司馬遼太郎風エヴァ「シヴァンゲリオン」 (しゅとるむ)
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第一話 セントラル・ドグマをゆく

 紫色の巨人が巨大な顔を目の前に晒して、眼下の地下深くまで屹立している。

「エヴァに乗れ、乗らないなら帰れ」

上方の司令所に陣取り、父はそう言うが、

(いずれを選ぶとしても、なかなか難しかろうな)

とシンジは密かに思っている。シンジの見立てる所、既に彼を呼んだ時点で父の腹積もりは決まっているらしい。

(あほうな、話じゃ)

 だが、言葉に出しては全く別のことを言った。

 

 父、碇ゲンドウは東北の産である。この地の人間はすすどく、過剰に寡黙で容易に心の内を見せようとしない。日本人の奇観であり、ある意味では典型であった。自然、シンジにもその血が流れている。

 

 以下余談ではあるが、筆者が東北に旅行した折り、当地で知り合った地元の顔役のような老人が言った。

「ゲンドウさんは、あれは牛ですな」

 なるほど今でも東北地方では、碇ゲンドウはゲンドウ"さん"なのである。

「牛というと、あの牛ですか」

「左様。牛頭天王(ごずてんのう)

 

 牛頭天王といえば、蘇民将来伝説や素戔嗚尊と習合した牛頭の疫病の神である。その容貌が余りにも魁夷故、女性(にょしょう)は恐れて誰も近寄らなかったが、やがて端無くも、龍王の(むすめ)を娶り、七男一女をもうけたという。八王子の由来である。と、何やらこの牛頭の怪神の逸話は、今日広く知られている碇ゲンドウの前半生にも似ている。牛のように見かけは鈍重だが、疫病の神ゆえ、祟られれば相応に恐ろしい。邪魔立てする相手を容赦なく皆殺しにして憚らないという。

 

 老人の言うには、ゲンドウの天下一統、補完計画の綿密さや執念深さにもその牛頭天王らしさが見られるという。

 それはともかく。今は、シンジである。

「そんなの出来る訳ないよ」

と言った時点で、シンジの思案としては、

(これは乗らずばなるまいな)

とまでは察している。これも"すすどい"東北の血であろう。察しは良い。

 既に、予備パイロットとして包帯に痛々しくくるまれた少女が移動式寝台に乗せられて控えている。

(なるほど、情に訴えるか)

 それはそれでよい、と思っている。

 

 遥かに後年の事になるが、朋輩のアスカという少女がこの時の話を聞いて、

「あんたバカァ?」

 つまりは見え見えではないかというのである。といって、アスカもシンジがその程度の計算も出来ない男だと思っているわけではない。アスカと同国のメッケルという少佐が日本陸軍に招かれ、関ヶ原合戦図を見、「西軍の勝ち」と厳かに判定したが、恐らくはアスカの心情もそれに似たものがあっただろう。

 アスカの見るところ、これは雪隠詰めである。

 形勢から、シンジに勝ち目は無いことは明らかだったからだ。アスカはそれをいくらか気の毒に思い、また一方では、シンジの牛のような勘ばたらきの鈍さをばかばかしく思っている。口に出しては「ばか」とだけ言った。

 

 このアスカという少女は、なかなか面倒見のいい性格で、影につけ(ひなた)につけ、なにかれとシンジの面倒を見てやったり、助言をしてやったりしていたが、あまりシンジには響かず、やがて止めてしまった。

 シンジにはシンジの考えがある。

(時勢というものがある。時勢に逆らうのはそれこそあほうらしい)

 

 シンジの考えによれば、父にもそれなりに綿密な目算があるようだが、といって、それはあくまで目算であって、やがては綻びもあろう。

(そこが、付け目よ)

 由来、計算高い人間は、足を掬われれば脆いものだ。それに父の弱点は見えている。

 あのレイという母によく似た少女だ。

(入れ込んでいるらしい)

 

 ゲンドウもすでに四十も半ばを過ぎている。妻に身罷られて以降、浮いた話の一つや二つほどは人並みに有ったようだが、それでも、親子ほどにも離れた相手に懸想するというのは尋常ではない。

(そこをつつくか)

 シンジの見るところ、熟柿のように、居ながらにして、たなごころに果実を得る機会が必ず来よう。

 

 

 朋輩のアスカは、シンジに何かれとちょっかいを掛けているうちに、苛々とは別の感情が芽生えたようだ。シンジはそれを知らないでもなかったが別に何ほどの感情もなく、考えを纏めるために時々、話し相手になっていた。

 直情的だが、頭がいいのは確かな様だ。

(他人が阿呆に見えて仕方ないのであろう)

 

 その証拠に「バカシンジ」としょっちゅう呼び慣わしてくるようになった。といって、阿呆と馬鹿とは違う、というのが昔日シンジに熱っぽく語って見せたアスカの持論だ。

「阿呆は自分が阿呆と分かっていないが、馬鹿は自分が馬鹿と分かっている」

ということらしい。

(なかなか面白いことをいう(むすめ)だ)

 

 シンジの周りにも密やかに春の薫風が漂い始めている。

 

 

 期せずして同居する事になったアスカに暮夜、「バカシンジ、頼まれた物よ」とノートを差し出された。

 シンジはこの所、この少女を前より好ましく感じている。会話のセンスがよく、打てば響くようにたちどころに気の利いた返事が返ってくる。さらには、昼間、背筋をピンと張って背伸びをする風情が、夜になり二人きり保護者を待つ部屋の中、緊張がやや解けるさまに年相応の少女らしさを感じる。

 

 アスカのしたためたノートにはエヴァ各号機の基本的諸元データがアスカの拙い日本語で書かれている。漢字は殆ど交じらず、創製した女性たちにちなんで平仮名が女手と呼ばれていた頃の文章を彷彿とさせる。ときたま、日本の書記言語に不慣れなあまり、鏡文字が混じるのもかえって愛らしい。

 中身はといえば、最高機密というわけではなく、パイロットなら知っていてもおかしくないレベルだが一応は機密だ。アスカはそれを欲しがるシンジに理由を聞くこともなく収集に協力してくれた。知っている事でも他人に伝えるならば、改めての確認、裏付けが必要となる。その点を手抜きする少女とは思えず、目に見えぬ苦労が偲ばれた。礼を言おうとして、シンジはふと考え込む。

 

「アスカはよく頑張っているよ」

 

 何とは無しにそう答えたら、アスカがバンと大きな音をたて立ち上がった。目の下の縁に一杯に涙を浮かべ、その涙滴が零れ落ちるのを堪えているかのようだ。

 

 遂には一言もなく、自分の部屋に立ち去った。

 

(…女とはむつかしいものだな)

 

 シンジは頭をかくしかない。

 

 

 シンジはこの頃、前後して何人かの知己と友人を得ている。

その一人とは、意外な顛末がある。ジオフロントの外れで天然の西瓜を育てる人物がいるという噂にふと興味を覚えて、シンジ自らが足を運んでみる事にしたのである。

 

(まさか狂人ではあるまい)

 

 果たして、その人物はアスカが来日する際に、途中まで同行した加持リョウジなる人物だった。

 

 この世界で西瓜など育てても益もあるまいという趣旨をやんわり言うと、

 

「さすが、碇シンジ君。手厳しいな」

 

と油断のない笑いを見せた。

 やはりこの人物の狙いは別にあるようで、恐らくはシンジの耳に入るようにあえて西瓜の噂をまいていたものと思われる。

とすれば、加持の方が一枚上手であろう。

 

 盛唐の詩聖、杜甫の詩に「一たび故国を辞して十たび秋を経たり 秋瓜を見る毎に故丘を憶う」とあるのを加持は引き、「もう俺の故郷はないんだ、セカンドインパクトでな。だがこの西瓜を育てていれば、故郷の丘をもう一度思い出せるような気がする」

 静かに呟いた。

「俺くらいの世代の人間は皆そうさ」

 

 だが、シンジの人間観察は甘さを出し渋るという点で、驚くほどにしわい。

「この西瓜は蹴鞠の鞠じゃないんですか?」

 

 シンジの冷静な問い掛けに、加持は一瞬だけ考え込み、

 

「俺は中臣鎌足という訳か」

 

 蘇我氏打倒を目指す鎌足は、中大兄皇子に蹴鞠の趣味で近付いたという。

 

「確かに君は我々の王子様だな、碇シンジ君」

 

 そして芝居がかった調子で、胸に手を当て一礼する。

 碇ゲンドウというネルフの「王」の存在を後景に置けば、確かに碇シンジという少年は王子となるのだろう。

 

「拝顔の栄に浴しまして、メイン州の王子」

 

 怪訝な顔のシンジに加持は苦笑し解説する。

 

「セカンドの後、親兄弟を失った俺は施設に入ってね。元々は映画の台詞らしいが、そこでの就寝の挨拶が『メイン州の王子、ニューイングランドの王たち、おやすみ』だったんだ」

 

大人になったもう一人の王子は静かに言った。

 



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第二話 悪妻アスカ

近頃のシンジの日々は駆け抜けるように過ぎていく。ほぼ自宅と学校とネルフを往復するだけだが、帰りは大抵九時か十時を回る。

(保安部は、よくやる)

黒服の尾行が途切れる時間帯がないかと探ってみるが、今の所その気配はない。といって、無理に尾行をまいたりは下策だ。それに日々やってる事は人脈作り、後ろ暗さはない。

 

(カルペ・ディエムだな)

日々を摘み取れ、というラテン語の警句だが、その言葉通り、シンジには確かな日々の手応えがある。

とはいえ、気掛かりもないではない。

帰宅し、玄関をくぐる瞬間の緊張感を孕んだ空気だ。

「今日も遅かったわね」

(やはりか…)

部屋着姿のアスカが腕を組んでシンジを睥睨している。

(俺はお前の良人(おっと)ではないぞ)

 

そう叫びたくなる気持ちを抑えてシンジは無理やりに微笑む。

「ごめん。ちょっと友達とコンビニで話し込んじゃって」

話し込んではいないが、必要な資料の受渡しをネットを介さずに行う必要はあった。コンビニ内での万引き騒ぎを事前に準備してもらい、その騒ぎに乗じて受け渡したので支障はない筈だ。

 

「遅くなるなら連絡はしてって言ってるでしょ。夕食を自分で作らなくてはいけないじゃないの」

(当たり前ではないか。俺はお前の良人ではない)

再びその言葉をシンジは飲み込む。

「その積もりだったけど、つい…」

「最近、鈴原や相田と仲いいみたいね」

その言葉にシンジの目が僅かに細められる。

 

アスカの無言の視線は

(アンタが何かをしてる事は分かってる。何かまでは分からないけど…)

と物語る。

少女はあの「アスカは、頑張ってるよ」の夜からどうも様子がおかしい。

シンジとしては自然、この娘を遠ざける他はない。

「忙しくても電話ぐらい出来るわよね」

(女房みたいな事を言いやがる)

やはり、女はむつかしい。

 

 

早々に部屋に引き上げ、室内灯を消したまま受取った相田謹製資料をスマホの光源だけで読み取る。

(やはりそうだ…)

シンジは己の推測が正しかった事を確認する。疑念の発端はアスカ、シンジ、レイの3人が同じ中学の同じクラスに編入された事だ。始めは警備の問題と思ったがどうもそれだけではない。

(おかしいではないか)

 

警備の問題だけなら、邪魔な他の生徒など居ない特別クラスを設ければいい。第一アスカは既に飛び級で大卒だ。わざわざ日本の中学の一般学級に編入する必要などない。漢字が覚束ずテストでも四苦八苦してるぐらいだ。首を捻っていると、男子同士の世間話が解決の糸口を開いた。

 

つまりはお互いの家族構成の話だ。たわいもない話だったが、シンジ、鈴原、相田、いずれも母親が居ない事がすぐに分かった。無論アスカやレイにも母親は居ない。それを偶然と思える程、シンジは太平楽ではなかった。

「相田、クラス全員の家族構成を調べる事は出来ないか。それも誰にも気付かれずに」

 

シンジの推測するところ、この情報は極めて機微な情報だ。取り扱いには慎重の上にも慎重を要する。こうして迂遠な手順を踏んで、受け渡された資料だったが、果たして、想像の通り、……クラス全員の母親が死別していた。

(親父殿。これは一体どういう事ですかな)

恐らくは、ここからシンジの反撃が始まるであろう。

 

  

シンジにはどうやら、周旋の才能があるらしい。といって、誰にそう言われたわけでもない。伊藤博文は師吉田松陰に「俊輔、周旋の才あり」と誉められ、その楽天的で素直な性質から言われるままに自分をその様に染め上げていったものだろう。

シンジには人に教えることに異常に親切であった松陰吉田寅次郎は居ない。

(ならば、俺は自分の才を自分で誉めてやらねばなるまいな)

 

そう、シンジは考えを巡らせるが、これは、どのような心境であろう。自分で自分を誉めて育て上げる、という自己催眠法にも似た成長術を独創した英雄が、かつてあっただろうか。この碇シンジは筆者の思案にも余る、些かふしぎな、しぶとい生き物に変わろうとしていた。

無論、その実績は上げつつある。

 

すでに第三新東京市立第壱中学校の学内において、隠然たる抵抗組織の構築に成功しつつあるが、当初、その組織論については破棄した一つの案があった。

それはセルビアの黒手組という民族主義組織をモデルに、如何なる構成員であろうと上司一名、部下二名以外との意志の疎通を不可能とするものだった。

 

この黒手組式組織ならば、全体が壊滅する事はない。三名以外の仲間をそもそも知らないので、構成員が捕まっても首領の正体を暴露される心配もない。だが、シンジはこれを早々に放棄した。

(これは、ダメだな)

その様に蛸壺型に分離されては、テロの連鎖は出来ても「細胞」の暴走を防ぐ事が出来ない。

 

シンジは暗殺者集団を作り上げたいわけではないのだ。だが、それよりもっとこの組織形態を認めたくない理由があった。

(このオレが組織を作り上げるならば、オレはその「作り出し」、「他者を巻き込んだ事」への責任からおめおめと逃げ出したくはない)

ーそれならオレ諸共に組織ごと壊滅した方がマシだろう。

と思うのは、シンジの中でも、冷静な計算というよりは美学に属する問題であろう。

 

シンジがやや旧態然とした保守的な組織作りに甘んじたのは前記のような事情に拠った。

それでも、構成員にコードネームのようなものを導入し、秘密組織めいた体裁を殊更に整えてみたのは、実をいえば中学生という十四の若者らしい稚気によるもので、これはすこぶる児戯に属するものであった。

 

例えば、鈴原トウジのコードネームが、「ロビン・ロクスリー」ならば、洞木ヒカリは「マリアン」といった具合で、若者らしく真っ直ぐで向こう見ずな、正義の叛乱軍気分のものも多い。相田ケンスケの「アフリカヌス」などは、素直に「ハンニバル」とせずにその上を行こうとする所に気負いも感じられる。

(だが、相田には実際、ジャイアントキリングとでもいうか、ゴリアテを打ちのめすダビデのような、大物殺しの潜在能力を感じる時があるからな…)

実はシンジが、心中密かに警戒するのはケンスケの底知れなさでもあった。

 

また、この遊び半分のコードネームが後に意外な波乱を生んだこともあった。

つまり、アスカが自分のコードネームを引っ提げて、シンジの自室に乗り込んで来たのだ。どういう手段を用いたかは知らないが、片手には、シンジに協力する組織構成員の過半のリストを持って。

「入れてくれるわよね」

さっとリストに目を通してからその正確性に舌を巻き、アスカの能力を改めて見直す。

(やれやれ)

肩をすくめるとシンジは椅子を回転させてアスカに向き直る。

「で、どんなコードネームにするの?」

「クサンティッペよ」

(はあああ?)

シンジが混乱する中、アスカは畳み掛ける。

「アタシは、阿呆と馬鹿の違いは、馬鹿は自分が馬鹿だと知ってる事だと言ったわよね」

「ああっ!!」

(そ、そう繋がるのかよ!!)

つまり、アスカの言っている、「馬鹿」とは、「無知の知」を体現している者の事である。そしてその話をした前後からアスカは、なぜかバカシンジという呼び掛けを始めた。そして、無知の知といえば、ソクラテスであり、クサンティッペはそのソクラテスの悪妻である。

 

頭を抱え込んで机にうずくまるシンジの背中を軽くポンポンと叩いて、アスカは、耳元で囁く。

「ま、たっぷりイジメてあげるから、せいぜい哲学者になれるように頑張んなさいよ、バカシンジ」

少しだけ、顔を上気させ、声を上擦らせながら、部屋を出て行くアスカの心中を、しかしシンジは推し量れるまでの余裕も経験もなかった。

 

 

「で、今後の方針はどうするわけ?ソクラテス」

「それココではやめない、アス…」

(ここは自宅ぞ…)

保安部の盗聴がないことは相田の協力宜しきを得て、確認済みだ。

「クサンティッペよ」

への字に口を引き結び、アスカはなぜか得意げだ。

(気に入ってるなあ)

歴史に名高いソクラテスの悪妻の名だ。

 

ソクラテスをして「結婚は良い、たとい相手が悪妻でも儂のような哲学者にはなれる」と言わしめた「史上最強の悪妻」がクサンティッペで、曰わく「我が妻とうまく付き合えるなら、他の人間の誰とでもうまく付き合える」ということなのだそうだ。

(最も深く触れ合う他人であり、最初に自分で選ぶ家族か)

シンジはアスカの瞳を見つめる。

 

だが、シンジはアスカの思い違いを糺さねばならない。

「そもそも僕のコードネームはソクラテスじゃない」

「え、どうしてなのよ」

何故かアスカは、不機嫌そうだ。せっかくクサンティッペにしてやってるのにと言わんばかりだ。

「別に君に合わせて付けてるわけじゃないからね…」

「じゃ、何なのよ」

「それは……」

少しだけ言い淀んで

「オイディプス」

 

アスカは暫し沈黙する。

我が父を殺し、我が母と交わると神託で予言され、そして実際にそうなった古代の英雄である。

深く息を吸って、アスカは次の言葉に決意を込める。

「……父を云々はアンタが必要なら好きにやんなさい。なんならアタシが手伝ってやってもいい」

アスカの顔が少し赤らむ。

「だからその……母と云々は止めておきなさいよ。気持ち悪いし、相手は他にいるでしょ」

他にと言いながら、我の胸にそっと手を当て、アスカは、この心配の根源がどこにあるのかを探り当てようとして、遂に果たせない。

「僕の母さんはもう亡くなってるよ」

実母が亡くなっている。アスカとても承知している事実だ。それがシンジが調べ、これまでに把握しているエヴァパイロットの条件でもある。

シンジは雰囲気を変える様に声を上げて笑う。

「前にテレビでやっていた『アポロンの地獄』を観て、気に入ってたんだ。それだけの話だよ」

それもまた別に嘘ではない。

 

青々としたみどりの世界。こんなにも広々と明るい世界に産み落とされた我々が、こんなにも苦しむのはこのよるべなき広さと明るさ故なのか。苦しみが前提なのはむべなるかな。我々は母から産み落とされ、母から切り離され、もはや母と再び繋がることを禁じられているからだ。

映画を見終わった後、幼少時に死別し、母の記憶に乏しいシンジでさえ、そんな風に感じたのを覚えている。

 

「クサンティッペでなく、アンティゴネーにするべきだったのかしらね」

アスカは腰に手を当てて嘆息し、シンジはふと荒野にてよろめく自分が、アスカに手を引かれながら、歩いていく姿を幻視する。

アンティゴネーとは、オイディプスが全てを知って盲目となった後、父の手を引き諸国を放浪した、オイディプスの娘だ。

「アスカは、やっぱりクサンティッペが似合っていると思うよ」

思い付くままにシンジが言うと、

アスカは、横目で冷たくシンジを見て、

他人事(ひとごと)みたいに言っているけど、その悪妻の被害を受けるのはアンタなのよ、バカシンジ」

ソクラテスがクサンティッペに水を掛けられたという逸話を思い出して、シンジはぶるっと身体を震わせた。

 



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第三話 逢い引きのかたち

アスカの組織への加入は、今一つの擾乱を生んだ。いわゆるナンバー2不要論との関係である。クサンティッペことアスカは加盟後、あれよ、という間に組織内での己の地歩を固めた。とりわけ、女性の構成員への影響力は既にシンジを凌ぐものがある。漢の高祖の妻呂后、北条政子、日野富子、そういった歴史上の女傑の名がシンジの頭に浮かんだ。

 

(さて、どうしたものか)

事は組織の消長に関わる。シンジは暫しの黙考の後、

(ええい、ままよ)

アスカにそのまま懸念、存念を伝えてみる事にした。この率直な直截さは、恐らくは、シンジの美点であろう。

「ナンバー2問題?ああ、それは私も考えないではなかったわ」

シンジの部屋の寝台に腰掛けながら、アスカは、素早い理解を示して、答える。

「ナンバー1とナンバー2の意見が対立する場合、有害無益。そして、両者が一致する場合も、そもそもナンバー2は不要よね」

どうせイエスマンなら居なくても同じだわ、とアスカは続ける。自分をナンバー2に擬しての相談を受けながら、その態度は平静だ。

「そうなんだ」

シンジも我が意を得たりと頷く。

「初歩的な二頭体制否定論よね。だけどそれには例外があるわ」

「例外?」

「ナンバー2がナンバー1の家族である場合」

「かぞく…」

「そ。その場合、意見の対立は心配しなくていい。特に両者が異性である場合はね」

むろん、アスカは数多くの例外を意図的に捨象している。実際の歴史上では、夫婦肉親が相食む例も多い。

 

「家族のナンバー2は、もしもの時のバックアップになる。それに同じ考えが出来る頭脳を二つに分けられるというのは利点だわ」

「……あの、僕とアスカは家族なの?」

シンジは小首を捻らざるを得ない。まだ、シンジにはその実感は乏しい。

「こうやって一つ屋根の下に暮らしてるじゃない」

何を今更とアスカは肩を竦める。

「アンタはもっとこの惣流・アスカ・ラングレーを信頼しなさい」

 

「それに、アタシはナンバー2の役割をもう一つ考えたわ」

「それは?」

「家庭内野党」

シンジは首を傾げる。

(それはどうであろう)

先ほどのアスカの指摘と矛盾するのではないか。

アスカは、それを見透かしたように、

「さっきナンバー1と2の意見対立は有害と言ったけど、それは何故かしら」

「……両者にそれぞれ与党が付き、組織が分断される」

往々にして、当人同士より周囲が対立を激化させるのだ。

「それよ。つまりは対立を外に出さなければいい。この部屋の中でアタシはアンタの意見にあえて対立する。徹底して議論をして、部屋を出た後は意見対立は引き摺らない。その位は出来るでしょ」

シンジはなおも思案顔である。

 

「アンタならとっくにこの程度の事は理解している筈よ。何を心配してるの」

「そう、心配だよ。アスカの事が心配なんだ。」

その答えには、答えたシンジ自身も、アスカも、虚を突かれたようだった。

そして、アスカは口元を家鴨のように緩めて、眦を下げた。

「ははぁん、アンタあたしに惚れたわね」

「そうなのかな」

シンジは別に照れるでもない。まだ自分の気持ちが綺麗に腑分け出来ていないのであろう。

「普通は一目惚れするものよ」

アスカは自信家である。美醜などの要素を超えて、精神の上に凛乎として確立された、気持ちのいい自信だ。

 

「でも、有象無象の取り巻きに引きずられることだってある」

シンジの反論は対称的に弱々しい。

いくら対立を家庭内に限定するとはいっても、ナンバー2の周囲にナンバー1の反対派が、ナンバー1の周囲にその逆が集まることは避けられない。

「つまりはお互いの反対派が誰かというのを情報共有出来る訳よね」

「……」

「しっかりしなさいよ。アンタがまともな状態なら、その程度の理屈はアタシより一日、早く気付ける筈だわ。アンタの思考は、アタシへの想いで曇っている」

アスカは、シンジの額をピンと軽く指先で弾く。

「そして、アタシの事を心配してくれてるのに、アタシの事を信頼しきれていない。そういうの、何が足りないんだと思う?」

「足りないもの?」

「デートよ!」

アスカは高らかに宣言した。

 

シンジはどうやら惣流・アスカ・ラングレーという少女と、逢い引きを行うことになるらしい。

 

 

由来、この国には西洋人の言うデートなる慣習は存在せず、江戸も後期に至って、ようやく逢い引きなる言葉が出来たが、これも人目を忍ぶことが前提であった。平安の昔から、色好みという伝統的な恋愛文化を持つ国としては、やや意外でもあり、これは男女の関係が、この国においては、あくまで私的領域を出なかった事を示すものであろう。それゆえに、江戸期の心中物のように、私に属する恋愛感情が公の義理と衝突した場合、情死を選ばざるを得なかった。

 

その事はひとまず於く。

 

「あら、シンジ君、アスカ。二人とも揃ってお出かけ?まさか、デートかしらぁ」

興味津々の様を隠そうともせず、二人の保護者である葛城ミサトは玄関先に向かって言った。特務機関ネルフの作戦部長という、武張った職業に就いているが、日常では、気さくな年の離れた姉といった態度で接してくる。

 

「確かにデートだけど、それが何か?」

「あらまあ、いつの間にそんなに仲良しになっちゃって!」

素っ気ないが大胆なアスカの宣言に、ミサトは欣喜雀躍といった顔の綻ばせ方だが、アスカはそれ以上は無視する。今日はそれどころではない。ミサトよりシンジだ。

 

下ろしたての赤い靴を履き終えたアスカは、同じく玄関で用意を調えたシンジに向かって、手を差し出す。

「ん」

「えっと……」

戸惑うシンジに、アスカは囁く。

「手、繋いでいこ」

「うん……」

そっと、触れ合う、手と手。

少女の白い手は、ひんやりと冷たい。

 

マンションのエレベーターを降りても、二人は手を繋いだままだった。

「どうして、手を繋ごうって」

「一緒に住んでると、外で待ち合わせるのって面倒でしょ」

「そりゃまあ……」

シンジにはまだ話の脈絡が見えない。

「だから一緒に家を出る訳だけど、でも、それじゃ気分が盛り上がらないのよ。毎朝学校に行くのと同じじゃ、デートって感じにはならない」

「なるほど。だから手か……」

目を落とす先は、全ての指をしっかり絡ませる恋人繋ぎという手の繋ぎ方だ。

「恥ずかしいでしょ」

「分かるの」

「だってアタシも恥ずかしいから」

気付くと少女は耳の先までが赤くなっている。

「さ。ノープランは許さないわよ」

怒ったような声は照れ隠しだと、シンジにもはっきりと分かった。

 

 



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第四話 わが影、やつれざる友よ

 女が独り、鉄塔の頂上に佇立している。

 天下の峻険と呼ばわる箱根山の山上から麓に向かって吹き下ろす強い風は、時折、高圧電線を僅かに軋ませさえする程だが、女は身じろぎ一つしない、という光景はむろん尋常でははい。

 

 よくよくその足下を見れば、僅かに八角形の光の揺らぎが見え、その輝きが女の足場をしっかりと保持しているようだった。

 

 A.T.フィールドというのは西洋の専門の学者に言わせれば、人の心が誰でも持つ、他者への壁、すなわち自他の境界なのだそうである。拒絶し、排除し、合一を拒む。だが、それは心の壁であって、通常の人間において、A.T.フィールドが物理的な障壁を成すことはない。とすれば、この女もまた、常人とは言えないであろう。

 

 憮然とした表情ながら、背格好は中学生のそれである。猫の耳状の飾りの付いた黒いキャスケットに栗色の長い髪を半ば押し込め、赤いパーカーのポケットに両手を突っ込み、左の目には黒い眼帯をしていた。全身を包むのは、鮮血に墨を溶かし込んだような、肌に密着する紅いプラグスーツ。

 年相応に若々しい格好ではあるが、その隻眼のさまは明らかに異相であると言えた。

 

 そもそも独眼竜といえば、唐の武将、李克用がすがめ、すなわち斜視であり、黒ずくめの軍装に供を揃え威圧する様が独眼の竜に映じたものという。遥かに後代、この国の奥州地方に覇を唱えた風雲児、伊達左京大夫政宗(のち権中納言)の異名となったが、こちらは正真正銘の隻眼であった。差し詰め、この少女は紅の独眼竜といったところであろうか。

 

 しかし、それはひとまず、よい。

 

「♪箱根の山はぁ、天下の険~ 函谷関もものならず~」

 

 下から徐々に上ってくる歌声を、眼帯の少女はしかし完全に無視して、じっと遠方に米粒のように小さく見えるロープウェーのゴンドラを睨めつけている。早雲山に向かうロープウェーだろう。

 

「相変わらず、高いところが好きだなぁ、姫は」

 

 長い梯子を登って、ようやく上に立つ少女の足下にまで上ってきた眼鏡の少女は、息を切らした様子もなく、すぐにうんしょと鉄塔の最上部に上がってきて、何もない空間に胡座を組んで座り込む。いや、その下には眼帯の少女と同じように八角形の光がちらちらしている。と、すれば、この少女もまた眼帯の少女の眷属に属するのであろうか。

 

「で、こっちの王子様は見つかった?」

「あそこよ」

「ほほぅ。やっぱりこっちの姫と一緒なんだね。どこ行っても、仲好いなぁ」

 

 二人とも、双眼鏡も使わずにまるで近くに物が見えているが如き口振りだ。

 

「でも、どうしてわざわざこんな次数の低い世界で?たぶん、ここは1.0にも満たない世界よ?」

「分からないならいい」

「ふぅん。でも、そういえば、あの王子、ちょっと雰囲気が違うね。なんだかかっこいい。……それに王子を見つめる向こうの姫の目の輝きも違う。妬けるにゃあ」

「それはどうでもいい」

「恥ずかしいんだにゃ?」

「違う……合一すれば、関係なくなるからよ。あの娘の気持ちも、想いも、全ては消えて無くなる」

「そりゃそうだけどさ。でも、そう簡単に合一できるかにゃ?」

「相手は只のガキたちよ。すぐに終わる」

 

 ゴンドラの中の少年と少女は何やら愉しげに会話を交わしていた。さすがに声までは聞こえないが、そこに気まずい間がなく、途切れる気配がないことは、二人の表情を見れば瞭然だった。驚くべきことに、我知らず見つめられている少女と、それを見つめる眼帯の少女は、眼帯を除けば鏡のように瓜二つであった。

 

 寂寥たる想いに襲われたのか、

Still ist die Nacht,

で始まる、ドイツ語の(うた)を隻眼の少女は、知らず口ずさんでいる。

 

 夜は静かに、街は眠る

 この家に最愛の人が住んでいた

 彼女はずっと前に街を出た

 しかし元の辻に家はそのまま立っている

 

 19世紀ドイツ、ヘーゲルの薫陶を受けたロマン派の詩人ハインリヒ・ハイネの詩であった。

 

Du Doppelgaenger! du bleicher Gezelle!

 

「やよ、わが影、やつれし友よ…」

 

 わが影はしかし、やつれてもいない。幸せのただ中にあって、かつての恋人とそっくりの顔をした少年を安心しきって見つめている。

 それが何故か許せず、少女はギリリと歯を噛み締めた。破鏡の痛みがどうしようもなく、ぶり返す。

 

「こんな世界、ほっといてあげたら?偶には姫にだって安らげる世界が必要だよ?」

「あれはアタシじゃない。ただの(こだま)よ」

「でも原理的に、どっちが谺かは分からないんじゃないの?」

「……最後に残ったのが(ひびき)よ」

「まあそれは分かりやすい考え方だけどさ」

 

 桃色のプラグスーツだけを身に纏った眼鏡の少女は、立ち上がると、肩をすくめる。

 

「ま、姫のやりたいように。あたしは何でも助けるわよん」

「函谷関もものならずと言ったわね」

「うん、それがどした、姫?」

「……函谷関なら鶏鳴狗盗の輩でも陥とせる。でもジオフロントを侵すのは、本物の漢でなければ無理よ」

 

 最後はひとりごちるように呟いた少女の一つしかない視線は、真っ直ぐに少年だけを見つめている。

 

 

 麓の街の映画館を出てアスカとシンジの二人は公園に向かった。

 幼き日のダイアン・レインをヒロインにした恋愛ストーリーのリバイバル上映であり、初めてこの映画を知ったアスカは、青空の下で大きく伸びをした後も、興奮醒めやらぬ様子だった。シンジも映画館の大きなスクリーンで見るのはこれが初めてだった。

 

「あのお爺さん、素敵だったわね!」

「うん。ローレンス・オリヴィエ」

 

 その英国の名優はこの映画の時点で、すでにエリザベス二世女王より、一代貴族の叙爵を受けているから、正式にはもはやオリヴィエ男爵というべきであろう。一代限りの勲爵で文化人への栄誉を賜る、最も古くに近代を切り開いた英国という国の風通しの良さに基づく文化施策と言えるだろう。このオリヴィエ男爵、国を代表する名士が現実をひっくり返したようにいかがわしい老紳士を演じている。要するに詐欺師役なのだが、成り行きから、駆け落ちを企む利発な少年少女の庇護者として活躍する。

 

「名台詞ね。『伝説とは何でもない者がとてつもないことをした話だ』」

 

 それは勿論、作中の少年少女に発奮を促しているのであり、自ら演じる、つまらない詐欺師の成し遂げる偉業の事を指しているようでもある。人間の卑小さや凡庸さを一旦認めた上で、その成し遂げた功績が大なればこそ、その落差が胸を打つ、という、これは何も作劇上の小手先の技術ではなく、自然な人間心理であろう。

 

「この映画、アスカと観たかったんだ」

 

 早熟な天才少年と天才少女の恋愛と冒険の物語である。策謀と無謀の話でもある。知らずシンジは自分とアスカをこの映画の主人公とヒロインに重ねていた。そして何より、そのローレンス・オリヴィエの台詞を聞かせたかった。「それを真実にするのは君らだ。必要なのは勇気と想像力だ」ともオリヴィエは作中で言う。

 

「父さんが企んでいる事が何なのかはまだ分からない。でも、誰にだって、伝説は作れる」

 

 アスカも静かに頷く。

 

「そういえば、主人公のあの男の子も可愛かったわね」

「生意気だよ」

「それがいいんじゃない。アンタみたいで」

 

 アスカは挑むようにシンジに顔を寄せて、にやりと笑う。

 

「……」

「といったら、アンタは喜ぶ?嫉妬する?」

 

 アスカは、ニヤニヤと笑ったまま、少年に近すぎるほど近付けていた体を起こす。

シンジはどうやらこのアスカに試されているようである。

大急ぎで話を変えねばならない。

 

「彼はあの一作で、俳優をやめたそうだよ。歯医者になった」

「へえ」

「彼はフィクションの世界ではなく、自分の人生を生きたんだ」

 

 シンジは何故か、そう説明してふと胸が苦しくなった。

 

「そうなんだ」

 

 アスカは頷き、シンジはいつの間にか俯いている。

 

「でも、彼はこの映画の中に生きたことを忘れないと思うな」

 

 アスカはシンジにそっと背を向け、遠くを見るような視線で言った。

 

「自分ではない自分に、何かを重ねて、時間を過ごす。それって別に無駄な事、じゃないわ。大切な事だもの」

 

 優しい声だった。

 何故か、シンジの胸はもう苦しくはなかった。

 そして、シンジとアスカの二つの手が再びそっと繋がった。



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第五話 僕らは親なし海賊だ

「じゃ、次は使徒が芦ノ湖東岸沿いを北上した場合ね」

アスカは、トングで金網の上、まだ焼けていない肉を動かす。

「その場合は、やっぱり駒ヶ岳か神山の頂上付近に陣取るんだろうね」

シンジも、別の肉をその近辺に配置する。

昼飯時であった。周囲の家族連れやカップルたちがにこやかに笑い合い、姦しい。

この午餐という慣習は、わが国では、鎌倉末期から室町初期にかけて始まったという。戦乱の時代が、躍動する時代の精神が、人々に滋養とエネルギーを欲せしめたのだと言える。午餐の時代に入って、この国は賑やかに動き始めたとも言える。

そして、今もまた戦乱の時代であった。但し、こたびの戦いは、エヴァが使徒に敗北すれば人類が亡ぶ。その運命を予感しているからか、人々の笑い声はいっそう明るい。

 

逢い引きを継続する両名は、芦ノ湖を指呼の間に臨むバーベキュー場に来ている。

恐らくは、焼きかけの牛の肉一切れが来寇する使徒や防衛するエヴァンゲリオンに相当する、という趣向なのであろう。

神山も箱根駒ヶ岳も、1400m級、1300m級の高峰で、ここを占めるものは高所という圧倒的な戦術的有利を得ることが出来ることを、アスカもシンジも知悉している。砲撃においても白兵戦においても、位置エネルギーという目に見えぬ味方は、百万の友軍にも等しい力となるであろう。

日本史上で、我が国が獲得した数少ない軍事的天才、と言ってよいであろう─源義経は一ノ谷の戦いの折り、鵯越からの逆落としと後世に呼ばれる直上からの奇襲作戦を敢行し、位置エネルギーを利して、散々に平氏を蹴散らした。シンジやアスカもまたその戦訓に倣おうとしている、と考えてよい。

 

「まあ鉄板ね。問題は初号機と弐号機を分散させて、配置するかどうかなんだけど」

「それは当然、リスクを分散……」

ギロッと、アスカがねめつけて来たので、シンジは素直に前言を撤回した。

「いや、やっぱりなるべく一緒に行動しよう。そうしよう」

大慌てで棒読みするシンジに、

「それで、宜しい」

鹿爪らしく厳かにそう言って、それからアスカは、吹き出すように笑う。シンジも釣られて笑いだし始め、相好を崩した。

「バーベキューで、棋上演習だなんて、あたしたちお行儀が悪いわよね」

二人はそこまで周囲の注目を浴びている訳でも有るまいが、食べ物を道具にして議論をしていた事に、多少の気の咎めはあった。

「母さんに怒られたりしなかったからね」

「お育ちが悪いのよね、あたしたち」 

 

そして、湖に海賊船を模した遊覧船を見て、アスカは即興の海賊の歌を歌い始める。

 

♪僕らは、親無し海賊だ

♪親が無くても子は育つ

♪肉があるから子は育つ

♪肉だ、肉だ、肉を寄越せ~

 

欠食児童のような戯れ歌に、すぐにシンジも唱和する。

 

♪僕らは、親無し海賊だ

♪親があっても親無しだ

♪肉があるなら親要らん

♪肉だ、肉だ、肉を寄越せ~

 

そして二人で顔を見合わせて爆笑する。

 

「もぉ、なんなのよ、このヘンテコな歌は」

「作詞・作曲 惣流・アスカ・ラングレーだよ」

「補作詞 碇シンジね」

 

流石にこの大声の行儀の悪い歌は、子連れの家族の何人かの眉を顰めさせたようだ。そんな周囲の様子を見て、二人は肘でつつきあって、また笑う。

 

「アスカは、お行儀よくしてないと、ばあやに怒られるよ」

「何よ、ばあやって、そんなにお嬢様に見えるの」

「黙ってすましてれば、ね」

「あらまあお気の毒。一生、そんな姿を見ることはないのよ、あんたはね」

アスカが本当に気の毒そうに言うから些かシンジは心配になったようだ。

「どういう意味だよ……」

「尻の下から仰ぎ見る姿だからよ」

アスカは昂然としながら、口許を弛めている。

 

「しかしバーベキューとは少し捻ったわね」

「僕がお弁当を作ってくるというのも何だか違う気がしてさ。別に僕は料理が得意なわけではないし」

「あら、普段は結構上手に作ってるじゃない」

「家庭科で習った範囲だよ」

「アンタ、学校の成績はいいもんね。一位とかを狙えそうなものだけど」

シンジの定期テストにおける学年順位はいつも一桁だったが、一位ではない。八位とか九位とかその辺だったか。

「他にやることもあって忙しいのもあるけど、流石に二桁台だと軽んじられるからね。でも優秀な人材はなるべく味方にしておきたい。自分より成績が上の人間を敵視する人は多いからね」

「うわ、今がベストポジションってわけ?やなやつだわ~」

というアスカも最近はめきめき、日本語の読解や記述能力を増して、今では二十位台の成績であった。 

「アスカの日本語力が追い付いたら、あっという間に抜かれそうだ」

なんといっても、アスカは飛び級で大学を出ている天才少女だ。シンジは勝てないとは思わないが、相当な努力を必要とするだろう。

「その時は手抜きなどせず、一位を目指すのよ。アタシは自分より優秀な男でないと相手をしない事にしたから」

「毎晩、徹夜になりそうだ」

「毎晩、一緒に勉強すればいいわ」

幸福感に満たされて、アスカの瞳は輝いている。

 

ここで、筆者は大急ぎで、綾波レイという、今一人のエヴァンゲリオンパイロットの少女の話をしておかねばならない。

 

綾波レイ、十四歳。朋輩であるシンジやアスカと同年の少女である。

 

シンジが初めてこの色白の少女に会った時、疵痕も痛々しく包帯を巻いた様子から受けた印象は月下に佇むのが似合いそうな、薄幸の少女という印象だった。

自然、シンジはたまたま知っていたこんな詩を連想した。

 

 「月が痛み、光を失うた月の亡骸は赤銅色をして気絶した。

 滅びてしまうやうでもあり、生きかへるやうでもあり、萎えはてた月の面(おもて)は苦痛にあへぎ、絶望にうめく。

 夜の力はゆるんでゆく。

 鳥は塒(ねぐら)から落ち、人は地に躓く、葉は黒い息を吐き大地は静かに沈んでいく。」

 

シンジはこの詩の印象に恐れだけでなく、暖かさを感じてもいた。

河井醉茗の「月の痛み」という詩であり、少女に出会った後、暮夜、シンジは独り、初めに連想したこの詩を口ずさむ事がたびたびあった。アスカを前にして感じる明確な他者としての隔たりや、それでもなお絆として感じる同志的感情とは異なり、このレイという少女に対して、シンジが覚えるのは、痛みを伴った懐かしさや郷愁だった。そして、それはおそらく、同じくらい恐れ、遠ざけたい感情と密接に繋がっている。

それをシンジはなぜか正常な感情だと認識し始めている。

 

さて、その綾波レイである。

 

かぐわしく焼ける牛肉の匂いに誘われるように、鼻をひくつかせながら、

 

「おにく、それはとても美味しいもの」

 

そう言って、フラフラと突然バーベキュー場に現れた少女に、シンジもアスカも目を丸くした。

 

「あ、綾波……」

「ファースト……いや、綾波レイ……さん。なぜここに?」

アスカは当初、ファーストチルドレンと呼び慣わしていた少女への呼び掛けを最近改めようと試み始めているが、まだ呼び慣れてはいない。

 

「まさか、つけてきたの?」

「街で二人を見かけた。声をかけようと思ったけど、楽しそうだったから……」

 

そして、チラチラと金網の上の、焼けつつある肉に視線を投げるのである。綾波レイは、今や食欲を露わにしている。

 

「あの……一緒に食べる?」

シンジが戸惑いながらも水を向けると、

「ああ、そうしなさいよ。でも、お肉は食べられるの?」

とアスカも鷹揚に応じた。

二人は綾波レイを金網の近くに誘った。

二人きりの逢い引きを邪魔されるという感覚は二人のどちらにもなかった。

 

「もりもり、たべる。というか、ふだんはおにくだけ」

「えぇー。印象と違うわ。『肉、嫌いだから…』とか言いそうなのに」

「偏食はよくない、から」

「いやいや、肉だけは立派に偏食だよ、綾波」

「がつがつ」

「もりもりを言い換えても、同じだから…」

「もぐもぐ」

「いや、だから…」

 

アスカはそんな綾波レイを興味深そうに見やった。

 

「何だか面白い子ね。今までパイロット同士でもあんまり話した事はなかったけど」

「えんりょしてた。二人が仲良しだから」

「あらまあ。そう見える?あ、これも焼けてるわ。どんどん食べなさい」

ひょいひょいとトングで肉を掴んで、レイに手渡した紙皿に入れていく。

「いや、それ僕の肉ばかり……」

シンジが流石に抗議の声を上げかけると、レイがシンジの方を振り向いた。

「さっきの歌、楽しそうだった」

「歌?」

すると、綾波レイは、シンジから奪われた肉を山盛りにした紙皿に目を落として、それから、得意そうに大きな声で言った。

「かいぞく!」



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6話

しばし、綾波レイばなしを続ける。

彼女はこんにち一般的には碇シンジの母親、ユイに限りなく近い存在と理解されている。これは、やや通俗的なエヴァンゲリオン理解であって、「絵本太閤記」の記述をもとに蜂須賀子六が夜盗上がりであると見做すのにも似て、じゃっかん無理のある解釈であろう。

明治天皇の侍従であった蜂須賀茂韶侯爵が宮中に召されて天皇を待つ間、応接間の卓上に置かれた舶来の煙草を一本失敬し、これに目ざとく気づかれた天皇は「祖先の血は争えぬのう」とおからかいになられた。茂韶にはこれがよほど堪えたのであろう。わざわざ学者に依頼して、絵本太閤記の記述が事実ではなく、自然、子六も夜盗ではなかったということを実証してもらったという。

綾波レイについても、例えば母の一卵性双生児の妹ごときは、遺伝子的には母親と完全に同一であっても、あくまで叔母に相当するものであって母ではない、という当然の(ことわり)を理解の前提として傍らに置く必要があろう。

また、綾波自身にも異本や史書により、多くの異なる言い伝えや描写があり、例えば、口が悪いロリな一人目、標準の二人目、二人目ではない多分三人目、後年リナレイとも呼ばれることになりアスカに対抗心を燃やす学園レイ、ポカポカしているポカレイ、プラグスーツが黒い黒波、やや異色なものとしては、声が同じで髪が茶色い戦略自衛隊製綾波タイプの霧島マナなどがある。

筆者が記す、肉ばかり食べる海賊レイ(肉食系)も、おそらくはこれら異本での描写の末端に連なるものであろう。

 

「お肉、食う」

 

そのことである。

肉波─と、もはや呼んでよいであろう─は、さきほどから旺盛な食欲を発揮して、焼肉をもきゅもきゅと食べ続けている。金網から、小皿へ。小皿から、口へ。口から、胃袋へ。目標をセンターに入れてスイッチ。目標をセンターに入れてスイッチ。ひょいひょい、パクパク、がつがつ、もぐもぐ、もきゅもきゅ。塩だれ、甘口だれ、辛口だれ。肉、肉、肉。綾波の肉。オール・ザ・アヤナミズミート。

 

「アラキドン酸は植物にはほとんど含まれない。高齢者の認知症予防に最適」

「いや、綾波は別に高齢者じゃないんだから……そんな肉ばかり食べる為の理論武装をしないでよ!」

「碇クン、あなたの肉は私が食べるもの」

「守ってよ!!」

 

二人のやりとりにアスカは冷ややかな視線を注ぐ。

 

「親子漫才か。はぁ……楽しそうでよかったわね!」

 

苛立ちが、栗色の眉の震えに小刻みに表れている。

先刻まで浮かびもしなかった妬心がアスカの身内に現れたことにはたしょうの理由がある。

すなわち、シンジのレイに対する遠慮のない態度であった。

シンジはアスカにはまだしも遠慮がある、その違いがアスカを苛立たせるのである。

 

「夫婦漫才とはあえて言わないんだね……アスカ」

「はぁん?アンタとどこの娘が夫婦ですって? 自分の女を平気で煽ってると、コロすわよ」

「視線で殺人を犯そうとしないで……」

「あんまりラブコメ気分で、周囲に女をはべらせていると、いつか本気で刺されるわよ。アンタにははべらせ体質が見える気がする」

「ひどい、頭からしっぽまで、偏見だ。そもそもはべらせ体質なんて辞書にない……」

 

刺されるといえば、幕末の長州志士、井上聞多(のち馨)が、対立する俗論党にめった刺しにされるも、50針を縫われて、命を取り留めたという逸話が想起される。井上カヲル、もはや名前のとおり、使徒のようなしぶとさというべきであろう。むろん、今のシンジにはまだ、カヲルという名の知人、友人は居ない。

 

アスカとシンジの画面外でのいさかいを他所に、満面の笑みを浮かべる綾波レイの取り皿にまた肉が山のように盛られている。今度はアスカの肉の残り全部だ。

 

「かいぞく!」

 

 

 そんなやりとりに、海賊船から注がれる視線が二人分。距離の遠隔はやはり状況把握の障害にならないようだ。桃色と赤のプラグスーツの二人は船のマストの上に上り、風を受けながら佇んでいる。

 

「アダムカドモンが、王子に籠絡されているにゃー」

「アヤナミレイ『に』篭絡されている、というべきよ。アレが他人を篭絡するようなタマか」

「それは姫の王子の話でしょう? ここの王子ではなく」

「……」

「いい加減、素直になるべきだにゃ」

「あいつのことは関係ない」

「でも、(ひびき)(こだま)をすべて合一し、上位世界への階梯が繋がれば、上位世界に旅立った王子も取り戻せるはず。それが姫の最終目的でしょ」

「違う。サードチルドレンを合一、すべて統合すれば、《彼》は目覚め、初号機でユニバーサルセントラルドグマを犯せる。そうすればすべての枝世界で、人類補完計画も阻止できる。アタシの目的はそこまで。上位世界も、一人でとっととそこに逃げ出したバカにも、興味ない」

「なら、どうして。王子だけでなく、姫たちまで、合一するのかにゃ?」

「……せめてもの情けよ。アイツが居なくなった世界に残すのはしのびない」

「自分の辛さを他の自分にはもう味わせたくないんだにゃ。そして、合一するたびに姫たちの哀しみと孤独は姫の中に降り積もっていく……姫はやっぱり優しいね。優しくて、寂しいね」

「なんとでもいえばいい」

「そんなお優しい姫にプレゼント」

 

ピッと、中指と人差し指に挟んだ、白い書類を、メガネの少女は眼帯の少女に差し出す。

 

「……なによこれ」

「見てわかるとおり、第三新東京市立第壱中学校への転入届よん」

「こんなもの、要らない」

 

まぁまぁ、とメガネの少女はそれを宥めにかかる。

 

「でも、アダムカドモンが近くにいる以上、もうここの姫にも王子にも簡単に近づくことは無理だよ。アダムカドモンは王子への好感度が16.6666%を超えると、戦略的防衛モードに入るよう、あらかじめプログラムされている。私たちは対抗してビーストモードを発動させるわけにはいかないしね」

 

現在もATフィールドを操る能力を人間でい続けられる範囲で限定的に使用しているのに、ひとたびヒトの形を捨てれば、完全にシトになってしまう。

 

「そんなことは、知ってる」

「だから力押しはもう無理。学校に入れれば別だけどね。チャンスはいくらでもある。この世界の王子と姫を近くで見極めて、それでも二人を合一するか、決めればいい」

「情にほだされると思ってるなら有り得ない。アタシはアタシを見捨てたアイツのことを許すつもりはない。そんな馬鹿にどこの世界に行っても何故か入れあげている、あのバカな娘たちにも」

「それは別に仕組まれているんじゃなくて、単に、姫が王子のことが大好きなだけだにゃ」

「……だったら、猶更よ」

 

アスカは昂然と顎を上げて、宣言する。

 

「バカな娘たち(じぶん)の恋心は全部打ち砕いてやる」

 

 

翌週月曜日、2年A組担任教師の傍ら、黒板の前に立つ、二人の少女があった。

第壱中の制服に身を包んだ、眼帯の少女と、メガネの少女。

 

─式波・アスカ・ツェッペリン

─真希波・マリ・イラストリアス

 

黒板には白墨でそう書かれており、実際にも二人はそう名乗った。

 

「……何なのよ、あれは……アタシなの……」

「アスカが二人……」

 

アスカとシンジの愕然とした声が、響く先も応じる相手もなく、教室の床にそのまま零れ落ちた。



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