由は有るけど、6割はそれ」

 

 あっけらかんとした義母の言葉に、咲月はぽかんとした顔を向ける。まさか自分を呼び出した理由が、暇だから話をする為とは……。

 思わず、ジトっとした目で見てしまったのは悪くないだろう。

 

「まあまあ、落ちつきなさいな。残り4割は貴女達全員に関係ある事なんだから」

「全員?」

「そ、カンピオーネ全員」

 

 口調こそいつもと同じく軽いものだが、その言葉に含まれた空気は決して軽いものではない。

 それを敏感に察した咲月は、表情を改め義母と向き合った。

 

「……どう言う事なの? 八人目と関係ある事?」

「あ、もうゴドーとは会ったんだ?」

 

 咲月の問いに義母が笑みを浮かべた顔で応じるが、咲月は首を横に振った。その「ゴドー」と言うのが八人目である彼の名前なのだろう。何と言うか、待ち人来らずの戯曲の人物みたいな名だ。

 厄介極まるアテナの神具を持っている彼の姿は知っているが、離れた場所から見ただけなので会ったと言うには弱いだろう。関わり合いになりたいとも思わない。

 そう言うが、義母は然して気にした風ではなく、寧ろ「サツキの性格を考えれば納得だわー」と言っていた。相変わらず、軽い。

 

「まあ、あの子の事はまた後で話すとして。関係は、有ると言えば有るし、無いって言えば無いかなあ」

「……義母さん、どっちなの?」

「ぶー。ゴドーもそうだったけど、サツキったらノリが悪いわねー。結論を急ぐのは詰まらないわよー?」

 

 態とらしく、不機嫌そうに目を細めてパンドラが言う。しかし咲月はそんな義母に何とも思わず、黙って彼女の顔を見ていた。自分を含めたカンピオーネ全員に関係ある事なのだ、ノリが悪くなるのは仕方がないと思って貰いたい。咲月自身のノリが悪いのは生来のモノもあるのだが。

 そんな咲月の感情を読んだか、パンドラは不機嫌そうな表情を引っ込めて義娘に向き直った。

 

「正確に言うなら、この東の果ての国にやって来る神様が切掛けになって出てくるかもしれない神様が関係有るの」

「アテナが?」

「そ。サツキも知ってるでしょうけど、アテナ様は蛇の神格よ。蛇は鋼にまつろわされる。それは単純に殺されたり、妻にされたり、或いは支援者にされたりと色々有るけど……これはいいわね?」

 

 義母の言葉に頷く。咲月自身、鋼の属性を持つ英雄神を殺して神殺しと化した身だ。その辺は調べて、知識として蓄えてある。

 『鋼』は大地母神をまつろわせる。その特性上、竜蛇や大地、水、火に関係深い戦神の神格だ。神によっては風や雷なども深い関係に有る。出生に水が関わり、大地母神の三相一体であるモリガンを倒し支援者としたクー・フーリンは十分に鋼の英雄たりえるだろう。

 また、『鋼』の軍神は純血に近ければ近い程、或いは高位であればある程厄介な能力を持つと言う。それがどのような能力なのかは、残念ながら分からないが……。

 

「で、この国には今、三人の『鋼』が居るわ。まあ、実際にはもっと居るんだけど、明確に顕現して寝てるか隠棲してるかで、私が知ってるのが三人って言うだけだけど。私も結局は神だから、詳しくは神側の掟があるから言えないけれど、一人は隠棲中で、一人が半分隠棲してるような状態みたいなもので、もう一人は眠ってるの。この眠ってる『鋼』の方が危険なの」

「眠ってる方が? 何で?」

「その方は『最強の鋼』よ。長い長い流浪の果てに、貴女とゴドーの故郷、東の果ての国に流れ着いたのね。もう随分長い間眠ってるから、もしかしたら大丈夫かもしれないけど、アテナ様に刺激されて起きるかもしれないわね」

「は!?」

 

 さらっと重大な事を言うパンドラに、咲月は思わず大声を上げる。

 『最強の鋼』。随分と仰々しい名を持つ神である。だが、ほぼ全ての神の知識を持つ義母が危険だと言う存在だ、その名に偽りはないのだろう。最強と言うからには、おそらく最上位の『鋼』か、最源流の『鋼』だろう。あるいはその両方に当て嵌まるか。それほどの『鋼』なら、ほぼ間違いなく厄介な能力を持っているだろう。そんな存在がこの日本に眠っている等、初めて知った。

 

「もしかして、その『最強の鋼』って言うのが私達に関係有るの?」

「そ。まあ、ゴドーも居るし、あの方が起きる前にもう一人の『鋼』が出てくるかもしれないけどね。気をつけときなさい、サツキ。あの方の『最強』の名は、決して伊達なんかじゃないから」

 

 その言葉は、普段の義母の軽さを一切含んでいなかった。この義母がここまで言うほどの『鋼』の神格。成る程、余程以上に危険なのだろう。

 アテナの事も考えなければならないが、その『鋼』の情報も調べる必要があるか。ここでの記憶は目覚めれば忘れてしまうが、完全に忘れてしまう訳ではない。無意識の領域には残るのだ。

 ……神託の権能は、自分に対して使う場合は呼び水となる情報が無ければ使えないから、文献や足で調べて廻る必要があるだろうが。この領域になら情報は有るだろうが、下手をすると頭が壊れかねないのでやる訳にはいかない。

 

「とまあ、堅い話はここまでにして……」

 

 咲月が現世に戻った後の事を考えていると、軽さを含んだ義母の言葉が聞こえた。考えを止めて彼女の方を見ると、義母は何故か、獲物を狙う様な目で自分を見ていた。

 ――何か、嫌な予感がした。

 

「うりゃっ!」

「ひゃっ!? ちょっ、義母さん、何を!?」

 

 妙な気迫を込めた目で見られて思わず一歩下がった咲月に、パンドラは猫の様に飛びかかってきた。

 咄嗟の事に反応が遅れ、思わず抱き留めてしまったが……それが悪かった。

 もにゅりと、義母の手が咲月の胸に触れる。

 

「ひうっ!?」

「むむっ、前に触った時よりも大きくなってる!? カンピオーネは個人差があるって言っても基本不老の筈なのに……あーもう、娘だけれど妬ましいー!!」

「ちょ、まっ……義母さん、やめ……ぁんっ!」

 

 咲月の抗議をスルーしつつ、パンドラは彼女の胸に手を這わす。

 神は完成された存在であるため、肉体の成長と言う物が基本的に存在しない。神話によっては、生まれてから成長すると言う物もあるが、それもある程度まで進めば止まる。

 パンドラは神である。それも、母体から生まれた存在ではなく、神々によって創り出された女神だ。彼女も元は、冥府に関係ある女神だったらしいが、成長と言う物は、作られたその瞬間から存在していない。始めから完全な存在、不変存在として創り出されたのだ。

 本人曰く、とっくの昔に過ぎ去った過去の事なので幼児体型は気にしていないらしいが、それでも娘の方が体のスタイルが良いと言うのは妬ましいのだろう。

 実際、そんな事を叫びながら咲月の胸を揉んでいる。

 

「か、義母さん……や、んぁっ、やめ、て……や、め、っふぁ、やん、くぅっ、は、や……やめてって言ってるでしょ!?」

「ふぎゃんっ!?」

 

 悶えていた咲月だったが、羞恥と怒りとその他諸々の感情を込めて義母の頭に、全力で拳を叩き込んだ。

 ゴヅンっ! と言う、鈍い音が白い空間に罅き、衝撃でパンドラは胸から手を離して白い地面にべしゃりと顔から突っ伏した。

 解放された咲月は顔を紅くし、胸を両手で隠して倒した義母から距離を取る。顔が赤い原因は、やはり羞恥と怒りからだろう。睨むように義母を見ている琥珀の瞳には、僅かに涙が浮かんでいる。

 思い切り殴られ、頭に大きなたんこぶを作ったパンドラは、気絶でもしたのか起き上がる気配を見せない。

 それでも警戒して注視していると、周囲にノイズの様な物が走った。見れば周囲の景色も、徐々に掠れ、崩れて来ている。これは夢の様なものだから、目覚める時が近づいているのだ。

 

「か、か……義母さんのバカーッ!!」

 

 現世に意識が戻る寸前に咲月が気絶した義母に投げかけたのは、多分の羞恥と怒りを含んだ罵倒の言葉だった。

 神殺し、魔王カンピオーネとは言え咲月は年若い乙女である。如何に義母とは言え、自分の体をまさぐられるのはダメだったらしい。

 

 ●

 

「っ!?」

 

 朝。まだ日も昇り切らない、薄暗い時間帯。

 咲月は突如目覚め、勢いよくベッドから身を起こした。彼女は時間も確認せず、まず自分の体に異常がないかを触って確認した。

 特に胸を念入りに確認した。

 

「……何かしら。何か、とても重要だけど、色々と台無しにされた夢を見た気がするわ……」

 

 一通り確認して、体に何の異常も無いと分かると一息吐き、セットしても鳴っていない目覚まし時計を見た。

 午前3時半だった。

 

「何かしら……何か、調べなきゃいけない事があったような……でも、何を?」

 

 完全に覚醒したとは言えない頭で、何を調べなければならないのか思い出そうとする。

 何を調べなければならないのか。確か、蛇や金属に関する事について調べなければならない気がするが……。

 一般的に考えて、関係性がまるで見出せない二つの事柄が頭に浮かんだ。しかし、それの何を調べればいいのかが分からない。

 

「……まあ、大切な事だったらその時に思い出すでしょ」

 

 分からないまま考えを打ち切り、咲月は目覚ましのアラームスイッチを切ってベッドから抜け出てシャワーを浴び、着替え、朝食を取っていつもと同じ様に弁当を鞄に入れて、いつもよりも随分と早い4時半に家を出た。散歩の様な感じで、少し遠回りしていこうと言うのだろう。

 いつもと同じ様に静かな、いや、いつも以上に静かすぎる住宅地を、いつもとは違うルートで学校に向かって進む。

 

「変ね。普段なら二、三羽程度は居るのに、今日は一羽も居ない……?」

 

 鳩どころか雀一羽すら見当たらないその道の様子に、咲月は僅かに首を傾げる。いつもだったら、とても早起きの人を除いて鳥が三、四羽程度いるのだが、今日はその姿は影も見えない。

 いつも家を出る時間帯よりも早いので、それも有るのだろうと言ってしまえばそれまでなのだが……直感で、それは違うと判断した。

 何か妙な感じがする。そう思い、警戒心を抱きながら咲月は道を進む。

 

 住宅地を抜け、市街地を通り、多くの道を歩いて彼女は何かに導かれるかのように町はずれの公園に辿り着いた。そこは学校へ向かう道の、丁度反対方向にある場所なのだが――其処に辿り着いた瞬間、咲月の体に力が漲った。朝の散歩で半覚醒状態だった全身が完全に覚醒し、同時に心の中の獣が牙を剥き、闘争心が昂る。

 体の全てが戦闘に向けて緊張する。仄かな臭いも嗅ぎ取る程に、微かな音すら聞きとる様に、全身の感覚がこれ以上ない程に鋭敏になる。

 体に急に発生したそれは、カンピオーネが宿敵たる『神』と遭遇した時に起こる現象だった。

 

「ほう、この国に神殺しはあの男だけかと思っていたのだが、もう一人居たのか。一つの国に二人の神殺し……珍しいものだ」

 

 体の変化に、神が居る事を察して全方位を警戒していた咲月に声がかけられる。それは彼女の後方やや上方からかけられた物だった。

 すぐに振り返り声がした方向を見ると、街灯の上に一人の少女が立ち、彼女を見下ろしていた。

 その少女はとてつもない程に美しかった。

 闇夜に煌く銀月の様に輝く白銀の髪、夜の闇を凝縮した様な濃く、深い闇色の瞳。肌は白く滑らかで、白磁や雪花石膏の様なと言う表現がこれ以上なく当て嵌まる程に美しい。

 世界中の、最高の芸術品を集めても少女の足元には及ばないだろう。人外、神域の美とはまさにこの事か。

 だがそれは当然である。少女を含めた存在は人間を遥かに超越した、もはや一種の自然災害の様な物。その姿は人を遥かに超える美しさを持つか、凄まじく醜いバケモノかの二択しか存在しないのだ。

 その存在は、曰く、『神』。人に畏れられ、敬われるべき存在にして魔王カンピオーネの永遠の宿敵。咲月の目の前に存在する、闘争心を高ぶらせる原因でもある少女の正体はそれであった。

 そして、咲月は目の前に存在するこの神の事を知っている。

 月銀の髪に、梟を印象付ける夜色の瞳。そして全身から感じる、非常に濃い『闇』の属性の呪力。現代の人間の衣装を身に着けてこそいるが、つい数日前、神託で得た情報と完全に合致するその容貌。

 

「まつろわぬ、アテナ……!」

 

 彼女と咲月との邂逅は、酷く唐突だった。

 



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5話 女神と姫と、魔王と騎士と

 

「まつろわぬ、アテナ……!」

 

 予想すらしなかった仇敵(アテナ)との邂逅に、咲月は戦闘に向けて歓喜し、昂る心を抑えつけながら顔を引き攣らせ、その名を口に出す。

 神託の権能が自動発動し、予知夢を見たので、最短で五日の内にアテナがやって来るだろうと知ってはいたが、それを見てからまだ一日しか経っていない。予想以上に早すぎる来訪だ。

 

「ほう、初見でありながら我が名を知るか。然り。妾はアテナの名を所有する神である。見知りおくがいい、遥か東方の神殺しよ」

 

 咲月の呟きに反応し、『まつろわぬアテナ』は己の名を名乗った。街灯の上に器用に立つ彼女の夜色の目は、咲月をピタリと捉えている。

 

「さて、どうするか。我等神とあなた達神殺しとは、出会えば互いに滅ぼし合う仇敵なれば。争う事こそ我等が逆縁。故に、この場で戦うも一興だが……」

 

 咲月を見下ろしたまま、彼女を観察するようにアテナは夜色の目をすっと細めた。

 アテナは知恵の女神であり、同時に闘神でもある。咲月の実力を見計っているのだろう。

 その視線を受け、咲月も鞄を地面に落とし、脚を肩幅まで開いて僅かに腰を落とし、即座に動けるように身構える。鞄を離したその手は、何かを握る様に僅かに開かれている。身に滾る呪力も、最高に高まっている。

 

「しかして、妾には古き帝都よりこの地に持ち去られた『蛇』を奪還すると言う目的がある。あなたは中々に強く、そして厄介そうだ。もう一人の神殺しが奪い、妾から遠ざけた『蛇』を奪還する為にも、ここで消耗するのは好ましくない」

 

 咲月から視線を逸らさず、アテナは淡々と言葉を紡ぐ。咲月もまた、睨む様な鋭い眼差しで頭上に立つアテナを見ている。

 アテナの言う『蛇』。名前や形状は知らないが、これは間違いなく、八人目の魔王であるあの少年が持っている神具の事だろう。蛇と大地、そして闇の気配を強く感じた、メドゥーサに関する神具だ。

 

「故にまずは問おう、名も知らぬ神殺しよ。妾はアテナ、知恵と闘争を担う女神なり。和するか、それとも誅し合うか、あなたの返答を以て対応を決めよう。さあ、あなたの答えは如何に?」

 

 淡々とそう言い、アテナは咲月の反応を見る。

 和するか、それとも誅し合うか。そのどちらかによって、アテナは正しく対応を変えるのだろう。和するのならば何もせず、『蛇』を探して別の場所に去るのだろうし、誅し合うのなら如何な手段を以てでも咲月を滅ぼそうとするに違いない。それは咲月も同じだが。

 神と神殺しは互いに殺し合う宿命に有る。互いが互いを、本能のレベルで倒すべき『敵』と認識しているからだ。

 咲月も神殺し故に、街灯の上に立つアテナに対して強烈な敵愾心の様な物を心に抱いている。それは神殺しの本能が抱かせている物だ。

 心の獣が牙を剥き、眼前の(アテナ)を倒せ、喰らい尽くせと叫んでいる。闘争本能が自分の身と理性をジリジリと焦がす。今すぐにでも槍を呼び出し、アテナの細い身を穿とうと体が疼く。神との戦いの為に、全身の細胞に力が行き渡る。

 しかし表情には出さないが、咲月は飛び出そうとする体を必死に抑えつけていた。彼女が神殺しとなって既に四年経っているが、彼女は魔術師たちからは身を隠し通して来た。それは様々な面で干渉され、自分の日々の平穏を侵される事を嫌ったが故だ。

 旅行に行く先々で出会った神々を殺し、その権能を簒奪しているが、それは相手の神が戦いを吹っかけて来たからだ。その吹っかけられた戦いには嬉々として応じてはいるが、彼女自身から戦いを吹っかけた事は一度も無い。

 咲月自身は自分の身の周りの平穏や、静寂をこそ望んでいる。戦う事自体は嫌いではないが、それでもヴォバン達の様に自分の方から進んでしようとは思わないのだ。自分が最初に倒した「彼」以外とは、進んで戦おうと思えない。

 そんな彼女に、敵の方から戦うか否かを問うてきた。自分の平穏や静寂をこそ望む彼女からすれば、これ以上ない提案だ。

 

「……魅力的な提案ね。だったら、私は和を取りたいわ。静寂や平穏をこそ、私は望んでいるから」

「ほう、珍しい神殺しだな。我らとの決戦を楽しむ機会を、自ら逃がすと言うか」

「誘惑はやめてくれるかしら? 私の方から戦いを吹っかけた事は無いけど、確かに、神と戦うのは楽しいわ。貴女と戦うのも、それはそれで楽しそうだけれど……ここで戦えば、間違いなく呪術師やもう一人の方に私の事がばれるわ。そうなったら、今までひっそりと暮らしてきた私の4年間が無駄になる。変に呪術師共に干渉されて、私は平穏を失いたくないもの」

 

 アテナの夜色の目を睨みつけながら、咲月は和を取る事を選択した。心の獣は不満そうに唸り、闘争本能をさらに燃え上がらせようとしているが、その首に鎖をかけ、自分で自分を抑制する。せっかく戦わずに済みそうな相手なのだ、この好機を逃す事は出来ない。

 正直に言って、これでもかなりギリギリだが。アテナの方から吹っかけてくれば、間違いなく嬉々として応戦してしまうだろう。自分の事を呪術師から隠すためにも、このまま去ってくれるとありがたい。

 おそらくもう一人の神殺しとの戦いに水を差すなと言う要求があるだろうが、それこそ願ったり叶ったりだ。最悪の可能性を考慮して情報を収集したが、元々あの少年に押し付けるつもりでいたのだ。

 元々、彼がこの国にアテナの神具を持ち返った事が全ての原因なのだ。元凶の彼がその責任を取るべきだろう。彼にとっては迷惑千万極まりないだろうが、そんな事はどうでも良い。

 咲月にとって、彼女自身に害がなければ、誰が迷惑しようが、周囲がどうなろうが知った事ではないのだから。

 

「そうか。では、妾は疾く去るとしよう。勝利と栄光は常に妾と共に在る故に、戦うとしてもあなたに勝てただろうが、妾にとっても、今あなたと戦わずに済む事は幸いだ」

 

 咲月の返答にアテナはそう返す。戦っても居ないのに「自分が勝つ」と言うアテナに対して咲月は反感を抱くが、何も言わない。余計な事を言ってしまえば、この場は即座に血で血を洗う戦場と化すと分かっているからだ。

 何も返さない咲月に気にした風も見せず、アテナはさらに言葉を連ねる。

 

「あなたからは、妾達大地の係累たる女神にとって忌まわしき存在、忌むべき『鋼』の気配を強く感じる。そして、妾と属性を同じとする夜と大地、闇に属する神々を倒しているか」

「っ……」

 

 続くアテナの言葉に思わず小さく息を呑む。自分が最初に倒した神と、この四年の内に倒して来た神の属性に気付かれている。

 僅かな時間話しただけだと言うのに、咲月が倒した神の属性に気付くとは、流石は知恵と闘争を担う女神と言ったところか。

 忌み嫌う属性と近い属性だからこそ気付けたのかもしれないが、どちらにしろ、厄介だ。

 

「あなたを今ここで討ち果たすべきだと、闘神としての妾の心は叫び、知恵の女神たる妾の心も、危険の芽は摘むべきだと囁いている。しかし、今は去ろう、名も知らぬ神殺しよ。だが『蛇』を取り戻し、もう一人の神殺しを降したその後に、妾はあなたを降す為に、再びあなたの前に現れる。その時に、改めて名を交わすとしよう」

 

 アテナのその言葉に思わず槍を呼び出しそうになるが、直後に咲月目掛け、梟が何羽も飛びかかって来た。突然のそれに僅かに驚き、しかし振り払って顔を上げ、街灯の上を見るが、既にアテナはその場から去った後だった。気付けば、体中に漲っていた力も鳴りを潜めている。

 空中には、アテナの象徴である梟の羽だけが舞い散っていた。思わず、舌打ちしそうになる。

 

「……やっぱり、ここで殺しておくべきだったかしら。でも……」

 

 ひらひらと舞い散る羽を一枚手に取り、酷く冷めた声でそう零す。

 仇敵との遭遇に心が歓喜し、しかしそれを抑える事に理性を集中していたので思い至らなかったが、彼女が八人目に自分の情報を漏らす可能性もあると今更ながらに気付いたのだ。自分の名を名乗っては居ないので直接は知られないだろうが、自分の特徴ぐらいは漏れるかもしれない。或いはそこから、呪術師たちが探りを入れてくるかもしれない。

 そう思い、咲月は自分の髪に触れる。元は日本人らしい黒に近い濃い栗色だったのだが、薄い亜麻色に変色してしまった髪だ。こんな髪色を持つ人間は、この国ではあまり居ないだろう。変色してしまったこの髪が恨めしい。

 カンピオーネの主な特徴の一つに、常人を遥かに超える回復力がある。その回復力は、たとえ骨が折れようが内臓が潰されようが、生きてさえいれば数日――下手をすれば一日かからずに完全回復し、元の状態にしてしまうと言う真実化物染みたものだ。しかし何故か、この髪の色だけは4年前に変色してからずっと、元の色に戻らなかった。まるでこの色こそ、本来の色であると言うかのように。

 精神的な物なのだろう。人間の体に精神が大きな影響を与えるという説は、意外と有名なのだ。彼女の髪の変色も、それに依る物だろう。その原因となるのはほぼ間違いなく、自分が神殺しに転生し、実の父母を喪った4年前の出来事だと、咲月は考えている。

 魔王カンピオーネになり、肉体を作り変えられたとは言え、元は唯の人間だ。影響される部分はやはり、残っているのだろう。

 だが、今はそんな事はどうでも良い。問題はあの女神が去り際に投げかけて来た言葉だ。あの女神は確か、もう一人を倒した後に自分の所にも来ると言っていなかったか?

 自分を降すと、そう言っていなかったか?

 

「宣戦布告、ね……上等だわ。次に会ったら、その時にこそ殺してあげる……!」

 

 手に取った梟の羽を握りつぶし、咲月はそれを見つめながら言う。この時咲月の思考に有ったのは、隠れるという選択ではなく、迎え撃ち、斃すと言う選択だった。その顔には獲物を目の前にした猟犬の様な、非常に獰猛な笑みが浮かんでいる。抑え込んでいた闘争心が、今度こそ完全に燃え上がったらしい。

 おそらくアテナは、彼女が求める『蛇』をその手に取り戻すだろう。これは神託を使わない、勘を用いた単なる予想だが、しかし何故か、咲月はそれを確信していた。

 相手は古代地中海で最強を誇った最古の女神。『蛇』を取り戻し、完全な力を取り戻した彼女は正しく、最強に限り無く近い神だろう。戦えば、この近隣一帯は勿論の事、自分も危険な状態になるかもしれない。

 だが、負けるつもりはない。強大な力を持つ神々と戦う神殺しにとって、敗北は常に死を意味するからだ。4年前に拾った命を、棄てる気など有りはしない。

 北欧でも、ギリシアでも、咲月は明確な弱点が存在しない神と死闘を繰り広げ、その上で強大な力を持つ彼等から勝利をもぎ取って来たのだ。今度も勝利して、生を手に取って見せる。

 そう思った後、彼女は鞄を拾って学校へと踵を返した。爽やかな朝と言うには、酷く殺伐とした雰囲気だった。

 

 ●

 

 アテナとの遭遇を経て、咲月は学校に登校した。

 普段よりも一時間以上遅れてしまったので通学路の人通りはそれなりに多く、教師にも珍しがられたが、特に何も聞かれはしなかった。

 登校時間が普段よりも遅れてしまった以外は特に変わった事は無く、普段と同じ様に授業をこなして、昼休み。咲月は彼女としては非常に珍しく、誰も居ない屋上で一人弁当を食べていた。

 アテナとの遭遇で鞄を落としたので、中に入れていた弁当の中身は多少崩れ、見た目が若干悪くなってしまっていたが、味はそのままだったので特に問題は無かった。

 弁当を箸で突きつつ、咲月は空を見上げながら思考に耽る。考えるのは当然、今朝出会ってしまったアテナの事だ。

 あの女神は『蛇』を取り戻し、八人目を倒した後に咲月の前に現れると言っていた。だがその前に、一つ気になる事を言っていた。

 

(持ち去られた……確かに、そう言っていたわよね)

 

 思い浮かべるのはアテナの言葉。彼女は『蛇』の神具は、神殺しによって古き帝都から持ち去られたと、そう言っていた。

 

(何処で手に入れたのかと気になってはいたけど、まさか国外とはね)

 

 そう思うが、しかしアテナの出自や神話、信仰された地域等を考えれば妥当である。『まつろわぬ神』が地上に降臨・顕現する際は、その神と関係性が深い、或いは非常に似た神話や伝説がある場所に降臨する。アテナならギリシアのアテネ周辺、オーディンならスカンジナビア周辺の欧州一帯、イザナギ、或いはイザナミなら二人が最初に産み出した島であるとされる淡路島付近と言った具合に。例外はあるが、基本的には顕現する『まつろわぬ神』と縁ある地に彼等は降臨するのだ。

 あのアテナが降臨した、或いは目覚めた場所は、彼女の言葉である程度察する事が出来る。

 古き帝都。それが何処かは分からないが、アテナの伝説や神性等を考えるに、ほぼ間違いなく地中海沿岸域の何処か、或いはその近隣だろう。候補としてはイタリアのローマか、ギリシアのアテネか、それともメドゥーサを女神として崇めていた歴史を持つ、同じくギリシアのコリントスか……。他にも有るが、いずれにせよ、地中海近隣なのは間違いないだろう。

 アテナは非常に強大な神だ。直接対峙して、それがハッキリと分かった。流石は闇夜と闘争、叡智を担う太母神の一角と言うところか。大地の優しさと闇夜の恐怖、そして冬の厳しさを印象付ける呪力だった。アレでメドゥーサが欠けた不完全な状態等と、一体何の冗談か。

 神話を考えるに、彼女も武装を持っているだろう。槍か剣かは分からないが、彼女の代名詞とも言える有名な「アイギスの盾」は絶対に使って来るに違いない。さらに武装ではないが、従属神と言う形で女神ニケを呼び出す可能性もある。メドゥーサの神格を取り戻したら、石化の邪眼も使って来るか。考えれば考えるほど、あの女神の危険さと強大さが浮かんでくる。

 本当に、厄介な代物を持ち返って来てくれたものだ。内心で溜息を吐きつつ、咲月は食事を進める。

 

「ん……?」

 

 食事を終え、空を見ながら頭の中でアテナが使うだろう攻撃手段や武装を考察していると、声が聞こえた。年若い女子と男子の、二種類の声だ。やや離れているのでよく聞き取れないが、何かを言い争っているのか、聞こえてくる女子の声は荒い。

 何事か。そう思い、僅かに気になったのか咲月は物陰に身を潜め、僅かに顔だけ出して声の聞こえる方向を見る。

 視線の先にはやはり、一組の男女が居た。黒髪の男子と、茶色味の濃い髪を伸ばした女子だ。制服を着ている事から、この学校の生徒であると分かる。しかしそれ以前に、咲月は言い争っているように見える二人に見覚えがあった。

 黒髪の男子生徒は、国外から神具を持ち返って来た諸々の元凶である八人目の魔王その人。その魔王に物怖じせずに何かを息巻いて話す女子生徒は、成績優秀で美人と有名な高等部一年生で、旧華族と言う家柄を持つお嬢様。そして現在この学校で、最も咲月が警戒している存在。

 

(万里谷、祐理……)

 

 武蔵野の媛巫女の一人にして、その中でも上位に在る巫女だった。彼女はその手に黒い円形の何かを握りしめ、恐怖の権化である魔王に激しい口調で何かを言っているように見える。その黒い円形の何かが神具なのだろう。アテナと非常に近しい気配を感じる。

 彼女は最古の魔王の一人「暴君」ヴォバンに『まつろわぬ神』招来の儀に使われたトラウマがある筈だが、同じ魔王である筈の少年にはそんな様子を見せていない。寧ろ、何かを言われてタジタジしている少年に、さらに何かを言っている。

 対する少年は、万里谷祐理に何かを言われてタジタジだ。彼女の言葉が切れた時に言い訳の様な物をしようとしているが、すぐさま言い返されている。

 

(奥さんの尻に敷かれる、ダメ亭主みたいね……)

 

 二人の様子、特に八人目の魔王だろう少年を見て咲月はそう思った。

 おそらく万里谷祐理があの少年に言っている内容は、現在彼女がその手に握る神具についての事なのだろう。彼女は武蔵野を霊的に守護する媛巫女の一人であるので、禍神とも呼ばれる『まつろわぬ神』を呼び寄せる神具を持ち返った事を見過ごせないのだろう。

 日本呪術界にとっては非常に重要な事を言っているのだろうが、傍から見ればとてもそうは見えない。寧ろ恋人同士の喧嘩や、夫婦喧嘩の様に見えなくもない。妻優勢の夫婦喧嘩だが。

 

(……何と言うか、情けないわね。ホントに同朋なのかしら……?)

 

 少年の情けない姿に咲月は疑問を持つ。遠目に見た事のある魔王、ヴォバン侯爵や『黒王子』アレクはもっとこう、傲岸不遜とした態度をしていた筈だ。

 しかし、たとえ同朋でも自分にはどうでも良い事だ。自分がアテナと戦うのはあの少年が倒れた後。そう思い、咲月は二人に気付かれない様に気配を完全に消し、音も立てずに近くの扉から校舎内に戻って行った。

 

 ●

 

 咲月が屋上から二人に気付かれずに去って行った暫く後。

 彼女に情けない魔王と思われてしまった草薙護堂は学校を出て、万里谷祐理と共に七雄神社に言った後、街中を走っていた。理由は当然、自分が持ち返って来た神具、ゴルゴネイオンに関してだ。

 少し前に自分の愛人で騎士を自称するイタリアの少女に呼び出され、何の因果か彼女と決闘をし、その後預けられた良く分からない物だった。

 すぐにどう言う物か説明され、こんな危険な物を持って帰れる訳がないと抗議したのだが、色々と脅迫の様な事や泣き落しの様な事をされ、なし崩し的に持って帰ってしまった。

 流石にもう神や魔王とは戦いたくないので、何とか出来ないかと自分で出来る限りの破壊方法を徹底的に試してみたのだが、流石は神具と言うべきか、どう言う頑丈さをしているのか欠けさせる事はおろか、傷一つ付ける事が出来なかった。余りの出鱈目さに、頭痛すら感じた。

 どうするかと思いながら学校に登校したのだが、何故か面識がない筈の万里谷祐理に呼び出された。妹の静花曰く、美人で成績優秀。旧華族のお嬢様らしいのだが、そんな人が一般庶民の自分に一体何の用かと思った。

 呼び出されて人が居ない場所、屋上に向かったのだが、そこで怒りは自分一人にとか、色々と頓珍漢な事を言われた。カンピオーネだとばれている事に驚いたが、自分は暴君でも何でもないし、そんな趣味なんてない。イタリアのアホでも無ければ、話に聞いた他のダメ人間どもとも違うのだ。

 そう言って、どうにか妙な事を言うのは無くして貰ったのだが、その後が酷かった。一体どうやって知ったのか、自分が持ち返った神具の事に着いて言及された。それについて話したら、いきなり説教の様な物が始まった。この国を災厄に巻き込むつもりか、周囲への配慮が足りなさすぎる等、散々に言われた。

 色々と言い訳して、興奮冷めやらぬと言う感じの彼女にその場は何とか収めて貰って、その後この神社にやって来たのだが、何故かそこでイタリアに居る筈の自称愛人にして騎士の少女、エリカ・ブランデッリが来た。

 何故日本に居るのかを聞こうとしたが、嫌な予感がしてその事で聞いてみたら、見事にビンゴ。危惧していた『まつろわぬ神』が、持ち返った神具を求めてこの日本に来たらしい。エリカは、その神を追い掛けて来日したのだとか。

 その事で、やって来た神がどんな存在か情報を集める為、万里谷祐理に謝罪しつつ、霊視を頼んだのだが――。

 

「なんだって、よりにもよってアテナなんだよ!」

 

 心の底から叫ぶ。アテナと言えばペルセウスを始めとした多くの英雄に庇護を与えた、世界で知らない人は居ない程に有名な女神だ。そんな存在が、何故『まつろわぬ神』となってやって来るのか。

 この体になって以降、厄介事ばかりがやって来るのは気のせいか。

 

「そんな事は後で。今はアテナに会う事が先よ……こっち」

 

 護堂の叫びに短くそう返し、隣を走るエリカは彼の手を取って細い路地に入る。これで時間帯が夜だったらイヤらしい事を考える者達も居るだろうが、今は昼。さらに、そんな事をしている暇など無い。

 

「駆けよ、ヘルメスの長靴!」

 

 短く呪文を紡ぐ。それは空中すら足場にし、長距離を跳躍移動する飛翔の呪文。その言を唱え、エリカは護堂の手を取り共に跳び、二人はそれなりに高い建物の屋上に降りた。

 軽く周囲を見回し、エリカが懐から銀製の懐中時計を取り出し、鎖の部分を持って垂らす。するとそれは風も無いのにゆらゆらと揺れ、一つの方向を示した。

 

「こっちよ」

 

 言って、エリカはその方向に走りだし、護堂もまたその後に続く。ダウジングの様な物なのだろう、神の気配をその先から感じる。

 幾つかの建物の屋上を走り跳び、二人は駆ける。そして、ある程度進んだ建物の屋上で二人は止まった。アテナの――濃い神の気配がしたからだ。

 直後、空気が張り詰めた物に変わる。護堂の体にも、力が漲る。

 

「これは……」

「ようやく会えたな、『蛇』を奪いし神殺し。もう一人とも出会ったが、再会できて、妾は喜ばしく思う」

 

 少女の声を聞き、二人はその方向を向く。

 月の様な銀の髪と夜色の瞳を持つ美しい少女。『まつろわぬアテナ』が其処に居た。

 



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6話 賢者の動きと、前哨戦

 イギリス、首都ロンドン。

 行政区画や住宅区画等、様々な区画に細かく別たれたこの地の内、グリニッジと呼ばれる場所に英国魔術界の中心とも言える『賢人議会』本部は存在する。

 その区画のうち、住宅区画に在る高級住宅街。その中に在る一軒の屋敷。其処に、一人の女性が居た。

 波打つ長いプラチナに輝く髪の、浮世離れした雰囲気を持つ二十代半ばの美女だ。

 女性の名はアリス。アリス・ルイーズ・オブ・ナヴァ―ル。ゴドディン公爵家令嬢にして、『賢人議会』元議長であり現特別顧問、そして『天』の位を極めた魔女である、プリンセスとも呼ばれている女性だ。

 広い部屋の中、寝心地の良さそうな豪奢なベッドに横になり、上半身だけを起こしている彼女の手には、紙の束が存在している。あまり厚くはない、ほんの数枚程度の報告書だ。

 しかし彼女は、それを熱心に呼んでいる。

 

「……これは本当の事なの、ミス・エリクソン?」

 

 報告書を読み終え、アリスは側に立つ秘書であり、部下でもある女性に問いかけた。眼鏡をかけた、厳格な家庭教師をイメージさせる女性だ。

 名はパトリシア・エリクソン。厳格そうなイメージの通りに、実際に厳格な性格をしたアリスの部下である。

 

「正確に言えば、不明です。ですが、実際に出会ったと手記には書かれていました。その報告書にある通りでしたら、ゆゆしき事態かと」

「七人目のカンピオーネである日本の王、草薙護堂様。彼は、本当は七人目ではなく、八人目の魔王だった……」

 

 アリスの問いにそう答え、彼女もレポートを読む。そこに書かれているのは、とある老魔術師の記録、その抜粋についてだ。

 今より約3週間程前の事、欧州のとある場所で一人の老人が惨殺されると言う事件があった。この老人は『賢人議会』とも交友のあった魔術師であり、その死の理由を警察内部の魔術師が調べていた所、彼の手記らしき物を発見したのだ。ズタズタに切り裂かれ、さらに血で汚れていたそれを読む事は非常に難しかったが、書かれていた内容を復元し読んでみた所、それには彼女達魔術師にとって、驚愕の情報が記されていた。

 ――七人目の魔王とされている草薙護堂。しかし彼は実際には八人目であり、七人目の王は彼以前、現在より四年前に既に生まれていたという情報。

 七人目は女性であり、アジア系――東洋人だろうと言う事。そして老魔術師と出会った時点で既に、三つの権能を簒奪していたと言う事。手記が確かなら、どうも七人目の王は『鋼』の英雄神を倒して魔王となったらしい。

 記されていた情報から、三つの権能の内二つは推察できる。手記にも書かれている様に『魔槍』と『神託』だろう。その魔槍も、どのような神から簒奪したのかある程度は想像が付く。西の島と言う事から、おそらくケルト系だろう。ギリシアで簒奪したと言う神託も予想は付けられる。だが、最後の一つは分からない。

 賢人議会は、世界中に点在する王の情報を集めている。それは他の魔術結社でも同じだが、何時、何処で、誰が、どんな神格を倒し、どのような権能を簒奪したかなど多岐に渡り、その情報量は他の追随を許さない。

 流石に全ての情報を持っている訳ではないが、それでも多くの情報を持っている賢人議会が知り得なかった魔王の情報。おそらく他の結社は知らないだろう貴重な情報だ。

 もしかしたら、犬猿の仲である『王立工廠』の長である魔王は既に入手しているかもしれないが、それでも貴重な情報である事に変わりはない。

 

「私達の知らない、本当の七人目……誰なのか、早急に調べる必要があるわね。幸い、手がかりになる情報はあるのだし」

「……姫様、まさかとは思いますが、もしやまた、御自らその魔王を調べに出ようと言うのではありませんよね?」

 

 神妙なアリスの言葉に、エリクソンはやや冷たい声でそう問いかける。するとアリスはギクリと、僅かに体を強張らせた。どうもこのお嬢様は、自分で調べに出ようとしていたらしい。

 深窓の令嬢と言うような外見に似合わず、意外と活動的であるようだ。

 

「やはりそうですか! なりませんよ、あなたはこの世界で最も聖なる者と呼んで差し支えない御方! 唯でさえ忌々しい『あの男』としばしば接触していると言うのに、これ以上魔王共と関わる等、軽率にも程があります! あなたに何かあったらどうすると言うのです!」

「でもね、ミス・エリクソン。ただ報告を待っているだけでは分からない事も多く有ると思うの。だとしたら、自分の足で調べた方がいいと思わない?」

「なりません! たとえ姫様御自ら調べるとしても、東洋人と言う情報だけでどうやって見つけると言うのです! それは広大な砂漠の中で、一粒の小さな宝石を見つけようとするような物です!」

 

 アリスの言葉に噛みつくエリクソン。だが彼女の言っている事は正しい。

 東洋人と言うだけで、世界には何億人も居るのだ。魔王と言っても外見などは完全に人間のそれである。数億人の中で一人を見つけると言うのは、困難を通りこしてほぼ不可能だと言っても過言ではないだろう。

 一応見つける為の手段もない訳ではないが、効率的に問題があったり、探すべき存在がどんな神を殺しているか調べる必要がある。

 七人目がどんな神を弑したのか予想はつけられるが、確定した情報ではないのであまり意味はないだろう。

 アリスは、それでも何とか自分が出ようと思いエリクソンに言葉をかけるが、彼女は「ダメだ」の一点張りで引こうとしない。それは純粋に、アリスの身を案じての事だ。

 アリスの体は元々余り強くはない。寧ろ虚弱体質だ。その体は今より数年前に、とある理由からさらに弱くなっているのだ。そんな体で外を出歩くなど、とんでもない。

 アリスは幽体分離と言う術を得意としているので、それを使って外に出ると言う手段も有るが、それでもエリクソンは許可しない。肉体的に問題なくとも、逆に精神にダメージを受けやすくなるからだ。

 その後も色々と言い合い、結果、まずは賢人議会の組織員に調べて貰うと言う事になり、アリスが出るのは却下された。

 

 ●

 

 太陽が中天に上った蒼天の下、三人の男女が向かい合う。

 一人は黒髪黒眼の少年。世界に名だたる魔王カンピオーネの一人にして、最も若い神殺しである草薙護堂。

 一人は赤味がかった金の髪を長く伸ばし、大輪の薔薇の様な見る者全ての目を集める気品と優雅さ、そして美貌を持つ少女。イタリアの魔術結社『赤銅黒十字』の大騎士の位に在る魔術師にして、獅子の名を冠する魔剣を持つ騎士エリカ・ブランデッリ。

 そして最後の一人……いや、一柱と言うべきか。銀の髪と夜色の目を持ち、エリカに勝るとも劣らぬ美貌を持った、彼女よりも歳下に見える少女。しかしその存在感は彼女以上に有り、それどころかエリカにはない神々しさと畏怖を見る者に与える、隠しきれない程の絶対感を放つ存在。草薙護堂を含めた神殺したちの仇敵たる神の一柱、『まつろわぬアテナ』。

 二人と一柱は向かい合い、それぞれを見ている。

 

「アンタがアテナか……」

「然り。妾はアテナの名を所有する神である。神殺しよ、こうして再会でき、妾は喜ばしく思う」

「俺にとっては喜ばしくなんてないぞ。あんた達神は、いきなり現れては騒動を巻き起こすからな。平穏無事に暮らしたいこっちにとっちゃ、迷惑極まりない」

「闘争の申し子たる愚者と魔女の子らしからぬ発言だ。もう一人も同じ様な事を言っていたが、どうやらあなたは良識のある珍しい神殺しらしい」

 

 眼前に現れたアテナを見て護堂とエリカは警戒するように身構え、対するアテナは無表情で、神殺したる草薙護堂のみをその視界に収めて会話を交わす。彼の側に居るエリカには、アテナは僅かな視線も向けていない。

 エリカは魔術師たちの中でも上位に在るが、所詮は人間。神たる身の彼女にとっては、路端の石か雑草、或いは足元の蟻と同じ、取るに足りない存在なのだろう。

 しかしエリカは、アテナの発言に疑問を持った。

 

「もう一人……? 他にカンピオーネと会ったって事かしら?」

 

 アテナと護堂から少しずつ距離を取っていたエリカが、小さく疑問を口に出す。

 現在世界に存在している神殺しは、エリカの知る限りこの場に居る草薙護堂を含めて七人のみ。護堂に神具を渡したイタリアにも「剣の王」と呼ばれる魔王サルバトーレ・ドニが居るが、彼は南方の島で療養と言う名のバカンスの筈だ。出会う可能性はないとは言わないが、可能性は低いと思う。

 イタリアと日本の他に王が居るのはアメリカと中国、エジプト、バルカン、イギリスだが、アメリカの王は「蝿の王」と言う名の邪術師集団と戦っていて国内から出ていないだろうし、中国の王は自分の気が向くか、目的がなければ戦う事はないと言う噂だ。エジプトの王に至っては百年に渡る隠棲の真最中で、会う可能性はとても低いだろう。

 であれば、会う可能性があるのはフットワークの軽い王。バルカンの魔王ヴォバン侯爵だが、闘争を心の底から楽しむヴォバンなら、何を以てしても出会った神を倒すだろう。

 もう一人、イギリスの黒王子アレクもフットワークは軽いが、逆に軽過ぎて、神具を求めて東へと真直ぐに向かって来たアテナと会う可能性は低いだろう。彼の王はコーンウォールに拠点を置いているが、文字通り世界中を回っており、ある意味ではヴォバン以上にフットワークが軽いのだから。

 なら、アテナの言ったもう一人とは誰の事だ? 他の六人の誰かと戦い、打ち下して日本に来た可能性も考えたが、そうなればすぐにその情報が飛び交う筈だ。しかしそんな情報は噂でさえも聞いた覚えがない。

 そこまで考え、最も低いだろう可能性へと行きついた。もしや自分の知らない「八人目」の魔王が生まれており、目の前の女神と会っているのか? だとしたら、その王はどうなったのだろうか。死んだのか、それとも逃げて生きているのか。

 もしかしたら、アテナが眠りに着く以前に存在した神殺しの事かも知れないが、気になったエリカは、やや距離を取ってからアテナに問いかけた。

 

「女神アテナ、草薙護堂の騎士エリカ・ブランデッリが、不敬を承知で御身にお伺いしたく存じます。御身が仰いました「もう一人」と言うのは、もしや八人目の神殺しでは……?」

「名を聞こうか、『蛇』を奪いし神殺し。これより『蛇』を賭けて戦う我等なれば、名を知らずに戦う訳にもいくまい」

 

 エリカが謙った態度でアテナに問う。それを聞いて護堂は驚いた様子を見せたが、それも仕方ないだろう。神殺しとなるには、神を殺さねばならないのだ。どんな試練よりも困難極まるそれは、偶然や運だけでは決して為し得ない。

 エリカの言葉を聞いた護堂もアテナを見るが、しかし彼女は、エリカの言葉等耳に届いていないかのように護堂に語りかける。その態度に、護堂は失礼な奴だと思った。

 

「さっきエリカが言ったけど、俺は草薙護堂。それより、あんまり人を無視するな。エリカも名乗ってるのに、失礼だぞ」

「草薙護堂……異邦の男らしき、耳慣れぬ名だ。が、覚えておこう」

 

 アテナの態度に対して文句を言うが、彼女は変わらずエリカの事など気にかけていない。神殺したる護堂の名はともかく、彼女の名を覚える気は無い様だ。

 失礼な神だ。心が反発する。

 

「改めて名乗ろう。妾はアテナ、知恵と闘争を担う女神なり。そして、重ねて問おう、草薙護堂。魔術師どもに請われ、あなたが古き帝都より持ち去った古の『蛇』。あなたは所持していないようだが、ゴルゴネイオンは何処に在る?」

「あんたな、渡したら危険なものだって分かってるのに、そう簡単に教えると思うのか?」

 

 アテナの問いに、護堂は呆れた様に問い返す。

 唯でさえ強大なアテナをさらに強くする神具だ。教える訳にはいかない。

 

「思わぬよ。が、まずは問うておこうと思ったのだよ。あの女は危険だったが、あなたはどちらかと言えば厄介そうなのでな」

「あの女? もしかしてそいつが、エリカが言った八人目なのか?」

「八人目……それはあなたではないのか、草薙護堂」

「何?」

 

 護堂の言葉にそう返すアテナに、護堂は問い返す。

 そんな護堂の様子に興味を抱いた風でも無く、アテナは無表情で、淡々と口にした。

 

「あなたが八人目ではないのかと言った。見た所、あなたが簒奪した権能は少なく、あまり戦い慣れもしていないようだ。だがあの女は、あなたよりも多くの権能を簒奪し、戦い慣れてもいる。となれば、あなたよりも先に魔王となったと見るが自然であろう」

「護堂よりも前に、七人目のカンピオーネが……?」

 

 アテナの言葉に、エリカが驚きを多分に含んだ声で呟く。当然だろう。七人目と思っていた護堂が実は八人目で、本当の七人目は既に他に生まれていたと言うのだから。それは護堂も同じのようだ。

 だが、それだと不思議な事がある。本当に七人目が生まれていたのなら、何故その情報が流れなかったのか。

 情報が漏れない様に徹底した行動を取っていたのか、それとも気付かれない様に行動していたのか。

 

「だがまあ、あなたがあの女の事を知る必要はないだろう。許せ」

「え……なっ!?」

「我が求めるは古の『蛇』、ゴルゴネイオン。それを妾から遠ざけるのは、如何な者で在れ妾の敵だ。……暗き冥府の底にて、永遠の眠りに就くがいい」

 

 アテナの言葉に護堂は驚き、声を上げる。先程まで目の前に音も立てずに立っていたアテナが、いつの間にか護堂の眼前数cmの地点に居た。

 その事に驚き、硬直する。そんな護堂の様子に眉一つ動かさず、アテナは両手を上げ、護堂の首に回し、その唇を彼の唇に押し付けた。

 いきなりのアテナの行動に護堂は目を見開き、離そうとする。しかし直後、彼の体が強張った。アテナの唇の柔らかさの他に、体の中に吹きこまれる何かを感じ取ったからだ。

 

「思考に耽り、敵たる妾の存在を忘れる。戦人としては未熟に過ぎるな、草薙護堂。騙し討ちも不意討ちも、古の戦の作法の一つなれば」

「あ……く……これ、は……」

「ほう、妾の死の言霊を直接体内に吹きこまれ、まだ息があるか。流石は神殺しの魔王よな。呆れるほどの生命力よ」

 

 ぐしゃりと膝を地面に着き呼吸を荒げる護堂に、変わらず淡々とした様子でアテナは言葉を投げる。

 魔王たるカンピオーネは、自身に掛けられる魔術や呪術に対して、究極的なまでに高い抵抗力を持っている。それは意識してコントロール出来る物ではなく攻撃どころか、治療系の術すら弾く無差別性を持っている。術に対しては、絶対の防御を持っていると言っても良い。

 だが、そんなカンピオーネに術をかける方法が、一つだけある。それは体内に直接術を吹き込む事だ。外界からの術には絶対の耐性を持つと言って過言でない彼らだが、唯一体内に吹きこまれた物を無効化する事は出来ないのだ。

 アテナが護堂に吹きこんだのは、「死」そのものを込めた言霊だ。これが外からかけられた物なら、カンピオーネの特性もあって護堂には効かなかっただろう。

 しかし今回は直接体内に吹きこまれた。内側から蝕むその呪詛を防ぐ事は、如何にカンピオーネとは言え、出来はしない。

 このままでは死ぬ。薄れゆく意識でそう思った護堂は、争っているらしいアテナとエリカの声を小さく耳に聞きながら、自身の権能の一つを発動し、意識を失った。

 



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7話 戦場へ向かって

 

 草薙護堂とアテナ。魔王と女神の前哨戦は、女神の勝利で一先ずの幕を下ろした。

 濃厚な「死」の呪力を孕んだ言霊を体内に直接吹き込まれた護堂は倒れ、その命を落とした筈だ、とアテナは思っていた。確実に殺したと言う確証がないのは、彼から感じた不可思議な感覚が原因だ。

 アテナが見た所、草薙護堂が倒した神はおそらく、彼が神殺しとなった最初の一柱のみ。にもかかわらず、彼からは複数の能力がある様な、そんな奇妙な感覚を感じていた。

 不意討ちとは言え、斃した草薙護堂。「死」の呪力をふんだんに孕んだ言霊を体内に直接流し込まれては、如何に強い生命力を持つ魔王でも生存は絶望的だろう。だがアテナは、そのまま放っておけば何か、非常に厄介な事になると、そんな予感を斃した筈の草薙護堂から感じた。

 アテナは知恵と闘争の女神である。戦を担う為に、こと戦闘に関係する事柄に対する彼女の直感は非常に鋭い。

 直感に従い、アテナはさらに追撃を加えようとした。具体的に言えば、彼の亡骸を八つ裂きにし、この地上から抹消するつもりだった。

 だが、それをする事は叶わなかった。邪魔されたからだ。彼の傍に居た、プロメテウスの継子であり、ヘルメスの弟子でもある娘に。

 草薙護堂に仕える騎士だと自称した娘――エリカは主の骸を守護する為に、不遜にも神たるアテナに刃を向けて来た。確かにあの娘は、ヘルメスの弟子の中でもそれなりに力ある存在だったのだろう。だが、それだけだ。

 魔術師とは言え、所詮は人間。神殺しでない身の人間が、神々を弑する事などほぼ不可能だ。

 特に魔術師に神を殺す事は非常に難しい。その原因は、世界の神秘に携わる彼等彼女等が最初に、神々の強大さを深く学ぶ事にある。神々の強さ、脅威をまず学ぶ為に、「魔術師は神には勝てない」と言う考えが思考の底に根ざしてしまうからだ。

 実際、人と神との差は単純な武力でも、身に宿す呪力でも天地を隔てる程にある。奇跡でも起きない限り、絶対とも言えるその差を覆す事は出来ない。

 彼女も当然、それは理解していただろう。しかしエリカは、持っていた剣を槍へと変形させ、さらに神をも傷付けるロンギヌスと、竜殺しの聖者ゲオルギウスの呪詛をかけてアテナに攻撃した。

 アテナは蛇であり、梟であり、同時に竜でもある。神の子を刺したロンギヌスの呪詛は神を傷付けることを可能とし、竜殺しの聖者ゲオルギウスの呪詛は竜蛇の属性を持つ存在に強い攻撃性を得る。

 事実、その呪詛を掛けられた魔剣(クオレ・ディ・レオ―ネ)による攻撃は蛇の女神たるアテナに、一筋とはいえ傷を付け、血を流させる事に成功した。

 それがアテナの興味を引き、エリカは初めて、「魔王に付き従う魔術師の一人」と言う一括りの存在から「神を傷付けた魔術師」へと認識を改められ、個人として見られた。

 神にとって人間など、足元の虫も同じ存在である。気に入れば庇護を与えたりするが、それだけだ。人間が虫に意識を向ける事をしないのと同じである。

 視界には入るが理解はせず、意識して視界に入れる事もしない。神々にとって、人間に対してその様な事をする事は恥ずべき行為に当たるからだ。

 エリカはそんな、神からしてみれば恥ずべき行為を最上位の女神たるアテナに行わせた。魔術師としては快挙と言っても良いだろう。魔術師もまた人間。神々や魔王にしてみれば、路端に転がる小石や虫と同じ、非力な存在なのだから。

 だが、興味を引くと言う事は、別の意味では危険な事でもある。ある意味で、獲物と見做される事でもあるからだ。

 獲物と見做されて為される事は、主に二つある。即ち、「庇護を与え、愛おしむべき存在」と見做されるか、「何を以てしても抹殺すべき不遜な輩」と見做されるか、だ。前者ならともかく、後者であれば即座に地上から存在そのものを抹消されてしまう。

 幸いと言うべきか、エリカは前者、庇護を与えるべき存在かどうかと言う興味をアテナから引いた。実際、「神殺しに忠義立てしていなければ、愛子として格別の加護を与えていた」とアテナは言ったのだ。彼女の中で、エリカの株はかなり引き上げられたのだろう。

 しかしエリカは草薙護堂に忠誠を誓う騎士であり、魔術師である。アテナの言葉は非常に魅力的ではあったが、騎士は主を変えはしない。主である存在を守る為なら、騎士は己の死さえ厭わないのだ。

 とは言え、やはり神と人。力の差は絶望的な程にある。エリカは若干16歳にして大騎士の地位を得てはいるが、神や魔王には遠く及ばない。単純に戦えば、待ちうける未来は「死」だけだ。

 だからこそか、エリカはアテナを相手に倒そうとはせず、護堂の亡骸を連れて逃げられるように戦い、見事逃げおおせた。

 魔王と、自分を傷付けたその従者。二人に逃げられてしまったアテナは、しかし追う事はせず、最初の目的に戻った。即ち、神具ゴルゴネイオンの捜索・奪還である。

 別たれた存在である為、ある程度の場所は分かっている。現在アテナが居る場所よりも西に、その気配を感じる。

 逃した二人の事は意識の外へと追いやり、アテナは空を滑る様に移動しながら、真直ぐに自身を呼ぶ半身の元へと向かった。

 アテナは思う。一応とは言え、蛇を奪い去った魔王は斃した。妙な予感はするが、今は置いておくとしよう。

 残るは後一人、この国で草薙護堂と出会う前に見えた、もう一人の『鋼』の魔王だ。草薙護堂以上に魔王然としたあの女と戦うには、未だ完全なまつろわぬ身にあらざるこの身では荷が重い。早々に、三位一体を取り戻さねばなるまい。

 

「我が求むるはゴルゴネイオン。古の蛇。我が半身を奪還し、妾は旧き古のアテナへと立ち戻らん!」

 

 禍々しい闇の呪力を撒き散らし、何羽もの梟を召喚しながら、アテナは真直ぐに西に向かう。己を呼ぶ半身――『蛇』を目指して。

 

 ●

 

 ――雄羊。単純に羊とも呼ばれ、黄道十二星座の牡羊座、日本では干支十二支の一つにも数えられる動物である。

 この動物の歴史は古く、肉、乳、脂肪、毛皮を利用する為に、紀元前7000年頃の古代メソポタミアの時代から家畜として飼育されていたと言う。

 この動物は繁殖力に優れ、豚や牛に並んでしばしば豊穣の象徴として見られ、世界各地のあらゆる神話で、神々への供物として捧げられる聖なる動物でもあり、王権にも深く関わる。古代世界において、家畜の数量は富貴へと直結するからだ。

 羊に関する有名な逸話は、ギリシア神話の物語の一つ、アルゴナウタイの主人公イアソンが求めた、コルキスの金羊毛皮だろう。他にも、聖書では唯一神ヤハウェを羊飼いに、民衆を羊となぞらえている。キリスト教でも、死した後に復活した神の子イエスが、神への供物である羊の役割を担っている。

 また、この聖獣は神の化身として神話に登場する事もある。

 ウルスラグナ。古代ペルシアで崇拝された英雄神にして、十の化身を持つ光の軍神。その名は「勝利」を意味し、「障害を打ち破る者」とも呼ばれる。ゾロアスター教では中級の善神ヤザタに区分される、光の神ミスラを先導する戦場の神だ。アテナに死の言霊を吹き込まれ斃された草薙護堂は、この神を弑し、化身の権能を簒奪してカンピオーネとなった。

 ウルスラグナの化身は、前述したように十個有る。即ち強風、黄金の角を持つ雄牛、黄金の飾りを付けた白馬、駱駝、鋭い牙を持つ猪、輝ける少年、大鴉、美しい雄羊、鋭い角を持つ雄鹿、そして黄金の剣を持つ戦士。大鴉は巨鳥と、鋭い角を持つ雄鹿は山羊ともされる。

 これらの化身は、制限があるもののそれぞれが特殊かつ強大な力を持つ。強風は転移、雄牛は豪力、白馬は炎と様々だが、こと出鱈目さにおいては雄羊が群を抜いていると言えよう。

 先も記したが、繁殖力に優れる羊は豊穣の象徴だ。そして、繁殖力に優れると言う事は、死をものともしない強い生命力を持つと言う風にも見て取れる。その生命力こそが雄羊の力である。

 ウルスラグナ第八の化身『雄羊』。その能力は驚異的な回復力を持つカンピオーネの体質すら超える異常なまでの回復能力……否、蘇生能力であり、発動すれば即死でない限り、たとえ死しても時間をおいて完全復活すると言う驚異の能力である。発動するには自身が瀕死でなければならないと言う制限を持つが、十の化身の中でも取分けて出鱈目な能力だ。

 死した後に復活する蘇生の力を、草薙護堂は意識を失う直前に使っていた。

 

 ●

 

 闇の底から意識が浮上する。自分の意識が徐々に鮮明になっていくのを護堂は感じていた。

 死んだと思った直前に使った『雄羊』の化身は、今回もちゃんと発動してくれたらしい。死んでも復活すると言う、人間離れしているにも程がある出鱈目な能力である為、出来る事なら使いたくはないのだが。

 意識がハッキリとし始める。どうやら自分は横になっているらしい。体中に感じる堅い感覚から、おそらくはベンチか何かなのだろう。唯一点、頭だけ何か柔らかい物の上にあると言うのは気になるが。

 その思考を流し去り、目を開く。まず視界に入って来たのは、自分の愛人を自称する騎士であり、魔術師でもある少女――エリカの顔だった。死んだ自分の体を運んで、復活するまで看ていてくれたらしい。頭に感じる柔らかいものは、彼女の膝枕の様だ。

 見上げる彼女の髪は夕陽に照らされ、燃えるように赤く輝き美しい。エリカの髪は赤味がかった金髪だが、真実燃える黄金の様だ。

 何だったろうか、何処かの神話や伝説にも似たような表現の何かがあった気がする。

 

「やっと起きたわね。気分はどう?」

 

 輝く髪を見てそんな事を考えていると、エリカが顔を見てそう聞いて来た。何やら頭がむずむずむずとくすぐったいが、どうもエリカに撫でられているらしい。

 気恥かしいものがあるが、護堂はエリカにまず聞いた。

 

「……俺、どのくらい死んでたんだ?」

「大体二時間半と言ったところね。タイム更新おめでとう、と言うべきかしら?」

 

 護堂の問いに、優しくもからかうような口調でエリカはそう返す。だが、そう言われても嬉しくはない。

 

「やめてくれ、こんな記録更新してもちっとも嬉しくない。寧ろ逆に、増えて欲しい位だ」

 

 憮然とした口調でエリカの言葉にそう返す。

 一日一度限定とはいえ、死ぬはずの命を拾う事が出来ると言う点ではありがたいのだが、この化身の力を使う度に――『雄羊』を発動したのは、確かこれで4度目だ――復活するまでの時間が縮んでいる事は知っていた。少しずつとは言え確実に縮まっていくそれを知る度に、自分がどんどんと一般人と言うカテゴリから外れて行く事を確認しているようでいて、護堂はその事が嫌だった。

 こんな能力、欲しかった訳じゃない。運、奇跡、そう言った様々な要素が絡み合った結果の果てに神に勝利し、権能を簒奪してからずっと、護堂はそう思っていた。

 

「まあ、これ以上短縮はされないと思うわよ。数字も、少しずつ縮まり具合が緩やかになっているし」

「だと良いんだがな……」

 

 言いつつ、護堂は身を起こす。

 既に神を殺し、化生してしまった身にとっては今更な事でもあるが、出来る事なら、他の奴に神を倒して欲しかった、と言うのが護堂の思いだ。それを口にすれば、エリカに「もっと自分に誇りを持て」と言われるだろうから言わないが。

 そんな事を思いながら、ふと思い出す。自分に対してあの女神が言った、ある言葉だ。

 ――八人目。確かにそう言った。

 

「エリカ、アテナは俺の事を八人目って言ってたよな。どう言う事だ? カンピオーネは、俺を含めても七人しか居ないんじゃなかったのか?」

 

 護堂の疑問に、エリカは顔を引き締める。それは彼女にとっても気にかかっていた事だからだ。

 現在、世界に確認されている魔王は草薙護堂を含めて七人のみの筈。それは賢人議会や、他の魔術結社が確認した揺ぎ無い事実の筈だ。

 しかしアテナは、護堂の事を八人目と言った。しかも真の七人目とされる魔王とは、どうも顔見知りらしい。

 

「その筈だったんだけど、分からないわ。そんな情報、私も初めて耳にしたもの。実際に七人目とされる方が居るとしても、どのような方なのか見当もつかないわ」

 

 エリカは護堂の問いにそう返す。

 アテナが「あの女」と言っていた事から、七人目が女性と言う事は察せられる。所有する権能の数も、護堂より多いらしい。

 だが、得られた情報はそれだけだ。どのような能力の権能を持っているのか、何時、何処で神殺しとなったのか、何処に住んでいるのか、全てが謎である。

 本当に居るのかと疑問にも思ったが、アテナ程の神格の言葉だ。偽りを口にするとは思えない。

 

「七人目か……そいつが居るんだったら、アテナと戦って貰いたいものだけど……」

「馬鹿を言わないで。居るか居ないか分からない存在を頼るなんて、愚か者のする事よ。居たとしても、この国に居ないんじゃ意味がないわ」

「そうなるよなぁ……やっぱり、俺が戦うしかないのか……」

 

 ぼやく護堂にそう言うが、エリカも七人目の事は知る必要があると考えていた。

 この件が終わったら、早急に調べる必要がある。場合によっては賢人議会にも報告し、協力を仰ぐ必要があるか。エリカはそう思った。

 

「何にせよ、まずはアテナを何とかする必要があるわ。七人目に関しては、その後で調べましょう。……で、護堂。それを踏まえて考えて、そろそろ『剣』が必要なんじゃないかしら? ゴルゴネイオンがあの子から奪われるのはもう明らかよ。不完全な状態でも不覚を取ったのに、完全な状態のアテナに今の状態で勝てると思う?」

 

 そんな事を考えながらエリカが護堂に問いかけると、護堂は一瞬身を強張らせた。

 が、すぐに緊張を解き、考え始める。エリカが言った様に、おそらくゴルゴネイオンを奪われるのは確定だろう。だとしたら、自分も切り札の一つを用意しておく必要がある。

 

「そう、だな。戦うかどうかはその場の判断で変えるとしても、こっちも準備する必要があるよな……」

 

 護堂はそう言うが、アテナと戦う事はもう明らかだろう。

 この男は、普段は文明人や平和主義などと嘯いているが、一度でも戦うと決めたら、どのような手段を取ってでも相手を潰す為に動くのだから。

 他の魔王を批判する事があるこの男も、結局は同類の魔王なのだ。

 

「じゃあ、言うべき事があるんじゃない? さ、言ってみて? 情熱的に、それでいて愛を囁く様に」

 

 しかしエリカにそう言われ、護堂は噴き出しそうになる。この非常時に、この少女は一体何を言っているのか。

 いや、言いたい事は理解できる。自分の切り札である『黄金の剣』を使えるようにする為に、護堂からその許可たる言葉を引き出そうと言うのだ。そしてこの少女の性格を考え、頼んだ後に何をされるかは大体予想が付く。

 

「……わかった。アテナに関する知識を全部教えてくれ。口頭で」

「無理ね。アテナに関する知識はギリシアどころか北アフリカにも及ぶわ。全部を語るには、とても一日二日じゃ足りない。口頭で教えている間に、東京が闇の底に沈んでしまうわ」

 

 一応の予防線を張ったが、あっさりと破られてしまった。その事に文句を言いたくもなるが、神の知識に関してエリカは嘘を言う事はしない。口で語った場合、彼女が言った様に恐ろしく時間がかかるのだろう。すぐにでもアテナと再び戦う可能性があると言うのに、そんなに時間を賭ける事は出来ない

 結局こうなってしまうのか。そう思いながら護堂はエリカに頼み、二人はその顔を近付けた。

 

 ●

 

 アテナが『蛇』を目指して進み、護堂がエリカと魔術的な儀式を行っている時、咲月は家の庭に面した縁側で、膝の上にマーナを乗せて、滑らかな灰白色の毛並みを撫でていた。その眼差しは柔らかく、まだ18歳の乙女で在りながら何処か母性を感じさせる。撫でられているマーナも、気持ち良さそうに目を閉じている。

 護堂達が学校から出た後、咲月もまた学校を出て一直線に家へと戻っていた。勿論、アテナとの戦いに備える為だ。

 制服を脱ぎ、動き易さを重視した服装に着替えただけで、彼女の戦闘準備は素早く完了した。防御力と言う点で見るには非常に頼りない装備だが、神々の攻撃に既存の防御は殆ど意味がないので、そこは仕方ない。

 一応、簡単な魔術で防御力を底上げしてはいるが、期待は薄い。最強の女神であるアテナの攻撃に、一度耐えられればいい方だろう。

 術が苦手と言う事はないが、どちらかと言えば、やはり「武」の方が咲月は得意なのだ。それは槍を学んでいたからと言う事も有るが、クー・フーリンを殺した事にも関係があるのかもしれない。

 クー・フーリンは狂乱の伝承を持つ英雄だ。咲月が簒奪したのは魔槍の権能だが、精神面にその狂乱の伝承の影響が出ているのかもしれない。権能を簒奪して精神面に影響が出るのかは不明だが。

 そう思いながらマーナの毛並みを撫でていて、ふとその手を止めた。膝の上のマーナがいつの間にかある方向を向き、唸り声を上げていたからだ。視線を追うと、家から北東の方向を向いている。

 

「……そう、もう来たのね」

 

 呟き、その方向の空を見る。それは咲月が警戒している相手、万里谷祐理が巫女として勤めている七雄神社が在る方向だ。

 燃える夕陽の光しか見えないが、その光は赤であり、同時に黒にも見えた……闇の呪力の影響だ。距離がある為に僅かにしか感じ取れないが、アテナは一直線に七雄神社の方向へと向かっているようだ。どうもアテナの探している神具は、八人目の手から万里谷祐理の手に渡ったらしい。

 万里谷祐理が何をする気か知らないが、神から神具を隠し通せるとは思えない。東京から逃げたとしても、アテナは何処までも追って行くだろう。ならば、アテナに奪い返される事は最早明らか。

 

「行きましょう、マーナ。降りかかる火の粉を払う為に」

 

 真直ぐに、何の障害も無い様に進んでいる事から、アテナは既に八人目を倒してしまったのだろう。神殺しになってまだ日が浅いだろうあの少年に最強の女神の相手は、流石に荷が重かったか。

 『蛇』を奪還した後、アテナは自分と戦う為に来ると宣言した。神と神殺しの戦いは、ハッキリ言って「凄まじい」の一言に尽きる。巨大な建築物ですら、10分も有れば破壊しつくしてしまえるのだ。

 ここは亡き父母と暮らした場所だ。住む場所を失うと言う事を回避する為でもあるが、何より大切な場所を壊したくはない。

 そう思い、咲月はマーナを抱きかかえ、周囲に余り建造物のない何処か開けた場所に移動する事にした。

 さしあたっては、何処かの港か海岸辺りが良い。戦場になるだろう場所の候補を頭に浮かべつつ、咲月は海岸へと進んで行った。

 



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8話 梟の女神、魔槍の戦姫

 

「辺り一面、闇一色。光っているのは星と、月だけですか……やれやれ、本当にとんでもないですねえ……」

 

 車の中で、周囲を見た甘粕が誰に言うでもなくそう言う。

 彼が言った様に、町からはありとあらゆる明かりが消え、黒一色……夜の闇に沈んでいた。アテナの呪力による影響だった。

 ゴルゴネイオンを求め、闇の呪力を放出した彼の女神の影響で、街からは人工の明かりが全て消え去った。しかもそれだけでなく、それは電灯だけでなく、電車や自動車と言った交通機関の動力さえも止めてしまった。

 

「光の一切が消えてしまったと言う事は、『闇』の神格を持っている神ですか。それも非常に強力な『闇』ですな。街灯どころか車のエンジンすら止めてしまうとは、流石神様と言うべきですかねえ」

「不謹慎ですよ、甘粕さん。もう少し真面目になさってください」

 

 止まってしまった車内、運転席でのんびりとした口調でそう言う甘粕に、助手席に座っていた祐理が注意する。

 万里谷祐理と甘粕冬馬。この二人が一緒に居る理由は、甘粕が『まつろわぬ神』の存在を確認し、どう言った存在なのか祐理に霊視して貰う為だった。しかし現地に向かう途中で、突如停車。一瞬後には、周辺の一体から全ての明かりが消え失せた。

 周囲には甘粕の車と同じ様に、突如停止してしまった車が大量に存在していた。その周辺には車に乗っていただろう大勢の一般人が、原因不明の停車と暗黒に喚き散らしている。それは恐怖に因るものだ。

 遥か古の時代、一寸先すら見る事の適わない闇夜は冥府の具現ともされ、全ての人々に恐れられた。人間が闇夜を恐れる事が無くなったのは電気をエネルギー源とし、長い時間光を生み出し闇夜を切り裂く電球と言う物が生まれたここ百年前後の事。それが生まれる前にあったのは短時間、しかも狭い範囲しか照らし出さない松明等だけだったのだ。

 冷たく暗い、深淵の闇。古代の人間が心より恐れた、僅かな先さえ見る事の適わぬ闇の再現だ。光が燦然と輝き、暗闇の一切を照らしだす現代の人間にとって、どれほど恐ろしいだろうか。

 

「こうも動かないんじゃ、車は意味を為しませんね。……車を捨てましょう、祐理さん。歩いた方が早い」

 

 そう言って、甘粕は車から出た。どれだけの時間待っても、1mmすら進まないのだ。距離を稼ぐ為なら、エンジンの復活を待つより徒歩の方がいいだろう。

 車を乗り捨てて行く事に祐理はやや躊躇していたが、このままじっとしていても何も出来ず、アテナにゴルゴネイオンを奪い返されるのがオチだと言う事に思い至ったのだろう。逡巡しつつも、甘粕に続いて車を降り、暗黒の中を手探りで七雄神社に向かって進んで行った。ゴルゴネイオンは現在、七雄神社に在るのだ。

 

 数十分後、二人は無事に七雄神社に到着していた。思ったよりも早くにアテナの「闇の領域」を抜ける事が出来たのだ。

 現在、二人は離れている。祐理はゴルゴネイオンを持ち出す為に神社に入り、甘粕は護堂達と電話をしているのだ。車のエンジンは止める癖に、携帯の電源が動くとは良く分からない領域だ。単純に、この神社がまだ領域に入っていないだけなのかもしれないが。

 

「そうですか。分かりました、伝えておきましょう」

『お願いします。それと……』

「ええ、事が済んだ後に調べておきましょう。その、本当の七人目の王の事も」

 

 護堂達との会話を終え、電話の電源を切ると甘粕は溜息を吐いた。

 理由は護堂達から齎された情報である。草薙護堂は八人目の王で、七人目の魔王は別に居ると言う。それが何処に居るのかは分からないが。

 生まれ難い筈の魔王が、そうポンポンと生まれていいのか。内心で甘粕はそう思った。

 草薙護堂が一度死んだと言う事にも驚いたが、復活しているのはそう言う権能があるのだろうと思う事にした。ウルスラグナの権能の中で蘇生に該当しそうなものは、『雄羊』か。

 

「お待たせしました、甘粕さん」

 

 そんな事を考えていると、祐理が社務所から出て来た。その手には布で包まれた何か――ゴルゴネイオンがある。

 

「いえいえ、それほど待ってはいませんよ。ああ、草薙さんから伝言があります」

「伝言……ですか?」

「ええ。『危険になったら名前を呼んでくれ』だそうです。いやはや、お二人はもうそこまで仲がよろしくなったんですねえ」

「そ、そんな事はありません! 確かに、あの人と話すと不思議と心が解れる感じはしますが、甘粕さんが思っている様な関係には……って、何を言わせるんですか!」

「まあまあ、落ちついて下さい」

 

 からかうような甘粕の言葉に、祐理が混乱した様な口調でそう返す。必死に否定しているが、余りに必死なその様子は逆に肯定している様な物である。

 そんな祐理を甘粕は落ち着かせる。自分で混乱させておきながら、中々良い性格をしているようだ。

 

「しかし、名前を呼べとは、一体どう言う事なんでしょうか?」

「まあ、おそらく草薙さんの権能の一つなのでしょう。ウルスラグナ第一の化身『強風』、ですかね? 彼の軍神の力で、移動に関するのはそれと鳥くらいしか思いつかないんですが……それが、件の神具で?」

「……はい」

 

 甘粕の問いに、祐理は布を僅かに開く。艶やかな漆黒の、蛇の図柄を持ったメダルが目に入る。

 それからは、非常に濃厚な闇と大地の呪力を感じた……アテナとの距離が縮まり、その存在感が強まっているのだ。微かだったはずのその気配も、強いものになっている。

 

「蛇の神具ですか、また厄介そうな代物ですねえ。しかも、感じるこの呪力……」

「はい、もう時間が……っ!?」

 

 アテナが来るまで、もう時間が無い。祐理がそう言いかけた途端、神社全域が闇に閉ざされ、凄まじい悪寒が二人の背筋を駆け抜けた。

 それは言うなれば、獅子に睨まれた兎の心境か。蛇に睨まれた蛙の心境か。絶対的な力の差、逃れる事の出来ない状況にあって初めて感じるだろうその感覚。

 濃厚な呪力と、強大な存在感。視線を感じ、二人は神社の入口へと顔を向けた。

 

「古の蛇……ようやく見つけた」

 

 暗黒の中、薄らと浮かび上がっている鳥居の下。そこに銀の髪を持つ、幼き容姿の女神が立っていた。その視線は、祐理の持つ布の中――ゴルゴネイオンを真直ぐに捉えている。

 女神アテナ。闘神にして叡智の神、そして最強の地母神たる存在がそこに居た。

 

「まずは非礼を侘びておこうか、名も知らぬ、異邦の神に仕える巫女よ。そなたの持つ『蛇』の証、妾に渡してもらいたい」

 

 その声は、月の光の様に静かな声音だった。神聖かつ涼やかな、真実鈴が鳴る様に美しい声音。

 しかし、さくらんぼの様に可憐な唇から放たれたその言葉には、拒否を許さない意思が強く込められていた。その言葉を聞き、祐理も甘粕も、思わず跪いてしまいそうになる。

 アテナは、ギリシアはおろか全世界で知らぬ者は居ない、非常に有名な神だ。数多の英雄達に庇護を与えた強大な神だと思ってはいたが、まさかこれ程とは思わなかった。

 見られただけで、心がへし折られそうになる。

 声を聞くだけで、跪き、許しを請おうとしてしまう。

 それを必死の意志で何とか堪え、隣を見ると、甘粕も祐理と同じ様な状態になっていた。どうにか堪えている様だが、行動を起こす事は不可能に近いだろう。

 そんな二人の様子など気にも留めず、無造作に、アテナは右手を祐理へと伸ばした。瞬間、祐理の手にあったゴルゴネイオンが彼女の手から飛び出し、アテナに向かって一直線に飛んで行った。止めようとしても、動けないので止める事は出来ない。

 パシリと、渇いた音が一つ。アテナの手に、女神の神具が収まった。

 

「古の蛇……やっと手に入れた」

 

 手に収まった、石の様で、しかし石ではない物で作られた神具を見て、蕾が花開く様にアテナは顔をほころばせた。

 心の底より望んでいた、己の半身との再会。それを成し遂げ、アテナの顔に浮かぶ笑顔は花の様に可憐だった。これでようやく、己は本来の自分、完全なる『まつろわぬアテナ』に立ち戻れる。力の全てを、十全に行使できる。

 しかしそれは同時に、祐理達にとって最悪の状況になる事を示していた。不完全な状態でも東京一帯を闇に鎮める程の力があると言うのに、さらに強大になってしまうのだ。

 『まつろわぬ神』は、存在するだけでその場所一体に影響を与える。火の神が降臨すれば周辺一帯が業火に包まれ、水の神が顕現すれば川や海の水位が上がり水没し、風の神なら暴風が吹き荒ぶ。

 抑える事の出来ない、自然災害とも言える者。それこそが『まつろわぬ神』だ。地震や山火事、台風を人間に抑える事など、出来よう筈もない。

 

「巫女よ、人間よ、その血が絶えるまで語り継ぐといい。この世に再び、古の太母が甦った事を。そして誇るがいい。三位一体を取り戻し、至高の女王が再臨した一幕に立ち会えた事を!」

 

言って、アテナはゴルゴネイオンを掲げ、詠いだした。天地へと響かせるように、朗々と。

 

「妾は謡う。女神の歌、輪廻の叡智、天地と闇夜をしろしめした大いなる女王の歌を。裂かれた女神、慈母の凌辱、忌まわしき蛇として討たれた女王の嘆きを。

 妾はアテナ! オリュンポス十二神が一柱にして、アテナイの守護者たる永遠の処女。ゼウスが娘。

 されどかつては、天地を、そして冥府を統べた女王なり! 叡智を誇り、大地を統べた太母たる身なり!

 妾はここに誓言する! ここに妾は、旧き古のアテナへと立ち戻らん!」

 

 小さな口より紡ぎ出されるその歌は、讃歌であり、嘆きであり、祈りであり、そして同時に屈辱であった。

 言霊に応えるように、アテナの体から、そしてゴルゴネイオンから呪力が噴き上がり、迸る。それらは互いに、まるで蛇の様に絡み合い、睦み合い、溶け、一つになった。

 同時に、アテナの姿が変わる。手足はすらりと伸び、身体もふくよかに成長し、幼い少女の姿は美貌の乙女へと変わった。肩までだった月銀の髪は背の全てを覆う程に伸びた。衣装も現代の服から、古のギリシアを思わせる簡素な白い長衣へと変わり、その頭には植物の――オリーブの葉で編まれた冠が現れた。

 人間の年齢で言えば、二十歳前後と言ったところか。絶世の美貌を誇る妙齢の太母神が、ここに復活した。

 同時に、呪力が弾け、風となって祐理と甘粕、二人の体を撫でる。冷たい、氷の様に冷たい風だ。その風を浴びた直後、二人はほぼ同時に膝を着いた。

 

「こ、これは……」

 

 寒さに震え、喘ぐように声を絞り出す。身体の震えは恐怖だけではない、極寒の冷気を浴びての震えかと思ったが、違う。この震えは唯の寒さではなく、アテナの呪力……冥府を思わせる闇の呪力による影響だ。その呪力に含まれた死の力が、二人の体を蝕んでいる。

 このままアテナの側に入れば、遠からぬうちに二人は命を落とすだろう。

 

「む、済まぬな、巫女よ。そなたたちが今浴びたのは、妾の『死』を孕んだ冥府の風。旧き力を取り戻したは良いが、どうやらまだ上手く御せぬらしい」

 

 死の風を受け苦しむ二人に、アテナは余り感情の籠っていない声で謝罪の意を述べる。当然だろう。神たるアテナにとって、人間等取るに足らない者。死のうが生きようが、どうでも良い存在なのだから。

 

「お、お戯れはおやめ下さい、アテナ! まだ御身には、戦うべき相手が居られる筈です!」

 

 そんなアテナに、咳き込みながら祐理は言う。彼女の思考に浮かぶのは、一人の少年の姿だった。

 草薙護堂。勝利の軍神を弑し、化身の権能を簒奪した最も若い神殺し。不思議と相性がいい様に感じる、どこか頼りなさ気な少年の姿。

 

「ああ、忘れる所であった。草薙護堂の他にもう一人、この国には神殺しが居たのだったな」

 

 しかしアテナの言葉に、祐理は一瞬全てを忘れた。

 もう一人? この神は護堂の他に、この国にもう一人神殺しが居ると言ったか?

 

「ふむ、草薙護堂も斃し、まだ上手く御しきれぬが、こうして妾は本来の力を取り戻した。であれば、あやつとの約定を果たしに往くとしようか」

 

 茫然としていた祐理だが、次いで放たれた言葉に衝撃を受けた。護堂を斃したとはどう言う事か。先程、甘粕はあの少年と話していて自分に「危険になったら呼べ」と言伝したのではないのか。

 一方、甘粕は護堂から聞いた情報が正しかったのだと確信し、表情には出していないが愕然としていた。

 非常に生まれ難く、『まつろわぬ神』と同等の災害だと言える神殺し、カンピオーネ。だが、呪術師ならそうなっても仕方は無いとも思う。そんな存在が、この狭い島国に二人も居ると言うのだから。

 

「おお、待ちかねているな。感じるぞ、忌々しくも猛々しい、『鋼』と『闇』、そして『大地』の力を。あの女、ここより南で妾を待ち構えているな」

 

 祐理達から視線を外し、アテナは南の方へと向く。闇の中に浮かぶ建築物以外何も見えないが、アテナはその遥か向こう、海の側に『鋼』の気配を感じていた。

 闇と鋼が混ざった様な、禍々しい呪力の気配。大地母神でもある彼女にとって、忌々しい鋼の気配。

 獰猛な笑みをその顔に浮かべ、アテナは翼を背に開き、空を飛んでその気配の待ち受ける場所へと文字通り飛んで行った。

 

 アテナが去った後、祐理と甘粕は呼吸を落ちつけていた。二人とも身体は氷の様に冷たく、呼吸は荒い。アテナが真の姿を取り戻した時に放たれた死の風による影響だ。

 幸いにして、その呪力は上澄みの様な物だったらしく、そこまで濃い『死』の力を孕んでいなかった。アテナが去った事でその影響力は弱まったが、それでも非常に強い呪力だ。死ぬ可能性は低くなったかもしれないが、酷く衰弱してしまっている。まともに動く事は、暫く難しいだろう。

 

「そんな……草薙さん。もう倒されて……?」

「落ち着いてください、祐理さん。アテナは先程ああ言いましたが、草薙さんは生きていますよ。先程言伝を伝えたじゃないですか……まあ、一度やられてしまったのは確かでしょうけど。それより、気にかかるのはアテナの言ったもう一人の王です。あの神様が向かった先に、どうも居るみたいですねえ」

 

 茫然としている祐理に、甘粕がそう言う。彼にとっては、無事が確認されている護堂の事よりも、正体の分からないもう一人の魔王の方が重要なのだ。

 勿論、護堂の事がどうでもいいと言う訳ではない。彼の怒りを買えば、どんな被害を受けるか分かった物ではないからだ。最悪、イタリアのコロッセオの様な事になってしまうだろう。……それは、もう一人の方も同じかもしれないが。

 

「そう言えば……で、でも、カンピオーネが草薙さん以外にこの国に居るなんて、聞いた事無いですよ!?」

「それは私達も同じですよ。だからこそ、どう言う御方か調べなければいけないんです。まあ、ちょっと、今の状態じゃ難しいでしょうけれど」

 

 そう言うが、まだ力が入り切らない祐理と違い、甘粕はもう歩ける程度には回復している様だ。呪力を体に巡らせ、アテナの呪力を何とか抑えているのだろう。そう長い事抑える事は出来ないだろうが、アテナに近付かなければ、少なくとも数時間は持つだろう。

 その後、護堂や自分の上司に電話をかけ、少し休んだ後に甘粕と祐理は護堂達と合流し、アテナを追う為に動きだした。

 

 ●

 

 ザ……ザザ……ザ、ザ……。

 生命の揺籠たる海より、波の音が咲月の耳を打つ。岸壁にぶつかり、水が弾ける。何処か懐かしいその波音を、咲月は目を閉じ、聴覚を研ぎ澄ませて聞いていた。

 薄ぼんやりとした月と星が輝く闇の中、とある港の一角に腰を下ろして波音に耳を傾ける彼女の側には、白灰色の毛並みを持つ動物――マーナがちょこんと座っていた。月光に照らされたその毛並みは、銀灰色へと変化し、輝いている様に見える。咲月の髪も、薄亜麻色に月光が加わり薄い金色に輝いて見える。

 彼女は待っていた。神を、自分達神殺しの永遠の仇敵、この国に来た女神を、じっと……。

 暫く待っていると、側に座っていたマーナが唸り声を上げ始めた。ザワザワと、毛並みが逆立つ様に波打つ。ほぼ同時に、自分の体に活力が漲る。呪力が最大限に高まる。敵が近くに来たのだ。

 バサリと、背後で羽ばたくような音がした。とても強い、闇と大地の呪力を感じる。

 

「……やっと来たのね。待ちくたびれたわ」

 

 言って、咲月は立ち上がり、振り返ってアテナを見る。彼女の姿は最初に会った時とは、明らかに変わっていた。可愛らしいと思えた幼い少女の姿は、「絶世の」とハッキリ言える美貌の乙女の姿に変じていた。感じる呪力の強さも、最初に会った時とは見違えるほどに違う。

 

「それが、貴女の本来の姿……って事でいいのかしら?」

「然り。この姿こそ太母の神格を取り戻した妾の姿なれば……先に交わしたあなたとの約定、果たしに来たぞ、名も知らぬ神殺しよ」

 

 咲月の言葉に、アテナはそう答える。成る程、神具を取り戻し、確かに神格が引き上げられているのだろう。まさしく太母神と呼ぶに相応しい力と存在感を感じる。

 アテナの言った約定。それは神具を取り戻したら、もう一人の神殺しを降し、その後咲月も斃す為にやって来ると言う戦闘の約束だ。止まることなく、一直線に七雄神社方面に向かっていた事から、アテナがもう一人を既に倒し、あっさりと神具を入手したのだろうと言う事は大体察していた。

 

「約に従い、今一度名乗ろう。妾はアテナ。遥か古の時代、闇と天地、そして冥府の三界を統べた太母たる者なり。今こそあなたの名を問おう、神殺しよ」

「約に従い、名乗るわ。和泉咲月よ。生憎、貴女の様に仰々しい名は持ってないわ。そしてこの子はマーナ、私の相棒の様な子よ」

 

 アテナの名乗りに、同じ様に名乗り返す。その際に槍を呼び出し、その穂先をアテナに向ける。禍々しい、2mはあろう紅い槍だ。向けられたアテナは目を細める。

 

「その槍……それがあなたの『鋼』か。妾と近しい、冥府の気配を感じるな。そしてその狼、神獣か」

「ええ。そして、ついでに教えておいてあげる……その力の本来を出す事を許可するわ、マーナ……いえ、『マーナガルム』」

 

 咲月がそう言った直後、マーナから呪力が噴き上がった。同時に目が煌々と輝き、徐々にその体が大きくなっていく。マーナガルムと呼ばれたその狼の体はどんどんと大きくなり……おおよそ、15m程の大きさになった所でその変化は止まった。

 

 ゥウルルルウウゥゥゥォォオオオーン……!

 

 久方ぶりの完全開放に、マーナ……否、マーナガルムは歓喜の遠吠えを上げる。直後、深かった闇が、より一層濃くなった気がした。

 マーナガルム。北欧神話に登場する、「月の犬」を意味する名を持つ狼である。人間が住む世界であるミッドガルドの東に存在する森、イアールンヴィズに住む女巨人が産み出した狼の一族――フェンリルの子等の一体であり、同時に一族中最強の狼でもあった。

 同じ一族の出である月を追う狼ハティとしばしば同一視されるこの狼は、死者の肉を腹に満たし、月を捕え、天空を血で汚し、そして太陽の光を陰らせると言う伝承を持っている。死と月光、そして陽光に対して優位性を持つ、闇と大地の魔狼である。

 その魔狼を横に侍らせて、咲月は高らかに宣言する。

 

「さぁ、戦いを始めましょう、アテナ。七人目の神殺しの力、存分に魅せてあげるわ!」

「ふ……善き哉! それでこそ神殺しの魔王よ! これより先に言葉は不要! 互いに滅し合うが我等が逆縁なれば、己が武でこそ語り合おうぞ!」

 

 咲月の言葉に応えるように、アテナは梟を召喚し、大蛇を産み出し、大鎌を手に取り構える。咲月も槍を構え……互いに真直ぐに、ぶつかり合った。

 



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9話 激戦、死闘

 

 アテナと咲月。まつろわぬ女神と七番目の魔王の戦闘は、魔王……咲月の先制攻撃で幕を開けた。

 咲月の手に握られた血の様に紅い槍が、女神の体を貫く為に鋭く突き出される。その攻撃は非常に鋭く、さらに早く、並の人間では瞬きをする間に身体を穿たれてしまうだろう一撃だ。それをさらに十連、一息の内に放つ。

 しかし、流石は闘神と言うべきか。アテナはその突きを軽やかに避け、梟を召喚し嗾けつつその手に握った巨大な鎌を一閃する。その閃撃は咲月の突きに劣らぬ程に鋭く、人間の体程度ならあっさりと真二つにしてしまうだろう。

 振るわれる鎌を回避し、咲月は飛びかかって来る梟を突き穿ち、薙ぎ払う。それで十羽の梟が落とされ、その姿を消した。実体を持っているが、本物ではなくアテナの力によって生み出された神獣の様な物なのだろう。力としては弱いが、数が多く鬱陶しい。

 梟を落としていると、アテナが再度鎌を振るって来た。回避し、お返しとばかりに突きを放とうとするが、再び梟が襲い来る。再び穿つが、直後にアテナの鎌が来る。

 攻めから一転し、咲月は防戦一方になる。

 

「どうした、神殺し! 攻撃の手が止んでいるぞ、大言を吐いた割にその程度か!?」

 

 攻撃の頻度が下がり、防戦のみなった咲月にアテナが挑発の言葉を投げかける。物量と、それを防ぐことで出来る隙を突く戦法。多くの聖獣を召喚する事が可能だからこそ出来る戦い方だ。

 

「冗談。この程度で終わる訳がないでしょう? ……全ての死を喰らいなさい、マーナガルム!」

 

 アテナの挑発に、口の端に笑みを浮かべつつそう返し、咲月は己の神獣に指示を出す。忠実な狼は、主の言葉にすぐに応えた。

 

 フゥゥウオオオオォォ――――――ン……!

 

 アテナの召喚した大蛇と応戦していたマーナガルムが、一匹の蛇の首を食い千切り吐き捨て、月に向かって遠吠えを放つ。すると直後に月の光が陰り、闇が濃くなり、咲月の周囲を飛んでいた梟と、アテナに召喚されたばかりの梟が全て消え去り、羽毛が散った。梟を構成していた神力が全て、マーナガルムに吸収される。

 マーナガルムは月を捕えて天空を汚し、太陽を陰らせ、全ての死者の肉をその腹に満たすと言う狼だ。死者の肉を腹に満たすという事は、死者を喰うと読める。それは同時に、「死」と言う現象を喰らうと言う事と読む事も出来る。

 アテナの象徴の一つであり、聖鳥でもある梟は知恵を司る鳥であると同時に、冥府と現世を渡る鳥とされている。つまり、梟は死の世界である冥界の存在でもあるのだ。光を陰らせ、死を喰らうマーナガルムにとっては敵ではなく、寧ろ餌の様なものなのだろう。

 「光」と「死」に関するものは、この魔狼の前ではその力を失うのだ。

 

「光を陰らせ、死を喰らい尽くす獣の権能か! 妾の使いを喰い尽くすとは、忌々しいものよな!」

 

 召喚した全ての梟を失ったアテナが、顔を笑みから一転させて真実忌々しげにそう言う。

 梟を召喚しても喰われてしまい、相手の呪力を回復させる事になってしまうのだ。数の利を失うだけならともかく、回復手段まで与える訳にはいかない。

 まだ召喚した大蛇が残っているが、先程一匹が、一撃で首を食い千切られているのだ。力を注げば再生する事は可能だが、潰されるのは時間の問題だろう。

 一応だが、これでアテナの数の利は無くなったも同然だ。

 

「はああああっ!」

 

 梟の牽制が無くなった咲月は足裏で呪力を爆発させ、高速でアテナに接近し、連続で突きを放つ。その速度は「神速」とまではいかない物の、かなりのものだ。

 足裏で呪力を爆発させ、その衝撃で加速するこの技術は、瞬間的な加速力こそかなりの物だが移動方法としては余り有用とは言えない。一方向にしか進めず、移動距離も余り長くなく、さらに一度爆発させたら、もう一度地面に足を着けるまで方向転換が不可能になるからだ。神速の権能持ちや、世に居る大騎士達は好んで使ったりはしない。

 にもかかわらず、咲月はこれを好んで使っている。その理由は――

 

「妾を嘗めるな!」

 

 咲月の連突を回避し、柄で逸らしながらアテナが鎌を振るい、大蛇を二匹程襲いかからせる。毒々しい極彩色の鱗と鋭い牙を持つ、あからさまな毒蛇だ。巨大なその身を不気味にくねらせ、顎を大きく開いて咲月を飲み込もうとする。

 主の危機に、マーナガルムは何も出来ない。彼の狼にも数体の大蛇が襲いかかっているからだ。

 咲月の左右から高速で迫る大蛇を、彼女は足裏で呪力を爆発させて数m程後方に下がる。それで一匹は回避したが、もう一匹が大口を開けて彼女に迫る。このままでは、ネズミやカエルの様に丸飲みにされてしまう。

 しかし咲月はそれを回避し、大蛇が口を閉じた直後、その頭に飛び乗った。その頭は広く、足場としてそれなりに機能するようだ。

 当然、頭に乗られて大蛇がじっとしている筈も無い。頭を高く持ち上げ、咲月を振り落とそうとする。しかし咲月は、頭を振られる直前に行動を起こした。ニヤリと、獰猛な形に咲月の口の端が吊り上がる。猛獣の様な笑みだ。

 

「……散りなさい」

 

 囁く様にそう言って、咲月は足に呪力を込めた。それは先程と同じ様に、足裏で呪力を爆発させる移動技術だ。しかし今度は、その込める呪力の量が極めて多い。

 直後、爆発させる。それによって発生した衝撃が、頭に咲月を乗せている蛇に攻撃と化して襲いかかった。

 この攻撃転化こそ、咲月がこの移動技術を好んで使用する理由だ。普通の術師ならこの様な破壊力など勿論出せないが、普通の魔術師の数百倍の呪力を持つ魔王ならば話は別である。何度も使っている為に、神獣にすら強烈なダメージを与える攻撃にまでなっているのだ。人間相手にこれを使えば、骨は砕け、内臓は潰れて死ぬだろう。

 しかも今回は、普段を遥かに超える呪力を込められていたのだ。その衝撃は移動に使う際の比ではなく、足場とした蛇の頭を一発で蹴り砕いた。牙や鱗、肉、眼球がその衝撃で弾け飛ぶ。

 移動術でもある為、咲月は勿論その蛇の頭上に居ない。もう一匹の方へ、高速で跳んでいる。足場にされた大蛇は、建物が崩れ落ちる様にその姿を崩壊させた。

 

「はあっ!」

 

 槍を突き出す。それは真直ぐに、何の抵抗も無く大蛇の黄金色の眼球に突き刺さった。

 

 ――――ッ!!

 

 目を串刺しにされた大蛇の絶叫が港に響く。痛みにのたうち、咲月を振り落とそうと頭を勢いよく振り回す。

 しかし咲月は槍から手を離さず、寧ろ笑みを深くし呪力をその槍に込め、何かを言った。

 直後、蛇の頭が爆発するように弾け飛んだ。頭部を失った大蛇は、先の大蛇と同じ様にその身を崩壊させる。

 支える物が無くなり、咲月は落下する。地面までの距離は10m近くあったが、彼女は何の危険も無く降り立った。直後、アテナの鎌が襲いかかる。

 流石に着地したばかりで行動するのは難しい。避ける事は出来ず、咲月は槍を縦にして鎌の横凪ぎを防いだ。

 しかしアテナの攻撃は終わらない。防がれたと見るや否や、鎌を手前に引いて咲月を切り裂こうとした。

 野生的な直感でそれを察知した咲月は、地面に伏せるように体を屈めて回避する。しかし完全には回避できなかったらしく、彼女の服と、薄亜麻色の髪が一房切り裂かれる。追撃が来るが、今度はそれを突きで迎撃する。

 

「ふ……ふ、ふふっ……あははっ! あははははっ!」

 

 さらに何度も攻撃の応酬をしていると、突然咲月が笑いだした。

 

「楽しい! すっごく楽しいわ! 少し間違えば直後に命を落とすだろう、すっと血が引くこの感覚! 肝が冷える筈なのに、血が、心が、魂が昂るわ!」

 

 少し判断が遅ければ死んでいたと言うのに、咲月は冷や汗一つ掻かず、心の底から楽しいとばかりに、顔全体に笑みを浮かべてアテナにそう言う。その笑顔は大輪の花の様で、睡蓮を印象付け「沈黙の詠み姫」とも呼ばれる普段の彼女とはかけ離れた、美しい笑顔だった。

 しかしその目は笑っておらず、獲物を見つけた猛獣や猛禽の様に獰猛な光を宿している。身に纏う雰囲気も普段の咲月とはあまりにかけ離れた物で、予備動作すら無く高速の突きをアテナに放った。完全に、アテナとの戦いにのめり込んでいる事が分かる。

 戦闘狂。今の咲月を現すに、これ程相応しい言葉も有るまい。

 

「こんなに楽しいのは久しぶりよ! もっと、もっと踊りましょう! 私と貴女、どちらかの命が尽きるまで!!」

 

 言いつつ、咲月は槍を引き戻し、薙ぐ。その攻撃を防ぎつつ、アテナは咲月に言った。

 

「奇遇よな! 闘神としての妾の心も、久方ぶりの戦闘にいささか昂っておる! 草薙護堂は不意を打って斃した故に、物足りかったのだ! 代わりにあなたが妾を楽しませよ、和泉咲月!」

 

 アテナがそう言った直後、彼女の目に呪力が籠り、妖しく輝く。すると、その視線上に存在する物が地面、建造物、海を問わず石化していく。メドゥーサの伝説にある石化の邪眼だ。神具により、メドゥーサの持つ太母神の神格を取り戻した彼女は、その力をも使えるのだ。

 全てが石と化していく中、咲月は邪眼が発動した直後に全身に呪力を滾らせ、石化の進行に抗い、抑え込む。神の権能にも、呪力があれば抵抗できるのだ。尤も、抵抗できるほどの呪力を持つのは通常、神殺したる魔王くらいしか居ないのだが。

 

「ほう、堪えるか。流石は神殺しよな。やはりあなた達を討ち滅ぼすには、その体内に直接注ぎこまねばならぬか」

「石化の邪眼か……メドゥーサの力ね。無粋ね。こんなに楽しい戦いなのに、石にして終わらせようとするなんて」

 

 アテナの使った石化の力を見て、咲月はつまらなそうに言う。その口調は軽く、石化に抵抗している筈なのにまるで苦しそうにしていない。何故と思うが、見れば彼女の周囲だけ石化の進行が完全に止まっている。

 全身を覆う程に呪力を滾らせ抵抗しているのか。一見してそう思ったが、しかしすぐに違うとアテナは気付いた。

 眼前の神殺しは呪力を滾らせていない。寧ろ逆だ。強い呪力は感じるが、それは身体を覆っていない。

 何処からその力を感じるのか、アテナは咲月の周囲を見る。発生源はすぐに見つかった。咲月の足元からだ。

 見れば、何時の間にやったのか、何か記号の様な物が咲月を囲う様に、周囲四ヶ所に刻まれている。絵ではなく、幾つかの線で組まれたそれは模様にも見える。それを見て、さらに力を感じてアテナはその記号の正体に気付いた。

 ルーン文字だ。北欧神話で、嵐と戦乱の神でもある主神オーディンがその秘密を知る為に神槍グングニルで己の身を貫き、さらに九日九晩の間ユグドラシルに首を吊ったとされる、力ある神秘の文字。現代では既に廃れてしまったと言っても良いが、一文字一文字が意味と力を持つ、魔術文字だ。

 咲月の周囲に刻まれているのは四つのルーン文字。それぞれ、ハガル、イス、ユル、ニイドだ。ハガルは自然災害を、イスは凍結を、ユルは防御を、ニイドは束縛をそれぞれ意味する。他にも意味はあるのだが、これらのルーンを己の周囲に刻む事で、石化と言う災害を束縛・凍結させ、防御したと言う事だろう。

 

「ルーン文字か……その力で妾の石化を防いだのだな。権能では……ないな。あなたは魔術師でもあったのか」

「いいえ、魔術師じゃないわ。術は使えない事はないけれど、詠唱が面倒くさいし、なにより私はこっちの方が得意だし。だけど、使えると結構便利だから学んで、使えるようになった。それだけの話よ」

 

 アテナの問いに手に持つ槍を僅かに持ち上げ、そう返す。実際、戦闘中に長々と詠唱する時間等無いのだ。立ち止まってそんな事をしていたら、次の瞬間には命を落としているのが神々との戦いだ。何かに刻みつけるだけで、詠唱する必要がないルーン文字は確かに便利だと言えよう。

 尤も、その文字の意味を正しく理解して使用しなければ、逆の効果が自分に襲いかかると言う危険な文字でもあるのだが。

 言った後、咲月は自分の指を噛み切り、血で服と槍にルーン文字を書く。書かれたのは、服にユル、エオル、イング、シゲル。槍にティール、ウルだ。エオルは保護、イングは豊穣、シゲルは生命力、ティールは戦い、ウルは野牛をそれぞれ意味する。服に記したルーンで防御力と回復力を、槍に記したルーンで攻撃力をそれぞれ引き上げるのだろう。さらに靴にもエオーのルーンを記す。このルーンは馬や移動、変化を意味する文字だ。

 

「はあっ!」

 

 足裏で呪力を再度爆発させ、咲月はアテナに接近する。その速度はルーンの効果も追加され、先程よりも早い。紅い槍を連続でアテナに突き入れる。

 しかしアテナは、その槍を今度は背に翼を開いて飛び、回避した。さらに手に持っていた鎌の形を解き、弓の形に再構成する。弦を引くと、闇の呪力が矢の形を取って具象化した。空中から咲月を狙い撃つつもりだ。

 

「妾を嘗めるなと言ったぞ、和泉咲月! 闇と死の矢を受け、倒れるがいい!」

 

 言って、手を離す。矢が疾風の様な速度で飛来し、咲月の体を貫こうとする。

 咲月は野生の勘で最初の矢を避けたが、アテナはさらに弓を引き、無数の矢を高速で、連続で放つ。まさしくつるべ打ちだ。

 襲い来る無数の矢を、咲月は避け、槍を振るって打ち落とすがいかんせん、数が多すぎる。矢の何本かが掠り、血が流れる。防御と生命力を強化しているのでその傷はすぐに塞がったが、防御のルーンは掠っただけでその効力を失ってしまった。

 暫く避け続けていたが、咲月は突然、膝をついた。身体の熱が急速に引いて行き、氷の様に冷えて行く。

 咲月は知らないが、これは護堂にも吹き込んだ「死」だ。今度はそれを、矢として咲月に放ったのだ。

 

「マーナガルム!」

 

 アテナは死神の属性も持っている。当然、死の力も使えるだろう。神託の権能で事前に情報を得ていた咲月はすぐにそれに思い至り、矢を防ぎつつ神獣を呼ぶ。

 

 ……ルォオオ―――――ン……!

 

 するとすぐに遠吠えが聞こえた。僅かに間が開いて遠吠えが聞こえた事から、どうやらまだ蛇と戦っているらしい。

 だが、その声が聞こえた瞬間、咲月の中に入り込んだ「死」が全て消え失せた。マーナガルムに吸収されたのだ。同時に、降り注いでいた矢の雨も消滅した。「死」の力を込められていたようなので、同じ様にマーナガルムに喰われたのだろう。

 立ち上がり、咲月は上空のアテナを見上げる。彼女は先程と同じ様に矢を形成して咲月に向けている。今度は「死」を感じない。おそらく「闇」だろう。「光」と「死」ならばマーナガルムの力で無効化できるが、「闇」では無効化できない。

 再度矢が降り注ぐ。避け、打ち落とすが、それだけだ。このままではいずれ体力の限界が来てしまい、射抜かれてしまうだろう。

 咲月は思った。死んで堪るものか。

 

「雷鳴を纏い、猛毒を孕み、我が敵総てを穿ち貫け!」

 

 矢を避けつつ槍を回転させ、咲月は聖句を口に出す。それは咲月が最初に簒奪した、彼の英雄神の権能を発動する為の聖句だ。

 言霊に応え、呪力が迸る。禍々しいまでの呪力が全て、槍に込められる。咲月はそれを、アテナに向かって投げ放った。

 突然の咲月の行動に、アテナは怪訝な顔をしつつ槍を避ける。高まった呪力の強さから権能だろうと思うが、己の武器を投げる輩が居るだろうか。

 

「――っ!?」

 

 しかし回避した直後、アテナは表情を強張らせ、無茶な回避行動を取った。闘神としての直感が、危険だと叫んだ為だ。

 その行動は正しかった。回避した瞬間、アテナが居た場所を紅い槍が突き穿つ。その槍は再度避けられたがしかし、雷撃を纏い、槍がまるで猟犬の様に避けたアテナを追尾する。

 弓を解き、アテナは闇で盾を構成した。メドゥーサの首が表面に描かれているそれは、あらゆる攻撃を防ぐと言われるアイギスの盾だ。それを翳して、アテナは槍を防ぎ、弾く。

 しかし弾かれた槍は、あり得ない軌道を取って再びアテナに襲いかかった。アテナの顔に驚愕が浮かぶ。

 突き穿つ必中の魔槍、ゲイボルグ。アイルランドの「鋼」たるクー・フーリンより咲月が最初に簒奪した権能であり、後に賢人議会によってマーナガルムの権能と共に「雷鳴纏う必中の毒槍」「死と光喰らう巨狼」と命名される事になる権能だ。

 一転して、今度はアテナが逃げ続ける事になった。

 

「く――っ!」

 

 追跡し、喰らいつこうとする魔槍をアテナは盾で防ぎ、回避し続けるが、弾く度、避ける度にその追撃速度が上がり、雷撃が強力になる。しかも既に一度掠ったらしく、その動きは精彩を欠いている。避け続ける事は、もはや難しいだろう。

 ならばと、アテナは防御を棄て、再度弓を構成して引く。番えるのは魔狼に無効化されない「闇」の矢だ。咄嗟の内に込められる限りの神力を込め、咲月に向かって放った。その矢が飛来する速度は、先程までのそれを遥かに超えていた。

 まさか防御を棄てるとは思わなかったのだろう。思わず呆気に取られていた咲月は回避行動が遅れ、「闇」の矢を避ける事が出来ずに右胸を撃ち抜かれた。それとほぼ同時に、アテナの体を咲月の魔槍が貫いた。

 



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10話 決着の行方

 

「く、が、あああああああっ!!」

 

 アテナの力と、さらにマーナガルムの光を陰らせる力によってより一層深くなった闇の中、背に梟の翼を広げた美女――アテナの絶叫が響き渡った。その声質は咆哮等ではなく、苦悶のそれだ。女神の叫びの原因は、彼女の体を穿っている一本の槍だ。

 咲月より放たれた槍は、権能によって何者をも穿つ必中の魔槍となって雷撃を纏い、美貌の女神に襲いかかりその身を貫いたのだ。

 纏っていた雷撃によって体の内側から焼かれ、苦悶する。さらに言い様のない不快感をアテナは感じていた。

 極小規模とは言え雷と同等の電撃である為、人間ならば間違いなくショック死しているほどなのだが、それを喰らってダメージを受けても意識をハッキリ保っている辺り、流石は神だと言うべきか。人間等、軽く超越した生命力だ。

 しかし感じる不快感は、雷撃による物ではない。もっと別の、忌むべき何かだ。それが体の内部から蝕んでいる。血流に乗り、内側から身を焼くようなこの感覚。これは――毒だ。己の身を穿っているこの槍から、雷とは別に毒の呪力が流れ込んでいる。

 それを感じながら、アテナは地面に落下していった。見れば翼が消え失せている。ダメージで維持できなくなったのだ。

 直後、叩きつけられる衝撃がアテナの体を襲った。衝撃で槍が身体を抉る様に動き、激痛がアテナを苛む。

 だが、アテナとて唯で身を槍で穿たれた訳ではない。

 

「う、ぶ――っ! ごほっ! ぇはっ!」

 

 アテナの苦悶の叫びを耳にしながら、咲月は呻き、口を抑えながらも多量の血を吐き出した。原因は彼女の右胸を貫通している、アテナより放たれた「闇」の神力を凝縮した矢だ。服にかけたルーンの防御は矢が胸を射抜く前に消し飛んでしまったので、僅かに減衰させる事すら出来なかった。

 ただ胸を貫いているだけではなく、肺を貫通してもいるのだろう。射抜かれた場所からも血が流れ出ているが、それ以上に息が苦しい。血が肺に流れ込んでいるからだ。反射で、肺の中の異物を吐き出そうと咳き込む。

 口内に、生臭い鉄錆の味を感じる。自分の血の味を味わうのはこれで四度目だが、美味とはとてもではないが思えない。

 そう思いながら矢を引き抜き、握り折る。直後に傷口から血が噴き出すが、気にはしない。この程度の傷なら、最低でも後1時間は保つだろう。重傷を負っても数日で回復するカンピオーネの回復力と生命力は伊達ではないのだ。

 ぴちゃり、ぴちゃり……。血が口から、そして傷口から滴り落ちる。その音を何処か遠く耳で聞きながら、咲月は地に倒れ伏すアテナから目を離さない。彼女が死んでいないと確信しているからだ。

 

「ふ、ふふ、ふ……っ、流石は、地中海最強の女神ね。雷槍を受けて、身の内から焼かれて、まだ健在なんて……」

「……侮るな、神殺しよ。この程度で、妾が負ける筈がなかろう。だが……中々に効いたぞ……」

 

 咲月の言葉にアテナが応え、手をついて上半身を起こす。彼女も同じ様に口から、そして腹部から血を流している。だがその目に宿る闘志は、いささかの衰えも見られない。

 

「先の言霊、そしてこの槍……直に受けて、ようやく分かったぞ。この槍から感じた冥府の気配の正体と、あなたが弑した神の名が」

 

 よろよろと立ち上がり、未だ自分を穿っている魔槍を引き抜き、投げ捨ててアテナは咲月を睨みつける。その顔は未だ凛々しさを保っているが、蒼白だ。槍で穿たれた腹部は……癒えていない。死と再生、不死の象徴である蛇の力が機能していないのだ。

 投げ捨てられた槍は、咲月が念じると同時に彼女の手の中に収まった。呼び出しの術で手の中に呼び戻したのだ。

 

「クー・フーリンだ。妾の故地よりさらに西、猛犬の名を持つアルスターが戦士! 太陽神ル―の息子たる『鋼』の英雄神クー・フーリンだ! あなたは彼の英雄を殺めたのだな! そしてあなたが簒奪した権能であるこの槍はゲイボルグ! 必ず敵を穿ち、癒えぬ傷を与える冥府の魔槍であろう!」

 

 咲月の目を睨みつけ、確信を得た声音で、文字通り血を吐く様に咲月が殺した神と、簒奪した権能の名を叫ぶ。

 ゲイボルグ。ケルト神話、アイルランドの英雄クー・フーリンが振るった槍の名前である。冥府でもある影の国、その地を統べる女神である女王スカアハによって管理されていたこの槍は、彼女の大勢の弟子の中で唯一、エメルを娶る為に修行に来た若きクー・フーリンにのみ授けられ、最後には彼の英雄自身の命を奪った。

 アテナの叫びに応え、咲月は歪んだ笑みを口に浮かべた。流石は闘神にして知恵の女神。他国の英雄や神の名も熟知しているか。

 

「ええ、その通りよ。私が神殺しになったのは、彼を殺してしまったから。この槍は、その時に得た最初の権能」

 

 血で口元を汚し、服を紅く彩りながら、蒼白な顔で咲月はアテナ問いとも言えぬ問いに肯定する。他の魔王達には隠しておくべき事だが、この神相手にはもはや隠す必要がないからだ。

 ゲイボルグの素材となった物は、木材でも石材でも、ましてや金属ですら無い。とある二頭の巨大な海獣――これはクジラだろうと言われる――の内、敗れた方の獣の骨を用いてボルグ・マク・ブアイン――スカアハと言う説もある――が、作り上げた槍なのだ。

 巨大な海の獣であるクジラは、旧約聖書ではレヴィアタンと言う名の怪獣として現れる。この獣は陸の怪獣ベヒモスと対になる存在と言われ、さらに場合によってはジズと呼ばれる怪鳥と三体一対を為す海の獣とされる。

 このレヴィアタンは、カナン神話に出てくる七つの頭の竜リタンや、バビロニアのティアマトと類似性を上げる事が出来る。リタンもティアマトも、竜蛇の属性を持つ魔獣や大地母神だ。この関連性から、レヴィアタンは現代に下るにつれて竜蛇の属性を付与され、現代では完全に海に住む巨大な竜蛇とされた。

 この事から、クジラと竜蛇は遠いが、しかしまったく関係がない存在ではないと言える。この存在の骨より創り出されたゲイボルグは、ある意味、竜蛇の骸より生まれたと言っても良いだろう。剣と槍の違いこそあるが、日本に伝わる天叢雲剣の遠い、遥か遠い親戚の様なものと見る事も出来る。

 

「ゲイボルグを知ってるんなら、もう気付いているんでしょう? あなたの傷が塞がらない理由も……」

「魔槍の呪い、治癒阻害の毒か……忌々しい『鋼』よな!」

 

 咲月の言葉に、忌々しげにアテナが舌打ちをする。

 魔槍と呼ばれたこの槍には、ある伝承が在る。それは、「必ず相手を貫き、一撃で殺す」と言う物だ。事実、この槍で貫かれた者は必ず一撃で死亡、或いは致命傷を負っている。

 他にも、雷鳴の様な速度で敵を貫く、投げれば30の鏃となって降り注ぐ、突き刺せば30の棘となって炸裂する、血管と内臓の隙間に大釘を残す、全身の細胞に猛毒を注ぎ込む、有り得ない軌道を以て敵を貫く、どのような防御も突き穿つ、傷付けた相手の傷を癒さないと言った伝承が在る。

 咲月が彼の英雄から簒奪した権能は、この魔槍だった。アテナを貫き、その身を焼いたのは必中と雷速の伝承に因る能力だ。そして、アテナの身を蝕み、傷の回復を阻害している毒は、猛毒を注ぎ込むと言うそれに由来する。ついでに言えば、蛇の頭を吹き飛ばしたのは30の棘となり炸裂すると言う伝承のそれだ。

 一撃必殺を基本とし、しかしそれを為せなかった場合には毒で蝕み、治癒を阻害する魔槍の権能。凶悪かつ強力な能力を持つ権能は多々あるが、効率性をも両立しているこの権能はその中でも中々に凶悪な部類に入るだろう。

 四年の内で、さらに二柱の神々との戦いを経て、咲月はこの魔槍の権能を完全に掌握していた。

 

「さて、その毒に侵されて、満足に治癒も行えない貴女に、私を倒す事が出来るかしら?」

 

 血で汚れた凄絶な笑みを浮かべ、咲月は槍をアテナに向ける。その穂先を向けられながら、しかしアテナは焦った風に見られない。寧ろ、咲月と同じ様な笑みを浮かべて睨みつけている。

 

「実に忌々しい能力よ……だが、あなたも言う程無事ではあるまい。妾には分かっておるぞ。その魔槍、もはや使えてもあと一度か二度、それも追尾が精々であろう」

 

 獣の様な笑みを浮かべたアテナの言葉に、咲月は口の端を吊り上げながら、しかし内心で舌打ちする。自分の現状に気付かれている。

 アテナの「闇」の矢。あれを受けて、咲月は自分の呪力の大半が削られ、奪われた事を自覚していた。マーナガルムの「死食い」と同じ様な事をしてくれるとは、流石と言うべきか。

 咲月の槍が魔槍であった様に、アテナの矢もまた厄介な効果を持っていたのだ。

 マーナガルムの発動を止めれば、おそらくもう一度なら同じ効果を魔槍に込め、放つ事が出来るだろう。だが、それをしてしまえばマーナガルムが抑えている大蛇の相手すらしなければいけなくなる。今の状態で、それはマズイ。確実に死ぬ。

 カンピオーネの体に、魔術は効果を為さない。攻撃回復防御問わず、全て弾いてしまう体質だからだ。先程のルーンは、服に刻んで外側に向けたからこそその効果を表したのだ。

 ゲイボルグの回復阻害効果は、肉体のみならず呪力にすら及ぶ。その為、アテナは咲月の呪力を奪っても神力を回復する事は出来ていないだろう。傷を癒す事も出来ないので、生命力と神力は血と共に流れ出るままだ。おそらく神力は、咲月と同じかそれより僅かに多い位にまで減じているだろう。

 だが、それでも神。梟を召喚できなくなり、「死」も喰われてしまい効果がなく、癒えぬ傷を身に負ったとしてもその強大さは変わらない。神力を消耗している為どれほどの力を発揮するか分からないが、まだ彼女には大鎌、弓、アイギスの盾が残っているのだ。

 とは言え、血を流し、雷で焼かれ、肺を射抜かれた二人は互いに満身創痍と言うに相応しい状態だ。そう長い事戦う事はもう出来ないだろう。最悪、両者共倒れと言う結果で幕を下ろす可能性もある。

 そんな結果は認められない。命を賭ける戦闘には、やはり勝利と敗北のみが相応しい。

 咲月も、そしてアテナもそう思い、武器を構え呪力と神力を注ぎ込む。長時間戦闘はもはや不可能。ならば、この一撃で決着をつける。二人ともその結論に至ったのだ。

 互いに武器に力を込め、己が敵を睨めつけ、そして――咲月が槍を構え、突進した。

 

「はああああああっ!!」

 

 叫びながら、咲月はアテナに向かってゲイボルグを突き出す。その攻撃速度は、かなり消耗している状態だと言うのに先程までのどの攻撃よりも鋭い。正しく、雷速の突きだった。心なし、槍自体も放電している様に見える。

 カンピオーネは全快状態よりも、傷付き消耗した状態の方が厄介だ。手負いの獣の如く、何をしでかすか分からない。咲月のこの攻撃速度も、それから来ているのだろう。

 余りの速度に、アテナも一瞬槍を見失った。しかし闘神としての直感と経験が、彼女に迎撃でも回避でも無く、防御を選択させた。一瞬で鎌の姿が解け、盾の形に変化する。

 刹那にも満たない時間で、それを己の前面に翳す。直後甲高い激突音が響き渡った。有り得ない程に重い衝撃がアテナに圧し掛かる。槍と盾の接触点から、呪力の反発が電撃となってアテナを、そして咲月の肌を焼く。

 

「お、おおおおおおおっ!!」

 

 衝撃に一瞬驚愕し、しかし堪えるべくアテナは盾を翳し続ける。

 盾を隔てて見える神殺し、和泉咲月。彼女が握る槍からは先程までとは言わないが、凄まじいまでの呪力が込められている。おそらく、残る呪力の内、攻撃に転化できる呪力全てをこの一撃に注ぎ込んでいるのだろう。であれば、この衝撃の重さと強さも納得がいく。正しく一撃を以て屠りに動くとは、やはり神殺しか。だが――

 

「この程度の攻撃で、妾を斃せると思うてか! 和泉咲月!!」

 

 だが己とて大地の女王。闘神にして知恵の女神。大いなる太母神の末裔。天地冥府の三界を統べた者。負ける訳にはいかない。

 咲月はこの攻撃に残る全ての呪力を込めている。ならば、この一撃を凌ぎきれば自身の勝利は確定。自分はまだ、攻撃に使える力を残している。

 勝利を確信し、アテナは薄く笑みを浮かべて盾の向こうの咲月を見た。

 そして、怪訝に思った。

 

(――?)

 

 視界に映る咲月の顔。その顔に浮かんでいるのは笑みだ。しかしその笑みは、敗北への諦めで浮かぶ物では無い。寧ろ、己の策が成った事を確信した様な――。

 そこまで考え、アテナはふと思い出した。自分の盾、アイギスと激突している咲月の槍、ゲイボルグ。

 己の盾はあらゆる攻撃を防ぐと言う伝承を持っている。その防御力は折り紙つきで、正しく全ての攻撃を防ぐだろう。

 だが、この槍にも伝承が無かったか? 防御ではない。追尾でも、毒でも無い。もっと攻撃に特化したある伝承が――

 

「っ! まさか、貴様!」

 

 思い至ったことで、咲月に詰問の声を投げる。しかし咲月はそれに、言葉ではなく笑みで応えた。――凄絶な、獣の様な笑みで。

 直後、呪力の質が変わる。全てを穿つ、刃の様に。

 

「魔槍よ! 伝承に則り、あらゆる護りを貫き、敵を穿て!」

 

 咲月が言霊を紡いだ瞬間、溢れていた呪力が全て消え失せた――否。消え失せたのではない。全て魔槍の中に取り込まれたのだ。

 

 ――ピキッ

 

 同時に、小さな音が聞こえた。硬い何かに罅が入る様な、危険な音が。アテナはその音の発生源にすぐに気付いた。

 盾だ。己の盾、アイギスからその音は聞こえた。全ての攻撃を防ぐ筈のこの盾が、神殺しの魔槍を防げていない。その事実にアテナは愕然とする。

 ――ゲイボルグの伝承に曰く。その槍はあらゆる防御を貫通し、敵を穿ち殺す。事実、この魔槍はクー・フーリンの親友であり、ライバルでもある騎士フェルディアの防御――分厚い鉄の大盾、絹と皮と石材を七枚重ねにした鎧、鉄の前垂の重装甲――を易々と突き破り、その命を奪ったのだ。

 追尾ではなく防御貫通の力を、咲月は今ここで使って来たのだ。アイギスの守りが、ゲイボルグの刃に侵される。

 

「っく、ああああああああああっ!!」

 

 このままでは身を穿たれる。防ぎ、敵の力が切れた所で止めを刺す等と悠長な事は言っていられない。

 そう思い、アテナは咲月と同じ様に己の力の全てを守りに注ぎ込んだ。結果、盾を喰い破ろうとしていた魔槍の刃は止まり、再度呪力の稲妻が迸る。

 

「はああああああああっ!!」

「雄ぉおおおおおおおっ!!」

 

 叫び、全力を込める。

 咲月はアテナを穿つ為に。アテナは槍より身を守る為に。

 互いの全力がぶつかり、鬩ぎ合い、先程以上の電撃が互いの身を焼く。しかしそんな事に気をやる事はしない。そんな事をすれば、次の瞬間には自分が負ける。それを理解しているからこそ、電撃などに意識を向ける事は出来ない。

 1分か、5分か、それとも30秒にも満たない時間か。どれほどの時間鬩ぎ合っていたのか分からないが、その終わりは唐突に来た。槍に、盾に込められた力の強大さに、電撃だけでなく衝撃となって互いの間に発生したのだ。

 

「ぁうっ!」

「ぐうっ!」

 

 その衝撃に堪え切れず、二人は弾き飛ばされた。互いに、したたかに身体を打ちつけ、地面を転がる。互いの武具は、想像以上にボロボロだ。ゲイボルグは大きく刃零れし、アイギスは中心部に大きな穴が開き、深い亀裂が走っている。両方とも権能である為戻せば回復するだろうが、それでも数日は使用不可能だろう。

 絶対の攻撃(ゲイボルグ)と、絶対の防御(アイギス)。槍はアテナを貫けず、盾は主人を守り通したが、ゲイボルグの防御貫通を防ぎ切る事は出来なかった。矛盾の結末は相打ち、或いは決着つかずで幕を閉じた。

 

「っぐ、ぅう……」

 

 刃零れしたゲイボルグを支えに、呻きながら咲月が身を起こす。アテナも、穴の開いたアイギスを片手に地に手をつき、半身を起こす。双方、顔色は最悪と言って良い。

 呪力も神力も枯渇寸前で、身体は満身創痍。普通に考えれば、互いに動く事すらままならない傷だ。

 だと言うのに、咲月もアテナも身を起こし、互いを睨みつける。どちらの戦闘意欲も、まだ治まっていない。

 咲月は槍を、アテナは盾を解き大鎌にして、再びぶつかり合おうとし――しかし、出来なかった。何かを感じたのか、アテナが別の方を向いたからだ。

 格好の隙。今この瞬間に槍を突き込めば、如何にアテナと言えど回避も迎撃も難しいだろう。だが、何故か咲月はそれをしようと思わず、アテナの見ている方へ眼をやる。

 

「な……」

 

 そして、絶句した。

 視線の先には、四人の男女が居た。一人は黒髪の少年、一人は眼鏡をかけただらしなさそうな男性、一人は金髪の勝気そうな女子、そして最後の一人は茶色味の強い髪の女子。前者三人の名前を咲月は知らないが、最後の一人の名前は知っていた。万里谷祐理だ。

 しかしアテナはその中の、黒髪の少年のみを見ていた。その少年は咲月も見た事がある。神具を所持していた、八人目の魔王だ。

 

「草薙護堂……生きていた、いや甦ったのか!」

「何とか、な」

 

 草薙護堂。それが八人目の魔王、自分の後輩の名か。この戦闘の、根本的な原因を作ってくれた男か。

 複雑な感情を胸に抱きながら、咲月はアテナと護堂を視界に収める。ギリシアで簒奪した神託の権能に影響され、引き延ばされた直感が護堂の力を読み取る。

 光の力が一つ、減っていた。

 

(消費系の権能……何らかの制限を持つタイプね)

 

 薄くだが読み取り、咲月は護堂の権能が何らかの制限事項を伴う物だと直感した。このタイプの権能は強力だが、その分使用条件が厳しい物が多い。護堂の権能も、その例に漏れないのだろう。単純に、掌握しきれていないと言うのも有るかもしれないが。

 観察していると、護堂が咲月の方を向いた。槍を持つ手に力を込める。

 

「アンタが七人目だったんだな。俺は……」

「草薙護堂、でしょう。聞こえていたわ。……アテナをこの国に呼びこんだ人間が一体、何の用かしら」

 

 戦いを楽しみはしたが、この男が原因で自分の平穏が崩された。その事実に、思わずきつい口調で応答してしまう。割とドスの利いていたその声音に、護堂が僅かに怯んだ。しかし持ち直し、彼は咲月とアテナの両名に提案する。

 

「い、いや、二人ともボロボロみたいだし、ここらで手打ちにしとかないか? これ以上戦っても何も得る物は無いだろうし、第一周りに良い迷惑なんだよ。こんなに港をボロボロにして」

 

 言って、護堂は港の状態を示した。石化し、攻撃の衝撃で砕け散った船や建造物。戦闘開始前の状態とはかけ離れた、廃墟と言って良い状態だった。

 だが、咲月やアテナにとって、それはどうでもいい事だ。

 

「……で?」

「で? って、何だよその言葉! アンタには周りに対する配慮がないのか!?」

「私達と神々との戦いは、甚大な被害を周囲に与える事くらい知っているでしょう。被害を出さずに勝てる物じゃないのよ」

 

 護堂の問いに、血の気の失せた顔で返す。すると「これだからカンピオーネって連中は……」と言う護堂の言葉が聞こえた。まるで自分は被害を出していないとでも言いたげな言葉だ。

 何となくイラっとしたが、言葉にはしない。そんな余裕、もう無くなり始めているのだ

 アテナとの戦いで、咲月は体力と呪力のほぼ全てを使い果たしてしまった。それはアテナも同じだが、そこに来て八人目の魔王の登場だ。戦っても良いが、この状態で自分も、そしてアテナも勝てるとは思えない。もし勝てたとして、権能が増えるかは分からない。

 悔しいが、護堂の提案は中々良い物だった。忌々しくもあるが。

 

「……アテナ。此処は互いに、痛み分けにしましょう」

「……何だと?」

 

 突然の咲月の言葉に、アテナが怪訝そうに応える。先程までの言から、咲月が戦闘を止める事は無いだろうと思っていたが、それを裏切る答えだったからだ。

 

「和泉咲月、まさか臆したか? 妾は二対一でも構わぬぞ……?」

「そんな筈ないでしょう。だけどね、邪魔されるのは困るの。ここで戦いを続けたら、間違いなく邪魔が入るわ。……そんなの、私は嫌よ」

 

 咲月と同じく満身創痍の状態だろうに、アテナは変わらず挑発の言葉を出す。咲月もそれに応じ掛けるが、しかし邪魔される事は自分にとって困るとアテナに言った。

 

「私達は今、互いに弱った状態よ。私達の敗北で、漁夫の利を取られていいの?」

「む……」

「邪魔が入らない場所で戦りましょう……互いの生死を賭けて、今度こそ全力で」

 

 咲月の言葉に、アテナは僅かに思案する。護堂の文句が聞こえてきたが、そんなどうでも良い物は無視した。

 

「……よかろう。だが、戦いの時は妾が決めさせてもらうぞ、和泉咲月」

「別に良いわ。獲物を奪われるよりは、ね。私が貴女を殺すまで、誰にもやられるんじゃないわよ」

「貴様……それはこちらの台詞だ。だが……」

 

 咲月の挑発に野獣の様な笑みを浮かべ、アテナは返す。そして彼女は、草薙護堂の方も見た。

 見られた護堂達が身構える。

 

「もう一人の魔王を斃しきれていなかったのは妾にとっては屈辱だ! あなたの戦いの前に、草薙護堂を冥府に沈めておくとしよう。あなたとの再戦は、その後だ。和泉咲月!」

「何だって!?」

 

 いきなりのアテナの言葉に、護堂が困惑の叫びを上げる。

 戦わないで済むと思っていたら、しっかり獲物に見られていたのだ。

 

「妾は疾く去るとしよう。だが、傷が癒えたその時にこそ、妾はあなた達の前に再びやって来よう! それまで何人にも負ける事は許さぬと知れ!」

 

 声高に宣言し、アテナは闇に身を溶かす様に消えて行った。同時に闇が薄くなり、咲月の体から力と緊張が僅かに抜ける。アテナが去ったのだ。

 直後、咲月は膝をついた。傷は塞がり始めているが、それまでに流した血の量が多すぎた。息も荒く、意識も朦朧とし始める。

 両手で槍を持ち、何とか身体を支える。咳き込み、血を吐き出す。危険な状態だ。

 

「お、おい! 大丈夫か……っ!?」

 

 そんな状態の咲月を心配したか、護堂が駆け寄ろうとするが直後に足を止めた。理由は、巨大な狼が咲月と護堂の間に割り込んで来たからだ。

 主を守る様に、マーナガルムは護堂達に対して威嚇の唸りを上げる。

 

「神獣……!」

 

 その狼を見て、金髪の少女――エリカが呻く。カンピオーネやまつろわぬ神程とは言わないが、神獣も魔術師たちにとっては危険な存在なのだ。この場で渡り合えるとしたら、護堂しか居ないだろう。

 だが呻くエリカとは別に、祐理はぼんやりとした表情で狼を見ていた。彼女の体から呪力が漏れる。

 

「……巨大な狼、光と死……陰らせる者……最強の……?」

「その不敬をやめなさい、万里谷祐理……!」

 

 ぼんやりとして狼を見ていた(おそらく霊視だろう)祐理は、呪力を孕んだその声を聞いて強制的に意識を引き戻され、声のした方へ顔を向けさせられた。

 和泉咲月。アテナにそう呼ばれた魔王と目が合った。その目は翡翠色に輝き、呪力を漏らして祐理を睨んでいる。――その輝きが、祐理のトラウマを刺激した。

 エメラルドに輝く、暴君の虎の瞳。

 

「ひっ――!? あ……!?」

 

 翡翠に輝くその目を見た瞬間、祐理は自分の中から先程得た情報が消えて行くのを感じた。同時に、まったく別の情報が消された情報に上書きされ、元の情報が分からなくなる。

 権能だ。彼女はなけなしの呪力を振り絞って神託の権能を万里谷祐理に使ったのだ。

 今度こそ全ての力を使い果たしたのか、咲月は槍を虚空に消し、倒れ込んだ。巨狼が心配そうに、血の気を失い蒼白なその顔を舐める。

 

「……マーナ、良いわ。大丈夫、帰りましょう……?」

 

 掠れた、か細い声でそう言い、咲月は何とか身を起こしてマーナガルムの毛に捕まる。主の意図を察したマーナガルムはその体躯を下ろし、咲月が乗り易い様にする。

 

「ありがと……行って……!」

「おい! アンタ、万里谷に何をした!? 待て!」

 

 咲月が乗った事を確認し、マーナガルムは身を起こし、この場を去るべく走る。それを護堂が止めようとするが、マーナガルムは完全に無視して建物の上に飛び上がり、何処かへと走り去って行った。

 

「くそっ、何だったんだ!?」

「そんな事は後で良いでしょ? ちょっと、大丈夫?」

 

 逃げ去った咲月とマーナガルムに舌打ちする護堂だが、エリカの言葉で祐理の事を思い出す。彼女は咲月に権能を使われたのだ。どんな影響が在るか分からない。

 

「万里谷、大丈夫か!? エリカ、どう言う力か分かるか!?」

「分かる訳ないでしょう! 唯でさえ本当にもう一人居た事に驚いてるのに、どんな権能かなんて……!」

 

 護堂の問いに、エリカが癇癪を起したように言う。彼女も混乱しているのだろう。アテナの場所に追い付いたと思ったら、そこにはもう一人の魔王が居て、死闘を繰り広げていたと言うのだから。

 その中で、甘粕だけが冷静だった。

 

「和泉咲月さん、ですか……」

 

 七人目の魔王の名前。それを小さく口に出して、彼は巨狼の去って行った方向を見ていた。

 名前だけでも大きな情報だ。これだけでも、委員会の力を使えば探し出す事は可能だろう。だが、まずは上司に報告する事からか。

 そう思いつつ、甘粕は三人の元に近付いて行った。朧月が、妖しく輝いている。

 



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11話 戦後

 

「……和泉咲月さん。私立城楠学院に通っている3年生で、草薙さんの二つ上。歳は今年で18歳。閑静な住宅街の一軒家に住んでいますが、一人暮らしですね。4年前に家族でアイルランドに旅行に行ったところ、事故に遭っています。ご両親はその事故で死亡、記録では彼女だけが生き残ったとなっていますね」

 

 東京都千代田区三番町。番町皿屋敷の舞台にもなったと言うその街の一角に在る、とても古びた洋館。大正時代に建てられたと言うその洋館は極めて旧い外見をしており、老朽化も激しく、妖しい雰囲気を出している為か幽霊屋敷とも言われている。

 そんな不気味な屋敷の中に現在、甘粕は居た。くたびれたスーツに無精ひげと言う、相変わらずだらしのない格好をした彼は、その手に数枚の紙――正史編纂委員会の権限を使って調べ上げた、咲月の情報だ――を持っており、それを見ながら彼の前に座っている人物に報告していた。

 昨晩の戦闘からまだ十時間前後しか経っていないと言うのに、必要とされる情報を集め、纏めあげるこの手際、如何に彼が優秀であるかが窺える。

 甘粕の前に座っているのは一人だけだ。その人物は若く中性的な容貌を持ち、男物の衣装に身を包んでいる為に少年の様にも見える。歳の頃は十代後半と言ったところだろうか。男にしては細い指で自分の髪を弄り、奇妙に色気を感じさせる、美少年と言って良い存在だ。

 

「和泉咲月さん、ね。それが草薙さんに次ぐ、我等がもう一人の魔王陛下の名前かい? 甘粕さん」

「草薙さんに次ぐ、と言うのは相応しくないでしょうね。寧ろ彼の方が、彼女の後輩に当たる様な事をアテナが言ったらしいんで。実際、権能の数も草薙さんより多く、二つか三つはある感じでしたね……と言うか馨さん、手元に同じ資料がありますよね?」

 

 甘粕が穏やかに笑いながらそう言うと、彼の前に座る馨と呼ばれた人間は薄く笑みを浮かべてはぐらかした。

 沙耶宮馨。それが甘粕の前に居る人間の名前だ。男物の服を着ている為に男性に見えるが、これでも立派な女性、しかも祐理と同じく媛巫女の一人であるこの屋敷の主だ。

 日本呪術界でも強い権力を誇る「四家」と言われる一族の一つ、沙耶宮家の次期当主であり、甘粕の上司でもある彼女は同時に、正史編纂委員会東京分室室長であり、また委員会次期総帥最有力候補だ。ちなみに咲月と同い年でもある。

 

「まあそうだけど、資料よりも直接姿を確認した人の話を聞く方がいいと思ってね。……で、甘粕さんから見て、その御仁はどんな方だと思ったのかな?」

 

 髪を弄りながら、馨は甘粕に問う。いずれは自分も直接確認する事になるだろうが、まずは直接姿を見た男から情報を仕入れておこうと思ったのだろう。

 

「さて、どう言って良いのやら。実際見ただけで、話をした訳ではありませんし。まあ、初見の印象で言えば草薙さんよりも危険度が高い、と言う感じでしょうか」

「危険度が高い、ね……どう言う感じにか、説明してもらえるかな」

 

 甘粕の言葉に馨が問いを投げる。甘粕はそれに、すぐに答えた。

 

「私達が彼女を見たのは昨晩、彼女とアテナが決着をつけようとしていただろう場面なのですがね、あの方は戦闘を楽しんでいた感じでしたね。早い話が、ヴォバン侯爵と同じ様な性格を持っているのではないかと感じた次第です」

「それはまた、確かに危険度が高いね……」

 

 甘粕の言葉に馨は余り深刻そうに聞こえない口調でそう言った。

 ヴォバン侯爵とは世界に存在する七人、いや八人のカンピオーネの内で最古参に属する三人の魔王の一人だ。齢は三百歳を越えるともされ、数百頭の狼を召喚し、死者を僕として使役し、嵐で街を吹き飛ばし、地獄の業火で全てを焼き払い、邪眼で人々を塩の柱に変えると言う凄まじい権能の所有者である。

 その尽きる事のない戦闘意欲、そして所有する権能の多さから、現在では人々はおろか敵対する神にすら恐れられ、避けられている。その所為で、現在ではその戦意を持て余し気味だと言う。

 魔王としての特権と戯れに街や村を滅ぼす気紛れさから、正しく『暴君』と言うに相応しい人物だ。

 

「さて、そんな御仁だったら、僕たちはどう動いた方が良いかな……」

「まずは監視に留めて、ある程度どう言った人物か判断した後で接触する、と言うのが妥当とは思いますけどねえ。この人が真実ヴォバン侯爵みたいな方だとしたら、藪を突いて蛇どころの問題じゃ無くなりますねえ」

「魔王様だからね。蛇どころか竜蛇でも足りるかどうか」

 

 あっさりとした馨の言葉に、甘粕は相変わらずの笑みを向ける。

 和やかな空気で咲月の事を話し合う二人だが、この件がどんなに危険に近いものかは、十二分なほどに理解していた。何せ、相手は神すら殺す人外の魔王なのだ。接触して下手に機嫌を損ねようものなら、正史編纂委員会と言う組織そのものが存続の危機に直面する。

 それだけならまだ良い。いや、よくは無いが、もう一つの可能性も考えたらまだ被害が少ないと言えるだろう。

 もう一人の魔王、草薙護堂と彼女が激突する可能性も考えれば、被害はそれだけに留まらず、首都圏全域の機能が麻痺――いや、最悪の場合壊滅すると言う可能性もある。と言うか、寧ろその方が高いだろう。下手な行動を取る事は出来ない。

 しかし情報は欲しい。最悪、どのような性格なのか、どのような性質の権能を所持しているのかと言う情報だけでも得られれば対策を取る事は出来るのだ。どの程度その効果が見込めるかは未知数だが。

 

「そう言えば、祐理が権能を受けたんだったっけ? 狼の物もそうだけど、どんな物か分かったかい?」

「それがさっぱりで。狼の方もそうですが、祐理さんはヴォバン侯爵とのトラウマを刺激されたみたいでして、権能を受けた記憶が抜けてしまっているみたいです」

「あちゃぁ……」

 

 甘粕の報告に馨は頭に手を当てる。記憶に関係する権能かどうかは分からないが、自分の情報を出来る限り与えないようにするとは、彼の魔王陛下は中々徹底しているようだ。

 どうすればいいか、馨は考える。事をうまく運ぶ事が出来れば二人の魔王を擁する事が出来るが、下手をすれば組織が壊滅する。必要なら犠牲を出す事は厭わない物の、基本その様な事はしたくない。

 草薙護堂に対して計画している様に、相手を見繕って愛人になる様な人間を送りこむと言う手も有るが、効果を表すかどうかは不明である。何せ相手は草薙護堂以前に魔王となった女性である。送り込まれる人材がそう言った目的を持っている事くらい理解しているだろう。送り込むとしても、下手な人材は出せない。やはりまずは監視からか。

 そんな事を思っていると、目の前の男が視界に入った。自分の懐刀でもある、呪術師兼隠密の男。魔王や神、神獣には及ばないが高い戦闘力を持っており、口先も中々達者で逃げ足も速い。もし見つかっても、生還する可能性は高いだろう。

 

「甘粕さん。悪いけど、ちょっと咲月さんの所に行ってくれないかな」

「……はい?」

 

 馨の命令に、甘粕は一瞬何を言われたか分からない様だった。

 後に甘粕は語る。それはある意味、死刑宣告の様な物でした……と。

 

 ●

 

 甘粕達が咲月に対する対応を決める会話を交わしている頃。二人の呪術師(一人は兼隠密だが)の会話に上っている当の魔王たる咲月は、自宅のベッドにて横になっていた。窓から射し込む陽光に照らし出されたその顔は穏やかで、戦いの際に表出していた猛々しさは微塵も見られない。瞼は閉じられ、琥珀色のその瞳は隠されている。眠っているのだ。

 昨晩のアテナとの死闘で多量の血を失った彼女は、マーナガルムの背に乗って護堂達の前から立ち去り、念の為に態と遠回りし、家に帰り着いた所で作り置きしていた回復用の霊薬を飲み、傷を癒す為にすぐに眠りに就いたのだ。

 カンピオーネの生命力と回復力は凄まじい。骨が折れ、内臓が傷付いた状態でも一晩眠れば殆ど回復したも同然の体になるのだ。持ち前の回復力に加えて霊薬の効果もあって、アテナから受けた傷の殆どは、右胸の矢傷を除いて既に消え失せていると言ってよかった。その矢傷も、薄らと残るのみである。

 彼女の眠るベッドの端には、15mの巨狼の姿から普段と同じ子犬サイズに戻ったマーナガルムがちょこんと座っていた。その目は深い眠りに就いている主人の方へと向けられている。目覚めを待っているのだ。

 

「……ん……」

 

 午前10時48分。土曜日の為、学校は休みである。

 微動もせず、声も出さず、マーナがじっと咲月の顔を見ていると、彼女が小さく声を出した。閉じられていた瞼が僅かに震え、ゆっくりと開かれる。琥珀色の瞳が露わになった。

 開かれたその瞳にはすぐに消え去ったが、僅かに翡翠の輝きの残滓が見て取れた。深い眠りの中で、神託の権能が発動していたらしい。

 一般人なら既に死んでいる筈の負傷から回復し、目覚めた彼女はしかし、意識は完全に覚醒している訳ではないらしい。アテナとの戦いで血を流し過ぎた所為か、その目はぼんやりとしている。

 目覚めた咲月にマーナは近付き、ぼうっとしている彼女の頬を舐める。一度ではなく二度、三度と繰り返されるそれに、ぼんやりとしていた咲月が顔を向ける。

 

「……おはよう、マーナ」

 

 何度か顔を舐められるうちに少しずつ意識がハッキリとして来た咲月は、ベッドに横になったままそう言いマーナの白灰色の毛並みに手を伸ばし、薄く笑みを浮かべながら撫でた。撫でられながら、マーナはもう一度主人の顔を舐め上げた。

 それに目を細め、咲月は横たえていた身体を起こす。身体に倦怠感は無く、寧ろ気力が充実している。呪力もほぼ完全に回復している。貧血で意識が遠のくと言った事も無く、異様に空腹を覚えると言う点以外では、完全に回復している状態だった。

 

「ん……ふっ……」

 

 身を起こす動きによって咲月にかかっていた布団がずり落ち、何も身に着けていない肌が露わになった。肌が布地に擦れ、擽ったい。

 普段はきちんと寝間着を着て寝る彼女だが、昨晩は激闘の疲労と血の流失で意識が朦朧としていた為、服を全て脱いですぐにベッドに倒れ込み、泥に沈むように眠りに就いたのだ。

 服を脱いだだけで、風呂に入った訳でも身体を拭いた訳でも無い。その為、ベッドのシーツと彼女の身体は、乾き切っていなかった彼女自身の血で赤黒く汚れている。洗えば汚れは落ちるかもしれないが、完全には難しいだろう。全体に染みついた赤は見た人を驚かせる可能性が高い。もうこのシーツは使えないだろう。捨てるしかないか。

 そんな事を思いながら、咲月は自分の胸に指を這わせる。右胸にはアテナに放たれた矢で刻まれた矢傷が残っている。胸、肺を貫通し、背中まで串刺しにした深い傷跡だ。しかしその痕は薄く、おそらくもう半日もすれば完全に消えてなくなるだろう。

 相変わらず出鱈目な回復力だ。そんな事を思いつつも、咲月は昨夜の戦闘を思い出す。

 槍と大鎌。雷と闇。蛇、梟と狼の戦闘。地中海最強の女神アテナとの、血で血を洗うと言って良い死闘。自分の心を、戦闘意欲をこの上ないほどに潤し、滾らせ、昂らせてくれた女神との血戦。とても楽しいと思えた、極小規模の戦争。

 血が滾り、あそこまで楽しいと思えたのは北欧――スウェーデンで巨大な人狼の姿で顕現したマーナガルムを討ち降し、神獣の権能を簒奪した時以来だろう。あの時も死にかけたが、戦闘意欲を満たしてくれる良い戦いだった。

 

「…………」

 

 穏やかな笑みを浮かべながら、咲月は矢傷を撫でる。しかし、不意にその表情を険しく変えた。思い出すのは、昨晩の戦闘にやって来た八人目の魔王――草薙護堂と、その他三人の事だ。

 アテナとの決着をつけると言う場面でやって来た彼等――正確には草薙護堂だけだが――は、自分達の戦闘を非難し、戦いを邪魔してくれた。あと一度のぶつかり合いで決着がついていたと言うのに、ここぞと言う場面で水を差してくれたのだ。おかげで咲月の戦闘意欲は、不完全燃焼で鎮火してしまった。

 しかも彼は、自分も魔王と言う神を殺した身だろうに、周囲の被害を示して一方的に非難してくれた。

 確かに、かなりの被害は出ただろう。アテナの邪眼により完全に石化し、自分達のぶつかり合いで砕けたあの港はもう使えないか、復旧までにかなりの時間がかかるだろう。

 神との闘争はどうしても大規模な物になる。神も魔王も、唯の人間にとっては突如発生する天災の様な物。周囲に甚大かつ深刻な被害が出るのはある種、仕方のない事なのだ。彼とてそれは知っている事だろう。

 だが彼は、自分はその様な事をした事は無いとでも言うかのように非難して来た。もし本当に何の被害も出していないのなら、それは賞賛すべき事だろう。だが、それは無いと咲月は思っていた。魔王の戦いと言う物は、必ず何らかの被害や混乱を社会に撒き散らすのだ。自分も雪崩を引き起こしたり、遺跡を崩落させたりしてしまっている身だから良く分かる。

 案外、最近新聞やニュースを騒がせたイタリアのコロッセオが半壊した爆破テロ事件はテロではなく、彼が権能で引き起こしたのかもしれない。

 だとしたら、彼には自分達先達の魔王を非難する資格も、権利も無い。彼がどんなに否定しようが、結局は同じ穴の狢になるのだから。

 おそらく自分と彼は合わないだろう。性格や物事への価値観の違いと言う点でもそうだろうが、もっと根底の部分で。何となくだが、咲月はそう思っていた。

 

「ゲイボルグは……」

 

 いずれ彼とも戦う時が来るかもしれない。そうも思った咲月は、草薙護堂の事を思考の外に出し、アテナとの戦いで刃零れし、半壊状態に陥った愛槍の現状を確認する為に目を閉じ、意識を己の内側に向ける。

 槍のイメージが脳裏に浮かぶ。紅い、血の様に紅い魔槍の形状だ。その刃の状態は酷く、大きく刃零れしているだけでなく刃の部分全体に大きく罅が奔っている。もしあのままアテナと激突していたら、ほぼ間違いなく砕けていただろう深い損傷だ。

 呪力の減少具合から既に修復は始まっているらしいが、この状態では完全に修復するまで最低でも3日から4日、最悪一週間はかかるだろう。今の状態で攻めて来られたら不味い。特別な物でない限り、呪術や魔術はカンピオーネや神には通用しないのだ。

 

「やっぱり、もう一つくらい攻撃系があった方がいいかしら……?」

 

 咲月の権能は三つ。魔槍ゲイボルグと神獣マーナガルム、そして神託だ。こうして見ると、彼女に攻撃手段が槍とルーン魔術以外に存在していない事が分かる。

 ゲイボルグは基本必殺だが、壊れかけたら修復にやや時間がかかる。マーナガルムも一応、攻撃手段は持っているのだが、彼は咲月の騎獣になったり、光や死を司る神格に対して力を弱めさせたりと言った補助系の方に回る事が多い。神託に至っては直接戦闘に使う事は出来ない、完全に補助型の権能だ。

 ギリシアで得たこの神託の権能は、夢と死、そして神託を司る闇の神オネイロスから簒奪した物だ。予知夢を見たり、自分の意志で天啓や神託を得る事が出来るこの権能は、第六感に影響を与える能力である。的中率も高く、万里谷祐理以上だ。

 この権能は、その性質の為か直接戦闘に使える訳ではない。この力の真価は、直接的な戦闘力と言う点ではなく、情報と言う点にこそ存在する。

 ギリシアの夢神オネイロスは、夜の女神でもある原初神ニュクスの子とも、眠りの神ヒュプノスと死の神タナトスの兄弟とも、ヒュプノスとアグライアの子であるとも伝えられる。

 この神は夢の国から人界を訪れる時、象牙で作られた門と磨かれた角の門、二つの門のどちらかを通ってやって来ると言われている。そして、象牙で作られた門を通ってやって来た場合には偽りを、角の門を通ってやって来た場合には正夢となる神託を彼は人間に与えるのだ。言うなれば彼は、眠りの間に人々の心を癒し、夢を通して神意を伝えるメッセンジャーなのだ。

 咲月の神託は、この伝説――偽りの夢と真実の夢に由来する。真実と偽り、二つの神託を使い分け、情報で相手を撹乱する事が出来るのだ。そしてこの力は寝ている相手は勿論の事、起きている相手にも使う事が出来る。嫌な夢や幻を見せて、相手に精神的なダメージを与える事も出来るのだ。

 万里谷祐理に使ったのは、この力の内、偽りの夢を与えると言う能力だ。マーナガルムを見て霊視を発動した万里谷祐理に咲月は自分の力を見抜かれる危険性を感じ、それを防ぐために彼女からその情報を奪い、偽りの情報で上書きしたのだ。勿論、偽りの神託ではなく普通の神託を与える事も出来る。

 故にこの力を、咲月は「夢が紡ぐは嘘か真か」と名付けている。霊視を使う事が出来る巫女や魔女に対して有効な権能なのだ。

 

「とは言っても、早々神に遭遇する事なんてないし……はぁ、やっぱり、アテナを倒せなかったのは痛いわね……」

 

 言って、咲月は溜息を吐いた。

 邪眼か、聖獣か、アイギスか、それとも蛇の不死性か。分からないが、彼女を倒して権能を簒奪出来なかったのは痛い。権能の簒奪は、カンピオーネをさらに強くする事と同義でもあるからだ。

 代わりに、さらに闘争の深みに嵌まって行く事にもなるが、それは今さらだろう。神殺しに闘争は付物なのだから。いや、憑物と言った方がいいかもしれない。

 

「過ぎた事をぐちぐちと言っても仕方ないわね。それより……」

 

 きゅるるるるぅう~……

 

「…………」

 

 今後の動向をどうするかを考えようとした所で、可愛らしい音が鳴った。音の発生源はベッドの端でお座りしている子犬サイズのマーナガルム……ではなく、咲月の腹だ。

 音を認識した途端、異様なまでの空腹感が感じられた。

 

「…………まずは、シャワーね。その次に、食事」

 

 やや顔を赤くしながら、咲月はベッドから抜け出し、着替えを持って風呂場に向かい、マーナも彼女について行った。

 食事の準備はしない。昨晩は夕飯を食べずにアテナと戦ったので、手付かずの食事がそのまま残っているのだ。それを温め直して食べれば良いだろう……この空腹感では、一人分で足りるかどうか非常に怪しいが。何せ、ご飯5杯程度なら軽く平らげられそうな空腹感なのだ。それも茶碗ではなく、丼に大盛りで。

 昨晩作った食事の他に、インスタントの蕎麦やラーメン、スープ等も食べようか。そう思いながら、咲月は風呂場に着いた。

 戸を開いて中に入り、シャワーを操作する。熱い湯が出始め、それを浴びて身体に付いた汗や血等の汚れを落としていく。時間経過で凝固した血の残りが、熱湯に溶けて流れ落ちる。赤い色と、鉄錆臭い匂いがツン、と鼻につく。

 それに僅かに顔を顰めながら、咲月は黙ってシャワーを頭から浴び続ける。シャンプーやボディソープを泡立て身体と頭を洗い、汚れを落とす。それを暫く続けていると、ようやく汗や血の匂い、ぬめりが無くなった。

 泡を洗い流し、キュ……、と音を立ててシャワーのノズルを閉め、お湯を止める。汗と血は匂いと共に流れ落ち、身体にあった不快感は完全に無くなった。スッキリした。

 立ち昇り浴室に籠る湯気に隠れた咲月の体は、お湯の熱に当てられてほんのりと桜色に染まっていた。すらりとした彼女の肢体に濡れた薄亜麻色の髪が張り付き、妙に色っぽい。

 脱衣場に出てバスタオルで体を拭き、ドライヤーで髪を乾かして下着を身に着け、着替えを着る。白いシャツと膝までの長さの赤いフレアスカートと言うシンプルな服装だ。

 着替えた彼女はマーナを連れてリビングに向かい、冷めきった食事を温め直して食べた。しかしやはりと言うべきかそれだけでは全く足りず、ラーメンやチャーハン等を作って食べ、それでようやく空腹が抑えられた。

 食事を終えた後、咲月は戦闘でボロボロになった衣服と血で汚れたシーツを処分し、今後どうするかを考え始めた。

 



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12話 隠密への処置

 

「さて、どうしたものでしょうねえ……」

 

 日曜の昼下がり。とある喫茶店の中で、甘粕は悩んでいた。それはもう、こんな彼を見る事はこれ以降ないのでは、と言う程に悩んでいた。外観からはいつもの様にだらしない格好で、柔和な笑みを浮かべているのでそうは見えないが。

 彼が悩んでいる理由は単純である。先日、上司である馨から「和泉咲月に接触せよ」と言う命令を受けたからだ。実際には接触ではなく、監視その他をしろと命令されたのだが、あまり変わりはないだろう。

 監視の対象が唯の呪術師や、一般人なら良かった。給料分は働く甘粕である。そこそこに働きながら、十分すぎるほどの情報を得て報告するだろう。普段からだらしない恰好をしているためにそうは見えないが、これで優秀なのである。

 だが、今回の仕事はある意味、最悪だった。

 監視の対象が、よりにもよって神殺しの魔王カンピオーネなのだ。しかも彼の見た感じでは、東欧の暴君ヴォバン侯爵に近い性格を持っているだろう魔王だ。

 これが草薙護堂ならまだ良かった。彼も魔王ではあるが、何処か甘い感じのする少年だ。年頃の男子と言う事もあって、近い年齢の女子や年上の女性が色仕掛けでもかければ、簡単に堕ちるかもしれない。不思議と相性がいい様に感じると言う万里谷祐理に迫って貰うのも選択としてはアリだろう。側に居たイタリア人女子――赤銅黒十字の大騎士でもある魔術師、『紅き悪魔』の名を持つエリカ・ブランデッリが少々厄介ではあるが。

 だが今回の対象、和泉咲月は女性の魔王である。草薙護堂にする様な色仕掛けは通じまい。年頃の男性を向かわせると言う手段はあるが、下手をすれば殺されるだろう。ざっと見た感じではあるが、彼女は草薙護堂と違って甘くはない様に感じた。必要とあらば、一切の容赦なく他者の命を奪うだろう。余り血を流したくはない。

 調べた情報では、彼女は学年こそ違うが、草薙護堂や万里谷祐理と同じ学校に通っている。草薙護堂に至っては、僅かに面識があるようだ。

 彼等に仲介を頼むか。そうも思ったが、すぐに却下した。

 万里谷祐理は先のアテナと咲月の戦いで霊視を行い、彼女の権能の一つである狼の権能の情報を得たがそれを奪い取られ、さらにトラウマまで刺激されたのだ。咲月の権能の影響なのかその記憶を彼女は失っているが、接触すれば再びトラウマが蘇る可能性がある。

 草薙護堂はそう言った事はないだろう。しかし話した時間は少ないが、あの少年は他のカンピオーネと自分は違うと考えている節があるように感じられた。港の被害の事や万里谷祐理に対して使った権能の件で彼女を一方的に非難しそうな感じがする。それに対して彼女が怒りを覚えれば、首都圏のど真ん中で魔王同士の戦闘と言う緊急事態に発展しかねない。そんな危険を冒す事は出来ない。

 虎穴に入らずんば虎児を得ずとは言うが、今回は虎穴どころの問題ではない。さらには入っても、虎児を得られるかどうか非常に疑わしい。

 割に合わない仕事にも程がある。そう思いながら、甘粕はコーヒーを飲んだ。舌に感じる苦みが、一層苦く感じられた。

 その苦みに僅かに顔を顰めながら、甘粕はなんとはなしに窓の外に目を向けた。

 

「おや……」

 

 窓を通して見る景色の中。その視線の先に、自分をここまで悩ませている件の人物――和泉咲月その人が居た。何やら、微妙に呪力を感じさせる子犬を連れて歩いている。

 彼女の姿を見て、甘粕は考える。危険ではあるが、上手く行動すれば直接接触せずにある程度とは言え彼女の情報を得る事が出来るので、ある意味ではチャンスでもある。

 さっさとこの仕事を終わらせよう。そう思い、彼はコーヒーを飲み干し、代金を置いて喫茶店を出た。

 

 ●

 

 アテナとの戦闘から一日と数時間経った日曜の昼下がりである現在。咲月は水色のシャツと黒いチェック模様のスカートを着て街中を歩いていた。散歩も兼ねているのだろう、彼女のすぐ傍にはマーナがついて歩いていた。

 子犬サイズの神獣を連れて街中を歩きながら、咲月は今後どうするかを考える。

 草薙護堂と一緒にアテナとの戦いの場に現れた三人。万里谷祐理以外名前も顔も知らない女子と男性だったが、二人とも、まず間違いなく魔術師だろう。カンピオーネと行動を共にしていた事もそうだが、彼等からはそれなりに強い呪力を感じ取れた。それなりに高い地位と実力を持っているのだろう。何らかの組織にも所属しているかも知れない。

 だが、だとすれば厄介である。草薙護堂と万里谷祐理もそうだが、彼等はアテナから自分の名を聞き、顔を見た。権能の情報は奪い取り、偽りの情報で上書きしたので知られる事はないだろうが、自分の存在と名前、顔が知られてしまった。

 カンピオーネは魔術師達にとって王である。その血は王族同然の価値を持ち、取り入ろうとする輩も、庇護を得ようとする魔術組織も多く存在する。魔王を戴いた組織は、魔術界で発言力や影響力が強くなるからだ。

 彼等から情報が拡散すれば、まず間違いなく咲月の元にもそう言った輩が群がって来るだろう。文字通り、砂糖菓子に群がる蟻の様に。

 その様な事は、咲月は望まない。彼女の望みはただ、身の周りの静寂と平穏のみだからだ。

 だが平穏を望むその心とは別に、咲月には闘争を望む強烈な心も存在していた。神殺しとなったからこの心を持ったのか、それともこの心が最初から存在したからこそ神殺しになってしまったのかは分からない。分からないが、平穏と同じくらいに闘争も好きなのだ。

 平穏が好きだが、戦いも好きと言う矛盾した感情。それは咲月自身も理解している。だからこそ、神と戦う場合は嬉々として応戦するのだが、基本は平穏をこそ望んでいるのだ。

 そんなに平穏を望んでいるのなら人間社会から離れ、仙人の様に何処か遠い、辺鄙な山奥にでも籠ればいいと思うだろう。実際、咲月もそれは考えた。

 だが、4年前の当時は義務教育機関と言う事もあってその選択は取れず、また、両親と過ごしたこの土地から離れる事も何となくだが気が引けた。

 それから4年間、ずるずると過ごして来て現在に至り、今では引っ越すと言う考えは完全に無くなってしまっていた。

 

(まあ、それは別として。どうしようかしら。探し出して「余計な干渉はするな」とでも言えばそれで良いとは思うけど、彼達の住所は知らないし、名前すら知らない人も居たし……考えてみれば、個人に言っても組織が止まるかどうか分からないのよね。実際に組織に属しているかどうかも分からないし。面倒だわ……)

 

 ――最悪の場合、下手に干渉して来ればどうなるか分からせる為に、見せしめとして殺す事も選択肢に入れておいた方がいいか。

 そんな物騒極まる思考が咲月の脳裏を掠めるが、すぐにその考えを振り払った。殺す事自体は簡単だが、それはあまりに短絡的に過ぎるからだ。

 草薙護堂と魔術師三人が一緒になって現れたのは、あの三人が彼の庇護下にある為かも知れない。実際に庇護下にあるかは分からないが、もしその考えが当たっているのなら、確実に草薙護堂と戦闘になるだろう。

 別に彼と戦う事は構わない。あの少年には厄介事――アテナをこの国に呼び寄せ、自分の平穏を崩された恨みと戦いの決着を邪魔された怒りが僅かだが残っている。ゲイボルグが修復中の現在は無理だが、喧嘩を吹っかけてくるのなら、神と戦う時と同じく応戦しよう。

 だが、あの少年からは何か妙な感じがした。斃した神はまだ一柱の筈だろうに、嘗めてかかると痛い目を見る様な、そんな感じを直感で受けたのだ。

 何かに化身する神格を斃し神殺しとなっただろう事は、以前ちらっと見た時に得た情報から察してはいるが、それがどう言った能力かまでは分からなかったのだ。

 先日のアテナの言葉から、能力の一つが蘇生系だろうと言う事は分かったが、それだけだ。他の能力はどんなものか、どんな神を殺したのか、まだ分からない。

 神託の権能を使えば情報は得られるかもしれないが、まだ呼び水とする為の情報が少なすぎる。自分に神託を齎す為には、ある程度とは言え相手の神格や権能の情報が呼び水として必要なのだ。せめてあと一つか二つ、欲を言えば三つ彼の力を知る事が出来れば、問題なくオネイロスの力を発動できるとは思うのだが……。現時点で無い情報を考えても仕方がない。

 四年とは言え、自身は先に魔王と化した身だ。権能の数も戦闘経験も彼より多い。魔王になってまだ数ヶ月の後輩に、先達として負けるつもりはない。草薙護堂に対しては、それでいいだろう。今は術師たちへの対応が先だ。

 まずは軽く脅しをかけて、暫く様子を見よう。それで動こうとする輩が居れば順次脅しを掛けて行き、変に干渉される事を防ごう。

 命を奪う事は、本当の意味での最終手段にしようと、そう思った。

 

(そうと決まれば話は早いわね。眼鏡の男性と金髪の女子はともかく、草薙護堂と万里谷祐理は同じ学校に通っているから、そこで話せば良いでしょう。問題は残りの二人だけど……?)

 

 考えを纏め、どのように行動するかをある程度とは言え決めた所で、咲月は僅かに違和感を覚えた。先程までは感じられなかった視線を感じたのだ。

 だがそこまで強い訳ではなく、寧ろ弱いと言って良いだろう。注意して視線を探らなければ分からない程に、向けられている視線に乗せられた意思の色は薄い。神託の権能の影響で引き延ばされ鋭くなった第六感があるからこそ感じ取る事が出来た。

 視線を下にずらして見れば、マーナもその視線を感じていたのか、唸り声こそ上げていないが僅かに毛を逆立てて警戒心を表している。

 

(……敵意や害意は感じられない。欲得じみた視線でもないけれど、友好的な視線と言う訳でもない……)

 

 微かに感じられる視線に宿った感情を読み取りながら、どのような手合いがこの視線を自分に向けているのかを分析する。

 この視線に乗せられた感情は友好的ではないが、非友好的と言う訳でもない。ならば興味か何かで見ているのかとも思ったが、すぐに違うと判断した。

 4年前の時点から学校や街で大勢の人に見られ続けた事から、咲月は自分の容姿や髪色がそれなりに人目を引く事を自覚している。家族が死んでしまった事や髪の色が変色してしまった事で向けられた感情は興味や憐憫など様々だったが、その経験から人の視線に乗せられた感情にも敏感になり、読み取れるようになったのだ。

 しかし今向けられている視線に、そう言った感情はあまり見られない。寧ろ監視か、観察のそれに似ていると言った方が良いだろう。

 

(……早速来た、と言う事かしら)

 

 魔術組織に属しているかいないかは分からないが、おそらくこの視線の主は「こちら側」に関わりを持つ者だろう。

 自分がカンピオーネだと知っているのは、現時点でまだ草薙護堂を始めとした4人のみの筈だが……当人達の誰かか、それとも彼等から広がった情報を知った術師だろうか?

 

(いえ、そう言えばもう一人居たわね)

 

 思い出すのは2年前。ギリシアでオネイロスを殺して神託を簒奪し、帰国する前に出会った老魔術師だ。どう言った手法で知ったのかは分からなかったが、彼が最初に自分が魔王と見破ったのだ。

 あの好々爺然とした老人から情報が漏れたのか? とも思ったが、すぐに否定した。

 彼には王として「自分の名を漏らすな、記録するな」と、強く命令したのだ。

 諫言をする事はあるが、基本的に魔術師は王たるカンピオーネに逆らえない。いくら自分が組織や魔術師に関わりを持とうとせず、当時の時点で知るものが居なかった魔王とは言え、その命令は絶対だ。

 他の王に脅されたら情報を漏らす事は有るかもしれないが、魔術師に対してはたとえ相手が賢人議会のプリンセスであっても漏らすなと、魔槍と神獣の権能まで使って脅しを掛けて命令したのだ。命が惜しいのなら、反するとは思えない。

 

(さて、どうしようかしら……)

 

 視線を向けてくる何者かに、どう行動するか考える。

 おそらく、自分が本当に魔王たる存在なのか、確認しに来たのだろう。だが、それならこうして普通に歩いているだけでは分からない筈だ。マーナを見て判断する事も難しいだろう。神獣ではあるが、現在は名を奪って力を使い魔レベルにまで抑えているのだから。

 ならばどう来るか。考えられるのは二つ。一つは馬鹿正直に、真正面から来て確認する方法。もう一つは見えない場所から、何らかの呪術を放って来ると言う物だ。

 この二つの中で取るとするなら、普通なら前者だろう。確実に魔王だと確認する事は出来ないかもしれないが身に降りかかる危険は比較的少なく、間違えていたら単純に笑い話や冗談で済ませられるからだ。

 だが、それなら今すぐにでも来ていい筈。その様子がない事を考えると、今回は後者か。カンピオーネに、外からの魔術は一切と言って良い程効果はない。全て弾いてしまうからだ。

 誰が放ったのかを気付かれた時の危険性は前者の比ではないが、確実にカンピオーネかどうかを調べる事が出来る。そう言う見方で見れば、前者よりも有効な手だろう。

 しかし、そんな事を許す咲月ではない。自分と関係ない他人がどうなろうが知った事ではないが、こと自分の平穏に関する事に限り、一切の情けや容赦が無くなるのだ。

 

「マーナ、吠えたりしちゃダメよ。気付いてるのに気付かれるから」

 

 何かをされる前に、こちらから仕掛ける。そう決めた。

 まだ雷速や必中、毒槍として使う事は出来ないが、通常の武器としてなら普通に使える程度にはゲイボルグは修復されている。呼び出しの術で短剣等を召喚する事も、ルーン魔術を使う事も出来る。武装に困りはしない。

 殺しはしない。一番楽で手っ取り早い選択だが、誰かに見られれば厄介な事になるからだ。だが、脅迫ぐらいはさせてもらう。

 声には出さず、心でそう思い、咲月はマーナを連れて歩きだした。

 

 ●

 

 街中で、偶然とは言え咲月の姿を見つけた甘粕は隠密としての技量を使い、足音を立てずに彼女を追っていた。

 ざっと見で50mは離れている彼女を、彼は人混みの中から目敏く見つけ出し追跡する。服装はともかく、日本人には普通見られない薄亜麻色の髪と側に居る白灰色の子犬が目印になる為、追跡自体は割と容易い。

 つかず離れず。そんな距離を保ちながら甘粕は咲月を尾行する。街中だけでなく、住宅街や公園付近等を歩く。当ても無く散歩でもしているのだろうか、何処かを目指していると言う風には見られない。

 しかしある程度尾行した所で、甘粕は違和感を覚えた。別に歩く場所が可笑しいのではない。街中を歩いたり公園を歩いたり、散歩として見るなら普通だ。

 だが、人が居ないのだ。尾行を始めた時はそれなりに居た筈が、徐々に少なくなっていき、今居る場所――公園だが――には、子供さえ一人も居ない。

 甘粕は優秀である。すぐにこの状況が危険であると判断した。どうやったのかは分からないが、どうも自分の尾行は気付かれていたらしい。いつの間にか、50mほど先に居た筈の咲月もその姿を消しており、先程まで感じなかった呪力を感じる。

 何故と思い呪力を感じる場所に目を向ければ、木の幹や小石の表面に赤い何かで小さく記号の様な文字――ルーン文字が書かれていた。しかも正位置ではなく、逆位置で書かれた物だ。この形で書かれたルーンは、正位置のそれとは逆の効果が現れる。

 拙い。即座に判断し、甘粕は自分の全速で以て、全力で逃走しようとし――

 

「――動くな」

 

 出来なかった。氷の様に冷たい声音で、ハッキリとそう命令される。かなりの呪力を孕んだその命令が、甘粕の動きを縛り上げる。ナイフか何かだろうか、背中の一部――心臓の位置に硬く冷たい、尖った何かを感じる。

 僅かに顔を動かして背後を見ると、気配すら感じさせずにどうやって移動したのか、そこには見失った筈の咲月が居た。微かに見えたその瞳は琥珀色だったが、祐理に権能を使った時の様に鮮やかな翡翠色に輝いている様にも見えた。

 

「貴方、確か草薙護堂と一緒に来た呪術師の一人だったわね……一応聞くけど、私に何の用かしら。ああ、変に誤魔化そうとしたり、逃げる為に術を使おうとしない事ね。まだ眠りたくないでしょう?」

 

 咲月は言外に「死にたくないのなら正直に話せ」と冷たく、感情を感じさせない声で甘粕に言う。

 流石に死ぬのは勘弁である。そう思った甘粕はまず自分がどう言った存在かから話し始めた。

 

「初めましてと言いましょうか、それとも別の言葉を言うべきでしょうか? 正史編纂委員会所属、甘粕冬馬と申します。王よ」

「委員会、ね……目的は私の持つ権能の情報かしら? それとも委員会に抱き込もうとでも言うのかしら……」

「いえいえ、そんなつもりは。ただ、真の七人目の王たる御身に御挨拶をと――」

 

 相変わらずの飄々とした口調で自己紹介する甘粕に、咲月は何の感情も抱いてない様な声で目的を問うてくる。それに対して甘粕は「挨拶に来た」と言うが、背中に感じる硬い感触がほんの僅かだが押し込まれたのを感じ取った。これ以上はぐらかそうとすれば、問答無用で心臓に何かを突き込まれるだろう。

 さらにいつの間にか、足元に咲月が連れていた白灰色の子犬も居た。呪力を感じさせる犬は、心なしか先程見たときよりも多少大きくなっている様にも見えた。低く唸り声を上げ、異様なまでの威圧を感じさせる。

 言わねば死ぬ。本能的にも理性的にも、甘粕はそう確信した。

 

「……はい、その通りです。まあ、正確に言うのでしたら権能の情報の他に、性格等の調査も命じられていまして……」

「誰に命じられたのかしら? 言いなさい」

「それは……」

「聞こえなかったのかしら? 言いなさい。王として命じるわ。貴方も呪術師の端くれなら、逆らえばどうなるか分かっているわよね」

 

 硬い感触と冷たい言葉に、威圧が追加された。足元の子犬の物と合わせ、全身から冷や汗が噴き出るのを感じる。

 間違いない。この姫王はヴォバン侯爵と似たような性格の持ち主だ。しかもこの子犬。まさかとは思うが、あの狼の神獣か?

 

「四家のお一つ。沙耶宮家の馨と言う方です。私の直接の上司に当たります……」

「ふぅん。沙耶宮馨……ね」

 

 甘粕の口から出た名前を、咲月は特に興味も無さそうに反芻する。

 

「……そうね、じゃあその分室長の女にこう伝えなさい。『変に嗅ぎまわったり、干渉しようとしたりするな』って」

 

 言われると同時に、甘粕の背中から硬い感触が無くなった。その事と咲月の言葉に甘粕は表情に出さず驚いていたが、すぐにその心は別の感情に取って代わられた。彼女が甘粕の背側から、前面に歩いて来たからだ。その目は完全に、翡翠色に変色し輝いている。

 その目を見た瞬間、甘粕は自分の中の情報が別の物に上書きされ、消されて行くのを感じた。同時に、意識が遠くなる。

 

「戦いも好きだけど、私は基本的に平穏が好きなの。生活を乱されれば、私は容赦なく貴方達に槍を向けるわ……その事を肝に銘じなさい」

 

 咲月のその言葉を最後に、甘粕は意識を失った。

 



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13話 嫌悪

 

 尾行し、咲月の情報を探っていた甘粕に権能「夢が紡ぐは嘘か真か」を使い、彼から自身に関する情報の幾つかと草薙護堂に関する情報、そして彼自身の意識を奪った翌日の月曜。咲月は普段と同じ様に4時に起床し、シャワーを浴び着替えた後で弁当を作り、朝食を食べて歯を磨き、両親の仏壇に祈りを捧げてから、6時に家を出て学校へ向かった。

 朝のまだ涼しい時間帯に、微風に髪を遊ばせながら咲月は住宅街を歩く。アテナの影響が無くなったのか、道や電線、塀の上、木の枝には彼女が到来していた時には見られなかった小鳥の姿が数羽だが見られる。スズメかメジロかは分からないが、チチチ……と鳴きながら木の実や虫を食べている。

 戦いの後、戻って来た日常の風景に僅かに目を細め、頬を緩ませながら咲月は歩く。

 神々との闘争は心を昂らせ、自分がその一瞬を生きていると言う事をハッキリ自覚させてくれるが、それとは正反対の静かで穏やかな日々は心を鎮め、落ち着かせてくれる。

 咲月が愛し、望んでやまない安寧の日々だ。アテナが日本に来ていたのは一日か二日程度の短い期間だったが、それでもようやく戻って来たと感じられるほど濃い日々だった。

 他にも、アテナと決着をつけると言う所で八人目のカンピオーネである草薙護堂が横槍を入れてきたり、戦いの後に正史編纂委員会の甘粕と言う男が尾行してきたりと嬉しくない事があったが、これから再び静かな日常を謳歌出来る。

 その事を喜びながら咲月は登校し、いつもの様に教師に挨拶して図書室に行った。

 

 図書室に行き、軽く掃除をした後で本を読み、朝礼の時間になる少し前に教室に戻る。教室の中はそれなりに賑わっており、男女関係なく朝礼までの時間をお喋りに使用している。僅かに耳に入る内容はゲームの話しであったり、土日に何をしたかであったりと年頃の少年少女らしい内容だ。

 そんなクラスメイト達を視界の端に収めながら、咲月は自分の席に向かう。校庭側の窓際前列2列目の席が彼女の席だ。

 自分の席に向かう際に男女問わず、クラスメイト達から視線を向けられたが、いつもの事なので気に留めない。

 鞄を置き、席に着く。授業に使う道具を鞄から机に移していると、一人の女子が咲月に近付いて来た。

 

「おはよ、咲月。今日も図書室行ってたんだ?」

 

 近付いてきた女子がにこやかに挨拶して来る。長い黒髪をポニーテールにした、活発そうな娘だ。

 

「お早う、美智佳。何年も、毎日やってる事だから、習慣になってるのよね。まあ、私が本好きだって言うのもあるけれど。朝早くだととても静かだから、よく読めるのよ」

 

 親しげに話しかけて来た美智佳と呼ばれた女子に、咲月は微笑みながらそう言って返す。友人なのだろう、気安く話す二人の間には壁の様な物は殆どと言って良い程感じられない。

 咲月に話しかけた少女の名前は佐山美智佳。物静かで一人で行動する事が多い咲月の数少ない友人の一人である。一般人である為、当然ながら咲月が神殺しの魔王である事を彼女は知らない。

 

「機嫌がいいわね。この土日に、何か良い事でもあったの?」

「あ、やっぱ分かる?」

「何年友人やってると思うのよ。少し見れば分かるわ。で、何があったの?」

 

 美智佳が纏う空気の感じから、咲月は彼女の機嫌が良い事を察していた。その事を問うと、からからと笑って美智佳は言った。

 

「いやね、兄貴がようやく……ほんっっっとにようやく一歩、彼女の人と進展してさ。兄貴の奥手は家族全員が知ってる事だけど、それが一歩でも進んだんだから……」

「ああ……だからなの」

 

 笑いながら言う美智佳に、咲月はやや感心した風な声を出す。彼女は何度か会った事も有る、件の男性を思い出していた。

 美智佳の兄である男性は、国立大学を首席で卒業し国家公務員となった才人である。また、頭の方もさることながら武道でもかなりの腕を持っており、特に剣道では全国でベスト8に入る程の実力を持つ。殺し合いならば確実に勝つが、単純に競技として戦うのであれば咲月さえ負けるほどだ。しかもその結果は才能の上に胡坐をかいて得た物ではなく、才能の上にさらに地道な努力を何年も積み重ねて手にした物だ。

 人付き合いも良く、天才ではあるが己の才を驕らず、心配りもでき別け隔てなく多くの人と接していた彼は友人も多く居る。無論、嫉妬されたりもしたが、それでも多くの友人が男女問わず居る。己の才能に日々の努力を重ね、文武両道を地で行く、真の意味での天才だ。

 しかしそんな天才でありながら、何故かこと恋愛に限って言えば奥手の一言に尽きる程に初心だと言える性格だった。しかもただ奥手なのではなく、その前に「究極の」と言う言葉が付いても可笑しくないレベルで奥手なのだ。

 美智佳が言った「彼女の人」とは、妹である彼女が知っているだけで既に3年の付き合いらしいのだが、デートに行っても未だに手を繋ぐのに顔を赤くする程で、キスになると硬直してしまうのだとか。

 美智佳が兄の彼女に聞いた情報によれば告白は兄の方からだったらしいが、その事を聞いた時は流石に奥手過ぎるだろうと思ったものだ。

 相手の女性は「それが良い」のだと言うが、完璧超人と言っても良い美智佳の兄の、ある意味で唯一の欠点とも言えるだろう。

 

「それは確かに機嫌も良くなるわね。で、どう進んだの?」

 

 彼の人となりを知るからこそ、咲月は純粋にそう思った。魔王と言う仰々しい称号を持ってはいるが、咲月も年頃の少女である。恋愛に憧れている訳でも、恋愛をしたいとも(そもそも普通に恋愛できるとも)思っていないが、美智佳から彼の事を聞かされる度に随分とやきもきしたものだ。

 しかしそれを聞いた途端、美智佳が急に黙った。気のせいでなければ、目の部分に影が差している様にも見える。

 突然の友人の変化に、僅かに戸惑いながら咲月はじっと見る。美智佳は少しの間沈黙し、そして言った。

 

「…………手を繋ぐ時に、顔を赤くして躊躇わなくなったって」

「………………ええ、と……そう」

 

 3年以上も付き合っていて、それは進展と言えるのだろうか。

 友人の言葉を聞いて咲月はそう思ったが、しかし声に出して問う事はしなかった。自分がどう思っても、友人やその家族が進展だと思っていればそれは進展なのだろうから。尤も、友人の反応を見る限りでは進展したと思いたがっているだけの様にも見えたが。

 何とも言えない微妙な空気が二人の間に発生する。それを嫌ったか、美智佳が話題を変えて来た。

 

「ま、まあ兄貴の事はもう良いとして! 咲月はどうなのさ? なんか、あんまり機嫌良い様には見えないけど」

「ああ……」

 

 友人の問いに、咲月はこの土日を思い出す。

 後輩の持ちこんだ神具の所為で神が来襲し、その神と戦う事になり、決着があと一撃でつきそうな場面で邪魔をされ、さらに正体がバレて甘粕とか言った呪術師に尾行された。しかも一方的に非難されたり自分の力を霊視されそうになったりと、正直に言って最悪な休日だったと言えるだろう。何せ、プラスが何一つとして無いのだから。

 そう思うと、再び怒りが込み上げて来た。

 

「知り合いとちょっとした勝負染みた事をしたんだけど、決着がつく瞬間に見知らぬ誰かに邪魔されてね……」

「あらら、そりゃまた何と言うか」

「あとちょっとで決着がついてたって言うのに……。私の機嫌が悪いと思った理由、分かったでしょ?」

「咲月は勝負事とかで邪魔されるの嫌いだからねえ、そりゃ機嫌悪くもなるか。でも、どんな勝負してたのさ?」

「ん……まあ、ちょっとしたゲームみたいなものかしら。チェスとか将棋とか、そう言った感じの」

 

 実際にはチェスなどではなく、命を掛けた神との殺し合いなのだが、それを言う訳にはいかない。言っても信じる事は無いだろうし、痛い子扱いされるだけだろう。もしくは中二病か。

 そう思われるのは嫌なので咲月は、全てではないが内容を変えてある程度を話した。急に発生した停電や暗闇等は正史編纂委員会の術者達が対処して忘れさせている筈なので、話すのは勝負を邪魔されたという程度で良いだろう。ボードゲームと実際の戦闘と言う違いはあるが、勝負事には違いないのだから。

 それ以外にも色々と話し、朝礼の時間になると美智佳は自分の席に戻って行った。

 

 ●

 

 午前の授業を終え、昼休み。大勢の生徒達が友人と弁当を食べたり、学食に向かったり、購買にパンなどを買いに行ったりする中、咲月は一人、薄桃色の布に包まれた弁当箱とボトル、水筒を持って屋上へ向かっていた。陽の下で食事を取る為だ。

 友人達と一緒に食事を取ると言う選択も有ったが、それは取らなかった。理由としては、何故か咲月の弁当を強奪していくからだ。

 4年前に両親を亡くしてから、咲月は一人暮らしである。その為、必然的に炊事・洗濯・掃除などの家事の一切を自分で行うことになる。惣菜等を買う事が余りなく、4年の間ずっと食事を作り続けていた咲月の料理の腕は、同年代の学生達の中では頭一つ抜けており、見た目も味も、さらには栄養バランスまで良い彼女の弁当は友人達に人気だったのだ。

 もちろんタダで強奪していく訳ではなく、物々交換の様な形でそれぞれのおかずを渡して来るのだが、自分の弁当なのに自分の作った物が無くなると言う妙な事になる事が非常に多いのだ。今まででそうなった回数は、裕に30回を超える。

 それを回避する為に、咲月は午前の授業終了と同時に教室を出て、屋上へと向かっていたのだ。それも、態々気配を消すと言う無駄に高度な技術を使用して。

 

「物々交換は良いんだけど、私が作った物なのに、私の分が全部無くなるって言うのはね……」

 

 そんな事を呟きながら階段を上り、屋上への扉を開いた。白い雲の浮かぶ青い空が咲月を出迎える。授業終了と同時に出て来たからか、屋上にはまだ一人も居ない。一番乗りの様だ。

 その事に若干顔を緩ませ、咲月は少し離れた場所にある、日当たりの一番良いベンチに腰掛け弁当の包みを開いた。運動部でもない女子が食べるには、やや大ぶりの弁当箱だ。

 色は薄い水色で、所々に小さな桜の模様が描かれている可愛らしいデザインだ。爽やかな微風と日光に目を細め、咲月は弁当箱を開いた。

 今回の弁当の内容は鮭混ぜご飯の他に、鶏の唐揚げ、ホウレンソウの白和え、貝柱のバター焼き、サトイモの煮っころがし、出汁巻き卵、そしてスープボトルに入れた味噌汁と、水筒に淹れたお茶である。サトイモの煮っころがしは日曜の夕飯の残り物だが、味がしみて良い具合になっているだろう。

 

「いただきます」

 

 手を合わせ、そう言ってまず味噌汁を口に一口分含む。白味噌の風味が程良く、塩分が食欲を増進させる。その食欲に促されるまま、咲月は箸を持って鮭ご飯から食べ始めた。小口だが、結構な速さで食べ進める。

 咲月が屋上に来て食事を始めてから少し経って、他にも生徒達がやって来た。それなりに多く、他のベンチに座ったり、シートを敷いてその上に座ったりして弁当やパンを食べ始めた。

 静かで、穏やかな休み時間。平穏なお昼時に、咲月はささやかな幸せを感じて弁当を食べていた。

 

「あ、アンタは!?」

 

 が、その時間は瞬く間に崩れ去った。味のしみ込んだサトイモを幸せそうな顔でもぐもぐと咀嚼していると、そんな声が聞こえると同時に強烈な視線を3つ感じた。その声は聞いた感じでは、どうも自分に向けられているようだ。

 何かと思い口を動かしながら、視線を感じる方へ目を向けると、そこにはつい数日前、アテナとの戦いの時に見た黒髪の男子と茶髪の女子、そして金髪の女子が居た。草薙護堂と万里谷祐理、そして名も知らぬ異国の少女だ。三人とも目を見開いており、気の所為でなければ万里谷祐理は微妙に震えている様に見える。怯えているのだろう。

 三人の手には弁当箱や、購買で買ったのだろうパンやジュース類がある。彼等も同じ様に、屋上で昼食を取るつもりなのだろう。

 

「…………うわ……」

 

 現状で一番会いたくなかった三人と図らずも遭遇したことで、咲月は口の中の物を飲み込んでから、思わず嫌そうな声を出してしまった。おそらく顔には、それはもう嫌そうな表情が浮かんでいる事だろう。

 そんな咲月の反応を見たか、草薙護堂は顔を歪めて近付いて来た。それに従う様に金髪の女子と、怯えた様子の万里谷祐理もやって来る。

 

「……何かしら」

「何って、何だよそのあからさまに嫌そうな言い方! 失礼だろ!」

 

 真直ぐに咲月の居る場所に進んで来た護堂に対し、咲月は食事を取りながら、多分に棘を含んだ口調で問う。護堂に向ける目は、戦闘時の様に鋭くはないが、冷たさと若干の敵意を孕んでいる。

 その視線と口調に護堂はやや怯んだようだったが、すぐに持ち直して文句を言う。

 

「失礼なのはそっちの方でしょ。貴方、1年でしょう。先輩に対する礼儀がなっていないわよ」

 

 護堂の文句に、咲月はやや不機嫌そうにそう言って返す。学年で言えば咲月は3年で、護堂は1年である。取分けて仲が良いと言う訳でもないのに、いきなり歳下にタメ口で文句を言われたりしたら機嫌も悪くなるだろう。

 さらに咲月には、自分の平穏を崩された事とアテナとの戦いで邪魔をされた事、そして正体が露見した事に対する若干の怒りと恨みがまだあるのだ。

 正体がバレた事はアテナと、彼女との戦闘に夢中になっていた咲月の自業自得の部分もあるのだが、戦場における最上の興奮を味わえる筈の場面で水を差され、邪魔されたのだ。露骨に嫌そうな表現をするのも、ある意味で仕方がないかもしれない。

 

「……で、万里谷祐理や誰かも分からない異国の魔術師を連れて、一体何の用かしら? まさかとは思うけど、此処で戦るつもり? だったら遠慮せずに叩きのめすわよ」

「何で会ってすぐにそんな話になるんだよ!もっと平和的な発想は出来ないのか!?」

「……私の平穏を崩して、さらに楽しみを邪魔してくれた元凶が平和的にだなんて、よくもまあ言えたものね」

「元凶って……って言うか、何でそんなに嫌悪感丸出しで言うんだよ」

 

 護堂の言葉に、さらに機嫌を悪くした様子で咲月が言う。それに護堂が反論しようとし、さらにどうして嫌悪感を出しているのかを問う。

 それを聞いて、咲月はあからさまな溜息を吐き、言う。

 

「元凶でしょう。あの時も言ったけど、アテナをこの国に呼びこんだのは貴方でしょう、草薙護堂。忘れたとは言わせないわよ、貴方が持っていた、アテナが求めた神具を」

「う……」

「貴方があんな物を持ち帰ってくれたおかげで、私の平穏は崩されたわ。貴方が神具を持ち帰らなければ、或いはアテナを斃していれば私の平穏が崩される事はなかった筈なんだけど……逆にあっさり斃されるわ、結果として私に押し付ける形になるわ。私が戦えば戦ったで、あと少しで決着がつくって言う時にやって来て邪魔をして……」

 

 一つ一つ、咲月は護堂の問いの答えを挙げて行く。それらを挙げられる事で、護堂は若干汗を額に浮かべながら小さく呻く。しかし、まだ終わらない。

 

「そう言えば、『もっと周囲に気を配れ』みたいな事も言ってたわね」

「あ、当たり前だろ! 大勢の人に迷惑がかかるんだぞ!」

「神との戦いは命懸けだって、貴方も知っている事でしょう? あの時も言ったけど、私達の戦いは大規模な物になり易いわ。周りの心配なんて、するだけ無駄よ」

 

 そう言って咲月は唐揚げを口に入れ、咀嚼する。時間が経っている為に作ったばかりのカリッとした触感は無くなっているが、それでも肉の味と触感が良い。

 

「……何でカンピオーネはこんな奴等ばっかりなんだ……」

 

 弁当を咀嚼していると、護堂が小さくそんな事を漏らした。それを聞き取った咲月は箸を止めて、口の中の物を飲み込み、口を開いた。

 

「まるで『自分は周辺に迷惑かけてません』とでも言いたげな台詞ね……本当に迷惑かけてないなら、大したものだけど」

「少なくとも、あんたよりは」

「コロッセオ爆破テロ」

 

 咲月の言葉に護堂が反論しようとするが、言い終える前に咲月が放った言葉で護堂は声を詰まらせた。それを見て、咲月は目を鋭く細める。

 

「その反応から見るに、あの事件はテロじゃなくて、貴方が権能で引き起こした事みたいね。世界遺産でもある観光名所を破壊しておきながら『迷惑掛けていません』だなんて、一体どの口で言うのかしらね。イタリア政府にとってはこれ以上ない迷惑でしょうに」

 

 護堂の反応を見て、吐き捨てるように咲月は言った。その言葉で護堂はカマを掛けられたのだと悟ったが、事実の為に何も言えない。向けられるその眼差しには、侮蔑の感情すら込められている様に感じられる。いつの間にか咲月の雰囲気は非常に剣呑な物になっていた。

 そんな咲月と護堂を見て、祐理は恐怖で身を震わせる。エリカも何かを言おうとしていたようだが、威圧に気押されたか止まっている。

 

「口では平和だなんだと言っておきながら、笑わせるわね。おまけに、自分に出来ない事を他人にやれ、ね……。棚に上げるのは結構だけど、自分の言動を振り返ってから物を言いなさい。それと……」

 

 言って、咲月はベンチから立ち上がる。いつの間にか、弁当箱は片付けられていた。話している間に食べ終えたのだろう。

 

「神との命懸けの戦いで、周りを気に掛けられる訳がないでしょう。貴方が言った『周辺に配慮しろ』って言葉は、『死ね』って言っている様な物だと理解しなさい」

 

 静かに、しかし護堂にハッキリ聞こえるように言い捨てて、咲月は屋上から校舎内に戻る扉に向かって歩いて行った。

 



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14話 今後

お久しぶりです。
前回の更新から一ヶ月。仕事などでなかなか書けず、かけたとしてもなかなか文章が進まず……遅れてすみません。
14話、ようやく更新です。見苦しい文章かもしれませんが、どうぞ。


 

 薄亜麻色の髪を風に靡かせながら、咲月は手に弁当箱や水筒等を持って、護堂達の傍から離れて屋上から校舎内へと戻る扉へ歩く。護堂やエリカ、祐理はその後ろ姿を黙って見送るしか出来なかった。そんな護堂達に咲月は興味を持ってすらいない様で、目を向ける事すら無く校舎内に戻って行った。

 バタンと、音を立てて扉が閉じる。その音を耳にして、重く感じた空気が若干だが軽くなった気がした。

 

「……ふう」

 

 視界から消えた咲月に、誰とも知れず溜息を吐く。それに含まれる感情は、安堵等のそれで、特にエリカと祐理のそれは顕著だった。

 祐理が咲月に怯えの感情を抱くのは仕方がない事だろう。魔王と言う天災と同等の存在に睨まれ、権能を使われたのだ。4年前のヴォバン侯爵によるトラウマも相まって、心理的なストレスは相当な物だったろう。そんな存在が居なくなったのだ、安堵するのは当然であろう。だが、エリカは別の理由から安堵していた。

 今回のアテナの日本来襲と言う事件。その根本的な原因は、エリカが護堂をイタリアに呼び寄せ、神具ゴルゴネイオンを持ち返らせた事にある。件の神具の事で、イタリアの魔術結社重鎮等がどうするかで頭を痛めていたからだ。

 ゴルゴネイオンは地母神の徴。神と対する事が出来るのは魔王のみ。イタリアにも草薙護堂や和泉咲月と同じ、しかし先達となる神殺しが居る。名をサルバトーレ・ドニ。『剣の王』と呼称される、6人目の魔王だ。彼の青年は現在より4年前に、咲月よりも前にアイルランドにおいてケルトの軍神ヌアダを弑逆し神殺しとなった。

 だが神具をどうするかで揉めていた当時、イタリアの王は療養と言う名のバカンスで南の島に入っており、不在だった。理由は神殺しとなったばかりの草薙護堂との決闘、それによって得た傷の治療の為である。

 他の王に神具を託すか。その様な言葉も議題で出たが、しかし却下された。それをして、もしヴォバン侯爵に神具が渡ろうものなら「まつろわぬ神」以上の被害が出かねないからだ。

 サルバトーレやヴォバン侯爵の他にも王は居るが、イギリスの黒王子と中国の武侠王は自身を崇める組織にしか手を差し伸べず、アレクサンドリアの洞窟の女王は隠棲中。新大陸アメリカの王は「蝿の王」と言う邪術師集団との戦いで来訪は不可能。和泉咲月に至っては、その存在を知る者が当時でギリシアの老魔術師一人しか居らず、さらにその老魔術師が死んでしまっていたので論外である。

 その中で、エリカが草薙護堂の名を出した。存在を噂されていた新たな王に議会の面々は当初、懐疑的だったものの、エリカとの決闘を経て力を認め、神具を預ける事となった。

 エリカの狙いは護堂に神具を日本へ持ち返らせ、そこにアテナを呼び込み斃させ、護堂をより強い王にするという物だった。その目的は8割がた成功したと言って良いだろう。アテナを呼び込み護堂と相対させ、さらに護堂に斃すべき相手だと見做させたと言う点までは。

 だが、そこで予想すらしていなかった事が起きた。日本最初の王と言って良い存在、和泉咲月の出現である。日本に護堂以前に王が誕生していた等噂にすら聞いた事がなかったが、彼女の方が先にこの国でアテナと遭遇していたらしい。

 結果として、エリカの目論見は泡と消えた。アテナは彼女と激戦を繰り広げ日本を去り、和泉咲月も戦闘終了後、少しして祐理に何らかの権能を使い、去って行った。

 

(さて、どうしようかしら。結構過激な性格みたいなのよね……)

 

 アテナが去った次の日に、エリカは自身が所属するイタリアの赤銅黒十字に和泉咲月の事を報告した。おそらく彼女の事について調査するよう指令が来るかもしれないが、それは彼女自身も必要と感じていたので驚くようなことではないだろう。問題は、和泉咲月の性格だ。

 先程の会話から、彼女が平穏を好んでいると言う事は知る事が出来た。自分が主としている護堂も同じ様な事を言う似非平和主義者だ。彼女もおそらく似たような物なのだろうと思う。

 だがもし、この考察が誤りであり、ヴォバン侯爵の様な性格だとしたら……危険である。

 和泉咲月は護堂の非難に、彼の所為で自分の平穏が崩されたと返してきた。それも、結構な怒りを持って。

 もし今回の一件が自分の目論見に端を発すると知られたら――おそらく自分は殺されるか、或いは赤銅黒十字と言う組織がこの地上から消えかねない。護堂が味方に付いてくれるとは思うが、複数の権能を持ち、さらにその一つとして情報が分からない咲月相手に何処まで戦えるか。

 

(情報を集めながら、知られない様にしないといけないわね……)

 

 失敗すれば、待っているのは暗い未来だろう。

 そんな事を考えながら、エリカは自分と護堂の命を守る為に、これからどう行動するかを考え始めた。

 チラリと護堂を見て見れば、護堂は咲月の文句に思う所があったのか、ブツブツと言いながら何かを考えている様だった。

 

 ●

 

 屋上から教室へと戻る廊下を歩きながら、咲月は怒りと呆れで頭を痛めていた。思い返すのは屋上での問答の内、草薙護堂の言った言葉である。

 

(失礼だとか、配慮しろとか……何と言うか、呆れ果てて物も言えないわ)

 

 厄介事を持ちこみ、結果的にその始末を咲月に押し付けた形になった草薙護堂は、礼を言うでも謝罪をするでもなく、あろうことか戦場となった港を破壊した事で咲月を批判してきた。

 確かに、石化し、戦闘によって破壊されたあの港を使う人々には迷惑千万甚だしい事だろう。漁船も貨物船も、クレーンさえも完全に石化し、使えなくなってしまったのだから。

 だが、その事で咲月に文句を言う権利と資格があるのは石化したあの港の使用者達だけなのであって、間違っても草薙護堂達には咲月を批判する権利も資格も有りはしない。寧ろ、石化と破壊の原因となった(アテナ)を引き入れた事を考えれば、咲月よりも彼の方が批判されて然るべきであろう。

 だと言うのに草薙護堂は咲月のみならず、他の魔王達まで批判した。別に批判自体は問題ではない。確かに、咲月も雪崩を起こし、遺跡を崩落させて人間社会に迷惑は掛けている。他の王も、大なり小なり一般社会に迷惑を掛けている事はあるだろう。

だが、それは草薙護堂も同じである。

 

(コロッセオだけじゃないわね。多分、この数ヶ月にイタリアで起こった大規模破壊には、ほとんど彼が関係していると見ていいでしょうね)

 

 直感でそう思う。

 コロッセオの情報は、甘粕から自分の情報を奪い取った時に、ついでに奪っていた物の一つだ。

 その情報には草薙護堂がコロッセオを破壊したと言う情報は無かったのだが、彼がその当時に何らかの理由でイタリアへ渡っていた事があった。おそらくだが、件の神具の為だろう。

 屋上で護堂にカマを掛けたのは、コロッセオ爆破テロとの関連を調べる為だ。結果として、彼がコロッセオ破壊犯だと確定した。

 

(まったく、屋上でも言ったけれど、一体どの口で周囲に配慮しろ、なんて言うのかしら。他人に言うのなら、まず自分が実践して見せなさいと言うのよ……)

 

 おそらく、現在の自分は睨む様な顔つきになっているだろう。眉間に力が籠っているのが分かる。

 

(それにしても、化身の権能持ちだって事は予想してたけど、まさかウルスラグナとはね。常勝不敗のあの軍神をよく倒せたものだわ)

 

 草薙護堂の自己中心ぶりを思考の端に寄せ、彼が斃した神と、簒奪した権能について考える。

 草薙護堂が斃したと言うウルスラグナは10の化身を持つ古代ペルシアの軍神にして、太陽神ミスラを先導する、光と鋼の属性を持つ『まつろわす神』である。12の試練を達成したギリシア最大の英雄神ヘラクレスや、アルメニアにおける蛇殺しの英雄神ヴァハグンとも関係がある彼の神はヤザタと呼ばれる中級神ではあるが、東欧周辺や西アジアではかなり有名な神格だ。

 だがこの神、『鋼』の属性を持ってこそいるが、ウルスラグナ自身の伝承に蛇や竜に関する物語は見られない。おそらく『鋼』の属性はヘラクレスやヴァハグン等から流れて来ているのだろうが、『鋼』の系譜として見るには、源流からは遠い存在だろう。少なくとも、咲月が弑逆したクー・フーリンよりは源流より遠いと思う。

 どのような手段を使ったかは分からないが、護堂は彼の軍神をイタリアで弑逆した神殺しらしい。

 なぜ咲月が知らなかった筈の護堂の権能について知っているかと言うと、甘粕からコロッセオの情報と一緒に彼の権能の情報も奪っていたからだ。

 奪った情報の元は賢人議会による報告書らしいが、その情報から推察するに既に7つか8つの化身を掌握しているようだ。しかし化身の力を使用するには、それぞれの化身に対応した使用条件があるらしい。さらに一度使用してしまった権能は、24時間が経過するまで再度の使用は出来なくなるようだ。強力だが、使い勝手の悪そうな権能だ。

 

(アテナが言った事を考えれば、あの時草薙護堂は死んでいた筈。だけどやって来たって事は、権能に蘇生系の能力があるって事ね。ウルスラグナの化身で蘇生の能力に該当するとしたら、雄羊かしら……)

 

 殺された筈の護堂が復活してきた理由を考え、古代世界において富貴と密接に関わっている羊の力――雄羊の化身の力だろうとあたりを付ける。生命力と豊穣の象徴でもある羊なら、蘇生や回復に関係する能力でも可笑しくないからだ。

 他の化身の能力も考える。雄羊は蘇生だとして、後9つ。草薙護堂がどの程度ウルスラグナの化身を掌握しているかは分からないが、ウルスラグナの10の化身の内、雄牛、駱駝、猪、白馬、山羊、黄金の剣持つ戦士の力については大体だが予測は立てられる。自分の権能なら、猪、白馬、雄羊、そして上手く行けば黄金の剣持つ戦士を破る、あるいは封じる事も可能だろう。特に猪と白馬、雄羊の能力にはゲイボルグとマーナガルムで楽に対処出来そうだ。

 だが残る強風、鳳、そして少年の化身については、どれもが補助系の能力だろうと言う予想しか立てられない。

 もし鳳の力が自分の予想通りなら、黄金の剣持つ戦士の化身と並んで厄介だ。ウルスラグナの鳳の化身は、その羽を体に擦り付けると相手に呪い等を弾き返す力を持っているからだ。この力が鳳の化身の能力だとしたら、万里谷祐理にかけた偽りの神託を消されるかもしれない。

 

(……駄目ね、私も。アテナとの戦いが不完全燃焼だったからかしら、どうも思考が戦闘寄りになっちゃうわ。もう終わった事なのに……)

 

 そこまで考えて、咲月は首を振って今まで考えていた事を振り払う。

 不完全燃焼であるのは確かだが、先日のアテナとの戦いは既に終わった事だ。草薙護堂の所為で決着こそつかなかったが、終わった事をいつまでも引き摺るのは、ハッキリ言って時間の無駄以外の何物でもない。

 過去にあった事よりも、現在か、未来にやって来る事を考えた方がまだ建設的だろう。

 アテナとは再戦の約束をしているのだ。再戦の時と場所はアテナが決める事を条件に痛み分けとして退いてもらったので、次の戦いにはこちらの都合など関係なくやって来るかもしれないが、その時はその時だ。どのような場合でも、全力で応戦するだけである。

 問題は、アテナと先に戦うのが自分ではなく、草薙護堂だと言う点だろう。あの女神は自分と戦う前に、斃しきれていなかった彼を斃すと言ったのだ。

 

(負けず嫌いなのよね。やっぱり闘神・軍神の属性を持っているからかしら)

 

 戦いに関する神と戦ったのは、最初に倒したクー・フーリンを除けばアテナとのみだ。クー・フーリンの事は好戦的と言う点以外殆ど覚えていない為に、負けず嫌いかどうかは伝承でしか分からないが、アテナに関してはなんとなくそう思う。話し方も性格も、負けず嫌いのそれがぴたりと該当していた。

 

(まあ、それはいいわ。草薙護堂の事も、正直に言ってしまえばもうどうでも良い。痛み分けとは言え、もう戦いは終わったのだから)

 

 再度小さく首を振り、考えを振り払う。

 体の状態ではなく精神の状態だが、何時までも戦闘状態で居る訳にもいかない。戦闘状態になるのは自分に喧嘩を売ってくる神や、神獣や魔獣等と言った神話の存在と戦う時のみで十分だ。

 そう思い、咲月は歩いて行く。会う事は望んでいなかったが、文句を本人に直接言った事で、草薙護堂への僅かな怒りや恨みも一応とは言え治まった。

 万里谷祐理には権能で自分の情報を奪い、さらに自分の権能の情報を得られない様にしているので、霊視されても問題は無いだろう。消されたら消されたで、その時だ。正史編纂委員会の甘粕に関しても、祐理と同じ様に自分に関する情報を奪い取っている。上司の沙耶宮馨と言う人間が何か接触を持とうとしてくるかもしれないが、甘粕を通して脅しているので現状暫くは手を出して来ないだろうと思う。

 気になるのは草薙護堂の側に居た金髪の女子だが、これも然して気に掛ける必要はないだろう。変にちょっかいを掛けてくれば、潰せば良いだけの事だ。

 8人目の王である草薙護堂が側に居るが、自分の権能はマーナガルムの姿以外知られていないので、潰す事は容易だろう。

 

「まあ、それも何かあったら、で良いわね。アテナが去って、暫くは神が出てくる事もないだろうし、今は……」

 

 この日常を謳歌しよう。

 そう思い、咲月は屋上から戻って来た直後とは打って変わって、晴れやかな表情を浮かべて廊下を進む。向かう場所は己の教室だ。本当なら図書室に直行したいのだが、手に弁当箱や水筒を持っている状態で向かう場所ではない。そもそも入れないだろう。

 まずはこの荷物を鞄に戻してから。本を読むのは、その後だ。そう考えて、咲月は教室の戸を開いた。

 

「咲月ーっ! 何処に行ってたのさー!!」

「ぐふぅっ!?」

 

 直後、結構な衝撃が彼女の体に襲いかかった。戸を開けた瞬間、誰かが咲月に向かって飛びこんで来たからだ。

 若干気が抜けていた所為か、扉の向こうの気配を読み取ることが出来なかったのだろう。神々と戦う為に鍛えているので流石に倒れこそしなかったものの、中々に強烈な衝撃で身体が流されそうになり、二、三歩程度後ろに下がってしまった。

 一体誰が飛びついて来たのか。確認する為に咽ながら目をやると、視界に入ったのは黒髪のポニーテール。友人の佐山美智佳だ。普段はそうでもない癖に、何故か食事時になると行動がアグレッシブになるのだ。

 

「っ! 美智佳、いきなり何を……」

「何を、じゃない! お昼になったから一緒に弁当を食べようと思ったのに、気付いたら居なくなってるしさ! 四人で侘しく食べる事になったんだぞ、この!」

 

 言いながら美智佳は手を咲月の腰に回し、咲月を逃がさないように捕まえる。割と力を入れているようで、咲月は美智佳の腕に絞めつけられる形になった。曰く、ベアハッグと言うやつだ。さば折りとも言う。

 因みにまるで関係ない事だが、ギリシア神話の『鋼』の英雄ヘラクレスはこのベアハッグで、大地母神ガイアと海神ポセイドンの子であり、大地に足が付いている限り不死身のアンタイオスを絞め上げて大地から足を離させ、そのまま絞め殺したと言う。

 

「ちょ、美智佳! さば折りはやめてって……!? て言うか、四人も居るのに侘しくって言うの!? 貴女が一緒にお昼食べようと思ったのは私のおかず取る為でしょ!」

「代わりにこっちのおかずもあげてるじゃんか! プラマイゼロだろ!」

「確かにそうかもしれないけど、取りすぎだって言ってるの! この間なんて皆しておかず全部取って行ったじゃない! 自分の作った物を自分が一つも食べることなく終わるって言うのがおかしいって言ってるのよ!」

「でも、和泉さんの作るお弁当すごく美味しいし、佐山さんの言う事も分からないではないのよね」

 

 美智佳にさば折りを決められ、何とかそれから逃れようとしつつ廊下で二人言い合っていると、別の声が二人の間に入って来た。美智佳から視線を外して声のした方向を見ると、戸の前で穏やかそうな雰囲気の女子が一人、やや生温かな視線で咲月と美智佳を見ていた。彼女の後ろにももう二人程おり、それぞれ呆れた様な視線と苦笑いを咲月達に向けている。

 

「あんた達ね、廊下で何やってんのよ。仲がいいのは良い事だけど、時と場所を考えなさい」

「それは私じゃなくて美智佳に言ってちょうだい、夕夏! 飛びついて来たのは私じゃなくて美智佳の方なんだから! 雪音も、美味しいからってあんまり取らないでよ!」

「今日は取らなかったよ?」

「取らなかった、ではなく取れなかった、が正しい言葉だと思うぞ、雪音。咲月は今日、私達と一緒に昼食はとらなかったからな」

 

 咲月と美智佳に呆れた視線を向けていた女子――夕夏の言葉に、咲月は美智佳を引きはがそうとしながら返し、ついでと言うかのように雪音と呼ばれた女子にそう言う。

 雪音はそれに首を傾げながら返すが、彼女の後ろに居たもう一人の女子――苦笑いを浮かべていた少女だ――に正された。吊り目に眼鏡をかけた、理知的な少女だ。

 

「美陽」

「おそらく屋上で食べたのだとは思うが、久方ぶりに一人のんびりと昼を食べた気分はどうだ、咲月?」

「屋上!? 何で屋上に行ったのさ、咲月!」

「おかずを取られない為に決まってるでしょって、腕にさらに力入れるんじゃないわよ! し、絞まる……っ!」

 

 美陽と呼ばれた少女の言葉に、美智佳は咲月を捕まえている腕にさらに力を込める。

 咲月と美智佳を見ている三人の女子の名は、それぞれ森宮夕夏、白崎雪音、天城美陽。三人とも、美智佳と同じく咲月の友人である。

 強く身体を絞められ流石に苦しくなってきたか、咲月は体に回されている美智佳の腕を何とか外そうとする。しかしがっちりと抱え込まれているのか、中々外れない。

 

「御両人。夕夏が言った様に仲が良いのは結構だが、そろそろ離れた方が良いと思うぞ? 美智佳も咲月も、百合とかのネタにされたくはないだろう?」

「あ、当たり前でしょ! 美智佳、いい加減に離しなさいって!」

「じゃあ明日のおかず一品ちょうだい」

「ふ、普段から率先して強奪してる癖してこの子はぁ……!」

 

 図々しい美智佳の言葉に、咲月は顔を引き攣らせる。普段から散々友人達に弁当のおかずを強奪(と言う名の物々交換)されていると言うのに、それに加えてまだ取ろうと言うのか。食欲があり過ぎではないのか。

 そう思い、軽く頭を叩いて注意しようとした所で美陽が言った。

 

「美智佳、流石にそう言う事はやめておいた方が良い。要求のつもりで言ったのだとは思うが、聞き様によっては、それは脅迫の様な物だ。友人相手にそれは如何なものかと私は思うが」

「あ……」

「君の悪い点だな。親しい友人だからこそそう言えるのかもしれないが、だからと言って、言って良い事でもない。もう少し落ち着いて言う事を勧めるぞ」

「ぅあ……あたし、またやっちゃった? ごめん、咲月」

 

 美陽の言葉に、美智佳は自分の失言を理解し、咲月を捕まえていた腕を解いて謝った。

 

「ふぅ……まあ、ほぼいつもの事だから良いけれど、今度からは気を付けてよ」

「あはは……ホント、ごめん」

 

 己に掛けられていたさば折りからようやく解放されて一息吐き、咲月は謝って来た友人に注意する。それを聞いて、美智佳は困った様に笑いながらも再度、咲月に謝罪した。

 

「助かったわ。ありがとう、美陽」

「何、礼には及ばんよ。明日の弁当で、私のリクエストに応えてくれたらそれでいいさ」

「……それが狙いね。貴方も結構良い性格してるわよね」

「褒め言葉と取っておこうか」

「皮肉で言ってるのよ」

 

 美陽の要求に頬を僅かに引き攣らせながらそう返す。が、美陽の性格から考えて、自分が皮肉で言っているのは理解しているだろう。内心で溜息をつきつつ、咲月はそう思った。

 

「はいはい、皮肉の言い合いとかはやめなさいよ二人とも。昼休みはもうあんまりないんだから」

「そうそう。楽しく過ごそうよ」

 

 笑みを顔に浮かべながらも睨みあう様に咲月と美陽が互いを見ていると、呆れた様な夕夏の声と、のほほんとした雪音の言葉が投げられた。確かに、昼休みはもう余りない。皮肉の言い合いで時間を潰すよりも、楽しく過ごした方が精神的にも良いだろう。

 二人ともそう思ったのか、咲月と美陽はどちらからともなく視線を逸らし、他の三人と一緒に教室に入って行った。放課後にどうするか、何処に行くかを言いながら。

 



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15話 買い食い

 

 

「起立、礼」

『ありがとうございましたー』

「おう。いつも言っている事だが、全員気をつけて帰るように。お前たちはこの一年で卒業なんだからな、事故にでもあったら大変だぞ」

 

 色々とあり、予期せぬダメージを咲月が受けた昼休みを過ぎた。午後の授業も恙なく終え、終礼の挨拶も終えたクラスメイト達は教室を出て、ある者は友人と喋りながら、ある者は一人で、それぞれ荷物を持って部活動や下駄箱に向かう。部活動と言っても、三年の彼ら彼女らは少々の練習と次代への引継ぎのために出るだけなのだが。

 咲月も、荷物を鞄に収めて教室を出て下駄箱に向かう。一人暮らしである彼女は特定の部活に所属していない――曰く、帰宅部というものだ――ので、普段は学校が終わるとほぼ同時に帰宅している。例外もあるが、それは偶に友人と一緒に帰るときくらいだ。

 

「咲月、少々良いか?」

 

 廊下を歩いていると背後から声を掛けられた。振り向いてみると、廊下のやや離れた場所に、釣り目気味の目に眼鏡をかけた少女が一人立っていた。昼休みにも話した、咲月の友人の一人である天城美陽だ。

 

「美陽? 別にいいけど、どうしたの」

「なに、久しぶりに一緒に帰らないか、と思ってな。美智佳と夕夏、雪音にも声をかけたが、三人とも部活や委員会で断られてな。その点、お前は帰宅部だ、暇だろう?」

「確かに私は暇だけど、貴女はどうなのよ? まだ時間はあるって言っても、美智佳達みたいに部活の引継ぎの準備とか、夏の大会の練習とか色々あるんじゃないの?」

 

 美陽の言葉に、首を傾げて問い返す。線も細く、理知的な外見の為にそう思われない事も多いが、美陽は女子剣道部の部長であり、同時に主将と言う武闘派でもある。実力もあり、普通に手合せしたら咲月とほぼ互角だと言ってもいい。

 だが、主将であるからこそ引継ぎなどがあり、咲月と違ってあまり暇ではないはずだ。本格的な引継ぎではなくその準備段階だとしても、一般部員ならともかくとして、主将の彼女が自由に動ける時間などないだろう。

 そんな事を思い、視線に込めて美陽を見る。

 

「ああ、確かに引継ぎの準備など色々ある。だが幸い、準備自体はもう6、7割方終了しているのでな。まあ、こう毎日毎日練習しつつ引継ぎの準備では息も詰まると言うのもあるが」

「貴女ね、それ顧問や代々の部長達に言ったら絶対に怒られるわよ。仮にも今の部長なんだから、もっと気を張ってなさいよ」

「仮にもとは随分だな。これでも正式な部長だぞ? まあ、次の部長候補は何人か見繕っているし、彼女らも自発的に色々とやっているから、多少気が緩んでいることは認めるが」

「それのどこが多少なのか、小一時間くらい問い詰めたい気分ね……」

「引き締めるべきところは引き締めているさ、あまり問題はあるまいよ」

 

 廊下を歩き、階段を下りて下駄箱に向かいつつカラカラと笑いながらそう言う美晴に、咲月は溜息こそ吐かないものの、呆れたような眼差しを向けていた。実力はあり、顧問からの信も篤く、おそらく部員たちからも慕われているのだろうとは言え、どうしてこんな性格の美陽が何故部長に抜擢されたのか、中学からの友人に思うことではないが疑問が尽きない。

 

(……そう言えば、中学でも同じような感じだったわね)

 

 自分の記憶を思い起こせば、中学でも美陽は女子剣道部部長だった。あの頃は今よりもっと気が張っていたと思うが……記憶は曖昧なものである。咲月がそう思っているだけで、実際には変化していないかもしれない。

 

「そう。でも、部活はどうするのよ。休みじゃないでしょ」

「それがな、宮迫顧問が今日は休みだと言ったのだ。この時期になぜ急に、とも思ったのだが、何やら異様に慌ただしく理由を聞けなかったのだ。まあ、あの様子だと何らかの急用が入ったのだろうが」

 

 咲月の疑問に、美陽は僅かに首を傾げてそう言う。だがその表情は疑問に思っているそれではなく、どこか面白そうかつ妙に怪しげな微笑みだ。何もしていないと分かってはいるのだが、その表情を見てどうしても「こいつが何かしたのでは」と言う疑惑が浮かぶ。

 宮迫顧問と言うのは、本名を宮迫雄二と言い、剣道五段の実力を持つ女子剣道部顧問である。年齢は49歳で、まるで仁王尊(吽形)かと言うほどに厳つい顔をした男性教師だ。担当科目は数学である。しかし、そんな厳つい顔に似合わず物腰は非常に穏やかで、教師歴もそれなりに長く教え方も上手いので新任教師や新入生には割と慕われている。ちなみに既婚者で、今年で小学5年になる双子の娘がいるとか。

 

「そう、じゃあ良いわよ。それで? どこに寄るつもりなのかしら」

「おや、まっすぐに帰るとは思わないのか?」

「貴女と一緒に帰った時に、どこにも寄らない時がただの一度でもあったかしら? 大抵、どこかに寄って帰っていたと思うけど……」

 

 美晴の言葉に、僅かに呆れを含んだ声で咲月は言う。実際、咲月の記憶にある限りでは美陽と一緒に帰宅した時は大抵、文具店や飲食店に寄り道をして帰っている。

 それを聞いて、美陽はクツクツと笑みを漏らした。

 

「確かに、今までよく寄り道をして帰っていたな。公園近くの店のたい焼きは中々美味かった」

「たい焼き、ね。食べ物の話が出てくるって事は、今回も買い食いかしら?」

「部の後輩の話題で、美味いクレープ屋ができたらしくてな。値は少々するようだが、味はそれに十分見合う物らしい。咲月も甘いものは好きだろう?」

「そりゃあ、私も女だしね。甘いものは好きよ。でも、あんまり買い食いとかはしない方がいいんじゃないの? こう言うのはなんだけど、太るわよ」

「まあ、そう言うな。その分動いて消費すればいいさ。動かないとしても、頭を動かせばそれなりに消費する。幸い私は運動部だし、動く分には問題ない。私としては、部活にも委員会にも所属していないのにどれだけ食べても太らない咲月の体質に羨ましいものを感じるが……」

「羨ましいって言われても、そういう体質なんだからどうしようもないわよ。それに、あんまり良い物でもないわよ? 調べてみたけど、病気の可能性もあるってあったし」

 

 美晴の言葉に咲月はそう返すが、別に咲月は病気という訳ではない。職業・女子高生兼神殺しの魔王と言う何とも言えないものではあるが、いたって健康な女子である。

 カンピオーネは異様に高い言語習得能力や梟並みに利く夜目、異常なまでの直観力など、様々な体質を基本として持っている。不老長寿と言っても良く、体の変化は一般人と比べて非常に緩やかだ。咲月の太らない体質というのは両親からの遺伝と言うものもあるが、カンピオーネの体質が元々の彼女の体質と合わさって作用したものの為である。その結果として、咲月は決して太る事のない体になった。

 それ以外にも、カンピオーネは神によって掛けられた権能すら自身の闘争心の高ぶりによって弾く事が出来るほか、自分の体を戦闘に向けて最高のコンディションにするのだ。そもそもとして、権能でもない普通の病気にかかるか非常に疑わしい。仮に病気になったとしても、神との戦闘になったら半ば自動的にかつ強制的に治癒するだろう。

 そんな事を思いながら、咲月は同時に、こんな事を馬鹿正直に言える筈もないと思っていた。正直に言っても、冗談と取られるか頭の痛い子と思われるだろう。

 美陽は人をからかう事が多い。彼女のその性格はここ数年来の付き合いで、自分の身やからかわれている友人達を見て把握している。もし神殺しの事を話そうものなら、これからずっとその事でからかわれる事になるだろう。そのような未来は断固として拒否したい。

 

「だとしても、羨ましいものはあるのだよ。体重を気にする事無く好きな物を食べられると言うのは、女性にとっては永遠の美貌に次いで欲しいものだからな。まあ、これは私の望みもあるから全員がそうとは言わないが……」

「……永遠、ね。そこまで良い物なのかしら……」

 

 自分の望みを交えて言いながら、美陽は咲月を見る。非常に読み取りにくいが、自嘲するかのような表情を咲月は浮かべていた。その表情はすぐに消されたが、印象に残る顔だった

 

「咲月? どうした?」

「……何でもないわ。それより、クレープの美味しい店に行くんでしょ? 私は場所を知らないから、案内してよね」

「あ、ああ。咲月の家からは少し離れることになるが、良いか?」

「偶にはいいでしょ。ついでに買い物もできる場所ならもっと良いんだけど」

 

 そう言いながら、咲月と美陽は靴をはき替え、校門の外へと出て行った。

 

 ●

 

 学校から出て暫く、咲月と美陽は商店街にある店の一つの前に居た。美陽が部の後輩から聞いたと言うクレープの店だ。

 

「お待たせしました、ミックスベリークレープと宇治金時の抹茶クリームクレープ、合計で1180円になります……ありがとうございましたー」

 

 店員の女性が言いながら、その手に持つクレープを差し出して来る。咲月と美陽はそれぞれ自分の注文したクレープを受け取り、代金を払って店から離れていく。

 

「680円って……意外とするわね」

「値は少々すると言ったろう? だが、それに見合う味だと言うのは保障する」

 

 手に持つクレープの値段に驚きを表す咲月にそう言って、美陽は自分のクレープを食べ始めた。ちなみに美陽が買ったのはミックスベリーで、咲月が宇治金時である。ミックスベリーが500円で、宇治金時が680円だ。宇治金時が少々割高なのは、京都の有名な抹茶とあんこを使っているからであるらしい。

 

「ん……成程、確かに言うだけの事はあるわね。苦みがちょっと強いけど、甘みがちょうど良いぐらいにそれを抑えてる。こういうのは混ぜると大抵くどくなるものだけど、これはくどくなくていいわね。私好みの味だわ」

「だろう? しかし、抹茶のを買うとはな」

「あら、意外かしら?」

「いや、むしろ納得だ。甘いのが好きでも、ただ甘いだけのものや濃い味のものはあまり好んでいないからな、咲月は。……まあだからと言って、カレーやチーズ入りのたい焼きを選んだ時は正気かと思ったものだが。それから見れば、今回のは普通だな、うん」

「人を味覚異常者みたいに言うのはやめてほしいわね。意外と合うのよ? カレーとチーズ。美味しかったわ」

「私にとってはなんとも微妙な味だったが……これも人の好みと言うものか」

 

 ホイップクリームと華々しい色合いの果物が入ったクレープを美陽が、栗とあんこが入り、やや濃い緑色と白いクリームが混じり入ったクレープを咲月が食べながら、以前に食べたと言うたい焼きの事を思い出す。

 公園近くに存在するたい焼き店は、雑誌でも紹介されたことがある名店である。値段もそれなりに安く、味も良いと言う事で近所の奥様方や咲月達のような学生に人気の店だ。品揃えも伝統的かつ王道の粒あんに始まり、こしあん、白あん、チョコレート、カスタードクリーム、抹茶、紫芋など多く、珍しい物もあって人気だ。

 その中で人気があまりないのがカレーとチーズと言う二種類なのだが、何故か咲月は王道の粒あんと同じくらいにこの二つを好んでいた。何でも、生地の甘さに辛みなどが良い具合に絡んでちょうど良いらしい。

 ちなみに当時に咲月達が買ったものは、美陽が粒あんと白あん、美智佳がこしあんとカスタードクリーム、雪音がチョコレートとカスタードクリーム、夕夏が粒あんと興味で紫芋、咲月がカレーとチーズ、そして抹茶だ。しかもカレーの辛さは、何故か激辛で。

 咲月はそれらのどれも気に入った様だったが、カレーとチーズの二種類は、友人四人は一口食べて非常に微妙な顔をしていた。どうも不評であったらしい。

 

「なんと言うか、あの時はそれぞれの好みが良く分かる選択だったな。美智佳達が選んだものは大体予想通りだったが、料理が上手い咲月がああ言った変わったものを選ぶとは、当時としては思いもしなかったが」

「別に何を選んでもいいでしょ? 料理の腕が味の好みに関係することは……まあ、ないとは言わないけど。美陽達には不評だったけど、私にとっては良かったんだもの。要は好みに合うかどうかよ」

「それはそうだがな……」

 

 クレープを食べ歩きながらそう言う咲月に、同じように食べ歩きながら美陽は苦笑を漏らす。自分たちの中でも変わった好みをしている咲月に何とも言えないのだろう。

 雑談をしつつ、二人は食べ歩きながら商店街の店を見て回る。手に食べ物を持っているので流石に店内には入らないが、ウィンドウショッピングでも十分楽しむことはできるのだ。二人とも美人と言って良い容姿で、咲月はさらに髪の色などでも目立つがナンパもなく、穏やかな時間が過ぎる。

 

「さて、と。クレープも食べ終わったし、そろそろ私は帰るわ。高かったけど、中々美味しかったわよ」

「気に入った様で何よりだ。流石に毎週とか毎日行く事はできないだろうが、月に一度くらいは行っても良いところだろう?」

「そうね。まあ、次に行くときは美智佳達も一緒の方がいいでしょうけど」

「確かに」

 

 やけに食欲旺盛な友人の一人を思い浮かべ、二人して小さく笑う。話題に出せば「なんで部活が終わるまで私を待ってくれなかったのさー!」と理不尽に文句を言ってくるだろう。そして美陽に部活の事などで言いくるめられるのだ。その姿が容易に想像できる。

 

「じゃあ、また明日」

「ああ。また明日、学校で会おう。リクエストは頼んだぞ?」

「わかってるわよ。まったく、貴女もそういう点では美智佳と似てるわね」

「失敬だな、私がこんな事を言うのは、偏に咲月の料理が美味いからだ。他の人に言う事はせんよ」

「褒められてるんでしょうけれど、喜べばいいのか悲しめばいいのか、すごく微妙ね……」

 

 美晴の言葉に、咲月は笑みを浮かべながら小さく肩をすくめる。それでも友人のリクエストを聞くあたり、それなりに人が良いのだろう。まあ、その姿や性格を見せるのは友人や親戚など、近しい相手の前限定だろうが。

 少し雑談した後、二人はそれぞれの家の方へと別れていった。途中、咲月はスーパーマーケットで夕食と、明日の弁当用の食材を買って帰って行った。

 



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16話 次へ

 時の流れは早い。目に見えず、決して止まることなく、延々と流れ続けるそれは風の様にも、川の様にも考える事が出来るだろう。違う点と言えば、風や川が地形や気候等の状況によってはその流れを変えるのに対し、時の流れは変わらず、常に一定だと言う点だろうか。

 草薙護堂がイタリアより持ち返った神具を求めたアテナが日本に来訪し、和泉咲月との戦闘を経てこの国を去ってから早くも1週間の時間が流れた。女神と神殺しとの戦闘で被害を被った港は石化したままの状態で未だ復旧の目処は立たず、その様相を巨大な墓標の様に風雨に晒している。

 しかし、港が石化し使用不可能となっている事を知っているのは、アテナと戦った魔王当人とその場に居合わせた裏の関係者達以外、ほとんどと言って良い程存在しない。理由は単純だ。情報を封鎖し、さらにその港も、誰も出入りできない様に封鎖しているからだ。

 勿論、完全に封鎖できている訳ではない。当然ながら、港に入れないと知っている人は居るのだ。しかし、その人数は普通に考えても有り得ない程に少ない。

 この様な事を個人や、数人程度の集団で出来る筈がない。当然、情報が拡散しない様に手を尽くしている大多数の者達が居るのだ。

 『正史編纂委員会』。それが情報を封鎖し、石化した港を何とか元に戻そうと苦心している組織の名前だった。咲月とアテナの死闘から1週間、「官」と呼称される委員会所属の呪術師達は休みもせず、港に近付く一般人に対して暗示を掛けながらアテナの権能――石化の呪力を祓おうとしていた。

 

「まあ、随分と時間がかかるだろうけどね。完全解呪まで、一体どれだけ時間がかかる事やら……」

「和泉さんを斃す為にアテナがやった事ですからね、多分ですが、軽く見ても数ヶ月、最悪数年は元に戻らないでしょう。これだともう、別の場所に新しく作った方が早いんじゃないかと思いますが……」

「確かにそうかもしれないけど、それだと建設費用とかで随分とお金がかかるよ。僕たちの懐から出て行く訳じゃないけど、時間がかかっても直せるなら、そっちの方が良いと思うけどね」

 

 咲月とアテナの決戦の舞台である石と化した海と港、クレーンを見ながら二人の男女がそう言いあう。正史編纂委員会東京分室長の沙耶宮馨と、その懐刀である甘粕冬馬だ。彼等の視線の先には、石化解呪に精を出す委員会所属の術者や巫女が大勢居る。

 しかしやはりと言うべきか、神の権能は伊達ではない様で、石化した箇所1㎡を解呪するのに術者9人から10人態勢で、さらに2時間近くかかっている。全体の状態で見れば、20分の1すら解呪出来ていない。それでも解呪のペースは早い方であり、遅い所だと4~5時間はかかっている。

 『禍祓い』を使える媛巫女が居ればもっと早くに解呪出来るかもしれないが、非常に稀有な能力の為、それを使える巫女は、現在確認出来ているのは一人だけである。その一人も見習いである為能力を使いこなせているとは言い難く、さらに消耗が激しい為に、とてもではないが動員する訳にはいかなかったのだ。……その力を使える少女の年齢が、他の巫女に比べて幼すぎる、と言うのもあるが。

 

「しかし、流石カンピオーネと言うべきでしょうか。この港全体をほんの数秒で石化しただろう権能に、魔術で抗うとは」

「カンピオーネの特性と膨大な呪力込みで、だろうけどね。普通の呪術師だったら、抵抗しきれず石になってたろう……もう一週間経ってるのに、まだ強い呪力を感じ取れるよ」

 

 甘粕の言葉にそう返し、馨はある部分に目をやる。その場所は他の部分と違って石化しておらず、コンクリートの色調と質感を円形に保っている。違う部分はそれだけではなく、石となった場所との境目には一見して傷の様にも見え、しかしそれとは違う特徴的な刻印が対角線上に4ヶ所残っている。咲月が刻んだ防御のルーン陣だ。アテナの石化の邪眼を防御する為に込めた呪力が膨大だった所為か、それとも別の要因か、1週間経った現在でも地面に刻まれたルーンに込められた呪力は衰えず、消える気配は見られない。

 

「それで、どうですか。何か見えましたか?」

「……駄目だね。権能の発動に使った呪力ならどうか分からないけど、流石に魔術に使った呪力で霊視をするのは難しい。何も見えないよ」

 

 甘粕の言葉に、馨は咲月のルーン陣を見ながらそう返し、首を振る。馨と甘粕が石化したこの港に居る理由。それはこの地に未だに残っている咲月の呪力の残滓から、彼女の所有する権能の情報を得られないかと思ったからである。馨もまた、祐理程の的中率は誇っていないが霊視を行う事が出来るのだ。

 直接聞きに行かず、この様な方法で咲月の権能の情報を得ようとするのには理由がある。以前甘粕が情報を得ようとしたのだが、情報を得るどころか逆に自分達の持つ情報を奪い取られ、さらに「干渉して来れば容赦なく槍を向ける」と脅迫されたからだ。

 祐理に頼んで霊視して貰うと言う事も考えたが、彼女は咲月の権能の一つを掛けられ、狼の神獣の情報を得ていたがその直後に情報を奪われている。

 咲月の権能の一つが相手から情報を奪い取る力を持っているのは確実だろうが、それだけとは思えない。

 祐理の霊視能力は当代の媛巫女の中でも随一だ。4年もの間、自分の存在を隠し、情報を与えないように行動していただろう魔王が、高い霊視能力を持つ祐理から情報を奪うだけで済ませるとは、どうしても思えないのだ。

 それ以前に彼女はトラウマを刺激され、咲月に対して恐怖心を抱いているのだ。彼女はたおやかな風貌に似合わない強い精神を持ってはいるが、無理に霊視を頼もうものなら、最悪の場合恐怖で錯乱してしまうかもしれない。

 幸い、咲月はこちらが下手に干渉しなければ槍を、権能を向ける事はない様だ。咲月の情報は欲しいが、強い力を持つ貴重な人員を壊してしまう訳にはいかず、委員会を消滅させる訳にもいかない。

 

「…………」

 

 ままならないものだ。石化した港と、それを戻そうと力を奮う巫女達を視界に収め、馨は小さな、しかし深い溜息を吐いた。

 

 ●

 

 イギリス、グリニッジ。

 『賢人議会』が存在するこの地で、議会の元議長であり現特別顧問の女性である欧州魔術界のプリンセス――アリスは豪奢なベッドに横になり、手に持つ書類を食い入るように読んでいた。

 彼女が手に持っている書類は、つい先日『赤銅黒十字』の総帥であるパオロ・ブランデッリから提出された物――正確には、彼の姪からの物――だった。その内容は彼女が最も欲していたと言って良いものだった。即ち、惨殺された老魔術師の手記にも記載されていた七人目の魔王の情報である。

 記されていたのは魔王の名前と年齢、現在住んでいる国の名前。そして王が持つとされる権能の数の予想だ。

 王の名は和泉咲月。国籍は名前が示す通り日本人だが、写真を見ればその容姿は少々東洋人らしくない髪の色をしている。年齢18歳。所有する権能の名と能力は不明だが、おそらく2つか3つの権能を所持しているらしい。

 彼の王は先日、神具を求めて日本に襲来した『まつろわぬアテナ』と血で血を洗う死闘を繰り広げ、瀕死の重傷を負いながら引き分けたらしい。パオロの姪であり、『赤銅黒十字』のシンボルカラーである『紅と黒』を纏う事を許された今代の『赤き悪魔』であり、八人目の王である草薙護堂についている大騎士エリカ・ブランデッリからの情報らしいが、彼女達が王の戦場に着いた頃には戦闘は既に終局に向かっており、権能の全てを見る事は出来なかったようだ。しかし、おそらく二つの権能を彼女から確認できたとも記されていた。巨大な狼の神獣と、現地の巫女から情報を奪い取った能力である。また、権能かどうかは定かではないが、手には大きく破損していたようだが禍々しい紅い槍を持っていたともある。

 アリスとパオロは知り合いである。仲が良いかと聞かれれば微妙ではあるが、主にイギリスの王である『黒王子』アレクが引き起こす事件等の収拾の為に、今までに幾度か協力してもらった事があるのだ。

 

「狼の神獣に、情報の略奪……それに、禍々しい紅い槍……」

 

 権能だろう情報と、王の持つ武装を小さく声に出す。アリスは赤銅黒十字からの情報が記された書類を片手に持ち、もう一方の手で別の書類を持つ。それは以前入手した、惨殺された老魔術師の手記の一部のコピーだ。

 パオロからの書類と老魔術師の手記を読み比べる。読むのは当然、王の権能についての項目だ。

 アリスは非常に聡明な女性である。二つの書類に記された情報から、彼女は咲月の権能の情報にある程度だが察しを付けていた。

 老魔術師の手記には王の権能は3つとあったが、手記に記されていた咲月の権能は『魔槍』と『神託』の2つのみで、その肝心の3つ目は記されていなかった。しかし、その3つ目もパオロからの書類で能力こそ不明だが、狼の神獣だと判明した。

 3つ目の権能が神獣だと断定するのには簡単な理由がある。唯の魔術師に、神獣を召喚する事は出来ても従える事など出来ない。神獣を従える事が出来るのは、その神獣の主人である神か、魔王のみであるからだ。

 

「情報の略奪は『神託』でしょうし、紅い槍は多分、『魔槍』の権能ね……」

 

 狼の能力は分からないが、『魔槍』と『神託』はおそらく合っていると思う。『神託』が情報を奪うと言う事にはやや疑問を覚えるが、カンピオーネが斃した神から簒奪する権能は個々の性格やその他諸々の影響で変質する傾向があるのだ。分かりやすい例で言えば、ヴォバン侯爵の『ソドムの瞳』が良い例だろう。あの権能は侯爵がケルトの魔神バロ―ルから簒奪した物であると言われているが、本来は睨んだ対象を即死させる能力が、対象を塩の柱にして殺すと言う物に変質している。而歳に侯爵がバロールを殺してその権能を簒奪したかは不明だが、おそらく咲月が簒奪した『神託』も侯爵の『ソドムの瞳』の様に、情報を奪うと言う能力に変化したのだろう。

 『魔槍』については、変質しているのかよく分からない。『神託』と同じく弑した神の名は想像できるが、武装その物を簒奪したのか、それとも魔槍の能力『だけ』を簒奪したのか。

 

「どちらにしても、もっと情報を集める必要があるわね」

 

 言って、アリスは御目付役でもあるパトリシア・エリクソンが側に居ない事を良い事に、如何にして日本に行こうかと考え始める。その顔には、魔王と言う存在が居ると言うのに好奇心旺盛な年頃の女性の笑みが浮かんでいた。もしこの場にエリクソンが居たなら、間違いなく苦言――否、説教と言って良いだろう――を彼女に対して呈していただろう。そんな笑みだった。

 

 ●

 

 月が静かに輝き、暗い夜空に浮かぶ。街灯の影響か、それとも別の要因か、薄い金色に輝いて見えるそれは5月も終盤に入っていると言うのに何故か冬の月の様に冷たく見え、見る者の心を固くする。咲月はそんな月を、家の一角に座ってじっと見上げていた。彼女の膝の上には子犬状態のマーナが丸くなり、柔らかな銀灰色の毛並みを撫でられている。

 アテナとの戦いが終わり1週間。完全に精神を落ち着かせた咲月は普段通りの生活に戻り、学校の図書室でいつもの様に本を読んだり、友人達と放課後に買い食いしたり、談笑したりしてアテナ来襲以前の様に日々を平穏に過ごしていた。

 

「良い夜だわ。静かで、月が綺麗に輝いて、よく見える。気分が落ち着く、とても良い夜……あなたもそう思わない、マーナ?」

 

 静かに輝く月にそんな感想を放ち、咲月は膝の上のマーナの毛並みを撫でながら問う。が、当のマーナはそんな事に興味はない様で、咲月に撫でられながらくぁ……と欠伸を一つした。子犬状態でのそれは可愛らしく、咲月は何も言わずに笑みを浮かべ、相棒の毛並みを撫で続ける。

 甘粕を通しての脅しが効いたのか、それとも草薙護堂の方に集中しているのか、正史編纂委員会からの干渉は今の所、無い。時折、微かだが視線や気配を離れた場所から感じるので完全に干渉が無いと言う訳ではないが、それでも直接訪ねて来られたりするよりは良いと咲月は思っていた。鬱陶しいと思う事はやはりあるが、自分の平穏が明確に崩されなければその程度の事は我慢できる。

 草薙護堂とは、あの屋上での一件以来会っては居ない。学年などが違うので当たり前と言えば当たり前なのだが、出会う機会自体が無いのだ。万里谷祐理に対しても同様だ。自分から会う心算はさらさらないと言って良いので、上手く動けば卒業まで会う事も無くなるかもしれない。

 もう一人、名前も知らない金髪の女子の方は良く分からないが、おそらく自分の事を探ろうとしているのだろう。組織に所属しているかは分からないが、魔術師なら魔王の情報を得ようとするのは必然である。

 

(まあ、そう易々と私の権能の情報を与える訳ないけど)

 

 自分の名前や住所など、そう言った物を知られるのは嫌ではあるが、これはもう諦めている。生活していく以上、住所等を知られるのは時間の問題だからだ。正史編纂委員会にも、既に知られていると見て良いだろう。曲がりなりにも彼等は公務員なのだ、調べる事など造作も無いだろう。

 だが、知られるのを諦めているのは住所等だけであって、権能に対しては別である。他の魔王と戦う可能性も低いとは言えあるのに、自分の手札の情報を与えて堪るものか。もし知られようものなら、甘粕や万里谷祐理にしたのと同様に情報を奪い取るのみである。

 幸い、自分にはそれを可能にする『神託』の権能がある。魔王や神ならともかく、魔術師程度に破られる事は無いだろう。奪う事が出来なければ、最終手段として殺してしまえば良い。自分の命に繋がる情報を守る事が出来るのなら、その為に経た過程や方法などはどうでも良いのだ。

 そう思い、咲月はいつの間にか眠ってしまっていた膝の上のマーナから手を離し、側に置いていた湯呑みを持って一口、茶を口に含む。温くなってしまっているが風味の良い茶を飲み下し、再度月を見上げる。アテナとの戦いの直前に見た朧月も趣があって良かったが、やはりハッキリと輪郭が見える月が良い。

 そんな事を考えながら、咲月は室内の壁にかかっている振り子時計を見る。午後9時47分。そろそろ風呂に入り、眠ったほうが良いだろう。

そう思い、咲月は残りの茶を一息に飲み干し空になった湯呑みを台所に置き、片手にマーナを抱えて風呂場へと歩いて行った。

 

 

 

 この数日後、賢人議会から魔術界に対し、草薙護堂が8人目の魔王であったと言う事と、7人目の魔王である和泉咲月の名が正式に公表される事になる。

 それによってある王は興味を示し、ある王は鼻を鳴らし、ある王は新たな同族の出現に笑みを浮かべ、またある王は顰めっ面をさらに顰める事になるのだが、それは別の話である。

 



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17話 暴君は牙を剥き、姫は夢の海にたゆたう

 彼は退屈していた。

 ただ漠然と生きているだけと言っても良い彼の現状に、非常なまでに退屈を感じていた。

 これが普通の人間だったなら、適当に興味を抱ける物を探し、無聊を慰める為に行動しただろう。或いは生存の為に必要な三大欲求――食欲、性欲、睡眠欲のいずれかに走り、退屈を感じない様に動いたかもしれない。

 だが、彼は普通の人間ではない。

 彼は王である。それも、世界に8人しか存在しない王の一人であり、そして同時に、勇猛にして強壮な戦士である戦いの王だ。睡眠欲も、性欲も有るが、それらは普通の人間に比べて非常に弱い。

 唯一、食欲だけが人間並みと言っても良いが、それで彼の退屈を慰める事など出来はしない。寧ろ、余計に退屈を助長させるだけだ。

 彼の退屈を慰める物はただ一つだけ。それは――――戦闘だ。それも唯の戦闘ではなく、強大な力を持つ神々や同族との死闘であり、同時に一方的に嬲るだけの狩りでもある。

 いや、どちらかと言えば狩りの方が彼の好みに合うか。獲物を追い立て、嬲り、じわじわと追い詰めてから甚振る様に喰らう。それだけが、唯一彼の渇いた心を、欲求を潤してくれるのだ。

 だが、三大欲求を超える程の有り余る『戦闘欲』を持ち合わせていながら彼は、望んでやまない神々との戦いをここ十数年の間、出来ていなかった。

 理由は簡単だ。彼は強く、そして有名になり過ぎ、神々ですら宿敵である筈の彼との戦いを恐れ、避ける様になってしまったからだ。別に神が地上に顕現しないと言う訳ではない。何度か顕現した事もある。だが、それらの神は彼が行く頃には皆、他の同族に討ち取られているか、彼の気配を察して逃げていた。

 これが数ヶ月や、数年程度ならまだ何とか我慢は出来た。彼自身、逃げる様な惰弱な神と戦うつもり等ないのだ。彼が戦うのは、彼に刃を向け、彼が戦うに値すると認めた敵(えもの)だけなのだ。

 しかしその選り好みの所為か、十数年もの長い間彼は満足のいく戦いをする事が出来ないでいた。余りに退屈なので欧州中に触れを出し、巫女や魔女を集めて神を招来すると言う危険極まりない儀式を行った程だったのだ。

 儀式の名は『まつろわぬ神招来の儀』。呪力に優れた大勢の巫女と、狂的なまでに神の降臨を望み、願う祭司。そして神に血肉と自我を与える伝説・神話の三つの要素を必要とする大魔術だ。

 叙事詩『ニーベルンゲンの歌』を触媒にし、彼自身が祭司を務めた儀式は成功し、『鋼』の属性を持つ軍神である『まつろわぬジークフリート』が召喚された。その時、彼は喜んだ。これで一時とはいえ、無聊を慰める事が出来る。渇きを潤す事が出来る、と。

 だが、その願いは叶う事はなかった。邪魔されたのだ、呼んでもいない、来る事すら予想していなかった――――存在すら知らなかったイレギュラーによって。

 6人目の同族、現在は『剣の王』と呼ばれるようになったイタリアのあの小僧――――サルバトーレ・ドニは、招集した大勢の魔女や巫女の、実に3分の2を使い潰して呼び出した(えもの)を、横から掻っ攫って行ったのだ。それも、彼の目の前で。

 当然、彼は激怒した。苦心して呼び出した自分の獲物を、目の前で奪われて激昂しない輩が居ようか。いや、居まい。

 あの時の屈辱は忘れもしない。目の前で獲物を奪われた彼は、獲物を奪った新たな同族を殺そうとし、しかし出来なかった。小癪にも奪い取ったばかりの権能を使い、彼と渡り合ったのだ。

 かなりの時間戦ったが、決着はつかず、小僧は彼の前から逃げ去って行った。激闘によって無聊は幾分か慰める事は出来たが、それは彼が望んだ形の物ではなかった。

 あれから4年。新たな同族が生まれたとか、大いなる女神が現れたとか、様々な話しを耳にした。最近では、隠れていた同族が表舞台に出て来た、と言うのも有った。

 だが、それらを聞いても心は躍らず、寧ろ渇きはますます強くなって行くだけだった。アテナの事を聞いて多少は心が湧き立った事も有ったが、すぐに女神が敗北したと聞いて戦闘欲は増すだけだった。

 退屈――――そう、退屈だ。余りに退屈過ぎて、どうにかなってしまいそうな程に。獲物たる神を求めて世界中を渡り歩く彼の渇きは、飢えは、既に限界近くに達していた。

 そんな渇きの中で――――ふと、彼は思った。

 

 求めても神に出会い、戦う事が出来ないのならば、儀式によって今一度、戦うに値する神を呼び出してしまえば良い――――と。

 

 それに思い至った彼は、すぐさま自身の配下の一体に必要な条件を満たす場所、時を調べさせた。

 元が優秀な魔術師である配下の手により、その条件を満たす時期と場所はすぐに見つける事が出来た。報告を聞いた彼は、その内容にほくそ笑んだ。イタリアの小僧は現在療養中で動けないと聞く。ならば、場所から見ても小僧に獲物を横取りされることもあるまい。

 その場所にも同族が居るらしいが、神殺しと化して僅かな時しか経っていない若輩者だ。どうと言う程度でもないだろう。

 場所と時期は決まった。祭司役は以前と同じく自身が務めるとして、あと神の招来に必要なのは優れた巫女だ。実に3分の2もの巫女を使い潰してしまった以前の経験から、呪力に優れた巫女だけでは駄目だと理解した。勿論それは必要だが、それに加えて才能も必要だ。それも、そこらに転がっている様な物ではなく、人並外れた才能が。

 優れた呪力と、並外れた才能。この2つを併せ持つ巫女こそが必要だ。

 だが、それを満たす巫女は非常に少ない。4年前でさえ、それを併せ持つ者は集めた中に数人程度しか居なかったと記憶している。

 しかし神の招来に最も適した時期まで、あと僅かしかない。このままでは神を呼ぶ事が出来ない可能性もある。

 配下には巫女の素質を持っている者もいる。4年前に召集した巫女・魔女の一人でもあり、現在は何処かの組織の大騎士となっている魔女だった筈だ。

 最悪、あれを使うかとも思ったが、少し考えて思い止まった。あの騎士も優秀と言えば優秀だが、それは騎士としての力量であって、巫女としての能力はそこまででは無かったように思う。

 だが、だからと言って必要無いと言う訳ではない。あの騎士の気性はそれなりに気に入ってはいるので使おうとは現状思っていないが、強く、才ある巫女が手に入らなかった時の予備として使えば良い。あまり期待はできないが、それなりには使えるだろう。

 あれよりももっと強い力を持った巫女が居た筈だ。まずはそれを手に入れる事から始めねば。

 そう思ったからこそ、彼は彼に仕える形を取っている騎士を数日前にミラノより呼んだのだ。

 暫くして、騎士は来た。

 

「青銅黒十字が大騎士、リリアナ・クラニチャール、只今参上いたしました。どのような御用向きでしょうか、候」

「ああ、クラニチャールの孫娘だったか。確か四年前にも会っていたと思うが……ふむ、記憶に無いな。呼び寄せた事は覚えているのだが……」

「当時の私はまだ幼く、候とお会いした時間も短いものでした。それを考えれば、仕方なき事かと」

 

 やって来た騎士は少女だった。すらりとした肢体を黒の衣服に覆い、さらにその上から『青と黒』の二色で染め上げられたケープを羽織った銀褐色の髪の少女。

 彼の言葉に、リリアナと名乗った彼女は礼を取りながらそう返答する。片膝を着き、胸に手を当てる騎士の礼だ。

 

「ふむ、まあそれは別にいい。自分で言うのもなんだが、私は気短でな。早速本題に入らせて貰うとしよう。四年前の儀式を覚えているかね。君達魔女や巫女に協力して貰った『まつろわぬ神』を呼ぶ為の、あの大呪だ」

「……覚えています。あの時の事を、忘れる筈がありません」

「結構。実はだ、あの儀式をもう一度試みてみようと思うのだよ」

 

 彼の言葉に、リリアナは騎士の礼を取ったまま顔を強張らせた。当然であろう。彼女自身も参加させられた、大勢の巫女や魔女を犠牲にし、生き残った者の心と体にも多大な傷を刻み込んだあの儀式を、もう一度行おうと言うのだから。

 何故、とも思ったが、すぐにその疑問が愚問と気付いた。目の前の彼は王である。それも戦士である魔王、実に300年もの永き時を生きるカンピオーネだ。

 カンピオーネが神を呼ぶ理由など、戦う為以外に有ろうはずがない。

 

「で、だ。一つ聞きたい事がある。4年前の儀式の時に、私は量よりも質こそが重要だと理解した。あの時に最も優れた力を見せたのが誰だったか、覚えていないかね? 確か、東洋人だとは覚えているのだが、どうも素性が思い出せなくてな」

 

 彼がそう言うと、リリアナは身を震わせた。

 王が問いかけて来た人物を、リリアナは覚えている。知り合いを訪ねて来ていて、不幸にも彼の強制招集に巻き込まれた日本の少女だ。彼が素性を訪ねて来た彼女もリリアナと同じ様に、四年前の儀式を運良く生き残った一人だ。

 リリアナは躊躇った。彼女は騎士だ。騎士は力なき者を守る義務が、責務がある。目の前の王が求める彼の少女は、戦闘技能等欠片も持ち合わせていない巫女だ。無力な者は、守らなければならない。

 しかし、リリアナが庇った所で無意味だろうとは彼女自身、心のどこかで思っていた。彼女が庇っても、王は別の者から聞き出すだろう。そうなれば、被害が広がる可能性がある。

 ほんの僅かでも接点のある巫女を守る為に見ず知らずの誰かを犠牲にするか、それとも見ず知らずの誰かを守る為に巫女を犠牲にするか。短く、しかし深く悩み――――リリアナは結論を下した。

 

「巫女の名はマリヤ。日本の、東京の出身と申しておりました。……御命じいただけるなら、私が彼女を御前に連れ出して見せましょう」

「……いや、その必要はない」

「は?」

 

 あえて関わり、無用な被害を最小限に食い止める。それがリリアナの出した結論だった。その意思を心の奥に秘め、彼女はそう言ったが、王の言葉に間の抜けた声を漏らす。それを聞いていながら、彼女の前の王は気を悪くした風は見られない。

 

「少々面白い趣向を思い付いた。私自身が赴くのだよ。待ってばかりと言うのも、つまらんものがあるからな。ふむ、考えてみれば、海を越えるのは何年振りだろうな」

「候御自ら向かわれると?」

「たまには私とて、異国の空気を吸いたくなる。それとも、何か不都合でもあるかね?」

「いえ、その様な……しかし候、かの国には候の同胞たる御方が二人、おられます。話を先にお通しになられた方がよろしいのでは……」

 

 言って、思い浮かべるのは軍神ウルスラグナを斃し神殺しと化した草薙護堂と、最近新しく情報が出て来たアテナを退けた姫王、和泉咲月。しかし王の言葉は傲慢な物だった。

 

「必要無かろう。先達たる王が態々参るのだ、話がしたければ向こうの方から来ればよい。……一時間以内に準備をすませたまえ。これからすぐに向かうのでな」

 

 向かうは、彼の根城より遠く、遠く離れた異国の地。その場所は――――日本。

 そして彼の名は最古の王の、その一角。世界中を流浪し、数多の神々を殺し、幾多もの権能を簒奪した魔王。とある貴族から侯爵の位をも簒奪し、しかし気まぐれでそれを捨て去った強壮な戦士。

 『暴君』サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン。

 

 ●

 

 賢人議会により、本来の7人目のカンピオーネである和泉咲月の名が新たに魔術界に公表された事で、世界中の魔術結社は一時騒然とした。何せ、7人目とされていた神殺しが実は8人目であり、7人目は既に誕生していたと言うのだから。それも、6人目の王であるサルバトーレ・ドニがカンピオーネとなった時と同じ、4年前に。

 しかし、分かっているのは彼女が護堂以前に『鋼』の神格を殺しカンピオーネとなった事と、所有する権能が魔槍、狼の神獣、神託の三つだと言う事のみである。年齢や性別、名前、出身国等を除いて、他は全てが謎の王だ。

 彼女の事を調べようとする者も居ない訳ではない。だが、もし調べている事を知られて彼女の怒りを買ったらどうなるか。それを恐れて魔術師たちは尻込みしてしまっている為、どうしても情報は集まらないのだ。

 一応、少ないながらも集められた情報によって和泉咲月についての調査書、報告書は作られている。内容は次の様な物だ。

 

【新たに確認されたカンピオーネ、和泉咲月について】

 

 新たに確認されたと銘打ってはいますが、和泉咲月は草薙護堂以前にカンピオーネと化した少女であると言えます。その情報源は、最近ギリシアで惨殺された、とある老魔術師の手記です。血の汚れや手記自体の損傷具合が激しく、全てを復元する事は出来ませんでしたが、彼女は現在より見て約4年前に西の島の『鋼』を殺し、神殺しとなったとされる魔王です。これは奇しくも、6人目の王であるイタリアの『剣の王』サルバトーレ・ドニがカンピオーネとなった時期と同じ年になります。同じ年に複数のカンピオーネが誕生すると言うのは、カンピオーネの誕生条件から考えても非常に珍しいと言えるでしょう。

 彼女が所有する権能は、確認されただけで3つあります。それぞれの名称は不明ですが、『魔槍』『狼の神獣』『神託』です。

 しかし、この西の島が一体何処であるのか、それは不明です。『魔槍』の権能を『鋼』の英雄より簒奪したと有るので、有力なのはギリシア以西の何処かの島国ではありましょうが、明確な場所は記されていませんでした。

 『魔槍』と呼ばれる権能だけでも多く有ります。『鋼』の神格より簒奪したと言う情報で、ある程度の推測を立てる事は出来ますが、それでも中々に多いので断定する事は非常に難しいでしょう。狼の神獣もまた、大地に関する神格から簒奪したのだろうと言う事以外分かりません。

 唯一分かりそうな『神託』ですが、これはギリシアに関係がある冥府もしくは大地に関係する神か魔獣から簒奪したのだろうと推測されますが、実際に冥府の神なのかは分からず、それが関係する神も複数存在します。

 大地の女神であるレトから生まれたアポロン然り、デルポイのガイアの神託所の番人であった牝蛇ピュートーン然り、夢の神オネイロス然り。これらの神々は皆、大地や冥界、闇、死、予言、神託に関係する神です。

 ですが、彼女が討ち下した神が何者かと言う事はある意味、些末事と言っても良いでしょう。今まで隠れていた為に草薙護堂と同じく先達のカンピオーネ達の様な絶対的な権威を獲得していないとしても、彼女が神々を弑逆し、その権能を簒奪せしめた『王』の一人である事に変わりはないのだから。

 尚、彼女は草薙護堂とは違い魔術・呪術の知識があり、どの程度かは分かりませんがそれを行使する事が出来ると判断されます。その理由は日本での彼女とアテナとの戦場跡に於いて、おそらく彼女が刻んだと見られるルーンの陣が確認された為です。

 この事から、おそらく彼女は最低でもルーン魔術を行使する事ができると予想されます。

 

 ●

 

「やっぱり、少ないわね。まあ、彼女がカンピオーネと確認されてまだ一ヶ月程度だから、仕方ないと言えば仕方ないんでしょうけど」

 

 自身の報告と調査、そして賢人議会の手の者による調査によって作成された和泉咲月に関しての報告書を読み、エリカは小さく溜息を漏らす。その為息は疲労と、若干の呆れによるものだ。

 和泉咲月。アテナが日本を去ってから、草薙護堂以前にカンピオーネとなったと言う彼女の情報をエリカは調べていた。

 しかし、得られた情報は芳しく無かった。何時、何処でカンピオーネになったのかも正確な場所は分からず、収穫と言えば彼女が所有するとされる権能の種類くらいだ。

 それはそれでかなりの収穫ではあるのだが、『魔槍』と『狼』の権能はどの様な神格から簒奪した権能なのか完全に不明で、『神託』の権能も該当する神が複数存在している為に特定が難しい。

 

「祐理の得た情報を奪い取られたのは痛いわね………」

 

 机の上に取り寄せた資料を下ろしながら、エリカは一人ごちる。

 霊視によって万里谷祐理は狼の権能の神格を入手していたのだが、直後に咲月本人にその情報を奪われたのだ。判明している情報が殆ど無いと言っても過言ではない魔王の情報を、得た直後に奪われたのは痛い。

 しかし、それでも調べて判明した事はある。彼女が持つ権能の数と種類、そしてカンピオーネと化した時期だ。特に、エリカの母国イタリアの王とほぼ同時期にカンピオーネと化した者だと言う点には驚いた。同じ年に二人カンピオーネが生まれる等、珍しいを通りこしていると思う。

 しかし、だからと言ってどう言う物でも無いだろう。報告書が記す通り、彼女が王だと言う事に変わりはないのだから。

 それよりも、問題は護堂と彼女との関係だ。会話をしたのは僅か一度のみだが、彼女は護堂の事を極めて嫌っていると言って良い。戦いになれば、躊躇せずに力を奮うだろう(それは護堂含め、他の王も変わらないだろうが)。

 だが、戦いになればほぼ確実に、現在の護堂では負けるだろう。何せ情報が殆ど無いのだ。ウルスラグナの『黄金の剣』を使おうにも、あの化身は神格の情報が無ければ使えないのだ。

 対して、こちらの情報はある程度知られていると考えた方が良いだろう。特にアテナの言葉で、護堂が蘇生系の能力を持っているだろう事は確実に知られていると見た方が良い。殺された直後に、再び殺されると言う事が起きても不思議はない。

 護堂が生き延びるためにも、もっと情報が必要だ。そう考え、エリカは再び報告書と、自身が集めた情報を洗い始めた。

 

 ●

 

 咲月は自室のベッドに横になり、枕元の電気スタンドの照明を点けて本を読んでいた。古びた装丁の本だ。題名は『古事記』。『フルコトブミ』と呼ばれる説もある、上つ巻、中つ巻、下つ巻の全三巻からなる、彼女と草薙護堂の生国である日本の、最古の歴史書と伝えられる書物だ。

 彼女が現在呼んでいるのは上つ巻。天地開闢、別天津神(ことあまつかみ)、神世七代、そして国生みを始めとした、日本創世の神話から最初の天皇である神武天皇が出てくるまでの物語を収めた書だ。

 

「…………」

 

 咲月は無言でページを捲り、読み進める。中々に古い所為か変色し、所々に虫食いがあり読みにくい箇所も有るが、読み難いと言うだけで読めないと言う訳ではない。

 彼女が現在呼んでいるのは、上つ巻の中でも序章に属する章、国生みと神生みの章だ。神世七代最後の一組、伊邪那岐命と伊邪那美命より始まる物語である。

 兄妹であり、夫婦である二神は天沼矛と呼ばれる槍で海水を攪拌し、穂先から滴り落ちた塩を積み重ねてオノゴロ島と呼ばれる島を最初に創り上げる。そこに降り立ち、二柱は一度の失敗を経て国生みと神生みの儀式を始めるのだ。

 

「……ふう」

 

 一息吐き、咲月は枕元にある時計を見る。時刻、11時43分。睡眠時間や起床時間、弁当を作る時間等を考えると、既に寝ていなければならない時間だ。

 存外、集中していたらしい。そろそろ寝なければ寝不足だ。そう思い、咲月は古事記を閉じてベッドから身を起こし、古事記が収めてあった木箱の中にそれを収める。

 コトリと、音が鳴る。それを耳に入れて、咲月はベッドに戻り、電気を消して身を横たえ、目を閉じた。途端に、強烈な眠気が襲って来る。

 彼女はそれに逆らわず、すぐに意識を手放した。

 

 ●

 

 夢を見る。

 深く、暗い闇の中、光が見える。小さく、しかし強く、神々しくも禍々しい印象を持たせる光だ。

 僅かにノイズが奔り、映像が変わる。今度は動物が出て来た。小さな、とても小さな動物だ。灰色のそれは小さく、素早く、そして賤しい。ネズミの様な印象だ。しかしそう思った直後、ネズミは姿を変えた。

 元の数倍はあろう大きさの体に、鋭い牙と、爪。目はギラギラと獰猛に輝き、猛々しい印象を抱かせる。何故か、狼をイメージさせる。

 その狼は光に向かい走り出し、途中で蛇の様な何かを殴りつけ――――突如、大きく映像にノイズが奔った。

 映像が切り替わる。暗い、とてつもなく深い、暗闇。その奥に、小さく光る物がある。奇妙な形に配置されたその光りの数は、八。非常に強い、大地の力と冥府の力を感じさせる。

 再度、切り替わる。大きな一本の木と、巨大な岩。何かを隔てるような印象を抱かせるその岩の前に、人影が一つ見えた。

 何か。そう思い、目を凝らすが――――直後、夢の映像は消え去った。

 



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18話 嵐の前に言葉は弾み

 シャラシャラと涼やかな、耳触りの良い金属音が耳に届く。音の発生源は光を反射して柔らかな銀色の輝きを発している細い鎖だ。その先端には同じく銀色の輝きを放つ、滑らかな円盤状の物体が付いており、もう片方の先端にも何かに留める為の銀色のフックが付いている。

 かちり。

 スイッチを押す様に、円盤に付けられている突起が押される。すると円盤の片面が蓋を開く様に動き、中に収められていた物が露わになった。

 現れたのは文字盤だった。ガラスで覆われた内に、長短三つの針と円形に配置された1から12までのローマ数字で作られた、シンプルなデザインの時計盤だ。針が指し示す時刻は、10時42分。午前ではあるが昼ではない、中途半端な時間だ。

 じっと時計を見ていて、おもむろに竜頭に手を掛け、廻す。チキチキチキ……と小さく音が鳴り、時計内部のゼンマイを巻き上げる。動力を弄られ、ゆっくりと時を刻んでいた秒針の速さが上がる。それを見て、ぱちり、と小さく音を立てて、咲月は懐中時計の蓋を閉じた。

 

「……ふぅ」

 

 小さく、溜息を一つ吐く。いつもの彼女ならまず吐かないだろう、何処か気だるそうなその溜息に、クラスの面々が何事かと目を向ける。

 それに気付いていない咲月ではないが、彼女は気にせずに、頬杖をついて視線を窓の外に向ける。殆ど雲のない、澄み渡った青天が彼女の目に入った。

 

「咲月? どうしたのさ、そんな溜息吐いて。珍しい」

「ん……?」

 

 声をかけられ、咲月は顔を空から外し、声を掛けて来た者に向ける。目に入って来たのは、クラスの中でも特徴的なポニーテール……佐山美智佳だ。

 

「美智佳……どうしたの、何か用?」

「用があるって訳じゃないけど、溜息吐いてたからさ。咲月が溜息吐くなんて滅多とないし、どうしたのかと思って。顔色もあんまり良いとは言えない感じだし、具合でも悪いの? ……もしかして、あの日?」

 

 咲月の問いに、美智佳はやや心配そうな口調でそう返す。あの日と言うのは当然、一月に一度、女性に必ず来る生体現象の事だ。

 それに薄く苦笑を浮かべながら、咲月は美智佳の心配を否定する。

 

「別にあの日って訳じゃないわ。そもそも、私の場合そんなに酷い訳じゃないし。ただ……」

「ただ?」

「何と言うか、夢見が悪かったって言うか、よくわからない夢を見たと言うか……」

「何それ。夢? どんな夢を見たのさ?」

「ん……」

 

 首を傾げながら、夢の内容について美智佳が問うてくる。それに対し、咲月はどうするべきかを考える。

 昨晩夢で見た物は、狼と光、蛇、巨岩、木と言った物だ。気配も含めれば冥府と大地の物も有る。普通、夢では感じられない筈の気配すら感じる辺り、普通の夢ではない事は明らかだ。まず間違いなく『神託』の権能が自動発動したのだろう。

 ギリシアの夢の神オネイロスから咲月が簒奪した『神託』の権能は、敵対者の情報を得る、奪う、或いは与えると言った戦術的な権能だ。この権能の自動発動形態である予知夢は、近ければ最短で5日以内に予知夢の内容が実現する。最も古い物では権能簒奪直後に起こった空港の嵐が、最も新しい物では一月前のアテナ来襲がこの権能によって予知された。

 その権能の事を考えながら、咲月は一つ気になった事があった。

 

(最近、随分と神託が良く発動するわね……何でかしら。やっぱり草薙護堂が原因? ……まさかね。いくら新しい王がすぐ近くに居ると言っても、予知夢自体は別の要因で発動するものだもの。草薙護堂は関係ないはず)

 

 今年に入ってから、神託の権能が予知夢を咲月に齎したのはこれで二度目だ。別にそれ自体は可笑しい事ではない。去年も、二年前も、予知夢は何度も見ているからだ。

 だが、それは一度見た後、数ヶ月の間を空けて見ているのだ。今回の様に、僅か一ヶ月程度で予知夢が発動した事は、神託を簒奪してからの二年間で一度も無い。

 

(まさか、また神が出てくるんじゃないでしょうね。だとしたら、どうしようかしら。アテナとの再戦に備えて、新しい権能は奪っていた方が良いでしょうけど……)

 

 一ヶ月前の、アテナとの問答を思い出す。あの女神は去る直前に、傷が癒えたら、再び戦う為にやって来ると言った。咲月の前に草薙護堂と戦い、今度こそ完全に討ち下した後で咲月と戦うつもりらしいが、あの女神がやって来る事はほぼ確実だろう。あの戦いの結果を痛み分けとする際の問答によって、次に戦う時と場所はアテナが決定権を持っているが、咲月自身もそれ自体は構わない。やはり決着つかずの不完全燃焼よりも、ハッキリと決着をつけた方がすっきりするからだ。

 しかし、アテナと咲月は互いに手札をほぼ晒していると言って良い。アテナは戦略を司る女神だ。咲月もそうだが当然、あの女神も対策を練って来るだろう。

 神託の権能の事はおそらく知られていないだろうが、この権能は直接的な攻撃能力は皆無の、情報収集専用と言っても過言ではない権能だ。もし知られたとしても、直接的間接的問わず影響を為さないのなら、あの女神なら然して気にも留めないだろう。神々に関する情報を戦う力にする類の権能と合わせれば危険な権能だろうが、生憎と咲月はそれに該当する権能を所持していない。

 

(って、また思考が戦闘寄りになってるわ。神託もそうだけど、最近こう言うのが多いわね。何でかしら……)

 

 いつの間にか戦闘寄りの思考になっていた事に気付き、咲月は小さく頭を振る。一ヶ月前の戦闘はもう終わった事だ。何時までも気にしていた所で無意味だろう。

 神託の内容について思い出す。蛇、大地、冥府と来れば、当て嵌まるのはアテナの様な大地母神だが、今回はそれらの他に狼と岩、木、光があった。今までと違い、随分と漠然とした物ではあったが、神託には違いあるまい。

 狼もモリガン等、一部の大地母神が化身の一つにしている動物なので別に変だとは思わない。岩と木も、主として大地に属する物で、不死や豊穣を意味する物だ。それらの情報から考えるに、もし神が現れるとしたら再び地母神になるだろう。この国の神話や伝説から見れば、イザナミがそれに該当するか。

 しかし、今回見た夢に現れた狼は、大地の属性を持ってこそいたが、何故か地母神とは異なる印象を受けた。寧ろマーナガルムの様な、死や光に関係する属性を持っている様な感じがした。

 イザナミは蛇には関係あるが、狼を化身としてはいない。光の属性も、彼女が死して黄泉の主宰神となる以前はイザナギの妻として、創造神たる母神の属性を持っていたと考えれば納得はいかないでもない。

 だが、その光に関して奇妙に感じた。光から感じた蛇の気配と、その数だ。

 別に蛇が光の属性を持っていると言うのは、珍しいかもしれないが可笑しい事ではないだろう。地母神との関係の方が強いからか蛇は水や大地、闇の獣とされる事が多いが、光に関する蛇も居る。代表的な神を挙げれば古代アステカの神、羽毛を持つ蛇ケツァルコアトルか。彼の神は風や水、文明神としての属性の他に太陽神としての属性をも持っているのだ。

 咲月が神託で見た光の数は八つ。その全てから蛇の気配を感じ取れた。

 蛇と八と言う数字で真っ先に思い浮かべる事が出来るのは、日本ではやはりヤマタノオロチだろう。冥府の穢れをイザナギが禊ぎ、最後に生まれた『三貴子』と呼ばれる三人の神の一柱でもある末の弟、スサノオノミコトによって斬り殺された、八つの頭と尾を持つ蛇神だ。元々、山神や水神であったと言うこの蛇神は、洪水や火砕流を神格化した存在だとする説もある。

 また、ヤマタノオロチは三種の神器の一つでもある鋼の剣、天叢雲剣をその尾より出した事から、鋼にも関係がある神の一柱である。

 古代、日本ではたたら吹きによって砂鉄を溶かし、剣を始めとした鋼製道具の製造を行っていた。たたら吹きに使われる木炭の量は膨大で、その材料として川の上流の木々が伐採された事により山が雨水を貯め込む事が出来なくなり土石流や洪水が発生し、その川の氾濫が荒れ狂うオロチとされたのだろう。実際、島根県にある斐伊川はオロチ河川群とも呼ばれる河川の一つであり、かつて幾度も洪水で氾濫を繰り返していたのだ。

 また、斐伊川の上流ではかつて、良質の砂鉄が採取されている。オロチを表す言葉の一つに「腹が血でただれている」と言う物があるが、これは砂鉄や鉱毒によって川の水が濁ったものではないかとする説がある。

 しかし、ヤマタノオロチは水と大地、火、鉄の属性を持ってはいるが、光と冥府の属性は持っていない。

 

「咲月? おーい」

 

 次いで思い浮かぶのは、腐敗したイザナミの体に生じていた火雷大神だろう。この神はイザナミの体に生じていた八柱の雷神の総称で、両手足、頭、胸、腹、女陰に生じていた蛇の雷神だ。それぞれ頭部の大雷神が雷撃による破壊力を、胸部の火雷神が雷による火災を、腹部の黒雷神が雷雲による暗闇を、女陰の咲雷神が雷によって引き裂かれた物体を、左手の若雷神が雷雨の後の潤った大地を、右手の土雷神が地上に戻る雷を、左足の鳴雷神が響き渡る雷鳴を、右足の伏雷神が雷雲の中で光る雷を司っている。

 この八神は冥府の主宰神となったイザナミから生まれた神の為、ヤマタノオロチとは違い冥府の属性を持ってはいるが、やはり光には該当しない。

 他にも蛇の神は居る。大国主命の和魂と言われる大物主神と、闇御津羽神(くらみつはのかみ)闇淤加美神(くらおかみのかみ)の姉妹神だ。大物主神は豊穣と国の守護、疫病などの祟りを司る雷と水の蛇神であり、闇御津羽神・闇淤加美神は天之尾羽張の柄から滴り落ちた火之迦具土神の血から生まれた、峡谷や井戸の水の出始めを司る龍蛇神だ。

 しかし祟り神である大物主神はともかく、闇御津羽神・闇淤加美神は冥府とは関係ない。

 

「おーい、咲月ー? 聞こえてるー?」

 

 八と言う数字も厄介だ。

 現在はともかく、古代の日本では八と言う数は聖数とされており、八百万(やおよろず)八十(やそ)八重(やえ)と言う単語が表す様に、漠然と数が多い事を表す。三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)の八咫も大きいと言う事を表すものとされており、同じく三種の神器である八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の八尺も大きい、或いは長いと言う事を示すとされる。知恵の神である八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)の八意の名前も、多くの知恵を持ち、様々な視点での思考を兼ね備えている神と言う意味だ。

 単純に八とあっても、日本ではそれがきちんとその数を表しているとは言えないのだ。勿論、全てがそうと言う訳ではないが。

 

「むぅ。さーつーき!」

「きゃっ!?」

 

 パン! と大きな音が耳のすぐ傍で聞こえ、咲月は小さく悲鳴を上げた。突然の音に思考を打ち切り、目を白黒させつつ何事かと音が聞こえた方を見ると、美智佳が若干不機嫌そうな表情で咲月を見下ろしていた。両手を合わせた状態である事から、先の音の発生源は彼女の手なのだろう。

 

「な、何? 美智佳」

「何? じゃない。まったく、夢の内容がどんなのだったか聞いたら、急に黙って考え込んでさ。声掛けても反応しないし」

「あー……ごめん。また悪い癖が出てたみたい」

 

 咲月自身理解している事ではあるが、彼女は一度考え始めると深く思考に耽る事が多い。その為、他人の話が聞こえなかったり、話題を忘れてしまう事が度々あるのだ。

 美智佳の視線と言葉に流石に悪かったと思ったのか、咲月は彼女に謝罪した。

 

「まあ、今に始まった事じゃないからそこまで怒ってる訳でもないけどさ。で、話を戻すけど、結局夢の内容は何なのさ?」

 

 その言葉で、咲月は神託の事をどうやってぼかすかを考え始めるが……すぐに考えることを止めた。

 神託の権能が彼女に齎したのは予知夢だ。未来に起こり得るだろう出来事を知らせる特別な夢だが、結局のところは単なる夢だ。

 これが魔術師相手なら騒ぎ出しそうなので話す事を躊躇う所だが、美智佳はそう言った裏の事情とは無関係の、完全な一般人だ。話した所で何か自分に影響がある訳でもないので、別にぼかす必要など無いだろう。

 

「内容ね……なんて言うか、繋がりがないのよね。ネズミが狼になったり、その狼が二足歩行したり、蛇を殴ったり。かと思ったら光が出てきたり、岩が出てきたり木が出てきたりで。最後に人影を見た様な気もするけど、本当に見たかはよく覚えてないわ」

「何その夢。二足歩行する狼って、狼男? またファンタジーなのが出て来たね。それに蛇や光って、統一性がまるで無いじゃんか」

「私に言われてもね、意図して見てる訳じゃないんだから。それに夢なんて、基本そんな物でしょ?」

「まあ、それは確かにねえ。むしろ、意味のある夢を見る方が珍しいか」

 

 夢の内容を話し、それに呆れる美智佳に咲月は片目を閉じて言う。

 実際、予知夢としての神託は咲月が眠っている間に勝手に発動し、情報を齎すのだ。勝手に発動するが故に何時発動するかは分からず、たとえ発動する時を知る事が出来たとしても、望んだ情報を得られるとは限らないのだ。尤も、これは咲月が神託の権能を、未だ完全に掌握出来ていないと言う事かも知れないが。

 

(もう8割くらいは掌握出来てる感じはするんだけど……オネイロスを殺してもう2年になるっていうのにまだ完全に掌握できてないとか、どうなのかしら。やっぱり戦闘で殆ど使わないからかしら……)

 

 美智佳と他愛のない雑談を交わしつつ、思考の片隅で咲月はそう思いながら、窓から空を見上げた。

 先程見上げた時と変わらない、雲一つない澄んだ青空だったが、咲月はその空を見て僅かに眉を潜めた。

 まるで、嵐が来る前触れの様に黒ずんで見えたのだ。

 

 ●

 

 放課後。部活や生徒会等の用事が無い生徒が、ほぼ例外無く帰宅する時間である。部活にも生徒会にも所属していない咲月も、当然だが帰宅する大勢の生徒達の中に入っていた。

 

「じゃね、咲月。また明日」

「ええ、また明日」

「咲月、明日のお昼は肉じゃがを作って欲しいなー」

「残念だけど、今日の夕飯は鶏肉のソテーとサラダ、ほうれん草のスープって決めてるの。だから肉じゃがはまた今度ね」

 

 下駄箱に向かう廊下の途中で、そう言って咲月は部活や生徒会に向かう友人達と別れて一人昇降口に向かい、靴を履き替えて学校から出て、夕飯の材料を買う為にスーパーマーケットへの道を歩く。

 

(買う物は鳥胸肉とほうれん草、レタスにハムにトマトに……そう言えば、牛乳が無くなったんだったわ。これも買わないと。他には……)

 

 向かいながら、頭の中で買うべき物をリストアップする。一人暮らしと言う事もあるので一度に買う量は多くはないが、無くなりかけている物なども追加していくとそれなりの量になった。

 

(思ったよりも買う必要がある物が多かったわね。まあ、お金も体力もまだ有るから別に問題はないけど……)

 

 店から出て、手に食材などが入れられた袋と学生鞄を提げて咲月は家への道を歩く。液体がずっしりと重く感じるが、体力には自信があるので問題ないだろう。

 

「ん……?」

 

 道を歩いていると、ふと視線を感じた気がした。そこまで強い訳ではないが、しかし弱い訳でも無い。

 

(……最近、視線を感じる事が多いわね。前まではそんなに多く無かったのに)

 

 アテナとの戦いの後から、咲月は自分に向けられる視線が格段に多くなったのを感じていた。やはり魔王と知られたからだろう。この一ヶ月で術師だろう存在からの視線を感じたのは10や20では済まない。

 この視線も、術師が自分を見ているのだろう。実際の目で見ているのではなく、呪術で視覚を飛ばしていると言ったところか。実害は現在の所無いが、一ヶ月もこう言った視線を感じていると、いい加減に鬱陶しくなってくる。

 見つけ出して潰すか。そんな考えが頭に浮かぶが、すぐに振り払った。殺すのは最後だと決めているのだ。

 今回は警告で済ませよう。そう思い、咲月は足を止め、視線を感じる方向に目を向けて言った。

 

「何処の誰かは知らないけど、あんまり見てると潰すわよ? 私もいい加減、鬱陶しいと思ってるんだから」

 

 少しばかりの威圧と呪力を込めてそう言うと、感じていた視線は無くなった。術を解いたのか、咲月の呪力で術が弾かれたのだろう。

 それに小さく鼻を鳴らし、咲月は帰途に着いた。

 

 ●

 

 護堂はげんなりしていた。

 いつもの様にまとわりついて来るエリカから何とか離れられ、帰宅した彼は食事を終えてゆったりとしていたのだが、その時に電話がかかって来たのだ。

 草薙家には護堂の他に祖父と妹が居るが、電話がかかって来た時に祖父は風呂に入っており、妹は食器を洗っていて電話に出る事が出来なかったので、暇だった自分が出たのだが、取った直後に後悔した。

 電話を掛けて来た主は見知らぬ相手……等ではなく、見知った相手だった。見知ったと言っても、友人に紹介されたとか、親の友人とかの理由で見知った相手ではない。そんな穏やかな感じで知り合った仲ではなく、戦い、殺し合って知り合ったと言う物騒な仲だ。

 電話の主の名はサルバトーレ・ドニ。エリカの生国であるイタリア在住の、護堂の先達。『剣の王』とも呼ばれる六人目のカンピオーネだ。

 彼の声を聞いた直後、護堂は一瞬の躊躇も無く電話を切った。当然だろう。何せ事あるごとに「決闘しよう」等と言って来る輩だ。常識人を自称している護堂からしたら関わり合いになりたくない人間である。

 しかし彼は電話を切られてもめげることなく、どう言う手段で知ったのか、護堂の携帯に電話を掛けて来た。携帯に出ない、或いは電源を切ると言う選択も有ったが、非常に嫌な予感がしたのでその選択は取らず、かなりの躊躇を見せてから電話に出た。

 相手はやはりと言うべきか、サルバトーレだった。多少の雑談をして、何の用で電話を掛けて来たのかと聞いたら、彼はとんでも無い事を言って来た。

 現在、日本にヴォバン侯爵が来ているから喧嘩でも売ったらどうか? と。

 

「ちょっと待て! 何でそんな奴が日本に来てるんだよ!?」

『教えてあげても良いよ? サルバトーレよ、勇士にして我が友よ、あなたの助言が必要ですと言ってくれればすぐにでも――』

「誰が友だ。あんたを友人だと思った事なんかないぞ」

『つれないな、護堂は』

 

 護堂の言葉に軽い口調でサルバトーレはそう返した。その声を聞き、護堂は思わず溜息を吐きそうになった。

 

「……なあ、そのじいさんは結構な数の神を倒してるんだよな。あんたのも合わせて、どれくらいの神を倒してるんだ?」

『ん? 僕と合わせれば軽く十は超えると思うけど? どうかしたかい?』

 

 護堂の問いに、サルバトーレは珍しく疑問を含んだ声で問い返す。

 

「いや。あんた達が倒した神とは、俺は戦わなくていいんだよなって思った。もう倒されてるんなら、出てくる筈はないもんな」

 

 何処か安堵を含んだ声で、護堂はそう言った。

 神を倒すと言う事は、神を殺すと言う事だ。既に殺された存在が新たに生まれ出てくる事はないだろうと、護堂はそう思ったのだ。

 

『ハハッ、何を言ってるんだい護堂。そんな事は有り得ないよ』

 

 しかし、サルバトーレのそんな言葉で護堂は疑問を抱いた。

 

「有り得ないって、どう言う事だよ。あんた達が倒した神はもう居ないんだろ?」

『確かに居なくなってるよ。でも、それはあくまで一時的なものだよ』

 

 護堂の問いに、サルバトーレは厳かな声で、教えを授ける様に言った。

 

『現世に現れる彼等は、所詮彼等の一部分だ、全てじゃあない。――神々の本質は神話だ。僕達カンピオーネを含めた全ての人間が紡いできた神話が存在する限り、彼等は決して滅びない。殺されても、何度だって甦って来るんだよ』

 

 暗い、戦いの喜悦に染まった声でサルバトーレはそう言った。その言葉を聞き、護堂は考える。

 神話がある限り、神々は滅びない。たとえ倒されても、何時か再び甦る。なら――

 

「なら、俺が倒したウルスラグナも……」

『何時か甦って来るだろうね。あの神様は西アジアではかなりのビッグネームだ、案外もう何処かで復活してるかも知れないね』

「……とんでも無いな、本当に」

 

 溜息を吐き、そう零した護堂。カンピオーネの生命力が常識外れなのは実体験から理解しているが、神はそれ以上に常識外れだと思ったのだ。

 

「話はそれだけか? だったらもう切るぞ」

 

 そう言って、護堂は電話を切ろうとボタンに指を伸ばした。

 

『あ、ちょっと待った護堂』

 

 携帯から聞こえて来たサルバトーレの声に、護堂は通話終了ボタンに伸ばしていた指を止めた。

 

「何だよ? まだ何かあるのか?」

『いや、ちょっと聞きたい事があってね。最近君の近所に新しくカンピオーネが出て来ただろ? どんな子か教えて欲しいなって』

 

 言われて思い出すのは、アテナを退けた薄亜麻色の髪の少女の姿。巨大な狼の神獣を従え、槍を手に持ち、万里谷から情報を奪い取った咲月の姿。

 思い浮かべると同時に、護堂は自分の胸中に敵愾心の様な物が湧くのを感じた。

 

「……」

『護堂? 聞こえてるかい?』

「ああ、聞こえてるよ。結構好戦的な感じだったからな、案外、あんたと気が合うかもしれないな」

『……へえ、そうかい? それは……』

「? それは?」

 

 思わせぶりに言葉を切ったサルバトーレに護堂は問う。何か、嫌な予感がする。

 

『会う時が楽しみだなって』

 

 朗らかに、とても楽しそうに、サルバトーレはそう言った。

 



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19話 王達は嗤い、蛇は蠢く

 

 青葉台の一角に、とある公立図書館がある。公立図書館と言っても、一般人が入館・利用する事は不可能であり、そもそもとしてどのような施設なのか、近隣の住民たちには認知されていない。

 しかし、それはある意味で当然である。その図書館は市や町が管理しているのではなく、正史編纂委員会が管理し、運営している施設の一つなのだ。

 この図書館に、一般人が手に取り読む様な普通の書物はただの一冊たりとも置かれていない。魔術や呪術、まつろわぬ神、神殺し等の非日常に関係する組織が運営している施設である為、書架に収める物は全て、必然的にそちら側の書物になる。即ち呪術書や魔導書、もしくはそれに類する研究書や専門書などだ。その数、実に数万冊。

 書架に収められた本は、その強弱こそあれ全てが魔力を宿しており、中には書自体が意思を持つ物も有り、弱い者なら手に取るだけでその精神を狂わせ、姿を変えてしまう危険かつ凶悪な物も存在する。この図書館の書架には、そんな魔導書達が収められているのだ。

 正史編纂委員会が発足し、活動を始めたのが、第二次世界大戦が終戦した直後。その時から実に約七十年もの間、委員会は海外から伝わって来る魔術の知識を制限する為に、持ち込まれた魔導書を人知れず、時には強硬手段を用いて回収して来た。

 静謐だが、禍々しく妖しい気配に満ちた空間。そんな図書館の中に、現在、万里谷祐理と甘粕冬馬は居た。目に見える範囲の全ての書架に、ぎっしりと収められた魔導書が珍しいのか、祐理はキョロキョロと書架を見渡している。

 

「そんなに珍しいですかね、此処は?」

 

 書架に収められた膨大な量の本を見渡す彼女に、隣に立っていた甘粕が問う。こういった場所に来慣れているのか、彼は祐理の様に本棚を見渡したりはしていない。普段と同じ様に、自然体で立っている。

 

「いえ、珍しいと言うか……青葉台にある、委員会直轄の『書庫』。多くの魔導書や呪術書を収め、秘匿し、保管している場所だと話に聞いてはいましたが、来るのは初めてですから」

 

 甘粕の言葉に、書架を見渡すのを止めて彼の方を向き、祐理は言った。

 媛巫女である彼女は正史編纂委員会に所属している身だ。一般人は出入り不可なこの図書館にも、委員会に関係する人間なら入る事は出来る。

 しかし祐理は、此処に来るのは初めてである。場所等は知ってはいたが、今までは特に何か用があると言う訳でもなかったからだ。今回この図書館に来たのは、甘粕からある依頼(と言う名の指令)を受けたからであり、おそらくそう言った物が無ければ彼女が図書館に来る事は無かっただろう。

 

「そうですか。まあ、用が無ければ来る必要なんてない場所ですからねー、此処は」

 

 祐理の言葉に、甘粕は軽薄そうにヘラヘラと笑いながらそう返す。そんな甘粕に祐理は僅かにだが眉を潜めた。生真面目と言う言葉がぴったりと当て嵌まる性格をしている彼女にとって、勤務態度として相応しくない甘粕の言動はあまり好ましいものではないのだろう。

 

「それで、私に視て欲しい物と言うのは……?」

「少し待っていてもらえますか? 例のブツは奥の方に保管してあるので」

 

 すぐに持ってきますね。そう言って甘粕は祐理を置いて一人、保管室に向かって書架の奥の方に進んで行った。

 その背中を見送った後、祐理は再び書架を見渡す。視界に入るのは当然ながら、その9割以上が書物だ。偶に書架の隙間や角にこの図書館の司書だろう人影(当然だが一般人ではなく、全員が委員会に関係ある術者達だ)が見えるが、彼等は殆ど言葉を発さず、書架に収められている書物の点検等をしている。祐理と目が合う事も有るが、その時も目礼をするだけだ。

 目礼に軽くお辞儀を返しながら、祐理は数多の書物が収められた書架を見渡す。収められている書物のタイトルのおおよそ7割程はドイツ語やラテン語等の横文字で、日本語や漢文等の縦文字で書かれている物は3割にも満たないだろう。収められている書物の殆どは古めかしい紙や皮張りの本だが、中には魔導書と言うには不釣り合いな、真新しい装丁の本も有る。

 しかし類稀な霊視術者である彼女は、それらの本の新古を問わず、秘められた術や呪力の気配を読み取っていた。

 この図書館には洋の東西、国の内外問わず、希少な、或いは危険な魔導書が数多く保存されている。魔導書と言う物は――と言うよりも、これは呪術に関係する諸々の道具全てに言える事なのだが――年月を経るごとにその内に秘めた術の知識や効果、呪力の影響を受け、自ら呪力を溜めこむ性質を持つ。それらの呪物は作られてから経過した年月の数だけ呪力をその内に蓄え、力を増して行く。さらにその性質から、手書きであり、古ければ古い程強力かつ危険な物となる傾向が強い。

 しかし例外も有り、中には印刷機等で作られた大量生産品の魔術書とも言えない魔術書が、突然変異の様に魔力を宿す事もある。此処に収められている新書も、おそらくその類の物なのだろう。

 それらの本を見渡しながら祐理は甘粕を待ち、約5分後、彼はその手に一冊の薄めの本を持って戻って来た。

 

「いやー、お待たせしました。祐理さんに今回視ていただきたいのはこの本なんですよ」

 

 言って、甘粕は机の上に手に持っていた本を置く。書かれているタイトルは横文字で『Homo homini Lupus』。洋書である。

 

「19世紀前半に出版されたとされる魔導書で、エフェソスで信仰されていたとされる『獣の女王』の秘儀について記された研究書と聞いています。研究対象の場所柄と『獣の女王』と言う単語から考えて女神アルテミスに関する研究書だと思いますが、『神の子を孕んだ黒き聖母』と言うのも有るのでキリスト教の聖母マリアの可能性も有るんですよね。『黒い聖母』がマリアかどうかは分かりませんが、彼女はエフェソスで余生を過ごしたと言う伝承も有りますし、そもそも彼女自身が地母神と同様に見られる事も有ります。カトリックでは否定されていますがね」

 

 机に本を置きながら、尋ねても居ないのに甘粕は自身の蘊蓄を祐理に披露する。

 彼が言う様にエフェソスではかつてアルテミス信仰が盛んであり、彼の女神の荘厳な神殿が存在していた。天空と雷の神であり、最高神であるゼウスと大地の女神レトとの間に生まれたこの女神は、今日ではギリシアの最高神格である『オリュンポス十二神』の一角に数えられ、月と狩猟、純潔を司る女神とされる。

 しかし実際にはヘレネス――ギリシア固有の女神ではなく、彼等以前に存在した先住民族の信仰していた地母神を彼等が征服し取り込み、ギリシア人好みの神格に作り変えた物だと考えられている。月を司ると言う神格も本来彼女が持っていた物ではなく、太陽神ヘリオスと混同され太陽神の属性を得た弟神アポロンと同様、月を司る女神セレネーと混同されて得た物だとされる。

 また、月は女性や魔女と関係深い事から、アルテミスは魔女神ヘカテーとも同一視される。へカテーの由来はアポロンの別名であるヘカトスの女性形であるとも、エジプトの女神であるヘケトとも言われている。ヘカトスの意味は「遠くへ射る者」であり、アポロンに付けられたこれは陽光の比喩表現だ。ヘカテーは「闇月の女神」とも呼ばれているので、この女神の場合は月光の比喩表現だろう。

 この事からヘカテーはセレネーと同一視され、さらにセレネーとの同一視からアルテミスとも同一に見られる。アルテミスとアポロンを共通して表す「遠矢射る」と言う言葉も、ヘカテーとアルテミスの同一視に一役買っているのだろう。

 

「これは読み解いた人間を『人ならざる毛深き下僕』に変えたとも言います。もしこの本が、私が考えた通りアルテミスに関する研究書なら、毛深き下僕に該当するのは熊か狼辺りが有力ですな」

 

 アルテミスは元来山野や森の女神であり、当然獣との関係性も深い。彼女を象徴する聖獣は牝熊や鹿、猟犬だ。実際、彼女は彼女に仕えていたニンフであるカリストーを牝熊に、彼女の裸身を目撃したアクタイオーンを鹿に変えている。「毛深き下僕」が熊ならば、アルテミスに関する研究書と言うのも可笑しくはないだろう。狼も森の女神である彼女の僕であり、アポロンの聖獣であり、そして母神であるレトだ。関係がないと言う訳ではなく、寧ろ関係深いと言える。

 しかし、祐理はそれとは別に気になる事があった。

 

「あの、人間を変えたと言われましたが、そう聞くと研究書や魔導書と言うよりも、呪いの本なのではないのですか?」

「ええ、正解です。流石は当代最高の霊視術師ですね、鋭い。実はこれには、狼男を量産する呪詛が込められていまして。魔術の伝道書ではあるんですが、まあ、ぶっちゃけてしまえば呪いの本ですね。本物でしたらかなりのレア物です」

「そんな危険な事を嬉しそうに言わないで下さい!」

 

 甘粕の言葉に対し、祐理は文句を言う。「読み解いた者を」と言う彼の言葉が確かなら手に取り、開かなければ大丈夫なのだろうが、好き好んで見たい物でもないだろう。前情報も無く手に取り開いていれば、下手をすれば自分が獣に変わってしまったかもしれないのだ。

 

「まあ、ページを開かなければ大丈夫ですよ。ささ、ちゃちゃっと視てしまって下さい」

「あなたは……」

 

 軽い口調でそう言う甘粕に、祐理は呆れると共に軽い諦観を抱いた。溜息を一つ吐き、机に置かれた薄い洋書に向き直り、心を澄ませ、目を凝らす。それを甘粕は、先程とは違いやや引き締まった顔で見ていた。

 祐理の、と言うよりは、これは霊視術師全員に言える事だが、霊視と言う物は本来、自らの意思で望んで得られるものではない。心を空にし、直感を始めとした感覚を研ぎ澄ませ、神霊の気まぐれと導きによって初めて得られるものだ。しかしその導きによって得られた天啓も全てが正しいと言う訳でなく、知りたい情報を得られる時も有ればまったく関係のない、役に立たない情報しか得られない時もある。的中率が6割を超え、当代最高の霊視術師とされる彼女も、それは例外ではない。

 甘粕が彼女をここに連れて来て、危険な魔導書を霊視させたのには、この魔導書が本物かどうかを調べる為と言うのも有るが、別の理由がある。彼女はアテナ来襲の際、彼の女神と死闘を繰り広げた和泉咲月によって何らかの権能を掛けられ、得た情報を奪い取られている。

 情報を奪い取ると言う能力から、咲月が祐理に掛けたのはおそらくは精神や思考と言った、内面的なものに干渉・作用する権能だろうと甘粕や馨は予想を立てている。

 しかし馨は、4年の間存在を知られることなく潜み続けて来た咲月が祐理に行ったのは、情報の略奪だけではないと判断している。

 権能は様々な能力があるが、元が神々の力である為に、どれもこれもが規格外と言って良い能力だ。内面への干渉が可能な権能なら、霊視や遠見の術を始めとした能力に干渉し、弄る事も可能だろう。甘粕もそれを聞き、自身も以前、身をもって情報の略奪を経験している為、彼女の懸念は理解できた。

 もしかしたら、祐理の霊視能力も咲月の権能によって何らかの干渉を受けたのではないか。

 

「……これは呪いの書ではありません。読み解く者に十分な見識と力は有るなら、呪詛に毒されず、知識のみを汲み取る事が出来る筈です。ですが……」

「それが無かった場合、私が言った様に呪詛に侵され、獣になってしまう……と」

「はい。おそらくこの呪詛は選定……資格ある者のみが読み解ける試練なのだと思います」

 

 祐理の言葉に、甘粕は唸ると同時に内心で安堵する。完全に安心はできないが、どうやら彼女は情報を奪われただけで、霊視能力に権能の影響は無い様だ。

 自分達の判断は杞憂だったかもしれない。そう判断し、甘粕は礼を言おうと祐理に声を掛けようとした所で、魔導書から視線を外さない祐理に僅かな疑問を抱いた。

 本物か否かの判断の為の霊視は既に終えている筈である。それにも関わらず、彼女は視線を僅かにも魔導書から外そうとしない。何故、とも思ったが、彼女の体から呪力が溢れている事に気付いた。どうやら、より深い知識や天啓を得られる状態になったらしい。

 彼女はどんな知識を得られるのか。興味深そうに甘粕は見守っていたが、その数秒後、異変は起こった。

 

「……太陽、狼……大地の……っ、あ、あああああっ!?」

「っ、祐理さん!?」

 

 ブツブツと何かを呟いていた祐理だが、突如悲鳴を上げ、頭を抑え悶え始めた。突然の彼女の変調にただならぬものを感じた甘粕は声を掛け、どうしたのか問おうとする。

 しかし声を掛ける直前、バヂン!! と言う大きな音を立てながら祐理と魔導書の間に稲妻が発生した。その稲妻は祐理の頭に直撃し、彼女はビクン、と一度痙攣した後、床に倒れ込んだ。

 

「祐理さん! 祐理さん!? しっかりして下さい、祐理さんっ!!」

 

 倒れ伏した祐理に駆け寄り、甘粕は状態を確かめる。口に手を当ててみると、呼吸はあった。額に電撃痕があるが死んだと言う訳ではなく、しかし呼んでも軽く頬を叩いても反応がない事から、気絶しているらしい。意識が戻る様子はなく、ぐったりとしている。

 権能の影響がない等と、楽観が過ぎた。やはり七人目の魔王は祐理の霊視に対し、何らかの干渉を行っていたのだ。即座にそう判断した甘粕は祐理を抱き上げ図書館を出て、車に乗せて七雄神社への道を走って行った。

 魔導書の上に浮かび、人形の様に虚ろかつ冷たい眼差しで図書館を出て行く二人を見ていた半透明の存在に気付かないまま……。

 

 ●

 

 それを咲月が感じたのは、家に戻り、出された課題を進めていた時だった。感じた呪力の反応に、ピクリと一度身を震わせ、ノートに文字を書き込んでいた手を止め、顔を上げる。その視線は窓の外の、ある方向へと向いた。

 

「……ふうん、やっぱり何かを通して霊視しようとしたのね。予想していたよりも遅かったけれど……」

 

 言いながら咲月は窓の外、先程の呪力を感じた方向を冷めた目で見ていた。

 咲月が感じたのは万里谷祐理が行った霊視と、直後に発生した稲妻の呪力……否、正確に言えば、祐理の霊視によって発生した稲妻の呪力のみを感じていた。

 青葉台の正史編纂委員会の図書館と言う、離れた場所で発生した呪力を咲月が感知出来たのには理由がある。咲月はアテナとの戦いが終了した時、祐理に対して神託の権能を使い、彼女が霊視によって得たマーナガルムの情報を奪い取った。その時咲月は情報を奪い取ると同時に、ある細工を権能によって祐理に施していた。普通の霊視では発動しないが、ある一定の条件を満たした場合にのみ作動する細工。

 先程咲月が感じた呪力の波動は、その細工が作動した事を表す物だった。

 

「何を通して霊視しようとしたのかは分からないけど、諦めが悪いわね。まあ、一応分からないでもないけれど……」

 

 気分の良い物じゃないわね。そう言って咲月は視線を窓の外から外し、時計を見る。課題を始めてから既に2時間近くが経過していた。夕飯にするには丁度良いか、やや遅い位だろう。

 早く準備しなければ。そう思い、咲月は開いていたノートを閉じて台所に向かい、冷蔵庫の中を確認する。ジャガイモと肉、玉ねぎに人参と、肉じゃがを作れる材料が揃っていた。

 丁度いいと思い、咲月は材料を全て取り出し、いつの間にか足元に来ていたマーナをチラリとみて小さく笑みを浮かべ、包丁を器用に使って食事を作りはじめた。

 

 ●

 

 東京都内にある、とあるホテル。かつては貴族の別邸だったとも言われる屋敷を改装したそのホテルの敷地内には美しく広大な庭園が広がり、所々に存在している小川や池、橋等が雅な雰囲気を醸し出している。東欧や西欧には見られない独特の雰囲気を持つその庭園は、イタリアで生まれ育ったリリアナにとっては興味深く、時間と状況が許すならゆっくりと見て回りたいと思える物だった。

 が、彼女はそう感じても、彼女の連れである魔王はそんな物は気にも留めず、ホテルに着くなりすぐに部屋に引っ込んでしまった。

 彼女達が取った部屋は敷地内に造られた別棟にあるスイートである。外見は古風な日本家屋でありながら部屋の内装は現代風で、所々に畳や障子を組み込み和と洋の雰囲気を壊さない様に合わせている。日本人だけでなく、欧州人にも馴染みやすい様に作られているのだろう。

 しかしそう言った雰囲気も彼は「知らん」と言った風で、出された食事を食べ、酒を飲んでいた。戦闘欲以外では、食欲にしか興味がない彼らしいと言えばらしいのだが。

 

「クラニチャール、例の巫女の消息と所在は掴めたかね?」

 

 天ぷらや刺身等、日本の料理を食べ、酒を飲みながらリリアナの連れ――ヴォバン侯爵は彼女に問う。彼が食べるスピードは速く、行儀や作法と言う物は有った物ではない。ただ有る物を喰らい尽くし、飲み干すだけの作業に見える。

 

「申し訳ありません、使い魔を動員し探しては居りますが、未だ所在は掴めておりません」

 

 そんなヴォバンに対し、騎士の礼を取りながらリリアナは問いに対する答えと謝罪を返す。しかし、実際には既にヴォバン侯爵が求めているだろう巫女が居るだろう場所は、ある程度だが絞り込んでいた。彼女が所属する組織、『青銅黒十字』の情報網を使い、来日前に調べていたのだ。

 だがリリアナはそれをヴォバンに報告しては居なかった。かつて一度見た祐理の勇気を思い出した事も有るが、それ以外にも他の魔王の動向が気になったからだ。

 草薙護堂と、和泉咲月。草薙護堂は万里谷祐理とそれなりに関わりがあり、仲も良い様だ。遠目に見た人柄と賢人議会の報告書、さらに呪術界の噂によればかなりの女好きらしいので、仲の良い万里谷祐理に手を出せばほぼ間違いなく攻めてくるだろう。

 逆に和泉咲月は、関わりは殆ど無いと言って良いが、情報がない分何をしでかすか分からない不気味さがある。人柄を知ろうと遠見の術を使って見てみたが、気付かれて術を弾かれてしまった。術越しに叩きつけられた殺気は今でも忘れられない。容赦なく心臓を打ち抜く様な、鋭く冷たい殺気だった。

 

「ふむ……そうか。まあ良い、狩りは獲物を追い詰める事も醍醐味ではある。儀式の時が整うまで、まだ多少だが時間は有る。それまでにゆっくりと探していけばよかろう。しかし、惜しい所であったな」

「惜しい、とは? 何か気になる点でも御座いましたか?」

 

 耳に届いたヴォバンの言葉に、リリアナは騎士の礼を取ったまま問う。

 

「うむ、籠の中に小鳥が自分から飛び込んで来ていたのだが、あと僅かで捕えられると言う所で邪魔が入ったのだ。おそらく強力な霊視術師だとは思うが……惜しい物だ」

 

 その言葉にリリアナは愕然とした。カンピオーネの直感は凄まじく、人間離れした物があると聞いてはいたが、霊視による幻視を見破る等と、聞いた事も無い。いや、それも有るが、ヴォバン侯爵の直感を邪魔したと言うのは本当なのか。

 

「私の感覚を妨げるのだ、おそらくだが、若造どものどちらかであろうな。……マリア・テレサよ、来るが良い」

 

 酒の注がれた杯を片手に、ヴォバンは虚空に向けて声を投げる。すると彼の背後に、全身を黒い衣装で包み込んだ女性が現れた。しかしその顔に生気はなく、その瞳はガラス玉の様に無機質で、濁っていた。顔に浮かんでいるのは見違えようも無い――死相だ。

 『死せる従僕の檻』。ヴォバン侯爵の第2の権能であり、彼が殺めた人間をゾンビ化し、支配下に置く凶悪無比な権能の一つである。彼はこの権能により、歴代の多くの大騎士や魔女を殺し、支配下に置いていると言う。人権も糞も何も無い、非道極まる権能だ。

 

「かつて魔女なりし者よ、貴様の力で私に霊視を行った者か、邪魔をした者を見つけ出せ。探索は得意な方であろう……出来るな」

 

 マリア・テレサと呼ばれた魔女に投げられたのは、問いかけではなく命令だった。横暴極まるヴォバンの命令に、死者たる魔女は何も言わず、ぎこちなく頷いただけで姿を消した。探索の術を使う為に、別の場所に移動したのだろう。

 それを当たり前の様に、ヴォバンは酒を飲み続ける。そんな彼を見ながら、リリアナは思う。魔王同士の戦いは、思った以上に早く起こるかも知れない、と。

 

 ●

 

 東京から見て、遠く、遥か西の方角にそれは有った。

 道を塞ぐかのように存在する大きな岩と、古ぼけた一本の木。そして注連縄を掛けられた鳥居と小さな池と言う、寺とも神社とも言えない様な場所。

 月明かりを受け、夜の闇にぼんやりと浮かんでいるそれらからは神秘的な印象と同時に、酷くおぞましく、不気味で、禍々しい何かを感じ取れた。

 ザワザワと、風が木の枝葉を揺らして音を立てる。それはこの場所の不気味さをさらに引き立て、聞く者の恐怖を掻きたてる。

 その恐怖、その禍々しさ。見る者が見ればその正体にはすぐに気が付くだろう。膨大な呪力がそこに集まっていた。

 一月前の、アテナの東京来襲の時から、この場所は自然の呪力を集め始めていた。どうしてかは分からない。だがアテナ来襲に呼応するようにして、呪力が集まり始めたのは確かだ。たった一月で、異常なまでの呪力が集まっている。

 正史編纂委員会は当然、それを察知していた。だが彼等は報告こそしたものの、それ以外は手を出していないと言って良い状態だった。いや、正確に言うなら、「手を出せない」と言った方が正しいか。呪力の集束を抑えようにも堪った呪力で内側から破られてしまうのだ。何度かそれを繰り返し、手に負えないと判断したのか、呪力を隠蔽する結界を敷いて見守る事にしたのだ。

 そして今、溜まりに溜まった呪力は何かを成そうと蠢いていた。

 風が強まる。それと同時に音は大きくなり、溜まった呪力も滾りはじめた。属性に染まり、土地の神話に影響を受け、自然の呪力が形状を形成して行く。それは岩の前に発生し、岩から這い出るように蠢いた。

 ズルリと、何かを引き摺る様な音がした。ビチャリと、何かが滴る音がした。同時に肉が腐敗した様な悪臭が漂い、周囲に呪詛を撒き散らす。

 

『……ァ…………ギ……』

 

 岩より這い出るように現れたそれは、長い黒髪から覗く、煌々と不気味に輝く金の瞳を月に向け、一瞥してから東を向いた。何かを探しているのか、微動すらしない。

 しかし数秒後、目的の物を探し当てたのか、それは不気味に笑みを浮かべて、現れた時とは想像も出来ない速度で東に向かい、進んで行った。

 



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20話 戦場二つ、踊るは誰か

遅れてしまい、本当に申し訳ありません。スランプ気味になっていたと言いますか、仕事が忙しかったと言いますか……ともかく、五月に更新できず、申し訳ありません。
20話、更新です。戦いは次話になります。


 

 イタリア、トスカーナ州。ルネッサンスの中心となったフィレンツェを始めとし、斜塔で有名なピサ、そしてシエナと言った古都を数多く擁している、文化遺産や自然の景観に恵まれた州である。その中でもゴシック様式の建築様式が美しいシエナの郊外、なだらかな丘陵を初夏の緑が彩っている。

そんな穏やかな、見渡す限りを覆っている野の一角を流れる小川のほとりに、彼は座していた。

 まず目に入るのは金の髪。陽光を反射し、黄金色に輝いている。

 次いで目に入るのはアロハシャツにも似た、花の模様が所々に入った派手な赤色のシャツ。しかし純粋な赤と言う訳ではなく、ワインレッドと言った方が正しいだろう、やや暗い色合いの赤だ。派手ではあるが、センスが悪いと言う様な色合いとデザインではない。

 歳は二十代前半か半ばと言うところだろう。線は細いが、しかし弱々しさは微塵も感じさせない青年だ。彼は足元に布を幾重にも巻き付けた細長い奇妙な何かを置き、手には釣竿を一本持っていた。腕白坊主の様な、好奇心旺盛そうな輝きを秘めた青い瞳は、水面に垂らされた釣り糸を見ている。

 青年の名はサルバトーレ・ドニ。世界に8人しか居ない魔王の一人であり、『剣の王』とも呼称される、6番目の神殺しだ。8人目の王である草薙護堂との戦いで負った傷が完全に癒えた彼は、シエナの郊外の小川でのんびりと釣りを楽しんでいた。

 

「さて、護堂はあのじいさま相手にどこまでやれるかな。もしかしたら勝つかも知れないけど、流石に難しいかな?」

 

 釣り糸を川に垂らし、微笑みながらサルバトーレは誰に言うでもなくそう零す。

 彼が戦った草薙護堂は、ペルシャの軍神ウルスラグナを弑逆して化身の権能を簒奪し、神殺したなった男だ。ウルスラグナを倒し、ウルスラグナが呼び起こした神王メルカルトとも戦った護堂とドニが出会ったのはシチリア島の都市パレルモだ。

 当時アルゼンチンへと出向いていたドニは、サルデーニャ島にまつろわぬ神が二柱現れたと聞き、急遽とんぼ返りしたのだ。理由は勿論、現れたまつろわぬ神と戦う為である。

 しかし二柱の神が現れていた当時、サルデーニャ周辺では大嵐が吹き荒れ、海は荒れ狂い、海路も空路も全て欠便、運航不可の状態だった。流石にそんな状態の海に出る気は無かったので、仕方なく嵐が治まるのを待ち、治まった所でサルデーニャ入りしたのだが、着いた時にはまつろわぬ神は新たに現れた同族に倒されていた。

 せっかくアルゼンチンから戻って来たのに神と戦う事が出来なかったドニは、そのまま何処かに行くのも何なので新たに現れた同族の顔を見ようと思い、現地の魔術結社等から情報を集めて向かったシチリアで、現れた二柱の神の片割れである神王メルカルトを撃退した護堂に出会ったのだ。

 そして彼は、ゲームにでも誘うかのような軽過ぎるノリで護堂に決闘を申し込んだ。すげなく断られてしまったが。だが戦う事を諦められないドニは色々と手を廻し、護堂をイタリアに呼び寄せることで目的を果たした。

 結果は相打ち。当時の時点で既に4つの権能を簒奪していたドニに、神殺しとなったばかりで未熟な護堂。明らかな格上相手に護堂は奮戦し、見事相打ちに持ち込んで見せた。それにドニは喜び、護堂を自分のライバルとした。彼がウルスラグナの化身全てを完全に掌握したその時、再び決闘すると心に決めたのだ。

 

「いま日本に居るのは護堂とじいさま……あと、もう一人居たっけ」

 

 しかし現在、彼の関心は護堂だけでなく、新たにその存在が表舞台に上がって来たもう一人の同輩にも向けられていた。

 和泉咲月。護堂よりも前に神殺しと化した、本当の意味での7人目の同朋。賢人議会からのレポートを取り寄せた彼の友人にして付き人の大騎士、アンドレア・リベラから聞けば、自分がカンピオーネになったのと同じ年に、なった場所、倒した神こそ不明だがカンピオーネとなった少女らしい。権能の数は護堂より多く、ドニより少ない3つだとか。

 だが、権能の数はドニにとっては別に気にする程の事でもない。彼にとって重要なのは、自分達神殺しの領域に、新たに仲間が増えたと言う事だけだ。それは彼にとって、腕を競い合い、実力を高める為の相手がまた一人増えたと言う事に他ならないからだ。

 ドニは戦う事が好きだ。強者と戦い、討ち勝ち、己の実力を高める事が好きなのだ。しかし4年前、色々とあって聖ゲオルギウスの神霊に取り憑かれ身体を乗っ取られ、紆余曲折の末に渡ったアイルランドでアストラル界に迷い込み、身体を乗っ取っていたゲオルギウスを滅ぼされてから愚かにも腕試しとして神王ヌァダに戦いを挑んだ。彼を倒し神殺しと化してからは、彼はただの人間相手では、たとえ欧州最高の剣士、師でもある聖騎士ラファエロが相手であろうと満足できなくなってしまった。命の危機を、人間相手には微塵も感じなくなってしまったのだ。

 その時に、師から言われたのだ。剣の境地に至りたいなら、神や神殺しと言った、自分と同等以上の存在と戦え、と。そうして初めて、神殺しとなった自分の血となり肉となるだろう、と。

 それからだ。ドニが人間相手に興味を殆どと言って良い程示さなくなり、神や神殺しとの戦いを積極的に求め始めたのは。全ては偏に、己の実力を高める為。ありとあらゆる状況に対応し、全てを切り裂く剣の境地へと至る為に。護堂にヴォバン侯爵の事を教えたのも、彼の実力を高め、強くなった彼を打倒し自分の力を上げる為だ。

 

「護堂が実力を高めるのも重要だけど、その子の事も気になるな……」

 

 どうしようか。7人目のカンピオーネの事を頭に浮かべながらドニは考える。出来ればイタリアに来てほしい。自分の方から日本に向かうと言う選択肢もあるが、来てくれたらすぐにでも決闘を申し込めるからだ。イタリアの付近に来るのでも良い。出向いて行って、戦いを申し込める。探し出すのは、ちょっと魔術結社等を脅せばすぐに見つけてくれるだろう。

 だが、自分から日本に向かうのも良いかもしれない。新しい同胞と戦う事が出来、さらに運が良ければあの国のまつろわぬ神や英雄とも戦う事が出来るかもしれないからだ。

 アンドレアがまた口喧しく言うだろうが、そこはいつも通り何とかなるだろう。和泉咲月と言う彼女もまたカンピオーネ。自分や侯爵と同じく、戦いは好むものだろうと、ドニはそう思う。

 

「…………」

 

 考えながら、ドニは顔に笑みを浮かべる。何故かは分からないが、咲月とは非常に仲良くなれそうな、そんな気がするのだ。そしてこの感覚は、決して間違っていないだろうともドニは思っていた。

 水に糸を垂らしながら、剣の王は槍の姫との出会いを望み、どのような戦いになるかを想像した。

 

 ●

 

 曇り空。黒く、雷すら鳴りそうな重い、暗い雨雲が空を覆っている。重苦しい雰囲気を醸し出す、嵐を呼ぶ様な雲だ。

 天気予報では雨が降る確率は10%程度で、今日一日は雨が降る事はないだろうと言う程度のものだった。実際、朝には雲は多少あったが色は白く、快晴と言っていいくらいに晴れ渡っていた。急速に天気が崩れ始めたのは、昼を過ぎて少し経ってからだった。

 重苦しく、気分を沈ませるような黒い雷雲。そんな雲を、咲月は教室の自分の机について見上げていた。

 

「随分と曇ったねー。こりゃ結構強いのが降るかな?」

「サイアクー、今日傘持ってきてないのに。天気予報のウソ吐きー」

「せめて家に着くまでは降らないで欲しいなぁ……」

「ふっ、折り畳み傘を常に鞄に入れている俺に死角はないぜ」

「……殴ってでも奪う」

「ぬおっ! 何をする貴様ァー!?」

 

 窓の外を見上げている咲月の耳に、クラスメイト達の嘆きの声が聞こえる。一部嘆きとはとてもではないが言い難い言葉が聞こえたが、おおよそクラスの8割程が傘を持っていないようだ。

 

「男子連中はまた馬鹿な事してるねー。雨が降る降らない、傘が有る無いで何が楽しいのやら」

 

 クラスの喧騒を耳に入れながら、しかし顔を向けずにいた咲月に聞き覚えのある声でそんな言葉が聞こえた。顔を向けると案の定、美智佳が若干呆れた表情で騒いでいる男子達を見ていた。

 

「濡れるからでしょ。風邪を引く事になるかもしれないし。そう言う美智佳は大丈夫なの? 見た感じと空気の感じから、あと40分もすれば降りはじめると思うけど」

「ん? あたしは大丈夫だよ? 今日なんか嫌な予感がしてさ、念の為に傘を持ってきたら……ね」

「なんて言うか、相変わらずの的中率ね……」

 

 咲月の言葉に、笑みを浮かべながら美智佳が答える。彼女はどうやら、直感とかそう言った物でこの雨雲を感知したらしい。その事に、咲月は僅かに引き攣った様な苦笑を浮かべた。

 美智佳と咲月は小学4年からの付き合いである。その為、二人は互いの性格や嗜好、行動の傾向など、互いに関するほぼ全てを知り合っている(もっとも、咲月が神を殺した存在だと言う事は、当然ながら美智佳を始めとした友人達は知らないが)。

 知り合った当時から、美智佳は非常に勘が鋭かった。小さな落し物を「何かある気がする」と言って草叢の中から見つけ出し、悪戯として落とし穴が仕掛けられていた場所を通ろうとすれば「何か嫌な感じがする」と言って別の道を通り、体育の授業で行ったドッジボールやサッカー、バスケットボールでは背後からの攻撃を見ずに避けたり、パスをしたい最良の場所に既に居たり(本人曰く、「ここに居た方が良い気がした」との事)と、一種異様なほどに。今回の様に天気の事で勘が働く事も幾度かあり、その勘は一度たりとも外れた事がないのだ。さらに羨ましい事なのかどうなのか、きちんと勉強し、常に復習を行う咲月には今一つよく分からないのだが、テストの選択問題を一問すら間違えた事がない(別に美智佳が勉強しないという訳ではない)。

 高等部になってからもその勘は健在で、咲月は中等部最後の年に、そのあまりの的中率に「実は巫女ではないのか?」と友人に対して疑いを持ち、独自に色々として美智佳の家系を調べたのだが、結果は白。巫女や呪術師、魔術師と言った「こちら側」の要素は欠片も見つからず、一般人の家系でしかなかった。美智佳の家族にも天才や優秀な人物が居るが、やはり一般人で、しかも美智佳程の直感を持ち合わせている者は誰も居なかった。それらの事から咲月は、美智佳は巫女等ではないが、一般人から極稀に生まれるタイプの、直感が恐ろしく鋭い人間なのだろうと結論付けた。――それでも、やはりいささか鋭過ぎるとは思っているのだが。

 

「あたしは傘持って来てるけど、咲月はどうなのさ? 傘、あるの?」

「有るわよ。折り畳み傘はいつも鞄に入れてるわ。言い過ぎかもしれないけど、人生何が有るか分からないし、備えあれば憂いなしとも言うしね」

 

 そう言って、咲月は鞄の中から水色の折り畳み傘を取り出した。何の前触れなく突発的に出現する事のある神や神獣等と戦う神殺しにとってその言葉は、ある意味無意味でしかない言葉なのだが、咲月はせめて戦いのない日常では唯の人間の様に生きたいと思っているのだろう。常に武装していると言って良い身の時点で、既に唯の人間ではないとは思うが。

 同じ様に備えていたと聞いて何やら喜んでいるクラスメイト(主として男子)が何人かいたが、咲月は気にせずに取り出した折り畳み傘を鞄にしまう。しかし咲月のその言葉を聞いて、美智佳は僅かに顔を曇らせる。

 

「人生何が有るか分からない、か……何か、咲月がそれ言うと洒落になってないよ。種類とか規模が全然違うって分かってはいるんだけど……」

 

 美智佳の言葉に、咲月は小さく苦笑を漏らす。彼女が4年前の、両親を喪い、自分だけが生き残る結果となったアイルランドでの自動車事故の事を言っていると分かったからだ。色褪せる事のない記憶の中に、まるで自分の事の様に涙していた彼女の姿が有る。

 

「まあ、確かに私も旅行先で事故に遭う事になるなんて思ってもみなかったわ。事故とかで家族を亡くす話はニュースやドラマ、小説とかで割とよく知っていたけど、まさか自分が経験する羽目になるなんてね」

 

 当時の事を思い出して重い雰囲気を出している美智佳に、咲月は軽い感じの口調でそう言う。それは理不尽な出来事で家族を喪った当事者の言葉とは、到底思えないほどにあっさりとしたものだった。言葉の中に、微塵も負の感情が見られない。

 

「……咲月、前も聞いたけどさ、何でそんなに軽く言えるの? 普通そんなにあっさりと言う事なんて出来ないよ?」

 

 美智佳が問う。その言葉に返す咲月の言葉も、やはりあっさりとしたものだった。

 

「私にとって、もうあの事は過去の事、思い出でしかないのよ。最悪と言ってもいい思い出だけどね」

「悲しいとか、憎いとか、思った事はないの?」

「悲しみは有るわよ? でも怒りや憎しみは無いわ。事故を起こした人は父さん達と一緒に死んでるもの。死者に対してその感情を向けるなんて事はしないわ。悼みはするけど、怒りとかを向けるのは無意味だって思ってるもの」

「無意味?」

 

 咲月の言葉に美智佳が問い返す。その声音には、何故そんな事が言えるのかと言う疑問がありありと見て取れた。それに咲月は内心で苦笑しながら、美智佳に言う。

 

「だってそうでしょ? 怒りや憎しみを死んだ人間に向けた所で、得る物なんて何もない。他の遺族を否定するつもりはないけど、無駄に感情を使って、疲れるだけ。忘れない為だって言う人も居ると思うけど、事故の事を忘れない様にするなら、新聞の記事を切り抜いたり、日記を書いたりして記録を残しておけば良い。死んだ人の遺品を持って故人を偲ぶ事もできる。実際、私は父さんの時計を使って忘れない様にしているけど、それだけ。強い感情を向けるほどの事ではないわ」

 

 咲月の言葉は、記憶に留めてはおくが強い感情を向ける事はしないと言う、ある種無関心とも言えるものだった。普通の人間なら言う事はせず、まして被害者遺族当人の口から出る様な言葉ではないだろう。それは喪った家族にすら、強い感情を向けないと言う事だからだ。

 しかし、咲月か変わらずのあっさりした口調で言い切った。その事に美智佳を除いた、話を聞いていたクラスメイトのほぼ全員が絶句する。

 

「これが無差別殺人とか、そう言うのに巻き込まれたとかだったら私も怒りとか憎しみを向けたんでしょうけど。事故だし、事故を起こしたバスの運転手は一緒に死んでるし。事故を起こしたのはあくまで運転手であって、その家族は無関係だもの。怨むなんて筋違い、無駄な事だわ。恨みや怒りは他の遺族が向けているだろうしね。事故が有った事を忘れず、唯覚えている。それだけで良いじゃない」

「そんな考え、普通なら出来ないよ?」

 

 咲月に対する美智佳の言葉に、咲月は「でしょうね」と肩をすくめる。

 怒りや憎しみ、恨みと言う感情は対象となる存在だけでなく、その家族や友人、果ては顔見知りと言った関係者にも向けられる事が多い強い感情だ。負の感情は皆その傾向が強いが、怒りと憎しみはその中でも突き抜けていると言えるだろう。そしてその感情は、理不尽な悲劇に見舞われた被害者と、その近しい者が抱く事が多い。咲月も、理不尽な事故によって家族を喪った被害者だ。

 しかし咲月は、そんな事はしないと言った。そう言った感情を向けるべきは加害者当人に対してであって、その他の人間にはたとえ罪悪感を抱いているだろう家族であろうと向けるのはお門違い、筋違いだと言った。そして自分に対する加害者は既にこの世には居ない為、その感情を抱くことこそ無駄であると言うのだ。

 咲月自身、自分のこの考えが被害者側としては有り得ない物だろうと言う事は理解している。被害者故に、被害者側が加害者だけでなく、その家族等に恨みを向けるのも仕方ないのだろうとも理解している。だが、咲月はそれでもその感情を向ける事はしない。何故なら、一切無駄だと思っているから。

 

「騒ぐのは良いが、もう時間だぞ。お前ら席に着けー」

 

 咲月がそれを言った所で、教室の扉を開けて教師が入って来た。教師の言葉を聞いて、全員がそれぞれの席に着く。

 筋違いと言う言葉で、図らずも話を聞いていたクラスメイト達の大半が咲月の事を、加害者の側に許しを与えている、器が大きい、優しい少女だと思った。それは咲月と長年付き合って来た美智佳を始めとした友人達も同じであった。

 だが、実際は違う。

 咲月は悪感情を加害者の関係者達に向けては居ない。それは確かだ。だが、それはイコールで許していると言う訳ではない。そもそも、許しているとは一言も言っておらず、感情を向ける事が無駄だと言っているのだ。それは悪感情のみならず、好意的な感情すらも向ける事がないと言う事。関心の欠片すら、微塵にも抱いていないと言う事。

 彼女がこのような感情を抱いているのは、単純に事故の原因となった存在を知り、既に殺して自分の力、糧としているからだ。

 クー・フーリン。ケルト神話で最も有名だと言っていい、太陽神の息子たる鋼の英雄。旅行中、突然顕現した彼が原因であの車両事故は起こり、咲月を除いた全員が命を落とした。咲月も、彼を殺し神殺しとならなければ今この場にはいなかっただろう。実際、咲月は死ぬ半歩手前まで行っていた。

 あの時あの場所、あのタイミングで何故彼が顕現したのかは分からないし、咲月は分かろうとも思っていなかった。まつろわぬ神は天災、災厄の様に、突然現れては気まぐれに消えていくと分かっているからだ。天災は防ぐ事が出来ないものであり、あの事故も間が悪かっただけなのだとしか思っていない。天災を責めることなど誰にも、何者にも出来はしない。それを加害者の関係者は勝手に勘違いして、勝手に謝罪に動いただけだ。

 咲月のこの言葉、この思考はある意味、最も加害者の関係者に傷を与える物だろう。何せ、どれほど謝罪の念を示そうと、どれだけ行動しても向けられる感情などは善悪関係なく一切ない。無関心。

 罪の意識に塗れるのなら、勝手に抱いて溺れていろ。私は知らないし、興味も無い。故に、私にそれを押し付けるな。お前達の感情、行動、全て偏に私にとっては気にするに値しない、どうでも良い事なのだと、咲月はそう言っているのだ。

 彼等彼女等がどう思おうが知った事ではない。誰にも言わず、しかし確かにそう思いながら、咲月は教師の言葉を適当に聞き流しつつ、天を覆う雷雲を見ていた。

 

 ●

 

 都内にある、ホテルの一室。スイートルームと言われるその部屋の中で、ヴォバン侯爵は一人、真昼から手酌で酒を飲んでいた。

 共に日本に来ている騎士、リリアナは居ない。侯爵の命令で4年前に招集した巫女の一人である、万里谷祐里の所在を探しているからだ。魔女術や使い魔を用いて、彼女は昼夜問わず、巫女の捜索に当たっている。

 が、侯爵は実際には、リリアナが既に巫女の所在を突き止めている事を知っていた。齢300を超える老魔王は、たかだか十数年しか生きていない小娘の時間稼ぎ等、とうの昔に見破っていたのだ。

 本来なら、侯爵に対し虚偽の報告をした彼女は何時手討ちにされても可笑しくない。だが侯爵はそれをせず、寧ろ面白い者を見る様に彼女の行動を黙認していた。理由は簡単だ。完全に従順な下僕等は己が従僕共で十分間に合っており、彼は己に対して僅かなれども敵意や叛意を抱く者にそれなりの好意を抱く。餌を与えられて喜ぶ様な駄犬ではなく、狼の様な誇り高さを持つ者をこそ彼は愛でるのだ。愛でると言っても、男女の関係等のそれではなく、玩具を大事にするかどうかと言う物だが。

 表面上は従っているものの、諫言等をして来るリリアナはそれなりに強い反骨精神を持っており、愛でるに値する騎士だった。だから見逃しているのだ。

 何も言わず、侯爵が酒を飲み進めていると彼の背後に、黒い人影が音も無く現れた。漆黒のドレスを纏った蒼白い顔をした女性――死せる従僕が一体、かつて魔女なりしマリア・テレサだ。彼女は一歩侯爵に近付くと彼の耳元に口を寄せ、何かを言って消えた。その何かを聞いた侯爵が、酒を杯に注いでいた手を止めて、口を笑みの形に歪める。その笑みは、獲物を目前にした獰猛な狼の様だった。

 

「そうか、見つけたか……」

 

 マリア・テレサからの報告。それは侯爵が探す様に命じた対象が見つかったと言う物。侯爵が探す様に命じた対象は、当初からの目的である媛巫女と、その巫女を見つけそうになった瞬間邪魔をした若輩の魔王のどちらかだ。

 対象の発見の報を聞き、侯爵は杯ごと酒を投げ捨て立ち上がる。酒が畳に染みを作るが、彼はそんな事を気にする魔王ではない。

 

「さて。巫女か、未熟者か。どちらかは分からんが……狩りの始まりだ」

 

 座して待つ時はもう終わった。これよりは狩りの時間。我が娯楽の時間なり。

 待っているが良い我が獲物たる巫女よ、神々よ。すぐに我が狩り場に呼び寄せてやろう。若輩共よ、我に抗え。せめて我を楽しませよ。それが貴様等の役割なり。

 興奮し、嵐を呼びよせながらヴォバンはホテルを出て、獲物が居る場所へと足を向けた。

 

 ●

 

 それは凄まじい速さで東へと向かっていた。野を駆け、山を駆け、川を、谷を、湖を駆け、一直線に東へと向かっていた。己が進路上に有る物を全て薙ぎ払い、駆け抜けた場所を身に纏うその呪詛で腐らせ、生命力を奪いながら、一直線に。

 それが目指すのは唯一点。東に感じた、ある力。それを目指してそれは進む。

 強い力。同じ属性の力。近しい力。忌まわしい力。それを喰らい、己は本分を取り戻す。劣化したこの身を、かつての高みまで引き上げる。理性ではなく本能で、それは目的を達する為に東へ向かう。

 距離は遠いが、関係ない。この身は千里を駆ける身なり。すぐに目的地に着こう。

 走る。走る。腐らせ、生命力を奪いながら、ただ走る。それは人の目には映らぬ速度。何かが通ったかと思った瞬間、その意識は奪われる。

 ただ一心に、目的地に向かって走る。走る。走って――

 

『……ミ、ツ……ケ……タ……!』

 

 獲物をその視界に収めた。

 



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21話 怒れる魔槍

大変長らくお待たせしました。21話、更新です。
今回からおそらく2,3話ほど戦闘に入りますが、今話は咲月の前哨戦となります。


 

 全ての授業と終礼の挨拶を終え、放課後。咲月は友人たちとの挨拶もそこそこに、彼女としては珍しく図書室にも向かわずに下駄箱に向かい、下校していた。多くの生徒が走って校門を出て行っており、それを追い立てるようにぽつりぽつりと、次第に勢いを強くしながら雨が降っている。今日最後の授業が始まる前に咲月が言った通り、授業が始まって約40分経った頃に降り始めたのだ。

 降り始めた雨を見て、傘を持って来ていなかっただろう生徒達の多くは嘆きの声を上げ、少数は濡れて帰ることを覚悟し、念の為に傘を備えていた生徒たちは咲月を除いて「持って来ていて良かった」と安堵の溜息を吐いていた。

 折り畳み式の傘を広げ、咲月は校門を出る。同じ様に校門を出る生徒達の中には咲月と同じ様に傘をさしている者も居れば、鞄を頭上に掲げて傘の代わりの様にしている者も居る。そう言った者は総じて、出来るだけ早く帰る為に走っている。

 そうして生徒達を視界に収めながら、咲月は校門を出て自宅への道を歩く。今日は帰りに店に寄って買い物をして帰るつもりはない。以前の買い物で十分に食材等は買っているからだ。唐突に戦闘になり、血を多量に失ったりしない限り、食材の大量消費をする事はないだろう。

 雨が傘や道路、街路樹等に当たり弾ける音を耳に入れながら、咲月はゆっくりと道を歩く。周囲には彼女と同じ様に、傘を差して歩いている人や合羽を着ている人が居る。他には友人か恋人か、数も少なく関係性も分からないが、相合傘で歩いている者達も居る。

 

「……暗いわね。勢いも、もっと強くなりそう」

 

 そんな彼等彼女等を気にも留めず、咲月は空を覆い尽くしているどす黒い雨雲を歩きながら見上げていた。口から出たその呟きは、何処となく嫌そうであり、憂鬱そうに聞こえる。

 咲月は雨をあまり好んでいない。特別嫌いと言う訳ではないが、好きか嫌いかで言うなら、間違いなく嫌いの部類に入ると言って良いだろう。嵐の晩等、気は昂るが最も嫌っていると言っても良い。

 何故、そこまでの嫌悪を雨に抱くのか。理由は簡単だ。咲月が雨の日を嫌う理由は、両親を喪い、神殺しとして転生した日を否が応にも思い出してしまうからだ。

 別に両親が死んだ事はもういい。その事についてクー・フーリンに憎悪や嫌悪の感情を向ける事も、思い出して怒りを燃やす事もしない。神殺しとなった事にも後悔は微塵も無い。それらは既に終わった事で、過ぎ去った日々だからだ。かつての事で怒りや憎しみを燃やす事等、咲月にとっては無意味だからだ。

 咲月が雨を嫌うのは、あの事故の記憶を雨の日の度に思い出させるからという、それだけの理由だ。記憶の内容やそれに付随する感情などはどうでも良い。ただ、雨の度に記憶を思い出させられるのが煩わしいと感じているのだ。

 

(天候を操る権能があれば、ずっと晴にしておくんだけど……いえ、呪力の消費を考えたら無理ね)

 

 天候に関係する神は、咲月が知っているのはインド神話に出てくる、破壊神シヴァの原形ともなった暴風神ルドラやメソポタミア神話のエンリルにカナン神話のバアル・ハダド、バビロニアの太陽神ネルガルや記紀神話の英雄神スサノオなどの他にも居り、それなりに多い。天候神の権能なら、天気を晴れの状態で固定する事は容易だろう。だが、天気を固定すると言う事は常に権能を発動しておく事になり、その間常に呪力を消費し続けることになる。まつろわぬ神は何時、何処で発生するか分からないので、それは自分の身を苦しめる結果になり、良い方法とは到底言えない。

 他にも問題は有る。常に晴れにすると言う事は、当然の事だが雨を降らせないと言う事だ。1週間や2週間、1ヶ月程度なら常に晴れでも良いだろう。夏場など、そう言った日はざらにある。

 だが、これが2ヶ月、3ヶ月と長期的に続いたらどうなるか。それは言うまでも無いだろう。待っているのは水不足と言う結果だ。

 海、川を問わず、水は常に蒸発していると言っても良い。その蒸発によって発生した水蒸気が対流し、上空の空気で冷やされ、標高の高い山脈等にぶつかって雨雲等を形成して雨は降り注ぐのだ。だが、常に晴にしてしまえば、その雨雲が発生しなくなる。いや、発生する事はするが雨が降らなくなってしまい、ダムと言う水瓶の水は干上がるだけだ。

 晴れの時にも雨が降る事は有る。天気雨や、狐の嫁入りとも呼ばれる天気の事だが、こんな物は小雨程度でしかない。ダムと言う水瓶を潤すには到底至らないだろう。焼け石に水と言う事すらおこがましい。

 そうなってしまえば自分で自分の首を絞める事になってしまうので、これも良い方法だとは言えない。別に見ず知らずの他人の迷惑などはどうでも良いが、友人やその家族にはあまり迷惑をかけたくない。そして、結果的に自分の首を絞めてしまうのは御免被りたい。

 まあ、そもそも天気を操作する権能など咲月は持っていないのだが。唯一近い能力を持っていると言って良いのはマーナガルムだが、あれは光を陰らせるのであって、雨を降らせたり嵐を引き起こしたりと言った能力はない。天候操作と言うには程遠いだろう。

 結論として、咲月は今までの様に嫌悪感を我慢する事に決めた。いつか天候操作の権能を手に入れたとしても、晴れの日で固定することは無いだろう。

 そんな事を考えながら家までの道を歩き――――体に力が漲った。同時に精神も緊張し、戦闘に向けて変化する。それは魔王にとって必然の、神や神獣と言った存在に対して自然に発動する体質だった。

 

「――っ!」

 

 それを認識した瞬間、咲月は濡れる事すら厭わずに傘と鞄を放り投げ、ゲイボルグを呼び出し両手で掲げる。そうしなければ拙いと本能で察知したからだ。突然の咲月の行動に、当然ながら周囲を行き交っていた人々は驚き、足を止める。

 直後、両腕に衝撃が来る。受け止めると同時に道を覆っていたアスファルトが砕け、身体が僅かに沈み込む。肉が腐った様な不快な臭いと自分に近しい闇側の気配を感じ取り、受け止めた衝撃の強さもあって咲月は顔を嫌悪に顰める。

 槍越しに襲いかかって来た存在に目を向ける。

 性別はおそらく女性だろう。黒く、長い髪は振り乱され、手入れはされている様には到底思えない。髪の間から僅かに見える目は不気味な金色に爛々と輝き、真直ぐに咲月の顔を捉えている。口から見える歯は全てが犬歯の様に鋭く尖り、しかし黄ばんで汚らしく、唸りと共に吐かれる息も非常に臭い。

 身に纏っているのは古い時代を印象付ける貫頭衣。元は色鮮やかだったのだろうそれは薄汚れ、ぼろ布の様になっている。

 高貴な存在だったのだろう。首に下げている翡翠と瑪瑙、ガラスで創り上げた勾玉を繋いだ首飾りや、腕に着ける貝の腕輪が美しい。しかしそれを通している腕や、服の破れ目から覗く身体はそのほぼ全てが腐り果てている。肉が腐った様な臭いはこれが原因だろう。蛆も大量に湧いており、薄く黄身がかった身体を蠢かせている。それが僅かに存在する滑らかな肌と相まって醜悪さと気味悪さ、嫌悪感をさらに助長している。

 何も言わず、いきなり襲いかかって来たその存在が何か、咲月は知らない。知ろうとも思わない。ただ、身体に漲った力でこの存在が神に類する存在である事と、自分に襲いかかって来たというだけで自分の敵だと言う事は十二分に理解出来た。

 

「っ、臭いのよ! この、ゾンビが!」

 

 腕に力を込め、槍を薙ぐ。それによって襲いかかって来た存在は弾き飛ばされるが、器用に空中で姿勢を整え、獣の様に着地する。着地の衝撃で腐って溶けた様な肉と蛆が身体から水溜りの中に無数に零れ落ち、蠢く。それにさらに顔を嫌悪に顰め、咲月はゲイボルグを一度振り払い、回転させてから構える。

 いきなり起こった出来事に、人々の悲鳴が上がる。目の前で少女が何処からともなく槍を取り出し、身体が腐った何らかの存在が襲いかかれば悲鳴を上げるのはある種当然だろう。雨音だけが耳に聞こえていた道は、一転して叫喚の場となり、しかし直後に再び雨音しか聞こえなくなった。悲鳴を上げた人々が、全員急に倒れ伏したからだ。

 しかし咲月は、そんな一般人達の反応等気にも留めない。一瞬だけ目を見開いただけで、それだけだ。真直ぐに、薙ぎ飛ばした存在を睨みつけている。腐った女性から感じる力の感覚から神に関する存在だと察する事は出来たが、しかし神と言うには些か弱い。神獣か神使か、その辺りだろうか。もしくは、何らかの要因で零落した神かも知れない。

 もし神なら力を取り戻させ、それを討ち下せば新たな権能を手にできるだろう。だが、今の咲月にその思考は無い。頭に血が上った現在、思考に有るのは何も言わず、急に襲いかかって来たこの腐った存在を一分一秒でも早く抹殺すると言うそれだけだ。

 しかし、もし零落している神なら、何らかの能力を使って来るかも知れない。見た感じの状態から、まず間違いなく冥府側の存在、死に関する神格を有する女神だろう。勾玉と言う装飾品を身に着けている事から、日本に強い関わりが有る存在だと咲月は判断した。その中で死に関係する女神は、イザナミが最も有名だ。

 だが、確定ではない。冥府はともかく、死に関係する女神は他にも居るからだ。豊穣神でありながら天孫降臨以降の天皇に寿命と言う死を定義したコノハナサクヤヒメや、ヤマタノオロチに対する生贄となっていたイナタヒメ――クシナダヒメもある意味で死に関係する女神たちだ。しかし、彼女達には神話の中でどのように死んだかと言う記述は見られない。女神の身体が腐ると言う伝承は、イザナミの伝説以外には明確に存在しないのだ。

 確認が必要だ。そう判断した咲月は神託の権能を発動すべく呪力を高める。おそらくイザナミか、彼女の従属神となり得る黄泉醜女の可能性が最も高いであろうとはおもうが、正確な情報を得ておいた方が良いと冷静な部分で判断した。

 

『ギ…………ガ…………ネ…………』

 

 しかし、咲月が呪力を高めた瞬間、腐った女性が何かを言った気がした。

 僅かに翡翠に輝く目を細め、警戒する。声を聞いたと同時に、一瞬ではあるが呪力が高まったからだ。

 

『ハ……ネ……コ……』

 

 警戒する咲月の耳に、再び唸り声と混じった声が届く。『鋼』と、そう聞こえた。

 

『ヨ、……ギ……ガ、……ヲ……コ、セエエエエエエエエエエエッ!!』

「腐った死体風情が、魔王に喧嘩売ってんじゃないわよ!」

 

 叫びながら、腐った女性は咲月に向かって飛びかかった。それは身体が腐っているとはとてもではないが思えない程に素早く、故におぞましさを引き立てる。だが彼女はそれを睨み付け、槍を振るう。振るった槍は当然の様に飛びかかって来た敵を捉え、吹き飛ばした。刃の部分ではなく柄の部分での打撃だ。その衝撃で腐った肉と蛆が飛び散る。

 骨を折った様な手応えは無かった。おそらく腐った肉と蛆で衝撃を幾分か殺されたのだろう。それに舌打ちし、さらにゲイボルグに付いた腐肉と蛆だった物の残骸を見てさらに舌打ちし、顔を顰める。

 さっさと殺すに限る。そう思い、咲月は指を噛み切り、血でゲイボルグにルーンを記す。記したルーン文字は『ケン』で、これは炎を意味するルーンだ。記した瞬間、ゲイボルグがオレンジの炎に包まれる。

 

「腐った肉は、燃やして消すに限るわよね!」

 

 燃え盛り、さらに呪力を込めることで雷をも放つゲイボルグを構え、吹き飛ばした敵に咲月は突っ込む。その先には腐った女性が獣の様に蹲っている。動く気配はない。雨の中でも衰える気配のない炎は、触れた物を灰すら残さず焼き尽くすだろう。触れた瞬間燃やしつくせば、ゲイボルグに腐肉や蛆、臭いが付着する心配も無い。

 

『グ、ギィォオオオオオオオオオオオ!!』

 

 咲月が真直ぐに突っ込み、彼我の距離が残り10m程になった所で腐った女性が動いた。憎悪で塗り固めた様な凄まじい怨念を感じさせる咆哮を放ち、呪詛を孕んだ呪力を撒き散らす。それにより緑の葉を茂らせていた街路樹は枯れ落ち、倒れ伏していた人々の血の気が一気に引いて行く。周囲に存在する生物の生命力を奪い取っているのだ。

 しかし咲月には効かない。カンピオーネの対呪力が、呪詛と呪力の侵食を防いでいるからだ。どす黒く、粘り付く様な不快な呪詛を弾きながら一直線に向かい、燃え盛る槍でその腐敗した身体を穿ち、焼きつくそうとする。その目は完全に翡翠に輝き、相手の神格や能力の情報を読み解こうとしている。

 あと一歩。それだけ進めば槍の攻撃範囲内に入る。咲月は腕を引き、敵を最速で穿てるように力を込める。

 

(――?)

 

 だが腕を引いた瞬間、違和感を覚えた。動かないのだ、敵が。

 ダメージで動けないのかと思ったが、咲月はそれをすぐに否定する。確かに攻撃は当てたが、それは打撃だけであり、しかも一撃だけ。さらに言えば、若干とは言え威力を殺された一撃だ。神や神獣にとって、動けなくなる様な攻撃ではないだろう。

 なのに、動かない。動かず、ただ呪詛を呪力と共に放っただけだ。逃げる気配も、迎撃する気配もない。

 だが、その呪力を浴びた物はどうなった? 人は倒れ、植物は腐らなかったか?

 

「っ、まずっ!?」

 

 危険を感じ、咲月は進路を無理矢理に変えようとする。だがその為に足を地面に着けたのが拙かった。地に足をつけた途端、その足が滑ったのだ。その時の感触はアスファルトの硬い感触でも、水の感触でも無い。不自然に柔らかく、ぬめる様な感触だった。

 何故アスファルトがぬめるのか。体勢を崩した瞬間そう思い、咲月は足をつけた場所に目をやる。

 抉れていた。硬い筈のアスファルトが、まるでスコップで地面を掘り返したかの様に。自分の足がそのすぐ傍に見えた事から、自分がそれをしたのだと咲月はすぐに理解した。

 だが咲月は今回、まだ地面を踏み砕く様な行動は取っていない。なのに何故地面が抉れているのか。それを考え、すぐに答えに行きついた。先程の、敵の呪力だ。あれによって腐る事がない筈のアスファルトを腐らせ、自分の足を止めたのだ。

 着地を上手く出来ず、咲月は体勢を崩す。それを待っていたのか、相手が再び飛びかかって来た。完全に体勢を崩している今の状態で、避ける事は不可能に近い。このままでは傷を負う事は確実だ。

 別に傷を負う事自体は構わない。カンピオーネは戦士であり、戦士は戦う存在だ。そんな存在が傷を負う事を嫌う等、好みはしないだろうがありはしない。だが、何も出来ないで傷を負う事など認められない。認められる筈がない。

 そう思い、咲月は飛びかかる敵をその目に収めながら、ゲイボルグを振るった。しかし体勢を崩した状態で、しかも無理に振るって当てられる筈もない。槍の穂先は飛びかかる敵に掠る事も無く通り過ぎた。それを見て、腐った女性は口の端を吊り上げる。馬鹿にした様な笑みだ。

 だが、咲月も笑みを浮かべてこそいないが、翡翠色に輝く鋭い目で相手を見据えている。今の行動は槍を当てる為に取ったものではない。敵を迎撃できるように、自分の体勢を無理矢理にでも変える為の物だったのだから。

 身体の向きを飛びかかる相手に向ける。槍を持つのとは逆の手に呪力を込め、迎撃準備を整える。受け身を取れず、地面に倒れて衝撃が来るだろうが、そんな物で受けるダメージは直接攻撃を受けるよりは遥かにマシである。

 飛びかかる相手もそれに気付いたか、僅かに驚愕した様な気配を出した。だが空中に居る以上、回避行動は先程の咲月と同様に取る事は出来ない。残された道は、ただ突っ込むだけだ。

 2秒後、咲月と腐った女性は激突した。直後に二人は絡み合いながら倒れ、さらにその二人の間で爆発が起きる。咲月がルーン魔術で引き起こした爆発だ。その衝撃によって一人と一体は逆方向に吹き飛ばされ、地面を転がった。

 

「ぐ、っつぅ……!」

 

 衝撃に呻きながら、咲月は雨で濡れた身体を起こす。だが、同時に腕に激痛を感じ、片腕でその箇所を押さえる。見れば押さえた箇所は多少であるが抉れ、血を多量に流していた。切り裂かれて出来た傷ではない。肉を食い千切られたのだ。

 忌々しげに傷を押さえながら、咲月は呼び出しの魔術で霊薬を呼び出し、一息に飲み干す。明日になれば、この傷も癒えているだろう。そして爆発によって相手が吹き飛んで行った方向を見るが、既に視界には居なかった。咲月の肉を食い千切った事で満足したのか、それとも別の目的があるのか分からないが、既に腐った女性は離脱している様だった。

 それを認識し、冷えていた咲月の頭に一瞬で血が昇る。自分の体を食い千切った事もそうだが、ここまでやっておきながら敵が咲月を放り、別の場所に向かったと言う事実が咲月の逆鱗に触れたのだ。

 

「ふざけた真似してくれるじゃない……上等だわ、その喧嘩買ってあげる。アンタは私が必ず喰い殺す!」

 

 怒りで呪力を滾らせ、瞳を煌々と輝かせながらゲイボルグを拾い、傷口を縛って出血を抑えてから立ち上がる。さらに召喚の術で家に居るマーナを呼び寄せ、咲月は完全に戦闘状態に入った。主人の精神状態に呼応してか、マーナも普段の子犬状態から成犬の状態へと変化している。

 自分の腕を食い千切った腐った女性は見えない。だが、場に残る呪力の残滓からどの方向に向かって行ったのかは大凡の見当はつく。

 周辺に倒れ伏している一般人達の事等は気にも留めず、咲月は敵をその手で仕留める為に、相手が逃げて行ったと思われる方向に向かってマーナと共に跳んで行った。

 



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22話 神威繚乱・前

長らくお待たせしました。22話、更新です。
色々とあって執筆の時間が取れず、大変お待たせしました。
次回の更新にまた時間がかかると思いますが、今回の話を楽しんで頂けましたら幸いです。


 

 重苦しい曇天の下。勢いを増した雨が降りしきる中、一つの影が動いている。その動きは兎や蛙が飛び跳ねる様に規則的に上下に動いており、それらの動物以上に素早い。

 如何なる理由か、影が足場とした家屋の屋根、電柱と言ったものが触れた瞬間、黒く染まり、グズグズと音を立てて崩れ落ちる。同時に沸き立つえも言われぬ悪臭から、それらが全て一切の例外なく腐り落ちた事が読み取れる。さらにその影が通った地点に居た人々が皆、これまた例外なく崩れ落ちる。倒れた人々は全員、顔色を蒼白にしている。呼吸も浅く、非常に衰弱している事が分かる。

 同時に、激突音が響く。音の発生源は白いワンボックスカーで、勢いよく激突したのだろう。車体の前面が見る影も無く拉げている。フロントガラスは粉砕し、壁の破片と一緒になって散らばっている。車を運転していた者はぐったりとしており、激突した時に傷を作ったのか、頭から血を一筋流している。薄くだが肩や胸が上下している事から、死んだのではなく気を失っている事が窺える。早急に病院に搬送しなければ生命の危険があるだろう。

 音が連続する。先程の白のワンボックスカーと同じ様に壁に激突した物、或いは店舗に突っ込んだ物、車同士で激突し玉突き事故を起こしている物等、多くの車が事故を起こしている。車の運転手は全員、気を失うか、最悪死んでいるのだろう。道に倒れた通行人達にも大勢被害が出ているようで、悲鳴や激突音が響き渡り、阿鼻叫喚の様相を表す。

 そんな人々の悲鳴、恐怖、断末魔等に見向きもせず、気にも留めず、顎を動かしながら影は進む。グチグチと生々しい音を立てて腐った顎に咀嚼されている物の正体は、先程遭った魔王から食い千切った腕の肉だ。噛みしめる毎に血が、呪力が溢れ出す。流石は神を殺し、その権能を簒奪せしめた存在と言うべきか、肉の僅かな一片、血の数滴ですら上級の呪術師数人分の呪力を宿している。

 幾十、幾百も肉を咀嚼し、甘露の様に甘く感じる血と脂と共に音を立てて嚥下する。魔王――和泉咲月の肉は舌を伝い、喉を通り、腹の中に収まった。

 同時に呪力が身体に漲る。闇と大地と、そして鋼の属性を宿した呪力だ。

 僅かな震えが腐り果てた腕を、脚を、臓腑を、そして脊髄を奔り脳髄へと至る。しかしその震えから感じるのは悪寒等ではなく快感と、悦楽だ。砂漠が水を吸い取る様に、己が全身に魔王の呪力が滲み渡る。

 影は自分の中に力が満ちる事に歓喜した。取り込んだ呪力の影響か腐った肉が紅く色づき、肌の一部分が滑らかに、痛み切っていた髪がしっとりと濡れた艶やかな黒髪に変化する。さらに身に纏う貫頭衣もぼろ布同然の物から色鮮やかな美しい衣に変化した。それはさながら時間を巻き戻している様にも、蛇が脱皮をし、新たな皮膚を形成する様にも見えた。

 腐敗しているおぞましい身体と、新生した美しい身体。美醜入り混じった奇怪な容姿を持った、奇怪な存在。未だ腐敗している部分の方が多くを占めているが、その体は奇妙な美しさを表している。

 死と生が共に在る、醜悪な美と言う矛盾。おぞましくも美しいと言う矛盾を、影は体現していた。

 現世に顕現してから、多くの人間から奪い取った生気と先の神殺しの肉に宿った呪力で、腐れた肉は完全ではないが元に戻りつつある。

 身体に漲る呪力に快感と、かつてに立ち戻って行く自分を感じながら影は思う。あの神殺しの呪力は余程に相性が良かったのか、肉片を僅か一口分喰っただけで身の4割程度を回帰し、神格も多少だが戻った。これなら一口分とは言わず、腕の一本は喰っていても良かったかもしれない。

 しかし戦闘するとなれば、現在の自身の状態では勝つ事は不可能だろう。未だ己は完全なるまつろわぬ状態にあらず、敵となる神殺しは己の身が危険になればなるほど、何をしでかすか分からない、人間とは言えない存在だ。

 だが、まつろわぬ身に立ち戻れば話は別だ。幸いにしてあの神殺しの肉のおかげか、闇と大地と鋼の属性は取り込めた。冥府の属性も多少は有ったが、立ち戻る為には少々、弱い。

 故に、後は冥府のみ。その冥府も、目指す場所に濃く強い力を感じる。おそらく、あの女と同じく神殺し共であろう。同じ様に不意を打ち、肉を喰らい呪力を取り込めば、或いはその権能で使役している物を喰らえば、己は本来の己に立ち戻る事が出来るだろう。

 そんな事を考えながら目指していると、首筋に僅かだが違和感を覚えた。物理的な物ではなく感覚的な物だが、確かに冷たい物を感じた。しかし僅かに後ろを見てみても、視界に入る物は無い。

 おそらく先の神殺しだろう。肉を食い千切った事を怒り、追って来るか。身の昂りが無くなるほどに遠く離れていながらも、影はその気配を感じ取っていた。

 感じた気配に口の端を吊り上げながら、影は残る二つの気配の元を目指す。望むのは己が身の回帰と、宿敵達との死闘だ。

 待っているが良い、そして来るが良い神殺し共。貴様等の肉を喰らい、我は母たる身へと立ち戻ろう。その時にこそ、貴様等と戦い、その身の全てを喰い殺してくれる。そしてその後は、我が身を辱めたあの男の子たるこの国の人間どもを殺し尽くすのだ。子等の叫びと恐怖に染まった顔は、さぞ甘美で、己を癒してくれるであろう。

 思いながら、影は足場とした家屋の屋根を腐らせ、人々の生気を根こそぎ奪いながら、残る気配の元に向かっていた。

 

 ●

 

 和泉咲月が神に類する何かと接敵し、手傷を負ったとほぼ同時刻。異なる場所では、咲月と似通った、しかし異なる状況が発生していた。

 祐理が現在巫女として勤務している七雄神社に続く道で、対峙している影がある。数は無数に存在しており、内四つは人間の物だ。

 四つの影の内三つは、形は違う物の同じ意匠の服を着ている。男性一人と女性二人と言う容貌だが、まだ年若く、少年少女と言っていい年齢だ。残り一つは仕立ての良いスーツに身を包み、その上に黒い外套を着込んだ背の高い男性。白髪の混じった銀灰色の髪を撫でつけ、落ち窪んだ眼孔にエメラルドの光をぎらつかせる老人だ。通行人の居ない道にて両者は、片や警戒を顕に、片や悠然と立って対峙している。

 男性が腕を上げ、一度振るう。直後に他の無数の影が、対峙している三人達に向かって疾駆する。それらの形は人間の物ではなく、四足獣のものだ。見た所イヌ科の様に見えるが、その大きさは馬ほどもあり、尋常ではない。自然の存在ではなく、間違いなく何らかの神秘に関係していると分かる。

 その獣達を、少年たちは一人の少女を庇いながら戦っていた。庇われている少女の顔色は蒼白であり、震えている。その目に浮かんでいるのは恐怖と言う感情のみだ。

 

「どうした小僧! 最初の勢いは何処へ行った、威勢が良いのは口先だけか!」

 

 巨狼の群に四苦八苦している少年達――護堂とエリカ、祐理達に向かって老人――ヴォバン侯爵が咆哮する。しかしその顔に浮かべているのは、獲物を見つけたと言う喜悦だ。咆哮に呼応するように、雨の、風の勢いがさらに増す。その事に護堂はあからさまに顔を顰める。傍で獅子の魔剣を振っているエリカも、涼しい顔をしてはいるが何処か余裕がない様に感じられる。

 この様な状況になった事を説明するには、少々時間を遡らなければならない。

 下校の際護堂は、常に彼と行動を共にしようとしているエリカと、偶然か必然か分からないが昇降口で出会った万里谷祐理と下校していた。必要以上に護堂にくっつくエリカと、その行動をふしだらだと言い護堂とエリカに文句を言う祐理と言う構図だ。

 エリカも祐理も、タイプこそ違うが学園でも上位に入る美少女であり、その人気は二人揃ってとても高い。当然と言うべきか、二人に惚れている生徒達は大勢おり、エリカはその大輪の薔薇の様な艶やかな美貌とモデル顔負けのプロポーション、そして飄々としながらもハッキリと物を言う性格から男女問わず多くの生徒から人気を得て、転入して数日でラブレター数十通を送られ、さらに断ったとは言え、数人からは告白までされている程だ。

 対して祐理はエリカの様に艶やかではないが、その礼儀正しさと、何処か儚げでありながらも凛とした言動、そして他者を立てると言う真実大和撫子の様な性格から人目を引き、エリカに負けず劣らず人気は高い。

 そんな二人を意図してはいないが侍らせている状態の護堂に、先輩後輩男女問わずに嫉妬の視線が突き刺さるのは至極当然の事で、実際、彼は昇降口から校門を出るまで大勢の生徒から突き刺さる様な視線に晒されていた。

 その視線に耐えきれず、護堂は二人を連れて逃げるように学校を出て帰宅していた。途中、エリカが急に差していた自分の傘をへし折り、護堂の傘に入って来ると言う出来事が有り、それを目の前で見た祐理が二人に苦言を呈すと言う、学校に居る時もしばしば見られる光景を作ったりしたのだが、その時だった。三人の前に、ヴォバン侯爵が現れたのは。

 数匹の狼を引き連れ突如現れた老王に、エリカと祐理は驚きを露わにし、特に祐理はかつての儀式の事を思い出し恐慌状態に陥った。事前にサルバトーレから侯爵が日本に居ると情報を得ていた護堂ですら、突然の出現には驚いた。まさか自分の目の前に現れるとは思っても居なかったのだろう。

 その三人の反応に笑みを浮かべ、侯爵は祐理に向かって言った。探したぞ、と。

 ヴォバン侯爵のその言葉に、聡いエリカは彼が祐理を求めて日本に来たのだと悟った。何の為に彼女を求めるのかとも思ったが、その答えは彼女の中ですぐに出た。

 現在より四年前、ヴォバン侯爵は己の無聊を慰める為に欧州一帯の魔女或いは巫女を集め、『まつろわぬ神』を招来する儀式を行った。

 『神』を召喚すると言う大儀礼の為に集められた魔女や巫女の人数は、およそ三十人弱と言う大規模な魔術を行うには余りに少ない物だったが、召喚自体には成功した。その際に呼び出されたのが『まつろわぬジークフリート』であり、彼の英雄はサルバトーレ・ドニによって倒され、その不死の肉体を権能として簒奪されている。

 だが、召喚には成功したものの、約三分の二の魔女達が精神に重大なダメージを負い、中には発狂した者や心神喪失状態になった者も居たと言う。侯爵の言葉と、彼が現れた際の祐理の異常なまでの怯え様から、彼女は四年前に運悪く侯爵によって招集されてしまった巫女の一人なのだろうとエリカは推察した。そして先のヴォバン侯爵の「探した」と言う言葉から、侯爵が何かを為す為に彼女を探していた事も理解し、何の為かもすぐに思い至った。

 侯爵は神殺しであり、彼が望むのは狩りと殺戮だ。そして四年前と言う単語から、彼は『神』の招来を行おうとしているのだ。強い呪力と才能を持つ、祐理を餌として。

 祐理の巫女としての能力は、霊視等のサポート限定ではあるものの非常に高い。現在は咲月の権能によってその霊視能力に制限を掛けられてしまっているが、一目見ただけで権能の元となった神格を見抜く能力からそれは明らかだ。四年前の儀式の際に、彼女が自我を保っていられたのも、おそらくその能力の高さが理由だろう。

 しかし、以前そうであったからと言って今回もそうなるとは限らない。いや、寧ろ今回は彼女一人のみの様に見える。もしかしたら他にも数人は居る可能性はあるが、数人程度では負担は分散される事はない。以前の事ですらトラウマとなって彼女の中に残っているのだ。無事で済むとは到底考えられず、ほぼ間違いなく精神が砕けてしまうだろう。

 その事をエリカから聞いた護堂は、侯爵に対してこう言った。万里谷は渡さない、と。

 護堂の言葉に対し、侯爵は四年前の事を引き出し、彼女はその当時から自分の所有物で有ると言った。所有物をどう扱おうが、所有者である自分の勝手だとも。

 これに護堂は激昂した。彼にとって、付き合いはエリカ程長くはないが、祐理は既に友人の枠に収まっていると言っていい。言ってしまえば身内の様な物だ。その友人を使い捨ての道具の様に見ているヴォバン侯爵を護堂が気に入る事など当然無く、喧嘩腰で怒鳴りつけた。他人に迷惑を掛けるな、神を呼ぶなら一人で呼べ、と。

 しかし侯爵は慣れた物なのか、特に怒りを表す事も無く図々しくも対価を要求して来た。そこまで言うのであれば、別の巫女か獲物たる神を連れてこい、と。その選択は二つとも、別の人間を犠牲にする事だ。そして神と神殺しの戦闘の規模を考えれば、結局被害は一般人にまで広がってしまう。

 そのような事を許容できる護堂ではなく、当然と言うべきか、その要求を突っぱねた。平和主義者を自称する彼としては、その様な事を出来る筈も無い。

 護堂とヴォバンの要求は交わる事のない平行線だ。そこに妥協は一切ない。両者が一歩も譲歩しないとなれば、話し合いをする必要性は無くなる。だからこそ、侯爵は言った。そこまで言うのならば、貴様が私を楽しませろ。夜明けまで巫女を守り切れば貴様の勝ち、守り切れねば私の勝ち。そして私が勝ったなら、巫女は貰って行く。これはゲームだ、と。

 それに対してまたも護堂は文句を言おうとするが、侯爵は聞く耳持たぬと言う意思の表現か、何も言わずに無数の狼を召喚し、護堂達に嗾けたのだ。聖獣たる狼たちは、さながら猟犬の如く護堂達に襲いかかる。

 逃げることは難しく、下手を打てば一般人達に被害が拡大する。護堂達に残された選択肢は応戦し、迎撃すると言う物のみだった。既にウルスラグナの『雄牛』の化身は発動している。その剛力で、護堂は狼たちを殴り飛ばし、蹴り飛ばす。『駱駝』程の脚力は齎さないが、それでも十分すぎる程の力だ。エリカもその洗練された剣技で狼を斬り捨てている、

 だが当然、動かずに迎撃していても勝つ事は出来ず、いずれ力尽きて敗れるだろう。護堂もエリカもすぐにそれに思い至ったか、それを避ける為に護堂は恐怖で震える祐理を抱き上げる。普段なら注意を言ってきそうなものだが、今の彼女は何も言わず、ただ震えるだけだ。酷い恐慌状態の様だが、暴れられないのは丁度いい。

 

「くそじじい、周囲の迷惑も考えずに呼び出しやがって……エリカ!」

「すぐに合流するから、行きなさい!」

 

 護堂の言葉にエリカは巨狼を斬り捨てながら答える。それに僅かに頷き、護堂は祐理を抱えたまま走り出す。

 それを見咎めた侯爵が狼をさらに五匹ずつ、三度連続して召喚し嗾ける。

 

「聖なるかな、聖なるかな! 万軍の天主よ、我ら神なる御身を讃えん! 御名を崇め奉る!」

 

 それを見たエリカが剣を放り上げ、詠唱する。

 魔術師は皆得意とする術を持っており、エリカが得意とする魔術は鉄だ。しかし彼女は鉄だけではなく、それに関係するものとして火や錬金の術も使いこなす。

 詠唱により、獅子の魔剣が一振り、二振りと増殖していく。一振りだった剣は、総数十五振りにまで増殖した。

 

「さあ、決闘の時間よ、クオレ・ディ・レオーネ!」

 

 その言葉を引き金として、十五振りの剣が降り注ぐ。闇に煌く銀の光が流星の様に美しいが、それらは全て狼に襲いかかり、その身を貫き地面へと縫い付けた。短く悲鳴を上げ、狼たちは消滅する。

 しかし侯爵は薄く笑みを浮かべ、さらに狼を召喚する。エリカはすぐに剣を手に呼び戻すが、召喚された狼は先程よりも数匹多く、十五振りの剣では止めきれない。再度剣を降り注がせるが、数匹には抜かれてしまった。その数匹はエリカに襲いかからない。獲物はあくまで護堂と祐理なのだろう。護堂との距離は30~40m程度で、その程度ではすぐに追いつかれてしまうだろう。見る見るうちに、彼我の距離が縮まっていく。

 護堂もそれに気付いたのか、肩越しに後ろを見る。狼との距離は既に数m程度にまで縮まっている。さらに一匹の狼が飛びかかって来た。鋭い爪と、牙が高速で迫る。

 この瞬間、護堂はウルスラグナの化身の一つの使用条件を満たした事を自覚した。その化身を発動する為の聖句を、囁く様に口にする。

 

「羽持てる者を恐れよ。邪悪なる者も強き者も、羽持てる我を恐れよ! 我が翼は汝らに呪詛の報いを与えん! 邪悪なる者は我を討つに能わず!」

 

 聖句を口にし切った直後、護堂の全てが加速し、同時に彼の眼に映る全てが減速した。

 ウルスラグナ第七の化身、『鳳』。この化身の能力は身軽さの獲得と、雷撃の回避すら可能とする神速の移動速度だ。咲月はウルスラグナの伝承等から、この化身の能力を呪詛の消去或いは反射と考えていたが、彼女の予想は外れる事となった。

 発動条件は高速の攻撃を受けることであり、巨大な狼の突進はその条件に十分当て嵌まっていた。発動後には一定時間心臓に激痛が来ると言うデメリットはあるが、距離を取る、撹乱する、或いは逃走すると言う点から見ればこれ以上の物は有るまい。

 一瞬でトップスピードまで加速し、護堂は狼の攻撃を回避し、さらにその場から離脱した。それを確認したエリカも数匹程狼を斬り捨てた後、増殖した剣を一振りに戻し離脱した。

 全ての獲物に逃げられた形となったヴォバン侯爵だが、その顔に浮かぶのは落胆や怒りのそれではない。寧ろ、よく逃げてくれたと言わんばかりに獰猛な笑みを浮かべていた。普通に戦い、自分に抗う者を蹂躙するのも良いが、彼が望むのは獲物を追い詰め、仕留める狩りだ。逃げた三人は、見事に彼の望んだ獲物となってくれた。

 もっと足掻け。もっと我を楽しませろ。逃げ去った未熟な神殺し達に対しそう思いながら、侯爵は新たに狼を召喚し、追跡させる。如何に高速で逃げようが、その匂いまで消す事など出来ない。嗅覚に優れる動物なら、容易に追跡できるだろう。聖獣である彼の狼ならば尚更だ。

 逃げた獲物を追う狼を見ながら、東欧より来た老魔王は笑みを浮かべ、ゆっくりと歩く。じわりじわりと、獲物を追い詰める猛獣の様に。

 

 十数分後、侯爵は護堂達に追い付いていた。広々とした、障害物となりそうな物があまり見当たらない、側にそれなりに大きな建築物が有る広場に彼らは居た。おそらくこの場で合流したのだろう、今代の『紅き悪魔(ディアヴォロ・ロッソ)』である大騎士の少女も居る。

 多くの狼が彼等を囲んでいるが、その数は数匹程だが減っていた。倒されてしまったからだ。しかし侯爵には特に何も思う事はない。彼の下僕たる狼は権能で産み出す聖獣であり、呪力が有る限り無限に召喚する事が出来るからだ。

 

「もう逃げるのは終いか、小僧?」

 

 傲岸に歩を進めながら、彼の目的である巫女を背に庇う若輩に、嘲る様に声を掛ける。その言葉に護堂はヴォバン侯爵を睨みつけるが、それは彼にとっては懐かしくも見飽きた目であり、恐怖等は感じない。

 それでも気丈に睨みつけ、戦闘態勢を取る護堂達に侯爵は僅かに、ほんの僅かにだが興奮する心を自覚した。やはり狩りとはこうでなくてはならぬ。若造どもが、存外に楽しませてくれる。

 それを自覚した瞬間、風の勢いが増した。同時に雨の勢いも、少しずつだが強くなっていく。

 急に勢いを増し始めた嵐に、護堂は天を仰ぎながら困惑の表情を浮かべた。その護堂を見て、ヴォバン侯爵は聞かれてもいないのに説明を始めた。

 

「昔から私は嵐の夜が好きでな、風も雨も雷も、その全てが私を猛らせる。まあ何が言いたいかと言えば、だ。この嵐は私が呼び込んだ物、と言う事だ。気が昂れば、自然とこうなってしまうのだが……問題あるまい。貴様の趣向にも合おう?」

「勝手に決めつけないで欲しいもんだな。あんたがそうだったとしても、俺がそんな性癖を持ってるか分からないだろう」

「そうでもないぞ。これは私の経験と観察を基にした考察だが、カンピオーネになる様な輩には概ね同じ傾向がある。お調子者で祭り好きと言う物だが、貴様も神に挑む様な輩だ。その気質は十分あろう」

 

 ヴォバン侯爵の言葉に、エリカは成る程と一つ頷く。一月前に遭遇した咲月の性格は未だ不明な点が多々ある為に正確な事は言えないが、彼女の知るカンピオーネの内、実際にであった事のある者には皆その傾向があった。剣の事しか頭にないサルバトーレ然り、自分が忠誠と愛を捧げた護堂然り、目の前に居るヴォバン侯爵然り、だ。

 先程は嵐の夜に浮立つ性癖は持ち合わせていないと言ったが、護堂は実際には侯爵の指摘した通りの性格である。嫌いな相手にそれを指摘されたくはなかったのだろう。侯爵の考察を聞き、エリカが頷くのを見て護堂は腹が立った。

 

「まあ、その様な事はどうでも良い。続きを始めるとしよう」

 

 ヴォバン侯爵のその言葉に、護堂とエリカは警戒する。再び狼を召喚されれば対応するのは難しい。呪力が有る限り召喚可能な獣を、一人とは言え庇いながら戦う事は体力もそうだが精神を著しく消耗する。

 特に難しいのは護堂だ。既に護堂はウルスラグナの化身の内、『鳳』の化身と、比較的使用条件が緩い『雄牛』の化身を使用してしまっている。

 護堂がウルスラグナより簒奪した権能である『東方の軍神』には使用条件がある。それぞれの化身に対応した条件を満たさなければ化身の能力を使用できないと言う物であり、『雄牛』の化身であれば敵対者が人間以上の力を持っている事が使用条件となる。これは生物以外の物でも対象とする事が出来る。

 条件を満たす事で、あらゆる戦局に対応する汎用性の高い権能であるが、全ての化身の使用条件として共通している物が有る。それは「化身の能力はそれぞれ一日に一度ずつしか使えない」と言う物であり、使用した化身は二十四時間が経過しなければ再び使う事が出来ない。『雄牛』の化身は元より一体多数で有利となる化身ではないが、それでも使用条件を満たし易い化身を使用不可能になったのは痛い。『鳳』の化身も使用してしまっているので、祐理を抱えて逃げる事も難しい。

 辛うじて使用条件を満たしている化身は『白馬』と『猪』が有るが、どちらも大規模破壊を起こしやすい化身であり、下手をすればエリカや祐理すら巻き込んでしまいかねない。『風』の化身はそもそも移動専用であり、『雄羊』の化身は死ぬ寸前にしか使用できず、『駱駝』の化身はある程度の重傷を負わなければ使用できない。『戦士』の化身は相手の神格の情報が必要不可欠である為、侯爵の権能の元となった神の情報が無い現在は使用不可。残り二つの化身は未だ掌握出来ておらず、どのような能力なのかすら分からない。

 万事休す。護堂の思考にその単語が浮かぶ。しかしある意味では仕方のない事なのだろう。護堂はヴォバン侯爵やサルバトーレの様に力押しではなく、準備を整え、相手の情報を集めてそれを力とし戦うタイプの珍しいカンピオーネだ。今回の戦闘は突然発生したと言う事もあるが、あまりに準備不足が過ぎた。

 しかしどう言う訳か、侯爵は護堂達を包囲していた狼達を消した。侯爵が行う筈のない事に、護堂は勿論エリカも警戒はそのままに疑問を顔に浮かべる。

 その反応にヴォバン侯爵はニヤリとイヤらしい笑みを浮かべ、言った。

 

「何、このまま猟犬どもを嗾けても良いが、そればかりでは飽きも来る。それでは些かつまらんと言う物だ。故に、少々趣向を変えてやろう」

 

 ヴォバン侯爵がそう言い、指を弾くと同時に、彼の周囲に無数の人影が浮かび上がった。女性も居れば男性も居り、その衣服は鎧だったりドレスだったりと様々で、手に持つ武器も剣であったり槍であったり、銃であったりと統一性等欠片も無い様に見える。だが唯一点、古めかしいと言う共通点を持っていた。

 時代錯誤と言っていい服装をした者達の出現に、護堂は僅かにだが困惑する。先程までの狼達で十分護堂達を仕留める事が出来た筈なのに、手段を変える理由が分からなかったからだ。

 侯爵は「飽きる」と言ったが、どうにも違和感を覚える。考えていると、エリカの言葉が耳に入った。

 

「死せる従僕……」

「如何にも。我が従僕共は皆、かつて私に挑んで来た歴戦の勇士達だ。我が権能は私が殺した者共を檻の中に縛り付け使役する。貴様の先達たる大騎士も当然居るぞ、今代の紅き悪魔(ディアヴォロ・ロッソ)よ」

 

 エリカと侯爵の言葉に、護堂はサルバトーレから聞いた情報を思い出す。

 曰く、ヴォバン侯爵は魔眼で生物を塩に変え、数百頭の狼を召喚し、死者を使役し嵐を呼び寄せる。サルバトーレから齎されたこの情報の中で、既に狼の召喚と嵐の招来は見た。あと侯爵が見せていないのは魔眼と死者の使役だが、エリカと侯爵の言葉から、彼の周囲に突如現れた者達が使役されている死者だと判断するのは容易なことだった。

 見れば、兜を被っている為に表情が見えない者も居るが、多少でも見える者の目には生きている者特有の覇気等が欠片も無い。ガラス玉の様に虚ろで、濁った眼だ。それらの目は、決して生きている人間がするものではない。

 死せる従僕の檻。ヴォバン侯爵が所有する、彼がその手で命を奪った者を奴隷とし使役する権能。檻に繋がれた魂に尊厳などは微塵も無く、幾度となく召喚され、使い潰され、そして再生させられ、永遠の戦奴とされる。その能力から、死と生に関する神格から簒奪したとされている権能だ。

 護堂は怒りを覚えた。祐理に関する事から怒りは当然あったが、死した者を縛り付け、永遠に安らぎを与えないヴォバン侯爵の非道さに、今まで以上に怒りを覚えた。同時に、死者達に対して憐憫も覚えた。魔王の暴虐を諌める為に挑んだのだろうに、返り討ちにされ、その死すらも弄ばれているかつての勇士たちに、悔しさや哀しさを覚える。

 しかし、護堂は死せる従僕達に対して現状、ほぼ何も出来ない。死者たちはその大きさから、巨大な物体を破壊させる事が条件の『猪』の使用条件に当て嵌まらず、さらに大罪と呼べる事をしていないのか、敵対者の罪が使用条件になる『白馬』の化身も使用出来ない。そして二つの化身はともに、味方すら巻き込みかねない危険な物だ。この様な街中で、そう易々と使っていい物ではない。

 ある意味で、『死せる従僕の檻』は護堂にとって相性が悪い権能だった。エリカもその事に思い至ったのだろう、普段感じられる余裕が感じられない。

 二人の様子を見て、ヴォバン侯爵はさらに笑みを深くし、片手を上げた。その動作に応じて、死せる従者達が武器を構える。

 

「まずは小手調べからだ。精々無様に跳ね回り私を興じさせろ」

 

 言って、侯爵は腕を振り下ろした。同時に死者達が護堂達に襲いかかる。その動きは死者とは思えないほどに素早いが、何処かぎこちない。だが、危険である事には変わらない。

 冷や汗が流れる。打てる手が少なすぎるのだ。わざと攻撃を受けて『駱駝』を使用可能にするかとも考えたが、多勢に無勢であり、しかも死ぬ危険性も高い。『雄羊』を使えば生き返れるが、蘇生中に再度殺されれば生き返れるかは分からない。

 死者の剣が振り下ろされる。その攻撃は何とか避けたが、次いで襲いかかる攻撃に徐々に対応できなくなり、一刀を浴びた。咄嗟に回避行動を取った為に傷は浅く、『駱駝』の使用条件は満たさない。

 エリカは大丈夫か。そう思い、視線を彼女が居た場所に向けると、彼女も死者達を相手取っていた。舞う様に剣を振るい、幾人かを塵に返している。流石だと思うが、塵に返された所で新たに死者が襲いかかり、護堂達の救援には来れそうにない。

 剣が振り上げられる。ここまでなのか。そんな絶望が護堂の脳裏に浮かぶ。友人を助けたいのに、何も出来ないで終わってしまうのか。

 そう思った時だった。

 

「もう……もう、やめてください!」

 

 叫びが広場に響き渡る。その発生源は今まで怯え、震えていた少女――祐理だ。

 彼女の叫びに、戦場が一端停止する。ヴォバン侯爵も彼女を見て、何を言うのか待っている。死者達も主人の反応を察してか、武器を構えたまま停止した。

 

「私が貴方様のもとに行けば、それで良いのでしょう? でしたら、御身に従います。ですから、お願いします。草薙さん達は……」

 

 助けて下さい。

 恐怖に震える声で、しかし涙は流さずに、祐理は侯爵に向かってそう言った。

 

「な……」

 

 何を言うのか。護堂が思った事はまずそれだった。

 護堂達は祐理を助ける為に戦っているのだ。しかし当の彼女が自ら侯爵の元に行こうとしている。

 

「万里谷、どうしたんだよ! あのじじいの所に行きたくなかったんだろ!?」

「もうこれしかないんです! 草薙さんも分かっているでしょう!? あなたでは侯爵に勝てないと!」

 

 詰問する様な護堂の問いに、泣き叫ぶ様に祐理は返す。

 位階で言えば、護堂もヴォバン侯爵も同じカンピオーネであり、同格だと言って良い。しかし二人の間には絶対的な、埋める事の出来ない差が存在する。所有する権能の数と、神との戦闘経験の量だ。ほんの数ヶ月前に神殺しになったばかりの護堂は、神三柱と神殺し一人との戦いを経験している。神殺しになったばかりであれば、十分戦っていると言えるだろう。

 しかし、侯爵は三百年以上を生きており、所有する権能の数も、神との戦闘経験も、比べ物にならない。護堂とは地力が違うのだ。熟練者と初心者では、余程の事がない限り熟練者の方に軍配が上がるのは当然である。

 それらの事から、祐理は護堂がヴォバン侯爵に勝てないと判断した。そして彼を守る為に、自分の身を犠牲にする事を決意したのだ。

 だが当然、護堂がそれに納得する筈がない。彼にとって祐理は既に友人であり、身内も同然である。売り渡す事など出来はしない。

 その事を護堂は言うが、祐理は自分の意思を曲げようとしない。護堂が祐理を守る為に言っている様に、祐理も護堂達を守ろうとしているからだ。自分一人が犠牲になる事で守れるならば、安いものとでも思っているのだろう。

 

「茶番は其処までにして貰おうか、巫女よ」

 

 しかしそれにヴォバン侯爵が口を挟んだ。見れば彼の口調も、その表情も不機嫌そのものであり、機嫌を損ねている事が分かる。

 

「私は言ったぞ? これはゲームだと。私は遊戯の最中に水を差される事が大嫌いでな」

 

 怒気も露わに、ヴォバン侯爵は言葉を連ねる。それに呼応して呪力も高まり、死者達も再び動き始めた。武器を向ける先は当然、護堂達だ。しかし今度はその対象に、祐理も加わっている。

 

「つまらん水を差してくれた物だ。おかげで興が削がれた。この責、どう取ってくれる、小娘」

「ぁ……」

 

 ヴォバン侯爵の言葉に、祐理の心に再び恐怖が湧き上がる。護堂も警戒を露にし、エリカも冷や汗を掻きながら剣を構える。

 現存するカンピオーネの中で、最古の王が四年ぶりに怒りを露わにした。それもただ怒っているのではなく、激怒と言っていい。魔王の本気の怒りを受けて、祐理とエリカの足が竦む。

 カンピオーネは怒った場合、何をしでかすか分からない。危険な権能を持つヴォバン侯爵が怒りを撒き散らしたら、この周辺一帯は消し飛ぶ危険性が非常に高い。

 

「もう良い。貴様等全員、我が下僕としてやろう。それで巫女の能力が使えずとも、予備を使えば良いだけの話だ」

 

 言って、侯爵は死者達の他に、引っ込めた筈の狼までも召喚した。死者が武器を構え、狼が唸りを上げる。さらに邪眼までも発動しようとしているのか、その目は煌々と輝き始めていた。

 

「やれ」

 

 たった一言、侯爵は命令した。その言葉に応じて、死者達が、狼達が護堂達に踊りかかる。このままでは、万に一つも生き残る事は不可能だ。

 もはや躊躇してはいられない。そう思い、護堂は『白馬』の化身を使用しようとする。狙うはヴォバン侯爵で、死者や狼を巻き込むように撃つ。

 使用する化身を決め、そしてその聖句を口にしようとした。その時だった。護堂の体に、力が漲ったのは。それはカンピオーネが宿敵である神と邂逅した時に発動する体質で、つまりは近くに神が居ることを表す。それはヴォバン侯爵も感じていただろう。

 こんな時に厄介な。そう思いながら、護堂はヴォバン侯爵に睨むような目を向け、そしてその目は驚愕に見開かれた。

 侯爵の首筋に、長い黒髪の女性が喰いついていた。

 



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23話 神威繚乱・中

 

 その光景を護堂も、エリカも、祐理も、何も言うでもなく見ていた。視界に映るのは現在最古の魔王の一人である老王で、彼は遊戯に水を差された腹いせから、目的でもあった万里谷祐理を護堂達諸共に殺す寸前だった。

 多くの死せる騎士や魔女、そして狼達をうすら笑いさえ浮かべることなく召喚していくヴォバン侯爵から感じた怒気と殺意は本物で、だからこそエリカと祐理は正しく死を覚悟した。唯一護堂だけは『白馬』の化身を使用し一矢報い、出来るなら侯爵を撃退するつもりではあったが、それでも状況的に見て三人の敗北は最早揺ぎ無い物だった。乱入者が無ければ。

 乱入があったのは侯爵が死者と狼を嗾け、護堂が『白馬』を撃とうとしたその瞬間だった。二人の神殺しはその身に滾った力から、神に類する存在が現れたのだと瞬時に気付いた。

 だが二人とも、気付いていながら相手にしている神殺しの事を優先した。護堂は厄介と思ったが、侯爵は手早く済ませて相手をすればいいと、そう思ったのだ。その思考が、侯爵がその身に傷を負う原因となった。直後に首筋に来た激痛に、侯爵も思考を止めてしまったのだ。

 目を向ける。まず視界に映ったのは黒い髪だった。しっとりと濡れて艶やかな、美しい髪がその場に居る全員の目に映る。着ている物は貫頭衣で、雨の中でもハッキリと浮かぶ鮮やかな色彩が美しい。しかし侯爵に掴みかかっている腕や脚など、僅かに見る事が出来る身体は正常な部分と紅い肉が見えている部分が有り、美しくも醜悪だ。装飾品として身に着けているのだろう勾玉や腕輪が美しいが、それが醜い部分をさらに際立てている。髪に隠れているが僅かに見える瞳は黄金で、爛々と不気味に煌いている。

 侯爵が呻き、自身の首に喰らい付いている存在を睨みつける。それは老魔王の憤怒と憎悪の込められた声を聞き、睨みつけられていながらも尚彼の肉に噛みつき、その体液を啜っている。肉を食われ血を啜られる度に、侯爵は苦しそうに、不快そうに呻く。

 肉を咀嚼する音がグチグチと、血液を啜る音がジュルジュルと、不気味に、おぞましく嵐の闇に紛れて響く。頸動脈、或いは頸静脈を傷つけているのか溢れる血の量は多く飲み切れておらず、噛みついている口の端から漏れ出てその存在の口を、そして侯爵の首筋と衣服を汚している。

 護堂と侯爵の戦いに乱入し、侯爵の首筋に喰らい付いたナニカ。神に類するそれは護堂のほうに視線も向けず、侯爵の首に喰らいつき、一心不乱にその肉と血液を喰らい、飲み続けている。

 耳のすぐ傍で響く不快なそれを聞きながら、侯爵は激しい喪失感に苛まれていた。喪われていくのは体の一部、血液、体力だけではない。己の力の源でもある物――呪力だ。それが肉や血と共に、首に噛みついている存在に取り込まれている。

 

「ぐ……きさ、ま……っ! ふざけた、真似を……っ!」

 

 血を、体力を、呪力を急速に失い冷えて行く体を自覚しながら、侯爵は自身に喰い付いている存在を排除する為に召喚していた狼達を消し、残りの呪力を高める。

 呪力を高めた途端に侯爵の体が膨張していく。着ていた服を破り、雨と外気に晒されたその体は少しずつ、だが確実に人間の形を失っていき、獣の姿へと変わっていく。それは大きさこそ違えども、先程まで侯爵が召喚していた狼と同じ姿であった。

それを見ていた護堂達は狼の召喚だけでなく、自身の体を変化できると言う事実に驚きを露わにする。

 獲物の体の変化によって喰い付く事が困難になったか、黒髪の女性は弾かれるように侯爵から離れた。しかし唯で離れるつもりはなかったのだろう。侯爵の首筋の肉を食い千切って行った。血の雫が雨に混ざって宙を舞い、地に落ちる。

 

「ぬ、っぐ……貴様ぁ……!」

 

 受けたダメージが大きかったのか、それとも体の変化を維持できなくなるほど多大な呪力を奪われたのか、侯爵は変化した体を元の老人の物へと戻した。余程に深いのか首筋の傷は癒えておらず、血を垂れ流したままだ。

 しかし、膝は地に着いていない。息も荒く、顔色も悪いが、三百年を生きた魔王としての誇りか意地か、彼は首の傷を手で抑えながらもその両の足でしっかりと地を踏みしめている。流石は現存最古の神殺しの一人と言うべきか、唯の人間なら確実に致命傷、下手をすれば即死となる傷を負っても弱った様子は見せていない。ただ己を傷付けた存在を、殺気を孕んだ目で睨んでいる。

 その侯爵を守る様に、死せる従僕達が円陣を組み、侯爵を囲った。しかしその動きは護堂達に襲いかかった時よりもぎこちない。

 

『……ふ……ふふ、ふ……ふふふふふ……』

 

 そんな侯爵たちを護堂達が見ていると、声が聞こえた。唯の声ではない。奇妙にブレて聞こえるそれは鈴を転がすように涼やかでありながら、地の底から響く様な、暗い、恍惚とした笑い声だ。それを聞き、護堂達は侯爵に奇襲を仕掛けた存在に目を向ける。

 

『あぁ、あぁ……なんと甘美な、なんと芳醇な……神殺し共の血肉とは、かくも美味なる物なのか……。先の女も美味であったが、汝(なれ)もまた格別ではないか……いかなる美酒も、この味には勝るまい……』

 

 口の端から垂れる血をその舌で舐め取りながら言い、女性は天を仰ぎつつその黒髪を掻き上げ、その顔に恍惚とした表情を、黄金に煌く瞳に愉悦を浮かべながら侯爵を見据える。その瞳は、何処か蛇の目を護堂達に思わせた。

 

『あぁ、あぁ、(あれ)の体に力が満ちるのが分かる。かつて失った吾の力が、奪われた物が、戻って来るのが分かる……いと嬉しや』

 

 ぶるりと震える身を抱き締め、吐息と共に言葉を漏らす。恍惚とした表情を浮かべる頬は朱が差しており、唇は笑みの形に歪んでいる。

 女性の言葉を聞き、侯爵と護堂、エリカはその女性が何らかの要因で零落した神なのだと理解した。

 理解した瞬間、女性から呪力が吹き上がる。何よりも暗く、どこまでも深い、昏い冥府を思わせる呪力だ。同時に闇が集まり、女性の体を覆い隠す。

 

『嬉しや、いと嬉しや! 吾はようやく、かつての吾に立ち戻ったり!』

 

 女性の声が闇に響き、その姿を覆っていた闇を吹き散らす。闇に覆われていたその姿が露わになった。

 まず目に入ったのは白い衣服だった。元から身に纏っていた鮮やかな色合いの貫頭衣の上に美しい文様が染め抜かれた白地の布を複数重ね、帯で結んで解けない様にしている。

 伸ばされていた美しい黒い髪は闇の中でなお光沢を放ち、黒曜石か黒漆のようでありながら、夜の海の様な印象をも見る者に抱かせる。

 首に掛けているのは勾玉で、それらは白、紅の瑪瑙と碧の翡翠で作られている。三種一連で美しく長く、動くたびにシャラシャラと涼やかな音を立てる。

 服の合間から覗く体は腐った身ではない。所々に見えていた紅い肉はすべて滑らかな白い肌に覆われており、醜さ等最早どこにも見られない。血色も良く、完全に健常者のそれだった

 瞳は黄金に輝き、それは蛇の目の様に見えながら全てを映し返す鏡の様にも見える。

 浮かぶ表情は優美な笑みで、何も知らねば誰もが見惚れてしまうほど麗しい。しかし血肉を喰らって浮かべた表情だと知るからこそ、その陰りない笑みは何よりもおぞましく感じる。

 アテナ襲来から約一か月。新たなる「まつろわぬ神」が顕現した――直後。

 

 

 ――――ミツケタ。

 

 

 雨音に紛れ微かに、しかし確かにその言葉が聞こえた直後。空気を引き裂き、一筋の紅い流星が女性の側に着弾した。

 雷が落ちたのかと錯覚するような爆音が轟き、衝撃とともに土砂が吹き飛ばされ、石が弾丸のような速度で舞い飛び女性と、侯爵を守る死せる従僕たちを撃ち抜く。

 突然の事に護堂もエリカも行動が遅れたが、何とか石に撃ち抜かれる前に防御することに成功した。

 雨の為か土煙は発生せず、着弾地点に何があるのかをはっきりとみる事が出来た。

 地面に突き立つそれは、槍だった。赤く、朱く、血のように紅い、濃く禍々しい呪力を炎と共に纏った一本の槍。雷鳴の如き音を付随させ着弾したそれは、その衝撃で出来たのだろう直径7mほどのクレーターの中心に根を張るように深々と突き立っていた。

 ただの炎ではないのだろう。雨に当たっていてもなお、燃え続けている。

 

「ようやく追いついたわよ、この腐れ女」

 

 それを確認した数秒後、上から声が降ってきた。歓喜と憤怒、憎悪と愉悦、その他様々な感情が綯交ぜになった様な複雑な印象を聞く物に抱かせるそれは、護堂や侯爵と言った神殺し達に向けられたものではなく、かといってエリカ達魔術師に向けられたものでも無い。それを向けられたのはただ一柱だけ、槍の衝撃で吹き飛ばされた女神だ。

 それは雨で湿った地面に音も無く降り立った。闇の中で浮かぶ銀灰色の毛並みは水滴を弾いて鈍く輝き、鋼のような印象を持たせる。大地を力強く踏みしめる四肢には鋼鉄すら引き裂きそうな鋭い爪を持ち、敵を睨み付ける眼光は当然の様に敵意に満ち、低く唸りを上げている。

 巨大な銀狼のその背から彼女は降り立った。片腕を血で汚し、権能の影響で翡翠色に変わった琥珀の瞳を怒りに染め上げて、殺気混じりの濃密な呪力を全身から立ち昇らせながら七人目の神殺し――和泉咲月が戦場に乱入した。

 

「よくも私の腕を食い千切ってくれたわ。アンタ、私に喰い殺される覚悟は出来てるんでしょうね」

 

 言いながら、咲月はクレーターに入って行き、中心に突き立つ燃える槍に手をかける。深々と地面に刺さり、抜くには相当の手間を掛けねばならないと思われたその槍は、しかしあっさりと抜け咲月の手の中に収まった。

 

「死んだふりなんかやめてさっさと起きなさい、どうせ神格と一緒に力も取り戻しているでしょう? 仮にも冥府の女神が、あの程度で死ぬはずないものねぇ」

 

 翡翠の目を細め、槍の穂先を吹き飛ばされた女神へと向ける。咲月の意思を反映してか、それともそれ自体に意思でもあるのか、紅い槍は咲月の手の中にあって揺れていた。

 

「……ふむ、その様子だと吾の咒を知っているようだの、神殺し」

 

 咲月の言葉に、吹き飛ばされた女神がそう返す。その口調に苦しげな色は見られず、手を地面に着くこともなく、何のダメージも無いかのようにあっさりと起き上った。衝撃に加え、弾丸のように弾かれた石で体を撃ち抜かれていながら纏う衣服にも傷一つ見られない。

 それを確認し、咲月はさらに目を細めて声を女神に投げる。

 

「ええ、追いかけてる間にアンタの呪力の残滓から、しっかりと解析させてもらったわ。で、どの咒で呼ばれたい? 好きな咒で呼んであげるわよ、この国で最初の死者でもある女神様?」

「くくっ、然り。確かに吾は大八州にて始まりの死人。穢れを纏う黄泉の王よ」

 

 咲月がそう言うと、女神と呼ばれた女性は一つ笑い、向けられた燃える槍を見た。

 女性と同じく、冥府の気配を感じさせる。しかし女性は、自分の中の何かがこの槍を危険なものと――天敵だと認識していることに気付いていた。母たるこの身が危険だと認識するものなど僅かしかない。

 だが天敵を前にして、女神は笑みを絶やさずに咲月に言う。

 

「好きに呼ぶがよい。(なれ)の知るその咒のどれも、吾が所有する咒よ。なれば、どの咒で呼ぼうがそれは吾を呼んでいると同じこと」

「そう、だったら伊邪那美って呼ばせてもらうわよ。顕現した際の属性とか考えたら黄泉津大神の方が相応しいでしょうけど、長いし呼びにくいし。まあ、ほんとは名前なんて別にどうでもいいのよ。どうせ殺すんだし」

 

 知り合い同士が言葉を交わすような軽い雰囲気で、しかし咲月は物騒極まる言葉を伊邪那美に投げた。

 伊邪那美。古事記においては全十二柱、日本書紀においては全十一柱とされている神世七代と呼ばれる神の一柱であり、その最後に現れた女である。創世の時、流動している下界を固めて国を作るよう使命を受け、兄神である伊邪那岐と共に天より降り立ち原初の日本を、そして神々を生んだ母たる女神だ。炎の神である迦具土を生んだ際、女陰に火傷を負いそれが元で死んでしまうが、死する際にもその吐瀉物や糞尿から金属や水、山などに関する幾柱かの神を生み、死した後は冥府を統べる主宰神である黄泉津大神となった、日本において大地母神に相当する女神である。

 だが伊邪那美は本来、そこまで有名な神格ではなかった。伊邪那岐ともども、元は瀬戸内海の漁民達に信仰された海の神であり、無名の神だったと言って良いだろう。有名となったのは時の朝廷によって記紀が編纂され、新たに作られた国土創世神話が民間に流布してからだ。

 新たに作られる神話は朝廷にとって都合の良い物語にせねばならず、その主役とするには力ある地方神は邪魔者でしかない。だからこそ無名だった神が求められ、そしてその主役に選ばれたのが伊邪那岐と伊邪那美だ。

 神話が変われば神格の属性も変わる。失う属性もあれば、新たに付け加えられる属性もある。伊邪那岐と伊邪那美は国生みと神生みの神話で創造神としての属性を、そして伊邪那美はその死によって冥界の主宰神としての属性を得た。これにより、伊邪那岐と伊邪那美は始まりの神として相応しい神格と力を得る。人間の手により、新たな属性が付与されたのだ。

 言ってしまえば、伊邪那美と伊邪那岐は人間によって選ばれ、創造神に「成り上がった」神格なのだ。元は海の神格である彼らが創造神を始めとした多くの属性を持つのはそれが原因で、古代で国土創造の神として最も民間に信仰されていた大穴牟遅と少彦名の二柱はその神話を書き換えられ、役割と権能を剥奪された。

 

「ほう、吾を殺すとほざいたか神殺し。貴様の血肉と、そこの神殺しから力を奪ったことで吾はかつての吾を取り戻したのだぞ? 傷を負い、力を奪われた汝にそれが出来るか?」

 

 咲月の言葉を聞き、伊邪那美は問いの言葉を投げた。その口調は嘲るような色を含んでおり、やれるものならやってみろと挑発しているように聞こえる。

 

「笑わせるんじゃないわよ、伊邪那美。不意打ちで一撃与えた程度で、もう追いつめたつもり? だとしたら程度が知れるわね。この程度の傷と消費、ダメージになんてならないわ。それに消費が気になるなら、補えばいいだけの話よ」

 

 言って、ちらりと咲月は視線を周囲に回した。アテナの様に冥府の気配を強く感じさせる美しい女神――その神格の全てを取り戻した伊邪那美の他に、草薙護堂と万里谷祐理と異国の魔術師、ある意味で長兄に当たる神殺しと、彼が従えているだろう死者達が大勢いる。

 翡翠に輝く瞳で死者達を見ると、その魂を縛り付けている権能の情報が脳裏に浮かんだ。

 大地と天空の子の一人、王冠を戴く大地と植物の神。鳥の羽を持つ姉妹と嵐と戦乱を司る豚あるいは犬の頭を持つ弟。四人兄弟の長兄。武力を用いず国を統治した偉大な王であったが、弟に殺されその体を無残にも八つ裂きにされ、ナイル川に打ち捨てられた緑の肌を持つ死者の神。妹であり、大いなる魔術師でもあり、そして母神でもある妻の魔術によって甦るも、その死によって冥府の支配者となった生産・豊穣の神格だ。

 神格を読み解いた咲月の脳裏に、権能の元になった神の咒が浮かぶ。四大文明が一つ、エジプトの神。ギリシア語での名が広く広まっている神だ。

 オシリス。エジプトの言葉でアサルともウシルともウェシルとも呼ばれる植物の神。それが多くの騎士と魔女の魂を縛り付け、死してなおも地上に留めている侯爵の権能の元になった神の咒だ。

 オシリスは死と再生、季節の移り変わりを表す穀物の神でもある。冥府の神格であるにも関わらず咲月の槍や神格を取り戻した伊邪那美の様に禍々しい呪力をさほど感じさせないのは、その神格が持つ生産性からなのだろう。伊邪那美も存在を生み出す母、創造神としての属性を持ってはいるが、今回顕現した彼女は冥府の主宰神、死神としての属性が色濃い。

 従僕達に意識を戻す。皆、いずれ劣らぬ騎士や魔女であったのだろう。その魂を侯爵の権能に縛られているだろうが、その構えから技量の高さと、強い呪力が感じられる。

 十分だ。人道に悖る下種な行為であるとは自覚しているが、既にこの身も心も神を殺し、人から外れてしまった者だ。対象も当の昔に死んでしまっている者だし、悲しむような親しい人間も既に存在しないだろう。別に気にする程の事でもない。

 この身を癒す為の贄となれ。そう思い、囁く様に、しかしそれにはハッキリと聞こえる声で、咲月は冷たく命令を下した。

 

「マーナガルム、選り好みは駄目よ――――喰らい尽くしなさい」

 

 その言葉を認識した瞬間、銀狼――マーナガルムはその身をさらに巨大化させ、侯爵の従える死者達に襲い掛かった。集団で居る場所に飛び掛かり、その巨大な口と鋭い牙で鎧兜や武器ごとその身を噛み砕き、屍肉を貪り、呑み下す。

 

「元は大騎士や高位の魔女みたいだけれど、所詮は死人ね。咄嗟の判断や反応が遅いわ。……ああ。もしかして、ご主人様のダメージが原因でそうなってるのかしら。それとも、死んでる人間を無理に動かしてるわけだから、そういう制約があるのかしらね?」

 

 命令を受けた神獣に蹂躙され、貪られていく死者達を流し見ながら咲月はそう声を漏らす。しかしその声音は冷たさすら感じさせず、嘲るような色すらない。ただ平坦だ。

 襲い掛かってきた巨狼に対して、死者達もただ突っ立っている訳ではない。傷を負った主を守りながらその武器を持って攻撃したり、術を放って倒そうとしている。

 しかしその大半が爪で引き裂かれ、あるいは尻尾の一撃で吹き飛ばされて塵へと還り、消滅する。マーナガルムにはダメージらしいダメージは与えられておらず、死者の被害は増すだけだ。

 マーナガルムは死食いの狼であり、光を翳らせる大地の魔狼だ。死を喰うという特性は、生者に使えば死を遠のけ、多少ではあるが寿命を延ばす事も出来る。アテナとの戦いの際、咲月が自分の体に入り込んだ死の呪力に使ったのがこれだ。逆に死者に使えばその魂すら喰らい尽くし、己の力として取り込む事が出来る。咲月は今回、侯爵の従僕達にこれを使ったのだ。

 喰らわせた死者達の魂が、呪力が咲月に流れ込み、伊邪那美に喰い千切られ奪われた呪力と体が癒えていくのも感じていた。先に飲んだ霊薬の効果も合わさったか体が、特に腕の傷が熱を持つ。体の回復が始まった。

 

「あ、あんた何してるんだよ!?」

 

 神獣を嗾け、死せる従僕達を襲わせる咲月に護堂が慌てたような様子で問いかけた。彼が咲月に向ける目には、何か異常な物を見るような色があった。

 

「何って、見てわからない? 侯爵の下僕を喰わせてるのよ。これで傷を負ってる身だもの、癒す為の餌になってもらうわ。結構大勢いるみたいだし、十体や二十体喰ったところで問題ないでしょ。味はともかくとして、質はまあまあ良いし」

 

 言いながら、咲月はマーナガルムから流入し、自身の内で渦を巻き、そして消えていく魂と呪力を、感情を感じていた。

 まず感じたのは義憤。王の暴虐を許せない、無辜の民を守りたい。愛する人を守りたい。その為にも王を止めねばならない。王を倒さねばならない。大勢の民たちを守る為ならばこの命、惜しくはない。そんな騎士として、人としての正しい怒りが、高潔な心が咲月の心に伝わる。

 次いで感じたのは悲嘆。違う、違う。こんな事は望んでいない。王の暴虐に加担するために、新たな犠牲者を増やすために我らは王に挑んだのではない。力及ばず討ち下され、侯爵の権能に囚われ、望まぬ行為に使役されることへの強すぎる慟哭。喰った魂の全てが抱いているそれが咲月の心に伝わる。

 次いで感じたのは怨嗟。侯爵に挑んだ勇士達の力を、術を、彼らの望まぬ形で行使している主人に対しての恨みの声、怒りの声。どの感情よりも色濃いその声が咲月の心に伝わる。

 しかし――

 

(五月蝿い、黙れ。餌が喚くな)

 

 しかし咲月は、そんな死せる勇士達の義憤、慟哭、怨嗟の声を捻じ伏せ、呑み下した。

 愚か。マーナガルムが喰らい、咲月が呑み下し力と変えた魂たちが抱いていた感情に感じたのはまずそれだった。

 神を殺し、その権能を簒奪し己の力とした魔王に、大騎士や高位の魔女とは言え人間の範疇を超えていない存在が勝てるはずもないのだ。まして侯爵は死者を縛る権能を持っている。当時はどうであったか知らないが、今に伝え聞く侯爵の性格や評判などを聞けば、当時と変わっているとはとてもではないが思えない。それを考慮すれば、どのような事にその権能を使うか予測はできるだろう。

 だと言うのに挑み、敗北し、そして現状に慟哭している。こんな事に力を奮いたくないと、魂の底から悲嘆している。愚かだ。愚かにも程がある。

 その魂の気高さは認めよう。感情の正しさも認めよう。だが行動に起こした事へ敬意等は抱かない。現状に嘆くのならば、嫌なのならば、初めから挑まねばよかったのだ。義憤などと言う下らない感情で動かなければ、その死で悲しむ者も、怒りを抱いて侯爵に挑み、連鎖的に侯爵の犠牲になる者も生まれなかっただろうに。本当に、愚かだ。

 愚者の蛮勇。人でありながら魔王に挑んだ身の程知らずの愚か者。勇者となれなかった者達。

 それが、咲月が敗北すると分かっていながら勇敢にも侯爵に挑み、殺されて使役され、そして彼女の体を癒す贄となったかつての勇士達に下した、あまりにも非道な評価だった。

 マーナガルムに出現していた従僕達をあらかた喰わせ、咲月は自分の腕を見た。血の跡こそ服に残っているが、傷は残っていない。少し腕を曲げてみても、筋が張るような感じはしない。感覚的に、失った呪力も回復している。

 死者の魂を喰らい、取り込み咲月は完全に回復した。

 

「小娘……貴様……!」

「ああ、そう言えば居たんだったわね。ごきげんよう義兄さん……とでも言った方がいい? それにしても元気ね。傷のせいでほとんど動けないみたいだけど」

 

 侯爵の呻くような声を聴き、咲月は白々しくもたった今気付いたと言うような反応を示し、侯爵の方を見た。

 彼は咲月を睨み付けていた。自分の娯楽を邪魔し、力を奪い取った伊邪那美に向けていた怒りと同等か、それ以上の怒気をエメラルドの眼光に乗せて咲月を睨み付けている。

 しかし咲月はその視線に臆することなく、薄く笑みすら浮かべて翡翠の目で見返していた。

 

「義兄だと、いやそのような戯言はどうでもいい! 貴様、我が従僕どもを喰らい、奪いおったな!」

「ええ、見ての通り喰わせてもらったわ。まあ、あんまり美味しくはなかったけれど……ご馳走さま。おかげさまで傷も癒えたわ」

 

 激昂する侯爵に向かって咲月はそう言い、その唇を紅い舌で何かを舐め取る様に一度舐めた。それは漫画やアニメなどで食事を終えた者がよくする動作だ。

 この動作をした咲月に、何かの意図があったわけではない。ただある意味で食事をした事で、反射的にしてしまった行動だ。

 だが、侯爵はそれを挑発と見て取った。ただでさえ怒りに染まっていた表情が、さらに強い怒りに染まる。

 侯爵は最古の王の一人である。実に三百年もの時を生き、多くの神を殺してきた彼はその実力に比例したプライドの高さを持っている。咲月の『食事』と無意識の動作は、侯爵の誇りに大きく傷をつけた。

 目を禍々しく輝かせ、肉食獣の様に牙を剥き出しにしたその表情は、形容するなら悪鬼羅刹の如くと言って良い。

 

「許さん、許さんぞ小娘! よくも我が従僕どもを喰らってくれた! そこの小僧共や女神ともども貴様も我が慰めとなり、そして従僕となるがいい!!」

 

 老王が咆哮する。同時に大量の呪力を奪われ、失ったはずの彼の体から膨大な呪力が吹き上がり、再び嵐が吹き荒れ、雨の勢いが強くなる。首の傷から血が流れているが、それは気にも留めていないようだ。その傷が癒える様子は見られない。

 

「はん、血も呪力も失くした死に体の老人が粋がってんじゃないわよ。アイツは私の獲物。誰にも譲らないし、奪わせないわ。取ろうとするなら殺すまでよ」

 

 侯爵の怒りを感じながら、咲月はさらに挑発を返し、呪力を体から吹き上げる。首の傷と流れる血の量から、彼女は侯爵の事を戦力として数えてはいないのだろう。故に、意識を集中しているのは一人……いや、一柱のみ。

 

「くくっ、吾に挑むか神殺し。良かろう、ではまず汝を喰い、その後に残りを喰うとしようか」

「そんなことさせる訳がないでしょう。アンタを喰うのはこの私よ」

 

 伊邪那美の言葉に咲月が返す。互いの呪力が高まり、そして――自分がされ時の焼き直しの様に、今度は咲月が女神に襲い掛かった。

 



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24話 神威繚乱・後 壱

新年明けましておめでとうございます。そして三ヶ月もの間更新できずにすいません。
今回は今までで最大の文字数になりましたが、まだ終わりません。おそらく次回でようやく2巻が終わると思いますが……くそう。休みも欲しいが何よりも時間が欲しい。


 

 足裏で呪力を爆発させ、その衝撃で地面を多少吹き飛ばしながら咲月は伊邪那美との距離を詰める。手に持つ槍には未だルーンで灯した業火が燃え盛っている。かなり高熱の炎なのだろう、降り注ぐ雨粒が炎に触れるそばから蒸散し、水蒸気を発生させている。咲月の進路に沿って発生しているそれは、さながら飛行機雲の様だ。

 

「死を喰らう獣の権能か。汝が死人を喰らい力とするのなら、吾は千の命を喰らい、糧としようぞ!」

 

 自身に突貫してくる咲月を認め、まつろわぬ伊邪那美は呪詛を放つ。それは神話の中で、兄にして夫である伊邪那岐との離別――生者と死者の世界が別たれた際、悲哀と憎悪を込めて伊邪那岐に放った言葉。自分の言葉を無視した夫の行動に憤怒し、報復として一日に千人の命を奪うと言った死の呪いの再現、滅びを与える権能だ。

 伊邪那美から放たれた呪詛により、女神の周囲に変化が現れる。木は腐り落ち、土は融けてドロドロになり、コンクリートやアスファルトは瞬く間に崩れ果てた。さらに効果範囲は広がり、腐滅の呪いに建築物すら侵されていく。このまま行けば、住人すらも巻き込んで崩れ落ちてしまうだろう。

 だが――。

 

「効かないわね、そんな呪詛!」

 

 だが咲月はそんなものは効かぬと言い放ち、呪力を全身に滾らせ、放たれた呪詛に真正面から突っ込んで行った。

 放たれた呪詛は咲月が腕の肉を食い千切られた時に放たれた呪詛と似た、しかし遥かに強化され凶悪になった能力を持つ冥府の女神の権能だ。呪術的な面を多分に持ち、呪術や魔術に対して絶対と言えるカンピオーネの対呪力でも、ある程度は防げるかもしれないが完全に防ぎきれるようなものではないだろう。

 事実、咲月が着ている服――学校の制服――はその呪詛に耐えられない。全身に滾らせた膨大な呪力が幕の様に覆っている為なのかその速度は遅いが、確実に白い服は腐食し崩れ落ちていく。その結果もある意味で当然だろう。今回は怒りが先行して、アテナとの戦いの時の様に服にルーンの防御を施していなかったのだから。

 腹部、胸部、肩にスカート。呪力を浴びて腐食し、ぼろぼろと崩れ落ちていく自分の服を認識し、しかし咲月は止まらない。逆に、より速度を上げて伊邪那美に近づく。衣服は崩れても、自分の五体は十全なのだ。奪われた呪力も、東欧の老魔王の下僕共を喰らって回復した。

 精神は高揚し、戦いに向けて既に完全にシフトしている。体も呪力もともに万全。マーナが喰らい、咲月がその身の内に取り込んだ、未だに呪力に変換されていない大騎士や魔女の魂たちが少々喚いているが、それもすぐに変換されてなくなるだろう。

 故に、何も、問題はない。

 

「ふっ――!」

 

 槍を突き出す。燃え盛る炎を纏った魔槍は真っ直ぐに女神の胸元――心臓部分にその穂先を突き立てんと走らせる。雷槍としての能力も発動しているのか、女神に迫る槍はルーンの炎のみならず電撃すらも纏っている。

 雷と炎。『鋼』と強い関わりを持つこの二つの属性は、どちらも地母神に対して強い影響力を持つ属性で、特に炎は神話において伊邪那美の命を奪う直接の原因となった神である火之迦具土の属性でもある。その二つを同時に纏っているゲイボルグを突き立てられれば、唯では済まないだろう。如何に強大な力を有する地母神でも、下手をすれば一撃で死んでしまうかもしれない。

 

「稲妻と炎――忌々しい物を纏う」

 

 故にこそ、伊邪那美は死滅の権能を使いながら、咲月の魔槍を防ぐべく別の力も同時に行使する。それは彼女の持つもう一つの側面、死と滅びを与える冥府の神格と並ぶ、全てを生み出した創造神――母神としての創造の権能だ。

 直後、咲月の槍を防ぐように、槍の進路上に岩の小山が出現する。何の前触れもなく突如出現したそれに対し、咲月は一瞬だけ目を眇めるがそれだけだ。走らせた槍を止めることなく、むしろ岩の山ごと突き穿たんと槍にさらに呪力を込める。

 そして魔槍は、まるで豆腐に包丁を入れるかのようにあっさりと岩の内部に沈み込んだ。

 

「爆ぜなさい!」

 

 それを認識し、即座に槍に纏わせている呪力を岩の内部で爆ぜさせる。

 如何に女神の権能によって産み出されたとはいえ、所詮は単なる岩の塊でしかないそれが魔王の権能に耐えられるはずもない。実際、岩の山は咲月の魔槍をほんの一瞬だけ止めはしたが、咲月に呪力を爆発され微塵に散った。

 衝撃によって砕け散り、さらに咲月とは反対の方向に弾丸のような勢いを伴って飛ぶ岩の飛沫は唯の弾丸ではない。飛び散る岩の一つ一つが炎や雷を魔王の呪力と共に纏っている、即席ではあるが一種の魔術兵器だ。その危険度は、先のクレーターを作った時に舞い飛んだ物の比ではない。神にすらダメージを与える可能性を持っているのだ、唯の人間なら、間違いなく掠っただけでも大惨事だ。

 しかし、咲月のこの攻撃は今回、悪手だったと言えるだろう。

 

「っ、居ない?」

 

 岩塊で進路を塞がれ、それを爆破したことで散った岩によって咲月は僅かな間ではあるが、その視界を塞がれ伊邪那美の姿を見失ってしまった。

 見失った獲物を探し、咲月は僅かに顔を左右に振り、それぞれの空間に視線を走らせる。視界の端に草薙護堂達や死せる騎士たちに囲われて守られているヴォバン侯爵が入るが、そんなものは現在どうでもいい。問題は伊邪那美の行方だ。

 どこか遠くへ去ったと言う事はない。咲月は自分か、彼女が身内と認識している人間が手出しされない限り手を出さないと言う受け身のスタイルを取っている――逆に言えば、髪の毛一筋でも傷つければ即座に殲滅に動くのだが――が、神と神殺しは互いを滅ぼしあう宿敵同士だ。余程のことがない限り、殆どダメージがない状況で去ると言う事はあり得ない。神に対するレーダーと言ってもいい体の昂ぶりと緊張も無くなってはいないのだ。

 伊邪那美はまだ近くに居る。それは確かだ。だがその姿が見つからない。

 警戒を露わに、咲月は槍を構え即座に対応できるようにする。そんな主の背を守るかのようにマーナガルムが彼女の側に付き従う。

 

「その槍、嫌な気配がするのう。じゃが近しい気配をも感じる……吾のような冥府に関係する鋼から簒奪したものと見るが」

 

 警戒していると、上から声を掛けられた。見上げれば、地面から約10mの空中に伊邪那美が浮遊している。

 

「その狼もそうじゃが、汝の権能、少々厄介そうじゃ。他の神殺しも居る……ならば、少々危険ではあるが援軍を呼ぶとしようかの」

 

 言って、伊邪那美は目を閉じた。同時に感じる呪力に、咲月は警戒を高め、身構える。

 そして、伊邪那美がその黄金の目を開いた。

 

「来やれ黄泉の軍勢よ! 神殺し共を押し潰してしまえ!」

 

 伊邪那美が咲月達を見下ろしながら、声高に叫ぶ。それは彼女の持つ冥府の主宰神としての権能の一つ。神話に語られている、伊邪那岐に対して死者の軍勢を嗾けた事の再現だ。

 女神の体から呪力が吹き上がる。それは空間に作用し、人間が楽に通れるようなそれなりに大きな穴を虚空に作り出した。その穴から、何とも言えない不快な風が吹き込んでくる。その風を浴びたか、護堂の側にいるエリカや祐理が急に咳き込みはじめる。

 

「エリカ!? 万理谷も、大丈夫か!?」

「私たちは、ゲホッ、大丈夫……それよりも気をつけなさい、護堂! 来るわよ!」

 

 心配する護堂に対し、咳き込みながらエリカが叫ぶ。

 直後、空間に開いた穴から何かが大軍となって飛び出してきた。

 

「ひっ!」

 

 現れた存在を見て、祐理が口元を覆いながら短く悲鳴を上げる。穴から出てきたのは体のほぼ全てが腐り果てた、一目で死体だと分かる者達だった。

 男、女、老人に若者、果ては赤子までおり、それらの体には必ずどこか腐っている部分がある。酷い物では体全体が腐り果て、内臓がこぼれ、骨すら見えている者までいる。

 伊邪那美は黄泉の主宰神でもある。その権能で、彼女は冥府と現世を繋げ、ヴォバンすら上回るほどの死者の軍勢を呼び寄せたのだ。

 

「さあ、吾が下僕たちよ。久方ぶりの現世じゃ、存分に暴れるがよい! そして神殺しどもを討て!」

 

 笑みを浮かべ、伊邪那美が命令を下す。黄泉の王たる女神の命令で、死者の軍勢がこの場に居る生者――咲月、護堂、ヴォバン、エリカそして祐理に向かって進軍する。その速度は、とても体が腐った人間のそれではない。全てがそうという訳ではないが、中には一流のアスリートに匹敵する速度で咲月達に襲い掛かる者もいる。

 

「神獣でも神使でもない、ただの死者ごときで私を討てると本気で思っているの? だとしたら、随分と低く見られたものね――不愉快だわ」

 

 槍を構えもせず自分に迫る死者達を見据え、咲月は不機嫌そうに吐き捨てる。

 

「私が手を出すまでもないわね――やりなさい」

 

 咲月がそう言った直後、彼女に迫っていた死者達が吹き飛ばされる。それを成したのは当然と言うべきか、彼女の側に控えていたマーナガルムだ。ヴォバンの聖獣よりも大きな体躯を持つ狼が、その爪で、尾で、迫る死者を薙ぎ払う。

 神獣が護衛について居る事で、死者達は一体も咲月に近づくことが出来ない。全てマーナガルムに薙ぎ払われ、喰われて消える。

 それをつまらない様なものを見る目で咲月は眺めていたが、首筋にチリチリと嫌な予感がし、背後に振り向きながら槍を突き出す。現在の咲月は、その持ち得る全ての権能を同時に使用している完全戦闘状態だ。当然、神託の権能も発動状態にある。その権能によって、神殺しとしての特性も相まって、今の彼女の第六感は普段以上に研ぎ澄まされているのだ。

 何かを穿った、強い手応えがあった。

 

「こいつは……」

 

 突き出した槍は、襲い掛かろうとした死者の頭を正確に突き穿っていた。そう、死者だ。それは間違いないだろう。だが、槍に頭を穿たれ、身動ぎ一つせず塵に還っていくその死者には、他の有象無象とは違う何かが感じられた。

 伊邪那美のものよりも質素ではあるが似た衣装と、ほかの死者と違い、腐っていない肉体。その肌は皺くちゃで、全体的に黒い。しかし黒いと言っても、人種の違いと言うようなものではない。痛んだ肉の色だ。しかし消えていく体から感じる格は、他の死者達と比べても高く感じる。

 僅かに翡翠の目を眇めると、神託の権能がその正体を暴いた。

 

「黄泉醜女……」

 

 ぽつりと呟く。読み取った死者の正体は、伊邪那美に仕える存在の一つ。神話の中で死者の群れを率いて伊邪那岐を追いかけた、黄泉に住む鬼女だった。その格は、咲月の予想が正しければ神獣や神使に匹敵するだろう。いや、もしかしたら神使として呼び寄せたのかもしれない。

 

「へぇ……」

 

 完全に消え去った黄泉醜女を見て、咲月は僅かに口の端を上げる。見ればヴォバンの方にも、草薙護堂たちの方にも何体か行っているようだ。しかしヴォバンに向かったものたちは死せる騎士たちに阻まれ、草薙護堂に向かったものは異国の魔術師の防御魔術によって防がれている。見れば、今更ながらに気付いたが、草薙護堂の後ろには万里谷祐理が居る。顔を青くし、へたり込んでいるその姿を見るに、何かがあって腰でも抜かしているのだろう。

 そんな彼女を守る様に居る草薙護堂と金髪の魔術師だが、そのままではそう遠くないうちに防御を破られるだろう。今の万里谷祐理は、正しく足手纏い以外の何物でもない。

 抱えて逃げれば良い物を。周囲を死者達に囲まれているが、草薙護堂が権能を使えば、その程度の事は容易いだろうに。

 

(足手纏いを守る……まあ、私が気にすることでもないわね)

 

 草薙護堂が万里谷祐理を守っていようが見捨てようが、別にどうでもいいことだ。自分にとってどうでもいい人間の彼女が死のうが生き残ろうが、興味の欠片も持っていない。

 咲月にとって大切なものは、義母であるパンドラを除けば美智佳を始めとした親友達四人だけであって、その他の全てはどうでもいい有象無象、そこらへんに転がる石のようなものでしかない。例外は親友達の家族くらいのものだが、それは気に掛ける程度の価値はあると言うだけであり、優先度は親友に比べても著しく低い。

 すぐに万里谷祐理から意識を外し、咲月は伊邪那美へと視線を向ける。死者や黄泉醜女が襲い掛かってくるが、それらは近づく傍から全てマーナガルムに駆逐されるので意識の欠片すら向けない。

咲月とヴォバン、二人の神殺しを襲いその呪力を奪い、全ての神格を取り戻した女神は変わらずに中空に浮遊し、悠然と見下ろしている。

 引き摺り下ろし、その体を穿ってやろう。思いを呪力に混ぜて槍に乗せ、咲月は伊邪那美に向かって踏み出した。足に呪力を込め、それを爆裂させて一気に距離を詰める。衝撃で地面の土が弾け飛ぶ。

 

「むっ」

 

 高速で接近する咲月を認め、伊邪那美は腕を振るう。それが合図だったのか、死者の群れが咲月に迫る。マーナガルムがそれを防ごうとするが、数体の黄泉醜女が神獣に飛び掛かりその行動を妨害する。

神獣も神使も、その主である神や神殺しが直接操れば非常に強力な存在になる。咲月に操られるマーナガルムと、伊邪那美に操られる黄泉醜女。単体の力なら相性込みでマーナガルムの方が有利だが、数的には数体いる黄泉醜女の方が遥かに有利だ。

 神使に抑えられ、神獣は援護に動けない。孤立した咲月をめがけて、大勢の死者と黄泉醜女が襲い掛かる。

 

「邪、魔っ!」

 

 しかし咲月はそれに怯むことなく、逆に速度を上げて突っ込んで行った。そして槍を一振りし数体の死者を薙ぎ、その体を砕く。さらに砕いた体に飛び乗り、それを足場に別の死者の頭部に移動し、再び呪力を足裏で爆ぜさせる。

 衝撃。同時に砕け、腐肉と骨片を飛び散らす死者の頭部。一般人が見ればあまりの行動に、確実に目をそらすか、最悪胃の中の物を全て吐き出すだろう。だが、それは一度で終わらない。連続で、一切の例外なく、咲月は死者と黄泉醜女を足場にして移動する。そこに躊躇いや罪悪感と言う物は欠片も存在しない。

 情け容赦など一切なく、無慈悲に死者を蹂躙し伊邪那美に接近し、飛び上がり槍を振るう。

 

「落ちなさいっ!」

「ふん」

 

 迫る咲月を一瞥し、勢いよく振り下ろされた槍を見据える。自身を地面に叩き落そうと迫る槍を見ながら、しかし伊邪那美は動かない。

 そして振り下ろされた槍が伊邪那美に接触しようとした瞬間、女神は多量の呪力を燃やし、その姿が咲月の視界から消え失せた。

 

「消えたっ!?」

 

 見失ったことで一瞬動揺し、しかし直後に嫌な予感を感じ取り、咲月は槍を振り下ろした勢いを利用し体を回転させ、背後を向く。

 

「吾に落ちよと言うか。逆に汝こそ落つるがよい、神殺し!」

 

 背を向けていた空間に、見失ったはずの伊邪那美が居た。女神はその手に不吉な呪力を集中しており、それを咲月に向けて解き放った。

 咄嗟に槍を両手で持ち、体の前面に掲げ呪力を燃やす。伊邪那美の放った禍々しい漆黒の呪力と咲月の呪力がぶつかり合い、咲月は空中に留まることが出来ないため吹き飛ばされた。体勢を崩し、地面に向けて落下する。

 

「っ、ちぃっ!」

 

 しかし咲月は体を振って器用に体制を立て直し、叩き付けられることなく地面に着地する。その瞬間を狙い、大勢の死者が咲月に殺到する。着地したその瞬間は、僅かに硬直して動けなくなるからだ。

 だが主人の危機に、その配下が反応しないわけがない。動きを止めている咲月を守るために、マーナガルムが死者を薙ぎ払いながら向かう。それを止めようと黄泉醜女が攻撃を仕掛けるが、マーナガルムは一切気にせず咲月の元へと向かい、死者達を喰らい、踏み潰し、薙ぎ払った。咲月の周囲から死者が居なくなる。

 

「ありがと。でも、あんまり無茶はするんじゃないの」

 

 守られたことに礼を言い、しかし無茶はするなとも叱責を飛ばす。見ればマーナガルムの体には小さいが無数の傷があり、中には血を流させているような深い傷もあり、その銀色の毛並みを赤で汚している。全て黄泉醜女に付けられた傷だ。

 呪力を流し、神獣の傷を癒す。マーナガルムは咲月の持つ三つの権能の一つであり、移動やサポートを一手に引き受けていると言って良い。権能である為、咲月が死なない限り完全に死ぬと言う事はないが、倒されてしまえば咲月は一気に不利になる。

 神獣の治癒を確認し、咲月は視線を伊邪那美に戻す。女神は変わらず、空中に浮遊し悠然と見下ろしている。

 咲月と目が合う。すると伊邪那美は、咲月に笑みを向けてきた。それは優美かつ非常に挑発的で、神殺しの――咲月の行動を今か今かと待っているように見える。

 この程度で終わりではなかろう。もっと見せよ。その力の全てを吾に見せて、そして死ねと、そう言っているように感じられる。

 

(いいわ、だったら望み通り見せてあげる。もっとも、対価はアンタの命だけど)

 

 僅かに口の端を上げ、呪力を燃やす。先程の攻撃の際、一瞬で背後を取られたことには驚いたが、そのからくりである権能は神託によって既に見切っている。

 

(神速……だったかしら? 伝承を考えれば持っていても可笑しくはないけれど、自分の目で確認することになるとはね。しかも、ホントに持ってるし)

 

 神速。草薙護堂が持つウルスラグナの化身の一つ、咲月が呪詛払いだと予想し、しかし外れた『鳳』の化身の能力でもあるそれが、伊邪那美が咲月の攻撃を避け、背後を取った権能の能力だ。

 伊邪那美の名は、その創造神としての名の他、冥府の主宰神としての黄泉津大神があるが、その他にももう一つある。それが道敷大神だ。

 伊邪那岐は黄泉の国から逃げ帰る際、伊邪那美の命令で八雷神に率いられた大勢の死者と黄泉醜女に追いかけられる。その際に身に着けていた装身具を用いて桃や筍などの食物を生み出し、追っ手を追い払って何とか生還できたのだが、その最終局面で黄泉の最奥部から自ら追いかけてきた伊邪那美に追いつかれる。道敷大神と言う名は、この時に伊邪那岐に追いついた事から来ている。先の伊邪那美の空間転移かと疑うような移動は、この伊邪那岐に追いついたと言う伝承から来た権能で間違いないだろう。冥府の底から地上を繋ぐ黄泉比良坂までの距離は、明確な距離など当然分からないが、数千里では足りないだろう。そこから追いついたと言う伊邪那美なら、神速の能力を持っていても可笑しくはない。

 しかし、それだと少々厄介ではある。神速はその名前からも分かるように、超速度での行動を可能とする。その本質は時間を歪めての行動なので、単なる高速行動とは訳が違うのだが、その速度は、心眼と呼ばれる技法の極意を修めていなければ神殺しの目でも見切ることは難しい。だが生憎、咲月はその技法を習得してはいない。心眼の極意である観自在の法を修めるには、才能も必要だが絶対的に経験が必要なのだ。才能はともかく、咲月にはこの経験が圧倒的に不足している。

 だが、対応できないわけではない。神速を発動している相手に攻撃を与えるには、最短最小の距離で攻撃を叩き込むか、同じ領域の速度で攻撃すればいいのだ。幸い咲月は、前者はともかく後者の攻撃方法を既に持っている。

 魔槍の権能、ゲイボルグ。一撃で殺す、猛毒を注ぎ込むなどの凶悪な殺傷性にその目を奪われがちだが、ゲイボルグの真価は必ず相手を穿つと言うその必中性にこそあると言って良い。さらに伝承の中には雷鳴の如き速度で敵を穿つと言う物もあり、実際咲月はアテナとの戦いの際にその必中と雷速の能力を発動させている。確実とは言えないが、これなら伊邪那美の神速にも対応可能だろう。

 問題はその能力を自分に使用できない事か。あくまで簒奪した槍の能力であるため、咲月は自分の体に雷速を付与出来ない。精々が反応速度を少々上げる程度だ。その為、雷速を発動するには必然的に槍を投げることになり、その間は主武装が手を離れることになる。武装はほかにも色々と持っているが、当然魔槍に比べればランクを比べる事すらおこがましい物であり、そんな物ではただの死者はともかくとして、神使を相手取るのは面倒だ。少し暴れた程度で無くなるような体力ではないが、雑魚相手にあまり使いたくはない。

 だが、行動を起こさなければ伊邪那美に攻撃は当たらない。それは無駄に体力や呪力を消費することになり、咲月はそういった無駄なことが何よりも嫌いだ。

 ならばどうするか? 考えるまでもない。

 

「雷鳴を纏い、猛毒を孕め。そして我が敵を穿て!」

 

 呪力を魔槍に叩き込み、さらにそれを燃え狂わせる。聖句を以て発動するのは一ヵ月前と同じ、雷速と必中、そして猛毒だ。冥府の神格であり、腐毒の権能を持つ伊邪那美に効果があるかは不明だが、物理的なダメージを与えることは可能だろう。

 槍が禍々しい呪力を纏う。さらに放っていた電撃は勢いを増し、放電現象も強くなる。最早それは電撃ではなく、稲妻と称して過言ではない規模になっている。

 伊邪那美が笑みをそのままに、僅かに目を眇める。それを見て、咲月は稲妻と炎、そして猛毒を纏った魔槍を握り直す。そして一度振り、雷撃を周囲に奔らせて死者達を薙ぎ払い、空白地帯を作り、投擲体勢に入る。死者達が空白を埋め、咲月を攻撃しようと迫るが、それをマーナガルムが妨害し、近づけさせない。

 槍に滾る呪力に流石に危険性を感じたか、伊邪那美が動く。だがそれよりも早く咲月が槍を投げようとした時だった。

 

「私を……見縊るでないわ、小娘どもがあぁあああっ!!」

 

 絶叫。そう呼んでも差支えない咆哮が響き、咲月も伊邪那美も、その発生源に意識を強制的に向かされる。咆哮の発生源は伊邪那美に呪力の大半を奪われ、さらに咲月に従僕を喰われた東欧の老魔王だ。古き時代の神殺しは重傷を負っていながら、しっかりと二本の足で立っており、今にもぶつからんとした女神と姫王を睨み付けている。

 

「ぬぅ……おおおぉおおおおおおおおおおっ!!」

 

 叫びとともに、侯爵の体から呪力が吹き上がる。それに咲月も、伊邪那美も驚愕の表情を浮かべた。

侯爵が伊邪那美によって失った呪力は膨大だ。それこそ、彼の持つ呪力総量の半分以上にも及ぶ。さらに権能の使用による消費や、奪われた騎士たちを縛っていた呪力も考えれば実に6、7割にも及ぶだろう。だが今侯爵が吹き上げている呪力は、奪われた呪力に匹敵、或いは凌駕するほどの量だ。

 吹き上がる呪力とともに、侯爵の体が変じていく。徐々に大きくなり、さらに毛深くなっていくその光景は、咲月が来る前に伊邪那美を振り払うために行った狼体への転身だ。その影響か、声の質が変わっていく。肉声ではなく、ぶれるような音声だ。

 

『オオオオオオォオオオオオオオオオ――――ッ!!』

 

 長い咆哮を終え、侯爵の体が完全に狼へと化身する。しかしその大きさは並大抵のものではない。彼が召喚していた狼も馬並みの大きさはあったが、それを軽く上回る。咲月のマーナガルムも最大で約15mの巨躯を誇るが、侯爵の大きさはそれの倍はあろうか。

 天をも突く巨大な銀狼。その姿になったヴォバンが己の敵を見下ろし、そして――突撃する。

 狙いは、小娘こと咲月。

 

「っ!?」

 

 自分めがけて突進してくる巨体に、思わず咲月は息を呑む。その速度は巨体に見合わずかなり早い。迫るその圧力に、一瞬ヴォバンの大きさが数倍に膨れ上がった気さえした。

 さらに侯爵は突進しながら、器用にも聖獣たる狼を無数に召喚し始める。それはどんどんと増えていき、あっと言う間に30を超える狼が戦場に召喚された。

 

『ぬぅん!!』

「ちぃっ!!」

 

 猛スピードで咲月に接近した侯爵が、その剛腕を叩き付けんと振りかぶる。

 投擲体勢を解き、咲月は呪力を爆発させて回避行動に移る。迫るのは侯爵の手で、その大きさも、手にある爪も、勢いすらも恐ろしい。

 身に襲い掛かる攻撃に、すっと血の気が一瞬引く。しかしそれを回避した瞬間、言いようのない快感を覚え、雨で冷えた体を一瞬で火照らせるほどの熱が腹部の奥の辺りから生じる。体全体に染み渡るそれは酷く心地よく、得体の知れないほどに甘美だ。それを感じ、無意識に咲月は笑みを浮かべる。

 気持ちいいと、そう感じる。きっとこの感覚は、他の何をしても、何を聞いても、どんなに美味な料理を食べても、感じることなどできないだろう。

 あぁ、だからこそ、この感覚があるからこそ――――。

 

「……く、ふ」

 

 戦いは。殺し合いは、止められない。

 

「は……は、はは……」

 

 口から小さく笑いが漏れる。その口の形は、ほんの僅かだが、確実に笑みの形に歪んでいた。その歪みは次第に大きくなり、弧を描いていく。

 咲月は怒りから伊邪那美を追い、この場に来た。それは確かだ。

 自分を襲い、体を食い千切り呪力を奪い、そして逃げた伊邪那美にこれ以上ない怒りを抱き、殲滅するために追ってきた。

 だが追っている途中で、神託で神格を読み解いていると、別の感情も芽生えた。

 咲月は神殺しである。この世に現存する八人の魔王の内、七番目の王である魔槍の姫王。神を殺し、その聖なる権能を簒奪した、人の埒外にある存在の一角だ。その本質は紛れもない戦士のそれであり、戦士とは強敵との戦いを望む存在だ。普段の彼女は抑えているが、闘争を望む心はその内に確実に存在する。それが伊邪那美との接触で沸き上がったのだ。

 それは追う中で僅かずつではあるが大きくなり、伊邪那美との対峙とヴォバンの従僕を喰らう事でさらに強くなり、そして今の攻防とヴォバンの復活、咆哮を聞き――完全に、理性を歓喜で塗りつぶした。

 

「ふふ、っふ……ははは、はははははっ――――!!」

 

 哄笑しながら、咲月は手に握る槍を振るう。

 最早、咲月は戦場の空気に酔い、高揚に身を焦がしている。熱を孕んだ吐息と、赤みが差した頬、熱に浮かされた様な、狂気を孕んだ潤んだ瞳からもそれは明らかだ。そして彼女の高揚に呼応してか、槍が纏う炎と雷もその勢いと規模を増していく。

 槍を振るうたび、咲月の周囲に炎と雷が吹き荒れ、彼女に襲い掛かろうとする黄泉の軍勢が薙ぎ払われる。さらにマーナガルムも猛っているのか、主が討ち漏らした、彼女に襲い掛かろうとする死者達に逆に襲い掛かり一口で喰らい殺す。ヴォバン侯爵の死せる従僕もそうだったが、死者など咲月とマーナガルムにとっては餌も同然なのだ。今のこの状況は、この神獣からしてみれば餌が自分から喰われに来ているだけに過ぎない。

 死者を喰らい、喰らったそれを咲月に送り、彼女が呪力に変換する。失ったそばから呪力を回復し、回復したそれをさらに槍に込めて攻撃の威力を増幅する。

 咲月にとって、この戦いは普段の彼女の全力以上の力を出せる環境だった。何せ呪力を消費したそばから回復し、回復した呪力で攻撃し消費する。それを延々と繰り返すのだ。回復するための餌は、文字通り腐るほど存在しているのだ。呪力の枯渇を心配する必要など、皆無に等しいだろう。

 今この時、この場所だけと言う非常に限定的な物ではあるが、咲月は一切の消費を考慮せず無限に戦えるのだ。

 

「ははっ、あははははっ、ふふっ、あっははっははははは――っ!」

 

 声高らかに笑いながら、咲月は槍を振るい、死者達を穿ち、時にマーナガルムの背を足場にして、ぶつかり合う死者の軍勢と狼の群れに自ら飛び込み、死者の頭を蹴り潰し、狼の胴体を切り裂きながら、縦横無尽に乱舞する。囲まれたところで、魔槍を枝の様に炸裂させて纏めて穿ち、その身を全て塵へと還す。

 

「良いわ! 良い! すっごく楽しい! 楽しすぎてどうにかなってしまいそう! こんなに楽しいなら、それこそ永遠に戦い続けていても良いわ――ッ!」

 

 さらに興奮が極まったか、地面や空間に文字を刻み付けルーン魔術すら披露し始める。それによって炎と雷のみならず、文字が一文字刻まれるたびに風が、氷が、岩が、光が、目に見えぬ刃や茨の蔓、鋭い棘となって戦場に所構わず乱れ咲く。

 無数に発生するそれらからは周辺の事など何一つ考えておらず、ただ己に襲い掛かる敵を倒すと言う考えだけが読み取れる。

 

「楽しませて! もっともっと、もっともっともっともっともっと、私を楽しませて頂戴! この渇きを、飢えを! この戦いで、その血肉で癒させて――ッ!!」

 

 一ヶ月前のアテナとの戦い。その時以上に、咲月は戦場の空気に、舞い散る血に酔っている。権能の影響で翡翠に染まった双眸の瞳孔は肉食獣の様に縦に細く割れ、薄亜麻色の長髪は吹き荒ぶ風に関係なくざわざわと波打っている。

 浮かべる笑顔は可憐であり、薄らと紅潮した肌の色も相まって奇妙な色気すら感じさせる。

 そんな状態で居ながら、今の彼女は牙を剥き出しにした獣の様で、その様は戦闘狂と言う枠組みには最早当て嵌まらないだろう。完全に狂戦士のそれと言って良いかもしれない。

 彼女が着ていた服は伊邪那美の権能と戦闘の影響で下着以外ほぼ完全に崩れており、かろうじてそれが衣服であったと判別できる程度の布しか残っていない。その豊満な胸も、滑らかな曲線を描く肩も、くびれた腰も、ほぼ剥き出しの状態だ。

 しかし、己の身がほぼ全裸の状態であるにも拘わらず、咲月は笑いながら炎や雷、氷を纏って、魔槍をその手に戦場で踊り狂う。戦舞に酔いしれる。

 戦いに喜び、戦いに狂う。恐怖など無いかのように戦場を舞い、敵を滅ぼすその様は、まさしく修羅の具現だ。

 

「ふははっ、良いぞ! 実に良い! それでこそ我ら神の宿敵たる羅刹どもよ! なれば貴様こそ、吾の心を、体を昂らせよ――っ!!」

『小娘が生意気をほざきおるわ! 貴様らこそ私の渇きを潤して見せよ! 数十年にも及ぶ我が無聊を、この一時だけでも慰めて見せるがいい――ッ!!』

 

 そんな咲月を見て、伊邪那美は壮絶な笑みを浮かべ、ヴォバンは巨狼の体で、怒気を孕ませ咲月以上に高らかに咆哮する。そして己の敵を全て滅ぼさんと、その力を――神々の権能を奮う。

 

「来やれ、吾が身に集いし稲妻よ! 黄泉の穢れより生まれし蛇よ! 母たるこの身が我が名を以て汝に命ず!」

 

 呪力を燃え猛らせ、伊邪那美が声高らかに言霊を紡ぐ。その意は己に関係する神格を、一時の間従属神として現世に招来するものだ。

 空間が鳴動し、空を覆う黒雲の中で稲光が奔り始める。同時にゴロゴロと言う不吉な音が響きはじめ、落雷の危険性を仄めかし、そして――。

 

「降り下り来やれ八雷神! 黄泉より来やりて吾が力となり、神殺しどもを滅ぼせ!!」

 

 轟音を轟かせ、女神の周囲に八つの巨大な稲妻が降り注いだ。それらは全て地面に当たった瞬間、轟音を響かせその姿を変えた。

 丸太を三本も連ねた様な太さの黒い蛇体は艶やかな鱗で覆われ、雷光を反射し不気味な美しさを夜の闇に浮かび上がらせる。その巨体は、どこか神話に語られる八岐大蛇を彷彿とさせる。

 煌々と輝く目は伊邪那美と同じく黄金で、生物の体でありながら、どこか鏡のような無機質さも併せ持ち、言いようのない不気味さを見る者に与える。

 女神が従属神として呼び寄せたのは、黄泉の国で彼女の体に集まっていた八柱の雷神――火雷大神、或いは八雷神と称される、八柱の蛇神だった。それぞれ大雷神、火雷神、黒雷神、咲雷神、若雷神、土雷神、鳴雷神、伏雷神の名を持ち、その全てが雷によって引き起こされる現象を司っている。

 従属神として顕現した八雷神を周囲に侍らせ、それぞれの蛇身から発せられる稲妻をその身に纏い、伊邪那美が動いた。

 

「黒雷よ、雷雲を呼べ! その力でもって全てを闇に包め!」

 

 伊邪那美が言った瞬間、女神を囲む蛇の一体――黒雷神が動き、咆哮し、その巨大な蛇体から禍々しい呪力を吹き上げる。するとヴォバンの嵐による暗闇が、さらに濃く深い闇に沈む。

 

「これは……!?」

 

 深みを増した暗闇に、エリカが狼狽の声を上げる。おそらく今の彼女には、周辺の地形や景色すら見えていないだろう。

 黒雷神が司るのは雷雲による暗闇だ。その力で、戦場となっているこの空間全体を包み込んだのだ。

 

「伏雷よ、闇の中を奔れ! その雷で神殺しどもを穿て!」

 

 さらに続く言葉に、蛇の一体が動く。

 伏雷神。その司るものは稲光、雷雲の中を荒れ狂う大規模の電撃だ。極大の雷撃を発生させる大雷と似通っているが、この神の雷は大雷の雷と違い――暗闇の中限定ではあるが、縦横無尽に奔る。

 

「っ、づ、ぁっ……!?」

『ぬ、っぐ……!』

 

 上に、下に、右に、左に。正しく縦横無尽に、幾条もの青白い稲妻が暗闇の中を駆け巡り、乱れ舞う。それは正しく雷撃乱舞。一つとして同じ軌道で奔る稲妻はなく、それを回避する事は非常に困難だ。

 闇の中を駆け巡る雷撃を回避しきれず、咲月もヴォバンも呻き声を上げる。威力こそ大雷のそれよりも下がるだろうが、それでも雷だ。並の人間より遥かに強靭な神殺しの肉体でも、まともに喰らえばただでは済まないだろう。

 特に咲月は、狼の毛皮を纏うヴォバンと違ってその素肌を晒しているのだ。替えの服を取り寄せる余裕など戦闘中には当然なく、この場に居るカンピオーネの中で、その防御力は実質最低と言って過言ではないだろう。下手をすれば、エリカやリリアナと言った大騎士にすら劣るかもしれない。

 

「ぐっ、つぁ……はは……ふふふふふ……っ!」

 

しかし、咲月は笑う。まるでその事実すらも楽しいと言うかのように、その口から呻き声と共に笑いを漏らす。

 確かに、咲月の防御力はこの場でおそらく最弱だ。一撃でも当たれば落ちる、紙防御のようなものだろう。肉体強度は人間を超越しているが、現存する八人の魔王の中では事実上最低と言って良い。それは彼女の肌に残る、電撃による火傷の痕でも明らかだ。

 身を覆っている物は既にブラやショーツと言った下着と、辛うじてスカートの形を保っているぼろぼろの布きれだけ。それらにルーンは刻まれておらず、そう遠くないうちに崩れるだろう。防御と耐久力は、神殺しとしての肉体頼りだ。

 しかも彼女は、護堂の様な蘇生系の権能を持っていない。雷撃が心臓を穿てば、或いは頭を撃ち抜けば、その瞬間に絶命が確定するだろう。

 だがこの場においてのみ、その絶命の可能性は著しく低くなる。何故ならば――。

 

「喰い尽くしなさいマーナガルム! そしてその力を、全て私に回しなさい!!」

 

 咲月の咆哮に応じ、神獣たる巨狼がさらに猛り、伊邪那美の死者の軍勢を襲い、喰らう。他を蹂躙し暴れるその様は、正しく北欧神話に語られる神喰らいの魔狼――フェンリルの子に相応しい。そして喰らったそれらを咲月に流し、彼女の体と呪力を回復させる。

 死者が居る限り、魂が現世に残る限り、咲月はマーナガルムにそれらを喰わせ、自分を回復できるのだ。その回復力によって、受けたダメージが即座に癒える。

 

「っちぃ! 厄介よな、その狼は! 吾が軍勢を餌とするか!」

 

 死者を喰らい、咲月を回復させるマーナガルムを見て伊邪那美が忌々しげに舌打ちする。

 咲月を回復させないなら、伊邪那美は黄泉の軍勢を還すべきだ。そうすれば咲月は回復手段を失い、一気に不利になるのだから。

 しかし、そうできない理由がある。

 

『我が猟犬どもよ! 疾く蹂躙し喰らい尽くせ! 格の違いと言うものを小娘どもに教授してやるのだ!』

 

 ヴォバンだ。彼が狼の聖獣を大量に召喚し、伊邪那美や咲月、そして死者の軍勢に嗾け続けているのだ。流石に従僕達は先程咲月に喰われ、回復に使われてしまったことで召喚してはいないようだが、狼だけでもかなりの規模だ。さらにヴォバン自身も狼の巨体で伊邪那美や咲月に対して攻撃を行っており、死者の軍勢を黄泉へと戻せば伊邪那美は数的に不利になる。

 勿論、格として劣る聖獣などに後れを取る伊邪那美や八雷神などではないが、相手は神々を殺し、その権能を簒奪せしめた神殺し。油断出来る物では到底なく、特に深手を負ったヴォバンに至っては何をしでかすか分かったものではない。

 

「轟き渡れ鳴雷! 神殺しどもの足を止めよ!」

 

 ならば足を止め、大威力の攻撃で滅するのみ。そう考え、伊邪那美は鳴雷に命令を送る。

 鳴雷神。その身が司るのは名の通り鳴り響く雷鳴であり、それに付随する衝撃波も含まれる。

 

 ――――ッ!!

 

 鳴雷が咆哮する。その咆哮はとても蛇が出すようなものではなく、むしろ落雷のそれと言った方がしっくり来る様な轟音だった。

 轟音が響き、そして強烈な衝撃が鳴雷から発せられる。その衝撃は発せられたその瞬間から、地面や雨すらも吹き飛ばした。吹き飛ばされた土が、水が、弾丸の如き勢いでもって咲月とヴォバンに襲い掛かる。

 それを認識し、咲月は槍を振るい、瞬時に地面にルーンを刻み込む。刻まれたルーンは凍結を意味するイスと防御を意味するユルの二文字だ。

 二つのルーン文字が作用しあい、厚さ50㎝はあろう分厚い氷の盾が咲月の前に作られる。それは水と土の弾丸から、咲月を完全に守り切ったが――。

 

「足を、止めたな?」

「っ!?」

 

 防御によって、咲月は完全にその足を止めてしまった。その隙を、伊邪那美が逃す筈もない。

 

「咲雷よ、走り切り裂け!」

 

 足を止めてしまった咲月に狙いを定め、咲雷が高速で襲い掛かる。

 咲雷神が司るのは落雷によって引き裂かれた物質であり、この雷神が持ち得る能力は――斬撃だ。

 襲い来る咲雷に、咲月の直感が警鐘をガンガンと鳴らす。

 このまま盾の裏に居てはならない。刹那にそう判断した咲月は防御を捨てて回避を選んだ。地面に飛び込むように、その場所から離れる。

 果たして、その選択は正しかった。

 咲月が回避したその瞬間、咲雷が彼女の居た場所を猛スピードで通り抜ける。視線を向ければ氷の盾は、その役割をまったく果たせず、上半分が切り飛ばされていた。その切り口は非常に滑らかで、もし回避行動をとっていなければ、咲月の体は上半身と下半身が泣き別れになっていただろう。それほどに鋭い斬撃だ。

 斬撃しか攻撃手段がない咲雷だが、その一つしかない分、物理的な攻撃力と危険性は八雷神の中でも上位に入る。雷速で襲い掛かる蛇体の持つその切れ味は、世界でもトップクラスの刃物と言われる日本刀のそれを軽く凌駕する。

 

「避けたか。じゃが次は……むっ!?」

『私を無視してもらっては困るな、女神よ!』

「ちっ、外国(とつくに)の神殺しか!」

 

 転がり、腕の力で地面から飛び起きた咲月に対し、咲雷の追撃を放とうとした伊邪那美だが、接近していたヴォバンに気付き追撃を諦める。咲月には効果を成した鳴雷の衝撃波による弾丸だが、分厚い毛皮を持つヴォバンには効果を成さなかったらしい。彼の体には小さな傷はあるが、それだけだ。

 伊邪那美に向け、ヴォバンがその剛腕を振るう。狼の体でのその攻撃は洗練されたものではないが、その手にある鋭い爪は触れた物の全てを容易く引き裂くだろう。

 その危険性を伊邪那美も認識したか、八雷神を集わせながらバックステップで後方に下がり、距離を取ろうとする。

 

『甘いわぁ!!』

「ぐうっ!?」

 

 しかし行動に移すのが少々遅かったか、回避しきれずにヴォバンの爪を受けてしまい、後方に吹き飛ばされる。ヴォバンも完全に仕留められなかったと理解しているのか、狼の体で器用に舌打ちをする。

 

『ぐぅ……っ!』

 

 伊邪那美もただで吹き飛ばされてはいない。攻撃が当たる直前に、ヴォバンに向けて咲雷と鳴雷を嗾け、斬撃と衝撃波を見舞っていたのだ。その証拠に、ヴォバンの狼体には一筋の斬痕が刻まれている。深い毛皮に阻まれたためか致命傷とは言い難いが、浅い傷とも言えない傷痕だ。その切り傷から、血が溢れ出る。

 吹き飛ばされながら、伊邪那美は体勢を立て直す。そしてヴォバンと咲月を睨み付けながら、自分の腕をちらりと見る。その腕にはヴォバンの攻撃を受けたと言う証か、引き裂かれたような痛々しい傷痕がある。今にも千切れ落ちそうだ。

 

「若雷よ、吾が身を癒せ」

 

 伊邪那美の言葉を受け、若雷がその蛇体から呪力を吹き上げる。すると伊邪那美の腕の傷が見る見るうちに癒えていき、数秒も経たないうちにその傷は完全に消え失せた。

 若雷神。この雷神が表すのは雷雨の後の潤った大地であり、豊穣をもたらす恵みの大地だ。雷神でありながら雷に関する能力を持ちえないこの神は、攻撃手段を持たない代わりに非常に強力な治癒・蘇生能力を持っており、八雷神の中で最も強く蛇の持つ不死性を表している神だと言えよう。

 完全に治癒したことを確認し、伊邪那美が視線を神殺し達に戻す。咲月も、そしてヴォバンも、非常に好戦的な笑みを浮かべ、呪力を昂らせて互いの敵である存在を睨み付けている。

 数秒、数十秒、或いは数分か。少々の膠着を経て、二人と一柱は自分以外を討滅すべく、滾る呪力を燃え猛らせて相手に攻撃を仕掛けた。

 夜は長く、まだ戦いは始まったばかりである。

 




次回、銀髪騎士さん登場。(予定)

追記

咲月のスリーサイズを望む内容の感想などが少々見受けられますが、皆さん知りたいのでしょうか?
一応、設定してはいますけども。


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