Contraindication (まっちゃんのポテトMサイズ)
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第一話 禁忌

どうも、初めまして。
まっちゃんのポテトMサイズと申します。
拙い文章ですが、本編どうぞ。


夢の中で懐かしい昔話を見た。

幼い頃の俺の話だ。

小さな女子供を訳も無く救い、見返りも求め無かった。

ただ車に撥ねられるその子を助けなければと、咄嗟に身体が動いていた。

しかし、彼女の事をよく覚えていない。

ただ、右眼が髪で隠れていたウマ娘だったのを今でも覚えている。

家に帰る道を辿っていた時、二人の大人が俺の家から出て来るのを見た。

それから、父親は壊れていった。

何があったのかは知らないが、優しかった父の面影はどこにも無くなっていた。

煙草の吸殻を俺の腕に押し付ける、暴力を振るう、そんな事は最早日常茶飯事だった。

そんな傷も、翌日になれば完治していた為に、周囲の人間には気づかれなかった。

そんな日常が続き、俺が十二歳になった時、父親は何らかの罪を犯し、逮捕された。

父親をパトロールカーに入れていた警官に父親の罪を尋ねてみたが、その警官は俺から目を逸らしながら、知らない、と答えた。

そして、俺から逃げるようにパトロールカーの中に入った。

そのまま、パトロールカーは走り去って行った。

冷たい雨が一人取り残された俺の身体を打ち付ける。

そんな俺を気遣うように、爺さんは俺に傘を差した。

俺が爺さんの事を見上げると、険しい顔をしていた爺さんは、棒付きキャンディーを咥えながら明るい笑みを見せた。

 

「…ありがとう」

 

俺は顔を俯かせ、爺さんに背を向けてそう言った。

爺さんは「おう」と言いながら俺の頭を押し付けるように撫でる。

その手はとてもゴツゴツしていたが、父親のそれと似た様な何かが感じられた。

それから数年経ち、爺さんに引き取られた俺は今では普通の高校生だ。

爺さんはウマ娘とやらのトレーナーをしていた為に、家に戻ってくることは少なかった。

母親さえいれば、俺は爺さんに迷惑を掛けなくて済んだのだろうか。

父に母親の事を尋ねると、父は怯えたような表情をしながら、物心つく前には殺されていた、と答えた。

無邪気な頃の俺はそれを疑わずにすんなりと受け入れた。

余りにも、滑稽な話だ。

テレビで流れている車の居眠り運転の報道をキッチンから眺めながら自嘲気味に笑う。

 

「お、もう起きてたのか」

「…ああ、爺さん。おはよう」

 

寝癖を付けたまま、階段を下りて来る爺さんに視線を送らずに、丁度できた爺さんの分の朝食を机の上に並べる。

 

「悪いけど、後片付けを頼めるかな。今日は日直で速く行かなきゃいけないんだ」

 

パンを一枚食べながら、洗面所で顔を洗う爺さんにそう告げて、玄関に向かう。

そして、パンを飲み込んで、靴を履く。

 

「…行ってきます」

 

爪先を二回、地面に叩きつけて、そう言って外に出る。

爺さんの家の前は春になると、何時も桜が満開になって居た。

俺はそんな見慣れた光景を何故か珍しく思いながら、学校へと歩を進める。

新学期を迎えて数日、俺は人生で初めて友達というモノを作った。

俺に最初に話しかけてくれた天野と櫻井は何の面白みも無い俺とは正反対で、もうクラスの大半と仲良くなったらしい。

そんな彼らが何故俺に絡むのか、俺には理解し難い事だ。

そうして、学校の門を通り、教室に入る。

既に中には天野と櫻井と、もう一人の日直担当の白銀さんが机に座りながら談笑していた。

 

「…よう。お前ら、学校に来るの意外に速いのな」

 

俺はそう言って机の上に鞄を置く。

そして、彼らに近づき、会話に混ざる。

それから暫くすると、クラスの面々が集まってきて、俺は自然な流れで会話に付いていけなくなった。

俺は机に戻り、目の前にある日直日誌に時間割表を見ながら今日の時間割と担当の教師の名前を書き写す。

その作業が終わり、壁に掛けてある時計を見ると、もう直ぐ先生が来る時間だった。

そんな事を思っていると、先生が教室に入ってきた。

先生の話を聞き流しながら、先程まで使っていたシャーペンをノックして芯を出し入れする。

やがて、それが終わり、俺が号令をかけて朝のホームルームを終わらせる。

それから数時間経ち、学校から帰っている途中、爺さんからメールが来た。

それを開き、内容を確認する。

 

「…全く、爺さんって人は…」

 

そう言って溜息を吐いてスマホをポケットに入れる。

そして、爺さんから頼まれた品を買いにスーパーへと向かう。

駅前にあるスーパーは品ぞろえも良く、父ともよく来た。

 

「…っ。いけないな、また彼の事を思い出してしまった」

 

そう言って、頭を振り、スーパーで買い物を済ます。

爺さんは父の兄貴に当たる人物だ。それなのに、こうも性格に天と地ほどの差が出来るとなると、本当に兄弟なのかと疑問に思ってしまう。

爺さんに頼まれた品と今夜の食事の材料を袋に詰める。

それを終えて、袋を片手に爺さんの居るトレセン学園へと歩を進めた。

その途中、こっそりと、買った棒付きキャンディーの詰め合わせの中から一本取り出す。

そして、それを咥えながらポケットに手を入れる。

暫くすると、煉瓦でできた校門が見えて来た。

その前には緑の服装をした駿川たづなさんが立っていた。

俺は彼女に入校許可証を鞄から取り出して差し出して見せ、会釈をした後に爺さんが居るであろうチームスピカの部屋へと向かう。

扉を開け、部屋の中に入る。

そして、棒付きキャンディーの詰め合わせをぶらつかせる。

 

「おい、爺さん。キャンディー買ってきたぞ」

「おう、サンキュー!」

 

爺さんはサムズアップをしながらそれを受け取った。

俺は背後にいるウマ娘たちに会釈をしてそのまま部屋を出ようとドアノブに手をかける。

 

「じゃあな、爺さん。またいつか」

 

扉を押し開け、ポケットに手を入れて校門に向かう。

空を仰げば、空は既に群青色に染められており、小さな星々が煌めいていた。

溜息一つ吐けば、腹の虫が小さくなった。

 

「…さっさと帰ろう」

 

そう言って横断歩道を渡ろうと、白線の上に歩を進めた時、暴走した大型トラックがこちらに向けて突っ込んできた。

 

「…」

 

俺はそのトラックから視線を逸らし、そのまま再び歩き出した。

背後では先程のウマ娘たちが俺に何かを叫んでいる。

俺は突っ込んで来るトラックを目の端で捉えて溜息を吐く。

 

「…後で運転手に文句を言わなきゃな」

 

そうして、目の前にまで迫ってきたトラックの右に回り込み、サイドガラスを拳で叩き割って中に入り込む。

その時に視界に入った、ガラスの破片で切り裂かれ、血が流れだしていた拳を見て、顔をしかめる。

中では運転席には穏やかな顔をした運転手がハンドルを握り、アクセルを踏んだまま眠り込んでいた。

俺は彼を叩き起こし、ブレーキを踏みこむ。

トラックは速度を落としていき、やがて、甲高い音を立てた後に止まった。

俺は溜息を吐き、助手席に腰を落とす。

 

「おい、あんた。睡眠不足か?」

 

俺は運転席にいる中年の運転手に顔を向けて、そう尋ねた。

運転手は未だ怯えているようで、声を詰まらせていた。

 

「あ、ああ」

「ちゃんと睡眠とれよ。あんたは俺みたいに、睡眠時間は短時間じゃ済まないんだから」

「わ、分かった。今後から気を付けるよ」

「なら良い。じゃあな」

 

それだけ言って俺は壊したサイドガラスから飛び降りる。

そして、トラックに背を向けて再び歩き出す。

その背後で、運転手はサイドガラスから顔を出し、俺に感謝の言葉を述べた。

俺は振り向き、サムズアップをした。

すると、運転手は運転席に戻り、トラックを走らせた。

俺は再び歩き出し、何事も無く家に帰った。

 

「…傷はもう、治っているな。良かった」

 

そう言って夕飯の準備を始める。

 




感想、評価等お待ちしております。
では、此処まで読んで下さりありがとうございました。
また次回。


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第二話 邂逅


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「…は?」

 

俺は端末越しに爺さんから伝えられた事に唖然としながらそう言った。

 

「いやな、アイツら、お前と一回話がしたいだとか言ってるんだよ」

「知るか。俺には関係ない」

 

俺は吐き捨ててスマホを離し、通話を切った。

そして、スマホをポケットの中に仕舞い、ドアを開けて外に出る。

すると、先日出会った、赤茶の髪をしているのツインテールの娘と後ろ髪を一束括っている、右眼を隠している焦げ茶の髪の娘と銀髪の娘。

それに加えて、俺から視線を逸らし、何かブツブツと言っている薄紫の髪をした娘が、ジャージ姿の彼女達の後ろに居た。

俺は即座に扉を閉め、履いてあった靴を持って二階の自室へと駆け上がり、そこの窓から飛び降りる。

そして、着地と同時に靴を履き、足に力を込めて駆けだす。

走っている途中、背後を振り返ると、先程の四人が追いかけてきていた。

中でも、薄紫の子は恐ろしい執念を持ちながらそうしていた。

 

「…仕方ない。少し本気を出すか」

 

俺はそう呟き、前を向き、足に更に力を籠める。

そして、その力を自身を押し出すように前に放つ。

その瞬間、左眼の視界は赤く染まり、走力は格段に上昇した。

力一杯地を蹴り、彼女達を更に突き放す。

暫くすると、俺は公園に辿り着いた。

振り向けば、彼女達はもう追ってきてはいなかった。

俺は溜息を吐き、左眼を閉じながら近くの木のベンチに腰を掛ける。

その瞬間、俺の肩を誰かが掴んだ。

 

「漸く見つけましたわ…!」

 

振り向けば、先の薄紫の子が俺の肩を掴んでいた。

その子は息を絶え絶えにしながらも、

俺は半分驚きながら半目開きで彼女の事を見つめて溜息を吐く。

そして、両手を上げて降参のポーズをする。

 

「まったく…。それで、何の用?そこまで執拗に追ってくる程、重要な用事なんだろ?」

「ええ。ですが、用事があるのはあそこで隠れている彼女達ですの」

 

俺は彼女が指さした先を見ると、先の三人のウマ娘たちが木に隠れながらこちらを見ていた。

額に手を付き、溜息を吐く。そして、ベンチから立ち上がると、彼女達は逃げようとする素振りを見せた。

 

「逃がすか。散々こちらを追っておいて、何でも無かったじゃ済ませないぞ…」

 

俺はそう呟き、力一杯地を蹴り、彼女達の背後に移動する。

そして、彼女達を押し倒して逃走を阻む。

 

「さて、俺にどんな要件があるのか、確り話してもらおうか。チームスピカの部屋でな。そしたら、爺さんにも話が聞けて一石二鳥だろ?なぁ?」

 

俺は内心怒りながら、彼女達を見下ろしながらそう言った。

彼女達はそんな俺に怯えながら、「は、はい…」と言った。

それから暫くして、俺とそのウマ娘たちはチームスピカの部屋にやってきた。

俺が笑みを浮かべながら入ってくると、爺さんは何かを察したように急いで椅子を人数分並べた。

 

「ありがとう」

 

それだけ言って俺は腕を組みながら三人のウマ娘たちの前に置かれた椅子に腰を落とす。

 

「さて、これだけの時間を取らせたんだ。何の用があったのか、じっくりと教えてもらおうか。それがくだらないものだった時、どうなるか分かってるよね?」

 

彼女達は観念したように顔を見合わせてから、銀髪のウマ娘が口を開いた。

 

「それじゃあ、単刀直入に言わせてもらうぞ。お前が初めて此処に来た時の帰り、暴走してたトラックにお前は乗り込んだよな。…何でそんなことが出来た?」

 

その時の事を聞かれ、俺は直ぐに爺さんを見つめた。

爺さんも俺をじっと見つめていた。

その視線はどこか慌てているようで、俺は爺さんから目を逸らし、歯を食いしばって俯いた。

超人的な身体能力は昔からあったもの。それを俺と爺さんは理解していたが、説明する事は到底出来たことでは無かった。

何故ガラスを拳で叩き割れるのか、何故直ぐに傷が治るのか。

そのような事は常人ではできない事だと分かっている。

しかし、俺には出来ている。出来てしまっている。

その原因が分からないからこそ、俺は顔を上げた。

そして、肩をすくめて「知らないね」と言った。

銀髪の子は瞼を閉じ、何かを考え込む様な仕草をした。

残りの二人は腰に手を置き、溜息を吐いた。

 

「アンタねぇ…。そんな言い訳言ったってどうしようもないのよ?」

「言い訳だ何て、心外だな。俺は真面目に答えたつもりだったんだが」

「『知らないね』が真面目ですって!?そんな訳無いでしょ!」

「…うん。本人が知らないならどうしようもないよな!!さぁて、速くトレーニングに行こうぜ~」

 

銀髪の子がそう言ってこの部屋から出ていった。

彼女は存外、人に対して気遣いが出来る様だ。

すると、爺さんもそれに乗っかり、二人をトレーニングに行くよう催促した。

二人は文句を言いながらも、爺さんの真剣な様子を見て渋々部屋から出ていった。

 

「…ありがとう。爺さん」

「いや、気にするな」

「少し、ここに居て良いか?彼女達と会うとまた面倒くさい事になりそうだ」

 

俺は爺さんに背を向けて、苦笑いを浮かべながらそう言った。

爺さんは「おう」とだけ言って、俺の滞在を許可した。

それから暫く、沈黙が続いた。

先程の会話で気まずさが俺と爺さんの間に発生した為だ。

俺との間で、超人的な身体能力の話題はタブー。

決して触れてはいけないものだ。

特にそう決めたわけでもないいが、自然とそうなっていった。

俺には沢山、不思議な事がある。

先の超人的な身体能力もそのうちの一つだ。

若しかしたら、今判明している事はほんの一部かもしれない。

 

「…なぁ、爺さん。俺って、長生き出来るのかな」

「何だ、突然」

 

俺は天井を見上げながら、溜息交じりに呟く。

これから先の事には大した不安は無い。けれど、ただ一つ、小さな不安がある。

それは、長生きしてしまうのではないか、というものだ。こんなどうしようもない奴が長生きしても良いのだろうかと、時折不安になる。

 

「…それは俺にも分からねえな」

 

爺さんは棒付きキャンディーを嚙み砕き、そう言った。

俺はいつも通りの答えに、内心諦めたように「そうか」とだけ言った。

それから暫くの沈黙が続いたが、後にその沈黙を破るように二人のウマ娘が部屋の中に入ってきた。

俺は爺さんを恨みながら急いで彼女らに椅子ごと身体を動かして、背を向けた。

 

「あれ?その人、トレーナーさんのお知合いですか?」

「ま、まぁそんなところだ。さぁ、そんな事はどうでも良いから速くトレーニングに行こうぜ、な?」

 

爺さんは焦ったような声色で彼女達をトレーニングに行くように催促する。

しかし、何故か、白い前髪に、それ以外の所が茶髪の少女は既に俺に声をかけていた。

 

「私、スペシャルウィークって言います!宜しくお願いします!」

「あ、ああ。よろしく」

 

俺は声を詰まらせながら、彼女に右手を上げてそう言った。

そして、彼女達をトレーニングに行かせるようにと、爺さんに視線を向けた。

爺さんは直ぐにその視線に気づき、彼女達を部屋から追い出すようにしてそれに行かせた。

 

「…さて、そろそろ俺も行くよ。何時までもここに居る訳にはいかないから」

「そうか。良し、それじゃあ、またな」

 

俺は右手を上げて、部屋を出た。

そして、彼女達に気づかれないよう、直ぐにその場から全速力で去る。

それが、勝利への方程式を立て続ける、彼女との出会いへの歯車が回り始めた時だったのかもしれない。



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第三話 夢

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チームスピカの部屋から走り去る事数分、俺は校舎の壁に寄り掛かりながら熱を持った左眼を左手で抑えつける。

良くある事だった。本気で走り回ったり、本気で勉強すると左眼の視界が赤くなって、それが連続すると、今の様に熱を持つ。

本当は、熱を持とうがそれを超えることが出来る。けれど、爺さんはそれを何としてもさせたくないようだった。

だから俺はそれを超える事は絶対にしない。

ふと、空を仰いだ時、こちらに落ちて来る赤いフレームの眼鏡が視界に入ってきた。

 

「…何で落ちて来るのやら」

 

俺は溜息交じりに呟き、その眼鏡を左手を目から離し、その手で掴む。

そして、その眼鏡をこの学園の教師に手渡そうと歩を進めた時、上から凛とした声が聞こえて来た。

 

「君、大丈夫か!?」

 

俺は顔を上げ、頷いた後に眼鏡を彼女の元に持って行く為に校舎内に入った。

ウマ娘、彼女達の事を俺はよく知らない。

ただ、常人離れした身体能力を持っている、という事だけは知っていた。

だからそんなに彼女達に興味は無かった。

元々、アイドルだとか、そう言うキラキラしたものは嫌いだ。

夢を与える、希望を与える、そんな事が本当に出来るのなら、それはとても素晴らしい事だ。

だけど、俺には夢も、希望も、何も無かった。与えられもされなかった。

唯一の身内だった父さんも、ダメ人間だ。社会では嫌われる、どうしようもない、屑。

その子供である俺も、そんな屑なんだ。

 

「…クソったれ」

 

俺は右手を握り締めながら吐き捨てるように呟く。

そして、二階に上り、彼女が居る教室の扉を開ける。

 

「…この眼鏡、随分と頑丈何だな」

 

俺は彼女に眼鏡を手渡して、少し離れる。

腰辺りまで伸びた白髪を持つ彼女はその眼鏡に異常が無いか確認していた。

そして、それが終わるなり彼女は口を開いた。

 

「ああ。この眼鏡はレース中にも使える代物なのでね」

「そうか。珍しいものもあるものだ」

「特注品だからな。珍しいものだと思われても仕方がないさ」

「…さて、そろそろ俺は帰るよ。これ以上、部外者が居る訳にはいかないさ」

 

早々に帰りたかった俺は取って付けた様な言い訳をして、教室の扉の前に立つ。

すると、彼女は俺を呼び止めて、素っ頓狂な事を言った。

 

「明日、選抜レースがある。君にはそのレースを見てもらいたい」

 

俺は突然の招待に少し驚きながら、明日が暇だったという事を思い出す。

学校も無く、課題は今日の夜に終わらせる予定だ。共に遊ぶような真似事は俺には到底出来ない為、必然的に何も出来なくなるのだ。

だから、暇つぶしに丁度良いだろうと思い、その話題に食らいつく。

 

「悪いが、その選抜レースについて教えてくれないか。生憎と俺はその辺には疎くてね」

「ああ、勿論。…選抜レースとは、デビューを志すウマ娘たちが、スカウト獲得を目指し、トレーナーにその能力を示す為のレースだ。…そして、その第10レースには、この私、ビワハヤヒデの名がある」

「…大体わかった。それで、君はそこでどうするつもりだ。ただ勝つだけなのか、圧勝で終わらせるのか」

「無論、圧勝で終わらせるさ。私は10バ身以上の差をつけ、一着になる」

 

俺の目をまっすぐに見据える彼女の瞳は、常人の瞳では無かった。

10バ身と言うのは分からなかったが、大差をつけるという事だけは分かった。

それ程、彼女の意思は確固たるものだったのだ。

だからこそ、俺はその日、彼女のレースを見に行くと決めたのかもしれない。

 

「…そうか。楽しみにしているよ。ビワハヤヒデ、君がどれ程の実力者なのか、俺には到底見当がつかない。だからこそ、先入観無しで、キッチリと見させてもらう」

 

俺は振り向き、彼女に微笑んでから、教室を後にする。

そして、その翌日、一睡もせずに課題を終えた俺は選抜レースの会場でビワハヤヒデのレースの開始を待っている。

 

「…そろそろか」

 

腕時計を見れば、そろそろ開始の時刻になる頃だ。

すると、突然けたたましい実況の声がレース会場全体に鳴り響く。

ふと、ターフ内の方に視線を移せば、入場ゲートからウマ娘が出て来た。

そして、それと同時に実況はそのウマ娘の名、何番人気か、そのウマ娘の特徴を言う。

それが終わると、入場ゲートに立っていたウマ娘はその場から降りて、横に移動していった。

それを何回か繰り返すと、彼女達は出走ゲート前に集まり、それぞれストレッチを始めた。

暫くした後に、ファンファーレが鳴り響き、ウマ娘たちは出走ゲート内に入る。

そして、ゲートが開き、彼女達は一斉に飛び出した。

ビワハヤヒデの走りが気になって居た俺は、彼女の姿に釘付けになって居た。

周囲の声は何も聞こえやしない。けたたましいと感じていた実況の声も、俺の周りで彼女達を応援する声も、何も聞こえない。

 

「良い場所に付けている。…さて、大差を付けて勝利する、と言ったが、そろそろ抜けだしてくる頃か」

 

第四コーナーから直線に向いた直後、彼女は俺の予測通りに抜け出してきた。

先頭に立ち、リードをどんどん広げていく。

そして、ゴールインする頃には、宣言通りに大差を付けて勝利した。

その時、俺は彼女の走りに感動した。

彼女はきっと、将来的に怪物になる。根拠は無いが、俺の直感が何故かそう言っていた。

そして、何故か、彼女の事をもっと知りたいと、そう思ってしまった。

俺はトレーナーでも、ましてやこの界隈の関係者でもない。

今日、初めてレースを見ただけの、言わば初心者だ。

だけど、彼女のトレーナーをしてみたいと、無責任にも思ってしまった。

トレーナーは、彼女達にとって大切な存在だ。

彼女達の人生を左右する、とんでもない大役だ。

だからこそ、俺はビワハヤヒデのトレーナーをしてみたいと思った。

席から立ち上がり、レース会場の外に出る。

そして、スマホをポケットから取り出し、爺さんに連絡を掛ける。

爺さんは三コール目で通話に出た。

 

「…なぁ爺さん。俺、今日ウマ娘たちのレースを見て来たんだよ」

『そうか。お前がレースを見るなんて珍しいな』

「ああ、ある一人のウマ娘に誘われてね」

『それで、どうしたんだ。お前から連絡するって事はそれ程大事な用事なんだろ?』

 

俺は「ああ」と言って赤みがかった空を仰ぎながら、自分の夢を告げる。

 

「俺さ、トレーナーしてみたい。今日のレースを見て、そう思った」

 

 



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第四話 夢の始まり

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「…ああ、分かった。昼飯を食べたらそっちに行く」

 

俺は爺さんとの通話を切り、目の前でスイーツを食べながら悦に浸る薄紫髪の子に視線を送る。

机の上を見てみれば、そこはスイーツの皿で埋め尽くされており、俺は溜息を吐く。

幾ら飢えていたとしても、この量は過剰摂取だろう。

 

「…まあ、そんなものか」

 

溜息交じりに呟き、彼女のこれまでの経緯を何となく思い出す。

どうやら、俺が初めてビワハヤヒデと出会ったあの日、逃げ出した俺を追いかける際に銀髪の子に、俺を捕まえられたらスイーツを沢山奢ってやる、と言われたらしく、本気で俺を追いかけた様だ。

その後、俺を捕まえたのだが、一向にスイーツを奢ってくれる気配が無かったようで、銀髪の子に詰問したところ、俺が代わりに奢ってくれる、と言われ、この数日間俺を必死で探し回ったそうな。

その哀れな経緯に普段は断る頼み事を仕方なく承諾してこの状況に至る。

 

「…お前も災難だな」

「まったくですわ。まあでも、こうしてスイーツを食べられてるのですから、貴方には感謝しかありません」

「…二度は無いぞ」

 

俺は席を立ち、トイレに行こうとそこに歩を進める。

すると、偶然にも櫻井と白銀さんに出くわした。

幼馴染の二人だ。きっと、遊ぶ約束でもして共にこのスイーツショップに来ているのだろう。

 

「…よう。お二人さん」

「よっ、奇遇だな」

 

櫻井は俺に気づくと、右手を上げて言った。

俺は目を細め、白銀さんを一瞥して「…悪い、邪魔したようだな」と呟き、その場から離れる素振りを見せた。

すると、白銀さんは顔を赤らめ、焦ったように俺に反論をしてきた。

 

「ば、バッカじゃないの!?そんな関係な訳ないでしょ!?」

「…何も俺はそんな関係だとは一言も言ってないぞ」

「ーっ!!」

 

俺がニヤリと笑いながら櫻井に視線を送ると、櫻井は僅かに笑いながら顔を少し赤らめていた。

恐らく、恋人関係だと遠回しに言われ、気恥ずかしくなっているのだろう。

恐らく直ぐにでも学校中にお似合いのカップルだと言われる事になる筈だ。

未だ少ししか話していない俺でもお似合いだと思うほどだ。

もっとも、櫻井がモテて居なかったらの話だが。

 

「…さて、それじゃあ、今度こそ失礼するよ。またな」

 

それだけ言って俺はその場から足早に立ち去る。

用を済まし、薄紫髪の子の元に戻る。

彼女はその間に更にスイーツを注文しており、俺は思わず溜息を吐いた。

 

「食いすぎだ。阿呆。少し自重しろ」

「そんなに食べてませんわ!!この程度…」

「食っている。見てみろ、伝票に記されている量を」

「そ、それは…」

 

彼女は気まずそうに俺から視線を逸らし、肩をすくめた。

そして、涙目で、何かを訴えるようにこちらを見つめて来た。

俺は額に手を付き、彼女を見つめた。

 

「仕方ないな。これで最後だぞ」

「ありがとうございます」

 

彼女は目を輝かせながら言った。

そして、タイミング良く、注文したスイーツの皿が机に並べられ、彼女は再び目の前のスイーツを食べ始めた。

全く、何も味のしない、見た目だけが一丁前に鮮やかな食べ物の何が良いのやら。

俺には到底理解が出来なかった。

 

「…なぁ、それってそんなに美味いか?」

「ええ、勿論ですわ。こんなにも甘い物、他にありませんもの!」

「…そうか」

 

暫くした後に、彼女は最後のスイーツを食べ切り、満足したような雰囲気で俺に感謝を告げた。

俺はそれに対して「気にするな」と簡潔に告げ、会計を済まして店の外へ足早に出た。

 

「それでは、失礼しますわ」

「ああ。じゃあな」

 

それだけ言って、彼女と離れ、昼食を済ませて爺さんに会いに行く為にトレセン学園へと歩を進める。

その途中、妙に何度も赤信号に捕まったが、恐らく今日は不幸な日なのだろう。

あの薄紫髪の子に出会ってしまったのだから、そう考えると辻褄が合わなくも無い。

そうして、トレセン学園に到着すると、急いでチームスピカの部屋に向かった。

何故か、背後から声を掛けられたような気もするが、その時の俺はそんな事を気にする余裕が無かった。

中に入ると、爺さんがキャンディーを咥えながら椅子に座っていた。

爺さんは俺を見ると、右手を上げ、「よっ」と言った。

 

「悪いな爺さん。こんなに遅れて」

「気にすんな。…まあ、早速本題に入るか」

 

爺さんは机の向こう側に折り畳み式の椅子を出し、俺はそこに座る。

そして、爺さんが椅子に座ると、口を開いた。

 

「…単刀直入に聞くぞ。お前はビワハヤヒデのトレーナーをしたいと言っていたが、これから先の事、どう考えている」

「俺は正直、彼女のトレーナーを出来るのだったら、何を捨てても良いと思っている。…だから、高校を辞めてでもトレーナーをやるつもりだ」

「もし、失敗したらどうする。ウマ娘のトレーナーはそう簡単に務まる事じゃ無い」

「…分かってるさ。だからこそ、俺は何を捨ててでもトレーナーになりたいって言ってるんだ」

 

俺はビワハヤヒデのレースを見た後のあの感動を思い出して言う。

あの子のレースを見た時のあの衝撃。あれは俺が初めて受けた程の衝撃を秘めていた。

そのおかげで、俺は初めて夢を見ることが出来た。初めての事をそう簡単に諦めてたまるものか。

この好機を逃せば、俺はきっと、もう夢を見る事は無くなるだろう。

だから、爺さんを説得させる。絶対に負かしてみせる。

 

「…爺さんも知ってるだろうけど、これは初めて俺が見ることが出来た夢なんだ。これを逃したら、俺はもう夢を見る事は無くなる。だから…お願いだ。俺をトレーナーにさせてくれ」

 

俺は立ち上がり、頭を下げた。そうでもしなければ、爺さんは絶対に認めてくれない。

出来る事は何でもしなくては、この人は認めない。

 

「分かった。取り敢えず、頑張れるだけ頑張ってみろ。きっと、その分ビワハヤヒデも応えるだろ」

「…っ。ありがとう、爺さん」

 

俺は顔を上げ、過去のトレーナーをしていなかった爺さんの姿を思い出した。

目の前に移る爺さんは、あの頃の爺さんの姿とは大きく違っていた。

その姿は、れっきとした親の姿であり、頼りがいのある先輩の様な姿にも見えた。

 

「…あのさ、爺さん」

「ん?どうした」

「俺はビワハヤヒデを上手く育てられるか、分からない。だから時には頼るときもあるかもしれない。…それでも、良いか?」

 

俺は俯き、ビワハヤヒデが負ける想像をする。

爺さんの言う通り、失敗してしまったら、彼女の人生は滅茶苦茶になってしまう。

トレーナーは、ウマ娘の人生を左右する大きな存在。そんな事はとうに分かって居た筈なのに、いざその立場になると、そのプレッシャーに押し潰されそうになってしまう。

 

「当たり前だ。お前は新人なんだから、先輩に頼るのは至って普通の事だぜ。どんどん頼って、俺から学べ」

 

俺は顔を上げ、爺さんを見つめる。

爺さんは誇らしげに胸に拳を置き、キャンディーをかみ砕いた。

俺はふっ、と息を吐き、笑みを浮かべた。

 

「ああ、分かったよ。爺さん」

 

全く、本当に頼りがいのある爺さんだな。

俺はそう思いながら椅子から腰を上げ、部屋の外に出る。

そして、ビワハヤヒデのトレーナーを務めさせてもらう為に、彼女の元へと急いで向かう。

 

 

 

 

「…さて、アイツの書類を出しておくか。今日は徹夜…。全く、親ってのは苦労するもんだな」

 

爺さんは小さな笑みを浮かべながらパソコンを開き、書類を記入し始めた。

 

 



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第5話 想定外

どうも皆さん。怪獣8号という漫画と、ウマ娘により一層ハマったせいで執筆に手が付かなくなってきたまっちゃんです。
いやはや、皆さんのお陰で評価バーに色が付きました。
ありがとうございます。


 

ビワハヤヒデの元に向かう最中、脳裏にトレーナーになる為に必要な事があるのではないかという思考が過る。

俺は内心恐れながらスマホを取り出し、爺さんに電話を掛ける。

爺さんは直ぐに電話に応じて「どうした?」と言った。

 

「なぁ、爺さん。1つ聞きたい事があるんだが…」

「おう」

「トレーナーになる為の何か…例えば試験とか、そんなものってあるのか?」

「ああ、あるが…言ってなかったか?」

 

爺さんは今更その事に気が付いたのか、震えた声で言った。

俺は怒りを込めた声で「ああ」と返事をする。

すると、突然スマホの向こう側から、急いで手帳を取り出して、それを床に落とす音が聞こえてきた。

その音を聞いていると、爺さんが慌てている様子が容易に想像できる。

そして、溜息交じりに爺さんの名前を呼ぶ。

 

「お、おう。どうした?」

 

慌てた声で声に反応した爺さんは先程まで感じていた親としての姿を上書きするように落ち着きを失っていた。

その姿に内心失望しながら視界の端に写るレンガ造りの柱の裏に隠れている者に視線を送る。

その者は柱から白髪がはみ出しているのにも拘らず隠れているつもりであるらしい。

腰まで伸びた白髪の持ち主と言えば、俺の知っている限りではビワハヤヒデしかいない。

案外、抜けたところもあるのだな。

そう思うと、ビワハヤヒデの新たな一面を知れたことが爺さんに対する失望を上書きした。

クスッと思わず笑ってしまった後に、爺さんに落ち着きを取り戻すように催促する。

 

「取り敢えず、落ち着け。その試験の概要さえ教えてくれれば良いから」

「概要だけって、お前なぁ…」

「良いから早く教えろ。…それとも、俺の事を信頼してないのか?」

「いや、そう言う訳じゃないんだが…。問題はその試験までの日数なんだ」

 

俺は爺さんのそのちっぽけなカミングアウトを鼻で笑った。

日数が何だ。その程度の修羅場、幾らでも乗り越えてきたさ。

 

「大丈夫だ爺さん。俺は1日さえ在れば直ぐにその試験で受かって見せるさ」

「…まぁ、お前の夢を応援するって決めちまったしな。試験までは一週間しかない。それでも、受かることが出来るんだな?」

「ああ。…ビワハヤヒデの期待を裏切る訳にはいかない。彼女の期待に応えるぐらいだったらその程度の事、造作も無い」

 

俺は通話を切り、ビワハヤヒデに視線を送る。

 

「盗み聞きは褒められたものじゃないぞ。ビワハヤヒデ」

「…すまない。偶然君を見かけたので寮まで共に帰ろうと思ったのだが、誰かと喋っていたのでな、盗み聞きするような形になってしまった」

 

柱の陰から姿を現したビワハヤヒデはトレーニング終わりなのか、泥だらけのジャージ姿だった。

靴も酷く汚れており、俺は直ぐ様着替えて来るようにビワハヤヒデを更衣室に向かわせた。

汚れていては彼女の気分は少なからず良い物とはならないだろう。

彼女が出て来るまで更衣室の壁に寄り掛かりながらスマホを眺めていると、ある大学のネットニュースが流れて来た。

それをタップして開くと、ある教授の行方不明の事件についての事だった。

その教授は仙宮力也と言う名で、遺伝子組み換えの研究をしていたらしい。

どうやらその教授はその研究にだけは異常な程熱心に行っていたようだ。

それも、人体で実験してみたいと言ってしまう程に。

俺はそんな狂気に何故か恐怖心を抱き、身体が震えだしてしまった。

周囲の音が遠くなっていく。何も聞こえなくなっていく。

視界が暗くなり、遂には意識も危うくなってきた。

 

「…、…み。君!!」

 

俺の事を呼ぶビワハヤヒデの声でハッとする。

俺は振り返り、思わず一歩後退りしてしまった。

彼女の顔は俺の事を心配している様な表情を浮かべており、彼女は口を開いた。

 

「…大丈夫か?あんなに震えていたが…」

「あ、ああ。大丈夫だ」

 

俺は平静を装って先程の恐怖心を無理矢理消し去る。

怯えた所など、恥ずかしくて他人に見せられたものじゃない。

ましてや、未だ何も知らない彼女の前で、そんなことをしてしまえば、戸惑わせてしまうだけだ。

 

「そうか、なら良いが…。あまり無理はするなよ?君は私のトレーナーになってもらうのだからな」

「ああ、分かってるさ」

 

俺はスマホの電源を落とし、その恐怖心から目を逸らすようにそれを乱暴にポケットに突っ込む。

 

「さて、帰ろうか。…俺も、しなくてはならないことがあるからな」

 

そう呟いて歩を進める。ビワハヤヒデは俺の隣で歩きながら、妹の事や同じ時期にデビューしたウマ娘の話をしだした。

それを聞いている内に彼女の性格が何となく分かってきたような気がする。

恐らく、彼女は世話焼きなのだろう。

それが顕著に表れたのは、妹の話をしている時の表情だった。

彼女は「姉と言うのは苦労するものだな」と言いながら笑っていたのだ。

俺は口角を少し上げ、言葉を紡ぐ。

 

「妹の事、好きなんだな」

「ああ、一時期は姉として居られるのか不安だったが、それも今となっては笑い話だ」

「…そうか」

 

そんな他愛のない話をしていると、何時の間にかビワハヤヒデの宿泊寮に到着してしまった。

ビワハヤヒデは俺に別れを告げ、宿泊寮へと歩いて行った。

その背中を見送ると、俺も家に帰る為に歩を進める。

それから一週間後、遂にウマ娘のトレーナーになる為の試験の当日になった。

俺は爺さんから預かった、試験の対策用の教科書を一通り暗記した為か、緊張はしていなかった。

試験会場として指定されたビルの中に入り、試験票を試験官に提出し、入室して席に着く。

そして、最低限の筆記用具を机に並べて、教科書をサラサラと眺めていく。

そんな事をしている内に、試験開始の時刻になり、問題用紙と解答用紙の二枚の紙が配られる。

その直後、試験官の「試験開始です」と言う声が厳かな雰囲気の室内に鳴り響いた。




毎回読み上げていた、お気に入り登録してくれた方々の名前を読み上げるのはそろそろどれが既に読み上げた方なのか未だ読み上げていない方なのかが判別不可能になって来ましたので、辞めさせていただきます


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第六話 疑心

 

試験から数日後、合否通知が家に届いた。

その中身を確固たる自信を持ちながら封筒から引き抜く。

畳まれたその紙を開いて結果を見ると、案の定『合格』の二文字があり、蹄鉄の形をした金色のバッジが顔を覗かせていた。

そのバッジを手に取り、それを何となく見つめる。

そして、それを胸の襟に差し込んで、鏡の前に立つ。

それに写る俺の姿はバッジがある事以外何一つ変わりないのに、何故か大人っぽく見えた。

 

「…そろそろ、爺さんに報告に行かないとな」

 

バッジを外し、合格通知書と共に封筒に入れる。

そして、それを制服のブレザーのポケットに突っ込んで家を出て、トレセン学園に向かう。

その道中、ビワハヤヒデが向かいの道で葉っぱを咥えた黒い髪をしたポニーテールの琥珀色の目をしたウマ娘と歩いている様子が目に入った。

そのウマ娘の容姿がビワハヤヒデから聞いていたのと同一だったため、そのウマ娘が妹の『ナリタブライアン』であると察した。

ならば、家族で共に時を過ごしているのだから、声をかけるのは野暮だろう。

何時家族との幸せな時間が終わるのか分からないのに、俺の為にそれを削るのは勿体無い。

そう、例えば、突然この場にトラックが突っ込んできていても可笑しくないのだ。

幸せな時間はたった一つの理不尽によって奪われてしまう。

その度に、その理不尽の被害者は自分を責めるのだ。

責めて、責めて、責めて…。

その果ては人それぞれだ。

自暴自棄になり、自殺する者も居れば、その悲しみを乗り越えて、また一歩を踏み出す者も居る。

俺はあの過去を乗り越える事が出来ているのだろうか。

 

「…俺は、まだ貴方を憎まずには居られないよ」

 

小声で呟いたその一言は、まだ少し肌寒い春風によって攫われていった。

俺は肩をすくめ、ブレザーを両手で身体に巻き付けるようにして開いている身体の前面を隠す。

 

「今日はやけに寒いな…」

 

そうひとりごちりながら、足早にトレセン学園へと向かった。

トレセン学園に到着すると、ピンク色の髪をしたウマ娘とぶつかってしまった。

勢い付いていた為、俺は少し後ろに仰け反ってしまった。

対してそのウマ娘は頭から地面に激突しそうになっていた。

俺は直ぐに体勢を整え、彼女の身体に腕を回し、こちらに引き寄せる。

傍から見れば、俺が彼女を抱き締める様な形になって居るだろう。

 

「…大丈夫か」

「うん!ありがとう!」

 

そのウマ娘はピンクの瞳で俺の目を見つめながらそう言った。

俺はその瞳の色に多少の既視感を抱きながら、視線を逸らす。

 

「ああ。…気を付けろよ」

 

彼女から腕を離し、その場から足早に去る。

彼女の瞳は、何処かで一度見た事があった。

その確信と共にチームスピカの部屋の中に入る。

そこでは、爺さんがチームメンバーと共にレースに向けての作戦会議を行っていた。

 

「…悪い。邪魔したな」

 

俺はそれだけ言って、封筒を爺さんに投げ付ける。

爺さんはそれを右手でキャッチして、戸惑いながらその中を覗いた。

すると、直ぐに顔を上げて俺にサムズアップだけして封筒を机の上に置いた。

俺は頬を緩ませながら頷いてその場から去る。

 

「さて、書類等は爺さんがやってくれるようだし、後は待つだけ、か」

 

夕暮れで橙に染まった空を仰ぎながら、顔も見たこと無い母さんに向けるように、歯を見せて笑う。

夢は夢のまま。俺はずっとそう思っていた。

だけど、彼女に出会ってその考えが変わった。

どこぞのフランスの皇帝が言っていた言葉にこのような言葉がある。

 

『じっくり考えろ。しかし、行動する時が来たなら、考えるのをやめて、進め』

 

彼のその言葉は多くの人間に届いたのだ。そうでなければ、それは後世には受け継がれてこなかった。

俺も、その大勢の中の一人だ。

だからこそ、その言葉の様に動いてみたい。

夢はもう既に見据えている。ならば後は行動するのみだ。

 

「…さて、取り敢えず睡眠は取らないとな。試験勉強で何回徹夜したのか…」

 

 

 

「…いやぁ、いくら慣れていてもアイツの記憶能力には驚くな」

 

トレーナーは合格通知書が入った封筒を手に取り、苦笑を浮かべながらそう言った。

赤茶色の髪をしたウマ娘が「何よ、アイツそんなに凄いの?」と言いながら腰に手を置く。

 

「ああ。何たって、俺が一年かけてギリギリ受かったトレーナー試験をたった一週間の勉強で受かりやがったんだからな」

 

自慢げに語るトレーナーの姿に薄紫髪のウマ娘と赤茶髪のウマ娘と焦げ茶髪のウマ娘は溜息を吐く。

そして、薄紫髪のウマ娘が訝しげな眼をしながら口を開く。

 

「…しかしまぁ、あの方は一体何者なんでしょうか。超人じみた記憶能力と身体能力。それに、素手でガラスを割っても痛がる様子をしない…。明らかに只の人間ではありませんわ。

…何かご存じですの?」

 

トレーナーに視線を移して、問いただす。

トレーナーは両手を肩の所まで上げて首を横に振った。

 

「何も知らねぇよ」

 

 



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第七話 小さな不幸

俺は真っ暗な部屋の中、机に設置してある蛍光灯の光を頼りに自室で高校に明日提出する退学届にペンを走らせる。

最後の一行を書き終え、溜息を吐きながら椅子の背もたれに寄り掛かる。

腕を伸ばして、机の端に画面を下にして置いておいたスマホを手に取り、時間を確認する。

スマホの画面は午前四時を映しており、俺は蛍光灯の電源を切り、スマホをズボンのポケットにスマホを入れて部屋を出る。

 

「…身体が重い事だし、少し外に出て運動でもするか」

 

黒いスニーカーを履き、外に出る。

未だ日が昇っていないそこは酷く静まっており、時々通る車の音が良く響いていた。

扉の鍵を閉め、道路に出て地面を蹴る。

風を切る音が耳に入り、勝手に口角が上がる。

実に風を切る音と言うのは心地よいものだ。

そう思いながら、地を強く踏みしめ、更に加速する。

風の勢いに吹き飛ばされそうになるが、それを押し退け、走り続ける。

信号を走り抜けようとしたその瞬間、右から俺を呼ぶ声が聞こえて来た。

俺は急いで走るのを止める。勢い付きすぎてしまった所為か、少し距離が出来たところで漸く止まった。

呼ばれたところにまで戻りながら先程の声が聞こえた方向に視線を飛ばす。

そこには少し汗をかいたビワハヤヒデが居り、ゆっくりとこちらに歩いて来ていた。

 

「…こんな時間から走っているのか」

「ああ。妹には負けられないからな」

「そうか。…才能に勝てるのか?」

「…分からない」

 

顔を曇らせてビワハヤヒデは言った。

理論によるレースを展開する彼女がそんな事を口にするとは思ってもみなかった。

 

「だが、それでもアイツには私の背を見せなければならない」

「…そうか」

「ああ」

 

ビワハヤヒデは俺に手を振り、信号を渡ってトレセン学園へと帰っていった。

俺は地を蹴り、走ってきたコースをもう一度全速力で走って家に帰る。

家に着き、スマホをポケットから取り出し、電源ボタンを押す。画面は四時半を映していた。

 

「…まだこんな時間か。少しばかり寝るとするか」

 

再度ポケットにスマホを入れ、ソファに仰向けに寝転がり、クッションを枕にして瞼を閉じる。

太陽の光が瞼に当たり、瞼を開けて上体を起こす。

意識がはっきりしてから、両腕を上に伸ばしてソファから降りる。

ポケットにしまってあるスマホを取り出して電源ボタンを押す。

画面には六時半という表記が映っていた。

スマホをソファの肘置きに置き、制服に着替える。

 

「この制服を着るのもこれで最後か」

 

感傷に浸りながらスマホとトレセン学園の入校許可証を手に取り、食パンを一斤口に詰め込み、鞄を肩にかけて何時もより一時間早い、七時に家を後にする。

スマホの電源ボタンを軽く押して、トレセン学園に向かいながら、爺さんに電話を掛ける。

退学届の記名欄に名前を記入してもらうのだ。

爺さんは快諾し「書類はもう完成しているから、そこは心配すんな」と言った。

 

「ああ。分かった」

 

それだけ言ってスマホの画面に映る赤い部分を親指でタップして、スマホをポケットに入れる。

三十分歩くと、煉瓦でできた校門が見えてきた。

その前には何時もの様にたづなさんが笑顔で立っており、俺は入校許可証を差し出して見せ、会釈をして中に入る。

真っ直ぐトレーナー室に向かい、灰色の扉をノックして中に入る。

 

「おっ、来たか」

 

爺さんはパソコンの前に座り、椅子の背もたれに体重をかけながら、俺に向けて右手を上げた。

俺は鞄からクリアファイルを取り出し、爺さんのデスクに置く。

爺さんは直ぐに退学届を取り出し、傍に置いてあった筆箱からペンを取り出した。

 

「…漸く、アイツのトレーナーになれるのか」

 

俺は白い壁に寄り掛かり、爺さんに視線を飛ばす。

爺さんは険しい表情を浮かべながら棒付きキャンディーを咥え、退学届にペンを走らせている。

 

「…ああ。頑張れよ」

「言われずとも」

 

爺さんは小さく息を吐いて笑みを浮かべると、退学届をクリアファイルの中に戻し、俺にそれを差し出した。

 

「じゃあな」

 

それを受け取り、鞄に入れ、トレーナー室を後にする。

真っ直ぐ校門に向かっていると、校門の方からウマ娘たちの声が聞こえてくる。

そのまま向かうと彼女達の混乱を招くため、校門のちょうど反対側の裏門に回り、トレセン学園を後にする。

そして学校に向かう道中でお店を開いている黄色を基調としたキッチンカーに寄り、蜂蜜の飲み物を買う。

学校に着く頃にはそれを飲み干しており、教師たちにバレない様に鞄に入れ、校内に入って校長室に向かう。

校長室の焦げ茶色の扉をノックし、中に入る。

茶色のデスクの前に椅子に座ったふくよかな身体をした白髪の男性が俺を見て椅子から立ち上がった。

 

「やぁ、どうしたのかね」

「少しお話があります」

 

俺はそう言って鞄から取り出した退学届を校長先生に差し出す。

校長先生はそれを受け取ると、驚いた様に目を見開いた。

 

「…単刀直入に申し上げます。私はこの学校から退学させて頂きます」

 

俺の言葉を聞いてから、校長先生はクリアファイルに入っている手紙を開いた。

十分経ってから校長先生は口を開いた。

 

「…この手紙を読ませていただいたよ。私は止めはしない。では、少し席を外させていただく。君はそこのソファに腰を掛けておいてくれ」

 

そう言って校長先生は校長室を後にした。

俺は息を吐き、黒いソファに腰をドッと下ろし、鞄を傍に置く。

身体が深く沈み、気味の悪い浮遊感を感じる。

 

「どうもこの手のソファには慣れないな…」

 

そう呟きながら背もたれに体重をかける。

またしてもソファの異常な程のふかふかさが俺を襲う。

その気味悪さをかき消すようにビワハヤヒデの選抜レースを思い出す。

最終コーナーを回り、直線に入った瞬間に外から抜け出し、先頭に立ったと思えば大差を付けての勝利。

あの時の走りに対する衝撃は今でも忘れられなかった。

その衝撃に再度鳥肌が立ちそうになる。

あのレースの事を思い出していると、ドアがノックされ、校長先生が中に入ってきた。

 

「…先程、職員全体で会議をした。結論から言わせてもらえば、君は退学することが出来る」

「そうですか」

 

そう呟き、鞄の中から生徒手帳と学生証を取り出し、校長先生にそれらを渡す。

 

「…では、これにて失礼します。今までお世話になりました」

「ああ。…何を君がしたいのかは知らないが、頑張ってくれ」

 

その言葉を聞き、重い校長室の扉を開け、そこを後にする。

その扉を閉める寸前、校長先生が何かを呟いた。

空耳だろう。

上手く聞き取れなかった為、そう思うようにした。

 

「これで漸く、トレーナーになれるのか…」

 

俺は空を仰ぎ、トレセン学園へと向かう。

トレーナー室に行き、爺さんに学校を辞めたことを伝える。

 

「…分かった。それじゃあ俺はこの資料を理事長に提出してくるから少し待ってろ」

「ああ」

 

爺さんはその資料を手にしてトレーナー室を去った。

俺は爺さんが座っていた椅子の傍の床に置いてあるビニール袋の中から棒付きキャンディーを一本取り出し、それを口に咥える。

そして、青いソファに腰を下ろし、鞄を傍に置き、ポケットからスマホを取り出す。

適当なネットニュースを読んでいても何も感じず、ただただ退屈な時間だけが過ぎていった。

そうしていると、爺さんがトレーナー室に戻ってきた。

その時の表情は少し緩んでいて、嬉しそうなそれを浮かべていた。

 

「何だよ、気色悪い。ニヤニヤすんな」

 

俺は半目で爺さんに視線をぶつけながら、溜息交じりにそう言った。

しかし、内心嬉しかった。

ビワハヤヒデのトレーナーになるという夢にまた一歩近づけたのだ。

嬉しくないわけが無かった。

 

「ひでぇな…。お前の夢に貢献してやったんだぞ?少しは褒めたっていいじゃねぇか」

 

爺さんは心にもない事を口にしながら、パソコンの前の椅子に座った。

 

「…まぁ、感謝はするよ」

「おう」

 

パソコンを開きながら、俺に視線を寄越さず言った。

俺はソファから腰を上げ、トレーナー室を後にしようと扉に手をかけた。

すると、爺さんが口を開き、「明日、正午丁度にトレーナー室に来い。理事長に挨拶しに行くぞ」と言った。

 

「…お節介だ。俺は一人でも挨拶に行ける」

 

そう言ってトレーナー室を後にする。

そのまま校門に向かい、トレセン学園を後にしようとした時、ウマ娘とぶつかってしまった。

そのウマ娘は尻餅をついてしまい、俺は直ぐにその娘に手を差し出した。

その娘は直ぐに俺の手を取り、尻に付いた小さな塵を叩き落としながら立ち上がった。

 

「…大丈夫か?」

「あ、あの、ごめんなさい…。ライスの所為でお兄さんに怪我させちゃって…」

「怪我?」

 

俺は体を一通り見て回る。

怪我らしい怪我はしておらず、首を傾げた。

 

「怪我なんてどこもしてないが…」

「ここに青い痣があります…」

 

彼女は俺の腕にあった小さな痣を指さしてそう言った。

 

「…ああ、これの事か。これくらいの事、気にするな。すぐに治る」

「あ、あの、本当にごめんなさい…!ライス、直ぐに行くから、そしたら大丈夫だから…!」

 

彼女はそれだけ言うと直ぐに走り去ってしまった。

容姿はあまり見ることが出来なかったが、彼女の雰囲気は幼い頃に救った子供のそれとどことなく似ていた気がした。

 

「…今日は不思議な事が良く起きるな」

 

彼女の事を覚えておこう。あの娘もウマ娘だ。

トレーナーをしていれば何れ出会う事だろう。

俺はそう思うようにして家に戻った。



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第8話 担えたもの

未だウマ娘たちが登校する前、俺は理事長室に向かって歩を進めていた。

呆然としながら廊下を歩いていると、何時の間にか目的地に着いていた。

俺は扉をノックし、「どうぞ」という老人の声が聞こえたのを確認すると、中に入る。

そこには黒いスーツに身を包んだ老紳士が黒い椅子に腰を掛けていた。

俺が入ってきたのを確認すると、老紳士は立ち上がって俺の目の前まで歩いてきた。

 

「初めまして。君が仙宮零二君かな」

 

そう言って微笑んで手を差し出してきた。

俺はその手を取り、「はい」とだけ言ってその手を取った。

老紳士はゆっくりと手を引き抜き、自分が元居た椅子に腰を掛け直した。

俺は机を挟んで老紳士の前に立つ。

 

「…さて、私も君も悠長に世間話をするほど時間を持て余してはいないからね。早急に終わらせよう」

「そうですね」

「単刀直入に言おう。君の担当するウマ娘は…ビワハヤヒデだ」

 

老紳士は俺が余りに無反応だからか、驚いた様に少し目を見開いた。

その驚きを消すように一度咳き込んだ。

 

「どうやら、君は彼女に相当好かれているようでね。幾ら他のトレーナーが彼女に言い寄ろうと、全て断っていたんだ。彼女の最善策は一刻でも早くトレーナーを見つける事だったのにも拘らずだ」

「…それはありがたいですね。私も彼女を担当したかったものですから」

 

老紳士は溜息を吐き、「手続きはこちらで済ませておくよ。君はトレーナー室で好きにしていると良い」と言って椅子を回転させて俺に背を向けた。

俺は理事長室を後にし、その引き戸を開ける。

中には爺さんがアイマスクをしたまま椅子の背もたれに寄り掛かっている姿があった。

ああ、疲れているのか。

俺はなるべく爺さんを起こさないよう物音を立てずにあらかじめ用意された自分のデスクの席に着き、椅子の背もたれに寄り掛かって天井を仰ぐ。

 

「特にすることが無い…」

 

そう言った途端、爺さんがアイマスクを外し、こちらに視線を移した。

 

「何だ、来てるなら起こしてくれりゃ良かったのに」

「起こさねぇよ。起こしたところでする事なんざ無いだろ」

 

爺さんはアイマスクをデスクの上に置き、身体を伸ばして立ち上がった。

 

「やる事はあるぞ。ここの施設を全部見て回る事だ。お前だって全部把握してる訳じゃないだろ」

「…何だ。そんな事は後でやればいいだろ。俺だったら地図さえ見れば全部覚えられる」

「いやいや、器具の使い方は覚えとかないと使えないだろ」

「その時はあんたに聞くよ」

 

俺はそう言って行先を何も決めないままトレーナー室を後にし、ただ呆然と敷地内を歩き回る。

すると、視界の端に広大な敷地のレーストラックが入り込んだ。

それに視線を飛ばすと、数人のウマ娘たちと、指示を出すグレーのパンツスーツを着こなしているボードを持っているポニーテールの青髪の女性がいた。

きっと今後お世話になる人だろう。声をかけておきたい。

 

「…今声をかけるのは邪魔か」

 

俺は踵を返し、トレーナー室に戻ると、爺さんの姿は無く、その代わりにビワハヤヒデが居た。

 

「待っていたよ。私のトレーナーが決まったと聞いて飛んできたんだ」

「待たせて悪かった。今日から改めて宜しく頼む」

 

俺はビワハヤヒデに手を差しだす。

彼女はその手を取り、こう言った。

 

「ああ。こちらこそ」

「…まだ自己紹介をしていなかったな。俺の名前は仙宮零二」

「良い名前じゃないか」

「…ああ。まぁな」

 

俺はビワハヤヒデから目を逸らしながら奥歯を食いしばてそう言った。

 

「さて、それじゃあ私は教室に戻るよ。授業が終わっていないんだ」

 

ビワハヤヒデは手を離し、引き戸に手をかける。

 

「…ああ。それじゃあ、また放課後に」

「ああ。また」

 

彼女はそう言ってここを後にする。

俺は足早に自分のデスクに向かい、予め用意されていたノートパソコンを起動する。

細かいアカウント設定を終え、直ぐにWordを起動し、トレーナー試験で学んだ知識を基に練習メニューを作る。

それを作り終えると、左眼が熱を持っているのとその視界が赤くなっているのに気づき、俺は直ぐにWordに書き込んだ練習メニューをコピーし、直ぐにパソコンを閉じた。

コピー機が音を鳴らしながら出してくる練習メニューが書き込まれている紙を1枚1枚受け取り、束にしてホッチキスで右上の端の部分を止める。

それをデスクの上に置き、ポケットからスマホを取り出し、時刻を確認する。

 

「…もう放課後なのか」

 

俺はデスクの上の練習メニューを手にし、ストップウォッチを首にかけてレーストラックに向かう。

すると、俺より先にビワハヤヒデは既にジャージ姿でそこに立っていた。

 

「遅いぞトレーナー君」

 

彼女は俺を見るなり腕を組んでそう言った。

俺は直ぐに彼女に駆け寄り、「済まない。作業に集中しすぎた」と言って手元の練習メニューに視線を移す。

 

「先ずは今の仕上がり具合を確認させてくれ。勿論、トレーナーが不在の間もトレーニングは欠かさず行っていたんだろう?」

「ああ。無論そうだとも」

「じゃあ、1600mを走ってきてくれ。タイムを計る」

 

俺はポケットからスマホを取り出し、ストップウォッチを開く。

ビワハヤヒデは頷くと、直ぐに走り出した。

それと同時にスマホのタイマーを開始する。

彼女の走る姿を見つめながら、時折スマホの画面に視線を移す。

 

「良いペースだ。さて、上がり3F(ハロン)のタイムが47秒台なら良いんだが…」

 

ビワハヤヒデが最終コーナーに差し掛かったと同時にラストスパートをかけ、俺はビワハヤヒデが残り600mの地点に差し掛かった時点で首にかけたタイマーを開始する。

彼女はそのままの勢いで1600mを走り切る。

それと同時に俺は2つのタイマーを止め、俺の背後にある青いベンチに置いてあった彼女の黒いスポーツボトルとタオルを手にする。

 

「お疲れ」

「ああ。それで、タイムはどうだった?」

 

俺はビワハヤヒデのスポーツボトルを渡し、スマホの画面には1:36.3の数字が表示されており、首にかけたそれには47.6の数字が表示されていた。

 

「1分36秒3。上がり3F(ハロン)で47.6だ。まあまあなタイムだと思うが、まだデビューしたてだ。まだまだ伸ばせる」

「ああ。私も同感だ。改めて、これからよろしく頼むよ。トレーナー君。共に“勝利の方程式”を作り上げていこう」

「…そうだな。それが俺に出来る事なら」

 

“勝利の方程式”という大層な名前の概念の事を俺は知らなかったが、勝利という言葉が名前に付いているのだから文字通りレースに勝利するためのモノなのだろう。

だが、負けない為ではない。もし負けないための方程式とそれをはき違えているのなら、俺が正してみせよう。

それが俺に出来る事なら。



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