渚ニテ、綾ナス波。 (hekusokazura)
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1.某撮影スタジヲにて。

 

 

  

 

 綾波レイは簡素なパイプ椅子に腰かけていた。

 

 そこは様々な品物が雑然と置かれた部屋。部屋の真ん中には幾つもの段ボール箱が積み重ねられ、段ボール箱の中にも色々なものが無造作に突っ込まれ、その上にはブルーシートが被せられている。

 まるで、祭りの後のような。全てが終わり、片付けも概ね済み、後は撤収されるのを待つだけの荷物たち。

 その中に、綾波レイも居た。

 

 ふと、壁に掛けられたカレンダーに目をやる。

 2029年。

 「あの日」から、世界はすでに14年の歳月を刻んだことを彼女は初めて知った。

 

 パイプ椅子から、そっと腰を浮かせる。

 お尻が痛かった。

 背中が痛かった。

 だったら椅子から立ち上がり、背中とお尻の除圧をすればいいのだが、立ち上がったら立ち上がったで、今度は膝が痛い。

 

 なにせ14年も、あの席に座り続けたのだ。

 彼を、2度とあの席に座らせないで済むように。

 ずっと、あの席に居座り続けた。

 

 襟元で摘まれていた空色の髪は今や膝まで伸び、着続けてきたプラグスーツはあちこちがほつれ、真白い生地はあちこちが黒くくすんでいる。

 

 

 彼が2度と乗らなくて済むように。

 彼がまた乗ってしまえば、彼はまた深く傷ついてしまうだろうから。世界はまた一歩、破滅の淵へと歩みを進めてしまうだろうから。

 

 

 閉鎖空間の中での14年間。

 ひたすらあの席に座り続けた14年間。

 

 辛くなかったと言えば嘘になる。

 でも、それ以上の幸せが、あそこにはあった。

 彼の存在を、常に感じることができていたから。

 彼を一人占めにできる。

 それはレイにとって、身に余るような、幸福だった。

 

 しかし時間が有限であることは分かっていた。

 幸せな時間も、いずれ終わりがくることは分かっていた。

 世界が再び彼を必要とする日が来ることは、分かっていた。

 彼が望むとも、望まぬとも。

 

 

 彼の旅立ちの日は、唐突に訪れた。

 14年の歳月の中で、頭の中はすっかりふやけてしまっていて。

 だから油断してしまっていた。

 あまりにも突然だったので、その時は強制的に旅立たされる彼の手に、あの音楽プレイヤーを添えてやることだけで精一杯だった。

 

 彼が居なくなった空間。

 彼の存在を感じなくなった空間。

 狭い狭い閉鎖空間。

 一人ぼっちの空間。

 

 気が狂いそうになった。

 

 すっかり荒れた肌に爪を立て引っ掻きまわし、ぼさぼさに伸びた髪を掻き毟った。

 

 何度あの席から立ち退いてやろうと思ったか。

 

 自分のこの行いに、何か意味はあるのか。

 

 外はどうなっているの?

 

 彼は無事なの?

 

 また、彼は傷ついていないの?

 

 孤独と不安が全身を蹂躙し、心が、体が、引き裂かれそうになる。

 

 

 一体どれだけの時間が経ったことだろう。

 おそらくそれは、彼の魂を羽交い締めにして、あの中に立て籠もっていた時間に比べれば、遥かに短い時間。

 でも、無限のように感じられた時間。

 

 別れが唐突だったのならば、再会もまた唐突だった。

 

 彼は突然現れた。

 

 突然現れた彼の姿を見て。

 

 青のプラグスーツに身を包んだ彼を見て。

 

 見間違うばかりの、精悍な顔つきの彼を見て。

 

 悟った。

 

 自分の願いは、もはや彼の願いではないことに。

 

 

「ごめんなさい」

 

 

 あの日と同じ。

 結局、何も出来なかった自分。

 

 久しぶりに使った声帯は、まるで壊れ掛けの音楽プレイヤーのように酷く濁った声を響かせた。

 

 この空間に立て籠もって以来、初めて席から腰を上げる。

 座席とプラグスーツとの生地はすっかり引っ付いてしまっており、腰を上げた時にはパリパリと乾いた音を立てて、プラグスーツは座席から剥がれた。

 

 彼を見つめる。

 

「碇くんを…、エヴァに乗らなくていいように…、できなかった…」

 

 彼は小さく頭を振る。

 

「いいんだ綾波…。あとは僕がやる」

 

 そう告げた彼の目は、すでにこちらを見ていなかった。

 

 そこでようやく気付かされた。

 彼がここから旅立った時点で、自分の役割はすでに終わっていたことに。

 

 

 

 

 

 そして綾波レイはこの部屋に居た。

 簡素なパイプ椅子に腰かけていた。

 部屋の真ん中に積み上げられていた荷物たちはいつの間にか姿を消し、残るのは木製の平台と打ち棄てられたように置かれた数台のカメラだけ。

 ここには、彼女と彼とを彩るための舞台装置も、彼女と彼とを照らす照明も、彼女と彼の声を記憶するマイクも残されていない。

 閉じられるのを待つだけの、撮影スタジオ。

 

 ここも「あそこ」と変わらずの閉鎖空間だった。窓はなく、外の世界がどうなっているのかも分からない。

 

 それでも感じた。

 彼らの魂が、一つ一つ浄化され、補完され、旅立っていくことに。

 

 

 

    そしてきっと、

 

           次は自分の番。

 

 

 

 膝の上で組んだ手に、ぎゅっと力がこもった。

 

 

 

 ふと、背後で気配を感じた。

 

 部屋の片隅に、誰かが居る。

 

 彼ではない。

 

 レイは椅子から立ち上がり、膝の痛みを我慢しながら後ろを振り返る。

 

 

 部屋の片隅に立つ、影。

 

 全身、真っ黒の、人の形をした影。

 

 ゆらゆらと揺らいで、今にも消えてしまいそうな影。

 

 影はゆっくりとレイの方へと歩いてくる。

 今にも倒れてしまいそうな、不安定な足取りで。

 

 影はレイの前に立つ。

 相変わらず影は全身真っ黒。レイの目の前にある影の顔も真っ黒。

 レイはちょうど自分と同じ背丈の影の顔を、じっと見つめる。

 

 不思議と、「何者だろう」という疑問は浮かばなかった。

 

 影はレイに向けて両手を伸ばす。

 その黒い手には、人形が抱かれていた。

 藁を丸めて布を巻いただけの、とても不出来な人形。

 

 影は、人形をレイへと差し出す。

 

 レイも、影へと手を伸ばす。

 影から、人形を受け取った。

 

 人形を左腕で抱え、右手で人形の頭部を支え、そっと胸元に引き寄せる。

 

 当たり前のように人形を抱きかかえたレイを見て、その影はまるでホッとしたように両肩を下げた。

 

 そして再び影はレイに向けて両手を伸ばす。

 影の手はレイの背中へと回る。

 影は、そっとレイの体を抱き締めていた。

 その見た目からはまるで温かみというものを感じさせない真っ黒な影だったが、影に包まれたレイは不思議な温もりを感じていた。あの席に座り続けたおかげでカチコチに固まっていた全身のあらゆる関節が、ぬるま湯に浸されたようにじんわりとほぐされていく。立ち上がっただけで感じた膝の痛みも、潮が引いていくように消えていく。

 

 まるで、孤独な戦いを終えた者に対する、ささやかなご褒美のよう。

 レイは影が与えてくれる温もりに身を委ね、静かに目を閉じた。

 

 

 

 

 背後で音がした。

 目を開ける。

 いつの間にか、自分を抱き締めていたはずの影は消えていた。

 

 背後を振り返った。

 

 彼が居た。

 部屋の壁のシャッターを閉め終えた彼は、レイの方へと視線を向ける。

 

「残っているのは君だけだ。綾波」

 

 柔らかな彼の声音。

 それでも、レイには彼の言葉がまるで罪人に対する死刑宣告のように、冷たく聴こえた。

 

 

「私はここでいい…」

 

 

 咄嗟に嘘を吐いた。

 私が居たいのは、「ここ」ではない。

 

 でも、もうそれは叶わないと分かっているから。

 だったらせめて。

 

「エヴァに乗らない幸せ…。碇くんには、そうして欲しかった…」

 

 今までと同じように、自分がここに残ればいい。

 あなたが幸せならば、それでいい。

 私の願いは、14年前も今も、ただその一つだけ。

 その願いを頼りに、この14年間をここで生きてきた。

 

 それでも彼は、私の逃げ道を容赦なく塞いでいく。

 

「もう一人の君はここじゃない居場所を見つけた。だからここじゃない君の生き方もあるよ。僕もエヴァに乗らなくていい世界を選ぶ。時間も、世界も戻さない。エヴァがなくてもいい世界に書き換えるんだ」

 

 世界を書き換える。

 新しい世界の創生。

 それは彼にしかできないこと。

 

 もう彼は後戻りしない。

 振り返らない。

 前だけを見つめている。

 

「そう…、分かった…」

 私に吐き出すことが許された言葉は、これしか残されていなかった。

 

「ありがとう…、碇くん…」

 私に歩くことが許された道は、彼が用意してくれた道しか残されていなかった。

 

 影に渡された人形を抱き締め、彼に背を向ける。

 

 

 

 部屋の片隅にある扉に向かって歩き始める。

 レイと、少年との間の距離が、少しずつ離れていく。

 

 少年に全てを託して、この部屋から出ていく。

 そう決心したはずなのに、彼女の歩みは極めて遅い。

 

 一歩歩いては、振り返り。

 

 一歩歩いては、振り返る。

 

 未練がましく。

 名残惜しそうに、肩越しに少年を見つめる。

 

 そんな彼女の様子に、少年は苦笑いをしながら頭を掻いた。

 

「綾波…」

 

 呼び止められ、レイは前に出しかけた右足をすぐに引っ込めた。

 おずおずと、少年の方へと振り返る。

 

「まだちょっと時間がある。そこに座って」

 

 少年は、先ほどまでレイが腰掛けていた簡素なパイプ椅子を指さす。

 レイは、訳も分からぬまま、言われた通りに、パイプ椅子に腰かけた。

 

 少年は彼の足もとにあった段ボール箱の中を漁る。目的のものを見つけると、レイのもとに歩み寄った。

 そのまま、レイの背後に立つ。

 

 何が始まるのか分からず、落ち着かない様子のレイ。

 そんなレイの視界を、何かが覆った。

 軽いパニックになってしまい、両足をばたつかせる。

 

「はは。大丈夫だよ、綾波。ただの新聞紙だ」

 少年はレイの顔の前で広げた新聞紙を、エプロンのようにレイの首に巻き付ける。新聞紙の下になったレイの長い長い髪を引っ張り出し、梳いて広げた。

 

「せっかくの君の門出だ。ちょっとは身なりを整えないとね」

 

 右耳のすぐ近くで、ジョキッという音がした。

 バサッと、足もとで何かが落ちる音がした。

 途端に、右肩が軽くなった。

 

 ジョキジョキジョキ、と金属的な音は続く。

 バサ、バサ、バサッ。

 肩や首が、どんどん軽くなっていく。

 

 足もとに広がる、空色の長い長い髪。

酷く痛んだ髪。

 この14年間で伸びに伸びた髪。

 自分があの場所で14年間戦い続けた証。

 彼のために捧げたこの14年の象徴。

 

 それが、自分から離れていく。

 

 

 たちまち、視界がぐにゃりと歪んだ。

 熱いものが目尻から溢れ出し、頬を伝う。

 肩が小刻みに震えた。

 

 ジョキジョキジョキ。無機質な、金属的な音は鳴りやまない。

 淡々と、作業を進めていく音。

 

 ついに、レイはその金属音から逃げるように人形を腹に抱え込み、前屈みになり、顔を俯かせた。

 それでも金属的な音が鳴り止む気配はない。

 

「碇くん…」

 嗚咽混じりの、彼女の声。

 

 彼の返事はない。

 

「私…、碇くんが…好き…」

 腹の底から絞り出されたような、彼女の声。

 

 彼の返事はない。

 

「碇くんの…、側に…、いたい…」

 

 

 そこがどこだっていい。

 ここでもいいし、あのプラグの中でも、ネルフ本部でも、ヴィレの戦艦でも、学校でも、マイナス宇宙でも。

 あなたの隣であれば、どこだっていい。

 

 あなたが幸せであったならば、それでいい。

 私の願いはただその一つだけ。

 

 そんなのは嘘だ。

 

 あなたの側に居たい。

 あなたの側で生きていたい。

 あなたと共に生きて、共に死にたい。

 

 こんなことを言ってしまえば、彼を困らせてしまう。

 そんなことは分かっている。

 でも、一度溢れ出した想いは止まらなかった。

 

 おそらく彼女は生まれて初めて、他者に対して、ありのままの、剥き出しの自分の感情をぶつけていた。

 

 

 ジョキジョキジョキ。

 それでもなお、金属的な音は止まらない。

 次々と、ぼさぼさの空色の髪を断っていく。

 

 

 

 少年は刷毛を使って、レイの体に残った髪の毛を払ってやる。

 その間も、レイはずっと前屈みに伏せ、背中を震わせ続けていた。

 そんなレイの細い両肩に、少年はそっと手を添える。

「綾波…、起きて…」

 レイは少年に促されるままに、上半身を起こす。風通しの良くなった首回りが、スース―した。

「立てるかい…?」

 その問い掛けに、レイはしゃくりを上げながらも頷き、椅子から腰を浮かせ、膝を伸ばす。

「これも脱いじゃおうね」

 そう言って、少年はレイが着た白のスーツの手首に手を伸ばし、そこにあるボタンを押した。プシュッと、空気が膨らむ音と共に、レイの体にぴったりとくっ付いていたスーツが緩まる。

 首回りが大きく開き そこから露わになっていく、少女の丸みを帯びた肩、真っ白な肌。

 少年の手に為されるがままに、スーツは少女の体から剥がされていく。その間も、少女は人形を抱えた手で顔を覆い、泣き続けている。

 上半身全てが露わになり、さらにスーツの両下肢の部分も下げていく。スーツを足もとまで下げて。

「綾波。右足を上げて」

 言われるままに、右足を上げる。

「今度は左足を上げて」

 やはり言われるままに、左足を上げる。

 そして彼女が再び両足で床に立った時、彼女の体からは全てのスーツが剥ぎ取られていた。

 

 

 ここは碇シンジが作り出した空間。

 彼が望めば、あらゆるものが手に入る場所。

「じゃあ、これを着て」

 いつの間にか、少年の手の上には丁寧に畳まれた白のブラウスとコバルト色の吊りスカート。

 それらを差し出されても、レイは相変わらずおいおいと泣いてばかり。

 仕方なく、

「門出の日に相応しいもっとお洒落なドレスとかの方がいいのかもしれないけどさ」 

 彼の手によってブラウスを着せられ。

「ほら。僕ってファッションとかに疎いし」

 スカートを履かされ。

「君にはやっぱり、これが一番似合うよ」

 紅のリボンタイも結ばれる。

 

 再び少年の両手がレイの両肩に添えられ。

「ほら、綾波。あれを見て」

 しゃくりを上げ続けているレイは、なかなか顔を上げられない。

「ねえ、綾波」

 再度促され、レイはようやく顔を上げ、閉じていた瞼を開ける。

 先ほどまでは壁しかなかった場所に、いつの間にか姿見が現れていた。

 

 そこに映る、少女の姿。

 少女の側に立つ、少年。

 

「ほら、綺麗になった」

 

 肩に掛かる程度の長さの、空色の髪。

 泣きはらして、いつも以上に真っ赤になっている瞳。

 白磁のような肌。

 白のブラウス。

 コバルト色の吊りスカート。

 

「もうちょっと、摘めた方が良かったかな?」

 以前の彼女の髪はもっと短かったはず。

 そんな少年の言葉に対し、少女はふるふると頭を横に振る。

「これでいい…」

「これでいいの?」

「碇くんが…、切ってくれたんだもの…」

「そっか…」

 

 少年は、レイから一歩遠ざかる。

 

「綾波。時間だ…」

 

 レイは少年に体を向ける。

 目じりを下げ、卵のような額に皺を寄せ、桃色の下唇を噛みしめ、再び溢れてきそうな涙を必死に堪えながら。

 

 

 少年は困ったように笑っている。

 

「綾波…。…笑ってよ、…あの時みたいに…」

 

「うん…、うん…」

 何度も頷き、何度も鼻を啜り、目をぎゅっと瞑って瞼の裏に溜まった涙を絞り出す。

 

 出来るだけ顔から悲しみの色を追い出し。

 そして口角を上げ、ぎこちなく笑う。

 

 レイは、左手で人形を胸に抱きよせながら、右手を少年に向けて差し伸べた。

 

「さようなら…」

 

 少年の目を、まっすぐに見つめながら伝える。

 

「「また会いましょう」という、おまじない…」

 

 何故か、自分の口から自然と出てきた言葉。

 

 少年はレイの白い手をじっと見つめる。

 ゆっくりと頷いた。

 

 彼女の手を、ぎゅっと握り締める。

 

「ありがとう…。綾波…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 閉じた瞼の向こうから光を感じ、彼女は目を覚ました。

 

 見覚えのある天井が見える。

 

 覚えのある寝心地のベッドに枕。

 

 寝返りを打ち、体を右側に倒してみる。

 

 見えるのは薄汚れた床。打ちっぱなしのコンクリート壁。小さな冷蔵庫に、小さなチェスト。

 

 再び寝返りを打ち、今度は体を左側に倒してみる。 

 

 見えるのはベッドのすぐ側にある埃っぽいカーテン。カーテンの隙間から洩れる強烈な日差し。

 

 カーテンを開けてみる。

 

 連なるように建てられた巨大な集合住宅。

 その向こうを走るモノレールの高架。

 住宅地を囲むように広がる緑。

 

 窓ガラスの向こうには、見覚えのある街並みが広がっている。

 

 

 

 




 
  
映画本編での綾波シリーズ(ポカ波さん、黒波さん、アド波さん、デカ波さん)の不遇っぷりにショックを受けた作者が、若干不安定な精神状態で書いてますので、まとまりを欠き、かつまともなオチもつかないまま終わると思われますが、よければ最後までお付き合いください。
 
 
 
 


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2.ポカ波さんのニート生活。

 

 

 

 

 くすんだ窓ガラスの向こうに見える風景。

 ぽつぽつと白い雲が浮かぶ青空。森林が茂る遠くの山々。空を舞う鳥たち。

 目線を下にやると、道路を行き交う車や自転車。林立する集合団地。高架を走るモノレール。豊かな緑に囲まれた公園では子供たちがボールを追いかけて走り回っている。

 

 窓ガラス越しの風景を見つめる赤い双眸。

 赤い瞳の持ち主である、空色髪の少女。ベッドの上で布団から顔だけを出した少女は、いかにも起き抜けといった気だるげな表情で、窓の外をぼんやりと眺めている。

 

 目を醒ました頃は空のてっぺんにあった太陽は少しずつ傾いていき、少女が居る部屋に強烈な西日が差し込み始めた。少女は天からの容赦ない攻撃から身を守るべく、カーテンを閉める。

 薄闇に包まれる室内。目を醒ましてからというもの、結局一度も布団から出ることのなかった少女は、布団を頭から被り直した。1分もしない内に、布団の中からはスヤスヤと寝息が漏れ始める。

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 太陽が沈み、室内は暗闇へ。カーテンの隙間からは、おそらく月だろう。淡く青白い光が差し込み、布団がこんもりと盛り上がったベッドの上を静かに照らしている。その淡い光もやがて消え、再びカーテンの隙間から太陽の陽射しが差し込み始めた。窓の外では、新しい一日が始まりつつあるらしい。

 カーテンの隙間から差し込む陽射しは、ベッドの上を左から右へと移動していく。そして再び室内は暗闇へ。やはりカーテンの隙間からは淡い光が差し込み、ベッドの上を静かに照らす。

 強烈な陽射しと淡い月の光と。

 カーテンの隙間から漏れる光が、交互にベッドの上を照らして。

 それを何度か繰り返して。

 次第に月の光が弱まっていき、やがて陽が沈めば部屋の中は真っ暗闇になって。

 そして何度か暗闇と陽射しとが交互に入れ替わって、再び陽射しと入れ違いに月の淡い光が部屋を照らすようになって。

 

 カーテンの隙間から差し込む淡く青白い光が照らす室内。

 ベッド上に変化。

 こんもりと盛り上がった布団がもぞもぞと動く。

 布団の端から、すらりとした真っ白な足が覗いた。1本の足は布団から出るとゆっくりと床に着地。続けてもう1本の、やはりすらりとした真っ白な足が現れ、床へと降り立つ。

 布団から伸びる2本の足。

 しかしそこからの動きはなく、布団の端からにょきっと伸びる2本の素足という奇妙な光景が暫く続いた。

 

 布団の中から、く~、という気の抜けたような音。

 

 その音が合図となって、布団の端からにょきっと伸びた真っ白な2本の足に変化。

 伸びていた膝が少しずつ曲がっていき、その膝に引っ張られるように布団の端から真っ白な2本の太ももが現れ、太ももの持ち主が履く白のショーツが現れ、捲れ上がったコバルト色のスカートが現れ、白いブラウスが現れ、足と同様の真っ白な2本の腕が現れ、やがて顔が現れ、空色の髪が現れ。

 布団の端からずるずると滑り落ちてきたその人物は、ベッドの側でぺたんと尻餅をつく。

 

 瞼は半開き。その瞼の隙間ら覗く目は白目気味。眉間には皺を寄せ、口をだらしなく半開きにさせ。

 いかにも寝起きといった表情。

 床の上でいわゆる女の子座りをする少女。

 しかしせっかく布団という堕落の国から亡命してきたのに、少女は床に座ったまま、こくりこくりと舟を漕ぎ始めた。

 

 少女の頭が下がっては上がり、下がっては上がり。

 

 少女のお腹から、く~、という気の抜けたような音がする。

 そして下がっては上がってを繰り返していた少女の頭が、がくんと落ちる。

 

 少女は不機嫌そうに、う~と唸った。

 

 仕方なしにといった様子で、ゆっくりと顔を上げる。

 ぼんやりと、柔らかな月の光が照らす室内を見渡した。

 

 側のベッドに右手を乗せ、その右手に体重を掛ける。少しずつ腰を上げていく。床からお尻が浮いたら膝立ちをし、右膝を立て、次に左膝を立て、少しずつ膝を伸ばしてく。

 2本の足で立ち上がった少女。久しぶりの立位に、少し両膝が震えている。久しぶりに高い位置に上った頭に血が行き渡らず、少しくらくらしてしまう。

 立位に体を馴染ませて。

 ゆっくりと歩き始める。

 お腹を、く~と鳴らしながら。

 

 ベッドから少し離れた場所に置かれた冷蔵庫の前に立つ。

 扉を開け、ドアポケットに入った500ml紙パックの牛乳を取り出す。紙パックの口を開け、その口に自身の口を付けて、紙パックを傾ける。

 

 紙パックの中身を一口分、口に含んで。

 途端に少女は咳き込み、慌ててシンクへと向かう。

 排水口に向かって、口に含んだものを全て吐き出した。錆びが浮くシンクの上に、ボタボタと黄色い粘着状の塊が広がる。

 

 あらかた口の中のものを吐き出した少女。涙目になりながら紙パックの口を広げ、中を覗き込む。そして鼻を近づけ、くんくんと臭いを嗅いでみる。少女の顔が、まるで梅干しのようにシワクチャになってしまった。

 シンクの排水口の上で、紙パックをひっくり返してみた。

 本来ならドバドバと白い液体が流れてくるはずの紙パックの口からは、くすんだ黄色い粘着状の塊がボタボタと零れ落ちていった。

 紙パックの中身を粗方出し終え、改めて紙パックを見つめる。紙パックの先端には、「消費期限 2015.××.〇〇」と表記されている。

 少女は紙パックを無造作にシンクの中に捨てる。

 改めて冷蔵庫の前に立ち、冷蔵庫の上に乗せられた未開封のペットボトルの1本を手に取る。キャップを開け、口を咥えようとして。思いとどまり、ペットボトルの口に鼻を近づけ、臭いを嗅いでみる。

 ボトルの中身はミネラルウォーター。嗅いでみる限り、おかしな臭いはしない。

 今度こそペットボトルの口を咥え、中身を口腔内へと流し込む。

 両頬を膨らませ、ブクブクと口の中を濯ぐ。

 シンクへと向かい、口に含んだ水をシンクの中へと吐き出す。

 再びペットボトルの口を咥え、中身を口腔内へ。今度は口の中を濯がず、控えめな喉仏を上下させて咽頭の奥へと流し込む。

 ペットボトルを口から離し、ふう、と溜息を吐いた。

 

 ふと、視線はシンクの隣のガスコンロに向かう。

 ガスコンロの上には、大きな寸胴鍋。

 ベッドに椅子、冷蔵庫、チェスト。必要最低限のものしか置かれていない殺風景な部屋の中にあって、不釣り合いな、異様な存在感を示す寸胴鍋。

 少女はコンロの前に立つ。

 寸胴鍋の丸い蓋を、そっと開けてみた。

 

 そして少女はすぐに蓋を閉めた。

 決して見てはならないもの。まるでこの世の終わりでも見てしまったかのような表情の少女。

 逃げるように、コンロの前から立ち去る。

 

 冷蔵庫の上を見つめる。

 埃を被ったビーカーに薬袋。薬袋の端からは錠剤やカプセルが収められた包装シートが覗いている。

 その薬袋の隣には、ゼリー食のパウチが並んでいる。

 そのパウチの1個を手に取る。パウチのあちこちを確認するが、消費期限の表示がない。キャップを開け、臭いを嗅いでみる。少なくとも変な臭いはしない。

 思い切ってパウチの口を咥え、中身をぎゅっと絞り出す。

 口の中にゼリーが流れ込む。舌の上でゼリーを転がしてみて、少女の顔がほっと安心したように和らいだ。

 チューチューとパウチの中身を啜って。

 空になったパウチをゴミ袋の中へと投げ込む。

 

 お腹の中が満たされた少女は、大きな欠伸をする。

 足は自然とベッドへ。

 

 寝具を整えようと掛布団をはぎ取ると、その掛布団の下から奇妙な塊が現れた。

 

 少女はその塊に手を伸ばす。

 それは丸めた藁に群青色の汚れた布を巻き付けただけの、粗末な人形。巻かれた布には、まるで殴り書きされたみたいに乱暴な字で、「ツバメ」と書かれている。

 藁人形を、不思議そうに見つめる少女。

 なぜこれがベッドの中にあったのか。よく分からないまま、しかし体は不思議と勝手に動き、藁人形を胸に寄せ、ぎゅっと抱きしめる。

 藁の柔らかな感触。

 その感触を胸と頬で確かめながら、少女は布団の中へと入った。

 

 

 藁人形を抱き締めながら眠りにつく少女。

 カーテンの向こう側では、太陽と月とが何度も交互に入れ替わる。

 

 

 お腹がく~と鳴れば布団から這い出てパウチのゼリー食を口にし。

 喉が渇けばペットボトルの水で潤し。

 そして布団に入り。

 ベッドと冷蔵庫の間を行き来するだけ。

 その2メートルだけで全てが成り立っている生活。

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 その日はまだお日様が高い位置にある時間帯に目を醒ました。

 布団から這い出て、何時ものように冷蔵庫の上のペットボトルの水を飲もうとして。

 

 少女は、スン、スン、と強めに鼻を2回ほど鳴らした。

 瞬きを2回ほどする。

 そしてスン、スン、と鼻を鳴らす。

 眉根を顰めた。

 スン、スンと鼻を鳴らしながら、何かを探し求めるように方々に視線をやる少女。

 その視線が、左腕に抱き締めていた藁人形へと落ちる。

 

 少女は藁人形に鼻を近づける。

 クン、クン、と臭いを嗅ぐ。

 

 藁人形から顔を離し、首を傾げる少女。再びスン、スン、と鼻を鳴らす。

 

 何かに気付いたように目を丸くする少女。

 今度はその小さな鼻を、自分の二の腕に近づけてみた。

 クン、クン、と臭いを嗅いで。

 

 途端に顔中を顰めてしまう少女であった。

 

 

 

 着ていたブラウス、吊りスカートを脱衣所で脱ぎ捨てると、アコーディオンカーテンを開ける。

 素っ裸の状態でシャワーの前に立った。

 

 栓を捻る。

 

 暫く待ってみて。

 

 少女は首を傾げて高い位置にあるシャワーヘッドを睨んだ。

 

 栓を捻ったのに、シャワーはうんともすんとも言わない。

 いつもなら最初に冷たい水が噴き出して、徐々に温かくなって、そしてだんだん水圧が下がっていくはずのシャワー。

 

 少女は栓を全開にしてみる。

 やはりシャワーはうんともすんとも言わない。

 シャワーヘッドの幾つもの小さな穴は、一滴の水も落とすことなく乾き切っている。

 

 一度栓を閉じてみる。

 そして全開にしてみる。

 栓を閉じる。

 全開にする。

 

 同じことを繰り返し、しかしシャワーはやっぱりうんともすんとも言わない。

 

 

 

 どん! どん! どん!

 

 

 お湯を降らすという、与えられた唯一の役割を果たそうとしないシャワーを、ぼんやりと見上げていた少女。その少女に耳に、その大きな音は突然飛び込んできた。

 

 どん! どん! どん!

 

 その音は玄関の方から聴こえる。

 それはドアを叩く音。

 何者かの来訪を告げる音。

 

 少女はシャワーを諦め、シャワー室を出て玄関の方へと向かう。

 

 玄関からは相変わらずドアを叩く音。

 

 ドアノブを捻り、ドアを開ける。

 

 ドアの向こうには陽光に溢れた外界が広がり、久しぶりに浴びる強烈な自然光に少女は思わず目を細めた。

 

 ドアを開くとそこは薄汚れた廊下。

 その廊下には、2人の中年男性が立っていた。

 

 ドアを叩いていたくせに、そのドアが開いたことにびっくりしているらしい。

「ほんとに居た…。半月前に確認した時は、誰も居なかったのに…」

 2人組の片割れが呟く。

 

 作業服にヘルメットという出で立ちの2人の中年男性を、少女はぼんやりと見つめる。

 

 ドアの隙間からひょっこりと顔を出した少女に、2人組の片割れが胸にぶら下げた名札を見せた。

「わたくし、第3新東京市都市整備部住宅課の者です。近くの住民から通報があって来ました」

 男性が示した名札を、少女は目をぱちくりとさせて見つめる。

「この市営団地は近日中に取り壊されます。もうずっと前から告知してますよね。すでに立ち退きの期限は過ぎてますよ」

 高圧的な物言いの男性。少女は目をぱちくりとさせるしかない。

「それにこのE棟はもう何年も前から全室空き家のはずです。あなた、不法占拠者ですよね」

 男性にそう言われ、少女は視線をドアの横の表札へと向けた。

 しかし壁に貼られているはずの表札がなく、剥ぎ取られたような四角い跡があるだけ。

「住むところがなくて困っているんでしょうが、でも不法占拠していい理由にはなりませんよ。まずは市の窓口に相談してくれないと。ってちょっとあなた。聴いてます?」

 表札が剥ぎ取られた跡を見つめていた少女。男性に言われ、視線を男性へと戻す。

「一応、お名前を伺っておきましょう。私の方から相談窓口に連絡しておきますから。必ず今日中に相談に行ってくださいね」

 そう言って、男性はポケットからメモ用紙とペンを取り出す。

 メモ用紙の白紙の部分を求めてページを捲る男性。その様子を、ぼんやりと見つめる少女。

「名前は?」

 男性は白紙のページをボールペンの先端で小突きながら訊ねる。

 しかし、少女から返事はない。

「名前を教えていただけませんか?」

 催促する男性。

 彼が務める役所からここまで車で20分。忙しい業務の合間を縫って、わざわざ訪問してきたのだ。さっさと事を済ませて、職場に戻って本来の業務を済ませ、定時には帰りたい。

 しかし、少女からの返事はない。

 イライラしてきた男性はメモ用紙から視線を上げ、少女を睨んだ。

「ちょっといい加減に…」

 男性の声が途中で止まった。

 

 ドアの隙間からひょっこりと顔を出した少女。

 その少女の両瞼が、忙しなく開閉を繰り返していた。

 瞼の向こうの真っ赤な瞳が、あちこちを彷徨っている。

 

 どこか普通ではない様子の少女。

「大丈夫ですか?」 

 さすがに心配になり、男性は少女に声を掛ける。

「具合でも悪いんですか?」

 少女は返事をしない。

 相変わらず小刻みに瞬きを繰り返し、おまけにドアノブを握った手が戦慄き、カチャカチャと耳障りな音を立てている。

 

「おい…」

 もう一人の男性が、少女に声を掛けていた男性の袖を引っ張った。

「…なんだかヤバいぞ…。あまり…関わらない方がいいんじゃないか…」

 小声でそう呟く。

 同僚にそう言われ、男性は改めて少女を見た。

 

 痩せた頬。不健康そうな白い肌。気味の悪い色の髪。病人のような赤い瞳。

 ドアに隠れて見えないが、腕には注射針の痕が幾つもあるんじゃないかと疑いたくなるような挙動と風貌だ。ちなみに男性2人はドアから顔だけを出した少女が、首から下がすっぽんぽんであることまでは知らない。

 

「と、とにかく明日また来ますからその時までに退去をお願いします。その時は警察も連れてきますので。もしまだ不法占拠を続けているようであれば、強制的に立ち退きを迫まることになりますから、どうぞよろしく」

 

 そう言い残し、男性はドアから離れ、まるで逃げるように階段へと向かい始めた。

 同僚もその後を追う。

 

「…おい。今の…、どう見ても中学生か高校生だよな…?」

「ああ…。一応、児童相談所にも連絡しておくか…」

 

 

 

 2人の男性が立ち去り、少女はドアを勢いよく閉めると転がるように室内へと戻った。

 冷蔵庫に駆け寄り、その上に置かれた薬袋を手に取る。

 

 小さな紙の袋。埃を被ってしおれた紙の袋。その袋に書かれた表記。

 何かの葉っぱを半分に切ったようなロゴ。『NERV』の文字。その下。

 〇〇〇〇様。

 この薬を処方された患者の名前が書いてある箇所がくすんでしまっていて、文字を読み取ることができない。

 

 少女は薬袋を投げ捨てると、部屋の隅に投げられていた学生鞄を手に取る。

 蓋を開けてみた。

 中身は空っぽ。

 教科書やノート。学生手帳のような類もない。

 

 今度は脱衣所へと駆け込んだ。脱衣所の床にぞんざいに脱ぎ捨てられた学生服。その服の、隅々までを調べる。

 ない。

 どこにもない。

 

 ゆっくりと、服を床へと落とす。

 洗面台の前に立った。

 

 薄汚れた鏡。

 

 その中に映る、一人の少女。

 

 空色の髪。

 真白い肌。

 真紅の瞳。

 

 少女は両手を頬に、額に、髪に。

 自分の顔の形を確かめるかのように、手を顔の上に這わせる。

 

「これは…私…」

 

 自分の顔の形を確かめ終えた手を、今度は自分の顔を映し出す鏡へと伸ばす。

 鏡面に触れる手。

 手に伝わる冷たい感触。

 冷たい鏡面に映る、一人の少女。

 

「あなた…、誰…?」

 

 鏡から手を離し、再びその手で、自分の顎に触れる。

 

「私は…、誰…?」

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 持ち出せるものは持ち出しておこうと、学生鞄の中になるべく多くの荷物を詰め込もうと思ったが、ところが何を持ち出せばよいのか分からない。そもそもこの部屋には、持ち出すほどの荷物もない。

 とりあえず数組の下着と、冷蔵庫の上にある数本のペットボトルとゼリー食だけを詰め込んだ。

 

 右手に学生鞄を持って。

 左手に藁人形を抱えて。

 玄関に立ち、踵が踏み潰された白のスニーカーを履く。

 

 振り返り、室内を見渡した。

 

 必要最低限のものしか置かれていない、殺風景な部屋。

 

「私の部屋…」

 

 自分が纏う、ブラウスと吊りスカート。

 

「私の服…」

 

 今履いたばかりのスニーカー。

 

「私の靴…」

 

 右手に持った学生鞄。

 

「私の鞄…」

 

 左手に抱えた藁人形を見つめる。

 

「あなたは…誰…?」

 

 藁人形は何も答えない。

 

 ドアを見つめる。

 

「私は…、誰…?」

 

 ドアは何も答えない。

 

 

 

 ドアノブを捻り、ドアを開ける。

 

 

 途端に、暴力的なまでの強烈な日差しが薄暗い部屋の中へと飛び込んできた。

 

 少女はその光にまるで怯えたようにドアを閉めてしまい、一歩、二歩とドアから後ずさってしまう。

 

 踵が上がり框に当たってしまい、その場に尻餅を付いてしまった。

 

 痛むお尻を摩りながら後ろを振り返って。

 

 薄暗い部屋を見渡して。

 

 見渡す先に、自分に手を差し伸べてくれる存在は何もないことを確認して。

 

 自分の背中を押してくれるものは何もないことを確認して。

 

 目をぎゅっと瞑り、深く静かに鼻息を吐く。

 

 ゆっくりと立ち上がった。

 

 改めてドアノブを捻る。

 錆びついた蝶つがいの音。

 開いたドアの隙間から差し込む正午の強烈な日差し。

 

 ゴミや剥がれた壁や天井のタイルが散乱した廊下。

 

 少女の少しくすんだ白いスニーカーが、陽の光の下へと一歩踏み出す。

 

 

 

 



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3.ニート、家を出る。

 

 

 

 

 集合住宅の4階分の階段を降り切ったまでは良かった。

 問題はそこから。

 

 団地の敷地から出て、表通りへと出る。

 

 何となく見覚えのある街並み。

 何となく歩いた記憶のある道。

 見慣れているはずなのに、初めて訪れたような感覚。 

 曖昧な頭の中の地図。

 

 団地の前を通る道。

 歩道を行き交う人々。

 

 少女の足は団地の敷地を出て右の方へ。

 数歩ほど歩みを進めて。

 前から日傘を差した年配のご婦人が歩いてきた。ご婦人はすれ違いざまに少女に向かって軽く会釈をして、通り過ぎていく。そんなご婦人の背中を見つめて。少女はふらふらとご婦人の後を付いていって。十歩ほど歩いてみて、今度は前方からジョギング中の青年がやってきて、少女はすれ違った青年の背中を追いかけてふらふらと歩き、すると続いて前から犬を連れた男の子がやってきて、ふるふると揺れる犬の尻尾を追って歩いて。

 団地の前で右に左にと彷徨う少女。向かうべき方向を決められないまま、10m程度の間をひたすら行き来したまま、30分が過ぎる。

 

 

 プシュー。

 同じ場所をぐるぐると回り、いい加減目が回ってきた少女。

 そんな少女の前に、一台の古びたバスがエアブレーキの音を響かせながら停車した。

 

 バスのドアが開き、何人かの乗客が降りていく。

 運転手の視界に、歩道で佇む学生服姿の一人の少女が入った。少女は、ぼんやりとバスを見つめている。

 

「乗るの?」

 バスの中から運転手に声を掛けられ、少女はふるふると頭を横に振った。

 ガタンガタンと音を立てて閉まる折りたたみ式の自動ドア。

 バス停にエンジン音と排気ガスと一人の少女を残して、バスは走り去っていく。

 

 遠ざかっていくバスを見つめる少女。

 バスの壁面には大きな路線図の表示。

 

 『〇ケ丘団地前』 → 『〇×町商店街』 → 『□△図書館』 →

 

 これからあのバスが辿る路線のバス停の名前が表示されている。

 

 その中に。

 

 『第三新東京市立第壱中学校前』

 

 少女の足は、バスが走り去っていった方へ向かって歩き始める。

 

 

 

 見覚えのあるような、ないような商店。

 見覚えのあるような、ないような神社。

 見覚えのあるような、ないような公園。

 

 追うべきバスの姿はとっくの昔に見えなくなっていたが、歩き始めれば不思議と少女の足は迷いを見せなかった。交差点も、歩道橋も、次々と現れる分岐を迷うことなく選んでいく。

 

 やがて少女の目に、小高い丘の上に立つ鉄筋コンクリート製の白い建物が見えてきた。丘の上の建物に続くなだらかな坂を上っていくと、敷地と道路を仕切る門が現れる。門の立派な表札には、大きな字で「第三新東京市立第壱中学校」の表記。

 

 3階建ての校舎を見上げる。

 

「…ここ、…知ってる…」

 

 自分自身に言い聞かせるように呟いた。 

 

 

 学校。

 学び舎。

 子供が教育を受ける場所。

 同じ年齢の子たちが、同じ教室で、同じ時間を過ごす場所。

 子供たちの唯一の社会。

 大人たちの社会の縮図。

 

 

 無機質な鉄筋コンクリート製の校舎。

 それでも、なぜかその校舎を見上げていると、心が温かくなるような気がする。

 

 ここで過ごしたことがあるような気がする。

 

 そんなに多くの時間ではないけれど。

 

 大切な誰かと、掛け替えのない大切な時間を、ここで過ごしたことがあるような気がする。

 

 

 何かに導かれるように、ふらふらと校門へと向かった。

 スライド式の門扉は半分しか閉まっておらず、誰でも簡単に出入りできるようになっている。その門から校庭の中に足を踏み入れようとして。

 

 校内放送用のスピーカーから、音割れした大きなチャイムの音が木霊する。

 その音にびっくりしてしまったらしい少女は、門の前で足を止めてしまった。

 

 やがて騒がしくなる校内。校舎から、続々と生徒たちが出てきた。

 学生鞄やショルダーバッグを抱えた、下校姿の少年少女たち。何十人、何百人の生徒たちが、一斉に門へと向かう。

 

 門から次々と溢れ出す生徒たち。 

 生徒の群れの中に佇む少女。

 あっという間に人の波に飲み込まれ、身動きが取れなくなる。

 

 

 門から出てくる生徒たち。

 男の子たちはチェック柄の学生ズボンに白のワイシャツとネクタイ。

 女の子たちは、白のブラウスに男の子のズボンと同じチェック柄のリボンタイ、そしてチャック柄のプリーツスカート。

 同じズボン、同じワイシャツを着た男子生徒たち。そして同じスカート、同じブラウスを着た女子生徒たちが、門から続々と出てくる。

 

 教室という名の牢獄から解放され、下校の途につく生徒たち。帰りの寄り道の相談や、昨晩見たドラマの話、流行りものの話。それぞれの集団がそれぞれの話題で盛り上がっている中。

 

「ねえ、なに? あの子」

「門の前に立たれて邪魔なんですけど…」

「見慣れない学校の制服だね」

「なんだか前時代的ぃ~」

「あっ、てかあたし知ってるあの制服」

「え? どこのガッコ?」

「いや、うちの学校だよ。うちのママもイッチューの卒業生なんだけどさ。ママの卒業アルバム見たことあるけど、確かあれとおんなじ制服着てたよ」

「へ~、じゃああのコ、うちらの先輩?」

「いや、うちの学校があの制服だったの、確かサードインパクトの頃だったはずだから。あのコ、うちらとおんなじくらいの年ごろだよね」

「じゃあなんであんなカッコしてんのよ。え? もしかしてタイムスリップしてきたんだったりして」

「ってゆーかさ。気にするべきは格好よりもあっちの方じゃない? 気持ちワルっ」

「なにあれ。呪いの人形? マジキモイんですけど」

「近寄らない方がいいんじゃない」

「ってか先生呼んだ方がよくない?」

「うん、どー見ても怪しいよ。何だか目の色おかしいしさ」

「髪もすんごい色してるし」

「おーい、誰か先生呼んできてー」

「あっ」

「あっ」

「どっか行っちゃった」

 

 

 人ごみをかき分け、駆け足で坂を下る。

 坂を下り切った先にある神社の境内に、転がり込んだ。

 

 境内の隅っこで蹲る。

 乱れに乱れた呼吸を落ち着ける。

 

 生垣の隙間から、ピンク色に染まった顔をひょこっと出す。

 

 神社の前を通る生徒たち。

 見覚えのある校舎から、見覚えのない制服で出てきた生徒たち。

 まるで獲物を求めて彷徨う狼の群れから身を隠す小動物のような表情で、少女は学び舎から放たれた子供たちを見つめていた。

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 全身を覆う冷たい感触に身震いをしながら目を醒ます。身に纏った服が、露出した肌や髪が、しっとりと濡れていた。

 板張りの古い床から、夜露の臭いと古い板の臭いとが染みついてしまった体を起こす。

 

 少女が一夜を明かしたのは、古い木造神社の縁側だった。

 神社を囲む木々の向こうでは、朝を迎えつつある街の様子が見える。人通りは殆どなく、時折新聞配達のバイクの音が遠くから聴こえるくらい。

 

 

 にゃお

 

 

 その鳴き声は不意に足もとから聴こえてきた。

 視線を足もとに落とすと、縁側の下に居たのは黒と白のぶち猫。地面の上にちんまりと座ったぶち猫が、少女を見上げている。

 そのぶち猫の背中からは、そのぶち猫の子と思しき子猫たちが2匹、ちょこん、ちょこんと顔を覗かせている。

 

「猫さん…」

 

 猫の親子を見て、少女は目を丸くする。

 興味深そうに、猫の親子を見下ろす。

 自然と、少女の唇が柔らかな曲線を描いた。

 

 少女は腰を浮かせて縁側から滑り降りると、地面に立ち、そして膝を折る。

 そしてこちらを見上げている猫に向けて、手を伸ばした。

 

 

 な~ご

 

 

 途端に、猫は瞳孔を丸くさせ、髭を逆立たせ、歯を剥き出しにして唸る。

 明らかに威嚇を示している親猫。子猫たちは親猫の背中に隠れてしまった。

 少女は伸ばし掛けた手を引っ込める。

「ごめんさい…、ここは…、あなたたちのおうちなのね…」

 猫の親子からゆっくりと離れ、縁側に置いていた学生鞄と藁人形を手に持つ。

 少し離れた場所で、猫の親子を見つめる。親猫はあからさまに警戒した様子で少女を見ている。

「私…、おうちがないの…」

 無意味と知りつつ、猫に語り掛ける。

「どこに行ったら…いい…?」

 少女が予想した通り、猫は唸るばかりで何も答えない。

 

 

 神社の境内から出る。

 街中は薄い朝靄が漂い、その風景はまるで一日の始まりを前に、街全体が毛布にくるまって微睡んでいるようだった。

 

「どこに行ったら…いい…?」

 微睡む街に問いかける。

 答える者は誰も居ない。

 

 顔を俯かせ、足もとのアスファルトを見つめる。

 

「私の…おうち…」

 

 神社の近くにある丘の上を見つめる。昨日訪れようとして、直前で引き返した学校の校舎が見えた。

 

「私の…おうち…」

 

 今度は丘とは反対方向へと伸びていく道路を見つめる。昨日、少女が歩いてきた道。この道の先には、昨日少女が出ていったばかりの集合団地。

 

「私の…おうち…」

 

 ふと、視界の隅に動くものがあり、少女は視線を向けた。

 高架の上を音もなく走る、モノレール。

 

「私の…おうち…」

 

 少女は高架に向かって歩き始める。

 

 

 高架下まで辿り着くと、そこには高架へと上がる階段があった。

 階段を昇り切るとモノレールの駅舎があり、出入り口には自動改札口が待ち構えている。

 朝の通勤客の姿がちらほらとあり、皆、自動改札に切符を入れたりカードや通信端末機などを翳して改札口を通り抜けていく。

 

 少女は学生鞄の中を探る。中には昨日詰め込んだ下着やペットボトルくらいしかなく、財布やカード入れらしきものはない。

 仕方なく、少女は駅舎を後にし、階段を下りた。

 

 頭上を見上げる。

 鉄筋コンクリート製の巨大な高架橋が、延々と続いている。

 少女はその高架橋に沿って、歩き始める。

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 街中を走る高架。次第に高いビルが増え、人や車の行き来も増えてくる。

 その中を、少女はとぼとぼと歩く。

 モノレールの駅舎の下ではラッシュ時の通勤客で溢れ、人波に慣れていない少女はすれ違う人々に何度も肩や腕をぶつけられ、転びそうになり、それでも鞄と人形は守りながら、人波をかき分けて進んでいく。

 

 やがて人影はまばらとなり、少しずつ高い建物は減っていき、そして道の端々に積み上げられた瓦礫の山が目立つようになり、やがて更地ばかりが広がるようになり。

 そして高架も途絶えた。

 

 あの神社から出発して、どれだけの時間を費やして歩いてきたかは分からない。

 少なくとも、太陽は一番高いところまで昇ってしまった。

 

 高架を辿ってずっと歩き続けてきた少女。

 彼女が頼ってきた高架は無くなり、そして少女の目の前には少女の背丈の3倍はあろうかという高いフェンスが立ち塞がっていた。

 

 

 右に左に、視線を振ってみる。

 てっぺんに有刺鉄線を張り巡らせたやたらと厳重なフェンスは遥か彼方まで伸びており、少女が立つ場所からではとてもその終わりは見えない。

 

 そしてフェンスの向こう側に広がるのは、まるで砂漠のような荒涼とした大地。

 灰色の大地は、しかしその途中から赤く染め上げられている。

 

 フェンスに掲げられた看板に目をやる。

 

『警告 高濃度汚染区域 立入禁止』

 

 アルミ製の黄色い板に黒の文字ででかでかと書かれた看板。

 

 その物々しい看板の下に掲げられているのは、白の板に細かい字で書かれた看板。

 

『これよりL結界密度危険水準地域のため、一切の立ち入りを禁じます。大変危険ですので、近寄らないで下さい。許可なく立ち入ると災害対策基本法により罰せられます。フェンスに異常を発見した方は、下記までご連絡ください。 第3新東京市危機管理課』

 

 フェンスのすぐ側に立ち、フェンスの大きな網の目に手の指を掛ける少女。

 網の目の向こうに広がる、赤い大地。その赤い大地の先にかすかに見える、ぽっかりと開いた、黒い大きな穴。

 

「私の…、おうち…」

 

 

 ふと見ると、物々しくはあるものの、古くて朽ちてしまったフェンスとフェンスの間に、隙間が生じていた。細身の少女であれば、十分に通れる幅の隙間。

 改めて警告の看板を見る。

 

『…L結界密度危険水準地域…』

 

 その文言の意味するものが一体何なのかよく分からないけれど。

 

「私なら…、大丈夫…」

 

 何故かそんな期待が少女の頭に過った。

 看板から目を離し、フェンス越しの赤い大地を見つめる。フェンスの網を握る少女の手に、ぎゅっと力がこもった。

「パイロットの私なら…、大丈夫…」

 自分に言い聞かせるように、ぼそりと呟く。

 呟いて、瞼を2回ほど瞬かせた。

 

「パイロットって…、なに…?」

 

 少女は身を屈ませると、フェンスの隙間に体を滑り込ませた。

 

 

 

 

 文明の粋を集めた都市から一転して、まるで地球から遠く離れた無人の惑星のような場所に降り立つ。

 そんな未踏の荒野に、右手には学生鞄。左手には藁人形という出で立ちで歩き始めた少女。

 乾いた地面。ゴム製のスニーカーが地面を踏みしめる度に、地面から砂埃が舞い上がり、白いスニーカーをたちまち灰色に染めていく。

 

 すり抜けたフェンスは随分と遠くに離れた。

 フェンスが遠ざかるにつれて、前方に広がる赤い大地が近づいてくる。

 

 てくてくと歩みを進めて。

 

 ついに少女の足は灰色の大地と赤い大地との境目まであと10歩のところまで迫った。

 

「私なら…大丈夫…。私なら…大丈夫…」

 

 そして少女の足は、赤い大地へと踏み入れる。

 

「私なら…大丈夫…。私なら…大丈夫…」

 

 まるでおまじないのように同じ言葉を繰り返しながら、赤い大地のさらに向こう。大地にぽっかりと開いた、大きな穴を目指す。

 

 

 

 少女の細い肩の揺れが激しくなる。 

 

 少女の息が荒くなる。

 

 少女の視界が狭くなる。

 

 無視しがたい体の変調。

 

 ついに少女の膝が折れ、土埃を立てて地面に崩れ落ちる。

 

 地面に四つん這いになった少女の口から、黄色い液体が溢れ出し、少女は慌てて口を塞ごうとして、顔に近づけた両手が赤く光っていることに愕然とする。

 手の平だけでなく、手の甲も、腕も。上肢のあちこちが赤く光っている。

 少女は立ち上がろうとした。途端に膝が地面に着いた。立ち上がろうにも、立ち上がれない。足の感覚が無い。膝から下が、無いように感じる。視線を足の方へとやって、とりあえずまだ2本の足は健在であることを確認する。しかしその両足とも、赤く光っている。立ち上がろうとすれば、その赤く光る足は掛かる負荷に耐え切れず、たちまち液体となって弾けてしまいそう。

 体中のあちこちを、違和感が襲っていた。目、鼻、口、耳、腕、足、背中、胸、腹、腹の中身、脳。それらが1つ1つバラバラになったような感覚。それらを繋ぎ止めるボルトが、すべて抜けてしまったように、まるで統一性が無い。

 こんな体では、とても立ち上がれそうにない。

 とても走れそうにない。

 

 だから少女は這い始めた。

 

 少女は四つん這いのまま、赤い大地から這って逃げ出した。

 

 

 這って、這って。

 

 全身を砂まみれにして。

 

 何とか赤い大地の外。

 灰色の大地へと身を投げることに成功する。

 

 

 するとバラバラだったはずの全身のあちこちの部位が少しずつ統一性を持ち始め、そしてあちこちで赤く光っていた肌が、もとの白い肌へと、いや、砂まみれの灰色の肌へと戻っていく。

 吐き気は和らいでいき。

 視界も少しずつ安定していき。

 呼吸も落ち着いていき。

 

 少女は地面に蹲ったまま顔だけを上げ、後ろを振り返る。

 

 赤い大地のその向こう。

 ぽっかりと開いた、黒い大きな穴。

 

「……私の……、おうち……」

 

 まるで青い空を見つめるような黒い瞳のように、ぽっかりと開いた大きな穴。

 その穴を、少女は望郷の眼差しで見つめる。

 

 肩を震わせ、下唇を噛み締めた。

 

 少女は顔を伏せ、額を地面に付ける。

 

「碇くん…」

 

 嗚咽混じりの少女の声。

 

「私…、エヴァのない世界じゃ…、生きられない…」

 

 腹の底から絞り出されたような少女の声。

 

 少女の細い指の爪が、土を抉る。

 

「エヴァ…って、…何…?」

 

 見開いた少女の目が、地面を見つめた。 

 

「碇くん…って…、誰…?」

 

 少女の問いは誰の耳にも届くことなく、反響物のない荒野の虚空にあっという間に吸い込まれ、消えていった。

 

 

 

 

 



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4.パラサイト 半ノウのニート。

 

 

 

 

「君」

 頭上から降ってきたその声に、微睡みの沼を漂っていた少女の意識は水面へと吸い上げられる。

 

 高架下の空き地。巨大な高架を支えるコンクリート製の橋脚を背にして、膝を抱えて眠っていた少女。うっすらと瞼を開き、ゆっくりと顔を上げると、そこには赤色灯を持ったヘルメット姿の警備員が立っていて、少女を見下ろしていた。

「ダメだよここで寝ちゃ」

 

 少女は眠たい目を擦りながら周囲を見渡す。

 作業着とヘルメット姿の男たちが何人も行き交い、ブルドーザーやショベルカーなどの重機を乗せたトラックが空き地の中へ続々と入ってきている。

「家出かい? 早く帰ってやりなよ。親御さん、心配してるよ?」

 少女は背後の壁に助けられながら、少しずつ体を起こしていく。

「…帰る…」

 少女の小さな呟き。

「そっ。おうちに帰りなよ。じゃ、あっちから出てってね」

 

 

 

 

 少女は黄色と黒のフェンスの前に立っていた。

 部外者の立ち入りを制限する黄色と黒のフェンスの向こうには、見慣れた集合住宅。

 今にも崩壊してしまいそうな、くたびれた集合住宅。その壁に。

 

 ドン!

 

 巨大な鉄球が襲い掛かり、建物の崩壊を促進させている。

 

 巨大なクレーン車にぶら下げられた巨大な鉄球。クレーン車のブームが右に大きく振られ、それに釣られてぶら下げられた鉄球も右に大きく振られ。今度はブームが左に大きく振られ、それに釣られて鉄球も左に大きく振られる。

 

 ドン!

 

 今、巨大な鉄球が襲った場所。

 そこは4階。建物の端の階段からから2つ目の部屋。

 

 2日前まで寝泊まりしていた部屋が一瞬にして粉々に砕ける様を、少女は彼女にしては珍しく唖然とした表情で見上げていた。

 

「君」

 

 背中に声を掛けられる。

 振り返ると、そこには赤色灯を持ったヘルメット姿の警備員。

「ここは危ないよ。離れて離れて」

 

 

 

 

 歩道を歩いていると、30分ごとに警察官に声を掛けられた。

 

「君、学校は?」

「おうちはどこ?」

「親の連絡先を教えなさい」

 

 彼らが投げてくる問い掛け。

 それらは全て、少女には答えたくても答えることができないものだった。

 

 答えられないものだから、警察官に声を掛けられるたびに、少女は走って逃げる。

 

 自然と、少女の足は市街地を外れ、郊外へ続く道へと向かう。

 

 

 * * * * *

 

 

 いつの間にか周りは鬱蒼とした森。

 森の中の坂道を、ぐんぐんと登っていく。

 2日前から歩き通し。少女の足は、すっかり棒になってしまった。ゼリー食のパウチや水の入ったペットボトルを詰めた学生鞄は、あの赤い大地から逃げ出した時に何処かに置いてきてしまった。今、少女の荷物は粗末な藁人形一個だけ。

 この道が一体どこに向かっているのか。あの街から出たことのない少女にとって、街から郊外へと延びる道の全ては、未知の道だった。

 

 坂道の途中から道はアスファルトで固められることを放棄され、未舗装の土の道へ。

 やがて森は途切れ、坂道は平坦な道へと変化し、木陰を失った路上を容赦ない陽射しが降り注ぐ。

 視界が開け、現れた風景。

 少女は息を呑んだ。

 

 目の前一杯に広がる青。

 

 青い空。

 

 その下に広がる、青い海。

 

 それは少女にとって、初めて見る光景だった。

 

 少女が立つのは海岸に面した高台。海から拭く風が、少女の肩まで伸びた空色の髪を、優しく撫でていた。

 

 

 目の前に広がる、きらきらと光る青い海。

 その海を見入る少女の瞳も、きらきら光っている。

 腕の中の藁人形をぎゅっと抱きしめ、その場にしゃがみ込んだ。

 

 海と空との狭間にぽつぽつと浮かぶ白い雲。

 海に白波を立てて進む小さな舟。

 海上をゆったりと舞う海鳥たち。

 

 変化に乏しく、決して表情豊かとは言えない風景を、少女は路上に座り込んだまま、飽きもせずに眺めていた。

 

 

 

 

「ああもう…。上手くいかないもんだな」

 

 その声は不意に背後から聴こえてきた。

 少女の耳にもその声は確かに届いていたはずだが、しかし少女は振り返って声の在り処を確かめようとせず、抱き寄せた膝に顎を乗せながら、ぼんやりと海を眺め続ける。

 

 背後では、パシャパシャと、何かが水を弾く音。

 不規則な水の音が、暫く続いた。

 

 そして。

 

「うわ、わわっ!」

 

 パシャン!

 

 素っ頓狂な悲鳴と共に、大きな水の跳ねる音。

 ようやく少女は背後を振り返る。

 

 少女の視線の先には大きな水溜まり。

 その水溜まりの真ん中で、一人の少年が仰向けになって倒れていた。

 

 つなぎの作業服にワークキャップ、首には巻いたタオルという出で立ちの少年。

 そんな少年が、水溜まりに膝下まで突っ込み、空を見上げた状態で倒れている。

 

 そんな無様な姿の少年を、少女は無感動に見下ろす。

 少年は水溜まりの淵に立つ少女の存在に気付いたらしい。

 

「やあ…、こんにちは…」

 

 無様な姿を見せてしまい恥ずかしいのか、少し震えた声で挨拶する少年。

 

「ごめん。ちょっと体起こせないんだ。助けてくれると、ありがたいんだけど」

 

 その少年の声に、少女は目をぱちくりとさせる。そして周囲をきょろきょろと見渡した。ここには少年と、自分以外誰も居ない。

 少年に視線を戻す。少女は首を傾げながら右手を上げ、その人差し指で自分自身を指差した。

 

 少年はにっこりと笑う。

「うんうん、君だよ。君にお願いしてるんだ」

 

 少年にはっきりと助けを乞われ、少女は再び目をぱちくりとさせる。そして再び周囲をきょろきょろと見渡した。

 少年の助けになりそうな道具が何もないことを確認し、改めて水溜まりの上の少年に視線を戻す。

 

「え、えっと…」

 何もアクションを起こそうとしない少女に戸惑う少年。

「僕の手を引っ張って、起こしてくれるかな?」

 具体的な指示を受け、少女はようやく動き出す。

 

 少女は人形を大事そうにそっと道路に置くと、水溜まりの淵に立つ。水溜まりは未舗装の道路よりも30cmほど低い位置にあり、灰色の水で満たされている。少女はそんな底の見えない水溜まりの水面に、白いスニーカーと黒の靴下を履いたままの右足を、おっかなびっくり近づけていく。

 スニーカーが灰色の水の中に沈む。

 少女はてっきり靴底はすぐに水溜まりの底に付くと思っていたらしい。スニーカーはあっという間に灰色の水の中に沈み、黒の靴下も脹脛までが一気に沈んだ。そこまでいってようやく靴底は水溜まりの底につく。少女は水溜まりの中に入るため、右足に体重を預け始めた。

 たちまち、少女の右足は膝までが一気に沈んでしまう。水溜まりの底は泥濘んでいてまるで底なし沼のよう。

 危うい足場にバランスを崩してしまった少女は、慌てて左足を前に出して踏ん張ろうとする。そしてたちまち水溜まりの底に深く沈んでしまう左足。

 大きく股を開いたままの状態で、身動きが取れなくなってしまった少女。

 どうにかしてこの事態から抜け出そうと、じたばた足掻いてみる。何とか頑張って、右足だけでも引き抜こうとして。

 どうやら泥濘の下でスニーカーが脱げてしまったらしい。

 急に右足が泥濘の中からすっぽ抜け、少女の体は大きくバランスを崩す。そして。

 

「ぐへえ!」

 

 蛙を潰したような声が少年の口から漏れた。

 前のめりに倒れてしまった少女の額が、少年の鳩尾に見事なヘッドバットを決めてしまったのだった。

 

 少年は仰向けに倒れ。

 少女は前のめりに倒れ。

 ちょうどT字状に折り重なる少年と少女。

 

 泥濘に嵌ってしまった2人。

 その格好のまま3分。

 結局少年は立ち上がるのを諦め、背泳ぎの要領で水溜まりの中を移動し始める。そして少女も四つん這いのまま這って水溜まりを移動する。

 水溜まりの淵まであと50センチの位置まで来た時、少女の目の前に手が差し出された。

 見ると、先に水溜まりから脱出していた少年が、道路の上から少女に向かって手を差し伸べていた。

 少女は少年の顔と少年の手とを交互に見つめて。

 おずおずと少年の手に自身の手を伸ばす。

 躊躇いがちに伸ばされた少女の手を一気に掴んだ少年は、

「よっと」

 少女の体を水溜まりの中から一気に引き上げる。

「あらら」

 引き上げようとして、少女の体が想像以上に軽かったらしく、引き上げた勢いで手を掴んでいた少女ごとそのまま後ろに倒れ込んでしまった。

「ぐほぉ!」

 一緒に倒れてしまう少女の体だけは守ろうと庇うように背中から倒れたところ、少年の鳩尾に今度は少女の左肘がめり込むことになる。

「いつつつ…、ごめんごめん、大丈夫かい?」

 少しだけ鼻を打ってしまったらしい少女は、少年の体の上で赤くなった鼻を摩りながら小さく頷いた。

 少年も少女も、ふう、と溜息を吐いて道路に座り込む。

「どうもありがとう。助かったよ」

 結局、最終的に水溜まりから助け出されたのは少女の方だったが、一応は助けようとしてくれた少女に感謝を伝える少年。

「ああ、ごめん。泥だらけにさせてしまったね」

 少年は自分の首に巻いていたタオルを解くと、泥だらけの少女の顔に当てる。タオルで少女の頬を拭き、鼻を拭き、瞼を拭き、額を拭き、唇を拭き。少年のやや遠慮のないタオル捌きに、少女は目を閉じて為されるがままの様子。

 顔をある程度拭き終えると、少女の泥だらけのうなじ、鎖骨の辺りを拭き、腕を拭き。ついでに灰色に染まってしまった服も拭いてやろうと、ブラウスの背中やお腹、胸なども拭いてやるが、泥はすでに布地に染み込んでしまっているため、タオルで拭いた程度では大して汚れは落ちなかった。少年は続けてタオルの端っこを捩じってひも状にすると、それを泥が入り込んだ少女の左耳の孔に突っ込み、掃除してやる。左耳が終わったら、続いて右耳も。その間も、少女は目を閉じて為されるがままの様子。

 少年は最後に少女の髪についた泥を拭いてやろうと少女の頭にタオルを被せようとする。

 が、ここまで為さるがままだった少女が初めて動きを見せた。少年が少女の頭にタオルを被せ、そのまま両手で少女の頭をわしゃわしゃしようとしたら、少女はすっと手を上げて少年の手を止めたのだ。

 少年はすぐにタオルから両手を離す。少女は自分自身の手で頭をわしゃわしゃさせ、頭に付いた泥を拭っていく。

 少女の頭からタオルが取り払わると、そのタオルの下からボサボサ頭の少女の顔が出てきた。

 少年はそんな少女の顔にくすりと笑いながら、タオルを受け取る。

「あまり落ちなかったみたいだね」

 タオルで多少落としたとはいえ、少女の体は泥だらけのまま。

 もともと泥だらけだった服だ。少女は構わないと頭を横に振る。

 

 少年は体を倒し、道路脇に置いていたお盆に手を伸ばす。お盆を手もとに引き寄せると、お盆に乗せていた薬缶を手に取り、その隣の茶碗に中身のお茶を注ぐ。

 茶碗に口を付け、ぐいっと呷る少年。

「はあ、生き返るねえ」

 ふう、と一息を吐きながら、その風貌には相応しくないオッサンくさいセリフを漏らす少年である。

「あ、どうだい。君も」

 少年は茶碗にお茶を注ぎ直し、少女に渡してやる。

 少女は渡された茶碗に口をつけ、ちゅるちゅるとお茶を啜って。そして、

「ふ~…」

 少年と同じように、一息を吐く。

 少年は少女の手から茶碗を受け取ると、茶碗の中に残っていたお茶を一気に飲み干し、改めて茶碗の中にお茶を注ぎ、ぐいっと呷り。

「は~…」

 空の茶碗にお茶を注いで隣の少女に渡し、少女はお茶をちゅるちゅると啜って。

「ふ~…」

 

「は~…」

「ふ~…」

「は~…」

「ふ~…」

 少年と少女との息が交互に続く。

 

 

 久しぶりに喉を潤すことができた少女は、その視線を目の前の水溜まりへと向ける。

 水溜まりと言うには深すぎる水深。泥濘んだ底。その水面には、距離を空けてぽつぽつと細長い葉っぱが顔を出している。

 

「ああ、これかい?」

 少女の視線に気付いた少年。

「今日から田植えを始めてみたんだけどさ。これが全然ままならないんだ」

 少女は少年の顔を見る。少し目を丸くして。

 そんな少女の顔に、少年は恥ずかしそうに後ろ頭を掻く。

「僕、まだ農業初心者でさ。ほらあれ」

 少年は水溜まり、いや、田んぼの上を指差した。

 田んぼの上には、斜面に連なる段々畑が広がっている。

「3年続けてようやく畑の方は形になり始めたから、今年から米にチャレンジしてみようかと思ったんだけどね」

 少年は今までの苦労を表すかのように、大きな溜息を吐いた。

「知ってるかい? 稲作って、ほんとうに大変なんだよ。田植えに入るまでに、アゼ塗とか荒代とか、やらなくてはならないことが沢山あるんだ」

 自分がどれだけ苦労したかを訴えるような少年の口調。そんな少年の言葉に、少女は頷いてみせる。

「ええ…。お米づくりは…、とても大変…」

 田んぼの水面をぼんやりと見つめながら、ぼんやりと呟く少女。そんな少女の横顔を、少年は意外そうに見つめる。

「へー。君って、米作りしたことあるんだ」

 その少年の言葉に少女は目をぱちくりとさせ、少年の顔を見る。ゆっくりと顔を横に振った。

「ふーん。あっ、そうだ」

 何かを思いついたように、少年は目を輝かせる。

「じゃあさ。やってみようか? 田植え」

 突然の提案に、再び少女は目をぱちくりさせる。

「泥だらけになっちゃったんだからさ。ついでにもっと泥だらけになってみるのもいいんじゃないかな?」

 目をきょとんとさせている少女。

 決め兼ねている様子の少女に、少年は決定打を出す。

「終わったらお夕飯、ごちそうするよ」

 少女のお腹がくぅ~と鳴った。

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 畦道の上に裸足で立つ少女。

 膝丈のスカートを太ももまでたくし上げて裾を縛った格好。露わになった白い足は、灰色の泥水に染まっている。コバルト色のスカートも、白のブラウスも、どこもかしこも泥だらけ。泥まみれの腕は、大事そうに藁人形を抱えている。

 そんな出で立ちで少女は畦道に立ち、目の前に広がる大海原を眺めている。

 西の方では、真っ赤な太陽がまもなくそのお尻を水平線へと着底させようとしており、海面には陽光が作り出す光の道が少女が立つ高台に向かって伸びていた。空は茜色と紺色のグラデーション。

 

「綺麗だね」

 

 いつの間にか少女の後ろに立っていた少年が、少女の背中に声を掛けた。

 少女は少年に降り返ることなく、口を半開きにさせたまま、その双眸に夕陽の光を湛えながらゆっくりと頷いた。

「晴れた日は毎日こんな景色が見られるんだ。無償でこんな素晴らしい景色を与えてくれる自然というものは、ただただ偉大であると言う他ないよ」

 そう言いながら、少年は少女の足もとにサンダルを置いてやる。

「これ履いて。君のスニーカーは泥だらけになっちゃったからね」

 少女は自然が織り成す芸術に見入りながら、少年が置いたサンダルに泥まみれの足を入れる。

 そうしている間に、太陽はついにその体を水平線へと沈めた。

「じゃあ行こっか。真っ暗になる前に片づけをしないといけないからね」

 少年は重ねた育苗箱を抱え上げ、歩き始める。

 少女は水平線上を彩る真っ赤な夕焼けを名残惜しそうに見つめながら、少年の後を付いていった。

 

 

「いやあ、それにしてもさ」

 少年は歩きながら感心したように言う。

「まさか今日だけで全部苗を植えることができるとは思わなかったよ。君、本当に田植えは初めてなの?」

 少年の問い掛けに少女は頷いて答える。少年は少女の前を歩いているというのに、それでも少年はまるで背中に目でもあるかのように少女の首肯を感じ取る。

「ふーん。才能ってやつだね」

 少年に言われ、少女は泥だらけの手を眺めている。

 

 

 少女は実に慣れた手つきで苗の手植えをこなしていった。中腰になりながら3本1セットの苗を泥濘の中へと埋めていく。1セット植えたら一歩下がり、1セット植えたら一歩下がり。1セット1セット丁寧に、かつ迅速に。少女が植えた苗は天へと真っすぐ伸び、苗の列は綺麗に一直線に伸びていた。

 

 一方の少年の手植えの腕は実にへたっぴだった。少女が一列を植え終える間に、少年は3回尻餅を付いていた。へっぴり腰で植えた苗は蛇行し、うち何本かは倒れてしまっている。少女が受け持った田んぼの一面を植え終えた時、少年は受け持った田んぼの3分の1も済ませていなかった。

 

 

「はい、着いたよ」

 畦道をしばらく歩いていると、少年と少女の前を少年たちの背丈くらいの生垣に囲まれた一件の家、と言うか小屋に辿り着く。

 傾きかけたトタン屋根の木造の小屋。ひと度突風でも吹けば、あっという間に吹っ飛んでしまいそうな、粗末な小屋。

 少年は少女を小屋の中へと招き入れる。

 中へと踏み入れると前時代的な土間の壁側には釜土があり、釜土の反対側の上がり框の向こうには6畳程度の板の間があった。

 

 土間の出入り口で、立ちすくむ少女。

 少年は頭を掻く。

「ごめん、こんなあばら屋で」 

 今でこそ全身泥だらけの酷いナリをしている少女だが、その佇まいは何処となく垢ぬけており、少年は少女をこんな辺ぴなところに迷い込んでしまった都会の女の子と判断していた。おそらく、こんな古い日本家屋に立ち入ったのは初めてに違いない。

 申し訳なさそうに言う少年に、少女はゆっくりと頭を横に振る。そして静かに口を開いた。

「何だか…、懐かしい感じ…、する…」

「ふーん。もしかして農家の子なの?」

「…分からない…」

「え? 分からないって…」

 そう訊ねて、少女が瞬時に目を伏せてしまったのを認めた少年。

「おっと。暗くなっちゃう暗くなっちゃう」

 それ以上追及するのは止め、上がり框に置いていたランタンに灯をともす。うっすらと土間の中が明るくなった。

「ここ、電気もガスも通ってないから。ああ、そこに座ってて」

 少年に勧められるままに、少女は上がり框に座る。

 

 少年は釜土に向かうと、釜土の掛け口に木の細い枝を何本か突っ込み、続いて焚き口に薪と棒状に丸めた新聞紙を突っ込む。作業着のポケットからマッチを取り出し、火を点けると焚き口の中に放り込んだ。投げ込まれたマッチの火は新聞紙に燃え移り、その勢いを広げ始める。釜土の上に置いていた火吹竹に口をくっ付け、ふーと息を吹き、釜土の中に空気を送り込む。それを何回か繰り返しているうちに、釜土の中にくべた薪にも火が回り始めた。

 

 気が付けば、すぐ側に少女が立っていた。少女は両手を膝に付き、中腰になって、釜土の中の火を興味深そうに見つめている。

 少年は口許を綻ばせ、少女の前に火吹竹を差し出した。

「やってみるかい?」

 少女は一度だけ目をぱちくりとさせ、少しだけの間を置いて、そして少年の手から火吹竹を受け取る。

 釜土の前にしゃがみ込み、少女は少年の見よう見まねで火吹竹の先端を焚口の中に入れ、もう片方の先端に自身の口を付け、火が燻っている薪に向かって息を吹き掛けた。するとたちまち火が大きくなり、薪を包み込む様を見て、少女は驚いたように目を丸くする。

 肺の中の空気を一気に吐き出し終えた少女。

 吐き切ったら、今度は吸わなくてはならない。

 

「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ」

「はっはっは。ダメだよ。息を吸うときは口を離さなきゃ」

 釜土の中の熱を喉に入れてしまい、咳き込んでしまっている少女の背中を、少年は笑いながら摩ってやった。

 

 

 釜土で湯を沸かした少年は、大きなタライにお湯を入れ、さらに水を足して適温にすると、タライをうんせうんせと抱えて外に出て、土間の出入り口の横に置く。

 釜土の前でしゃがみ込み、火をぼんやりと見つめている少女に、少年は綺麗なタオルを差し出す。

「あれで体を洗うといい」

 差し出されたタオルと、少年の顔とを交互に見つめる少女。

「ごめん。この家、お風呂もシャワーもないから」

 少女は頷いて少年の手からタオルを受け取ると、立ち上がる。

 そしてその場で肩からスカートの吊り紐を外し、スカートを下げ始める。

「おおっと。そーゆー子か」

 少年は少々面食らった顔をしながら、少女の背中を押して小屋の外へと追い出した。

 

 

 タライの中のお湯に体を浸し、タオルで体の泥を洗い落とす。温かいお湯に体が温められ、少女の表情が少しずつ和らいでいく。

 小屋の中から少年の声。

「着替え。ここに置いとくよ」

 頷く少女。顔など見えていないはずなのに、少年は少女が首肯したことが分かっているかのように、続けて言う。

「お湯は捨てちゃだめだよ。あとで君の服を洗うときに使うから」

 やはり頷いて答える少女。

「それが終わったら夕ご飯だ」

 頷いて答える少女。

 

 

 泥を洗い落とした少女は、土間の出入り口に用意されていた緑色の2本線ジャージに袖を通す。おそらく少年の物なのだろう。少女よりも頭1つ半分ほど背の高い少年のジャージ。余ったズボンと上着の裾を折り曲げ、手と足を外に出す。藁人形を両手で抱き締め、土間へと入る。

 土間の隣の板の間にはちゃぶ台が置かれ、少年が皿を並べていた。

「さあ。上がって上がって」

 少年に促されるまま、少女は板の間へと上がり、ちゃぶ台の横の円座にちょこんと座る。膝の上に藁人形を置いて。少年も少女と対面の円座に座る。

 

「じゃあ食べよっか」

 少女は、ちゃぶ台に置かれた皿をじっと見つめた。

 ちゃぶ台に置かれた皿は、2枚だけ。少年の分と、少女の分。しかも手のひら程度の、小さな皿。

 その皿の上には、さつま芋が1つ。

 湯気が立つ、蒸かされたさつま芋を、じっと見つめる少女。

 

「ごめん」

 

 向かい側からこの日何度目かの「ごめん」が聴こえ、少女は声の主に顔を向ける。

「お夕飯、これだけなんだ」

 申し訳なさそうに苦笑いしながら頭を掻く少年。

「あ、でも朝ごはんはもう少し豪華だよ。これに味噌汁がつくから」

 暗に、この家の主食は芋であることを伝える少年。

「お味噌汁…?」

 殆ど表情を変えることのない少女の顔に、少しだけ喜色が浮かんだ。

「うん。え? 味噌汁、好きなの?」

 少女はあえて2度、大きく頷く。

「お味噌汁は…、この世界で一番のごちそう…」

「ふーん」

 この、どう見ても中学生か高校生にしか見えない少女。これくらいの年ごろだったら、お洒落な洋食だったりスイーツだったりを喜ぶだろうにと、意外そうな顔をする少年である。

「じゃ、明日の朝ごはんは御馳走だね」

 少女は再び、うんうん、と2度頷く。

 そんな少女に少年はにっこりと笑いかけ、

「じゃ、今はこれで我慢して、温かいうちに食べてしまおう」

 そんな少年の言葉に、少女はふるふると頭を横に振る。

「これも…、とても美味しそう…。ありがとう…」

「どういたしまいて」

 少女の感謝の言葉に少年は満足しつつ、少年は細長いさつま芋を半分に折り、断面の皮を剥いて中身にかぶり付こうとして。

 

「いただきます…」

 

 ちゃぶ台の向こうからか細い声が聴こえ、動きを止める。

 見ると、ちゃぶ台の向こうでは、少女が皿の上のさつま芋に向かって手を合わせている。

 少年は慌てて皮を剥いた芋を皿に置き、自分も手を合わせて「いだきます」と言った。

 それは少年にとって、久しぶりに口にする言葉だった。

 

 少女は蒸かしたての芋の味をいたく気に入ったようで、あっという間に平らげてしまった。

 

 

 

 

 食事の後片づけを終え、白湯の入った茶碗を少女の前に置いてやる。

 少年は自分の分の白湯をずずずと啜って、ふうと深い息を吐く。

「さて…と」

 少年はちゃぶ台に頬杖を付き、尖がらせた唇を茶碗の淵にくっ付けて白湯をちゅるちゅると啜っている少女を見る。

「そろそろ教えてくれるかな?」

 

 突然始まった尋問。

 少女は茶碗をちゃぶ台に置き、膝の上に置いていた藁人形をぎゅっと両腕で抱き締め、目を伏せる。

 明らかな心理的防衛姿勢。

 

「ああ、違うよ。違う違う」

 少年は苦笑いしながら否定する。

「君の名前だよ。僕が教えてほしいのは、君の名前」

「名前…?」

 上目遣いに少年を見つめる。

「そう。まだ聴いてないよ?」

「名前…」

 再び目を伏せてしまう少女。

 

 おそらく家出少女の類だろう。

 何にせよこんな辺ぴなところにほぼ着の身着のままでやってきた少女には、それなりののっぴきならない事情があるのだろうが、それでも少年はいきなり身の上や家出理由まで根掘り葉掘り聴こうとは思っていなかった。

 ところが少女のこの態度を見ると、名前すらも教えるのに憚れるらしい。

 

「あ、そっか」

 少年は肝心なことを思い出す。

「僕の自己紹介がまだだったね」

 少年のその声に、再び上目遣いで少年を見つめる少女。

「僕、「カジ」って言うんだ」

「かじ…?」

「うん。「加える」に地球の「地」と書いて、加地。加地リョウジだ。よろしくね」

「よろしく…」

 少年の自己紹介に、少女はぎこちなく挨拶する。

「リョウジって名前は、どうも父親と同じらしいんだ。僕が生まれる前に死んでしまったらしんだけどね。ちなみに母親は何処の誰かも知らない」

「そう…」

「あ、ごめんごめん。暗い話しになってしまった。気にしないで」

 一通り自己紹介を終えた少年はにっこり笑いながら、

「じゃあ、君は?」

 

 そしてやはり目を伏せてしまう少女である。

 少年は戸惑った表情を浮かべる。

「名前…、教えたくないの?」

 その少し残念そうな少年の声に、少女は2度ほど瞬きをする。

 少年の顔と、腕の中の人形の頭との間を、何度か視線を行き来させて。

 意を決したように、顎を上げて少年の顔を正面から見つめた。

 

 

「私…、自分の名前が分からないの…」

 

「え?」

 

 少女の告白に、少年の表情が固まってしまう。

 

「自分が誰で…、何者なのか…、よく…、分からないの…」

 話している間に辛くなってしまったのか、少女の視線が再び人形の頭へと落ちてしまう。

「何日か…、何週間か前に目を醒ました日の…、それ以前の記憶が…、とても曖昧なの…」

「……」

「目を醒ました部屋も…、取り壊されるからって…、追い出されたの…」

「……」

「記憶も…、帰るおうちも…、ないの…」

 

 少年は俯いてしまった少女の空色の髪を、じっと見つめていた。少女には聞こえない程度の大きさで深く長い溜息を吐く。

 

「そっか…」

 少女の俄かには信じがたい告白を、心の中で何とか受け入れようとしているのか。

「…そっか…」

 そう繰り返す少年である。

 

「だったらさ」

 次に少年の口から出された声はとても明るい声だった。

「君、ここで住み込みで働かない?」

「え…?」

 少年の意外な申し出に、少女は顔を上げる。

 きょとんとした表情の少女を、少年はにっこりとした顔で見つめ返す。

「あれだけ田植えが得意なんだ。君には農業の才能があるんじゃないかな。そんな君がここで働いてくれたら、畑も田んぼたちもとっても喜ぶと思うんだけど」

「でも…」

「お給金は出せないけど三食昼寝付きでどうだい? もちろん、毎朝味噌汁付きだ」

「やる」

「ははっ。じゃあ決まりだ」

 少年のにっこりとした顔に釣られるように、少女も少しだけ口元を綻ばせた。

「じゃあ、仕事仲間である君の呼び名を決めないとね。…ん?」

 何かに気付き、少年は身を乗り出して顔を少女に近づける。急に顔を近づけてきた少年に、少女は少しだけ目を丸くする。

「つばめ…」

「え…?」

「君の名前。ツバメちゃんじゃないの?」

「つばめ…?」

「うん。だって、ほら」

 少年はそう言いながら、少女が抱く藁人形へと手を伸ばす。

 咄嗟に、少女は身を捻り、少年の手から藁人形を遠ざける。

 まるで抱いた我が子を守るような少女の行動に、

「ああ、ごめんごめん」

 少年はすぐに伸ばした手を引っ込めた。

「それ、大切なものなんだね」

 少年の言葉に、少女はこくこくと2度頷く。

「その人形が着ている服に、「つばめ」って書いてあるんだけど」

 少年の指摘に、少女は抱き締めていた藁人形を少し体から離した。

 藁人形が巻く群青の布。

 その布に、確かに酷く不細工な字で、「つばめ」と殴り書きされている。

「つ・ば・め」

「君の名前ではないのかい?」

「つ…ば…め…」

「違う?」

 少女はゆっくりとした動作で人形から目を離し、少年を見つめる。

「そうかも…、しれない…」

「ははっ。良かったよ。君の名前が分かって」

 少年は安心したように笑う。

「じゃあ改めてよろしく。ツバメちゃん」

 そう言って、少女に手を差し出す少年。

 差し出された手を、少女はじっと見つめる。

「仲良くなるための…、おまじない…」

 少年の手を見つめたまま、掠れた声でぼそりと呟く少女。

「え? なんだい?」

「ううん…。よろしく…、加地くん」

 少年と少女の手が交差した。

 

 

 

 



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5.にいとと!

 

 

 

 

 トン、トン、トン、と何か硬いものを叩く音に目を覚ます。

 粗末な煎餅布団とはいえ、布団は布団。3日ぶりの布団の中で熟睡していた少女は、目を擦りながら体を起こす。気だるげな動作で四つん這いのまま布団から這い出し、布団のすぐ側の引き戸を開ける。引き戸の向こうに現れたのは土間。少女に与えられた寝室は、土間の隣の納戸だった。

 土間の炊事場に立つ少年。まな板で、大根を切っている。どうやら朝餉の準備をしているようだ。

 腫れぼったい目で引き戸の隙間から顔を出す少女に気付いた少年は、笑顔を向ける。

「やあ。もう少しで朝ご飯できるから。あっちで顔を洗っておいでよ」

 少年に言われ、少女はもそもそと納戸から這い出ると、土間に降りてサンダルを履く。左手で藁人形を抱えながら、少年が視線で示した、板の間への上がり框に置かれた洗面器へと向かう。

 炊事場に立つ少年の背後を通り過ぎながら、

「おはよう…」

「え? あ、ああ、おはよう」

 背中に投げ掛けられた、少女の掠れたような声での朝の挨拶。少年は慌てて返事をした。少女は上がり框に座って、洗面器の中の水で顔を洗い始めている。

「ふふっ、おはよう…か…」

 少年は嬉し気にその言葉を口の中で転がしながら、切った大根をお湯が煮立った鍋の中に入れた。

 

 

 ちゃぶ台を囲む2人。

 2人の前にはそれぞれ、昨日と同じ蒸かした芋が1個ずつ乗せられた皿と、そしてお椀に入った味噌汁。

 少女はやや前のめりになりながら、木製のお椀に入った味噌汁を、目をまん丸にして見つめている。時折、ゴクリと生唾を飲み込みながら。

 

 自分が作った味噌汁を大いに期待してくれているらしい少女に、少年は嬉し気に目を細めている。

「じゃあ、食べよっか」

 そう言って少年はちゃぶ台の上に置かれた箸に手を伸ばそうとして、ちゃぶ台の向こう側で少女が手を合わせて「いただきます」と言ってるのを見て、少年も箸を持つ前に手を合わせて「いただきます」と言った。

 

 少年はお椀を持つと、ずずずと中身を啜り始める。

 少女は自分の前に置かれたお椀と味噌汁を啜る少年とを交互に見比べて。

 そしてお椀を両手で包むようにそっと持ち上げ、顔に近づけ、尖がらせた唇の先端をお椀の淵に付ける。

 こく、こく、こく、と小さな喉仏を3回ほど控えめに鳴らして。

 唇をお椀から離し、ゆっくりとお椀をちゃぶ台の上へと置く。

 

 お椀の中の味噌汁を見下ろす少女。どこか、怪訝そうな表情で。

「どうかした?」

 少年は剥いた芋に噛り付きながら訊ねる。

 少女は顔はお椀に向けたまま、視線だけを少年に向ける。

「これは…、なに…?」

「え? なにって…、味噌汁だけど…」

 少年の答えに、少女は肩を戦慄かせた。

「これがお味噌汁というのなら…、それはお味噌汁さまに対する冒涜…」

「えっ? えー? そうかなあ?」

 少年は首を傾げつつ、お椀を持って味噌汁を啜ってみる。

「うーん、普通の味噌汁だと思うけど」

 納得いかない表情を浮かべる少年。少女は改めて味噌汁を啜ってみる。

 

「まずい…」

 

 実にストレートな表現で食レポをする少女である。

「えー、だったらさあ。明日はツバメちゃんが作ってよ、味噌汁」

「私が…?」

「うん。そこまで言うんだったらさ、僕よりも美味しい味噌汁が作れるんだよね?」

 

 少女は天井を睨む。

 暫く思案した後。

 

「分かったわ…」

「よっし」

 ちゃぶ台の下で小さくガッツポーズをする少年である。

 

 

 

 タイル張りの流し台で朝ご飯の後片付けをしている少年。その後ろでは、上がり框に座った少女が両腕で藁人形を抱きながら、少年の後姿をぼんやりと眺めている。

 食器を洗い終えた少年はタオルで濡れた手を拭くと、少女に言った。

「それじゃあ畑に出よっか。君の寝床に作業着用意してるから。それに着替えて」

 少女は頷いて応え、そしてその場でジャージを脱ぎ始めた。

「はいはい。ここは着替える場所じゃないですよ」

 そう言って、少年は少女の背中を押し、納戸兼少女の寝室へと向かわせる。

 

 

 オーバーサイズのだぼだぼの作業着に着替えた少女に少年は麦わら帽子を被せ、首にタオルを巻き、長靴を用意してやる。

「準備オーケーだね。じゃあ行こうか」

 少年は農耕器具が入ったバケツを手に持ち、外へと向かう。

「今日は、何を植えるの…?」

 どこか期待を込めた声で訊ねる少女に対し、少年は振り向いて言った。

「ツバメちゃん」

「なに…?」

「農作業の大半は草刈りと害虫駆除だよ」

 

 

 農家ホームステイ2日目の午前中は、少年の宣言通り草刈りで潰されることになった。

 段々畑と田んぼの間の畦道。「Kaji’s Farm」と書かれた木の看板を背に、腰を下ろす少女。その腕に藁人形を抱いて、畦道から見える青い海と空を眺めている。

「海が好きなんだね」

 お櫃と薬缶を抱えた少年が少女の隣に座る。少女はよく分からないといった様子で、首を傾げている。

「青い海…。見るの初めてだから…」

「ふーん。海がないところで育ったんだね」

 少女はふるふると頭を横に振る。

「私…、赤い海しか見たこと…、ないから…」

「赤い海…?」

「ええ…」

「赤い海って…。それって14年前の「あれ」以前の話じゃないの?」

 少女は少年の顔を見る。

「14年前…?」

「うん。14年前の、「アディショナルインパクト」のことだけど。サードインパクトで生命が滅びかけて、その14年後のフォースインパクトで世界が消滅しかけて、でも直後のアディショナルインパクトで世界が生まれ変わったって、偉い学者さんたちは言ってるけど」

 少女は2度ほど瞬きをする。

「今は何年…?」

「今? 西暦2043年だよ」

「2043年…」

「うん。確かにセカンドインパクトからアディショナルインパクトの間は、海は赤かったらしいね」

 少女は少年から目を離し、膝を抱えてその上に顎を乗せる。少女の太ももと胸に挟まれた藁人形が、窮屈そうに縮んでいる。

「ま、でもこれで1つ分かったじゃないか」

 「何が」と、視線だけ隣の少年に目を向ける少女。

「君は少なくともビフォーアディショナル世代ってことさ」

 そう言いながら、少年はお櫃から本日のお昼ごはん(もちろん蒸かした芋である)を少女に渡してやった。

 

 

 * * * * *

 

 

 引き戸がガラガラっと音を立てて開いた。

「ツバメちゃーん、朝だよー」

 空いた戸の隙間から少年が顔を出す。布団の隙間から顔を覗かせる少女。安眠を妨げた少年に対し、明らかな不満顔を向ける。

「え? だって昨日約束したはずだよ? 朝の味噌汁を作ってくれるって」

「うぅぅぅぅ…」

「唸ったって駄目だよ。ほら、起きて起きて」

「うぅぅぅぅ…」

 

 

 少女は、決して上手いとは言えないが取り立てて下手と言うほどでもない、あえて言えばちょっとゆっくりでちょっと大雑把な包丁捌きで刻んだ大根、菜っ葉を、沸騰させた鍋の中に入れていく。

「うーん」

 少女の調理の様子を、隣で芋を蒸かしながら眺めていた少年。

「僕の作り方と、そこまで変わらないと思うんだけどな~」

 首を傾げながら言う。

 

 ちゃぶ台に並んだ、蒸かした芋を乗せた皿と、湯気を立てるお椀。

「いただきます」

「いただきます…」

 重なった2人の声を合図に、朝食が始まる。

 少年は味噌汁が入ったお碗を手に取った。

「ふふっ」

 茶碗の中の味噌汁を見て、笑みを零してしまう。そんな少年の顔に、「なに?」と視線を投げる少女。

 少年は「何でもないよ」と首を横に振りながら、お椀に口を付けた。

 一口、二口と味噌汁を啜り、口の中で汁を少し転がし、咽頭部を通過させ、体内へと収める。

 

 ゆっくりと、お椀をちゃぶ台に置く。

 

 味の感想を待っているのだろう。少女は上目遣いで少年を見つめている。

 そんな少女を、少年も見つめ返す。

 そして首を斜め45度に傾けた。

 

「んんんんんんんん…」

 

 唸る少年。

 少年から「美味しい」という言葉が返ってくるのを期待して待っていたらしい少女は、少年のその態度に目をぱちくりとさせた。

 すぐに自分の前に置かれたお椀を手に取り、中身を啜ってみる。

 一口二口と飲み込んで。

 口からお椀を離して。

 お椀の中身を見つめて。

 

「まずい…」

 

 ストレートな食レポをする少女。

 少年は慌ててフォローする。

「いやいや。まずいってことはないよ。…でも、僕が作った味噌汁と大して変わらないな~、って思ったりして…」

「それはつまり、まずいということ…」

「ツバメちゃん…。僕が何言われても傷つかないって思ってる?」

 

 

 この日も午前中は草刈りと害虫駆除に追われた2人。

 お昼ご飯を終えた少女が畦道の看板を背に座り、藁人形を抱きながら海を眺めていたら、どこからかトットットという駆動音が響いてきた。この家にやってきて、初めて耳にする文明の音。

「ツバメちゃーん」

 見ると、原付バイクに跨った少年が生垣の向こうから現れた。

「僕、ちょっと下の町まで出かけてくるから」

 少女は頷いて応える。

「あ。なんだったら君も行くかい? これ、2人乗りできるよ」

 少女は首を横に振る。

「そっか。じゃあ、あとはあっちの法面の草引きだけやったら、今日はもう終わりでいいから」

 少女は頷いて応える。

「じゃ、行ってくるねー」

 少年は年季ものバイクを駆って、高台から下る坂を走っていった。

 

 

 

 

 太陽が大きく西に傾いた頃に少年は帰ってきた。

 出かけた時と、帰ってきた時とで、寸分違わず同じ姿勢で畦道に座っている少女を見つけて、びっくりしてしまう少年である。草引きを指示した法面を見ると、一面きちんと草が抜かれていた。

 バイクを停め、少女のもとへと行く。少女は藁人形を腕に抱いて、ぼんやりとした表情で夕陽を眺めている。

「ずっと海を眺めてたの?」

 頷く少女。

「よく飽きないね」

 頷く少女。

「って、ツバメちゃん。顔、真っ赤になってるよ? 陽に当たりすぎじゃないかな?」

「平気…」

「いやあ、タカオのおばさんが言ってたよ。若い頃の油断が将来の大きなしっぺ返しを呼ぶって」

「大丈夫…」

「うーん」

 

 

 * * * * *

 

 

 朝の食卓の風景。

 お椀の中の味噌汁を、眉間に皺を寄せて睨み付ける少女。

 

「まずい…」

 

 少年は慌ててフォローする。

「いや、だから十分美味しいと思うよ」

「…加地くんは…、バカ舌…」

「ツバメちゃんって…、結構容赦ないよね…」

 

 

 

 お昼ご飯を済ませ、いつもの様に畦道の看板を背に座り、いつもの様に藁人形を抱き、いつもの様に海を眺めている少女。

 ふと陽が陰り、少女は空を見上げる。見ると、空の半分が黒く欠けていた。

 少年が大きなパラソルを少女の頭上に広げてくれたのだ。

「熱中症になってもいけないしね。今度から晴れた日に海を眺める時は、このパラソルの下で見たらいいよ」

 少年が看板の支柱にパラソルの柄をロープで巻いて固定しながら言う。

「ありがとう…」

「僕。今日も午後は出かけるけど、君も一緒に行かない?」

 少女は頭を横に振る。

「そっか。じゃあ、今日はあっちの畑の草引きと水やりをしてくれたら、もう終わっていいよ」

 

 

 太陽が西に大きく傾いた頃に帰ってきた少年。

 やはり出かけた時と変わらない姿勢で海を眺めている少女を見て、半分笑い、半分呆れ気味に溜息を吐いた。

 

 

 * * * * *

 

 

 朝の食卓の風景。

 お椀の中の味噌汁を、まるで親の仇を見るような表情で見下ろす少女。

 

「まずい…」

 

「前世は海原雄山かな…?」

 

 

 

 午前の作業が終わると、少年は大きな木槌と少年の肩と同じくらいの高さの大きな木製の杭を2本担いでやってきた。

「ちょっと手伝ってくれるかな?」

 少女にそう告げ、少年は段々畑の斜面を上がっていく。少女は素直に少年の背中についていく。そしてこの農園で一番高い場所、眺めの良い場所にやってきた。

「じゃあこの杭を、こう地面に立てて、支えててくれる?」

 少女は少年に言われるままに、杭の先端を地面につけて垂直に立てる。

 少年は持っていた木槌を振りかぶり、その先端を思い切り杭のお尻に向かって打ち付けた。木槌の衝撃で、杭を支えていた少女の手がビリリと痺れる。10回ほど打ち付けると、杭は深く地面に突き刺さった。

 今度はもう1本の杭を、1本目から5歩ほど離れた地面に、やはり木槌で打ち付けて突き刺す。

「ありがとう」

 少年は少女にお礼を言うと、それぞれの杭の上の方にロープを括りつける。何をしてるんだろう、と興味深げに少年の様子を見守る少女。そんな少女の眼差しに、少年は「出来てからのお楽しみ」とばかりに黙々と作業を進める。今度は大きな布を持ち出し、その布の端っこにある輪っかの中に杭に括り付けたロープを通し、結び目を作る。もう一つの杭のロープもやはり布の別の輪っかに通し、結び目を作る。杭と杭の間に吊るされた布。

「はい、完成」

 出来上がったものを、得意げに少女に見せる少年。

 少女は首を傾げた。

「なに…? これ…」

「え? ハンモックって知らないかな?」

 少年の問いに少女は頷く。

「ほら、こうやって」

 少年はロープで吊るされた布の真ん中に腰を下ろしてみる。

「ほら、こんな感じ」

 少年が地面から足を浮かせると、体重を預けられた布が少しだけ沈み、布を支える両端のロープがピンと張った。少年のお尻は地面に付くことなく、少年の体全体が布に支えられ、宙をぶらぶらと舞う。

 どうだと言わんばかりに両手を広げて見せる少年に、

「で…?」

 冷めた声で返す少女である。

「いや…、面白そうに見えない?」

「面白いって…、なに?」

「むぅ、質問に質問で返すか…。とりあえず乗ってみなよ。面白いってことがどんなものか、分かると思うから」

 少女が頷いたので、少年は反動をつけてハンモックから飛び降りる。

 空いたハンモックの布に、少女はおずおずと腰を下ろし始める。完全に腰を下ろすと、少年がやったように地面から両足を浮かせる。地面から少女の体が完全に離れた。

 少年がそっと少女の背中を押してやると、少女の体が前後にゆらゆらと揺れる。

 ハンモックに揺られながら、少女は上下する海の水平線と少年の顔とを交互に見つめ、

「で…?」

 と少年に訊ねる。

「あれ? こう、心がウキウキしたりとか、何だか自然に笑顔になりそうだったりとか。そんな感じしない?」

 少女は、んーー、と首を傾げている。

「むう、そっか。僕はハンモックが大好きなんだけどな」

 少女にはあまり気に入ってもらえなかったようで、残念がる少年である。

「ま、折角だから、今日はここでお昼ごはんを食べよう。ちょっと待っててね。今、持ってくるから」

「ええ…」

 

 

 少年がお昼ご飯を取りに段々畑の斜面を下りていく。

 残った少女は、腰掛けたハンモックにぶらぶらと揺られている。

 規則正しく、ゆっくりと揺れるハンモック。

 目の前に広がる青い空と青い海。

 青い空から降り注ぐ、ポカポカの陽気。

 青い海から吹く穏やかな風。

 少女の肩まで伸びた空色の髪が、ふるふると揺れた。

 

 

 

 お昼ご飯の入ったお櫃と薬缶を抱えて斜面を上がってきた少年。

 ハンモックまで戻り、目にした光景に目を丸くし、そして口元を綻ばせた。

「なんだ。気に入ってくれたんじゃないか」

 ハンモックの上では、藁人形を抱き締めた少女が横になり、猫のように体を丸めてすやすやと寝息を立てていた。

 

 ハンモックの側に立つ。

 少女の顔を覗き込んだ。

 無造作に切り添えられた空色の髪。その隙間から覗く白磁のような白い肌。髪と同じ色の、長い睫毛。桃色の薄い唇。

 お天道さまの下では麦わら帽子を被り、小屋の中で過ごすのは朝と晩の暗い時間帯なので、こんな明るい場所で少女の顔をまじまじと見る機会は滅多にない。

 少女の瞼に掛かる前髪を、少年は人差し指で軽く梳いてやる。

「早く…、自分が誰か…、分かったらいいね…」

 相手を起こしてしまわないよう、とても小さな声で、眠りの少女に囁き掛けた。

 

 その後少年は再び斜面を下り、大きなパラソルを抱えて戻ってくると、ハンモックの側に立ててやり、日光に晒されている少女の体に日陰を作ってやった。

 杭の側に腰を下ろし、一人で蒸かし芋を食べ、お茶を啜り、杭を背にお昼寝を始める。

 

 

 

 




 

2021年3月30日
綾波さん誕生日記念。



 


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6.ニートと魔法の白い粉。

 

 

 

 

「まずい…」

 

「これって、いつまで続くのかな?」

「加地くんに本当のお味噌汁を食べさせることができる、その日まで…」

「嬉しいんだか怖いんだか…」

 

 

 

「ツバメちゃーん」

 納屋から原付バイクを引っ張り出し、出かける準備を終えた少年は、少女の名前を大声で呼ぶ。

 返事はない。

 少女が小屋の周辺に居なければ、その居場所は一つしかない。少年は段々畑の斜面を上っていく。斜面を上り切ると、案の定ハンモックに揺られて横になっている少女がいる。

「ツバメちゃん。僕、出かけるよ」

 少女はハンモックに横になったまま、少年に向かって小さく手を振りながら、小さな声で「いってらっしゃい」と言う。

 

 畑仕事には熱心に取り組み、最近は朝の味噌汁作り以外にも水汲みや洗濯、掃除などの家事も手伝ってくれるようになった少女だが、それ以外の時間ははっきり言って怠惰だ。晴れた日は、暇があればいつもこうして、藁人形を抱き締めながらハンモックに寝そべって、海を眺めている。

 

「ねえ、ツバメちゃん」

 少年はハンモックの端に腰を掛ける。2人分の重さに引っ張られ、ハンモックが大きく沈んだ。

「ツバメちゃんがここに来て結構経ったけどさ。まだ一度もこの農場の外に出たことないよね。どうだいたまには。僕と一緒に外に出てみないかい?」

 少女は視線を海にやったまま、ふるふると頭を横に振る。

 そんな態度の少女に、少年はふー、と鼻息を吐く。

「こんなところにずっと居たんじゃ、体も心も朽ちてしまうよ? 街にでも行ってみようよ。もっと世間と触れあわなくちゃ」

 少女は相変わらず頭を横に振る。

「人間は社会性の生き物だ。君も僕と同じ人間である以上、人との繋がりを断っては生きてはいけない宿命なんだよ」

 少女は視線を海の方へやったまま、右手の人差し指をピンと伸ばし、少年を指差す。

「加地くんが居る…」

 少年は困ったように笑う。

「僕との絆を感じてくれているのは嬉しいけど、それだけではいけないよ。ねえ、どうだい?」

 少女の肩を軽く揺さぶってみるが、

「んんんん」

 少女は少年の手から逃げるように抱いた藁人形のお腹に顔を埋めて唸るだけである。

「もう」

 少年は鼻で溜息を吐いた。

「じゃあ僕、行ってくるけど。今度は一緒に行こ。ね?」

「んんんん」

 少女は相変わらず唸るだけである。

 

 

 

 少年が乗る原付バイクの音が遠ざかっていく。

 少女は藁人形から顔を離し、瞼を薄っすらと開けて視線を青い海に向けた。

「人との繋がり…」

 少年の言葉を呟く。

「エヴァでしか、人と…繋がれなかった私…」

 藁人形を抱く腕に力を籠める。

 目をぎゅっと閉じた。

 

「エヴァって…なに…?」

 

 

 * * * * *

 

 

 夕暮れ前に帰ってきた少年。段々畑のてっぺんを見上げると、ハンモックがゆらゆらと揺れている。

「まったく…」

 少々呆れ気味に呟きながら、段々畑の斜面を上がっていく。

 

 案の定、茜色の空の下、少女がハンモックの上で横になって、小さな寝息を立てている。

 まるで十年以上もまともに寝ていなかったかのように、暇があれば睡眠を貪っている少女。このハンモックを作ってからというもの、することがない時の大半はここで寝ている。夜も夜で夕ご飯を食べたらさっさと寝室兼納戸に引っ込んで寝床についてしまうので、少女の一日は起きている時間よりも寝ている時間の方が多いのではないかと疑ってしまう。

 

 少女を起してしまわないよう、ハンモックの端にそっと腰を下ろす。

 少女の寝顔を見つめた。茜色の光を色素の薄い肌と髪が反射し、少女の顔の周りがキラキラと光って見える。そんなどこか浮世離れした少女の横顔を見つめて。

「だいぶ髪、伸びてしまったね…」

 少年は少女の背中まで伸びた空色の髪に手を伸ばす。左右に分けなければ顔全体を覆ってしまうまでに伸びた前髪をそっと梳き、いつも前髪に隠れていて滅多に見ることができないおでこを出させてみる。

「君は…、いったい…、誰なんだい…?」

 少女を起こさない程度の小声で囁き掛け、少女の前髪を梳く。指と指の隙間を滑る空色の髪。手の甲に感じる柔らかな肌。手全体から感じ取る、少女の温もり。

 

 

 

 おでこの辺りに感触。

 薄っすらと瞼を開く。

 開いたはずなのに、視界が何かで塞がれている。

 それは人の手。

 人の手が、少女の視界を塞いでいる。

 その手は少女の視界を上下に、ゆっくりと移動している。

 その手は、少女を撫でている。

 少女の前髪を、撫でている。

 

 

 

 少女の瞼が、薄っすらと開いた。

「やあ、起きたかい?」

 まだうとうとしている様子の少女に、少年は少女の前髪を優しく梳きながら囁き掛けた。

 茜色の光に照らされた少年の顔を、ぼんやりと見上げて。

 何度か瞬きを繰り返して。

 そして何度目かの瞬きを終えたところで、目をまん丸にして。

 

「わわっ!」

 

 少女が突然跳ね起きてしまったため、少年は驚いてしまった。

 もとより不安定なハンモック。

「ありゃりゃりゃ」

 バランス感覚を失ったハンモックはひっくり返ってしまい、少年は背中から、少女はお尻から地面に落ちてしまった。

 

「いたた…」

 背中を擦りながら体を起こす少年。

「ツバメちゃん…、大丈夫かい?」

 隣で尻餅を付いてる少女に声を掛ける。

 起き抜けにハンモックから落ちてしまって、びっくりしているのだろう。頬を上気させ、目をまん丸にして少年を見つめている。

「すまなかったね。驚かせてしまったみたいだ」

 少年は地面から腰を上げると、少女の前に立ち、手を差し伸べる。

 少女を起こしてやろうとして、

「あ、髪の毛に泥が付いてるよ」

 ハンモックから落ちた拍子に毛先が地面についてしまったのだろう。少女の背中まで伸びた髪の先っちょに付いた泥を払ってやろうと、少女の髪に手を伸ばした。

 すると少女は地面にお尻をつけたまま、後ずさりする。少年が差し伸べた手から逃げるように、少年から距離を取った。

「あ、ごめんごめん」

 いきなり手を伸ばされて、驚かせてしまったのかもしれない。少年は謝りながら、離れてしまった少女に近づく。

「髪の泥を払い落とすだけだから」

 そう言って、再び少女の髪に手を伸ばす。

 

「触らないで…」

 

 少年は最初、その凍てついた声が少女の口から出たものとはすぐに気付けなかった。

 少年が固まってしまっている間に、少女はさらに後ずさりし、少年から距離を取る。

 

 少女の髪に触れようとして伸ばした少年の手の指が、虚空を掻く。

「ごめん…」

 少年はそれ以上少女に近づこうとせず、伸ばしかけた腕を地面に向けてぶらんと下げた。

 

 少年も、少女も、自身の足もとを見つめる。

 お互い見つめる先はばらばらのまま、暫しの沈黙。

 

 ようやく少年が目線を上げ、尻餅をついたままの少女を見つめる。

「ツバメちゃん、だいぶ髪、伸びちゃったね」

 場の空気を換えようと、明るい表情と声で話しかけた。

「どうだい? 僕が切ってあげようか?」

 少女は藁人形をぎゅっと抱き締め、頭を横に振る。

「でもここにはシャワーもないから、髪が長いと洗うのに苦労するんじゃないかな?」

 少女は頭を横に振る。

「前髪も伸びっ放しだし、それでは目が悪くなってしまうよ? 前髪だけでも切ってあげるよ」

「それは命令…?」

「え?」

 少女の口から飛び出した言葉。今の会話の流れで、どうしてそんな言葉が出てくるのか理解できず、少年は言葉を飲み込んでしまう。

「それは命令…?」

 少女は同じ言葉を繰り返した。

「ただの提案さ…」

 戸惑い気味の声で答える少年。

「それじゃ…、余計なこと…、しないで…」

 少女は今にも消え入りそうな、掠れた声で言った。

 少年の眉間に一本の皺が寄る。

「余計なこと…?」

 少女は目を伏せ、こくりと頷く。

「僕のすることは…、余計なこと…だったかい…?」

 少女はこくりと頷く。

「じゃあ…、僕が事あるごとに君を外に連れ出そうとするのも…、余計なこと…だったかな…?」

 少女はこくりと頷く。

「そっか…」

 少年は両拳をぎゅっと握り締めた。

「…なんだか…、僕は同じ過ちを…、繰り返しているような気がするな…」

 誰に聞かせるとも知れない小さな声で、少年は呟く。

 

「ツバメちゃん…」

 少年の呼び掛けに少女は返事せず、腕の中の藁人形をぎゅっと抱き締めている。

「ツバメちゃんに1つだけ、訊きたいことがあるんだけど、いいかな…?」

 少女は返事しない。しかし少年は構わず続ける。

「ツバメちゃんにとって、ここはいったいどんな場所だい?」

 少女は返事をしない。

「職場? 居候先? それとも…」

 少女は返事をしない。

「…ツバメちゃんはここに、居たいのかな?」

 少女は返事をしない。

「ははっ」

 少年は乾いた笑い声を上げる。

「ごめんね。質問が2つになってしまった…」

 少女から視線を落とし、地べたを見つめる。

「ツバメちゃんがここに来てから、もう3か月が経つよね…」

 暫く地べたの上の小石を睨み、そして視線を横に向け、赤い夕陽に染められる空を見つめ。

「君はどうか知らないけれど、僕はこの3か月、本当に毎日が楽しかったんだ。」 

 そして再び視線を少女へと向けた。

 

「朝起きたら君が「おはよう」って言ってくれて。食卓で一緒に「いただきます」と言って、同じものを食べて。僕が作ったものを君が食べて。君が作ってくれたものを僕が食べて。君は、君が作ってくれた味噌汁を散々まずいって言ってきたけどさ。お世辞抜きで、僕にとっては君が作ってくれた味噌汁は最高のごちそうだったよ」

 

 少年の顔が真っ赤に染まっているのは、赤い夕陽に照らされているからか。

 

「一緒に水汲みして。一緒に畑を耕して。一緒にお昼寝して。一緒に草むしりして。一緒に薪を割って。一日が終わったら「おやすみ」と言って、一日が始まったらまた「おはよう」って言って。そうやって君と過ごす毎日が、本当に楽しかったよ」

 

 赤く染まった顔で、少年はぎこちなく笑う。

 

「まだ出会ってたった3か月だし。僕は君のこと、まだ何も知らない。髪に触れさせてもくれないし、その人形も一度も抱かせてもらえていない…。君にとって、ここはたまたま辿り着いだけの、何処かの知らない家で、僕はたまたま知らない家に住んでいた知らない人なのかも知れないけれど…。でも僕は君のこと、本当の家族みたいだと思っていたよ…」

 

 今の自分の気持ちを正直に伝えて。

 しかし地べたを見つめたままでいる少女を、少年は寂しそうに見つめる。

 目を閉じ、小さくため息を吐いた。

「すまないね。僕は知らない間に、君の心に土足で上がり込んで、君の心を傷付けていたみたいだ」

 

 少年は一歩一歩、少女からゆっくりと遠ざかり、やがて背を向ける。

「僕、先に帰ってるから。暗くなり切る前に、帰っておいでよ」

 そう告げて、段々畑の斜面を下っていった。

 

 

 

 

 少年は小屋の板の間で横になっていた。

 太陽が西に大きく傾いた時間帯。出入り口からは西日が真っすぐに室内に差し込み、土間と奥の板の間までを茜色に染めている。

 小屋の外から聴こえてくるヒグラシの鳴き声。その鳴き声に混じって、儚げな足音。

 少年は近づいてくる足音から逃げるように、ごろんと寝返りを打ち、土間に向けて背を向ける。少年の背中を、日暮れ間近の陽光が赤く照らす。

 その赤く染まった少年の背中に、細い影が重なった。

 

「加地くん…」

 

 ヒグラシの小さな鳴き声にも負けてしまいそうなほどの、か細い声。

 呼ばれた少年は、返事をしない。

 

「加地くん…」

 

 少年は返事をしない。

 

「ごめんなさい…、加地くん…」

 

 少年は首を捩じり、額を床に付ける。

 

「…君が悪いんじゃない…。僕に配慮が足りなかったんだ…」

 か細い声の主に背中を向けたままそう答える少年だったが、その声も態度も、少年の不貞腐れた心を隠そうともしていない。

 

 少しだけ間を置いて、少年の背中にか細い声が投げ掛けられる。

「私…、昔の記憶が…、曖昧なの…」

「それは知ってるよ…」

「でも、何となく覚えているの…。この髪はきっと昔、大切な誰かが切ってくれたもの…。この人形はきっと昔、大切な誰かに渡されたもの…。この髪と人形だけが、過去の私と…、今の私を…、繋げてくれている絆なの…」

「そう…」

 少年は少女に背を向けたまま呟く。まるで少女の告白に興味など持てないと言いたげな声で。

 

「でも…」

 

 背後で、ミシッと音がした。どうやら少女が土間から上がり框へ、そして板の間へと上がったらしい。

 

「今の私にとっては…、加地くんとの絆も大切…」

 

 床に押し付けられていた少年の額が、少しだけ浮き上がる。

 

「さっきの質問、答える。ここは私にとって、大切な場所。私はここに居たい。だから…」

 

 少年は首を捩じり、背後を振り返った。

 

「加地くんがそうしろって言うなら、今すぐ髪を切る…。人形も捨てる…」

 

 外から差し込む光を背に、か細い人影が立っている。

 

「だからお願い…。ここに居させて…」

 

 

 いつの間にか少年は体を起こして正面から少女を見ていた。

「ここに…、居たいの…?」

 人形を抱き締めて立っている少女は、こくりと頷く。そんな少女を、少年は値踏みするように見つめ。

「じゃあそこに座って」

 少年に指示されるままに、少女は床に正座した。

 座った少女と入れ替わるように、少年は立ち上がる。

 ミシリミシリと床に音を立てながら、少女へと歩み寄る。

 少女の目の前に立った。

 床に正座したまま少年を見上げる少女を、少年はじっと見下ろす。

 しばらく少女の顔を眺めていいた少年の目が、少女の膝の上へと移動する。そこにあるのは件の藁人形。

 

「ん…」

 

 少年は少女に向けて両手を差し出す。

 急に差し出された少年の手を、ぽかんと見つめる少女。

 

「ん…」

 

 何かを催促するように、少年は改めて両手を差し出す。

 差し出された手の意味を察した少女。膝の上にある藁人形を、両腕でぎゅっと抱きしめた。

 

「ん…」

 

 少年は相変わらず空の両手を少女に向けている。

 そして藁人形をぎゅっと抱きしめる少女。

 

「んん!」

 

 少年は語気を強めて少女に迫る。

 少女は目をぎゅっと閉じ、そして覚悟を決めたように瞼を開けると、おずおずと藁人形を少年へと差し出した。

 少女の手から藁人形を受け取った少年。2人の共同生活を始めてから3か月にして、初めて手にした藁人形を、物珍しそうにまじまじと見つめる。

 もともと酷く不出来な藁人形。四六時中少女が抱き締めていた所為で、あちこちがほつれ、潰れ、醜い・不気味を通り越してむしろアヴァンギャルドですらある。

 

 少年が藁人形を興味深げに観察している間、少女は顔を俯かせ、膝の上の手をぎゅっと握りしめていた。

 ミシリミシリと床の軋む音。少女の膝の近くにあった少年の足が、右の方へと移動する。顔を俯かせたまま、少年の足を視線で追う。少年の足は少女の右斜め前で立ち止まる。その位置で、少年はドスンとやや乱暴気味に腰を下ろした。少女の方に、背を向ける形で、胡坐をかく。

 

 そこからは長い沈黙。

 少女に背を向けたまま、黙ってしまった少年。

 そんな少年の背中を、静かに見つめる少女。

 

 先に沈黙に耐えかねたのは、珍しく少女の方だった。

 

「加地くん…」

 少年の背中に声を掛ける。

 少年は返事をしない。

 腕の中の藁人形をじっと見つめたまま、息さえしてないのではと思えるほどに、微動だにしない。

 

 少女に背を向けて座る少年。

 そんな少年の背中を見つめる少女。

 土間から差し込む茜色の陽射し。

 カナカナカナと、ヒグラシの鳴き声。

 静かに時は過ぎていく。

 

 変化は突然起きた。

 不意に、少年がごろんと体を横に傾けたのだ。

 両腕で藁人形を抱いたまま横に倒れていく少年の体。

 床に向かって落ちていく少年の頭。

 無防備な少年の頭の着地点は硬い床。

 

 ではなく。

 

 柔らかい。

 

 少女の膝。

 

 

 突然膝の上に現れた重みに、少女は限界までに目をぱっちりと見開く。

 ついさっきまではそこには藁人形があって。

 ちょっと前に藁人形を少年に取り上げられて。

 膝の上には何も無くなってしまって。

 そして今は、少年の頭がある。

 

 目まぐるしい変化を見せる自身の膝の上に、大いに戸惑っている様子の少女。

 そんな少女に、少年は後頭部を向けたまま言う。

 

「君の髪が何処かの誰かのものであっていい。君の腕が、この人形のものであるのも仕方ない」

 

 相変わらず何処か不貞腐れた声音で言う少年。

 

「でもこの膝は、今、君の側に居る、僕だけのものだ」

 

 それでも言っているうちに自分の言葉が恥ずかしくなってきたのか、今は右手の人差し指で右頬をぽりぽりと掻いている。

 そして念押しでもするかのように、

 

「…それでいい?」

 

 少年の癖のある髪の奥に見える綺麗な旋毛を見つめながら、少女は小さく微笑んだ。

 

「ええ…」

 

 そう呟きながら、少女は黄昏色に染まった少年の髪を、細い手で優しく梳いた。

 

 

 * * * * *

 

 

 少年が少女の膝枕の温かみに溺れている間に陽が暮れてしまった。

 少年は慌てて夕餉の準備を始める。

「あ、そうだ」

 釜土に火を入れながら、少年は上がり框にちょこんと座っている少女に声を掛けた。

「ツバメちゃん。今日は夕飯も味噌汁作ってくれない?」

「お味噌汁…?」

「うん。たまにはお夕飯も贅沢にいこうじゃないか」

「私のまずいお味噌汁でも?」

「ふふ。お願いしてもいいかな?」

「ええ…」

 少女は首を傾げながらも立ち上がり、割烹着に袖を通す。

 

 

 ちゃぶ台に並ぶ、いつもの蒸かし芋と、そして今日はもう一品、お椀に注がれた味噌汁。

「いただきます」

「いただきます」

 重なり合う、2人の声。

 2人は真っ先にそれぞれのお椀を手に取る。

 同時にお椀をすくい上げ、同時にお椀を顔に近づけ、同時に唇を尖がらせ、同時に唇をお椀の淵にくっ付け、同時にお椀を傾け、同時にお椀の中身を口の中へと注ぎ入れ。

 

 同時に目を丸くする。

 

 同時にお椀から口を離して、

「んんんん…」

 唸る少女。

「あ~~おいしぃっ」

 しみじみと言う少年。

 

 少女はお椀の中身をまじまじと見つめる。

 いつもと変わらないように見えるお椀の中身。

 

「お味噌汁さま…、降臨…」

 

 不思議そうに向かいに座る少年を見つめた。まるで味噌汁神の顕現を予知でもしていたかのような少年。どんな魔法を使ったのだろう。

 少年は笑顔で種明かしをする。

「タカオのおばさんに相談してみたんだ。僕の相棒がなかなか味噌汁の味に納得いかないようなんだけど、どうしたらいいかな、ってね。そしたら、さすがは主婦歴40年のおばさんだね。すぐにこれを持たせてくれたよ」

 少年はちゃぶ台の上に小さな瓶を置く。

 小瓶の中は白い粉末。小瓶の表面には魚の絵が描かれ、「だしの素」の文字。

「君が鍋に具を入れる前に、これを入れておいたのさ」

「魔法の白い粉…」

「うん。その表現はなんだか誤解を与えそうだから人前では使わないでね。どうやら味噌汁に限らず、和食を作る場合は出汁を入れることが基本になるようだ。料理の味付けの基礎となるだけでなく、出汁を加えることで旨味や風味が増すらしい。この旨味というのはグルタミン酸やアスパラギン酸といったアミノ酸によって生じるものだそうで、実はこれを発見したのはこの国の…」

 

 少年が蘊蓄を垂れている間にも、少女は味噌汁を2口、3口と、夢中になって口の中に注ぎ入れている。

 口の中が一杯になってしまったので、一度お椀から口を離し、小さく喉を鳴らしながら口の中身を胃の中へと収め、そして鼻からふ~と深く長い息を吐く。

 お椀の中身をうっとりと見つめて。

 

「美味しい…」

 

 口元が綺麗な曲線を描いた。

 長々と蘊蓄を垂れていた少年。少女の顔を見て、口を閉じてしまう。

 幸せそうな少女の顔を見つめながら。

 

「美味しいね」

 

 少年も笑顔でお椀に口を付けて中身をずずずと啜り。

 

「うん…、美味しい…」

 

 少女も笑顔でずずずと味噌汁を啜る。

 

 

 ずずず、ずずずと。

 コロコロコロと。

 

 味噌汁を啜る音と、コオロギの鳴き声と、そして時々2人の小さな笑い声が木霊する部屋。

 

 控えめなランタンの灯りが、2人だけの食卓を温かく照らし出す。

 

 

 

 



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7.ニート街へ行く。  

 

 

 

「はい、これが先週の売上分」

「ありがとう」

「最近、あんたが持ち込んでくる野菜、評判がいいよ? 痛みが無くって形も揃ってるって」

「そうなんだ。それは嬉しいな」

「なんだったら「私たちが作りました」って写真、売り場に載せてみちゃどうだい?」

「ははっ。そこまで自信過剰にはなれないよ」

「謙虚だね。若いコが作った野菜って分かったら、この辺のお爺ちゃんお婆ちゃん、孫にお小遣いやるつもりで、どんどん買ってくれると思うけど」

「遠慮しとくよ。僕たちまだまだ奥深い農芸の世界に足を踏み入れたばかりだからね」

「そうかい。で、あれが噂の眠り姫ちゃんかい?」

「うん」

「ようやくお山の上から降りて来たんだね」

「最近、僕が持ち込む野菜が評判いいのはたぶん彼女のおかげだよ」

「へー百姓やってるコには見えないけどね~」

「特別手際がいいって訳ではないんだけどさ。一つ一つの作業が丁寧なんだよ、彼女」

「あのコが丁寧っていうか、あんたが不器用すぎるだけじゃないのかい? 最初の頃は、あんたが持ち込んでくる野菜はそりゃ酷いものばっかりだったからねえ」

「それについては何も言い返せないな~」

「あんたがあそこで一人で百姓始めた時は、こりゃ3日で根を上げるだろうなって思ってたんだけどね」

「おばさんたちが色々世話してくれたおかげだよ」

「感心感心。あんたもそんな殊勝なこと言えるようになったんだね。あんたも前は1月に1回でも顔出してくれたら良い方だったけど、最近じゃしょっちゅう元気な顔見せてくれるし、おばさん嬉しいよ」

「はぁ…」

「ってことはあれかい? もしかしたらこれからデートかい?」

「ちょっと街まで繰り出そうと思って」

「そりゃ楽しみだね~」

「それで、おばさん。お願いしたいことがあるんだ」

「なんだい?」

「女の子とデートに行くんだ。やっぱり先立つものがないと…ね」

「おや。ようやく「あのお金」を使う気になってくれたかい?」

「お願いできるかな?」

「いいよいいよ。勿論だよ。うちの旦那も喜ぶよ。うちの旦那、最後まであんたが「あのお金」を使ってくれないって、心配してからね」

「そうだった…ね…」

「じゃあ待ってな。今持ってくるから」

 

 

 原付バイクのタンデムシートにちょこんと跨った少女。少女の視線の先には、一件の農家の玄関先で、少年が白髪頭のご婦人と話しをしている。少年は婦人から何かを受け取ると、頭を下げ、こちらに走ってきた。

「お待たせ」

 ヘルメットを被り、バイクに跨った少年は、足で蹴ってスタンドを畳むと、鍵を捻ってエンジンをスタートさせ、スロットルグリップを捻った。

 トットットと、小気味よい音を立てながら走り始めるバイク。少女は細い両腕を、少年の胴へと回す。

 

 

 2人を乗せて田舎道を走るバイク。

 道の両脇には、青々とした田園風景。時折山の方から風が吹き、稲の葉が生い茂った田んぼの表面に風の波紋を広げていく。

 年季もののバイクは法定速度の半分も出してくれない。少女と同じ名前の鳥が、2人が乗るバイクを次々と追い越していく有様である。

 それでもバイクを駆る少年は、今の2人にとってはこの程度のスピード感がちょうど良いと感じている。

 ゆっくり行けばいい。ゆっくりと。進んでいけば、目的にはいずれ辿り着くのだから。

 体を包み込む爽やかな風と、背中に感じる少女の温もりを感じながら、少年はバイクをトコトコと走らせた。

 

 

 

 2人が跨るバイクは、郊外の大型スーパーマーケットやホームセンターなどが集まる商業施設へと辿り着く。バイクを駐輪場に停め、施設の中へと入った。

 少女は隣を歩く少年の顔を、「どこに行くの?」と見上げる。

「ツバメちゃんの社会復帰支援第1段。まずは服をどうにかしないとね」

 少年は隣を歩く少女の、頭から足もとまでを見る。

 少年が少女のために買った、農作業用のつなぎ服。少女が所持する服は、この作業着と寝巻用のジャージ、そして学校の制服の3点のみだった。ファミリー層向けの商業施設のため、取り立ててお洒落をして行くような場所ではないが、それでも少女のこの出で立ちは目立ってしまう。

 2人の足は「フ○ッションセンター・し○むら」の入り口へと入っていった。

 

 

「これとこれなんて、どうだい?」

 案の定、少女はファッションになってこれっぽっちも興味がないらしい。陳列された様々な服を、ぼんやりと眺めて突っ立ってるだけの少女に、少年は適当に見繕った服を手渡してやる。

 手渡された服を、ぼんやりと見つめている少女。少年に「どうしたらいい?」と視線を向ける。

「ほら、あそこの試着室で試着してみたら?」

「試着?」

「うん。自分の容姿やサイズに合うかどうか、試しに着てみるといいよ」

「そう…」

 少女は少年に促されるがまま、試着室へと入っていく。

 

 

 適当に店内を回っていたら。

「お、お客様…!」

 どこからか店員の悲鳴のような声が聴こえてきた。

 平日の昼下がりで店内の客は疎ら。店員さんを驚かせてしまう要素など、少年の頭には一つしか思い浮かばない。慌てて、試着室へと向かう。

 案の定、試着室から出て売り場をうろうろとしている少女。その隣で、あたふたしている女性店員さん。女の子が下着姿で店内をうろついていたら、そりゃあたふたもしてしまう。

「お客様…、ちょっとお客様…」

 店員は他の客に配慮して小声で少女に話しかけるが、少女は店員にはまるで取り合わず、すたすたと歩いている。

「加地くん…」

 少年の姿を認め、ようやく足を止めた。手に持った服を少年に差し出す。

「これ…、私には大きすぎるみたい…」

「そうかい。じゃあもうワンサイス小さいものを持ってこよう。あ、ごめんさい。すぐに試着室に連れていきますから」

 唖然としている店員を残し、少女の背中を押して試着室へと向かう。

 

 

 カーテン越しに聴こえる衣擦れの音に耳を傾けながら、少年は試着室の前を塞いでいる。

「ねえ、ツバメちゃん」

「なに…」

 カーテン越しに、少女の声。

「ダメだよ。さっきのようなことは」

「さっきのようなことって?」

「服を脱いだまま人前に出てしまうことさ」

「いつもしていることだわ」

「うん、そうなんだけどね」

 

 あの小屋の生活では、少女は少年の前でも恥じらいなく平気で服を着替えている。最初のうちは、人前で裸になろうとする少女に注意したり自室の納戸に押し込んだりしていたが、面倒になってしまった近頃では、少年の前で少女が裸になったり下着姿になったりするのも、すっかり日常の風景となってしまっていた。

 

「人前で、裸になってはいけないの?」

「それがこの世界における標準的なモラルみたいだね」

「モラルってなに?」

「人類が培ってきた道徳観や倫理観によって構築される、普遍的な価値観のことだよ」

「そう…。人前で、裸になってはいけないのね…」

「うん。あとさっきの店員さんに対しての態度」

「態度?」

「そう。店員さん、心配してツバメちゃんに声かけてくれたんだから。ちゃんと返事してあげないと」

「ごめんなさい…」

「別に僕に謝る必要はないさ。ま、ゆっくり慣れていこう」

「うん…」

 少年の背後で、カーテンが開く音がした。

 

 

 未だに心臓が落ち着かないフロアマネージャー。彼女の視線の先には、彼女の寿命を3日ほど縮めてしまった女の子が入った試着室と、女の子の連れの男の子が立っている。男の子はともかく、女の子のあの非常識さといったらどうだ。年頃の女の子を下着姿で歩かせてると変な噂でも立ったら、店の信用問題に関わってしまう。フロアマネージャーの裁量で、出禁にでもしてしまおうか。

 そう思いながら試着室を睨んでいたフロアマネージャー。カーテンが開き、そこから現れた女の子の姿を見て、そんな気持ちは何処かに吹っ飛んでしまった。

 

 

「このサイズならちょうどいいわ。…どうしたの?」

 こちらを見つめたまま、口を半開きにしてぽかんと立ってっている少年。ついでに売り場の奥に立つ店員さんも、こちらを見つめてぽかんと突っ立ている。少女はくてんと首を傾げた。

「加地くん…?」

「あ、いや。うん。どうだい? 着た感じは?」

「うん。ゆったりしてて、いい」

「そう」

「これならお昼寝しても邪魔にならない」

「ふふっ。君の服の良し悪しの判断基準はそこなんだね」

「他に何か基準となるようなものがあるの?」

「例えばほら、その鏡見て、何か思わないかな」

 試着室の姿見に映る自分の姿を見る少女。

 5秒ほど自分の姿を見つめて、そして少年を見る。

「別に…」

「似合ってるとか、似合ってないとか」

「よく分からない…。加地くんはどう思うの…?」

 急に感想を振られ、少年は少しだけ意表を突かれた顔をしたが、訊ねられる前から抱いていた感想をそのまま口にすることにした。

「うん。とても似合ってる。可愛いよ、ツバメちゃん」

「そう…」

 少女は顔を俯かせ、少しだけ頬を赤らめる。

 

「あ、すみません」

「は、はいはい」

 少年に声を掛けられ、少女の姿に見とれていた店員さんは慌てて試着室前まで駆け寄る。

「これ着て帰りますから、タグを外してもらうことはできますか?」

「あ、はい。もちろんです」

 店員さんはウェストポーチからハサミを取り出すと、少女の背後に回り、シャツの襟元にある商品タグを切り取る。

「ツバメちゃん」

 少年は少女の名前を呼びながら、目線で、床に膝をついて商品タグを切り取っている店員さんを指す。

 少女は少年の顔と、店員さんの横顔とを交互に見つめて。

「あの…」

「はい」

 少女に呼び掛けられた店員さんは、スカートの商品タグを切り取り終えると、すっくと立ち上がった。

「何ですか?」

 少女は店員さんの顔を見て、一度視線を床に落として、次に少年の顔を見て、そしてもう一度店員さんの顔を見て。

「さっきはごめんなさい…」

 少女が言う「さっき」とは何時のことだろう。咄嗟に思い浮かばず、しかし今、真新しい洋服に包まれた愛くるしい姿で立っている少女が、3分前にあられもない下着姿で店内をうろうろしていたことを思い出した店員さん。

「いえいえ。今度から気を付けて下されば結構ですよ」 

 笑顔で少女の謝罪を受け入れる店員さんの隣では、少年が「よくできました」とばかりに満足そうな笑みを浮かべている。

 

 

 * * * * *

 

 

 客で埋まる店内。

 少年は窓際の2人掛けの席に座り、窓ガラスから見える街並みの様子を眺めている。

 暫くして、注文待ちの客の列が並ぶカウンターから、プレートを持った少女が現れた。

「はい、加地くん」

 少女はプレートに乗った2つの器のうち、淹れ立てのホットコーヒーが入った紙コップを少年の前に置く。

「ありがとう」

 少年の向いの席に座る少女。少女がテーブルに置いたプレートに乗っているものを見て、少年は目を丸くする。

「それは…、なんだい?」

「ショートソイ抹茶クリームフラペチーノライトシロップウィズチョコレートチップエクストラパウダー」

「ショートソイ…え? 何だって?」

「ショートソイ抹茶クリームフラペチーノライトシロップウィズチョコレートチップエクストラパウダー」

「…それは一体どんな悪魔を召喚しようとしているのかな?」

「ただの注文…」

 そう言いながら、少女は透明の容器に入った茶色の液体に大量の白い泡状のものが乗った何かを、ストローでチューチュー吸い始める。

 

 ストローの中を液体が通過し、少女の口の中へと入っていく。少女の目が少しだけ細まり、少女の眉尻が少しだけ下がり、少女の口角が少しだけ上がる。それは他人が見れば気付くことさえできない、ほんの僅かな表情の変化。

 

「美味しい?」

 そんな少女の顔を、頬杖を付きながら眺める少年。少女はストローから口を離さず、うんうんと頷いている。

 容器の4分の1を喉の奥に注ぎ込んで、少女はようやくストローから口を離した。少年の手の中にある、コーヒーが入った紙コップを見つめる。

「加地くん、たまにはホットコーヒー以外、頼めばいい…」

「いや…、僕はこれで十分だよ…」

 そう言いながら、少年はカップを口に付ける。膝が、心なしか震えている。

 

 世界規模の有名コーヒーチェーン店がこの街に出店したのが1月前。開店2日目にたまたま街に訪れていた2人。店の前にできた行列に興味を持った少年は、これも社会勉強とばかりに面倒くさがる少女の手を強引に引っ張って行列に並んだのだが、いざ注文カウンターに辿り着いたところで目の前に出されたメニュー表に並ぶ意味不明なカタカナの羅列に目を回してしまった。

 

「あんなの…、人が用いていい言語じゃない…。悪魔の所業だ…」

 

 目の前の店員さんと後ろに並ぶ客たちから掛けられる当時のプレッシャーを思い出したのか、少年は顔を青くしている。以後、街に繰り出す度にこのコーヒー店に寄っている2人だが、少年はいずれもただのホットコーヒーしか頼めないでいる。

 一方の少女は伝家の宝刀、「おすすめをお願いします」で初めての注文を乗り切る。その時出されたキャラメルマキアートの味をいたく気に入った少女。以来、来店する毎に様々な注文を試し、今ではカスタマイズメニューを縦横無尽に駆使するまでに至っている。

 

 

「もう僕がツバメちゃんに教えられることは何もないよ…」

 手塩にかけて育てた愛弟子の成長に感動しているかのように呟く少年。

「加地くんも、結構、世間知らず…」

 弟子の鋭い指摘に、少年は苦笑いするしかない。

「まあ僕も普段は殆ど山の上での生活だからね。そりゃ世間知らずにもなるよ」

 そう言いながら、相変わらずストローをちゅーちゅーと幸せそうに吸っている少女を見つめる。

 

 

 1月前に量販店で買った服。淡いクリーム色のプルオーバーシャツに浅葱色のロングスカート、歩き易さを優先させたコンフォートサンダル。すべて同じ店で揃えたものだが、さすがは庶民の味方「ファ〇ションセンターし〇むら」。一式を購入しても、お会計は梅子ちゃん1枚で十分事足りた。シンプルなハーフアップで纏めらた後ろ髪は、出かける前に少年が整えてやったものだ。

 若人が集う店内にあって、何の違和感もない姿。周囲の客たちはこの少女が、つい5か月前に着の身着のままで山の上の農園にふらっと現れ、今でも少年と2人切り、山の上の農園でほぼ自給自足の生活を送っているとは夢にも思わないだろう。

 

 

 頬杖を付きながらぼんやりと見つめていたら、少女がきょとんとした表情で少年を見つめ返してきた。

 幸せそうな表情を見ているのもいいが、このきょとんとした、いかにも世間ずれしていない無垢な少女の表情も可愛らしいと思ってしまう少年。「なに?」と問うてくる少女の視線を無視し、にこにこしながら少女の顔を見つめ続ける。

 すると少女は咥えていたストローから口を離し、容器を少年の方へと差し出してきた。どうやら少年が、少女の飲み物をねだっていると勘違いしたらしい。

 少年は少し身を乗り出すと、遠慮なく少女が持つ容器のストローを咥え、ずずずずっと、容器の中身を一気に吸引し始めた。

 唖然とする少女。

「うわ、甘ったるぅ」

 ストローから口を離した途端、呻き始めた少年の一方で、少女は中身が3分の1になってしまった容器を悲しそうに見つめる。そして口の中を中和させようとホットコーヒーを啜っている少年を恨めし気に見つめつつ、再びストローを咥え、ちゅーちゅーと中身を吸い始めた。

 

 

 ちなみに少女の服をコーディネートしてやった少年自身も、実は殆ど私服らしい私服を持っていなかった。少女の服を買いに行った日も、少年は少女と同じ作業着、ある意味ペアルックで商業施設に訪れていた。せっかく少女が年相応の可憐な服に身を包んだのだからと、少年自身も紺のテーラードジャケットと黒のクロップドパンツを同じ店で購入。さすがは庶民の味方「ファッショ〇センターしまむ〇」。上下一式購入でも梅子ちゃん一枚でお釣りがきたが、靴まで買う余裕はなく、足もとは農作業用の作業靴のままであることが残念である。

 

 少女の顔から目を離し、店内に目をやると、奥の席に座っている10代後半くらいと思しき女の子3人組と目があった。どうやらずっと少年のことを見ていたらしい女の子たちは、少年と目が合うときゃっきゃと小さな歓声を上げてはしゃいでいる。

 少年が作業着ではなくまともな私服で街に繰り出すようになってからというもの、若い女の子たちから視線を集めたり声を掛けられたりすることが増えた。

 普段なら無視したり軽くあしらったりしてやり過ごす少年。

 目の前で、呑気にストローをちゅーちゅー吸っている少女を見て、ちょっとばかし悪戯心が芽生えた少年は、女の子3人組に対して笑顔で軽く手を振ってみた。

 少女は少年が急に何処かに向けて手を振っているのを見て、少年が手を振る方に視線を向けてみる。

 女の子3人組が、きゃっきゃと歓声を上げてはしゃいでいる。

 少女は正面に向き直る。

 そして引き続きちゅーちゅーストローを吸っている。

 自分が他の女の子に向かって愛想を振りまいたことに、少女から何かしらの反応があるのではないかと期待していた少年。

 何の反応も示さない少女に、がっかりしてしまう少年である。

 

 一方で、少年の前に座る少女。

 少女自身も、店内のあちこちから視線を集めていることを、少女自身はまるで気付いていない。今も変わらず、残り少なくなってしまった容器の中身を、ずずずと言わせながらストローでちゅーちゅーと吸い続けている。

 無防備な少女に変わって、少女に視線を投げかけている野郎連中に向かって、まるで狼からか弱い子羊を守る番犬の如く睨みを効かせる少年である。

 

 

 

「ねえツバメちゃん」

 少女はストローを咥えたまま少年を見る。

「提案なんだけど、聞いてくれるかな?」

 少女は頷く。

「君もだいぶ世間に馴染んできたことだし、どうだろう。社会勉強の集大成として、旅行にでも行ってみないかい?」

 少女はストローを咥えたまま、驚いたように目をぱっちり開ける。

「もう少ししたら農繁期に入って身動きとれなくなってしまうから。その前に1泊2日くらいでさ」

 少女は口からストローを離し、空になった容器をプレートの上に置く。

「どうだろう?」

 少女は目を伏せ、テーブルの木目を見つめている。

 

 きっと少女はこの提案を断るだろう。少年はそう予想していた。

 山の上から街まで引きずり出すのに3か月も掛かったのだ。この街のさらに外にまで引っ張り出すためには、更なる時間を要したとしても不思議ではない。

 また根気よく説得していこう。今日はその1日目だ。

 

 そう少年は思っていたのだが、少女から返ってきたのは意外な答えだった。

「うん…、行く…」

「え? いいの?」

 目の前の少女が小さくこくりと頷いたのを見て、思わず前のめりになってしまう少年である。

「加地くんとの旅行…、楽しみ…」

 そう微笑む少女に、テーブルの下で密かにガッツポーズする少年である。

「どこか行きたいところ、ある?」

 少女は「分からない」と首を傾げる。

「どこがいいだろうね。やっぱりこの季節だし海がいいかな。山も涼しくていいかもね。ああ、それとも…、ツバメちゃん?」

 少年が楽しそうに頭の中で旅行の案をあれこれ練っていたところ、向いに座る少女は少年から視線を外し、遠くの方をぼんやりと見つめていた。

 

 少年は少女の視線を追う。視線の先には店内の中央に置かれた公衆テレビ。

 

 テレビ画面に映し出されているのは、どこかの田舎。山間の風景。

 スピーカーからは、落ち着いた女性の声が聴こえる。

 

 

『ここ、○○県××市△△地区はかつてサードインパクトを生き延びた人々が作り上げた小さな集落でした。今ではご覧の通り廃村となっていますが、この村の出身者たちが復興の象徴としてこの村を語り継ごうと出資し合い、旧診療所を利用した資料館が完成し、この度関係者を集めたセレモニーが行われました。一般公開は○月△日からで…』

 

 

「ふーん。復興村か。アディショナルインパクトの前は、この国のあちこちにあったようだね」

 テレビは次の話題に移ったため、少年は正面に向き直る。

 少女が、じっと少年の顔を見つめていた。

 

「加地くん…」

 

「なんだい?」

 

「私、あそこに行ってみたい…」

 

 

 



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8.ニート故郷?に帰る。

 

 

 

 

 電車のボックス席に向かい合って座る2人。

 少女は車窓の外を過ぎていく景色を眺め、そして少年も車窓に顔を向けながらも、その視線は窓ガラスに写る少女の横顔をぼんやりと見つめている。

 少年はこの旅行行きを決めた日のことを思い出していた。

 

 

 

 

「どうしてあそこに行きたいと思ったんだい?」

「…分からない」

「あそこに何か、あるんだね?」

「…分からない」

「君、もしかしてあの村の出身なのかな?」

「…分からない」

「あそこに行けば、君の過去が分かるのかい?」

「…そうかも…、知れない…」

 

 

 畳みかけるような少年の問い詰めに対し、歯切れの悪い少女の返事。

 少年は納得いかないとでも言いたげに眉根を寄せながら、頼りないランタンの灯りで照らされたちゃぶ台に頬杖をつく。少年としては少女の社会勉強の集大成という建前をもとに、農作業が忙しくなる前の息抜きのつもりで誘った旅行だった。もっと気楽に楽しめる旅行にしたかった。

 ちゃぶ台の向こうでは、藁人形を抱き締めながら伏し目がちで正座している少女。そんな少女を、少年は横目でじろりと見る。

「…今更いいじゃないか。…君の過去とか…、そんなこと…、もうどうでも…」

 思わず、本音を漏らしてしまう少年である。

「…ごめんなさい…」

 藁人形を抱き締める腕に力を籠め、顔を俯かせてしまう少女。そんな態度の少女に、少年は鼻で溜息を漏らしながら頭を掻く。

 少女は上目遣いで少年を見る。

「加地くんがダメって言うなら…、行かない…」

 そんな少女の言葉に、少年はもう一度鼻から溜息を吐く。

「ずるいなぁ…。そんな顔で言われて、「ダメ」って言えるはずないじゃないか…」

 

 

 

 

 旅行を提案した時の少年は、彼らが住む街の近くの観光地にでも原付バイクで行って、温泉街で一泊する程度の旅行を考えていた。しかし少女が「行きたい」と言った場所は彼らが住む街からは遠く、高速鉄道か旅客機で行くしかない。

 朝一番の電車に乗って空港まで行き、飛行機に乗って約2時間。着いた空港からローカル線に揺られて1時間。そこから幹線に乗り換え、さらにもう一度ローカル線に乗り換え、現在に至っている。

 移動時間も多いが、交通費もかさみ、懐事情が苦しくなってしまった少年だった。

 

 向かいの席に座る少女。いつものプルオーバーシャツにロングスカート。ハーフアップで纏められた髪。そして膝の上にはトートバッグが乗せられている。1泊2日の短い旅行だ。2人分の荷物は、少年が持つダッフルバッグの中に全て収まっている。少女が持つトートバッグの中に入っているのは例の藁人形。藁人形を腕に抱き締めながら出かけようとした少女。せめて鞄の中に入れてくれという少年の頼みを少女は渋々受け入れ、人形をトートバッグの中に入れ、暇があればバッグの中に手を差し入れ、中の人形を弄っている。

 

 窓の外を流れる田舎の風景を眺めていた少女は、少年の視線に気付き、少年に向けて微笑み掛ける。少年も釣られて、にっこりと笑顔を返す。

 この旅が終わった時。

 お互い笑いながら家路につくことができたら。

 そう願わずにはいられない少年だった。

 

 

 やがて電車は周囲に田んぼと山しかないような土地にぽつんとある、くたびれた駅に停まる。

 もとより客足の少ない車内。ホームに降りたのは、少年と少女の2人だけだった。

 無人の改札口から駅舎を出ると、自動販売機すらない寂しい駅前のロータリーがあり、ロータリーの向こうはすぐに田んぼが広がる。

 天から降り注ぐ容赦のない日光が、2人の足もとに濃い影を作り出す。

「日傘、持ってくればよかったね」

「平気…」

 駅前のバス停で口数少なく佇んでいたら、バスがやって来た。

 バスに乗り込むのは、やはり2人だけ。

 田園風景が広がる田舎道を走っていたバスは、やがて深い森の中へと入っていく。

 

『次は第3復興村跡地前、第3復興村跡地前。お降りの方はお近くの降車ボタンを押してください』

 

「え? ボタン?」

 実は2人ともバス初体験。慌ててボタンの在りかを探す。

「あ、これだこれだ」

 窓枠に設置された赤いボタンを発見した少年は、窓際に座っていた少女の上に身を乗り出してボタンを押す。

 

 バスから降りようとして。

「整理券は?」

 運転手に訊ねられる。

「え?」

 間抜けな返事をしてしまう少年。

「乗るとき、整理券取らなかったですか?」

「え、ええっと…」

「どちらから乗られましたか?」

「ええっと、△〇駅からです…」

「お一人420円です」

「はい…」

 

 排ガスを残して去っていくバスを見送る少年。

「これでまた一つ社会勉強になったね」

 苦笑いしながら少女を見ると、少女は車道から外れて鬱蒼とした森の中へと向かう未舗装の道をぼんやりと見つめながら立っていた。未舗装の道の入り口には「第3復興村資料館」の看板。

「ここ、見覚えある?」

 少年の問い掛けに、少女はふるふると頭を横に振る。

「分からない…」

 今にも消え入りそうな声で呟く少女。その横顔は普段と変わりない仏頂面に見えるが、少年はその表情の奥に、少しばかりの不安が滲んでいるような気がした。

「今からでも、引き返していいんだよ?」

 柔らかい声で告げられた少年の提案に、少女はやはりふるふると頭を横に振る。

「行く…」

 そう呟いて、少女は未舗装の道へと足を踏み入れていく。

 暗い道を歩いていく少女の後姿を、暫く見つめていた少年。一度だけ肩を竦めて少女の後を追いかけ、こんな暗がりを女の子に先導させる訳にはいかないと、少女を追い越し、少女の前に立って歩いた。

 

 

 車一台分が通れる程度の道。今日は快晴で、天からは容赦のない陽の光が地上に向けて降り注いでいるはずだが、木漏れ日が光の模様を地面に作るくらいで、鬱蒼とした木々が囲む道は天然のトンネルのようだった。

 

 

 暫く歩いていると、木陰が途切れ、空から太陽の光が降り注ぐ。

 涼やかな森のトンネルの中から一転して、うだるような暑さ。道を囲むように生い茂っていた木々が無くなり、2人の前に開けた場所が現れた。

 

「田んぼの跡…かな…?」

 その開けた場所には山の斜面を削って作られた棚田、もしくは段々畑らしきものが連なっている。放置されて何年も経っているのか荒れ放題になっており、生い茂った雑草によって半分以上が隠れてしまっている。

 この田畑が放置されてからどれだけの歳月が経っているのかまでは分からないが、土地を耕す苦労を知っている身である少年にとって、荒れ果ててしまった田畑を見るのは心が痛んだ。

 

 少年が無残な姿の田畑を前に立ち竦んでいると、その隣で少女がふらふらと歩き始めている。荒れ果てた田畑に向かって。

「ツバメちゃん?」

 少女は、人の腰の位置まで伸びた雑草が生い茂っていて、足を踏み入れる隙間もないような藪の中を、草を掻き分けて進んでいる。

「ツバメちゃん、スカートが汚れてしまうよ」

 少年は慌てて少女の後を追う。少年が少女の前に立ち、草を掻き分け掻き分け、やがて2人は一本の大きな木の前に辿り着いた。

「あ~あ~。色んなひっつき虫が付いてるよ」

 呆れたように指摘する少年が少女の前でしゃがみ、スカートに付いた様々な草の種子を取り払っている間、少女は大きな木を見上げ、その幹に触れていた。

「この木がどうかしたの?」

 少年の問い掛けに、少女はふるふると頭を横に振る。

「分からない…。でも…」

 振り返り、荒れ果てた田んぼに視線を向ける。

「ここ…、懐かしい…感じ、…する…」

「そうなんだ…」

「ここで…、お昼寝…、したい…」

 そう呟いて、欠伸をし始める少女。

「いやいや、いけないよ。こんなところで寝てしまっては。ほら、行こう」

 少年は瞼が落ちかけている少女の背中を押し、藪の中から未舗装の道へと戻った。

 

 

 森の中を上ったり下ったりの道が終わり、木々が開けて平坦な道が続くようになり、藪の中にぽつぽつと古い家屋が立ち並ぶようになり。

 そして道と交差する廃線と出会った。2本のレールは未舗装の道と並行して走り、やがて古い木造の駅舎へと辿り着く。

 その駅舎の近くに立つ平屋の木造建築。

 玄関には「第3村診療所」とある古い看板。

 その看板の下には「第3復興村資料館」とある真新しい看板。

 無人の資料館らしく、誰でも簡単に出入りできるようになっている。出入り口には「大人100円、小人無料」と書かれた木箱があり、少年は木箱の穴に100円玉硬貨を2枚入れて、資料館の建付けの悪い引き戸を開けた。

 

 資料館に入ると、まず2人を迎えたのは壁に掛けられた古い黒板。黒板の上の方には「月・火・水・木・金・土・日」と印字がされており、おそらく診療所の一週間の開診予定などを書いていたものだろう。その黒板に、白のチョークで書かれたお世辞にも綺麗とは言えない文字。

 

 

 

『私たちは困難な時を、

 

 この場所で過ごし、助け合い、励まし合い、

 

 乗り越えてきました。

 

 もし、あなたの前に困難が立ち塞がることがあれば、

 

 その時はまたここを訪れてください。

 

 私たちは、いつでもあなた達を待っています。

 

 2043年○月△日

 

 第3村 最後の村長 鈴原トウジ』

 

 

 

 2人は資料館の奥へと入っていく。

 見学客の一人もいない、貸し切り状態の資料館の中。ガラスケースすらない手造り感満載の展示物が並んでおり、その内容は主に当時の生活の様子を伝えるものだった。第3村の成り立ちから終わりまでを綴った年表。村の地図。人口や出産数、農業生産量などの推移を示したグラフ。村の創設に尽力した葛城ミサトなる人物の紹介。第3村の運営を支援した「KREDIT」という支援組織の概要。当時村で使われた道具の展示。図書館や銭湯など、当時の村の主要な建物を撮影した写真。

 

 一通り見終えて、2人は出入り口の側のベンチに座る。

「どうだった?」

 少年は少女に静かに話しかける。

 少女は天井の梁を見上げながら、ゆっくりと頭を横に振る。

「よく…、分からない…」

「もう1回、ゆっくりと回ってみたらどうかな? 何か思い出すかもしれないよ?」

「うん…」

 少女はベンチから立ち上がると、資料館の奥へと入っていった。

 

 少女の背中を見送った少年は、緊張していた肩をほぐすように両腕を上げ、背筋を伸ばす。

 ふと、ベンチの横に置かれた棚にある、一冊のアルバムの存在に気付く。

 少年は何とはなしにアルバムを手に取り、ページを捲っていく。

 

 アルバムの中身は、当時の村の日常生活を写した写真で溢れていた。

 白衣を着た青年が、老人の背中に聴診器を当てている写真。写真の下には「患者さんを診察する鈴原医師」。

 メガネを掛けた青年が、手や顔を油まみれにしながら六角レンチを振るっている写真。写真の下には「発電機を修理する相田氏」。

 高い塔の上に立つ、女性らしき細いシルエットを写した写真。写真の下には「村の監視塔に立つ式波少佐」。

 写真の一枚一枚に、簡単な説明文が添えられている。

 その中の一枚は、先ほど目にした荒れ果てた田んぼだろうか。写真の中の斜面に連なる田んぼは綺麗に整備されていて、水が張られていて、数人の女性たちが稲の苗を手植えしている。写真の下には「田植えに励む婦人会の皆さん」の添え書き。お揃いの青いつなぎの作業服を着ている女性たちに混じって、田んぼの奥の方には、麦わら帽子に真っ黒な服という奇妙な格好をした一際細い女性が居るが、その女性は今正に右手に持った苗を水田に植えているところらしく前屈みになっているため、顔は麦わら帽子に隠れてしまいはっきりとは見えない。

 今は生活の息吹など全く感じさせない廃村。しかしアルバムからは、ここで力強く暮らしていた人々が放つ生命力が、時を越えて伝わってくるような気がした。

 

「いいね…、写真って…」

 

 アルバムのページを捲りながら、少年はぽつりと呟いた。

 そう言えば、我が家にはカメラというものがない。長い一人暮らしでわざわざ写真に収めたいという物や場面に出会うことがなく、カメラの所持など考えたこともなかった少年だが、今の彼の側には最高の被写体が居る。

 

「カメラ…、買おっかな…」

 

 今の懐事情ではすぐは厳しいけれど、これからお金をコツコツと貯めて、ちょっといいものを。

 などと、楽し気に思考を巡らせながら、アルバムのページを捲っていく。

 

 

 

 

 資料館を一人で回った少女。出入り口前のベンチで待っていた少年の前に立った。

「加地くん…」

 少年に呼び掛けてみる。

 返事はない。

「加地くん…」

 返事はない。

「加地くん…。終わった…。やっぱりよく、分からない…。もう行きましょう…」

 そう告げて、少年の肩に触れた。

 

 少年が、はっとした顔で顎を上げる。その少年の慌てように、少女はびっくりして少年の肩に触れた手を引っ込める。

「加地…くん?」

 少年は返事せず、少女の顔と、少年が手に持つ何かとを、交互に見ている。

「どうしたの…? 加地くん…」

 少年は返事をせず、少女と手もととの視線の往復を何度か繰り返した後、少年の手もとに視線をやったまま動かなくなった。

 

「加地くん…」

「ねえ、ツバメちゃん…」

 少女の呼び掛けに重なるように、少年の声。

「なに…?」

「ツバメちゃんは…、本当に…、ツバメちゃんなの…?」

「え…?」

 

 少年が問う言葉の意味が分からず、少女は声を詰まらす。

 

 暫く手もとのアルバムを睨んでいた少年。

 やがて意を決したように目を一度だけぎゅっと瞑ると、少女の顔を見上げた。

「これ…」

 少女に向けて、自分が見ていたアルバムのページを広げる。

 

 そのページに貼られた写真。

 写真に写る人物。

 

 少女の手が震えた。

 

 

 古びた写真。

 少し色褪せた写真。

 

 そこに写る、空色髪の少女。

 

 空色の髪を襟元で無造作に切り揃えた少女の写真。

 突然カメラを向けられたのか、少し驚いた様子でこちらを振り返っている少女の写真。

 奇妙な黒のスーツを着た少女の写真。

 

 その少女の背中に背負われた、栗色髪の小さな赤ん坊。

 

 写真の添え書きにはこうある。

 

 

『ツバメちゃんをおんぶする「そっくりさん」』

 

 

 

 



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9.邂逅。

 

 

 

 

 少女の膝が戦慄き、体が大きくぐらついた。

「ツバメちゃん…!」

 その場に尻餅を付きそうになった少女の腰に、少年は咄嗟に腕を回して体を抱き留める。そのまま少女をベンチに座らせた。少女の前に膝を折り、その顔を覗き込む。

「気分悪い?」

 少年は馬鹿な質問をしてしまったと思った。訊ねるまでもなかった。

 ただでさえ白い少女の顔が今は青ざめ、頬には脂汗を伝わせている。

「すまなかった。君を混乱させてしまうような写真を、不用意に見せてしまったね」

 

 少年は後悔に苛まれる。

 どうしてあんな写真を彼女に見せてしまったのだろう。彼女が目にすれば、混乱させてしまうことは目に見えていたはずなのに。自分の心の中に留めておけばよかっただけなのに。

 

 少年の謝罪に、少女は「あなたの所為じゃない」と健気に頭をふるふると横に振る。そして右手で、少女の膝の上に乗せられていた少年の左手を握った。

「加地…くん…」

 少女の呼び掛けに、少年は右手で少女の前髪を梳きながら少女の青ざめた顔を見つめる。

 まるで感情の一切が欠落してしまった、人形のような表情。瞼のみを、忙しなく開閉させている。

「私は…、いったい…」

 少年は少女の口から続く言葉を封じるかのように、そっと自身の額を少女の額にこつんと当てた。

「君は今も昔もツバメちゃんさ。僕の友人で同居人のツバメちゃん。それでいいじゃないか」

 少女は額に感じる少年の温もりを感じようと、目を閉じる。そして少年の優しい口調で語り掛けらる言葉を必死に受け入れようと何度も小さく頷く。

「行こう、ツバメちゃん。ここは君が来るべき場所ではなかったよ」

 少年に支えられて、少女はベンチから立ち上がる。引き戸を開き、2人は誰も居ない資料館を後にした。

 

 

 駅舎の横を通る頃には少女の顔色もだいぶ良くなっていた。ここまで支えてくれた少年の体からそっと離れ、自分の足のみで歩く。その腕にはいつの間にかトートバッグから出されていた藁人形があり、2本の細い腕でぎゅっと抱き締められている。

 

 

 バス停へと向かう未舗装の道を、2人は無言で歩いた。

 道の左右にはまるでトンネルのように木々が生い茂り、真上から降り注ぐ太陽の光は木々の隙間を通り抜け、地面に光と影のまだら模様を作っている。

 2人が地面を踏み締める音と、時折木々の隙間を木霊する鳥の鳴き声のみが響く静かな道。

 そこに、不意に地面を踏み締める、2人の足音とはまた別の誰かの足音。

 少年は足音がした方へと目をやった。

 そこは注意して見なければ分からないような、暗い森の中へと入っていく脇道への入り口。

 

 そこに、1人の青年が立っていた。

 

 

 鬱蒼とした木々が生い茂る森の中の道。そんな場所には不似合いな、背広に革靴姿の青年。

 ここまで誰一人としてすれ違うことがなかった場所。そんな場所にいきなり現れたサラリーマン風の青年にびっくりしてしまい、2人は足を止める。青年も青年で、まさかこんな辺鄙な場所に2人の若い男女が歩いてくるとは思わなかったのか、やはり驚いた様子で立ち尽くしている。

 

 突然の遭遇。少年も青年もお互い見合ったまま固まってしまっている中。

「こんにちは」

 いち早く立ち直った少年は、青年に向かって軽く頭を下げ、挨拶をする。

「こ、こんにちは…」

 青年もぎこちなく頭を下げる。

「ほら、君も…」

 少年は隣でぼんやりと立っている少女の腕を、肘で小突いた。

 

 「おはよう」「いだだきます」「ありがとう」「おやすみなさい」。

 一番身近な少年との挨拶はどれも律儀に丁寧に交わす少女だが、他人の前では途端に閉鎖的になってしまうところは、この1月間の社会勉強を経てもあまり改善されなかった。初対面の相手とは、こうしていちいち促してやらないと挨拶どころか目も合わそうとしない。

 

 少年に小突かれて、少女はようやく頭を下げる。

「こんにちは…」

「こ、こんにちは…」

 青年は未だに驚いたままなのか、ぎこちなく挨拶をしながら、少年と少女の顔を、目を丸くして交互に見つめている。

 

 挨拶を済ませた少年と少女は青年の前を通り過ぎようとする。

「あ、あの」

 そんな2人を、青年は少し上擦った声で呼び止めた。

「はい?」

 2人は足を止め、少年のみが振り返る。

「ここへはどうして?」

「旅行なんです。彼女が…」

 少年は自分の背に隠れて立っている少女に視線を向ける。

「彼女がここに来たいと言うので」

「彼女が?」

 青年は、少年の肩越しに見える少女の横顔をまじまじと見た。

 少々無遠慮な青年の視線。少年は、少女を守るように少女の姿を自分の体で隠す。

 そんな少年の態度に、青年は目を何度か瞬かせ、そしてようやく自分の失礼な振る舞いに気付いたようだ。

「ああ、ごめんさい。こんなところで人に会うとは思わなかったので、ちょっとびっくりしてしまって」

 そう言いながら、青年は短く纏められた髪を掻いて笑った。

 そんな青年の顔を見て、少年は肩から力を抜く。不思議と、この青年に対してこれ以上警戒心を持ち続ける必要は感じられなかった。

「あなたはどうしてここに?」

 今度は少年の方から青年に訊ねてみた。

「ああ、僕は年に1回はここを訪れるようにしてるんだ」

「もしかしてこの村の出身の方ですか?」

 そうであれば、あのアルバムの写真について何か聞き出せるかもしれない。しかし青年は頭を横に振った。

「出身者、という訳ではないんだけどね…」

 青年は彼が現れた脇道の奥へと視線を投げる。

「ここが今の僕の原点…というか。ここが無かったら…、何も始まらなかった…というか…」

 何かを懐かしむように、遠い目で脇道の奥を見つめている。

「大切な場所…なんですね?」

 その少年の声に、青年は視線を少年へと戻す。

「うん。だから、君たちのような若い人たちに訪れてもらって、僕はとても嬉しいよ」

 青年は、少年と少女に向けて朗らかな笑顔を送った。青年の笑顔に、少年の顔も自然に綻ぶ。少年の背後に立ち、少年が着るジャケットの袖をぎゅっと握り締めている少女も、少年の肩越しに青年の笑顔を見つめながら、張り詰めていた顔を少しだけ和らげた。

 

「もう帰るの?」

「ええ。資料館はもう見てきたので」

「そっか。最近、資料館が出来たんだったよね。僕もちょっと行ってよっかな。それじゃあ」

「失礼します」

 別れの挨拶を交し、青年は資料館へと続く未舗装の道を歩き始めた。

「じゃあ僕らも行こうか」

 少年の声に、少女は小さく頷く。少年の肩越しに見える青年の背中を、じっと見つめながら。

 

 歩き始めようとして。

 

「ああそうだ」

 

 声を掛けられ、振り返ると、青年がこちらを見ていた。

「もし時間があるんだったらさ。あっちの方」

 青年は、彼自身が現れた脇道の入り口を指さす。

「その道の奥に行ってみたらどうかな?」

「何があるんです?」

 少年が聞き返す。

「綺麗な湖があるんだ。とても静かな。ぜひ、行ってみるといいよ」

 

「どうする?」

 少年は少女に目をやる。少女は「どうしよう」と首を傾げている。

 

「特に君」

「え?」

 青年に目を向ける。

 青年の視線は、少年の背後に立つ少女に向けられていた。

「君は行った方がいい。…いや、…行くべきだ」

 少年は怪訝そうに青年を見つめる。

「それはどういう意味…」

「そんなしょげた顔してないでさ、綺麗な景色でも見て気分をリフレッシュしてみたらどうかなってことさ。じゃあね」

 そう言い残し、青年は2人に軽く手を振りながら、今度こそ行ってしまった。

 

 2人してぽかんと青年の背中を見送る。

 青年の背中が見えなくなって、少年がようやく口を開いた。

「どうする?」

 少女は左手で少年のジャケットの袖をぎゅっと掴み、右手で藁人形をぎゅっと抱き締め、押し黙っている。

「ちょっと、行ってみよっか?」

 少女は暫し思案するように顔を俯かせ、やがてゆっくりと一度だけ頷いた。

 

 

 * * * * *

 

 

 暗くて細い道。落ち葉と小枝に敷き詰められた小径の上を、先導する少年のスニーカーとその後ろをついていく少女のサンダルが歩いていく。木々に囲まれた小径の前方に、明るい場所が見えてきた。

 木々のトンネルを出て、2人が足を踏み入れた場所。

 

 眼前に広がるのは、豊かな水を湛えた湖。

 水面に広がる波紋は一つもなく、風も吹かず、小鳥や虫の囀りもなく、静謐という文字を絵にしたような場所。

 

 そんな静寂に満ちた湖畔に、2人分の控えめな足音が響く。

 

 湖の淵に、少年は立つ。

「綺麗な場所だね…」

 何か特別なものがあるわけでもない。森の中に広がる、ただの大きな水溜まり。それでもあの青年が言う通り、訪れた者の心を洗うような、不思議な魅力を放つ場所だった。

 

 湖を眺める少年の背後を、足音が横切る。

 見ると、少女が足場の悪い、瓦礫で覆われた湖の淵を、サンダルでひょこひょこと歩いている。

「大丈夫?」

 少年はすぐに少女の腋窩に手を差し入れ、少女のおぼつかない足取りを支えてやる。

「サンダルは失敗だったね」

 そう少女に話しかけるが、少女の返事はない。瓦礫の上を、ひたすら歩いている。

「ツバメちゃん…?」

 どこか様子がおかしい。少女に声を掛けるが、やはり返事はない。

「ツバメちゃ…」

 再度少女の名前を呼びながら、少女の横顔を見て。

 

 少年は声を飲み込んだ。

 

 少女の悲痛な顔を見て。

 

 眉間に皺を寄せ。

 

 目を広げ。

 

 唇を噛みしめている少女の顔を見て。

 

 

 少女の血走った目はある一点を見つめている。

 少年は少女の視線の先を追った。

 そこにあるのは、湖の畔に立つ廃墟。

 屋根はなく、コンクリートの壁と床があるだけの、朽ち果てた建物。

 少女の足は、その廃墟を目指して足場の不安定な瓦礫の上を懸命に歩いている。

 

「やめよう…、ツバメちゃん」

 少年は自分でも気づかない内に、少女の前に立ちはだかり、その細い体を抱き留めていた。

「もうやめよう…。引き返すんだ…、ツバメちゃん…」

 

 あの廃墟が一体何なのか。

 少年には見当もつかない。

 それでも、今の彼女をあの廃墟に向かわせるわけにはいかない。

 何故か、少年の心の何処かで強い警鐘が鳴り響いていた。

 何の変哲もない廃墟。

 アディショナルインパクト後のこの世界では、どの場所にも溢れる、旧時代の朽ち果てた建物。

 それでも少年にはあの廃墟が、悪魔が潜む館のように思えて仕方がなかった。

 

 少年の体に抱き留められる少女の体。しかし少女は身を捩り、全身の力を使って少年の腕から逃れるようとする。下手をすれば、少女に怪我を負わせかねない。少年は仕方なく、少女を抱き留める腕から力を抜いた。

 少年の腕から逃れた少女は、すぐに歩き出そうとして、瓦礫に足を取られて躓いてしまい、その場に膝を折ってしまう。

「大丈夫かい? ツバメちゃん」

 少年は慌てて少女を起こそうとするが、しかし少女は少年に肩を触れさせる前に、四つん這いのまま前進し始めてしまった。

 

 瓦礫の上を這って、這って。

 一心不乱に、廃墟へと向かう。

 

「ツバメちゃん…」

 

 そんな少女の背中を、少年は立ち竦んだまま、見送ることしかできなかった。

 

 廃墟の数歩前になって、少女はようやく立ち上がる。 

 そしてついに少女の小さな体は、廃墟へと辿り着いた。

 少女は廃墟の床へと上り、その細い背中は廃墟の壁の向こうへと消えてしまった。

 

 少女の姿が消え、少年の周囲を静寂が包み込む。

 少年は少女の背中が消えてしまった廃墟を見つめ、湖の水面を見つめ、自分たちが通ってきた森の中の小径を見つめ、そして自身の足もとを見つめ。

 

 その足は、その場から歩き出そうとしない。

 

 そして少年の体は、ゆっくりとその場にしゃがみ込んでしまう。

 

 瓦礫の上に、腰を下ろした。

 

 彼女の姿が消えてしまった廃墟に背を向け、静かな湖を見つめる。

 

 

 * * * * *

 

 

 そこはまるで演劇の舞台のような場所だった。三方を崩れかけの壁に囲まれ、最後の一方の壁だけが綺麗に崩れており、その先には観客席の代わりに豊かな水を湛えた湖が広がっている。

 そんな舞台に上がり込む、一つの細い影。

 少女はゆっくりとした足取りで、舞台の中央へと向かう。

 スポットライトは天から降り注ぐ太陽の光。

 舞台の中央。陽だまりの、中心。

 

 そこに立った瞬間、少女の瞳に映る全てのものがダブって見えた。

 少女の視界を、強烈な既視感が襲った。

 

 

 初めて訪れた場所のはずなのに、初めてじゃないような気がする。

 

 あちこちが陥没した白いコンクリートの床。

 

 西欧の古代神殿を思わせるような剥がれ落ちた壁。

 

 青い空を切り取る屋根のない天井。

 

 翠玉色に輝く静かな湖。

 

 対岸に広がる緑の森林と山々の稜線。

 

 

 

 よく澄んだ青い空と湖を背に、一人の少年が立っている。

 

 華奢な体つき。

 短く纏まった髪。

 黒に白のジャージ姿の彼は釣竿の針を湖に飛ばすと、リールを回しながらこちらを振り返った。

 

 黒曜石のような瞳が、こちらを見つめる。

 

 

 

 

『君の名前?』

 

 

 

 

 少し驚いたような表情の彼。

 彼は視線を床に落とす。

 

 

 

 

『でも…、君は―――じゃないし…』

 

 

 

 

 背景が変わる。

 廃墟の淵には、やはり彼が立っている。

 彼の背後の湖と空。

 まるで夜が明けたばかりのように、湖面から立ち昇る朝靄が空を乳白色に包み込んでいる。

 

 

 

 

『頼まれていた名前だけど…、

 

―――は、―――だ…。

 

他に思いつかないよ…』

 

 

 

 

 胸の中に温もりが広がっていく。

 彼が与えてくれた名前。

 それを心に刻み込んで。

 

 彼の姿が少しずつ遠ざかっていく。

 彼から離れたくないのに。

 彼の側に居たいのに。

 

 ずっと。

 ずっと一緒に居たかったのに。

 

 彼は離れていく。

 私から離れていく。

 

 いいえ。

 

 離れていっているのは私。

 彼から遠ざかっているのは私。

 一歩。

 一歩。

 彼との距離を確かめるように。

 少しずつ彼から離れていく私の足。

 

 彼の顔が朧気になる。

 彼の顔が、よく見えなくなる。

 ずっと見ていたいのに。

 彼の顔から片時もそらさずに見ていたいのに。

 

 彼の顔がよく見えない。

 それは彼と離れてしまったから?

 彼と遠く遠く、離れてしまったから?

 

 

 

いいえ。

 

それはあなたが…。

 

 

 

 

「泣いてるの…? わたし…」

 

 視界を滲ませ、頬に伝う熱いものに気付いた少女は、両手を使って目もとを拭う。

 顔から手を離し、濡れた手の甲を見つめた。

 

 少女は鼻を啜ると、視線を手から湖の方へと向ける。

 そこには誰もおらず、湖と青い空が広がるだけ。

 

 

 

 

   今のは私の中に眠っていた記憶?

 

 

 

いいえ。この場所に刻まれていた記憶。   

 

 

 

 

 少女は手で目もとを拭い、鼻を啜りながら周囲を見渡し、「彼」が立っていた湖の淵、廃墟の床が途切れる場所を見つめる。

 そして白昼夢を再現するかのように、一歩一歩、湖の淵から遠ざかってみる。

 コツ、コツ、と、少女が履くサンダルが床を叩く音が、静かに響いた。

 やがて少女の踵は壁へと突き当たる。

 これ以上、「彼」が立っていた場所から遠ざかることはできない。

 

 少女は再び周囲を見渡す。

 空が見える天井。

 太陽の光が差し込む崩れかけの壁。

 白いコンクリートの床。

 

 足もとに視線を落とす。

 自分の足もとだけ、周囲の床の色と違うことに気付いた。

 

 まるで染みのように足もとの床に広がる何か。

 少女はその場から一歩横へと移動し、床に広がる染みのような何かを見下ろす。

 

 そして再び気付く。

 まるで染みのような何かに寄り添うように、床の上に置かれたものに。

 

 それは一束の花束。

 控えめな白い花を幾つも咲かせた、小さな花束。

 

 少女はその場に膝を折り、花束を拾い上げた。

 この場に手向けられてまだ間もないのか、白い小さな花たちはそれぞれが大きく生き生きと花びらを広げている。

 その花たちに混じって添えらていた、小さなメッセージカード。

 メッセージカードにボールペンで書き込まれた文字。

 

 

 

 

A.D.2029

 

この世界の始まりに、感謝を。

 

 

 

 

 床の上に広がる黒い染みのような何かの上に、新たな染みが1粒、2粒。

 

 床を見つめる少女の目尻から大粒の涙が溢れ、頬を伝うことなく床へと直接零れ落ちていく。

 少女の真っ白な手が、染みのような何かが広がる床を、削り取るように撫でている。

 

 少女の嗚咽に混じって。

 

「私は…、もっと早く…、ここに来るべきだった…」

 

 少女は額を染みのような何かが広がる床に擦り付ける。

 

「ありがとう…。あなたのおかげで…、世界はまた…、輝きを…取り戻した…わ…」

 

 

 

 少女は目から溢れる涙を拭うことなく顔を上げ、湖の方へと視線を向けた。

 湖は再び乳白色の朝靄に包まれ、そして湖の淵には「彼」が立っている。

 

 

 どこからか声がした。

 

 

 

 

ここが好き…。

 

好きって分かった…。

 

それだけで…、嬉しい…。

 

 

 

 

 溢れる感情を拙い言葉に懸命に乗せて。

 

 

 

 

稲刈り、してみたかった…。

 

ツバメ、もっと抱っこしたかった…。

 

 

 

 

 決して訪れることのない未来に思いを馳せて。

 

 

 

 

好きな人と、ずっと一緒にいたかった…。

 

 

 

 

 決して叶うことのない願いを胸に抱いて。

 

 

 

 

 

 

 気が付けば、空は青。湖は翠玉色。

 湖の淵には、誰も居ない。

 耳鳴りがするような、静寂に包まれた廃墟。

 

 少女は一度大きく深呼吸し、乱れていた呼吸を整えると、涙の痕が残る目もとと頬を拭った。

 その場に、ぺたんと座り込む。

 床に広がる、染みのような何かを見つめた。

 

 暫く染みのような何かを見つめ。

 そして腕に抱いた藁人形に視線を移す。

 

 藁を丸めただけの、とても粗末な人形。

 その人形に巻かれた群青色の布。

 その布に、乱暴に書かれた「ツバメ」という文字。

 

 

 ―――ツバメ、もっと抱っこしたかった。

 

 

 少女は人形の頭の部分を撫でる。

 少女がずっと抱いていた所為で、あちこちがほつれたり潰れたりしている人形。

 少女は人形を床に置くと、肩に下げていたトートバッグの中身を探る。バッグの中から、小さなプラスチックのケースを取り出した。ケースの蓋を開くと、中には針や糸、小さなハサミ。痛みに痛み、形が保てなくなりつつある人形の修繕用に、いつも携帯しているものだった。

 少女は針に糸を通すと、人形の後頭部に出来た大きな裂け目を縫い合わせていく。決して良いとは言えない大雑把な手際で、それでいて一つ一つの縫い目は丁寧に。ほつれた群青色の布も剥がれてしまわないよう、しっかりと縫い合わせる。

 修繕を終えた人形を見つめる。

 最後にもう一度人形をその腕と胸で抱き締め、そしてゆっくりとコンクリートの床に置く。

 染みのような何かに、寄り添わせるように。

 

「これで…、いつでも…、抱っこできる…」

 

 

 彼女のその姿はまるで何かの尊い儀式でもしているかのようだった。

 少女は床に人形を置き、その隣に白い花束を置き、床に広がる染みのような何かに触れる。

 そして小さな裁縫箱の中からハサミを取り出し、無造作に伸び、顔の半分を隠してしまっている髪を梳き、後ろ髪も掻き上げ、後頭部で一本に纏めた。

 纏めた髪の根元に、ハサミの刃先を当てる。

 

 ジョキ。

 

 静かな湖畔に、小さな金属音。

 

 ジョキジョキジョキ。

 

 小さなハサミが、少女の空色の髪を断っていく。裁縫用の小さなハサミの貧弱な刃は髪の毛の束の硬さに何度も負けてまう。それでも構わず、少女は髪の毛を乱暴に切っていく。そして少女の左手に握られた髪の毛が全て、少女の体から離れた。

 手もとに残る、一束の空色の髪の毛を見つめる。

 小さな裁縫箱から糸を取り出し、髪の毛の束をぎゅっと縛って纏める。

 

 

 ―――好きな人と、ずっと一緒にいたかった。

 

 

 湖畔に立っていた少年。

 

 いつか、どこかで、この髪を摘んでくれた誰か。

 

 いずれの顔も、まるでピントがずれたレンズを通したかのようにぼやけていて、頭の中に思い浮かべることはできない。

 それでも不思議と彼と彼のぼやけた肖像が、少女の頭の中では重なって見えた。

 

 

 

「あなたが紡いでくれた絆…。彼との絆の証…」

 

 髪の毛の束を、そっと人形の側に置いた。

 

「あなたからもらった絆…。ここに置いておくね…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(( ・ ))

 

 

 

 

 

 

 

 

 音がした。

 静寂に包まれていた湖の方から、水面に波紋を広げる音が。

 少女は顔を上げ、音が聴こえた方へと視線を向ける。

 

 視線の先には翠玉色に輝く湖。

 その湖の水面。

 水面の上に立つ、細い影。

 

 空色の髪。

 真っ白な肌。

 黒のスーツ。

 

 陽炎のように立つ、「少女」。

 

 水面に立つ「少女」。

 

 遠慮がちに、そっと、こちらを見つめてくる「少女」。

 

 「少女」の姿は廃墟からはとても遠くに離れているはずなのに。

 何故か確信が持てる。

 「少女」の顔は、きっと、静かに笑っているだろうと。

 

 

 翼が羽ばたく音。

 屋根のない天井を見上げる。

 天井に四角く切り取られた青い空。

 その青い空の中を、数羽の鳥が羽ばたき、空に向かって飛び立っていった。

 

 青い空に吸い込まれていった鳥たちを見送り、再び視線を湖へと向ける。

 

 誰も居ない湖。

 波紋一つなく、静かに佇んでいる湖。

 

 暫くぼんやりと湖の水面を見つめていた少女。

 

 その少女の表情がまるで雪解けのように和らいでいき、口もとは緩やかな曲線を描いていく。

 

 

 * * * * *

 

 

 何故、自分は彼女の後を追わなかったのだろう。彼女に付いていかなかったのだろう。

 自分は、こうも意気地のない、臆病者だっただろうか。

 

 この廃墟に一体何があるのか、何が彼女を待ち構えているのか。それは分からない。分からないからこそ、自分は彼女の側に立って、彼女を支えてやるべきではなかっただろうか。

 自分は彼女の家族なのだから。

 

 どこまでも静かな湖。

 自分の問いなど霧散させてしまうほどの静けさ。

 

 瓦礫の上に腰を下ろし、ぼんやりと湖を眺めている内に、静けさに誘われ、少しずつ瞼が落ちていく。

 

 

 

 膝の上に頭を乗せ、スヤスヤと寝息を立てる。

 陽の当たらない、水辺の木陰。

 風はないが、少しだけ、肌寒い。

 

 体の右半分に、温もりを感じる。

 微睡む体は、温もりを求めて、右側に傾いていく。

 右腕に柔らかい感触。

 温もりと柔らかさと。

 優しさに満ちた感覚に引き寄せられるように、微睡む体はさらに右側へと傾いてく。

 

 

 

 頭を撫でられる感触。

 うっすらと瞼を開けた。

 

 いつの間にか、そこには彼女が居た。

 彼女が、まるで覗き込むようにこちらを見下ろしている。

 少しだけ、頬を赤く染めて。

 

 右頬に柔らかさを感じる。

 右頬に温もりを感じる。

 

 

  ああそっか。

 

  これは彼女の膝枕。

 

  彼女の体の中で、唯一僕だけのもの。

 

  僕だけの、特等席。

 

 

「って、ええ!?」

 

 少年は慌てふためきながら少女の膝から離れ、体を起こす。

 

「ツバメちゃん…、いつから…」

 顔を真っ赤にさせながら、隣にちょこんと座っている少女に訊ねる。

 尋ねられた少女は少年の左腕の腕時計を確認した。

「30分前から…」 

「起こしてくれたら、よかったのに」

 

 彼女を支えてあげたいと思っていたのに、気が付けば自分が彼女の膝枕に支えられていた。

 少女の膝枕の感触が残る右頬を撫でつつ、己の不甲斐なさに打ちのめされてしまう少年である。

 そんな少年に、少女は頬を桃色に染め、微笑みながらふるふると頭を横に振る。

「ありがとう…。待っててくれて…」

 少女の緊張が抜け切った穏やかな表情を見て、少年は心の中でほっと安堵の溜息を漏らす。

「もういいの?」

 少年の問い掛けに、少女はこくりと頷いた。

「私が誰で…、何処から来たのか…、今もよく分からない…。でもここに来れて良かった…」

 少年は背後を振り返り、廃墟の壁を見上げる。

「ここは一体…」

 少女も少年に釣られて廃墟の壁を見上げる。

「きっと、この世界の火種」

「火種?」

「きっと、ここから全ての絆が、繋がっているような気がする」 

「僕と…、君との絆も?」

 少女は少年を見た。

 少年も、少女を見ている。

 少女はにっこりと笑いながら答える。

「ええ…。ここがなければ、きっと、私たちも出会うことはなかったわ…」

 

 今まで見たことがないような少女の笑顔。

 そんな少女の顔を、ぼーっと見つめていて。

「って、ツバメちゃん、どうしたの? 目が真っ赤じゃないか」

 少年は少女の顔に手を伸ばし、赤く腫れた少女の目もとを親指でそっと触れる。

 少女は少しだけ恥ずかしそうに目を細める。

「少し、泣いちゃった…」

 そう言って、照れ臭そうに微笑む少女。

 そんな少女とは対照的に、少年は悲しそうに眉根を寄せた。

 少し赤い少女の頬を撫でながら少年は言う。

「辛い思いをしていたなら僕を呼んでよ。一人で泣くのはなしだ」

 眠りこけていた人間が言えた科白ではないなと思いつつ。

 少女は微笑みながら頭を横に振る。

「辛くない。嬉しかったの」

「嬉しかった…?」

 少女は彼女の頬を撫でる少年の手の甲を手で触れながら、背後の廃墟を見上げる。

「ここで…、もう一人の私は…、確かに生きていた…」

「もう一人のツバメちゃん? あの写真のコ?」

「分からない…。でも彼女は生きて…。ここで懸命に生きて…」

 いつになく、熱っぽい少女の声。

「初めて世界の美しさに触れて…。人々の優しさに触れて…。自分の居場所を見つけて…。命を輝かせて…」

 少女の声が震えている。

「ツバメちゃん…?」

 少年に呼ばれ、少女が振り返る。

 その瞳に、大粒の涙を滲ませて。

「もっと生きていたかった。好きな人と一緒に」

 

 瞼から零れ落ちる涙。

 少女は少年に言われたばかりのことを実行に移す。

 もう一人で泣くのはやめだ。

 

 少女は少年に両腕を伸ばし、彼の背中へと回す。

 

 少年の胸に顔をうずめる。

 

 左頬に少年の温もりを感じながら。

 

 左耳で少年の命の鼓動を聴きながら。

 

 声に出して泣いた。

 

 

 突如として自分の胸に預けられた彼女の体。

 少年は戸惑いながらも、少女の痩せた背中に両腕を回す。今にも折れてしまいそうな細い体を、そっと抱き締めた。

 彼女の背中に腕を回して。

 その時になって、初めて気付く。

 少女の背中まで届いていた髪が短く摘まれていることに。

 

「加地くん…」

 腕の中の彼女が、涙に声を震わせながら名前を呼んだ。

「私…、頑張って生きるね…」

 短くなってしまった彼女の後ろ髪を撫でる。

「もう一人の私に…、負けないくらい…」

 その決意を表すかのように、少女の両手が少年のジャケットの背中をぎゅっと握っていた。

 

 大きな泣き声は、少しずつすすり泣きへと変化する。

 少年は少女の震える小さな身体と頭を、優しく抱き締め、撫で続けていた。

 泣き止むまで、黙って彼女を抱き締めていた。

 そんな2人の隙間を穏やかな風が吹き抜け、少女の短くなった髪を静かに揺らす。

 

 

 泣き止んだ少女はしばらくひっくひっくと鼻をしゃくり上げながら、そして少年の心配そうな視線を受け、えへへ、とはにかんだ。

 少年が渡してくれたハンカチで目と鼻を拭く。そしてもう一度、えへへ、と。私はもう大丈夫と、少年に笑い掛ける。

 それでもなお、心配そうに少女の顔を見つめる少年。

 少女は言う。

「加地くん…」

「なんだい?」

 少女は少年の手に自身の手を重ねた。少女の手が離れると、少年の手の上には裁縫用の小さなハサミが乗っていた。

「私の髪を…、切ってほしいの…」

「え?」

「こんな姿じゃ、電車、乗れない…。でしょ?」

 

 

 

 来るときは、少年が少女の前を歩いていた。

 帰るときは、少女が少年の前を歩いている。

 

 少年は少女の後ろ姿を見つめていた。

 乱雑に切られてしまい、すっきりしてしまった少女の後姿。少女のうなじをまともに見るのは、これが初めてだったかもしれない。白くてか細い少女のうなじやゆったりとしたプルオーバーシャツや肩に、切り散らかされた髪の毛の切れ端があちこちに付いている。

 傍から見れば酷い姿の少女だったが、その足取りはどこか軽やかだった。まるで背負ってきた全ての荷物を、あの廃墟に置いてきたかのように。そんなに髪の毛が重かったのだろうか。そんなにあの人形が重かったのだろうか。

 

 

 2人は一度資料館へと戻った。「寄ってみる」と言っていた青年の姿はすでになく、廃村の中で静かに佇む無人の資料館。少年は少女を外で待たせ、無人の資料館へと入る。少女から渡された裁縫用のハサミは髪の束を無理に切ってしまったことで刃先がボロボロになってしまったため、資料館の施錠もされていない無防備な事務室らしき部屋からハサミ、そして古い新聞紙を拝借した。

 

 少女と一緒に資料館の裏側へと回る。

 高い木々に囲まれた中で、木々の隙間から漏れる陽だまりの中に丸椅子を置き、そこに少女を座らせた。少女の首元に、新聞紙をエプロンのように巻き付ける。

「いいの…?」

「うん…。お願い」

 少年は文具用のハサミの刃を、少女の後ろ髪の毛先へと添える。左手の人差し指と中指と空色の髪を挟み、指の隙間から覗く毛先をちょきちょきと切り始めた。丸椅子の下に敷いた新聞紙の上に、空色の髪がぱらぱらと落ちていく。

 

 ちょきちょきと。

 軽い金属音に混じって、少女の細い声。

「ありがとう…。加地くん…」

「うん…」

「私を…、ここに連れてきて…くれて…」

「うん…」

 少年は短く返事をしながら、少女の後ろ髪を切り揃えていく。

「ねえ、ツバメちゃん…」

「なに…?」

 

 ―――ツバメちゃんは、これからもずっと、ツバメちゃんだよね。

 

 言いかけた言葉を少年は飲み込んで。

「良かったね…」

 代わりにその口から出たのは、当たり障りのない言葉。

「うん…」

 少年の表情が見えていない少女は、微笑みながら頷いた。

 

 木々の隙間から漏れる小鳥のさえずりと、刃先が髪の毛先を削ぐ小気味よい音が、陽だまりの周囲で静かに響いていた。

 

 

 

 



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10.綾をなす。

 

 

 

 

 事務室に拝借したハサミを返し、資料館を出ようとして、ふと出入り口のベンチの上に置かれたアルバムが目に入る。少年は足を止め、ベンチに座り、アルバムのページを捲った。

 「あの写真」のページを開く。

 そこに写る、赤ん坊をおんぶした空色髪の少女。

 見れば見るほど、彼女と瓜二つ。写真の隅には『2029.××.××』の印字。今から14年前の日付。

 写真の下には添え書き。

 その添え書きを見て。

 

 

 

 

 ガラガラと引き戸が開く音がし、少年ははっとして顔を上げる。

「あら、こんにちは」

 引き戸から現れた黒のブルゾンを羽織った女性は、ベンチに座る少年の姿を認め、挨拶をする。

「こんにちは」

 少年も軽く頭を下げて挨拶する。

 女性は言う。

「ここ、今日はもう閉館だけどいい?」

「ああ、うん。構わないですよ」

 少年はベンチから立ち上がろうとして。

「…ここの管理人さんです?」

 少年の問い掛けに、女性は頭を掻きながら答える。

「いんや。あたしはここの管理人の知り合い。そいつ、今日は用事があるんで、かわりにあたしが来たの」

「…もしかしてお姉さん。この村の出身ですか?」

「出身っちゅーか。まあ、そうとも言えるかな」

「だったら…」

 少年は手に持っていたアルバムを開こうとして。

 しかしその手を止めてしまう。

「だったら…、なに?」

「ああ、いえ。何でもないです。気にしないで下さい」

「ふーん」

 女性は資料館の窓の施錠を確認して回る。

 

「どうだった? 見学してみて」

 資料館の奥から女性の張りのある声が響いてくる。

「素敵な村だったようですね」

 少年も少し声を張って返事をする。

「まあ、ここに展示されてるのは、村の綺麗な思い出ばかりだろうからね」

「綺麗な…ですか」

「そりゃあんな時代だから。思い出したくないようなことも一杯あるだろうさ」

 資料館の奥から女性が戻ってきた。ポケットから鍵束を出し、事務室のドアの鍵を閉める。

「お姉さんにも、思い出したくないような過去って、あるんですか?」

「あたし?」

「ええ」

 女性はいじわるそうな表情を浮かべる。

「おうおう。初対面のレディに対して、いきなりの質問ね」

「おっと。ごめんなさい。つい…」

 少年が素直に恥じらったことに満足した女性は、表情を和らげる。

「ふふっ。まああたしの場合は思い出したくても思い出せないからさ」

「え?」

「あたし。昔の記憶がちょっと曖昧なんだよね。特にここに住んでた頃以前の…ね」

「そう…なんですね」

 何とはなしにしてみた質問に対し、想像以上に重い返事が返ってきてしまった。少年はそんな表情をしながら、言葉を詰まらせてしまった。

 そんな少年を気遣うように、女性は笑ってみせる。

「でもこの14年間は、まあそれなりに幸せだったから。いい仲間にも恵まれたしね。そう考えると、思い出したくない過去ってのは、特にないかな。ある意味幸せもんだね」

「そう…ですか」

「ま、でも…」

 明るい表情だった女性の顔に僅かばかりの影が差し込む。

「思い出したくないような過去がないことは良いことなのかもしんないけどさ、忘れちゃいけない過去ってのもある。そう思わない? 少年」

「はぁ…」

 突然同意を求められ、気の抜けた返事をしてしまう少年である。

「目覚めてからあたしの記憶が曖昧になってるって気付いた時、同居人は何だか安心したような顔してたよ。なんだろうね? 昔のあたしって、よっぽど酷い目に遭ってたのかな? 忘れてしまった方がいいほどに」

「どうなんでしょう…ね」

「どこのどなた様があたしの記憶をこんな風にしちゃったのか知んないけど。もしかしたら忘れたのは辛い思い出ばかりなのかもしんないけど。でも、記憶ってのは言わば己の半身だ。それを奪い取っちゃうって、酷い話しだと思わない? ねえ、少年」

 そう言いながら、女性は少年の隣に座る。「重い話し」から「面倒くさい話し」に流れが行っているような気がしてしまう少年である。

「あ~、何だか腹立ってきた…」

 貧乏ゆすりを始める女性に対し、少年は持っていたペットボトル入りのお茶を差し出す。

「お茶でも飲んで、落ち着きましょうか」

「あ~、ありがと。とにかくあたしはあたしの記憶を勝手に奪った奴が許せない」

「おう、まだ続くか…」

「あたしの今の生きるモチベーションの半分は、あたしから記憶を奪った奴に出会ったら一発ぶん殴ることよ。あんにゃろうめ。見つけたら、ただじゃおかないんだから」

「このお茶、酒でも入ってたかな?」

「あ~ごめんごめん。こんなおばさんのみっともない愚痴聞かせちゃった」

「おばさん、って。まだお若いじゃないですか」

 少年はお世辞ではなく、女性の容姿についての素直な感想を口にする。

「ふふっ。ありがと。ま、いずれにしろだ。少年」

 ぐぐっと顔を近づけてくる女性。

「はあ…」

 相変わらず気の抜けた返事をする少年。

「「過去」なんてのは、所詮「過去」。「今」よりも大切な「過去」なんてないんだ」

「今の話しだとまったく説得力が感じられなあ」

「「過去」にばっか拘ってると、あたしみたいになっちゃうよ、ってことよ」

 女性はケラケラ笑いながら少年の肩をばんばんと乱暴に叩く。少年の細い首が、ふらふらと左右に揺れた。

「かわいいコね」

「は?」

 自分の肩に腕を回してくる女性のその一言に、一瞬身の危険を感じ、構えてしまう少年である。

「あんたのカノジョ?」

「え?」

 身構えていた少年を他所に、女性は引き戸の方を見ていた。

 引き戸のガラス窓の向こう。資料館の前の広場で、少女が一人、佇んでいる。

「あ、いや。カノジョというか、何というか…」

 歯切れの悪い少年の言葉に、女性の顔がニヤニヤと笑う。

「ふふっ。若いんだからさ。後悔しないようやんなさいよ」

「はあ…」

「ほらほら。もう行きな。あんたたちバスで来たんでしょ? 今度のバス逃すともう次がないよ」

 そう言いながら、女性は少年の背中を叩いた。

 

 

 引き戸が開き、少年が出てきた。

 空色の髪がすっかり短くなった少女が待っている。

「誰…?」

 少女は少年の肩越しに資料館を見つめている。

 少年は振り返った。資料館の窓の向こうで、あの女性が笑顔で「バイバイ」と手を振っている。

 少年も女性に向かって軽く手を振りつつ、

「ここの管理人の知り合いだってさ」

「ふーん」

 少女は窓ガラス越しの女性を見つめる。

 女性も、手を振るのを止め、笑顔も止め、窓ガラス越しに少女を見つめている。

「行こっか」

 少年は歩き始めながら少女に声を掛けた。

「ええ…」

 2人は資料館の前を後にする。

 

 

 

 待合室もベンチもない、標識があるだけの、木漏れ日が差し込む森の中のバス停。少年と少女はオレンジ色のガードレールにお尻を預けて、バスを待っている。

「加地くん…」

「なんだい…?」

「またいつか、ここに来ても、いい?」

「……」

 少年は股の上に組んだ自分の手を見下ろしている。

 返事のない少年の横顔を、少女は隣から見つめる。

 暫しの沈黙の後。

「君がそうしたいなら、そうすればいいよ」

 少年は少女の顔を見ずに答えた。

「うん…」

 少女も躊躇いがちに返事をする。

 

 資料館へと続く未舗装路から車のエンジン音。

 見ると、道の奥から白い大型のSUV車がやってくる。運転席には、資料館で会った女性。女性はバス停に居る2人の姿を認め、笑顔で手を振ってくる。そして特に少年に対しては、エールでも送るかのように右手の親指をぐっと立て、綺麗な歯を見せて笑いかける。

 少年は苦笑いを浮かべながら頭を掻き、女性に対して小さく手を振った。

 去っていくSUV車と入れ替わる形で、バスがやってきた。

 

 

 

 

 バスと電車を乗り継いでいく内に、車窓越しに見える田舎の風景にぽつぽつと建物が増え始め、やがて街の風景へと変化する。

 電車の昇降口付近に立つ少年は、腕時計を見た。

「まだ宿に行く時間には早いかな」

 今日の宿は空港近くのビジネスホテルだ。このまま直行すれば、あと30分ほどで辿り着いてしまう。太陽は、まだ高い位置にある。

 腕時計から目を離すと、車内の奥に座る女子高校生と思しき制服を着た3人の女の子たちと目が合った。女の子たちは少年と目が合った途端、きゃっきゃと小さな歓声を上げてはしゃぎだし、少年に向けて小さく手を振り始める。

 少年は反射的に、女の子たちに向かって軽く手を振った。

 その少年の手に、白く細い手が重なる。

 見ると、壁に寄り掛かって立つ少女が、女の子たちに向けて振ろうとされている少年の手を押さえ、止めさせようとしている。

 窓ガラスの向こうに流れる外の景色を見ながら。少しふくれっ面の、どこか不機嫌そうな顔で。

 少年はばつが悪そうに頬をぽりぽりと掻き、そして少女のご機嫌を取ろうと彼女の後ろ髪を、ぽんぽんと撫でた。

「帰ったら美容室に行って整えてもらおうね」

 その少年の言葉に、少女は頭をふるふると横に振る。

「でも僕も人の髪を切ったのは初めてだから。やっぱりちゃんとした人に切ってもらおうよ」

「いい…」

「え?」

「加地くんに、切ってもらったんだもの…」

 そう呟き、首元の毛先を弄りながら顔を俯かせる少女。その両頬が、ほのかに赤く染まっている。

「そ、そっか」

 少女のその言葉と態度に、思わず頬を赤らめてしまう少年である。

 

 

 

 

 目的の駅に辿り着き、ホームに降り立つ。

 改札口へと向かう跨線橋に向かおうとして、

「あ」

 2人は足を止めた。

 向こうもこちらに気付き、驚いた表情で足を止める。

 

 ホームの真ん中に、森の中で会った背広姿の青年が立っている。

 

「やあ、同じ電車だったんだね」

「ええ、そうみたいですね」

 笑顔で2人のもとまで歩み寄ってくる青年。

 その青年の視線が少女の方へと留まり、青年はさらに驚いてしまった。

「あ、あれ? 君、どうしたの?」

 あの森の道で出会った時は背中まで伸びていたはずの少女の髪が、今は首元で短く切り揃えられている。

「ああ、えっと、美容院に寄ってきたんですよ」

 青年にとっての大切な場所で「髪を切りました」とは言えない少年。咄嗟に誤魔化してしまった。

「ふーん」

 青年は少年の言葉を疑うことなく、まじまじと少女の顔を見ている。

「うん。やっぱり君には、その髪型が一番似合ってると思うよ」

「え?」

「あ、いや。どうだったかな。綺麗な湖だったでしょう」

「ええ、まあ」

 少年はやや歯切れの悪い返事をする。

 確かに廃墟の近くから見た湖の風景は、心が洗われるような素敵な場所だった。でも、果たして少女をあの場所に連れていったのは正解だったのだろうか。

 そんな思いに駆られている少年の横で、少女ははきはきと言った。

「はい。教えて頂いて、ありがとうございました」

 その顔に柔らかな微笑みを浮かべながら言う少女の横顔を、驚いた顔で見つめる少年。まだ顔を合わせて2回目の相手に対して、こんなにも素直にお礼が言える少女を、少年は見たことがなかった。

 一方、お礼を受けた青年も青年で、少女からお礼を言われるとは思っていなかったのか、やはり驚いた表情を浮かべている。しかしすぐにその顔に満面の笑みを浮かべ、

「うん。良かった」

 大きく頷いた。

 

「それにしてもすごい偶然だね。全く違う場所で2回も会うなんて」

 微笑む少女の横顔をぼんやりと見つめていた少年は、声を掛けられ慌てて青年を見る。

「え、ええ。そうですね」

 青年は少し考えこんで、何かを決心したように小さく頷く。

「せっかく出会えたんだしこれも何かの縁かもね。よかったら連絡先でも交換しない?」

 そう言いながら、青年はスーツのポケットから携帯通信端末機を取り出す。

「あ、えっと…、その…」

 青年のその提案に、少年は困ったように後ろ髪を掻いた。

「ごめんなさい。僕たち、携帯電話持ってないんです」

「そうなの。今時珍しいね。じゃあ家の電話は?」

「家の電話もないんです」

「え? じゃあ住所は? 手紙書くよ」

「ええっと…」

 少年は言い淀み、視線を下げてしまう。

「あ、ごめんごめん」

 青年は不用意な質問をしてししまったと反省した。

 「あの日」から14年経ったとは言え、まだ世界は復興半ば。住所すら定まっていない子供たちの存在は少なくなってきたとはいえ、決して珍しいわけでもない。

「一応、住む場所はあるんですけど。正式な住所も付いていないところなんで、手紙送ってもらっても、たぶん、届かない…かな」

「そっか…」

 

 少し暗くなってしまった場の空気を取り戻そうと、青年は明るい声で質問を続ける。

「2人で暮らしているの?」

「ええ」

「助けてくれる大人たちは?」

「あ、はい。世話を焼いてくれるおばさんがいます」

「そうなんだ。よかった」

「ええ」

 安心した様子の青年。若い自分たちを心配してくれている青年の優しさが嬉しくて、少年も笑顔で答える。

 青年は少しだけいたずらっぽく笑う。

「2人での生活は楽しい?」

 少し意表を突いた青年の質問。

「あ、えっと」

 即答し兼ねてしまった少年の代わりに、

「はい。楽しいです」

 少女が答えた。

「そっか」

 青年は微笑みながら答える少女の顔を、眩しそうに見つめた。

 少女の横では、少年が照れ臭そうに頬を人差し指でぽりぽりと掻いている。

 そんな少年のジャケットの袖をぎゅっと握り締めながら、少女は続けて言う。

 

「この世界で生きていけることが、本当に嬉しいです」

 

 少女のそんな言葉に、何を大げさなと、少年は笑ってしまいそうになったが、少女の横顔は真剣そのもの。出かけた笑いを寸でのところでこらた。

 

 青年は携帯通信端末機をポケットにしまう。

「また何時か今日みたいに何処かでばったりと会える日もあるだろうね」

 青年のその言葉に、少年は笑顔で言う。

「ええ。僕もそんな気がします」

「僕はイカリ。イカリシンジっていうんだ」

「僕は加地です」

「え?」

「で、こっちがツバメちゃん」

 少年に紹介され、少女は青年に向けて軽く頭を下げる。

「カジくんに…、ツバメちゃん…」

 青年は、2人の名前を呟きながら、2人の顔を交互に見つめた。

「はい」

 2人の名前を聴いてどこか呆けてしまった様子の青年に対し、少女がすっと右手を差し出す。

 突然出された手に、青年は驚いたように目を瞬かせる。しかしすぐに表情を和ませ、

「おまじない…だね」

 青年が呟いたその言葉に、少女はきょとんと首を傾げる。

「ふふ。よろしくね。ツバメちゃん」

 少女の手を、そっと握った。

「カジくんもよろしく」

「はい。イカリさん」

 少年も、青年と握手を交わした。

 

「それじゃあ」

「さよなら…」

 2人は青年に対して別れの挨拶をする。

「うん、またね」

 青年の前から去り、数歩ほど歩いて。

「あ、そうだ」

 何かを思い出したように少年は足を止める。

「イカリさん」

「なんだい?」

「僕たち、ホテルのチェックインまでまだ少し時間があるんです。この辺りで時間が潰せるようないい場所ないです?」

 青年は腕組みした。

「うーん。僕もここの人間じゃないからなあ。それにこの辺りって、工業地帯だからいわゆる観光地なんて無いんだよね」

 暫し天井を睨みながら考え込んで。

「あ、そう言えば」

 何か思いついたらしい。

「この近くに海浜公園があるんだ。特に何があるって訳でもないけど、今行けば海峡に沈む夕陽が見れるんじゃないかな」

「いいですね。どうやって行けばいいんです?」

「1つ向こうのホームの下りの電車に乗って終点まで行けばいいよ。駅を降りて5分も歩けばすぐだ」

「分かりました」

「今日みたいな穏やかな日和の日は、綾を成すように波が寄せ合ってとてもキレイなんだ。汐風香る、とても素敵な渚だよ」

 

 

 

 

 

 

 2人の背中が跨線橋の階段へと消えていく。

 若い2人の後姿を見送った青年。

 

 少女の言葉を心の中に思い浮かべる。

 

 

 ―――この世界で生きていけることが、本当に嬉しいです。

 

 

 気が付けば頬に一筋の涙が伝っていたため、慌てて拭った。

 鼻を啜り、改めて2人が上っていた階段を見つめて。

 青年の顔に浮かんでいた穏やかな笑みが、瞳をキラキラと輝かせた満面の笑みへと変化して。

 

「よっし…!」

 

 周囲には聴こえない程度の小さな歓声を上げ、そして控えめにガッツポーズをする。しかしそれだけでは今の胸の内の感情を表し切ることができなかったようで、まるでダンスのステップでも踏むかのように、その場でぴょんぴょんと軽いジャンプを繰り返す。

 5度目のジャンプを終えて、両手を天に突き上げ大きく背伸びをした青年は、輝かせたままの瞳をプラットホームの天井の端から見える青空に向けた。

 

「マリさん、聴こえてるかな?」

 

 自分の首にはめられた首輪に触れる。

 

「これ。もう外してもいいよね?」

 

 

 

 

 

 

 青年と別れ、跨線橋を渡り、隣のホームへと降りる。

 跨線橋の一番近くのベンチに座る人物を見て、少年はまたもや驚いてしまうことになる。

 

 ベンチに腰掛ける黒いブルゾンを羽織った女性は、跨線橋から降りてきた少年少女を見てやはり驚いた顔をしつつ、「よっ」と右手を上げた。そんな女性に対して、少年も軽く手を上げて応じる。女性は携帯電話で会話中だったため、少年とは軽く挨拶を交わしたのみで電話での会話を再開する。

 女性の前を通り過ぎようとして。

 

 バチン!

 

 少年は突如お尻を襲った衝撃にその場で飛び上がってしまった。

 何事かと驚いた様子で横を見ると、ベンチの女性が携帯電話で話しをしながら、少年をニヤニヤ顔で見上げている。どうやら、女性が少年のお尻をすれ違いざまにひっぱたいたようだ。

 「何をするんですか」と無言で抗議の視線を送ってくる少年に対し、女性は相変わらずニヤニヤしながら、少年に向けて右手の親指をぐっと上げてみせている。通話中のため声には出さないが、口をパクパク開閉させており、どうやら「グッドラック」とでも言っているらしい。

 少年は困ったように笑いながら頭を掻く。その横では、少女が「何すんだこの女」とでも言いたげな物凄い形相で女性を見下ろしていたため、少年は慌てて少女の腕を引っ張って女性の前を後にした。

 ベンチでは、相変わらずのニヤニヤ顔の女性が、手をひらひら振って少年少女を見送っている。

 

 

 2人でホームの奥へと行く。向いのホームでは誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。誰も居ない、電車も暫くは来る予定のないホームで、あの青年がぽつんとベンチに座っている。青年は2人の姿を認め、笑顔で右手を軽く上げた。2人も笑顔で青年に対して小さく手を振る。

 

「大丈夫? ツバメちゃん。疲れてない?」

「平気…」

 少年と少女が二言三言会話を交わしていると、向いのホームが何やら騒がしかった。

 見ると、いったいどこから現れたのだろう。栗色のロングヘアの女性に手を引かれ、あの青年がホームを走り、跨線橋の階段を駆け上がっている。

 

「はは。元気な人たちだ」

 少年と少女は跨線橋を駆け上がっていった2人の背中を見送った。

 

「え!?」

 今度はこちらのホームが何やら騒がしい。

 見ると、先ほど少年のお尻をひっぱたいた女性がベンチから立ち上がっている。

「待ち合わせってこの駅じゃないの? もう、だったら車でそっちに行くわ。ん? あーもういいよ。今日は飲まないから。サンパークで買い物済ませてからあんたたち迎えに行くから、それまでそこでテキトーに遊んでて」

 女性は携帯電話で話しながらそのままのんびりとした足取りで跨線橋の階段を上がっていく。

 

 青年と女性が去り、静かになるホーム。

 少年と少女はお互いの顔を見合わせ、肩を竦ませた。

 

 

 電車を待っている間、少女はふとホームの天井に目をやる。

 天井の隅っこにぶら下がる、壺のような形をした器。それは泥で塗り固められた、野鳥の巣。

 巣の周りを忙しなく飛ぶのは、親鳥だろうか。そして巣の穴から顔を覗かせるのは、雛鳥なのだろう。

 その野鳥が巣立ちを終える季節は、すでに過ぎている。どうやら巣立ちに遅れてしまった雛鳥の初飛行の瞬間を、親鳥が懸命に励ましているらしい。

 巣の穴から顔を覗かせる羽毛がまだ生えそろっていない雛鳥は、穴から大きく身を乗り出しては、翼を羽ばたかせ、しかしすぐに体を穴の中に引っ込めてしまい。再び身を乗り出し、翼を羽ばたかせ、しかしやっぱり体を穴の中に引っ込めてしまう。

 なかなか大空への一歩を踏み出せないでいる雛鳥。

 そんな雛鳥と、励ます親鳥の姿を、ハラハラとした面持ちで見守っている少女。

 

「ツバメちゃん」

 

 背後から声を掛けれた。

 振り返ると、そこにはいつの間にかやってきていたオレンジ色の電車。1両編成の電車の昇降口には、すでに乗り込んでいる少年の姿。

 少女は頷き、昇降口へと足を進める。昇降口から伸ばされる少年の手に引かれ、ひょいっと電車の中に乗り込んだ。

 すぐに踵を返し、視線をホームの天井へ。

 そこにはやはり、巣からなかなか飛び立てない雛鳥の姿。

 昇降口の扉が、音を立てて閉まる。

 ゴトンゴトンと、鈍い振動を立てながら走り出す電車。

 ホームが遠ざかっていく。

 少女は扉の窓ガラスに張り付いた。

 懸命に目を凝らす。

 くすんだ窓ガラスの向こうに見える、天井の巣。

 空っぽの巣。

 何も居ない巣。

 少女は方々に目をやる。

 そんな少女の前を横切る、2つの小さな黒い影。

 車窓のすぐ外を、元気に飛び回る2つの影。

 親ツバメと子ツバメはお互いの周りくるくると回り、宙に螺旋を描きながら、青い空へと消えていった。

 

 

「どうかした? ツバメちゃん」

 窓に張り付いている少女の背中に、少年は声を掛ける。

 

 少女は窓ガラスに額をくっ付け、雲一つない空を眺めながらぽつりと呟いた。

 

「ツバメ…、元気かな…」

 

 

 

 



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最終話 渚にて、綾なす波。

 

 

 

 

 線路が果てる場所にある、小さな駅。駅舎すらなく、線路とホームと改札口だけがあるだけの、とても簡素な駅に、2人は降り立った。

 電車を降りた瞬間、ふわりと汐の香りが漂い、海が近いことを2人に知らせる。

 太陽は西の方に傾いている。2人はその太陽に吸い寄せられるように、駅に面する道路を西へと向かって歩き始めた。

 あの青年が言った通り、その海浜公園は駅から5分も歩かないうちに2人の前に現れた。

 駐車場を抜け、海岸へと向かう。

 

 

 まだ夕陽の赤に染まる前の、黄白色の陽光に照らされて、一面がキラキラと光る海。

 薄い白波を立てて、静かに寄せては返す波。

 海面すれすれを飛ぶ海鳥たち。

 人影の疎らな砂浜。

 波の音に混じって、さく、さく、と4つの足が砂地に沈む音。

 

 少女は足を止めると、その場でサンダルを脱ぎ、裸足で砂地に降り立つ。サンダルを片手で持ち、そのまま波打ち際へと進む。

 少女の足もとへと迫る波。

 少女は波から逃げるように後ずさりして。

 波が海へと引っ込めば、また波打ち際へと近づき。

 波が寄せてきたら、再び小走りで後ずさりする。

 その様子は、初めて海を目にした幼子のよう。

 いや、もしかして。

 

「もしかしてツバメちゃん、海は初めて?」

 少年に声を掛けられ、波打ち際で行き来を繰り返していた少女は振り返る。頬を上気したように赤くさせ、目を輝かせた、無邪気な子供のような表情で。

「こんなに近くで見るのは…、初めて…」

 いつになく弾んだ声で答える少女。

「そっか」

 毎日のように高台のあの農園から海を眺めていたが、海岸まで降りたことはなかった。こんなにはしゃいでいる少女の姿を見るのはこれが初めてであり、もっと早く海に連れていってやるんだったと反省する少年である。

「波って、本当に、行ったり来たりして…きゃっ」

 少し大きな波が押し寄せ飛沫を上げ、少女の足もとを濡らした。少女は小さな悲鳴を上げながらも、その顔は笑顔で溢れている。

 

 スカートの裾を少したくし上げながら、波打ち際を歩く少女。わざと飛沫が立つような、大袈裟な歩き方。足もとに寄せる波と、海水に濡れた砂地の感触を楽しむように、一歩一歩、ゆっくりと進む。

 そんな少女の3歩後ろを歩く少年。

 陽光に照らされてキラキラ光る波打ち際。

 時折大きく舞い散る波の飛沫。

 その中を歩く少女の空色の髪もまた、陽光と飛沫に重なって、キラキラと光っている。

 その姿は、まるで光の道の中を舞う妖精のよう。

 

 

 少女の後ろ姿を見つめていたら、その少女の足もとに何かが転がってきた。

 少女は足を止め、足もとに転がってきた白いものを拾い上げる。

 手のひらに収まる小さな不思議な形をした白いもの。

 初めて見る白いものを、不思議そうに見つめる少女。

 そんな少女に、遠くから掛けられる高い声。

 

「すみませーん」

 

 後ろ髪を1つに結ったセーラー服姿の女の子が走ってきた。手に、バドミントンのラケットを持って。

 女の子は息を弾ませながら、少女の前に立つ。

「すみません」

 女の子は同じ言葉を繰り返しながら、少女に広げた手を差し出す。

 その手を、ぽかんと見つめる少女。

「え、えっと…」

 困ったように少女を見つめ返す女の子。

 少年はイマイチ噛み合ってない2人に苦笑いしつつ、助け舟を出してやる。

「ツバメちゃん」

 声を掛けると、少女も、そして女の子も同時に少年の方に振り向いた。女の子の方は、何故かちょっとだけ驚いたような表情で。

「それ、彼女のものみたいだよ」

 少年に言われ、少女は手のひらのバドミントンの羽根を見つめる。

「拾ったものは返す…」

 そう呟き、女の子に向けて羽根を差し出す。

 女の子は少女の手から羽根を受け取り、満面の笑みで、

「ありがとう」

 女の子は立ち去ろうと踵を返して、数歩歩いたところで、ふと足を止めた。

 少女を見つめる。

「あの…」

 少女は「なに?」と女の子を見つめ返す。

「どこかで会ったこと、あります?」

 女の子のその言葉に、少女は目をぱちくりと瞬かせる。

 改めて女の子を見つめる。肩まで伸びた栗色の髪を後ろで一本に纏めた、くりくりとした丸い目が愛らしい女の子。

 少女は、ゆっくりと頭を横に振った。

「そう…ですよね。ごめんなさい。じゃあ」

 女の子は、挨拶代わりにラケットをぶんぶんと振りながら笑顔を残して走り去っていった。

 女の子が走っていく先では、やはりラケットを持った男性が待っている。

 

 

 

 バドミントンの羽根を取りに行った女の子が戻ってきた。

「ごめんごめん」

「もー、変なところに飛ばさないでよ」

 バトミントンの羽根を遠くに飛ばしてしまった顎に無精髭を生やした青年に対して、女の子は頬を膨らませながら抗議しつつ、青年に向けて羽根を打った。

「よっと」

 青年は、今度は女の子の近くに羽根を落とすことに成功する。

 しかし打ち返しやすい場所に返してやったにも関わらず、羽根はラケットで打ち返されることなく砂の上にポトリと落ちた。

 女の子は手に持ったラケットをぶらんと降ろし、遠くを見つめていた。

「どうしたの?」

 青年は女の子の隣に立ち、女の子の視線を追う。

 視線の先には、波打ち際に佇む少年と少女。

「うわっ、絵に描いたような美男美女だね。外人さんかな?」

「うん…」

 青年の声に、どこか上の空で返事をする女の子。

「知り合いなの?」

「分かんない…。けど…」

 女の子は青年を見上げる。

「なんだか、とっても懐かしい気がしたの」

「ふーん」

「まあいいや。ほら、続きしよ」

 青年は女の子から少し離れ、ラケットを振る。

「いいよ~、ツバメちゃん」

「はーい」

 女の子の打った羽根が、放物線を描いて宙を舞った。

 

 

 

 走り去っていく女の子の後ろ姿を、しばらくぼんやりと見つめていた少女。

 その少女の足もとにやや大き目な波の飛沫が掛かり、少女は海の方へと振り返る。

 空色の髪が風でそよぎ、陽光に照らされた白い肌がクリーム色に染まる。

 どこまでも穏やかな少女の横顔を少年は見つめていて。

 少年も少女と同じように海へと視線を向ける。

 

 お互い交す言葉もなく、打ち寄せる波に足もとを濡らしながら、暫しの間水平線を眺めていた。

 

 時の経過と共に陽は傾いていき、潮は満ちていく。

 2人の影が砂地に長く伸び、波が裸足の少女の踝までを浸からせ始めた頃。

 

「ねえ、ツバメちゃん」

 

 名前を呼ばれた少女は少年に視線を向ける。

 

 少年はいつになく真剣な眼差しで、少女を見つめ返していた。

 

「君に、伝えておかなければならないことがあるんだ…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 それは君と出会う3年前の出来事。

 僕はある日、突然、あの小屋で目覚めた。

 見たこともない天井。

 見たこともない農園。

 見たこともない、青い海。

 

 曖昧な記憶。

 自分が誰なのか。何者なのか。名前すらも分からない。

 

 何の前触れもなく、知らない世界にぽーんと放り出されてしまった僕。

 それからは君と同じように、畑の畦道に座って、ぼんやりと海を眺める日々。

 頭上をお日様が昇って、お月様が昇って、お日様が昇って、お月様が昇って。

 何度目かの朝を迎えたところで、僕は高雄のおじさんと出会った。

 白い軽トラックに乗って、高台の下の村からやってきた高雄のおじさん。

 畦道でぼんやりと座っている僕の姿を見て、とても驚いてたな。まるで幽霊でも見るような眼差しで、「本当に居た…」って呟きながら。

 

 僕はおじさんに招かれ、おじさんの家に居候させてもらうことになった。

 知らない家で、知らない人たちと。

 この世界で目覚めて、初めての温かい食事。ふかふかの布団。

 高雄家の温かい歓迎を受けて。

 でも凍てついている僕の心。

 僕の居場所はここじゃない。

 僕がするべきことは、知らない家で知らない人たちと、食卓を囲むことじゃない。

 心のどこかで、誰かがそう囁き掛けてくる。

 

 自分は誰なのか。何者なのか。

 

 心を開かない僕を見かねたのだろう。

 高雄のおばさんは言った。

 

「あんたの名前は加地リョウジだよ」

 

 おばさんの口から告げられた、僕を定義する言葉。

 違和感しかなかった。

 その名前を自分のものとして受け入れられない僕が居たけれど、それでもせっかくおばさんがくれた名前だから、僕はその日から「加地リョウジ」を名乗ることにした。

 

 自分は誰なのか。何者なのか。

 成さなければならないことが、あったのではなかったか。

 

 することもなく、手持無沙汰な日々が過ぎていく。

 今度はおじさんが、そんな僕を見かねて毎日のように僕を外に連れ出すようになった。

 おじさんは長年世界中あちこちを飛び回る仕事をしていたらしいが、リタイアしてからは故郷の村に戻り、おばさんと農業を営んでいるらしい。僕が目覚めた高台の農園は古い友人から任されていた土地だそうで、おじさんに連れられた僕は、高台の農園で慣れない鍬を振るった。

 

 手足を土で汚し。

 額を汗まみれにし。

 あちこちを虫に噛まれ。

 体中から肥やしの臭いを立ち昇らせ。

 

 柄じゃないと思った。

 僕の体は、こんなことをするために造られたものではないと思った。

 それでもおじさんがしつこく誘うから、僕は仕方なく、朝には軽トラックの助手席に乗って高台の農園まで行き、一日中鍬を振り、見たこともない虫や小動物に接し、青い海を眺めながらおばさんが作ってくれたおにぎりを食べ、小雨に髪を濡らし、カラスの鳴き声を聴きながら陽が暮れる頃には高雄家の家に戻り、浴槽に満たされた熱い水の中に身を沈め、疲れ切った体をフカフカの布団に潜らせ。

 

 おじさんは不思議な人だった。

 その厳つい風貌に相応しい膂力で鍬を振るい、その厳つい風貌には相応しくない繊細な手つきで作物を扱い、雲の形と風の吹き方だけで天気を当ててしまう。おじさんが蒔く種は必ず芽吹き、必ず大きな実を実らせた。

 

 おじさんのもとで畑に通う毎日を過ごして1年が経った頃。

 少しずつ作物を、命を育むことに面白さを見出し始めた頃。

 

 おじさんは死んだ。

 若い頃の無理が祟ったらしい。もともとあちこちに病気を抱えており、僕があの小屋で目覚めた頃にはすでに余命3カ月を言い渡されていたらしい。

 

 その人柄に相応しく、おじさんのお葬式は賑やかだった。おじさんは昔船乗りをしていたらしく、その頃の仲間たちを中心に、大勢の人々が参列した。

 

 お葬式が終わってから数日後。

 僕とおばさんはおじさんの遺品を整理していた。

 そして僕は、おじさんの遺品の中から一枚の手紙を見つけてしまう。

 

 おじさんに宛てられた手紙。

 封筒はなく、差出人は誰だか分からない。

 

 

 

 

元気にしてるか?

こっちはいよいよきな臭くなってきた。

あるいはもう2度と会えないかもしれないから、手紙を書くことにしたよ。

新しい組織のことについては全て彼女に任せてある。

もし俺の身に何かあった場合は、

約束通り彼女のもとに駆け付けてやって、彼女を支えてやってくれよ。

頼んだぜ。

それとついでにもう一つ、お前さんに頼みたいことがある。

いつか、もしかしたら俺の大切な友人がふらっとやってくるかもしれない。

彼が「外の世界」に出てきた時、それはきっと彼の役目が終わった時だ。

彼はとても聡明な人だけど、「外の世界」のことは何にも知らないお子様だから、

お役御免のまま世界に放り出されてしまったら、

きっとまともに暮らせていけないだろう。

だから、もし彼を見かけたらその時は世話してやってくれ。

十分とは言えないが、彼のために少しばかりの纏まった金も用意してある。

そうだそうだ。

俺の畑を与えてみてはどうだろうか。

葛城は畑なんて継いでくれないだろうし、

老後の遊び場と思って、せっかく耕したんだから遊ばせとくのも勿体ないからな。

汗と泥でその身を汚したことなんてない彼のことだ。

土仕事を通じて、

きっと「新世界」に相応しい、

新しい自分に出会えると思うんだ

 

 

 

 

 便箋に添えられた一枚の古びた写真。

 その写真に写る人物。

 やたらと立派な儀礼服を着た少年。

 僕そっくりの、少年。

 

 

 次の日、僕はおばさんに別れを告げ、高台の農園の小屋で一人暮らしを始めた。

 おじさんが亡くなって、おばさんをあの家に一人で残すのはとても後ろめたかったけれど。

 でも、僕は早く家を出たかった。

 

 一人になりたかった。

 一人で、色々と考えたかった。

 

 いや、違うね。

 今更、「新しい自分」とやらになって、新しい人生を歩き出すことなんて、考えられなかったんだ。

 誰かが敷いたレールの上に乗せられ、コロコロと転がされるだけの自分が耐えられなかった。

 

 もう考えるのも面倒だ。

 もう一人でいい。

 一人で、この余生というものを過ごそう。

 そう思っていた。

 

 それでも。

 ただの人間になってしまった僕。

 個と個が結び付き、群体を成すことで自然社会を生き抜いてきた人類。

 その端くれになってしまった僕には、「孤独」という悪魔に打ち勝つ心など、すでに持ち合わせていなかった。

 

 僕は何者なのだろう。

 何のために生きているのだろう。

 

 あの手紙の差出人は用意周到のように見えて、どこか抜けているらしい。ご丁寧に写真まで添えていたのに、肝心の写真の中の「少年」の名前は何処にも記されていなかった。

 

 僕は何者なのだろう。

 何のために生きているのだろう。

 

 何も分からず、高台の農園に留まり続けている僕。

 そんな僕を置いてきぼりにして、勝手に時を刻んでいく世界。

 もう2度と戻ることのない、円環することのない世界。

 僕だけを置いてきぼりにしてしまう世界。

 少しずつ高くなっていく視線。発達していく喉仏。勝手に成長していく体。

 僕の体でさえ、僕を置いてきぼりにしていく。

 

 僕は何者なのだろう。

 何のために生きているのだろう。

 

 誰も答えてくれない問いを、ひたすら繰り返す日々。

 おじさんが耕していた時はおじさんの意のままに変化しているように見えた農園。

 僕が耕す田畑は、種を蒔いても芽吹いてくれない。実ってくれない。

 何一つ、自分の体も心すらも思い通りにならない世界。

 

 僕は何者なのだろうか。

 何のために生きているのだろうか。

 

 こんなつまらない世界に、僕が留まる意味はあるのだろうか。

 

 

 

 そんな時に、ふらっと現れたのが君だった。

 どこか、僕と似たような匂いのする君。

 

 自分が何者なのか、知らない君。

 知らない世界に勝手に放り出され、放り出された世界に置いてきぼりにされている君。

 

 どこか、似た者同士の僕たち。

 この出会いは必然だったのかもしれないね。

 

 おはよう。

 いただきます。

 ごちそうさま。

 ありがとう。

 おやすみ。

 

 君と交わす、何気ない日常の挨拶。

 ただそれだけで、孤独に苛まれていた僕の乾いた心が、満たされていく。

 

 君は言わば真っ白なキャンバスで。

 僕の思う通りに染められていく君の姿が嬉しくて。

 唯一、僕の自由にできる君の膝枕が温かくて。

 

 自分がこの世界に留まっている理由。

 それが、君との生活で何となく見出せそうな気がした。

 もう、自分が何者なのか、そんなことはどうでもいい。

 君と、こうして、ずっと、一緒に、生きていけさえすれば。

 

 でも。

 それでもやっぱりこの世界は僕の思い通りにならない。

 君さえも、僕の思い通りに染まってくれない。

 

 君との生活の中で。

 もう自分が何者なのか。君が何者なのか。

 そんなことはどうでもいい。

 お互い、そう思い始めていたと思っていたのに。

 

 

 それでも君は、自分が何者かを知りたいという。

 過去に、向き合いたいという。

 

 もういいじゃないか。

 君が何者なのかだなんて。

 いいじゃないか。

 僕が何者なのかだなんて。

 

 僕は怖かったんだ。

 もし君が、過去の君を取り戻した時。

 君は、僕のもとから去ってしまうのではないか、と。

 僕は、前に進んでいく君に、取り残されてしまうのではないか、と。

 やっぱり君も、僕を置いてきぼりにしてしまうのではないか、と。

 

 

 だから、僕は黙っていようと思った。

 君と離れたくないから。

 心の中に留めてしまい、蓋をしてしまおうと思った。

 君に、置いてきぼりされたくないから。

 君を、僕だけのものにしたいから。 

 

 

 

 でも。

 

 

 うん。

 

 

 やっぱりそれはできないよ。

 

 君を裏切ることなんてできない。

 

 君を裏切ってしまった後に、これまで通り笑って君の隣に立っていることなど、とてもできないだろうから。

 

 そんなことをしてしまうくらいなら。

 

 翼を広げ、飛び立っていく君の姿を見送る方が全然いい。

 

 君の前では、正直でいたいから。

 

 君の隣では、誠実でいたいから。

 

 君の側では、笑っていたいから。

 

 

 

「君に、伝えておかなければならないことがあるんだ…」

 

 

 

 僕の心の蓋を、そっと開く。 

 

 僕の心の中に隠していたものを、大切に取り上げ、君へと差し出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「君の名前は、アヤナミレイ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女の髪を整え、資料館の事務室にハサミを返しに行った後、ふと再び広げてみたアルバム。

 あのページで手が止まる。

 赤ん坊を背負った、君そっくりの少女が写る写真。

 その下にある添え書き。

 

 『ツバメちゃんをおんぶする「そっくりさん」』

 

 その「そっくりさん」という文字が、新しいマジックの線で消され、その下に書かれていた新しい文字。

 

 それが。

 

 

 

 

 

 

 

 

「アヤナミレイ。

 

 

 多分それが、

 

 

 君の本当の名前だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 あやなみれい。

 彼の口から告げられたその音色に、彼女はその空色の長い睫毛を何度も揺らし、瞼を瞬かせている。

 

 

 

「あやなみ…、れい…」

 

 薄い唇を僅かに開閉させ、彼の口から告げられたその音色を口ずさむ彼女。

 

「あやなみ…、れい…。

 

 綾波…、レイ…」

 

 

 少年の目には少女の口から漏れるその6文字が、溶け入るように彼女の体の隅々まで染み渡っていくように見えた。

 

 

 

「ねえ、綾波…」

 

 少年は少女の名前を呼ぶ。

 

「僕のことを、少し話してもいいかな…」

 

 少年の口から突然告げられた真名を、確かめるように繰り返し呟いていた少女。波と陸との狭間をぼんやりと見つめていた少女は、ぼんやりとした眼差しをそのまま少年へと向ける。

 

 

「以前の僕は、ある人の幸せを叶えるためだけに生きてきた」

 

 そのある人が誰なのかは分からないけれど。

 

「その人の希望を叶えるために、全てを捧げてきた」

 

 その人の希望とは何だったのか。今はもう思い出せないけれど。

 

「でも、いつだったか誰かに言われたんだ。僕が願っていたのは人の幸せじゃない。人を幸せにしようとしたつもりで、僕自身が幸せになりたかったんだと」

 

 少年の視線が、陸を濡らす海水の泡へ落ちる。泡を見つめる少年の目が、悲痛そうに歪んだ。

 

「それを聴いた時、身を引き裂かれたかのように思ったよ。僕がこれまでやってきたことが、全て否定されてしまったと思った…」

 

 少年は溜息を一つ入れ、海水に這わせていた視線を今度は彼方の水平線へと向ける。

 

「でもきっと…。彼が言いたかったことは、多分こういうことなんだ。人の幸せを願うなら、まずは僕自身が幸せにならなくちゃ。幸せとは何なのか。それを知らない者に、誰かを幸せにすることなどできない、…とね」

 

 海の方から柔らかな風が吹く。

 少年のまとまりの悪い髪が、さらさらと揺れた。

 

「綾波…」

 

 少年は視線を自分の足もとへと落とす。つま先の側にあった小石を、こつりと蹴ってみた。小突かれた小石は放物線を描いて、波の中にぽちゃんと小さな水飛沫を立てて沈む。

 

「今の僕が、誰よりも、一番に幸せにしたい人。それは君だ…」

 

 顔を上げ、視線を少女へと向ける。

 少女は、少し驚いたような表情で目を丸くし、そして頬を赤く染めている。

 

「そして、今の僕が一番幸せでいられる場所。それは君の隣なんだ」

 

 そして少女と同じように両頬を赤く染める少年は、正面から少女を見つめた。

 緊張でもしているのか。両手を、ぎゅっと握りしめて。

 

「君の側に居たい…。これからもずっと…」

 

 

 

 

 太陽が西に大きく傾き、陽の光が黄白色から茜色へと移ろう。

 少女の顔が、頬だけでなく、全てが真っ赤に染まった。

 

 同じく顔を真っ赤に染めている少年の顔を、まん丸に広げた目で見つめ、何度も瞼を瞬かせていた少女。

 少年の顔からゆっくりと視線を外す。遥か彼方の、水平線を見つめた。

 

 寄せる波が少女の素足を5回ほど覆って。

 少女はぽつりと。

 細やかな波の音に掻き消されてしまいそうな細い声で呟いた。

 

「私も…、あなたと同じ…。昔…、大切な誰かに…、言われた…」

 

 その大切な人が誰なのかは分からないけれど。

 

「「ここ」じゃない…。別の生き方があるって…」

 

 その人が言う「ここ」とは、一体何処だったか。今はもう思い出せないけれど。

 

「「ここ」じゃない…。もっと別の場所…」

 

 海から吹く柔らかな風が、少女の蒼銀の髪を撫でる。

 

「私はその場所を…、見つけたわ…」

 

 視線を少年へと向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 浜辺でバドミントンに興じる女の子と青年に遠くから掛けられる声。

「おーい、ツバメちゃーん、カジくーん」

 青年は声を掛けてきた人物にラケットを振った。

「アスカさん、こんちわー」

 女性は羽織った黒のブルゾンのポケットに両手を突っ込みながら、のんびりした足取りで2人のもとへと歩いていく。

「お待たせお待たせ。じゃあ、ご飯食べに行こっか」

「ゴチになりまーす」

「何言ってんのよ社会人が。あたしがおごるのはツバメちゃんだけよ。ツバメちゃん、何が食べたい?」

「んんん。お寿司!」

「よっしゃ。じゃあ「は〇寿司」行こ、「〇ま寿司」」

「えーー、回らない寿司屋にしましょうよ」

「何言ってんの。今なら某ロボットアニメのキャラクターがコラボキャンペーンやってんだから」

「アスカちゃん。あたし、お父さんからお金貰ってるよ」

「え? そうなの? じゃあ回らない寿司屋行こ、回らない寿司屋」

「アスカさん…、子供にたかるつもりですか…」

「そ、そんな訳ないじゃん」

「お父さんお母さんがアスカちゃんに一晩お世話になるんだから、夕御飯代くらい出すって」

「んんん、ヒカリもトウジも立派な親御さんになって…。あたし、旧友として鼻が高いわ…」

「ツバメちゃんのお父さんたち、今日どうしたの?」

「古い友達に久しぶりに会うんだって。ケンスケおじちゃんも一緒だよ」

「へー。だったらアスカさんにとっても友達じゃないんですか?」

「んんん、どうなんだろう。あたしもケンケンから誘われたんだけどさ、昔のことはあんまし覚えてないからね~。会っても思い出せなかったら相手に悪いじゃん」

「でも会えば思い出せるかもしれないじゃないですか。今からでも行ってみたらどうです? ツバメちゃんは僕がみますから」

「いたいけな女子中学生をあんたみたいなアラサーオヤジの家に一晩預けられるわけないでしょうが」

「ひどいな~。ツバメちゃんは僕にとっては、姪っこみたいなものですよ」

「うーーー…」

「あれ? どうしたの? ツバメちゃん」

「カジくん。あんたも乙女心がよく分かってないのね。まるで昔の誰かさんみたい」

「へ?」

「あーやだやだ。おや?」

「ん? どうしました?」

「いやいや。偶然は重なるもんだなーと思ってね。あの子たち、見かけるのは今日で3回目だよ」

「ああ、あの人たち。知り合いなんです?」

「うーん。何だかどっかで会ったことあるような気がするような気もしないような気もするような…」

「あの女の人。あたしと同じ名前なんだよ」

「へー。ツバメちゃんと」

「あー、それにしても見れば見るほど嫌になるくらいの美男美女だわね。まったく」

「何言ってるんですか。アスカさんだって負けてないですよ」

「おばさん、からかうんじゃないの。おや? おやおや~?」

「あれま」

「わあ…」

「……」

「……」

「……」

「いいね若いね青春だね~…」

「ですねー…」

「いいなぁ…」

「あーもうっ。あたしもさっさとイイ相手見つけて身ぃ固めてやろうかしら」

「そうそう、それがいいですよ。ケンスケおじさんもアスカさんが何時までも独り身で心配だって言ってましたよ。やっぱり今日の同窓会、顔出してみたらどうです? 思いがけない出会いがあるかも知れませんよ?」

「んんん。まあ、まずは腹ごしらえよ。行きましょ、回らない寿司屋に」

「「はーい」」

 

 

 

 

 

 

 水平線の上に浮かぶ太陽を見つめる。

 

 4つの赤い瞳の中に浮かぶ、真っ赤な太陽。

 

 風に揺れる、白銀の髪と、蒼銀の髪と。

 

 少年の左手は、少女の右手に握られ。

 

 少女の右手は、少年の左手に握られ。

 

 それぞれの白磁のような指は、互いに深く絡み合って。

 

 

 

「ねえ、綾波…」

 

「なに…?」

 

「僕の名前は…、多分、「加地」じゃない…」

 

「うん…」

 

「きっと、あの農園の前の持ち主の名前だろう…」

 

「うん…」

 

「君は今日から「綾波レイ」に戻る…」

 

「うん…」

 

「僕も今日から君の隣に立つために、僕の、僕だけの名前を名乗ろうと思うんだ…」

 

「うん…」

 

「君が決めてくれないか?」

 

「え…?」

 

 少女は、驚いた表情で隣に立つ少年の顔を見上げる。

 

「僕の名前を」

 

「私が…?」

 

「うん」

 

「でも…」

 

「「綾波レイ」って名前は、僕が君に教えてあげたんだよ? 今度は君が僕に新しい名前を教えてくれる番じゃないかな?」

 

 悪戯っぽく笑う少年の顔を、少女は少し不満げに唇をとんがらせて見上げる。

 

 唇をとんがらせたまま、視線を足もとに投げ。

 

 それでもこの世界で一番愛おしい存在のために必死に頭を巡らせて。

 

 何故か、その頭に浮かんだのは、駅のホームで出会ったあの青年の言葉。

 

 

 

     今日みたいな穏やかな日和の日は、

 

     綾を成すように波が寄せ合ってとてもキレイなんだ。

 

     汐風香る、とても素敵な渚だよ。

 

 

 

「しおかぜかおる…、なぎさ…」

 

「え?」

 

「汐風の香る、渚…」

 

 それは今、自分たちが立っている場所を、そのまま表した言葉。

 

「なぎさ…、かおる…」

 

「渚…、カヲルか…」

 

「…どうかしら」

 

 少女は不安げな表情で少年を上目遣いに見つめる。

 

 少年はその顔に柔らかな笑みを浮かべて、少女を見下ろす。

 

「うん。ありがとう。僕にぴったりの名前だ」

 

 少年から降り注ぐ太陽のような笑顔を受け止め、少女も安心したようにその顔に穏やかな笑みを浮かべた。

 

 

 太陽はすでにその半身を水平線の向こうに沈め、空の半分は紺色に染まった。

「暗くなる前に行こうか」

「ええ…」

 夕陽に背を向け、歩き出す2人。

「今日一晩泊まって、明日はどうしよっか? 午前中の便と午後の便があるけど」

「早く帰りたい…」

「え?」

「早く…、帰りたい…。私たちのおうちに…」

 少年の手を握る少女の手に、ぎゅっと力がこもる。

 少年は嬉しそうに笑った。

「そうだね。帰ろう。僕たちのホームに」

「ええ…」

「それで帰ったらさっそく稲刈りの準備だ」

「稲刈り、楽しみ…。ずっと前から、やってみたかった」

「うん。ああ、そうだ。この前新しく耕した畑。ルッコラを植えようと思うんだけどどうかな?」

「るっこら…?」

「うん。ハーブの一種だけど、サラダなんかに混ぜて食べると美味しいんだそうだ。お洒落な感じで女の子受けするらしいよ」

「それは、お味噌汁にも…、入れることができるの…?」

「うーん、どうだろう。和風料理ってイメージはないかな」

「じゃあダメ…」

「君の作る野菜の判断基準はそこなんだね…」

「ゴボウがいい…」

「畑が根菜だらけになっちゃうな~」

 

 

 

 陸と海の狭間。

 

 寄せては返す波が、砂浜に美しい波紋を描き出す。

 

 渚という名の少年と、綾波という名の少女は、寄り添うように並ぶ4つの足跡を波打ち際に残しながら歩いていく。

 

 白紙のカレンダーを手に、明日のことを語り合いながら。

 有限の命を与えられた彼らは、無限に広がる未来に想いを馳せて。

 

 水平線に沈む茜色の夕陽が2人の背中を優しく押してゆく。

 工場が立ち並ぶ地平線から昇ってきたまん丸の月が、静かに2人を見守っている。

 

 2人は歩いていく。

 彼らを待つホームへと繋がる駅へと向かって。

 

 2人が去り、人影が消えた海岸に潮騒だけが響き渡る。

 それはこの地球が大地と海とに隔たれた瞬間から、一寸たりとも途切れることなく続いてきた営み。

 たとえ太陽の光が厚い雲に閉ざされたとしても。

 地上が灼熱の炎に覆われたとしても。

 渚と波は、今も昔も、そして遠い未来でも、片時も離れることなく、寄り添い続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ニテ、ナス

 

 

終劇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 微睡みの中で体を動かす。

 寝返りを打ち、右に投げ出してみた腕と足が布団に残っている温もりを感じた。しかし温もりの主はもう布団の中には居ない。

 うっすらと瞼を開くと、釜土の前でしゃがんでいる彼の姿が見えた。今日も早起き勝負で負けてしまったと残念がりつつ、まあでも別に勝たなくてもいいやとも思いつつ、両腕を何かを求めて彷徨わせる。

 いつも手もとにあったはずの何かを求めて。

 ああそうか、と思い出し、求めるのを止めた。

 

 布団から這い出て、寝ぐせだらけの髪を手で梳きながら起きる。お日様が高くに昇ればうだるような暑さになるが、朝晩はだいぶ冷え込む季節になった。布団の側に投げてあった半纏を羽織り、サンダルを履いて土間へと下りる。大きく欠伸をしながら、彼の隣に立った。

「やあ、おはよう」

 釜土にくべた火に向かって火吹竹を吹いていた彼は、いつものように柔らかい笑みを浮かべながら挨拶する。

「おはよ…」

 起き抜けで呂律の回っていない口で、挨拶を返す。

 棚から包丁とまな板を取り出し、大根とネギを刻み始める。

 

 

 

「いただきます」

「いただきます」

 

「ごちそうさま」

「ごちそうさま」

 

 朝ごはんの片づけを終え、2人でちゃぶ台を囲み、湯飲みのお茶を啜る。

 労働前の一息。湯飲みをちゃぶ台の上に置き、手は自然と何かを求めて床の上を彷徨う。

 いつも手もとにあったはずの何かを求めて。

 ああそうだった、と思い出し、求めるのを止めた。

 

 

 

 

 午前中の作業を終え、お昼ご飯のおにぎりも食べ、いつものように農園の一番高い場所にあるハンモックでお昼休み。

 彼女はハンモックに腰かけ、彼はハンモックに横になって、その頭は彼女の膝の上。

 膝の上で、気持ちよさそうにお昼寝する彼。

 これじゃ自分がお昼寝できない、と彼女は少しだけ不満を顔に表しつつ、ま、いっか、と彼の収まりの悪い髪を右手で撫でる。

 そして左手は何かを求めてハンモックの周辺を彷徨う。

 いつも手もとにあったはずの何かを求めて。

 ああそう言えば、と思い出し、求めるのを止めた。

 

 仕方なく、手持ち無沙汰な左手を彼の頭に乗せ、右手を彼の頬を受け止め、すやすやと寝息を立てている彼を起さないように、その頭をそっと抱き締める。

 全ての呪縛から解き放たれたかのような彼の穏やかな寝顔を見て。彼の形の良い鼻から漏れる息を右手に感じて。彼の温もりを左手に感じて。

 それでも何となく物足りなさを感じてしまい、彼女はその薄い唇を少しだけとんがらせ、そっと彼の顔に彼女の顔を近づけ、とんがらせた唇を彼のほっぺたにそっとくっ付けてみた。

 

 

 

 

 一日の作業を終え、小屋の前の広場でたっぷりのお湯に浸かる彼女。

 最近の彼はDIYに凝り始め、暇が出来ればおばさんに紹介してもらった親方のもとに行って、もの造りの勉強に励んでいる。なんでも、将来彼と彼女の家を建てるのが夢なのだそうだ。

 その手始めとして造ってみたのが、今、彼女がその細い体を沈めているドラム缶風呂であった。

 お湯に首まで浸かりながら、満天の星空を見上げる彼女。

 その下では、彼が火吹竹でくべた薪の炎に一所懸命息を吹きかけている。

「どう? いい湯加減?」

 ぜえぜえと肩で息をしながら彼女に声を掛ける。

 素直な彼女は素直な感想を口にする。

「ぬるい…」

 

 風邪を引く前に風呂から上がり、タオルで体を拭く。

「レイ。着替え、ここに置いておくよ」

「ありがとう…」

 彼が用意してくれた服を着て、そして視線は何かを求めてドラム缶風呂の周辺を彷徨う。 

 いつも手もとにあったはずの何かを求めて。

 ああそうか、と思い出す。

 

 風呂から上がったばかりでまだ少し火照っている両腕を見つめる。

 空っぽの両腕を。

 

 いつも抱き締めていたもの。

 この腕の中にあったもの。

 

 それが今は手もとになくて、ちょっとだけ寂しい。

 

 

 

 

 

 夕餉。

 ちゃぶ台には2人の前にそれぞれお茶碗とお椀が一つずつ。2人の間に、少し大きな皿が一枚。

 お茶碗には炊き立ての真っ白な白米が盛られ、お椀にはいつもの大根と菜っ葉のお味噌汁。

 大きな皿の上には、最近おばさんのもとで料理のお勉強を始めた彼女が作ったかぼちゃとナスの煮つけ。おばさんからは、おばさんが働いている道の駅で売り子のアルバイトをしてみないかと誘われており、現在迷い中の彼女である。

 

 

「いただきます」

「いただきます」

 

 いつものように、気持ちが良いほどに揃う2人の食事前の挨拶。

 彼はいつものように真っ先にお椀を手に取り、味噌汁を啜り始める。

 彼女も彼と同じように、真っ先にお椀に手を伸ばし…。

 

 彼女はお椀を手に取らなかった。

 それどころか、箸すら持とうとしない。

 

 空っぽの自分の両手を見つめて。

 どことなく寂しい両手を見つめて。

 何となく手持ち無沙汰な両手を見つめて。

 

 そして、ちゃぶ台の向こうの彼を見つめて。

 

 

 

「ねえ、カヲル…」

 

 

 

 

「なんだい? レイ」

 返事をしながら、お味噌汁を啜る彼。

 彼女は、薄い上唇と下唇をそっと開きながら言う。

 

 

 

 

 

 

「私、赤ちゃんが欲しい」

 

 

 

 

 

 

「ぶへあ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―おしまい―

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 


映画としての良し悪しはともかく、綾波推しの私としてはシン・エヴァはちょっと受け入れ難いものでした。一方でシンレイと同じくらい好きなカップリングであるカヲレイがまさか公式から出てくるとは思っておらず(あの場面には色々解釈はあるでしょうが)、投げられた餌にまんまと食い付いたアホがよう分からん心理状況のままで書いたので、結局何とも締まりのないお話しになってしまいました。
それにしても、結局最後までカヲルくんの人物描写をモノにすることができなかった…。改めて読み返してみたが、誰ですかこいつ。



 


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おまけ
耳をすませば。《前編》


 

2人ののんびりとした休日の様子を綴った、とりとめのないお話しです。

 


 

 

 

 

 よく磨かれたガラスは街並みの様子と歩道を行き交う人々、そしてショーウィンドウを熱心に覗いている一人の男性を写し出している。

 少年期を終え、青年期へと移ろったばかりの彼、渚カヲルは、ガラスの向こうに並ぶ商品の一つに、熱い視線を送っていた。

 彼が立っているのは街角にあるリサイクルショップの店先。ショーウィンドウに並ぶのは、ショップが選ぶ目玉商品の数々。

 

 ショーウィンドウのガラスはカヲル以外にもう一人の人物を写し出してる。

 カヲルの数歩後ろに立つ綾波レイは、ガラスに額をくっ付ける勢いで前屈みになっているカヲルのお尻を、やや呆れ気味に見ていた。

 

 カヲルがショーウィンドウの前から動かなくなってからかれこれ20分。

 待つことには慣れているレイもさすがに痺れを切らし、鼻から微かに溜息を漏らしつつ、編み上げのショートブーツの踵をトツトツと鳴らしながらながらカヲルの横に立つ。

 

 カヲルの視線の先にあるのは、陳列台に置かれたやたらとゴツゴツとした出で立ちのカメラ。

 最近になって、このようなタイプのカメラを「一眼レフ」と呼ぶことを知ったレイである。

 

「カヲル…」

 熱心に見ている彼の邪魔をしてしまうのを悪いとは思いつつ、躊躇いがちに声を掛けてみる。

「うん…」

 カヲルからはどこか上の空の返事。

「欲しいの…?」

 わざわざ訊ねるまでもないが。

「うん…」

 やはりカヲルから返ってくる声はどこか上の空。

 

 レイは視線をカメラの値札に投げてみた。

 中古品でありながら、レイとカヲルの半年分の生活費を軽く超える額に、レイはちょっとした眩暈を覚えてしまった。

 

 レイはやたらとゴツいカメラの隣に陳列されてある、何とも控えめな小さなカメラの値札に目をやる。

 それでも2人の1月分の生活費に相当する額だったが、ゴツいカメラに比べれば何とも良心的なお値段。

 

「こっちじゃダメなの?」

 レイの問い掛けに、カヲルはほんの少しだけ小さなカメラに目をやり、しかしすぐに視線をゴツいカメラに戻してしまう。

「うん。長く続けていったら色々不満が出てきて結局買い替える羽目になってしまうからね」

「長く…?」

 レイのつるつるの綺麗な眉間に、皺が寄った。

「だったら最初からある程度本格的なものを手に入れた方が、むしろ経済的だと思うんだ」

「……」

 

 レイはガラスに映る恋人の顔をジト目で見つめるが、彼女の恋人の視線はゴツいカメラに注がれたまま。

「カメラ、必要かしら…」

 そう問われ、カヲルはようやくショーウィンドウのガラスから顔を離し、視線を隣の恋人に向ける。

「君という最高の被写体を写真に収めたいんだ。前にも言ったじゃないか」

「なぜ?」

「なぜって…」

「私たち。いつも一緒に居るわ」

「確かにそうだけど…」

「いつも一緒にごはん食べてるし。いつも一緒に畑仕事してるし。いつも一緒にお出掛けするし。いつも一緒にお風呂入ってるし。いつも一緒のお布団で寝てるし」

「レイ。後半の2つはこんな往来では言わない方がいいんじゃないかな」

 2人の隣でショーウィンドウの商品を眺めていた壮年のご婦人は、「なんて淫らな」とでも言いたげな視線を残して去っていった。レイは構わず続ける。 

「ずっと一緒にいるのだもの。わざわざ写真を撮る必要、ないと思うの」

「人生とは日々綴られる物語りだ。そして物語りは読まれてこそ価値がある。写真は僕たちの物語りを読み返すうえで、つまりは思い出を振り返るうえで、実に有効的な手段になるんじゃないかな」

「物語り?」

「うん。君と僕の日々の」

「そう…」

「だろ?」

「でも私たち。10年後も20年後も同じ布団で目を醒まして、一緒にご飯を食べて、一緒に畑仕事して、一緒にお昼寝して、一緒にお出掛けして、一緒にお風呂に入って、一緒のお布団で寝ていると思うけど」

「これからもずっと?」

「ええ。だから、同じ日々をわざわざ振り返る必要はないと思うのだけれど…」

 自分たちの平平凡凡な日々は未来永劫続くだろう。彼女が思い描く未来予想図にカヲルの心は思わずときめいてしまったが、だからと言ってここで彼女の言葉に納得してしまっては、自分はいつまで経ってもカメラを手にいれることができない。

「君が悪いんだよ?」

「私が?」

 意味不明な責任転嫁をしてくる恋人に、レイは思わず眉を顰めてしまう。

 そんなレイにカヲルはどこか得意気な顔で言う。

「日々美しくなってしまう君がいけないんだ。僕は半年後に僕の隣で寝息を立てている美しい女性が君だと迷いなく言える自信はないよ。でも日ごと美しくなってゆく君の記録を残しておけば、僕は世界で一番美しい女性の隣で眠ることができる世界で一番の幸せな男だったことを忘れずにいられるじゃないか。それとも君は僕が起きる度に驚いてしまって、君の安眠を妨げてしまうことになってもいいのかい?」

 何とまあげっぷが出てしまいそうなになるくらいのくさいセリフだとは自覚しているものの、半分以上は本心で言っているカヲルである。

 自分のセリフに対し、彼女はどんな反応を示すだろうか。毎日お天道様の下で農作業に勤しんでいるにも関わらずくすみ一つない真っ白な頬を、桃色に染めてくれているだろうか。

 期待を込めて彼女の顔を見てみたら。

 

 レイはジト目でカヲルの顔を見上げていた。

 

 レイは小さく鼻で溜息を吐き、視線をショーウィンドウに戻す。

 

「カヲル…」

「なんだい…」

「あの釣竿。おばさんに頼んで、メル〇リで売ってもいい?」

 レイのその言葉に、カヲルはバツが悪そうに後ろ髪を掻く。

 

 カヲルがレイの前でカメラが欲しいと宣言してからすでに多くの月日が過ぎている。

 カヲルが高級カメラを手に入れるために日々節約し、コツコツと購入資金を貯めているのであれば、レイもカメラの購入に反対する理由は何もなかった。

 ところがカヲルは貯めたカメラ購入資金を、事あるごとに散財しているのだ。

 しかもそれは2人の生活のための必要経費などではなく、カヲル個人の趣味によるものだった。

 

 

 趣味はその人の見聞を広め、教養を高め、心を豊かにする。

 様々なものに好奇心を示すのは彼の長所であると思うし、趣味を広げるのも悪い事ではないとレイも思う。しかし彼女の恋人が始めた趣味は、いずれも長続きしなかった。

 彼と彼女の慎ましやかな家の小さな倉庫は、どうも形から入る性格らしい彼が新しい趣味を始める度に購入しては、2~3回しか使われずにそのまま放置されている道具の数々で占拠されてしまっていた。

 

 ちなみにカヲルが直近で手を出した趣味は釣りであった。釣り道具一式を手に入れたその日から毎日のようにいそいそと海岸に赴き、海に向かって釣り針を投げ入れたが、初日から3日連続でボウズが続いた時点で彼の釣りに対する熱はすでに冷めてしまっており、そして4日目にしてようやく釣れた一匹のボラの皮のぬめりと臭いで完全に嫌気が差してしまい、5日目には釣り道具は無事、倉庫の中の「うどん打ちセット(作務衣付き)」と「陶芸入門セット(ろくろ付き)」の間に収まったのだった。

 

 ちなみに2人の食卓に並ぶ料理は、レイが肉類を受け付けない体のため、野菜や穀物が食材の中心である。レイは魚を食べたことがなかったため、そんなレイに魚を食べさせてあげたいというのもカヲルが釣りを始めた動機の一つだったが、その釣果はご覧の有様だったため、2人の食卓は変わらず野菜と穀物が中心である。

 

 

 改めてカメラの値札を見る。

 釣り道具一式を遥かに上回る数字が並ぶ値札を。

 そして「前科持ち」の恋人の顔を見上げる。

 

 ジト目で見つめられ、「前科十犯」のカヲルは居心地悪そうに後ろ髪を掻く。

「行こっか…」

「ええ…」

 2人は静かにショーウィンドウの前を立ち去るのだった。

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 2人が訪れている大きな街。2人が住む海沿いの高台にある農園から原付バイクで30分、さらに電車を乗り継いで30分ほどの場所にある街。日用生活品の購入は農園から原付バイクで20分のスーパーマーケットやホームセンターが集まる郊外の商業施設で済ませているが、「たまには大きな街に出て色んなものに触れて感性を磨かないと」というカヲルの案で、1月に1回は2人でこの大きな街に訪れている。

 わざわざ1時間掛けて訪れているからと言って、大きな街でしか買えないものを買う訳でもない。大きな街にしかないないような施設に入るわけでもない。ただ2人で、街中をぶらぶらするだけ。彼女の方は元来極端な無口だし、彼の方も多弁というほどではない。大きな街に出たからと言って2人の会話がいつもより弾むというわけでもなく、静かな2人は手を繋ぎながら、のんびりとした足取りで街中を闊歩するだけ。

 それだけでも何だか満たされた気分になってしまうことをレイは不思議に思いつつ自然と頬を緩め、カヲルは「何とも安上がりな僕たちだ」と苦笑いしながら、ショーウィンドウの前で待っている間に冷たくなってしまっていた彼女の手をしっかりと握って温めてやるのだった。

 

 世界は寒い寒い冬を乗り越え、この街にもそろそろ春の足音が近づいてこようとかいう季節。

 とは言え空気はまだ凍てついており、この日の空はどんより曇り空。

 信号待ちの間、高層ビルの隙間から見える灰色の空を眺めていたレイ。ふと、あることに気付き、視線を灰色の空を埋めるビルの足もとに移す。

 ビルが面する道路にあるバス停。道路と並行して走るモノレールの高架。「当時」に比べればすっかり装いは変わっているが、この場所は紛れもなく…。

 

 信号が青になったため横断歩道を渡ろうとしたが、握っていた恋人の手が動かない。

 振り返ってみると、恋人は明後日の方向を見たままぼんやりと突っ立っている。

「どうしたの?」

 声を掛けられ、レイは一度目をぱちくりと瞬かせ、カヲルの方を向く、

 口もとに、少しばかりの笑みを浮かべて言う。

「ここ。私が前に、住んでたとこ」

「え? ここが?」

 カヲルはレイが見ていた方に視線を向けた。綺麗に剪定された生垣の向こう。全面ガラス張りの荘厳な造りのエントランスルーム。奥にあるカウンターには小ぎれいな身なりの女性が立っており、エントランスルームに入ってきた老夫婦に向かって頭を下げている。

 カヲルの視線はそのまま上へと向かう。空へ空へと伸びる、高層ビル。

 レイが見ていた建物は、俗にいうタワーマンションだった。しかもただ背が高いだけのマンションではなく、コンシェルジュ付きの富裕層向け高級マンションだ。

 カヲルは目を丸くする。

「君って、もしかして何処かイイとこのお嬢様なのかい?」

 カヲルにそう言われ、レイは再び目を、今度は2回続けてぱちくりと瞬かせた。

 驚いた顔のままでこちらを見つめているカヲル。

 そんなカヲルに、レイは悪戯っぽい笑みを口もとに浮かべて。

「ええ、そうよ」

 カヲルの手を引っ張り、青信号が点滅しつつある横断歩道を小走りで渡り始めた。

「君ってコは、いつまで経ってもミステリアスだね」

 少し呆れ気味なカヲルの声を背中で聴きながら、レイはクスクスと笑う。

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 帰りの電車の時間以外は何も決めずのんびりと街を歩く2人は、人で賑わう商店街を抜け、裸の街路樹の下を通り、整備が行き届いた河川敷の遊歩道を歩き、そして緑地公園へと入っていく。

 芝生の上に小さなレジャーシートを広げて座り、2人の間に家から持ってきたお弁当箱を広げ、カヲルが大きなおにぎりにかぶり付いている間に、レイは魔法瓶からプラスチックのコップに温かいお茶を注ぐ。カヲルの趣味による散財以外は経済の循環というものに全く寄与しない世間からのはみ出し者の2人は、今日も彼らだけの彼らなりの休日を楽しんでいる。

 

 おにぎりを食べ終わった後は、いつもなら2人で寝そべって、彼女は寝っ転がりながら持参した本を読み、彼は彼女のお尻や太ももを枕代わりにお昼寝してだらだら過ごすのが日課だが、この日は生憎の寒風吹きすさぶ曇り空。このまま寝そべってだらだらしていたら風邪を引いてしまうので、おにぎりを食べて少しだけのんびりした後に、お弁当箱をしまい、レジャーシートを畳んだ。

 

 

 

 乙女の花園へお花摘みに行ったレイを待つカヲルは、緑地公園の隣にある公会堂の玄関前の大きな柱に背を預けて立っていた。時々体を襲う冷たい風に身を震わせ、首に巻いたマフラーを鼻の辺りまでたくし上げ、両手をモッズコートの両ポケットに突っ込む。

 公会堂は空気の入れ替えでもしているのか、全ての窓や扉を開け放っていた。

 その全開の扉から漏れ出てくる音が耳に入り、カヲルは柱から背中を離す。

 冷たい空気を伝って聴こえてくる軽やかな音色。

 その音色に惹かれるように、カヲルは公会堂の出入り口へと歩いていった。

 

 出入り口から公会堂の中を覗き込む。

 すり鉢を半分にしたような客席の中央には舞台。

 その舞台の上に設置されているのは、一台のグランドピアノ。

 そのピアノの前に一人の青年が座り、両手を鍵盤の上に滑らせ、涼やかな音色を奏でている。

 

 シンプルな伴奏の上に乗せられた印象的な旋律。僅かな音数にも関わらず、ピアノから奏でられる音色は、ピアノの前に座る青年以外誰も居ない公会堂の中を、豊かに満たしていく。

 序盤こそ僅かな音数でシンプルに奏でられていた楽曲は、突如として曲調が変わり、滝のような音の奔流へと変化する。その後も同じ低音主題を繰り返しながらも並ぶ音符の構成は次々と変化し、ピアノを奏でる青年の指も変貌していく曲調に合わせて忙しく鍵盤の上を弾み、その両腕は窮屈そうに何度も交差する。

 やがて楽曲の中でも最も高度な演奏技術が求められる場面に差し掛かったところで。

「ああ、ダメだ」

 青年の10本の指はついに楽曲を譜面通りに再現することができなくなってしまい、宙を泳いだ上で演奏は中断。青年は悔しそうに呻きながら天を仰いだ。

 

 出入り口の扉に肩を預けながら舞台を見下ろしていたカヲルは、演奏を止めてしまったことに悔しがっている青年の背中を微笑みながら見つめ、そして素敵な音楽を聴かせてくれた青年に向けて心の中でささやかな拍手を送りつつ、出入り口から立ち去ろうとした。

 

 

 

 ピアノの前に座る青年は背広の袖を捲って腕時計を確認する。

「リニアの時間までまだあるな。よっしゃ。もういっちょ」

 演奏を止めてしまった箇所の少し前から演奏を再開しようとして。

 

 客席の間の階段をドタドタと五月蠅く駆け降りてくる足音。

 視線を、足音がする方へと向けた。

 

「イカリさん! イカリさんですよね!」

 

 階段を駆け降りながら弾んだ声を上げるのは、白銀の髪の青年。

 

「君は!?」

 

 青年も声を弾ませ、椅子から立ち上がると舞台から客席へと飛び降りた。

 互いに駆け寄り、がっちりと握手を交わす。

「やっぱりまた会えたね!」

「ええ! お久しぶりです!」

 

 

 自分が新しい名前を手に入れたあの日。

 森の中の道と駅のホームでほんの数分だけ言葉を交わしただけに過ぎなかったあの青年。

 それでもカヲルは腹心の友との再会を喜ぶように青年の手を握り締め、それだけでは満足せず青年の背中に腕を回し、抱擁を交わしながらばちばちと青年の背中を叩く。

 

 

 カヲルの手荒い歓迎に青年は苦笑いしつつ。

「元気にしてた?」

「ええ。イカリさんも」

 青年に声を掛けられ、カヲルはようやく青年を抱擁から解放したが、両手はなおも青年の手を固く握っている。そんなカヲルの顔を、青年は見上げる。

「背、伸びたんじゃない?」

 青年に言われ、カヲルはようやく青年から手を離した。

 あの駅のホームで会った時にはほぼ同じ高さの目線だったカヲルと青年。青年もこの国の成年男子の平均を上回る長身だが、今のカヲルはその青年よりもさらに頭半コ分高くなっていた。

「ええ。まだ成長期らしいんです」

 際限なく天へと向かって伸びていく体のてっぺんに乗っかている頭を、恥ずかしそうに掻くカヲル。毎晩寝所を共にする恋人からは、布団が狭いとクレームを入れられるこの頃である。

「ふふ。何だかこの目線の高さの差が懐かしいよ」

「え?」

「あ、いや。今日はどうしてここに?」

「僕たち、この近くに…、って言っても、電車とバイクで1時間ほど掛かるところですけど、そこに住んでるんです」

「へえ、そうなんだ」

「イカリさんこそどうして?」

「ああ、うん。碇家の墓がこの街にあるからね。近くに来たから墓参りに寄ってみたんだ。久しぶりに来たものだから、ついつい色んな所に寄り道しちゃってね。でも、この街も随分と変わっちゃったな…」

 そう言いながら、青年はピアノに並ぶ鍵盤の一つを人差し指で押す。ポーン、と澄んだ音がホールの中に響き渡った。

 

「ピアノ…」

 

「ん?」

 

「ピアノ、お上手なんですね」

 

 少し寂し気な表情を浮かべていた青年は、そのカヲルの一言に一気に顔を赤くしてしまった。

「え、あ、いや、じょ、上手だなんてそんな。下手の横好きさ」

「でも耳にする者の心に語り掛けるような、素敵な演奏でしたよ」

「はは、参ったな」

 カヲルのお世辞ではない心からの賞賛に、青年ははにかみながら頭を掻く。

「僕のピアノなんて。「彼」に比べれば子供のお遊戯のようなものだよ」

「「彼」って?」

 そう問われ、青年はカヲルの目を正面から見つめる。

「僕にピアノを教えてくれた人さ」

「ピアニストなんですか? その人」

 青年は頭を横に振る。

「ピアノだけじゃなく、色んなことが出来た不思議な人だったよ。彼からはピアノ以外にも、色んな大切なことを教わったな」

「なんだか凄い人だったんですね」

 自分の話す人物が、カヲルの中ではどんな人物像に仕上がっているのだろうか。想像してしまい、青年は思わず口元を綻ばせる。

「君は?」

「え?」

 突然問われ、カヲルは目を点にした。

「君はピアノ、弾けないの?」

「僕が、ですか?」

 今度は目を丸くする。

「いやいや。僕がピアノだなんて」

 小刻みに頭を横に振るカヲルに、青年は少し寂しそうに、そしてとても嬉しそうに笑って、カヲルの手を引く。

「まあ座って座って。君ならすぐに弾けるようになると思うから」

 そう言いながら、カヲルをやや強引にピアノの前の椅子に座らせる。そして青年自身も、カヲルの右隣に腰を下ろした。

 2人の男性が座り、窮屈な椅子の上。

「ふふ」

 いきなりピアノの前に座らされて戸惑っているカヲルは、隣に座る少年が声に出して笑っているのを見て、更に深い困惑の色を表情に浮かべている。

 お尻の半分が椅子からはみ出してしまっている青年は言う。

「お互い、随分と大きくなっちゃったね」

「はあ…」

 あの駅のホームで会った時に比べれば、確かに自分の身長は伸びてしまったが、青年の体躯はそれほど変わっていないように見えるが。気の抜けた返事をするカヲルに対し、青年は促す。

「じゃあ、弾いてみよっか」

「え?」

「簡単さ。君はこっちで鍵盤を叩くだけでいいんだ」

 青年は腕を伸ばし、カヲルの前に並ぶ鍵盤をド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドと軽やかな指捌きで叩いてみせた。

「さ、弾いてみなよ」

「え、えー…」

 カヲルは困ったように声を上げながらも、青年が最初に叩いたドの鍵盤に人差し指をおそるおそる乗せてみる。

 ポーン、とピアノ全体から澄んだ音が響き渡った。

「へえ…」

 音楽に対して何の知識も持たない自分が、ただ白い板を押すだけで美しく透き通った音を鳴らすこの巨大な楽器に、感動してしまうカヲルである。

「続けて続けて…」

 鍵盤を見つめるカヲルの横顔を嬉し気に見つめる青年は、カヲルにそのまま弾き続けるよう促す。

 しかし、

「えっと…」

 カヲルの人差し指は次に押す鍵盤を決めかね、鍵盤の10センチメートル上を泳ぐばかりで、次の音を鳴らそうとしない。

「難しく考える必要はないよ。君の思うままに弾いたらいい」

 カヲルを慌てさせてしまわないよう、青年は優しく声を掛け、辛抱強く次の音を待ってみた。

 しかし結局カヲルの指は次の着地点を見い出すことはできず、どの鍵盤も押すことのないまま、彼の膝の上へと着地する。

 

 カヲルは頭を掻く。

「すみません。慣れないものだから…」

「気にする必要ないよ。新しいことを始めるのは、何時だって誰だって躊躇ってしまうものさ」

 何だか必要以上に落ち込んでしまっている様子のカヲルに対し、青年はその肩に手を置いて慰めてやる。

「じゃあこう弾いてみてよ」

「え?」

 まだ続けるの? と言いたげなカヲルの表情に対し見て見ぬふりをする青年は、カヲルの前に広がる鍵盤の一つを押す。

 ポーン、と音がする。

 それは「ファ」の鍵盤。

 続けて青年の人差し指は下の「ド」の鍵盤を押す。さらに続けて隣の「レ」、続けて下の「ラ」。次に青年の人差し指は初めて黒い鍵盤を押す。「ラ」のすぐ隣の、「シ」のフラット。そして下に下がって「ファ」の鍵盤。再び「シ」のフラットを経由して、「ド」へと上がり、最初の「ファ」へと戻る。

「これを繰り返す…」

 青年の指は「ファ」、「ド」、「レ」、「ラ」、「シ」のフラット、「ファ」「シ」のフラット、「ド」を、一音一音確かめるように、とてもゆるやかなペースで反復させていく。

「これくらいだったら出来るんじゃないかな?」

「ええ、これくらいなら」

「じゃあほら」

「え? わわっ」

 青年が鍵盤から手を離してしまったため、カヲルは慌てて人差し指で鍵盤を叩き始め、青年が奏でていた一連の音を引き継いだ。

「そのまま続けて」

「は、はい…」

 カヲルは青年が片手で弾いていた至極単純な旋律を、両手の人差し指を使ってぎこちなく奏でていく。 

 カヲルが一連の音の連なりを2回繰り返したところで。

 

 ポロロンと、カヲルの隣に座る青年の両手が、軽やかに鍵盤をはじき始めた。

 青年が奏でる音も、至極単純なアルペジオ。

 しかしそのアルペジオはカヲルが奏でる音と見事な調和を見せ、単純な音でしかなかったそれらは全く別のものへと変貌を遂げる。

 

 自分が単音を響かせているだけだった時は、一体自分は何をさせられているんだろうと困惑しきりのカヲルだったが、青年が単音に対し分散された和音を乗せてきただけで、平凡の音の響きが楽曲という作品へと進化を遂げる過程を肌で感じ、全身の産毛が逆立ち、心臓が一気に高鳴っていくのを感じた。

 

 両手で単純なアルペジオを奏でていた青年は、右手を鍵盤から離し、左手のみでアルペジオを続けると、右手はカヲルと同じタイミングで別の単音を奏で始める。

 「ラ」から始まるその旋律は、実に単純な音の過程を辿っていく。隣の「ソ」へと移り、さらに隣の「ファ」、続けて「ミ」、「レ」、そして「ド」まで下がると、引き返し、「レ」から「ミ」へ。

 

「あっ」

 青年がその単純な旋律を繰り返し始めると、隣のカヲルが声を上げた。

「この曲、聴いたことあります」

 それは誰もが一度は聴いたことがある旋律。

 弾んだ声で言うカヲルに青年はにっこりと笑いながらも、次の音を奏でる前に右手の人差し指を唇に当て、「しっ」と囁く。

「音に集中して…」

 

 カヲルは最初に青年に指示された8つの音をひたすら繰り返しながら、隣の青年の指の動きを観察する。

 アルペジオを奏でる青年の左手の動きはちょっと複雑そうだが、右手の動きは自分の手の動きとは押す鍵盤の違いだけで、押すタイミングは全く一緒だ。

 これだったら、と。

 

 左隣から鳴る音に変化が生じ、青年は驚いた様子で鍵盤の下半分に視線をやった。

 見ると、カヲルの左手は青年に最初に指示された8つの音を変わらず奏でつつ、右手は青年が右手で弾く音を2オクターブほど低い音程でそのままトレースしていたのだ。

 青年の視線を受け、カヲルは少し照れた様子で頬を赤らめながらも、2つの音を同時に奏でることに集中している。

「いいね。いいよ、君の音。そのまま、君の思うままに弾いてみたらいい」

 青年はカヲルに語り掛けながら、右手で奏でていた旋律をカヲルに任せると、カヲルが奏でる上から下へと降下していくだけの単純な旋律とは対を成すような4分音符の連なりを奏で始める。そして4分音符から8分音符へと大きな展開を見せた。

 するとカヲルは青年の右手の複雑な旋律に合わせる様に、8分音符による分散和音を奏で始めた。それは青年が提示した単純な音の連なりから大きく逸脱したものだったが、青年が奏でる旋律を邪魔するどころか絶妙な調和を見せ、様々な音が絡まった芳醇な音色を2人が立つ舞台への周辺にまき散らしていく。

 カヲルのその行為は、つい5分前まで一つの音を鳴らすのに四苦八苦していたカヲルが、ある程度の知識が必要な和音の構成というものをいつの間にか理解していることになるが、青年は驚くことなく、むしろ「さすがだね」とでも言いたげな表情で、鍵盤を叩くことに熱中しているカヲルの横顔を見つめていた。

 

「慣れてきたようだね」

「はい…」

「じゃあ今度はもう少し僕の音に耳を傾けて」

「イカリさんの音に?」

「そう。気持ちのいい音を奏でることも大切だけど、それだけじゃダメだよ。相手の心情を理解しながら、相手の奏でる音に寄り添い、時に相手の奏でる音に反発させ。どちらか一方向じゃない、双方向に響き合うことで、アンサンブルというものはより高みへと昇ってゆくものなんだ」

 そうカヲルに語り掛ける青年は、おそらくこの曲のハイライトなのだろう。彼の右手は今までにない、まるでダンスのステップでも踏むような軽やかな旋律を刻み始める。

 青年が奏でる旋律に耳を傾け。鍵盤の上を跳ねる青年の10本の指を見つめ。

 それまで複雑な分散和音を続けていたカヲルは、8分音符による分散和音を止めて4分音符によるシンプルな同時和音へと変化させた。

 幾つもの音が次々と連なっていく煌びやかな分散和音から、控えめながらも一つ一つの音を丁寧に響かせる同時和音へ。それはまるで鍵盤の上で軽やかなステップを踏む青年の旋律を、両手でそっと支えているような、柔らかな響き。

 カヲルが響かせる伴奏に支えられ、青年の両手はさらに音数を増やしていき、色鮮やかな旋律を思う存分奏でていく。

 

 青年はカヲルの顔を見つめる。

 カヲルも鍵盤から目を離し、青年を見つめる。

 言葉は交わさずとも、カヲルは青年の目が何を訴えているのか感じ取ることができた。

 曲が終止線へと近づいていると。

 

 青年が指揮棒代わりに頭を前後に大きく振りながら、曲のテンポをリタルダンドへと導いていく。

 終止線に迫るにつれ、音数を減らしていく青年。

 カヲルも青年の動きに同調するように、鍵盤を撫でるように押さえ、音量を絞っていく。

 そして2人の一本の指は示し合わせたように1オクターブ違いで同じ「ファ」の鍵盤を静かに押さえて、長い長い余韻を残しつつ、2人の計二十本の指は全ての動きを止めた。

 

 

 

 

 




劇伴1. ゴルトベルク変奏曲
劇伴2.3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調 (パッヘルベルのカノン)


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耳をすませば。《中編》

  

 

 

 

 青年の人差し指が押す「ファ」。

 カヲルの人差し指が押す、青年の指から2オクターブ低い位置にある「ファ」。

 2つの「ファ」の音に耳を傾けながら、お互いを見つめ合う。

 どちらからともなく。

 

「ふふっ」

「ははっ」

 

 笑みを零し始め。

 そして2人の手は鍵盤から離れ、互いの右手同士を宙で勢いよく交差させた。

 

 バチン、と2人の手がハイタッチを交わす傍らで。

 

 

 パチパチパチ…

 

 

 客席の方から控えめな拍手が鳴り響き、驚いた2人は客席へと目を向ける。

 

 見ると、階段沿いの客席の一つにちょこんと座る、空色髪の女性。

 レイが、胸の前で両手を合わせてパチパチと、控えめながらも、頬を上気させ、熱心に、舞台の2人に向かって拍手を送っていた。

 

 青年はレイの姿を認め、目を輝かせた。

「やあ、ツバメちゃ…」

「レイ、こっちおいで」

「え?」

 

 カヲルに呼ばれ、レイはぴょんと跳ねるように椅子から立ち上がると、踝まで被るコクーンスカートの裾を摘まみ上げながら、ぴょこぴょこと階段を下りてくる。そしてトコトコと舞台へと上がる木製の階段を駆け上がった。

「久しぶりだね」

 ピアノへと歩み寄ってくるレイに対し、ひらひらと手を振りながら声を掛ける青年。

 レイはピアノの側まであと3歩のところで立ち止まり、背筋をピンと伸ばし、ぎこちない動作でぺこりと頭を下げる。

「ははっ。イカリさんに久しぶりに会えたものだから、緊張してるみたいですよ」

 どこか揶揄うようなカヲルの口調に、レイは少しだけ口を「へ」の字に曲げつつ、両頬を赤く染めた。

 そしてニヤニヤ笑っているカヲルに抗議の視線を向けつつ、意外そうな顔もするという、普段表情筋というものを殆ど使わない彼女にしては珍しく高度な表情を浮かべながら。

「カヲル、ピアノ弾けたんだ…」

 そんな恋人の言葉に、カヲルは人差し指で前髪をさっと優雅に払う。

「なんでも出来てしまう自分の才能が怖ろしいよ」

 芝居がかったカヲルの物言いに、レイは「やれやれ」と呆れ気味に鼻から溜息を吐いた。

 レイとカヲルの間では、不思議そうに2人の顔を交互に見つめる青年が居る。

 

「次…」

 レイがぽつりと呟き、どこか呆けた様子だった青年は瞬きしながらレイの顔を見る。

「次…、ないの…?」

 どうやらピアノの前に座る2人にもう一度演奏するようねだっているらしい。

 青年は心の中にある疑問はとりあえずどこかにうっちゃっておいて、にっこりと笑った。

「ピアノの音。気に入った?」

 レイは頷こうとして寸でのところで止め、頭をふるふると横に振った。

 青年はちょっと残念そうに眉尻を下げる。

「気に入らなかったの?」

 青年に見つめられ、レイは少し緊張した面持ちで答える。

「ピアノの音は、よく分からない…。でも、2人が奏でる音は、とても素敵…。胸の中が、ぽかぽかした…。いつまでも聴いていたい…」

 レイの口からぽつりぽつりと伝えられる素直な感想に、青年は照れたように頭を掻きながら隣に座るカヲルを見ると、やはりカヲルも照れたように人差し指で頬をぽりぽりと掻いている。

「彼女には敵わないね…」

「ええ…、全くその通りです…」

 たった二言三言で2人の男をいっぺんにノックアウトしてしまう相手のリクエストに、応えないわけにはいかなかった。

 

「同じ曲を弾くのも芸がないしな~」

 レイのリクエストに応えようと、青年は腕組みをしながら考えて。

「そうだ。ねえ、コードって分かるかな?」

「コード、ですか?」

 カヲルの頭の上にはてなマークが浮ぶ。

「うん。楽譜の読み方覚えるよりも、コード覚えた方が色んな曲の伴奏弾けるようになるから手っ取り早いし楽しいよ。例えばコレ」

 青年はカヲルの前にある鍵盤のうち、「ド」と「ミ」と「ソ」を同時に抑える。ポロロンと3つの音が奏でる、明るく、濁りのない、調和のとれた響き。

「これがC(シー)」

「シー…ですか」

「うん。で、これがG(ジー)で、これがF(エフ)、これがB♭(ビーフラット)、これがAm(エーマイナー)、これがEm(イーマイナー)。ちなみにマイナーってのは悲しい感じがするコードのことだよ」

「へー…」

「で、これは4つの音を同時に鳴らすからちょっと複雑だけど、C7(シーセブン)、んでこれがD7(ディーセブン)で、これがG7(ジーセブン)。覚えた?」

「え、えっと。もう一度お願いします」

 一つ一つのコードを丁寧に教える青年と、鍵盤上での青年の指の動きを熱心に追うカヲル。

 

 レイが勤めているお店やカヲルがよく出入りしている親方さんちの繋がりで、少しずつ人付き合いというものを覚え始めた2人。それでもド田舎に住んでいるため、付き合う相手は必然的におじいちゃんおばあちゃんばかり。

 ピアノの前に座る青年も2人とは一回りくらいは年の差がありそうだが、それでも若い青年とカヲルが肩を並べて一つのことに熱心に取り組んでいる姿は、見つめるレイの胸をほっこりと温かくさせた。

 まるで仲の良い友達同士のような2人。見ているこっちが、ちょっと嫉妬してしまいそうなほどに。

 

 

「どう?」

「何とか覚えました」

「じゃあ…」

 青年は椅子の下に置いていた鞄からA4サイズの書類を1枚取り出し、裏側の白紙の部分にボールペンで「C」「G」「C」「C7」・・・といった具合に、コード譜を書き連ねていく。

「この通りに弾いてみてよ」

 言われるままに、覚えたてのコードを、コード譜通りに弾いていくカヲル。

 27小節分のコードを無事に弾き終えて。

「すごいじゃないか。完璧だ」

 青年に拍手され、カヲルは照れくさそうに後ろ髪を掻いた。

「じゃあ最初から繰り返してみて」

 カヲルがコード譜の最初から弾き始めると同時に、青年は右手を鍵盤の上に滑らせ始めた。

 カヲルが鳴らす伴奏の上を、青年の奏でる旋律が舞う。

 それは先程2人が奏でた格調高い荘厳な楽曲とは違う、耳に馴染む親しみやすい楽曲。

 最初はやや寂し気だった旋律は、おそらくこの曲のサビと思われる部分に差し掛かると大きく羽ばたくような力強い旋律へと変化する。曲調に吊られるように青年は両手を使って副旋律を付加し、煌びやかな旋律を奏で、そしてカヲルも両手を使って重厚な伴奏を響かせていく。

 

 27小節が終わり、曲は終焉。

 パチパチパチ、と、ピアノの側に立つレイから熱心な拍手が送られる。

 拍手を送りながらも、どこか不思議そうなレイの表情。

「わたし…、この曲聴…、知ってる…」

 レイのその呟きに、青年はにっこりと笑う。

「だろうね。だって、あのS-DATに入れてた曲だから」

「エスダット?」

「ふふ。あ、そうだ」

 きょとんとしているレイを他所に、青年は背広のポケットから携帯通信端末機を取り出し、タッチパネル式の画面に触れて何やら操作を始める。目的の情報を呼び出した青年は、端末機をレイに差し出す。

 レイは端末機を受け取り、その画面に映し出されたものを見つめた。

 画面を見て。

 そして青年の顔を見て。

 くてん、と首を傾げる。

 

「それ。この曲の歌詞だよ」

 

「かし?」

 

「うん。じゃあ歌ってみようか」

 

「え? え?」

 青年の突然の提案に、レイは目を点にする。

「聴いたことあるんでしょ? じゃあきっと歌えるよ」

「え? え?」

 レイは目を丸くする。

「だってズルいじゃないか。僕たちばかり君に聴かせて。今度は君の歌声を僕たちに聴かせてくれる番じゃないかな? だよね?」

 青年に突然同意を求められて。そしてそう言えば、2人が出会ってこの方一度も恋人の歌声を聴いたことがないことに思い当たったカヲル。

 やや大きめな口の両端を上げ、ニンマリと笑った。

「そうですそうですその通りです! イカリさんの言う通り!」

「え? え?」

「はいじゃあ行ってみよー。はい、伴奏スタート」

「はーい」

 タチの悪い男2人が演奏を始める。

「え? え?」

 相変わらず短い声を上げながら、恋人と青年の顔を忙しなく交互に見つめるレイ。

 こんなに狼狽する恋人を見たことがないカヲルは、吹き出しそうになりながらも伴奏を続ける。見ていて気の毒になるほど顔を引き攣らせているレイを置いてきぼりにして、曲は進んでいってしまう。

「あ~あ~、一番が終わっちゃうよ~」

 旋律を奏でる青年は意地悪く囃し立てる。

 そんな青年を悪魔でも見るような目つきで恨めし気に見つめたレイは、今度は助けを求める様に悪魔の隣に座る恋人を見つめた。

「聴きたいな~。レイの歌、僕は聴きたいな~」

 駄々っ子のように頭を左右に揺らしながら言うカヲル。

 近くにいるのは悪魔と駄々っ子だけ。この世界に救いの手を差し伸べてくれる者など誰もいないことを悟ったレイは、端末機を両手でぎゅっと握り締めながら、辛い現実から逃げるようにぎゅっと目を閉じてしまった。

 

 その楽曲はついに一度も歌声を乗せられえることなく、一番が終わってしまった。

 前奏となる部分を繰り返すカヲル。

「レイ…」

 恋人の名前を、全てのものを温かく包み込む柔らかい羽毛のような声音で呼ぶ。

 

 恋人に呼ばれ、うっすらと目を開くレイ。薄く開いた瞼の隙間から覗いた赤い瞳が、ジロっとカヲルの顔を見つめた。

「ね…? レイ…」

 まるで夜の布団の中で背後から抱き締められ、耳もとに囁かれる時のような声音。

 その声で求めらると、自分は彼の願いに逆らうことなど決してできないことを、レイは嫌というほど知っていた。

 

 そして彼女は観念したようにもう一度ぎゅっと目を閉じ、ふ~、と大きく息を吐く。

 そして恋人が奏でる伴奏に合わせる様に頭を上下に振り始めた。どうやら歌いだしの瞬間を、見極めているらしい。

 そんなレイの様子を青年は温かい眼差しで見守り、恋人はワクワクと期待に満ちた面持ちで見つめる。

 そして長い長い前奏が終わり。

 レイは、鼻で深く息を吸うと、固く閉じていた小さな口を開いた。

 

 

 ♪い…ま…

 

 

 レイの掠れたような、今にも消え入りそうな歌声がピアノの音色の上に乗せられる。

 

 ついに彼女が歌い始めた。ピアノの音で、彼女の歌声を掻き消してしまわないよう、青年もカヲルも慌てて鍵盤を叩く力を極小まで抑える。

 まるで幼児の初めてのお遣いを物陰から見つめる親のような心境。2人とも、ハラハラと緊張した面持ちで、ピアノの向こうの歌姫の顔を見つめる。

 

 その歌は、歌い手の想いを綴った歌。

 歌い手が望むものを綴った歌。

 

 ゆったりとした歌い出し。

 どこか寂し気な旋律。

 そのに旋律に、か細く、儚げな彼女の歌声が乗せられる。

 技巧的とは程遠い。

 音程も少し外れ気味。

 緊張しているのか、少し震えた歌声。

 何度も何度も躓いてしまう歌詞。

 お世辞にも巧いとは言い難い彼女の歌。

 

 やがて歌はサビへと差し掛かる。

 これまでの低くゆったりとした旋律とは打って変わって、高く、弾むような旋律。

 一気に音程が上がってしまい、彼女はまる音の濁流の中で溺れてしまったかのように、顎を震わせてあっぷあっぷしている。

 歌声は何度も掠れ、何度も途切れ。

 それでも必死で歌詞と旋律を紡いでいって。

 彼女はなんとかサビを乗り越えた。

 

 

 必死の思いで一番を歌い終えた彼女は、息も絶え絶えに肩を上下に揺らしながら、ピアノの前の2人を見る。

 

 伴奏を止めて、と。

 もう終わろう、と。

 

 頬と額を真っ赤にさせ、潤んだ目で訴えった。

 

 そんな彼女の縋るような視線を受けて。

 音の奔流の中で迷子になってしまった幼子のような眼差しを受けて。

 

「2番…! このまま2番行こ…!」

 逸る声でそう訴える青年。

「うん。レイ…! そのまま続けて…!」

 カヲルもどこか興奮した面持ちで訴える。

 

 2人からそう言われ、レイは「えええ?」と目で訴え返す。

 もう勘弁して、と目で訴え返す。

 

 恋人の、まるで許しを乞うような視線を受けて。

 それでもカヲルは伴奏の手を止めようとはしない。

 伴奏に合わせて肩を揺らし、いつでも歌い始めていいんだよ、恋人の想いとは真逆のことを目で訴え返してくる。

 

 追い詰められた彼女は、下唇を噛み締め、顔を真っ赤にさせて、またもやぎゅっと目を閉じてしまった。

 目を閉じても、恋人が奏でる伴奏は嫌でも耳に入ってくる。

 レイは「うぅぅぅ」と小さく唸り、そして薄目を開けて、端末機の画面をのぞき込んだ。

 青年は「2番へ」と言ったが、画面には1番目の歌詞しか載っていない。

 

 画面から目を離し、薄目のままピアノ前の2人の男を見る。

 恋人は相変わらず前奏を繰り返しており、その隣の青年は「早く、早く」とでも言いたげな顔で、彼女が歌い始めるのを待っている。

 

 

  ああもう!

  こうなったらヤケッパチだ!

 

 

 レイは大きく目を見開くと、鼻で大きく息を吸い、肺を膨らませた。そして大きく口を広げて。

 もうどうにてもな~れ~とばかりに、やぶれかぶれに再び1番の歌詞を歌い始める。

 

 

 その歌は、歌い手の願いを綴った歌。

 欲するものを綴った歌。

 

 1度目とは豹変した彼女の歌い方に、カヲルも青年も目を丸くする。

 1度目に歌った時は、ゆったりとして、どこか寂し気な歌い出しは、彼女の細く儚げな歌声がよく映えた。技巧的とは程遠く、音程も外れがちで、それでも喉を必死に鳴らせる彼女の口から零れる慎ましやかな歌声は、それに耳を傾ける者の心を打つ、不思議な魅力があった。

 

 しかし2度目の彼女の歌声には、歌声を鳴らすことに必死だった1度目とは違い、彼女の感情がひしひしと乗せられている。

 今の自分の心情を歌詞にぶつけるかのように歌う彼女の歌声は、か細くとも真に迫るものがあった。

 

 翼を。

 背中に白い翼を付けてほしいと夢想する歌。

 

 いやもう、本当にその通り。

 今すぐにでも背中に翼を生やして、この場から飛び去ってしまいたい。

 

 額に汗を浮かべ、顔を真っ赤にしながら歌うレイ。

 彼女の必死の歌声に、鍵盤を叩く2人の手にも熱気が宿る。

 ピアノの音色から伝わってくる2人の熱気にあてられ、レイもいつしかこの場から逃げ出したいという気持ちすらも手放し、ただ歌うことに集中する。

 

 やがて歌は難関のサビへ。

 初めて歌うことへの戸惑いも、最愛の人と敬愛する人に見つめられることに対する恥ずかしさも忘れ、彼女は透き通った、伸びのある歌声を響かせた。

 人に翼なんて生えっこない。

 悲しみのない自由な場所なんて、ありっこない。

 それでも願わずにはいられない。

 歌詞に籠められた願いを体全体で表現するかのように、彼女は懸命に歌を歌い上げる。喉を震わせ、端末機を両手で握りしめ、細い体を上下に揺らしながら。

 

 上下に揺れる彼女の細い体に引かれるように、鍵盤を叩く2人の肩も左右に大きく揺れる。

 彼女の真心の籠った歌声に負けまいと、懸命に、しかし彼女の歌声を決して邪魔しないように、ピアノの音色を響かせ続ける。

 

 楽曲はついに終局へ。

 彼女の透き通った、つややかな声が伸びる。

 その歌声の背後で、2人のピアニストが交響的かつ重厚感たっぷりの伴奏を刻む。

 そしてそれぞれの指が最後の着地点へと舞い降りて、楽曲は閉じられた。

 

 

 ピアノが響かせる余韻に浸りながら。

 2人は歌姫を見つめ。

 歌姫は肩で大きく息をしながら、ピアノの前の2人を見つめる。

 お互い目を潤ませ、頬を火照らせ、顎に汗を滴らせながら。

 

 ピアノの余韻と、歌姫の口から漏れる吐息だけがホールの中に響くなか、青年の耳にだけは、自身のゴクリという生唾を飲み込む音が聴こえた。

 

 青年はダンパーペダルから足を離し、余韻を断ち切らせる。

 椅子から腰を浮かせ、両手を前へ。

 手のひらと手のひらを合わせ。

 歌姫に対して拍手を送る。

 

 送ろうとして。

 

 真っ先に、いの一番に、見事な歌声を披露してくれた彼女に対して拍手を送りたかったのに。

 

 歌姫に対する最初の賛辞を贈る名誉は、別の者に奪われた。

 それは、青年の隣でやはり誰よりも早く拍手を送ろうとしていたカヲルでもなく。

 

 パチパチパチと。

 

 その熱心な拍手は3人が立つ舞台からではなく、客席の方から聴こえてきた。

 その拍手は、1つ、2つではない。

 舞台の3人は、驚いたように客席へと視線を送る。

 

 拍手の在り処は正確には客席からではなかった。すり鉢状の客席の向こう側。4つあるホールの出入り口。扉が開け放たれた出入り口それぞれに人だかりが出来ており、彼らが舞台の上の3人に向かって拍手を送っていたのだ。

 最初は控えめだった拍手も、舞台上の3人が観客の存在に気付くと、もう遠慮はいらないとばかりに拍手はどんどん大きくなっていく。

 

 3人だけの密やかな音楽会を、いつの間にか大勢の観客が覗いていたことに、カヲルも青年も顔を真っ赤にさせてお互いの顔を見つめ、肩を竦ませる。

 一方のレイは2人のためならばと恥ずかしい気持ちを押し殺して披露した歌声を、まさかこんなにも多くの人に聴かれていたという事態にもはや頭の回転が追い付かず、みっともない歌声を響かせてしまった口許を両手で覆い、目を白黒させていた。

 

 拍手は鳴り止まない。

「参ったな…」

 青年は困ったように頭を掻く。

 そんな青年の腕を、横に座るカヲルの肘が小突いた。

 顔を向けると、カヲルはが整った顎で何かを差している。カヲルの顎の先には、顔を真っ赤にし過ぎてリンゴのようになってしまっているレイの姿。

 カヲルが意図するものが分かったのか、青年はにっこりと笑った。

 

 

 

 どうしよう。

 どうしよう。

 

 胸が苦しい。

 頭が弾け飛びそう。

 

 初めての感覚。

 

 これが…。

 これが恥ずかしい。

 

 恥ずかしくてたまらない。

 こんなに恥ずかしい思いをしたのは、多分生まれた初めて。

 こんな時、どうしたらいいの?

 

 そうだ。

 

 そうだ。

 

 逃げ出しちゃえ。

 

 逃げ出しちゃえばいいんだ。

 

 誰かに命令されているわけでもない。

 ここで逃げてしまっても、世界が滅んでしまうわけではないのだから。

 

 

 

 舞台の端にある木製の階段に向かって走ろうとして。

 そんなレイの右手首を、誰かが掴んだ。

 振り返ると、そこには彼女の恋人の姿。カヲルの左手が、レイの右手首を掴んでる。

 

 逃げようと思ったのに。身と心の安全を確保するために、この舞台から逃げ去ろうと思ったのに。 

 それを邪魔する恋人に「えええ?」と抗議の視線を送っていたら、今度はもう片方の左手首を誰かに掴まれた。

 振り返ると、今度は青年の右手が、レイの左手首を掴んでいた。

 両手を2人の男性に拘束されてしまった。

 逃亡への意志を諦めきれないレイは両腕をぶんぶんと振って拘束から逃れようとするが、2人の男性は2人に比べたらずっと小柄なレイの両腕を引っ張って、ずるずると舞台の前面へと引きずっていった。

 

 カヲルと、レイと、青年の順番で。

 客席に向かって、横一列に並んだ3人。

 レイの頭越しに、カヲルと青年は目を合わせてニンマリと笑う合う。

 そんな2人の顔を、気の毒なほどに顔を引き攣らせながら、交互に見上げるレイ。この期に及んで何を始めようとしているのか、この2人は。

 

 突然、カヲルと青年は同時にさっと両腕を天に向けて突き上げた。それこそ、先程彼女が歌った歌の歌詞のように。翼をはためかせるように。

 それぞれの手首を両脇の2人の手に握られているレイの両腕も、当然天に向かう。両腕を強引に伸ばされ、背筋を強引に伸ばされ。天に向かって伸ばされてしまったレイの踵は、宙に浮いてしまっている有様だ。高身長の男2人に両腕を引っ張られ、爪先立ちを強いられる彼女のその姿は、まるで捕獲されてしまった気の毒な宇宙人のようだ。

 

 3人はしばらく両腕を天井に向けて掲げた後。

 今度は両腕を地面に向かって勢いよく降ろし、その腕に引っ張られるように上半身は折り畳まれ、客席に向かって頭を下げる。

 

 

 観客から惜しみない拍手を送られたなのならば、演者がすべきことはたった一つ。

 

 思いがけず舞台の上で繰り広げられたカーテンコールに、客席から送られる拍手はさらに大きく膨らんでいった。

 

 観客へのお辞儀を終え、体を起こす3人。

 彼らに浴びせられる嵐のような拍手。

 客席の熱気にあてられ、カヲルと青年は、レイの頭越しに興奮した面持ちで見つめ合う。

 お互いにっこり笑って。

 そしておそらくこの現象を引き起こした最大の原因である人物の空色の頭に視線を落として。

 

 

「きゃっ」

 

 2人に強引に両腕を振り上げさせられたと思ったら、次の瞬間には強引に床へと振り下ろされ、おまけに頭まで下げさせられ。

 頭はふらふら、目はくらくら。

 やはり2人の腕に引っ張れるように体を起こされた時には、2人の男に挟まれぐったりとしていたレイ。

 そんな無防備な状態の時に、突然左右の2人にほぼ同時に抱き締められたものだから、レイは短い悲鳴を上げてしまった。

 

 まずはカヲルがレイの細い腰を腕ごと抱き締めると、その時点で彼女の両足は宙に浮いてしまった。

 その背後から今度は青年が、彼女を抱き上げる青年ごと、大きく抱きしめる。

 「ふふふ」と「ははは」と、後ろと前から2人の男性のやや昂った笑い声が聴こえるなか、2人の男性の体にぎゅっと挟まれてしまったレイは、「ううう」と呻き声を上げることしかできないでいた。

 

 

 

 若い3人の男女が舞台上で抱き締め合うのを見て、観客の中からは笑い声や指笛さえ上がり始めるなか。

 

「あなたたち!!」

 

 劈くような怒鳴り声が、豊かな拍手の音に満たされていたホールの空気を切り裂いた。

 

 ホールの出入り口の一つから、眼鏡を掛けた中年女性が般若のような顔で舞台上の3人を睨んでいる。

 

「何勝手に舞台に上がって、しかも勝手にピアノを弾いてるの!」

 どうやらこの公会堂の職員さんらしい。

 

「わっ、まずっ!」

 レイとカヲルを抱き締めたままの青年が、悪戯が見つかってしまった子供のような顔で言う。

「イカリさん、許可貰って弾いてたんじゃないんですか…!」

 

「逃げよう!」

「え?」

「え?」

 

 2人の了解も待たずに、青年はピアノの側に置いてあったショルダーバッグとチェスターコートを肩に掛けると、2人の腕を掴み、走り出した。

 舞台の両袖にある階段に、ではなく、舞台の正面に向かって。

 

「跳ぶんだ!」

「え?」

「え?」

 

 青年が大きく股を開いて宙に舞い上がる。

 彼の手に引っ張られるカヲルも、舞台の床を思いっきり蹴る。

 レイは訳も分からぬまま両足で内股気味にぴょんと舞台から跳びあがる。

 

 3人同時に客席の床に着地。

 青年は2人の腕を引っ張ったまま、出入り口へ向かう階段を駆け上がり始める。

 

 

 ホールの中で密やかに行われた音楽会。

 情熱がこもったピアノの音色に乗せられる、情感の宿った透き通った歌声。

 どこからともなく集まった観衆から自然と沸き起こった拍手。

 演者たちによるカーテンコール。

 素敵な歌声を披露した女性を、男性2人が抱き締めて。

 突然現れたおっかないおばさんに演者3人が怒鳴りつけられて。

 3人が手を繋ぎながら舞台から飛び降りて。

 3人が手を繋ぎながら階段を駆け上がって。

 

 何気ない日常の中で突如として繰り広げられた、何ともドラマチックな展開。おまけに3人のうち2人はまるで西洋の宗教画から飛び出してきた天使のような美男美女であり、もう一人も十分に整った顔立ちの美青年だ。職員さんがヒステリックな声を上げるなか、集まった観衆の興奮が更に高まってしまうのは無理からぬことであり、あちこちから喝采が沸き起こり、ついには紙吹雪すら舞い始める始末である。

 

 3人の先頭を走る青年は観衆からの反応に苦笑いしながら。

 青年の右隣を走るカヲルは観衆に向かって手を振りながら。

 カヲルの左隣を走るレイは真っ赤に染まった顔を俯かせて。

 

 出入り口を塞いでいた観衆は逃亡者たちのために道を開け、3人はその隙間から公会堂の外へと飛び出た。

 未だに観客から送られる拍手喝采を背中に感じながら、3人は振り返らずに公会堂前の階段をこれまた一気に飛び降りて、走り続ける。

 

 

 凍てつく空気が赤く火照った頬を撫でる。

 青年に腕を引っ張られるままに、地面を見つめながら走っていたら。

「ねえ、レイ。レイ」

 隣の恋人から声を掛けられ、レイはようやく顔を上げて恋人の横顔を見つめる。

 やはり青年に腕を引っ張られて走っているカヲルは、空いた手で空を指さした。

 カヲルの指に導かれるままに、レイは空を見上げる。

 灰色の空から舞い降りてくるのは白いもの。

 雨や雹とは違う、ふうふわと、たんぽぽの綿毛のように空中を漂いながらゆっくりと落ちてくる、幾つもの白い顆。

 レイはぽっかりと口を開けて、目を丸くした。

 恋人が期待通りの反応を見せたことに、カヲルは満足したように微笑む。

「レイ、雪見るの初めてだよね」

「これが…、雪…」

「きっと素敵な歌声を披露してくれた君への、天からのプレゼントだよ」

「何を…言うのよ…」

 初めて見る雪に夢中になって、一瞬大勢に歌を聴かれた恥ずかしさを忘れていたレイは、カヲルのその言葉に再び顔を真っ赤にさせて俯いてしまうのだった。

 

 

 

  



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耳をすませば。《後編》

 

 

 

 

 公会堂の敷地から出て、そのまま緑地公園へと駆ける3人。

 3人の先頭を行くのは、このところの運動不足を自覚している青年。ずっと走り続けて、すでに息が上がり始めている。

 そして芝生エリアに入ったところで、ついに彼の両足がもつれてしまった。

 

「わっ!」

「わわっ!」

「きゃっ!」

 

 3人の短い悲鳴が重なった。

 青年が前のめりに転んでしまい、青年に腕を引っ張られていたカヲルもレイも、必然的に転んでしまったのだ。

 柔らかい芝生の上で、青年とカヲルは尻餅をつき、レイはぺたんと膝を内股に折って座り込んだ。

 

 3人が、息を弾ませながらお互いの顔を見つめ合って。

「ぷっ…」

 まずは青年が吹き出し。

「はははっ」

 続いてカヲルが声に出して笑い始めて。

「うぅー…」

 レイだけは「酷い目に遭った」とばかりに唇をとんがらせて唸っていたが。

「はははっ」

「はっはっは」

 男2人が肩を揺らせて笑い続けているものだから、レイも仕方なくといった様子で口もとに手を当てて、クスクスと小さく笑った。

 

 

 一頻り笑った青年はくくくっと笑い声を押し殺しながら、雪すら降らせる寒空を見上げた。頬を撫でる風は凍てつくほどに冷たいが、久しぶりに全力疾走したおかげで体はポカポカだ。無理をさせた体を労わるべく、ぐぐっと両手を天に突き上げ、伸びをする。そして、

 

「あ~、やっぱり歌はいいね~」

 

 何時か何処かで誰かが言ったかもしれない言葉を呟いた。

 青年に吊られるように、カヲルも灰色の空を見上げる。

 

「ええ。歌は人類の生み出した文化の極みです」

 

 彼らしい、少々大げさな言葉を添えられ、青年は空を見上げたままふふっとまた笑った。

 そんな2人に、レイは鼻でふ~と溜息を漏らしながらも、2人と同じようにふわふわとした不思議な白いものが舞い降りてくる空を見上げた。

 

 青年は空を見上げながら言う。

「それにしてもアレだね。今の僕たちって、まるで授業サボって遊んでたところを先生に見つかって慌てて逃げてきた中学生みたいだね」

 カヲルは視線を空から青年の顔へと移す。

「中学生…、ですか…」

「うん。そう思わない?」

 青年も視線を空からカヲルへと移す。カヲルは困ったように後ろ髪を掻いた。

「僕、学校に通ったことないからな~。君はどう?」

 カヲルに問われたレイは、「よく分からない」と首を傾げている。

 そんな2人に、青年は苦笑いした。

「かく言う僕も、実は小卒なんだよね。まあ僕の世代はみんなそうだろうけど。そう言えば中学校には1年ちょっと通ったけど、学校をさぼったのは1度だけだったな~」

 あの時自分を見つけたのは先生ではなくて、もっとおっかない黒服のSPたちだったけどね。

 

 何かを懐かしむように遠くを眺めていた青年。

 芝生が広がる公園の広場。部活動の帰りなのだろうか。露店に集まっていた学生服を着た少年少女たちが、露店員から渡された鯛焼きを頬張りながら、笑顔で歩いていく。

 

「時代が違えばさ…」

 青年はぽつりと呟いた。

「僕たちも、どこかの学校で、ふつーに学校生活を楽しんでいた子供だったかも知れないね」

 青年の呟きに、カヲルはにっこりと笑った。

「だったら僕たちが同級生で」

 隣でぺたんと座り込んでいるレイの膝の上の手を握って。

「イカリさんが僕らの先輩ですかね」

 カヲルのその言葉に、青年は眉をハの字にした。

「そこは僕も同級生にしておいてくれよ。寂しいじゃないか。一緒に修学旅行とかに行きたいしさ」

「ははっ。いいですね」

「うん。僕たち3人だけじゃなくてさ。赤毛の女の子がいたり、メガネの女の子がいたり、雀斑の女の子がいたりして。いつもジャージの彼や、いつもカメラ持ち歩いてる彼とかとふざけ合ったりしてさ」

「妙に具体的ですね」

「ふふっ。放課後はみんなで何処かに寄って買い食いとかしたりしてさ。休みの日はみんなで遊園地とかに遊びに行ったりして。テスト前はみんなで集まって勉強会とかするんだ」

「うんうん」

 青年が頭の中でどんな想像をしているのか。学校というものに通ったことがないというカヲルも、不思議と心の中で思い描くことができた。

「君は何したい? もし学校生活を送れるとしたら」

 青年に訊ねられ、カヲルも空を見上げながら想像を膨らませる。

「そうだな…。運動会とかは無駄に体力使いそうだからいやだなあ。あの応援合戦って代物も、大声出しあって品がないしみっともないしね」

「ふふっ。君は学校行事とか尽くサボってそうだよ」

「ああ、でも文化祭とかはやってみたいかな。クラスで喫茶店とかやって。もちろんレイにはメイド服を着せる」

「おお、それいいね~」

「ですよね~」

 男2人にニヤニヤ顔で見つめられ、レイは居心地悪そうに肩を窄ませている。

「レイはどうかな?」

 「わたし?」と目を大きく開くレイ。

「うん。もし学校に通ってたらやってみたいこと」

 カヲルに訊かれ、レイは目を大きく開いたまま、まん丸の赤い瞳を空に向ける。

 暫く虚空を見つめていて。

 そのまま暫く固まって。

 そしてそのまま、くてんと首を傾げる。

 よく分からないというレイの仕草に、カヲルはいじわるそうな笑みを浮かべる。

「合唱コンクールとかどうだい? もちろん、レイの独唱付きで」

 カヲルのやや大き目の口から放たれたその言葉を聴いた途端、レイはすぐに顔を真っ赤にさせ、勢いよく頭をぶんぶんと横に振り始めた。自分の歌声を大勢の人に聴かれたことが、すっかりトラウマになってしまっているらしい。

「はははっ」

 普段は滅多に動じたり驚いたり恥じらったりしない恋人が、まるで瞬間湯沸かし器のように簡単に顔を真っ赤にさせている。思いもよらず良い弱みを掴んでしまったと満足げに笑ってしまうカヲルに対し、レイは頬を膨らませて抗議の視線を送っている。

 そんな2人を微笑ましく見つめながら、青年は改めて訊ねてみる。

「何かしてみたいこと、ないかな?」

 

 レイはじっと地面を見つめて、しばし考えこみ。

 あやふやな記憶の中にある学校の教室に自分の姿を立たせてみて。

 カヲルと出会った時はあの人形以外で唯一の持ち物だった、白のブラウスとコバルト色の吊りスカートと赤のリボンタイを着た自分の姿を、想像上の学校の中にぽんと置いてみて。

 それでもやっぱり自分なんかが学校生活を満喫している姿なんてとても想像できなくて。

 

 でも。

 

 でも一つだけ。

 

 たった一つだけ。

 

 かつてあったかもしれない学校生活の中で一つだけ、たった一つだけ、とても心残りだったことがあったような気がする。

 

 

 レイは、ぽつりと呟いた。

 

「お食事会…」

 

「食事会?」

 カヲルはレイが呟いた単語を繰り返してみる。

 レイはゆっくりと頷きながら、一言一言を確かめるような口調で言う。

「ええ…、お食事会…。みんなを…、おうちに招いて…、食事会…、したい…」

「いいね…」

 恋人の素朴な望みに、カヲルは微笑んで同意する。

「みんなに招待状書いてさ。君がご馳走つくって。僕はケーキでも焼こっかな」

「カヲル、ケーキ、作れるの?」

「これはIFの話しなんだから、どんな想像したって構わないんだ。せっかくだから僕の秘蔵のワインの栓も開けてみよっか」

「中学生はお酒、飲んでもいいの?」

「変なところで常識ぶるんだね、君は…」

「それにカヲル。お酒、全く飲めないじゃない…」

「いや…、だからこれは想像上の話しなんだから…」

 

「いいね!」

 

「え?」

 見ると、青年が前のめりになってレイを見つめている。

「いいじゃないか! 今度やろうよ! 食事会!」

「は?」

「へ?」

 レイもカヲルも、青年から放たれる妙な熱気に若干引いてしまい、間抜けな声を上げてしまった。

「食事会だったら別に学生時代じゃなくてもできるんだからさ」

「はあ…」

「だったら…」

 レイがぽつりと言う。

「今晩どうですか?」

 レイの誘いにカヲルも同意する。

「ああ、それがいい。我が家に来てみませんか」

「え? 本当に?」

 青年は目を輝かせた。

「ええ。まあ大したものは出せませんけど。でも彼女が作る味噌汁だけは逸品ですよ」

「味噌汁?」

 青年に見つめられ、レイは恥ずかしそうに頬を赤く染めて目を伏せた。

「彼女の味噌汁へのこだわりはちょっとしたものですよ。なんでも昔誰かに食べさせてもらった味噌汁の一口が忘れられないんだそうです」

「へ…、へー」

 何故か青年も頬を赤らめている。

「じゃあ早速」

 カヲルは立ち上がり、隣でぺたんと座り込んでいるレイのはだけてしまっていたケープコートを整えてやり、そして手を差し伸べる。カヲルの手を握ってレイも立ち上がり、スカートに付いた芝生を手でぱらぱらと払い落とす。

「うん」

 青年もウキウキしながら芝生から腰を浮かせて。

 

「あっ!」

 

 何かを思い出したように声を上げ、すぐさま腕時計を睨んだ。

「ご、ごめん。僕、14時のリニアに乗らなきゃいけなかったんだ」

 カヲルも腕時計を見た。

「14時って…、あと15分じゃないですか! 急がないと!」

 青年は地面に投げてあった鞄とチェスターコートを慌てて拾い上げる。

「え、えっと駅は…」

「あっちです。あっち」

 青年はカヲルが指差す方向へと小走りで向かいながら、レイに人差し指を向ける。

「今度! 今度必ず君の味噌汁食べさせてもらうから!」

 何だか知らないが青年の味噌汁に対する並々ならぬ執念を感じてしまい、レイは戸惑いつつも微笑みながら頷いた。

「絶対だよ! じゃあ!」

 青年は2人に背を向けて、駆け出す。

 駆け出そうとして…。

 

 急いでいるはずなのに、何故か足を止めてしまう青年。

 ゆっくりと振り返った。

 

 カヲルを指差しながら見つめる。

 

「カジ…くん?」

 

 今度はレイを指差す。

 

「ツバメ…ちゃん?」

 

 

 カヲルもレイも、青年が言わんとしていることに気付き、「あっ」と目を丸くした。

 カヲルは後ろ頭を掻く。

「ごめんなさい。それ、僕たちの本当の名前じゃなかったみたいなんです」

 

 青年は改めてカヲルを指差し、2人がお互いを呼びあっていた名前を呟いてみる。

 

「カヲル…くん?」

 

 続いてレイを指差し。

 

「レイ…ちゃん?」

 

 青年がレイの名前を呟いた瞬間、カヲルの右頬が一瞬引き攣ったが、笑顔を保ったまま答えた。

「ええ。僕が渚カヲルで、このコが綾波レイです」

 

 青年はカヲルを見つめる。

「渚…カヲル…」

 続けてレイを見つめる。

「綾波…レイ…」

 

 暫く2人を交互に見つめていて。

 青年の顔にゆっくりと笑みが広がる。

「僕は碇シンジだ…」

 

 カヲルもレイも、ふふっと笑った。

「それは知ってますよ」

「ああ、そうだったね」

 青年はきまりが悪そうに後ろ頭を掻いた。

 

「改めてよろしくね、渚カヲルくん」

 青年はカヲルたちの側に歩み寄り、カヲルに右手を差し出す。

「カヲルでいいですよ」

 カヲルはにっこりと笑いながら青年の手を握った。

「僕も、シンジでいいよ」

 青年もにっこりと笑い返す。

 

 青年はレイの方にも手を差し出し。

「じゃあ君はレイ…ちゃんでいいかな?」

 「レイ」と呼ぶのはちょっと恥ずかしい、いい歳して未だにうぶっ子な青年は、「ちゃん」を付けてみた。

「ええ…」

 レイも小さく微笑みながら、青年が差し出す手を握ろうとして。

 

「それは…!」

 

 青年の手を握る寸でのところで、カヲルが上擦った声を上げながらレイの肩に腕を回して抱き寄せてしまったため、レイと青年の手は触れることのないまま離れてしまった。

「それはどうでしょうね」

 急に自分を抱き寄せてしまった恋人の顔を見上げるレイ。

 青年を見つめるカヲルの表情は変わらず笑顔。ただし、右頬だけがぴくぴくと引き攣っている。

「レイちゃんは…だめ?」

 カヲルに向かって青年がおそるおそる訊ねてみる。

「どうでしょうねえ…」

 笑顔のカヲルは明言こそ避けつつも、その態度ははっきりと「ダメ」と言っている。

 

 カヲルの友好的な眼差しの中に潜む、独占欲を孕んだ警戒心を感じ取った青年。ちらりと、カヲルの腕の中で窮屈そうにしているレイを見た。

「彼って、いっつもこんな感じ…?」

 カヲルに聴かれてることは承知で、あえてコソコソ声で訊いてみる。

 レイは少しだけうんざりとしたような顔で言う。

「時々…、ちょっと…、めんどくさい…」

 とは言いつつも、眉をハの字に曲げる困り顔の彼女の両頬は、照れ臭そうにしっかりと赤く染まっており、好いた人の腕の中の温もりに浸って何とも幸せそうだ。

 

「じゃ、じゃあ綾波…、はいい…のかな?」

 そう言われ、カヲルは青年に向けた密やかかつダダ洩れな警戒心をようやく緩めた。

「ええ、いいですよ」

「そ、そっか。じゃあ…、よろしく、綾波…」

「ええ、碇さん」

 青年は、「手以外に触れたら承知しないよ」とでも言いたげな眼差しのカヲル監視下のもと、ようやくレイと握手を交わすことができた。

 

「それじゃ、次の機会には必ず! だよ!」

 青年は2人に手を振りながら、今度こそ走り去っていった。

 

 

 

 芝生の上を駆けながら青年は思う。

 久しぶりに訪れたこの街。

 良い思い出もたくさんあるけど、どちらかと言えば辛い思い出の方が多いこの街。

 立ち寄るのに躊躇われ、ついつい背中を向けてきたこの街。

 でも今度からは二の足を踏むことなく、この街を訪れることができるだろう。

 なんてったって、あの2人に会える街だから。

 これからはちょくちょくお墓参りにも来よう。

 父の遺品も、あのお墓に収めてしまおう。

 ああ、今から次にこの街に来るのが楽しみでならない。

 

「あっ」

 青年は走りながら短い声を上げた。

 そう言えば、結局今度も彼らとはまともな連絡先を交わさないまま別れてしまっていた。あの駅で会った日から月日は流れた。もしかしたら今は電話などの連絡手段を所持しているかもしれないし、この街の近くに住んでいるのであれば、家までの地図くらいは書いて貰っても良かったかもしれない。

「まっ、いっか」

 それでも青年は強く後悔する様子なく引き返す様子もなく、公園の出入り口に向かって走り続けている。

 あの2人と電話で連絡を取り合うなんて、何となく柄じゃないような気がするし、それにきっとまた何時か何処かでばったりと会えるような気がするから。

 きっと彼らとは、いつかまたどこかで綾をなす運命なのだから。

 次にこの街を訪れる時は、突然食事会に招かれてもいいように、スケジュールを真っ白にして来ようじゃないか。

 

 公会堂から逃げ出した時は30代を迎えた肉体の体力の衰えを感じてしまったものだが、今の自分の体はまるで10代の頃に戻ったように精気に満ち溢れている。四肢を思いっきり伸ばして、芝生の上を駆けた抜けた。

 目の前を、散歩中の大きな犬が横切っている。

 普段なら立ち止まったり迂回したりしてやり過ごすものだが、この時の青年は止まることも迂回することもせず、右足で力強く地面を蹴ったのだった。

 

 

 

 芝生の上を駆けていく青年の背中を見つめる。

 青年の前を散歩中の大きな犬が横切った。何を思ったか、青年はそのまま犬に向かって突っ込んでいる。そして無謀にも犬を飛び越えようというのか、地面を蹴って跳躍してしまった。

 

「あ…」

「あ…」

 

 案の定、後ろ足がリードに引っかかって、地面にすっ転んでしまった青年を見て、カヲルもレイも短い声を上げた。

 大きな犬が青年に向かって吠えまくる。犬を連れていた中年のご婦人が青年に向かって金切り声を上げている。

 立ち上がった青年はご婦人と犬に向かって平謝りしながら、公園の外へと走っていくのだった。

 

 

 まるで春の訪れを告げる風のように走り去っていった青年が消えた方向を、しばらくぼんやりと見つめていたカヲル。

 そのカヲルの顎に、ぽかっと、固い感触。

 見下ろすと、自分の腕の中の彼女が、白い手で作った攻撃力皆無のような拳を、カヲルの顎に突き当てていた。

 少しだけ責めるようなレイの視線。

「何…? さっきの…」

「さっきのって?」

 レイが言わんとすることはカヲルもすぐに理解できたが、あえてすっとぼけてみる。

「名前の呼び方なんて、なんでもいいじゃない」

「よかないさ!」

 突然の恋人の大声に、彼の腕の中のレイはびくっと肩を竦めてしまった。

「この国での名前の呼び方は互いの親密度を表す指標といってもいいんだ。相手の下の名前で呼ぶのなんて、それこそ大事件だよ。僕は僕以外の者が馴れ馴れしく君の下の名前を呼ぶことなんて、とても耐えられないね」

 何を言ってるんだこの人は、とばかりにレイは眉を顰める。

「おばさんは、私のこと、「レイちゃん」と呼んでるわ」

「同性同士がどう呼び合おうが別に知ったこっちゃないんだよ。ここで僕が言ってるのは異性同士。もちろん同姓であってもその関係が将来恋愛関係に発展する可能性が1ナノグラムでもあればこの条件に含まれることになるけどね。分からないかな? それじゃ例えばだよ。君が知らないカワイイ女の子に僕が「カヲル」って呼ばれてるところを想像してみたらいいんだ」

「「カワイイ」という形容詞は必要なのかしら」

「別にかわいくてもかわいくなくてもいいけど。とにかく想像してごらんよ」

 レイは赤い瞳を空に向けて、カヲルが言う状況を想像してみる。

「……」

「……」

「……」

「……」

 赤い瞳を、恋人のやはり赤い瞳へと向けた。

「…ちょっとムカついた…」

「だろ! シンジさんには悪いけど、生物学上のオスに分類される限りは、幾らシンジさんであっても、君を下の名前で呼ぶことを許すわけにはいかないね」

「でも…」

「でも?」

「カズオさんは私のことを、ずっと前から「レイちゃん」って呼んでる」

「ここにきてオリキャラを登場させるか…。誰なの、そのカズオさんって…」

「お店によく来るお客さん」

「なぜ君までそのカズオ何某を下の名前で呼んでるんだい?」

「カズオさんが「カズオさんって呼んで」と言うから…」

「レイ。今度そのカズオ何某が店に来たら言うんだよ。もう「レイちゃん」って呼ぶのは止めてって」

「でも…」

「でももストもない。いい? 絶対だよ?」

「んー…」

「…何か問題でもあるのかい?」

「カズオさんが、悲しむと思うから…」

「カズオさんが…、って。じゃあ僕の気持ちはどうなのさ」

「そこまで名前の呼び方にこだわる必要、あるのかしら」

「君だってさっきムカついたって言ったじゃないか」

「でも、ほんのちょこっとだけだし…」

「ちょこっとだけって…。そんな…。僕はシンジさんが君のこと「レイ」って呼んだ時は、胸をぎゅっと締め付けられたような気がして、立っているのもやっとだったとゆうのに…」

「そうなの…」

「愛が足りない…」

「え?」

「僕に愛を…」

「カヲル…?」

「僕に愛をもっとおくれよーーー!」

 何かの歌詞の一節のような言葉を叫びながらレイから体を離し、駆けていくカヲル。

 そんなカヲルの前を大きな犬が横切り、リードに引っかかったカヲルは盛大にすっころんでしまった。

 犬には吠えまくられ、飼い主のご婦人には金切り声を上げられまくる惨めな恋人のもとに、慌てて駆け寄るレイだった。

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 よく磨かれたガラスは街並みの様子と歩道を行き交う人々、そしてショーウィンドウを熱心に覗いている一人の男性を写し出している。

 渚カヲルは前屈みになりながら、ガラスに額をくっ付ける勢いで、リサイクルショップの店先にあるショーウィンドウの中に並ぶ商品の一つに、熱い視線を送っていた。

 カヲルの数歩後ろに立つ綾波レイは、ショーウィンドウの前で立ち止まってから、かれこれ30分も動かずにいる恋人のお尻を見つめながら、もうこの店の前をデートコースに選ぶのは止めようと思いつつ、鼻で小さくため息を吐いた。

 

 スニーカーの踵をコトコトと鳴らして、彼の側に立ち、彼の視線を独り占めにする憎らしい品物に目を向ける。

 彼の視線の先にあるもの。それはやたらとゴツい1眼レフのカメラ。

 ではなく、その隣に置かれた白と黒の鍵盤が並ぶ電子ピアノ。

 

 彼女は隣の彼にポツリと呟く。

「欲しいの…?」

 わざわざ訊ねるまでもないが。

「うん…」

 上の空で返事をする彼。

 

 彼の横顔を覗き見る。

 その表情は物欲を刺激されてウズウズしている、と言うよりも、視線の先にあるものに焦がれて切なささえ漂わせている。

 

 彼女は改めて電子ピアノに視線を送る。

 白と黒が並ぶ鍵盤を見ていると、彼女の脳裏にも1月前に体験した不可思議な出来事が、まざまざと蘇ってくる。

 あの日から暫くは、自分のみっともない歌声を大勢の人に聴かれてしまい、ただただ恥ずかしかったという思い出しか残らなかったけれど。

 今振り返れば、彼と彼が奏でるピアノの伴奏に乗せられてあの歌を懸命に歌っている間は、彼らとの不思議な一体感を感じ、そして歌い切ってから観衆から拍手を浴びるまでの僅かな静寂の間では、今までに感じたことがないような高揚感に包まれていたような気がする。そしておそらくあの時間、あの場所、あの体験を共有した彼も、同じような、あるいはそれ以上の一体感と高揚感に包まれていたことは疑いない。

 あの日以来、彼はすっかり音楽という小悪魔の虜だ。一緒に台所に立っている時も、一緒に草刈りをしている時も、一緒にバイクに乗っている時も、一緒にお風呂に入っている時も、彼の口からは鼻歌が絶えることはない。

 そんな彼が、店先に置かれた電子ピアノに恋い焦がれてしまうのは、無理からぬことだろう。

 

 彼女は、ふと電子ピアノの端っこに貼られた値札を見る。

 1眼レフカメラほどではないにしろ、こちらの値札も彼と彼女の数か月分の生活費に相当する額が並んでおり、レイは思わず目を瞑ってしまった。

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 夕暮れ前。

 一日の作業を終え、海がよく見える高台のハンモックに寝っ転がって涼んでいたら、下の方からトットットと軽いエンジン音が聴こえてきた。見ると、彼の恋人が跨る原付バイクが、長い坂道を今にも止まってしまいそうなスピードで上ってきている。

 

「やあ、おかえり」

「ただいま」

 彼らの住処がある海辺の高台。その麓にある村の道の駅でのアルバイトから帰ってきた彼女。彼は彼女に代わってエンジンが切られたバイクを押して、彼女はバイクの前籠に入っていた紙袋を持って、2人肩を並べて家へと向かう。

「今晩は何にしよっか」

「タケノコのご飯とタケノコの煮物」

「え? また?」

「カヲルが毎日のようにタケノコ貰ってくるから…」

「田舎に住んでいる以上、この季節のタケノコ包囲網からは逃れられない運命なんだよ…。え? まさかそれもタケノコ?」

 彼は、彼女が持っているやや大きめな紙袋に目をやる。

「これは…違う…」

 彼女は、何故か彼の視線から隠すように紙袋を抱き締めた。

 

 

 夕食の後片付けを終え、就寝前のまったりタイム。

 昨年の秋に手に入れた家庭用ソーラーからもたらされる文明の灯りの下で、床に寝っ転がりながら何処かで手に入れた分厚い歌本を眺め、鼻歌を歌っている彼。

 

 シンプルな白の寝巻に着替えた彼女が、彼の側で膝を折る。

「もう寝るかい?」

 彼が布団を敷くために立ち上がろうとしたところ。

「ねえ、カヲル」

 彼女に呼び止められたため、彼はその場で胡坐をかく。

「今日、カズオさんがお店に来たの…」

「ああ、例のカズオさん…」

「あなたに言われた通り、言ったわ。もう、「レイちゃん」って呼ばないでって…」

「うん…」

「私も、もうあなたのこと、「カズオさん」って呼ばないから、って…」

「うん…。相手の反応、どうだった?」

「とても悲しんでた…」

「そっか…」

 顔すら知らない男の悲しんだ顔を思い浮かべる彼。ただ己のつまらない独占欲を満たすためだけに、その男を悲しませてしまったこと、そして彼女に親しい相手に辛い宣告をさせてしまったことを、今更になって後悔し始めたていたら。

「「せっかく孫が出来たみたいで嬉しかったのに」って…」

「え?」

「え?」

「ちょっと待って」

「ええ、待つわ…」

「その…、カズオさんって、お幾つ?」

「年齢は知らない」

「えと…、じゃあ、カズオさんって、髪の色は何色?」

「髪はない」

「え?」

「髪はない。つるっぱげ」

「それは自分で剃ってるの?」

「自然脱毛…」

「顔の皺は?」

「しわくちゃ」

「歯は?」

「入れ歯」

「おじいちゃん?」

「おじいちゃん」

「ぐああああ」

 彼は万歳しながら背中から床に倒れる。そんな彼の顔を、心配そうに覗き込む彼女。

「どうしたの?」

「いや。うん。僕が言葉足らずだったのがまずかったんだね。あの時僕が言ってた異性って言うのはつまり…、なんて言えばいいのかな。言葉を濁さずに言えば生殖能力を有している異性のことを言ってるんだ。だから「かつては男だった」おじいちゃんや「まだ男になれていない」お子さまたちは対象外になるんだよね、これが」

 彼女は「めんどくさ」とでも言いたげに眉根を寄せながら。

「でも…」

「でも…、なんだい?」

「カズオさんの奥さん。再々婚でまだ30代」

「え?」

「この前も、前妻と前々妻の時を合わせて12人目の子供が生まれたばかり」

「え?」

「カズオさん、まだ現役バリバリ」

「レイ…」

「なに?」

「その絶倫好色ジジイには2度と近付いちゃいけないよ」

「なぜ?」

「いや…、むしろ人生の先達として彼からは色々と学ぶべきことがあるかもしれないね…。今度僕に紹介してくれるかい?」

「…分かった」

 

 絶倫好色翁についての報告を済ませた彼女は、ちゃぶ台の下に置いてあった紙袋を持ち出す。

「それと…、カヲル…」

「なに?」

 返事をしながら、彼女がアルバイトから帰ってきた時からずっと気になっていた紙袋を、興味深そうに見つめる彼。

 彼女は紙袋を抱き締めながら、どこか不安そうな面持ちで言う。

「私…、たぶん、昔から。あなたに出会う、ずっと前から、きっと、想いや感情を表現することが下手だった…の」

「うん…」

「だから、きっと、これからも、そんな私が知らないうちにあなたの心、傷付けてしまうこと、あると思うの」

 そんな彼女の言葉を、彼は慌てて否定する。

「何を言ってるんだい。僕は君に魂を射抜かれたことはあっても心を傷付けられた事なんて一度も無いよ」

「でも、あの時…」

「あの時?」

「うん…。愛が足りないって…」

 後悔に打ちひしがれる彼は、頭を抱えながら言う。

「過去を取り消すことなんて出来ないことは分かっているつもりだけど、あえて言わせてほしい。あの発言については忘れてくれないだろうか。僕も所詮は強欲に負けてしまう弱い人間の一人に過ぎなかったんだ。君からの愛を日々感じていながら、更に求めてしまうなんて。あの時、あんな事を言ってしまった僕を、捻り潰してしまいたいよ」

「でも…、愛が足りないと思わせてしまったのは事実だわ…」

「そんなことないさ。僕もすまなかった。咄嗟に滑らせてしまった言葉で、君を不安にさせてしまったみたいだね」

 彼は、眉をハの字に曲げ、目を伏せてしまっている彼女の空色の髪を、ぽんぽんと優しく撫でてやる。

 彼の言葉と彼の手の温かさに、彼女の不安そうな顔が少しだけ和らいだ。

「分かってほしい…。私はあなたのことを、この世界の誰よりも愛してるということ…。足りないというのなら、この体を絞り切ってでもあなたに私の中の愛を伝えたい。そう思っている…」

「レイ…」

 いつになく情熱的な彼女の言葉に、思わず目を潤ませてしまう彼である。

「でも…、私は気持ちを表すことが下手だから。言葉にするのが苦手だから」

 彼の前に、抱き締めていた紙袋を差し出す。

「…これは?」

「あなたへの贈り物。おばさんが言ってった。この国の人は昔から想いを伝え合うのが苦手だから、代わりに贈り物を届け合うんだって…」

 彼女から差し出されたものを受け取る。 

「開けていい?」

 彼女はこくりと頷いた。

 

 彼の中では密かに期待が膨らんでいた。

今、自分が一番欲しいものを、彼女は知っているはず。

 頭の中に浮かぶのは、あのリサイクルショップのショーウィンドウの中に置かれた、白と黒の鍵盤が並ぶ電子ピアノ。

 それにしては、ちょっと紙袋のサイズが小さすぎるような気がしないでもないけれど…。

 

 贈り物と呼ぶには、何の飾りっ気もない、茶色の紙袋。口を留めているのも、ただのセロハンテープ。

 そのテープを丁寧に剥がし、袋の口を広げる。

 袋の中に手を入れ、中身を取り出す。

 袋から出てきたのは、合成樹脂で出来たケース。

 片手で抱えることが出来る程度の大きさの、青色のケース。

 

 彼はケースを床に置き、留め具を外してゆっくりとケースの蓋を開けてみた。

 蓋の下から現れたのは、白と黒の連なり。

 それはあの公会堂で弾いたグランドピアノや、ショーウィンドウの中にあった電子ピアノと同じ、紛れもない鍵盤楽器。

 ただし、グランドピアノや電子ピアノの半分以下の鍵盤の数。そして鍵盤の大きさも、彼の指程度のサイズしかない。

 

「これは…?」

「カズオさん…、じゃなかった…。新本さんの下から3番目の子が小学校卒業して不要になったものを、安く譲ってもらったの…」

「小学校…?」

「うん。子供でも、大人でも、誰でも簡単に弾くことができるそうなの…」

「ふーん…」

「ほらここ。ここに息を吹き込んだら、音が鳴るんだって…」

「ふーん…」

「電気もいらないし、置く場所にも困らないから、我が家にはぴったりだと思うの…」

「ふーん…」

「カヲル…?」

「ん?」

「ごめんなさい…」

「え? どうして謝るの?」

「あまり、嬉しくないよう…だから…」

「そ、そんな訳ないじゃないか。嬉しいよ。ありがとう。レイ」

「ほんとに…?」

「もちろんさ」

 彼はケースから鍵盤ハーモニカと取り出し、手に取ってみる。

 本体の端っこに、楽器の中に空気を吹き込むための短いパイプが挿し込まれている。使っていた子が散々噛んできたのだろう。プラスチック製のパイプのあちこちに、歯の痕があるのが何とも生々しい。これ、ちゃんと洗ってあるんだろうね。

 見ると、彼女が「本当に喜んでくれているのだろうか」と不安げな様子でこちらを見つめている。あんな顔で見つめられたら、どこの誰がどれだけ舐め回しただろうか分からないこのパイプを、咥えないわけにはいかない。

 なるべく鼻で息をしないように気を付けながら、口をパイプに近づける。覚悟を決めて、パイプを咥えた。

 

 ふー、と、楽器の中へと息を吹き込む。

 ふー、と吹き込んだのに、何故か楽器は音を鳴らさない。

 吹き込みようが足りないのか。強めに、ふー、と息を吹き込む。

 やはり音は鳴らない。

 

 鍵盤ハーモニカという児童用の楽器の存在は知っていたが、実は触れたのはこの時が初めてだった彼。

 いくら息を吹きこんでも音が鳴るどころか、吹き込んだ空気が楽器の中に充満してしまい、逆に口の中に押し返されてしまう始末。

 隣では彼女が「いつ音を鳴らせてくれるのだろう」と期待に満ちた顔で待っている。

 まったく…。

 普段は殆ど表情を変えない癖に、たまに見せるこんな顔だったり、先ほどのような不安げな顔だったり。表情一つで、自分の行動をいとも簡単に操ってしまう彼女をズルいな~と思いつつ、彼は額を汗だくにさせながら、顔中を真っ赤にさせながら、うんともすんとも言わない楽器に懸命に息を吹き込み続けた。

 

 ぴゃーーー!

 

 その間の抜けたような音は、酸欠状態の彼がもう間もなく意識が飛びそうになった時に鳴り響いた。

 見ると、赤から青へと顔色を変えつつある彼の顔を、前のめりになって心配そうに覗き込んでいる彼女の右肘が、鍵盤に触れていたのだ。

 鍵盤を押さえることで楽器の中に溜め込まれた空気が音源となるリードの中へと流れ込み、ようやくその楽器は本来の仕事を始める。

 息を吹き込む彼も、鍵盤に触れてしまった彼女も、急に音を鳴らし始めた小さな楽器に、驚いたように目を丸くしてお互いを見つめ合った。

 

 息を吹き込むだけでなく、鍵盤を押さえることでこの楽器は初めて音を鳴らすということを知った2人。

 彼女が人差し指で鍵盤の上をちょいちょいとつついていくと、それに合わせて楽器はピャラピャラと平べったい音を鳴らしてゆく。

 

 彼の肺の中身が空っぽになってしまったため、楽器が鳴らす音も途切れてしまう。

 萎んでしまった音に、残念そうに眉をハの字に下げてしまう彼女。

 そんな彼女の顔にあっさりと操られてしまう彼は、慌てて息を吸い込むと、ふー、とバルブの中に息を吹き込む。

 すると、彼女が押さえてた鍵盤に合わせて、ぴゃー、と音を鳴らす小さな楽器。

 何とも間抜けな音に彼女はクスクスと笑い、釣られるように彼もクククと笑い、彼の笑いに合わせて楽器が鳴らす音もぴゃぴゃぴゃと揺れる。

 それがまたとても可笑しくて、彼女は珍しくあははと声を上げて笑い、彼もついには噴き出してしまって、一気に空気を吹き込まれた楽器はびゃーー!と悲鳴のような音を上げてしまった。

 

 結局彼は一度も鍵盤には触れず終い。ずっと楽器に息を吹き込む役に専念し、そして彼女は人差し指で鍵盤を押す作業に没頭する。

 小さな灯りが照らす部屋の中を、彼女の小さな笑い声と、ピロリロピロリロと軽く平べったい音が鳴り響いた。

 

 

 彼が密かに思い描いていたこと。

 楽器を手に入れたら、また彼女と素敵な音楽会が出来たらいいな。

 僕が伴奏して、彼女が歌う。あるいは、あの彼としたように、彼女との連弾を楽しんでもいい。

 今宵、その夢が図らずも叶ってしまった。

 音楽と呼ぶには、あまりにも稚拙な音の羅列だけど。

 あのグランドピアノに比べれば、何とも安っぽい音だけれど。

 彼女の笑顔が間近にあって。

 自分の吐息に合わせて、夢中になって鍵盤を押している彼女の顔がすぐ近くにあって。

 

 

 楽器というものに初めて触れる。

 彼の息吹によって命が吹き込まれる音。

 押さえる鍵盤によって、次々と変わっていく響き。

 熱心に鍵盤を次から次へと押さえていたら、何故か音が出なくなった。

 鍵盤から視線を上げると、間近にあるのは彼の顔。

 パイプを咥えていたはずの色素の薄い彼の唇が彼女の顔のすぐ側にあり、やはり色素の薄い彼女の唇へと自然と吸い寄せられていく。

 

 一度目は彼の方から軽く触れ合わせ。二度目は彼女の方から軽く触れ合わせ。

 

 少し離れてお互いの鼻先同士でつんつんと突き合いながらくすぐったそうに微笑み合って。

 

 そして改めてお互いの唇同士をしっかりと重ね合わせ。

 

 その内に彼女の両腕が彼の背中へと回され。

 

 彼は彼女の体を受け止めながら、床に向かってゆっくりと倒れていく。

 

 硬い床の感触を背中で感じながら、彼は思うのだった。

 

 

 

 やっぱり布団、敷いておけばよかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

―おしまい―

 

 

 

 

 

 

 



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小話

 
元人外の2人に平穏な生活が許されるわけないのです。
 


 

 

 

 

 綾波レイは生業としている農業の合間に、海辺の高台の農園から原付バイクで麓の村へと下り、村を走る唯一の幹線道路沿いにある農産物直売所を兼ねた道の駅でアルバイトをしていた。日常の殆どを将来を誓い合った伴侶と共に農園で過ごしている彼女にとっては、道の駅でのアルバイトは地域社会に触れる貴重な時間でもある。

 当初は直売所の売り子として入ったが、そのあまりの愛想のなさに2日目にはバックヤードへと回されてしまったレイだが、その素直な性格と真面目な仕事ぶりからパート仲間のおばちゃんたちからはいたく可愛がられており、今や職場のマスコット的扱いとなっている。

 

 この日の休憩時間もいつものように、お茶の入った湯飲みを持ちながらお喋りに興じるおばちゃんたちの車座の中にしれっと混じるレイ。元来極端に無口な性格の彼女は、一言も喋らずに休憩時間が終わってしまうことも珍しくないが、「そーゆーコなんだ」と理解しているおばちゃんたちはそんなレイの態度にも全く気にすることなく、ぺちゃくちゃお喋りを続けながら各々の家から持ち寄ったお茶菓子をレイの前に次々と置いていく。休憩時間が終わるころにはレイの前にはお茶菓子の小山が出来てしまっており、それらはレイの手でお持ち帰りされた上でそのまま彼女の伴侶の胃袋の中に収まるのだった。

 

 

「君たちいつまで休憩してんの。はいはい、仕事に戻ってー」

 道の駅の駅長である恰幅のよい男性がおばちゃんの群れに声を掛けた。

 おばちゃんたちが湯飲みを片付けながらそれぞれの持ち場へ戻る中。

「ああ、高雄さん。それに綾波さんも」

 レイと、パート仲間の一人であり、レイたちの世話人のような立場でもあるおばちゃんが呼び止められた。

「ちょっとお願いがあるんだけどさ」

「なんでしょ?」

「高雄さんたちが直売所に持ち込む野菜の数、増やすことってできないかな?」

「そりゃできんこたないですが。ねえ?」

 頷くレイ。

「なんだか知んないけど、この頃やたらと野菜の売れ行きがいいんだよ」

「ああ、そう言えば、最近商品棚に野菜並べてもすぐに無くなってしまうよね」

「そうなんだよ。周辺の農家さんたちにもお願いしてるんだけど、君たちもぜひ。ね?」

「そりゃ、野菜が売れればあたしたちのお小遣いが増えるから嬉しいけどさ。ねえ?」

 頷くレイ。

 伴侶のために密かに貯めている電子ピアノ購入資金に対し、目標額はまだまだ遥か雲の上であるレイにとっても、駅長さんの話は喜ばしい提案であった。

「じゃ、よろしく頼むよ」

 

 

 

 次のアルバイトの日。駅長に依頼されたレイは早速荷台と前籠に今朝採れたばかりのキャベツを満載した原付バイクで職場にやってきた。職員用駐輪場にバイクを停めながらふと駐車場へと目を向ける。駅長に言われるまであまり気に留めていなかったが、確かに最近の直売所は盛況だ。この日も平日の午前中にも関わらず、駐車場の半分以上が埋まってしまっている。よく注意して見れば、他県ナンバーの車も多い。

 そしてレイが持ち込んだキャベツたちは、売り場に並べてから僅か30分で売り切れてしまったのだった。

 

 

 

 次のアルバイトの日。荷台と前籠に今朝採れたばかりのゴボウを満載した原付バイクで職場にやってきたレイ。この日は平日にも関わらず、満車状態の駐車場にぎょっとしてしまう。駐輪場にバイクを停めていたら、店の方からパート仲間のおばちゃんの一人が血相を変えてレイのもとに駆け寄ってきた。

「ちょっとレイちゃん! 今日はバックヤードはいいから! 売り場を手伝ってちょうだい!」

 おばちゃんの手に引かれるままに店内に入ったレイは、その光景を見て再びぎょっとしてしまう。

 

 売り場を埋め尽くす、人、人、人。

 

 皆、売り場に並んだ野菜たちを我先にと掴み取っては、手に持った買い物用のカゴの中に次々と入れている。是が非でも野菜を手に入れようとする客たちの表情は些か殺気立っており、店内は争奪戦の雰囲気に包まれていた。

「レイちゃん! 今、裏手に中原さんとこが新しい野菜持ってきたから! すぐに売り場に並べてちょーだい!」

 レイは頷くとユニフォーム代わりのエプロンに袖を通し、店舗の裏に停められた軽トラックに向かって走っていった。

 近隣の農家から持ち込まれた野菜を次々と並べても、まるでイナゴの大群が過ぎ去った後のように、売り場からはあっという間に野菜が消えてしまう。遂には売り場に野菜を運んでいる途中のレイが抱える段ボール箱の中から、直に持ち去られてしまう有様だった。

 

 

 

 次のアルバイトの日。この頃の過酷なアルバイトにややげんなりとしつつも、この日も今朝採ればかりのジャガイモを満載した原付バイクで職場に向かうレイ。この日は早出のため、道の駅が開店する前の朝7時頃に職場までやってきた。しかしレイのバイクは、道の駅の駐車場に入る前に停まってしまう。

 

 開店前の時間にも関わらず、ついに駐車場から溢れ、道路に渋滞を作ってしまった車たち。

 直売所の前に並ぶ、長蛇の人の列。

 

 その様子を、口を半開きにした表情で見つめていたレイ。

 レイが跨る原付バイクが、トットットと軽妙なエンジン音を響かせる。

 その音に気付いた開店待ちの客たちが、レイの方へと視線を向けた。

 途端に。

 

「そこの君!」

「ちょっとあなた!」

 

 客たちが、一斉にレイの方へと向かって走り出した。

「その野菜を売ってくれ!」

「私にも!」

「何を言う!俺が買うんだ!」

「売値の倍払ってもいいから!」

 物凄い形相で迫ってくる客たちにびびってしまったレイは、バイクをくるっと方向転換させると、スロットルグリップを限界まで捩じる。

 急発進する原付バイク。

 車体が大きく揺れ、荷台に積んでいた木箱の中からジャガイモが一個落ちてしまった。

 

 遠ざかる駐車場の様子をサイドミラー越しに見つめるレイ。

 道路に落ちたジャガイモ一個に群がり、争奪戦を始めている客たちを、唖然とした顔で見つめるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『はい! 本日のリポートはこちら! 〇△村の道の駅からお送りいたしております!

 

 何の変哲もない道の駅ですが、ご覧ください! このお客さんの列!

 

 ここが行列ができる道の駅として巷を賑わせております、「〇△の郷」なんですね。

 

 なぜこのような田舎の道の駅に行列が出来てしまうのか。

 

 お客さんたちの声を集めましたのでご覧ください』

 

 

 

『そりゃあんた、ここの野菜を食べてごらんなさいよ~。

 

 うちの旦那なんてね。ここの青梗菜食べた次の日には腰痛が治ったんだから』

 

 

『おばあちゃん。ずっと車いすだったんです。

 

 でもここのサヤエンドウ食べたら歩けるようになったんです。

 

 嘘じゃないです。ホントなんです』

 

 

『たくのぼっちゃん。ここの白菜頂いたら第一志望校に受かりましたですの』

 

 

『カボチャ食べたらホッジ予想が解けました』

 

 

『ここの野菜のおかげで生涯現役です』

 

 

『背が伸びました』

 

 

『宝くじに当たりました』

 

 

『彼女ができました』

 

 

 

『いかがでしたでしょうか。我が番組にも同様の声が続々と寄せられています。

 

 正に奇跡の道の駅。奇跡のお野菜。

 

 我々は道の駅職員への直撃インタビューにも成功しました。

 

 ご覧ください』

 

 

 

『大変な盛況ぶりですが率直な感想をどうぞ』

 

『……』

 

『こちらのお野菜にはどんな秘密があるんでしょうか。ご存知ですか?』

 

『……』

 

『あなたもお野菜を食べて何か幸運が恵まれましたでしょうか?』

 

『……』

 

『これからいらっしゃるお客さんへ何か一言どうぞ』

 

『……』

 

『以上、あまりの盛況ぶりに言葉を失っている職員さんでした』

 

 

 

『…ちょっと、これ、放送事故じゃないの…? 大丈夫…?

 

 え? もう回ってるの?

 

 おおっとー、失礼致しました。

 

 さて。突如、田舎の道の駅を襲った狂騒曲ですが、取材を進めていくうちに興味深い情報を得ることができました。

 

 こちらの男性のインタビューをご覧ください。

 

 なお、男性の希望でモザイクと音声加工を施しております。ご了承下さい』

 

 

 

『いやぁ~、オレっち、地元の人間じゃないんだけどさ。

 

 ダチのダチがこの村のもんでよ。

 

 そいつがゆってらしいんだわ。

 

 最近、この近くの山ん中に仙人と魔女が住んでるっつぅー噂があるって。

 

 なんでも白いジジイと白いババアらしくてよ。

 

 そいつらが山ん中に住み着くようになってかららしいぜ。

 

 あんな怪しい野菜が出回り始めたのは』

 

 

 

『いかがでしょうか。

 

 俄かには信じがたい証言ですが、この狂騒振りを考えれば、かえって信憑性がありませんか?

 

 いずれにしろこの騒動。

 

 SNS上でも大変な盛り上がりを見せており、

 

 「生命のお野菜」、「知恵のお野菜」というハッシュタグで瞬く間に拡散して…』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え? あの直売所、しばらく閉鎖してしまうの?」

 ちゃぶ台の向こうでは、右手にお箸、左手にご飯が盛られたお茶碗を持った彼が、驚いた表情で固まってしまっている。

 レイは箸で摘まんだエンドウ豆を口に運びながら、こくりと頷いた。

「ふーん。最近じゃケーサツまで出動して大変な騒動だっていうのは聴いてたけど。怪我人が出てからでは遅いし、仕方ないのだろうね」

 出汁がよく染みた高野豆腐を噛みながらこくりと頷くレイ。

「直売所が閉まっている間、レイは食堂の方で働くんだね。調理場だって?」

 大きめに切ったカボチャの煮物を頬張りながらこくりと頷くレイ。

「じゃあ折角だからレイの手料理を食べに今度食堂を覗いてみようかな」

 以前、彼が予告なしに職場にふらっとやって来た時は、彼を一目見た途端におばちゃん連中がきゃーきゃー騒ぎ出し、彼が帰った後はおばちゃん連中に囲まれて2人の生活ぶりを根掘り葉掘り訊かれたり冷やかされたりして大変メンドーな思いをしたことを思い出したレイは、ふるふると頭を横に振る。

「ふふっ。仕方ないな。分かったよ」

 レイは笑う恋人に「絶対に来るよ、この人」と不審な目を送りながら、味噌汁が入ったお椀に口を近づける。

「あ、でも困ったな」

 レイは味噌汁をずずずと啜りながら、「何が」と恋人に視線を向ける。

「今度直売所に出す予定だった大根、どうしよう。あれだけの量だよ? 僕たちだけじゃ食べきれないんじゃないかな」

 恋人の言葉に、レイも「あっ」と思い出しように目を見開く。

「みんなにお裾分けするにしても、この辺りは農家ばかりだから配る相手が居ないからねぇ」

 悩む恋人に合わせるように、レイも一旦箸をを止めて天井を睨みながら考える。そして何かを思い出したようにぱっちりを目を開け、恋人を見つめた。

「ん?」

 レイは恋人の視線を、2人が居る板の間の隣にある土間の隅に誘導する。

 土間の隅の、陰になっている場所に置かれた、茶色い大きな壺。

 中には、レイが大切に育てているぬか床が収められている。

 カヲルは茶色い壺を見ながら頷いた。

「そうだね。何本かは漬物にしちゃおっか」

 こくりと頷くレイ。

「漬物にしてしまえば、お裾分けもしやすいからね」

 こくりと頷くレイ。 

「それにしても不思議なこともあるもんだね。野菜を食べたくらいで病気が治ったり、頭が良くなったりすることなんて、あるはずないのにね」

 レイも「不思議だよねー」とばかりに首を傾けて恋人の意見に同調しながら、先程ぬか床から取り出して切ったばかりのきゅうりの漬物を口に運び、ポリポリと小気味よい音を響かせた。

 

 

 

 

 

 

 直売所を閉鎖してから約1カ月。ようやく騒動も収まり、道の駅は平穏を取り戻していた。駅長さんたちがそろそろ直売所を再開しようかと相談し始めていたある日。

 

「おや。何だい? レイちゃん」

 レイはパート仲間のおばちゃんの前にタッパーを差し出し、パカっと蓋を開けて中身を見せる。

「あらま。美味しそうだね~。レイちゃんが漬けたの?」

 こくりと頷くレイ。

「じゃあ1個もらおっか」

 おばちゃんはタッパーの中身に手を伸ばし、ひと欠片を摘まむ。

「いただきまーす」

 欠片を口の中へと運び、ポリポリと咀嚼するおばちゃん。

 そのおばちゃんの目が、まん丸に開いた。

「美味しいじゃないか! これ、本当に美味しいよ~!」

 お世辞なしのおばちゃんの絶賛に、レイは恥ずかしそうに頬をぽりぽりと掻く。

「ちょっとみんな。これ食べてご覧よ。レイちゃんが漬けたんだそうだよ」

 おばちゃんが呼ぶなり、あちこちからわらわらと沸いて出てくるおばちゃんたち。

 方々から、レイが持つタッパーに手が伸ばされる。

 あちこちで、ポリポリと咀嚼音。

「ありゃ。本当に美味しい」

「よく漬かってるね~」

「うーん。塩加減がちょうどいい塩梅」

「悔しいけどうちのよりも美味しいね~」

 おばちゃんたちから口々に放たれる絶賛の声。人生の先達たちに手放しで褒められ、レイは恐縮してしまったように肩を窄ませている。

 

「ねえ、こんだけの味だ。お店に出してみちゃどうだい?」

「そうだね~。食堂の定食の付け合わせにぴったりだよ、これ」

「うんうん。それがいい。さっそく明日からでも出してみようじゃないか」

「それがいい、それがいい」

「そうしよう、そうしよう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『はい! 本日のリポートはこちら! 〇△村の道の駅からお送りいたしております!

 

 皆さん、覚えてらっしゃいますでしょうか?

 

 そう。少し前に大変話題になった、あの道の駅です。

 

 あまりの盛況ぶりに残念ながら野菜の直売所は一時閉店してしまっていたようですが、ご覧ください!

 

 その道の駅に、またもやこんな大行列が出来てるんです!

 

 SNS上でも大変な盛り上がりようで、

 

 今回は「生命の沢庵」、「知恵のいぶりがっこ」のハッシュタグであっという間に拡散してしまい…』

 

 

 

 

 

 

―おしまい―

 

 

 

 

 

 



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Seasons of Love


 

 2人がただイチャついてるだけのお話しです。


☆これまでのあらすじ☆
エヴァにまつわる記憶を失った状態で“ねおんじえねしす”後の世界に帰ってきた2人がひょんなことから出会い、成り行きで同棲を始め、そのままねんごろになりましたとさ。



 


 

 

 

 

 巡り往く季節の長さを、早さをどのように測ればよいだろう。

 

 365日?

 

 52600分?

 

 31536000秒?

 

 水平線から昇るお日さまで?

 

 お月さまの満ち欠けで?

 

 降り注いだ雨の量で?

 

 畑に撒いた種の数で?

 

 包丁が刻む音で?

 

 釜土にくべた薪の量で?

 

 シャワーを浴びた回数で?

 

 伸びた髪の長さで?

 

 出会いの数で?

 

 別れの数で?

 

 喜びの数で?

 

 悲しみの数で?

 

 

 それとも・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私のお気に入りの場所。

 

 色々あるけれど、一番はやっぱりあそこ。

 太陽の光が燦燦と降り注ぐあの場所。

 青い海が見渡せるあの場所。

 山から駆け下りる緑の匂いを含んだ風が心地よいあの場所。

 東の稜線から顔を覗かせた朝日が、夕陽となって西の水平線に沈む様子が見えるあの場所。

 彼が、私のためにハンモックを作ってくれたあの場所。

 彼と、私との愛の巣。

 

 もし一日なんにもしなくていいって言われたら、一日中あのハンモックで過ごしたっていい。

 お弁当とお茶を用意して。

 ハンモックに寝そべりながら、日がな海を眺めて。

 海の上をひらひらと舞う海鳥の数を数えて。

 雲の形を色んなものに喩えて。

 時折、隣の彼に膝枕を提供して。

 

 私と彼が住まう海沿いの高台の上にある農園。

 斜面に広がる段々畑。

 その農園の、一番高い位置にあるあの場所。

 あの場所に行くためには、段々畑の間の長い長い坂道を上らなくてはならない。

 

 元気だった頃は、農作業の合間のお昼休みの時間は、決まって彼と2人で、あのハンモックで過ごしていた。 

 

 2本の杭の間にネットを張り、大きなパラソルで日陰を作っただけの、簡素なハンモック。

 今は、どんな様子になっていることだろう。

 今年も足もとのレンゲソウは花を咲かさているだろうか。

 

 久しく行けていないあの場所。

 体調を崩してからは、あの上り坂を上がるのも辛くて。

 それでも一番のお気に入りの場所だから、無理にでも行こうとしたら彼に止められてしまう。

 

 

 

「それじゃあ、行ってくるよ」

 朝ご飯が終わり、いつもの作業着に着替え、麦わら帽子を被った彼が、縁側に腰掛けている私の隣に座りながら言う。

 そんな彼に対して、私はそっぽを向きながら少しだけ唇をとんがらせてみた。今日はいつもよりも調子が良いのだから、一緒に農作業に出ると言ったのに、彼はダメだと言う。それに対しての不満を、ちょっとばかり表情に乗せてみたのだ。

 すると彼は、こっちの期待通りに困ったような笑顔を浮かべてくれた。

「無理をしてはいけないよ」

 涼やかな風のような声音でそう呟きながら、彼は去年から伸ばし始めた私の肩まで伸びた髪をそっと撫で、そして駄々っ子をあやすように私の頬に軽く口づけをする。

 頬に触れた彼の唇の柔らかい感触に、現金な私はとんがらせていた自分の唇を引っ込め、そして満足げに口もとを緩めた。

 そんな私の態度に彼も「現金なコだ」とでも思ってるのだろう。今度は彼の方がそのやや大きめな口を「へ」の字に曲げている。

 農作業に出れない鬱憤は、ここで晴らしてしまおう。

 彼の様子を横目で目ざとくみていた私は、すかさずひっこめていた唇を再度とんがらせ、その唇で彼の無防備な「へ」の字の唇にそっと触れた。

 私の不意打ちに、きょとんとしている彼。歳を重ねるにつれあまり動じたり驚いたりすることが少なくなった彼の、こんな顔を見るのはちょっと貴重だ。自分の口づけもたらした成果を満足げに見つめていたら、そのうち彼の方もやや大きめな口の両端を上げると、不意打ちのお返しとばかりに、まるで飼い主にじゃれ付いてくる大きな犬のように、私の体に腕を回し、その体重を預けてきた。

 私は鬱陶しいとばかりに彼の体を両手で押し返そうとするが、彼は強引に体を寄せてきてほっぺとほっぺをすりすりさせてくるので、腕力では勝てない私は仕方なしに彼の体に腕を回し返しながらくすくすと笑い出し、私の体を征服してしまった彼は得意げにはははと笑った。

 

 一頻りじゃれ合った後、彼は「それじゃあ行ってくるよ」と3分前と同じセリフを残し、農耕具が入った背負い籠と水筒を担いで、畑へと向かう。そんな彼の背中に向かって、私は胸の前で小さく手を振って見送った。

 

 彼の姿が生垣の向こうに消えたところで、私はふーと大きなため息を漏らしながら、縁側に腰を下ろす。

 たった3分じゃれ合っただけで、すでに体が重い。視界は微かな揺れを感じている。

 半日寝込んでしまった昨日に比べたら今日はまだ調子が良い方だが、こんな体調で農作業に付いていって畑の真ん中で倒れでもしたら、彼に大迷惑を掛けてしまうところだった。

 止めてくれた彼に感謝しながら、縁側にじっと座り、眩暈が去るのを待つ。

 

 

 私のお気に入りの場所。

 一番目があの丘の上のハンモックだったとしら、二番目はこの縁側だろう。

 

 私がここに住み着くようになった当時。彼の住処に私が着の身着のままで転がり込んだあの頃は、「あばら家」という表現がぴったりだった家。雨の日はあちこちで雨漏りが起き、風の日は屋根がどこかに飛んでいきそうになる家。

 そんな家を、彼のドゥー・イット・ユア・セルフによって少しずつ少しずつ補修と改築が重ねられ、最後に雨漏りを体験したのは去年の台風の時だった。

 最初の頃はトンカチを振るう度に指に血豆を作っていた彼。痛々しく見ていられず、無理しなくていい、今でも十分快適だと伝えてみたが、彼は「向上心の喪失は堕落への第一歩だよ」だの「自らではなく、世界の方を変えることで、人類は生態系の頂点に立ったのさ」だのいちいち大げさな理由をつけては生活環境改善活動に勤しみ、今や彼の大工の腕前はお世話になってる木工製作所の親方さんからも太鼓判を押されるほどになっている。

 

 私の体調が思わしくなく、家の中で過ごす時間が増え始めて。

 農作業に出ることができず、家の中のことも満足にできない日もあって。

 そんなある日、突然何を想ったか、彼が居間の南側の壁をぶち抜き始めた。古い土壁を解体用の特大木槌で壊し始めたのだ。日頃の溜まっていた「何か」が、彼を爆発させてしまったのだろうか。役に立つどころか、家に閉じこもっては鬱々とした顔を浮かべることしかできない私の態度が、彼をそうさせてしまったのだろうか。

 不安に駆られながら、一心不乱に壁をぶち壊す彼の背中を、ただ見つめている事しかできない私。

 そんな私を他所に、彼はついに南側の壁を綺麗にぶち抜くと、裏山から切り出した木材を使ってせっせと組み立てを始める。壁がなくなった箇所に木枠で作ったサッシをはめ込み、そこにガラス戸をはめ込んで雨露の侵入を防ぐ。そしてガラス戸の外の6か所に家の床よりも低めの支柱を立て、その上に格子状の木枠を乗せて釘で柱に固定すると、その木枠に板を張りつける。最後に保護塗料を塗って完成したのが、この縁側だ。

 土の壁がガラス戸へと変わり、自然光が入ることで部屋の中がとても明るくなっただけでも感動していた私。そんな私の手を彼が引いて案内された、縁側から見た風景。

 庭の生垣の間から見える、青い海。

 ハンモックに揺られながら見る海がとても好きだった私。そんな私に、家の中に居てもいつでも海が見えるように造ってくれたのが、この縁側だった。

 お気に入りになるのも当然。

 縁側の前の庭には大きな金木犀が立っていて、縁側の周囲に良い塩梅の木陰を作ってくれる。大人が5人くらい寝っ転がってもまだ余裕があるくらいの、広々とした縁側。

 もし一日なんにもしなくていいって言われたら、一日中この縁側で過ごしたっていい。実際に彼が仕事を早めに切り上げた日は、カボチャやニンジンを練り込んで焼いたスコーンをおやつに、彼と一緒にお夕飯までずっとこの縁側でのんびり過ごす日だってある。

 

 彼が造ってくれた縁側。

 私のために造ってくれた縁側。

 そこに座ってじっとしていたら、感じていた眩暈も何処かに飛んでいってしまった。

 

 さあ、いつまでもこの体調に振り回されるわけにはいかない。

 彼が外で汗水垂らして仕事に励んでいる間に、私は家の中のことをしっかりとこなさないと。

 

 

 洗濯をしようとサンダルを履いて裏庭へと向かう。電気も水道もガスも通っていない村はずれの高台の家。もちろん、洗濯機もない。

 飲み水は庭の井戸から、その他の生活用水や農業用水は裏山の沢で確保している。以前は2人で天秤棒に水桶を抱えて、井戸や沢と家との間を何往復もしていたが、今は彼が沢から家まで水車による汲み上げ式の水路を作ってくれたおかげで、毎日の重労働が大幅に解消されている。

 裏庭にある蛇口を開いてタライに水を張り、重曹で手造りした洗剤を垂らし、その中に洗濯物を放り込む。サンダルを脱ぎ、スカートの裾を摘まみ上げ、裸足でタライの中に立ち、水と洗濯物の上でジャブジャブと足踏みをする。

 

 歌が好きな彼。いつも鼻歌を口ずさんでいる彼。そんな彼に影響されてか、近ごろの私も気が付けば知らない内にいつどこで耳にしたかもあやふやな、テキトーな鼻歌を口ずさんでいる。

 いつだったか、タライの中の水に浸された洗濯物を、素足で踏みながらジャブジャブと洗っていた時。自然と口ずさんでいた鼻歌。その鼻歌に乗せられて、自然と軽やかなステップを刻む足。

 ヒンヤリとした水。水を含んだ衣類を踏む感触。午前中の爽やかな空気。木漏れ日から注ぐ太陽の柔らかな光。

 自然と口ずさむ鼻歌も、タライの上で刻まれるステップの動きも大きくなって。

 興が乗ってしまった私は、スカートをひらりとはためかせながら、タライの上でくるりと半回転してしまい。

 彼と目があった。

 いつの間にか、裏庭の隅に立っていた彼と、目があってしまった。

 やや大きめな口を半開きにして、タライの上の私を唖然とした表情で見ている彼。

 そんな彼に対して、私はあっという間に熱くなった頬に手をやりながら、くるいと彼に背中を向けてしまう。

 見られてしまった。見られてしまった。恥ずかしい。恥ずかしい。

 タライの上で一人悶絶していたら、背後からスタスタと近寄ってくる足音。そしてパシャっと水を踏む音。

 背後に気配を感じ、振り返ると、すぐ側に彼が立っていた。水で浸されたタライの中に、裸足で立っている彼が居た。

 やや大きめな口をにんまりと曲げ、私を見下ろす彼。両頬を熱く火照らせたまま、彼を見上げる私。

 硬直してしまっている私の左右の手を、彼の右左の手が軽く握って。

 彼は握った私の両手を、そっと胸の位置まで持ち上げ。

 そして右に左に大きくぶらぶらと揺らし始める。

 彼の手に引っ張られて、右に左にと大きく揺れる私の体。足がつんのめってしまってコケそうになってしまったら、彼がすぐさま左腕を私の腰に添え、体を支えてくれた。

 左手は腰に。右手は私の左手を握ったまま。そして右に左に体を揺らす彼。鼻歌を口ずさみながら、大きく体を揺らす彼。

 彼の両足は水に浸された洗濯物の上でパシャパシャとステップを踏み。

 そんな彼の動きに引きずられるように、左右に揺れ始め、パシャパシャとステップを踏み始める私の体。

 いつの間にか両頬を支配していた火照りも引き、目の前にある顔を真似るようににっこりとした笑みを浮かべている私の顔。

 私の左手を握る彼の右手が頭上まで高く掲げられたら、私は彼の手を軸にくるくると回って。

 2人の男女がパシャパシャと跳ねるタライの周りは、4本の足が上げる水飛沫によってあっという間に水浸しになって。

 物干し竿でドングリを頬張っているリスと金木犀の枝にとまるヒヨドリを観客に、私たちは飽きるまでタライの上でのダンスを楽しんでいた。

 

 

 彼との密やかな舞踏会のことを思い出しながら、今日も鼻歌混じりに踏み洗いをし、手洗いをし、衣類を絞り、物干し竿に干す。彼の話では午後から雲が出て陽が陰るかもしれないとのことだが、午前中の陽射しだけで充分に洗濯物は乾くことだろう。

 物干し竿に吊るされた、彼の作業着。その横に並ぶ、私の普段着と彼と私の下着類。あと数枚のタオル。それらが明るい陽光の下、山から吹き下ろす風にゆらゆらと揺れる様を満足気に見た私は、空になった籠を抱えながら家の中に戻ろうとして。

 

 ふと、視界がぐにゃりと曲がった。

 空と地面が逆さまになり、平衡感覚を失った私の体は、地面に両膝を付く。

 耳を劈くような耳鳴り。激しい胸焼け。さらに続けて襲ってくる嘔気に咄嗟に口を塞いだが間に合わず、少量の吐瀉物を地面に向けて吐き出す。

 

 

 

 縁側で目を覚ます。

 裏庭で眩暈を起こした後はこの縁側まで何とか這っていき、寝っ転がって、体を襲う不調の波が去っていくのをじっと待った。

 時計を見たら、1時間は寝ていたらしい。

 金木犀の枝葉の隙間から降り注ぐ木漏れ日をぼんやりと見つめながら、意識が定まるのを待つ。

 鼻から大きく息を吸い、お腹を膨らませて、そして口からふうと体内に溜め込んだ空気をゆっくりと吐き出した。

 それを3回ほど繰り返し。

 自分自身に、もう大丈夫だと言い聞かせるように2回ほど深く頷いて上半身を起こしたが、まだ少し吐き気が残っていたので、遠くに見える青い海の水平線を眺めながら、吐き気が飛んでいくのを待った。

 ふと視線を落とすと、み空色のギャザースカートの裾から覗く白い素足の踝の辺りに、一匹のナナホシテントウがぽつんと止まっている。テントウ虫はよちよちと時間を掛け、親指の先端を目指して進んでいる。足がむず痒かったが、ナナホシテントウは畑を荒らしてしまうアブラムシを食べてくれる益虫なので、無碍に払い落とすわけにもいかない。ようやく親指の先っちょに到達したテントウ虫は、黒い紋様が7つ浮かぶ赤い鞘翅を広げ、青い空へ向かって飛び立っていく。

 テントウ虫の小さな影が青い空の彼方に溶け込んでいく頃には、まるでそのテントウ虫が空へ一緒に持ち去ってくれたかのように、吐き気は綺麗に消えていた。

 もう一度時間を見ると、彼がお昼ご飯を食べに帰ってくるまで、あと30分くらい。

 よっと小さな掛け声と共に体を起こし、サンダルを履いて地面に降り立つ。

 

 

 

 我が家の食糧自給率は、ちゃんと計算したわけではないけれど、おそらく80パーセントは超えている。残りの15パーセントはお世話になっている村の人たちからのお裾分け。残りの5パーセントがお店で買ってくるもの。そのお店で買ってくるものも、塩や砂糖などの調味料が中心だ。もっとも私がそれなりに料理をこなせるようになってからは、炊事場の棚に並ぶ調味料の瓶は増える一方だ。彼に日々飽きない料理を提供したくて、街に繰り出す度に物珍しい調味料を見かけたらついつい購入してしまう。

 

 

 まだ私に街に繰り出す元気があった頃。

 彼と一緒に気紛れにふらっと立ち寄ってみた、西欧にあるらしい半島の国の郷土料理を出すお店。見たことのない料理の名前が並ぶメニューに私も彼も頭がくらくらしてしまい、給仕のおじさんに予算と私が肉類は食べられないことを伝えた上で伝家の宝刀「おすすめをお願いします」をオーダー。

 最初に運ばれてきたのは「シーザーサラダ」なる刻んだ葉物野菜の盛り合わせ。青々としたロメインレタスやグリーンリーフに黄色のパプリカ、その上に散らばる削ったチェダーチーズ、とろとろの温泉卵。

 見た目ですでに楽しい、色鮮やかな野菜の盛り合わせに目を輝かせている私。彼はトングを使ってボウルの中の野菜の盛り合わせを軽く混ぜ、2枚の小皿に取り分けてくれた。

 彼と一緒に「いただきます」を合唱し、あまり使い慣れていないフォークで一口、二口と、野菜の盛り合わせを口に運ぶ彼と私。

 三口、四口と野菜の切れ端を齧り。

 

 んんん?

 と目を合わせながら同時に首を傾げる彼と私。

 

 彼はグラスに注がれた水を口に含み、口の中の野菜を飲み込んで。

 ふ~と一息吐いたところで、彼がぽつりと言う。

 

「なんて言うか…。お店の人には悪いけど…、うちで作ったサラダの方が美味しいね…」

 

 そんな彼の発言に、フォークの先端を咥えながらこくりと頷く私。

 

 どんな調理法でこしらえ、どんな調味料で味を調えようとも、とれ立ての新鮮な食材の味の前には敵わないと知った私たち。ただでさえ外食とは縁遠い私たちの足は、さらに飲食店から遠ざかってしまうことになる。

 

 しかしながら、その後運ばれてきた「パスタ」という麺料理は彼も私もとても気に入った。時々突然思い立った彼が作るうどんやお蕎麦とは全く違う歯ごたえ、舌触り、のど越し。そして麺に絡みつく濃厚なソース。聴けば、その日私たちが口にしたペスト・ジェノヴェーゼというソース以外にも、色んなソースがあるらしい。

 さっそく帰りに寄った食料品店で乾麺タイプのパスタを買い物かごの中に放り込んた。

 なにしろ、我が家には冷蔵庫がない。だから、常温保存が効く乾麺のような食材は大歓迎だ。

 

 

 よし。今日のお昼ご飯はパスタにしよう、と思い立ち、さっそく食材調達のため盆ざるを手に、麦わら帽子を被って家から一番近い生垣の裏の畑に出た。

 

 彼も私も「無法地帯」と呼んでいる、色んな野菜が無秩序に生えている小さな畑。食べ残した色んな野菜の残りを適当に撒いてたら、勝手に芽が出て、いつの間にか様々な野菜の葉や蔓が入り乱れるカオス状態になっていた。

 実はここも、私の密かなお気に入りの場所。どんな物が採れるのか、手を突っ込んでみないと分からない、整理整頓が苦手な子供のおもちゃ箱のような畑。

 そして今日採れたのは、小さなトマトと葉にんにく、収穫し損なった白菜の菜の花の蕾。そして油断したらどこまでも勢力図を広げてしまうスペアミント。

 摘んだ食材たちを盆ざるに乗せ、おうちへと帰る。

 

 釜土に火をくべてお湯が沸くのを待つ間に、食材を適当な大きさに切る。

 空いている釜土にも火をくべ、フライパンを乗せると、オリーブオイルをやや多めに浸して鷹の爪を一本落とす。香ばしい匂いが漂い始めたら、まずは刻んだ葉にんにくをさっと炒め、ぶつ切りにしたトマトも入れる。トマトに火が通った頃には鍋の中のパスタが茹で上がっているので、ざるでお湯を切ると一気にフライパンの中に投入。ソースとパスタを絡めながら、菜の花の蕾も入れて和える。最後に塩と胡椒で味を調えて、出来上がり。

 パスタを2枚の皿の上に盛り付ける。ガラス製のティーポットの中にはスペアミントのフレッシュハーブティー。トレイの上にパスタを盛り付けた2枚の皿とフォーク、それにティーポット、ガラスカップを乗せて、縁側へと向かう。

 時計の針は、ちょうど彼が午前中の作業を終えて帰ってくる時刻。

 

 

 縁側に戻ると、畑仕事から帰ってきていた彼が、30分前の私のように縁側で横になっていた。

 トレイを置き、仰向けになっている彼の頭の近くに両膝を折り、逆さまの彼の顔を覗き込む。

 おかえり、と言うと、彼は目を瞑ったまま「ただいま」と言う。疲れた? と訊ねると、彼はゆっくりと首を横に振る。

「台所から君の鼻歌が聴こえたからね。聴き惚れているうちに、ついつい夢の国さ」

 どこか得意げにそう言いう彼の目は閉じたまま。

 どうしたら目を覚ましてくれるの?と訊ねたら、こう言う彼。

「決まってるじゃないか。僕の右ほっぺと左ほっぺ。最後に唇に君の口づけがあれば、この目はすぐにでも覚ますさ」

 そう言って、目を閉じたままうーと唇を突き出す彼。

 私はそんなちょっと間の抜けた彼の顔を見つめながら、浅く溜息を吐き、そして。

「あいた!」

 彼の無防備な額にデコピンを食らわせると、彼の隣に腰を下ろした。パスタを盛った皿を彼の側に置いて、ガラス製のティーカップにハーブティーを注ぎ入れる。

 冷めないうちに早く食べてちょうだい、と言うと、彼は「つれないな~」とぼやきながら体を起こす。そんな彼に、私は湯気が立ち昇るティーカップを差し出した。「ありがとう」と言って受け取る彼は、目覚めの口づけを与えられずに寂しさが残る唇をとんがらせ、ティーカップに付ける。カップの中身を一口飲み込んで。

「うはっ。スース―する」

 ハッカの香りが鼻にツーンと来たらしい。しわくちゃになってしまった彼の顔に、私はくすりと笑った。寝起きにはちょうどいいでしょ、と言うと、「君の口づけの方がよかったな」などと未練がましく彼は言う。そんな彼の発言を私ははいはい、と軽くあしらって、私もカップに口を付けて一口二口飲み込んだ。

 たちまちしわくちゃになってしまう私の顔。

「ふふっ。ちょっと葉っぱを入れ過ぎちゃったみたいだね」

 そんな指摘をする彼に、ちょっと意地っ張りになってしまった私は、私はこれでいいの、とばかりにカップの中身をぐいぐいと飲み干した。

 

「うん。美味しい美味しい」

 パスタの出来は上々らしい。にんにく草をベースにトマトの酸味と塩コショウだけのシンプルな味付け。菜の花のしゃきしゃきとした歯触りと苦みがちょうど良いアクセントだ。

 美味しい以外の感想はないの? と彼に意地悪く訊いてみたら。

「母なる土壌の栄養をふんだんに蓄えたにんにく草がもたらす味わいはまるでヴィーナスの乳房から滴る母乳のように濃く、処女のように瑞々しくて甘酸っぱいトマトの赤はパスタという生娘の肌の上に散った破瓜の血のようだ…」

 べらべらと喋り出した彼の声を掻き消すために、私はわざとズルズル音を立ててパスタを啜った。

 

 自分の料理の腕が良いとは思わない。その日採れた食材をテキトーに炒めるか茹でるか蒸すかして、手もとにある調味料を和えているだけだ。きっと採れ立ての食材の新鮮さの他に、山から吹き下ろす緑の匂いを含んだ爽やかな風、生垣の間から見える青い海、金木犀が作り出す木陰。彼が造ってくれたこの縁側を取り巻く空気が、私の拙い料理の味を5割増しくらいに引き立ててくれるのだろう。

 

「ふ~、ごちそうさま」

 今日も私が作った料理を残さず平らげてくれた彼。空っぽになっていた彼のカップに、ハーブティーを注ぎ入れる。そのハーブティーを一口飲んで。

「うん。この清涼感は食後にはちょうどいいね」

 と言ってくれる彼。

 私もカップにハーブティーを足し入れ、今度はちびちびちと飲んでいく

 

 私の膝の上に乗せられたソーサー。そのソーサーと、私の口の間を行き来するガラス製のティーカップ。

 それを横目でじっと見つめている彼。

 彼の視線には気付いているし、彼の思惑も分かっているが、私はあえて一口一口ゆっくりと、時間を掛けてハーブティーを飲んでいく。

 ここは焦らす作戦だ。

 

 彼の縁側の床の上に置かれた右手人差し指の先端が、コツコツと床板を叩き始めた。

 そろそろ、限界らしい。

 私はカップの底に残ったハーブティーをぐいっと飲み干すと、ソーサーと一緒にカップを膝の上から床の上に移動させた。

 

 空っぽになった私の膝の上。

 たちまち。

「ふあ~あ」

 隣で大きく伸びをした彼は、そのまま上半身をごろんと転がし、その頭は私の膝の上に着地。

 

 自分の膝が空になればこうなることは分かっていた上で、私はあえて、もう、と不満げに唸ってみせる。

 そんな私の唸り声を無視して、鼻歌混じりに私の膝の上で頭をごろごろさせている彼のその様は、最近この家にちょくちょく顔を出すようになった野良猫のようだ。

 私はくすりと笑いながら、猫をあやすように、彼の収まりの悪い白銀の髪を両手でわしゃわしゃと掻き混ぜてみた。すると彼は海側に向けていた体をごろんと半回転させ、私の方に体を向けると、私の胴に腕を絡ませて顔をお腹にくっ付けてきた。

 そんな彼に私はくすくすと笑いながら、擽ったいと抗議の声を上げて、彼の顔を私のお腹から引っぺがす。

 すると今度は彼の方が不満顔。

「いいじゃないか、減るものではないのだから」

 と駄々っ子のように言う彼に、私は、はしたないよ、と言ってみる。

 すると彼は残念そうに眉尻を下げながら言う。

「こうやって2人で過ごしていられる時間も、そう長くないんだからさ」

 私が意地悪く、そう? と訊き返すと、彼はやはり不満げに「そうだよ」と言う。

 そして彼は私の顔から外した視線を、目の前の私のお腹へと向けた。

 私が着るクリーム色のチュニックブラウス。その前ボタンの下2つのボタンを外し、前立てを開く彼。

 露わになる、私のおへそ。

 私の、もう、という抗議の声を無視して、彼はそのおへそを人差し指でちょいちょいと突っつき始めた。

 

「おーい、そこに居る君」

 

 私のお腹に向かって、話し掛ける彼。

 

「君の所為で、最近の彼女はあんまり僕に構ってくれないんだよ~」

 

 情けない声を出す彼に、私はくすくすと笑ってしまう。

 

「早くそこから出ておいで。出てきてくれたら、君のことは僕が精一杯構ってあげるからさ」

 

 「君」がそこから出てくるのはまだまだ先のことなのに、やたらと気の早い彼。

 

「そしたらきっと彼女は僕のことを精一杯構ってくれると思うんだ」

 

 そんなことを言う彼に、私は口を「へ」の字に曲げる。

 彼の両頬を両手で挟みこみ、ちょっと強引に彼の顔をこちらへと向けた。

 私と同じ彼の赤い瞳をまっすぐに見つめながら、だったら私のことは誰が構ってくれるのかしら、と彼に問うと、彼はやや大きめな口を曲げてにんまりと笑う。

 

「そんなの決まってるじゃないか」

 

 そう言って、彼の顔が急に近付いてきて。

 あーもう油断した、と私は心の中で彼との攻防の敗北を認めつつ、せめてもの抵抗とばかりに自らも顔を彼の方へと近付けると、彼の唇と私の唇は無事に空中で交差する。

 そっと触れるだけの軽い口づけ。

 顔を離し、私は頬を赤く染めた顔で彼の顔を見下ろし、彼はにっこりと笑った顔で私の顔を見上げ。

 

 あなた一人で私と「この子」2人も同時に精一杯構えるのかしら、とまた意地悪く問うてみたら。

 

「もちろんさ。僕の愛は無限大なんだから」

 

 自信たっぷりの顔で答える彼。

 

 私はそれで満足できるのかしら、と畳みかけてみたら。

 

「満足させてみせるさ。お姫さま」

 と彼は言いながら、再び顔を近づけてきたので、私の唇は素直に彼の唇を受け入れる。

 今度は少しばかり長めの口づけ。

 

 彼と私の顔は離れ。

 

 私は、やっぱり嫌、と言う。

 私の言葉にとても残念そうに眉毛の両端を下げてしまう彼。

 

「なぜなんだい?」

 

 そう訊いてくる彼に私は自分のお腹を摩りながら、私も「この子」のことを精一杯構ってあげたいから、と言ったら彼は唇をとんがらせながらこう言ってきた。

 

「だったら僕は誰が構ってくれるのさ」

 

 まるで子供のようなことを言う彼。彼に大人になる準備はできているのだろうか、と先々のことを少々不安に思いつつ、口もとを緩めながら私は言う。

 

「そんなの決まってるじゃない」

 

 今度は私の方から顔を彼の顔に近付ける。

 

 顔を離すと、少しばかりぽかんとした表情の彼の顔。

 しかしすぐに少し大きめな口の両端を上げて彼は言う。

 

「それで僕は満足できるのかな?」

 

「満足させてみせるわ。王子さま」

 

 私はそう言って、この問答はこれでおしまいとばかりに彼の唇を私の唇で塞いだ。

 

 

 

 



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夏 ― 前編 ―



 2人がしてるのはあくまで「お掃除」と「お食事」です。

 


 

 

 

 

 自分はどうしようもなく脆くて弱い存在であると。

 そう痛感させられる瞬間はいくらでもある。

 

 何処とも知れない荒れた農園にたった一人で放り出された時。

 いくら種を蒔いても花も咲かず実も付かず枯れてしまう農作物を前にした時。

 初めて入ったコーヒー屋さんで意味不明のメニューを渡された時。

 彼女の居ない生活が頭の中を過ってしまった時。

 偶然彼女の本当の名前を知ってしまった時。

 それを彼女に告げず、黙っていようと一瞬でも思ってしまった時。

 ショーウィンドウに並ぶ品々に目を奪われ、物欲を刺激されまくった時。

 あの人が馴れ馴れしく彼女の下の名前を呼んで、ちょっとムカっとしてしまった時。

 内から湧き上がる衝動に突き動かされるままに彼女を抱いてしまう時。

 

 

 そして、森の中で大きなイノシシ一頭とご対面した時。

 

 

 僕たちが住んでいる海辺の高台にある人里離れた農園。高台の斜面には段々畑が連なっており、段々畑の背には小高い山が聳えている。

 僕がここに住み着き、そして彼女が着の身着のままでこの場所に転がり込んでからそこそこの年月が経過したが、実はこの農園は僕たちのものじゃない。

 高雄のおばさんの話によれば、亡くなったおじさんの古い友人の土地であり、いずれ古い友人とその奥さん、そして子供3人でここに移住し、のんびり過ごすつもりだったらしい。何故彼らがこの場所に移り住まなかったのかは定かではないが、おばさんが言うには彼らの子供、息子さんについては立派に成人していて、別の場所で平穏に暮らしていることは分かっている。つまり、現状知りうる上でこの土地の正当な所有者はその息子さんということになるが、息子さんはこの土地について特に関心がないらしい。おばさんが伝手を伝って息子さんに連絡を取ってみてくれたらしいが、山や農園を管理してくれるのならば何時までも住んでくれて構わないとの返事が返ってきたそうだ。

 そう。つまり僕たちはこの農園だけでなく、この高台。山全体を任されてしまったわけだ。   

 村の先達たちによれば、山は放っておいてはいけないらしい。山が荒れてしまうと災害の原因になってしまうし、好き放題伸びた草木がそこを住処とする動物たちを追い出してしまい、結果、彼らが畑を荒らしてしまうのだとか。

 だから農作業の合間に定期的に山に入り、あっという間に茂ってしまうササやコシダなどを刈り、樹木に巻き付くフジやクズなどの蔓植物を引っぺがし、森の中の風通しを悪くする低木は伐採する。

 なにも里山の管理はひたすら削り取るだけに労力を取られる作業ではない。よく燃えるナラやクヌギの木は釜土やストーブ用の薪になるし、春から秋にかけては食材の宝庫だ。山は、僕たちに様々なものを惜しみなく与えてくれる、まるで母親のような存在だ。

 

 今日も間伐作業の傍ら、農園の裏山を50メートルほど登った場所に自生する大きなヤマモモの木によじ登り、赤く生ったヤマモモの実を腰カゴ一杯に収穫。この実で作ったジャムが大好きな彼女の喜ぶ顔を想像しながら、ホクホク顔で山の斜面を下っていた時に出くわしたのが、大きな大きな一頭のイノシシだった。

 

 口の両端から鋭く伸びる牙。岩も砕いてしまいそうな堅牢な蹄。黒光りする野太い毛。まるで小山のような大きな体。

 イノシシは本来憶病な生き物で、こちらが刺激しない限りあっちからは近づいてこないものだが、このイノシシは明らかにこっちに興味を示している。

 大きな鼻をフンフン鳴らしながら、こっちを睨んでいる。

 

 分かっている。

 彼(オスだと思う)の狙いが何なのか、僕には分かっている。

 僕の腰に付けているアケビ蔓で作ったカゴ。

 腰カゴの中一杯の赤い実。

 分かっているのだ。

 ヤマモモは彼らの大好物だというのは。

 そして、彼女の大好物だということも。

 

 腰に付けたカゴの中身を見つめて。

 そして目の前のイノシシの顔を見つめて。

 イノシシの厳つい顔に、彼女の笑顔を重ねて。

 彼女が、真っ赤なヤマモモジャムを塗った、薪ストーブで焼く自家製の窯焼きパンを幸せそうに頬張る顔を想像して。

 そして右手に持っていた、間伐作業用の鉈を握り締めて。

 

 

 自分がどうしようもなく脆弱で無力で頼りない存在だと感じる時。

 採れたてのヤマモモがたっぷり入った腰カゴを放り投げ、そのカゴにイノシシが顔を突っ込んでる間にそそくさと山を下りてしまった時。

 

 

 沢沿いに山を一気に下っていくと、ようやく小さいながらも愛しい我が家が見えてきた。

 豊富な水が流れる沢は途中で滝となり、滝つぼへ向かって流れ落ちていく。

 

 その滝つぼの畔に立つ、小さな木製の水車。上水道が通っていない我が家に沢から水を引くために、僕がこしらえたものだ。

 その水車の隣の岩場にちょこんと座る人影。

 白磁のような白い肌。

 すらりと伸びた腕、足。

 肩が隠れるまで伸びた、癖のある空色の髪。

 僕の愛しい人。

 

 

 ああ、それにしても今日はまた何て格好をしているのだろう。

 薄い木綿の生地で作られたゆったりめのワンピース。俗に言うアッパッパ。

 スカートの裾は膝丈でおまけにノースリーブ。胸元もちょっとゆるゆる。白い太ももや白い肩、胸の膨らみかけの部分までが剥き出しじゃないか。おまけにワンピースは彼女の肌と同じ、無地の白。肌と生地との境目が曖昧で、パッと見、素っ裸に見えてしまう。滝が撒き散らす水飛沫が霧状となって周囲に広がり、彼女の髪や肌を濡らしているのが余計に艶めかしい。そんな姿の彼女を誰かが見たら二度見してしまうこと請け合いだ。まあこの場には僕しか居ないのだから別にいいのだけれど。むしろちょっと嬉しいのだけれど。

 

 滝壺の畔にちょこんと腰を下ろし、足の踵を水の中に突っ込んで上下に振り、ぱしゃぱしゃと軽く水飛沫を立てて戯れている彼女。

 僕たちが住んでいるこの場所で、彼女のお気に入りの場所が幾つかある。それは農園のてっぺんに造ったハンモックだったり、家の南側に造った縁側だったり、生垣の裏の小さな畑だったり。

 そして夏になれば彼女のお気に入りの場所ランキング赤丸急上昇するのが、この沢の滝壺だ。

 なんたって、涼しい。

 夏。陽当たりのよい我が家の中は、風のない日は蒸し風呂と化してしまうため、一番気温が高くなる昼下がりに、彼女はしばしばこの場所に避難しているのだ。見れば、滝壺の中には網が投げ入れてあり、その中にナスやキュウリ、トマトなどといった夏野菜が放り込まれ、水の中をぷかぷかと浮き沈みしている。きっとあれが今日の夕ご飯になるのだろう。

 沢の畔でぱしゃぱしゃと水飛沫を立てながら佇んでいる彼女。まるで陸に上がった人魚姫みたいだ、とメルヘンチックなことを思いながら、斜面を下り切り、彼女のもとへと歩み寄っていく。

 

 足音が聴こえたらしく、彼女が顔を上げた。

「おかえりなさい」

 木々の隙間から零れ落ちる木漏れ日のような彼女の笑顔。僕はただいまと言いながら、彼女の隣にどかりと音を立てて座る。

 ちょっと不機嫌そうな僕の態度に、彼女は「どうしたの?」と訊ねる。

 僕は大袈裟に顔を歪めながらゴロンと体を横へ倒し、僕にとっての指定席、彼女の膝枕に僕の頭を乗せた。

 彼女は「あらあら」と困ったような笑顔を浮かべながら、僕の髪の毛を撫でてくれる。

 僕は拗ねたように唇をとんがらせながら、せっかく君の為に採った大量のヤマモモをイノシシに盗られたことを打ち明けた。

「それは残念…」

 大好きなヤマモモのジャムを作れないことに、眉を「ハ」の字に下げてしまう彼女。そんな彼女の表情に、イノシシの獰猛な圧力にあっさりと負けてしまった自分の無力さに、心が痛んでしまう。

 それでも彼女はすぐに柔らかな笑顔に戻ってくれた。

「でも、あなたが無事で良かった。それが何よりのお土産だわ…」

 彼女はそう言いながら、僕のとんがらせた唇を人差し指と親指とちょんちょんと挟む。

「だから機嫌直して…」

 しかし僕の口は相変わらずとんがったままで、ふくれっ面のまま。

「お願い…」

 彼女は優しく言いながら、僕の膨らんだ頬を人差し指でちょんちょんとつっつく。

 それでも口を「へ」の字に曲げたままの僕に、彼女は「もう」と呆れたように呟きながら、しかたなく彼女の顔を僕の顔の近くに寄せ、そして彼女も唇をとんがらせ。

 頬にふっとした軽い感触。

 彼女の顔が離れる。

 たちまち、「へ」の字とは逆方向に曲がる僕の口。

 彼女はそんな僕の反応に、心底呆れたようにもう一度「もう」と呟く。

 

 牛になってしまった彼女に、はははと笑い掛けながら僕は体を起こす。

 靴を脱ぎ、靴下も脱ぎ、作業着のズボンの裾を折り曲げて、彼女と同じように沢の水の中に足を突っ込んだ。ずっと山の中を歩き通し、最後はイノシシから逃げるために山を駆け降りて、火照ってしまった足が、沢の冷水に浸かって一気に冷やされる。この感触が溜まらない。肩を震わせ、くー、と唸りながら、爪先から頭へと通り抜けていく冷気を全身で感じる。クーラーのない我が家にあって、真夏に涼が取れるこの場所は僕にとっても大のお気に入りの場所だ。

 ふと、隣の彼女を見る。

 薄着の彼女。蚊取り線香が燻らせる煙を纏う彼女。そのお腹。ぽっこりと膨れたお腹。

 そのお腹に向かって手を伸ばす。

丸みを帯びたお腹に、手のひらでそっと触れる。

 この丸みはもしかしたら自然界においてもっとも美しく、そしてもっとも尊い形象なのではないだろうか。

 本気でそう思いながら彼女のお腹を撫でる。そして彼女に、あまり体を冷やさない方がいいよ、と言うと、彼女はいつもの調子で「平気」と短く答えながら僕の手に彼女の手を重ねた。

 彼女のお腹と手に挟まれた僕の手。彼女の手から伝わってくる温もりと、彼女のお腹の中にある新しい生命の熱量を感じる。まるで彼女の体それ自体が湯たんぽのようにほかほかと温かい。

 彼女の肌から伝わる心地よい温もりを感じながら、僕の手は彼女のお腹の上を滑り落ち、鼠径部をなぞり、そのままスカートの裾から覗く白い太ももの上へと辿り着く。

 彼女が僕を睨みながら「エッチ」と言う。

 僕は殊更朗らかに笑いつつ、君の体が冷えていないか確かめてると言いながら、彼女の体の上を滑る手を、彼女の内ももへと滑り込ませた。

 けしからんその手はたちまち彼女によって抓られてしまい、手の主はいててと情けない悲鳴を上げながら、赤い痕が残ってしまった手を引っ込めた。

 君の体を心配しての行為なのに、と抗議するも、彼女は「フン」とそっぽを向いてしまい、なしのつぶて。

 思いのほか不機嫌になってしまった彼女に、慌ててしまう僕。この凍てついた空気を和らげる方法を探して視線を方々にやると、沢の水の中にぷかぷかと浮かぶ緑色の物体を発見。

 緑の素地に黒の縦縞が入るボール状の物体。

 僕はズボンが濡れるのも構わらずに沢の中に入ると、そのボール状の物体、網の中に入ったスイカを取り上げ、彼女のもとへと戻る。

 スイカを食べよう、と彼女に提案。

 彼女は「それは夕食後のオヤツ」とそっぽを向いたまま答える。

 まあまあ、と彼女を宥めながら、腰にぶら下げていた鉈を握り、沢の水で濯いで、鈍く光る刃をスイカに向けて振り下ろした。

 

 2人で食べるにはちょうどよい小ぶりな大きさのスイカを、鉈で4等分に切り分ける。半月状になったスイカを、ほら、と言いながら彼女の顔の前へ差し出した。

 目の前に差し出されたスイカを見ず、じろりと横目で僕を睨んでいる彼女。彼女が纏う不機嫌な空気をどうにか打ち払おうと、顔に精一杯の笑顔を浮かべながら、彼女がスイカを受け取るのを待つ僕。

 辛うじて僕の粘り勝ちだ。

 彼女は仕方なくといった様子で、僕の手からスイカを受け取る。

 

 僕は大きな声で、いただきま~す、と言いながらスイカの真っ赤な中身にかぶり付いた。

 たちまち口の中に広がるさっぱりとした甘味と豊潤な水分とシャリシャリ感。沢の水でよく冷えた果肉と果汁が口腔内の隅々まで行き渡る。まるでリスのように両頬を膨らませてしゃくしゃくと咀嚼し、口全体でスイカの甘味を味わい、嚥下し、そして口の中にまだ残ってる状態で我慢できずに二口目。そして三口目。

四口で1つ目を全て平らげ、口の中に残していた種は畑に撒くため一粒一粒丁寧に皮の上に落とし、そして2つ目に手を伸ばす。

 ふと、隣を見る。

 半月状に切ったスイカに、小さな口を目一杯広げてかぶり付いている彼女。

 ぷぷっと笑ってしまった。

 

 彼女の食事マナーは手放しで良いと褒められたものではないが、取り立てて悪いと言えるほどのものでもない。どうも僕と出会う前の彼女はまともな食生活を送っていなかったらしく、その所為かお箸の持ち方も出鱈目だったが、アルバイト先のおばちゃんたちに矯正させられて、人前で食べても恥ずかしくない程度には彼女のテーブルマナーは向上した。

 そんな彼女だが、未だに苦手にしているのが、頬張る、という行為だ。

 

 口がちょっと小さ目だからだろうか。おにぎりを頬張ると口の周りには毎回必ずお米粒が引っ付いているし、お煎餅を頬張ると割れたお煎餅を膝の上にぼろぼろと零してしまう。頬張るのが苦手なのならば、お弁当用に用意するおにぎりは彼女の口のサイズにあったもっと小さいものを作ればよいのに、と僕が言っても、彼女は大きい方が美味しいからといつも彼女のげんこつ2つ分はある特大のおにぎりを作ってしまう。だったら一口で口に含む量をも少し減らしたら、と提案しても、頬張るときは目一杯口に入れた方が美味しいからと却下されてしまった。頬張ることが下手っぴなくせに、頬張るという行為におかしな拘りを持ってしまっているらしい。

 彼女と2人で農作業していた頃は、いつも決まって農園の一番てっぺんにある丘のハンモックに座って、お弁当のおにぎりを2人して頬張っていた。僕の隣で大きなおにぎりをむしゃむしゃと美味しそうに頬張る彼女。一口かぶり付く毎に2粒は彼女の口の周りにくっついているお米粒を摘まんでは僕の口の中に運び、彼女の口の周りをお掃除してあげるのが僕のお昼ご飯での役割だ。

 

 そして今、僕の隣でスイカを頬張っている彼女。

 やっぱり今日の彼女も、口の周りをスイカの果肉で汚し、顎には1粒2粒と黒い小さなスイカの種を引っ付けている。

 僕は苦笑しながら彼女の顔に手を伸ばし、彼女の顎に引っ付いたスイカの種を摘まみ取る。そしてそれをそのまま僕の口の中へ。おっと、これはおにぎりじゃないんだった、と口の中に入れそうになった種を、僕が食べ終わった皮の上に落とした。

 その間も彼女はスイカをむしゃむしゃと頬張り続けている。

 半月状のスイカの半分を食べ終えて、彼女はスイカを膝の上に下ろし、口を丸く開けてふーと息を吐いた。

 

 スイカの赤い果肉で濡れた彼女の唇。口の周りに付着していた赤い果汁が少しずつ彼女の唇の先端に集まって水滴を作る。その重さはやがて表面張力を上回り、ついに水滴は弾け、果汁はそのまつつつと唇の下を伝い、顎を越え、喉を滑り落ち、鎖骨へと辿り着く。鎖骨のくぼみに出来て小さな果汁の水溜まり。やがて果汁はその鎖骨の堰も越え、胸元まで垂れそうになって。

 唇から落ちていく果汁の行方を目で追っていた僕。その果汁が彼女が着る白のアッパッパの襟元を汚してしまいそうになったので、僕は慌てて彼女の胸元に手を差し伸べた。

 

 手を差し伸ばしたはずなのに。

 何故か、彼女の鎖骨が目の前にあった。

 そして僕の唇に触れる感触は、触れ馴れた、彼女の肌。

 手を差し伸ばす代わりに、彼女の胸元に顔を寄せ、彼女の肌に吸い付いていた僕。まるで吸盤のように窄めた唇を彼女の絹のような肌にくっ付け、彼女の肌を滑り落ちる果汁を吸い上げていた僕。ちゅるちゅると、僕の唇が鳴らす何とも間抜けな音が僕の耳に届く。何だか樹木に抱き着いて樹液を吸ってるカブトムシになった気分だ。

 辛うじて彼女の服を汚すことを阻止した僕の唇は、彼女の肌にくっ付いたまま彼女の白い肌の上を登り始めた。

 僕の唇は彼女の肌を濡らす果汁をちゅるちゅる吸い上げながら鎖骨を越え、喉を這い上がり、顎を伝い、そして終着点は当然。

 唇同士が重なると彼女の柔らかい唇の上には果肉の小さな塊が残っていたので、それも丁寧に吸い上げる。自然と僕の唇は彼女の唇ごと吸い上げる形となり、彼女から顔を離す時には彼女の下唇が僕の口に挟まっていて、ぴろんと伸びていたのが可笑しかった。彼女の引っ張られた下唇と形の揃った白い歯の間には残っていた数粒の黒い種を目ざとく見つけた僕は、離し掛けた唇をもう一度近づけ、彼女の唇の隙間に滑り込ませた舌で、彼女の唇と歯の間の粘膜を舐めずる。彼女の口の中に残っていた小さな固い粒が僕の口の中に移動したことを確認した上で、今度こそ彼女から顔を離し、僕は口を少し開け、彼女の唇を解放してやる。

 ずっと吸い続けていたものだからちょっとした酸欠状態になってしまった僕は、大きく深呼吸しながら、僕の唇との間に細い唾液の線を引いている彼女の唇を見つめた。よく見てみれば、彼女の口の周りには、まだ果肉と果汁が残っているではないか。

 お掃除を再開しようと彼女に顔を近づけようとしたら、彼女は背中を仰け反らして僕から顔を離してしまった。

 僕が何故だい?と眉を顰めていると、彼女はそんな僕の顔と彼女の顔の間に食べかけのスイカを挟んだ。

「まだ、食べてる途中」

 どうやら今の彼女の中では、僕との「お掃除」よりも、スイカを食べることが優先されるらしい。

 スイカと食い気なんぞに負けてられない僕はにっこりと彼女に笑い掛けて、分かったよ、と言い、他の人と比べてやや大き目らしい口を大きく開いた。その口で、彼女が持っているスイカにかぶり付く。彼女が時間を掛けてようやく半分食べたスイカの残り半分を、僕の口は強引に一飲み。頬を大きく膨らませ、口の中にある大量の果肉をむしゃむしゃと咀嚼し、口の端からは果汁をぽたぽたと零しながら、上半身を傾け、首を伸ばし、離れてしまった彼女の顔に僕の顔を近づける。スイカの果肉で一杯になっている僕の口を、スイカの果汁で濡れている彼女の唇に覆いかぶせた。

 僕の口で彼女の口を左右から挟み込み、少々強引に彼女の閉じていた唇を開く。そして僕の口の中に含んでいた果肉を、まだ食べ足りないらしい彼女の口の中へと移していく。

 意外にも彼女はこの行為を素直に受け入れた。もしかしたらよっぽどお腹が空いていただけなのかも知れないけれど、彼女はか細い下顎をこくこくと上下させながら僕の口の中のものを吸い寄せ、彼女の口の中へと収めていく。僕の口の中で唾液と混じりながら散々に咀嚼され、スイカのシャリシャリとした歯触りも清涼感もあったもんじゃないただの食塊を、彼女の口は余すことなく受け止めようとするが、やっぱり彼女の口は僕の口よりも随分と小さいようで、僕の大きな口から受け止め切ることができなかった赤い果肉が彼女の小さな口の端からボタボタと零れ落ち、顎から胸元へと滴り落ち、結局のところ彼女のお召し物を汚してしまうことになる。最終的に僕の口の中の果肉は、半分が無事に彼女の口の中へと収められ、半分は彼女の口の外へと零れ落ち、彼女の血となり肉となることはできなかった。

 彼女から顔を離す。彼女にスイカを食べさせていた間はずっと息を止めていたため、またもや軽い酸欠状態。肩を上下させながら深呼吸を繰り返していたら、見ると彼女も酸素が足りてないらしく、大きく胸を上下させている。僕の口から大量の果肉を移された彼女の口は、中身を零すまいと閉じられたままで、もぐもぐと顎を動かしながら中身を咀嚼し、時折喉ぼとけを動かして中身を飲み込み、その間は口では呼吸できないため鼻のみで荒い呼吸を繰り返した。

 それにしても、見るも無残な彼女の姿。せっかくお掃除してやったのに、先程以上に汚れてしまっている彼女の顔。口の周りを中心に、真っ白な肌の上に点在する真っ赤な果肉。唇から顎、首、そして胸全体に広がる赤い果汁。鎖骨に出来た果汁の水溜まりの中に浮く数粒の黒い種。ゆったりとしたサイズのアッパッパは大きく乱れ、襟口からは彼女の左肩、そして左胸のふくらみが覗いている。その胸が彼女の吐く息に合わせて膨らんでは萎み、膨らんでは萎みを繰り返す。

 彼女のルビーのような瞳が普段以上にキラキラと輝いて見えるのは、背の高い木立の隙間から降り注ぐ木漏れ日の所為だろうか。

 すぐ側にある滝の音も。

 水を汲み上げる水車の軋む音も。

 聴覚を破壊してしまうかのようのセミの大合唱も。

 全てが遠くに去ってしまった静寂の世界。

 静寂の中にいる空色髪の彼女。

 聴こえるのは、彼女の鼻から出し入れされる彼女の息吹だけ。

 そしてようやく口の中身を胃の中に収め切った彼女の口が、ほっと、小さく開いて。

 

 もう一度、彼女に顔を近付ける。

 彼女の唇に僕の唇を重ねて。

 右手は彼女の左の膨らみに重ねて。

 左手は彼女の腰に回して。

 ゆっくりと彼女の体を押し倒していく。

 

 僕の唇は彼女の唇から離れ、そのまま滑るように顎へと移り、そしてうなじに触れ、肩に触れ。

 服の布越しにその柔らかさを感じていた右手は、彼女の体の形を確かめるようにわき腹から腰へと滑り落ち、腿へと辿り着き、そしてアッパッパの裾をたくし上げると僕の右手はついに彼女の白磁のような肌に直に触れる。

 その右手はアッパッパの中に潜り込んで彼女の腿から腰、そしてぽこっと膨らんだお腹の上をよちよちと登っていき、そしてその先にある柔らかな2つの膨らみへともう間もなく辿り着く頃になって。

 

 ちょうど僕の耳もとにあった彼女の口が、ぽつりと呟いた。

 

「お猿さん…」

 

 彼女のそのコメントに、彼女の鎖骨に触れていた僕の口がふふっと笑う。

 ああそうだよ。

 今の僕は盛りの付いたお猿さんさ。

 

 一切否定する気になれない僕はおどけて、うきき、うきき、と猿の鳴き声を真似しながら、右手で柔らかな膨らみに迫り、そして同時に口も彼女の襟口から胸元へと潜り込ませようとして。

 

 再び彼女はこう呟く。

 

「お猿さん…」

 

 僕は、え? と言って、動きを止める。

 そんな僕に、彼女は密着していた僕と彼女の体の間に彼女の両手を滑り込ませ、僕の体を押し返す。

 離れてしまった、僕と彼女の体。

 

「お猿さん…」

 

 同じコメントを繰り返す彼女。

 僕が2度目の、え? を言うと。

 彼女は視線を僕の背後に向けながらこう言う。

「お猿さん…、見てる…」

 

 彼女の視線に誘われるままに、背後を振り返る僕。

 沢を挟んで向こう岸。

 

 大きな猿が一頭。

 こちらを見ながら立っていた。

 

 猿は、え? 続きは? とでも言いたげに、首を傾げながらこちらを見ている。その猿の背後では、数頭の猿が群れを成して山の斜面を下っているところだった。

 人の来訪などほぼないこの農園において、想定外な出歯亀の出現に、固まってしまっている僕。

 大きな猿は、な~んだ、つまらない、とでも言いたげにお尻をぼりぼりと引っ掻くと、踵を返して彼の群れを追いかけ始る。

 去っていく大きな猿の背中を唖然として眺めていたら、僕の頭がようやく動き始めた。

 猿の群れが駆け降りていった方角。

 あちらには、明日収穫するつもりだったビワの木がある。

 僕も、そして彼女も、ずっと前からとても楽しみにしていた熟れ頃のビワの木が。

 

 僕は素っ頓狂な声を上げながら立ち上がると、地面に投げていた鉈を拾い上げ、沢の中へと飛び込む。水の流れをジャバジャバと掻き分けて向こう岸に辿り着くと、猿の群れの後を追って森の中を駆け出した。

 

 

 

 



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夏 ― 後編 ―

 

 怒涛のイチャイチャラッシュ。

 


 

 

 

 

 裏庭のビワの木を狙う猿の群れを追って、森の中へと消えていく彼の背中。

 上半身だけを起こして彼の背中を見送る私は、胸の前で小さく手を振りながら、がんばってとエールを送った。

 

 彼の背中が森の中へと消えて。

 

 たちまち、私は大きく息を吐いた。両手を岩場につき、体の中に溜まりに溜まった熱を追い出すかのように、長い長い吐息を漏らした。

 堪らず、沢の水面に向けて身を乗り出す。水面に映る私の顔が赤く染まって見えるのは、私の顔を汚しているスイカの果肉やら果汁やらの所為だけではないだろう。

 水面に両手を差し伸べ、水を掬って汚れた顔をジャブジャブと洗う。火照った顔を、冷たい水でパシャパシャと冷ます。

 今も、彼の吐息が私のうなじに掛かっているかのよう。今も、彼の唇が私の唇に重なっているかのよう。今も、彼の手が私の体の上を滑っているかのよう。

 

 この体に新しい生命が宿っていると知ってからそろそろ3カ月。

 体の不調が著しく表れる時期がようやく過ぎ、体を動かすこともそれほど苦にならなくなって、家の中のこともこなせるようになって、涼しい時間帯ならば彼と一緒に畑仕事にも出られるようになって。

 それでも私の体のことを一番に考えてくれている彼。

 

 いつ以来だろう。

 あんなにも激しく求められたのは。

 久しく覚えることのなかった、内から湧き出る熱く滾った衝動。

 その衝動が今も全身を駆け巡っていて、全身がマグマのように熱くて堪らない。顔を洗うだけじゃ足りず、このまま沢の中へ飛び込んでしまいたい気分だったが、さすがにそれは堪えた。

 

 どうやってこの火照りを冷まそうか。

 沢の冷たい水をごくごくと飲んで、体の中から冷まそうか。

 ああ、そうだった、そうだった。

 

 地面に置いていた、まだ手付かずのスイカに手を伸ばす。

 三日月状に切り分けられたスイカを顔に近付け、口を目一杯広げる。

 真っ赤な果肉に、かぶり付く。

 むしゃむしゃと咀嚼し、まだ口の中に残っているのも構わず、二口目、三口目と、次々と果肉を口の中に掻き込んでいく。

 体の火照りを冷ますために、次々とよく冷えたスイカの果肉を、体の中に入れていく。

 種を出すのも忘れ、息をするのも忘れ。

 一切れを喰らい尽くしたら残りのもう一切れも喰らい尽くす。

 

 この日、私は生まれて初めてのやけ食いを経験した。

 

 

 

 小玉とは言え、スイカ一玉のうちの4分の3を食べてしまって、お腹の中がたっぷんたっぷんになってしまった。動いてしまうとせっかくのスイカを戻してしまいそうだったので、沢の畔に腰を下ろし、足の先っちょだけを水の中に入れ、お腹の中が落ち着くまで暫し待つ。

 

 滝の音。水車の軋む音。セミの鳴き声。木々の隙間から零れ落ちる木漏れ日。

 この滝壺から5メートルも離れれば、容赦のない陽射しとたっぷりの湿気を孕んだ猛烈な暑さに襲われることになる。そんな猛暑の世界とは切り離されたような、滝壺の周辺。

 この季節限定の、私のお気に入りの場所。

 

 お腹の中が落ち着いてきた。

 沢の水の中に入れられた網。その中でぷかぷか浮いている夏野菜たち。今日のお夕飯は冷やしトマトとキュウリの丸かじりと、ナスとカボチャの天ぷらの夏野菜尽くしにするつもりだったのだけれど。

 未だにお腹の奥の方で疼いている火照り。スイカをやけ食いしたくらいじゃ消化されない衝動。

 ぽっこり膨れたお腹を、両手ですりすりと撫でる。

 

 意を決した私は、よしっ、と呟いて立ち上がると、滝壺の近くにある岩場へと向かう。湿った苔が生い茂る岩の上を慎重に歩き、そして辿り着いたのは青々とした葉っぱの絨毯が一面に広がる山菜の自生地。滝壺から舞い散る水飛沫を浴びたウワバミソウが、生き生きと茂っている。

 私はその場に膝を折り、ウワバミソウの茎を根元で折りながら、一本一本摘んでいく。携えていた盆ざるに溢れるほどのウワバミソウを摘んだら、水車のもとまで戻り、沢の中に浸けていた夏野菜を引っ張り出し、蚊取り線香も片づけて、おうちへと戻る。

 うわ。滝壺から一度離れると、やっぱりムワッとした熱気。たちまち、全身から汗が吹き出た。口から胸元までにべとつくスイカの果汁が少々不快で、おうちに戻ったらすぐに体を拭いてすぐに着替えようと思っていたのだけれど、この暑さだとすぐに全身汗まみれになるだろうから、お夕飯の支度前までこのままでいることにした。

 夏野菜たちとウワバミソウを土間の日陰となっている比較的涼しい場所に置いて、畑の方へと向かう。

 生垣の間を抜けると、道が右と左の二手に分かれる。右に向かえば、海の方へ向かうなだらかな下り坂。左に向かえば、山の方へ向かう急峻な上り坂。左の上り坂へ向かえば、私の一番のお気に入りの場所であるハンモックの丘があるけれど、体調がある程度戻ったこの体であってもこの坂を上るのはちょっとしんどい。口惜しく段々畑に囲まれた上り坂を見つめながら、生垣の裏へと回る。

 

 生垣の裏の小さな畑。種々様々な野菜たちが勝手に繁殖と衰退を繰り返す無法地帯。そこに足を踏み入れ、目的のものがないか見渡すと、あったあった。

 種を蒔いたら勝手に育つ、手間の掛からない、ずぼらな私にはぴったりな野菜、モロヘイヤ。ちょうど採り頃の葉っぱがたくさんあったので、それらを摘み取り、おうちへ持って戻る。

 

 次に向かったのは裏庭の奥の木陰にある納屋。風通しがよく、湿気も少なく、一日中日の当たらないこの納屋の中には、長期保存用の食材が置かれている。その中の一つ、古新聞にくるまれたもの。泥が付いたままの山芋。土の中で越冬させ、春に掘ったものをこの納屋で保管していたのだけれど、すでに季節は夏。鮮度には一抹の不安はあるけれど、多少痛んでそうなものを食べても2人とも不思議とお腹を壊したことがないので、これも大丈夫だろう、と結論付け、山芋を持って納屋を出た。

 納屋の隣は2人の普段の足代わりになる原付バイクが駐輪されているガレージになっているが、原付バイクの隣には長方形の箱のような車体の小さな自動車が一台停められている。なんでも彼がこの家に住み着くようになった時から原付バイクと一緒にここに停められてあったそうで、バイクの方はおじさんが直してくれて動くようになったが、自動車の方は西欧製の随分古いものらしく、おじさんでも直すことができなかったそうだ。緑と白のツートンカラー。曲線を帯びた美しいフォルムと車体の顔の真ん中にデカデカと貼られた子供のらくがきのような「V」と「W」のエンブレムが何ともアンバランスで、それがかえって可愛らしさを感じさせる小さな自動車。彼が村のレトロ車好きなおじいさんに色々と教えを乞いながらレストアに励んでいるが、この自動車がこのガレージから動くのはいったい何時の事やら。

 

 

 食材が揃った頃には、泥だらけの彼がおうちに戻ってきていた。

「猿には勝ったよ」

 誇らしげに言う彼の背負いカゴの中には、一杯のビワの実。

 私はおかえりなさいと笑顔で彼を迎えながら、彼にタオルを渡そうとして。

「このままシャワーを浴びてしまおうよ」

 そう言って、彼は私の手からタオルを受け取らず、私の手首を掴んでそのままおうちの裏へと向かってしまう。私は今日何度目かの、もう、という抗議の声を上げながらも、彼の後を素直に付いていく。

 

 おうちの裏へと回ると、裏庭の隅に小さな給水塔が立っており、沢から水路を伝って運ばれた水が貯められるタンクの底には地面に向かってシャワーヘッドがニョキっと生えている。

 背の高い彼よりもさらに50センチメートルばかり高い位置にあるタンクの底。その真下に来た私たち2人。彼は泥だらけの作業着を脱ぎ、下着も脱ぐ。私もスイカの果汁で汚れたアッパッパを脱ぎ、下着も脱いで、2人ともすっぽんぽんに変身。

 彼は爪先立ちをしてぐぐっと背筋を伸ばし、さらに腕も伸ばしてタンクの底にあるシャワーヘッドに手を伸ばし、何とか届いた水栓のハンドルをくるくると回した。

 シャワーの口から、じょろろと流れ出す水。この時期はぎらつく太陽の陽射しでタンクの中は熱がこもっているため、その中の水はそれなりに温かい。この時期以外は冷たい水しか出ないため、この季節限定の簡易シャワーだ。

 シャワーから流れ出した水は、その真下に居る私たちの頭の上へ。

 この給水塔兼シャワーも、彼のお手製。シャワーのハンドルが背の高い彼が手を伸ばしてやっと届く位置にある、つまり、私の手では届かない位置にあるのは、彼の策略であること。つまり、私がシャワーを浴びようと思ったら必ず彼を呼ばないといけないこと。ようするに、彼と一緒に浴びないといけないようになっていることは、彼のけしからん企みであることは私もとっくに気付いているのだが、ここはあえて気付かない振り。

 だって、彼と2人でシャワーを浴びるこのひと時は、私にとっても大好きな時間なのだから。

 

 お互い近い距離で向き合いながら浴びるシャワー。

 視界を覆う無数の縦の線の向こうに見えるのは、収まりの悪い髪が水に濡れて肌にくっ付いた彼の顔。私もきっと同じような顔をしていることだろう。

 彼の両手が私の顔に差し伸べられて、目の上を覆う前髪を掻き分けた。視界が広がり、目の前にあったのは至近距離まで接近していた彼の顔。私は瞼を閉じ、素直に彼の唇を受け入れる。

 彼の顔が離れのと同時に瞼を開いた私は、少し身を乗り出して給水塔の柱に括り付けた小さなカゴに手を伸ばし、中の石鹸を取る。

 その石鹸をシャワーの水に晒して両手で揉み込み、泡立てると、それを彼の頭の上に持っていき、石鹸ごと泡を彼の頭に塗りたくっていく。その間彼は背伸びをし、またぐぐっと腕を伸ばしてシャワー水栓のハンドル回し、シャワーの勢いを弱めた。

 彼の頭がまるで綿菓子のように石鹸の泡塗れ状態になったところで、彼に石鹸を受け渡す。そして空になった両手で、改めて彼の頭をわしゃわしゃと掻き混ぜ始める。

 彼も受け取った石鹸を手で揉んで泡立てると、それを私の頭の上に乗せ、肩まで伸びた髪全体に塗りたくった。石鹸をカゴに戻し、両手を使って私の髪の毛をわしゃわしゃと掻き混ぜ始める。

 いつからかどちからともなく始まった、この頭の洗いっこ。私の頭はちょうど彼の胸の位置にあるため彼は洗いやすいだろうが、彼の頭は私が手を伸ばしてやっと届く位置にあるので、腕を上げっ放しの私はちょっと辛い。そして時々意地悪な悪魔に変身してしまう彼は、更につま先立ちして背伸びをし、わざと頭を私の手から遠ざけてしまう。仕方なく私もつま先立ちをして、一生懸命背筋を伸ばし、腕を伸ばして彼の頭をわしゃわしゃと掻き混ぜ続ける。

 自然と私の顎は上がり。私の両手は彼の後ろ頭を抱えるようになり。

 これじゃまるで私がねだっているようじゃないか、と気付いた時には、意地悪な彼の唇が私の唇を塞いでしまっているのだ。

 

 やられっ放しは癪なので爪先で彼の向こう脛を蹴っ飛ばしてやりつつ、彼は「イテっ」と小さく悲鳴を上げながら笑いつつ、お互いの頭の洗いっこを続ける。私は石鹸の泡が彼の目に沁み込まないよう注意を払って彼の髪の毛を掻き混ぜているのに、彼の私の髪の毛を掻き混ぜる手は少しだけ大雑把。石鹸の泡が少しだけ目に染みてしまい、瞼を閉じてしまう私。視界が真っ暗になってしまっても、彼の髪の毛を掻き混ぜる行為は止めない。一方の、私の髪の毛を掻き混ぜる彼の手は止まってしまった。掻き混ぜる代わりに髪の毛を一つに纏めて伸ばしたり、ぺたぺたと叩いたり。時折聴こえる、彼の小さな笑い声。きっと私が目を閉じていることをいいことに、泡立った私の髪を逆立てたり平べったくさせたり、色んな形を作って遊んでいるのだろう。

 彼の立て続けの悪戯に、いい加減私が頬を膨らませてへそを曲げ始めたので、彼はごめんごめんと笑いながら謝り、水栓のハンドルを捻った。シャワーの水が勢いを増し、私の顔の上から石鹸を洗い流したところで、私はようやく目を開けることができた。

 すると案の定と言うべきか、開いた目と鼻の先にあったのは、彼の顔。彼は小さな声で「ごめん」と呟きつつ、そして私は心の中で、もう、と呟きつつ、結局今度も私は彼の唇を素直に受け入れた。

 

 一応外から隠すために給水塔の柱と梁には防水カーテンが付いているのだが、私たちは一度もこのカーテンを使ったことがない。どうせ誰も来ない場所だ。カーテンは閉めない方が、開放感があっていい。

 まあでも。

 私たちの間に、新しい一員が加わったら、その時はカーテンを閉めながらシャワーを浴びることにしよう。以前の私のように、下着姿のままでお店の中を練り歩くような子に育ってしまってはいけないから。

 

 

 シャワーで汗と汚れを洗い落とし、新しい服に着替えると、さっそく今日のお夕飯づくり。干していた洗濯物を取り込んで畳んでくれた彼はそのまま「手伝うよ」と言ってくれるが、山仕事で疲れているだろうからお夕飯まで休んでてと言って、炊事場には一人で立つ。

 

 山芋は泥を綺麗に洗い流し、皮を剥き、定番の擦りおろしにのとろろに。

 ウワバミソウは葉の部分を削ぎ落し、茎と根っこだけにすると、お湯で柔らかくなるまで湯がき、みじん切りにする。さらに2本の包丁を使い、まな板の上でみじん切り状態の茎と根っこをたたき、これもとろろ状にする。この2本の包丁でまな板をリズミカルに叩く瞬間が、たまらなく楽しい。とろろ状になったウワバミソウのたたきに、少量のお味噌と擦りおろしにんにくを混ぜて小鉢に移して出来上がり。

 モロヘイヤの方は、逆に茎と根っこを切り落とし、葉っぱだけにすると、これもやはりお湯でさっと湯がいてみじん切りにし、そしてやはり2本の包丁を使ってたたきにする。散々叩かれてとろろ状になったモロヘイヤ。こっちは醤油とみりん、そして擦りおろしのわさびで味付け。

 ナスとカボチャは予定通り天ぷらにし、冷え冷えのトマトとキュウリは大雑把に切ってお皿の上に盛り付ける。

 

 

 陽が傾き、少し風も出てきて、涼しくなってきた。

 いつもの縁側で休んでいる彼のもとに、お夕飯を運ぶ。この季節は夕食も縁側で食べることが多い。おうちの中よりも涼しいし、生垣の隙間から水平線に沈む夕陽が見えるからだ。床の上に直接ランチョンマットを敷き、その上にお夕飯を並べていく。

 お茶碗に盛られたご飯、お椀に注がれたお味噌汁、大皿に盛られた天ぷら、ガラス皿に盛られた冷野菜。そして小鉢に分けられたウワバミソウのたたき、モロヘイヤのたたき、山芋の擦りおろし。

 

 縁側の床に胡坐をかいて座る彼は、ランチョンマットに並べられた小鉢を、興味深そうに覗き見る。

「なんだかネバネバ系のものが多いね」

 当然の感想を口にする彼。

 私はお盆で顔の下半分を隠しながら、おずおずと頷く。

「ネバネバ系のもの…、精力つく…、らしいから…」

「そっか。夏バテ予防だね」

 肝心なところで察しが悪い彼に心底がっかりしてしまう私。お盆に隠れた私の頬が、赤く染まっていることなど知りもしないのだろう。

 仕方なく私は縁側から立ち上がると、居間の中に入り、隣の部屋の襖を開ける。

 居間の隣の部屋は、私たちの寝所。

 その寝所に敷かれた、セミダブルの布団。

 縁側から寝所に敷かれた布団を見る彼。

「へー。もう布団敷いてたんだ。今日は早めに……あっ…」

 短い声を上げた彼。

 ようやく私の意図を察したらしい。

「あ…、えっと…」

 布団と、足もとの小鉢と、そして襖の前で膝頭を付き合わせながらもじもじと立っている私の顔とを交互に見比べる彼。

 彼はランチョンマットの上に置かれた箸を手に取り、逸る声で言ってきた。

「すぐに、すぐに食べよ。急いで食べよ。早く食べよ」

 私も赤く染まった顔でこくこくと2度短く頷くと、とてとてと縁側の彼のもとまで駆け寄り、彼の真向かいに足を崩して座る。

 箸を手に取り。

「いただきます」

「いただきます」

 どんなに急いでいたとしても、ぴったりと重なる彼と私の「いただきます」。

 そして彼の心も私の心もサバトの夜に向かってぴったりと歩調を合わせながら、目の前の食事を急いで口の中に掻き込むのだった。

 

 

 

 



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秋 ― 前編 ―

 

 

 

 

 同時に複数のジャンボジェット機が到着したばかりの国際線ターミナル。到着ロビーでは入国審査ゲートの前で乗客たちが長い行列を作って順番が回ってくるのを待っている。

 そんな乗客の列の横を、すたすたと歩く細身の男性が一人。短く纏められて黒髪、カーキ色のくたびれた背広、手には所々がほつれ気味の使い古されたブリーフケースと、一見冴えない風貌の男性。他の乗客たちと同じようにジャンボジェット機から降りたばかりの彼は、入国審査ゲートの前まで辿り着くと、背広の内ポケットから取り出した一枚のカードを警備員に見せる。順番待ちを無視して近づいてきた男性に身構えていた警備員は、カードを見た瞬間たちまちすっと背筋を伸ばし、そして男性に向けて頭を下げた。男性は目立っちゃ困るからとばかりに警備員に顔を上げるように言う。それでも警備員は男性に向けて小刻みに会釈を繰り返しながら、入国審査ゲートの端っこに男性を案内し、厳重に施錠されているドアを開けて男性を通した。

 入国審査を素通りした男性は空港のエントランスを抜け、空港ターミナルを出た途端、この国の夏特有の湿気を帯びた熱気に煽られ、思わず顔を顰める。見れば目当てのバスがロータリーに停まっていたので、すぐさまバスの中に駆け込んだ。ヒンヤリとしたエアコンの冷気を期待していたが、生憎このバスは省エネ運行中らしく、窓は全て開け放たれ、天井にぶら下がっている古い扇風機がしゃかしゃかと動いているのみ。がっかりする彼は背広の上着を脱ぎ、絞めていたネクタイを外し、ワイシャツの第一ボタンも外して、せめてもの涼を取る。バスが走り始めれば窓の外から風が流れ込み、バスの中は一気に涼しくなった。

 

 歳を重ねるにつれ母国を離れる時間が多くなってきた。今回の帰国も久しぶりの事で、しかも次の赴任先に向かう前にちょっと立ち寄っただけだ。明日には、またこの国を発たなくてはならない。本当ならば色々と訪れたい場所があるのだが、その時間を取れそうにないのが口惜しい。

 窓の外に見える街の風景。訪れる度に数を増やし、背を高くしていく高層ビル群たち。”世界の再創世の日”からすでに多くの歳月が経過したが、少なくともこの窓から見える範囲では、この国の復興につてはすでにセカンドインパクト以前の水準まで達しているらしい。

 あの村はどうだなっているだろう。以前は定期的に訪れていたあの村の跡地。彼の再出発の地となった場所。忙しさにかまけて、もう久しく行けてない。

 あの街はどうだろう。父と母のお墓がある街。そして。

 そしてあの2人と出会えるかもしれないあの街。

 きっとまたすぐに会えるだろうと思っていたのに、もうずっと会えてない。冬のあの日に偶然ばったり会って、ピアノを囲んで小さな音楽会をした日から、ずっとご無沙汰。

 ああ、こんなことになるんだったら、やっぱり連絡先なり、彼らの家までの地図なりを貰っておくんだった。偶然というものにいつまでも頼ってちゃダメだった。

 ああ、あの2人に会いたいな。

 蒼銀色の髪の彼女と、白銀色の髪の彼と。

 

『はい! 本日のリポートはこちら!

 〇△村の道の駅からお送りいたしております!

 何の変哲もない道の駅ですが、ご覧ください!

 このお客さんの列!』

 

 バスの運転席の後ろには客席に向けた大きな液晶ディスプレイがあり、テレビ番組の映像が流されている。女性リポーターが、どこかの田舎にある商業施設の取材に訪れているらしい。

 

『正に奇跡の道の駅。

 奇跡のお野菜。

 我々は道の駅職員への直撃インタビューにも成功しました。

 ご覧ください』

 

 映像が切り替わり、テレビに映し出される一人の女性。

 突き付けられたマイクの前に、ぼんやりと突っ立っている。

 

『大変な盛況ぶりですが率直な感想をどうぞ』

『……』

『こちらのお野菜にはどんな秘密があるんでしょうか。ご存知ですか?』

『……』

『あなたもお野菜を食べて何か幸運が恵まれましたでしょうか?』

『……』

『これからいらっしゃるお客さんへ何か一言どうぞ』

『……』

『以上、あまりの盛況ぶりに言葉を失っている職員さんでした』

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」

 

 突然、客席の方から大声が聴こえたものだから、運転手は慌ててブレーキを踏んでしまい、座席から立ち上がっていた男性はバスの急制動に前につんのめり、前の座席のバックシートで鼻を打つ羽目になる。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 渚カヲルが、彼の伴侶のパート先だった村の農産物直売所兼道の駅に寄ると、たちまち道の駅の職員のおばちゃんたちに囲まれてしまった。

 おばちゃんたちは無駄にカヲルの腕や肩にペタペタと触りながら、カヲルの伴侶の様子を訊ねてくる。

「ええ、順調です」

 おばちゃんたちの迫力ある質問攻勢にはにかみながら応じるカヲル。伴侶がこの道の駅を辞めてから半年余り。みんな、身重の彼女のことを心配してくれているらしい。

 おばちゃんの一人が言う。

「ほんとは顔を出して色々してあげたいんだけどねぇ。カヲルちゃんのおうちに行くまでのあの坂を上る自信、うちにはないわぁ」

 カヲルとその伴侶が住まう村はずれの高台にある農園。辿り着くまでにはくねくねと曲がりくねった狭くて急峻な坂道を何キロメートルも上がらなくてはならない。陥没だらけのアスファルトがやがて砂利道になり、泥道になるあの悪路を、カヲルとその伴侶以外の者が使うことはほぼなかった。

 カヲルが伴侶の元職場に訪れたのは、元仕事仲間たちに伴侶の近況報告をするためだけではなく、伴侶から頼まれていたこの村の農家が作っている味噌や蜂蜜などを買い求めにやってきたのだが、いつの間にか彼の手は大きな段ボール箱を持たされ、その段ボール箱の中には「レイちゃんに食べさせてやって」とおばちゃんたちの手によって次から次へと村の特産品が放り込まれていくのだった。

 

 駐輪場に停めていた原付バイクの荷台に段ボール箱を縛り付けていたら。

「そういやカヲルちゃん」

 わざわざ駐輪場まで見送りに出てくるおばちゃん集団の一人が、カヲルのお尻をペタペタと触りながら声を掛けてきた。カヲルはおばちゃんの手をスマートに避けながら「なんです?」と訊ねる。

「あんたたち。ちょっと気を付けた方がいいかもよ」

「はぁ…。なるべくレイには負担のないように暮らしてもらってるつもりだけど」

「カヲルちゃんがレイちゃんを大切にしてるのは話聴いてるだけで十分に分かるよ。そーゆーことじゃなくて。最近、村に変な人が来たんだけど、カヲルちゃん、何か心当たりある?」

「変な人?」

「そうそう。その人、どうもカヲルちゃんとレイちゃん探してるっぽいのよ」

「ああ、あの男ねぇ」

「え? あんたも会ったの?」

「あたしが田んぼの草刈りしてたら声掛けられたんだけどさ。この辺りに若くてやたらと白い男女が住んでないか、って。まっさきにレイちゃんとカヲルちゃんが思い浮かんだだけどさ。見るからに怪しい男だったからあたし、すっとぼけちゃったよ」

「あれじゃないかい? 去年ここの野菜がやたらめったら話題になっちゃった時さ。レイちゃんテレビに映っちゃったでしょ。あのあと野菜騒動が落ち着いてからも「あの美人は誰だ」みたいな感じで、エスエヌエス? ってやつ? にカクサン? されて、暫くの間カメラ小僧どもが村ん中うろついてたじゃないか」

「でもうちの倅が言うには、あの後ネット中にばら撒かれたレイちゃんの写真。なんでか全部削除されてたって話だよ。それ以来、ぱったりカメラ小僧どもも来なくなったし」

「それに今度の男はレイちゃんだけじゃないんだ。どうもカヲルちゃんのことも探してるっぽいんだよねぇ」

「そりゃこんなにいい男だよ。世間が放っておくわけないじゃないか」

 そう言いながら腕に絡みついてくるおばちゃん。他のおばちゃんたちもきゃーきゃー言いながらカヲルの腕に胴に抱き着いてくる渦中で、カヲルははははと乾いた笑い声をあげることしかできない。

「まあとにかくだよ。カヲルちゃんもレイちゃんもあたしたちのアイドルなんだから」

「そうそう。不審者はあたしたちの手でやっつけてやろうじゃないか」

「よっしゃ。じゃあ、あたしは村の駐在所と青年団によくゆっとくよ。その不審者? の背格好、よく教えてくれでないかい?」

「うん、それがいいね。カヲルちゃんもレイちゃんも、あたしたちの手で守ってやんなきゃね」

「うちの旦那にもゆっとこうかねぇ。ほら、うちの旦那、猟友会だから」

「用心しとくことにこしたことないからね」

「んじゃ言うよ。30半ばくらいの見るからに冴えない風貌の男でさぁ。なんだかひょろっこくて頼りな~い感じなんよ。でもまあ、見ようによっちゃ男前の部類に入るのかなぁ。まあ、あたしの好みじゃないけどねぇ」

「あんたの好みなんざ誰も訊いちゃいないんだよ」

「はっはっはっは…」

 勝手に話題を振って勝手に話題を盛り上げて勝手に話題を終えて話題の中心のはずの自分を置いて去っていくおばちゃん集団のたくましい背中を、瞬きしながら見送るカヲル。

「さっ、帰るか」

 ヘルメットを被りながら原付バイクに跨り、差し込み口に挿しっぱなしだったカギを捻る。心の中で、自分の伴侶も将来ああなるのだろうか、などとちらっと思いながら、原付きバイクを走らせた。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 まるであのおばちゃんたちの背中のように、太く逞しく育った我が家の稲。今年も大きな嵐や害虫の被害を受けることなく、無事に収穫の時期を迎えることができた。

 一束一束を鋸鎌で刈り取っていく作業。一家2人分のお米さえ収穫できたらよいので、3つある小さな田んぼの稲刈りは、1人でやっても半日もあれば終えることができる。一度に三束を刈り取ったらそれらを1つにまとめて藁で結わえ、田んぼの半分を刈り取った時点で立てておいた稲架の足もとに向かって投げていく。

 この作業。毎年一番の楽しみにしているのがカヲルの伴侶なのだが、作業時間の半分は中腰の姿勢を強いられるため、今の伴侶にはとても任せられるものではない。自宅待機を命じた伴侶は今頃家で拗ねていることだろうが、ここは心を鬼にして一人で全部を刈り取ってしまう。

 

 全ての稲を刈り終えて、投げておいた稲の束を稲架に干していたら、どこからか悲鳴のような声が聴こえて、カヲルは作業の手を止めた。まさか伴侶の身に何かあったのではと一瞬頭を過ったが、悲鳴は我が家とは逆の方向から聴こえてくる。

 田んぼの前を通る未舗装の道。道の反対側はすぐに急峻な斜面になっていて、数百メートル下れば砂浜があり、そして海が広がる。道を右に行けば山奥の林道へと繋がり、そして左に行けば森の中へと入って高台の麓の村へと至る。

 悲鳴の発生源を求めてきょろきょろと周囲を見渡していたら、その悲鳴が段々とこちら側に近付いてくるのが分かった。

 悲鳴の発生源は、未舗装の道の左側から。村へと下る道。森の中へと消える道。森の暗がりの中の道の奥を、凝視していたら。

 道の奥から、一人の男性がひょろひょろと危なっかしい足取りで走ってきていた。

 あの坂道を。

 原付バイクで上がるのも一苦労なあの道を、走ってきたのだろうか。身に着けた背広の上着は大きくはだけ、その下に着るワイシャツも第3ボタンまで外し、何度もこけたのかズボンの膝小僧は泥だらけになっている。

 

 

 暗い暗い森の中を抜け、ようやく明るい場所に出てきた。

 眼前に広がるのは、午後の太陽の光を受けて黄金色に輝く海。

 光溢れるその光景に男性はほっとしたのか、立ち止まり、その場にしなしなと崩れ落ちた。

 

 ぜーはーと肩で息をしている男性を、遠くから訝し気に見つめるカヲル。

 地面を向いていた男性の顔がすっと上がった。

 カヲルと目が合う。

 

「み、み、み…」

 

 何かを言おうとして、喉がカラカラだったのか、途端に咳き込んでしまう男性。

 2回ほど深呼吸して、口の中に残った最後の唾液を呑み込んで。

 そして改めて。

 

「見つけたああああああああ!!!」

 

 男性はカヲルを指差しながら叫んだ。

 

「え? し、シンジさん!?」

 

 慌てて駆け出すカヲル。

 碇シンジも立ち上がり、カヲルのもとに駆け寄ろうとして、しかし笑った膝はすぐに彼のお尻を地面に引き摺り落としてしまう。

 まともに立ち上がることもできないシンジのもとに駆け寄ったカヲル。

「シンジさん、久しぶ…じゃなかった、何があったんです? これまた酷い有様だ」

 側に跪いたカヲルに、シンジはまるで縋りつくようにカヲルの二の腕を握った。息も絶え絶えに彼は言う。

「ど、どうなってんの、この村…! バイオハザっちゃったの…! 犬鳴村かなんかなの…! 人を見るなり、いきなりみんな鎌や鉈持って僕のこと、追いかけ回してきたんだけど…! 何人かは鉄砲持ってるしさ!」

「え? あ、あ~…。不審者って、シンジさんのことだったんですね…」

「へ? 不審者って?」

「え、えーと…」

 カヲルがどう説明しようか思案に暮れていると。

「カヲル~…」

 遠くから女性の声。

「お茶にしましょう…」

 まるで涼やかな風のような女性の声。

 カヲルもシンジも、声がする方へと視線を向ける。

 田んぼの脇を通るなだらかな坂道。その道を、一人の女性が下りてくる。右に左にと小さく揺れながら、どこか危なっかしい足取りで。

 そんな女性の姿を認め、村人たちに襲われた恐怖で引き攣っていたシンジの顔がぱぁっと華やいだ。右手を上げ、女性に向かって手を振ろうとして。

「やあ、綾な……」

 シンジの顔が、再び引き攣った。

「ああああああああああああああああああああああ!!!」

 すぐ側からの叫び声に、思わずビクっとしてしまったカヲル。

 シンジは叫び続ける。

「やあああああああああああああああああああああ!!!」

 ようやくカヲル以外の存在に気付いた女性。

「なあああああああああああああああああああああ!!!」

 その叫び声に、女性も驚いてしまったのだろう。

「みいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!」

 女性も肩を震わせて、その場で止まってしまった。

「のおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」

 シンジの顔は相変わらず引き攣ったまま。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」

 口を限界まで開け、叫び続けている。

「なあああああああああああああああああああああ!!!」

 息継ぎもせずに叫び続けるものだから。

「かあああああああああああああああああああああ!!!」

 酸欠状態となり青くなってしくシンジの顔。

「があああああああああああああああああああああ!!!」

 そこまで叫んで、ついにシンジは白目を剥き、背中から地面に倒れ込んでしまった。

 

「シンジさん! シンジさん!」

 泡を吹いて気絶しているシンジの肩を揺さぶるカヲル。

 その後ろでは、慌てた様子の綾波レイが、大きく膨らんだお腹をえっさほいさと両手で抱えながら、2人のもとへと駆け寄ろうとしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 涼やかな風の流れを感じ、眠りの底に沈んでいた意識は微睡みの水面へ。

 うっすらと広がっていく視界。

 どこかの縁側だろうか。板張りの床の上に寝かされているようだ。庭を覆うように立つ大きな金木犀の枝の隙間から差す柔らかな陽射し。頭の下には折り畳んだ座布団が枕代わりに敷かれている。

 だんだんとはっきりとしてくる視界。

 側に、女性が座っている。縁側の床に、女性が足を崩して座っている。

 見慣れた空色の髪。白い肌。紅玉の瞳。

 でも、髪の長さは見慣れたものとは違う。

 あのマイナス宇宙で。

 今生の別れと思って対峙した彼女。

 14年の歳月で伸びに伸びてしまった彼女の髪。あの時の長さまではいかないけれど、あの時を思い起こさせるような、背中まで伸びた癖のある彼女の髪。

「やあ、綾波…」

 曖昧な意識のまま、彼女の名前を呼んでみた。

「なあに…?」

 まるで今の自分の体を包み込んでいる涼やかな風のような、彼女の声音。どうやらこの風の正体は、彼女が扇いでくれている団扇によるものらしい。

「また僕のこと…、待っていたの…?」

 彼女はこくりと小さく頷く。

 それを見て、嬉しさ半分、悲しさ半分の気持ちが心の中に広がっていく。

「ダメだよ…。君は…、君の場所を…、見つけなきゃ…」

 ぼんやりとした視界の向こうで、彼女がくすりと笑ったような気がした。

「大丈夫…」

 すぐ側にいるはずの彼女の声が、何故か遠くに聴こえる。

「え…?」

「私は…」

 彼女は一旦そこで言葉を切り、ふるふると首を横に振って。

「私も…、彼も…、大切な居場所を…、見つけたわ…」

 

 

 

「カヲル…」

 レイに呼ばれ、作業着から作務衣に着替えたカヲルが縁側に出てきた。その手に持っていたガラスカップを乗せたソーサーを、縁側の床で横になっているシンジの前に置く。

「大丈夫ですか?」

「え? あ…」

 寝ぼけまなこでレイとカヲルの顔を交互に見るシンジ。

「レイが淹れてくれたハーブティーです。寝起きにはこれが一番ですよ」

 シンジは緩慢な動作で体を起こすと、口の端からだらいなく流れていた涎の跡を手で拭い、床に置かれたカップを見つめる。

 もう一度カヲルを見て、そしてこちらに向けて団扇を仰いでくれているレイを見て。

 少し顔を赤くし、頭をぽりぽりと掻きながら、小さく「いただきます」と呟き、手に取ったカップを口に近付ける。

 一口飲んで。

「うはっ。スース―する」

 顔を顰めるシンジに、レイもカヲルもくすりと笑った。

 

 

 

 



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秋 ― 中編 ―

 

 

 

 

 午後の太陽の陽射しが差し込む縁側で、ハッカの香り漂うハーブティーをちびちび啜る。

 一方で、横目でちらちらと、隣に足を崩して座っている彼女。癖のある空色の髪を背中までの伸ばした綾波レイの、大きく膨らんだお腹を見ていたら。

「ちょっとおやつを調達してこよっか」

 渚カヲルはレイと碇シンジの間を通って、縁側の下にある沓脱石に降りる。サンダルを履き、庭の端へと向かった。

 カヲルの背中を視線で追うシンジ。カヲルの言った通り、レイが淹れたハッカ臭強めのハーブティーは寝起きにはちょうどよく、寝ぼけていた頭とぼんやりとしていた視界がはっきりとしてきた。

 地面に青々と広がる芝生。庭を囲むように植えられた生垣。家と庭を陽の光から守るように天に伸びる樹木。その隙間から見える、黄金色に染まった海。

「素敵なところだな…」

 人里から離れた海辺の高台にぽつんとある一軒家。まるで御伽噺に出てくる桃源郷のようだ。

 シンジの視線の先では、カヲルが斜めに傾いて伸びるブナの木の前に立っている。カヲルはサンダルをその場に脱ぎ捨てると、ブナの木をひょいひょいと登り始めた。

 その様子を見ていたシンジは呆気に取られたように口を半開きにし、隣のレイの顔を見る。

「か、カヲルくんが…」

 レイは小首を傾げている。

「あのカヲルくんが…、木登りしてるよ…」

 それがどうしたの? とばかりにレイは小首を傾げている。

 そんなシンジを他所に、カヲルはブナの木の半分まで登ると、横に伸びる太い枝に跨って、縁側に座るレイを手招きした。

 呼ばれたレイは大きなお腹を重そうにしながらお尻を引き摺って床の上を移動し、縁側の淵まで行くと、沓脱石の上にあるサンダルを履く。

「よっこいせ…」

 小さな掛け声と共に立ち上がるレイの背中を、目を丸くして見つめるシンジである。

 レイはカヲルが居るブナの木の下まで行くと、着ていた厚手のキャミワンピースの裾の端と端を両手で摘まんで持ち上げた。ワンピースの下に着ているだぼだぼの白のロングスリーブシャツは、おそらくカヲルのものだろう。スカートの裾が上がったことで露わになるレイの真っ白な素足。脹脛、膝の裏、太腿まで丸見えになり、あ、その無防備さは相変わらずなんだ、と妙に安心してしまうシンジである。

「行くよ~」

 その掛け声と共に、カヲルはブナの木の下でスカートの裾を摘み上げて広げて待っているレイに向けて、ブナの木に巻き付いた蔓から捥いだアケビを、次々と落としていく。レイは右に左に軽くステップを踏みながら、空から降ってくるアケビをスカートで受け止めていく。

 

 シンジが居る縁側まで戻ってきたレイは縁側の床に収穫したばかりのアケビを置くと、縁側の淵に腰を下ろした。そして「よっこいせ」の掛け声と共にまずは左足だけを縁側の上に乗せ、続けて「どっこいせ」の掛け声と共に右足も縁側の上に乗せる。お尻も両足も床に付いた状態で、そこから「よっこらせ」の掛け声と共に立ち上がろうとして。

 いつの間にかブナの木から降りて縁側に戻ってきていたカヲルが、すぐにレイに手を差し伸べて、レイが立ち上がるのを助けた。

「あ、ああごめん…!」

 身重の女性が目の前で苦労して動いているのを、ただぼんやりと見ているだけだった自分に気付き、慌ててレイに手を差し伸べようとしたシンジだが、すでに彼女は伴侶の手に支えられて立ち上がった後だった。

「こーゆーところだぞ、碇シンジ…」

 一人打ちひしがれているシンジを他所に、カヲルは「スプーンを持ってくるよ」と言って、家の中に入ってしまう。そして残ったレイは縁側の端に置かれた木製のラウンジチェア(もちろん、カヲルお手製)の前まで行くと、それにお尻を向けて。

「どっこいしょ…」

 の掛け声と共に、ラウンジチェアに腰を下ろす。

 

 ラウンジチェアにその身を沈めながら、ふ~と長い息を吐いているレイを、ぼんやりと見つめているシンジの側に、台所からスプーンと種の吐き出し用の皿を持ってきたカヲルが立った。

「どうかしましたか?」

 カヲルに声を掛けられ、シンジはぎこちない動きでカヲルを見上げる。

「あの綾波が…」

「はあ…」

「あの綾波が…、「どっこいしょ」…だって…」

「はあ…」

 シンジの視線は、再びラウンジチェアに身を預けているレイへと向けられる。

「世界一かわいい「どっこいしょ」だよぉ~…」

 目を潤ませているシンジにカヲルはちょっとだけ呆れたような顔をしつつ。

「そりゃレイが世界で一番かわいいのは知ってますけど」

 

 

 瓜のような形をした紫色のアケビの実。食べ頃になれば実自らどうぞ食べて下さいと言わんばかりに縦にぱっくりと割れてくれる。あとはその中にスプーンを突っ込んで、中の果肉を口に運ぶだけだ。とは言え種が非常に多いので、口に運んでは種を吐き出し、口に運んでは種を吐き出しの繰り返しになるため、食べている間は自然と無口になってしまう。

「ごちそうさまでした。美味しかった」

 初めて食べたアケビ。酸味がなく素朴な甘みでゼリーのような舌触りのアケビは、村人たちに追いかけ回されてヘトヘトになっている今のシンジの体によく合い、あっという間に2つの実を平らげてしまった。

「さて」

 皿の上にスプーンを置いたシンジはカヲルの顔を見た。

「説明してもらいましょうか」

「何をです?」

「えっと…」

 シンジは横目でちらりと、ラウンジチェアでアケビを食べているレイの、大きく膨らんだお腹を見る。

 カヲルは眉を顰めた。

「何をどこから説明してほしいんですか?」

「あ、いや…、その…」

 シンジは言い淀みながらも、とりあえず…。

「お腹の中の子の…、その…、お父様は…?」

「僕以外の誰が居ます?」

「ですよね~」

 と言いつつ、シンジは両手で顔を覆った。

「いやさ~。だってさ~。久しぶりにさ~。君たちにさ~。会いたい思ってさ~。気軽にこの村にさ~。寄っただけなのにさ~。村人にはさ~。追いかけ回されてさ~。必死こいてさ~。逃げた先にさ~。君たちをさ~。やっとこさ見つけることが出来たのはさ~。良かったんだけどさ~。いきなりさ~。お腹をおっきくしたさ~。綾波とさ~。出くわしたもんでさ~。色々とさ~。心の整理がさ~。追い付かないわけよ~。僕のこの気持ち分かる~?」

「はぁ…」

 わんわん喚いてるシンジを心配そうに見ている2人。

 一頻り喚いたシンジは「はい! はい!」の掛け声と共に、両手で自分の頬を何度かパンパンと叩くと、2回ほど大きくうんうんと頷き、そして少し赤く腫れた顔に満面の笑みを浮かべてカヲルとレイの顔を交互に見つめた。

「おめでとう! 2人とも! もしかしたら僕が生きてきた中で、これが一番嬉しい出来事かもしれないよ!」

 シンジからの手放しの祝福。あの森の小径で偶然出会って以来まだ4回しか会ってないのに何を大袈裟なと思ったが、同時に何故かこの人から祝われることが他の誰から祝われるよりも嬉しいと感じてしまうカヲルだった。レイもカヲルと同じ思いなのだろう。頬を赤らめて、恥ずかしそうに顔を俯かせている。

「綾波は大丈夫? 大変じゃない?」

 シンジに問われ、レイは口許に緩やかな曲線を浮かべながらこくりと頷く。

「そっか。ま、側にこんな頼りになる人が居るんだから、何も心配いらないね」

 シンジにそう言われ、レイは顔中に幸せの色を広がらせながら、こくりと頷く。そんなレイの顔が眩しくて見ていられなくなったシンジは、今度はカヲルに視線を向ける。

「予定日はいつなの?」

「え?」

 一瞬きょとんとした表情を浮かべたカヲルはレイを見た。

「そう言えば予定日っていつだったかな?」

 カヲルに問われ、小首を傾げるレイ。

「最後の生理が3月ごろ…だったから…。たぶん…、12月くらい…かな?」

 カヲルはシンジに視線を戻し。

「だ、そうです」

「え?」

 今度はシンジが首を傾げる番だった。

「病院でもうちょっと正確な日付とか分かるもんなんじゃなの? いや、僕も詳しいことは知らないけどさ」

「病院…、ですか?」

 何故か歯切れの悪いカヲルの物言い。

「うん。病院」

「あー……」

 唸りながらカヲルはレイと視線を合わせる。

「もしかして病院、掛かってないの?」

 シンジのその問いに、若い2人はおずおずと頷いた。

 カヲルが説明する。

「僕たち、病院には行けないんですよね」

「え? どうして?」

「僕たち、いわゆる無国籍者だから。自分の身元を証明するものが何も無いんです。僕の「渚カヲル」という名前や、彼女の「綾波レイ」という名前も何となくそうなんじゃないかな、と思って勝手に名乗ってるだけですから。一度役所の復興支援課に行って身元照会をしてみたんですけど、そんな人物、この国の何処にも居ないって言われたし。だから健康保険も入ってないので、病院には行けないんですよ」

「そんな…。いや、妊娠はそもそも健康保険は使えないけど…、でももし病気なんてしたら…。妊婦さんは体調崩しやすいんだし…」

 シンジの複雑そうな顔に、カヲルは笑顔で返す。

「そんな顔しないで下さい。幸いにも、2人とも今の所病院には縁がない生活を送れてますから」

「いや。今、まさに病院が必要な時じゃないか」

 

 

 

 

 ネオンジェネシス。

 彼女の前で碇シンジが宣言した新たな世界の創生。

 大袈裟な言い方をしたが、とどのつまり、碇シンジが真に望んだのはコア化した世界の清浄化でもなければインフィニティ化した人類の再生でもなく、彼にとって大切な人たちが生きていける世界を造り上げることだった。赤い大地や海が緑に青に戻ったことも、地上に人々の姿が戻ったことも、その延長線上に叶ったおまけに過ぎない。

 碇シンジにとっての大切な人たち。

 エヴァンゲリオンと使徒。2つの呪縛に囚われていた彼女。

 使徒の化身として円環する世界という牢獄に繋がれていた彼。

 そしてエヴァがなければこの世界に存在すら許されなかった彼女。

 彼ら、彼女らが生きていける世界の創生。そのために必要なこと。

 碇シンジが導き出した答えが、エヴァがなくてもいい世界への書き換えだった。

 

 彼女は、気が置けない仲間たちに囲まれて、楽しく平穏に暮らしているらしい。

 そして彼と彼女は。

 これは新しい世界の創造主である碇シンジにとってもてんで予想外のことだったが、彼と彼女は人知れず出会い、彼と彼女は人知れず惹かれ合い、彼と彼女は人知れず愛し合い、そして彼と彼女の間にはもう間もなくややこなんてものが生まれるという。

 あまりにも予想外のことであり、ちょっとばかしショッキングなことであり。

 そして何にも増して喜ばしいことであり。

 あの2人の間に生まれる子。

 新しい世界に相応しい、新しい世代の子となるに違いない。

 自分の決断は間違いではなかったと、これほど確信できた日はなかった。

 なかったのだが。

 

 碇シンジは「ちょっとトイレを拝借」と言って縁側から立ち上がる。

「トイレならそこの部屋を通って右です」

 

 カヲルに言われた通りの道順を行くシンジ。外からぱっと見た限りではくたびれた古民家に見えた人里離れた高台の小さな一軒家だが、中に入れば床は明るい色調の木板が敷き詰められ、壁は真新しい白の漆喰に彩られ、広く取られた窓ガラスからは自然光が燦燦と降り注いでいる。家具は必要最低限のものだけ。調度品の類も少ない家の中はまるで遠い昔に訪れた集合団地の殺風景な一室を思い出させるが、しかしこの家の中は温かさと優しさに満ち溢れているような気がするのは何故だろう。

 振り返れば、ガラス戸の向こうに見える広々とした縁側。一人はラウンジチェアに座り、一人は床に敷いた円座に座り、2人して生垣の隙間から見える海を眺めている。静かな2人の周りを包み込む柔らかな空気。ラウンジチェアのひじ掛けから真っ白な細くてしなやかな手が伸びれば、まるで示し合わせたかのように円座の上からも骨ばった白い手が伸び、やがて2つの手は重なり合う。2人の間に会話はないのに、手と手が繋がれた瞬間に互いの指を通して何万語もの言葉が行き交っているようにすら見える。

 そんな2人の背中を微笑ましく見ていたシンジ。踵を返すと、その顔に険しい表情を浮かべながらそっと家の外に出て、抱えていたブリーフケースからスマートフォンを取り出した。

「あ、ここ圏外か…」

 スマートフォンを鞄の中にしまい、代わりにやたらとごっついホイップアンテナが付いた衛星電話機を取り出し、どこかに電話を掛け始める。

 相手が出たらしい。

 

「あ、もしもし。碇シンジだけど。ああうん。一昨日帰ってきたんだ。まあ、僕のことはどうでもいいんだ。それよりも僕が5年前に通した法律のことなんだけどさ。そうそう在留資格特別措置法。先のインパクトが原因で非正規滞在者や国籍不明者になった者は、一定の条件が揃えば滞在資格が認められ、行政・公共サービスが受けられるってアレ。あの法律、ちゃんと機能してる? いや、だってさ。今、僕の目の前にその法の恩恵に与ってない2人が居るんだけど。その制度のことはちゃんと国全体で周知してるんだよね? え? ちゃんと法務省のホームページで告知してるって? バカヤロ。そうゆう人たちって、基本情報弱者なんだからネットなんかでお知らせしたって何の意味もないでしょーが。そーゆーのをお役所仕事ってゆーんだよ」

 

 電話相手を散々説教してやったシンジは、ぷんすか怒りながら電話を切る。

「ったく。肝心の2人に届いてないじゃないか。僕が何のためにあの法律作ったと思ってるんだ」

 そう愚痴りながら、今度は別の番号へと電話を掛け始める。

 

「あ、どうも。碇です。ご無沙汰してます。ええ、元気にしてますよ。会長も無事三選したそうで、おめでとうございます。うん、そうですね~。顔を出したいのは山々なんですけど、またすぐにこの国を発たなくちゃいけないんですよ、申し訳ない。それで今日は折り入って会長にお願いしたいことがあってお電話したんですが。ははっ。いいですよ。これであの時の借りはチャラってことで。実は僕の大切な友人のことなんですが……」

 

 

 

 空から轟く爆音、空を浮遊する大きな機影に、口をあんぐりと開けている2人。そんな2人の横では、碇シンジが衛星電話片手にホバリングしているヘリコプターに向かって手を振っている。

「そんなとこで飛ばれたらこんなちっちゃい家吹っ飛んじゃうでしょうーが! あっちに広い場所があるから! あっち行って、あっち!」

 

 農園の隣にある切り出した木材を置くための広場に着地したヘリコプターに、シンジは駆け寄る。ヘリコプターからは、大きな機材を抱えた白衣の男性が降りてくる。シンジはヘリコプターのエンジンが轟かせる爆音に負けないよう、声を張り上げて白衣の男性に話し掛けた。

「どうも先生! すみませんね! わざわざこんな辺ぴなところまで!」

 白衣の男性に向けて握手を求めるシンジ。

「○×国立医療センター婦人科医の山本です! そりゃ医師会会長の命令とあれば逆らえんでしょうが! 何もんなんです! あんた!」

 しかめっ面でシンジの握手に応じる白衣の男性。

「ははっ! まあ僕のことはいいじゃないですか! それよりも妊婦さんはこっちです! ああ、僕持ちますよ!」

「これはいいですから! それよりもあっちのバッテリーを持ってきてください! ここ、どうせ電気も通ってないんでしょ!」

「さすが先生! 準備がいい! ああ、君たち! 先生これから診察に入るからエンジン切っておいてくれるかな! 待ってる間、これでも食べておいて!」

 シンジはヘリコプターのパイロットたちに持っていたアケビを投げ渡すと、キャビンに置いてあった大きなポータブル電源を抱えて、白衣の男性を2人が待つ家へと案内する。

 

 

 ラウンジチェアにゆったりと座っている綾波レイ。着ていた厚手のキャミワンピースのストラップを下げ、カヲルから借りて着ているだぼだぼのロングスリーブシャツの裾をたくし上げ、服の下から現れたのはぽっこりと膨れた大きなお腹。

 婦人科医に指示されるままに恥ずかし気もなくお腹を晒すレイに、あ、やっぱりこの無防備さは相変わらずなんだ、と妙に安心してしまうシンジ。まるで満月のようなレイのお腹を珍し気にしげしげと見つめていたら、背中からレイの伴侶の刺すような視線を感じてしまい、慌てて視線を逸らす。

 医師はレイのお腹にジェルを塗ると、運び込んだ超音波診断装置の探触子をレイのお腹に当て、ぐりぐりと動かした。

 暫くして、装置のモニターに映し出される、レイのお腹の中。

 その映像を見た瞬間。

 レイは口もとに両手を当て。

 カヲルは身を乗り出し、目を丸くしながらモニターを覗き込み。

 シンジは熱くなる目頭に咄嗟に眉間を押さえ。

 医師も含めた、その場に居た全員の顔が華やいだ。

 

「8カ月くらいですかね。映像で見る限り、異常はありません。順調そうですよ」

 モニターの中の映像を食い入るように見つめていた3人。医師のそのコメントに、ほっとしたように胸を撫で下ろす。

「おや?」

 医師が映像のある一点を凝視する。医師のその動きに真っ先に反応したのはレイでもカヲルでもなく。

「な、何があるんです! 何か問題でもあったんですか!」

 シンジが医師の両肩を掴んで詰め寄っていた。

「ちょ、ちょっとお父さん。落ち着いてください」

「あ、いや、お父さんは僕じゃなくて…」

「シンジさん。ちょっと引っ込んでてくれませんか」

 妙に浮足立っているシンジを押し退けて、医師の前に出てきたカヲル。冷静さを装ったはいいが、医師の顔を見るカヲルの顔も決して穏やかなものとは言えない。

「僕の子に何か?」

 不用意な事言ったらただじゃおかないよ、とでも言いたげなカヲルの迫力ある表情に医師は微かに震えつつ説明する。

「いや、ですから大したことじゃなくて。お子さんの股間に、ナニが付いてたものだから」

「ナニ?」

「つまり、お子さんは男の子です」

 

 

 わざわざヘリコプターに乗って遠く離れた大病院からやってきた医師は、僅か20分の滞在で帰途につくことになった。レイから検査のための血液を採取し終え、機材を片付ける。

 入りくねった細い急峻な坂道を上らなければ辿り着けないこの高台の一軒家。大きなお腹をした妊婦があの道を上り下りして病院に通うことを想像しづらかったシンジは、レイにこのままヘリコプターで運んでもらって入院したらどうかと勧めてみたが、その提案について2人は固辞した。医師もシンジの提案を支持したが、2人はレイがこの家を離れることを頑なに良しとしない。彼女の妊娠が分かった時点で、この家で産む覚悟を決めていたらしい。そんな2人に根負けした医師は、「何かあったらすぐに連絡しなさい。麓の村に行けば電話くらいあるでしょう」と名刺を渡すしかなかった。

 

 すでに回転翼が回り始めているヘリコプターに向かう医師とシンジ。

「今日の費用は僕の方に請求しといて下さい!」

 シンジから名刺を渡される医師。たちまち医師の目が大きく見開かれるが、シンジはそんな医師に大量のアケビを渡す。

「これ、奥さんのおみやげにどうぞ!」

 何か言いたげな医師の背中を押して強引にキャビンに乗せたシンジはドアを閉めてやると、すぐにヘリコプターから離れた。

 

 ヘリコプターの機影が空の彼方へと溶けていくのを見届けたシンジは、ふ~、と溜息を吐きながら眼下に広がる海を見渡した。

 傾いた太陽の光を浴びてきらきらと輝く海。斜面に生い茂る、赤色に黄色に染まる広葉樹。道端で咲き乱れているコスモスの花。田んぼの稲架にぶら下がる金色の稲穂。空を舞う赤とんぼ。

 いい場所だ。間違いなくいい場所だ。多少の不便はあっても、のんびりと暮らしていく場所としてここはもってこいかもしれない。でも住み良い場所が、出産に適した場所とイコールではないのだ。人里まで車でも20分は掛かりそうなこんな場所で、新しい生命が生まれるその日まで2人切りで過ごすという彼ら。不安でならないシンジは、もう一度2人を説得しようと足早に2人が待つ家へと戻った。

 

 鼻を擽る甘く優しい仄かな香り。大きく育った金木犀の枝の下をくぐると見えてくる木漏れ日の中の縁側。

 縁側の上で佇む2人を見て、シンジは足を止める。

 ラウンジチェアにゆったりと座るレイ。ラウンジチェアに寄り添うように床に腰を下ろしているカヲル。2人は、医師に印刷してもらったレイのお腹の中のエコー写真を見つめながら、弾んだ声で談笑している。

 そんな2人を見た瞬間。

 あ、大丈夫だ。

 そう思ってしまったシンジである。

 あの頃。どこか超然とした雰囲気を纏い、浮世離れしていて、自分とは住む場所が違う遠い世界の住人のように見えたあの2人が、たった1枚の写真を手に朗らかに笑い合っている。

 彼と彼女は、この世界の住人として、すでに彼と彼女なりの揺るぎない居場所を作り上げているのだ。そこに、外野があれやこれや意見を挟める隙間などないのではないか。

 つい30秒前まで、どんな言葉で2人を説得しようかと彼是考えてごちゃごちゃになっていた頭は、雲一つない今の空のように澄み切ってしまった。

「僕にも見せてよ」

 シンジは弾んだ声で言いながら、2人のもとに駆け寄っていくのだった。

 

 

 

 



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秋 ― 後編 ―

 

 

 

 

 渚カヲルと碇シンジは木漏れ日が織り成す光の斑模様の中を歩いていた。

 今晩は2人の家に泊めてもらうことになったシンジ。2人がこの場所に住み着き始めてから初めての泊まり客にご馳走を振舞うため、カヲルとシンジは食材を求めて家の裏に茂る森の中へと入っていた。

 赤と黄色の落ち葉が敷き詰められた森に入って10秒も経たずに、陽の光で温められた空気とは明らかに違う、ヒンヤリとした空気を感じた。やがて2人の前に現れたのは豊かな水を湛えた沢に、周囲に水飛沫を散らす小さな滝。滝壺の畔では、小型の水車がギコギコと牧歌的な音を立てながら回り、沢の水を汲み上げている。

「シンジさん、川魚は大丈夫ですか?」

「え? これから魚を獲るの?」

「ええ。この時期なら麓の川から遡上してくるヤマメが居るんですよ」

「へー、カヲルくんって、釣りするんだ。僕は釣りに関してはちょっと五月蠅いよ。ロッドはどこの使ってるの? DA○WA製? それともSHI○ANO製?」

「あーー…」

「どうしたの?」

「僕が昔持ってた釣り道具一式。レイに全部売り払われてしまったんですよね…」

「そ、そうなんだ…。まあ2人に何があったのかは訊かないでおくよ…。でも道具なしでどうやって釣るの?」

「ええと…」

 沢の畔に立ったカヲルは、身を屈めると足もとにあったサッカーボール大の大きな石を持ち上げた。中腰のままふらふらと歩きながら、長靴を履いた足で沢の中に入る。そして目星をつけていた水の中の岩の前に立ち。

「はあどっこいせーっと!」

 大きな掛け声と共に、持っていた石を水の中の岩に目掛けて放り投げた。

「あのカヲルくんが…、「どっこいせ」って…」

 唖然としているシンジを他所に、カヲルが落とした石は水の中の岩にぶち当たり、ガコンと大きな音を鳴り響かせる。

 暫くして。

「あっ」

 水の中からプカプカと浮かび上がってきた数匹の魚を見て、シンジは短い声を上げた。カヲルは、どうやら気絶しているらしい腹を見せて浮いている魚たちを水の中から拾い上げ、シンジに見せる。

「こんな感じです」

「何て素敵なワイルドライフ…」

 

 その後は適当に山の中を回り、野に生るキノコや山菜を収穫して回った2人。

 山を下りて沢の近くまで戻ったところで、カヲルはシンジが採ったキノコがどっさりと入っている背負いカゴの中身を確認する。カゴの中から毒キノコを見つけては次々と遠くに投げ捨てるカヲル。確認作業が終わった時には、シンジのカゴはすっかり軽くなっていた。

 

 水車がある滝壺の脇を抜け、裏庭へと出る。

「そう言えば綾波って、肉はダメだけど魚はいいんだ」

「レイはどうやら脂や血がダメなようで、魚でも脂の少ない川魚を炙ったものくらいしか食べられないんですよ。…ん? レイが肉がダメなことって、言ってましたっけ?」

「あ、えっと…、た、ただいま~」

 シンジは言葉を濁しつつ、炊事場を兼ねている土間へと入った。そう言えば「ただいま」なんて言うの何時以来だろうと心の中で思いながら、ふと釜土の隣にある調理台へと視線を向ける。

 シンジの肩に担いでいた背負いカゴが、ぽとりと床へと落ちた。

「どうしました?」

 止まってしまったシンジの背中に声を掛けるカヲル。

「か、カヲルくん…」

 シンジから返ってきた声は震えていた。

「あの綾波が…、台所に立ってるよ…」

 シンジの視線の先では、調理台の前に立って栗の皮を剥いているレイの姿。

「はあ…」

 カヲルは邪魔だなぁとばかりに、勝手口を塞いで立っているシンジの横をすり抜けて土間へと入る。

 2人に気付いたレイが振り返り、その顔にコスモスの花のような笑顔を広げる。

「おかえりなさい」

「ただい…」

「カヲルくん…!」

 「ただいま」と言おうとしたカヲルの口は、後ろから肩に掴みかかってきたシンジの悲鳴にも似た叫び声によって閉じられてしまう。

「何なんですか、もう!」

 ついつい荒げた声で返事をしてしまうカヲル。シンジは上擦った声で言う。

「あの綾波が…、「おかえりなさい」だってよ…!」

「それがどうしたんです? 普通のことじゃないですか」

「普通だって!? 普通のことだって!? カヲルくん! 君は何も分かっちゃいない!」

「帰ったらすぐに手を洗って」

 包丁を持ったレイからか細くも鋭い声が飛び、2人はすごすごと洗面所へ向かった。

 

 

 「僕も手伝うよ」と申し出たが、「主賓は大人しくしててください」と断られてしまったシンジは、所在なさげに土間の隣の板の間に座りながら、炊事場に立つ2人の背中を眺めていた。

 あく抜きした栗と水洗いしたむかごは昆布と一緒に米と水を浸した釜の中に入れ、釜土に乗せる。釜土に火をくべるには中腰になる必要があるため、火をくべるのはカヲルの役割らしい。

 その横ではレイが、シンジたちが採ってきたキノコや、今朝掘り起こしたばかりの大根ににんじん、里芋、そして5分前にレイが「無法地帯」から採ってきたばかりの虫食いだらけの小松菜を包丁で切っている。技巧的はとは言い難く、大雑把で、でも慣れた手つきで野菜たちを手ごろな大きさに切っていくレイ。あの素材ならば、出来上がるのは味噌汁だろうか。

 レイが切った野菜たちをまな板の上からザルに上げると、調理台が空いた。するとカヲルは水の張った水瓶の中に放していたヤマメの1匹を掬い上げ、調理台のまな板の上に乗せる。包丁を手に取り、ヤマメの下処理でも始めるのかと思って見ていたら。

 カヲルが持った包丁はそのままレイへと渡された。

「はい」

 包丁を渡されたレイは不満げに口をとんがらせている。

「もう…。たまにはカヲルがやって…」

「やだよ。ヌメヌメしてて気持ち悪いんだから」

「もう」

 レイは膝小僧でカヲルの脹脛を突っつきつつ、仕方なしにヤマメを捌き始めた。

 刃先でヤマメのエラを切り落とし。

「ぎゃぁぁぁぁ…!」

 腹を切り拓き。

「ぐぁぁぁぁぁ…!」

 内臓を引き摺り出し。

「止めてよぉぉぉぉ…!」

「うるさい…」

 横から茶々を入れてくるカヲルの腕を、レイの肘が小突いた。

 

 捌いた6匹のうち、3匹は頭を落とし、3枚におろしていく。落とした頭は水を張った鍋の中に放り込んだ。カヲルはその鍋にレイが切っておいた大根を入れ、釜土の火に掛ける。その間にレイはおろしたヤマメから骨を削ぎ、皮を剥いて、身を斜め切りにしていく。出来上がった刺身を、皿に乗せた大葉の上に盛った。

 残りの3匹には竹製の串を突き刺していく。

「うわぁ~残酷ぅ~」

 相変わらず横で茶々を入れてくるカヲルのお尻を、爪先で突っついてやったら、カヲルは反撃とばかりにレイのお尻をパンと叩いた。負けじとレイもカヲルのお尻を今度は膝小僧で小突き、するとカヲルもレイのお尻の双丘をパンパンと叩く。

 不毛な応酬が繰り広げられている間に3匹のヤマメ全てに串が通ったので、カヲルは準備しておいた七輪の炭に火を起こし、レイから串刺しのヤマメを受け取って網の上に乗せる。

 一方のレイは煮立った鍋に里芋を加え、大根と芋が柔らかくなったところを見計らってキノコと人参を一斉投入。ひと煮立ちさせたところで味噌を溶き入れた。

「カヲル…」

 レイに呼ばれ、七輪でヤマメを焼いていたカヲルはレイの側に寄る。レイはお玉で鍋から汁を2口分ほど掬い上げ、小皿に入れる。まずはレイが小皿の汁を半分だけ啜り、そして。

「どう…?」

 カヲルに小皿を差し出す。カヲルは小皿を受け取ることなく顔を前に出してそのまま小皿に口を付け、残りの半分を啜った。

「うん。ばっちりだね」

 自分の味付けを絶賛するカヲルに、レイは不満げに唇をとんがらせた。

「カヲル、いつもそれだから参考にならない」

 と呟きながら、鍋の中に軽く塩をまぶすレイである。

「人に意見を求めておいてそれはないんじゃないかな」

 カヲルの呆れ声に対し、レイの唇はとんがったまんま。

「もう、機嫌を直しておくれよ。僕にとっては君が作った時点で全ての料理がご馳走になってしまうのだから仕方がないじゃないか」

 そう言って、カヲルはとんがったまんまのレイの唇にそっと自分の唇を寄せた。

 

「ゥオホンっ! ゲホン!」

 後ろから咳の音が聴こえ、2人は振り返る。

「シンジさん、どうかしました?」

「煙たかったかしら…」

 シンジは半分死んだような表情で手をひらひらと振っている。

「なんでもないよ。あ~2人が作る料理が楽しみだな~」

「ははっ。食いしん坊だな~シンジさんは」

「ご飯が炊けるまで、もう少しだから…」

 そう言って、シンジに背を向けて調理を再開する2人。

 そんな2人の背中を見つめるシンジは、「もうお腹いっぱいです」とばかりに一人心の中で身悶えるしかなかった。

 

 

 

 小さなちゃぶ台から溢れんばかりに並ぶ料理の数々。

「食卓が狭くて申し訳ないですね」

「いやいやいやいや…」

 目を輝かせるシンジの視線の先には、茶碗に盛られた栗とムカゴの炊き込みご飯、隣のお椀にキノコと根菜の味噌汁、小鉢の中身はノビルの酢味噌和え、カヲルとシンジには角皿に盛られたヤマメの刺身、そしてちゃぶ台の真ん中に置かれた大皿にはヤマメの塩焼きと、山で採ったクロカワやおばちゃんたちから貰った椎茸、銀杏などといった秋の幸の網焼き。

「ご馳走だね…」

 忙しさにかまけて自炊をしなくなったのは何時頃からか。出来立ての温かい料理を口にするのは何時以来か。人の家で家庭料理を振る舞われるのなんて、もしかしたら初めてではないだろうか。

 盛り立て注ぎ立てのお茶碗や皿から立ち昇る湯気たち。香る匂い。

 思わず生唾を飲み込んでいるシンジの前では、すでにカヲルもレイもお箸を持って手を合わせている。シンジも慌ててお箸を手に取り、

「「「いただきます」」」

 3人の合唱はぴったりと揃った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 とっぷりと陽が暮れ、夜空には満月がぽっかりと浮かんでいる。

 満月の淡い光に照らされる海辺の高台の農園。斜面に連なる段々畑の間の細い坂道を上る、3つの影。いや、3つで一つの影。

「えっさ、ほいさ、えっさ、ほいさ」

 3つの影の先頭を行き、歩調に合わせて掛け声を上げているのは渚カヲル。カヲルは山側に背中を向け、後ろ向きになりながら坂を上っている。そのカヲルが前に伸ばす両手を掴んで、カヲルに引っ張られながら坂を上っているのは綾波レイ。大きく膨らんだお腹を庇うように体を右に左に傾けながら、カヲルの掛け声に合わせて足を交互に前に出している。3つの影の最後尾は碇シンジ。後ろからレイの腰を両手で押し、レイが急な坂道を上るのを手助けしている。

「えっさ、ほいさ、えっさ、ほいさ」

 2人の男性に挟まれて坂道を上っているこの状況に気恥ずかしさでも感じているのか、月明りに照らされるレイの両頬が仄かに赤く染まっている。そんなレイの顔を正面から見つめるカヲルの顔も、締まりのないゆるゆるの笑顔。2人の顔が見えていないシンジも、まるでお猿のかごやのようなカヲルの掛け声が可笑しくて、ついつい吹き出してしまった。

 結局。

「くくくっ」

「ふふふっ」

「はははっ」

 3つで一つの影は、弾んだ笑い声を上げながら、月明りの中の坂道をゆっくりと上っていく。

 

 

 坂道が途切れる場所。農園の、一番高い場所。

「わぁ…」

 真っ先に声を上げたのは、約半年ぶりにこの場所に訪れたレイ。続けて、

「へえ…」

 初めてこの場所に来たシンジも、目の前に広がる光景に感嘆の声を漏らす。

 

 真夜中の静かな海。波の少ない穏やかな水面には、空に浮かぶまん丸の月がそのまま映り込んでいる。そしてその満月に負けじと精一杯輝く夜空の星々たち。いつもは大合唱を響かせる秋の虫たちもこの日はお休みのようで、3人の小さな息遣い以外はなにも聴こえない、淡い光に溢れた静寂に包まれた世界。

 カヲルはレイの手を引き、海が見渡せる位置に立てたハンモックへとエスコートする。レイの両手を支えながらゆっくりとハンモックに座らせて。

「久しぶりだね、ここに座るの」

「ええ…」

 そう言いながら、張られたハンモックをしげしげと見るレイ。

「ハンモック。作り替えたんだ…」

 以前のものと比べて4倍くらいの大きさはあるハンモックの布と、それを支えるための頑丈そうな4本の杭。

「家族が増えたら前のものでは少し小さいと思ってね」

 それにしてもこれは大き過ぎると思う、という表情のレイ。カヲルは得意げに言う。

「今後増える家族が一人とは限らないだろう?」

 そう言われたレイは、頬を赤く染めながらも柔らかに微笑み、「ええそうね」と返した。

「シンジさんもよかったら」

 目の前の光景に見とれていたシンジは、きょとんとした顔でカヲルを見た。カヲルの手が、レイが腰を下ろすハンモックの空いた右隣を指している。

「え? いいの?」

 シンジはいそいそとハンモックの前に立ち、先に座っているレイをひっくり返してしまわないよう、慎重にハンモックに腰を下ろした。

「あ~、いいね~これ」

 シンジは地面から足を浮かせ、ハンモックをゆらゆらと揺らしてみる。

 特大のハンモックのため、レイの左隣もカヲルが座れるスペースは十分にあるが、カヲルは座らずに踵を返した。

「お茶とおやつを持ってくるよ」

 カヲルはそう言い残し、坂道を下っていく。

 

 

 予期せずにレイと2人きりになってしまった。

 身じろぎすれば肘と肘が当たってしまうような距離。空気を通して感じるレイの体温。右耳を刺激するレイの微かな息遣い。

 たちまち全身を緊張に支配されてしまうシンジである。

 シンジは顔を正面の海に向けたまま、ちらりと横目でレイを見た。

 満月の煌々とした月明りに浮かび上がる彼女の横顔。

 

 なんだかあの時のようだな。

 シンジの頭に浮かびあがるのは、2人がまだ少年少女だったころ。出会って、間もない頃。彼女の体から、ようやく包帯やガーゼが取り払われた頃。決戦の時。この国の全てのエネルギーを委ねられ、彼女とたった2人で巨大過ぎる敵と対峙させられた時。

 確かその時もこんな風に、少し離れた場所に座る彼女の横顔をちらりと見たっけ。

 その時の彼女は。無造作に短く切り揃えられた髪を湖から吹く冷たい風になびかせる彼女は、不安も恐怖も疑問も迷いも一切抱かず凛とした、というよりも感情というものが欠けた表情で、遠くのビル群の隙間に浮かぶ巨大な正八面体を見つめていた。

 そして今隣に居る彼女は。背中まで伸びた髪を海から吹く柔らかな風になびかせる彼女は、口もとに慎ましく笑みを浮かべながら、水面に反射する淡い月の光を見つめている。穏やかさとたおやかさとしなやかさに満ち満ちた表情。あの決戦の後、促されるままに見せた笑顔とは違う、体の底から自然と滲み出たような笑顔。

 すっかり緊張が解けたシンジは、そんな彼女の横顔を口もとを綻ばせながら見つめる。

 そしてシンジは気付いてしまう。

 彼女の横顔に微かに浮かぶ、小さな濁りの存在に。

「綾波…?」

 シンジは優しい声で彼女の名前を呼んでみた。すると彼女は瞬きを一つ挟んで月の光に揺れる赤い瞳をシンジの方に向け、そしてもう一つ瞬きを挟んで瞳を再び海へと向ける。

 何か言いたげな、彼女の横顔。

 シンジは、彼女の閉じた唇が開くのを、辛抱強く待った。

 やがて彼女の色素の薄い唇が少し開いて。

「私…、とても不安なの…」

 ぽつりと呟いた彼女の両手は、まるで胸の中にある心臓を鷲掴みにでもするかのように、シャツの胸元をぎゅっと握り締める。それなりの年齢を重ね、それなりの経験値を積み上げてきたシンジは、「何が不安なの?」などとバカみたいな質問は返さなかった。その代わりに、

「うん…」

 と短く答え、シンジが初めて彼女の口から聞くことになった「不安」という気持ちをそっと受け止める。

「私には…、親がいない…。親に育てられた…、記憶がない…」

 そうぽつりぽつりと呟く彼女は、大きく膨らんだお腹に自分の手を乗せる。

「だから…」

 繊細に伸びる眉毛を「ハ」の字に曲げ、大きなお腹に視線を落とし、そのまま黙りこくってしまう。

 シンジはそんな彼女の細い肩に、そっと手を置いた。

「大丈夫だよ」

 ここはあえて断言してみせた。

「君なら、間違いなく絶対に、世界一素敵なお母さんになれるさ」

 彼女は少し長めの前髪の隙間からちらりと瞳を覗かせ、シンジを見つめる。「本当に?」とでも言いたげに。

 シンジは少し大げさに頷きながら続ける。

「もちろん、彼も間違いなく、世界一素敵なお父さんになってくれるよ」

 

 シンジには保証できた。

 かつて、2人から惜しみない愛情を一身に浴びてきたシンジだからこそ、断言できた。

 当時はちょっと真っすぐ過ぎた2人から溢れ出る愛情。その2つの愛は互いに混ざり合うことによって、まるで相手を包み込むような柔らかで芳醇な愛へと変化し、きっと新しく生まれる命に惜しみなく注がれることになるのだろう。

 断言できる。

 2人の間に生まれる子は、間違いなく幸せだと。

 2人に育てられる子は、間違いなく幸せだと。

 なんだったら、僕が2人の子供になりたい気分だよ。

 

「なんだったら、僕が2人の子供になりたい気分だよ」

「え?」

「あ、いや…」

 ついつい出てしまったバカみたいな本音を左手で頭を掻きながら誤魔化しつつ、シンジは彼女の左肩に乗せていた右手をそっと彼女のお腹の上に乗せた。

「君たちの家族になれるこの子が、とっても羨ましいってことだよ…」

「そう…」

 お腹の上に乗せられたシンジの手に、彼女の白い手が重なった

 見れば、彼女の顔に浮かんでいた濁りが、少しだけ薄くなっている。まだ完全に不安を拭い切れないらしい。

 シンジは苦笑する。

「あまり気負わないことだよ」

 そう言って、自分の右手に重なる彼女の左手に、さらに自分の左手を重ねた。

「親を知らない君だって、こんな素敵なレディになれるんだから」

 シンジの言葉に、彼女は頬を赤く染めながら「そんなことない」とばかりに首をふるふると横に振る。

「僕だって、あんなぶっ飛んだ両親のもとに生まれたけど。でも今は、こうやって人並みに生きていけてる。人なんて、多少の間違いや回り道を繰り返したとしても、それなりに育つものなんだ。だから今から君がそんなに気負う必要なんて、ないんじゃないかな」

 シンジの手に挟まれていた彼女の手が、そっと遠慮がちにシンジの手を握った。そして彼女はシンジの顔を正面から見つめながら、深くこくりと頷いた。彼女のその反応に、シンジは安心したように目尻を細め、そして彼女の手をそっと握り返す。

「あ、でも。これだけはお願いしておいてもいいかな?」

 彼女はシンジの目を見つめ、「何を?」と視線で問い返す。

「もしできることなら、君たちの子には、早めに外の世界に触れさせてあげてほしい。この世界は、様々な可能性に満ち満ちてるんだってことを、教えてあげてほしいんだ」

 

 親に捨てられ、他人の家に預けられ、狭い世界に閉じこもり、鬱々とした幼少時代を過ごした自分が、人並みに育ち、今、それなりの人生を歩んでいられるのは、外の世界に触れ、その先でたくさんの人たちとの出会いと触れ合いを通して、様々な可能性を見い出すことができたからだ。

 あの日、父からの一通の手紙で無理やり呼ばれ、知らない大人たちに囲まれながら人類の天敵と闘うよう迫られ、逃げるように再び狭い世界に閉じこもってしまおうとして。それでも辛うじて踏み留まったことで新しい世界への扉を開けることができ、たくさんの人々と出会うことができ、触れ合うことができ。そして今の自分が居る。

 新しい世界へ飛び出すきっかけ。エヴァンゲリオンに乗るきっかけ。

 そのきっかけを僕に与えてくれたのは、君なんだよ。 綾波。

 

 

「僕の居ない間に、なにレイを口説こうとしてるんですか」

「ひえっ!?」

 背中からの氷のような冷たい声に、シンジは素っ頓狂な声を上げながら慌ててレイの隣から離れた。

「そ、そんなこと僕がするわけないじゃないか」

「どうだか」

 カヲルはあからさまに不審を纏わせた視線をシンジに送りつつ、レイの左隣に座る。男女3人が座り、ハンモックが大きく沈んだ。

 カヲルは家から持ってきたピクニックバスケットの蓋を開け、中からティーポットと3つのガラスカップ、そしてくるみの蜂蜜漬けが入った密封瓶と薪ストーブで焼いたプレーンスコーンを取り出し、蓋を閉めたバスケットをテーブル代わりにして置く。カップに紅茶を注ぎ、ソーサーに乗せて隣のレイに渡すと、レイはそれをそのまま隣のシンジに渡す。

「ありがとう」

 シンジは冷めないうちに、と、カップに口を付け、ずずずと一口啜った。爽やかな風味と香りが口から鼻の方へと吹き抜け、舌には仄かな苦みが残る。

 シンジとレイに紅茶を配り終えたカヲルは、次に密封瓶を開けて中身のくるみの蜂蜜漬けをスプーンで掬ってプレーンスコーンに乗せた。それを、

「はい」

 紅茶を啜っているレイの前を跨ぐように体を伸ばし、シンジに渡してやる。

「ありがとう」

 受け取ったシンジはカップとソーサーを膝の上に乗せ、蜂蜜を纏ったくるみがたっぷり乗るスコーンを口へと運んだ。炒ったくるみの香ばしさ、蜂蜜の濃厚な甘さ、スコーンのサクサクとした食感が口の中に広がっていく。

 鼻孔を擽る紅茶の仄かな香り。口の中を包み込む素朴な甘み。心地よいリズムで揺れるハンモック。海から吹く柔らかな風。丘の上を照らす月明り。

「こりゃ胎教にいいな」

 そう呟きながら、スコーンの残りの半分を頬張った。

 シンジの隣では、明らかに過剰と言える量のくるみの蜂蜜漬けが乗ったスコーンを苦労しながら頬張るレイ。蜂蜜とくるみが零れないよう注意して頬張るが、その分齧ったスコーンがぽろぽろと口の端から零れてしまっている。それをくすくすと意地悪く笑いながら見ているカヲルは、レイの胸元に零れ落ちた食べかすを摘まんでは、口の中に運んでいた。

 それを横目で見ていたシンジは心の中で「はいはい」とばかりに溜息を零しながら、残りの紅茶を飲み干す。

 

 

 紅茶を飲み終えた3人はそのままハンモックに寝そべり、川の字になって夜空を見上げた。夜も更ければ気温が一気に下がる季節のため、カヲルが持ってきた大きな厚手のブランケットを、3人でシェアする。3人分の体温で温められたブランケットの中は、ぽかぽかと温かかった。

 この季節の空は明るい星が少なく、おまけに今日は満月だが、それでもペガサス座とアンドロメダ座はすぐに見つけることができた。

 

 取り留めのない会話を交えながら夜空の星々を見つめていて。ふと、シンジは2人に訊ねてみた。

「2人はこれからどうするつもりなの?」

 レイに腕枕を貸しているカヲルは、夜空を見上げながら言う。

「そうですね。刈り取った稲は2~3週間干すから田んぼの方は暫くすることはないかな。さつま芋の掘り起こしとサヤエンドウの種まきは先週終わったし」

「冬用の薪割り、しておかなくちゃ…」

「ああ、そうだったね」

 2人のやり取りを聴いていて、シンジは苦笑してしまう。シンジとしては2人が描く未来予想図を、これからの人生設計を訊ねたかったのだが、2人の頭の中は明日のことで頭が一杯のようだ。 

 でも遠い未来のことではなく、目の前にある明日のことを語り合う2人の姿がシンジにはとても眩しく、そして健全であるように思えた。1日1日を大切に、地に足をしっかりと付けて生きている。そんな印象を2人のやり取りから感じた。

「ああ、でも」

「なに…?」

「「あれ」を決めておかなくちゃね」

「そうね…」

「前に話し合ったものでいいのかな?」

「ええ…」

「うん。じゃあ…」

 お互いの顔を見合いながら話していたカヲルとレイの顔が、同時にシンジへと向けられる。

「シンジさん」

「なに?」

 夜空を見上げていたシンジも、名前を呼ばれて2人に顔を向けた。

「相談があるんです」

「なに? なに? なんでも言ってごらんよ」

 この2人から相談を受けるなんて。なんだか自分がとても立派な人物になったような気がして、シンジは逸るように前のめりになって顔を2人近付ける。

「えっと…。シンジさんの…、その…」

「うんうん」

「シンジさんの名前を、貰ってもいいですか?」

「名前?」

「ええ。以前から2人で決めてたんです。生まれくるのが男の子だったら、シンジさんの名前を貰おうって」

「え?」

 シンジの目が、点になる。

「どうですか?」

「えっと…。どうして僕なんかの名前を…」

 カヲルはレイの枕代わりにしていない方の手で、頬をぽりぽりと掻く。

「実は他に良い名が思い浮かばなかった、っていうのが本当のところで。だから僕たちにとって、大切な人の名前だったり、馴染みのある人の名前を貰ったらいいんじゃないかって」

「それで…、僕…?」

「ええ。真っ先に浮かんだのが。あ、もちろん、嫌だったら第2候補の名前にしますから。断ってもらって構いません」

「第2候補?」

「ええ。これはレイが考えたんですが、どうも誰の名前だったか、レイもよく思い出せないようなんですけど。第2候補は“ゲンドウ”にしようと…」

「うん。僕なんかの名前でよかったら、いいよ」

 やや食い気味に返事をしたシンジに、カヲルもレイも一瞬きょとんした表情になって。

「本当ですか?」

「よかった…」

 シンジから承諾の返事をもらい、安心したように微笑みながら互いの顔を見合う。そんな2人の様子を見て、シンジの心の中には嬉しさがふんわりと綿毛のように広がっていって、その一方で寂しさが小雨のようにしとしとと降り注ぐ。

 

 「シンジ」という名前。

 2人の子に付けられることになる「シンジ」という名前。

 2人のたっぷりの愛情の中で育まれることになるその名前。

 やがて彼らの中で「シンジ」とは彼らの子のことを指す無二のものとなり、もう一人の「シンジ」という存在は彼らの中で少しずつ遠くに追いやられ、忘れ去られていくことになるのだろう。

 そう思うと、嬉しさと共に寂しさも感じずにはいられなかった。

 

 でも、とシンジは思う。

 これが正しいのだ。

 これが健全な在り様なのだ、と。

 この村に足を踏み入れた途端、村人たちに散々に追いかけ回される羽目になったけれど、あれこそ、彼と彼女がこの村の人たちがからとても愛されているという証拠なのだ。

 これはちょっと傲慢な考え方かも知れないけれど。

 かつての2人は、碇シンジが全てだった。碇シンジという存在を通してでしか、世界を見ることができなかった。それは一種の呪縛のようなものであり、彼は出口のない円環の世界を漂い続け、彼女は14年間もの間牢獄の中に閉じ込められていた。

 そんな彼らの中から「碇シンジ」という存在を遠ざけてみたら、ほら、この通り。

 残ったのは、とっても素直で、とっても優しくて、とっても素敵な、誰からも愛されるべき彼と彼女。

 うん。実に健全だ。

 2人の間には新しい「シンジ」が残り、古い「碇シンジ」は消えていくことになる。そのことに寂しさを感じてしまうのは古い方の「シンジ」としては致し方ないことなのだけれど、でも寂しがってばかりじゃいけないね。これが、自分が創造した世界で、2人が選択した、いや築き上げた新しい道なのだから。

 

 

 ちょっとセンチメンタルな気分になってしまった心の内を悟られないように、シンジは会話を続ける。

「下の名前がシンジなら、上の名前はどうするの? 渚? それとも綾波?」

「どっちでもいいかな。僕たちには入れる籍もないし。これからも僕たちは「渚」、「綾波」のままで居ることにしてますから。ある程度大きくなったら好きな苗字を名乗らせたいと思ってます。なんだったら、苗字も「イカリ」にしちゃいましょうか」

 そう冗談めかして言うカヲルに、シンジははははと苦笑する。

「なんだか恐れ多いな。僕なんて、まだ数回しか会ってない、言うなれば赤の他人のようなものなのに」

 そんなことを言うシンジに、カヲルと、そしてレイはぶんぶんと大きく首を横に振った。

「何を言ってるんです。今の僕たちがあるのは、シンジさんのおかげじゃないですか」

「えっ!?」

 心臓が口から飛び出そうになるくらい、びっくりしてしまったシンジである。

「あの復興村の森の中でシンジさんと出会わなければ、僕たちはこうして平穏には暮らしてなかったかもしれない。ねえ?」

 同意を求められ、カヲルの腕の中のレイは素直にこくりと頷いている。

「そ、そうなの?」

 一瞬、2人に「以前」の記憶が戻ったのかと思ったシンジは、泳いだ目で2人の顔を見つめている。

 

 あの森で、湖と廃墟の存在を教えて貰わなければ、彼女は過去の自分と向き合うことが出来なかったかもしれない。

 あの駅で、夕陽が沈む海峡の公園を教えて貰わなければ、彼は一歩踏み出す勇気を持てなかったも知れない。

 

「僕たちにとって、シンジさんは恩人のような存在です」

 真摯な声と真っすぐな視線をシンジに届けるカヲル。

 そして、カヲルの腕の中のレイは、シンジに向けておずおずと右手を差し伸べた。そんなレイを見て、カヲルはふふっと笑う。

「レイも、これからもよろしくお願いします、と言ってますよ」

 差し伸べられた手を呆然とした表情で見ていたシンジは、その視線をレイの顔へと向ける。

 柔らかな微笑みを浮かべているレイの顔を見て、シンジの顔にも自然と笑みが零れた。

「うん。僕こそ、これからもよろしくお願いします」

 シンジの右手とレイの右手が交差して。

「僕も仲間外れにしないで下さいよ」

 レイの頭を跨ぐように伸ばされたカヲルの左手が、シンジの顔の前までやってきた。

「ふふっ。カヲルくんも、これからもよろしく」

「ええ。シンジさん」

 カヲルの左手と、シンジの左手が強く握り合った。

 

 ハンモックに横になりながら右手でレイと、左手でカヲルと握手を交わし、何とも窮屈な姿勢になってしまっているシンジ。

 そんな様子を見てカヲルは弾んだ笑い声を上げながら、一旦シンジの手を離し、今度は両手ごとシンジの背中へと回した。シンジも笑いながら、レイの手を離し、両手をカヲルの背中へと回す。

 これが男の友情の証とばかりに、熱い抱擁を交わす2人。

 そんな2人に挟まれてぺしゃんこになっているレイは、うぅ、と小さな呻き声を上げていた。

 

 

 

  



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 白。

 

 白。

 

 白。

 

 

 世界を覆い尽くす、白。

 

 昨晩から降り始めた初雪は、夜が明けて日中も振り続け、ようやく降り止んだ夕暮れ時には辺り一面を銀世界に変えていた。

 降り積もったばかりの雪の上を歩く。

 足もとからはサク、サク、と鳴る小気味よい響き。

 外気に触れた息は白い湯気となって虚空へと消えていき、冷え込んだ空気が震える睫毛を凍らせる。フカフカのダウンジャケットの下には厚手のセーター。スパッツの重ね着の上にフリースパンツを履き、首にはマフラー、頭にはモコモコのフライトキャップを乗っけても、なおこの寒さ。

 全身を震わせながら、それでも温かい薪ストーブのある住処を離れ、真っ白に染まった原野の上を歩いていく。

 

 ふと、足を止めてみた。

 夜空には三日月。

 朧気な月明りに照らされて浮かび上がる白銀の世界。

 ブーツが鳴らす足音が消えれば、たちまち静寂に包まれる夜の世界。

 まるでその場に立つ自分以外の存在が全て消えてしまったかのような無の世界。

 極寒の空気と空からもたされた冬の白い使者により、全ての生命が活動を停止してしまったかのような沈黙の世界。

 

 夜空を見上げる。

 瞬く星々とぽっかりと浮かぶ月。

「今日は見えないかな…」

 あえて、意識して、声に出してみた。

 世界を覆う静寂に挑むように。

 無の世界に立つ自分の存在を確かめるように。

 そして一度口を閉ざしてしまえば、世界を柔らかな沈黙が包み込む。

 まるで白い砂漠のように広がる雪化粧を纏った原野。原野が途切れる先には雪を被った針葉樹が林立しているが、木々の隙間に動く影はない。

 

 寂しいという気持ちは沸かなかった。

 夜空を彩る星々と。月明りに照らされた銀世界と。むしろこんな幻想的な世界を独り占めにすることができたという、ちょっとばかりの優越感さえある。

 

 しかし彼女が抱いた優越感なるものは、すぐに掻き消されることになる。

 世界を支配する静寂をいとも簡単に引き裂く、とても元気な足音が背後から聴こえてきたからだ。

 

 きっと足音の主は、いつものように駆け寄り様に自分のお尻に抱き着いてくるのだろう。お尻を襲うであろう衝撃に備えて、両足を雪の上で踏ん張って身構えていたら。

 

「ひえっ!?」

 

 突然背中を冷たい衝撃が襲ったものだから、彼女は上擦った悲鳴を上げてしまった。

 自分の背中、肌に直に触れている冷たい何か。慌ててジャケットのその下のセーター、さら重ね着されたフリースシャツに裏起毛の肌着の、さらにその下に手を突っ込んだ。冷たい何かを背中から取り除き、体の前に持ってくる。

 毛糸の手袋をはめた手のひらの上には、固められた雪の塊があった。

「こら」

 彼女は足音の主に向かって叱咤するが。

「きゃはははっ!」

 足音の主。駆け寄り様に何枚も重ね着され服の下に雪を滑り込ませるという離れ業をやってのけた小さな女の子は、悪戯をされた相手が期待通りの反応を見せたことにたいそう満足したようで、雪の上に寝っ転がり、手足をじたばたさせながら笑っている。

「だめよ。悪戯しちゃ」

「だっていたずらされたときのママ、おもしろいんだもん」

 女の子から「ママ」と呼ばれた彼女、母親は、叱ってもまるで堪えた様子のない我が子に困ったように肩を竦ませる。

 女の子は相変わらず雪の上で転げ回りながら笑っている。

 言葉による躾がダメならば、体で分からせるまで。

 そう思った母親は、その場に蹲ると足もとの雪を掻き集め、こぶし大の雪の塊を作った。そして今も笑い転げている我が子に向かって、えいっ、とその雪の塊を放り投げてみる。

「ひゃうっ!」

 見事、雪の塊は女の子の顔面に落っこちた。我ながらナイスコントロールとばかりに、母親は両手をぱんぱんと叩いて残った雪を払う。

 これで少しは懲りただろうか。

 母親の考えは甘かった。

「わーい」

 女の子は顔を雪だらけにしたまま元気な声を上げて立ち上がると、雪を掻き集めて手の平で丸めて、それを母親に向かって投げ付ける。投げられた雪の塊は宙に放物線を描きながら母親の肩に到達。肩で雪が弾け、雪の飛沫が母親の顔を汚す。

「もう」

 母親も負けじとすぐさま雪の塊を作り、女の子に向かって投げ返す。

「えい! とりゃ! よいせ!」

 いつの間にか足もとに何個もの雪の塊を作っていた女の子は、塊を掴んでは次々と母親に向かって投げていく。

 いつの間にか始まってしまった雪合戦。

 雪の投げ合いっこをしている間に息が弾み、体がポカポカと温かくなってきた。

 温かくなってきたのはよいのだ。

 よいのだが。

 意地になる母親は両手で雪の塊を投げ返しながら、心の中で「しまった」と思っていた。

 

 なにしろ女の子にとっては物心がついて、初めて目にした雪だ。

 朝起きたら空からしんしんと降り、地面をうっすらと覆っていく白い謎の物体にたちまち興奮してしまった女の子は、朝から晩まで雪遊びに興じ、一日中それに付き合わされた母親はもうへとへとなのだ。女の子はおやつの後から夕飯の前までぐっすりお昼寝しており、そして夕飯の後もすぐに寝床に入っていたものだから休息は十分。一方、女の子が寝ている間は家事に追われていた母親の燃料タンクは枯渇寸前。自分も寝床に入る前に、ちょっと一人で夜の散歩を、と思って外に出てきたのだが。

 寝る前の散歩どころか、全身をフルに動かす激しい運動になってしまった。そして相手は休息十分元気一杯の女の子。良いところでケリを付けないと、この争いは双方の体力がゼロになるまで続く羽目になってしまう。

 

 女の子が投げた特大の雪の塊が、母親の顔面を襲った。

「うわぁ…、やられたぁ…」

 母親はわざとらしい悲鳴を上げながら、雪の上に倒れる。

「ママよわ~い」

 勝ち誇った女の子は、地面に倒れ伏している母親の背中に向けてさらに雪を投げ、容赦のない無慈悲な追い打ちを仕掛けた。

 母親の背中に次々と当てられる雪の塊。10個ほど投げられた雪の塊で、母親の背中の3分の1が白く覆われたところで。

「ママ?」

 散々雪を投げ付けられているのに、動かない母親の姿に不安になってしまったのだろう。

「ママ~」

 手に持っていた2つの雪の塊をその場に投げ捨て、母親のもとに駆け寄っていく女の子。

 女の子が母親のもとまであと一歩のところまで近付いた途端。

「わぁ!?」

 ガバっと起き上がった母親に右腕を掴まれてしまった女の子はびっくりして悲鳴を上げてしまった。母親は掴んだ我が子の腕をそのままぐいっと引っ張り、女の子の体を抱き締める。

「もう、ママぁ~!」

 腕の中で抗議の声を上げる我が子に、母親はくすくすと笑い声を上げていた。

 

「くしゅん!」

 腕の中で、女の子が盛大にくしゃみをしている。

「帰ろうね」

 母親は優しく言い聞かせると、女の子を抱いたまま立ち上がった。

「え~、まだ~」

 女の子はまだ遊び足りないらしい。

「もう寝る時間よ」

「やだやだやだ~」

 母親の腕の中で、女の子が足をじたばたさせている。さすがはたっぷりお昼寝している女の子。

「仕方ないわね…」

 こんなに元気が有り余っている状態で寝床に連れていっても、当分夢の国には入国拒否されてしまいそうだ。

 

 母親は女の子を抱いたまま一旦住処まで戻ると、住処の脇に積まれているストーブの薪用である長さ30センチくらいの丸太を一本と斧、そしてスコップを木製のそりの上に乗せる。女の子には炊事場にあった手鍋を持たせ、そりを曳きながら住処を離れた。

 50歩ほど歩いたところでそりから荷物を下ろし、平らな場所にスコップで穴を開け、その穴に煙突のように丸太を立てる。そして斧を使って、丸太の切断面に放射状の切れ込みを入れた。丸太から刈った小枝や散った木くずを切れ込みの中に挿し込み、ライターで火を点けると、まずは木くずに、そして小枝に、やがて丸太の切断面全体へと火が燃え移り、そして大きな炎へと成長を遂げる。

「あったか~い」

 地面に立った丸太から燃え上がる炎を瞳に宿らせる女の子は、満面の笑みを浮かべながら炎に向けて冷たくなった手を翳した。

「火傷しないでね」

 母親はそう女の子に注意しつつ、住処から持ってきた手鍋を丸太の上に乗せた。大きな炎に温められ、鍋の中身はすぐにぐつぐつと煮え始める。母親は中身が焦げ付かないよう、木杓子で掻き混ぜる。

 いい塩梅に温かくなったところで中身を掬い、杓子を口もとに近付け、ふーふーと息を吹いて冷まし、ずずっと啜る。

「おいしい…」

 口の中に広がる素朴かつ濃厚な味わい。

 今日の夕ご飯の残り。トナカイのミルクとジャガイモのスープを美味しそうに啜っている母親を見て、女の子はたまらず頬を膨らませた。

「ママだけずる~い」

「分かってる」

 母親は微笑みつつ、スープを杓子で掬い、我が子の舌が火傷してしまわないよう、ふーふー息を吹きかけてスープを冷ます。

「はやく、はやく」

「もうちょっと…」

 ふーふー息を吹きかける母親。

「もうはやく~」

 女の子がその場でぴょんぴょんと跳ね始めた。このままだと丸太のストーブごと鍋をひっくり返してしまいそうなので、母親は仕方なく我が子の顔の前に杓子を差し出す。

 女の子はうーっと唇をとんがらせ、顔を杓子の皿に近付け、そして中身のスープを啜ろうとして。

「あつっ!?」

 たちまち杓子から顔を遠ざけてしまった女の子。

「ぅえ~ん、ママ~」

 舌を出し、顔を歪ませてしまう女の子。

「ほら、一緒にふーふーしましょ」

 母親は優しくそう言い聞かせると、唇をとんがらせてふーふーと息を吹き掛ける。今にも泣いてしまいそうだった女の子も、すぐに気を取り直して母親と同じようにスープに向かってふーふーと息を吹き掛けた。

「はい」

 十分に冷まされたスープを、女の子の口に近付ける。女の子はあーん、と口を開けたので、母親は杓子を傾け、女の子の口に直接スープを流し込んだ。女の子が口を閉じた瞬間。

「おいし~!」

 女の子の満面の笑み。

「そう。よかったわね」

「うん!」

 

 その後も一緒にふーふーしながら母親の口に、女の子の口に、交互にスープを運んで。

 やがて鍋の中身が最初の3分の1になった頃。

 何とはなしに、空を見上げて。

「あ…」

 母親が短い声を上げたので、女の子も空を見上げた。

 

 母親は鍋を地面に置き、立ち上がった。

 夜空に広がるその光景に、目を、そして心を奪われる。

 

 緑の光の帯が、星々の中を駆け巡る。それはまるで夜空という窓に引かれる光のカーテンのよう。月明りにも負けない明るさでゆらゆらと揺らめく光の帯は、緑からピンク、そして水色へと変化する神秘的なグラデーションで、空というとてつもなく大きなキャンバスを幻想的に彩っていく。

「ほら、ツバメ」

 母親は我が子の名前を呼んだ。

「な~に~」

 やや興奮気味に自分の名を呼ぶ母親に対し、どこか気の抜けた返事をする女の子。すでに女の子の興味は鍋の中身に戻ってしまっており、ストーブから降ろされて冷めてしまった鍋の中のスープを自分で掬っては口の中へと運んでいる。

 空を見上げたままでいる母親は、そんな女の子の様子に気付いておらず、声を掛け続ける。

「ほら。オーロラだよ」

「へー」

「ほら。見てごらん」

「えー、いいよ~」

 その返事に、母親は目をぱちくりさせながら、視線を空から下ろす。母親の足もとで杓子をぺろぺろと舐めている女の子。母親と、そして父親と同じ、紅玉の瞳の持ち主である女の子を、母親は不満げに見下ろす。

「どうして? とても綺麗だわ」

 大自然が織り成す究極の芸術を前に、なぜこの子は自分と同じように胸を躍らせてくれないのだろう。1月前に初めて見た時は、あんなにはしゃいでいたのに。とでも言いたげな母親に対し、女の子は杓子をぺろぺろと舐めながら、けろっとした顔で言う。

「だってオーロラ、もう、みあきちゃったもん」

 そんな女の子の返事に、母親はもう一度目をぱちくりとさせながら呆れたように言った。

「なんて贅沢な子…」

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 秋茜が舞う季節。朝、昼、夕。1日に3本しかない路線バスのバス停に降りた碇シンジは、散歩するにはちょうど良い涼やかな風を感じながら、アスファルトの上を大きな荷物を持って歩き始めた。道の両脇には田舎の長閑な田園風景が広がり、稲刈りの終わった田んぼの上では燻炭作りの煙突があちこちに立ち、天高い青い空に向けて灰色の煙を燻らせている。

 次は間を置かずにすぐに来よう、早く来ようと思ってたのに、忙しさに追われてしまい、あれから随分と時が経ってしまった。まだ見ぬ2人の間の子供も、随分と大きくなっていることだろう。とりあえず、子供へのお土産にサッカーボールを買ってきたけれど、2人の子だから楽器とか本とかにした方が良かったかしら。

「おや、あんた」

 久しぶりの再会と初対面に心躍らせながら田舎道を歩いていたら、道端の畑で芋掘りをしているご婦人から声を掛けられた。

「あんた、どっかで見たこと…、あ、あんた!」

「あ、いや…!?」

 ご婦人が持っていた手鍬を振り翳したものだから、シンジは反射的に逃げようとしてしまった。

「ちょ、ちょいとお待ちよ! あんただろ! いつだったか、あたしたちに追い掛け回された不審者!」

「だから僕は不審者じゃないですってぇ!」

 もう勘弁してくれと言わんばかりに半べそを掻いてしまうシンジに、ご婦人は作業用エプロンの泥を払い落としながら歩み寄ってきた。

「あん時はごめんよ。あとでカヲルちゃんに聞いたよ。あんた、カヲルちゃんとレイちゃんの恩人なんだってね」

「いや、恩人なんてそんな。むしろ僕の方が大恩があるのに」

「とにかくあの2人の知り合いってゆーなら、あたしたちの客人だ。ほら、これ持っておいき」

「えっ、ちょっ」

 いきなり手に掘り出されたばかりのさつま芋が詰め込まれた麻袋を持たされ、その重さに思わず前のめりにつんのめってしまいそうになった。

「あ、ありがとうございます…」

「ここには暫く居られるのかい?」

「ええ、そのつもりです…」

「ふふっ。じゃあよろしくね。何か困ったことがあったら、遠慮なく言いなよ」

「はぁ…」

 

 重い麻袋を持ちながら右に左にふらふら歩いていくシンジの後ろ姿を見送るご婦人。農作業に戻ろうとして。

「あ、そういえばあの2人…」

 何かをシンジに言おうとしたが、シンジの姿はすでに遠い。

「ま、いっか」

 

 

「あの時はすまなかったね。ほら、これ持っておいき」

「なんでもあの2人が昔お世話になったそうじゃないか。ほら、これ持っておいき」

「そりゃ遠路遥々よく来たねぇ。ほら、これ持っておいき」

 

「か、勘弁してくれ…」

 ただでさえ2人、いや、3人へのお土産を買い過ぎてしまったと言うのに、ここにきて村人たちからのお裾分け攻勢に遭ってしまい、あの農園がある高台への急峻な坂道の麓に辿り着いた時には荷物の量は3倍に増えていた。

 額から大量の汗を滴らせ、ぜーはー言いながら坂道を上っていく。

 

 

 森に囲まれた薄暗い坂道を抜け、見えてきたのは陽の光に照らされてきらきらと光る青い海。

 光が溢れる場所に辿り着き、シンジは思わず「わぁ」と感嘆の声を上げる。

 

 雲がぽつぽつと浮かぶ青い空と穏やかな海に暫し見惚れ。

 そしてここを振り返れば田んぼと段々畑、そして彼らのおうちがあることを知っているシンジは、うきうきしながら回れ右をした。

 

 シンジの手から、採れ立ての野菜が詰め込まれた麻袋がごとごとと音を立てて地面に落ちる。

「え…」

 シンジは、短い声を上げることしか出来なかった。

 

 

 

「綾波~、カヲルく~ん」

 人の背丈まで伸びたススキが生い茂る田んぼの脇道を歩く。以前は綺麗に均していたはずのその脇道も、雑草だらけ。斜面に連なる段々畑も、もう何年も人の手が入っていないかのように荒れ果てている。暫く歩くと、彼らの家を囲むカラタチの生垣が見えてきたが、以前は丁寧に四角く剪定されていた生垣も枝々が好き勝手に伸びて歪な形になっている。

 そして大きく育った金木犀の下をくぐるとそこにあったのは彼らの家。古い木造建築の、平屋の家。

 人の気配がしなかった。

 全ての窓が、木製の雨戸で塞がれている。

 家の裏側に回ってみると、彼らと過ごした縁側があった。落ち葉で埋もれ、下から伸びた雑草が床板の隙間から顔を出している縁側が。

 縁側の前に立ち、そして振り返ってみる。

 かつてはここからも海が見えたが、生垣の背が高くなりすぎてしまっていて、今は見えない。

「綾波~、カヲルく~ん」

 裏庭に回っても状況は変わらず雑草が腰の高さまで伸びている。

 彼と一緒にイワナを獲った沢に行ってみたが、そこでギコギコと回っていた水車は解体され、沢の畔にまとめて置かれていた。

 そこから森に沿って歩いていくと、納屋があった。建付けの悪い戸を開けると、中は農工具が綺麗に片付けられていた。その隣にはガレージがあり、古い原付きバイクが一台停められている。バイクだけを置くためのガレージにしてはちょっと広く、バイクの隣には不自然な空間があった。

 

 一通り回ってみたが、どこもかしこも同じ有様。

 彼が口ずさむ鼻歌も、彼女が慎ましやかに上げる笑い声も、そして彼らの子供が駆け回る足音も、何も聴こえない。

 とりあえず、田んぼの前の道に放り出したままの荷物を取りに行き、落ち葉を払った縁側の上へに置く。

 そして再び裏庭の奥のガレージへと行く。

 原付バイクに跨ってみる。不用心にも、鍵は挿さったまま。捻ると、ニュートラルランプに光が点った。キックペダルを思い切り踏み込んでみる。もう一度。そして3度目になって、トットットットと軽いエンジンが響き出した。

 

 

 長い坂道を原付きバイクで下る。

 下り切って、最初に見えた家の前にバイクを停める。

 玄関の前に立ち、インターホンを押すと、中から白髪頭のご婦人が出てきた。ご婦人に、坂の上の農園に住んでいた2人、いや、3人のことについて訊ねようとして。

「おや、あんた。もしかして碇くんかい?」

 名乗る前に名前を呼ばれてしまう。

「は、はい」

「へー、昔うちの旦那からも聴いてたけどさ。へー。あんたがあの碇くんなんだねぇ。へー」

 ご婦人にじろじろ見られて、居心地悪そうに肩を竦ませるシンジ。

「あ、ああそうだ。あんたに渡すもんがあるんだ」

「え?」

 シンジが彼らのことについて訊ねる前に、ご婦人は家の奥へと引っ込んでしまった。3分ほど経って、ご婦人は紙の束を持って戻ってくる。

「はい、これ」

 その紙の束を、シンジに渡すご婦人。

 渡された紙束をよく見てみると、それは葉書の束だった。

 訳が分からず少し色褪せた葉書の束を見ていると、ご婦人はその葉書の束の上にさらに小さなものをぽんと置いた。

 それはキーホルダー付きの鍵だった。

「あんたが訪ねてきたらこれ渡してくれってさ。あの2人に」

 

 

 原付バイクをガレージの中に停め、玄関に回る。ドアの鍵穴に渡された鍵を挿し込むと、ぴったりと合った。鍵を開け、戸板を開く。

 途端に、長い期間喚起されてない場所に閉じ込められて淀んでしまった空気の匂いが鼻を擽った。

 土間に足を踏み入れる。炊事場も兼ねる土間。釜土も調理台も立流しも埃を被っていて、もう何年も使われた形跡がなかった。

 板の間へと上がり、ガラス戸の内鍵を開け、雨戸を開けると、そこは広々とした縁側。玄関と縁側の戸が開いたことで、家屋の中に一気に新鮮な空気が流れ込んだ。

 縁側に出て、腰を下ろす。

 胡坐をかき、手の中にある葉書の束を見つめる。

 束の一番上にある葉書を手に取ってみた。

 宛先の住所はこの村。宛先の名前は碇シンジ。切手の消印にはローマ字で「BANGKOK」。

 裏返してみると、葉書の裏は写真が糊付けされており、南国風の木々の間に建つ石造りの大きな寺院と、それを背景にして立つ見知った顔の人物が写っている。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 この土地の季節は4つだけではない。

 雪に閉ざされる期間があまりにも長いため、この土地の人々の先祖は季節をまずは「冬」と「それ以外」とに分け、「それ以外」を「芽吹きの季節」、「白夜の季節」、「収穫の季節」、「紅葉の季節」の4つに。そして冬を「初雪の季節」、「聖夜の季節」、「霜の季節」、「氷の季節」の4つに分けたのだ。

 「初雪の季節」が終わる頃には土地は深い雪に閉ざされてしまうため、身動きが取れなくなる前に南に向かって旅立たなければならない。

 緑と白のツートンカラー、丸みを帯びた長方形の車体に、正面にデカデカと貼られたメーカーのエンブレムが特徴の古くて小さなワンボックス車に荷物を積み込み、以前、とある高原の遊牧民から譲り受けた円錐形のテントを畳む。

「え? 昨日もオーロラが見えたのかい?」

 長旅の車内は広く使いたいので、次の目的地まで開ける予定のない荷物を詰め込んだトランクケースや畳んだテントをルーフキャリアに乗せ、ロープで固定していた父親は、車の運転席の窓から顔を出す娘に向かって不満そうに言った。

「だったら起こしてくおくれよ。ここを離れたら、当分はお目に掛かれないのだから」

「だってパパたち、テントのなかでぐーぐーいいながらねてたんだもん」

「オーロラは自然が織り成す究極の芸術じゃないか。叩き起こされてでも見る価値はあるものだよ」

「え~、ツバメ、もうオーロラはあきたよ~」

「なんて贅沢な子だ…」

 呆れたようにそう呟く父親は、視線を少し遠くに投げてみた。

 父親の視線の先では、母親、つまりは彼の妻が、この土地の滞在中にお世話になったトナカイの放牧をしている一家に別れの挨拶をしている。

 妻は特にあの一家のお世話になった。何しろ一年中寒冷のこの土地では野菜が育ちにくく、そのため食の中心は肉や魚だ。偏食家の妻がこの土地でも問題なく滞在できたのは、あの一家が妻でも食べられる食材を調達してくれたからだった。お返しに妻は一家の生業であるトナカイの放牧を手伝った。何故かは分からないが、普段はトナカイ1頭から1日コップ1杯でもミルクが搾れたらよいところを、妻が手伝い始めてからのトナカイは水道の蛇口を捻ったようにジャブジャブとミルクを出すようになったため、喜んだ一家はそのお返しとばかりに妻の家族にさらにトナカイの肉やミルクを分け与えた。

 今も、一家は餞別として妻に大量の食材が入った木箱を妻に渡している。その光景が自分たちの「故郷」であるあの村での光景と重なって、父親は小さく笑った。

「ねえ、パパ~」

「なんだい?」

 視線を娘に戻した。

「つぎはどこいくの?」

「そうだな。冬が深まる前に南下して、もっと暖かいところに行きたいね」

「ツバメ。またサバクにいきた~い」

「それはちょっと暖か過ぎるかな…」

 大きな木箱を抱えた母親が右に左によたよたとふらつきながらこちらに歩いてくる。父親はすぐに駆け寄り、母親から木箱を受け取った。

 一家に顔を向ける。

「Giitu! Bahcet dearvan!」

 挨拶をすると、一家はこちらに向けて大きく手を振ってきた。ある者は笑顔で、ある者は別れの寂しさに涙を浮かべながら。

 木箱を車に積み込む。

「あれ? そう言えばお兄ちゃんは?」

 父親が娘に訊ねると、娘は「あっち」と遠くを指差した。

 娘の手袋を嵌めた短い人差し指が指す方向には、白い雪が積もった原っぱで遊ぶ数人の子供たち。

 茶色がかった金髪に蒼い瞳の子供たちに混じって、白銀の髪と赤い瞳を持つ男の子が一人。

 子供たちの輪の中心で、元気いっぱいに遊んでいる男の子の姿を見て、父親は微笑む。

「普段は内気で人見知りなのに、いつの間にか人の輪の中心になって、誰からも愛されている。あの性分はいったい誰に似たんだろうね?」

 父親のその言葉に、母親もふふっと笑う。

 そして男の子と同じ赤い瞳を持つ母親は一度大きく息を吸い込むと、口もとに両手を当て、大きな声で男の子の名を呼んだ。

「シンジー! 行くわよー!」

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 農園のてっぺんへ向かう坂道を、麻袋と細い薪を突っ込んだ一斗缶を抱えて上がる。以前この坂道を上がった時は月明りの下を、彼らと3人で。今日は太陽の光の下を、一人きりで。

 坂道を上りきると、前方に広がるのは広大な海。その海を見渡せる位置には、あのハンモック。長い間風雨に晒されていて杭もロープも布も朽ちかけているが、何とか形を保っている。

 ハンモックの前に麻袋と一斗缶を置き、ハンモックにお尻を沈める。ロープがギシギシと、杭がミシミシと軋むが、大人一人が乗っても問題なさそうだ。

 一斗缶の中の空からあの家から拝借した古紙とアルミホイルを取り出し、古紙の何枚かをくしゃくしゃに丸めて一斗缶の中に放り込む。マッチを擦って火を点け、一斗缶の中に落とすと、まずは古紙に火が点いて、続いて薪に火が移っていく。続いて麻袋の中から沢の水で洗ったさつま芋と沢の水を汲んだ瓶を取り出し、その水で古紙を濡らしてさつま芋を包み、さらにその上をアルミホイルで包み、一斗缶の中にくべる。

 ハンモックにゆらゆら揺れながら、一斗缶から立ち昇る煙をぼんやりと眺めていたら、ズボンの後ろポケットに入れていたスマートフォンが鳴った。スマートフォンを取り出し、画面を見ると、画面の左隅にある4つの柱の一本に光が点いている。

「あ、ここなら電波通じるんだ」

 画面の真ん中に表示された、電話を掛けてきた相手の名前を見て、シンジの顔は綻んだ。

 

「あ、もしもし。久しぶりだね。

 ああ、うん。今日帰ってきたんだ。

 うん、元気にしてるよ。

 そっちはどう? みんな息災にしてる?

 そう、良かった。

 うん。一通りのことは全部終わったからさ。

 しばらくはこの国に留まれそうなんだ。

 だから近々そっちにも顔を出そうと思ってるよ。

 その時は君の家に泊まらせてくれるかな?

 ああ…、うん。

 いや、ケンスケの家でもいいんだけどさ…。

 ほら…。

 彼女、おっかないから…。

 こないだ顔を出した時も人を見るなり飛び膝蹴りだよぉ?

 もう勘弁してほしいよ、まったく。

 え? あれが彼女なりの親愛の表現だって?

 いやいやいや。される方の身にもなって下さい。

 ま、とにかく近いうちに行くからさ。うん。

 鈴原家の方はどう?

 そう言えばツバメちゃん、もう二十歳でしょ?

 え? めっちゃ美人になってるって?

 そりゃ早く会いたいねぇ~。

 うん。みんな元気そうで何よりだよ。

 ああ、そうだ。ちょうどいい。

 ちょっと君に相談したいことがあるんだけどいいかな?

 君んちのさ。農場のことなんだけど。

 そうそう。○△村の。

 その農場に住んでる2人がさ、あ、いや3人だったか。

 違う違う、今は4人だ。

 帰ってくる頃には5人、6人くらいになっちゃってるかもだけど。

 ああいや、こっちの話。

 その家族がさ。

 今、ちょっと遠くに行っちゃってて、暫く留守にしてるみたいなんだよ。

 それでさ。

 彼らが留守にしてる間、僕がここに住もうと思うんだけどいいかな?

 うん。当分はこの国に居るつもりだからさ。

 住むところを探さないと、って思ってたんだ。

 だからここが空いてるんだったら、ちょうどいいかな、って。

 え? 構わないって?

 ありがとう。うん。貸料は払うからさ。

 え? お金は要らない?

 その代わり山と畑を管理してくれたらいいって?

 あ、ああ、うん…。分かったよ。

 僕にできるかな…。

 それじゃ暫く住まわせてもらうね。

 あっ、なんだったらさ。

 君たちもこっちに遊びにおいでよ。

 君、この場所に一度も来た事ないんだろ?

 景色はいいし。食べ物は美味しいし。

 とってもいいところだからさ。

 うん、ぜひおいでよ。

 え? アスカも連れてくるけどいいかって?

 そりゃ君が彼女の僕への折檻を止めてくれるっていうならいいけど。

 え? じゃあ僕が君のお母さんがへべれけの状態で抱いてる一升瓶を奪えるか? だって?

 そんな恐ろしいこと出来るわけないじゃないか。冬眠中の熊を起こすようなものだよ。

 え? アスカの折檻を止めるのはそれと一緒だって?

 分かったよ…。観念するよ…。

 ってゆーか、ミサトさん、今もそんな調子じゃそろそろ肝臓爆発するんじゃないのかな…。

 そんじゃさ。みんなを連れて。鈴原一家やケンスケも。

 もちろん、君のご両親も連れてさ。

 うん、待ってるよ。

 じゃあね」

 

 電話を切り、両腕を上げて大きく伸びをしたシンジは、そのままハンモックにごろんと横になった。

 ズボンのポケットから、葉書の束を取り出す。

 

 葉書を一枚一枚めくり、裏に貼ってあるポラロイド写真を一枚一枚眺める。

 そこに写るのは透き通るような青い海辺の真っ白な砂浜だったり、大勢の人々が集まって沐浴をしている大きな川だったり、白い雪を被る切り立った荘厳な山々だったり、野生の馬が走る広大な平原だったり、鬱蒼とした密林の中だったり、砂漠の中に聳え立つ四角錘形の巨大建造物だったり、地平線の彼方に夕陽が沈むサバンナだったり。

 それらの景色を背景にして立つ4人。

 いや、古い順に並べられた写真で最初の方では、4人のうち2人はまだ残りの2人に抱っこされている。

 そして写真が進むにつれて抱っこされていたその2人はだんだんと大きくなっていき、やがて自分たちの足で立って写るようになり、そして最後の写真。

 氷河の浸食を受けて複雑な形をした入江を背景にした写真では、元気が有り余ってるのか、女の子の方は腰まで伸びた癖のある空色の髪をした女性の背中に抱き着きながら、男の子の方は収まりの悪い白銀の髪をした男性に肩車をされながら写っていた。

 

「まったく…」

 シンジはそれらの写真を、笑みを零しながら見つめる。

 そして最後にここを訪れたあの日。月明りの下で、このハンモックに揺られながら彼女に言ったことを思い出す。

 

 ―――もしできることなら、君たちの子には、早めに外の世界に触れさせてあげてほしい。この世界は、様々な可能性に満ち満ちてるんだってことを、教えてあげてほしいんだ。

 

「そりゃ、早く外の世界に触れさせてやって欲しいとは言ったけどさ…」

 さすがは思い立ったら一直線なあの2人だ。本当に、世界中の色々な姿を、彼らの子供たちに見せて廻っているらしい。なんとなく彼らの足跡が、絶滅し掛けていた珊瑚が蘇ったり、砂漠化する高原に数年ぶりの雨が降ったり、盲目の高僧に光が戻ったり、汚染されていた大河にイルカが泳いでいたり、白骨化し掛けていた博物館のミイラの肌に艶が戻ったり、何年も内戦が続いていた国で急に和平が結ばれたりと、近年世界各地で起こっている小さな奇蹟だったり大きな奇蹟だったりの場所や時系列と重なって見えるような気もしないでもないが、それはまあきっと気の所為なのだろう。

 それはともかくとして、自分が用意した世界共通グリーンカードをフルに使ってくれているのは嬉しのだが。

「こりゃ何時帰ってくるか分かんないな…」

 彼らの旅の計画がどのようになってるのかは知る由もない。あの2人のことだから下手したら大気圏を飛び出して、宇宙にまで行っちゃうんじゃなかろうか。

 近付けたと思ったら遠くに離れ、また近付けたと思ったら遠くに離れてしまう。結局、あの2人と自分との距離感はこんな感じになってしまうらしい、と笑みの端っこに寂しさを浮かべるシンジ。

 でも、以前の2人のように存在が消えてしまうわけではない。彼らは、確かに、この地球上の何処かで生きていて、そしてその命を輝かせ、次の世代へと紡いでいるのだ。ちょっと寂しいけれど、悲しくはない。きっと、また、いずれ、必ず会えるのだろうから。今まで散々2人を待たせてきた身だ。今度は、自分が彼らの帰りを待つ番なのだろう。

「とりあえず、まずは掃除かな?」

 まずは自分が生活できるように家屋環境の改善から始めよう。ずっと宿泊施設住まいだったので、自分で掃除をするなんて久しぶりだ。

 家を綺麗にして。伸び放題の雑草を刈って。食器や炊事道具などは彼らが旅のお供に持っていってしまったようなので、自分用に買い揃えないといけない。落ち着いたら、畑を始めてみよう。村の人たちに、色々と教わらないと。

 ちょっと大変そうだけど、なんだかわくわくしてくる。

 古い友人たちが訪ねてきた時のためのもてなし方も考えないと。

 そして彼らが帰ってきた時には、たくさんのご馳走を用意して旅の疲れを癒してやろう。

 

 

 体を起こし、スマートフォンを操作する。

 呼び出し音が鳴るスマートフォンを顔に近付けた。

 

「あ、もしもし?

 うん。今、日本。

 そっちは?

 え? まだそこに居るの?

 だってもうかれこれ5年以上になるじゃないですか。

 え? やっぱり4千年の歴史は伊達じゃないって?

 もしかして甲骨文字まで読んでるんじゃないでしょうね。

 そんな調子じゃ世界中の本を読み終わる頃には今世紀終わっちゃってますよ?

 ふふっ。相変わらずだなぁ。

 うん。とりあえず住む場所が決まったんで、報告をと思って。

 どうです? そっちが片ついたら、ちょっとだけこっちに寄ってみることできませんか?

 うん。タイミングが合えば、一度くらいはみんなで集まりたいなって。

 エヴァのパイロット同士でさ。

 半分は顔も知らない同士だけどさ。

 記憶すら共有できていないもの同士だけどさ。

 「はじめまして」から始まる再会があってもいいかな、って。

 それで一度はみんなで揃って、一晩だけでも語り明かしたいなって。

 うん。

 気が向いたらでいいから。

 ちょっと考えておいてくれないかな。

 うん。

 うん。

 ありがとう。

 それと、たまにはそっちからも電話してほしいかな。

 どこかで野垂れ死んでんじゃないかと心配になるからさ。

 ふふっ。

 うん。

 うん。

 まあ読書もほどほどに。

 最低1日6時間は寝て、1時間は太陽の光を浴びるんだよ?

 それとちゃんと食べてる? ほんとかな~?

 え? おっぱいはでっかいまんまだから安心して、だって?

 いやいや、誰もそんなこと心配してませんから。

 もう。

 ふふっ。

 じゃあね。

 元気そうな声が聴けてよかったよ。

 うん。

 うん。

 それじゃあ。

 うん。

 さよなら~」

 

 電話を切ったら、今度も両腕を伸ばして大きく伸びをする。

 腕を下ろし、視線を遠くへ投げる。

 視線の先では太陽の光を浴びて、きらきらと輝く青い海。

 今度は視線を足もとに投げる。

 足もとの一斗缶の中は薪が燃え落ち、炎が大人しくなっている。

 鉄製のトングを一斗缶の中に突っ込み、アルミホイルで包まれたさつま芋を取り出した。軍手をはめ、アルミホイルを剥がし、炭になった古紙を取り払うと、中からこんがり焼けた焼き芋が顔を出す。

 皮をはぎ、大量の湯気を立ち昇らせる実にふーふーと息を吹きかける。

 口をそっと近付け、端っこを齧ってみた。

「はっほ、はっほ、はっほ、はっほ」

 あっつ熱の焼き芋が、口の中を転がる。口の中の空気を出し入れさせ、舌の上の芋を冷ましながら、はふはふと咀嚼。頃合いを見てぐいっと飲み込み。

「うんま!」

 シンジの口から幸せいっぱいの一言が漏れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 白樺の木が林立する静かな湖畔で車を停めた。

 南へと向かってひたすら走り続けていたら、いつしか地面を覆っていた雪は消え、種まき前の広大なライム麦畑の中を抜け、やがて広葉樹が生い茂る森の中への道に入った。

 殆どの木は裸ん坊。ルスカと呼ばれる短い秋は過ぎ、この地にも着実に冬の気配が近付いている。葉っぱが落ちたお陰で森の中でも青く澄んだ空がよく見えた。そして地上では白樺や楓の落ち葉が降り積もり、赤と黄の絨毯を広げている。

 エンジンを停め、後部座席を振り返った。

「寝てしまってるね」

「ええ」

 3列シートの2番目では、お兄ちゃんと妹が一枚の毛布を分け合って、くーくーと可愛らしい寝息を立てている。

 

 落葉に囲まれたこの湖畔で休憩を取るため、彼と彼女は我が子たちを残して2人で車を降りた。車を停めたすぐ側に手ごろな丸太が倒れていたため、それをベンチ代わりにする。

 彼の方は車の中から七輪を下ろし、ベンチ代わりの丸太の前で火を起こし始めた。

 彼女の方はトナカイ牧場の一家から貰った木箱の中から、ジャガイモとトナカイのミルク、そして卵を取り出し、ジャガイモは皮を剥いて擦り下ろすと、卵、塩、砂糖、ミルクの順番で混ぜ、最後に小麦粉も混ぜ合わせる。食材を混ぜたボウルとスキレッドを持って、彼のもとへと戻った。

 ちょうど良い塩梅に火が大きくなっていたため、七輪の上にスキレッドを乗せ、少量の油を引き、スキレッドの上に材料を薄く円形に延ばしていく。縁が渇いてきたひっくり返して裏側も焼き、そして皿の上に乗せる。

 彼女がジャガイモのパンケーキを焼いている間に、彼は付け合わせ用に、あの一家から貰ったトナカイの干し肉やドライフルーツ、メープルシロップなどを準備する。

 皿の上には焼き立ての4枚のパンケーキ。彼の一枚目はトナカイの干し肉とチーズ。彼女の一枚目はドライブルーベリーとメープルシロップ。めいめいお好みのものを挟んで、

「いただきます」

「いただきます」

 同時にパンケーキにかぶり付いた。

 ベンチ代わりの丸太に並んで腰を下ろし、静かな湖を見つめながらもぐもぐと顎を動かす2人。どちらからともなく顔を見合わせ、そして口の中の美味しさを溢れ出させるように、笑顔になる。

 

 

 

 

 巡り往く季節の長さを、早さをどのように測ればよいだろう。

 

 365日?

 

 52600分?

 

 31536000秒?

 

 水平線に沈む夕陽で?

 

 山から吹き下ろす風の匂いで?

 

 潮の満ち引きで?

 

 降り積もった雪の高さで?

 

 野に咲く花の色で?

 

 収穫した実の数で?

 

 干したお洗濯の乾く早さで?

 

 バイクのガソリンメーターで?

 

 笑った数で?

 

 流した涙の量で?

 

 

 それとも・・・・・・

 

 

 膨らんでいくお腹の大きさで?

 

 母乳をあげた量で?

 

 夜泣きをあやした数で?

 

 物干し竿に干すおしめの枚数で?

 

 歩き始めのコケた回数で?

 

 柱に刻んだあの子たちの背の高さで?

 

 お兄ちゃんと妹が繰り広げる喧嘩の数で?

 

 パスポートに押されたスタンプの数で?

 

 大切な人に贈るポストカードの枚数で?

 

 

 

「変なことを考えるんだね、君も」

 彼はサーモンの燻製とアンチョビを乗せた2枚目にかぶり付いている。

 彼女は食べ掛けの1枚目を持った手を膝の上に乗せ、湖を見つめながら言う。

「幸せな毎日が、ただ過ぎていくのがもったいなくて…」

「確かに、そうだね…」

 微笑む彼は彼女の肩に腕を回し、防寒着を着てモコモコに膨れた彼女の体を抱き寄せた。彼の腕の中の温もりに身を任せながら、彼女は訊ねる。

「あなたなら、どう数える?」

「僕かい?」

「ええ」

「僕だったらこれで数えるね」

 そう彼女の耳もとで囁いた彼の口は、そのまま彼女の頬っぺたに軽く触れた。

 どさくさ紛れに行われた口づけに、彼女は特に感想を述べることのないまま、横目でちらりと彼を見る。

「そんなの、数え切ることができないわ」

「え? そうかな? 僕は君とした口づけは全て覚えているけど?」

「うそ」

「本当さ」

「だったら今日はこれで何回目?」

「そうだね。朝の目覚めのキスが1回、いや、今日は2回だったね。その後歯磨きしながらの1回、朝ごはんの味付け合間の1回に、車に乗り込む前の1回と乗り込んでからの1回。スタンドで給油中の1回に、君が淹れてくれたコーヒーを渡してくれた時の1回。あとはシンジとツバメがクレヨンで描いてくれた僕たちの似顔絵を見た時の1回。そして今のでちょうど10回目だね」

「違う…」

「え?」

「それは間違い…」

 彼女の指摘に、彼は左手の指を一本一本折り曲げ、伸ばして改めて確認し。

「10回だと、思うけど」

 彼女は彼の胸に頭を預けながら答えた。

「お昼ご飯のあと、あなたがお昼寝している間の、2回、抜けてる」

「え? そうなの?」

 こくりと頷く彼女。

「それじゃ君が朝目覚める前の3回もカウントしなきゃだね」

「寝込みを襲うの、ずるい」

「それは君が言えたことじゃないだろう」

「そう?」

 2人は互いの顔を見つめ合って、くすくす笑い合う。

「それじゃあさ」

「うん」

「一緒に数えよっか」

「うん」

 まずは彼の方から彼女の方に顔を近づけて、そして触れ合うお互いの唇。

 顔を離し。

「16回目」

 彼がそう呟く。

 次は彼女の方から彼の方に顔を近づけ、そして再び触れ合うお互いの唇。

 顔を離し。

「17回目」

 彼女がそう呟く。

「切りのいいところまでいこっか?」

 彼の誘いを、

「ええ」

 彼女は素直に受けて。

 そして重なり合う2人の唇。

 顔を離し。

「「18回目」」

 重なり合う2人の声。

 なんだか首の裏の辺りがこそばゆくて、2人は頬を赤らめながら笑い合う。

 今度は彼女の方が瞼を閉じて誘ってきたので。

 彼は遠慮なく彼女の顔に唇を近付ける。

 自分の上唇を引っ掻けるように彼女の上唇に押し当てると、彼女の小さな口が少しばかり開き、彼女の形のよい前歯が見る者を誘うように色素の薄い唇の隙間から覗いた。誘われるがままに彼の舌は彼女の口へと侵入し、彼女の上の前歯と下の前歯の隙間も無事通り抜け、その奥にあった彼女の舌へと辿り着く。

 舌先の僅か数センチメートルで感じる彼の全て、彼女の全て。

 いつの間にか彼の両腕は彼女の全てを包み込むように、彼女の背中を抱き締め。

 そして彼女の両腕は彼の全てを求めるかのように、彼の頭部を強く抱き締めている。

 お互い離れ時を失ってしまい、ひたすら互いの唇を、舌を絡みつかせ、雄一の換気口となってしまった鼻孔で激しく空気の出し入れを繰り返しながら、地面には落ち葉の絨毯が敷かれていることを幸いとばかりに、彼女を下にして落ち葉の絨毯に倒れ込む。

 ようやく2人の顔が離れた。

 赤と黄色の落ち葉の絨毯に空色の髪を広げて、彼を見上げる彼女。

 赤と黄色の落ち葉の絨毯に両手を付いて、彼女を見下ろす彼。

 彼女は、顔中を火照らせた彼の顎から滴り落ちる汗を顔で受け止めながら、

「じゅう…」

 彼は、半開きになった彼女の口から激しく吐き出される呼気を顔で受け止めながら、

「きゅうかい…め…」

 数え合う2人。

 自然と彼女の手は彼の着るモッズコートの第1ボタンへと伸び、そして彼の手は彼女の着るダウンジャケットのファスナーへと伸び。

 彼女の手が第1ボタンを外し第2ボタンへ、そして彼の手がファスナーを10センチメートルばかり下ろしたところで。

 堪え切れないとばかりに彼の顔が彼女の顔へと近付き、彼女は彼を迎え入れるために顎を少しだけ上げ、そして彼の言う「切りのいいところ」の接触が果たされるまであと0.3秒となったところで。

 

 車の方から同時に2つの大きな欠伸が聴こえた。

 続けて、「ママ~」と呼ぶ男の子の声。

 

 鼻の先っちょ同士が触れ合い、そして唇同士の隙間がたったの1センチメートルで触れ合うところで、固まってしまった2人。

 

 今度は車の方から女の子の声が「パパ~」と呼んでいる。

 

「呼んでるわ…、お父さん…」

 顎を引っ込めてしまった彼女は、彼にとっては死刑宣告にも等しいセリフを柔らかな羽毛のような声で告げる。

 彼の顔はたちまち悲しみに暮れてしまいそして、

「え~ん」

 彼女の肩に額を押し付けながら、情けない声で呻いてしまった。

「よしよし」

 彼女はくすりと笑いながら手で彼の後頭部をぽんぽんと優しく叩いてやる。

 

「パパ~」

「ママ~」

 車の方からは2人を呼ぶ幼子の声。

 

 彼女は彼の前髪を掻き上げ、露わになった彼の形の良い額にちょんと軽く唇をくっ付けた。

「20回目」

 目標達成を告げる彼女の声。

 彼は彼女の肩から額を離すと、仕方なしにと言った様子で声を張り上げる。

「こっちだよー!」

 車の中から見えるように、手をぶんぶんと振ってやった。

 彼女の方も、子育てが始まってからというもの、以前よりも随分と豊富になった声量で言う。

「早くいらっしゃい。パンケーキを焼いてるわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

―おしまい― 

 

 

 

 

 

 

 



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