リュウセイ (不在さん)
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リュウセイ

*めんどくさいガキ

 

 

   1

 

 

「お兄さん、一晩あたしを買わない?」

 

 まず初めに思ったのは、その銀髪は維持が大変だろうといった感想であった。

 その女は見るからに美人と言った様相だった。人間意識の外から何かが訪れると、最初に考えるのは自分の欲求に基づいたことだ。ヘアバームで軽く動きをつけた短い髪、シャープな輪郭と合わせてクールな雰囲気を持つが、吊り気味のその目尻は柔らかく愛嬌がある。次いでその服装をつま先まで眺めると、華奢ながらも出るところははっきりと主張していた。瑞々しい肌をあらわにしてやろうという若さ溢れる思考からきたそのいで立ちは薄手の物である。

 仮に美人局だとしても何故俺に、もっと金を持ってそうな輩はそこらに居るだろうに。と、思わないわけではないが……しかし俺に話しかけた理由もわからなくはない。

 

 俺は小説家であった。

 

 最も、片手間にバンドをやっていて、先にそちらの芽が出てしまいそうな才の無い物書きではあるのだが。故に俺の身なりもまた、目の前の女が普段触れているものに近いのだろう。

 とはいえショートヘアの彼女と、背中まで伸ばしたウルフカットの俺では、何かが逆な気がしなくも無い。

 

「家出か?家は何処だ」

 

 俺がそう聞くと、女は「占めた!」といった顔を浮かべて、傍らのに構えた小さなスーツケースと共に俺に身を寄せる。

 

「家は京都。遠路はるばる東京まで来たんだけどさぁ、片道分しかお金が無くてねー。だいじょぶだいじょぶ、お金を取って逃げるならお兄さん以外の人を選んでるし、ちょーっとあたしを置いてくれればいいだけだから」

 

 好き放題言うものだと思った。家出かどうか聞いただけなのに、よくもまあつらつらと言葉を並べる。

 

「一晩で何になる」

 

「どうしようね。あたしがお兄さんに体を売って、お兄さんが路銀をくれたらまぁ帰ってもいいんだけど」

 

「そんな覚悟で家出なんかしたのか?」

 

「まぁまぁ、そんな見た目で固いこと言わんといてよ」

 

 ため息を吐きながら女を見たが、女はどこ吹く風といった様子で笑っていた。ここで拾うも捨てるもその権利は俺に在るのだが、どうにもこの女は、自分の思い通りになるというようなことを信じて疑わないように見える。

 厄介な部類だ。こういった手合いとは関わらないに越したことは無いのだが。

 

「何で俺を選んだ」

 

「んー……。なんだろ、直感?」

 

 俺は鼻を鳴らした。

 女は唸るように首を傾げながら、

 

「なんとなくピンときたというか、ティンときたというか……」

 

「……妙な表現をするな、お前」

 

「うん、あたしもそう思う」

 

 そう言ってから、女は「なんだろね」と付け加えてケラケラと笑った。先のわからない状況であるというのに、よくもまあ屈託もなく笑えるものだ。

 

「お前、歳は」

 

 俺がそう聞くと、女は少し悩む素振りをしてから、

 

「二十歳ってことにしといてくれへん?」

 

 と口にする。

 

「未成年かよ、めんどくせえ」

 

「お兄さんに迷惑はかけないようにするから!」

 

「既に迷惑だがな」

 

「あたしの身体好きにしていいからさぁ。ほら、一応82cmあるんだけど」

 

 そう言われると胸に視線が吸い寄せられるのが男の悲しい性である。女はそういう視線を敏感に捉えるというが、こいつは見るからにそうだった。しまったと思ったときには、もうにやにやと揶揄うようにこちらを見ている。

 

「ついでに処女だよ」

 

「……悪いが処女は論外だ。痛がって鬱陶しい」

 

「えっあっ、うそうそ、じゃあ嘘、めっちゃ経験豊富」

 

 そろそろいいかと踵を返そうとする俺の裾を、女は慌てて掴んで引っ張った。お気に入りの一張羅だ、伸ばされてはかなわない、と、女の手元に視線を落とした時、女の足が微かに震えていることに気づく。

 当然と言えば当然の話であった。幾らかやり取りをしたとはいえ知らない男に話しかけるのは恐ろしいだろうし、勇気を振り絞って声をかけた相手に(自分で言うのもなんだが相手を間違えていると思う)今度は袖にされようというのだから、女に見えた一縷の光はここでその輝きを失うのだろう。

 先ほども言ったが女はかなり露出度の高い格好をしていた。オフショルダーにキャミソールを重ね、下はタイトなミニスカートに如何にも歩きづらそうな厚底のサンダルである。どうせ東京の街は慣れてないのだろうから、既にその足には疲労が溜まっていることだろう。

 笑うと愛嬌が見える女だが、ふとした時に見せる素の表情は、作り物のように端正だった。誰かに話しかけなくても、そのうちウリだと勘違いして、いや間違いではないか。声をかけてくる男はいくらでも居るはずだ。

 

 俺は小説家である。こんな美人に声をかけられるという経験を、しかし美人だということ以外のすべてが面倒だという一時の感情で逃してしまっていいのだろうか。

 

 女を見やる。何も言わずに固まった俺を、彼女は裾をつまんだまま不思議そうに見つめていた。

 俺はもう一度彼女に尋ねた。

 

「なんで俺なんだ。もっと誠実そうな見た目のやつなんか、いくらでも居るだろ」

 

「……なんか、寂しそうな顔してたから」

 

 女はそう答えると、俺の服からそっと手を離した。

 

「一応……アテはあって東京に出てきたけど、一日歩き回って見つからないし、お金は無いし、あたしもちょっと寂しくってさ。どうしようかなーって考えながらぼうっと立ってたら、似たような顔をしたお兄さんが歩いてたから、つい」

 

「アテってなんだ」

 

「ん、あたし、京都に居た頃アイドルにスカウトされたことがあってね。突発的に出てきちゃったけど、あわよくばそこで拾ってもらえないかなーと思ってたんだけどさ」

 

「スマホで調べれば出てくるだろ」

 

「うん。それがだいぶ前の話だったし、あんまり興味無かったから名刺どこにやったか忘れちゃって」

 

「アホか」

 

 淡々と告げると、女は頬を掻きながら「あたしの人生最大のポカやね」と苦笑した。

 

「そんなわけで仕方ないから……ね?こんな身なりだけど、あたし処女だからさ。汚いおじさんと遊んでそうなお兄さんだったら、やっぱり最初は顔が良い方がいいなーとか思ったりしたわけだけど……」

 

「それで俺か」

 

「うん。……ダメ?」

 

 女は上目遣いでこちらを見る。こいつをスカウトした奴がどんな人間かは知らないが慧眼だと思った。この女は自分の魅力を良く理解している人間だ、そこらの男なんか、いくらでも手玉に取れるだろう。

 俺は舌打ちをして女に言った。

 

「……着いてきたらどうなるかわかってるんだろうな」

 

「うん」

 

「アイドルにそういう過去があれば不利になることも理解できてるのか?」

 

「お兄さんが言わなければ誰にもバレないやん?」

 

「クソ……。一晩だけだ、あとは勝手にしろ」

 

 女の顔が急に明るくなる。

 

「いやーよかったよかった。じゃあ一晩お世話になります」

 

 俺は舌打ちをした。

 

「やっぱさっきのしおらしい顔は演技かよ、食えねえな」

 

「そうは言ってもあたしの身体は食べるんでしょ?」

 

「……見た目だけは良いからな、どっかのおっさんに渡してやるのが惜しくなっただけだ」

 

 そう言うと、女はまた揶揄うような目で俺を見た。

 

 

   2

 

 

「おなかすいたーん」と宣って喧しい女をファミレスで黙らせた後、家に上げた。

 物書きの部屋と言えば本と原稿用紙が散乱しているイメージがあるだろうが、今時そんなやつは殆ど居ないだろう。いや、本は確かにそこかしこに置いてあるが、文章なんかPCや、もっと言えばスマホがあれば十分に書ける。

 女は立てかけてあるギターや本棚から溢れた本、ハンガーにかけられた大量の服、灰皿代わりのウイスキーのボトルなんかを興味深そうに眺めてから、

 

「なんか想像通りだ。バンドやってるん?」

 

 と、俺に尋ねた。

 俺は女に見向きもせず、ローテーブルに置かれたPCを起動しながらセブンスターを一本抜いて火を点ける。

 

「片手間にな。本業は物書きだ」

 

 視線の先には書きかけの原稿データが広がっていた。

 女は少し気の抜けた返事をしてから、俺の後ろに回って画面を覗く。

 

「おい、見るな」

 

「まーええやん減るもんでも無し」

 

「別に面白いもんじゃない」

 

「物書きなのに面白い話書いてないの?」

 

 女が言ったその言葉は俺の脳天を穿った。おいそれと面白い話が書けるなら俺はこの女を家になど上げていないのだから、逆に言えば俺に才能がないからこそこいつは助かったと言っても過言では無いのだが。

 

「うるせえな」

 

 言いながら、文字を打ち込んでいく。

 なんてことない物語だ。例えば死んだ女に会いたくて自殺を試みたら自分が居ない世界に迷い込んで、そこで生きてた女にもう一度恋をするような、何処にでもある普通の話。

 どこかで小さな賞を取って以来、俺はずっと燻っている。

 書き連ねていく文章に対して、常にこんなものはクソだという強迫観念が付きまとっていた。部屋中の本をひっくり返して読み返して、頭に来て地面に叩きつけて、画面に向き直っても面白いものが生み出せない。それでも書くことを辞められないのは、それより強い思いに自分が呪われているからに他ならないからだ。

 女は俺がキーボードに向かっている様を、飽きもせずに一時間ほど眺めていた。

 煙草は二本三本と猛烈な勢いで減るのに、一時間で進むのは精々千字程度が関の山だった。これくらいの量では煙草を一本吸ってる間に読み終わってしまう。

 切り替えようと吸い殻をウイスキーのボトルに押し込んで便所に立っている間に、女はPCの前に陣取って俺の文章を読み込んでいた。

 

 なんとなくそれを咎める気にならなくて、今度は俺が、女の横顔を見つめている。自分の文章を人に読まれるのはなんとも面映ゆい。これが編集者相手なら、文句の一つに対して十の殺意が湧くものだが、おおよそ小説なぞ読みそうにないこの女が真剣に画面を見つめている光景の先に、俺の文章にどういう評価が下されるのかは少しばかり興味がある。

 とはいえ、俺とこいつを比較した時、多分俺の方が小説なぞ読まなそうな見た目をしているのだが。

 

 しばらく経って女が顔を上げた。

 

「なんか、意外と繊細な文書くね」

 

「文句でもあるか?」

 

「いや、こんだけ部屋が散らかってるもんだから、どんな大味な文章を書くもんだと思ったらさー。結構あたし好みだったから驚いてる」

 

「そうかよ」

 

「うん。……ま、確かに好みは分かれそうやね」

 

 そう言って、女はちろりと舌を出した。

 

「一言余計だ」

 

 俺は立ち上がって、女にバスタオルを投げつける。

 

「うわ煙草くさ。……あたし先にお風呂入っていいの?」

 

「どうせ一日歩き回って疲れてんだろ。さっさと汗流して来いよ」

 

「なんか意外と優しいじゃん。……あ、もしかして、あたしの残り湯が目当て?」

 

「お前俺みたいな奴捕まえて何夢見てんだ。ユニットバスだからシャワーしか使わせねえぞ」

 

「あー、なるほどね。んじゃあ、遠慮なくいただきます」

 

「ああ。上がったらバスタオルは洗濯機に入れとけ」

 

「はいはーい」

 

 少し経って、くぐもった雨だれのような音が響き始めた。俺以外の誰かがこの部屋でシャワーを使うのは随分と久々だ。それも再び女に使わせることになるなんて、思いもよらなかった。

 あの女は見た目と言動の奔放さに反して妙に几帳面らしい。他人の混じりこんだ部屋を見回すと、女の荷は俺の生活の妨げにならないように隅に小さく置かれていた。

 そう言えば、あいつがこの家に上がった時、踵を合わせて靴を脱いでいるのに、わざわざ手で綺麗に整えていたのを思いだした。多分、育ちは良いのだろう。悟らせないようにしているが貞操観念もしっかりしてると見える。じゃなきゃあの軽そうな言動、格好で処女は有り得ない。もっともそれが奴の嘘だという可能性は大いにあるが、別にどうでもよかった。

 向こうはどう思っているか知らないが、俺にあの女を抱く気などないのだから。

 

 風呂場のドアが開き、おずおずといった足運びで女が出てきた。体にはバスタオルを巻いただけで、居心地悪そうに俺を見下ろしている。

 

「……服は」

 

 尋ねると、女は少々どもりながら、

 

「ど、うせすぐに脱がされるから、着なくていいかなって」

 

 その声は震えている。土壇場で怖気づきそうになったのを、後に引けない状況を作ることで無理やり奮い立たせたらしい。

 少し感心した。

 

「俺もシャワー浴びてくるから着とけ。風邪ひくぞ」

 

 女は目を丸くした様子で俺を見た。

 

「あ、うん。……それと」

 

「なんだよ」

 

「カラーシャンプー、勝手に使ったよ」

 

「別に構わねぇよ。忘れると維持めんどくせえだろ」

 

 俺がそう言うと、女は少しほっとしたように息を吐いた。それを尻目にバスルームへ向かおうとすると、「ねぇ」と呼び止められる。

 

「……着せてスるのが趣味なん?」

 

「……ああ、そうだよ」

 

 めんどくさいガキだ。

 

 

   3

 

 

 風呂場から出ると女はベッドに腰かけて、ぼんやりとした目で本を眺めていた。ホットパンツと長袖のTシャツといった格好だが、今度は服も身に着けている。

 ドライヤーを見つけて使ったようだがそれについて何かを言うことも無い。俺はアウトバストリートメントを手に馴染ませると、手櫛で梳くように髪に付けていった。

 

「髪長いとめんどそうやね」

 

 女が言う。

 

「お前はずっとその髪型なのか?」

 

 俺が返すと、こくりと頷いた。

 

「小学生の頃は伸ばしてたけど、中学に上がったくらいからずっとこう。お兄さんは?」

 

「数か月前まで全頭長さ揃えたセミロングだったけど、ラーメン食う時にうぜえからウルフに変えた」

 

「結んだりしてたん?」

 

「ポニテにしたりマンバンにしたりしたな」

 

「へぇ。まあでも、ウルフでいいんじゃない?似合ってるよ」

 

 身体を屈めて、頬杖をつきながら女は笑った。

 よくもまあ歯の浮くようなセリフを臆面もなく言えるものだ。

 

「そりゃどうも」

 

 ドライヤーのスイッチを入れる。女に目をやると、再び本に視線を落としていた。

 

 

   4

 

 

 時刻は既に23時を回っている。小説は進まないので書くのを止めた。女は本を読み進めるフリをしながら、時折こちらに視線を送っては、すぐに本に戻していた。

 

「頭に入らねえだろ」

 

 俺が言うと、女は本から顔を離した。

 

「そりゃあ、ねぇ。お兄さん、何も言わないし」

 

「……抱くつもりはねぇよ」

 

「でも、ご飯奢ってもらったし、シャワーも、シャンプーも使わせてくれたし、泊まる場所も……」

 

「ガキは趣味じゃねぇんだ」

 

 苛立ちを隠すように、煙草を咥えて紫煙を吐いた。

 女は俺がそう言うことを想像もしていなかったのか、目に見えて狼狽えている。

 

「じゃあ、なんで……」

 

「言ったろ、俺は物書きだ。お前みたいな奴に話しかけられる機会なんざそう無ぇから、ネタになるかと思って拾っただけだ」

 

 俺は言葉を続ける。

 

「別に官能小説が書きたいわけじゃない、未成年のお前を抱くと後が面倒だしな。……わかったら俺の気が変わる前に寝ろ。ベッドは使っていいから」

 

 女は一瞬目を伏せた後、「ありがとう」と言って薄く微笑んだ。

 電気を消す。

 酒を飲んだくれた日のように固い床に身体を預けると、

 

「お兄さんになら、別にあげてもいいよ」

 

 と声が聞こえた。

 

「要らねぇよ」

 

 そう言うと、くすりと息が漏れる音がした。

 

 

 

 

 

*朝靄は紫煙に等しい

 

 

   1

 

 

 体が痛みを訴えて目を覚ます。空き瓶と缶を片付けるのが面倒だと思いながら身体を起こすがそこに飲み明かした残骸は無く、代わりにベッドに女が寝転がっていた。

 スマホを確認すると朝の六時を指していた。どう寝ようが四時間もすれば魘され飛び起きる俺が、七時間も寝るとは予想もすまい。

 目覚めの一服は家の近くのコンビニで吸った。肺に紫煙を溜めて、眠気と共に吐き出す。長いこと続けているルーティーンだ。ほの白く澄んだ青空が鈍い灰色で覆われるのをぼんやりと見つめるが、俺の吐いた精々数千ccの大気汚染は瞬く間に霧散して、後には何も残らない。

 家で吸わなかったのは、女を起こしたくなかったからである。別に気を遣ってるわけではなく、寝起きに誰かと会話するのが嫌いなだけだ。

 煙草と共に買ったゼリー飲料を店先で飲み干してから、ごみ箱に捨てて家路に着く。

 設計者の頭を疑う内開きの重いドアを開き、ベッドに目をやるがそこに女の姿は無く、少ししてからユニットバスの戸が開く音がした。

 

「おかえり」

 

 俺の姿を見て女が言った。

 

「起きてたのか」

 

「うん、あたし眠り浅いんだ」

 

 くあ、と欠伸を一つ浮かべて、女はベッドに腰かけた。恐らく俺が家を出た音で目を覚ましたのだろう。

 

「カロリーメイトくらいならあるぞ」

 

「ううん、要らない。朝は食べないから」

 

「そうか」

 

 会話はそこで途切れる。俺はPCに向かい、女はスマホで何か連絡を取っているようだった。

 文章は今日も上手く紡げない。書きたいことは自分の根底にあるのに、目と指を通して表現がふるいにかけられるかのように、薄く脆くなってしまう。指が止まるまで、そう長くはかからなかった。

 

「なぁ」

 

 目の前の生業から逃げるように声を出すと、女がこちらを振り向いた。

 少し意外そうな顔をしている。そう言えば、俺から自発的に何か行動を起こすのは、これが初めてだったかもしれない。

 

「これからどうするんだ」

 

 そう問うと、女はスマホを顎に当てながら、

 

「どうしよ」

 

 と短く呟いた。

 

「……帰りたいなら金はやる」

 

 PCを閉じて、俺は財布から万札を一枚抜き取って女に差し出す。だが女はそれを受取ろうとせず、首を横に振った。

 

「流石に貰えないって。あたしお兄さんに何もしてないやん」

 

「気紛れだから受け取っとけ」

 

 女の手をひったくって、無理やり金を握らせた。女はしばらくその手を見つめる。

 

「……いいの?」

 

「バンドで割と稼いでんだ。気にすんな」

 

 それでも女は悩む素振りをして……そのうち「わかった」と一言発した。

 

「じゃあ、あたしの事教えてあげる。取材して、ネタにしてよ」

 

「要るかよ、お互い何も知らない方が後腐れないだろ」

 

「ここまでしてくれたのにそれは無いでしょ」

 

 女はそう言うとニヤリと笑った。

 

 

 

 

 

   2

 

 

 

 

 

 

「あたし、塩見周子ね」

 

 ローテーブルの対面に座り、女はそう名乗った。こいつは本当に自分の事だけを話すつもりのようで、一方的な自己紹介だった。

 

「昨日も言ったけど出身は京都で、実家は和菓子屋」

 

 女……周子はそこまで言って、俺の目をじっと見つめた。勝手に喋るだけかと思ったら、こちらから質問を混ぜねば話を進めない腹積もりらしい。

 面倒だ。金なぞ渡さなければよかったか。

 

「歳は」

 

「それは秘密」

 

「あ?」

 

「流石にあたしのこと話すだけで元取れると思って無いし。もしそうなったときに気にならない方がええやん?」

 

「今日出て行く女にこれ以上何かするわけ無ぇだろ」

 

「あ、ごめん。夜行バス明日しか取れなくてさ。できれば、今日も止めてほしいなぁなんて」

 

 周子はしれっとそう告げた。

 

「一万あればネカフェにでも泊まれるだろうが」

 

「いやー、多分無理なんじゃないかな。ほら、条例とかあるし」

 

 何を考えているんだこいつは。一晩手を出さなかっただけとはいえ、見知らぬ男の家に二日も居座る等、正気の沙汰ではない。

 未成年がネカフェやゲーセンに居られるのは夜の十時までだが、それを無視した店もあれば、カラオケなんかで一夜を明かす手もある。この女もそれを理解していないわけがあるまい。

 もしも少し優しくしてやったからというだけで俺の事を気に入ったのなら、この周子という女は相当の阿呆か、それか世間知らずだ。

 周子を睨むが、こいつは昨日俺に話しかけてきた時と同じ目で俺を見ていた。絶対に譲らないという目だ。まるで獲物を捉えた捕食者のようなそれである。

 俺は舌打ちと共に煙草に火を灯し、言った。

 

「まあいい、その話は後だ」

 

 被せるように周子が返す。

 

「あ、一つだけ聞いて良い?」

 

「……なんだよ」

 

「お兄さん何歳なん?」

 

「……二十五」

 

 こいつが年齢を答えなかった以上俺にも応える義理は無いのだが、なんとなく口に出していた。それは周子に教えるためではなく、自分への戒めなのかもしれない。こんな歳になってまで何をしているのだと。こういう機会でもなければ、自分の年齢を鑑みることなどそうは無いのだから。

 周子は驚くでもなく引くでもなく、そんなものかと言った顔で俺を見ていた。

 

「なんかわかる気がする」

 

「わかるもクソもそうだっつってんだろ」

 

「でも見た目はもうちょい若そうやん?」

 

 俺は紫煙を吐いた。

 

「世の中お前が想像するより大人ってやつは少ねぇぞ」

 

「お兄さんは?」

 

「この歳で定職に就いてないやつが大人なわけあるか」

 

「確かに。それじゃああたしと一緒やね」

 

 周子はそう言うと、どこか嬉しそうに目を細める。

 その言葉にふと疑問が浮かび、俺はそれを口にした。

 

「学生じゃないのか、お前」

 

「うん。高校は出たけど、なーんも考えず生きてたら受験とか終わっちゃってた。んで、たまに家の手伝いしながらゴロゴロしてたら、父さんに色々言われちゃって」

 

 言いながら、周子はおどけた様子で肩を竦めた後、

 

「今に至る」

 

「ナメてんのか」

 

「まあそう言われても仕方ないよねー」

 

 何が楽しいのか、周子はケラケラと笑っている。

 しかし、こいつの宣った似た者同士という皮肉は、案外的を射ていた。大人とは自分を捨て、社会に適合できる才能を持ち合わせている人間たちの総称だ。何か明確な意思があって道を逸れた俺のような人間も、気づけば取り残されていたであろうこの塩見周子という人間も、多分本質は変わらない。何かに成りたい人間は、何にも成れないならばただ空虚な存在だ。唯一性を捨てられるような才能も度胸も無く、我武者羅に生きる自分に酔っているだけの人間はただのゴミだ。

 俺たちのような存在は、名を残せなければ等しく塵芥である。俺という存在は誰にも知られちゃいない。塩見周子も、きっと明日には俺の記憶から消えている。

 

 だからこいつと俺は同じだった。

 

 俺はそれが少しだけ、寂しいことだと思う。

 

「趣味は無いのか」

 

「ん、お兄さん、やっとあたしに興味が出てきたん?」

 

 質問を続けると、周子は揶揄うように俺に言った。どうやらこいつの癖らしいというのがここに来て理解できたので、意趣返しとばかりに頷くと、周子は分かりやすく驚いて見せる。

 

「ダーツとかよくやってるよ。マイダーツも持ってるから、趣味って言ったらこれやね」

 

 周子はそれまでより少しだけ高い声で言いながら、左手で矢を投げる素振りをする。趣味だと言うだけあって、その姿は中々様になっていた。

 

 その後も、取材という名目でこいつの身の上を訊き続けた。内容は好きな音楽だとか食べ物だとか、父親と母親についての印象だとか、どちらの方が好きかと言ったことや、寝るときに好ましい姿勢といった、どうでもいい事柄まで。

 本人は理解してるのか知らないが、随分愛されて育ってきたらしい。両親にとって惜しむらくは、こいつに家業への興味が殆ど無かったことだろうか。

 やりたいことが見つからないことは悪いことではない。十八年も時間をかけないとことわりを学べないようなこの世界で、大なり小なり明確なビジョンを持ち合わせている方が恐ろしい。

 そう周子に告げると、少しほっとしたように笑った。

 

 案外暇つぶしにはなったようで、この問答は気が付くと正午を回っていた。腹が空いたと周子が言うので、コンビニで弁当を買って二人で食べる。時間の無駄なので俺は自炊はしない主義だ。故にこの部屋に調味料の類は置かれていない。あるのはゼリー飲料と栄養食品、それと酒の買い置きくらいで、普段は気が向いた時にそれらを食べるだけだった。

 それを聞いた周子は信じられないといった様子で顔を顰める。こいつは食べ歩くのが割と好きなようで、店番をしている時も試食の生八ッ橋なんかをよく摘まんでいたという。

 それでこのプロポーションを保っているなら天性だろう。世の女性の耳に入れば殺されるのではないだろうか。

 

「バイトに行く。鍵は置いておくから出て行くならポストに入れろ」

 

 午後三時、ギターケースを持って俺は周子にそう告げた。

 

「何のバイト?」

 

「ライブハウス」

 

「え、面白そう。あたしも行っていい?」

 

「いいわけねぇだろ」

 

 そう言うと周子はまたあの目で俺を見つめる。何も持ち合わせていないはずの人間が持っている眼光ではないが、こいつは昨日から自分の意思を押し通そうとするとき、何度かその目で俺を見つめた。

 俺は頑として首を横に振る。

 

「義理が無い」

 

「まぁまぁ、ギター持ってるってことは演奏するんでしょ?思い出作りってことでさ」

 

 周子は続ける。

 

「どうせしばらくしたらお互い忘れちゃうとしてもさ、折角ならなるべく覚えていたいやんか」

 

「俺なんか人の記憶に残るほどの人間じゃない」

 

「それを決めるのはお兄さんじゃないでしょ」

 

 そう言うと、「十分待って」と周子は言い、服を持ってユニットバスに駆け込んだ。

 

「……拾うんじゃなかった」

 

 残された俺はそう独り言ちる。

 着替えて軽く化粧をした周子を見て、俺はもう拒むことはしなかった。

 

 

 

 

 

*消えないモノ

 

 

   1

 

 

 この時間は帰宅する学生で街が溢れかえる。着替えてから遊びに行くもの、制服を着た自分をステータスだと捉え、己の姿を青春の一ページに閉じ込めようとするもの、人の数だけ様々な考え方が存在している。そこに混じる外回り帰りのサラリーマン、大学生、老人。彼らはそんな若いエネルギーを見て、何を思うのだろうか。改札に向かう度、十人十色の表情を貼り付けた人間たちを見て、そんなことを考える。

 当人でないのだから答えは出ないが、俺と逆の方向を歩くその行進を省みて、たまに言いようもなく羨ましいと感じることがあった。

 切符の値段を伝えようとして振り返ると、周子はポケットからパスケースを取り出そうとしていたところだった。ビニール地の部分からから透けて見えるのは緑ではなく青。この辺の人間は大体Suicaを利用しているから、ICOCAを実際に見るのは初めてだ。大方、昨日東京を回る際に幾らか入れていたのだろう。俺はすぐに踵を返して、改札を通り抜ける。

 

「四駅くらい先で降りる。人が多いからあんま離れんなよ」

 

 ホームに降りてすぐ、停車していた電車に乗って、周子にそう言った。

 周子は頷く。電車を降りるまで、特に会話らしい会話は無かった。

 

 ライブハウスは東京の中でも取り分け渋谷付近に多く存在し、俺のバイト先も例に漏れずその周辺に店を構えている。迷路のような駅構内を通り抜け、ハチ公の銅像を横目に公園通りを進むとすぐに看板が見えてきた。駅前だけあって多様な店でごった返していて、歩く人々も老若男女国籍問わない。周子ははぐれないようにぴたりと俺の後ろに張り付いていて、店の前に立つまでは少し緊張した面持ちだった。

 立ち止まった俺に、周子が問う。

 

「ここ?」

 

「ああ」

 

 短く答えてドアに手を掛けた。開けてすぐ眼前に見える螺旋階段を降りた先には薄暗いハコがあり、バーを兼ねていて酒や軽食が食えるが、基本的には立ち飲みでライブを見に来る奴が殆どだ。演者はインディーズからメジャーデビューを果たした者達までジャンル問わず様々で、地下アイドルや駆け出しのアイドルが営業に来ることもある。

 

「源さんおはよ」

 

 階段を下りた先の扉を開けながら、カウンターでグラスを拭いていた男に話しかけた。

 

「ケイか、お疲れ。……おい、お前彼女連れかよ。一応職場だぞここ」

 

 彼は俺の後ろで店内を物色している周子を捉えて、冗談交じりにそう言った。

 源さんはこの店の店主だ。ツーブロックを見せつけるようなオールバックの髪形に短く整えた顎髭を貯えていて、人懐っこく笑うが見た目通り態度は軽い。昔はどこかの小さな事務所でプロデューサーをしていたらしいが詳しいことは知らない。俺が大学に入学してすぐ、バンドを始めた時に出会ったから、かれこれ六年ほどの付き合いになる。

 

「違ぇよ、昨日拾ったんだ」

 

 悪態交じりにそう返すと、訝しげな視線が返ってきた。

 

「なんだそりゃ。確かにお前はモテないけどな、まだ彼女って言い張った方が説得力あるぞ」

 

「嘘じゃねぇ。家出してきたらしいけど、家預けとくのも信用できないから連れてきたんだ。悪いけど日雇いで置いてくんねぇかな」

 

 俺の言葉にまず周子が反応したが、意図を察したのか俺の横に立って、改めて会釈をした。

 源さんは特に悩む素振りも見せず、

 

「いいぞ」

 

 と即答し、言葉を続ける。

 

「お嬢ちゃん、名前は」

 

「あ、塩見周子です。……あの」

 

「うん?」

 

「いいの?」

 

「いいぞ、ケイの紹介だしな」

 

 そのまま仕事内容を説明し始める源さんを見ながら、周子は呆気に取られている様子だった。多分話は右から左に流れているだろう、仕方が無いので、助け舟を出してやることにする。

 

「源さん、俺が教えるわ。配膳とカウンターの片づけでいいだろ」

 

「ん、おう。今日は二十二時でセトリ終わるからそこで上がっていいぞ。あと周子ちゃん、お酒飲める?」

 

「いや、お酒は……」

 

「おっけ、訳アリな。あと別に遠慮なくタメ口きいてくれていいから、よろしく!」

 

「えぇ……?」

 

 こいつでも源さんには押されるのか、と思いながら、戸惑う周子をスタッフルームへ連れて行く。ここは接客からライブの音響、照明、バンドの助っ人まで色々な役職の人間が働いていて、バンドを兼業しているヤツはある程度チケットノルマを負担してもらったりもできる。機材のセッティングはもう終わっているのか、ルーム内では何人かが暇そうに煙草を吸っていた。

 殆どが顔見知りだ。軽く挨拶を交わして、奥に進む。防犯カメラの映像が映されたモニターが置かれた机の引き出しを開け、鍵を取り出しロッカーに挿す。パッケージ詰めされた制服を取り出して周子に投げた。

 

「上から羽織ればいいから、これ着て接客してくれ。客の注文を源さんに伝えて、作ってもらったものを出すだけ。客が消えたら食器を片付けて机を布巾で拭けばいい」

 

「わかった。……あのさ」

 

「なんだ」

 

「名前、ケイって言うん?」

 

「別に呼ばなくていい。俺もお前を名前じゃ呼ばねぇから」

 

 周子は少しだけ不満げな顔を浮かべていたが、

 

「ま、お兄さんって呼ぶ方がしっくりくるね」

 

 と言って勝手に納得していた。

 開店は午後五時なので、あと一時間ほど暇がある。俺の今日の仕事はPAと助っ人が一件だが、リハは開店してから行うので、いつもなら空き時間は譜を確認するのに使っていた。しかし今日は周子が居る。こいつを野放しにすると余計なことを言いそうな奴らが何人か居るので、仕方なく源さんの元へ連れて行った。

 源さんは制服を着た周子を見るや否や、調子よく口笛を吹いた。

 

「いいねぇ。良く似合ってるじゃん」

 

「ほんま?これ、結構可愛いね」

 

 制服と言っても、左腕に蛍光の布が当てられているのと背面に店のロゴが印刷されているくらいで、普通の固めのナイロン地のブルゾンだ。サイズはメンズLで統一されている。周子が着ると丁度オーバーサイズのそれになるので、髪色や耳に下がる大振りのピアスと相まって良く馴染んでいた。

 

「この制服目当てで入って来る奴も居るくらいだからな」

 

 俺が補足すると、源さんは鼻を高くしてふんぞり返った。

 

「俺がデザインしたんだぜ?記念に持って帰っていいから、たまに着てやってくれよな」

 

「へぇー、すご」

 

 改めてまじまじと制服を見つめる周子を見て、源さんはますます気を良くしている。開店準備を放り投げて、周子に色々と問い始めた。

 美人にめっぽう弱い源さんの悪い癖だ。顔も性格も悪くないのだが押しが強すぎて女に引かれる。故に未だに独身である。

 

「ところで周子ちゃんどこの子?関西弁だよな、それ」

 

「あ、うん。あたし京都から来たんだ」

 

「そりゃまた遠いところから。京都ってやっぱさ、舞子さんとか歩いてたりすんの?」

 

「んー、祇園の周りで見かけることは無くは無いけど、そんなに見るわけじゃないかなー。実家が和菓子屋だから、たまに買い付けに来てたりはするけど」

 

「和菓子屋!じゃああれだ、八ッ橋とか作ってたり?」

 

「せやね、主力商品。京都に来たときには是非買ってってやー」

 

 周子は源さんのテンションに慣れてきたのか、すぐに打ち解けていた。こいつと同じくらいの女はたまに入ってくる。大抵は源さんががっつきすぎて軽く逃げられているのだが、周子はそんなことも特に無かった。

 一晩と少し接して分かったが、こいつは話し方こそサバサバしているものの、多分人情といったものは大事にする手合いなのだろう。転じてコミュニケーション力もかなり高い。源さんの会話にもついていけているし、誘いに繋がりそうな言葉は、それとなく躱している。それでいて立てるところは立てるので、源さんは素気無くされていることに気が付かず、馬鹿みたいに気を良くしていた。

 

「おっさん、その辺にしとけ」

 

 しかし言われねば気づかないのもこの人の悪い癖である。ある程度まで行ったところで源さんを止めると、あからさまに眉を吊り上げて俺を見た。

 

「おっさんじゃねーよ!お前と十しか変わんねえじゃん!」

 

「俺と十違ったら十二分におっさんだっての。つーか俺もガキにはおっさんって言われる年齢だぞ」

 

「いや認めん。三十五はおっさんじゃないよな周子ちゃん」

 

「いや、おっさんじゃない?」

 

「マジか……」

 

 周子に話を振ったのが運の尽きというか、見事に止めを刺されていた。がっくり肩を落とす源さんには目もくれず、周子は何故か俺を見ている。その少し訝しげな目に、俺は口を開いた。

 

「何だよ」

 

「お兄さん、笑うんだ」

 

 弾かれるように周子から視線を外し、口を拳で隠す。周子は揶揄うような目で俺を見た。

 

「そういやケイ、お前周子ちゃんといつ出会ったんだ?」

 

 立ち直りの早い源さんが、俺たちのやり取りを見ながらそう尋ねる。だが答えたのは俺ではなく周子の方だった。

 

「昨日あたしが声掛けたんよ。泊まるとこないしお金も無いからーって」

 

 源さんは驚愕の表情でもって俺を見た。

 

「ケイ、お前周子ちゃん泊めたのか……?」

 

「……ああ」

 

 表情の意味が分からないと言った様子で周子は俺たちを交互に見やる。「余計なことは聞くな」と周子に目で伝えたが、付き合いが浅い故かそれが通じる筈も無く、周子は何げなく尋ねた。

 

「もしかしてなんか不味かった?」

 

「いや、不味いってことは全くないんだが。……そうだな、よく見るとどことなく」

 

「源さん」

 

 怒気を孕めて名前を呼んだ。源さんはハッとしたように言葉を止め、俺に謝る。

 

「すまん」

 

「そいつ明日京都に帰るんだよ、余計な事言わなくていいから」

 

「そうだな、悪かった。周子ちゃんもごめんな、薄々気づいてると思うけどケイにも色々あるんだわ」

 

「あ、うん。あたしもごめん、考えが足りてなかった」

 

 周子は俺を見てそう言った。気になりはするのだろうが口には出さない。こいつのそういう所には、割と好感が持てる。

 源さんはグラス拭きを手伝う俺を尻目に、耳打ちするように周子に尋ねた。

 

「ただ、ケイの家に泊まったって、誘い文句は要するにそういうことだろ?よく受け入れたなあいつ」

 

「んー、確かにそうやけど、手は出されてないよ。処女はめんどくさいって」

 

「なるほどな。……まぁあいつ女絡みで色々あったから、勘弁してくれな」

 

「聞こえてんぞコラ」

 

 余計な事言いやがって。何のためにあんたの前に周子を連れてきたと思っているんだ。

 とはいえ俺も源さんには恩があるのでそれ以上強くは言えず、舌打ちを一つしてカウンターを離れた。

 時間的にも丁度いい、そろそろ店が開く。

 

 

 

 

 

   2

 

 

 

 

 

 店が開いてから、周子と言葉を交わすことは殆どしなかった。単純に受け持ちが違うのもそうだが、これ以上俺の話を掘り下げられたくないのもある。

 別に壮絶な人生を送った訳じゃない。ここに居る奴らは、皆大なり小なり何かしら抱えていたりもする。というより、音楽をやっていて、その道を諦められない奴なんか殆どがそうだ。そういった意味では俺も平凡な人生を歩んでいると言える。

 それでも。

 口にしたくない思い出の一つや二つくらいある。

 

 今日のカウンター席は大繁盛だった。

 当然の話だ。顔の良い女が愛想を振りまいているのだから、男はそこに群がる。俺に対して何か返そうとしていた周子の願いの通りに、仕事を手伝わせることで恩に報いらせてやろうと考えていたのだが、あの仕事量を見ると少し酷だったのかもしれない。別に俺の預かり知らぬところで生きるも死ぬも知ったことでは無いが、俺のせいで無駄に苦労を背負うことになるならそれはいい気分ではない。

 周子の容姿が目を惹くものであることは理解していたが、少し至らなかったようだ。

 

「ケイ、そろそろ出番」

 

 ボーカルの声量や周りのバランスを見て時折マイクの音量を絞るだけの単純作業に欠伸を打っていると、隣で機材を弄っていた男が俺にそう声をかけた。頷いて、ギターを手に取りステージの裏へと向かう。

 この店ではライブの形態が二つある。チケットノルマを達成して、単独や対バン形式でハコを貸切る形と、参加費だけ払って一、二曲だけ演奏するフェス形式で、今日は後者だった。そしてツーピースやスリーピースのメンバーがライブをやるとき、音源の音に近づけてやるためにサポートを入れるのはよくある話で、今日の俺はそのサポートだ。

 ステージに立って少し考えた。周子は思い出作りと言っていたが、一晩泊めてやっただけの男に、記憶に残すような価値はあるのだろうか。

 

 演奏は瞬きをする間に終わり、俺の記憶には残らない。ステージからフロアを望むと、まあまあの盛り上がりを見せていた。立ち見前提のキャパ二百人が良いとこの小さなハコなので、一人一人の表情がよく見える。周子に目をやると、少しの驚きと、興奮の色が見えた。

 ステージを下りて、持ち場に戻る。

 

「わり、休憩行くわ」

 

「おけ。良いステージだったぜ」

 

 目深に帽子を被ったスタッフに一言だけ伝えてその場を離れると、カウンターに向かった。

 

「源さん、モスコミュール」

 

「あいよ」

 

 ライブ後に客に奢ってもらうこともあるので、バイト中に飲酒しても特にお咎めは無い。最も泥酔すると流石に怒られるが、大抵の奴はそこまでいかないし、俺も仕事中は飲んだとて一、二杯程度だ。その程度では顔も赤くならない。

 源さんは銅製のタンブラーを取り出し、ウォッカやライムジュースを注いで手際よくステアした。そのまま出せばいいものを、わざわざ周子に渡して運ばせる。

 

「お兄さんお疲れー。上手いもんだね、演奏」

 

「そりゃどうも」

 

 タンブラーを受け取ってすぐに嚥下する。熱を帯びた手や喉が心地よく冷やされる感覚。これが好きで、俺はライブの後はいつもモスコミュールを頼んでいる。

 

「周子ちゃんも休憩入っていいぞ」

 

 源さんが言った。夕飯時はもう過ぎている上に、目玉のバンドは演奏を終わらせて人も徐々に減り始めている。タイミングとしては妥当なところだろう。

 

「ほんまに?じゃあ遠慮なく」

 

 周子はそう言うと、俺の左隣に腰かけてきた。そういえば、こいつは左利きだったか。

 

「どんなお酒なんそれ」

 

「ジンジャーエールにライムと酒足したやつだ。飲んだこと無いのか」

 

「当たり前やん。ダーツバーはたまに行ってたけど、それこそコーラとか飲んでたから。こんな見た目だけどしゅーこちゃん真っ当に生きてたしね」

 

「何も考えてなかっただけだろ」

 

 周子は薄く笑う。

 

「そうとも言うね。実際、悪いこと考えなくていいような環境で生きてきたから、結構幸せだったのかも」

 

「身近にあるものには気づかねえもんだ」

 

「そうやね。ま、気づかなかったから、こうして家出娘なんて親不幸者になっちゃったわけだけどさー」

 

 まだ間に合うだろ、そう言おうとしたところで、他の客の対応をしていた源さんが口を挟みこんできた。

 

「周子ちゃんもなんか飲むか?会計はケイが持ってくれるから何でも好きなもん頼んでいいぞ」

 

 冗談めかしてそう言うと、周子はかぶりを振って、少し申し訳なさそうに言った。

 

「ううん、要らない。これ以上お兄さんに貰っても何も返せないしさ。今持ってるお金も、お兄さんがくれたものだし」

 

 源さんは「げ」、と言う顔を浮かべる。だからモテないのだ。

 俺は深いため息を吐いて言葉を返した。

 

「アホな嘘つくなよ、あんた従業員には気前よく振る舞ってんだろうが。……お前も、遠慮せず好きなもん頼め」

 

 周子は半眼を作って源さんを見つめた。顔の整っている女がやるといやに迫力がある。源さんは後ずさって、申し訳なさそうに言った。

 

「いや、マジでごめん。お詫びに賄いもつけるから」

 

「ほんと?」

 

 周子はカウンター奥の黒板のメニューを一瞥し、

 

「じゃあカルボナーラとジャーマンポテト、あとフィッシュアンドチップスね」

 

「任せろ。……でも食べれる?結構量多いぞ」

 

「大丈夫、無理ならお兄さんに手伝ってもらうから」

 

 そう言うと周子は俺に目配せを一つ。俺も腹が減っていたので、肯定の意を乗せて源さんを見た。

 源さんは朗らかに笑う。

 

「それなら問題ないな!飲み物は何がいい?コーラとかジンジャーエールとかあるし、飲みたいなら酒も……」

 

「いやいや」

 

 流石にそれは、と周子は遠慮して、目の前にあったドリンクメニューを手に取ろうとした。俺はそれを手で制して、源さんに告げる。

 

「シンデレラでも出してやれよ」

 

「お、シンデレラか。いいね、確かに周子ちゃんにぴったりだ。……すぐ作るからちょっと待ってな」

 

 源さんはスタッフに料理の指示を出すと、冷蔵庫から何種類かのジュースを取り出し、シェイカーに注いだ。

 シンデレラがなんなのかピンと来ていない周子は、少し不安そうに俺を見つめる。

 

「ノンアルだから心配すんな。別に飲みたいなら止めねぇけどな」

 

「ううん、お兄さんに迷惑かけるのも申し訳ないし。……でもちょっとびっくりしたよ、酔わせて襲うつもりなんかなって、一瞬思った」

 

「お前は俺がそういうことするように見えるのか?」

 

「見えてたら昨日の時点であたしの処女は散ってるでしょ」

 

 揶揄うように周子は俺を見る。

 俺はモスコミュールを煽って、少しだけ笑った。

 

「馬ァ鹿、出会って二日の人間を簡単に信用してんじゃねぇ」

 

「そうは言ってもさー、もうお人好しなのは分かってるってば」

 

「言ってろ」

 

 むず痒くなって、俺はタンブラーの中身を一気に飲み干した。入れ替わるように源さんが周子の元にグラスを置く。

 

「お待たせ、シンデレラね」

 

「どーも。へぇ、黄色いんやね」

 

 カクテルグラスに入った液体を見て周子はそんな感想を述べる。そっと摘まむようにグラスを手に持ち恐る恐る一口煽った。

 

「どうよ」

 

 源さんが周子に尋ねた。

 

「うん、美味しい」

 

「だろ?お酒が飲めない人は良く頼んでるな」

 

「確かにいいね。でもなんでシンデレラなん?」

 

 周子の疑問を受けて、源さんは俺の方を向く。どうやら知らないらしい。

 

「あんたバーテンやってんだからそれくらい覚えとけよ」

 

 そう悪態をつきながら、俺は手慰みにグラスを弄び、言葉を続ける。

 

「……魔法使いに魔法をかけられてやっと、シンデレラは舞踏会で他の人と同じように楽しめる訳だ。こいつはそれにちなんで、アルコールが入ってなくても他の人と同じように楽しめるように、って意味を込めてシンデレラって名前が付いてる」

 

「らしいぞ」

 

 と語尾に付け足したのは源さん。

 周子は感心したように一つ声を上げた。

 

「お兄さん物知りだね」

 

「物書きやってるからな」

 

「でもさ」

 

 周子が続ける。

 

「お兄さんがそれを注文したってことは、あたしに魔法をかけたかったってこと?」

 

 どうしてそうなるのか。俺はかぶりを振った。

 

「律儀に飲まないでいるから、雰囲気だけでも味合わせてやろうと気を利かせてやってんだよ」

 

「一緒やん」

 

「めんどくせぇお前。……源さん、モスコミュールお代わり」

 

 逃げるように源さんにグラスを掲げると、源さんはやけにいやらしい笑みを浮かべて俺を見た。

 

「いいのかこれ以上酔って」

 

「こんなもん二杯飲んだくらいで酔っぱらうわけねぇだろ」

 

「んじゃウォッカ八割にしてやるよ」

 

「あんたバイトに働かせる気あんのか?」

 

 半眼を作ってそう言うと、源さんは何も言わずグラスを取り出した。作ってくれることはくれるようだ。

 何も言わなくなった周子に目を向けると、いつ配膳されたのか、魚のフライを涙目で頬張っている。お冷を入れて渡してやると、一息に飲み下した。

 

「っ熱かったぁ……。ありがと、上あご捲れるかとおもったよー」

 

「捲れてはねーのな」

 

「ギリギリってとこやね。それにしても源さん、おもろい人やなぁ」

 

 言いながら、周子はタルタルソースをディップしてフライを再び口に運んでいる。美味そうに食うものだと眺めていると、フライの入ったバスケットをこちらに少し寄せられたので、遠慮なく箸で摘まんだ。

 成程、揚げたてだけあって中は灼熱だ。

 

「源さん、デリカシーは一切無いけど悪い人じゃねぇんだ。今の住処を探してくれたのもあの人だし、他にも色々恩がある」

 

 周子は頷いて言った。

 

「それは分かるよ。あと、男に好かれるタイプだね。兄貴分っていうかさ」

 

 兄貴分か、言い得て妙だな。身内に居れば絶対に勘弁願いたくはあるが、関わる分にはそう悪くはない。源さんに対する認識は大体そんな感じだった。

 

「モスコミュールお待ち。今度は何の話だ?」

 

 モスコミュールを受け取り、一口煽る。

 

「源さんの悪口」

 

 源さんは顔を顰めて周子を見た。

 

「女にはモテなさそうだけど男には好かれそうって話してたとこ」

 

「なるほど。ケイ、お前今日の幕間参加な」

 

「は、本気で言ってんの?」

 

「本気で言ってんの」

 

「マジかよ……」

 

「二杯飲ませてやってんだから働け」

 

 源さんは笑って言った。その目は笑っていないが。

 

「幕間ってなに?」

 

 周子が小首を傾げる。源さんは指を立てて説明を始めた。

 

「いつもライブの合間に二回休憩挟むんだけど、二回目にスタッフが組んだバンドで演奏するんだよ。今日は俺が出るんだけど、生意気だからケイも巻き込んでやろうと思ってさ」

 

「ふーん、面白そうやね」

 

 それを聞いて、源さんが言う。

 

「周子ちゃんも出てみるか?」

 

「へ?いや、あたし素人なんだけど」

 

 俺はその周子の慌てた顔を見て口を挟んだ。

 

「お前、カラオケは」

 

「いや、よく行くし好きだけどさ」

 

「じゃあ出ろ」

 

 周子はたじろいだ。丁度いい、こいつにはしてやられてばかりだからな。

 俺は口の端を吊り上げて、言葉を続ける。

 

「思い出作りだ」

 

 周子は狐につままれたような顔を浮かべた。

 

 

 

 

 

   3

 

 

 

 

 

 初めてライブに出た時のことはよく覚えている。コピーだったが、そんなことはお構いなしに我武者羅に練習して、本家より俺たちの方が何倍も上手いんだと思い込んで、ステージに立つ。

 足が震えた。

 高校の文化祭、各々屋台に出し物にと青春を満喫しているので、体育館に集まっているのは精々三十から六十人程度だった。それでも、思い上がった俺たちの頭を冷えさせるには十分すぎる人数だ。

 頭が真っ白になりながらシールドをアンプに繋ぐ。マイクのスイッチを入れる。いつもより声が震えて、少し上ずる。

 フレットを握って、ピックを摘まんで、弦を震えさせた時。

 馬鹿になれれば人生が終わる。音楽をやってるやつは、そこで頭のネジが飛ぶ。

 

 ここに居るのは例外なくそんな奴らだ。俺も、源さんも。

 緊張から楽しくなさそうな顔を作って、マイクのコードを指で弄ぶ周子を横目に見た。

 お前はどちらの人間だろうな。

 

「緊張してるか?」

 

 周子に声をかけると、面白いくらいに肩を跳ねさせた。

 

「そりゃするでしょ。こんないきなりさー」

 

 ステージの先で奇異の視線を向ける観客たちを一瞥してから、周子は力なく笑った。俺はギターをチューニングしながら周子に告げる。

 

「別に、失敗しても誰も笑わねぇよ。そういう企画だからな」

 

「そうだぞ周子ちゃん。普段はお客さんが飛び入り参加とかもあるから、気楽にやりな」

 

 源さんがドラムのスティックを持ってそう言った。

 編成はボーカル周子、ギターとコーラスが俺、ドラムが源さんで、ベースはここで一番上手いスタッフの男だ。俺も一応はこのハコを楽に埋められる程度のバンドに所属しているし、源さんも脱サラしてから始めたらしいが妙に上手い。周子は知らないだろうが、後ろ盾としては十分だと言える。

 だからあとは。

 

「ライブってのは、どれだけ馬鹿になれるかだ。音程も運指も滅茶苦茶、それでも楽しんで、叫んで。そういうのが見たい奴らがここに居るし、やりてぇ奴らがステージに立ってる。カラオケみたいに音程合わせる遊びじゃねえんだから、思いっきり好きなようにやれ」

 

 俺はチューニングの手を止めて、周子の目を見て続けた。

 

「お前の名前をこいつらに刻み付けてやれば、多分何か見えるもんもあんだろ」

 

 言いたいことは言いきらない、俺の悪い癖だ。ただ、無理矢理ステージの上に連れ出して、肌で体感させてみる。こいつには、多分それくらいの荒療治が丁度いい。

 やりたいことが見つからないのは悪いことじゃない。でも、やはりそのままではいけないと俺は思う。どうしてこいつに世話を焼きたくなるのかは知らないし、してやれることと言えば、悪い生き方をしなくていいように、少しだけ道を逸らしてやることくらいだ。

 この家出娘がその先にどういう道を選ぶかに、俺が口を挟む権利は無い。しかし、こいつが選んだ俺という人間に、こいつがどう搔き乱されたとして、文句を言われる筋合いも無いだろう。

 周子は少しぽかんとした顔を浮かべて、それから一つ頷いた。

 心配は、これ以上要らなそうだ。俺は少しだけ弦を弾いて音を確かめた後、マイクのスイッチを入れた。

 

「そろそろ九時なんで、恒例の幕間の時間だ。今日はうちの新人スタッフが歌ってくれるらしいから、お前ら盛り上げて手伝ってくれや」

 

 観客席から歓声が飛んだ。周子は気圧されて一瞬後ずさるが、踏ん張って前を向く。何かを口ずさんだようだったがこちらまでは聞こえない。その後ゆっくりと深呼吸をして、周子は喋り始めた。

 

「どもどもー、塩見周子って言います。はるばる京都から思い出作りにきたんで、良かったら聞いてってね」

 

 そこまで言って、周子はこちらに顔を向けた。俺は何も言わず、顎でステージを指す。

 

「曲は赤い公園の『消えない』。……そうね、誰かの記憶に残ってくれたら、まぁ嬉しいかな」

 

 声が消えるのに合わせて、源さんがスティックを叩いて音を鳴らす。息を呑んで、全員で音を奏でる最初の瞬間。これに病みつきになると人は二度とまともには戻れない。体が痺れるほどの爆音が背中に叩きつけられて、思わず前に身体を進める。

 疾走感はあるが明るい曲調ではない不思議な曲だ。アクセルベタ踏みでギターをかき鳴らした後、ふっと音が消えてボーカルが入る。ベースの音だけがエンジンのような低い音を重ねるその構成は、トンネルの中を走る車のようだった。蒸発現象を起こした先にある周子の声は、想像よりずっとずっと綺麗に伸びる。少し落ち着いたBメロに入る頃にはもう周子の声の震えは無くなっていた。そのまま楽しそうに身体をゆすり始めると、サビに入る瞬間に、感情が花火のように弾けた。

 

 ぞっとするほど美しい流し目が俺を覗く。振り乱したショートヘアも、少し上ずった音の入りも、立ち姿も、何もかもが流麗。

 

 人が壊れる瞬間が、こんなにも綺麗だと思ったことがあっただろうか。多分これは、俺の選択で一人の人間を壊してしまったことに由る背徳感。きっとこいつはもう、音楽から離れられない。

 俺はいつの間にか笑みを浮かべていた。周子の一挙手一投足から目が離せない。ダンスですらない体のうねりに、しかしどうしようもなく魅力を感じる。これが塩見周子という一つの作品であると全身で主張するそれを目に焼き付けようとする観客たち。ふざけるな、こいつはまだ未完成だ、お前たちのような有象無象が見て良いものでは無い。俺はキャンバスに絵の具を塗りたくる子どものように、ハモリを重ねて、アドリブでアルペジオを織り交ぜて……。

 思いもよらなかった。こんなに人生が楽しいのはいつぶりだろうか。興奮で飛びそうになる意識を繋ぎとめたくて、指を崩してパワーコードで無理やり音を繋ぎ続ける。この演奏は忘れないように、いつまでも消えないように。

 

 ……怒号にも似た歓声が、そのライブの答えだった。息も絶え絶えで、ただ腕を力なく下げて、ギリギリでマイクを握っているような状態の周子は、客席を見て楽しそうに笑っている。

 

 物事に於いて、期間は重要じゃない。たった一度、一瞬の出合いが人生を大きく左右することだってある。俺にとってそれがついさっきの話で、あまりにも眩く輝く周子を星と見紛った。昔初めて、The Birthdayのアルバムを聴いたときによく似ている。どうしようもなく惹かれる才能というのはあるもので、周子はそれを持っていた。

 何もなかったわけじゃない、気づいていないだけのことだった。

 星というのは見つけた人に名前を付ける権利がある。

 ともすれば、俺が名前を付けてもいいのだろうか。それが許されるのであれば、名を付けず、ただ俺の星として独り占めすることを、誰か許してくれないだろうか。

 

「楽しかった!」

 

 ステージ袖で周子はそう言うと、気持ちよさそうに目を細める。あまりに強い輝きに目が焼かれたようで、俺はそれを直視できない。

 ああクソ、二度と恋なんかしてやらねぇと思っていたのに。

 

 

 

 

 

*リュウセイ

 

 

   1

 

 

「あの子えらい拾いモンだったな」

 

 食器洗いを手伝っていると、源さんがそう声をかけてきた。

 セトリ通りにつつがなく演奏を終え、店はもう閉めている。二十二時には上がっていいと言われてはいたものの、周子たっての希望である程度の片づけは手伝ってから帰ることにした。

 肝心の周子はというと、スタッフに教えて貰いながら機材の片づけの方を手伝っている。

 

 俺は手を止めて、濡れたそれを布巾で軽く拭ってから口を開いた。

 

「元々、あっちでアイドルにスカウトされてたらしい。家出をきっかけに事務所に入ろうとしたっつってたけど、名刺無くして路頭に迷ってたんだと」

 

「それでよりによって話しかけたのがお前かよ。勇気あるな周子ちゃん」

 

 源さんは心底面白そうにそう言った。

 

「無謀の間違いだろ。……とはいえ、家に上げた俺も俺だけどよ」

 

「やっぱり、ちょっと似てるよな」

 

「どこがってわけでも無ぇけどな。ま、自分の意見を一切譲ろうとしないとこなんかは似てるか」

 

 脳裏に浮かんだのは周子ともう一人、髪の長い女の事だった。源さんも同じ人間を思い浮かべたらしい。少し懐かしげに目を細めてから、俺を見やる。

 

「それでケイ、これからどうするんだ、周子ちゃんの事」

 

「帰りたいなら帰らせるし、行く当てがねぇなら置いてやるよ。どうせ、もう戻れないからな」

 

 源さんは肯定するように笑った。

 

「あんだけ楽しそうな顔してりゃあなぁ。……それより、俺は安心してるよ。お前がやっと前に進めそうで」

 

「なんだそりゃ」

 

 源さんは何も言わず、煙草を一本取り出した。手を差し出すと「お前も持ってるだろうが」と言いながらも箱をこちらへ向けてくる。キャスターを吸うのは久々だ。少し香ばしいような臭いがするセブンスターと違って仄かに甘い匂いがする。どちらが嫌いとかは無いが、セブンスターを好んで喫むのはタールの量が俺にとって丁度いいからだ。源さんが吸うのは5mgの軽めのものだから、普段14mgで肺を汚している俺にとっては少々物足りない。

 決して口には出さないが。

 

 煙草独特の、コーヒーから酸味を抜いたような何とも言えない苦みを口の中で回しながら、肺に溜めて淀みと共に吐き出す。言葉を交わすことなく、源さんとしばらくそうしていると、額に汗した周子が戻ってきた。

 

「あたしが珍しく仕事を頑張ったと思ったらお兄さんサボってるやーん。そういうことする人だったんだ」

 

「しないと思ってたのかよ」

 

「いや思ってたけど」

 

 周子は真顔でそう言った。

 

「まぁ、店主がこれだからな」

 

 同じく煙草を吸っていた源さんを指すと、源さんは灰皿に吸い殻を押し込んで口を開く。

 

「俺はちゃんと仕事してるっての」

 

 言いながら、茶封筒を周子に渡す。

 

「とりあえず、色々お疲れ周子ちゃん。これ、ちょっと色付けといたから」

 

「お、ありがと源さん。……え、こんな貰っていいの?」

 

 女に甘い源さんのことだ、多分かなり色を付けているだろう。

 源さんは機嫌良さそうに言った。

 

「いやー、周子ちゃんのおかげでフードメニュー大繁盛だったからさ、貰ってよ。ケイも見ろコレ」

 

 見せられたのは売り上げの計上だった。よく人が集まるものだと思いながら見ていたが、いつもの二倍ほど売り上げていたらしい。「笑っちゃうだろ?」と源さんは俺に尋ねた。成程、これなら多少色も付けたくはなる。

 

「源さんはお前にそれだけの価値を見出したってことだろ。遠慮なく貰っとけ」

 

「そういうことなら」

 

 源さんは一つ頷いた。

 

「でも惜しいな。このまま周子ちゃんが働いてくれるなら、絶対看板娘になるんだけど」

 

 周子は少しだけ逡巡したが、笑みを作って言った。

 

「看板娘か……。ま、同じ看板娘でも、こっちはちょっと楽しそうだけどね」

 

「だろ!?」

 

 源さんは目を見開いて、それから少し唸るように顎に手を触れた。

 

「ぶっちゃけさ、歌の方も素質あるよ。俺、これでも芸能関係のプロデューサーやってたからさ、人を見る目はあると自負してんだけど。当然実家に帰った方が良いと思うし、俺達みたいな大人が口出しちゃ悪い気がするんだけどさ……今帰るのは、ちょっと勿体ないと思うんだよな」

 

 周子は俺を一瞥した。

 

「お兄さんは、どう思う?」

 

 俺は即答する。

 

「帰った方がいいだろうな」

 

「そう、だよね」

 

「ただ」

 

 不安げに俺を見る周子の、吸い込まれそうな黒い瞳を見据えて、俺は言葉を紡ぐ。

 

「決めるのはお前だ。……お前との演奏は楽しかったからな。居たいなら、置いてやってもいい」

 

 周子は少しだけ悩んだ後、

 

「じゃあ、お世話になっていいかな。迷惑かけるかもしれへんけど」

 

「今更だろ」

 

「……よし、じゃあ決まりだな!」

 

 源さんが笑って言った。肩に手を置いてくる源さんをそれとなく払いのけて、

 

「取り合えず、今日は上がるわ」

 

「おう。……周子ちゃん、取り敢えずしばらくはケイと同じシフトで来てくれればいいから」

 

「おっけー。ありがと源さん」

 

「ケイになんかされたらいつでも相談していいからな」

 

「わかった。遠慮しとくわ」

 

「なんで!?」

 

 こいつも随分と源さんの扱い方に慣れてきたらしい。俺は口の端を吊り上げながら、周子に言った。

 

「帰るか」

 

「そうやね。源さんお疲れ」

 

「はいよ、お疲れさん」

 

 家路、隣を歩く周子は俺の方を見た。

 

「お兄さん」

 

「なんだ」

 

「ありがとね」

 

「……ああ」

 

 

 

 

 

   2

 

 

 

 

 

「ただいまー」

 

 内開きの重いドアを開けて、周子が言った。しばらく聞くことの無かった言葉だ。何なら、もう聞くことは無いと思っていた。

 家主の俺より先に部屋に駆け込んだ周子は、振り返って俺に言う。

 

「お兄さんも、お帰り」

 

 その言葉も、もう聞くことは無いと思っていた。

 

「……お兄さん?」

 

 部屋の前で突っ立っている俺に対し、周子は不思議そうな顔を浮かべて、上目遣いで俺を見やる。

 

「何でもない」

 

 そう返して、部屋に上がる。

 

 昨日と同じように周子を先に風呂に入れて、何をするわけでもなくテレビを眺めている。周子は昨日と打って変わって、リラックスしたように俺の隣に座っている。自分がどんな状態にあろうと憑りつかれたように書いていた小説への衝動は、充足感の混じった疲労を代わりにして、今日は鳴りを潜めていた。

 

「そういえば、お前親に伝えてるのか、東京に来てること」

 

「うん。こっちに進学した友達のとこに泊まってるって言ってる」

 

「中々に悪い奴だな」

 

 言うと、周子はニヤリと笑う。

 そのまま深夜のニュース番組を眺めていると、周子が「そういえば」と財布を取り出した。

 

「お兄さんに貰ったお金、返すよ。源さんにお給料貰ったしさ」

 

 俺はかぶりを振った。

 

「返さなくていい。貰えるもんは貰っとけ」

 

 そう言うと、今日は大人しく引き下がる。昨日からこいつに圧されることは何度かあったが、俺にも譲れないことは幾らかある。あげたものを返されることだったり、音楽より小説の道を選びたいことだったり、

 

「じゃあさ、そう言うなら……あたしの処女も、貰ってよ。お兄さん」

 

 女を抱かないことだったり。

 腕に胸を押し付けて、耳元で精一杯の誘惑を試みる周子に対して、俺は努めて冷静にテレビを消した。

 その少し潤んだ瞳を見つめながら、

 

「お前にも話しとくか」

 

 と言って言葉を紡ぐ。

 

「二年前、彼女が自殺したんだ。そこから俺は、この先女を抱かないと決めた」

 

「え」

 

 周子の表情が凍り付いた。

 

 

 

 

 

   3

 

 

 

 

 

 元々小説家なんか志したことは無かった。高校でバンドを始めてから、ずっとその道で生きていたいと思っていたから。国語の時間は好きだったが、本を読むのは嫌いだった。そんな時間があれば音楽を聴いていたい。ただ数学がてんで駄目だった俺は、こともあろうに文学部に進学して、そこであいつに出会った。

 背中まで伸ばした黒髪の、吊り目を柔らかなウェリントン眼鏡で隠した女。見た目は清楚なのに好奇心旺盛で活発なその女は、たまたま基礎ゼミでクラスが一緒になって、学科の中でも一際浮いた見た目をしていた俺に興味を持った。

 当時……六年前の俺は短めの金髪だったが、今と同じようにピアス穴を拡張していて、軟骨にも幾らか穴を開けていた。そんな見た目だから俺に話しかけてくるような奴はいる筈も無く、大学で適当に授業を受けながら、夜は源さんのライブハウスでライブやバイトに明け暮れる日々。就職に保険をかけて大学に入ったが、きっとそうやって四年間を消費するのだと思っていた。

 一回生の夏の初め、夏休み前の最後の授業期間に女は俺に声をかけた。

 

「ねえ、バンドやってるの?」

 

「見りゃ分かんだろ」

 

 ギターを肩にかけていた俺はそう言って踵を返す。店の奴らに揉まれて言葉が汚くなっていた俺に、女は怯えるだろう。そう配慮しての事だったが、女は俺を呼び止めた。

 

「ねぇ!……バンドマンの小説が書きたいんだ、私。着いて行ってもいいかな」

 

 居ないわけじゃないが、文学部で小説を書こうとする人間は珍しい。基本的に本を読むのがたまらなく好きな者、高いレベルでの読解を目的とする者が集まるのが文学部だ。書く方がやりたい人間は、どこかの芸術大学なんかによくあるような文芸専攻の学科だったり、専門学校に進学する。

 女が何を夢見ているかは知らないが、色んな意味で住む世界が違うだろう。うちのライブハウスは星野源や西野カナを好んで聴き、森見登美彦や米澤穂信を好んで読みそうな人間が足を踏み入れるような場所ではない。

 

「あんた、好きなバンドは」

 

 試すように女に尋ねる。女は少しだけ悩む素振りを見せてから、

 

「イエロウモンキー」

 

 とそう答えた。

 

「……着いてきたいなら勝手にしろ」

 

 どうせ明日以降、二度と話しかけてくることもあるまい。

 

 結論から言うと女は度々ライブハウスに通うようになっていた。生で聞く爆音の虜になったらしく、学校でもよく俺に話しかけるようになり、店では源さんに顔を覚えられ、打ち解けていた。

 実家暮らしだった女は、俺のシフトが無い日は一人暮らしの俺の家に入り浸るようになり、その度に抱いた。付き合うようになるまで、そう時間はかからなかったと思う。

 女は作詞作曲に勤しむ俺の作業音をBGMに、よく小説を進めていた。短編から長編まで、気まぐれに詩や俳句と何でもやる女だったが、才能はあったと思う。軽妙な語り口から出る豊富な比喩表現と語彙は、女の学習意欲の高さを良く表していた。思えば付き合う前からずっと、よくじろじろと観察されていた気がする。

 彼女は自分で書くだけでは飽き足らず、俺に書かせようとしてくることがままあった。歌詞を書いてる方が楽しいからと断っていたが、人の意見を聞いた上で自分の意思を押し通すまでは絶対に折れない女だった。一度だけ、根負けして短編小説を書いたことがある。女はそれを勝手に小さな賞に応募して、あろうことか佳作に入ってしまったことがあった。賞金で二人で上手い飯を食いに行ったが、俺の何倍も彼女は喜んでいた。

 女は自分の作品を投稿したことが無い。自分で作ったブログにひっそりと載せている程度で、どれもこれも納得がいかないから出さないのだと言っていた。

 物づくりをしている人間にしか、その拘りは分からない。彼女の気持ちは理解できるので、それでいいかと思っていた。

 就活の時期になって、俺は音楽の道に進むからと、女は堅実に就職して、そこで働きながら小説を書くからと会えない日々が続いた。

 彼女の就職が決まって、同棲しようかという話になった。定職に就くわけじゃないが、俺にもライブハウスの手伝いや、インディーズレーベルでのCDの売り上げ、配信やMVの収入がある。正直言って、その辺の新卒の月給なんか軽く超せるような金額だ。家賃は俺が出すからと少しだけ良いマンションに引っ越して。

 

 そして彼女は二年後にあっけなく自殺した。

 

 夜を空けることが多かった俺は、彼女の異変に気付くことができなかった。日付が変わる頃にライブハウスから家に帰ると、鍵は開いているのに明かりは点いていなかった。電気のスイッチを入れる。部屋のどこにも見当たらない女を探しながら家中の電気を一つ一つ点けていくと、風呂場に真っ白になって動かなくなった女と、真っ赤に染まったバスタブが在った。

 半狂乱になりながら救急車を呼んで、次の日には警察による検死。遺書があったこと、手首の傷、死亡推定時刻に俺に店に居たアリバイがあったことから自殺と断定された。

 

『ごめん、疲れちゃった。ケイはこのまま、自分の好きなことをしてね。私が好きな貴方のままで居てね』

 

 遺書にはそう書かれていた。後に会社で酷いパワハラを受けていたことが分かったが、女が死んだことで問題になり、そのまま倒産したらしい。同僚に何人か出会ったが、パワハラを受けていたのは彼女だけでは無く、彼女はそれを変えようと動いていたらしい。

 いつしか小説を書く姿を見なくなっていたのはそのためだった。彼女が夢を追わなくなっても、それでいいかと思っていたのに。人一人くらい養える程度の収入はあった。辛いなら仕事なんか辞めてよかったのに。

 親御さんに土下座して、親父さんに半殺しになるまで殴られて、マンションへ慰謝料を払って貯金が尽きて、源さんの紹介で逃げるように今の住処に引っ越した。

 音楽には身が入らない。好きなことをしてねという彼女の言葉が呪いのように纏わりつく。

 だから俺は筆を執った。彼女がやりたかったことを俺が代わりに叶えてやれるように。彼女の名前を残してやれるように、ペンネームには彼女の名前を何文字か借り受けて。

 

 

「……だから、恋愛はもう嫌なんだ。変わっていくことに気づけないのが許せないから」

 

 そう言って、言葉を結んだ。

 

 周子は何も言わない。多分、どう声をかけていいのかわからないのだろう。きっと立場が逆だったとしてもそうなるはずだ。俺たちはまだ出会って二日しか経っていない。そんな人間がどう言葉を送ったとて、それは軽く、意味の無いものになる。

 だから周子は俺に尋ねた。

 

「お兄さん、散々あたしに訊いたよね。『なんで俺なんだ』って」

 

「ああ」

 

「じゃあ、どうしてお兄さんはあたしを受け容れたの?」

 

 どうして、か。その答えは単純で明快だった。

 

「……似てたんだ。顔がとか性格が、とかじゃなくて。お前のその、人の話を聞いた上で自分の意見を譲らないところが」

 

「そっか」

 

 周子は一言だけ呟いて、俺を抱きしめた。

 

「寂しかったんだね」

 

「……そうかもな」

 

 どれくらいそうしていただろうか。気づけば俺は涙を流していて、周子は黙ってそれを受け容れるだけだった。思えば、あいつが死んでから、泣いたことなど一度も無かったような気がする。俺よりあいつの方が泣きたかっただろうし、あいつのために泣いてやれる人は、俺以外に沢山居たから。

 就活が終わるくらいの頃に、何か後悔してることはないかと尋ねたことがあった。あいつは少し悲しそうに「一度くらいブリーチしてみればよかったかな」なんて言ってたのを思い出して。

 周子があいつの生まれ変わりだったらいいのに、なんて思ったところで、二人に失礼だと気づいて考えるのを止めた。

 

「ねぇ、お兄さん」

 

 耳元で周子が囁く。

 

「あたし、お兄さんの事好きだよ」

 

「ちょっと優しくしてやったから、勘違いしてるだけだ」

 

 この期に及んでも、まだ俺は逃げることを選ぶ。

 

「勘違いでもなんでも、あたしがそう思ってるんだからあたしの中では真実だって」

 

 だから、周子は優しく俺の退路を塞いだ。騙されても捨てられても、全部自分が悪いからと。

 

「……めんどくせぇガキだな。どうなっても知らねぇぞ」

 

 周子はケラケラと笑って言った。

 

「いいから好きにしてよ」

 

 

 

 

 

 

   4

 

 

 

 

 

 色眼鏡をかける必要が無くなったというのはあるかもしれないが、周子にはやはり才能がある。

 それはライブハウスに通う度に如実に表れていて、周子が幕間にステージに立つ夜は、口コミでちょっとした騒ぎになることもあった。

 源さんはその度に更新する売り上げを見ては興奮し、俺はそれを見て苦笑する。

 新しい生活は、そうやって回り出した。

 

「にしても勿体ないよな」

 

 周子が来て、一週間と少し。開店準備を進める店内で、源さんは唇を尖らせていた。

 

「何がだよ」

 

 手の止まった源さんの代わりにグラスを拭きながら俺はめんどくさげに尋ねた。

 

「バンドの誘いめっちゃ来てたのに全部断ってさ、幕間しか出ないって宣言したろ、周子ちゃん」

 

「なんだ、そのことか」

 

 俺は軽くため息を吐いた。

 

「お前に誘われるの待ってんじゃねぇの?早く誘ってやれよ」

 

 源さんは周子の歌声に惚れ込んだらしく、最近ことあるごとにそう言い始めた。のらりくらりと周子と二人で躱してきたが、いい加減億劫になってきて、俺は言葉を返す。

 

「誘わねぇよ。てか、あいつそろそろ店辞めるし」

 

「は!?聞いてねぇぞ!?」

 

「そりゃ言ってねぇからな」

 

 あまりに大声で源さんが叫んだものだから、作業中のスタッフが何事だとばかりに集まり始めた。丁度その中に周子も居たので、俺は手招きをして周子を呼び寄せる。

 

「なんかあったん?源さんめっちゃ叫んでたけど」

 

 周子関連だとわかった途端に野次馬は散っていった。なんだまたか、といった具合なので、ここ最近の源さんの入れ込みようがよく分かる。

 

「周子が辞めるって話してたんだよ」

 

 俺が言うと、周子は「ああ」と一言だけ呟いて、頷いた。

 

「そうやね、多分、そう遠くないうちに」

 

 それを聞いて、源さんの眉根がどんどん下がっていく。殆ど泣きそうな顔だった。

 

「なんでだ……?ケイに何かされたか?」

 

「してねぇよ」

 

 してないわけでもないが。

 周子は首を横に振ってから、少しだけ恥ずかしそうに答えた。

 

「アイドル、目指してみようかと思って」

 

 情けなく首を振っていた源さんがその言葉で止まる。

 

「アイドルか……」

 

 周子を頭の先からつま先まで眺めまわしてから、源さんは深い深いため息を吐いて、そして明後日の方を見た。

 

「名残惜しいけど、それ言われると止めれねぇんだよなぁ……。絶対売れるもん」

 

 源さんに言われるなら間違いないだろう。この人の見る目は確かだ。売れると言われたバンドが大成したり、伝手を紹介して大手の目に留まったバンドはかなりある。

 

「ただ、前も話したけど、こいつスカウトされた事務所の名刺無くしてんだよな。源さんなんかコネとか持ってねぇ?」

 

 俺が源さんに尋ねると、

 

「あるぜ、とっておきのがよ。346プロのアイドル部門に後輩が居るんだ。オーデション受けれないか掛け合ってやるよ」

 

 気障にかっこつけて源さんはスマホを取り出した。

 

「あーーーーーっ!!」

 

 突然周子が叫んだ。今度こそ野次馬が集まり始めるが、周子はお構いなしに言葉を続ける。

 

「それ!ミシロ!!あたしがスカウトされた事務所!」

 

「……マジかよ」

 

 もしかすると周子は、出会うべくして俺と出会ったのかもしれない。

 

 

 

 

 

   5

 

 

 

 

 

 周子と出会ってから、自分でも憑き物が落ちたように感じる。二年間纏わりついていた強迫観念は嘘のように消え失せ、徐々に徐々に、俺の小説はその先の文章が紡がれるようになった。

 気分転換、なんて言葉はこの二年で考えたことも無かった。

 俺が気づかなかったからあいつが死んで、俺が背中を押してやらなかったからあいつの作品は日の目を見なくて。そんなことしか考えていなかった。

 

 だから、もう同じ過ちは繰り返したくなくて、俺は周子と恋仲になることを拒んでしまった。でもそれは、拒絶じゃなくて、背中をそっと押してやるためで。周子だけじゃない、俺が、俺の背中を押せるように。二人が互いの背中を押せるように。

 

 あの日のあくる朝。久々に痛めた腰を労わりながら、俺は周子にそう言った。

 周子は少しだけ泣いてから、一週間だけ目一杯遊ぶことを条件に納得して、俺はそれに了承した。

 やったこと無いダーツで手加減しない周子に大差をつけて負けたり、カラオケで点数を競い合ったり、俺の奢りで服を買いあさったり、東京で話題のスイーツを食べに行ったり。

 そんな風にして遊ぶなんて、気分を切り替えるだなんて、周子と出会わなければ思いつくことも無かっただろう。

 月並みだが、俺は周子に救われたのだ。めんどくさいガキだと思っていた周子に。もう縁の無いと思っていた恋心に。

 

 それでも、俺たちは寄り添っては生きられない。名を残さねばならないから。塩見周子は、名を残してしまったから。

 消えないモノを残すために、俺は周子の背中を追い続けなければならない。

 

「お兄さん、準備できたよ」

 

 小さな段ボールが二つと、周子がここに来たときに引き摺っていたスーツケースが一つ。塩見周子が侵略した俺の部屋は、それだけの荷物で痕跡を無くしてしまった。

 

「忘れ物は」

 

「あったら取りに来るよ」

 

「馬鹿、新米アイドルがそんなことしたら一発でスキャンダルだわ」

 

 周子はケラケラ笑う。

 都合のいい話だが、源さんが連絡を取った相手は周子をスカウトした人間だったらしい。

 すぐにでもスカウトを、という流れになりかけたが、一応はオーディションという形式を経て、周子は正式に346プロへの所属が決まった。

 実家が遠い周子は女子寮に入ることになる。他人の男の家から通うだなんてことは許されない。

 

 だから、これが別れだ。

 

「後悔してない?」

 

 周子が俺にそう訊いた。そんなもの。

 

「滅茶苦茶してるに決まってるだろ。でも、やっぱり才能がある人間は、どんな手段を講じても名を残さなきゃいけないと俺は思う」

 

「うん。……ま、アイドルがホントにやりたいことなのかはわかんないけどさ、やるだけやってみるよ」

 

 バンドという選択肢が無かったわけじゃない。でも、あの日周子に見た光はあまりにも強烈で、俺たちなんか簡単に塗りつぶされてしまう。

 だからアイドルという道を提示した。そこならば、一人でも、周子はのびのびと輝ける筈だから。

 

 スーツケースに雑に段ボールを括りつけた後、靴を履いて、周子が俺の方を向く。

 

「二週間、お世話になりました」

 

「ああ」

 

「お兄さんも頑張ってね。小説が映像化されたら、あたしが主演やったげる」

 

 周子はそう軽口を叩く。

 

「言ってろ。お前に楽曲提供するところまでやってやるよ」

 

 だから俺も軽口で返した。

 

「じゃあね、お兄さん」

 

「またな。周子」

 

 重いドアが、ゆっくりと閉まっていく。俺が見つけたその星は、空へ向かって、ゆっくりと進んでいった。

 そのまま、鮮烈に光を放ち続けて______

 

 

 

 

 

 

 ______流星のように駆け抜けろ、塩見周子。



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