死屍累々の丘に立つ (半睡趣味友)
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前章『前語り』
第一話:雲夜死闘


 登山道を外れた道とも言えぬ道、微かに草が踏みならされた獣道に足音がいくつか響く。

 

 もう七月だというのにいやに肌寒く不吉な雰囲気を漂わせる夜の山を、一人の男と二体の異形な者たちの一団が進んでいる。その周囲には仄かに光を発する人魂のような光源が、いくつもぷかぷかと浮かんでいた。

 

 進む一団の中心にいる男は、直垂を着て袴を履き刀を差す和の装いだ。しかし、背中には大きく頑丈そうな黒いチェロのケースを背負っており、腰には大小様々なポーチのついた無骨なガンベルトが巻き付けられている。

 

 その奇妙な装いの男は、目の前を先導する獣の形をした異形に向かって口を開く。

 

狐狼狸(ころり)、残穢と血の匂いは近づいているか」

『くくぉん!』

「そうか、ならそのまま頼む」

『くぉん!』

 

 男の声に応えるかのように吠えたのは、顔と胴体と尾の体毛の色が違う獣の異形。白色の狐の鼻先を地面に近づけ、灰色の狼のような胴体から生えた足を忙しなく動かし、黒色の狸の尾を揺らしながら進んでいる。

 その声を男が聞くと、次いで自分の後方で飛んでいる異形に命令した。

 

以津魔天(いつまでん)、お前は死角の警戒を強めろ」

『いつまでぇぇえ、いぃいつまでぇぇえ』

「俺がよしというまでだ」

 

 低くしわがれた老人のような声を上げたのは、猿の仮面を被せられた頭部に、鷲の胴体と尾から蛇が生えている異形。バサバサと音を立てながら滞空し、キョロキョロと辺りを見回している。

 

 嫌な空気だと、男──司條刻嗣(しじょうときつぐ)は感じていた。準一級呪霊の祓除任務のはずであるが、首筋をちりちりとさせる気配が山の森一帯に満ちている。奇妙なことに、嫌な予感だけは当たる自分の直感を恨めしく思いながら進む。

 司條は山の木々の隙間から、夜空に浮かんでいた月が厚い雲に隠されていくのを見上げ、不吉な気配が強まった事に一つ舌打ちをした。呼応するかのように周りの人魂の輝きが増す。

 

 視界が悪くなった森の中をさらに数十分ほど歩いた頃だろうか、先導していた狐狼狸と呼ばれた異形が立ち止まった。そして、鬱蒼とした茂みの数十メートル先に牙を剥きながら吠えだす。

 

「見つけたか」

『くぉん! くぉん!』

「そうか、よくやった」

 

 司條は刀を抜き、正眼に構えながら茂みを挟んで向こう側を伺う。しかし、動く気配はない。少しの間出方を探っていたが、どうやら相手からは何かしらの行動をするつもりはないようだ。彼らは警戒を解かずに茂みを進む。

 

「……不気味だな」

 

 茂みを抜けるとそこは開けた場所で、さびれ朽ち果てた小さな神社の境内のようだ。そして、嫌でも目を引く一つの建造物があった。それはさびれた神社のお社ではなく、堂々と存在する一基の古びた石鳥居。

 その簡素な造りの神明鳥居は、ザラザラとした質感で灰色の石造だ。年季が入って辰砂の鮮やかな朱色の塗装が剥げたかのように、赤黒く固まった血液が斑らにこびり付いている。

 本来、神聖な領域と俗世を分かつ為の境界線であるはずのそれは、死を想起させる禍々しい気配を放っていた。

 

「……絶対、準一級呪霊じゃねぇだろ」

 

 司條は刀を納め、地面に転がっている石を二つ手に取る。ぽいと一つを鳥居に向かって投げるが、その石はただ鳥居をくぐり抜けるだけであった。次に、もう一つに呪力を込めて投げる。するとその石は鳥居をくぐった瞬間、何処かへと消え去った。

 

 恐らく“入り口”を明確にすることで生得領域の強度を展開できるほどに上げているのだろうと、その不可思議な光景を見ながら司條は推測する。同時に、術式が付与された領域ではないだろう事も。

 

 だが、どう低く見積もっても一級はあるだろう呪力量、そして鳥居から発せられる体毛が逆立つような冷たい圧に、一度撤退して報告し装備を整えるべきかと思案する。しかし、司條はその考えをすぐに打ち切った。

 

 呪霊は基本的に発生した場所に留まる性質がある。こんな領域を展開しているなら尚更だろう。だが、万が一移動してしまうと、こんな広大な山の中だと再び見つけ出すのは骨が折れる。それに、何人かの行方不明者もまだ領域内で生きているかもしれない。結界や領域内では時間の流れが違うことが稀にだがあるからだ。

 結局、司條は今ここでこの呪霊を祓うのが最善だと結論付けた。

 

「……どれを使うか」

『くぉん?』

 

 司條は背負っていたチェロケースを地面に起き、その硬質で丈夫なケースの蓋を開ける。そこにはチェロの姿はなかった。内側にはびっしりと呪符が貼られていて、弓や細身の槍、短刀といった武器が所狭しと収納されている。武器だけでなく、周期的に収縮する呪符で覆われた何かや人間の手首から先だけなど、不気味な物品も入っているようだ。

 

 その中から弓と一手の矢、細身の槍を取り出して蓋を閉めた。弓は和弓というより、大陸の複合弓のような風体で二尺ほどの大きさだ。矢は本来鏃があるはずの先端が、赤黒い紋様の入った人間の人差し指なのが一隻。蟇目鏑矢のようだが、四目がない矢が一隻だ。

 ケースを近くの茂みに隠しながら、細身の槍を以津魔天に渡して口を開く。

 

「以津魔天、お前は槍を持って俺について来い。燐華(りんか)も全てついて来い。狐狼狸はこのケースを守っておいてくれ。もし太陽が登っても俺らが帰ってこなかったら、窓の元へ行け。ケースは捨て置いて大丈夫だ」

『くぉん! くぉん!』

『いぃつまでぇぇえ、いぃつまでぇぇえ』

「俺がよこせというまでだ。……帳はいらないか」

 

 鏑矢もどきを弓につがえ、もう一隻を持ちながら禍々しい鳥居へと進む。周りには人魂がぷかぷかと浮き、その後ろに両足で槍を掴んでいる以津魔天が続いている。鳥居に近づくにつれ、何かに見られている感覚が強くなっていく。紙垂が汚らしく黒色に変色し、ボロボロに朽ち果てた注連縄をくぐった。

 

 くぐった瞬間、世界が変わった。

 一瞬前まで夜の森だったはずなのに、大地を地蔵の頭部だけが一面を覆う河原に辺りの風景が置き換わったのだ。

 

 憤怒、羞恥、悔恨、愉悦、嘲笑、恐怖、絶望。

 

 妙に生々しく表情が彫りつけられた地蔵の頭部は、人間をそのまま石にしたかのようで気味が悪い。河など近くには流れていなかったのに、赤黒い血のような生臭い液体がとくとくと流れる河が流れている。

 

『いじじぃ、いじをつまんかぁ』

「後ろか! 『荼毘華』! 『(サン)』!」

 

 後ろからの石と石を擦り合わせたかのような耳障りな声に、身体をひねって矢を放ちながら叫んだ。人魂が司條の背後へと突撃し轟っと燃え上がり、放たれた矢の先端が炸裂し内包していた白い破片が飛び散る。

 

「やったか? ……っ!」

『いじをつまんかぁ、いじをつまんかぁ』

 

 しゃんっと澄んだ音と同時に、爆炎の中から先端が鋭く尖った石柱が司條目掛け突き出た。それを躱し、もう一つの矢をつがえて放つ。しかし、再びしゃんと澄んだ音が響き、矢の射線に石柱が突き出て防がれた。

 

『いじじぃ、いじをつまんかぁ』

 

 そのまま距離を取り、耳障りな声の主を視界に捉える。爆煙が消え、その中から姿を現したのは一体の呪霊。

 錫杖を左手に持ち、石笠を被った灰色の地蔵菩薩のような『何か』。だが、お地蔵様というにはその姿は不気味であり、どちらかというと厄病神だとか怨霊のようだ。

 深々と被った傘から半分程覗く頭部の、その全てを占めるのが邪悪な笑みに歪んだ大きな口であり、その口腔の中に一つの充血した大きな目玉があった。

 

「地蔵の姿を模した呪霊のくせに、鳥居かよ!」

『いじじ、いじをつまんかぁ』

 

 大きく裂けた口の中で、その充血した真っ赤な目はぎょろぎょろと忙しなく動いている。それが司條の姿を捉えると、左手の錫杖で地面を突いた。しゃんと、澄んだ音が響く。

 

「っ!」

 

 その瞬間、目の前には地面から突き出した石柱が迫っていた。それを間一髪で躱し、刀を抜いて接近し斬りかかる。

 

「硬ってぇなぁ! 」

『いじをつまんかぁ!』

 

 口裂け地蔵はその見た目通り硬く、呪力を込めた刀でも多少痕が残るぐらいで、大したダメージになっていないようだ。再び突き出た石柱を躱して距離を取る。その石柱は太く速く、一発でもまともにくらったらただでは済まない事が察せられた。

 

 近接は不利だなと、納刀した司條は痺れた右手をさすりながら考える。恐らく、あの呪霊に近ければ近いほど、石柱の発生速度と太さは上がるらしい。だが不幸中の幸いか、やはり必中効果はない。術式の付与された領域を展開し続けるのは不可能だから、当然といえば当然かもしれないが。

 

『いじをつまんかぁ、いじをつまんかぁ』

 

 もう一つ幸いな事があるとすれば、あの呪霊はまだ本気を出していない事だ。まだ術師とやり合った事がないだろうから様子見か、それとも自身の実力に甘えて遊んでいるのか。どちらにせよ好都合。そこまで考えて、この領域の上空に飛んでいる以津魔天に向かって叫ぶ。

 

「以津魔天、よこせ!」

『いつまでぇ、いつまでぇ』

 

 以津魔天が離して落ちてきた槍をしっかりと掴む。それは武道で使われる打ち合う為の槍ではなく、槍投げの競技に使われるような細身の余計な装飾のない槍だ。穂先に金属の輝きはなく、くすんだ白地に赤黒い線で崩した文字とも印とも見れる紋様が彫られていた。

 

「『破魔槍(はまや)』ッ!」

 

 司條は大胸筋を大きく反らし、地面の地蔵の頭を砕かんばかりに力強く踏み込み、極限まで縮められた背筋を最大限に利用して、最小限の助走で槍を投擲する。その勢いは、限界まで引き絞られた剛弓の弦から放たれる矢のようだ。

 

『いじ! いじ! じじじ!』

 

 しゃんしゃんしゃりんと、三度間髪入れず錫杖を鳴らす音とともに、槍の軌道に石柱が突き出る。魔を祓わんと勢いよく投げられた槍は、一つ目の石柱を砕き、二つ目を貫くが、三つ目の石柱の半ばで止まってしまった。

 

『いじ! いじ! いじをつまんかぁ!』

 

 何がおかしいのか、口裂け地蔵はあざ笑うかのように喜色を含む耳障りな声を上げる。だが、その馬鹿にされている司條も同じように、口裂け地蔵を哀れむような声色で口を開く。

 

「お前、賢い呪霊じゃないな。……『(カン)』」

『いじじ! いじじ……いじ?』

 

 口裂け地蔵は石柱に突き刺さっている槍の穂先の文字や印が、赤く輝き出したことに気がつく。次いで、穂先から呪力が噴き出していることにも気づいたが遅すぎた。新たな石柱を出す間も無く、槍は三つ目の石柱を貫く。

 

『いじ!! いじじ! いじじじじじぃ!』

「……駄目か。知能はともかく、硬さだけは一丁前だな。近づかないと、どうしようもなさそうだ 」

『いじ! いじじ! いじを! つめぇぇええ!』

 

 槍は口裂け菩薩に突き立っていたが、貫通するほどではなかった。挑発が含まれた言葉に対し──言葉が通じているのかはわからないが──口裂け菩薩は癇癪を起こした子供のように、錫杖を地面に何度も何度も突き刺し鳴らす。地面に敷き詰められた地蔵の首が舞い、何十もの石柱が男に向かって突き立った。

 

「流石に、多いな!」

『いじ! いじじ! じじじ! いじじじじじ!』

 

 迫り来る石柱を縫うように躱し、ガンベルトのポーチの一つを開け、その中の小さな平たい石のようなものを掴めるだけ掴んで上へ放り投げた。その平たい石のような物にも、槍の穂先に刻まれていた赤黒い紋様が刻まれている。

 

「『(レキ)』!」

 

 空中で重力に逆らうように不自然に滞空していたが、その声に反応して口裂け地蔵の方へ弾かれたかのように向かっていく。じじじと薄く表面に引っ掻いたかのような傷を付けるが、あまりダメージにはなっていない。

 だが、今の癇癪を起こしている口裂け地蔵にとっては、そのダメージにならない攻撃でも神経を逆撫でされるようなものだったのだろう。錫杖を突く音の絶え間は更に無くなった。

 

『いじじ! いじ! いじ! いじじじぃぃぃ!』

「『(レキ)』」

 

 口裂け地蔵の石柱を躱し、チクチクと攻撃する。何回もその繰り返しの繰り返しだ。だが、その繰り返しの中、すでに司條は石柱は速く鋭く重いが、あくまでも直線的な軌道しか取らないことを見切っていた。

 当たらない攻撃と、当たっても大した効果のない攻撃の応酬。お互いに決定的な攻撃をできない状態で戦いは拮抗している。

 

 だが、その均衡が崩れる時は酷くあっけないものだった。

 

「なっ!」

『いじ!』

 

 走り回って回避していた司條だが、足場の地蔵の首が急に足に噛み付いてきてバランスを崩したのだ。それを呪霊は見逃さず、司條の背後から石柱を発生させる。無理矢理横に飛び込むように何とか回避し、その石柱は頬を掠めて少しの皮を裂くだけで済んだ。

 

「あぶっ、クソッ!」

『いいじじじ!』

 

 何とか石柱を回避したかのように見えたが、司條の目はギリギリで避けた石柱から、再び一回り小さい石柱が発生しだす光景を捉える。司條は無理に回避をする事を諦め、左手でその石柱を受けた。

 

『じじ! いじ! じじじ! いじ!』

 

 石柱は左手の手首あたりを貫通すると、更に新しくそれより細い石柱が左腕を食い荒らすように発生する。

 

「ッ! ラァ!!」

 

 呪力を込め、地蔵の首が喰らい付いている脚で石柱を蹴り折る。足首の地蔵の頭部は、その衝撃で砕けて塵となった。石柱による追撃を警戒し、素早く距離を取る。

 だが、口裂け地蔵は更なる追撃はしてこなかった。

 

『いじじ、いじじじ! いじ! いじじじじ!』

 

 しかし、酷く愉快げに嗤っていた。

 細く鋭い石柱が刺さった穴だらけの左腕がだらんと力なく垂れた姿を見て、今までの鬱憤を晴らすかのように嗤っている。足も軽くはない怪我をしているように見え、逃げ回ることもできそうにない。呪霊は自らの勝利を確信しているようだ。

 

『いじじ! いじじじ!』

 

 司條はもう使い物にならないだろう左腕をちらと見てから、次に口裂け地蔵を冷ややかな目で見て、口を開いた。

 

『いじじじ! いじじ! いじじじじ!』

「……随分と楽しそうな所悪いが」

『いじ! いじじ……いじ?』

「やっぱり、お前、賢い呪霊じゃねぇよ」

 

 口裂け地蔵は司條のとった奇妙な行動に、反応することが出来なかった。司條は刀をを抜き、自分の左腕の肩口に当てている。さも当然のように行われたその行動に、地蔵は反応することができない。

 

 ある程度以上の呪術師か呪詛師、知恵の付いた呪霊ならば、左手に纏わりつく異質な呪力とその不可解な行動を訝しみ、絶対にその行動を止めようとしたことだろう。

 

 しかし、ようやく苛つかせる不愉快な敵に攻撃を当てる事ができ、気持ちよく昂ぶっていた口裂け地蔵には何も行動する事は出来なかった。──気持ちよくのせられたと、言うべきかも知れないが。

 

「『この怨み、晴らさでおくべきか』」

『いじ、じじじ? いじ!? じじじじ!』

 

 司條が呪力の込められた言葉と共に、躊躇いなく刀で自らの左腕を切り落とす。瞬間、地蔵の左腕に何かが突き刺さったかのような穴がいくつも開く。その穴は、司條の左腕に突き刺さった石柱の開けた穴に酷似していた。

 

 しゃりりりんと、錫杖が穴だらけの地蔵の左手から離れて音を鳴らす。

 

『いじ、いじじじじ!』

 

 すぐさま傷を呪力で治し、錫杖を再び掴もうと手を伸ばすが──錫杖は、再生の隙に目の前にまで迫っていた司條に蹴り飛ばされる。

 

「やっと近づかせてくれたな! 『(テツ)』ッ!」

『い、じぃぃぃ!!!』

 

 司條の右手には、槍の穂先と似通った白地に赤黒い紋様が刻まれたものが、その紋様を鈍く輝かせながら逆手に握られていた。口裂け地蔵は大きく裂けた口で司條を噛み砕こうとしたが、口の中の目玉を貫かれるほうが早い。

 

 手に持っていたそれの纏う呪力は鋭く尖り、勢いは口裂け地蔵の目玉を貫くだけでは止まらず、目玉から口腔、口腔から後頭部まで貫通した。

 

『い……じじぃ』

 

 口裂け地蔵はその勢いのまま、仰向けに倒れた。脚元と言っていいのか分からないが、台座の下部から朽ち果てていくように消えていく。少しずつ消えていく呪霊を見下ろしながら、仄暗い感傷が込められた声色で司條は語りかける。

 その声には何か昔を思い出すかのような、そんな陰鬱な後悔の色があった。

 

「お前、土着信仰だか産土神だかの習合か? 妙に呪霊らしくない姿しやがって。……だが、知性はやっぱりそこらの呪霊程度だな」

『い、じ?!』

 

 死角から、高速で先の尖った何かが一直線に飛んできた。それは司條が蹴り飛ばしたはずの錫杖だ。しかし、錫杖が突き刺さるその直前、空中に完全に静止する。

 

 腕だ。

 

 司條の腰の周り程太く、脚より長い巨大な腕が飛来した錫杖を掴み、地面から生えている。地面の地蔵の頭に筋繊維を根のよう絡み付け、大地に根をはる樹木のように自身を固定していた。

 切り落としたはずのその左腕。穴だらけだったはずであるのに、異常に隆起した筋繊維が穴を塞ぎ、そして、彫られた赤黒い紋様が輝いていた。

 

「今度こそ、じゃぁな」

『いじ、いじ、いじ、いじぃぃい!』

 

 左腕が掴んだその錫杖を右手にとって、口裂け地蔵の胸郭部に強く突き刺した。しゃんっと、澄んだ音が鳴る。そして、ザフッという音を残し、その呪霊を構成していた呪力は一息に拡散した。呪霊は黒い塵のようになり空気に溶けていく。主を失った周りの奇妙な世界も、ふっと消えた。

 

「……死ぬかと思った」

 

 司條は元に戻った暗い森の地面に仰向けに寝転がる。夜空は相変わらず厚い雲に覆われているが、所々雲の切れ間から月明かりが射し込んでいた。鳥居はまだ残っていたが、もう禍々しい気配は感じられない。

 

 事前情報では準一級呪霊との話だったはずだが、どう見積もっても準一級の手強さではないだろと、心の中で司條は愚痴っていた。だが呪術界は万年人員不足。呪術師だけでなく、補助監督や窓もだ。事前情報に齟齬があるのはどうしても仕方ないことかと、無理やりに自分を納得させる。

 

 この森での行方不明者は十名ほど。肝試しだとかで数名の若者のグループがいくつか帰ってこなかったらしい。こんな深い森の中に入っていく気がしれないが、若気の至りというやつなのだろう。いかにもな神社に近づいて、鳥居をくぐったらあの呪霊の領域へ直行。神社の境内に入るときには、大抵の日本人が鳥居をくぐる。悪辣な罠だ。

 

「……とりあえず、被害者を探し……あ?」

 

 あの領域から非術師で脱出することは限りなく不可能に近い。領域から出たが時間のズレもない。不謹慎なことが頭によぎるが、生きている人がいるなら早く助けねばと思いながら立ち上がろうとした時、近くで直立していた腕が力なく倒れた。赤黒い紋様も光を失っている。

 

「限界か。いや、よくやってくれたな」

 

 倒れた腕は急速に朽ちていく。その光景は、死体が朽ち果てていくのを何十倍にも加速させたかのようだ。腕が完全に朽ち果て、骨さえ塵となるのを見届けると、司條は残った右腕を胸のあたりに持ってきて目を閉じ黙祷する。左手があれば合掌しているだろう体勢だ。

 

 少しして今度こそ立ち上がり、生存者やその遺体、遺品を探すために歩き始めた。




口裂け地蔵の生得領域は、エヴァQの十三号機と二号機改が戦った頭蓋骨がいっぱいの所が、地蔵の頭部に置き換わって血の河が流れてる感じです。

司條の術式はまだ内緒ですが、よろしければ皆さんも考えてみてください。


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第二話:携帯苦闘

 被害者の遺体や遺物を探している時、プルルルルと左胸辺りの懐が電子音を伴って震えた。

 こんな時間に誰だよと思いながら、残った右腕で四苦八苦して震える携帯を取り出し、その着信元を確認する。その着信元に自分の眉が歪むのを感じながら、電話に出た。

 

「はい、どうし」『オイオイオイ司條ゥ。 オイオイオイ、オイ』

「……それ、雑にイラつくんでやめて下さい。五条さん」

 

 発信者はもう夜も更けてきた頃だというのに、やばいモノでもキメてるのかと思うほどにテンションが高かった。

 その電波越しだというのにも関わらず、軽薄さを窺い知ることが容易な先輩の声を聞くと、更に眉間のシワが深くなったのを明確に感じた。

 

『オイ司條ゥ。僕が電話してあげたんだからワンコール以内に電話に出ろよ』

「面倒くさい彼女みたいなこと言わないでください」

『お前彼女とかいたことあるのかよ』

「要件がないなら切りますが」

 

 この人と言葉を交わせば交わすほど苛立ちが増すばかりだと判断し、通話をいつでも切断できるようにして答える。

 

『ちょっと待てって、ちゃんと話を聞かない男は……モテないぞ?』

「切りますね」

『あ、ちょま』

 

 つーつーと、どこか虚しさを含んだ音が夜の森に響く。だがすぐに携帯は再び震え始めた。発信元はやはり五条と表示されている。

 

「何で」『オイオイオイ司條ゥ。オイオイオイ、オイ』

「……それ気に入っているんですか?」

『オイ司條ゥ。僕が電話してあげたんだからワンコール以内に電話出ろよ』

「いや、しつこいです。早く要件を言ってください。また切りますよ」

 

 携帯電話の奥から『ノリが悪い後輩だなぁ』と、なぜか呆れたような声を上げている先輩に、今すぐ切って着信拒否にしてやろうかという衝動に駆られる。しかし、本当に用事があったら困るので、ぐっとこらえて続きを待つ。

 

『ちょっと司條に見てもらいたいものがあってね。明日高専に来てよ』

「は、何言ってるんですか。今山奥にいるんで無理ですよ。あとまさかですけど、その明日って今日じゃないですよね」

『あ、めんごめんご。もう十二時過ぎてるね。じゃあ今日中に高専で。すぐ麓まで降りて車飛ばして朝イチで新幹線乗れば、三時ぐらいまでには間に合うでショ』

 

 携帯電話を怒りで握り潰さないか心配になりながら、無茶ばっかり言う適当な先輩に返答する。

 

「馬鹿言わないでくださいよ。それに、今左腕無いんで運転できません」

『──へぇ。司條が“腕”を使うなんて珍しいね。結構強い呪霊だった?』

「術式の付与されていない不完全な生得領域を展開していたので、強めの一級ぐらいじゃないですかね」

『そっか。雑魚だね』

「……誰もが貴方みたいに領域を展開できたり、特級を簡単に祓えると思わないでください」

 

 この先輩は、実力だけは圧倒的なのが一番タチが悪い。そして、自分にできる事を他人もできるようになるのを期待しているのもだ。

 

『まぁ、司條のことは置いといて』

「勝手に置いとかないでください」

『移動手段は伊知地に丸投げしとくから安心して。ちゃんと間に合わさせるからさ』

「……」

 

 最近、会うたびにやつれが酷くなっている気がする一年後輩の補助監督を気の毒に思いながら、自分が行くことがさも確定しているように話す口ぶりに頭が痛くなる。こうなったら、もう予定を変えることは出来ない。この人との長い付き合いの中で、よく知っている。

 

「自分が行くのが確定になっているのはいいです。いや、よくはありませんが。それで、見てほしいものって何ですか」

『話が早くて助かるよ。僕が司條に見て欲しいのは、ちょっと珍しい呪いにかかった遺体だよ』

「遺体って……なら家入さんでいいじゃないですか」

『もちろん硝子にも見てもらうけど、一応司條にも見て欲しいんだよね。司條の術式的に、呪いに触れた遺体は色々見てきてるでしょ? ……少しでも得られる物は多くしたいんだ』

 

 その五条の話し方にいつもとは違う陰りを、違和感を抱いたが、余計な追求をするのはやめておいた。なぜか追求するの気になれなかったからだ。だが、せめて何を見せるつもりなのかだけは、詳しく聞いておこうと口を開く。

 

「……ならその遺体の詳細を。せめてそれだけは教えて下さい」

『お、やる気になった? えっとね、虎杖悠二の遺体だよ。特級呪物“両面宿儺”のうつ──』

 

 つーつーと夜の山に再び電子音がこだまする。それはもちろん俺が電話を切ったからだ。だが再び電話の呼び出し音が鳴り出す。それを受信元も見ずに、ワンコール鳴り終わるより早く電話に出る。

 

『ちょっと、何切ってんの』

「貴方がふざけたこというからでしょう。両面宿儺……そんな化け物、関わりたいと思う奴がいると思いますか?」

『大丈夫、大丈夫。もう死んでるし。……クソ共のせいで』

「……」

 

 ようやく違和感の正体が分かった。

 確か両面宿儺の器は即刻死刑が行われるはずだった事。そして、それを五条さんが無理を言ってその死刑を引き延ばしたことを思い出した。

 

 呪術界の上のお偉いさんは、呪術界の体制と立場の安寧を守る為ならどんなことでもするだろう。おそらく、上の人らがその器を死に至らしめる謀でもしたのだ。だから今、五条さんは虫の居所が悪いのだろうと、そう結論付ける。

 

『未来ある若人の青春を奪うなんて、あのバカ共は本当どうかしているよね。……だからさ、せめて僕は悠二の死を無駄にしたく無い。力を貸してくれ、頼む司條。お前の力が必要なんだ』

 

 ちゃらんぽらんで何時もふざけていて軽薄な五条さんには珍しく、神妙で真面目な声色だった。五条さんの理想は知っている。そして、最強の呪術師である五条さんにそれ程まで言われるほど、両面宿儺の器は可能性のある男だったのか。

 

「……危険性は?」

『大丈夫だと思うけど、心配なら解剖には僕が付き添う。そうすれば安全でしょ?』

「はは、確かに。それなら何より安全でしょうね」

 

 正直、あまり上層部に睨まれるようなことはしたくはない。だが少し、興味が湧いた。

 

「……分かりました。出来るだけ早くそちらに着くよう努力します」

『──司條、ありがとう』

「……別に、いいですよ。感謝しなくて。貴方らしくない。自分も五条さんには色々とお世話になってますから。でも、自分は体制側です。決して深入りはしませんから」

 

 本当に珍しいことがあるものだと。

 新鮮な驚きを感じていた。まさかあの五条悟が感謝の言葉を使うなんて。

 空から星が降ってくるぐらいに珍しいことに、少し調子が崩される。

 

『あ、司條』

「何ですか」

 

 驚きを通り越して少し感動していると、電話の奥からまた五条さんが話し始めたのが耳に入る。

 

『男のツンデレって気持ち悪いからやめたほうがいいと思うよ?』

「……は?」

 

 ……は? 

 

『ま、来てくれるならいいや。出来るだけ早く来るって言ったんだから、ちゃんと三時までにはこいよ。十分遅れるごとにマジピンタ一発な。術式は使わないから安心していいよ。あ、あとちゃんとお土産持ってこいよな。僕の好きそうな甘いヤツ。東京駅でならどこのお土産も買えるいい時代になってるけど、なんか風情がないよね。そう思わない? 思うよね。僕は思う。やっぱり、その地方で買ったヤツにこそ、そのお土産の価値があると思う。なんか味も違うしね。分かるでしょ。その地方で買ったやつのが気持ち美味しいよね。一、二割増しぐらいにさ。だから、ご当地のヤツ買ってきてね』

「……」

『あ、それとさっき電話はワンコール以内に出ろって言ったけど、あんまり早過ぎるとなんか不気味だからやっぱりほどほ──』

 

 我慢の限界だった。通話を遮断し、再び呼び出し音が鳴るより早く五条悟を着信拒否にする。あの先輩を一瞬でも少し見直した自分が馬鹿だったと、深い雲の夜を見上げながら思った。

 

 








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第一章『渡益山騒乱』
第三話:腑抜けと腑分け


 肉と合成繊維が焦げた臭いが混ざり合った異様な臭気が、鼻の奥を刺激する。喉の奥に胃の中のものが逆流してくるのを感じた。

 

「痛い、痛いぃぃい!」「何で、なんでなんでぇぇえ!」

 

 目の前で、ドス黒い炎に巻かれた親が熱と痛みに泣き叫んでいる。一切の光を吸い込む深い闇の具現のような、人の心の怨みを全て一つに凝縮したかのような禍々しい黒い炎だ。床もカーペットも燃やさずに、人体と服だけを執拗に焼き焦がしている。蛇が獲物を絞め殺すように、執拗に執拗に焦がしている。

 

「たす、けて、お兄ちゃ……」

 

 妹は両親よりも身体が小さいから、黒い炎に身体をもう殆どを燃やし尽くされてしまったのだろう。 黒い炎は真っ黒に焦げた小さな身体に僅かばかり燻るだけだった。しかし、目蓋が溶けて歪に固まり、もうまともに見えていないだろうに、最後の力で俺に向かって助けを求めて手を伸ばした。

 

 俺は、その手が灰となって崩れるのを、ただただ無力に見ていることしかできなかった。

 

「つ、うぇえぇ」

 

 びちゃびちゃと、ついに堪え切れなくなって胃の内容物が足元を汚す。それが妙に白いのは、みんなで食べたケーキが消化し切れていないからだろう。

 お祝い事がある時には、家族みんなでケーキを食べるのが我が家の決まりごとだった。少し前まで、家族で楽しく食卓を囲んでいたはずなのに、どうしてこんなことになっているのかについて思考を巡らすが、急な衝撃にその思考が中断させられる。

 

「っぐ、はぁはぁ。……がぁ!?」

「ハハハ、(きった)ねぇな」

 

 地面にうずくまった身体の脇腹を、思いっきり蹴り抜かれた。その衝撃はまだ六歳の身体には大きすぎ、居間の壁にすごい勢いで激突する。背中を強打して、口から空気の塊が出た。呼吸が上手く出来ない。意識が遠くなっていく。

 

「早いとこずらかるか。高専の奴らが感づいてもめんど……ハハ、もう来やがったか!」

 

 黒い闇に薄れゆく意識の中で最後に見たのは、能面を被った男が黒い炎を両手に纏う所だった。

 

 

 

 

 

「……さん! 司條(しじょう)さん! 高専に着きましたよ」

「……ぅ。ああ……すみません。助かりました」

 

 運転席に座る中年の補助監督の声で目を覚ます。ひどく昔の夢を見ていたようだ。背中が嫌な汗で湿っている。時計を見ると二時の半ば程で、“マジピンタ”とやらはされなくて済みそうだ。

 

「しかし、司條さん。大丈夫ですか。ひどくうなされていましたけど」

「心配かけてすみません。とんぼ返りのせいであまり眠れてなくて」

「大丈夫ならいいんですが……。お疲れ様です」

「お気遣い感謝します。運転ありがとうございました」

 

 一言そうお礼を言って、となりの座席に置いであるお土産と、足元に置いた大きめのペット用のキャリーバックを右手に持って車外へ出る。トランクに積んであったチェロケースを、四苦八苦しながら本来肩にかける部分をたすき掛けするようにして何とか背負う。

 久しぶり(・・・・)に左腕がなくなり、重心のズレと不便さを実感しながら、待っている五条さん達の元へと急いだ。

 

 

 

 

 

「上の連中全員殺してしまおうか?」

 

 扉を開けると、五条さんが殺気立った様子で物騒な事を言っていた。普通は絶対出来ないような事でも、実際に出来てしまう冗談みたいな実力を持つ人が言うと、冗談にならない事をこの人は知っているのだろうか。まぁ、この人はそんな事はしないだろうが。

 

「し、司條さん」

「お、司條。ギリギリセーフだね」

 

 高専の敷地は広大で、荷物も多く持っていたせいで少し時間がかかってしまった。時計は二時五十七分を指していて、何とか間に合った形だ。部屋の中に入って、伊地知にお土産の入ったビニール袋を渡しながら口を開く。

 

「伊地知、回収の手筈と新幹線の予約ありがとうな。助かった。これ、土産だ」

「え、い、いえ。仕事ですので。お土産なんて悪いですよ」

「ちょっとちょっと、僕の分は?」

 

 五条さんがさも自分の分があるのが当然のように口を挟んでくる。その声色にキレそうになるが、この人のせいでそれなり以上の呪霊と戦ったあと数時間しか寝れていないのだから、それこそ当然の権利だろう。

 

「ありませんよ。あなたの分なんて」

「えー、何でだよ。あ、もしかして怒ってる?」

「……逆に怒ってないと思いますか?」

「オイオイ顔怖いぜぇ。ほら、スマイルスマイル」

「……」

 

 新幹線で寝ている時に伊地知から電話が来て、急いでデッキに移動して出たら、伊地知の携帯を奪った五条さんだった時は本気でキレかけた。着信拒否した意味がない。

 

「おい伊地知。僕にお土産よこせよ。先輩命令だ」

「え、ちょ、五条さん」

 

 目隠し軽薄野郎の一々イラつく言動を無視していたら、今度は伊地知にうざ絡みし始めた。さすがに伊地知が可哀想なので口を開く。

 

「……二箱買ってきたんで、一箱ずつどうぞ」

「ちゃんと僕の分も買ってきてんじゃーん。やっぱ、司條は気がきくなぁ。さて、中身は……あれ?」

 

 伊地知からお土産の入ったビニール袋を奪い取った五条さんは、その中身を確認して少し間の抜けた声をあげる。わざわざコンビニで買い物してビニール袋を貰った甲斐があったようだ。細やかな復讐が成功したことに、少し気が晴れる。

 

「ちょっと、司條。なんで地方出張のお土産が東京ばな奈なのよ」

「仕方ないでしょう。向こうで買う時間なんてなかったし、お土産を買う場所のご当地を買って来いって言ったのはそっちでしょ」

「落語みたいなこと言いやがって。……まぁいいや。僕、甘いの好きだし」

 

 ささっと梱包紙を開けて、うまうまと東京ばな奈を食べ始めた五条さんに、今からここで解剖するんじゃねぇのか何でここで食ったんだコイツと思う。特級になる人はどこかイカれてるのかもしれないと変な所で感心していると、これまでのやり取りを黙って見ていた家入さんが口を開いた。

 

「騒いでるとこ悪いけど、宿儺の器を解剖(バラ)さなくていいの?」

「ふう、司條もきたし、もう初めていいよ」

「んー、好きに解剖(バラ)していいよね」

「役立てろよ」

「役立てるよ。誰に言ってんの」

 

 家入さんと五条さんがそんな会話をしているのを聴きながら、荷物を邪魔にならないように部屋の端に置く。

 

「司條、こっちに来て」

「はい? どうかしましたか?」

 

 ガンベルトも外した所で、家入さんに声をかけられた。宿儺の器の遺体が寝かされた解剖台の元へ行く。

 

「手袋はめるから、手を出して」

「え、い、いや。大丈夫です。自分は近くで観させもらうだけで大丈夫ですから」

「オイオイ司條。恥ずかしがってるんじゃねぇよ。ククッ、手袋はめてもらえって」

 

 目隠ししているのにニヤニヤしてるのがわかる顔と声で、クソ目隠しが囃し立てる。そんな五条さんの様子に、家入さんは少し怪訝な顔をしながらまた口を開く。

 

「少しでも多くの情報を得るためにきたんだろう? それなら触れた方がいいんじゃないのか?」

「あー、まぁ、はい。確かにそうですね。でも、自分ではめられますから、大丈夫ですよ」

「右手だけではめられるのか?」

「……お願いします」

 

 気が動転して今自分は右腕しかないことを忘れていた。家入さんが近づき、手袋をはめようとする。何故だか直視出来なくて、注射を怖がる子供のように目線をそらしてしまう。その先には五条さんがニヤニヤと笑っていて腹が立つ。こんな事なら一度家に戻り、左腕を“付けて”これば良かったと心の底から思う。

 

「……よし。ほら、司條でき……どうした、顔が赤いぞ。大丈夫か?」

「大丈夫、です。寝不足でして」

「ふぅん? まぁ、自分の身体は大事にしろよ」

「そうします。手袋、ありがとうございます」

「んー、気にするな」

 

 家入さんはそう言って、今度は自分の手に手袋をはめ始めた。深く呼吸をして心を落ち着かせる。何とか落ち着いた所で、解剖台の上に寝かされた宿儺の器に目をやった。

 

 高校生にしてはかなり出来上がった身体だ。よほど鍛えていたのか、筋肉が発達しているのが見て取れる。胸部に空いた痛々しい穴は宿儺が開けたらしい。学友が身体の主導権を奪った宿儺に襲われている際に心臓のないこの身体に戻り、自らの命と引き換えにその友を救ったそうだ。その話だけでもこの眠っているかのように亡くなっている器が、いや、虎杖君が善性の人間である事が分かる。

 

 正直、彼の遺体はそのままにしてやりたいのが個人の意見だが、宿儺の器に成り得る千年に一人の逸材ならば調べる必要があることも納得してしまう。千年以上厄災を振り撒く呪物である『宿儺の指』を取り込みが可能ということは、これから先その指が引き起こすであろう数多の災いを未然に防ぐということ。それは確かに素晴らしいことではある。

 

 だが、それは同時に彼は宿儺を復活させることができる千年に一度の逸材でもあるということだ。呪術全盛の平安時代の術師たちでさえ、宿儺をどうにもすることができなかったのに、今の時代に宿儺が復活したら被害は甚大なものとなるだろうことは火を見ることよりも明らか。

 

 実を言うと、俺は『宿儺の器』を即刻死刑にしない事に否定的であった。関わりがないからこその冷たさと言うべきか。五条さんから直接彼の人柄や死の理由を聞かなければ、その若さと早すぎる不幸に可哀想だとは思っても、『宿儺の復活』と言う最悪の事態の回避のために、死んで良かったとすら考えたかもしれない。

 

 一般人である彼が少しでも多くの人々を救うため、このクソみたいな呪術界へと足を踏み入れたことを思い出し、ならせめて自分にできることはしようと決めた所で、背後で上層部がクソだとか話している五条さんと伊地知に家入さんが話しかけた。

 

「ちょっと君達、もう始まるけど、そこで見てるつもりか?」

 

 そこまで家入さんが口にした所で、絶対にありえない事、ありえてはいけない事が起こった。完全に絶命していた虎杖君が、解剖台からむくりとその上体を起き上がらせたのだ。昼寝の微睡みから目覚めたかのように自然体で、死という人間が超克できぬはずの絶対的事象を容易く否定していた。

 当然のように起き上がったので反応が遅れる。しかし、虎杖君の身体に巣食っていたのは呪いの王両面宿儺。死後千年以上厄災を振りまく存在。死をも超越してもおかしくない化け物だ。

 

 そして、今その化け物の一番近くにいるのは──家入さんだ。

 

「おわっ!! フルチって! ちょっ、なになになに!」

「ッ!」

 

 気がつけば、反射的に腰に差していた刀で斬りかかっていた。

 だが、彼はとんでもない反射神経で刀を避けたものの、本当に自分の身になにが起こっているのか分かっていないような声色で慌てていた。

 その様子を見て判断が鈍る。彼は虎杖君のままなのか、それとも両面宿儺なのか。俺は虎杖君はもちろん、両面宿儺に面識があるわけがない。今の“彼”がどっち(・・・)なのかは分からない。

 

 彼は解剖台の上で体勢を大きく崩していて、今追撃すれば片腕の斬撃でも深手を負わせる事ができる。どうするべきか迷ったところで、目の前に黒い壁が現れた。

 

「ストップ。司條、“大丈夫”だよ」

 

 目の前の黒い壁はこちらを向いた五条さんだった。俺から虎杖君を守るように立ち、俺に声をかけたのだ。五条さんが言うならばおそらく大丈夫なのだろうと納刀する。第一、五条さんがこの距離にいてどうにもできない事が起きたら、俺にはどうしようもないからだ。

 

「えっとぉー、どう言う状況?」

 

 やっぱり状況が飲み込めていなさそうにしている彼が、困惑した声をあげる。俺の方を向いていた五条さんが彼のほうを振り返り、手を上げながら嬉しそうな声色で口を開いた。

 

「とにかく悠二! おかえり!!」

 

 五条さんのその声に、虎杖君も色々と疑問はあるだろうに、人懐っこい笑みを浮かべて手を上げながら答える。

 

「オッス、ただいま!!」

 

 パンっと、爽やかな音が部屋に響いた。

 

 

 

 

 

「あー報告修正しないとね」

 

 虎杖君が生き返った後に部屋を出て、これから彼の処遇をどうするべきか話している五条さんと家入さんの後ろを歩く。どうやら、しばらくは身を隠して実力を蓄える方針らしい。上層部に目をつけられているのだから、死んでいることにした方が色々と都合がいいのだろう。

 

「ねぇ、司條。悠二に実力がついてきたら任務を振ろうと思うんだけどさ、その時の同行者やってくんない?」

「……それは、少し気まずいと言うか」

「あー、やっぱり初対面で思いっきし殺そうとしたのは気まずい感じ? 大丈夫でしょ、悠二も全然気にしてなかったし」

「それは、そうなんですが……」

 

 色々落ち着いた後、虎杖君に斬りかかったことを謝った。いきなり理不尽に殺されそうになったのだから、彼にブン殴られても文句は言えないと覚悟していたのだが、彼は笑って俺を許したのだ。

 

『いやいや、気にしなくて大丈夫っすよ。目の前でいきなり死んだと思っていた人が生き返ったら、俺もびっくりして手が出ちゃうかもしれないんで!』

 

 その溢れ出る善性に、殺そうとしてしまったことが更に後ろめたくなった。こんなに根明な子を、問答無用で殺そうとしてしまった自分が恥ずかしい。そして、こんなにいい子が両面宿儺という呪いに宿られているのがひどく可哀想だとも感じた。

 

「彼って、徒手空拳(ステゴロ)の近接で行くんですよね? それだと俺の戦い方とは違いますし、それに……」

 

 術式そのものには戦闘能力が基本的にない俺は、呪具を用いた中距離か遠距離が得意な間合いだ。一応一級術師ではあるが、近接戦闘では他の一級と比べると見劣りするだろう。

 

「それに?」

 

 言い淀んだ俺の言葉を急かすように、五条さんが口を開く。

 

「俺の術式に、抵抗感があるんじゃないですかね。虎杖君、感性がかなり善良でいい子でしょう?」

「あー、そうかもね」

 

 少し前まで呪術界とは縁がなかった彼には、俺の術式はあまり気分のいいものではないだろう。呪いを継ぐ司條家でも、穢れた術式と蔑まれることがあるこんな術式だ。

 

「それにこれ以上肩入れするのは、上層部に睨まれて家に迷惑がかかりそうで少し怖いので」

「えー、いいじゃんいいじゃん。五条家(ウチ)が守れば済む話でしょ? 前にアレあげたじゃん。例のブツ」

「あの分の依頼は果たしたじゃないですか。ちゃんと禪院さんに渡しておきましたよ。やっぱり、一応義理とはいえ、孤児の俺を拾ってくれた(司條)に迷惑がかかる可能性は避けたいので、すみません」

 

 司條家はそれなりの歴史があるとはいえ、御三家の五条家と比べるとその力は圧倒的に下だ。強力な術式を持ちその地位を確固たるものとした五条家のような御三家とは違い、司條家は迫害された術師や無理矢理取り込まれそうになった家が団結してできた家系。そもそもの成り立ちが違う。

 

「そっか、まぁそれなら仕方ないね。僕がずっと悠二の面倒を見るのは、流石にできないしなぁ。……悠二に色々教えられて、十分戦闘能力のあって、信頼できる術師なんて、そうそういな……あ、ちょうどいい奴が一人いるね」

 

 五条さんが思い浮かんだ人間に、俺の同級生のあいつだろうなと思いながら、仕事を押し付けてしまった形になった事を心の中で謝る。

 

 今度お酒でも奢ろうと、そう心に決めた。




東京ばな奈、おいしいですよね。

過去編の家入さんが呪術廻戦で一番可愛いと思いませんか?
異論は認めます。


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第四話:呪術師と呪詛師

 まだ俺の名字が司條ではない頃、夏には家族で小さな湖のほとりにある、これまた小さなキャンプ場に行くのが習慣だった。そこはあまり人気ではないのか、他に人がいても一組か二組ぐらいで、人見知りだった俺にはありがたかったのを覚えている。

 

「昔、パパはここでママと出会ったんだぞ」

 

 アルコールに弱いのに、毎回ここにくると必ずお酒を飲んだ父は、顔を赤くしてそんな事をいつも言っていたのも覚えている。

 

刻嗣(ときつぐ)、楽しい?」

 

 まだ赤ん坊の妹をあやしながら、母が俺に問いかける。

 

「うん!」

 

 俺はこの場所が好きではなかった。

 

 青々とした木々の緑は心地よい。自然の中で走り回るのも気持ちがいいし、バーベキューで焼いた肉も特別な感じがして美味しくて好きだ。

 

 だが、湖が嫌いだった。確かに綺麗な湖だ。住んでいるところでは見たことのないような、青くて美しい鳥がよく飛んでいた。カメラが好きな父は、その鳥を撮るために来ていたらしい。

 

 だが子供の頃の俺にはその美しい鳥より、湖の中央にいる悍ましい存在の方が印象深かった。青白い肌の、歪な風船のように膨らんだ存在。何をするのでもなく、ずっとぷかぷか浮きながらと空を見上げている。湖や森の静かで調和した景色の中、その景色の調和を破壊していた。この場所に来るごとに、その身体は醜く大きく膨らんでいる。

 

 その存在に目線をやらないようにしながら、ここでのキャンプで時間を費やしていた。今思えばそれは幸運なことで、俺は町でも時々見かける奇妙で醜い存在に、目線をやらないようにして生活していた。その存在が呪霊と知ったのは少し先の事で、奴らは見られていると気がつくと襲いかかってくる性質があるらしい。

 

 目線をやらないようにしてたのは、本能的に奴らの性質に気付いていたわけではない。単に俺が臆病で、その気持ちの悪い存在を見ていたくないからだった。

 

 それに、家族の誰にも見えていない存在が見えているとまだ小さな子供の頃に気がついたのは、ひどく心細い事だったと覚えている。

 

 もし、早くにその事を両親に相談していれば、きっと家族は全員助かったはずなのだ。ただ、俺が両親に心配かけたくないと変に気を使ってしまったせいで、みんな死んでしまった。自分の愚かさが呪わしい。自分の短慮が呪わしい。

 

 だが、それ以上に、あの能面の黒い炎の男が許せない。

 

 俺は、奴を殺さなくてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

「『砥川善一(とがわぜんいち)。元二級術師。四年前、地方での呪霊祓除任務中に一般人を術式により殺害。呪術規定第九条違反を確認。以降、対象を高専から追放、呪詛師と認定』っすか。術式の情報は……」

 

 補助監督が運転する夕方の高速道路を走る車の中、二級術師である猪野がとなりの席で、高専から支給されたタブレットに表示された情報を読み上げた。砥川善一、それが今回の討伐対象だ。

 呪術を扱い、一般人や他の術師に危害を与える呪詛師。俺の家族を殺した能面の男の同類だ。まぁ、能面の男と比べると、今回の対象は圧倒的に小物ではあるが。

 

「……『干支揃え』? どんな術式ですかね?」

「十二体までの呪霊を取り込み、干支になぞらえた性質を与えて強化し操る術式らしい」

「え、強くないっすか?」

 

 猪野があげた疑問に、その答えを予め対象のプロフィールを読んで知っていた俺が答えた。確かに強力な術式ではあるが、それ故に弱点もある。

 

「確かに強力な術式だが、十二体いないと付与する性質が格段に弱くなるらしい。それがブラフかもしれないが、まず一体を祓って様子を見て、押し切れそうだったらそのまま押し切ればいい」

「操ってるのが一級だとか、特級の可能性は?」

「そうだったらお手上げだな。だが、四年前の時点で取り込んでいる呪霊の最高等級は準一級だ。それも、高専の呪術師の力を借りて何とかだったそうだ。その程度の術師が、呪詛師に堕ちて高専のバックアップがなくなったのなら、せいぜいもう一体準一級を取り込んでいる程度だろう」

 

 呪霊の取り込みに他の呪詛師が力を貸していたら、もう少し強い呪霊が手札にあるかもしれない。呪詛師には呪詛師の暗い繋がりがあるからだ。ただ、呪詛師どもが他者のために術式を持つ準一級以上の呪霊の取り込みに力を貸すのは、相当金を積まないと無理だろうなとも思う。

 高専の助けで取り込んだ呪霊の術式も、対して恐るべきものではない。もちろん十分に警戒すべきではあるが、二級術師の猪野でもおそらく祓えるだろう程度の脅威だ。

 

「なるほど。だから一級の司條(しじょう)さんと二級の俺だけなんすね」

「まぁ、そうだな。上は俺らだけで十分だと判断したんだろう。十二体一気に襲ってくる場合が怖いが、そうなったら引きながら少しずつ削ろう。お互い遠距離攻撃ができるしな」

「了解っす!」

 

 猪野の術式は二級術師の中では十分に強い。油断しなければ何とかなるはずだ。砥川自体の戦闘能力は高く見積もっても二級程度。式神使いとの戦い方をベースに組み立てていけば、戦闘でも危険性は少ないだろう。

 

「おそらく潜伏しているのは渡益山(とえきさん)だったか。……妻鹿さん、まずその山の麓の渡益村に行くんですよね?」

「ええ、そうです。その村の民宿を借りていますので、そこまでお送り致します」

 

 運転している若い男の補助監督に聴くと、ハキハキとした声でそう答えた。

 

「あとどれぐらいで着きますか?」

「そうですね。高速を降りて、まだ少し行かなきゃダメなので、もう少しかかると思います」

「それまで寝てても大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫ですよ。お気になさらずに」

「そうですか、ありがとうございます」

 

 その返答を確認してから、隣でタブレットの情報を読み込んでいる猪野にも声をかける。相手は山に潜伏している呪詛師だ。予め罠だとか結界を張っているかもしれない。体力や集中力も切らすわけにはいかないだろう。

 

「猪野、お前も休んどけよ」

「うっす、でももう少し情報を頭に入れときたいんで!」

「そうか、まぁ、あんまり張り切りすぎんなよ」

 

 そう俺は答えて目を窓にやる。窓の外で夕日が山の谷間に沈んでいくのが見えた。呪霊を取り込む術式に、昔世話になった先輩のことを思い出しながら目を閉じる。

 

 どうにも、嫌な予感がまたしていた。

 

 

 

 

 

「司條さーん、着きましたよ」

「……ん、起こしてもらって悪いな」

 

 猪野の声に目を覚ました。窓の外には、すっかり夜の闇に覆われた田舎の風景があった。灯りは少ないが、呪霊がいるような様子はない。車から出て、トランクに積んである荷物の回収に向かう。

 

「大丈夫っすよ。妻鹿さん運転ありがとうございました!」

「ありがとうございました」

「いえいえ、ご武運を。任務を終えたら連絡をくださいね。回収しに参ります」

「了解しました」

「了解です!」

 

 荷物を全て降ろしたあと、妻鹿さんが運転する黒い車は元来たであろう道を帰っていく。それを見送り、荷物を持って民宿に入る。時計は九時の少し前を指していて少し遅かったが、まだ受付をしていて助かった。

 両手(・・)に荷物を持ち、背中に大型のチェロケースを背負った和服の男と、軽装の若い男の組み合わせに少し不審な目を向けていたが、特に何を言われる事もなく部屋に案内された。面倒ごとには関わりたくないのだろう。案内された和風の一室は、思っていたよりも広く快適そうだ。

 荷物を置き、車に乗る前にコンビニで買っておいた蕎麦を食べながら話す。

 

「とりあえず、今日は休もうか。呪詛師が根城にしてるかもしれない夜の森は危険だ。明るくなってから、明日の朝に山に潜ろう」

「了解です! 一応見張りも必要ですよね。呪詛師が感づいてるかもしれないし、まず俺が見張っときましょうか?」

「いや、俺は車で寝ておいたし、俺が見張ろう」

「え、いいんですか? 時間で交代します?」

 

 アジフライ弁当を食べている猪野の提案に、少し考えてから答える。

 

「……いや、大丈夫だ。こいつらもいるしな。お前は朝まで寝とけ」

「ありがとうございます!」

 

 俺が持ってきた荷物を叩きながらそういうと、猪野は素直にそう返した。山歩きはかなり体力を使う。起伏や溜まった落ち葉だけでも肉体的にキツイのに、どこに潜んでいるかも分からない呪詛師や呪霊に警戒し続けるのは精神的にもひどく疲れるだろう。術師とはいえ、普通の身体をしている猪野を休ませるべきだと判断した。

 

「そうだ、猪野。討伐対象の呪詛師のことだが、できたら生け捕りにしたい」

「別にいいっすけど、何でですか?」

「聞きたいことがあってな、無理はしなくていい。殺さなきゃ危険がありそうだったら、迷わず殺せ」

「了解です」

 

 呪術師が高専で繋がっているように、呪詛師も闇で繋がっている。いや、呪詛師は小賢しく狡猾に立ち回らないと、高専にすぐに目をつけられるためにそうするしかないのだろう。基本的には呪霊だけで手一杯な高専には、呪詛師全てを追う人手が足りないのだ。人を何人も呪殺するなど派手な事をしていない限り、中々動き出すことが出来ない。

 呪詛師が闇で繋がっているからこそ、もしかしたら俺の家族を呪殺した能面の男の情報を持っているかもしれない。二十年以上手掛かりがないその男について、はした金欲しさに呪詛師になった小物が知ってるとは思えないが、一応聞いておきたい。

 

「本当に無理はしなくていいからな」

 

 そんな個人的な要件で他人を危機に晒すわけにはいかないので、念を押しておく。

 

「大丈夫っすよ。それに、俺もできたら人は殺したくないんで。捕縛して高専に連れてけば、後は上がいいように処理してくれますよ」

「悪いな」

「それぐらい大丈夫ですって」

「そうか、助かる。……なら、この任務が終わった後、飯でも食いにいくか。俺の奢りだ」

「え! じゃあ焼肉いきましょ! 焼肉!」

「ああ、いいぞ」

「やったー!」

 

 その後も、色々と接敵した時の打ち合わせをしたりして夜も更け、十二時近くになった頃には、「ここの風呂温泉ですよ!」とテンションの上がっていた猪野は眠っていた。

 

 ぐっすりと眠っている猪野を横目に俺は、畳の上に寝かされた呪符を貼られてぬいぐるみのように脱力している異形たちを前に、呪力を込めた言霊を口ずさむ。

 

「『葬頭河の淵より群れて出よ』『朽鼠(きゅうそ)』」

「『葬頭河の淵より化けて出よ』『狐狼狸(ころり)』」

「『葬頭河の淵より叫びて出よ』『以津魔天(いつまでん)』」

 

 その言葉に反応し、異形に貼られていた保命延年符に似た呪符が朽ちた。そして、異形たちが起き上がる。

 

 背中に人の目玉が埋め込まれた鼠の異形が二体。狐の顔に狼のような身体と狸の尾を持つ異形が一体。猿の仮面を被った頭部に、蛇の尾がくっ付いた大きな鷲の身体を持つ異形が一体だ。

 

「この宿を中心に警戒しろ。もし呪霊や怪しい人間がいたら鳴け」

『ピィピィ!』

『くぉん!』

『いぃつまでぇ!』

「……以津魔天、お前は鳴かなくていい」

『いつまでぇぇ……』

「ほら、行ってこい」

 

 窓を開けると以津魔天は飛び去り、狐狼狸は軽やかに飛んで出て行き、それに続くように朽鼠たちが最後に出て行く。深い夜の闇に消えていく異形の姿を見て、一般人(・・)に見られる心配はないだろうと安心した。

 

 部屋にぽつんと残された俺は直垂の懐に手を伸ばし、そこにある硬質な感触を確かめる。その確かな感触と呪力を持つ物品を取り出そうとして──やめた。明日には呪詛師と戦う可能性がある。余計な消耗は避けるべきだ。

 

 座り込んでスマホを取り出し、片耳だけにイヤホンを付けて適当な音楽をかける。いつ敵が来てもおかしくないように弓と矢を近くに寄せ、目釘を外さない程度に刀の手入れをする。

 

 そんなことをして、夜が明けるのを待った。




実はお気に入りが10行くまでちょくちょく小説情報を見ていて、10になったやったーと思っていたら、なぜか自分もお気に入り登録していて自分を入れて10で恥ずかしかったです。

作者も自分のをお気に入り登録できるんですね。



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第五話:追跡者と追放者

最近友人たちとビリヤードに行ったんですが、二箇所から出血しました。

ビリヤードって結構ハードなスポーツですね。


 山の合間から太陽が顔を現す。直視できる程度の優しい朝焼けが、山の深い緑に映えている。

 

「猪野、そろそろ起きろ」

「……おはようございます。動きはありました?」

「雑魚呪霊は何体かいたが、関係のなさそうな野良だな」

 

 いつ呪詛師が襲ってきてもいいように、弓矢を携え夜通し警戒していたのだが、あまりに動きがなくて拍子抜けした。見張りをさせた朽鼠(きゅうそ)らが見つけた呪霊も、蠅頭より少し強い程度の雑魚が数体だ。それらもあっけなく祓うことができ、呪詛師とは関係ないだろう。

 

「準備はできたか?」

「うっす、いつでも行けます!」

「よし、なら行くぞ」

 

 弓矢と刀を一度チェロケースの中にしまって背負い、大きい手持ちカバンを一つ持って受付へ行く。呪詛師が見つからなかった時のために、もう一泊する旨を女将さんに伝えるためだ。やはり、男の二人組で大きな荷物を持っている俺たちのことを不審な目で見ていたが、何も口にすることはなく民宿を出て行く俺たちを見送った。

 

「なんか俺ら怪しまれてません?」

 

 民宿から出た後、こそこそと猪野が耳打ちしてきた。どうやらあの女将の目が気になったらしい。

 

「まぁ、死体でも山に埋めに来たと思われてんじゃねぇか?」

「え、そんなことないんですけどね」

「実際、似たような仕事だろ」

「はは、確かに」

 

 そんな風に誤解されているのは、十中八九でかいチェロケースを背負って山に向かう俺のせいだろうが、これがないと仕事にならないんだから仕方ない。

 人の目がなさそうな程度に山を登ると、俺はケースを開けて弓を取り出して数本の矢と刀を取り出す。矢の先端が人間の指なのが半分、小さな壺のようなのが半分だ。手持ちカバンから矢筒を取り出し、矢を入れ左腰に付ける。反対側に刀を差したりして準備をしていると、予め待機させておいた朽鼠らが茂みから顔を出した。

 

「山の中に人や血の匂い、残穢はあったか?」

『くくぉん!』

 

 一番鼻が効く狐狼狸(ころり)が俺の質問に肯定し鳴いた。それを確認し、狐狼狸と他の奴らに命令をする。

 

「そうか、とりあえずそれを辿ってくれ」

『くぉん!』

「朽鼠、以津魔天(いつまでん)は周囲の警戒を」

『ピィ!』

『いつまでぇぇ!』

「……やっぱ便利っすよね。この子ら」

 

 俺たちのそんなやりとりを黙って見ていた猪野が、散開した朽鼠たちを見ながら口を開いた。

 

「あ? どうした急に」

「索敵苦手なんで、司條(しじょう)さんの術式が羨ましくて」

「俺は一級だと戦闘能力は劣るが、索敵能力はそこそこあるからな。こいつらのおかげで」

「十分強いですけどね。あ、荷物持ちますよ」

「助かる。カバン持ってちゃ弓が引けねぇわ」

 

 狐狼狸を先頭に、俺と猪野が真ん中でその両端に朽鼠がいて、後ろに以津魔天が飛んでいる陣形で森を進む。矢を弓にたがえて十分に周囲を警戒しながら、俺は半歩後ろの猪野に話しかけた。

 

「強いといえば、お前の術式のが強いだろ」

「え、そんなことないっすよ」

「そうか? 七海にも褒められたんだろ?」

「そ、そうですね」

 

 猪野の術式である『来訪瑞獣』はかなり強力な術式だ。降霊術の一種であり、四種もの異なる能力を発現できる。それは実質的に普通の術師よりも手札が多いということを意味し、対応できる場面も多く有用だ。

 

「俺はお前の術式が羨ましいよ」

「いやいや司條さんのがいいですって」

「なら、俺の術式が使えるなら使いたいか?」

「え、いや、それはその」

「ははは、それが答えだ」

 

 少し意地悪なことを聞いてしまったかもしれないが、言葉に詰まる猪野の様子が面白くて笑ってしまう。こんな扱いづらい術式なんか、そうそう欲しがる奴はいないだろう。

 そんな他愛もない話をして山を分入っていると、ふと頭に疑問が浮かぶ。その気になったことについて猪野に聞く。

 

「なぁ猪野。お前の術式って顔を隠すことで自身を霊媒にして、瑞獣の力を降ろしてんだよな?」

「はい、そうっすよ」

「顔を隠してると戦いにくいか?」

 

 その質問に猪野は少し考えてから答えた。

 

「えーと、そうですね。多少視界が狭まるんで戦いにくいですけど、そうしないと術式が使えないんで、どうにかして慣らしましたね」

「そうか。……なら、顔を隠してる呪詛師がいたらどんなことを疑う? 例えば……能面だとかで」

「能面? そうっすねぇ」

 

 続けた俺の質問に、猪野は先よりも長い時間考えている。おそらく、自分が能面を被った呪詛師と対峙した時、どのようなことを考えるか実際に脳内で相対してみて考えているのだろう。

 しばらくしてから、ゆっくりと口を開いた。

 

「まず、顔が割れるのを避けてるのを疑いますね。次に相手の術式絡みですかね」

「なるほど。続けてくれ」

 

 続きを促すと、猪野は言葉を続ける。

 

「前の理由は呪詛師なんて後ろ暗い事やってるんですから、顔はまぁバラしたくないでしょうしね。でも、能面……わざわざそんなものを着けてたら、術式に関係あるのかとどうしても勘繰っちまいます。俺の術式が術式なんで」

「お前の術式が顔を隠すからか?」

「そうですね。能面ってつまりは一種の仮面だから、やっぱり降霊術に関わってくると思うんですよ。古来から日本だけでなく海外でも、仮面を被り自分とは別物になって超常的な力を行使しようとしたり、神を宿して奇跡を起こそうとしてたんで」

 

 ほら、シャーマンとか変な仮面被ってるイメージありません? そんなふうに言葉を続ける猪野に、なるほどと納得しながら能面の男について考える。確かに、顔を隠すだけならもっと他の手の入りやすく、視界の確保できるものがあるだろう。

 

 例えば、バイクのフルヘルメットだとかの方が手に入りやすく、能面よりも丈夫で視界も開けている。能面なんて買ったら足がつきそうな代物を、わざわざかぶる必要はない。だとすると、やはりあの呪詛師の術式絡みだろうか。

 

「しかし、なんでそんな事聞くんです? そういう呪詛師とでも戦ったんですか?」

「ああ、まぁ、そんなとこだ。色々教えてもらって悪いな。降霊術の本職から話を聞けて参考になった、ありがとう」

「いえ、これぐらいならいくらでも大丈夫ですよ」

 

 今は目の前の任務のことの方が大事だと気持ちを切り替え、頭の中からあの能面の男に対する憎悪を排除する。どう頑張っても燻り続ける憎悪から目を背けるように、まだ朝だというのに薄暗い深い森に視線を向けなおした。

 

 

 

 

 

「やっぱ山歩きはキツいっすね」

「登山道を外れると特にな。ほら、水だ」

「あざっす! ふぅ、カロリーメイトいります?」

「お、助かる。ありがとうな」

 

 四時間以上は歩いて太陽が真上になった頃に、涼しげな沢に出たので少し休憩することにした。山の中で直射日光は少ないといえ、八月近い気温の中歩き続けるのは術師とはいえキツい。

 猪野から受け取ったメープル味のカロリーメイトを齧りながら、小話に興じる。

 

「しっかし、なんで砥川(とがわ)はこんなとこにいるんですかね! 探すこっちの身にもなってほしいっすよ」

「はは、そうだな。まぁ、奴さんとしては見つかりたくないから、その点でいえば理にかなってる」

「でも夏の山の中に潜まなくてもいいじゃないですか!」

「そうだな。……ほら、そろそろいい頃合いだろ。もう少し深くまで潜って、見つからなかったら一度帰ろう」

「了解!」

 

 一休みを終えて、再び山の中へ分け入っていく。随分前に登山道からは逸れていて、整備されていない山道はかなり歩きにくい。四つ脚の狐狼狸や飛んでいる以津魔天が羨ましくなってきた頃、先導する狐狼狸が妙な行動を取った。

 

『く、くぉーん』

「狐狼狸、どうした?」

「どーしたんすか? 司條さん」

 

 休憩してから数時間後、狐狼狸は困惑した様子でその場でクルクルと回り始める。困ったような様子だ。どうやら、辿ってきた匂いが途絶えてしまったらしい。

 

「対象の匂いを見失ったらしい」

「あらら、そうですか。一度引きます?」

「ああ、そうし……どうした? 猪野」

「あれ、なんすかね」

 

 何かを見つけたような様子の猪野は、十メートルほど離れた木の、少し高いところに巻きつけられた茶褐色の布を指差していた。少し離れた奥の木にも同じような布があり、どうやら等間隔で木に巻きつけられているようだ。

 

「境界標か? いや、こんなには必要ないか」

「近づいてみます?」

「ああ、そうしよう」

 

 森林の土地の所有権を分かりやすくするための境界標の一種かと思ったのだが、それならもっと目立って分かりやすくするはずだ。こんなぱっと見だと木と同化していて、見落として気がつかないような色を使うはずがない。

 

「ちょっと、届かないっすね。登ります」

「いや、いい。朽鼠、噛み切ってこい」

『ピィピィ!』

 

 朽鼠がすいすいと木を登り、その布に歯を突き立てた。もし誰かの所有物だと申し訳ないが、人を殺した呪詛師を見つけるためだ。それに、妙に小綺麗なその布は深い森の中では明らかに浮いていた。少しして噛み切れ、布が地面に落ちる。その裏地を見て猪野が驚いたような声を上げた。

 

「司條さん! これ!」

「ああ、どうやら“当たり”らしいな」

 

 その裏地にはびっしりと呪符が貼られていた。そして、呪符を破壊したことで隠されていた結界──帳の一部が可視化される。おそらく、この木々に等間隔に巻きつけられた布の呪符によって帳を維持し、術師にも()()()()()()()()を張っていたのだろう。

 

「帳自体の効果は、呪力を外に出さないのと迷い込んだ非術師を追い払う効果あたりか?」

「多分そんな感じっすね。でも、この帳に入るまでの匂いが残ってるということは、多分対象は今いるってことですよね?」

「ああ、おそらくな。……侵入するぞ」

「はい!」

 

 狐狼狸を先頭に帳に向かって進む。黒い壁の膜を通り抜ける感覚がするが、特に抵抗してくる様子もなく入り込めた。

 だが、その帳の中の異様な雰囲気に顔が歪むのを感じた。隣の猪野も同じ雰囲気を感じたようで、少し狼狽した様子で口を開く。

 

「なんすかこの呪いの気配! 対象は二級術師程度じゃないんすか!」

「……これは、まずいな。少なく見積もって一級はある。……いや、もしかすると……」

 

 特級かもしれないと、後に続くその言葉を飲み込んだ。しかし、少し前に戦った口裂け地蔵の領域に満ちていた空気よりも、禍々しく濃厚な呪いの気配だ。呪力感知は得意な方だが、すぐそばにこの気配の主がいるのか遠くにいるのかすら分からない程、感覚を狂わせる強い気配。

 

「猪野、カバンをよこせ」

「……うっす」

 

 弓矢を置いて猪野が持っていてくれたカバンを受け取り、中からまた新たな異形を取り出す。それは今までの異形よりも大型で、いくつもの呪符が貼られていた。

 

「『葬頭河の淵より猛りて出よ』『伽楼堕(ガルダ)』」

『グガァァア!』

 

 貼り付けられていた呪符が朽ち果て、解放された異形が勇ましい声で鳴く。筋骨隆々な人間の腕が付いた大鷲だ。宿す呪力量も、偵察用の狐狼狸や以津魔天とは比べ物にならない程に多い。その人間の腕は、鈍く輝く赤黒い紋様が刻まれていた。

 背負っていたチェロケースを開け、細身の槍を取り出して伽楼堕に手渡す。同時に、周期的に膨張と収縮を繰り返し蠢く呪符に覆われた握り拳ほどの物体と、白い布で覆われた二尺ほどはある長い荷物を取り出した。握り拳ほどの物体を懐に入れ、荷物の方を以津魔天に持たせる。

 

「……一度撤退しません? 正直、俺たちの手に負える案件じゃないと思うんですが」

 

 確かに俺も撤退出来るならしたいが、そういう訳にもいかないだろう。おそらく、この気配の主は呪詛師ではない。もっと別の何かがここにはいる。

 

「……すでに呪符を破壊し、帳に入ったことはバレてる。この帳と気配の主が違うとしても、こんな気配を放つ奴だ。もう気づいてるだろうな。逃げても背中を刺される。最悪、村の非術師が犠牲になる」

「それは、そうですけど」

「安心しろ。特級とはやりやったことはある。遭遇しても無理に祓いにいかずに、ある程度ダメージを与えて撃退するのを目標にしよう」

「……了解です」

 

 大き過ぎる気配に警戒しながら、無言で帳の中の山を進む。先のように軽口を言い合う余裕もなく、荒い息遣いと落ち葉を踏みしめる音、伽楼堕と以津魔天の羽ばたく音だけが聞こえる。

 

 夏だというのに、いやに寒く。それなのに汗が止まらない。

 

 がさりと、茂みが大きく揺れて人影が飛び出た。

 

「誰だ!」

「お、お前たちもあいつの仲間か⁉︎」

 

 飛び出してきた人影は、金髪で線が細くチャラチャラとした小物で着飾った男だった。売れないホストのような風態。それは紛れもなく、プロフィールで見た呪詛師である砥川善一だ。しかし、焦りに顔を歪めて酷く息を切らしている。まるで、怪物から逃げ回っている鼠のような弱々しさを感じた。

 俺はいつでも矢を放てるようにしながら、狙いを眉間に合わせながら口を開く。

 

「高専の司條だ! “あいつ”とは何だ!」

「こ、高専! っ、もう何でもいい! あいつを祓ってく……」

nigashimasenyo(逃がしませんよ)

「クソッ! もうやられたのか!」

 

 現れたのは、白い身体に黒の模様を持つ妙な雰囲気を纏った呪霊。人型で、発する言葉が理解できない音の羅列であるのに、何故だか理解できて気持ちが悪い。

 

「『十二支より来たれ辰!』行け!」

『シュラァァア!』

 

 巨大な蛇のような呪霊が、砥川の言葉とともに現れて白い呪霊へと矢のように向かう。砥川の言葉と術式からして、取り込んで『辰』の性質を与えて強化した呪霊なのだろう。一級にも届きうる存在感があった。しかし、相対しているのは特級だ。それも、相当高位の存在。

 

orokana(愚かな)

「く、ガァ!」

 

 その白い呪霊が手をかざすと、いくつもの槍を束ねたかのような鋭さと太さを持つ木の根が発生し、『辰』もろとも砥川の胴体に風穴を開けた。致命傷だ。絶命している。

 それを見ていた俺は、小さな声で猪野に話しかけた。

 

「……猪野、祓除した呪霊の最高等級は?」

「……準一級っす」

「そうか。……なら、その万倍やばいと思え」

mokutekidegarimasenga(目的ではありませんが)

 

 白い呪霊の視線が──目はなく、眼窩からは小さな木が生えているだけだが──明らかに俺らに移ったのを感じた。どうやら、逃がしてくれるつもりはないらしい。

 

「来るぞ! 構えろ!」

「っ! はい!」

shindeitadakimasu(死んで頂きます)

 




花御のセリフは次のお話から普通になります。原作でも最初の方はよく分からない言語だったけど、途中から普通になってたから大丈夫ですよね?

正直、一々フォントを変えるのがめんど……読者の皆々様方が読みやすいのが一番大事ですのでね。


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第六話:盤根錯節と轟音炸裂

「『射し指』!」

「一番『獬豸(カイチ)』!」

『そんな攻撃に意味などありませんよ』

 

 俺の放った矢も猪野の放った霊獣の力も、白い呪霊は避けずにその身体で受けた。だが、その白い鎧のような外皮を纏った身体には傷一つ付いてなく、彼我の圧倒的な実力差を残酷に示している。

 

『すぐに楽にしてあげましょう』

 

 その言葉とともに呪霊の背後に巨大な植物が現れた。異常に悍ましく育ちきった巨大なひまわりような姿形だが、黄色い花のあるべき所にはナハナハと狂ったように笑う種がびっしりと詰まっている。

 その異形の種子を見て、背筋に悪寒が走った。

 

「猪野! 俺の後ろに!」

「了解!」

 

 とっさにそう叫び、弓を足元に捨て左手で刀を握る。背負っているケースの肩掛けを切って邪魔なケースを地面に落とし、その流れで刀を納刀した。地面にケースが落ちて音を立てるのと同時に、数え切れないほどの量の種子が射出される。

 

「『骨奪技巧(こつだつぎこう)』! シン・陰流居合『露払い』!」

『ほう。なかなかやりますね』

 

 左手に呪力を流し込み、その腕に蓄積された技術と経験を強制的に発露させる。身体が腕の動きに合わせて踏み込み、無理やりに身体を捻って何百年積み重ねられた技術体系のその一端を模倣した。

 

「ッ!」

 

 なんとか種は全て凌ぎ切ったが、残心を残す身体に鈍痛が走る。それもそうだ。俺はシン・陰流など納めていない。

 その技を使う身体ができていないのに、自分の関節の可動域や筋肉の柔軟性を無視して無理やりに技を模倣しているのだから当たり前だ。何年何十年も刀を振ってきて身体が適応している者たちとは違い、多少剣術をかじった程度の俺では負担が大きすぎた。せいぜい、シン・陰流の技はあと二度行使するのが限界だ。

 しかし、そのことを相手にバレないようにさも平然を装う。まだまだ俺はいけるぞと誇示するために、口角を吊り上げて余裕そうな表情を浮かべて呪霊に笑いかけた。

 

「おいおい、どうした? その程度か?」

『なるほど、ならばこちらで行きましょうか』

「チィ!」

 

 あわよくば俺らが脅威だと、もしくは少々骨が折れる相手だと認識せて引かせることが出来れば上々だと思っていた。だが、まだまだ奴にとっては俺は脅威たりえないらしい。

 今度は指先から植物の鞠のような物を三つ生成し、俺たちの方へと飛ばしてきた。

 

「お前は本体を! 鞠は任せろ! 『燐華』!」

「了解! 『獬豸』!」

『ふむ』

 

 胸元から呪符が貼られた小さな団子ほどの大きさの球体を三つ取り出す。強く握って呪力を流し込み、飛来する鞠に向けて思いっきり投げつけた。鞠に着弾すると同時に燐華は轟と炎上し、植物の鞠を焼き切る。

 

「その調子で奴も燃やしてくださいよ!」

「生木は燃えにくいんだ!」

 

 猪野が再び繰り出した『獬豸』は、呪霊に軽々と右手で防がれた。その光景を見て、このままだとジリ貧でいつかは戦闘能力の優っているあの白い呪霊に押し切られ、二人とも殺されるだけだと状況分析を終える。

 

 俺たちのこの場での生存方法は三つ。

 

 一つ目は討伐。

 これはほぼ不可能だ。この特級呪霊の戦闘能力の底は見えていないが、今までに祓ったどの呪霊よりも強力だろう。特級は一度祓ったことがあるが、こんなにも流暢な言葉を話すような存在ではなかった。この呪霊は独自の言語体系を持っているようだから少し違うかもしれないが、明確に言語を使っている以上は俺の祓った特級よりも格上であることは確実だ。独自の言語を操っている以上、人間よりも格上かもしれない。感じる呪力も桁違い。おそらく領域も持っているだろう。勝ち目はゼロに等しい。

 

 二つ目は逃走。

 しかし、ただ逃げ切るのもまた不可能に近い。この帳を張っていた砥川も自身の結界内ですら逃げ切れていなかったのに、俺たちが山の中で逃げ切ることができるとは考えられない。追ってきたこの呪霊に非術師が殺される可能性もある。それだけは絶対に避けねばならない。だが、戦闘で相手を消耗させてその間に逃げることは、選択肢の一つとしてまだ討伐するよりも現実的だ。

 

 三つ目は撃退。

 基本的に上二つの勝利条件を満たせない以上、この方法を狙うしか俺たちに生き残る術はない。この呪霊に消耗させるなり面倒な相手だと認識させるなりして、俺たちと戦う意思をなくさせるのだ。その為にはこの特級相手に戦って、最低限太刀打ちできるのが大前提。撃退するにしろ逃走するにしろ、戦う事は絶対に避けることができない。

 

伽楼堕(ガルダ)! 槍を使え!」

『ガァァアア!』

『式神!』

「ああ! そうだよ!」

 

 この呪霊は、おそらく俺の事を呪具で自身と式神を武装した式神使いだと考えている。

 この呪霊についての情報を一級の俺でも持ち合わせていない。上の怠慢か俺への嫌がらせでなければ、この呪霊はまだ発生して日の浅いのか、今まで被害を出さず潜伏していたのかということだろう。このことが意味するのは、術師と戦った経験は少ないという事だ。シン・陰流も知っている可能性は低い。俺たちの本当の術式に思い当たる可能性も低いはずだ。術式持ちとの戦いにおいて、術式を知っているか知らないかは最も重要な要素の一つ。術式の開示が一つの大きな縛りとなるほどに。

 

 ならば、その勘違いを利用するほかない。

 

「突き刺せ!」

『樹々よ!』

『ガァァアアァア!』

 

 上空で滞空し様子を伺っていた伽楼堕が、俺の声に反応して急降下し呪霊に迫った。伽楼堕が持つ呪具に警戒したのか、呪霊は足元から樹々の槍を生み出し迎撃する。しかし、伽楼堕はその飛行能力を活かして、間一髪で全ての槍を避け切り肉薄した。

 

『くッ!』

 

 急降下し重力を味方に付け、伽楼堕はその筋骨隆々な右腕に携えた槍を突き立てる。流石の特級でも、何十メートル上空からの勢いがついた呪具の刃から完全にその身を守ることは出来なかったようだ。

 穂先が少しだけその白い外皮の右腕に突き立つ。

 

『この程度……!』

「伽楼堕良くやった! 『(カン)』!」

『ッ!』

「カバンは捨て置いて走れ!」

「はい!」

 

 穂先の紋様が赤く輝き、呪霊の右腕を貫通する。怯んだ様子の呪霊を見て納刀し、足元の弓を無理矢理に矢筒に押し込みチェロケースを素早く拾い上げて猪野に叫んだ。

 

「どうせすぐに追ってくる! 油断はするな!」

「了解!」

 

 一瞬稼いだ時間を利用して、山の険しい道を走りながら猪野に話しかける。

 

「猪野! やって欲しいことがある」

「っ! なんすか!」

「それは──」

 

 あの呪霊に少しでもダメージを与える為の作戦を猪野に話す。それには猪野の術式が必要で、成功すれば特級と言えども小さくはないダメージを与えられるはずだ。しかし、タイミングが重要で作戦を共有する時間が必要だった。

 

「──だ。できるか⁉︎」

 

 俺の作戦に顔を隠して目だけを出していた猪野は頷き、了承した様子でこちらを見ながら口を開く。

 

「やってやりますよ! そうでもしないとあの化け物からは逃げられなさそうで……奴が来ます!」

「クソ! もう追ってきたのか!」

『逃がしませんよ!』

 

 呪力で強化した脚で全力疾走していていたのに、呪霊は軽々と俺たちに追いついた。それは呪力量も肉体的にも、俺たちより圧倒的に優っているという事だ。

 背を向け逃げるのをやめてチェロケースを投げ捨て、再び左手を刀に掛け呪霊に向き直る。

 

「『骨奪技巧』! シン・陰流居合『新月』!」

 

 剣閃すら認識できないほど、速さに特化した高速の居合で追跡者を迎撃する。二級程度なら容易く両断するその刃を、小さな木が生えた顔面向けて思いっきり振り抜くが、鎧のように硬い白い外皮には跡が残る程度だった。しかし、眼窩から生える小さな木は刃は受けて欠ける。

 どうやら、あの木は他に比べて脆いらしい。

 

「もう一発喰らいやが……」

「司條さん! 足元!」

「ッ! 助かった! 猪野!」

『外しましたか』

 

 もう一発刃を突き立ててやろうかとした瞬間、猪野の声に足元の土がわずかに盛り上がったのに気付く。とっさに後ろに飛び退くと、足元から剣山のように鋭く尖った樹々が勢いよく突き出た。もとよりカウンター狙いで刃を受けたのだろう。もしそのままあの場にいたら、身体中が穴だらけになっていたことにゾッとする。

 

「『獬豸』!」

『だから、効きませんよ』

「チッ!」

「クソ!」

 

 呪霊は瞬間的に発生させた植物をこちらにさし向ける。その速度は瞬き一つでもすれば反応が間に合わないほどで、その内の一本が頬をかすめて傷を創った。流れ出た熱い血液が頬を濡らす。

 

「『(レキ)』!」

「『獬豸』!」

 

 ガンベルトのポーチを開け、赤い紋章の刻まれた平たい石のような物を取り出して投げつける。初見の俺の攻撃は警戒したのか呪力で強化した右腕で受けたが、猪野の『獬豸』ほどの攻撃力のない『礫』は傷一つ与えることが出来なかった。

 

『もう終わりですか?』

 

 大きな樹の塊から何十本もの鋭く尖った樹々が飛び出し、面攻撃で襲いかかってくる。躱すことは不可能だと判断し、刀を納刀し再び居合の体勢をとった。

 

「『骨奪技巧』! シン・陰流居合『露払い』ッ!」

『凌ぎ切れますか?』

 

 過度な負荷に身体が悲鳴をあげる。身体を高速で捻り刀を振り、迫り来る樹の槍をなんとか凌ぐがその勢いは中々衰えない。

 

「『獬豸』!」

『邪魔ですね』

「『骨奪技巧』! シン・陰流居合『新月』!」

 

 猪野へと注意を向けた瞬間、樹々による攻撃の嵐が一瞬緩まった。その隙に猪野との間に飛び出し、無理をして刀を振るう。

 四度目のシン・陰流の技の模倣。三度の限界を超えたシン・陰流の技の行使に、身体中の少なくない筋肉が断絶したのを感じながらも無理矢理に模倣した技は、呪霊の呪力を込めた右腕で完璧に防御されていた。

 

「クソッ!」

『動きが鈍っていますよ?』

「な! しまっ!」

「司條さん!」

 

 完璧に防御された事と限界を超えた技の模倣による反動で、僅かに俺の動きが止まったのを呪霊は見逃さなかった。俺の足元に小さなツタを生成し、右足を絡め取った。

 

「ッ!」

『串刺しになりなさい』

 

 細長いツタとは思えないほどの強靭な力によって、身体が宙に持ち上げられて振り回される。勢いをつけ、剣山のように鋭い樹々が生成された地面に叩きつけるつもりだと、急速に迫る地面に発生した樹々を見て理解した。

 

以津魔天(いつまでん)!」

『いつまでぇ!』

 

 何とか刀で足を縛り付けるツタを切った。飛んでいる以津魔天を空中で蹴り飛ばし、身体を何とか剣山へ向かう軌道から逸らす。しかし、完全には軌道を変えることは出来ずに地面に叩きつけられた。背中を強打し、左腕に樹々が突き刺さる。

 

「グ、ガァァアァァア!」

『腕が潰れましたか。殺したと思いましたが、しぶといですね。……次は貴方です』

「ッ!」

 

 俺に左手の痛覚はない。だが、少しでも油断を誘う為に絶叫し悶絶する演技をする。その様子を見て絶叫を聞き、呪霊はしばらくは俺が戦闘にまともに参加できないと考えたのだろう。俺への警戒を解き、猪野の方に注意を向けた。猪野は悶えている俺の反対方向へ走っていて、呪霊の視界に俺は写っていないだろう。こっそりと刀を右手に持つ。

 

『逃げても無駄で……』

「『この怨み、晴らさでおくべきか』!」

『な、左腕が!』

 

 シン・陰流が使える腕は貴重だが、この状況でそんなことを考える余裕などなかった。一息の間に呪力を込めた言葉を言い切り、左腕を切り落とす。実力差によって発動するかが心配だったが、どうやら上手く発動したようだ。呪霊の白い袋に包まれている左腕に呪いが掛かり、同じような傷がついたのだろう。袋が血によって紫に染まる。どうやら、この呪霊の血の色は紫色のようだ。

 

 呪霊はこの状況に混乱しているらしい。腕が一つ潰れる程の大怪我をした敵が何事もなく立ち上がっている事、そしてその敵が自分の腕を切り落としたと思ったら、自身の腕に大きな傷が付いているという数多の不可思議な出来事が同時に襲ってきたのだ。無理もないだろう。いや、ここで少しでも混乱してくれないと、俺たちには生存の目はない。

 

「喰らえ!」

『ッ! 避けねば!』

 

 残った右腕で、胸元から呪符が何重にも貼られた膨張と収縮を繰り返す物体を取り出す。これが俺たちの切り札だ。

 俺のありったけの呪力を込めて、それを呪霊に向かって投げつける。しかし、奴も馬鹿ではなかった。今までの呪具より飛び抜けて多い呪力が込められたそれに、混乱していただろうに戦い始めてから一度もしなかった回避(・・)をした。

 

「猪野ォ!」

「『獬豸』!」

『そんなもの効か……な!』

 

 今までこの呪霊は全ての攻撃を避けず、その頑強な身体で受けてきた。自身の防御力への自負かは知らないが、それが奴の命取りになる。奴は何度も猪野の『獬豸』を受けているが、一度も避けようとはしていない。

 

 つまり、猪野の『獬豸』が対象を追尾することを奴は知らない。

 

 俺の投げた呪具を避けた呪霊に向かって、『獬豸』がその呪具を突き刺し一体化しながら追尾する。『獬豸』が呪霊に最大限に近づいた瞬間、俺は叫んだ。

 

「『心悸劫震(しんきこうしん)』!」

 

 轟音とともに、呪具は手榴弾のように呪力と血液を撒き散らして炸裂する。至近距離でその衝撃を受けた呪霊は、樹々を薙ぎ倒し森の奥へと吹き飛んでいった。

 

「……当たった、んすよね?」

「奴に変な術式がなければな」

 

 『心悸劫震(しんきこうしん)』は俺の術式で創れる呪具の中で、破壊力だけに限れば最も強力な呪具の一つ。実際、一度だけ祓ったことのある特級も殆どがあの呪具のおかげだ。奴に対し致命傷になるかは分からないが、それなり以上のダメージが入っていることを祈る。

 

朽鼠(きゅうそ)、以津魔天。奴の消えた方を見てこい!」

『ピィ!』

『いつまでぇ!』

 

 頼むからもう撤退してくれ、なんなら祓えててくれと願いながら奴が消えていった森の方を睨む。しばらくの間、俺も猪野も残った異形たちも、静寂に包まれた森の中で警戒を続けていた。しかし、どれだけ経っても薄暗い森の向こうからはなんの音もしない。

 

「……逃げましたかね?」

「だといいがな」

「一度俺らも撤退しますか?」

「ああ、そうし……危ない!」

『くぉん!』

 

 俺たちは、奴の消えていった森の方に注意を向けすぎていた。そのせいで、背後から音も気配もなく素早く伸びてきた樹の槍に気がつかなかった。

 

「ガハッ」

『まず、一人』

 

 気がつくと俺は猪野を庇っていて、胴体に樹の槍が深々と突き刺さっていた。



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第七話:術式開示と反撃開始

 意識がボンヤリとして、思考が定まらない。

 今俺はどんな状況だ。

 何をしていたんだ。

 

『猪野! やって欲しいことがある!』

『っ! なんすか!』

『それは──俺が持つ切り札を確実に当てるために、お前の『獬豸』でサポートをしてほしい!』

 

 後頭部と腹部がいやに熱を持っていて熱い。皮膚が裂け、血液が流失している。

 

『具体的には何をすれば⁉︎』

『あの呪霊は攻撃を受けるばかりで回避しようとはしていない。だからお前の『獬豸』の追尾効果を隠したまま、奴に避ける価値のない攻撃だと認識させるんだ。出来るか⁉︎』

 

 ああ、そうだ。猪野との任務中に特級呪霊と遭遇したんだ。立てた作戦はこれ以上ない形で成功したが、奴の方が単純に強かった。それだけの事だ。だから、俺は今死にかけている。

 

 少しずつ記憶が戻ってくる。俺は不意をつかれて身体を貫かれた後、そのまま近くの木に叩きつけられたのだ。軽い脳震盪でも起こしたのだろう。気絶してしまっていた。

 

「……今、どうなって」

『くぉんくぉん!』

「……狐狼狸(ころり)

 

 身体を貫いた樹の槍は、おそらくいくつかの臓器を傷つけている。だが、心臓や肺を潰されていなくて助かった。即死はしていない。俺たちの不意をつくために、速度特化で創造したのだろう。樹の槍はおそらく威力を捨てていて、細い樹であったのが幸いした。

 しかし、術師とはいえ身体に風穴が開くのはまずい。このままでは出血によってそう遠くないうちに死ぬだろう。

 

「……良かった。これは無事か」

 

 未だ出血が止まらず、血に濡れ赤黒く染まった懐にある硬質な感触の箱に傷がついていないこと──つまりその中身が破損していない──を確認し、俺の身体は酷い状態だというのにまず安堵した。

 

「……やるしか、ないか」

 

 だが、このままでは死ぬのも時間の問題だ。あまり使いたくはなかった手を使おうと、一つ決断する。

 震える手でポーチの一つを開けた。今にも気絶しそうな意識を何とか腹部の激痛で保ち、そのポーチの中の物体を取り出す。それは、赤褐色の粉末が入った半透明のカプセル。

 病院で処方される薬ではない。俺の術式で創った一種の呪具だ。いや、分類的には呪物に近しいか。これは本当に奥の手だ。寿命は削られるだろうが、仕方ない。

 

「『没薬』」

 

 カプセルを口の中に放り込む。胃だか食道だかが傷付き、口の中に迫り上がってきた鉄の不味い味がする血を水代わりに腹の中に落とし込んだ。その血の塊と共に嚥下すると、胃の底が溶かした鉄を飲み込んだのかと錯覚するほどに熱くなる。

 

「ぐ、が、ぎぐぐ」

 

 肉体の異物に対する拒否反応を示す苦痛に耐えていると、胃の底は溶け落ちそうなほどに熱いというのにそれに反比例して身体の末端から底冷えしていくのが分かる。まるで死屍(しし)になっていくかのように。

 身体に鈍く光を放つ赤黒い紋様が浮き出る。それと同時にカラカラだった呪力が再び湧きはじめた。痛みも幾分かマシになった。

 

 だが今の身体では戦えない。どうするべきかと、茫洋としながらも多少冴えてきた頭を回す。まず、戦える身体に治さなければならない。いや、この場合を正しく言い表すのは“直す(エバーミング)”か。

 

 呪力を反転させる。シラフでは全ての神経を集中させても、自分の身体限定で指の先を切った程度の傷しか治せないちゃっちい反転術式。しかし、この状態の身体ならば術式と併用することで、多少の傷は修復することが可能だ。すぐにでも行かねばならない所がある。

 

 後頭部と腹部の傷がグチュグチュと音を立てて塞がった。

 

 

 

 

 

『何処まで逃げるつもりですか?』

「ハァハァ! クソ!」

 

 司條が意識を失ってから、猪野は追いかけてくる特級呪霊の花御から命からがら逃げていた。心の中で置いてきてしまった司條に詫び、無事であることを祈りながら。

 

「『獬豸』!」

『先程は油断しましたが、結局これ単体では私にはダメージを与えることは不可能ですよ』

 

 振り向きざまに放った『獬豸』を、花御は油断なく呪力で強化した右腕で防ぐ。そして、樹々の槍を生成して猪野を襲わせた。

 

「っ!」

 

 猪野は転がるようにその樹の槍を避けるが、大きく体勢を崩してしまう。その大きな隙を見逃す花御ではない。再び樹々の大槍を生成し、その隙だらけの身体を貫かんと迫る。

 

「くっ!」

 

 猪野は次の瞬間に自分の身体を襲うだろう痛みに目を瞑って備えるが、いつまで経っても樹々の槍は身体を貫くことはなかった。

 

「……伽楼堕(ガルダ)! 司條さんは無事か⁉︎」

『ガァァアアァア!』

 

 しかし、服が何かに引っ張られる感覚と浮遊感にその瞑った目を開けると、伽楼堕(ガルダ)が猪野の服を人間の腕の方で掴んで飛んでいた。伽楼堕はどこから持ってきたのか、猪野には見覚えのない短槍をその鉤爪で掴んでいる。

 

 攻撃を躱された花御は伽楼堕を見て、殺したはずの式神使いの男がまだ生きていた事に驚く。そして、森の木々の間から和服の男がゆらりと現れた。出血が多すぎたのか顔の色は蒼白で、霊鬼のように不気味な雰囲気を放っている。露出している皮膚には濁った赤黒い斑紋が浮き出ており、その皮膚の上に赤黒い紋様が輝いていた。

 

『まさかまだ立ち上がれるとは、なかなか丈夫ですね』

「……昔の人々は木乃伊(ミイラ)を削った物を、あらゆる病毒に効く万能薬『没薬』として珍重したそうだ」

『……何を言っているのですか?』

 

 急に妙な事を言い出し話が噛み合わない司條に、花御は気でも触れたのかと思った。だが、構わず司條は口を開き続ける。

 

「何だろうな! 以津魔天(いつまでん)! “腕”を寄越せ!」

『いつまでぇ!』

『ッ! させません!』

 

 空を飛んでいた以津魔天がその鉤爪で掴んでいた、白い布に包まれた物体を司條の真上から落とした。花御はそれから感じる呪力は異常に“小さい”にも関わらず、先程喰らったあの炸裂した呪具以上の危険性を無意識的に感じ取る。それが司條の手に渡らないようにするため行動しようとした瞬間、司條が森全体に響くような声で叫ぶ。

 

「『葬頭河の淵より群れて出よ』! 『朽鼠(きゅうそ)』!」

『何をし……!』

『ピィピィ』『ピィ』『ピィ』『ピィピィピィ』

『新たな式神か!』

 

 司條の叫び声に呼応して、森の奥からいくつもの鳴き声が近づいてくる。その鼠のような姿の矮小な呪力しか持たない異形たちは、十数匹全てが花御目掛けて飛びかかった。

 

『この程度の式神など!』

「『(バク)』!」

『何ッ!』

 

 飛びかかった朽鼠たちは、全てが花御の目の前でその身体を四散させた。いくら一匹一匹の持つ呪力が小さくとも、それらの自爆が何十も積み重なると流石の花御とはいえその場でたたらを踏む。

 その間に司條は以津魔天の落とした物を掴み、白い布を剥ぎ取った。それはいくつもの呪符が貼られた左腕。何重にも堅牢に封印するかのように貼られた呪符の上からでも、極めて発達した筋肉が見て取れた。

 

「儀式省略! 強制換装! 『暴天』!」

 

 司條がその腕を肩口に押し当て接続した。妨害をすることが出来なかった花御は油断せず、司條の一挙手一投足を見逃ぬよう間合いを取って動きを待つ。腕の動作を試すかのように、司條は手のひらを開いたり閉じたりしている。

 やはり左腕からは極小の呪力しか感じられない。だというのに花御は身震いを催す脅威を感じ、それが酷く不気味であった。

 

「……行くぞ」

『なっ! 消え──グハッ!』

 

 司條の小さな呟きを花御が認識した瞬間、司條が消えた。気がつけば顔面を殴られ、樹々を薙ぎ倒しながら吹き飛んでいた。

 花御は決してよそ見などしていない。その事が意味するのは、ただ司條が特級呪霊の認識速度を超えて動いたという事。

 

 ──どういう事だ! 何が起きた! 

 

 花御は思考を巡らせ、その有り得ないはずの事象について考える。少し前までは自分でも対応できる程度の動きであったはずだ。あのシン・陰流とかいう剣術もそれなりの動きではあったが、今の動きとは全く比較にならない。あくまでもあの剣術は、研鑽を積んだ術師ならば到達出来るだろう領域であった。しかし、今の動きは違う。人間という枠組みを遥かに超えた化け物じみた動きだ。そこまで考え、花御は不審に思う。

 

 ──なぜ追撃が来ない? 

 

 あの身体能力であれば、間を与えず追撃をする事が可能であろう。そうしないという事が意味するのは、あの動きは何度もできるようなものではないという事。もしくは──それ以上に強力な手札がまだ残っているという事だ。

 

 吹き飛ばされた方向で、呪力が大きく膨れ上がっていくのを感じる。伽楼堕と呼ばれていた異形が持っていた短槍を、司條が構え呪力を込めているところだった。

 

 ──まずい! 

 

 気がつけば花御は司條に向けて走り出し、短槍を投擲される前に殺さんと動き出していた。あの身体能力で追いかけられれば、逃げ切る事はほぼ不可能だ。ならば、短槍に呪力を込め終わる前に殺さねばならない。

 

「伽楼堕! 時間を稼げ!」

『ガァァアアァア!』

『邪魔です!』

 

 司條もそれに気付き、上空で飛んでいた伽楼堕に命令する。空から襲いかかってきた異形に対し、花御は今までで一番巨大で鋭い樹を生成し、伽楼堕の首を刎ね飛ばす。その勢いで巨大な樹を司條の方へと差し向けるが、司條は空中へと飛んで避けた。

 避け場のない空中で身動きできない司條に狙いを定め、花御は自身の足元から鋭い樹を生成して攻撃する。

 

『なっ!』

 

 確実に当たるはずの狙い澄ました一撃は、司條を僅かに逸れた。花御を後ろから急な衝撃が襲い押し倒され、樹の槍の狙いが狂ってしまったのだ。

 

『式神ではないのか!』

 

 衝撃の正体を知るために視線を背後に向けた花御は、自分の背中にまとわりつく存在に驚愕の声を上げる。その理由は、首から上を失った伽楼堕が猛禽類の強靭な脚力を使い、鋭く尖った鉤爪を花御の背中に突き刺して地面に固定していたからだ。

 ただの式神なら頭部を大きく損傷してしまえば、何か特別な能力でもないと呪霊のように呪力に還るだろう。だが、伽楼堕は頭部がないというのにも関わらず行動を続けていた。花御を強靭な両腕で地面に押さえ続けている。

 

 式神ではないならこの呪力が漲る異形は一体何なんだと、地面に押し倒されながら混乱している花御に対し、司條が答え合せをするように口を開く。

 

「俺の術式は『死屍創術(ししそうじゅつ)』。屍を加工し、呪具や呪物を創り出す術式。この左腕も、その異形どもも、この短槍も、全て俺が創った呪具や呪物の一種」

『……! 術式開示か! 喰らいなさい!』

「っ! ……続きだ。俺はこの術式で呪具を創る際、呪具に縛りを付与する事が可能だ」

 

 花御は伽楼堕に拘束されながらも、司條に向かって樹の槍を伸ばす。司條は何とかして避けるが、花御は攻撃するのと同時に自身を拘束している伽楼堕にも樹を突き刺し、無理矢理にでも拘束を解こうとしている。

 

「本来は二級三級程度の呪具にでも、『使用回数』や『使用者』、『使用対象』についての縛りを付与する事で、瞬間的には一級を超える出力となる」

『ハァ!』

 

 花御は司條の持つ短槍に宿る呪力が莫大な量となっているのを見て、拘束から抜け出す事を優先した。伽楼堕の身体が樹によってもはや肉塊(ミンチ)となり、拘束が完全に外れる。

 

「そして素材の話だが、呪具の対象になる奴に殺された奴の屍から創った呪具は、出力が格段に上がるんだ。……ちょうどいい素材(砥川)があって助かったよ」

『クッ!』

 

 花御が司條に背を向けて走り出す。司條と花御の間に何十もの樹々が生成される。

 

 ──少しでも距離を稼がねば! 

 

 呪霊の本能がそう叫んでいた。人間の森への畏れを胎に生まれ落ちてから、未だ死の危険など感じたことはなかった花御だが、今確かに死が身近に迫っていることを感じ取っていた。

 

 しかし、森を駆け抜ける脚が空を切る。

 

「二番『霊亀(レイキ)』! 司條さん! 今だ!」

『なっ……!』

 

 茂みから飛び出した猪野は、サッカーのスライディングのように低い体勢で花御の脚元に滑り込み、その勢いで花御の脚を後ろから掬い上げるように蹴り上げた。猪野の両足には霊獣による特殊な性質を持つ呪力が纏わりついていて、地面を氷上のように滑るその動きは非常に素早く、死角から飛び出してきた猪野に花御は反応出来なかった。

 

「『仇討破魔槍(あだうちはまや)』ァァア!」

 

 司條は大地を抉り取るほど力一杯に助走し、左腕に持った槍を全身全霊の力を振り絞って投擲した。

 短槍の放つ赤い光が一直線に花御へと向かう。さながら夜空に走る一筋の流星のような輝き。

 

『グ、ガァアァアアァァ!』

 

 司條が投擲した短槍は、花御との間にあった樹々を軽々と粉砕し花御を襲う。空中で体を捻り呪力で強化した右腕で受けるが、穂先は腕を貫通して胴体にもその刃を喰い込ませる。

 

「『(ホウ)』!」

 

 破魔槍はその言葉に呼応して輝きを増し、さらに加速して花御ごと森の奥底へと消えていった。

 

 

 

 

 

 森の奥深くへと俺の投げた短槍の放つ赤い光が消えた後、奴の様子など確認せずにそこから背を向けて走る。

 

「猪野! すぐに撤退だ!」

「はい!」

「以津魔天! お前はケースを回収してこい! 狐狼狸! お前はカバンだ!」

『いつまでぇ!』

『くぉん!』

 

 猪野に声をかけ、脚を呪力で強化して元来た渡益村(とえきむら)の方へと向かう。登山道から外れた険しい山道を下りながら、俺は胸元からスマートフォンを取り出す。走りながら何度も補助監督に電話をかけた。

 

『もしもし、妻鹿です』

 

 三度目でようやく電話が繋がる。

 

「ハァハァ! 対象を捜索中に特級相当と思われる呪霊と遭遇! 対象は死亡! 呪霊の方と交戦したが、多分祓えていない! 応援を頼む!」

『な、は、はい! 了解です! 至急手の空いている術師を向かわせます!』

「頼む! できたら五条さんを呼んでくれ!」

『はい! 各所に連絡を取るため、一度切ります! ご武運を!』

 

 つーつーと電話が切られる。これでここに特級がいるという情報は報告できた。最低限の仕事はできただろう。

 感覚的に、あの呪霊を祓うことは出来ていない。だが小さくはないダメージを与えることができ、距離も稼ぐことができた。今が俺たちが撤退する唯一の機会。脇目も振らずに走り続ける。

 

 俺たちは必死に走り続け、日が赤くなってきた頃には村が見える所にまで来ていた。

 

「ここで待機だ! これ以上村に近づくと、奴が追ってきたら村に被害が出る可能性がある!」

「了解です!」

「っ、ハァハァ」

「大丈夫ですか?」

 

 立ち止まると一気に身体に負担が押し寄せてきた。身体に走る赤黒い紋様も掠れ、『没薬』の効果がほとんど切れている事を示す。

 『没薬』は屍毒によって身体を仮死状態にし、自分の身体を屍に見立て擬似的な呪具として強化し扱う劇薬の呪物だ。俺の術式は死屍にしか発動できない極めて範囲の厳しい術式のため、こうでもしなければ自身を強化できない。

 

「『解じ……! ぐ、は!」

「ちょ、どうしたんすか!」

 

 左腕の呪物もできれば使いたくない代物だ。その接続を解除しようとした瞬間、左腕が意思に反して動いて俺の首を圧し折ろうとしてくる。万力のような力で気道を潰され、呼吸が出来ない。何とか肺に残った空気を掻き集め、言葉を紡ぐ。

 

「……き、『きょ、うせい、かい、じょ』……ぷはっ。ハァハァ」

「ほ、本当に大丈夫ですか?」

「……何とかな」

 

 急に自分の首を絞め始めた俺に、猪野が心配の声を上げた。やはり、身に余る力は使うべきではないなと身に染みて実感する。

 

「その腕、何なんですか?」

「これは……極めて強力な天与呪縛を持つ素体から作った『換装義骸』だ。……学生時代の話だが、あの五条さんを殺しかけた化け物らしい」

「五条さんを⁉︎それは化け物ですね」

「そうだな。……まぁ、もう死んでいる。俺らが会うことはないだろう」

 

 呪力が一切ない天与呪縛だった男を加工したこの呪物は、呪符で何重にも力を制限しているのに化け物じみた出力を持っている。加工する際に自分の元々の腕を多少ツギハギしたのにも関わらず、完全に操ることができていない。

 おそらく天与呪縛の効果も生来のまま発揮されていないのに、あれ程の動きを可能にするのだ。元々がどんな化け物だったのか想像もつかない。そんな化け物を倒した五条さんも五条さんだが。

 

「猪野、俺が気絶してから時間を稼いでくれて助かった」

「いや、ただ死に物狂いで逃げてただけですって」

「それでもだ。そのお陰で俺が砥川の死体から呪具を創れた」

 

 気絶から目覚めた後に俺は砥川の死体を探し、術式によって呪具を創っていた。

 『破魔槍』はせいぜい二級程度の呪具だが、『術式開示』に『使い捨て』、『使用可能者は自分のみ』という三つの限定的な縛りと『素材が対象によって殺害された者の屍』という極めて限定的な条件、更に残りほぼ全ての呪力を注ぎ込み『暴天』で投擲するといういくつもの要素が重なり、何とかあの特級に効果的な呪具となった。

 

 それに、あの呪具を当てられたのは猪野が足止めをしてくれたからだ。俺一人ではとうに殺されていただろう。

 

「よくあの特級相手に飛び出せたな。まさか、スライディングを決めてやるとは思わなかった」

「あはは、マジで死ぬかと思いましたよ」

「特級相手にあんなに動けるんだ、一級に推薦してやろうか?」

 

 二級であるにも関わらず、特級でも相当強力な力を持っているであろう呪霊に対してよく動けたものだ。準一級程度ならなんの問題もないだろう。

 

「あー、気持ちはありがたいんすけど。俺は七海さんの推薦で一級に上がるって決めてるんで」

「そうか、確かにあいつは同級生の俺から見ても出来た奴だ。あいつの推薦のが俺より価値があるだろうな。俺より」

「ちょ、司條さんが嫌なわけじゃないですって」

「はは、冗談だ……悪い、限界だ。落ちる」

「え、ちょ、司條さん!」

 

 奴が追ってくる気配もなく、他愛のない話をしていると完全に呪物(『没薬』)の効果とアドレナリンが切れてしまったようで、意識が急速に遠くなっていく。今更ながら今日の短い間で胴体を貫かれ、大量の呪力を使い、いくつもの死線を越えていたことを思い出す。

 

 猪野の声も遠くなっていき、意識は深い闇に閉ざされた。



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第八話:応援要請と救援傭兵

 家族を燃やした能面の男に蹴られ意識を失った後、目が覚めると俺は和服を着て見覚えのない和室に寝かされていた。和服など夏祭りと七五三ぐらいでしか着た覚えのない六歳の俺は、まだ夢の中にいるのかと寝起きの溶けた脳で考えていた。

 

「……目を、覚ましましたか?」

 

 聞き覚えのない声。枕元からのその声に目をやると、上等な着物を着た女性が座っている。

 

「……おかあ、さん?」

「……いえ、私は貴方の母ではありません」

 

 その女性を母と見間違えてしまい、ふと口から言葉が勝手に出てしまった。たしかに少し似ているところはあるが、この女性ほど所作が上品ではなかったし、母はいつも明るく笑っている人だ。俺の言葉を否定したこの女性のように、酷く悲痛そうな顔をする人ではなかった。

 

 ああ、それに。母は、父は、妹は、家族は。

 

「本当に、みんな死んじゃったんですか」

「……はい。正体不明の呪詛師により、あなたの家族は皆亡くなってしまいました」

「……そう、ですか」

 

 この女性は不器用な人だ。まだ小さな俺に対し、現実を包み隠さず伝えるのはこの人なりの最大限の誠意なのだろう。色々と思い出し、堪えていた涙が溢れでてしまう。しばらく泣いてばかりいたが、着物の女性はただ悲痛そうな表情を深くして黙っていた。

 ようやく落ち着いてきた頃、着物の女性は口を開く。

 

「私は司條家当主、熾淨(しじょう)一門出身の司條(しじょう)瑞希(みき)。そして、私は呪術師です。呪いを扱い、呪いの災いから人々を守るのが私たちの仕事です」

「……呪い?」

「はい。きっと貴方も見たことがあるでしょう。他の人には見えない何かが。……そして、貴方には私たち司條家の断絶した一門、四仗(しじょう)一門の相伝術式が宿っています」

 

 真っ直ぐと俺の目を見ながら、着物の女性は言葉を続ける。

 

刻嗣(ときつぐ)さん。貴方には呪いを扱う力があります。そして、貴方の……正確には貴方の術式の“所有権”を私たちの家が主張しました。なので、今貴方を私たちが保護しています」

「……」

「しかし、まだ貴方の意思を聞いていません。貴方はどうし「その力をつかえるようになれば」……はい」

 

 気がつけば、女性の言葉を遮って口を開いていた。

 

「お父さんやお母さん、妹たちみたいな目に合う人は減りますか?」

「……はい。きっと」

 

 女性は一度目を瞑ってからそう答える。しかし、悲痛そうな声は変わっていない。むしろ、更に酷くなっていた。

 

「なら、今から貴方の名前は司條刻嗣です。四仗一門は既に絶えているので、私の養子となって頂きます。……刻嗣さん、これから宜しくお願いします」

「えっと……はい、おねがいします」

 

 差し出された手を取る。その手には所々古傷があり、母よりも硬かった。その手を強く握る。

 こうして、俺の名字は司條となったのだ。

 

 

 

 

 

「……っ」

 

 懐かしい昔の風景から目を覚ました。そして、意識を失う前に特級と戦っていた事を思い出す。

 

 奴は追ってきたのか。状況はどうだ。猪野はどこだ。

 

 いくつもの疑問が頭に湧いて出る。少しでも周りの様子を確認するため、辺りを見回そうとすると人の声が耳に入った。

 

「どうやら、起きたみたいだね」

「姉様を待たせて寝坊けるなんて、いいご身分ですね!」

「憂憂、彼は特級を相手取って戦ったんだ。むしろまだ寝ててもいいぐらいさ」

「姉様がそういうのならば! ……司條さん! 今すぐ二度寝し体を休めなさい!」

「……いえ、もう大丈夫です。状況は?」

 

 その声の主は、何度か仕事を共にしたことのある一級術師の冥冥とその弟の憂憂だった。高専に所属しないフリーの呪術師だが、その実力は俺よりも上だろう。補助監督が呼んだ応援の術師かと当たりをつけた。

 

「とりあえず、私が来てからも特に動きはないよ。烏たちを森に放って見張らせているけど、怪しい影はないね」

「それは良かった。猪野は?」

「彼なら今寝ているよ。彼も特級相手との戦いとその後の警戒で、かなり精神的にも肉体的にも疲弊していたからね」

「……そうですか。後で謝らなければ」

 

 俺が限界を超えたせいで、猪野に警戒のその全てを丸投げしてしまった事を申し訳なく思う。彼も特級相手で相当消耗していただろうに、一級の俺が先にへばってしまって情けない。猪野に相当高い焼肉を奢ろうと心に決める。

 

「村の人々は避難させていないんですか?」

「ああ。私達がここに着いた頃にはもう夜だったし、結構時間があったのにも関わらず呪霊は君たちを襲わなかったからね。件の呪霊は撤退したか祓えたと判断した」

「……そうですか」

 

 あの呪霊は祓えていないという妙な確信があった。しかし、今俺や猪野、村の人々が無事なのは純粋に喜ばしい事で、あの呪霊が再び襲って来なかったことに心から安堵する。

 窓から外を見ると、真夜中の闇に覆われた村の風景は静寂にこそ包まれてはいるが、呪いの気配はなく全くの平穏そのものだ。

 

「そうだ。いま何時ですか?」

「今かい? 今は……十二時前ごろだね」

「ありがとうございます。……俺は六時間も寝てたのか」

 

 確かにかなり無理をしたとはいえ、まだ敵が襲ってくるかもしれないのにそんなに寝てしまうとは。自分の不注意に恥ずかしくなるが、そんな俺に憂憂が口を開く。

 

「貴方、勘違いしています。姉様が着いたのは一日前、貴方は一日と六時間寝ていたんですよ?」

「な、そんなに?」

「まったく、姉様の貴重な時間をどれだけ使えば気が済むのですか?」

「憂憂、別に私は気にしていないよ。ただ、烏を森に放って警戒させておくだけで、一級任務と同じ報酬が支払われるからね。それに、お前とずっとゆっくり話せた」

「ね、姉様ったら!」

 

 急に二人の世界に入った冥さんと憂憂に置いてきぼりにされた俺は、想像以上に眠ってしまっていた事に驚く。それだけ無理をしてしまったという事だ。呪具も呪物もほぼ総動員して何とかな戦いだった。それに、あの特級と戦う前には見張りをしていたことも思い出す。本当に良く戦えたものだ。

 

「そうだ。少し見てもらいたい物がある。いいかな?」

「ええ、もちろん」

「……これに見覚えは?」

 

 冥さんはタブレットを操作して、一枚の画像を俺に見せてきた。一枚の紙に二つの顔が書かれている。何とも言えない味のある絵だ。しかし、その顔のうちの一つが襲ってきた白い呪霊に似ていた。

 

「……あります。俺たちを襲ってきたのは、この歯茎が剥き出しの方です」

「やはりそうか。これは、つい先日五条悟を襲った呪霊達らしい。最近過ぎてまだ君達に伝わっていなかったようだ。……まぁ、君たちを襲った方は仲間の回収をしただけらしいけどね」

「……待ってください。それは特級相当の呪霊が徒党を組んでいるということですか?」

「ああ、そういう事になるね」

 

 仲間の回収をしただけというが、あの五条さんから逃げることができるなど相当な実力がないと不可能だ。それに、あのレベルが徒党を組んで行動しているなど考えたくもない。

 

「冥さんがまだ警戒しているのは、その呪霊の他の仲間を警戒しているからですか?」

「ああ、そうだよ。……まぁ、報復に来るにしては遅すぎるから、そこまで警戒しないでいいとは思うけどね」

「そうですか。……そんなに危険があるのに、ずっと警戒をさせてすみません」

 

 冥さんの実力は一級でもかなりの上澄みだ。『黒鳥操術』という術式を極めることで特級すら屠る切り札までに昇華し、その肉体も極限まで鍛え上げられている。

 そんな姉と行動を共にする憂憂君も、おそらく何かしらの切り札は保持しているのだろう。

 とはいえあのレベルの特級相手が数体いるかもしれないこの場所に、俺の救援要請で彼女らが来てしまった事に申し訳なさを感じる。

 

「そうですよ! 姉様の身を危険に晒す可能性があるのにこんな場所まで来させるなんて! 貴方がその特級を祓えれば済んだ話じゃないですか!」

「憂憂、私は別に構わないと言っただろう。司條、君も気にしなくていい。むしろ、準一級程度の任務で特級とかち合ってしまった君達が可哀想だ」

「……そう言っていただけると助かります」

「ああ、そうだ。君の……『擬奴羅(キメラ)』だったか? あれが持ってきたケースも回収してあるよ」

「ありがとうございます」

 

 ずっと布団に入ったまま上体を起こして話していた事に気づき、さすがに救援に来てくれた人の前では失礼すぎると立ち上がる。血が足りないのか少しふらつき全身が筋肉痛で痛むが、死にかけからこの程度で済んだのだ。御の字だろう。

 ケースの状態を確認するが、少し汚れているぐらいで何ともなさそうだ。

 

「あいつらはどこに?」

「そのケースを持ってきた後、そこの鞄に入り自分で呪符を貼って封印したのかな? とにかく動かなくなったよ」

「そうですか」

「……しかし、面白いね。その子らは。君が気絶しているのに動いているし、自分自身で自分を封印するなんて」

「式神とは違って、俺の術式が関わっているのは創り終わるまでなので色々融通が利くんですよ。でも、結局は屍なので少しでも省エネしないと腐ってしまいます」

「ふぅん、一長一短ってことかな」

 

 式神だとかは術師が意識を失い、術式が途切れてしまうと解除されてしまう事が多い。しかし、俺の創った『擬奴羅』と呼ばれるこいつらは、完成時点で俺の意識とは関係なく稼働する。式神とは違い術者の呪力で身体を構成しているわけではないので、俺が死んだとしても誰かが呪力を込め続ければある程度は動き続けるだろう。

 

 これだけだと式神よりも使い勝手が良さそうだが、内臓だとか腐りやすいものを取り出し詰め物をしてもどうしても腐敗は進んでいる。腐敗が進みすぎると俺の命令を聞かなくなったり、襲いかかってくることもあった。あとその状態は臭い。偵察だとか隠密行動に使えなくなる。

 

 なによりの問題は、肉体があるため一般人にも見えてしまう事だ。人目のあるところでは、大型の『擬奴羅』は式神のように運用することができない。

 

「私はね、あまり戦闘に向いていない術式を持った君に、勝手にシンパシーを感じているんだ」

「冥さんが俺に? ……確かに戦闘ではあまり使える術式ではありませんが、俺には一応相伝術式としてある程度の使い方が伝わっていました。それなしで一級でも指折りの術師になった冥さんの方が俺よりよっぽど凄いですよ」

「姉様のお褒めの言葉が受け取れないのですか?」

「え、あー。ありがとうございます」

「ふふふ、謙遜しなくてもいいよ」

 

 憂君からの圧力に気圧されてそう答える。彼にとっては冥さんにシンパシーを感じられるという事は、かなりの名誉だという事なのだろう。しかし、謙遜しているわけではない。

 

 『死屍創術』は生産に特化した術式だ。自分自身が戦力になるというより、戦力を増やせる術式というべきか。この術式自体に戦闘能力はないが、『擬奴羅』のような戦力を創ることが可能であるし、創った物によって弱い者を強く、強い者を更に強くする事が出来るため自分で戦う必要はない。

 

「その術式が相伝術式として重宝されているのは、呪具を創り出せるところにあるのだろう? 戦闘面では全く役に立たない術式じゃないか」

「それは……そうですが」

 

 実際、家に残っていた術式の取説も呪具呪物の創り方ばかりで、自分が戦うための術式の使い方はほとんどなかった。せいぜいが『擬奴羅』の元となった『綴命畜生道(ていめいちくしょうどう)』という拡張術式。だがこれも、自分が直接戦うのではない。それもそうだ。この術式持ちを戦闘に出すより、もっと戦闘に向いた術式を持つ術師に創った呪具を持たせるほうがずっといい。

 呪具を作るためには時間と素材(死屍)が必要で、戦場では術式のない術師と何ら変わりない。今回はあの呪霊が俺が死んだと思い放置し、猪野が時間を稼いでくれたおかげで何とかなったが、それでもギリギリだった。

 

「……それで、そんなに俺を持ち上げてどうしたいんですか?」

「シンパシーを感じているのは本当だよ。……君がその術式でわざわざ戦いの任務に出る理由について知りたくてね」

「……」

「だってそうだろう? 危険な戦いの場になど行かずに安全な場所で呪具を創っていれば、楽に稼げるじゃないか。実に羨ましい」

 

 冥さんの言うことはもっともだ。俺が戦闘の場に行くよりも、呪具を創って他の術師に持たせた方がいい。補助監督だとか窓にも行き渡らせた方が呪霊の被害を減らせるはずだ。彼らの生存率も上がる。俺の術式はそれが出来る術式。

 しかし、俺はしていない。高専から呪具の納品の依頼を受けたり個人で取引をする事はあるが、それは戦闘の任務の合間でできる程度の微々たるものだ。

 

「その質問に答える前に、俺も一つ聞いてもいいですか?」

「構わないよ。何だい?」

「……冥さんは、何で呪術師なんかをやっているんですか?」

「私? 簡単な事さ。稼げるからだよ」

「はは、冥さんらしいですね」

 

 お金。随分と分かりやすい理由だ。だが、それはこの社会では十分に仕事に就く理由になる。呪術師だけに限らず、この社会で職についている理由でお金が目的ではない人はそういないだろう。

 だが、俺はそんな真っ当な理由でない。一個人的な感情による理由だ。

 

「……俺は、どうしても殺したい奴がいるんです」

「……復讐、か」

「はい。家族を殺した呪詛師を殺したい。そのために、この術式で強くならなければいけないんです」

 

 そんな非生産的な目的のために、罪のない被害者や仲間だった術師、動物達の遺体を切り刻み、加工している。それが死者の尊厳を踏み躙り、使い潰す行為だと知りながら。

 だが、この心に燻る家族を焼き殺した黒い炎のようなドス黒い感情は、奴の死体を見るまで消える事はないだろう。

 

「冥さん。貴方はフリーの呪術師だ。だからこそ、高専が知り得ない情報源を持っていますよね?」

「否定はしないよ」

「その情報源がどんな後ろ暗い奴等かは聞きません。その呪詛師について調べてくれませんか?」

「いいよ。私から聞いた話だ。勿論、それなりの報酬は貰うけどね」

 

 高専のマークしている呪詛師の情報は自分も目を通している。だが、奴に繋がりそうな情報はない。あの日から二十二年も経っていて、呪いという死に近しい業界だ。どこかでのたれ死んでいる可能性もある。それならそれで、家族の眠る墓に報告をしたい。

 

「はは、お手柔らかにお願いします」

「で、その呪詛師の特徴は?」

「『能面』……一番知られている女面を被った男でした。声からして若い男でしたが、二十年以上前の話なので、今は少なくとも四十以上でしょう」

「なるほど。術式は分かるかい?」

「……黒い炎を操っていました」

「分かった。それで調べてみるよ。何か分かったら連絡する」

「ええ、よろしくお願いします」

 

 そんな話をして、夜は更けていく。途中から俺も見張りに参加して警戒していたが、奴らが襲ってくる事はなかった。上の人らはもう危険性は低いと判断したのだろう。俺たちには昼ごろに撤退の命令が下った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 薄暗い闇に満ちた部屋の中、二人の人間が向かい合って座っている。片方は袈裟を着た男とも女とも見分けのつかない中性的な美形だ。

 

「失礼」

 

 もう片方の人物がタバコを取り出し、ライターやマッチを取り出すでもなく先端に指先を近づける。その指先から黒い炎が吹き出て火を着けた。顔は部屋の薄暗い闇で隠れていて見えない。

 タバコを咥え込んだ人物は、応接用の机を挟んで座る中性的な美形に対し、覗き込むような前屈みな体勢となり口を開いた。

 

「それで、五条悟を封印するってのは本当か?」

「はい。私たちにはその手立てがあります」

「あの化け物をねぇ」

 

 タバコを咥えた男は前屈みだった体勢を変えソファーへと深々と背を預けながら天井を見上げ、何やら思案しながら肺に行き渡らせた煙を深く吐いた。吐き出された紫煙が部屋の中の空気に溶けていく。

 

「勝算は?」

「勝算なしで手を出す相手だと思いますか?」

「ハハ、確かに」

 

 窓の外の厚い雲に覆われた月が、切れ目からその月明かりを覗かせる。薄暗い部屋にもその明かりが差し込んできた。翁面、尉面、男面、女面、鬼面、仏面、畜類面。いくつもの能面が壁中をびっしりと埋め尽くしたその悪趣味でぶきみな部屋に。

 

「……乗った。あの化け物がいたんじゃ、俺らは死ぬまで好き勝手できねぇからなぁ」

「決行日は十月三十一日。場所は渋谷。詳細は追って連絡します」

「ハハハ、ハロウィンか。人が多そうでいいねぇ。ハハ、ハハハ。ハハハハハ!」

 

 愉快げに笑い声を上げているその男の顔を、月の光が照らし出す。そこには笑い声とは対照的に、なんの表情も見出せない不気味な女面の能面があった。

 目の前の中性的な人物に冷ややかな目で見られているのに、能面の男はハハハ、ハハハハハと不気味に笑い続ける。不気味に、狂ったように。ただただ笑い続けていた。

 



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間章『酒語り』
第九話:術師達の酒語り


 夜の駅前でぼんやりと人を待つ。十数メートル程前方で少し前から、ストリートミュージシャンというのだろうか、ギターを持った男が歌い始めた。命がどうとか友情がどうとかの歌詞を血を吐くように懸命に叫んでいる。通行人は時折足を止めて歌を聴いているが、すぐさま人の波に消えていく。

 

 音楽に別に詳しい訳ではないが、俺はただ遠くから聴いていた。そういえば、父がギターを齧っていたことを思い出す。多趣味な人であった。

 

「司條、待たせましたか」

「いや、大丈夫だ。七海」

 

 そんな風にしていると待ち人が着た。背が高く色素の薄い髪をして、あまり見ないゴーグルのような形状のサングラスを付けている。大して待っていた訳ではなく、むしろ七海が着いたのは集合時間の十分前であったので気にしていない。

 目的地に向かって歩き始める。

 

「久しぶりだな。遠いとこに出張だったか?」

「ええ、北海道に」

「北海道? 神居古潭(カムイコタン)か?」

「いえ。アイヌ連は関係ありませんよ。札幌の呪詛師絡みでした」

 

 随分と遠い所への出張のようだった。しかし、七海が派遣されるような呪詛師などよほどの奴だろうと思う。

 

「面倒そうな案件だな」

「……いえ、案件自体はすぐ終わりました。ただ、あまり気分のよい話ではありませんでしたが」

「まぁ、そんなもんだろ。この業界なんて。お前風に言えば、クソってやつだ」

「……そちらは特級と遭遇したそうですね」

 

 少しからかってみたが、何と言うこともなく流された。なるほどこれが社会人のスルー力かと感心しながら、問われたことに対して口を開く。

 

「ああ、俺だけじゃなく猪野もだがな」

「よく生きていましたね」

「まぁ、何とかなったよ。いや、俺は死にかけたがな。猪野が中々いい動きをしてくれた」

「猪野君がですか」

「ああ」

 

 猪野が七海に推薦をしてもらいたいと言っていたことを思い出し、それとなく話を振る。一級への推薦は一級なら基本誰でもできるが、実は俺はあまりしたくはない。七海もしたくはないだろうし、他の一級もそうそうしたくはないだろう。

 自分の一言でそいつがより危険な任務に当たるのだ。間接的に殺す事になってしまう事もある。猪野は術式的にも、特級の前であれだけ動けた事も考えると準一級なら何とかはなりそうだ。しかし、七海に推薦を強制するのも申し訳ない。俺が猪野のためにできることはこれぐらいだ。

 

「お、着いたな」

「ここですか」

 

 そんなことを話しながら歩いていると、小さな洒落た外装のバーの前にまで来ていた。ここが目的地だ。ドアを開けると、カランカランとドアに取り付けられた小さな鐘が音を鳴らす。

 

「いらっしゃい」

 

 小洒落た外装に負け劣らず、黒と青を基調としたお洒落で落ち着いた内装だ。カウンター席の一番右側に俺が、その一つ隣に七海が座った。

 

「ご注文は?」

「俺はプレリュードフィズでお願いします」

「私はモスコー・ミュールを。あと、ナッツを二つ下さい」

「了解です」

 

 バーテンダーが注文を聞き、カクテルを作り始める。その様子をぼんやりと見ていると、七海が話しかけてきた。

 

「……そういえば、向こうでも五条さんとバーに行きましたよ」

「え、五条さんわざわざ北海道まで付いてったのか? てか、あの人下戸だろ」

「ええ、任務中ずっと付き纏われました。バーでもシンデレラを飲まされましたよ」

「はは、あの人甘党だもんな」

 

 そんな下らない話をしていると、まず俺の方のカクテルが出された。輪切りのレモンが入った、下部が赤みの強いピンク色で、グラデーションを描きながら上部にかけて色が薄くなっているカクテル。それがロックグラスに氷と共に入っている。丁度、上部の薄めのピンク色が、今日話をしようと思っていたあの少年の髪色と似ていた。

 次いで、七海の注文したモスコー・ミュールの注がれた銅のマグカップが出される。ナッツの入った皿も俺達の前に出された。

 

「乾杯」

「ええ、乾杯」

 

 お互いカップを持ち上げ、グラスをぶつけ合わずに小さく会釈をしてから口をつける。レモンの酸味とカルピスの甘みが混ざり合った味が口内に広がった。塩味の効いたナッツとよく合って美味い。あまりアルコールには強くない俺は、これぐらいの度数のお酒をちびちび飲むのが丁度いい。

 

「……五条さんから話は聞いてるか?」

「ええ、虎杖悠二君の事でしょう?」

「ああ、そうだ」

 

 俺の方から話を持ち出す。手元のグラスに目をやりながら。そこにはやはり、あの子の髪色に似たピンク色のカクテルが揺れている。

 

「悪い。七海。仕事を押し付ける形になってしまって」

「構いませんよ。事情は五条さんから聞いています。上に睨まれるなら、司條家全体に迷惑がかかってしまうあなたよりも、自分一人にしか迷惑のかからない私のがいい」

「悪いな。そう言ってくれると助かる。今日は好きなだけ飲んでくれ。俺の奢りだ」

「……なら、アラスカを一杯お願いします」

 

 いつの間にやら一杯目を飲み終わっていた七海が、さっそく次のカクテルを頼んでいた。七海は俺よりも酒に強い。北欧の血がそうさせるのであろうか。少し羨ましい。

 

「やっぱりお前酒強いな。アラスカって四十度ぐらいだろ?」

「これぐらいじゃないと酔えないので。それに、強ければいいという訳ではないでしょう」

「そうか? 俺は弱いの数杯でも酔っちまうから、強い酒を飲めるのはカッコいいし羨ましいけどな。沢山味わえるし」

「そういうもんですか」

「そういうもんだな」

 

 七海の前に、その髪の毛よりも薄い黄金色のカクテルが注がれたグラスが置かれる。俺では飲めないような度数の高いお酒。七海はそのショートグラスに注がれた液体を、一息に三分の一ほどを飲んだ。

 

「……虎杖君はどんな子ですか?」

「そうだな。数度話した程度だから彼の人となりを完全に把握できたとは思ってないが、間違いなくいい子だと思うよ。宿儺を宿し死刑になったのが可哀想だと感じる程に」

「なるほど」

「それに、初対面で問答無用で殺そうとした俺を笑って許した」

「いや、どんなファーストコンタクトですか」

「はは」

 

 それが事実なのだから仕方ない。あんな状況であったとはいえ、軽率な行為だったのを反省している。少し氷が溶けてきた手元のグラスで口を潤す。

 

「まぁ、何だ。術師どころか一般人の感性としても善性で明るい子だ。……灰原みたいにな」

「……」

 

 七海が残り少なくなっていたアラスカを一気に飲み干す。ナッツを少し摘んだ。俺もガラスの残りを飲み干した。

 

「……悪い。今する話じゃねぇなあ」

「……ええ、そうですね」

 

 灰原。彼は俺たちの同級生だった男だ。呪術高専という特殊な環境で、俺たちはそれなりに仲が良かったとは思う。一年に数人しか入学しないので、同級生が数人しかいないから当然か。俺が一応司條家という呪術の家の血を引いていたが、元は一般家庭の出身であるので、全員元々呪いとは近しくない生まれだったのも関係するだろう。

 暗くなった空気を変えるために、何か話題はないかと必死で頭の中を探る。一つ、見つけた。

 

「そういえば、ここで『百鬼夜行』の少し前に夏油さんと会ったんだ」

「……何ですって?」

 

 口にしてから気がつく。新たにあげた話題にも死が関わる話だと。この業界は余りにも暗い話が多い。しかし、七海の目がサングラスの奥で細められたのを見て、まだ誰にも話していない事だったと思い出した。

 

「……上に報告は?」

「してないな。『百鬼夜行』までお互いその内容を口外しない縛りを結んだ。……いや、結ばされた」

「事が終わってから言っても、何の意味もありませんからね。むしろ上に睨まれる可能性すらある」

「……お互い酒がなくなっちまったな。七海、何かオススメは?」

「……ギムレットはどうです?」

「いいね。じゃあギムレット二つお願いします」

 

 ギムレット。俺には少し強すぎるお酒だ。だけれど、これからする話は酔ってなきゃどうしようもないような話だ。そういえば、夏油さんと話した時も俺は無理をしてその強い酒を飲んでいた事を思い出した。

 

「ギムレットには早すぎる、か」

「貴方もあの本を読んだのですか?」

「いや、俺はお前と違って読書家じゃねぇからな。原典の方はしらねぇよ。ただ、そんな言葉を知ってるだけだ」

 

 七海と俺の前に、透き通った緑色が美しいカクテルが注がれたグラスが置かれる。ノレックスの言葉を借りると、どうやらここのギムレットは本物らしい。まぁ、俺はカクテルに拘りはない。気持ちよく酔えればそれで十分だ。

 

「……やっぱ、強いな」

「ええ。でも、中々いけるでしょう?」

「ああ、目が冴えるよ」

 

 少しだけ口に含む。確か、度数は三十度ほどだったか。普段は飲まないような強さだが、ライムジュースのお陰で思ったより飲みやすかった。

 その余韻を味わいながら、その際の夏油さんとの会話を七海に伝えるために振り返える。確か、雨が降った日の夜だ。

 

 

 

 

 

「隣、いいかな」

「……お好きにどうぞ」

 

 慣れないカクテルであるギムレットを頼んでしまい、少しばかり後悔していた所で随分と懐かしい声がした。その声に、つい反射的にそう答えてしまう。随分な大所帯が入ってきたなと思っていたが、まさかその団体がテーブル席にもカウンター席にも座らず、俺の周りを取り囲むとは思っていなかった。

 

 半裸の筋骨隆々な男に、帽子を被り何やら紐の呪具を構えた黒人の男。金髪の女に片目を隠した男。こちらにスマホのカメラを向けた制服を着た女の子に、首に縄が巻きつけられたぬいぐるみを持つこちらも制服を着た女の子。そして、俺の隣に座った袈裟を着た男。

 この団体はここが酒を提供するバーだと知っているのだろうか。未成年を連れて入っちゃダメだろ。条例がどうだかするんじゃないか。全員ともマスターが声をかけて退出させてくれないかと、少し現実逃避に陥る。

 

「そ、そ、それでさぁ」

「うん、うんうん、うん」

「ろ、ロックで。ロックで、ロックで」

『うま、うま、うま』

 

 ちらりと辺りの様子を伺うと、マスター含めて全員が正気ではなさそうだった。客が警察を呼んでくれることもなさそうだ。店の真ん中あたりには、体を丸めた胎児のようでありアリクイのようでもある呪霊が浮んでいる。おそらく、そういった術式を持った呪霊だろう。隣の男の術式ならそれができる。

 

「『獏獏』。非術師にしか効かない程度だけど、夢見心地にさせることができるんだ」

「……術式開示って、本人じゃなくても効果あるんですか?」

「ふふ、そんなんじゃないよ。ただ、安心させるために手札を教えただけさ」

「何百枚もある手札の一つを晒したところで、何の意味もないでしょうに」

 

 術式を持っているから等級にして準一級程度か。いや、先の言葉が本当だとしたら戦闘向けの術式ではないし、総合的には二級程度の呪霊だと当たりをつける。この程度の呪霊など、目の前の男にとっては捨て駒と変わりないだろう。

 

「……で、何の用です? 高専にテロ予告しに来た呪詛師様が」

「少し、話がしたくてね」

「脅迫の間違いでしょう?」

「みんな心配性でね。一級の君と話しに行くと言ったら、護衛をすると言って聞かなくてね」

「アポもなにも無かったんですが?」

「サプライズさ。驚いて貰えたかな?」

「ええ、心臓が止まりそうなほど。いや、もうすぐで止まるんですかね」

 

 目線を背後の集団に向ける。装備も何もなく、完全にオフな俺では抵抗しても数秒で鎮圧させられるだろう。そもそも、完全装備の俺でも目の前の男一人に勝てない。

 

「特級呪詛師である夏油さんが、俺みたいな大した実力もない術師を多勢で囲むような真似をするなんて、失望しましたよ。そんな格好をして教祖にでもなられたのですか? おめでとうございます」

「ふふ、少しは皮肉が上手くなったみたいだね。司條。昔はもっと丁寧な言葉遣いだったのに」

「十年近く会ってなければこんなものですよ」

 

 俺は少し酔っているのかもしれない。いや、こんな絶体絶命の状況にヤケになっているのだろうか。妙に口が回る。夏油さんを少し皮肉るような言葉に、後ろの呪詛師が殺気を飛ばす。だが、その殺気を夏油さんは微笑を浮かべて手で抑えた。

 

「まず、話だけでも聞いてくれるかな?」

「宗教の勧誘はお断りですが」

「そんなんじゃないさ。商談だよ」

「……ここはバーですよ? まず、お酒を頼んだらどうです?」

「確かにそうだ。……マスター、彼と同じのを」

「かしこ、かし、かしこ、まり」

 

 カウンターの中で妙な事を呟いていたマスターが、夏油さんの言葉に反応して動き出す。少し不自然でロボットのような動きだったが、一度動き出してからは慣れた様子でカクテルを作っていく。その様子を見ながら、彼が静かに口を開いた。

 

「君の死屍創術、その極ノ番が欲しいんだ」

 

 そう言った夏油さんの目は、にこやかながらも氷のように冷たい真剣さが宿っている。どうやら、かなり詳しく調べられているらしい。少し水滴のついたグラスに注がれているギムレットを、唇を湿す程度に飲む。目が覚めるようなライムの柑橘系の強い香りが口に広がった。

 

「……何のことですか?」

「惚けなくていい。色々と司條家の四仗一門について……いや、『屍仗』と言ったほうがいいかな。君と同じ術式を持った、過去の術師たちの伝承について調べたのさ」

「……」

 

 ダメ元でしらばっくれてみたが、夏油さんのその言葉に宿っている確信は一切揺らぐことはなかった。

 

「『悪辣にして冒涜、人の禁忌を犯し尽くす非道の術理。語るも憚られる其の秘奥。悍ましき技法であり、唯一の例外なく生命を奪う忌むべき外法』……過去の文献に書かれていたよ。いやはや驚いた。呪具、呪物を作る事ができる稀有な術式だと思っていたけど、そう謳われるほど強力な物だとはね」

「……そんな大した物じゃないですよ。あなたの呪霊操術の方が、圧倒的に汎用性も拡張性も高いでしょうに」

 

 話を少しでもすげ替えるため、目の前の夏油さんの術式を持ち上げる。お互い前もって準備が必要である術式ではあるが、彼の呪霊操術の方が圧倒的に強い。際限なく呪霊を取り込めるその術式は、文字通り汎用性も拡張性も際限がないと言える。

 

「褒めてくれているのかな。ありがとうと言っておくよ。だが、やはり私は君の極ノ番が欲しい。生産に特化した術式だからこそ創り出せる、その忌み物を」

「……あんな物、何に使うんです? 呪霊には効果ありませんよ」

「薄々分かっているだろう? 悟に使うんだよ」

 

 五条悟。現代最強の呪術師。目の前の特級が持つ強力な呪霊操術とも互角以上の格を持つだろう術式、無下限呪術をその身に刻む特級。少なくとも、俺では一切勝ち目のない相手だ。

 

「あの人に使ったところで、多分殺せません」

「多分、多分ね。それは、少しは勝ち目があると、君は考えていると受け取っていいのかな?」

「……殺すことはできないでしょう。俺はあれを完璧には創れません。俺には絶対に不可能です。調べたなら、分かっているでしょう?」

「そうだね。君が君である以上、絶対不可能だ」

「自分が創れるのは、精々擬似的で不完全な紛い物。……出力は格段に落ちます。あの五条悟相手だと、時間を稼ぐことが関の山です」

 

 俺の訂正するかのような答えに、夏油さんは笑みを深くした。天与呪縛で規格外のちゃらんぽらんになるかわりに、規格外の実力を得たのかと時々本気で考えてしまう程、化け物じみて強い五条さんが死ぬことは考えにくい。だが、あの悍ましい忌み物が、何も出来ずに破壊されることも考えられない。それほどまでに、あれは忌むべき物なのだ。

 

「そう、それでいいんだ。時間を稼げるだけで充分さ。保険として持っておきたいんだよ。様々な場合を想定するのは大切だ」

「分かりませんね。あなたなら、領域を持つ呪霊を何体か取り込んで襲わせた方がいい。出来るでしょう? 術式的にも実力的にも。あの五条さん相手でも領域内なら無限を中和出来る」

「確かにそうかもしれない。だけど、私は別にやりたい事があってね。そのためには悟を足止めする必要があるんだ。あ、ナッツ貰うよ」

「……」

 

 夏油さんは俺の前に出されていたナッツを無遠慮に摘み、マスターが差し出したグラスに注がれたギムレットに口をつける。「カクテルを飲んだことはなかったけど、なかなかイケるね」と少し驚いたように言って、半分程になったグラスをしげしげと眺めていた。

 

「……あなたは、何を企んでいるんですか」

「お、気になるかい?」

「ええ、まぁ。一応。呪術師としての道を選べば、特級として十分な給与も立場もあったはずだ。呪詛師なんかに身を堕とした理由は気になりますよ」

 

 夏油さんの片眉をあげながらの問いに、皮肉交じりの返答で俺は答える。だが彼はそんな皮肉など意にも介していないようで、待っていましたとばかりに話し始めた。

 

「まぁ端的に言えば、非術師の猿共を皆殺しにして術師だけの世界を作るんだ」

「……それ、本気で言ってますか」

 

 不可能だと、そうまず思った。なにを馬鹿なことをとも。あるいは、コイツ酒に弱いのかと。

 だが、そんな絵空事を自信満々に言う夏油さんの目に一切の冗談の色はなく、将来の夢を語る純真な子供のようにただただ透明に澄んでいた。流石は会話がドッチボールどころか、打ちっ放しゴルフぐらいにぶっ飛んでる五条さんの親友だった男だ。

 

「無論、本気だとも。無力で愚鈍な猿共のために、なぜ我々が命をかけねばならないのだ。奴らは我々の存在に目を向けず、知ったとしても排斥するだろう。自分たちが多数派だという下らない理由で。呪霊を創り出しているのは、自分たちの醜い愚かさだというのに」

 

 その言葉には、暗く重くどうしょうもない現実に対する怒りが宿っている。どんな出来事が夏油さんをこんな思想にしたのかを、俺に薄々感づかせた。

 

「刻嗣、君もわかるだろう? いや、君だからこそ分かるはずだ。君の術式に必要な術師の屍はなぜ生まれる? 呪霊がいるからだ! その呪霊はなぜ生まれる? 猿共がいるからだ! 術師という道の先にあるのは、仲間たちの、術師の屍の山だということにもう気づいているだろう?」

「……灰原」

「ああ、そうだ。彼は死ぬべき人間だったか? あんなにも善良な術師が、無知な猿共の恐れという胎から生まれた呪霊に殺されたんだぞ! 七海も君も死ぬところだった! 術師が、猿共を命をかけて守ることを強制されるこの世界の歪な構造を、本当に正しいと思っているのか?」

 

 七海と俺と灰原で行った任務。二級呪霊のはずが、おそらくは一級でも上位に位置する力を持っていた呪霊であった任務だ。そこで、灰原は死んだ。陰鬱な出来事に触れる呪術師であるのに、気持ちのいい人柄で善人と言うに相応しい人間だった。あいつが死んだことは、きっと七海が呪術師から離れる理由の一つにもなったはずだ。そう言えば、灰原は夏油さんによく懐いていたことも思い出した。

 

「……正しい、とは思えませんね」

「分かってくれるかい?」

 

 俺の言葉に夏油さんは少し嬉しそうな顔をした。確かに、俺たちは表立って賞賛されることのない職業だ。警察、消防士、自衛隊だとかも自分の身を危険に晒して人を救う職業だが、彼らのように俺たちの存在が賞賛される事は決してない。いや、この社会のどんな職業とも違い、そもそも俺たちの存在は知られる事はない。そして、どの職よりも高い殉職率だろう。安らかに病院のベットの上で死ぬことはまず出来ない。遺体が綺麗に残れば御の字だ。

 

「司條! 共にこの間違った世界を変えようじゃないか!」

「……」

 

 遺体。丁度、灰原の事を思い出した。俺たちを逃がすため囮になり、上半身しか回収出来なかった彼のことを。確か彼は、自分に出来ることを精一杯頑張るのは気持ちがいいと言って、呪術師をやっていた。

 あの軽薄でちゃらんぽらんな五条さんも、腐敗した呪術界を変えるために行動している。

 目の前の夏油さんも、何かしらの大義のためにそんな馬鹿げた事をしようとしているのだろう。

 

「……夏油さん。俺が術師をやっている理由。知ってますよね」

「……復讐だろう?」

「ええ、そうです。俺の家族を殺した呪詛師を殺したい。だから、必死にこんなクソみたいな術式を磨いてきました。だから、左腕を切り落としました」

「……」

 

 俺にはそんな彼らが眩しすぎる。どこまでも自分のために呪いの力を使う俺には。

 俺の行動理念は二十二年前のあの日から変わらない。ただ、復讐を果たす。その為だけに今の今まで生きてきた。そして、これからも。

 

「俺の家族を殺したのは呪詛師。奴はあなたの言う猿じゃない。結局、どこまで行ってもこの世界は歪んでいるんですよ。この世界を俺は変えることができない。夏油さんや五条さんのように圧倒的な力なんて持ってない。そんな力があれば世界を変えられるのかもしれませんが、俺は屍を切り刻んで呪いを刻む事しかできない。使い潰す事しかできない」

「……」

「俺は不確定な革命後よりも、現状維持を望む弱い人間です。自分にできることを精一杯しようとするだけの弱い術師です。だから、すみません。俺は夏油さんに手を貸せません」

 

 夏油さんの顔も見ずにそう言い切って、残っていたギムレットを飲み干す。少しぬるくなっていて、爽快なはずのライムの風味もよく分からなかった。人生最後になるかもしれないお酒なのに、味が感じられない。空になったグラスを見ながら、他人事のように少しもったいないなと思った。

 背後の集団の殺意はもうとどまる事を知らず。いつ殺されてもいいように覚悟だけはしていた。

 

「そう、か。なら、仕方ない」

 

 ずっと無言だった夏油さんが、感情の熱が感じられない冷たい声を出す。続く言葉で殺されるのだろうと思っていたが、意外にもそうはならなかった。

 

「じゃあ、もう退散するとしよう。要件は済んだ」

「……え」

「なっ! 夏油様!」

「いいんだ。ただ商談が破談になった。それだけの話さ。それに、目的の品物も足止めの保険。ミゲル。君なら他の戦力に頼らずとも、悟を足止めできるだろう?」

「勿論ダ」

 

 夏油さんは俺には何もせず、グラスの中身を全て飲んで立ち上がる。取り囲んでいた集団の一人が声をあげるが、彼はそれを諌めるようにしただけだった。

 

「これ。ここの代金。十万もあれば足りるだろ?」

「……殺さないんですか?」

「当たり前さ。私は術師には死んでほしくない。お互いの信念や大義を押し通す為に呪いあった上で死ぬのならば仕方ないが、ここで袋叩きにして一人を殺すほど私達は落ちぶれていないさ」

「感謝はしませんよ」

「別にいいさ。……あ、でも一応縛りを立てておこう。『百鬼夜行』が終わるまでここでの会話はなかったことにする。どうだ?」

「……いいですよ」

「なら成立だ。じゃあね。司條」

 

 夏油さんはそう言うと、カウンターにお金を置いて出口へ向かう。お付きの呪詛師はこちらを不満げな顔で見ていたが、トップが何もしない事を決めたのだ。不承不承といった様子で、ぞろぞろと夏油さんの後に続き出口に向かう。

 

「……殺さないでくれたお礼に、一つだけ。俺の知ってる唯一の五条悟の弱点を教えてあげます」

「……悟の弱点? そんなものあるのかい?」

 

 店から出る途中で振り返った夏油さんは、これ以上ない程に怪訝そうな顔をしていた。それもそうだろう。一番よく五条さんの最強さを知っているのは彼自身なのだから。

 でも、俺は知っている。彼が知らない、五条さんのたった一つの弱点を。

 

「ええ、ありますよ。とびっきりの弱点が」

「それは是非とも知りたいね。なんだい?」

 

 俺は出来るだけ笑わないように気をつけて、それでいて下らないとびきりの冗談を飛ばすように、しかし、重大な事を伝えるように重々しく口を開く。

 

「あの人、下戸なんですよ」

 

 俺のその言葉は、夏油一行を静寂に包み込んだ。お付きの呪詛師らがみんなぽかんとした顔を見せたのは傑作だ。だが一瞬間をおき、彼らはおちょくられてると思ったのか怒りの表情を取った。殺気を放つ彼らが俺に近づこうとしたのと同時に、一際ぽかんとした表情をしていた夏油さんが口を開く。

 

「……ふっ、ふはははは。そうか、そうか。ああ、そういえば、はは。あいつお子様舌だったな。ははは」

 

 はははと、しばらくずっと夏油さんは笑っていた。それを見て俺を殺そうとしていた呪詛師たちは、すこし困惑げな表情をして動きを止めていた。

 一頻り笑って落ち着いてきたのか、夏油さんが口を再び開く。笑いすぎたのかその目には少し涙が浮かんでいた。

 

「いいことを聞いた。はは、ありがとう。感謝するよ。司條」

「夏油さんは二十歳(ハタチ)過ぎてから五条さんに会ってないですよね。知らないのも無理はないでしょう。……一度お酒でも飲み交わしたらどうですか?」

 

 目尻の涙を指で拭いながら、微笑を浮かべて再び夏油さんは口を開く。

 

「それは無理だね。少なくとも、今の世界では」

「……そう、ですか。残念です」

「さぁ、みんな。もう帰ろうか」

 

 夏油さんは振り返り出口へ向かう。他の呪詛師は少し戸惑っている様子だったが、今度は少しの困惑をその表情に滲ませながら続いた。今度こそ出ていくのかと思ったが、出口の寸前で立ち止まる。そして、こちらを見ずに再び口を開いた。

 

「──もし、私が作り変えた世界でみんな生きていたら、みんなでお酒を飲み交わせると思うかい?」

「……無理でしょうね。きっと」

「そうか、そうだね。でも、私はやらなければならないんだ。私の為に、家族の為に」

「……」

 

 自分の両親を殺すほどの覚悟とはどれほどの物なのだろうか。その強い覚悟が込められた言葉に、俺は返せる言葉を持ち合わせてはいない。……その言葉を呟いた彼の後ろ姿は、自分の覚悟を確かめているようで、もはや引き返せないと自分に言い聞かせているようだった。

 

「ただ……みんなで、一度ぐらいお酒を飲んでみたかった」

 

 そのみんなというのは、誰までを指すのだろうか。夏油さんの今の仲間達か。五条さんや家入さんまでか。俺や七海、灰原までだろうか。もしかしたら、両親も含まれているのかもしれない。

 

「今度こそ、さらばだ。……死ぬなよ」

「……」

 

 カランと控えめな鈴の音が鳴って、ドアが閉まった。気配が遠くなり、呪霊の術式も効力を失ったのだろう。心ここに在らずといった様子だったマスターや他の客も、少し混乱しているが正気を取り戻している。

 

「……マスター、ギムレットをもう一杯」

「え、あ、はい」

 

 少しぼうっとしていたマスターにギムレットを注文する。どうにももっと酔いたい気分だった。

 俺は学生時代に、正直五条さんよりも夏油さんを尊敬していた。どちらのが強いとかではない。二人とも俺の物差しでは測れない強大な力を持っていた。麓から山を見ても、どれ程の高さか分からないようなものだ。ただ、強いて言うならば夏油さんは真面目だった。いや、今もそれは変わっていないのだろう。根底にあるものがひっくり返ったのだ。

 

 俺は呪詛師が嫌いだ。生まれ持った特別な力で他者を蹂躙するのはさぞ楽しいだろう。呪詛師から呪具を創るのはあまり心が痛まないのもいい。だが、夏油さんは嫌いになれそうになかった。

 

 自分の親を殺して呪詛師になった彼と、自分の親を殺されて呪術師になった俺。文字面だけで見れば対照的だが、その時の年齢やら思想やら状況やらは全く違う。彼の考えは俺には分からない。

 

 マスターが目の前にギムレットを置く。一度塩味の効いたナッツを口の中に放り込んでから、グラスを口へと運ぶ。だが、ライムの香りもジンの風味もよく分からなかった。

 

 

 

 

 

「……みてぇな感じだ」

「……」

 

 七海は俺の話をずっと黙って聞いていた。俺も七海も残っていたギムレットを飲み干して、やっとお互いに口を開く。

 

「よく殺されませんでしたね」

「はは、そこかよ。あの時は酔ってたんだ」

 

 それは本当だ。人間どうしようもなくなると案外腹をくくれるらしい。呪いに近い人間は口が悪いことが多いが、自分もその一人だったということだろう。

 

「……私も、夏油さんがあんな事を起こしたのを責めることはできません。やはり、この社会は呪われている」

「……そうだな。お前がいうなら、きっとそうだ」

 

 社会人としても社会に出て、そして戻ってきた七海の方が広く知っているだろう。俺よりもよほどできた人間だ。呪術師になるしか道がなかった俺とは違い、彼は自分で選んで呪術師をやっている。一度社会に出てから、こんなクソみたいな仕事を選んだんだ。いつ死んでもおかしくないこんな仕事を。俺はそんな七海を尊敬している。

 

「夏油さんはきっと──」

「──真面目すぎた。そうだろ?」

「ええ。そうですね」

「……」

「……」

 

 妙に重たい空気になってしまった。やはり、死者の話をするのは酒の席ではあまり良くないなと思う。毎年知り合いが死ぬこの業界だ。死なない年のが珍しい。知り合いじゃなくても、術師に補助監督、被害者の一般人だとか、きっと誰かは死んでいる。いい加減慣れなければいけないと考えるが、同時に慣れてはいけないなとも考えてしまう。特に、俺は死者への敬意を決して忘れてはならない。

 

「マスター、ギムレットをもう一杯」

「大丈夫ですか? 貴方あまり強くないでしょう」

「いいんだよ。こういう時は飲むに限る」

「……なら、私ももう一杯」

「お、流石だなぁ。七海。どっちが先に潰れるか勝負するか?」

「もう貴方潰れかけじゃないですか」

 

 七海が酔っ払いのだる絡みを見るような目で俺を見てくるが、俺はまだまだ大丈夫だ。自分のことは自分がよくわかっている。せいぜい今の酔っ払い度は……八割程度だ。

 そんな事を言っていると、俺の携帯が震えた。

 

「あ、悪い。少し席を外す」

「ええ、どうぞ」

 

 一度バーの店内から出て、通行人の邪魔にならないように道の端に行く。着信元を確認すると妹からのようだった。

 

「もしもし」

『ちょっとー、出るのが遅いんだけど』

「悪い悪い。酒を飲んでてな」

 

 少しむくれた様子の妹の声に謝罪する。確かに少し電話に出るのが遅くなってしまった。

 

『ふーん、誰といたの?』

「七海だ」

『え、七海さん⁉︎私もそっち行きたい!』

「バカ言うな。お前まだ酒飲める年じゃねぇだろ。それに京都からどうこっち来るんだよ」

『く、お兄ちゃんのケチ!』

「いや、俺関係ないだろ」

 

 妹は一度七海と任務してから、七海にかなり懐いている。まぁ、七海は色々しっかりしているし、頼りになるから尊敬されるのも当然のことだろう。そういえば、猪野も妹と同じような流れで七海を尊敬してるんだっけ。……俺の周り、みんな七海を尊敬しているような気がする。

 

『いや、新しい子を創って東京まで……』

「で、何の用だ?」

 

 何やらぶつぶつと言っている妹に聞く。俺たちはあまりお互いに連絡はしない。最後に連絡したのは、確か少し前の妹の誕生日だったか。

 

『ママが偶には顔を見せなさいだって。お兄ちゃん特級とやりあったんでしょ? あんまりママを心配させないであげてね』

「……ああ、そうだな。次の休みにそっちに行くと伝えといてくれ」

『伝えとくねー。あ、またお土産買ってきてね!』

「いや、勘弁してくれ。女物の服を俺が買うのは色々変な目で見られるんだ。今はほら、ネットショップとかあるんだろ? 金は出すからそれで買ってくれ」

『あー、ごめん。こっち山奥だからさぁ。電波が悪いみたい。ばいばーい』

「……切りやがった」

 

 言いたいだけ言って妹は電話を切った。京女は怖いというが、少なくとも妹にはそれが当てはまるらしい。俺が無理を言って本家のある京都でなく、東京を活動拠点にしているからかよく買い物に使われてしまう。お金自体は俺には趣味はないし、偶に外食に行くぐらいにしか使わないので問題ない。ただ、ポップな色が溢れる店に俺が入るとどうしても変な目で見られてしまう。

 本当に勘弁してくれと思っていたら、ポツポツと雨が降ってきた。その雨から逃れるためにバーの中へ入る。

 

「……誰からでしたか」

「ん、妹だよ」

「ああ、京都の」

 

 カウンターに透き通った緑色のカクテルが置かれた。そろそろ俺は限界だろう。七海の言う通り潰れかけている。思考がフワフワとしてきた。確かに飲みやすいが、やはりギムレットは俺には強すぎたようだ。

 

「ギムレットには、どんな意味があるか知っていますか?」

「……確か、(きり)って意味じゃなかったか?」

「いえ、直訳ではなく。カクテル言葉というやつですよ」

「あー、悪い。俺はそういうのに疎いんだ」

 

 いわゆる花言葉のようなものだろうか。グルメで読書家の七海とは違い、俺にはそういった教養がない。カクテル言葉なんて洒落たものがある事を今知った。

 

「それで、どういう意味なんだ?」

「『遠い人を想う』……だそうですよ」

「はは……それは、呪術師(俺たち)には丁度いいな」

「ええ、そうですね」

 

 お前が死んだらこれを飲んでやるよ。

 

 映画みたいに格好付けて冗談めかして言おうとしたが、ついぞ口を開くことができなかった。冗談として言うには、あまりに俺たちは死に触れすぎた。お互いいつ死ぬか分からない。死んだ人達を想うには、彼らは少しばかり多すぎる。

 だからどうか、また身近な人が死んでしまわないように祈りながら飲む。ライムの爽やかな香りが、一際強く感じられた。




この話は小説版の七海の北海道出張後のお話です。とても面白いので是非まだ読んだことのない方は手に取ってみてください。

あと全然関係ありませんが、夏油一行ではミゲルが一番好きです。



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第十話:呪霊達の酒語り

 さざなみの音が響く南国風の海岸沿い。リゾート地と見紛うほど穏やかなその場所には、小さな出店のような屋台があり二人の人影があった。その屋台は屋外でもお酒を楽しめるよう、最低限の器具を備えたバーだ。

 

「ねぇ、夏油。まだぁ〜」

「ふふ、ちょっと待ってね」

 

 バーのカウンターの椅子に座るのはつぎはぎ顔の男。真人と呼ばれる呪霊だ。だが、呪霊だというのにその所作は酷く人間じみていた。少し子供っぽい雰囲気であり、出店の中にいる変な前髪の男に話しかけている。話しかけられている夏油と呼ばれた男は、シェイカーにお酒を入れているようだ。

 

 そして浜辺にはリゾート地に不釣り合いな、そこら辺にありそうなマンションのドアだけが、どこの建物につながる入り口でもないのに直立している。その浜辺にぽつんとあるドアが開いて音を立てた。そこから、右手と胴体に小さくない風穴が空いた花御が現われる。

 

「お、花御、お仕事お疲れさ……え、その怪我どうしたの?」

「あの呪詛師、そんなに強かったかな? 花御なら戦いになってもすぐ殺せると思ったんだけど」

 

 軽くはない怪我をしている花御に、真人と夏油は少し驚いたような様子を見せた。森に潜伏している呪詛師を見つけ、引き入れるか殺すかの仕事を任された花御だが、呪詛師の想定される実力からして怪我をする事はないと二人は考えていたからだ。

 

『呪詛師はすぐに片付けましたが、高専の術師二人と遭遇しました。傷はその術師によるものです』

「その術師達は殺した?」

『いえ。彼方も撤退を狙っていて増援を呼ばれたようなので、万一を考えて私も撤退をしました』

「ふーん。その傷治さないの? 結構消耗しているとはいえ、呪力自体は足りてるでしょ?」

『どうやら妙な呪いがかかっているようで、なかなか治りそうにありません』

「花御、相手はどんな術師でどんな術式だった?」

 

 夏油の質問に、花御は戦闘中の事を思い出す。和服の司條と呼ばれていた男と、顔を隠していた猪野と呼ばれていた男。顔を隠していた方の術式は分からないが、和服の方の術式は覚えていた。

 

『片方は『死屍創術』と自分で言っていました。司條と呼ばれていて和服の術師です。もう片方の術式は分かりませんが、顔を隠していて猪野と呼ばれていました』

「ふむ……一級の司條刻嗣と二級の猪野琢磨かな」

「どんなやつら?」

 

 夏油は花御からの情報を聞いて、おそらくその二人だろうと当たりをつける。真人は花御にここまで傷を負わせた術師が気になるようで、その詳細を夏油に聞く。シェイカーを振りながら夏油は答えた。

 

「二人とも呪いを継ぐ家の出だね。死屍創術と降霊術の来訪瑞獣という術式だったかな」

「花御はどっちにやられたの? やっぱ一級?」

『ええ、式神使いかと見誤り、間合いと戦い方を間違えました』

「死屍()術だっけ? 屍を()る術式?」

「いや、死屍創術のそうは(つく)るの(そう)だよ。(あやつ)るの(そう)じゃないね。……でも、まぁ同じようなものかな」

「へぇーご大層な名前だね。屍を創る術式なんて」

 

 夏油が四つのカクテルグラスを取り出して、シェイカーの中身を注ぐ。大き目のシェイカーであったため、四人分でも丁度いい量であった。

 

「死屍創術は屍で呪具呪物を創る術式だよ。確かに物量には注意が必要だけど、君たちが油断せず立ち回ればなんて事ないさ。武器が無くなれば術式が無いのと同じ。……ほらできたよ。飲んでみて」

「ふーん。俺も一級ぐらいの術師と戦いたいなぁ。……これがカクテルね」

『何を飲んでいるのですか?』

「真人が急にこれを飲んでみたいと言い出してね。ほら、これが花御の分。おーい、陀艮の分もあるからね」

 

 花御はカウンターに置かれた白濁色のカクテルが注がれたグラスを手に取り、おそるおそる口元へと運ぶ。ライムだろうか。爽やかな匂いと酒精の匂いが混じり合う液体が喉を通る。ライムの柑橘系の強い香りは、森への畏れより生まれし花御には、存外心地の良いものであった。質の良い酒は、綺麗な水が欠かせないからかもしれない。ただ、この一杯のために人間がどれだけの美しき自然を破壊し、穢したのかという一点においてのみ、花御は不服ではあった。

 酒など呪霊には必要ないものだが、それは人間であっても同じ。生きるのに必要のないただの嗜好品の一つだ。人間は嗜好品という無駄を楽しむ。ならば、真に人間たる呪霊も酒を嗜むことは特段変わったことではないらしい。むしろ、酒という嗜好品が生み出す負の感情は、呪霊を生み出す胎盤となっているだろう。

 

「こんなの、何が美味しいんだか。人間は分からないね」

 

 いつの間にやら飲み終えていた真人は、初めての刺激に顔をしかめてそんな事を言っていた。どうやら口に合わなかったらしい。カウンターに突っ伏した。

 

『……どうして急にこれを?』

「んー? 本で読んで気になってね。このカクテルを飲みたくなったんだ」

『何か特別なものなのですか? これは』

 

 花御は真人が古今を問わず、雑多に本を読んでいるのを知っている。本と言えるのか分からぬ古い仏教やらの擦り切れた経典から、現在の作家が書いた詩集まで。最近では『雲の巨人』という詩集を読んでいたのを思い出した。

 

「ギムレットには早すぎる、か。やっぱりよく分からないや」

「それはこれが偽物だからかもね。本物はライムを絞って使わない。コーディアルライムを使うんだ。急に真人が飲みたいって言ったからライムしか用意できなかったけど、コーディアルライムも取り寄せようか?一週間もあれば手に入ると思うよ」

「別にいいや。思ってたより美味しくなかったし」

「ん、分かったよ」

 

 カウンターで色々と後片付けをしていた夏油も、グラスの一つを手に取った。温くなる前に飲もうとしたのだろう。慣れた動作で口元に運ぶ。

 

「……しかし、死屍創術ね」

「夏油、どうしかしたの?」

「ふふ。いや、少しね」

 

 何がおかしいのか、薄く笑っている様子の夏油に気がつき、カウンターに突っ伏していた真人が聞く。夏油も自分が笑っていた事に気が付いていなかったのか、真人に聞かれて初めて自分が笑っている事を認識したようだ。

 夏油は残ったグラスの中身を飲み干し、今度は明確に笑いながら答えた。

 

「屍を弄ぶなんて、趣味が悪いと思ってね」



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第二章『凶兆暗翳』
第十一話:本家にて


 生物が本能的に忌避する(にお)いが二つあると言う。

 

 一つ目は、自分を捕食対象とする動物のフンや尿の臭いだそうだ。自分より食物連鎖の上に立つ生物の縄張りに入らないようにするためだろう。こちらは余り人間には馴染みのない話だ。人間を捕食する生物などそういない。

 

 二つ目は、同種の死体の死臭だ。自らと同じ種が死んでいるということは、自らも死ぬ可能性がそこにはあるということだかららしい。もしくは、自分の死を想起させるからか。こちらは人間にも多少縁のある話だ。孤独死や他殺で亡くなった人の遺体を、知人が連絡が途絶した事を不審に思い見つける事もある。だが、異様な臭いがするからと死体が見つかることもまた多い。数少ない、まだ残る人間の本能的な部分だ。

 

 そんな死臭が、もはや壁に染み付き取れない肌寒い工房に俺はいた。いつまで経っても慣れないその臭いを、出来るだけ嗅がないようにしながら作業を進める。しゃりしゃりと、本来は仏像彫刻を彫り出す為の彫刻刀が、くすんだ白色の素材を削っていく。その白色の素材は象牙などではない。人間の大腿骨だ。削られ、槍の穂先のような形状となっている。表面には崩した文字のような紋様が彫られていた。

 

「……よし」

 

 削り出しと紋様彫りまではあらかた終わり、少し目を離して彫りが甘い所を探す。見つけた余計な所を削り取り、紋様の形を整えた。これでもうほとんど呪具は完成。最後に仕上げの段階に入る。

 

 近くの桶に入った汲み上げてきた地下水で一度手を注ぎ、そこからほんの少し水を掬って、手元の硯の陸に水滴を垂らした。彫刻刀ではなく鋭く研がれた小刀を取り出して、ライターでその刃を軽く炙る。十分に刃を加熱殺菌したあと、手のひらをアルコールで消毒した。

 

「……っ」

 

 その刃で右の手のひらを真一文字に切り裂く。呪術師とはいえ、やはり自分の身体を傷つけるのは慣れない。手のひらの傷から、つぅと血が流れ出した。手のひらに走る鋭い痛みに耐えながら、固形墨を手にとって墨をする。

 

「……」

 

 固形墨を俺の手のひらから流れ出る血が伝い、硯の陸で混ざり合って赤黒い墨となっていく。余計な水は最小限で、自分から流れ出る血を水差しの水代わりにし、血に呪力を込めながら無心で墨をする。墨の何とも言えない匂いと、血の鉄(くさ)(にお)いが混ざり合う。数分もするとその赤黒い墨は十分な量となっていた。固形墨から手を離し、手のひらに意識を集中させる。

 

「……ふぅ」

 

 手のひらの傷が、グチュグチュと音を立てながらゆっくり治っていく。反転させた呪力で傷を修復しているのだ。家入さんのように上手ではないし、自分にしか使えないちゃっちい反転術式。戦闘中に使えるような上等な技量は俺にはない。集中力と時間が必要だ。血墨を作った数倍以上の時間をかけて、ようやくわずかな痕を残して傷が癒えた。

 だが、それでも今日はいつもより治るのが少し早い。反転呪力の扱いが上手くなっているわけでは無いだろう。『没薬』の影響だ。おそらく、身体が死屍に近づいている。身体を一時的に仮死状態にし、自分を呪物として扱う為の劇薬など、副作用が無い方が有り得ない。だが、あの場では『没薬』を使う事しか生き残るための選択肢はなかった。多少寿命が縮まる程度の事は甘んじて受け入れよう。もとより、天寿を全うできるとは思っていない。

 

「『汝、魔を祓う槍、その鋭き穂先と成れ』」

 

 治った手で細筆を取り、血墨を筆先につけた。祝詞を唱えるように声を張り上げながら、彫り刻まれた紋様に血墨を入れる。間違えぬよう丁寧に、しかし力強く。

 

「『汝、馴れにしは我が手、我が戎具と成れ』」

 

 呪力を筆先に込めながら、言霊を刻み込むように筆を動かす。呪力を込められた血墨は、塗られた端からその場に定着していく。赤黒い輝きを放ちながら。

 

「『汝、輝く刻は一度、夜這星の如くに成れ』」

 

 全ての紋様に墨を入れ終わる。一度強く輝いて、紋様から光が消えた。術式の付与、縛りの付与は成功だ。血墨も十分に定着していた。これならば二級程度の呪霊は楽に祓えるだろう。

 

 ちらと外しておいた時計を見ると、針は十一時四十五分ごろを指していた。正午には昼餉ができるから来てくださいと、当主様に言われていた事を思い出す。テキパキと片付けをして、山に横穴を掘り作られた工房を出て一度風呂へと向かう。

 遺体を解体して素材を取り出したり等の下準備を今日はしておらず、あくまで紋様と形状の彫り出ししかしていない。しかし、流石に遺体に触れた手で食事を食べられるほど、術師とはいえ感覚は麻痺していない。それに、死臭が身体に多少は付いてしまっているだろう。何日も出し忘れた生ゴミのような、海の潮の独特な匂いを数十倍に濃縮したようなそれは、食事の場に相応しくない。

 

 誰もいない司條家の北殿、元々は断絶した四仗一門の住む場所。そこでシャワーを浴びて身体を清めた俺は、急いで当主様のいる南殿へと向かう。だが、北殿は他の一門の住む場所に比べてかなり離れている。屍を扱う家だ。あまり近づきたく無いのも分かるが。

 百年ほど前に四仗一門が滅亡したのも、呪術師同士の戦いだとかではなく、流行病で全員亡くなったらしい。他の一門に疎まれて毒を盛られた可能性もなくはないが、おそらくは病で亡くなった遺体から呪具を作ろうとしたからだろう。衛生観念がしっかりした今だからこそ、それが原因だと分かる。しかし、昔は急に一門全員亡くなったのを、今まで屍を弄んできた祟りがきたのだときみ悪がったそうだ。

 

 それにしても遠い。早足で石畳を歩く。やっとの事で本殿までたどり着いた。ここから南殿までは数分もかからない。少し遅れるぐらいで済みそうだと思っていたところ、本殿から出てきた人影がこちらを捉えた。

 

「穢れた術師が、何故ここにいる?」

 

 五十代後半の男性。醜いものを見るような目で、俺をジロリと睨め付けた。西殿に住む一門、詞諚(しじょう)一門の現頭目である司條義導(ぎどう)さんだ。出来るだけ刺激しないように、丁寧な言葉を意識して口を開く。

 

「……申し訳ありません。当主様に呼びつけられまして」

「あの女当主め。……逃げ出した分家の末裔を養子にしたと思ったら、当主に据えると言い出すとは、気でも狂ったのか」

「……私には当主様のお考えは分かりません」

「ふん。だろうな」

「……」

 

 言いたいことは言い終わったのか、一度強く俺を睨んでから西殿の方へと歩いていく。その姿が消えてから、再び当主様の待つ南殿へ向かおうとした時、今度は若い女性の声で背後から話しかけられた。

 

「あらあら、次期当主様は大変でございますね」

「……当主になりたいなら代わってやるぞ」

 

 にやにやと少しからかうような声で話しかけてきた本人の顔も、やはりにやにやとしていた。だが、そこに悪意は全くない。いつものネタでからかっちゃえ、とでも表現すべき気楽さがあった。

 

「この家の当主とか面倒くさそうだからヤダー。そういうのはお兄ちゃんがやってよ」

「仮にも現当主様の娘が、そういう事を言うな」

「お兄ちゃんもママの息子じゃん」

「俺は養子だろうが。香那(かな)みたいに直系じゃない」

「えー、そんなに血筋って大事? 血なんか繋がってなくても私達家族じゃんか」

「……そう言ってくれるのは嬉しいが、何より血は重要だ。何百年も呪いを継ぐ家ではな」

 

 何百年も続く家の直系の血を引く者としては、少しばかり緩すぎるんじゃないかと心配になってしまうのが、目の前で少し不服そうな顔をしている和服を着た妹の香那だ。個人的にその緩さは、人間性的には好ましいものではあるが、やはりそれなりの意識は必要だろう。この家(司條家)よりももっと歴史ある大家(五条家)のくせに、ちゃらんぽらんの目隠し(五条悟)がいるのだ。妹にはああはなってほしくない。

 

「ほーら、やっぱ面倒くさい。もっと気楽にいこうよ」

「あんまりそう言う事外でいうなよ。身内だけにしておけ」

「分かってるって、だからお兄ちゃんに言ってるんじゃん。……あ、言い忘れてた。おかえり、特級と戦ったんでしょ? 身体は大丈夫?」

「ああ、ただいま。身体は……まぁ、ぼちぼちだ」

 

 正直あまり調子は良くないが、それを香那に言って心配させる必要もないだろうと口を開く。香那は、ふーんと小さく相槌をして、南殿の方へと歩き出す。遅い俺を当主様に言われて呼びに来たらしい。俺もそれに続く。

 

「ねね、お土産って買ってきてくれた?」

「悪いが服だとかは買ってきてない。時間がなかったからな」

「えー、けちー」

「その代わりに……ほら、開けてみろ」

「わ、何これ。ブレスレット?」

 

 報告だとか呪具の納品だとかのごたごたで、こちらに来るまであまり時間が取れなかった。その代わりに呪物を一つ創り、渡すことにした。久々に会った妹に渡すのが、呪いが込められた物というのは我ながらどうかと思うが、実用的ではあると思う。

 

「霊璽『修祓死禊』。誕生日に何も渡せなかったからな、それにもう高専も卒業だろ? 卒業祝いも含めての贈り物だ。ブレスレットにするなり、ペンダントトップにするなり好きにしてくれ」

「え、ちょ、お兄ちゃんが創ったやつ? 高いんじゃないの?」

「散々服だとか買わせる癖に遠慮してんのか? 遠慮しなくていい。お守りみたいなもんだ。お前の術式は俺と同じで術者が弱点だからな」

「……そっか、なら貰うね。ありがとう」

 

 香那は、桐箱から取り出したリングを右手首に通した。ブレスレットとして使うことにしたのだろう。シンプルな銀の輪だ。中身はともかく、ガワは若者に人気らしいブランドのデザインを拝借した。俺には武器としての機能美はある程度理解できても、デザインセンスはからっきしだ。少し不安だったが、妹は手首に通した後呪具をしげしげと見て、そして満足そうな顔をした。どうやら、お気に召してくれたらしい。

 

「……ね。ちょっとお願いがあるんだけどさ」

 

 ちらりとこちらの様子を伺いながら、少ししおらしい声で香那は声を上げる。女性は生来の役者であるというが、妹も類に漏れないらしい。だが、赤ん坊の頃から面倒を見ている俺も、妹が次に何を言い出すのかぐらいは分かっている。

 

「悪いが、一級推薦なら俺はしないぞ」

「な、まだ何も言ってないじゃん!」

「何だ、違うのか?」

「違わないけど!」

 

 流石に会う度に推薦を強請(ねだ)られていると、いつその話をしてくるかぐらい分かる。香那は二級にしては十分やる方だ。家族ゆえ、あまり危険な目にあって欲しくないという思いもあるが、それでも準一級ぐらいならなんとかなるだろう。一級はまだキツイとは思うが。

 術式も司條家の相伝術式を継いでいて、俺の死屍創術よりも戦闘面で言えば圧倒的に強い。本人もいわゆる天才派というやつで、呪力を操るセンスも身体能力も高い。

 一級推薦の話自体は、二年の頃にもう来ていたらしい。だが、その話を当主様が握り潰している。それが不服なのだろう。さっきまでのしおらしさは何処へやら、むくれた様子で言葉を紡ぐ。

 

「歳下の子たちが一級推薦貰ってるのに、私が貰えないのおかしいでしょ! 京都校では私結構強いんだよ!」

「そうなのか」

「細目の加茂くんとだって本気でやり合えば勝てると思うし!」

「そりゃすごい」

「メカの究極(アルティメット)くんにも勝てると思うし!」

「それ本名なのか?」

「ムキムキの東堂くんにもめっちゃ頑張れば、頑張れば……か、勝てるビジョンが今はちょっとわかないけど、諦めなきゃいつか勝てるし!」

「諦めないのは大事だな」

「ねぇ! ちゃんと聞いてるの!」

「聞いてる。聞いてる」

 

 色々鬱憤が溜まっているのだろう。その吐き出し口にぐらいなら、なってもいい。それで多少の溜飲が下がってくれるならば。

 適度に相槌を打ちながら、妹の話に耳を傾けた。言いたいことは分かるが、当主様の心配も分かる。ただでさえ旧態依然の男社会の呪術界。危険な目から遠ざけるだけでなく、香那が一級に上がりもっと深い闇に触れるのを避けてあげたいのだろう。あの人は少し優しすぎる。俺も、香那の術師としては珍しい程の純真さが、人間のドス黒い悪意に触れることで擦れてしまうのは避けたい。

 

「……そういえば、俺が頼んでいたのは出来たか?」

「な、何の事?」

「おい、だいぶ前に頼んだやつだよ」

「あと少しで完成するから! 他人と契約する子なんて創った事ないんだもん!」

「……そうか、ならいいが」

 

 俺の戦闘面での最大の課題点を解決するために、香那にあるものを頼んでいたのだがまだ出来ていないらしい。まぁ、今は四年生時のモラトリアム期間とはいえ、高専に通って普通に任務をこなしているから仕方ないか。

 

「そんな事より、お願いお兄ちゃん! ママを説得してよ!」

「……黒閃が出せたら説得してやるよ」

 

 そんな事よりと、なかなか俺にとっては死活問題に関わる言葉が聞こえたが、そこは聞き流す。実際の話、一級になるには黒閃経験が欲しい。確かに香那は強いとは思うが、黒閃の経験はない。術式的に仕方ないかもしれないが、二級と一級の壁……いや、準一級と一級の壁はそこだ。自分の知り合いの一級は大抵黒閃を経験している。俺も伸び悩んでいた頃、黒閃を経験したのが一級になる一つの契機となった。

 

「な、ひどいよ! 術式的に私が近接することなんかないのに!」

「そもそも、当主様をあまり困らせてやるな。あの人も色々心労が絶えないんだ」

「ふん! あんな頭の固いママのことなんて知らないし」

「……私がどうかしましたか?」

「げ、マ……お、お母さま」

 

 いつの間にやら香那の背後にいた当主様、司條瑞希(みき)様が声をかけた。慌てて呼び方を変えた香那に、当主様は少し疲れたような顔をしながら口を開く。

 

「今は身内しかいませんから私を好きに呼んで構いませんが、外ではちゃんとしてくださいね」

「は、はい。お、お先に失礼します!」

 

 ビューンと擬音がつきそうな切り替えで、香那は南殿の方へ走って行ってしまった。少し緩めの香那は、固めの当主様が少し苦手らしい。

 

「……すぐ皆で昼餉を食べるというのに、あの子は」

「ちょっと愚痴っていたら、その相手が来たんです。居心地が悪かったんでしょう」

「……やはり、嫌われているのかしら」

 

 男社会の業界で何百年も続く家を、女性当主として守るための処世術だろうか。当主様はあまり感情を外には出さない。だが、流石に実の娘に避けられるのは堪えるようで、珍しく弱音を吐いた。

 

「いえ、そんなことはないと思いますよ。色々愚痴られますけど、今まで香那は当主様を嫌いだと一度も言ったことはないですから」

「だと、良いんですが……」

 

 それは慰めではなく、本当のことだ。香那は当主様を嫌いだと本当に言ったことはない。今の今まで一度もだ。苦手ではあっても、やはり嫌いではないのだろう。

 だが、当主様の表情はあまり晴れた様子ではなかった。香那が走っていった方を見てため息をつき、こちらを見上げる。

 

「あの子のようにとは言いませんが、貴方は少し固すぎます。もう少し気楽になっても良いのですよ。ここは貴方の家でもあるんですから」

「……そうですね。俺のせいですみません。香那の事、俺が早く当主になれば済む話ですもんね」

「それについて責める気はありません。元は司條家に殆ど関係のない貴方を、無理やりに当主にする為の私たちの政治的な問題。貴方が謝る必要はありません。……それに、あの子ではまだ一級は早すぎる。貴方が彼女に負けることはないでしょう?」

「それには同意しますが……」

 

 俺があまり香那に強く出られないのは、その負い目のせいでもある。呪術界は血統が重要視されるが、それは血に強力な術式が発現する可能性があるという実益的な面も大きい。つまり、呪術界は血統主義であると同時に、実力主義でもあるという事だ。それは矛盾するようで確かに両立する。

 分家の分家が一般人に帰化した家の俺が、何だかんだ次期当主として認められているのは、相伝術式を持ち一級術師としてそこそこの実力があるからだ。しかし、香那が一級になってしまうと、相伝術式を持つ直系の一級が存在してしまう。そうなれば、無理やりにでも香那を当主として祭り上げようとする奴らが現れる。つまり、今香那が一級になる事は当主になる事と同義。当主様は呪術界の家の女当主として味わうだろう苦しみを、我が子からは遠ざけてやりたいのだ。……俺も、香那は準一級はともかく、まだ一級では力不足であることには同意している。

 

「……やはり、俺の我儘のせいです。俺は奴を殺すまで止まれない」

「ええ、知っています。ですが、貴方が気にやむ必要は本当に無いのです。それに、子の我儘の一つぐらい私は受け入れます。私は貴方の母ですから」

「……ありがとう。母さん」

 

 俺が相伝術式を持つ一級として当主になり、その後に断絶した四仗一門を再興する。俺一人だけの形ばかりの一門だろうが、一門は一門だ。俺が無理やりに直系の一門となる。それまで香那が一級になるのは待ってもらうしかない。その間に十分な実力もつくだろう。

 

「……特級と戦った際、『没薬』を使ったそうですね。身体は大丈夫ですか」

「問題ありません。……いえ、少し不調です」

 

 問題ないと答えたが、当主様の目は俺の嘘などお見通しらしい。鋭くなった目に負け、本当のことを言ってしまった。

 

「貴方は次期当主として、必ず生きてこの家の当主となってもらいます。復讐は許しますが、死ぬことは決して許しません。分かりましたね」

「……分かっています」

 

 当主様は本当に優しい方だ。呪術師でも稀に見るほどに情に深い。そして、それは実の子でない俺にさえ向けられている。それはありがたい事で、同時に俺の命を縛り付ける枷となって離さない。俺を無理にでも当主にしようとする理由はわかっている。香那の母として、香那をしがらみが多い当主にさせない為だけではない。司條家の当主として、一族をより盤石にする為だけでもない。

 俺の母として、俺を当主という役職に縛り付けることで、無理をさせないようにする為だ。

 

 だが、俺は、もし自分の命を捨て、能面の男を殺せるならばどうするかという問いに、はっきりと答えることは出来ないだろう。

 



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第十二話:昼飯にて

 母さんと妹と昼飯を一緒に食べるなど、かなり久しぶりの事だ。半年ぶりぐらいかもしれない。あまり東京では食べる機会のない、鰆の西京焼きの身をほぐして白米と共に食べる。シンプルな塩焼きもお酒の肴として好きだが、味噌の風味がある西京焼きも白米と相性がよく箸が進んだ。

 

「ご飯おかわり!」

「はいどうぞ、香那さん」

「ありがとう!」

 

 香那が空になった茶碗を当主様に手渡す。ご飯作りやそれをよそったりするのを、当主様は自分でやるのだ。確かに術師は身の回りの家事ができる人は多いが、家にいる当主が直々にそういったことをするのは珍しいだろう。ご飯が山盛りになった茶碗を受け取った香那の手には、先程あげた銀色のブレスレットが揺れていた。

 

「お兄ちゃんはおかわりしないの?」

「俺はこれで十分だ。……最近高専はどうだ?」

京都校の(ひょうひょこうひょ)?」

「コラ、香那さん。食べ物が口に入ったまま話してはいけません」

 

 受け取った茶碗から搔っ食らうように白米を口へ運んでいた香那は、案の定当主様に注意をされた。背筋に鉄芯が入っているかのように真っ直ぐで、動きにくい着物でもそれを一切感じさせない品のある所作の当主様からしたら、香那の所作は司條家に相応しくないものだからだろう。身内しかいないため少し緩かったが、口に食べ物を入れたまま話すのは流石にアウトのようだ。

 しっかりと口の中のものがなくなってから、香那は口を開く。

 

「ごめんなさい。お母さん。えーとね、そろそろ交流会だからさ、みんな気合入ってるんだよね。だから、みんな遊んでくれないんだよねー」

「もうそんな時期か。お前は出な……ああ、三年までの行事だったな」

「そうなんだよ! 去年負けちゃって黒星で終わっちゃったからなぁ。それまで勝ってたのに! 特級なんてずっこいよ! 乙骨憂太め」

 

 確か、去年は東京校から一年生の乙骨憂太くんが交流会に参加したらしい事を聞いた。入学時から特級で、一度四級に降格したが再び特級になった化け物だ。五条さんとかなり遠いが血縁があるらしい。菅原道真の血どんだけだよと思っていると、香那がその話を掘り下げる。

 

「お兄ちゃんが高専生の時はどうだったの?」

「それこそ俺の時は、学生中に特級になるような先輩がいたからな。それも二人も。その先輩が出てた時は勝って当たり前だし、俺が三年の時の交流会もなんとか勝ったから全部白星だな」

「うわぁ、ずっこい」

 

 正直、それには同意する。五条さんと夏油さん、片方だけでも相当相手からしたら厄介だろうに、両方が揃って参加しているなど考えたくもないだろう。

 まぁ、あくまで交流会だ。勝ち負けに重きを置いている訳でなく、お互いの意識と実力を切磋琢磨するための行事。その点悔しがっている香那は、十分にその意義を果たしているといえよう。

 一度漬物を口に運んでから、味噌汁を啜る。わざわざ鰹節から出汁をとっているのだろうか。鰹の強い旨味が感じられた。

 

「お兄ちゃんはいつ向こうに帰るの?」

「ん、明日の朝一だな」

 

 味噌汁の入ったお椀を口から離し、机に音を立てないように置いてから答えた。帰ったら東京で呪詛師探しの仕事が入っている。

 

 捜索能力だけは他の一級に劣ってはいない自負がある俺には、その仕事はだいぶ楽な部類だ。それに、自分で殺した遺体(素材)じゃないと創れない呪具もある。そのためにも、新たな被害者が出ないためにも、早く帰って呪詛師を見つけなければならない。

 

「そっか。早いね。……ねね。じゃあさ、午後に久しぶりに手合わせしてよ」

「別にい──」

「──ダメです」

「……だそうだ。悪いな、香那」

 

 呪術師同士の模擬戦は、相当気心の知れた相手じゃないとまずい。お互いの術式を使い、手札を見せるのだ。どこから術式の情報が漏れるか分からない。

 

 司條家では、特に香那のように戦闘用の相伝術式を持つ術師は、戦闘を必要最小限にしろという教育をされる。その行き過ぎて臆病ともとれる方針のおかげで、司條家は今まで存続してきた。術式のある程度の概要は知られても、詳細な技や攻略法を確立されないために。

 

「えー、何で? 私の術式が漏れるような、外部の相手じゃないからいいじゃん」

 

 香那が口を尖らせて当主様にそう言う。香那は戦いが好きなバトルジャンキーではないはずだが、珍しく当主様に反論していた。もしかしたら、説得に手を貸してくれなかった俺をボコボコにしたいのかも知れない。

 

 司條家には五条家のように、圧倒的な性能を持った術式はない。加茂家のように、平安時代から正統派や伝統派だとか呼ばれるような実力を支える術式もない。強いて言うならば禪院家が近い。だが、司條家が出来たのは禪院家のせいだ。

 

 強力な術式持ちを取り込んで、その権勢をより強大なものにしていた禪院家に狙われ、家ごと取り込まれそうになった者たちが、「取り込まれ家名を奪われ、誰かにこうべを垂れるぐらいなら我々で協力しよう」という建前の元で手を組み、出来たのがこの司條家だ。

 

 とはいえ、俺も同じ家の者同士なら別に問題ないとは思う。しかし、当主様が止めるなら仕方ない。流石にまだ実力では勝っているはずだ。だが、十年ほど年の離れた妹にボコボコにされたら流石に傷つく。少し身体の調子が悪い俺を、当主様が心配してくれたのかも知れない。

 

「刻嗣さんはお休みの日にわざわざ京都まで来ています。一日ぐらい休ませてあげてください」

「……はーい」

「……それに、香那さん」

 

 わざわざ理由までつけて止められてしまい、香那は少し残念そうな声を上げながらも手合わせをするのを諦めたようだ。だが、当主様の言葉はそこで終わらなかった。

 

「貴女、刻嗣さんを倒して、一級推薦を貰うための理由にするつもりでしょう」

「……え」

「な、そ、そんな事ないよ」

 

 その当主様の言葉に、香那は明らかに狼狽している。その様子を見て、本当に俺をボコボコにするつもりだったのかと結構な衝撃を受けた。

 

「香那さんが夜な夜なこっそりと術式を使っているのを知っています」

「え、つ、使ってないよ」

「三日前ぐらいの夜に、『出来た! これでお兄ちゃんをフルボッコにして一級推薦させてやる! 待ってろ一級!』と叫んでいましたよね。……私の部屋まで響いてきましたよ」

「……」

 

 どうやら香那は俺をボコボコにするのではなく、フルボッコにするつもりだったようだ。当主様の呆れたと言わんばかりの視線が香那に突き刺さる。

 

 その意外に似ている声真似に、性格はあまり似ていなくてもやはりこの二人(・・・・)は親子なんだなぁと現実逃避気味に感じながら、正直少し傷ついていた。

 

 久しぶりに会った妹が、自分をフルボッコにする算段を立てているなど考えもしなかったからだ。いや、そうさせてしまったのは俺が説得に手を貸さなかったせいだから自業自得かと、そう考え始めた時に香那は口を開く。

 

「……も」

「も?」

 

 香那は下を向いてプルプルと震えていた。怒っているのかと思ったが、隠れてこっそりしていたことが全部バレていたのが恥ずかしかったのだろう。顔は怒りの赤というより、羞恥で耳まで真っ赤に染まっていた。

 

「もう忘れて! ごちそうさまでした!」

 

 香那は少し前に見たのと同じような切り替えの速さで、ちゃんとごちそうさまでしたと言って部屋を出て行く。いつの間にやらご飯も一粒残さず食べ終わっていて、そういうところは律儀だなぁと香那のその背中を見送る。

 

「……やっぱり、香那に何かしらの条件を与えてそれを達成したら、一級推薦をあげてもいいんじゃないですか? ……例えば、黒閃を経験するとか」

「そうすると、その条件を無理矢理に達成しようとして、無茶をする可能性があります。あの子はそういう子でしょう。黒閃を出すため、不得手な近接を仕掛けて格下に負ける可能性もある。……それに、黒閃は狙って出せるものじゃない。むしろ、狙って力めば力むほど遠のく。貴方も知っているでしょう?」

「……それは、そうですが」

 

 流石は当主様だ。俺なんかよりも、よほど香那のことをよく分かっている。当主としての目によるものか、母としての愛というものか。いや、親であれば誰でも、自分の子が死ぬかも知れない仕事に送り出すのは絶対に嫌だろう。

 それを本人が望んでいても、子供が傷ついて嬉しい親がいるはずがない。目の前のいつも感情を外に出さず、私情を抑え込んでいる当主様でも同じか。

 

 ……そういえば、彼女が泣いたのを二度だけ見たことがある。

 

 一度目は当主様の夫、俺からすると義父が亡くなった時。まだ香那が生まれてすぐ、術師であった義父は呪霊に殺されてしまったのだ。一度目の時はまだ分かった。子を成した夫を亡くしたのだ。泣いても当然だ。むしろ、今まで強い感情を見せてこなかった彼女に、「ああ、この人も泣けるんだな」と安心すらした。

 

 二度目は、俺が左腕を失った姿を見た時だ。

 左腕を失った俺を見て、ただだだ悲痛そうな顔で俺の肩口を確かめるようにさすりながら、声を押し殺して泣いていた当主様の姿を忘れることができない。当主様が「ごめんなさい、ごめんなさい」と、何度も嗚咽ととも俺に謝っていたのを覚えている。

 

 その時の俺は、復讐を果たすためだけに生きていた。わざわざ司條家のある京都の高専ではなく、家族が眠る東京に住み、復讐心を絶やさぬようにするほどに。そんな俺が少しでも強くなりたいと乞い願い、得た結論が自分で腕を切り落とすことだったのだ。

 

 一種の縛り。後天的な肉体的欠損による呪力出力の増大化を狙ったそれは、天与呪縛による肉体の欠損から着想を得た。

 更に、自分の切り落とした腕を解剖し、関節の可動域を、筋肉の柔軟性を、骨格の形状を直に触れて知る。その過程で術式の解釈を広げ、深めていった。例えば、切り落とし脱落した身体の一部は死屍として解釈される事など、そんな新たな知識がどんどん増えていく。

 

 自らの腕を切り落とした俺を狂ったと罵った者もいたが、俺は復讐のための知識が増えていくのを楽しんですらいた。

 

 そして欠損による戦闘面の不利を補うため、元々あった『義骸』という呪物を発展させて『換装義骸』を開発する。それは一種の義手であり、素材に応じた効果を持つ呪物だ。

 それを左腕として使うことによって、縛りを破ってしまうかもしれない可能性はあった。しかし、術式の解釈を深めていた俺は、無意識のうちに大丈夫だろうと理解していたのだ。

 

 天与呪縛のサンプルケースは少なかったが、その数少ないサンプルの一人に与幸吉という子がいた。その子は肉体の一部が欠損していたが、傀儡操術という術式で視覚もリンクした傀儡を操ることが出来る。

 俺のしたことはそれと変わらない。あくまで義手のようなものとして、左腕の代わりに呪具を使ったのだ。もし家入さんに頼んで反転術式で治していたら、縛りは効果をなくしていただろう。義手を使っても本質的に治ったわけではないし、自らで腕を切り落とすというのが、おそらく一番縛りとして大切な部分であった。

 

 そうして上昇した呪力出力と深まった術式の解釈によって、俺は以前よりも格段に強くなり、一級推薦を貰うほどになった。その頃に当主様から本家に一度呼び戻される。俺は自分が強くなった事に酔っていて、褒められるのだろうかとその時は呑気に考えていたのだ。腕一本でこれならば、縛りの効果の底上げを狙い、両脚も切り落とそうとも本気で考えていた。

 

 だが、待っていた当主様は苦虫を噛み潰したような顔をしていて、 俺にはその理由に全く心当たりがない。ただ一言、「……左腕を見せなさい」と言われ、言われた通りに義骸を外した左腕を見せた。先のない肩口をジッと見て、確かめるように震えていた手で俺の左肩をさすり、そして泣き出してしまったのだ。

 

 その瞬間の俺は、本当に何故当主様が泣いているのかが、全く検討さえつかなかった。尊敬する当主様が急に泣き出した事に、何かしてはいけない事をしてしまったのかと恐怖さえ抱いた。本当にバカだ。答えは簡単で、当主様は俺の事を心配してくれただけだというのに。

 

 そんな優しい()を、再び悲しませるような事はしたくない。香那が力不足のまま一級に上がり、もし死んでしまうようなことがあれば必ず母は悲しむだろう。断言できる。俺の推薦によってそうなってしまったら、悔やんでも悔やみきれない。

 

「……ごちそうさまでした。美味しかったです」

「お粗末様です」

 

 カラカラになった喉を緑茶で潤し、礼を言ってから席を立つ。鰆の西京焼きは、俺がこの家に拾われた頃に始めて美味しいと言った料理だ。

 

 死んでしまった母が、祖母から教えてもらったというそれにとても似た味で、始めて食べた時に親を思い出して泣いてしまった事も思い出した。それ以来、よく食卓に出してくれるようになったし、今も時々に俺が本家に帰った時は、いつもこの料理を出してくれる。

 

 俺を養子にした時はまだ二十代前半であったのに、懸命に俺の母であろうとしてくれた。その恩義には、必ず報いなければならない。

 

 南殿から出て北殿に戻る道すがら、そんなこと考えながら歩く。十数分も歩いてようやく北殿へと着いた。汚れてもいい服、作業着のようなそれに着替え、北殿の裏山に横穴を掘って作られた工房へ向かう。

 

 死体安置所と呪具呪物の製作所を兼ねた工房。一種の結界が張られた工房は、ネズミやウジ、蝿だとかの命ある下等な呪力を持つ生物では入ることができない。ここに入れるのは、一定以上の呪力を持つ術師、もしくは命ない屍だけだ。

 

 小綺麗ではあるが、悍ましい死の匂いが染み付いた薄暗いその部屋で、陽が落ち採光窓から光が入らなくなるまで呪具を作り続ける。青白い皮を剥ぎ、硬くなった冷たい肉を削ぎ、骨から彫り出していく。いつまでも慣れない死臭に耐えながら、ただ黙々と。

 

 

 

 

 

 時計の短針が指し示すのは十一時頃、南殿で当主様が用意してくださった夜ご飯を食べ終わり、北殿に戻って今日三度目のシャワーを浴びた後だ。布団を敷き、俺は胸元からある物を取り出した。

 

 それは匣だ。

 

 大きさだけいうならば、丁度香那に渡したブレスレットの桐箱と同じほど。ただ明らかに違う箇所があるとしたら、悍ましい物を封印するかのように、血で書かれた呪符が隙間なく貼られている事だろうか。

 

 俺は布団に入り、その匣を大切なものを扱うかのように両手で包む。そして、ありったけの呪力を流し込んでいく。

 

 呪術師としての才能は呪力量の多寡だけでは決まらない。だが、多い事に越した事はない。俺は二十二年前のあの日の光景を思い出す事で、負の感情がとめどなく溢れ出る。

 

 目の前で両親と妹が燃やされる恐怖。

 何も出来ない自分の無力さへの絶望。

 そして、あの能面の男に対する殺意。

 

 その負の感情に付随して、膨大な呪力が腹の底から湧き上がってくるのだ。その点でいえば、俺には呪術師の才能があるらしい。それが奴に起因する物だという点で、内臓が焦げ付くような苦々しい憎悪も湧き上がるが。

 

 いや、そもそも思い出す必要すらない。焼印のように魂に焼き付けられたその記憶は、目を閉じるだけで鮮明にまぶたに浮かぶ。視覚だけではない。吐き気を催す家族の焦げた肉の臭い。鼓膜を破りたくなるような家族の断末魔。全てが鮮明な感覚で残っている。

 

 約二十二年間、普通に寝る前には、必ずこの事を欠かした事はない。奴への怨みを湧き上がらせながら、呪力を込め続ける。込めて、込めて、込めて。限界まで呪力を振り絞り匣の中に込めた後、俺は気絶するかのように眠りに落ちた。



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第十三話:高専にて

このお話では、映画館での改造人間の設定に小説版のお話を取り入れていますが元のお話を知らなくても読めます!ですが北國ばらっどさんの小説版はどちらも本当に面白いので、呪術廻戦が好きなら是非一度手に取ってみてください!




 窓から見える外の景色が流れていく。今はちょうど、愛知と静岡の県境ぐらいだろうか。あと数時間もせずに東京に着くだろう。

 

 京都駅で買った八ツ橋をつまんで小腹を満たす。今はどこでも大体の銘菓は買うことができるが、なるほど、確かに現地で買ったほうが美味しいような気もする。五条さんの言っていた事に賛同するのは癪だが、珍しくあの人が正しいと思えた。

 

 無駄にでかいチェロケースを後ろに置くためのスペースがあるこの座席、特大荷物スペースつき座席を伊地知がいつも予約してくれるので助かっている。八ッ橋は伊地知と五条さん用のお土産も買った。伊地知にはいつもの礼で、五条さんにはだる絡みされないようにだ。

 

 そういえば、そろそろ七海が虎杖くんと任務をしている頃だろうか。まぁ、あいつ(七海)なら心配いらないだろうと、再び流れていく窓の外の景色に目を向けた。

 

 

 

「家入さん、どうかしました?」

「司條、ちょうど良かった。少し手を貸してくれ」

「別にいいですけど……解剖ですか?」

 

 東京校の高専の休憩所。あまり品揃えが良くない自動販売機の前で、どれにしようかと指をさまよわせていた所を家入さんに捕まった。適当なお茶を買い、家入さんの後ろを歩きながら話を聞く。

 

「ああ、検体が二つある。片方頼みたい」

「分かりました。どんな呪いの被害者ですか?」

「……見たほうが早い」

 

 俺には専門的な医学知識はないが、呪いで亡くなった遺体ならば呪術的な面から死の原因を推測できる。術式によって、鮮度の良い遺体なら無理やり情報を抜き出すことも出来るのだ。そのため時々家入さんの解剖を手伝いする事もある。

 

 年に一万を超える行方不明者の大半が呪いの被害者だ。彼らの遺体は呪霊という存在を秘匿するため、高専で内密に処理される。そこから俺の素材となる遺体も多い。というか殆どがそうだ。

 だが、呪いに殺された人の遺体が遺族に返還される事はほぼない。それもそうだ。バスケットボールぐらいの大きさに圧縮された遺体や、血を全て抜かれ干からびた遺体など、明らかに一般人からしたら超常的すぎる。呪術師は呪霊を祓うだけでなく、呪いという超常的な現象を秘匿し、民間人の心の安寧を守らなければならない。

 

 家入さんは高専でも希少な、他者に反転術式を施せる術師。流石に一万近い呪いの被害者の全てを家入さんが解剖するわけではないが、少しでも負担は軽くすべきだ。手伝いを頼まれた時は大体引き受けている。

 今回も何かしらの呪いの被害者の解剖だろうと、そう当たりをつけ詳細を聞いた。だが、結構しっかりと物を言う家入さんにしては、今回は珍しく口ごもっていた。少し不吉な予感を感じながら、高専の解剖室へと向かう。数分歩き、ようやく目的の場所へと着いた。

 

「……これが今回の検体だ」

「……こ、れは、呪霊? ……いや、それなら」

 

 ──ありえない。そう続く言葉を口に出す事は出来なかった。

 

 解剖台に置かれていた遺体は、醜い狛犬のような異形と三流スプラッタホラーに出てきそうな異形だ。少なくとも、人間のようには見えない。むしろ呪霊に近い姿だ。だが、完全に生き絶えているにもかかわらず、その身体は残っている。

 

 呪霊ならばそれはおかしい。どんなに強力な呪霊であろうと、死ねば(祓われたら)消える。伝説に残るような呪霊であれば何かしらを残すのかもしれないが、目の前に置かれている遺体には確かに肉の体があった。

 

「七海たちが呪殺された被害者の調査をしている際、こいつらと交戦したらしい」

「犯人の目星は?」

「まだほとんど不明だ。だが、防犯カメラの映像には何も写っていないことから、おそらく呪詛師ではなく呪霊の仕業だ」

「……それは、マズイですね」

「ああ、そうだな」

 

 犯人の術式の詳しい仕様は分からないが、人間を改造する術式だと仮定した時、それはかなり危険な事態だ。人間がその術式持っているのも危険だが、呪霊が持っているとすればその呪霊の危険度は跳ね上がる。

 

 術式自体の危険度も勿論高い。それに加え、生物の身体は極めて緻密なバランスの上で保っているのに、ここまで元の姿からかけ離れた姿へと変えるには、術式の理解や人体の理解を相当深める事のできる知性が必要だろう。

 

 そんな知性を持つ呪霊など、最低でも一級の上澄み。いや、術式の危険度を加味すると、特級にすら分類される可能性すらある。たとえ一級術師の七海でも相当危険だ。

 

「……とりあえず、解剖しよう。少しでもこんな事が可能な術式の情報を得るためにも」

「ええ、そうですね」

 

 チェロケースなどの荷物を、邪魔にならないように部屋の外へ出す。自前の肉屋のエプロンのような作業着を着て、和服の袖を捲り肘あたりで縛って汚れないようにし、両手にゴム手袋をはめた。

 

「解剖用の器具借りますね」

「んー、好きにしろ」

 

 俺は、四肢が切断された狛犬のような異形の検体を解剖する事になった。その四肢はどこも同じような長さだけ残っていて、おそらくこっちは七海が処理したのだろうと気付く。こんな胸糞悪い仕事を押し付けてしまった事が、本当に申し訳ない。

 

 遺体を前に一度手を合わせ、黙祷を捧げる。その後家入さんから借りたステンレス製のメスで、異形の腹の皮を裂く。その感触はこんなにも人からかけ離れた姿なのに、死後から少し経過し冷たく硬くなった人間の感触に他ならない。二十年以上屍を切り刻み、呪具を創り続けてきたのだ。間違えるわけがない。

 

「……そっちはどうだ」

「人間ですね。確実に。……正直半信半疑でしたが断言できます。……クソッ、胸糞悪い」

 

 どんな感性があれば、人間をこんな生命を侮辱した姿に変える事が出来るのか。いや、人間の負の感情から生まれてくる呪霊のことだ。いくら考えても、その思考回路を理解できるはずがない。ただ一つ分かるのは、被害者たちは底知れぬ悪意によってその身体を歪められ、生命の尊厳を踏み躙られたのだろう事だ。

 

「骨格が歪み、神経が捻れ、内臓が変形し、筋肉が過肥大しています。……こんだけ無理に肉体を歪められるのは、相当な激痛でしょうね。それこそ、死んだ方がマシなぐらいの」

「だろうな。……脳幹の辺りが不自然にイジられている。脳さえもイジることが出来るなら、呪力を扱えるように出来るのかもしれないな」

「……なるほど」

 

 脳など未だよく分かっていないことがあるのに、呪術という科学的な説明のできない要素が絡んでくると、解剖だけでは完全な解析はすることができないだろう。

 あまりしたくない手段だが仕方ない。一つ手を打つ事にした。

 

「こっちの検体の脳はまだ傷付けてません。即席ですが、記憶を覗いてみます」

「待て。それは危険だ。この検体は確かに元は人間だが、脳にも全身にも手が加えられている。お前は死体の記憶を覗くというより、追体験するだけだろ。この検体にそんな事をしたら、何かしらのフィールドバックがあるかもしれない」

「いえ、無理はしません。本当にヤバそうだったらすぐやめます」

 

 俺の行為を止めてくれる家入さんだが、元はと言えば俺が担当するかもしれなかった任務だ。少しでも情報が欲しい。そうでもしないと、七海に申し訳が立たない。

 俺が意見を変えるつもりがないのを理解したのだろう。家入さんは一つため息をしてから口を開いた。

 

「……分かった。無理はするなよ」

「家入さん。何か器を持ってきてくれますか」

「少し待っていろ」

 

 メスとゴム手袋を外した家入さんが、何かしらの器を取りに備品が入っている棚へ向かう。その間に俺は検体の心臓を切り取った。おそらく心臓だろうと思うが、確信はない。あまりに歪んだ形状をしているからだ。

 

「これでいいか?」

「ええ、十分です。ありがとうございます」

 

 家入さんが持ってきた、メスだとかの器具を入れるための銀色の四角い器を受け取る。俺は器を解剖台の余ったスペースに置き、その上で心臓を真二つに両断した。

 中にはまだ固まっていない血液があり、器の中へと滴り落ちていく。やはり鮮度があまり良くなく、血の色は赤黒い。だがこれぐらいならば何とかなりそうだ。

 

 俺はゴム手袋を脱いで胸元から小刀を取り出した。右手と小刀を一度流水で洗い、ライターも取り出して小刀の刃を炙る。十分に加熱した後、手のひらを真一文字に切り裂いた。

 

「……っ」

 

 鈍い痛みに耐えながら、手のひらから流れ出る血液に呪力を込め器の中へと注ぐ。検体の少し黒くなっていた血液と、俺のまだ赤色が鮮やかな血液が混ざり合って奇妙なグラデーションを成している。俺と検体の血が一対一ぐらいの割合になったのを見計らい、血液を注ぎ込むのをやめた。

 小刀を一度置き、手のひらの傷に意識を集中させる。反転した呪力で傷を治そうとして──家入さんに手首を掴まれた。

 

「え、ちょ、どうしたんですか」

「お前、私を誰だと思っている。その傷ぐらい治してやるさ」

「ああ、そういう事ですか。すみません。お願いします」

 

 正直心臓が飛び出そうな程驚いたが、家入さんに治癒をお願いする事にした。家入さんは俺の傷口を確認して呪力を流し込んでいく。一呼吸の間に傷は綺麗に消えた。

 

「ありがとうございます。……やっぱり早いですね」

「当たり前だろう。お前に反転術式のコツを教えたのは私だろうに」

「……いや、あれは参考にならないというか……」

「ひゅーひょいっだ。呪力をひゅーひょいっとするだけ、簡単だろ?」

「……」

 

 やはりその説明は分からなかった。家入さんは指先をひゅーひょいっのリズムでくるくると動かしていたが、その動きが意味するところを俺は理解できない。家入さんは本当に感覚派というやつなのだろう。

 

「……あー、とりあえず、もう下準備始めますね。遺体の鮮度が大事ですし、血も固まっちゃうので」

「ああ、そうだな」

 

 筆を取り出して、俺と遺体の血が混ざり合った赤黒い血を筆先につける。そして、呪力を込め遺体の全身に紋様を描いていく。本当は紋様を彫ってから筆を入れなければならないのだが、今回はただでさえ時間がギリギリだ。一回きりならばこれだけで十分だと判断した。

 順序と形状を間違えぬよう丁寧に、しかし素早く描いていく。十分ほどで何とか全ての下準備を終えた。

 

「……早いな」

「二十年以上もやっていればこんなもんですよ。……慣れたくはありませんが」

 

 この遺体が俺が殺した奴ならばもっと楽にすむのだが、理想ばかりを言っても仕方ない。メスに呪力を込めて頭部を開く。呪力を込めた刃物は、堅牢な頭蓋骨すら簡単に切り裂いた。脳漿が溢れ出て生々しい色の脳味噌が露出する。

 

「『汝、累積し記憶、その全て我の物に成れ』」

 

 俺は目を閉じ、その露出した脳味噌に額を当てる。冷たく、それでいて吐き気を覚えるような感触がした。

 

 瞬間、俺の視覚、嗅覚、聴覚、触覚、味覚、その全てに俺のものではない感覚が流れ込んできた。二重になった感覚に違和感と吐き気を覚えるが、出来るだけ俺自身の感覚を閉ざし、この遺体の感覚を掴むことに集中して記憶を探る。

 少しして、見つけた。目当ての記憶だ。

 

 ──そこは薄暗い場所。高架下か、地下か。とにかく人気のなさそうな所だ。目の前には、男か女かも分からない老人が力なく伏している。

 

『いい洗……っか……コ……二』

 

 真横にいたスキンヘッドの男が、自分の脚の汚れを気にした様子で何かを言っている。内容はハッキリとは聞こえない。 やはり、少し死後から時間が経ち過ぎていたようだ。

 

『知ら……よ。探す……弁当買っ……らにすんべ』

 

 今度は、俺が記憶を覗いている男の方が口を開いた。そのままこの場所に響く声で隣のスキンヘッドの男と喋っている。反響具合からして、何かしらのトンネルかもしれない。男達の声がうるさくてあまり辺りの環境音が聞こえないが、水の流れる音がかすかに聞こえた。

 

『いぃっ──』

 

 そちらの方は視線をやっていたのに、一瞬で隣のスキンヘッドが消える。いや、スキンヘッドがいたはずの場所に悪趣味なモアイ像のような、不気味な埴輪のようなチェスの駒ほどの大きさの何かが落ちていた。

 それを不思議に思う間も無く、身体に何かが触れた感触が走る。

 

『おべッ──』

「ガァァアアァアアア‼︎」

「──! ──!」

 

 身体に何かが触れたのを認識した瞬間、俺の全身に今まで感じたことの無い苦痛が襲う。いや、これは俺の感覚ではない。この遺体の感じた苦痛だ。

 無理矢理に全身を圧縮させられる。骨格が、神経が、筋肉が極限まで内側に引っ張られるような、想像を絶する激痛。内臓を直接握られたかのような、本能的な拒絶感。

 

 本来の俺の聴覚が家入さんの声を拾うが、内容を認識する余裕はない。全身を襲う形容しがたい激痛に耐えながら、こんな悍ましい事が可能な呪霊の正体の一端を、今絶対に掴まなければいけないと認識した。奥歯を砕かんばかりに噛み締め、すぐにでも飛びそうな意識を保つ。

 

 ──何かに、拾い上げられた。拾い上げた呪霊のチラと見えたその顔はまるで人間のようで。だが、不気味なつぎはぎ顔をしていて──。

 

「おい! 司條! もうやめろ!」

「……ッ!」

 

 両肩を掴まれて無理矢理に引っ張られ、接触していた額と脳味噌が離れた。同時に繋がっていた感覚も途切れる。遺体の血の紋様も輝きを失った。

 

「大丈夫か?」

「ハァハァ……すみません。助かりました」

「無理はしないと言ったよな?」

「……すみません」

「お前は少し無茶をするきらいがある。無茶をするなとは言わないが、本当に必要な時だけにしろ」

「はい。……少し、お手洗いに行ってきます」

 

 まだ両手両足が強く痺れている感覚があるが、それを隠してトイレへと向かう。なんとかトイレにたどり着いて、蛇口をひねり顔を洗った。額に付着しているぬちゃついた脳漿を洗い落とすために。

 

 まだ震える手で何とか脳漿を全て洗い落とし、再び解剖室へと戻ろうとした時、ついに胃の奥から逆流してくるものを抑えきれそうになくなった。

 

「っ、おぅえぇ」

 

 個室に飛び込み、便器にそれを吐き出す。新幹線で食べた八ツ橋がまだ形を残していた。朝はそれ以外なにも食べないで良かったと、内臓をぐちゃぐちゃにされた感覚が薄れてきたのを感じながら思った。

 

 普通の遺体の記憶を覗くだけでも気分がかなり悪くなるのに、あの悍ましい術式を受けた感覚も触れてしまったのがいけなかったようだ。まだ本調子ではない俺には、少し刺激が強過ぎた。

 

 だが、無茶をした収穫はあった。呪霊の特徴と術式について。この二つはかなりの情報になるだろう。あの異形は肉体があるため非術師にも見えてしまうだろうに、なぜまだ発見されていなかったのか疑問だったがその答えが分かった。

 

 それはあの記憶の男達と同じように、人間のサイズを小さくして持ち運んでいるのだろう。それこそ、必要な時にいつでも異形を生み出すために。

 

「……クソッ」

 

 人間をただの捨て駒として扱うつぎはぎ顔の呪霊に強い嫌悪感を覚えるが、お前も変わらないだろと心の中で誰かが囁く。生者の尊厳を嘲笑い使い潰すあの呪霊と、死者の尊厳を無視し使い潰すお前に何の違いがあると。だが、俺はその囁きに答えを探さない。無駄だと知っている。今できる事をやるだけだ。

 

 再び蛇口をひねり、口の中を洗い流す。身体の痺れや違和感はだいぶマシになった。気持ちを切り替えてからトイレを出て、再び家入さんのいる解剖室へと向かう。

 

 

 

 

 

「今、戻りました」

「そうか。……吐いてきたのか?」

「え、……そんなに分かりやすかったですか?」

 

 何事もなく帰ってきたつもりだが、家入さんは俺を一目見てそう言った。やはり本職の目は誤魔化せないらしい。

 家入さんは一つ大きなため息をしてから、俺に向かってペットボトルを放り投げる。キャッチすると、それはじんわりと温かかった。多分、自動販売機のあったか〜いのお茶だろう。今この時期に売っているとは思わなかった。

 

「そんだけ顔色が悪ければ誰でもわかる。その術式の反動に私は薬を処方できんが、それを飲んで少し横になって休んでろ。気休めだが、温かいお茶はリラックス効果が期待できる。胃にも負担がかからない。落ち着いたら覗いた記憶について教えてくれ」

「……分かりました。お茶、わざわざ買ってきてくれてありがとうございます」

 

 ペットボトルのキャップを開け、温かいお茶を飲む。空っぽになって冷えた胃にお茶が流れ込み、身体の中心から少し暖かくなったような気がした。家入さんの言葉に甘え、言われた通りに部屋の隅の椅子に横になる。それだけでも身体が楽になっていくのが分かった。身体が楽になっていくにつれ、意識が遠くなっていく。

 

 

 

 

 

「──おい。司條。休んでいるところ悪いが、七海にお前の覗いた記憶を教えてやってくれ」

 

 いつの間にか寝てしまっていたようで、家入さんの声で目を覚ました。身体はかなり楽になっていて、痺れや違和感もほとんど消えている。家入さんからスマホを受け取って、電話先にいるらしい七海に話しかけた。

 

「七海聞こえるか? 司條だ。今俺に変わった。件の呪霊についての情報を伝えるぞ」

『ええ、分かりました』

 

 俺が覗いた遺体の記憶から、おそらく七海達が追っている呪霊はつぎはぎ顔の人型呪霊だという事を伝えた。そして七海達を襲った改造人間たちは、どこか水辺近くの音が反響するような場所でその呪霊に遭遇した事も伝える。

 

「かなり危険な相手だと思う。人手が必要なら言ってくれ。今すぐには無理だが、必ず手伝う」

『ええ、必要そうならば連絡します。その時はお願いします』

「ああ、遠慮するなよ」

『呪霊の情報も助かりました。お陰で捜索場所を大分絞り込めます』

「お前なら遅かれ早かれ見つけるだろうが、少しでも力になれたなら良かった。今家入さんに変わる」

 

 俺が伝えるべき事は全て伝えた。家入さんにスマホを返し、俺は身体の調子を隅々まで確かめる。呪力も十分回復しているし、夜の呪詛師の捜索では戦闘になった場合を考えても、十分に戦うことが出来そうだ。

 

「そうだ。虎杖は聞いているか」

『あ、ウス』

「司條、コイツらの死因は身体を改造させられたことによるショック死。そうだよな?」

「え、……はい。そうだと思います」

 

 急に話を振られて戸惑ったが、その意図を一瞬遅れて理解した。家入さんの質問を肯定する。

 

「君が殺したんじゃない。その辺り、履き違えるなよ」

『はい……』

 

 以前聞いた時には、虎杖くんは快活で明るい印象通りの声をしていたが、今は少しその明るさが陰っていることが声色から分かった。

 数ヶ月前までは一般人だった彼だ。こんな薄暗い業界に入るまで、人の死などそう身近ではなかっただろう。家入さんは彼を心配しているのだと気がついた。

 電話が切られ、家入さんがスマホをしまった。

 

「優しいですね」

「精神面のケアも出来る限りしてやらないとな。ただでさえ病みやすいこの業界だ。彼のような、優秀な術師の卵が潰れないようにしているだけさ」

「そう、ですか。……俺も何かフォローすべきでしたかね」

「……いや、こんな業界だからこそ、過保護にするのもよくない。若者は私たちの想像以上に成長が早いからな」

「……過保護はよくない、ですか。そうですね。少し、傲慢すぎました」

 

 “過保護にするのもよくない”。

 

 その家入さんの言葉に、虎杖くんだけでなく妹の香那のことも思い浮かんだ。二人とも、術師では稀有な善性を持っている。そして俺は彼らを歳下だというだけで、出来るだけ危険から遠ざけるべきだと考えてしまっている。

 だが、本当に彼らの事を考えているならば、過保護にしすぎるのはむしろ将来彼らを危険にさらす行為なのだろう。しかし、やはり心配なのだ。彼らの善性が穢れてしまうことが、彼らが呪いに惨たらしく殺されてしまうことが。

 

 本当にはっきりしない情けない男だと、堂々巡りに陥った思考を打ち切って立ち上がる。そして、家入さんに尋ねた。

 

「すみません。この検体ってもう処理するだけですよね?」

「ああ、そうだが。……呪具を作るつもりか?」

「ええ。少しでも戦力を上げたいので」

「分かった。諸々の手続きは私がやっておく。ここは好きに使ってくれ」

「ありがとうございます。任務が夜に入っているので、それまでにはここ綺麗にしておきますね」

 

 俺が術式で呪具を創る際、その素材に適した遺体の要素は三つある。

 

 一つ目は、俺の呪力との親和性。俺自身だったり、俺と血縁的に近い遺体だ。これは今回関係ない。

 

 二つ目は、死の間際にどれだけの苦痛を味わったかだ。呪力の源が負の感情ならば、死への恐怖という根源的なそれを強く抱えて亡くなった遺体が、呪具を創るのにに適しているのは必然だろう。

 

 三つ目は、呪具呪物の使用対象によって殺された遺体だ。この原理の理由は俺にも分かっていないが、これも必然的なものだろうと思う。何百何千年も呪力を纏い続ける呪具があるのだ。呪力が負の感情から生まれるものとしたら、呪具にも『魂』というべきものが宿っているのだろう。だからこそ、自分を殺した相手には一層牙を剥く。

 

 この考えがあっているかは分からない。だが、それが俺の術式の解釈。それだけが確かであり、それ以外には必要ない。

 

 今回の遺体は二つ目と三つ目を満たしている。特に、三つ目の条件を満たしているのはデカい。それを満たす遺体から創った呪具は、他の呪具に比べてかなり出力が上がる。

 猪野と遭遇した特級相当の白い呪霊から逃げ切れたのも、奴に殺された呪詛師(砥川)がいたからだ。せいぜい二級相当の破魔槍(はまや)でも特級に効く呪具になったのだから、この要素の重要性が分かる。

 

「解剖、手伝ってもらって悪かったな。お前に借り一つだ。今度飲みにでも行こうか」

「気にしなくてもいいですよ。……俺は家入さんみたいにお酒強くないですし」

「全く飲めないよりマシだ。じゃ、暇な時あれば教えろよ」

「はい。分かりました」

 

 そう言って解剖室を出て行く家入さんを見送る。七海よりもお酒に強い彼女と飲むのは、俺ではペースを考えねばすぐ潰れてしまう。

 

 一度深呼吸して遺体に向き直り、両手を合わせて黙祷を捧げる。生前にその命を弄ばれ、死後もその遺体を使い潰される事を申し訳なく思う。死後の世界があるならば、どうか安らかにと願って黙祷を終える。

 

 冷たい感触のメスを、再び手に取った。



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第十四話:色街にて

 後部座席に俺を乗せた黒い車が、夜だというのに昼間のように明るい繁華街を走る。明るいというより、煌々と輝いていると表現すべきか。もうすっかり日は落ちているのに、夜の闇を払う不健康な発色のネオンライトが目に痛い。そのネオンの強い輝きが、一層この街の闇の深さを印象付けている気さえした。

 

 昼間人口と夜間人口は違うが、どちらにせよ人の多い東京には呪いがたまりやすい。個人的には、人の下卑た欲望が吐き出される夜の方が呪霊は活発に蠢いていると思う。呪詛師も闇夜に乗じ、その身を闇に隠しながら悪事を成すのだ。

 

 不夜城の如き喧騒の絶えない繁華街から目線を外し、手元のタブレット端末へと落とす。そこにはいくつかの事件の詳細が載っていた。今回の任務は呪詛師の捜索、もしくは捕縛らしい。

 ……肝心の呪詛師の情報はほとんど書かれていないが。

 

「……ホストクラブやキャバクラ、風俗店の売り上げ金の盗難。……本当に一級案件ですか?」

 

 手元の資料には、いくつかのいわゆる“夜の店”から売り上げ金が盗まれた事件についての情報、その状況が詳しく書かれていたが、いまいち一級が出張るほどの任務とは思えなかった。

 

 自分の力を過信しているわけではないと思いたいが、人死にどころか怪我人すらいない事件だ。盗難も被害者からしたらたまったものではないだろう。しかし、普段扱っているのが油断すれば自分が死ぬような案件なので、どうにもしっくり来ない。

 

 呪詛師絡みの事件でも、二級呪術師なら危険はないだろう。というか、これぐらいの事件ならば警察の領分ではないのか。

 

 最近、準一級程度の呪霊のはずが一級でも上位の呪霊だったり、二級程度の任務のはずが特級と遭遇したりなど散々な目に遭っている俺だ。上層部が労ってくれているのかと一瞬思ったが、上の人らはそんなお優しい心などないだろう。

 

「確かにただ呪術を使って盗みをしているぐらいなら、一級が駆り出されるほどの事件じゃないっス。ただ、現場から複数の残穢が見つかったっス」

「……複数の呪詛師が共謀してる可能性があるってことですか。最悪組織化していると」

 

 運転している補助監督の新田さんが俺の質問に答えた。それを聞き少し納得する。組織化した呪詛師の対処は、単純に強力な呪霊を一体祓うより場合によっては労力が必要だ。呪霊に比べ呪詛師は悪知恵が働く者も多いし、一千万を超える人々が行き来する東京の人混みに潜伏されたら、見つけることすら難しくなる。

 

 それに、往々として組織化された呪詛師は大きな事件を引き起こす。

 

 去年の百鬼夜行が記憶に新しい。千を超える呪霊が東京と京都に放たれた前代未聞の呪術テロ。あんなこともあって、上層部は少しでも呪詛師が団結する可能性を潰したいのだろうと当たりをつけた。

 

「……盗難という危険度が低い事件なので、詳細な調査が遅れていて情報も少なかったんですが……」

「組織化した呪詛師たちの処理は面倒だから、その可能性が浮上した時点で少しでも早く解決するため一級にあてがわれた任務ということですか」

「そういうことっス」

 

 ほとんど情報がない状態から、組織化しているかもしれない呪詛師たちの捜索、戦闘を加味しての任務ということだろう。それならば確かに、二級だと万が一ということもある。

 

 術式持ちとの戦闘は、自分と敵の術式の相性だけが全てではない。味方同士の術式の相性も大きく勝敗に関わってくる。未だ術式の詳細が割れていない相手は、潜在的な危険度が高いと上層部が判断したのかもしれない。

 

 今は盗難だけで済んでいるが、規模が大きくなれば殺人も厭わないようになる可能性もある。最悪、夏油さんのように呪術界の転覆を狙う可能性すらあるかもしれない。

 

「……何か術式の情報はありますか?」

 

 手元のタブレットには、被害にあった店の位置やその日付や写真があるばかりで、呪詛師の術式に関わってきそうな情報はない。強いていうならば、ほぼ全ての事件で金庫の中や鍵のかかった部屋から、鍵を破壊されずにお金が盗まれたという状況が多いのが目に付いた。

 

 密室トリックというやつだろうか。だが、俺は探偵でも警察でもないし、なんなら犯人は呪詛師だ。鍵を開けて閉める術式、なんて身も蓋もないのが答えなのかもしれない。金庫の方はともかく、部屋の鍵は壁抜けができる程度の弱い呪霊を躾ければ何とかなる。

 

「……確定的なものではないことを念頭に入れて欲しいんですけど、その事件が高専の気を引いた理由があるっス」

「それは?」

「金庫や売り上げ金を保管している部屋に、誰かがいる状態で盗まれたケースがいくつかあるっス」

 

 その話が本当だとしたら、流石に警戒が必要だろう。部屋に人がいるのに気づかれないように金庫からお金を盗むなど、何かしらの特殊な術式が必要不可欠だ。おそらく五条さんでさえ不可能。……まぁ、あの人はそんな事はしないし、する必要もないが。

 

「一応聞きますが、その誰かが犯人ではなく?」

「そうっス。その人たちはそのお店の管理人やオーナーで、気がついたら無くなっていたらしいっス。一人は『一度金庫にお金を入れ、後で計算するために出そうとしたら全て無くなっていた』と証言したっス。勿論、その間自分以外の人間は部屋に入っていないそうっス」

「……なるほど。それは少し怖いですね」

 

 とにかく、その現象が呪詛師の術式によるものにしろ、手懐けているかもしれない呪霊によるものにしろ、かなり特殊な術式だ。

 

 限定的な瞬間移動の術式。自己を認識させない術式。幻覚を見せる術式。超高速で動く術式。

 

 様々な術式の可能性が脳内に湧いて出る。何人かの術式の力を合わせて、その不可思議な現象を可能にしているのかもしれない。……ダメだ。現時点では情報が少なすぎる。どうやら俺はシャーロックホームズにはなれないらしい。

 

「残穢の数は? 組織化しているかもしれないと判断したのは、現場にいくつかの残穢があったからなんですよね?」

「ハッキリとしたのが二つっス。……そして、本当に微かに残っているのが一つあったそうっス」

「……少なくとも、二人組以上だと思っておいた方がいいという事ですね」

「現時点ではそう……電話、出ても大丈夫っスよ」

「すみません。失礼します」

「どうぞっス」

 

 会話の途中で俺のスマートホンが震えた。電話のようだ。運転手の新田さんに断って、その通話に出る。電話越しに落ち着いた女性の声が聞こえた。

 

『こんな時間に悪いね。司條』

「いえ、問題ありませんよ。……例の件ですか?」

『そうだ。……とはまだ言い切れないが、少し興味深い情報があった。一応耳には入れておこうと思ってね』

 

 その声の主は、俺が能面の呪詛師についての情報を集めてくれとお願いした冥さんで、それ以来はじめての通話だ。フリーの術師である冥さんならば、高専に所属している俺の知らない情報網への伝手があると踏んでのことだったが、思っていた以上に早い連絡で驚いた。

 

『最近、呪詛師の間で妙な呪具の噂が出回っているらしいんだが、知っているか?』

「……いえ、知りません」

『そうか。……その呪具の効果は分からないが、全てに共通しているのが形状だ』

「……その形状は?」

 

 少し声が震えているのが、自分自身のことながらハッキリと知覚できる。それは、二十二年間何の情報も得られなかった俺の、何よりも渇望していた情報をようやく知ることが出来る喜びから来る震え。その後に続く言葉が、自分が期待しているものだろうと確信に近い予感があった。

 

『能面。面種は異なるが、全て能面の一種らしい』

 

 

 

 

 

「……ふぅ」

 

 一人用にしては大きすぎるホテルのベッドに寝転がる。少し前に冥さんから伝えられた情報が、頭の中から離れなかった。

 

 ──君の探している呪詛師に関わっているかまではまだ分かっていないが、『能面』という言葉の符号の一致から君に連絡させてもらった。

 

 確かにまだ確定ではない。二十二年も何も行動を起こしていなかった奴が、何故急に呪具をばら撒き始めたのかも不明。別人の可能性すらある。だが、ようやく掴んだ奴に繋がるかもしれない情報に、自分でその呪具の出元について調べたい欲求が肥大化していく。

 

 だが、与えられた任務を放り出すわけにもいかない。七海と虎杖君の任務も手伝いたい。俺の一個人的な執着で、通すべき義理を蔑ろにするわけにはいかないだろう。

 

 横になっていたベッドから立ち上がり、持ってきた荷物を開けた。その中から黒い箱を選んで窓際に置く。

 

「『葬頭河の淵より集いて出よ』『閂鼠(せんそ)』」

『キィ』『キィチ』『キチチ』『キィ』

「三匹で動け。怪しい人間を見つけたら一体が、お前らの呪力がなくなりそうになったら全員帰ってこい」

 

 俺は窓を少し開け、ガタガタと動き出したその黒い箱の蓋を開けた。そこから何十匹もの蝙蝠が飛び出す。蝙蝠は闇が深い空へ溶けていくように飛んで行った。地上は真昼のように明るいが、対照的に夜空はひどく暗い。あんなにも欲望と光に溢れる地上から、この星も見えない夜空を見上げる物好きなどいやしないだろう。

 

 一応細心の注意を払い、わざわざ最上階のホテルを借りた甲斐がある。まぁ、男一人で時間を過ごすのは少し物悲しい場所だが、背に腹は変えられない。いわゆる夜の街のホテルだが、この辺りで拠点にできそうな場所はこういう場所しかなかったのだ。

 

 普通のホテルだとチェロケースを背負い、両手に荷物を持った俺は警戒される。チェックインの時に「この辺に音楽スタジオはありますか」と聞いて、音楽家であることを装う必要もない。

 

 ……経費で落とす為に報告するのは少し恥ずかしいが、やましい事はしていないのだから堂々としておけばいいだろう。

 

「……とりあえず、待ちか」

 

 事件を起こしているとされる呪詛師集団は、もともと横浜だとか神奈川などの首都圏でも、同一の手口で犯行を起こしていたらしい。数件の事件を起こすと、すぐに別の場所へと移ってしまうそうだ。そして、つい最近この街でも似た手口と残穢が窓によって確認された。

 

 警察や高専を恐れているのかどうかは分らないが、その行動に呪術を扱うものとしては随分と慎重な印象を受ける。一般人には呪力を纏うだけで勝てるだろうに、そうも犯行場所を転々と変えている理由が思い浮かばなかった。

 

 夜の街というだけあって、十二時を回ってもまだまだ賑やかな街だ。いや、むしろここからが本番なのかもしれない。夜の店の売上金を盗むという事は、奴らが動き出すのは真夜中の終わり頃から夜が明ける直前だろう。それは七海達を手伝いたい俺に都合が良かった。夜は呪詛師たちを探し、昼は七海から連絡があれば手を貸すことができる。

 

 それでも手持ち無沙汰なので、あの匣を取り出す。血文字の呪符が幾重にも貼られた異様な匣を。

 だが、その匣からは呪力は殆ど感じられない。それもそうだ。この呪符の効果は封印というよりも、『熟成』とでも言うべきものだ。この匣の中身は、まだ呪物として完全に成っていない。二十二年間、俺の呪力をただ貪欲に取り込んでいるだけだ。

 

 『悪辣にして冒涜、人の禁忌を犯し尽くす非道の術理。語るも憚られる其の秘奥。悍ましき技法であり、唯一の例外なく生命を奪う忌むべき外法』……一年前、夏油さんがこの呪物についての伝承を語っていたことを思い出す。こんな忌み物を創り出せる術式など迫害されるのも当然だと、少し自嘲気味に呪力を練り上げた。

 

 いつ戦闘になってもいいように、ある程度の呪力は残しながら匣に呪力を込め続ける。時折呪力の補給のために帰ってくる閂鼠(せんそ)にも呪力を補給し、呪詛師が現れるのを待つ。

 

 しかし、その日は何事もなく夜が明けた。

 

 

 

 

 

 次の日の二十二時頃、七海から電話がかかってきた。真面目な七海にしてはこんな時間に珍しいなと思いながら、それに出る。その時の俺はホテルを変えて捜索拠点を移し終えていて、だがまだ閂鼠を放つにも早すぎ暇を持て余していた。

 

『もしもし、七海です。こんな時間にすみません』

「いや、別に構わない。手伝いがいるのか?」

『はい。明日、例の呪霊と交戦した場所にもう一度行くので、その時同行してください』

「分かっ……例の呪霊と交戦した場所?」

『はい。今日の午後、つぎはぎ顔の人型呪霊と交戦しました』

 

 何事もないように言われた言葉に、一度はそのまま会話を続けようとしてしまった。まさか、もう交戦しているとは思わなかったのだ。

 

「手を貸すって言っただろ。ヤバそうな相手だと分かってんだから、俺を好きに使って良かったのに」

『……すみません。家入さんに貴方があまり調子が良さそうでなく、遺体の記憶を覗く際に大分無茶をしたと聞いていたので』

 

 俺が眠っている間に話している時、多分家入さんから聞いたのだと推測する。実際体調は本調子ではないし、無茶をしたのも本当の事なので強く出れなかった。特級並みの呪霊を相手取る時に、一級でも戦闘能力の劣っていて本調子でない俺を連れるのは、むしろ足手まといだと考えたのだろう。

 

「身体は大丈夫か?」

『ええ。多少手傷は負いましたが、家入さんに治してもらいました』

「敵の等級だとか、術式は?」

『人語を完全に理解し、会話が成立していました。特級は間違い無いと思います。術式は魂の形を変える術式と言っていました』

「……魂の形」

 

 その魂とやらは分からないが、悍ましい術式であることだけは分かった。あんな異形に人間が改造されても即死しない事を不思議に思っていたが、どうやら肉体ではないものを無理矢理に変えているらしい。だからあの生命を冒涜した姿形でも、彼らは生きていたのかとようやく腑に落ちた。

 

『資料は後で送ります。あと、猪野くんも参加してもらおうと思っています』

「ああ、分かった。猪野も手数が多い。戦力になるだろう」

『すみません。……今度は私がお酒を奢りますね』

「ああ、楽しみにしておくよ」

 

 そこで会話が切れた。少しして送られてきた資料を開くと、それは地図であり地下のトンネルにマークが付けられている。どうやら、生活排水やらを処理した水を川に流すトンネルで遭遇したらしい。

 あの遺体の記憶も、水の流れる音と声が反響していたのを思い出す。なるほど、呪霊らしく陰気な場所を住処にしていたのかと納得した。

 

 資料を読み込んでいると、気づいた時には十二時を過ぎていた。昨日のように黒い箱を取り出し、窓際に置く。

 

「『葬頭河の淵より集いて出よ』『閂鼠(せんそ)』」

『キィキィ』『キィチチ』『キィ』『キチチ』

「三匹で動け。怪しい人間を見つけたら一体が、お前らの呪力がなくなったら全員帰ってこい」

 

 夜の闇に消えていった蝙蝠たちを眺めながら、自分の任務も手早く終わらせなければと考える。呪具を創るのは、高専か本家でしかできない。東京の家は殆ど寝るための場所だ。このホテル暮らしを強いられる任務は、なかなか俺にはキツイものがある。流石にホテルで遺体から素材を切り出し、呪具を創るわけにはいかない。

 

 早く呪詛師どもが見つかることを祈るのだが、結局その日も空振りに終わった。

 

 

 

 

 

「悪い待たせ……あれ、虎杖君はいないのか?」

「ええ、彼には高専で待機してもらっています」

 

 集合場所の橋の下では、もうすでに七海と猪野が待っていた。一番最後に来てしまったことを謝ろうとしたが、虎杖君の姿が見えないことに気がつき疑問が漏れる。どうやら、七海は虎杖君が改造人間と戦うのはまだ早いと判断したそうだ。

 

「三人集まったし、もう行きます?」

「ええ、そうしましょうか」

「いや、ちょっと待ってくれ」

 

 橋の下から人目がなさそうなトンネルの中へと少し入り、背負ってきたチェロケースを開ける。近接は七海がいるし、俺は援護に回るべきだと考え弓矢と矢筒、刀を取り出した。

 刀を右腰に差し、矢筒を左腰に装備する。適当な呪具も胸元に入れておく。そして、カバンから二体の朽鼠(きゅうそ)を取り出し、ひんやりとしたトンネルの地面に置いた。

 

「『葬頭河の淵より群れて出よ』『朽鼠(きゅうそ)』」

『ピィ』『ピィピィ』

「こいつらに前と後ろを歩かせよう」

「助かります」

 

 あまり明るいとは言えないトンネル内だ。どこから襲ってくるか分からない。一々警戒して神経をすり減らすべきではないだろうと、朽鼠に俺たちの代わりに警戒させる。

 

「あとこれを。被害者から創った呪具だ。一度っきりしか使えないし、奴の術式を考えるとこれも効かないかもしれないが、ないよりはマシだろう」

 

 そう言ってから、七海と猪野にナイフ程の刃渡りの呪具を渡す。奴は自分の魂を強く保つだかをすることで、七海から受けた損傷をすぐに治したらしい。今回の俺たちの目標は、対象の呪霊の呪力が尽きるまでダメージを与える事だ。いくらダメージを回復できても、それには呪力が必要なはず。ならば、少しでもダメージを与える手段は多い方がいいだろう。

 そうして、俺たち三人を朽鼠が挟むようにしてトンネルを進む。青臭く、じめっとした嫌な空気だ。水がしとしとと流れる音と俺たちの足音、そして時折虫か何かが蠢く音だけが響くトンネル内を進む。

 

「……七海さん、司條さん」

「気づいています」

「……ああ、いるな」

 

 十数分歩き、頭の中に入れてきた地図があと少しで目的の場所だと示し始めた頃、全員が何十もの呪力を持つ存在の気配を感じ取った。だが、特級相当の大きな呪力は感知できない。それでも警戒を弱めること無く、一際大きな地下の空洞に立ち入る。

 

『あ、あ、あいすぅ』

『ぱんけぇーきぃいぃ』

『どこぉ、ぉおぉ、どこぉおおぉ』

 

 七海とつぎはぎ顔の人型呪霊との戦闘によるものか。いくつもの瓦礫が散乱するその場所には、高熱にうなされ錯乱した病人のように、もしくは低級呪霊のように、意味を持たない言葉を呟く異形の者たちがいた。確実に三十を超える彼らが意味するのは、これだけの人たちが悪意にその命を弄ばれたということだ。

 

 ふざけるな、舐めやがって。

 

 無意識のうちに弓を引く手に力が入る。だが、その矢を真に向けるべき相手はここには見当たらない。どういう事だと考えるが、明確な答えが出てこない。わざわざこんな数の手駒をここに用意しているのに、ここで俺たちを迎え撃つつもりではないのかと。

 

 そんな煮え切らない疑問を抱えていると、七海の携帯が鳴った。電話だ。まだ警戒している様子の改造人間たちがいつ襲ってきてもいいように構え、七海に電話に出てもらう。どうやら、電話の相手は虎杖君らしい。

 

「どうしまし──里桜高校に帳が?」

 

 里桜高校。確か、つぎはぎ顔の呪霊と接触した可能性のある人物が在籍する高校だったか。ここにその呪霊がいない事と、それが無関係とは考えられなかった。しかし、その高校に帳が降りたということは、人間の呪術師ないしは呪詛師と繋がりがあるということではないのか。どんどん状況がキナ臭くなっていく。

 

「──すぐ戻ります。虎杖君は待機していて下さい」

 

 そう言って七海は電話を切った。だが、おそらく虎杖君は待機するつもりがない事を七海は分かっているのだろう。元来た道へと振り返った。

 

「そういうわけなので後任せます。猪野君、司條」

「ちょっと待て、里桜高校に行くんだろ。俺か猪野も一緒に向かった方がいいんじゃないか?」

「……いや、二人にはここをお願いします。私は、五条さんを襲った呪霊たちと貴方達が遭遇した呪霊、そしてつぎはぎ顔の呪霊は関係があると思っています。もしかすると、その特級相当の呪霊がここにくる可能性もあるでしょう。戦力を分けるなら二人づつの方がいい」

 

 確かに同時期に急に現れた言葉を理解する呪霊たちだ。すでにそのうちの二匹は繋がっていることが分かっている。ならば、つぎはぎ顔も奴らと繋がっていると考えるのが自然だろう。俺たちが遭遇した白い呪霊も、俺か猪野どちらか片方だけなら確実に殺されていた。

 

「それに、私は呪術師として任務を遂行し、一人の大人として必ず子供(虎杖君)を守らなければならない」

「……分かった。死ぬなよ。これが終わったら、お前に酒奢らせるんだからな」

「ええ、分かっています。猪野君、無事に切り抜けられたら、一級推薦の件引き受けてもいいですよ」

「がんばるぞーっ!! おー!!」

 

 テンションが上がった猪野を置いて、七海が元来た道を駆けて引き返していく。改造人間は呪霊の等級でいうとせいぜい三級。強くてもギリ二級程度らしい。実際に戦った七海の話だ。信用できる。

 

 三十を超える数がいるが、二級の猪野と一級の俺がいれば問題ないだろう。術師の二級は、呪霊の二級を祓えて当たり前なのだから。

 

「猪野、一級推薦よかったな。おめでとう」

「はは、まだ決まったわけじゃないっすよ」

「おいおい、まさかこの場面を切り抜ける自信がないのか?」

「冗談。ぜってぇ七海さんから一級推薦もらってやりますよ」

「その意気だ。背中は任せる」

「ウッス!」

 

 少し会話をしてみたが、猪野には緊張した様子はなかった。手遅れとはいえ、さっきまでは元人間を殺すのは抵抗がありそうだったが、今は心配いらないだろう。相当七海に推薦してもらえるのが嬉しいのだと見える。

 いや、少しでもその抵抗を減らすため、七海は猪野に一級推薦をしてもいいと言ったのだ。

 

 俺は彼らの記憶を覗いてから、どれだけの苦痛が彼らを襲っているのか知ってしまった。身体を、いや魂だったか。ともかく、それを弄ばれる苦痛は耐え難いものだった。せめて今すぐ楽にしてやろうと、俺は迷いの心を断ち切る。

 

 俺たちに警戒していたのか、様子を伺っているばかりだった改造人間たちも、ついに焦れたのか襲いかかってきた。俺も猪野も彼らへと向かって呪具を、術式を放つ。

 

「『(サン)』!」

「一番『獬豸』!」

 

 こうして、暗いトンネルでの何十体もの改造人間との戦いが始まった。



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第十五話:地下にて

 ひんやりと湿り苔の青臭さが鼻につく地下で、俺と猪野は改造人間と戦闘を続けていた。死への恐怖などないのか、俺に同胞が射殺されてもただ真っ直ぐに突っ込んでくる。……いや、つぎはぎ顔の呪霊の術式で、命を投げ出すことを強制されているのだろう。

 

「クソが!」

『ねんねぇねぇねえぇ!』

「一番『獬豸』!」

『あそぉぼおぉぉお!』

 

 命を最大限に冒涜しているとしか表現できない(むご)い姿にされた被害者たちを、俺は弓矢で射殺し刀で切り裂き、猪野は瑞獣の力で屠る。猪野の死角から襲ってきた、胴体を無理矢理に引き伸ばし、手足が何対にも増やされたムカデのような姿の改造人間の首を断つ。

 完全にその首が断たれる瞬間、『タスケテ』と泣いているような声を発した。

 

 本当に、趣味が悪い。

 

『め、め、めがぁねぇ』

『おかぁぁあざんん、おがぁあざん』

『くらいぃくらいぃくらぃぃぃい!』

「多いっすね!」

「数だけだ! せめてすぐに楽にしてやるぞ!」

「ウッス!」

 

 呪霊の呪力で構成された身体でなく、人間の肉の身体を切り裂く感覚が嫌に手に残る。彼らには罪はなく、ただ勝手にその命を弄ばれただけなのに、俺たちは彼らを殺さなくてはならない。

 

 数十を超える彼らは、錯乱した様子で俺たちを殺しにくる。一対一では俺たちが苦戦することはない。ならばせめて全員で一気に()し殺しにくればいいものを、タイミングさえ合わせずに愚直に襲いにくる彼らにはもはやまともに考える知性すら残っていないのだろう。

 

『おどろぃぃたぁぁあ!』

「『(レキ)』!」

 

 口の端からよだれを垂らし、悪夢にうなされるように意味のない言葉を吐き、獣のように地に這いつくばっている彼らは呪霊にその魂を犯されたのだという。

 

 人間としての尊厳を奪い尽くされた彼らは、野の獣となんら変わらない。いや、こうなってしまうと長くはない時間で死んでしまうのだから、魂や尊厳だけでなくその命すらすでに奪われている。自由に生きる獣以下の存在に堕とされてしまったのだ。

 

 戦い始めてかなりの時間が経つが、未だ数に底は見えない。むしろ、増えているのではないかという感覚すらある。

 

「キリがねぇな! クソ! 猪野!」

「っ! 何ですか! 司條(しじょう)さん!」

「俺が合図をしたら柱の陰に隠れろ! 危険な呪具を使う!」

「了解です!」

 

 改造人間を少しでも早く楽にしてやるために、胸元に入れておいた膨張と収縮を繰り返す呪符に覆われた呪具を取り出す。これは『心悸劫震(しんきこうしん)』という呪具を、対多数殲滅に特化、発展させたものだ。

 

 本来の『心悸劫震(しんきこうしん)』は、術師の心臓一つにその人物の血液と呪物化した歯、触媒に俺の呪力を込めた血液を詰めた呪具。だが、今回のこれは心臓を四つも使い、血液と呪力を込めた無数の小さな鉄球を詰め込んだ。通常のそれよりも、圧倒的に純粋な破壊力に特化した代物。

 

「猪野! 隠れろ!」

「はい!」

 

 猪野に合図を出してから、それを何十体もの改造人間がいる方へと投げた。自分も呪具の死角となる柱の陰に身を隠す。

 

「『心悸劫震(しんきこうしん)(サイ)』!」

 

 呪具はその言葉に呼応し、一度極限まで圧縮してから轟音を立てて炸裂する。とてつもない速度で発射された無数の鉄球が、襲いかかってきた改造人間の身体を貫き、トンネルの壁に抉り込み、俺たちが隠れる柱を削る。改造人間たちは、苦悶の声を上げる間も無く大部分が絶命した。

 

「え、エグいっすね。……何で、それもっと早く使わなかったんすか?」

「エグいからだ。出来るだけ遺体を傷つけたくなかった。……これは破壊力だけなら唯一無二の性能だ。一度っきりの切り札だが、特級にすら届くだろう。特級対策に温存しておくべきだと判断した」

「なるほど。……確かに戦闘が始まってからだいぶ経っているのに、それっぽい呪力はありませんね」

「ああ、そうだな。……まだ余力はあるか? 残りの改造人間を処理したら、七海と虎杖の応援に向かおう」

「ウッス!」

 

 術式の技の出力を最大限に上昇させたものを、「(サイ)」と付けて呼ぶのが呪術界の伝統だ。俺もそれに倣い、呪具呪物の出力を最大限に引き上げ、用途を通常の物に比べ圧倒的に一点特化したものには「サイ」の漢字を当てている。その名の通り、圧倒的な破壊力だ。高いトンネルの天井にすら鉄球がめり込んでいる。

 

 ……こんな威力の呪具を、被害者である彼らには使いたくはなかった。遺体も鉄球による穴だらけだ。肉体の形を無理矢理に歪まされだからこそ、これ以上傷つけたくはなかったが、俺たちの消耗を危惧し使用した。本当に申し訳ないと、心の中で彼らに謝る。

 

 鉄球の死角にいてダメージを受けていない改造人間や、多少は喰らっていてもまだ戦闘を行える彼らにとどめを刺す。だが、呪具で残っていた半数以上が絶命したため、残りの彼らはもう少なかった。

 

「……こっちは終わった。そっちはどうだ猪野?」

「こっちも終わりました。……気分悪いっすね」

「俺も呪霊はともかく、こんな数の人間を殺したのは初めてだ。……こんなことをした奴の所に早く行こう」

「了解です」

 

 遺体の損傷は激しいが、大多数を即死させる事ができたはずだ。命を奪っておきながら傲慢が過ぎるかもしれないが、痛みを感じさせずに殺すのはこれしか無かったと無理矢理に飲み込む。

 

 怒りがふつふつと熱湯のように胸中を満たしていて、呪力もそれに伴い湧いてくる。もう一戦なら、全力で戦う事ができそうだ。ここの遺体をそのままにするわけにはいかないので、移動する前にスマホを取り出し高専の処理班に連絡を取る。

 

 丁度俺が連絡を取っている時、猪野のスマホにも着信が来た。七海からのようだ。

 

「え、はい! 司條さんも俺も無事です。今司條さんは処理班に連絡を取っています」

 

 電話が来たということは、里桜高校の件は何とかなったのかと思ったが、猪野の様子からどうやらその願望が間違っている事が察せられた。

 

「──ここから里桜高校の方へ!? ……っ、分かりました! 司條さんと手分けして探します!」

「何と言っていた?」

「つぎはぎ顔は排水口から逃亡したそうです! 俺たちに里桜高校の方を虱潰しに探してくれと!」

「分かった! クソ、もっと朽鼠(きゅうそ)を持ってくるべきだった!」

 

 その後、俺と猪野と俺の持ってきた『擬奴羅(きめら)』でトンネル内を隅々まで探したが、例の呪霊が見つかることはなかった。仲間に回収されたのか、ここを住処にしていたのだ、逃走用の経路を予め用意していても不思議ではない。

 

 とにかく、俺は奴を逃してしまったのだ。

 

 

 

 

 

「……すまん。七海。お前たちがせっかく追い詰めたのに、みすみすと逃してしまった」

「……すみません」

「いえ、貴方たちは悪くありません。……私もあの呪霊に大したダメージを与えることは出来なかった。奴が撤退したのは、全て虎杖君のお陰です」

 

 俺と猪野は高専に戻った後、合流した七海に頭を下げていた。七海は俺たちが悪くはないというが、話によるとつぎはぎ顔は領域展開すら使用したという。そんな危険度の高い呪霊を祓うことの出来る、千載一遇のチャンスを無駄にしてしまった。

 

 特に、俺は一級で索敵能力だけには自信があったのに、肝心な時にその能力を生かせなかったのが情けない。あんなにも被害者たちを俺は殺したのにも関わらずだ。

 

 何が楽にしてやりたいだ。本当に彼らに申し訳ない。

 

 渡益山での白い呪霊との戦闘時に、朽鼠を無駄に消費しすぎていた。……いや、言い訳にすらならないか。やはり、俺の持ち運べる呪具呪物の数の課題は早急に解決すべきだと、そう強く再確認した。

 

「……虎杖君は?」

「全身に大きなダメージを受けていましたが、家入さんが大丈夫だと言っていました」

「そうか。……なら、良かった」

 

 一番の歳下である彼が、彼が最も奮闘し最もダメージを受けている。まだ高専の一年生で、ほんの最近までは一般人であった彼が、俺たち大人よりその身体を傷つけたことを酷く痛ましく思う。そしてその事実に、自分の力不足を恨むことしかできない自分が嫌になる。

 

「……とにかく、今日は二人とも本当にありがとうございました。今度、ご飯でも何でも奢ります」

「……はい」

「……」

 

 時計の針はもう二十二時を回っていて、俺は自分の任務に戻らなければいけない時間だ。七海と猪野に断って、待たせてしまっていた新田さんの所へと向かう。黒い車の後部座席に乗り込みながら、その遅くなってしまったことについて謝罪した。

 

「……すみません。待たせてしまって」

「い、いえ、大丈夫っスよ。……七海さんの手伝いをしたんスか?」

「……はい」

「お疲れ様っス」

 

 俺の重苦しい空気を感じ取ったのか、新田さんは運転中も少し緊張気味のようだった。そんな俺に気を使ってか、新田さんはその話題から話を変える。

 

「……窃盗の呪詛師たちについて、何か分かったっスか?」

「……いや、まだ何も」

「あ、そ、そうっスか。……そういえば、司條さんの妹さんって京都校っスよね? 私の弟も京都校なんスよ」

 

 何とか場を明るくしようとしている新田さんが少し可哀想になってきた。仮にも大人であるのに、歳下を困らせてしまう自分が情けない。過ぎてしまった事実は事実としてちゃんと受け止め、その上で目の前の任務に集中しようと気持ちを切り替える。

 

 そうして何とか気持ちを整理して、捜索拠点のホテルへと移動するまで、兄弟の話や呪詛師を見つけた時の手筈などを確認した。

 

 

 

 

 

 二十四時を僅かばかり過ぎた頃、今日の捜索拠点となるホテルに着いた。それまで通り、閂鼠(せんそ)にこの色街を捜索させる。

 

 移動の合間合間で寝たりしているが、最近はずっと夜は起きているので睡眠不足だ。特に、今日は昼に戦闘を行って大分身体が疲れてる。いつもよりも眠気が強かった。その眠気に負けないため、スマホにイヤホンをつないで適当なプレイリストを再生する。

 激しいギターと主張の強いドラム、力強いベースと叫ぶようなボーカルの歌声が互いを殴り合うような曲が流れ始めた。

 

 窓の向こうの、騒々しい雑多な夜の街の音が聞こえなくなる。イヤホンから流れ出る力強い歌をBGMに、俺はこの街で盗みを働く呪詛師たちは一体何が目的なのだと思考を巡らせた。

 

 二、三ヶ月ほど前から、首都圏で起こり始めた夜の店の売り上げ金の窃盗事件。なぜ急に多発し始めたのか。呪術なんて一般人からしたら超能力とも違わない力を持っていながら、発想は妙に小物だ。しかし、手口はかなり手慣れている。

 そもそも、風俗店のような夜の店の売り上げ金を狙うなど普通の呪術師の発想ではない。適当な呪具もどきを作って売りつけるなりした方が楽に稼げる。

 

 数度の事件を起こしたらすぐに場所を変えることや、体毛や指紋は一切残していないらしいこと。そして、人を呪術で直接苦しませたりせずにあくまで窃盗のためだけに扱うこと。高専がギリギリ手を出さないような、そんなラインを見極めたかのような犯罪だ。

 

 だが、その部屋に人がいてもお金を盗むというのは、どうにもその慎重さからは考えられなかった。確かに相手は非術師だ。術師ならそうそう負ける危険性はない。だが、体毛も指紋も残さないような術師達が、わざわざ人の前に姿を現わすだろうか。そんなにも術式に自信があるのだろうか。

 どうしても、チグハグな印象を受ける。

 

 実際、複数の残穢が見つからなければ、(一級)が駆り出されることもなかったわけだ。それは何度も窃盗をしても、捕まることはないとタカを括っているからかもしれない。だが、もしかすると。呪詛師どもはこちらが想像するより、慎重でないのかもしれないと思い浮かんだ。

 

 ──急にこんなにも事件を起こし始めたのは、やはり新たな仲間を得たからだろうか。

 

 特にその部分が一番引っかかっている。組織化していることを高専が認知したら一気に警戒されるというのにも関わらず、件の呪詛師たちは事件を起こしている。それは実益によるものか、思想によるものなのだろうか。

 

 呪詛師達は適度な距離感でつるむことはあっても、組織化するほど馴れ合おうとはしない。それ当たり前で、高専という国にすら認知されている一番大きな術師の組織の上層部が、その地位と特権を死んでも守るためにその他の術師の組織化を許さないからだ。

 

 神居古潭のアイヌの呪術連や、御三家のような呪術の大家はともかくとして、高専はその他の新たな術師の集団にはあまりいい顔はしないだろう。腐った上層部によるものとはいえ、呪術師という超常の力を扱う者達をまとめ上げるための組織の一本化は、呪術界を安定させるためには必須だ。

 

 となるとやはり、組織化してまで行っている犯罪が金品の窃盗だけだというのは、どうもちゃっちい気がする。お金の取り分でも揉めるだろうし、崇高な目的を持って結成された組織ならば、その運営費を稼ぐために盗みなど下賎な行為に走るだろうか。……やはり、しっくりこない。

 

『チチチィ!』

 

 いつの間にやら深い思考に潜りすぎていたようで、窓際に戻ってきていた閂鼠に気がつかなかった。閂鼠があげた鳴き声で現実に引き戻される。呪力を補給しようとして、ようやく気が付く。その閂鼠が十分にまだ呪力を持っていることに。

 

「……戻ったのはお前だけか?」

『チチィ』

「怪しい奴を見つけたんだな?」

『チチチィ!』

「よくやった!」

 

 それがまだ件の呪詛師かは分からないが、ようやく得たヒントだった。急いで必要な呪物をカバンに入れてホテルを出て、路地裏の人気が全くないところへ向かう。

 

 周囲に人の目がないことを確認して、カバンから朽鼠(きゅうそ)と一枚の呪符を取り出した。朽鼠の腹にその呪符を貼り、アスファルトの上に置く。

 

「『葬頭河の淵より群れて出よ』『朽鼠』」

『ピィ!』

閂鼠(せんそ)朽鼠(きゅうそ)を対象まで案内してやれ、そのあと他の二体と帰ってこい。朽鼠はそのままバレないように対象を尾行しろ。分かったな」

『ピィ!』

『チチィ!』

「よし、行け!」

 

 路地裏の闇に消えていった二匹を見送り、再びホテルの部屋へと戻る。帰ってきていた別の閂鼠は回収し、自分の額に朽鼠の腹に貼った呪符の対を貼り付けた。

 

 その呪符に呪力を流し、目をつぶって意識を集中させる。そうすると、自分のものではない視覚の映像が脳内に現れた。朽鼠の背中に埋め込まれた人の目の映像だ。小刻みに振動していて酔いそうだが何とか堪える。死者の記憶を覗いた際の全ての感覚が重複する感覚より、今回は視覚だけなので何百倍もマシだ。

 

 しばらくの間、ずっと星の見えない空を映し、時折向かいの壁を映しているだけの代わり映えのしない映像だったが、ようやく振動が収まってきた。対象に追いついたのだろう。朽鼠の移動速度が一定のペースになった。

 俺が意識を飛ばして朽鼠の背中の目を動かし、怪しげな人物を探し始める。この目は術師の目を使っているので、呪力を多く持つ人物はすぐ分かるのだ。

 

 ……見つけた。

 

 その怪しい人物は、周りの人々と比較しても背が低い男だ。顔は濃く猿顔で、身長と相まって身軽な猿のような印象を受ける。両手を羽織ったパーカーのポケットに入れ、獲物を探すかのように視線をキョロキョロとさまよわせていた。

 周りの一般人が呪力を垂れ流しているのに対し、その男の呪力は自らの身体の周りを淀みなく巡っている。呪術に関わる人間で間違い無いだろう。

 

 呪術界という狭い業界だが、俺はその猿顔の男についての情報は持ち合わせていなかった。高専関係者全ての顔を知っているわけではないが、少なくともその猿顔を見たことはないはずだ。

 

 標的となる店の下調べ役なのか、辺りには他の術師のらしき人物は見当たらない。それは俺にとっては都合のいいことで、いくら街の人通りが多く朽鼠や閂鼠の呪力が少ないとはいえ、見つかる危険性は少ないほうがいい。

 

 十数分、ふらふらとお目当てのものはないかと物色するかのように街を徘徊していたが、ある店の前で急に止まった。それまで、男はキャッチだとかに強引に引き止められたりしない限り自分から立ち止まることはなかったが、監視してから始めて自分で足を止めた。

 

 その店は『ロスティンペリダイ』と掲げられたピカピカと光る看板が目立つ店で、どうやらホストクラブのようだ。俺が監視している男には縁のなさそうな場所だが、男は少しの間ジッと見て、再び歩き出す。

 

 俺はこの店を標的にするのをやめたのかと思ったが、歩き出した後は色々な店を見ていたさっきまでとは違い、その店の外装だけを隅々までずうっと見ている。その目は品定めをするかのようで、俺はこいつが件の呪詛師一派の一人だろうとほぼ確信していた。

 

 しばらくしてその男は路地裏へと消えたが、流石に人気の少ない場所へはバレる可能性があるので追う事は諦めた。これ以上の深追いはするべきではない。そう判断して呪符を介し、朽鼠に帰ってくるように命令する。

 

 朽鼠が引き返したことを確認し自分の額の呪符を剥がすと、リンクさせていた右目にかなりの疲労が溜まっていることに気がついた。目薬をさしてから携帯を取り出して、怪しい人物を見つけたことを新田さんにメールで連絡をする。

 

 今日、あの猿顔の男が行動を起こすことはもう無いだろう。また別の日にあいつか、いるならばその仲間が、どの部屋に売り上げ金だとかが保管されているのかを調べたりなどの下準備をするはずだ。もしかするとこういうお店のどの部屋辺りに金品があるのか、これまでの経験から知っているのかもしれないが。

 

 ホテルの路地裏に帰ってきていた朽鼠を回収してから、ホテルのベッドへと入る。今日はもう休んでもいいだろうと、そう判断した。匣に呪力を込めようかと迷ったが、今日の改造人間たちとの戦いで少し消耗していたし、朽鼠に使った呪符はかなり呪力を食うので、ほとんどもう呪力は残っていなかった。

 

 今日は呪力を込めることをせずに、身体を休め調子を整えるべきだと判断し、ベットの中で目を瞑る。すぐに眠気が溢れ出て数秒で眠り落ちてしまった。夢も見ないほど、深い眠りだった。

 

 

 

 

「『汝、(はぐくみ)しその身体、捧げて我の物と成れ』」

 

 高専にある俺の呪具呪物を保存する為の冷蔵庫。そこの中から取り出してきた左腕を、自分の左の肩口に押し当てながら呪力を込めた言葉を紡ぐ。元々つけていた腕は、目の前のテーブルにおいてある。

 

「『汝、育しその術理、捧げて我の物と成れ』」

 

 破魔槍や散骨壷のような骨が主な素材の呪具はともかく、『擬奴羅』や『綴命畜生道』で創った呪物は腐ってしまう。『換装義骸』は俺が直接呪力を込め続けていれば腐ることはないが、俺が接続していない左腕のストックはどうしても腐ってしまうのだ。

 

「『汝、育しその技巧、捧げて我の物と成れ』」

 

 呪物を創る際に『腐らない』効果を付与することも出来るが、全てにそんな効果を付与していたらキリがない。コスト削減や出力の向上、もっと別の効果を付与するために、科学技術で何とかなる保存の面ではあまり力を入れていないので、わざわざ高専に専用の設備を用意している。

 

「『換装義骸』『点睛』」

 

 基本的に俺の『換装義骸』は術師の腕から創られる。術師と非術師の間には、肉体の強靭さや呪力への親和性に圧倒的な差があるからだ。基本的に非術師から創る意味がない。

 だが、唯一非術師から創られたこの腕は、呪霊の被害に遭って亡くなった画家の腕が素材だ。絵が苦手な俺では、せっかく手に入れた顔の情報もまともに伝えられない。しかし、この腕を使うことでかなり有効的に伝えることができる。これまでもよく使わせて頂いた腕だ。

 

「『骨奪技巧(こつだつぎこう)』」

 

 鉛筆を持った左腕に呪力を流し、その身体に刻まれた技術を再現する。目を瞑り、頭の中に猿顔の男の顔を思い浮かべながら。少しすると、左手が俺の意識とは関係なしに動き出した。数分の間、勝手に動く左腕がスケッチブックに鉛筆を走らせる音だけが響く。

 

「おにぎり買ってきたっスよ。しゃけとあさりしぐれでいいんスよね?」

「はい。ありがとうございます」

 

 書き終わったのと同時に、襖を開けてコンビニ袋をぶら下げた新田さんが部屋に入ってきた。俺がそのコンビニ袋を受け取りながら感謝すると、猿顔の男の似顔絵を見ながら口を開く。

 

「全然大丈夫っス。……わ、めっちゃ絵上手いっスね」

「そういう呪物なので。これ、他の人たちに伝達をお願いします」

「了解っス!」

 

 俺はスケッチブックのページを切り取って新田さんに渡すと、それを持って部屋の外へ出ていった。猿顔の男についての情報を俺は知らないが、補助監督や窓などの他の高専関係者は知っているかもしれない。彼女には、そっち方面からの情報収集を頼んでいたのだ。

 

 コンビニ袋からおにぎりを取り出し、梱包を開けて食べる。ほぼ二時の遅めの昼食だ。

 

 猿顔の男が標的にするだろうホストクラブ(『ロスティンペリダイ』)を監視するため、俺は高専にその為の『眼』や『擬奴羅』を取りに戻っていた。戦闘には全く使えない呪物なので、そういった呪物は基本的には高専に保管してある為仕方ない。

 

 今回の任務は、“組織化しているらしき呪詛師たちの捜索及び捕縛”。討伐ではない。単純に殺すだけなら簡単で話が早いが、上層部は少しでもその組織の情報を得る為、猿顔の男を泳がせとのことだ。やはり、組織化していることを恐れているのだろう。

 

 死屍創術の拡張術式である『綴命畜生道』を極めた術師は、蚊のような虫でさえ操ることが出来たという。そしてその蚊によって、疾病で亡くなった遺体の血液を対立している術師に注入したり、機密情報を盗聴したりしたそうだ。……そんなことをしているのだから、忌み嫌われるんだよと始めて聞いた時に思った。

 

 戦闘には向かない術式の為、過去の術師たちは戦闘面への術式の発展を切り捨て、卑劣ともいえる方向へとこの術式を研鑽したのだ。俺は戦闘へ何とか使えるように色々と試行錯誤したせいで、生産面ではどうしても切り捨てている分野は多い。

 

 俺も虫を操ることが出来れば今回の任務も簡単だろうが、俺の『綴命畜生道』は哺乳類と鳥類、爬虫類しか素材(対象)にできない。魚類は必要性を感じないから切り捨てたのだが、両生類とその他無脊椎動物を素材にするのは難易度が高すぎる。

 

 今日は他の呪詛師たちの仲間を捕捉出来れば上出来だなと、そう考えながらおにぎりの残りを口に放り込んだ。

 

 

 

 

 

「今、標的を確認しました。猿顔の男です。……一人みたいですね。辺りに他の術師がいる様子はありません」

『了解っス。今日も下見っスかね。そのまま司條さんは監視を続けて下さいっス』

「了解」

 

 その日の深夜三時ごろ、再び猿顔の男はホストクラブの周辺に現れた。俺はホテルから、新田さんに電話でその男について情報を伝えている。描いた猿顔の男の似顔絵は大体の高専関係者に回ったが、有力な情報は得られなかったそうだ。

 

「対象が路地裏に入りました。『眼』を変えます」

『了解っス』

 

 まだ日が明るく人通りも少ない六時ごろに、蠅頭以下の呪力しか持たない視覚映像を飛ばすだけの呪具をいくつか店の周りに設置しておいた。あまり鮮明とはいえない上、呪力も感知できない視覚だが、予め対象が分かっていれば何とかなる。

 

 隠密特化のため機能は切り捨てていて、この呪物は移動すら出来ない。なので現在視覚を同期していた『眼』から別の『眼』へと感覚を移す。一瞬、瞬きをするように視界が暗転して、ホストクラブの路地裏を移す視点となった。

 

 今日の猿顔の男の服装は、地味な黒いパーカーと動きやすそうなジャージに運動靴だ。昨日よりも寒いのに軽装で、男の身軽そうな印象をさらに強くしていた。

 

 男は周囲をきょろきょろと見回していて、どうにも落ち着きがなく辺りを警戒しているようだ。まさか見ていることがバレたのかと思ったが、男が確認しているのは呪物を隠している場所ではなかった。通路に人がいないことを確認していたのかも知れない。

 

『今の対象の様子どうっスか?』

「どうやら辺りを警戒して──は?」

『司條さん? どうかしたッスか! 司條さん!』

 

 電話の向こうから、新田さんのこちらの様子を聞く声が聞こえるが、今の俺にはそれを気にする余裕がなかった。『眼』が捉えている視界で、猿顔の男がパーカーの下から取り出した物体に、全ての意識が持っていかれたからだ。

 

 それは──『能面』だった



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第十六話:強襲にて

 男が取り出した『能面』。冥さんが言っていた、呪詛師の間で噂になっているらしい呪具だろう。しかし、俺にとってはただの呪具以上の意味を持ち、家族を殺した呪詛師への手がかりだ。

 

 ──今すぐ捕まえて情報を吐かせるか? 

 

 脳裏にそんな選択肢が浮かんだ。二十二年間、能面の呪詛師についての情報を何も得られていない俺は、少しでも情報が得られるならば何でもする。

 

『司條さん! 大丈夫ッスか!』

「っ! ……すみません。取り乱しました」

 

 ベッドの横に立てかけられた刀を手に取り、部屋から飛び出そうとしたところで、携帯からの大声に正気を取り戻した。

 

 そうだ。そもそも猿顔の男は、俺の家族を殺した黒い炎を操る呪詛師ではない。猿顔の男は三十代前半ほどの見た目だ。見た目より老けているとしても四十手前あたりだろう。二十二年前の時点で、黒い炎の呪詛師は声の質からして二十は確実に超えていたはず。それに、記憶の中の呪詛師の体格はかなりがっちりとしていた。

 よって猿顔の小柄な男が黒い炎を操る呪詛師の可能性は、限りなくゼロに近いだろう。

 

 一度深く息を吸い込んで、荒んでしまった気持ちを鎮める。二十二年前からずっと渇望していた奴につながる可能性が急に降って湧いてきて、俺は浮き足立ってしまっていた。こんな状態で行動してもいい事は何もない。衝動的に動けば他の見るべきところを見失ってしまうだろう。冷静さを欠いた行動をしようとしてしまった事を反省し、電話先にいる新田さんに報告を続けた。

 

「辺りを警戒してから能面を取り出しました」

『能面っスか? ……どんなのか分かります?』

「……朱色の強い肌の彩色、比較的シンプルで少し幼い顔立ち……男面で童子類の『猩々』ですかね」

『いや、その……』

「どうかしましたか?」

 

 身軽な猿のような男の印象に合わせたかのような、その赤ら顔の面は確かに『猩々』だった。その面を見ても、二十二年前の呪詛師ではないと分かる。あの呪詛師は女面、若女類の『増』をかけていたのだから。

 しかし、その報告を聞いた新田さんは少し戸惑ったような声をあげた。何故だろうかと不思議に思い、その理由を問う。

 

『すみませんっス。能面の特徴だけでも、こちらで把握しようと思って聞いたんスが……まさか詳細な名称が出てくるとは思わなかったんス』

「……ああ、そういう事ですか。すみません」

 

 俺は少しでも情報が欲しくて、能面に関する知識を幼い頃に詰め込んだが、普通の人は能面の事細かな分類や名前を覚えていないだろう。むしろ覚えている俺の方が少数派だ。そこまで考えて報告すべきだったのに、やはり今の俺は冷静さを失っているらしい。

 

「能面の詳細については後で報告をします」

『了解っス。今の男の様子は?』

「能面をかけて……二階の窓へと飛びました。今、その窓を開けて部屋に入りましたね」

『な、複数の呪詛師の犯行じゃないんスかね?』

「……今のところ周囲に怪しい人影はありません」

 

 能面の紐を張り、両手に手袋をはめる。そして、猿顔の男は手慣れた様子で能面をかけた。その猿のような印象の通りの身軽な身のこなしで、一息に二階の窓の縁に手を引っ掛ける。まさか、もう窃盗を起こすつもりだろうか。他に仲間がいるのではないかと疑っていたので驚いた。

 

 ……いや、もしかしたら共犯者はすでに店内に潜入しているのか。それならば残穢がいくつあってもおかしくはない。

 あの能面を猿顔に渡した人物を特定できれば、そいつが俺の探している呪詛師自身、もしくはその呪詛師について何か知っている可能性がある。絶対に逃がさない。

 

「……男が出てきました。……?」

『どうかしたっス?』

 

 『猩々』の能面をかけた男は、数分してから再びその窓から出て来た。外側から窓を閉めた後、すぐに飛び降りずに窓枠に触れ続けている。視界が不鮮明で詳しくは見えないが、何か呪符のようなものを押し当てているようだ。すぐに逃げればよいのに、その不可思議な行動には違和感があった。

 

 今すぐにでも捕まえて情報を抜き出したいが、上からの命令は“組織化しているらしき呪詛師たちの捜索及び捕縛”。今回の一件で単独犯の可能性も出たが、まだ組織化していないと決まったわけではない。

 目の前で犯罪が起こっているのに見逃さなくてはならない歯がゆさを感じながら、そうするならば確実に任務を遂行しようと心に決める。

 

「窓枠に触れて何かをしているようです。……あ、今逃げました」

『了解っス。では手筈通りに』

「はい。今から追手を放ちます」

 

 高専から持ってきた大きめの二つの桐箱を開け、中に入っていた『擬奴羅(きめら)』を取りだす。普通のカラスより大柄の、ワタリガラスを素材にした追跡用の『擬奴羅』だ。

 

「『葬頭河の淵より飛びて出よ』『鳬銀(ふぎん)』」

「『葬頭河の淵より翔けて出よ』『鵐忍(むにん)』」

『ガァガァ!』『カァカァ!』

閂鼠(せんそ)がマークしている呪詛師を追って、拠点が分かったら戻ってこい。分かったか?」

『ガァ!』『カァ!』

「よし、行け!」

 

 黒い羽毛に燻した銀のような美しい光沢がある二羽のカラスたちは、窓から夜の街の上空へと飛び立った。上空百数十メートルから追跡できるこの『擬奴羅』なら、呪詛師の潜伏場所が分かるはずだ。

 

「追手を放ちました。GPSはちゃんと機能していますか?」

『はい、大丈夫っス!』

「よかった。では後は頼みますね」

『了解っス!』

 

 鳬銀と鵐忍に取り付けておいた発信機によって、後は新田さんが猿顔の男についての情報を集める手筈だ。術師よりも補助監督の方が呪力は少ないので、尾行してもバレにくいからと新田さんから立候補した。もし戦闘になった時のために『擬奴羅』を何体か貸したので、相手が相当強くなければ逃げ切れるだろう。

 

 今日はもう俺が呪力を使う可能性はないはずだ。胸元から匣を取り出し、呪力を込める。ようやくだ。ようやく黒い炎の呪詛師について何か知ることができるかもしれない。そうすれば復讐を果たすことが出来る。暗い喜びが胸中を満たしていた。

 

 今まで一切の手がかりもなく、半ば諦めかけていたのだ。この死に近しい呪術界では、呪詛師同士の抗争でも死ぬことはあるだろう。しかし、絶対に奴は生きている。確信ともいえる直感があった。

 

 二十年以上渇望した願いがようやく形を取り始めた事に、いつもより何倍も多くの呪力が腹の底から湧いて出て、その呪力を全て匣へと込めていく。

 

 俺はこの呪物を使いたくはない(・・・・・・・)。匣の中の呪物は、死屍創術の極ノ番。俺では絶対に不完全な形でしか創り出せないはず呪物。しかし、これは唯一完全に効果を発揮出来るはずだ。

 

 これを使う時は、当主様との生きて俺が当主となる約束を反故にする事となる。

 

 この呪物を使用すれば、俺は死ぬのだから。

 

 

 

 

 

「これが奴について分かった情報っス」

「ありがとうございます」

 

 追跡から数日後、高専で新田さんが猿顔の男について調べてまとめた資料を俺は読み込んでいた。

 本名日壁正利(ひかべせいり)。職業フリーター。犯罪歴はなし。家系に術師もいない。おそらく、一般家庭から生まれた術師だということだ。高専関係者が術式や呪力を生まれ持った人間を高専にスカウトするのも仕事の一つであるとはいえ、それも完璧ではない。そういった者たちから呪詛師となってしまう者もいる。

 

「上から捕縛許可は出たんですか?」

「ようやく出たっス」

 

 俺が『眼』で見た情報や、新田さんが何日も張り込みした結果、奴は単独犯だという答えにたどり着いた。何日経っても別の呪詛師と接触することは無かったし、なによりも犯行時に一人であったからだ。ホストクラブの従業員や客にも怪しい人物はいなかった。

 

 あのホストクラブにも残穢は複数あったが、それは『能面』によるものだろうという結論だ。その事を中間報告書で上に伝えたのだが、なかなか捕縛許可が降りなかった。やはり、上層部は組織化を警戒していたのだろう。

 だがほぼ確実に奴が単独犯である事と、事件をいくつか犯したらすぐに犯行場所を変える事による逃してしまう危険性を何度も訴えた事によって、ようやく上から捕縛許可が降りたのだ。新田さんには感謝しかない。

 

「現在奴が借りてるアパートの大家さんから、警察内の高専関係者が合鍵を借りたっス。これがその合鍵っス」

「ありがとうございます」

「今日の深夜、奴の家に強襲するんスよね?」

「ええ、もういつ部屋を引き払ってもおかしくない。早い方がいいでしょう」

 

 鈍く輝く鍵を受け取って懐に入れ、立ち上がりながら新田さんの確認に応じる。もう確認出来るだけでも二件窃盗を犯したのだ。奴は二、三件の窃盗を行うとすぐに別の地域に移動してしまう。ならば、今すぐにでも捕縛するべきだろう。その為の呪具呪物も用意してある。

 

 その襲撃の予定をしっかりと共有し、日が暮れるのを待った。

 

 

 

 

 

「『葬頭河の淵より這いて出よ』『辰口縄(たつくちなわ)』」

『シャァー』『ジャァー』

 

 草木も眠る丑三つ時。呪霊も活発に蠢き始める深夜に、俺と新田さんは猿顔の男のアパートから少し離れた公園にいた。奴が家にいる事は朽鼠で確認してある。

 

「辰口縄、朽鼠、閂鼠。お前たちは換気扇や屋根裏から標的の部屋へと入れ。二階の一番右だ。俺の血でマーキングしてある。それを辿れ。辰口縄への合図は俺が。朽鼠と閂鼠へは鳬銀が出す。いいな?」

『ジャ!』『ピィ!』『キチチィ!』

「よし、行け」

 

 公園の草木の隅から、奴のアパートの方へ消えていく尾が二股の蛇や背中に目玉が埋め込まれた鼠、人の歯が縫合されている蝙蝠を見送った。数分もすれば指定の位置へ着くだろう。

 

「自分も行ってきます」

「ご武運を祈るっス!」

 

 新田さんに一言言ってから、俺もアパートの方へと向かう。俺の後ろを鳬銀が飛んで付いてきた。十月も近づき、ひんやりと冷たい夜風が吹いている。だが、そんな肌寒さも気にならないほど、俺の胸中には溶岩のようにどろりとしていて熱い情念が満ちているのだ。

 

 奴のアパートとへ向かう道のりが、二十二年間の宿願たる復讐のための情報が確かに近づいている事を表しているようで、形容しがたい感情が一歩進むごとに溢れ出る。

 

 残った理性で呪力が溢れ出てしまう事を防ぎ、両手に一本ずつ持った呪具の組紐の感触を確かめた。

 

 ほんの数分であったが、俺にとっては何十分にも感じられた短い道も終わり、奴のアパートの前へようやく辿り着く。階段を一階と二階の間の踊り場まで登り、肩に止まった鳬銀に命令した。

 

「鳬銀、合図を出せ」

『ガァ! ガァ!』

「よし。よくやった」

 

 意識を集中させると、俺の呪力を込めた『擬奴羅』たちが猿顔の男の部屋へと入り込んだのが知覚できた。俺も奴の部屋の前まで音を立てぬように近づき、鍵穴に鍵をさして回す。奴も起きたのだろう。物音と俺のものではない呪力の高まりを感じた。どうやら交戦しているらしい。

 俺は一つ息を吸って、思いっきりドアを開けた。

 

「高専だ! 日壁! 大人しく捕まれ!」

「な、クソ!」

 

 俺がドアを開けると、ちょうど日壁は能面をかけ終わったところだった。こんな場面で逃げるでもなく、能面をかける事を選択したということは、何らかの特殊な能力を持った呪具で確定だろう。警戒を引き上げた。両手に持った組紐を構えながら口を開く。

 

「抵抗しなければ怪我はしないぞ」

「は、寝込みを襲っといてよく言うな!」

 

 日壁の周りには、何体かの閂鼠と朽鼠が胴体の半ばで切断されて倒れていた。その手には呪符が巻かれた柄の血に濡れたナイフが握られており、それが獲物だろうと当たりをつける。

 

「喰らえ!」

「っ!」

 

 日壁はそのナイフに呪力を込め、いきなり俺に向かって投擲してきた。ナイフを躱し、俺もお返しと言わんばかりに呪力を込めた組紐を投げ、言霊を紡ぐ。

 

「『絡み奪え』『乱れ髪』」

「なっ! クソ!」

 

 空中で解けた組紐が、日壁の両腕に絡みついてその自由を奪う。遺体の髪の毛に、俺の呪力を込めながら編み上げた捕縛用の呪具だ。

 

 腕が使えないと瞬時に判断した奴は、その身体でタックルを仕掛けてきた。だが、直線的なその攻撃を食らうほど俺も舐めてかかってはいない。姿勢を低くして足払いをし、日壁の体勢を崩した。

 

 転んで芋虫のようにもがいている日壁の背中に乗り、刀を抜いて首筋に少し触れる程度に刃を押し当てる。その刃の冷たさを感じたのか、すぐにもがくのをやめた。

 

「動くな」

「チッ!」

「抵抗すれば、首が胴体と泣き別れすることになる。それが嫌なら大人しくしていろ」

「バーカ。呪術を使った犯罪とはいえ、窃盗しかしてねぇ俺を殺す命令なんて出てないだろうに」

 

 肝が座っているのか、それとも開き直ったのか。俺に命を握られているというのに、妙に日壁はふてぶてしく口を開いた。言っていることは確かに正しい。俺にはこいつを殺せという命令は出ていない。

 だが、呪詛師とはいえこんな態度で、余裕さえ感じるような声色でこの状況で振る舞えるだろうか。

 違和感を抱く。

 

「お前、何級だよ」

「……」

「おいおいだんまりか?」

 

 こんなにも得体の知れない自信を持つ呪詛師に対し、不用意に応答するべきではないだろうと口を固く閉ざす。何をしてきてもいいように、意識をこいつの一挙手一投足に向けて警戒を続けた。

 

「なんでもいいが──頭上注意だクソ野郎!」

「ッ!」

 

 意識をこいつに向けすぎていて、意識外の攻撃に少し反応が遅れてしまった。俺の頭上からナイフが降ってきたのを、風切り音と呪力で感知し何とか回避する。日壁は地に伏したまま体を無理やり捻り俺の方を向いた。能面の輝きのない不気味な死んだ目と目があう。

 

 ──マズイ! 何か来る! 

 

 危険を感じ、咄嗟に背後に飛ぶ。

 すでに能面の口元には呪力が集まっていて、大きなシャボン玉のような泡が高速で打ち出され俺の眼前で炸裂し──俺は何をしているんだ? 

 

「死ね!」

「な!」

 

 日壁がいる部屋の鍵穴に鍵を入れたところだったのに、なぜか俺は室内にいた。混乱で固まってしまった俺の目の前に飛来してきたナイフを、ほぼ反射的に躱す。だが、完全には躱しきれず頬を掠めた。

 

 とにかく距離を取ろうと背後に飛ぶが、背中に鋭い痛みが走る。何故か避けたはずのナイフが背中に突き立っていた。そのナイフが独りでに動き、更に深々と肉を抉ろうとしているのを柄を握りしめて抑える。

 

「俺の術式は『曰く憑き』! 呪霊を俺の血で綴った呪符や髪の毛に封じ込め物に憑かせる術式だ!」

 

 流れるような術式の開示。肉を抉ろうと独りでに動くナイフに加わる力が強くなる。

 

 ……だが、思い出した。こいつの犯した窃盗の不可解な状況を。

 

 背中の痛みが気付けとなった。俺がこんなにもこの状況に困惑している事、そして、いくつかの窃盗のケースでその部屋に人がいたのにも関わらず、その姿を気づかれずに金品が盗まれていた事を可能にするのが奴の──いや、能面の呪具に刻まれた術式だ。

 

「……なら、その記憶を消す術式は何だ?」

「チッ! 大玉を当てたのに、術師だと効きが悪いのか!」

 

 正直当てずっぽうではあったが、奴の様子からしてそれが正解だったのだろう。奴の方から自白してくれた。奴は気づかれないのではない。気づかれてもその記憶を消していたのだ。あの能面の呪具を使って。

 ……いや、まだそれを確信するわけにはいかない。ほぼ確定とはいえ、他の可能性も考えつつ戦うべきだ。一つの思い込みと油断が術師同士の戦いだと命取りになる。

 

「返してやる、よ!」

 

 背中のナイフを抜き、日壁に向かって投げつける。だが、奴の眼前の虚空でぴしっと止まってしまった。

 

「は、ありがとさん。お返しにもっと増やしてやるよ」

 

 そのナイフに加え、更に三本の刃物が家の奥から飛んできて奴の周囲をふわふわと漂いだす。その刃物の全ての柄に、赤黒い文字が書かれた呪符が巻き付けられている。日壁がパチンと指を鳴らすと、その全てが俺に向かって殺到した。

 刀を一度納刀し、抜刀の構えを取る。狭い室内だが問題はない。

 

「『骨奪技巧』シン・陰流居合『露払い』」

「は! 一回弾いたところで意味ねぇよ! いつまで保つか……な?」

 

 居合の残心を残す俺に、日壁が再び刃物をさしむけようとするが刃物は床に落ちて動かなくなった。奴が自分で呪符に呪霊を憑かせていると言ったのだ。そのため柄の呪符を斬ったのだが、どうやら言っていた事は本当だったらしい。術式の開示にブラフはなかったようだ。

 

 その状況が飲み込めず、焦った様子の日壁に急接近し土手っ腹をぶん殴る。日壁はもろにそれを喰らい、ドアを破壊してそのまま居間へと吹っ飛んだ。

 

「辰口縄! 奴の脚と口を拘束しろ!」

『ジャァ!』『シャァ!』

「つ、来るな!」

 

 天井から落ちてきた二体の尾が二本の蛇の異形の片方が日壁の脚に絡みつき、片方が一本の尾を首に絡み付け、もう一本を能面の口から奴の口腔へと入れる。もがもがと声にならない声を上げるが、拘束はそのままだ。

 

 物を操る術式とまだ推定だが記憶を消す術式。確かに強力な術式だ。だが戦闘を主にした呪詛師でなければ、一級の末席程度の俺でも何とかなる。捕縛した事を新田さんに伝え、高専で待機してもらっている回収班を呼んでもらう。

 

 諸々の指示を終えた後、俺は出来るだけ距離を取って警戒しながら、まだもがいている日壁に話しかけた。

 

「どうやって記憶を消すのか分からない。そのままでいてもらう。俺の質問には首を振って答えろ」

「あぐわぁぐなうお」

「余計なことを話すな」

 

 口の中に蛇の尾が突っ込まれているのだ。相当な嫌悪感が湧くだろうが、こうするしか今の俺には安全な拘束方法がない。

 

「その能面はお前が作ったものか?」

「……」

 

 沈黙。首を縦にも横にも振らない。

 

「その能面を作った奴を知っているか?」

「……」

 

 やはり沈黙。こちらを見る能面の下で、俺を馬鹿にしているのだろう雰囲気だけが感じられた。

 

「答える気は無いんだな?」

「あうあうあー」

「チッ」

 

 その質問にだけは首を千切れんばかりに縦に振った。殺される事はないと分かっているからか、随分と舐めた態度だ。苛つく。その態度にではない。目の前に家族の仇への手がかりがあるのに、それを得ることのできない歯がゆさにだ。

 

「閂鼠。俺の周りを飛べ」

『キチィ!』『チチィ!』『キチチィ!』

「辰口縄。口から尾を抜け」

『ジャァ!』

「ブハッ。クソが。汚ねぇもん口に入れやがって」

 

 口から辰口縄の尾を抜かれた日壁の第一声は、こちらを蔑む言葉だった。だが、そんな事は気にならない。俺は今すぐにでも手がかりが欲しい。

 

「もう一度聞く。能面はお前が作ったものか?」

「さぁ、どうだろうな」

「答える気は無いんだな?」

「さぁ、どうだろうな。もっと近づいたら教えてやる、ぜ!」

「閂鼠!」

 

 日壁の能面の口元に呪力が集まり、俺に向かっていくつものシャボン玉のような球体が飛来する。おそらく、それを喰らったら記憶が消されるのだろう。閂鼠が俺の目の前で守るよう滞空し、代わりにシャボン玉を喰らった。だが、閂鼠に何の変化も見られない。

 

「な、これは式神にも効くはずだぞ!」

「これは式神では無い。死体を材料にして創った『擬奴羅』だ。呪いを宿す呪骸よりも傀儡に近い。入力された命令を実行し続けるだけのな」

「術式の開示か!」

「ああ、俺の術式は『死屍創術』。屍から呪具呪物を創り出す術式。……お前は自分が殺される事はないと思っているようだが、別にそんな事はないぞ」

 

 嘘だ。任務は捕縛のままだ。だが、こんな舐めた呪詛師に対して、本当のことを言ってやる義理はないだろう。

 

 基本的に『擬奴羅』は自立して動くが、俺の近くにあるならば特殊な呪符がなくとも俺が操作できる。奴が胴体を切り裂いて真っ二つになった朽鼠と閂鼠に意識を集中させた。術式を開示した今なら、ある程度精密な操作も可能だろう。

 

「俺は殺した相手の脳が無事なら情報を抜き取れる。お前が何も言うつもりがないなら、殺した方が早い」

「……は、せいぜい俺は高専で有る事無い事言った後、刑務所で臭い飯を食うことになるだけだろ」

「普通ならそうだな。だが、高専は今その能面に関わる呪詛師を警戒している」

「……」

 

 これも嘘。高専はまだ能面については把握していないだろう。だが、何か心当たりがあるのか、日壁の雰囲気が変わった。この線で押していこうと決める。実際、高専の上層部が組織化を警戒しているのは本当のことだ。

 

「高専の上のお偉いさんは、呪詛師の組織が出来るのを恐れているんだ。去年に百鬼夜行があっただろ? 現体制への叛逆どころか非術師を皆殺しにするなんてのが目的の。だから盗難なんてちゃっちい事件に、組織化の気配ありという理由で一級の俺が駆り出された」

「……チッ、お前一級かよ」

「早く吐いちまった方が楽だぞ。言えば命までは取られないだろう」

「……」

 

 日壁が少し逡巡しているのが察せられた。交渉や脅迫において重要なのは、どれだけこっちが冷静でイカれているのかを分からせる事がコツだと何かで読んだことがある。ならば、狂人を演じよう。

 

 首だけや下半身だけの鼠や蝙蝠を、モゾモゾと床に這いずらせながら日壁の方へと向かわせる。床に血の線を引いて近づいてくるそれらに、ようやく日壁は気がついたのか小さな悲鳴をあげた。

 

「ちょ、おいおい! 何だそれ!」

「実はな、俺はお前を殺したいんだ。だから、何も言わなくてもいいぞ。殺す理由が出来るからな」

「な、何を言って」

「死屍創術で呪具呪物を創る際は、自分が殺した人間の死体から創るのが一番いいんだ。それこそ、死の間際まで苦しんで死んだ遺体だとなおいい」

「やめ、やめろ!」

 

 血の滴る頭部や下半身が日壁の身体を登ろうとする。呪詛師とはいえ悍ましいその光景は堪えるのか、日壁は身体を揺り登ろうとしてくるそれらを振り落としていた。

 

「体内から内臓や皮膚を食い破られた事はあるか? 術師とはいえ、体内からの攻撃は中々効くらしいぞ。……いや、術師だからか。普通の人間より丈夫だから長い時間苦しんで死ぬ。これがまたいい呪具の素材が出来るんだ」

 

 嘘だ。流石にそんなエグい事はやった事はない。だが、脅しとしては中々効いたらしい。もう一押しだろう。俺には探偵の才能はなくとも、詐欺師か恫喝の才能はあったのかもしれない。自分のこんな悍ましい術式に珍しく感謝をした。

 

「『解除』」

 

 左腕の換装義骸の接続を解除して、日壁に向かって投げつける。左腕は尺取り虫のように動き、奴の周りに散らばった鼠や蝙蝠を掴み、能面の口元へと恐怖を煽るようにゆっくりと運ぶ。

 

「い、言うから! この腕を退かせ!」

「……チッ、分かった」

 

 奴の口元で鼠の頭部だけを蠢かせながら、腕やその他のパーツの動きを止める。ようやく話してくれる気になったらしい。だが少しでも舐められないように、殺せなくて残念だ、と一つ芝居を打った。

 

「その能面はお前が作ったものか?」

「ち、違う! これは俺が作ったものじゃないし、組織なんかにも参加してない! 組織があるのかも知らない! ただ買わされただけだ!」

「誰にだ?」

「そ、それは……」

「まただんまりか?」

 

 再び口籠った日壁に、無言で左腕を操作して口元へと近づかせる。奴はそれに焦ったのか必死な声色で声を上げた。

 

「違う! 言わないんじゃない、言えないんだ! 頼むから分かってくれ!」

「……」

 

 ほぼ泣きそうで必死なその声に、嘘はついている様子は感じられなかった。……言わないではなく、『言えない』。何かしらの縛りだろうか。

 

「なら、能面はどこで手に入れた?」

「い、言えない」

「どれぐらい前だ?」

「言えない」

「その呪具の名称は?」

「言えない!」

「……」

「本当なんだ! 信じてくれ!」

 

 あまりに必死なその声に、やはり嘘をついている様子はない。二十二年間尻尾を見せなかった奴へのせっかくの手がかりだったのに、何の成果もせられない事に右手に籠る力が強くなる。

 

 ──本当に殺すか? 

 

 一瞬その選択肢が脳裏に浮かぶが、何とか踏みとどまる。俺の術式なら能面を手に入れた時の記憶を覗く事はできるだろう。だが、確かにこいつが起こした犯罪は窃盗だけだ。殺すほどの大罪ではない。私怨の巻き添えで殺してしまう訳にはいかないだろう。

 

「……ハァ」

「お、おい! 俺に近づくな!」

「お前が何もしなければ、俺も何もしない。その能面を回収させてもらうぞ」

「わ、分かった」

「辰口縄。もしこいつが何か不審な行動をしたら、体内に入り込んで殺せ」

『ジャァ!』

 

 ほぼ戦意を喪失してはいるが、最大限に警戒をして日壁に近づく。妙な呪力の流れもなく、大人しく捕まる事にしたのだろう。俺が能面を掴み、無理やり剥ぎ取ろうとした瞬間──能面から黒い炎が噴き出した。

 

「な! 日壁! お前何をし……クソ!」

「熱い熱い熱い!」

 

 急に能面から噴き出したその炎は、日壁が何かをしたから発生したのかとまず考えた。だが、こいつが何かをした様子はない。むしろ能面以上に、日壁に纏わりつくその炎は轟々と燃え上がっている。

 

 日壁の顔面と俺の右腕に纏わりつくその黒い炎は、俺の家族を焦がし殺した呪詛師の炎だ。間違える訳がない。今まで何度も何度も夢の中で見てきたのだから。家族が生きながら、この黒い炎に巻かれる光景を。

 

「あづぃあづぃあづぃ!」

「チッ!」

 

 炎を振り払おうとしても、全く消える様子がない。キッチンの蛇口をひねり、流水を黒い炎に巻かれた右腕にかけるが何の変化もなかった。

 

 ──普通の炎じゃない! 何故消えない! 

 

 少しでもダメージを減らす為、更に右腕に呪力を流し強化しようとした瞬間、一層黒い炎は強く燃え上がる。それに気がつき、この黒い炎の悪趣味な性質をようやく理解した。

 

「クソ! そういう事か!」

「あ゛あ゛いぃぃあ゛あ!」

「司條さん! 何で日壁が燃えてるんスか!」

「日壁に近づくな! その炎は呪力で燃え上がるぞ!」

「っ!」

 

 日壁の絶叫を聞き入ってきた新田さんに叫ぶ。おそらくそれが黒い炎の性質だ。痛みや恐怖を感じ、呪力が高まれば高まるほどより一層激しく炎上するのがこの黒炎(こくえん)。呪力を多く持つ術師に対して絶大な威力を持つ炎だ。……いや、非術師にも呪力はある。むしろ呪力の操作ができない彼らに対しては、死ぬまで消えない致死の炎だ。

 

 俺は出来る限り呪力を抑えた。痛みに耐え、こんな趣味の悪い事をした奴への怒りに無理矢理蓋をしながら。読み通りドス黒かった炎は、少しずつ薄くなり弱まっていく。少しして俺の右腕の炎は何とか鎮火した。

 

「日壁! 呪力を抑えろ! 早く!」

「あ゛づぃ゛あぁ゛あ゛!」

「クソ! 新田さん! 高専に家入さんがいるか確認を! いないなら救急車をお願いします!」

「り、了解ッス!」

 

 キッチンの蛇口から流れ出る水を、目に付いた大きな鍋に入れて日壁に何度もかける。それを何往復もしたが、日壁の黒い炎は轟々と燃え上がるばかりで焼け石に水にすらなっていない。

 やがて黒い炎は消えたが、そこには日壁だった黒焦げの遺体があるだけだった。

 

「家入さんは今いないそうッス! 救急車を……」

「……いや、もう手遅れです。……高専の処理班に連絡を。あと、こんなにも叫んでいました。近隣住民が警察に通報をしている可能性があります。高専から警察に連絡をしてもらってください」

「っ、了解ッス」

 

 携帯を操作して各所に連絡を取り始めた新田さんを横目に、俺は真っ黒になった能面に手を伸ばす。だが、触れた端からぼろぼろと炭になって崩れた。遺体の脳から情報を抜く事も不可能だろう。死ぬほどの罪を犯した訳でないのに、こんなにも惨たらしく殺された事に同情した。

 

「……クソ」

 

 やはり、奴は自分に繋がる情報を残さない事を徹底している。だが、あの黒い炎は奴がまだ生きているという確たる情報を残した。今はそれだけでいい。それに、黒い炎も奴の術式に関係があるはずだ。少しでも手札が分かっただけマシだ。そう、自身に言い聞かせるように脳内で呟く。

 

 人肉が焦げた生理的嫌悪感を想起させる臭気を逃すため、近くの窓を開けて換気をする。深夜の冷たい空気が流れ込んできた。最近はずっと煌々とした夜の街で張り込みをしていたので、静寂な住宅街がかえって異質に感じる。

 

「もう少しで処理班が来るそうっス」

「分かりました。連絡、ありがとうございます」

 

 ある程度その臭気も薄れてきて、部屋の窓を閉めようとした時に不気味な視線を感じた。深い夜の闇から、こちらを嘲笑うかのような不気味な視線。だが、意識を集中させても妙な呪力は感じられない。目を凝らしても、所々街灯に照らされた深く暗い夜の闇が広がっているだけだ。

 

「来たみたいっスね。……どうかしたっスか?」

「……いえ、何でもありません。行きましょうか」

 

 近頃、未登録の特級呪霊たちが徒党を組んでいる事。二十二年間、何も手がかりのなかった黒い炎の能面の呪詛師が再び動き出した事。そして、虎杖君による両面宿儺の受肉。

 

 これらは全て偶然だろうか。どうにも俺にはそう思えなかった。

 

 呪術界の闇で煮詰まった底知れない悪意の、その一端に触れてしまったような気がして、妙に背筋が冷たくなる。

 

 不吉な災厄の影が、すぐそこにまで近づいている気がした。



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間章『昔語り』
第十七話:特級呪詛師の昔語り


「君たちが高専の新入生かな? 初めまして、私は二年の夏油傑。よろしくね」

 

 私はその日少し早く起きてしまい、いつもより早く寮から高専の校舎へと向かった。その道すがら、今日は一年生が来る日である事を思い出し、挨拶の一つでもしようと去年まで私たちが使っていた教室へと立ち寄る。

 入学式なんてないこの高専だ。これからの任務でお互いの命を守りあうこともあるかもしれない。ならば、交流は深めておいた方が良いと思ったのだ。

 

「はい! 灰原雄です! よろしくお願いします! 好きな食べ物はお米です!」

 

 真っ先に挨拶をしたのは、黒髪の人懐っこい犬のような印象を受ける子だ。呪術師どころか一般人としても、その裏表の感じられない快活さはとても好ましく感じられた。

 

「七海建人です。これからよろしくお願いします」

 

 次に挨拶をしたのは、髪の色素が薄い堅物そうな印象を受ける子。その珍しい髪色と、日本人にしては彫りの深い顔立ちから、海外とのハーフかクォーターだろうかと当たりをつける。高専にもアメリカ人の術師がいるが、それもかなり珍しいことなので少し驚いた。

 

「司條刻嗣です。……お噂は予々聞いております。これからよろしくお願い致します」

 

 一番最後に挨拶をしたのは、まだ十五歳とは思えないほど堅苦しい挨拶をする子だった。この三人の中で唯一呪術の家の出であるので、その辺りの作法を躾けられているのだろうか。……いや、悟はそんなことないから、彼個人の性質かもしれない。

 

 しかし、そんなことは気にはならない。それよりも彼の目が気になった。日本人にしても珍しい虹彩の黒みの強い、室内だと真っ黒に見えてしまうほどのその目が、不穏で危うい闇を孕んでいるようだ。いや、闇の黒というよりも、黒土の泥のように冷たく質量があり粘度がある黒。

 呪術師として何度も見たことのある呪いの被害者たちの遺体、その目に似た不吉な濁りさえ感じられた。

 

「三人とも、確かに私は先輩だけど、高専(ここ)ではあまり気にしなくていいよ。全員でも十人ほどしかいない学生だ。お互い助け合い、仲良くしよう」

「オイオイオイ。傑何やってんの?」

「後輩イビリなんて趣味悪いよー」

「後輩たちと親交を深めていただけだよ」

 

 私が挨拶をし終えたところで悟と硝子がやってきた。ちょうど良かったと、この二人も一年生に紹介する。

 

「この二人も二年生で五条悟と家入硝子だ。特に硝子は他者にも反転術式が使えるから、怪我をした時に世話になるといい」

「よろしくね〜」

 

 少し気の抜けた挨拶をした硝子に、一年生の三人もそれぞれよろしくお願いしますと会釈をした。それから三人が再び自己紹介をしようとしたところで、悟が急に声を上げる。

 

「自己紹介なんて後でいいだろ。それより、今日の夜一年のお前ら俺の部屋に来いよ。桃鉄やるぞ。桃鉄。もちろん九十九年な」

「おい悟。前ドベだったからって、一年相手に気を使わせるつもりか?」

 

 いきなりそんなことを言い出した悟に口を挟む。高専に入ったばっかりの一年に、九十九年も桃鉄をやらせるのは流石に酷だろう。まだ週末でもない。

 

「あ? なんだよ? お前もやりたいのか? ならお前も参加しろよ」

「別に私が参加するのは構わないが、今日は月曜日だぞ。前に九十九年でやった時は一日と半日以上かかっただろ」

「チッなら二十五年な。それなら文句ねぇだろ?」

「それならまぁ、入学直後だし、すぐさま危険な任務なんてやらせないだろうから問題はないと思うけど……」

「なら決まりだ。今日夜飯食ったら俺の部屋集合な。なんか適当に飲み物とか買ってこいよ」

 

 悟も悟で、後輩達と交流を深めようとしているのかもしれない。三人のうち二人は非術師の出だ。悟が少しでも学生同士で仲良くなれるように気を使っているならば、私が口を出すのも野暮だろうとそれ以上余計なことを言うのはやめる。

 

 悟がそんな事を考えるなんて少し意外で、知らなかったその一面に感動すらしていた。意外にもいい先輩に成れるのかもしれない。

 

「……あ、でも俺と夏油で二人で、一年は三人いんのか。……お前らで桃鉄やったことない奴は?」

「……俺はやったことないです」

 

 非術師の灰原と七海はどうやら桃鉄をやったことがあるらしく、司條だけがやったことがなかったらしい。悟のその確認に反応し、手を挙げたのは司條だけだった。

 

「じゃ、お前は強制参加な。俺またドベになるのヤだし」

 

 ……前言撤回。悟に先輩は向いていなさそうだ。

 

 

 

 

 

「お、来たな。さっさと始めるぞ」

 

 夜ご飯も食べ終わり、少し時間が経った九時頃に悟の部屋に一年生が来た。全員がそれぞれ適当な飲み物をちゃんと持っている。少し前からプレステの電源を入れ、テレビに向かっていた悟はこれ以上待てないようで、入口の彼らを急かす。

 

「で、後一人はどっちだ?」

「はい! 自分がやります!」

 

 一瞬七海と灰原はお互いの顔を見やったが、七海があまり乗り気でなさそうなのを察知したのか自分がやりたかったのか、灰原が立候補しそのまま参加することとなった。

 悟が画面を操作し、それぞれの社長の名前を変える所まで進める。私はすぐに自分の名字を入れるが、右隣に座った司條は操作に手間取っているようだ。

 

「大丈夫かい? ここはこうすればいいんだよ」

「ありがとうございます。こういうの不慣れで」

「司條家にはやっぱりこういうの(プレステ)は無いのかい?」

 

 司條家。悟の五条家のを含む御三家ほどではないが、それなりの歴史がある呪術の家だ。ただ、秘密主義というのか、あまりその家の情報は流れて来ない。司條家の術師は、基本的には高専に入らず家で呪術の研鑽を積む事が多いらしく、司條の術師が高専に入るのは珍しい事だそうだ。

 

「……そう、ですね。あそこではこういうゲームをやった事はありませんね」

「そうか。分からないことがあれば、私に聞いてくれて構わないよ」

「ありがとうございます」

 

 司條の言葉に少し違和感を抱いたが、気のせいかと始まったゲームの方へと意識を向ける。第一印象は少し危うい所がありそうな子だったが、話してみると少しテンションは低いが真面目な子だと分かった。

 同級生の二人が一般人で、呪術の家の子が一人なので浮いてしまう事はないかと心配だったが、これならば大丈夫そうだ。

 

 くるくると回る順番決めのルーレットを見ながらそう思う。

 

「……これ、私がいる意味ありますか」

「そりゃお前、実況係と盛り上げ役だろ。あ、後でちゃんと感想文かけよ。十枚な」

「読書感想文の何倍ですか。他人がやってるゲームをそんな熱量持って楽しめませんよ」

 

 ただゲーム画面を見ることしか出来ない七海がそう言うが、悟がその七海に無茶ぶりをする。やはり悟は理不尽な先輩になりそうだなぁと、少しイラっとしてそうな七海の顔を見て思った。

 

「七海ぃ、高専の新入生は桃鉄を先輩とプレイするか、その感想文を書くのが校則で決まってんだよ。分かったな?」

「……」

「そういう伝統なんだよ。あと一位の命令権は絶対だから。あ、週末は九十九年でやるから、次はお前も参加な」

 

 絶対嘘だろとでも言いたげな七海だが、それを口にするのはやめたようだ。これ以上だる絡みされるのを避けたいのだろう。だが、それに関係なく悟に絡まれている。随分と悟は七海を気に入ったのか、それともボケの反応がしっかりとあるからなのかは分からないが、七海に絡み続けていた。嫌な先輩だ。

 

 そのやり取りを隣の司條はじっと見ていて、彼は七海のように悟にだる絡みされなくてよかったと考えてるのかと私は思った。司條は悟のようなテンションと、あまり合いそうでなかったからだ。その司條が、隣の私に聞こえるかどうかぐらいの小声で呟く。

 

「そんな校則と伝統があるのか……知らなかった」

 

 ……もしかしたら、司條は少し天然なのかもしれない。

 

 

 

 

 

「おっしゃ、ドベ回避!」

「悟、初心者に勝って嬉しいのかい?」

「は、嬉しいね。てかお前絶好調になりやがって、ずるだずる」

「ふふ、三位の戯言は聞こえないね」

 

 外が少し明るくなり始めた頃、二十五年設定の桃鉄が終わった。一位が私で二位が灰原、三位が悟で僅差で最下位が司條だ。やはり初心者だと、カードの使い所やボンビーの押し付け合いで割りを食ってしまっていた。

 

「で、傑? 一位の命令は?」

 

 一位の私に悟が聞く。どうやら本当に一位の命令権とやらがあるそうだ。まぁ、そんなに重い命令をする場でもないだろうと、適当な質問を聞くことにした。

 

「じゃあ、みんなには術師になろうと思った理由や術師としてどうしたいか、何をしたいかを答えて貰おうかな」

「あ? 何だよそんなぬるい命令」

「一位の命令権は絶対なんだろ? ほら、悟からでいいから答えろよ」

「そんなもんねーよ。俺に呪術(ちから)があるからそれを使ってるだけ。そんだけだ」

「まったく、悟は……」

 

 悟に聞いたのが間違いだったと少しイラっとする。だが、ここで呪術師の在り方を口論した所で空気が悪くなるだけだ。喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、一年生の方へと視線を向ける。

 

「はぁ、君たちはどうだい?」

「僕は自分に出来ることを精一杯頑張って、多くの人を助けたいです!」

「私が数少ない呪術に適性がある人間ならば、その適性が発揮出来る所に行くべきだと思ったからです」

「……」

「そうか、二人ともいい理由だと思うよ。……司條はどうなんだい?」

 

 一年生の二人も私の質問に答えた。二人とも悟なんかよりよっぽどちゃんとした理由だ。私はこの二人の先輩として恥じないようにしなければと、そう強く心に決める。

 残るは司條だけだ。だが、司條は一度言おうとしたがそれを飲み込んだように見えた。別に悟より酷い理由なんてないだろうと、それを聞く。しかし、司條はなかなかその理由を言おうとはしなかった。

 

「おいおい、早く言わないと場がシラケちまうぜ。理由があるなら何でもいいから言ってみろよ。……あ、でも一位の命令は絶対だから、嘘はダメだぞ」

「……そう、ですね」

 

 口籠っている司條を悟が急かす。まさか、悟はみんながその理由を言いやすいように、自分にはそんなもんねーよと言ったのだろうか。……いや、ないな。悟は元々そういう奴だ。

 だが、その言葉に司條も言うならば早く言うべきだと思ったのだろう。一つ息を吸い込んでから口を開いた。

 

「俺には殺したい奴がいます。だから、術師になりたいです」

「え……」

 

 驚きからか、小さく私の口から言葉にならない言葉が出た。いや、私だけではない。悟も一年生の二人も私と同じような様子だ。

 場を凍らせた司條の目には輝きは無く、底無し沼のようなどろりとして濁った黒い色が深く強くなっていた。

 

「……すみません。空気を悪くしてしまって。こうなってしまうかなって思って言わなかったんです。……ゲーム楽しかったです。部屋、戻りますね」

 

 本当に申し訳なさそうな様子で、司條は立ち上がって部屋を出て行った。その背中に何か言葉をかけるべきだと思ったが、言うべき言葉が見つからずただ見送ることしかできない。

 

 司條の『殺したい奴がいます』という言葉には、燃え盛るような怒りによる熱も無かった。ただただ底冷えした声色で、淡々とした言葉だ。だからこそ冗談の色は感じられず、一層強くその理由が本当なのだと印象付ける。

 

 少しの間ゲームをしたぐらいだが、私が司條の聞いてきた事を答えたらその度に律儀に感謝の言葉を使い、丁寧な言葉遣いを崩さなかった。司條の(さが)は素直で丁寧だと感じたからか、司條が呪術師になった理由とはどうしても結びつかない。

 

 それ以来、私は司條を気にかけるようになった。

 

 

 

 

 

『でぇんわぁですよぉぉ!』

「『穿牙(うがちきば)』」

「司條、そこまででいいよ。後は取り込むから」

「はい、夏油さん」

 

 司條が弱らせてもう祓われる直前の呪霊に対し、私の術式を使う。準二級程度の呪霊だ。私一人でどうとでもなるが、今日は司條の任務の引率役代わりなので戦闘を見守っていた。まだ荒削りだがやはり呪術の家の出と言うべきか、危なげない戦闘だ。

 

 私は手の中に収まった黒い玉を取り込む。いつまで経っても慣れない呪霊の味に、眉が歪みそうになるがそれを抑えた。

 

「どう、でしたか?」

「そうだね。……死屍創術の強みは物量だ。呪具呪物の携帯数を増やせるようにすれば、二級ぐらいならすぐなれると思うよ」

「なるほど。ありがとうございます」

 

 あの桃鉄をやった日から、もう数ヶ月ほどが経った。司條は思ったよりもほかの一年生とも馴染んでいて、五条や私とも普通に話す関係だ。特に、私たちにはどうすれば術師として強くなれるかをよく聞いていて、その姿勢は素晴らしいものだと思う。

 

 ……しかし、強くなる事に執着を見せてどうにも余裕がなさそうで、やはり少し危うい印象は残っていた。高専に入ってきた頃に比べたらマシではあるが。

 

「もう戻ろうか。補助監督も待たせているし」

「そうですね」

 

 住宅街ではあるが、妙に暗く人気のない路地裏から出て補助監督の待つ車へと向かう。一帯に降りていた帳を抜けて、二人して高専の車に乗り込んだ。補助監督に目的の呪霊は祓除したことを伝えると、車は高専に向けて動き出した。

 ぼんやりと流れていく外の景色を眺める。

 

「……すみません。寄りたい所があるんですが、大丈夫ですか?」

 

 車が走り出して少しして、ふと司條が私に聞いてきた。今は十五時ごろでこの後にはもう任務もないし、私にも特に用事はないため断る理由もない。補助監督に確認を取る。

 

「ん? 私は別に大丈夫だけど……西浦さん、大丈夫ですか?」

「ええ、構いませんよ」

「ありがとうございます。まずは……」

 

 

 

 

 

「……ここは」

「すみません。俺の用事に付き合わせてしまって。荷物もありがとうございます」

「いや、気にしなくていいよ」

 

 司條が降りたのは小さな墓地だった。途中で花屋に寄って仏花を買い、掃除道具や蝋燭などもほかのお店で買っていたので薄々気づいてはいたが、やはり墓参りらしい。

 だが、それが疑問だった。司條家の本家は京都にあるはずだ。刻嗣は正嫡のはずだから、なぜ彼が東京のお墓参りをするのかが分からなかった。

 

「ここです」

「分かっ……赤桐?」

 

 司條が立ち止まった墓石には『司條』の家名はなく、赤桐家之墓と掘られている。司條は汲んできた水が入ったバケツを置いて、慣れた手つきで雑巾を濡らして墓石を吹き始めた。

 

「元々俺は一般家庭の出なので。司條家は養子として入りました」

「……そうだったのか」

 

 その後司條は、自分が司條家に養子となるまでの経緯を話した。家族が呪詛師に殺された事や司條家の相伝術式を持っていた事、そして呪術を研鑽しその呪詛師を殺そうとしている事などをつらつらと語る。

 

「……これでよし」

 

 一通り墓石周りの掃除を終えて、最後に司條は仏花を供えた。そして墓前で手を合わせて黙祷する。私もすべきかと思ったが、その時に司條が振り向いて話しかけてきた。

 

「夏油さんたちには感謝してるんです。ずっと司條家にいて、人付き合いが苦手な俺に構ってくれて」

「礼を言われるようなことはしていないよ。……司條には少し危なかっしい所があるから、気になってはいたけど」

「そう、ですか。……でも、夏油さんや五条さんたちのおかげで、大分楽になりました……ゲームなんて、司條家に入る前しかやった事なかったんです」

「……」

 

 正直、まだ危うい感じは残っている。だが、確かに入ってきたばっかりの頃に比べると多少の余裕はあるように思えた。一年生の二人とも談笑しているのを見かけるようになったし、悟にだる絡みされたり硝子に反転術式のコツを聞いたりしているのも知っている。

 

「だから、改めてありがとうございますって言いたかったんです。特に夏油さんには、色々と呪術や格闘技について教えてもらったので」

「構わないよ。私たちは高専の仲間だろ?」

 

 司條の目の、黒土の底無し沼のような黒は薄くなっていた。それは高専のみんなとの交流によるものだろうか。とにかく、それは好ましい変化のように私には感じられる。

 

 それからも、司條は一年生の二人や私たちとさらに交流を深め、年相応の反応もするようになっていった。やはり、司條の(さが)は素直で丁寧であり、それでいてどこか抜けている天然な所があって、特に一年生の二人とはとても仲良くなった。

 

 だが、司條は変わってしまった。いや、“戻った”というべきか。その引き金は、司條と七海を庇い灰原が呪霊に殺されたからだ。

 

 

 

 

 

「……何してるんだい? 悟」

「ちょ、お前こっち来いこっち来い」

 

 私たちは三年になり、司條達が二年となった年だ。呪霊が多かった八月が終わり、まだまだ暑さを残しながらも九月となった頃、何やらコソコソと物陰に隠れながら何かをしている悟がいた。お互い特級になった私たちは、高専で会うことも少なくなり随分と久しぶりのように感じる。

 その悟が口元に指を当て、音を立てるなとジェスチャーをしながら私をその物陰に呼ぶ。

 

「で、何があったんだ?」

「それがな、俺は教室で硝子と話してたんだけど、急に司條が入ってきて『家入さん少しお時間いいですか』って言って硝子を連れ出したんだよ」

「何だって?」

「しかも、司條は見たことないような様子だったんだ。だから今あいつらを追ってんの。気になるだろ? お前も来いよ」

「あ、ああ」

 

 司條がわざわざ硝子を呼ぶことなんて今までなかった。悟から聞いた状況だけならば告白でもするのだろかと思えるが、司條が灰原が亡くなってすぐにそんな事をするとは思えない。

 

「あ、あいつら室内に入りやがった。あそこは解剖室とかある場所か? ……傑、追うぞ」

「……いや、やめておこう」

「あ? 何でだよ」

 

 別の建物に入っていった司條と硝子を追いかけようとした悟を止める。やはり、司條が今そんな事をするとは思えないし、万が一に色事だとしても部外者の私たちが関わるべきではない。

 

「今、司條がそんな事すると思うか?」

「……そうだな。それに、いくら抜けてるあいつでも告白するのに解剖室はねぇか」

「ふふ、そうだね」

 

 悟は頭を掻きながら物陰から出てきた。司條は反転術式か、遺体について何か硝子に聞きたい事があったのだろう。そう私たちは結論付けて、今来た道を引き返して寮の方へと向かう。

 

「あ、傑は今日暇? 久々に桃鉄やろうぜ。俺らと司條と七海か硝子あたりを誘ってさ」

「……そうだね。明日は任務があるからあまり長くはできないけど、久しぶりにみんなで「ガァァアアァァア!」司條の声か!?」

「ッ! 行くぞ!」

「ああ!」

 

 私たちの背後から響いた叫び声は、明らかに司條のものだった。その尋常でない様子に、私たちはすぐさま走ってその声がした建物内へと急ぐ。

 

「悟! 何があったと思う!」

「硝子にフラれた司條が無理矢理に迫って、メスで刺されたとかか!」

「司條がそんな事をする奴だと思うか!」

「ねぇな! あいつはチキン野郎だ!」

「同感だ!」

 

 やはりその声は解剖室からのようで、思いっきりそのドアを開ける。そこには司條と硝子がいて、司條が血濡れた刀を持っていた。しかし、すぐにその血は司條のものだと気づく。なぜなら、すぐそばに血の滴る司條の左腕が切り落とされていたから。

 

「ッ!」

「何やってるんだよ!」

 

 すぐさま私たちは二人に駆け寄る。硝子は痛ましそうな表情だ。腕を切り落とした本人は、下を向いてタオルをかみしめていた。痛みを堪えているのだろう。その表情をうかがい知ることは出来なかった。

 

「司條、何があった?」

「……ッ」

 

 私の問いかけに司條は答えず、黙り込んで大粒の汗を流しながら下を向くばかりだった。悟は司條と一緒にいた硝子へと詰め寄る。

 

「硝子! 何で止めなかった! いや、そんな事はいい! 早く治せ! お前ならすぐ治せるだろ!」

「いや、それは……」

「……治さないで下さい」

 

 ようやく司條が口を開いた。息も絶え絶えで、だが感情を噛み殺している言葉だ。

 

「お前、何やってんだよ!」

「腕を、切り落としました」

「そうじゃねぇよ! 何でこんな事をしたのかって聞いてんだ!」

「……縛りです。後天的で、自分自身による四肢の一部の欠損。呪力量と出力を上げる為の縛りです」

 

 悟の質問に事務的に、淡々と答える司條の顔はやはり見えない。その煮え切らない態度に苛立ったのか、悟が司條の制服の首元を掴んで無理矢理上を向かせた。

 

「だからって、何でそんな事が出来るんだよ!」

「……しょうね」

「聞こえねぇよ!」

「五条さんには分からないでしょうね!」

「ッ!」

 

 ついに感情をあらわにして叫んだ司條は、今まで見たことがない程のひどい顔だ。歯を砕かんばかりに強く噛み締め口元は歪み、目の下は大きく酷いクマが塗りつぶされたかのように染み付いていた。

 そして、その目には入学したての頃のように、ドス黒い底無しの泥沼の如き黒色が淀み濁っている。……いや、更にその黒色と濁りは強くなっていた。

 

 その目で、真っ直ぐに悟を睨んだ。

 

「特級になれるような術式で、圧倒的な呪力量もあって、最強と言える五条さんには絶対に分からないですよ!」

「お前……! クソ! 勝手にしろ!」

 

 悟は司條の制服から手を離し、部屋を出て行く。荒々しくびしゃんとドアが閉められた。

 

「……とにかく、硝子。司條の止血を」

「……お願いします」

 

 まだ血が止まらない肩口を、何の処置もせずそのままにする訳にはいかないだろう。私は硝子に指示を出した。司條がここに硝子を呼んだのは、左腕を切り落とした後の処置を頼むためだろう。

 

 実際それは当たっていたようで、硝子は予め用意してあった包帯を強く巻き始めた。

 

「……司條、そんな事をして得た力なんて身につかないぞ?」

「……力は力です。こうでもしないと、俺は強くなれない事にようやく気がつきました」

「……悟も、お前が心配なだけなんだ。分かってやってくれ」

 

 気まずい沈黙が降りる。硝子の巻いている包帯が擦れる音だけが、いやに大きく聞こえた。ぽつりぽつりと、司條が口を開く。

 

「……灰原は、最後に後は頼んだって言ったんです」

「……」

「俺たちを逃がすため、祓えるわけがない土地神に、一級呪霊に一人で立ち向かって」

「……」

「俺は、逃げる事しか出来なくて、弱くて、本当に、本当に、俺は」

「もういい。司條、自分を責め過ぎるな。少し休め。……硝子、もし次司條が同じ事をやろうとしたら、絶対に止めてくれ」

「……分かった」

 

 私はそれだけ言って部屋を出る。何かもっと言うべき事があると分かっているのに、複雑な感情がぐちゃぐちゃと絡んで言葉にならずに沈んだ。悟はすでにどこかに行ってしまったようで、もうあたりにはその姿はなかった。建物を出て、一人で寮への道を歩きながら考える。

 

 本当に、この世界はおかしい。

 

 灰原のような善良な術師が、非術師の無知による恐れを胎盤とする呪霊に殺される。司條や七海のような真面目な術師が、仲間たちの屍を何度も見ながらも痛ましい道を進み、そしていつか自分も仲間たちにその屍を晒すのだろう。

 

 非術師は彼らが身を削って、命さえ賭けて戦っている事を知らず、のうのうと生き続けている。呪霊を産み落とし、しかしその存在さえ知らずに、ただただ平穏な日々を貪り続けている。私たちの何人もの仲間が死んでいる事を知らず、愚かで醜い弱者のくせに、のうのうと。

 

「……猿が」

「傑、司條はどうだった?」

「ッ! ……悟か」

 

 ふと口に出てしまった言葉は、悟には聞こえていなかったようだ。悟はどこか複雑そうな声色と顔で、私に司條の様子を聞いてきた。やはり、悟も悟で心配なのだろう。だからこそ、司條にあんなにも詰め寄ったのだ。

 

「大丈夫だと思う。あんな事があって、少し余裕がなかったんだ」

「……そうか」

「落ち着いたら、また桃鉄でも何でも絡んでやってくれ。無理に気を使われるより、お前のテンションが助かる事もあるはずだ」

「そう、か。……さっき、桃鉄今日やろうぜって言ったけど、あれ無しな。そんな気分じゃねぇし、今やっても楽しめないだろ」

「ああ、そうだな」

 

 二人で寮への道を歩きながら、そんな事を話し合う。随分とこうして歩くのも久しぶりな気がした。いや、私は今たしかに悟の横を歩いているはずなのに、遠く距離があるような気がするからだろうか。

 

「そういえば、明日任務なのか?」

「ああ、村落内で神隠しや変死があるらしくてね。それを引き起こしている呪霊の祓除だ」

「そうか。まぁ、お前なら大丈夫だろうけど、気をつけろよ。……司條のためにも」

「……ああ、そうだな」

 

 きっと、距離を感じているのは私だけなのだろう。悟は今まで通りの接し方をしてくる。しかし、それが、私には──。

 

 

 

 

 

「夏油様、本当に奴を殺さなくてよかったのですか?」

「ああ、構わないさ。彼一人殺したところで、高専の戦力は大して変わらない。ここで殺して、騒ぎになる方が面倒くさい」

「……そうですか」

 

 バーから出ると雨が降っていて、濡れないために大きな傘のような呪霊を出す。家族全員を雨から十分に守れる大きさだ。

 死屍創術には、術者が死ぬことが条件で発動する術もある。負けることは万が一にもないだろうが、ここで戦闘になるのは避けたかった。それは真実だ。

 

 お酒を飲んだのはいつぶりだろうか。いままで、猿が関わるようなものにはあまり口をつけなかった。だが、司條とは一杯だけならいいだろうと、そう思ったのだ。

 

「しかし、ふふ」

 

 悟が下戸とはなかなか面白い事を聞いた。きっと、私が高専にずっといたらその事で絶対いじっていただろう。硝子はどうだろうか。強そうだな。七海や司條、灰原はどうだろうかと、たわいもない事を考える。一杯だけだったが、少し酔ってしまったのかもしれない。

 

「ねぇ〜夏油様さぁなんか楽しそうじゃない?」

「……うん。私たちといるより、楽しかった?」

「ふふ、そんなことはないよ。菜々子、美々子。家族といる方が楽しいさ。ただ、昔の後輩と話すのが、なかなか久しぶりだっただけだよ」

 

 きっと彼も戦いの場に出るだろう。七海も出てくるだろうし、悟は確実に出てくる。私の目的は猿を皆殺しにすること。その為に術師達と戦うのは仕方のない事だ。彼らを殺したくはない。乙骨憂太君にも決して死んで欲しいわけではないのだ。だが、大義のために私がその若き術師の命を摘まねばならない。

 

 どうか死んでくれるなよと、ちらとバーの方を向いて思う。

 

 ギムレットの爽やかで強いライムの風味が、まだ口腔の中に微かに残っていた。




あとで読み返したら五条がめっちゃ桃鉄好きな人みたいになってました。

五条って色々できちゃうから桃鉄みたいなゲームでは、ハイリスクな所に突っ込んでいって大勝ちするか大負けするかみたいなイメージです。そういう所でしか負けないし、みたいな。……いや、新幹線カードとか使って安全圏に離脱しながら七海にボンビー擦りつけて煽ってそう。


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第十八話:司條家長女の昔語り

(うしとら)! 伽楼堕(がるだ)を止めて!」

『モガァァアァ!』

『ガァァアア!』

 

 御伽草子に綴られし鬼の姿を模した式神である艮が、空中から襲いかかってきたお兄ちゃんの伽楼堕に棍棒を振り下ろす。それを伽楼堕は避けて組み付こうとしてきたが、艮も伽楼堕を躱してお互いに睨み合う形で距離を取った。

 

「隙あり、だ!」

「くっ!」

 

 だが、私から少し艮が離れてしまう。それがお兄ちゃんの狙いだったようで、手に持った木刀に呪力を込めて斬りかかってきた。私も両手に持った木の薙刀に呪力を込めてそれを受ける。

 何とか初撃を弾き、続く剣撃を三度ほどいなした辺りで、私の式神の(いぬい)が私とお兄ちゃんの間に割り込んだ。

 

『ワァゥヴゥ!』

「辰口縄! (いぬい)の動きを止めろ!」

『ジャァ!』『シャァ!』

「な! ずっこい!」

 

 お兄ちゃんの袖から尾が二股に分かれた蛇が二体飛び出して、乾の両足と両手に絡みついた。そのまま動きを止められた乾の脇を抜けて私に向かって斬りかかる。

 

「乾! 風を!」

『ワゥゥ!』

 

 辰口縄に拘束されている乾が叫び、術式を発動して暴風を巻き起こした。私には影響はないが、お兄ちゃんに向かって瞬間的にならば台風並みの風が吹き当たる。

 

「チッ! 喰らえ!」

 

 だが、さすがは呪術師というべきか。常人ならば吹き飛ばされてもおかしくない風をその身に受けながらも、少し体勢を崩したぐらいでそのまま木刀を振るってきた。私の打つ手はもうないと思っているのだろう。強引にでも模擬戦を終わらせに来たのか、今までよりも木刀に呪力がこもっているのが分かる。

 

 ──これを待っていた! 

 

 私の式神は擬奴羅よりも基本的に強い。艮と乾は呪霊の等級換算なら準一級に値する式神だ。対して、今お兄ちゃんが使っている擬奴羅はせいぜい二級程度。だから今まで私自身は近接を避け、式神によって距離を保ちながら戦っていた。

 お兄ちゃんが式神によって擬奴羅が行動不能になってしまうのを嫌い、私に直接攻撃してくるのを誘うために。絶対に当たるはずの一撃を躱された時、それは大きな隙となる。

 

「今だ!」

「な!」

 

 私は手に持っていた薙刀の石突きを地面に突き刺し、棒高跳びから着想を得た動きで迫り来る木刀を躱し、そのまま頭上を飛び越えて背後を取る。

 

 ──もらった! 

 

 不安定な体勢からの攻撃を避けられたその背中はガラ空きで、私は手加減なんかせずに思いっきり薙刀を振った。

 

「どりやぁぁぁあ! ……え」

「……惜しいな」

 

 確実に当たるはずの私の一撃は宙を切った。お兄ちゃんが避けたのかと思ったが違う。私の薙刀が上に逸れていたのだ。

 足元に妙な感覚がしてちらと見ると、お兄ちゃんの影が石を投げ入れた湖のように揺らめいていて、その波紋から体温を感じない青白い手が私の足を掴んでいた。

 

「な、もう使いこな……」

「引け」

「わ! ぐべ」

「一本だな」

 

 その私の足首を掴む手に思いっきり引っ張られて、体勢を崩し尻餅をついてしまう。目の前に木刀の切っ先が向けられた。私の負けだ。

 尻餅をついた拍子に変な声が出てしまった。身内しかいないとはいえ少し恥ずかしい。だが、それ以上に負けてしまった事が悔しかった。

 

「ぐわぁぁああ! ……絶対勝ったと思ったのに」

「実際、香那は腕を上げたと思うぞ。特に最後の動きは良かった」

「でも躱されちゃったし」

「『絶対に当たるはずの一撃を躱された時、それは大きな隙となる』……どんな完璧な王手でもその次の手までは準備しておけ。盤面ごとひっくり返してくることもある。ほら、立てるか?」

「ん、ありがとう」

 

 木刀を肩に担ぎながら、お兄ちゃんはこちらに右手を差し伸べてきた。それを掴んで尻餅をついたままだった姿勢から立ち上がる。

 

『モガァ……』

『ワァゥ……』

「艮も乾もお疲れ様。力を貸してくれてありがとうね」

 

 私の式神が少し申し訳なさそうな様子で私の元へと来た。だが艮は飛行する伽楼堕から何度も私を守ってくれたし、乾も最後に大きなチャンスを作ってくれたんだ。彼らが気に病むことは全然ない。私が最後に決め切れなかったのが悪いのだから。

 二メートル程の彼らの巨体がみるみる縮んで、手のひらに収まるほどの小さな編みぐるみとなった。

 

「……相変わらずファンシーというか、ゆるキャラみたいな見た目なのに準一級並みの能力を持っているのは恐ろしいな」

「これがカワイイっていうんだよ。カワイイは正義だから。つまり最強」

「……なるほど」

「お兄ちゃん絶対分かってないでしょ」

「いや、香那の術式が強力なのは分かっている」

 

 私の術式である『祀神契法(ししんきっぽう)』は式神を創り、契約をする術式。その式神の媒介は色々あるけど、私の場合は基本的に降ろしたい式神の形を模した編みぐるみだ。材料の綿花から丹精込めて育てて、中には自分の血で綴った呪符や髪の毛を入れて編み上げる。

 その編みぐるみを拾い上げて、少し付いてしまった砂を払う。やっぱりかなりいい出来でカワイイ仕上がりのはずだ。……後輩で賛同してくれるのは優しい三輪ちゃんぐらいだけど。

 

「今の模擬戦は式神や擬奴羅を破壊しないようお互いに制限をしていたから、本気で殺りあったらまた結果も変わるかもな」

「うーん……もしお兄ちゃんが私と本気で戦うときはどうする?」

「……多分『厄病憑き』を使い、正面からは戦わないようにするだろう」

「うわー、陰湿ー」

「仕方ないだろ。こんな術式なんだし。……でも、今回勝ったのはこいつのお陰だな」

『ぬぅー』

 

 お兄ちゃんは自分の影に視線を落としてそう言う。すると、影から正方形の黒い布に目と小さな手足がくっ付いたような見た目の何かが浮かび上がった。

 

「凄いでしょ! 術者以外と契約できる式神を創れるなんて!」

「過去の祀神契法の術師でも数える程しか出来る術師がいなかったんだろ?本当に凄い事だ」

「ふふん、でしょでしょ!」

 

 祀神契法で創った式神は、基本的に術師本人としか契約できない。しかし、お兄ちゃんの影に潜んでいる『袱紗影伏(ふくさかげふし)』は完全に私の術式から独立している。

 

「ちゃんと頼まれた通りの能力は何とかかげちゃんに持たせたよ。物を収納する能力」

「助かる。物を出し入れする呪霊は長年探してるんだが、中々見つからなくてな」

「あ、注意して欲しいんだけど、あんまり入れすぎると取り込むのに時間がかかるし、元の入り口以上の大きさの物は入らない。あと、お兄ちゃんが創った呪具呪物じゃないと取り込めないよ」

「それだけで十分だ」

 

 お兄ちゃんは呪具呪物の携帯量が戦闘力に直結するので、それらを収納する武器庫の役割をする式神を注文されたのが一年ほど前の話。色々と術式と縛りを調整して、やっと注文通りの子を創り出すことができたのだ。

 

「でも戦闘力は本当になくてよかったんだね? 多分……いや、確実に蠅頭にも負けちゃうよ」

「そこまで贅沢は言わない。数なら擬奴羅で何とかなるしな。何か他に気をつける事はあるか?」

「そうだなぁ。たまには遊んであげてね」

「遊ぶ? ……なるほど」

『ぬぅーぬぅー』

 

 お兄ちゃんはしゃがみこんでかげちゃんと見つめ合う。少しの間そうしていたが、犬にそうするように手を伸ばしてわしゃわしゃとその平ぺったい身体を撫で回した。かげちゃんは気持ち良さそうに目を細めて声を上げる。

 

「……確かに少しかわいいかもな。最初見たときは何だこのへんてこりんな式神はと思ったが」

『ぬぅー!』

「えーカワイイじゃん。かげちゃん」

 

 へんてこりんと言われたかげちゃんが抗議するようにその身体で不満を表すが、そのまま撫でられてされるがままになっている。何だかんだ仲良くやっていけそうで良かった。

 

「そういえば、今は東京で交流会をやってる頃か」

「そうだねー。どっちが勝つと思う?」

「あんまり俺は生徒とは関わりがないから分からないな。乙骨君がいたら東京だと思うが……今海外だもんな。秤君も停学中だし」

「私は京都校だと思うよ! みんな頑張ってたから!」

 

 最近京都校のみんなは気合が入っていた。特に三輪ちゃんは昇級するために頑張っている。真依ちゃんもお姉ちゃんと戦う事になるかもしれないからか、言葉にはしていなかったけどいつもより気合が入っているように見えた。

 

「なら、俺は東京校を応援しようかな。禪院さんには俺の呪具を渡した事もあるし」

「真依ちゃんのお姉ちゃんの事?」

「ああ、呪具使いのな。五条さんの受け持ちだった頃に頼まれて、少し前に渡したんだ」

「へー」

 

 確か真依ちゃんのお姉ちゃんは東京校にいることを思い出した。学校も違うし、交流会でも会った事はないから詳しくは知らないけど、フィジカルギフテッドの天与呪縛らしい。真依ちゃんが言っていた。

 

「東京校って一年の子が亡くなっちゃったんでしょ? その子の同級生大丈夫?」

 

 話の流れで思い出した。東京校の一年生に起こった出来事を。同級生が亡くなってしまうのは相当なショックだろう。その子が宿儺の器だとしても、やっぱり知り合いが亡くなってしまうのは悲しい事だ。虎杖君、だったか。

 

「あー……大丈夫、だと思う」

「そうなの?」

「まぁ、なんだ。虎杖君以外の二人は呪術に昔から関わっていたらしいし、多分大丈夫じゃないか」

 

 少し妙な間を感じたが、お兄ちゃんはあまり生徒とは関わりがないと言っていたし、はっきりとしたことが分からなくても仕方ないだろう。

 

 私は身近な人が亡くなった事はない。……いや、私のお父さんは呪霊に殺されてしまったそうだけど、まだ私が立つ事も出来ない時の出来事なので覚えていない。

 お兄ちゃんは家族が亡くなってしまい、司條家の養子となったそうだ。しかし、私はなぜお兄ちゃんの家族が亡くなったのかを知らない。知りたい気持ちが無いわけではないが、教えてと頼む程に無神経にはなれなかった。

 

「虎杖君か。……なぁ、香那」

「ん? 何? お兄ちゃん?」

 

 お兄ちゃんは、地面に倒れたかげちゃんの腹を両手でくすぐるように撫でながら話しかけてきた。私に視線を合わせないまま。

 

「お前は、何で一級推薦が欲しいんだ?」

 

 いつもより少し低くて真面目な声色だ。お兄ちゃんからその質問をしてきた事に少し驚く。お兄ちゃん……だけでなくママもだけど、二人から私にその話をする事は今までほぼなかったからだ。

 

「たくさんの人を助けたいからだよ」

「……」

 

 私のその答えには無言が帰ってきたが、ちゃんと聞いてくれている事は分かる。気まずい沈黙ではなく、居心地の良い静けさだ。まだかげちゃんと戯れていたが、私の言葉の続きを待っているのが雰囲気で感じられた。

 

「たくさんの人の命を助けたい。そして、私も司條家の一員として誇れる自分になりたい。お兄ちゃんもママも一級……ママは特別一級だけど、私もみんなと同じ一級になりたいの」

「……死ぬかもしれないぞ?」

「分かってるよ。そんな事。この世界はいつ死んでもおかしくないって覚悟してる。でも私が一級になる事で救える命があるかもしれないなら、私は一級になりたい。その結果、私が死んでも」

「……」

 

 再びお兄ちゃんは無言になる。かげちゃんを撫でていた手は随分前から止まっていて、かげちゃんは不思議そうな顔だ。お兄ちゃんは深く深く何かを考え込んでいて、ずっと自分の影を覗き込むようしていた。

 しばらくしてそうかと呟き、一つ息をついて立ち上がる。

 

「お前が高専を卒業したら俺が一級に推薦しよう」

「え! いいの!」

「ああ、当主様には俺から話はつけておく」

「やったー!」

 

 私の方を真っ直ぐに見てお兄ちゃんはそう言った。冗談や嘘をこんな時に言う人ではない。本当にお兄ちゃんは私を推薦してもいいと思ってくれたのだろう。

 

「本当にいいの!?」

「いいぞ」

「本当にありがとう! でも、何で急に?」

「まぁ、色々考えてな。そうすべきだと思った」

 

 やっと長年の目標が叶う嬉しさと同時に、なぜ今までは私が一級になる事に反対だったのに急に認めてくれたのかが少し疑問だった。お兄ちゃんにその事を聞くが、あんまり具体的な事は教えてくれない。そんな事で機嫌を悪くする人だとは思っていないが、無理に口を突っ込んでやっぱ無しと言われるのは避けたいので、それ以上の詮索はやめておいた。

 

「ただ、高専卒業まではちゃんとサボらず実力を蓄えろよ」

「分かってるって! 最近は近距離でも戦えるように色々考えてるんだから!」

「ならいいが、あんまり焦りすぎるなよ」

「分かってる分かってる!」

「……はぁ、少し心配になってきた」

 

 そんな話をしていると、もう日が山の谷間へと落ちかけていて辺りは暗くなってきた。もうご飯の時間だ。それに気がつき、二人揃って開けた呪術の修練をするための場所からママの待つ南殿へと向かう。

 

 その道の途中、急に隣にいたお兄ちゃんが立ち止まる。背後の太陽の光によって長く伸びた影をじっと見ていた。どうかしたのと、私が聞くと顔を上げて私の方を見る。逆光のせいでどんな表情をしているのかは分からなかった。

 

「香那は、自分の名前は好きか?」

「え? 好きだけど……それがどうかしたの?」

「……そうか。なら、いいんだ。それで」

 

 急なその質問に答えるが、お兄ちゃんは私の答えを聞くと再び下を向いて何やら考え込んでしまった。私は少し近づいて声をかける。

 

「ほら、早く行こ? ママが怒っちゃうから」

「ああ、そうだな。……悪い、変な事を聞いて」

「いいよ。ほら、早く早く」

 

 そのまま私は前を向いて歩き出す。お兄ちゃんの横に並ぼうと思ったが、それは出来なかった。なぜなら、近づいて少し見えたお兄ちゃんは泣きそうで、それでいて何かに怒っているかのような複雑な表情をしていたからだ。

 

 小さな頃から私を前にして時折見せるその表情が、何を意味しているのかは分からない。だが、分からない事もあっていいと思う。無理矢理にお互いを知ろうとする必要はない。私たちは家族だ。相手が他人であるからこそ、その相手を知ろうとする。家族の全てを知ろうとする人はいないだろう。

 

 私たちが家族である事は確かだ。それだけは確かな事なんだ。

 

 私はそんな事を思いながら、森の整備されているが少し歩きにくい道を進む。少し後ろにお兄ちゃんの足音を聞きながら。

 

 今日のご飯はやっぱり鰆の西京焼きだろうかと、お兄ちゃんが帰ってくるといつもそれを準備しているママの事を思う。

 お兄ちゃんが帰ってくる時は、なぜ同じご飯が出るのかを聞いたことがある。あんまり感情を出さなくて少し苦手なママだけど、私がそれを聞いた時は珍しく嬉しそうに昔を懐かしむ声色で『刻嗣さんが初めて美味しいと言ってくれた料理だから』と言っていた。

 

 私が知っているママが強く感情を露わにした瞬間は、その時とお兄ちゃんが一級推薦を貰った後一度家に帰ってきた時だけだ。後者は私がまだ七歳の時の出来事。

 

 ママの部屋から誰かが泣いている声がして、何があったのか心配でこっそりと障子の隙間から覗いていたのだ。そこではママがお兄ちゃんの無くなった左腕の肩口をさすりながら泣いていて、その光景に私は心底驚いた。ママは泣くような人ではないと思っていたからだ。

 

 お兄ちゃんも本当にあたふたとしていて、『なぜ泣いているのですか、当主様と俺には血の繋がりはないじゃないですか』と言った。それに悪気は無いだろうし、お兄ちゃんも気が動転して言ってしまった事なのだろう。だが、一層ママは強く泣いてしまい、さらにお兄ちゃんもどうすればいいのか分からない状態に陥っていた。

 

 私は、この時初めて私とお兄ちゃんに血が繋がっていない事を知ったのだ。お兄ちゃんが部屋から出て行った後、その事をママに聞くとまた泣きそうな顔をして私を優しく抱きしめた。

 

『本当です。私たちと刻嗣さんは血は繋がっていません』

 

 その声もやはり少し震えていて、不安を孕んだ声色だった。

 

『でも、私は刻嗣さんと香那さんを同じぐらい大切に想っています。同じ、家族の一員として』

 

 私はそれを聞いて本当に安心したのを覚えている。お兄ちゃんを兄として、家族として想うこの気持ちが間違っていなかった事が分かって。

 

「遅いですよ。刻嗣さん。香那さん」

「すみません。当主様。少し長引いてしまって」

「最近は寒くなってましたから身体には気をつけて下さいよ。手を洗ったらすぐにご飯にしますからね」

 

 私もママも、お兄ちゃんの事を本当の家族だと思っている。だけど、お兄ちゃんは多分そうではない。少し距離を取っているのをどうしても感じてしまう。

 お兄ちゃんが私たちを他の人たち以上に想ってくれているのは分かる。でも、それには本当の家族に向ける物以外の何かも混ざっているのは確かだ。恩義だとか後ろめたさ、遠慮だとかのきっとそんな感じの何か。

 

 家族になった側と迎え入れた側。そこにはやはり何か差があるのかもしれない。

 

「どうかしましたか? 香那さん?」

「大丈夫か?」

「うん、大丈夫だよ!」

 

 決して今の関係が嫌なわけではない。けど、いつか本当の家族みたいに距離を感じないようになれたらいいな。そう思いながら、私はママとお兄ちゃんと一緒に三人で土間へと入った。

 

 私はまだ、お兄ちゃんが心の底から笑った顔を見たことがない。

 

 いつか、見ることが出来るだろうか。




最初で最期の主人公強化イベントです。

ある程度戦闘能力が完成してる人が主人公だと、作中でさらに強くするのって難しいですね。


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最終章『屍山血河の神に崇つ』
第十九話:昏天黒地/2018年10月31日20:21


ファンブックとか読み漁っていたんですが、夜蛾学長とメカ丸が同じ術式なのが一番びっくりしました。傀儡躁術って傀儡操術の誤植ですよね?


 十月三十一日、ちょうどハロウィンの日だ。古ケルト人のドルイド達による、悪しき死者の霊から人々を守り、そして新たな年を祝うための儀式の日。日本でいうお盆と新年のための厄祓いを兼ねた行事らしい。

 

 だが、そんな日に渋谷に帳が降りた。……いや、そんな日だからかもしれない。一箇所にあんなにも多くの人々が集まるのは、日本広しと言えどもそうそうないだろう。西洋の呪術的儀式を模したのか、それともただ人が多ければいいのか。とにかく、これは呪術を秘匿すべしという方針の高専に対し、真っ向からその方針に中指を立てるが如き事態だ。

 

 高専の上層部はその未曾有の事態に対し、五条悟だけをその帳の中心である渋谷駅に送り込み、その他の術師をバックアップとして帳周辺で待機させた。

 

「司條、擬奴羅に反応は?」

 

 高専(・・)内の一室で、夜蛾学長が斜向かいに座る俺に話しかけた。それは俺が高専の結界内外に放った擬奴羅が、不審な呪力を感知していないかどうかの確認だ。

 

「今のところはありません。……学長、本当に俺は渋谷に行かなくていいんですか?」

「……ああ、それが上の判断だ」

「……」

 

 渋谷には同じ一級である七海や高専の一年生すら動員されている。だが、俺は高専で待機しているのだ。確かに高専にも万が一に備えて人員を割かなければならないのは当然。しかし、どうにも素直にそれを飲み込めそうにはなかった。

 

 一年前の百鬼夜行でも、呪霊と呪詛師への対処に東京と京都に数多くの術師を向けてしまったせいで、手薄になった高専に夏油さんが直接乗り込む事を許したのだから。真の目的である『特級過呪怨霊折本里香』を取り込む事は、二年生と乙骨君の奮闘で何とか免れた。もしその目的が叶っていたら、今頃は呪いが我が物顔で闊歩する世界になっていたかもしれない。

 

「……納得行かなそうだな」

「ええ、一年生すら渋谷に向かっているのに、自分は高専に待機なのは少し……」

「高専を守る事も大切な役割だ。……それに、渋谷は陽動で本命はここの可能性もある。天元様を失うわけにはいかない」

「分かっています。分かっているんですが……」

 

 一年前だけでなくつい最近、俺が妹の創った式神である袱紗影伏と契約したり、少し調べ物をするために京都へ帰っていた時に行われていた交流会。そこで特級呪霊数体や呪詛師が高専に侵入した。

 

 五条さんだけが入る事が出来ないという特殊な条件が付与された帳のせいで、それ以外の場所の警戒が薄くなってしまい忌庫にまで入られたらしい。忌庫にまで入られた事はついさっき学長に教えてもらったが、死傷者はその帳の外にしか出なかった。百鬼夜行や交流会襲撃の件を考えると、むしろ危険なのはここの可能性もある。

 

 今回、帳の中の一般人が五条さんを呼んでいるそうだ。だが、それも五条悟という高専の最高戦力を渋谷へと引きつけ、別の場所を襲撃するための敵の作戦である事は否めない。それこそ、百鬼夜行時の東京と京都の呪霊呪詛師群や交流会襲撃時の特殊な帳のように。

 

「俺と学長、広範囲を索敵できる術師を二人もここに残しますか?」

「渋谷には冥冥もいる。渋谷に戦力を傾けている分、こちらの穴を少くする為の人選だろう」

「……」

 

 言っていることは分かる。確かに筋は通っている。だが、苦々しい何かを胸中にずっと感じているのだ。違和感や不安、気味の悪さが凝固したかのような何かを。

 

 天元様がいなければ、国内のあらゆる結界が作用しなくなってしまう。天元様を亡き者にするのが敵方の真の目的なのかもしれない。しかし、前回の襲撃で忌庫にまで潜入されているのならば、その際に天元様を殺そうとするのではないか。……やはり、分からない。奴らは何が目的なんだ。

 

 目的も狙いも分からない敵について考えるが、ぼんやりとした輪郭さえも掴めない。捉えどころのない不気味な影法師を前にした気分だ。

 

 ──多分、高専に内通者がいるんだよね〜。

 

 そんな時に、少し前に五条さんが俺に伝えてきた爆弾を思い出した。

 

『司條ってさ、自分が殺した相手の記憶ならほぼ自由に覗けるんだよね?』

『え、まぁそうですが。……急にどうしたんですか? 五条さん』

 

 京都の本家から帰った時、五条さんが俺にかけた第一声がそれだ。俺を探していると伊地知から聞いたので、俺が顔を出すなりそう聞いてきて面喰らった。

 

 組屋鞣造という呪詛師を捕縛したので、少しでも情報を抜き出すために俺を探していたらしい。どうにも要領を得ない事しか口にせず、少しでも確度の高い情報が欲しかったそうだ。断る理由もなく、俺の力が必要ならとその場では了承した。

 

 だが、上層部が組屋という呪詛師を殺す事を許可しなかったのだ。上層部と折り合いの悪い五条さんの提言だから認めなかったのかもしれない。その際に五条さんが俺に言ったのだ。いつも通り軽い調子で、高専に内通者がいるだろう事を。

 

 ちらと、正面でコーヒーを飲んでいる夜蛾学長を見る。高専の敷地内に多くの呪骸を放ったせいか、それともこの非常事態のせいか少しピリついた雰囲気だ。

 

 夜蛾学長に内通者の事を伝えようかと思ったが、それは躊躇われた。五条さんは内通者について“学長以上”と言っていた。それはつまり、夜蛾学長も内通者の可能性があるという事だ。正直、恩もあり長い付き合いの夜蛾学長を疑いたくはない。

 

 だが、彼は上層部に一度特級に認定されかけ、無期限拘束を下される直前まで行ったことがある。呪術界の無期限拘束とは言ってしまえば終身刑だ。いや、完全自律型の呪骸の製造法を聞き出すために拷問さえ行われるだろう。刑罰の無期懲役などよりよっぽど酷い目に合うはずだ。

 

 完全自律型の呪骸(パンダ)は偶発的に出来たそうだが、それが嘘であろうと真実であろうと上には関係ない。死ぬまでずっとその製造法を確立するために、強制的に研究に従事させられる可能性もある。

 そんな判断をしようとしてきた上層部を呪い、呪術界をひっくり返すために呪霊や呪詛師と繋がった可能性は否めない。

 

 ──だが、学長はそんな事をする人ではない。

 

 上層部に否定的であっても、反逆を企てるような人ではない。もしその気があったとしても、五条さんのように教育で少しずつ呪術界の未来を担う若者たちを育てる形での、平和的な意識改革を選ぶだろう。間違っても、多くの人が死ぬような手段を選ぶ人ではない。俺は夜蛾学長を信頼している。

 

 だが、信頼しているからこそ、裏切られた時に背後を取られる危険性は上がる。内通者が元々信頼出来ない人物ならば、早々に五条さんが見つけ出すなり目星をつけるなりしているはずだ。あの人は色々といいかげんだが優秀ではある。

 

 信頼している人を疑わなければならない。その事へ申し訳なさと疑う事の必要性との間の葛藤に苦いものを覚える。夜蛾学長の傀儡操術は広範囲を索敵できるという点で、これ以上ない程に内通者に向いているからだ。自分がどこにいようとも、呪骸を放てばいつでも内通できる。アリバイなどどうとでもなってしまう。

 

 それに学生内にいるかもしれない内通者として、五条さんと歌姫さんが疑っていた生徒の術式も傀儡操術だった。そして、今その生徒は音信不通で行方もわかっていないらしい。その事実が俺がどれだけ夜蛾学長を信頼していても、完璧に信頼しきれない理由だ。

 

「おい、司條。電話が来てるぞ」

「え、あ、すみません。少し席を外します」

 

 思考に気を取られすぎて、自分のスマホが震えている事に気がつかなかった。夜蛾学長に一言断ってから一度部屋の外に出る。

 冥さんからの電話だ。

 

「もしもし、司條です」

『冥冥だ。そっち(高専)は大丈夫か?』

「今のところは。冥さんの方はどうですか?」

『私たちは渋谷から少し離れた所にいるからね。まだ平穏さ』

 

 その言葉にやはり違和感を覚えた。冥さんは実力的にも能力的にも、渋谷のすぐ近くにいるべきだろうと思ったからだ。烏を使った索敵、情報収集は今の渋谷で一番必要なものだろう。

 今の高専には、ただでさえ情報が足りていないというのだから。冥さんをその場所に配置した上層部への疑念が深まる。

 

『司條、君はこの状況をどう思う?』

「……キナ臭いですね。そんな事を聞いてくるという事は、やっぱり冥さんも?」

『ああ、どうにも妙だ。……ん? 電話の相手? 司條だよ。……話したい事があるって? ちょっと待て、今スピーカーにする』

「どうかしましたか?」

 

 何やら電話の先で冥さんは会話をしている。どうかしたのだろうかと思ったが、すぐに別の声がスマホから聞こえてきた。虎杖君のようだ。

 

『あーあー、聞こえてます?』

「ああ、聞こえるよ」

『司條さん、あの時はありがとうございました!』

「え、あ、ああ」

 

 電話越しに聞こえてきたその声色は、やっぱり快活で人の良さそうな声だ。しかし、いきなりの感謝の言葉に詰まってしまう。虎杖君が俺に感謝する事とはなんだろうか。あまり関わった事はなかったはずだが。それを疑問に思っていると、虎杖君が会話を続ける。

 

『ナナミンが里桜高校の時、俺を助けに来られたのは司條さんと猪野さんって人たちのおかげって聞いてたから、感謝したくて。ほんとは直接言いたかったんだけど、今まで機会が無くてすんません』

 

 その言葉にようやく納得した。俺たちは改造人間達と戦っただけで、領域すら展開する特級呪霊と戦った彼らのほうが大変だっただろうに、俺に礼を言うなんてわざわざ律儀な子だと思う。

 

「ああ、その事か。気にしないでいいよ。最近俺は出張が多かったし、礼ならナナミンに……七海の事だよな?」

『そうっす!』

 

 俺も虎杖君に返事をしようと思ったが、ナナミンという呼び名に全ての意識を持ってかれた。おそらく七海の事だろう。俺と虎杖君の共通の知り合いで、そんな呼び方をされる可能性があるのはあいつしかいない。

 

 随分と可愛らしいあだ名だ。ピクミンの一種だろうか。あの生真面目な顔の頭頂部からお花が生えて、二頭身のキャラクター化したナナミンが頭の中に浮かんだ。

 

 そういえば、あいつが俺と猪野に何か奢ると言っていたのを思い出す。この騒動が収まったら、七海にその事で弄るついでに酒でも奢らせようと決めた。

 

「色々堅苦しいあいつと気が合うか心配だったが、杞憂だったみたいで安心したよ。ははは、ナナミンか。可愛らしいな」

『へへ、最初言ったときは『ひっぱたきますよ』って言われたけど、結局そのままになっちゃって。成り行きで』

 

 あいつはどちらかといえば体制側の人間だし、その体制が定めた規定から大きく逸脱している虎杖君という存在にどんな考えがあるのかは少し不安だった。だが、今はナナミンなんて呼ばれるほど虎杖君に懐かれている。七海は変人奇人が多い術師の中では少しクセがある程度の人間だ。それも良かったのだろう。

 

『実は俺も最初はちょっと心配だったんだけど、ナナミンすげぇいい人で良かったっす。……司條さんはナナミンと仲良いの?』

「仲は良いと思う……というか、同級生だしな」

『え、そうなんだ!』

「ちなみに、五条さんと家入さんは一つ上の先輩で、伊地知は一つ下の後輩だ」

『へ〜、やっぱ狭いんすね。この業界』

 

 虎杖君はやっぱり妹に似ている。いや、顔立ちや仕草は特に似てはいなかったが、雰囲気というか人間性がだ。呪術師としてはありえないほどに明るくて、同時に人懐っこさのある人好きのする人間。そんな彼が危険な前線にいて、俺が高専で待機している事に罪悪感を覚える。

 

『虎杖君、そろそろいいかな。私も司條に言わなければならない事があってね』

『あ、すんません。司條さん、ほんとにあの時はありがとうございました』

「ああ、どうも。虎杖君、そっちは危険だろうから頑張ってくれよ」

『押忍!』

『憂憂、虎杖君に渋谷の人員の配置を教えてやってくれ、私は少し司條と話す』

『はい! 姉様!』

 

 電波越しで虎杖君と憂憂君の声が離れていく。冥さんが少し移動したのだろう。冥さんが話したい事とは一体何だろうか。今の渋谷の状態だとかだろうかと、当たりをつける。

 

『さて、司條。こんな時で悪いけど、情報屋から連絡があってね。早い方がいいと思ったから連絡させてもらったよ』

「……例の件ですか」

『ああ、そうだ』

 

 俺の予想は外れていたが、俺が何よりも欲しい情報についてだ。心臓の鼓動が早まるのを知覚する。やはり冥さんに頼んで正解だった。感謝してもしきれない。

 

『といっても、今回も大した情報ではないんだけどね』

「いえ、何でもいいんです。奴について知る事ができるなら、本当に何でも」

『今回知る事が出来たのは、通り名。能面の呪物をばらまいている呪詛師のだ』

 

 そこで冥さんは一つ息を吸い込んだ。俺はその言葉を決して聞き逃さないよう、耳を澄ませる。二十二年も追い求め続けた家族の仇。奴の名を脳に刻み込むために。

 

『その名は──』

 

 

 

 

 

蒐獄(しゅうごく)や。お前の担当はここじゃないだろうに、何故ここにいる?」

「ハハ、前祝いだよ。前祝い。差し入れに来てやったのに、そんな言い方は酷いぜ。オガミ婆」

「ふむ?前祝いとな」

 

 渋谷Cタワーの屋上のヘリポート。そこで真っ黒な経帷子を左前で着付けた蒐獄と呼ばれた男が、日本酒といくつかの枡を取り出しながらオガミ婆に答える。その男は、感情を感じさせない不気味な能面を被っていた。

 

「日本の終焉、その始まりがすぐそこまで来てるんだぞ。俺らが好き勝手出来る時代が再び来る。これ以上の酒の肴はないだろうよ。だというのに、肝心の酒がないなんて寂しすぎるだろ?」

 

 座り込み、酒瓶をひっくり返して枡へと酒を注ぐ。とくとくと、透明感の強い液体が枡を満たした。

 

「お! これいい酒じゃねぇか」

 

 枡に注ぎ終わった酒瓶の銘柄を見て粟坂がそう言う。それを聞いた蒐獄は少し機嫌をよくしたようで、自慢げな声色で口を開いた。

 

「そう言ってくれると嬉しいぜ。粟坂の爺さん。わざわざ能面(コレクション)を売り払った甲斐があった」

「……最近お主の呪物が流れていると聞いたが、その為か」

「ああ、そうだ。呪いの時代が来るなら、あんなチャチな物に拘泥する方がバカらしいだろ?」

 

 蒐獄はとくとくと他の枡にも酒を淀みなく注いでいく。此奴が目立つ行動をするなんてどうかしたのかと思っていたが、なるほどそういう事かとオガミ婆は納得した。

 

「ほらほら、オガミ婆と孫もこっち来いよ。まさかあんたら、仕事前だからって酒を飲まないなんて言うお真面目サンだったか?」

「お前らが飲まないなら俺が全部飲んじまうぞ」

「飲まないとは言ってないだろう」

 

 もう既に飲み始めていた粟坂にそう答え、オガミ婆も枡を手に取り酒に口を付ける。少し強いが、なかなかどうして旨い酒だ。それは酒の質がいいのか、これから来る呪いの時代が待ち遠しいからか。

 

 それぞれの想いを馳せながら、阿鼻叫喚の地獄となるだろう東京の街に視線を落とす。彼らには死ぬだろう渋谷の人々へは何の感情もない。頭の中は、もうすぐ来たる自分たちが好き勝手出来る世界についての事で一杯だ。

 

 彼らの愉しげな酒盛りの声は、一般人の不安と恐怖に満ち満ちた渋谷の上空に不気味に響いた。



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第二十話:極悪非道/2018年10月31日21:41

 ──蒐獄。蒐集の蒐と地獄の獄で蒐獄だ。

 

 もう随分前に冷めてしまったコーヒーに口を付ける。元々コーヒーの味などよく分からないが、今日はその苦味さえ感じる事が出来ない。冥さんから告げられた家族の仇の通り名が、ぐるぐると永遠に頭の中を巡っていた。

 

「……蒐獄」

 

 その恨めしい名前を味わうように呟く。コーヒーなどとは比較にならないほどに苦々しい憎悪の味が口腔に広がった。そのへばり付いた不快感を洗い流す為に、残り少ないぬるいコーヒーを一気に飲み干す。

 そうでもしなければ今すぐにでもこの部屋を飛び出し、高専の資料を読み漁って奴の情報が本当にないのか再び調べたくなってしまうだろうから。

 

 しかし、蒐獄とは。随分とふざけた通り名だ。

 

 呪術において名前とは重要な因子。名は体を表すなんて言葉があるように、名前は肉体と魂に紐付けられる。名前を構成する言葉に宿りし言霊を一生受け続けるのだ。その存在の行動や運命、在り方を相補的に定めるだろう。それが本名ではなく、通り名であっても同じ事だ。

 

 地獄を(あつ)める。俺の両親が、妹が生きながらに黒い火に巻かれて絶命したまさに地獄のようなあの光景は、奴にとってはただの蒐集物の一つだったという事だろうか。

 

 ──ふざけやがって。

 

 その通り名の意味する所が分かっているわけではない。だが、俺の考えはそう大きくは間違ってはいないだろうと直感的に察知していた。まだ奴の居場所も素顔も割れていない。だが必ず見つけ出す。そしてその息の根を絶対に俺が止めてやる。

 

「司條、どうかしたか?」

「……いえ、すみません」

 

 夜蛾学長の言葉で気がつく。無意識のうちに空のマグカップを割らんがばかりに強く握り込んでしまっている事に。ヒビが入っていなかった事に安堵して、そっとマグカップをテーブルの上に置く。

 

 窓の外に目をやると、いつにも増して不穏さを孕んだ闇が広がっていた。少し前に渋谷では改造人間が現れ、一般人を襲い始めたらしい。渋谷にいる術師たちや一般人たちは大丈夫だろうかと、窓の向こう側にぼんやりと視線を向けながら考える。ふと、窓に映る夜蛾学長が俺の方を見ている事に気がついた。

 

「……司條、お前は──」

 

 俺に何かを問おうとした所で電子音が鳴る。夜蛾学長がポケットからスマホを取り出した。夜蛾学長は、自身が創る呪骸のようなゆるい可愛さが目立つスマホカバーのそれを操作して電話に出る。

 

「誰からですか?」

「七海だ。……もしもし、夜蛾だ」

 

 妙だなと、七海が電話してきた事を不思議に思う。何かしら不測の事態が起こっても、まずは現場での情報共有を優先するはずだ。高専には七海から情報伝達を受けた補助監督か誰かが報告するだろう。

 わざわざ一級のあいつが夜蛾学長に直接電話してくるなんて、よほどの緊急性が高い事態だろうか。俺も少し警戒心を強める。

 

 だが、少し警戒心を強めた程度では何の意味をなさないほど、尋常ならざる事態が渋谷で起こっている事を数瞬後に俺は知る事となった。

 

「な! 悟が封印されただと!?」

「──は?」

 

 夜蛾学長のその言葉が意味する事を理解できず、俺は自分の耳を疑った。最強の敗北。ありえない。いや、あってはならない事態だ。俺の知る限り五条さんは文字通り最強。比喩でも誇張でもなく、それが純然たる事実。過ぎ去った時が戻らない事や死者が蘇らない事と同等の、世界の絶対則といっても過言ではない。

 

 高専だけでなく、御三家やその他の呪いの家系にアイヌ連の術師まで含めた呪術界の全戦力を、たった一人で殺し尽くす事も容易く行えるのが五条悟という人間の正当な評価だ。

 

「七海! それは確かなんだな!」

 

 平時では見た事がない程に鬼気迫った剣幕で、電話先にいるのだろう七海に確認する夜蛾学長の様子は、それが冗談でもなんでもないことを如実に表していた。

 

 五条さんが負けるという事は絶対にあってはならない。それはそっくりそのまま、五条さんを打ち負かす事が可能な戦力を相手が保持している事と等号を結ぶ。五条さんが本当に敗北したのなら、高専側の勝ち目はもうほぼゼロだ。味方の最大戦力が消えたのに、敵方はこちらと同等以上の戦力であるのだから。……いや、夜蛾学長は殺害や行方不明ではなく封印と言った。もしかしたら特殊な術式か呪具呪物を用いたのかもしれない。

 

 だとすると、五条さんと同等と言えるほどの戦力は相手にはない……はずだ。特殊な帳、今の渋谷という極めて限定的な条件下でようやく五条さんを何とか出来る算段がついたのだろう。だから今日まで息を潜めていた。……そんな根拠のない推測に縋らなければならない事が、現状が本当にマズイ状況だということの証明。

 

「首謀者の情報は無いのか!? ……何だと?」

 

 五条さんを封印出来るほどの存在はそうそういないはずだ。いや、あんな化け物じみた力を持つ者が何人もいたら日本などとうに終わっている。だから夜蛾学長がその人物について知ろうとするのも当然の事だ。

 

 しかし、おそらくその解答を聞いたのだろう夜蛾学長は、言葉に仮託する事が出来ない複雑な表情を浮かべる。俺はその表情に違和感を覚えた。夜蛾学長にとって元生徒の五条さんを封印した相手について聞いたのならば、まず怒りや衝撃の表情を浮かべるだろう。それが知っている人物でも知らない人物でもだ。

 

 だが、今の夜蛾学長は存在しないはずの何かがふっと現れたのかのような、困惑の色の方が怒りだとかの他の感情よりも強く見えた。その困惑に疑念が混ざり合った表情で、俺の方を一瞬ちらと見る。

 

 サングラス越しではあったが、俺にその感情の一端を向けていたのが分かった。その訝しげな視線に不穏なものを感じ取るが、それがなぜなのかは本当に心当たりもなく分からない。

 

「……そ、れは、本当なんだな? ……ああ、司條ならここにいる。今代わる」

 

 どういう話の流れかは分からないが、夜蛾学長が俺に自身のスマホを渡してきた。ますます訳が分からない。情報共有ならば夜蛾学長からでいいだろうに、俺へ直接伝えなければならない理由が検討もつかなかった。

 

「……なぜ俺に?」

「それは……聞けばわかる」

 

 スマホを受け取りながら夜蛾学長に尋ねるが、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだようで俺には教えてくれなかった。内心首を傾げながらスマホを耳に当てる。

 

「七海、聞こえるか? 今代わった」

『司條、現状をどこまで把握していますか?』

「どこまでって……五条さんが封印されたんだろ? まだ信じられない。本当なのか?」

『はい。それが事実です』

 

 七海と夜蛾学長の会話を聞いて分かるのはそれぐらいだ。その事実一つだけで日本の終わりが大きく近づいてしまう。

 

『なら、五条さんを封印した人物については?』

「ずっと高専に待機してんだぞ。悪いが分からない。……そんな言い方をするって事は、俺らの知り合いか?」

『……』

 

 探るような七海の言葉に違和感を感じながらも、俺はそう答えた。狭い呪術界、封印の実行犯が俺たちの知り合いということもあり得る話だ。少しの沈黙。その後、決心したかのように電話の先の七海が小さく息を吸い込む。

 

『……五条さんを封印したのは夏油さんです』

「……は?」

 

 ありえない。今日だけで何度信じられない事を聞いたのだろうか。もし本当に夏油さんならば、五条さんを封印できた事に信憑性が増す。あの五条さんと唯一肩を並べることが出来るとしたら、俺の知っている術師では夏油さんしか該当者はいない。

 

 だが、それこそありえない。なぜなら夏油さんは去年五条さんの手で──

 

『本人かは分かりません。ただ、夏油さんの姿形をしていた事は確かだそうです』

「馬鹿言うなよ。あの人は死ん──ああ、そういう事か」

『……』

 

 そこまで口にしてようやく今の状況が分かった。夜蛾学長や七海が俺に妙な態度を取るの事の答えが、死んだはずの夏油さんが渋谷にいる事を聞いて点と点が線で結び合わさるように俺の脳内に浮かび上がる。

 

 今、この状況で一番怪しいのは俺だ。少し前まで呪骸で内通できるからと夜蛾学長を疑っていたが、それは俺も同じ事。擬奴羅を使えばどうとでもなる。

 

 加えて死んだはずの夏油さんの存在。死者を蘇らせる術はないが、限りなく近い事は俺の術式なら出来る。

 

 そして、俺は七海や五条さんだとかの他の術師とは違い、完全に私怨で呪術師をやっている。彼らのように顔も知らない誰かのためだとかではない。それで家族が報われる訳でもないのに、ひたすらに独善的で自分よがりな理由で呪術界に身を沈めている。彼らからすれば、俺が復讐を果たすために内通する可能性も否めない。

 

 少しでも強くなるために自分の腕を切り落とす術師など、俺だって疑う。むしろ疑わない方がおかしいだろう。

 

『司條、率直に聞きます。貴方は信じていいんですね』

 

 七海は普段より幾分か強い口調で真っ直ぐに俺に問う。それが俺にとっては救いだった。変に疑われるよりもずっと気が楽だ。だから、俺は電話の向こうの七海に口を開く。

 

「俺は高専の術師だ。呪詛師や呪霊と俺は絶対に組む事はない。家族の仇のようには絶対になりたくない。奴の情報をちらつかされたとしても、そいつを殺して情報を奪ってやる」

『……そう、ですね。貴方ならそうするでしょう。疑ってすみません』

「いや、いい。状況的に一番怪しいのは俺だ。疑われても仕方ない。気にするな。ナナミン」

『……虎杖君から聞いたのですか?』

「はは、本当だったのか。随分かわいいあだ名だな」

「……」

 

 七海()俺の言葉を信じてくれたようだ。一先ず安心する。ちらと夜蛾学長の方を見てから再び言葉を紡ぐ。

 

「一度学長に代わる。……七海、五条さんを封印出来るような相手だ。死ぬなよ。まだお前には酒を奢ってもらう約束があるんだからな」

『ええ、当たり前です。時間外労働中に死ぬなんて笑えません。労災も降りないでしょうし』

「はは、お前らしいな。事が終わったら、またあのバーでギムレットを飲もう」

『了解です』

 

 夜蛾学長にスマホを返すと、七海と夜蛾学長はその他の詳細な情報を共有し始めた。邪魔になっても悪いので、俺は静かに思索を巡らす。

 

 夏油さんに関しては俺は本当に知らない。一年前の百鬼夜行の際、俺は秤君や七海と京都に配属されていたし、夏油さんの遺体は五条さんが俺や家入さんには処理させなかった。俺が最後に夏油さんと会ったのはあのバーだ。だから、俺は夏油さんの遺体がどうなったかも与り知らない。

 

 考えられるとしたら、夏油さんが死から蘇る術式を持つ呪霊をストックしていたとかだろうか。人々の信仰や畏れが集積して誕生する呪霊ならば、そんな規格外の術式を持っていてもおかしくはない。

 

 例えば伊奘諾(イザナギ)には黄泉帰りの逸話もあるし、迦毛之大御神は死したる神を甦らせたという。堕ちた土地神が呪霊となる事は多々あり、夏油さんでも骨は折れるだろうが、そういった術式を持つ呪霊を取り込み操る事はできるだろう。呪霊操術とはそれ程までに強力な術式なのだ。それこそ無下限呪術と同じぐらいに。

 

 そういえば、ツギハギ顔の呪霊は魂に関する術式を保持していた。ならばその術式の解釈次第では死者の復活も可能かもしれない。

 

「……ああ。分かった。悪いが、お前はすぐに帳内に戻って五条の封印を解く事に尽力してくれ。俺は硝子や高専で待機している術師と渋谷に向かう。……ああ、頼んだ」

 

 数分して電話は終わった。どうやら渋谷に戦力を向ける事にしたらしい。それもそうだろう。五条さんを取り戻さないと高専側に勝ち目はない。今回は陽動でもなんでもなく渋谷が敵の狙いだ。交流会襲撃時の帳だとかの陽動こそ、目立つ所が本命ではないと思わせる為の陽動だったのかもしれない。

 

「……渋谷に向かうんですか」

「……ああ、そうだ。悟の封印を解く事が今の最優先事項だ」

「そうですよね。……俺を拘束しますか?」

 

 夜蛾学長は眉間に手を当てながら考え込んだ。客観的に見て俺は怪しすぎる。広範囲の索敵と内通が容易であり、そして死者に干渉する術式。それに学生時代で一番交流の深い先輩は夏油さんだった。呪詛師の情報を求めているという動機すら揃っている。

 

 学長は俺の事をよく知っているはずだ。だからこそ、俺を野放しにするわけにはいかないだろう。

 

「……司條」

「……何ですか」

「お前は渋谷に先行してくれ」

「……え?」

「悪いが急いでくれ。お前なら渋谷に急行できるだろう」

「ちょ、ちょっと待ってください。俺をフリーにしていいんですか?」

 

 夜蛾学長は眉間に当てていた手を離すと、俺の方を真っ直ぐに見てそう言った。てっきり俺は拘束されるものだと思っていただけに、その言葉に驚いて聞き返してしまう。

 

「なんだ。お前は裏切っているのか?」

「な、裏切ってませんよ!」

「なら頼む。少しでも戦力がいる。一級のお前の力が必要だ」

 

 暗いサングラス越しでも、夜蛾学長が俺の目を真っ直ぐに見ていることがわかった。そこにはもう一切の疑念の色はなく、ただただ俺への信頼の色がある。分からない。その理由が分からない。こんな術式を持つ俺を信じる理由が。

 

「……お前が、自分の術式と呪術師をやっている動機にコンプレックスを抱いている事は知っている」

「……!」

 

 まだ納得出来ていないのだろう俺の様子を見かねたのか、夜蛾学長は話し始めた。それは正しく俺の思っている通りの事で、いつのまに見抜かれていたのかと言葉にならない言葉が口から漏れる。

 

「だが、それでもお前が呪いを祓い、助けた人たちは確かにいる。お前が擬奴羅の完成度を上げる為に俺から呪骸の創り方を熱心に聞いた事を、呪力の扱い方を悟や硝子から真剣に学んだ事を、格闘術を傑から何度も学んだ事を知っている」

「……」

「だから、俺はお前を信じる。頼んだぞ」

「──分かりました。今すぐ渋谷に向かいます」

 

 全幅の信頼が込められたその言葉に、何故だか泣きそうになった。俺は嫌いだ。立派な動機もなく復讐のために生きている事が、死者の尊厳を踏みにじるこの術式が、そして、そんな術式を自分の為に使う自分自身が。だが、夜蛾学長に肯定してもらった事が嬉しかったのだ。

 

 黒い闇に包まれた窓を開け、鷹笛を三度鳴らす。高専の敷地内に笛の音が響き渡った。それは集合の合図。擬奴羅達を呼び戻す為の合図だ。

 

「……すみません。夜蛾学長。実は俺、学長のことを内通者かと少し疑ってました」

「別に構わん。俺の呪骸と過去を考えれば当然だ」

 

 擬奴羅達が帰ってくるのを待っている間、準備の為に部屋を後にしようとした夜蛾学長に話しかける。どうしてもそれを謝っておきたかったのだ。夜蛾学長も五条さんによって守られている人物の一人。

 

 もし五条さんが封印されたままならば、どうなってしまうか分からない。今度こそ正式に無期限拘束が下される可能性もある。だから信頼してくれた学長の為にも、少しでも俺にできる事をしようと心に決めた。

 

「今度、お詫びに酒でも奢ります。確か甘いお酒は好きじゃありませんでしたよね?」

「ああ。だが、お前が奢らなくていい。七海と硝子、悟や伊地知も呼んで俺が奢ろう」

「はは、五条さんは下戸でしょうに」

「ふ、いつも手を焼かされてるんだ。封印された事をいじって肴にしてやろう」

「それ、いいですね。……楽しみにしておきます」

 

 暗い夜の闇の中から、俺の擬奴羅が近づいてくる気配を感じ取る。窓から外に出てチェロケースを背負う。朽鼠や閂鼠が俺の影の中に潜む袱紗影伏の中へと入っていくのを見届けながら、そんな他愛ない会話をした。

 

 その少し未来のための会話は、お互いの無事を願い渋谷の事件を平定できる事を祈るもの。縛りでも何でもないが、そんな会話が大きな力となる事もある。

 

 一番遠くで見張らせていた伽楼堕が二体、ようやく帰ってきた。その伽楼堕に俺の身体を掴ませ、空を飛んで渋谷へと向かうのが車などよりよっぽど早いはずだ。本来は東京のような人の目につく場所ではやらない手段だが、今は緊急事態。背に腹は変えられない。

 

「……武運を祈る」

「ええ、任せてください」

 

 俺は夜蛾学長にそう答え、俺の背中をがっしりと掴んだ伽楼堕に合図を出した。足が地面から離れて空へと浮かび上がっていく。十一月直前の夜の空は酷く冷たかったが、不穏な生暖かい空気を孕んだ風が強く吹いていた。

 俺は中途半端に欠けた月の光と、街灯だとか住宅から漏れ出る灯りに照らされた東京の上空を飛ぶ。渋谷の人々を救助する為に、五条さんを封印から解く為に、夜蛾学長の信頼に応える為に。

 

 だが、妙に嫌な感覚が俺を捉えて離さなかった。



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第二十一話:屍山血河/2018年10月31日21:56

 眼下の景色が流れていく。身体の芯まで凍えそうな冷たい風を浴びながら、夜の東京の上空を飛ぶ。

 信号も道も関係なく目的地に直行できる空の道は、少し寒すぎる事を除けば今の状況なら何よりもありがたかった。このままいけば二十二時前後には渋谷に着くだろう。

 

伽楼堕(ガルダ)! 安全性は考慮しなくていい! もっと飛ばせ!」

『グガァァア!』

 

 今の渋谷は一級ですら容易く死んでもおかしくない。俺の実力は総合的には平均的な一級はあるだろうが、それは呪具呪物を創る事の出来る特殊性やそれを使った戦闘、索敵だとかを加味してのものだ。純粋な戦闘能力では一級の最低ラインぎりぎりだろう。

 

 そんな俺がたった一人で五条さんの封印を解きに行っても、道中で無為に死ぬだけだ。なら俺はどうにかして他の一級と合流し、そのまま渋谷駅の地下に向かうのがベスト。もしくは他の術師の負担を減らす為に改造人間の処理をし、出来るだけ多くの一般人の安全を確保するのもいいだろう。そうすれば俺よりも強い術師達が、五条さんの封印を解く事に専念できるはずだ。

 

「……あそこか」

 

 俺の目線の先には、渋谷という東京でも指折りの街に確かに帳が降りていた。報告を聞いていてもやはり非日常的な光景だ。市街地に帳を降ろす事はままある。それは心霊物件に巣食う呪霊だとか、潜伏する呪詛師だとかを討伐する為にだ。だが、やはり渋谷のような人の往来が激しい場所に、こんなにも大規模な帳が降りているのは異様だった。

 

 その帳に上空から突っ込む。非術師を閉じ込める為のそれは、僅かな抵抗すら感じさせずに俺と伽楼堕達を受け入れた。

 

「誰か助けて!」

「く、来るな!」

『えぎはどごでずがぁ〜』

 

 先ず聞こえたのは逃げ惑う人々の悲鳴と改造人間の戯言。次いで鼻で感じるのは濃密な血の臭いと死の臭い。眼下に広がる阿鼻叫喚の地獄絵図。

 

 ある程度は予期していたが、それを容易く超える数の改造人間の群れ。渋谷駅南口、ヒカリエの改札口近くは改造人間に占拠されていた。

 

「クソ! 伽楼堕! 近くのビルに降ろせ!」

『ガァァアァア!』

 

 あまりの状況の深刻さに思わず悪態をついてしまう。こんなにも一般人に被害が出ているのに、ここには術師の姿は見えない。人手が足りてなさ過ぎるのだ。いや、五条さんの封印を解く事を最優先にしなければならない事は分かるが、それ以上に敵の戦力が大きすぎて多すぎる。手が回らないのも仕方ないだろう。

 

 ビルの屋上に降り、背負っていたチェロケースを開けて複合弓を取り出す。俺の切り落とした左腕の腱を弦にして創ったこの弓は、俺の呪力との親和性が極めて高い。必要な物を取り出しすぐさまケースを背負い直した。

 

「影伏! 矢の四番!」

『かげ!』

 

 直垂の袖の影に潜んでいる袱紗影伏に号令を出すと、予め教え込んだそれに反応して俺の右手に矢が収まる。矢の先端には俺の血で綴られた呪符に包まれた鏃があった。

 

「まてまてまて!」

『ののの、のみにいきませぇんかぁ〜』

「『弥縫忌(びほうき)』!」

『のみゃ!』

 

 俺はビルから矢を弓に番えながら飛び降り、腰を抜かして動けなくなっている男性に飛びかかろうとした改造人間の脳天に向かって放つ。その脚が六本ある三つ目の犬のような姿の改造人間は、矢が脳天に突き刺さった後、少し痙攣して倒れた。

 

「怪我はありませんか?」

「え、は、はい」

「すみませんが、今は説明している余裕はありません。影伏、槍を」

『かげ!』

「槍を持っていない方は改造人間に追われている人をさっきのビルの屋上に連れて行け。槍を持っている方はそこで一般人を守れ。分かったな」

『ガァァアア!』『カァアァアア!』

 

 俺の袖の影伏が出した破魔槍を片方の伽楼堕に渡し、そう命令する。さっきのビルの屋上はそれなりに高さもあり、飛ぶ事ができない改造人間相手ならそれなりには粘れるだろう。一瞬しか感知できなかったが室内にも改造人間はいなかった。最悪建物の中で籠城できるはずだ。

 

「ちょっ、なん」

「伽楼……こいつらは味方です。安全な場所までお運びするので暴れないで下さい」

『ガァァアアァア!』『カァァアア!』

「うぉ!」

 

 人間の腕が生えた大鷲の化け物に怯えた様子の男性だったが、その恐怖心を解く為にいちいち説明する時間はない。伽楼堕達が飛び去った後、俺は射殺した改造人間の遺体に向き直る。その遺体には赤黒い紋様が浮き出ていた。

 

「『汝、我が僕、我が命に従いさぶらへ』」

『のみ、の、の、のみ』

「『汝、汝が同胞、異形なる者達を殺し尽くせ』」

『いぎまぜ、いぎまぜんがぁ〜』

 

 地に伏していた遺体は、俺の声に反応して出来の悪い操り人形のように、何処か違和感のある動きで立ち上がった。生まれたばかりの子鹿のようなその動きは、いくら改造人間相手とはいえ生命への冒涜に溢れている。

 

「……行ってこい」

『の、の、のぉ!』

 

 赤黒い紋様が輝く改造人間の遺体は、他の改造人間に向かって犬のように襲いかかった。その姿を見て、初めて使う呪具だが成功してよかったと安堵する気持ちと、こんな呪具を使わなければならない事への嫌悪感がせめぎ合う。

 

 さっきの矢は呪具だ。名を『弥縫忌(びほうき)』。射殺した人間を即席の殭屍(キョンシー)へと変質させる効果を持っている。縛りによって効果対象が人間でなければならないし、脳天を射抜かなければならない。そのくせ簡単な命令しか聞けない上に、一般人相手に使ってもせいぜい三級程度の呪霊と同等の戦闘力しか持ちえない。

 

 昔の俺はもっと戦闘に活かせそうな別の呪具や呪物を創れるようになる事や、戦闘能力を上げる事に拘泥していたのだ。だからつい最近まで創り方を覚えていなかった。

 

「影伏、矢の四番」

『かげ!』

『どんだ、どんだぁ』

 

 そもそも、呪術師が多くの人間相手に戦う事は殆どない。今回の渋谷ような事態が例外中の例外であって、俺たちが主に闘うのは呪霊だ。『弥縫忌』は戦国時代だとか戦乱の世で多くの死体を得る為、戦場に出た死屍創術の術師が創り出した呪具。言ってしまえば何百年前の時代錯誤の呪具だ。これが現代で必要となる状況などないと考えていた。

 

「『汝、我が僕、我が命に従いさぶらへ』」

「『汝、汝が同胞、異形なる者達を殺し尽くせ』」

『ど、どんだ!』

 

 しかし、あの地下での改造人間達の戦いを経て、そういった呪具の必要性を感じたのだ。袱紗影伏と契約する為に本家に戻った際、創り方を覚えておいて助かった。この場では少しでも戦力がいる。……こんなにも早く使う時が来るとは考えもしなかったが。

 

『のみ! のみぃいぎまぜんがぁ!』

『ど、どん! どんだ!』

『な、なぁんでぇ!』

 

 思いの外、この呪具によって生み出された殭屍は強かったようだ。次々と改造人間を殺している。殺されている方の改造人間が人間を襲う事に夢中で、同じ形をした殭屍に隙が多いのもその理由か。改造人間同士で戦う事などいままでに無かったはずだ。

 

 ……いや、あのつぎはぎ顔の呪霊の術式によって、無理やりに呪力を扱える身体にされてしまったのが一番大きい理由だろう。俺の術式によって呪具や呪物の素体となる人間は、当たり前だが呪力が多いほどいい。

 

「らぁ!」

『ぐ、ぎゃぁ!』

「影伏! 四番!」

『かげぇ!』

 

 裂帛と共に刀を振るってゲジのような姿の改造人間を切り裂き、一般人を追いかけている遠くの改造人間を射殺す。

 こんな状態とはいえ、その遺体を使わせて頂いている事に謝意を忘れてはならない。そうさせて頂くのならば、俺はより多くの人々を助ける必要がある。

 

「クソ! 多すぎるだろ!」

 

 俺も殭屍もかなりの数の改造人間を殺したはずだが、未だその異形の数は尽きない。改造人間がいるのはここだけではないだろう。他の場所でも人々を襲っているだろうし、俺は五条さんの封印を解く為に渋谷駅へと向かわなければならない。

 

「司條さん! 大丈夫っすか!」

「虎杖君か! ここは大丈夫だ!」

「っ! でも、数が……」

 

 あまりにも多すぎる改造人間に焦れてきた頃、心配と焦りを含んだ虎杖君の声がした。冥さんや憂君といたはずだが、彼らはどうしたのだろうか。脳内に疑問が浮かぶが今はそれを聞く余裕はなかった。

 

 改造人間の数は多いが俺自身には怪我はない。伽楼堕も何人もの一般人を助けている。だが優しい彼にとっては、多くの人々が未だ改造人間に追われているのが見逃せないのだろう。

 

「明太子!!」

「その語彙は!! 狗巻先輩!!」

「しゃけ!!」

 

 だがまた別の学生が現れた。確か二年生で準一級の狗巻君だ。今この場では彼の呪言は何よりも有効だろう。心強い援軍だ。高専に待機していた術師が、夜蛾学長の判断によって渋谷に向かってきているのだろう。

 

「頼んます!! 狗巻先輩! 司條さん!」

「狗巻君! 赤黒い紋様が浮き出ている奴に害はない!」

「しゃけしゃけ」

 

 虎杖君も狗巻君がいれば何とかなると判断したのか、改造人間の間を縫って渋谷駅へと向かっていった。彼一人で渋谷駅へ行くのは危険すぎると考え声をかけようとするが、物凄い身体能力で渋谷駅へと入ってしまってその暇もない。

 キーンと、狗巻君が持っているメガホンが音を鳴らす。

 

動くな

 

 増幅された言霊を宿す言葉が響いた。瞬間、逃げ惑っている人々や俺の術式の影響下の改造人間を除いて、人々を襲っていた改造人間は動きを止める。メガホンを使って声も拡散しているだろうに、ここまで呪言の効果対象を絞れる事に驚いた。

 

「悪い。助かった」

しゃけ

「……声大丈夫か?」

 

 返ってきたその声はガラガラに枯れていて心配になる程だった。だが狗巻君は首を縦に振って、ポケットからノドナオールと書かれたスプレーを取り出す。

 なるほど、代償への対抗策は持ち合わせているらしい。いらぬ心配だったかと思ったが、狗巻君はそのスプレーの蓋を開けてぐびりと中の薬剤を飲む。……喉薬ってそういう使い方でいいのだろうか。 

 

「うめ?」

「え、あー……狗巻君は生存者の誘導を頼めるか? 俺は残った改造人間を処理した後、虎杖君を追って駅に入る」

「しゃけ!」

 

 どうやら納得してくれたらしい。狗巻君が生存者と共にいれば、改造人間相手ならどこから襲われたとしても呪言で守れるだろう。俺とは違い、声を発するだけで広い対象に効果を及ぼせる強い術式だ。それに駅の中という危険な場所に行くのは、学生ではなく俺の方がいい。

 

「あのビルにも生存者がいる。頼んでいいか?」

「しゃけ」

「ありがとう」

 

 その後、少しの情報共有をして狗巻君と別れる。この渋谷で単独行動はすべきではないだろうが、あまりにも手が足りない。こうするのが最善だろう。

 ヒカリエ改札口前の広場では、殭屍が改造人間の首もとに噛み付いたり、無理やりに引っこ抜いたりなどの方法で同族を殺している。呪言の効力が切れる前に全て処理してしまおうと、俺も近くの改造人間へと駆け出した。

 

「お前ら! 遺体を集めろ!」

『の、のみぃにぃ!』

『ど、とんだ、どんどん!』

『どりっぐ、お、ぉおあどりぃど!』

 

 動きの止まった改造人間の首を刎ねながら殭屍に命令する。これだけの遺体があれば、新しく覚えてきた呪具……というより拡張術式を発揮できるはずだ。

 その拡張術式は死屍創術では珍しい術者の戦闘能力を上げるタイプの術。大量の屍が必要なのでこれも現代では使う機会がないだろうと思っていたが、まさに屍山血河としか形容できない今の渋谷では条件を満たしている。

 

「……これだけあれば足り……何だ、これは」

 

 ヒカリエ改札口前の改造人間の掃討が終わり、その遺体や一般人の遺体を一箇所に集めさせる。血が滴る小山のようになってしまったが、元の姿が判別できないような重大な損傷を受けた遺体だけを選び取ろうとして──気が付いた。

 その山に黒く焦げた遺体がある事に。俺の知る限り炎を操る術師は渋谷にはいない。纏わり付く悍ましい残穢。その残穢の主を俺は知っている。

 

 なぜならそれは、俺の家族を殺した呪詛師の──

 

『ガァァアア!』

「ッ!」

「ありゃ? 完全に不意をついたと思ったんだか」

 

 刹那、背中に悪寒が走る。背後に急激な呪力の高まりを感じるのと同時に、真横から衝撃を受けた。その衝撃は俺を伽楼堕が突き飛ばした事によるもの。

 俺が数瞬前までいた場所に、轟々と燃え盛るドス黒い炎が迸る。肌を焦がすような熱量を感じながら、その炎の発生源から距離をとった。

 

「お前、高専の術師だよな? 何級?」

「さぁ、何級だろうな。……お前が蒐獄か?」

「あ? 何で知ってんだよ。俺ってば有名人?」

「黙れ。殺す」

「ハハ、お喋りはお嫌いですかね。顔が怖いぜ?」

 

 黒い炎を差し向けてきた奴の姿を目に捉え、ギリィと無意識に歯と手のひらに力が入る。ようやくだ。ようやく見つけた。家族の仇を。能面の黒い炎の呪詛師を! 

 俺はこいつに自分の素性を話すつもりは一切ない。俺の家族を殺した理由など聞く必要も無いし、知る必要もない。そもそも言葉の一つも交わしたくないからだ。

 

 ただ絶対に殺す。

 俺の両親と妹が理不尽に訳も分からず殺されたように、俺が怒り狂っている理由を奴に教えずに殺す。

 二十二年間、ずっと追い求めていた復讐の成就を今ここで果たす。絶対に、絶対に。

 

 奴は薄っすらと不気味な笑みを浮かべる女面を被り、そして随分とふざけた格好だ。深い黒の経帷子を左前で着付けている。死装束のつもりだろうか。だが、此処で殺すのだからそんな事は気にならない。むしろおあつらえ向きだとすら思った。

 

 能面の男──蒐獄は、両の手に黒い炎を燻らせながら俺に話しかける。

 

「ま、もう名前がバレてようが関係ねぇ。丁度暇してたんだ。ちょっくら遊ぼう、ぜ!」

「ッ! 殭屍! 奴の動きを止めろ!」

『の、の、のみ゛ぃ!』

『どんだぁ゛あ゛!』

「おっと!」

 

 俺の声に反応した殭屍が、一直線に向かってくる蒐獄の軌道上に立ちはだかった。殺到してきた殭屍に対し、奴は少し距離をとる。無理やりに突破してくると思ったが、まだ様子見の段階なのだろう。あくまでこちらの出方を伺っている。

 

 ……いや、本当に遊んでいるのかもしれない。憎悪で煮えたぎっている胸中で何とか冷静を保ち、奴の一挙手一投足のその全てに意識を注ぐ。そして気がついた。奴の身体に纏う呪力と能面の呪力が異なることに。

 

「んー、死体を操る術式……ってところかぁ? 悪趣味だな」

「行け!」

『の、のみぃにぃ!』

業火三昧(ごうかざんまい)

『のぉ゛あぁ゛あぁあ!』

 

 耳をつんざくような絶叫。俺が差し向けた殭屍に黒い炎が纏わり付く。俺の術式との(リンク)が急速に薄くなっていき、それと反比例するように黒い炎は猛々しく燃え上がった。

 ……やはり、あの黒い炎は呪力を燃やす炎だと考えていいだろう。厄介な術式だ。呪力で身体を強化していても防げるどころか更に火力を増すのだから。あの炎はまともに受けてはならない。警戒が必要だ。

 

「……そういうお前は、呪力を燃料に燃え上がる火を操る術式か?」

「ああ、俺の術式は『獄炎操術』。いい術式だろ」

「チッ!」

 

 嘘。おそらく奴の言葉は欺瞞だ。

 

 思い出すのは少し前、能面の呪物を所持していた日壁との戦い。奴は自前の『曰く憑き』という生得術式とは別に、記憶を消す術式を使ってきた。

 あの能面はどういうカラクリかは知らないが、別の術式を使用可能にする呪物と見るべき。そしてあの能面に刻まれた術式が黒い炎を操る術式のはず。だとすると、蒐獄も自前の生得術式を持っているのが道理だ。

 

 ……しかし、おそらくそれが能面を創る術式だと考えられる。決めつけは良くないが、奴が能面の呪物の流通源なのだからほぼ確実にそうだろう。

 

「影伏、矢の二番」

「かげ!」

「『射し指』!」

「遅──へぇ、追尾か!」

 

 わざと七割程度に弦を引き矢を放つ。それは先端が人差し指の鏃の矢。奴は軽々と回避するが、矢は避けられた後に物理法則を無視して旋回した。グルンと奴の背後を襲う。

 

 中った。

 

 そう確信する。矢は奴のがら空きの背中に突き──刺さらなかった。ガゴンと、硬質な金属をハンマーで殴りつけたような音が響く。いくら呪力で肉体を強化していても、絶対に人体からは鳴るはずがない音だ。

 

「な!」

「ハハ、危ねぇ危ねぇ」

 

 蒐獄は地に落ちた矢を掴み、その黒い炎で燃やした。おかしい。明らかにおかしい。確かに奴の油断を誘うために手加減した一矢だとはいえ、呪力で強化した肉体に突き刺さる威力はあるはずだ。

 

 まさか奴の自前の術式があの黒い炎で、別の何らかの戦闘用の術式を保持しているのか。もしくはその逆か。能面を創っているのは別の呪詛師なのか。

 

 そんな疑問が頭に浮かんでしまう。それは、生き死にをかけた戦闘中では大きな雑念。

 

「もう終わりか?」

「っ!」

阿餓利餓利(あがりがり)

 

 想定と違っていた事に困惑し、少しの隙を見せてしまった。急接近してきた蒐獄に対し僅かに反応が遅れてしまう。奴は手に纏う黒い炎を剣のような形に変え、俺へと振るってきた。

 

 その黒い炎──いや、あの獄炎は決してまともに喰らってはならない。呪力を貪る炎だ。一度その炎に巻かれてしまったら、消すには極限まで呪力を抑えるしかない。それは戦闘中だと致命的な隙を晒す事になる。そして、その事は奴が一番分かっているはずだ。

 

 ──だからこそ、真っ正面から迎え撃つ。

 

「『骨奪技巧(こつだつぎこう)』! シン・陰流居合『抜刀』!」

「!」

 

 俺は弓を投げ捨て、素早く刀に手をかけた。左腕に呪力を流してその腕の持ち主が積み重ねし技巧を再現する。奴の傍を抜けるように刀を一閃。

 奴もまさか正面から俺が突っ込んでくるとは考えなかったようで、そのがら空きの胴体に刀をまともに喰らった。

 

 ──硬い! 

 

 しかしまともに入ったはずの一撃だが、刀は俺の手に硬質な感触を伝える。人間の硬度じゃない! 本当に金属に刃を突き立てたかと錯覚する程の硬度。ダメージは期待できないだろう。

 

 それに奴も馬鹿ではなかった。ただ攻撃を喰らうだけでなく、俺の刀を獄炎の剣で受けたのだ。不定形の炎の剣では受け太刀など出来ないが、獄炎は俺の刀に流れている呪力に燃え移り左腕を燃やす。

 

「おいおい、馬鹿だろお前。俺の話聞いてたのか? 俺の獄炎を喰らうなんて、暇つぶしにもならなかったぜ」

 

 奴は呆れた様子で左腕が黒い炎に巻かれた俺を見る。俺を嘲笑しているのが、能面の下が見えなくとも分かった。

 

「補助監督を殺せなんてつまらねぇ任務をブッチして術師を探しにきたのに、外れを引いちまったか」

「……馬鹿はお前だ。クソ野郎」

「あ?」

 

 轟々と燃え盛る左腕をちらと見る。確かにここで炎を喰らうのは想定外だった。だが、ちょうどいい。

 

 右手の呪力を極限まで抑えて、炎を纏う刀を持ち替える。右の手のひらが少し焼ける痛みを感じた。しかし、そんな痛みになど構っている暇はない。獄炎によって多大な損傷を受けている左腕の肩口に素早く刃を当てた。

 

「『この怨み、晴らさでおくべきか』!」

 

 シン・陰流を扱える“腕”のストックはこれが最後の一本だったが、そんな事はもうどうでもよかった。基本的に『換装義骸』に共通して付与してある原始的な呪詛返し。呪力を用いた攻撃で受けた損傷に対し、同等の損傷を相手に返す効果。これならば奴がどれだけ硬かろうと関係ない。この焼け爛れた腕と同じ傷を負うのだから。

 

 しかし、違和感。左腕を切り落とす瞬間、奴は俺をじっと観察しているだけだった。俺の行動を邪魔するわけでもなく、不気味に能面の下からただじっと見つめて。

 

 その様子に形容しがたい不安を覚えるが、それを断ち切るようにして左腕を切り落とす。そして刀を手放し、右手に微かに燃え移った黒い炎を払う。

 

「呪詛返しの術式……いや、呪具か? さっきの矢も……なるほど」

「何、だと……!」

「ハハ、いいね。死体を操るだけのつまらない術式だと思ったが、少し欲しくなってきた」

 

 奴は痛みを感じる様子もなく、平然とした様子で俺の観察を続けていた。最初はやせ我慢をしているのかと思ったが、奴の経帷子から覗く左腕に一切の火傷が見られない。

 

 ──『双穴穿ち』が発動しなかった? いや、そこまでの実力差はないはずだ! この呪具の縛りは重く、特級にすら有効だった!

 

 胸中の違和感が肥大化していく。俺の理解の埒外にいる相手に感じるそれは、不安か恐怖か。違うと首を振る。俺がそんな事を肯定してはならない。俺がそんな弱い感情を奴に抱いてはならない。抱くべきは殺意と憎しみだけだ。俺は奴を殺すと決めたのだから。

 

 まだ俺の攻撃は終わせない。このまま奴に対し攻め立てることを選択した。

 

「影伏! 種を三つ!」

『かげぇ!』

「ハハ、次は何だ? もっと見せてくれよ」

 

 影伏が取り出す呪符が巻かれた団子ほどの球体に呪力を込め、突っ立っているばかりの蒐獄に向かって投げつける。奴はそれを避けるそぶりもなく、全てを棒立ちでまともに喰らう。

 

「『荼毘華(だびばな)』!」

 

 轟音と共に赤い炎の華が三輪咲いた。爆炎に包まれる蒐獄。だがその赤い炎を塗りつぶすかように、ドス黒い炎が奴の輪郭を取った。

 

「ぬるい炎だ。これはイマイチだな」

「本命じゃねぇからなぁ! 伽楼堕!」

『グガァァアァ!』

「!」

 

 轟音も爆炎も、奴の注意を逸らすためのもの。本命は上空から勢いをつけて急降下する伽楼堕の槍。

 

「『貫』!」

 

 奴にその槍の穂先が突き刺さる瞬間に俺は叫んだ。貫通力ならば俺の呪具で一番の破魔槍。その効果を最大限に強化するために。今の俺に出来る最大限の攻撃。

 

「ハハ、ハハハ! 中々いいじゃねぇか!」

「なっ!」

 

 しかし、無傷。奴にその穂先は突き刺さっていない。

 何故だ。あの森で遭遇した白い特級呪霊にも、この呪具は確かに突き刺さった! 呪力量からしても奴はせいぜいが一級程度。特級にも通じだ呪具が一切効かないなどあり得ない! 

 

『グ、ガァァア!』

「うぜぇな。こいつ。やれ『影武者』」

『グギャァァァア!』

 

 何度も鉤爪で引っ掻き、破魔槍を突き刺そうとしている伽楼堕を邪魔だと思ったのか。奴はそう呟いた。すると影から奴と同じような背格好の影法師が現れる。黒一色で凹凸が感じにくく遠近感を狂わせるその影法師は、その腕部を刀のように変化させて伽楼堕を両断した。

 

「何、だ。そいつは。お前の術式は、その能面を創る術式じゃないのか」

「何だよそこまでバレてんのか。ブラフ張った意味がねぇじゃねぇか。日壁の野郎がゲロったのか?」

 

 思わず漏れた俺の言葉にそう反応した蒐獄に、さらに混乱が深まってしまう。

 戦闘前までは俺は奴自身の術式が能面を創る術式であり、あの黒い炎を操るのは能面に刻まれた術式だと考えていた。そして戦闘中には、奴の異常な肉体の硬度から、能面を創っているのは別の術師かもしれないという考えも浮かんだ。しかし、後者の考えは奴の言葉によって否定されてしまう。それこそ(ブラフ)かもしれないが、嘘だとしてもおかしい。

 

「もう品切れか? なぁ、おい?」

 

 奴自身の術式と能面の術式。どの考えが合っていても、扱えるのはその二つだけのはずだ。能面にいくつもの術式が刻まれている可能性も思い浮かぶが、それはない。断言できる。奴と能面の呪力は異なっているが、能面自体から感じる呪力は一つだけだからだ。

 

 様々な事ができる術式自体はある。例えば猪野の『来訪瑞獣』や香那の『祀神契法』、伏黒君の『十種影法術』だとかだ。いずれも強力な術式であり、多様な効果を持つ式神や瑞獣を扱う事が可能。しかし、それは式神や降霊術といった枠組み内だからこその話のはず。

 

 奴のように炎を操り、肉体を金属のように硬質化させ、影法師を操るような統一性のない事を可能にする術式などありえない。

 

 ──本当に、ありえないのか? 

 

「まさか、その術式は……!」

「お、分かったのか? この能面の術式がどういうものなのか」

 

 そこまで考えて気がつく。気がついてしまった。同時に深い絶望も襲ってくる。もし俺の考え付いた()に由来する術式ならば、その力は極めて強大だ。それこそ、あの五条さんに並んでしまうほどに。

 

 俺のその様子を見て、蒐獄は嫌らしい雰囲気を強くする。そして答え合わせをするような、幼児が自分の蒐集物(コレクション)を自慢するような優越感に満ちた声色で俺に語りかけた。

 

 それは、俺の最悪の想定が合っている事を肯定するもの。

 

「『獄炎操術』なんてそんなちゃっちい術式じゃねぇ。『新皇祟総術(しんのうたたりのそうじゅつ)』。それがこの能面に刻まれし本当の術式だ」

 



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第二十二話:死屍累々/2018年10月31日22:16

 呪術界だけでなく、一般社会でも広く知られた呪いや祟りとは何か。

 

 呪いや祟りと聞いて思い浮かぶ者や化生の類は数あれど、その一番目に来る者はほぼ決まっているだろう。

 彼の者は呪術全盛の時代、平安の世において『新皇』の称号を僭称し、神の血統とされた天皇に叛逆した存在。現代最強の術師、五条さんの祖先である菅原道真と等しく日本三大怨霊の一角に数えられし呪いの頂点。

 

 名を、平将門公。

 

 曰く、その身は鋼のように強靭であり、矢も刃も一切の傷を与える事は出来なかった。

 曰く、余りにも強すぎ、全く姿形が同じ武者が何人もいたと言われる程の戦働きをした。

 曰く、晒し首になろうとも強すぎる怨念により死なず、雷雲を呼び寄せ稲妻と共に炎を吐きながら空を飛んで京へと向かった。

 

 彼の者の伝説は一千年の時を越え、今もなお語り継がれている。それらが真実であってもなくても、呪術の世界では触れてはならない禁忌の存在であることに変わりはない。

 

 そしてその伝説は過去のものではない。それらの伝説が未だ畏れを伴い信じられているせいで、彼の者に向けられる強すぎる畏れは呪霊として顕現する程だ。十六体しか存在しない特級仮想怨霊の一体、『平新皇将門公』として。

 

 俺もその事は知っている。いや、呪術界に関わる者で知らぬ者はいない。江戸城を彼の者の首塚の近くに築城したのは、その呪いの強さ故に一切の呪霊が近づけないからだ。現在、彼の者の首級は皇居に張られている天元様の結界と共に、比類なき効果を持つ魔除けとして崇敬され封印されている。

 

 『新皇祟総術(しんのうたたりのそうじゅつ)』という術式は、奴の発言やこれまでの戦闘から察するにほぼ間違いなく彼の者に由来する術式だろう。

 

 そんなにも強力な術式が刻まれている呪物(能面)を、なぜ奴が保持しているのかは分からない。術師から創るのか呪霊から創るのか。それとも彼の者の御霊を降ろしたものなのか。

 

 どれが答えにしろ、奴の扱う術式が強力な事に変わりはない。それだけは揺るぎない事実。奴を殺したい俺には余りにも酷すぎる現実だった。

 

「……よくもまぁ、そんな畏れ多い術式を扱えるな。祟られてもしらねぇぞ?」

「ハハ、何十年も使わせて頂いてるが、俺に祟りが降りかかった事はねぇよ。お前ら高専があくせく必死になって、将門公の封印を維持してくれているからかもな。感謝するぜ」

「チッ!」

 

 奴はヘラヘラとした態度を崩さずに、隻腕になった俺を観察するかのように能面の顎に手を当てていた。まずい。腕を切り落としたのは完全に失策だ。

 

 ──使うしか、ないのか。

 

 直垂の胸元に手を当て、そこにある匣の存在を確認する。だが、条件が足りない。もはや獄炎は消え、黒焦げの残骸になった左腕をちらと見る。そこには奴の残穢は確かにあった。しかし、この程度ではあまりに心許ない。欲を言うならば呪力だけでなく、奴の肉体の一部が欲しい。

 

 不完全な発動になってしまうと、奴を殺せるかどうかは完全に運次第になってしまう。そもそもまともに発動できるかすら分からない。

 

「!」

「おーおー、あっちも随分派手にやってるねぇ」

 

 渋谷駅の内から莫大な呪力の奔流を感じた。とんでもない量と悍ましさを兼ね備えた呪力だ。早くこんな奴を殺して俺も渋谷駅の内部に入らなければならないのに、恐らくそれはもう不可能だろう事を薄らと認識した。

 

「んで、お前の術式は何だよ? 最初は屍を操るだけの術式かと思ったが、どうにも違いそうだしな」

「……」

「おいおい、まただんまりかよ。折角術式開示のチャンスをやったのに、ノリが悪りぃなぁ」

 

 蒐獄からは戦闘中にずっと遊んでいる印象を受けていたが、どうやらそれは違うらしい。奴は俺に出せる限りの術を使わせたいのだろう。それが何の為がは分からないが、妙に俺に攻撃や術式開示の機会を与えてくるのがそのいい証拠。

 

 なら、とっておきを見せてやる。

 

 どうすべきか少しの逡巡。だが、直ぐに決断した。もう奴に通じる手は一つしかない。ここで抱え落ちして死ぬのが最悪。使って死んで奴を殺す。もしくは呪力を少しでも削るべきだろう。他の術師の為にも、こいつがフリーになる時間も極限まで短くしたい。

 俺が殺せないのは業腹だが仕方ない事だ。此処には俺以外の術師もいる。彼らが奴を殺してくれることを信じ、俺は口を開いた。

 

「俺の術式は『死……?」

 

 違和感。さっきまで俺を観察していた奴の視線が、俺ではない何かに向いた。俺の左後ろへと。

 俺が奴の一挙手一投足を見逃さんと、隅々まで見ていたからこそ気付けた小さな違和感だ。

 全身の毛が逆立ち、死の予感を強く訴える。一切の呪力も気配も感じないのにも関わらずだ。

 

「がッ!」

 

 身体を捻りその方向に()を向ける。咄嗟のその判断は、背中に背負うチェロケースで身体を守るためにだ。

 その行動から一瞬遅れて、巨大な鉄球でぶん殴られたが如き衝撃が全身を襲う。呪力で強化していても身体がバラバラになったのかと錯覚する程の威力。

 

 ──何だ! 何が起きた! 

 

 訳もわからず吹き飛ばされ、そのままビルの壁に背中から激突した。全身が激痛を訴え、それに遅れて節々が熱を持ったのを感じる。感覚からして何箇所も骨折しているのが分かった。意識を手放さなかったのが奇跡といってもいい。

 

 俺が吹き飛ばされた方を激痛を耐えながら何とか見る。呪符で強化してあったはずのチェロケースの残骸と、中に入っていた呪具呪物が所々に散乱していた。チェロケースで防御していなければ、俺はもっと酷い怪我をしていただろう。

 

 壁に背中を預けながら何とか視線を上げきると、そこにはゆったりとした服を纏った黒髪の男の姿があった。乱入者は服の上からでも分かる程、凄まじく強靭な肉体を備えている。だが、何かがおかしい。何か当たり前のものが欠落しているような、言いようもない違和感を覚える。

 

 その口元に傷のある男の顔はどこかで見たような、しかし、もしそうだとしてもそれはおそらくかなり前だろうと確信できる程度の見覚えだけがあった。

 

「その服……オガミ婆の孫か?」

「……」

「おいおい随分と男前になっちゃってまぁ」

 

 だが、蒐獄にとっては知った顔らしく、どこか朗らかな雰囲気を醸し出してその黒髪の男へと近づく。

 

 最悪だ。どちらか一人でも勝てるか分からないような相手なのに、そんな呪詛師が二人もいて徒党を組んでいるなど考えたくもない最悪の状況。しかも俺の身体はもうボロボロだ。

 

「……」

「無視は酷いぜ。酒を飲み交わした仲──っ!」

 

 馴れ馴れしい態度で蒐獄が黒髪の男の肩に手をかけた瞬間、蒐獄が吹き飛んだ。ガゴンと、硬質な金属同士がぶつかり合うような音だけを残して。

 呪詛師同士の仲間割れなのか、目の前で起こっている事が分からず混乱する。

 

「ハハ、あっぶねぇなぁ。俺がお前を殺そうとしたのに感づきやがったか。折角面白い術式を見つけて、テンションが上がってきたイイ所だったのに割り込んできやがって。……だが、燃やしたぞ?」

「……?」

 

 蒐獄もただ殴られるだけではなく、あの一瞬のうちに黒髪の男の左手に黒い炎を着火していた。だが、黒髪の男はその炎を興味なさそうに一瞥し、そしてめんどくさそうに左腕を薙ぎ払う。たったそれだけの単純な一動作。それだけで、呪力を極限まで抑えなければ消えぬはずの獄炎は瞬時に消えた。

 

「な!」

「おいおい、マジかよ!」

 

 俺も日壁を捕縛する際にあの獄炎に右手を巻かれたから分かる。いくら術師が呪力を操作できるとはいえ、あんなにも一瞬のうちに獄炎が消える程度の呪力量にするのは至難の技だ。黒髪の男はどれだけ呪力操作の練度が高いんだと驚嘆し、そして今度は先に感じていた違和感の正体にようやく気がつく。

 

 黒髪の男が一切の呪力を持っていない事を。だからこそ、呪力を貪る獄炎がああも容易くかき消されたのだという事を。

 

 まさか、あいつは五条さんを死の淵まで追いやった化け物か。見覚えがあった理由も鮮明に思い出した。それは十年ほど前に奴の死体を俺は見たことがあるからだ。

 だからこそ、なぜその十年前の姿で奴が生きているのか分からない。クソ、今この渋谷では何が起こっているんだ。情報が足りなさすぎる。

 

「……」

 

 黒髪の男は俺が手放した刀を拾い上げ、具合を確かめるかのように数度振った。そして蒐獄に向かって斬りかかろうとする。

 

「!」

「思い出した。お前『術師殺し』だろ? 悪ぃが、お前みてぇな化け物と戦うつもりはねぇ」

 

 だが、その動きが止まった。何故ならば黒髪の男──術師殺しの影から四体程の影法師が姿を現し、その全身に絡み付いたからだ。いくら強靭な肉体を持っていても、動き出しから身体の自由を奪われてるとそう自由に動けないのだろう。その少しの隙をつき、蒐獄は背を向けて逃げ出す。

 

「お前が生きてたら、()()会おうぜ」

「ッ! 待て!」

 

 最後に俺の方をちらと見た蒐獄の目には、明らかに俺を憐れむような色が含まれていて、それが腑が煮え繰り返るほどに不快だ。俺は瞬く間に小さくなっていく奴の後ろ姿に叫ぶが、もう二度と振り返らずにその姿を完全に消した。

 

「ク、ソ! 動け、動け、動け! ……!」

「……」

 

 その背中を追おうとするが、全身に力が入らず立ち上がることすらできない。俺の反転術式で治せる範囲を大幅に超えている。それでも何とか立ち上がろうとした所で、俺に影がかかる。それは黒髪の男の影だ。

 

 呪力を一切感じさせないその肉体の圧力は凄まじく、俺の命がここまでだという事を察した。整った顔立ちだが、生気の宿らない無表情であるのが恐ろしい。その目は不気味に赤黒く濁っていて、尋常ならざる様子である事が分かる。その男が逃げることすらできない俺に対し、ゆっくりと刀を振り上げた。

 

 ──こんな所で、俺は死ぬのか……! 

 

 もはや打てる手なし。索敵用の擬奴羅はまだあるが、目の前のこいつに効果があるとは思えない。完全に振り上げられた刀から目を離してしまう。それは蒐獄を殺すこともできず逃してしまった無念からか、目前に迫った死に恐怖してしまったからか。

 

 だが、いつまで経っても俺にその刀が振り下ろされない。何故だと黒髪の男を見ると、奴は俺ではなく渋谷駅の方向を見ていた。渋谷駅の方からは再び莫大な呪力が現れていて、そっちの方に気を取られたのかも知れない。

 

 生気のない無表情をその顔に張り付けていた黒髪の男は、その口角を小さく持ち上げた。口元が三日月よりも細く弧を描くその肉食獣のような笑みは、何故だか無表情よりも背筋に悪寒を覚えさせる。

 

 黒髪の男は俺をもはや一瞥する事すらなく、その場から消えたと錯覚する程の速度で渋谷駅の内部に向かった。

 

「な、ん……だったんだ……あいつは」

 

 本当に訳がわからない。いきなり現れ俺を攻撃し、仲間だったらしき蒐獄にも攻撃し、最後は馬鹿でかい呪力の方へと向かったあいつは何がしたかったんだ。だが、その乱入者に助けられたのもまた事実。もしあのまま蒐獄と戦っていても、俺が無様に殺されるだけだっただろう。

 

「……っ、痛ぇ」

 

 目前にまで迫った死が消えた事により、それまでアドレナリンで薄れていた全身の痛みが一層強くなった。一箇所二箇所どころか、もしかしたらを二桁を超えているかもしれない箇所の骨折。右手の火傷も軽症ではない。意識が薄れていく。

 

「『没薬』を、使……」

 

 薄れゆく意識の中でなんとかポーチを開け、赤褐色の粉末が入ったカプセルを取り出す。これを使いたくはない。『没薬』。屍毒によって自らを仮死状態にし、死屍となった肉体を擬似的な呪具へと転ずる外法の術。

 

 死屍創術は創るという方面に特化した術式ではあるが、死屍限定なら多少の操作は可能だ。

 

「……くっ」

 

 何とか一錠の赤褐色のカプセルを口元まで持っていくが、そこからが進まない。肉体を仮死状態にするという劇薬だ。代償がない訳がない。

 

 寿命は確実に縮むだろうし、前に使用した時は一月以上は体調が戻らなかった。ひどい倦怠感と吐き気に悩まされるのだ。『没薬』の内容物である赤褐色の粉末は、遺体を俺の術式で加工して木乃伊とした後に削った代物。そして、その粉末の大半は俺の両親と妹だ。使いたい訳がない。

 

 ──『貴方は次期当主として、必ず生きてこの家の当主となってもらいます。復讐は許しますが、死ぬことは決して許しません。分かりましたね』

 

 それだけじゃない。俺がこれを使えない理由は他にもある。思い出すのは当主様の、天涯孤独となった俺の母親となってくれた人との約束。ここで『没薬』を使えば一、二時間なら戦えるだろう。

 

 だが、その次は?

 

 『没薬』の効果が切れた後、俺は戦闘不能になる。この魔境というべき渋谷では戦いの終端はまだまだ見通せない。過激化するだろう戦いの最中に効果が切れれば、俺は今度こそ確実に死ぬだろう。

 

 当主様のとの約束が。縛りも何もないはずの、強制力なんてないはずのただの口約束が、俺の行動を引き止める。意識が深い闇へと引き摺り込まれていく。

 

 この渋谷の真ん中で意識を失う事こそ自殺行為であり、五条さんを解放し一般人を守らなければならないのに、俺は意識が消えていくのを止める事が出来ない。

 

 俺は全身の激痛さえ遠のいていくのを感じながら、背中を壁に預けて完全に意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢を見ている。懐かしい夢を。それは、随分と懐かしい昔の光景だ。

 

『刻嗣? どうしたの? お母さんのいちご食べる?』

『うん! 食べる』

 

 それはどこにでもあるような家族。豊かでもなく、さりとて貧しいわけでもなく、慎ましく幸せに生活していた家族だ。

 

『お兄ちゃんばっかりズルい! ⬛︎⬛︎もいちごたべる!』

『え……なら、お母さん。おれはいちごいらないから、⬛︎⬛︎にあげて』

『ふふ。はい、どーぞ。……ほら、⬛︎⬛︎。お兄ちゃんにありがとうは?』

『ありがとう! お兄ちゃん!』

『刻嗣、えらいぞ! それでこそお兄ちゃんだ!』

『わ、もう、頭なでないでよお父さん。お酒くさいよ!』

『わはは、すまんすまん』

『ふふ』

 

 ただ、俺は知っている。これは俺以外のみんなが死ぬ直前の、最後の団欒だという事を。後数十分、もしかしたら数分もせずに奴が来る。能面をつけた黒い炎を操る男、蒐獄が。

 

『これなら、……と安心で……るね』

『……、刻嗣はいいお兄ち……だ。心……い』

『何……話?』

『ふふ、それはま……密だ……ね、お……ん』

 

 再び意識が薄れていくのを、いや、夢から覚めていくのを感じる。こんな平穏な日々など、俺が享受するべきではない。そんな資格は俺にはない。

 

 俺が一番最初に呪具呪物として加工したのは彼らだ。家族の遺体を切り刻み、数多の人々の遺体を切り刻み、彼ら死者たちの尊厳を犯す俺が幸せになって言い訳がない。

 

 だからこそ、俺には当主様と香那と家族になる資格など持ち合わせている訳が──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よかった! 意識を取り戻しはったんですね」

「……っ、悪い。誰だ?」

 

 意識を取り戻した俺の前にいたのは、どこがで見たような顔立ちをした高専生。何故だか全身の激痛はかなり収まっていて、気絶する前よりもだいぶ楽だった。

 

「京都校の新田です。身体は大丈夫ですか?」

「新田……補助監督の……いや、弟さんか。身体はだいぶ楽になってる。反転術式か?」

「それは俺の術式で反転術式じゃありません。怪我の悪化と痛みを和らげるだけです。なのでその左腕は治せませんでした。すみません」

「いや、謝る必要なんてない。この左腕は元々だ。おかげでだいぶ楽になった。ありがとう」

 

 辺りを見回すが、気絶した場所からは移動していなかった。こんな危険地帯で意識を失っておきながら生きているなど、ほぼほぼ奇跡に近い確率だろう。……いや、狗巻君や他の術師の奮闘によるものかもしれない。

 

「左腕が無い東京の術師……司條一級術師か?」

「ああそうだ。君は……東堂君か」

「え、司條先輩のお兄さん!?」

 

 顔に傷がある筋骨隆々の高専生。聞いていた噂からして京都校の東堂という一級術師だと当たりをつけたが、どうやらそれは正解だったようで彼はひとつ頷いてから話を続けた。

 

「この渋谷で共有しておくべき情報を教えてくれ」

「君たちと持っている情報はそう変わらないが、前情報になかった厄介そうな呪詛師を二人確認した」

「ふむ、どんな奴らだ?」

 

 蒐獄と黒髪の男についての情報を出来るだけ簡潔に彼らに教えた。奴らは最低でも一級相当の術師の力はある。共有すべきだと判断した。

 

「……成る程。分かった。他の情報はあるか?」

「他に……虎杖くんや黒髪の男はその入り口から渋谷駅へと入っていった。悪いが、他に俺が知っていることはない。すまない」

虎杖(ブラザー)が……」

 

 実際、俺が知っているのはこの程度だ。来てすぐにヒカリエ前で改造人間と戦い、その後に蒐獄と戦って意識を失ったのだから。

 

「情報感謝する。新田、司條一級を安全な場……」

「いや、大丈夫だ。俺は捨て置いてくれ」

「……大丈夫か?」

「ああ、俺は反転術式を使える。それに貴重な戦力を俺を運ぶためだけに浪費するわけにはいかない」

 

 何故京都校の彼らが渋谷にいるのかは知らないが、それでも術師の手が足りない渋谷では貴重な戦力である事には変わりない。東堂君は百鬼夜行の際に特級すら祓っているし、新田君の術式はかなり有用だろう。それは今、身をもって体感している。

 

「学生だけをあんな危険地帯に送り出してすまない。俺もあと少し回復したら後を追う」

「いや、気にする必要はない。俺達は呪術師だ。とうに覚悟は出来ている。……行くぞ、新田」

「は、はい! 東堂さん!」

 

 彼らが渋谷駅の方へと向かっていく。その後ろ姿を見て、聞かねばならない事があるのを思い出した。

 

「悪い! 一つだけ聞かせてくれ! 他の京都校の術師は渋谷に来ているのか?」

 

 一刻を争う事態だというのに、その事を聞くのが止められなかった。香那がこの魔境に来ているのかが気がかりだったのだ。彼ら京都の高専生がいるという事は、香那がここに来ている可能性もある。俺の言葉を聞いた東堂君は半身をこちらに開いて振り返った。

 

「いや、今ここにいるのは俺たちだけだ。他の京都校の術師も向かってはいる。誰が向かっているかは分からないが……司條一級術師の御兄妹も来ているかもしれない」

「……そう、か。……すまない。今そんな事を聞いてしまって。教えてくれてありがとう」

「いや、兄妹が大切なのは痛いほどわかる。俺も虎杖(ブラザー)が大切だ」

 

 そう言って東堂君はウインクをして去っていく。噂では相当な変人と聞いていたが、なかなかどうして好青年なのかもしれない。彼らが渋谷駅に入っていくのを見届けると同時に、ずっと行っていた反転術式によって身体が動かせるぐらいにはやっと回復した。

 

「これ、なら……っ!」

 

 何とか背中を壁に預けながら立ち上がるが、今度は頭がクラクラとして前方に倒れてしまう。新田君は俺に施した術式を、怪我の悪化と痛みを和らげるものだと言った。流出した血液や骨折が全て治ったわけではない。十分回復したと思ったが、痛みを感じていないだけでボロボロなのだろう。

 

 だが、それでも十分すぎる。もとから死に体の身体だ。痛みでずっと気絶しているより何十倍もマシだ。

 

「……まだある、な」

 

 視線を上げると、遠くには俺が集めていた遺体の山がある。あそこまで行けばもう一度戦えるはずだ。残った右腕で匍匐前進するように這って進む。匍匐前進といえない足を潰されたヒキカエルのような不恰好な進み方だが、ゆっくりと着実に近づいていく。

 

 むせかえるような血の臭いと吐き気を催す消化器系の分泌液の臭い。それらが混ざり合った臭いが強くなっていくが、何とか胃の中の物が逆流してくるのを堪える。

 

「影伏。朽鼠を出せるだけ出してくれ」

『かげぇ!』

『ピィ!』『ピィピィ!』『ピィ!』

 

 数分かかって何とか遺体の山へと辿り着き、俺はその遺体の状態を確認した。だいぶ冷たくなってはいるが、死後硬直はまだ酷くはない。良かった。これならばまだ使う事ができる。

 

「朽鼠、この遺体の皮を剥いでくれ」

『ピィピィ!』『ピィ』『ピィ!』

 

 出来れば遺体は綺麗にしておきたい。だが、この状況からしてそれはもうほぼ不可能だ。後々回収することも不可能だろう。ならば俺がその遺体を使わせて頂く。そして少しでも多くの人々を助けよう。そんな事を遺体や遺族が思っているわけではなく、俺の自己満足でしかなくともだ。

 

『ピィ!』『ピィピィ!』『ピィ!』

 

 遺体にその歯を突き立てる朽鼠を見てから、俺は目を閉じて集中する。少しでも身体を癒すために。痛みはかなり薄れていて集中しやすかった。新田君には感謝しかない。彼に俺を安全な場所に運ばせなくてよかったと強く思う。あの術式はこの渋谷では単純な戦闘能力以上に重宝されるだろう。

 

 体内の傷を癒すのは最小限に、体表の傷だけを意識して癒す。今から発動する術式は、遺体が血液感染をする病気を患っていたら俺に感染するリスクが高い。亡くなってから少し時間が空いているが、それでもリスクは最小限に留めておくべきだ。そもそも遺体に多く触れる拡張術式なのでその他の病や菌も怖いが、背に腹は変えられない。

 

 一刻も早く戦える状態になるために、一層深く俺は集中した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──急ぐ。急ぐ。自分の肉体では出せないような、普段の何十倍の速度でひた走る。全身を生暖かい水気のある何かが覆っている嫌な感覚を無視しながら。

 

 それは屍。俺は今、全身に屍から剥ぎ取ったばかりの血が滴る筋繊維と骨を纏っている。

 

 死屍創術拡張術式『屍䌂大僧正(しおうだいそうじょう)』。言ってしまえば生体パワードスーツや強化外骨格とでもいうべき代物。単純な筋力量だけなら何十倍。呪具化した事を含めると普段の百倍以上を発揮できるかもしれない。

 

 本格的な死後硬直が始まる前の、死後まもない新鮮な遺体が大量に必要な術式。現代では使用する事が可能な量の素材すら揃わない、遠い過去に忘れ去られた術だ。

 

 あと数十分しか使えないが、それまで俺は純粋な身体能力だけならば特級にすら届くだろう。

 

 向かう先は呪力が急激に高まった場所。そこは渋谷のはずなのに、一切の建物が消え去った荒野だ。どんな術式があればこんな事が可能になるのか検討すらつかない。

 

 ようやく目的の場所が見えてくる。そこにいるのは夏油さんの姿形をした何者かと虎杖君、そして高専の制服を纏った者達。東京の高専を活動の拠点にしている俺には、あまり見知った顔ではない高専生達だ。つまりはそこにいるのは京都校の生徒達。──そこには、香那もいた。

 

 香那は青髪の子を守るように立って式神を出しているが、正対する夏油さんの背後で渦を巻いている呪力の塊を防ぐ事はできないだろう。その悍ましい呪力は身震いするほどの量だ。

 

「間にッ、合え!」

 

 夏油さんと香那達の間に割り込もうとして、気がついた。俺以外にもここに向かっている者達がいる事に。

 

「ッ! なら!」

「『うずまき』」

 

 接近してきた術師──日下部一級術師のが、俺よりも香那達を守るのに適していると判断。俺は夏油さんと香那達の間に割り込むのをやめ、呪力と屍を纏った拳を夏油さんに振りかぶる。

 

「……シン陰か……よかったよ。少しは蘊蓄がある奴が来てくれて。……でも、君はお呼びじゃないかな」

「──ッ!」

 

 拳が夏油さんに届く瞬間、俺の足元から異様な呪力を察知。すぐさま後ろへと飛ぶ。俺の数瞬前までいたその場所に、巨大なウツボのような呪霊が地面から飛び出た。車ぐらいなら丸呑みできそうなサイズだ。

 

「お兄ちゃん!」

「日下部さん! 歌姫さん! そっちは任せます!」

 

 体勢を立て直してから、ちらと香那達の方を見る。香那と青髪の子は無事で、日下部が刀を構えていた。シン・陰流の技を使ったのだろう。日下部さんは一級で歌姫さんは準一級。特にシン・陰流を修めている日下部さんならば心配はいらないはずだ。

 

「久しいね。司條」

「夏油さんのその身体、返してもらうぞ」

「ふふ、君の物じゃないだろう? 呪具でも創るのかな?」

 

 目の前の夏油さんと全く同じ姿の存在は、俺に馴れ馴れしく話しかけた。感じる呪力も記憶にある本物と同一だが、俺の言葉への反応から偽物と見て間違い無いだろう。

 再び殴りかかる隙を窺うが、この拳が届くビジョンが浮かばない。

 

「死者は安らかに眠るべきだ」

「──ふ、ふはは! まさか化野の死体に群がる蛆虫の末裔に死者の尊厳を語られるとは。長生きはしてみるものだね」

 

 余裕ある態度を崩さない夏油さんの偽物は、こちらの神経を逆撫でするような戯言を吐く。それでもやはり一切の隙が見いだせない。

 

 夏油さんが呪術界に反逆した大罪人であっても、その遺体をこんな風に使われているのは我慢ならない。どの口がほざくのだと自分でも思うが、夏油さんは学生時代世話になった先輩だ。その尊厳を守りたいと思ってしまう。

 

「死屍創術は私の術式と相性が悪い。万が一が怖いからね。君にはこの場から退場してもらおう」

「!」

「知っているかい? 天狗という概念の源流は、大陸の流れ星への畏れから来たものだ。それが日本へと伝わり、山岳信仰と習合したのさ」

 

 その言葉に身構える。恐らくそれは術式の開示。奴の手元に黒い球体が出現し、キャンバスに黒い絵の具をぶちまけるかように一瞬のうちに黒い穴が広がった。そこから現れるは赤い面を被りし成人男性ほどの異形。山伏のような格好をしていて、感じる呪力は一級を優に超えている。

 

「行け『赫星(チーシン)』」

『るる、るるる』

 

 現れた呪霊は力を溜めるような動作をし、赫い閃光を放って──消えた。違う、あの呪霊が俺には知覚できない速度で突っ込んできたのだ。目の前が真っ赤に染まる。そして胸部に物凄い衝撃。

 

「──ッァァア!」

「避け──」

 

 一瞬聞こえた香那の声が遠くなる。見えている景色が高速で流れていく。衝撃を感じてから数秒後、今度は背中側に大きな衝撃。ビルの外壁へ激突したのだと、その衝撃を感じてから少し遅れて理解した。

 

『るるる、るる?』

「……痛ってぇなぁ!」

 

 生身の俺ならば万全でもとっくに死んでいる衝撃だったが、今は全身に筋繊維と骨の鎧を纏っていた。再びいくつかの骨が折れただろうがその程度。まだまだ戦える。

 

「『殭掌握』」

『るるる!』

 

 『屍䌂大僧正』の左腕の筋繊維を呪霊に絡ませ、骨を打ち込んで逃げられぬよう固定した。呪霊もされるがままではなく、俺を吹き飛ばした時のように再び赫く輝き始める。

 

「させねぇよ! 『乱杙骨拳(らんぐいこっけん)』」

『る! る!』

 

 右の拳を強く握れば、身体に纏った筋繊維から鋭く尖った骨の槍が突き出た。呪力を込めて左腕ごと何度も殴る。

 

「いい! かげん! 祓われろ!」

『るぎゃ、るぎ、ぎゅ、が!』

 

 やはりあの速度で動くには溜めが必要なようで、何度も何度も赫く光り輝くのを殴りつけて妨害する。その度に呪霊が纏う赫い輝きが血飛沫のように四散した。

 

『……るぎぃ、ぎぃ……』

「これでっ! 終わりだ!」

 

 拘束する左腕の筋繊維がぐちゃぐちゃのミンチが如き肉塊へと変貌し、もはや拘束の体をなしていない状態になった頃、ようやくこの天狗擬きの呪霊にとどめをさせた。ザフッという音共に、その身体を構成する呪力が虚空へとかき消える。

 

「クソ! 早く戻らねぇと……いっ!」

 

 肋骨辺りが痛みを訴える。だがこの程度の痛みに屈するわけにはいかない。もう使い物にならなくなった左腕を切り離し、すぐさまビルから飛び降りて先の場所へと急ぐ。

 

「何だあれは!」

 

 向かっている途中、目的地付近の上空に黒い紋様が現れた。訳の分からない状況。その紋様の意味も分からなくとも、何か不吉な予感だけはずっと脳内で鳴り響いている。

 

「これが、これからの世界だよ。じゃあね。虎杖悠仁」

「五条先生!!」

 

 ようやく辿り着いた瞬間、偽夏油の周囲から数え切れないほどの呪霊の気配を感知した。偽夏油は手に持った悪趣味な賽子(サイコロ)のような呪物をまざまざと見せつけている。あれが五条さんを封印した呪物なのだろう。目標物が目の前にあるのにも関わらず、それを取り返せない事に歯噛みした。

 

 俺もその場にいた術師達も、無数の呪霊の影にその姿を消していく奴を、ただただ見送ることしかできなかった。

 

 五条悟の封印は解けず、その首謀者らしき存在も取り逃してしまう。

 この日、高専は負けてしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──へぇ、あいつ司條っていうのか」

 

 渋谷から遠く離れた何処かの高層ビル。その屋上に能面を被った男が一人いた。その男は蒐獄。術師殺しから逃げた後、安全な場所へと逃げてきたのだ。そこは渋谷から十キロは離れた場所であるが、渋谷の戦闘を確かに()ていた。

 

「いやはや、一仕事終えた後の酒は身体に染みるねぇ」

 

 枡に注がれた日本酒を能面をつけたまま一気に呷る。その能面は司條と戦っていた時とは違う能面だ。延命冠者の面は、その目と耳があるべきところに青白い光を湛えている。

 

「んー。それにしても、どっかで見た覚えが……」

 

 酒が少し残った枡を揺らしながら蒐獄は考える。あの司條という男について。職業柄恨み辛みの感情をぶつけられるのは慣れているが、司條からのそれはどこか違うものを感じていた。普通の術師や呪霊よりも一層どろりとして刺々しい呪いの感情、まるで実害を受けたかのように。いや、殺意といった方が正しいか。

 

「つっても、俺のターゲットはあんな呪いの大家じゃねぇし……あ、いや、まさかあのガキか? ハハ、ハハハ! 数奇な偶然もあるもんだ!」

 

 そこで蒐獄はやっと思い出した。二十二年前、今までで唯一能面を創る事に失敗した子供の事を。手元の枡の残り僅かな酒を飲み干して立ち上がる。

 

「折角新しい時代が来るってのに、心残りがあるのは違ぇよなぁ! 忘れ物は回収してやらねぇとダメだよなぁ! ……ハハ! ハハハ、ハハハハハ!」

 

 蒐獄は喜悦を孕んだ声色で嗤って、嗤って、嗤うだけ嗤って。その場から姿を消した。

 

 

 

 

 

 あの悪夢のような10月31日(ハロウィン)から三日ほどが経ち、家入さんに治療してもらって即日復帰した俺は、避難する都民の警護を行っている。いや、即日復帰したというより、させられたという方が正しい。死に体の俺でも駆り出さなければならない程、事態は逼迫しているのだから。

 

 都内には数十万を超えるとも言われる呪霊が放たれ、もはや東京ではまともに暮らせなくなってしまった。

 

 そんな時、京都の本家から連絡が来た。

 

 司條家が何者かに襲撃されたというもの。

 

 詳しく聞くと、当主様が殺され、香那が攫われたそうだ。

 

 その襲撃者は能面を被り、黒い炎を操っていたという。

 

 ……全部、俺のせいだ。

 



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第二十三話:昏天黒地の都に謀つ

 京都のとある深い森に閉ざされた山中。その人目の届かぬ場所を拓き建てられた、永い歴史を経てきたのだと感じられる家々に住む者達は呪術師だ。

 

 呪術師達の集団の名は司條家。御三家よりは劣るが、それでも千年近く続いている。四つの一門が一つの家を成す、呪術界でも一風変わった家系。彼らは平安の世から此処で身を隠すように、ひっそりと血と術式を繋いで生き延びてきたのだ。

 

「……義導さん、いらっしゃいますか」

 

 その広大な寺院が如き敷地内の南殿、詞諚一門が住まう館。一門の長がいる一間の障子に人影が差す。影の主の声は重い。様々な強い負の感情が混ざり合い、もはやどうにもならぬ程に。

 

「……何のようだ。()、当主殿?」

「……少し、話したい事がございまして。お身体の方は宜しいでしょうか」

「勝手にしろ」

「ありがとうございます」

 

 詞諚一門の長──司條義導は、障子の向こうへとぶっきらぼうに吐き捨てる。だが、その相手は特に気にした様子もなく、障子を開けずに話し始めようとした。

 

「待て、障子越しで話す気か? 貴様はマナーというものを知らんのか? そんな者が当主となるなど司條家の品位が疑われる。嘆かわしい」

「すみません。……失礼いたします」

 

 すっと少しの音を鳴らしながら障子が開かれる。そこで正座していたのは、一世紀前に断絶したはずの四仗一門の術式を継ぐ者。現司條家当主、司條刻嗣だ。

 

 彼が障子を開けた瞬間、薄い死臭を義導は感じ取った。死に触れる呪術師であっても嗅ぎ慣れる事はない、根源的な嫌悪感を湧きださせる臭い。いや、死が近しい呪術師だからこそ、より一層強い嫌悪感を抱くのだろう。

 

 義導は与り知らぬところだが、刻嗣は京都の本家に帰ってから丸一日北殿の工房に籠り呪具呪物を創り続けていた。悍ましい死の匂いがもはや落ちきれぬ程、身体に染み付いてしまったのかもしれない。

 

 ……もしくは刻嗣自身が亡者に堕ちたのか。黒土の底無し沼のようなドロリとした情念が燻る、その深くドス黒い目を見た義導はそう感じ取った。

 

「少し前にお目覚めとなったと聞きます。どうか楽な姿勢で耳をお貸し下さい」

「この程度の傷どうということもない。それよりもなんだその臭いは。死と血の臭いを纏わせて怪我人に会うのが貴様の道理か?」

「いえ、申し訳ありません。一刻も早くお話ししたい事がありました。この非礼、どうかお見逃しください」

 

 淡々と答えて頭を下げる刻嗣に、義導は面白くなさそうにふんと一つ鼻を鳴らす。敷布団から上半身を起こしている義導の全身には、呪力を帯びた包帯が何箇所も巻かれており、所々痛々しい火傷の痕が見え隠れしていた。

 

「何の用だ? 無様な姿を笑いに来たのか?」

「いえ、そんな事はありません。……今回の出来事は全て私の責任です。家に迷惑をかけてしまい、本当に申し訳ありませんでした」

「は、だから穢れた術式など迎え入るべきではないと、二十年前に俺は反対したんだ」

「……申し訳ありません」

 

 刻嗣は再び深々と頭を下げる。何も言い返さず、全ては自分が悪いのだと認めて。

 

「お前の親代わりとなった彼奴は黒い炎に生きながら燃やされ、この世のものとは思えぬ程の苦痛を受けただろうな。最後の最後まで『痛い痛い』と呻いていたぞ」

「……」

「そしてその実の子まで攫われた。貴様は厄病神か何かか? よくもまぁ再びこの家の土を踏めるな。その厚顔無恥さには恐れ入る」

 

 司條家は二日前に黒い炎を操る呪詛師に襲撃された。当主を含む術師や下働きの者が多数殺され、当主の娘である司條香那は件の呪詛師に連れ去られてしまったのだ。その呪詛師は刻嗣と因縁があるという。

 しばらくずっと頭を下げていた刻嗣だったが、不意に胸元から何かを取り出して畳の上に置いた。

 

「……『遺言状』だと?」

「はい」

「貴様が先代のものを預かっていたのか?」

 

 刻嗣は先代の司條家当主、司條瑞希の養子だ。その遺言状を預かっていてもおかしくはないと義導は考えるが、少し前に一門の者から先代当主の遺言状によって当主が刻嗣になった事を知らされていた。なぜわざわざ本人が此処に持ってきたのだと訝しむ。

 

「……いえ、これは私の遺言状です」

「……何?」

「司條家四十九代目当主司條刻嗣は、詞諚一門筆頭司條義導さんを司條家五十代目当主として指名し、司條家当主としての一切の権限を譲渡します」

「な!」

「ひいては司條家の忌庫の呪具呪物や高専に貸し出している呪具の全て、その他引き継いだ財産の全てを……」

「待て、どういう事だ?」

 

 一方的で矢継ぎ早に語る刻嗣の話は、まだ目覚めたばかりの義導にとってはまさに寝耳に水であった。ほんの少し前に当主となった刻嗣が、いきなりその座を義導に譲るというのだから混乱しても仕方のない事だろう。

 刻嗣は頭を下げたまま話を続ける。

 

「蒐獄……襲撃してきた呪詛師から連絡がありました。『この娘を返して欲しければ、俺の指名する人物が一人で指定する場所に来い。まだ何もこの娘には危害は加えていない。だが、指定した場所にこなければ殺す』と。……指名されたのは私です」

「まさかそんな戯言を信じる気か? 無事である保証などどこにも無いだろうに」

 

 わざわざ場所を指定してくるという事は、絶対に負ける事がないように場を整えるという事だ。それに人質も取られている。司條家の術師達、特にそれぞれの一門の長達は特別一級術師であり、それでもなおあの能面の呪詛師に敵わなかった。そんな相手が用意した場に、一級が一人でのこのこと行ったところで殺されるに決まっている。

 

「……それでも。それでも行かねばなりません。まだ香那が生きているのは確実です。それは分かっているんです」

「ふざけるな。業腹だが貴様は既に当主だ。助け出せるか分からぬ相伝術式を持つ者より、生きている相伝術式を持つ者を優先するべきだ」

「……すみませんが、それを聞き入れる事はできません。必要な事は全て此処に記してあります。身勝手で本当に申し訳ありません。……では」

 

 刻嗣は一切の義導の言葉を聞く事なく、立ち上がって背を向けた。義導は刻嗣と一瞬目があったが、やはり底なし沼のようなその眼には殺意と怒りしか見出す事ができない。その感情は呪詛師だけでなく刻嗣自身にも向けられているのだろう。唇の端を強く噛みすぎたのか血が一筋垂れていた。

 

「失礼いたします」

「……待て、一つ言わねばならない事がある。前当主の最後の言葉だ」

「……!」

 

 障子を閉めようとした刻嗣の手が止まる。刻嗣は、前当主様は俺を呪いながら死んだのだろうとそう思っていた。そうであって欲しかった。だからこそその言葉が聞きたかった。

 

 その言葉が少しでも自分への罰になってくれるだろうと、少しでも楽になりたいという気持ちだったのだ。

 

 無言で、義導の次の言葉を待った。

 

「『子供達をお願いします』。……家の者たちを守る為に能面に立ち向かい、その身体を黒い炎に巻かれながらも死の間際にただそう言った。死ぬ程の激痛だろうに自分の事ではなく、俺はお前達の事を託された」

「……」

 

 みしりと、刻嗣が閉めようとしていた障子の木枠が軋む。

 

「だというのに俺は無様だろう? 託されたというのに当主の娘をむざむざと連れ去れ、そして俺は命を繋いでいる。……俺が無様だとは分かっている。だが、言わせてもらう。お前は生きろ。彼奴の遺言を全うし、この家の当主となれ」

 

 その言葉を聞いていた刻嗣は、右手をかけていた障子を強く握り込んでいることに気がつかなかった。強く強く握りすぎ、欠けてささくれ立った木枠が手に喰い込んで血を流している事にも。

 

 木枠に滴るその血が床を赤く染めた頃、黙りこくっていた刻嗣はようやく口を開いた。

 

「……俺は、あの方の子ではありません」

「貴様!」

「俺があの方の、貴方の妹さんの子だと名乗る資格も自信もありません。……せめて死に際にあの方の息子だと自分自身を認めるためにも、香那は絶対に助け出します。死んでも絶対に助けます。だから、その後の事は頼みました。伯父さん」

 

 ゆっくりと閉じられる障子の間から見えた刻嗣の顔は、もはや生者とは思えないような形相だ。死者か亡者か。ともかく、その命を捨てる気であることだけは確かなようだった。

 

「瑞希の子ではないだと? は、……お前たちは似ている。その自分を犠牲にする所が、特に」

 

 それ以上義導は何も言えず、ただ遠くなっていく足音を聞くことしか出来ない。その両手は白くなる程に強く握られていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ざぁざぁと冷たい雨が降る。匂いがキツく厚いゴムの雨合羽に雨粒がぶつかり、それが鳴らす音が煩わしかった。もう人が生きられぬ死の街東京。その海岸沿いを一人歩く。

 

 此処が東京でもはずれの方だからか、もっと人が多い場所に呪霊がつられているのか。俺はあまり呪霊とは遭遇する事はなかった。これならば少しも指定の時間に遅れることなく目的地に着くだろう。

 

 蒐獄が指定してきた場所は海岸沿いの倉庫だ。海から流れてくる磯の臭いが、どうにも俺には死臭のように感じられた。いや、俺の身体に染み付いた臭いかもしれない。

 

 コンテナだとかを保管しておくための場所。こんな状況の東京ならばどこでも同じだろうが、何かしら奴には狙いがあるのだろう。歩きながら考える。奴の狙いをではない。自分の罪の重さをだ。

 

 俺のせいでまた人が死んだ。当主様が死に、司條家の術師が死んだ。奴がなぜ司條家を襲ったのかは知らない。知らないが、それが全て俺のせいである事は分かっている。

 

 どんな事をしても罪滅ぼしにはならないだろうが、せめて香那だけは絶対に助け出す。それだけは、絶対に果たしてみせる。それが当主様へのせめてもの恩返しだ。今までいただいた恩義の一割も返せていないだろうが、それでもやらなければならない。

 

「……あそこか」

 

 指定された倉庫が見えてきた。その付近には結界が張られている。帳ではない。帳のようにドーム状の黒い結界ではなく、単結晶やシングルポイントといわれる類の水晶のような形状だ。色も煙水晶のような褐色がかった透明で、中の倉庫の様子が透けて見えている。

 

 おそらくはただの結界術ではなく、何かしらの生得術式によるものだろう。あの能面の呪物の効果である事を祈る。もし協力者が相手にいた場合、香那を助け出すのは一気に難易度が高くなってしまう。

 

「……」

 

 倉庫の結界の手前まで近づきその様子を伺う。煙水晶のような褐色は結界の表面を無軌道に動いていた。それが何の意味を為しているのか検討もつかない。一瞬入る事に躊躇をするが、すぐに迷いを振り切って結界内に入り込む。此処で立ち止まっていても仕方ない。俺の命など惜しくはないのだから。

 

「……待ってろ」

 

 足を踏み入れ完全に身体が結界内に入り込んだ瞬間、結界の色が固まった血痕のように黒い赤に染まる。もはや生きて出るつもりはない。そんな変化などに構わず、人一人分程に空いた扉から倉庫の中に入る。雨合羽のフードは被ったままでだ。

 

 薄暗い倉庫内を真っ直ぐに歩く。強い呪力がある方へと真っ直ぐに。かなり広い倉庫の真ん中辺りだろうか。そこにいた。能面をかけた呪詛師、蒐獄が。

 背後にはそれぞれ違う能面をかけた影法師が七体控えている。その能面から感じる呪力は、少なくとも全てが一級呪霊並だ

 

「おっと、そこまでだ。背負ってるケースと刀を捨てろ」

 

 奴との距離が十メートル程になったところで、背後の影法師の一体が青白い稲妻を放ってきた。俺の足元のコンクリートをじじりと削り、黒い焼け跡の線が刻まれる。まともに喰らったら死ぬなと、どこか他人事のようにそう思った。

 

 俺が背負っているチェロケースと刀を捨てた事を確認すると、奴は嬉色を孕んだ嫌らしい粘度すら感じる声色で語りかけてくる。

 

「少しぶりだな。司條……いや、赤桐刻嗣君?」

「……指定通り来たぞ。香那は何処だ」

「ハハ、やっぱお喋りは嫌いか」

 

 赤桐。俺の旧姓。司條家に拾われる前の、呪術など知らなかった頃の名前だ。それを奴は悪意たっぷりに嗤いながら俺に言葉を投げかける。いつ奴は俺の事に気が付いたのだろうか。渋谷で会った時からか、一度戦った後だろうか。だが、もうそんな事はどうでもよかった。

 

 殺す。そして香那を助ける。それ以外に俺がすべき事はない。

 

「答えろ。香那は何処だ」

「ハハ、せっかちだな。ほら、ここにいるぜ」

 

 蒐獄がヘラヘラと軽い調子でそう言って、その身体を半身横に移動した。背後の影法師も少し動き、奴らに隠されていた俺の視界の先があらわとなる。そこには香那が両手両足を縛られた状態で倒れていた。意識はないが目立った外傷もなくその衣服に乱れはない。だが、その額には悍ましい呪力を放つ呪符が貼られていた。

 

「さて、安全は確認できたか? 人質の価値が下がるような事はしてねぇぜ。……まぁ、運んでる途中に何処かしら触ってるかもしれねぇが文句は言うなよ? 生きてるだけマシだろ?」

「……無事なんだろうな」

「ああ、もちろん。お薬で眠ってもらってるだけだ。……ただ、お前が変な事をすれば、この綺麗な顔に火傷が残るかもな。ハハハ!」

「……チッ」

 

 あの呪符から感じる呪力は黒い炎の残穢と同質だ。もし意識がない状態であの炎に焼かれたら、火傷どころか命に関わるだろう。俺は下手な手は打てないという事か。

 

「で、何で俺を呼んだんだ? 殺されたいならすぐに殺してやるよ」

「ハハ、怖い怖い。でも、これからこの国が面白くなるってのに死ぬ訳にはいかねぇよ。……忘れ物の回収に来たんだ」

 

 奴は黒い経帷子の袖から何かを取り出し、俺の方へとぽいと投げた。俺の足元にその物体がぶつかる。能面だ。木彫りの能面が無感動な目で俺を見上げている。

 

「俺の生得術式は『魂鎮法術(みたましずめのほうじゅつ)』だ。魂魄をちょっと弄る事ができるだけの、戦闘にはてんで使えねぇ雑魚術式」

「……」

 

 それは術式の開示。自らの術式を最大限に発揮するためのものだ。一切聞いてやる義理もないし、聞きたくもない。奴が急に術式について語り始めた事で、何をしようとしているのかを薄々と察した。

 

 今すぐにも殺してやりたい。だが、今の俺には黙ってそれを聞く事しか出来なかった。

 

「『魂鎮法術(みたましずめのほうじゅつ)』ができる事は大分して二つ。その名の通りに生者の魂魄を正しい形に整える事、死者の魂魄を鎮める事だ。その能面──甦魂能面(そこんのうめん)はその後者を応用させた呪物」

 

 俺の足元に転がっている能面から感じられる呪力は微量だ。蒐獄の背後に控える七体の影法師のかけるそれとは違い、奴の呪力しか感じられない。その能面のように、それぞれが全く別の呪力を纏ったりはしていない。今は、まだ。

 

「その能面をつけた状態の人間を殺すと、能面がその遺体から肉体の情報を複製するんだ。もちろん肉体に刻まれている術式の情報も含めた全てを。だが、ここまではまだ前座。大切なのはここからだ」

「……」

 

 元々推測はしていたが、あの能面がそれ程までに悍ましい過程を経て製作されているものだとは。肉体だけ複製したところで、あんなにも禍々しい呪力を纏う呪物にはならないだろう。その話の続きは簡単に予想できた。

 

「完全に肉体の情報を複製した甦魂能面は、新たなる魂の『器』となる。魂の情報などではなく、その魂そのものを受け入れる器に」

「……」

「つまり、この能面は生きている。勿論永遠というわけではない。だが、数世紀は魂を能面に抑留する。……まぁ、身体が木彫りの能面になっちまってるから、魂を死ぬ程の苦痛が絶え間なく直に襲う。その拒絶反応を利用して、能面自体が呪力を生み出し続けるんだ。イカすだろ?」

 

 こいつは俺を能面にする気なんだ。命を奪い魂を抑留し、自らの蒐集品を増やすために。随分といい趣味をしている。

 

「さて、術式の開示も呪物の詳細も開示した。ご静聴感謝するぜ? 刻嗣君?」

「……で、俺にどうしろと?」

「おいおい分かってるだろ? その能面をかけろ。そして俺に殺されんだよ」

「……」

 

 そういう事だろうと思った。足元の能面を拾い上げる。薄紅、橙色の肌をした小さなツノの生えた能面だ。

 

「……『生成(なまなり)』か」

「お、知ってるのか。お前らしくていいだろう?」

 

 俺はその能面の面種を知っていた。二十二年前のあの日から、少しでもこいつのことを知るために様々な事を調べたからだ。余りにもこいつの情報がなく、能面の種類のようなどうでもいいだろう事すら覚えるほどに。

 

「『般若』の成り損ないの半端者。二十何年も女々しく怨み続けたのに、俺への復讐も果たせず呆気なく無様に死ぬお前に相応しいと思わないか? その空虚な人生にピッタリだろ? ハハハ!」

「……」

「お前のことを考えながら丹精込めて打ったんだぜ? あぁ、お代と感謝はいらねぇよ? 死んでくれればな」

 

 無表情に見つめる『生成』の能面は、確かに俺にピッタリだろう。そればかりはあいつの言うことに賛同できた。きっと愚かな俺にはこんな最後が相応わしい。死後も魂だけになっても苦しむ最後が。

 

「俺がこれをつけて殺されたら、香那を無事に解放するんだな?」

「ああ、もちろんだ。これは縛り。俺はもう二度とこの娘に指一つ触れない事を誓おう。……あ、呪符を剥がす時に触れるのはノーカンな?」

「チッ」

 

 最後までヘラヘラとした野郎だ。どこまでも神経を逆撫でてくる。だがそれに従うしかない。そうしなければ、すぐにでも香那は殺されてしまうのだから。

 

「さ、もうつけていいぞ。殺すから。……いや、最後に遺言の一つぐらい聞いてやるよ。言い残した事は?」

「……そうだな。お前は、お前が殺した俺の家族の数を覚えているか?」

「質問かよ。まぁいいや。……二十年前のお前の両親に妹だろ? 三人だ」

「違う」

「あ? ……ああ。司條家の当主か? お前を養子として育てたそうだったな。じゃあ四人だ」

「……」

 

 こいつにとっては他人の命などどうでもいいのだろう。昨日の夜ご飯を思い出すかのような気楽さで、何の負い目もなく殺した者達の命を数えた。本当に理解し難い悪人はいる。こいつのように腐った魂で他者の魂を易々と穢すような奴が。

 

 俺はその『生成』の能面をつけた。削ったばかりの檜の匂いが鼻につく。雨合羽のゴムの臭いよりは幾分かマシだった。

 

 俺がちゃんと能面をつけたことを確認し、蒐獄は黒い経帷子から拳銃を取り出した。その重厚感のある鈍く黒光りした金属の塊からは呪力は感じられない。奴自身は近づいてくるつもりはなさそうだ。付き従う七体の影法師も、それぞれ油断せず俺に警戒を向けている。隙はない。

 

 ……ああ、しかし。拳銃か。どんな術師も人間だ。銃弾一発当たれば十分殺傷できる。動かない相手を安全な場所から殺すのに、これ以上確実な武器はないだろう。あの五条悟でも拳銃に撃たれたら怪我を負う。まぁ、当たればの話だが。だからこそ思う。良かったと。

 

「呪力で殺しちまうと上手く肉体の情報を複製できない時があるんだ。俺の術式で強制的に呪いに転じさせてるからか、こういうの(拳銃)で殺すのが一番いい」

「……どうでもいい。とっとと殺れよ」

「ハハ、あばよ。いい死出の旅を。──まぁ死ぬのは一瞬で、お前は俺に一生能面として使い潰されるんだがな」

 

 パンパンと、乾いた銃声が二度響く。それは倉庫の中で錆の目立つコンテナ群を震わせ、そして反響し味気ない余韻を残して空気に溶けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……つまんねぇなぁ。あー、つまらねぇ」

 

 力無く倒れた刻嗣の遺体を見ながら、蒐獄はそう呟く。まさかこんなにも呆気なく死ぬとは。少し拍子抜けしていた。

 

「この娘を犯すなり半殺しにするなりしておけば、怒り狂って襲いかかってくれたのかね?」

 

 蒐獄は戦いは好きだ。拮抗した戦いが好きなのではない。自分を殺すのに必死な相手を一方的に殺すのが好きなのであって、別に戦闘自体に拘りはなかった。二十何年間も呪ってきただろうに、こうも簡単に死んでくれるとは大した呪いでもなかったんだなと考える。

 

「……今回は奪える術式が分かっちまってるからなぁ。あんま面白くねぇし」

 

 蒐獄が標的として狙うのは、一般家庭に時折現れる術式持ちの子供だ。各地に適当な呪霊を置いてそれを認識出来ている者を標的とする。

 

 呪力だけ持っている者であったり、呪霊が見える程度の者も多いが、偶に大当たりが出る。その不安定さを蒐獄は楽しみにしているのだ。一種のくじ引き、ガチャとでも表現しようか。他者の命を理不尽に奪い自らの娯楽に使い潰す事に、蒐獄には一切の良心の呵責を覚えない。むしろ弱者の命を自分のために使うことに、優越感からくる快楽さえ得ていた。

 

 子供はいい。家族を目の前で殺して少し痛めつけるだけで、簡単に恐怖を覚えてくれる。能面には魂も縛り付けてある為、術式は未成熟な子供から奪った方が研鑽しやすい。それに能面にその魂を縛りつける直前、負の感情を強く覚えれば覚えるほど能面となっても強い呪力を発するのだ。

 

「『死屍創術』ねぇ。……ま、七十点ぐらいだな。相伝術式らしいし、蒐集物(コレクション)の片隅にでも加えてやるか」

 

 蒐獄がもう術式が割れている刻嗣から能面を創ろうとするのは、過去のやり残しを綺麗に生産する為だ。慎重に計画してから標的を襲う蒐獄だが、今までで唯一刻嗣から能面を創るのには失敗してしまったのだ。それが蒐獄にとっては何かしこりのようなものをずっと感じていた。

 

 茶碗に残った一粒のご飯のような、綺麗なトイレにへばり付いた少しのクソのような何かを。

 

「……そろそろだな」

 

 体感からしてもう肉体の情報の複製も、魂をその偽りの器に縛りつけるのも完了する時間だ。ちらと後ろで気絶する娘──香那をちらと見てから、刻嗣の遺体へと向かう。 

 

 確かには手を出さないという縛りはした。縛りは絶対だ。特に他者間との縛りは。だから能面を回収し呪符を剥がした後は、この結界を解き呪霊を呼び寄せよう。そして四肢が拘束された状態で呪霊に貪り喰われるのを鑑賞しようと、蒐獄は考えていた。

 

 わざわざ安全な場所に運ぶ義理もない。蒐獄はいまいち刻嗣の呆気ない死に様に満足しなかったし、生きながらに喰われる絶叫を聴けば少しは心が満たされるだろうかと思ったからだ。指一本も触れないという縛りは結んだが、香那を呪霊から守るなんて縛りは結んでいない。

 

「しょうもねぇ人生だったな、お前」

 

 力無く倒れている刻嗣の遺体を見下ろした蒐獄は憐れむような声色で語りかけた。本心からそう思っていたのだ。馬鹿な奴だなぁと。

 

 とっととその能面を回収しようとして手を伸ばす。『生成(なまなり)』の橙じみた表面に触れ──その腕を強く掴まれる。

 

「──少しぶりだな、蒐獄」

「な! 俺は確かに心臓を……ッ!」

 

 蒐獄は確実に心臓を撃ち抜いていた。今まで何度もやってきたのだ。失敗する訳がない。銃創から流れ出る血液は地面に血の水溜りをつくっていて、その量は致死量をとうに超過している。

 

 蒐獄は数秒の間殺したはずの男が自分の手を掴んだ事に驚く。だが、瞬時に今目の前の男がされたら嫌な事について考え、すぐに行動に起こそうとした。

 

「『起ば』」『あ゛ぁぁあ゛ぁ゛あ゛!』

『くるなくるなくるなくるな!』

『いやだいやだいやだいやだ!』

『たすけてたすけてたすけて!』

「……ッ!」

 

 香那の額の呪符を起爆しようとした所で、蒐獄と刻嗣の周りにボーリングの球ほどの歪な球体が何個も落ちてきた。それは耳障りな絶叫を上げ、それを聞いた蒐獄とその影法師の動きが止まる。その絶叫は断末魔というのに相応しかった。

 

「らぁ!」

「……かはぁ!」

 

 刻嗣が寝転んだまま両足を揃え、蒐獄の腹をドロップキックをする様に蹴り飛ばす。身体の動きが固まったままの蒐獄のどてっ腹に突き刺さり、そのまま数メートル吹き飛んだ。

 

『いだいいだいいだいいだい!』

『しにたくないしにたくないしにたくない!』

『どこどこどこどこどこ!』

「これは『殭星頭(きょうせいず)』。死の間際の人間の言葉、その断末魔に宿る言霊を増幅させる呪物だ。呪言なんて高等術式じゃねぇ。聞いた者の体の自由を少しの奪うだけの、呪詛とでもいうのが正しい」

「……ッ!」

 

 ゆらりと立ち上がった刻嗣の術式開示。それによって緩みかけてきた身体の拘束が、より一層強固なものになったのを蒐獄は感じ取った。蒐獄に向けられる呪いは影法師に分散されるが、その影法師も全てが呪詛を喰らっているせいで容量が溢れてしまう。いや、七体も出していたせいで、受ける呪詛の総量が増えていたのだ。

 

「はァ!」

 

 刻嗣は自分の能面を握り砕き、顔をあらわにさせる。怒りと殺意だけが溢れるその顔には赤黒い紋様が直接刻まれていた。代赫の隈取りのようなそれは、雨合羽を深々と着ていたから隠されていた紋様だ。雨合羽を邪魔だと言わんばかりに脱ぎ捨てる。

 そして、腰に巻かれたガンベルトのポーチの一つを開けた。

 

「なっ、……ぜ……!」

「心臓を撃ち抜いたのに俺が生きているか不思議か? 簡単な事だ。俺は元から死んでいた。死人の心臓を撃ち抜いた所で、何の意味もねぇよなぁ!」

「……っ、お、ぉおおぉおおお!」

 

 ポーチに右手を突っ込んで取り出すのは、赤褐色の粉末が入ったカプセルだ。掴めるだけ掴んだそれを、躊躇いなく全て飲み込む。刻嗣の呪力は禍々しく膨れ上がっていく。

 

「『殭星頭』の効果ももう切れる。だから、その前に決めさせてもらうぞ!」

「!」

 

 刻嗣は胸の前で両手首を交差させ、小指だけを蛇が絡み合うように交差させる。そして残った両手の指をそれぞれ影絵の鹿のような形にした。

 それは掌印。降三世印と言われる印相だ。貪瞋痴の三毒を伐ち祓うとされる守護神を表すもの。

 

「領域展開『死處胎蔵界(ししょたいぞうかい)』」

 

 莫大な呪力と確固たる決意を宿し、刻嗣は静かにされど力強く言葉を紡ぐ。次の瞬間、刻嗣と蒐獄の目の前が黒く染まった。

 



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第二十四話:極悪非道の死に激つ

 領域展開。それは呪術戦の極致。莫大な量の呪力だけでなく、高度な結界術も必要とされる呪術の奥義と言っても過言ではない大技だ。

 

 なにせ領域とはその術師の世界。引き込まれた者はまともな対抗策がなければ、何も出来ずに殺されるだけだろう。

 

 そんな絶死の世界に引き込まれた蒐獄は──能面の下で小さく笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 足元の地面が一瞬無くなったのかと錯覚する程度の浮遊感。倉庫の硬質なコンクリートの床から、ぐにゃりとした感触の大地へと置き換わる。

 

 一瞬の暗転の後、俺と蒐獄は元々いた薄暗い倉庫ではなく、一切視界を遮るものがない満天の星空の丘陵に立っていた。しかし、丘陵は若草が芽吹き小川が流れているような、そんな心安らぐ自然を感じさせる光景ではない。

 

 この丘陵を、いや、この世界の大地の全てを成すのは死屍だ。衣服など着ていない、皮膚すら殆ど残っていない損傷の激しい無数の遺体群。彼らの眼窩は全てが黒い空洞で、あるはずの眼球が存在しない。

 

 その行方不明の眼球は夜空にあった。満天の星空の綺羅星、その全ては血走った眼球だ。まるで本当に星であるかのように、元々そうであったかのように、我が物顔で充血した眼球が黒い空で蠢く。爛々と怨恨に濡れた視線は俺だけを睨みつけていた。

 

 血で赤黒く染まり、皮膚の剥げた遺体が成す無数の丘陵は、地平線の果てまでいくつも散見できる。それらが底無し沼のようにドス黒い夜空との境界線を曖昧なものにしていた。

 

 もはや俺には必要ないが一つ息を吸う。濃厚な死臭と血の臭いが混ざり合った空気が肺を犯した。酷い吐き気を催すが何処か心地よい。慣れ親しんだ死体の臭いだ。それはこの世界が、こんなにも悍ましい世界が俺の生得領域だからか。

 

「ははッ!」

 

 笑いが抑え切れない。最悪で最高の気分だ。身体の末端は氷のように冷たいのに、腹の底は溶岩を流し込まれたかのように熱い。死ぬのは人間の最大の快楽だというが、なるほど、それは確かなのかもしれない。思考は何一つハッキリとしないが、目の前の蒐獄だけは殺さなければならないと、本能にも似た執念が脳内で強く叫んでいる。

 

「『破魔槍(はまや)』!」

「……ッ!」

 

 俺の叫びに呼応して、蒐獄の四方八方の屍が操り人形のように起き上がる。その手には穂先だけでなく、柄の全てが骨で出来た槍が握られていた。所々の肉体に欠落がある屍達は、ぎこちない動作で破魔槍を投擲する。

 

「押し潰せ」

 

 投擲し終わった屍も、まだ地に伏していた屍達も蒐獄に殺到した。何十何百の屍はすぐに奴の姿を飲み込む。小さい丘がこの世界に新しくできた。その丘は剥き出しの筋力と自重で潰れて潰れて──黒く燃え上がる。

 

「──ハハ! 最高だな! 領域を使える能面(コレクション)はまだ持ってねぇ! 絶対にお前を(能面に)してやる!」

「殺されるのはお前だ、クソ野郎」

「ハハ、ハハハ! でも、お前はやっぱり馬鹿だな! 俺相手に領域を使うなんて馬鹿すぎる!」

 

 血と体液に濡れた蒐獄だが、それは全て屍のものだ。奴自身に一切の怪我は見受けられない。ふざけた野郎だ。やはりあの能面に刻まれた術式、『新皇祟総術』は厄介過ぎる。格だけならば御三家の相伝術式に並ぶだろう。

 

「『形影相弔(けいえいあいとむらう)』」

 

 蒐獄はその身体に黒い炎を纏った。いや、それだけではない。身体が金属のような鈍く硬質な光沢を放ち始めた。おそらくは完全に穴熊を決め込むつもりなのだろう。

 

 黒い炎は大地の屍に燃え移り、急速にその勢いを増していく。領域展開とは生得領域を呪力で構築した結界術の一種。俺の呪力が満ち満ちている世界は、あの呪力を貪る炎にとってはそこらにガソリンがばら撒かれているのと同義だ。俺の領域を燃やし尽くし、呪力も底をついて術式が使用できなくなった俺を殺すのが奴の狙い。

 

 俺は結界術は不得手だ。

 “一生に一度の領域展開”という破れば死の、生命を賭けた縛りで何とか展開できた。その領域が黒い炎によって飲み込まれ、呪力を奪われていく。

 いくら肉体を仮死状態にして呪具化し、他者の遺体を取り込んで呪力を湧き出させる『没薬・(サイ)』を過剰摂取していても、この呪力消費は馬鹿にならない。

 

「ダメ押しだ『武者苦者』……ほら、逃げ惑え」

 

 奴の影からのっぺりとした人形が四体現れる。その影法師は今までとは違っていて、今の蒐獄のように黒い炎を纏っていた。その両腕の形状を刀のように変化させて真っ直ぐに俺に接近してくる。

 

 その光景を見て、俺は安心していた。あの影法師は式神だとかではなく“分身”に近いだろう。ならば香那の近くにいた影法師群の心配はいらないはずだ。式神は呪力さえあればある程度の自立行動が可能だが、分身体で本体とそれこそ世界が分たれているのにも関わらず、自立行動が可能なのはそうないだろう。

 

 将門公の伝説については調べたが、影武者伝説は北斗七星に準えて七騎である事が多い。だから、きっと香那は無事のはずだ。

 

「ほぅら、逃げないと燃えて死ぬぜ? 逃げても炎が燃え広がるがな! お前を(能面に)したらあの娘もこの炎で殺してやるよ! ハハ、お揃いだなぁ!」

「完全解放『暴天』」

「ハハ、は?」

 

 蒐獄は俺が無様に逃げ回ると思っていたのだろう。随分と調子が良さそうに嗤っていた。気に食わない。だが、黒い炎を纏って我先にと殺到してきた影法師共を俺が左腕で殴り、その存在を四散させると奴の笑いは止まった。ざまぁみろと、俺も奴を胸中で嘲笑する。

 

 思い出すのは渋谷の乱入者。奴の肉体は呪力が全くなかった。あの黒髪の男──術師殺しと恐れられた存在は蒐獄にとって天敵。だからこそ、蒐獄は渋谷からすぐに逃げたのだ。黒い炎は術師相手ならば最大の防御手段であり必殺の攻撃手段。それが一切効かない術師殺しと戦い、殺されるのを防ぐために。

 

 だが『暴天』は、俺が扱えるように少し元の左腕を切り貼りしている。完璧に黒い炎を無効化できるわけではない。現に、少しだけではあるが黒い炎が燃え移ってしまった。

 

「まさか、その腕は……! ッ! 『新皇祟総術』で可能なのは」

「術式の開示なんてさせねぇよ! 『殭星頭』!」

『『『くるなくるなくるな!』』』

『『『やめろやめろやめろ!』』』

『『『しにたくないしにたくない!』』』

「く、そ……!」

 

 奴はおそらく能面の術式の詳細を開示する事で、分身か肉体の硬度でも上げようとしたのだろう。だが、わざわざそれを聞いてやるつもりはない。大地の屍たちによる無数の怨嗟の大合唱、倉庫の時とは比べ物にならない世界を揺らす程の音圧によって、奴の言葉を掻き消し身体の自由を奪い取る。

 

 術式の開示などさせない。奴にもう主導権を与えない。

 

「……借りるぞ、七海」

「……!」

 

 俺は背中に隠し持っていた短剣ほどの呪具を取り出す。その呪具には刃などなく、形状だけなら棍棒のようだ。そして斑らの模様が目立つ血染めの布が幾重にも巻かれていた。

 

 それを左手で握りしめ、右手を添えて呪力を込めながら蒐獄に向かって駆けだす。屍が積み重なったぐにゃりとして凸凹の酷い肉の地面でも、この世界の主である俺にとっては平坦に慣らされた地面のように走りやすかった。奴はまだ呪詛に身体を縛られている。

 

「……ぉ、お、ぉぉおおお!」

 

 あと数メートル。狙いは能面。奴の生得術式自体に戦闘能力はない。あの能面を破壊することが出来れば、奴を殺す事は容易くなるはずだ。そうでなくとも傷を負わせてやる。

 

「『誼桙裂屠(ギムレット)』!」

「おおおおお!!」

 

 俺は呪具を力一杯に振るう。その瞬間に蒐獄はその身を縛る呪詛に打ち勝った。回避は不可能だと察したのだろう。俺の狙いがその能面である事も。奴は咄嗟に能面を庇った。

 

「喰らえ!」

「ぉおぉおお゛!」

 

 空間が歪み、黒い閃光が世界に迸る。百万分の一、その刹那の奇跡。

 

 ガギンと轟音が鳴り響く。人の腕と布で幾重にも巻かれた棍棒が出していい金属音ではない。これまで一切の傷を受けていない蒐獄の肉体はまさに鋼だ。かの将門公も、その額を射抜かれるまで戦場でも一切の手傷を負わなかったのだという。確かに硬い。黒閃の一撃だというのに、その金属の光沢を放つ腕は耐え切ろうとしている。左手の呪具がみしりと嫌な音を立てた。

 

 だが、この呪具に宿る術式は『十劃呪法』だ。強制的に弱点を創り出す術式。俺はこの術式を、この術式の持ち主を信じている。

 

「ハァ!」

「っ゛!」

 

 奴の能面を守る右腕を抉り飛ばし、能面にヒビを入れる。しかし、そこで呪具の限界が来てしまった。黒閃による呪具への多大なる負担のせいか、呪力を貪る炎のせいか、想像以上に能面が硬かったせいか。完全には破壊できなかった。

 

 呪具が砕け散る。布の下の白かった骨の破片が、蒐獄の血で赤く染まっていた。それは奴に喰らわせた手傷の確かなる証拠。

 

「お゛ぉぉおお゛お゛!!」

「クソ!」

 

 蒐獄は地の底から響いてくるような唸り声を上げながら、全身に纏っていた炎の勢いを強くした。左腕は大丈夫でも全身を焼かれるわけにはいかない。すぐに後ろに飛び距離を取る。

 

「ハハ! ハハハ! ハハハハハ! 断末魔なんて聴き慣れてるんだよ! こんなんをどれだけ束ようとも、どうせ死に体の負け犬遠吠えだ! もう効かねぇ!」

「……」

 

 右腕の手首より少し下あたりから先を失ったのに、蒐獄は何の痛痒も感じていないように振る舞っていた。イカれている。いや、こいつはそういう人間なのだろう。自分の痛みも他者の痛みも分からない、どうしようもなく救えないクズ。そういう人間だ。

 

「残念だったなぁ! 今のがとっておきの呪具だったんだろ? ハハ! いや、とっておきはこの領域か? ハハハ! 褒めてやるよ!」

「……」

 

 気がつけば黒い炎はかなり燃え広がっていて、この赤と黒の世界が元々そうであったかのように馴染んでいた。奴の言う通り領域はもう限界。世界の輪郭はすでにぼやけ始めていて、遠くの風景は解像度が低い写真のように不鮮明なものになっている。

 

「お前も! お前の家族も! 全てが俺に殺されるんだよ! ハハ! 馬鹿だなぁ! 哀れだなぁ!」

「……違うな」

「あ? 何が違うってんだ?」

 

 俺は右腕で懐に忍ばせた物を取り出す。それは小さな匣。俺の血で綴られた呪符に覆われた匣だ。

 

「お前は二つ間違えてる。一つ目、とっておきはどの呪具でも領域でもない。これだ」

「何言って……」

 

 俺の二十二年間の全ての経験、呪具呪物、この領域、黒閃すらも今この時のための前座。本命はここからだ。

 

「そして、二つ目はお前が殺した俺の家族の数。三人でも四人でもない。五人だ」

 

 だが、それを奴が知らないのも無理はない。奴が家族を殺した二十二年前のあの日は、新しい家族が出来た事を祝う日だった。

 蒐獄が殺した俺の家族は、二人の母に一人の父、一人の妹。──そして、一人のまだ性別も分からぬ胎児。

 

「『常世郷より帰りたまへ』『天磐櫲樟船(あめのいわくすぶね)』」

「──ッ!」

 

 匣の全ての呪符が朽ち果てた。そして、二十二年間溜め込まれた俺の呪力が溢れ出る。この領域全ての呪力を集めても、この呪力量の前では搾りかすも同然だ。いや、それよりも驚くべきはその質。この狭い匣の中で煮詰まった呪力は、この世のものとは思えぬ程に濃密で死の予感を感じさせた。

 

 その中身を、二十二年間溜め込み続けた呪いにあてられ、姿を禍々しく変質させた死胎を手に取る。

 

「『汝、その無垢なる命、穢れし荒御魂と成れ』」

「させるか! ……ッ! 離せ!」

 

 御神体に捧げる祝詞のように、滑らかに力強く言葉を発する。蒐獄もただ見ているだけではなく俺に近づこうとするが、大地の屍達がその身体に絡みついて動きを封じた。

 

「『汝、その純真なる命、狂いし大怨霊と成れ』」

「クソ!」

 

 言葉を続ける。謳い上げるようなその言の葉に、領域内の屍たちが拍手をし出した。いや、魂振と言うべきか。来たる神に捧げる祝福の音色。ただし、手の甲と甲を打ち合わせる逆拍手だったが。

 

「『汝、その潔白なる命、堕ちし禍ツ神と成れ』」

「ぉおぉおおお!」

 

 俺の生得領域が震える。屍たちの拍手喝采は地響きが如きまで莫大な物になっていた。蒐獄がようやく屍たちの人垣を抜けるが、再び足を掴まれ腕を掴まれ首を掴まれて、屍の山にその姿を消す。

 

「『贄は此処に在り、神よ、生まれ堕ちろ』」

「ぉおお゛お゛!」

 

 もう全ての儀式が終わる。この呪物が完成するのを止める事は出来ない。蒐獄は今までで最もドス黒い炎の矢を放ってきた。未だ見た事のない程の熱量だったが、屍が俺の代わりとなってそれを受ける。矢が突き刺ささった瞬間、その屍は真っ黒な炭となった。

 

 俺は左手の奴の血がこびり付いた骨の破片を強く握り、高々と振り上げる。

 

「死屍創術極ノ番『ヒルコノカミ』」

 

 振り上げた左手の骨片を、俺がその魂を歪めてしまった存在に右手ごと突き刺した。




下の挿絵は『ヒルコノカミ』の発動前状態です。
少しでも参考になれば幸いです。
押絵とかは余り好みではない方もいるでしょうし、素人の絵ですのでお目汚しになってしまうかもしれません。
そういった方はどうかお避けください。


【挿絵表示】


出来るだけ呪術っぽい線で描けるように意識しましたが難しいですね。
エヴァのアダムと呪術の呪胎九想図の生物的な気持ち悪さを混ぜ合わせた感じを出したかったのですが、少しでもそれが伝わったら嬉しいです。


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第二十五話:屍山血河の神に崇つ

 極ノ番。それは永き年月を経て研鑽された術式の奥義、終着点とでも言うべき術。その術式を極め理解し、最大限にその性能を引き出した術師に限り発動できる術だ。

 

 であるならば、死屍創術の極ノ番である『ヒルコノカミ』とは何か。

 

 その発端は呪術全盛、平安の世にある。

 

 その頃、この術式は死屍創術という名ではなかった。『死屍操術』と、あくまで他の操術と同列の術式として扱われていたのだ。死屍操術の術師は大陸から渡来した術師──道士と言うべきか──の末裔であり、死屍を殭屍という傀儡として加工し、他の操術のように操る術式であった。

 

 平安の世という現代とは比べ物にならぬ程に死体が手に入りやすい時代、死体が多ければ多い程その戦力を増す死屍操術を相伝とする一族は、()()()()の地位にいた。化野や鳥辺野の風葬地が近くにあり、鴨川や桂川の河原に死体が放置されるような平安の京は、死体が大量に欲しい彼らにとって絶好の場所であったのだ。

 現代のように病や災害の原因が解明されておらず、それらに対する恐怖は強力な呪霊の胎盤となり、またその数も多かった。それに対抗するためには、戦力を多く保持できる死屍操術はうってつけであったのだ。

 

 だか、最大限にその術式を扱えるような環境にありながら、それなりの地位以上にはなれなかった。

 

 その理由は簡単だ。よその国から来たような術師がそう信用される訳がないし、元より京を守護する土着の術師たちからしても面白くないだろう。それに加えて屍に触れるという行為は、神道や同時期に大陸より伝来した平安仏教ではケガレとして禁忌扱いされていて、彼らはケガレに触れる者として忌々しがられ、迫害すらされていた。

 

 そんな死屍操術を継承する一族の当主は考える。どうすれば家の名誉をより素晴らしき物にし、地位を盤石な物にできるのかと。そんなある日、死屍操術の一族に赤子が生まれた。しかし、その子は死産であった。

 それは平安の世では珍しいことではない。七歳までは神の子。そんな言葉があるように、医療が発達していない時代では子供は死にやすかったのだ。

 

 だが、当時の一族の当主は閃く。

 

『“これ”は使えるぞ』と。

 

 この術式が忌々しがられ、迫害されているのならば、そんな扱いが出来ぬような圧倒的な力を御すればよい。未来ある幼子、成長していく胎児を素体にすれば、もっと強力な呪いを創り出せると同時の当主は考えたのだ。無垢なる赤子であればある程、その魂は呪いに染まりやすいと。

 

 ──そして、それは正しかった。

 

 完成した『ヒルコノカミ』の原型は確かに強力な忌み物だ。しかし、当たり前というべきか何というべきか。そのあまりの製造方法の悍ましさに、いくら生命の価値が低い平安の世の呪術師たちでも許容する事は不可能だった。呪詛師の一族として族滅すべしという方針すら定まりかけた。

 

 皮肉な事だ。一族の名誉を燦々と輝けるものにする為に創った忌み物により、その一族は危機へと陥ったのだから。

 

 だが、族滅の危機を救ったのも『ヒルコノカミ』に他ならない。もはやそれを極める事しか一族が存続する道はなかったのだ。

 

 元は呪霊を祓う為の『ヒルコノカミ』の原型は、縛りによって対人特化の性能となり、呪霊には使用不可となった。

 

『悪辣にして冒涜、人の禁忌を犯し尽くす非道の術理。語るも憚られる其の秘奥。悍ましき技法であり、唯一の例外なく生命を奪う忌むべき外法』

 

 そんな風に言われるのも当たり前だ。その頃から、死屍を操る術式ではなく死屍を創り出す術式だと蔑まれ、『死屍創術』と恐れと嘲笑がない混ぜの呼び名で呼ばれるようになった。

 

 本式の『ヒルコノカミ』は俺には創れない。古き死屍創術の術師たちは、あまりにその忌み物を強くする事に執着しすぎた。そしてその果て、極ノ番となったそれは女性の死屍創術の術者にしか創り出せなくなったのだ。……いや、あくまで効率的に家系を存続させる為に、男の血統を残す目的があってその方向へと歪んだ発展を遂げたのかもしれない。

 

 本式の『ヒルコノカミ』は母体と胎児の死をもって完璧な物へと転ずるのだから。

 

 体内は一種の領域であり、それは胎内もだ。領域とは自らの世界。自らの胎内ならば込める呪力は極限までロスを少なくでき、死体を呪物に転じさせる術式も最大限以上に発揮できる。

 

 そうして母体の命を代償に産まれ堕ちるのが、日本神話における蛭子神(ひるこのかみ)と同じ名を付けられた忌み物だ。

 

 名前は呪術とは切っても切り離せない重大な要素。例えば、降霊術ではその対象の出生時の名を使うのがセオリーであるように。

 名前はその存在を歪ませ、在り方を規定する。神様などと大層な名前を魂と紐づけられた忌み物は、その名の通りに荒御魂となって一族を襲う者達を殺し尽くした。

 

 そのまま一族は山奥に隠れ潜み、一応は都から追い払えたがそれ以上この一族を刺激したくない他の家の術師達も静観を決め込んだ。より深まった嫌悪と迫害の理由を残して。

 そしてその迫害された一族は、京都から他の家に取り込まれるぐらいならと逃げてきた術師達と手を組み、それが司條家の前身となるのだが──今はそんな事はどうでもいい。

 

 今大切なのは、体内は一種の領域であるという事だ。

 

 体内が一種の領域であるならば、領域は一種の体内と解釈できる。このやり方でしか『ヒルコノカミ』を完全な状態で成立させられなかった。男の俺でも領域内ならば『ヒルコノカミ』を“出産”できる。

 

 俺の領域『死處胎蔵界』は条件を揃える為の舞台装置。領域の死体を領域内限定で、相当の呪力を消費して呪具呪物に換える事が出来るだけの効果など、元々蒐獄に対する戦力として見ていない。必要としたの環境要因による呪術行使へのバフ。

 

 黒閃を発動できたのは僥倖だ。それで俺の実力以上、潜在能力の全てを発揮できた。

 

 右手ごと骨片で突き刺された『ヒルコノカミ』が、ドクンと不気味にその死屍を胎動させる。

 

「……ッ!」

『ぁ゛あ゛』

 

 瞬間、俺の接続されていた左腕が消えた。いや、違う。“喰われた”のだ。右手に握られた忌み物によって。──良かった。無事に生まれ堕ちた。

 

 急激に質量が増えた事によって、“それ”が右腕から抜け出した。そしていまだ逆拍手を続けていた大地の屍達を喰らう。二十二年間の死は、その魂を酷く飢えさせたようだ。

 

『ぁ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛』

 

 大地が急激に凹んでいく。自分の何十倍の大きさの屍を、数秒単位でまるまる一つ喰らい尽くしていた。いや、遺体を喰らえば喰らうほどに、その姿をより巨大で悍ましきものへと変貌させている。

 ──その姿を黒い炎が飲み込んだ。

 

「ハハハ! 残念だったな! どんなに強力な呪いだろうが、呪力を持つなら俺の前では燃料と変わらねぇよ!」

 

 蒐獄は灰にしてやると言わんばかりに、黒い炎をさらに激らせて『ヒルコノカミ』を燃やす。あの黒い炎は本当に強力だ。術師だろうが呪霊だろうが呪物だろうが、それらは全て呪力が根幹にある以上、その効果からは逃げきれない。あらゆる存在に対し、あの炎で燃やす事は最善策であると言える。

 

 ──だが、この忌み物に対してその黒い炎は最悪手だ。

 

『ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛あ゛づぃ』

「……な、に?」

 

 黒い炎が掻き消える。いや、『ヒルコノカミ』がその大半を取り込んだのだ。すでに成人男性の体格を優に超えたその存在は、まだまだ飢えが収まらないのか、その身に少し燻る黒い炎など意にもかえさず屍を貪っている。

 

「……『ヒルコノカミ』はその身に受けたあらゆる呪術的事象を解析し、その身に取り込む」

『ぼぼ、ぼ、ほの゛お゛ほの゛お』

「ッ!」

 

 俺の言葉は術式の開示。ダメ押しだ。ただ、もう大した意味もないだろう。蒐獄が死ぬ事はもはや確定事項となった。無限の可能性を持つ赤子や幼児のように、この忌み物は対象を殺し尽くすまで進化する事をやめない。

 

 四つん這いで獣のように死肉を貪っていた『ヒルコノカミ』だが、やがてむくりとその身体を直立させた。人間のシルエットによく似てはいる。だが、違う。致命的な所で狂っているのだ。赤く輝く紋様が刻まれたその冒涜的な姿は、人間というよりもやはり荒御魂と呼ぶに相応しい。

 

 三メートルほどの体躯の異形が放つ、異様なまでに濃密な呪力は死を強く想起させる。

 

『ほのお゛ぉ゛ぉ゛お゛お゛お゛!』

 

 ようやくその飢えを満たしたのだろう。底無し沼のような夜空に咆哮する。夜空の綺羅星のような眼球が破裂して、赤黒い血の雨を降らせた。同時に全身から黒い炎を噴出させる。

 

 その黒い炎は蒐獄の怨恨を凝縮したかのような黒色ではない。夜空の星々の間隙を埋める黒い空白のような、その虚無のような一切の艶が無い黒。炎からは温度を感じられない。むしろ理解し難い深淵を覗き込んだ時に背筋を襲う、恐怖を伴った底冷えのような悪寒すら感じた。

 

「『七騎影塚守』!」

 

 蒐獄の影から七体の黒い人型が現れ、それらが一つの巨大な存在となった。『ヒルコノカミ』と同等に巨躯の、大槍で武装した鎧武者のような姿だ。鈍重そうな姿からは予測できないほどの健脚で駆け出し、その影の大槍を突き刺した。

 

『ぃい゛ぃだぁ゛い゛』

「!」

 

 だが『ヒルコノカミ』は胴体に風穴を開けられながらも、影の鎧武者にその腕を一振りする。鎧武者はなんの抵抗もなくハサミで紙を両断するが如き容易さで二分され、その姿を力無く影に溶かした。

 

「ッ!」

 

 呆気なく鎧武者が破壊された蒐獄は、身体を反転させて逃げ出そうとする。領域の中で何処に逃げるというのか。すぐに屍にその足を掴まれ、屍達が群がり身体の自由を奪った。

 

 ゆっくりと、『ヒルコノカミ』が蒐獄に近づいていく。

 

「クソクソクソ! 『无火殯斂(ほなしあがり)』ぃ!」

『ほ゛の゛お゛ぉ゛ぉ゛お゛!』

 

 蒐獄の炎と『ヒルコノカミ』の炎は一瞬の拮抗すらせずに、後者の夜空の果ての虚無が如き黒い炎が飲み込んだ。蒐獄の全身を燃やし、爛れさせる。今まで何人もあんな風に殺してきた奴にはお似合いの最後だろう。

 

「お゛ぉ゛! ぉぉお゛ぁあ゛ぁぁあ!」

『うぅ゛ま、うま゛ぅ゛ま゛』

 

 蒐獄は生きて焼かれながら、その肉体を『ヒルコノカミ』に貪り喰われている。想像しうる限りで最悪の苦痛。

 だが、その姿を見ても俺はなんとも感じなかった。もちろんこんな奴に可哀想だとか憐憫の情は抱かない。しかし、二十二年間の恨みを果たせたのにも関わらず、俺は何の達成感も感じていなかった。

 

「……復讐なんて、するもんじゃねぇな」

 

 頭の中に『復讐は何も生まない』なんて、そんな安っぽい映画で三流役者が叫んでそうな言葉が浮かぶ。この復讐に意味なんてなかった。何も生まなかった。いや、それどころか余計な犠牲を生んだだけだ。

 

 当主様は死に、香那を危険に晒してしまった。俺が二十二年前に復讐を決意してしまったせいで。

 

「お゛前も゛ごろ゛ず!」

 

 黒く炭化しかけている能面をかけた蒐獄の生首が、俺に向かって突撃してきた。その光景を見て、あぁ、将門公は首だけで京を目指して飛んだのだったなと、彼の者の伝説を他人事のように思い出す。

 

『ぁぁ゛』

「ぐびゃ」

 

 俺の目の前でその生首が潰れる。呆気なく、完全に蒐獄は絶命した。その理由は『ヒルコノカミ』が叩き潰したからだ。手にこびりついた潰れた蒐獄の頭部を、『ヒルコノカミ』は啜るように喰らう。喉がゴクリと動いてそれが嚥下された事を示した。

 

 俺を助けた訳ではない。むしろ真逆だろう。『獲物を取られる訳にはいかない』と、そんな理由。

 

 次は俺だ。

 

 俺も黒い炎に焼かれ、そして生きながら喰われるのだ。

 

『あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛』

「……俺の下らない復讐に付き合わせて悪かった」

 

 目の前の弟か妹になる筈だった存在に謝る。過ぎた力を貪った代償は、命を持って精算しなければならない。

 

 抵抗はしない。できない。もはやこの領域は俺のものではない。既に目の前の『ヒルコノカミ』に乗っ取られている。

 

 二十二年間の俺の罪の証。俺は彼か彼女に殺されるべきなのだ。

 

 悔いはもうない。香那を助ける事が出来た。俺のクソみたいで空虚な人生で唯一の成果。それを最後に達成出来ただけよかった。あの世とやらがあるならば、当主様に土下座できるだけの面目は守れただろう。

 

 目を瞑る。死を受け入れる為に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぱりんと、薄いガラスを割ったかのような音。冷たい死屍の肉だけがなす世界ではあまりに浮いたその音に、思わず俺は閉じていた目を開ける。

 

「ッ! お兄ちゃん!」

 

 赤と黒一色の世界にヒビが入っていた。『ヒルコノカミ』の右後ろ、数メートルの場所に現れた空間のヒビ割れ。そこから香那が身体を乗り出していて、左手首の銀のブレスレットが白く輝きだす。

 

 一瞬の内に世界は白い光に包まれた。



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最終話:死屍累々の丘に立つ

「ッ! お兄ちゃん!」

「香、那」

 

 薄氷が割れるような、ガラス細工が砕けるような音共に、香那がこの死の世界に入り込んだ。俺を叫ぶように呼ぶ香那の顔は、今までに見た事がない程に鬼気迫る険しいものだった。

 

 俺がこっちに来るなと、そう香那に向かって叫ぼうとした瞬間、香那の左手首のブレスレットが眩い白い光を放つ。それは強烈な輝きだったが、目を潰すような鋭い光ではない。優しい朝焼けのような、包み込むような暖かみを感じる光。

 

 ほんの一瞬の内に、酷い死臭が充満する赤黒い世界を白い光が満たした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「危ない!」

『お゛ぉ゛おおぉ゛お!』

「っ!」

 

 一瞬の浮遊感と共に、足元の肉肉しいぶよぶよとした地面が硬質なものに変わったのを知覚した。それは倉庫の床だ。俺の領域が破壊されたことの証明。

 まだ目の前が光によって眩んでいたが、俺の身体を誰かが右斜め正面から押し倒すように突き飛ばした。その衝撃を感じるのとほぼ同時に、とてつもなく禍々しい呪力が俺の頭のすぐ上を迸ったのを知覚する。もし誰かに突き飛ばされていなかったら、俺の頭部はその炎に死ぬまで焼かれていただろう。

 

「っ、いてて」

「何やってんだ! 早く逃げろ! 香那!」

 

 俺を押し倒すように突き飛ばした者──香那に向かって叫ぶ。俺の側にいるのは危険すぎると判断し、すぐさま俺が香那をどかして離れようとするが、一度突き飛ばされた身体は立ち上がる事さえ出来ない。もう身体は限界だった。

 

「俺はもう動けない! あれの今の殺害対象は俺だ! 早く逃げろ! 巻き込まれるぞ!」

「……私が逃げたら、お兄ちゃんはどうするの?」

「俺はもう遅かれ早かれ死ぬだけだ! 頼むから逃げてくれ! 早く!」

 

 俺が完璧に近い形で創り出す為に設定した極ノ番(『ヒルコノカミ』)の行動目標は、術者本人と対象の殺害、そしてその肉体の摂食だ。本来は発動時点で術者が死ぬ術式、その帳尻合わせをする為に別の形で術者自身の命も懸けなければ完璧に発動できない。

 

『おぉ゛お゛に゛ぃ゛あぁ゛!』

 

 俺の肉体を喰らうのに邪魔な存在がいれば、『ヒルコノカミ』は躊躇なくそれを殺すだろう。近くにいるだけであの黒い炎に焼かれてしまうかもしれない。俺の近くにいる香那はあまりにも危険すぎた。

 

「いやだ! もう家族は死んで欲しくない!」

「ッ! バカ言うな! 早く俺から離れろ! 俺を襲うあれは少なく見積もっても特級! 二級のお前が倒せる相手じゃない!」

 

 何故か今は俺を攻撃してこず、その巨躯で苦しげにその場でのたうち回るように暴れている『ヒルコノカミ』だか、いつ再び俺を殺そうとするか分からない。

 

 二十二年間肌身離さず持ち歩いて込め続けた呪力に、殺害対象に俺も加わるという実質的に自己の命を懸けた縛りによって底上げされた術式効果は、千年前の平安時代に成立した本式とほぼ変わらない性能のはずだ。

 

「特級……」

「ああ、そうだ! 分かるだろ! もう俺のせいで誰も死なないでくれ! 頼むから……!」

『お゛ぉ゛に゛ぃ゛ぃ゛!』

「……っ」

 

 香那が俺の上から立ち上がる。ようやく逃げてくれる気になったのかと安堵するが、香那は俺と『ヒルコノカミ』の間に立った。まさかと、嫌な予感が俺を襲う。

 

「逃げろって言ってるのが分からないのか!」

「……お兄ちゃん。約束、覚えてる?」

「何言ってるんだ! 早く逃げろ!」

「忘れたとは言わせないよ。私が高専を卒業したら、一級推薦してくれるって約束」

「ッ! ……そんなの、そんなのもう無理だ! 俺が約束を果たせないのは謝る。だから、だからお前は逃げてくれ! 頼むから、香那!」

『お゛に゛ぃ゛ぃ゛い!』

 

 のたうち回っていた『ヒルコノカミ』が、俺と香那の方へその殺意に濁った赤黒い眼球を向けた。俺を殺すという至上命令を思い出したのだろう。その身体を一度大きく震わせ、俺たちの方へとその肉体を荒々しく躍動させ猛進してきた。

 

 その荒御魂が如き存在の視界に入るだけで、身の毛のよだつ強い死の気配をありありと感じる。それは殺害対象の俺だけではないはずだ。

 

「もし、あれを私が倒せたら、お兄ちゃんは安心して私を一級推薦出来るでしょ?」

「やめてくれ! もう俺に人を殺させないでくれ!」

『お゛ぉ゛ぉ゛おおおぉぉ゛!』

「……絶対助けるから、ちゃんと見ててね」

 

 情けない俺の懇願の声も、香那はちらと俺のほうを見るだけで流した。あの悍ましき存在の呪力にあてられながらも強がっているが、その足は酷く震えていているのを隠せていない。だというのに、香那は『ヒルコノカミ』に立ち向かう。

 

「バカ!速く逃げっ……!」

 

 やめてくれ! にげろ! はやく! そんな言葉を俺は叫ぼうとするが、出たのは赤黒い血の混じった反吐だけだった。

 

「『一天地六の小世界。四方角を束ねようぞ』」

『ほ゛の゛お゛ぉ゛ぉ゛お゛!』

「『艮』『巽』『坤』『乾』『四柱滴天髓(しちゅうてきてんずい)』!」

 

 香那は袖から小さな編みぐるみを取り出し、呪力の乗った言霊を紡ぎながらそれらに呪力を込める。二メートルを超える式神たちが現れ。それらは香那の身体に全身鎧のように纏わりついた。初めて見る術式の使い方だ。

 

 おそらく蒐獄は香那から呪物や式神の触媒を奪わなかった。抵抗されても『新皇祟総術』やその他の術式の刻まれた能面があれば、二級の香那など恐るに足らぬと慢心していたのだろう。

 

 それは幸運な事だが、準一級程度の式神を四体身に纏ったところで、目の前の二十二年間も濃密な呪いにあてられた『ヒルコノカミ』には勝てるわけがない。

 

『お゛ぉ゛ぉ゛!』

「ッ! その黒い火に触れるな! 呪力を燃やし尽くすぞ!」

 

 香那に向かって『ヒルコノカミ』が燃え盛る黒い炎を吐き出す。蒐獄の黒い炎よりも猛々しく呪力を燃やすその炎は、まともに喰らったらひとたまりもない。死だけが待っている。

 

「『乾』! 『坤』!」

『ワゥゥヴ!』『メェェエ!』

 

 香那の言葉に反応し、左手からは台風並みの暴風が、右手からは濁流が如き水流がその炎に向かっていく。水流は一瞬の内に全てが蒸発したが、暴風によって黒い炎は逸らされた。

 

 呪力の風はともかく、術式によって巻き起こされた風は燃やせないらしい。だが、それはたまたま相性が良かっただけだ。『ヒルコノカミ』に対する決定的な武器にはならない。

 

「『巽』! 『艮』! あいつの動きを封じて!」

『ジャァアァ!』『モガァァ!』

 

 香那の倉庫の床を踏みしめている脚部に呪力が篭り、それが床下から『ヒルコノカミ』の足元へと向かっていく。瞬間、木の根と鋭く尖った金属が『ヒルコノカミ』の足元から現れ、その全身を突き刺した。さらに木の根も金属も生成されてドーム状となり、『ヒルコノカミ』の三メートルを超える巨躯を軽々と覆い隠す。

 

 香那は振り返り、俺をその手で掴んだ。

 

「この隙にお兄ちゃんを安全な場所まで運ぶから」

「だからお前じゃ勝てない! 俺を置いてお前だけでも逃げろ!」

「そんなこと言わないで! 本気だから! もう私は家族を目の前で殺させな……」

『お゛ぉ゛ぉ゛に゛ぃ゛い゛!』

「な! あの拘束が一瞬で!」

 

 しかし、『ヒルコノカミ』はかなりの質量があるだろうそのドームを、自分の身体を突き刺す木の根や金属ごと燃やし尽くした。ありえない火力だ。

 木の根だけならともかく、金属の杭も軽々と燃やしている。いや、あの黒い炎の前では呪力で構成された物ならば全て燃料に同じ。ただそれだけのことだろう。

 

「……どうしたんだろう」

『お゛ぉ゛ぉ゛お゛ぉ!』

 

 だが、そんな尋常もない火力を見せた『ヒルコノカミ』の様子がおかしい。とてつもない苦痛に身を捻るようにしたり、地面をやたらに殴りつけたりなど妙な行動を取っている。領域内にいた時よりも、その身体は一回り小さくなっているように見えた。

 

『お゛に゛ぃ゛ち゛ゃあ゛ぁ゛ぁ!』

「……苦しそう」

「……っ!」

 

 香那のその言葉に、『ヒルコノカミ』が何故あんなにも苦しんでいるのかその理由に思い至る。おそらくその身体を成す屍肉(材料)不足だ。

 

 俺の領域内で貪った屍はあくまで俺の呪力で構築されていた物質。領域内なら現実世界の屍と同等の質量を持つ物質として振る舞うが、現実世界に戻った途端ただの呪力に戻ったのだろう。構築術式のように術式終了後も永遠に残り続けるわけではない。

 

『あ゛ぁ゛ぁ゛ぁあ゛あ゛!』

「今しかない! 俺を置いて早く逃げろ!」

「……」

 

 もしかしたら香那でも倒せるのではと考えるが、それは絶対に無理だ。香那では勝つことは出来ないし、俺は『ヒルコノカミ』に殺されるべきなのだ。

 

 俺が二十二年もの歳月の間、ずっと込め続けた呪力はまだまだ奴には有り余っている。その魂の飢えを満たす為により一層凶暴になるだろうし、俺が呪いによって魂を歪め、変質させてしまったのが『ヒルコノカミ』だ。

 

 俺は、『ヒルコノカミ』に殺されなければならない。

 

「……たいだけでしょ?」

「何を言って……」

「お兄ちゃんは死にたいだけでしょって言ってるの!」

「!」

 

 香那が叫び声を上げる。俺はずっと『ヒルコノカミ』の様子を見ていたが、その声に領域を出てから初めて香那の顔をちゃんと見た。見たことない程に怒っていて、しかし今にも泣きそうな顔をしていた。

 

「カッコつけて死んで、早く楽になりたいだけなんでしょ!」

「……っ、ああ! そうだよ! 俺なんて、俺なんて早く死ぬべきだったんだ! 今まで惨めにのうのうと生き永らえてしまった! もう、終わりにしてくれ! 俺を殺してくれ!」

 

 今まで隠してきた本音が決壊する。香那に向かってその全てをぶちまけてしまう。それも本当に情けなくて、より一層死にたくなる。

 

 俺のせいで五人も家族が死んだ。二人の母親、一人の父親、そして妹とまだ性別も分からない胎児。そして香那すら死の危険に晒した。晒してしてしまったのだ。

 

 復讐の為と家族の身体を切り刻んで呪具を創った。弟か妹になるはずだった存在を、あの悍ましい化け物に変えてしまった。ただ自己満足のために。

 

 呪霊を祓う為と自分自身に嘯いて、呪霊に殺されてしまった死者の尊厳を踏みにじり、その身体を使い潰した。本当は全て蒐獄を殺す為だったのに。

 

 『死處胎蔵界』。あの悍ましい生得領域は俺の事をよく表している。家族の屍を、顔も知らぬ一般人の屍を、親友の屍を自分の為だけに使い潰す俺に相応しい醜い世界だった。

 

 自分自身で積み重ねた血と呪いに溢るる大量の死体。その死屍累々の丘に立つ俺は、ずっと前から死ぬべきだったのだ。

 

「……絶対死なせないから」

 

 香那がゆっくりと立ち上がる。硬い決意を感じさせる言葉を呟きながら。俺にそれを止める術はなかった。情けなく、やめろと縋るように言うことしかできない。

 

 もし香那が『ヒルコノカミ』に殺されてしまったら、本当に俺は自分自身を許せなくなる。……違うか。俺は許されたいのだ。少しでも自分の罪を軽くしたいのだ。香那を使って。本当に情けない。

 

「どんなに無様でも絶対に生きてもらう。だから、私はあいつを絶対に倒す」

『ほ゛のぉ゛ぉ゛お゛お゛!』

 

 香那が『ヒルコノカミ』に向かって駆け出した。奴はもはや殺害対象の区別などついていない様子で、向かってくる香那に黒い炎を迸らせる。

 

「『乾』!」

『ワヴゥゥ゛ヴ!』

 

 暴風が黒い炎を散らし、香那は拳が届く距離にまで肉薄した。右手に急速に呪力が集まる。

 

「『大瀑布』!」

『メ゛ェ゛エエ゛ェ!』

 

 バチンと、巨大な破裂音が倉庫に響いた。大質量の呪力の水が『ヒルコノカミ』の全身に叩きつけられる。一級呪霊なら軽々と吹き飛ばせるだろう衝撃。しかし、奴は微動だにしなかった。

 

『お゛ぉ゛の゛ぉ゛ぉ゛!』

「きゃっ」

「香那!」

 

 大量の水を黒い炎は一瞬の内に蒸発させる。そして炎を纏う腕を香那に振るった。何とか直撃は免れたが、香那の右腕に纏わりつく式神の一部に黒い炎が燃え移ってしまう。

 

「っ! ごめん! 『坤』!」

『メ゛ェ゛ギャ゛ァ゛ア!』

 

 燃え移った瞬間、その腕に纏っている式神を素早く切り離した。すぐにその部分の式神は黒い炎に全身を巻かれ、悲鳴にも似た痛々しい断末魔を残して消える。このままでは、いつ香那をあの黒い炎が燃やしてもおかしくない。

 

 ダメだ。それはダメだ。香那だけはもう俺のせいで殺してはダメだ。

 助けなければ。どうにかして香那を助けなければならない。

 

 考えて、考えて。一筋の光明を見つけた。それは香那の左手首にあるだろう呪物。俺の領域に侵入した際に白い光を放ち、領域を破壊したあの呪物ならば少しの可能性はあるかもしれない。

 

「香那! 俺がお前に渡したブレスレット、それをそいつの体内にぶち込め!」

「っ! 分かった!」

『あ゛ぁ゛ぁ゛ぁあ゛!』

 

 体内とは一種の領域。ならばあの呪物も発動するはずだ。俺の声を聞いた香那は、ブレスレットをメリケンサックのようにして右手に装備した。そして再び『ヒルコノカミ』へと接近しようとする。

 

『お゛ぉ゛に゛ぃ゛ぃ゛!』

 

 だが、それを黙って受け入れる『ヒルコノカミ』ではない。危機を察知したのか、自身の周りに黒い炎の壁を創り出した。

 

「『巽』! 道を作って!」

『ジャァァ!』

 

 左足に絡みつくように一体化していた式神が体から離れ、その木彫りの蛇のような細長い身体を晒す。香那の足元でサーフィンの板のようになり、空中へと跳ね上がる。

 

「喰らえ!」

 

 炎の壁を超えた香那は、そのまま思いっきり右腕を振りかぶり、『ヒルコノカミ』をその拳にある銀の環でぶん殴る。視覚外からの香那による渾身の一撃。決まったと思った。

 しかしガゴンと、冷たく硬質な金属音が倉庫内に鳴り響く。

 

「硬っ……! やばい! 『艮』!」

『モガァァァア!』

『ほ゛の゛ぉぉおおお゛!』

 

 香那の右足からファンシーな鬼の姿の式神が現れて、迫り来る黒い炎から香那を空中で投げ飛ばしてなんとか救う。しかし、式神は炎に飲み込まれてその姿を塵に変えた。

 

「まさか……!」

「……嘘、でしょ?」

 

 黒い炎の壁が消えると、そこには『ヒルコノカミ』が二体いた。いや、片方は“影武者”だ。真っ黒でのっぺりとしたその姿は、蒐獄が操っていた影武者と特徴が酷似している。俺は領域内で蒐獄の頭部を能面ごと喰らっていたのを思い出した。

 

 黒い炎だけでなく『新皇祟総術』ごと取り込んだのだと、ようやく俺は気がついた。いや、それは考えれば当たり前の事だ。術式の一部を取り込んでいるのに、どうして俺はその術式の全てを取り込んでいると考えなかったのか! まだ影武者は一体だけだが、奴の足元では黒い何か溢れ出すように不定形な影が蠢いている。

 ただでさえ悪い状況であるのに、さらに最悪へと状況は転落しかけている。蒐獄は影武者を七体同時に操っていた。それをしないという事は、まだ完全に術式を取り込めていないのかもしれない。だがもし『ヒルコノカミ』にもそれが可能になれば、勝てる可能性は極端に低くなる。いや、不可能となるだろう。

 

 香那はもう式神は一体しか残っていない。だというのに敵はまだまだ強くなっていく。このままでは香那が殺されてしまう。

 

『お゛に゛ぃぃ、こぉ゛、ごろぉ゛ず!』

 

 二体の『ヒルコノカミ』が香那へと迫った。酸素の足りない頭を回し、少しでも今の俺にできる事を考える。

 

 そもそも俺は立ち上がれない。呪力もほぼない。領域を展開した事によって焼き切れていた術式はようやく回復したが、素材が手元にない。クソ! 俺はどうすればいい? 

 

 視線の先では真っ黒な『ヒルコノカミ』の分身が香那に突撃した。それを香那は紙一重で避けるが、いつ潰されて殺されてもおかしくはない。影からさらにニ体目の『ヒルコノカミ』の影武者が現れた。

 

 俺が領域に『ヒルコノカミ』を引き摺り込む? いや、無理だ! そこまでの呪力はもう残っていないし、あの領域は『一生に一度』という縛り。そもそも左腕がなく右腕しかない状態では、掌印を組むことすら出来ない。

 

 ……ああ、素材ならあるじゃないか。

 

「……どこ、だ!」

 

 あたりを見回す。そしてそう遠くない所にお目当ての物を見つけた。そこ目掛けて這うように進む。半身を潰された芋虫のような不恰好で鈍重な動きだが、それでも急ぐ。何とかそのお目当ての物を手にした。それは俺の刀。

 

「……づぅ!」

 

 膝立ちになり、直ぐに鞘から抜いてその刃を右肩にあてがう。右腕()ある。なら素材も用意できる。右腕で刀を持ちその右腕を切り落とすのは難しいが、今はこれをやるしかない。

 

「あ゛ぁ゛ぁ!」

 

 もう『没薬・瘵』の効果も切れてきて、ほぼほぼ生身と変わらない激痛が俺を襲う。だが、それを無視する。こんな痛みにかまっている暇はない。力を込め、右腕の付け根に刃を更に深々と突き立てた。

 

「ぁあ゛ぁ゛ああぁぁ゛!」

 

 刃が腕の半ばまでたどり着いたところで、右腕に力が入らなくなった。どこかしらの太い神経だか筋肉、靭帯だかが断ち切れたのだろう。だからなんだ。刀の峰を自分の歯で噛み締め、骨ごと断ち切らんと刃になけなしの呪力を込める。刀の鉄の味と自分の血の味が口腔で混ざり合った。

 

「だぁ゛!」

 

 ようやく右腕が肩から切断されて地面に落ちる。これでいい。素材はできた。呪具化してある俺の身体なら、これだけで術式を発動できる。

 

「『殭腕縛(きょうわんばく)』」

 

 腕は一瞬震え、その筋繊維を肥大化させながらその五指を器用に動かして『ヒルコノカミ』の方へと向かう。さながら地面を這う蜘蛛のような動きで。

 

「香那! 一瞬奴の動きを止める! 頼むぞ!」

「分かった! 『乾』! 私を守って!」

『ワヴゥ゛ゥ゛ヴゥ!』

 

 暴風が吹き荒れ、香那に迫り来る黒い火の粉を払う。香那は立ち塞がる一体目の影武者の脇を抜け、二体目の頭上を飛び越えた。

 

 巨大化した切り落とした右腕は、背後から『ヒルコノカミ』の自由を奪う。その拘束を消し去るために『ヒルコノカミ』は黒い炎を腕に集中させた。胴体はガラ空き。これが最後のチャンス。

 

「いっけぇぇえ!」

『おぉ゛ぉ゛お゛ぉ゛!』

 

 香那の拳が『ヒルコノカミ』に触れた瞬間、黒い閃光が空間を歪ませ迸った。何かが砕けるような音に少し遅れ、白い閃光も薄暗い倉庫の中を明るく照らす。

 その光を浴びた影武者たちが、音もなく溶けるように消えた。

 

「……黒、閃」

「はぁぁあぁぁ!」

『お゛ぉ! に゛ぃ゛! ぢゃ゛っ──!』

 

 黒と白の閃光が消えると、『ヒルコノカミ』の姿はそこにはなかった。倉庫の向こうの壁まで、コンテナを全て貫通しその中身を散乱させながら吹き飛んでいたのだ。未だ少し呻き声をあげているが、その身体の大部分を欠損している。もはやまともに動くことすら出来ないだろう。

 

「香那! 大丈夫か!」

 

 立っていた香那がその場にへたり込む。ついさっきまで立ち上がることすら出来なかった俺だが、その香那の姿を見ると自然と体が動いて駆け寄っていた。

 

「……へへ。ちゃんと見てた? 私、倒せたよ」

「ああ、見てた! 怪我はないか! っ! お前、髪が少し焦げて……!」

「こんなの大丈夫。髪型変えようと思ってたし、気にしないで。……それより、何で自分の腕を切ったの?」

 

 見たところ香那には大した怪我はなさそうで安心した。へたり込んだのは緊張の糸が切れたからだろう。本当に良かった。

 

「それは……香那を助けようと思ったら、身体が勝手に動いてた。そうするしかないと思ったんだ」

「……なら、許してあげる。あれがなかったら近づかなかったから。……ねぇ、この呪物何だったの? あれを倒せたのも、殆どこれのおかげだし」

 

 香那はそう言って、右手に握られた銀の環の残骸を俺に見せる。もはやその残骸からは一切の呪力を感じられなくなっていた。

 

「中身の話か? それなら呪物『聖祖真舎利』を俺の術式で加工した物だ」

「え、……ね、ねぇ、それって」

 

 俺の言葉を聞き、顔を青くした香那がボロボロになった残骸に再び目を落とす。加工といっても、こんな強力な呪物に俺が手を加えられる所はほぼない。

 

 だからもし香那が領域を使ってくるような相手と戦った際、その領域よりも強い結界を展開して相手の領域を破壊するように制限をかけただけだ。結局、俺のために使わせてしまったが。

 

「ああ、約二千五百年前から寺院仏閣の結界の基底となっている由緒正しき呪物の一部。……聖遺物って言った方が正しいのか?」

「な、何でそんな物を持ってるの! それより何で自分で使わず私に渡してるの!」

「五条さんとの契約で貰ったんだよ。前に言っただろ? 呪具を渡したって。その対価としてな。お前に渡した理由は……っ!」

「お兄ちゃん!」

 

 気が緩み倒れてしまう。銃弾によって穴を開けられた心臓が再び鼓動を始めようとして、体外へと血を緩やかに送り出しているのを感じた。……ああ、もう時間切れか。

 

「……助けてもらったのに、悪い。限界だ」

「待ってよ! 死なないで!」

「……一級推薦の約束、果たせそうにない。ごめんな」

「そんなのどうでもいいから! 死んじゃダメ!」

 

 地面に倒れ込んだ俺を、香那が抱えるようにして仰向けにする。香那は泣いていて、俺なんかのために涙を流してくれているのが嬉しかった。

 

「ガハッ」

「お兄ちゃん!」

 

 内臓もどこか傷ついていたのだろう。食道を血の塊が逆流してきた。俺が吐いた血は明るい赤ではなく、死体のような黒っぽい血だった。今まで何度か仮死状態になった事はあるが、本当に死ぬのは初めてで少し怖い。緩やかに死に近づいていく感覚は得体の知れない物だった。

 

「最後に、香那に言わなきゃいけない事がある」

「ダメ! 最後とかいわないで!」

「頼む、聞いてくれ」

 

 こんなに泣いている香那を見たのはいつぶりだろうか。いや、そういえば昔から香那は泣き虫だった。広くて和風の司條家が怖いと、俺の後ろをちょこまかとついて来た事を思い出す。ひどく懐かしい記憶だ。……ああ、そういえば。あの子も泣き虫だった。

 

「……香那っていう名前は、俺がつけさせてもらったんだ。その名前は俺の殺された妹の名前だ」

 

 思い出す。蒐獄に殺されてしまった妹を。身体を焼かれ、最後に俺に手を伸ばしたその光景を。その手を取れず、何も出来なかった自分自身を。

 

「……決して、お前を妹の代わりとして見てたんじゃない。次は絶対に妹の命を救うと、兄としてすべき事を果たすと、自分自身に対する誓いだった」

 

 だから、今回は守れて良かった。俺の命に代えて、妹を絶対に次は守り抜くと決めていたのだ。

 

「俺は、ちゃんとお前の兄になれたか?」

「ずっと! ずっと昔から私のお兄ちゃんだったから! だから死んじゃダメ! 1人にしないで!」

「……そう、か。──良かっ、た」

 

 それを聞いて安堵した。ずっと聞くのが怖かった。俺はお前の兄たりえるかを聞くのが。きっと今俺は笑っているだろう。

 一気に意識が薄くなっていく。安心したのだろう。この世に命を繋ぎ止めていた大きな執着が消えたのだ。ひどい自己満足だとは分かっている。でも、俺にはこうする事しか出来なかった。本当にバカだ。

 

 ああ、頼まなければいけない事を一つ忘れていた。鉛のように重たい舌を何とか動かして言葉を紡ぐ。

 

「……俺の、遺体は、あれと……あの子と一緒に、海にでも沈めてくれ。あの子は、俺のせいであんな風になってしまった。最後ぐらい、いっしょに、いなければ」

「っ! お兄ちゃんは反転術式使えるんでしょ! 早く治して!」

 

 随分と無茶を言ってくれる。反転する呪力すらないのに、反転術式が出来るわけがない。そもそも、心臓だとかその他多数の臓器を治せるような腕は俺にはない。家入さんでも不可能だろう。

 

 視界がぼやけていく。目のピントを合わせる力も残っていないのかと、いよいよ死が近いらしい事を察知した。

 

「──い──死ん……!」

 

 聴覚も遠くなった。香那が何か叫んでいる事は分かるが、もうはっきりと聞き取る事ができない。だというのに自分の弱々しい心臓の音は嫌にうるさく聞こえた。しかし、次第にその心臓の音も小さくなっていく。

 何か言い残した事はないか。酸素も殆どなくなった脳内で考える。……思い浮かぶより先に、勝手に口が動いていた。

 

「香那、俺の分まで生きろ」

 

 この言葉は呪いになる。死にゆく者からの呪いは何より重い。だからきっと、香那は俺より長生きしてくれるだろう。それだけを祈って、俺は目を瞑った。

 

「バ──! やだ……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふと意識を取り戻す。あの世とやらは随分と居心地がいい場所なんだなと、身体は動かないがそう思った。全身を酷い筋肉痛と倦怠感が襲い、思考が泥酔したかのように纏まらない。

 

 ぼやけた視界が確かな像を取るより先に、嗅覚が嗅ぎ覚えのある匂いを察知する。消毒液のツンとした匂いと、少しのタバコの臭いだ。ようやく視界に映るものが明確な形を取りはじめた。

 

 視界の両端はカーテンで仕切られていて、俺はどうやらベットに寝かされているらしい。目線の先にある棚には色々な市販薬が常備されていた。見覚えのある場所。どうやら俺はあの世ではなく、高専の医務室にいるらしい。

 

 ここが普通の学校の保健室よりずっと広く、そして薬が揃っていると俺に教えたのは誰だったか。七海か灰原だったように思う。俺は高専以外の学校には行っておらず、普通の学校には医務室がないなど知りようもないからだ。

 

「……すぅ、すぅ」

「……香那」

 

 俺の寝ているベットの右側から寝息を立てる者がいた。首を動かすだけでも億劫な身体を動かし、その寝息の主を確認する。髪の毛が短く切り揃えられた香那がベットの側の椅子に座っていて、ベットに上半身だけを預けて伏せるように眠っていた。

 

「……」

 

 どうしてか無性に香那の顔をちゃんと見たくなって、香那の顔に少しかかった髪の毛を払おうと右手を伸ばそうとする。そして気が付いた。俺の右手がない事に。それはあの倉庫での戦いが確かにあった事の証明。

 

 しばらくぼんやりとその安らかな寝顔を見ていた。今は何日なのか、どれぐらいの時間が経ったのかを確認しようと思い、辺りを再び見渡す。すると、左手側の机にメモのような紙が置かれている事に気がついた。そこまで身体を何とか動かし、その紙に書かれた走り書きを読む。家入さんの字だ。

 

『司條家の当主代理からの要請で猪野、伏黒、乙骨だとかとお前を助けに行った。彼らは少しでも呪具が必要らしい。借りは返したぞ』

「……義導さん」

 

 半死半生どころかほぼほぼ常世の国の住民となった俺が生きているのは、彼らと家入さんのお陰らしい。感謝してもしきれない。まさかあの状態の俺を生きながらえさせるとは、そんな事のできる人材をあんな危険地帯に向かわせてしまった事が申し訳なかった。

 

 そういえば加茂家と禪院家は高専に預けてあった呪具を回収したんだったか。御三家ほどではないが司條家も歴史だけはある。ある程度の呪具は持っているし、俺が創る事もできるのだ。彼らには俺もできる限りの協力をしようと思う。今の状況では少しでも戦力を上げる事は重要だ。

 

「ぅうん」

 

 寝づらそうな体勢だからか、香那は少しみじろぎをした。今思い返せば、随分と恥ずかしい事を香那に言った気がする。死に際はせめてカッコつけたいと思ってしまうのは男の性だろうか。しかし悔いはない。今まで言えなかった事を言えて良かったと思う。

 

 あの場でも悔いはなかった。俺は死ぬべきだと思っていた。もしかすると、だから死ななかったのかもしれない。呪術師に悔いのない死なんてない。神とやらがいるならば、もっと悲惨で、憂鬱で、陰鬱な悔いを残して死ぬために、俺を生きながらえさせたのかもしれない。

 

 だが、それでもいいと思った。

 

 俺は今まで、生者は死者の安らかな眠りを祈るが、死者は生者が苦しんで死ぬ事を祈っていると考えていた。死者の尊厳を犯し、使い潰す俺は特に死を望まれていると考えていたのだ。

 

 しかしあの瞬間、俺が自分が死ぬと覚悟したあの瞬間、俺は香那にただ生きて欲しいと祈った。死者になる筈の俺が最後に願ったのは、生者の安らかな生だった。

 

 だから、酷く独善的な考えだとは分かっているが、生者が安らかに生きる事を願う死者もいるのではないかと思えたのだ。少なくとも、俺の母達や父、灰原や七海に夏油さんだとかが俺の死を望んでいるとは思えない。

 

 家族の、友人の、名も顔もしれない誰かの屍の上に立っているのは俺だけじゃない。きっと誰しもが死屍累々の丘に立つ者だ。そしていずれその丘に自分の屍を晒すのだろう。誰かの足場になるために。

 

「……ん、寝ちゃってた」

「起きたか、香那」

「うーん、起き……お兄ちゃん!」

「うぉ!」

 

 起きた香那が抱きついてきた。その衝撃だけで全身が酷い激痛を訴える。だがその痛みも、今生きている事の証明である気がして喜ばしかった。

 

 抱きしめ返す両腕もない。相当な負担をかけた俺の身体には、寿命はもういくばくもないだろう。生きるだけでさらに苦しみ、酷い目にあうかもしれない。

 

 それでも、東京に数百万の呪霊が放たれている先を見通せない状況でも、香那が一級になるぐらいまでは生きてやろうと、そう強く決意した。




 最後まで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました!

 一つのお話を書いたのも終わらせたのも初めてで、本当にこの終わり方で良かったのかなと少し不安です。
 呪術廻戦の世界観を活かすならもっとこう……煮詰まった負の感情というか、どうしようもなく後味の悪い終わり方が必要かなって考えていたので。

 でも呪術廻戦も少年漫画だし、芥見先生も火ノ丸相撲とか僕のヒーローアカデミアとかで漫画を描くモチベションを取り戻したと仰っていたし、少しは希望のある終わり方でいいかと考えました。……ただ、今の本誌を観てるととんでもなくえぐい展開ばかりでちょっと怖いですが。

 全然関係ないですが、呪術廻戦のノベライズは短いけど爽やかなお話が多いので、そちらを読んでから本誌の方を読むと落差が面白いですよ。第一弾は七海、真人のお話が、第二弾はメカ丸、禪院真依のお話が好きです。あと共通して伊地知さんのお話も好きです。是非読んでみて下さい。

 脱線してしまいましたが、つまりは私がやっぱり最後はスッキリとした終わらせ方というか、折角見るなら極限まで作り込まれたバッドエンドより、チープでもハッピーエンドが好きな人種なので、このような終わり方になったという事です。
 ……まぁ、あの世界はこれから生きてるだけでも普通の術師には過酷そうですが、きっと頑張ってくれるでしょう。

 わざわざ二次創作を見て下さるほど呪術廻戦が好きな方は、きっとこの終わり方に不満があるかもしれません。
 ですが文章や表現だとかが稚拙でも、現時点でできる事はやり尽くして自分の書きたいものが書けたと思うので、厳しい批評をされても悔いはないです。

 最後まで読んでくださった皆さんが思った事や疑問、聞きたい事があれば、どんな些細なことでもいいので是非感想を書いて頂けると幸いです。

 重ねて、本当にありがとうございました。


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