天の声が聞こえるようになっていた、はずなのに…… (MRZ)
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ReSTART

シリアスのようですがそんなのは最初だけ(のはず)です。
トレーナーは優秀ではありません、が完全な無能でもありません。


「よ~し、それでラストだ」

 

 その声に返事はない。ただ目に見えて全員の速度が上がる。ラストスパートだ。いや、この場合は最後だけは本気の本気で走るって事だろう。

 

「それにしても、よくもまぁ底辺トレーナーがチームを作れるようになったもんだ」

 

 俺はこのトレセン学園のトレーナーだ。ただし、とてもではないが優秀などではなく、むしろ無能と呼ばれる方が相応しい程の実力だった。

 初めて担当したウマ娘はデビュー直後は順調だったものの最終的にはGⅢが何とかのレベルで引退。次の担当は能力こそ高くGⅠさえ勝ってみせたが無理が祟ったのか短命に終わり、三番目は何とデビューから最後まで勝つ事が出来ずに終わった。

 

 唯一の救いは、三人とも笑顔で学園を去って行った事ぐらいだろう。

 

 当然未勝利のまま担当を引退させた俺は、それでトレーナー人生は終わったも同然だった。面と向かってはなかったが、周囲からは俺への非難や陰口なども漏れ聞こえていた。その内学園から追い出されてもおかしくないと、そう思った。

 

 だが、それで自分が全て間違っていたと認めてしまうのだけは嫌だった。

 

 何故なら、あいつらはそんな俺の言う事を信じ、一生懸命走り続けてくれたからだ。あいつらがいなくなった今、俺が間違っていたとそう認めてしまったら、それを信じて走っていたあいつらは、今とは違う意味の憐みの目を向けられる事になる。それだけは絶対に避けたい。

 

 だからこそ、俺はもう一度だけ挑戦しようと思った。だが悲しいかな、そんなトレーナーに面倒を見てもらおうとするウマ娘はいなかった。当然だ。俺が逆の立場でもそうする。だけど、それでも俺は探し回った。こんな俺と一緒に頑張ってくれるウマ娘を。

 

 しかし、現実は厳しかった。まだ所属チームが決まっていないウマ娘は誰一人として俺の指導を受けたいと思わず、どこかに所属している奴は言うまでもない。

 途方に暮れた俺は、いつの間にか三女神像の前に来ていた。そこでぼんやりと夜空を見上げ、俺は呟いたんだ。

 

――俺は、やっぱり間違ってたのかな? あいつらが笑顔で走れるようにするって言うのは、やっぱりダメなのか……?

 

 結局その日は疲れもあってかその場で眠ってしまい、翌朝陽射しの眩しさで目を覚ました俺はまるで何かに導かれるように練習コースへと向かった。

 

 すると早朝練習をしていた一人のウマ娘がいた。と、その時だった。

 

“パワーよりもスピードが足りない。それを伸ばすトレーニングをさせるべきだ”

「……は?」

 

 突然頭の中に声がしたんだ。それも、完全に俺が見ているウマ娘に関しての指導内容を告げていた。

 最初は誰かいるのかと周囲を見回し、誰もいないので空耳だろうと思ったのだが、その声は更に……

 

“体力も減っている。休養を勧めた方がいい。このままだと良くない”

 

 そんな事を言ってきた。俺はそこに至ってその声が空耳などではない事を確信し、相手にされない事を承知の上でそのウマ娘へ声をかけた。

 最初こそ俺の事を見て怪訝な顔をした彼女も、謎の声が言う事を俺が代弁していく内に、例えば先行よりも逃げで走るべき、や、必要なのはスピードと自分を信じ切れる心だけでいい、などの助言で表情がみるみる変化し、最後には「分かりましたっ! 貴方の言う事に従う事にしますっ! それでは私はこれでっ! バクシンバクシーンっ!」と物凄い勢いでその場から去って行ったのだ。

 

 それを切っ掛けに彼女、サクラバクシンオーから指導して欲しいと言われるようになったのだ。

 そこからの指導は天の声を参考に進め、何と彼女はあろう事か短距離GⅠを次々と制覇。名前とかけて爆進王と呼ばれるまでになった。

 

 それも、最後まで笑顔を絶やす事無く、だ。学園を卒業する日、サクラバクシンオーはURAの短距離部門を制した証のトロフィーを手に、涙を浮かべながら笑っていた。

 

――これも全てあの日トレーナーさんに声をかけてもらったからですっ! おかげでずっと楽しくバクシンする事が出来ましたっ! 本当にありがとうございましたっ! トレーナーさんっ! これからも、バクシンバクシンバクシンシーンっ! で、頑張ってくださいねっ!

 

 そう言って彼女は桜の舞い散る中を駆け抜けて去って行った。サクラバクシンオーの名前の通りに。

 

 あれからもう二か月が経とうとしている。サクラバクシンオーの事で俺の評価は激変した。それまで彼女だけに集中していた事もあってか、サクラバクシンオーがいなくなった後、俺の指導を受けたいと言ってくるウマ娘が出てきたのだ。

 

 今、俺が指導と言うか面倒を見てるのは三人。一人目はキングヘイロー。天の声によると適性は短距離で、やれてもマイルや中距離まで。得意は差しだが先行も出来ない訳じゃない、らしい。性格はとにかく自信家で諦めるという言葉は似合わない感じだろうか。三人の中でリーダーシップを発揮している引っ張り役だ。

 

 二人目がスペシャルウィーク。他の二人に比べると物怖じする場面がみられるが、芯は強いウマ娘だ。天の声によると適性は中距離と長距離で、先行と差しが得意、らしい。性格は素直ではあるが、ややドジな面があるので注意が必要だ。食欲も旺盛で、三人の中ではもっとも食べ物に弱い。

 

 最後の一人がセイウンスカイ。ただこいつが曲者なのだ。いや、正確には違うな。こいつには何故か天の声が何もアドバイスをくれないのである。

 適性は、おそらく中距離や長距離。得意なのは間違いなく逃げ。これぐらいしか俺には分からない。性格は飄々としていてマイペース。三人の中ではムードメーカーだと思う。

 

 同期だけあって仲の良さは悪くない。むしろそれぞれの適性や得意が異なるおかげで色々刺激になっている。サクラバクシンオーの時は気付かなかったが、チームを組む事で互いで高め合う事が出来るようだ。

 

“ヘイローはスピード重視からスタミナ重視へ切り替えた方がいいかもしれない”

 

 その声に小さく頷く。分かったと天の声へ示すためだ。たしかにキングヘイローのスピードは申し分ない。なら次はスタミナを上げた方がいいだろう。彼女の適性は短距離なのだが、本人の希望で中距離なども走らせるためだ。

 

“スペは少し調子を落としてきている。気分転換をさせた方がトレーニング効率も上がるはずだ”

 

 俺は頷きながらその声に納得していた。実際スペシャルウィーク自慢の末脚に本来の凄さがなかったからだ。調子を落としてるようには見えなかったが、実際はそうじゃなかったとはな。

 

 と、天の声が急に聞こえなくなる。セイウンスカイには一切何も言わないためだ。

 見てる感じは問題なさそうだが、やはりもう少しスタミナを鍛えるべきか? いや、終盤まで速度を維持できるように根性だろうか? あるいはもっと逃げの成功率を上げるためにスピードを磨く?

 

 ……ホント、天の声が無ければ俺はこんなものだ。それでもやれるだけの事をやるしかない。そうだ、サクラバクシンオーは天の声が俺にチャンスを与えるために出会わせてくれたんだとしたら、その声が聞こえないセイウンスカイこそが俺の本当の再挑戦なんだ。

 

「へへっ、悪いね。一着いただき~」

「ううっ、もう少しだったのになぁ……」

「まったくよ。もう少しで届いたのに」

 

 上機嫌で戻ってくるセイウンスカイに続いて残念そうなスペシャルウィークが見え、その隣ではキングヘイローが不本意そうに声を出していた。それでも俺の前に並んで立つとその表情は揃って真剣なものとなる。彼女達からは俺はあの“爆進王”を育てた凄腕トレーナーと思われているからだ。

 

「今日のトレーニングはこれで終わりだ。各自クールダウンをちゃんとしておいてくれ」

「はい」

「はーい」

「分かりました」

「じゃあそれぞれ明日のメニューを伝える。まずキングヘイローだが、明日からはスタミナを鍛える方向でいくぞ。短距離だけではないウマ娘になるためにな」

「勿論よ」

 

 胸を張るキングヘイローをセイウンスカイやスペシャルウィークが微笑みながら見つめる。本当に仲が良い事だ。

 

「スペシャルウィークは外出なりのんびりするなりでテンションを高めてくれ。ただし、食べ過ぎはダメだからな」

「わ、分かってます」

 

 うん、相変わらず分かり易い奴。言わないと大食いしてたな、これは。よし、念には念を入れておこう。何せ彼女はメイクデビュー前に体重を大きく増やした前科があるし。

 

「本当に、ほんっと~に頼むぞ? 二人もスペシャルウィークがドカ食いしないように気を配ってやって欲しい」

「りょ~か~い」

「仕方ないわね」

「ううっ、私、もうそんな事しないのに……」

 

 大きく肩を落とすスペシャルウィークだが、それでも強く自信を持って大丈夫と言わない辺りがらしい。

 

「セイウンスカイは……今日と同じだ。何かあれば言ってくれ」

「は~い」

「よし、なら明日もこの時間にいつもの場所へ集合してくれ。では解散」

「「「お疲れ様でした」」」

 

 大きく頭を下げるスペシャルウィークに会釈程度に下げるセイウンスカイ。キングヘイローは頭を下げる事無く胸を張ったままでそう言った。本当にそれぞれらしさに溢れているな。

 

「じゃ、整理運動しましょう」

「え~、それよりシャワー浴びたいなぁ」

「同感。でも、クールダウンを優先しないと。こういう積み重ねがいずれ大きく響くんだから」

「ちぇっ、キングは真面目だねぇ」

「むしろ貴方が不真面目過ぎるのよ」

「え、えっと、全て終わってからシャワーを浴びた方がさっぱりすると思うんだけど……どう?」

「「それには異議なし」」

 

 歩きながらそんなやり取りをする三人を見送り、俺は息を吐いた。同期故に仲が良く、だからこそ互いに負けたくない気持ちが強いだろう三人。天の声が聞こえるキングヘイローやスペシャルウィークはいいが、セイウンスカイはどうしたらいいんだろうか。もし俺のせいであいつが笑顔で走れない結果になったらと思うと……

 

「それに、天の声だって万能じゃない」

 

 天の声が教えてくれるのはあくまであいつらの状態やどうすればいいかというもので、あいつらとの関わり方をどうするかは俺の判断でやるしかない。

 サクラバクシンオーは単純明快で裏表の無い性格だったから何とかなったが、あの三人はあいつ程単純じゃない。それぞれに年頃の女の子らしい一面もあるからな。

 

「まぁ、あいつもそういうのがなかったとは言わないが」

 

 思えばバレンタインやらクリスマスなどの所謂イベント事には色々とやってくれていた。学業の方は今一つのようだったが真面目で責任感はある奴だったし、日頃世話になってるからと俺に気を遣ってくれたんだろう。

 

 まぁまさか追試の勉強を手伝わされるとは思わなかったが……。

 

「……やっぱり天の声の正体は三女神なのかね?」

 

 何せレースに関わる事しか言ってくれない。事実、学業方面は何も言ってくれた事がないのだ。正直俺もそこまで勉学は得意じゃないからサクラバクシンオーに頼られた時は困ったし。

 そして、こういう事を悩んでいても何も教えてはくれないのだ。天の声が聞こえるのは必ずそこにウマ娘がいる時だけ。まぁそれも一部には反応なしだから俺も三女神だと断言出来ない訳だが。

 

「まぁいいか。俺はいつだってあいつらが笑顔で走れるようにするってだけだ」

 

 今まで出会って別れたあいつらと同じように。願わくば、あいつのように桜舞い散る中を笑顔で駆け抜けてくれるように……。




アプリでセイウンスカイが育成キャラとして実装されていないためにトレーナーへのアドバイスはありません。仕方ないね。


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それぞれの気持ち

おかしい。シリアスなど最初で終わるはずだったのに……。
メインは同期三人の仲良しっぷりを描くつもりだったのに……。


「何かさ、トレーナーってスペちゃんやキングには自信ありげな指導をするけど、こっちにはあまりそういうのなくない?」

 

 その切り出しに二人のご飯を食べる手が止まる――かと思ったけどスペちゃんだけはそれが若干遅かった。本当に食いしん坊だね、スペちゃんは。

 

「言われてみればたしかにその傾向があるわね」

「そうだね。バクシンオーさんは完全な逃げウマ娘だったし、スカイさんと似てるのに……」

 

 そう、そうなんだ。トレーナーが指導してURAまで逃げ切った“爆進王”ことサクラバクシンオーは短距離最強と呼ばれた逃げウマ娘。

 私と得意な走り方が一緒。なのに何故かトレーナーは私への指導には自信を感じさせない事が多い。まぁ得意距離は違うからかもしれないけど、ならどうしてスペちゃんやキングには自信を覗かせるんだろう?

 

「もしかすると、サクラバクシンオー先輩は逃げウマ娘だったからこそ、同じ逃げウマ娘の貴方をそれと同じぐらいに育て上げないといけないと思ってプレッシャーを感じているとか?」

「あ~、成程。さすがキングは鋭いねぇ」

 

 言われて納得。そうかそうか。私が同じ逃げウマ娘だからこそ不安を抱いてる、かぁ。そう言われたらそうかもしれない。何せバクシン先輩は凄かったからなぁ。

 

 メイクデビューからURAまで短距離ならば無敗の成績で駆け抜けた文字通りの“爆進王”。レースが始まって出遅れていなければもう既に勝敗は決まっているとまで言われた驚異の逃げ足、サクラバクシンオー。

 そのレースを私も見た事があるけど、凄いなんてもんじゃなかった。最初から最後まで先頭を走り続けてゴール。レースじゃなく一人で走ってるみたいな状態だった。

 

 キングはその短距離のスペシャリストを育て上げた腕を信じて、スペちゃんは第一目標だったチームに落ちて、それぞれトレーナーへ指導を頼んだ。

 

 私は、いつも笑顔で走っていた姿を見てトレーナーに指導を頼んだ。だってあれは一着を取り続けたからじゃなく、本当に走るのが楽しくてしょうがないって風に見えたから。

 だからどんな指導をしてくれるのかなって、興味があった。で、初めて会った時何故か驚かれたのを今でも覚えてる。

 

「そういえば、何でキングさんはバクシンオー先輩みたいになれるって言われたのに中距離も走るって決めたんですか?」

「わたしはバクシンオー先輩よりも上に行けるからよ。短距離だけでなくマイルも中距離も、いっそ長距離だって走って勝てる。そんなウマ娘に、キングの名に相応しい存在になるの」

「キングってさ、メジロ家には負けるけど結構な家のお嬢様なんだよ」

「そうなんだ……」

 

 目を丸くするスペちゃんはホント可愛いよね。なのに、レースとなると恐ろしい末脚を発揮するんだからなぁ。

 今日の模擬レースだって私が一着で終わったけど、あと少しってとこまでスペちゃんやキングが迫ってきてたし。

 

 ホント、どうしようかな。ここに来るまでは割と余裕もあったけど、まさかこんなにあっさりと追い付かれるかもって思う相手と出会うなんてさ。

 デビュー前はそこまで焦りもなかったけど、段々逃げが通じなくなってきてる感じがする今は正直怖い。

 

 だって言うのに私のトレーニングは二人と違ってあまり変更されないし。

 

「愚痴りたくもなるよね~」

「「何が?」」

「……何でもない」

 

 いけないいけない。ついつい口に出てたや。とりあえず今はトレーナーの指示に従っておこう。不安はあるけどあの爆進王を育てた人だしね。それより今は……

 

「スペちゃん、そこまで」

「え?」

「お代わり禁止」

「ええっ?!」

 

 食べ過ぎそうな仲間を止めるとしようかな。トレーナーにも言われたし、ね。

 

 

 

「まったく油断も隙もあったものじゃないわ」

「あ、あはは……ごめんなさい」

「スペちゃんらしいとは思うけどね~」

 

 わたしの言葉に申し訳なさそうな声を出すスペシャルウィークを横目で見る。セイウンスカイはいつものようにニコニコとしていた。

 あれ程トレーナーから食べ過ぎないようにと言われておきながら、気付けばお代わりをしようとしていたとは本当にこの子は……。

 

「いい? 貴方はこのキングの同期であり同じチームなのよ? ならそれに相応しい振る舞いを心がけなさい」

「素直に仲間って言えばいいのに」

 

 思わず足が止まる。何も的外れな事を言われたからではない。むしろ逆だった。

 わたしが言いたくても言えない表現を、はっきりと口にされたからの反応だ。

 振り向いた先ではセイウンスカイが楽しげに笑っていた。少し腹立たしくて、けれど愛嬌を感じる、そんな笑顔で。

 

「キングって本当に可愛いよね~」

「な、何がよ?」

「え~? 言っちゃってもいいの~?」

 

 ニヤニヤと笑うセイウンスカイは本当に憎らしい。わたしの本音を分かっていると雄弁に表情が告げている。スペシャルウィークはそれが分からないのか不思議そうに首を捻っている。正直そうしていると本当に可愛いわね、この子。

 

「勝手にすればいいでしょ」

 

 ともあれここで怯んだらキングの名に傷がつく。だから強気でいくわ。そう思って返した言葉にセイウンスカイは驚いた顔をした。ふふん、いい気味よ。

 そう思って溜飲を下げていると、目の前の驚きはゆっくりと笑みに変わっていく。それが不気味だった。

 

「そっか。じゃいいよ。あのねスペちゃん、キングは本当はとっても」

「スペシャルウィーク、そういえば貴方学科の方が大変って言ってたわねっ! 今からわたしが見てあげるからいらっしゃいっ!」

「へっ? い、今からですか?」

「善は急げと言うじゃない! ほらっ、行くわよっ!」

「は、はいっ! スカイさん、また明日~っ!」

「はいは~い」

 

 セイウンスカイの言葉を聞かせぬように心持ち大きな声で喋りながら、スペシャルウィークの手を掴んで早歩きでその場から動き出す。

 微かに後ろの方でセイウンスカイの笑い声が聞こえた気がしたけど、きっと気のせいだ。ええ、そうに違いない。

 

「あ、あのっ」

「何?」

 

 やや口ごもりながらスペシャルウィークがこちらへ顔を向けていた。何かあっただろうか? 実際学科の出来が悪いというのは本人がよく口にしている事だけど……?

 

「ど、どこでやるんですか? 私の部屋はスズカさんがいますし、キングさんだって他の方がいますよね?」

「……そう、ね」

 

 言われてハッとした。そう、寮の部屋は基本二人で使う相部屋。でも食堂では落ち着かないし、何よりわたしが誰かの世話を焼いているところを見られでもしたらキングの名に泥を塗ってしまう。

 

 考えた結果、わたし達はチーム用に割り当てられた小屋へと向かう事にした。そこなら周囲の目を気にする事もなく過ごせると。

 そうしてそれぞれ自室へ戻って勉強用の用意を整え、再び合流し寮を出て日が暮れ始めた中を二人で歩く。正直言えば今から向かう小屋はそんなに使われた事はない。精々が初めてわたし達が顔合わせをした時と、メイクデビュー後にあった勝負服のデザインを決める時ぐらいだ。

 

「そういえば勝負服っていつ出来るって言ってましたっけ?」

「たしか……もうそろそろと言ってたような……」

「そっかぁ。楽しみだな~」

「そうね」

 

 勝負服を着られるのはGⅠやそれに近い記念レース。今だとURAもそれになる。

 まだわたし達は誰一人として勝負服に袖を通すようなレースへ出る事は出来ないけど、近い内にそうなるとどこかで思っていた。

 何せ指導しているのがあの“爆進王”を育てたトレーナーなのだ。それまではあまりパッとしない実績だったらしいけど、それがあってこその爆進王と思えば納得が出来る。

 

 あのトレーナーは経験を糧に必ず成長出来るのだ。なら、大成功を収めた今、その成長はどれ程だろう。

 

 正直言えば、出会った時に爆進王になれると言われたのは嬉しかったし心が揺れた。短距離だけに専念すればそれを超えられるとも言われたし。

 だけど、それではキングの名が廃る。わたしは短距離だけでなく、マイルも、中距離も、長距離でさえも結果を残してみせるのだと。

 

 小屋の鍵を開けて中へ入ると当然だけど真っ暗。すぐに灯りを点けてスペシャルウィークと共に椅子へと座ると持ってきた勉強道具をテーブルに広げた。

 

「で、一体何が分からないの?」

「えっと……」

 

 そこからの時間は新鮮な経験だった。それまで誰かと共に勉強する事もなければ、誰かへ教える事もなかったから。

 それに、そうすると正直退屈だった勉強も楽しいような気がした。きっとそれは……

 

「キングさんの教え方って分かり易いです! ありがとうございますっ!」

「この程度の事、造作もないわよ」

 

 満面の笑顔で素直に物事へ取り組む相手が、仲間が隣にいるからだって、そう思った。

 

「じゃ、消灯時間の一時間前までみっちりやるわよ」

「ええっ!? そ、そんな遅くまでですか?」

「仕方ないでしょ? それくらいしないと今日中に終われないわ」

「きょ、今日だけ、なんですか?」

「え?」

 

 思わぬ言葉に耳を疑った。わたしの目の前には捨て犬のような眼差しでこちらを見つめるスペシャルウィークがいた。

 

「教えてくれるの、今日だけですか? 出来れば今後も教えてくれると助かるなぁ~って、思うん、です、けど……」

 

 言いながら声から力が抜けていくのが何とも情けない。けど、うん、不思議と悪くない気分だわ。誰かに頼られるのって、やっぱり悪くない気分ね。

 

「し、仕方ない。いいわ、同じチームのよしみよ。これからも面倒を見てあげようじゃない」

「わぁ、ありがとうございますっ!」

 

 そう言った後、嬉しそうな笑顔で鼻歌混じりにノートへと向かうスペシャルウィークを見て、わたしは思わず笑みを浮かべてた。

 勉強会を終わって寮へ帰る途中、スペシャルウィークがセイウンスカイも明日からは誘っていいかと聞いてきたので許可を出してあげた。それだけでまた嬉しそうに笑うのを見て、わたしはこの子とレースで戦う事がある意味で怖くなってきた。

 

 負けても勝ってもこの笑顔を曇らせてしまうかもしれないと、そう思って。

 

 

 

「何か良い事でもあったの?」

 

 消灯時間になって暗くなった部屋にスズカさんの声がした。ベッドに横になりながら顔をスズカさんの方へ向けると、綺麗なスズカさんの顔が月明かりに照らされていた。

 

「えっと、実はチームの仲間とこれから毎日勉強会をする事になって」

「そうなんだ」

「はい」

「仲、いいんだ?」

「そう、ですね。キングさんもスカイさんも良い人ですし」

「……そっか。私も早くチームに馴染めるといいんだけど」

 

 私の一つ上の先輩であるスズカさん。その所属チームは学園でトップのチームだ。学園に入って間もない頃、そのチームのトレーナーさんに自分のところにくればもっと速くなれるぞって言われて、スズカさんはそのチームに所属する事を決めたって聞いた。

 

 でも、所属後の戦績はパッとしないみたい。スズカさんはトレーナーさんの指示に従っていればいつかは結果が出るって、そう言ってるけど……。

 

 正直、最近のスズカさんは元気がないように思う。走ってるところをたまに見かけるけど、その走りにも活気みたいなものがない。

 何でもスズカさんは学園に入った当初は“爆進王”を超えるって言われてたらしい。それって逃げウマ娘って事なんだと思うけど、今のスズカさんの走り方ってどちらかって言うと先行、だと思うからそれも関係してるんじゃないかな?

 

 私はトレーナーさんの指示で、逃げも先行も差しも追い込みもやってみた事があるけど、向いてると思った先行や差しはともかく、逃げや追い込みはやってて辛いだけだった。もし、もしもスズカさんがあの時の私と同じ気持ちを抱いてるなら……

 

「あの、スズカさん」

「何?」

「スズカさんって、差しの走り方や追い込みの走り方ってやった事ありますか?」

「差しや追い込み? ないけど……?」

「私、得意なのが先行や差しなんですけど、逃げや追い込みもやってみた事があって……」

 

 チームの顔合わせが済んだ後、私達はトレーナーさんの指示で四回模擬レースをする事になった。

 最初、私は先行で、スカイさんが逃げ、キングさんが追い込みで走った。結果はスカイさんの勝利。私は惜しくも二着。

 次は私は差し、スカイさんが先行、キングさんが逃げで走って私が一着。これが一番走ってて楽しかった。

 三回目は私は追い込みで、スカイさんが差し、キングさんが先行で走った。結果はキングさんが一着で私は最下位。

 最後は私は逃げで、スカイさんが追い込み、キングさんが差しで走った。結果はキングさんが連続一着で私は二着。

 

 その事を話すとスズカさんはその時私達が思った事と同じ事を聞いてきた。

 

「何でそんな事を?」

「えっと、トレーナーさんが言うには、色んな走り方をする事でそれを得意とする相手の考えや嫌な仕掛け所が少しは理解出来るからって」

「……そういう事」

「はい。実際それをやったおかげでスカイさんが逃げてる時にどこで仕掛けると嫌がられるとか、キングさんが差しに行こうとしてる時にどうすると戸惑うかが何となくだけど分かるようになりました。勿論向こうも私が先行してたり差しに行こうとする時に嫌な動き方をするようになりましたけど」

 

 ただトレーナーさんはこうも言ってたっけ。

 

――いいか? 得意な走り方をしてる時は相手が何をしようと動じるな。サクラバクシンオーが爆進王になれたのは、自分を信じ切る心を持っていたからだ。これで負けたならしょうがないってな。

 

 この走り方が自分に出来る最高の走り。そう思うのなら何があってもそれを信じ切る事。それで負けたら仕方ないってそう思える走りをしろ。それがトレーナーさんの言葉の意味だ。

 

 それをスズカさんに教えたら目を見開いて、その後すぐに目を閉じて黙っちゃった。私はそんなスズカさんに何て言ったらいいのか分からず、ただただ待つ事しか出来なかった。

 どれぐらいそうしてただろう。スズカさんは一度だけ深呼吸をするとキリっとした顔になってこう言った。

 

「うん、ありがとう。いいお話を聞かせてくれて」

「い、いえ、スズカさんの役に立てたなら良かったです」

「じゃあそろそろ寝ましょうか。おやすみ」

「はい、おやすみなさいスズカさん」

 

 こうして私の一日は終わった。翌朝いつものように目を覚まして、朝練をスカイさんやキングさんと一緒にやってから学園へ行き、お昼はチームの三人と同期であるエルちゃんやグラスちゃんを入れての五人で食べて、放課後は一人で学園近くを散歩して、途中でたい焼き食べちゃったけどいつもの時間にいつもの場所へ。

 

「よし、全員揃ったな」

 

 トレーナーさんの前に並んで立つ。今日は何をするんだろう?

 

「それじゃあ、まず」

「ちょっといいか?」

 

 その声は私でもなければスカイさんでもキングさんでもなかった。だってその声は私達の後ろから聞こえたんだ。振り向けば、そこには眼鏡をかけたスーツの女性が立っていた。しかもトレーナーさんを睨み付けるように見つめてる。

 

「先輩、何か御用ですか?」

「単刀直入に聞こう。スズカに何を吹き込んだ?」

「えっと、スズカって言うと……」

「サイレンススズカだ」

「……先輩のチームに所属してるウマ娘と俺は接点持たないようにしてますけど」

「ならば何故スズカがお前のような意見を言い始めた?」

「はい?」

「とぼけるな。自分がこれだと思う走り方を貫け。これはお前の持論だろう」

「そうですけど……」

 

 そこで私の尻尾が逆立ったのが分かった。こ、これ、私が昨日の夜に話した事が原因だよね?

 困ってるようなトレーナーさんへ眼鏡の女性は大きくため息を吐いた。って、気付けばスカイさんとキングさんがトレーナーさんと距離を開けてる!?

 

「やっと新しいスタイルが定着しかかってきたというのに、これでまた振り出しに戻りそうだ。どう責任を取ってくれる?」

 

 その瞬間、私は寝る前のスズカさんの顔を思い出した。何かを決意したような凛々しさは、もしかしてそれだったんじゃないかって。

 そう思ったら、勝手に体が動いてた。眼鏡の女性へ向き直って、思った事を口にしてた。

 

「あのっ! スズカさんは今の走り方を辛いって思ってるんですっ!」

「……何だお前は?」

「お前じゃなくてスペシャルウィークです。俺の担当ウマ娘の一人ですよ。たしかサイレンススズカのルームメイトかと」

「そうか、お前が……」

 

 こっちを見つめる女性の目は凄く鋭くて、正直怖い。だけど、スズカさんのためにもおびえてる場合じゃないっ!

 

「スズカさんは逃げる走りが得意で好きなんですっ! だから」

「今はいい。才能で何とか勝利する事は出来るだろう。だが、それだけではその内行き詰まり、その才能を枯らし、卒業ではなく引退となる」

 

 そう言って女性は私からトレーナーさんへ顔を向けた。

 

「こいつのバクシンオー以前の担当ウマ娘達のようにな」

「っ」

「「「え?」」」

 

 トレーナーさんが顔を背けたのを見て私達は揃って声を出していた。

 トレーナーさんのバクシンオー先輩以前の担当って、卒業じゃなくて引退したの?

 そう思って無言で私達はトレーナーさんを見つめた。顔を背けたままの、トレーナーさんを……。




個人的設定ですが、引退と卒業の違いはアプリで言うと、育成目標を完全達成が卒業で、未達成が引退です。


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トレーナーとして大事な事

これでちゃんと同期三人の仲良し風景を描けるはず(汗


「そいつは、バクシンオー以前に担当した三人ものウマ娘を全て引退させた男だ」

 

 告げられた言葉は俺の中で今も時折思い出されては自問自答している事実だった。

 本当に満足だったのか? その笑顔は作り笑顔ではないのか? 本当はもっと走りたかったんじゃないか? そんな答えの出ない事を延々と考えてしまう、俺の忘れられない事実だ。

 

「い、引退って……」

「トレーナーって、バクシン先輩以外は卒業させてないの……?」

 

 セイウンスカイの言葉がグサリと刺さった。隠すつもりはなかったとはいえ言い出さなかったのは事実だ。

 

 俺が、サクラバクシンオー以外は卒業させられていないという事を。

 

「そ、それでもスズカさんを」

「ならあいつを引退させてもいいのか?」

 

 スペシャルウィークが先輩によってすぐに黙らされていた。サイレンススズカの事は聞いた事ぐらいはあるし、天の声が教えてくれた事である程度知ってもいる。

 けれどそれで何か言った事はない。正直声をかけたかったが、かつて先輩と交わした約束があったからだ。

 

――すみません先輩。俺は折角預けてもらったウマ娘を……。

――何も言うな。今回の事は私からも理事長達へ口添えしておく。私がお前に任せた結果でもあるからな。ただし……

――ただし?

――もう二度と私の担当ウマ娘へ関わるな。

 

 かつて俺が担当しGⅠを勝利したウマ娘は元々先輩のチームにいたウマ娘だった。彼女は、自分の走りに悩んでいた。自分がやりたい走りと先輩が希望する走りが一致しなかったために。そこで先輩は俺へ預けてくれたのだ。俺の方針が彼女の希望と一致するために他ならぬ本人から頼まれての決断だった。

 

 ただ、それは彼女に、自分の希望が自分のためになるかならないかを分からせるためだったんだと思う。実際先輩から彼女へはいつでも戻ってきていいと伝えていたし、俺にちょくちょく彼女の事を聞いてきたぐらいだったから。

 

 だが結果として、それは最悪の形で終わりを迎えた。レース中の故障という、最悪の結果で。

 

 それはスピード重視で走り続けた彼女故の出来事だった。何せ彼女のやりたかった走りは逃げ。そう、奇しくもサイレンススズカが元々得意としていた走り方だ。

 だからこそ先輩は彼女を逃げだけのウマ娘にしたくなかったんだろう。きっとあの事は先輩もどこかで気にしているんだ。

 

 思い出してみると、先輩のチームには逃げウマ娘が極端にいないな。じゃあ、やっぱりそういう事なんだろう。それでも、それでも声をかけてしまう程にサイレンススズカが素晴らしいウマ娘って事でもあるんだろうが。

 

 俺がそうやって現実逃避をしている間にも先輩は容赦なく事実を三人へ告げていた。それは俺が天の声を聞けるようになる前の無能時代を包み隠さず教える事でもあった。

 

「……最後にはデビューから引退まで未勝利のままで終わったウマ娘を作り出した。引退の日、そのウマ娘は笑っていたらしいが、元々レースを走るだけで笑っていたようなウマ娘だったからな。本心は分からん」

 

 感情を一切見せず、淡々と話を終えて先輩はこちらへ顔を向けた、らしい。何せ俺は今も顔を背けている。そう思ったのは視線を感じるようになったからだ。

 

「そんな奴が、それまで無名だったバクシンオーの素質を見出して無敗のスプリンターへと成長させただと? 周囲はこいつの才能だと言ったが私は違うと断言する。あれはサクラバクシンオーの持っていた才能が最後まで枯れずに保てただけだ。最強のウマ娘ではなく短距離のスペシャリスト、それも逃げウマ娘として育てたからこそ、サクラバクシンオーは爆進王などと呼ばれるまでになれたのだ」

「それってつまり……」

「バクシンオー先輩は、短距離で逃げじゃなければ……」

「引退してた?」

「そうだ。それ以外に聞こえたのなら訂正するが?」

 

 その瞬間、何かがプツンと切れた。あいつは、サクラバクシンオーは間違いなく短距離の王者だった。たしかに短距離以外じゃ大成しなかっただろうとは思う。

 

 だけど! あいつが逃げを選ばなくてもっ! 必ずスプリントの王者にはなっていたんだっ!

 

「それは違いますよ先輩」

「何?」

「あいつは、サクラバクシンオーは短距離だから無敗だった。これは事実かもしれません。ですがね、逃げじゃなくてもあいつはスプリンターと呼ばれるようになっていました。先行だって出来たんだ。いや、俺が最初に見た時、あいつは先行の走り方をしていたんです。それを俺が逃げの方がいいと言ったからあいつは」

「何が違う。お前が逃げを勧め、それに応じて結果を出したのなら」

「あいつはねっ! ……あいつは短距離なら先行でも速かった。もしそれで走り続けていたら、今頃先行ウマ娘にかけて“閃光の爆進王”とでも呼ばれていたはずですよ」

 

 思い出すのは初めてGⅠを取った時の事。あいつはいつもの自信満々な表情と雰囲気のまま、だけどどこか興奮しながらこう言っていた。

 

――いやぁ、今日の走りもバクシーンって感じでしたが、先行で走って、最後の直線からバ群を割って駆け抜けてもバクシン出来そうでしたっ!

 

 あれが嘘だとは思わない。あいつはたしかに短距離GⅠでも先行ウマ娘として通用するような力を身に着けていたんだ。それを他ならぬ本人が感じ取っていたのだから。

 

「大きく出たな」

「俺の事はどれだけ言われてもいいです。けど、自分の担当したウマ娘を貶されて黙ってる奴はトレーナー失格ですよ」

 

 そこで俺は一度深呼吸して先輩の目を見据えてこう言った。

 

「他ならぬ貴方に、俺はそう教わったんだ」

 

 俺が学園に来て間もない頃、新人教育を担当してくれたのが目の前の女性だ。厳しいが理路整然としていて感情的にはならず、しっかりと理由と根拠を示して納得出来るまで付き合ってくれた、俺の恩人であり目標だった人だ。

 

「先輩、差し出がましいかもしれませんが、今回の事は貴方とサイレンススズカの対話不足です。マイルと中距離適性で逃げウマ娘って事で色々思う事があるのは分かります。でも、本人の気持ちが何よりレースには大事なはずです。それは先輩が一番良く知ってる事でしょう」

「だがそれで潰れてしまっては」

「それを防ぐために俺達がいるんじゃないですか。まぁ、そう出来なかった奴が何を言ってんだとは思いますけど……」

「「「トレーナー(さん)……」」」

 

 悔しさと申し訳なさで拳を握る。あの三人の事があったからこそ、俺は今のようになれた。

 だからこそ、あいつらがいたからサクラバクシンオーは、キングヘイローは、スペシャルウィークは、セイウンスカイは大きく羽ばたけたと、そう言えるようにしたいんだ。

 

「……分かった。少々癪に障るがお前の言う事も一理ある。私は戻ってスズカと話をする事にしよう。今回はすまなかったな。邪魔をした」

「いえ……」

「……ではな」

 

 去り際、微かに先輩が笑っていた、ような気がした。それも嘲笑うとかではなく、もっと、こう、嬉しさを滲ませるような感じで。

 

ま、有り得ないか……」

 

 あの人が手塩にかけて育てていたウマ娘を引退させた男なんだ、俺は。そんな奴に微笑む事など有り得ない。それよりも今はやるべき事がある。そう思って俺は三人へ向き直ると頭を深く下げた。

 

「今まで隠しててすまない。俺の実績はさっき聞いた通りだ。サクラバクシンオー以外の担当は全員引退させてしまった。それを聞いて不安に思うのなら、俺が何とかして他のチームへ入れるように手を尽くす。さすがに先輩のチームは無理だが、そこを望むなら編入テストぐらいは何とかしてみせる」

「じゃ、このままでいいって思うなら?」

 

 聞こえてきた声に俺は思わず頭を上げた。そこにはいつもと変わらぬ表情のセイウンスカイがいた。

 

「……本気か?」

「以外に聞こえた? なら言い方変えるよ。指導を受けるならトレーナーがいい」

「そうね。さっきの言葉を聞いてわたしの目は間違ってなかったと思ったし」

 

 キングヘイローも普段と変わらぬ雰囲気でそこに立っていた。いや、いつもよりも若干機嫌が良さそうだ。

 

「自分はどれだけ言われようと構わない。けど担当のウマ娘に関しては何があっても折れない。その不屈の精神、気に入ったわ」

「そうか……」

「あ、あのっ!」

 

 もうここまでくれば何となく流れは分かる。それでも俺はこちらを見つめて握り拳を作っているスペシャルウィークへ顔を向けた。

 

「私もトレーナーさんの指導を受け続けたいですっ! 自分が最高だって信じられる走りをさせてくれる、トレーナーさんの指導をっ!」

「俺の、か……」

「と、こういう訳だからさ。引き続き私達の指導、よろしく」

「セイウンスカイ……。それに、キングヘイローやスペシャルウィークも……ありがとう」

 

 こちらを見つめて笑みを浮かべる三人に俺は頭を下げた。こんな俺の過去を聞いても、それでも俺を信じてくれる、そんなウマ娘達を絶対に卒業させてみせるんだと、心に強く誓いながら……。

 

 

 

 目の前を三つの風が駆け抜けていく。一週間の最後に行う模擬レース。あの出来事からもうそれだけの時間が経過しようとしていた。

 俺の過去を知った上で残ってくれた三人は、より一層トレーニングに力を入れてくれた。おそらくだが、俺の指導は間違ってないと示すため、だろう。

 

 ちなみにサイレンススズカは今もまだ先輩のチームに残っているそうだ。ただ、走り方は逃げと先行の両方を出来るようにトレーニングしているらしい。その二つで求められる部分は近しいから許可を出したんだろうと思う。それが先輩なりの妥協点だったんだろうな。

 

 そんな事を考えていると……

 

“ヘイローの調子は絶好調だ。このまましばらくスタミナを鍛えてやろう”

 

 聞こえてきた声に頷かずに、心の中でそんなの言われないでも分かってると返した。スタミナを鍛えている今のキングヘイローの差し脚は強烈だ。最後の200mの伸びが違う。

 

“スペの調子は絶好調だ。掛かり気味にならないように賢さを上げてやろう”

 

 それだって分かってる。今のスペシャルウィークの末脚なら、万全の状態であればどんな相手だろうと届かせてみせるさ。

 

「そして……」

 

 先頭を譲らず走り続けているあいつだって、その名の通りにどこまでも突き抜けていきそうな速度を見せていた。

 

「セイウンスカイっ! 後ろの事は気にするなっ! お前が見るべきは後ろじゃないっ! 前だっ! 前だけを見つめて風を追い越せっ!」

 

 気付けば勝手に叫んでいた。だがそう叫んだ途端セイウンスカイがまた加速した、ように見えた。そうだ。これでいいんだ。聞こえる声に頼ってばかりじゃダメなんだ。先輩を見ろ。声なんてなくても凄いウマ娘を育ててるじゃないか。

 

「なら俺にだって……っ」

 

 サクラバクシンオーの時は声に頼り切りだった。けれど、声が聞こえない時もあった。ああ、そうだ。何でこんな事に今まで気付かなかったんだ? 俺は声がなくてもちゃんとあいつと向き合ってたじゃないか。

 

「スペシャルウィークっ! 焦るなっ! ここだとお前が確信出来るところで動けばいいっ! それが出来ればお前の差しは誰にも負けないっ!」

 

 今まで俺に足りなかったのは何か。それはきっと自信だ。自分に対する自信が足りなかった。でもそんな俺をあいつらは信じてくれた。こんな俺の指導を受け続けたいと言ってくれた。

 

「キングヘイローっ! それでいいっ! お前はお前らしく走ればいいっ! いつだってお前が勝たなきゃならないのはお前自身だっ!」

 

 俺から遠く離れていく前に何とか声を届けられた、と思う。後はまたここへ戻ってくるまで見守るだけだ。

 

「よしっ! ラスト一周っ!」

 

 弾かれるように三人がまた加速する。その距離は変わらないが雰囲気が、気迫が違った。

 本番さながらのそれに、俺は思わず拳を握る。俺でも分かる。やっぱりあいつらは凄いウマ娘達だと。たった四人のウマ娘しか担当していないが、それでも分かる程にあの三人の走りは胸が熱くなるのだ。

 

 先頭を行くセイウンスカイ。それを追うスペシャルウィークとキングヘイロー。その差はざっと六バ身ぐらいだろうか。それが第三コーナーへ差しかかる辺りでゆっくりと詰まり始める。セイウンスカイの速度が僅かだが落ちたからだ。

 

 それでもまだ三バ身程度は差があるが、その程度の差では……

 

「っ!」

 

 強力な差し脚を持つあの二人にはあってないようなものだ。

 事実、第四コーナーで動き出したスペシャルウィークはあっという間にセイウンスカイを捉えた。キングヘイローはまだ動かないがおそらく直線になった瞬間から来るはずだ。セイウンスカイはまだ粘っているがおそらくもうスパート出来るだけの余力はないだろう。

 

 その予想通り、必死に走るセイウンスカイをスペシャルウィークが抜き去り、キングヘイローもそれを追う様に加速してくる。セイウンスカイは食い下がる事も出来ず、完全に勝負は差しウマ娘の一騎打ちとなっていた。

 

「「あああああっ!!」」

 

 そしてそのまま二人が競り合ったままゴールを駆け抜ける。僅かにクビの差で一着はスペシャルウィークだろうか。二人に五バ身程離される形でセイウンスカイがゴールする。きっと俺がもっと自信を持って指導していればセイウンスカイが一着だったかもしれない。

 

「……よし」

 

 決まった。今俺の中でどうセイウンスカイを育てていくかが決まった。逃げウマ娘にするのは間違いない。だがそれだけじゃない。こいつなら、こいつらならきっと……。

 

 三人へ休憩しているように告げ、俺は一人チーム用の小屋へ入った。そこでレースカレンダーを見つめて考える事十数分後、俺は再び休憩している三人の前に戻ってきた。

 

「そのままでいいから聞いてくれ。お前達の次の目標を決めてきた」

 

 その一言で三人が一斉にこちらを向く。その眼差しは力強い。

 

「まずキングヘイローだが、ホープフルSへ出てもらう」

「ホープフル……ステークス」

「ああ。2000mの中距離だ。そこで入着する。それが目標だ」

「……甘く見られたものね。入着? キングであるこのわたしがその程度で満足すると? せめてそこはライブでメインを張れる順位でしょ」

「いいのか?」

 

 正直まだキングヘイローが中距離で戦うには厳しい部分もある。だからこそ入着と目標を設定したんだが、どうやらそれがキングを自称する彼女には不服らしい。

 俺は無言で力強く頷くキングヘイローを見て、そのプライドの高さと意志力に感嘆の息を吐くしかなかった。もう彼女は在り方だけならキングだと思って。

 

「次にスペシャルウィークだが、きさらぎ賞だ」

「きさらぎ賞って……GⅢ、ですよね?」

「そうだ。1800mのマイルレース。そこで入着が目標だ。得意な距離じゃないだろうが今のお前ならやれるはずだ」

「分かりました。頑張ります」

 

 気合の入った表情を見せるスペシャルウィークに俺は頷く。正直キングヘイローとスペシャルウィークのレースは天の声から薦められたものだ。俺もそれが次の目標には丁度いいかと感じたし、出走時期も同じぐらいなので好都合だと思った。

 

 だからこそ、これから告げる相手のレースは俺が自分だけで考えて決めた事だ。

 

「最後にセイウンスカイだが、チャレンジCに出てもらう」

「チャレンジカップかぁ……。たしかそれも……」

「GⅢだ。2000mの中距離。そこで最低でも三着に入ってくれ」

「え~、私だけ目標設定高くない?」

 

 予想通りの反応だった。けれどこれにはちゃんと理由がある。

 

「お前をもっと凄い逃げウマ娘にしたいんだ。可能なら、最終的には暮れの中山で逃げ切れるぐらいの」

「暮れの中山……」

「それって……」

「一年を締めくくる最高にして最上位のレース……」

「ああ。ファン投票で選ばれた上位のウマ娘だけが出走出来るあのレースだ」

 

 俺が担当したウマ娘達が出る事はおろかノミネートさえされなかった大舞台。そこで叶う事なら……

 

「そのレース後、この三人でライブのメインを張れるようになって欲しい」

 

 もしそれが叶ったら、俺はトレーナーを辞めてもいい。それぐらい、あのレースで勝つのは難しい。当然だ。その年で強いと言われるウマ娘だけが参加するんだからな。

 それでも、三年最後の冬、こいつらがそこへ出て、しかも一着争いをしてくれたら、そんなトレーナー冥利に尽きる事はない。

 

「トレーナーはさ、それ、本気で言ってるわけ?」

「ああ」

「呆れたわ。まだGⅠどころかGⅢさえ勝ってもいないのに?」

「そうだな」

「私達、そうなれるって思うんですか?」

「分からない。だが、なれないとは思わない。俺は、全てのウマ娘に可能性があると信じてる。聞いた話だが、それまで長距離が苦手だったウマ娘がある時急にそれを克服した事もあるし、芝が苦手なウマ娘がある日を境にその環境で上位に食い込むようになった事があるそうだ」

 

 そのウマ娘のトレーナー達はこう言っていたらしい。

 

 全てのウマ娘は、不可能を越えていける可能性を秘めている、と。

 

 きっと、その可能性を引き出し続ける奴が優秀なトレーナーで、引き出せないままで終わるのが駄目なトレーナーなんだろう。

 少し前の俺は、きっと後者に足を踏み入れてた。それをあの天の声とサクラバクシンオーが引き戻してくれた。

 

 なら、もうそっちへは行かないようにしたい。前者になりたいが、なれないのならせめてもう後者へ足を踏み入れたくはないから。

 

「俺がお前達を凄いウマ娘に出来るかどうかは分からない。でも、出来る限りの事をしてやりたいとは思ってる。お前達は俺の目から見てもそれぞれ才能を持ってる。あとは、それをどれだけ伸ばしてやれるかだ」

「「「トレーナー(さん)……」」」

「約束する。絶対、絶対引退なんてさせないと。お前達には、笑顔で桜舞い散る中を駆け抜けていって欲しいんだ」

 

 あのサクラバクシンオーのように。その言葉は言わずに胸に留めておいた。あいつはあいつだ。こいつらじゃない。俺が初めて最初から最後まで関わってGⅠを取ったウマ娘だからこそ、こいつらをあいつと同じに扱っちゃいけないけど、同じ結末へは導いてやりたいから。

 

「……仕方ないなぁ。そこまで言われちゃこっちもやるしかないじゃん」

「セイウンスカイ……」

「そうね。そもそもわたしはキングなのだから、言われるまでもなくあの大舞台に立ってみせるけど」

「キングヘイロー……」

「トレーナーさん、見ててください。私達、絶対にその目標、達成してみせますから」

「スペシャルウィーク……」

 

 俺を見つめて微笑む三人は、まさしく才気溢れるウマ娘だった。俺にどこまでやれるか分からないが、彼女達が最後まで笑顔でいられるようにしたいと、改めて強く思った。




突然ですけどウマ娘の有馬記念って文章では再現不可能ですよね。
まぁこれはそういうのがメインじゃないからいいんですけど、他の方達はどうしてるんだろうとふと気になりました。


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勝負服と目指すものとスズカさん

サブタイままな話。


「「「わぁ……」」」

 

 キラキラした目をするスペちゃんとキング。まぁ私もそうなってるだろうけど。

 今、私達の目の前にあるテーブルには三着の綺麗で可愛い衣装が置かれていた。そう、勝負服だ。私のは白が眩しいね。スペちゃんやキングのに比べると派手さには欠けるけど、その分シンプルですっきりしてるから私好みだよ。

 

「ついさっき届いたんだ。不備がないかの確認も兼ねて試着してみてくれ。俺は外に出てるから」

「「「はいっ!」」」

 

 やっと届いた私達の勝負服。まだこれを着てレースをする事は出来ないけど、やっぱりテンション上がるよねぇ。

 早速とばかりにスペちゃんが服を取り出してるし、キングさえも嬉しそうに自分の勝負服を眺めてる。

 

「っと、一応ね」

 

 トレーナーが覗く事はないと思うけど、念のために鍵を閉めておく。さて、じゃあ私も着てみようかな。

 白い雲をイメージするような純白の勝負服。これを着てGⅠへ出る時が待ち遠しいな。ううん、目標はそこじゃない。暮れの中山で、私達三人はそれぞれの勝負服を着て、一着を争う。それが今の私達の最終目標。

 

「……あの日からトレーナーの指導も変わったし」

 

 それまで私には自信なさげな指導だったトレーナーだけど、あの日を切っ掛けに私を日本一の逃げウマ娘にしようと色々考えてくれるようになったのが分かった。

 それまでと違って指示にも自信や熱みたいなのがあって、私もそれに感化されるようにトレーニングへ励んでる。そのおかげかもしれないけど、週一回の模擬レースで逃げ切れる事も増えてきた。

 

 ……まぁ、それでもスペちゃんやキングの末脚に負ける事が多いけどさ。

 

「お~……」

 

 初めて袖を通した勝負服は、何て言うかこう、テンションが上がった。う~、これで今すぐレースをしたい気分だよ。そう思ったまま口にしたらキングもスペちゃんも同じ事を思ってたらしく力強い頷きを見せたので……

 

「いっそさ、トレーナーに頼んで一度だけ模擬レースをこれで走らせてもらおうよ」

「「異議なしっ!」」

 

 なんて、三人して意見が一致。すぐさま鍵を開けて、他のウマ娘の練習風景を見てたトレーナーを呼び戻した。

 

「……模擬レースを勝負服で?」

「そっ。ダメ、かな?」

 

 私達のお願いをトレーナーは渋った。勝負服はその名の通り真剣勝負の場でしか着れない特別な物で、ライブのための舞台衣装でもあるから模擬レースなんかじゃ使わせたくないらしい。

 その気持ちは分かるけど、でも私達はもうこれで走りたい気持ちでいっぱいだった。ダメと言われても走りたいぐらいに気持ちが高まってた。

 

 だからその想いを三人でぶつけた結果、トレーナーは大きくため息を吐いて絶対に汚さないならって条件で許してくれた。こうして急遽私達の勝負服での模擬レースが始まる事になった。

 

「いやぁ、言ってみるもんだね」

「よく言うわよ。最後なんて半ば脅しだったじゃない」

「あはは……ダメって言ってもやるから、ですもんね」

「だってぇ、もうそういう気分だったもん。キングやスペちゃんだってそうでしょ?」

「「そ、それは……」」

 

 揃って顔を背ける二人に思わず笑みが浮かぶ。最近私達はトレーニングが一緒な事が多い。今は揃ってスタミナ強化週間とでも言えばいいのか、プールトレーニングが主体になってるし。

 

 まぁ夏が近いせいで陽射しが強くなってきて外は暑いから助かるんだけどさ。

 

「よーし、それじゃ始めるぞ。三人とも位置につけ~」

 

 いつもと違ってどこか気の抜けたトレーナーだけど仕方ないかな。何せ本来はやるはずなかった事だし、汚すなってのも届いたばかりの勝負服を心配しての事だろうしね。

 

「今回は絶対負けないよ~」

「それはこっちの台詞よ」

「わ、私だって負けません」

 

 三人揃って構える。目の前の景色はいつもの見慣れたものだけど、チラリと横を見ればそこにいるのは見慣れない格好をした仲間二人の姿がある。そして、私自身も見慣れない格好だ。

 

 けど、いつかこれが見慣れたものになる時が来る。出来れば、その時にあのレースを迎えたいかな。

 

「よーい……スタート!」

「「「っ!」」」

 

 出遅れる事もなく好スタート! このまま私のペースでレースをさせてもらうよっ!

 

 逃げの何がいいってさ、誰も前にいない事だよね。誰もいないからこそ、私にとっては普段となんにも変わらない。トレーニングで走るのと変化はない。だからこそあの時のトレーナーの言葉が胸に響いた。

 

――前だけを見つめて風を追い越せっ!

 

 レースになったら後ろの様子を意識しないといけないって、どこかでそう思ってた。それをあの言葉で一気に払拭された気がする。

 レース中の私はただ前だけを見つめて、風を追い越せばいいんだって。それは逃げじゃない。追い越すんだから追い込みだ。

 

 私がしてるのは、みんなから逃げるんじゃなくて風を追い抜こうとしてるんだってっ!

 

 汚すなって言われたけどそれが守れそうにない気がしてきた。汚したくないって気持ちよりも負けたくないって気持ちの方が強くなってきたからだ。

 

 そしてそれは、私だけじゃなくてスペちゃんやキングも一緒だと思う。

 だって、後ろの方から聞こえるんだ。ターフを削り取るような、そんな力強い足音が!

 

「っ!」

 

 少し前だったら失速してた辺りになっても速度は変わらず走れてる。しかも、汚さないようにって思って普段よりも若干抑えて走ってたからまだ余力もあった。スタミナトレーニングの成果もあるのかな?

 ホント、今までよりも体が重くない。踏み出す足が軽いし、ここまできても目の前の景色の飛ぶ速度が落ちないのは凄いかも。

 

「これなら……いけるっ!」

 

 最後のコーナーを一番で通過して直線へ出ると、ゴールとして立ってるトレーナーが見えた。

 

「そのままトップで駆け抜けろっ!」

 

 私の顔を見るなりトレーナーはそう叫んだ。自然と足が、腕が動いた。残った力を全て出し切るように体中が微かだけど加速していく。まったく、渋々だった癖にこれだもん。そんなのさ……

 

「応えないわけ、ないよっ!」

 

 全てを振り絞るように走る私だけど、それと同時に後ろから凄い圧力のようなものが流れてきた。それが何かを考える必要はない。だって考えるまでもないから。

 

「行かせませんっ!」

「最後までわたしの前を走るなんてさせないわよっ!」

 

 ここにきて爆裂するのが差しウマ娘の末脚の恐ろしさだよね。特にスペちゃんとキングのそれは何度も見てきてるから恐ろしさをよく知ってる。

 

 それでもこの服を着てる以上負ける気はないよっ!

 

「「「あああああっ!!」」」

 

 あっという間に並ばれる。でもここから抜かせない。抜かせたくない。でもそれはきっと二人もだ。この服を初めて着たレースで負けるなんて嫌だもんね。

 

「よ~しっ! そのまま速度を落としたら戻ってこ~いっ!」

 

 トレーナーの前を通り抜けた瞬間そんな指示が飛んだ。言われるまでもなく私達は速度を落としていく。いつもなら倒れ込んだりして止める事もあるんだけど、折角の勝負服を汚すわけにはいかないからね。

 

「あ~……差し切れなかったぁ」

「抜けたと思ったのに……」

 

 耳を項垂れさせてしょぼんとするスペちゃんと、悔しげに前を見つめて走るキング。ホント、らしさ爆発だね。

 

「それならこっちだって勝ったと思ったっての」

 

 以前まであった焦りは、もうかなり薄れてた。あの頃の私だったらきっとまた差されて負けてた。そうならなかったのはきっと……。

 

 

 

 突発的なレースの後本来のトレーニングを終えたわたし達は、汗を流し、夕食を終え、いつものようにチーム用の小屋へ集まり勉強会を開いてた。

 ただ、最近は勉強会と言うよりもただ集まって喋ってるだけに近い事が多い。まぁ、それが嫌って訳じゃないからいいんだけど。

 

「っと、これで終わりっと」

「お疲れスペちゃん」

「お疲れじゃないわよ。貴方は最初から自分だけで出来るんだから課題ぐらいやっておきなさい」

「え~? こうして三人で集まるからやろうって思えるんだって。一人じゃ味気ないよ、こういうの」

「まったく……。スペシャルウィーク、貴方からも何か言ってやりなさいよ」

「え、えっと……私もスカイさん寄りだったり……」

「だよね~」

「はぁ~……そうだったわ。貴方達はそういうところは似てたわね」

 

 与えられた課題を終えたところで、もう勉強会はただの座談会に変わろうとしてる。これが最近の日常。

 この小屋にもセイウンスカイが持ち込んだ漫画やトランプにスペシャルウィークが持ち込んでるスナック菓子などが置かれて、最初の頃とはかなり変化していた。

 

 ……ま、わたしもクッションを持ち込んでるけど、二人と違ってこれは必要なものだからいいのよ。

 

「そういえば、今日のレースは何だか久々に楽しかったですね」

 

 不意にわたしの向かいに座っているスペシャルウィークがそう言って笑う。

 

「だね~。少し前までは楽しいってよりも色々と考えたりする事が多かったからなぁ」

 

 セイウンスカイがそれに同意するように笑顔で応える。で、何故か二人してこちらを見つめてきた。

 

「「キング(さん)は?」」

「……言う必要はないでしょ」

 

 何となく本音を言うのは恥ずかしかった。例えそれを二人が分かっていたとしても、だ。

 実際そうなんだと思う。何しろ二人してわたしの反応に笑っているし。だけど絶対に口にはしない。今までで一番楽しいレースだった、なんて。

 

 今はもう定例となった夜の勉強会。スペシャルウィークのためにと始まったこれも、セイウンスカイを入れてからは二人のための会となっていた。セイウンスカイもあまり学科は思わしくないからだった。

 だけど、セイウンスカイは普段授業を真面目に聞いていないだけらしく、スペシャルウィークのように真面目に聞いていても分からないとは意味が違うのが性質が悪い。

 どうしてそう思うかと言えば、わたしが少し教えるだけであっさりと理解するからだ。それなら自分でちゃんと授業を受ければいいのにと何度言った事か。

 

 ……ま、まぁ? その度にわたしから教えてもらう方が分かり易くていいって、そう言われるものだから仕方なく許してあげてるけど。

 

「そういえばさ、スズカさんってどうしてるの? やっぱり逃げで走らせてもらえてない感じ?」

「スズカさんですか? 今は逃げか先行か状況に応じて選んでるって言ってました」

「逃げか先行か選んでる?」

「どういう事?」

「え、えっと、私もちゃんと分かってる訳じゃないんですけど……」

 

 スペシャルウィークが話す内容は簡単に言えばこんな感じだった。

 スズカさんは逃げウマ娘として走りたい。でもそれをあのトレーナーの女性が難色を示してる。だから普段は先行として走るけど、スズカさんが勝ちたいと思った時は逃げで走る。そういう事で落ち着いてるみたい。

 

「要するに、スズカさんは指示に従ってるけど破ってる?」

「というよりは、どうしても勝ちたい時だけ逃げを容認するって事でしょ」

「そんな感じらしいです」

「だからってよくあのトレーナーが許したよねぇ」

「それなんですけど、スズカさんが笑って教えてくれました。何でもチームの人達も協力してくれたみたいで」

「「協力?」」

「はい。えっと、何でもあの後……」

 

 そこでスペシャルウィークが話した内容は、わたしとセイウンスカイを大きく驚かせ、また同時に胸を熱くさせるものだった。

 彼女らは最近の模擬レースで先行の走りから逃げへ変化しようとしたスズカさんを徹底的にマークして潰し、再度のレースをあのトレーナーの女性へ要求したのだ。

 

 おそらくだが最初から逃げを打っても結果は同じとでも言ったに違いない。でも、その結果は言うまでもないわね。最初から逃げを打ったスズカさんは見事勝ってみせたんだ。マークも何も関係ないような、そんな速度で。

 

 その結果を受けてチームメイト達は何も言わず、ただ黙ってトレーナーの女性を見たそうだ。きっと、これだけの結果を出せるのにそれでも逃げをさせないのか、と、そういう意味で。

 

 チームメイトって、やっぱりどこでも不思議な絆が出来るのだと、そう思った。まさかスズカさんのためにそんな事をと、そう思ったのだから。

 

 わたしも、同じような事が出来るかと自問した。スペシャルウィークやセイウンスカイのために、わたしはどこまで出来るのだろうかって。

 

「キング?」

「キングさん?」

「え?」

 

 いつの間にか考え込んでいたらしい。気付けば二人が不思議そうな表情でこちらを見つめていた。

 

「どうかしたの? 真剣な表情しちゃってさ」

「何か気になる事でも?」

「べ、別に何でもないわ。そろそろ勉強に戻りましょ」

 

 言える訳ないじゃない。貴方達の事を考えていた、なんて。

 その後はいつものように授業の復習へ時間を費やして、消灯時間の一時間前に終了。小屋を出て鍵を閉めて歩き出す。

 

「そういえば、エルちゃんが卒業した後は凱旋門賞に出るんだって言ってましたけど……」

「あー、言ってたねぇ。いやはや夢は大きくって言うけど中々のもんだよ」

 

 わたしを挟んで交わされる話の話題は同期のエルコンドルパサーだった。たしか彼女もスズカさんと同じチームだったと記憶してる。

 後はグラスワンダーもじゃなかったかしら。あのチーム、わたしは最初から視界にも入れてなかった。最強集団と呼ばれてはいるが、それは元々見込みのあるウマ娘を見出して育てているからだ。つまり、あのトレーナーは所謂才能が埋もれているウマ娘を育てた事はない。

 

 わたしはそこが気に入らなかった。だってそれは、成功するのがある程度約束されたウマ娘しか育てない事を意味するから。そんな状況で成功するのは当然よ。

 だからわたしは、当時まったく無名だったウマ娘のサクラバクシンオー先輩を見出して、GⅠどころかURAまで無敗で走らせたあの人へ指導を頼んだ。

 

 ……まぁまさかあの人以外は引退させていたとは知らなかったけど。

 

「キングはさ、やっぱ最終的に海外目指す?」

 

 その問いかけはわたしの意識を現実へ向けさせるのに十分なものだった。

 

「最終的? 何を言ってるのよ。海外遠征は途中の事。わたしの最後は海外でもキングの名を知らしめ、この国で引退レースを行い、大勢のファンの目の前で勝利する事ね」

「「お~っ……」」

「そしてキングヘイローの名は不朽の王者の名となるのよ」

 

 それがわたしの夢。日本一? そんなものじゃスケールが小さいわ。わたしは文字通りのキングに、王者になるのよ。

 

 ……理想や夢は高く大きく。それも王者らしさだしいいわよ、ね?

 

「スペちゃんの夢はあれだっけ。日本一のウマ娘」

「はい」

「となるとダービーは取りたいねぇ。後、可能ならJCも」

「そうね。ダービーを取れば国内一のウマ娘。ジャパンカップまで取れば文句なしの日本最強ウマ娘って言われるわ」

「ダービーとジャパンカップ……」

「そ・れ・とぉ、出来ればその同じ年に暮れの中山で一着?」

「出来過ぎよ。まぁそこまでいけば間違いなく、日本一のウマ娘って称号は名乗る必要もなく周囲が勝手に呼ぶでしょうけど……」

 

 ある意味クラシック三冠よりも難しい三勝だ。でも、何故だろう。それでもあるいは彼女なら、スペシャルウィークならやってのけそうな気がした。

 

 わたしもまずは三冠ウマ娘を目指してみようかしら? そう思って少しだけ考えてみる。

 

 ……うん、そうね。トリプルクラウンなんて呼ばれるぐらいだし、キングには相応しい称号って言えるもの!

 

 

 

 明日の準備をして再確認。うん、よし漏れはないっと。

 

「明日の確認?」

「はい」

「でも、それって消灯前もしてなかった?」

「実は、私ってちょくちょく忘れ物するんです。で、それをトレーナーさんに相談したらバクシンオー先輩もそうだったらしくて、こうやって寝る前に再確認するようにってトレーナーさんに言われました」

 

 後ろから聞こえた声に振り向けばスズカさんが微笑んでた。その優しい眼差しが、何だか嬉しいけどくすぐったい。

 本当に今のスズカさんは出会った頃よりも明るくて元気になった。前にも増して綺麗になったし、何より走ってる時が楽しそうだ。チームの人達の話もしてくれるようになったし、きっと全てが上手くいってるんだろうなぁ。

 

「そうね。スペちゃんはドジだもんね」

「そ、そうですけど、あまり言わないでくださいよぉ」

 

 あの日、トレーナーさんの過去を知った日の夜から、スズカさんはよく私に話しかけてくれるようになった。理由を聞いたら、チームに馴染むよりも先にルームメイトと馴染めるようにって考えての事だったみたいで……

 

――スズカさんって人付き合い苦手なんですね。何だか意外です。

――そ、そう見えなかった?

――…………言われてみるとそうかもしれません。

――えっと、スペちゃん、そこは嘘でも否定してほしかったな……。

――あっ! す、すみませんっ!

 

 そんなやり取りをしたのがまるで昨日の事みたいだ。それを切っ掛けに私とスズカさんはよく話す様になった。寝る前の少しの時間だけど、お互いの事やチームの事、レースの事なんかを話題にして。

 

「ふふっ、ごめんね」

 

 そう言って微笑むスズカさんを見たら何も言えない。あ~あ、私もスズカさんみたいな美形ウマ娘に生まれたかったなぁ。

 

「そういえば、スズカさんって次の出走レースいつでしたっけ?」

「次? 九月だけど……」

「それ、応援に行ってもいいですか?」

「応援?」

「はい。それに、今のスズカさんの本当の走りを見てみたいんです」

 

 時々見てるのはあくまでも練習だ。全力だったり本気だったりするだろうけど、どこかで本番とは違うはず。

 だから、見てみたい。本番でのスズカさんの走りを。私が憧れたウマ娘の姿を、もう一度。

 

 スズカさんは私の言葉にニッコリと笑うと構わないって言ってくれた。スズカさんのところのトレーナーさんと私のところのトレーナーさんは仲が良くない感じだったから心配だったけど、意外とすんなりと許可が出たのでホッとした。

 

 翌朝スカイさんやキングさんへも話したら一緒に行きたいって言ってくれて、三人で、じゃあ後はトレーナーさんに許可をもらえばいいだけだね、簡単ね、なんてトレーナーさんに会うまでそんな風に思ってた。

 

 なのに……

 

「ダメだ」

「どうしてですかっ!?」

 

 いつもの時間に小屋の前へ行って、トレーナーさんに寝る前の事を話したらまさかの要望却下。

 両隣のキングさんやスカイさんもどうしてって顔でトレーナーさんを見てる。

 

「サイレンススズカは先輩のチーム所属だ。俺は色々あって先輩の担当ウマ娘と関わるなって言われてるんだよ。多分だがあんな事があってからの久々の実戦だ。先輩だけじゃなくチームの仲間達も見に来るだろ。だから俺は行けないんだ」

「じゃ、じゃあ私達だけでも」

「それならいいが、お前らだけで行くと交通費出ないぞ。自腹で行く事になる」

「自腹っ!?」

 

 グサっと私の体を見えない矢が刺した。主にお腹とお財布。

 だって食べ盛りのウマ娘は色々と買わないといけない物が多いんだもん。特に和菓子(甘い物)とか洋菓子(甘い物)とか氷菓子(甘い物)

 

 学園近くのたい焼き屋さんや駅前のケーキ屋さん。ドーナッツ、アイスクリームにお団子、おまんじゅう……。

 それだけじゃない。甘い物以外にもいっぱい美味しい物があって、とてもじゃないけどお金がいくらあっても足りないぐらい。

 

 ホント、誘惑がいっぱいなんだよねぇ……。あぁ、またお腹空いてきちゃったなぁ……。

 

「「スペちゃん(スペシャルウィーク)、よだれ出てるって」」

「はっ!」

「まったく、貴方ってウマ娘は……。自腹という言葉からどうしてよだれが出てくるのよ?」

 

 呆れたようなキングさんの言葉に何も返す言葉がない。連想ゲームみたいに食べ物の事を考えてなんて恥ずかしいし。

 

 でも、どうしよう? きっとスズカさんは私が観に来るって思ってる。なのに私が来なかったらきっと気落ちしちゃうよ……。

 そう思うと肩が落ちるし耳も項垂れる。尻尾なんて今にも地面に着きそうな感じだ。でも学園からレース場までの交通費は結構かかっちゃうし……。

 

「ねぇトレーナー。要はさ、トレーナーがスズカさんやあの人の担当ウマ娘と関わらなきゃいいんでしょ?」

 

 気付けばスカイさんがそうトレーナーさんへ切り出してた。多分項垂れた私を見て何とかしようとしてくれてるんだ。

 

「多分な」

「じゃあさ、私達はレースが観易い場所へ行って、トレーナーは私達から少し離れた場所で観ればいいんじゃない? それならどう?」

「……まぁ最悪先輩と出くわすかもしれんが、ウマ娘と関わらないなら文句は言われないはずだ」

「よし、決まり~。スペちゃん、これでみんなでスズカさんのレース観に行けるよ~」

「スカイさ~んっ!」

「おっとぉ?!」

「ちょっ!? 危ないじゃないっ!」

 

 嬉しさのあまりスカイさんに抱き着いたらキングさんが慌てて私達を支えてくれた。スカイさんが後ろに倒れそうになったから、だ。勿論私のせいで。

 おかげで倒れずに済んだけど、凄く恥ずかしくなってきちゃって私は黙るしかなかった。

 

「お前達、本当に仲が良いな」

 

 そんな私達を見たトレーナーさんが笑いながらそう言うと、私達三人の目が合った。

 

「ま、まぁ同じチームだし?」

「同期でもある訳だし」

「同じ目標を目指してますしっ!」

「……そうか」

 

 噛み締める様にそう言ってトレーナーさんは微笑むと少し間を置いて手を叩く。

 

「よし、じゃあトレーニング始めるぞ。っと、そうだ。お前達も知ってるだろうが、来月から夏合宿が始まる」

「「「夏合宿……」」」

 

 そういえばそうだった。エルちゃんやグラスちゃんが言ってたっけ。二人の所属してるチーム、要するにスズカさんと同じチームはすっごく厳しい予定が組まれる事になってるって。

 

「そうだ。そこでの頑張りが今後を左右するって言っても過言じゃない。遊ぶための道具を用意するのは禁止しないが、あまり度を超すと俺じゃなく参加してる他のウマ娘から怒られる可能性があるから注意しろ」

「は、はいっ!」

 

 スズカさん達はきっと真剣にトレーニングへ励むだろうから気を付けないと。

 

「他のウマ娘、かぁ。正直同期以外とはあまり接点ないんだよね~」

「そうね。そういう意味では楽しみが増えるわ」

「だね~。先輩のウマ娘達とも一緒にトレーニング出来るといいなぁ」

「トレーナー、そこの辺りはどうなの?」

「そうだな……。基本的にはトレーニングはチーム毎か個人でやるはずだが、合宿に関してはその辺りが若干緩いし、相手さえ良ければ問題ないぞ」

「じゃ、じゃあスズカさんと一緒にトレーニング出来るんですか!?」

 

 もしそうだったら嬉しい。今だと遠目に見るのが精々だし。

 なのに、期待を込めて見つめる私へトレーナーさんはどこか申し訳なさそうな顔をしてから目を逸らした。

 

「と、トレーナーさん?」

「……先輩のところは、無理だと思った方がいい。すまないな、俺が担当じゃなきゃ可能性はあったんだろうが」

「そ、そうですか……」

 

 シュンと耳が垂れ下がるのが分かった。残念だな。スズカさんと一緒にトレーニングしてみたかった。

 

「てなると、エルやグラスとも無理かぁ」

「そうなるわね。でもいいわ。別に宿舎で会う事や話す事を禁じられてる訳じゃないし、その気になれば早朝トレーニングとかで偶然を装って合流すればいいのよ」

「へぇ、さすがキング。仲間のために頭使うね~」

「べ、別にそんなじゃないわ。その……そうっ! あの二人だってライバルだもの。その力を間近で見ておくのは大事じゃない」

「はいはい、そういう事にしておくよ~。って事でスペちゃん」

「え?」

 

 反射的に顔を動かすと、そこには笑顔のスカイさんがいた。

 

「スペちゃんはスズカさんと相部屋でしょ? なら、そこで今の内から合宿で一緒にトレーニング出来るように相談しときなよ。昼間にがっつりは無理でも、キングが言ったみたいに早朝とか夜なら出来ない事もないだろうし」

「……そっかっ! ありがとうございます! スカイさんっ! キングさんっ!」

「別にお礼を言われるような事じゃないわ」

「そうそう。もしスズカさんがそれも無理なら三人でいつもみたいにやればいいしさ」

「はいっ!」

 

 そうだった。スズカさんと一緒に出来ないとしても、スカイさんやキングさんがいる。

 私には、頼れる同期で同じチームの仲間がいるんだ。そう思ったら何だかテンションが上がった気がした。

 

「……本当に分かり易い奴だな、お前は」

「へ?」

 

 けど、そんな私を見てトレーナーさんが微笑みながらそう言った。一体どういう事だろう? とにかく今はダメで元々な気持ちでスズカさんへ相談して、上手くいったらエルちゃんやグラスちゃんも誘って、キングさんやスカイさんと一緒にトレーニングだっ!

 

 

 

「気持ちいいな……」

 

 先頭で風を切って進む。この感覚はいつだって心地良い。前に誰かがいる状態から一気に視界が開けていくのも嫌いじゃないけど、出来れば最初からこの状態なのが一番好き。

 

こそは逃がさないデースっ!」

 

 後ろから聞こえてきた声は……エルちゃんか。チームの中で私を倒すべき目標として考えてるスペちゃんの同期で、普段は可愛い後輩だ。

 でも、だからって簡単に捕まえられるつもりはない。だって、今のこの走りが私が一番自信を持って速いって言える走りなんだからっ!

 

「なっ!? ここからか

 

 エルちゃんの声が遠くなって、すぐに聞こえなくなった。

 眼前に広がるのは私だけの景色。私が見ていたかった景色。やっと、やっと取り戻した景色だ。

 これからもずっと、この景色を見ていたい。自分が自信を持っていられるこの走り方で!

 

 結局今回の模擬レースも一着でゴール出来た。あの日、スペちゃんから聞いた話をトレーナーへぶつけた日の夜から、私の日々は色をゆっくりと取り戻していった。

 

――どうしても逃げで戦いたいのか?

――はい。それが私が一番自信を持って速いと言える走りですから。

――お前のレース生命を縮めるとしても?

――はい。

――……お前の意思が固い事は分かった。だがあんな走りを続けていれば故障を発生させる危険性が高い。それもレース中にだ。そうなればレース生命は絶たれる事になる。私はそういう逃げウマ娘を実際見てきた。それでもいいのか?

――……それでも、私は誰かの後ろに居続けたくないんです。

――…………そうか。それでも逃げを打つのは許可出来ない。ただ……。

――ただ?

――……先行とは字の通り先に行く事だ。それが周囲との実力差や状況によって、結果として逃げの体勢になってしまう事がある。そうなった時は、仕方ない。

 

 そんなやり取りをしてから何度目かの模擬レース。私はそれまでと同じように先行から逃げに変わるように走ろうとした。でも、すぐ周囲を囲まれて動けなくなってしまって、それがストレスになったせいか周囲がペースを上げて加速を始めても、その時の私にはもう抜け出して加速するだけのスタミナがなくなっていた。

 

 だけど、そんな私を見てチームのみんながトレーナーへこう言ったのだ。

 

 向かない走り方してたらこうなる。こっちだって強くなるためには強い奴と競い合いたいって。

 つまりそれは、私に逃げてみろと言う事だった。トレーナーは若干渋っていたけど、最後には一度逃げで走ってみろと言ってくれた。

 不思議な事に、そう言われた瞬間私の疲れも何もかもが消え失せていたのを覚えてる。逃げていいんだ。最初から一番前にいていいんだって。

 

 結果は今のレースと同じ。私は最初から最後まで先頭で、風と一緒になって走り抜けた。その結果を受けてトレーナーはやっと理解を示してくれた。

 

――いいだろう。だがその走り方をする時に負けは許さん。その事を頭に入れて先行で行くか逃げで行くかを決めろ。

 

 きっとトレーナーは今も私に先行ウマ娘になって欲しいと思ってる。だけど、私がチームのみんなを寄せ付けず走り切った事を見て、逃げで勝負する事を許してくれた。

 だから私もトレーナーの気持ちに応えたい。逃げだけじゃなく、時には先行で走って結果を出せるように。

 

 だって、トレーナーが先行を薦めた理由は、私が走れなくなる事を恐れての事だと思うから。




スズカは先行適性C。これは某スパロボで言うなら苦手という扱い。発揮出来る力が本来の八割以下ってところでしょう。下手すれば六割程度かもしれません。

……それでも最下位じゃないんだから恐ろしい。


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夏合宿、始まる。そして……

先輩とトレーナーの間に距離を作った過去。それと今回は向き合う事がメインです。


“ヘイローが中距離で勝利するには、スタミナもそうだがパワーが足りない”

「……だろうな」

 

 聞こえてくる声に俺はそう呟くしかなかった。俺の視線の先では砂浜の上で空を見上げて動かないキングヘイローがいる。

 

 遂に始まった夏合宿。俺達のチームは初日に砂浜での短距離走を行った。砂浜は足を取られる。その状況下で走る事が初めての三人は、それぞれ思った走りが出来ないままゴール。そのタイムに三人して驚きと悔しさを見せていた。

 

 そして夕食前の今、三人は砂浜でのタイヤ引きを終えたところだ。キングヘイローが天を仰いでいるのは、スペシャルウィークに比べてそのタイムが遅かったためだ。途中まではほぼ同じだったんだが、徐々に差が開いてしまったからな。

 

 ちなみに、セイウンスカイはそもそも二人とは目指す走りが異なるためか最下位でも気にしていないようだ。

 

「キングヘイロー、とりあえずこっちへ来い。あまり日に当たり過ぎるのは良くないぞ」

「……分かってるわ」

“ヘイローの調子が落ちたな。気分転換をさせないとトレーニング効率が悪い”

 

 返ってくる声には普段のらしさが幾分少ないように感じられた。しかも天の声からの不安な内容付き。これはあまり良くないな。

 

 俺はそこで意識をキングヘイローからスペシャルウィークへ向ける。トレーニングを終えたばかりだからか呼吸が荒いが、その表情には疲労だけではない何かがあった。

 

“スペの状態は上々だ。パワーを鍛えつつスピードも伸ばそう”

 

 どうやらスペシャルウィークはかなり仕上がりが良い方へ向かってるらしい。この夏合宿が終わる頃にどうなってるかが楽しみだ。

 

「ねぇトレーナー」

「ん?」

 

 聞こえた声に顔を向ければセイウンスカイがやや困った顔をしていた。その視線は俺ではなくキングヘイローへ向けられている。

 

「キングだけどさ、何かフォローしとく?」

 

 目敏い。そう思った。やっぱりこいつは見てないようで見るべき事をよく見てる。

 

「……いや、お前らが下手にすると余計気にするかもしれない。俺が後でやっておく」

「そっか。じゃ、お願い」

「おう」

 

 セイウンスカイは話してる途中もずっとキングヘイローの事を見ていた。こいつも結構仲間思いだよな。なんだかんだとスペシャルウィークのために知恵を巡らしたりしてるし。

 

「キングさん、飲み物をどうぞ」

「……ありがと」

「いや~、炎天下の砂浜トレーニングはしんどいね~。スペちゃんやキングについてくのさえ無理だったよ」

 

 キングヘイローが日陰に入ってきたのを見計らって、スペシャルウィークが飲み物を手に近付く。するとそれに合わせていつもの調子でセイウンスカイもキングヘイローへ近寄っていった。

 ホント、大したもんだ。キングヘイローがリーダーなら、間違いなくセイウンスカイはそれを支える補佐役、サブリーダーだな。

 

 ……スペシャルウィークはきっとあれだ。愛されキャラってやつだ、うん。

 

「よし、そのままでいいから聞いてくれ。とりあえず今日のトレーニングはこれで終わりだ。明日以降は朝食を食べて一時間後にここへ集合。その日やるメニューはそこで都度伝える。早朝や夜間の自主練に関しては禁止しないが、やっても軽いランニング程度にしておいてくれ。もし器具を使いたいなら事前に相談してくれれば俺が許可を取っておく。分かったか?」

「「「はい」」」

「うし、ならクールダウンして汗を流してこい。っと、そうだ。キングヘイローはクールダウンしたら少し残ってくれ。チームリーダーのお前に話がある」

「わたしに? というかチームリーダーって……」

「いいじゃん。キングにピッタリだと思うよ? ね、スペちゃん」

「はい! キングさん以外には出来ませんっ!」

「し、仕方ないわね。分かったわ。このっ! チームリーダーのキングがっ! 残ってあげるから感謝してよねっ!」

「お、おう……」

 

 すっかりその気になったな。でも、ま、これでよしっと。こうなればキングヘイローもさっきの事関係とは思わないで残ってくれるだろう。

 

 そうしてクールダウンを終えてセイウンスカイとスペシャルウィークが先に宿舎へと向かうのを見送り、俺はキングヘイローと向かい合った。

 

「それで、チームリーダーのわたしに話って何よ?」

「あ、ああ……まぁそんなに難しい話じゃないんだが……」

 

 さて、どうしたもんか。セイウンスカイにはああ言ったが、俺も上手いフォローなんて浮かばない。とはいえこうして呼び止めた以上は何か言わないと……そうだ。

 

「お前から見てスペシャルウィークとセイウンスカイの様子はどうだ?」

「は? いきなり何でそんな事を……」

「俺はトレーナーだがウマ娘じゃない。学園内の事までは残念ながら把握出来ないんだ。だから二人の近くで過ごしてるお前の意見を聞きたくてな」

 

 我ながら上手いもんだと思う。だが、実際気になっているんだ。特にセイウンスカイは天の声が聞こえないから体力低下や気分の落ち込みも読み切れないし。

 

 俺の問いかけにキングヘイローは若干戸惑ってはいたものの、一度大きくため息を吐くと気恥ずかしいのか顔を背けて話し始めた。

 

「二人ともに特に目立った異変はないわ。まぁ強いて言うならスペシャルウィークは食欲が強すぎで、セイウンスカイは飄々とし過ぎってとこ? 後は二人して学科の方が厳しいわね。ま、勉強会を毎日やってるおかげか最近はそこまででもないみたいよ。走りに関してはトレーナーも知ってるでしょ?」

「ああ」

「セイウンスカイはスタミナがついてきた事もあって逃げの精度が上がってるし、スペシャルウィークもその差し脚がより強力になってる。それに引き換えわたしは……っ」

 

 悔しげに拳を握るキングヘイローを見て、ここだと思って俺は口を開いた。

 

「二人程の成長内容がないってか? ったく、他人の芝生は青く見えるってのはホントだな」

「どういう意味よ?」

「聞いた事ないか? どうしても人ってもんは他人のものが良く見えるんだよ」

「わたしがそうだって言いたいの?」

「そうじゃないか。実際俺から見ればお前だって凄いぞ。お前は振り向かずに前だけを見てたから気付かないだろうが、スペシャルウィークもセイウンスカイも終盤ずっと顔を下げてた。だが、お前はそうじゃない。お前だけが三人の中で最後まで顔を上げてタイヤを引いていた」

 

 そう告げた瞬間、キングヘイローが息を呑んだ。そう、そうだ。お前だけがずっと前を向いていた。どれだけ苦しくても、差が開いていっても、それでも下を向く事なく前を見続けた。

 

「たしかに今日のトレーニングでお前はスペシャルウィークに差を付けられたかもしれない。だが、それが大きな差とは俺は思わない。顔を上げ続けてやり切ったお前と顔を下げてしまったスペシャルウィークの間に、俺は大きな差があるとは思えないんだ」

「トレーナー……」

「だから今日の事は気にするな。それに、トレーニングで差が付いたって本番でそれを差し切れるなら構わないだろ」

「……はぁ~、そういう事ね。やっと分かったわ。要するにわたしの事を心配したって事か」

 

 その次の瞬間、キングヘイローがこちらを見上げてジト目を向ける。な、中々に怖い。

 

「どうせなら最後まで上手く誤魔化しなさいよ」

「……すまん」

 

 本当に言う通りだ。やっぱり俺は詰めが甘いな。

 

「でも、ま、気持ちは有難く受け取ってあげるから感謝しなさい」

 

 そう言って軽く笑みを浮かべると、キングヘイローは普段の雰囲気でこちらへ背を向けて歩き出す。その様はまさにいつもの彼女だ。と、その足がある程度行ったところで止まり、こちらを振り返った。

 

「何してるのよ? 帰るんじゃないの?」

「へ……? っ!? あ、ああ」

「ホ~ント、抜けてるんだから。先に行くわ」

「ま、待ってくれ。俺もすぐ行くって」

“ヘイローの調子は絶好調だ。これならトレーニング効率も上がるだろう”

 

 慌てて荷物を持ってキングヘイローを追いかけようとして、聞こえた声に動きを止める。そうか、今のでテンションが上がったか。

 

「とりあえずは成功、だな」

 

 セイウンスカイに呆れられずに済みそうだ。そう思いながら俺は先の方を歩くキングヘイローへ追い付こうと駆け出した。

 

 余談だが、この後転んで頭から砂を被る事になり、その話でセイウンスカイとスペシャルウィークにも笑われる事になった。とほほ……。

 

 

 

 静かな朝だ。そう思いながらまだ若干寝惚けている頭を目覚めさせるように振った。

 時刻は早朝、でいいのか? まぁ午前六時前。久しぶりのボロ宿舎の布団はやはり快眠を与えてはくれなかった。俺が使ってる安い布団もここのに比べたら上等なんだとよく分かる。

 

「……思えば去年まではこの合宿中は朝練があったな」

 

 だからこんな時間に目が覚めたのかと納得し、思い出すのは俺を底辺から引っ張り出してくれたウマ娘。いつも元気で明るく、やや煩いのが玉に傷の爆進王。

 

「今頃は海外のどこかで爆進してるんだろうな」

 

 学園を卒業した彼女は、更なる爆進を求めて海を渡る事を選んだ。学園に残って後輩達を導くような柄じゃないと思ったが、まさか海外進出とは思わなかったよなぁ。

 

「今の俺だったら、きっと付いて行ったんだろうな」

 

 もし天の声が聞こえなくなっても、今の俺なら世界相手に彼女がどこまで通用するかを試してたかもしれない。

 でも、そうしなかったおかげで今がある。あの素晴らしい才能を持った三人に出会えて、つい最近まで失っていた自信を取り戻せたんだ。

 

「ん?」

 

 ふと耳を澄ますと何かが聞こえる。それは足音。それもただ歩いてるようなものじゃなく、こちらへ向かって走ってくるものだ。

 

 そして、この速度はおそらくウマ娘。だがこんな地響きみたいな走り方が出来るウマ娘なんて……っ!?

 

「……誰かと思えばサクラバクシンオーのトレーナーか」

 

 俺の目の前に現れたのは、予想通りウマ娘だった。だが、その姿を見て俺は息を呑んだ。何せそこにいたのは……

 

「シンボリ……ルドルフ……っ」

 

 永遠なる皇帝、シンボリルドルフ。誰もが知っているウマ娘だ。たしかに彼女も合宿に来ていてもおかしくないが、だからって何でこんなとこに……。

 

「何故ここにと、そう言いたそうな顔だな」

「そ、それは……」

「ふっ、別に責めてる訳ではない。何、早く目が覚めて散歩でもしようと思ったが、あまりにも風が気持ち良かったのでな」

「それで走ってた?」

「そうだ。海よりも山の方がいいような気がしてな。実際陽射しを木々が遮り、風が心地いい」

「そうか。山の方がいいだろうって勘が当たったんだな。これがホントのヤマ勘ってか」

 

 思わず口にしてしまったつまらないギャグ。当然訪れる一瞬の静寂。そして……

 

「ぷっ……あははっ! や、山だけに、ヤマ勘……っ!」

「……ええっと」

 

 何で急に笑い出したんだ、この皇帝。まさかとは思うが今のか? 親父ギャグみたいなのが好きなのかっ!? 嘘だろっ!? だだ滑りもいいとこのやつだぞっ!?

 

 俺は目の前で楽しげに笑うウマ娘を見つめて途方に暮れる事しか出来なかった。最強の呼び声高いシンボリルドルフが、まさかのダジャレ好きとか意外以外の何物でもないだろ。

 

「す、すまない。いや、面白い事を言われるとつい、な。山だけにヤマ勘……ぷくっ」

 

 ひとしきり笑ったシンボリルドルフだったが、未だにその余韻が残ってるらしい。何というか先程まであったはずの威厳のようなもんが霧散したな。

 

“調子が少し上がったな”

 

 そこへ聞こえた天の声に目を見開いた。調子が少し上がった? さっきの足音はまるで地面が揺れてるように感じたのに絶好調じゃないのか?

 

 と、そんな時だ。涼やかな風が一陣、俺達を通り過ぎていった。

 

「良い風だ」

「だな。で、その、一ついいか?」

「何だろうか?」

 

 天の声が言っていた事が気になる。調子が少し落ちているという、あの一言。俺なんかが口を出して何か変わる訳じゃないかもしれない。そもそも俺が言わずともシンボリルドルフ自身が把握しているとは思う。

 

 だけど、何も問題ないように見えていきなり故障などが起きるのがウマ娘でもあるんだ。

 

「その、調子が万全じゃないようだが大丈夫か?」

「……驚いたな。誰にも気付かれていなかったんだが、見抜かれてしまうとは」

 

 一瞬、一瞬ではあるがあの皇帝が驚きを見せた。やはり自覚していたのか、凄いな。

 

「成程。サクラバクシンオーを爆進王と言われるまでにしたのはまぐれなどではないようだ。これは後でテイオーにもよく言っておかないといけないな」

「テイオー……」

 

 トウカイテイオー、だろうな。今売出し中のウマ娘だ。シンボリルドルフの傍に常にいると言ってもおかしくないぐらいの懐き方らしい。

 

「今度はこちらからいいだろうか?」

「何だ?」

「私の不調にどうやって気付いたか教えてくれないだろうか?」

 

 ……まぁ当然の質問だ。どう答える? 素直に教えても信じるとは思えないが、かと言って嘘を言うのも見抜かれそうだし……。

 

「まぁ、天のお告げみたいなもんだ」

 

 なので事実を告げる事にした。これで俺がどう思われてもいいと、そう思って。

 

「天のお告げ、か……。ははっ、中々面白い答えだ。君に強い興味が出てきた」

「そうか。でも、どうせなら俺じゃなくて俺の担当ウマ娘達に、それと出来ればサクラバクシンオーにも興味を向けてやってくれ」

「サクラバクシンオーにならもう向けているよ。短距離では間違いなく国内では無敵だろうと思ったからな。海外でどこまでいくか楽しみだ。だからこそ、君と一度話をしてみたいとも思っていた」

「……それは恐縮だ」

 

 皇帝が前々から俺に興味を持ってくれていた、とはな。それだけでもサクラバクシンオーの功績は凄かったって分かる。

 

 ……こうなると余計気合を入れないといけない。あいつに胸を張れるようにあの三人を無事卒業させてやるためにも、な。

 

 その後すぐに皇帝は去って行った。軽く流すだけと言っていたが、それであれかと思うような走りで。

 

 俺はそれを見送ってまた歩き出した。俺は宿舎から出て山林の遊歩道へ向かう道を歩いていた。で、皇帝と出会ったのはまだ宿舎から500mも離れていない場所だ。

 

 となると、シンボリルドルフはあっちからの帰り道って事になる。

 正確な距離は分からないが、軽く流してたとしても、だ。大体3000m程度を走って息が上がってなかった事になる。

 

「化物かよ……」

 

 スタミナならうちのチームのスペシャルウィークもかなりのもんだが、それだって3000mを流しで走って呼吸を少しも乱さないとはいかないだろう。

 皇帝って二つ名は伊達じゃないって事か。下手すりゃあれと戦う事になるかもしれないのか、あいつらは。

 

 サクラバクシンオーは短距離だけを走っていたから、中距離や長距離を得意とする有力ウマ娘と戦う事はなかった。シンボリルドルフもその一人だが、ある意味ぶつかる事がなくて良かったかもしれん。

 

「あれでもし短距離も得意だったら……」

 

 さすがのあいつも勝利確実とはならなかっただろう。それぐらいあの威圧感とスタミナは脅威だ。あれを相手に戦うとなると、どう考えたって“今の”あいつらが勝てるとは思えない。

 

「……見えたな、仮想敵が」

 

 打倒、シンボリルドルフ。そう考えて指導していかないと駄目だ。特にあいつらは暮れの中山を目指すと言ってくれた。そこに皇帝がいないなんて有り得ない。

 また例えいないとしても超える目標としてはこれ以上ない程の高さだ。あいつらも漠然と速く走るって考えるよりも、ある程度超えるものが分かり易い方が意識も高まるかもしれないし。

 

 そんな事を思いながら遊歩道へ足を踏み入れると、そこには予想外の相手がいた。遊歩道の入口付近で遠い目をしながら前を見つめている眼鏡の女性だ。黒髪を後ろで束ねているそれは、彼女が合宿中に必ずしている髪型だった。声をかけるべきかかけないべきかと迷う。

 

「ん? ……何だお前か」

 

 が、迷っている内に気配で気付いたのか一度だけ先輩はこちらへ振り向いた後、すぐに顔を前へ戻して遊歩道の途中にある休憩所を見つめる。そこには俺の担当三人だけでなく先輩のチームのウマ娘であるサイレンススズカに……仮面を着けているからエルコンドルパサーだな。じゃあ残りは……

 

“グラスワンダー。適性はマイルと長距離。得意なのは先行と差しだ”

 

 グラスワンダー、か。得意な走りがスペシャルウィークとかぶってるな。そういえばエルコンドルパサーと同じであいつらの同期か。

 

 で、見た感じ早朝トレーニング……? いや、どちらかと言うとそういう風に見せかけた集まりだ。前々から言ってた事を実現したんだろう。

 それにしても、何となくだが全員してテンションが高い気がするな。もしかしてシンボリルドルフに会ったからか? だからあそこで話し込んでるのか? おいおい、完全にトレーニングじゃなくなってるぞ。

 

 だが先輩が見つめている理由はおそらくそれが原因じゃないはずだ。そう、今思い出した。俺がサクラバクシンオーの前に担当していた中でこの合宿に来れたのは二人。その中で早朝トレーニングを行ったのは一人だけだ。そしてそのウマ娘は先輩と深い関係があった存在だった。

 

 しかし本当にそうとは限らない。そう思ってまずは当たり障りのない事で話しかけてみた。

 

「あの三人の指導、ですか?」

「いや、違う。早くに目が覚めて、気が付けばここへ来ていた。スズカ達を見つけたのは偶然だ。そういうお前こそ指導しに来たのか?」

「いえ、俺も先輩と同じです」

「……そうか」

 

 そこで会話は途切れた。俺はこれ以上何を言えばいいか分からなかったし、先輩は先輩で今更俺と話す事などないだろうし、それは当然の流れだと思った。

 

 しばしの静寂。もう俺も先輩も互いに分かっていた。何を考え、何を思い出しているのかを。そんな中、ふと突然……

 

「スズカが、あの子に似てきた」

 

 そんな事を先輩が言った。その“あの子”が誰を意味するかなんて聞くまでもない。俺が黙ってると先輩はそれを続きを待ってると捉えたんだろう。視線を休憩所から離さず口を開いた。

 

「どうしても逃げを止める事は出来ない。それが自分の一番自信がある走り方だとな。私の下へ来て、走り方を変えろと指示を出してから、スズカがゆっくりと調子を落としていったのは私も分かっていた。だが、それも新しい走り方が定着するまでの事だと思って待っていた」

「……似てますね、その辺りで既に」

 

 “あいつ”が俺の下に預けられる流れもそんな感じだった。先輩の理想とする走りとの不一致。下降していく戦績と調子。本当にそっくりだ。

 

「だからこそ、私は妥協する事にした。逃げを全面的に許可するのではなく限定的に許可する事で」

「あの頃の二の舞を避けたんですか」

「そうだ。私の理想を押し付け続ければスズカは必ずあの子と同じ道を辿る。逃げだけを追求し、速さを追い求め、限界までそれに適応させた体となって……」

「レース中に突然故障発生、ですか……」

 

 思い出される悪夢。俺も先輩もあの時は何も出来なかった。もうレースで走る事は出来ないと言われたあの時、俺も先輩も“あいつ”も言葉を失った。当然引退する事となった“あいつ”は、それでも悔いはないと俺へ笑顔で言った。

 

――私がやりたい事を貫いた結果なんだから受け止められるんです。だからトレーナーさん、お願いだからそんな顔をしないで。これから私は新しいレースを始めるんだから笑顔で送り出してください。

 

 最後まで涙は見せず、紅葉が綺麗に舞う中を“あいつ”は一人去って行った。幻と消えた秋の盾。本当ならその腕にはそれを抱いていたはずのウマ娘の、あまりに寂しい引退セレモニーだった。

 

「今も時折あの時の事は夢に見る。私が自分の意見を押し通し過ぎなければと、そう何度思った事か。あの子が逃げにこだわり過ぎたのは私がそれを捨てさせようとしたせいだ。もし、もしもどこかで折り合いを付けていれば、もっとあの子の心を分かってやろうとすれば、あんな事にはならなかったかもしれない……」

「先輩……」

 

 それは俺も同じだ。どうして俺は“あいつ”の抱えた不調に気付けなかったのかと何度思ったか。分かってるんだ、それが不可能な事なんて。あれは事前察知が出来る類の故障じゃない。それでも、それでも自分を責めるしかないんだ。何か出来る事があったんじゃないか、と、そう思って。

 

「スズカは、間違いなく二度と現れない逸材だ。だからこそ、私は潰れかねない走りをさせたくなかった。例え逃げ程得意でなくても、先行として戦える力はある。あとはそれを伸ばしてやろうと、そう思って。だが、どこかでこうも思ってしまうんだ。スズカならば、逃げを続けてもあの子のようにならないんじゃないかって」

「……全てのウマ娘は、不可能を越えていける可能性を秘めている、ですか?」

「私も、それを信じたいんだろうな。スズカは、あの子のようにはならないと」

「そう、ですね。同じウマ娘は二人といない。なら、同じ結末だって二つとないと思いたいですよ。それが悲劇の類なら余計に」

「……そうだな」

 

 また静寂が戻る。少しずつ勢いを増しつつある陽射しのせいか、気温もゆっくりと上昇しているようだ。ここは木陰ではあるが、木漏れ日が差していて若干ではあるが熱を感じる。そんな中を、爽やかさと僅かな不快感を持った風が吹き抜けた。

 先輩の後ろで束ねた黒髪が微かに揺れ、それが一瞬ウマ娘の、“あいつ”の尻尾のように、何故か見えた。そしてその瞬間思い出した。

 

 見送る俺へ背を向けたまま、ふと立ち止まった“あいつ”の尻尾が揺れて……

 

――それと、あの人に、トレーナーにも伝えておいてくれますか?

 

 あの日、俺は“あいつ”に頼まれ事をされた事を。だが、その時には俺と先輩は疎遠となっていて言い出せないまま時が経ち、今の今まで忘れていた事を。

 

「あの、先輩」

「何だ?」

「その、実はあいつから先輩へ伝言があるんです」

「……あの子からの伝言、か。聞かせてくれるか?」

「分かりました。えっと……」

 

 思い返すのはあの日の、忘れたくても忘れられない秋の思い出。その眠らせてしまっていた部分を呼び起こして言葉へ紡ぐ。

 

「私を見出してくれてありがとうございました。例え少しの間でも夢を見れた事、感謝しています」

「……感謝するのはこちらの方だと言うのに。まったく、どこまでも優しい子ね。いっそ憎んでくれていいのに。恨んでくれていいのに。自分からレースを、走る楽しみを奪ったような相手に優しい言葉を残すなんて……っ」

 

 細かに震え始めた先輩の肩を見て、俺は反射的に上を向いた。生憎空は見えないが、木漏れ日がキラキラと輝いていて綺麗だなと思った。

 

 しばらく、その場には蝉の無く声だけが響いた。俺は何も言わずただただ上を見て、先輩も無言のまま何も発しようとしなかった。俺の脳裏には、あいつとの思い出が甦っていた。

 初めて会った時、あいつは悩んでいた。得意の走りを止め、新しい走り方に中々馴染めず戦績を落としていたあいつは、担当ウマ娘が見つからず先輩の手伝いをしてた俺にその悩みを相談してきた。

 

――先輩に、担当トレーナーに言わないのか?

――……言ったんですけど、今の方が最終的には勝てるようになるからって。

 

 あの頃は先輩の考えが分からなかったが、逃げウマ娘の事をある程度知った今なら分かる。逃げウマ娘は最初から全力だ。中には八割から七割程度で走るやつもいるかもしれないが、それにしたってハイペースで走る事に変わりはない。

 それで短距離ならばいい。問題は中距離や長距離だ。2000mから3200mもの距離をそんなペースで走って、しかもそれを何度も繰り返していれば他の走り方のウマ娘よりも体への負担は大きい。

 

 あの頃の俺はそんな事も気付かなかった。その結果があの結末だった訳だが、あの頃の俺はあいつの相談を受けて……

 

――自分がこれが一番自信があると胸を張って言えるならそう言うべきだ。今のままでお前は笑顔で走れるか? レースをして楽しいと、まだまだ速くなれると思えるか?

 

 そんな事を言った。それを受けてあいつは先輩へ逃げで走りたい事を直訴し、結果俺が担当となる事になった。

 

――すまんな。デビューした後で担当させるなど……。

――構わないですって。それで言えば俺はあいつをデビュー前から見てましたし、最初から担当してたようなもんですから。

 

 他のトレーナーへ預ける事も考えたらしいが、先輩は俺の言葉で決意した事を聞いて最後まで責任を持てと言いながらあいつを預けてくれた。そこから俺とあいつと、時々先輩の歩みは始まった。

 逃げを取り戻したあいつは、そこから目覚ましい走りを見せた。適性距離のGⅢやGⅡなら最初から最後まで影も踏ませないような走りを見せ、夏合宿を経た事でそれはより鋭さを持ち、満を持して迎えた初のGⅠ秋華賞でも見事圧勝。

 

――トレーナーさんっ! 私、やりましたっ!

――ああっ! 凄い走りだったぞっ! これで次は秋の天皇賞だっ!

――はいっ! そこでも絶対逃げ切ってみせますねっ!

 

 怖いぐらいの順調さだった。まだ新米に近いトレーナーが燻っていたウマ娘を覚醒させたと、そう言う人達もいた。だが真実は違う。あいつは本来の姿へ戻っただけだったんだ。

 ちらほらと学園内でも俺を褒める声が聞こえ始めたせいもあり、まだまだ青い俺はどこか調子に乗ってた気もする。それぐらいあいつの走りは速かった。適性距離なら負けないと、本気で思わせる程の何かがあった。

 

 だけど、そんな走り方を続けていて体へ何の負担もないはずがなかった。周囲の評価も間違いなくあいつが取ると思っていた天皇賞(秋)。一番人気で一枠一番の好枠番をもらい、あいつは周囲の期待通りに先頭で走った。

 その差は縮まるどころかむしろ開くぐらいで、誰もがあいつが一着だとそう思ってレースを眺めていた。俺も、先輩さえもそうだった。

 

 ところが、大欅を通過した辺りであいつの様子がおかしい事に気付いた。最初は目を疑った。だが隣で見ていた先輩が叫んだ言葉に息を呑んだ。

 

――故障だっ! このままでは不味いっ!

 

 そこからの事はよく覚えていない。はっきりと覚えているのは、ターフに横たわるあいつと、傍で泣きながら声をかけている先輩の姿。そして、まるであいつの事を悲しむように降り出した、雨……。

 

「あいつからレースを、走る楽しみを奪ったのは先輩じゃないですよ。俺です」

 

 気付けばそう口に出していた。そうだ。あの時担当は俺だった。秋華賞を走らせて翌週に天皇賞なんて予定を組んだのも俺だ。先輩は気持ちは分かるが休ませるべきだと助言をしてくれていたが、それを大丈夫の一言で片づけて決行したのは、俺だ。

 

「お前……」

「俺が、俺がもっと考えるべきだったんです。逃げウマ娘がどれだけ体に負担をかけているか。その故障率がどうなっているか。最悪を回避するにはどうするべきか。あの頃の俺は、今よりも輪をかけてダメなトレーナーでした」

 

 俺がその事を思い知ったのはあいつの事があった後だ。学んだ気になっていた。覚えた気になっていた。だけど、教えてもらった事をより深く理解しようとする事を怠っていた。字面だけ追って、その奥にある事を読み取る事が出来てなかった。

 

 俺は本当にトレーナーとしてウマ娘を見ていいのかと自問した事もある。

 

 その結果、次の担当は指導にそれまでのような自信がなくなり、迷い、最後まで一着を取らせてやる事が出来なかった。

 サクラバクシンオーを最後まで指導出来たのは天の声があったからだ。何を鍛え何をすればいいだけじゃなく、体力が低下している事や気分が落ちている事など本来であれば目に見えない事を教えてくれていたから、俺は最後まで自信を持って指導出来た。

 

 そして今はあいつらが俺に自信を取り戻させてくれた。

 

「思い返せば、あの時の俺は先輩がくれる助言だって右から左になってました。あいつは速い。しかも勝ってる。なら何の心配があるんだって」

 

 自惚れていた。才能あるウマ娘を見てる事で、いつの間にか俺が凄くなったように思ってたんだ。その慢心が、油断が、あいつを潰した。

 

「ホント、ダメなトレーナーでした。あの頃の俺はあいつを見てるようで、その結果だけを見てたんです」

「それを言うなら私も駄目トレーナーだ。スズカの事でお前と久しぶりに話した時に対話不足と言われて思い出したよ。あの頃の私は、あの子に自分の考えや想いを全て伝えていなかった。もしそうしていれば、あの子とも少しは違った道があったはずなのに……とな」

「……ダメダメですね、お互い」

「ああ、まったくだ」

 

 そこへ熱風が吹き抜けた。もう涼しい時間は終わったらしい。気付けば差し込む光も若干だが強くなっている。手元の時計を見れば六時半になろうとしていた。

 

「だからこそ、今のお前に一つだけ謝っておかねばならない事がある」

 

 そこで初めて先輩がこちらへ振り向いた。その表情は、どこか優しい気がした。

 

「あの時のお前が、あの子の事で自信を失い、熱意も無くしていたのは感じ取っていた。だが、私もお前の顔を見るとあの子の事を思い出して心無い言葉を言ってしまいそうだった。それに、ウマ娘の育成に関わる以上、ああいう事は決してないと断言出来ない。もしそれで潰れるのなら、その方がお前のためだと思って突き放した。今にして思えば弱くて身勝手な理由だ。すまなかったな。本当なら先輩の私がお前の事をフォローしてやらねばならないのに……」

 

 言わんとしてる事は分かる。ウマ娘だって絶対に故障などをしない訳じゃない。トレーナーを続ける以上、それ関連の出来事にいつか必ず直面する。時には引退すら出来ない事もあるかもしれない。

 だからこそ、それに耐えられないのならトレーナーを辞めた方がいい。ただ、あの時にそんな話を俺達がしたら揉める結末しかなかっただろう。

 

 それに、だ。俺の性格上、例え冷静にそう説かれたとしても反発していたはずだ。実際あんな状況になっても諦めきれなかった俺は、結果として天の声が聞こえるようになり、サクラバクシンオーと出会ったんだから。

 

「だが、サクラバクシンオーを私に貶された時、お前の目や声にはあの頃の力が戻っていた。それを見て分かったよ。ああ、こいつはやっぱり一人前のトレーナーなんだと。誰かに支えられずとも自分で立ち直り、何があっても担当したウマ娘を支え、大事にする奴だとな」

「先輩……」

「さて、長話が過ぎたな。そろそろ私は宿舎へ戻るとする」

「あ、はい。お疲れ様です」

 

 俺の横を通り過ぎていく先輩の事を見つめていると、不意にその足が止まった。

 

「先輩?」

「スズカ達に伝えておいてくれ。早朝トレーニングなら、軽いものであれば他のウマ娘と行う事を大目に見ると」

 

 それだけ言って先輩は今度は一度も足を止める事なく去っていく。俺はその背を見つめながら言われた事の意味を考え、理解した時にはもう先輩の姿がかなり小さくなっていた。

 

「ありがとうございますっ!」

 

 だから大声でそう叫んで頭を下げた。先輩はあいつらがサイレンススズカ達と一緒にトレーニングする事を許してくれたんだ。それと、俺が先輩の担当ウマ娘と関わる事も。

 聞こえたか分からないし俺の方を見たかも分からない。だけど俺はしばらくその場で最敬礼を続けた。

 俺がそれから頭を上げたのは、遠くからあいつらの楽しげな声が聞こえてきた時だった。

 振り向けばゆっくりと談笑しながらこっちへ向かって歩いてくるあいつらの姿が見える。六人揃って笑顔だ。

 

「……いつまでもああでいて欲しいもんだな」

 

 叶わないかもしれないけど、心からそう願う。そんな夏の朝だった……。

 

 

 

 夏合宿は長いようで短いしその逆もしかりだ。一か月以上の期間があるのに集中してトレーニングへ励むとあっという間に時間が流れていく。そしてそれが上手くいっていればウマ娘達の表情や雰囲気からそれが感じられる。

 

 分かり易く言うなら、合宿当初の頃のトレーニング終わりの三人は……

 

「し、しんどい……っ!」

「陽射しと砂で体力がかなりもっていかれるわ……っ!」

「う~っ……お腹空いたよ~……」

 

 と、こんな感じだった。それが今では……

 

「ふ~っ、やっと終わったぁ」

「今日も暑いわね。水分補給を忘れないでよ?」

「分かってます。でもお腹空いたなぁ」

 

 てな感じだ。やっぱりこの合宿でスタミナやパワー、根性がかなり鍛えられているのが分かる。それに早朝トレーニングのおかげか調子もずっと安定していて、この分なら合宿明けに待ってる模擬レースは今まで以上に凄い事になりそうだ。

 

 それにしても、こう考えるとスペシャルウィークは本当に食いしん坊だな。これで太らないのはそれだけ動いてるからなんだろうが、少しでもトレーニングを緩めたらすぐそうなりそうだな、こいつ。

 

 何はともあれ、合宿も終わりが見えてきている。だがこいつらがこれだけ成長していると言う事は、他のウマ娘達も同じぐらい成長を遂げているという事だ。

 特に先輩のところは俺達のところよりもチーム人数も多い上に経験値もあるからな。間違いなくかなりの成長を遂げてるはず。そう思って確認も兼ねてまずスペシャルウィークへ意識を向ける。

 

“スペの仕上がりは上々だ。あとはスピードを伸ばそう”

 

 スピード、か。どうやら今のところは他の部分に不満はないらしい。なので次はキングヘイローへ意識を向ける。

 

“ヘイローの仕上がりは上々だ。あとはスタミナを伸ばそう”

 

 こっちはスタミナ、か。こうなるとやはり差が出てくるな。スペシャルウィークは元々中距離や長距離適性があったが、キングヘイローはそちらは適性ありって訳じゃなかったからなぁ。

 

「ねぇ」

「うおっ!?」

 

 突然目の前にセイウンスカイが現れた。しかもやや不満げな表情で。というかいつの間に接近してたんだ。まだスペシャルウィークやキングヘイローは離れた場所で休憩してるってのに。

 

「な、何だ?」

「何だ、じゃないよ。トレーナーってさ、時々今みたいにスペちゃんやキングの事真剣な眼差しで見る癖に、な~んで私の事はそういう感じで見ないかなぁ?」

「そ、それは……」

 

 意識を向けないと天の声が聞こえないし、聞こえたら聞こえたでそれに関して考える事が多いからどうしてもそうなってしまうせいだが、それを言っても信じないだろうし、そもそも言えるはずもない。

 

「む~っ……もしかしてさ、トレーナーってスペちゃんとキングだけ贔屓してる?」

「そんな訳あるか」

 

 むしろある意味じゃあの二人よりもセイウンスカイの事を考えてる事が多いんだ。天の声が聞こえない以上、俺が自分で全て判断するしかないからな。だが俺の答えにセイウンスカイは納得出来ないらしく、両頬を膨らませるような反応を見せた。

 

 ……仕方ない。ここで調子を落とされても困るしな。

 

「俺があの二人の事を真剣な感じで見るのはな、上手く育てられた事がない系統のウマ娘だからだ。俺が唯一と言っていい成功例はサクラバクシンオーだぞ? 中距離や長距離のウマ娘は、な」

「そ、それなら私だってそうじゃん」

「そうだが、お前はサクラバクシンオーと同じ逃げウマ娘だろ? その分二人よりも俺の中に指針が立てやすいんだ」

「……それだけ?」

「は?」

「そ~れ~だ~け~?」

 

 まだ足らんとばかりに迫るセイウンスカイに俺はどうすればいいか分からない。納得させられる理由ではないって事なんだろうが、これ以上俺に何と言えと?

 が、そこで気付いた。この事の根底にあるのは俺が贔屓してるとセイウンスカイに感じさせてしまった事だ。それを払拭するには、贔屓してないと伝えるよりも全員に別々の形でそういう部分があるとする方がいいんじゃないか?

 

「え、えっと、信じてもらえるか分からないが」

「何?」

 

 やや棘がある声に内心驚く。こいつ、こんな一面もあるのか。

 

「俺は三人の中でお前を一番頼りにしてる。チームを引っ張るのはキングヘイローだが、まとめてくれているのはセイウンスカイ、お前だって」

「そ、そんな事ないって……」

 

 おや、もしかして褒められるのに慣れてないのか? ……あり得る。思い出してみれば、俺ってあまりこいつらの事を褒めてきてない。そっか、ちゃんと褒めてやらないといけないな。自信を付けさせるためにも、ちゃんと見てるぞって伝えるためにも。

 

「いやいやそんな事あるぞ。実際お前がいてくれて助かったところが多いしな」

「や、やだなぁ。過大評価だって~。でもそっかぁ。私を頼りにしてるんだ~……」

 

 後ろ手で髪を触るセイウンスカイに俺は安堵の笑みを浮かべた。思わぬ形で不満を解消出来たようだ。

 ただ今言った事は本音だ。俺一人じゃスペシャルウィークのために知恵を出してやれなかっただろうし、キングヘイローの事をフォローする事もしなかったかもしれない。それらは全部セイウンスカイがいたからこそ何とかなった事だ。

 

「あれ? スカイさん、顔赤いですけど大丈夫ですか?」

「まさか熱中症とかじゃないでしょうね?」

「ち、違うって。トレーナーが照れるような事言ってきたからさ」

 

 気付けばあとの二人もこっちへ戻ってきていた。で、セイウンスカイを見るなりそのおかしさを指摘してきた。言われてみれば若干赤いな。どうやら本当に照れてるらしい。

 

「ふ~ん、何を言ったの?」

「ん? まぁ頼りにしてるって感じの事だ」

「それだけ? つまらないわね」

「ちょっとキング~。それは酷くない?」

「スカイさん、いいなぁ。トレーナーさん、私にも何か言ってくださいよ~」

「なら……食べ過ぎに注意しろ」

「「それはたしかに」」

「みんなして酷いっ!?」

 

 定番になりつつあるスペシャルウィークの食欲をいじったところで本日のトレーニングは終了だ。と、そう思ってたところで、若干落ち込んでいたスペシャルウィークが何か思い出したように顔を上げた。

 

「あのっ、トレーナーさん!」

「何だ?」

「えっと、そろそろ私達の呼び方、変えてくれませんか?」

「……は?」

 

 呼び方を……変える? その意味が分からない俺とは違い、セイウンスカイやキングヘイローはその意味が分かったらしく頷いていた。

 

「成程ね~。たしかにいつまでもフルネームって距離感じるし」

「言われてみればそうね。あのスズカさんのトレーナーさえスズカって呼んでたし」

「そうなんですよ。なのでトレーナーさん、私の事はスペって呼んでいいですからね?」

「スペ、ねぇ」

「ならわたしは……キングよ」

「キングか……」

「それじゃ私はセイ? あるいは……スカイかな? 大穴でウンスとか? どれがいい?」

「あ~……セイにしとくわ」

「よし、決まり~。っと、言う訳でぇ……もう一度改めて呼んでみようか。はい」

「えぇ……」

 

 俺の目の前には呼ばれるのを今か今かと待っているスペ、キング、セイがいる。まぁこれでこいつらが喜んでくれるなら安いもんか……。

 

「分かったよ。それじゃあ……」

 

 おほんと一つ咳払いをし、こちらを見つめる三人へ期待通りの事をしてやるとしますか。

 

「スペ」

「はいっ!」

「キング」

「ええ」

「セイ」

「はーい」

「まだまだ至らない俺だが、これからもよろしく頼む。夢は、暮れのライブでメイン独占だっ! それ目指して頑張るぞっ!」

「「「お~っっ!」」」

 

 片腕を高々と上げる三人を見つめ、俺は力強く頷いた。今は無理でもいつか、いつか必ずそうしてみせると、そう固く誓いながら……。




次回で夏合宿は終わりです。


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夏の終わり、約束の夜

一応三人それぞれにライバルみたいな存在を設定してあります。
今回はキングのそれが登場。セイのそれは言うまでもなく、スペのそれは意外かもしれません。


「よし、この一か月以上にも及ぶ合宿をよく頑張った。トレーニングはこれで全て終了だ」

 

 トレーナーがそう言って嬉しそうに笑みを浮かべる。陽射しを防ぐためのパラソルの下にいるもんだから若干怖く見えるけど仕方ない。

 それにしても、合宿もこれで終わりかぁ。本当にあっという間だった。それと、学園で過ごす一か月とここで過ごす一か月は本当に濃度が違うって分かった。

 私もスペちゃんもキングもここに来る前と今じゃ有り得ない程の差が出来てる。スピードもスタミナも、パワーや根性だって段違いだ。

 

「それじゃあ、明日は帰るだけですか?」

「あれ? おかしいわね。たしか予定じゃ学園へ帰るのは明後日だったはずだけど……」

 

 言われて行事カレンダーを思い出す。えっと……うん、たしかにキングの言う通りだ。学園へ帰るのは明日じゃなくて明後日のはず。

 

「まぁ他の奴らは明日もトレーニングをするだろうが、俺は明日を完全休養日に当てる事にした。まぁ、ここまで頑張ったお前達へ俺なりのご褒美みたいなもんだ」

「やったぁ! キングさんっ! スカイさんっ! 明日は思いっきり海で遊べますよっ!」

「え~? 私はそれならのんびりしたいなぁ」

 

 宿舎の部屋はあまり過ごし易くはないけど、それでも灼熱の砂浜や虫が多い山林よりはマシだもん。

 

「そんなぁ……キングさんっ!」

「わたしもそこまで遊びたいとは思わないんだけど……」

 

 スペちゃんに迫られて困り顔のキング。ホント、そういうとこだよ。キングってば結局面倒見のいい事をスペちゃんに本能的に察知されてるんだよねぇ。まぁあの勉強会もある意味じゃそういう事の表れみたいなもんだったし。

 

「ねぇトレーナー、スズカさん達の予定って分かる?」

「先輩達の?」

 

 いつの間にかトレーナーはあの女性と関係を修復したみたいで、この合宿中何度か話し合ってるのを見た事がある。

 そのおかげで私達も毎朝スズカさん達と一緒にランニングしたり出来て、まぁ同期五人の関係は合宿前以上に深まった気がするし、スズカさんとは同じ逃げウマ娘って事で色々と話す事も増えた。

 

 キングは無謀にも一度スズカさんに短距離とはいえ勝負を挑み、何とギリギリで勝利を収めた。

 ただあれはあと400mあったら完全に負けてた。キングもそれで表情が青ざめてたもんね。苦手な距離でさえ得意なキングがギリギリ勝てるレベルって……。

 

「先輩達も明日は休養にあてるはずだ。ただし朝からじゃなく昼間はトレーニングをやって、夕方からは自主練も禁止って感じで」

「そっか。だってスペちゃん」

 

 つまり夕方からならスズカさん達も遊べる訳だ。なら十分だと思う。

 

「えっと?」

「つまり、スズカさん達も夕食後からなら遊べるという事よ」

「そっかっ!」

「明日の朝、打ち合わせしないとだね」

「はいっ!」

 

 元気よく返事するスペちゃんを見てると勝手に笑顔が浮かぶ。ホント、いつでも元気で明るいよね。私も結構明るい方だと思うけど、スペちゃんには負けるかなぁ。

 

「ふむ、夜に遊ぶ、か……」

 

 不意にトレーナーがそう呟いた。ただ私達って耳がいいから全員その呟きを聞いてるんだけど。

 一体何を考えてるのやら? ま、何となく分からないでもないけどさ。さてさて明日の夜が楽しみだなぁ。

 

 そんな感じでチーム全員で宿舎へ向かう。でもトレーナーはそこの離れみたいな場所に部屋があるので大変だ。何せ私達はみんな年頃の女の子。トレーナーとはいえ男性を警戒するのは当然なのだ。

 

 ま、ご飯は一緒に食べるんだけどね。そこでスペちゃんの食べる量をまじまじと見て、トレーナーが本気で「よく太らないな」なんて感心してたっけ。

 どうもトレーナーがこれまで見てきたウマ娘の中でもトップクラスの食べっぷりだったみたい。

 

「あっ、スズカさ~んっ!」

 

 そんな事を思い出してるとスペちゃんがスズカさんを発見したようで嬉しそうに手と尻尾を振って走り出す。視線を動かせば宿舎の入口にスズカさんが立ってる。他には誰もいないみたいだ。

 

「スズカさんだけ? 珍しいわね」

「だね~。エルやグラスがいてもおかしくないのに」

 

 スズカさんは所属チームだとスペちゃん繋がりでエルやグラスと仲が良いみたい。他のウマ娘とは仲良しって言うよりは好敵手な雰囲気らしくて、スズカさん曰くお喋りをしたりお茶したりって感じじゃないんだって。

 

――だからスペちゃん達がお昼を一緒に食べてるって聞いて羨ましいなって思ったの。

 

 まぁ案の定それを聞いたスペちゃんが自分が一緒に食べるって言い出したんだけど、そこはグラスと私が止めた。何せスズカさんは学年が上。そんな人が一人だけ下級生の中にいたら悪目立ちするって。

 

 しかもトドメにスズカさんは何も一人でお昼を食べてる訳じゃないってのも判明したんだよね。一緒に誰と食べてるのかと思ったらタイキシャトル先輩だった。聞いたら同期だって言われてみんなで納得したっけ。

 

「ね、ねぇ、ちょっといい?」

 

 と、そんな事を思い出してたらキングがこそこそと近寄ってくるなり囁いてきた。

 何だろう? 聞かれちゃ不味い話でもするのかな?

 

「どーしたの?」

「ほ、ほら、トレーナーがわたし達の事を愛称で呼ぶようになったじゃない? だから、わ、わたしもそうしてもいいわ、よ?」

 

 ……ホント、こういうとこだよ、キングの可愛いところって。こういうの男の前で出したらどれだけの男がキングのファンになるやら……。

 

「じゃあ、スカイかセイの好きな方で呼んでくれる?」

「し、仕方ないわね。そっちから頼まれたのなら聞いてあげないとキングじゃないもの」

「うんうん、そーそー、それでこそキングだって」

「全然気持ちがこもってないじゃないっ!」

 

 ゆっくりと歩き出しながら言った言葉にキングが不満そうに声を上げるけど、そんな大きな声出したら……

 

「キングさんどうかしたんですか?」

「っ!? な、何でもないわよ?」

 

 スペちゃんに気付かれるに決まってるじゃん。おー、おー、慌てちゃって。キング、スペちゃんからは見えてないけど私には尻尾が激しく動いてるの丸見えだよ?

 

 で、この後スペちゃんもキングに私と同じような事を言われたのかスペって呼ばれて嬉しそうにしてた。うん、やっぱりスペちゃんは私達のチームのマスコット的ポジションだね。こりゃスズカさんもほっとけなくなる訳だよ。

 

 宿舎の部屋に戻るなり、私達は汗を流しに大浴場へ。そこにはエルやグラスもいて、更にはオグリさんやタマちゃん先輩にクリークさんなんかもいて大賑わい。

 周囲をよく見てみれば、他にもそうそうたる先輩達がいた。どうやら先輩達の入浴時間とかぶっちゃったらしい。

 

「いやぁ、凄いね」

「ホントデース。でも、何だかワクワクしてきまーす」

「いつかは、ここにいる人達ともレースで戦うんだ……」

 

 エルはテンション上げて、グラスは静かに闘志を燃やしって感じだね。

 

「ぐっ、さ、さすがはスーパーと名前につくだけあるわ。キングであるわたしが負けるなんて……」

「え? キングさんっていつの間にスーパークリークさんと戦ったんですか?」

「す、スペちゃん、多分だけど彼女が言ってるのはレースとかじゃなくて……」

「スタイル、じゃない?」

 

 キングの見てる視線と名前が挙がった相手から推測するとそれしかない。たしかにクリークさんのアレはまさにスーパーだ。

 

「む~…大きいと走るのに邪魔なんデスけどね。速くなると余計デース」

「そう、なんだ……」

「っ?!」

 

 おっと、何故かスズカさんから若干冷たい声が。おかげでエルの尻尾が一瞬で逆立って水を弾き飛ばしたし、この話題はあまり長引かせない方がいいね。

 

「あのさ、スズカさん達へ相談したい事があるんだけどいいかな?」

 

 なので強引に話題変換。丁度いい具合にそういう事があるし、ね。

 

 とりあえず隠れてホッとしてるエルには後で感謝してもらおっと。

 

 

 

 翌朝、わたしは一人早くに目が覚めたので砂浜を何となしに歩いていた。遊歩道の方に行かなかったのは少しでも学園で味わえない景色を堪能しようと思ったからだ。砂浜なんて学園の設備でもないし。

 

「……いい風」

 

 潮風が優しく髪を撫で、独特の匂いが鼻をくすぐる。この嗅ぎ慣れた匂いとも明日でお別れね。

 

「ふんふんふ~ん」

 

 と、そこへ聞こえてくる機嫌の良さそうな声。顔をその声の聞こえた方へ向ければ、そこには水着姿で波打ち際で遊ぶウマ娘がいた。

 

「お昼や夜に遊べないなら朝早くに遊べばいいじゃん。うん、ボクって天才だね」

 

 上機嫌で笑みを浮かべながら波相手にはしゃぐ小柄なウマ娘。

 

「あれは……」

 

 チラリと見えた顔と髪に記憶を呼び起こす。どこかで見た事がある気がしたのだ。そしてそれはそのウマ娘がやった動きで分かった。軽やかで鮮やかなステップ。デビューしてから現在無敗のウマ娘だ。

 

 そして、わたしよりも先にメディアで三冠を目指す事を宣言したウマ娘でもある。

 

「トウカイテイオー……」

 

 わたしにキングと付くように、向こうはテイオーが付いている。つまりは王者(キング)帝王(テイオー)だ。今の所は向こうの方が人気、実力共に上かもしれない。だけど、だからって何も言わずにはいられないわね。

 

「ん? あれ、キミってたしか……」

 

 わたしが近付いていくと足音で気付いてトウカイテイオーが振り返る。あどけない顔の、まだ子供と言ってもいいぐらいの雰囲気だ。

 

「キングヘイロー、よ。はじめましてトウカイテイオー」

「あ~、そっかそっか。キングヘイローだ。キングって名前に入ってるから知ってはいたんだよね~」

 

 屈託なく笑うと余計子供らしさが増す。これで重賞を勝ってるのよね。

 

「それでボクに何か用? もしかして一緒に遊びたいとか?」

「いえ、違うわ。同じ目標を持つ貴方へ一言言っておこうと思って」

「同じ目標?」

 

 小さく息を吸う。目の前にいる無敗の三冠を目指すウマ娘へキングとしての決意を示すために。

 

「貴方が無敗の帝王となるならわたしはその無敗に土をつけさせる不屈の王者、キングになるわ。わたしが貴方に敗北を教えるまで精々負けないように走りなさい」

「……えっと、ようするにこれって宣戦布告ってやつ?」

「違うわ。これは予言よ」

「予言?」

「貴方が無敗で走り続ければ、その無敗をわたしが必ず止めるって事」

「ボクが無敗で走り続ければ、か……ナルホドね」

 

 ニヤッと笑いトウカイテイオーはわたしを見つめた。その眼差しには先程までとは違った光が宿ってる。

 

「ボクに負けるなって言いながら、勝つのは自分って中々言ってくれるね。まだGⅠに出た事もないくせに」

「それが何よ? いい? 何事にも始めて遅すぎるって事はないのよ。多少才能に恵まれたからって調子に乗るんじゃないわ」

「へへーんだ。実際ボクより速いウマ娘なんてカイチョーぐらいだもん。キミだって絶対ボクより遅いに決まってるよ」

「言うじゃない。ならここで一度走ってみる?」

「いいよ。どーせボクの圧勝だけどね」

 

 何てナマイキっ! そうは思うけど実際目の前の相手は鮮烈デビューから今まで無敗という事は無視出来ない。悔しいがわたしはGⅠを勝った事はおろか出た事さえない。

 

 それでも、この()に負けてるなんて思わないっ!

 

 そこでお互いに一旦宿舎へ戻り、トレーニング用の格好へ着替えて玄関前で合流する事になった。

 先に着替えたわたしはゆっくりと戦闘態勢となったトウカイテイオーを出迎え、その場でレース方法を話し合った。

 

「コースは?」

「ここからあっちにある遊歩道を目指して、その途中にある休憩所がゴール。それでどう?」

「いいよ。終わりまでだと減速できないもんね。あっ、その方が負けた時にイイワケに出来るかぁ」

「言ってなさい」

 

 本当にムカつくわね。いくらわたしよりもレース経験があるからって……。

 

「で、合図はどうするの?」

「そうね……」

 

 手頃な石でも見つけてスタートの合図にしようと、そう思った時だった。

 

「ならば私が出そう」

 

 突然聞こえた声に振り向けば、そこには一人のウマ娘が立っていた。

 皇帝の名を持つウマ娘、シンボリルドルフ。ま、まさかこの場で王者、帝王、皇帝が揃い踏みとはね。

 

「カイチョーだぁ! おはよーっ!」

「おはようテイオー。だがまだ時間が早いから声を落とせ」

「はーい……」

 

 まるで親に注意された子供だ。こうしていれば可愛いのに。

 

「それにそっちは……キングヘイロー、だったか」

「は、はい。おはようございます」

「それで、何やらレースをしようとしていたようだが?」

「そうなんだ。この子がボクを負かすって言ってきてさ」

「ほう」

「だから試しに勝負しようって事になったんだ」

「まぁ簡単なものですけどね。ここから走って遊歩道途中の休憩所がゴールって感じの」

 

 距離にして大体……1200mぐらいだと思う。本音を言えばもう少し長い距離、中距離で走りたいけど、明確なゴールが設定出来て安全に減速出来る事が重要だしね。

 

「簡単なもので勝負をする……か」

 

 そこで皇帝の視線がわたしへ向いた。うっ、な、何て目力よ。で、でも怯むものですか。わたしは王者、キングなんだからっ!

 

 そう思って目を逸らさず向き合っていると、一瞬皇帝が笑みを浮かべた。い、一体何?

 

「……つまり、簡単な仕様のレースで勝負しようとしてるんだな?」

「うん」

 

 トウカイテイオーがそう返した瞬間、何故か不可解な間が生まれた。な、何? 何で皇帝は何も言わないで少し首を傾げてるの?

 

「……簡単な仕様のレースで勝負しようとしてるんだな?」

「だからそう言ってるじゃん」

 

 まただ。また首を傾げてる。チラリと見ればトウカイテイオーも困惑したような顔だ。そのまましっかり十秒ぐらいは黙ったと思う。すると……

 

「面白くないのか……」

 

 皇帝がポツリとそう言った。面白い? 何が? そう思った瞬間、先程の皇帝が二度繰り返した言葉が甦った。

 

「……もしかして仕様としようをかけたんですか?」

「そうだ……。どうやら面白いと思ったのは私だけらしい……」

 

 ガックリと肩を落とす皇帝。何というか以前遊歩道で会った時の威圧感や雰囲気が消え失せてる。

 

「とにかくカイチョー、合図出して出して」

「……分かった」

 

 寂しそうな空気を漂わせつつも皇帝は右手を挙げた。その瞬間、わたしとトウカイテイオーは走り出すために構える。張り詰める空気。緊張の一瞬。この感じ、堪らないわ。

 

「スタートっ!」

「「っ!」」

 

 短距離ならわたしはバクシンオー先輩になれるとトレーナーに言われた! だからこの勝負負けられないっ!

 

 トウカイテイオーはやや前方、ね。二人だけだからはっきりとは分からないけど彼女の走り方は先行のはず。なら、仕掛けるなら遊歩道に入った後だ。

 

 それにしても走り出して分かった。やっぱりトウカイテイオーは凄い。適性距離じゃないだろうに、それでも臆する事なく勝負に乗った度胸と自信は大したものだわ。

 

 気付けば陽射しが遮られるようになってきて、風が幾分涼しさを増した。視界の中には変わらずトウカイテイオーがいて、その先には明るい遊歩道が見えてきた。と、その時だ。トウカイテイオーがグッと足へ力を入れるのが見えた。

 

「っ!」

 

 そして加速していく。成程ね。あの子は短距離だけど感覚的にここが中距離での勝負所と同じと捉えたんだ。なら……っ!

 

 わたしもここから全力だっ! 持てる力の全てを出し切るように走る走る走る走るっ! あっという間にトウカイテイオーを捉え……っ!?

 

「負けるかぁぁぁぁっ!」

 

 届きそうになったところから更に加速したっ!? 何て子よっ!

 

「でもっ!」

 

 わたしの差し脚は王者の脚よっ! 帝王だろうが皇帝だろうが平伏す存在にわたしはなる! なってみせるっ!

 

 引き離されそうになったのもほんの一瞬。すぐにわたしはトウカイテイオーへ追い付き、前に出てそのまま休憩所を横切った。

 

 そしてゆっくり減速していき、息を整えながら安全に止まれるようになって、わたしは満を持して後ろを振り返った。そこには……

 

「う~……」

 

 悔しげな顔でこちらを見つめるトウカイテイオーの姿があった。

 

「お~っほっほっほっ! 見た? これがキングの、王者の走りよっ!」

 

 か・い・か・んっ! 非公式とは言えあのトウカイテイオーを打ち負かしたわ!

 

「い、今のは短距離だったから負けたんだもんっ! これが中距離なら勝ってたのはボクだっ!」

「どうでしょうね? わたしはキング。例えマイルだろうが中距離だろうが勝利してみせるわ」

「言ったなっ! なら中距離で勝負だ!」

「おほほっ! 挑戦は受けてあげるわ。なら今すぐにでも」

「それは止めておけ」

「「っ!?」」

 

 聞こえた声にわたしとトウカイテイオーの顔が弾かれるように動く。そこには皇帝がいた。い、いつの間に?

 

「か、カイチョー、もしかして見てた?」

「ああ。多少後ろからだがな」

 

 どうやらわたし達が走り出してから少し遅れて走って追いかけていたらしい。き、気付かなかった。

 

「結果は予想通りだったが、テイオー、敗北を距離のせいにするのは良くない。それではお前はいつまでも負けた理由を自分以外に求めてしまうぞ」

「だ、だってぇ……」

「たしかに中距離ならばお前が勝っていた可能性は高い。だが真の強者とは勝者の事を認め、己の敗因を正確に見つめる事が出来る。私はお前にはそうであって欲しい」

「カイチョー……」

 

 何だかこの二人を見てると親子みたいね。皇帝と帝王、か。こうして考えると帝って部分で繋がってるんだ、この二人。

 

「さて、キングヘイロー。先程は見事な走りだった」

「ど、どうも」

「君はたしかサクラバクシンオーのトレーナーが担当だったな」

「ええ、そうだけどそれが何か?」

「ええっ!?」

 

 何故かわたしの答えを聞いてトウカイテイオーが驚きの声を上げた。一体何だっていうのよ?

 

「テイオー、これで分かったか? 彼はたしかな腕を持つトレーナーだ」

「うん、みたい」

 

 よく分からないけどトレーナーの事で何かあったんだろうか? ま、どうせあの女性トレーナーと同じで腕を信用してなかったってとこでしょ。バクシンオー先輩以前の事を知った今なら無理もないと思うので何か言う事はしないけど、だからってあまり気分のいいものじゃない。

 

「キングヘイロー、次は本当のレースで勝負だ。その時は絶対ボクが勝つ! じゃあねっ!」

 

 わたしが黙っているとトウカイテイオーがビシッと聞こえそうな勢いでこちらを指さしてそう宣言したと思ったら、そのままその場から走り去っていった。

 

「……何なのよ。せめて一言ぐらい言わせなさい」

「すまないな。あの子はまだ精神面が幼いんだ」

「はい?」

「では私も行くとしよう。ではな」

「あ、はい。お疲れ様です」

 

 こうしてその場にはわたしだけが残された。一体何なのよ……。

 

 

 

「グスッ……負け、ちゃった……」

 

 カイチョーのように無敗で三冠ウマ娘になるって決めてたのに、まさかこんなところで負けるなんて思わなかった。

 

 カイチョーの言うように負けたのはボクのせいだ。たしかに距離がボクの得意な距離じゃなかったけど、それを承知で受けたのはボクだ。

 これは公式なレースじゃない。なら別にイヤだって言えばよかった。なのにそれをせず、ラクショーだと思って受けた事が敗因だ。

 

「やはり、か……」

「……カイチョー」

 

 後ろから聞こえた声に振り向けばそこにはカイチョーがいた。どうしてここが?

 ボクは負けた悔しさで涙が出そうになったから急いであの場を離れて、宿舎じゃ誰かに見られると思って海岸の隅っこまできたのに……。

 

「足跡だ。余程強く走ったんだな。おかげでお前が走った跡は分かり易かった」

「そっか……」

 

 言われてみれば砂浜だけじゃなくあそこからここまでにもボクの足跡が残ってたはずだ。

 

 そこからカイチョーは黙った。ボクも黙った。どれくらいそうしてたか分からない。ボクは何も話したくない気分だったし、そもそも何を言えばいいのか分からなかった。

 

「非公式とはいえ負けたのがそんなに悔しいのか?」

「……うん」

 

 思わず下を向く。だってボクは負けたんだ。

 

「公式にはお前はまだ無敗のウマ娘なのに?」

「…………うん」

 

 気分が重くなって余計頭が下を向いた。そんな事は関係ないよ。だってボクの中では負けは負けだから。

 

「ならするべきは何だ?」

 

 その問いかけにボクは頭を上げた。カイチョーはちょっと怖い顔でボクの事を見つめていた。

 

「悔しさで涙するのは分かるが、それで速くなれる訳ではない。負けた悔しさはそれが強い内に力へと変えて動き出す事だ。同じ結果を繰り返さぬためにな」

「同じ……」

 

 もしまたレースをしてキングヘイローに負ける事があれば、それはもうボクが本当にあいつに負けた事になる。

 

「そうだ。一度目は様々な理由があるかもしれないが、二度目はそれではなくなる」

「二度目は……理由がなくなる……」

 

 今回は距離がボク向きじゃなかった。けど、中距離でも負けたらイイワケは出来ない。

 

「同じ相手に二度負けてしまえば、それは明確な実力差だ。だが一度だけならそうとはならない。何故なら競バに絶対はないからだ」

「競バに、ゼッタイはない……」

「そう。私とて負けた事がない訳ではないからな。ただ、同じ相手に二度負けた事もないが」

 

 そこでカイチョーの顔が優しい顔になった。ボクの二番目に好きな顔だ。

 

「テイオー、お前が私を目指すのなら二度同じ相手に負けるな。そして公式には無敗のままで走り抜け。私さえも出来なかった無敗という偉業を、快挙を成し遂げてみせろ」

「カイチョぉ……」

 

 また涙があふれ始める。だけどそれはさっきとは違う意味の涙だ。

 

「私を、シンボリルドルフを超えたのはトウカイテイオーだと、そう誰もが納得出来るように」

「グスッ……カイチョ~っ!」

 

 涙を流しながらカイチョーへ抱き着いた。そんなボクをカイチョーは優しく受け止めてくれた。

 ゼッタイ、ゼッタイにもう負けるもんか。ボクが負けるのは今回が最初で最後。

 

 そして公式には負けないままでボクはカイチョーを、シンボリルドルフを超える! 超えてみせるっ!

 

 待ってろキングヘイロー。次に戦う時はボクが圧勝してみせるんだからねっ!

 

 

 

 合宿最後の日はあっという間に過ぎちゃった。キングさんやスカイさんとビーチバレーしたり、遠泳したりと結局トレーニングみたいな事をしてたけど、それはそれで私達らしいって笑い合った。

 そして夕食を食べて普段なら割り当ての部屋でのんびり過ごすんだけど、今日はここからがある意味本番だ。

 

「よーし、これで合宿も最後だ。明日は学園へ戻ってまた以前の生活が始まる。だから最後の夜ぐらい多少遊んでも大目に見てやると先輩からもお許しをもらった」

 

 その言葉にスズカさん達が小さく驚いてた。私はどちらかと言うとトレーナーさんが許可を取ってくれた事の方が驚きかも。

 

「で、これは俺からの差し入れだ」

「差し入れって……」

「花火……?」

「ああ。夏と言ったらこれだろ」

 

 セイさんとキングさんがトレーナーさんの差し出した物を見て何だか微妙な顔をする。

 

「何だ? 花火は嫌いか?」

「そうじゃなくてさぁ」

「これ、ちょっと内容しょっぱくない?」

 

 言われて袋の中身を見る。うん、たしかに種類は少ないし本数も少ない。

 

「仕方ないだろ。ここから一番近いコンビニにはもうこれしかなかったんだよ」

 

 申し訳なさそうなトレーナーさんだけど、ここから一番近いコンビニってたしか車でも結構かかった気がする。

 それをセイさんとキングさんも思い出したのか申し訳なさそうに見つめ合ってる。と、そこで……

 

「と、とりあえず早く動こうか? 消灯時間は変わらないしお風呂の時間もあるから」

「そうですね」

「タイムイズマネーって言いますし、何事も早め早めに動く事が重要デース」

 

 スズカさんの一言でグラスちゃんやエルちゃんが笑顔を見せる。良かったぁ。一時はどうなるかと思ったよ。

 

「バケツと点火器具はここだ。俺はあっちで座ってるから何かあったら呼べ。火の始末は本当に気を付けろよ?」

 

 そう言ってトレーナーさんは私達から離れていった。多分だけど私達の邪魔をしたくないって事だと思う。

 

「じゃ、始めようか」

「人数分ない物もあるわね」

「なら早い者勝ちデース!」

「ちょ、ちょっとエル……」

「スペちゃん、どれにする?」

「そうですね……」

 

 袋を開けてみんなでワイワイ言いながら花火を手に取る。セイさんはロケット花火がない事に不満を漏らして、キングさんは派手な花火がないって文句を言って、エルちゃんは両手に持った何本もの花火に火を点けて、グラスちゃんはそんなエルちゃんを注意しつつ半分花火を奪い、スズカさんは静かに線香花火を楽しんで、私はそんなみんなを見て笑った。

 

 元々多くなかった花火はすぐになくなり、終わった時には何とも言えない寂しさみたいなものを感じた。

 そんな気持ちのままお風呂へ入るために宿舎へ戻って、汗を流して割り当ての部屋へ入る。

 お布団を敷いて、後はもう寝るだけってなった時、まだこの時間を終わりたくないと思った私は何とかしようと思って話を振った。

 

 話題は最初こそ他愛もない事だったけど、気付けばレースや学園へ戻った後の事なんかを話題にしてた。

 

 エルちゃんもグラスちゃんも自分達が合宿中に成長してるのを感じ取ったみたいで、早くレースをしたいって言い出したぐらいだ。それは私も同じだったので、ならいっそ学園に戻ったらこの五人で走ってみようかなんて話も飛び出した。

 

「でも、私達の方のトレーナーは……」

「許してはくれないデース……」

 

 グラスちゃんとエルちゃんが揃って項垂れる。たしかに本番のレースでもない限り無理そう。

 

「じゃあ、この五人で同じレースに出るしかないねっ!」

「気持ちは分かるけど声が大きい」

 

 思った事を口に出したらキングさんから注意されちゃった。でもやっぱり考える事は同じなんだ。見ればみんな苦笑してる。ホント、似た者同士なんだね私達。

 そこからはどのレースなら五人が対等に戦えるかを話し合った。やはり距離は中距離で、可能なら2000m辺りがいいよねって、そこまで決めたところでグラスちゃんが手を挙げた。

 

「どうしたの?」

「えっとね、この場合、出走レースって決めるのトレーナーだよ?」

「「「「……あっ」」」」

 

 そうだった。出走するレースを決めるのはあくまでトレーナーさん。たしかに私達の希望をある程度は聞いてくれるだろうし叶えてもくれるけど、夏合宿明けてすぐは無理だと思う。

 

 それに、私達の方は何とか出来ても二人の方はどうなんだろう?

 

 そう思って話し合った結果、それぞれのトレーナーさんへ相談し、いつか必ず同じレースへ出させてもらおうって事に決まった。絶対実現出来るとは言えないけど、出来たらいいねってぐらいの小さな願いだ。

 

「もし同じレースに出たら、一着はイタダキデース」

「そうはいかないんじゃない? 今の私はスズカさん並の逃げを出来るかもよ?」

「わ、私だって簡単には負けません」

「じゃあ私はそんなスペちゃんを徹底的にマークしようかな?」

「好きにすればいいわ。結局最後はこのキングがまとめて差し切ってあげるんだから」

 

 エルちゃんとセイさんは軽く笑いながら、グラスちゃんは冗談めかして、キングさんは本気で、それぞれの本音を言い合った、と思う。だけどこれだけは一致した意見があった。それは……

 

「どんなレースで走るとしても……」

「相手にどんなウマ娘がいようとっ!」

「この五人が揃った時は一着だけじゃなくて」

「掲示板もこの五人で埋めてみせよっか」

「モチロンデース。約束デスよ?」

 

 そこでエルちゃんが手を出した。そこへセイさんが手を重ねる。それを合図にキングさん、グラスちゃんも手を重ねていったから私も同じように手を重ねた。

 その瞬間、何となくだけどみんなが何を考えてるか分かった気がした。だからか五人で顔を見合わせて軽く驚きの表情になっちゃった。

 

 だけどすぐにみんなで笑顔になって小さく頷き合う。

 

「「「「「いつか一緒に走ろうっ!」」」」」

 

 それは私達同期五人の誓いであり約束だった。トレーナーさんが言った目標とは別の、大事な夢。

 私から見てもエルちゃんやグラスちゃんは強いウマ娘だ。当然キングさんやセイさんは言うまでもない。

 誰が一着になってもおかしくないし、逆を言えば自分が一着になってもおかしくない。それだけの力をつけたと、そうみんな思ってるはずだ。

 

 翌朝、私達は荷物をまとめて帰りのバスへと乗り込んだ。ここに来る前と来た後じゃ全然違うと実感しながら私は窓の外の景色を見つめた。

 

「……お母ちゃん、見ててね。私、絶対に日本一のウマ娘になってみせるから」

 

 そのためにもまずは最初の目標を超えるんだ。きさらぎ賞で入着するっていうそれを……。




果たして同期五人の約束は無事に果たされるんでしょうか?


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異次元の逃亡者

これが限界。やっぱ競バ実況の雰囲気を文字で出すのは厳しい(汗
なのでもしかするとこれで最初で最後かもしれません。


「何だかあの頃を思い出しますよ」

 

 大勢の人で賑わうレース場。そこに男性トレーナーは来ていた。しかも自分が担当してないウマ娘のレースのためにここへ来るのは久しぶりと言う事もあり、どこか落ち着きがないようにも見える。

 

「そうだな。私もあの頃を思い出す」

 

 そんな彼を横目で見て、隣に立つ女性トレーナーは微かに笑みを浮かべた。新人時代を彷彿とさせたからだろう。

 それだけではない。今日はサイレンススズカが本格的に逃げウマ娘としてデビューする日となるのだ。

 彼女も自身のチームに所属するウマ娘を全員連れての観戦だ。勿論男性トレーナーのチームのウマ娘達も既に最前列でレース開始を今か今かと待っている。

 

「逃げ、を打つんですよね?」

「ああ、きっとな」

 

 たったそれだけのやり取りだが、これが持つ意味は大きい。

 元々サイレンススズカを女性トレーナーが見初めた理由はその速さだ。彼女曰く“最速の機能美”とまで感じられた走り。だがそれ故に危うさも感じさせ、過去の悲劇を思い出した女性トレーナーによって、サイレンススズカは長く停滞の時を過ごしてきた。

 それが遂に公の場で打ち破られる。本当のサイレンススズカの姿を、走りを、今日大勢の人達が目撃する事で。

 

「……そろそろか」

 

 サイレンススズカが出場するレースはGⅡ。とはいえ出走メンバーの中にはメジロパーマーやマチカネフクキタルなどの有力ウマ娘もいる。特にメジロパーマーは逃げウマ娘として有名だった。簡単には先頭を譲らない相手と言える。

 

「どんなレースになるんだか……」

 

 男性トレーナーはそう呟いて視線をゲートの方へ向けた。さすがに男性トレーナー達のいる場所からでは見えないが、そこにたしかにサイレンススズカはいる。

 だからか、彼は大画面のモニターへ目をやった。そこにはゲート入りしていくウマ娘達が映し出されていたのだ。その中にサイレンススズカの姿を見つけるや意識を向ける。

 

 画面の中のサイレンススズカは落ち着き払っていて、気負いなどもまったくない様子に彼には見えた。

 

『晴天に恵まれました阪神レース場。芝、2400m、16人立てです』

 

 そこへ場内にアナウンスが響く。いよいよ始まろうとしている今日のメインレースを盛り上げ始めたのだ。

 

「先輩はどう見ます?」

「そうだな……」

 

 頭上から聞こえてくるアナウンスをBGMにしながら男性トレーナーが声をかけると、女性トレーナーは真っ直ぐ前を向いたまま……

 

「スズカが本気で走るのなら、もしかすると一度も先頭を譲らないかもしれないな」

 

 冗談めかしてではなく本気でそう言ったのだ。思わず男性トレーナーが言葉を飲み込む程の雰囲気で。

 

「ゆ、譲らないって、メジロパーマーがいるのにですか?」

『今スタートしましたっ!』

 

 いくら何でもそれは難しい。そう思った彼の声を合図にするかのようにレースが始まった。

 そしてややあってからどよめきが生まれる。理由は何だと思った男性トレーナーが視線を戻せば大画面に映し出されていたのは……

 

「サイレンススズカ……」

 

 女性トレーナーの予想通りに先頭となったサイレンススズカの姿だった。

 

『まず抜け出したのはサイレンススズカ。これまでとは違う逃げの走りでハナを主張、先頭に躍り出ました』

 

 実況の言葉で先程のどよめきの理由も男性トレーナーには分かった。今までサイレンススズカを見てきた者達は彼女を逃げウマ娘などと思っていなかった。それもあってのどよめきかと男性トレーナーは思ったのだ。

 

『そのサイレンススズカを追う形となったのはメジロパーマー。本来であれば誰よりも先頭で走るはずの彼女が誰かを追う形となっています』

『これは珍しい形ですね。ペースを乱されないといいのですが……』

 

 誰もが似たような事を思っていた。逃げウマ娘としてメジロパーマーは知名度が高いからだ。

 だからこそ、こんな展開は慣れてない。掛かってしまうと最後までスタミナが持たないがどうなんだと、そんな疑問を抱きながら男性トレーナーは画面を見つめ続ける。

 

『各ウマ娘第一コーナーを回って、先頭はサイレンススズカ。そのやや後方にメジロパーマーと、この二人がレースを引っ張る形となっています。先頭からおしまいまでの隊列は13から14バ身と言ったところです』

『かなりのハイペースですので、それに惑わされずしっかりと自分の走りを出来るかどうかが重要になってきます』

 

 予想だにしない展開に周囲のざわつきが収まらない。それが不安か期待かは分からないが、どちらにしろ普通のレース結果にはならないだろうと男性トレーナーは思った。

 

『二コーナーから向こう上面、先頭は変わらずサイレンススズカ。差が少しあって2番メジロパーマー。そこから大きく離れて4番ビロンギングス、外から11番ディスパッチャー。その2バ身後方内に5番ミョンミョン、その外にハルモニアグレイス、モルフリッスと続き、一番人気の7番、マチカネフクキタルはその内にいます。更にサックスリズム、パンパシフィック、リボンララバイと連なる様に集団を形成。1番ナイスネイチャがそれに続いています』

 

 一番人気のマチカネフクキタルは差しの構えでトップを狙える位置にいた。ただバ群の中に沈んでるようにも見える位置取りであり、モニターでもその姿が他のウマ娘の中にいる事が分かる状態だった。

 

『その外には8番バイタルダイナモ、ショーマンズアクト。最後方は外にトコトコ、内にラブリーシルエットとなっています』

『先頭の逃げがどこまで続くのか。あるいは他のウマ娘達はどこで勝負をかけるか注目です』

 

 さて、この差をゴールまでにどれだけ詰められるかが勝負の分かれ目だろうなと、そんな風に誰もが思っていた時だった。

 

「……やはりな」

「え? っ!? なっ!?」

 

 噛み締めるように女性トレーナーが呟いた瞬間、男性トレーナーは思わず隣へ目をやり、そして直後に聞こえた驚きの声にすぐさま視線を戻す事になった。

 

『おおっと、これはどうした事だ。メジロパーマーが追いつくどころか差を縮められません。未だにサイレンススズカとの差は2バ身程あるぞ。既にレースは中盤を過ぎようとしているが逃げウマ娘同士が競り合わないままだ』

「嘘……だろ……」

 

 そう思ったのは彼だけではない。信じられないと言うような意味の言葉が異音同義語であちこちから飛び出していた。

 

 その喧噪の中、男性トレーナーは画面を見つめて息を呑んでいた。

 

(いくら逃げが得意だからってこんなペースで最後までもつのか? サクラバクシンオーのように短距離ならともかく中距離でこれは普通に考えれば自滅ペースだ……)

 

 けれど現実はその予想を嘲笑う。何とサイレンススズカはそのペースを維持したのだ。

 だがさすがに第三コーナーへ入る辺りで後続集団も動き出す。それも、飛び出したのはまさかのウマ娘だった。

 

『ここでマチカネフクキタルが上がってきた! バ群が開けたかのようにスルスルと前へ出て行く! 先頭をひた走るサイレンススズカへ待ったをかけられるのか! ナイスネイチャも上がっていくぞ! メジロパーマーもサイレンススズカの背中を捉えようと懸命に走る!』

 

 もうレースも終盤が近く、仕掛け時としてはおかしくない。

 なのに、それが今回は存在しなかったのだと誰もが後で痛感する事となる。

 

『だが届かない! サイレンススズカ、届かせないと言い放つような走りです! おっとここで心折れたかメジロパーマーが下がっていく! さぁ、サイレンススズカ先頭のまま第四コーナーを回ったところで後方から追い駆けてくるのはマチカネフクキタル! そんな逃げさせてなるかとばかりの猛追走! 先に直線へ出たサイレンススズカへ襲いかかる!』

 

 まるでマチカネフクキタルだけ神懸ったかのようなレース展開だった。途中まではバ群に沈んでいたはずが、気付けば前が開けてトップへ喰らい付こうとしてるのだから。

 しかもスタミナが回復でもするのかと言いたくなるような凄い差し脚まで発揮している。これなら届くかと、そうほとんどの者達が思った。

 追い駆けてるマチカネフクキタルもそうだった。これで届く。あとは抜き去って一着でゴール前を駆け抜けるだけだと。

 

 ただ、それは相手が同じ次元の走りならば、だ。解き放たれた逃亡者は一人、異なる次元へと駆け上がっていく。

 

 その速さは、自由への始まりでもあり、ある意味では孤独の始まりでもあった。

 

『ここでサイレンススズカが加速! 二の脚を残していた逃げ足に末脚が届かない! まさかまさかの展開です! 一度たりとも減速する事なく、むしろ加速さえして先頭を行くのはサイレンススズカ! もう福は来ないと見る者全てに告げるようにトップで直線を駆け抜ける! 速い速い! 相手が手を伸ばす前に突き放す走りでサイレンススズカ、そのまま余裕を持って二着に5バ身以上の差を残し、今一着でゴールイン! 二着はマチカネフクキタル、三着には1番、ナイスネイチャ。同じ逃げウマ娘さえも寄せ付けない走りで、終わってみればレコードタイムの逃亡劇でした』

 

 終わってみれば二着以下に大きく差をつけての勝利。まさしく逃走劇だった。一度たりともペースを崩す事なく、最初から最後まで先頭で走り切った。

 そして、この距離での逃げウマ娘は男性トレーナーに否応なくある事を思い出させる。彼に初めてGⅠのトロフィーを見せてくれたウマ娘の事だ。

 それが見せていた速さよりも上のものをサイレンススズカは持っていると、そう思わせられるには十分な内容だった事もある。それ程までに、今見た走りは衝撃的だったのだ。

 

「……あいつよりも速いですね」

「ああ。だからこそ、私は今、不安と期待の両方を抱いているんだろうな」

 

 逃げウマ娘の完成形、そんな気が男性トレーナーにはした。あるいは理想形かもしれないとも思った。とにかく次元が違うと。

 特に最後に見せたあの加速が異常だった。逃げウマ娘なのに末脚まであるのかと、常識外れにも程があると印象付けられたのだ。

 

 だからか、彼も無意識の内にこう呟いていた。

 

「……いつか、あれにセイは勝たなきゃいけないのか」

 

 セイウンスカイは逃げウマ娘だ。しかも適性距離はサイレンススズカと一部かぶっている。そうなれば今後ぶつかる可能性は高いとまで考え、男性トレーナーは思った。

 

(そうなった時、セイはどうなるんだろうか? 今回のメジロパーマーと同じで逃げとしては通用しないと突き放されるんじゃないか?)

 

 もしそうなれば厄介だ。トラウマじゃないが、サイレンススズカには勝てないと思わされてもおかしくない。そこまで考え、男性トレーナーは己が考えを払うようにかぶりを振った。

 

「どうした?」

「いや何でもないです」

「そうか。さて、私はチームの者達と合流してスズカを労ってくる。ではな」

「あ、はい。お疲れ様です」

 

 心なしか嬉しそうな女性トレーナーを見送り、男性トレーナーは視線を空へ向ける。突き抜けるような青空なのに、何故か彼の心はどんよりと曇っていた。

 

 セイウンスカイを逃げウマ娘として育ててみせると意気込んだ自分へ、神は何て厳しい試練を与えるんだと嘆くように……。




逃げウマ娘として勝とうと思うとサイレンススズカは強敵です。
差しや追い込み、先行で勝つなら分からないでもないですが、逃げで彼女に勝つというのはちょっと妄想が出来ません。

ちなみにパーマーはこの後マチカネフクキタルの占いへ行って覚醒します(&ズッ友を得る)のでご心配なく。


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成長と課題

セイのライバルはスズカ。ただやり合えるのはそんなに多くはありません。


 今年の終わりが迫ったある日の事。俺はチーム用に割り当てられた小屋でレースカレンダーを眺めて今後の事を考えていた。

 

「スペもキングもセイも目標はクリアした、か」

 

 あの三人はそれぞれ出走したレースで与えられていた目標をクリアしてみせた。

 スペは一着、セイも一着、キングだけは辛うじて三着となったものの、それは個人的な目標だったので余裕でクリアしたと言える。

 本人達も本番のレースで自分達の成長を感じ取り、更なる自信を得たのはいいんだが……

 

「浮き出てきた課題も、あるんだよなぁ」

 

 ただこれは課題と言えるのかどうか。というのも三人それぞれがレースで見せた驚異的な伸びだ。

 スペは第四コーナーを回った辺りで中団から先頭へ迫った時で、キングは残り200を切ろうとした瞬間。セイはトップで最後の直線まで来たらと、見事なまでにバラバラな条件だが揃ってそこから一気に加速してみせた。

 

 その伸びは凄まじく、全員の順位が良かった理由もそれが大きい。

 しかし三人それぞれに何故そうなったかは分からないと口を揃えた。模擬レースでもそんな事はなかったし、夢中で走っていたら不思議と体が加速する感覚に陥ったらしい。

 

「……あれがどうして起きたのか分かれば今後のレースに活かせるんだが」

 

 と、そこで思い出す事があった。それはあの逃げウマ娘として走ったレースで圧倒的な力を見せたサイレンススズカの事だ。

 あのレースで見せた最後の加速について先輩が聞いたところ、本人は気付けば勝手に体が加速していたと答えたらしい。そう、あの三人と同様の答えを言っていたのだ。

 

 先輩はそれを“ゾーン”と呼んでいた。ウマ娘達には時々そういう風に無自覚で様々な事が起きるんだそうだ。

 例えばそれまでなかったはずのバ群から抜け出る道が見えたり、普段よりも長いスパートが切れたりと、普段ならば出来ない事が可能となるらしい。

 サイレンススズカのあの加速と同じように、あの三人のそれも“ゾーン”なのではないかと俺は思う。

 

 これを何とかして意識的に出来ないか。それが俺が俺に与えた課題だ。

 俺に与えた理由はただ一つ。本人達がそれを自覚していないからだ。そんな相手へこれこれこういう事らしいから意図して出来るようになってくれ、なんて言えば待ってるのはおそらく混乱と焦り。

 なら、本人達にはこれまで通り目の前のレースへ全力で挑んでもらい、俺がそれを見つめて“ゾーン”の発生理由を考えた方がいい。

 

「ま、本当にあれが“ゾーン”なのか分からないけどな」

 

 一人呟く。何せ俺がみてきたウマ娘達にはそれらしい事はなかった、と記憶している。

 

 ……まぁ一人は最初から最後まで爆進したから参考にならんというのもあるが。

 

「きっと何かあるはずなんだ。ただ模擬レースではあんなの見た事ないんだよなぁ」

 

 だからあの三人それぞれの加速は初めて見た時は驚いた。そんな事が出来る事を隠していたのかと思ったぐらいだ。

 つまり、模擬レースで検証しようにもそれは不可能。本番のレースでしかあの“ゾーン”が存在するか否かは確かめようがないという訳だった。

 

「ん? あ~、空いてるぞ~」

 

 誰かがドアをノックしたので時計を見ればそろそろあいつらが来る頃だった。

 なので軽い感じで声を出してぼんやりと入口を見つめていると、ドアが開いて現れたのは……

 

「邪魔するぞ」

「せ、先輩?」

 

 何と先輩だった。まさかここへ来るとは思ってもいなかった相手の登場に俺は目を疑った。

 先輩は小屋の中をざっと見渡すと小さくため息を吐いてこちらへ顔を向けた。

 

「随分と好きにさせているんだな」

 

 それが小屋の中に置いてある色々な私物を指している事は俺にも分かった。

 まぁ俺がここはお前らの場所でもあるから好きにしろと言ったのもあるが、こういう事一つとっても俺の考えや方針が分かるんだろうな。

 

「そ、それで一体何の用ですか? わざわざ先輩が来てくれるとか」

「何、以前エルやグラスから頼まれた事でな」

「ああ、あいつら同期五人で同じレースに、ってやつですか」

 

 夏合宿から学園へ帰ってきた当日、あいつらから頼まれたのだ。いつになってもいいから同期五人で同じレースへ出して欲しいと。

 で、その翌日に先輩へ相談したら同じような事を先輩も頼まれたらしく、二人して苦笑したのだ。

 

「そうだ。ウマ娘はいつどうなるか分からない。だから出来るだけ早くがいいとは思うんだが……」

 

 そこで先輩が表情を曇らせる。その理由は言わないでも分かった。

 

「難しい、ですよね。あいつらも先輩のとこの二人も、これからが大事な時ですし」

「ああ。これがメイクデビュー直後ならまだ調整も楽だったんだが……」

 

 あいつらだけじゃなくエルコンドルパサーもグラスワンダーも合宿後のレースで大活躍を見せた。それはつまり、ここから重賞戦線へ乗り出していく切っ掛けを得たという事だ。

 

「今後は出るレース出るレース、先の事を見据えて決めていかないといけない……」

「そういう事だ。そんな中で五人全員を同じレースにというのは少々、な」

「しかもあいつらは出来れば中距離で2000mが好ましいらしいですからね」

「それが一番ベターな条件だと思ったんだろう。長距離や短距離では向き不向きがあり過ぎるからな」

「でしょうね。じゃ、どうするんですか?」

「そこを相談しに来た。このままだと先延ばしになって卒業を迎えると思った」

 

 そう言うと先輩はレースカレンダーへ目を向けた。

 

「……あるいは勝手に実現するかもしれない、か」

 

 視線の先にあるのは年末最後のGⅠ。それはファン投票で選ばれたウマ娘が出場するレースだ。

 あの五人が強いウマ娘になり、大勢のファンに愛されるようになれば勝手に同期五人が出るレースが組まれる事となると、先輩はそう言いたいのだろう。

 

 ただし、それがどれだけ厳しい道かもよく知っているからこそ“かもしれない”を付けたんだ。

 

「もしそうなら、ライブのメインはうちの三人がいただきますけどね」

「ほう、言うじゃないか。スズカが出ていてもそう言えるのか?」

「言うだけならタダですしね」

 

 実際は無理だろうとどこかで思っていた。サイレンススズカが出ているのなら、あいつら三人で一着から三着までを独占するなど不可能だと。

 それぐらい、あの逃げ足は強烈だった。異次元の逃亡者と、そうメディアは取り上げたぐらいの衝撃だったのだ。

 

「ふっ、それもそうだな。さて与太話はこれくらいにして、だ。実際どうする? 私としても叶えてやりたい話ではある」

「俺もです。せめて来年度の夏まで辺りで考えてみますか?」

「……候補を五つ程出してくれ。私も同じぐらいで考えておく」

「了解です」

 

 そうして先輩は出て行き、俺はそのドアが閉まる音を聞いてから息を吐いた。

 

「これも課題かね?」

 

 あいつらの“ゾーン”関連と同期五人でのレース参加。どちらも大事な事だ。

 サクラバクシンオーの時は俺が考える事は少なかった。精々が出るレースをどうするか程度で、後はあいつの追試やら課題やらの手伝いだったか。

 

 それに比べれば今回はかなりトレーナーをしてるって感じだ。実際セイを見てると昔の事を思い出す。色々考えて、ウマ娘と確かめ合っていた頃を。

 

「とりあえず、まずはレースカレンダーを見て色々考えますか」

 

 あいつらの次のレースも考えないといけないしな!

 

 

 

「ねぇトレーナーってさ、あのスズカさんとこのトレーナーとは先輩後輩ってだけ?」

 

 そんな事をセイが聞いてきたのは、あいつの次のレースが弥生賞と決まった翌日のトレーニング終わりだった。

 その次はキングと一緒に皐月賞へ出す事も決まっているため、俺はスペの事をどうしようかと考えるべく小屋へ入ろうとしたところでそう声をかけられたのだ。

 

「それ以外に何か表現あるか?」

 

 先輩後輩という関係性以外に俺とあの人は表現がない。

 同じ高校や大学だった訳でもないし、趣味が同じという訳でもない。

 共通するのは職場と選んだ職業、そしてウマ娘への気持ち、ぐらいだろうか。

 

「……それを聞いてるんだけどなぁ」

 

 なのにも関わらず、何故かセイは微妙な顔を見せる。

 

「あのなぁ、お前が何を聞きたいのか俺にはさっぱり分からんぞ?」

「トレーナーってさ、デートした事ある?」

「質問に答えろ。それとあると思うか?」

「ううん」

 

 こいつ……っ! 一瞬怒りが湧き起こるが、そういう答えを返し易い問いかけをしたのは俺なので自分を抑える。

 

 と、待てよ? そういえばあれはデートと言えるかもしれないな。

 

「なぁ」

「ん?」

 

 そこで俺はサクラバクシンオーとの日々であったイベント事の一部をセイへ話して聞かせた。それが第三者からはどう見えるのかと、そういう思いで。

 

「ってな感じの事があったんだが、これってデートか?」

「う~ん……バクシン先輩からも話を聞かないと何とも。でも十分デートの範疇じゃない?」

 

 返ってきたのは何とも頼りない答え。でも俺の中の答えとも近しいので納得する事に。

 

「でも意外だなぁ。バクシン先輩ってそんな事してたんだね」

「お前はレースでのあいつしかほとんど知らないだろ?」

「そりゃ私が入った時には先輩はもう卒業してたし。けど、学業の方はあまり芳しくないってのは聞いてた」

「うわぁ、やっぱり有名なのか」

「だよ~。ただ、真面目で責任感があって、しかもレースで結果を出してたからこそ追試で済んだってのも言われてるけどね」

 

 成程。そうやってただレースの成績が良ければいいって訳じゃないと周知させてるのか。

 実際あいつは真面目な性格だった。委員長という事に誇りを持ってたし、後輩の面倒も見れる限りは見ていたらしい。

 

 ……それがいい結果になったかどうかは別として。

 

「そういえばお前さんはどうなんだ? 学業の方、あまり良くないって夏頃にキングから聞いたが」

「ご心配なく~。毎日やってる勉強会のおかげで私もスペちゃんも危なげなく赤点を回避出来てるから」

「自慢にならんぞ、それ」

 

 そう言いながら小屋へと近付く。で、何故かセイもついてきた。

 

「お前、汗流しに行かないのか?」

「えっと、一つ聞きたい事があるんだ」

「聞きたい事?」

 

 そこで俺は後ろへ振り返って、息を呑んだ。

 

「私、スズカさんに勝てる、かな?」

 

 今まで見た事もないような表情でこちらを見上げるセイがいたからだ。

 

「あの時見たレースがね、ずっと頭から離れないんだ。逃げってさ、私は最初に先頭を取ったら最後までそれを続ける事だって思ってた。実際それで間違ってないんだけど、スズカさんのは違ってた」

 

 セイが俯く。無理もないと思った。あの逃げは常識外れだ。どこに逃げウマ娘で最後に加速する奴がいると思う? それぐらいアレは非常識だった。

 

「勿論今の私じゃ絶対勝てないって分かってる。だけど、だけどさ、いつか勝てるようになるのかな? ねぇトレーナー、どう、かな?」

 

 自信を喪失しかかってると、そう確信した。あるいは希望よりも不安の方が圧倒的に大きくなっていると。

 サイレンススズカの異次元の逃げを見て、セイの中で逃げの概念が覆されたんだろう。ただ逃げるだけではサイレンススズカには勝てないと、そう思ったのも大きいはずだ。

 

「分からない」

「っ」

 

 俺の本音にセイが拳を握り締めるのが見えた。すまないな、期待に添えなくて。だが、下手な嘘や誤魔化しはお前相手に通用しないと思うんだよ。

 

「けど、これだけは言える。勝てるとも勝てないとも言えないってな」

「……可能性はあるって事?」

「ああ。正直言ってあのサイレンススズカの逃げは驚異的だ。現時点で逃げウマ娘では最強と言っていいだろう」

「最強……」

「そうだ。お前も言ったように、あいつの逃げは通常の逃げとは違う。最後の直線で加速してくる逃げなんて聞いた事もない」

 

 そこまでで若干ペースを落としたりすればまだ分かるが、あの時サイレンススズカは一度たりともペースを落とさなかった。

 それなのに最後に加速してみせたんだ。あれがどれ程信じられない事かは逃げウマ娘であるセイが一番良く分かってる。

 

「でも、絶対無敵なんて存在しないんだよ、セイ」

 

 だからこそ言い切る。誰もが夢見る存在、速さ。だけどそれは有り得ないし有り得ちゃいけないんだと思う。

 皇帝と呼ばれるシンボリルドルフさえも負けた事がある。ならサイレンススズカだってきっと誰かに負ける事はある。

 

 願わくば、それがセイになるように俺は指導していきたい。

 

「絶対無敵なんて存在しない……」

「無敗のまま競技生活を終えるウマ娘は勿論いる。だけど、それだって絶対無敵って訳じゃない」

「何で?」

「考えてみてくれよ。それは、そいつが走ってた時にそいつよりも速いウマ娘がいなかっただけだ。あるいは、そいつの出てたレースに、かもしれない」

 

 一部のウマ娘ファンからは怒られそうな考え方だが、今はセイのためにもこういう発想を持たせるしかない。サイレンススズカは速いけど、それにだって勝てない訳じゃないと。

 

 実力で勝てない相手に気持ちまで負けてたら、もう勝ち目なんてなくなってしまうんだ。

 

「セイ、怖い気持ちは分かる。俺も、それに近い気持ちを抱いてた頃があるんだ。何をするにも不安がつきまとい、安心感なんか感じられない時間が続いた」

「トレーナー……」

「そんな俺に自信や勇気を与えてくれたのはお前達だ。自分を信じてくれる誰かがいる。それで人は少しだけ強くなれる。だからセイ、俺はお前を信じてる。今はたしかにサイレンススズカに届かない。でもそれは絶対じゃない。未来は誰にも分からないんだ」

 

 自分へも言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

 

 あいつを引退させた時、俺はトレーナーとしてほとんど死んだ。

 その後に受け持ったあの子には本当に申し訳ない事をしたな。

 せめて一勝だけでもさせてやりたかったと今でも思う。笑顔が可愛い純朴な子だったから。

 

 そう、あいつだけじゃない。あの子の事だって俺は酷い事をしたんだ。

 それを無駄にしないためにも、セイをしっかり卒業出来るようにしないといけない。

 

「セイ、一緒に頑張ろう。不安な気持ちは分かるし、迷う気持ちも分かる。もし今の自分に自信が持てないのなら、今後の結果は悪ければ全部俺が悪いと思ってくれていい」

「え?」

 

 そこでやっとセイが顔を上げてくれた。でもまだ普段のらしさが失せている。

 

「今後走るレースで良い結果が出せない時は俺の指導が間違ってた。良い結果が出ればセイの実力。それでいい」

「で、でも……」

「いいんだよ。トレーナーの仕事はウマ娘の力を引き出してやる事だ。ならレース結果が悪ければ俺の責任ってのは間違ってない。逆にレース結果が良い時はセイの持ってた力をちゃんと引き出せたって事で、セイの実力だ」

「トレーナー……」

「いいんだよ、もっと俺のせいにしてくれても。むしろ自分のせいだと思わないでくれ。結果が悪い時は、俺がやってる事、考えてる事、させた事、それらが間違ってたと思うぐらいの自信を持ってくれていい。セイウンスカイ、お前は強いウマ娘なんだ。後は俺がその力をどれだけ引き出せるかにかかってる」

 

 語気を荒げず、強めず、可能な限り優しく言い聞かせるように告げる。

 結果だけを見て指導するのはもう止めた。不安なまま指導するのも止めた。

 ちゃんと俺は俺を信じてくれるウマ娘を見て、向き合って頑張っていくんだ。

 

「大体だな? 相手は上級生なんだ。その差を甘く見るな。一年ってのは思ってるよりもデカい差だぞ」

「うん、そうだね。いや~、自分でもかなり焦ってたみたい」

 

 やっとセイから普段のらしさが流れ始めた。どうやら多少は不安や焦りを減らせたらしい。

 

「っと、こんな時間だ。早く戻って汗流してご飯食べないと。じゃあね」

「おう、気を付けてな」

 

 こちらに背を向けて走り去ろうとしたセイだったが、何故か少し行ったところで立ち止まる。どうかしたのかと思って見ていると……

 

「トレーナー、ありがとね」

 

 と言い残して今度こそ走り去って行った。

 

「……礼を言うのはこっちだっての」

 

 そう、そうだ。セイが不安や焦りを吐露してくれたおかげで俺もしっかりとサイレンススズカの走りに向き合う勇気が出た。

 あれにセイが勝つ方法や手段を考えないといけない。あいつにあれだけの事を言ったんだしな。

 

「俺が思うに勝つ方法は一つだ。逃亡者を追跡者にさせるしかない……」

 

 先頭を譲らないと言う事は、逆を言えば先頭以外は嫌うと言う事だ。事実以前のサイレンススズカは先行の位置取りで調子を落としていた。

 つまりあの強さは先頭で走らせるからに他ならない。それを阻止出来れば勝ち目がある。

 

「スピードとスタミナをやれるだけ鍛えるしかないか」

 

 それでも届くか分からない。けれどこれが今の俺に思いつく唯一のサイレンススズカ攻略法だ。

 この俺の考えじゃスペやキングじゃアレには勝てない。サイレンススズカに勝てる可能性があるのは同じ逃げウマ娘であるセイだけだ。

 

「……でも、スペやキングだって勝てないとは限らないんだよな」

 

 あくまで今の俺じゃあの二人がサイレンススズカに勝つ方法が思いつかないだけだ。

 可能なら今思い付いてる以外の方法も考えてみないといけない。スペやキングだってサイレンススズカとぶつからない訳じゃないんだ。

 

 それに他にも強いウマ娘は大勢いる。考えないといけない事は沢山あるってのは、良い事なんだか悪い事なんだか分からんなぁ。

 

 そんな事を考えて俺は小屋の中へと入る。あまり時間をかけるとあいつらが来るから気を付けないといけないなって、そう思って苦笑を浮かべて……。




逃げウマ娘がスズカに勝つには先頭を走らせない以外ありません。

……まぁ分かっていても出来るかどうかは別ですけども(汗


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いざ皐月賞

こちらの確認及び認識不足で色々と混乱を招いてしまい申し訳ありませんでした。
こちらは修正版となります。今後同じ事がないように気を付けますので何卒ご容赦の程を……。


「いよいよ、だね」

 

 スペちゃんのその言葉に私とキングは頷く。初めて私達三人が本当のレースでぶつかる時が来た。しかも舞台はGⅠなんて最高の状態で。

 

「けどスペらしいわ。仲間外れは嫌だ、なんて」

「だ、だってぇ……」

 

 そう、スペちゃんは最初この皐月賞に出ないはずだった。トレーナーはスペちゃんの目標である日本一に照準を合わせてダービーへの調整を進めようとしていたから。

 けど私とキングが出るって聞いて、それなら自分も一緒に走りたいって言い出して現在に至る。

 

 ちなみにトレーナーからは個別に色々言われてる。スペちゃんやキングはどう言われたかは知らないけど、私はこれに出てるスズカさんよりも前に出て走ってみろと言われてる。

 

――上手くすれば、それであの最後の伸びを阻止出来るかもしれない。

 

 スズカさんに気持ち良く走らせない。それがあの信じられない走りをさせない事に繋がるっていうのがトレーナーの考えだ。

 私もそれは同意出来るから今回の作戦をやってみる気になった。逃げウマ娘にとって前に誰かいるって言うのはあまり良い気分じゃない。実際それであの時のパーマーさんは失速した。

 

 それにスズカさんは逃げ以外じゃ戦績が悪い。ならトレーナーの考えは間違ってない。

 

 ……あとは私がスズカさんの前に出れるかどうか、だ。

 

「まぁまぁ、そろそろゲートへ向かおうよ。で、可能ならここで三人でライブのメイン、狙おっか」

 

 言いながらどこかで難しいだろうと思う私がいる。何せこのレース、スズカさん以外にも有力ウマ娘が出てるから。

 

 筆頭は無敗での三冠を宣言してるトウカイテイオー、かな。トレーナー曰く、余程の事がない限りメインはテイオーとスズカさんを入れたメンツになるって。私もそう思う。

 

 なら、その余程を起こしてやるしかない。そのために私は今日、スズカさんの前に出るんだ。

 

 三人揃ってレース場へ出ると、凄い熱気を感じた。あちこちから人の気配がして、遠くに聞こえる声なんかも前に出たレースよりも多い。

 見ればスペちゃんもそうみたいで目を大きく見開いて驚いてる。キングは……若干、かな。

 

「凄い人ですね……」

「そうね。まぁ、三冠レースの一つだもの。当然でしょう」

「そうだったね。これと、ダービーと、菊花賞」

「それら三つを一着で走り切る。そうした者だけが三冠ウマ娘の称号を与えられるのよ」

「そうさ! そしてそれはボクの事だっ!」

 

 聞こえた声に顔を動かすと、そこには白を基調とした勝負服のウマ娘がいた。

 

「トウカイテイオー……」

 

 キングが何故か表情を引き締める。何かあるのかな?

 と、思っていたらズイッとスペちゃんが前に出てきた。

 

「は、はじめましてっ! 私っ、スペシャルウィークって言いますっ!」

「よろしく~。でもスペシャルウィーク、かぁ。呼び辛いから略していい?」

「は、はい。えっと、みんなからはスペかスペちゃんって呼ばれてます」

「スペちゃん、か。うん、じゃあボクの事はテイオーでいいよ。よろしくねスペちゃん」

「はい、よろしくお願いしますテイオーさん」

 

 うん、さすがスペちゃん。後輩にも丁寧語だ。これ、もしかしなくても年下って気付いてないね。

 

「私はセイウンスカイ。よろしく~」

「よろしく。じゃ、そっちは?」

「セイでもスカイでもウンスでも好きに呼んでよ」

「う~ん……じゃあセイちゃん」

「はいはい。テイオーならそれでいいよ」

 

 中々物怖じしないね。まぁそれもこの子の魅力かもしれない。

 で、問題は何故かキングもテイオーもお互いには闘志バリバリな事、かな。

 今も睨み合うようにしてるし、挨拶さえもしない。どうも面識はあるみたいだけど、どこで会ったんだろ? 学園……?

 

「キングヘイロー、あの時の借りはここで返してやるっ! 今日勝つのはボクだっ!」

「お~っほっほっほ! 残念だけど貴方の三冠は夢と消えるわ。わたし、キングヘイローが三冠に輝くんだから」

「なにぉ! それはボクだ! 無敗で三冠ウマ娘になってカイチョーを超えるんだっ!」

 

 ……どうやらワケありなのは間違いないみたい。しかもどうやらあまりいい感じじゃないね、これ。

 

 とりあえずオロオロしてるスペちゃんをこっちへ引っ張り、そのまま二人から距離を取る。

 

「あ、あの、いいんでしょうか?」

「いいんじゃない? まだゲート入り前だし」

「そ、そうなんですか?」

「そーそー」

 

 下手に手を出すとこっちまで巻き込まれかねない。大丈夫だとは思うけど今は二人だけの世界にしておこう。

 

 ……さすがに殴り合う事はないと思うし、うん。

 

「スペちゃん!」

「スズカさんっ!」

 

 丁度いいところに来てくれたよ。これでスペちゃんは任せていいね。

 

「ども~」

「こうして会うのは久しぶり、かな。元気そうね、スカイちゃん」

「おかげさまで。あっ、スペちゃんの事よろしくお願いします」

「ええっ!?」

「ふふっ、引き受けたわ」

 

 あの神戸新聞杯の時に少しだけ私とキングはスズカさんとお話した。自己紹介とレースの感想を言うだけだったけど、覚えててくれたんだ。

 それにしてもさすがにもう大舞台に慣れてきてる感じが凄い。こっちなんてまだ勝負服に袖通すの片手で足りるだけだってのになぁ。

 

 周囲をチラリと見やる。誰も彼も勝つ事を考えてるんだろうなって顔をしてる。

 でも私は違う。勿論勝ちたい気持ちはあるけど、今の私にあるのはトレーナーの作戦が本当にスズカさんに通用するのか確かめるって事。

 何があろうと最後の直線までスズカさんを先頭にしない。それであの伸びが阻止出来るか否かを確かめる事が出来れば、私はもうスズカさんを必要以上に恐れる必要はないから……。

 

 

 

 気持ちを落ち着けてゲートの中へ入る。まさかここでトウカイテイオーと戦う事になるなんて思わなかったわ。

 さすがにあの時の事を持ち出す事はなかったけど、かなりあの敗戦がショックだったのは分かった。

 

「……この距離こそがトウカイテイオーの主戦場。なら、ここで勝利してこそキングですわ」

 

 自分に言い聞かせるように呟く。正直まだ今のわたしは中距離や長距離でセイやスペにさえ中々勝てない。トウカイテイオー相手ならばより勝率は下がるはず。

 

 だけど、だからって諦めるつもりはない。トレーナーから出された指示はたった一つ。

 

――いいか? 何があっても顔を下げるな。王様ってのはな、最後の最後まで気高く胸を張ってるもんだ。

 

 そう、わたしはキング。王者だ。決して何があろうと下を向く事なく前を見つめ続けてみせる。

 

 例え、例えここで負けるとしてもそれを次に繋げるためには前を見続ける事が必須。いつか帝王を下し、皇帝を下すためにも、一戦たりとも無駄には出来ない。

 

最後に笑うのが勝者なら、このキングこそがそれに相応しいですわ

 

 心を冷静にし、ゲートが開く瞬間をただただ待つ。やる事はいつもと同じ。道中は中団辺りで機を窺い、第四コーナー手前で動いて最後の直線で勝負を決める。

 場合によってはそれより早く仕掛ける事もあるかもしれないけど、そこは状況を見て、ですわね。

 

『各ウマ娘体勢完了』

 

 聞こえたアナウンスで一度深呼吸。出遅れだけは勘弁ですわ。

 

「っ!」

 

 目の前の扉が開いた瞬間、勝手に足が動き出していた。一瞬で開ける視界からまず飛び込んできたのは……セイっ!?

 

『まず抜け出したのはセイウンスカイ。サイレンススズカと競り合いながらも前を譲らない』

 

 どういう事ですの? いくらセイでもあんなペースで走っていれば最後まで持つはずが……っ!

 

「そういう事ですの……っ!」

 

 セイはこのレースをある意味で捨てたのね。それは、おそらく先を見ての事でしょう。スズカさんの得意距離と走りはセイと同じ。故に今後セイがGⅠへ出れば高確率でスズカさんとかち合う。

 そこで勝つためにここはその方法を探ると、そういう事ですわね。トレーナーの指示がセイの独断かは分かりませんけど、それならわたしはそれを利用させてもらうまで。

 

 スズカさんがセイとやり合って潰れてくれれば、残る脅威はただ一人。

 

「トウカイテイオー……っ」

 

 わたしよりも前の位置で走るウマ娘を見つめる。スペは……えっ? わたしよりも前? しかもトウカイテイオーとほぼ同じような位置取り、ですって?

 

 ……もしかしてスペは差し狙いじゃない? これもトレーナーの指示?

 

「いえ、関係ありませんわ」

 

 わたしはわたしの走りをするだけ。何があろうと前を向き、一着を目指すだけよ。

 考えても分からない事は考えるのを止めて、見て分かる範囲の事だけ考える事にするわ。

 

 いつだって冷静にレースを行う事もキングたる者の在り方だものね!

 

 

 

『先頭は変わらずセイウンスカイ。だがその外すぐにサイレンススズカがいます。レースは完全にこの二人が引っ張る形となっていて、先頭から最後方までは何と20バ身近く離れています』

『最近のサイレンススズカの勝ち方は最初から凄い逃げを打っての逃げ切りですから、セイウンスカイはそれをさせまいとしていますね』

 

 レースは第二コーナーを通過し中盤を迎えていた。

 サイレンススズカの驚異的な脚を使わせないためにレースを捨てる覚悟で大逃げを打ったセイウンスカイ。その甲斐あってか、未だにサイレンススズカは先頭に立てていなかった。

 そんな先頭二人を虎視眈々と狙うのはトウカイテイオーだ。今出来ている差など関係ないとばかりに目力鋭く先を見据えている。

 そして、それとは逆に不安そうな表情で先頭を見つめるのがスペシャルウィークだ。彼女は今回トレーナーの指示により差しではなく先行として走っていた。

 

 その理由は二つ。一つはキングヘイローがいるために同じ位置取りとなって潰し合うのを避けた事。もう一つは、ある意味でサイレンススズカ対策でもあった。

 

 と、ここで動きがあった。トウカイテイオーがゆっくりと前へ迫り始めたのである。

 

『ここでトウカイテイオーが動いた! 先頭争いを続ける逃げウマ娘二人へ、ゆっくりとではあるが徐々に差を詰め始める!』

 

 このトウカイテイオーの動きがレースを大きく左右する事となるとは、この時誰も思いもしなかった……。

 

 

 

「まだ第三コーナー手前なのに……」

 

 私の前にいたテイオーさんが少しずつ離れていくのを見て、私は動きたくなる気持ちを抑えるようにトレーナーさんとのやり取りを思い出した。

 

――いいかスペ。皐月賞はある意味ダービーの前哨戦だ。だから、そこでは差しじゃなくて先行で走れ。キングも差しでお前も差しだと位置取りで潰し合う可能性があるからな。

――分かりました。

――それと、仕掛けるのは早くても第三コーナーからだ。可能なら第四コーナー抜けた辺りで先頭争いになるように頑張れ。

 

 う~っ、動きたい。動きたいけどまだ早い。せめて、せめて第三コーナーに入ってからだ。

 

 そう思って走っていると他の人達もどんどん動き出してく。こ、このままじゃ抜け出すのも難しくなるかも。

 最内、のままだと前を塞がれたら難しいから今の内に外へ出ておこう。順位もテイオーさんが動く前は五番手ぐらいだったのに、もう八番手ぐらいまで下がってるし。

 

『先頭二人が第三コーナーを抜け第四コーナーへ入っていく! それを捉えようとしているトウカイテイオーっ!』

 

 よし、ここだっ! ここから上がっていこうっ! まだ間に合うはずだっ!

 

 両足を今まで以上の強さで動かす。外にいたから丁度良かった。みんな基本的に内側を走ろうとするから、抜く時は外からの方が楽でいい。

 あっという間にさっきまでの順位へ戻り、更に前を目指す。と、そこで見えたのは……。

 

「セイさん……っ」

『第四コーナーを抜けて最後の直線に入ったところでセイウンスカイが力尽きたかのように下がっていくっ! それと入れ替わるように先頭へ躍り出ようとしたサイレンススズカだが、そうはさせじとトウカイテイオーがやってきたあっ! 異次元の逃亡者が駆け出す前に帝王が待ったをかけるっ!』

 

 思わず体が加速する。第四コーナーを抜けようとしたところで一人抜いた瞬間、不思議な感じがしたからだ。

 

 これなら……

 

「行けるっ!」

 

 前を走る四人の姿を見つめて夢中で足を動かす。その途中でセイさんとすれ違って目が合った。

 

行ってっ

「っ!」

 

 辛うじて聞こえた声に力をもらってより体が加速した。

 

 いつも明るくて柔らかいセイさんの声がかすれたようになってた。それぐらいギリギリの走りをしてたのに、私へ声援を送ってくれたってそう思ったら何が何でも勝たないとって思った。

 

『ここでスペシャルウィークが来たっ! 直線に入った瞬間から凄まじい加速で一気にセイウンスカイを抜き去り、遂に先頭へと襲いかかるっ! サイレンススズカは苦しいか伸びがないっ! トウカイテイオーが僅かに先頭っ! スペシャルウィーク間に合うかっ!』

 

 スズカさん達に届きそうで届かないっ! あと1バ身ぐらいなのにっ! もうちょっとなのにっ!

 なのに、なのに……先頭が遠い……っ! スズカさんとテイオーさんが、遠いっ!

 

『さあどうなるかっ! 先頭は僅かにトウカイテイオーっ! スズカは伸びないっ! テイオーだっ! テイオーだっ! ここでテイオーだっ! テイオーが完全に抜け出したっ! 曇天の下燦然と輝きを放ちながらっ! トウカイテイオーが一着でゴールインっ! 二着はサイレンススズカ! 三着はスペシャルウィークっ! 宣言通りの三冠ウマ娘へ向けてまずは一つ! トウカイテイオーやりましたっ!』

 

 そのアナウンスを聞きながらとぼとぼと減速する。掲示板を見ればやっぱり私は三着で、目を擦っても首を振ってもそれは変わらなかった。

 

「もう少し、早く仕掛けていたら良かったのかな……」

 

 答えは分からない。でも、でも一つだけ分かった事がある。今の感じをもう一度出来たら、ダービーは勝てるかもしれない。

 皐月賞は2000mでダービーは2400mだ。今よりも400長いなら、あの距離も届いたはずだから。

 

「スペ、残念だったわね」

「……キングさん。それにセイさんも」

 

 振り向いたらキングさんがいた。その隣にはセイさんもいる。二人共悔しそうな顔だ。

 

「いやぁ……最後まで持たなかったや。それでも五着。褒めて褒めて」

「はいはいすごいすごい。で、わたしは四着なんだけど?」

「キング凄かったよね~。何とか四着でゴール出来たと思ったら、その直前を一瞬で駆け抜けてくんだもん」

「あれが精一杯だったのよ。にしても、本当に無茶をするわね。でも、目的の半分は達成出来た、でしょ?」

「目的?」

 

 どういう事だろうと思って小首を傾げる。セイさんの目的って一着を取る事じゃないのかな?

 

「ん、まあね。そういうキングはどうなのさ?」

「……わたしも半分って事にしておくわ」

 

 この後のウイニングライブでテイオーさんはキラキラしてた。でもスズカさんはどこか笑顔に影があって、だけど私はそれに気付いても何も出来なかった。

 私は精一杯ライブへ集中する事しか出来なかったんだ。セイさんやキングさんの分までメインで頑張らないとって、そう思って……。




スズカの敗因はセイの粘りとテイオーの直感力です。
セイにずっと前を走られた事でストレスが溜まり、それを解消する間もなくテイオーが来たので最後精彩を欠いた形となりました。


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迷いと不安と

キング以外は初めてのGⅠでした。しかも全員入着。
でも祝勝会とは言えないし残念会も違う。そこでトレーナーが選んだ言葉は……。


「お前達、よく頑張った。全員入着し、スペに至ってはライブのメインを張ったからな。本当に、俺は嬉しい」

 

 GⅠに出て入着するだけでも凄いのに、まさか三着にまで食い込むとは思わなかった。これがキング以外はGⅠ初出場だぞ。こいつら、本当に凄い。

 

「それはそうだけどさ……」

「あまり素直には喜べませんわ」

 

 だと言うのにセイとキングの表情は曇ってる。スペも……近いものがあるな。

 

「スペもか?」

「……はい」

“スペの調子が落ちてるな。このままだとトレーニング効率が悪くなるぞ”

 

 天の声がトドメを刺してきた。何で三着になって調子を落とすんだと普通なら思わないでもないが、今回のは見れば分かる事だからなぁ。

 おそらくだがサイレンススズカの様子に影響されてるんだろう。スペにとっては大事なルームメイトでもあり、憧れの対象でもある訳だから仕方ないか。

 

「分かった。なら敢えて言わせてもらうが、喜ばない方が失礼だぞ」

「「「え?」」」

「思い出せ。お前達も半年前はウイニングライブに出られるなんて思ってもいなかっただろう。そして、そもそもGⅠに出場出来る事もだ」

 

 その言葉には三人共無言で頷いていたので俺はそこで息を吐く。

 

「お前達も知ってるだろ? このレースに出たくても出れないウマ娘もいるって。ライブどころか入着さえ出来なかったウマ娘がいるって。なら自分のレース内容に納得出来なくても喜ぶんだ。向上心を忘れないのは素晴らしいが、それは何も喜ばない事と一緒じゃないはずだろ?」

 

 俺が最初に担当したウマ娘も、あいつも、あの子も、みんな勝敗に一喜一憂はしてた。それでも自分以外のウマ娘を恨む事もなかったし、ましてや入着出来て喜ばないなんてなかった。

 

 三人も俺の言葉でやっと何か気付いた顔をして、バツが悪そうにお互いへ目を向け合った。

 

「入着出来た事は素直に喜べ。で、一着になれなかった事は素直に悔しがれ。喜ぶべき事は喜び、悲しむべき事は悲しめばいい。お前達が頑張った結果はお前達のものだ。周囲に影響されてそれを素直に受け止められないのは良くないんじゃないか?」

 

 出来る限り優しくそう締め括る。今回それぞれに思う事はあったと思う。何せ一着じゃないんだ。

 だけど、サイレンススズカとトウカイテイオー相手に戦い、見事に掴んだ結果だ。この悔しさを糧に上を目指していける奴らだと、俺はそう信じてる。

 

「トレーナー」

「何だ?」

 

 セイの声がやや真剣なものだと感じたが、俺は普段通りに声を返した。

 

「次のレースって何?」

「今回全員して入着出来たからな。もしその気があるならダービーに全員で出るか?」

「「「出る(出ます)」」」

 

 即答、か。

 

「うし、ならそのつもりでトレーニングも考えておく。で、今日は慰労会だ」

「「「いろうかい?」」」

「おう。皐月賞で全員入着だからな。三冠レースの一つでだぞ? それを俺が労いたいんだ。という訳だから、着替えたら飯食いに行くぞ」

 

 そう言ったら一瞬で三人のテンションが上がったのが分かった。天の声なんか聞こえなくても分かるぐらいだ。

 

 と、そこで思い出す事があった。それはゴールした瞬間の事だ。

 トウカイテイオーがサイレンススズカを負かして一着になった瞬間、天の声が聞こえたんだが……

 

――テイオーの調子が下がったな。

 

 たったそれだけ。たったそれだけしか聞こえなかった。今までならトレーニング効率がとか色々付いたのに、何故かあの瞬間だけは調子が下がったのみだった。

 その後のサイレンススズカは、ちゃんと調子が下がったのに続いてこのままだとトレーニング効率が落ちると聞こえたのに。

 

 控室前の廊下であいつらを待つ。すると誰かがこちらへ向かって駆けてくるのが分かった。誰だと思って顔を向けると、見えてきたのは白い勝負服を着た本日の主役だった。

 

「あれ? たしかキミは……」

「サクラバクシンオーのトレーナーだった男だよ。そっちは会見終わりってとこか?」

「うん、そうだよ」

 

 あっけらかんと笑顔で答えるトウカイテイオーをそれとなく注視してみる。

 

“テイオーの調子は絶好調だ。これならトレーニング効率も良いだろう”

 

 ……どういう事だよ。一体あの声はどういう意味だったんだ?

 

「どーしたのさ?」

「ん? いや、その小柄な体であんな力強い走りをしてたんだなと感心してたんだよ」

 

 嘘じゃない。あの走りは凄かった。ただ、セイがサイレンススズカの脚を使わせまいとした結果トウカイテイオーが一着になったとも思っている。

 そう考えるとやっぱり怖いよな、サイレンススズカ。あの末脚が炸裂してたらトウカイテイオーも追いつけなかったって思わせるんだから。

 

「ま~ね。ボクはカイチョーを超えるものだし」

「かいちょう? ああ、シンボリルドルフか」

「そうっ! 次のダービーも勝って、菊花賞も勝って、無敗のまま三冠ウマ娘になるんだ!」

 

 キラキラとした瞳で断言する辺りが凄いな、こいつ。

 

「そうか。で、お前さんのトレーナーはどこだ? ちょっと挨拶しときたいんだが」

 

 ついでに天の声関連で聞きたい事も出来たしな。

 

「トレーナー? 担当って事?」

「ああ」

「それならいないよ? 表向きはいるけどね」

「……マジ?」

「マジ。たま~にアドバイスをもらう事はあるけど、基本はボク一人で十分だし」

「どっかのチームに所属してないのか?」

「入ってないよ。ボクが入りたいって思うようなチーム、ないからね。ボク、スゴイからさ!」

 

 胸を張っているので自慢してるんだろうが、それはある意味で不安の種でもあるぞ。

 

 トレーナーには大きく分けて二種類いる。専属かそうでないかだ。専属トレーナーは一人のウマ娘だけを見る事で、専属がいないウマ娘は珍しくないしむしろ主流だ。

 実際、スペやキング、セイも俺が担当しているが専属ではない。大抵のトレーナーは、今の俺や先輩のように複数を受け持ってる。だが実際には担当もいないウマ娘となると珍しい。

 

 担当が付かないウマ娘は基本二つに一つ。担当が付かない程実力や魅力に欠けるか、あるいはその逆。実力や魅力があり過ぎてウマ娘の方がトレーナーを選んでいるのだ。

 おそらくトウカイテイオーは後者で、どこかのチームトレーナー辺りに定期的か、あるいは必要に応じて見てもらっているんだろう。見た感じ天才肌っぽいし、その方が向いてるようにも思う。

 

 ただ、チームにも所属してないとなると体のケアはどうしてるんだ? 一応スペ達は俺が毎日見てるし、何かあれば些細な事でも教えるようにと言ってる。

 セイは無理だがスペとキングは天の声もあるから今のところ怪我などなく済んでいるが、それだって絶対じゃないし完璧じゃない。

 

“スピードやスタミナ重視のトレーニングをした方がいい。あとは賢さも欲しいところだ”

 

 念のためにと意識を集中して見たが、聞こえた天の声の内容もレース直後とは違っていて本来のものだ。ならやはり考え過ぎだろうか?

 

「っと、そろそろ着替えなくちゃ。じゃね~」

「あっ」

 

 色々考えている間にトウカイテイオーはそう言って俺の前から走り去った。その後ろ姿を見送り、その走り方に何も違和感などがない事を確かめてため息を吐く。考え過ぎだと、そう思って。

 

 それから一分としない間に三人が控室から出てきたので、慰労会をするべくレース場を後にした。

 もう着替えた三人はいつもの三人へ戻っていた。初めての大舞台で三人揃って走った事もあってか、今更興奮してきたらしい。それ程にあの結果や、スペにとってはサイレンススズカの事もか、影響してたんだろうな。

 

「そういえばトレーナー? 慰労会ってどこへ行きますの?」

「良い所って、そう言いたいんだが、残念ながら俺の給料じゃお前ら三人揃ってとなると財政が厳しくてな。なんでそこまで期待はするな。程々で頼む」

「え~? そこは大人の余裕を感じさせて欲しかったなぁ」

「仕方ないだろ? そう言うなら今度は一着を取ってくれ。そうすると俺にも特別ボーナスが入ってくる」

「そうなんですか?」

「おう。おかげでサクラバクシンオーの時は割と財布があったかかった」

 

 一着を取ると学園からそこまで多くはないが特別手当のようなものがもらえる。まぁ頑張ったウマ娘を労ってやれって感じのものだと思う。

 と、そこで思い出した。このレース場近くにウマ娘好きの親父さんが営む店があったな。こっちに来るとサクラバクシンオーとよく行ったっけ。そこへこいつらも連れて行くか。

 

 あそこなら額も分かり易いし、何よりラーメンが嫌いな奴はまずいないだろう。ならきっと喜んでくれるはずだ。

 

――トレーナーさん、この近くにウマ娘用のラーメンを出してくれるお店があるらしいんです。一緒に行きませんか?

――ウマ娘用のラーメン?

――そうなんです。私も教えてもらったばかりなんですけど結構美味しいみたいで……。

――よし、なら行くか。俺が奢ってやる。一着を取ったご褒美だ。

――ホントですか? ふふっ、じゃあこれからはレースの度に奢ってもらいますからね?

 

 俺は店を目指して歩く。俺をその店へ案内してくれたあいつとのやり取りを思い出しながら……。

 

 

 

「へい、お待ち」

「「「お~……」」」

 

 どんと出された特盛のラーメンに三人が揃って目を丸くした。特注だと昔聞いたその丼はウマ娘専用の物で、俺も初めて見た時は驚いたもんだ。

 ウマ娘の食事は個人差もあるものの、基本的に大量になる。酷いとまるで妊婦のような腹となるまで食べる奴もいるぐらいだ。

 

 ……スペはその妊婦のような腹になるまで食べるタイプ。まぁさすがに外ではあんな腹で歩く事はしないだろうから大丈夫だとは思うが……。

 

「で、あんちゃんの分はこれな」

「どうも」

 

 俺の前に置かれるのは普通の丼で普通のサイズのラーメンだ。

 

「うし、じゃあ食べるか。と、その前にっ!」

 

 すぐにでも割り箸を手にして割ってさえいるスペを制するように声を少しだけ張る。

 

「今回のレース、よく頑張った。あれだけのレースで入着するだけでも大したもんだ。その事は、誇っていい。そして次は少しでも上の着を狙えるように頑張ろう」

「はいっ!」

「ええ」

「はーい」

「それじゃあ、手を合わせて……」

 

 待ちに待った瞬間だからかスペが嬉しそうに手を合わせる。キングやセイはそんなスペに苦笑しているが、尻尾が揺れてるので似たような気持ちらしい。

 

「「「「いただきます(っ!)」」」」

 

 チラリと見れば、まずスープを飲むのがセイ、麺を食べ始めるのがスペ、キングは匂いを嗅いでいた。そういうとこにも個人差が見えて中々面白い。

 

 ちなみにサクラバクシンオーはチャーシューから食べていた。ホント、色々違うもんだな。

 そんな事を思い出しながら俺も麺へ箸をつける。ここのラーメンは醤油ベースの、所謂昔ながらの中華そばって奴で、ナルトを入れてるのが懐かしさを感じさせるとか。

 麺は中太のちぢれ麺。具材はチャーシュー、ナルト、メンマに刻みネギと焼き海苔だ。屋台の頃から変わっていないと親父さんが言うその味は、特別美味いとは言わないが何だか癖になって懐かしい気持ちにさせてくれる味だ。

 

「あんちゃん、今は三人も担当してんのか?」

「ええ。おかげさまでこんな俺にも指導して欲しいって言ってくれるウマ娘が出来まして」

「そうか。サクラちゃんのおかげだなぁ。あの子、今は海外なんだろ? 頑張ってるってこの前ニュースで見たよ」

 

 嬉しそうに話す親父さんに俺も笑顔を返す。サクラバクシンオーに関しては、俺も詳しい事は知らないでいる。いや、敢えて知らないでいた。俺の手を離れた以上、下手にあいつの事へ関わろうとすると面倒な事になりかねないと思ったからだ。

 

「ですね。まぁあいつの戦い方はどこでも変わりませんから」

「だなぁ。スタートと同時に先頭へ出て、そのまま爆進っ! ……だもんなぁ」

「短距離最強のウマ娘になるって言ってましたから。この分だと本当に現実となりそうですよ」

 

 元々分かり易い性格だった事もあってか、海外でもテンション維持は出来ているらしい。聞こえてくる知らせはあいつが一着を取ったという事ばかりだ。

 

「そうかい。あんちゃん、サクラちゃん帰ってきたらまたうちに連れてきてくれよ? サービスするからさ」

「分かりました。サクラバクシンオーに連絡しておきますよ」

「頼むよ。っと、凄いねあの子は」

 

 何かに気付いた親父さんが視線を動かしたので俺もそちらへ目を向けると……

 

「マジかよ……」

 

 スペが既に食べ終えていたのだ。しかも見事にスープまで飲み干していて、その腹を妊婦のようにしていた。

 

「美味かったかい、ウマ娘のお嬢ちゃん」

「はいっ! とっても美味しかったですっ!」

「そうかい。またこっちに来る事があったら顔出しな。その時は煮玉子サービスしてやっから」

「ホントですかっ! 絶対来ますっ!」

「スペちゃん、それはまずトレーナーにお願いしないと」

「本当ですわ。で、ご主人? それはスペだけですの?」

「お前らなぁ……」

「はははっ! 勿論そっちのお嬢ちゃん二人もだ。その代わり、レースで怪我しないようにしてくれよ?」

「「勿論(ですわ)」」

 

 こうして三人もサクラバクシンオーと同じく親父さんに顔と名前を覚えてもらい、今後この近くに来た時は必ず顔を出す事になった。

 それにしても驚きだったのが、キングはラーメンを食べたのが生まれて初めてだったと言う事だろう。だから最初に匂いを嗅いでいたのかと納得したぐらいだ。

 

――どうやって食べるのか自信がなかったのでスペやセイのを参考にさせていただきました。

 

 そう言って少しだけ照れくさそうにしていたのが可愛らしいと思った。そう、彼女達は年頃の少女でもあるとそこで思い出した。

 けれど、それと同じぐらいレースで勝ちたいと思っている事も。こいつらは今日の皐月賞だって一着を取りたかったはずなんだ。だからこそライブの後も悔しさが残ってた。

 

 入着を喜ぶ気持ちよりも一着を取れずに悔しいと思う程に、こいつらはもう一人前のアスリートでウマ娘なんだ。

 

「スペちゃんには悪いけど、出る以上は一着を狙うから」

「そうね。スペはキングの後ろになるのを覚悟しなさい」

「私だって負けるつもりはありません! 絶対、絶対一着になって日本一のウマ娘になるんですからっ!」

 

 本気なのだろうやり取りだが、セイとキングはどこか笑みを浮かべているし、スペもすぐに笑顔へ戻っていた。仲間でありライバルなのだと、そう強く分かるな。

 

「……出来るだけ、ダービー以降はレースをかぶらせないようにするか」

 

 仲良く前を歩く背中を見つめ、俺はそう呟いた。出来る事ならあいつらそれぞれが一着を取れるようにしたい。そういうトレーナーとしての気持ちを。

 

 だが、どこかでだからこそ三人がトップを競い合う姿が見たいと、一人のファンとしての俺も呟く。

 願わくば、それが年末の中山になるといいなと思いながら、こちらへ振り返って俺の事を呼ぶ三人へ笑みを返して歩みを進める。

 

 ダービー、か。出来る事ならスペに取らせてやりたいが、トウカイテイオーが出てくる以上難しいかもしれないな……。




次回は日本ダービー。トレーナーの願いは叶うか否か……。


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叶う夢、叶わぬ夢

日本ダービーです。アニメではスペとテイオーがそれぞれ一期と二期でメインとなったレースです。

当然ながら史実やアニメの持つ熱さやドラマ性を超える事など私の腕では不可能なので、レース展開や結果については寛大な心でお許しください。


 日本ダービーと呼ばれる大舞台がある。一番運が強いウマ娘が勝つと言われるレースであり、皐月賞、菊花賞と並んで三冠の条件となる由緒正しい歴史ある重賞だ。それにスペシャルウィーク、キングヘイロー、セイウンスカイは出場する事になった。

 

 トレーナーは前回の皐月賞の結果を受け、今回のレースでは従来通りに三人それぞれ好きに走るようにと指示を出していた。

 と言うのも、中距離最強の一角であるサイレンススズカがこの日本ダービーには出場していないためだ。

 皐月賞で一着になれなかった事を受け、戦術の見直しかトレーニングの見直しなどをしているのだろうとトレーナーは見ていた。

 

「あるいは、サイレンススズカが大舞台で自分の逃げを出来なかった事で調子を落としてるか、だろうな……」

 

 これまで逃げウマ娘として走るサイレンススズカは無敵に近かった。どんな追い込みも差しも通用せず、ただただ最後の直線で突き放される。それが彼女のレースだった。

 

 それを皐月賞では出来なかった。その理由を正しく理解している者は多くはないが、やがて知られるのは時間の問題だとトレーナーは読んでいた。

 何せあの皐月賞は色々な意味で注目を集めていたのだ。サイレンススズカが出場し、トウカイテイオーが走るという、話題に事欠かないレースだったのだから。

 

(きっと、あのレースを大勢見てるはずだ。なら、サイレンススズカの逃げが出来てなかった理由にも、思い当たる奴が出てきてもおかしくない)

 

 ゴール前がよく見える位置に移動し、トレーナーはある事を思い出していた。

 それは皐月賞のゴール直後に見たサイレンススズカとトウカイテイオーの事。

 

(天の声が教えてくれたが、あの時のサイレンススズカは調子を落とし、トウカイテイオーも調子を落としていた。問題は、何故トウカイテイオーは宣言通りに勝利して調子を落としたか、だ。それもあの時だけ調子が落ちたしか聞こえなかった事も気になる。ライブを終えた後には調子を戻していたが、そうなると余計勝った後で調子を落とした理由が分からん)

 

 天の声はゴールした時のトウカイテイオーの状態が良くない事をトレーナーへ教えていた。

 だからこそ、彼はあれからそれとなく表向きトウカイテイオーの担当となってるトレーナーへ接触し、彼女の走りに違和感のようなものを感じると告げていた。

 

――俺の勘違いならいいんだが、その、故障引退させちまったあいつに似たものを感じて、な。

 

 過去の出来事と結びつける事で相手の危機感を刺激し、トレーナーは後の事を担当トレーナーへ託したのだ。

 かつてトレーナーが起こしてしまった有望株のウマ娘を故障引退させた事実。それがどう相手に働くかを悟った上で。

 

 その後の事はトレーナーも詳しくは知らないが、このレースにトウカイテイオーが出る事が意味するのは検査などで異常は見つからなかった事だろうと思っていた。

 

 それでも、今回のゴール直後のトウカイテイオーがどういう状態になるかを知ろうとしていたが。

 

「何だか嫌な予感がする……。外れてくれればいいんだが……」

 

 勝ったはずなのに調子を落とした事。それがトレーナーにはどうしても気になっていたのだ。

 しかも、それに拍車をかけていたのがトウカイテイオーが正式な担当トレーナーを持たないウマ娘だと言う事。

 何か不調を抱えているのではないか。あるいはそれを気のせいだと無視してしまっているのではないかと、そう思っていたのだ。

 

 そしてその事でトウカイテイオーが検査などを必要ないと突っぱね、しかも表向きの担当トレーナーへ走って見せて異常などないと証明して納得させているのではと、そんな考えまで浮かんでいた。

 

 胸の中に残るもやもやとした不安を吐き出すようにトレーナーは息を吐いた。

 

『晴れやかな青空の中、今年もこの季節がやってきました東京レース場。GⅠ、日本ダービー。芝、2400m……』

「そろそろか……」

 

 流れ始めた場内アナウンスにトレーナーの意識が目の前から大画面へと向く。

 そこに映し出されているゲート前の光景へ集中し、彼はお目当てのウマ娘達を見つけた。

 

「……あいつらは気負ってはいない、な」

 

 皐月賞での結果を受け、三人はそれぞれに自分なりの課題を見つけていた。主に、セイウンスカイはスタミナ、キングヘイローはスピード、スペシャルウィークは仕掛けるタイミングだ。

 それもあって、この日本ダービーへ向けてはそれまで以上の熱意と気合を持ってトレーニングへ臨み、今回こそはと意気込んでいたのだ。

 

 それによる気負いが見られない事を確認し、トレーナーは安堵の息を吐く。

 

『今回の注目はやはりトウカイテイオーでしょう。無敗での三冠を宣言し、皐月賞ではあのサイレンススズカを下しての見事な勝利。今回のダービーを取れば、残りは菊花賞となりますね』

『そうですね。ここは三冠へ王手をかけられるかどうかが注目です』

「……まぁ、世間はそれを期待してるよな」

 

 実際今回のダービーで注目されているのはその事だけと言っても過言ではなかった。

 スペシャルウィークやキングヘイロー、セイウンスカイはこれまでの戦績からしても注目される要素が少ない。更に言えば皐月賞での成績も凄さが見えるものではなかった。

 

 トレーナーもそれが分かっていたからこそ実況と解説のやり取りに疑問も不満もなかったのだ。

 

『さぁ各ウマ娘がゲートに入りました。体勢完了です。GⅠ、日本ダービー……スタートしました』

「スペ、キング、セイ、怪我だけはするなよ……」

 

 祈る様に画面を見つめるトレーナー。その画面内ではセイウンスカイが先頭へと躍り出ていた。

 

『まずハナを主張したのはセイウンスカイ。続く形でダイワスカーレットが追走です』

『皐月賞とは違い、今回は控えめなペースですね。やはり前回の失敗が尾を引いているのでしょう』

『その皐月の覇者トウカイテイオーは先頭から6バ身程離れた位置にいます。先頭二人を静かに追う形だがいつその牙を剥くのか』

(スペやキングは差しの位置取りだな。セイはあのペースなら最後まで持つはずだが、背後につかれてる、か……。あまりそっちへ意識を向けるなよ、セイ)

 

 トレーナーの心配通り、逃げるセイウンスカイは後方から追走してくるダイワスカーレットの気配を感じ、どうしたものかと考えあぐねていた。

 

(後ろにピッタリつかれてるのが分かる……。少しでもペースを落とせばすぐ抜いてやるって感じさえしてくるよ。でも下手にペースを上げたら最後まで持たない。けど一度抜かれると面倒だし……。スズカさんはいつもこんな感じで走ってるのかな? いや、スズカさんはもっと後続を引き離すか。じゃあ私も少しペースを上げる?)

 

 迷いを抱くセイウンスカイと違い、その真後ろにいるダイワスカーレットは真剣な表情で走っていた。

 

(スズカさんが回避したから回ってきた出番だけど、これをステップに上を狙ってみせるっ!)

 

 優先出場資格を有していたサイレンススズカ。その彼女が出場を見合わせた事で枠が一つ空き、そこを掴み取ったのがダイワスカーレットだった。

 だからこそ彼女はこのダービーに誰よりも意気込んでいた。トウカイテイオーよりもその熱量は高いと言える程に。

 

『先頭二人が第二コーナーへ入っていく。依然先頭はセイウンスカイ。ダイワスカーレットはそのすぐ後方。外には11番バイトアルヒクマです。これが先頭集団。3バ身程離れて最内にいるのがクラリネットリズム、その外1番タクティカルワンと連なる形で9番リズミカルリープ。一番人気トウカイテイオーはその内にいます。そこから2バ身程離れて最内にいるのがスペシャルウィーク、13番キングヘイローはその後方です。外を通ってライムシュシュがいまして、イミディエイトはその後方。オクシデントフォーが内を通ってここまでが中団となっています。その後方、外を行くのがアゲインストゲイル、内からはフェアリーズエコーが上がっている。2バ身程離れた最後方には、内に10番ユグドラバレー、外がメイクデビューから破竹のGⅢ三連勝、二番人気に推されました6番ゴールドシップとなっています。先頭からおしまいまでおよそ15バ身から16バ身程の隊列です』

 

 いよいよ先頭二人が第二コーナーを抜けてレースは中盤へ差しかかろうとした時だった。

 

(一度だけ間近で見たスズカさんよりも逃げ足が遅い……。抑えてるのかと思ったけど、この感じはこれがベストなペースって事か。なら……っ!)

 

 セイウンスカイの走り方からペースアップはないと判断したダイワスカーレットがその速度を上げたのだ。

 迷いを生じ出しているセイウンスカイとは違い、ダイワスカーレットはその走りに一切の迷いも躊躇いもない。そのまま外へ体を出すなり先頭へと躍り出ようとした。

 

『ここでダイワスカーレットが仕掛ける! これがこちらの本気だと言わんばかりの加速でセイウンスカイに並ぶ! いやそのまま抜き去ろうとするっ! セイウンスカイも先頭を譲るものかと抗うが、ダイワスカーレットが前へ出たっ!』

「セイ……っ!」

 

 レースはまだ中盤を迎えようとしているところ。そこで先頭を奪われる事は逃げウマ娘としてはかなり苦しい展開だ。

 

(このままいかせちゃ不味い気がするっ! ボクの目標を! 夢をっ! そして何よりカイチョーとの約束を果たすためにもっ! 誰にも邪魔させないよっ!)

 

 だがここで動いたのはダイワスカーレットだけではなかった。皐月賞と同じく勝負所を直感で感じ取ったのかトウカイテイオーがスパートをかけたのである。

 

『帝王始動っ! ここでトウカイテイオーが動いたっ! ダイワスカーレットが先頭となるのと合わせるかのように速度を上げるっ!』

 

 自ら宣言した無敗での三冠。それを阻む事を許さない想いを込めた脚が力強い加速を生み出してトウカイテイオーの体を一陣の風と変える。

 

 そしてその風は後方にいたスペシャルウィークとキングヘイローを動かす事となった。

 

(テイオーさんが動いた……ならっ!)

(スパートをかけるには十分ですわっ!)

 

 皐月賞で動き出しが遅れたと思っているスペシャルウィークとキングヘイローはトウカイテイオーに呼応するように加速を始める。

 その間にも先頭は第三コーナーから第四コーナーへ入ろうとしていた。ダイワスカーレットに引き離されまいとするセイウンスカイ。そんな二人へ襲いかかるように迫るトウカイテイオー。レースは大きく動こうとしていた。

 

『先頭は未だ僅かにダイワスカーレットっ! だがまだ分からないっ! セイウンスカイも懸命に走るっ! トウカイテイオーが外からそんな二人を抜き去ろうと迫っているぞっ! 後方からスペシャルウィークやキングヘイローが上がっていくっ! さぁ最後の直線へ出て依然ダイワスカーレットが先頭っ!』

「行かせるかっ!」

 

 そう力強く言い放つのはトウカイテイオー。セイウンスカイは言葉を発する事もなく、ただ静かに状況を見守っていた。

 その視界からゆっくりと二人が遠くなっていくのを見つめながらも、関係ないとばかりに足を動かし続けていたのだ。

 

(また、こうなるんだ……)

 

 その時、両脇を何かが通り過ぎる。先に通過したのはスペシャルウィーク。やや遅れる形でキングヘイローがセイウンスカイを置き去りにするように前へと出て行く。

 既にゾーンを発動させているスペシャルウィークは凄まじい速度で先頭集団へ迫っていき、それには劣るものの諦める事無くキングヘイローも続いていく。

 

 そうして仲間二人の背中を見送り、セイウンスカイは諦めるのではなくある事を思い出そうとしていた。

 

(後ろの事に気を取られて迷ったから、かなぁ。でも、おかげで思い出せたや。大事な事を……)

 

 一瞬、一瞬だけ目を閉じて、セイウンスカイはあの模擬レースでトレーナーから言われた言葉を思い出す。

 

――前だけを見つめて風を追い越せっ!

 

 その言葉を思い出した瞬間、セイウンスカイは無意識に息を吸った。風を追い越すために風を取り込むように。

 

「っ!」

 

 そして息を吐くと同時に目を見開き、セイウンスカイの体が加速を始めた。それは彼女が一着を取った際に見せた“ゾーン”と呼ばれる状態だ。

 疲れ切っていたはずの体に活力が戻り、自然と体が加速していく。力尽きそうだった体に力が湧き上がり、生命の息吹が吹き渡るかのように速度をトップスピードへと押し上げてセイウンスカイはトップ争いへと舞い戻ろうとしていた。

 

 一方先頭争いは遂に動きを見せていた。

 

『粘るダイワスカーレットをかわして、ここで先頭はトウカイテイオーに代わったっ! そのまま差が1バ身から2バ身とどんどん開いていくっ!』

「まだよっ! まだ終わってないわっ!」

 

 必死に抜き返そうとするダイワスカーレットだが、その横を一瞬で何かが通過する。

 

『お~っとここでスペシャルウィークっ! スペシャルウィークが来たっ! ダイワスカーレットを抜き去り一着目指して凄まじい末脚だっ! 皐月の借りを返そうとするかのような疾走ですっ! キングヘイローも来ているが伸びが足りないかっ! スペシャルウィークとトウカイテイオーの距離は3バ身から4バ身っ! それがグングン縮まっていくっ! まだ分からないっ! 残りは400を切ったっ!』

 

 見ている者達全員が息を呑んだ。それは何もレース状況にではない。スペシャルウィークの末脚の凄さに、である。

 たしかに3バ身はあったはずの差をあっという間に縮めてしまおうとしていたスペシャルウィーク。その凄さは、後ろを振り返ったトウカイテイオーが視界に映った光景に思わず目を見開く程だった。

 

(嘘でしょっ!? 皐月賞の時よりも速度が上がってるのっ!?)

(あの時は届かなかったけど今回は……っ!)

 

 たった400m。されど400mである。その差が、何よりも皐月賞から今までの時間が、あの時届く事がなかった末脚を帝王の背中へ届かせようとしていた。

 

『白熱する日本ダービーっ! 内にテイオーっ! 外にスペシャルウィークっ! キングヘイローが現在三番手っ! ダイワスカーレットはジワジワと先頭から離されているっ!』

(これが、皐月賞で入着してここへ来たウマ娘の実力なのっ!? だけど諦めないっ!)

 

 不屈の精神で走るダイワスカーレット。そんな彼女へレースの神は容赦なく洗礼を浴びせた。

 

『ダイワスカーレットが再び前へ近付いていくがその後ろからセイウンスカイが来ているぞっ! っ?! セイウンスカイっ!? セイウンスカイが再び伸びてきたぁっ!?』

「何ですってっ!?」

「スペっ! キングっ! セイっ! 行けぇぇぇぇぇっ!!」

 

 思わぬ展開にどよめきと歓声が上がるゴール前。トレーナーはその喧噪の中で声を枯らす勢いで叫ぶ。

 

『二冠を目指すトウカイテイオーへスペシャルウィークっ、キングヘイローっ、そしてセイウンスカイが襲いかかるっ! ダイワスカーレットも粘っているがトップは四人で争われる事になりそうですっ!』

「くっ……こうなったらせめて入着だけでもっ!」

 

 ゾーンに入っているスペシャルウィークなどと違い、ダイワスカーレットはその状態ではないために冷静に狙いを一着から入着へと切り替える。

 

(でも、せめて今後のためにあんた達の走り、じっくりと見せてもらうんだからっ!)

 

 ただで負けてやる程殊勝じゃない。そんな気持ちでダイワスカーレットは徐々に遠ざかっていく四人を見つめた。

 

『ここでスペシャルウィークがテイオーへ並びかけるっ! その差が半バ身まで迫ってきたっ! 皐月では1バ身残った距離を縮めてきたぁっ!』

(抜かせないっ! 抜かせたくないっ! もう負けるのはやだっ! もうあんな悔しさはやだっ! ボクは、皇帝を、カイチョーを超えるんだぁっ!)

『ここでテイオーがまた伸びるっ! 帝王の意地が差そうとするスペシャルウィークを寄せ付けませんっ!』

(そんなっ!? また届かないのっ!?)

 

 土壇場になってトウカイテイオーが負けたくない一心で速度を上げた事により、スペシャルウィークの伸びを僅かではあるが上回る。それでもスペシャルウィークは諦めずに走り続ける。あと半バ身が遥か彼方にも感じながら。

 

『さぁ! 栄光はただ一人ですっ! 残り200となろうとしていますっ! 先頭は僅かにトウカイテイオーっ! スペシャルウィークもまだ諦めていないっ! その後方から来るのはキングヘイローだっ! セイウンスカイもいるぞっ!』

「今度こそ届いてっ!」

「王者の走りを見せてあげますわっ!!」

「風を追い越すよっ!」

「夢を掴むんだっ!!」

『残り200を切ったところでキングヘイローが更に加速っ! セイウンスカイも二の脚が衰えないっ! スペシャルウィークだけじゃないぞと王者と青天が帝王を狙って駆けてきたぁっ! ここでスペシャルウィークが並んだっ! 並んだっ! いや四人が横並びっ! 四人が横並びっ! けれど勝者は一人っ! 一人ですっ!』

「勝つのはボクだっ! ボクなんだぁぁぁっ!!」

 

 その時、トウカイテイオーの中で何か亀裂が入るような感覚が走った。ただそれを上回る程の興奮と気迫がすぐにその感覚を吹き飛ばしてしまう。

 

『テイオー僅かに先頭かっ! スペシャルウィーク粘るっ! キングヘイロー届くかっ! セイウンスカイも負けてないっ! 火花散らす東京レース場っ! 日本一の座を競って四つの想いが激突しているっ! 内にテイオーっ! 外にスペシャルウィークっ! 最内からはキングヘイローっ! 大外にはセイウンスカイだっ!』

 

 四人の視線はそれぞれ異なっていた。ゴールを見つめるトウカイテイオー。ゴールの先を見つめるキングヘイロー。空を見つめるセイウンスカイ。

 

 そして、トウカイテイオーを見つめたスペシャルウィーク。

 

(また負けたくないっ!)

 

 皐月賞では遠かった背中が今回はもう目の前にある。そう思って残る力を全て振り絞るように、スペシャルウィークが何とかトウカイテイオーに勝ちたいと思った事で体が更に前傾姿勢となった。

 

『二冠の夢かっ! 再戦の意地かっ! 夢と意地のぶつかり合いっ! 今スペシャルウィークがテイオーと並んでゴールインっ! 僅かに遅れてキングヘイローとセイウンスカイかっ! 三着はそのどちらかでしょうが一着は分からないっ! 皐月のリベンジなるか! あるいは三冠へ王手をかけるのかっ!』

 

 誰もが固唾を飲んで一点を見つめる。それは掲示板だ。そこに着順が表示されるのを今か今かと待ちわびていたのだ。

 その間に続々とウマ娘達がゴールを通過していく。全てのウマ娘がゴールしたのを合図にしたかのように、やがて掲示板に下から着順が表示され始める。

 それにつれてトウカイテイオーやスペシャルウィークの表情が緊張感を増していく中、遂にそれは明らかになった。

 

『一着は……トウカイテイオーっ! 二着スペシャルウィークとアタマ差、三着は同着でキングヘイローとセイウンスカイですが、そちらも二着とアタマ差という大接戦っ! ですがこれでトウカイテイオーは無敗の二冠達成っ! 宣言達成まであと一つと迫りましたっ!』

(今回は危なかったね……)

 

 肩で息をしつつ掲示版を見つめるトウカイテイオー。彼女にとって今回はまさしく薄氷の勝利だった。

 何せ最後の瞬間にスペシャルウィークの体勢が崩れた事で頭が下がっていなければ、ダービーの栄冠はトウカイテイオーの頭上には来なかったのだから。

 

(日本一に、なれなかったや。あとちょっと、ちょっと、だった……のに……っ)

 

 二人の母に誓った夢。それが叶えられる手前で届かなかった。そう思って涙を浮かべるスペシャルウィークだったが、その微かに震える両肩をそっと二つの手が押さえるように触れる。

 

「スペちゃん、まだだよ。まだ日本一への道は残ってる。だから泣いちゃダメ」

「ぐすっ……セイさん……?」

「そうよ。まだジャパンカップがあるんだから。だから顔を上げなさい」

「キングさん……」

 

 日本ダービーには出場条件の中に選手のデビューからの年数制限があり、それもあって一部の有力ウマ娘が出ていない。故にダービーで勝つ事が日本一とは言い難い面があった。

 それだけではない。ジャパンカップには外国の強いウマ娘も出場する。そこで一着となる事は単に国内だけに留まらない評価にも繋がるのだ。

 

 つまり、本当の意味での日本一はジャパンカップを制してこそと暗に二人はスペシャルウィークへ告げていた。

 

(そっか……。まだ、まだ私が日本一のウマ娘になれる道は残ってるんだ)

 

 もう涙は止まっていた。失ったはずの夢。破れたはずの夢。それへまだ手を伸ばせるのだと知ったスペシャルウィークは目元を拭い顔を上げる。消えかけた闘志と希望の灯を静かに燃やし始めるように。

 

 そうやってスペシャルウィークが仲間二人から励まされていた頃、トレーナーはその場から動き出していた。

 向かう先はウマ娘達の控室である。けれどそれは自分の担当を出迎えるためではないし、ましてや労うためでもなかった。

 

(まただ……。またトウカイテイオーがゴールした瞬間に天の声が聞こえた)

 

 あの接戦が決着した瞬間、彼の脳裏にあの声が聞こえたのだ。

 

――テイオーの調子が下がったな。

 

 その言葉の意味が自分の想像通りか確かめるため、トレーナーは真剣な表情で熱気渦巻くその場から一人静かに立ち去るのだった。

 

(もし俺の想像通りならライブなんてさせられないっ!)

 

 最悪の事態を少しでも回避させるために……。




ちなみに五着は二番人気のゴルシでした。彼女のゴール時にあったやり取りはこちら。

「んだよ~。もう終わりか? あと800あれば逆転出来たんだけどなぁ」
「何なのよあんたっ! あたしのGⅠ初入着を阻止すんじゃないわよっ!」
「あ~、そっかそっか。ダービーだもんな。こりゃ仕掛けるのが遅かったな」
「ちょっとっ! 人の話を聞きなさいよっ!」
「おっ、着順がそろそろ出るみたいだな~。なっなっ、お前は誰が一着だと思う?」
「だからっ!」
「やっぱここは大本命の黒い旋風かな? あるいは不屈の闘将?」
「誰の事よそのウマ娘っ! て言うかそんな異名も聞いた事ないってのっ! トウカイテイオーかスペシャルウィークでしょっ!」
「成程、やっぱり白い奇跡か」
「人の話を聞きなさいよ~っ!」

ダイワスカーレットに“ゴルシ△”が付きました。
ちなみに白い奇跡はミドリマキバオー、黒い旋風はカスケード、不屈の闘将はアマゴワクチンです。


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三冠か無敗か、あるいは……

前回の話について色々なご意見があるようですが、こちらからはもうこれだけです。
トレーナーが天の声を聞けず、また過去のトラウマなどなければ、彼がしていたのは真っ先にスペ達へ心からの労いの言葉をかける事でした。


「ライブには出るな。今すぐ病院へ行くぞ」

 

 レースを終わってライブのためにひかえ室へ戻ってきたらスペちゃん達のトレーナーさんが立ってて、ボクの顔を見るなりどこかこわい顔になってからそんな事を言ってきた。

 

「なんで?」

「お前の体には、いや足には問題がある。今は自覚症状がないかもしれないが間違いないんだ」

「どうしてそんな事が分かるのさ?」

「天のお告げだよ。実際、それで俺は誰も気付いてなかったシンボリルドルフの調子が良くない事を当ててみせた事がある」

 

 そう言われて思い出した。夏合宿の時、カイチョーがボクへ話してくれた事の中にそれはあった。

 

――そうだ。今朝、あのサクラバクシンオーのトレーナーだった男性に会ったんだが、彼は優秀だぞ。何せ私の不調を見抜いてみせたんだ。

――ウソっ!? カイチョー、調子良くないの?

――絶好調とは言えないな。

――気付かなかった……。

――私も悟られないと思っていたんだが、彼は天のお告げとやらで気付いたらしい。

――え~? ウソくさいなぁ。

――それが嘘だったにせよ、だ。彼が私の事を見抜いた事に変わりはない。だから優秀だと言ったんだ。

 

 誰も気付かなかったカイチョーの事を一人だけ見抜いた人。それがボクの足に問題があるって言ってきた。でもボクにはそんな感じはない。

 

「信じられないか? もしこれで何もないならいい。でもな、もしこれで本当にお前の足に問題があってみろ。お前の目指す三冠どころか今後の選手生命が危うくなるんだぞ?」

「選手……生命……」

 

 ズキンっと、胸が痛くなった。もしホントにボクの足に問題があって、それがレース中に出たら間違いなくボクはもう二度と走れなくなる。

 でも、でも問題があるってなったら菊花賞には出られないかもしれない。せっかくここまで無敗で来たのに、三冠の夢をあきらめるしかなくなるんだ。

 

 思わずギュっとこぶしを握った。もう走れなくなるなんてやだ。でも三冠をあきらめるのもやだ。

 

「とにかく、今日のライブは止めておいた方がいい。いや、止めておいてくれないか? 俺が関係者へは連絡しておくから。頼むっ! この通りだっ!」

 

 大人がボクへ頭を下げて両手を合わせてるのを見て、不思議と、本当にこの人はボクの事を心配してるんだと感じた。

 だってボクは担当じゃない。むしろスペちゃん達を負かした相手だ。それがいなくなった方がこの人にとっては都合がいいはずなのに。

 

「ねぇ」

 

 だからかな。気付いたら口が勝手に動いてた。

 

「どうしてそこまでボクの事を心配するの?」

「もう俺は嫌なんだ。ウマ娘が走ってる最中に突然痛みに苦しみ出して、普段は見せない様な酷い走り方になってっ、倒れちまってっ! もう二度と走れなくなるなんてのは嫌なんだよっ!」

 

 その言葉がボクの胸を貫いた、気がした。思い出したからだ。この人は昔ウマ娘を故障させて引退させた事を。

 だからボクはこの人がゆうしゅうなんじゃないかって話が信じられなかった。ゆうしゅうならどうしてそんな事になったんだって思ってたから。

 

 だけど、今分かった。それがあったからこの人はゆうしゅうになったんだ。ううん、ゆうしゅうになろうとしたんだ。

 

 同じ事を繰り返さないようにって。同じ悲しみを繰り返さないようにって。

 

「……分かったよ。ひかえ室で大人しく待ってる。だからメンドーな事は全部よろしくね」

 

 ここまで言われたら、少しだけ付き合ってあげよう。それで何でもなかったってなったら、その時はたっくさん甘い物をゴチソウしてもらえばいいや。

 

「ああ、それは任せろ。すまんが少し待っててくれ」

 

 そう言うなりあの人は走り出してボクが来た方へ走って行った。

 でも途中でスペちゃん達とすれ違って少しだけ話をしてまた走り去る。

 いそがしいなぁって思うけど、ボクのためだと思うと何だか少しだけうれしい。

 

「テイオーさん、トレーナーさんがライブに出られないって言ってましたけど……」

「体調でも悪いの?」

「うん、ちょっと無茶し過ぎたみたいでさ」

「そうなのね……。でもどうしてそれでトレーナーが?」

「えっと、ここでスペちゃん達を待ってたんだって。で、そこにボクがフラフラと来たもんだから気になったんだって。それでじじょーをせつめーしたんだよ。で、そういう事ならって」

「あ~、トレーナーらしいや。自分の担当とか関係なく動く辺りが」

「そうですね。スズカさんの事も、ある意味そうだったですし」

「スズカ? スズカってサイレンススズカ?」

「ええ。彼女が逃げウマ娘として戦うようになったのは、元を正せばわたし達のトレーナーが切っ掛けよ」

 

 思わず目をパチクリさせた。あのスゴイ逃げウマ娘のたんじょうにもあの人って関わってるの?

 

 とりあえずローカで長話もなんだし、スペちゃん達はライブがあるからってボクらはそこで別れた。

 ボクはひかえ室で大人しくあの人を待つ事にした。正直言えばライブをやりたいし、せめて見るぐらいはしたかった。

 

 でも止めておいた。

 

「あんな風にしんけんな大人の声、初めて聞いたなぁ……」

 

 ボクの足に何も問題なかったらどうするんだろうって、そう思わないでもない。だけど、こうして冷静になって思い返してみると心当たりのようなものはある。

 

「あの時……」

 

 スペちゃん達に並ばれて、負けたくないって気持ちでそれまで以上の気持ちで足を動かした瞬間、ピシって嫌な感じがした。

 もしかして、あれがそのサイン? じゃあ、やっぱり僕の足には問題が起きてる?

 

 そうやって考え出したらこわくなってきた。思い出してみれば、皐月賞が終わって三日としない内に担当さんがやってきて、ボクに検査を受けてくれって言ってきた。

 あの時はボクも“いわかん”なんて感じてなかったし、むしろゼッコーチョーだよって目の前で走って見せて帰ってもらったけど、あれってもしかしてあの人がボクのために手を回してくれたのかな?

 

 だっていつもは、担当さんは一週間に一度かレース前日とレースの次の日しか会いに来ない。まぁそれはボクが望んだ事なんだけど、あの時はそうじゃなかった。

 

「……ボクは、もしかしてとんでもない事しちゃったのかな?」

 

 あそこで検査を受けてたら、こんなこわい思いはしないですんだ? で、でも、そうしたらダービーには出られなくなって、三冠どころか二冠も無理で……

 

「っ」

 

 そんな事を考えてたらドアがノックされた。

 

「だ、誰?」

「俺だ。セイ達のトレーナーだ」

「あ、開いてるから入って」

 

 聞こえた声にホッとする。ゆっくりと開いたドアの先にはあの人が立ってた。

 

「着替えてなかったのか?」

「あ、うん」

 

 言われて気付いた。ボク、まだ勝負服のままだ。

 

「まぁいいか。すぐに病院へ行くぞ。お前さんの担当へは事情を説明して許可を取ったし、スペ達にも許しは得た」

「許し?」

「ああ。形はどうであれ三人揃ってライブのメインを張るからな。なのにそれを見ないなんて担当失格って言ってもいいだろうが、お前さんを念のため病院に連れていくって言ったら許可してくれたよ。キングなんて、自分達がメインのライブは本当の形で叶える時まで見せてやらんと言ってくれたぐらいだ」

 

 言われてそういう事かって分かった。スペちゃん達は二着と同着の三着だ。ボクがいなくても三人はそのままライブのメインだね。

 でも、それよりもボクをユーセンするなんて……これ、やっぱりそうなんだ。うん、ならボクもあの事を言わなくっちゃ。

 

「あの、実はさっきのレース中にね……」

 

 ボクの話をあの人はだまって聞いて、申し訳なさそうな顔をした。

 

「すまん。俺がもっと強くお前にその可能性を言ってやれば……」

「ううん、いいんだ。皐月賞の後で話してた時、ボクの事じっと見てた時あったよね。あれって、そういう事、だったんじゃない? ボクに異常がないかたしかめてたんでしょ?」

「……ああ。でもあの時はサインがなかったんだ。いや、正確にはもうそういうサインが聞こえなかった。去り際の走り方にも異常らしいものはなかったしな。だから気のせいかと思ったんだが、念のためにって思ってお前さんの」

「担当さんへ教えてくれた、でしょ? ごめん。その検査の話、ボクが断ったんだ。必要ないって」

「……そうか。とにかく異常らしいサインもあったからには急いで診てもらった方がいい。っと、そうだ」

 

 突然あの人はボクへ背中を向けるようにしゃがんだ。これって……。

 

「あまり歩かない方がいいだろう。おぶってやるから乗れ」

「いいの?」

「出来るだけ足に負担をかけない方がいい。さすがにここまでタクシーに来てもらう訳にもいかないしな」

 

 そうしてボクはおんぶしてもらってタクシーまで連れてってもらった。

 向かった病院で検査してもらった結果、ボクの足はやっぱり危ない状態に近付いてたらしい。

 

 そこで、お医者さんから言われたのは……

 

「菊花賞は……出られない?」

「正確には、出る事が出来てもおそらく勝負になりません」

 

 それは、ボクに夢をあきらめろって言ってるのと同じだった……。

 三冠へ挑むのならそれは無敗まであきらめろって事だから……。

 

「つまり菊花賞までは絶対安静、って事ですか?」

「そうではありません。日常生活程度なら問題なく過ごせます。ただ、今のトウカイテイオーさんの足の状態では練習は許可出来ないのです。比較的軽度の疲労骨折だとは思いますが、いや危ないところでした。これで激しい動きを行っていたら、間違いなく半年は松葉杖が手放せなかったでしょう」

「ライブで踊る事、でも?」

「それでも可能性はあったでしょう」

 

 思わず隣の人へ顔を向けると向こうもこっちを見ててボクへ小さく頷いた。

 ホント感謝しかない。最悪の結果だけは何とかならずにすんだから。

 

「ではいつ頃なら練習の許可を出せますか?」

「ウマ娘の体に関しては未だに不明な点も多いので断言は出来ませんが……どれだけ早くても二か月、いや三か月は様子を見た方がいいでしょう。しかも、例え許可を出せたとしても、トレーニング内容によってはまた同じような状態になる可能性は高く、下手をすれば悪化する事もあります」

 

 耳に入る情報がボクの希望を消してく。そもそも三か月後じゃ菊花賞まで二か月あるかないかだよ。

 その間、ライバル達はみんなトレーニングをして仕上げてくる。人によってはたった三か月って思うかもしれないけど、ボクらウマ娘にとっては三か月も、なんだ。

 

 それなのに、その後のトレーニングさえも不安が残るなんて……。

 

「分かりました。トウカイテイオー、聞いてたな?」

「……うん」

 

 あきらめるしかない。三冠の夢は、かなわないって。カイチョー、ごめんなさい。約束、守れなかった……。

 

 うなだれるボクを見つめる視線を感じる。お医者さんとスペちゃん達のトレーナーさんのだ。

 どっちも、多分だけどボクを心配してる。でも今のボクには明るくふるまうだけの力がない。

 少しの間そうやってみんなだまってた。きっと何て言ったらいいか分からないんだろうな。

 

「あのっ、大事を取って今日はこちらで入院させてもらえますか?」

「え、ええ。それは構いませんよ。こちらとしても、二冠ウマ娘のお世話を出来るとなれば職員も喜ぶでしょう」

「ありがとうございます。そういう事だから俺は色々と連絡して用意を整えてくる。お前はここで大人しくしてるんだぞ?」

「……うん」

 

 そのままボクは言われるままに病室へと車いすで移動する事になった。ただ勝負服のままだと目立つからって入院着、でいいのかな? そんな感じの物へ着替えたけど。

 

 ボクが与えてもらった部屋は個室だった。何て言うか、久しぶりに一人部屋だから妙な感じがした。学園の寮は相部屋だからかなぁ。

 

「…………これからどうなるんだろう」

 

 ベッドに横になって天井を見つめて考える。最低でも三か月はトレーニング出来ない。しかもヘタしたら走れなくなるかもしれないんだ。それを何とかしても菊花賞で勝てる可能性は低いし、万全にするなら三冠はあきらめるしかない。

 

 でも、そうすればボクは無敗のままだ。無敗の、ままだ……。けど……っ!

 

「そんなのボクが望んだものじゃないっ!」

 

 ボクが望んだのは、望むのはっ、ただの無敗じゃなくて無敗の三冠ウマ娘だっ!

 決してただ負けなかったウマ娘なんかじゃないっ! それならいっそ戦って負けた方がマシだっ!

 三冠に挑んで、それで誰かに負ける。それならボクもまだあきらめがつくけど、勝負さえ出来ないで終わるなんてやだっ!

 

 やり場のない怒りが込み上げてきて、だけどそれをぶつける事も出来ないままボクはこぶしを握るしかない。

 そして目の前がにじんだ。ナミダが出てきたんだって、そう気付いたからボクはひっしに声を出さないように口をキツク閉じた。

 ついでに目まで閉じたのはしょうがない。でも、そのおかげで気付いたら眠ってた。どうして分かったかと言えば、目を開けたらそこにはあの人がいて、明かりがついてたから。

 

「よる……?」

「ああ、もう午後八時近くだ。面会時間ギリギリだよ。しかしよく寝てたな。まぁレースでの肉体的な疲れと状況説明による精神的な疲れのダブルパンチだ。むしろ寝ない方がおかしいか」

 

 あの人はボクのすぐそばに置いてあったイスへ座ってた。ボクを見る目がカイチョーみたいにやさしい。

 

「さて、目覚めたばかりで悪いんだが聞いて欲しい事がある。大事な事だ」

「何?」

「まずは、お前さんの今後だ。学園からそう遠くない場所にある病院にウマ娘を専門にしてる医者がいるそうだ。あの医者が紹介状を書いてくれた。そこへ今後は通院する事になる。次はお前さんが寝てる間に学園へ連絡して事情を説明した。当然お前さんの担当トレーナーにもだ」

「そっか……」

「で、シンボリルドルフから伝言を預かってる。お前の選手人生だ。好きにしてくれて構わない、だとさ」

「……そっか」

 

 カイチョーらしいや。きっと約束の事を気にしてボクが無理するんじゃないかって思ったんだ。でもそうしてもいいって、そうカイチョーは言ってくれてる。ボクの好きにしろって、そういう意味だ。

 

「で、担当からは、いや……」

 

 そこであの人は申し訳なさそうな顔をしてほっぺたをかいた。

 

「元、担当になるかもしれないな。どちらにしろ、あちらさんは何か出来る事があればいつでも力を貸してくれるそうだ」

「ちょっと待って」

 

 今、聞き流しちゃいけない言葉が聞こえた。この人、元担当になるかもって言ったよね?

 

 そこであの人は話してくれた。ボクの状況を知った担当さんは自分が検査をちゃんと受けさせなかった事をコーカイしたみたい。しかもボクはトレーニングが出来ないって事になった。

 で、このままじゃ責任問題になると考えたスペちゃん達のトレーナーさんは、自分が強く言わなかったしそもそもボク自身が拒否したせいでもあるからって担当さんをフォローして、学園の方にもそういう方向で話を持っていったらしい。

 

「まぁ、そういう事ならと学園長も理解をしてくれたようでさ。あちらさんも俺も厳重注意で手打ち。で、話はここからだ。俺がかつて担当ウマ娘を故障で引退させてるのは知ってるか?」

「う、うん……」

「……そうか。その結果、俺は周囲からの評判を大きく下げる事になった。あちらさんもそれを危惧してるだろうと思ってな」

 

 無理もないと思う。そこまでの流れがどうだったよりも結果が大事なのはレースも一緒だから。

 ボクが検査を必要ないって言ったとしても、結果としてボクがこうなってる以上は担当さんの責任になるって。

 

「お前さんの怪我はそこまで深刻じゃない。ただし、それは生きてく上でだ。レースへ復帰しても、以前と同じように走れるか、走れたとしてまた同じ事にならないかは保証出来ない。そうなれば、今後トウカイテイオーがレース中に故障しようと、今回の事が原因で負け続けようと、責任は全て表向きの担当トレーナーが背負う。俺は一度どん底に落ちた奴だから冷たい目には慣れてるけど、あっちはそうじゃないだろ? しかも専属でもなければ本格的な担当でもなかったんだ。だから、俺は一つだけ頼み事をした」

「頼み事?」

「ああ。お前さんにある事を決断してもらって、その答え次第ではお前さんの担当を俺に引き継がせてくれってな」

「答えしだい……?」

 

 どういう事だろう? そう思って首をかしげた瞬間、あの人がボクをキリっとした顔で見つめてきた。

 

「トウカイテイオー、お前に聞きたい。万全を期して治療に専念し無敗を貫くか、負けると分かっていても三冠へ挑戦するか、あるいは全てを失う覚悟でその両方を目指してみるか、だ。お前は、その中ならどうする?」

 

 間違いなく、その瞬間ボクは目を見開いた。あきらめるしかないと思ってた。もう無理だって思ってた。

 だけど、だけど目の前の人は、ボクにそれをしなくてもいいぞって言ってきた。ただし、それを選ぶ事はとっても辛くて苦しいぞって言ってる。

 

「い、いいの……? 両方、ちょうせんしても……」

「ああ」

「三冠も、無敗も、めざしていいの?」

「ああ」

「ボク、あきらめなくていいの?」

「お前がそうしたくないって言うなら、それを全力で支えてやるのがトレーナーだ。まぁ今回みたいなケースだと俺だけかもしれんがな。大抵はお前の体を案じて治療を優先するだろうし」

「じゃあ、何でキミは?」

「俺は、ウマ娘達にずっと笑ってて欲しいんだ。最後の最後まで笑顔でいて欲しい。だから、そいつが本当にやりたい事をやらせてやりたい。例えそれが周囲からは止められる事でも、本人がやりたいと言うのなら俺だけはそれを応援してやりたいんだよ」

 

 じわっと目の前がぼやける。あぁ、そっか。ボクは、ボクはきっと待ってたんだ。

 ボクの事を、ゼントユウボーだからとか、才能があるからとか、そういう事抜きに見つめてくれて、一緒に頑張ろうって言ってくれる人を……っ。

 

「それで、どうする? お前はこれからどうしたい?」

「っく……あきらめっ……たくないっ! りょうほうっ! めざしたいっ!」

 

 ナミダがボロボロ出てくる。でもそれはうれしいナミダ。カイチョーとの約束をはたせるかもしれないって、夢をつかめるかもしれないって、そう思って流れちゃうナミダだから。

 

「分かった。なら、まずは医者の許可が出るまで治療に専念だ。許可が出たら、俺が天のお告げを頼りに慎重にトレーニングを開始する。お前が自覚してない時から不調を見抜いたお告げだ。それなら上手くすれば最悪を回避してトレーニングを出来るかもしれん。ただ、下手すればレース前にお前さんの選手生命が終わるかもしれないが、それでもいいんだな?」

 

 力いっぱい頷いた。もう声も出せない。それぐらい、うれしかった。

 約束は守れないかもしれない。三冠は取れないかもしれない。無敗でもなくなるかもしれない。何より走れなくなるかもしれない。

 

 でも、でもっ、あきらめないでいいんだって、そう言ってくれたから。ボクにその道を見せて、選ばせてくれたから!

 

 一緒に頑張ろうって、そう言ってくれる人と出会えたからっ!

 

「よし、ならお前の答えは担当トレーナーへ伝えておく。で、明日からは俺がお前の担当だ。よろしくな、トウカイテイオー」

「うんっ! よろしくっ! トレーナーっ!」

 

 もうゼッタイあきらめないっ! ボクは、帝王なんだっ! 皇帝を超えるのは、ボクなんだからっ!




今後、トレーナーは天の声という助けがなければ誰も出来ない芸当をする事になります。


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取り戻すモノ、乗り越えるモノ

テイオーとスズカの事がメインの話、ですかね。


「「「テイオー(さん)がチームメイトになるっ!?」」」

 

 ダービーの翌々日、俺はトウカイテイオーを連れていつものようにチーム用の小屋前へ行った。

 そこで待っていたセイ達は俺がトウカイテイオーと一緒にいる事に揃って疑問符を浮かべたので、これからチームメイトになると伝えたらこの通りだ。何というか予想通り過ぎて思わず笑みが浮かぶな。

 

「おう、そうだ」

「よろしく~」

「わぁ! じゃあ今日は歓迎会ですねっ!」

「だねぇ。キング、どこでやる?」

「食堂、だと迷惑になるし時間もあるから……いつもの場所ですわね」

「あのっ、今日はテイオーさんが入った事ですし、模擬レースをやるって言うのはどうでしょうっ!」

「いいね~。皐月やダービーの借りをここで返しちゃう?」

「公式戦でないのは残念ですが、このキングの凄さを今度こそ思い知らせるには絶好の機会ですわ」

 

 何というか歓迎ムードが凄いな。もう少し荒れるかとも思ってたんだが……。

 何せトウカイテイオーは皐月賞と日本ダービーでセイ達を阻んだ相手だ。それをこうもあっさりと迎え入れるとはなぁ。

 

「こらこら、はしゃぐ気持ちは分かるが、トウカイテイオーはまだトレーニングは出来ないからレースは諦めてくれ」

「「「トレーニングが出来ない?」」」

「あ、うん。その、普通にしてる分には平気なんだけど、走ったりはまだ止めておいた方がいいって言われてるんだ」

「そういう事だ。なのでしばらくはマネージャーに近い事をしてもらう。まぁ、俺の手伝いだな」

「そーゆー事。スペちゃん達を見てて気付いた事はどんどん言ってくからね」

 

 明るく振舞ってはいるが、内心はどうなんだろうな。天の声は調子が良くないしか言ってくれないし……。

 

“テイオーの調子は良くないな”

 

 これだ。多分だがまだトレーニング出来る状態じゃないんだろうな。逆を言えばこれが変わればトレーニング可能って事か。

 とにかく今は焦らず待つしかない。出来る事を一つ一つこなしながらトウカイテイオーの事を考えないとな。

 

「よし、じゃあトレーニングを始めるぞ。スペとキングは」

「ちょ~っとまったっ!」

 

 って思っていたらそのトウカイテイオーから待ったがかかった。

 

「どうした?」

「今気付いたけど、何でスペちゃん達は愛称呼びでボクだけフルネーム? そこ、差別されてるみたいでなんかやだ」

「あ~……」

 

 セイ達からも言われた事だが、やっぱり呼び方は統一すべきか。

 

「分かった。いや、そういうのは本人の許可なく出来ない性質なんだよ。と言う訳で、ありがとなテイオー」

「そうそう、ちゃんとボクもスペちゃん達と同じにあつかってよね」

 

 満足そうに笑うテイオーは本当にまだまだ幼い少女って感じだ。でもこれがレースとなると凄まじい迫力と鋭さを見せるんだから分からないよな。

 

 その日のトレーニングはセイがスタミナ、スペとキングはスピード重視のトレーニングとした。

 皐月賞と日本ダービーで見えた足りない部分を重点的に鍛える方向だ。セイはやはり体力だ。それさえあればサイレンススズカのようにとはいかないが、あれと競り合える逃げウマ娘になれる可能性はある。

 スペとキングはやはり速度だ。最高速を今よりも上げる事が出来れば、終盤の差しがより強力に、強烈になる。

 

 テイオーは俺の傍でスペ達へ真剣な眼差しを向けていた。だがそれには良くないものを含んでいると気付いて、俺は横にいる見習いマネージャーへ小さく声をかける事にした。

 

「焦る気持ちは分かるが我慢してくれ」

「トレーナー……」

「目の前にいるのは菊花賞でぶつかる事になるライバルで、しかも皐月とダービーでお前の一着を阻みそうになったスペがいる。それがダービーよりも速くなろうとしてるのに、自分はゆっくりと衰えていくんだって思うと焦る気持ちしかないのは分かる。だが、それでもお前はここに来たいと、いたいと言ったんだ。なら、まずは自分に勝て。焦ってレースにさえ出られなくなる事をしたいと駄々をこねる自分に」

「自分に……勝つ……」

 

 今のテイオーに必要なのは何が何でもメンタルケアだ。無敗の二冠ウマ娘ってだけでもかなりの重圧なのに、そもそもこいつは無敗のまま三冠を取ると宣言してる。それがあと一歩まで来ての現状だからな。

 俺がこいつにまずしてやれて、そしてしないといけないのは精神面を支えてやる事だ。必ず生まれる焦りを常に軽減し、大丈夫にするための方法を考えないといけない。

 

「菊花賞に出るためにお前がまず勝たないといけない相手は自分だ。少しでも早くトレーニングを始めたい気持ちは分かるし、走ってみたい気持ちも分かる。だが、それはまだ駄目なんだ」

「……うん」

「お前が目指す道は確実に険しく厳しい道だ。しかも、それを抜けた先に栄光があるとは決まってない」

「うん」

「だからこそ、お前が最初で最後の挑戦者で成功者になってみせるんだ。復帰レースに重賞を、しかも三冠レースを選ぶ奴なんていないし、しかもそこで一着を狙うなんて前代未聞もいいところだからな」

「うんっ!」

 

 返ってきた声が明るく、それでいて焦りの消えたものだと感じられて俺はチラリと横へ目を向ける。

 テイオーは先程よりも純度の増した眼差しでスペとキングの事を見つめていた。

 

“テイオーの調子は良くないな”

 

 それでも聞こえてくる声は変わらない、か。やっぱりまだトレーニングを開始する事は無理って事だ。

 分かってはいるが、焦らないようにするのは俺もだろうな。最悪菊花賞で勝てなくても、テイオーが走り続ける事が出来るようにしないと。

 

 ……でも、テイオーの望みはそうじゃない、んだろうな。こいつは無敗の三冠ウマ娘になりたいんだ。

 シンボリルドルフを慕ってるらしいし、きっとあいつの戦績を超えたいんだろう。そのための最低限が無敗での三冠、か。

 

 そしてそれが叶ったら次はGⅠで七勝以上ときてる。もしそれを塗り替えたら間違いなくテイオーはルドルフを超えたと言える。

 

「なぁテイオー」

「何?」

「お前の夢、叶うように全力を尽くすよ。だから絶対焦るんじゃないぞ?」

「……うん、ありがとね、トレーナー」

 

 その声は噛み締めるようなものだった。それと、どこか嬉しさのようなものが滲んでいるようにも思えた。

 

「そういえばさ、何でスペちゃん達にあの事言っちゃダメなの?」

 

 あの事とはズバリ天の声だ。俺がその事を話したのは皇帝とテイオーの二人だけ。まぁそれも前者には迂闊にも、後者には仕方なく教えてしまったのだが、やはりこれは知らせない方がいいと思うんだ。

 特にセイには。スペやキング、テイオーまで聞こえているのに自分だけそれが聞こえないなんて、どう考えても良くない事に繋がるとしか思えないからな。

 

「テイオー、お前はこれまで一人でトレーニングをしたり、あるいは考えたりする事があっただろうから分かるかもしれないが、自分で考えるって事は大事だろ?」

「うん」

「……俺が天のお告げを聞けるなんてなったら、あいつらは俺の指示の意味を考えなくなるかもしれない。つまり自分で考える力を育てなくなる可能性があるからだ」

 

 限りなく低いとは思うし、これもセイへ自分が天の声の対象外だと知られないための方便だ。けれど決してないとまでは言い切れない部分はあると思う。

 

「ナルホドね。スペちゃん達のため、かぁ」

「だからくれぐれも内緒にしておいてくれ」

「ん、りょ~かい。トレーナーの言いたい事も分かるからさ。だまっておく」

「頼む」

 

 これがテイオーが俺達のチームへ合流した初日の出来事。で、トレーニングが終わって夕食後、あいつらは小屋で歓迎会を行ったらしい。

 俺はさすがに参加は出来なかった。というのもテイオーの事で色々と片付けないといけない事があったためだ。

 

 まずは担当引き継ぎの最終手続き。学園長から気を付けてやって欲しいと頼まれ、シンボリルドルフからはテイオーを頼むと言われた。

 

 次はテイオーを担当していたトレーナーとの打ち合わせだ。これはテイオーの事と直接関係はないんだが、セイ達のトレーニングもそろそろ三人だけじゃなく他のウマ娘を、つまり仲間ではない相手と一緒に走る事をさせたいと思っていた。

 そこで早速頼らせてもらおうと思ったのだ。併せウマ娘というやつだが、普段レースでしかチーム外の相手と走る事はないからいい刺激になるだろう。

 

 ただしそれもテイオーがトレーニングを開始して走る事が出来ると分かってからだ。

 なので向こうにどんなウマ娘がいるのかの確認レベルではあったが、向こうさんはテイオーの事で色々と俺に恩義を感じてるらしい。

 

 ……要はテイオーの足を不安視してるって事だ。でもそれが普通だと思うので何も言わない。

 正直俺だって天の声がなければ確実に治療優先だった。だからこそ俺が引き受けたんだ。

 故障するかもしれない足のウマ娘を見るには、向こうさんはあまりにも若すぎるからな。

 

 で。最後はテイオーが通院する事になった病院へ行き、担当医師との話し合い。

 本格的なトレーニングが始まる前に出来る事はないか。あるなら何がいいのか。それらを俺なりに考えたものを判断してもらい、許可を出せるなら少しずつやっておきたいと思ったからだ。

 そして足を激しく動かしたり過度な負荷をかけないものならばと言われ、水中歩行ならば正しいやり方でストレッチなどの準備を怠らない事を条件に許可を出せるかもしれないとなった。

 

 ただし、それも今はまだ早いと言われてしまったが。

 けれど、本格的なトレーニングが許可される前に出来る事があるだけでもテイオーのモチベーションが違うはずだ。早速正しい水中歩行のやり方を調べて覚える事にする。

 おっとそうだ。どうせならセイ達にもやらせよう。同じ事をチームでやるってのは意外と効果が上がるみたいだしな。

 

 そうしてそれら全てを片付けて職員寮の自室へ戻り、調べものをしながらふと思った。

 どうしてこの天の声が聞こえるようになったんだろうか、と。

 これまでも時々思う事はあった。何故俺に、と。だが今回のテイオーの事で何となく分かった気がする。

 

「あいつの悲劇を繰り返させないため、かもしれないな」

 

 基本ウマ娘の故障は事前に発覚する事が多い。だが中には突然そうなるケースもある。

 それがあいつやテイオーのそれだ。自覚なく過ごし、レース中の強く負荷をかけた瞬間やあるいはスパートをかけている途中で引き起こされる。

 そうなった場合、まずただではすまない。事実あいつはそうだった。一命は取り留めたもののレースは二度と出来ない体となり、走る事が好きだった奴がそれを永遠に奪われたのだ。

 

「……そんな経験をした俺だから、見抜けない故障を気付けるようにしてくれた?」

 

 だがそれではセイや一部のウマ娘達に対して声が聞こえない理由が納得出来ない。

 セイ達声の聞こえないウマ娘は故障しないとでも言うのだろうか? なら聞こえるスペ達はいつか故障すると言うのだろうか?

 

 あるいは、セイ達が故障を抱えたら声が聞こえるようになるんだろうか?

 

「あ~、止めだ止め止め」

 

 良くない方向へ思考が流れてる。今は少しでも前向きに考えないとならないんだ。

 テイオーの足は今後も問題となる可能性がある。それを何とかする方法も覚えないといけない。

 そこは担当医師から教わり続けるとして、俺が今考えるべきはあいつが菊花賞で勝てるようにどうトレーニングメニューを組むかだ。

 

 テイオーの担当医になった医師はウマ娘を専門にしている世界でも数少ない医者だ。

 あの最初にテイオーを診た医師が紹介してくれた医者で、普段は循環器科の医者として人間相手の診察をしているそうだ。

 

 あの先生、俺よりも若いのにちょっと診察しただけでテイオーの足の異常の原因を見抜いてくれた。

 しかもどうすれば今後似たような事が起きなく出来るかを教えてもくれた。正直言って俺よりもトレーナー向きだ。今日打ち合わせの時に軽くそう言ったら……

 

――いえ、俺はトレーナーにはなれません。俺が見ていたいウマ娘はただ一人なんで。

 

 なんて柔らかく返された。どうも何か事情があるようだが、詳しい話を聞くのは止めておいた。

 ただ、デスクの上に置かれた写真立ての中に彼と寄り添って微笑むウマ娘の写真があったので、それが理由なんだろうとは思ったけど。

 

「見ていたいウマ娘、か……」

 

 可能なら全員見ていたかった。最初の担当は俺が未熟過ぎてあまり勝たせてやれなかったし、あいつには本当に申し訳ない事をした。あの子に関しては言葉さえないぐらいの酷い指導をしたし、サクラバクシンオーだって世界を相手に爆進するのを支えたかった。

 

「ああ、そうか……」

 

 あの医師がトレーナーにはなれないと言ったのはそういう事なんだ。あの医師は仕事の一環で、しかもかかり切りじゃない形でしか他のウマ娘を見る気はないんだ。

 俺はそうじゃない。仕事だからだけじゃない。単純にウマ娘が楽しそうに走るのを支えたいんだ。成程な、それが彼と俺の違いか。

 

「……そうだよ。俺は楽しそうに走る姿を見ていたいと思ったんだ」

 

 最初の担当も、あいつも、あの子もそうだった。レース中の真剣な表情の中にもどこかに楽しそうなものが見えた。

 速い相手と競り合う事や単純に大勢と競う合う事をあいつらは楽しんでた。そしてそれはセイ達もだ。だからこそ俺はそれがずっと続くように応援したいんだ。

 

「テイオーがもう故障の恐怖に怯えないで済むように全力を尽くすか」

 

 あの時、俺が病室へ戻った時あいつの目元には泣いた後があったし、起きた後のあいつの目は若干腫れてた。

 

 もうあんな事を経験させたくない。あいつが、あいつらが泣くとしたらそれは嬉し涙にしてやりたいからな!

 

 

 

「サイレンススズカの調子が戻らない、ですか?」

「ああ」

 

 昼飯を食べていたところで先輩に声をかけられ、相談があると言われての第一声がそれだった。

 詳しい話を聞くと、あの皐月賞で自分の逃げを封じられた事がかなりサイレンススズカの心には効いたらしく、どこか精彩を欠き続けているのだそうだ。

 

「でもこの前のレースも逃げ切って勝ってたじゃないですか」

「そうだ。勝っているが、スズカ曰くあれも強いウマ娘がいないからだとな」

「……つまりセイのような走り方をしてくるウマ娘とテイオーのようなウマ娘がいたら勝ってない?」

「そう言いたいんだろうな、あいつは。どうしてくれる。私の期待のウマ娘がすっかり不調だ。お前のところにいる二人のせいで、な」

 

 少しからかうような、けれど目の奥は笑っていない先輩に返す言葉がない。

 おそらくだが先輩も既に理解してるんだろう。サイレンススズカの勝ちパターンを崩すにはどうすればいいかを。

 

 そしてそれを見せる形となったセイとテイオーに怒りにも似た感情を持っているに違いない。

 

「言ってやったんですよね? あの負け方はそう何度も起きるものじゃないって」

「勿論だ。あれは期せずして、お前のところのセイウンスカイの大逃げに先行のトウカイテイオーが合わせるようになったからにすぎん。どちらか一方だけなら勝っていたのはスズカだ」

 

 そう言い切って先輩は小さくため息を吐いた。気持ちは分かる。何せそれは、逆を言えばそうされたらサイレンススズカは勝ち目がなくなるにも等しいからだ。

 しかも今の俺のチームにはよりにもよってその二人がいる。もし俺が二人へ皐月賞の再現を指示したらサイレンススズカに待っているのはあの敗北の再来だ。

 

 けど、それにはサイレンススズカの成長がない事が条件じゃないか?

 

「あの、先輩?」

「……何だ?」

「あの頃よりもサイレンススズカは成長してますよね? ならあれと同じになるとは」

「お前のところのウマ娘は成長していないのか? それが答えだ。私ではなくスズカの、だ」

 

 納得。要するに今のサイレンススズカは自分の力が信じられなくなってきてるって事か。

 絶対の自信を持っていた走りが封じられた。それが与える影響は思ったよりも大きいらしい。

 それまでがあまりにも一方的過ぎたのもあるんだろう。サイレンススズカが走れば一着と、そう思われていた頃が短期間とはいえあったのだから。

 

「レースに関して選手間で打ち合わせる事なんてないって言っても?」

「それでも変わらん。私を強敵と見るなら示し合わさずともあの形にされるとな」

 

 一理ある。中距離でのサイレンススズカは無敵と言って良かった。それを強敵と見ないウマ娘はいないだろう。なら、逃げウマ娘が一か八かにかけて大逃げを打ち、先行や差し、追い込みウマ娘達が仕掛けのタイミングを早めてくる事は十分あり得る。

 

「強すぎるのも考え物ですね……」

「まったくだ。強いと全てが敵になる」

 

 サイレンススズカを自由に走らせない。それこそがあの逃げを封じる方法だ。それを誰よりも痛感したのは本人だろう。

 

 そこで先輩はきつねうどんの揚げを口にした。出汁の良い香りと共に麺つゆの甘辛い匂いが漂い、俺の胃袋を刺激する。

 

 ……俺もうどんにすれば良かったかなぁ。いや、別に後悔はないんだけどな、ラーメン好きだし。

 なので俺も残しておいたチャーシューを食べる。相変わらず食堂のチャーシューは美味いな。程よい脂身と肉のバランス。口に入れればホロホロと崩れるような食感と、そんじょそこらのラーメン屋が勝てない味だ。

 

 そこから少しの間俺と先輩は食事を進める事に集中した。にしてもきつねうどん、か。先輩も調子が良くないらしい。

 俺が面倒を見てもらっていた頃は唐揚げ定食や煮魚定食といった定食を食べてた。先輩が麺類を、しかもうどんを選ぶ時は胃袋が弱ってるか食欲がない時ぐらいだ。

 

 今回はサイレンススズカが心配で、ってとこだろう。

 

「「ごちそうさまでした」」

 

 同時に食べ終わって箸を置いたら両手を合わせる。もう当然のように染み付いた行動だ。

 

「で、話を戻しますけど何で俺に相談なんです? 申し訳ないですが俺じゃ何の力にもなれませんけど……」

「いや、むしろお前しかいない。スズカがな、話を聞いてみたいと言ってるんだ」

「話?」

「ああ。お前やセイウンスカイの、な」

 

 まさかの言葉に俺は耳を疑った。セイはまだ分かるがどうして俺もと、そう思って。

 と、そんな俺の心を読んだように先輩が理由を教えてくれた。どうやらサイレンススズカはあの皐月賞でのセイの走り方が俺の指示だったかどうかを聞きたいらしい。

 

「お前の指示だとすれば、何故担当の走らせ方を変えさせたのか知りたいんだろう」

「あ~、そういう事ですか」

 

 以前スペから聞いた俺の方針。それがサイレンススズカが逃げをやるようになった切っ掛けだった。

 それなのにあの皐月賞ではセイの走りがそれまでと違っていた。その理由を知りたいのか。

 で、セイには何故そうしたのかを聞きたいんだろう。何せ最終コーナー辺りで失速したんだ。更にそのまま盛り返す事もなく終わったし。

 

「分かりました。なら今日のトレーニング終わりにでも顔を出しますよ」

「いや、そういう事なら今日のスズカはトレーニングを休ませる。他のチームのやり方を見る事で得られる事があるかもしれんしな」

「先輩……」

「私ではどうしてもあいつに寄り添えないんだ。すまんが頼りにさせてもらうぞ」

 

 そう言って先輩は丼やコップが載った盆を手に椅子から立ち上がって返却口へと向かう。

 その背中を見つめ、俺は聞こえないと分かっていても呟かずにはいられなかった。

 

「相変わらず不器用ですね先輩……。その言葉が出てくる時点で、十分寄り添ってますよ」

 

 自分の無力さや悔しさ。さっきのはそれを感じてるからこその言葉だ。

 それを担当のウマ娘に見せる事が出来ない。いや、見せちゃいけないと思ってるんだろう。

 俺の指導をしてくれてた頃から変わらぬ先輩の一面を見て、安堵するような苦笑するような複雑な気持ちになりながら、俺も盆を手に立ち上がって返却口へと向かうのだった……。

 

 

 

「お、お邪魔します。今日はよろしくお願いします」

 

 放課後となりトレーニングタイムとなって数分後、チーム用の小屋前にサイレンススズカが現れた。

 しかも何故かちゃんとトレーニングウェアに着替えて、だ。おかしい。先輩は休ませると言ってたんだが……?

 

「……先輩からお前さんはトレーニングを休ませるって聞いたんだが?」

「えっと、一人だけ制服でいるのもどうかなって思ったんです」

「む~。ボクがいるのに?」

「ご、ごめんなさい。まさかテイオーは制服のままなんて思わなくって」

 

 テイオーの膨れ顔を見てサイレンススズカが若干慌てる。何というかそうしてても本当に美少女だな。

 

「な、何だか新鮮……」

「まぁ気持ちは分かるよ。スズカさんも狼狽える事あるんだ」

「意外でしたわ。それにしても他チームの見学って普通許可出さないと思うんだけど……」

「「「そこはトレーナー(さん)だから仕方ない(です)(わね)」」」

「息ピッタリだな、おい」

 

 そう言いつつも否定はしない。俺と先輩の関係だからこそ今回の事は実現してる。普通はライバルとなるウマ娘にトレーニング風景を見せないもんだし。

 で、そんなセイ達にテイオーとサイレンススズカが小さく笑っていた。思えばテイオーはチームメイトと親しくしていた経験が少ないんだったか。

 

「テイオー、今日はスペとキングのトレーニングを見ててくれるか? アドバイスなんかもあれば頼む」

「りょーかい」

「で、サイレンススズカはセイのトレーニングを見ててくれるか? そっちも何か気付いた事があれば教えてやってくれ」

「あ、はい。分かりました」

「うし、じゃあまずは準備運動からだ。っと、一応サイレンススズカもやっといてくれ」

「はい」

「ボクは?」

「お前はやらんでくれ。それに先生から、許可を出すまでは日常生活でやらない事はしないようにって言われただろ?」

「は~い」

 

 ったく、こうして接するようになって分かったが、テイオーは結構構って欲しがる性格らしい。

 今のだって自分にも何か言って欲しいってアクションだ。今までトレーナーが常にいるって事がなかったからか、甘えているようにも感じられるぐらいだな。

 

 それにしても……

 

“スズカの調子は良くないな。このままじゃトレーニング効率が悪い”

 

 どうやら先輩の見立て通りサイレンススズカは調子が上がっていないらしい。皐月賞で負けた後に出たレースではまたもや圧勝の逃亡劇を見せつけたにも関わらず、か。

 これは相当根が深い問題になってるかもしれん。何とかそれをセイとの関わりで払拭ないし軽減出来ればいいんだが……な。

 

 こうしていつものトレーニングが始まる。俺はまずはスペやキングの方を見つめる。

 

“スペの調子は絶好調だ。このままスピードを磨こう”

 

 スペは問題なし。次はキング。

 

“ヘイローの調子は絶好調だ。もう少しスタミナを鍛えた方がいい”

 

 キングはまだスタミナに難がある、と。そこで視線をセイの方へ向ける。

 

「……凄い。皐月賞の時よりも速くなってる」

 

 セイの走りを見つめてサイレンススズカが感嘆するようにそう呟いた。ふむ、ある意味丁度いいか。

 

「なぁサイレンススズカ」

「スズカでいいですよ。何ですか?」

「……ならスズカ、セイと一緒に少し走ってみるか?」

「え?」

「見てるよりも実際並走した方が分かる事も多いだろうしな。どうする?」

「その、トレーナーに怒られますから」

「先輩には俺から言っておくよ。それに走るって言っても何本もじゃなくて一回だ」

「…………それなら」

 

 表情は渋々のように見えるが尻尾が大きく動いてるので喜んでるようだ。

 そしてセイを一度呼び寄せてサイレンススズカと一度だけ勝負する事に。

 まぁそうなると目敏いテイオーが気付き、スペやキングまで参加する事になった。

 

「やってくれたな」

「え~? だってこんなのボクだったらゼッタイ参加するに決まってるもん」

「……まぁいいか。結果的に上手く行くかもしれん」

 

 逃げウマ娘同士でやり合ってくれればサイレンススズカの抱いてる不安を減らせるかもと思ったが、スペやキングもいれば更にかもしれない。

 

 俺が考えている事はただ一つ。どれだけ周囲がトレーニングで速くなろうとも、サイレンススズカは自分の走りさえ出来れば勝てるという事。それを本人に自覚させる。それだけだ。

 

「勝負はここからコースを一周。2000mの一発勝負だ。いいな?」

 

 無言で頷く四人のウマ娘を見て俺は笑みを浮かべる。もうレースモードだと気付いたからだ。

 

「じゃあいくぞ~。位置に着いて」

 

 真剣な表情で構える四人。まるで本当のレースのような雰囲気さえある。

 

「……スタートっ!」

「「「「っ!」」」」

 

 四人が一斉に走り出す。まず先頭争いだが……

 

「やっぱりスズカかぁ」

「だな。セイも追い駆けてるが……」

「ちょっと厳しいね。セイちゃんはあれが限界?」

「限界じゃないが、一着を狙うならそうだ。あれ以上の速度にすると最後まで持つか分からん」

 

 ゾーンに入ればその限りじゃないだろうが、模擬レースではゾーンに入った事がない以上おそらく無理だ。

 

「そうなんだ。じゃ、やっぱりあの皐月賞の走りは全力だったって事?」

「……ある意味、な」

 

 あの時のセイは全力で“サイレンススズカを先頭で走らせない”ために走ってた。本気で勝つためじゃない。全力でサイレンススズカを封じる方法を模索した結果があのレース展開だった。

 

「うわぁ、やっぱりスズカはスゴイや。あっという間にスペちゃんやヘイローがすっごい後ろだ」

 

 第二コーナーを過ぎた辺りで先頭と最後方の差はかなりのものとなっていた。皐月賞も、セイが俺の指示で無茶をやってなければこうだったんだろう。

 

「……ボクならここで前に出る」

 

 そんな時、テイオーがポツリとそう呟いた。

 

「前へ出て行って、第三コーナーに入る頃には先頭まで5バ身ぐらいにまで差を詰めておく」

 

 その声は、俺に聞かせると言うよりは自分の考えを無意識に漏れ出させている風に思った。

 

「第四コーナーを回る頃には先頭に追い付いて、最後の直線で一気に」

 

 そこでテイオーの言葉は途切れた。理由は簡単だ。サイレンススズカがその最後の直線で加速したからだ。おそらくそれでテイオーの中のシミュレーションが崩れたのだろう。あるいは、テイオーの中でもサイレンススズカが一着になる結末しかなくなったのかもしれない。

 

 事実、俺の視線の先では何とか喰らい付いていたセイが離され、後ろから追い上げてきていたスペやキングの末脚さえ届かないまま、サイレンススズカがトップでこちらへ向かってくるように駆け抜けていった。

 

「……皐月賞でボクが勝てたのって、もしかして運が良かっただけ?」

「それも勝因の一つ、だな。運も実力のうちって言葉もある。なら、あのレースで一番速かったのはお前だったんだよ、テイオー」

 

 軽く肩へ手を乗せてそう告げる。あのレースは色々な事が重なった結果テイオーが勝った。だけど、それでテイオーがサイレンススズカより強いと言うのはまた違う。

 あのレースでテイオーは自分の走りが出来て、サイレンススズカは出来なかった。そこが一番の差なんだ。

 

 まぁ大舞台でその自分の走りを出来るって事が強さの一つではあるんだろうが、な。

 

「えへへっ、ありがとう、トレーナー」

「礼はいらないぞ。本当の事だ」

「それでもだよ。だからボクは、その時のボクを取り戻してみせるんだ」

 

 その一言は自分への宣言だったんだろう。もしくは俺への誓いかもしれない。

 ならこちらもそれ相応の言葉を返さないといけないか。

 

「テイオー、それはちょっとだけ違うぞ」

「え?」

「取り戻すんじゃない。乗り越えるんだ」

「……うん」

 

 声には強い決意のようなものを感じた。と、そこへサイレンススズカがセイ達と共に戻ってきたが、その表情はどこか不思議そうに見える。

 

「何で勝てたか納得出来ないって感じだな?」

「……はい」

 

 ズバリと言った言葉を戸惑いながら肯定する、か。ならセイ達にも聞いてもらおう。

 

「あの皐月賞、お前さんが勝てなかった理由は一つだ。サイレンススズカの必勝パターンにならなかった。それに尽きる」

「それは分かってるんです。だけど」

「なら今回もそうなるはずだって? お前さんは良くも悪くも周囲を過大評価してるな」

「過大評価?」

「ああ。残念ながら今のセイはあの時のような走りをすれば一着は取れない。スペやキングも仕掛け時を早めて勝ち切れる程の力がまだない。要するにあの時の事は色んな事が重ならないと起こせない。更に今回はあの再現に必要な要素が欠けてるしな」

 

 一度だけテイオーへ目を向ける。すると向こうもこっちを見てたみたいで目が合った。その瞬間嬉しそうに笑みを浮かべる辺りはホント人懐っこい奴だな。

 

「で、ここでセイに一つ聞きたい」

「何?」

「あの時のような走りをいつもする気があるか? または本気で勝つつもりならやるか?」

「やらないね。さっきトレーナーが言ったみたいに今の私じゃ皐月賞の走りを勝つための走りに出来ないし」

「じゃあ何で……」

「スズカさんの得意な走りをさせないため、ですわ。でしょ?」

 

 キングの発言にセイは黙って頷いた。

 

「トレーナーからの指示でもあったんだけど、あれは私なりにスズカさん攻略の手がかりを探った結果。でも、残念ながら今の私じゃ出来るのはスズカさんが負ける可能性を作るで精一杯」

「スペがテイオーのように先行の位置取りで仕掛けるタイミングも同じようにすれば皐月賞の再現は可能かもしれないが……」

 

 あの時俺がスペに先行の位置取りをさせたのは、最後の直線に出る前にサイレンススズカの前に出させるためだった。

 結果的にそれをテイオーがやってくれた訳だが、いなかったら先輩の言った通りスペは間に合わずサイレンススズカが逃げ切っていただろうな。

 

「わ、私が一番自信あるのは差しだし、先行として走っても多分テイオーさんみたいには出来ないと思います。実際あの時出来ませんでしたし」

「って事だ。分かってくれたか? 俺や先輩が言いたい事」

「……はい。つまり、あれはセイちゃんとテイオーだったから負けた。しかも、そもそもセイちゃんが勝つ事を捨てないと起こり得ない」

「そういう事だ。勿論他にもテイオーのような抜群のタイミングで動ける奴はいるだろうし、セイがやったような逃げをやってくる奴もいるだろう。でもな、逆を言えばそれらが噛み合わないと現状サイレンススズカは負けないんだ」

 

 俺のその言葉にセイだけじゃなくてテイオーやスペ、キングさえも頷いた。それが俺にはある意味で恐ろしい光景だった。

 あの皐月賞で入賞したのに悔しがったセイ達と負けん気が強いテイオーが揃って、今は一人では勝てないと認める程の強さをサイレンススズカは持っているんだと噛み締めて。

 

 そしてそれは本人もだったのだろう。驚いた顔をして、ゆっくりと嬉しそうな顔になっていく。

 

「ありがとうございます。それとスペちゃん達もありがとう。そっか。私ってみんなにそんな風に思われてたんだ……」

「そうですよ。スズカさんは速いウマ娘です。だけど、いつか私が差し切ってみせます!」

「おっと、その前に私が逃げ切らせてもらうよ~」

「何を言っていますの。このキングが平伏させてみせますわ」

「ならボクが復帰した時にまとめて抜いてあげよう」

「ふふっ、そうはいかないから。みんなまとめて私が置き去りにしてあげる」

 

 やっと笑顔を見せた、か。

 

“スズカの調子が上がったな。これでトレーニング効率が上がるぞ”

 

 そしてどうやら目的も達成らしい。先輩に良い報告が出来そうだ。

 

「よし、それじゃそれぞれのトレーニングに戻れ。スズカ、お前さんも程々ならセイに付き合ってくれていいぞ」

「ホントですか?」

「おう。だけどあまり本気になるなよ? 程々だからな?」

「はいっ! じゃセイちゃん走ろうか!」

「いいですよ」

 

 ここに現れた時とは別人のような明るさとテンションで小走りに動き出すサイレンススズカ。

 何というか分かり易いな、こういう時は。

 

「キングさん、私達も」

「そうね」

「あっ、ボクも忘れないでよ~」

 

 サイレンススズカにあてられたのかスペもキングもやる気が増したな。テイオーは走れないが、それでもさっきのは復帰と三冠を目指すための良い燃料になっただろう。

 

 この後のトレーニングは今までで一番の成果が出た、らしい。天の声がそんなような事を言ってくれたのだ。

 考えようによってはサイレンススズカに併せウマ娘をしてもらったようなものだし、それもそうかと納得して俺はこの日を終えた。

 

 ただ気になるのは去り際のサイレンススズカから闘志のようなものを感じた事だ。まぁやる気になってくれたのは嬉しいし、先輩も同じ気持ちだろうから問題はないと思うが……。

 

 

 

 それはチームのトレーニングを終えて、いつものように今日のトレーニング結果などを踏まえて明日の事を考えようとチーム用の小屋へ入ろうとした時だった。

 

「トレーナーっ!」

「……スズカ? 今日は休みだと伝えたはずだが」

 

 あいつの所へ行かせたスズカが現れた。それも表情が今までにない程やる気に満ちていた。

 どうやら本当に何とかしてくれたようだ。ふっ、今度食事でも奢ってやるか。

 

「お願いがありますっ! 私を、私を菊花賞に出してくださいっ!」

 

 ……これはどう受け取ればいいのかしら。やる気になってくれたと喜ぶべきか、あるいはこっちの計画を乱してくれたと怒るべきか。

 

 まぁいいわ。何がどうだろうと異次元の逃亡者が戻ってきた事に変わりはない。ならそのお祝いに希望するレースへ出してあげようじゃない。

 

「それは可能だが、理由を聞かせてもらおうか」

「セイちゃんが、皐月賞の時の入着メンバーが全員出るからですっ!」

「……そういう事か」

 

 あの時の仕返しをしたい。いえ、あの時と同じにはさせないと、そういう事か。

 

「いいだろう。スズカ、今度はお前の自慢の逃げを見せてやれ」

「はいっ!」

「なら明日からは菊花賞を意識したトレーニングを始めるぞ。今日はもうゆっくり休め」

「分かりました。失礼します」

「ああ」

 

 来た時と同じようにまるで風のように去っていくスズカを見送り、私は一人呟く。

 

「何とかして欲しいとは思っていたが、ここまでやる気にさせろとは言ってないぞ。まったく……」

 

 そう言いながらも、私はこみ上げてくる笑みを抑える事が出来なかった。

 スズカが本気でレースへの執着を見せたなんて初めてだ。これなら今までスズカに足りなかったものが埋まる。

 走る事への飽くなき意欲だけでなく、誰にも負けたくないという闘争心が……。




アニメでは三冠を諦めて無敗のウマ娘を選んだテイオーですが、こちらでは無謀にもその両方を選びました。

果たしてそれがどうなるのかは菊花賞までお待ちください。
“セイウンスカイとサイレンススズカが一緒に出る菊花賞”を。


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菊花賞に向けて一歩ずつ前へ

千里の道も一歩から。今のテイオーの歩みはまさしくこの言葉の状況です。
不安があるとすれば菊花賞は3000mの長距離。まだスペ達の誰もレースで走った事のない距離と言う事でしょうね。

それと、テイオーの担当医は写真のウマ娘と甘酸っぱい時間を過ごしてますのでご安心を。

……某作品のトレーナーも、あの能力が発現するのが今作のトレーナーと同じで成人した後なら、彼みたいになっていたかもしれませんね。


「……これなら前々から言っていた水中歩行を開始しても大丈夫でしょう」

 

 レントゲンの結果を眺め、医師は自分の見立てが間違っていない事を確認し小さく頷くとそう口にした。

 

「「本当(ですか)っ!?」」

「ははっ……ええ。ただし、それも過剰にはやらないでください」

 

 息ピッタリの二人に笑みを浮かべつつも、しっかりとくぎを刺す事を医師は忘れなかった。

 そうしなければ水中歩行をやり過ぎてしまうような印象を受けていたのだろう。

 

 トウカイテイオーが通院し始めて約一か月。たったそれだけでまさかの言葉が医師から飛び出していた。

 勿論トレーナー達はあの最初の診察で言われた事を思い出して確認をとった。三か月は様子を見させて欲しいというそれを、彼らは医師へぶつけたのである。

 

 すると医師曰く、最初にトウカイテイオーを診ていた医者はあくまで人間の感覚で考えていたのでは、との回答を返したのだ。

 

「ウマ娘の身体構造は謎めいた部分が多いんです。再生能力などもそうですね」

「そうですか……」

「トウカイテイオーさん、何かこの一月で気を付けた事はありますか? あるいは気を配った事でもいいので」

「えっと……骨を丈夫にしようと思ってよく魚を食べるようにしてた。あっ、それとよくお日様浴びてたよ。骨を丈夫にするのはお日様の光って教えてもらったからね」

「……もしかすると意識した部分を治癒する力が強いのかもしれないな」

 

 興味深そうな声を出した医師を見て、トウカイテイオーはこれだけは聞いておかねばと決意するように身を乗り出した。

 

「ねぇ、いつになったらちゃんとしたトレーニング出来るの?」

「そちらはまだ何とも言えません。水中歩行ならギリギリ許可を出せるってぐらいなんです」

「いや、それでも十分です。テイオー、焦るな。例え少しでも前に進んだんだ。ここで焦ったら全てが無駄になる」

 

 トレーナーは自分へも言い聞かせるようにそう告げた。

 彼に聞こえる天の声は未だに“テイオーの調子は良くないな”から始まっているのだ。

 

 ただ、やっと昨日辺りから“テイオーの調子は良くないな。トレーニング効率は最悪だ”となったので、トレーナーとしてもそれを簡易トレーニングを開始してもいい合図と医師の判断から考える事が出来たのだが。

 

 こうしてトウカイテイオーは一か月で簡単なトレーニングを出来るようになった。

 トレーナーの見守る中、スペシャルウィーク達と共にプールの中を嬉しそうに歩くトウカイテイオーは、それまでの鬱屈しそうな気持ちを払拭するような笑顔を見せた。

 

“テイオーの調子は良くないな。トレーニング効率は最悪だ”

 

 それでもトレーナーの頭の中に聞こえる声は、トウカイテイオーの調子が一向に良くならない事だけを伝え続けていた。

 

 そしてそうやって水中歩行を始めて三日程経過した時、トレーナーは思わず息を呑む事となる。

 

 初日以外は基本トウカイテイオーだけが水中歩行を行う事にし、トレーナーはそちらへついて万が一に備える事にしていた。

 その日も水着へ着替えて柔軟を終えたトウカイテイオーがプールへ入ろうとしていたまさにその時だった。

 

“テイオーの調子は良くないな。トレーニングは失敗する可能性があるぞ”

「っ?! テイオー少し待てっ!」

「え?」

 

 これまで一切聞こえた事のない内容が聞こえてきたのだ。それもとても聞き流す事の出来ないものが。

 トレーナーは慌ててプールに入ろうとしていたトウカイテイオーを制止し、血相を変えたまま彼女の事を注意深く見つめた。

 

“テイオーの調子は良くないな。トレーニングは失敗する可能性があるぞ”

 

 再度確認した天の声は、やはりこのままトレーニングするのは危険を伴うぞと教えていた。

 

「……テイオー、今日は中止にしよう」

「も、もしかしてお告げ?」

 

 真剣な表情で頷くトレーナーを見てトウカイテイオーは息を呑んだ。

 そして反射的に足元へ目を向ける。何の変化もなく、今までと同じ状態の自分の足を見つめ、彼女はゆっくりと顔を上げた。

 

「トレーナー……」

「テイオー、気持ちは分かる。けど、少しでも危険性があるなら避けるべきだ。幸い昨日も一昨日も何の問題はなかった。多分だがお前の体が、それも足が若干疲れを残してるんだ」

「……かもしれない。分かった。今日は大人しく止めておくよ」

「すまないな」

「ううん、むしろありがとうだよ。トレーナーじゃなかったら、ボクは三冠をとっくにあきらめてたんだ。それにさ、一か月待ったんだ。今更一日ぐらい平気だよ」

 

 それがやせ我慢である事はトレーナーも分かっていた。それでも言葉をかける事は出来なかった。何を言えばいいのか浮かばなかったのである。

 そんな彼に出来た事と言えば、小さな体で懸命に耐えるトウカイテイオーの事を思いきつく拳を握り締める事だった。

 

「えっと、じゃあボク着替えてくるね?」

「……ああ」

 

 プールから更衣室まで戻っていく足音を聞きながらトレーナーは大きく息を吐く。

 

「教えてくれるのはありがたいが、どうせならもっと早く教えてくれよ……っ!」

 

 折角上向いていたトウカイテイオーの気持ちが今ので若干落ちた。

 それをトレーナーは天の声などなくても分かっていたのだ。

 

(目に見えない故障だったんだ。なら目に見えない疲労が蓄積したっておかしくないだろう! 迂闊にも程があるぞ、俺っ! 今のテイオーは誰よりも心が不安定になり易いってのにっ!)

 

 至らぬ自身への怒りを抑え、トレーナーもプールを後にする。

 出入り口付近で待つ事数分。着替えるだけにしてはやや時間が長いと思いながらトレーナーはトウカイテイオーを待った。

 

「お待たせ。いやシャワー浴びるかどうかで迷っちゃって。で、結局浴びちゃった」

「……そうか」

 

 嘘だと、そう直感でトレーナーは思った。泣いていたのだろうと、そう察したのだ。

 だがそれを感じて欲しくないというトウカイテイオーの気持ちを酌んで、敢えてトレーナーは気付かぬ振りをした。

 

「んじゃ行くか」

 

 トウカイテイオーと共にトレーナーはスペシャルウィーク達がトレーニングをしている場所へと向かおうと歩き出した。

 内容はどうであれやる事がなくなってしまったのだ。なら三人の事を見ていてやりたいと考えるのは当然と言えた。

 

「でもさ、これで安心したよ。トレーナーがいれば、ボクはちゃんとトレーニング出来るって分かってさ」

「…………」

「いやぁ、ホント良かったなぁ。これからもよろしくね、トレーナー」

 

 無言のトレーナーへ笑顔で話しかけるトウカイテイオー。その笑顔が普段とは違う事を見抜き、トレーナーは足を止めた。

 

「テイオー、強がるのは今じゃなくていいんだ。それは、みんなの前だけにしろ」

「つ、強がってなんかないって。ホントトレーナーが」

 

 その言葉を最後までトウカイテイオーは言えなかった。何故なら振り向いた先には申し訳なさそうなトレーナーの顔があったからだ。

 

 彼はトウカイテイオーの目線へ合わせるようにしゃがみ、その目を真っ直ぐ見つめるようにすると静かに頭を下げた。

 

「本当にすまん。もっと、もっと早くお前の事に気付いてやれたら、少しだけでもその心の痛みを減らしてやれたのに……」

「や、やだなぁ。別に気にしてないって。トレーナーってば気にし過ぎだよ」

「今のお前に関しては気を遣って遣い過ぎな事なんてないよ。今俺達は誰もやった事のない、やるはずもない事へ挑んでるんだぞ?」

 

 告げられた言葉にトウカイテイオーの笑顔が固まった。

 

「しかも、それで一番大変で怖いのはテイオー、お前だ。俺も大変じゃないとは言わないが、お前よりもそれは軽い」

「……そんな事ないよ」

 

 放たれた声には先程までの明るさはなかった。その顔には先程までの笑みはなかった。

 あるのは震え。そして微かな悲しみと同程度の喜びが同居したような表情だ。

 

「もしトレーナーがいなかったら、ボクは今頃空元気で無敗のウマ娘を目指すって言って必死に自分を誤魔化してた。あるいはヤケになって暴れてたかもしれない。無敗か三冠か。そんな選択肢さえ与えてもらえなかった。だけど、トレーナーはそれだけじゃなく二つ共目指していいって言ってくれた。一緒に頑張ろうって言ってくれたんだ」

 

 あの日は涙が出てきた事も、何とかトウカイテイオーは瞳を潤ませるだけで感情を抑える事が出来た。

 代わりに自分が選んだ事の意味とそれをさせてくれたトレーナーへの感謝が込み上げてきてはいた。

 

「トレーナーはボクにこう言ってくれた。まずは自分に勝てって。ごめん。さっきのボクはそれを忘れてた。少しトレーニング出来るようになったら、すぐに心が弱くなってたみたい」

「テイオー……」

「もう心配しないで。ボクはもうボクに負けないから。ちょっとの遅れがなんだ。一か月も遅れたんだ。なら今さら一日ぐらい平気さ。その代わり、本格的なトレーニングが出来るようになったら……」

「ああ、俺が全神経を研ぎ澄ませて天の声を聞いてやる。そしてお前が菊花賞を一着で走り切れるようにしてみせる」

「うん、信じてる。ボクに夢への道を残してくれたキミを」

 

 その日、トウカイテイオーはそのまま寮の自室へ戻った。ちゃんと体を休めるために。

 そしてトレーナーへはスペシャルウィーク達の事を見ていて欲しいと告げて。

 ライバルであり仲間でもある三人。その成長を遅らせて勝つなどは考えないという彼女なりのプライドであった。

 

(焦るもんか。本当ならチャレンジさえ出来なかったんだ。なら、絶対菊花賞に出てみせる。そして、そこで勝って無敗の三冠ウマ娘になってやるんだっ!)

 

 強く決意するトウカイテイオーだったが、そんな彼女が意図的に考えないようにしている事があった。それは菊花賞が長距離レースである事。

 これまでトウカイテイオーが走った事のない距離である3000m。それを走り切り、更に並み居るライバル達を抜き去る事が出来るかどうか。それだけのスタミナが身に着けられるか否かを、この時トウカイテイオーは敢えて考えないようにしていた。

 

 だが、その事へ正面から挑み続けているウマ娘がいる。

 

「はぁ……っはぁ……」

「どうしたスズカ。菊花賞を見据えたトレーニングを始めてもう少しで一月になるが一向に成果が出ていないぞ」

「す、すみません……」

 

 誰よりも走る事が好きなサイレンススズカが表情を歪め、荒く呼吸を繰り返す状態となっていた。

 

「菊花賞の距離は3000mだ。しかも本来はそれを何人もの強豪ウマ娘達のプレッシャーを後方から浴びながら走るんだ。なら誰もいない状態の3000mで出すタイムを本番で越えられるはずがない。それがこんなに不甲斐無いタイムで本番を逃げ切れると思うのか?」

 

 それが3000mという距離の持つ恐ろしさである。中距離ならば無敵の強さを持つサイレンススズカであっても、3000mの長距離ともなれば話が違ったのだ。

 

「……もう一度、走らせてください」

「それはいいが、今度のタイムが今までの記録を上回らなかったら今日のトレーニングは終了。そして三日は休養にあてる。いいな?」

「はいっ!」

 

 瞳に闘志を燃やして、サイレンススズカは再び呼吸を整えてスタート位置へと移動する。

 

 その姿を見守る女性トレーナーはどこか嬉しそうな笑みを浮かべていた。

 走る事が好きなサイレンススズカだが、そんな彼女に足りなかったのは他者に勝ちたいという闘争心だった。

 それを不調を乗り越えたと同時に身に着けたと感じたのだが、その感覚が間違いではなかった事を今も実感出来ているからこその喜びだ。

 

「位置に着いて」

 

 メガホンとストップウォッチを手にしたまま女性トレーナーが発した声でピンッと空気が張り詰める。サイレンススズカは表情を凛々しいものへ変え、眼差しさえも鋭くした。

 

「……スタートっ!」

「っ!」

 

 弾かれるように走り出す異次元の逃亡者。その姿を険しい表情で見守る女性トレーナー。

 

「……2400までなら勝てるが3000となるとそうはいかないと分かってはいた。分かってはいたが……」

 

 さすがのサイレンススズカでも長距離を中距離のように走る事は出来なかった。

 どれだけスタミナを鍛えても距離の壁は簡単には破れない。それでもサイレンススズカは菊花賞に出たかったのだ。

 

(セイちゃんやスペちゃん、キングちゃんにテイオーまでが出るレース! 皐月賞の借りを返すにはそこしかないっ!)

 

 どこかで慢心していたのかもしれないと、あの皐月賞の後でサイレンススズカは思った。

 あるいは、自分の走りを貫けば負ける事はないと思い込んでいたのかもしれないとも。

 

 ある有名ゴルファーの言葉にこういうものがある。

 人は自分が負けた時に様々な事を学び得るが、勝利からは学び得る事は少ない、と。

 

 まさしく逃げウマ娘としてのサイレンススズカがそうだった。逃げを打てば負けなしの彼女にとって、あの皐月賞は衝撃であり色々と学ぶものが多くあったレースだった。

 

 そしてそれによって結果的にサイレンススズカは強くなった。

 自分が負ける理由を正しく認識した事によって精神的に強くなれたのだ。

 

(私が私の走りを出来れば誰も勝てない! なら、あとはそれをどんな時でも出来るようにすればいいっ!)

 

 距離に関係なく得意の逃げを可能とする。それが今サイレンススズカが目指す事だった。

 

「あと1000っ!」

 

 メガホンを通して聞こえた声にサイレンススズカが表情を険しくする。

 中距離で短めのレースならばゴールとなる距離。そこから更に1000mも走る。それがサイレンススズカにとっては自分の走りが出来なくなる要因だった。

 

 普段ならゴールするかラストスパートをかける距離。だがそれが出来ない。スタミナ的に厳しいのだ。

 

(でも……っ!)

 

 今までのタイムを超えるには厳しい事を乗り越えないとならない。そう思ってサイレンススズカは走り続ける。

 

 残りが800となり600となった辺りでサイレンススズカは決意する。

 

(例え失敗してもいい! 残り400になったら全ての力を出し切るっ!)

 

 どれだけ辛くとも自分の走りを貫く。そんな気持ちでサイレンススズカは真っ直ぐ前を見つめた。

 

「残り400っ!」

「っ!」

 

 力強く足を踏み込み、サイレンススズカは加速した。その加速は本来よりも鋭さに欠けていたが、それでも構わないとサイレンススズカは走った。

 

 普段とは違う、切れの無い加速。けれどその姿は乱れる事無く美しいフォームとなっていた。

 その姿に女性トレーナーは思わず息を呑む。それこそは彼女がサイレンススズカを初めて見た時に惚れ込んだ姿だったのだ。

 

(戻ってきた……。いや、疲れ果てた事で一番自分が楽な体勢へなったんだ)

 

 先行ウマ娘として走らされている内に徐々にサイレンススズカのフォームは変化していた。

 それは逃げウマ娘となった後も変わらなかったが、疲労が重なる事で体が一番楽な姿勢を取ったために本当のフォームを取り戻したのである。

 

 ゴールを駆け抜けた瞬間に女性トレーナーがストップウォッチを止める。そしてすぐに視線をそのタイムへと向けた。

 

「……タイムは僅かに上がった、か」

 

 だがしかしそれ以上の収穫があった。そう思って彼女は笑みを浮かべた。

 手にしていたメガホンを急いで口へ近付け、今にも停止しそうなサイレンススズカへ向かって彼女は叫ぶ。

 

「スズカっ! そのままもう一周だっ! ゆっくりでもいいっ! 今の自分の走り方を体と頭にしっかり思い出させろっ! 返事はいらんっ!」

 

 喜びを声に乗せて叫ぶ女性トレーナー。その声に励まされるようにサイレンススズカはそのままコースを走っていく。

 

 未だ3000mで絶対の逃げを出来ないサイレンススズカではあったが、この日を境にゆっくりとその距離へ適応し始める事となる。

 

 そして同じようにスペシャルウィーク達も長距離に苦しんでいた。

 

「き、きつい……っ」

「こ、これで本番はっ……て、テイオーもいるんだからね……」

「ぜぇぜぇ……か、勝てるビジョンが……っ悔しいですけど……浮かびませんわ……っ」

 

 揃って荒い呼吸を繰り返すスペシャルウィーク達。ただ、突っ伏すように倒れ込んでいるスペシャルウィークに対し、セイウンスカイは四つん這いになり、キングヘイローは空を見上げるように倒れ込んでいた。

 しばらくその場には三人の荒い呼吸のみが響く。七月の熱い風が汗を乾かすように吹き付け、僅かな涼しさと微かな不快感を残して消えていく。

 

「……けど、勝てないとも思えないんだよね」

 

 ポツリと呟かれたその一言には、静かな自信がたしかに込められていた。

 思わずスペシャルウィークとキングヘイローが顔をセイウンスカイへ向けてしまう程に。

 その視線を受けてか、セイウンスカイはその場にゆっくりと立ち上がって空へ顔を向けて笑みを浮かべた。

 

「今私達が苦しいって事はさ、他の人達も同じように苦しいはずなんだよ。じゃ、勝てない相手じゃないんだ。そう思えば大丈夫だって」

「セイさん……」

「そうね。ええ、そうだわ。わたし達が苦しいのなら他のウマ娘も苦しくないはずがないもの」

 

 どこか呆気に取られているスペシャルウィークとは違い、キングヘイローはもう既に自信を取り戻したかのように獰猛な笑みさえ浮かべて上体を起こしていた。

 

「それにさ、私達だって最初3000走った時は声を出す事も出来なかった。それが今は何とか喋る事が出来るようになってきてる。なら本番には3000mを走り切るだけじゃなく、そこで入着が最低でも出来るぐらいになってるよ」

 

 サラリとそう告げてセイウンスカイは微笑む。その表情には、長距離への不安ではなくしっかりと成長を遂げている自身への期待が宿っていた。

 

「どうしたどうした? 休憩中か?」

「「「トレーナー(さん)?」」」

 

 そこへトレーナーが姿を見せる。彼は疑問符を浮かべる三人へテイオーのトレーニングを中止した事を告げ、彼女からの伝言もあってここへ来た事を説明した。

 

「で、どうだ? 3000mには慣れてきたか?」

「慣れてきたって言えば慣れてはきましたけど……」

「まだ何とか走り切れてるって感じかなぁ」

「正直レースで勝つなんて言えるレベルじゃないわね」

「そうか……」

 

 これまで中距離を主戦場としてきた三人。それ故にトレーナーはテイオーがチームに合流した次の日から、三人にはスタミナトレーニングの一環として3000mを定期的に走らせていたのだ。

 それに真っ先に順応したのはセイウンスカイだった。次にスペシャルウィークで、キングヘイローは未だに順応し切れていなかった。

 

 この後トレーナーが見てる前でもう一度走ってみせたが、やはりまだまだ一着を狙えると思える程の状態ではなかった。

 だが、それでもトレーナーはある意味で不安を抱く事はなかった。何せもうすぐ合宿が始まるのだ。そこで三人は更なる成長が図れると、そう確信していたのである。

 

 しかし、ある意味では不安を抱いていた。

 

(セイ達は合宿で菊花賞に向けての調整が出来る。だがテイオーは無理だ。何とか合宿までに普通のトレーニングが出来るようになればいいんだが……)

 

 トウカイテイオーの状態はやっと水中歩行が出来るようになった段階で、とてもではないが本格的なトレーニングなど出来るはずもなかった。

 しかも今日などその水中歩行さえ危険性があると天の声で言われてしまったのだ。これでは合宿でトウカイテイオーが出来る事はほとんどないに等しい可能性がある。

 

(……こうなったら合宿の時、テイオーにはトレーニングを始める直前に間を作ってもらうか。そこで天の声を聞くしかない)

 

 スペシャルウィーク達に菊花賞を勝って欲しい気持ちと同じぐらい、今のトレーナーにはトウカイテイオーに三冠を取らせてやりたい気持ちがある。

 

 だからこそ四人が出来るだけ公平になるように考えているのだ。

 トレーニングも、トウカイテイオーが医師から完全なる許可をもらい、天の声による危険性を訴える事がなくなれば、三人と同じものを原則としてさせようと考えていた。

 故に、合宿中をどうするかは迷う必要はなかった。

 いくらトウカイテイオーが怪我をして大変だと分かっていても、それに菊花賞が始まるまで付きっきりとなれば三人の精神面はあまり良好になるとは思えなかったからだ。

 

「セイ、スペ、キング、よく聞いて欲しい。テイオーはまだ本調子には程遠い。俺が傍で目を光らせないといけない程だ。だからこそ、合宿ではお前達三人へ目を光らせるつもりだ」

「「「え?」」」

「合宿ではテイオーもお前達と同じ事をさせるつもりでいる。ただし、少しでも危険だと判断したらあいつには見学しててもらうがな」

 

 それはトレーナーなりの三人への宣言だった。自分はトウカイテイオーを特別視してる訳ではないと。

 合宿中は元々の担当だった三人を重点的に指導し、場合によってはトウカイテイオーを見学させてでもそれを貫くと言い切ったのだ。

 

「俺は、正直世界で一番幸せなトレーナーだ。テイオーの三冠を達成させる手伝いが出来て、お前達の皐月やダービーでの雪辱の手伝いも出来る。俺には四人ものウマ娘がいて、それぞれが夢を、希望を、可能性を見せてくれてるんだ。セイを菊花賞で勝たせて世代最強の逃げウマ娘と呼ばせてやりたいし、キングを菊花賞で勝たせて長距離だって勝てるウマ娘だと思わせてやりたいし、スペを菊花賞で勝たせて凄い差しウマ娘だと思わせてやりたいし、テイオーを菊花賞で勝たせて無敗の三冠ウマ娘にさせてやりたい。担当全員が凄い奴だと、悩ましい問題だがこんなにも幸せだ」

 

 噛みしめるようにそう告げ、トレーナーは笑みを浮かべる。

 

「出来る事なら全員勝たせてやりたい。だがそんな事は不可能だ。しかしこれだけは分かってくれ。俺はお前達の誰かだけを特別視する事はしない。勿論時にはそう見える時もあるかもしれない。けど、俺にとってお前達は同じだけ大事で、大切な存在だ。お前達それぞれの夢を叶えてやりたいと心から思ってる。それだけは、分かっててくれ」

「「「トレーナー(さん)……」」」

 

 静かに語られた言葉が三人の心へ響く。どこかでトウカイテイオーへの接し方などを見て、三人はそれぞれに不安を抱いていた。今回のトレーナーの言葉は、まさしくそれを払拭するかのような発言だったのだ。

 

(私の夢、日本一のウマ娘になる夢……。それを叶えさせてくれる、かぁ。じゃあやっぱり最終目標はジャパンカップかな? ……うん、絶対そこで一着になってみせるんだ。私は、絶対日本一のウマ娘になるんだからっ! そのためにも一つ一つのレースを勝ちに行かなきゃっ!)

(わたしの夢、ね……。三冠はもう無理だけど、だったら春秋の重賞を狙いましょうか? 春秋の天皇賞。それをキングが制覇する。ええ、これ以上なく王者な感じだわ。天皇も王だもの。なら来年が勝負の年になるわね。特に春の天皇賞は3200の長距離。それで勝つためにもまず菊花賞を取りに行くわよっ!)

(私の夢かぁ。特にこれと言ってないけど……可能ならやっぱ最強の逃げウマ娘を目指したい、かな。スズカさんにも負けない逃げウマ娘とかね。手始めに長距離で逃げ切ってみせようか!)

 

 改めて夢を確認するスペシャルウィーク。次なる夢を定めるキングヘイロー。明確な夢を決めるセイウンスカイ。

 その三人の表情を見てトレーナーは微笑んでいた。分かったのだ。三人がそれぞれの夢を胸に抱いているのが。

 

 緩やかではあるが動き始めるそれぞれの運命。

 三冠目指して苦しく厳しい道を歩くトウカイテイオー。

 自分の本当の走りで雪辱を誓うサイレンススズカ。

 幼い頃からの夢を掴むために勝利を誓うスペシャルウィーク。

 天皇賞の春秋を制するべく菊花賞で自分を試そうとするキングヘイロー。

 最強の逃げウマ娘との称号を得る一歩として意気込むセイウンスカイ。

 

 最も強いウマ娘が勝つと言われる菊花賞。果たしてその栄冠は誰の頭上に輝くのだろうか……。




次回は夏合宿。
初年度は三人で、しかもキングとテイオーの秘密の勝負がありましたが、今回はどうなるんでしょうか……?


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復活ではなく覚醒を目指して

秋の菊花賞に向けての最後の追い込み、夏合宿。去年は色々あった合宿ですが、今年はどうなるのでしょうか。


 テイオーがチームに加わって一か月以上。遂にこの時がやってきたって感じだ。

 

「合宿? ボク、行ってもいいの?」

「ああ。むしろ置いてくはずないだろ」

「トレーナーっ!」

「うおっ!?」

「「危ないっ!」」

 

 その言葉にテイオーが嬉しそうに抱き着いて、思わずトレーナーが倒れそうになるのを慌てて私やキングが支える。

 

 テイオーはあの水中歩行を開始してから今までで数回それを休む事があったみたい。

 今のテイオーに出来るのは水中で歩く事だけなのに、それさえも危ない時があるって言うのが怖い。

 だからテイオーは複雑な心情だと思う。尻尾が不安げに揺れてるし、表情も強張ってる事が多い気がする。

 

 トレーナーはテイオーの事は絶対大丈夫だって言ってたけど、やっぱり本人は怖いんだろうな。

 

「先生も最近のお前の状態と俺の話を聞いて許可を出してくれた。まぁ最悪見学ばかりになるかもしれないが、こっちに一人残す方が心配だしさ」

「そうですよテイオーさん。それに同じチームじゃないですか。全部同じ事は出来ないかもしれませんけど、留守番してるよりも一緒の方が気持ちはマシだと思います」

「スペちゃん……」

「そうですわね。それともテイオーは一人で留守番がいいのかしら?」

 

 キングがそう言いながら苦笑する。言われたテイオーは大きく首を横に振った。ホント可愛いなぁ。

 

「テイオー、心配するな。絶対お前の状態を悪化させはしない。先生だけじゃなくお前にもそう断言する」

「トレーナー……」

「夏の合宿で思いっきり動けないのは辛いとは思う。それでも海で気分転換をするぐらいは許可してもらった。プールのようにはいかないが、向こうでも水中歩行は出来るしな。ゆっくりでも前に進むぞ」

「うんっ!」

 

 うわぁ、満面の笑顔。ああしてると本当に可愛い女の子だよねぇ。

 でもテイオーが入ってきた事で私達もそれまでとは違った雰囲気が出来た。

 

 まず夜の勉強会。それがテイオーが来てからより短時間集中で終わるようになった。というのもテイオーがみんなでおしゃべりやトランプをしたがるんだよね。

 おかげでスペちゃんの学力がぐんぐん上がってる。まぁ私もだけどさ。年下の子に教わるってのはさすがに年上としてのプライドが、ねぇ。

 

 あとトレーニング中も違う。テイオーが水中歩行を始めてからはまた戻った感じがあるけど、それまでは見られてるって事で色々とタメになる事が多かった。

 トレーナーとは違う視点や考えで私達を見てるせいか、テイオーの意見や疑問は私達も割と役に立つ事が多かったし。

 

 その後は久々に全員でプールへ集まっての水中歩行。実はこれが地味に難しいんだよね~。

 正しい姿勢で歩かないといけないっての、ホント地味に辛い。ついつい泳ぎたくなる気持ちをグッと堪えないといけないしさ。

 

「つめた~い!」

「だねぇ。でも気持ちいいよ」

「ちょっと、二人共もう姿勢が乱れ始めてるじゃない」

「トレーナーさーん。テイオーさんとセイさんにやり方を教えてあげてくださーい」

「ったく、セイはともかくテイオーはちゃんとやってくれ。はしゃぎたいならプールの外だ。いいな?」

「「はーい」」

 

 私とテイオーが間延びした感じの返事をすると、キングがそんな私達を見て呆れるようにため息を吐いてた。スペちゃんは苦笑、かな。で、トレーナーはやれやれって感じで頭を掻いてる。

 

 そうやって始まったトレーニングだけど、やっぱりどこか普段のそれとは違ってた。

 

「やっぱりトレーニングって感じじゃないですね」

「ですわね。でも走る事よりも足への負担は少ない事で鍛えるにはこれぐらいしかないし」

「だね~。テイオー、どう? もう慣れた?」

「うん」

「今回も問題ないみたいだな。けど焦らず歩くんだぞ」

「分かってるって」

 

 笑顔でプールの中を歩くテイオーだけど、脚の怪我ってどんなものなんだろう? 一か月はトレーニング出来なくて、再開してもこんな感じの足へ負担をかけないものだし、それさえも時々休まないと駄目なんて……。

 

 テイオーを見つめるトレーナーは、いつかのスペちゃんやキングを見る時よりも真剣な表情だ。その眼差しも今までにないぐらいキリッて感じ。

 

もしかしてかなり重症?」

 

 そう考えると納得出来る。何でテイオーが私達のチームへ入ったのか。何でトレーナーがあれだけテイオーには鬼気迫る雰囲気になるのか。

 それは、テイオーの怪我が下手をするとレースに出られなくなるものだからじゃないかって。

 だからダービーの後のライブへ出なかった。ううん、出なかったんじゃない。出さなかったんだ。

 

 あれはトレーナーが止めたんだ。私達の事を見てたら自然とテイオーも視界に入ったはずだし。

 

「らしいなぁ……」

 

 故障する危険性があるのにテイオーを担当する事にしたのはそういう事だ。

 トレーナーはどっちに転んでもいいように自分が全ての責任を負うつもりだ。

 テイオーもきっとその可能性を聞いててトレーニングを始めてるはず。

 それぐらい本当に三冠を目指してるんだ。本気で、全てを失うかもしれない覚悟で。

 

「よし、それを最後に上がってくれ」

「「はーい」」

「はいは短くですわ」

「まぁまぁ、別にいいじゃん。たまにはゆる~い感じでもさ」

「緩いにも程があると思うんだけど……」

 

 渋い顔をするけどキングはもう何も言わなかった。その視線の先には笑顔でトレーナーへ近寄るテイオーとスペちゃんがいる。

 二人して構ってオーラを出してる辺りが可愛いなぁ。やっぱりあの二人って末っ子気質だよね。

 

「セイ」

「ん?」

 

 トレーナーへじゃれつく二人を眺めてほのぼのしてると、後ろにいるキングから声をかけられた。

 振り返ればそこには若干不安そうな顔のキングがいた。その眼差しはトレーナー達を、いや多分テイオーを見つめてた。

 

「本当に菊花賞に出るつもりだと思う?」

「……うん。絶対出るよ」

「三冠を取るために……か。まぁ一度言った事を貫こうとするところは褒めてあげるけどね」

 

 そう言いながらもキングの表情は変わらない。これ、キングもテイオーの怪我の事、気付いてるんじゃないかな。

 

「キング、それでもテイオーは」

「分かってるわ。あの子は絶対一着を狙う。けどそんな事させてなるものですか。怪我でトレーニングを満足に出来ていない時期があった相手に、無敗のまま、三冠を取らせるなんて」

「キング……」

 

 言葉自体は勝気なのに、それを言ってるキングの表情は悔しそうな悲しそうな、そんな何とも言えない顔だった。

 キングはきっとテイオーの気持ちになってるんだ。無敗の三冠を宣言し、そこまで王手をかけた。なのに、あと一つってところで怪我をしてしまって目標から遠ざかっている。

 

 そして、宣言を達成しようとすれば自分の選手生命が終わるかもしれないとなった。

 

「本当に、させてなるものですか。ええ、簡単にさせてなるものですか」

 

 その言葉は、キングの優しさと王者を名乗るプライドだと思う。

 テイオーが本調子なら取れたかもしれない三冠。そう、本調子でさえ取れたかも、なんだ。それにテイオーは本調子ではない状態で挑む。それが何を意味するのかを一番分かってるのはキングだ。

 だからこそ全力でそれを阻止にいく。取らせてやりたい気持ちはあるけど、情けで負けてやるなんてテイオーには侮辱でしかないからね。

 

「そう、だね。私達がいる以上、全力で菊花賞だけは取りに行かないと」

「ええ。同じチームとなった以上、余計に勝たせるつもりはないわ」

 

 全力でぶつかり、その結果負けるならテイオーも納得出来るはずだ。そして、その逆も……。

 

 

 

 今年もまた夏合宿の季節がやってきましたわ。去年と違うのはチームの人数が三人ではなく四人になってる事ね。

 

「海だ~」

「テイオーさん、はしゃぐのは程々ですからね?」

「分かってるって。スペちゃんは心配症だなぁ」

「いやいや、テイオーはちゃんと言っておかないと全力で楽しんじゃうでしょ」

 

 本来合宿初日はトレーナー方針で簡単なトレーニングしかやらない事となっている。

 でもテイオーだけ別メニューとはしたくないトレーナーは、医師との相談でトレーニングメニューを考えてきているらしく初日の今日は休養とした。

 

 だから今のわたし達はこれから始まる合宿への英気を養うという理由で遊ぶ事になった。

 トレーナーはパラソルの下でこちらを監視するように立っている。

 

「テイオーは絶対バタ足をするんじゃないぞ~っ。海の中で遊ぶなら誰かに掴まるか浮き輪で浮かぶだけにしろ~っ」

「分かってる~っ!」

 

 完全に親子か兄妹の会話じゃない。まぁテイオーがトレーナーに懐いてるのは今に始まった事じゃないけど。

 

「それでどうする? 海に入る?」

「もっちろんっ! スペちゃん、ボクの浮き輪を引っ張ってもらってもいい?」

「はい、いいですよ」

「なら私も引っ張ってあげるよ。のんびりね」

「ありがとっ」

 

 スペもセイもテイオーへは甘いですわね。これも彼女が甘えん坊気質で妹分だからでしょうけど。

 

「キングさんはどうしますか?」

「わたしは一人で勝手に泳いでるから」

 

 何となくテイオー達と距離を取りたかった。何も嫌いという訳じゃない。むしろあの子の決意には敬意すら覚える。

 だからこそわたしは今の自分を鍛えたいと思った。体の状態はテイオーよりも上なのに、心では上になれていないと感じてしまうそんな自分を。

 

 泳ぎながら思い出す。テイオーは無敗の三冠をメディアで宣言し、それへあと一歩と迫った。その後トレーニングさえ出来ない状態となりながらもまだ三冠を諦めず前を向いている。これだけでも帝王の名に相応しいと言える。

 対してわたしはどうだろう。未だ一着を取ったのはメイクデビューだけという体たらくに加え、ホープフルを始めとするGⅠで入着がやっとと言う始末だ。勿論重賞で入着出来ているというのは立派かもしれない。けどそれは普通のウマ娘の場合よ。わたしはキング。王者の名を持つ者なのだから。

 

「せめてクラシックでGⅠを一勝はしないと情けなさ過ぎるじゃない……っ!」

 

 菊花賞で勝てるかどうかは分からない。だから最低でもそこで入着出来なければわたしはキングという名に相応しいとは言えない。

 

 もし、もしも菊花賞で入着出来なかった時は……

 

「出来なかった時は……」

 

 きっと誰もわたしへの陰口をたたく事はしないだろう。けれどわたし自身が許せないと思う。

 とてもじゃないけど春秋の天皇賞制覇なんて言えないわ。そういう意味でも菊花賞はわたしにとって大事な一戦ね。

 

「……わたしを長距離だって勝てるウマ娘に、か」

 

 ふとトレーナーが言った言葉を思い出す。長距離なら、じゃない。長距離だって、と、そう言ってくれた。

 

「ふふっ、まだわたしは中距離さえも一着を取っていないのに」

 

 そこで思い出した。セイもスペもそうだった事を。

 

「そうよ。わたし達は誰もまだGⅠで一着を取ってない。なら余計テイオーに取らせる訳にはいかないじゃない」

 

 トレーナーを信じて指導を頼んだのはわたし達だ。テイオーには悪いけれど、担当を変えたばかりの存在にトレーナーへGⅠ勝利なんてプレゼントさせてなるものですか。それは最低でもわたし達三人が最初にするのよ。貴方は二冠ウマ娘で十分でしょう。

 

「思い出したわ。そうよ、わたしが彼女の三冠を阻むのよ。無敗のトウカイテイオーに土をつけるのはこのキング。王者であるキングヘイローなんだからっ!」

 

 去年この合宿で帝王に非公式とはいえ負けを与えたのはわたし。それを思い出して決意を新たにする。

 必ずわたしは菊花賞でテイオーよりも先にゴールを通過してみせるのだ、と……。

 

 

 

 合宿が始まり、私達は去年以上の成長を誓ってトレーニングへ打ち込む事になった。

 けど、やっぱりテイオーさんはほとんど参加出来なくて砂浜でのクイズ大会へ参加する事が多かった。

 トレーナーさんが言うにはそれなら足を使う事もないから大丈夫って事みたいで、テイオーさんは何度も連続正解を出してたらしい。

 

 それで、合宿も半分を過ぎた辺りで何とテイオーさんが私達と同じトレーニングを受ける事になった。

 とはいえそれは週に一回だけで、その前にはわざわざ通ってる病院へ行ってから許可をもらってしてる。

 しかもしかも、その時だけはじめましてな人達と一緒にトレーニングする事になった。

 その人たちはテイオーさんが前に担当してもらってたトレーナーさんのチームの人達で、トレーナーさんが前々から相談してたみたい。

 

「ツインターボだ。よろしくな」

「イクノディクタスです。よろしくお願いします」

「マチカネタンホイザ、よろしくね」

「ナイスネイチャだよ。よろしく~」

 

 自己紹介だけでも個性が出てるというか。でも一緒にトレーニングするのは楽しかった。

 スズカさんとやった時とは違う感じで、ネイチャさん以外はまだデビュー前って言うのも大きいのかもしれないけど、何だか一生懸命だったからかな?

 

 ただトレーナーさんがトレーニング終わりに何か驚いた顔をしてたのが印象的だった。

 すぐに四人の担当トレーナーさんへ何か話を始めて、私達はその話が終わるまでの間、四人に水中歩行のやり方を教えて時間を潰したけど。

 

「な、中々むずかしいな……」

「ターボさん、乱れてますよ」

「これをテイオーさんはいつもやってるの?」

「うん。まぁ時々念のためにお休みするけどね」

「いやいや、でもこれ中々いいかも。プールで時々テイオーが歩いてるってのは聞いてたけど、こういう事だったんだね~」

 

 以前のテイオーさんはチームに所属といってもまったく顔を出す事もしてなかったからか、ネイチャさん達と触れ合うのが新鮮みたいで楽しそうにしてた。

 午前中のトレーニングが終わって、みんなでお昼ご飯を食べる事になって、私はネイチャさんの隣に座った。セイさんはタンホイザさんの横で、キングさんはディクタスさんの横だ。テイオーさんはターボちゃんが横に座ってる。

 

「そっちのチームも仲が良いんですね」

「まぁね。て言っても、アタシ以外はチームに入ったのつい最近なんだけどさ」

「そうなんですか?」

 

 意外だなぁ。四人とも仲良しだからてっきり随分前からチームだと思ってた。

 

「うちのトレーナー、若いでしょ? それでチームって普通はないんだけど、あの人は以前からこのチームの担当をしてた人の助手、サブトレだったんだ。だからそのまま引き継いでチーム持ちって感じ」

「優秀なんですね」

「……まぁ悪い人じゃないかな。アタシの事も頑張って指導してくれてるしね」

 

 若干だけどネイチャさんの目が優しくなった気がした。トレーナーさんの事、信頼してるんだなぁ。

 

「で、うちのトレーナーがテイオーを担当してたのも、誰でもいいってテイオー本人が思っててさ、それでテイオーの出した条件を飲み込めるのがあの人ぐらいだったってオチ」

「そうなんですか」

「そ。でも、まさかあのテイオーが担当替えを申し出るなんてねぇ。それだけヤバいんだろうね、ダービーでの怪我」

 

 ターボちゃんと二人で何か話しているテイオーさんを見つめて、ネイチャさんは遠い目をした。

 

「そっちのトレーナーはあのバクシン先輩を指導した人だもんね。あれだけの逃げをやってた人を見てたんだから、きっと怪我をさせないように色々気を遣ってたはずだし、そうなった場合の事も色々考えてたはずだ。テイオーもそこに賭けたんだろうね」

「ネイチャさん……」

 

 テイオーさんは一度もチーム練習なんかには参加してないって言ってた。だけど、きっとネイチャさんは同じチームだったと思うからこんな風に心配してるんだろうな。

 

「三冠ってさ、まぁ選手になろうと思ったら夢見るぐらいはするじゃない?」

「はい」

「でも、それは大抵夢だけで終わる。目指しても叶う事なく終わるのがほとんどだしね。けど、あの子はそれへ王手をかけた」

「はい……」

「しかも負けなしで、だもんなぁ。ホント嫌になっちゃうよね~。アタシみたいに重賞は三位がやっとみたいなのもいるのにさ」

 

 その言葉がズキッと胸に刺さった。私はこれまで二回GⅠへ出走して二回ともライブに出てる。

 だけどネイチャさんはそれだって凄い事だって思ってるんだ。私も十分凄いウマ娘なんだぞって、そう言われたみたいで嬉しいはずなのに何だか苦しい。

 

「叶えて欲しいって思いはある。でもさ、どっかでこうも思うのよ。叶わせてなるもんかって。そんな事させたくないってね」

 

 何も言えない。普段ならそんな事言わないでって言えるのに、ネイチャさんの苦しそうで悲しそうな顔を見てると何も言えない。

 

「ははっ、な~に言ってんだろうなアタシ。ごめんねスペちゃん。今の忘れて」

「は、はい……」

「まっ、同じチームだったよしみでテイオーの三冠を祈ってはいるって事。それだけ、それだけ覚えててくれればいいよ」

 

 そう言うネイチャさんは笑顔だ。でもその笑顔には、どこか暗い影があるようにも見えた。

 

 テイオーさんは今必死に頑張ってる。それを私達に見せないようにして、明るく笑っているけど、本当はすっごく不安なはずだ。

 トレーナーさんはあまり詳しい事は言わなかったけど、私にだって一か月もトレーニング出来ない事が異常だって事は分かるもん。

 

 菊花賞を勝てば、テイオーさんは三冠を達成できる。夢の一つを、叶えられる。

 私で言えば、日本一のウマ娘だ。それを、怪我を抱えながら叶えようと頑張ってる。

 それを、私は邪魔する事になってる。ううん、このままだとテイオーさんの夢を叶わないようにするはずだ。

 

 もしも、もしもテイオーさんが皐月賞やダービーの時みたいな状態なら私は何も考えず全力でレースへのぞめた。だってテイオーさんは強かったから。私の差し脚を届かせないままでゴールを通り過ぎたから。

 

 ……でも、今のテイオーさんは……。

 

「ごちそうさまです……」

「えっ!? す、スペちゃん? まだ残ってるよ?」

「どうしたのよ? 体調を崩したの?」

「あはは、ちょっと量が多すぎたみたいです。私ったら食べられる量を間違えちゃいました」

 

 その日、私は生まれて初めてご飯を残した。胸がいっぱいで食べられないって事があるって、そこで初めて体験して……。

 

 

 

「スズカさん、スゴイデスね」

「そうね。前よりも速くなってるし」

 

 一日のトレーニングを終えて汗を流しに行く途中、エルちゃんとグラスちゃんが私を見ながらそう言ってきた。

 

「そうかな?」

 

 でも言われてみればたしかに以前よりも長距離が楽になってきた感じはある。

 トレーナーが言うには私の走り方が本来のものへ戻ったからだって事みたいだけど、生憎私はそういう事を意識してこなかったからいまひとつ分からない。

 ただ、こうやって二人が言ってくれるならそういう事なんだと思う。あとは3000mでも中距離みたいな逃げが出来ればいいんだけど……。

 

「そうデスよ。おかげでまた差が開いた感じがするデース……」

「そういえばスズカさんって菊花賞に出るんですよね?」

「うん、そのつもりだけど?」

「やっぱりそうなんですね。じゃ、皐月賞のお返しをするんだ」

 

 皐月賞のお返し、か。たしかにそうだ。私はあのレースをきっと一生忘れない。

 私の前にずっと誰かがいたレース。逃げを打ったのに常に誰かが前にいた、あのレースを。

 

「アタシも出来る事なら出たかったんデスが……」

「仕方ないよ。私達には私達なりのプランがトレーナーにはあるんだから」

 

 そう、トレーナーは基本自分のプラン通りに物事を進める。なのに私のお願いをあっさり聞いてくれた事は意外だったけど嬉しかった。

 もしかして、トレーナーは私達が強く望めば聞いてくれるんじゃないかな? あるいはそれにハッキリとした根拠や理由があれば受け入れてくれるんじゃ?

 

 そんな事を思いながら私はお風呂場へ向かった。合宿所の大浴場はいつも賑わっている。大体みんなトレーニング終わりが一緒だからだ。

 脱衣籠に着替えやバスタオルを置いたら汗と砂で汚れたトレーニングウェアなどを脱いで、タオルを片手に脱衣所から浴室へ入ると湯気の向こうに多くのウマ娘影が見えた。

 

「相変わらず盛況ね」

「デスね。学園のシャワーが恋しくなります」

「これはこれでいいと思うんだけどね」

 

 そんな事を話しながらまずは体を洗おうと洗い場へ向かう。するとそこにスペちゃん達の姿を見つけた。

 

「スペちゃん」

「あ、スズカさんお疲れ様です。それにエルちゃんやグラスちゃんもお疲れ様」

 

 けど、何だかスペちゃんの様子がいつもと違う気がした。笑顔だし声の感じもおかしくないけど、何かが普段と違うって。

 

「スペちゃん達もトレーニング終わりデスか?」

「うん」

「そうなんだ。どう? 調子の方は」

「まだまだって感じ。でも菊花賞までにはしっかり仕上げてみせるよ」

 

 エルちゃんやグラスちゃんと笑顔で話すスペちゃん。その見た目は普段と何ら変わりない。

 でも、何だろう? 何かが違うような気がする。

 

 結局それが分からないまま私も体を洗う事にした。と、何故か私の隣へセイちゃんが移動してくる。

 

「スズカさん、ちょっといいですか?」

「何?」

 

 そこでセイちゃんはチラッとスペちゃんを見た。

 

「実はスペちゃんがお昼ご飯後から変なんですけど、何か気付く事あったりします?」

「ううん、何となくいつもと違うなって思うぐらいかな」

「そっか。じゃ、やっぱりお昼ご飯食べてる時に何かあったのかなぁ? スペちゃん、今日お昼残したんです」

「えっ?」

 

 思わず耳を疑った。あのスペちゃんがご飯を残すなんて信じられなかった。

 いつもご飯の時は幸せそうにしてるスペちゃんが、おっきなお腹をさすって微笑むスペちゃんが、何でご飯を残したんだろう?

 

 気になって色々セイちゃんから話を聞いていると、どうもスペちゃんはネイチャと話をしてから様子がおかしくなったらしい。

 ネイチャ、か。私も時々レースで一緒になるけどそこまで親しくはない。でもスペちゃんを傷付けるような事を言う子じゃないと思うんだけど……。

 

「分かった。私からもスペちゃんに話を聞いてみる」

「お願いします。私もそれとな~く聞いたんですけど、何でもないって返されたんで」

 

 セイちゃんから力になれなかった無念さを感じて、私はそっとその手へ手を重ねた。

 

「大丈夫。きっとスペちゃんはその声掛けを嬉しく思ったはずだから」

「……だといいな」

 

 微かに笑うセイちゃんを見て、スペちゃんはいい仲間を持ってるなって改めて思う。

 キングちゃんはどうしたんだろうと思って聞いてみると、何でもキングちゃんはセイちゃんで駄目なら自分にはもっと言わないと読んだみたいで、もう少し様子見をするらしい。

 それも、本当にスペちゃん思いだ。スペちゃんなら自分で何とかするかもしれないって信じてもいるし、自分よりもセイちゃんの方がそういう方面は頼りになるって信頼でもあるから。

 

「そういえばテイオーはどう?」

「……順調、とは言い難いかなって感じです」

「そっか」

 

 テイオーが怪我をしている事はもう周知の事実だ。ダービーを勝った後のライブを辞退し、学園に戻った後もトレーニングを行う事無く一月も過ごしていた。

 かと思えば最近になってプールへ顔を見せ、そこでプールの中を歩くだけというトレーニングを行っているらしい。そこまでくれば誰でも分かる。

 

 だからこそ合宿にテイオーが参加したと聞いた時は驚いたと同時にあの人らしいとも思った。

 きっと担当となった以上は自分の目の届くところにいて欲しいんだろうなって思えたから。

 

「でも、まぁ、少しずつだけど前に進んでます。だから油断してるとテイオーにまた一着取られちゃいますよ?」

「クスッ、そうされないように頑張ってるから。セイちゃん達も、でしょ?」

「ですね~。簡単に勝たせるなんてテイオーが嫌がりますし、何より私達も負けるよりは勝ちたいんで」

 

 それが本音だってすぐに分かった。チームの仲間としては勝って欲しいけどウマ娘としては勝たせたくない。これはきっとどのチームでもそうだと思う。特に記録がかかっている仲間がいる時なんかはそうならざるを得ないはずだ。

 

 と、そこでふと思った。もしかしてスペちゃんの様子がおかしくなったのってそれなんじゃないかって。

 テイオーが同じチームの仲間になって、ネイチャとの会話で無敗の三冠がかかってるって事を強く意識した? だから迷いが出てきたのかも……。

 

 お風呂から上がった後、私はスペちゃんに話があると言って二人だけで宿舎裏へ移動した。

 

「あの、お話って何ですか?」

「うん。スペちゃんにテイオーへ伝言をお願いしようと思って」

「伝言?」

 

 スペちゃんにテイオーの事で悩んでるのかなんて聞いたら、きっとセイちゃんと同じ答えを返される。そう思った私は、テイオーへ伝言をお願いする形でテイオー絡みで悩んでいる場合の解決をしようと考えた。

 

 違う可能性もない訳じゃない。でも直感でスペちゃんが悩むならそれだと思った。

 

「菊花賞、私も出るから申し訳ないけど三冠は諦めてって」

「っ!」

 

 スペちゃんの表情が変わったのを見てやっぱりと確信出来た。スペちゃんは真っ直ぐで優しい子だ。きっと同じチームの仲間になって仲良くなった事で、テイオーへ感情移入するようになったんだね。

 

「スペちゃん、悪いけどお願い出来る?」

「そ、その、スズカさんは平気、なんですか?」

「平気って?」

「……テイオーさん、ダービーの後で怪我して、一か月トレーニング出来なかったんです。やっと最近になって簡単なトレーニングを開始して、この合宿中にちょっとだけ私達と同じトレーニングが出来るようになりました」

「そうなんだ」

「テイオーさん、無敗の三冠ウマ娘になろうと頑張ってます。本当はすごく辛くて苦しいのに、私達には笑顔を見せてるんです。怪我が再発しないように気を付けて、そんな中で菊花賞目指してっ!」

「スペちゃん……」

「それなのにっ、テイオーさんの夢を邪魔していいんですかっ!? 下手したらテイオーさんは走れなくなるかもしれないのにっ! そんな思いで頑張ってるのにっ!」

 

 目に涙さえ浮かべて叫ぶスペちゃんは、まるでテイオーのように見えた。

 けど、あの子はきっとこう思っていても私へそれをぶつける事はしないだろう。

 だからここは心を鬼にする。テイオーが今のスペちゃんを見たらどう思うか。そして、こんなスペちゃんに勝ってもテイオーは絶対嬉しくないから。

 

「スペちゃんは随分酷い子だね」

「えっ?」

 

 自分でも信じられないぐらい低い声が出た。でもねスペちゃん。今のスペちゃんの言葉は優しさじゃないんだ。

 

「テイオーは絶対自分に勝てないって思ってるんだ?」

「っ!? そ、そういう訳じゃ」

「今のテイオーはどれだけ頑張ってもスペちゃんには勝てない?」

「それは……」

「違うの? なら何も問題ないでしょ? テイオーは強いウマ娘だよ。無敗で二冠を達成したんだもの。怪我でトレーニングが満足に出来なかった時期がある? それぐらいで負けるのならきっと怪我がなくても負けていたわ」

「っ!?」

「私はテイオーの強さを知ってる。皐月賞でセイちゃんが下がった後、やっと先頭で走れると思った次の瞬間にはもうテイオーが横に来てた。あの子は速い。私が自分の走りを出来なかっただけじゃない。例え出来ていても確実に勝てるとは思えなかったはず。それぐらいトウカイテイオーは強いんだよ、スペちゃん」

「スズカさん……」

 

 分かってスペちゃん。テイオーへ想いを重ねるのは分かるけど、それで走りに迷いを抱くのは同情だって。

 テイオーを強いウマ娘だと思うのなら、速いウマ娘だと思うのなら、何があろうと全力でぶつかって勝利を目指すだけなんだよ?

 

「実際、普通なら怪我をしてトレーニングが出来ないぐらいの状態なら三冠を諦めて治療に専念するのが当然なの。それをしないで、三冠を諦めずに挑んでる。それだけでテイオーが強いのは分かるでしょ?」

「……はい」

「スペちゃん、テイオーの無敗の三冠は出来たら凄い事だと私も思う。同じウマ娘としては達成させてあげたいし、達成して欲しいと思う。でも、同じ選手としては絶対阻止してみせるって思う。ううん、その気持ちで走れないなら菊花賞に出る資格はないよ」

「出る資格がない……」

「テイオーだって自分への同情で掴んだ三冠なんて欲しくないはずだよ。あの子はね、全力で私達と競い合って、その上で一着を取りたいんだから。そうじゃないと三冠の価値がないもの」

 

 私だってそうだ。お情けで勝たせてもらうなんて絶対嫌だ。並み居るライバル達を突き放して逃げ切って勝つからこそ嬉しいし意味がある。

 だからこそテイオーがどういう状態だろうと全力で走るんだ。勝つのか負けるのかは分からないけど、どっちに転んでも自分が納得出来て次に進むためにはそうするしかないから。

 

「スペちゃん、お願い。この伝言をテイオーへ届けて。私は全力で菊花賞を走るからって。何があっても全力で勝ちに行くからって」

「スズカさん……っ」

「お願いね」

 

 そう言って私はその場から立ち去った。スペちゃんが立ち直ってくれるかどうかは分からないけど、これで駄目なら仕方ないとも思う。

 

 と、少し歩いたところで思わぬ相手と出会った。

 

「キングちゃん……」

「はぁ……お見事でした。わたしの出番はないようですわね」

「き、聞いてたの?」

「ええ。その、何かあった時には手助けしようかと」

 

 顔が一気に熱くなる。は、恥ずかしい……。さっきの全部聞かれてたなんて……っ。

 

「でも必要なかったみたいですわ。あとはこれでスペも本来の状態に戻ってくれれば……」

 

 私の後ろへ目を向けどこか心配そうな顔をするキングちゃん。うん、やっぱりスペちゃんはいい仲間を持ったね。

 

 そう思いながら私はキングちゃんと二人で宿舎の中へ戻るとセイちゃんが出迎えてくれた。

 するとキングちゃんが簡単に私がスペちゃんへ言った事を耳打ちしたみたいで、セイちゃんに「ありがとうございます」って言われた。

 それにも恥ずかしくなって、どういたしましてって返す事しか出来なかったけど、そんな私を見てキングちゃんとセイちゃんが小さく苦笑してたから照れくさくもなっちゃった。

 

 そんな二人から逃げるように離れて割り当ての部屋へ戻ると、そこにいたエルちゃんやグラスちゃんに顔が真っ赤だって言われた。

 

「そ、そんなに?」

「「そんなに(デス)」」

 

 この後誤魔化すのがかなり大変だった。いつもならエルちゃんを止めてくれるグラスちゃんが一緒になって追及してきたからだ。

 

「さぁさぁ、何をしてたか話すデスよ」

「さぁさぁ」

「だ、だからね? 顔が赤かったのはセイちゃんとキングちゃんが……」

「それは分かったデスから、何で二人が笑ったのかを話してもらおうか、デース」

「ふふっ、逃がしませんからね?」

 

 でもそのおかげでまた二人と仲良くなれた気がする。いつか私もこの二人と本番のレースで一緒に走りたいなって、そう思うぐらいに……。

 

 

 

 合宿も終わりが見えてきたある日、ボクはカイチョーに呼び出された。

 

「どうしたの? カイチョーから呼び出すなんて珍しいね」

 

 その日のボクはネイチャ達と一緒にトレーニングをした後で機嫌が良かった。

 トレーナーが考えた通り、合宿中は三日を体を大きく動かさないようなトレーニングをして、一日完全お休みで、残り三日は普通のトレーニングにあてたらお告げも危ないって言わなくなった。

 

 つまり今のボクは一週間全部でトレーニングをする事が危ないって事だ。そう考えて行動すれば安全性はかなり上がったみたい。

 

 トレーナーはあの日、初めて危ないってお告げが言った時からボクへトレーニングを始める前に少し間を作って欲しいって言ってきた。その間に天のお告げを聞いて危険かどうかを判断するために。

 で、その成果か分からないけど、最近お告げが少し細かくなったって言ってた。何でもどれぐらい危険かを教えてくれるようになったらしい。

 

 そんな事を思い出しながらボクがカイチョーを見つめてニコニコしてると……

 

「この合宿でトレーニングを行っているそうだな」

 

 なんて、ちょっと怖い顔で言ってきた。

 

「う、うん」

「……あのトレーナーの指示で、だな?」

「そうだよ? だってボクのトレーナーだもん」

 

 何でそんな事を今更聞いてくるんだろう? カイチョーもトレーナーがボクの担当になった事ぐらい知ってるはずなのに……。

 

 ボクの答えを聞いてカイチョーはふくざつそうな顔をしてだまっちゃった。

 その間ボクはやる事もないからその場へ座る事にした。出来るだけ足へ負担をかけないようにするためだ。

 トレーナーがトレーニング中はお告げで危ないかどうかを見ててくれるけど、こういう何気ない時も可能なら気遣っておこうと思ってそうするようにしてる。

 

「テイオー」

「何?」

 

 やっとカイチョーが声を出してくれたので顔をそっちへ向けると目が合った。

 

「勿論それが最悪の場合どういう結果に繋がるかを分かっているんだな?」

「……うん、覚悟の上だよ」

 

 そこで分かった。何でカイチョーがふくざつな顔をしたのか。多分だけどカイチョーはボクが治療に専念するか負けるのを承知で菊花賞へ挑むかのどっちかだと思ってたんだ。

 それが、ちゃんと見てみたらトレーニングまでやってるから驚いたんだね。トレーナーもお告げがなかったら治療一択だって言ってたし。

 

「……そこまでして三冠を、か」

「うん。ここまできたんだ。なら勝つにしろ負けるにしろちゃんと出来るだけの事をしておきたいしさ」

「出来るだけの事を……」

「無敗の三冠か、ただの二冠か。ボクはね、選ばせてもらったんだ。無敗でいるか、三冠へ挑んで負けるか、夢を叶えるかって。勿論トレーナーは夢を選べばどうなるかを教えてくれた。それでも、それでもボクがそれを選びたいなら支えるって、そう言ってくれたんだよ」

 

 ボク一人じゃあきらめるしかなかった。ボク一人じゃ無敗さえも守れたか分からない。

 トレーナーが、みんながいてボクは強くなってる。目の前でスペちゃん達が頑張るのを見て、ボクも絶対負けたくないって思える。また皐月賞やダービーみたいなレースをしたいって思うんだ。

 

「カイチョー、ボクね、もしかしたら約束守れないかもしれない」

「……かもしれないな」

「うん。でも、これだけは言えるよ。何があっても、ボクはもう絶対ボクだけには負けないって」

「自分にだけは負けない、とはな。ふっ、いい顔だ。去年ここで泣いたとは思えないな」

「うぐっ、そ、それは忘れてよぉ」

 

 そう、ここはあのヘイローと走って負けた後カイチョーと話した場所だ。

 あれから一年になると思うと変な感じがする。あの時ボクを負かした相手と同じチームなんだもんね。

 

「ははっ、忘れるものか。あの日の涙が今の二冠ウマ娘に、いや未来の三冠ウマ娘に繋がっているんだからな」

「カイチョー……」

 

 未来の三冠ウマ娘。カイチョーはボクならそれになれると信じてくれてるんだ。そう思うと胸の奥が熱くなる。

 

「菊花賞は何があろうと見に行く。怪我を乗り越えたトウカイテイオーの勇姿を」

「うんっ! しっかり見てて!」

 

 ボクを優しく見つめるカイチョーが一瞬だけトレーナーと重なる。そうだったね。トレーナーと同じようにボクを見守ってくれる人がここにもいた。

 

「そしていつかカイチョーを、シンボリルドルフを超えてみせるからっ!」

 

 それがきっと一番のカイチョーへのおんがえしだ。だって、そう言われた後のカイチョーはとっても嬉しそうに笑顔を見せてくれたんだからっ!




いよいよ菊花賞です。正直今から色々と気が重い(汗
誰を勝たせても誰かは悔しさを味わう訳で、もう気分はトレーナーと同じです。

スペ、キング、セイ、スズカ、テイオーが出走する菊花賞ですが、果たしてどんなレースになるのか。
一つだけ言えるのは五人は長距離適性が抜群という訳ではないと言う事ですね。


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勝利の代償

菊花賞です。疲れました。自分ではこんな展開が精一杯です。


 多くの人で賑わう京都レース場。それもそのはず。今日は菊花賞の開催日であり、無敗の三冠をトウカイテイオーが達成するか否かを見るべく大勢の観客が集まっていたのだ。

 

 そして、それだけではない理由も今回の菊花賞にはあった。

 皐月賞、日本ダービーと熱戦を繰り広げたウマ娘であるスペシャルウィーク、キングヘイロー、セイウンスカイが出るだけでなく、中距離最強の一角サイレンススズカまでも初めて長距離を走るためだ。

 

「す、凄いですね……」

「そうだなぁ。年末の中山かそれ以上かもしれんぞ、これ」

 

 二人の男性トレーナーは周囲の様子と人数に若干圧倒されていた。

 片方はご存じ天の声が聞こえるようになったトレーナーである。

 そしてもう一方はテイオーを担当していた駆け出しトレーナーであった。

 

 トウカイテイオーの三冠をかけたレースともあり、彼は先輩であるトレーナーの誘いを受け、かつての担当としてそのレースを見届けようとこの京都レース場にやってきていた。

 

「年末の中山、ですか。言われてみればたしかにこれに近いですね」

「ああ。ただ熱気は今日のこっちが高いと思うけどな」

「……はい」

 

 トウカイテイオーの無敗での三冠。達成すればシンボリルドルフ以来の快挙であるその瞬間をこの目で見ようと、こうして大勢の観客が詰め寄せていた。

 

 そのためか会場の熱気はやはり並々ならぬものがあったのだ。

 

「それにしても良かったんですか?」

「ん?」

「いえ、こっちのチームのウマ娘達を連れてきても」

「ああ、その事か」

 

 実は駆け出しトレーナーの担当するナイスネイチャ、ツインターボ、イクノディクタス、マチカネタンホイザはこのレース場へやってきていた。

 

 普通は同じチームの仲間が出ていないレースを直接見に行く事はあまりない。だがトレーナーは、駆け出しトレーナーだけではなくそのチームのウマ娘達もトウカイテイオーのトレーニングを手伝ってくれた礼だとしてこの菊花賞見学に招待していたのだ。

 

「ナイスネイチャ以外はまだレース場の雰囲気に慣れてないだろ? なら早い内に慣れておいた方がいいと思ってな。しかも今日みたいなのは中々味わえない。いい経験になると思うんだ」

「そう、ですね。ありがとうございます。異なるチームの僕らへよくしてくれて」

「いいんだっての。こっちだって都合のいいようにそっちを利用したようなもんだ。気にすんなって」

「先輩……ありがとうございます」

「ここにいたのか」

 

 と、そこへサイレンススズカの担当である女性トレーナーが姿を見せた。

 

「先輩、一人ですか?」

「いやエルやグラスと共に来たが二人はスズカの控室だ。どうしても応援したいと言ったのでな」

「あの、お久しぶりです」

「ん? ああ、お前か。聞いているぞ。テイオーの件は災難だったな。ああいう天才タイプはどうしてもどこかで自分の感覚や感情を優先する傾向がある。まぁ今後に活かせる経験をしたと思え」

「は、はい」

 

 過去に苦労した事があるのか、あるいは今もそういう苦労をしているのか。女性トレーナーは駆け出しトレーナーへ同情するような眼差しを向けていた。

 

『澄み切った青天の下、熱気と期待渦巻く京都レース場です。GⅠ菊花賞、芝、3000m、18人フルゲートでの出走となりました』

 

 場内に流れたアナウンスに三人の顔が上へ向く。

 

「……テイオーはどうだ?」

「正直何とも。ただ、出来る限りの事はしました」

「そうか」

 

 相変わらず誤魔化しの出来ない奴め。そう思って女性トレーナーは小さく苦笑する。

 駆け出しトレーナーはそんな女性トレーナーに軽い驚きを見せていた。彼の知る範囲では彼女は笑うところなど見せた事がなかったからだ。

 

「先輩こそサイレンススズカはどうなんです?」

「私が勝ち目のないレースに出すと思うか?」

「思いません」

「なら答えは出ている」

 

 かつての師と教え子らしいやり取りであった。それを駆け出しトレーナーは眺めて感心していた。

 

「随分仲が良いんですね」

「まぁかつての教え子だからな」

「そういう事っと、そろそろ始まるぞ」

 

 その言葉で駆け出しトレーナーと女性トレーナーの顔が大型モニターへと向いた。

 既に各ウマ娘達がゲートへと向かっている。その中にアップで映し出されたトウカイテイオーの姿に会場が沸いた。

 

「……気負いもなければ気落ちもないようだな」

「ええ。テイオーもやれるだけの事をやったと言ってくれました」

「テイオーさん、無事にゴールしてください……」

『各ウマ娘が次々とゲートへと入っていきます。おっと、やはりセイウンスカイがゲート入りを嫌がっていますね』

「セイ……」

「あれは治らんのか?」

「無理です。本人も努力はしてるんですけどね」

「ま、まぁ目隠ししないといけない程じゃないからいいと思いますよ?」

「そこまでいったらいっそ開き直れる」

「先輩は、でしょう。俺やそっちは無理ですよ。なぁ?」

「え、ええ。何とかしたいと思いますよね」

 

 いかにもトレーナーらしいやり取りをしながら三人はレースが始まるのを待った。

 

 その頃、別の場所ではエルコンドルパサーとグラスワンダーがナイスネイチャ達と思わぬ邂逅を果たしていた。

 

「いやぁ、まさかこんなとこで会うなんてね~」

「デスね。でも助かりました。今から良い場所は中々取れませんから」

「そうね。でも一緒に観ててもいいのかな?」

「別に構わないかと。私達は特定の相手の応援に来た訳ではありませんし」

「え? テイオーじゃないの?」

「ターボ、スペちゃん達はどうするの?」

「ああっ! そっか!」

「ならそっちは四人いるでしょ? 一人一人担当を決めたら?」

 

 グラスワンダーの提案にツインターボ達は顔を見合わせる。

 

「誰にする?」

「テイオーっ!」

「なら私はスカイさんを」

「じゃあスペちゃんかな」

「はいはい。ならアタシがキングね」

 

 ツインターボがトウカイテイオー、イクノディクタスがセイウンスカイ、マチカネタンホイザがスペシャルウィーク、ナイスネイチャがキングヘイローと、それぞれ応援する相手が決まったところでいよいよゲートインも終わり、スタートの瞬間が近付いてきていた。

 

『各ウマ娘体勢完了。このレースを制し最強の称号を得るのは誰だ!』

 

 会場全体がまるで息を呑むかのように静まり返る。その静寂を斬り裂くように……

 

『今スタートしました』

『出遅れたウマ娘はいないようですね』

『さぁ先頭争いですが、やはり出てきたのはこのウマ娘、サイレンススズカ。その外をセイウンスカイが追走していく。レースはこの二人で引っ張る形となりそうです』

 

 誰もが予想していた展開で菊花賞は始まった。ハナを主張するサイレンススズカへセイウンスカイが離され過ぎない位置で追走という、そういう形で。

 

(セイちゃんか……皐月賞のような事はやっぱりしてこないね)

(さすがのスズカさんも3000だと普段のようなペースで走らない、か)

 

 逃げウマ娘同士が一瞬だけ視線を交差させる。逃げのペースを上げる瞬間を計る様にしながら二人は最初に第四コーナーへ向かっていく。

 

『先頭は依然としてサイレンススズカ。だがセイウンスカイが虎視眈々と先頭を狙っているぞ』

『初めての長距離とは思えないぐらい良いペースで走っていますね。皐月賞とは逆の位置関係というのも中々興味深いです』

『さあ先頭が第四コーナーへ入ります。既に後方とは6バ身以上の差が開いている』

 

 3000mは長い。それでもサイレンススズカもセイウンスカイも気負いはなかった。

 これまでのトレーニングのおかげもあるが、一番はまだレースに動きはないと察しているからだ。

 

 ウマ娘だけでなく観客さえも注目しているのはやはり無敗の二冠ウマ娘、トウカイテイオーなのだから。

 

『一番人気、無敗の二冠ウマ娘トウカイテイオーは中団やや後方からレースを進めています』

『皐月賞やダービーに比べるとやや位置取りが後ろになっています。心配ですね』

『現在トウカイテイオーは10番手というところです。先頭とはかなり離されているが走りに不安は見られません』

(テイオー……悔いを残すなよ……)

 

 トレーナーは画面に映し出されているトウカイテイオーの姿を見つめ、前日のやり取りを思い出していた。

 

――全力で走るのは危ない?

――ああ。先生が言うには、元々お前の足はその走りに何度も堪えられる程強くないそうだ。もし今の状態で3000mを最初から全力で走ればレース途中で故障してもおかしくないと言われたよ。

――じゃあ中盤からなら平気なの?

――……俺の判断では、な。先生は無事に走り切るつもりなら全力は最後まで出すなと言ってた。

――無事に走り切るつもりなら……。

――お前は勝ちたいんだろ? しかも全てを失う覚悟で今まできた。なら最後はお前の判断で決めてくれ。勝負所を掴む事に関してはお前は天才だ。そのお前がここだと思ったなら勝負をしかけてくれていい。

――トレーナー……ありがとう。

 

 モニターの中のトウカイテイオーを強く見つめるトレーナー。すると……

 

“テイ……の……は……な……”

「っ!?」

 

 突然途切れ途切れの天の声が聞こえたのである。初めての事に息を呑むトレーナーだが、すぐに何かを思い出したように隣の女性トレーナーへ顔を向けた。

 

「先輩っ、オペラグラス持ってますよね!」

「あ、ああ」

「貸してくれませんか! 自分の目でテイオーを見たいんですっ!」

 

 妙に切羽詰まったトレーナーの雰囲気に彼女はやや戸惑いながらポケットからオペラグラスを取り出した。

 

「ほら」

「ありがとうございますっ!」

 

 オペラグラスを受け取るや急いでトレーナーはそれを展開してトウカイテイオーを探した。

 

「……いたっ!」

 

 バ群に埋もれる形となっているトウカイテイオーを見つけたトレーナーは、再び意識を強く集中して彼女を見つめる。

 

“テイオーの調子は悪くないな”

 

 先程よりも鮮明になった内容にトレーナーは安堵の息を吐きながら、そのままトウカイテイオーの姿を追い続ける。

 

(もし天の声がヤバい事を教えてきたら……っ!)

 

 その可能性を考慮し、トレーナーはすぐにオペラグラスでトウカイテイオーではなく観客席を見回し始めた。

 そしてその中に見知った顔を見つけるとオペラグラスから目を離してそこを目指して移動を開始したのだ。

 

「おい、どこへ行く?」

「すいませんっ! 最悪に備えたいんですっ!」

「最悪って……っ!? 先輩っ!」

「まったく……相変わらずこうと決めると行動が早いな」

 

 軽く呆れつつもどこか好ましい口調でそう呟き、女性トレーナーは駆け出しトレーナーへ顔を向けた。

 

「もうあいつの事はいい。私達はレースへ集中するぞ」

「は、はい」

 

 既にレースは序盤を過ぎ、中盤戦へ移行し出していた。

 

『先頭争いは依然としてサイレンススズカ優勢。だがセイウンスカイの走りにも疲れは見えない。二人揃って第二コーナーへと入っていく。ここで1600を通過』

(やっと半分。でもまだ余裕はある)

(半分切った、ね。じゃ、仕掛けるならここぐらいかな)

 

 半分を過ぎた事に対するサイレンススズカとセイウンスカイの反応は異なっていた。

 安堵するようなサイレンススズカに対してセイウンスカイは不敵な笑みを浮かべたのである。

 

『おっと、ここでセイウンスカイがペースアップっ! サイレンススズカの前へ出たっ! 先頭変わりましてセイウンスカイっ! ここでレースに動きが起きましたっ!』

 

 それがまさしくレースの本当の始まりを告げた。3000mの半分を過ぎ、残り1500mを切ったところから菊花賞はその熱量を上げ始める。

 

『先頭を奪ったセイウンスカイを許すものかとサイレンススズカもペースを上げる! 再び過熱する先頭争い。その間に中団からも動く者が出てきた!』

(ここで少しでも前の方へ行こう!)

 

 スペシャルウィークが位置を上げ始めたのだ。8番手にいたのがジワジワと7番手、6番手と前へ移動を始める。

 

『スペシャルウィークが上がっていく! それに付随するかのようにキングヘイローも動き出したっ! だがテイオーはまだ動かないっ!』

(まだだ。まだボクが動く時じゃない……)

 

 チラッと足へ目をやるトウカイテイオー。痛みなどもなければ違和感もない。それでもそこには見えない爆弾があるのだと今の彼女は知っている。

 だが視線をすぐに前へ戻すと表情を凛々しいものへ変えて彼女は走り続ける。視界の先を駆け抜けていく同じチームの仲間達を見送るように。

 

『さあっ! 依然として先頭はセイウンスカイっ! それをサイレンススズカが追う形となっていますっ! だが一時は8バ身はあった後方との差がここにきて5バ身程に縮まってきている!』

(ここだっ!)

『残りは1000mを切ろうとしているがここでテイオーが動いたっ! 無敗の三冠ウマ娘に向けてその足を進めていきますっ!』

((((来たっ!))))

 

 トウカイテイオーの動きにセイウンスカイが、サイレンススズカが、スペシャルウィークが、キングヘイローが、そして会場中が意識を切り換える。

 

『セイウンスカイ依然先頭っ! だがサイレンススズカが並ぶように威圧しているっ! そこへ猛烈な勢いで迫っていくウマ娘がいるぞっ!』

 

 誰もがその姿と走りに息を呑み、そして大歓声を上げる。

 

『トウカイテイオーだっ! トウカイテイオーがやってきたっ! あっという間に並み居るウマ娘達を抜き去って! いよいよ先頭二人へ襲いかかるっ!』

「どけぇぇぇぇっ! そこはボクの場所だぁぁぁぁっ!!」

「させないよっ!」

「先頭の景色は誰にも渡したくないっ!」

『さぁ先頭二人が第四コーナーをカーブしていくっ! そこへ猛然と迫るトウカイテイオーっ! いやっ! テイオーだけじゃないっ!』

「今度こそ差し切ってみせるっ!」

『スペシャルウィークだっ! 皐月、ダービーで見せた強烈な末脚に磨きをかけて流星のようにトップ集団目掛けて駆けてきたぁっ! 残りは800を過ぎ600を切ろうとしているっ! 逃げる逃亡者二人へ追跡者二人が迫っていくっ!』

 

 皐月賞ともダービーとも異なる展開に会場のボルテージは最高潮へと達する。

 第四コーナーを抜けようとする逃げの二人へ、先行のトウカイテイオーと差しのスペシャルウィークが凄まじい加速で待ったをかける展開に。

 

 しかしこのレースにはもう一人主役を張れるだけのウマ娘がいた。

 

「わたしを忘れてもらっちゃ困りますわぁぁぁぁぁっ!!」

『ここでキングヘイローも加速してくるっ! まだ諦めないとばかりに前を見据えて走ってきたっ! その末脚はスペシャルウィークに迫る勢いだぞっ! 秋風涼やかな京都を真夏へ戻すかのような熱気と激突が巻き起こる菊花賞っ! 残りは400を切ったっ!』

 

 ゴールを目指す五人のウマ娘。だがそこで誰もが気付く。これまでの三冠レースで先頭を走っていたウマ娘が未だにそこへこない事に。

 そのウマ娘、トウカイテイオーはその表情を苦しそうなものへ変えながら懸命に足を動かしていた。

 

(ダメだっ! 届かないよ……っ!)

 

 無意識の内にトウカイテイオーは足の故障を怖がっていた。それが本来の速度を出させる事を拒んでいたのである。

 目を閉じ、顔を下へ向けながら走るトウカイテイオー。その姿は、これまで見せてきた帝王然としたものとはかけ離れていた。

 

『先頭は僅かにセイウンスカイっ! そのすぐ横にサイレンススズカがいるっ! そこへスペシャルウィークが大外から末脚を爆発させて迫るっ! トウカイテイオーはここにきて伸びが悪いかっ! キングヘイローが抜き去ろうと迫るっ!』

(テイオー……っ!)

 

 どう見ても余裕もなく負けを受け入れようとしているトウカイテイオーに気付き、キングヘイローは意を決した顔で近付いていく。

 そして失速しそうなトウカイテイオーの真横を通り過ぎようとした瞬間、彼女はこんな言葉を放つ。

 

「またわたしに負けるのね」

「っ!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、トウカイテイオーは目を見開いた。

 思い出される去年の夏合宿での敗北と悔しさ。それと、涙と誓い。

 

(やだ……もう、もう負けるのは、ううん……っ!)

「同じ相手に負けるなんてゼッタイにイヤだぁぁぁぁぁっ!!」

 

 恐怖心を闘争心で塗り潰し、トウカイテイオーの足が力強く大地を踏みしめる。

 それはそのまま凄まじい加速となってその体を押し出させた。

 

『トウカイテイオーが再び加速っ! 一度は抜き去ったキングヘイローを抜き返しスペシャルウィークさえも射程内に捉えるっ!』

(それでこそテイオーさんですっ! でもっ!)

『が届かないっ! スペシャルウィークの末脚に衰えはないっ! そのまま先頭へ迫るっ!』

「まだだぁぁぁぁぁっ!!」

 

 故障を恐れない覚悟がトウカイテイオーの走りへ宿り、その速度を更に引き上げていく。

 

 それは皐月賞を、日本ダービーを超えるものだった。当然トウカイテイオーの中でビキっというような音が聞こえる。

 

(ぁ……まずい、かも……)

 

 速度を落とすべきかという考えがトウカイテイオーの脳裏を過ぎった刹那……

 

「テイオーは大丈夫だっ! そのまま走り切れぇぇぇぇぇっ!!」

 

 トレーナーの叫びにも似た大声をトウカイテイオーの耳は、いやセイウンスカイもスペシャルウィークもキングヘイローも、サイレンススズカさえも聞いたのだ。

 それはトウカイテイオーには己に起きている事への恐怖を振り払う力となり、他の四人にはどこかに残っていた心配や不安を吹き飛ばす力と変わった。

 

「「「「「ああああああっ!!」」」」」

『テイオー咆哮っ! いや一着を狙う五人が咆哮するっ! 依然セイウンスカイ先頭っ! サイレンススズカも諦めないっ! スペシャルウィークとトウカイテイオーが並びながらゴールへ向かうっ! キングヘイローも来るぞっ!』

「キングっ! 王者なら勝ってみせなさいっ!」

「逃げ切れますよスカイさんっ!」

「差せっ! スペちゃんっ!」

「「負けるなスズカさんっ!」」

「あきらめるなテイオーっ!」

 

 その声援を後押しにするように五人が最後の力を振り絞るように足を動かす。

 もうスタミナなど残っていない。けれどその走りを根性で支えていた。

 

(今度こそ王者の走りを……っ!)

(逃げ切ってみせるよ……っ!)

(今度こそ届かせるんだ……っ!)

(もう私は負けない……っ!)

(ゼッタイあきらめるもんか……っ!)

 

 全員が同じ方向を向いていた。ゴールのその先を見つめて走っていた。

 

 もう、言葉はいらなかった。実況さえも黙ってしまう熾烈なゴール前。

 

 先頭は僅かにセイウンスカイ。サイレンススズカがそれを抜き返そうとするのと合わせて後方からスペシャルウィークとトウカイテイオーが迫り、キングヘイローは劇的な追い込みを発揮して先頭争いへ割り込んでいく。

 

 誰もが自分が一着だと譲らなかった。誰もが自分が勝者だと疑わなかった。

 周囲の事など見ていなかった。ただ目の前の道を走り続ける事しか考えていなかった。

 この時、五人の頭には、三冠の約束も、皐月の雪辱も、日本一の夢も、王者の誇りも、最強の称号も、何もかもが抜けていた。

 

 あるのはただ一つ。誰よりも速くゴールを駆け抜ける事だけだった。

 

『っ!? 同着っ!? 同着ですっ! 正確な着順に関しては判定をお待ちくださいっ!』

 

 やがてレースは終わる。五人の耳には実況は聞こえない。代わりに聞こえるものは歓声か絶叫か分からない声だ。

 勝者と呼ぶにはあまりにも無様な姿で五人は倒れ込むように走りを止め、揃って荒い呼吸のままで空を見上げた。

 

 吸い込まれそうな秋の空は、雲一つない青天であった。

 

『判定出ましたっ! 一着は……』

 

 誰もが固唾を飲んで次の言葉を待った。誰が勝ったのかを、ただ聞き逃すまいと耳を澄ませた。

 

『一着は、トウカイテイオー、サイレンススズカ、セイウンスカイ、スペシャルウィーク、キングヘイローという前代未聞の五人同時です! 掲示板が全て一着で埋まりましたっ!』

 

 次の瞬間、京都レース場から凄まじい大歓声が響き渡った。

 

『トウカイテイオーは無敗での三冠達成っ! そして歴史に残る結末でした! もっとも強いウマ娘が勝つと言われる菊花賞! 今年はその座が決まり切らないという大波乱っ! ですが、それを納得させるだけのレースでした!』

 

 やがて会場からテイオーコールが沸き起こる。同着とはいえ、やはり無敗で三冠を達成したトウカイテイオーを讃える動きが起きるのは当然だったのだ。

 

「……ボク、勝った、の?」

 

 聞こえる声に実感が湧かず、どこか呆然としながらトウカイテイオーが呟く。

 

「……みたい、だね」

 

 セイウンスカイもそれは同じだった。我武者羅に走った結果、自分以外の周囲へ意識を向けなかったのだから当然である。

 

「同着って聞こえた気がしましたけど……」

 

 ぼんやりとした頭でスペシャルウィークが顔を動かした。そこにいるキングヘイローは未だに空を見上げている。

 

「わたし達、全員一着って事よ……」

 

 悔しそうな、けれどどこか満足そうな表情でキングヘイローはそう返して息を吐いた。

 

「ライブ、どうなるのかな……」

 

 一人サイレンススズカはウイニングライブの事を考えていた。

 

 それでもいつまでも倒れている訳にはいかないと一人また一人と立ち上がる。

 

「あれ?」

 

 だが一人だけ立ち上がらない者がいた。その人物、トウカイテイオーは両腕を地面へ着けて上体を起こしたまま動かないでいた。

 

「テイオー?」

「どうしたのよ?」

「いや、何だか立たない方がいい気がしてさ」

 

 最後の直線での無理がトウカイテイオーの脚へ限界以上の負荷を与えていた。

 その事を感じ取っていたトウカイテイオーは、下手に動かない方がいいのではと直感していたのである。

 

「それって……」

「な、何かあったんですかっ!?」

 

 血相を変えるサイレンススズカとスペシャルウィーク。そこへ落ち着いた声が響いた。

 

「立たなくて正解だ。テイオーの勘は凄いな」

「トレーナー……それに……」

「凄まじい走りだったな、テイオー」

「カイチョー……」

 

 トレーナーがシンボリルドルフを伴ってコースの中へ現れたのだ。

 突然の事に理解が追いつかないトウカイテイオーの体をシンボリルドルフは優しく抱き抱え、そのままゆっくりとスタンド正面へと移動していく。

 

「ほら、ぼさっとするな。お前達も一緒に行ってやれ。一着のウマ娘だろうが」

 

 それを見つめていた四人へトレーナーはそう声をかけて送り出す。

 

 一方でシンボリルドルフに抱えられたトウカイテイオーは、大勢の観客からのテイオーコールに圧倒されていた。

 

「さぁ、テイオー、ファンに応えてあげるんだ」

「え?」

「腕を動かす事は出来るだろう? 無敗で三冠を取ったんだ。何をすればいいかは分かるだろう?」

「ぁ……」

 

 かつて見たシンボリルドルフの動きを思い出し、トウカイテイオーは右腕を動かして高々と上げると指を三本立てた。

 直後沸き上がる大歓声。再び、だが先程よりも声量を大きくしたテイオーコール。それを浴びながらトウカイテイオーはこみ上げてくる涙を抑える事が出来なかった。

 

「……ぐすっ、かいちょぉ」

「何だ?」

「ボク……ボクぅ……さんっ、かんウマっ……っむすめになったよぉ」

「そうだな。約束の一つを果たしてくれて嬉しいよ。だからこそ、しばらく休むといい」

「ひっく……でもぉ……」

「いいんだ。お前には時間がある。それに、素晴らしい仲間もいるようだしな」

「え……?」

 

 そこでトウカイテイオーは初めて気付いた。いつの間にか周囲にセイウンスカイ達四人が立っている事に。

 

「みんな……」

「あれ? テイオー泣いてるの?」

「まったく情けないわね。まだ目標の一つでしょう。泣くには早いわよ」

「な、泣いてなんかないよっ!」

 

 慌てて目元を拭うトウカイテイオーだが、それを見て誰もが笑顔を浮かべていた。

 

「ふふっ、テイオー? 貴方はライブへは出られないからその分ここで声援に応えてあげてね」

「分かってるっ!」

「皆さん、テイオーさんを呼んでますよ。ほら、手を振ってあげたらどうですか?」

「そうだねっ! みんな~っ! ボク、ボクっ! やったよ~っ!」

 

 トウカイテイオーに合わせて四人も手を振った。その光景を見つめ、トレーナーは一人息を吐いて目を細めた。

 

“テイオーの調子は最悪だ。トレーニングはまだ出来ないな”

 

 聞こえる声はダービーの後よりも酷い状態にトウカイテイオーがなっている事を教えていた。

 けれど以前と違うのはトレーニングに関しても言及してくれている事だ。

 

 最悪を覚悟の上で彼もトウカイテイオーもこのレースへ挑んだ。それでも最悪の結果を回避出来た事は嬉しかった。

 

(最悪の結果は天の声が否定してくれたからいいが、もしそうじゃなかったら俺は……)

 

 あの瞬間、トレーナーの脳裏に聞こえた天の声はこうだった。

 

――テイオーの調子は悪いな。走り切る事は出来るだろう。

 

 そこで後半が聞こえなかったら、トレーナーが叫んでいたのは大丈夫ではなく別の言葉だった。

 

「……テイオーとの約束を破らずに済んで良かったな。だが、やっぱり俺はいざとなったらあいつらの夢よりも大事にするものがあるって事か」

 

 そう噛み締めるように呟いて、トレーナーも五人へ惜しみない拍手を送る大勢の観客達と同じようにその場で拍手を送る。

 

(でも、今は素直に祝おう。テイオーが目標を叶えて、スペ達もGⅠで一着になれたなんて奇跡を)

 

 この後のウイニングライブはトウカイテイオー不在という事と五人同着という事もあり、普段とは異なる変則的な編成のライブとなった。

 だがしかしトレーナーはまたもそのライブを見る事が出来なかった。トウカイテイオーをシンボリルドルフと共に近くの病院へ連れていかねばならなかったからだ。

 

 それを寂しく思いつつも、トレーナーならそうすると分かっていたため三人はライブをトウカイテイオーの分まで楽しみ、盛り上げる事へ注力する。

 

 そのライブを見つめ、静かに闘志を燃やすウマ娘がいた。

 

(スペちゃん達スゴイじゃないデスか。これはアタシも負けてられないデスっ!)

(GⅠで一着を、それも菊花賞で、だもんね。私もいつか同じ舞台に……っ!)

 

 エルコンドルパサーとグラスワンダーは輝くステージで歌い踊る同期の姿にやる気を漲らせ……

 

「スゴイスゴイ! みんなキラキラしてるぞっ!」

「ええ。これがウイニングライブ……」

「スペちゃん達楽しそ~」

「いつか、いつかアタシもセンターに……っ」

 

 瞳を輝かせるツインターボ。圧倒されるイクノディクタス。終始笑顔のマチカネタンホイザ。そして決意を新たにするナイスネイチャ。彼女達四人もまたレースへの情熱を燃やす事となる。

 

 三冠レースが全て終わり、今年の話題をさらったトウカイテイオーが療養という形で重賞戦線から姿を消してしまった。

 それでも人々はレースへの興味を失わなかった。何故ならそのトウカイテイオーと激戦を繰り広げた四人のウマ娘達はこれからも重賞戦線へ挑み続けるからだ。

 

 話題に事欠かない今年のクラシック戦線。中でもやはり注目株は異次元の逃亡者との異名を付けられたサイレンススズカだった。

 

 その担当である女性トレーナーはマスコミのインタビューにこう返した。

 

「次の目標は来週の天皇賞です。スズカの本領をそこでお見せましょう」

 

 そんな彼女は次の週に天皇賞(秋)へ出走する事となっていた。元々女性トレーナーが目指していたのはそこだったのだ。

 連戦になるが不安はないのかと問われたサイレンススズカ本人も気力が充実していると答え、微笑みを浮かべてこう告げたのだ。

 

「中距離は私のもっとも得意な距離です。今日初めて私のレースを見た人は、出来れば中距離を走る私も見てください。きっとビックリさせてみせますから」

 

 後にこの言葉が現実のものとなる事を、まだ誰も知らない……。




最初はテイオーが負ける展開で考えていたんですが、やっぱり史実をいい意味で超えていけるのがウマ娘の良さだと思い直し、現実ではまずない結末としました。


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天皇賞(秋)、迫る

地味に強化というか成長というか覚醒を遂げたトレーナー。
天の声をただ活用するのではない方向となっていきます。


“テイオーの調子は最悪だ。トレーニングはまだ出来ないな”

 

 聞こえる声にため息を吐き、俺はベッドの上にいるテイオーへ首を横に振った。

 

「そっか……」

 

 それを見てテイオーは静かに目を閉じる。

 

 場所はレース場からもっとも近い病院の一室。テイオーの左足首は予想通り過負荷に耐え切れずに折れていた。ただ複雑骨折などの厄介な状態ではないらしい。

 

 シンボリルドルフはそれを聞いて安心したのか後の事を俺に託して学園へ帰って行った。

 

――今のテイオーには君が必要だ。私は学園でやらねばならない事がある。すまないが傍にいてやって欲しい。

 

 まるで子供を心配する親のような表情でそう言っていた事を思い出す。

 実際近い物があるんだろうと思う。シンボリルドルフにとっては自分を超えるかもしれない逸材がテイオーだったのだ。そして、今回のレースでテイオーはそれを証明してみせた。

 

 ただし、その代償はかなり高くついてしまったけどな。

 

「テイオー、安心しろ。お告げはトレーニングはまだ出来ないと言ってる。つまりいつか出来るようになるんだ」

「……うん、それは分かってるんだ。ただそれがいつかまでは分からないんだよね?」

 

 黙って頷く。さすがにそこまで天の声も便利じゃない。

 ただ、あの合宿中に今までよりも集中して天の声を聞いていたおかげか、聞こえる内容が最初の頃よりも詳しくなってきた気がする。

 あるいは、俺が知りたい事をもっと深く教えてくれるようになった、かもしれない。

 

 しばらく室内に沈黙が流れる。けど、それは重たいものじゃない感じがした。

 

「……ありがとね、トレーナー」

「どうした急に」

 

 不意にテイオーが噛み締めるようにそう言って沈黙は破られた。

 見れば目を開けてこっちへ顔を向けている。その表情は穏やかなものだった。

 

「あの時、トレーナーがかけてくれた言葉でボクは三冠に手が届いた。あれがなかったら、きっとボクは今と似た状態で三冠に届いてなかったよ」

 

 三冠を取った、じゃなくて届く、か。テイオーもどうやら客観的に今回の結果を受け取れてるようだ。

 菊花賞は五人同着。それは、裏を返せばテイオーは三冠を取ったのではなくギリギリ届いたというのが正しいためだ。

 

 皐月賞の勝利はセイとサイレンススズカの競り合いがあればこそで、ダービーはスペの体勢の崩れでの勝利。

 

 俺はそれでも立派な勝利だと思うんだが、テイオー自身はそうじゃないんだろう。

 全て圧倒的な実力でねじ伏せた訳ではなくギリギリの勝利だったと思っていてもおかしくはない。

 特に今回は下手をすれば負けていた。おかしな話かもしれないが、万全の状態だとそうなっていた可能性が高い。

 

 テイオーの足はその全力の走りに堪え切れる程の強さがない、と言うのが先生の見立てだ。それは今回の事で実証され、俺もテイオーもしっかり受け止める必要がある。

 当然今後はそれを踏まえた上で色々やっていくが、それも一度故障しかけたからこそ得られた情報だ。

 もしそれがなければ、最悪の場合テイオーは菊花賞の最中に故障を発生させていただろう。

 

「最初は割と抑えていたもんな」

「うん。途中まで足を気遣ってた。でも、無意識にギリギリまで気遣ってたみたい」

「そうなのか?」

 

 意外だ。俺はもう直線に出た時には全力だと思っていた。

 

「ヘイローがね、ううんキングがボクへこう言ってくれたんだ。また私に負けるのねって」

「それで全力を出せた?」

「そう。言わなくてもいいのにそう言ってボクの気持ちをゆさぶったんだ。あれがなかったら、ボクは間違いなく五着だった。ううん入着出来てなかったよ」

 

 そう言い切るテイオーには悔しさはなかった。と、ちょっと待てよ?

 

「テイオー、今お前キングって……」

「やっと、やっと認められたんだ。キングって王者って意味だから呼びたくなかったんだよ。でも、キングは本当に王者だった。ボクを帝王にしてくれたんだよ。力を出し切らないでカッコ悪く負けるよりも、全てを出し切って走れるようにって」

 

 まさかの言葉に俺はそういう事かと納得していた。どうしてテイオーはキングをヘイローと呼ぶのかと思っていたが、そういう理由があったのか。

 

「トレーナー、ボクはこれからどうなるの?」

「少なくても今年はレースどころかトレーニングも無理だ。先生に診てもらわないと分からないが、下手すりゃこれから一年間は何も出来ない可能性もある」

「……そっか。分かった。ちゃんと受け止める。走れなくなる訳じゃないなら十分だよ」

 

 テイオーの声に焦りはなかった。強がりも感じなかった。今のテイオーは満足してるんだろう。

 目標を、夢を叶える事が出来た。恐れていた最悪は回避出来た。だから今はゆっくり休もうと思えるんだ。シンボリルドルフからもそんなような事を言われただろうしな。

 

 次の日、先生の勤務する病院へ転院となったテイオーは、そこではっきりと半年以上はトレーニング禁止と言い渡されて再び通院生活を送る事となる。

 

 勿論俺はテイオーと一緒に厳しく叱られたが、先生は最後に……

 

――走れなくなってもいいという覚悟で走った事は分かっています。ですが、今後は二度としないでください。世の中には走りたくても走れないウマ娘もいるんです。だから走れる喜びをもっと噛み締めて、体を大事にして欲しいんです。

 

 そう優しく諭すように言ってきた。俺もテイオーもその言葉には返す言葉がなく、ただただ頭を下げて、二度と走れなくなっても構わないと言わない事と、そうさせる指導や指示をしない事を誓った。

 

 そして今、俺はキングの頼みを受け天皇賞(秋)へ彼女を出場させる手続きを行っていた。

 連戦となるが、キングは来年に向けてのテストみたいなものだと言うので認める事にしたのだ。

 

 ……どうしても連戦で天皇賞(秋)となるとあいつの事があって気が進まないのだが、来年春秋制覇を狙うためと言われてしまえば出さない訳にはいかない。

 ちなみにセイとスペは出さない。二人も出ようと思えば出られるのだが、キング程の強い理由も目的もない以上出すつもりはなかった。

 

「それにしても先輩は強気だな……」

 

 俺はテイオーの事でバタバタしていたから知らなかったのだが、サイレンススズカも天皇賞(秋)へ出る事を聞いて驚いたものだ。

 おそらく本来は菊花賞ではなくそちらがメインだったのだろう。それをサイレンススズカの願いを受け連戦覚悟で修正したんだ。

 

 新聞記事で見たが、サイレンススズカもやる気十分のようだし、それもあって先輩は出場を取り消さなかったんだろうなぁ。

 

「何せ菊花賞でも逃げを打って成果を出したし」

 

 セイが言うには皐月賞よりも速度の伸び方が鋭くなったらしい。

 長距離だったからそれも本来よりは緩くなっていたんじゃないかと、そう言っていた。

 

「……そういう意味でも天皇賞(秋)は観戦に行かないとダメだな」

 

 セイもスペも観たがるだろうし、今後サイレンススズカはセイにとって必ず立ちはだかる壁になるからな。

 

「っと、そうだ。一応明日にもサイレンススズカを見ておこう」

 

 あいつの事もある。自覚なく故障要因を抱えてる事がないとは言い切れん。

 特にサイレンススズカはあいつと似ている。そこに加えてGⅠの連戦で挑むのが天皇賞(秋)ときているし、な。

 

 

 

「敵情視察か?」

 

 俺が先輩のチームの練習を見学に来た瞬間、どこかからかうようにそう言われた。

 ったく、既に今朝見に行ってもいいかの確認をしたのにこれだ。まるで指導員時代そのままだぞ、これじゃ。

 

「それも半分、ってとこです」

「半分?」

「ええ。その、やっぱりGⅠ連戦の上、二戦目が天皇賞(秋)ってのは……」

 

 それだけで俺の言いたい事を察したのか先輩も少し目を落とした。

 

「そう、だな。しかも逃げウマ娘だ。お前が心配になるのも無理もないか。だが、スズカはあの子とは違う」

「それは分かってます。分かってるんです」

 

 けれど、どこかあいつを思い出させるものがサイレンススズカにはある気がしていた。

 ただ逃げウマ娘だからってだけじゃない。何かがあいつを連想させるんだ。

 

「……一応聞きますけど、やっぱりもう?」

「天皇賞は必ず出す。何があっても、だ」

 

 そう告げる先輩の表情はどこか切なさを秘めているように見えた。

 

「どうしても、ですか」

「……本当ならあの子が取れたものを取って欲しいんだ」

 

 だからあいつと同じクラシックの時期じゃないと意味がない、か。先輩もどこかでサイレンススズカにあいつを重ねているんだ。

 

「勿論故障の危険性は分かっている。スズカへも菊花賞前に確認を取った。そこでスズカはこう言ったんだ。菊花賞で勝てなかったら見送ってくれと」

 

 普通は逆だ。そこを敢えて長距離のGⅠを勝てたら中距離のGⅠでも一着を、とは。

 

「スズカは見事に一着を取ってくれた。だから私はハッキリと明言したんだ。天皇賞でスズカの本領を見せると」

「……分かりました。なら俺は少し様子を見たら帰ります。テイオーの通院へ付き添わないといけませんし」

「そうか。彼女は大丈夫か?」

「ええ、体は元気ですし松葉杖で元気に動き回ってますよ」

 

 と、そこで視界の隅にサイレンススズカの姿が映ったのでそちらへ意識を向ける。

 

“スズカの調子は絶好調だ。トレーニング効率が最大だ”

 

 聞こえた声に内心安堵した。俺の考え過ぎだと、そう分かったからだ。

 ただ当日までのトレーニングで疲労が蓄積される事もある。レース前日にも来て一応声を聞いておこう。

 

「どうだ? 不安は消えたか?」

「ええ、一応は」

「一応、か。まぁ気持ちは分からないでもないが……」

 

 そう言って先輩もサイレンススズカへ顔を向ける。綺麗なフォームで走る彼女は些かも疲れを感じさせない。実際疲れはもうないのだろう。なのにどうして俺はこうも不安を拭えないんだろうか。

 

 やっぱりあいつの事があるから、なんだろうな。これで出るのが天皇賞(秋)じゃなかったら違うんだろうが……。

 

 そこで先輩へ挨拶し俺はその場から立ち去ろうとして……

 

「色々と記者が来てるらしいが絶対に個人で受けるな。学園側を通してくれと突っぱねろ」

「分かってます」

「それと、もし厄介な相手だと感じたら私の名を出してこう言えばいい。それ以上失礼な質問を続けるのなら二つのチームの取材が出来なくなるぞとな」

「……ありがとうございます」

 

 なんて、そんな破格の支援を約束された。俺の方は今だけが凄いが、先輩は毎年のように優秀なウマ娘を送り出す強豪チームトレーナーだ。

 今はサイレンススズカが目立っているが、それ以外にもエアグルーヴやヒシアマゾンなどの実力者にグラスワンダーやエルコンドルパサーのような新進気鋭な者までいる。

 それらからのインタビューやコメントが取れないとなれば、記者も、そしてその者達が所属する会社も困るだろう。

 

 思えばあいつの時は良くも悪くも俺が無名に近かったから取材の類もそこまで多くなかったが、今はテイオーだけでなくスペにキング、セイとクラシックを賑わせるウマ娘ばかりのチーム担当だ。

 おそらくあの頃とは比較にならないぐらいの厄介な記者も来るだろう。何せ無敗での三冠を達成したがテイオーは故障したのだ。そこからあいつの事と関連付けて質問してくる奴は出てくるだろう。

 

 先輩はあの頃出来なかった助言と手助けをしてくれたんだ。これも俺が成長したから、かもしれないな。

 

 あるいはあいつの言葉を伝える事が出来たから、だろうか。

 

 そんな事を思いながら歩く。そこで俺は思考を切り換えてキングの事を考える事にした。

 今回の天皇賞挑戦をキングは来年を見越してと言っていたが、サイレンススズカはおそらく秋の天皇賞は毎年出てくるはず。そうなるとキングは勝ち目が薄い気がする。

 それをどうにかするにはキングは仕掛け時を今よりも早くするしかない。それとスピードも今以上に上げないとならないな。

 

「……セイに協力してもらって仮想サイレンススズカをやってもらうしかないか」

 

 それを継続していけばセイにもキングにも良い結果を出すだろう。

 

「うし、とりあえずテイオーを連れて病院行くか」

 

 そうしていつものようにトレーニング場所へ到着すると既にセイ達三人が軽く走っているのが見えた。

 そんな三人をテイオーが座って見つめている。その傍には松葉杖が立てかけてあった。

 

「テイオー、待たせたな」

「あ、トレーナー。ううん、そうでもないよ」

“テイオーの調子は最悪だ。トレーニングはまだ出来ないな”

 

 笑顔を返すテイオーを見つめると聞こえる天の声。その内容は当然ながら変化なし。

 だがそれが安心出来る事でもある。“まだ”という部分が聞こえるからだ。

 

「おーい、俺が戻ってくるまでは軽いものだけで我慢してくれよ~っ!」

「りょ~か~いっ!」

「分かりました~っ!」

「テイオーの事を頼みましたわよ~っ!」

「行ってきま~すっ!」

 

 そんなやり取りをして俺とテイオーは病院へと向かった。松葉杖も既に慣れてきてるのかテイオーは危なげなく歩を進める。

 

「器用なもんだ」

「ふふん、ボクは天才だからね」

 

 誇らしげに笑うテイオーはやはり気落ちなどがないように見える。

 無敗の三冠ウマ娘。それを達成出来た事でやっと少し背中の荷物が軽くなったのだろう。

 

 病院への道すがら、テイオーは自分なりに考えた計画を伝えてきた。

 

「GⅠで八勝、か」

「うん。怪我が完治したら目指すはそれ。で、それを達成したら次は凱旋門っ!」

「は?」

 

 思わず耳を疑った。日本のウマ娘トレーナーが、いやレースに関わる者が必ず一度は夢見る舞台だ。

 

「カイチョーも本当はそこへ挑戦したかったって聞いたんだ。だから、ボクがカイチョーの分までそこへ挑戦して、一着を取ってくる」

「凱旋門で一着、か……」

 

 シンボリルドルフは既に第一線を退いている。だが彼女が最前線で走っていた頃、こんな言葉がトレーナーの中では話されていた事を思い出した。

 

――シンボリルドルフは、世界に届いている。

 

 当然海外遠征も持ち上がったらしいが、色々な事が重なり現実とはならなかった。

 そうしている間にシンボリルドルフは全盛期を過ぎてしまい、海外遠征は夢と消えたらしい。

 俺からすればあれで全盛期を過ぎているというのが信じられないのだが、周囲の話や残っている記録などからすると頷くしかない。

 

 そういえば去年の合宿でも調子が良くないと天の声が言っていた事を思い出した。

 ずっと彼女は調子を崩し続けているのだろうかと、そう思って足を止める。

 

「どうしたのトレーナー。何かあった?」

「あ、ああ……すまん。ちょっと考え事をな」

「も~、気を付けてよね。今のボク、色々危ないんだからさ」

「すまんすまん」

 

 むくれるテイオーへそう返しながらも俺の頭の中にはさっきの考えが残っていた。

 天の声を使って皇帝へ何か出来る事はないだろうか、と……。

 

 

 

「指導のコツを教えて欲しい?」

「はい……」

 

 天皇賞を明日に控えた昼休み。俺は後輩から相談があると声をかけられ、なら飯でも食いながらと食堂で隣り合って座ったところでそう切り出されたのだ。

 ちなみに俺の飯は天丼で後輩君のはソースカツ丼だ。今日は丼フェアらしく丼物を頼むと必ず味噌汁がついてくるからそうした。

 

 後輩は沈んだ顔でため息を吐くとソースのかかったカツと一緒に飯を口の中へ運ぶ。

 俺もそれを見てオクラの天ぷらを口へ入れた。

 ねっとりとした触感と共に衣の味と丼ツユの旨味が口に広がる。

 それを味わいながら飯を口に入れ、ある程度咀嚼したところで嚥下して口を開く。

 

「でも、お前さんはサブトレ時代から今のチームを見てるんだろ?」

 

 後輩のようなケースはそこまで珍しくない。トレセン学園にはいくつか名門チームと呼ばれるものがあるが、彼の担当チームもその一つだ。

 そういうチームは大体サブトレを入れ、そいつが育って正式なトレーナーとなったのと合わせてチーム担当を引き継がせたり、あるいはチームの中で有望株を担当させたりして体制を移行していく。

 彼はサブトレから正式トレーナーへ昇格したと同時にチーム担当となったはずだ。なら今更俺から指導のコツを聞こうとする必要はないはずだが……?

 

「……お恥ずかしながら僕がチームを引き継いだ途端、それまでいたウマ娘達がほとんど抜けてしまって」

「は?」

「勿論引き止めました。けどその時全員にこう言われたんです。僕はサブトレとしては優秀だけどチーム全体を見れるとは思えないって」

 

 それは中々キツイ一言だ。だが残念ながらそういう人間はいる。補佐としては優秀な人がリーダーとなった瞬間ダメになる事は往々にしてあるのだ。

 

「僕はそう言われた時に反論出来ませんでした。実際僕も誰かの支えをしてる方が性に合ってるなと思ったんです」

「……でもチームを解散しなかったんだろ?」

「彼女が、ネイチャさんが残ってくれたからです。彼女は僕の事を見限りませんでした。それどころか一緒に頑張ろうって言ってくれたんです」

「それで今までやってきた、か……」

 

 何というか健気な話だ。おそらくだがナイスネイチャも彼の本質は見抜いているんだろう。

 だが、それで自分まで離れたら彼が潰れてしまうと察し、支える事にしたんだろうな。

 

「先輩は過去の事を乗り越えて爆進王なんて呼ばれるウマ娘を育て上げました。そして、今なんてテイオーさんを無敗の三冠ウマ娘にした。更にはセイウンスカイさん、キングヘイローさん、スペシャルウィークさんなどの実力ウマ娘まで育ててます」

「まぁ、それは……」

「テイオーさんの足の不安を抱えながら、それでも三冠を達成させた手腕と覚悟。それが僕にはない。治療しか頭に浮かばなかったんです。故障させないようにしつつ三冠を取れるトレーニングを両立なんて凄いとしか言いようがありません」

 

 その言葉に俺は、俺が凄いんじゃない、天の声があるからだ、と、そう言いたかった。

 ただ、今の言葉を聞いて彼に何が足りないかはよく分かった。

 

 彼は、少し前までの俺だ。だから教えてやるんだ。あの時の俺と同じで、今のお前もちゃんと自信を持っていい事があると。

 

「いいか後輩、よく聞け」

 

 箸を一旦置いてそう告げる。後輩は顔を上げてこちらを見つめていた。

 その目をしっかりと見据えて言葉を投げかけようと思いながら俺は声を出す。

 

「ナイスネイチャが残ってくれた。そして今やお前を信じてチームへ加入してくれたウマ娘がいる。どうしてこれで自信が持てない? 何で覚悟が抱けない?」

「どうして……?」

「自分に自信が持てないのは分かるさ。俺だってそうだった。サクラバクシンオーと出会うまで、俺はこれといった結果を残せず、しかも一人は故障引退までさせた」

 

 無意識に拳を握る。俺の中の消せない痛みだ。

 

「だから俺は自信がなくなった。覚悟を失った。俺なんかが指導したら駄目なんじゃないか。俺の指導じゃまた引退させるんじゃないか、と」

 

 後輩は俺を黙って見つめていた。ただその顔が驚きに変わっている。自分と似てると、そう思っているんだろう。

 

「そう思った俺はトレーナーを辞めるべきかどうかを考えた。けど、そこで思ったんだ。これで俺が辞めたら、その俺を信じて一緒に頑張ったあいつらはどうなる? ただでさえ俺のせいで色々と辛い思いや苦しい思いをしただろうあいつらに、俺はもう一度そんな思いをさせたくなかった」

「先輩……」

「俺には、誰も残らなかった。けどお前は違う。残ったんだ。しかも引退もさせていない。なら俺よりもお前は優秀だよ」

 

 ハッキリと断言してやる。天の声なんてもんがなかったら今がない俺と違い、彼は自分の力だけでもがき足掻いてる。

 それでちゃんと結果を出せているんだ。なら十分優秀だ。しかも俺があいつを受け持った時よりも若いのに、だ。

 

「それと、指導のコツなんてもんは一つだよ。相手にとっての最善を考えて、考えて、それを相手へ伝えて理解を得て納得してもらう。それが出来なければ納得してもらえるまで何度も同じ事を繰り返すんだ」

「納得出来るまで……繰り返す……」

「まず自分が納得出来るかどうか。次に相手が納得出来るかどうかだ。それが出来れば後は信じるだけさ」

「相手を、ですか?」

「それだけじゃない。自分も、だ。相手はこっちを信じてくれた。ならこっちも自分を信じるんだ。自分自身が信じられない自分を信じてくれた相手を信じる事で、な。自信や覚悟なんてもんは、そうしていれば勝手についてくるもんさ」

 

 そう言って俺は箸を手にして芋の天ぷらを掴む。

 

「自分一人だけで勝手な自信を持たなければ大丈夫だ。自分と相手を納得させる事が出来たら、後はそれを貫くだけだぞ」

 

 言い終えて芋の天ぷらを一口齧る。その甘さに自然と笑みが浮かぶ。

 人によってはこの甘さが嫌だと言うんだろうが、俺はこの甘さが嫌いになれない。

 

「あとな、俺だってまだまだ未熟で人に指導出来る程の存在じゃない。だから今のは参考程度に思っておけ。俺には俺の、お前にはお前のやり方と考え方がある。人のいいとこは真似してもいいが、それが向かないと思ったらすっぱり止めて別の方法を探した方がいいしな」

「……はいっ!」

 

 その後は会話もなく、お互いに食べる事へ集中した。

 どこか吹っ切れたような顔で美味そうに飯を食べる彼を見て、心の中でこっそりと呟く。

 

 お前は俺のようにはなるなよ、と。担当を誰一人として引退させず、全員卒業させてやってくれって、そう願うように……。

 

 

 

 風さえ置き去りにするかのような速度で駆け抜けるサイレンススズカを見つめ、俺は意識を集中する。

 

“スズカの調子は絶好調だ。トレーニング効率は最高だ”

 

 天の声は彼女の状態が最高である事を裏付けている。やっぱり俺の心配し過ぎか。

 

「どうだ? キングヘイローが勝てる状態か?」

「正直厳しいでしょう。でも、可能性がないとは言いません」

「ほう?」

「……ただし、出来れば俺はその可能性がない事を願います」

 

 脳裏に過ぎるあの悪夢。あいつはあの大欅を超えた辺りで走り方がおかしくなった。

 そう、あのいわくつきの枠番で迎えた、天皇賞(秋)。あのレースは一番人気で一枠一番になったウマ娘がことごとく不運に見舞われる。

 せめてサイレンススズカは枠番だけでも違ってくれればいい。人気はおそらく一番になるだろうからだ。

 

「心配し過ぎだ。私もスズカにしっかり休養を与えている。トレーニングは普段の三分の一にしたし自主練すらこの一週間は禁じた」

「ええ、分かってるんです。先輩も気を配ってる事は」

「そうか。ならいい。本来のフォームへ戻ったスズカの本領発揮を楽しみにしておけ」

「期待半分不安半分で見させてもらいますよ。じゃあ、また明日レース場で」

「ああ」

 

 先輩へ会釈してその場を立ち去ろうとして、もう一度だけサイレンススズカへ目をやって意識を向けた。

 

“スズカの調子は絶好調だ。このままスピードを上げてやろう”

 

 やっぱり心配し過ぎだ。そう思って俺は息を吐いて今度こそその場から離れようとした時だった。

 

「よし、そのまま残りは全力だ!」

 

 サイレンススズカがその先輩の言葉で速度を上げる。それだけで分かった。菊花賞よりもスピードの上がり方が鋭くなってると。

 先輩の言った本来のフォームというのはそういう事かと納得出来た。あれこそが先輩が惚れ込んだ走りか。

 

 そのあまりの速度に呆然としていると、あっという間に最後の直線となった辺りでサイレンススズカが更に加速する。

 

 相変わらず信じられない走り方だと、そう思って目を見張った瞬間だった。

 

“スズカの調子が下がったな”

「……え?」

 

 聞こえた天の声に耳を疑い、俺は意識を集中してゴールへと迫ってくるサイレンススズカを見つめる。

 

“スズカの調子は、絶好調だ”

 

 ゴールを駆け抜けた瞬間に若干声が途切れたものの、先程とは異なる言葉が聞こえた。

 そこからどれだけ見つめても声は同じ事を繰り返すのみで、調子が下がったという表現は聞こえなかった。

 

 俺は自分のチーム小屋へ戻りながらその事について考えていた。

 

「これ……テイオーの時と似てるようで違うな」

 

 テイオーは皐月賞でゴールした瞬間とダービーでゴールした瞬間に良くない天の声が聞こえた。

 だがサイレンススズカは走っている途中だった。しかも聞こえたのは一回だけでその後はまったく聞こえなかった。

 

 気のせい、と片付けるのは不味い気がする。何せテイオーの事がある。一度天の声で注意を促されたのなら最悪に備えるべきだ。

 

「テイオーはゴールした直後だった。そしてそれは自覚のない故障の前兆……」

 

 サイレンススズカは走っている途中。それも一瞬、か。じゃあどういう事だ?

 あれは更に加速しようとした瞬間、だったように見えた。じゃあもしかしてレース中に加速していくのがヤバいのか?

 

「…………待てよ?」

 

 菊花賞の事を思い出す。テイオーの状態はレース途中で悪化した。それを天の声は教えてくれた。

 なら、サイレンススズカはそれと似ているんじゃないか? 彼女は逃げなのにレース途中で加速していく走り方だ。それはテイオーよりも足への負担が桁違いに重い。

 でもそれは今までも同じだったはずだ。何故今になってそんな事に……っ?!

 

「まさか、スピードが鍛えられた事とフォームが戻った事でその負荷の重さも上昇したのか?」

 

 思えば彼女は元々適性が中距離だ。それなのに長距離の菊花賞へ向けてのトレーニングを行い、レースではセイとの競り合いでかなりの激闘をしていた。あのペースで競り合った経験もほとんどない状態で限界を超える程の走りだったはずだ。それがサイレンススズカの体に重度の疲労を与えたのは間違いない。

 結果として自慢のスピードは本来よりも鈍くなり、負荷も軽減された。だから菊花賞では何も起きなかった。

 

 つまり長距離だったおかげで本来の走り方が出来なかったから、足への負荷も急激なものにはならずに済んだとしたら?

 

 もしそうだとすれば怖い事がある。天皇賞(秋)は中距離だ。サイレンススズカの本領が如何なく発揮出来る距離だ。

 

「長距離と違って最初からハイペースで飛ばして、途中で加速していき最後の直線で二の足による加速をかけるレース展開……」

 

 アタマに浮かぶサイレンススズカのレース。あの鋭さを増したフォームで先頭へ抜け出してそのまま独走状態となり、速度を下げる事なくむしろ上げていって……。

 

「最後の直線での急激な加速で過負荷が最大になり……っ!」

 

 そう呟いた俺の脳裏に浮かぶのはあいつの最後のレース。ないと思いたい。思いたいが……。

 

「くそっ、どうすりゃいいんだ……っ!」

 

 テイオーの時は完全に故障を抱えていると確信が持てたし、サイレンススズカも間違いなく故障すると確信出来る。

 だがおそらく今のサイレンススズカを検査しても異常はないと言われてしまうはずだ。

 何故なら、彼女の故障はレースなどで少しずつ負荷が蓄積してやがてというものではなく、レース途中での二の足により凄まじい負荷が一気に足を襲う事で発現するものだろうからだ。

 

 しかもその性質上、天皇賞(秋)を何とか乗り越えても次のレースで同じ問題がつきまとう。

 一番いいのはサイレンススズカを完全休養させてレースの間隔を開けて、トレーニングも全力で走る事を一日一回に限定し、以前テイオーがやっていたようにカルシウムを多めに摂取して日を浴びるぐらいだろう。

 

 けど、これをどうやって納得してもらう? しかも彼女は明日レースに出る。

 目に見えての異常もなければ本人の自覚もない故障理由だ。先輩を説得し検査を受けさせる事は出来ても、その結果が異常なしとなればレースを見送る事はしてくれないはずだ。

 更に最悪の場合せっかく良くなってきた先輩との関係が悪化し、いざとなった時に連携が取れない可能性がある。だから検査は出来ない。

 

「……サイレンススズカのもっとも加速するタイミングは最後の直線だ。なら遅くてもそこで事は起きる、か……っ」

 

 最悪を想定して明日レース場へ行くしかない。セイとスペがいれば対処は出来る。

 

「絶対にあいつの二の舞はさせないっ!」

 

 あの日の悔しさと無力さは今も忘れていない。あの後勉強した事もはっきり覚えている。

 事前に止める事が出来ないのなら、起きた後で最善の対処を取るしかない。

 そう決意を固めて俺は歩く。あの日の再現などさせてなるものか。サイレンススズカを二度と走れない状態にさせてなるものか。

 

「……でもその前にキングの事を考えないとな」

 

 サイレンススズカの事も重要だが、キングの事も同じぐらい大切だ。今は勝ち目の薄い勝負でも来年はそうじゃないようにするために、俺が出来る事を考えてキングと話し合わないといけない。

 

「とりあえず、まずはキングと顔を合わせて話さないと」

 

 サイレンススズカの故障する可能性に備える事とキングが天皇賞(秋)で結果を出せるようにする事。その両方を考えないといけない。

 天の声がなければきっと気付かなかった可能性、いや見落としていた可能性。それを零さないようにするためにも。

 

「あっ、トレーナーだ」

「遅いよトレーナー」

「悪い悪い」

「まったく、そんな事でこのキングを天皇賞の春秋制覇させられるの?」

「それとこれは関係ないだろ」

「トレーナーさん、スズカさんはどんな感じでした?」

 

 俺が姿を見せると真っ先にテイオーが気付き、それを合図にセイ達もこっちへ顔を向けた。

 きっとサイレンススズカの事を知ればそれが曇る。だから今は黙っておく事にした。

 

「仕上がってるって感じだった。キング、今回は無理に勝ちを狙うなよ?」

「分かってるわ。本番は来年の春からよ。でも、勝ってしまってもいいんでしょ?」

「ああ。何があっても振り向かずに走り抜いて、な」

 

 サイレンススズカに万が一の事が起きれば意識が嫌でもそっちへ向く。テイオーが言っていた事から考えればキングは全力でぶつかり合った結果勝利を掴みたい性格だからな。

 なのでここで釘を刺す。いや、意識させるだろうな。キング本人はそんな勝利は不本意だろうが、最悪が起きなければまず一着はないので構わないだろう。

 

「セイ、キングはどうだ?」

「うーん……やっぱり仕掛けるのが遅いかなぁ。その分最後の追い上げは凄いんだけど」

「ぐっ……」

「かといって仕掛け時を早めると終盤失速しますし」

「ううっ……」

「仕掛けを遅くするとスピードが、早くするとスタミナが足りないって感じ」

「~~~~~っ」

 

 セイ達の意見にキングが百面相となっているのが面白い。しかもそれが正論だから反論もし辛いんだろうなぁ。

 

“ヘイローの得意な走りは差しだ。ただ先行も出来ない訳じゃない”

 

 改めてキングの事を天の声から教えてもらい、ならばと一つ試してみる事にした。

 

「キング、一回先行で走ってみるか?」

「先行、ね。まぁやれない事はないけど」

「今までのレースでキングのイメージは差しになってる。だからこそ先行で走ってみたら周囲が動揺するかもしれないし、何よりキングの走り方は一つじゃないと見せつけられるからな。差しも先行も出来れば今後のレースで周囲がそれを楽しみに出来る」

 

 あくまでも前向きで挑戦的な物言いにした。キングが好むものがそういう事だからだ。

 ただ俺もどこかで同じ事を思ってはいる。キングは正直距離を選ばず走る事が出来る素質を持ってるからだ。

 

 短距離から長距離まで一定のレベルで走るのは正直あの皇帝でさえ出来なかった。

 そう考えればキングはたしかに王者の資質を持っていると言えるだろう。

 

「…………いいわ。なら今回は先行で走ってあげようじゃない」

「「「お~……」」」

「よし、どうせ来年に向けての挑戦なんだ。今回はキングの持つ様々な才能を試してやろう」

「お~っほっほっほっ! いいじゃないいいじゃない! そうよ! わたしの、キングの凄さを世間に見せつけてあげるわっ!」

 

 キングがその気になってくれた事に内心でホッとしつつ、俺は改めてテイオーやスペへ意識を集中してみた。

 

“テイオーの調子は最悪だ。トレーニングはまだ出来ないな”

 

 テイオーは何も変わらず、か。

 

“スペの調子は絶好調だ。トレーニング効率は最高だ”

 

 スペも特に問題なし、と。なので最後にセイへ意識を向ける。

 見た感じは特に変わりはないようだ。機嫌もいいし、調子もいいだろうと思えるぐらいに笑みを浮かべている。

 

「よしキング、先行のつもりで走ってくれ」

「いいわ」

「スペ、お前は他の先行ウマ娘として走るんだ。キングに先行の走りを見せてやれ」

「はい」

「セイ、仮想サイレンススズカとして走ってくれ」

「はいはーい」

「テイオーは先行の先輩としてキングへアドバイスを頼む」

「りょーかい」

 

 こうして三人がコースへと戻っていき、テイオーはそれを真剣な眼差しで見つめる。

 もうテイオーの眼差しにはいつかのような焦りが欠片としてなかった。やはり無敗の三冠が精神的な安定を与えているんだろうな。

 

「位置について……スタートっ!」

 

 俺の合図で走り出す三人。セイが普段よりもペースアップして前に出ていき、スペはどことなくテイオーのような位置取りだ。キングはと言えばスペの隣を並走する形となっている。

 

「テイオー、セイはサイレンススズカと比べてどうだ?」

「……客観的に今のスズカを見た訳じゃないけど、それでもやっぱり違うよ。けど今のセイちゃんは結構スズカに寄せてるかな」

「なり切ってくれてるって事か」

「うん。それとスペちゃんはボクをマネてるかも」

「そこまで分かるのか?」

「何となくだけどね。皐月賞の時のスペちゃんはもう少し後ろの位置取りだったし」

 

 まさかの分析と記憶力に内心舌を巻いた。言われてみればその通りだ。あのレース、スペは先行として走っている。それをテイオーはちゃんと覚えていたとはな。

 

「ある意味皐月賞の再現かもね。それも、セイちゃんがスズカ攻略をしなかった場合の」

 

 皐月賞の再現か。天皇賞(秋)もテイオーが挙げた状況に近しいものとなる可能性が高い。ならこれは十分意味があるはずだ。

 

「キング、冷静だね」

「……そうだな」

 

 慣れない先行の走りでもキングは焦りもしなければ不安も見えない。

 普段とは異なる仕掛け時を探り、その眼差しは鋭さを秘めているようにも見える。

 やがて第二コーナーを抜けて第三コーナーへ入っていこうとした辺りでスペが動く。

 

「うわ、ボクの動き方そっくりだ。スペちゃん、記憶力いいなぁ」

「いや、あれは記憶じゃない。お前ならどう動くかをスペなりに考えてるだけだろう」

「うぇっ!? そ、そっちの方が怖いんだけど……」

「スペは覚えてる事であそこまで動ける程器用じゃない。なりきり、だろうな」

「……何だか怖い事聞いちゃったかも」

 

 本来ならここでサイレンススズカは速度を上げるんだが、セイにそこまで求めるのは酷というものだ。

 ゆっくりとセイとスペの距離が縮まり出していくのを見て、俺はキングの動向へ意識を向けた。

 キングは第三コーナーの途中から動き出して先頭へと迫っていく。差しの時よりも仕掛けが若干早いぐらいだな。

 

「……イイ勘してるなぁ」

「へ?」

 

 隣から聞こえた噛み締めるような声に目を向けると、テイオーが感心するような顔で前を見ていた。

 

「キングだよ。差しだったらもう少し待たないといけないけど、先行は最後の直線で先頭に追い付けるかなじゃちょっと遅いんだ。先行だとどうしても差しの時程の爆発力はないからね」

 

 口調こそ普段のままだがテイオーの視線は一時たりともキングから離れていなかった。

 真剣な眼差しでキングの走りを見つめているのが伝わる程に。

 

「今まで先行として走ってきてないのにそういうとこがちゃんと分かるってスゴイよ」

「あれだろ。今までのレースで先行として凄い奴を見てきたから分かるんじゃないか?」

「スゴイ奴……?」

「ああ。無敗の三冠ウマ娘さ」

 

 そう言ってやったらテイオーが一瞬驚いて、すぐに嬉しそうな表情へ変わった。

 

「キングにとってトウカイテイオーは超えるべき存在なんだ。だからそれが出来る事は自分もって事だろうな」

「……そっか」

 

 既にレースは最後の直線となっていた。先頭を走るセイと並ぶ形でスペが走っていて、キングはそのやや後方だ。

 おそらくサイレンススズカならここで加速してくる。そう思えばキングは既に引き離されているだろうな。

 

「スペがセイを抜けない、か」

「スペちゃんも先行として上手な方だけど、やっぱり差しの方が合ってるんだよ」

「キングもか?」

「……キングは分からない、かも」

「どういう意味だ?」

 

 スペに関してはハッキリと差しの方がいいと明言したのにキングには分からないと濁す?

 

「今のキング、様子見してるんだ。先行としての感触を確かめてる感じ。本気の全力を出すのは次じゃないかな?」

「……そういう事か」

 

 走りながら自分の想像と実際の誤差を確認してるのか。いや、もしそうなら凄いな、本当に。

 だがそれぐらいじゃないと菊花賞で一着争いを出来ないか。あの同着はテイオーの三冠で目をくらまされているが、本当に凄いのは最後の最後で差し切る寸前までいったキングだ。

 

 何せ一度テイオーを抜いて再度抜き返されたのに最後にはまた追いついたんだからな。

 そういえばキングは安定して毎回レースでゾーンに入ってるな。そこも考えると凄いもんだ。

 

 結局レースはセイが際どく逃げ切って終わった。ただ呼吸を荒くするセイやスペと違いキングは肩で息をしていたものの、二人よりは余裕を感じさせたのでテイオーの予想は間違ってない気がした。

 

「どうだキング、手応えはあるか?」

「……少し休んだらもう一度やらせてもらえる?」

「俺は構わんがセイとスペはどうだ?」

「わ、私は構いませんよ……」

「セイは?」

「……やだなぁって、そう言いたいとこだけどいいよ。キングのその顔、何かあるんでしょ?」

 

 セイの言う通りキングはレースが終わった後も終始何か考え込んでいるような表情をしていた。

 そうして十分程休憩した後、再び三人がスタート位置に移動する。

 

「……スタートっ!」

 

 俺の合図で三人が先程と同じような感じでレースを展開する。俺の目にはそう見えた。

 

「位置取りから何からさっきと同じだね」

「やっぱそうか」

 

 テイオーの言葉で俺は自分の感想が間違っていない事を確信する。

 キングはさっきと同じ展開で何をしようとしているのか。それを見極めようと俺は意識をレースへ集中した。

 

 先頭はセイでスペとキングはそれから7バ身は離された辺りにいる。そのまま第二コーナーを抜けて第三コーナーへ入ろうとする辺りでスペが前へと移動開始と、ここまでもさっきと同じだ。

 違ったのはその直後だろう。スペにくっつくようにキングがその真後ろについて移動し出した。

 

「さっきと違うね」

「……そういう事か」

「え?」

 

 俺はそれだけでキングが何をしているのかが分かった。成程な。頭脳派でもあるキングらしいやり方だ。

 

「スリップストリームって言ってな。要するに前にいる相手を利用して空気抵抗を減らして体力を温存するやり方だ」

「へぇ、そんなのがあるんだ」

「ああ。キングの奴、足りないスタミナを鍛える形じゃなくあんなやり方で補うとはな」

 

 第四コーナーを抜けて最後の直線となった瞬間キングがスペの後ろから出て一気にセイまでまとめて抜き去った。

 

「「おおっ!」」

 

 思わずテイオーと声がハモる。いや、スリップストリームは出る瞬間が一番恐ろしいんだ。

 何せそれまで低くなってた空気抵抗を一気に受ける事になる。そこでバランスを崩してしまう事がない訳じゃない。

 

 それを見事乗り越えてキングはそのまま先頭でゴールを駆け抜けた。

 

「スゴイじゃないかキング。ボク思わず拍手しちゃったよ」

「……そう、ね。凄いと言えば凄いわ」

 

 減速を終えてこっちへ戻ってくるキングにテイオーが心からの賞賛を述べるも、何故かキングの反応は悪い。

 

 その理由は何故かを俺は何となく察した。

 

「王者らしくない走りだから勝っても素直に喜べない、か」

「さすがはこのキングのトレーナーね。ええ、その通りよ」

 

 他者を利用して自分のスタミナを温存し一気に抜き去る。決して安全とは言えないが素直に勝負するよりも勝率は上がるのは先程キング自身が証明してみせた。

 

「キング、あれだって何のデメリットもない訳じゃない」

「分かってるわよ。だけど……」

 

 どうやら余程他者を利用するやり方が気に入らないらしい。

 ふむ、これはちょっと現実を思い出させてやるべきか。

 

「なぁキング、一つ忘れてる事があるぞ」

「何をよ?」

「本番のレースは十人以上いるんだ。さっきの方法を取ったところで周囲を囲まれるような状況になる可能性はゼロじゃない。下手すれば抜け出せないまま終わる事だってあるし、いざ抜け出そうとした瞬間に後ろから来たウマ娘に邪魔される事もある」

「っ……」

 

 今回は三人しかいなかったから上手くいったが、本番のレースは何が起きるか分からない。

 キングもそこを思い出したのだろう。悔しげに唇を噛んだのが見えた。

 

「いや~、キングにやられたよ」

「はい、まさかあんな風に抜かれるなんて思いませんでした」

 

 そこへセイとスペがどこか悔しそうに現れる。が、キングの様子で何か妙だと気付いたか小首を傾げた。

 

「何々? どうかした?」

「キングさん何かあったんですか?」

「別に何でもないわ。トレーナー、あなたの言いたい事はよく分かったけど、それでもわたしはさっきの方法を取るつもりはないから」

「そうか。分かったよ。ならそれでいい。お前が納得出来るやり方を貫いてくれていい。俺はそれを支えるだけだ」

「ええ、それは分かってる。しっかり支えてみせなさい」

 

 そう言ってキングは俺に背を向けた。セイやスペ、テイオーにさえも背を向けてゆっくりと歩き出すも、すぐに足を止める。

 

「あなたはわたしのトレーナーなのだから」

 

 告げられた言葉は淡々としていたがどこか温もりを感じさせる声だった。

 何よりのキングからの信頼を伝える言葉だ。だからこそ俺も同じぐらいの想いを込めて言葉を返す。

 

「おう、分かってるさ。お疲れさん、ゆっくり休めよ」

「お疲れ様」

「セイ、スペ、テイオーもお疲れさん」

「「「お疲れ様(ですっ!)」」」

「明日はキングの応援でレース場へ行くからな。寝坊すんなよ?」

「はいっ!」

「「はーい」」

 

 それを合図に三人も動き出す。見ればキングも少し行った先で三人を待っていた。本当に面倒見のいい奴だな。

 松葉杖のテイオーに合わせるように三人は心持ちゆっくりと歩いているのもそれだ。本当に仲が良いな、あいつらは。

 

「だからこそ、出来るだけ同じレースには出したくないんだが……な」

 

 ジャパンカップにスペを出そうと思っているがセイやキングは正直出せるとしても出したくない。

 それとセイは今後どうするべきか迷っていた。キングは自分で目標を立てているがセイはそれが特にないらしく、こちらへ何のアクションもしてこないのだ。

 

 いや、もしかしたら俺を待ってるのかもしれない。俺が話を聞きに来るのを。

 

「……ダメだな。俺も受け身でどうする」

 

 これまでもそうだったからと言ってこれからもそうとは限らない。

 セイもハッキリとした目標や夢があるかもしれないんだ。それをちゃんと聞いてみよう。

 あいつが言ってくるのを待つんじゃなく、俺から踏み込む形で。

 

 そう決意してこの日は終わる。そして迎えるのだ。俺にとって忘れられないレースである“天皇賞(秋)”を……。




過去の悪夢故にスズカの連戦に不安しかないトレーナー。天の声もあるから余計です。
対して先輩は、だからこそスズカならそんな事にならないと信じているからこその決断です。

……実際あのレースでサイレンススズカならジンクスを破ってくれると多くの人達が信じていました。


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沈黙と栄光の狭間

最高なんて早々出来るものじゃない。だからせめて最善を目指したい。
けれどその最善でさえ人によっては最悪とほぼ変わらないとしたら……。

それと仕事の関係で今後は更新がかなり遅くなります。ご理解くださると助かります。


 異様な熱気に包まれる東京レース場。先週の菊花賞に比べればそれでも落ち着いている方ではあるが、逆に言えばそれと比べなければ劣らないという異常さだった。

 

「な、何だか凄いですね……」

 

 それを感じ取ってスペシャルウィークが戸惑うのも当然と言えた。

 この場で行われる天皇賞(秋)に出場するキングヘイローの応援のために、今日彼女はトレーナーや仲間達と共にここ、東京レース場を訪れていた。

 久しぶりとなる観客としてのレース場は、スペシャルウィークにとっては飲まれそうになる程の熱気に満ちていたのだ。

 

「だねぇ。テイオーはこうやってレース場来るの久々なんだっけ?」

「うん。でもボクが最後に来た時よりも空気が異様だってのは分かるよ」

 

 松葉杖を片手に周囲を見回すトウカイテイオーだが、その表情はどこか不思議そうにしている。何せ彼女からすれば何故今日のレースでここまで熱気が生まれるのかが分からなかったからだ。

 

 サイレンススズカが中距離のGⅠへ挑む。それは既に皐月賞で行われた事であり、もう彼女は実際肌でその走りを感じ目で見たからなのだが、残念ながら今日ここに来ている半分近くはあの菊花賞を切っ掛けでサイレンススズカのレースを見に来た者達なので仕方がない。

 

「キングさん、勝てるでしょうか?」

「正直厳しいね。何せ相手はスズカさんだし」

「レースに絶対はないけど、その絶対を感じさせる数少ない状況が中距離でのスズカだからね」

 

 トウカイテイオーの言葉にトレーナーは静かに頷いた。

 

「そうだな。そしてそれを既に知っている奴はサイレンススズカの重賞獲得を見に来て、知らない奴はサイレンススズカの真価を見たいんだろうさ」

 

 その眼差しを正面に見える巨大モニターへ向けたまま、トレーナーは真剣な表情を見せる。

 

(せめて、せめて今日だけでも最悪が起きないでくれたらいいんだが……)

 

 そう思いながらトレーナーは手に持った双眼鏡へ目をやった。今日のために昨日急いで買ってきた物だ。

 あの菊花賞でトウカイテイオーの夢を後押しする切っ掛けとなった出来事を受け、サイレンススズカの異変をいち早く察知出来るようにとの想いで用意したのだ。

 

「けど、キングらしいよね。控室まで来るのは禁止って」

 

 キングヘイローは当日レース場まで到着するやそうトレーナー達へ言い渡して一人控室へと向かって行ったのである。

 それがどうしてかは彼らにも分かった。キングヘイローは本番に向けて精神集中したいのだろうと。

 

 これまでは同じレースに仲間と出る事が多かったからこそ負ける事があっても受け入れる事がある意味出来ていた。

 それが今回はなく、しかもその仲間達が見に来ている。そこで無様なレースは王者を名乗る者として出来ない。それがキングヘイローの気持ちであった。

 

「貴方達は観客席からこのキングの勝利を見届ければいいの、でしたもんね」

「キングらしさ全開だよね。ボクには言えないよあんなの」

 

 楽しげに談笑する三人を見てトレーナーは小さく微笑むも、すぐにそれを消して再びモニターへと意識を向けた。

 

「……出てきたな」

 

 そこにはゲート入りするために出場選手達がターフの上に現れたところが映し出されていた。当然その中にはキングヘイローとサイレンススズカの姿もある。

 

 そしてそれだけではないあるウマ娘の姿もあった事でトレーナーは思わず目を見開いた。

 

「エルコンドルパサー……だと」

「「「えっ?」」」

 

 聞こえた名前にセイウンスカイ達もモニターへ意識を向け、すぐに驚きを浮かべた。

 

「ホントだ。エルちゃんだ」

「同じチームで同じレースってのは珍しいとは言わないけど……」

「うわぁ、見て見て完全にスズカへ意識向けてる。闘志全開って感じだよ」

 

 チラッと映ったエルコンドルパサーはサイレンススズカへ顔を向けて目付きを鋭くしていたのだ。

 

 まさに“今日こそ絶対に勝つ”と言わんばかりの表情で。

 

「その通りだ。おかげでこちらとしても若干困っている」

 

 そこへ聞こえた声に四人が振り返ると、そこには呆れた表情の女性トレーナーが立っていた。

 

「先輩……」

「困ってるってどういう意味?」

「エルは今まで本番や練習問わず逃げになったスズカに勝てた事がない。他では連戦連勝なんだが、今回の天皇賞(秋)は最初からスズカが出るとなっていた事もあってか、どうしても出させてくれときかなくてな」

 

 そこでトレーナーは内心である事へ納得していた。

 

(以前後輩へ言ってた天才肌云々はエルコンドルパサー絡みか……)

 

 実際は少々異なるのだが、一度言い出したら聞かないという意味では近いと言える。

 

「それで出してあげたんだ。優しいんですね」

「こちらが提示した条件をクリアしたから仕方なくだ。あいつめ、スズカ以外には負ける気がしないとまで言い切った。こちらも結果を見せられてはその言葉を事実と受け取らざるを得ない」

 

 観念するかのようにため息を吐き、女性トレーナーはゆっくりとトレーナーの隣へと移動しモニターを見つめた。

 その眼差しはそこに映し出されているサイレンススズカを捉えている。勝利を確信しながらも、どこかに不安の影を宿すかのような眼差しで。

 

「それにしても、随分と仰々しい物を持ってきたな」

「……一種の気休めです」

 

 それだけで女性トレーナーは彼の言いたい事を察したのか何も言わなくなった。

 どこかで呆れるような、けれど微笑ましいような笑みを浮かべて。

 

『曇天の切れ間から微かに光が差し込む中、いよいよ秋の天皇賞が始まろうとしています』

「そろそろですね!」

 

 聞こえてきたアナウンスにスペシャルウィークがテンションを上げる。ほぼ時を同じくしてレース場のあちこちからも似たような雰囲気が流れ出し、一気にその場の空気が変わっていく。

 

 それを肌で感じて三人のウマ娘は耳と尻尾を大きく動かした。

 

「すごぉ……」

「うん、ゾクゾクっときた……」

「コースにいると感じないですけど、こんな風なんですね……」

 

 大舞台で観客席にいるという経験自体が少ないためか、三人は一様に困惑していた。

 続々とゲート入りしていくウマ娘達。それに合わせるかのように場内のボルテージは上がり続けていき、その熱気は目に見えない圧力となってウマ娘である三人を襲う。

 

 けれど、二人のトレーナーはそれさえも受け流すようにモニターへ意識を向け続けていた。

 

 ただそこに映る、一人のウマ娘の姿を何とも言えない表情で見つめていたのだ。

 

「……無事にゴールしてくれよ」

 

 祈るようなその呟きは、果たしてどちらのトレーナーのものだったのか。

 残念ながらそれは周囲のざわつきにかき消され、誰の耳にも届かない。

 

『果たして秋の盾は誰の手に。天皇賞(秋)……スタートしました。各ウマ娘綺麗なスタートです。ここで先頭に立つのはやはりこのウマ娘、サイレンススズカです』

『菊花賞での激戦が記憶に新しいですが、やはり本来の彼女はこの距離で輝く走りですからね。何事もなければこのままトップでゴールするでしょう』

『同じく菊花賞で激戦を繰り広げたキングヘイローは現在六番手と言った辺りでしょうか。一番人気こそ譲りましたが彼女は二番人気です』

『あの菊花賞での走りは凄まじいの一言でした。中距離ではどんな走りを見せてくれるのかが楽しみです』

 

 そうやって実況と解説が話している間にもサイレンススズカはどんどん後続を引き離していく。

 それはまるで一人だけ別のレースをしているかのようだった。あるいは彼女だけ別世界にいるかのようであった。

 

 一度として後ろを振り返る事もなければ必要さえないとばかりに緑の勝負服は加速を続けていたのだから。

 

「速い……」

「皐月賞の比じゃないよ……。あんなに速くなってるなんて……」

「やっぱり菊花賞は距離が長すぎたんだ。今のスズカさん相手じゃ私も皐月賞と同じ事出来るか分からないって」

 

 無意識に近いスペシャルウィークの呟きにトウカイテイオーが応じるように呟く。

 ただ一人セイウンスカイは普段のノリが消え、真剣な眼差しと声でモニターに映し出されているサイレンススズカを見つめていた。

 

 そんな三人とは違い、トレーナー二人はずっと複雑な表情を浮かべ続けていた。

 

「スズカ、その調子だ。普段通りの走りをすればいい……」

 

 普段の勝気な雰囲気は鳴りを潜め、ただ何を祈るように女性トレーナーはモニターを見つめる。

 

 だがトレーナーは一人双眼鏡でサイレンススズカの姿を追い駆けていた。

 

“スズカの調子は絶好調だ”

 

 彼に聞こえる天の声は何らおかしい部分もない。だがそれこそが余計にトレーナーの内心を焦られる要因となっていた。

 

(テイオーの時はレースに関しての声があった。なのに何故今回はそれがないんだ? まるでレースを走り切れないみたいじゃないか)

 

 菊花賞で彼が聞いた天の声はトウカイテイオーのレース内容に踏み込んだ言葉を告げていた。

 それが今回は何故かサイレンススズカの調子にのみ言及するだけなのだ。どうしてもあの前日の不穏な天の声もあってトレーナーの中での不安は増すばかりである。

 

『間もなく三コーナー! 速い速いっ! 既に二番手と8バ身は差が開いているっ! これだけ引いても後ろが見えないっ! ようやく見えてきた二番手のエルコンドルパサーですがそこから更に後続とは6バ身から7バ身差はある! 果たして1000mの通過タイムはどれ程か!』

 

 まだレースの中盤だと言うのに実況の熱量が高くなっていた。

 それ程にサイレンススズカのペースが凄いためである。

 

『1000mの通過タイムは……57秒4っ!?』

 

 現状で誰もが驚きを浮かべていた。サイレンススズカは逃げウマ娘であり、それが中距離では無類の強さを持っている事は知っていても、まさかここまでとは思っていなかったのだ。

 

 近年まれに見るハイペースである事に間違いはなかった。このままいけばレコード間違いないとさえ思う程にサイレンススズカは圧倒的な走りを見せていた。

 

(体が軽い……。今の私なら誰にも負けないって断言出来るぐらい、気力も体力も充実してる。私は、まだ速くなれるっ!)

 

 笑みさえ浮かべてサイレンススズカはその速度をまだ上昇させる。一陣の風が更に速くなり、疾風となってコースを駆け抜けていく。

 

(速過ぎデスっ!)

 

 一人何とか視界にサイレンススズカの姿を捉えているエルコンドルパサー。それでもその心は穏やかではなかった。

 同じチーム故に何度も模擬レースでやり合い、その度に敗戦を味わってきた相手であるサイレンススズカ。それに勝ちたいと思い、厳しいトレーニングに励み、折れそうになる心を必死に仮面で支え、今日と言う日を迎えた彼女。

 もう今までの自分ではないと強い気持ちで挑んだレースは、現実という厳しさを嫌と言う程彼女に突きつけていた。

 

(アタシが成長したように、スズカさんも成長していたって訳デスか……っ!)

 

 悔しげに表情を歪めながらも、決して諦める事無く走るエルコンドルパサー。

 ゴールするまでレースは分からないと、そう思っているのだ。

 

 そしてもう一人、後方から同じように不屈の意思で走るウマ娘がいた。

 

(セイを責めるつもりはありませんけど、あの模擬レースは意味ないじゃないっ! 今のスズカさんは異常ですわ! 皐月賞や菊花賞の走りが参考にならないってどういう事よ!)

 

 予想だにしないハイペースにキングヘイローは完全に自分の中のシミュレーションが崩れた事を悟っていた。

 大逃げと呼んでも差し支えない程の走りで先頭をひた走るサイレンススズカにどうやれば追い付けるかを必死に考えながら、キングヘイローは前を見つめ続けて手足を動かす。

 

 そうしている間にもサイレンススズカは次の加速をしようとしていた。

 そのために力強く右足を踏みしめようとしたその瞬間……

 

「っ?!」

“スズカの調子が下がったな”

「っ?!」

 

 恐れていた声がトレーナーの頭に響いたのと同時期にサイレンススズカの表情が変わっていた。

 しかも更に詳しく声を聴こうとするトレーナーを大欅が阻む。その瞬間、トレーナーは迷う事無く傍にいたセイウンスカイへ声をかけた。

 

「セイっ! コースの大外から逆走してサイレンススズカを助けてやれっ!」

「「「え?」」」

「故障だっ! お前の方がスペより速いっ! 頼むっ!」

 

 その必死の形相と声を裏付けるように大欅を抜けたサイレンススズカの姿は明らかにおかしかった。

 思わず女性トレーナーが過去を思い出すかのように息を呑み、両手で口元を覆った。

 

「行けっ! 俺もすぐに追うっ!」

「分かったっ!」

 

 迷っていられない。そんな気持ちを感じ取り、セイウンスカイは勢いよく柵を超えるとコースを逆走するように走り出す。

 

「スペっ! 俺を背負って走ってくれっ! 適切な指示と処置が出来るかもしれんっ!」

「わ、分かりましたっ!」

「先輩は救護班をっ!」

 

 セイウンスカイよりもパワーがあるスペシャルウィークならば自分を背負っても速度がそこまで殺されない。

 そう考えての指示だったが、スペシャルウィークはそんな事を考える余裕もなくただ彼の言う通りに動くしか出来なかった。

 

 慌ただしく動き出す仲間達を見つめ、トウカイテイオーは悔しげに拳を握りながら隣で青い顔をしている女性トレーナーへ顔を向ける。

 

「トレーナーさん、救護班を早く呼ばないとっ! このままじゃスズカが二度と走れなくなっちゃうよぉっ!」

「っ?!」

 

 過去の傷口が大きく痛み出す一言だった。だからこそ、その痛みで女性トレーナーは我に返り、既に遠く離れたかつての教え子の背中を見つめるや表情を凛々しくする。

 

「ここを動くんじゃないぞ!」

「分かってる! スズカをお願いっ!」

 

 トウカイテイオーにとって今のサイレンススズカは有り得たかもしれない自分であった。

 その想いが込められた叫びに女性トレーナーは頷きその場から駆け出す。一人その場に残されたトウカイテイオーは、唯一自分に出来る事をと思ってモニターへ意識を向けた。

 そこではフォームを大きく崩したサイレンススズカの姿が映し出されており、大欅を通過する前の綺麗な姿勢は消え失せていた。

 

「スズカ……っ」

 

 もしもトレーナーが自分へ意識を向けてくれなければ菊花賞、あるいはトレーニングで似た状態になっていたかもしれない。そう思いながらトウカイテイオーは心の中で必死にサイレンススズカの無事を祈った。

 

(お願いだよ神様! スズカから走る事を奪わないであげてっ! ボクが何とか三冠になれたみたいに、スズカにもキセキを起こしてあげてよぉ!)

 

 その頃、失速したサイレンススズカをエルコンドルパサーが抜き去っていた。

 

(スズカさんっ!?)

 

 明らかにおかしい走り方と様子にエルコンドルパサーの意識が乱れる。それでも彼女は止まる事もせずそのまま走り続けた。

 それから少し遅れて他のウマ娘達もサイレンススズカを避けて通って行く。誰もがその様子に意識を乱されながらも突然止まる事の危険性を察して通過したのだ。

 

 だが一人だけサイレンススズカの様子に前もって気付いたのか減速しつつ彼女へ接近する者がいた。

 

「スズカさんっ! 大丈夫ですのっ!?」

 

 中団に位置していたキングヘイローは急に視界に入るようになったサイレンススズカに違和感を覚え、敢えて速度を落として最後方へと後退、現状となっていた。

 乱れた姿勢で走るサイレンススズカは、どう見てもただ事ではないとキングヘイローへ告げている。しかしだからといって下手に手を出すような浅慮を彼女はしなかった。

 

「……それでこそわたしのトレーナーですわっ!」

 

 何故なら見えたのだ。こちらへ向かって走ってくるセイウンスカイと、それからやや遅れて向かってくるスペシャルウィークに背負われたトレーナーの姿が。

 

「スズカさん! 出来るだけ減速をっ! もう少しで助けますわっ!」

 

 返事はない。それでもキングヘイローはもしものために並走を続ける。

 やがてセイウンスカイの顔が見えるようになってきた。そこで彼女達の耳へ聞こえるような大声が響く。

 

「絶対に左足を下につけさせるなっ! キングっ! 後はこっちに任せろっ!」

「頼みましたわよっ!」

 

 既にゴール前の直線をエルコンドルパサーが一着で駆け抜けている。それでもキングヘイローは最後まで走り切るために再度加速していった。

 

「セイっ! 出来るだけ優しく受け止めてやれっ!」

「分かって……るっ!」

 

 サイレンススズカとの距離や速度を考え、セイウンスカイは絶妙な位置で停止するとよたよたと近付くサイレンススズカの体を受け止め、すかさずその左足が地面に着かない様に片腕で保持する。

 そこへトレーナーを下ろしたスペシャルウィークが駆け寄り、二人がかりでサイレンススズカの体を優しく横にさせた。

 

「スズカさん……っ!」

「スペちゃん、大丈夫だよ。テイオーだって助かったんだ。今は私達のトレーナーの判断を信じよ?」

「……はい」

 

 痛みで意識を失い眠るサイレンススズカ。それでも何とかギリギリまで意識を保っていた事をセイウンスカイだけが知っていた。

 

――ごめんなさい……。

 

 体を受け止めた瞬間聞こえた囁き。それが一体何に対してなのかはセイウンスカイには分からない。

 自分へなのか、心配し並走してくれたキングヘイローへなのか、あるいは担当トレーナーへなのか。

 どちらにせよセイウンスカイは思った事がある。それは今も慎重にサイレンススズカの事を注視するトレーナーに関して。

 

(トレーナーは今日のレースで双眼鏡を持ってきてた。多分それでずっとスズカさんを見てたと思う。だから誰よりも早く故障に気付いた。でも、どうして今日だけ双眼鏡なんて持ってきたの? 今まではそんな物持ってきてなかったのに……)

 

 まるで事前にサイレンススズカが故障する事を知っていたかのような行動だと、そうセイウンスカイは思ったのだ。

 勿論それが悪い事とは言わない。だが、トレーナーの性格上そんな可能性を知っていたら事前に動いているとセイウンスカイは考えた。

 

 トウカイテイオーの事がそれだ。彼は皐月賞の後でトウカイテイオーの故障の可能性を当時の担当トレーナーへ教えていた事を彼女の口から知っていたのだ。

 

「トレーナーさん、スズカさんはどうですか?」

「……まだ断言は出来んが、何とか最悪は回避出来たはずだ。復帰には時間がかかるだろうが、また走れるようになるだろう」

「良かったぁ……」

 

 安堵するスペシャルウィークとは違い、セイウンスカイはその返事にも疑問を持つ。

 

(安易に希望を持たせるような事を言う人じゃない。じゃ、きっとトレーナーには確信めいたものがあるんだ。でもどうやって? 見ただけで分かる程簡単な状態じゃないと思うんだけど……)

 

 その時セイウンスカイの中である事が思い出された。

 

(そういえば……夏合宿の時もテイオーのトレーニング前にトレーナーがさっきみたいに集中して見つめてた事があった。もしかして、トレーナーって見ただけでウマ娘の状態が分かる、とか?)

 

 限りなく正解に近いところまで推測を飛躍させるセイウンスカイだったが、それも聞こえてきたサイレンの音で中断する事となる。

 救護班が駆けつけたのだと、そう理解してセイウンスカイは泣いているスペシャルウィークの肩へそっと手を置いた。

 

「もう大丈夫だよスペちゃん。あとは本職の人達に任せよう。ね?」

「ぐすっ……はい」

 

 この後サイレンススズカを乗せた救急車は近くの病院へ向かう事となり、担当トレーナーがそれに同乗し医師からの説明を聞く事となる。

 天皇賞(秋)はエルコンドルパサーが勝利し秋の盾をその手にしたが、その表情は最後まで硬いままだった。

 

 観客もあまりの事に拍手を送っていいものか迷ったが、そこでキングヘイローが叫んだのだ。

 

――エルっ! 胸を張りなさいっ! 貴方は勝ったのよ! スズカさんの事を気にするのなら、むしろ今の態度こそ彼女が気に病むわ! 彼女が戻ってきた時にもう一度ここで走ればいいのよっ! この舞台で! 今度こそ本当の決着をっ! 今回はスズカさんと決着が着かなかったと思ってもいい! それでもわたし達には勝ったのだから胸を張っていいのっ! いえ張らないなんてわたし達への侮辱だわっ!

 

 その言葉にエルコンドルパサーもやっと表情から硬さをある程度消し、凛々しさが見える顔で秋の盾を高々と掲げた。

 

「これはアタシがスズカさんから実力で勝ち取ったのではありませんっ! だからこれは、スズカさんがアタシともう一度勝負するという証だと思う事にしますっ! だから来年っ! 来年こそアタシが正々堂々とスズカさんとぶつかって、この盾を本当の意味で手に入れてみせるデスっ!」

 

 まるで宣戦布告のようなその言葉にキングヘイローが真っ先に拍手を送った。

 それに呼応して周囲も拍手を送り、それはやがて大きなうねりと変わる。

 そしてそれを合図にするかのように雨が降り出し、エルコンドルパサーは空を見上げたままその雫を顔で受け止め続けた。

 

(スズカさん、信じてます。だから、お願いデスから戻ってきてください。アタシは、アタシはこんな形での勝利は認めないデスよ?)

 

 仮面の下の瞳は雨で濡れているのか涙で濡れているのか分からない。ただ、彼女の両目からは綺麗な流れが生じていた。

 いや、エルコンドルパサーだけではない。その場にいた誰もが同じような状態になっていた。

 異次元の逃亡者と呼ばれ、圧倒的な走りを見せたサイレンススズカ。その無事を願いながら天皇賞(秋)は終わりを迎える事となる……。

 

 

 

「……そうか。お前には故障の予兆が見えていたのか」

「いえ、テイオーの事があったので、それ以上の負荷がかかるだろうサイレンススズカも似たような事になるかもと思ってただけです」

 

 私の言葉にあいつはそう言って項垂れる。スズカは幸い命に別状はなく、二度と走れないという事もなかった。

 ただし、復帰にはかなり厳しいリハビリが必要だ。それと、故障理由から考えて今後はトレーニングも慎重にせざるを得ない。

 スズカの故障理由はあいつの予想した通り急激な加速に対する足への負荷だ。皮肉にもフォームが本来のものへ戻った事で故障の可能性が上がってしまったらしい。

 

「それでも助かった。私はあの時、何も出来なかった……」

 

 大欅を抜けた後のスズカを見た瞬間、私はあの子の事を思い出して頭の中が真っ白になっていた。

 あの時は私が故障だと判断し動いたが、それでもある程度はあの子の異常を信じられず見つめてしまった。

 けれど、今回のあいつはあの時の事を教訓に素早く迅速な対処を行った。足の速いセイウンスカイを先行させ、自分はスピードとパワーのあるスペシャルウィークに背負ってもらいスズカの下へと向かった。

 そのおかげでスズカは最悪の結果だけは回避出来た。医者から一つ間違えば走れなくなっていたと言われた時は生きた心地がしなかったぐらいだ。

 

 ……あの子の事を乗り越えたと、そう思っていたけど違ったわね。私はそう思い込んでいただけ。

 本当の意味で乗り越えたのはあいつだ。今も悔やむように俯いて、もっと出来る事があったんじゃないかと自分を責めてるだろう、かつての教え子だ。

 

「俺が、俺が事前に先輩へ言っておくべきだったんです。それを、俺は先輩との擦れ違いを恐れるあまり……」

「いいんだ。きっとお前の想像は正しい。医者も言っていたよ。これは日々の蓄積でなったものではないと。ある程度はそれもあるかもしれないが、一番はスズカの加速度による負荷だろうとな」

「先輩……」

「トウカイテイオーの事はある程度聞いていた。お前が事前に手を回したがそれでも防げなかった事も。スズカも彼女と同じで自覚がなかった。なら私もスズカもお前の意見を信じる事は出来なかっただろう。こうして、結果として現れるまでは、な」

 

 だがそれでは遅いと、そう自分へ言い聞かせる。目に見えない事を信じるのは難しいが、だからと言ってまったく相手にしないというのも駄目だとも。

 しかしだからこそ思うのだ。それはこうなったからだと。私はスズカがこうならなかったら、きっとあいつの言葉を素直に受け止められなかっただろうから。

 

「先輩、テイオーが診てもらってる先生はウマ娘を専門にしてる方なんです」

 

 と、私が自分を責め始めようとしたところであいつがそんな事を切り出した。

 

「ウマ娘を?」

「ええ。しかも腕は確かです。テイオーを一目見ただけでどういう理由で故障したのかを言い当ててくれました」

「……スズカもその医師に診てもらう方がいい?」

「その方がいいと思います。実際俺がテイオーを何とか菊花賞へ出せたのは先生の力も大きいんです」

 

 そう言って私を見つめるあいつの目は力強い輝きを宿していた。そうしてくれと、そう言っているようにも思え、私は頷く事にした。

 

 今は少しでもスズカのためになる事をしてあげたいと、そう思ったのだ。

 やはり連戦がいけなかったと、そう自分を責めたい気持ちに襲われるが、それをするのはスズカの事が色々と片付いてからだ。

 

「先輩、学園への連絡とかは俺がやっておきます。先輩は少し休んでください。サイレンススズカが目を覚ました時、先輩が焦燥してたらあっちまで気落ちしますから」

「……分かった。お言葉に甘えさせてもらう」

「いいんですって。俺も先輩にあったかい言葉をもらいましたし、お相子ですよ」

 

 ぎこちなく笑ってあいつはその場から去っていく。その背を見つめ、私は咄嗟にこう言った。

 

「ありがとう」

 

 その言葉にあいつは気にするなと言うように無言で手を振った。

 生意気なと、そう思うものの、あの子の事から数年経過している事を思い出して納得する。

 初めてあいつと出会った頃、私はまだ駆け出しを抜け出したばかりの状態で、二十代後半になるかならないかと言う辺りだった。

 対するあいつは熱意はあるがそれが空回るタイプの典型的な駄目新人だった。それでも指導を熱心に聞き入り、ウマ娘への対応も悪くはなかった。

 

 一番助かったのはあいつが私の指導の意図を理解しようとしていた事か。

 何故と、そう思う事はいい事だ。無暗に言われた事を信じるのではなく、その意図や意味を考えて自分の中に落とし込む事が最初から出来る奴は早々いない。

 

「……そんなあいつだから、あの子を預けられたんだろうな」

 

 私はどうしてもウマ娘達と一定の距離を取る。必要以上に寄り添っては非情な決断が下しにくいと考えてだ。

 

 でも、思い返してみるとスズカには幾分甘かったように思える。やっぱりあの子の事をどこかで重ねていたからでしょうね。

 菊花賞も、本来なら却下していた。それを叶えてやったのは、やっぱりスズカが初めて自分から出たいと言ったレースだったからだ。

 

「報い、かもしれない。あの子と向き合わず、寄り添わなかった私への」

 

 あいつのチームを見ているとそう思う。あいつは、いえ彼は担当へ寄り添い、向き合って今のチームを作り上げている。

 四人のウマ娘は全員クラシック戦線に名を轟かせる逸材ばかりで、トウカイテイオーなどは途中から引き継いだにも関わらず、怪我を抱えた状態で無敗の三冠ウマ娘にしてみせた。

 その代償に故障してしまったが、それでも走れない訳ではなく今も復帰へ向けて前向きに進んでいるようだ。

 

 本当に、私とは違う歩き方。ふふっ、指導した時はこうなると思ってなかったわね。

 

「……スズカが起きたら、まず謝ろう。私の感傷のせいでこんな事になったのだから」

 

 そして、またやり直そう。無理に逃げから転向させようとした時と同じで、あの子が私をまだ慕ってくれるのなら……。




テイオーと同じく故障する事が運命づけられているスズカですので、ここはこうなりました。
ただ、今作独自の理由として無理な先行ウマ娘への転向によりフォームが狂っていた事と、それが元に戻った事で成長したスピードと見えない疲労の蓄積で足が限界を迎えたとしました。

アニメではスペちゃんが助けに行きましたがこちらではセイがその役目を担いました。
理由はトレーナーを背負って速く走れるのはスペちゃんだからです。


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ただ走る、そのために

スズカはテイオーと療養仲間となります。先生の担当ウマ娘ですからね。

セイと天の声関係は作中で年を越すまでお待ちください。


 あの天皇賞から二日後、先生の診断結果を病室で聞く事になったスズカに俺は先輩の代理としてテイオーと共に付き添っていた。

 

 やはりというか当然というか、故障したままある程度走ったスズカの状態はかなり酷く、当分はベッドに寝たきりとなったのだ。

 そのため、色々な事を考え個室に入院となったが、おかげでテイオーが今後ここへ来た際に必ず顔を出すのが目に浮かぶようだ。

 

 まぁ昨日一日は何とか時間を捻出して話し合ったらしいけど、先輩は今回の事関係の色々で忙しく、更には他のウマ娘達の指導もあるために現状スズカへ割ける時間がないためだ。

 

 ちなみにサイレンススズカをスズカと、そう呼んでいるのは理由がある。

 とはいえ簡単なものだ。スズカと呼んでもいいと言われた事を失念しフルネームで呼んだ事で軽く苦笑されたためだ。

 

「「っ」」

 

 先生の視線が手元のカルテらしいものからこちらへ向く。それに隣のスズカが息を呑むのが分かった。

 だが何故テイオーも同じ反応をするんだろうか。やはりスズカに自分を重ねているんだろうか?

 

 そんな事を考えている間に先生は険しい表情となっていた。これはかなり厳しい事を言わないといけないって事か。

 

「結論から言います。スズカさんの復帰は早くても来年の夏以降です」

「そう、ですか……」

 

 声だけで分かる程にスズカが気落ちした。心なしかテイオーもそうなっている気がする。

 こういう時の先生は本当に容赦がない。淡い希望を見せる事などせず、淡々と事実を告げてくるからな。

 

「テイオーさんと似ているようでスズカさんの方が重傷です。理由は言うまでもなく故障した後も走り続けてしまったためです」

 

 納得しかない説明だ。実際、故障した瞬間に止まれていたらと思わないでもないが、そこで転んでいたらおそらくもっと厄介な事になっていたのが困り者か。

 

「ただ、そのおかげで最悪を回避出来たのも事実ですので何とも言えません。もし転んでいれば間違いなく競技人生は終わっていたでしょうから」

 

 先生の意見は俺の想像を肯定していた。やはりそうだよな。

 

「先生、スズカはまた走る事は出来るんだよね?」

「それはスズカさん次第です。リハビリが可能になったとしても、それはかなり厳しく辛いものになるでしょう」

「構いません。それでまたレースが出来るのならいくらでも頑張ります」

 

 ハッキリとした声だった。凛とするスズカの姿からは強い決意と覚悟が感じられる程だ。

 先生はそんなスズカを見ても表情一つ変えない。まるでその真意を確かめているようにも見える。

 

「……そうですか。こちらとしても出来る事はスズカさんを支えるしかないのです。何せ、リハビリはまず第一に本人の気持ちが必要ですし、程度の差こそあれ必ず辛さと苦しさを伴うものですから……」

 

 そこで先生は言葉を濁した。おそらく何度も折れそうになった人や折れてしまった人を見てきたんだろう。先生の表情は何とも言えない複雑さを宿していた。

 

「……とにかく、今は体を休めてください。動いてもいいとなったら、そこからが正念場です」

「はい」

 

 先生の言葉にスズカはハッキリと答えた。いつになるか分からないが、その時が彼女の復帰へ向けた本当の戦いの開始になるんだろう。

 

 とりあえず今後スズカはある程度体が治ったらリハビリをする事となった。

 テイオーとは異なるが、同じ療養組として頑張る事を誓い合っていたのが微笑ましかった。

 

――スズカ、絶対に来年はレースに復帰しようね。

――ええ。絶対に。

 

 無敗の三冠ウマ娘と異次元の逃亡者。そんな異名を持つ二人の、小さな、けれど大きな誓い。

 それを見て俺も先生も笑みを浮かべていた。まだリハビリどころか寝たきり状態を脱してもいないスズカ。それを忘れさせるようなテイオーとの約束は何とも言えないあたたかみが感じられた。

 

 それからテイオーは毎日のようにスズカの病室へ顔を出す様になった。大抵は一人で、時々スペや俺、あるいはセイやキングなどを連れて。

 スズカも今は寝ている事しか出来ないためかその来訪は嬉しいようで、テイオー曰く顔を出すだけで耳が大きく動くんだそうだ。

 

――ボクも先生に呆れられるぐらい顔を出してるせいか、スズカの回復もいいんだって。この分ならリハビリも早く始められるかもってさ。

 

 笑顔でそう告げてきたのは天皇賞(秋)から既に一月近くが経過した頃だった。

 先輩からも感謝半分文句半分でテイオーの来訪について色々言われたのを思い出す。

 

――トウカイテイオーの見舞いでスズカがかなり精神面を支えられてるようだ。それについては礼を言う。ただ、おかげで彼女がこないだけで不安になるそうだがどうしてくれる?

 

 あれは割と真剣に悩んでたなぁ。先輩はスズカを第二のあいつにせず済んだ事でかなりホッとしてた。

 だからこそスズカの精神面を支えてるのが自分ではなくテイオーって辺りに複雑なものを覚えたんだろうけど。

 

 それにしても、気付けば今年も終わりが見え始めている。テイオーとスズカを欠いたクラシック戦線は正直言えば些か物足りなさが漂う。

 それでもスペやキング、セイがいるし、天皇賞(秋)を獲ったエルコンドルパサーにエリザベス女王杯で二着を取ったグラスワンダーなどがいるから盛り上がりはしていた。

 

 そして、いよいよ今週スペは念願のレースであるジャパンカップへと出場する。そこにはエルコンドルパサーとグラスワンダーの名前もあるため一種の同期対決となった。

 

「……日本一のウマ娘、か」

 

 誰もいない部屋で呟く。スペの夢はそれだ。しかも聞けば産みの母と育ての母に誓った夢らしい。

 何とも言えない話だったが、スペの生い立ちは中々ドラマチックだった。本当にダービーをまず獲らせてやりたかった。

 

「だからこそ、今回にスペは気合を入れてる訳だが……」

 

 ダービーと違い階級制限などがないジャパンカップは文字通り実力ウマ娘が揃うレースだ。

 更に外国ウマ娘もやってくるという文字通りこの国の威信を賭けたレースとも言える。

 そこで一着を取れば日本一のウマ娘と呼んでも言い過ぎではない。ただ先輩からの話じゃエルコンドルパサーもかなりの入れ込み具合だそうだ。

 

――スズカ以外には負けないと、そう口にしている。

 

 相手が誰であろうと、自分より上だと認めたのはスズカだけ。それがエルコンドルパサーの気持ちなんだろう。

 故に負けない。負けられない。自分が正面切って戦い、負けたのはスズカだけ。そのスズカに不本意な形とはいえ勝った以上、負ける事は彼女の負けにも繋がる。

 

「……夢と意地のぶつかい合いになるな」

 

 スペの夢とエルコンドルパサーの意地。それがおそらくジャパンカップの裏で巻き起こるもう一つの戦いだ。

 俺としてはスペに勝って欲しいし勝たせてやりたい。だが簡単に勝てる程エルコンドルパサーは容易な相手じゃないのも事実だ。

 

 これまでのレース、エルコンドルパサーはスズカがいないレースでは負けなしというとんでもだ。

 勿論他のレースでも有力ウマ娘と走っている。それでも負けていない。おそらくだがスズカさえいなければクラシック最強と呼ばれていただろう程にエルコンドルパサーは強い。

 

 スペも菊花賞の時よりも速くなっている。スタミナやスピード、パワーさえも成長している。

 それでも、それでもエルコンドルパサーに勝てるかと聞かれたら力強く勝てるとは言えない。

 

「スペがもしエルコンドルパサーに勝てるとすれば、その決め手は……」

 

 ゾーン、だろうな。あれを確実に発動させなければ勝ち目は薄い。

 

「とにかく俺に出来る事は何でもやろう。スペが夢を掴めるように」

 

 

 

 ジャパンカップを明日に控えた今日、俺は後輩のチームに協力してもらい中規模の模擬レースをやる事にした。普段と異なる状況や環境でスペが委縮したり緊張したりしないようにと、そう考えての事だ。

 

「すまんな、そっちの都合もあっただろうに」

 

 俺の隣にいる後輩へ申し訳なく思いながら声をかける。向こうはどこかはしゃぐツインターボ達を見つめて苦笑していた。

 

「いえ、むしろ都合が良かったです。あの菊花賞で皆さん刺激を受けてくれたようで、トレーニングへの集中度や意欲が高まってましたから。ここで先輩のチームと合同レースなんて願ったり叶ったりですよ」

「そうか。そう言ってくれると助かるわ」

「実際ターボさんやイクノさん、タンホイザさんは目の色が変わりました。ネイチャさんも以前にも増して上の着を狙う意思が強くなったようですし、こちらにも前以上に色々と意見や提案をしてくれるんです」

「……そうか」

 

 ジュニアの三人と先輩のナイスネイチャというチームだが、どうやらそれはそれで上手く回っているようだ。

 ある意味でサブリーダー気質な後輩をナイスネイチャが支えているんだろうと思う。そういう意味では似た者同士かもしれない。

 

「トレーナーっ! まだ始めちゃダメか~っ!」

 

 そこへ聞こえてくるツインターボのやる気溢れる声。見ればセイやスペは苦笑し、キングなどはナイスネイチャと一緒になって微笑ましい表情を見せている。イクノディクタスは無表情でマチカネタンホイザは楽しげに笑ってるな。

 

「ちょっと待ってくださ~いっ! ……先輩、どうでしょう?」

「うし、なら始めるか」

 

 やる気になってるのがいる以上それを殺したくないしな。

 と言う訳でスタート位置に七人ものウマ娘が並ぶ。俺からすればトレーニングコースでこれだけのウマ娘が並ぶのを見るのは久しぶりだ。

 最後に見たのはいつだったか。少なくても先輩のとこでサブトレみたいな事をしてた時だから……

 

「合図はどちらが出しますか?」

「ん? あ~、ならそっちに任せるわ」

 

 いかんいかん。今は昔を思い返してる時じゃない。

 

「分かりました。なら……位置に着いて。よーい……どんっ!」

 

 何とも懐かしい感じのスタート合図だったが、それでも揃って走り出す辺りはさすがはウマ娘ってとこか。

 先頭は……お~、ツインターボが完全逃げ切り態勢だな。セイも逃げを打ってるはずだが完全に突き放されてるぞ。大逃げがツインターボのスタンスか。

 

「凄いな……」

「ターボさんは大逃げしか出来ない方でして……」

「いや、それでも凄いぞ。これは好きな奴はとことん好きな走り方だなぁ」

 

 見てて気持ちのいい逃げっぷりだ。それでもし一着を取れたら誰もがハイテンションになる事請け合いだろうな。

 

 ぶっちぎりで先頭を走るツインターボ。その後方にセイがいるが、その差は6バ身ぐらいはある。

 そのセイから5バ身程度は離れて三番手だからいかにツインターボが凄い逃げ足を見せているかが分かる。これは、ある意味でスズカとぶつけてみたいな。

 

「ターボさんなら、上手くすればサイレンススズカに勝てるんじゃないかって思ってます」

 

 どうやら後輩も考える事は同じらしい。これだけの逃げ足だ。一度は夢見るだろう対決と言えるかもしれん。

 

 ただそのツインターボに惑わされずペースを崩さない辺りセイらしいと言える。おそらくだがスズカもそうだろう。

 何せあの大逃げだ。最後までスタミナが持つかは怪しい。だが、だからこそそれが持った場合が怖いのも事実。

 

 ……仕掛け時の見極めや相手の状態を見抜く力を否応なく要求してくるウマ娘かもしれないな、ツインターボ。

 

「ターボさん、頑張ってくださいっ! そのままいけば一着ですっ!」

 

 後輩は模擬レースだと言うのにまるで本番のようなテンションだ。それだけスペ達と走って結果を出す事が大きい意味を持ってるんだろう。

 

「……凄いね、あの子」

 

 と、そんな時ポツリと俺の足元から声がした。目をやればテイオーが眩しいものを見るかのようにツインターボを見つめている。

 

「だな。逃げ足だけならスズカを超えてるぞ」

「そうだけど、重要なのはそこじゃないよ。あの子、ただただ走ってるんだ。勝ちたいとか負けるもんかとかじゃなくて、自分の走りをやってるだけなんだよ」

 

 噛みしめるようなその言葉に俺はもう一度ツインターボを見る。

 既にバテ始めていて、その表情は苦しそうなものになっていたが、それでも足を止める事無くフラフラになりながらもゴール目指して走っている。

 

「……自分の走り、か」

「うん。これしか出来ないからそれを全力で貫くって、そんな感じ。ボクやキングみたいに先行でも差しでも出来るってウマ娘じゃ出来ない走りだよ」

「一芸特化だからこその強みか……」

 

 逃げしかない。だからこそそれをとことん磨き上げる。誰が相手だろうが、どの距離だろうが、どんな状況だろうがぶれないのはそういう事だ。

 何があろうが逃げるしかないからこそ、迷いも不安もなく走れる。それしかないならやるしかないからな。

 

 気付けばレースも既に中盤が過ぎて終盤へと差しかかっている。あれ程差があったはずのツインターボとセイだが、それも3バ身程度まで縮まっていて、このままならゴール手前で追いぬけるぐらいになっていた。

 それだけじゃない。スペやキングもペースを上げて差しの態勢へ移行しつつあるし、ナイスネイチャ達もそれぞれ動き出している。

 

「も、もうダメだぁぁぁぁ……」

 

 ツインターボから弱音が聞こえた瞬間思わず苦笑する。何というか博打なウマ娘だ。

 大逃げが決まれば勝ちで、決まらないと負け。野球で言えばホームランか三振しかないバッターみたいだ。

 

「あ~あ、ここまでだね」

「……そのようです」

 

 先頭だったツインターボはずるずると後退し、セイが先頭にとって代わった後は続々と後続達に抜かれていった。

 終わってみれば一着は接戦の末キングが取り、二着がセイでスペは何と四着だった。ちなみに三着はナイスネイチャで五着はマチカネタンホイザだ。イクノディクタスは惜しくも入着ならず。ツインターボはゴール手前で倒れたので本来は失格なんだろうか。まぁその後起き上がって何とかゴールしたけど。

 

「おっしいなぁ。一着取れたと思ったのに」

「セイ、貴方、あのツインターボの逃げで若干どうするか迷ったでしょ? だからよ」

「だからってあの最後の追い上げ方は何よ? あ~あ、いけるかと思ったけど結局いつもの順位か~」

「セイさんにもキングさんにも、ネイチャさんにも届かなかった……」

「いやいや、これがジャパンカップと同じ距離だったら結果、違ってたと思うよ?」

「そうですね。あと400mあればまず確実にターボは最後の直線前で倒れています」

「う~……くやしいけど……はんろん……でき、ない……がくっ」

 

 何というかあの夏合宿だけしか、それもほんの数回の関わりなのにこいつらの馴染み方はなんだ?

 チラっと横を見れば後輩も苦笑しているしテイオーさえも笑ってる。

 

「っと、そうだ。スペちゃん、さっきのレースでどこを見て走ってた?」

「え?」

 

 テイオーの突然の問いかけにスペは虚を突かれたように目を丸くする。それだけじゃない。その場の全員がテイオーへ顔を向けていた。

 

「答えてくれるかな?」

「え、えっと……前を、見てましたけど……」

「そっか。なら最後の直線だと?」

「…………セイさん達です」

 

 そこで俺はテイオーの問いかけの意図が何となく分かった気がした。

 

「スペ、それじゃ駄目だ。お前が見つめるべきは誰かじゃない。常にゴールだ。その先だ」

「トレーナーさん……」

「さっすがボクらのトレーナー。そう、そういう事なんだよスペちゃん。あの菊花賞の時、ボクらはきっとそこを見てたはずなんだ。周囲じゃなくてただゴールを、その先を目指して走ってなかった?」

「ぁ……」

 

 スペが何かを思い出したように目を見開いた。そうか、あの時お前達はそんな気持ちで走ってたんだな。

 

「お前が目指すのは誰かなのか?」

「違います……」

「なら、お前が目指すのは何だ?」

「日本一のウマ娘です」

「それは誰かを追い駆ける事で叶うものか?」

「いえ、いいえっ! 誰よりも速くゴールを駆け抜ける事で叶うものですっ!」

 

 スペの顔と声に気合と闘志が漲っていくのが分かる。それとジャパンカップでどうすればいいかも、だろうな。

 

「スペちゃん、ボクは知ってるよ。あの皐月賞でも、ダービーでも、菊花賞でも、スペちゃんは最後までボクの三冠の壁になってくれた。セイちゃんやキングもだ。でも、それはみんながボクを目指して走ってたからじゃない。みんな一着を、ゴールを目指して走ったからだと思うんだ」

「テイオーさん……」

「ボクはまだ走れない。だからこそスペちゃん達が走って勝ってくれるのを誰よりも願ってる。ボクが競った相手は、認めた仲間は、こんなにも速いんだぞって、強いんだぞって胸を張りたいから。そして、復帰した時に勝ちたいって心から思わせてくれるような存在になってくれるって」

「テイオー……ええ、当然よ。無敗の三冠ウマ娘なんて肩書きは重たいでしょうからすぐにわたしが軽くしてあげるわ」

「無敗の、じゃなくて三冠ウマ娘に、か。キングらしいよね~。ま、同期での約束もあるし、トレーナーに見せてあげたい景色もあるし私もちょっと頑張ろうかな」

 

 俺の方へ顔を向けてセイが笑う。その笑顔に俺は嬉しく思って笑顔を返した。

 

「ああ、待ってるぞ。ちゃんとした形で俺にお前達のライブを見せてくれるのを、な」

 

 その言葉にセイだけでなくキングとスペも頷いてくれた。それと後輩とそのチームの四人が不思議そうに首を傾げていたのが印象的だった。

 

 その後後輩達へスペの口から説明があり、それを聞いた後輩は「いい夢ですね」と微笑みを向けてきた。

 何となく恥ずかしくなったが、そこで顔を背けたら三人に悪い気がしたので「……おう」と返しておいた。

 

 後輩のチーム四人もそれぞれに何か思う事や感じた事があったようで、特にツインターボはいつかチーム全員で同じレースに出てライブのメインを張るんだと言い出すぐらいだった。

 

 まぁ、すかさずイクノディクタスに「四人では誰か一人がメインになれませんが?」と突っ込まれていたけど。

 

 最後には全員から明日のジャパンカップの勝利を願っていると言われ、スペが嬉しそうに感謝したところでこの日は終わった。

 

 

 

「……ジャパンカップ、か」

「はい。私やエルだけじゃなくスペちゃんも出るんです」

 

 そう言ってグラスちゃんは微笑む。期せずして同期対決となったから、かな。きっと嬉しいんだろうね。

 

「そっか。ならテレビで見させてもらうね」

「はい、しっかり見てください。私もエルも、きっとスペちゃんもスズカさんに見て欲しいって思ってますから」

「……うん」

「あっ、そろそろ面会時間も終わりですね。じゃあ私はこれで」

「ありがとうグラスちゃん。エルちゃんやスペちゃんに怪我しないようにねって伝えておいて」

「はい。じゃあ、スズカさん、おやすみなさい」

「おやすみ。グラスちゃんも気を付けて帰ってね」

 

 最後まで笑みを絶やさずグラスちゃんは部屋を出て行った。それだけで一気に室内が静まりかえる。

 この感じは、いつまでも慣れそうにない。寂しさが押し寄せてくるような、この感じは。

 

「それにしてもエルちゃんらしいな……」

 

 あの日からトレーナーだけじゃなくて色んな人がお見舞いに来てくれたけど、エルちゃんだけは一度も来てない。

 その理由を今日グラスちゃんが教えてくれた。エルちゃんは敢えてお見舞いに来ないようにしてる事を。

 レースで結果を出し続ける事で私への刺激にしたいみたい。早く帰ってきて自分を負けさせてみせろって、そういう事らしい。

 

 それを知って私は思わず笑っちゃった。何て言うか不器用な子なんだなって、そう思えて。

 

「……励まし方は人それぞれ、だね」

 

 テイオーのように直接顔を合わせて思いを伝えるのもあれば、エルちゃんのように行動で思いを伝えるのもある。どちらも私へのメッセージだ。

 

 その言葉は、信じてる、だろうな。

 

 頑張れでも、戻ってきてでもない。信じてるんだ。私がまたレースへ復帰する事を。サイレンススズカがこれで終わらない事を。

 

 リハビリを始められるのも早く出来るかもしれないと先生は言ってくれた。ほとんど欠かさず顔を出してくれるテイオーのおかげかもしれないと笑って言ってくれもした。

 同じ復帰に向けて頑張ってる存在のテイオーは私にとってはある意味の仲間であり先輩だ。状態の差はあるけどテイオーも苦しい思いやもどかしい思いを抱えてる。しかも彼女はあのダービーから菊花賞までの間も似たような苦しみを経験したはずだ。

 

「それでもテイオーは三冠を獲ってみせた……」

 

 あのトレーナーさんがそれを手助けしたのは間違いない。そもそもテイオーが故障する可能性を気付いたのはあの人だって話だ。

 

 先生曰く自分がトレーナーだったらテイオーの三冠はなかったらしい。

 

――一歩間違えばテイオーさんの選手人生を終わらせるんです。いくらテイオーさんの望みとはいえそんな事を分かった上で指導なんて出来ません。どうやればそれを回避出来ると分かっても、です。何が起きるか完全に予測など出来ませんからね。

 

 不測の事態が起きる可能性。それを分かっていてもあのトレーナーさんはテイオーのために危険な道を歩き続けた。

 

「……ウマ娘には笑っていて欲しい、だっけ」

 

 テイオーが話してくれたあのトレーナーさんの事。まだ別の担当だったテイオーへ三冠を諦めるのかどうかを問いかけたあのトレーナーさんは、どうしてそこまでと尋ねたテイオーへその理由を教えてくれたらしい。

 その中の一つが、その言葉だった。ウマ娘には笑顔でいて欲しい。きっとその裏には故障引退させてしまった担当ウマ娘の事があるんだろうな。

 

「笑顔で、か……。私、また笑顔で走れるようになるのかな?」

 

 リハビリの厳しさと苦しさは想像出来ないけど、先生の話じゃかなり辛いみたい。何があろうと乗り越えてみせるつもりだけど、その先にも私は乗り越えないといけない事がある。

 

 今の私が全力で走ると凄い負荷が足にかかる。先生が言うにはそれでもちゃんと休養などを取って体に疲れを残していなければ問題ないらしい。

 ただ、その状態がトレーナーに見極められるかが問題、みたい。先生の言い方だとそんな感じだ。トレーナーは優秀な人だ。きっと何とかしてくれると思う。

 

 でも、絶対はない。先生ならその見極めは出来るみたいだけど、先生はトレーナーでもなければ学園の関係者でもない。

 

「……私がまた笑顔で走り続けるためには……」

 

 あの人を頼るしかない、のかもしれない。

 

 私の故障を予期して備えていた、私が逃げウマ娘へ戻れる切っ掛けの言葉をくれた人を……。




次回はジャパンカップの予定。スペシャルウィークとエルコンドルパサーにグラスワンダーという同期対決です。

……関係ありませんが、ウマ娘のチームって本来は五人編成なんですよね。


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