呪術師と駄菓子と人殺し (サイnon)
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【1】糸ひきあめとポテトフライ

その日、東京都立呪術高等専門学校において三人の新入生が教室に集まっていた。

一人は長身の男子。パッと見では日本人とは思えない彫りの深い顔立ちと金髪を持った彼は機嫌が悪いのか、元々そういう顔つきなのか、険しい表情をしている。

もう一人は金髪の彼ほどではないにしろそれなりの身長と体格を持った黒髪の男子。くりくりした大きな目と人懐こそうな笑みが印象的だ。

 

「七海建人です。よろしく」

 

「灰原雄です!家族以外で『見える人』に会うの初めてだなあ」

 

にっこり笑いながら握手のために差し出された手を七海は眉間のシワを深くして見下ろしている。

手を取る気はなかったが、灰原は力なく垂れていた七海の手首を掴んで強制的に握手に持ち込んだ。この時点で七海は既に高専に来たことを後悔し始めていた。呪術師なんて陰気な人間の集まりかと思っていたがこんな明るくて真っすぐな人間がいて大丈夫なのだろうか。すぐに死にそうだ、というのが目の前の男に対する感想だった。

 

「で、君は名前なんて言うの?」

 

「んー?」

 

二人のやり取りを頭一つ低い位置から見ていた少女に灰原と七海の視線が集まる。

ベリーショートの茶髪は癖っ毛なのかあちこちが好き放題に跳ねている。眠そうな表情の彼女の口元からはなぜか白いヒモが垂れ下がっている。

膨れた頬をもごもご動かしながら自己紹介を始める。

 

貴透由衣(たかとうゆい)でーす。しくよろ」

 

「それ何食べてるの?」

 

「糸ひきあめ。食べる?」

 

そう言って彼女が差し出した袋には白い糸につながれたカラフルな飴がいくつも入っていた。無数の糸は途中で一つにまとめられて袋の外にはみ出している。

 

「うわー、懐かしい!小学生の時よく食べてた!」

 

灰原は目を輝かせながらどのヒモを引こうか手をさ迷わせる。一方で七海はさらに眉間のシワを深めていた。なぜこんなにも空気が緩いのか。というか仮にも学校に堂々と駄菓子を持ち込むなよ。

 

「はい、七海くんもお近づきのしるしにどーぞ」

 

「結構です」

 

「まあまあそう言わずに」

 

「そうだよ七海。せっかくなんだし貰いなって」

 

「あなたは何でもう食べてるんですか」

 

貴透と同じく頬に飴を含んでいる灰原はちゃっかり二個目を摘まみ上げていた。大き目の水色の飴を見て「当たりだ」と自慢げに掲げている。

 

「ま、短い付き合いなんだし気楽にやろうよ」

 

貴透の血の気の薄い指先がヒモを引き抜き、七海の前に差し出した。白い糸の先では赤い円錐型の飴がくるくると回っている。

「短い」というのはこれから始まる学生生活のことなのか、命の長さのことなのか、どちらを指しているのか七海には分からなかった。

渋々ながらも受け取って口に放り込むと飴の表面についたザラメが舌の上に散る。フルーツの香りと水飴のどろりとした甘味が口内に広がった。

一個目を早々にかみ砕き、ヒモをちょうちょ結びにした灰原が屈託なく微笑んだ。

 

「僕は付き合いは長いほうがいいな。三人だけの同級生なんだしさ」

 

その言葉に毒気どころかツッコむ気力も抜けた七海は小さく「そうですね」と返した。

 

 

 

まだ等級の低い呪術高専新一年生は三人一緒での任務が常になっていた。

七海と灰原の実力がおおよそ同程度、貴透は動けないわけではないが二人には劣るのが実状だ。そのため、男子二人が先陣を切り、取りこぼしの雑魚を貴透が狩るフォーメーションが自然と出来上がっていった。

 

「前から思ってたんですけど。それ、呪具じゃないんですか」

 

今日も祓えど祓えど沸いて出てくる三級呪霊の討伐を泥だらけになりながら終え、補助監督の迎えを待っていた。

先の発言は七海が貴透の武器を指したものだ。

 

「あー、これ?多分違うんじゃない?」

 

「持ってる本人が分かってないのは流石にどうなんです」

 

「でも、確かに貴透のってあんまり呪具っぽくないよね。七海が持ってるやつと全然違うし」

 

「でも呪霊には攻撃が通ってるでしょう」

 

貴透の武器は包丁に似た形状の和式ナイフだ。人間相手なら十分に殺傷能力があるだろうが呪霊相手には少々力不足感がある。

 

「何となくだけど、呪力をこうフンヌッてやると呪霊にも通じるっぽい。多分。感覚的に」

 

「ふわっふわだね」

 

「何一つ説明になってませんが」

 

「言語化が難しいんだよ。ただでさえ呪力とかよく分かってないのに」

 

呪術師にあるまじき発言をしつつ貴透はポケットを漁っている。血色の悪い指先が白地に金髪の子供が描かれたパッケージを引っ張り出した。

本来は薄い円形の菓子であったのだろうが、ポケットの中でもみくちゃにされたそれは袋の中でバラバラに砕けている。特徴的なスパイシーな香りが辺りを漂い、灰原の腹が鳴った。

 

「疲れた時はポテトフライでしょ」

 

「あ、いいな。僕にもちょうだい」

 

「毎回任務にまで持ってくるな」

 

「はいはい七海くんも一緒に食べて共犯になりましょうねー」

 

問答無用で突っ込まれた欠片が口の中の傷を引っ搔いた痛みで七海は口を閉ざす。これ以上傷が広がらないように慎重に噛み砕けば、さくさくとした食感とチープなしょっぱさが疲れた体に沁みた。

 

「なんでこういうジャンクなお菓子ってクセになるんだろうね」

 

「分かりやすい味が好まれるのはいつの時代も同じでしょう。栄養と引き換えですが」

 

「カロリーは旨味だから仕方ない」

 

バリバリと咀嚼する灰原に対して、貴透はちびちびと欠片を齧っている。彼女のいつも血の気が薄い顔が今は青白く見える程になっている。

七海が深々とため息をついた。

 

「貴透、前にも言いましたが体調不良は早めに報告しなさい」

 

「うわ、本当だ。顔色ヤバイよ」

 

「すぐに気がつかなかった私たちにも落ち度がありますが、呪霊を相手にしているときに細やかなところまで気を遣うのは無理です。というかあなたばかりに構っていられない。倒れられたら誰があなたを運ぶと思っているんです」

 

言葉こそ丁寧だが要約すると「迷惑だから報連相くらいちゃんとしろクソ」である。

貴透は指についた粉を舐めとりながら七海の説教を聞き流している。

 

「ごめんなさい七海ママ」

 

「誰がママだ引っ叩くぞ」

 

「戦闘中は平気だったんだって。いつものことだから気にしないで良いって言ってんじゃーん。面倒なら置いてってくれても大丈夫だって」

 

「その体調不良って結局何が原因なの?貧血?冷え性?」

 

「知らーん。人の身体ってままならないモノだし」

 

貴透は頻繁に体調を崩すタイプだった。

初めて三人で任務にあたった日も任務が終わって早々に嘔吐していた。ひどい時は座り込んで動けなくなり七海や灰原がおぶって運搬したことも一度や二度ではない。そのくせ次の日にはケロっとしてるのだ。

最初は精神的なストレスから来ているものかと思われたが惨い見た目の呪霊を前にしても「お、ファンキーじゃん」の一言で片付ける図太い彼女には当てはまらない。

持病でもあるのかと七海が訊いたときは半笑いで二日目だからと答えていた。一瞬言われた意味を考え、すぐに後悔した。

額に青筋を浮かべた七海は容赦なく彼女の頭を引っ叩き、灰原は妹がいるからか慣れた顔で膝掛けと温かい飲み物を用意していた。

 

駄弁りながら菓子を消費しているとようやく補助監督の車が到着する。

三人が疲れた身体を引きずって乗り込むとすぐに車は高専へ向かって動き始めた。エンジンの振動が瞼を重くしてくる。貴透はシートベルトを締める途中で気絶するように寝落ちしていた。真ん中に座る灰原が代わりに締めてやる。その様子を横目に七海はまたおぶって医務室に運ぶ羽目になるだろうと確信しながら目を閉じた。

 

案の定高専に到着しても彼女が起きることはなく、間が悪いことに運搬中に問題児の先輩二人に捕まってしまった。五条には指を指されながら「すっかりママじゃん」と爆笑され、夏油には「あまり甘やかしすぎない方がいいよ」と生温かい表情で釘を刺された。

七海の八つ当たりによって雑にベッドにぶん投げられた貴透にそっと布団をかけ、灰原も医務室を後にする。次からは高専でおんぶするときは代わってやろうと考えながら。

 

 

 

男はしがない呪詛師だ。

幼いころから醜い容姿のせいでいじめられてきた男は人には視えないモノが視えていたこともあり、人の輪に入ることが絶望的だった。唯一自分の味方をしてくれていた女の子も陰では自分を蔑んでいたことを知ってしまった日以来、あらゆる女性を信用せず憎むようになった。

呪詛師になってからは夢中で金を稼ぎ、顔を整形した。見違えるほどに魅力的になった顔では面白いほどに女が釣れる。顔と紳士的な物腰で馬鹿な女を釣り上げ、完全に油断したところを嬲り殺す快感に目覚めるのに時間はかからなかった。

 

今日も深夜の街で獲物を探していると、一人の女が目に留まった。ワイシャツと黒いスカートの少女はまだ幼さが残る顔つきからして恐らく学生だ。

つい口角が上がる。こんな時間にふらふらしているのは決まって家出少女だ。優しい言葉と同情をかけてやればホイホイついて来る。内心の興奮を悟られないように笑顔を貼り付けて声をかける。宿泊場所を提供してやると言えば顔色の悪い少女は二つ返事で応えた。さりげなく肩を抱き、人通りが少ない場所へと誘導する。そろそろ頃合いか、と少女の腹を引き裂くために術式を展開しようとした時だった。

 

「あ?」

 

突如として視界が回転する。何が起こったのか理解できない。

意識が途切れる直前に男が見たのは首を失って倒れる自身の体と血まみれのナイフを持つ少女の姿だった。

 

 

 

死体が転がる路地で貴透由衣は深く息を吐いた。

先ほどまでずっと胃を締め上げていた激痛が嘘のように引いている。呼吸を妨げていた不快な喉の圧迫感も、身体にのしかかっていた倦怠感も消えた。

顔についた血を袖口で拭い、死体に手を合わせる。その行為は罪悪感からでも、男の死を悼んでいるからでもない。食事のときに手を合わせるのと同じだ。命をいただいたから、感謝のために目を伏せる。

 

「ままならないモノだよ、ホントに」

 

こうして定期的に人を殺さなければ生きていられないなんて、酷い欠陥だ。食事や睡眠より手間がかかる上に呪霊を祓う(殺す)ことでは満たされない。しかも、これは呪いでも何でもない()()()()()なのだから余計にタチが悪い。なぜただ生きるだけのことがこんなに面倒くさいのか。

 

返り血を隠すために上着を羽織り、携帯の通話ボタンを押す。

 

「あ、もしもし。終わったんで後処理と迎えお願いします」

 

血色が戻った指先が冷たい夜の空気をなぞった。

 

 

 

翌朝、七海が教室に入ると昨日食べるのを断念していたスナック菓子を幸せそうに頬張る貴透の姿が目に入った。机には金髪の子供がプリントされたパッケージがうず高く積まれている。頭を抱える七海の後ろから顔を出した灰原が珍しく笑顔を引っ込めて真剣な顔で言う。

 

「貴透、絶対食べ過ぎが原因だって」

 

その日、一年生の間で『駄菓子は一日二つまで』という掟が定められた。

 

 

 



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【2】ビッグカツ

呪術師はたとえ高校生であったとしても命懸けの任務に身を投じなければならない。人の負の感情の塊である呪いを祓い、日常的な命のやり取りに耐えるにはある程度イカれている必要がある。

こいつはそれとはまた別のベクトルでイカれている、と七海は視界の斜め下で跳ねまくっている茶髪を見ながら思った。

 

先ほどまで相手にしていた呪霊は本当に最悪だった。見た目はモロに吐瀉物だったし、巨体から強烈な悪臭を放っていた。それで執拗にこちらに突進してくるのだから堪ったものではない。祓い終わるころには七海も灰原も完全にグロッキーだった。

ぐったりしている二人の横で貴透はポケットを漁り、細長い袋を引っ張り出す。白と赤のパッケージには揚げ物の写真がプリントがされている。

一見すると衣だけのそれに貴透は躊躇い無くかじりついた。中々噛み切れないのかもにょもにょと口を動かしている。

その光景に七海は口元を押さえて目を背けた。幸か不幸か鼻は呪霊のお陰で麻痺しており、油の臭いを拾うことはなかったが今は何かを食べる行為を見ることすらしんどい。夕飯はやめておいた方がいいだろう。

灰原も今日は菓子をねだる気力がないのか大人しくしている。

 

「食べる?」

 

「いや、流石にいらない…。貴透よく食べられるね」

 

「食べるのは勝手ですがせめて5mほど離れてくれませんか」

 

「どうせ鼻逝っちゃってんでしょ?臭わないなら良いじゃん」

 

「視界に入ることが不快です」

 

「軟弱者どもめ」

 

鼻で笑いながらも二人の目には入らないように背を向けてやる。

数日前とうって変わって貴透は元気だ。なぜあの呪霊を相手にした後に平然と物が食べられるのに、体調が悪いときはすぐに吐くのか灰原も七海も疑問でならない。メンタルだけ鋼を通り越して金剛石でできていそうだ。

 

「これ名前はビッグカツだけど中は肉じゃなくて魚のすり身らしいよ」

 

どうでもいい豆知識を聞き流しながら七海は早く補助監督が来るのを願う。

 

 

 

「じゃ、お疲れ」

 

車に乗る二人のポケットにビッグカツをねじ込み、貴透は手を振る。

 

「え、帰らないの?」

 

「帰んないよ。寄るとこあるし」

 

「その悪臭が染み付いた服でどこに行くって言うんです」

 

「もうストックが切れそうなんだよ」

 

ストックとは即ち駄菓子のである。

彼女は任務が終わると度々ふらりといなくなり地元の駄菓子屋を巡って買い込んでいた。金のほとんどをつぎ込んでるのではないかと疑うほどだ。以前怒った七海が縛りまでして「駄菓子は一日二つまで」と約束させたが、買う数も制限をつければ良かったと今更ながら後悔する。

バックミラー越しに手を振る貴透の顔は生き生きとしていて、七海は盛大に舌打ちをした。

 

貴透は事前にチェックしていた道を鼻歌交じりに歩く。

任務前にその土地の地図とにらめっこし、ネットで情報を集めるのが習慣になっていた。意外と大人になっても駄菓子の魅力に囚われたままの人は多く、巡ったおすすめの店がブログなどで紹介されていることも珍しくない。

駄菓子屋はたいてい繁華街よりも住宅街のど真ん中や商店街の外れにある。地元の人しか通らないであろう裏道を辿るのも醍醐味の一つだ。

ふと、先ほど七海に言われたことを思い出す。そんなに臭いだろうかと袖口を嗅いでみるが鼻がマヒしたままでよく分からない。流石に悪臭をまき散らしながら店に入るのはマナーがなってなさすぎる。とりあえず呪霊の血がついた上着を脱いで適当に丸めてから近場のゴミ捨て場に放り投げる。これで少しはマシだろう。どうせ替えは腐るほどあるのだ。

 

何を買おうか、何をしようか。確かこれから向かう店はレトロゲームの筐体が店先にあったはずだ。昔自分が通っていた店はゲームのコイン認識が壊れており、コツさえつかめば百円一枚で二、三時間は余裕で遊んでいられた。流石にこの年齢でそこまでセコいことはしないが、昔より金がある分堂々と長時間遊べる。

期待に胸を膨らませ、足取り軽く踏み出した一歩で足元を這っていた蠅頭を踏みつぶした。

 

 

 

女は抑えきれない期待を胸に成り行きを見守っていた。

数日前に出会った少年は呪霊が見える体質ゆえに同級生から仲間外れにされていたそうだ。自分も同じものが見える、と少年に笑顔と同情を向ければすぐにこちらに懐いてきた。

友達をつくる方法を教えてあげるから、あの子たちを連れておいで。耳元で囁かれた悪魔の言葉に少年は従順だった。約束だよ、と目を潤ませながら駄菓子屋の前でたむろする同級生たちのもとに向かって行った少年を見送ってから女は下品に口元を歪める。

女の獲物は幼い子供だ。純粋な目と愛らしい顔を恐怖と苦痛に染めるのが何より楽しい。術式を使ってその表情のまま形を固定してしまえば女専用の愛玩人形に早変わりだ。あの少年も一緒に人形になってくれる友達がいれば寂しくないだろう。

しゃがみこんだままじっと視線を店先に向ける。

さあ、早く連れて来い。早く。早く。早く。

 

「ねえ」

 

唐突に背後からかけられた声に振り返る。ワイシャツ姿の少女だ。妙な悪臭が鼻をつく。どんな顔なのか逆光でよく見えない。

 

「子供の楽園を覗き見するなよ」

 

言葉の意味を理解するより前に降り降ろされた刃によって女の意識は刈り取られた。

 

 

「なんだよ、何か用かよ」

 

リーダー格の少年のもの言いに気圧される。

連れておいでと言われたもののどう連れて行くかについて彼は完全に無策だった。でも、友達になるためにはここで踏ん張らなければ。と決意したはいいが何を言えばいいのか。

言うべき言葉が見つからず口をもごもごさせていた少年の頭上に何かが落ちてきた。手に取ったそれは少年にも馴染みがある赤と白に揚げ物がプリントされたパッケージだ。

 

「君たちここの常連?」

 

逆光でよく見えないはずの顔が優しく微笑んでいる気がした。

 

「ねーちゃん誰」

 

「うわ!なんか変な臭いする!」

 

「くっせー!」

 

「え、マジで?そんなに臭い?」

 

慌てた様子で自身の服に鼻を近づける彼女をよそに同級生たちは放り出していたランドセルを抱え蜘蛛の子を散らすように逃げていく。

 

「逃げるぞ!」

 

一人が少年の腕をとって走り出す。足をもつれさせながら必死について行く。何だかくすぐったくて息を切らしながら少年は笑った。悪魔の囁いた約束など、とうに頭からかき消えていた。

 

走っていく小学生たちを見送り、貴透はちょっぴり凹んでいた。そんな必死に逃げることないじゃん。くせーのは謝るけど。

気を取り直して駄菓子屋に入ろうとして、足を止める。携帯を取り出していつもの番号を呼び出す。

 

「星川さん?貴透でーす。この前言ってた呪詛師の女の人たまたま見つけたんでいただいときました。隠してあるんで処理お願いします」

 

住所を手短に伝え、携帯の電源を切った。傷ついた心を癒すためにも今日は奮発しよう。後に待ち受けるだろう七海からの説教を頭の片隅に追いやり彼女は店の中に消えた。

 

 

 

深夜に灰原は目を覚ました。

高専に戻ってからも食欲はわかず、臭いの取れない制服をゴミ箱にシュートして布団にくるまった。

ようやく嗅覚が戻ってきている。まだ鼻の奥に残っている気がする臭気を押し出すように深呼吸するとそれに呼応して腹が鳴った。冷蔵庫を見てみるが水くらいしか入っていない。がっくりと肩を落としてベッドに戻ろうとしたとき、別れ際に貴透に押し付けられた菓子の存在を思い出す。制服を捨てる時にポケットの中身を机の上に避難させたはずだ。

お目当てのものはすぐに見つかった。薄いビニールを破ると油のチープな匂いが食欲を刺激した。一口で半分を齧りとる。じゅわっとジューシーな衣が美味しい。もきゅもきゅと弾力を噛みしめながらパッケージ裏の成分表を読む。彼女の言葉通りに成分の先頭には魚のすり身の文字があった。

 

「身近だけど案外知らないもんだなあ」

 

ぽつりとひとりごちる。

思えば数か月も一緒にいるのに貴透由衣という人物の事をあまり知らない。なぜ呪術師になったのかも、あんなにも身体が弱いのかも、病的なまでに駄菓子に固執するのかも。

長い付き合いが良いというのは紛れもない本音だ。しかし、それが現実的な願いではないことを灰原は既に知っている。呪術師の世界はいつ隣にいる人がいなくなるか分からない。

 

「うん。明日聞いてみるか」

 

思い立ったが吉日。できることはすぐに実行するに限る。それが手を伸ばせばすぐ届くものならなおさら。

二口でビッグカツを完食して灰原は再び布団にもぐる。明日も授業がある。目を閉じて羊を数えるが、またすぐに起き上がった。

しまった。中途半端に食べたせいで余計に空腹感が強まってしまった。この時間では七海の部屋に助けを求めに行くこともできない。

ひもじさに打ちひしがれながら灰原は早く朝が来ることを祈った。

 

 



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【3】ボンタンアメ

貴透由衣は物心ついたときから「真っ当な人間らしさ」が欠落していた。

人を殺さないと生きることができないという、人間としてはあまりにも悪辣な体質。そして、感情と倫理観の欠如。

彼女が人殺しをしても平然と生きていられるのは他者を殺すことへの罪悪感というものをそもそも持ち合わせていないからだ。

彼女にとって、殺しは食事と何ら変わらない。目の前のハンバーグを食べるのに犠牲になった豚や牛に感謝こそすれ「殺してごめんね」と涙する人がいないように、貴透も感謝して手を合わせる。

今日もあなたのお陰で生きられました、と。

 

 

 

任務から帰ってきた夏油は自販機横のベンチでぐったりしている貴透を見つけた。両足を投げ出して壁にもたれている彼女の顔には「疲れた」の三文字がはっきりと見える。

 

「仮にも女子がその足の開き方は良くないんじゃない?」

 

「後輩の女子相手に一言目がそれなのもどうなんです」

 

体勢を変えずに「お疲れ山脈でーす」と投げやりな言葉が返される。貴透はポケットを漁り、紺色の小さな箱を取り出した。黄色い柑橘類がプリントされたそれからオレンジ色の四角を摘まみだし口に放り込む。こちらに差し出された箱を手で制して隣に座る。そういえばこうして二人だけで話をするのは初めてかもしれない。彼女の隣にはいつも七海か灰原の姿があった。

 

夏油にとって貴透はよく分からない後輩だった。大して強いわけでもなく、これといって人柄が良いというわけでもない。しょっちゅう何かしらを食べているかと思えば、体調不良で担がれて帰ってくる。夏油には彼女が優しい同期に甘やかされているようにしか見えなかった。

 

「一人でいるなんて珍しいね」

 

「それ言ったら先輩もじゃないですか。いつもニコイチなのに」

 

「悟は夜蛾先生に捕まってるんだよ。巻き込まれるのは御免だし尊い犠牲になってもらった」

 

「クズい」

 

「そういう君はどうなんだ」

 

「私もお説教と質問攻めから逃げてきたんですよ」

 

口をもごもごさせながらうんざりした顔をする。

貴透は朝から七海に正座をさせられていた。数日前に傷心を慰めるためにレトロゲームと駄菓子に金をつぎ込んだせいで帰りの交通費が足りなくなり補助監督の車をタクシー代わりにしたのがバレてしまったのだ。まだ脚の痺れが残っているからこうしてだらしない恰好をせざるを得ない。

そのうえ最近何故か灰原になんで呪術師になったのかだの、家族はどうしてるのかだの聞かれまくっている。久しぶりに親戚の集まりで会ったおじさんかよ、とつい口にしたツッコみはあえなく無視された。二人が任務のため担任に呼び出されてようやく解放されたのだ。

そういったあらましを説明すると夏油の視線が貴透に向けられた。

 

「私も気になるな。なんで呪術師になったのか」

 

「先輩今までの話聞いてました?疲れてるんですけど」

 

「私だって任務終わりで疲れてるよ。良いだろう、減るもんじゃないし。先輩と親交を深めると思って」

 

「えー…」

 

分かりやすくめんどくさそうな顔をしつつ貴透は話し始めた。

 

「先輩と同じでスカウトですよ。学校にいた低級を祓ったときにたまたま高専の関係者が居合わせたたってだけです。私のやりたいことが高専に来たらできそうだったんで受けました」

 

「やりたいこと?」

 

「普通の高校生活」

 

「呪術師やってる時点で普通ではないだろう」

 

「視えない人間に視える人間が混じってたら異常扱いされますけど、周り全員が視える人間ならそれはもう普通でしょ」

 

普通でありたいというあまりにささやかな願いを少し意外に思う。

夏油は幸いにして親にも環境にも恵まれていた。両親は視える自分を受け入れてくれたし、友達もそれなりにいた。しかし、それは自分が例外だったに過ぎない。視えることで迫害を受けることは往々にしてある。恐らく、彼女もそちら側だったのだろう。

血色の悪い指先が二つ目のオレンジ色を摘まみ上げ、紫がかった唇に運んでいく。

 

「先輩はなんで呪術師やってんです?」

 

「…私は自分に特殊な力があるなら人のために使うべきだと思ったんだよ。余裕のある人間が余裕のない人間に手を差し伸べる。社会は弱者生存であるべきだ」

 

貴透は苦虫を500匹ほど嚙み潰したよう顔をしている。以前五条に同じようなことを言って諭したときを思い出した。

 

「何その顔」

 

「いやあ、志はご立派だとは思うんですけどその考え方は止めといた方がいいっすよ」

 

「何?」

 

「『そうするべき』、『そうあるべき』ってある種の呪いですよ。真綿で自分の首を締めてるようなもんです。どんなに頑張ったところで、後々しんどくなっても誰も褒めてくれないし助けてくれない。結局は自分がどうしたいかです」

 

「それは持論?」

 

「どっちかというと経験則ですね」

 

遠い目をしながら紺色の箱を指先でいじっている。先ほどの『やりたいこと』といい、こんなに暗い表情をする子だっただろうか。灰原たちと一緒にいる時とはあまりに違う。

 

「君は…」

 

「あの、先輩。ビニール袋とか持ってません?」

 

「は?」

 

おもむろに貴透が身体をくの字に折り曲げる。顔色はいつの間にか真っ青で、苦しそうに口元を押さえる。

夏油の顔から血の気が引いた。

 

「うわ嘘だろ。ちょっと待って待って」

 

「無理です……」

 

「少し我慢してくれ!硝子ー!硝子ー!!」

 

夏油の必死の絶叫が高専に響いた。

 

 

 

貴透は「真っ当な人間らしさ」を持たなかったが、「真っ当な人間になろうとした」ことはある。

 

貴透は片親だった。女手一つで育ててくれた母親は彼女が幼い頃からどこか情緒不安定であり、呪霊(おばけ)が見えると言うとひどく取り乱した。

小学生にもなっていない頃、既に命を奪うことが日常になっていた貴透がカマキリを潰すところに遭遇した母親は烈火のごとく怒った。

 

命は大切なもの。

食事で手を合わせるのも命をいただくから。

だから命を大事にできる正しい人間になりなさい。

人間はそうあるべきなのだから。

 

涙を流しながら彼女の肩を掴む母親を見て、生き物を殺すことは一般的には悪いことなのだと気がついた。

育ててくれた母親を悲しませるのは申し訳なくて、彼女は殺すのを止めた。

貴透は殺人衝動があるわけではない。止めることに苦痛はなかった。

そうして、普通の人間らしく過ごしていた数日後に異変が起こる。何を食べても胃が受け付けてくれない。異様に呼吸が苦しく、歩くだけでも息が切れた。その上、身体を押し潰さんばかりの倦怠感。みるみるうちに彼女は衰弱した。

病院で診てもらっても原因は不明。医者は「まるで身体が生きることを拒絶しているようだ」と話していた。

彼女が回復したのは入院していた病院の庭で見かけた猫を殺した後だった。

 

自分は人間らしくあることはできない。

そう自覚したときから貴透は躊躇わなくなった。

 

母親が自殺したのはその数年後の話だ。

 

 

 

翌朝、夏油の机には見覚えのある紺色の箱とメモ書きが置いてあった。

 

『運んでくれた呪霊にゲロぶっかけてすみませんでした』

 

淡白に一言。隣の五条が覗き込んで鼻で笑う。

 

「何それ、ダジャレのつもりかよ」

 

箱にプリントされた赤い「ボンタンアメ」の字に夏油も苦笑するしかなかった。

 



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【4】フエラムネ

七海は呪術師が善であると思ったことは一度もない。

人に害をなす呪霊を祓い、人知れず非術師を守る。聞こえはいいがそれは呪術師側の犠牲を巧妙に隠す言葉だ。誰よりも死が近いのに、誰にも感謝されない役割なんて生贄と何が違うのか。

そんな環境に耐えられるのはよっぽど盲目なヒーロー志望か本当の意味で頭がイカれている奴だけだろう。

 

蒸すような湿気が立ち込める午後5時。昼から夜へと移り変わる時間帯は『逢魔が時』と呼ばれ、読んで字のごとく妖怪や幽霊といった人ならざるものが現れる。そして、それは呪霊も例外ではない。夕焼けの赤が雲に張り付き、血のようにさえ見える。重苦しい空気をまとう建物の前に三人は立っていた。

 

任務に向かう前から嫌な予感がしていた。

心霊スポットとしてオカルト界隈で有名な郊外の廃病院で頻繁に行方不明者が出ているうえに調査に向かった二級呪術師との連絡が途絶えた。被害者数は確認できている時点で20人を超えている。生還者はいない。

本来ならば一つ学年が上の五条と夏油が引き継ぐ予定だったが、別の緊急案件が入ったことで七海たち一年生にお鉢が回ってきた。

 

「明らかに采配がおかしい」

 

「できるだけのことはやろうよ。最悪祓えなくても行方不明の人たちを救出できれば良いし」

 

「生きていれば、の話でしょう」

 

問題児ではあるがあの二人の実力は確かなものだ。降伏した呪霊を取り込み自分の意のままに操る呪霊操術と、絶対的な防御と圧倒的な攻撃力を併せ持つ無下限術式。「最強」を自称するのも納得できるほどに彼らの強さは分かりやすいものだ。

 

七海は自分たちが彼らの代役を務められると思うほど傲慢でも思い上がってもいない。正直、まだ実践を積んでいる途中の学生に投げてよこすには余りにも無茶な任務だ。呪術師が万年人手不足なのはこういう使い捨てのような運用にも原因があるのではないかとさえ考えてしまう。

ぐるぐると廻っていた思考はプヒューッという間の抜けた音によって中断された。

 

「貴透」

 

「んー?」

 

「前も言いましたがもう少し緊張感を持ってください」

 

音は彼女の唇に挟まれたタブレット菓子から出ている。平べったい穴空きの錠剤のようなそれは薄い紫色だ。返事の代わりにピューッと甲高い音が響く。

 

「緊張しすぎても良くないでしょ。リラックス、リラックス」

 

ニヤニヤしながら甲高い音で三三七拍子を刻む同期に頭が痛くなった。

 

「リラックスを通り越してやる気が削がれるんです」

 

「フエラムネかー、懐かしい。グレープ味よく食べてた」

 

「おまけのおもちゃは緊張しいな七海に進呈しよう」

 

「いりません」

 

「そういえば貴透、この間医務室に運ばれたときに夏油さんにゲロかけたって本当?」

 

「本人にはかけてない。ていうか今それ聞くのおかしくない?ラムネあげないぞ」

 

くだらない掛け合いをしながら菓子を分け合っている二人を見て無意識のうちに強張っていた肩から力が抜けた。いつの間にか手に滲んでいた汗を見られないようにそっとズボンで拭う。

貴透は意識的にか否かは分からないがよく人を見ている。

普段のふざけた言動とヘラヘラした態度に隠れがちなだけで、常に『いつも通り』を崩さず、周囲を観察して気が付かないうちに気をまわし、他人に分け与えることを躊躇わない。あまりにもさり気なさ過ぎて数か月共に過ごしている自分たちでも見逃すことが多い。彼女をよく知らない人間は尚更だろう。そんな彼女に不本意ではあるが精神的に救われている部分があった。

 

「皆さん、人払いは終わりました。これから帳を降ろします」

 

補助監督から声がかかる。穏やかな口調と物腰の彼は任務の付き添いで何度か会ったことがある。たしか星川という名前だ。

 

「任務の主目的は呪霊の討伐ですが、行方不明者の数からして確認時点から階級が変化していることも考えられます。どうかご無理はなさらず、必要であれば撤退してください。ご武運を」

 

深々と頭を下げる星川に見送られ、三人は建物内へ足を踏み入れた。

 

病院の内部は埃臭く、床のひび割れや壁の老朽化からかなり長い時間放置されている事が窺える。灰原が足元に落ちていたものを拾い上げる。真新しい懐中電灯だ。アイコンタクトをして先に進む。

病院の奥から感じる気配は大きく二つ。もし両方とも二級相当以上の呪霊だった場合、戦闘は可能な限り避けて生存者を探すべきだろう。

 

「なんか…変な病院だね」

 

灰原の言葉に七海も同意する。

受付ロビーは普通の病院と変わらなかったが、進むにつれて違和感が増す。異様に廊下が長く、ほとんどが一本道になっている。階段は続いておらず何故か廊下の両端にあり、上の階に上がるには長い廊下を横断しなくてはならなかった。そして、要所要所に二重の扉が設置されており、まるで侵入を拒むような構造だ。

 

「入るのを防いでるんじゃなくて、出るのを防いでるんだよ。患者が逃げないように」

 

「…なぜそんなことが分かるんです」

 

「多分ここ精神病院でしょ。昔よく通ってたし、大体どこも似たような構造だから何となく分かるよ」

 

貴透は何てことはないように話す。

数日前に灰原が彼女を質問責めにしていたとき、母親は亡くなる前に入院していてよく見舞いに行っていたと話していたことを思い出した。まさか精神を患っていたとは思わなかったが。

 

「精神病院だと普通の病院より厄介かもねー。悪いものめっちゃ溜まりやすいし」

 

「でも病院ってどこも呪霊が出やすくない?」

 

「精神系は特にだよ。一回入ったら中々出られないうえに人の出入りも限られるから風通しが悪い」

 

「つまり、呪霊の温床になるには打ってつけという訳ですか」

 

目の前にある鉄製の扉に手をかける。ぐっと体重をかけて開いた瞬間、視界が歪んだ。

引きずり込まれるように三人全員が扉の向こうに吸い込まれ、重い音を立てて扉が閉まった。

振り返ると存在感を放っていた鉄扉が忽然と消えている。やられた、と七海は舌打ちをする。

 

「七海」

 

灰原の声に顔を上げる。

目の前の景色が明らかに先ほどの病院内と様変わりしていた。階段が縦横無尽に折り重なり、壁や天井から牢獄のような鉄柵の病室が顔を出している。トリックアートのような光景に眩暈がした。

 

「生得領域か…」

 

この時点で撤退という選択肢はほぼ消えた。空間の大元になっている存在を叩かなければ、外に出ることも生存者を連れ帰ることもままならない。

 

「うーわ迷路みたい。こりゃ二級でも一人で調査なんて行ったら帰れないわ」

 

「言ってる場合ですか。気配はまだ奥にある。とにかくはぐれないように全員で…」

 

言いかけた言葉を遮る鈍い音。唐突に貴透の立っていた床が消失した。彼女に手を伸ばす灰原がスローモーションに見える。指先は虚しく空を切り、声を上げる間もなく貴透の身体は奈落の底へ吸い込まれていった。

あまりに突然の出来事に呆然とする七海と灰原だけがその場に残された。

 

 

 

少女はただ外に出たいだけだった。

昔から変なものが見えていて、それが怖くて両親に打ち明けたら即病院送りにされた。

 

入院生活は地獄だった。

叫びながら廊下を闊歩する老人、人を見るや否や殴りかかってくる女、ずっと壁に話しかけていると思ったら頭を打ち付け出す男。四六時中が聞くに耐えない奇声の嵐。しかもここは家や学校よりも変なものが多く住み着き、彼女の精神を蝕んだ。

何度も両親に手紙を書いた。どこも悪くない、もう変なものが見えるなんて言わない、ずっと良い子にする。だから迎えに来て。

 

その願いが叶えられることは終ぞ無かったけれど。

 

もはや自分が正常なのか狂っているのか分からない檻の中で数年が過ぎた頃、何度も病院に出戻りしている男に声をかけられた。異常な収集癖の持ち主で、院内チェックを掻い潜って変なものを持ち込んでは看護師に取り上げられていた。

 

「とっておきだよ。多分僕には使えないからあげる」

 

古ぼけた長細い桐の箱。何か、とてつもなく怖いものが入っていることが分かった。そして、とても強い力が宿っていることも。

怖い。けれども好奇心と何かが変わるかもしれないという淡い期待から少女は箱を開けた。中にあったのは赤茶けた枝のようなもの。五つに分かれた末端は人の手を思わせた。

それに彼女は一つだけ願った。この地獄から出るためのカギがほしい。

パキリ、と何かが折れる音がした。

 

少女はカギを探している。外の世界とこちらを分断するあの分厚い鉄扉のカギ。桐の箱から与えられた力で大きな『目』を手に入れ、ひたすらに探した。看護士も、リネン業者も、病院に入ってきた知らない若い男たちも、変な黒い格好の人も、持っていたカギはあの扉のじゃない。

今日やってきたあの子の持つものはどうだろうか。

 

 

 

「おあー…、シャレにならんくらい痛い」

 

貴透は強かに打ち付けた尻をさすりながら暗い廊下を進む。まさか問答無用で分断されるとは思っていなかった。壁に身体を擦り付けて何とか落下スピードを殺したが、おかげで手の皮が剝がれてしまった。

二つあった気配のうち一つはこの先から感じる。廊下の奥に佇む白い影に気が付き足を止めた。15歳くらいの女の子だ。細長い木製の箱を抱きかかえ、黒く濁った目がこちらを見ている。

 

「カギ、持ってるでしょう?」

 

入院着の少女の問いかけに貴透は首をかしげる。ポケットに手を突っ込んで探ると指先に固い感触があった。引っ張り出してみるとそれは菓子のおまけでついていたプラスチックのおもちゃのカギだ。

 

「カギ、ちょうだい。出たいの」

 

「これはここのカギじゃない。ていうかどこにもカギなんてかかってなかったよ。出たければ出ればいいじゃん」

 

「ちがう、出られないの。カギがないと。みんな持ってなかったの。だから仕方なかったの。カギ、カギが必要なの」

 

「いやいや、あの殺し方は仕方なくないでしょ」

 

ここに来るまでに行方不明の被害者たちと連絡が絶えていた呪術師の遺体は見つけていた。普通の人が見たら余りに凄惨さに卒倒していただろう。アリの巣に水を流し込むような、トカゲの尻尾を弄ぶような子供の無邪気な悪意が透けて見える残酷さ。

 

「もう目的と手段が入れ替わっちゃってるんでしょ?生得領域が迷路もどきなのもカギを探すためじゃなくて、殺すためにカギを持ってる人間を招くため。千切ったり、潰したり、剝いだりするのが楽しくてしょうがないんでしょ」

 

「…ちがう」

 

「違くない。ダメだよあんな殺し方しちゃ。命は大事なものなんだから、生かすなら後腐れなく、殺すなら苦しませず一思いに。あんなことに夢中になってたらそりゃ出口なんて見つかるはずないって」

 

「ちがう!!」

 

少女の激昂に応えるように桐の箱から呪力が吹きあがった。天井から無数の眼球と腕を持つ猿のような呪霊が這い出す。

 

「呪物に魅入られてるけど、まだ君が人間で良かったよ。転化されてたら私じゃどうしようもない」

 

ナイフを引き抜き、地面を蹴る。呪霊の腕が伸びるより先に貴透の腕が少女の頭を掴んだ。

 

「人間なら簡単に殺せる」

 

銀色の刃が閃く。真一文字に裂かれた少女の喉から鮮血が噴き出した。

 

 

 

七海と灰原は大きな気配の一つであろう呪霊との戦闘の真っただ中だった。無数の眼球と腕を持つ猿に似たそれには死角がないのか、どれだけ攻撃を打ち込んでも致命傷に届かない。耐久戦に持ち込まれたら明らかに不利なのはこちらだ。

貴透の行方も分かっていない。仮にもう一体の呪霊と鉢合わせしていたら彼女の生存は絶望的だ。

灰原の攻撃が弾かれ、反動で壁に叩きつけられた。追撃の無数の腕が振り上げられる。術式で切断するのが間に合わない。

 

「灰原!」

 

身体を砕くために振り下ろされた腕は彼に届くことはなかった。呪霊が耳障りな声を上げながら崩壊していく。何が起こったのか分からず、とりあえず灰原を助け起こす。脚を骨折しているが幸いにも出血は酷くない。応急処置をしていると再び視界が揺らいだ。生得領域が消えたのだ。

薄暗い室内でどうすべきか考えあぐねていると遠くからプヒューっと間抜けな音が聞こえた。ハッとした表情で灰原がポケットからフエラムネを取り出す。思い切り吹きならすと耳をつんざく程の高音が鳴り響いた。耳を塞ぎ損ねた七海の頭の中で音がぐわんぐわんと反響している。

ほどなくしてワイシャツ姿の貴透が階段の向こうからひょっこりと顔を出した。

 

「良かったー思ったより近くにいた。お、ボロボロじゃん。大丈夫?」

 

「あんまりだいじょばない…、上着どこやったの」

 

「汚れたから置いてきた。なんか七海の方が重傷っぽいね」

 

「……灰原、せめて一言言ってからにしてください」

 

「あ、ごめん」

 

 

貴透の案内で被害者たちの亡骸があったであろう部屋へ向かったが、死体は残っていなかった。領域の消滅と共に消えてしまったのだろうか。

灰原に肩を貸し、外へ出るとちょうど帳が上がった。

 

「で、あなたは何を持ってるんです」

 

「ん?ああこれね。多分さっきの領域の核になってたものだと思う」

 

古ぼけた長細い桐の箱。長さ20cmほどのそれには既に簡易的な封印が施されているが、それでも気味の悪い気配が漏れだしている。あの呪霊が引き寄せられたのも納得だ。

 

「うわぁ、それ一級あたりの呪物じゃない?」

 

「持って帰ったら厳重封印のうえお蔵入りだろうね」

 

「…そんなものがあってよく生きて帰れたものです」

 

「生還祝いにおまけとラムネを七海に」

 

「いらないって言ってるでしょう」

 

結局おもちゃのカギと穴あきのラムネを押し付けられた。怪我をしているくせに元気な二人は揃って素っ頓狂な音を奏でている。まだ反響している耳を守るために、七海は口に含んだラムネをそのまま噛み砕いた。

 

 

 

「聞くのも野暮ですけど、あんなもん何に使うんです?」

 

深夜の医務室。会話が外に漏れないように簡易結界が張られているそこで貴透は星川に問いかけた。

灰原と七海は家入の反転術式によって回復し、既に自室に戻っている。施術中に爆睡をかました貴透はそのまま置いてけぼりを食らったのだ。

 

「ただ視えるだけの一般人をでかい呪霊と生得領域を従えるまでに押し上げる呪物ってけっこうヤバい案件じゃないんですか」

 

「お上からの依頼だからね。なによりあの耄碌どもに取り入るにはこういった物を献上するのが手っ取り早いんだ」

 

「いやいや、そのせいで私の同期死にかけたんですけど。どうせ先輩方に別の任務回したのも星川さんでしょ」

 

「まさか。ただの補助監督の私にそこまでの権限はないよ」

 

星川は微笑みを返す。この胡散臭い表情の時は決まって嘘だ。

 

「一応心配してるんですよ。星川さんには感謝してるし」

 

「なら余計な口は挟まないでくれ。『私は君が生きられる環境を提供する代わりに、君は私の手足になる。』それが私たちの縛りなんだから」

 

「はーい。ま、私はちゃんと高校生活が送れればそれでいいです」

 

ポケットから二個だけになったラムネを取り出す。一つを口に放り込んで残った最後を星川に差し出した。それを受け取ることなく彼は部屋を出て行き、一人部屋に残された貴透は二度寝のために布団をかぶり直した。

 

 

 



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【5】わたパチ

わたパチは現在生産終了らしいです、悲しい。
ちょっとよろしくない表現が出てきます。20歳未満の方は「タ」買っちゃダメです。


夏油と五条が高専に戻ってきたのは夕方だった。お盆が近づくと呪霊の数が一気に増える。茹だるような湿気の中、任務を複数件こなしてようやく帰ってこれた。制服の中にじっとりした空気が籠っていて気持ちが悪い。さっさと報告を終えてシャワーを浴びたいのが本音だった。

五条がダラダラと報告書を仕上げているのを眺めながらポケットから柑橘類がプリントされた紺色の箱を取り出す。夏油の術式において、呪霊を取り込むにはどうしても降伏した後に一度経口摂取する必要があった。人間の負の感情の塊が美味しいはずもなく、実際に消化しているわけではないのに胃がもたれている気がする。口直しの菓子を携帯するようになったのはここ最近だ。

 

「傑、それ気に入ってんの?」

 

五条の一言に菓子を口に運ぼうとしていた手をつい止めてしまった。横から伸びてきた長い指がオブラートに包まれたオレンジ色の直方体を掠め取っていく。止める暇もなくソフトキャンディーは五条の口に放り込まれた。

 

「うえっ、何だこれ変なもんくっついてるしネチャネチャしてる」

 

「…悟」

 

「最近任務後にしょっちゅう食ってるからもっと美味いのかと思った。傑って案外バカ舌だったりすんの?」

 

「ははは、お坊っちゃまの悟きゅんにはちょっと早かったかな」

 

「あ?こんなんジジババの食いもんだろ」

 

「よし、外に出ようか」

 

よろしい、ならば戦争だ。

一触即発の二人の睨み合いは夜蛾に落とされた拳骨によって終結した。

 

 

 

夏油がボンタンアメをポケットに忍ばせるきっかけになったのはあのよく分からない後輩である。興味本位で会話を試みたものの結局謎が深まったうえに夏油の使役する呪霊に吐瀉(としゃ)られた。ゲロ雑巾の味なんて思ってはいたがが本当にゲロまみれにされるのは予想外だった。

 

後日お詫びの言葉と共に机に置かれていた菓子の処理には困った。五条ではないが夏油もそのときはボンタンアメなんて祖父母の家の菓子盆にのっているイメージしかなかった。けれど、せっかく貰ったものをそのまま捨てるのも心苦しい。菓子に罪はないのだ。どうするか迷ったままとりあえずポケットに突っ込んでおいた。

 

その後に相手をした呪霊がこれまた最悪だった。雑魚の数が多いうえにすばしっこく厭らしいタイミングで邪魔をしてくる。本体に辿り着くまでに相当な時間を要した。くたくたの状態で口にした呪霊の味は思い出したくもない。とにかく何か別のものを口に入れたかった。

そういえば、とポケットから小箱を引っ張り出して半分縋るような気持ちで口にする。最初はオブラートに阻まれて味がしなかったが、歯を立てると爽やかな柑橘類の香りと控えめな甘味が口内に広がった。

なんだ、意外と悪くない。

欠点といえば食べた後に喉が渇くことくらいだろうか。大体どこのスーパーでも手軽に手に入り、値段も高くはない。なにより溶ける心配がなくポケットに突っ込んでおけることがポイントが高かった。

 

余談だが、一度オブラートを剥がして食べてみたところを例の後輩に目撃され、「先輩、それはないです。その食べ方は肉まんの中身だけ食べて皮捨ててるのと同義ですよ」とドン引きした顔で言われた。そこまで言うか。

 

 

 

夜蛾に作られたたんこぶを擦りながら寮への道を歩く。報告を終える頃にはすっかり日が暮れていた。しかし湿気がマシになっているなんてことはなく、アスファルトから立ち上る熱気でより不快な蒸し暑さが増している。

 

「なーんで傑が急にアレに興味持ったのか分っかんねぇ」

 

「確かにあの子は女子らしさの欠片もないけど『アレ』呼ばわりは流石に良くないだろう」

 

「アレはアレとしか形容できないんだよ」

 

五条は一年生が入ってきた当初から貴透由衣と距離を置いていた。

多くの呪術師にとって貴透は一言で言うなら『普通』だろう。大して呪力の量が多いわけでもなく、操作が精密というわけでもない。特筆する部分のない凡庸な術師の一人。しかし、五条の特殊な目にはその異常性が見えていた。

歪なのだ。呪力は術師本人が発する感情をもとに身体を巡っている。だが、貴透はなぜか身体と呪力が『合っていない』。例えるならキメラだ。別の生き物に別のパーツを取って付けたような気味の悪いチグハグさ。見た目も中身もただの人間であることがそんな不気味な異質さをより際立たせていた。

『人間』とも『呪霊』ともつかない存在。だから暫定的に「アレ」と呼んでいる。

 

そんな会話をしていると寮が見えてきたが、出入り口に人影が見える。一人は二人もよく知る愛煙家の同級生。もう一人は先ほどまで話題にしていた「アレ」だった。二人ともラフな私服姿で、貴透は大きめのビニール袋を提げている。何やらやり取りしながら手のひらサイズの箱を手渡している。

こちらに気が付いた家入に夏油は片手を上げる。つられて振り返る貴透を見て五条は分かりやすく眉根を寄せた。

 

「ずいぶんと珍しい組み合わせだね。何か悪巧み中?」

 

「…どうします姉御、見られちゃいましたけど」

 

「よし、買収しろ。まだいっぱいあんだろ」

 

「えっこれ私の分…」

 

「どうせそんなに持ってっても見つかったらまた七海にどやされるじゃん。今のうちに減らしとけ」

 

ささやかな主張を横暴な先輩にバッサリと切り捨てられ貴透は悲しげに肩を落とした。五条と夏油をじっとりと睨む彼女の視線には「余計なことしやがって」という怨念が込められている。家入は顎をしゃくって早くしろと言わんばかりだ。状況がよく分かっていない二人の前に貴透が不本意そうにビニール袋を広げた。中には色とりどりの駄菓子がこれでもかと詰まっている。

 

「……好きなのをお取りになってクダサイ」

 

「えーと、硝子…?」

 

「口止め料だよ。こいつにお使い行かせてたってバレたら七海(ママ)がうるさい」

 

怪しく笑う硝子の手にはライムグリーンのパッケージが握られている。ネイティブアメリカンのイラストが描かれたそれは明らかに未成年が買うには早い代物だ。夏油は頭を抱えた。普段自分たちをクズと呼んでいる割に彼女もそういうところがある。

 

「後輩に買いに行かせるのは流石にアウトだろ」

 

「コンビニだと面倒だからね。顔見知り相手なら地元の駄菓子屋の方がゆるいんだよ」

 

「いやそういうことじゃなくて。というか貴透もほいほい買いに行くんじゃない」

 

「だって家入先輩が二千円までなら好きに買っていいって」

 

「……」

 

絶句だった。悪巧みどころの話じゃない。発想が完全に酒を子供に買いに行かせる良くない親のそれだ。

唖然とする夏油をよそに五条は仏頂面のままじっと貴透を観察していた。

やはりどう見てもただの人間にしか見えない。五条からすれば雑魚同然である。だが、彼の六眼がこれはどう見ても人間にしては歪みすぎていると訴えてくる。この何とも言葉にしがたい違和感を理解できる人は自分以外に誰もいないだろう。

 

「なんなの、お前」

 

ポツリと呟かれた一言はその声量に反して明確な疑心と鋭さを持っていた。攻撃的な声色に夏油と家入は目を丸くして五条を見る。普段から人を食ったような態度を崩さない彼がこんな風に警戒心を剥き出しにしているのを初めて見たかもしれない。

真剣な空気に反して、グラサン白髪の男が頭一つ以上の体格差がある女子に対してすごんでいる様子は傍から見るとカツアゲにしか見えずとてもシュールだ。

当の貴透はというと取られる前に食べてしまおうと紫色のビニールを開封している途中だった。ずっと静かだった五条が急に喋り始めたのをお菓子強奪の合図と勘違いしたのか、一口大にちぎった薄紫の綿菓子を素早く口に入れる。

 

「何といわれましても、先輩のパシリになっている哀れな後輩ですけど」

 

喋る貴透の口からパチパチと軽快な音が漏れる。

 

「よく分かんないですけどイライラしてるときは甘いものをどうぞ」

 

「そんな得体の知れない物いらねぇ」

 

「え、わたパチをご存知でない…?」

 

信じられないものを見る目で五条を見上げる。駄菓子が人生の一部どころか半分以上を占める貴透にとっては青天の霹靂である。

五条は呪術界の名家である御三家出身だ。当然一般人とは感覚がずれているし、駄菓子という概念にも触れずに育ってきた。家にダッシュで帰り、玄関にランドセルをぶん投げて友達と駄菓子屋に直行するという小学校時代のありふれた思い出もない。なんならボンタンアメもさっき初めて食べた。

 

「こいつお坊ちゃんだからパンピーの菓子なんて食ったことないだろ」

 

「それは…、人生の大半を損しているのでは?」

 

「大げさすぎじゃない?」

 

「いやいや、駄菓子は子供のオアシスでありコミュニケーションツールなんすよ。人生を生きる上での必須科目です」

 

「あんた駄菓子の事になると早口になるよね。そういうとこちょっとキショいわ」

 

家入のサラッとした罵倒など意に介さず、貴透は残りのわたパチを半分にちぎり、大きいほうを五条に差し出した。

 

「どうぞ」

 

「いらねぇって言ってんじゃん」

 

「なんでですか食べてくださいよ。私のことは嫌いでも駄菓子の事は嫌わないでくださいよ」

 

「ホントになんなのお前…」

 

あまりに鬼気迫る貴透に五条は引き気味だ。今まで避けていたせいで直接的な交流がほぼなかったため、彼女の意図が掴めない。先ほどまでの剣呑な雰囲気はどこへやら、なぜか会話の主導権は貴透に握られている。よく分からない空気に押し負け、五条は半分やけくそな気持ちで薄紫の綿菓子を口に突っ込んだ。夏油は「あっ」という顔をしたがすぐに諦めた表情になる。

 

「食ったぞ。これで満足…」

 

言葉が途切れる。

口に入れた綿菓子はすぐに溶けて小さな飴の塊になった。それだけなら普通の綿菓子と変わらない。しかし、五条はわたパチを一気に食べると何が起こるのか知らなかった。

 

塊になった飴はしゅわしゅわと泡をたて始め、そして五条の口の中で盛大に弾けた。

 

「っ!?ぅゲッホ!ゴハッゲホ!!」

 

咥内で爆発が起きたかのようだった。飴はパチパチを通り越してバチバチと音を立てながら舌の上を跳ねまわっている。頬の内側や口蓋に弾けた飴の先端が容赦なくぶち当たってきてかなり痛い。

サングラスを落とす勢いで噎せている五条を指さして家入は大爆笑だ。こうなることを大体予想していた夏油も笑いながら珍しくダメージを受けている相方を携帯で撮影している。

 

「すいません、先輩。最初に食べ方を教えるべきでした」

 

「おっまえ゛、マジ、げほっ、殺す…」

 

神妙な顔をする貴透がさらにツボだったのか、家入は身体を震わせながら声もなく地面に沈んだ。

 

 

 

「っあ゛ー。クソ」

 

五条は部屋で水を飲み干してようやく落ち着いた。まだ口の中がヒリヒリする。

あの後、笑いすぎて呼吸困難になった家入を引きずり貴透は女子寮に帰っていった。去り際に五条と夏油に未開封のわたパチを押し付けることを忘れなかったのがさらにムカつく。あんな目に遭った後に食べる気にもなれず夏油に押し付けようとしたが「せっかく食べ方教わったんだから食べなよ」と明らかに面白がっている顔で拒否られた。

結局貴透の異常性が何に由来するのか分からないままである。だが、術式を展開してダメージから立ち直った五条が腹いせに落とした拳骨は普通に痛がっていた。「後輩虐待!サイテー!」と涙目で叫ぶ彼女はどこから見ても平凡な女子だった。

 

「ま、いいか」

 

面倒になって考えることを放棄する。万が一アレがこちらに牙をむくようなら自分と夏油で殺せばいい。なんなら自分一人でも十分だ。あの凡庸な術師に負ける要素など一ミリもないのだから。

 

 

 

呪詛師の死体が転がる廃墟の一室で貴透はあの最強なグラサン先輩に関して悩んでいた。

確かに向けられた猜疑心。あの場はなんとかはぐらかしたが、次も上手くいくとは限らない。

自分がこうして裏で殺し回っていることまでは勘付かれていないだろう。しかし下手に探られて平穏な高校生活が脅かされるのは困る。かと言って貴透に五条が殺せるかといえば否だ。あらゆる物理攻撃を弾くあの術式を相手に貴透が敵うはずもない。それに御三家出身の有名人を殺してしまったら簡単に足が付いてしまう。

彼女はまだ七海と灰原のいる日常を手放したくはない。

 

「どーしたもんかなぁ」

 

星川に相談すべきか悩んでいるとちょうど携帯が震えた。

 

「貴透でーす。あ、ちょうど良かった。相談したいことがあってですね…、え?」

 

電話越しに聞こえた言葉に貴透は首をかしげる。

 

「盤星教?なんすかそれ」

 

 



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【番外編】31アイスクリーム

精一杯頭をアホにした結果がこちらです。


気温が30℃を越える真夏の都心は控えめに言って地獄だ。コンクリートの照り返しと逃げ場のない熱気で蒸し焼きにされている感覚になる。

 

呪術高専二年生は三人での任務が終わり、帰りに31アイスクリームが食べたいと駄々をこねる五条に付き合って街にくり出していた。

この気温では上着を着ると暑いどころか倒れる危険性があるため全員ワイシャツ腕まくりもしくは半袖Tシャツだ。

 

暑い死ぬ無理と交互に口にしながら歩いていると、見覚えのある背の高い金髪が見えた。一年生の七海だ。話している相手はオシャレなOLだ。白のカットソーにベージュのフレアスカートが大人っぽい可愛さを演出している。緩く巻かれたセミロングとワンポイントのピンクリップが愛らしい。

 

一番行動が早かったのは五条だった。携帯の連写機能でその光景を納める。家入もすぐさま貴透の番号をプッシュして呼び出す。夏油はというと五条にならって動画機能で仲睦まじそうに会話する二人を記録しておいた。思春期真っ最中の高校生がこの手の話題を嫌うわけがない。文明の利器に感謝である。

 

「あれ、なんだ先輩近くにいるんじゃん」

 

振り返るとパピコを咥えた貴透と灰原が手を振っていた。携帯の通話を切りポケットに突っ込む貴透のもう片方の手には七海の分であろうアイスが提げられている。

 

「ちょうど良かった。七海見てません?アイス買ったのに戻ってこないんですよ」

 

「あれ」

 

五条が指差す先を見て二人が目を見開く。一瞬のうちにアイコンタクトをして頷き合う。

 

「行こう灰原。フォーメーションNで」

 

「了解!」

 

「先輩ちょっとこれ持ってて」

 

夏油にアイスを押し付けて二人は七海目掛けて走っていく。これは後で確実にお説教コースだろう。五条も家入も分かってて焚き付けたのだが。

こっちまで巻き込まれては敵わないが、面白いもの見たさゆえにこの場を離れるわけにはいかない。とりあえず日陰に入って成り行きを見守ることにした。

 

七海と女性の近くまでいくと二人は立ち止まった。

 

「キャー!あれって七海くんじゃない!?」

 

「ホントだー!噂以上のイケメン!」

 

「カッコいいー!ナナミンこっち向いてー!!」

 

「素敵ー!抱いてー!」

 

唐突に黄色い声を上げてテンションを爆発させる二人。灰原にいたっては無理やり裏声を出して貴透に合わせている。

あ、そういう感じ?七海に特攻をかけて「誰よその泥棒猫」的な展開を予想していた夏油は笑うタイミングを逃した。隣の五条と家入は盛大に吹き出した後に爆笑している。

 

「パツキンさらさらヘアーが素敵ー!」

 

「身長高ーい!股下5mありそう!」

 

「彫りが深くて素敵ー!」

 

「クウォーターは伊達じゃなーい!やっぱ彼ピにするなら七海くんだよねー!」

 

「七三が素敵ー!」

 

「ちょっと老け顔ー!」

 

だんだん褒めてるのか貶してるのか分からない単語が混じってきているのがシュールすぎる。灰原は語彙が足りないのか先ほどから似たような言葉を繰り返している。ひきつり笑いから復活しかけていた五条がまた沈んだ。七海は振り返らないが背中からは明確な殺気が立ち上っている。

 

歓声という名のヤジを飛ばしてる二人を見て「なんか見覚えあると思ったけどあれだわ。ボディービル大会の応援」と家入が呟いたのを聞いて夏油もついに吹き出した。

 

七海は会話が終わったのか女性に軽く会釈する。女性も何度も七海に頭を下げながら去っていった。

振り返った七海の顔はまさに般若の形相だった。

貴透はすぐさま回れ右をして灰原の背中に飛び乗る。

 

「走れ灰原!追いつかれたらなますにされる!」

 

「うわ七海そんなに足早かったっけ」

 

「おい待てそこのバカ二人」

 

炎天下で始まった鬼ごっこを眺めながら面白いものを見せてくれた後輩たちに31を奢るべく、家入はメニューを調べだした。

 

 

頭に立派なたんこぶを作った灰原と貴透は涙目でアイスを食べている。七海はまだ怒りが収まらないのか眉間のしわをいつもの二倍深くしながらレモンシャーベットを口に運んでいる。

夏油はずっと気になっていたことを尋ねた。

 

「そういえばフォーメーションNって何のN?」

 

「『七海君すきすき大好きコール』のN」

 

ドリンクを飲んでいた五条が吹き出し、七海の拳骨が再び貴透の頭に落っこちた。

 



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【6】ミルクキャラメル

 

呪術師は「呪いを祓い人々を守護する」ことを大義として掲げ、活動している。だからこそ、庇護すべき非術師に対して術式を使い害を成すことは禁忌とされ、禁を破るものは呪詛師と認定される。

だが、それはあくまで守られる対象が善良であることで成立する。

 

非術師でありながら呪詛師に手を貸し悪事に手を染める人間は少なからず存在した。

 

守るべき存在が敵側に回ったとき、呪術師はどうしても対応が後手後手にならざるを得ない。時には非術師の存在が致命的な被害を招くこともあった。一番簡単なのは非術師を排除してしまうことだが、掲げる理念を表面上でも守らなければ呪術師の存在意義は揺らぐ。

そのジレンマの解決策を上層部に提示したのが星川だった。

 

曰く、『汚れ役』を用意すればいいと。

表向きには呪術師として活動し、秘密裏に呪詛師とそれに関わる非術師を始末するいつでも切り捨てることができる駒を用意すればいい。つまりは対呪詛師用に上層部公認の呪詛師を飼うということ。

 

「あなた方はただ黙認すれば良いだけです。全ての根回しはこちらで引き受けましょう」

 

協議の結果、上層部は星川の提案を受け入れた。

もしこのことが露呈すれば上層部だけでなく呪術師界そのものが揺らぎかねない。だが、その時は星川ごと切り捨ててしまえばいい。隠蔽など造作もない。

すべては呪術師界の安寧のために。

 

 

「…とか考えてんだろうな」

 

「何か言いました?」

 

「なにも」

 

星川は眉間に寄りかけたシワをすぐに引っ込めていつも通りに笑う。

腐ったミカンどもの思考は大体分かっているが、今はこのままでいい。

せいぜいこちらをトカゲの尻尾と侮っていろ。いつか寝首を掻かれるその時まで、尻尾が頭にすげ変わろうなどと考えるはずがないと椅子の上で胡坐をかいていればいい。

 

「星川さんも食べます?」

 

後部座席からオレンジ色の箱が差し出されるが無視する。何も答えない星川をつまらなそうに見てから貴透はミルクキャラメルを口に放り込んだ。

 

 

 

都内某所。盤星教本部である「星の子の家」に貴透と星川は訪れていた。

仰々しい門構えの施設は広大な敷地面積を誇り、いくつもの建物が併設されている。天を衝く一番大きな白亜の建造物はこの宗教の総本山だ。

 

車から降りた貴透はぐっと伸びをする。ずっと座ってたせいで凝ってしまった肩をほぐすために両腕を大きく回す。

 

「マジでやるんですか?いくら天元様を信仰してるって言っても信者って非術師でしょ。殺したらさすがに高専側にも気付かれる、ていうか呪術師のなんちゃら規定に引っ掛かりません?足付かないように頑張って呪詛師だけ殺してきたのに」

 

「別に高専に気付かれようが関係ないよ。園田茂の殺害は上からの秘匿任務だからね。ちょっとくらいやりすぎても隠蔽のしようはある。耄碌爺どもは臆病ではあるが馬鹿じゃない。自分たちの保身さえできれば追及してこないさ」

 

「じゃあその園田さんだけ殺せば良くない?」

 

「いや、『盤星教の解体』がそもそもの任務内容だ。今まで非術師側だったゆえに存在を黙認していたけれど、星奬体の暗殺にまで直接関わるようになったから上も鬱陶しくなったんだろう。代表役員と中心幹部が一気に消えれば盤星教も立ち行かなくなる」

 

「えぇ~、汚れ仕事じゃないですか~」

 

「散々公式の任務外で呪詛師を殺して回っているんだから今更だよ。それに、試したいこともある」

 

そう言って星川が取り出したのは古ぼけた桐の箱。いくつも札が張られ厳重に封印が施されている呪物に貴透は見覚えがあった。以前、生得領域と化した精神病院で見つけた一級呪物だ。

星川が札を剥がす。箱の中には先端が五つに割れた枯れ枝のようなものが収まっていた。人間の指を思わせる分かれた先端の一つは折れている。背筋に虫が這うような気配をまき散らすそれに貴透は吐きそうな顔になる。

 

「ヤなもん持ってこないでくださいよ」

 

「必要なものだよ。帳を降ろすのにこれの力を借りる」

 

帳は一般人の目から怪異を秘匿するためのものだ。しかし、条件を付ければ秘匿以外にも特定の効果を付与することができる。例えば、指定した人物だけを結界から弾いたり、逆に結界の中から誰も出さないようにすることも可能となる。

 

星川は呪物の力を以てして帳にさらに条件を付け加えると話す。

呪物のブーストによって結界内を疑似的な領域として組み換え、指定した人間に絶対的優位を付与するのだという。

一般人に生得領域を獲得させるほどの力を持っているからこそ可能になる裏技だ。万が一園田が強力な呪詛師と結託していた場合、さすがに貴透一人では手に負えなくなる可能性を考えての秘策。お上に袖の下と回収した呪詛師の死体を送り続けた甲斐があった。

 

「君以外が全員死ぬまでは出られないようにしておくから安心して殺しておいで」

 

「気が進まなーい」

 

「まさかこの期に及んで非術師を殺すのに抵抗があるのかい?」

 

「いや全然。ただあんまりいっぱい殺しすぎるのももったいないなーって」

 

「今まで体調が悪くなるたびにちまちま殺してばかりだっただろう。一気に大勢を殺すことで君の体質が改善するかもしれないよ」

 

「そっか、それもそうだ」

 

あっさり納得して貴透は敷地に足を踏み入れる。その背中を見送って、星川は掌印を結んだ。

 

「『闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え』。さて…」

 

後は高みの見物。あの人殺しだけが取り柄のシリアルキラーが果たしてどこまでやれるか。

 

 

 

園田茂は顔を上げた。窓の外が異様に暗い。

一般の信者たちは何事かとざわついているが園田には何が起こっているのか理解できた。何者かが帳を降ろしたのだ。

 

騒々しい広間を出てすぐさま建物奥の非常用通路へと向かう。

どういうことだ。星奬体の護衛を任されている術師は今頃沖縄にいるはず。高専が嗅ぎつけたにしては対応が早すぎる。なにより、自分たちは今まで非術師側に徹してきた。例え特級の術師であろうとこちらに軽々に手を出すことはできないはず。

 

遠くで悲鳴が聞こえた。額を冷や汗が伝う。

薄暗い通路をしばらく進んで気が付いた。なぜか前に進めていない。非常用通路は一本道で外につながる扉が奥にあるだけだ。なのにいつまで経っても出口が見えてこない。

 

悲鳴は連鎖しながらこちらに近付いてきている。必死になって足を動かすがやはり風景は変わらない。まるで空間が歪んだように園田を捕らえている。

やがて、息が上がり立ち止まったのと同時に悲鳴が止んだ。

 

「オジサンなのに逃げ足早いじゃん」

 

この場に似つかわしくない軽い口調とわずかに香る甘い匂い。振り返った先には黒い制服の少女がいた。渦巻きの校章は明らかに呪術高専のものだ。返り血でべっとりと濡れた顔は表情が読めない。

 

「貴様、高専の術師だろう。非術師相手に術式を使ってただで済むと思っているのか」

 

「知らなーい。大丈夫なんじゃない?上の人公認って言ってたし」

 

「なに……?」

 

「それに使おうが使うまいが関係ないよ。誰も生きて出られないし、生きてる人がいなければ何もなかったのと変わらない」

 

いつの間にか少女は眼前にいた。どうやって距離を詰められたか理解できない。逃げようと動いた足がもつれる。自分の身体が倒れる前に、血まみれのナイフが喉笛を抉った。

 

 

 

「よし、終わったー」

 

帳が上がった空を見上げて大きく息を吐いた。正直めちゃくちゃに疲れた。殺した人数は20人を超えたあたりで数えるのを辞めた。

 

貴透は殺しに罪悪感を持たないが、快感を感じるタチでもない。

人の頸動脈を切るのはかなり力がいる。それでも彼女が殺すときに首を狙うのは一番苦しませにくいからだ。中学時代の理科の先生が授業の一環で見せてくれたと畜場の映像でも最初に切るのは首だった。命をいただくのだからせめて苦しませないように、というのが信条だ。

 

ナイフについた血を制服で適当に拭いつつ星川が待つ場所へ向かう。あちこちに返り血を浴びたせいで気持ち悪い。シャワーを浴びたいところだが、とりあえず車の中で着替えさせてもらおう。

 

「あっ」

 

あることに気が付いて慌ててポケットを探る。入れっぱなしだったミルクキャラメルはスカートに染み込んだ血液でべちょべちょになっていた。

頭の中で予定を組みなおす。着替えたらまずは新しいのを買いに行かなくては。

 

 

 

「伏黒、依頼はナシだ」

 

「あ?」

 

孔時雨からの電話に伏黒甚爾は耳を疑った。

 

「なんでだよ、まだ星奬体は死んでねぇぞ」

 

「出資者がいなくなっちまったんだよ。どうしようもねぇだろ」

 

「いなくなった?」

 

「安心しろ。俺も何が何やらさっぱりだ」

 

そう、時雨にも何が起こっているのか分からなかった。

星奬体暗殺の依頼をしてきた盤星教の代表役員とは小まめに連絡が取れていたのに、今日唐突に音信が途絶えた。盤星教の一般回線にかけても繋がらない。まさか金を渋ってバックレられたかと思い本部の「星の子の家」に行けばそこはもぬけの殻だった。人がいた痕跡はあるのに中身だけが忽然と姿を消していた。

 

「オマエも聞いたことあるだろ。『呪詛師殺し』の都市伝説」

 

最近、界隈でまことしやかに囁かれている「呪詛師が姿を消す」という都市伝説。残穢と血の匂いだけを残し存在ごと抹消する何者か。それが呪術師なのか、呪詛師なのかは定かではない。なぜなら情報を持ち帰る生存者が一人としていないからだ。

 

「悪いが俺は手を引かせてもらう。報酬はパーになっちまったが命に比べりゃ安いだろ。オマエもさっさと引いたほうが身のためだぞ」

 

無情にも通話が切られた携帯のディスプレイを見下ろす。

禪院家から持ち出した呪具も侵入ルートの下調べも無駄になった。ついでに金も入ってこない。邪魔をしてきた何者かによって全てが吹き飛んでしまった。

物言わぬ黒い画面を伏黒は片手で握り潰した。

 



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【7】ミルクキャラメル 大箱

お気に入り登録、評価、感想ありがとうございます。励みになっております。

※かなり生々しい表現があるのでご注意ください。あと、パパ黒ファンの皆様ごめんなさい。


朝日がカーテンの間から差し込み、貴透は目を覚ました。

いつも通りの寮の自室。だが、決定的にいつもと違うことがあった。

 

「…ん?」

 

自分の目蓋はこんなに軽かっただろうか。

 

貴透は朝に弱い。普段は起床時間に爆音の目覚ましを複数セットしておかないと起きられず、起きれても30分以上はベッドの上で悶えながら眠気やだるさと戦うのが常だ。しかし、今日は目覚ましの5分前に自然と起きた。身体にのしかかるだるさもない。頭はすっきりと冴えていて、すぐに身体を動かせそうだ。

ここまで体調が良かったことは生まれて初めてかもしれない。

 

「マジで?」

 

すごい。鏖殺効果すっごい。いっそ呪術師ではなくガチの殺人鬼に転職してしまおうかとすら思える。いやまあ既に殺人鬼ではあるけども。

 

起き上がろうとすると下腹にどろりとした嫌な感触があった。女特有の憂鬱な感覚。それすら今は気にならなかった。

 

これがいつもの体調不良にかぶるとそれはもう悲惨だ。気絶したほうがマシに思える激痛には市販の鎮痛剤なんて効くはずもなく、内臓をミキサーで掻き回されているような痛みに歯ぎしりし、病院で処方された鎮静剤で無理やり眠ることの繰り返し。しかもそれを約一週間耐えなくてはならない。生き地獄もいいところである。

 

「今日は薬いらないかもなぁ…」

 

独り言をこぼしながら制服に着替えようとして手を止める。

 

こんなに体調が良いのに一人ぼっちの教室に行くなんて不毛ではなかろうか。任務が伸びたと連絡があった同期はおそらく昼過ぎにならないと沖縄から帰ってこない。

昨日、着替えた後に買い物に行こうとしたが、移動で車に揺られた瞬間に寝落ちし気が付いたら深夜だった。今は持て余しているキャラメルへの欲求を満たすべきではなかろうか。

 

決断は早かった。制服をクローゼットに戻し、ネイビーの半袖ワンピースに腕を通す。カバンに携帯と財布を突っ込みスキップで部屋を出た。

 

 

 

五条は脳髄をチリチリと炙られるような感覚を誤魔化すようにミルクキャラメルを口に突っ込んだ。

 

星奬体の護衛は今日が最終日だ。

つかの間の沖縄観光を終え、空港から高専の専用車に乗り込んだ。天内の懸賞金は既に取り下げられているとはいえ高専結界内に入るまでは油断できない。今までにない長時間の術式発動と睡眠なしでの移動に確実に疲労は蓄積していた。糖分を摂取して途切れそうになる集中力をなんとか持たせている。

 

口の中で喉に張り付くような甘味を転がしていると、隣から生温い視線を感じた。

鬱陶しいから目は合わせない。

 

「……なんだよ」

 

「いや、役に立ってるんだなって。貰っておいて良かったじゃないか」

 

「うるさい」

 

五条の右ポケットに収まっているオレンジ色の箱は貴透からの貰い物だ。

 

以前のわたパチ事件以来、貴透はたびたび二年の教室に現れては五条に菓子を押し付けていた。

本人曰く「布教活動」なのだとか。布教というより洗脳ではないかと思う。受け取らないと能面のような表情で「なんでですか」と連呼してくる。ハシビロコウを思わせる虚無な瞳はなかなか怖いのだ。

ちなみに、毎度同じ場に居合わせる同級生二人が助けてくれたことは一度もない。

 

星奬体の護衛任務が決まったときもふらりとやって来てキャラメルを五条と夏油に押し付けて帰っていった。

ポケットに入れっぱなしにしていた菓子が役立つとは思ってもいなかった。

 

「なんなら私の分もあげようか?」

 

「もうすぐ高専着くしいらねぇ」

 

夏油が差し出す未開封の箱を一瞥してまた車窓に視線を戻す。箱の中身はあと一つ。それが無くなるまでには終わるだろう。

 

終わるはず、だった。

 

筵山麓から参道を上り、高専の結界の中に辿り着く。長いようで短かった小旅行の終着点。

安堵の表情を浮かべる天内と少し複雑そうな黒井。夏油の労いの言葉とともに軽口をたたいて術式を解いた。

 

その刹那、五条の体を銀色の刃が貫いた。

 

 

 

数時間前。伏黒甚爾は「星の子の家」にいた。

もぬけの殻となった建物内には強烈な血の匂いが充満していた。天与呪縛により常人より遥かに優れた嗅覚を持つ伏黒は思わず顔をしかめる。残穢どころか血痕すら残っていないが、つい先日ここで虐殺が起きたのは間違いないだろう。

 

伏黒がわざわざこの場所に訪れたのは、他でもない『呪詛師殺し』の情報を集めるためだ。仕事の邪魔をされたこと以上に面倒だった諸々の下準備をおじゃんにされたことが我慢ならない。一方的にコケにされたままでいられるわけがなかった。

 

「マジでなんもねぇな」

 

人間がいた痕跡はある。しかし、起こったであろう虐殺の跡は気味が悪いほど神経質に消されていた。こんなに大掛かりなことを一個人だけで出来るとは考えにくい。呪詛師殺しが複数犯もしくは何らかの組織だとすると少々厄介だ。

 

建物の奥へ進むと、仰々しい飾りに隠されていた通路があった。一本道のそこは真っすぐに外へつながる扉へ通じている。ここだけ血の匂いが薄かった。だからこそ、普通の人間なら嗅ぎ分けられない僅かな残り香に伏黒だけが気が付いた。

甘い香り。

凄惨な場所に不釣り合いな香りには不思議な懐かしさがあったがどこで嗅いだものか思い出せない。だが、手掛かりは掴んだ。

伏黒は一人口の端を釣り上げた。

 

結論から言えば、それは手掛かりというにはあまりにも頼りなかった。

匂いは道路で完全に途切れており、周囲を捜索しても繋がるものが見つからない。どうしたものかと捜索の範囲を広げていると、一台の車が通りすぎていった。

スモークガラスのワンボックスは一見するとただの一般車両だが、『そちら側』の人間なら分かる専用ナンバーをくっ付けていた。要人警護用の呪術高専専用車。

それが通った瞬間、探していた香りが鼻をかすめて行った。

どうやら下準備は無駄ではなかったらしい。

 

 

 

普通ならまずは弱い奴を人質に取り、情報を引き出すのがセオリーだろう。が、そんな悠長なことは無下限術式相手にやっても返り討ちにあうだけだ。ならば削れている所をさっさと叩いてもう一人の術師に聞くのが手っ取り早い。

 

「っつーのもまあ建前なんだがな」

 

血だまりに沈んだ五条の頭を踏みつける。

金づると仕事を台無しにされた伏黒はそこそこ、かなり、イラついていた。そして、目の前には自分という存在を散々見下してきた呪術師という存在。

つまりは五条を殺したのは完全に八つ当たりだった。

 

後は逃げた術師と星奬体を追うだけだったが、伏黒はその場に留まっていた。というのも、戦闘中から気になっていた匂いが五条からするのだ。正確には彼の右ポケットから。

足で死体を転がして、血で汚れたポケットに手を突っ込む。

 

「あ?」

 

出てきたのはオレンジ色の小さな箱。それが記憶の隅をつついた。

思い出した。どこでこの匂いを嗅いだのか。

 

『甚爾くん、あーん』

 

もはや声色すら忘れてしまった、否、伏黒が意図的に忘れようとしていたもう二度と戻らない光景。

穏やかに微笑む彼女はそれを食べる時必ず伏黒に分け与えた。別に好きじゃないと答える彼に、二人で食べたほうが美味しいからと口の前に差し出した。

子供が生まれた時、今度は三人で分けないとねなんて言いながら腕の中の赤子をあやしていた。

 

太ももにナイフを突き立てて溢れそうになる記憶をせき止める。思い出すな。それは捨てると決めただろう。

 

完全にやる気が削がれてしまった。こんなものどこの売店でも売っているため、手掛かりですらない。なにより、これ以上記憶のかさぶたを剥がしたくない。

箱の底に残っていた最後の一個を遠くに放る。空になった箱を死体の上に落とし、伏黒は参道を下りた。

 

ぴくりと動いた五条の指先に気付かないまま。

 

 

 

伏黒は仏頂面のままこの後をどうするか思案する。

五条を殺して多少溜飲が下がったものの、呪詛師殺しの捜索は完全に手詰まりになってしまった。協力を仰ごうにも時雨はもうこの件には手を貸してくれないだろう。それにこれ以上金にもならない働きはしたくない。

 

腹の底に溜まった鬱憤を手近なゴミバケツにぶつけた。蹴り上げたバケツから吹っ飛んだ空き缶は宙を舞う。そして、手前の店から出てきた少女の頭にカコーンと良い音を立ててクリーンヒットした。

 

「いったぁ!?」

 

尻餅をついた衝撃で右手に提げていたビニール袋の中身が地面に転がる。

少女の非難がましい視線が伏黒に向けられる。一ミリも悪く思っていない口調で「悪ぃ、悪ぃ」と言いながら通りすぎようとした伏黒の足が止まった。

足元に転がっていたのはつい先ほども見たオレンジ色の箱。ため息をつきながら散らばった菓子を拾い集める彼女からは強烈な血の匂いがした。

 

一瞬、脳裏に『呪詛師殺し』の文字が浮かぶ。

いやいや、飛んできた空き缶を避けられもしない女がそんなわけ、と頭では否定するが彼女から発せられる匂いは気のせいではない。

気取られないように拳を固める。

 

「悪かったな、ホラよ」

 

少し凹んだ箱を拾い上げて差し出す。渋々といった表情でそれを受け取ろうと伸ばされた腕を掴んだ。少女は驚いて腕を引こうとしたがびくともしない。

 

「え、なに」

 

「その匂いはどこでつけてきた?」

 

「は?」

 

「血の匂い」

 

訳が分からないという顔をした彼女は数秒言われたことの意味を考えて沈黙する。

そして理解した瞬間、伏黒に対してゴミを見るような目付きになった。

 

その視線に伏黒は覚えがあった。

まだ子供が生まれる前。そのときは籍を入れておらず同棲中だった妻に血の匂いがするとうっかり指摘してしまったときの目だ。

いつも温厚だった彼女の笑顔が一気に氷点下まで下がった瞬間だった。

言い訳をするなら怪我を心配していただけで、女のあれそれについては完全に失念していた。

 

「なに、オジサンそういうことを指摘する専門の変態とかだったりすんの?」

 

「おい待て違う」

 

致命的な勘違いをされていた。

それ以前に嫌がる少女の腕を掴む男という図は第三者から見れば立派に事案である。

拘束が緩んだ伏黒の手を振り払って少女は立ち上がる。

 

「それあげるから近寄らないで」

 

「話聞けよ」

 

「あ、ついでにこれもあげる」

 

放り投げられたのは手元の箱と全く同じパッケージ。を三倍くらいにした大箱だった。

 

「ノリで買っちゃったけど、これからお土産が来るの忘れてて困ってたんだよね。奥さんかお子さんにでもあげて。いるか知らないけど」

 

それだけ言うと彼女は小走りで去っていく。

雑に記憶のかさぶたを引っぺがされ、追いかけることもできず、伏黒は懐かしい香りのする二つの箱を手に立ち尽くした。

 

 

 

「あっ」

 

音程の異なる声が重なった。

報告を終えた七海と灰原は寮へと戻ってきたところだった。門の前で貴透と鉢合わせる。七海は私服姿で片手に袋を提げた彼女を見て、授業をバックレたことを察した。

 

「おかえり!寂しかった!」

 

両手を広げて駆け寄る光景はドラマのワンシーンの様だ。そのまま彼女は二人に、ではなく灰原の持つ土産物の袋に抱き着いた。

 

「現金だなー」

 

「塩せんべい!アンダカシー!砂糖菓子!」

 

「絶対に買ってきて」とメールで送り付けていた菓子の名前を呼びながら袋に頬擦りする貴透の首根っこを七海が掴んで引き離す。

 

「ずいぶん元気、というか顔色が良いですね」

 

「お土産効果だって」

 

「定番のちんすこうとサーターアンダギーも買ってきたけどたべ」

 

「食べる」

 

食い気味な即答に灰原は笑ってしまった。飲み物はどうしようかと話しながら寮の共有スペースへと向かう。ふと、貴透が立ち止まる。

 

「ねぇ、私匂う?」

 

「え、別にそんなことないけど。なんで?」

 

「いや…、今日変態に嗅がれたから」

 

「は?」

 

七海の額に青筋が浮かんだ。

 

 

 

 

「……悟?」

 

疑問形になってしまったのは無理からぬことだった。天内と黒井を引き連れて薨星宮から戻ると、血塗れの五条が一人佇んでいた。

別れたときと明らかに雰囲気が違う。感情の抜け落ちた虚ろな瞳で手元の血に汚れたキャラメルの箱を見つめていた。

まるで、人間ではない()()に成ってしまったかのような。

吸い込まれそうな蒼の瞳がこちらを向く。

 

「傑、早かったな」

 

「あ、ああ。大丈夫か?アイツは…」

 

「逃げた。でも、追うより優先することがあんだろ」

 

夏油の背後にいる天内に視線が向けられる。泣き腫らした顔の彼女は五条に一瞬だけ怯えた表情を浮かべる。

 

「アイツだろうと天元様だろうと、今の()なら負けねぇよ」

 

握られていた小箱は手の中で塵となって消えた。

 

 



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【8】ヤンヤンつけボー

サイコサスペンスではなく日常回です。
行方不明者の数は1D100で決めました。


夜蛾は職員室で腕組みをしながら物思いに耽っていた。

 

机上には高専一年生の貴透由衣の経歴資料が並んでいる。

中学三年のとき低級呪霊を自力で祓ったことで高専にスカウトされた。部活には入っておらず、学校では孤立気味だった。

ここまではとくに不審な点は見られない。一般家庭出身で呪いが見えてしまう子供はどうしても周囲から浮いてしまう。そういった子供に居場所を与え、力の使い方を教えるのが呪術高専の役割だ。

 

夜蛾の目に留まったのは彼女の家庭環境の項目だ。

母親の貴透藍子はシングルマザーであった。結婚も入籍もせず由衣を産み、たった一人で彼女を育てていた。そして、由衣が小学校六年生のときから重度の統合失調症を患って入院していたらしい。てっきり母親も見える人間で呪霊のせいで心を病んでしまったのかと考えていたが、身辺調査ではそんな情報は無かったようだ。

 

『■■精神病院にて、屋上から投身自殺。即死。ベッドの拘束具を外して脱走したものと思われる。』

 

痛ましいことだ。由衣が中学一年生のとき、母親は自ら命を絶っていた。

 

夜蛾が気になったのは入院先だった病院の名前だ。表沙汰にはされていないが、その精神病院ではしばしば行方不明者が出ていた。

精神病院で患者が脱走して行方不明になることはままある。が、問題はその数だ。

母親の藍子が入院してから行方不明となった人間の平均値がわずかに増えていた。気にしなければ誤差の範囲だろう。しかし、藍子が自殺し由衣が遠方の親戚に引き取られた時期を境に数字は入院前の推移に戻っている。一年にも満たない短い期間での変化。

 

これは本当に誤差だったのだろうか。

 

そんな疑念を抱いた理由は他にもある。

母親を亡くしてから由衣は親戚を転々としていた。環境が合わなかったのか、かなりの頻度であちこちたらい回しにされており、ひどい時は1ヶ月も経たずに引っ越している。

 

そして彼女がいた期間、その地域では呪霊による呪殺被害者数がまた僅かにだが増えていた。

地域ごとに単体で見ればとても小さな変化であり、気に留めるほどのことでもないだろう。

 

貴透由衣という存在を除けば。

 

極めつけが数週間前に起こった『盤星教信者集団行方不明事件』だ。

天元様を信仰し呪術界とそりの合わなかった宗教団体は星奬体の同化に当然干渉してきた。しかし、途中から盤星教による妨害がぱったりと途絶えた。元々問題があった団体であり星奬体護衛が終わったら解体する予定だったため、天内理子が同化を拒んだと五条から連絡が入ってすぐ高専の術師たちは本部である「星の子の家」に向かった。

 

そこには何もなかった。

呪術界側に関わる上役どころか一般の信者すら姿が見えない。

こちらの動きを察知して逃げたのかと思われたが、都内にある他の盤星教施設はパニック状態だったという。もちろん、呪霊による集団神隠しの可能性がまず疑われたが、そんな痕跡は一切見つかっていない。

 

調査の結果、代表役員であった園田茂をはじめ教団の中心幹部と一般信者総勢56名が謎の失踪を遂げていたことが明らかになった。

 

失踪事件が起こったのは五条、夏油、七海、灰原の四名が沖縄で星奬体の護衛にあたっていた日と推測される。その日は貴透は一人で任務に赴いていたはずだ。といってもまだ四級術師である彼女は一人で任務はこなせないため、現地で二級術師と合流している。そのことについては当該の術師に確認が取れている。

その任務にあたった場所が「星の子の家」とそう遠くない距離にあった。車なら数時間もせず行けるだろう。

補助監督として付き添ったのは上層部と懇意にしていると噂がある星川という男。

 

そして、貴透由衣をスカウトしたのも星川だ。

 

貴透由衣、行方不明、呪殺、星川。

果たしてこれは偶然なのか。

まだ点と点は線で繋がらない。判断材料が足りないせいだ。

 

ひとしきり悩んでから夜蛾は電話を取った。

 

「ああ、すまんが頼みたい。より詳しい身辺情報が欲しい。だが極秘にだ。上にも絶対知られるな」

 

通話を切って深く息を吐く。

 

もし、仮に、貴透が何か良くないことに関わっているとしたら。

それが大人の悪意によるものなのだとしたら。

絶対に保護しなければならない。子供は守られる存在であり、利用されるものではない。

 

教職者として、大人として、夜蛾には彼女を守る責務があるのだから。

 

 

 

天内理子は不安にかられながら帰り道を早足で進んでいた。

縋るようにスクールバッグのショルダーを握り締める。

 

星奬体の責務から解放された日から天内の生活は劇的にとはいかないまでも確かに変化した。

普通に学校に通える喜び。帰りに友達とファミレスに行くことも、カラオケに行くことも誰にも咎められない。

休日は門限があるが、以前よりはずっと自由だ。

与えられた平穏を天内は存分に享受していた。

 

一つだけ、気がかりなことといえばあの三日間自分を守ってくれた五条についてだ。

夏油に連れられて薨星宮から戻ったときの彼は異様だった。一日前まで海でふざけ合っていたのとはまるで別人のような雰囲気。

 

恐ろしいと思ってしまった。

 

あの時怯えるのではなく、ボロボロになってまで守ってくれた彼に、自分の選択を尊重してくれた彼に、お礼を言わなければいけなかったのに。

夏油は「悟は気にしないよ」と言ってくれたが、自分の気持ちに整理がつけられなかった。

それからなんとなく気まずくなってしまい連絡が取れずにいる。

 

今も、後ろから迫る足音を聞きながらも助けを呼べていないのはそんな理由からだった。

 

涙目になりながら角を曲がる。

最初は勘違いだと思った。一度色々な人間に狙われたから過敏になっているだけだと信じたかった。

そんな期待を裏切るように背後の何者かはずっと自分の足跡を追ってきている。

気が付けば人通りのない路地へと迷い込んでいた。

いつの間にか携帯の電波も圏外になっている。黒井に連絡を取ることすらできない。

 

前も後ろも見ることが怖くて、地面に視線を落として走り出した。だから、前に現れた人影に勢いのまま突っ込んでしまった。

 

「うわ!?」

 

「きゃっ!」

 

ぶつかった誰かごと転倒する。下敷きになった人がクッションになったことで天内に痛みはなかった。

下にいたのは天内と同い年くらいの女の子だ。ふわふわの茶髪が特徴的な彼女は痛みに呻いている。

 

「ご、ごめんなさい!大丈夫ですか?」

 

「背中とか尻とか頭突きくらった顎とか色々痛い」

 

「ごめんなさ…」

 

ハッとして後ろを見る。薄暗い路地には誰もおらず、足音はしなくなっている。安堵で力が抜けた。

 

「あのー、どいてほしいんだけど」

 

「あ、は、はい。…あれ?」

 

膝にまったく力が入らない。

 

「すみません、腰が抜けました…」

 

「えっ」

 

 

 

細い背中に揺られて、天内は見知らぬ商店の前に連れて来られていた。

女の子は「ここじゃなんだから」と言って軽々と天内を背負って歩き、天内は羞恥と申し訳なさで大人しく彼女の背中で縮こまっているしかなかった。

 

「あー、とうちゃんだ」

 

「だれその子、人さらい?」

 

「攫っとらんわ」

 

店先にいる小学生と会話しながら、自販機横のベンチに天内を降ろす。

 

「あの、ほんとにすみません…」

 

「あ、擦りむいてる」

 

「え」

 

指さされた天内の膝から血が垂れていた。先ほどは焦りとぶつかった衝撃で気が付かなかったが転んだ時に擦っていたようだ。女の子は天内を置いて店に入っていってしまった。

どうすればいいか分からずとりあえず大人しくベンチで待っていると、先ほどの小学生たちが隣に座る。

 

「あんた、とうちゃんの友達?」

 

「とうちゃん?」

 

「おんぶしてた人。友達じゃないならやっぱりさらわれたの?」

 

「いや、うーん…」

 

返答に困ってしまう。迷惑をかけたのはこちらだが攫われたというのも今の状況だとあながち間違いではないのだろうか。

どう回答するか悩んでいると「とうちゃん」が救急箱とパンダのイラストがプリントされた赤いカップを持って戻ってきた。

 

「とうちゃん人さらいは犯罪だよ」

 

「みのしろ金五億万円ようきゅうする?」

 

「しないってば。マコもヨーコもこれあげるからさっさと塾行きな。またママに怒られても知らないよ」

 

「はあい」

 

「みのしろ金わけてねー」

 

「ヤダ」

 

赤いカップを持ってランドセルを背負った二人は遠ざかっていった。同じものを天内にも手渡し、彼女は膝の手当てを始める。

先に沈黙に耐え切れなくなったのは天内だった。

 

「…あの、とうちゃんって」

 

「ん?ああ、あだ名。ややこしいから別のにしてほしいんだけどね。はい、終わり」

 

絆創膏が貼られた膝をペシンと叩かれ天内は飛び上がった。なんで最後の最後に雑な扱いになったのか解せない。

痛みに耐える天内の手からカップを取り上げて蓋を開ける。中にはスティック状のビスケットと茶色のペースト、白い顆粒が入っていた。

ビスケットをペーストにつけてボリボリ咀嚼する彼女はこちらにカップを差し出した。

 

「えっと」

 

「二度漬け禁止ね。トッピングは好きにつけていいけど」

 

「あ、はい」

 

流されるまま見よう見まねでビスケットを口に運ぶ。少し固めのビスケットにとろりとしたチョコレートクリームが合う。食べたことのないお菓子だが不思議と懐かしい味がした。

 

「なんか追っかけられてたの?」

 

「え」

 

「すごい勢いで走ってたから。あの辺不審者多いから通らないほうがいいよ」

 

「いや、でも勘違いじゃないかなって…。振り返ったら誰もいませんでしたし」

 

「いやいや、気のせいですますのって危ないんだよ。この世には出会い頭に人の匂い嗅いでくる変態とかいるし」

 

鳥肌が立った。天内が思っている以上に世界には変な人がいるらしい。

 

「…実は誰かに追いかけられて、気が付いたらあの路地に入ってしまって。と、友達に連絡しようかとも思ったんですけど、ちょっと今ギクシャクしちゃってて」

 

「んー。喧嘩中?」

 

「私が一方的に気まずくなってるというか…」

 

彼女はうーん、と考える仕草をしながらビスケットを齧っている。天内は差し出されているカップから二本目を取って今度は白っぽい顆粒も付けてみた。チョコの甘味にザクザクした食感がプラスされて美味しい。

 

「名前何だっけ」

 

「理子です」

 

「理子ちゃんはどうしたいの?」

 

「私は…」

 

ふと、夏油とのやり取りを思い出した。

同化か、帰るか。二人とも星奬体ではなく天内理子としての意思を尊重してくれた。だからこそ、天内も自分の本音を包み隠さずに話した。もっと皆と一緒にいたい。色んな場所に行きたい。色んな物を見たい。

もっと生きていたい。

 

「私は、繋がりを終わらせたくない。こんな形で疎遠になりたくない」

 

まだちゃんと感謝を伝えられていない。

 

「よし、じゃあ今電話しよう」

 

「……え」

 

「ほらほら携帯出して」

 

「い、いや心の準備が」

 

「そう言う人は一人じゃ絶対いつまでも準備できないから。ほーら観念しなって」

 

促されて携帯を取り出す。気付けば電波が入るようになっていた。

震える指で呼び出しボタンをプッシュするが、いつまでも出る気配がない。

 

「じゃあ、メール。今送ろう」

 

無慈悲だった。もう良くない?という天内の懇願の視線はあえなく無視される。

ビスケットを食べる彼女に見守られて、あーでもないこーでもないと悩みながら文章を入力する。最後の送信ボタンはどうしても指が止まった。が、横から伸びてきた指が天内の指先ごとボタンを押してしまった。

 

「あー!」

 

「はい送信」

 

「待ってよ、まだ見直してなかったのに」

 

「だめ、こういうのは勢いだから」

 

「変なこと書いてたらどうしよう」

 

「杞憂杞憂」

 

よくできましたと言わんばかりの笑顔でビスケットを口に入れられた。大人しく食べるしかなくなってしまう。

飲み込んだのと同時に携帯が震えて飛び上がった。ディスプレイに表示されたのは黒井の名前だ。帰りが遅いから心配のメールを送ってくれていた。

 

「ごめん、そろそろ帰らなきゃ」

 

「ん、じゃあお土産」

 

未開封の赤いカップを渡される。彼女にざっくり道案内をされ、なんとか暗くなる前に帰れそうだ。別れる前に携帯を取り出して彼女に問いかける。

 

「良かったらメアド交換しない?」

 

一つ増えた連絡先を見て、天内は足取り軽く帰路につく。

それに気が付いたのは黒井の待つマンションに着いてからだった。

 

「本名聞き忘れた」

 

携帯の連絡帳には「とうちゃん」の文字が登録されていた。

 

 

 

男は遠ざかる元星奬体の背中を見て歯嚙みする。

盤星教はもはや組織として機能していないが、金払いの良い残党は存在する。男もそんな信者の一人から依頼を受けていた。3000万には見劣りするが、しばらくは遊んで暮らせる程の金額だ。

星奬体の責務から下りた時点であの少女に呪術界のバックアップは存在しない。護衛のいない少女一人殺すなんて造作のないことだと思っていた。

 

「なんで高専の術師といるんだよ」

 

見たこともない術師。階級が低くても応援を呼ばれたら面倒である。どちらを先に殺すか迷っていると、先ほどまで術師の姿があった場所に誰もいなくなっている。

 

「最近は女子学生を狙うのが流行ってんの?」

 

背後から聞こえた声に肌が粟立つ。振り抜かれたナイフが的確に男の首を捉えた。しかし、ギリギリで術式の発動に成功した。

男の術式は一度だけ即死の攻撃から身を守るというものだ。もちろん代償を伴うが、術師は必殺の一撃の後がもっとも油断する。現に目の前の女も驚愕に目を見開いている。

もらった。

勝利を確信して呪具を引き抜いた。

 

「―術式展開」

 

女の声が響く。

それと同時に、男の首が音もなく地に落ちた。

 

「あーびっくりした」

 

物言わない死体を見下ろして胸を撫でおろす。まさか反撃されるとは思わなかった。

すぐさま携帯の番号をプッシュする。

 

「星川さん?すみません、術式使いました。わざとじゃないんで怒んないでくださいよー。人目は無いんで後処理お願いします」

 

通話を切って、ビスケットを口に放り込む。友達が増えて少し気が緩んでいたのかもしれない。

死体に手を合わせてから彼女は歩き出した。

 

 



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【9】ヤングドーナツ

ちゃんとした戦闘シーンを入れようとして挫折しました。ニュアンスで読んでください。


 

貴透が他人と菓子を分けるのは、幼少期からの習慣が続いているからだ。

 

少ない小銭を握りしめて駄菓子屋に通っていた日々。多くは買えないからそのとき絶対に食べたいものを慎重に選んだ。店主のおばさんと話しながら買ったものを食べて、必ず一つは母親と半分こをするために持って帰っていた。

 

母親はいつも何かに怯えていた。

小さな物音やカーテンの揺れにさえ体をビクつかせ、常に落ち着きなく周囲を見回していた。肩に乗っていたナメクジに似た呪霊が見えていたわけではなかったため、恐らく怯えていたのは何か別に原因があったのだろう。

時折、何かに憑りつかれた様によく分からない本を読み漁り、「間違ってない。大丈夫。間違ってない」と繰り返していた。

そして、貴透が『普通でないこと』をすると異常なまでに激怒し、時には手を上げることもあった。

 

そんな母親が穏やかになるのが菓子を分けるときだった。

 

「ありがとう。由衣は優しいいい子ね」

 

隈が色濃い疲れ切った目元で笑う母親はひどく弱い生き物に見えた。

 

母親が嫌いだったわけじゃない。

 

育ててくれたし、お小遣いもくれた。一緒に食べるお菓子は美味しかった。頭を撫でてくれる手が好きだった。だから、できるだけ母親が怒らないですむように、疲れずにすむように振舞っていた。

 

あの日、母親が病院の屋上から一歩を踏み出してしまったときも。

貴透は母親のために行動したにすぎなかった。

 

 

 

「残暑マジ無理」

 

「今だけは同意します」

 

「早く終わらせてアイス食べよう」

 

お盆が過ぎ去っても張り付く湿気と蒸し暑さは一向にマシにならなかった。曇り空のせいで熱気は逃げて行かないし、そよ風すらも温風を運んでくる。

どんよりと薄暗い墓地の入り口で一年生三人は暑さで既に疲れ切っていた。

 

繁忙期が終わっても呪霊の数が急に減るわけではない。夏から秋にかけて一時的に活動が大人しくなるだけでイベント事が増える年末にはまた術師たちが総出で対応に当たらなければならなくなる。

今年は星奬体関連のドタバタもあってか、高専の生徒に降りてくる任務が多かった。上は他の案件で手一杯なのだろう。

要は体のいい使い走りだ。

 

「死んだ人が目撃されてるって言ってもねぇ。お盆に帰りそびれた幽霊とかじゃないの?」

 

「目撃情報だけならまだしも失踪している人間が出ている時点でほぼ確実に呪霊の仕業でしょう」

 

「まずは行方不明の人の保護優先で行こう」

 

灰原の言葉に頷きつつ、墓地に踏み行った。

昼間でも墓地の中は夜のようだ。人気は全くなく、風が木の葉を揺らす音が嫌に反響して聞こえる。古ぼけた卒塔婆の影が地面に墨汁を垂らしたかのようだ。じっとりと湿った空気が貼り付き、首筋に汗が伝う。

 

「…なんか貴透の言うとおり本当に幽霊出そうだね」

 

「猥談すると寄ってこないらしいよ」

 

「おい」

 

七海の眉間に一気にシワが増えた。仮にも女子が率先して猥談を提案するのはどうなんだ、という視線をガン無視して話は進む。

 

「灰原の女子の好みは?」

 

「いっぱい食べる子!」

 

「るみこ作品でいうと?」

 

「サクラ先生!」

 

「ド健全な趣味しとるわー」

 

「七海は?」

 

「やめてくださいこっちに話を振るな」

 

「私、シャンプーちゃん。はい、後は七海だけだよ」

 

じっと二対の目が向けられる。しばらく黙秘権を行使していたものの居心地の悪さに負け、ぼそりと呟く。

 

「……音無響子」

 

「あー、七海っぽい」

 

「ちなみに未亡人だから?それとも大人のお姉さんだから?」

 

突っ込んで聞こうとした貴透の頭にケースに入ったままの呪具が落とされた。思春期男子の心は繊細だ。

 

不意に足音がした。全員が口を閉じ戦闘態勢に入る。

小さな軽い足音と、何かを擦るようなカサカサという音。この時期よく見かける黒い虫に似た音だ。背筋に悪寒が走る。

墓石の陰から現れたのは小さな男の子だった。まだ小学生にもなっていなさそうな少年はこちらを見て泣きそうな顔になる。

 

「たすけ、助けて」

 

白い腕が背後に迫っている。

七海が呪具を振りかぶるのと、灰原が男の子の前に出たのはほとんど同時だった。

七海の斬撃が腕を吹き飛ばす。濃い緑色の体液が吹き出した。

灰原は男の子を担いで距離を取る。

七海の後ろから飛び出した貴透が追撃をかけるが、強烈な薙ぎに押されて逆に吹き飛ばされかける。七海にキャッチされ、地面に放られた。

 

「もっと優しく下ろしてくれない?こちとらレディだぞ」

 

「すみません、つい」

 

言葉と裏腹にまったく悪びれていない七海を見上げてぶすくれる。

 

墓石の陰から、『それ』は上半身だけを乗り出してこちらを見ている。

女だ。年は二十代後半だろうか。短い黒髪は外側に跳ねており、男の子と似ている。穏やかな微笑みはこんな状況でなければ快く思えたことだろう。しかし、彼女の欠損した左腕から滴り落ちる暗緑色の液体が現実を突きつける。

女が口を開いた。

 

「めェぐみィ」

 

あらゆる音声をごちゃ混ぜにして無理やり女らしくチューニングしたような声。間違いなくこれは呪霊だ。

喉を引きつらせる男の子に「答えちゃだめだ」と灰原が抱きしめる力を強める。

 

『それ』がずるりと這い出す。

蜘蛛だ。女なのは上半身だけであり、下半身は巨大な節足動物のそれであった。腹が縦に裂け、ずらりと並んだ牙と涎を滴らせる舌が露わになる。

 

「おあー、色んな意味でビジュアルがキツイ」

 

「言ってる場合ですか」

 

次々と振り下ろされる節くれた脚をいなすが相手の手数が多すぎる。しかも、妙に動きづらい。ナイフの刃先に何かが引っかかっていることに気が付いた。いつの間にか透明な糸がびっしりと纏わりついている。

 

「七海!ここ、こいつの巣だ!一旦撤退しないとヤバいって!」

 

「っ!灰原!」

 

「分かってる!」

 

男の子を貴透にパスして呪力を込めた拳を蜘蛛の脇腹にめり込ませる。巨体がぐらりと傾いだ。その隙を逃さず七海の斬撃が叩きこまれる。吹き飛んだ巨体が墓石に突っ込んだ。

 

「さっすが」

 

「いいえ、入りが甘い。すぐにでも起き上がります。態勢を立て直しますよ」

 

再び男の子を灰原が抱き上げ、七海は貴透を小脇に抱えてその場を離脱した。

 

 

 

「君、名前は?」

 

「……伏黒恵」

 

「何歳?」

 

「五歳」

 

「しっかりしてんねー。小学校もまだなのにあれ目の前にして逃げられるなんて」

 

「…前から変なのは見えてたから」

 

戦線離脱に成功し、墓地の入り口付近まで戻ってきた。今のところあの呪霊が追ってくる気配はない。

近くの階段に腰かけた男の子は先程より落ち着きを取り戻していた。隣に座る貴透は跳ねた毛先を指でつついて遊んでいる。

 

「あの女性の顔に見覚えは?」

 

「多分、母親。俺が生まれてすぐ死んじゃったから写真でしか見たことないけど」

 

「……なるほど」

 

七海と灰原は険しい表情になる。

つまり、あの上半身は釣り餌なのだろう。見える人間の死んだ身内に化け、誘い込み食い殺す。声さえ聞かなければ高度な擬態を見破るのは一般人には難しい。

できることならここで祓ってしまいたいが、仮にも親の顔をしたものを子供の前で殺すのは気が引ける。補助監督に預けてしまうべきか。

 

「そういえば、お墓参りに一人で来たの?」

 

「いや、つみ…姉ちゃんと。墓の方から変な感じがしたから寺で待っててもらってる」

 

「えらーい、五歳とは思えない。そんなえらい君にこれをあげよう」

 

ポケットから引っ張り出されたのは小さなドーナツの袋。一口に収まりそうな輪っかが四つ、可愛らしく並んでいる。

 

「四人だからちょうど一個ずつだね」

 

「食ってる場合か」

 

「これ美味しいけど水か牛乳ないとキツくない?」

 

「はい、恵くんどーぞ」

 

「……どうも」

 

恵はドーナツを受け取りつつも困惑していた。さっきまでの真剣な雰囲気はどこへやら三人は菓子を分け合っている。とりあえず口の水分が持っていかれないように少しずつ口に入れる。

 

「で、どう撃退する?」

 

「可能ならここくらい広い場所で迎え撃ちたいところですね。糸は行動の妨害程度ですし、切断と陽動を貴透に任せれば灰原と私で何とかなるでしょう」

 

「私囮かーい」

 

「さっき一撃で吹き飛ばされそうになったのはどこの誰です」

 

「囮やりまーす」

 

ドーナツをもさもさと咀嚼していた貴透はあっさり諦めて手を上げた。あの巨体に力比べで勝てるわけがない。

最終的に恵を外で待つ補助監督に預けてから呪霊がいたポイントまで戻るということに落ち着いた。後は七海の提言通り広いところまで誘き寄せたところで一気に叩く。

 

恵が貴透の手を取って立ち上がった時だった。あの何かを擦るような不快な音が聞こえた。

全員に緊張が走る。

薄暗い通路の奥からソレが現れた。切り落とされた腕は治ることなく緑色の液体を滴らせている。しかし、先ほどとは明らかに違う点があった。

上半身の女の形状が変わっている。黒髪は茶髪に、短かったはずの毛先は緩くカールしたセミロングに変化していた。女が顔を上げる。

 

「ュゆいいィ」

 

貴透に瓜二つな女性。

 

「……お母さん」

 

かすれた声が漏れた。

その声に反応して呪霊は猛然とこちらに向かってくる。

 

「走れ!」

 

灰原の檄で我に返った貴透はすぐに恵の手を引いて墓地の出口へ走り出す。七海と灰原でなんとか呪霊を押し留める。二人が離脱するまで時間を稼がなければ。

斬撃を打ち込みながら七海は舌打ちをする。迂闊だった。見える人間をターゲットにしているなら当然自分たち呪術師も含まれる。

既に貴透は呪霊の呼びかけに答えてしまった。恵と共にこのまま墓地から逃げなければ次に食い殺されるのは彼女だ。

鈍い音が背後から響く。目だけで後ろを見やれば貴透が転倒していた。足にはいつの間にか蜘蛛の糸が絡みついている。

 

「恵くん行って!」

 

貴透の叫びに恵は弾かれた様に走っていく。

攻撃が節くれた脚にいなされて呪力が届き切らない。呪霊の目的は獲物探しから喰うことへシフトしている。一瞬でも気を抜けば七海たちなど無視して貴透のもとへ向かうだろう。

絡んだ糸に引きずられまいと貴透は必死に地面に爪を立てる。それでもじりじりと距離が縮められていく。

 

ふっ、と貼り付いていた貴透の体が地面から剥がれた。

放物線を描いて呪霊へと引き寄せられていく。咄嗟に手を伸ばした七海と灰原の体に呪霊の脚が直撃した。地に叩きつけられ、脳が揺らされる。

呪霊は右手で貴透の首を掴み上げ、楽しそうに嗤う。

 

「ユいぃ」

 

「…うるさい」

 

「なんでェ?」

 

「は…?」

 

「なんでころしたのォ?」

 

貴透の目が見開かれる。何か言おうと開かれた唇が戦慄く。

振り上がった貴透の足が呪霊の腕に絡みつく。腕を引く間もなく、手首が切断される。緑の体液が滴る肉片を喉元にくっ付けたまま呪霊の首をナイフで貫く。力任せに刃を薙いで母親の顔をした頭を千切り飛ばした。

唐突に視界を失った巨体の動きが鈍る。

ダメージから復帰した灰原が地を蹴る。落下の勢いと全体重を組んだ両手に乗せて打ち付ける。蜘蛛の体が地面に沈んだ。

 

「七海!」

 

「聞こえてる」

 

ふらつく頭でも、動きさえ止めれば当てられる。

 

―十劃呪法。

相手や物体に対して、長さを線分した時の7対3の比率の点に攻撃を当てることができれば、そこを強制的に弱点として攻撃をクリティカルヒットに転じさせる。

正確な斬撃は呪霊の体を一瞬で両断した。

 

 

「無事ですか」

 

「…あんまり」

 

「貴透、手。応急処置しないと」

 

彼女の両手は爪が剥がれ、血が流れている。大人しく手を差し出して治療を受ける貴透の顔は暗く沈んでいる。無理もない、呪霊とはいえ母親の姿をしていたものを殺したのだ。

声をかけようとした七海の言葉が遮られる。

 

「なァんでェ?なんでェころしたのォ?」

 

首だけになった女が嗤う。

七海が呪具を振るうより早く、貴透がそれを踏み潰した。粘着質な嫌な音が響く。

 

「殺してない」

 

静かだが確かな怒気が込められていた。ここまで激情を露わにした彼女を七海も灰原も見たことがない。

先に動いたのは灰原だった。貴透の右手をそっと引く。

 

「帰ろう」

 

強張りが解け、感情が抜け落ちた顔でゆるゆると頷いた。

繋いだ手を離すことなく灰原は歩き出す。二人の背中を見つめながら、七海は言いようのない不安感にかられた。

 

 

 

その日、貴透はいつも通り母親の病室を訪れていた。

ポケットにはヤングドーナツ。一人で全部は多いから、二人で二個ずつ分けるのが決まりだった。その決まりもこの頃はすっかり機能していないけれど。

ベッドに括りつけられた女性の虚ろな目は何も映していない。ただ虚空に向かってずっと何事かを呟いている。

ドーナツをベッドサイドに置いて母親の手を取る。握り返されなくなって久しい。

 

「お母さん」

 

答えはない。ぼそぼそと唱えられている言葉は貴透には理解できない。

 

「お母さんはどうしたい?」

 

呟きが止まった。血走った目が数ヶ月ぶりに貴透に向けられる。

 

「しにたい」

 

はっきりと、願いが口にされた。貴透はただ頷いた。

 

 

もぬけの殻となったベッドに頭を預ける。拘束のためのベルトは解かれ、くたりと垂れている。

 

「寂しいなぁ」

 

自分以外誰もいなくなった病室に声が通り抜ける。

「ころして」ではなく「しにたい」。それなら自由にすべきだと思った。こっそり持ち込んだナイフはカバンにしまったままだ。

 

数分後、何かが潰れる音と悲鳴が外から聞こえた。

 

 



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【9.5】閑話

 

恵と津美紀がアパートに帰るとデカいシューズの隣に見たことのない革靴が置いてあった。シューズは最近家に帰ってくるようになった放任主義の父親のもの。では、革靴は客人のものだろうか。

津美紀と目配せしてそっと靴を脱ぐ。

居間からわずかに話し声が聞こえてきた。音を立てないように引戸を開ける。

見覚えのないスーツの男と目が合った。

 

「おや、お子さんですか」

 

「お父さんのお客さん?今お茶を」

 

「いい。部屋に行ってろ」

 

津美紀の言葉を遮ったのは父親だった。こちらを見ることなく、ずっと男から視線をそらさない。その背中に言いようのないプレッシャーを感じて恵は後ずさる。

「行こう」と囁く津美紀に手を引かれ恵も自室へと向かった。

 

 

「可愛い良い子たちじゃないですか。あなたのようなタイプは所帯を持つようには見えなかったので意外です」

 

「うるせぇ。さっさと本題を言え」

 

胡散臭い笑顔を張り付けた男は星川と名乗った。彼は伏黒の不遜な物言いに眉一つ動かさない。

ちゃぶ台の上に置かれているのは銀色のアタッシュケース。男が持ち込んだものだ。つまらない話だったら即首をへし折って叩き出すと決めている。

 

「ここに五千万あります」

 

「あ?」

 

「あなたの仕事を邪魔してしまったお詫びと私からの依頼の前金を兼ねてです」

 

開かれた銀色の蓋の向こうにはぎっちりと札束が詰まっていた。偽札でも幻覚でもない、本物の現ナマ五千万円が鎮座している。

「仕事の邪魔」という言葉にすぐに伏黒はピンときた。

 

「はっ、呪詛師殺しの差し金かよ。つまんねえ呪術師同士のいざこざに巻き込まれるなんて御免だね」

 

伏黒はあれからも呪詛師殺しについて気が向いたときに情報を集めていた。あくまで片手間程度に、だが。しかし、そんな適当すぎる捜索は意外なところで功を奏す。

 

とあるホームレスから仕入れた情報だった。彼らは街中にネットワークを持っている。裏の事情ならそこらの住人よりよっぽど詳しい。

スモークガラスの車が夜の街で頻繁に目撃されている。その位置情報は消えた呪詛師が殺害されたと推定される場所と面白いほどに符合した。さらに僥倖だったのは車のナンバーを覚えていた人間がいたことだ。

関係者なら分かる暗号。高専の補助監督が使用する専用車の数列。

 

間違いなく呪詛師殺しは呪術師の世界に潜んでいる。

 

「それとも口止めか?生憎とそんなはした金で黙るようなお利巧な口じゃないもんで」

 

「まさか、言ったでしょう。前金だと」

 

「…何が言いたい」

 

「依頼を受けていただけるようならもう五千万。今度はあなたの望む形でご用意します。今回は信用していただくためにこうして持ってきたわけですから」

 

仮面のような笑顔は動かない、が嘘を言っているようにも思えない。

 

「話だけなら聞いてやる」

 

「ありがとうございます。ではこれを」

 

男が取り出したのは一本のUSBメモリ。どこにでも売っていそうなそれには「スペア」と書かれた付箋が貼ってある。

 

「なんだそれ」

 

「例えるなら時限爆弾でしょうか」

 

「はぁ?」

 

男はうっそりと嗤う。先ほどまでとは異なる、全てを嘲るような悍ましい笑顔。

 

「伏黒甚爾さん。いえ、禪院甚爾さん。あなたを排斥した呪術師の世界を叩き壊したくはありませんか?」

 

 



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【10】さくらんぼ餅

若干呪術廻戦じゃない世界観が入ってますが原作でも陀艮とか出ているのでセーフだと思ってます。
クロスオーバータグが必要か分からないのでとりあえずそのままにしておきます。


「夏油さん!お疲れ様です!」

 

グラウンドを通りかかると灰原に声をかけられた。ジャージ姿で手を振る彼の後ろでは同じくジャージの七海が貴透をきれいな一本背負いで投げていた。

間延びした悲鳴と共に地面に墜落していく。あの落ち方は受け身が取れているのだろうか。

 

「お疲れ。アレは罰ゲームか何かか?」

 

「特訓です!僕と七海は昇級の推薦来たんですけど、貴透だけ何にもなかったんで」

 

「ああ…」

 

そういえば前に墓地での任務で危うく呪霊に喰われるところだったと聞いた。

懐に入れた相手に甘い七海のことだ。彼女だけ置き去りにされないよう気を遣ってのことなんだろう。以前に五条がふざけて「ママ」だなんて呼んでいたが、保護者に似た立ち位置であることに間違いはない。

 

起き上がった貴透が七海に向かっていく。振り抜かれた拳をギリギリ避けて懐に入る。胴を狙った蹴りはあっさり受け止められ、脇で足を固められた。ジャイアントスイングの要領でブン回され、遠心力のまま放り出される。

土埃を上げながら数メートル転がってようやく止まる。ひっくり返った状態の貴透から「もうやだー」と情けない声が聞こえた。

 

「ムリー。疲れたー」

 

「それで根を上げてたら昇級なんてできないさ」

 

声をかけるとあからさまに嫌そうな顔をされた。

 

「何見てるんですか、すけべ」

 

「せめて起き上がってから言いなよ」

 

ひっくり返ったまま足の間から顔を覗かせている女子と喋るこちらの身にもなって欲しい。ジャージの背中が捲れあがっているが、インナーで肌が見えないのが救いだ。嬉しくないラッキースケベほど悲しいものはない。

本人は動くのも嫌なのか大の字になって駄々をこねている。

 

「そうだ、貴透。夏油さんに稽古つけてもらったら?」

 

「えっ」

 

「やだー!絶対一方的にボコられるじゃん!」

 

灰原の提案に足元の後輩から不満が噴出する。

 

「私からもお願いします。この人はそもそも基礎がなってないので教えにくくてしょうがない」

 

「七海まで…」

 

「同期が落ちこぼれるのは見たくないですしね!」

 

一番酷いをことを言っている灰原は悪意のない笑顔だ。

足元の貴透は駄々のこね方が大の字からブリッジに進化している。なんだまだ元気じゃないか。

 

夏油は思案する。

最近、すっかり一人の時間が増えていた。星漿体護衛時に全く呪力を持たない刺客に襲撃を受けてから、五条は任務以外ではひたすらに自身の力を試し続けていた。

今までも使っていた『術式順転《蒼》』に加え、新たに体得した『術式反転《赫》』、『虚式《茈》』、そして反転術式。

あらゆる隙というものが無くなった五条はもはや最強の呪術師といっても差し支えなかった。

 

もう、五条の隣に自分は必要ないのだろう。

寂しさがないと言ったら嘘になる。焦りもある。それ以上に、「自分では五条悟に追いつけない」という諦観が重くのしかかっていた。

一人だと余計なことばかりが頭をよぎる。最近は呪霊の味が以前よりも色濃く感じられ、菓子で誤魔化しきれなくなっていた。

こう言ってはなんだが、ストレスの捌け口を探していた節はある。

ここは後輩に胸を借してやろう、と思ってしまうほどには。

 

「よし、やるからには徹底的にやるぞ。ほらさっさと起きる」

 

「やだー!」

 

もがく貴透の首根っこをひっ掴む。彼女には悪いが思う存分やらせてもらおう。

秋めいてきた空に貴透の悲鳴が響いた。

 

 

 

オガミ婆は憂えていた。

好きに人を殺し、金を稼ぎ、自由を謳歌していたのが遠い昔のようだ。

五条悟という存在が誕生してから呪霊も呪詛師も日陰の道を歩まざるを得なくなった。忌々しいことこの上ない。

しかも、最近はさらに厄介な存在が現れた。

 

呪詛師、そして呪詛師に荷担する非術師を消して回っている『呪詛師殺し』の出現。呪術師なのか、呪詛師なのか不明。何が目的なのかすら分からない不気味な都市伝説的存在でありながら、確実に仲間は数を減らされている。

 

五条が表向きの抑止力ならば、呪詛師殺しは裏の抑止力だ。非術師であろうと容赦なく消している分、五条より行動に制限がなく尻尾を掴めない。

動きにくくて仕方がない。依頼主も呪詛師殺しを恐れてすっかり雲隠れしてしまった。

 

つまらない。自分達の自由はすっかり奪われてしまった。

 

ふと、視界が陰った。

窓を見てみるといつの間にか帳が降りている。どういうことだ、ここはオガミ婆と孫たちしかいない根城。術師がそう易々と嗅ぎ付けられるわけがない。

何か争っている音が聞こえてくる。

 

部屋の扉が開かれた。孫の一人が立っている。

 

「どうしたんじゃ、何があった」

 

返答はない。虚ろな目のまま、ゆっくりと床に倒れ伏した。孫の影に隠れて見えていなかった人物。顔色の悪い少女は血塗れのナイフを片手にオガミ婆を見ていた。

 

「貴様が呪詛師殺しか」

 

「なに、私そんな風に呼ばれてんの?」

 

やだなーと頬を掻く彼女は後ろにいるもう一人の孫に気が付いていない。容赦なく鉄パイプが振り下ろされる。

少女の体が前へと倒れる。その勢いのまま振り上げた左足が背後の男の顎を弾いた。衝撃で男の目の焦点が揺れる。その隙を逃さず、ナイフが喉を裂いた。

 

そっとオガミ婆は数珠を握る。

 

「なんかやろうとしても無駄だよ。もうお婆さん以外に生きてる人いないし、生きてる限りこの帳からは出られない」

 

「……何が目的じゃ」

 

「んー、強いて言うなら平和な学生生活のため」

 

「は?」

 

意味が分からない。唖然とするオガミ婆の鼻先三寸にいつの間にか少女が立っている。

 

「悪いけど長々と会話するほど余裕ないわ」

 

その声だけが暗転する意識の中で聞き取れた。

 

 

 

「っあー、きつい」

 

死体が転がる部屋で貴透は息を吐いた。ようやく胃の痛みと体の倦怠感が消える。

 

夏油による稽古という名の後輩いじめは何だかんだ役に立っていた。先ほどの背後からの一撃も以前の貴透ならもっと手間取っていただろう。

 

貴透はただ単に「不意を突く殺し方」を人より知っているだけだ。よっぽどの達人でなければ隙などいくらでも存在する。視線の外れる瞬間や、思考に引っ張られているときなどといった「意識の隙間」を狙えばいい。

何より、貴透は殺すことに一切の躊躇いがない。落ちたボールペンを手渡すように、会釈してすれ違うように、日常動作に染み付いた殺しの動作は一般人ならまず避けられない。

それに夏油直伝の体術が加わったことで前より効率的に動けるようになっていた。

 

だが、あの厳しさは絶対に何かしらの八つ当たりが入っていると思う。コブラツイストとか女子にかける技じゃない。

 

オガミ婆が座っていた座敷に腰かけ、ポケットからさくらんぼ餅を取り出す。

さくさくした外側と中のもちもちな食感が楽しい。

ちなみに夏油の机にも同じものを置いてきた。しごきの腹いせにパッケージに油性マジックで「最終鬼畜前髪先輩」と書いておいた。

 

付属のつまようじでピンク色の四角を口に運びながら貴透は足を伸ばす。

 

盤星教での任務の後、一時的に体調が改善したもののすぐにもとに戻ってしまった。いや、悪化したと言って良いかもしれない。

以前なら一人二人さっくり殺せば済んでいたのだが、あれ以来最低でも五、六人仕留めないと体調が良くならなくなっていた。体力的に厳しいところがある。

 

「なんとかならないかなぁ」

 

誰にも理解されない悩みに答える者はいない。

 

 

 

「何だこれは」

 

夜蛾は資料を前に頭を抱えた。

調査の結果、前以上に貴透由衣に関する情報は得られなかったが、母親についての情報は見つけることができた。できたが。

 

「なぜ出生記録が貴透の生まれる二年前にしかない」

 

母親は貴透が生まれる前に既に出産していた。否、流産していた。それ以降に出産の記録はない。

では、今高専にいる貴透由衣という人間はいったい誰なのか。

 

さらに嫌な記述が目に入る。流産以降、母親はあるカルト教団に入信していたようだ。

その名を「母なる黒山羊」。夜蛾には見覚えがあった。

流産や不妊に悩む女性が多く所属していたその宗教団体は()()()()()()()を信奉し、後に解体された。

 

これはいったい何を示しているのか。調査を依頼した術師ともこの情報を最後に連絡が途絶えている。

 

点と点が繋がるどころか余計に分からない事が増えた。ただ、早く何とかしなくてはならないという漠然とした焦燥感に駆られた。

 

 



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【11】うまい棒

なまじ目が良いせいで五条先生の扱いが難しいです。


「なんだこれ」

 

教室に入った五条の目にまず飛び込んできたのは自分の机に山と積まれた駄菓子だった。

カラフルな長細いパッケージが机の上を埋め尽くしている。

同級生二人を見れば明らかに笑いを堪えている。

 

「おい、あのバカ(貴透)が置いてったなら止めろよ」

 

「良いじゃないか、厚意でくれてるんだし。それに、悟が最近教室にいないから他にも溜まってるよ」

 

そう言って夏油が指差す先にはこれまた駄菓子が詰まった五条のロッカーがあった。こんな量どうやって一人で処理しろというのか。食べきれないわけではないが、大人しくもらうのもなんだか癪である。

 

「甘くなくていいね。夏油、そっちの白いやつ取って」

 

「これ納豆って書いてあるけど。あ、プレミアムもある」

 

「なんでお前ら普通に食ってんの?」

 

「食べないと湿気るじゃん」

 

「悟のことだし甘くないからいらないって言うかと思って」

 

「ふざけんな食うわ」

 

警戒していた自分がバカみたいじゃないか。適当に山から一本取って齧る。コーンポタージュ味だった。甘いには甘いがこういう甘さを求めているわけではない。

 

夏油の言うとおり、最近は任務以外の時間を自分の術式の性能向上に費やしていたため教室に来ることも減っていた。

呪力を持たない刺客に敗北した要因は『無下限』を解除してしまったことだ。

死の淵で掴んだ呪力の核心。そして、手に入れた反転術式。これがあれば脳が煮崩れを起こすことなく、自己補完しながら術式を常に出しっぱなしにできると考えていた。

掌印の省略、《赫》と《蒼》の複数同時発動、領域に瞬間移動と課題は山積みだが自分がどこまでやれるかが楽しみでもあった。

術式を完全に使いこなせるようになれば名実ともに夏油と最強を名乗ることができる。

 

「マジでどっからこんなに持ってきてんだよあいつ」

 

「安いから大量買いでもしたんじゃない?」

 

「あ、噂をすればじゃん」

 

家入が窓の外を指さす。グラウンドでは一年生たちが戦闘訓練の真っ最中だった。

七海と貴透がそれぞれの武器を手に打ち合っている。七海の強烈な一振りを小さなナイフで上手くあしらいつつ小柄な体格を活かしてちょこまか動き回っている。

 

「悪くない動きしてる。近頃良い先生がついたからかな」

 

「別にそういうんじゃないさ。彼らも頑張ってるし」

 

灰原の提案以降も夏油の体術指導は継続していた。

口ではあーだこーだ言いながらも貴透の飲み込みは早く、成長過程を見てハードルを上げつつ教えるのは中々楽しかった。最初は見守っていた七海と灰原も次第に加わるようになり、本格的に先生のような立場になりつつあった。

案外教職というものもアリかもしれないなんて考えまで浮かぶ。

 

「私ばかりが教えるのも偏りが出そうだからね。今度暇なら悟も…、悟?」

 

五条は何も言わずに窓の外を凝視している。視線の先には受け身を取りながら転がる貴透の姿があった。

 

歪みが大きくなっている。

以前ほど避けていたわけではないが進んで会いたいと思う相手ではなく、教室に顔を出すことも減っていたためいつから変化したのか分からない。

元々体と不釣り合いだった呪力は歪に肥大化し、不自然な流れを作っている。

 

まるで呪力が意志を持ち、貴透の体を侵食しているような、得体のしれない悍ましさ。

 

「おい、悟?どうしたんだ」

 

五条は立ち上がり、窓から出て行く。突然の行動に目を白黒させながらも夏油も後を追った。

 

 

 

「いつまで術式なしで戦うつもりなんです」

 

「だから言ってんじゃーん、役に立たないの!使うのがすごい面倒なの!」

 

「対象が半径2m以内に居ないといけないんだっけ?確かにけっこう難しいよね」

 

「自分の勝ち筋に相手を引き込むのも必要なことでしょう。ナイフに呪力を流すだけの戦い方では昇級どころか進級だって危うくなりますよ」

 

「好きでやってるんじゃないし。ていうか灰原だってほぼステゴロじゃん」

 

「僕はその分筋トレしてるから」

 

「なんで筋肉でカバーできてるのか未だに分かんないんだけど」

 

近付くにつれて賑やかなやりとりが聞こえてくる。真っ先にこちらに気が付いたのは灰原だった。

 

「あ、五条さんと夏油さん」

 

「お疲れ様です」

 

「なんですか。うまい棒の返品なら受け付けてませんけど」

 

そうじゃねぇわバカ、と罵倒が返ってくると思ったが、五条は黙ったままだった。じっと凝視してくる自販機ほどの背丈の男に貴透は怪訝そうな顔になる。ちらりと夏油を見やるが首を振っている。彼もよく分かっていないらしい。

 

五条はただ単に言葉が出てこないだけだった。

間違いなく目の前の女は異常だ。だが、それが何だというのか。彼女が他者を害した所を見たわけでもない。問い詰めようにもこの違和感は五条にしか知覚できない。思っていることを言語化できないことがここまでもどかしいとは思わなかった。

 

「何なんだよ、お前」

 

辛うじてそんな言葉だけを絞り出した。

 

「見ての通り同級生に虐められてる哀れな後輩ですけど。ていうかこのやりとり前もやりませんでした?」

 

「ちげぇよ、俺が言いたいのは…」

 

「あ!」

 

会話を遮ったのは灰原だった。

 

「術式の訓練なら五条さんにやってもらうっていうのは?無下限術式ならどんな攻撃しても危なくないし」

 

「ヤダ」

 

「ぜってー嫌」

 

珍しく意見が一致した。

 

 

 

「おかしくない?ヤダって言ったじゃん」

 

グラウンドで五条と向き合った貴透はずっと不平不満を垂れ流している。それは五条も同様だったが、「可愛い後輩の頼みを無下にするのは良くないよ。ああ、そういえば最近授業をサボりがちな誰かさんのせいでしょっちゅうノートを貸さないといけなくなってたっけ」という圧と笑顔に黙るしかなかった。どうやら相方は後輩の味方らしい。いつの間にそんなに仲良くなっていたのか。

ため息をつきながらガシガシと頭を搔く。

 

「あーもー面倒くせぇ。とっととやれ。話はそれからだ」

 

「まだなんかあるんですか…」

 

説教なら勘弁してくれといったげんなりした表情で貴透は渋々構えた。

 

「―術式展開」

 

貴透がナイフに手をかける。

 

黒雲顎門(こくうんあぎと)

 

その瞬間、五条の首が落ちた。

 

正確には『落ちた気がした』。それほどまでに濃厚な死の匂い。そして、このままでは

それが現実になると五条の生存本能が警鐘を鳴らしている。

全身の毛が逆立つ。考えるより先に指が動いた。

 

――術式反転、赫。

 

貴透の体があっけなく吹き飛ばされた。

咄嗟に動いた灰原が彼女をギリギリ捕まえる。勢いを殺しきれず一緒に吹っ飛びそうになったところを夏油の呪霊が受け止めた。

真正面から《赫》を受けた衝撃で貴透は完全に気絶している。鼻と口から血が滴り、右手はあらぬ方向に曲がっていた。

 

「何やってるんだ!悟!」

 

夏油の声で我に返った。

駆け付けた家入がすぐに貴透の治療に入る。顔を歪めた七海に胸ぐらを掴まれた。

 

「貴方の術式ならあそこまでする必要はないでしょう」

 

「やめろ七海。悟もどうしたんだ、らしくない」

 

揉み合いに発展しかけたところで夜蛾を含めた教師陣が騒ぎを聞きつけてやって来た。

結局、五条は夜蛾から指導という名の鉄拳を食らい数日間の謹慎処分。貴透にも意識が戻り次第なにかしらの形で処分が下ることとなった。

 

 

 

謹慎を言い渡された五条は一人部屋で考え込んでいた。

七海の言う通り、自分の無下限なら弾けたはずだ。だが、とっさに体が動いていた。

 

つい首をさする。あの感覚は夢ではない。

例えるなら肉食獣に首を咬まれた草食動物だろうか。喉元を噛み砕かれるような、根源的な恐怖。そんなものが自分の中に残っていたことも驚きだが。

 

貴透が術式を発動させた瞬間、五条の目にはあるイメージが見えていた。

黒い(もや)から垣間見えた巨大な口、そこから覗く歯と不気味な触腕。触腕が己の首に絡み付こうと伸ばされた時にはもう貴透を吹き飛ばしていた。

あれは一体何だったのか。考えようにも頭痛とともに脳があれについての思考を拒否している。

 

ただ、あれは人間とは決して相容れない存在であるということだけは分かった。

 

 

 

「だからやりたくなかったんだよー」

 

医務室のベッドで貴透は一人愚痴をこぼしていた。

五条なら自分の術式なんぞ余裕で弾いてくれると思っていたが、想像以上に強烈な反撃をもらってしまった。灰原が受け止めてくれなかったらあのままどこまで吹っ飛ばされたことか。衝撃が重すぎて一瞬で意識が持っていかれた。生きていただけ運がいい。

ポケットに入れていたうまい棒は一緒に衝撃を受けたせいで粉になっていた。

 

貴透の術式が役立たずというのは嘘ではない。単に七海と灰原には完全に術式を開示していないだけだ。

「黒雲顎門」は発動の条件がシビアということと効果の相手が限られているため、呪霊相手の戦闘ではそもそも使用機会がない。

 

その一、対象が自分を中心とした半径2m以内にいること。

その二、貴透自身が対象を両目で視認していること。

その三、対象が()()()()()()()

効果は対象の生命を奪うという非常にわかりやすいもの。

 

そこまで殺人特化にしなくてもいいだろうと何度思ったことか。

 

本来なら貴透の術が五条を捉えるなどまず無理だ。今回のように発動前のタイムラグに射程圏外まで飛ばされるのは言わずもがな、そもそも射程圏内に近付かせてもらえないのだから。

任務の戦闘でも使用できる環境が整うことはまずない。発動まで対象を両目で視認していなくてはならないため途中でよそ見すれば不発に終わるし、下手をすればフレンドリーファイアもあり得る。

要は自分を舐めてかかってくる相手に対するタイマン専用だ。

 

五条相手に使用したなんて報告したら確実に星川に怒られる。

 

「でも最近あの人忙しそうだしなー」

 

何でも『協力者』が有益な情報を持ってきたとかなんとか。

一度だけ、その協力者に会ったことがある。額にある縫い目を除けば見た目は普通の人間だった。しかし、何か底の知れない不気味さがあったことを覚えている。

貴透は自分の学生生活を守れるなら、星川が何を企んでいるのかにさして興味はない。

 

でも、こんな自分に居場所をくれて感謝はしているから、星川には生きていて欲しいとも思うのだ。

 

 



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【12】モロッコヨーグル

色々とガバガバなのは筆者があんまり深く考えずに書いてるからです。(言い訳)
誤字・脱字報告ありがとうございました。


肌寒さに身を縮こまらせた貴透は七海と共に呪詛師の目撃情報があった廃倉庫を訪れていた。

外の人の出入りを確認できる位置から様子を窺う。

 

「わざわざ捕縛とかする必要あるのかなぁ。帰っていい?」

 

「駄目に決まってるでしょう」

 

「相手三級相当でしょ?七海一人で十分だと思うんだよね」

 

「それとこれとは話が別です。というかあなた今一人で行動できないでしょう」

 

七海の言うとおり、貴透は現在任務だけでなく個人的にも単独で外出することを禁止されている。それが貴透に言い渡された『処分』だった。

約一週間前、術式訓練として五条と立ち合ったところ大怪我を負い、教師陣にしこたま怒られた。特に夜蛾のおっかない顔は思い出したくない。その後、『三か月間の緊急事態を除いた単独行動の禁止』が枷として付けられてしまった。行動の制限に高専敷地内は含まれない。言い換えれば今までのように外に買い物へ行くことも出来なくなってしまった。

 

「私だけなんか厳しくなーい?五条先輩は謹慎だけだったんでしょ?」

 

「文句は先生方に。付き添いを任されるこちらの身にもなってください」

 

「どうせ大体一緒に任務行ってるんだからあんまり変わらないじゃん」

 

「今日は私しかいないからフラフラするなと言っているんです」

 

灰原は二級への昇級のため、別の任務に就いていた。現状は七海が二級、灰原が三級、貴透は残念ながら四級のままだ。

七海は同期であるがゆえに真っ先に貴透の世話を押し付けられてしまった。この同級生が嫌いなわけではないが、自分の時間を取られたくないというのが正直なところだ。

 

「それに単独で動くのを推奨されてないのは私たちもです」

 

少し前から呪術師界にも伝わってきた噂。呪詛師とそれに手を貸す非術師までも消している『呪詛師殺し』。オガミ婆一派が消息を絶ち、一派と交流があった呪詛師を捕らえたことでその存在は呪術師界にも知られることとなった。

まだ呪術師の被害報告は上がっていないものの、警戒のため二級以下の呪術師には複数で任務にあたるよう情報共有がなされた。

 

「ふーん。お、当たりだ」

 

「食べるならさっさとしてください」

 

「分かってないなー。これはチマチマ食べるから良いんだって」

 

しゃがみこみ、ポケットから引っ張り出したのは手のひらに収まる白いカップ。象がプリントされた蓋を剥がし、小指ほどしかない木のスプーンで中身を掬って口に運ぶ。

同じものを七海にも差し出す。七海は何も言わずに受け取り立ったまま蓋を剥がした。この流れにも慣れてしまった。

扱いにくい小さなスプーンで食べ進める。といっても三口ほどで終わってしまうのだが。

口の中で溶ける甘酸っぱさを飲み込む。貴透を見るとカップの中身は半分も減っていなかった。

ため息を吐きながら貴透の手にあるカップを取り上げる。

 

「…だから体調不良の報告はしなさいと言っているでしょう」

 

「さっきまでは平気だった」

 

「今は今です。先に迎えを呼びましょう」

 

「いいって。どうせ戻っても良くなんないし、二度手間じゃん」

 

貴透の体調は悪化していた。

以前までなら次の日にはケロッとしていたのに、最近は数日間症状を引きずることが増えている。

番号をプッシュする手を止め、携帯を一旦しまう。この調子では戦闘は無理だろう。

 

「手早く終わらせます。ここを動かないように」

 

「…はーい」

 

浅い呼吸を繰り返す彼女の背をさすってから立ち上がった。

 

 

 

報告にあった呪詛師たちは非術師に呪具を横流ししていた。取引現場を押さえ、顧客であろう非術師もまとめて拘束する。

 

「これで全員か?」

 

先ほどまで殴りつけられていた男は怯えながらも口元を歪ませた。

 

「全員だよ、呪詛師(俺たち)はな」

 

「何?」

 

取引に用意されていた呪具が目に入る。拘束した非術師の数より()()()()()

舌打ちと共に男を殴って気絶させる。例え非術師であっても、今の動けない貴透では相手ができると思えない。

すぐさま倉庫を飛び出し、彼女の待機位置に向かう。こちらが餌に釣られたのだとしたら、もう手遅れの可能性もある。

崩れたコンクリの塀を飛び越え、待機位置である業務用通路に入る。

目に入ったのは取引に来た非術師の一員であろう男。態勢を崩し、倒れかけている男に向かって白刃の切っ先が向いている。

 

「待て!」

 

七海の声にナイフを振り下ろす腕が一瞬強張った。しかし、勢いは止まらず男の首から鮮血が舞う。

倒れた男は出血する首を押さえて震えていた。怪我は浅くないが生きている。

 

「貴透…」

 

「……あ、おかえり」

 

「その人は、非術師でしょう」

 

「そう、なのかな。ごめん。あんま頭回ってなくて」

 

虚ろな目は焦点が合っていない。

 

まただ。墓場で呪霊を殺した時と同じ不安感と違和感。呪霊とはいえ人の形をしたものを殺すのにあまりにも躊躇いがなかった。

彼女は()()()()()()()()()()()()()()()()()()という疑問。

 

「七海はどうしたい?」

 

視線を明後日の方向に向けたまま貴透は問いかける。

 

「…殺しません。あくまで彼らは捕縛対象です」

 

「そっか」

 

それだけ言うと貴透は力なく座り込んだ。

 

 

 

五条は職員室の扉を睨んでいた。

夜蛾に呼び出されたものの、謹慎明けでまた説教を聞かされるのかと思うとうんざりする。いっそ帰ってしまおうかと踵を返したとき、扉が開いた。

 

「もう来ていたのか、悟」

 

「帰るとこでーす」

 

「待て、話すことがある」

 

「なんだよ、こないだのはただの喧嘩っつっただろ」

 

「ここじゃなんだ、場所を移そう」

 

そう言うや否や夜蛾はさっさと歩いていく。

無視して拳骨を落とされるのも面倒臭い。大人しくついていくと、夜蛾は資料室へと入っていった。五条が続いて部屋に入ると、夜蛾は会話が漏れないように簡易結界を張った。

デスクには資料が山となっていた。専門書、学術書、民俗学に宗教学。オカルトめいた悪魔崇拝に関する本まである。

 

「単刀直入に聞く。悟、貴透の術を受けた時に何を見た?」

 

「何、つっても」

 

「答えにくいなら質問を変えよう。これに近いものを見たか?」

 

そう言って夜蛾は資料の山から一枚の紙を取り上げて五条に差し出す。そこに描かれていたのはある図像。

空を覆うほどの巨大な黒い雲を裂く涎を滴らせる口。大地を踏み砕く大樹のような蹄の脚。雲から生えた無数の触腕は足元の人間を何人も絡めとり、口へと運んでいる。

見ているだけで頭痛がしてくる狂気的な絵だった。

 

「これ…」

 

「既に解体されている宗教団体が信奉していた特級呪霊を元信者の証言のもと描き起こしたものだ。いや、正確には特級に()()()()()()()()()()存在だ。詳しくはまだ不明だが恐らく、貴透はこのカルト宗教と関りがある」

 

姿は若干異なるものの、間違いなく五条が知覚したのはこれだ。

 

「あの時は他の教員の目もあり、誰に聞かれているかもわからなかった。きちんと話を聞く事が出来ずすまなかった」

 

「いや…。俺が後輩にめっちゃムカついたからやったとか思わなかったの?」

 

「自分の力に自覚があるオマエが、簡単にそんなことはしないだろう」

 

その言葉に押し黙るしかなかった。この熱血教師は雑そうに見えて生徒をよく見ている。

 

「俺の権限では貴透の行動を三か月制限するのが精一杯だった。流石に特級のオマエを貴透と組ませるわけにはいかんだろうが、高専内ならまだオマエの目が届く。異常があればすぐに報告してほしい」

 

「監視役ってこと?んなことしなくても、あいつふん縛るなり閉じ込めるなりすりゃいいだろ」

 

「恐らく貴透は上層部と通じている。そう簡単には手が出せん。だから、処分という名目がある今がチャンスだ」

 

行動制限があるうちに彼女が何をさせられているのか、上層部が何をしているのか尻尾を掴まなければ。彼女の身に異変が起きる前に。

宗教団体の教義であった『産みなおし』と呼ばれる儀式。生贄を捧げることで水子に崇拝する呪霊の魂の一部を分け与え、命を繋ぎとめることと引き換えに呪霊へ間接的に生贄を捧げ続ける存在へと変える。

それが事実なら貴透はいずれ人を殺し、()()()()()()()()()()()

 

 

「若人の未来を、保身ばかりの大人に踏みにじらせるわけにはいかん」

 

 

 

 

星川は思案していた。

 

こそこそと貴透について嗅ぎ回っていた術師は最後まで口を割らなかったが、誰の差し金かはおおよそ予想がつく。夜蛾正道という男は裏表がない分行動が読みやすい。生徒のためとなったら率先して動くような『教師らしさ』を持っているのは夜蛾くらいのものである。

 

貴透の母親についての資料があちらに渡ってしまったのは想定外だったが、星川の計画に大きく影響を与えるものではなかろう。もう事態は第二段階に移っている。

 

『協力者』からの援助を受けるために、天元と星奬体の同化を阻止するのは骨が折れた。

上からは盤星教を潰すように指示されたが、そんなことをすれば星奬体暗殺に釣られた呪詛師たちが手を引いてしまうのは明白だった。「術師殺し」も金が無ければ依頼から離れると思っていた。

 

だから、貴透に()()()()()()()()()()()()()()()殺させた。

上層部からは「園田と中心幹部の殺害」しか依頼されていなかったが、星奬体が生存した場合に同化を止めるための対上層部の保険として。

ただでさえ非術師側に手を出すよう命令し、さらに被害者まで出してしまったとなれば口を噤まざるを得ないと考えた。

 

星奬体側が同化を拒否してくれたのは僥倖だった。おかげで上層部を黙らせるのは容易かった。

切り捨てられることも想定し、信者たちの死体と暴露材料は残しているが今のところその気配はない。想像より爺どもは臆病だったようだ。

だが、それも時間の問題だろう。あまり暴走が過ぎればあっさりと掌を返してくるに違いない。

 

『協力者』は術式というものに異様なまでに造詣が深かった。

星川の持つ術式は「物体の移動」だ。頭の中で移動先への動線を明確にイメージし、手で触れられるものを任意の場所に転送することができる。今までの死体の運搬も痕跡の抹消も全て星川がやってきた。

この術式の問題点は生き物は対象に入らないということだった。移動には何かしら人目に付く交通機関に頼らざるを得ない。

しかし、『協力者』の力添えによってそれが解決する糸口をつかんだ。呪具に星川の呪力を込め、転送対象となる人間に所持させる。『星川の意志で発動できない』ことと『対象者以外の全ての物体を術式対象外とする』という二重の縛りによって実現した新たな形。まさに発想の転換だった。

後は実験の後に実用化するまで。

 

実験に適した場所の確保は住んでいる。山奥の排他的なとある村落。外との交流もほぼなく未だに前時代的な思想が残り、理解の及ばないものを淘汰しようとする。情報によれば少し前から呪霊による神隠しと思しき騒ぎが起こっており、高専に依頼が回ってきていた。

これほど好都合なこともないだろう。

 

もうすぐだ。もうすぐ痴れ者の統べる時代は終わる。

より良い環境のために、可及的速やかに呪術界を転覆させる。大いなる母の降臨に、呪術師の存在は不要だ。

 

 




シュブニグラスは人間を丸吞みにして産み直し人ならざる存在へと変える、という恩恵があるそうですよ。
そして、要求する生贄の数はエスカレートしていくそうです。


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【13】マーブルチョコ

多分あと1、2話くらいで終わります。


 

耳鳴りがひどい。

貴透はぐったりと座席の背もたれに体を預けていた。体調不良は日に日に酷くなる。

苦しすぎて七海の前でうっかり人を殺しかけたほどだ。

ぐわんぐわんと耳の奥で反響している音は不協和音をいくつも重ねたような不気味な響きで脳内を掻き回してくる。

 

自室で倒れこんでいる所を星川に引っ張り出された。

単独行動を禁止されているため、高専から一級術師と共に車で移動している。てっきりいつものように呪詛師を狩りに行くものだと思っていたがそうではないらしい。

車は人通りのないトンネルの前で停車する。

 

「では、手筈通りに」

 

術師は頷くと帳の向こうへと消えていく。

 

「あれ、任務じゃないんですか」

 

「彼()ここでの任務だよ。私たちの目的地はここじゃない」

 

車に戻ろうとすると引き止められた。何か手渡される。

手のひらに収まるほどの大きさのそれは山羊の角を模った黒曜石だった。

 

「何ですかこれ」

 

「これからは移動にそれを使ってもらおうと思ってね。呪力を流すことでいわゆる瞬間移動が可能になる。今回は私が予め移動先を設定しているけれど、自分で使うなら明確に移動先をイメージすることだ」

 

よく分からないまま呪具に呪力を流す。

次に目を開けて見えたのは山奥の村だった。

 

「最近は呪詛師たちもすっかり鳴りを潜めてしまっていてね。君に提供できるものとして、ここを選んだんだ。最近ずいぶんと体調も悪化しているようだし」

 

「…良いんですか。別に村ごと呪詛師と繋がってるとかじゃないんでしょ」

 

「良い。君は殺すだけでいい。ここは少し前から呪霊による神隠しが頻発している。村民が消えたところで疑われない。元々外界ともつながりが希薄な場所だ。発覚するのも早くて数か月後だろう」

 

「でも」

 

「『協力者』が死体を欲しがっていてね。その呪具の微調整もしたかったし丁度いいんだ」

 

それに、と星川は言葉を続ける。

 

「まだ君は学生生活を送りたいだろう?」

 

「……」

 

手渡された呪具をポケットに押し込む。

息が苦しくて仕方ない。

 

 

 

美々子と奈々子は檻の片隅で身を寄せ合っていた。震えているのは寒さのせいだけではない。

先ほどから、ずっと外から悲鳴が聞こえている。何が起こっているのかここからでは分からない。バタバタと騒がしい足音が近付いてきた。村人の一人が青い顔で駆け込んできた。

 

「た、助け」

 

言い終わる前に、男の体が前に傾ぐ。背後から現れた血液を滴らせる白刃が迷いなく首を貫く。

男が潰れたカエルのような悲鳴を上げながら倒れた。びくりと断末魔に身体を震わせている。

血塗れの前髪から覗く目がこちらを見た。喉の奥が引きつる。

 

「あれ、まだ人残ってたんだ。もう皆殺したと思ったのに」

 

この場に不釣り合いな軽い口調で恐ろしいことを口にする。檻の前にしゃがみこんで二人をじっと見ている。

 

「なんでそんな所にいんの?」

 

「…私たちが、呪術師だから」

 

「え、同業者じゃん。姉妹?双子?」

 

こくりと頷いて肯定を返す。目の前の少女が何を考えているのか美々子にも奈々子にも分からない。

 

「二人くらいならバレないかなー…。でもなー…」

 

湿った前髪をいじりながら何か呟いている。

 

「ホントは皆殺しにしろって言われてるんだけどさ、君らに似た子が友達にいるからあんまり殺したくないんだよね」

 

「じゃあ…」

 

「だから約束」

 

檻の間から腕を差し込んで小指を立てる。

 

「私がここにいたこと、ここでやったこと全部秘密にするって約束してくれるなら私も君らのこと秘密にする。ついでに良いものもあげる」

 

少し迷ってから、二人は小指を絡めた。少女は満足げに笑いポケットから細長い筒を取り出した。少し血で汚れた蓋を引っこ抜き、こちらに差し出す。

 

「手出して」

 

手のひらいっぱいにざらざらとカラフルな粒が落とされた。甘い香りがする。

空になった筒をポケットにしまい、少女は立ち上がった。檻にかけられていた南京錠をナイフで破壊する。

 

「今日中に片付け終わると思うけど、出るなら明日の朝とかの方が良いかもね」

 

バイバイ、と手を振って少女は村人の死体を引きずって扉の向こうへと消えた。

 

 

 

七海は自販機横のベンチで一人考え込んでいた。

以前に貴透が切りつけた男は一命を取り留め、「体調不良を原因とした判断力の低下による過剰防衛」として報告をあげた。

心の中にはずっとしこりが残っている。自分でも分かっていた。判断力が低下している人間が、あんなに正確に急所を狙った攻撃が出来るわけがないことくらい百も承知だ。あれは明らかに体に染み付いた動きだった。

それでも、ありのままを記すことが出来なかった。

 

深いため息をつく。考えたところで自分の判断が正しかったのか、答えは出ない。

不意に首筋に熱いものが当てられた。驚いて顔を上げると缶コーヒーとココアを持った灰原が笑いかけた。

 

「灰原…」

 

「ごめんごめん。呼んでも全然反応なかったから」

 

はい、と差し出された缶コーヒーを受け取る。じりじりと手のひらに熱が広がる。

 

「貴透と何かあった?」

 

灰原は言葉を誤魔化さない。その率直な物言いは美点ではあるが、今はどう答えたものかと迷ってしまう。

そもそもまだ確証のない話だ。自分が口を閉ざしてしまえば知られることはない。

 

本当に、それでいいのだろうか。

 

「…灰原は貴透をどう思いますか」

 

抽象的な質問に灰原は一瞬キョトンとした顔になり、すぐにハッと何かに気が付いたように口元を押さえた。

 

「もしかして、七海。貴透に告ってフラれた?」

 

「違う」

 

食い気味に否定しながら眉間に皺を寄せる。「冗談だよ」と灰原は笑顔を引っ込めて少し考える。

 

「うーん。アホっぽいし変わってるけど、悪い奴ではないと思うよ」

 

「そうですか」

 

「七海はどう思ってるの?」

 

「私は…」

 

自分は、どうなのだろう。

しょっちゅうフラフラどこかへ行こうとする手のかかる同級生。灰原と悪ノリしているときは少々、いやかなり面倒くさい。駄菓子のことになるともっと面倒くさい。

デリカシーに欠けているくせに、他人をよく見ている大切な同期。

 

「少し、気になっていることがあります」

 

あくまで自分の違和感だという事を前置きにして、七海は話し始めた。

灰原は時折相槌を打つだけで、ひたすら耳を傾けていた。

 

「正直、私の考えすぎだというのも捨てきれません」

 

「でも、そう思えないから話したんだろ?」

 

沈黙が落ちる。

どちらも言葉を続けられずにいると、パタパタとこちらに近付いてくる足音が聞こえてきた。

 

「あ、こんな所にいた」

 

曲がり角から貴透がひょっこり顔を出す。

 

「体調はもう良いんですか」

 

「今のところねー。暇ならどっちでも良いから買い物ついて来てよ」

 

「そっか、一人で外出れないんだもんね」

 

「もーマジで不便。いっその事学校の敷地に業者呼んで店開いてほしい」

 

「それはあなたにしか需要がないでしょう」

 

「私にあるんだから重要でしょ」

 

早くー、と急かす彼女の顔色は以前より血色が戻っている。そのことに七海は少しだけ安堵した。

 

 

 

「イケメンだー!」

 

「金髪だー!」

 

貴透の行きつけだという店の前で二人の小学生が道路にチョークで絵を描きなぐっていた。瓜二つの顔を見るに双子だろうか。

二人はこちらを見るや否やこれでもかと目を輝かせて叫んだ。

 

「貴透の知り合い?」

 

「友達」

 

二人はランドセルを店先に置いたまま貴透にタックルをかけて抱き着く。ぐえっと貴透から潰れたカエルのような声が漏れた。

 

「とうちゃんの彼氏!?外人と日本人の彼氏!?」

 

「どっちが彼氏?両方?」

 

「やめてください。縁起でもない」

 

「貴透が彼女なのはちょっとなー」

 

「おいコラどういう意味だ」

 

きゃらきゃらとした声を弾ませて二人の小学生は楽しそうに貴透の腰に引っ付いている。

 

「何か買ってくる?」

 

「おまかせします」

 

「じゃあ僕も」

 

「いつもと変わんないじゃん」

 

「しょうがないなー」と笑いながら双子とともに店の中へ消えていく。あれがいいこれ買ってとせがむ微笑ましい声が聞こえてくる。

つい七海は苦い顔になった。少し前までなら、こんな穏やかな時間に疑問を持つことも無かっただろう。

ベンチに座った灰原は険しい表情の七海を見上げる。

 

「僕はそんなに難しいことじゃないと思うよ」

 

「…彼女が人殺しだとしてもですか」

 

「自分で見たわけじゃないからなー」

 

口調はいつもと変わらないが灰原の顔は真剣なものだ。

 

「なんの理由もなく貴透がそんなことするわけ無いって七海も分かってるから悩んでるんじゃない?」

 

「……」

 

「もし、貴透が悪いことしてるならさ。その時は、二人で止めようよ」

 

「…そうですね」

 

まだ間に合うだろうか。

救うだなんて傲慢なことは言わない。それでも手を伸ばして届くなら、こちら側に引き戻せるなら、やらないなんて選択肢は無いだろう。

 

「おまたせー。何難しい顔してんの?好みのタイプで対立でもした?」

 

「違います」

 

「何買ってきたの?」

 

「これ。はい、二人とも手を出す」

 

言われるがまま手を出せば目に眩しいカラフルなチョコレートが筒からこぼれた。

貴透は普通サイズの筒の二倍はありそうな大粒と書かれたパッケージを片手に双子とどう分けるかじゃんけんを始めている。

その光景を眺めながら、七海は黄色の粒を口に含んだ。

 

 

 

貴透は二重の意味で普通ではなかった。

人を殺さなければ生きられない体質と呪いが見えるという二つの異常。友達はいても、本当の意味で共感ができる相手がいなかった。

だから、片方だけでも良いから普通で居られる場所が欲しかった。

最初から分かっていたことだ。そんな願いは長く続かないことなんて。

 

良いじゃないか、ちょっとくらい欲張ったって。自分ではどうしようもなかったんだから。

 

角を模した石を手のひらの上で転がす。

もうすぐこの殺伐としていて、手放しがたい学生生活は終わるのだろう。

なんとなく、そんな予感がしていた。

 



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【13.5】閑話

伏黒はベランダでタバコをふかしていた。

 

津美紀と恵は学校へ行っている。少し前に一気に金が入ったことでしばらくは働かなくても良くなっていた。

最初こそ賭け事に明け暮れていたが、津美紀に号泣されながら怒られてから頻度は減っていた。

津美紀以上に面倒なのは恵だ。津美紀号泣事件以来、外に出ようとすると絶対に突っかかってくるうえに帰ってきてからもじーっと睨まれ続ける。別に気にしてはいないが、次に騒ぎを起こしたらアパートから叩き出すと大家に釘を刺されてしまった。こっそり競馬に行ったとしても目ざとい恵にはすぐ見つかる。大家に垂れ込まれたらより面倒くさい。

だから、こうして大人しくタバコを咥えている。

つまらない。やはり競馬場にでも行くかと腰を上げようとした時だ。

 

ふと、伏黒の携帯が震えた。

ディスプレイにはアパートに金を持ってきて以来音沙汰が無かった男からのメールが表示される。

 

「んだこれ」

 

意味不明な文字の羅列。英語っぽくはあるが見たことのない単語が並んでいる。読もうとすると奇妙な頭痛がしてくる。理解できる部分がないか下へ下へスクロールさせていく。

ずいぶん下の方に伏黒宛のメッセージがあった。

伏黒は口の端を吊り上げる。ポケットから男から預かったUSBメモリを取り出す。男が死んだとき用に渡されたスペア。伏黒に渡しておけば時が来るまで絶対に術師側に漏れないと、莫大な金と信用を賭けられた。

 

一度だけ興味本位で中の情報を覗いてみたことがある。

「母なる黒山羊」というカルト団体の詳細情報、教団に関わっていたとある呪術師一族の顛末、そして化け物から産み落とされた『貴透由衣』という存在について。何も知らない人間が見れば悪趣味なオカルト創作で片付けられてしまうような内容が事細かに残されていた。

傑作だったのはその化け物の落とし子を使って、あろうことか呪術師界の上層部が呪詛師とそれに加担していた非術師の殺害を指示していたという証拠が大量に出てきたことだ。音声ファイル、テキストファイル、廃棄されたであろう機密書類のスキャンデータに至るまで、よくもまあ隠蔽を免れて集めたものだ。

その他にも()()()()()()()()()の殺害に関する記録も出てきた。どうやら貴透という人物は呪術師界に入り込む以前から恒常的に殺しをしていたようだ。

『呪詛師殺し』などとよく言ったものだ。伏黒よりもよっぽどタチの悪い殺人鬼ではないか。

 

男が言った爆弾という比喩はあながち間違っていない。起爆は伏黒に任されたというわけだ。

これらすべてが公になれば、貴透だけでなく地位にしがみ付いてふんぞり返っている爺どももただでは済まないだろう。

 

あの男はいけ好かなかったが、自分を猿だと嘲笑っていた連中の頭である性根も頭も腐った爺どもの鼻をあかすことができるなら悪くないと思った。

 

「ま、金はもらったしな」

 

タバコをコンクリに押し付けて、伏黒は立ち上がった。

 

 



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【14】すっぱいガム

パパ黒が出てくるとなぜか伸びるこのお話も今回で最終回です。
話終わらせるのって難しいですね…。今までで一番書き直した気がします。

※かなりクトゥルフ要素が強いです。五条先生は根性で発狂を耐えました。

感想、評価などありがとうございます。とても励みになりました。


星川という男は信心深かった。

 

呪術師の家系でありながら豊穣の神を祀っていた実家の影響で、物心つく前から「母なる黒山羊」の一員として育てられた。

 

「産みなおし」は選定だ。喪った命を授けるという名目のもと、その実態は信奉対象である神の降臨に必要な依り代を用意するものだった。

しかし、中々適合する個体は現れなかった。成り損なって赤子とさえ呼べるのか怪しい何かを抱え笑顔で礼を言う女たちを何人も見てきた。そんな半端なものですら己の子であると信じられるのだから、母親という生き物の情念は恐ろしい。

 

ようやく適合した個体が現れた矢先に呪術師の襲撃を受け、教団は解体された。誤算だったのは呪術師の中に神を退去させる呪文を知る者がいたことだ。

星川は術師たちの追跡から逃れることに成功したが、呪具も人材も失い、実家は呪術界の汚点として闇に葬られた。

 

顔を変え名を星川と改め、補助監督として呪術界に再び潜り込んだのは解体騒ぎで行方不明となった適合体を探すためだ。きな臭い噂なら表の世界よりこちらにいる方がよっぽど耳に入りやすい。

そして、数年の捜索期間を経てようやく居場所を掴んだ。

ある地域で移動するように上下していた呪殺件数。単体で見れば誤差のようなもの。しかし、現地で確認した呪殺被害者たちの遺体を見て星川は確信した。巧妙に偽装してあるが紛れもなく人間が殺している。解剖に回される前にそれらの遺体はこっそりと引き取った。

現地に赴き、死体の引き取りと現場偽装を繰り返しながら足跡を追い、ようやく貴透由衣(適合体)たどり着いた。

 

幸運だ。やはり神は自分に味方している。

 

星川の目的はただ一つ。貴透由衣を依り代としてかの神をこの地に完全顕現させること。

今度は退去の呪文など効かない。完璧な形で『こちらの存在』として定義する。呪術師も、呪詛師も、非術師も例外なく彼女の腹に収まることになるだろう。

 

呪霊とするにはあまりに強大。神と呼ぶにはあまりに冒涜的。それでも人智を超えたその存在に人は名前を付けて神と呼んだ。

そんなモノが産み落とした落胤。生物を殺し、生贄を捧げ続けることで貴透由衣の魂は神とより強く結びついていく。あともう一押しなのだ。

貴透に持たせた呪具はただの呪具ではない。神に依り代の位置を伝えるための発信機だ。

あとは、依り代が祝詞を唱えればいい。

 

本来なら上層部が今まで自分と貴透に命じていたことを洗いざらい暴露し、混乱に乗じて上役たちを皆殺しにするつもりだった。その後は貴透の存在を盾に散り散りになっていた教徒たちを呪術界に潜り込ませ、ゆっくり下地を整える予定だった。

しかし、思ったより夜蛾の動きが早い。今のままの貴透に五条をけしかけられたら確実に負ける。その前に動かなくては。

 

かつて取り上げられ、忌庫にしまい込まれていた聖典。最悪原本がなくても祝詞さえあればなんとかなる。

頭痛と吐き気に苛まれながら常人は理解しようのない単語の羅列を携帯に打ち込んでいく。狂気の狭間で作業を進める。背後から近付く気配に気が付けなかった。

後頭部に鈍い音。景色が回転して、頬に固い床が当たる。

 

「やあ、今まで暗躍ご苦労さま」

 

こちらを覗き込んで微笑む男の額には一文字の傷が走っている。

じくじくと後頭部に広がる熱。思考が塗りつぶされていく。

 

「貴透由衣はなかなか参考になる面白いモデルケースだったよ。人間の進化の可能性の一つと言ってもいい。あまりにお粗末で醜悪だがね」

 

侮蔑を込めた笑い。

男に悟られないように、星川はポケットに手を潜り込ませる。こうなることを想定していなかったわけではない。男は機嫌がいいのかお喋りを続ける。

 

「しかし、このままこの国もろとも呪術師を皆殺しにされては困るんだ。まだ私はやりたいことがあってね。君らが大量に死体を増やしてくれたおかげで当分は動くのに困らない。安心するといい、彼女のことは五条悟が片付けてくれるさ」

 

携帯のボタンを決められた順で押していく。画面が見えなくとも、この手順を踏めば用意しておいたメッセージは一斉送信される。

この先の未来、人間のいなくなった地で笑うのは自分じゃなくていい。

最後のボタンを押したとき、再び頭に衝撃が落ちた。

 

「さようなら、哀れな狂信者。ついでに君の体も貰っていくよ」

 

 

 

貴透は高専から逃げる支度をしていた。

 

しばらく星川との連絡が途絶えていた。何やら忙しそうにしているとは思っていたが、ここまで音信不通だったのははじめてだ。電話にも出ないので直接会いに行くかと迷っているところにメールが来たのだ。

 

星川はメールを使わない。

メールは消去してもデータが残ってしまうと言って、必ず盗聴対策のされた秘匿回線で連絡を取っていた。それなのにメールが来たということは、星川自身が声すら出せない状況にあるということだ。

送られてきたメールの前半には呪文のような文字列のみが並んでいた。常人が読んだら理解できないオカルトめいたそれを貴透だけが理解できた。全てに目を通して唱えたら自分の身に何が起きるのか、何が()()()()()のかを不思議と直感的に理解できた。

これを読んで理解できるというのもおそらく星川のシナリオ通りなんだろう。

後半部分は自分以外の誰かに向けたメッセージということしか分からなかった。

 

「お別れくらい言ってくれればいいのに」

 

結局、星川は一度も菓子を受け取ってはくれなかった。

彼が貴透ではなく自分を通して何か別の存在を見ていることには前から気が付いていた。世間から見れば星川はお世辞にも善人とは呼べないだろう。それでも、居場所をくれた恩人だから少しだけ情はあった。

 

最低限の荷物だけ持って部屋を出る。渦巻の校章は部屋に置いてきた。

星川が死んだと仮定するともう貴透を庇護するものは何もない。上は今までのことを隠蔽するためすぐさま自分を処分しに来るだろう。

 

どこへ行こうか。どこへでも行ける。山羊の角を模った呪具を指先でいじる。

星川から託された呪具は効力を失っていない。今すぐ北海道や沖縄に行くこともできるし、なんなら海外にだって行けるかもしれない。でも、海外には駄菓子屋がない。旅行で行くならまだしも向こうで生活はちょっと気が引ける。

今まで任務で赴いた先を候補地として思い浮かべながら携帯で時間を確認する。

あと三十分ほどで七海と灰原が帰ってくる。

 

「きっとこれが最後だもんなぁ」

 

ポケットに入れたままのロシアンルーレットのガムをおさえる。

卒業証書は受け取れないけど、最後くらい超すっぱいガムを引いて顔を歪ませる同期を指さして笑うくらいはできるだろうか。

人目を避けて音を立てずに移動していると、突如視界がぐらつく。急激に息が上がり、内臓が締め上げられる。

よりによってこんな時に。

つんざくような耳鳴りに呻きながら貴透はその場にしゃがみこんだ。

 

廊下の向こうからこちらに近付いてくる気配。教師ではない術師は貴透を目に留めると呪具を片手に真っ直ぐに歩いてくる。高専内でもお構いなしに殺しに来るとは、思っていたより上層部は焦っているようだ。

時計を確認する。あと二十八分。あと二十八分ここにいられればいい。

貴透は後ろ手にナイフを引き抜いた。

 

「黒雲顎門」はクセが強い術だ。

発動に必要な三つの条件。それによって呪力こそ平凡の域を出ない貴透の術は格上の相手に通用するようになる。

しかし、術の真価はそこではない。

『術師自身が死に瀕するほどの体調不良』という四つ目の縛りによって、貴透の術は完成する。

すなわち、相手の殺害という効果を「絶対不可避」まで押し上げる。

 

落ちた術師の首を見下ろす。遺体に手を合わせてフラフラと歩く。耳鳴りが止まない。

殺した術師の仲間らしき補助監督が貴透と死体を見て目を剝く。悲鳴を上げようと口を開けたままの頭部がごとりと床に落ちた。

二人が帰ってくるまであと十七分。

 

「早く帰ってこないかな」

 

 

 

五条は長期任務の途中で呼び戻され、高専に戻ってきていた。

夜蛾に貴透の監視を頼まれてから異様に五条に回される任務が増えていた。おかげで監視はほとんど機能していない。まるで五条を高専から遠ざけようとしているかのような采配に違和感はあった。それでも任務中に夜蛾から連絡がなかったということはそこまで大きな変容はないということなのだろう。

 

そんなぬるい考えは今目の前に広がっている惨状によって打ち砕かれた。

転がる頭と胴体。廊下の真ん中に広がる殺戮の跡に教師陣と補助監督が右往左往している。ひどく顔を歪めた夜蛾がこちらを見た。

 

警戒していなかったわけじゃない。それでも、夏油があそこまで気を許しているのなら、もしかしたらと思ったのだ。もしかしたら、人間らしい心を持っているのではないかと。どれだけ生物として歪でも、人間と相容れぬ存在だとしても、人として生きようとしているのではないかと。

 

そんなことあるわけねぇだろ。

 

残穢を追って駆け出す。気配はまだ高専を出ていない。()()を外に出してはいけないと脳内で警鐘が鳴る。

あの時。一番はじめにあの異質さを知覚したとき。やはり、殺さなくてはいけなかったのだ。

 

 

 

「貴透、喜ぶんじゃない?」

 

七海が片手に提げた袋を見て灰原は嬉しそうに笑った。七海は少し居心地悪そうな顔になりつつも何も言わない。

貴透にお土産を買って帰ることを提案したのは七海の方からだった。別に特別何かがあったわけではない。ただ、帰り道に駄菓子屋を見つけて、貴透の顔がふと浮かんだ。

灰原は別にからかうつもりなど無いが、七海の行動に頬が緩むのを抑えられなかった。

さっさと報告を済ませてしまおうと歩いていると門の前で夏油に出くわした。

 

「あれ」

 

「こんにちは!夏油さん」

 

「お疲れ様です」

 

「お疲れ。なんだ、七海もついに貴透に影響されたのか?」

 

「夏油さんこそ」

 

「私のこれはお土産だよ。美々子と奈々子に」

 

夏油が手にする袋にはマーブルチョコが入っていた。

神隠し被害が出ていると通報があった地域の山道で保護された双子はすっかり夏油に懐いていた。

発見時ボロボロだった二人はどこから来たのか、何があったのか、一切話さなかった。しかし身体中に残る怪我や衛生状態、大人に怯える様子を見るに、どこかで虐待を受けていたのは明らかだった。

その姿に一番心を痛めていたのが夏油だった。二人が少しでも普通の生活に戻れるようにと気にかけていた。

もともと物腰が柔らかい夏油に二人が心を開くのにそう時間はかからなかった。ほとんど自分たちのことを話さない美々子と奈々子がようやく教えてくれたのがカラフルなチョコ菓子が気に入っているということだった。

 

「最近は五条さんと一緒にいないことが多いですね」

 

「まあ、任務も別々だからね。私には私の、悟には悟のやるべきことがある」

 

そう言った夏油の表情は穏やかだ。

五条が一人で任務をこなすようになり、夏油が『最強』を口にしなくなった時期よりずいぶん明るくなったと灰原は安心していた。

やつれるとまではいかなくとも、どこか暗い雰囲気をまとっていた尊敬する先輩を密かに案じていた。

体術指南をお願いしたのはただの思い付きだったが、思ったよりいい方向に転がったようだ。

貴透は後輩イジメだと不服そうだったけど、傍から見ていれば夏油が楽しそうに指導しているのがよく分かった。

 

「あの人、今は長期任務なんでしょう。あと三日くらいは帰って来ないんじゃないですか」

 

「あれ、さっき急に呼び戻されたって言って夜蛾先生のところに行ったけど」

 

「今日何かありましたっけ?」

 

「さあ?」

 

話していると門の向こうから貴透が歩いてきた。これからどこかへ出かけようとしていたのか、制服ではなくラフなパーカー姿で小型のリュックを背負っている。

 

「あ、おかえり。先輩も」

 

いつもと変わらない軽い調子だが、顔色が悪い。

 

「体調悪そうだけど、出かけるの?」

 

「うん、まあ。その前に二人に会っておこうと思って」

 

言葉の端々に、七海はなんとも言い様のない違和感を感じる。まるで、別れでも言いに来たような雰囲気だ。

 

「そうだ、夏油先輩」

 

「ん?」

 

「美々子ちゃんと奈々子ちゃんに伝えといてください。もう約束守らなくていいよって」

 

「約束?」

 

夏油は首をかしげる。

貴透は美々子と奈々子に面識はなかったはずだ。二人が高専に保護されてから灰原はときどき顔を見に行くことはあったが、それに彼女がついて来たことは一度もなかった。では、その約束はいつ結ばれたものなのか。

灰原も同じ考えに至ったのか、怪訝そうな顔になる。

 

「そんな顔色で外に出ても仕方ないでしょう。これを持って部屋で大人しくしていてください」

 

七海が袋に入った駄菓子を差し出す。それを見て貴透はぽかんとした後に嬉しそうに笑う。

 

「わざわざ買ってきてくれたの?」

 

「たまたまです。深い意味はありません」

 

「やだー、ママやさしーい」

 

「没収」

 

「うそうそ、ありがと。じゃあこれ代わりにあげる」

 

くすぐったそうに笑う貴透がポケットから出したのは黄色いパッケージのガム。以前、灰原が当たりを引いてあまりの酸っぱさに転げまわっていたのを覚えている。

受け取ろうとした七海は何気なく見下ろした貴透の袖口にべっとりと付着した血を見た。一瞬で頭が冷える。怪我、ではない。なら誰の血液なのか。

思考がまとまる前に、弾け飛んだ血しぶきが七海の顔を濡らした。

 

 

 

五条の目が貴透を捉えた瞬間、ぞわりと全身の毛が逆立った。

人より見えてしまう五条にとって、その異常性が知覚できてしまうのはある意味で致命的だった。

術式どころの話ではない、貴透と得体の知れない何かの間に完成した()()()。母体と胎児をつなぐへその緒のようなそれの()を不用意に目で追ってしまったのが間違いだった。

以前、夜蛾に見せられた狂気じみた図像。それをより歪に、おぞましく、悪意と狂気で塗り固めたような存在を知覚してしまった。

五条の脳が防衛本能から意識を強制的にシャットダウンしかける。舌を噛んでギリギリ踏みとどまった。

 

―術式順転、《蒼》。

首をへし折るつもりだったが狙いが外れた。袋を持っていた貴透の腕がぐしゃりと潰れる。噴き出した血が七海の顔に飛ぶ。赤い液体にまみれたビニール袋が地面に落ちた。

咄嗟に七海は貴透を背後に庇い、灰原と夏油が前に出る。

 

「悟、何を」

 

思考が狂気に引きずられそうになるのを血が滲むほど拳を握り込んで耐える。

このまま直視し続けるのは危険だと分かっている。だが、ここで逃がすことは許されない。

 

「さっき死体があがったんだよ。上直属の術師がそいつに殺されてる。残穢が残ってるんだ、言い逃れできねぇぞ」

 

七海の思考が白に塗りつぶされる。

死んだ?何が。殺した?誰が。

貴透が、殺した。

 

すぐ後ろにいたはずの貴透がすっと七海から体を離した。彼女は何も言わない。ただ、隠し事が見つかってしまった子供のような顔で七海と灰原を見る。

それが答えだった。

 

「止めろ!七海!」

 

夏油の叫びに七海は手を伸ばす。貴透に触れる直前、ほんの一瞬の躊躇。

 

ここで引き留めて何になる。

もう貴透をこちら側に連れ戻すことは不可能だ。彼女は既に一線を越えた。きっと自分が気がつくよりずっと前から手遅れだった。ここで貴透を止めると言うことは彼女を殺すということだ。呪術師であるならば、そうすべきだ。だが、七海の心は軋んでいる。その選択を拒んでいる。

 

呪術師であり、彼女の友達である自分はどちらを選択すべきなのか。

 

迷いは動きに如実に表れる。時間にしてほんのわずか。それでも貴透が七海の葛藤を察するには十分だった。伸ばされた七海の手に黄色いパッケージのガムを押し付ける。

少しだけ、彼女は寂しそうに笑う。

 

「元気でね」

 

短すぎる別れの言葉を置いて、貴透の姿は音もなく消えた。

 

 

 

後日、貴透由衣は特級呪詛師として指名手配され、発見され次第処刑することが決定された。

 

 




次回エピローグです。


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エピローグ

投げっぱなしになってたパパ黒の話とそれぞれの後日談。実質パパ黒の一人勝ち。
これで本当におしまいです。完結までだいぶ時間がかかりましたが、楽しかったです。


 

呪術師界は今までにない混乱の渦中にあった。

 

ある高専生の離反。その正体。そして、裏にあった上層部が非術師殺害を指示していたという大スキャンダル。

それを裏付ける証拠の数々は京都校だけでなく五条家、賀茂家にまで送り付けられた。

情報が拡散されてから早々に上層部の面々は行方をくらまし、高専の機能は一時的に麻痺状態に陥った。

夜蛾をはじめとする上級術師たちがなんとか指示を出し、補助監督も窓も休日返上で任務サポートと平行して事態終息にあたることになった。

 

阿鼻叫喚の状況を眺める情報提供者の男、伏黒甚爾はひどく愉快そうに煙草を咥える。

東京校には直々に出向いて全てを暴露した。ほとんど物見遊山気分である。星漿体の件で八つ当たりした五条家の坊と殺し合いになりかけたことは割愛する。

 

伏黒にとって呪術界がどうなろうと知ったことではない。どうせ上はまたすぐに席が埋まる。だが今回の一件で『上層部の決定には誰も口を出せない』という特権は失われたといっても過言ではないだろう。口実を得た御三家はここぞとばかりに介入してくるはずだ。それを見越したからこそわざわざデータをコピーして禪院家以外にバラまいたのだ。

星川が何を目的としていたか知りはしないが、せっかくだから私怨にも使わせてもらう。他家に遅れを取って歯軋りするのを想像するだけで笑いが出る。

右往左往する職員たちをのんびり眺めながら、伏黒は煙を吐き出した。

 

 

 

五条は資料室で夜蛾が集めた図像を眺めていた。

五条が知覚してしまった存在は恐らく『殺す』や『倒す』といった概念の埒外にある類いのものだろう。もしかしたら宿儺の指以上の脅威かもしれない。

 

「悟」

 

顔を上げるといつの間にか夜蛾が部屋に入ってきていた。目の下には連日の騒ぎの疲れが色濃く浮き出ている。

摘まみ上げていた図像を資料の山に放り投げる。

 

「悪かったよ、あのバカ殺せなくてさ」

 

「……いや、それについては俺の不手際だ。お前をあからさまに高専から遠ざけるために任務が回されてくるのを止められなかった。貴透も、もっと警戒してしかるべきだった」

 

「さすがに高専内で堂々と術師(同業者)に手出すとは誰も思わないでしょ。本当はあそこで完璧に仕留めるつもりだったんだけどさぁ。アイツを殺すのけっこう難しそうなんだよね」

 

()()()?オマエが?」

 

信じられないという顔の夜蛾を一瞥して、五条は椅子の背もたれに身体を預ける。

 

「俺は強いけど、アレ相手にはそれが逆に弱みになるんだよね」

 

存在を認識するだけで人間の精神を崩壊させるほどの力を持ったモノ。人より見えすぎてしまう五条にとって、あの存在は天敵も良いところだ。

 

あの存在を直視して五条だけが戦闘不能になるならまだいい。だが、まかり間違って敵味方の区別がつかないほど錯乱してしまったら五条を止められる人間はこの世界に存在しないだろう。

貴透を殺そうとした時だってほんの一瞬知覚しただけでも防衛本能で気絶しかけたのだ。確実に殺すためにはあれと向き合い続けなければならない。それがどれほどのリスクかは他ならぬ五条が一番理解していた。

それでも、殺さなければ近い未来に人の世は終わる。

 

「本当は七海か灰原あたりがやってくれるのが一番いいんだけどね」

 

「あの二人には言うんじゃないぞ、それは」

 

「言わないよ。言うわけないでしょ」

 

灰原もそうだが七海も相当に参っていると聞いている。

同期が殺人鬼だった上に人間ですらなかったのだから、目の前で喪うよりもよっぽどこたえるだろう。止めることすらできなかった七海は特に。

 

「どこ行ったかも分かんないし、しばらくは様子見じゃない?アレが完全に受肉する前に呪術師側(こっち)も体制整えて戦力になる人間増やさないとヤバいし」

 

伏黒が持ち込んだ情報を信じるなら、カルト団体が崇拝していた存在が貴透を通してこちら側に降りてきたときに対抗できるのは五条しかいない。なら、現状できることは完全体になる前に貴透に対抗できる術師を増員することくらいだ。

 

「んで、万が一俺がどうにかなっちゃったときは」

 

サングラスの向こうで蒼色が陽の光を映す。

 

「傑がなんとかしてくれるでしょ」

 

 

 

夏油が任務から戻ると、灰原が自販機横のベンチで俯いていた。

 

「灰原」

 

声をかけると力なく会釈を返された。

 

「…お疲れさまです。すみません、任務交代してもらって」

 

「気にしなくていいよ」

 

自販機に小銭を入れ、自分用のコーヒーと灰原にコーラを買う。

 

貴透が高専から逃亡した後、七海と灰原は貴透との共謀の嫌疑をかけられ一時的に隔離されて尋問を受けることになった。同期であることに加えて目の前で逃走を許してしまったのがまずかったらしい。そして尋問期間中に伏黒甚爾が現れたため、本来より期間が長引いてしまい二人が派遣されるはずだった任務に夏油が代員としてあてがわれた。

結果として、それで良かったのかもしれないと夏油は考える。

 

産土神信仰は土着の信仰が廃れ、忘れられた成れの果ての集合体。祓った夏油の体感としては一級相当の任務だった。もし尋問が長引かず予定通りに七海と灰原が派遣されていたら二人のうちどちらか、最悪の場合二人とも生きて帰れなかっただろう。

貴透の一件が間接的にではあるが七海と灰原の命を救うことになった、というのはなんとも皮肉な話だ。

コーラを一口含んでから灰原が口を開いた。

 

「……夏油さんはどう思いましたか」

 

「伏黒甚爾が持ってきた情報のことかい?」

 

「それもですけど、上層部についてです」

 

一般家庭出身の人間が呪術界の上層部について知る機会はそうない。五条や他の術師からそれとなく良くない噂は聞いてはいたが、未成年の子供を手駒にして最終的には切り捨てるという想像を遥かに超える腐敗っぷりだった。

夏油は苦く笑う。

 

「私は上の連中皆殺しにして高専を出たかったよ」

 

灰原の目が見開かれる。

 

「夏油さんまで高専辞めるんですか!?」

 

置いて行かれた子犬の顔になる灰原にツッコむところはそこなのか、と思わず笑いそうになった。けっこう人でなしなことを言った自覚はあるのだが、そこには目もくれないあたりこの後輩も中々にイカれている。

少し前まではね、と前置きして夏油は壁に背を預ける。

 

「正直、美々子と奈々子を連れ出したかった。このまま高専の保護下にあったらあの子たちもいつ汚い人間に利用されて使い捨てられるか分からないから」

 

でも、と目を細めて前髪をかき上げる。

 

「それじゃあ上がやったことと何も変わらない」

 

高専の庇護下を離れたいというのはあくまで夏油の考えだ。

夏油に対して少々、いやかなり崇拝じみた好意を寄せてくれている双子は自分が言えば二つ返事でついて来てくれるだろう。しかし、未成年の自分が女児二人をつれて誰の後ろ楯もなく生きていくのはきっと想像以上に困難になる。

 

ただ呪いから守ることだけなら夏油一人でもなんとかなる。だが、呪術師としての道を捨てて誰にも頼ることなく二人を育てるなら、きっとまともな道は選べなくなる。

汚れるのが自分の手だけならまだしも、あの二人まで奈落への道程に道連れにしてしまったら「大人に人生を歪められた子供」を自分で作ってしまうことになりかねない。それではそもそも高専を離れる意味がなくなってしまう。

 

「私は、卒業したらここで教鞭をとろうと思っている」

 

せめて、自分がこの腐った呪術界で擦り減らされるだけの子供を守る大人になる。

たとえ綺麗事と言われようと、そうありたいと夏油は願う。

 

「やっぱり、夏油さんは夏油さんですね!」

 

いつの間にか灰原の顔はいつもの明るいものに戻っていた。ベンチから勢いよく立ち上がり夏油に頭を下げてからにっこりと笑う。

 

「話してくれてありがとうございました。俺も自分のやりたいことが分かった気がします」

 

つられて夏油も微笑む。

灰原の腹は決まったようだ。残る一人はどんな選択をするのか。それについて口を出す権利は夏油にはない。

 

 

 

七海は呪術師が善であると思ったことは一度もない。

悪習がはびこるカビ臭い環境で、人にはない力があるからという理由で命を懸けさせられる。そんなもの生け贄と何が違うのか。貧乏くじもいいところだ。

 

灰原は補助監督になると言った。

呪術師ではなく、より広い視野で周りを見れるように。いつか、一番に貴透を見つけられるように。

見つけてどうするのかと問うと、いつも通りの笑顔で答えた。

 

「それは見つけてから考えるよ」

 

夏油は教師になると言った。

貴透のような大人の悪意による犠牲を身内から出さないために、まずは美々子と奈々子を守ることから始めるのだとか。

 

「せめて、私だけは守る立場でいないといけないんだ」

 

五条も教師になると言った。

呪霊よりも凶悪な脅威を取り除くために。いつ目覚めるかも分からない爆弾を放置してはおけないから、強い後身を育てると。

 

()だけじゃ、あいつは殺せないっぽいからね」

 

 

 

七海は。

 

七海は逃げた。

 

 

 

卒業の時に灰原が見せた寂しそうな顔は今でも覚えている。逃げる自分を責めずに送り出してくれたのはひとえに彼の優しさなのだろう。

その優しさすら受け取るのが後ろめたくて、それ以来連絡は取っていない。

 

一般企業に就職して分かったことといえば、社会も呪術界と似たり寄ったりにクソだということくらいだ。

悪意は当たり前にそこらじゅうに転がっていて、隙あらばこちらにまとわりついてくる。

金を稼ぐだけ稼いだら適当なところでドロップアウトして物価の安い外国で呪いも他人も無縁な生活を送る。金があればそれが叶う。寝ても醒めても金のことばかり考えていた。

 

転機はたまたま立ち寄ったパン屋だった。

コンビニでカスクートが取り扱われなくなって、仕方なく売っている店を探して見つけた場所だ。

人当たりの良さそうな女性店員の肩に蠅頭が乗っていることには気が付いていたがもう呪いに関わる気はない。

そのはずだった。

 

「大丈夫ですか?ちゃんと寝れてます?」

 

いつものように気さくに話しかける彼女の目の下にはうっすら隈ができていた。

 

「……貴女こそ疲れが溜まっているように見えますが」

 

「あ、分かっちゃいます?最近肩が重かったり眠りが浅かったりで。ダメですよね、接客業なのに」

 

そう苦笑いする彼女の肩には以前よりも肥大化した呪いが乗っている。

 

自分なら祓える。

だが、今さらそんな人助けの真似事をしてどうする。

 

呪術師はクソだ。だから逃げた。

でも、一番クソだったのはあの時貴透を生かすことも殺すことも選べなかった自分だ。

 

『七海はどうしたい?』

 

懐かしい同級生の声がよぎる。

 

「一歩前へ出てください」

 

店員は不思議そうな顔で言われた通りに前に進む。

七海は腕を振るい、肩に乗っていた蝿頭を弾き飛ばした。

 

「え、あれ?肩が軽くなった」

 

「もし何か症状が残るようなら病院へ。それでは失礼します」

 

「あ、あの」

 

パンを持って外に出る。もうこの店に来ることもないだろう。

七海の後に続いてドアが開け放たれる。

 

「ありがとー!」

 

背中越しに響く大きな声。七海は振り返らない。それでも声は続く。

 

「ありがとー!また!来てねー!」

 

ポケットの中にあるものを握り締める。もう何年も前に戯れで押し付けられたオモチャのカギ。捨てれば良かったのに、ずっと手放せなかった。

 

「どうしたい、か」

 

スマートフォンを取り出す。連絡先の一覧をスライドさせ、一瞬―か行で指を止めてまた下にスクロールする。

一番先に連絡を取るべき相手はこっちだろう。

 

「もしもし、灰原。私です。ええ、明日にでも高専に伺うので迎えを…。何を笑ってるんですか」

 

やるべきことはもう決まっていた。

 

 




お読みいただき本当にありがとうございました。
感想、質問等ありましたらコメントにお願いします。





貴透由衣

生まれた時点から人生詰んでたフォーリナー系女子。
一度目には流産され、二度目は邪神に産み直されるという九相図もびっくりな生い立ちをしている。死んでた時期も含めれば五条たちより年上。
倫理観も罪悪感もSAN値も持っていないが、中途半端に人間っぽく育てられたせいで思考は人間寄り。人間にまぎれて暮らせているのは母親の教育のたまもの。
その気になれば神話存在に進化できるが、七海と灰原が生きているうちはそれがストッパーになっているので人間を完全に辞める気はまだない。二人が死んで行きつけの駄菓子屋が全部潰れたら進化するかもしれない。
そのうちしれっと仔山羊を出したりスカートの中から触手が生えたりする。


いつか使えるようになるかもしれない領域展開

不帰之母胎樹(かえらずのぼたいじゅ)
領域内に一時的に神様を招来させて相手をぶっ殺すというアレすぎるもの。
この場合相手が死ななくても見たらまず精神が吹っ飛ぶのでどのみち助からない。よっぽど運が良くないと生きて出られない無理ゲー。
五条先生は目が良すぎるのでSANチェック成功しても1D100振らなきゃいけなくなりそう。


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【おまけ】チュッパチャップス

日下部、未知との遭遇

リハビリがてら書いたやつです


 

日下部は鼻腔をつく鉄の臭いに顔をしかめた。

 

数日前、地方の廃墟になった神社に呪霊らしきものが現れたと窓から通報があった。同時期にその神社へ複数の不審人物が入っていったという目撃情報もあり、呪詛師絡みと考えられ高専に調査が回ってきたのだ。

窓の担当者曰く、現れたとされる呪霊は気配のみで姿が見えず等級をしぼれていないらしい。

とりあえずは呪詛師をしょっぴいて、呪いの規模を確認するのが最優先だ。

そのつもりで来たのだが。

 

「冗談だろ……」

 

かつては多くの人が参拝に訪れた広い神社は見る影もなく荒廃してる。

そこまでは理解できる。だが、参道を中心とした光景の異様さを日下部の脳は受け入れることを拒否している。

赤黒く染まった石畳と砂利。

拝殿の前には魔方陣に似た巨大な幾何学模様の図形が描かれている。

 

「悪魔でも召喚するつもりかよ」

 

乾いた笑いと共につぶやいた言葉では目の前の異常性をごまかせそうになかった。

細部まで緻密に描かれた図形にはただのいたずらでは片づけられない異様なまでの執念と生々しさがあり背筋が寒くなる。

馬鹿らしいとかぶりを振ってしゃがみこんでこびりついた赤黒いシミを指先でなぞる。

残穢は残っていない。飛び散った血液はすでに乾いているが、量からして複数の人間がここで死んだのは間違いない。しかもかなり惨い方法でだ。

血痕が一ヶ所に集中し、逃げた痕跡がないのは殺された人間が拘束されて身動きがとれなかったのか。

 

「もしくは、殺されることを分かっていてここにいたのか……?」

 

そんな疑問を呟いた日下部の頭上から影が落ちた。

 

全身の毛が逆立つ。

そっと視線を前にずらすと、ひび割れた樹皮のようなものに蹄がついた何かの脚が見えた。

血の臭いを塗りつぶす強烈な獣臭さ。音も気配もなく、あまりに唐突に、理不尽に、()()は日下部の前に現れた。

刀に手をかけるが動けない。顔を上げたら最後、死が待っているという確信にも似た恐怖が身体を硬直させる。

うなじに何かの生温かい吐息がかかった。目の前の存在は日下部を上から覆うように見下ろしているのだ。

 

動けば死ぬ。動かなくても死ぬ。

なら、せめて隙を作って生存の確率を少しでも引き上げるしか道はない。

 

短く息を吐き出し抜刀の構えを取る。刀に呪力を込め引き抜こうとした瞬間、突然誰かの手に頭を押さえつけられた。

 

「っ!?」

 

「どうしたの?」

 

頭上から女の声が聞こえた。

言葉は日下部に向けられたものではない。手前から吐き気を催すおぞましい唸り声が響く。

女は唸り声に簡素に相槌をうつだけだ。

 

「分かった、私が帰らせてあげる。もうもらう分は全部もらったんでしょ、この人はだめだよ」

 

幼子に言い聞かせるような声とともに、ふっと覆いかぶさっていた影が消失する。

後頭部を押さえつけていた手が離れた。

 

「運が良かったね。アレを直接見てたらけっこうヤバかったよ」

 

目前の危機が去ったことにわずかに安堵しながら顔を上げ、声の主を見た日下部はふたたび凍りつく。

 

「た、かとう、ゆい」

 

「あれ、どこかで会ったことあったっけ?」

 

肩まで伸びた茶色いくせ毛を揺らし、少女は首を傾げた。

最悪だ。よりにもよってこんな厄ネタと鉢合わせしてしまうなんて。

十数年前、非術師の大量虐殺と総監部直属の術師を殺したことで指名手配された特級呪詛師。高専に所属していたときの等級はもっと低かったらしいが、()()五条の提言と追放以降の危険度を加味して特級に指定された。

 

高専所属当時の写真を見たことがあるが、一目でその異常性は見てとれた。五条なども加齢が顔に出ないタイプの人間だが、この女はそういう次元ではない。

髪型を除いて、十年前の姿とまったく変わっていないのだ。

 

冷や汗を垂らす日下部をよそに貴透はポケットからチュッパチャプスを取り出す。プリンが描かれたパッケージを剥がし口に放り込む。

 

「いっぱい味あるからあげる」

 

「いらねえ」

 

「まあそう言わずに」

 

3、4本まとめて日下部に押し付けてくる。心底受け取りたくないが、下手に目の前の女を刺激する方がまずいだろう。無言でトレンチコートのポケットに突っ込む。

 

「あー、助けてもらってどうも。じゃ、呪霊もいなくなったわけだし俺はこれで」

 

「いやいや、お兄さん高専の人でしょ?まだ仕事残ってるって」

 

有耶無耶にしてさっさと撤退したかったがそう上手くいくわけがなかった。ガシガシ頭を掻いて日下部は貴透に顔だけ向ける。

 

「この状況じゃ生き残りはいない。首謀者もおそらく逃げた。呪霊はさっきアンタが祓った。もうやることはないだろ」

 

「だからあるって。これはさ、いわゆる儀式の跡なんだよ。生贄を捧げて自分の望むものを与えてもらうためのね。さっき私が()()()()()()子は生贄をもらうためのおつかい。あの子が来てたってことは儀式自体は成功してたはずだから、その『成果』がどこかにある」

 

「儀式?何のための」

 

「平たく言うと死者蘇生かな。成長できずに死んじゃった子供とかそういうの」

 

「……笑えない冗談だ。しかもずいぶん詳しいんだな、アンタ」

 

「冗談じゃないって。少なくとも儀式をやってる人たちにとっては」

 

飴を咥えたまま貴透が落ちた瓦礫をひっくり返したり、朽ちた手水所を覗き込んだりしているのを日下部は遠巻きに眺める。

 

死人が蘇るなんてありえない。だが、それを教義として掲げていたカルト教団の存在は夜蛾に聞かされていた。とっくの昔に解体され、目の前の女を生み出したであろう組織は、崇拝する神による「産み直し」を謳って信者を集めていた。

 

母は強しと言うが、強いのはあくまで守るべき子供がいるからだ。子供を亡くした母親ほど脆く、弱い存在はない。

もう二度と戻らない過去に縋らなければ生きていけないほどに。

 

そんな残酷な現実を日下部はいやというほど知っている。

 

「んーいない。あとは拝殿の中ぐらいか」

 

「アンタが探すなら俺いなくてもよくないか」

 

「ダメ。たぶんそっちが回収しなきゃいけないモノもあると思うよ」

 

日下部のコートの裾を掴み、貴透は拝殿へ進んでいく。ものすごく行きたくない。

この神社に入ってから感じていた異臭。鉄臭さに混じって漂ってきているそれは拝殿に近付くほどに強くなる。経年劣化で歪んだ扉を開けてはならないと、理由もなく強く感じる。

 

日下部の嫌な予感はまさに正しかった。

 

貴透が開け放った扉の奥から、生ゴミを長期間放置したような強烈な悪臭が脳に直接突き刺さる。えずきそうになって口を押さえた。横の貴透はこんな状況でも平然とチュッパチャップスを口の中で転がしている。

 

埃っぽい拝殿のなかで人間が倒れていた。上半身が欠損していて男か女かの区別はここからではつかない。そして遺体の横に何かが蠢いていた。

赤子くらいの大きさのそれは体表をひっくり返したような見た目をしていた。粘膜や内臓のような部位が剥き出しになり、粘着質な音を立てながら遺体に寄り添っている。異臭の元は間違いなくこれだ。

 

「あれは……」

 

「生き返った子供、のなり損ないみたいなもんかな。神様って意外と万能じゃないらしいよ」

 

刀に手をかける日下部とは対照的に、貴透はなんの警戒もなしに蠢く肉塊に近づいていく。

下半身だけになった遺体のすぐ横に落ちていた物を拾い上げる。

簡素な表紙にホチキス止めされた冊子だった。血がところどころに付着したそれをパラパラとめくる。

 

「写本、にしてはずいぶん雑だなぁ。誰がこんなもの作ってるんだろ」

 

ざっと目を通し終えて冊子を日下部に放る。

 

「今は中を読まないほうが良いよ。まあ読んでもあんまり分かんないとは思うけど」

 

「なんだこれ」

 

「呪具というかなんというか。一般人の手に渡っていいものじゃないことは確かだね。高専に処分は任せるよ」

 

「その肉塊もか」

 

日下部は抜刀した刀の切っ先を貴透の足元に向ける。

生物かどうかすら怪しい。しかし、生かしておいてはいけないモノだと日下部は確信している。

そもそも刀で切れるのかも分からないが、おそらく存在させておくこと自体が禁忌のものだ。

 

「いや、この子は放っておいても害はないよ。体組織はたぶん人間と一緒だから、あと一、二時間くらいで死んじゃうと思う」

 

「死んだとして、その後に何も起きないとなぜ言い切れる。そもそも呪詛師のオマエを信用する道理がこちらにはない」

 

「そりゃそうなんだけど……。ちゃんと火葬するから大丈夫だって」

 

貴透はためらいなく肉塊を優しい手付きで抱き上げる。

 

「私もこの子と同じ。人間になりきれなかった、『貴透由衣』の情報を持った()()でしかない」

 

ゆらゆら空を掻く触手を指先でつつくと、くるりと巻き付く。まるで、赤子が母の指先を握るかのように。

 

「でも、産まれたからにはやっぱり生きたいものなんだよね」

 

小さく笑う横顔は、ひどく人間らしく見えた。

 

 

 

「日下部さん!」

 

石段を降りると、焦った表情の男が駆け寄ってきた。今回、日下部のサポートとして現地まで共に来ていた補助監督の灰原だ。

 

「よかったあ。帳が上がってもなかなか出てこないからてっきり死んじゃったのかと。……なんか日下部さん、変な臭いしません?」

 

「言うな」

 

灰原に呪符で巻かれた冊子を投げ渡す。封印がどれほど効果があるか分からないが無いよりはマシだ。

ついでにポケットからチュッパチャプスを引っ張り出し灰原の手にのせる。

 

「オマエの同級生に会ったぞ」

 

その一言で灰原の顔からすとん、と表情が抜け落ちた。普段は活発に輝いている瞳が揺らいでいる。

 

「気がついたら消えてたがな。幽霊よりタチが悪い。正直、あれは生かしといて良いやつじゃない。今回は敵意がなかったが、もし一対一(サシ)で戦わなきゃならないって状況になったらと思うとゾッとする」

 

日下部はため息をつきながら石段に腰を下ろす。服越しに伝わる石の冷たさを感じながら灰原を見上げる。

 

「オマエ、あんなのがマジで人間に戻れると思ってんのか?」

 

少しの間をおいて、灰原に表情が戻った。いつもの裏表のない笑顔ではなく、貼り付けたようなどこか嘘くさい笑顔だった。

 

「まさか。そこまで楽観視できるほど僕も子供じゃないですよ」

 

「じゃあなんで探してる」

 

「そりゃ……」

 

灰原は学生のときよりも大きくなった手のひらに転がる棒つき飴を見下ろす。ぐっと力を入れて握りこむ。

 

「一発ぶん殴ってやるためですよ」

 

拳の中で飴が砕ける音がした。



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【おまけ2】大福

リハビリその2
五条先生とナナミンの距離感好き


伊地知が運転する車の後部座席で七海は眉間のシワを深くした。

タブレット端末に送られてきた報告を読み終えて深く息を吐く。

サングラスを外し、眉間をもむ。そんなことをしたところで、この頭痛は良くはならないけれど。

 

「大丈夫ですか」

 

伊地知がバックミラー越しに心配そうな視線を送る。

「ええ」と短く返答してサングラスをかけなおした。

 

奇妙な案件がここのところ増えている。

歩く巨大な樹木のようなものを見た。森で巨大な蹄が通りすぎた。動物なんていないのに強烈な獣の臭いがした。

日本各地の窓からそんな目撃情報が入ってくる。

そして、それは決まって何の前触れもなく突然現れては煙のように消えるという。

術師が襲われた事例はまだ発生していないが、被害が出るのも時間の問題だろう。

 

日下部の報告を見た。

各地で目撃される謎の呪いの背後にはそれを呼び出しているらしき正体不明の勢力がありそうだということ。

灰原が回収した『写本』を解析したところ、十数年前に忌庫から持ち去られた『聖典』の一部を写し取ったものであり、おそらく一般にばら撒かれているということ。

そして、その件に少なからず貴透由衣が関わっていること。

 

事態は七海の想像以上に規模が大きく複雑な構造をしているらしい。

ようやく掴んだ元同級生の手掛かりにはこの上なく面倒なおまけが大量にくっついていた。

一つでも頭を抱えたくなるのに、厄ネタのオンパレードだ。お腹いっぱいを通り越して吐き気がしてくる。

 

七海の選んだ道が過酷になるだろうことを想定していなかったわけではない。だが、分かっていても気が滅入ってくる。

捜せば捜すほどに、記憶の中の小さな背中が遠ざかって見えなくなる気分だ。

 

ふいに七海のスマホが揺れた。画面には慕い甲斐のない先輩の名前が表示されている。

ため息をついてから通話ボタンをタップした。

 

「はい」

 

「おーす七海ぃ?ちょっと頼みたいことあんだけど」

 

「お断りします」

 

即座に通話をぶっち切りスマホを隣の座席に放り投げる。

数秒もせずスマホは息を吹き返したかのようにヴーヴーと抗議の声を上げている。

どうせ高専に着いたら顔を合わせるのだ。いま彼の八割適当な話に付き合う必要もないだろう。その時間を休息に当てる方がよっぽど有意義だ。

ものすごく不安そうな顔の伊地知をバックミラーでチラ見してから、七海は目を閉じた。

 

 

 

高専に到着すると、門の前で不機嫌を隠そうともしない大男が大福を頬張って待っていた。

巻き添えを察知して伊地知はすっと音もなくその場を離れた。

 

「ぅひふんぁよ」

 

「飲み込んでから喋ってください。行儀の悪い」

 

「電話シカトすんなよ」

 

「あなたの頼みごとはだいたいロクでもないことなので」

 

「うーわ、なんて可愛げがない。超イケメン最強先輩への態度じゃないね。やり直し」

 

ふんぞり返りながら二個目の大福を一口で頬張る。

 

「自分でそんなことよく言えますね。ある種の感心を覚えます」

 

「尊敬もしてる?」

 

「いえ、まったくこれっぽちも」

 

「ほんとに可愛くねー」

 

「本題に入らないなら、私はこれで」

 

「待った待った、分かったからちょっと止まって―って足速いな」

 

やろうと思えば力づくで従わせることもできるだろうに、それをせず真正面から頼んでくるのがこの男だ。

そういうところは七海も信頼している。

追い抜きざまに「イエーイ俺の方が足長いー」と煽ってくる五条を無視して歩くスピードを落とした。

 

 

 

「宿儺の器の付き添い、ですか」

 

「そ。表向きには死んだことになってるから僕と傑は引率できないし、七海が一番適任だと思って」

 

いったいいくつ持っているのか、三個目になる大福を包むビニールを剥がしながら五条は当然のように言ってのけた。

不幸にも呪いの王を宿して死刑宣告をされた、数ヶ月前まで一般人だった少年。

いくら脅威とはいえ、まだ人的被害を出していない未成年の子供の秘匿死刑なんてものが罷り通っているあたりこの業界は自分の学生時代とさして変わっていない。

 

「よく執行猶予がつきましたね」

 

「そりゃー、僕が超がんばったからね。御三家が多少口出せるとはいえ、僕以外はみーんな即死刑賛成派だったから骨が折れたよ。頭カッチカチのジジイばっかだからね」

 

この適当そうに見えて聡明な男に命を救われている術師は多い。

軽薄なところは学生時代から変わらないが、それなりに苦労は積み重なっているのが言葉の端々から感じられた。

 

呪術師の世界、特にその中枢は血統至上主義だ。

七海はもちろん、特級の称号を持つ夏油であっても一般家庭出身の術師が総監部の意向に口を挟むことはできない。

そういった身内での足の蹴り合いは由緒ある血筋と上を黙らせる肩書きの両方を併せ持つ五条が引き受けるしかないのだろう。

 

「いい子だよ。タフだしイイ感じにイカれてる。性格はちょっと灰原に似てるかな。根明なところとか。呪術師としてはまだぺーぺーだからシゴいてやって」

 

「……私が誰かにものを教えるのに向いているとは思えません。それに呪術師に出戻りしたのだって到底子供に聞かせられる理由じゃない」

 

半分はやりがい。そこに噓はない。

もう半分は学生時代の自分の尻拭いだ。その尻拭いが具体的に何を意味するのか、五条が一番分かっているはず。

 

七海はかつての同級生を殺すために、この地獄に戻ってきた。

 

「だからだよ」

 

今度は一口ではなく半分だけ大福を齧って、飲み込んでからまた口を開く。

 

「悠仁はさ、思い切りとか覚悟とかいろいろ真っ直ぐなんだよ。良くも悪くもね。そんな子には壁にぶち当たった時のうまい折れ方と立ち直り方を教えてくれる大人が必要だ」

 

「担任のあなたが教えるべきでしょう。私のどこが適任なんです」

 

「適任だよ。オマエ酷い折れ方してもこうして逃げずに戻って来てんじゃん」

 

「……」

 

「別に一から十まで教えろってんじゃない。上の目を誤魔化せてるとはいえ、またいつ陰湿なこと吹っ掛けてくるかわからないから僕が面倒見れない間、先輩として気にかけてやってよ」

 

その言葉に七海は言い返さなかった。

宿儺の器である少年は一度、その実力に見合わない任務によって命を落としたらしい。そして、彼の同級生たちもその無茶な采配に巻き込まれ負傷したとか。

安全圏にいる大人の都合に振り回される子供。嫌でも学生時代を想起させる。

間を置いてから頷くと五条は満足気に笑う。

 

「どんな動機であれ、オマエみたいなしっかりした奴が戻って来てくれて助かってるんだからさ。……何その顔」

 

「いえ、ちょっと鳥肌が」

 

「ちょっと!これでも超真面目に話してんのに」

 

「分かってますよ。だから余計にです」

 

軽口をたたきながら、大人たちは歩を進める。

 

「あ、大福いる?」

 

「食いかけをよこすな」



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【おまけ3】ねり飴

リハビリその3 本編でできなかった先輩面


「うそぉ」

 

閉ざされたシャッターの前で貴透は力なくへたり込んだ。

 

経年劣化で錆交じりのシャッターには『長年のご愛顧ありがとうございました。』の文字が簡素に並んだ張り紙。

 

ここ数年で少子化と不況、経営者の高齢化というトリプルパンチで個人商店は確実に数を減らしつつある。それに輪をかけるように大型商業施設が増加してきたことで貴透にとってのオアシスは見る見るうちに更地になっていった。

コンビニやスーパーで取り扱いがあるなら良いじゃん、と思われそうだが貴透にとっては物の置きすぎでごちゃついたノスタルジーを感じる店内とお菓子がセットなのだ。

 

地方は過疎化のせいでどんどん居場所が無くなり、関東なら人口が多い分まだ生き残っている店舗が多いだろうとわざわざ神奈川までやって来たのにこの有り様だ。

 

シャッターに背を預け、鼻をすすりながら残り少ないねり飴を開封する。

なぜねるのかは知らないが割り箸から垂れないように上手くねるのが遊びの一つである。

蛍光ピンクの水飴をぐりぐり捻ってから口に運ぶ。

 

「最近こんなんばっか……、ん?」

 

ふと空を見上げる。

空気がぴりぴりと張りつめている。

貴透は猫のように近くの塀に飛び乗り、さらに飛んで民家の屋根へと着地する。

少し離れた場所で帳が下りるのが見えた。

 

「もー、誰だよー。こんな真昼間から」

 

服の下に潜ませたナイフに手をかけ、貴透は仏頂面で駆け出した。

 

 

 

帳が下りた里桜高校での戦闘は術師側が優勢だった。

事件の中枢である呪霊、真人が領域を展開するまでは。

 

「クソ!ふざけんな!」

 

虎杖は拳を何度も結界に打ち付けるがビクともしない。

七海だけが真人の領域内に引きこまれた。領域内での攻撃は必中効果を持つ。真人の無為転変は対象の魂に干渉して存在そのものを変質させる。

この術式効果が必中となればどれほど七海が強くても状況は覆しようがない。

このままでは確実に七海は死んでしまう。

 

「なにやってんの?」

 

「うぉあ!?」

 

背後から突然かけられた声に虎杖は飛び上がる。いつの間にかすぐ近くに少女が立っていた。

虎杖と同い年くらいに見える少女は茶色の癖毛を揺らしながら割り箸の先端に絡まった蛍光ピンクの水飴を舐めている。

 

「え、誰」

 

「なんだー、てっきりまた誰かが場所も弁えず儀式でもやってるのかと思って慌ててきたけど違うのか。こんなとこで領域展開なんて珍しい」

 

「誰だって!無視すんな!」

 

領域を知っている、ということは少なくとも呪術師の関係者ではあるのだろう。

あまり強そうには見えないが、なぜか虎杖は背筋が粟立つのを感じた。少女を見ているとぼんやりとした不安感とも恐怖心ともつかない感覚が心にじわじわと広がる。

避難を促すべきなのか、頼っていいものなのか判断に迷っている虎杖をよそに少女はぺちぺちと結界を手で叩いている。

 

「誰か中にいるの?」

 

「ナ……、俺の師匠っていうか面倒見てくれてる人」

 

「あれま、それはまた御愁傷様というか。私がやるとその人ごと巻き込むな……。でも君が生身で入っても自殺行為だし」

 

「やる」

 

迷いなく答えた虎杖に少女は目を瞬かせ、首をかしげる。

 

「や、入ってもたぶん死ぬよ?なんか救出案あるの?」

 

「ねえけど……。それでも、目の前で何もできず人が死ぬなんて、もう絶対に、絶対嫌だ」

 

ぐっと拳を握りしめる虎杖を少女がじっと見つめる。

その目を見返した虎杖はある違和感を覚えた。よくよく見ると少女の眼球、虹彩のさらに奥にある瞳孔にあたる部分が円ではなく横長の四角形になっている。

偶蹄目を思わせるその瞳はあまりにも人間の顔と不釣り合いで、ちぐはぐな気味の悪さがあった。

ぱちりと一つ瞬きをすると普通の丸い瞳に戻っていた。

 

「うーん、大丈夫かな。君どんなことならできる?」

 

「コンクリの壁とかなら破れる」

 

「術式とかの話だったんだけど、素でそれが出てくるのヤバいな……。領域展開っていうのは中に閉じ込めたら勝ちなのは知ってる?だから、相手を中から出さないことに重きを置くわけ。で、結界は基本的に条件の足し引きで成り立ってる」

 

「つまり、外からの攻撃には弱い?」

 

「せいかーい。君頭イイね」

 

少女が指差したのは球状の結界の上部。普通の人間なら届かないが、虎杖の身体能力があれば跳躍でたどり着ける。

 

「横は突破されないように固められてるのがほとんどかな。攻めるなら警戒が薄くなりがちな上からだね」

 

そう言うと彼女はポケットから自身が咥えているものと同じ蛍光色の飴がついた割り箸を取り出して虎杖のポケットに突っ込んだ。

 

「え、ちょ」

 

「しんどいときは甘いものだよ。がんばれー、若者」

 

ひらひらと手を振り、次の瞬間には少女は煙のように消えていた。

なんだったんだ、と思うも今はとにかく時間がない。

校舎の壁を蹴って高く跳躍し、黒々と広がる結界へ渾身の力を込めて拳を振り下ろした。

 

 

 

結果として、真人は殺せず被害の爪痕だけが残った。

安置所に置かれた遺体は物言わず、ただ虎杖に自分の無力さを突きつけてくる。

殺すしかなかった。それ以外に真人の手にかかった被害者を助ける術はなかった。

だが、本当にその判断が正しかったかなんて分かるはずがない。

自分が弱いゆえに、その選択をするしかなかった。

もっと強ければ別の道があったんだろうか。

この人たちは正しい死を迎えられたのだろうか。

 

「誰にも分かりませんよ。そんなこと」

 

ぽつぽつと虎杖がこぼした問いを七海が拾い上げる。

万人にとって死は必ず訪れる終わりであり、しかし同じ死は存在しない。

たどり着く過程で善悪があれど、最後の終着点には善悪など関係ないのだろう。ある種平等でありながら、最期の瞬間というものは不平等だ。

正しく、安らかに。

 

「それが簡単なことなら、私はここにいないでしょうね」

 

「え?」

 

「いえ、昔の話です」

 

正しく。

七海自身、正しい選択をしているかなど分からない。それは学生の時からずっと、重くのし掛かっている。

だからこそ虎杖の向かう先がどれほど難しく、重いものであるか知っている。知っているから、まだ年若い真っ直ぐな少年が背負うべきでないとも思う。

 

「それでも君はやるんでしょうね」

 

危ういほど優しく真っ直ぐであるがゆえに。

それなら七海のやるべきはこの若者が呪術師として道に迷わないよう、自分が先に足跡をつけることだ。

 

「今日私が助けられたように、君に助けられる人はこれから大勢出てくる」

 

自分と同じ後悔を、しないように。

折れてもまた進めるのだと示さなければ。

 

「虎杖くんはもう、呪術師なんですから」

 

七海の言葉に虎杖は唇を噛む。

きっと今が自分の呪術師としてのスタートだ。あまりにも悲痛で、救いなんてない。それでもきっと進む意味はあると背を押してくれる人がいる。

 

ふとポケットの中に入っていたものを思い出す。ビニールに包装された蛍光オレンジの飴は形が崩れ潰れていた。

しんどいときは甘いもの。なんとなくその言葉が思い出された。

遠くなる七海の背を追いかけ、横に並ぶ。

 

「……ナナミン、これ食べ方知ってる?」

 

一瞬、ほんの一瞬だけ七海は目を見張り、「ええ」と短く答えた。

飴を受け取った手が、少しだけ震えている気がした。

 



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