秋の盾をあなたに (江芹ケイ)
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プロローグ:終わりの始まり

主人公の立ち絵を掲載いたしました。八代明日華(Twitter:@gurivinesyu)様に依頼し描いていただいたものとなります。ぜひご覧ください。
【挿絵表示】



 肌寒さを感じる十月下旬の週末、東京レース場は吹き抜ける木枯らしを物ともしない熱気に包まれていた。各々個性豊かな勝負服で着飾ったウマ娘たちが、パドックでのお披露目を終えてコースに繋がる地下バ道へ向けて歩いて行く。

 

「ノヴァ!」

「ノヴァ先輩!」

「ノヴァちゃん!」

 

 その中の1人を、人々をかき分けて観客席の最前に出て来た青年と数名のウマ娘たちが呼び止めた。他と異なり煌びやかな装飾品を一切身に着けていない、白を基調とした簡素な勝負服に身を包んだ葦毛のウマ娘がくるりと振り向く。ろうそくの炎を想起させる美しい色の瞳が、彼らを捉えた。そのウマ娘は首を傾げて不思議そうに尋ねる。

 

「どうしたの? みんな。コースの方にいなくて大丈夫?」

「私が少々我儘を言いました」

 

 緑と白の縦縞柄の耳カバーをした鹿毛のウマ娘が答えると、葦毛のウマ娘が眉を下げた。

 

「安静にしていないとだめでしょ? ラフィ」

「首を痛めたのはもう半年も前ですよ? 後遺症もありませんし、ノヴァは心配性が過ぎます」

「でも――」

「でももだってもありません。ノヴァ、私の心配をするくらいなら、自分の心配をしてください」

 

 葦毛のウマ娘はじっと見つめてくる圧に負けた。一般に無理無茶無謀と言われるような量のトレーニングをしていたことは完全にばれているようだった。

 

「……ありがとう。だけど、あれくらいやらないと勝てないと思ったから」

「ノヴァがそういうなら、そうなのかもしれませんね」

「相手が相手だから」

「……ゴールで待ってますよ」

 

 ラフィと呼ばれたウマ娘が下がる。すると、『キャンドルノヴァしか勝たん!』と書かれた横断幕を手にした、少し幼さの残る葦毛のウマ娘がしっぽを振りまわしながらずずいっと前に出て来た。

 

「ノヴァ先輩!」

「ルネ、気持ちはうれしいけど横断幕はやめようね」

「えぇっ!?」

 

 ルネと呼ばれたウマ娘がしっぽをビンと立ち上がらせて、心底驚いた様子で声を上げる。喜んでもらえると思って作ってきたのだろうことは、キャンドルノヴァもよくわかっていた。しかしここはレース場である。

 

「後ろの人に迷惑でしょ?」

「……確かに! じゃあ、他の人の声が聞こえないくらい大きな声で応援します!」

「……まぁ、それくらいなら。喉を潰さないようにね」

「はい!」

 

 性格は違うのにどことなく似たような雰囲気を持つ2人の会話に一区切りついたところで、他のウマ娘たちもキャンドルノヴァに声をかけていく。青年だけが、悩むような表情で沈黙を保っていた。

 

「トレーナー! あとはトレーナーだけです!」

 

 青年は少々逡巡した後、それが叶わないことだと覚悟した様な面持ちで声をかける。

 

「ノヴァ。いや、ドリー。勝てなくてもいい。絶対に無事で帰って来い」

「トレーナー!? どうして縁起でもないこと言うんですか!」

「もう少し言い方というものがありますよ?」

 

 チームメンバーのトレーナーを窘める声を無視するように、2人はただ見つめ合う。

 

「……勝ってきますね」

 

 たとえ、ゴール板の1歩先でどうなったとしても。

 

 キャンドルノヴァは困ったように笑いながら、しかし言外に意思の固さを感じさせる声でそう言い残すと、地下バ道へ歩いて行った。




2021/04/04 16:47
一部登場人物の名前変更(タウリ→ルネ)

2021/04/05 19:33
登場人物間の呼び方を一部修正

2021/04/10 04:30
医学的に誤った描写である可能性があったため、該当箇所を修正いたしました。
(車いすに腰かけた→緑と白の縦縞柄の耳カバーをした)
(痺れも取れましたし、未だに車いすなんて大げさです→後遺症もありませんし、ノヴァは心配性が過ぎます)
(車いすの→ラフィと呼ばれた)

2024/01/04 22:10
主人公立ち絵を前書きに掲載いたしました。


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第1話:深夜4時少しの風景

 木枯らしを吹き飛ばすような大歓声の中、騎手を乗せた18頭の競走馬が芝の大地を揺るがしながら駆けていく。

 

「第4コーナーを抜けて先頭は依然キャンドルノヴァ、7馬身のリード!」

 

 残り500m。長い長い最終直線を逃げ切れば、私と鞍上はオーナーの1周忌に秋の天皇賞制覇を、1年前の天皇賞の日、まだ生きていたオーナーに見せることが叶わなかった人馬ともに初のGI制覇を報告できる。しかし、今の私たちにとっては限りなく長い500mだ。大半の馬はもう追いつかせないだけの差と脚があるが、このレースの大本命は私ではない。

 

「しかし来た! 大外からギンシャリボーイ飛んできた! 凄まじい末脚!」

 

 馬の広い視界が、芝を抉りながら凄まじい勢いで追い上げてくる1頭の馬を捉える。知っている人は知っているふざけた馬名だが、コントレイル以来となる無敗でのクラシック三冠、そして同一年度に春古馬三冠、秋古馬三冠を達成し、テイエムオペラオー以来となるグランドスラムを達成した正真正銘の化け物だ。このままではギリギリで差し切られると、私も鞍上も判断した。

 

「行け、ドリー!」

 

 人馬一体の1頭と1人には鞭は要らない。声だけで十分だった。鞍上の声に応じるように最後の力を振り絞って加速しようとした瞬間、左前脚の球節に激痛が走る。思わずよろめいて内ラチにぶつかり、その拍子に騎手が背中から芝へ落ちていく。その様子が、私にはストップモーションのようにゆっくりと見えた。芝に叩き付けられた鞍上がぐるぐると転がって、止まる。鞍上はピクリとも動かなかった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 掛け布団を跳ね除けるように飛び起きた。辺りを見渡してそこが寝藁の敷いてある馬房でないことを確認すると、次いで側頭部に手を当てる。ヒトならばそこに存在するはずの耳がない。頭頂部に手をずらすとウマ耳が手に触れた。そうして今はウマ娘であること、悪夢が競走馬だった前世に起きた事実であることを改めて認識すると、ウマ耳がぺたんと折れた。悪夢を見た日のルーチンワークだ。毎度毎度、それが何の根拠もない夢であれば良かったのに、と思わずにはいられない。

 

 『ウマ娘』。生まれつき別世界の名前と共に生まれその魂を受け継いで走る、ヒトとは少し異なる神秘的な種族。その中でも私は、別世界の名前の持ち主である『彼』の記憶も受け継いだという点で特別だった。そしてその『彼』もまた前世にヒトだった記憶――私から見て前々世の記憶を持つという点で特別だった。2つの特別のうち片方だけでも欠けていれば、悪夢に苦しむこともなかったのに。

 

 負の方向に傾く思考を首を振って振り払うと、枕元の時計に目をやる。午前4時前を指していた。いつも起きる時間の少し前だ。2度寝をする時間でもないのでスマホのアラームを切り、ベッドから足を下ろしてスリッパを履いて私室を出る。トイレを済ませ、手を洗い、歯を磨き、顔を洗う。そして最低限のスキンケアをして、髪としっぽに櫛を通す。おしゃれというものに興味はなかったが、やらないと今世の母が「せっかく美人さんに生まれたのに」と悲しむ。化粧水と日焼け止めをして、髪としっぽの毛並みを整えること。これらが面倒でも忙しくても最低限すると母と交わした約束だ。

 

 部屋に戻るとパジャマとナイトブラを脱ぎ、スポーツブラ、Tシャツとジャージを着た。そして姿見を使って身だしなみと、ついでに今世の自分自身を確認する。身長は同年代の平均を下回り、前世の馬体から考えるとここからあまり伸びないだろうことが予想できた。『小柄で毛並みも悪くみすぼらしい。とても走ると思えないのに走る』とある意味で評判だった前世と比べたら、毛並みがよい分今世のほうが立派な体である。しかしその胸元は大変機能美に溢れていた。前々世の記憶の中のウマ娘、サイレンススズカといい勝負だ。

 

 ふと思考の脱線に気が付き、頭を左右に振るう。無意識に胸に当てていた手を下ろし時計を確認すると、午前4時を回っていた。補導の心配がないことを確認するとリュックサックを背負って、音を立てないように忍び足で廊下を歩いて行き、玄関を出る。決して広いとは言えない庭で十分に動的ストレッチを行い、寝起きの体をほぐしていく。体が暖まってきたところで門を出た。

 

 3月下旬のまだ少し冷たい風を切るようにいつものコースを走る。住宅街の生活道路は狭いから、広い道路に出るまではもどかしくとも逸る気持ちを抑えてヒト並みの速度だ。よく晴れた空、電線の隙間から街灯に負けず輝く星々が見える。あっという間にウマ娘専用レーンが設置された広い道路に出ると、制限速度まで加速する。全速力ではないし速度計があるわけでもないが、それでも疎らに走っている車よりは速い。前世の駆歩(かけあし)と比べても明らかに速いが、ウマ娘にとってはそこまで負担でもない速度だ。

 

 10分ほど走ると、かつて横浜レース場と呼ばれた公園にたどり着く。戦争による徴用と進駐軍による接収が30年近く続き、URAに払い下げられた時には近代的なレース場としての使用は周辺環境を鑑みて現実的ではなくなっていたため、公園として整備されたのだ。住宅地のど真ん中でフル規格のウイニングライブをするわけにもいかないから、致し方ないことである。

 

 とはいえ競走馬とウマ娘の違いのためか、前々世とは異なりウマ娘が本気で走っても問題ない設備を今でもURAが整えている。戦前メインで使われていたレースコースはURA管轄であり、その整備状態は中央のレース場と何ら変わりがないほどだ。URAがコース整備の実習に使っているらしい。スタンドがないため観客がほとんど入れられないこと、内馬場は市管轄の公園になったためにないこと、騒音問題でウイニングライブができないことなど問題はあるものの、整備が行き渡りすぎているためか『URAは今でも横浜レース場を諦めていない』という噂がある。

 

 夜勤の監視員にコース使用料を渡し、入場する。公園部分は市管轄なので無料だが、コース部分はURA管轄で整備費もかかるので有料だ。金額自体はなかなかお高いが、整備中を除けば24時間いつでも中央レベルの芝を走れて、全速力のウマ娘が転倒した時のために夜間も監視員を置いているのだから、その経費を考えると完全に赤字の慈善事業だ。アスファルト舗装の道路は無味乾燥としていて、走っていて楽しくないので非常に助かる。

 

 日の出前のこの時間でも、数えられる程度ではあるがウマ娘が走っている。ウマ娘というものは、幼いころに1度は競走ウマ娘に憧れるものだ。トレセン学園で夢破れたウマ娘でも、そもそも入学できなかったウマ娘でも、夢の舞台と同じレベルの芝で走れるのだからやはり料金は破格だと、この公園で知り合った社会人ウマ娘が語っていた。

 

 旧スタンドの最前でリュックサックからウマ娘用の蹄鉄シューズを取り出す。蹄鉄に緩みがないことを確認して、ヒト用の運動靴から履き替えてコースに入る。1周1632m、ゴール板の後方約220mにあるホームストレッチ入り口まで外ラチ沿いを歩いて行く。横浜、芝1850m。かつてここで皐月賞が開催されていた頃のコースだ。

 

 屈んでもう一度蹄鉄シューズの靴紐を結び直して立ち上がる。ターフの上で大きく深呼吸をする。

 

 ……私の大嫌い(好き)な匂い。私が犯した罪(楽しい思い出)を思い起こす匂い。今すぐ柵を超えて(芝生の上を)逃げ(駆け)出してしまいたい。

 

 相反する2つの気持ちを同時に抱えたまま、想像のゲートに入る。目を瞑り、胸に手を当て、もう一度深呼吸をする。余計な力を抜いたところで左足を半歩引いて構える。集中力が最高に高まったタイミングで、ゲートが開いた。

 

 誰よりも速く先頭に立つ。前世の私は大逃げが得意だった。前々世由来のヒトの知能を持った馬だ。ハナを切った後は距離と自分のスタミナに合わせてハロンタイムを管理すれば、理屈の上では負けなしのはずだった。そもそも前々世から大逃げが好きで、好きな馬と言えば当時の私がまだ生まれる前の馬ではあったがサイレンススズカやツインターボだったし、ゲーム版ウマ娘でも逃げウマ娘ばかり育てていた。

 

 スタミナを残せる範囲の最高速で1回目のゴール板を通過する。ここから第1コーナーを抜けて第2コーナーに入るまでの260mで高低差8.9mを下っていく。しっかり抑えないとあっという間に外に膨らんでしまう。

 

 坂を下り無事に第2コーナーに入るとすぐ上り坂だ。バックストレッチ中ほど辺りまでの490mで高さ約10m、しかもそのうち6m程度を第2コーナー入ってすぐの130mで登らなければならない。淀の坂よりきつい。先日卒業したとは言えども、まだ体の出来上がっていない2度目の小学生の身としては、コースに坂路を置くなと言いたい。

 

 上り切ると次はまた下り坂だ。勢いに乗ってバックストレッチを駆け抜けていく。何せ第3コーナーはまた上り坂だ。80m走る間に1.4mを上るから、勾配は東京の最終直線よりも厳しい。

 

 どうにかもう一度上り切ればそこは第4コーナー、あとはゴールまでほぼ平坦だ。最終直線に入ってからゴールまでは280m、中山よりも短い。逃げ馬に有利だが、彼なら――前世でただの1度も勝つことが叶わなかったギンシャリボーイならば、まくって数馬身後ろについている。想像の彼を突き放そうと残り100mを全力で駆け抜けようと脚に力を込めたとき、脳裏に今朝の悪夢が過ぎった。

 

 芋づる式に嫌な記憶ばかりが引きずり出されていく。繋養先の牧場で骨折して安楽死され自分を構成する何もかもが虚空に拡散して消えていく感覚。種牡馬になったはいいものの子供たちはみな大成しなかった。結果的に最後の競走となった秋の天皇賞で振り落とした鞍上に騎手を続けられないほどの後遺症が残り彼の夢を断ってしまった。クラシックも古馬王道も距離を問わずいつも2着でただの1勝もできなかった。すい臓がんで死んだオーナーが最後に見に来てくれたのも秋の天皇賞だった。期待してくれていたのに1回も勝てなかった。デビュー戦が弥生賞になったのは新馬戦直前に骨折をしたからだ。幸い治る範囲だったけどもう1度骨折したら次こそ死ぬのではないかと怖くて全力で走れなくなった。気に入ったただ1人の鞍上しか乗せない我儘な私を見捨てないでくれたオーナーが見に来てくれる最後のレースだったのに全力を出さなかった。放牧されるたびにオーナーの生産牧場に帰って来る私の面倒を見てくれたオーナーの孫娘の旦那の夢を絶った。「君もあの人も死ななくてよかった」? 違う。自分の命惜しさに鞍上を守らなかったんだ。本当なら命に替えても鞍上を守らないといけなかったんだ。サイレンススズカのように。彼も彼女もオーナーもみすぼらしい仔馬だった私に期待してくれていたのにことごとく裏切った。オーナーが死んで鞍上が引退して私が種牡馬になった後も無様に生き恥を晒していた私に最後まで期待してくれていたのに結果を残せなかった。

 

「おいおいおいおい。どうしたんだよ、ノヴァ」

「……スタークさん」

 

 乱暴にハンカチで顔を拭われる。この公園で知り合った鹿毛の社会人ウマ娘、シアトルスタークがいつの間にか隣にしゃがんでいた。思考が現実に戻ってきてようやく、私がゴール前でぺたりと座り込んで泣いていることに気が付いた。この時間では数少ない周りのウマ娘たちや監視員が心配そうに見つめてくる。

 

「春からトレセン生だろ? もっと楽しそうにしろよ」

「……すみません」

 

 スタークさんは笑いながら私の頭をポンポンと叩き、努めて陽気に話しかけてくれる。

 

「何だか知らんが、謝んなって。それで、何があったんだ?」

「……ちょっと夢見が悪くて」

「……そういうことにしといてやろう」

 

 それだけではないとは見抜かれているだろう。それでも放っておいてくれる優しさがありがたかった。

 

「ほらほら、散れ散れ。見世物じゃあないぞー」

 

 スタークさんが声を張ると、他の方々が散っていく。皆まだ心配そうではあるが、多少の安堵も見て取れる。この世界は優しい方々が多いように思えた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「さて、面を合わせるのは1週間ぶりだな」

「そうですね」

 

 あのままでは周りに迷惑だし危険だということで、スタークさんと私は旧スタンドまで戻っていた。シアトルスターク、元トレセン学園生でトゥインクルシリーズの戦歴は10戦0勝。「地元じゃ負けなしだったんだけどなぁ。強かった強かった」とは本人談だ。今でも毎週末この公園に来て走りこんでいる。

 

「それで。全力は出せそうかよ」

「……すみません」

「謝んなって。ほらよ」

 

 スタークさんは勝手知ったる様子で私のリュックサックからスポーツドリンクを取り出し、私に手渡す。そこで初めて、泣いたせいか喉が渇いていることに気が付いた。両手でペットボトルを掴みながら、ぐいぐいと飲んでいく。

 

「ノヴァ。あんたは全力を出せなくても、私がトレセンにいた頃よりずっと速くなる。私が保証する。オープン戦だったらそれだけで勝てるだろうよ」

「……ありがとうございます?」

「首を傾げるなかわいいな。そこは子供らしく『やーいやーい。遅い遅ーい』とか言っとけ」

「言いませんよ……」

「で、だ」

 

 ずいとスタークさんが身を乗り出す。鼻筋が通っていて、睫毛が長く、目が大きい。化粧なしにこれだ。やはりウマ娘は眉目秀麗に生まれるものなのだなと改めて思う。

 

「あんたが全力を出せたら、絶対GIに勝てる」

 

 スタークさんも、裏切者()に期待をしてくれるのか。期待が怖い(嬉しい)せいか目に熱が溜まっていくのがわかる。

 

「おいおいおいおいおいおい。泣くな泣くな泣くな。何がスイッチかわからねぇやつだな!」

「すみません……」

「こらこら、鼻をすするな。ちゃんとかめ」

 

 差し出されたティッシュで鼻をかむ。汚れたティッシュをどうしようかと目線を彷徨わせると、スタークさんがすかさず小さなビニール袋を手渡してくれた。

 

「まぁ、あれだ」

「はい」

「あんたくらい才能が有れば、トレセンのトレーナーだったら何とかしてくれんだろ」

「そうでしょうか……」

 

 スタークさんは私の背中をバシバシ叩きながら言う。

 

「何とかなるなる! 何とかなんなくても、その時はその時だ。別に競走ウマ娘だけがウマ娘の道じゃねえよ。私は私なりに今の生き方楽しんでるからな」

「ならその時は、道を教えてくれますか」

「その時はな。まあ、私の目に狂いがなけりゃそうはならねえよ」

「でも……」

 

 何を言えばいいのかわからなくて黙ってしまう。スタークさんは私に期待してくれているのに、私は私に期待できない。スタークさんの目を疑うようで嫌だった。

 

「……しょうがねぇなぁ」

 

 スタークさんは頭をガシガシと掻くと、どこからか名刺を取り出してその裏に何かを書き込み、裏面を上にしたまま私に差し出した。

 

「ほら。私のプライベート用アドレスと電話番号だ。兆が一退学したら連絡しな」

「すみ――、ありがとうございます」

「よろしい」

 

 なんとなく名刺を捲る。そこに書かれていた肩書は、大手ウマ娘用蹄鉄シューズメーカーの開発部だった。目を丸くしてスタークさんの顔を改めて見る。

 

「こういう道もあるってこった」

 

 スタークさんはいたずらに成功したような笑顔だった。




ニコニコの某MAD、良いですよね。

2021/04/03 17:35
表記ゆれ修正(競争→競走)

2021/04/05 00:10
一部セリフ修正(ずっと速い。→ずっと速くなる。私が保証する。)


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第2話:大はしゃぎの家族

プロローグ、および第1話について一部改稿をしました。
詳細については各話後書きに記載しています。
軽微な修正ですから、このままお読みいただいて問題ありません。


 スタークさんに情けない姿を見せた後、私たちは朝の9時まで休憩を挟みながら走りこんだ。現金な話だけれども、今世では本当に辛くなったらレースから逃げてもいいのだとわかると、ほんの少しだけ気分が楽になったような気がする。それと共に、なんとなく入学手続きまで終えた今更逃げたら負けなようにも思えてきた。大逃げ馬だったのに逃げたら負けだなんて、笑えてくる話である。

 

 クールダウンを終えて汗を拭き、入退場口近くの旧スタンドで靴を履き替える。その時、スタークさんが気が付いたように言葉を漏らす。

 

「ああ、そうか。入学前だと今週でもう最後か」

「はい。次にこのコースを走れるのは、当分先ですね」

「当分先、か。少しはまともな面になったじゃないか」

 

 幼稚園に通っていた頃、初めてこのコースに立った日を思い出す。お昼を過ぎて少し傾いてきた太陽から降り注ぐ光。海の向こうから潮の香りとともに吹き抜ける海風。丁寧に管理された踏むと柔らかく跳ね返してくる芝。走り抜けるウマ娘たちの足音。踏まれた芝の少し青臭い匂い。立っているだけで怖く(楽しく)怖く(楽しく)てたまらなくて。結局その日は走らずに帰ってしまったけれど、どうしても忘れられなかった。

 

 理性が主張した。裏切者()がもう一度ターフの上に立つだなんておこがましいと。

 本能が反論した。芝の上こそ競走馬()の生きる場所だと。

 理性が説得した。また期待を裏切って、失意の中死んでいくのかと。

 本能が反発した。期待を背負って走れないなんて、死んでいないだけだと。

 理性が(すく)んだ。私は死にたくない!

 本能が叫んだ。私は生きたい!

 

 1か月。それが私の我慢できる限界だった。生きながら死んでいることに耐えられなかった。手間のかからない子供で通っていた私は、今世で生まれて初めてのおねだりをした。失望されるだろうかと内心震えながらしたお願いは、しかし今世の優しい両親を大喜びさせた。呆気にとられたまま、あれよあれよという間に再びこのコースに来て。

 

 私は駆けだした(生き返った)。前世を知っていれば目も当てられない走りだった。滅茶苦茶なフォームで、頭が重たくて時々バランスを崩して、およそ競走にならないような遅さで。初めて調教を受ける前の仔馬の頃のほうがずっとましだった。仮にもGIに出走した競走馬の走りではなかった。それでも、楽しかった(・・・・・)

 

 それからは親にねだって少なくとも毎月、小学校の高学年になってお小遣いが増えてからは、自分でもお金を払って毎週このコースで走っていた。純粋に楽しさしか感じなかったのはあの時だけだったけれど。思い出深いコースを離れることに、少しだけ寂しさを覚える。

 

「――い。おーい! 起きてるかぁ!」

「あっ、はい! すみません!」

 

 スタークさんの大声で我に返る。ウマ耳としっぽがビンと伸びた。

 

「ったく。話聞いてたかぁ?」

「その、すみません。あまり来られなくなると思うと、なんとなく寂しくなって」

「あぁ、まぁ近いっちゃ近いけど、トレセンに入るとなかなかなぁ」

 

 スタークさんが渋い顔をした。世間一般のヒトには忘れられがちではあるが、トレセン学園は中高一貫校だ。つまり中学高校の勉強をこなしながら、トゥインクルシリーズやドリームトロフィーシリーズに向けた練習もしなければならない。普通の学校とは異なり長期休暇なんてものはないのだ。正確に言えば長期休暇自体はあるのだが、普通の学校のように休んだりしたら、その間トレセン学園や夏季合宿で練習を重ねたウマ娘に差をつけられてしまう。そのために、大抵のウマ娘は年末年始とお盆休みの数日程度ずつしか帰郷しない。今世では、夏と冬は放牧されてのんびり過ごせた前世よりも忙しくなるだろうことが予想された。前々世は社会人だったような記憶があるので、それと比べたらどうということはないのだけれど。

 

「まっ、今生の別れってわけじゃねぇんだ。かなりきついトレーナーでも休みはくれるし、気が向いたらそん時にでも走りに来な。知っての通り、私も週末ならいるからよ」

 

 靴を履き替え終わったスタークさんが立ち上がりながら言った。週末に来たら、また相手をしてくれるということだろう。心がぽかぽかと暖かくなり、自然と笑顔になる。

 

「はい! 週末に来ますね!」

「んぐ……」

 

 スタークさんの顔が赤くなった。ウマ娘はみな美人だし、スタークさんなら笑顔くらい見慣れていそうなものだけれど。不思議なものであると首を傾げた。

 

 なんとなく変な雰囲気のまま歩き出し、コースを退場する。私の家とスタークさんの家は、公園を挟んで正反対の方向だ。どちらからともなくお互いに向き合う。こほんと1つ咳払いをしたスタークさんは、もういつも通りだった。

 

「それじゃあな。デビュー戦の日程は教えろよ」

「はい! 絶対連絡しますから!」

「おう!」

 

 お互いに手を振り合いながら駆けだした。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「ただいま」

「おかえり、お姉ちゃん!」

「おかえり、ノヴァ」

「おかえり。シャワー浴びて着替えてらっしゃい。朝ごはん用意しておくから」

「わかった。ありがとう」

 

 朝の9時半、整理運動の続きも兼ねてヒト並みの速度で走って帰ってきた私を家族が出迎えてくれる。私を除いてみんなヒトだ。ウマ娘はウマソウルが宿ることで生まれるそうなので、こういうこともあるのだろう。

 

 一度部屋に立ち寄って着替えのワンピースを手に取り、洗面所に入って扉を閉じた。汗を吸ったジャージ、Tシャツ、下着と靴下を脱いで洗濯機に放り込んだら、耳飾りも置いて風呂場に入る。シャワーを手に取って初めに出てくる水が体にかからないようにしてから、レバーを奥の方へ回す。しばらく待ってお湯が出てきてようやくシャワーを体にかける。いきなり頭から浴びるとウマ耳の中に入って大変なことになる。なった。一度痛い目を見てからずっとこのやり方で浴びている。

 

 一通り汗を流したら、お風呂に浸かりたい気持ちをぐっとこらえて洗面所に出る。本当ならお湯に浸かって脚のマッサージをしたいけれど、お母さんが作ってくれる朝ごはんを置いておくわけにもいかない。タオルで頭と体、髪としっぽの水分を手早く吸い取った後、体を冷やさないよう用意しておいた着替えを着てから、ドライヤーで髪としっぽを乾かしていく。葦毛ウマ娘特有の光を浴びて輝く銀髪――鎖骨辺りまで届く内巻きのセミロングはこれまたお母さんとの妥協の産物だ。しっかりと乾いたことを確認したら、朝と同じように髪としっぽを梳かしていく。

 

 鏡の中の自分、ろうそくの炎のような色のたれ目が自身を見つめ返す。ナルシストみたいで口には出さないが、我ながら綺麗な子だと思う。未だにこれが自分だという実感がわいてこない。前世に引っ張られすぎているなぁという自覚はある。

 

 髪としっぽに引っ掛かりを感じなくなったら、白いレースのシュシュを右耳に通して廊下に出る。濃厚なバターと小麦の香りが鼻腔をくすぐり、きゅるきゅるとお腹が鳴る。午前4時に起きて、トレーニングして、朝ごはん。競走馬だったころの生活習慣をそのまま続けていることもあり、すっかりお腹が減っている。LDKタイプのリビングに入ると、ちょうどお母さんが配膳を終えたところだった。ありがとうと一言告げて食卓につく。

 

「いただきます」

「召し上がれ」

 

 今日の朝食は、溶かしバターを塗り薄切りのハムと蕩けるチーズを乗せて焼いたトーストが半斤分、薄切りのリンゴ(大好物)がたっぷり入ったサラダがボウル1杯分、それと紅茶だった。紅茶に角砂糖3つとたっぷりのミルクを放り込んで食事を始める。今世で初めてパンを食べたときは、基本的に小麦を食べてはいけなかった前世に引っ張られすぎて、かなり恐る恐ると食べていたことをふと思い出す。

 

「そういえば、みんな揃っているなんてずいぶん珍しいね」

 

 あっという間に食べ終えた私は、ゆっくりと紅茶を飲みながら両親に尋ねる。両親は共に川崎トレセン学園でトレーナーをしていて、重賞の常連トレーナーだ。ローカルシリーズとは言えど、トレーナーは多忙なはずである。

 

「忘れたの? 制服届くの今日よ?」

「入学式当日は僕たちも忙しいからね。今日を逃したらこの目で見るのがいつになるかわかったものではないから、無理を言ったんだ」

「わくわくして眠れなかった!」

「そっか。……ありがとう」

 

 家族みんな笑顔で、声の調子がいつもより高い。

 

 ……本当に、私にはもったいないくらいのいい家族だと思う。

 

 また思考が負に寄っていることに気が付く。スタークさんに元気づけてもらったのに、朝の出来事はよほど精神に来ていたらしい。私は紅茶を飲み切って「ごちそうさま」と席を立つと、洗い物をシンクにおいてある大きなボウルの中――中性洗剤を溶かしたお湯に浸けた。

 

「勉強してくるから、届いたら教えて」

「もちろん。あんまり根を詰めるなよ」

「わかってるよー、お父さん」

 

 一旦気分を切り替えたかった私は、自分の部屋へ逃げるように歩いて行った。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 最低限の生活感はあるけれど、殺風景な部屋。それが私の部屋だった。大体この年頃のウマ娘なら、憧れのウマ娘のポスターが2枚や3枚貼ってあって当たり前、ぱかプチが置いてあって当たり前らしい。だがしかし、私にはだいぶ朧気ではあるが前々世の人生経験があり、価値観が引っ張られるほど強烈な前世の馬生経験があるわけだ。多少らしくなくても許してほしい。

 

 親に勉強すると言ったは良いものの、特に何かしなければならないことがあるわけではない。朝のように、何かやることがあれば気が紛れるだろうと思っただけだ。トレセン学園で使う教科書は入寮後に受け取ることになっているし、今更小学校の勉強をやり直す気にもならない。

 

 そういうわけで、以前お母さんから借りてそのままにしていたトレーニング理論の本を読んでいた。すると家の前にトラックのエンジン音が停まり、運転席のドアと荷台の後部ドアが開く音がして、インターホンが鳴った。音がばっちり聞こえているだなんて、我ながら集中できていないなぁと苦笑いしながら私が本を閉じるのと、ドタバタと廊下から足音が響いてくるのはほぼ同時だった。

 

「お姉ちゃん! 届いた!」

「わかってる、わかってる」

 

 ノックなしに飛び込んで来て、キラキラの笑顔で私の腕をぐいぐいと引く妹を制しながら玄関へ向かう。私は長子長女であるためか両親もだいぶ舞い上がっているし、新しい制服というのは私でも少々気分が高揚してくる。

 

 しかし妹のそれは家族の誰よりもすごかった。私について来て採寸に行った時からずっとテンションが高いままだ。3つ年下の妹は、少し前まで「私もウマ娘だったら良かったなぁ」としょっちゅう言っていた。最近「ウマ娘になれないならトレーナーになろう」と思い立ったらしく、前世のレースならともかく、今世のトゥインクルシリーズについては私よりもずっと詳しい。好きこそものの上手なれとはよく言ったものだ。

 

「ノヴァ、届いたぞ!」

「早く着て見せて!」

「……お父さんもお母さんも、慌てなくても制服は逃げないから」

 

 妹のテンションは誰よりもすごかった(・・・)。いざ制服が届いたら、両親の気分も妹並みに上がっていた。朝はもっと冷静だったはずなのだけれど。

 

 お父さんから箱を2つ受け取って、着替えるために部屋に戻る。ベッドの上に置いた箱を開いて出て来たのは、トレセン学園の冬服だ。紫色を基調とした長袖のセーラー服に、小さな蹄鉄があしらわれた大きな白いリボンが付いている。その下からはこれまた腰に大きな白いリボンが付いた紫色のプリーツスカートが現れた。裾に白いラインが2本入っている。それも取り出すと紫色のペチコートとショートスパッツ、白いラインが1本入った紫色のオーバーニーソックスが収まっていた。前々世で見かけたようなペラペラのコスプレ衣服とは異なり、実用品の制服としてしっかりとした厚さの布が使われている。

 

 部屋着のワンピースを脱いでそれらを着ていく。一通り着たところで鏡を見ながらリボンの位置を調整し、ペチコートのフリルをしっかりスカートの裾から出す。ペチコートは下着ではないかと一瞬悩んだが、トレセン学園の広報写真ではどれも出ていたからいいのだろう。

 

 もう1つの箱を開けて出て来たのは、蹄鉄型金具付きのメリージェーンだ。少し悩んだが、まだ1度も履いていないし大丈夫だろうと部屋で履いてしまうことにした。

 

 振り向いて姿見を見る。輝く銀髪に揺らめく炎のような瞳、慎ましい胸元は制服のリボンがカバーしている。調子に乗ってくるりと一回転などしてみたりする。髪としっぽが揺れ、スカートの裾がふわりと広がり、ペチコートのフリルが揺れた。

 

 ……やっぱり、かわいいな?

 

 本日2度目の自画自賛だ。中身が私であることが残念でならない。

 

「お姉ちゃーん! まだぁ?」

「今行くよー」

「やった!」

 

 待ちきれないといった声色で妹が呼んでくる。待たせてしまったなと反省しながら自室の扉を開けると、1秒でも早く見たいと言わんばかりの食いつき方で妹が待ち構えていた。私の姿を目に入れた瞬間、大きく目を見開いて口をぽかんと開けている。自分ではなかなかだと思っていたのだけれど、そうでもなかっただろうか。自画自賛が過ぎたか。不安になり始めたとき、妹が目を輝かせて破顔した。

 

「かぅわいい! きれい!」

 

 ご近所一帯に響き渡る大声だった。今日は耳としっぽがよく伸びる日だ。

 

「女神だ! 女神がいる! お母さぁん! お父さぁん!」

「あの、ちょっと、静かに……」

 

 我ながらかわいいとは思ったが、女神は言い過ぎだ。恥ずかしくて顔に熱が集まっていく。妹はそんな私の様子を一切気にせずに、リビングへ引っ張っていく。

 

「女神さまの、御成(おなぁ)りぃ!」

美月(みつき)、恥ずかしいから本当静かに……」

 

 本気で抵抗していないとはいえ、ウマ娘をこうも簡単に引っ張れるものかと驚くほどの力で両親の前に引っ張り出される。力任せに見えて関節を痛めないような引っ張り方をしているあたり、トレーナーの才能がある子だと思う。両親もしばらく無言で表情を変えなかったが、お披露目の前まで同じテンションだった妹の前例を考えると嫌な予感がする。

 

「お父さん」

「あぁ」

 

 お父さんがどこからともなくレフ板を、お母さんが赤いリングの巻いてある冗談みたいに大きなレンズが付いたカメラを取り出した。

 

「女神よ、女神がいるわ!」

「うちの子が世界一かわいい……!」

 

 両親のテンションも振り切れて完全に壊れていた。乗りが完全に妹と同じだ。そんなところで血縁を感じさせないでほしい。

 

 そもそもだ。両親は川崎のトレーナーである。トレーナーとはなんだ。ウマ娘のトレーニングを担当する職業だ。ということは。

 

「川崎にだってウマ娘はたくさんいるでしょ!?」

「娘は特別なものよ!」

「自分の子が宇宙一に決まっているだろう!」

「インフレしてる……!」

 

 これは満足するまで止まりそうもないと悟った。きっと今日は昼ごはんも晩ごはんも外食になるだろう。部屋の中では光量が足りないと言い出したお母さんと、せっかくだからご近所様にも見てもらおうと言い出したお父さん、2人の提案に首がもげそうな勢いで頷く妹が私を外へ連れ出す。

 

 そこからはもうてんやわんやの大騒ぎだ。恥ずかしくなるほどの勢いで私を褒め称えながら、いったいいつどこで学んだのかと言いたくなるほどテキパキと私にポーズの指示を出してシャッターを切るお母さん。一切指示が来ていないのに以心伝心でレフ板を捌くお父さん。なんだなんだと様子を見に来たご近所様に()を自慢する妹。身近なウマ娘が中央へ行くのはやはり珍しいようで、みんな「頑張れ」と声をかけてくれる。この世界の人たちは本当に優しい人たちばかりだ。

 

 結局、夏服も見たい撮りたいと言い出した家族に応えるうちに私も調子に乗り、家族全員お昼は抜きになってしまった。




2022/09/10 16:00
一部表記をシンデレラグレイの板書に合わせて変更(カワサキ→川崎)


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第3話:入寮日の出会い

プロローグについて、医学的に無理がある描写の可能性があったため一部改稿をしました。
詳細についてはプロローグの後書きに記載しています。
このままお読みいただいて支障ありません。


 力なく横たわる私の体から命が零れていく。視界が霞んで見えなくなり、体中が痺れて暑さ寒さも痛みも感じなくなっていく。鉄のような臭いも味もいつの間にか消えていて、最後に残された感覚は音だけになった。耳が捉える周りの喧騒がだんだんと遠くに去っていく。そのうちに真っ暗で、温かくも寒くもなく、無味無臭無音の世界が訪れた。

 

 何もない何も感じない空間をどれほどの時間揺蕩っていただろうか。ふと自分の名前が思い出せないことに気が付いた。自分の身に何が起きているのかわからず恐怖で身を掻き抱こうとして、腕が――腕どころか体そのものが消えていることを感じ取った。私という存在そのものが虚無に拡散していって、何もかも希釈されてゆっくりと消えていっていることを知覚できていなかったのだ。

 

 自身の状態を認識し精神が霧散する恐怖に震える中で、ふと暖かいものの存在を感じた。時間感覚すらない中で久しぶりに感じた温度を求めて、自分でも原理がわからないまま精神力だけで移動する。ギリギリと体中が締め付けられるように痛む。痛みすら今は心地が良かった。無我夢中で進んでいるうちに、ごてんと地面に落ちた。

 

「お爺ちゃーん! 産まれた! 仔馬! 真っ黒!」

「わかっとるわかっとる。何頭取り上げてきたと思っとる」

 

 誰かと誰かが何かを話しているようだ。肺に何か引っかかりを覚え思い切りせき込むと、鼻から水が抜けていく。苦しくて息を吸うと、血と藁と獣のような臭いがした。何度かせき込むうちに呼吸が楽になっていく。久しぶりの重力が私を地面へ押し付けていた。何がなんだかわからないが、本能的に立ち上がらなければならない衝動に駆られる。両足で立ち上がろうとして立ち上がれず、致し方なくとりあえず両手も使って起き上がることにする。

 

「頑張れ、頑張れ!」

 

 ようやくはっきり見えてきた両目で自身の両手を捉えて違和感を覚えた。指がない。いや、中指の感覚だけがある。そもそも、異常に視野が広い。ようやく四つん這いになれた時、今自分の身に起こっていることを理解する。

 

「立った、立った!」

「30分で立ちおった。こいつはもしかするかもしれんなぁ」

 

 光差す厩舎の中、もう2度と会えないはずの人たちの声がした。

 

 ……前世の夢だ。

 

 そう自覚した瞬間に場面が切り替わる。夢の中の私は2歳くらいまで育っていて、生まれた直後は青鹿毛に見えるほど黒かった体毛に白が混じり始めていた。夕日が差す中、芝の匂いをたっぷりと含んだ冷たい風がなだらかな丘を吹き抜けている。

 

「よぅドリ介、お前は何時まで経ってもみすぼらしいなぁ、おい」

「なんて失礼なお爺ちゃん! ドリちゃんくらい賢くてかわいい子はいないのに!」

 

 牧場の経営者でもあるオーナーが、牧場の一角でブラッシングを受けている私へ冗談半分に声をかけて来る。私の面倒を見てくれている孫娘さんがそれを聞いて、私の馬体に抱き着いて反論する。前世の私が牧場にいるとき、いつも見てきた光景だった。

 

 『ドリ介』だとか『ドリちゃん』だとかの呼び方は、前世の私の母が『ハッピーキャンドル』という名前だったからついた幼名だ。名無しは可哀そうだと孫娘さんがつけてくれたことを思い出す。

 

「言いたくもなるだろ。生まれて30分で立ち上がったんだぞ? こいつは期待できると思ったら、飯食わなかったせいで何時まで経っても体はちっこいわ、毛並み悪いわ。最初は高く売れると思っとったんだがなぁ」

「薄切りのりんごと一緒ならよく食べるでしょ!」

「普通の仔馬は乳と生えてる草で満足するんだよ。まったく手のかかる奴だ」

 

 目を細めながらオーナーはそう言う。本気で私を貶しているわけではない。スキンヘッドに白い無精髭とかなりの強面だけれど、意外と優しい人だった。経営のことを考えるなら、馬の生活にすぐ順応できず発育不良だった私を肥育牧場に売るなり処分するなりすることだってできた。それなのに私をそのまま牧場に置いて、競走馬にしてくれた。初めて担当する馬が私だった孫娘さんがしつこくお願いしていたからというのもあるだろうけれど、あまり余裕がない中で私に期待をしてくれた。

 

「見てくれの割によく走るんだから、わからねぇやつだよ」

「だから言ったじゃない。ドリちゃんは絶対走るって」

「仔馬可愛さに目曇ってるやつが良く言う。偶然だろ、偶然」

 

 まだ入厩する前に牧場にいたころ、そして放牧中によく見かけた2人して笑いあって終わるいつもの掛け合いだ。「お前が走ってくれないと、うちは潰れちまうぞぉ」などと冗談交じりに脅されたこともあった。けれど今回はひとしきり笑った後、孫娘さんが寂しげな顔をした。その様子を見て取ったオーナーが話し出す。

 

「明日で入厩だ。しばらく会えねぇぞ」

「……うん」

「ドリ介に送る名前は決めたか」

「うん」

 

 ……あぁ、そうか。この日の夢か。

 

 オーナーが腕を組んで優しい眼差しで見守る中、私の正面に立った孫娘さんが私の顔に手を添えて微笑みながら名前を告げる。

 

「キャンドルノヴァ。君が、夜空に明るく輝く超新星みたいな子になれますように」

「……そうか。いい名前をもらったな、ドリ介」

 

 私がキャンドルノヴァになった日の記憶。一番大切なはずの思い出。なのにどうして、あの人たちの名前が思い出せないのだろう。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「ノヴァ、起きなさい。もう着いたわよ」

「んぅ……」

 

 お母さんの声で目を覚ました私は、最近買い替えたミニバンの助手席に座っていた。どうやらお母さんが運転する車で揺られているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。とても懐かしい夢を見ていたような気がして、けれど内容を思い出せなかった。

 

「……ノヴァ、どうしたの?」

「何が?」

「泣いてるわよ」

 

 目元を指で拭うと、確かに涙が零れていた。どうしてなのかわからないまま、ポケットから取り出したハンカチで涙を吸い取る。

 

「大丈夫?」

「うん、大丈夫」

「そう? ならいいけど……」

 

 お母さんが少し不安そうに眉を寄せる。車を降りるだけなのにどうしてそんな反応をするのか寝ぼけた頭で少し考えて、今日がトレセン学園の集中入寮日であったことを思い出す。車のフロントガラス越しに辺りを見渡すと、車は学園と学生寮の間に1本だけ走っている道路に停車していた。このまま停車していると迷惑になってしまうだろう。私はそう思い至ると、当面今までのようには家族と会えないことに少し寂しさを感じながら、シートベルトを外して車を降りる準備をする。

 

「送ってくれてありがとう、お母さん。行ってくるね」

「寂しくなったら、いつでも帰って来るのよ?」

「うん」

「いつでも連絡くれていいからね?」

「うん。ありがとう」

 

 微笑みながら助手席の扉を開けて車を降りる。ほんの少しだけ、家の辺りと風の匂いが違う気がした。リュックサックをきちんと背負うとくるりと振り向き、扉を閉じる前にあいさつを交わす。

 

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 

 ばたりと扉を閉じると、お母さんが小さく手を振っていた。私も手を振り返すと、お母さんの運転するミニバンが静かに走り去っていく。角を曲がって見えなくなるまで、私はお母さんに手を振り続けた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 トレセン学園の建築物の多くは西洋の歴史的建築様式を参考にしたであろうデザインをしている。前々世では2次元の存在であったそれらをオープンスクールやファン感謝祭で目の当たりにしたときは、今の年齢相応にわくわくしたことを思い出す。学生寮も学園の他の例に漏れず欧風な見た目だ。2つの寮舎に分かれており、それぞれ栗東寮と美浦寮と呼ばれている。学園の正門から道路を挟んで寮舎を見たとき、右手側が栗東寮、左手側が美浦寮であると、リュックサックから取り出した入寮案内に記載されていた。

 

 案内と一緒にクリアファイルに挟んでおいた入寮許可証に従い、私は美浦寮の玄関へ向かう。テントと長机が置いてあり、一目見ただけでは数えきれないほどのウマ娘たちが列をなしていたので、玄関の場所はすぐにわかった。前世でも美浦所属だったことを思い出しながら、花吹雪の中を歩いて行く。自宅の辺りの桜はもう散り切ってしまったので、わざわざ遅咲きの桜を植えているのだろう。時々髪や服にまとわりつく花びらを払いのけながら進むと、前々世で(・・・・)聞き覚えのある声がした。

 

「新入生の皆さん、トレセン学園へようこそ! 美浦寮はこちらです! 列に並んで手続きをしましょう!」

 

 列整理のために明朗快活そうな良く通る声を張るウマ娘は、鹿毛のポニーテールに桜色の瞳をしたサクラバクシンオーだった。2次元と3次元の違いはあるが、間違いない。改めて、本当にトレセン学園に来たのだと実感する。以前何度かトレセン学園を訪れたときはいわゆる原作ウマ娘を間近にしたことはなかった。画面越しや遠目から見るのではなく、本当に手を届かせることができる距離にいる事実に感動すら覚える。

 

 委員長の声に従って大人しく列に並び、しばらくすると私の番になった。名を名乗り許可証を見せると、担当のウマ娘が名簿にチェックマークを入れてから鍵を渡してくる。

 

「キャンドルノヴァさんの部屋番号は418です。北棟の4階南側なので、この玄関に入って右側の階段を上ってください。事前の案内通り荷物は玄関に置いてありますので、ご自分で運び込んでください」

「ありがとうございます」

「3時から食堂でオリエンテーションがあるので、遅れないでください」

「はい。わかりました」

 

 手続きを終えて玄関に入ると、無数の段ボールが部屋番号順に整然と並べられていた。その中から数分かけて自分の荷物を見つけると、私は階段を数往復して全ての荷物をこれから過ごす自室の前に置く。

 

 トレセン学園の寮は原則2人1部屋であり、私にとって寮生活は前々世を含めても初めての未知の体験だ。同室の子が良い子であることを祈りながら、覚悟を決めて3度ノックをする。しばらく待っても返事がなかった。もしかしてと思い扉を開けようとすると、予想通り鍵が閉まっていた。不在だったらしい。

 

 出鼻を挫かれた気分になりながら鍵を使い扉を開くと、暗い部屋から育ちの良い子が住んでいそうなすごく良い匂いが香ってきた。部屋に入ってすぐ右手側にあるスイッチに触れ、照明を点灯させる。

 

 部屋の左手側は寮の備品の家具だけが置いてあった。手前からキャビネット、学習机と椅子、ベッドとスツールとベッドサイドテーブルが置いてあり、窓際中央には共用の冷蔵庫がある。こちらが私の使う方だろう。

 

 一方の右手側、学習机の棚はぱかプチが占拠していた。よく見るとメジロ家ウマ娘のぱかプチに混じって、タイキシャトルのビッグぱかプチが置いてある。寝具は淡い色使いで、ふわりとした様子から羽毛布団に見えた。テーブルの上にはルームフレグランスが置いてある。

 

 持ち主はどんな子なのだろうと気にしながらも私は荷物を部屋に運び込み、荷解きを始めた。10分ほど経ったところで扉が開く音がして、そちらを見た私は思わず息を呑んだ。

 

 扉を開けたまま1人のウマ娘が立っている。丁寧に手入れしていることが一目でわかるほど艶やかな鹿毛が腰まで伸び、一束だけ白い前髪がアクセントのように輝いていた。エメラルドのようにきらきらした瞳とぱっちりとした大きな目が印象的で、下がり気味の眉がどことなく優しそうな雰囲気を感じさせる。ぴこぴこと動く両耳を緑と白の縦縞の耳カバーが覆い、右耳には緑一色のリボンを巻いていた。

 

「えっと、新入生の方ですよね?」

 

 鈴を転がすような美しい声が私の鼓膜を振るわせる。

 

「……女神様」

「……はい?」

 

 彼女が困惑するように眉を寄せ首を傾げると、緩く編まれた二房の三つ編みが揺れた。その様子ですらあまりにも可愛くて、思わず段ボールから取り出した本を手から取り落とし、落下したそれが響かせた音で私は我に返った。たった今の私の言動がテンションの上がり切った家族と全く同じだったことに気が付いて、顔から火が出そうなくらい恥ずかしくなる。

 

 しゃがんだままでは失礼だと私は慌てて立ち上がると、戸惑わせたことを謝りながらおそらく先輩であろう彼女に名を告げる。

 

「あっ、すみません! 今日からトレセン学園でお世話になります、キャンドルノヴァです!」

「謝らなくていいですよ。初めまして、キャンドルノヴァさん。私は――」

 

 こちらへ歩み寄りながら、彼女は名乗る。

 

 この日、私は決意した。

 

「――メジロラフィキと申します。どうかよろしくお願いいたしますね」

 

 運命なんて、蹴っ飛ばしてやる。




2021/4/11 17:30
文章が抜けていたので追加しました
(しゃがんだままでは~彼女に名を告げる。)
(こちらへ歩み寄りながら、彼女は名乗る。)


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第4話:同室のお嬢様

第3話について、文章が一部抜けていたので改稿をしました。
詳細については第3話の後書きに記載しています。
このままお読みいただいて支障ありません。


 メジロラフィキ。曖昧になりつつある前々世の記憶の中で、私にとって一番強く印象に残っている競走馬の名前だった。父に連れられて初めて競馬場へ行った夏のある日、ソフトクリームを食べながら見ていた第11(メイン)レース『中山グランドジャンプ』で、先頭のまま最終障害を飛越した直後に転倒し、第3頚椎を骨折して即死した競走馬だ。当時幼かった前々世の私でも、場内の異様な雰囲気で何か致命的なことが起きたと悟ったことを思い出す。

 

 もし運命の通りに物事が進むとすれば、目の前で優しく笑う彼女は遅くとも数年後に死んでしまうのだ。間違いなく全宇宙にとっての損失である。運命が意地悪をする前に、そっとではなく全力で蹴り飛ばさなければ。

 

「あの、大丈夫ですか? 体調が悪いようでしたら、医務室に案内しましょうか?」

「はい、大丈夫です! これからよろしくお願いします、ラフィキ先輩!」

 

 すぐに返事がなかった私に、先輩が心配するように声をかけて来た。私は慌てて心配がない旨を伝える。

 

 彼女が印象深い競走馬の魂を受け継いだウマ娘であると知って物思いに耽ってしまい、失礼にも反応が遅れた私の体調を心配してくれる。美しいうえに性格もいいだなんて、やはり女神ではないか。これからは三女神ではなく四女神の時代である。こんなに素敵な人と同室になれたのだから、これ以上礼を失することなく仲良くなりたい。

 

 頭がのぼせたままだと自覚しながら、ラフィキ先輩の様子を伺う。先輩は私に目を合わせたまま少し考え込むように唸った後、名案を思いついたように笑顔で手を打ち鳴らした。

 

「そう固くならず、気軽にラフィと呼んでください」

 

 少しでも距離を詰めたいと思っていたら、先輩の方から超光速で詰め寄って来た。私の思考が読まれたかのようなあまりにも都合がいい展開に、思わず先輩に確認を取ってしまう。

 

「いいんですか?」

「ルームメイトになるわけですし、あまり堅苦しいのは苦手なんです。……駄目ですか?」

 

 ラフィキ先輩は少し不安そうな表情で願うように胸の前で指を組むと、こてんと可愛らしく首を傾ける。耳がばらばらの方向にくるくると動いていた。ここまで言われて応じない人がいるだろうか。

 

「わかりました! えっと、ラフィ先輩?」

「もう一声」

 

 耳を私にピンと向けたラフィ先輩が、真剣な眼差しでぐいっと迫ってくる。柑橘系のいい匂いがした。先輩の期待に応えるため、私は勇気を出してもう一歩踏み込む。

 

「……ラフィさん?」

「はい、ノヴァさん。末永くよろしくお願いいたします」

 

 ラフィさんは組んだ指を解くとそのまま柔らかな両手で私の右手を包み込み、花咲くような笑みとともに私の名を呼んだ。既にのぼせていた頭がとどめを刺されたように熱暴走を起こす。

 

 ……お父さんお母さん、ごめんなさい。私はもうだめです。孫の顔だけは期待しないでください。

 

「ノヴァさん」

「は、はひっ!」

 

 ラフィさんの呼びかけに私は返事をしようとして、思い切り声が上ずった。

 

 残念なことに私の手を離したラフィさんは、私の荷物が入った段ボールの傍に寄り1つ提案をする。

 

「荷解きを手伝いますから、終わったら一緒にお茶しませんか?」

「します! ありがとうございます!」

 

 我ながらどうかと思うほど食い気味の即答である。

 

「いえいえ。実はアップルパイを食べ切れなくて困っていたので、こちらこそありがとうございます」

 

 にこにこと嬉しそうなラフィさんの力になるため、ラフィさんに余計な手間を少しでもかけさせないために、私は超特急で荷解きを終わらせることにした。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「すごく広い……」

「驚きました? オープンスクールだと寮の食堂までは案内しませんから、びっくりしますよね。美浦寮だけでもすごい人数なので、これでも朝は席が空くの待ったりするんです」

 

 もともと入寮してからいろいろと買い揃えていく予定で荷物が少なかったこと、ラフィさんが手伝ってくれたこともあり、あっという間に荷解きを終えた私たちは寮の食堂棟に来ていた。所々に柱が立ち梁が見える食堂は、丁寧にワックス掛けされたフローリングでさえなければスタートダッシュの練習ができそうなほど広く、暖色のLED電球が光る天井は高く開放感があり、採光のための大きな窓と白い壁が明るく清潔な印象を与える。広々とした屋根の下には、6人用のハンギングテーブルと椅子のセットが無数に並べられていた。お昼過ぎの食堂には、所々にわいわいきゃいきゃいと楽しそうに話したり、あるいは勉強を教えあったりと各々自由に過ごすウマ娘たちの姿が見える。

 

「ノヴァさんはここで座っていてください。準備してきますから」

「手伝います!」

「そうですか? ありがとうございます。ではついて来てください」

 

 先輩であるために勝手知ったる様子で歩いて行くラフィさんについて行くと、ドリンクバーコーナーがあった。改めて周りを見てみると、食堂内のあちらこちらに同じように設置されているようだ。気が付くとラフィさんは、部屋の共用冷蔵庫から持ってきたアップルパイを置いてある電子レンジに箱ごと入れて、紅茶セットをテキパキと用意し始めていた。

 

「わ、えっと」

「慌てなくていいですよ。お盆を2枚準備してもらえますか」

「はい!」

 

 微笑みながら優しい声で指示された通り、お盆2枚をカウンターから見つけ出して持ってきた時には、ほとんどの準備が終わっていた。手伝うと言ったのに、これではただついてきただけである。力になれなかったことに気落ちしたままラフィさんに謝る。

 

「あまり手伝えなくてすみません……」

「何がどこにあるのか知らないのですから、しょうがないですよ。次の時はお願いしますね」

「……はい!」

 

 ラフィさんは暖まったアップルパイと食器をお盆に乗せ私に手渡した。気を取り直して絶対に落とさないように注意しながら、紅茶セットのお盆を持ったラフィさんについて行く。ラフィさんがお盆を置いて椅子に腰かけた場所は、最初に座っていてほしいと言われた場所と同じだった。私はラフィさんの向かいに座る。

 

「良い場所でしょう?」

「はい!」

「窓際で明るくて、良い感じに隅っこなのでお気に入りなんです」

 

 先ほどから返事がラフィさん全肯定ボットじみている私だが、実際に良い場所であることは事実だ。他のウマ娘の様子が良く見える。しかしなんとなく、ラフィさんが迷いなく壁の方を見るように座ったことが気になった。とは言えども尋ねるほどのことではないと考えを切り替え、ラフィさんが紅茶を注いでいる間にアップルパイを一切れずつ皿に移す。

 

 「いただきます」と2人で手を揃えて、アップルパイを口にする。シナモンの良い香り、サクサクとしたパイの食感、少しだけレモンを利かせたりんご煮の甘さが口の中に広がる。とても美味しくて、皿の上のアップルパイがあっという間に消えてしまった。ふと気が付くと、ラフィさんはアップルパイを食べかけたまま私の様子を見ていた。

 

「とても美味しいです!」

「良かった。実は手作りだったんです。私の好みで作ったので、ノヴァさんの口に合うかわからなくて」

 

 ラフィさんは胸を撫で下ろすと、アップルパイを口にした。「今回は会心の出来ですね」と頷きながら、ウマ耳をくるりと横に向けて幸せそうな笑みで食べている。

 

 ……女神様手ずからの料理を食べたということは実質洗礼では。今日からラフィさん信徒になります。

 

 頭の中の冷静な部分が「またやってるぞ」と忠告をしてくる。気持ちを落ち着かせるため、紅茶を口にした。ティーバッグを使ったにしてはずいぶんと美味しい紅茶だ。

 

「私が淹れるのと別物だ……」

「使用人がいないので、美味しい紅茶を飲みたかったら自分で淹れられる様になるしかありませんから。お姉さまたちならもっと美味しい紅茶を出すと思いますよ」

「メジロのお姉さま……。マックイーン――先輩とか、ライアン先輩とか、パーマー先輩とか、ドーベル先輩ですか?」

「……はい」

 

 ラフィさんの身内である有名人を危うく呼び捨てかけて冷や汗をかく羽目になった。しかしそれ以上に、メジロの名前を出した途端目に見えて気分を沈ませてしまったラフィさんのことが心配だ。耳がぺたんと折れてしまっている。1日中楽しく走っていたのに、翌日が月曜日だと気が付いてしまった夕方並みの落ち込み方である。

 

「ラフィさん、何か悩み事があるなら力になれませんか」

「……新入生に言うことではないので」

「誰かに話すだけでも楽になるって聞きました」

「……それでも、です」

 

 俯いていたラフィさんが顔を上げて答える。少し無理をした笑みが張り付いていた。その証拠に耳は折れたままだ。おそらく、無理に聞いても言ってくれないだろう。口ぶりから察するに、先輩としての矜持もあるのだろう。

 

「さあさあ、アップルパイを食べましょう。今日中に食べ切らないと傷んでしまいますから」

「わかりました。あ、紅茶どうぞ」

「ありがとうございます」

 

 ラフィさんは声を張ってアップルパイを皿の上に乗せ、カップが空になったことに気が付いた私が紅茶を入れる。ラフィ先輩が時々何かを言おうとしてやめるのを何度か繰り返しながら、美味しいアップルパイが2人の胃袋の中に黙々と消え去った。私は紅茶を飲みながら何か良い話題の変え先はないかと考えを巡らせて、部屋のぱかプチを思い出す。

 

「そういえばなんですけど」

「はい」

「部屋に置いてあったぱかプチ、メジロ家のもの以外にタイキシャトル先輩の――」

「良いところに目を付けましたね!」

 

 驚くほどに食い気味だった。ラフィさんがテーブルに手をついて身を乗り出してくる。話題変更に付き合う空元気もないわけではないだろうが、ほとんど素だろう。目の輝きが違うし、耳がピンと立っている。

 

「去年の安田記念CM見ましたか!? 『大雨のなかの無敵』! 格好良くないですか!? URAのCM担当者の方は天才ですよね! あの安田記念はもう格が違うというか、何度見返しても惚れ惚れする末脚です! 私は脚質が逃げなので参考にはできないのですけれど、憧れるのは自由だと思うんですよ!」

 

 他のウマ娘たちがなんだなんだと視線を寄せるが、声の主がラフィさんであることを知ると興味を失ったようにそれまでしていたことに戻っていく。どうやらこれはラフィさんの『いつものこと』であるらしい。タイキシャトルの大ファンであることが判明したラフィさんの驀進的な勢いの話は、3時近くになって食堂に新入生が集まってくるまで続いた。




2021/04/17 21:40
使用楽曲コードが抜けていたため追記しました


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第5話:美浦寮の規則

「あら、そろそろ時間ですね……。話足りないのですけれど、仕方ありません。私は先に部屋に戻りますね」

 

 ラフィさんは辺りに集まっていた新入生に気が付いて我に返ると、笑顔でそう言い残して楽しげに三つ編みを揺らしながら去っていく。ラフィさんによる怒涛のタイキシャトルトークは、基本的に他のウマ娘についてはレースしか見ない私にとってかなり新鮮な話が多かった。アメリカンな見た目と大胆な性格をしているが食事の作法はとてもきれいだとか、実はヒツジが大好きだとかそういう話は初耳だったので、時間いっぱいまで興味深く聞けた。

 

 ではラフィさんが帰った今の私がどうしているかと言えば、何もしていないのである。完全に手持ち無沙汰になってしまった。つい先ほどまでラフィさんと話していたので他の新入生と会話をするようなタイミングはなかったし、周りの新入生たちも既に話が盛り上がっているところに割って入るのは躊躇するわけである。

 

 ……ははは、女神様と仲良しで羨ましかろう!

 

 それはそれとして、新入生たちは自然に出来上がった末永く付き合うことになるかもしれないグループで会話を楽しんでいるから、私が後から入る余地はあまりない。仮に入れそうだとしても、和気あいあいとした話の流れを遮ってしまうだろうことには少々の抵抗を感じるのだ。特にやることもないのでスマートフォンを弄ること数分、食堂の扉が勢いよく開かれた。

 

「オリエンテーション始めるよ! 寮則まとめた紙を配るから、新入生は前に並んで受け取りな!」

 

 食堂に入って来て開口一番そう宣言したのは、よく日焼けした黒鹿毛のウマ娘――ヒシアマゾン寮長だ。彼女に続いて先輩のウマ娘たちが紙の束を抱えて入って来る。

 

 寮長の一声で新入生たちがぞろぞろと動き始めた。私は食堂の隅にいたため、新入生のバ群から取り残されて最後方についた。先輩たちは手際よく書類を配っていくが、如何せん数が数なので相応に待たされる。聞き耳を立てると、どうやら入寮手続き時に一緒に渡すはずが印刷機の突発的な故障で準備できなかったらしい。ならば仕方ないと待つことしばらくして、ようやく私の番が来た。寮則の摘要を受け取ると、小柄な私でもまだ割って入る余裕がありそうな集団最前列の端に入った。

 

「全員受け取ったね? 始めるよ!」

 

 寮長は摘要の内容を読み上げながら、時々書いていないことについて口頭で補足を加えていく。夜22時から朝5時30分までは外出禁止時間であること、寮食堂を利用しない場合前週の木曜18時前までに欠食届の提出が必要であること、風呂は18時から0時まで沸いており他の時間帯はシャワーのみとなること、消灯時間は決まっていないが同室の子や周りの部屋の子の迷惑にならないよう努めることなど、規則自体は基本的なものばかりだ。私が気にしていることはどうやら明記されていないらしいので、確認する必要がある。

 

「こんなもんだね。何か質問のある奴はいるかい?」

「はい!」

 

 誰よりも早く、思い切り高く手を上げ声を張る。逃げ馬はスタートダッシュが大事なのだ。ましてや大外――声と注意の届きにくい端っこにいるのだからなおさらである。

 

「活きがいいね。なんだい」

「朝は5時半まで外に出られないそうですが、それより前にトレーニングしたいときはどうすればいいですか」

「娯楽室は防音がしっかりしてるから、朝早く特訓しても迷惑掛からないよ。思い切りやりな。さっきも言った通り、先輩たちが残したトレーニング道具が使い放題だ」

「ありがとうございます」

 

 走れないというのは調子が狂いそうだが、筋トレくらいなら出来るようだ。最悪は免れただけよしとしよう。一人納得していると寮長がにやりと笑いながら言葉を発する。

 

「ところで、そんな時間に起きられるのかい? 毎年そういう気合入った子はいるけどね」

 

 続かない、ということだろう。しかし、寮長は知らないことではあるが、前世持ち競走馬がそっくりそのまま入った身を舐めないで頂きたいものである。

 

「大丈夫です。ここ数年は毎朝4時に走っていたので」

「なら大丈夫だね。……これはスズカタイプかぁ」

 

 寮長が小さな声で呟き、溜息を吐いた。私は雲が少ないからとミーティング中に突然走り出したりしないので、大人しい優等生に見えて実は癖ウマ娘な最速の機能美さん(サイレンススズカ)とは違うはずである。ちょっと朝が早いだけだ。

 

「他に質問は?」

 

 寮長が他の子たちの質問を受け付けていく。知りたいことの答えを貰った私は、それらを聞きながらオリエンテーションの終わりを待った。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 オリエンテーションが終わり次第、私は我ながら見事なスタートダッシュを決めて部屋に戻って来た。なお、寮則では『廊下は静かに走ること』とあったので走っても問題はない。ウマ娘の速度で走って大丈夫かとは思ったが、静かに走ろうとしたら全力疾走はできないので良いのだろう。3回ノックをして、返事が返ってきてから扉を開ける。

 

「ただいま戻りました」

「おかえりなさい」

 

 どうやら勉強中だったらしいラフィさんが、体を半分こちらへ向けてふわふわした笑顔で出迎えてくれた。後で写真を撮らせてもらえないだろうかなどと考えながら、ラフィさんに1つお願いをする。

 

「ラフィさん、夕食後でいいんですけれどお願いがあるんです。大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫ですよ。何ですか?」

 

 首を傾げる動きに合わせて腰まで届く三つ編みが揺れる。また見惚れてしまいそうなところをぐっと堪えた。

 

「娯楽室にあるトレーニング道具の使い方を教えて貰えませんか?」

「わかりました。なら、ついでに私もトレーニングをしたいので、食休みしてからにしましょうか」

「はい。ありがとうございます!」

「どういたしまして。夕ご飯までは勉強するつもりなので、用があったら声を掛けてくださいね」

「はい」

 

 嫌な顔1つせずに後輩の頼みごとを聞いてくれるだなんて、本当に親切な人だ。私も1年後にはこのような先輩になりたいものである。

 

 ラフィさんは机に向き直り勉強に戻ったので、私も夕食までの時間を潰そうと机の棚から分厚い1冊の書籍を取り出す。URA総合研究所が編集した『競走ウマ娘のスポーツ生理学』というタイトルの専門書だ。制服が届いた日に読んでいたトレーニング理論の本と一緒にお母さんから借りていたものだが、お母さんは新版を新しく買ったらしくそのまま貰えることになったのだ。お母さん曰く「大学で使うような専門書だからかなり難しいけど、ノヴァなら読めると思うわ」、お父さん曰く「少し古いけど、トレーナーを見つけるまでの自主練習くらいならそれで十分すぎるよ」と、ローカルシリーズのトレーナーである両親のお墨付きだ。

 

 備え付けのデスクライトを点灯し、パラパラとページを捲っていく。馬の筋肉がどうなのかは今世では知る由もないが、ウマ娘の筋肉はミオシン重鎖の分子型によってタイプI筋繊維、タイプIIA筋繊維、タイプIIX筋繊維に分けられる。筋肉の部位によって比率は異なるが、競走ウマ娘の場合はスプリンターもステイヤーも速筋と呼ばれるタイプIIの筋肉のほうが多い。少々意外に思ったが、ヒトとウマ娘ではそもそも違いがあるし、ステイヤーでも4000m程度しか走らないわけだから速筋がある方が有利なのだろう。エンデュランスをするようなウマ娘の筋肉がどうなのかも気になるところではある。そういえば、前世の私は大逃げ馬ではあったが瞬発力よりもスタートの上手さでハナに立つタイプだった。とすると、私の速筋は最も瞬発力に優れたタイプIIXよりも、比較的持久力のあるタイプIIAの比率が高いのだろうか。

 

 このような調子で活字に触れ、活字を切っ掛けとしてとりとめのない思考の海に潜り込んでいたところ、右肩に2回ほど軽い衝撃を感じて我に返る。右に振り向くとラフィさんが背後に立って私の肩に手を当てていた。

 

「すごい集中力ですね、ノヴァさん。声掛けても全然反応がありませんでしたよ?」

「すみません……」

「集中できるのはいいことですよ」

 

 にこにこと言い切るのだから、本当にいい人である。とは言えども、ラフィさんの優しさに甘えすぎないようにしないといけない。1度思考に没入するとなかなか現実に戻ってこなくなるのは私の悪い癖だ。

 

「もう夕ご飯の時間ですから、一緒に行きましょうか」

「わかりました」

 

 読んでいた、というよりは開いていたページに栞を挟んで閉じ、本を棚に戻しながらデスクライトを消灯する。ラフィさんの方へ向き直ると、彼女はたった今仕舞った本の背表紙をじっと見ていた。

 

「ラフィさん?」

「ああ、すみません。行きましょうか」

「はい!」

「そうそう、今日はカツカレーなんですよ。みんな勝てるようにと、新入生が入ってくる日は毎年そうなんです」

「いいですね。ゲン担ぎは大事ですから!」

 

 部屋を出て鍵をかけると、私とラフィさんは食堂へと連れ立って歩いて行った。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 どうせ寮の食堂だろうと舐めてかかっていたが、サクサクのカツが乗ったカレーはとても美味しかった。ルーも程よくとろみがついていてまるで1日寝かせたような美味しさだったが、食堂で提供するような量を1晩置いておくのも難しいだろうし、どうやったのだろうか。今度時間がありそうなときに料理人の方に聞いてみよう。

 

 それはともかくとして、私たちは食後再び部屋に戻り、自習をして食休みを終えたところである。これから娯楽室でトレーニングをするために学園指定のジャージに着替えるわけだ。そう、お着替えである。女神様のお着替えである。頭の中の前世が盛大に馬っ気を出しているが、今世はウマ娘なので合法である。ラフィさんは右耳にリボンを巻いているので前世的には薔薇になるわけだが、今世的には百合である。

 

 ……大丈夫です、ラフィさん。前世では紳士的なことに定評があったので、今すぐどうこうしたりはしません。もっと仲良くなって、お互い合意の上でするのが私の主義なので。

 

「……ノヴァさん、どうしてじっと見つめてくるのですか?」

「……あまりお洒落に興味がなかったので、ラフィさんの服の構造が気になって。他意はありません、ええ」

「そうですか……?」

 

 大嘘である。ラフィさんが着ているのは、Vネックでマキシ丈の背中がクロスしたフレアージャンパースカートとシフォンブラウスだ。さすがに私でも構造はわかる。これは純粋な下心(他意)だ。

 

 ラフィさんの耳があちこちにくるくると向いている。完全に不審に思われているようなので、私はパーカーを脱ぎながら目線だけをラフィさんにちらちらと送る。

 

 ラフィさんは腰に両手を回してファスナーを下ろしていく。私の今脱ごうとしているハーフパンツもそうだが、ウマ娘用の衣類は尻尾を通す必要があるので基本的に尻の方が開くようになっているのだ。ラフィさんがスカートから脚を抜いていく。黒タイツに包まれた脚はほっそりとしている。見た目細くても競走馬並みの脚力を発揮するのだから、ウマ娘という生き物は本当に不思議だと思う。

 

 ブラウスにラフィさんが手をかけたので、見逃さないよう慌ててTシャツを脱いだ。1つ1つボタンを外していく仕草がとても良い。ブラウスから腕を抜いたラフィさんのそれは大きくはないけど、下着越しでもわかるほど大変美しい形だった。最大限に誇張してもなだらかな丘陵地帯と呼ぶのが精いっぱいな我が身からすれば少し羨ましい。

 

「ノヴァさん」

「……はい」

「服じゃないところ、見てますよね?」

 

 胸元を隠して顔を赤くしているラフィさんがかわいいが、目線を逸らして沈黙を保つ。雄弁は銀である。

 

「耳がこっち向いていたのでバレバレですよ」

「すみませんでした」

 

 完全敗北だった。自分もウマ娘だと忘れていた。ウマ娘の感情や興味はウマ耳でばれるのだ。もしかして家族も言わなかっただけで、私が何を考えているのかわかっていたのだろうか。

 

 腰を曲げ頭を低く保っていると、ラフィさんのため息が聞こえた。

 

「良いですけれど。何で見ていたのですか?」

 

 今の段階で「えっちだなと思いました」などと馬鹿正直に答えたら、どう考えても嫌われるだろう。最初にラフィさんの方から距離を詰めてきたとは言えども、出会って1日目である。しかしこういう時のための答えは用意してあるのだ。頭を上げて答える。

 

「身長も胸もあっていいなぁと思いまして。はい。私は見ての通りなので」

 

 ラフィさんの身長は目算で160cm前後、胸も美しいと言い切っていい形と大きさだ。一方で今下着姿の私は、中等部のうちに多少は伸びるだろうが身長は150cmを切っているし、胸は無ではないがなだらかである。生理も既に来たので、ここからあまり大きくなる見込みもないのだ。真実を混ぜることがうまい嘘をつくコツである。別に気にしてはいない。していないったらしていないのである。

 

「その、ノヴァさんもこれから育ちますよ」

「私の目を見て言えますか」

「……ごめんなさい」

 

 ラフィさんが眉をハの字にして謝った。彼女から見ても、私のそういう方面での将来性に見込みはないらしい。たった今思い知ったが、客観的に評価されると思いのほか凹むものであるようだ。少し変な雰囲気のまま、私たちはジャージを着て娯楽室へと向かうことになった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「……娯楽室というか、ほぼトレーニング室では?」

「この棟の娯楽室はライアンお姉さまがいろいろ持ち込んでいるので……」

「あぁ、ライアン先輩の筋トレ趣味は有名ですね」

 

 制汗剤の匂いがする娯楽室には、学園のトレーニングルームに置いてあるような機器が最低でも1台は置いてあった。半分ほどはメジロライアンの私物らしい。メジロのお嬢様らしいお金の使い方がトレーニング道具に出ていた。

 

「『後片付けまでちゃんとすれば自由に使っていい』とお姉さまも言っていたので、実際に使ってみましょうか」

「はい!」

 

 ラフィさんに器具の使い方について説明を受けながらトレーニングを始めた。今日はあくまでも使い方を知ることが目的なので、軽く流すようにこなしていく。ランニングマシンとフィットネスバイクは走力向上に繋がるだろうと想像がつくのだが、ダンベルやバランスボールは何に使うのだろう。そう疑問に感じているとラフィさんが解説してくれた。スクワットをするときにさらに負荷をかけるために使ったり、体幹を鍛えて全力疾走中の姿勢がぶれないようにするために使うらしい。

 

 ウマ娘のトレーニングに関する基本的なことすら、トレーナーの娘なのに知らなかったという現実に愕然とする。そういえば、両親は私がレースに対して複雑な感情を抱いていることを見抜いていたのか、家庭で自分からそういう話をすることはなかった。家でウマ娘に関する話題は、大体私か妹が切っ掛けで話していた気がする。それに私もギリギリまでトレセン学園を受験して競走ウマ娘を目指すか迷っていたので、両親に聞いてでもウマ娘用のトレーニングをしようという発想がなかった。そのせいだろうが、現状の私は頭でっかちというか、多少専門書を読んで知識面で優位性を持っても、それが実践に結び付いていないところがある。負け続きだったとはいえども前世という最高の参考書があるのに、ウマ娘の身でそこに至るための道を見つけられていないというか。いきなり専門書は難しすぎただろうか。

 

 また、実際に試してみてわかったが、どの器具も何のためにどこを鍛えるのかを意識したうえで正しく使えなければ、無意味どころか逆効果になりかねない予感がする。そう思いラフィさんに相談したところ、ラフィさんも同感だという。

 

「いろいろとありますけれど、トレーナーさんか教官に自主トレーニングの内容を相談してから始めた方がいいと思いますよ? 自己流でやって体を壊した子もいましたから」

「うーん。やっぱりそうですか……。入学前みたいに朝走れなくなるので、トレーニングができたらと思っていたんですけど……」

 

 今更ながら両親に相談するというのも考えたが、トレーナーである以上は自分のチームに所属する担当ウマ娘を見るだけでも忙しいのだ。そこへさらに負担をかけるわけにもいかない。うんうんと唸っているとラフィさんが質問をしてきた。

 

「そういえば、前は何時から練習していたんですか?」

「朝の4時です」

「……え、4時ですか?」

「え? はい。4時ですけど……?」

 

 深夜3時に起こされる競走馬的には遅い時間だ。4時というのも、それより早く動き出すと補導されるからと妥協した結果である。普通はもっと遅く起きるということは知っていたが、前世からのルーティンはなかなか抜けないものだ。ラフィさんは目を伏せ腕を抱いて考え込むような仕草をした。『考える乙女』と題をつけたら美術品にならないだろうか。しばらく待った後、ラフィさんは私の目を見て口を開く。

 

「明日から、私も一緒していいですか?」

「私は良いですけど、大丈夫ですか? 普通の子はもっと遅く起きているらしいですけど」

「……普通のままだと、結果を残せなさそうなので」

 

 思いつめたような真剣な表情でラフィさんは見つめてくる。何か考えがあるのだろう。

 

「わかりました。ただ、今まで自己流でやっていたので、ラフィさんから見てこうした方がいいというところがあったら教えて貰えませんか?」

「それはもちろんです。明日からお願いしますね」

「はい、お願いします」

 

 ラフィさんが右手を差し出してきたので、握り返す。お嬢様らしい柔らかな手だ。今は真面目な話をしているので、高揚する心をどうにか抑え込もうとする。

 

「さて。いい時間ですから、今日はお風呂に入って眠りましょうか。ノヴァさん」

 

 気持ちを切り替えたらしいラフィさんが、にこやかな顔でそう提案した。お風呂イベントというものの存在を完全に忘れていた私に衝撃が走り、頭の中で前世が再び馬っ気を出すように嘶いているような感覚がした。そういう目線を向けない自信がない。

 

 ……お父さん、お母さん、美月()、ごめんなさい。孫や姪の顔を見せられないどころか、私は今日社会的に死んで、今晩から檻の中かもしれません。



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第6話:夜明けの遊歩道

 ぱちりと目を覚ますと、見慣れない天井が視界に飛び込んできた。ここはどこだろうかと疑問を覚えながら、掛け布団とタオルケットを退けて起き上がる。壁を伝って降りて来る朝の冷気が身を撫で、少しずつ頭の回転数が上がり始める。

 

 ……あぁ、そうだ。入厩――ではないか。入寮したんだ。

 

 トレーナーが調教師、厩務員、騎手、装削蹄師などといった競走馬に関わる人間を一まとめにした存在だとするなら、担当トレーナーが付いていないどころか厳密には入学前の私は、ようやく育成牧場に来たくらいの段階だろう。競走ウマ娘を目指す覚悟をしたとは言えども、まだまだ先は長い。

 

 朝の寝ぼけた頭で考え事をしながら部屋の反対側に目をやる。女神様がいた。私の頭が暖機運転を無視してフルスロットルで回り始める。起きているときは美しいという印象が先行するラフィさんだが、寝顔は意外とあどけない感じであり、それがまた大変に良い。髪が起きているときと同じく緩い三つ編みのままであるあたり、意外とラフィさんは面倒くさがりだったりするのだろうか。しかしラフィさんくらい髪が長ければ、それくらいの時短はしないと髪のケアなどやっていられないのだろう。

 

 ラフィさんの髪について考えているとき、そういえばと私は枕元のスマートフォンを手に取り、インカメラを起動する。鎖骨辺りまで伸びた葦毛には、特に寝ぐせはついていないようだ。櫛で整えれば問題ないだろう。自宅からトレセン学園へ環境が劇的に変わっても、特に寝付きや寝相などへ影響はないようだ。環境変化への図太さは前世譲りなようで実に助かる。

 

 ラフィさんの寝顔鑑賞に戻るためスマートフォンを置こうとした私だが、ふと魔が差した。布団の中の暖かな空間に差し込んだままだった脚を引き抜くと、物音を立てないようにスリッパに足を突っ込み、スマートフォンのアウトカメラを起動してそろりそろりと部屋の反対側へ歩いて行く。消音機能はないので一発勝負だ。ラフィさんの寝姿をディスプレイいっぱいに映し出したとき、寝顔盗撮はさすがに気持ち悪くないかと自制心が声を上げる。そうかな、そうかも、そうだなぁと迷いが生じた瞬間だ。ラフィさんのスマートフォンがアラーム音を鳴らす。

 

 覚えている限りの前々世まで含めて、最速の判断で自分のスマートフォンを布団に投げた。前世でこれができていれば1回くらいはギンシャリボーイに勝てたのではないかと考えると、少し鬱屈とした気分が芽生えてくる。美しい放物線を描いたスマートフォンは、起きるときに半分に折り畳まれた掛け布団の上へ無事に着地した。

 

「んみゅ……」

 

 実に可愛らしい寝起きボイスが内耳を通り脳に染み渡り、暗く沈んだ思いが一瞬にして晴れ上がる。至福の思いに浸っていると、ラフィさんがアラームを止めて起き上がった。腕に体重を預けた横座りのラフィさんが、不思議そうに首を傾げた。耳は横に向いてすっかりリラックスした様子だ。

 

「……どうしたんですかぁ、ノヴァさん?」

「……少し早く目覚めたので、起こそうかどうか迷ってました」

「次からは起こしてくださって全然良いですよぉ」

「わかりました」

 

 朝だからだろうふにゃりとした笑顔が大変愛らしい。どうやら私の動きは不審には思われていないようだ。安堵に胸を撫で下ろした私は、洗面所へ持っていく朝の身支度セットを準備しつつ、怪しまれないようにスマートフォンを枕元に戻す。

 

「先に顔洗ってきます」

「はい。私もすぐに行きますねぇ」

 

 扉を開くと同時に冷たい廊下の空気が体を冷やし、まだ少しだけ重たい瞼を持ち上げさせた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 御着替えをちらちらと見ていても疑わしげな目線を送られなかったあたり、やはり昨日の虚実入り混じった弁明は功を奏したらしい。別に凹んでなどいない。

 

 朝の身支度を終えた私とラフィさんは、娯楽室で動的ストレッチを行う。横浜のコースを走り始めた頃に、両親が「怪我をしないように」と教えてくれたストレッチの内容は、ラフィさんのストレッチと一部の順番が違うくらいだった。それくらいなら中央と地方でそうそう差は出ないものなのだろう。

 

「割とのんびり準備したのに、まだ1時間以上ありますね……」

「そうですね。朝外に出られるようになった途端に駆け出していくような子でも、この時間はまだ眠っていると思います」

 

 寮長に言っておいて何だが、トレセン学園のリズムに合わせるべきだろうか。自己練習のメニューも作れていない状況では、朝に起きてもしょうがない気がしてくる。そんなことを考えていると、ラフィさんが声を掛けてきた。

 

「ノヴァさん。昔ライアンお姉さまが作ってくださったトレーニングメニューがあるので、ノヴァさんに差し上げます。私が入学してすぐの頃のメニューなので、今のノヴァさんがやっても大丈夫だと思います」

 

 やはりラフィさんは女神ではないだろうか。

 

「いいんですか?」

「今はトレーナーさんが付いているので、そちらの指示に従わないといけませんから」

「……担当がいるってことは、もうデビューしたんですか!?」

 

 衝撃的な言葉だった。担当トレーナーが付いているのであれば、デビューしていてもおかしくない。もしデビュー済みだとすれば、ラフィさんのウイニングライブを見たことがないと言う事実は痛恨の極みである。どうして妹のようにトゥインクルシリーズのレースを全部見なかったのだろうか。そう思いながらぐいっとラフィさんに迫る。しかしラフィさんの耳はぺたんと元気なく垂れ、笑顔が陰ってしまった。

 

「出走はしたのですけれど、まだ1度も勝ててなくて……」

 

 競走馬の魂を受け継いで生まれてくるウマ娘は、どれだけ美しくとも一皮むけば闘争心の塊である。故に普通のウマ娘にとって、どれだけ努力しても勝てないという状況は少しずつ精神を蝕んでいく遅効性の毒のようなものだ。ラフィさんだって例外ではないだろう。

 

 ラフィさんのライブを見逃していたという事実は実に残念なことではあるが、一旦横に置いておき、ラフィさんを元気づけようと何か掛ける言葉がないか考える。しかし意気消沈したラフィさんに何というべきかわからなくて、私は言葉にならない声を上げることしかできなかった。無責任に「次勝てるように頑張りましょう」ということは簡単だ。しかし、そんなことは当人が一番よくわかっている。頑張り続けなければ勝負にすらならない世界なのだから。

 

 少しの間目を瞑り顔を伏せていたラフィさんだが、首を振り顔を上げると両拳を胸の前でむんと構えた。

 

「……でも、次は勝つために頑張るんです! 私だって、メジロなんですから!」

「……はい! 頑張りましょう!」

 

 少し憂鬱な気分になっても自分ですぐに立ち直れるラフィさんは間違いなく強い人だ。本当に絶望するのは、『次』が永遠に来なくなった時でいいのだから。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 ラフィさんに貰ったメニューを参考にして軽めのトレーニングをこなしているうちに、外出禁止時間の終わりが見えてきた。ランニングマシンとフィットネスバイクを2人で交代して使っていたためか、いい感じに全身が暖まっている。もうそろそろ出られるだろうと、ラフィさんと私は荷物を持って一緒に玄関へやって来た。

 

 ちらほらと集まっているウマ娘たちを見てみると、背中合わせのペアストレッチをしているライスシャワーとゼンノロブロイの姿を見つけた。2人ともすでにドリームシリーズに参戦している実績と知名度を兼ね備えた人気のウマ娘だ。ゼンノロブロイがライスシャワーに担がれて背中を伸ばしている。

 

 目算ではあるが、私よりも彼女の方が身長は小さいはずである。しかし私のそれは精一杯に見栄を張って丘陵地帯だが、彼女のそれは過少申告でチョモランマだった。自らの胸元に手を当てるが、擬音で表現するなら『すらぁ……』である。ここまで差があると実際にムネ差もありうるほどの格差がそこにはあった。

 

「ノヴァさん、ノヴァさん。気持ちはわかりますが目線が余りにも不躾ですよ」

「……はい」

 

 ムネの差が着順の決定的差にならないと示してみせる。そう秘かに決意した時、ふらりと現れたパジャマ姿のウマ娘が「開けますよぉ」とまだ眠たそうな様子で言いながら玄関の鍵を開けた。押し合いへし合いにならないように玄関近くの子から順番に出ていき、私たちの番が来る。

 

「行きましょう、ノヴァさん。ついて来てください!」

「はい、ラフィさん!」

 

 上って来たばかりの朝日を浴びて駆け出したラフィさんについて行く。トレセン学園は甲州街道を挟んで京王線府中駅の北側に位置している。そこを出た私たちは、学園前の通りを南下して府中街道に合流するとそのまま多摩川へ向けて走っていく。片側1車線の道路をヒト並みの速度で走っていると、左手側に東京レース場のフェンスが現れた。

 

 ……いつになるかはまだわからない。けれど、あの日の私たちはあいつに勝てたのだと証明して見せる。

 

 決意を新たにしながらラフィさんについて行くと、道路が片側2車線に広がった。是政橋と言うらしい大きな橋が見えてきたところで、ラフィさんは側道に逸れていく。どうやら川を越えては走らないらしい。逸れた先の緩い坂を駆けあがると右手側に広い緑地が現れた。私たちは道路を渡り、遊歩道を自転車程度の速度で走っていく。

 

「川まで結構距離がありますね?」

「そうですね。でも大雨が降ったりすると、すぐ傍まで川になるんですよ」

「ちょっと想像がつかないですね……」

 

 前々世は一部の記憶を除けば性別すら朧気で、前世は競走馬だから川の傍など行ったこともなかったし、今世は横浜生まれの横浜育ち。そのためか増水した川というものがどのようなものか映像でしか見たことがなく、いまいちピンとこない。

 

「もう少し走るといつも私が休んでいるところにつくので、そこで一旦休憩しましょうか」

「はい!」

 

 トレセン学園を出て15分程度、休憩には少し早いがトレセン学園付近の練習コース案内も兼ねているのだろう。面倒見のいい女神様は慣れた様子で三つ編みをなびかせて駆けていく。春の朝、まだ冷たい風を受けながら数分ほど走り続けると、川のミニチュアのような水場が見えてきた。ラフィさんが減速して、人によっては青臭いと感じるだろう芝の良い匂いがする河川敷へ降りていくのを追う。丁度腰かけて休めそうな岩の前でラフィさんが止まった。

 

「ここです。親水公園なんですけど、朝は人が少ないのでスタートダッシュの練習くらいはできますし、道路を渡ったところの公園でお花を摘むこともできるので休憩にはもってこいなんです」

「花壇の花を摘んでもいいんですか?」

 

 公園の花壇と言えば触ってはいけないものだと思っていたのだが、ずいぶん珍しい公園もあるものだ。そういえば競走馬になる前、ただの仔馬だったころに牧草になかなか慣れることができず、何か良いものはないかと探し回った挙句ツツジの花の蜜をよく吸っていたものだ。そのようなことを考えていると、ラフィさんが何と言おうか悩んだような表情をしていた。

 

「……その、その花摘みではなくてですね」

「……あっ、わかりました。そういうことですね……」

 

 言い淀むようなラフィさんの様子を見て、思い切り勘違いをしていたことに気が付く。練習中に積極的に水分補給をしていると、トイレの有無は重要なことである。耳の端まで熱くなっていくのを感じ、早朝のひんやりとした空気を両手でパタパタと扇いで送る。天然を通り過ぎて無知を晒したような気分だ。

 

「……走りましょうか、ノヴァさん!」

「はぃ……」

 

 私は顔に熱を感じたまま、少し声を裏返して休憩を切り上げたラフィさんについて再び朝日へ向けて駆けだす。走っているうちに恥ずかしくなくなるだろうという、ラフィさんの気遣いがありがたかった。




2021/5/5 19:15
誤字を修正しました(東京競馬場→東京レース場)
ご報告ありがとうございました


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第7話:衝撃的な言葉

 ラフィさん曰く、多摩川沿いの遊歩道のうち府中市が管理している10km程度の区間は、ウマ娘優先になっているそうだ。トレセン学園を抱える自治体なだけはある。しかし学園生は、優先されていても遊歩道で飛ばして走ることはしないらしい。あまり速く飛ばすと、狭い遊歩道で転んだ時に対向して走ってくるウマ娘とぶつかって大けがをするかもしれないからだとラフィさんは言う。

 

 私たちはそのウマ娘優先区間の東端付近で折り返して、親水公園へ戻って来た。10分程度走っているうちに、恥ずかしさで熱くなっていた頭はすっかり冷えている。時刻は朝の6時を過ぎたあたりだろうか。建物に隠れがちだった太陽が、その高度を上げてきていた。

 

 先ほど一瞬で切り上げた休憩を取り直すため、ラフィさんと私は水場にあるいい感じの高さの岩に腰かける。そこで蹄鉄シューズに履き替えると、ついでにリュックから水筒を取り出した。火照った体を冷ますように風が吹き抜け、魔法瓶水筒の冷たい水が喉を潤していく。心地よい沈黙が場を満たしていた。

 

 ラフィさんにそれを尋ねようと思ったのは、本当にただの気まぐれだった。別に今でなくともよいことだったが、にこにこと上機嫌そうなラフィさんと話をしたくて振った話題だった。

 

「そういえば、ラフィさん」

「どうかしましたか?」

「次のレースは何時なんですか?」

「来週ですよ」

 

 一瞬、頭が理解を拒んだ。来週とは何時か。1週間後である。つまり今週は、競走馬ならば1週前追い切りをしているような週だ。ラフィさんにとってかなり大事な時期である。

 

「来週レースなんですか!?」

 

 理解が及ぶと驚きのあまり耳と尻尾がビンと伸び、思わず裏返った大声で叫んでしまった。まだ昨日今日だけとはいえども随分と面倒を良く見て貰っているので、直近の出走予定がないのかと思っていたのだ。遊歩道を走るウマ娘たちから、なんだなんだと問うような視線を感じる。

 

「はい。まず1勝できるまでは少し無理をしてでも走ろうと、トレーナーさんと決めていて」

「私の相手をしている場合じゃあないですよ! ラフィさんのトレーニングをしないと!」

 

 腰かけていた岩から立ち上がり、ラフィさんに詰め寄る。するとラフィさんは指を組んで、もじもじとした様子で弁明を始めた。

 

「でも、もともと昨日と一昨日はお休みの予定でしたし、その、前の同室の方は先輩でしたから、私も先輩らしいことをしてみたかったと言いますか」

 

 少ししゅんとした様に耳が垂れていてとても可愛い。正直なところ、私も後輩相手に良い格好をしたいという気持ちはわかる。しかし今はそれどころではない。

 

「とても嬉しいですけど、今は練習しましょう! 私も手伝います!」

 

 本格化を迎えてトレーナーが付く日が来るまで、私にはまだ時間がある。ならば今が大切なラフィさんの練習に付き合う方が良いだろう。そう思いトレーニングの手助けを申し出ると、ラフィさんは少しためらいながらもやりたいことを口にしてくれた。

 

「でしたら、ノヴァさんが嫌でなければ、スタートの練習に付き合ってもらってもいいですか?」

「もちろんです!」

「ありがとうございます」

 

 どんなものも魅了してしまうような笑顔が私に向けられる。心臓が跳ねて見蕩れているうちに、ラフィさんは両手を使って腰かけていた岩から軽やかに飛び降りた。休憩は終わりということだろう。

 

「ついて来てください」

「はい! 何をすればいいですか?」

「ゲートの代わりをしてほしいんです。どうするのかはそこで教えますね」

 

 そう言ってラフィさんは、公園の端へ腕全体を使って手のひらを向けた。指で指さないあたりに育ちの良さを感じる。

 

 あまり広くはない公園なので、あっという間につくだろう。そう考えながらラフィさんについて歩き始めてすぐ、1つだけ聞かなければならないことを思い出した。

 

「ラフィさん、来週走るレース場はどこですか? 応援に行きます!」

「えっと、福島の予定なので、ノヴァさんが来るのは難しいと思いますよ?」

 

 前世で福島競馬場には行ったことがないので詳しい場所はわからない。しかしウマ娘の身で府中から行くならば、新幹線が必要になる距離だろう。今の貯金と毎月のお小遣い、今後の出費予定から自由に使えるお金を計算し、私は苦虫を噛み潰す。

 

「テレビ越しでの応援で、すみません……!」

「応援してくださるだけでとても嬉しいので、気にしないでください」

 

 ラフィさんは「そこまで思いつめなくても」と言うような、少し困った感じの笑みを浮かべている。映像と現地では感じ取れるものの質が違うんです。

 

 そんなことを話しているうちに、公園の端へたどり着いた。

 

「ノヴァさん、ここに立ってもらえますか?」

「はい!」

 

 ラフィさんの方を向いて、指示通りの場所にピシッと姿勢良く立つ。するとラフィさんは「失礼しますね」と言いながら両手で私の腰を掴み、遊歩道と平行に立つように私の向きを変える。今日はほのかに石鹸の匂いがした。

 

 ……ラフィさん、私はちょろいので、あまりボディタッチされると勘違いしてしまいます!

 

 私の内心を知らないラフィさんが、私の右手側後方に回り込む。

 

「ノヴァさん、右腕を横にまっすぐ伸ばしてもらえますか?」

「はい!」

 

 指示通りに右腕を真横へ持ち上げる。先ほどラフィさんは「ゲートの代わりをしてほしい」と言っていた。ということは――。

 

「スタートはこうすればいいですか?」

「はい。その通りです」

 

 真横に伸ばしていた腕を水平に曲げた。ラフィさんの褒めるような声が聞こえる。声の調子からしてきっと笑顔だろうと考えると、出来ればこの目で見たかったという思いが湧いてくる。

 

「私はここで待つので、ノヴァさんの好きなタイミングでお願いします」

「わかりました!」

 

 腕を伸ばし直し、そのまま保つ。ラフィさんの息遣い、水の流れる音、風に吹かれてざわめく木々の音、鳥の鳴き声、遊歩道を走るウマ娘たちの足音が聞こえている。よく見るとサイレンススズカとスペシャルウィークも走っているようだ。少し遠くに見えるスズメが飛び立ったとき、腕を曲げた。

 

 ラフィさんが芝を抉りながら飛び出していく。鹿毛の緩い三つ編みをなびかせながら前傾姿勢で加速していくラフィさんの姿が、まだ本格化を迎える前の私とは段違いの速さであっという間に離れていく。しかし100メートル程度走ると、ラフィさんは速度を緩めて止まった。公園自体が1ハロン(約200メートル)程度の距離しか取れないので、無理なく減速しようとしたらそのくらいの距離が全速力を出せる限界なのだろう。

 

 くるりとこちらへ向き直ったラフィさんが、うんうんと頷きながら駆け寄って来る。その時、ふと閃いた。ラフィさんに走って戻ってきてもらうくらいなら、私もラフィさんの後をついて行って向こうでゲート役をした方が、ラフィさんの練習密度を上げられるかもしれない。

 

「私以外のタイミングでスタートできる……。これはいいですね。ありがとうございます、ノヴァさん」

「どういたしまして」

 

 丁度ラフィさんが傍まで戻ってきたので、閃きを提案する。

 

「ラフィさん、ラフィさん」

「なんですか?」

「ラフィさんの後に私もついて行っていいですか? そうしたらこっちに戻ってくるときも練習できると思うんです」

「それはとても助かりますけれど、ノヴァさんは大丈夫ですか?」

 

 少し心配するような声と表情でラフィさんが問う。本格化はウマ娘の能力全般に影響を与える現象だと両親が言っていた。当然持久力だって例外ではないだろう。しかし、私も競走ウマ娘を目指す身である。

 

「大丈夫です! へとへとになっても、それはそれで私の練習にもなるので!」

 

 翠色の真剣な瞳が、じっと私を見つめる。お互いに見つめ合うだなんて、もはや相思相愛ではないかと馬鹿げた考えが頭をもたげてきてしまう。しかし、ラフィさんは私のスタミナを心配してくれているのだ。馬鹿げた考えを振り払い、私もラフィさんを見つめ返す。すると、ラフィさんの表情が緩んだ。

 

「それでは、お願いします。疲れたらちゃんと申し出てくださいね」

「はい! 何百本でもお付き合いします!」

「そこまでやったら、朝ごはんの時間が終わってしまいますよ?」

 

 手で口元を抑え、くすくすとラフィさんが笑った。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 私が肩で息をするほど疲れても、ラフィさんは少し息が上がった程度の疲労だった。本格化は私の想像以上にウマ娘の能力を変えるらしい。本格化前にしては凄まじいスタミナだとラフィさんは褒めてくれたが、正直に言ってラフィさんの練習に影響を与えないかどうか、ギリギリのところまで追いつめられるとは思っていなかった。

 

 公園で1時間ほど練習を続けた私たちは、朝ごはんを食べるために寮へ戻って来た。汗をかいたままというのもどうかということで、部屋で汗拭きシートを使って軽く身を清めた後に一度着替える。ラフィさんの使うシートは、赤ちゃんにも使えるくらい肌に優しい華帝のキュアルだった。ベイブリーズから変えたら、もしもの時にラフィさんに貸せるだろうか。そんなことを考えながら食堂へ降りたときには、朝の7時30分を迎えていた。

 

「あと30分しかありませんし、早く食べてしまいましょう」

「ですね」

 

 寮の朝食は各自でご飯かパンか選べるようになっていた。ご飯派なら置いてある業務用炊飯器から食べたい量を茶碗によそい、パン派なら数種類ほどの内から食べたいだけ取っていくようだ。今日のメニューは目玉焼きとベーコン、それにサラダが付くようなので、私としては迷わずパンだ。贅沢を言えばトーストサンドイッチにしたいところだが、のんびりトースターで焼いているだけの時間はないだろう。仕方なく6枚切りの食パン6枚と小分けにされたバターを持っていく。すでに隅の席についていたラフィさんは、クロワッサンを1ダース食べるつもりのようだ。

 

 2人でいただきますと手を合わせた後は、無言で食事を進めていく。喋りながらゆっくりと食事をしていたら、厨房の方々を待たせてしまう。サラダには薄切りのリンゴが欲しかったなと思いつつも、バターを塗った食パンにカリカリのベーコンと半熟の目玉焼き、よく水が切られたサラダを挟んで食べる。結局、5分ほどの余裕をもって私とラフィさんは食事を終えた。

 

 ドリンクバーコーナーには特に時間制限がないらしい。ラフィさんが淹れてくれた紅茶を優雅に楽しんでいると、ラフィさんが声をかけてきた。

 

「ノヴァさん」

「なんですか?」

「今日、というより春休みの平日は9時から夕方までチーム練習なので、申し訳ありませんがこの後はノヴァさんだけで練習してもらえますか?」

 

 本当に申し訳なさそうに、眉をハの字にしてラフィさんが提案した。内心悪あがきにしかならないだろうなと思いながら、見学できないか尋ねる。

 

「見に行くのは無理ですか?」

「うーん、どうでしょう。チームの皆さんは間違いなく歓迎すると思います。ただ、ノヴァさんは一応まだ入学前ですから、これが勧誘扱いになるとトレーナーさんたちにペナルティがあるかもしれません」

 

 今の私はトレセン学園の寮に入っただけで、厳密なことを言うとトレセン学園入学前だ。おそらく、勧誘に関して紳士協定か何かがあるのだろう。粘ってラフィさんに迷惑をかけるわけにはいかないので、私の方から話を打ち切る。

 

「難しそうなら大丈夫です。遊歩道の方で走ったり、部屋で持ってきた本を読んだりするので」

「そうですか? 申し訳ありません」

「ダメ元で聞いてみただけなので、ラフィさんは謝らなくていいですよ。私の方こそすみません」

「いいえ、私は先輩なんですから、後輩のために頑張らないといけないんです」

「先輩に迷惑を掛けたくない後輩心なんです」

 

 2人で少しの間意地を張り合うように見つめ合って、なんとなく可笑しくなってきてどちらからともなく笑いあう。

 

「お互いさま、ということで如何でしょうか」

「そうですね」

 

 その後、ラフィさんの時間が来るまで私たちはのんびりと談笑をして過ごした。




句点の入れどころ、文の区切りというものは、改めて意識すると難しいものです。

2021/05/23 14:20
生徒証のくだりを内容変更いたしました。
(生徒証がないと~入学前なのだ。→チームの~何かがあるのだろう。)

2021/06/20 00:15
レースの日取りについて修正いたしました。
(再来週→来週)


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第8話:カフェテリアでツーショット

第7話について、一部内容を改稿しました。
詳細については第7話後書きに記載しています。
このままお読みいただいて支障ありません。


 ラフィさんと別れてから、私はもう一度多摩川沿いへ向かう。朝に走らなかった西の方も含めて、探検ついでに走るためだ。

 

 再び街道を南下して是政橋に到着した私は、スマートフォンを取り出してストップウォッチを起動する。そして多摩川を左手側に望みながら、舗装路を朝に走らなかった西方へ向けて、自転車程度の速度でのんびりと走り始めた。

 

 ウマ娘の姿は見かけるが、朝と異なり前々世で見知ったウマ娘たちは走っていない。彼女たちはテレビ番組で見かけることが多かったので、みんなトレーナーが付いているのだろう。トレーナーがいるならば、当然トレーナーがいないとできないトレーニングをする方が良いわけだから、遊歩道を走っていないことにも納得がいく。

 

 心地良い風が吹く中、上流へ向かう緩やかな上り坂を20分程度走る。すると、ウマ娘優先区間が終わったことを示す路面標示が現れた。朝にラフィさんと一緒に走っていたとき、東の調布市との境で見かけたものと同じだ。ならばと丁度真横に立っている看板を見ると、予想通りそこは市境であり、この先は国立市になるようだ。無理に優先区間の外で走る必要もないだろうと判断し、私は踵を返して来た道を戻っていく。

 

 私と同じくジャージを着たウマ娘と時々すれ違いながら是政橋まで戻り、そのまま朝にも走ったコースに入った。親水公園には家族連れの姿が見える。朝のように練習に使うのは難しいだろう。10分程度でラフィさんと朝に折り返した地点まで来ると、再び引き返す。

 

 本日5度目の是政橋に到着したところで、ストップウォッチを止めるためにスマートフォンを取り出す。ロック画面を開いたところで、妹からメッセージが届いていたことに気が付いた。内容が気になるがひとまず置いておき、先に遊歩道1往復にかかった時間を確定させる。前世の駆歩(かけあし)と同程度の速度で、大体1時間かかるようだ。

 

 現在の時刻は10時を回ったところだ。お昼にはラフィさんとカフェテリアで一緒に食事をする約束をしているが、それでももう1往復するだけの時間がある。しかし舗装路を走っても、気持ちは幾分良くなるがそこまで楽しくないのだ。走るのであればやはり芝に限る。どうせ入学式が終わればトレセン学園の芝で走れるようになるのだから、今は体が鈍らない程度に走っていればそれで十分だろう。

 

 そう判断した私は学園へ戻る前に、息を整えるために河川敷の傾斜に座り水分を補給する。そして休むついでにとメッセンジャーアプリを開いて、妹から来たメッセージを見る。家族グループ宛のようだ。

 

みつき『トレセン学園どう?』

 

 10分前に受信したらしい。昨日家を出るときは「起きたらすぐメッセージ送るね」と言っていたので、春休みだからとだいぶ夜更かししたのだろう。美月()は最後の最後は精神力が左右すると信じているが、だからと言ってデータを疎かにするタイプではない。昨日も「私ならこうするのにな」とその日のレースをまとめながら考えていたのかもしれない。叱るべきかと悩んで、やめた。問題があるようならお父さんとお母さんが叱っているし、せっかくの楽しい春休みなのだから、自由に過ごさせてやるほうが良いだろう。

 

 曖昧な質問にどう答えるべきかと考えて、昨日入寮してから今までのことを思い返し、妹に返信する。

 

のゔぁ『女神様がいたよ』

 

 ラフィさんを称えよ。返信を済ませスマートフォンをしまおうかと思った瞬間には、妹から連投で返事が来た。もしかして妹は、この10分ずっとスマートフォンに張り付いていたのだろうか。

 

みつき『???』

みつき『女神様はお姉ちゃんだよ???』

 

 妹よ。100歩譲ってあなたには私が女神様に見えているのだとしても、それはラフィさんを知らないからそう思えるのです。

 

のゔぁ『真の女神様を知らないと見える』

のゔぁ『許可貰えたら後で写真撮って送るね』

みつき『はーい』

 

 写真を見れば、だれが真の女神様か妹も納得するだろう。話の流れが一旦切れたことを確認して、私はスマートフォンを仕舞いリュックを背負うと、学園へ向けて駆けだした。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 トレセン学園へ戻ってきた後、シャワーを浴びたり、洗濯をしたり、合間にトレーニングについて勉強をしたりしている間にお昼になる。部屋着にするつもりの白いシャツワンピースを着て、ラフィさんとの約束通り私はカフェテリアの入口で待っていた。自意識過剰だとは思うのだが、他のウマ娘たちがこちらを見ているような気がする。なんとなく恥ずかしくて、俯きながら手を揉んでいるところにラフィさんの声がした。

 

「ノヴァさん、遅れてごめんなさい」

「全然大丈夫です! お疲れ様です、ラフィさん!」

 

 少し息が上がった様子のラフィさんからは、柑橘系の匂いに混じって、ほのかに無香料系だろう制汗剤の匂いがする。疲れてお腹も空いているだろうし、「早く座りましょう」と呼びかけようとしたとき、ラフィさんの背後にいた知らないウマ娘が、ひょいと顔を出して声を掛けてきた。

 

「君がラフィの新しいルームメイト?」

「え? はい、そうです」

「なるほどねぇ。これは確かに『妖精さんみたいな子』だね、ラフィ?」

「リツ、余計なことは言わなくていいです。自己紹介したらどうですか?」

 

 ラフィさんは顔を赤く染め、そのウマ娘のことをわずかに厳しくした目つきで見つめた。私のことを妖精と評したことは事実なのだろう。我が世の春が来たかもしれない。

 

 浮足立った気分でいると、名乗るよう保たされた尾花栗毛のウマ娘が、冗談めかして「こわいこわい」とでも言うように一瞬肩をすくめながらラフィさんの横に並んだ。金の刺繍が入った青いシュシュを右耳にしている。

 

「どうも、初めまして。ラフィのチームメイトで、ブリッジコンプって言うんだ。気軽に『リツ』って呼んでね」

「リツ先輩、ですか?」

「『先輩』はいらないよ。まあ、『ブリ』だと可愛くないし、『コン』だと同じチームのそっくりさんと被るから紛らわしいんだよね」

「わかりました」

 

 変なところからあだ名を取るなと思ったが、事情があったらしい。次は私の番だ。

 

「私はキャンドルノヴァです。昨日からラフィさんと同じ部屋になりました」

「実は知ってる。午前中ずっと、ラフィその話しかしてなかったから」

「リツ!」

「わぁ、ラフィが怒った! なぁんてね、冗談冗談」

 

 とうとう首まで赤くなったラフィさんが、拳を胸の前で握りしめながら大きな声でリツさんに怒る。ウマ耳が引き絞られているので、相当お冠だ。周りの視線が一瞬私たちに集中するが、ニコニコと笑顔のリツさんはそれを意に介さない。

 

「それじゃ、私はチームの方でお昼食べるから。ちゃんと後輩の面倒見なよ、ラフィ」

「言われなくてもそのつもりでした。全く」

 

 ラフィさんがぷりぷりと不機嫌そうにしているのを見て、やりすぎたと思ったのだろうか。リツさんが詫びを入れる。

 

「ごめんって。今度お菓子向きのリンゴ持ってくから許してよ」

「手伝いもしてください」

「ははぁ、仰せのままに。それじゃあね、ラフィ、ノヴァちゃん」

 

 そう言い残して、リツさんは少し遠くにいたウマ娘たちのグループに入っていく。その中には、リツさんそっくりな尾花栗毛のウマ娘が3人もいた。他のチームメイトも見分けるのが大変ではないだろうか。

 

 ラフィさんのチームメイトたちがカフェテリアに入っていくのを見届けると、まだ顔が赤いラフィさんが私の目を見て話し出す。

 

「……本当に午前中ずっと、ノヴァさんの話をしていたわけではないですからね?」

「妖精がどうとかは……」

「さぁ、早く食べましょう! 私お腹が空いてしまいまして! ね、ね?」

 

 露骨に話題を逸らそうとして、声が裏返っているラフィさんが可愛い。散々リツさんに弄られた後だし、ここはラフィさんの意図を汲もう。

 

「そうですね。行きましょう!」

「はい、行きましょう、そうしましょう! ついて来てくださいね!」

 

 ラフィさんが暖かく柔らかな手で、私の手を掴んで引っ張っていく。突然そういうことをされるとドキドキしてしまうと、ラフィさんはわかっているのだろうか。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 ラフィさんが勧めるとおりに置いてあった紙エプロンを着た後、お盆を手に取ってカウンターの上に掲示されているメニューを見る。種類が多くて少し迷ったが、ウマ娘盛りの普通のハンバーグにする。前世からニンジンはあまり好きじゃない。時代はリンゴだよ。戦場の様相を呈している厨房の方々へ、カウンター越しに声を掛けて注文をすると、あまり待たずに熱い鉄皿に乗った料理が出て来た。ラフィさんの方を見ると、どうやらにんじんハンバーグにしたらしい。

 

「パンとかサラダとかはこっちですよ」

 

 ラフィさんについて行くと、サラダ、スープ、パン、飲み物がバー形式で提供されていた。ウマ娘たちが次々に自分の分を取り分けてあっという間に消えていく傍で、厨房からやってきた方が、バットに山盛りにされたサラダ、寸胴鍋いっぱいのスープ、ダース単位の焼き立てパンを補充していく。

 

「すごいですね……」

「お昼時はウマ娘もヒトも集中しますから。料理人の方々には感謝ですね」

 

 そんなことを言いながら、ラフィさんは容赦なくクロワッサン1ダースを取っていく。パンを持ってきた人が、横で遠い目をしていますよ。朝も食べていたので、ラフィさんはクロワッサンが好物なのだろう。

 

 パンの品ぞろえを見ると、なんと焼き立てのトーストが並んでいた。遠慮なく6枚切りを1斤分と小分けのバターを持っていく。補充しに来ていた人の目がさらに遠くなった。

 

 サラダバーには嬉しいことに八つ切りのリンゴも並んでいたので、トマトやレタスと一緒にリンゴ2つ分を自分の皿に取り分ける。後はオニオンスープと紅茶セットをお盆に載せて、待っていたラフィさんの後を追う。

 

 カフェテリアの内装は洒落た印象を受けるものだ。煉瓦模様の壁紙が張られた柱が立ち、ガス灯のようなランプが柱から伸びている。床は凝った寄木張りのフローリングで、階段2段分高くなったデッキも木製だ。席はごく普通の丸机や長机の他にも、壁際カウンター席や円形カウンター席もある。どんな個人や集団でも、席さえ空いていれば好きな座り方ができるようになっていた。

 

 途中でリツさんと目が合ったので、軽く会釈をする。リツさんはひらひらと手を振り返すと、チームメイトとの話に戻っていった。

 

「ここにしましょう」

 

 厨房のカウンターや各種バーからそれなりに離れたところで、ラフィさんは腰を落ち着けた。やはりというべきか、窓際の隅の席だ。明るく雰囲気がいい割には空いている。

 

 いただきますと声を揃えて、2人でお昼を食べ始めた。熱々のトーストにバターを塗って頬張る。小麦の香りと濃厚なバターの組み合わせがとても美味しい。ハムもあったし、持ってくればよかった。ハンバーグもナイフを入れた途端に肉汁が溢れ出していく。ヒトの大盛りを超えたウマ娘盛りにかけるような手間ではない。

 

 話すことすら忘れてあっという間に食べ進めてしまった。食後の紅茶とリンゴを楽しみながらラフィさんと話す。

 

「いやぁ、本当に美味しいですね」

「はい。私も初めてここに来たときは、『学食でこんなに美味しいものが食べられるなんて』とびっくりしました」

 

 2人ですっかり大満足のお昼を終えてゆったりしているとき、そういえばと妹との約束を思い出した。一緒に写真を撮るなら今がチャンスだろう。

 

「ラフィさん、ラフィさん」

「何ですか?」

 

 首を傾げるラフィさんは、何度見ても絵になる。だが毎回毎回見蕩れているわけにもいかない。

 

「もし良ければ、私と一緒に写真映ってもらってもいいですか? 妹が同室の子を気にしていて」

「ええ、いいですよ 妹さんがいるんですか?」

「はい。ヒトなんですけど、私よりも優秀な自慢の妹です」

 

 許可が貰えたのでスマートフォンのインカメラを起動し、ラフィさんの傍に寄る。そこでカメラ画面には過去に撮った最新の写真が小さく表示されていることを思い出す。朝に寝顔を撮らなくてよかった。もし撮っていれば、たった今関係が終わっていた。

 

「どうかしましたか?」

「いえ、どのくらい傍によれば映るのかわからなくて」

 

 尻尾は根性で抑え込んだが、耳がピクリと動いたのに気が付かれた。立ち上がったラフィさんの疑問に真実を誤魔化しているが嘘ではない答えを返す。

 

「思い切りくっついてしまえば映りますよ」

 

 可愛らしく「えいっ」と声を出したラフィさんが、右腕で私の腰を引き寄せた。勢い余って私は真正面からラフィさんの首筋に顔を埋める形になり、左腕がラフィさんの腰に回った。

 

 ……ふあああぁ!?

 

 今度こそ耳と尻尾が勢いよく伸びた。ラフィさんの柔らかい体の感触と、鼻腔を満たす良い香りが、一瞬で私の処理能力を超える刺激を脳へ叩き込む。そのような中で、柑橘系の香水とも、無香料の制汗剤とも違う匂いに気が付いた。もしかしたら、ラフィさんの汗の匂いかもしれない。

 

「あっ、すみません。汗臭かったですか?」

「ぃえ、だいじょぶでしゅ」

 

 ……心配してくださるのは嬉しいのですが、汗臭いなんてことはありません。これは興奮しすぎているだけです。

 

 正直にそんなことを言えばド変態の誹りは免れない。なけなしの理性で腕をいっぱいに伸ばし、どうにか写真を撮ろうとする。しかし、ぷるぷると腕が振るえてしまいなかなかシャッターを押せない。私が自撮りし慣れていないのを見て取ったのだろう。ラフィさんが左手で私の右手を包むようにスマートフォンを支えた。

 

「これでどうですか」

 

 息を吸い込むような声にならない声を上げて、私はシャッターを切った。指がずれて連射モードで撮影してしまったが、些細なことである。シャッター音を聞いたラフィさんが腰に回していた手を解くのに合わせて、名残惜しさを感じながら私も少しだけ離れる。

 

「良く撮れましたね。でもノヴァさん真っ赤ですよ? 大丈夫ですか?」

「人とくっちゅくのに慣れてなくて、ちょっとびっくりしみゃした」

 

 ラフィさんが無防備だからですと言うわけにもいかない。まだ呂律の回らない口で何とか言い訳をする。

 

「すみません。今度から気を付けますね」

「……いえ、(にゃ)れていかないとダメなので、(ちゅぎ)撮る機会があったら、今日と同じようにお願いしましゅ」

 

 心の準備ができていれば、堪能できるはずなので。真意を隠しながらそう言って、たった今撮影した写真を見る。慈愛に満ち溢れた微笑みを浮かべるラフィさんと、ぐるぐる目になりそうなほどに顔を真っ赤にした私が抱き合っているツーショット写真だ。

 

 ……これを美月()に見せるの? 本当に?

 

 絶対何か言われるだろうなと思いながら、ふらふらとした足取りでラフィさんの対面の席に戻っていく。遠くから「またデジタル殿が尊死しておられるぞぉ!」という声が響いていた。




2021/08/22 06:40
ノヴァからリツへの呼び方を変更


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第9話:桜吹雪の入学式

 短い春休みは、あっという間に過ぎ去って行く。

 

 ラフィさんとのツーショット写真を家族に見せたら、妹から「誰よ、その泥棒猫……!」などと冗談半分にメッセージで言われたり。わざわざ電話をしてきたお父さんお母さんから、かなり真剣な様子で私の内心に理解を示されたり。

 

 両親の話を要約すれば、「トレセンはどこも女子校だから、トレーナーとしてそうなる子は数多く見てきた。ノヴァの気持ちに素直になりなさい」と言うことだ。我ながら尋常ではない様子の写真だったから、私のことなどお見通しと言ってよい両親からすれば、一目瞭然だったのだろう。

 

 お昼になるたびにラフィさんのチームメイトが1人だけ来て軽く話したり。

 

 ラフィさん曰く、「ノヴァさんがどんな子なのか皆さん気になるそうですけれど、集団で押しかけて委縮させたくないそうです」と、気遣った結果らしい。気遣いは大変ありがたいのだが、1度に来てくれた方が助かったかもしれない。なにせ、間違い探しレベルでブリッジコンプさんに似ているウマ娘が3人もいるからだ。本人含めて4人のそっくりさんを、比較なしで見分けるのはなかなか骨が折れた。コンフュージョンさんは流星があるのでわかりやすいが、トモエナゲさんとトンネリングボイスさんはあまりにも似すぎていた。一目でわかるほどに身長に違いが無ければ、まず見分けがつかなかっただろう。

 

 毎夜毎夜、集団でお風呂に入り慣れていない恥ずかしがりの演技をして、入浴中のラフィさんから自主的に距離をとったり。

 

 トレーナーの娘がトレセン学園で不祥事を起こしただなんて、私だけでなく両親まで社会的に死んでしまうかもしれない。万が一がないようにと、お風呂ではラフィさんから離れたのだ。ラフィさんが少し寂しそうにするので心が痛んだが、俗にいう『裸の付き合い』の更に先、括弧書きで意味深と付け足されそうなうまぴょい領域へ至りかねないので我慢である。

 

 ……私にしてはなかなか濃密な春休みだった。

 

 そう思い返しながら、新しく買った姿見を使って制服に変なところがないか確認する。実家でお披露目のために袖を通して以来だが、鏡に映る姿は我ながらやはり可愛い。紫を基調とした冬服に、葦毛ウマ娘特有の輝く髪が良く映えている。まさに鬼に金棒、()子にも衣裳だ。しかし中身は私なので、前々世の意味でも()子にも衣裳である。

 

 制服に皺が寄ったり、リボンが崩れていたりしないと見て取ると、気分が良くなった私はその場でくるりと回った。ふわりとスカートの裾を翻えらせてから回転を止め、顔の横に両手でピースサインをする。朝練を早めに切り上げてシャワーを浴びたばかりなせいか、少し頬が赤い。

 

 なかなか決まったなと自画自賛をした瞬間に部屋の扉が開く音がして、シャワー上がりのラフィさんが現れた。ばっちりポーズを決めていた私を見て、何やらにこにことしている。

 

「ふふふっ。とても可愛いですよ、ノヴァさん」

「……見なかったことにしてもらっていいですか」

「良いじゃないですか、可愛いのですから」

 

 制服を着たばかりなのに、恥ずかしさで変な汗が噴き出て来る。私はよろよろと後ずさりしてベッドに腰を下ろすと、朝からリュックサックの中に入れっぱなしだった水筒から冷たい水を飲んだ。熱くなった体を中から冷まそうとしたのだが、焼け石に水のようだ。

 

 ラフィさんは私と異なり、かなり手慣れた様子で冬服に着替えている。この数日の間に私がじっと見ているのにも慣れたのか、特に気にするそぶりも見せなくなった。何度見ても均整の取れたとても綺麗な体をしているなぁ、などと思いながら見ているうちに、あっという間に着替え終わってしまった。

 

「お待たせしました。朝ごはんに行きましょうか」

「はい!」

 

 実家にいた頃とも、ここ数日寮で過ごしてきたそれとも違う朝だけど、これが新しい日常になる。

 

 今日は、入学式だ。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 ラフィさんは朝から始業式があるが、入学式は昼から始まる。朝ごはんを食べてラフィさんと別れた後、流石に制服を着て運動するわけにもいかず、時間を潰すために部屋に戻って本を読んでいた。前世で苦労させられた骨折に関して記述された章を読んでいると、生徒集合時刻の30分前に設定したアラームが鳴った。そういえばお昼を食べる時間を考慮に入れ忘れたなと思いながら、私は書籍に栞を挟んで本棚にしまう。新品のスクールバッグを肩に掛け、部屋にしっかりと鍵をしてから玄関へ行く。

 

 私と同じ新入生だろうウマ娘たちが、この数日でできたと思われる友人たちと談笑しながら廊下を歩いていた。私は1人であるが、寂しいということはない。如何せん前世由来の価値観と精神年齢の違いがあり、今世で同年代の子たちとはなかなか話が合わない。合わせることはできるが、疲れるのだ。もちろんラフィさんは女神様なので別枠である。

 

 人の流れに乗って靴を履き、道路1本を挟んだ学園の正門へ足を運ぶ。一部のウマ娘は、合流した家族と一緒に桜が満開の正門で記念撮影をしているようだ。今日は程よく風が強い。桜吹雪が良く映える良い写真が撮れるだろう。

 

 せっかくだからと、他の人たちが離れたタイミングを見計らって、荷物を置いて自撮りに挑戦する。今日来られなかった両親も喜ぶだろうと思ってのことだが、今日が入学式だと示す立て看板の文字、トレセン学園の標識板、咲き誇る桜をいい感じに入れようとすると、なかなかうまくいかない。腕を伸ばしても写る範囲に限界があり、思った通りの写真が撮れないのだ。

 

「むっ、この、あぁ、もう! 腕が短いし、カメラが狭い!」

「撮ってあげようか?」

 

 悪戦苦闘し続けた末に1人で怒り出す醜態を晒していると、正門の近くにいたウマ娘がやって来た。生徒会の腕章をした鹿毛の彼女は、前髪に流星の白いメッシュが入っており、右耳に巻いたリボンは赤、黄、青の3色が両外側から順に配されたものだ。間違いなく初めて会ったはずなのに、彼女を見ているとなぜか自分自身の不甲斐無さに苛ついてくる。何ら瑕疵がない彼女に対して、斜行を始めた機嫌を表に出さないように気を付けながら、撮影をお願いした。

 

「ご迷惑でなければ、お願いします」

「いいよ、いいよ。スマホ貸して」

 

 随分と軽いノリで引き受けた彼女は、私がどう撮りたいのか説明すると、手際よくその通りの写真を撮ってくれた。やはり記念写真は他人に取ってもらう方が楽である。頭を下げて彼女に感謝の意を示す。

 

「ありがとうございました」

「どういたしまして」

 

 彼女も礼儀正しく言葉を返す。好感の持てる人だ。どうして私の機嫌が悪くなるのか不思議に感じていると、彼女は思い出したように口を開いた

 

「あっ、そうだ。中央広場にクラス分けが張ってあるから、それを見て自分の教室へ行ってね。入学式はその後だから」

「はい。ありがとうございます」

 

 改めてお辞儀をしてから親切なウマ娘と別れ、鞄を肩に掛ける。私は他の人の記念写真に写り込まないように注意しながら、桜吹雪の先に見える女神像へ真っ直ぐ向かった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 B組の窓際から2列目、前から3番目、そこが私の席だった。A組(1番)ではないあたり私らしいというべきか、出鼻を挫かれたというべきか悩むものだ。きゃいきゃいと姦しいクラスメイトになる子たちの声を聞きながら、いまいち釈然としない気持ちでいると、制服姿ではない誰かが教室に入って来た。スーツを着たヒト、間違いなく新担任だろう。

 

「おはようございます。これから体育館へ向かうので、名前順に廊下に並んでください」

 

 先生の指示に従って廊下に並び、ぞろぞろと移動を始める。そのまま体育館の扉を通り、順番を保ったまま着席した。

 

 いよいよ入学式が始まる。競走馬で言えばようやく育成牧場に入ったくらいではあるが、それでも競走ウマ娘になる第一歩を踏み出したと言っていい。

 

 関わった全ての人たちの期待を裏切った競走馬が、この世界に戻っていいものか。芝の上で走るだけなら競走ウマ娘になる必要はないのだから、今世ではただの観客に徹するべきではないか。そう思っていても、テレビでレースを見るたびに「私なら」と考えてしまう。自分が何者なのか、いつまでも中途半端なままだった。入試を受けている最中ですら、本当に競走の世界に戻るか覚悟が決まらなかった。

 

 しかし、合格通知が来たときに決めたのだ。私が生きて死ぬべき場所はそこしかない。後悔があるなら、それを払えばいい。古馬1年目の宝塚までのように、「1着取れなくても、自分の食い扶持を稼げたらそれでいい」だなんて怠慢はしない。たとえまた左脚が壊れるのだとしても、その前に必ずGIを勝つ。

 

 改めて決意を固めたその瞬間、周りが一斉に立ち上がった。いつの間にか入学式が始まっていたらしく、慌てて私も立つ。ステージに登壇している人たちは、私が他の子から思い切り遅れたことに気が付いただろう。こういうものは意外とよく見えるのだ。

 

 逃げ馬の癖に出遅れたと言う個人的な問題を除けば、入学式は粛々と進んでいく。秋川理事長の式辞や府中市長を始めとする来賓の方々の祝辞、祝電披露が終わり、ルドルフ会長が在校生の代表挨拶のために立ち上がった。視線を生徒会の面々が座っている場所に向けると、朝に写真を撮ってくれたウマ娘もいた。

 

 登壇したルドルフ会長だが、流石というべきか立ち居振る舞いの1つ1つが目を引くものだ。皇帝の名は伊達ではない。話も平易な表現を使うようにしており、小学校を卒業したばかりの大半の新入生たちでも分かるよう配慮が行き届いている。新入生たちのほとんどは憧れるような視線を向けて、会長の言葉を真面目に聞いている。

 

 私はと言えば、気を張って会長の挨拶を聞いていた。油断した瞬間にダジャレが飛んできてうっかり吹き出し、顰蹙を買わないようにするためである。結局会長がダジャレをぶち込んで来ることはなく、少々肩透かしをされたような心持ちのまま、担任の紹介が始まった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 入学式を始めとする新入生がするべき諸々を終えた後、空腹に耐えかねてカフェテリアで軽く食事をしてから部屋に戻る。ラフィさんは勉強をしていたようだが、扉が開く音で振り返ったらしい。緩い三つ編みが少し揺れて、止まった。柔らかい笑みとともに、ラフィさんが問いかけてくる。

 

「入学式はどうでしたか?」

「考え事をしていたら、立つの遅れましたね……」

「……まあ、そういうときもありますよ」

 

 何と言うべきか困ったように笑うラフィさんが可愛い。いや、困らせてはいけないし、実際2度と式典で失敗をしないようにするつもりではあるが、それはそれとしてラフィさんが可愛いのである。

 

 女神様の素晴らしさを改めて感じていると、そのラフィさんが思い出したように声を掛けてきた。

 

「あっ、ノヴァさん。入学式が終わったので、チームを見学できるようになったのですけれど、今度の土曜は空いてますか?」

「空けます」

「……あの、無理をして空けなくてもいいですよ? クラスメイトと約束があるなら、そちらを優先してくださいね?」

 

 ラフィさんは、予想していなかった返答に戸惑うような声を上げる。だがしかし。

 

「何があろうと空けます! 大丈夫です!」

 

 ラフィさんのお誘いを断る人がこの宇宙に存在するだろうか。いないのである。いたとしたら顔面に蹄鉄の痕をつけてあげるから、来なさい。

 

「そうですか……? では、トレーナーさんとリツたちにそう伝えますね」

「はい!」

 

 勢いよく返事をして、ふと気が付いた。

 

「でも、ラフィさんは大丈夫ですか?」

「何がですか?」

「今週レースなんですよね?」

 

 ああ、と思い至ったように声を出したラフィさんが、にこにことしながら答える。

 

「出るのは日曜のレースなので、土曜のトレーニングは軽いものだけなんです。だから大丈夫ですよ」

「わかりました。週末が楽しみです!」

 

 トレーニングの邪魔にはならないと知り、安心して気合を入れた私を見て、ラフィさんが笑う。

 

「そんなに楽しみにしてくださって、ありがとうございます。でもその前に、金曜日の新歓レースをちゃんと見てくださいね。毎年本当にすごい人たちばかり出ますから」

 

 特別レースのことが完全に頭から飛んでいた。そういえば先生がそんなことを言っていたはずだ。何でも毎年出走者が変わるとか。

 

「ラフィさんのときは、どうでしたか?」

「キタ先輩とオペラオー先輩が、お互い譲らずにゴールへもつれ込みましたね。レクリエーションの一環なので、写真判定まではせず同着になったのですけれど、本当にすごいレースでした」

 

 ラフィさんがうっとりと感慨にふける。前々世の賞金ランキングトップ3のうちの2人だ。それは見ごたえのあるレースだっただろう。

 

 今週の楽しみが1つ増えたなと思いながら、私は荷物をベッドに置いた。




2021/06/07 18:45
推敲から漏れた表現の重複を削除しました
(女神像へ向かって真っ直ぐ向かった→女神像へ真っ直ぐ向かった)

2021/06/20 00:25
第7話でレースの日取りについて修正したため、併せてチーム見学の日程について修正いたしました

2021/08/22 06:45
ノヴァからアダラチームメンバーへの呼び方を変更いたしました

2022/05/02 01:10
ライブシアターで確認したところ、トモエとネルの身長が15cm近く異なっていたため、作中の描写を修正いたしました


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第10話:新入生歓迎! トレセン学園特別競走

作中の日程にミスを見つけたため、第7話、第9話について一部内容を改稿しました。
詳細については各話後書きに記載しています。
このままお読みいただいても大きな支障はありません。


 入学してから最初の金曜日、昼食の限定煮干しラーメンを食べ終えた私とラフィさんは、食後の紅茶を楽しんでいた。窓から差し込むうららかな春の日差しが大変に心地良く、気を抜いたら眠ってしまいそうなほどだ。

 

「ノヴァさんは誰が勝つと思いますか?」

 

 瞼が重くなってきて、このまま閉じてしまおうかと思ったとき、ラフィさんが声を掛けてきた。1杯目の紅茶を飲み切ったようで、ポットからお代わりを注いでいる。

 

 誰が勝つか。今日登校してきているトレセン学園生なら、何にとは尋ねない。十中八九、今日実施される新歓レースの話だ。カフェテリアにいる他の生徒たちも、普段ならグループごとに異なる話題で盛り上がっているが、今日ばかりは昼一番に詳細が発表されたレースの話で持ち切りである。

 

「確か、芝2000mですよね?」

「はい。長すぎず短すぎず、と言ったところですね」

 

 東京、芝、2000m。今年の新歓レースは、私にとって因縁の深い秋の天皇賞と同じ条件で行われると告知された。出走者18名も、前々世から一方的に知っている面々ばかりである。そのうち、仮にも大逃げ馬である私が期待するウマ娘は2人いる。しかし、勝てる可能性があると思えるウマ娘は1人だ。

 

「サイレンススズカ先輩に期待しています」

「むぅ、意見が合いませんね」

 

 後ろに耳を引き絞ったラフィさんが、ティーカップをソーサーに置きながら半目で私を見た。今年の出走者を知ったラフィさんからすれば、当然の反応だろう。なぜならば。

 

「ラフィさんはやっぱり?」

「当然、タイキ先輩です!」

 

 よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、ラフィさんは両掌を胸の前で打ち鳴らし、耳をピンと立ち上げた。タイキシャトルが出るのだ。自他ともに認める大ファンであるラフィさんからすれば、1点買いして当たり前ということだろう。前世なら応援馬券に3万は突っ込みそうな勢いだ。

 

「距離どうでしょう? マイルの印象が強くて」

「2000なら持ちます! ドリームトロフィーリーグ(DTL)でも勝っていますから!」

「なるほど。確かに……」

 

 トゥインクル・シリーズではマイル以下のレースにだけ出ていたタイキシャトルだが、DTLでは2000mのレースでも実績を残している。タイキシャトルがサイレンススズカを差し切る展開は、十分に考えられることだ。しかし、2000mが適性の上限だろうタイキシャトルと、左回りなら2400mも視野に入るサイレンススズカなら、有利なのはどちらか。

 

「いいえ、二言はありません。私はサイレンススズカ先輩に賭けます!」

「むむっ、タイキ先輩が勝ちます!」

「東京なら、ウオッカが来ると思うよ」

 

 横から割り込んできた声の方へ顔を向けると、ラフィさんの所属するチームであるアダラのメンバーが揃っていた。ウオッカを推したのは、差しを得意とするトンネリングボイス(ネル)さんだ。

 

「ウオッカ先輩が来るなら、スカーレット先輩も当然来るよね」

「今年はターボも出るんでしょ? 七夕賞みたく全員潰れたらチャンスだね」

「いやぁ、メンバー的に無理じゃない? 楽しい展開にはなると思うけど」

「ライスさんに勝ってほしいのですが、2000では短いでしょうか……」

 

 それぞれに推しを語るのは、トモエナゲ(トモエ)さん、ブリッジコンプ(リツ)さん、コンフュージョン(フユ)さん、ミニローズ(ローズ)さんだ。鹿毛のラフィさんと黒鹿毛のローズさん以外は尾花栗毛である。先週順に顔を合わせたときから考えていたのだが、アダラのトレーナーは無類の金髪好きなのだろうか。

 

「それでも、タイキ先輩が勝ーつーんーでーすー!」

 

 頬を膨らませるような勢いでラフィさんが強く主張する。誰が勝つにせよ今言えることは、少し子供っぽいところを見せているラフィさんがとても可愛いということだ。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 午後1時30分過ぎ、私を含めたトレセン学園生のほとんどが、東京レース場の観客席にいた。今はルドルフ会長による特別レースの要旨説明の時間である。新歓レースは主催がURAではなくトレセン学園であるため、スタンドはゴール前を新入生が、直線全体を見渡せる席をその他の生徒が占めている。また、余った席は一般にも開放されているため、数多くのファンが詰めかけていた。

 

 私にとって東京競馬(レース)場は前世以来となる。しかし、席に座ったのは前々世が最後であるためか、今自分が地下馬道や芝の上にいないことに違和感を覚えてしまう。会長の話が終わった後も、そわそわとどうにも落ち着かない気分でいると、隣にいたウマ娘が口を開いた。

 

「楽しみだね」

「えっ? あっ、はい。そうですね。楽しみです」

 

 いきなり話しかけられたとはいえども、もう少しきちんとした受け答えができないものか。そう反省しながら隣を見る。頭の高い位置で短いツインテールを結んだ、黒鹿毛のウマ娘だ。ここ数日で顔を合わせた覚えがないので、栗東寮所属で別クラスのウマ娘だろう。新入生用に確保された席の中なら各自好きに座って良いと言われているので、クラスごとに着席しているわけではない。こういうこともある。

 

「誰が勝つと思う?」

「サイレンススズカ先輩の逃げ切りに賭けます」

「あなたも? 私もなんだ。スズカさんみたいに逃げられたら、すごく気持ちよさそうだよね!」

「はい。逃げ切れたら、良い気分でしょうね」

 

 私は1度も逃げ切れなかったけど、とは言わない。

 

 どうやら逃げ馬仲間らしい彼女とは、この先も話す機会があればきっと仲良くなれるだろう。勝手に親近感を抱いていると、未だに聞きなれない本バ場入場曲とともに、勝負服を身に纏った今日の出走者が入場を始めた。

 

 サイレンススズカが軽やかな足取りで芝の上を駆け出し、ライスシャワーがその後について行く。

 

 タイキシャトルが元気溌剌、絶好調と言うように飛び出した直後、ツインターボが全力で返しウマを始めた。

 

 その様子を見ていたダイワスカーレットが「今から全力を出して大丈夫か」と言うような目を向け、ヤエノムテキはコースに出ると深呼吸をしてから「押忍!」と声出しをした。

 

 新入生の黄色い声を聞いたらしいキタサンブラックが席に向かって手を振り、その後に入場したタマモクロスが耳聡く「小さい言うな!」と叫ぶ。

 

 スペシャルウィークはサイレンススズカの傍に近づいて言葉を交わした後、きりっとした凛々しい顔つきに変わる。入場する前から挙動不審だったアグネスデジタルだが、既に尊みに震えているようで、外ラチに掴まりやっとの思いで立っていた。

 

 生徒会所属であるために出るとは思われておらず、サプライズ出走となったエアグルーヴが、機嫌の悪そうなトーセンジョーダンと入場口の間で、何かを阻むように睨みを利かせている。

 

 エイシンフラッシュはその傍で芝の様子を確かめながら、何かへの対策の手伝いをしている。その後から出て来たテイエムオペラオーは帽子を脱ぐと胸の前で抱え、観客席へ向けて完璧なお辞儀を見せてファンサービスに余念がなく、ゼンノロブロイは何時如何なる時でもファンの存在を忘れない彼女に感心している様子だ。

 

 スーパークリークは入場するや否やタマモクロスを宥めに行き、ウオッカは返しウマ中に偶々傍を通ったダイワスカーレットと口喧嘩を始めた。最後に入場したゴールドシップは、トーセンジョーダンにちょっかいを出そうとしているのか、エアグルーヴとエイシンフラッシュの隙を窺っているように見える。

 

 このメンバーが発表された瞬間、学園内にどよめきが生まれたことにも納得できる豪華さだ。出走者の多くは秋の天皇賞を勝っているのだから。

 

 発走時刻が近づき、それぞれに散らばって返しウマをしていた出走者たちが、第1コーナー奥のポケットへ向けて、近道を通り集まっていく。競走馬ではないためか、ぐるぐると輪乗りはしないようだ。

 

「ゲートが遠くて、ちょっと残念だね」

「そうですね。2400なら目の前にいたはずですから」

 

 新歓レースは毎年条件を変えていると聞いたので、こればかりは運と言うことだろう。

 

 聞き慣れないファンファーレが流れた後、各ウマ娘がゲートに収まっていく。大外のゴールドシップが収まり、係員が退避するための少しの間が開いた後、ゲートが開いた。

 

 ハナを切ったのは、当然のようにツインターボだ。それと競り合うようにサイレンススズカが前に出て、第2コーナーを曲がっていく。逃げ潰れることがわかっているツインターボと競り合うなどということは、普通ならしないのだろう。しかしこれはレクリエーションだ。楽しんだもの勝ちとでもいうような、意気揚々とした顔で2人が競い合っている。

 

 向こう正面に入り、先行勢は大逃げ勢の後を追う展開だ。8馬身程度後ろの好位につけているのはタイキシャトルとダイワスカーレット、少し遅れてライスシャワーとキタサンブラックだ。そのすぐ後ろにヤエノムテキ、スペシャルウィーク、外目にアグネスデジタルが控えている。真剣な眼差しで前方を見据えるスペシャルウィークを見て、アグネスデジタルの頬が緩んでいる様子がターフビジョンにばっちり映っていた。

 

 1000m通過タイムは57秒1、だれもが予想した通りのハイペースかつ縦長の展開でレースは進んでいる。

 

 東京の2000mは内枠が有利ということもあって、外枠勢は後方集団となった。第3コーナーに入り最終直線を見据えた攻防が活発になっている。似たような展開で走ったことがあるトーセンジョーダンが、やや有利に走っているか。差しに向いたハイペース展開だが、逃げ潰れがあまり期待できないサイレンススズカを差し切れるか心配しているようで、厳しい表情だ。

 

 大欅を超えて第4コーナーで、最後方にいたゴールドシップがまくり始めた。それとは対照的に先頭を走っていたツインターボが垂れていき、それを躱そうとしてバ群がばらばらに崩れる。

 

 一足先に最終直線に入ったサイレンススズカは、ツインターボとの競り合いで息を入れる隙がなかったようで、苦しそうな顔で長い坂を駆けあがっていく。先行勢もほとんどはバテ気味のようでなかなか上がってこないが、タイキシャトルは持ち前のパワーを活かして坂で一気にサイレンススズカに迫る。

 

 控えていた後方集団は溜めていた脚を使って、先頭との距離を詰める。しかし、垂れてきたツインターボに乱された影響で仕掛けが遅れたようだ。ぎりぎり届かないように見える。

 

 ゴール前50mで、タイキシャトルがサイレンススズカに並ぶ。大歓声の中、ラフィさんが珍しく大声を出して全力で応援しているのが聞こえてきた。必死な顔をしたトーセンジョーダンが2人に並びかけて、決勝線を駆け抜けた。

 

「熾烈な熱戦、アタマ差でタイキシャトルが制しました!」

 

 実況がタイキシャトルの勝利を伝えた瞬間、ラフィさんのもはや声になっていない叫び声が響いた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 眠る前の自由時間に、私とラフィさんはネットのタイムシフト配信で今日の新歓レースを見返していた。ラフィさんの私物のタブレットをベッドに置き、その前にスツールを移動させて2人で並んでいると、お風呂上がりのいい匂いがして胸が高鳴ってしまう。

 

「坂を駆けあがるタイキ先輩、何度見ても本当に格好良いです……!」

 

 新歓レースの後からずっと上機嫌そうなラフィさんは、膝の上に載せて抱きしめたタイキシャトルのビッグぱかプチに、お風呂上がりのほんのりと赤い顔を埋めてそうつぶやいた。

 

「正直、最終直線に入った辺りではタイキシャトル先輩が来ると思っていませんでした」

「かなりハイペースでしたからね。そう思うのも無理はありません。でも、タイキ先輩は勝つんです!」

 

 ラフィさんが背筋を伸ばして、えへんと胸を張る。「私は今とても気分が良いです」と自己主張するように、ピンと立ち上がった耳がピコピコと動いていた。推しが活躍すると自分のことのように嬉しい。そう思う気持ちはよくわかる。

 

「でも最後、トーセンジョーダン先輩が来ましたね」

「そうですね。ターボ先輩が一気に垂れてなければ、差し切られていたかもしれません」

 

 トゥインクル・シリーズ芝2000mのレコードを記録しただけのことはある。ほんの少しでも展開が違えば、18人の誰が勝っていたのかわからないレースだった。

 

 もう1度レースを見返そうとしたとき、スマートフォンのアラーム音が今日の就寝時間を知らせる。

 

「あっ、時間ですね。そろそろ寝ましょうか」

「はい」

 

 私はスツールを、ラフィさんはぱかプチを元の位置に戻し、それぞれのベッドに潜り込む。左を向くと、掛け布団を被ったラフィさんもこちらを向いていた。

 

「おやすみなさい、ラフィさん。明日はよろしくお願いします」

「いえいえ、こちらこそ。おやすみなさい、ノヴァさん」

 

 ラフィさんが手元のリモコンで照明を消して数分後、安らかに寝息を立て始めた。

 

 私はと言えば、全く寝付けなかった。頭の中をぐるぐると巡るのは、今日のレースでもし私が出ていたら、どう走ったのかということだ。もちろん、今の私では勝てないことはわかっている。本格化も迎えていないし、相手は歴戦の名()達だ。デビューもしていないウマ娘が考えることではない。

 

 しかし、前世の私ならどうだっただろうと考えてしまう。競走馬として生きていた中で、間違いなく最高に仕上がって絶好調だった、2回目の秋天を走ったときの私ならと。たとえ大外でも、サイレンススズカに負けず劣らず逃げることはできただろう。ツインターボの垂れがなくても、タイキシャトルやトーセンジョーダンから五分五分で逃げ切ることはできただろう。

 

 でも、何ら意味のない仮定だ。私の左前脚は折れて競争中止になり、落馬した鞍上は騎手を引退せざるを得ない大怪我を負った。種牡馬になっても、ただの1勝もできなかった馬に価値などない。オーナーを継いだ娘さんの牧場に負担だけかけたようなものだ。最後の世代の子たちの顔を見ることはできなかったが、それまでを考えたらまず活躍はできなかっただろう。

 

 私は、私に期待された何もかもを裏切ったんだ。




レースを書くのはとても難しい、ということを学びました。

2021/08/22 06:55
ノヴァからアダラチームメンバーへの呼び方を変更いたしました


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第11話:チーム見学は万全の体調で

「ドリーの奴、お前には本当に懐いているよな。やっぱ、これの馬だからか?」

 

 いつも眠そうな眼付きをした調教師の男が、葦毛の馬に跨った青年に向けて小指を立てている。若い世代には伝わるかどうか怪しい古いジェスチャーだが、厩舎付きの騎手である青年は理解した様で、少し照れくさそうにはにかんだ(・・・・・)

 

「それは否定しませんけど。まぁ、当歳の頃から顔合わせてましたから」

「もう少し人を選ばないでくれると楽なんだがなぁ。助手を乗せるのも一苦労だ」

 

 調教師は大きなため息をついてそう言うと、背中に乗せる相手を選り好みする葦毛の馬を見る。厩舎入りしても相変わらず小柄で毛並みの悪いその馬は、つんと澄ましたような表情をして顔を逸らした。

 

「全く賢いことで。やっぱりこいつ、ヒトの言葉分かってるだろ」

「よく探したら背中にチャックが付いていたりしても、納得ですね」

 

 まさか、と言いながら調教師と騎手の2人が笑う。ひとしきり笑いあった後、青年が自信満々に口を開いた。

 

「きっとドリーとなら、GIだって取れますよ!」

 

 鞍上の青年が、跨っている馬の首を軽くパシパシと叩く。リラックスした様に横を向いていた馬の耳が、機嫌良さそうにピンと前方を向いた。

 

「なぁ、ドリー?」

 

 ぶるる、と同意するように小柄な葦毛が鳴いた。

 

 ……調子に乗るなよ、駄馬風情が。落馬させてその人の夢を絶った癖に。お前(わたし)なんか、迷惑をかける人が増える前に死んでしまえば良かったんだ。

 

 そう思った瞬間に、葦毛が突然崩れ落ちるように倒れた。放り出されたものの何とかうまく着地した鞍上が、血相を変えてそれに声を掛け、調教師がどこかへ連絡をしている。おそらくは獣医を呼んでいるのだろう。

 

 私の知らないことが起きている。前世では骨折以外は健康そのものだったのだ。訳が分からずにただ立ち尽くしていると、その光景が急速にぼやけて、そのまま泡となって消えた。異常事態が起きてから、初めて体の感覚がほとんど消えていることに気が付いた。唯一残されたものは聴覚だけ。それだって、誰かが自分を呼んでいることしかわからないほど不明瞭だ。

 

「――さん?」

 

 私は、この感覚を知っている。死だ。私を私足らしめているものが消えていく。前世を呪ったからだろう。前世が本来死なないところで死ねば、当然その来世である私にも影響が出る。まだ私が私だと認識出来てはいるが、時間の問題だろう。このまま何もかもあやふやになって、しかし自分が消えて行っていると自覚しながら希釈されていくのだ。

 

 ……死にたくない。消えたくない。まだ、生きていたい!

 

「――ヴァさん」

 

 呪ってから後悔したところで意味はない。人を呪わば穴二つ、ましてや呪った対象が自分自身ともなれば当然だ。私の体が不明瞭になっていく。何もない空間に溶け始めている。

 

 ……誰か、助けて!

 

 自ら死を望んでおいて無様にも助けを求めたとき、私の左手を何か暖かいものが包んだ。自分とそれ以外との境目を認識し、私が急速に元の形に戻っていく。

 

「ノヴァさん!」

 

 その大きな声と同時に、視界が明るく晴れ上がった。

 

 目を開いてまず認識したのは、心配そうに眉を寄せたラフィさんの顔と、仄かな柑橘類の匂い。

 

「ノヴァさん、大丈夫ですか? 魘されているみたいだったので、起こしましたが……」

 

 鈴の音よりも綺麗な声が、私に呼びかける。そこでようやく、さっきまで見ていた光景が夢であると理解した。荒くなっていた息を整えてから、ラフィさんの質問に答える。

 

「大丈夫です……。すみません、今何時ですか?」

「まだ4時前です。でも、今日の朝練はやめましょうか」

「えっ、どうしてですか?」

 

 寮に来た翌日から今日まで、毎日していたのだ。今や日課である。理由を問いかけながら起き上がろうとしたとき、ラフィさんの手に包まれていた私の左手に、少しだけ強く圧が掛かった。ラフィさんが私の手を握り直したようだ。

 

「そんなに顔色が悪いのに練習したら、倒れてしまいますよ?」

 

 小さな子に言い聞かせるような、優しいけれど有無を言わせない声だ。いまいち自覚はないが、相当酷いらしい。何を言っても休ませようとしてくるだろうと観念して、全身から力を抜く。

 

「……すみません」

「いいんです。たまにはそういう日だってあります。ゆっくり休みましょう?」

「はい……」

 

 ラフィさんは微笑みながら私の手を離すと、朝練用に用意していただろうタオルで、私の顔の汗を拭い始めた。そこで初めて、髪が張り付くほどの尋常ではない量の寝汗を掻いていたことに気が付く。

 

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 

 少しの間ラフィさんに甘えて、されるがままになっていた。ラフィさんは私の汗を拭い終わると、私に声を掛ける。

 

「朝ごはんの頃になっても治らなかったら、今日の見学は中止にしますから」

「えっ!?」

 

 ラフィさんのいるチームの見学は、ずっと楽しみにしていたのだ。少し調子が悪いくらいで中止にしたくない。異議を申し立てようと起き上がろうとしたが、ラフィさんは私の額を抑えて出鼻を挫く。

 

「体調が悪いのに見に来ても、身になりませんよ」

 

 正論であるが故に、黙り込むしかない。するとラフィさんは、再び私の左手を握った。

 

「ノヴァさんがもう一度眠れるまで、こうしていますから。観念して眠ってください」

「……はい」

 

 ラフィさんの翠色の目が私を優しく見つめ、暖かくて柔らかい両手が左手を包んでいる。先ほど目を覚ました時とは真逆の、安らかな気持ちで私の意識は再び遠のいて行った。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 ラフィさんの呼びかけでもう1度目を覚ました時には、既に朝の7時を回っていた。幾分か気分が良くなっているのは、間違いなくラフィさんのおかげだろう。当のラフィさんは少しだけ息が上がっているあたり、どうやら私を寝かしつけた後で朝練をしていたようだ。

 

 私は朝の身支度を済ませてジャージに着替えると、ラフィさんと一緒に食堂に下りていく。メニュー表を見ると、今日はどうやら鮭の塩焼きらしい。パンにするかご飯にするか少し悩んで、ご飯にした。あまり食欲が湧いてこないので、ヒト基準の普通盛り程度のご飯とお味噌汁を自分でよそい、ラフィさんが待っているいつもの窓際の隅っこに座った。

 

 私の持ってきた朝食の量を見たラフィさんが、少し考え込んだ後に提案をしてくる。

 

「ノヴァさん、やっぱり今日は休みませんか?」

「ちょっと、今は食べる気が起きないだけです。午後には治っていると思いますし、大丈夫ですよ」

 

 これ以上心配させないように、笑顔でラフィさんに答える。着替えるときに姿見で見た限り、顔色には問題がなかったのだ。私の体調を怪しむかのように、ラフィさんは半目で私を見つめてくる。しばらく見つめあった後、ため息とともにラフィさんが口を開いた。

 

「……気持ちは、分かります。本当に、ほんの少しでも今より悪くなったら、ちゃんと言ってくださいね?」

「はい」

 

 私が退かないことを察すると、ラフィさんは渋々といった様子で見学を認めてくれた。我ながら少し子供っぽい振舞いだったとは思う。しかし、競走ウマ娘になればその日絶不調でもレースに出ることがあるのだから、食欲が湧かない程度の不調で休みたくはない。

 

 いただきますと食事の挨拶をして、ラフィさんと同時に食事を摂り始める。鮭の程よい塩気と旨味、ご飯の甘さがとても美味しい。醤油を垂らしたホウレンソウのお浸しとキュウリの浅漬けもとてもご飯にあっているし、わかめのお味噌汁もよく出汁が利いている。少しばかり塩分過多かもしれないが、トレセン学園のウマ娘は良く運動をして汗をかくので丁度良いだろう。

 

 いつもよりも少ない量の朝食を食べ終えるのは、ラフィさんとほぼ同時だった。ラフィさんの淹れてくれた紅茶を飲んで、食休みを兼ねてお互いに一息入れる。

 

「それでは、そろそろ行きましょうか」

「はい」

 

 朝食の時間が終わる朝8時の間際になって、ラフィさんに保たされるまま食器を返却し、食堂を出た。相変わらず心配そうなラフィさんは、私の顔を見て言い聞かせるように話し出す。

 

「本当に、本当に無理をしたら駄目ですからね?」

「ちゃんと言いますから、大丈夫です」

「なら良いですけれど……。部室に案内しますから、ついて来てください」

「はい」

 

 ラフィさんの心配性なところも可愛いと思う気持ちと、今更ながら芽生えてきた、優しいラフィさんを心配させてしまっている後ろめたさがせめぎ合う。ラフィさんは明日レース本番である。余計な心配をさせないためにも、素直に休んだ方が良かっただろうか。

 

 そう悩みながらも、ラフィさんについて行った。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 入学式には満開だった学園敷地内の桜の木々だが、よく見ると葉桜を見つけられるようになった。桜が散るのは早いものだな、と思いながらラフィさんの後を歩いていると、簡素な建物が並んだ区域にたどり着いていた。ラフィさんはある小屋の前、少し離れたところで立ち止まり、小屋を開いた手で示して説明を始める。

 

「あの部室、チームスピカの部室なんですよ」

「スピカって、あのスピカですか? 校舎の方に部室を持ってると思ってました」

 

 アニメ版だと確かに小屋を部室に使っていたような気がするが、それは1度解散寸前まで追い込まれた上に、実績がなかったからだ。今のスピカと言えば、所属するウマ娘が全員GIを勝ち取り、リギル、シリウスと並び立つ学園トップクラスのチームである。未だにここに留まっているというのは意外だった。

 

「こちらの方が、多少汚しても掃除がしやすくて便利なんだそうです。確かに、練習上がりすぐだと土埃が付いていたりして、結構床が汚れてしまいますからね」

「なるほど」

 

 校舎は他の生徒も使うので綺麗に使う必要があり、そのあたりにも気を遣う。しかしこちらなら、多少汚しても文句を言うのは同じチームのメンバーだけだ。気が楽なのだろう。

 

「それでですね。なんと、アダラの部室はその2軒隣なんです」

「えっ!?」

「ただ、それだけなんですけれどね」

 

 ラフィさんは苦笑いしながら、アダラの部室へと歩いて行く。有名人がご近所ですということが、果たして後輩へのアピールポイントになるかと言われたら、私も同じ反応をするだろう。

 

 私を連れたラフィさんが、声を上げながら部室の扉を開いた。

 

「皆さん、ノヴァさんを連れてきましたよ」

 

 部室からはすぐに返事がなかった。どうしたのだろうと不思議に思いながら、ラフィさんの後に続き部屋に1歩踏み込んだ。

 

「でかした、ラフィ!」

「新入生1人ゲットォ!」

「入るって決まったわけじゃないでしょ?」

「えっ、そうなの!?」

 

 途端、扉の横に待機していたらしい誰かが、声を張りながら私の背中を押して、部屋の真ん中へ連れていく。抵抗せずに歩きながら後ろを見ると、尾花栗毛のブリッジコンプ(リツ)さんだった。

 

 

「みんな、騒いだら駄目ですよ。ラフィが連絡入れていたでしょう?」

「あっ、そうだった。ごめんね、ノヴァちゃん」

「い、いえ……、大丈夫です……」

「声響かなかった? ごめん。多分悪夢見たんでしょ? 大丈夫?」

「私もごめんなさい。良い夢を見られるASMRとかいる?」

「あの、大丈夫ですから。そこまで調子悪いわけじゃないので」

「それは一安心だね」

 

 黒鹿毛のミニローズ(ローズ)さんに注意をされて、リツさんが私に謝る。それに続いて、コンフュージョン(フユ)さんとトンネリングボイス(ネル)さんも謝罪した。尾花栗毛のそっくりさん4人組のうち、私が部屋に入ったときに唯一冷静だったトモエナゲ(トモエ)さんは、私の自己申告を聞いて安堵の息を漏らしている。

 

 ……よく似すぎていて、合っているかどうか自信がない!

 

 容姿だけでなく、声も話し方もそっくりだ。本当に私は見分けられているのだろうか。特にネルさんとトモエさんは、双子トリックをされても気が付ける自信がない。

 

「リツ、トレーナーさんたちはどこにいますか?」

「勧誘資料を作ってから来るって言っていたから、トレーナー室じゃないかな。そろそろ来ると思うけど」

 

 ラフィさんとリツさんがそう話した直後、再び、今度は少し荒々しく扉が開かれた。

 

 入って来たヒトは3人だ。厳ついスキンヘッドに白い無精髭を生やした、強面の初老の男。本来なら腰まで届くだろう長い髪を、後頭部で1つのシニヨンにまとめた女性。そして短い髪をかき上げた、精悍な顔つきの青年。

 

 見覚えのある顔をした、2度と会えないはずの人たち。驚きのあまり大きく目を見開き、息が詰まる。耳が意思による制御を離れ、真後ろへと引き絞られているのを感じた。

 

 反射的に「ありえない。あり得るはずがない」という考えが浮かび、次の瞬間に自分でそれを否定する。ウマ娘自体がいわば競走馬の転生体であるし、ウマ娘に詳しい細江さんや武さんがいる世界だ。結局1度も勝利を捧げることができないまま死んでしまったオーナーや、何とかして私の子供たちを成功させようとしてくれたオーナーの孫娘さん、私が落馬させてしまったせいでGIを取るという夢を断念させてしまった鞍上もこの世界にいるのだと、予想してしかるべきだった。

 

「君がラフィの同室だね? 僕はアダラでサブトレーナーをしています、安城です。今日はよろしくお願いします」

 

 弥生賞から2度目の秋天まで、ずっと背中に乗せ続けてきた声。何と答えるべきかわからなくて、唇はただ震えるだけだった。

 

 ……謝らないと。謝ってどうする。前世の話などされたところで困るだけだ。それでも、私のせいで引退したのだ。我が身可愛さに左脚をかばわなければ、大怪我をすることはなかった。あの時死んでいれば、私を種牡馬にすることもなかった。私なんかにわざわざ有望な繁殖牝馬をあてがって、期待外れの子ばかり産まれて経営が苦しくなることもなかった。鞍上も娘さんももっと楽な暮らしができたはずだ。全部、全部私がいたせいだ。だから。でも、今世のこの人たちにとっては知らない話で。謝っても私の薄汚い自己満足でしかなくて――。

 

「……ノヴァさん?」

「何だか様子が変だね」

 

 浅い呼吸がどんどん加速していくのに、息苦しさが続く。心臓が全力疾走した時のように激しく鼓動している。なのに視界はどんどん暗く狭くなっていく。全く意図せず、膝から力が抜けた。

 

「ノヴァさん!? しっかりしてください!」

「ラフィはそのまま支えて! リツは酸素を持ってきて。フユはソファの荷物を――」

 

 ラフィさんが私を抱き止めて、何度も声を掛けてくれている中、私は意識を手放した。




2021/07/25 21:30
加筆修正を行いました
(ラフィさんとリツ先輩がそう話した直後~私は意識を手放した。)

2021/08/22 07:05
ノヴァからアダラチームメンバーへの呼び方を変更いたしました

コンフュージョンのあだ名を間違えていたため修正いたしました
(コン→フユ)


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第12話:初めて会う懐かしい人たち

第11話に一部改稿を行いました。
詳細については第11話後書きに記載しています。
このままお読みいただいても問題ありません。


「さて、今日は見学者がいるからトラックで練習の予定だったんだが、どうしたもんかね」

 

 遠くから、懐かしい声がする。

 

「肝心の見学者が気絶していますからねぇ」

 

 一緒にGIを勝とうと約束し、いつも背中に乗せていた鞍上の声。

 

「やっぱり、お爺ちゃんが堅気の顔してないから駄目だったんだよ」

 

 オーナーが亡くなった後に馬主と牧場主の立場を継ぎ、いつも応援しに来てくれた孫娘さんの声。

 

「あぁ? 倒れたときは坊主の顔見てたんだ。坊主のせいだろ」

 

 みすぼらしくて競走馬になれなかったかもしれない私を訓練して、最期まで私がGIを勝てると信じてくれたオーナーの声。

 

「えっ、僕ですか?」

 

 ……前世の夢だろうか。

 

「安城さん、またどこかで無自覚に口説いたんじゃないの?」

「ありそう」

 

 違う。頭がぼんやりとしていて聞き分けが付かないが、リツさんたちの声がする。ならば、夢ではないだろう。

 

「ないです。間違いなく初めて会う子です!」

 

 鞍上が声を張り上げて言い放った言葉に、自分でもわかっていたくせに少なからずショックを受ける。その拍子にうめき声をあげ、ようやく目が開いた。

 

「安城さん、大きな声を出さないで――ノヴァさん? 良かった、目が覚めたんですね」

「……おはようございます?」

 

 まず最初に見えたのは、安堵した様な表情で私の顔を覗き込むラフィさんの顔だ。長い鹿毛の髪が照明や外光を後光が差すように遮り、逆光で暗くなった中でも輝くような翠色の眼差しが私だけを見ている。ラフィさんが動いた拍子に、柑橘類の香水とシャンプーの香りが混じった、女の子特有の良い匂いが漂う。

 

 ……今の思考は、流石に変態じみている気がする。

 

 手で体を支えて起き上がりながら、良くない考えを振り払うように、しかしゆるゆるとした動きで首を横に振る。どうやらソファに寝かされていたようなので、そのまま足を下ろして座らせてもらうことにした。

 

 部屋の中を見渡せば、ラフィさんの他に8人がいた。机の周りで椅子に座る5人は、リツさんたちアダラのチームメンバーだ。そしてミーティング用だろうホワイトボードの傍にいる3人は、初めて会うのに見覚えのある人たちだ。

 

 ……大丈夫。初対面(・・・)だ。しっかりしろ、私。

 

 目覚める直前に聞いた言葉が、ショック療法の様に働いたらしい。改めて顔を見ても、また倒れそうになるほどの衝撃は受けない。

 

「大丈夫? ノヴァちゃん」

「急に倒れたからびっくりしたよ」

 

 ウマ耳をこちらに向けたリツさんたちが、心配の言葉を投げかけてくれる。相当不安がらせてしまったようだ。

 

「本当にすみません。大丈夫です」

 

 座ったままというのは失礼な気もしたが、まずは頭を下げて謝罪だ。せっかくの練習だというのに水を差したうえ、余計な心配を掛けさせてしまった。

 

 溜息を一つついたとき、私のウマ耳がすっかり垂れてしまっていることに気が付いた。かなり精神に来たらしいと自覚すると、強面の老人が歩み寄って来た。老人はしゃがんでいるラフィさんの隣――私の目の前で膝を折ると、私に目線を合わせて話し始める。

 

「頭が痛むとか、吐き気がするとか、見え方が変だとかねぇか?」

 

 具体的な症状を尋ねて来るその人は、どこからどう見てもそうだとしか思えないほどに前世のオーナーに似ていた。目つきや鼻の形だけでなく、スキンヘッドに白い無精ひげと言った容貌まで同じだと、どうしても無関係な別人だと思えない。

 

「大丈夫です。えぇっと……」

「なら良い。俺はアダラのトレーナーをやっとる、大浪だ。まぁ、もう数年で定年だ。実際には担当を持たないで、サブトレーナー2人のケツ持ちと相談役ってところだ。おい、お前ら」

 

 オーナー改め大浪さんは顎でヒト2人を差すと、立ち上がってそのまま退く。私が目覚めたときにはホワイトボードの傍にいた2人が、いつの間にか私の近くまで来ていた。女性の方が同じように私の前でしゃがむ。

 

「紗雪です。ノヴァちゃん、でいいのかな」

「……キャンドルノヴァ、です」

 

 ……あなたに、あなたにつけて貰った名前です。

 

 そう言いたい気持ちを堪える。柔和な顔つきと牧場での仕事に邪魔にならないシニヨンは、やはり前世の孫娘さんを思い起こすには十分すぎるほど似ていた。

 

「いい名前だね。本当に大丈夫?」

「紗雪、こういう時に『大丈夫』か聞くなと言ったろうが。その癖は絶対に直せ。ウマ娘はちょっとの不調は『大丈夫』で走っちまうぞ」

「はい。お爺ちゃん」

 

 大浪トレーナーの注意を聞いていた紗雪サブトレーナーが、私に向き直る。

 

「厳しいけど、良い人だから安心してね? 顔はまぁ、人殺してそうなくらい怖いけど」

「聞こえてんぞ」

 

 リツさんたちが笑う。アダラの鉄板ネタらしい。前世でも、牧場主なのに馬に嫌われがちなのを気にしていた人だ。そんなところまで似ているだなんてと、なんとなく可笑しくなってしまい、小さく笑ってしまう。

 

「やっぱり。しょんぼりしているより、笑っている方が可愛いね。ほら、安城くん」

 

 にこにこと笑顔で紗雪さんはそう言うと、膝を伸ばしてもう1人の男性――安城さんと入れ替わった。

 

「あっ、耳が」

 

 誰が言ったのかわからないその一言で耳に意識を集中させると、ウマ耳がすっかり後ろに絞られていた。

 

「やっぱり何かあったんじゃあないの?」

「人たらしだもんねぇ」

「でも耳が忙しすぎるし、何かあったんならトレーナーさんたち3人ともじゃないかな」

 

 ……別人だ、別人。あくまでも別人。大丈夫。大丈夫だから。

 

 ウマ耳を意識して、無理やり耳の方向を前方に戻す。初めてする行為だがどうやらうまくいったようだ。

 

「安城です。あの、何か気に障るようなことをしてしまいましたか?」

 

 自分が出て来た途端に耳が後ろを向いたことを気にしているらしい。困ったように眉をゆがませた安城さんが尋ねて来る。

 

「いえ、その……」

 

 前世ではすみませんでした。なんて自己満足のために言ったら、この先ずっと不思議系ウマ娘になってしまう。流石にご免被ると言ったところである。何か言い訳がないかと頭を働かせ、朝の悪夢の一件に考えが及んだ。

 

「……今日悪夢を見たんですけど」

「ええ」

「それで頭が弾け飛んだ人に安城さんがそっくりで……、すみません」

 

 もちろん嘘である。この人たちに噓をつくのは大変心苦しいが、前世で大怪我を負わせてしまったヒトだ、などと電波なことを言い出すよりはまともだろう。

 

「皆さん、僕に何か言うことがありますよね?」

 

 ぐるりと背後のメンバーを見た安城さんに、「ごめんなさい」と異口同音に謝罪がされた。

 

 タイミングを見計らったように、大浪トレーナーが手を打ち鳴らす。

 

「よし、今はそれくらいでいいだろう。ミーティングを始めるぞ。ラフィはそのまま新入生についていてやれ」

「見学させるんですか?」

 

 ずっと隣にいたラフィさんが、トレーナーの決定に不服そうに申し立てをする。朝からずっと心配を掛けさせっぱなしな上に倒れてしまい、ラフィさんには本当に申し訳ないという気持ちでいっぱいだ。レースを控えたラフィさんにどう詫びるべきか。

 

「お前の話を聞く限り、だいぶ我が強そうだからな。新入生――呼び方は『ノヴァ』でいいか?」

「はい」

「ノヴァ、見学は許可するが、これ以上体調が悪くなったらすぐに言え。気のせいかもしれなくても言え。俺の前で無理が通せると思うなよ」

「はい」

 

 しっかりと釘を差されてしまった。何せ顔が怖いので、もはや五寸釘もかくやと言ったところである。

 

「ラフィもいいな? 俺たちもちゃんと見張ってる。大丈夫だ」

「……はい」

 

 不承不承にラフィさんは頷くと、私に少しの間目を合わせて、そのまま無言でトレーナーの方へ向き直る。

 

 私という異物を加えて、アダラの練習前ミーティングが始まった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 ……意外と、両親が担当にさせていたトレーニングと変わらないなぁ。

 

 アダラのトレーニングを見学して、最初に浮かんだ感想がそれだった。『ご両親のお仕事を紹介しましょう』という小学校の課題のため、1回だけ両親のチームでやっている練習を見せて貰ったことがあった。当時はレースに関するものを遠ざけていた時期だったので、両親の仕事について行ったのはその一回限り、しかも数年前の話であるから、詳細なところまでしっかり覚えているわけではない。しかし、設備のレベルは全く違うが、やっていること自体はほぼ同じに思えた。よく考えたら、うちの両親は南関で開催されるダートGIを、2人合わせれば全て勝ったことがある人たちだ。中央と遜色ないトレーニングをできなければ、そんなことは不可能である。

 

 もちろん、両親は小学生でもわかるようなトレーニングを見せていたのだろうし、安城さんたちも新入生でもわかるようなトレーニングをしているから、そう見えるのだろう。

 

 午前中のトレーニングの締めとして、校舎裏手の練習用トラック――その芝コースでラフィさんたちが6人でレースをすることになった。1周およそ2000m、東京レース場と同程度の長さのコースのうち、1800mを使っての練習だ。ラフィさんの次走は福島の芝1800mだそうだから、平坦で小回りなコーナーをしているトレセン学園のトラックでも、かなり実践的な練習になるだろう。

 

 ラフィさんの代わりに私の様子を見ている紗雪さんの隣、コースの外から少しわくわくとした気持ちで外ラチに体重を預けて見ていると、整列したラフィさんたちの前にいた安城さんが、旗を持ってやってきた。

 

「ノヴァさん、スターターをやってみませんか?」

「私がですか?」

「はい」

 

 安城さんは微笑みながら私に旗振りを勧めた。ラフィさんたちがこちらの様子を見ている。

 

「うまくできるかわかりませんが……」

「大丈夫です。タイム計測ではなくレースの練習ですから」

「特等席だよ」

 

 私が渋ると、安城さんと紗雪さんは2人掛かりで説得にかかる。見学とは言えども、本当に見せているだけで何もさせていないのを気にしている様子だ。少しでも何かを体験させたいらしい。

 

「……わかりました」

 

 安城さんから赤い旗とストップウォッチを受け取り、コースを挟んで内ラチ側にスターター台替わりに置かれている朝礼台へ歩いて向かう。整列しているラフィさんたちの前を通っていくと、ラフィさんが微笑みながら小さく胸の高さで手を振ってくれた。顔合わせで倒れた後は午前中いっぱいなんともなかったので、ラフィさんも安心してくれたようだ。

 

 朝礼台を軽い足取りで登り、右手に握った旗を下げる。

 

「位置について」

 

 ラフィさんたちが利き足を半歩引いた。ウマ娘はスタンディングスタートが基本だ。

 

「用意」

 

 前傾し、前脚に体重がかかる。

 

 右手の旗を振り上げると同時、ストップウォッチのスタートボタンを押した。

 

 いの一番に飛び出していったのはリツさんだ。その後をラフィさんとトモエさんが競り合いながら追い、ネルさんとローズさんが差しらしい位置に控えた。最後方に1人、フユさんが離されすぎない程度に追走している。

 

 第1コーナーまでの間に、競り合いはトモエさんが制した様だ。リツさんの後ろを取れなかったラフィさんは、代わりにトモエさんを風除けに使うことにしたらしく、ぴったりと後をつけている。

 

 6人立てで脚質がばらけていると、やはり激しい競り合いというものも起きない。安城さんにストップウォッチを渡した後は、淡々とした展開でラフィさんたちが向こう正面から第3コーナーに入る。まだ、誰も仕掛けない。

 

 第4コーナーに差し掛かったころ、トモエさんが仕掛けた。大外からリツさんを抜いて先頭を取り、ラフィさんと抜かれたリツさんがそれを好位で追う展開だ。ネルさんはスタミナに余裕があるのかまくって上がり始め、フユさんは直線で一気に仕掛けるつもりなのか、離されすぎない程度に抑えつつ追走している。ローズさんは距離適性の上限に近いのか、かなり苦しそうな顔をして走っていた。

 

 最終直線に入ると、リツさんがスタミナ切れか少しずつ垂れ始めた。ラフィさんはそれを上手く躱し、一気に加速する。後方にいたネルさんが持久力任せで上がり、フユさんが上昇気流に乗ったかのように追い上げて来る。残り200mの地点でラフィさんがトモエさんに並んだ。いつも優しい眼差しをしているラフィさんの翠色の目が、今だけは決勝線を鋭い目つきで捉えている。

 

 ……格好いい。

 

 声を出すことすら忘れて、ただただ見蕩れる。ラフィさんの新たな一面を見た気分だ。もちろん他の先輩も素晴らしい。真剣な人は何時だって格好いいのである。前世の私とは大違いだ。

 

 一瞬、ラフィさんと目が合った。あまりにも瞬間的だったから、もしかしたら私の勘違いかもしれない。しかし、その直後にラフィさんはさらに加速した。

 

 猛烈な追い上げを見せたネルさんとフユさんだが、ついに先頭を走るラフィさんを射程圏内に収め切ることはできなかった。

 

 ラフィさんが1着で入線し、クビ差でトモエさん、さらに半バ身遅れてネルさん、ハナ差でフユさんが来る。次いで3バ身程度離されてローズさん、ヘロヘロになりながらリツさんがたどり着いた。

 

 息の荒いラフィさんたちに安城さんが歩み寄り、各個人に短評を述べていく。

 

「1分49秒ちょうど、悪くはありません。当日の展開次第ではありますが、十分勝機はあります。頑張りましょう」

「……はい」

 

 練習ではあるが1着を取ったのに、評価を聞くラフィさんの耳は元気なく垂れていた。

 

 そのことに引っ掛かりを覚えたまま、私たちはお昼を迎えた。




活動報告にカスタムキャストで作成したノヴァ、ラフィの参考画像を掲載しました。興味のある方はご覧ください。

2021/08/22 07:10
ノヴァからアダラチームメンバーへの呼び方を変更いたしました

コンフュージョンのあだ名を間違えていたため修正いたしました
(コン→フユ)

2021/09/05 08:40
誤字を修正いたしました(慣れなかった→なれなかった)

2022/09/18 18:35
加筆いたしました
(時期だったのでしっかり覚えて→時期だったので、両親の仕事について行ったのはその一回限り、しかも数年前の話であるから、詳細なところまでしっかり覚えて)


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第13話:模擬レース後のお昼ご飯

 お昼ご飯のために一旦解散した私たちは、美味しそうな匂いが乗った春の風に空腹を感じながらカフェテリアへ向かって歩いていた。せっかちなのか10バ身(25m)は先行しているリツさんが振り返り、両手を振りながら声を張る。

 

「早く来なよ!」

「リツが速すぎるんだよ」

「いい席取られちゃうでしょ!」

 

 トモエさんの言葉にもお構いなしと言わんばかりに、リツさんは再び駆けだした。

 

 大浪トレーナーたちは今後の予定の確認も兼ねて今日のお昼をトレーナー室で取るらしく、リツさんについて行くのは私とラフィさん、アダラのウマ娘ばかりである。

 

「歩いて行くので、先に行ってください!」

「わかった! ラフィとノヴァちゃんの席も取っとく!」

 

 ラフィさんは手をメガホンのようにして、リツさんに追いつこうと走り出したトモエさんたちに呼びかける。それを聞いたアダラのメンバーたちは走り出し、あっという間に見えなくなってしまった。模擬レース直後は息も絶え絶えだったネルさんやフユさんも全力疾走だった。ラフィさんと私、隣り合う2人だけがゆっくりとした足取りで歩いている。

 

「ノヴァさん、体調はどうですか?」

「大丈夫です。午前中じっとしていたので、午後からは走りたいくらいです!」

「ダメですよ? 倒れてしまったんですから、今日は我慢してください」

「はい」

 

 もしかして、他の先輩たちに先に行くように言ったのは私のためか。私相手にここまで心配してくれるなんて、本当に女神様のような人である。しかしその女神様は、模擬レースが終わった後からずっと元気なくウマ耳を垂らしたままだ。理由を聞かれたくないことかもしれないとは思うが、それがどうしても気になってしまう。少しばかり悩んだものの、他の先輩たちがいなくなった今がチャンスだろうと、ラフィさんの綺麗な目を見ながら尋ねてしまうことにした。

 

「ラフィさん」

「なんですか?」

「さっきのレース、勝ったのにあまり嬉しそうに見えませんでした。どうしてですか?」

 

 ラフィさんは立ち止まり、躊躇うように目を瞑る。その一歩前で、私はラフィさんの方へ振り返った。しばらく間を置いて瞼を開いたラフィさんが、いつもよりも暗い声で語りだす。

 

「……あまり、内容が良くなかったので」

「そうですか? 好位につけてトモエさんをきっちり差し切って、すごく格好良かったですよ?」

「ありがとうございます」

 

 柳の眉を下げて困ったように笑っている様子もまた美しく、見蕩れてしまう。

 

「でも、トモエはこの間のオープン戦で足を痛めて、まだ本調子ではないんです」

「えっ、トモエさん、オープン出てたんですか?」

「はい。トモエは自慢しませんけれど、オープンウマ娘なんですよ」

 

 オープンウマ娘とは何か。全ての競走ウマ娘の1割にも満たない、条件戦に出られない競走ウマ娘だ。条件戦はデビュー・未勝利戦から3勝クラス戦まであるので、オープン戦に出るようなウマ娘は既に4勝しているか、重賞で掲示板に乗るような実力のあるウマ娘ばかりである。多くの競走ウマ娘は1勝すらできずに引退するのだから、オープンウマ娘ともなれば初対面で自慢してきてもおかしくない。しかし、トモエさんからそのような話を聞いたことはなかった。話そうと思えば、春休みからいくらでも機会があったはずである。

 

「ただ、オープンに上がってからはなかなか勝てていないんです。この間はハナ差で負けてしまったのがかなり悔しかったみたいで、それを言うと機嫌を損ねてしまいますから触れないであげてくださいね?」

「はい」

 

 全力を尽くしてなお負けたとき、その差が僅差であればあるほど悔しいものだ。どこかでもう少しずつ無理をしていればその差を埋められたのではないかと、自分自身に怒りが湧いてくる。少なくとも私はそうだし、おそらくはトモエさんもそうなのだろう。

 

「話を戻しましょうか。トモエはシニア級のオープンウマ娘で、私はクラシック級の未勝利ウマ娘です。実力的にも私がそうそう勝てる相手ではないんですけれど、それでも相手が怪我をしていてようやくクビ差勝ちと言うのは、褒められたものではありません」

 

 ラフィさんは胸の前で指を組み、目を伏せる。長い睫毛が少し震えていた。

 

「もっと言うなら、ネルとフユにあまり着差をつけられなかったことも不安です。あの2人は今年ジュニア級でデビューする予定なので、さっきのレースでは先頭からあまり差をつけられることなくゴールできれば上々でした。ですから、あの2人があまり着差なくゴールできたこと、それ自体は喜ばしいことです。でも、デビュー前の子に追いつかれかけるようでは本番が心配で……」

 

 頭にぴっとりとくっついてしまうほどウマ耳が垂れている。尻尾もほとんど揺れておらず、元気のない様子が見て取れた。

 

 どうにかして自信を持たせてあげたいと思った時には、ラフィさんの固く組まれた手を両手で包んでいた。

 

「大丈夫です! 勝てます!」

 

 私の声を聞いたラフィさんが、深い翠色の目を丸く見開く。

 

 完全に根拠無し、考え無しに行動してしまった自分の行動に驚いてしまう。ラフィさんなら勝てると思っていることは事実だが、今の不安いっぱいなラフィさんに無責任な応援が果たして響くだろうか。

 

「そうでしょうか……」

 

 やはり、すぐに眉を下げた困り顔に戻ってしまう。今の精神状態で明日レースに望んで、良い結果が出せるだろうか。無理だろう。ウマ娘は精神の生き物だ。同じウマ娘でも絶好調の日と絶不調の日では、発揮できる能力に大きな差が出てしまう。こうなったらもう、ラフィさんがある程度調子を取り戻すまで畳みかけるしかないだろう。

 

「はい! ダイユウサクさんだって、最初はずっと負けっぱなしでしたけど有馬記念で勝ちました! だから、ラフィさんだってここで勝って、GIにだって勝てます! 今がダメでも次で、次がダメでも次の次で勝って、だから……!」

 

 後付けで根拠を並べようとして、結局勢いになってしまう。ラフィさんに似た境遇のGIウマ娘なんてダイユウサク――ダイサンゲンではなかった――くらいしか知らないので、あっという間に尻すぼみだ。

 

 必死な様子の私を見たラフィさんは少し目を見開いた後、ふにゃりと笑う。そして私が手を添えている固く組んだ指を解いて、私のことを抱きしめた。体操服越しにラフィさんの柔らかな感触が全身を包み込む。ラフィさんの首元に鼻が埋まり、様々な匂いが混じった何とも言えない匂いが鼻を擽る。香水や制汗剤の匂いに混じって汗の匂いもするのに、不思議と不快ではない。ラフィさんの腰に手を回して、私からも抱きしめ返す。心臓が高鳴り、全身が芯から暖かくなっていき、頭がふわふわとする。

 

「改めて、ありがとうございます」

 

 鈴のように澄んだ声には、少し自信が戻っているように思えた。正直言って、今の状況は私の方こそありがとうございますである。

 

「ノヴァさんが信じてくれているのに、私が私を信じていないのはダメですよね。弱気では勝てるものも勝てません。そうでした」

 

 ラフィさんが腕を緩める。名残惜しいが、このまま抱きしめていても迷惑だろう。私も腕を解いて一歩下がる。ラフィさんの目には、模擬レースで見た強い意志が戻っていた。

 

「……それでは、急ぎましょうか! リツたちを待たせてしまっていますし」

「はい!」

 

 しっかりとした足取りで歩きだしたラフィさんの後をついて行く。

 

 私は知っている。ラフィさん――メジロラフィキは将来、障害GIを走ると。日本においてそれはつまり、平地では大成しなかっただろうことを意味している。けれどウマ娘の将来は誰にもわからないのだ。たとえ根拠がなくとも、私はラフィさんが勝つと信じたい。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「いくら何でも、おっそいよ!」

「ごめんなさい、リツ」

「すみません」

 

 完全にお冠のリツさんに、ラフィさんと一緒に謝る。見学中は今何をしているのか、ラフィさんと一緒に丁寧に教えてくれるほど優しかったので、どうやらお腹が空いていると気が立つタイプらしい。

 

「まぁまぁ、リツはサンドイッチを食べましょうね」

「むぐぉ」

 

 ローズさんが一切の容赦なく、私たちの座った席の真ん中に山盛りにされたBLTサンドをリツさんの口に突っ込んだ。キリリと立ち上がって不機嫌ですと主張していたリツさんの眉が、口をもごもごと動かすたびに上機嫌に寝ていく。

 

「んふー。美味しい(おいひい)!」

「ラフィとノヴァさんの分も含めて、サンドイッチをまとめて取ってきてしまいましたけれど、良かったですか?」

「私は大丈夫です!」

 

 朝に体調が悪かった割には、お腹が減っている。BLTサンドの香ばしく焼けたベーコンとパンの匂い、カツサンドのソースの匂い、フルーツサンドの甘い果汁の匂いが食欲を刺激する。

 

「紅茶はどうですか?」

「もちろん、抜かりなく」

「流石はローズですね」

 

 ラフィさんは紅茶が用意済みと聞いて、ニコニコと笑っている。無理をしている様子もなく、どうやら完全に弱気を吹き飛ばせたようだ。

 

 リツさんがすでに幸せそうな顔で食べている横で、私たちは食前の挨拶をして食事を始める。6枚切りの厚めの食パンに様々な具材を挟んで半分に切ったサンドイッチが、1人当たり1斤半は用意されている。リツさんが食べているのを見てすっかりその気分になっていたので、私もBLTサンドに手を伸ばす。カリカリのベーコンの塩味と新鮮な野菜の食感、焼けた肉と小麦の良い匂いが五感を刺激する。

 

 ラフィさんたちの会話に相槌を打ちながら美味しいBLTサンドを3つほど食べた後、「そればかりでもな」とカツサンドに手を伸ばす。そのとき、話題がラフィさんの今日明日の予定に移る。

 

「ラフィ、明日は福島でしょ? 桃買ってきてよ」

「今は旬じゃあないですよ?」

「えっ、そうなの? 残念……」

 

 1人で2斤分のサンドイッチを早くも平らげたリツさんが落ち込んでいる。半斤分はローズさんが分けていたもので、「餌付けしているみたいで楽しいですよ?」と言っていた。それにしても、満腹の時に食事の話をできるとはすごい食欲だ。オグリキャップ相手は無理でも、スペシャルウィークが相手なら大食いでもいい線に行けるだろう。リツさんの小柄な体のどこに栄養が消えているのかはわからないが。

 

「代わりにお菓子買ってきますから」

「本当? ラフィのお土産はいっつも甘くて美味しくていいんだよね。ローズも見習ってよ」

「いつも美味しい美味しいと食べているではないですか!」

「美味しいけど、選んでくるものが渋いんだよ。年頃の女の子が買ってくる品ぞろえじゃないよ」

 

 ローズさんがいつも何を買ってきているのか気になって、ラフィさんに耳打ちをして尋ねる。

 

「どんなものを買ってくるんですか?」

「つい最近だと、小倉に行ったときに明太子を買ってきましたね」

「それはまた……」

 

 間違いなく美味しいだろうが、女の子と言うよりは酒飲みの選択である。そこは地元銘菓を買ってくる方がいいのではないか。

 

 そんなことを考えていると、トモエさんがラフィさんに話しかける。

 

「そういえばラフィ、今日は何時くらいに出る予定なの?」

「紗雪さんと一緒に3時にはここを出て、新幹線に乗ると思います」

「それ、ノヴァちゃんには言った?」

「……あっ」

 

 ラフィさんとトモエさんがそろりと私の様子を伺う。私はと言えば、まだ食べかけのカツサンドに齧りついたところで完全に固まっていた。今晩はラフィさんがいない。そう考えただけでも本当に寂しい。私は今夜大丈夫だろうか。足元がぐらついているように錯覚してしまう。

 

 そもそも、よく考えたら福島まで行こうと思ったら前世なら前日輸送の距離だ。馬ではなくウマ娘である今世なら、馬匹車ではなく新幹線を使えるだろうから、当日朝出発でも間に合うかもしれない。しかし、移動で凝り固まった体で結果を出せるかと言えば怪しいだろう。そうなれば当然宿泊前提で移動する方がいいわけだ。前世で引退した後20年近く牧場で生き恥を晒していたので、そのあたりの細かいことはすっかり記憶の彼方に消えていたのだ。

 

 カツサンドから口を離し、ラフィさんを見つめ返す。

 

「そんな捨てられた小動物みたいな目で見ても、ラフィ困ると思うなぁ……」

「明日の夜には帰ってきますから、ね?」

「……はい」

 

 明日レースだというのに、ラフィさんに余計な心配を掛けさせてしまった。これでは元気を出してもらった意味がない。

 

 それにしても、こんなに私は寂しがりだっただろうか。前世では他馬がいなくても落ち着き払っている、扱いやすい馬だったのに。

 

 これ以上ラフィさんに迷惑をかけるわけにもいかない。そう考えた私は気を取り直して、何ともありませんよと装って再びカツサンドを食べ始めた。




2021/08/22 07:15
ノヴァからアダラチームメンバーへの呼び方を変更いたしました

コンフュージョンのあだ名を間違えていたため修正いたしました
(コン→フユ)


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第14話:メジロ家令嬢の未勝利戦

前話までの下記の点について修正いたしました。
・ノヴァからアダラの先輩たちへの呼び方の表記ぶれ
・コンフュージョンのあだ名(『コン』から、初出時の『フユ』に揃えました)


 トレセン学園に来てから初めて、ラフィさんのいない夜が明けた朝。昨日ラフィさんがどうしてもとお願いして来たので、寮の食堂でリツさんと待ち合わせたのだが。

 

「……ノヴァちゃん、昨日眠れなかったでしょ」

 

 リツさんは私を見ると眉をひそめて、開口一番にそう言った。

 

「なんでわかるんですか?」

「いや、もう、目が眠そうだし。どうしたの?」

 

 昨晩は人恋しさからなかなか寝付くことができず、ふとした拍子に思考が負に傾いてそのまま眠れなくなってしまったのだ。だいぶ記憶は怪しくなってきているが、前々世のまだヒトだったころから、床に就いた後で不安が噴出してきて眠れなくなってしまう悪癖があり、昨日もそうなったわけである。

 

 1度は覚悟を決めたのに、『半端者が本当に競走の世界に戻ってきてよかったのか』、またくよくよと考え込んだり。ラフィさんの運命をどうしたら変えられるのか悩んだり。不安事には事欠かない今世だ。

 

 結局ようやく眠気が来た時には朝の4時近くを迎えており、2日連続で朝練を休むことになった。

 

「布団の中で考え事をしていたら朝になっていまして」

「これじゃあ、ラフィを心配性だなんて笑えないなぁ」

「すみません……」

「寮に入ったばかりなら、そういうこともあるよ。ご飯取りに行こう?」

 

 そう言うとリツさんはお盆を持って、朝ごはんを取りに歩きだした。私も後をついて行き、今日のメニューを確認する。どうやらオムレツとサラダらしい。ご飯よりはパンの気分なので、ラフィさんがいつも好んで食べるクロワッサンを10個と、コンソメスープをお盆に載せてリツさんの前に座る。

 

「いっただっきまーす」

「いただきます」

 

 リツさんが食事を始めると、どんぶりに山盛りになった白いご飯があっという間に消えていく。尻尾が元気に揺れていて、ウマ耳もピコピコと擬音が聞こえてきそうなくらい動き回っており、実に上機嫌そうだ。

 

 ご飯を美味しそうに食べる人は見ていて気持ちがいい。そんなことを考えながら私もクロワッサンを食べる。サクサクとした食感とほのかな甘さは、ラフィさんがいつも食べる理由がよくわかる美味しさだ。ハムとチーズの入った、ふわふわのオムレツとも実によく合っている。

 

 私とリツさんが朝ごはんを食べ終えるのは、ほぼ同時だった。途中でご飯をお代わりしに行っていたのに、どうして私と同時なんだろう。そっくりさん4人組の中では1番小柄なのに、いったいどこに食べたものが消えているのか不思議でならない。

 

 自分の分のついでにリツさんの分の紅茶も淹れて、食休みを取る。どうやら紅茶のわずかな渋みも嫌いなようで、リツさんはミルクと砂糖をたっぷり入れて紅茶を飲んでいる。いつものルーチンだが、やっぱりラフィさんがいないと寂しい。

 

 少し紅茶が冷めてきたところで、リツさんは行儀など知らないと言わんばかりにティーカップを呷って紅茶を飲み干す。リツさんは立ち上がると、まだ紅茶を飲んでいる私に向かって声を掛ける。

 

「私は今日も練習があるから、もう行くね。今日は11時にはみんなカフェテリアに行くから、一緒にラフィの応援しよっか」

「はい」

「それまでは……」

 

 リツさんは私の目をじっと見て、提案した。

 

「もう1度寝てきたら?」

「……そうします」

「時間になっても来なかったら電話するねー」

 

 手を振りながら、リツさんが駆け出していく。

 

 ……紅茶を飲んだのは失敗だったかもなぁ。

 

 誰に言うでもなく、ポツリと一言を漏らした。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 10時30分、カフェインが効きだす前にさっさと眠り頭がすっきりとした私は、約束の時間からはだいぶ早いけれども、カフェテリアに来ていた。カフェテリアには土日になると多数のテレビが置かれ、その週に開催されているレースを観戦できるようになっている。1か所につき2台のテレビがあり、パドックの映像も流れるようになっていた。

 

 そのうちの1か所である長机の前に、ここにいると思っていなかった見覚えのある2人がいる。私が近づくとその2人――そっくりさんたちの中で唯一流星持ちのフユさんと、たれ目気味なのでおそらくネルさん――も気が付いたようで、手を振って来た。

 

「おはよう、ノヴァちゃん」

「おはようー」

「おはようございます。2人は、今日お休みですか?」

 

 リツさんが練習に向かったので、てっきり2人もトレーニングをしていると思っていたのだ。

 

「そう。私たちはまだデビュー前だし、やっぱりこの時期は忙しいからね。そっちに集中してもらおうと思って」

「リツはもうすぐ橘ステークスだし、ローズは京王杯スプリングカップに出るでしょ。トモエはなんと、ヴィクトリアマイルに出る予定なんだって!」

 

 ヴィクトリアマイル、4歳以上牝馬――シニア級ウマ娘のためのGI競走だ。牡馬牝馬セン馬の区分がない今世だと、安田記念と条件が丸被りしているレースだ。しかしウイニングライブの楽曲も『本能スピード』で被っていた前々世と異なり、今世では楽曲が異なるために格好いい系か可愛い系かで、アイドルとしての路線が異なるレースになっている。

 

「すごいですね!?」

「すごいでしょう! 私も誇らしいよ……」

「フユが走るわけじゃないでしょ……」

 

 ふんすふんすと胸を張るフユさんに、ネルさんがあきれた様な目を向けている。先輩ではあるけれど、なんとなく可愛らしくて思わず笑ってしまう。

 

 前世では当たり前のようにGI競走を走っていたので実感に乏しかったが、本来なら身内が重賞に出走することそのものがすごいことである。

 

「ここ、座ってもいいですか」

「もちろん。ノヴァちゃんの分も合わせて、最初から6人分確保してるからね」

 

 意識を向けていなかったが、確かに椅子と机の上に荷物を置いて席を確保しているようだった。マナー違反ではないだろうかと思い、フユさんに尋ねる。

 

「そんなことしていいんですか?」

「暗黙の了解ってやつよ。同じチームの子が出るときは、お互いに優先し合おうねって」

「そうなんですか」

 

 明文化されていないルールほど怖いものもないな、などと思いながらテレビから1番離れた席に座る。

 

「そこでいいの? ラフィが走るんだよ?」

 

 その様子を見ていたネルさんが、1番テレビに近い席を勧めて来る。しかし、だ。

 

「ありがとうございます。ただ、興奮しすぎて立ってしまうかもしれないので、ここでいいです」

「だって。フユも見習ったら?」

「トモエがすごいのが悪いんだよ」

「人のせいにしない」

「はい」

 

 大げさにシュンとするフユさんを横目にテレビを見る。阪神の第2レースが終わったようだ。ラフィさんが出るレースは福島の第4レース、前世と異なりパドックには1人1人順番に出てくることを考えると、ウマ番13番のラフィさんがテレビに映るのは11時の5分前くらいだろうか。

 

 ラフィさんの出番を心待ちにしながら、生中継されている映像を見る。未勝利戦ばかりと言うこともあって、前世の私ならソラを使っても勝てるだろう。それでも、0勝だった私よりもずっと立派な戦績をしている。

 

 フユさん、ネルさんと一緒に、さっきのレースはどうだった、私ならこうするなど話し合いながら過ごす。

 

 そうこうしているうちに福島のパドックお披露目が始まり、ラフィさんの番が来た。

 

『1番人気。7枠13番、メジロラフィキ』

「ラ゛フ゛ィ゛さ゛ん゛!」

 

 気が付いたら椅子を吹き飛ばして立ち上がっていた。テレビ越しでもわかる肌やキューティクルの煌めき、やる気に満ち溢れて輝く翠色の眼、パドックにいるファンに笑顔を振りまきながら手を振る所作、その全てが美しさと可愛さを奇跡的なバランスで両立させたうえで成り立っている。間違いなく絶好調だ。思わずテレビに向かって身を乗り出してしまう。

 

「……ノヴァちゃん」

「ラフィさん、カメラ、カメラを見てください!」

「ノヴァちゃん」

 

 ガシッと頭を両手で掴まれ、正面を向かされる。そこには、目じりをぴくぴくと震わせるネルさんがいた。

 

「いくらなんでも、もう少し静かに。ね?」

「……はい」

 

 周りを見ると、なんだなんだと他のウマ娘たちがこちらを見ていた。完全にやらかしてしまったことを察し、私は数mほど離れた場所に落ちていた椅子を回収して座り直した。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「いやぁ、それだけ元気そうなら2度寝した甲斐があったね」

「本当、ライブもマイク無しでできそうなくらいだったよ」

「すみません……」

 

 午前のトレーニングを切り上げた3人が予定よりも遅く合流した後、リツさんが今日休みだった2人に体調を尋ねると、当然のように私のやらかしの話になった。反省はしているが後悔はしていない。それはそれとして平身低頭するしかない。

 

「私は気持ちわかるけどねー」

「フユは同じようなことをトモエ相手にしましたからね」

「それほどでも」

「褒めてはいませんよ?」

 

 ローズさんがフユさんに釘を刺す。どうやらやらかし仲間がいたらしい。視線を送るとフユさんも気が付いたらしく、固く握手を交わした。

 

「友よ……!」

「推さずして何がファンでしょう……!」

「そこ、共感しあわない」

 

 半目になったローズさんの注意とほぼ同時に、映像が福島に切り替わったことを実況が知らせる。弾かれた様に私の首がテレビの方を向いた。スターターがスタンドカーに乗って持ち上げられていき、旗を振る。それを合図にファンファーレが流れ始め、ゲート入りが始まった。ラフィさんは落ち着いた様子でゲートに入り、じっと精神を集中させている。ラフィさんは逃げ先行型なので、13番は少々不利である。スタートが重要になって来るだろう。

 

 全員の枠入りが終わり、一瞬だけ静寂が訪れる。誰かが固唾を飲む音がして、ゲートが開いた。

 

 半数近いウマ娘が出遅れたが、ラフィさんは無事に良いスタートを切れたようだ。先頭から2バ身差の5番手で第1コーナーに入り、第2コーナーを回る頃には先頭から6バ身半、3番手から2バ身半の位置につけていた。ラフィさんは外枠だったこともあり、最内こそ取られてしまったものの、5番手の好位群であることには違いない。

 

 やや縦長の展開だが、向こう正面でラフィさんの後ろにつけていたウマ娘たちが上がり始める。ちらりと後ろを見てそれを確認したラフィさんはペースアップすると、第3コーナーで3番手のウマ娘の後方外側から上がっていく。

 

「うまく蓋したね」

「外々を回るのは辛いし、後ろは直線勝負かな」

 

 先行勢のトモエさんと差し勢のローズさんが、レース運びを分析している。後続の子はラフィさんとその内側を走る子に阻まれ、思うように走れない状態だ。私はラップ走法と大逃げの組み合わせ型なので、そういうのはあまり得意ではない。

 

 第4コーナー途中、残り3ハロンでラフィさんたちが加速する。先頭の子とゴールを鋭く見つめるラフィさんは、福島の短い最終直線に入ったときには2番手につけていた。他のテレビからもそれぞれに応援する声が聞こえてくる。それに負けじと私たちも声を張った。

 

「行け! ラフィさん!」

「やっちゃえ、ラフィ!」

「1バ身半なんて何とでもなる!」

 

 目を見開いたラフィさんが全力で走る。しかし先頭との差が、約2バ身差が埋まらない。

 

「あぁっ!」

 

 残り50mで後ろから差してきた子にラフィさんが交わされ、そのまま3番手でラフィさんは入線した。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 夜の0時過ぎ、静かな寮室で、私は自分のベッドに座りラフィさんを待っていた。

 

 カフェテリアでも放送されていたURA運営の専門チャンネルは、地上波ではその日のメインレース分くらいしか流さないウイニングライブを、最初から最後まできっちり放映してくれる。そこまでディープではないライトなファン層は、ウイニングライブの専門チャンネルだと思っている節があるくらいだ。畜産も扱っていた前々世のチャンネルとの最大の違いである。

 

 今日のウイニングライブに出たラフィさんは、何も知らない人が見れば輝くような笑みを浮かべてライブを成し遂げた。けれど、私やアダラのチームメンバーたちのように日ごろから付き合いのある人から見れば、意気消沈しているところを奮い立たせてステージに立っていることは容易に察することができた。

 

 ラフィさんは、名門メジロのお嬢様である。故に、どれほど落ち込んでいたとしても、ウイニングライブをきっちりやり遂げてしまえるよう教育を受けている。素晴らしいプロ根性ではあるが、だからと言って落胆しているときに元気づける必要がないわけではないだろう。それに、極めて個人的な理由だが、ラフィさんに今日のうちに「お疲れさまでした」と伝えたいのだ。

 

 私のウマ耳が、廊下を歩く聞き覚えのある足音に反応してぴくりと動く。廊下は足音が少し響くので、その特徴で歩いている個人を特定できるのだ。足音の主は私とラフィさんの部屋の前で止まり、動かなくなる。しばらくの後、少し躊躇う様にドアノブが回った。

 

 静かに開かれた扉の隙間から、様子を伺う様に翠色の瞳が覗く。

 

「お疲れさまでした、ラフィさん。おかえりなさい」

「……ただいま、帰りました」

 

 挨拶を返してくれたラフィさんが部屋の中に入り、そのまま私の前に来る。もじもじとした様子のラフィさんが小さな声で話す。

 

「ごめんなさい。勝てませんでした」

 

 ぺったりと頭に沿って折れたウマ耳と、脚の間に収まってしまった尻尾。相当心に来ている様子だ。どうしたら元気を出してもらえるか。少し考えて、私の調子が良くないときに妹がする方法を思い出した。自分の心臓が興奮のあまり破裂するかもしれないし、馬っ気が出てしまっている気もするが、手段としてはありだ。そう判断すると、私はラフィさんに声を掛けた。

 

「ラフィさん、少し屈んでもらえますか」

 

 ラフィさんは不思議そうに首を傾げたが、私のお願いを聞いてくれた。

 

 私はベッドから立ち上がると、目線が私と同じ高さまで下がって来たラフィさんを、正面から抱きしめた。予想していなかったのか、ラフィさんの柔らかい体が一瞬だけ硬直し、しかしすぐに力が抜けた。今日のレースとライブで疲れ切っているのか、体が少し熱を持っている。いつもラフィさんが纏う柑橘系の香水の匂いはせず、シャンプーのいい匂いだけがしていた。ウイニングライブの後、シャワーを浴びたのだろう。

 

「その、ハグ、をすると、ストレスが減る、らしいですよ?」

「……ありがとうございます」

 

 ラフィさんが私を抱きしめ返す。心臓の高鳴りも、体中に血が巡り頬に上る熱も、上ずった声も、全部、ラフィさんに伝わってしまっているかもしれない。この気持ちがばれて距離を取られたりしたら、嫌だと思う。それでも、もしこれでラフィさんが元気を出してくれるなら、やらない理由はなかった。

 

「ノヴァさん」

「はい」

「今日はダメでした。でも――」

 

 ラフィさんが腕を緩めて、真剣な目で私を見つめる。

 

「次は、勝ちますね」

「はい。信じています」

 

 力強く、ラフィさんは誓う。格好良くて、今にも倒れてしまいそうなくらいにくらくらとしてしまうけれど、どうにか答えを返した。

 

「……それはそれとして、あと5分だけ、このままでいいですか?」

「はぃ……」

 

 今日は、昨日までと別の理由で眠れないかもしれない。




別題:距離感ぶっ壊れ系お嬢様に手遅れにされる日

2021/10/03 09:45
橘ステークスの時期を間違えていたので修正いたしました
(来週はリツが橘ステークスに出るし→リツはもうすぐ橘ステークスだし)


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第15話:新入生のタイム測定

 春の朝の涼しい風が、急坂を駆けあがる私の体と、煩悩で未だに上せている頭を冷やす。

 

 入学してから初めての月曜日を迎えた朝、私はこの間新しくラフィさんから教えて貰った朝練コースを1人で走っていた。是政橋北の交差点――いつも公園の方へ左折している交差点を右に曲がり、府中四谷橋を渡って川崎街道を東に向かい、多摩川原橋を超えて遊歩道に戻り1周するコースだ。入寮翌日に教えて貰ったコースとの最大の違いは、向ノ岡交差点付近から約1kmで55mを登り、直後に2.4kmで80m近くを降る強烈なアップダウンである。数字上は坂路よりも厳しい高低差と勾配があり、速度制限のせいで一杯に追えないとは言えどもなかなかの負荷がかかる。

 

 どうして1人で走っているのかと言えば、理由は大きく2つある。

 

 1つ目は、ラフィさんは昨日レースがあり、帰りも遅かったために今も眠っているからだ。昨晩のラフィさんはすっかり疲れきっていたらしく、お願いを聞いてハグを続けていたらラフィさんはそのまま私の腕の中で眠ってしまったのである。

 

 腕の中でラフィさんが美しい寝顔を見せたとき、それはもう大層悩んだ。あまりにも無防備すぎて、「これはもうそういうことでは? OKでは?」などと思ったほどである、しかし、私は紳士である。今は淑女だが、前世的には紳士である。据え膳レベルのあからさまな誘い受けでない限り、きちんと本人の口から同意を得てからそういうことはしたいものだ。そういうわけで、紳士的な私はきっちりラフィさんを彼女のベッドに寝かせてから自分のベッドに潜ったのである。悶々としていたのになんだかんだ3時間も眠れたことを褒めてほしいくらいだ。えらい。えらすぎる。

 

 アラームも付けていなかったようで、朝になってもスマホが鳴らなかったので、せっかくだからとそのまま眠っていてもらうことにしたわけだ。

 

 2つ目、私自身も昨晩は遅かったのに、今朝こうして走っている理由だ。土日に朝練できなかったということもあるが、1番の理由は煩悩退散のためである。私には昨晩の出来事は刺激が強すぎたようで、自分に都合の良いちょっとえっちなラフィさんの夢を見て、解釈違いで飛び起きてしまったのである。

 

 ……私はともかく、ラフィさんはそんなふしだらなことはしません!

 

 そんなことを誰に言うまでもなく考えていたら、暖かくて柔らかくて、良い匂いのする眠るラフィさんの抱き心地を再び思い出してしまう。せっかく冷えてきた頭に熱が上ったことを自覚した私は、邪な気持ちを振り払うように首を振り、いつの間にか登り切ろうとしていた坂の先を、朝日を浴びながら駆け降りて行った。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「どうして起こしてくれなかったんですか」

 

 ベッドの上に座る寝起きのラフィさんが、タイキシャトルのビッグぱかプチを抱きしめながら少しむすっとした様子でそう呟いた。私が寮に戻ってラフィさんを起こした後、時計を確認したラフィさんの第一声である。

 

 ……女神様が大きなぬいぐるみを抱いている様子、あまりにも絵になりすぎないか。もはや宗教画である。今この瞬間を絵にして飾って置くことが出来たらどんなに良いか。

 

 そんなことも考えているとはおくびにも出さず、理由を答える。

 

「昨日はだいぶ疲れていたみたいなので、そのまま寝かせてあげたほうが良いかと思って」

「それは……」

 

 一瞬反論しようとしたらしいラフィさんだが、ゆるゆると首を振って止めてしまう。

 

「……お気遣いは、ありがとうございます」

「どういたしまして」

 

 ぎゅうっと、ぱかプチを抱きしめながらラフィさんは言った。言いたいことがあるだろうに、相手の思いやりを慮ってまずは感謝をするだなんて、メジロの家は本当に良い教育をしているのだろう。それはそれとして、ぬいぐるみは私と場所変わってくれませんか。そのポジション、あまりにも羨ましすぎる。

 

「でも、ですよ?」

「はい」

 

 ウマ耳が元気なく垂れているラフィさんが言葉を続けた。ベッドに座っているラフィさんは、その前に立っている私の目を上目遣いで見て、ポツリと一言漏らす。

 

「置いて行かれると、寂しいじゃないですか……」

 

 ……あ゜!

 

 許容量を超えた可愛さの暴力に、内心断末魔を上げた。庇護欲をそそるラフィさんの新たな一面と言う魅力が、先ほどまで私の中に渦巻いていた煩悩が浄化していく。

 

 ……世界にこんなにも可愛らしい存在があってよいのだろうか。国を挙げて保護するべきではないのか。私の全てを掛けてでも守護(まも)らねば。

 

「ノヴァさん?」

「あっ、はい。すみません。私も置いて行かれると寂しいなと思いまして。今度からは1回起こしますね」

「ありがとうございます。私もノヴァさんを1度起こすようにしますね」

「はい」

 

 ラフィさんに起こしてもらえるなら、1度でいいから今度狸寝入りをしてみようか。そんなことを割と本気で検討しながら、ラフィさんと私は朝の準備を始めた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 午前の授業を終えて、カフェテリアでもはや日課と化しつつある昼食会を終えた私とラフィさん、そしてアダラのメンバーたちは、みんなでラフィさんの淹れてくれた美味しい紅茶を味わいながら優雅な午後のひとときを過ごしていた。

 

 のんびりとした弛緩した空気が流れる中、ラフィさんが私に話しかけて来てくれる。

 

「ノヴァさん、新入生のタイム計測は今日ですか?」

「はい。5時間目から7時間目までですね」

 

 そう、今日は新入生が今の実力を測る日である。先週は入学した直後と言うこともあり、一般の学校と同じ授業内容である午前の授業は小学校の復習で終わり、トレセン学園特有の科目がある午後の授業も、実技を伴うものはオリエンテーションで終わってしまったのだ。

 

 今日からようやくトレセン学園らしいことが出来るということもあり、今日の教室は朝のホームルームからずっと浮足立った雰囲気だった。先生たちも苦笑しながら授業していたので、毎年のことなのだろう。

 

 そわそわとした教室の様子を思い返していると、リツさんが追加で質問を投げてきた。

 

「ノヴァちゃんはいつ?」

「6時間目です」

「だって。ラフィ、一緒に見に行こうよ」

「トレーナーさんが許してくれれば、行きましょうか」

「本当ですか? 頑張ります!」

 

 トレセン学園に来てから、まだ走るためにコースに立ったことはない。自分でもどうなってしまうのかはわからないが、ラフィさんが見に来てくれる以上は下手なレースはできない。

 

 そのためには少しリラックスしすぎているな、と改めて座り直して気合を入れ直す。午後の授業開始は、30分後に迫っていた。

 

 

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 家庭科扱いとなるスポーツ栄養学の授業を終えた6時間目、私はグラウンドの芝コースに立っていた。春のそよ風が運んでくる、踏みつぶされた芝から出る青臭い匂いが鼻腔を通り肺を満たす。毎朝のようにラフィさんと走っている河川敷、観客として入ったレース場、おとといの練習見学で立ち入ったときのグラウンドで嗅ぐときであれば、単に爽やかないつまでも嗅いでいたい良い匂いだと感じるだけだろう。しかし、今の私にとっては最後まで栄光を手にして貰えなかったこと(背中に鞍上を乗せ無邪気に走っていたころ)を思い起こさせる後悔(思い出)の匂いだ。やはり、いざ自分がコースに立つとなると心持ちが違うらしく、同じ匂いであるはずなのに感じ方が全く異なって来る。

 

 4()立てずつで行われるタイム測定、自分の前走が終わりラチの中に入ろうかと言うところで、ちらりとスタンドの方を見る。選抜レースではないために、タイム測定に参加するウマ娘以外の人の姿はほとんどないそこには、ラフィさんがいて、リツさんたちがいて、そしてあの人達そっくりなトレーナーたちがいた。

 

 彼らの姿を見ると、「本当に戻ってきてよかったのか。また期待を裏切り続けるだけに終わるのではないか」と負の方向に考えが傾き、脚が竦んでしまう。お昼に頑張ると誓ったのに、膝が笑うような感覚がして咄嗟に内ラチを掴んだ。

 

 ……競走の世界でなければ生きられないと言っておきながら、なんて無様なのだろう。

 

 そう自嘲したとき、スタンドからラフィさんたちの声がした。

 

「ノヴァさーん、今の自分が出せる最高を出すことだけ考えましょう!」

「本格化前の子なんて、みんな遅いから大丈夫だって!」

「がんばれ、がんばれ!」

 

 周りのクラスメイトたちが、「もうチームに入ったの?」だとか「もうトレーナーと契約したの?」と言うようなことを口々にしているが、それはただの勘違いである。しかし、今は訂正をする余裕もなかった。

 

 皆の応援を受けた私は。大きく深呼吸をする。

 

 ……過去は、過去だ。この先も一生背負い続けていくだろうけれども、終わったことだ。振り切ることはできないし、しない。しかし、その重みで未来を潰してしまうこともまたダメだ。だいたい、ラフィさんの運命を蹴り飛ばしてみせると誓ったのだから、自分のことで弱気になっている暇などない。他人の運命を捻じ曲げようというのに、自分の運命すら変えられずにどうすると言うのか。

 

 自己暗示で自分を奮い立たせ、内ラチを離す。待っていてくれた教官や一緒に走るクラスメイトに一言謝り、バリヤー式発バ機の前、内から4番目の1番外に立った。

 

 そう、今は廃れたバリヤー式である。新入生はまだゲート式の練習をしていないためか、正式にタイムを計ろうという時は古めかしいバリヤー式が使われるようだ。

 

 私には無縁だが、競走馬もウマ娘も狭いところに入ることを本能的に嫌がる。しかし競走馬ならともかく、ウマ娘ならバリヤー式でも良いのではないか。そう思い、先ほど自分の順番が回ってくる前に教官に質問をしたところ、好位の取り合いになって発走前から収拾が付かなくなることが頻発したために、ゲート式が採用されたらしい。

 

 もう一度、肺の空気を全て入れ替えるつもりで深呼吸をしてから、左脚を引く。芝の匂いが鼻から抜けていく。タイム測定のコースは自分で選べることになっていて、私が希望したコースは芝2000mだ。今はそれを走り切ることだけを考える。

 

 トレセン学園の練習用芝トラックは、1周がほぼ東京レース場と同じになるように作られていて、決勝票の位置を動かせるようになっている、らしい。ポケットのない完全なオーバルコースなので、これによってスタートから第1コーナーまでの距離や最終直線の長さを調節して練習できるようにしているようだ。今回であれば、1角までおおよそ1ハロン、最終直線は約2ハロンだ。多()立てでもほぼ実力通りが出せるコースだろう。

 

 6本のロープで構成されるバリヤーが、跳ね上がった。初めて使うバリヤー式と言うこともあり、ゲートの隙間を縫うように発走出来ていた前世と比べて、コンマ1秒ほど遅れて駆け出す。

 

 畳よりもわずかに固い野芝の反発を足裏に感じ取りながら、風を切って加速していく。所々荒れた部分こそあるものの、芝の状態は全体的に良好だ。コース変更してから日が浅いのだろう。そう判断し、斜行を取られないように後続に2バ身差以上をつけていることを確認してから内に入る。そのまま第1コーナーに入ったところ、やはりと言うべきか最内が少し荒れていた。直線で荒れた部分が見受けられた以上はそうなるだろうなと思いながら、最内1歩外側、芝の荒れていないギリギリのラインを走る。

 

 1角から2角に入ろうかと言うところ、テン(最初)の3ハロンを通過したところで、再度後方を確認した。8バ身差、思ったよりも差をつけることが出来ていない。他の新入生と同じく、私自身も本格化前ではこの程度かと少し心配になって来るが、そこは成長を待つほかないだろう。将来の成長を願いつつ、残りの7ハロンできっちりスタミナを使い切るためのラップタイムを逆算し、わずかに減速する。

 

 最初に大逃げして差をつけてからのラップ走法、それが前世での私の基本戦術だった。

 

 小柄な私は馬群に飲み込まれれば周りの様子がわからず、パワーに劣るために脱出もままならない。かといって追込みは、デビュー前の骨折が直線一気を想定した追い切りだったこともあり、再度の骨折を恐れて最終直線で全速力を出そうとしても出せなくなったせいでできなかった。私にはもう、逃げと競り合うことすらしない大逃げしか残されていなかったのだ。

 

 追ってくる後続は全員バテさせ、疲労狙いで足を溜める奴らは物理的に差し切れないだけの大差をつける。そういう作戦だ。実際、3着相手には平均で6馬身差をつけていたので、そう荒唐無稽な作戦ではなかった。結局全てギンシャリボーイに差し切られたわけだが。あいつ絶対私を都合のいいラビットとして使っていただろう。

 

 前世で骨折のトラウマを払拭し、私をペースメーカー扱いして来るギンシャリボーイ対策として、大逃げをして3角から4角で息を入れて最終直線で差す。いわばサイレンススズカ式の逃げを実戦で最初の最後に使ったレースが、あの天皇賞だった。勝つために賭けに出て、失敗した。そして自分の命で掛け金を支払うことを嫌がった私のせいで、鞍上は夢を絶たれた。何もかも、私のせいだ。

 

 今世では、未だに最終直線で全速力を出すことが出来ない。フラッシュバックともいうべきトラウマの想起が邪魔をしてしまう。私が大怪我をする分には、まだ良い。しかし、自我が薄れてゆく死の感触と、他人を巻き込むかもしれないという恐怖が脳裏にべったりとへばりついて離れない。

 

 だから、今日はラップ走法で走る。

 

 ……レースに集中すると決めたのに考え事をしながら走るなんて、我ながらなっていない。

 

 そう思いながらも、体は無意識のうちにコースの微かな起伏(アンジュレーション)に合わせて体を前へ前へと蹴り出す力を調節している。起伏の激しい横浜のコースでも問題なく出来ていたわけだから、ほぼ平坦な練習コースなら問題なく出来るだろうとは思う。しかし今は単走ではなく併走だ。実質単騎行だとしても、相手がいるのといないのとではプレッシャーの面で大違いである。

 

 前半の5ハロンを終え、第3コーナーの入口でもう一度後ろを見た。目測で10バ身差、ラップ走法をしている私が相手なら、ギンシャリボーイは上がり3ハロンできっちり差し切って来る程度の差だ。しかし、ラップ走法で行くと決めた以上はこのまま行くしかない。

 

 肺と脳が酸素を求めて、呼吸筋に限界まで鞭打つ。残り2ハロンで最終直線に入ると、後方のウマ娘たちが一気に追い上げようと加速し、シューズの蹄鉄で芝を抉る鈍い音が近づいて来た。しかし、私を差し切るためには。

 

 ……300m足りないね。

 

 最後まで先頭のまま、決勝線を駆け抜ける。逃げて5バ身差、1度たりとも影を踏ませることはなかった。




相変わらずレース描写が下手。


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第16話:彼女の名はリボンの哀歌

 ゴールを超えた後、第1コーナーの入口まで1ハロンほど流してから、私は踵を返した。全身が酸素を求めて横隔膜と肋骨を大きく動かし、肺はそれに従って膨張と収縮を繰り返す。吐き出される息には血の匂いが混じり、脚は生まれたての仔馬のように震えていた。今の私が出せる限界まで酷使したせいだろう。歩くことすら億劫になるほどの疲労が全身を襲っていた。

 

 それでも、相当消耗した様子の他の子たちのように、膝に手をついて俯いたり、大の字になって倒れ込んだりしないのは、それが体に悪いと知っているからである。整理運動の重要さは、私の内心を慮ってレースの指導らしい指導をしなかった両親が指導してきた数少ない知識である。

 

 死屍累々とでもいうべき状況を見ていると、なんとなく前世を思い出す。前世でも私が出るレースはハイペースになるので、皆消耗しきっていた。直接見たわけではないが、ギンシャリボーイも私が出ないレースは余裕を持って勝っていたと聞く。

 

「ノヴァさーん!」

 

 息を整えながら歩いて教官のいるゴール板付近まで戻る途中で、私の耳がラフィさんの声を捉えた。スタンドに視線を向けると、ラフィさんたちが私に向かって腕を振っている。

 

 私が呼びかけに気付いたと見たラフィさんが、両手で拡声器を作る。

 

「格好良かったですよー!」

 

 声を出せるまでには回復していないので、右手を振り返して答えた。個人的には落第点、本格化前と言うことを考慮して及第点の走りだったが、ニコニコと笑顔で褒めてもらえるとそれはそれで嬉しいものである。頑張って良かった。

 

 本当なら駆け寄ってもっと話していたいところではあるが、今は授業中だ。教官のところへ戻ることを優先して歩き続ける。一緒に走った他の子たちは、まだ動けないようだった。

 

 ゴール板まで戻って内ラチの中に入り、教官にタイムを尋ねる。やはりと言うべきか、前世での走破タイムと比べると遅い。入学直後の本格化前のウマ娘など、入厩直後で調教を積んでいない競走馬のようなものだから、それを考慮するとそう遅いわけでもない。しかし、今世でも同期かどうかはわからないが、ギンシャリボーイ(あいつ)に勝とうと思ったらこのレベルでは到底満足できないタイムだった。

 

 教官に感謝の言葉を返してから、適当な場所に座り込む。私のクラスと他のクラスのいくつかは、合同で6時間目を丸々タイム測定に当てている。他の子の走りを見学することもまた勉強だ。また新たな4人組が、バリヤーの跳ね上がった瞬間に駆け出していく。

 

「久しぶりぃ」

 

 たった今発走した4人組が第1コーナーを曲がっていく様子を見届けた直後、黒鹿毛で短いツインテールのウマ娘が話しかけてきた。一瞬誰だと身構えるも、記憶の端に何か引っかかるものを感じる。たしか――。

 

「新歓レースで隣だった……」

「覚えててくれたんだぁ。ありがとう」

 

 何事にも楽天的そうな笑顔で、黒鹿毛のウマ娘は私の手を取り上下に振る。随分と距離感の近い子だが、記憶が正しければ逃げウマ仲間なのでそう悪い気はしない。それにしても――。

 

「自信がないのに話しかけたんですか……?」

「話さなきゃ仲良くなれないでしょ?」

「それはそうですけど」

 

 種族性別問わず、今世の私に話しかけてくる人は珍しいので戸惑ってしまう。同年代で名前を覚えている人なんて、ラフィさんやリツさんたちアダラのメンバーなど、トレセン学園に入ってからの方が多いくらいだ。

 

「走っているの見てたよぉ。上手く言えないんだけど、シニア級の先輩たちみたいですごかったぁ」

「ありがとうございます」

「もし良ければなんだけどぉ、どんな練習してたのぉ?」

 

 いきなり練習の秘訣を聞こうとするとは、なかなか肝の座った子だ。しかし、勝利に貪欲な姿勢は私的に高得点である。

 

 答えてもいいのだが、どう答えるべきか。「前世の記憶の賜物です」なんて言ったら、電波系ウマ娘一直線だ。一瞬考えて、答えをひねり出す。

 

「地元に昔URAのレース場だった施設があって、そこで走っていたんです」

「おぉ。やっぱり経験値もあったんだぁ」

 

 やっぱり、と言ったあたり自信があったわけではないのだろうが、私の経験をある程度見抜いていたのだろう。只者ではなさそうだ。

 

「あっ、そうだぁ。自己紹介してなかったぁ」

 

 突然手を離した彼女は、両手を打ち鳴らして思い出したかのように名乗る。

 

「私、リボンエレジーって言うのぉ。よろしくねぇ」

 

 ……本当に只者ではなかった! お前か!?

 

 よく覚えている。私の現役期間中で唯一、ギンシャリボーイに勝利した競走馬の名だ。私は出られなかったけれど、私とあいつが3歳の年のジャパンカップで、見事な幻惑逃げを決めて逃げ切った4歳馬である。

 

 たまたま名前にエレジーと入っていたこと、勝った相手がギンシャリボーイだったことから、ハリボテエレジーと呼ばれるようになったのは、フロック扱いされているようで可哀そうだった。実際、ジャパンカップの直後に屈腱炎で引退してしまい、翌年はあいつが無双したのでまぐれ呼ばわりされていた。フロックでもなんでもないと証明することに、挑戦すらできなかったのは本当に不運だったと思う。

 

「キャンドルノヴァ、です」

「ノヴァちゃんって言うんだぁ。寮はぁ?」

「美浦です」

「そっかぁ。クラスも寮も違うみたいだけど、よろしくねぇ」

「はい、よろしくお願いします。エレジーさん」

 

 ちょうど挨拶を終えたタイミングで、教官がエレジーさんを呼ぶ。彼女の番が来たようだ。バイバイと手を振って2000mの発走位置に向かおうとするエレジーさんに、私も小さく手を振り返す。エレジーさんは満面の笑みで大きく手を振り直した。

 

 前世では浮かばれなかった彼女だが、今世では良いことがあると良いなと願う。

 

 バリヤーの後ろに4人が並んだ数秒後、6本のワイヤが跳ねあがった。

 

 先頭を駆けていくのはエレジーさんだ。幻惑逃げとは程遠く、しかしラップ走法とも異なる粗削りで単調な逃げだが、後続をぐんぐんと突き放していく。走りを見るに無理をして大逃げをしているわけでもなさそうと言うか、戸惑いすら見て取れる。しかし、テンの3ハロンで15バ身差――異次元の差をつけていた。根本的な能力の違いが見て取れる当たり、既に本格化を迎えているとみるべきだろう。

 

 困惑している様子だったエレジーさんだが、走り続けるにつれて喜びの色を浮かべるとさらに加速した。後続のウマ娘たちも、エレジーさんが本格化しているだろうことに気が付いたようで、既に勝負の対象からは外したようだ。タイムアタックをするエレジーさんと、レースをする3人のウマ娘たち。全く別の競技が同時に行われていると言ってよい状態だ。

 

 私やほかの新入生が気が付くということは、当然教官たちも気が付く。教官たちが「次の選抜レースにエレジーさんを推薦しよう」と話し合っているのを、私のウマ耳が捉えた。

 

 おそらく、エレジーさんは今年のうちにデビューすることになるだろう。となると、前世通りになるならば私のウマ娘としての本格化は来年、クラシックレースに出るのは再来年だろうか。ラフィさんが今現役な時点で前世通りになるとは限らないわけだけれど、だいたいの見通しは立つ。

 

 いろいろと考えている間に、エレジーさんが最終直線に入った。後続はまだ6秒以上後方だ。エレジーさんは完全にばててしまっているようだが、36バ身以上もの差は完全にセーフティーリードと言って良い。

 

 圧倒的なリードを保ったまま、ヘロヘロとエレジーさんはゴールラインを超えて倒れ込んだ。そこから何とか、本番ならタイムオーバー(5秒)寸前(以内)で3人のウマ娘が駆け込み切る。

 

 倒れ込んだ後、仰向けに転がったきり動かないエレジーさんの傍に私は近寄った。

 

「大丈夫ですか」

「大丈夫ぅ。今までこんなことなかったくらい調子良くて、飛ばしすぎちゃったぁ」

 

 彼女の顔には、多幸感に満ち溢れた笑みが浮かんでいた。逃げ馬なら、あれだけ豪快に逃げ切れたらそれはもう気持ちがいいだろう。私は1度も味わったことのない感情だが、想像することくらいはできる。

 

「そのままだと、後の人に迷惑ですよ」

「そうだねぇ」

 

 エレジーさんは私の呼びかけに答えようとして立ち上がりかける。しかし、ぷるぷると震えたかと思ったらそのまま、べしゃりと擬音を立てそうな勢いで芝に沈んだ。

 

「……内ラチまで引っ張ってぇ」

「えぇ……?」

 

 本格化後初めて走ったせいだろうか。エレジーさんはスタミナの配分に完全に失敗したらしい。私は少し呆れながらも、どう運ぶべきか考える。言われた通りに引っ張っていくと、いろいろと脱げてしまうかもしれない。今日は男性教官もいるし、アダラの大浪トレーナーや安城サブトレーナーも来ている。見えてしまう(・・・・・・)のは、向こうとしても大問題だろう。

 

「はぁ……。失礼します」

「うん? おぉ、力持ちぃ」

「ウマ娘ならみんな出来るでしょう……」

 

 いわゆるお姫様抱っこで、まだ良い気分に浸っているエレジーさんを内ラチに連れて行った。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「あっ、王子様じゃん」

「リツさん、やめてくれませんか?」

 

 7時限目の授業も終わり寮に帰ろうとしたとき、アダラでの練習を終えたラフィさんたちと校舎の玄関でばったり会った瞬間に、背中に回ったリツさんが両肩を掴んで弄って来た。

 

「顔色一つ変えずにわざわざお姫様抱っこするのは、もう王子様だよ」

「ノヴァさんが殿方でしたら、さぞ絵になったことでしょうね」

「ローズさん!?」

 

 ローズさんは悪ふざけをするタイプではない。まず間違いなく素で言っているのだろう分、(たち)が悪い。からかいになっている自覚がないだろう。

 

「ノヴァちゃん小っちゃいし、どうだろう?」

「小さな王子様、……それはそれで、有りじゃない?」

「背伸びしているみたいで可愛いね」

「皆さん乗らなくていいですから!」

 

 トモエさんが首を傾げると、真剣な顔つきでフユさんが世迷いごとを言い、ネルさんに至っては微笑ましい小動物を見るような表情をしている。みんな、それぞれの形でこの場のノリに乗じていた。こうなったらもう、私の味方はラフィさんだけである。

 

 私は最後の希望に縋るようにラフィさんを見た。優し気な翠色の瞳が、私の目を見つめている。

 

「……ラフィさん」

「だめですよ、みなさん」

「ラフィさん……!」

「ノヴァさんだって、お姫様になりたいかもしれないじゃないですか!」

「ラフィさーん!?」

 

 ……今ここで可愛いお茶目を見せなくても良かったですよ!?

 

 それもそうだと、いつの間にやら私にお姫様願望があることにされつつある。

 

「たしかに、ノヴァちゃんの私服って可愛い系が多かったよね」

「そうでしょう、そうでしょう。()子にも衣裳ですよ」

 

 リツさんとラフィさんが、「ノヴァは可愛いものが好き」と言うことを既定路線としつつある。

 

「あれは親の趣味です!」

「そうなの?」

「はい。私が選ぶと家族みんな渋い顔をするので、自分で服を買ったことがないんですよ」

 

 背後のリツさんに向かって、首を回して答える。好きな服を好きなように選んで試着すると、家族みんな「正気か?」と問うようなすごい顔をするのである。解せぬ。

 

「じゃあ今度、みんなで服見に行こうか」

「良いですね! 買わなくても、見ているだけで楽しいですし!」

「よし、じゃあ決定! 夏は今のところレースの予定ないし、合宿前に水着と一緒に買いに行こう!」

「賛成!」

「今年はどんなのがいいかなぁ」

 

 トモエさんの提案にローズさんが乗ると、リツさんがチームの決定事項にしてしまった。フユさんとネルさんも既に乗り気である。あれよあれよという間に、今度アダラのメンバーと一緒に服を買いに行くことになってしまった。

 

 これはいけない。何せ前世が牡馬なので基本裸だったし、その影響か今世でも好きな服をさっと選んでレジに向かおうとするのが私だ。家族になぜか阻止されるけれど。女の子の買い物、などと言うどう考えても長丁場になるものの経験値はないのだ。

 

「楽しみですね、ノヴァさん」

「……はい」

 

 しかし、にこにこと笑顔のラフィさんを見ると「それでも良いか」と言う気分になる。我ながら、ちょろいなぁ。

 

 あっ、とラフィさんが何かを思い出したような声をあげる。

 

「何ですか、ラフィさん?」

「いえ、今の話とは関係ないのですけど」

「あぁ。もしかして、トレーナーたちがしていたあの話?」

「はい、そうです」

 

 リツさんたちはどうやら知っているらしい。

 

「ノヴァさん。答えたくなければ答えなくていいのですけれど――」

「はい」

 

 わざわざ逃げ道を用意してから尋ねるだなんて、プライバシーに関わることだろうか。今世の分であれば、そう隠すことはないはずである。

 

「――左脚を折ったことは、ありますか?」

 

 それは、今世では誰も知りうるはずのないことだった。




エレジーと名が付く以上、出さないわけにはいかないという使命感。
ハリボテ要素は『エレジー』の部分が被っているだけで、ベースはアプリ版モブウマ娘です。

我ながら、話が進まないことに定評が出来そうなペースです。



2021/10/03 09:40
一部修正いたしました
(アダラのトレーナーたちが→今世では誰も)


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第17話:確認しなければならないこと

第14話、第16話に一部修正を行いました。
詳細については各話後書きに記載しています。
このままお読みいただいて問題ありません。


 口の中がカラカラに乾いて行くような感覚がする。血の気があっという間に引いて行って、衝撃でリズムの狂った横隔膜が呼吸を震わせた。自分では制御できなくなったウマ耳が真後ろに引き絞られ、尻尾が脚の間に収まる。

 

 何故だ。何故私が左脚を折ったことがあると、アダラのトレーナーたちが知っている。今世では一度も怪我らしい怪我をしていない。例え私の両親に聞いたとしても、前世での骨折など知りようもないはずだ。

 

「あの、嫌でしたら本当に話さなくていいですからね? 無理はしないで――」

「どうして」

 

 ラフィさんたちが心配してくれている。それ自体はとても嬉しいことだけれど、今はどうでもよかった。それよりも、もっと大事なことがある。

 

「どうして、そう思ったんですか」

「えっと、トレーナーさんたちがノヴァさんの走りを見て、そういう話をしていたので」

「言われてみれば、確かに左脚を庇っている感じがしたんだよね。言われないと分からなかったけど」

 

 今まで私に自覚はなかったが、見る人が見ればフォームが崩れていたらしい。もしかして小学校の運動会の後、毎年のように両親が「どこか痛いところはないか」と心配していたのもそのせいか。

 

 いずれにせよ、アダラのトレーナーたちに問う必要のあることが出来た。

 

「トレーナーさんたちは今、どちらに?」

「トレーナー室に戻っていると思いますけれど……」

 

 ラフィさんが少し戸惑ったような様子で答える。私は肩に添えられたリツさんの両手を退けた。

 

「そうですか。すみません。先に戻っていてください」

「えっ、ノヴァさん!?」

 

 目を丸くしたラフィさんたちを玄関に残して、トレーナー室へ駆け出した。

 

 もしも、本当に彼らがあの人たちなのだとしたら。どの面を下げて私は会いに行こうと言うのだろう。何を言われるだろう。本当は顔も見たくないだろうか。それでも、そうなのだとしたら。言葉の通じなかった前世で謝れなかったことを、今度こそ。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 結論から言って、盛大に道に迷った。トレーナー室へ向かうのは初めてのことであったと言うのもあるが、何よりもトレセン学園が広すぎる。もちろん、案内看板はいたるところに立ってはいるのだ。しかしそれらのほとんどは文字情報だけの簡素なもので、しかもグラウンドなど校外の関係者が立ち寄るような施設への案内がほとんどだった。トレーナー室と言うそれこそチームの身内しか立ち寄らない施設へは、案内用の看板がなかったのだ。どうしてそこをケチった。

 

 どうしたものかと途方に暮れながら、たまたま目についた花壇を見る。花に詳しいわけではないので何が咲いているのかはわからないが、色とりどりの花が良い匂いをさせて咲き誇っている様は、荒れている心を少しだけ落ち着かせてくれる。これもエアグルーヴ副会長が世話しているのだろうか。

 

 1つため息をつく。

 

「どうしたの。ため息なんかついて」

 

 先ほどまで私しかいなかったはずの花壇の傍に、1人のウマ娘がいた。前髪に流星の白いメッシュが入った鹿毛の彼女は生徒会の腕章を巻いており、右耳に赤、黄、青の3色が外側から配されたリボンを付けていた。何故か顔を合わせると嫌な気持ちになって来る彼女とは、どこかで会ったことがあるような気がして少しだけ考え込む。

 

「……入学式の」

「覚えていたんだ。久しぶり。……と言うほどでもないか」

 

 一呼吸分ほどの間を置いて無事に私は思い出した。家族に送る写真を撮ってくれた、親切な生徒会の人である。

 

「こんなところでどうしたの?」

「トレーナー室に行きたいんですけど、道に迷ってしまって」

「……ああ、初めてだと迷うよね」

 

 彼女は苦笑しながら、「校内向けの看板も増やすよう、会長に提案しておこう」と独り言を呟く。

 

「私が案内するよ」

「いいんですか?」

「困っている生徒の助けになることが、生徒会の仕事だからね。ついて来て」

「ありがとうございます」

「まあ、見習いみたいなものなんだけどね」

 

 少し眉を下げながら、彼女は腕章を引っ張って見せる。生徒会と言う文字の下に小さく、『見習心得』と後付けで刺繍がしてあった。

 

「見習い制度なんてあるんですね?」

「いや。中等部だと生徒会役員選挙には出られないんだけど、どうしても力になりたくて。会長たちに何度もお願いして、指名枠で入れて貰ったんだ。この刺繍は、本当ならインチキになるかもしれないって忘れないための、自分への戒めだよ」

 

 人間のできているウマ娘だ。本当に、どうして彼女と話していると惨めな気持ちになって来るのかがわからない。

 

「トレーナー室はこっちだよ。行こうか」

「はい」

 

 私は生徒会のウマ娘の後について行く。彼女が歩いて行く先は、ちょうど私が歩いてきた道だった。盛大に逆走をしていたと気が付いて、まだ春なのにブラウスの首元からパタパタと風を送りたくなるほどに、顔も体も熱くなっていった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「アダラのトレーナー室はここだね」

「ありがとうございました」

「いいよいいよ。じゃあね」

「はい」

 

 ニコニコと笑いながら手を振る彼女に、私も手を振り返す。生徒会のウマ娘が、階段の方へ曲がって姿が見えなくなるまで見送る。そういえば名前を聞き忘れたが、なんとなく今後も長い付き合いになる気がするので、まあ良いだろう。

 

 気を改めて、トレーナー室の扉に向き直る。右手の甲でノックをしようとして、手が震えていることに気が付いた。左手で右手首を掴んで抑え込もうとしても、止まらない。大きく、大きく深呼吸を数度繰り返して、ようやく震えが小さくなる。

 

 今しかない。そう考えて扉を叩こうとした瞬間、引き戸が開いて右手が空を切った

 

「ん? ノヴァちゃん、どうしたの?」

「い、いえ。その……」

 

 引き戸を開けたのは、紗雪さんだった。椅子に座ろうとしたらそこに椅子がなかったような、予期しない展開に頭が真っ白になってしまう。

 

「ん? ノヴァさんですか。どうかしましたか?」

「選抜レース出てからでねぇと、チームには()れねぇぞ」

 

 安城さんが紙の資料から顔を上げて私に声を掛け、大浪トレーナーはパソコンの画面から目を離し、眉間を揉みながら宣言する。

 

「えぇー、別にいいでしょ、お爺ちゃん」

「ここではトレーナーと呼べ言うとろうが。本格化したかどうか確かめないと本人のためにならんから、ダメだ」

「紗雪も先生も、ノヴァさんが置いてけぼりですよ……」

 

 安城さんが呆れたような声で話の流れを戻そうとする。

 

「あっ、ごめんね? 用事があるんだよね?」

「えっと、はい」

「じゃあ、こっちに来て」

 

 手を引かれるがまま着いて行き、トレーナー室の応接用だろうソファに座る。その後で安城さんと紗雪さんが正面、大浪さんがいわゆる誕生日席に座った。

 

「それで、どうしたの?」

 

 紗雪さんが微笑みながら私に問いかける。他の2人もじっと私を見ていた。どうにか口を開こうとするも、まだ動揺が抜けきっていないのか、なかなか声が出ない。

 

「ゆっくりでいいですからね。お茶をどうぞ」

 

 緊張を見て取ったのか、安城さんがテーブルの上に置いてあったポットから紙コップに麦茶を注いで出してくれた。

 

「ありがとう、ございます」

 

 麦茶をぐいっと呷る。緊張のせいか唾液で粘ついていたらしい口の中が、すっきりと洗い流される感覚がした。3人が見守る中、数度深呼吸してから私は話を切り出した。

 

「私の脚のことですけど」

「うん?」

「どうして、折ったことがあると思ったんですか?」

 

 これは、本題ではない。確認のために必要な前置きだ。

 

「うーんと、安城くん?」

 

 私がそれを問いに来ると思っていなかったのだろう。よくラフィさんたちと一緒にいるから、「チームに入れてくれ」と直談判しに来たと思ったのかもしれない。一瞬戸惑いを見せた紗雪さんは、安城さんに矛先を向ける。

 

「根拠はないです」

「えっ?」

 

 思わず声を漏らしてしまう。私のように前世持ちだから見抜いたのかと思ったのに。前世とは関係なく、ウマ娘好きの武さんや解説の細江さんのような、ただのそっくりさんなのだろうか。

 

「ないです。本当に、なんとなく違和感があっただけなんですよ。骨折だと思ったのもただの直感で」

「坊主の言う違和感ってのも重要だがな。怪我の前兆ってことも多い」

「……そう、ですか」

 

 何故骨折だと思ったのかは、問い詰めたとしても分かりそうにないようだ。私のように誤魔化しているのか、それとも本心なのか。判断が付かない。前世持ちだという確信が持てない。

 

「それで、どうなんですか?」

「何がですか?」

「脚ですよ。もしよろしければ、教えてくれませんか?」

 

 安城さんが、じっと私の目を見ている。前世の鞍上そのままな顔つきだけあり、やはりいわゆるイケメンである。私には女神様がいるので惹かれることはないが、一般的には魅力的な人だろう。

 

「折ったことも、捻ったこともないですよ」

「あれ?」

 

 直感が外れたことに首を傾げる安城さんの背中を、大浪さんがバンバンと叩いた。

 

「まあ、そういうこともあるさ、坊主」

「痛いですって」

 

 安城さんは背中を曲げて耐えているが、音の割には痛がっていない。本当に前世のオーナーと鞍上の関係にそっくりで、懐かしい気持ちになる。私は悪あがきのように、確認のために1つだけ質問をした。

 

「安城さん」

「はい、なんですか」

 

 背中を紗雪さんに擦られている安城さんが顔を上げた。

 

「……もし私が骨を折るとしたら、それはいつになると思いますか?」

「ノヴァさんがうちに来たら、の話ですが」

 

 背中を伸ばした彼が、真剣な眼差しをして答える。

 

「そうさせないように指導することが、トレーナーの仕事ですよ」

 

 新馬戦(メイクデビュー)直前、とは答えてくれなかった。やっぱり、私と同じ存在(転生している)と言う確信には至らない。そうである以上、私が謝っても何のことかわからないだろう。私の自己満足に付き合わせてしまうのも悪い。

 

「……そうですか。皆さん、今日はありがとうございました」

「あっ、うん。いつでも来ていいからね」

「ほどほどならな」

「お爺ちゃん!」

「トレーナーと呼べ!」

「あはは……。やかましいですけど、悩みくらいならいつでも聞きますからね」

「ありがとうございます」

 

 トレーナー室の扉へ歩いて行き、お辞儀をして私は出て行った。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「あっ、ノヴァさん。おかえりなさい」

「はい。ただいまです」

 

 寮室の扉を開くと、ブラウスとジャンパースカートに着替えたらしいラフィさんが出迎えてくれた。タイキシャトルのビッグぱかプチを抱えて、ベッドに腰かけている。脚をパタパタとさせている様子が本当にかわいいなぁ。

 

「顔色が悪いまま走って行ってしまったので、心配しましたよ?」

 

 ラフィさんの形の良い耳が、ぺたんと頭についている。

 

「ごめんなさい……。今は大丈夫です」

「そうみたいですね。良かったです」

 

 ほっとしたのか、耳を立てたラフィさんが蕾の綻ぶような笑顔を零す。滅多なことでは両立しない美しさと可愛さという2つの概念そのものを浴びせられ、私の頬が熱を持ち始めた。ラフィさんの笑顔はそのうち万病に効くようになるだろう。

 

「今日は先にお風呂にしましょうか。私もノヴァさんも、全力で走りましたからね」

 

 ぱかプチを学習机の棚に戻したラフィさんはそう提案すると、いそいそと風呂へ向かう準備を始めた。今日もまた、理性と煩悩との戦いの火ぶたを切る時間が来たのだ。




切りが良かったので少し短めです。


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第18話:初めての『春のファン大感謝祭』

 ルドルフ会長の四字熟語に満ちた開会宣言と共に、トレセン学園の春のファン大感謝祭は始まった。新入生のタイム測定をした週の土曜日、その朝のことである。クラスメイトの子たちと一緒にグラウンドに並んで開会式に参加していた私は、それが終わるや否や観客席にいたラフィさんのもとへ駆け出していく。

 

 トレセン学園の行事なのに、どうしてラフィさんが観客席側にいるのか。それは、今週から再来週にかけてレースを控えているような、クラシック級やシニア級の子たちは春のファン大感謝祭やその準備への参加を免除されているからだ。分かりやすくGI競走で日程を表すなら、中山グランドジャンプ、皐月賞、春の天皇賞に出るような子である。ラフィさんは再来週に京都の未勝利戦を走る予定なので、その対象だ。

 

 免除と言うだけで別に参加しても良いのだが、ラフィさんは先週のレースに出ていて疲労が溜まっているし、もしトレーニングをしようとしても出来ないのでお休みである。何故なら、春のファン大感謝祭は一般の学校で言えば体育祭に当たる行事だ。グラウンドは種々の競技に使われるし、プールや坂路も一般向けの体験会に使用されてしまうので、わざわざ校外まで行かないと練習をする場所がない。それなら休養日に当ててしまえ、とアダラでは考えたらしい。

 

 ラフィさんは私が真っ直ぐ近づいてきていることを認めると、華が開くような笑顔で手を振ってくれた。『女神様の更に上』はどう表現すればいいのか、私の語彙力ではわからないことが恨めしいくらいだ。

 

 私が参加する最初の競技まではまだ時間があるので、それまではラフィさんと一緒に、アダラのチームメンバーたちや私とラフィさんのクラスメイト達を応援する予定である。

 

 同じクラスの子たちと一緒に応援しなくていいのか、と金曜日にリツさんから尋ねられたが、開会式が始まる前に「競技の集合時間には一旦戻って来てね」と言われたくらいだ。入学してまだ2週間経っていないわけだが、どうもクラスメイト達からも「あの子はそういう子」扱いされているらしい。クラスではごく普通に振舞っているのに、何故だろうか。

 

 それはともかくとして、風紀委員に怒られないギリギリの速度で驀進していた私は、ちょうどラフィさんの目の前で止まれるように足を緩める。急停止は脚に悪いので、普段から意識して避けなければならない。

 

「ラフィさん、お待たせしました!」

「全然待っていませんよ。隣にどうぞ」

「……はい!」

 

 ……ニコニコしながら隣の席をポンポン叩くのは破壊力高くないですか、ラフィさん!?

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 トレセン学園生にとって、入学して最初のファン感謝祭と言うものは、クラスの全員が1つの行事に参加する唯一の機会となりうるものだ。リボンエレジーのように、早い子なら新年度最初の選抜レースでチームに所属し、以降の行事はチーム側で参加することになる。わざわざGIレースと日程が被るところに感謝祭をねじ込んでいるのは何故か。おそらく、選抜レースの日程の都合上ここでやっておかないと、クラス全員が一丸となって1つのことに取り組む機会が全く無くなってしまう可能性があるからではないか。

 

 そのような話を事前に知らされているためだろう。入学して2週間も経っていない割には、クラスの団結力が強いように思う。クラス対抗綱引きの決勝、その待機列で私は勝負の前に相応しくない余計なことを考えていた。

 

 ウマ娘にとって、綱引きと言う競技は割とフェアな競技であると思う。理由は2つだ。1つ目は、前々世で設定上どうだったのかは知らないが、今世ではウマ娘の体重はヒト並みであること。故にウマ娘が規格外の力を持っていたとしても、引っ張る力には垂直抗力が影響を与える地面との摩擦力という上限がある。2つ目は、団体戦であるので、ヒシアケボノのように大柄な子でも、ナリタタイシンのように小柄な子でも人数を揃えた時点でその影響は小さくなること。つまり、本格化を迎えているか、体格差がどうかにかかわらず、団体戦である綱引きならお互いに同じ土俵で戦えるのだ。

 

 係りの声に従い、クラスメイトに続いて綱の横まで歩いて行く。

 

「お姉ちゃーん! がんばれー!」

 

 その時、ほんの数週間前まで毎日聞いていた声がした。ピクリと動いたウマ耳に従いそちらを見ると、そこには美月()とお母さんの姿がある。私が気が付いた、と言うことが伝わったのだろう。美月は両手で大きく、お母さんは一脚に乗ったカメラを支えながら片手で小さく手を振ってきた。

 

 ……負けたくない。

 

 来るはずがない、と思っていた家族が来ている。もし負けたら、きっとがっかりする。だから、勝たなければいけない。

 

 綱を両手で持ち、審判の動きに集中する。感謝祭の喧騒が遠くなっていき、静寂が訪れる。旗を高く掲げている審判の腕に力が入り、振り下ろすための加速を始めた瞬間に私は綱を引っ張り始めた。脳から神経信号が体に伝わっていくタイムラグと、旗が振り下ろされ切るまでの時間は狙い通り完全に一致し、理想的なタイミングで私は綱を引く。

 

 ほんの30cm程度だろうが、うちのクラスが有利に立つ。しかし相手もやるもので、そこ止まりだ。お互いに力んで声にならない声を喉から漏らし、強い張力のかかった綱が軋む。時折数cm程度動くことを除けば、数十秒近く均衡状態が続き、少しづつ集中の質が低下していく。

 

 今年最も長い綱引き勝負の決着は、一瞬だった。こちらの力が一瞬だけ不揃いになった隙を突いて、相手が一気に牽引する。必死に踏ん張るが、体勢が崩れてしまった以上は力を出し切ることなどできるはずもない。そのままずるずると引っ張られて。

 

 ……負けた。負けた? また負けたのか。

 

 頭がそれで一杯になって、ただ立ち尽くす。クラスメイトに引っ張られて、出口へ向かう。

 

「ノヴァちゃん、妹が来ているみたいだよ」

「えっ? ……あぁ、ありがとう」

「どういたしまして」

 

 競技会場から捌けた後、クラスメイトに声を掛けられてようやく我に返った。そのクラスメイトは別の子と合流すると、「ノヴァちゃん、あんなにショック受けるくらい負けず嫌いだったんだね」と雑談しながら離れていく。

 

 入れ替わるように、身軽そうな美月と大きな白い望遠レンズの付いたカメラを担いだお母さんがやって来た。

 

「お姉ちゃん、惜しかったね」

「……負けちゃって、ごめんね」

「なんで謝るの?」

 

 美月が首を傾げ、さらさらとしたセミショートの髪が流れる。

 

「ノヴァ、いつも言っているでしょう? 『負けたからって全部ダメになったりしない』って。2着なんだから、もっと喜んでいいのよ?」

「でも、負けたし」

「全く、もう。本当に負けず嫌いなんだから」

 

 負けず嫌いが過ぎる、と言うことを両親はとても危惧している。それで精神状態を悪くして退学したウマ娘を見てきたからだろう。闘争心も度が過ぎれば毒になると言うことだ。

 

「そんなことより、なんで来てるの?」

「来ちゃダメ?」

「いや、そんなことはないけど……」

 

 我ながら露骨すぎる話題転換だが、お母さんは乗ってくれた。

 

「羽田盃、水曜日でしょ? かしわ記念も近いし。トレーニングはいいの?」

 

 両親は川崎のトレーナーで、毎年のように重賞ウマ娘を出す上澄みの部類である。当然、今年も南関東の三冠路線を狙っているはずだ。南関東の地方競馬(ローカルシリーズ)は平日開催だが、一冠目の羽田盃に出るならこの土日は追込みのトレーニングをしているはずだ。

 

「うちの子たちも快く送り出してくれたし、今日はお父さんに任せてるから大丈夫よ。それに、娘の晴れ舞台に親がどっちも顔を出さないなんて、寂しいじゃない」

「……そう」

 

 気恥ずかしくなって、そっぽを向いた。両親に愛されていると言う実感はある。だからこそ、勝って、もっと喜んでほしかったのに。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「娘がいつもお世話になっております」

「いえいえ、私の方こそノヴァさんにはいつもお世話になっています」

 

 お母さんと美月を連れて、ラフィさんと合流したところ、挨拶合戦が始まった。余計なことを言われないか冷や冷やしたが、今のところそういうことはない。美月が唸りながら「確かに美人だ」と呟いているくらいだ。予想した中でも最悪のパターンなら、ここで「お姉ちゃんを誑かしたのは貴女ね!」と突撃していたので、肩透かしを受けたような気持ちだ。

 

「ラフィ、ノヴァちゃん。どう? 楽しんでる?」

「リツ、話しているところに割り込んだらダメですよ」

 

 そうこうしているうちにリツさんたちアダラのメンバーも一緒になる。私たちはそのまま、その時出場している知人を応援したり、競技のために一時席を外したり、また戻って来たりを繰り返し、お昼間際を迎えた。

 

 春のファン大感謝祭は体育祭に相当すると言ったが、お化け屋敷や屋台などのどちらかと言えば文化系の出展もないわけではない。特に屋台は、ウマ娘には健啖家が多いと言うこともあって春でも充実しているようだ。

 

 私はみんなと一緒に、今日のお昼を何にしようかと目移りさせながら屋台が出店している通りを歩いていた。焼き立て熱々だろう粉ものにかけられたソースの匂い、尻尾までぎっしり詰まっていそうな鯛焼きの甘い匂い、タレに付け込まれた鶏肉や牛肉の焼ける匂い。パッとわかる匂いだけでもお昼前の空腹には辛いくらいだ。いろいろあって迷ってしまうが、その中でもひと際美味しそうな匂いのもとになっている屋台を指さし、みんなに提案する。

 

「あそこの焼きそばとかどうですか?」

「良いですね。ゴルシ先輩の焼きそばはとても美味しいんですよ」

「やった、まだ短い! ゴルシの屋台はいつも行列なんだよ!」

「えっ、あっ、本当だ。ゴールドシップ先輩だ」

 

 女性としては非常に目立つ長身と腰まで届く葦毛の美人料理人は、よく見たらゴルシだった。帽子や耳当てをしておらず、余りにも調理姿が様になっていて気が付かなかった。

 

「やっほぅ! 並ばずにいられるかぁ!」

「待ちなさい、リツ!」

 

 ローズさんがリツさんの後を追って走り出した。私も行きたいが、今は集団行動中である。グッとここは堪え、ラフィさんたちの方を見ると、努めて冷静に一言だけ声に出した。

 

「どうですか」

「リツも行ってしまいましたし、そうしましょうか」

「そんなに尻尾振るくらい食べたいんだもんね」

「耳でバレバレだねぇ」

 

 トモエさんとネルさんに指摘されて意識を向けると、新しい玩具を貰った犬並みに尻尾がぶんぶん振れていて、耳は鉄板と小手のぶつかる音を聞こうとして思いっきり屋台の方を向いていた。アダラのメンバーとあっという間に打ち解けたお母さんと美月も、微笑ましいものを見るようにニコニコとしている

 

 顔に熱が登って来るのを感じながら、右手で耳の向きを戻し、左手で尻尾を掴んで抑える。

 

「恥ずかしがらなくても、可愛らしくて良いと思いますよ?」

「色々筒抜けなのは嫌です……」

「そうですか?」

 

 考えていることや感情が顔と耳と尻尾に出やすい、と言うトレセン学園に来てから自覚した癖は、治せる気がしないし無駄な努力かもしれないが抗いたいものでもある。何というか、子供っぽくて恥ずかしい。前々世はあまり覚えていないが、少なくとも前世込みで30年以上は生きているはずなのだから。

 

 次は羞恥で垂れてしまった耳をきちんといつも通りに戻そうとして悪戦苦闘していると、ラフィさんが尻尾を振りながら目の前まで歩いて来て、右手を差し出した。

 

「ノヴァさん、行きましょう? ゴルシ先輩の焼きそばは私も食べたいんです」

「……はい」

 

 間違いなく気を使われていると察しながら、私はラフィさんの手を取った。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「お姉さまー!」

 

 リツさんと彼女を追って行ったローズさんに合流し、ゴルシの屋台に並んだ直後、遠くから大きな声がした。何事かと思ってそちらを見ると、レトロ調のフレアワンピースを着た黒鹿毛のウマ娘が1人、真っ直ぐこちらに向かって突撃してきている。

 

 あれは周りが見えていなさそうだと考えて、私はラフィさんの手を引いて一緒に脇に避けようとした。したのだが、そのウマ娘はなんとこちらに向けて針路を修正してきたのだ。猛スピードで走り寄ってきた彼女は、私たちの目の前で急減速して勢いを殺すと、そのままラフィさんに抱き着き、女神様の柔らかそうな頬に頬ずりを始めた。ラフィさんは私の手を離し、大型犬をあやすようにその子の背中を優しく叩く。

 

「お姉さま! お会いしたかったです!」

「あの、ジェニー? 喜んでくださるのは嬉しいですけれど、苦しいです……」

 

 ……羨ましい!

 

 いや、それはどうでもいい。全くどうでもよくないが、どうでもいいと言うことにする。ラフィさんを堪能している黒鹿毛のその子は、よく見るとラフィさんに顔立ちがよく似ている。ラフィさんよりもほんの少しだけ身長が高く、黒い耳カバー(メンコ)をした少女は、今の一連の流れを考えるとラフィさんの妹なのだろう。左耳の根元には細い緑色のリボンが止めてあった。

 

「ジェニー、大人しくしなさいと言いましたよね?」

「うっ、はい……」

 

 その後ろから来たのは、やはりラフィさんに顔立ちの似た葦毛のウマ娘だ。しかめっ面をした彼女は、落ち着いた色合いのニットとマーメイドスカートを着た、大人の女性と言った雰囲気である。こちらはラフィさんよりもやや身長が小さいように見える。やはり緑色の、大きなリボンが左耳に巻いてある。ちなみに、ラフィさんの妹は注意されても止めるそぶりを見せなかった。

 

「サンドラお姉さま、お店はどうしたのですか?」

「今日はお休みにしました。ジェニーがどうしても感謝祭に行きたいと言うものですから」

 

 まだ熱烈な勢いで再会を喜んでいるその子へ『全くしょうがない子だ』とでも言うように、ラフィさんのお姉さんが溜め息をつく。直後、ラフィさんの隣にいた私に気が付いたらしい。こほんと1つ咳払いをすると、彼女は自己紹介を始めた。

 

「お恥ずかしいところをお見せしました。メジロラフィキの姉、メジロサンドラと申します」

「ラフィさんの同室で、キャンドルノヴァです。よろしくお願いします」

「あら? アダラではないのですね」

 

 サンドラさんが首を傾げた。アダラのウマ娘と一緒にいるから、そう見られたのだろう。

 

「本格化がまだなので」

「そういうことですか。ラフィは先輩としてうまくやっていますか?」

「親切で優しくて、とても良い人です!」

「そうですか。そうですか。あの子はなかなか連絡をくれませんから。それは重畳です」

 

 顔を合わせてから初めて、サンドラさんの表情が柔らかくなった。ラフィさんの妹らしき子が婉曲的に言って『お嬢様らしくないこと』をしているので、それも仕方ないだろう。

 

 それにしても、ラフィさんなら家族にはまめに連絡を取りそうな印象があるので、意外である。

 

「お姉さま、私のことはいいですから」

 

 まだぐりぐりと妹らしき子に擦りつかれているラフィさんが、サンドラさんに抗議をする。その甲斐があったのか、あるいは少し苦しそうなラフィさんへの助け舟なのか、サンドラさんはその子に声を掛けた。

 

「ジェニー、ご挨拶なさい」

「もう少し、再会の喜びに浸らせて貰ってもいいではないですか」

「公衆の面前で目に余りますから」

「はーい……」

 

 彼女はラフィさんから離れると、すっと姿勢を正す。

 

「メジロジェニファーと申します。ラフィお姉さまの妹に当たります。どうか気軽に、ジェニーとお呼びください」

 

 ……メジロの教育って、すごいんだろうな。

 

 先ほどまで久しぶりに飼い主に会った大型犬を思わせるほどに興奮していたとは思えないほど、ジェニーさんは楚々とした完璧なお辞儀をした。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 『ゴルシちゃん印の鉄板焼きそば』と言う割とふざけた商品名で売っていた焼きそばは、噂に違わず本当に美味しい。鉄板焼き故の少しカリカリと焼けた蕎麦と香ばしいソース、良く火の通った豚肉やしんなりと熱が通った野菜は、たとえメニューがそれだけの専門店だとしてもやっていけるだろうと思わせるものだ。

 

「ねぇ、お母さん。ゴルシちゃんって、現役のはずだよね……?」

「そうね。いったいどれほどの修練を積めば、これだけの焼きそばを……」

 

 美月とお母さんも、その味に目を丸くして驚いている。前々世持ちの私や、トレセン学園生なら「だってゴルシだし」で済ませてしまうようなことでも、そうでない人にとっては驚くべきことらしい。とはいえ、だ。

 

「どうですか、ノヴァさん。とても美味しいでしょう?」

「はい。ここまでだとは思っていませんでした……」

 

 私の隣に座るラフィさんが問いかけて来る。間違いなく美味しいと言う確信はあった。しかし、いくらゴルシでも、ここまでのレベルのものを出してくるとは思っていなかったことは事実だ。

 

「ゴルシ先輩は、たこ焼きや寿司の屋台を出していることもあるんです。聖蹄祭で一緒に行きましょうね」

「はい!」

 

 ラフィさんは美しい笑顔を浮かべて私を誘ってくれる。改めて思うが、こんなに綺麗で優しい先輩が同室だなんて、一生分の運を使い果たしているかもしれない。

 

「あっ」

 

 唐突に、ラフィさんの隣――私と反対側のそこに座るジェニーさんが声を漏らした。あれだけお姉さまお姉さまと甘えていたのに、今思えば食べ始めてからやけに静かだった彼女は、たった今気が付いたと言わんばかりに空になったプラスチック容器を見ている。

 

「どうですか、ジェニー。美味しかったでしょう?」

「……そうですね」

 

 ジェニーさんは、少し恥ずかしそうにラフィさんに同意した。食べる前は『どうせお祭りの屋台でしょう?』と言わんばかりの態度だったからだろう。

 

 その後しばらく沈黙していた彼女が、サンドラさんに話しかける。

 

「サン姉さま」

「どうかしましたか、ジェニー?」

「その、おかわりを買いに行っても、良いですか」

 

 ラフィさんに似ているだけあって、もじもじとしている様は実に可愛らしい。しかしである。

 

「あれに今から並ぶのは、無理だと思いますよ」

 

 サンドラさんは一言、そう答えた。ゴルシの屋台にはすでに長蛇の列が出来ており、生徒会が整理券を配る事態にまで発展していた。私と何かと縁のある例の生徒会ウマ娘も忙しそうにしている。

 

「そう、ですか。そうですね……」

 

 しょげた様子の彼女を見て、自然と私は動き始めていた。年下の子の笑顔を守ることが、お姉ちゃんたる者の使命である。私はラフィさん越しに彼女に声を掛けた。

 

「あげましょうか」

「えっ?」

「食べかけで良ければ、あげます」

「あなたはどうするんですか」

 

 ジェニーさんは首を傾げて問う。ここは大人らしく一瞬で言い訳を考え、私はそれを口にする。

 

「午後も動くので、食べすぎると動けないんです。もし良ければ、貰ってくれませんか」

「……そ、それなら仕方ありませんね。貰ってあげます」

 

 つんと澄ました顔だが、揺れる尻尾を隠せていない。口元が緩んでしまいそうな可愛らしさだが、私自身もこう見えていることがあるのかと思うと恥ずかしくなってくる光景だ。

 

「ありがとうございます。ジェニーさん」

 

 少し惜しむ気持ちがないわけではないが、焼きそばを渡す。それを受け取ったジェニーさんが、私の目を見た。

 

「ジェニーで構いません。丁寧語も、不要です」

「そうで――そう?」

「はい、来年には後輩になりますし、同志のようですから」

 

 ジェニーはラフィさんを一瞬だけ見た。

 

 ……なるほどね。

 

 ラフィさん推しの同志、と言うわけだ。この短い間に見抜くとは、なかなかやりおる。それに、ウマ娘の中でも上澄みであるトレセン学園を指して、『来年には後輩になる』と言ってのける自信に満ち溢れた子は嫌いじゃない。どちらからともなく、私たちは固く握手を交わす。

 

「いったい何を通じ合っているんですか……?」

 

 ラフィさんの困惑した声が、私たちの間からした。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 お祭り、と言うものはあっという間に終わってしまうものだ。私はラフィさんより一足早く、寮の大浴場で今日一日の疲労をお湯に溶かしていた。お湯から身体に流れ込んでくる熱と浮力を感じながら、私は何をするわけでもなく、ぼんやりと今日の出来事を思い返す。

 

 結局、私が参加した競技は全て準優勝(2位)と言う結果に終わった。今世でも私の疫病神振りは健在らしい。美月とお母さんは「よく頑張った」と笑顔で褒めてくれたが、勝ち切れていればもっと喜んでくれただろう。その場は自分なりにどうにか取り繕ったが、今思い返しても虫唾が走って来る。

 

 久しぶりに美月やお母さんと会ったり、ほぼ間違いなく後輩になるだろう子や、トレセン学園の卒業生であるそのお姉さんと顔を合わせたりと、良いことも多い日だったことは確かだ。

 

 しかし、もっと私が頑張れば、みんなにとって更に良い日にすることはできたはずなのだ。それがどうしても悔しかった。

 

 湯船のお湯を掬い、少しだけ溜まってきていた涙を誤魔化すように目元を洗う。お湯が熱いのか、涙が熱いのか、私にはわからなかった。

 

 隣で誰かがお湯に浸かる音がする。結構空いているのにわざわざ隣に来るだなんて、変な人もいるものだと思ってそちらを見る。

 

 張りのある白磁のような肌。すらりと伸びたしなやかな脚。女性らしい丸みを帯びた大きめのお尻から、水中にあってなお艶やかな鹿毛の尻尾が伸びている。皮下脂肪の下にアスリートらしい引き締まった筋肉を感じさせるお腹の上で、白魚のような指が緩く組まれている。大きすぎず小さすぎない、形の良く美しい胸は、全くないわけではないと言う程度しかない私からすれば、とても羨ましいものだ。薄く華奢な肩は強く抱きしめたら折れてしまいそうで、首も本気を出せば手折ってしまえるだろう。腰まで届く長い鹿毛の髪はナイロンタオルでまとめられていて、三つ編みにしているいつもと印象が違う(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。翠色のぱっちりとした印象的な瞳が私を見つめている。

 

 間違いなく、ラフィさんだった。女神様の産まれたままの御姿を、私は直視してしまったのだ。ラフィさんは微笑みながら、優しい声色で話しかけて来る。

 

「感謝祭、お疲れさまでした。ノヴァさん」

「……ありがとうございます」

 

 今まではお風呂でラフィさんが隣にいて正気を保てる自信がないので、ラフィさんが少し寂しそうにしても、恥ずかしがりの演技をして自主的に距離を取っていたのだ。どうしてラフィさんは、今日になって急に距離を詰めてきたのだろう。いずれにせよ、隣に来られてから慌てて上がると、誤解を生みかねない。鼻から噴き出て来そうな赤い情熱と、心の中の種牡馬が掛かり気味に出す馬っ気を必死に我慢しながらお風呂上りまで過ごす羽目になり、悶々とした気持ちは眠りに落ちるまで続いた。




この時点のノヴァが知りようもないので、本文中に書き切れなかったこと

1.ノヴァはラフィとべったりなのを、美浦寮で頻繁に目撃されていることに気が付いていないらしい。

2.お父さんとお母さん、どちらが感謝祭に行くかで熾烈なじゃんけん戦争があったらしい。



2022/09/10 16:00
一部表記をシンデレラグレイの板書に合わせて変更(カワサキ→川崎)


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第19話:とある土曜日の話

作中1か所だけ『公園』を『公苑』と表記していますが、元ネタとなった施設の表記に合わせた意図的なものです。


 ファン感謝祭から1週間が経った土曜日のお昼前、根岸記念公苑(旧横浜レース場)のターフの上を私は駆けていた。どうして今日ここに来ているのかと言えば、3つ理由がある。1つは、スタークさんと先月に交わした約束を守るため。2つ目は、感謝祭に来れなかったお父さんに、ついでに顔を見せた方がいいかなと言う娘心。そして3つ目は、トレセン学園だと走り足りないからだ。正直に言って、これが最大の理由である。

 

 トレセン学園には多くのウマ娘がいると言うことは、周知の事実だ。チームに所属しているウマ娘だけでも相当の人数であるため、トレーニング施設の予約枠はほとんど常に埋まっている。しかも、キャンセルが出て空いたとしても、次走の時期が迫っているような子、重賞に出るような子が優先にされるシステムだ。チームに所属しないウマ娘たちは、授業用に確保された場所と時間以外ではなかなか利用機会が来ないのである。

 

 「お願いしてアダラの練習に混ぜて貰う」と言うようなことは、1回切りなら体験見学ですと言い張れるだろう。しかし、規則の抜け道のようなものであるし、大浪トレーナーはそれを許すような人でもない。

 

 三大欲求と言う言葉がある。ウマ娘の場合は追加で走欲とでもいうべき本能があるのか、正直言ってそろそろ我慢の限界だった。小学校の高学年になってからは、毎週好きなだけこの芝の上を走っていたのだ。

 

 踏みしめられて傷ついた芝の青い匂いと、夜の間に吹いた海風が持ち込んだのだろう微かな潮の匂いが、久々に嗅覚を刺激する。それらを含んだ風を纏い、私は第4コーナーを抜ける。

 

 第3、4コーナーで脚を溜めて、最終直線で二の脚を使う。そういう走り方は、今の私にはできない。そうしようとしても脚が竦んでしまうことは、入学前の最後にこの公園へ来たときに試して分かっていた。そうである以上、私にできることはラップタイムを維持したまま決勝線を駆け抜けることだけだ。

 

 体内時計に従ってペースを守り、ゴールまで300mもない距離を走り抜ける。ゴール板の前を超えて少し走った後に足を緩めると、私はいつの間にか浅くなっていた呼吸を意識して深くした。息の入りの良さは、前世でも評価されていたことだ。数十秒程度で息を整えると踵を返し、ゴール直後の急勾配な下り坂――今は逆方向に歩いているので上り坂を登る。今日はこれで切り上げるつもりだったこともあり、残っている体力も日常生活に必要な最低限分を除けば使い切るように走った。そのせいか、脚が鉛のように重い。

 

 ひいひい言いたくなる気持ちを抑え、やせ我慢してなんとか坂を登り切る。足元が平らになると共に筋肉への負荷が下がり、脚に溜まった二酸化炭素や乳酸を血流が運び去っていくような感覚がし始める。

 

 ……この間、乳酸は疲労物質ではないと読んだような。

 

 前々世や前世がある分、疲れて判断力が落ちているとそちらで学んだ常識(偏見)に引っ張られてしまう癖がある。競走ウマ娘はアスリートでもあるので、正しい知識を武器とすることが大切だ。引っ張られないレベルまで、きちんと学び直しておかないといけない。

 

 そんなことを考えながら歩いていると、ゴール前で待っていた鹿毛のウマ娘――スタークさんが、ストップウォッチをこちらに見せながら話しかけて来た。

 

「ひと月前よりも少し速くなってるな。年末までには本格化するんじゃあないか?」

「わかるんですか?」

「いや、勘」

「えぇ……?」

 

 スタークさんのいる会社の企業機密的な何かがあるのかと思いきや、そうではないらしい。『勘と言うものは無意識に蓄積した情報からの判断である』と聞いたことはあるが、勘で話される側としては「うそでしょ……」と言いたくもなる。

 

「いや、個人差もあるし、難しいんだよ」

「それはそうですけど」

「大丈夫大丈夫。私の勘はそこそこ当たるんだ。信じとけって」

「じゃあ、外れたら何かください」

「うーん、がめつい」

 

 スタークさんは苦笑いをしてそう言った。

 

 欲深いことを言ったが、スタークさんの予測はおそらく当たるだろう。前世で1つ上の世代だったエレジーさんは今年中にデビューするだろうし、そうなれば私も来年中には競走者登録をしてジュニア級の競走ウマ娘になるはずである。

 

 ……ジュニア級のうちにデビューできるかは別だけど。

 

 以前に今世のレース結果を確認したとき、サイレンススズカもライスシャワーもレース中に競争中止級の怪我を負っていることが分かっている。2人とも現在は復帰できているとは言えども、私も、そしてラフィさんも同じようになる可能性は十分にあるわけだ。特にラフィさんのそれは、即死だ。どうやってラフィさんの運命を捻じ曲げるのか見当もついていないと言うのに、油断なんかできるはずがない。

 

 もちろん、何もせずとも運命が変わる可能性はあるだろう。前世では10年単位で世代が異なるはずの私とラフィさんが、先輩と後輩と言う形でトレセン学園に通っているのだから。しかし、楽観的に構えてダメでした、は洒落にならないのだ。

 

 いずれにせよ、これは今考えることではない。そう思い私は、目の前のスタークさんに訂正の言葉を掛ける。

 

「冗談ですよ」

「そうかい。まあ、デビューしたら靴の2、3足くらいはやるよ。当たるにしろ当たらないにしろ、何足も履き潰すだろうしな」

 

 予想だにしなかった言葉に、一瞬何を言っているのか分からなくなった。一拍置いて何を言われたのか理解した私は、慌てて冗談だと再度強調する。

 

「えっ、あの、だから冗談です」

「良いんだよ。やるっつってんだから貰っとけ。『私はあの子が小さいころから大物になると思っていました』って後方師匠面をさせろ」

「でも……」

「でももだってもない。私がそうすると決めたんだ。ノヴァはただ走ればいいんだ」

 

 スタークさんは屈み、私と目線の高さを合わせる。

 

「前も言っただろ。『ノヴァならオープン戦で勝てる』って。別に条件戦でも良し。重賞ならなおさら良し。GIだったら極上だ。だから、勝ってあたしには縁のなかった美味い酒を飲ませろよ。もう1本は買ってあるんだからな」

 

 そう言って、スタークさんはにっかりと笑った。

 

 期待、されている。体の芯からじんわりと暖まるような熱を持つ嬉しさと、それをまた裏切るかもしれないことに対する脳の髄に液体窒素を流し込んだような怖さ、それらの感情が自分でもわからないくらいごちゃ混ぜになり、頭で処理しきれなくなる。たったひと月前と同じようなことを言われているだけなのに、同じように目頭からも目尻からも涙が零れていく。

 

「だから泣くなって!? 本当涙脆いやつだなぁ!」

 

 ひと月前と同じように、スタークさんはハンカチを取り出して私の顔を拭い始めた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 薄曇りの空が、浴びていると意外と暑い春の日差しを遮っている中、私は何度目かわからない溜め息を吐きながら家への道をとぼとぼと歩いていた。

 

 ……またスタークさんの前で泣いちゃったなぁ。

 

 期待されると言うことに対して、どうにも感情の制御が上手くいかない。前々世の記憶は、2回も転生しているせいなのか、馬に関すること以外は前世で思い出す機会が少なかったせいなのか、どちらが原因かはわからないが朧気だ。しかし、ここまで感情面で幼くはなかったと思う。「来月もまた来ます」と約束はしたが、どのような顔をして会えばいいのか。

 

 また一つ溜め息を吐いて角を曲がると、周りの建物よりもほんの少しだけ立派、に見えるらしい我が家が見えて来る。幼い頃、小学校の集団登校班が同じだった子がそんなことを言っていたはずだ。私にはよくわからないが、周りの子たちも同意していたし、そうなのだろう。

 

 事実として勝手知ったる家の門を通り、屋外の水道で念のため一度顔を洗う。泣いた痕跡が残っていれば、心配を掛けてしまうかもしれない。

 

 タオルをリュックから取り出すのが面倒で、周りに誰もいないことを確認してからシャツの首元で顔を拭った。少し汗臭く、失敗だったかもしれないなと思いながら、私は首に下げておいた鍵で玄関を開ける。鍵の回る音がした瞬間に、私のウマ耳がドタバタとした足音を捉える。それは、丁度私が扉を開くと同時に玄関に到達した。

 

「ただいま」

「おっかえりー!」

 

 私の姿を見た美月()が、勢いよく抱き着いてくる。3つ年下、小学4年生と言うこともあり、流石にまだ私の方が身長は高い。しかし、発育面ではもう希望がない私とは違い、美月はこれから伸びていく年頃だ。近い将来には身長だとか胸の大きさだとかでも追い越されて、どちらが姉か分からなくなるかもしれない。

 

 ……気にしてなんか、ないけど。

 

 もちろん、そんなことはおくびにも出さない。妹がすくすく成長できるようにすることが、大人(前世持ち)として、何よりも姉としての使命である。

 

「この間会ったばかりでしょ」

「だって、学校でもお家でもお姉ちゃんがいないんだもん!」

 

 美月は私を抱きしめたまま、まだ私がリード出来ている身長差の分首元に顔を埋めてそう言った。

 

 だいたい2か月前の卒業式までは、家はもちろん学校でも一緒だったのだ。寂しい思いをさせてしまっているのだろう。自分のことに一杯一杯で、美月の気持ちまでは気が回らなかったなと反省しながら、可愛い妹を抱きしめる。

 

「全く、しょうがないなぁ」

「んへへ」

 

 美月の頭を撫でてあげていると、再び廊下の扉が開く。まだ達成できていなかった今日の2つ目の目的、お父さんが嬉しそうな顔をして現れた。最後に会ったときと変わりなく、元気そうに見える。トレーナーと言う職業は忙しいので疲労を溜めていないか心配していたが、杞憂だったようだ。

 

「おかえり、ノヴァ」

「ただいま、お父さん」

「元気そうでよかったよ」

「お父さんもね」

「ありがとう。お昼は何がいい?」

 

 家で一番料理が上手いのは、お父さんだ。その気になればお店を開けるだろうレベルのそれは、トレーナーとして管理するウマ娘の栄養面や、美味しい食事を摂ることによる精神面のサポートを考えて覚えたらしい。故にお父さんにお任せでも全く問題はない。ないのだが、「なんでもいい」と言うのは、料理を作る人にとって良くないらしい。うーん、と少し悩んで、私は答えた。

 

「フレンチトーストがいいな」

「うん。わかった。ノヴァはシャワーを浴びて来なさい」

「はーい」

 

 私は抱き着いたままの美月をウマ娘の腕力で持ち上げると、そのままお風呂へと向かった。感謝祭ではあまり相手をしてあげられなかったし、久しぶりに構い倒してあげよう。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 晴れ上がった空が群青色と茜色の美しいグラデーションに染まった頃、私は美浦寮の敷地に入り、北棟の玄関へ入った。その時、見覚えのある艶やかな三つ編みの後ろ姿が目に入り、思わず声を掛ける。

 

「ラフィさん、ただいまです。おかえりなさい」

「あっ、ノヴァさん。おかえりなさい。私も今帰ったところです」

 

 ジャージ姿のラフィさんはくるりとその場で振り返る。足取り軽く駆け寄ると、ラフィさんと一緒にふわりと動いた空気はなんだかいい香りがするような気がした。

 

「ご家族の方はお元気そうでしたか?」

「はい。この間会えなかったお父さんも元気そうでした!」

「そうですか。それはよかったですね」

 

 ニコニコと笑顔のラフィさんに私は今日1日の出来事を話しながら、2人並んで部屋へと戻っていく。もちろん、公園で泣いたことは恥ずかしいので伏せたけれど。

 

 すると、話の流れでラフィさんが旧横浜レース場に行ったことがないことが分かった。

 

「ラフィさんは、あの公園に行ったことないんですか?」

「はい。有名だとは聞きますが、本邸からでは遠くて。小さい頃から、走りたいときはメジロ家で持っているトラックに行っていましたね。だいたいお姉さまたちの後をついて走っていました」

 

 ……小さい頃のラフィさん、間違いなく天使のような子だったろうなぁ。今度アルバムとか見せて貰えないかなぁ。

 

 などと頭の片隅で考えながら、私はラフィさんを誘う。

 

「じゃあ、今度一緒に行きませんか? 高低差が凄いコースなので結構トレーニングになると思いますし、博物館もあるので勉強にもなりますよ!」

「そうですね。お休みの日に一緒に行きましょうか。案内、お願いしますね」

「もちろんです!」

 

 鼻息荒く、そう答える。もはや事実上デートの約束を取り付けたと言っても過言ではない。もちろんラフィさんの体調次第だが、早ければ2週間後になるだろう。

 

 ラフィさんの次走は、1週間後に迫っていた。



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第20話:府中発京都行、葦毛の暴走特急

 世の中がゴールデンウィークで浮かれている5月最初の日曜日、私はトレセン学園のカフェテリアにいた。

 

 まだトレーナーが付いているわけでもないので実家に帰っても良いのだが、学園にいる方が自主トレーニングが捗るのである。目当ての施設の予約が取れなくても、キャンセル待ちをしたり、他の施設の予約を取ったりと、やり様はいくらでもある。その上、ラフィさんや他の子と一緒に練習するほうが、せいぜい横浜の公園で走るくらいしかできない実家よりもよほど良いわけだ。お父さんとお母さんに指導をお願いするのは、休日を潰してしまうので私の気が引ける。

 

 ……まあ、今日はラフィさんのレースの方が大切だけどね!

 

 ラフィさんが出る第3レースの発走まではまだ時間があるが、この間と同じように私はテレビの前に陣取っていた。しかし前回は朝からいたフユさんやネルさんは不在である。ダービー明けの6月からは彼女たちもデビュー戦を控える身なので、レースが始まるぎりぎりまではアダラの練習に参加するらしい。アダラのウマ娘たちは休憩ついてに部室でレースを見ると言っていたので、今日はカフェテリアに来ない。

 

 しかし、だからと言って私独りと言うわけではない。なぜなら――。

 

「お願いぃ。決めるの手伝ってぇ!」

「随分贅沢な悩みですね……」

 

 私の向かいに座りウマ耳を萎えさせながら頭を下げているのは、髪を短いツインテールにまとめた黒鹿毛のウマ娘――リボンエレジーだ。

 

 春の選抜レースが金曜日に行われ、エレジーさんは3着と好走した。学年が上の先輩たちは、教官から少なくとも1年以上の指導を受けているわけだから、まだ碌に指導も受けていない身で競り合っての3着は大いに期待が持てるものだ。トレーナーたちが注目するのも分かる。結果として、エレジーさんは自分が想像もしていなかったような数のスカウトを受け、どこがいいのか分からず迷ってしまったらしい。

 

 困っているところ本当に申し訳ないのだが、知人が良く評価されている様を見ていると、実に気分が良い。後方古参面をしたくなる。

 

 とは言えども、本当にエレジーさんが悩んでいるということも事実だ。最初はクラスメイト相手に相談しようとしたそうなのだが、たまたま同じクラスからもう1人選抜レースに出ていた子がスカウトされなかったらしい。もし自慢だと思われて仲が悪くなると、この先1年辛くなると言うことで、わざわざ私のところまで来たのだとか。

 

「まぁ、いいですけど」

「ありがとぉ、ノヴァちゃん!」

「どういたしまして。どこからスカウトされたのか分かるものはありますか?」

「うん、あるよぉ」

 

 エレジーさんが鞄から取り出した、スカウトを受けたチームやトレーナーの資料を受け取り、まずはどのようなチームがあるのかパラパラと捲っていく。もちろん、エレジーさんのクラスメイトに見つかるとどうなるかわからないので、周りに見えにくいように隠しながらだ。

 

「えっ。シリウスもある」

「そうなのぉ」

 

 チームシリウスと言えば、前々世的にはアプリ版メインストーリーのチームであり、今世的にはスピカやリギルと並ぶトップクラスのチームの一角だ。トレーナーが変わった直後の一時期は所属するウマ娘がライスシャワーのみ(・・・・・・・・・)となり潰れかけたが、その新人トレーナーの手腕で見事に持ち直したチームである。

 

 一通り資料を見た感想としては、エレジーさんがスカウトを受けた中では、シリウスが最も良いだろうと言うことだ。他のチームももちろん悪くはないが、GIウマ娘を輩出したという実績があり、日頃のトレーニングで間近に偉大な先輩の走りを見られるのだから。

 

 しかも、スカウトである。入部試験を受けるのとは異なり、相手から入ってほしいと言われているわけだ。どうしてもリギルやスピカが良いと言うわけでないなら、悩む必要がないだろう。

 

「……正直、この中ならシリウス一択だと思いますよ?」

「でもぉ、教え方が私に合っているかわからないしぃ、名前だけで決めるのもせっかくスカウトしてくれたトレーナーさんたちに悪いしぃ」

 

 ……優柔不断だなぁ。これが大博打の幻惑逃げでギンシャリボーイに勝った競走馬の姿か? いや、まぁ、競走馬ではなくてウマ娘だし、今世の未来なんて誰にも分からないのだけれど。

 

「なら連絡を取って、見学か体験入部をさせてもらいましょう。それでチームの雰囲気が合うなら、なるべく早く他所には断りの連絡を入れてください」

「凄い。頼りになるぅ……」

「エレジーさんが迷いすぎなだけ――」

 

 その時、テレビがパドックで第3レース出走ウマ娘のお披露目が始まったことを知らせる。ウマ耳がそのアナウンスを捉えピクリと動いた瞬間、私はテレビに一瞬で向き直る。

 

「――始まった!」

「えっ、何ぃ?」

 

 視界の端でエレジーさんが尻尾をビンと伸ばしている様子が見えたが、今はどうでもいい。

 

 1枠1番に入るメイショウ家のウマ娘から順にお披露目が始まった。このレースにはラフィさん以外にもう1人メジロ家のウマ娘が出走する。3枠3番に入った彼女は、どことなくライアンやブライト、ラモーヌと言ったメジロの名ウマ娘たちに似た雰囲気を感じさせた。そして――。

 

『4枠4番、メジロラフィキ。2番人気です』

「ラフィさーん! 頑張れー! 今日こそ行けます! 気持ちで負けちゃダメです! 今日のラフィさんは日本一、世界一、宇宙一強いです! 今日も輝いてますよ!」

「あっ。これが噂の……」

 

 ラフィさんは一見笑顔でファンに手を振っているが、前と比べて少し自信なさげだ。翠色の瞳が少しくすんでしまったように揺れている。この間絶好調で負けたことを思い出してしまったのだろうか。キューティクルや肌艶の輝きも前ほどではない。

 

 自分で絶好調だと思っていても、ふと不安になってしまうことには私も覚えがあった。

 

 ……私が、私が現地にいたらラフィさんの不安を吹っ飛ばせるよう頑張るのに……!

 

 私だけではダメかもしれないが、現地にいるはずの紗雪さんと一緒なら何とかなるかもしれない。1人で駄目なら2人で元気づけるのだ。しかしそれができない以上、今の私にできることは全力で声援を送ることだけである。

 

 ラフィさんはパドック用のマントを回収すると、一礼して控室に戻っていく。その姿を最後までしっかりと見届けてから、私はエレジーさんの方を向く。

 

「ふぅ……。すみません。何の話をしていましたっけ」

「えっ、あっ、うん。相談に乗ってくれて、ありがとうねぇ」

「どういたしまして」

 

 細やかながら力になれたのであれば、それは嬉しいことだ。この先、彼女が名誉に相応しいだけの称賛を得られたとしたら、私としてはさらに嬉しいのだけれど。前世では終ぞなかった直接対決が出来たらこの上ないだろう。もちろん、負けてあげるつもりなんか毛頭ない。

 

「じゃあ、私は帰るねぇ」

「待ってください」

 

 そそくさと席を立とうとしたエレジーさんの腕を掴むと、彼女の耳と尻尾がピンと伸びた。

 

「せっかくですから、一緒に応援しましょうよ」

「で、でも早く返事返したいしぃ」

「30分くらいなら誤差ですよ、誤差」

「そ、そうかな……?」

「そうです」

「そうかも……」

 

 エレジーさんの意思の弱さに付け込んで、ラフィさんへの応援の声を増やそうとしたその時、誰かの掌が後頭部にぺしっと当たった。

 

「こら、ノヴァちゃん。何やってるの」

 

 現れたのは、リツさんたちチームアダラの面々だ。画面に対して角度が付いてしまうからと、わざと座らないでいた隣の席にリツさんが座り、他の先輩たちも各々好きなところに腰かける。

 

「あれ? リツさんたち、部室で見るんじゃあなかったんですか?」

「誰かさんが大騒ぎするかもってなって、やっぱりこっちに来たの」

「大騒ぎはしてないです」

「嘘おっしゃい。外まで聞こえてきたからね」

 

 フユさんやネルさん、トモエさんにローズさんへ順に視線を向けると、皆うんうんと頷いている。

 

 ……おかしいなぁ。大声を出した覚えはないのだけれど。

 

 首を傾げていると、ネルさんが口を開いた。

 

「言った通りだったでしょう?」

「まぁまぁ、迸る情熱は止められないものだから……」

「フユ?」

「はい」

 

 我が同志の援護射撃は、ネルさんの有無を言わせぬ声にぴしゃりと止められてしまった。圧倒的四面楚歌である。

 

 ふと、気が付いたことがある。先ほど立ち上がりかけたエレジーさんが、再び腰を下ろしたのだ。エレジーさんからすれば知らない人たちが来たわけなので、そのまま立ち去ってしまうかと思っていたのだけれど。

 

「あれ? エレジーさん、ああ言っておいてなんですが、帰らないんですか」

「ノヴァちゃんがそんな風になっちゃう先輩がぁ、どんな人か気になるからぁ」

 

 そう言って、エレジーさんも一緒にラフィさんの応援をすることになった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「そろそろだね」

「何だか緊張して来た……」

「わかる」

 

 発走時間が迫り、各々散らばっていたウマ娘たちが発バ機の近くに集まって来る。

 

 ラフィさんが今日走るコースは、京都の芝2000mである。私は京都だと外回りの長距離しか走ったことがないので、内回りはあまりよくわからない。『勢いよく坂を降ると、遠心力で外に膨らみそうになる』と言うのは、おそらく外回りと変わらないだろうと見当をつける程度だ。

 

 奇数ウマ番のウマ娘が枠入りした後、続いて偶数ウマ番のウマ娘がゲートに収まっていく。

 

 ラフィさんは胸の前で両手を組んで深呼吸すると、ヒトの陸上競技で言うところのスタンディングスタートの姿勢を取る。入れ込んでしまっているようには見えず、かなり落ち着いた様子だ。

 

 最後に大外枠のウマ娘が入り、係員が退避した直後にゲートが開いた。

 

 3枠3番、もう1人のメジロ家のウマ娘が盛大に出遅れ、それに隠れてあまり目立たないが1枠1番のメイショウ家のウマ娘も、内枠を取れた意味がなくなる程度の出遅れを見せた。

 

 ゲート2つ分の得をした4枠4番のラフィさんは、2枠2番のウマ娘と激しく競り合いながら最初の直線を駆けていく。曇り空の下でも輝いて見える長い三つ編みを棚引かせながら、ラフィさんと相手が第1コーナーに入った。外を回されてはいるものの、半バ身ほどリードしている。

 

「ラフィさん、譲っちゃダメですよ!」

「そうだそうだ! そのまま行っちゃえ!」

「諦めちゃダメだよぉ、先輩さぁん」

 

 私、リツさん、エレジーさんの3人――この場にいる逃げウマ娘組で声を張る。1度逃げると決めたら、ハナを決して譲ってはならない。逃げとは本来、先頭でレースのペースを支配してこその戦術だ。

 

 コーナーの中ほどでラフィさんが、ほんの一瞬だけ相手のウマ娘に目線を向けた――ように見えた。丁度その時、アップの映像は後続のウマ娘を映しており、ラフィさんの動きはバ群全体を映す上半分の映像でしか確認できなかったので、自信はない。しかし、競り合っていたウマ娘が引き下がったあたり、「譲る気はない」と目線で伝えたのだろう。

 

「よし、先頭!」

「良いですね、良いですね!」

 

 単独での先頭を勝ち取ったラフィさんが向こう正面に入る。7枠9番のウマ娘がラフィさんの外にクビ差ほどで付けたところで、私は些細な違和感を覚えた。映像をじっと見つめ、ハロン棒が端から端まで通過するときにかかる時間でその正体に気が付く。

 

「ラフィさん、かなりペースを落としてますね。たぶん13秒超えます」

「えっ?」

 

 隣の席のリツさんが、一瞬だけ手元に目線を落とす。どうやら、普段練習で使っているストップウォッチでペースを計っていたらしい。

 

「……本当だ。時計も無しによく気が付いたね?」

昔から(・・・)得意なんです」

「へぇ」

 

 日常生活ではまず役に立たないが、『15秒までなら、走りながらでもコンマ1秒単位の好きなところで時計を止められる』ことが、私のささやかな特技である。

 

 しかし、私の話はどうでもいいことである。今この瞬間重要なことは、ラフィさんが見事な溜め逃げを出来ていると言うことだ。

 

 ラフィさんは緩やかなペースで坂を登りながら第3コーナーに入った。わずかな平坦部を経て急な降り坂に差し掛かるが、ラフィさんは『ゆっくり登ってゆっくり降る』京都のセオリーを忠実に守り、速度が乗らないよう慎重に坂を降っているようだ。再び平坦になる第4コーナーに入ったところで、ラフィさんはかなり緩めていたペースを一気に加速させていく。

 

 最終直線に向いた瞬間こそ後続に捕まりかけたようにも見えたが、ラフィさんは溜めていた脚を一気に解き放ちハナを譲らない。再び2番手に上がって来た2枠2番のウマ娘と熾烈な叩き合いを演じる。

 

「ラフィさん、頑張れー! あと少し!」

「やっちゃえ、ラフィ!」

「行け行け行け!」

「根性だよ、根性!」

 

 私が、リツさんが、フユさんが、トモエさんが声を上げる。声のないネルさんやローズさん、そしてエレジーさんは、固唾を飲んで見守っているようだ。

 

 3着以下との差をじりじりと広げながら、2人のウマ娘が併走する。4分の3バ身、近いようで限りなく遠いその差を縮ませることがないまま、ラフィさんは誰よりも速く決勝線を駆け抜けた。

 

「勝ったぁ! ラフィさんが、ラフィさんが勝ったぁ!」

「よくやった、ラフィ!」

「宴じゃ、宴じゃーい!」

「すごい、すごぉい!」

 

 その瞬間、カフェテリアに歓声が響き渡った。たまたま近くにいた周りのウマ娘たちが一瞬びっくりしたように視線を送って来る。しかし、それが喜びの声であるとわかると、「しょうがないな」とでも言うようにそれぞれの用事に戻っていった。

 

「ライビュ、ライビュ確保しないと! 初センターだ!」

 

 同期が勝って嬉しさを隠さないリツさんの言葉で、私は気が付いた。今日はこの間のように悔しさを押し隠したものではない、心の底から輝くラフィさんのパフォーマンスが見られるのだ。

 

 ラフィさんは自慢することがないのだが、『実は、ものすごく歌が上手い』のである。

 

 どれくらい上手いのかと言うと、椅子に座ったままオペラ『魔笛』で1番有名なアリアのサビを歌い切れてしまうくらいだ。ラフィさん本人は、「何曲も歌って演技をした後では自信がありませんし、声質が夜の女王に向いていませんから」と謙遜していた。だがしかし、普通の子はそもそもその音域は出ないし、出たとしても技量が足りなくて歌えないのである。

 

 ……ラフィさんの、本気のパフォーマンス。見たい。すごく見たい。一番いい形で見たい。当然テレビなんかじゃあ満足できない。ライビュで妥協もしたくない。現地、現地で見たい!

 

 スマートフォンを取り出し、トレセン学園から京都レース場までの経路を検索する。もし間に合わないようであれば諦めるしかないが。

 

「……間に合う」

 

 今すぐ出れば、春の天皇賞が発走する前に着く。片道約15000円はとても痛いが、今まで使わずに溜めてきたお年玉を使えば何とかなる。私名義の口座のキャッシュカードも持って来てあるから、引き出せば行ける。

 

「リツさん」

「どうしたの? あっ、1番前がいいとか? 全くしょうがないなぁ!」

「京都行ってきます」

「……はっ?」

 

 報告も無しに姿を消したら問題だろうと思い、リツさんに行き先を伝えると、きょとんとした表情を返してきた。それを見て『これで良し』と駆け出そうとしたそのとき、襟を掴まれ首が締まった。

 

「ぐぇっ」

「待て待て待て待て! 何言っているの!?」

 

 リツさんの声だ。戸惑っている間に走り出すつもりだったのに、私の予測よりも復帰が早い。

 

「リツ、何してるの!?」

「ノヴァちゃんが『京都行く』とか言い出したの! トモエも止めるの手伝って!」

「えぇ……?」

 

 困惑しながらも、トモエさんは正面から私を抱きしめるように押し止め、その間にリツさんが襟から手を放して羽交い絞めにしてくる。リツさんの引っ張りに抵抗するために前傾姿勢を取っていたせいか、トモエさんの大きく柔らかいものが当たって息苦しい。だが、負けてたまるか……!

 

「ウソでしょ!? 2人で止まらないって何なの……!」

「現地に、現地に行くんです……!」

「チケット取れてないでしょ! 落ち着いて!」

「京都についてから考えます!」

 

 トモエさんを押し込み、リツさんを引きずりながら問答をしている間に、ネルさんやローズさん、エレジーさんが周りを取り囲む。フユさんはどこかに電話を掛けているようだ。

 

 怪我をさせるつもりはないので、無理に振りほどいたりはできない。リツさんは来週に橘ステークス、トモエさんは2週間後にヴィクトリアマイルを控えている。特にトモエさんは前走で怪我をしていて、ようやく本調子に戻ったところなのだから、絶対に負傷させてはいけない相手だ。

 

 ……流石逃げウマ娘、策士ですねリツさん……!

 

 おそらく偶然ではあるし、レースを控えていなくとも、無理に突破して怪我をさせることはしないのだが。

 

 それはそれとして、どうしても諦めがつかない。いくら調整されていると言っても、ライブビューイングはあくまでも映像でしかない。私は現地で見たいのだ。

 

「はーい。伝えます。失礼しまーす。……みんな、紗雪さんが『来て良い』って」

 

 酸欠気味かつ体力の消耗で力が出なくなり、もう現地は諦めるしかないのかと思い始めたとき、フユさんが電話を切ってそう言った。リツさんが皆を代表するように疑問を口にする。

 

「……どういうこと?」

「『ノヴァちゃんを関係者席に入れてあげて』って交渉したの。レース場まで来れるならOKだって。良かったね、ノヴァちゃん」

「フユさん……!」

 

 ラフィさんが女神なら、その天使はフユさんだったらしい。緩んだ拘束を抜け、フユさんの電話を持っていない手を両手で握る。

 

「ありがとうございます!」

「ふっふーん。どういたしまして。その代わり、2週間後はわかるね?」

 

 フユさんはトモエさん推しである。そのトモエさんは2週間後、ヴィクトリアマイルを走るのだ。ここまで言われてわからないほど、私は鈍くない。

 

「チケット、お手伝いします!」

「うむ」

 

 関係者席ではない、いわゆる特等席の争奪戦の手駒が欲しいのだろう。私の読みは当たり、満足そうにフユさんが頷く。

 

 ネルさんが呆れたような目線で私たち2人を見ていた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 紗雪さんの連絡先をフユさんから教えて貰い、いくつかのやり取りをしながら私は京都レース場までたどり着いた。もちろん、両親には連絡済みである。入場してすぐ、長い黒髪を1つのシニヨンにまとめたスーツ姿の女性を見つける。

 

 ……やっぱり、孫娘さんに良く似ているな。

 

 一瞬脳裏に過ぎった思考を振り払う。別人だ。よく似ている別人なのだ。勝手に他人を重ねるだなんて、相手に失礼である。

 

「こんにちは、紗雪さん。今日はありがとうございます」

「こんにちは。こっちに来るまで、何ともなかった?」

「心配して頂かなくとも、ウマ娘にちょっかいを掛けるヒトなんていませんよ」

「大人は子供の心配をするものだから」

「そうですか」

 

 犯罪に手を染める人間というものは、基本的に弱く見える人を狙うものだ。ヒトと比べて隔絶した身体能力を持つウマ娘をわざわざ狙うなんてこと、よほどの理由がない限りしない。

 

 私の両親ですら、朝4時に外を走っていても何も言わないのだ。せいぜい「知っている人が相手でも絶対について行ってはダメ。お父さんお母さんが倒れたって聞いても、まずは自分で家に帰って来い。車に乗せてあげると言われても絶対に乗ってはダメ」と、口を酸っぱくして言われたくらいだ。子供のウマ娘は物理的には強くても、子供であるがために搦め手は効くので、これは妥当な注意である。

 

 紗雪さんは心配性なのか、保護者が同伴しないからとわざわざ定時連絡をさせてきた。ウマ娘相手には珍しいくらい――なのだが、今回は何故かお父さんお母さんも定時連絡を要求して来た。不思議なこともあるものだ。

 

 私が納得したと判断したらしい紗雪さんは、これから悪戯を仕掛けようかというニヤリとした表情で口を開く。

 

「あっ、そうそう。実はラフィにはまだノヴァちゃんが来てるって言ってないの。部屋に行ってサプライズしようか」

「そんなことして、大丈夫ですか……?」

「ライブ中に気が付く方がびっくりしちゃうよ」

 

 それもそうかと、紗雪さんに大人しくついて行く。そこそこの距離を歩き、前世で言うところの厩舎地区に着いた。やはりと言うべきか、前世とは異なり馬房ではなく、少し古びてはいるものの綺麗に使われているとわかる建物がいくつか並んでいる。当然、臭いはしない。

 

「レース場の裏は初めて?」

「そうですね」

「そうなんだ。じゃあ簡単に説明するね」

 

 噓は言っていない。実際今世では初めてだし、馬とウマ娘の違いがあるので、前世で見慣れたはずのバックヤードもなんとなく新鮮な気持ちで見ていられる。こうも違うと、競馬場に戻って来た(・・・・・・・・・)という実感がわかないくらいだ。前世であった様々な出来事がフラッシュバックしてくる予兆すら感じない。

 

「ここはね、レースに出る前の日とか、レースに出た次の日まで泊まるための場所なの。学園から遠いと朝のレースに間に合わないし、ウイニングライブの後で帰れないこともあるからね」

「じゃあ、東京とか中山にはないんですか?」

「外国のウマ娘が泊まったりするから、一応あるよ」

 

 紗雪さんと話しながら、構造としてはホテルに似ている1棟の建物に近づく。馬房は割と狭い平屋だったが、この建物は複数階建てだ。人格を持ち、馬よりも空間を要するウマ娘だからこそだろう。

 

 玄関に入ると本当にホテルのようにフロントがあった。受付の方に挨拶を返し、エレベーターを使ってラフィさんの部屋の前までやって来た。

 

「ラフィ、戻ったよ」

「おかえりなさい、紗雪さ――ノヴァさん!?」

 

 姿見でライブ衣装の確認をしていたらしいラフィさんが、紗雪さんの声で振り返る。ラフィさんは挨拶を返そうとしたようだが、私の姿を見て心底驚いた様子で口元を手で隠した。

 

 そんな時、私はと言えば――。

 

 ……前々世で言うところの汎用勝負服、やっぱりえっちでは? デコルテが見えていて胸の大きい子だと谷間も見えるし、おへそが見えるし、ショートパンツスタイルとは言えども健康的なふとももの上をガーターベルトが通っていくし、とてもえっちだと思うの。

 

 ――莫迦なことを考えていた。許してほしい。モニター越しで見るのと生で間近に見るのとではやはり違うのだ。京都まで来てよかったと思う最初の瞬間である。

 

「来ちゃいました」

「来ちゃいました、で来れる距離ではないですよ? 大丈夫でしたか?」

「子供じゃないんですから、大丈夫ですよ」

「中学1年生は子供ですよ……」

 

 ラフィさんだって中3じゃないですか。そう言おうとして、止めた。ここで言い返すのは明らかに子供である。

 

 黙った私を見て、ラフィさんは矛先を紗雪さんに向ける。

 

「紗雪さん?」

「フユちゃんから、『どうしても現地で見たくてノヴァちゃんが暴走してる』って電話が来たの。最初は危ないから断ろうと思っていたんだけど、いつの間にかフユちゃんに丸め込まれちゃって……」

「紗雪さん……」

 

 ラフィさんが非常に珍しい呆れたような表情を見せる。しかし、前世牡馬の記憶がばっちり残っているのを女に含めていいかは別としても、『女三人寄れば姦しい』と言うだけのことはある。なんだかんだとライブ前の集合時間まで3人で楽しく話した後、ラフィさんはステージ近くの控室へ、私と紗雪さんは関係者席へ向かうことになった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 前々世のアプリ版ウマ娘と異なり、今世ではクラシック三冠やティアラ三冠といった一部の例外を除いて、各重賞ごとに異なる楽曲が用意されている。それはどうやら条件戦にも当てはまるようで、クラスごとに曲が変わり、もっと言えば新馬戦――メイクデビューと未勝利戦も曲が異なる。文字通りメイクデビュー専用曲である『Make debut!』を歌えるウマ娘はほんの一握りで、ほとんどの子は未勝利専用の曲を歌うことになるらしい。

 

 つまり、私にとってはあまり聞き慣れない曲ということになる。だが、問題はない。新幹線に乗っている間に、歌詞や振り付け、ペンライトを振るべきタイミングは予習済みだ。

 

 関係者席から、ラフィさんの気配がする暗いステージの真ん中を見つめる。布の擦れる微かな音すら聞こえてきそうな静けさだ。

 

 落ち着いた伴奏と共にラフィさんが歌い出すと、わずかにステージの上が明るくなり人影が見えて来た。そして最初の一小節を歌い切ったところで一気に伴奏が盛り上がって、ステージが明るくなり――。

 

 正真正銘、輝くような笑顔と共にラフィさんが姿を現した。

 

 ソロパートでは、鈴の音のように透き通った歌声がいつも以上に華やいでいる。しかし自分だけが目立つわけでもない。ユニゾンで歌う場面では相手の声の特長を引き出し、他の子を喰ってしまうことなく、ライブとしてさらに素晴らしいパフォーマンスを見せる。

 

 ダンスも、指先どころか尻尾の毛先の挙動まで意識した動きだと思わせるほど完璧なものだ。

 

 ……すごく、きれい。

 

 メジロの緑と、ラフィさんの好きな紫色のペンライトを両手に持ったまま、私はただラフィさんのライブに心を奪われることしかできなかった。




「元のお馬さんが鬣を編み込んでいたから、三つ編みにしよう」
「ド真ん中ストレートのほんわか正統派お嬢様が好きなので、そうしよう」
いずれ新しいウマ娘が来たら被るかもとは思っていました。
しかし、こんなに早く被ると思わなかったんです……!
それはそれとして、サイゲームスさんは早くブライトさんを実装してください。

2022/05/02 01:15
ライブシアターで確認したところ、トモエの身長が150cm程度であったため、作中の描写を修正いたしました


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第21話:女神様の祝勝&誕生会!

 人類史に刻まれるべき素晴らしいライブから一晩が明けた祝日のお昼前、私はアダラのトレーナー室にいた。

 

「ノヴァちゃん、そっち、もうちょっと持ち上げて」

「こうですか?」

 

 私が飾り付けの高さを変えると、トモエさんは腕を組んで唸る。何度か首を傾げるたびに、尾花栗毛のウマ娘特有の金髪がさらさらと流れる。

 

 ……それにしても、大きい。

 

 トモエさんは、とにかく大きい。何がと言えば、胸が。腕を組むと意図せずとも強調する格好になるのだ。

 

 ……羨ましくないが。全く羨ましくないが!

 

 前傾して走るウマ娘特有の姿勢を考えると、流体力学的に私の方が有利である。つまり、羨ましくなんかないと言うことだ。

 

 ……酸っぱいぶどう? 何の話ですか?

 

「まあ、いいでしょう。ありがとね、ノヴァちゃん」

「はい、どういたしまして」

 

 考え事の内容をおくびにも出さず、トモエさんにそう答える。耳と尻尾が動いていたとしても、トモエさんが何を言うのか集中していたことにできるので問題ない。

 

 何故、アダラのメンバーではない私がトレーナー室にいるのか。それはラフィさんの祝勝会兼誕生会の準備に呼ばれているからである。

 

 ラフィさんの誕生日は、本来先週の木曜日だった。しかし、その日は丁度最終追い切りの日であり、リツさんやトモエさんもレースを控えていると言うことで、ラフィさん本人が遠慮して一旦は流れてしまったのだ。

 

 それはもう落ち込んだ。主に私が。

 

 ラフィさんの誕生日がいつか把握していなかったことは、私にとって重大な落ち度だ。ウマ娘は競走馬の魂の影響を受けるのか、1月から6月生まれが多い。つまり、誕生日を尋ねるなら入寮直後にでも聞いておくべきだったのだ。なのに私は、先週の日曜日に寮でその話題が出るまで、のん気に過ごしていた。

 

 ……ノヴァ、腹を切りなさい。

 

 言っていないセリフが思わず思い浮かんでくるほどのショックだった。死にたくないから切らないけど。

 

 誕生日プレゼント自体は、ラフィさんの誕生日当日までに用意して渡すことが出来た。私が何とか準備したものは、毎年限定販売されるラメ顔料入りのボールペンだ。可愛らしくて私も結構気に入っているもので、紙の色が黒いか白いかでインクの色が変わって見える不思議なペンである。

 

 誕生日にプレゼントを渡してお祝いの言葉を言えたならいいではないか。そう思う人もいるだろうが、私はもっと盛大にお祝いしたかったのだ。だって、女神様の生誕祭である。ラフィさん教の信徒なら、もっと綿密な準備をしてから祝いたいと言うものだ。

 

 とは言えども、本人が遠慮しているのに無理に祝ったりするわけにもいかない。私は気分を入れ替えて、日曜日にラフィさんの初勝利とライブを見届けたのだ。

 

 たったの1勝でも、中央での勝利は競走ウマ娘にとって誕生日以上の慶事だ。トレセン学園に入学し、選抜レースに出走し、担当トレーナーが付いて、メイクデビューを迎える。どの段階も非常に高い倍率であり、それらを超えても、過半数の競走ウマ娘は1勝もできずにトレセン学園を去っていく。

 

 中央1勝という戦績は、1度でも競走の世界を目指したことがあるウマ娘同士なら、それこそ一生自慢できるものである。無知なヒトが莫迦にするようなことがあれば、周りのウマ娘たちがそいつをぼこぼこに蹴り飛ばすほどの偉業なのだ。

 

 さて、大変おめでたい勝利から一晩明けた朝を迎え、改めてお祝いできないかなと思っていたところ、同じ美浦寮のリツさんが私を呼び出したのである。

 

「無理に来なくてもいいけど、ノヴァちゃんは絶対来た方が良いよ」

 

 そこまで言われては行かないわけにはいかない。丁度ラフィさんも用事があるらしく不在であり、せっかくだからと付いて行ったところ、ラフィさんの祝勝会兼誕生会の準備だったのである。

 

 ……ありがとう、リツさん!

 

 やる気絶好調で朝から準備を始めた私たちがまず立ち向かったものは、散らかったトレーナー室だ。

 

 書類の散らばる大浪さんの机、様々な分野の参考書が積み込まれた安城さんの机、歌やダンスの練習資料が置きっぱなしだった紗雪さんの机、チームメンバーの私物で散らかっているソファやテーブル、それらをすべて綺麗に片付けるだけで1時間だ。大浪さんは「片づけると場所が分からねぇんだけどなぁ」とぼやきながらも、しっかり片付けていた。やはり、間違いなく、良い人だ。

 

 部屋が片付いたら、フユさんとネルさんが買い出してきたもので部屋を飾り付ける。お昼前を迎えた今となっては、残った作業は飾りの微調整と食事の準備くらいである。

 

 今部屋にいるのは私とトモエさん、フユさんの3人で、フユさんがトモエさんと楽しそうに話しているので少し手持ち無沙汰だ。残りの人たちだが、トレーナーたち3人とリツさん、ネルさんはカフェテリアに用意を頼んだ食事を取りに行っており、ローズさんはラフィさんの足止め係りをしているらしい。ラフィさんの用事は、準備を悟られないためにリツさんたちが用意したものだったのだろう。

 

 両手の指を頭上で組んで体を伸ばしながら部屋を見渡す。部屋は文字バルーンやリボンで華やかに飾り付けられ、天井からは久寿玉が2つ吊り下がっている。片方は「誕生日おめでとう」の久寿玉らしいので、もう片方が「1勝おめでとう」なのだろう。

 

 ……そういえば、私の誕生日は今日だったな。

 

 やることが無くなって思考する時間が出来た結果、お祝いと関係ないことを思い出す。

 

 家族は毎年盛大にお祝いしてくれるし、今年も朝目が覚めたときにはメッセージにお祝いが来ていた。「次に帰って来るときに思い切り祝うから、帰る前に必ず教えて」と念を押されたくらいだ。

 

 それはありがたいのだが、ろくに覚えていない前々世を除いても40年近く生きており、馬だったころは年始に歳をとっていたせいか、今世の同年代と比べて私の誕生日への意識は低い。トレセン学園では、入学届の手続きをしてくれた職員さんくらいしか私の誕生日を知らないだろう。

 

 「まぁ、いいか」と伸びを解いた直後、がらりとトレーナー室の引き戸が開き、先頭のネルさんから部屋に入って来る。

 

「ご馳走、持って来たよ」

「あぁ、もう! すぐ食べられないなんて拷問だよ!」

 

 ネルさんの言葉に被せる勢いで、リツさんが叫んだ。私とそう変わらない体型なのに、リツさんのどこに食べたものが消えていくのか不思議である。

 

「あと10分でラフィが来るんでしょう? 我慢しよう?」

「そうだけどさ」

 

 リツさんは「そんなことわかっている」という態度で、紗雪さんに応える。ウマ娘との距離感が近いことが、紗雪さんの指導の特徴なのかもしれない。

 

「全く、まーた片づけ大変だな」

「春の風物詩じゃないですか」

「悪いとは言ってねぇよ」

 

 部屋の装飾を見た大浪さんと安城さんが、笑いあって雑談をしている。

 

 みんな幸せそうで、ほんの一瞬だけ「出来損ない(わたし)がここにいて良いのか」という考えが首をもたげる。お祝い事には似つかわしくないそれを、頭を左右に振って払った。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 皆で食事の配膳を終え、ウマ娘用に大きな音の出る火薬ではなく、バネを使ったクラッカーを構えてラフィさんを待つ。

 

 足音が2つ、アダラのトレーナー室に近づいてくる。ラフィさんを先に入れる手筈らしいので、扉が開いた瞬間にクラッカーの紐を引く必要がある。集中力を必要とする点では、ゲート練習のようなものだ。

 

 足音が扉の前で止まり、扉がレールに沿って横向きに滑走を始める。こっそりクラッカーを構えているローズさんがまず目に入り、続いてラフィさんの顔が見えた瞬間――。

 

「ラフィさん、おめでとうございます!」

「ラフィ、おめでとう!」

「昨日はよくやった!」

 

 各々なりのお祝いの言葉と共に、きらきらとしたリボンがラフィさんに向かって飛んで行き、久寿玉の1つ(・・)が開いて『ラフィ、中央1勝&誕生日おめでとう!』と書かれた垂れ幕が下りた。

 

「えっ、あれ? 私のは、やらないはずでしたよね?」

「毎年お祝いしているのに、やらないわけないじゃん、ラフィ。しかも昨日勝ったんだよ?」

 

 ラフィさんはウマ耳と尻尾をピンと伸ばしたまま、目を丸くしている。その背中をローズさんが押し、部屋の中へと入れて扉を閉める。何か良い匂いがするなと思ってラフィさんを見ると、左手に紙袋を持っていた。よくよく嗅いでみると、りんご煮とシナモンの匂いだ。アップルパイだろうか?

 

「もう、みんな騙しましたね?」

「騙してはないよ? 誤魔化しただけ」

「……もう」

 

 不満そうな口ぶりだが、ラフィさんの頬は緩んでいる。1度は遠慮していても、やはりお祝いされると嬉しいのだろう。ラフィさんが喜んでくれたようで本当に良かった。

 

「さぁさぁ、本日の主役1号さん、ご案内(あんなーい)!」

「大人しく祝われろぉ!」

 

 トモエさんとフユさんが、ラフィさんをテーブルの誕生日席――わざわざ椅子を2つ並べたそこに座らせる。

 

「……リツさん」

「何、ノヴァちゃん?」

「もう1人いるんですよね? 誰ですか?」

 

 1つだけまだ開いていない久寿玉、本日の主役1号(・・)、2つ並んだ誕生日席。これで気が付かない方が無理だと言うものだ。椅子だけなら人数の問題だと片づけることもできたが、他の証拠を考えるとわざとなのだろう。

 

 「事前に言ってくれたら、プレゼントを用意できたのにな」と思いながら、リツさんの答えを待つ。

 

「ふっふっふっ。それはね――」

 

 口を手で隠して、わざとらしい悪だくみの笑みを浮かべたリツさんは、次の瞬間「せーの」と掛け声をかけて。

 

「ノヴァさん、お誕生日おめでとうございます!」

「ノヴァちゃん、お誕生日おめでとう!」

 

 色とりどりのリボンが私に向かって飛んできた。ラフィさんも含めて、いつの間にかクラッカーをもう1度準備していたらしい。私は理解が追い付かず、ほんの少し前のラフィさんと同様にウマ耳と尻尾を伸ばして、ただただ混乱することしかできなかった。

 

「誕生日黙ってるなんて、水臭いじゃん。ノヴァちゃん」

「えっ、なんで知って……?」

「感謝祭でお母様に聞いたんです」

 

 にこにこと笑っているラフィさんが、私の疑問に答えた。ぽんぽんと隣の席を叩くラフィさんと、背中を押すリツさんに勧められるがままに座る。

 

「と、言うわけで」

「お祝いダブル逆ドッキリ、大成功!」

 

 フユさんとネルさんが、息の合った様子で事の真相を明かした。

 

 ここまで来たら混乱中の私でも分かって来ると言うものだ。祝われると思っていなかったせいか、心の底からじんわりとした嬉しさが込み上げて来る。

 

「ありがとう、ございます……」

「ノヴァちゃん、結構涙脆い?」

「みたいですね」

 

 ラフィさんがハンカチで私の目元を抑えてくれる。数十秒ほどお世話になって、どうにか涙を引っ込めた。

 

「お、ノヴァちゃんOK? よーし、みんな、食べよう! 宴だ!」

「リツはお腹減ってるだけでしょ」

「まぁまぁ。冷めてしまう前に頂きましょう」

「待って待って。ツイッターに上げる写真撮らせて!」

 

 トモエさんが腹ペコを隠さないリツさんに突っ込みを入れ、ローズさんがせっかくの料理なのだから美味しいうちに食べようと提案する。すると、ネルさんが慌ててスマホを取り出しながら声を上げた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 デザートにレモンを利かせたラフィさんの焼き立てアップルパイを食べた後、アダラのメンバーたちから誕生日プレゼントを渡された。

 

 特にインパクトが強かったものは、リツさんから貰ったグルメガイドだ。各レース場のおすすめグルメを自ら食べて評価した、体を張った力作である。もちろん他のプレゼントも大変に嬉しいもので、トモエさんからは装飾用マスキングテープの詰め合わせ、ローズさんからは彼女自ら選んだアップルパイに合う紅茶葉、ネルさんからはおすすめのテールオイル、フユさんからはほんのり色が付いたリップクリームを頂いた。

 

 ラフィさんからのプレゼントは――。

 

「香水、ですか?」

「はい。私が普段使っているのと同じものです。いつも良い匂いだと言ってくれますから」

「ありがとうございます!」

 

 実際には『ラフィさんが』良い匂いだと言っているのだが、同じ香水を使うと言うのもなんだかいいことのように思える。ペアルックならぬ、ペアフレグランスだ。

 

 ……これはもう、付き合っていると言っていいのでは?

 

 などと言う莫迦な考えが思わず浮かんできてしまう。逸れていく思考の軌道を修正し、私自身の用事を思い出した。

 

「そうだ、ラフィさん。実は私からも贈りたいものがあるんです」

「綺麗なペンを頂きましたよ?」

「別で用意していたんですけど、間に合わなくて。ちょっと待ってくださいね」

 

 荷物を置いていた部屋の片隅に向かい、それを取り出してラフィさんに渡す。

 

「改めて、お誕生日おめでとうございます」

「ミサンガですね?」

「はい。本当は先週一緒に渡したかったんですけど、なかなかうまくいかなくて……」

 

 渡したものは、紫と赤の糸を使ったミサンガだ。正確には純正のミサンガではなく、衛生面を考えて金具を追加し、いつでも取り外せるようにしたミサンガもどきだが。ミサンガはお守りなので、本当は誕生日に渡したかった。しかし、今まで手芸の経験などなかったせいか納得のいく出来のミサンガを編むことが出来ず、結局誕生日には間に合わなかったのだ。何とか会心の出来のミサンガが出来たのは土曜日の夜であり、結局ラフィさんには渡しそびれてしまった。

 

「ありがとうございます。頑張りますね」

 

 ゆらゆらと上機嫌そうに尻尾を揺らしながら、綺麗な笑顔を浮かべたラフィさんはそう言った。翠色の眼が優しく私を見つめている。

 

『GIレースを無事に走り切れますように』

 

 そう願いを込めて編んだミサンガもどきは、ぱちりと金具の音を立ててラフィさんの左手首に収まった。




2021/12/30 14:05
一部追記いたしました
(写真のくだり)

2022/05/02 01:20
ライブシアターで確認したところ、トモエの身長が150cm程度であったため、作中の描写を修正いたしました


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第22話:顔を合わせると気まずいあの子

第21話に一部加筆を行いました。
詳細については後書きに記載しています。
このままお読みいただいて問題ありません。


「ノヴァちゃん、ノヴァちゃん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 

 大型連休が明けた水曜日、午前中の授業を終えて「さぁ、お昼だ」というタイミングでクラスメイトが話しかけてきた。緊張しているのか、長い葦毛のサイドテールを指でくるくると弄っている左耳飾り(牝馬)の少女である。

 

「な、なんですか? ネレイドランデブーさん」

「もう、『ランって呼んで』って言ってるじゃない。それに、そんなに身構えられると傷付くんだけど……」

「す、すみません……」

 

 意図せず引き絞ってしまったウマ耳を撫でつけ、向きを元に戻していく。クラスメイトに話しかけただけなのに耳を絞られたら、当然不愉快だろう。無意識とはいえど配慮が足りなかった。

 

 彼女は私が一方的に苦手にしていると言うか、引け目を感じているウマ娘だ。なぜなら――。

 

 ……前世の繁殖相手がクラスメイトとか、三女神様とやらは絶対に性格悪いと思う。

 

 前世の種牡馬時代、私は100頭以上付けた初年度産駒の勝ち上がり率1割切り(・・)の悲惨な繁殖成績を残し、種牡馬としての需要はあっという間になくなった。しかしその後でも、孫娘さんは『ドリーちゃんの子でGIに勝つ』と言って、私に血統上期待できる繁殖牝馬を割り当て続けた。もちろん現実というものは非情で、私の知る限り産駒の成績は2勝クラスがせいぜいだった。

 

 そんなゴミのような遺伝子を持った私の最晩年の相手が彼女、ネレイドランデブーである。3歳でエリザベス女王杯を、翌年にヴィクトリアマイルを勝利し、血統も超が付く良血の牝馬だった彼女は、まかり間違っても終わった種牡馬である私に割り当てて良い繁殖牝馬ではない。彼女に種付けした回数は4年連続4回――最初の産駒がデビューする直前くらいの時期に私は死んだが、牝馬の貴重な繁殖機会を4回も無駄にさせてしまったことは想像に難くない。

 

 今世の彼女は、そんなことを露知らず『運命的な何かを感じるの』と言って、にこにこと明るく絡んでくるのだ。

 

 ……それは悪縁だと思うよ。

 

 そんなことを言うわけにもいかず、ただただ前世由来の申し訳なさで胃痛がしてくる。この調子だと他にも前世での相手だった子が学園にいそうで、今から恐ろしい。

 

 そもそも、15年以上世代が異なるはずなのにどうしてクラスメイトにいるのか不思議でならない。まあ、マルゼンスキー(77年クラシック世代)サトノダイヤモンド(16年クラシック世代)が同時期にトレセン学園にいる時点で、そういうものだと思うしかないのだが。私と最低でも20年以上世代が離れたラフィさん(女神様)と同室の後輩になれたと考えれば、この不思議現象も悪いことばかりではない。

 

「あの、何の用ですか?」

「あ、うん。この写真なんだけど……」

 

 そう言って彼女が見せてきたスマホには、2つの画像が表示されていた。先日の誕生日会で撮影された、私とラフィさんのツーショット写真と、自撮り棒を使って撮ったチームアダラのウマ娘とトレーナー全員プラス私の記念写真だ。アダラの広報用ツイッター公式アカウント――「1番ネットに詳しいから」という理由で、ネルさんが運用しているそれ――にアップロードされたものである。

 

 彼女は艶やかな髪を指に絡めながら、ほんの一瞬だけ口を開いたまま固まる。

 

「誕生日だったんだね?」

 

 すぐに言葉は続いたが、私にはそれが何から言おうか迷った結果であるように感じられた。

 

「はい。教えていなかったのですが、春の感謝祭でお母さんから聞き出していたみたいで」

「ふぅん。そうなんだ。ふーん……」

 

 目を合わせてそう答えるも、目を逸らした彼女は薄く化粧した唇を尖らせた。

 

 ……なんだか、不機嫌そう?

 

 そのような疑問を覚える。しかし彼女は、私が深く考える前に間髪入れず次の話題に進んだ。

 

「ノヴァちゃんは、やっぱりアダラに入るの?」

 

 落ち着きなく髪を弄ったまま、彼女は首を傾げる。

 

「選抜レースもまだなのに、入れるわけないじゃないですか」

「でも、仲良さそうだし……」

 

 ……もしかして、抜け駆けしていると思われているのかな。

 

 大半の学園生は、選抜レースで見せ場を作って初めてトレーナーの目に留まる。数少ない例外はいるが、珍しいからこその例外だ。では、もしトレーナーに見つけて貰うために頑張っている横で、先輩のコネでチーム入りするような子がいるとしたら。当然良い気はしないだろう。

 

 もちろん、コネで見込みのない子を担当するような人間は中央のトレーナーにはいない。トレーナーだって少しでも能力のある子、成長の余地のある子を担当したいと思っているし、それでも、原石だと思った子がただの石ころのまま終わってしまうなんて、よくあることだ。

 

 だが、例えば同程度に才能を感じさせる子が同じ世代に2人いて、その2人の目指す路線が被っているなど、どちらかを選ばねばならないとしたら。知己であるかどうかということは、トレーナーとウマ娘の双方の意思決定に影響を与えうる。

 

 コネは担当を決めるうえで決定的な要素にはならないが、迷った時の最後の一押しにはなるのだ。

 

 一瞬の間、どう弁明するか考えをまとめるために黙り込んだ後、彼女に答えを返す。

 

「ラフィさんは同室の先輩ですし、その繋がりでアダラの皆さんにも良くして頂いていることは事実です。でも、トレーナーはそれで担当を決めるほど甘い人ではありませんよ」

「……そうじゃないんだけどなぁ」

 

 ポツリと彼女がつぶやいた言葉が、私の耳に入る。どうやら抜け駆けに対する釘差しではなかったらしい。ならば。

 

「あっ。どこか見学してみたいとかですか? どこのチームも、それこそリギルやスピカでも、生徒の見学ならいつでも受け付けているらしいですよ?」

「そうでもない、んだけど……。うん、良いこと聞いたよ。ありがとう」

「どういたしまして……?」

 

 もはや彼女が何を望んでいるのか、皆目見当もつかない。前世牡馬には、女心の理解など夢のまた夢ということだろうか。

 

「……ねぇ、ノヴァちゃん。今日は一緒にお昼食べようよ」

 

 うんうんと悩んでいると、数回深呼吸をした彼女が、意を決した様に一つの提案をしてきた。

 

「うーん、今日もラフィさんと約束してますし……」

「じゃあ私も一緒でいいか聞いてもいい? ダメだったら今日は諦めるから」

 

 私が少し渋る様子を見せて言外に断りを入れるも、彼女は妥協案と共に踏み込んで来る。

 

「まぁ、それなら……」

 

 どうやら逃げ切れないようだと悟った私は、白旗を上げることにした。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「もちろん、いいですよ」

「わぁ、ありがとうございます。ラフィ先輩!」

 

 笑顔でそう答えたラフィさんに、ランデブーさんが両手を合わせて満面の笑みで感謝を返す。急な話なのに、心優しいラフィさんは快諾してくれたのだ。やはり女神か。

 

「それにしても、安心しました」

「ん? 何がですか?」

「お昼ご飯はほとんど毎日一緒に食べていますよね? お友達と仲を深める邪魔をしていないか、実は心配だったんです」

 

 心底安心した様子を見せるラフィさんだが、ネレイドランデブーさんは別に友人というわけではない。少なくとも、彼女に苦労を掛けさせただろう私からそういうべきではないのだから。真実を伝えるべきだろうか。

 

「いっつもお昼になるといつの間にかいなくなってて。やっとノヴァちゃんを捕まえられたんですよ!」

「やっぱりそうでしたか。3年生の方がカフェテリアに近いのに、何時もノヴァさんが先に待っていたので、そうじゃないかとは思っていましたが……」

「はい。休み時間に約束しようとしても、いっつも難しそうな本読むのに夢中で話しかけにくいし……」

「ノヴァさん、高等部の先輩たちでも読むかわからないような本を読んでますからね……」

 

 言おうかどうか迷っているうちに、彼女と私が友人であるとラフィさんに印象付けられていくのを感じる。ここまで来ると余計な波風を立ててしまうだろうと判断し、訂正は諦めることにした。食事を先に摂るべきだろう。

 

「あの、ラフィさん、ランデブーさん、まずはお昼取ってきませんか?」

「それ! 先輩、ノヴァちゃんひどいんですよ! あだ名で呼んでって言っても聞いてくれないんです!」

「えっ、そうなんですか?」

 

 

 私の声を聞くや否や機敏な動きで振り返り、私をびしっと指さしたランデブーさんは、ラフィさんに向かって再度振り向き不満を漏らす。するとラフィさんは意外なことを聞いたような表情で私を見た。

 

 ……やばい。藪蛇突いた!

 

 緩い三つ編みをふわりと揺らしながら、ラフィさんは首を傾げて口を開く。

 

「ノヴァさん、私やリツたちのことはすぐあだ名で呼んでくれましたよね?」

「いいなぁ。いいなぁ!」

「いえ、それは、その……」

 

 回答案その1――あだ名で呼んでと言われたから。

 

 ……ランデブーさんをあだ名で呼ばないことと矛盾が生じちゃう。

 

 回答案その2――先輩からそう言われたから。

 

 ……ラフィさんが「先輩だからですか?」と、先輩であることの優位性を使ったと勘違いして気にしてしまうかも。

 

 回答案その3――前世で引け目があるから。

 

 ……電波女呼ばわりは勘弁。

 

 完全に、詰みだ。

 

「なんとなくで、別に理由があるわけではないですけど……」

 

 答えないのも不自然だからと、しどろもどろな答えを返してしまう。するとランデブーさんが私の両手を彼女の両手で包む。

 

「じゃあ、『ラン』って呼んでくれるよね?」

「えっとぉ……」

「ね?」

 

 彼女はさらに一歩踏み込み、私に圧を掛ける。目線を逸らしてラフィさんに助けを求めるも、女神様は友情が育まれる過程を観覧するつもりなのか、これに関しては完全に傍観者でいるつもりのようだ。

 

 観念せざるを得なくなった私は、ランデブーさんと目を合わせて声を発する。

 

「……ランさん、でいいですか」

「うん、うん!」

 

 私の目の前で、パッと明るい笑顔が咲く。ラフィさん(女神様)は別格としても、ランさんもウマ娘だけあって美少女だ。牡馬だった身としては、なんだか気恥ずかしくなってしまう。

 

「ジャス子ォ! しっかりしろ!」

「あしげ、あしげ、ゆり、とうとみ……」

「お前、葦毛なら誰でも何でもいいのか!」

「違うの、シップ、聞いて……」

 

 カフェテリアのどこからか、聞いたことのある声と、聞いたことのない声が響いていた。




当初予定になかった子が増えてしまいました。
反省はしますが後悔はしません。

新しく増えた子はアプリ版のモブウマ娘が元なので、検索すればどんな容姿なのかビジュアル的にわかります。


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第23話:特等席チケットの抽選結果

バ券周りで独自設定があります。
詳細は後書きと、そこから飛べる活動報告に記載いたしました。


 リツさんが橘ステークスで見事な逃げ切り勝ちを見せた日の晩のことだ。我ながら珍しくラフィさんから十数分遅れて風呂を上がった私は、襟首をパタパタと仰ぎ火照った体を涼しい廊下の空気で冷ましながら自室の扉を開ける。

 

 当然、ラフィさんは先に部屋にいた。しかし、いつもならお風呂上がりのお茶を勧めて来るラフィさんが、今日はじっとベッドに腰かけて俯いている。普段なら髪を乾かし次第編み上げてしまう緩い三つ編みも、今日はまだ片方しかまとめられておらず、もう片方を半ばほどまで編んだところで手が止まっていた。

 

「リツは次、葵ステークス……。私も、もっと、もっと頑張らないと……。メジロなんだから……」

 

 集中していなければ、ほとんど聞き取れないほど小さな声だ。

 

「……ラフィさん?」

 

 思いつめたような、明らかに様子のおかしいラフィさんに声を掛ける。

 

 その反応は劇的だった。ラフィさんは息を呑みながらウマ耳と尻尾をピンと伸ばすと、弾かれるように私を見た。その拍子に、まだ編んでいる途中だった方の三つ編みがふわりと解ける。声を掛けて初めて、私がいることに気が付いたらしい。

 

「えっ、あっ、ごめんなさい。何ですか?」

 

 あっという間に、ラフィさんはいつも通りに見せかける。一瞬前の光景と言葉がなければ、わずかに萎えた耳にも気が付かなかっただろう。それくらい完璧に、ラフィさんは自分の心を押し隠そうとしていた。

 

 ……そっとしておいてあげるべき、かな。

 

 失意の類に押しつぶされそうなのであれば、その人が望むなら分かち合うことで、心への負荷を軽減する方が良いだろう。

 

 だが、わずかに聞き取れたラフィさんの独り言からは、自らに課した責任とそれに向けた奮起の意思を感じた。ならば、無理をしないかどうかだけ注意しながら見守るべきだ。そう判断した。

 

「いえ、用事があったわけじゃないんですけど、なんだかぼーっとしているように見えたので」

「そうですか……。やっぱり、少し長湯してしまったのかも――」

 

 ひっく、とラフィさんがしゃっくりをする。

 

 それを聞いて、私の血の気が一気に下がって行った。

 

 ()のしゃっくりは、脱水や電解質のバランスが崩れたときに起こることが多く、しゃっくりの原因となるそれらを放置すると命にかかわることがある。もし、もしもウマ娘もそうなのだとしたら――。

 

 ……お、おおお落ち着こう私。慌てちゃダメ。まずは深呼吸して、一つずつ、一つずつ……!

 

「大丈夫ですか、ラフィさん!? 今すぐ麦茶と塩飴と、あと救急車も呼ばないと……!」

「あの、びっくりしただけですから。大丈夫で――」

 

 再び、ひっくとラフィさんの横隔膜が震える。

 

「救急車ぁ!」

「大丈夫ですから! 本当に大丈夫ですから!」

 

 私の叫び声はちょっとした騒動に発展し、騒ぎを聞きつけてやってきたヒシアマゾン寮長直々に事情聴取を受けた後、私だけ(・・・)「心配性が過ぎる」と正座で怒られる羽目になった。

 

 ……ラフィさんまでお説教されなくて良かった……!

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「あっははは! ノヴァちゃんすごいね!」

「見に行けばよかったかなぁ」

 

 翌日のお昼時、カフェテリアで私とラフィさんは、リツさんとフユさんに思い切り弄られていた。リツさんに至っては食事を止めて、腹を抱えて大笑いしている有様だ。他のアダラのメンバーは、今日はそれぞれ別の約束があったらしく不在である。

 

「笑わなくてもいいじゃないですか、リツ。ちょっと心配性すぎただけなんですから」

 

 左隣に座ってBLTサンドを食べていたラフィさんが、頬を膨らませている。昨日お説教の対象にはならなかったラフィさんだが、事情聴取で時間を取らせてしまい迷惑をかけた。申し訳ないと言う気持ちで一杯である。

 

「本当に、すみません……」

「あっ、えっと、昨日のことはもう全く気にしていませんから。ね? ポテト一緒に食べませんか?」

「……ありがとうございます」

 

 ポテトを一つまみ貰い、口に放り込む。ラフィさんは大変優しいのでこうして許してくれるが、私と一緒に隣室や同じフロアの子たちに謝りに回ってくれたので、1時間以上は睡眠時間を削ってしまったはずだ。気にしていないと昨日から何度も言ってくれているが、甘えすぎてはいけない。

 

「昨日の北棟の騒ぎ、ノヴァちゃんだったんだ……」

 

 そう言って苦笑いで私を見るのは、先日友人――と言うことになったランさんだ。右隣に座っている彼女は、ドリアが予想以上に熱かったのか水を飲んでいる。あれ以来、2回に1回くらいの頻度で私についてくるようになり、アダラの面々ともあっという間に仲良くなってしまった。私は女の子女の子した会話についていけないので、そのあたりはさすが純正の女の子だ。私みたいな、牡馬とウマ娘どっちつかずの混ぜ物とは格が違う。

 

 そのランさんだが、意外なことに彼女も美浦寮所属だったことが友人になった日のうちに判明した。私とラフィさんの部屋は北棟の4階南側、ランさんの部屋は中央棟を挟んで反対側、南棟の3階北側とそれなりの距離があり、生活リズムも微妙にずれていたために、今までは同じ寮であるにもかかわらず会うことがなかったらしい。

 

「いや、だって、心配じゃないですか」

「しゃっくりで救急車呼ぼうとするのは、心配性で収まるか怪しいよ? ノヴァちゃん」

「それは、……そうかもしれないですけど」

 

 ごもっともな指摘である。今にして思えば、前々世で読んだ覚えがある獣医学的な知識に引っ張られすぎだった。それでも、心配なものは心配だったのだ。

 

 特に反論が思い浮かばず、観念した私はデミグラスソースが良く絡んだハンバーグを一口頬張った。

 

「拗ねないでよー」

「拗ねてません」

「拗ねてるよー」

「拗ねてません。子供じゃないんですから」

 

 くすくすと、何やら微笑ましいものを見るような目をしてラフィさんが笑っていた。

 

 ……いや、あの、本当にこれで拗ねるほど幼くないですよ? 馬だった時含めたら40歳近いんですからね?

 

 そんな反論をするわけにもいかず、私はもどかしさにむむむ(・・・)と唸るだけだった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「さて、ノヴァちゃん」

「はい。準備はできています。フユさん」

 

 私にしては珍しく、今日一緒に昼食をとる約束をしていた相手はラフィさんではなくフユさんだ。1週間前にフユさんが紗雪さんと交渉をしてくれたお礼としてのチケット抽選のお手伝い、その結果発表が今日の正午だったのだ。

 

 ウイニングライブの現地チケットは、先行販売分と当日販売分に分けられる。

 

 このうち先行販売分は完全抽選制だが、URAが運営する会員制サイト『Club URA-Net』の会員であれば、未成年やトレセン学園関係者――つまり、私たちでも購入できるようになっている。しかしながら、GIレースのウイニングライブ、その特等席ともなれば、当選確率は「大荒れした年のエリザベス女王杯の3連単(・・・)を当てる方が簡単」とすら言われるくらい低い。

 

 一方、当日販売分は基本的に読んで字の通りなのだが、当日現地でバ券――ウマ娘世界にはないと思っていたが、今世にはシステムがほぼ(・・)そのまま存在していたそれ――を当てた人が、オッズの高かった順に優先購入できるシステムになっている。こちらは未成年やトレセン学園関係者がバ券を買うことはできないので、私たちにはまず関係のないものだ。

 

 既に私とフユさんのスマートフォンには、『Club URA-Net』のライブ用席予約システムが表示されている。『結果を確認する』と書かれたボタンを1回タップすれば、シュレディンガーの抽選結果が確定してしまうところまでは来ているのだ。実際にはすでに決まっているわけだが、気持ちの問題である。

 

「せーの、で行くよ。ノヴァちゃん」

「はい」

 

 フユさんが深呼吸をする。この日のために、フユさんは道行く学園生や職員たちにドン引かれても三女神像に五体投地をしていた。神頼みと言えども努力は努力であり、抽選である以上運を高めるしかないのであれば、正しい努力と言えないこともない。お昼を一緒に食べて、その流れで今も同席しているラフィさん、リツさん、ランさんも固唾を飲んで見守っていた。

 

「せーの!」

 

 フィルムを張った画面をタンと音を立てて叩き、ほんの一瞬待つ。

 

 私の結果は――落選。フユさんの力にはなれなかったようだ。まずそうなるだろうとはわかっていたが、いざ現実になると相応に悔しいものである。

 

 溜め息を一つ吐いて、フユさんの様子を見た。大きく目を見開いて半開きの唇を震わせ、じっと画面を見つめている。

 

「――た」

「えっ?」

「当たった……」

 

 フユさんが私の方を向き、呆然としたような声で奇跡を報告する。自身の声を聞いてそれが現実だとようやく認識したらしいフユさんは、スマートフォンを置くとそのまま歓喜を分かち合うかのように私を抱き締めて来た。

 

「当たった! 当たった! 当たったぁ! 嘘、本当に当たってる! 夢じゃないよね!? 三女神様ありがとう!」

(くる)、苦しいです……!」

 

 もしかして私のこと、絞め殺そうとしていますか。そんなことを考えてしまうレベルで力が入っているフユさんの背中を必死に叩く。物理的に潰される前に解いてもらわないと、デビューする前に退学しなければならなくなってしまう。

 

 ……こんにちは、4本足時代の私……!

 

「フユ、フユ。ノヴァさんが潰れちゃいます」

「あぁう、ごめん!」

「ありがとうございます、ラフィさん……」

 

 ラフィさんの呼びかけでようやく、フユさんが私を離してくれた。一瞬前世の私が見えた気がしたが、私はここにいるのだからおかしな話である。

 

「……はっ、入金して来なきゃ!」

 

 我に返ったのかと思われたフユさんだが、突然そう言うと財布とスマートフォンだけを持ってカフェテリアを飛び出していった。

 

「こらぁ! 静かに走るっス!」

 

 不運にも、フユさんは最終直線の全速力並みの速度まで加速した瞬間に、風紀委員長とすれ違ったらしい。カフェテリアの大きな窓から、注意するために風紀委員長がフユさんを追いかけている様子が見えるのだが――。

 

 ……いやいやいや、どうしてバンブーメモリーを振り切れるの?

 

 レースではない以上、風紀委員長も本気を出しているわけではないだろう。すでに速度が乗りに乗ったフユさんと、これから加速しなければならない風紀委員長の速度差もある。それにしたって、スプリント路線のGIウマ娘を置いてけぼりにするのはとんでもないことである。

 

 そう言えば、ウマ娘の身体能力は精神状態に依存するだなんて話を聞いたことがある。それを考えると、絶好調を通り越して有頂天だとすらいえる今のフユさんが、とんでもないスペックを発揮しても不思議ではないのかもしれない。

 

「先輩速いなぁ」

「今のフユなら、重賞に勝てそうですね……」

「デビュー後だったらね」

 

 フユさんの姿は、あっという間に遠くへと消えていった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「た、ただぃ、まぁ……」

「おかえりなさい、フユさん」

 

 およそ15分後、息も絶え絶えのフユさんが戻って来た。5月の陽気の中を全速力で走ったためか、生地の厚い冬服が透けてしまいそうなほどの大汗を掻いている。

 

「長距離は苦手でしたよね? 無理をしてはダメですよ」

 

 心配そうな表情をしながら、ラフィさんはコップに入れたアイスティーを差し出した。フユさんはそれを受け取ると、喉を鳴らしながらあっという間に飲み干していく。体の中から冷えてどうやら一息つけたのか、フユさんが口を開いた。

 

「だって、早く払わないと取られちゃいそうだし……」

「取られないための予約じゃないですか。歩いて行きましょうよ」

 

 フユさんは一体、何のための予約システムだと思っているのか。そう思い言葉を掛ける。

 

「じゃあノヴァちゃんは、ラフィがセンターのチケット取れた時に、そんな悠長なことを言ってられる?」

「無理ですごめんなさい」

「よろしい」

「何もよろしくないですからね?」

 

 苦笑いをしているラフィさんが、フユさんにおかわりを注いだ。

 

「まぁ、フユのトモエに対するかかり癖は、今に始まったことじゃないけどさ」

「そうなんですか?」

「そうなんだよ、ランちゃん。だってフユは、トモエがいたからアダラに来たくらいの筋金入りだからね」

「……似たようなことをしそうな子がいますね」

 

 ランさんの淡い灰色の瞳と、リツさんの金色の瞳が同時に私を見つめる。

 

 ……もし入るとすれば、それだけではないけれど。

 

「そこまで考え無しに選びません」

「もしかしてノヴァちゃん、私のこと考え無しだって言ってる?」

「あっ、いえ、そういうわけでは……」

「冗談だよ、冗談。ノヴァちゃんは面白いねぇ」

「ひどいですよ!」

 

 フユさんにつられて皆が笑いだし、私もそれに合わせて笑顔を作る。

 

 私の罪を忘れさせはしないとでも言うくらいにあの人たちによく似ていて、けれど違う人たち。私の自己満足でしかないとはわかっている。それでも、もしも許してくれるのなら、あの人たちについて行きたいと言う気持ちは、確かにあった。




本編中に入れると大変冗長になり、話の流れを遮ってしまったため、作中におけるバ券販売事情の詳細はこちらの活動報告に掲載しました。
もともと本編中に入れていたため、ノヴァが語る形となっています。
読まなくとも、作中では屁理屈をこねて、現実とほぼ同じようにバ券が販売されていると考えて頂ければ問題ありません。



2022/1/23 21:25
後書きの文章の内、削除を予告していた部分について削除いたしました
本文には影響ありません


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第24話:小さな薔薇の京王杯スプリングカップ

今話は短いです。


 土曜日の東京レース場、私はGII競走に出走するローズさんの雄姿を見届けるため、フジビュースタンドの1階西側にあるゴール前の席にいた。

 

 ラフィさんの未勝利戦――ライブには無理矢理行ったそれ――やリツさんの橘ステークスは京都開催だったので行けなかったが、ローズさんの京王杯スプリングカップとトモエさんのヴィクトリアマイルは東京開催なので、現地で見ようと思ったのだ。

 

 先々週にチームメンバーでもない私のためにライブの関係者席を用意して貰い迷惑をかけているので、今日は自分で席を取って観戦である。チーム所属のラフィさんたちは関係者席から見守っているのでいない。その代わり、と言っては彼女に失礼だが、朝からランさんと一緒である。上下セットのチュニックとショートパンツ、そしてタイツを穿いた彼女は、薄く赤みを帯びた葦毛と相まって人形を思わせる可憐さだ。ちなみに、私はいつもの白いシャツワンピースである。

 

 エレジーさんも誘おうか悩んだが、無事シリウスに入りトレーニングが始まったのでやめておいた。練習の邪魔をしては悪いだろう。

 

「来た来た来た! 頑張れ逃げの子!」

 

 第10レース、3勝クラスの芝2400m戦の争いが最終直線に入り、ランさんが逃げの子が粘れるよう応援している。ここまでスローペースに持ち込んでいるので、逃げ切りを十分に狙えるだけの体力は残っているだろう。準オープンクラスということもあって、相応にレベルの高い戦いになっている。

 

 ……でも、前の私の方が速い。

 

 どこぞの胸が薄い先頭民族さん――が言っていない台詞のような感想を思い浮かべてしまう。古馬になってからはGIしか走っていなかったのだから、条件馬に負けるようでは話にならない。

 

 しかし、それはあくまでも前の話である。今の私はデビューすらできていないただの学園生だ。完全無欠に絶好調で、最後のあの瞬間にもし加速できてさえいればギンシャリボーイ(あいつ)にだって負けなかったはずの、脚を折った日の私はあくまでも前世。そこまでどれだけ戻せるかわからない以上、ただの戯言でしかない。莫迦げた仮定をしてしまうなど、場内の熱気に中てられたのだろうか。

 

「あぁ! 差されちゃった……」

 

 レースは大外枠に回された子が豪快な追い込みを決め、観客たちが歓声を上げる。自分に向けられたわけでもないそれに反応して、あと少し、ぎりぎりのところで差し切られ、盛り上がった客がそれぞれに声を上げる何度も何度も見た光景が脳裏を過ぎった。

 

「あとちょっとだったのにね」

「そうですね」

「作戦は完璧だったのに……」

「そうですね」

「……ノヴァちゃん?」

「そうですね」

 

 ぺしぺしと左頬に軽い衝撃が何度か走り、我に返る。思い切り生返事をしていたような気がする。怒らせてしまっただろうかと少し心配しながらランさんを見ると、彼女は眉を曇らせていた。

 

「ノヴァちゃん、大丈夫? 具合悪いの? 無理しないで休んだ方がいいよ?」

「大丈夫です。本番は明日ですから」

「だったら、今日は休んだ方がいいと思うんだけど……」

「大丈夫ですから」

 

 じっとランさんと見つめ合う。ヴィクトリアマイルはGI競走だ。明日は、今日とは比べ物にならない観客が詰めかけるだろう。その予行演習も兼ねているのだから、このくらいで根を上げるわけにはいかない。十数秒ほどそうしていると、ランさんが目を逸らした。少し頬が赤い。

 

「まあ、本当に大丈夫かもしれないけど。心配だから、明日も一緒に行くからね」

「そこまで言うなら、仕方ありませんね。ありがとうございます」

「……うん」

 

 心配させないように、と笑いかけたのだが様子がおかしい。

 

「……ランさん?」

「……ううん。大丈夫だよ。大丈夫、大丈夫……」

 

 パタパタと顔を仰いでいるランさんと、次のレースであるローズさんの京王杯SCが始まるまで会話をしたりして時間を潰す。つい先ほどのレースについて「自分ならどうするか」などトレセン学園生らしく語り合ったり。かと思えば「中間テストってどんななんだろうね」だの、「どんな服が好きなの?」だのと言った、まるで女子中学生のような話をしたり。友人が少なく、前々世の記憶も性別すらわからないほど擦り切れているせいか、なかなか新鮮な体験だった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 JRA(・・・)のものとは異なる、未だに聞き慣れないファンファーレが響き渡った後、第2コーナーを出たあたりの向こう正面で停車していたゲートへ、ウマ娘たちが収まっていく。私たちはその様子をターフビジョンの映像で見守っていた。

 

 11番のローズさんは先入り組の後の方、重賞の緊張か、ゲート(狭い所)に入る本能的な拒絶反応か、少々そわそわしているが問題はない範囲だ。

 

 大外枠のウマ娘が収まり、係員が退避すると同時に音もなくゲートが開いた。テレビで見るときのようなゲートの音は効果音なので、現地観戦ではスタンドまで聞こえてくることはない。

 

 ローズさんは可もなく不可もないスタートを切ると、中団前目につけて先行勢の争いを見守る体制に入った。東京の1400mは最初の直線が長いので、外枠気味だったローズさんも好位を確保出来た形だ。

 

 おそらく相当細かいやり取りがそこにはあるのだろうが、実のところ私にはよくわからない。ラップ走法の大逃げなどという矛盾するような戦法を取っていたので、スタート直後にハナを切るまでの数ハロンと、決勝線直前のギンシャリボーイ(あいつ)が飛んでくる1ハロン以外で、駆け引きらしいことなんてほとんどしたことがなかった。

 

 なので私にわかることと言えば、「最後外に膨らめば前が開くから、差しやすそうな位置だなぁ」ということくらいである。

 

 そんなことを考えているうちに、レースは最終局面に入った。第4コーナーを抜けようかというタイミングで、ローズさんはわざと外に膨らみ、彼女の前に誰もいない絶好のチャンスを作り出した。そのまま最終直線に移り、坂を抜けていく。

 

『坂を登り間もなく残り200m。3番バイタルダイナモがわずかに抜け出して、200を切りました』

 

 最終直線での攻防に、観客がそれぞれの声を上げる。私もお腹を抱えながら、ローズさんをじっと見つめる。

 

『その後ろからデュオアスピス、ソワソワが接近してきますが、外から11番ミニローズ一気に来た!』

 

 ローズさんは坂を登り切った直後から一気に加速し先頭に迫る。先行勢はスタート直後の先頭争いでスタミナを消費していたためか伸びが鈍く、次々にローズさんの末脚の餌食となっていく。

 

 ……これは勝った。

 

『3番バイタルダイナモ懸命に粘っているが、ミニローズ差し切ってゴールイン!』

 

 確信した通りに鮮やかに差し切り勝ちを決めたローズさんは、観客の歓声に応えるようにスタンドへ手を振っている。周りのお客さんたちも口々に、「格好良かったよ!」だとか、「ライブ楽しみにしてるよ!」と声を掛けていて、推しが負けてしまったのだろう人も「次頑張ろう!」と負けたウマ娘を元気づけるようなことを口にしている。

 

 重賞なのに、負けたからとバ券が舞ったり、「シネー」だなんて柄の悪い野次が飛んだりしないあたり、なんだか調子が狂うと同時に、前世までよりも客層が良いのだなと実感させられる光景だった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「先々週はラフィが勝った。先週は私が勝った。今日はローズが勝った。アダラの流れ来てるよ、トモエ!」

「やめてよ緊張するから」

 

 ローズさんがウイニングライブを終えた後、事前にラフィさんたちと約束していた通りランさんと一緒に西門で待っていると、実に上機嫌そうなリツさんの声が聞こえて来た。プレッシャーを感じさせてもおかしくないことを言っているが、トモエさんは言っていることとは裏腹にリラックスしている様子だ。

 

「お疲れ様です」

「んぉ、ノヴァちゃんとランちゃん、どうだった? ローズ、格好良かったでしょ」

「はい。ローズさん、おめでとうございます」

「初めまして、ネレイドランデブーです。ランって呼んでください! おめでとうございます、先輩!」

 

 同じ美浦寮のラフィさんとリツさんはランさんと面識があるが、その2人以外は初対面だ。

 

 ……距離の詰め方が、追込みの末脚並みだよねぇ。

 

「ありがとうございます」

 

 祝福を受けたローズさんはニコニコと笑いながら、ゆらりゆらりと上機嫌そうに尻尾を振っている。重賞ウマ娘というのは、アプリだったら事故でマックEーンにならない限りまず取れる称号だ。しかし、トレセン学園生にとっては、中央のものに限るなら最多でも1年で139人しか取れない、一生自慢できるステータスである。

 

「葦毛が2人……。来るよ、フユ!」

「来ないよ、ネルトラル」

「ジャスタ先輩なら来そうじゃない?」

「流石にそこまで神出鬼没じゃないでしょ……」

 

 ネルさんとフユさんが、何やらスラング的なやり取りをしている。

 

 何を話しているんだろうと見ていると、ラフィさんが話を振って来た。

 

「今日はどうでしたか? ノヴァさん、ランさん」

「スタンドの熱気が凄かったですね。中央の重賞を現地観戦するのは初めてだったので、いろいろとびっくりしました」

「テレビで見るのと目の前で見るのと、全然違いました!」

 

 前世込みでも観戦は(・・・)初めてだ。嘘はついていない。

 

「そうですか、そうですか。明日はGIなので、もっと盛り上がりますよ」

「はい。トモエさんの勝負服がどんななのかも楽しみです」

 

 視界外から両手をむんずと掴まれる。一瞬驚いて耳と尻尾がビンと伸びたが、だれが犯人なのかはすぐに思い当たった。ランさんのいない左手側から私の両手を掴んでいる犯人は、当然のようにフユさんだった。目の輝きが尋常ではない。

 

「よくわかってるね。同志……! この間試着していたのを見たんだけど、清楚さとセンシティブさを併せ持つ素晴らしい勝負服だよ……!」

「はいはい、ステイステイ」

 

 ネルさんがフユさんの首根っこを掴み、ずるずると引き摺って離す。初めてフユさんの奇行を見て目を丸くしているランさん以外は、「またいつものだよ」と笑っていた。




先日はアンケートご協力ありがとうございました。
アンケートの結果や詳細はこちらの活動報告をご覧ください。

投稿が1週間遅れた理由は、本話で描写したローズの京王杯SC、ノヴァの両親がトレーナーを務める子の羽田盃(SI)とかしわ記念(J・GI)がプロットから漏れていたためです。

両親のかかわるレースは理由付けをして描写しないことも出来そうだったのですが、ローズのレースはノヴァが現地で見ないわけがなかったので、ほぼ全て書き直しとなり遅れました。

なお、作中の実況はnetkeiba様の過去映像を参考としました(19年京王杯SC)。



2022/2/12 20:10
ノヴァとランの服装について加筆いたしました


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第25話:私が見たかった/見せたかったもの

第24話に一部加筆を行いました。
詳細については後書きに記載しています。
このままお読みいただいて問題ありません。


 日曜日の朝8時前、私はラフィさんとの朝練を終えた後、昨日のうちに寮の正門前で待ち合わせの約束をしたランさんを待っていた。5月中旬の朝は日によって結構気温が変わる。今日はどうやらシャツワンピース1枚だけでじっとしているには肌寒い日だったようで、薄手のカーディガンを1枚羽織って正解だった。

 

 夜間に寮の敷地と道路とを隔てる門扉の柱に背中を預けて待っていると、他の学園生たちがワイワイと楽しそうに話しながら正門を出ていく。おそらく、府中や中山でGI競走が行われるときはよく見る光景なのだろう。

 

「おはよう、ノヴァちゃん」

「おはようございます、ランさん」

 

 ぼうっとしていたせいか、急に声を掛けられて耳がピクリと動く。少し驚いてしまったことを悟らせないように、ゆったりとした動きで柱から離れ、やってきた待ち人に挨拶を返した。

 

 今日のランさんは、白いパーカーと黒ベースのチェック柄キュロット、タイツと白いスニーカーだ。昨日と全く違う服装である。髪と尻尾も艶々と輝いていて、普段から念入りに手入れをしていることが伺える。

 

「うーん?」

 

 すると、ランさんは首を傾げながら私の頭からつま先まで見る。

 

「な、なんですか?」

「昨日も白いワンピースだったよね?」

 

 ランさんが怪訝そうな表情で首を傾げる。一応昨日とは別のワンピースなのだが、肘と膝がギリギリ見える丈の白いシャツワンピースと言う点では昨日と同じだ。

 

 自分でも何故かはわからないが、白や明るい灰色を着ている方が落ち着く。前世で古馬になってから、ほとんど真っ白になったせいだろうか。靴も同じ理由で、前世の蹄の色と同じ黒を履くことが多い。結果として、私服だといつも似たような格好になるのだ。

 

「楽ですし」

「それはわかるけど、2日連続で同じデザインなのはどうかと思うよ?」

 

 ランさんが半目で私を見つめる。もうちょっとおしゃれに気を配りなさいと言わんばかりの目線だ。しかし、私だって少しは工夫している。

 

「待ってください。昨日はウエストがベルトでしたけど今日はリボンですし、カーディガンだって羽織ってますよ?」

「間違い探しじゃないんだから。ブーツだって昨日と同じのだし」

「うむむ」

 

 そう言われると返す言葉もない。

 

「せっかくかわいいんだから、もっといろいろなお洋服着ようよ」

「うーん。なかなか気にいる服がないんですよね」

 

 前世の姿を連想させる無彩色の衣服以外で、自分で選んで気に入った服を買おうとすると、「それは流石に、ない」と家族から止められるのである。

 

「今度一緒に買いに行く?」

「えーっと、アダラの皆さんとも約束しているので……」

 

 誘ってくれるのは嬉しいが、頻繁に服を買いに行きたいと思うほどファッションに興味がない。ラフィさんたちと服を買いに行ったら、半年はもういいと思うだろう。

 

「むぅ。やっぱりアダラかぁ。……私も一緒で良いか聞こうかな」

「まぁ、皆さんが良ければ私としては異論はないです」

「わかったよ。よーし、ノヴァちゃんを可愛くしちゃうぞ!」

 

 ……もしかして、着せ替え人形にされる?

 

 墓穴を掘ったかもしれないと、背筋に冷や汗のような何かが一筋流れて行った。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 朝から2人でレースを観戦しながら席を暖め続け、時々交代で食事を買いに行ったりトイレに行ったりしているうちに15時を回り、ヴィクトリアマイルのパドックお披露目の時間が来た。

 

 幸いにも、事前に危惧したほど体調は悪化しておらず、問題なくパドックやレースを見ることが出来そうだ。自分が直接出走したことがないレースだからかもしれない。

 

 ターフビジョンに映るパドックの様子をランさんと一緒に見守っていると、トモエさんの番はすぐにやって来た。カーテンの掛かった控えから尾花栗毛の少女が姿を現す。今回が初めてのGI競走らしく、少し緊張した様な面持ちだ。

 

『2枠4番、トモエナゲ』

 

 アナウンスと共に、体を覆っていたマントをトモエさん自ら取り払う。マントがパドックのお立ち台に落ち、それとほとんど同時に歓声が上がった。

 

 トモエさんの勝負服は、群青色をベースとしてにんじん色の差し色が入ったベスト、ショートパンツ、サイハイブーツだ。ただそれだけなら、「脇とか絶対領域とかももぷくとか、露出少なめにしても少しニッチな性癖を詰めすぎてませんか?」くらいの感想だっただろう。しかし、にんじん色をしたブラトップがちらりと見えるほどのスリットがベストに入っていて、白いお腹が大胆に見えているとなれば話は別である。

 

 ……フユさん、これはだいぶエッチ寄りですよ!?

 

 今この場にいない、熱いトモエさん推しの先輩に内心ツッコミを入れる。確かに露出自体は少ないかもしれないが、トモエさんはお胸その他諸々が大変大きく、一方で引っ込むべきところは引っ込んでいる実に恵まれた体の持ち主である。これを見たら、青少年の何か(性癖)が危ないことは間違いない。現に、映像に写り込んでいる家族と一緒に来たらしい小学生くらいの少年がもじもじしている。このようなものを見せられて彼が将来まともな恋愛ができるか、他人ながら非常に心配だ。

 

 ふと気になってスマホで確認すると、トモエさんのバ券人気が12番人気から7番人気くらいまで跳ね上がったようだ。今世のバ券は、実力以外にもそのウマ娘のライブが見たいかどうかが人気に影響を与える。

 

 ……絶対に男性票でしょ、これ……。

 

 前世が牡馬だったのでよくわかる。魅力的な異性というものは、どんな時代や種族でも人気になるものだ。私だって、種牡馬になって最初の3年くらい――勝ち上がり率で悲惨な結果を出す前はそこそこ人気があったので、「どうせなら若くて綺麗な牝馬がいいなぁ」と思っていたくらいだ。

 

 もちろん、前世では肝心のレースで勝てなかった分を稼ぐつもりで、実際には選り好みはしなかった。さらに言えば、私の遺伝子がまともに仕事をしないことが分かってからは、相手が若いと肌馬としての評価を下げかねないので、非常に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。仮定の話だが、ランさんが前世の記憶を持っていたら、4回分の繁殖機会を無駄にさせてしまった私は土下座しても許してもらえないだろう。

 

 ランさんはパタパタと尻尾を振って、憧憬の色を瞳に浮かべてターフビジョンを見つめている。

 

「……ノヴァちゃん、どうしたの?」

「えっ?」

「私のこと見てたから、何か用なのかなって」

 

 無意識のうちに彼女を見つめていたらしい。特に理由はない、と答えるのはどうかと思ったため、頭をフル回転させて言い訳を考えだす。

 

「憧れているランさんが可愛いなと思いまして」

「か、かわ……。そ、そう?」

「はい」

「へぇー。そう。そうなんだ。ふーん」

 

 流石に無理のある言い訳だっただろうかと様子を伺うと、ランさんは顔を赤らめて視線を下に逸らし、もみあげの髪の毛をくるくると弄っていた。先ほどよりも勢いを増して揺れる尻尾が、私の尻尾に当たる。少し変な雰囲気のまま、私たちは発走時刻まで沈黙を保ったまま過ごした。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 まだ耳に馴染まないGIファンファーレと共に、返しウマのため散らばっていたウマ娘たちが向こう正面のポケット入口に設置されたゲートに集まる。

 

 トモエさんは偶数番なので後入り組だが、昨日のローズさんほど緊張した様子は見せていない。返しウマで軽く走っているうちに、気持ちが落ち着いたようだ。

 

 トモエさんの様子を見ているうちに大外枠のウマ娘も収まったようで、係員がゲート正面から離れていく。それとほぼ同時にゲートが開き、ウマ娘たちが飛び出していった。

 

 トモエさんは綺麗にスタートを決めたが、GIレースともなればそれくらいは基本的に当然のことである。3番のウマ娘がぐんぐんと加速していき、それを追う様に3人のウマ娘が上がり、トモエさんの前を塞ぐ。外へ逃げようにも、トモエさんよりも外枠の子たちが既にいて進路を潰されており、トモエさん自身の努力ではどうにもできない。昨日のローズさんとは反対に、バ群に埋もれる可能性があると言う内枠のデメリットが、最初の直線が長いために強く出てしまった形だ。

 

 映像では表情を伺うことは難しいが、苦虫を噛み潰したような表情をしていてもおかしくない。しかし、レースとは最後まで何が起こるかわからないものである。

 

『4コーナーから直線コース。内が少し開きまして3番オリジナルシャイン先頭、リードは3バ身ほど』

 

 開催8日目、少し傷んできた内ラチ沿いを嫌がるように、集団がわずかに外へ膨れた。その隙を突いて、トモエさんが一気に内へと切れ込む。芝の状況を少しでも読み違えればそのまま沈む博打だ。

 

『2番手は横一線から8番トラフィックライツ、そして12番パワフルトルクが追って来て、大外から7番プカプカも追い込んで来る!』

 

 賭けは上手く行ったようで、前が開いた芝の境目をトモエさんが一気に駆け上がっていく。

 

『先頭はオリジナルシャイン、オリジナルシャインだ! 内からトモエナゲも接近する! オリジナルシャインかトモエナゲか!』

 

 トモエさんの後を追う様に内へ切れ込んだ子、大外から一気に勝負を仕掛ける子もいるが、トモエさんは止まらない。人気薄だったトモエさんの激走に、観客の歓声も大きくなっていく。

 

『最内から2番カラフルパステル! 16番クレイジーインラブも追って来る! 大外プカプカも追い込んで来るが、内からトモエナゲ抜けた!』

 

 2番手と2分の1バ身差で、トモエさんが決勝線を最初に超えていく。

 

『トモエナゲェ!』

「やったぁー!」

 

 他局に入りかねない大声でアナウンサーがトモエさんの勝利を告げ、数多の観客があげる歓声を切り裂くようにフユさんらしき歓喜の絶叫が響き渡る。

 

 ……後でのど飴でも買って、持って行ってあげようかな。

 

 推しが勝ってテンションが振り切れたフユさんのことだ。喉のことなんて微塵も考えていないだろう。

 

『これがGI初制覇! トモエナゲ見事に決めました!』

「トモエ先輩、勝ったね!」

「はい。トモエさんとアダラの皆さんの努力が報われました……!」

 

 もちろん皆努力している。それでも、レースでその努力が報われるのは一握りだけだ。

 

 勢いのまま走り抜けたトモエさんが戻って来て、満面の笑みで観客席に両手を振っている。数十秒ほどそうしていた後、トモエさんは何かに気が付いたように観客席の一角へ向けて歩いて行く。角度の問題で直接よく見えないけれど、ターフビジョンに映し出された映像にはラフィさんたちアダラのウマ娘と、そしてトレーナーたちがいた。

 

 みんな、みんな笑顔だ。誰も悔しそうになんかしていない。きっと、慰めるようなことも言っていない。私が見たかった、私が見せたかった、みんな喜んでいる勝利の光景。半端者の私には、一度も成し遂げられなかったもの。

 

 昨日と異なり気になってしまったのは、GIの空気に中てられたからだろうか。悲嘆とも嫉妬ともつかない、慶事の場に相応しくない何かを悟られないように、私は笑顔を張り付けた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「この流れに乗って、葵ステークス勝っちゃおうかなぁ!」

「十分勝機はありますよ。もしかしたら、スプリンターズステークスで顔を合わせるかもしれませんね」

「お? 負けないからね、ローズ!」

「こちらのセリフですよ、リツ」

 

 ウイニングライブの後、昨日と同じくランさんと一緒に西門で待っていると、昨日以上に喜色に溢れたラフィさんたちが現れた。トレーナーさんたちは

 

 ……みんな、嬉しそうだ。

 

「トモエ先輩、おめでとうございます!」

「おめでとうございます、トモエさん」

「あっ、ランちゃんノヴァちゃん! ありがとう!」

 

 ランさんに続いて、お祝いの言葉を述べる。意図して貼り付けたときの仮面の強度なら、自信がある。

 

「次走はどうするんですか?」

「投票次第だけど、宝塚記念だよ」

 

 宝塚記念と有馬記念――グランプリレースと呼ばれる2つのレースは、特別登録をしたウマ娘の中からファン投票の上位10名が出走できるレースだ。人気がなければどれだけ強いウマ娘でも出走することは出来ない、と言う点で特異なレースである。もちろん、強いウマ娘は人気になるので、そんなことはまずないのだが。

 

 しかし、トモエさんの適性はマイル前後に限られる、と以前聞いたことがある。長くなっても短くなってもダメな、典型的なマイラーだと。宝塚記念は阪神の芝2200mで行われるため、ヴィクトリアマイルと比べて3ハロン(600m)の延長だ。

 

「距離は大丈夫なんですか……?」

「多分、無理。でも、小っちゃいころから夢だったんだ」

 

 しみじみとした様子でトモエさんが呟く。

 

「デビューした頃は私がグランプリに出られるなんて思ってなかったから、なんだか遠くまで来ちゃったみたい」

 

 夢を叶えようとしている彼女の笑顔はとても美しくて、それ以上何かを言うことはとてもできなかった。

 

「ノヴァさん」

「なんですか?」

 

 私が沈黙を保っていると、突然ラフィさんに話しかけられる。私が返事をすると、ラフィさんは私の周りをくるくると回りながら私を見た。ふわふわと柑橘系の良い匂いが私を包み込んでいく。

 

「ちょっと関係ない話ですけれど、昨日とコーディネートがほとんど同じなのはどうかと思いますよ……?」

「えっ?」

「ですよね、ラフィ先輩!」

 

 全く想定外のところから、私の服についての話になった。ラフィさんたちは学校行事として来ている形なので制服を着ている。つまり、この場でコーディネートの話の標的にされるのは、私とランさんだけだ。

 

 朝にランさんとしていた話の続きが始まり、ラフィさんたちにランさんも加えたメンバーで、近い将来私の着せ替え大会が行われることが確定してしまった。

 

 ……どうしてこうなった!?

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「ノヴァさん、今日何かありましたか?」

 

 ラフィさんと一緒に自室に帰って来た後、「一息入れましょうか」とラフィさんの淹れてくれた紅茶を飲んでいると、突然ラフィさんが問いかけて来た。心配そうに柳眉を寄せ、翠色の瞳が私の心の奥底まで覗き込もうとしている。

 

 悟られるようなへまをした覚えはないのだが、ラフィさんの直感は私の負の感情を感じ取ったらしい。全力で思考を回し、どう返答すべきか考える。ほんの一瞬だけ間が開いて、捻りだした結論は――。

 

「何がですか?」

 

 全力でとぼけた。大丈夫ですなどと言えば、何かあったと暗に言うようなものだ。ラフィさんの親切を払いのけるようで心が痛むが、気のせいだと思ってもらうほかない。普段勝手気ままに動いてしまう耳と尻尾も、今日この瞬間だけは無理矢理制御する。

 

「なんだか、あまり元気がないように思えたので。声を掛けた後で、あの場で言うのはどうかと思ったので、お洋服の話で誤魔化したのですけれど」

 

 あの時突然話が飛んだのは、ラフィさんなりの配慮だったらしい。

 

「あぁ。だからだったんですね。いきなりだったのでびっくりしました」

「えぇ。でも、ノヴァさんにいろんなお洋服を着せてみたいと言うのは本当ですよ?」

 

 ラフィさんは両手を胸の前で合わせ、笑みを浮かべて軽く首を傾けた。艶やかな髪が頭の動きに合わせてさらさらと揺れる。

 

「ほどほどでお願いしますね」

 

 空笑いと共にそう返す。ラフィさんと一緒にショッピング――それ自体は望むところだが、それはそれとして長い買い物は苦手なのだ。

 

「それで、どうなのですか?」

 

 このまま逃げ切れるかとも思ったが、そうはさせてくれないらしい。両手を下ろしたラフィさんが、真剣な眼差しで見つめて来る。

 

「いえ。本当に心当たりがなくて。昨日今日と体調が少しだけ悪かったので、そのせいかもしれませんね」

「うーん。そうですか? それとは違うものを感じたのですけれど……」

 

 親切に気にかけてくれたラフィさんには本当に悪いが、こればかりは他人に話して解決できる問題ではない。

 

「心配してくれてありがとうございます。明日は試験ですし、今日は飲み終わったらもう寝ませんか?」

「……そうですね。変なことを尋ねてしまって、すみません」

「いえいえ。気にかけてくれるのはとても嬉しいです!」

 

 この場はどうにか押し切り、無事誤魔化しに成功して就寝となった。

 

 ……嘘吐きでごめんなさい、ラフィさん。




トモエナゲの勝負服は、下記の衣装にアプリ版で来ているモブ勝負服の配色をしたものだと思ってくだされば概ね合っています。
・グラスレザー・フードベスト(FF14)
・スプリガンボトム(FF14)
・サイハイブーツ

作中の実況はnetkeiba様の過去映像を参考としました(07年ヴィクトリアマイル)。



2022/2/14 00:50
参考とした実況の記載漏れを後書きに加筆いたしました

2022/2/27 22:40
耳と尻尾の動きを加筆、一部文章を次話に合わせて修正いたしました
(普段勝手気ままに~制御する。)
(明日は学校ですし、→明日は試験ですし、)


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第26話:初めての試験とその結果

第25話に一部加筆、修正を行いました。
詳細については後書きに記載しています。
このままお読みいただいて問題ありません。


 トレセン学園は、中高一貫の女子校である。午後の授業が全てレースやライブに関することに割り当てられていたり、メディアから取材を受けることがあったり、少々特殊なところこそある。しかし午前中に限れば、文科省の学習指導要領をどうにか守ろうと奮闘する普通の学校だ。つまり。

 

「はい、そこまで。鉛筆を置いて、後ろの方から答案を裏向きにして前に渡してください」

 

 試験がある、ということだ。オークスやダービーを控えたこの時期にやるのかと思わなくもないが、日程の都合上、この時期にねじ込むしかないらしい。ヴィクトリアマイルの翌日――初めての中間試験1日目は、全てなかなかの手ごたえとともに終わった。

 

 昨日から精神的に少々の不調を抱えていたが、中学1年生の最初のテストは小学校の復習のようなものだったから、どうということはない。レースやライブに関する科目の試験はまだだが、きちんと授業を聞いてさえいれば90点は固いし、ケアレスミスが無ければ100点だって狙えるだろう。まともに記憶のない前々世のおかげなのか、それとは関係なく今世の地頭が良いのかはわからないが、試験の心配をしなくて良いと言うのは、その分レースのことだけを考えていられるので助かることである。

 

 試験期間の間は4時限目で授業が終わる。チームに所属していて成績に問題のない子は午後からトレーニングがあるようだが、私にはまだ関係のないことだ。ラフィさんはどうだったのかなとか、お昼は何を食べようかとか、とりとめもないことを考えながら、指を組んで体を伸ばす。十分に全身の筋肉が緊張したことを感じてから力を緩めると、気の抜けた息が漏れた。

 

 一時の解放感を堪能して数十秒が経ち、お昼前の授業(4時限目)終わりにすぐ私の机までやって来ることが恒例となりつつある彼女が現れないことに、私は違和感を覚える。

 

 ……いつもなら(・・・・・)、もうランさんが飛んできているはずなんだけど。

 

 そう考えた直後、あだ名で呼び合う関係になってからまだ2週間しか経っていないのに、随分と絆されたなと自分がおかしくなって、口元が弧を描く。

 

 ……たまには、私から行こうかな。

 

 前から3番目の私の席から後ろの方であるランさんの席に向かおうと、自席を立って教室の後ろへ振り返る。

 

 そこには、瘴気が立ち込めていた。もし今が夜だったら悪霊の類が出て来そうな雰囲気で、絶対に近づこうと思わなかっただろう。周りの子たちも少し引いていた。少々尻込みしてしまったが、流石にお昼から幽霊は出てこないだろうと自身に言い聞かせ、尻尾を掴んで前に引っ張りながら歩みを進める。

 

「あはは。おそら、きれい……」

 

 ランさんは魂が抜けたように消え入りそうな声で何事かを呟き、窓の外に視線を投げたまま机に突っ伏していた。私に気が付いた様子を見せないまま、青い窓枠の中に浮かぶ雲を見つめている。

 

 野次ウマと化したクラスメイト達が、早く話しかけてと言うような視線を私に送って来る。私は1度深呼吸をすると、意を決して声を掛けた。

 

「あの、テストどうでしたか、ランさん」

 

 直球で尋ねるのかと周りの子たちが目を見開き、ランさんが油の切れたブリキ人形のような動きでゆっくりと首を上げる。彼女の目はこれ以上ないほどに死んでいた。

 

「ノヴァちゃんは――」

 

 ……地獄の底から話しかけていらっしゃる?

 

「――ノヴァちゃんは、どうだったの?」

 

 普段なら将来への希望で輝いている灰色の瞳が、今日ばかりは艶が無く光を吸い込んでいるようだった。

 

 再び、すぅっと息を吸って答える。

 

「そこそこ、ですね」

 

 一時凌ぎの嘘をついた。正直に「余裕でしたね」などと言おうものなら、憑り付いてきそうだった。結果が返ってきたらバレる噓だが、そこは「手ごたえよりも良かった」と誤魔化しが効く。死因が呪殺は勘弁である。

 

「へぇ。ふぅん。そうなんだ。なるほどー」

 

 再び俯いたランさんが、椅子を膝裏で退けながら立ち上がる。彼女が全身から発する圧に、私も野次ウマの子たちと同様一歩引いてしまう。

 

 ゆらりと動いたランさんが、私の両肩を掴んだ。これから一体何が起きるのか分からず、私の耳が引き絞られていくのを感じる。彼女は1度大きく深呼吸すると、面を上げて私と目線を合わせた。

 

「勉強、教えてぇ!」

 

 先ほどまでのホラー映画を思わせる雰囲気は霧散し、困りに困ったランさんが潤んだ瞳で泣きついてきた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「あぁ、わかるわかる。小学校の時より自習に使える時間減るんだよね」

「確かに、慣れるまでは少し大変でしたね。一般授業の進みも早くなりますから」

 

 リツさんは何かを思い出すように遠くの方を見つめ、私の左に座っているラフィさんはそれに相槌を打つように口を開く。

 

「ですよね! 無理ですよね!」

「まぁ、どんなものかわからないと、なかなかね」

 

 私の向かいに座るランさんの主張に、口の中のものを飲み込んだフユさんが条件付きながら同意した。

 

 「お昼時だし、食べながら話そう」と言うことでカフェテリアへ行き、ラフィさんたちと合流したのだ。その時に意気消沈していたランさんの様子を見かねた先輩たちが何があったのか尋ね、それにランさんと私で答えた結果が今である。私は一夜漬けでどうにかさせてあげられるほど教えることが上手くないので、先輩の知恵を借りたいと言う心算もある。

 

「1週間あれば少しは教えてあげられたんですけど、今日言われても正直どうしようもないので。何か良い案ありませんか?」

「過去問、スキャンしたので良ければ持ってるよ。あげよっか?」

 

 藁でもいいから掴もうと思ったら、随分と軽い乗りでネルさんが救難ヘリを出した。これには全力で乗るべきである。

 

「良いんですか? ありがとうございます、ネルさん」

「良いってことよー。グループ作るから、2人とも入って」

「ありがとうございます、ネル先輩……!」

 

 一件落着、とまでは行かないが、これでかなり楽になったことは確かだ。だいたいの山が分かれば、教える必要のある範囲も多少は絞れると言うものである。ほっと胸を撫で下ろしていると、ラフィさんが少し心配そうに声を掛けて来た。

 

「ノヴァさん」

「なんですか、ラフィさん?」

「ノヴァさんは、テストどうでしたか?」

「え゛っ」

 

 軽く首を傾ける動きに合わせて、艶やかな鹿毛の三つ編みが揺れる。大変美しいのだが、それはそれとして。

 

 ……ラフィさん、ラフィさん。よりによって今その話を振るんですか!?

 

 純粋に尋ねているだけだとはわかる。しかし、先ほどランさん相手に教室で誤魔化したばかりだと言うタイミングが最悪だった。かといって、私の目を覗き込んで来る女神様の質問に答えないわけにもいかない。故に。

 

「まぁ、そこそこ、でしたね」

「そこそこ、ですか?」

 

 嘘を積み重ねた。心配を深めたようにラフィさんの眉と耳が動く。

 

「大丈夫だよ、ラフィ。心配しなくても、そういうこと言う子は大体成績良いから」

 

 トモエさんが含み笑いをして余計なことを言う。

 

「そうですか?」

「そうですよ、ラフィ。良かったではないですか。勉強が得意な後輩で」

「どうだろうね。ラフィは頼られたがりだからなー」

「リツ、余計なことは言わなくていいです」

 

 ローズさんが安心させようとした横からリツさんがちょっかいを入れ、ラフィさんが頬を朱色に染めて俯く。

 

 うすうすそうではないかとは思っていたが、ラフィさんは他人に頼られることに喜びを見出す性格らしい。私が入寮した初日からいろいろと世話を焼いてくれたのも、きっとそれが理由の1つなのだろう。

 

 トレセン学園に入学してからまだ1か月と少ししか経っていないことが信じられないほど、心中穏やかでない出来事が多々起きている。しかし、精神的に沈んだままになっていないのは、間違いなくラフィさん(女神様)のおかげなのだ。

 

「でも、1週間くらい前からずっとそわそわしてたじゃん? 分からないところとか、遠慮せず聞いて欲しかったんじゃあないの?」

「それ、は……」

 

 ほんの一瞬だけラフィさんの視線が私の方へ向いた後、顔はもちろん制服の襟から覗いている肌まで真っ赤に染まったラフィさんが黙り込んで俯く。恥ずかしいのか、ラフィさんのウマ耳は横向きに垂れていた。

 

 今にして思えば、ラフィさんは初めて会ったときから先輩らしいことをしたがっていた。少し前から「わからないことがあったら、何でも聞いてくださいね」とにこにこしながら言っていたのも、私が汲み取り切れなかっただけで、言外に「遠慮せずに」という意味も含んでいたのだろう。

 

 ラフィさんも試験で忙しいだろうし、今回は余裕だから聞かない方がいいだろう。そう考えて勉強について特に尋ねたりしなかったのだが、ラフィさんとしては頼ってほしかったわけだ。信徒一生の不覚である。三生目だけど。

 

「ラフィさん、次からは遠慮せず聞きますね」

 

 パッと上げられたラフィさんの顔に喜色が浮かび、翠色の瞳と鹿毛の耳が私の方へ向く。パタパタと揺れ出した尻尾の送る風が、私の尻尾の毛を撫でた。

 

「そうですか。えぇ、えぇ。何でも言ってくださいね!」

 

 食器を手放して両手を合わせたラフィさんが小首を傾げ、不意打ち気味にまだ赤みの残るとびきりの笑顔を向けられる。食事中だと言うことも忘れて、私はただただ見蕩れることしかできなかった。

 

「よし、一件落着!」

「1回煽る必要あった?」

「ラフィは感情的になると隠し事できなくなるからね」

「あぁ、確かに」

 

 リツさんとネルさんが何やら話していることも全く耳に入らず、手にしていた箸が落ちた音で私はようやく我に返ったのだった。

 

 

 

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 試験が明けた翌週――今年の樫の女王が決まり、ウマ娘(競走馬)にとって1年の区切りとなる祭典(ダービー)を週末に控えた月曜日に、試験結果の返却が始まった。

 

 今日返却された科目に関しては、2科目を除いて満点であった。他の科目もこの調子ならば、学年1位の成績――レースでこそないものの、死んでなお焦がれた1位の称号が手元に転がり込んで来るかもしれない。しかし、ほとんど記憶が残ってないと言えども前々世持ち、と言うことで少しずるをしているような疚しさもあり、素直に喜ぶことは出来なかった。

 

 ……私に前世の記憶なんてなければ、浮かれて家族に自慢していたんだろうなぁ。

 

 少し憂鬱な気分を抱えながら7時限目の授業を終えると、ランさんと共にカフェテリアへ行く。お昼にリツさんに呼ばれ、アダラの皆さんと答案の見せ合いをする約束になっているのだ。

 

 食堂棟の広い開口部を通り少し見回せば、アダラのウマ娘が集まっている一角がどこなのかすぐにわかる。尾花栗毛が4人もいるチームなど、アダラくらいのものだからだ。ネットの無責任な噂話ではあるが、大浪さんたち3人に金髪フェチ疑惑が上がっているのも頷ける話である。

 

「お待たせしました、リツさん」

「おっ、来たね! 座って座って!」

「ノヴァさん、どうぞ」

「ありがとうございます、ラフィさん」

 

 ラフィさんが引いてくれた椅子に私は座り、ランさんはその向かいに座る。

 

「2人とも、お茶をどうぞ」

「ありがとうございます」

「ありがとうございます、先輩」

「どういたしまして」

 

 机の真ん中にはお茶請けのクッキーが置かれていて、元は綺麗に盛られていただろうそれが少々乱れている様子から、それなりに減っていることが伺える。

 

「今日はトレーニング早く終わったんですか? リツ先輩、今週葵ステークス出るんですよね?」

 

 ラフィさんたちが、そこそこの時間カフェテリアにいたらしいことを悟ったのだろう。ランさんが疑問を口にする。

 

「今日はレースの練習じゃなくてライブの練習だったからね。私は優秀だから、流れ確認するくらいで終わりだよ。私は優秀だから!」

「リツが優秀かどうかはともかく――」

「えっ、ひどくない?」

「――施設の予約とかがあって、毎日レースの練習ができるわけではないから」

 

 トモエさんが、リツさんの抗議を涼やかに無視しながらそう答える。無視されたリツさんは頬を膨らませ、耳が緩く絞られていた。

 

「そうなんですか? チームに入ったら、毎日レースのトレーニングが出来ると思ってました」

「授業を一緒に受ける人がクラスメイトからチームメイトに、教官や先生がトレーナーさんに変わるだけで、基本的なところは変わらないよ。もちろん、メニューは専用のものになるけどね」

「へぇー」

 

 ウマ娘は『走るために生まれて来た』と言われることもあるが、当然人権がある。競走馬のように『走るためだけ(・・)に生まれて来た』家畜ではないので、そのあたりが差異として現れる。競走馬と比べて減少する練習量は、知能の違いに由来する練習効率や朝夕の自主練で補う形になっているのだろう。

 

「リツ、いつまで拗ねているんですか」

「優秀だもん……」

「オープンウマ娘ですからね。優秀ですよ」

「ローズ……」

 

 嬉しそうにリツさんが顔を輝かせる。

 

「お勉強はダメですけど」

「ローズ……?」

 

 へにゃりとリツさんの耳が垂れた。

 

「まぁまぁ、クッキーどうぞ」

「ふぐぉ?」

 

 問答無用で突っ込まれたクッキーを咀嚼するにつれて、再びリツさんの耳がピンと伸びて来る。クッキーを飲み込んだリツさんは紅茶で口の中を流すと、高らかに宣言する。

 

「おいしいから、まぁいいや! それじゃあ皆揃ったし、アダラNo.1頭脳決定戦、withノヴァちゃん&(アーンド)ランちゃん、開始ィ!」

「私は答案を1枚伏せて、ターンエンド!」

「7枚全部、表で出しなさいよ」

 

 ネルさんがネタに走り、それにフユさんがツッコミを入れる。いつもの光景だ。

 

 何とも言えないセンスの名前をした行事だが、お昼に聞いた話だと、何でもアダラの習わしらしい。アダラのトレーナーである大浪さんは文武両道を是とする教育方針で、赤点を取るとトレーニングを取りやめてでも補習させると言う話だ。この方針はサブトレーナーである安城さんや紗雪さんも賛同しており、大浪さんが引退してもアダラと言うチームの教育方針がぶれることはないだろう。

 

『重賞を取れる奴はほんの一握り。ほとんどの奴は勝てねぇまま卒業なり退学なりするんだ。人生は(なげ)ぇんだから、進路に困るような成績は取らせねぇぞ』

 

 お昼に、リツさんが大浪さんの顔真似と声真似をしながら語った内容である。全く似ていなくて、思わず笑ってしまったが、生徒思いの良い指導方針だ。

 

 それはそれとして、このタイトルには1つの問題がある。

 

「まだ7教科しか返ってきていませんよ?」

「私たちのバトルフェイズは、今日だけで終わらないぜ!」

 

 少し声にドスを利かせてネルさんが答えてくれた。おそらく何かのネタだろうが、私にはわからない。とにかくネルさんのテンションが高まっていることだけは理解できた。

 

「ネル、多分ネタ通じてないよ」

「えっ? あっ、ごめんね」

「いえ、大丈夫です。これ、毎日やるんですか?」

「私たちはそうだけど、ノヴァちゃんとランちゃんは時間が合えばで良いよ」

 

 ネタモードから復帰したネルさんがそう口にする。

 

「もういい? それじゃあ、1番は私!」

 

 自信満々にリツさんが答案を広げる。最も良い教科で75点であり、50点代が多くを占めていた。

 

「どうよ!」

「30点代どころか、40点代も無い……!?」

「なんか最近分かって来たんだよね!」

「私たちの苦労がようやく実り始めたんですね……!」

 

 トモエさんが戦慄し、ローズさんが涙を浮かべて感極まった様子を見せる。以前のリツさんはどれだけ悪かったのかが伺える。

 

「リツ、さっきはごめんね。間違いなくあなたは優秀なウマ娘だよ!」

「えぇ、えぇ!」

 

 トモエさんもローズさんも完全に保護者面モードである。ラフィさんたちも一緒になってひたすら褒めちぎり、リツさんが流石に照れ始めてからようやく次の人の番となった。

 

 アダラメンバーの結果だけ述べるなら、平均で90点を超える成績の良い組がラフィさん、トモエさん、ローズさん、惜しくも90点に届かなかったのがフユさん、70点越えがネルさんだった。

 

 頭が良くて髪が艶々で肌が輝いていていつも良い匂いがして抱きしめ合うと柔らかくて世話焼きでお料理上手とは、やはりラフィさんは女神様で、二物を与える天側の存在なのだと確信を深めざるを得ない。

 

 ネルさんが低い理由は、アダラのTwitter広報アカウントのフォロワー数を増やしたり、Youtubeで配信したりと言った、学園の勉強では習わない部分に興味と時間を使っているかららしい。その部分も考慮したらネルさんは90点越えクラスの能力があると言う話だ。

 

 ……ラフィさんたち、とんでもなく優秀では? ずるしてる(前々世持ちの)私の立つ瀬がないが?

 

「じゃあ次は……、ランちゃん、行こう!」

「えっ、ノヴァちゃんから行きませんか、リツ先輩?」

「ノヴァちゃんはなんとなく良さそうだし、過去問パワーでどれくらいカバーできたか気になるからさ」

「うぅ、わかりました……」

 

 そう言ってランさんは恐る恐る自分の答案を出す。初日に受けた科目はギリギリのところで赤点を回避、過去問を参考にして私と一緒に勉強してから挑んだ科目は40点代後半が多く、得意だと自称していた教科なら70点に惜しくも届かないと言ったところだ。決して良いとは言えないが、勉強のコツさえ掴めばすぐにでも伸びるに違いない。おそらくは、今まで非効率的なやり方で勉強をしてきたのだろう。

 

「良いじゃないですか。今回は準備不足でしたけど、次はもっと良い点取れますよ」

「本当……?」

 

 自信なさげに背中を丸めていたランさんの灰色の瞳が、潤んだ上目遣いで私を見つめる。ウマ娘は美少女しかいない種族だ、と言うことを改めて感じる可愛らしさである。

 

「本当です。次はもっと早くから一緒に勉強しましょうか」

「ノヴァちゃん、ありがとう……!」

「私より先に感謝する人がいると思いますよ」

 

 私の言葉を聞いたランさんは背筋をピンと伸ばして立ち上がり、ネルさんに深々とお辞儀をした。

 

「ネル先輩も、ありがとうございます!」

「いいよいいよー。役に立ったなら光栄だよー」

 

 美少女が仲良くしている様は絵になる。アグネスデジタルの気持ちがわかると言うものだ。

 

 ほっこりとした気分に浸っていると、リツさんが声を掛けて来た。

 

「じゃあノヴァちゃん、行こうか」

「はい」

 

 特に臆することなく、私は答案を広げる。100点が5教科、1問うっかりミスをして100点を逃した教科が2つだ。

 

「うわ、こっわ」

「怖いって何ですか、怖いって」

 

 リツさんが少し身を引いている。冗談7割、本音3割と言った顔だ。

 

「ノヴァちゃん、そこそこって、なんだっけ?」

「ここまで良いとは思っていなかったんです。信じてください。ね?」

「うーん、本当かなぁ?」

「本当ですよ、本当」

「まぁ、そこまで言うなら……」

 

 いまいち釈然としない様子のランさんを何とか宥めすかす。先週の勉強会の効果が出て点数が良かったおかげか、何とか成功した。

 

「間違えた問題は……数学が1問と、レース基礎が1問ですか。すごいですよ、ノヴァさん!」

「そ、そうですか?」

 

 にこにこ笑顔のラフィさん直々に褒められて、「ふへへ」と我ながら気持ち悪い笑い声が出てしまう。恐悦至極である。

 

「数学は……単純に計算ミスだね。レース基礎は――」

 

 私が間違えた問題を確認しているトモエさんは、レース基礎の誤答を見て妙な顔をした。

 

「――随分珍しい間違いだね?」

 

『問.下記のGI、J・GI競走に賞を提供する団体を答えなさい(中山グランドジャンプ・中山大障害・安田記念・阪神ジュベナイルフィリーズ)』

 

 その問題に対する私の回答は『農林水産省』だ。しかし。

 

「『文部科学省』と『農林水産省』を間違える子、初めて見たよ」

「うっかりしてましたね」

「うっかりで間違えるかなぁ?」

 

 私は再び嘘をつく。間違えた理由なんて、この世界では誰も理解してくれないのだから。




キャンドルノヴァのヒミツ①
実は、オカルトがとても苦手。



2023/12/03 22:00
第9話及び第31話と矛盾していたため、ノヴァの席の位置を修正しました
身長が低い(150cmを切る)ので、私の席は最初の席替え前ではあるが最前列だ。ランさんの席に向かおうと自席を立って教室の後ろへ振り返る。→前から3番目の私の席から後ろの方であるランさんの席に向かおうと、自席を立って教室の後ろへ振り返る。)


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第27話:一生に一度切りの祭典

投稿が0時を回り、申し訳ございませんでした。


 ダービー前日――リツさんが葵ステークスに出走して2着に終わった(収得賞金は確保した)、5月最後の土曜日――の夜、私は重い瞼を擦りながら、ランさんとの勉強会のために資料作りを進めていた。

 

 テストの返却が終わったばかりであり、月曜日に「もっと早くから勉強しよう」とランさんへ言ってから1週間と経っていない。しかし、鉄は熱いうちに打てと言う。成績への危機感と些細ながらも成功体験が残っているうちに、一緒に勉強をする機会が必要だと考え直したのだ。

 

 ところが、作業に集中しきれないほどの睡魔が私を襲っていた。原因は明白で、純粋に疲労だ。午前中の早いうちに、スタークさんと横浜の公園で体力を使い果たすまで自主練習をして、実家へ顔を出して美月()と遊び、午後1番で予約を取って置いた小学生のころから通っている歯科で歯をメンテナンスして貰い、葵ステークスの発走時刻までに寮へ戻ってラフィさんやランさん、アダラの皆さんと一緒にリツさんを応援するなど、朝から予定を詰めたために正直言って疲れ切っていた。

 

「ノヴァさん」

 

 一際大きな欠伸が出たその瞬間、ラフィさんが私を呼んだ。

 

「ふぁあぃ……。すみません。なんですか?」

 

 少しだけ椅子を引いて、ラフィさんの方を向く。毎晩寝る前にしている髪を梳いて編むヘアケアのルーチンを終えた直後らしく、鹿毛が艶やかに光り輝いている。いつもと少し違うことと言えば、普段はすぐに片づけている豚毛のブラシを握ったままと言うことくらいか。

 

「明日なのですけれど――」

「はい」

 

 ラフィさんは少々逡巡するように1度俯いた後、真剣な眼差しと共に面を上げる。

 

「――もしよろしければ一緒にダービーを見に行きませんか?」

「行きます」

 

 即決だった。現地で襲ってくるだろうストレス性の胃痛のことを答えた後で思い出すが、そこに後悔はなかった。2人でレースを見に行くなど、実質デートである。好機を逃すつもりは毛頭なく、胃痛は事前に薬を飲めば良い。何時まで経っても以前の私のままではなく、常に学習を続けているのだ。

 

「明日は何時に出ますか? ダービーですし、早めに行った方がいいですよね?」

「そこは大丈夫ですよ。指定席を取っていますので、お昼くらいから行きましょう」

「わかりました!」

 

 流石ラフィさんと言うべきか、大変手際が良い。前世や前々世では未成年だと指定席を買えなかったはずだが、そこは競馬とトゥインクル・シリーズの違いと言うことだろう。ランさんと未成年2人で入場出来ていた時点で、今更の疑問である。

 

 指定席が取れているのに今日まで誘わなかった理由は少々気になるが、ラフィさんにはラフィさんの考えがあるのだ。誘って貰えたという栄誉に比べたら些事である。

 

 私は明日を万全な状態で迎えるため、ランさんのためにまとめていたノートづくりを中断した。

 

 ……ごめんなさい、ランさん。ラフィさんとのデートの方が大事なんです……!

 

 遠足を明日に控えた小学生のような気持ちで、私は就寝の準備を始めた。

 

 

 

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 初夏の爽やかな風がスタンドを吹き抜けていく。東京レース場の指定席は、いくつかの種類に分かれている。ラフィさんが予約した指定席はA指定席と呼ばれる場所で、最終直線のゴール前区間に設けられた屋外席だ。

 

 今日のコーディネートは、ラフィさんと出会った日に着ていたパーカーとハーフパンツである。この間は『考えなくて済むから』と2日連続で白いシャツワンピースを着た結果、ランさんにもラフィさんにも突っ込みを受けた。ワンピースの方が考えなくて済むので楽なのだが、流石に3度目は本気でセンスを心配されそうなので止めておき、散々迷って決めたコーデである。

 

 ラフィさんは、裾にさりげなくフリルの入った黒いフィッシュテールワンピースである。甘い感じが大変女の子らしくて良い。邪なことを考えるヒトから守らねば、と言う使命感すら湧き出て来る可憐さで、私の『楽だからワンピースにするか』とは全く異なるセンスの良さを感じる。『ファッションの参考にしたいので』と言い張って合法的にラフィさんの写真を撮れて、私は早くも大変ご満悦である。

 

 そんな一幕がありながらも正午前に入場した私とラフィさんは、誕生日に貰ったリツさんお手製のグルメガイドを参考にしてお昼を食べたり、まだ空いているうちに一般席の方まで出向いて、立ち見で平場のレースを見届けたりしてダービーのパドックまでの時間を過ごし、唐揚げとリンゴジュースをおやつに買って指定席へと戻って来ていた。

 

「この唐揚げ美味しいですね。『ありたどり』って初めて聞きました」

「佐賀県の地鶏ですね。有田焼の有田と同じところで育てているんですよ」

「……あっ、その有田なんですか。へぇ」

 

 小学校でやった特産物かるたには、有田焼しかなかったので知らなかった。

 

 ……流石ラフィさんは物知りだなぁ。

 

 名家ともなれば、社交界的な付き合いのためにそういう知識も必要になって来るのだろう。一般家庭出身の身としては――両親ともにトレーナーと言う家庭が一般的かどうかは置いておくとして、感心するばかりである。

 

 そうこうしているうちに、2席1組で設置されているモニターに第11レース――東京優駿のパドックが映し出された。

 

「……始まりましたね」

 

 ラフィさんの声に、勘違いだと流してしまいそうなほど些細な違和感を覚える。つい先ほどまでよりも、わずかに固いような印象を受けたのだ。

 

 1つのモニターを2人で見るために、当然肩を寄せ合う形になる。左隣から漂う甘い柑橘系――多分オレンジの匂いが、鼻腔を通って肺臓を満たしていく。普段なら私の心が馬っ気を出すはずの状況だが、ラフィさんの様子に対する小骨が喉に刺さったような引っ掛かりがそれを抑えた。

 

 どうしてもパドックよりラフィさんが気になってしまい、モニターからこっそりと横顔に目線を移す。いつも優しく柔らかに微笑んでいるラフィさんの表情は何かを堪えるように固く、ウマ耳は萎れていた。

 

「ラフィさん?」

「えっ? あっ、はい。どうかしましたか?」

「いえ、その、なんだか少し、いつもと違うように感じたので。体調は大丈夫ですか?」

「……大丈夫ですよ。はい、大丈夫、です」

 

 自身に言い聞かせるような言い方で私は確信した。明らかに大丈夫ではない。しかし顔色自体は悪くなく、不調の原因を推し量ることはできなかった。

 

「そうですか……。何かあったら、無理しないでくださいね?」

「はい。ありがとうございます」

 

 それからは、パドックにいるダービー出走ウマ娘たちが地下バ道へ消えていくまで、私もラフィさんも沈黙を保ったままだった。

 

「あっ、ごめんなさい。私が誘ったのに、黙ってしまって。皆さん、綺麗な勝負服でしたね」

 

 最後の一人が姿を消して映像が切り替わるまで、じっとモニターを見ていたラフィさんが、我に返ったように口を開く。最後の一つとなった唐揚げは、すっかり冷め切っていた。

 

「そうですね。先輩たち皆、誇らしげでした」

「はい。本当に……」

 

 再びラフィさんは口をつぐんでしまう。

 

 このまま唐揚げに手を付けないわけにはいかないだろうと、私は残っていたそれを口へ放り込んで処理をする。不味いわけではないが、温かくて柔らかい方がずっと美味しかったように思われた。

 

 そして本バ場入場が始まってしばらくが経ったとき、ラフィさんが独り言ちる。

 

「どうして、私は」

 

 弱弱しく漏れたその呟きは、微かに震えていた。

 

「お姉さまたちのように、あそこにいないのでしょうね」

 

 出走者への羨望と嫉妬、自身への悔恨と憤怒を綯い交ぜにしたような視線をラフィさんはターフの上に向けている。膝の上に置かれた両手は相当の力で握られているのか、指の関節が殊更白く浮き出ていた。

 

 前々世では、育成キャラに芝・中距離適性さえあれば当然のように出していたレース。前世では、デビュー戦となった弥生賞、優先出走権を得て出た皐月賞と2戦連続でギンシャリボーイの2着に終わり、3度目の正直を目指す心づもりで挑んでまた2着を取った結果、1度目に心が折れたレース。私自身にとってはクラシックレースとはそう言うもので、思い入れと言う点では、秋の天皇賞の方がよほど大事なレースだ。

 

 しかし、普通のウマ娘にとってはそうではない。『勝てなくても良い。ダービーに出られるなら死んでも良い』と、たったそれだけのことを本気で言うほど思い入れのある子もいる。

 

 ラフィさんは、名家たるメジロ家の一員である。名家の令嬢が背負う責任と言うものを、私が真に理解することなど出来はしない。それでも、偉大な姉たちに続いてメジロ家へ栄誉をもたらすために、ダービーに出たかったのだろうと言うことだけは察せられた。

 

 自身を罰するかのように強く握りしめられたラフィさんの拳に、私は手を重ねる。

 

「あっ、ごめんなさい。変なことを言ってしまいましたね。忘れて――」

「ラフィさん」

 

 突然に拳へ熱が重なり我に返ったラフィさんが、失態を取り繕う様に言葉を連ねた。それを遮るように、翠色の瞳を見つめて呼びかける。

 

「……なんですか?」

「私では、悩み事を吐き出すには力不足ですか?」

「……ダメですよ。後輩に弱音を吐くだなんて――」

「先輩後輩とか、そんなの今はどうでもいいです。私は、ラフィさんの力になりたいんです」

 

 ラフィさんの瞳が弱弱しく揺れ、迷いが拳の力を抜いていく。私はラフィさんの右手を開き、両手で包み込んだ。入寮日にした同じようなやり取りとは異なり、今の私とラフィさんにはわずか2か月ではあるが、一緒に積み重ねてきた時間がある。

 

「私とは、辛いことを分かち合うのは嫌ですか?」

 

 全く反吐が出そうだ。自身が出来ていないことを他者に強要しているのだから。それでも、ラフィさんが前を向く手助けになれるなら、いくらでも自分を偽ってやる。いつか訪れる運命を変えようと言うのだから、この程度は息をするように出来ないといけないのだ。

 

「……帰ってからで、良いですか?」

「はい」

 

 悪いことをした子供のように私の様子を伺うラフィさんに、落ち着かせるように微笑みかける。

 

 その時、前世とは異なる関東GIファンファーレが響き渡った。

 

 私もラフィさんも、ホームストレッチの上り坂直後に設けられたゲートを見る。ラフィさんのウマ耳が――そしておそらくは私のウマ耳も、その瞬間(・・・・)を逃さないと言う様に発バ機の方を向いていた。

 

 18人の出走ウマ娘たちが収まり、係員が離れて態勢が整う。そして。

 

「始まって、しまいました」

 

 18人以外にとってのダービーは、もうとっくに終わっていたのだと改めて突き付けられた瞬間、ラフィさんは蚊が鳴くように呟いた。

 

 

 

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 ダービーが終わり順位が確定した後、私たちは伝統の一戦である目黒記念すら見ることなく寮室へと帰って来た。ぼんやりとした様子のラフィさんを左腕で支えながら、一旦休んでもらおうとラフィさんのベッドに一緒に腰かけたとき、ラフィさんはそのまま私の胸の中へ崩れるようにもたれかかった。予想外の出来事にあっけにとられていると、ラフィさんが呟く。

 

「このままで、良いですか?」

「はい」

 

 縋るような声に即答した私は、左腕でラフィさんを抱きしめ、右手の指を首元に来たラフィさんの髪――その編まれていない部分へ通す。ラフィさんの体は暖かくて柔らかくて良い匂いがして、艶やかな鹿毛の指通りは一切抵抗を感じさせないものだ。お互いに普段通りなら、私は興奮を抑えきれずにラフィさんに迫ってしまったかもしれない。しかし、すっかり弱って腕の中へ納まるラフィさんへ私が抱いたそれは、庇護欲だった。

 

 日が傾いて行くに連れて、窓から差す陽光がベッドの上を動いて行く。そして中央棟の屋根に日が隠れた頃、私の腰に腕を回したラフィさんが、ずっと抱えていたものを打ち明け始めた。

 

「トレーナーさんたちと話し合って、納得して決めたはずだったんです」

 

 震える声で、ぽつりぽつりと。

 

「何をですか?」

 

 ラフィさんが少しでも話しやすくなるように、相槌を打つ。

 

「トレーニングで少し遅れを取って、ジュニアのうちにデビューできなかったんです。なのでクラシックレースは諦めるか、出るとしても菊花賞を目標にして、条件戦を1つ1つ勝ちあがって、シニアで重賞に挑もうと」

 

 春のクラシックレースに出るには、ある程度の早熟さが求められる。晩成型のウマ娘(競走馬)は、オルフェーヴル程とは言わずともずば抜けた素質を持たない限り、クラシックレースに出ることすら叶わないことが普通なのだ。

 

「合理的、ではありますね」

「はい。頭ではわかっているんです。マックイーンお姉さまは危うく菊花賞の出走を逃すところでしたし、パーマーお姉さまやタイキ先輩はそもそもクラシックレースに出ていないって。メジロの栄誉のためには、お姉さまたちみたいになるには、必ずしも出なければならないわけではないって」

 

 ラフィさんの声が涙を堪えるそれへと変わっていき、鼻をすするような息遣いを感じる。

 

「わかっているんです。それでもどこか未練があって。だから、けりを付けようと思って席を取って。1人で行くのが怖くて2つとって。でも、自分で自分がどうなってしまうかわからないから誘えなくて」

「私は、今こうしていることまで含めて、誘って貰えて嬉しかったですよ」

 

 抱きしめる力をラフィさんにもわかる程度に少し強くして、それが本心からであることを行動でも伝える。胸元に埋まったラフィさんが小さく震えながら嗚咽を漏らし始めた。

 

「勝負服を見て、出たかったって。今更。もう無理なのに。それで、それで。始まったから終わっちゃって。私、私は――」

 

 漏水した堤防が一気に決壊するように、ラフィさんは声を上げて泣き出す。窓の外がすっかり暗くなり、少しすっきりとした様子のラフィさんが顔を上げるその時まで、私は黙ってラフィさんを抱きしめたまま頭を撫でるように髪を梳いた。

 

 優しい女神様にだって、時には誰かに甘えて休憩する日があっても良いのだから。




弱っている子がいると放っておけずにママみが出る13歳女子中学生(前世込み40歳牡馬)。

ラフィ、と言うより元にさせていただいている実馬について、実際はどのような意図でデビューを遅らせたのか、クラシック路線のレースに出す予定があったのかがわからないので、この点は完全に創作です。


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第28話:楽しい楽しいお買い物タイム

凄まじい難産だったので、そのうち書き換えるかもしれません。
そもそも筆者がファッションよくわからないのに、どうしてショッピング回なんて作ってしまったのか。これがわからない。


 6月第2週の土曜日、私たちは活気に溢れる府中駅前のショッピングモールに来ていた。今日集まった面々は、ラフィさんたちアダラの6人に私とランさんを加えた8人――つまり、いつもの面子だ。今日はローズさんが安田記念を終えた翌週であり、トモエさんが出走予定の宝塚記念までまだ中1週(2週間)ある。「買い物に行くなら今日しかない」とリツさんが主張したので、以前からの約束を果たしに来たのだ。

 

 皆上機嫌に尻尾を振っている中、一際目を輝かせているリツさんに今日の予定を尋ねる。

 

「今日は何から買うんですか?」

「ふっふっふ。それはね、ノヴァちゃん――」

 

 リツさんはわざとらしく勿体ぶり、皆の方を向く。すると右の拳を高く上げて、高らかに問いかけた。

 

「夏と言えばー!?」

「水着!」

「制服!」

「パジャマ!」

「寝るなぁ!」

「いぇーい!」

 

 リツさんの呼びかけに、ランさんがまず答える。するとトモエさんが珍しく小ボケをかまし、ネルさんが思い切りボケて、フユさんがボケも兼ねたツッコミを入れる。最終的にはこの一瞬でテンションを上げ切った5人で大盛り上がりだ。

 

 ……馴染んでるなぁ、ランさん。

 

 アダラのウマ娘ではないとクラスメイトたちに言ったら、心底驚かれそうなほどだ。

 

 大騒ぎには加わっていないラフィさんとローズさんは、楽しそうな5人を見てニコニコと笑っている。

 

 2週間前、私の腕の中で泣きじゃくっていたラフィさんは、翌日にはすっかりいつも通りに戻っていた。実はまだ無理をしていたりしないかずっと見てきたが、あの夜に今まで溜め込んできた分は吐き出し切ったとみて良いだろう。涙と共に流し切れてさえしまえば、私でなくともよかったのだろうとは思うが、私としては力になれたようで一安心である。

 

「ところでラフィさん。6月に水着を買うのは早くないですか?」

「そうでもないですよ? 7月に入ってしまうと、良いなと思ったデザインの水着が売り切れてしまうこともありますから」

「そうなんですか?」

「はい。夏しか使わない分、数も出ないものが多いのでもっと早く買ってもいいくらいですよ」

「へぇー」

 

 おしゃれな人は早め早めに服を買うのだなぁと感心する。流石ラフィさんである。

 

 どこから回ろうかと皆が話している間、モールの中までは初めて来たと言うこともあって辺りを見渡してみる。やはり、私たちと同じように夏の買い物に来たらしいウマ娘たちの姿がちらほらと見える。今世の府中駅周辺はトレセン学園(女子校)のお膝元だ。前世や前々世でどうだったのかは知らないが、駅周辺のショッピングモールもそのような層をメインターゲットとした店が数多く並んでいて、どことなく華やかな雰囲気である。

 

 元牡馬である私がここにいることがどうにも場違いに思えて、早くも「帰りたい」と言う気持ちが湧いてきてしまう。

 

 ……いや、まぁ、ラフィさんがどんな水着や服を買うのかだけは確かめてから帰りますけどね……!

 

 ラフィさんと私は同室なので、普段から御着替えを横目で見たり、美しい私服姿に信仰を深めたり、春の感謝祭以来隣り合って湯船に浸かったりしている。しかし、水着には夏に特異的な非日常を感じさせる魅力があるし、新しい服を着たラフィさんにはまた新しい魅力が生まれるのだ。楽しみにしないはずがあるだろうか。

 

 うへへ、と声を漏らしてしまいそうな心持ちでいると、ラフィさんが声を掛けて来る。

 

「ノヴァさん、行きますよ?」

「あっ、はい。わかりました!」

 

 弾むような足取りで、私はラフィさんの後を追っていく。帰りたいなどと思っていたことは、すっかり忘れていた。

 

 

 

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「ノヴァさん、これはどうですか?」

「良いと思います」

「そうですか、そうですか。ではこれも試着して貰いましょう」

 

 この上なく上機嫌なラフィさんが、膝丈よりも少し長いスカートを買い物かごへ入れていく。

 

 以前『私を対象にした着せ替え大会をしよう』と皆が言っていただけのことはあり、ラフィさんたちは自分で試着する分以外に、私に着せたい服まで籠に入れてモールの中を進んでいく。数ある選択肢の中から悩むことそれ自体が楽しくて仕方ない。皆はそう言わんばかりの笑顔をしているが、私はと言えばいまだに自分でピンとくる服を見つけられていなかった。

 

 それでも、楽しそうなラフィさんを見ているだけで無限に体力が湧いてくると言うものだ。そう思いながら皆の後について歩きまわっていると、店内の一角を占めるURAコラボTシャツが目についた。歴代の三冠ウマ娘たちをモチーフとしたものらしい。

 

 なんとなく気になって近づいてみると、その中の1つは黒地に金色のゴシック体で『一着至上主義』と書かれていた。はっきり言って、ダサい。服飾に疎い私ですらそう考える一品だが、同時に私の感性に働きかける味のあるダサさでもある。無地の服よりも、インパクトがある方がやはり良いだろう。そして何より、どうしようもなく心惹かれる商品でもあった。なぜなら。

 

 ……このTシャツを作った人は良くわかっている。1着以外に価値なんかないのだから。

 

 Tシャツを広げてうんうんと頷いていると、隣に他人の気配を感じた。突然道を逸れて立ち止まったから、ラフィさんたちが連れ戻しに来たのだろうかと思い、謝ろうとしたのだが――。

 

「あっ、すみませ――うっわぁ」

 

 そこにいたのはキャスケット帽、サングラス、マスクをした見るからに怪しい人物だった。被っているキャスケット帽はごく普通のヒト用のものだが、2か所ほど盛り上がりがあるあたり、ウマ娘の変装だろう。私よりも少し大きな鹿毛の彼女は、私の持っているTシャツを指差し声を掛けて来る。

 

「あなた、それの何がいいと思って手に取ったの?」

「えっ?」

「ちょっとしたアンケートだと思って」

「はぁ」

 

 随分と唐突な質問だが、アンケートだと言うあたり、このブランドのデザイナーか、URAの職員だろうか。ここは素直に答えるべきだろう。

 

「『一着至上主義』と言う言葉が良いですね。歴代の勝ちウマ娘として名を残せるのは1着だけですし、2着なんてどう言い繕っても負けですから。これを作った人は良く競馬(・・)のことをわかっていると思います。それに、何と言うか私好みの味のあるダサさがします」

「そ、そう……? そういう感性もあるのね……」

 

 不審者ウマ娘は、私の言葉に困惑した様子を見せる。

 

 しかし彼女の声に、何度も聞いたような覚えがあるのは何故だろうか。トゥインクル・シリーズの番組は積極的に見ていなかったので、声に聞いた覚えのあるウマ娘なんてニュースで報道でもされない限りはいないはずなのだが。

 

「あっ、ディ――じゃなかった、プイ先――でもなくて、プイちゃん、探しましたよ。みんな待ってますから、早く戻りましょう」

「待って、コント――ごめんなさい、レイちゃん、私にはこの野暮ったいグッズのどこがいいのか解き明かす義務があるの」

「そんなのありませんから。会長たちを待たせているんですから、早く行きますよ」

「あっ、ちょっと待って。答えてくれてありがとう!」

「あっ、はい」

 

 どこからともなく表れた、やはり聞き覚えのある声をした不審者ウマ娘2号に引き摺られるように、不審者ウマ娘1号はモールの人込みへ消えて行った。

 

 彼女たちとまるで入れ替わるようなタイミングで、リツさんが姿を現す。

 

「あぁー! ノヴァちゃんいた! いつの間にかいなくなってたから、みんな心配して――いや、ダッサいね、それ!?」

「いやいや、味のある良いダサさですよ」

「ダサいに味も何もないから、目を覚まして!?」

 

……解せぬ。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 店内を一通り回り終わり、試着室の前へ来たころには、みんなが私を見る目はすっかり珍獣を見る目になっていた。

 

「いやぁ、ノヴァちゃん。なかなか面白いセンスしてるね」

「センスないって直球で言ってあげないと、ノヴァちゃんわからないと思うよ」

 

 おそらく婉曲的な物言いをしたのだろうネルさんに対し、フユさんは私を刺すようにその真意を伝えて来る。

 

「あれだけ色々見て回って、あの『一着至上主義』Tシャツを手に取るのは、相当なセンスしてるよ……」

「そんなに言いますか!?」

「そんなにだよ。ディープ先輩は被害者とか言われるレベルのダサさだよ?」

「そ、そうですか……」

 

 半目で私を見るトモエさんとランさんが、いかにあのTシャツが論外レベルでダサいのかを説明して来る。

 

 その横から、ラフィさんが意見を述べた。

 

「あと、ノヴァさん。何でもかんでも柄物にするはやめましょうか」

「ダメなんですか?」

「最初からコーデを考えて買うならありですけど、ノヴァさんは考えましたか……?」

「せっかく買うなら、無地より柄の方がお得そうじゃないですか?」

 

 そう言うと、ラフィさんたちが頭を抱える。

 

「ご家族が変な顔をするわけです……」

「ちょっとこれは、想像以上ですね……」

「……とりあえず、試着して貰おうか。センスはそのうち身に着けて貰えばいいから」

「そうだね……じゃあ、トップバッターはラフィので」

 

 ラフィさんが選んできた服を受け取り、試着室に入る。

 

 服を脱いだ後、試着する前になんとなく値札に書かれた品名を見ると、ボリュームスリーブブラウスとタック入りミモレ丈フレアスカートと書いてある。

 

「ノヴァさん、ブラウスはふんわり膨らむようにウエストに入れて、袖はロールアップ――ええっと、捲ってくださいね」

「はーい」

 

 ラフィさんの指示通りに服を着て、鏡を見てみる。袖を捲ったことでボリューム感の強調されたブラウスと、大きな襞の入った厚手のスカートが、ふんわりとした優美なラインを描いている。散々センスがないと言われた私でも、これがセンスの良いファッションなのだろうと言うことを察することが出来る素晴らしいコーデだ。

 

 くるりと回って我ながらかわいいなと確かめてから、試着室のカーテンを開く。

 

「わぁ、かわいい! かわいいですよ、ノヴァさん! かわいい!」

「ラフィ先輩、流石ですね!」

「本当はこれにパンプスとタイツを合わせたいんです。後で靴も見て回りましょうね、ノヴァさん!」

「はい、わかりました」

 

 ラフィさんのテンションの上がり方が、私の家族そっくりだ。予算については、先日実家に帰ったときに近々友達と服を買いに行くと言ったら、普通女子中学生に現金で渡さないような金額をポンと渡されたので心配はしていない。即金で出てくるあたり流石重賞常連トレーナーと言ったところである。正直に言うと「子供の金銭感覚を狂わせる気か」と怒るべきか判断に迷ったが、ありがたく貰っておくことにしたのだ。次に帰ったときに今日買う服で丸1日写真撮影会が条件だが、両親がそれで喜んでくれるのであれば苦ではない。

 

「じゃあ次は私だよ、ノヴァちゃん! スカートはラフィ先輩と被っちゃったからそのままで、このタートルネックとライダースジャケットを着てね!」

「わ、わかりました」

 

 もちろん私以外もそれぞれに試着をして褒め合ったりした結果、服だけで午前中を消費する結果になった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 午後の4時、昼食後に水着選びも終えた私たちは、「このまま帰るのももったいない!」と主張したリツさん主導でカラオケに来ていた。来ていたのだが。

 

「いやぁ、ノヴァちゃん? 普通の中学生は『小さきもの』なんてそもそも知らないからね?」

「いやいや、そんなはずは。だってテレビで見たんですよ?」

「専門チャンネルの再放送でしょ、それ」

「……ネルさんはわかっているじゃあないですか」

「私、オタクだし」

 

 選曲を間違えたと言うほかない。ネルさん以外の全員がきょとんとした顔をしていたのだ。やってしまったなと黙り込んだ私に、ランさんが問いかけて来る。

 

「ノヴァちゃん、他に何が歌えるの?」

「『ぴょいっと♪はれるや!』なら、それなりに……」

 

 今世では幼児向け番組の曲だ。GIレース出走経験のある重賞ウマ娘たちのうち出演を快諾したメンバーで、歌とダンスの練習も兼ねて教育番組で披露するのだ。競走ウマ娘を目指したことがないウマ娘でも知っているし、ある程度なら歌って踊れる曲である。

 

 私自身は精神が幼児ではないのでその番組を見ていなかったが、本当に小さなころの美月にねだられて何度も一緒に歌って踊ったので、素人水準ならなかなかのものに達していると自負している。しかし、トゥインクル・シリーズを走るウマ娘は皆プロと言って良い水準でそれをこなすのだ。自信満々、と言うわけにはいかない。

 

「じゃあ、一緒に歌おう! ラフィ先輩もどうですか?」

「良いですね。リツ、歌いますよ!」

「おっけい! ローズ!」

「はい、はい」

 

 あれよあれよという間に5人が揃い、それぞれにマイクが行き渡る。トレセン学園が近いせいか、全室が8本までマイクを同時接続できる仕様である。簡易なステージに上がると、ラフィさんとリツさんに背中を押されて真ん中へ立たされる。

 

「じゃ、ノヴァちゃんセンターね」

「えっ」

「いっくよー!」

 

 ギターを掻き鳴らすイントロが室内に響き、慌てて喉の準備をする。

 

〽たったかつったか ぴょいっと駆けちゃお

 

 私、ランさん、ラフィさん、リツさん、ローズさんの順にソロパートをこなし、滑り台代わりにラフィさんとローズさんを後ろに引き連れて、ステージの上手(演者から見て左)側から中央に戻る。

 

〽つったかたった はれるや! ねっ♪

 

 最後のポーズを決めて数瞬後、ピロリンと録画の終わる音が鳴り響いた。

 

「ミッション、コンプリート」

「ネルさん、何していたんですか……?」

「いやね、妹ちゃんに頼まれていてさ。今送ったところ」

「いつ頼まれたんですか……? そもそも、連絡先を何故?」

「連絡先を貰ったのはこの間の感謝祭だよ。頼まれたのはこの間、ノヴァちゃんが実家に帰った日の夜だね。『久し振りにお姉ちゃんの「ぴょいっと♪はれるや!」が見たい』って」

「そ、そうですか……」

 

 ……トレセン学園入学前まで、結構な頻度で一緒に歌って踊っていたはずなんだけどなぁ。

 

 やはり、寂しい思いをさせているのだろう。小学4年生になったばかりなのに、自分で言うのもどうかと思うが、懐いていた姉が寮暮らしになって月1でしか顔を合わせなくなってしまったわけである。

 

 ……来月はもっと構い倒してあげよう。

 

 そんなことを考えていると、ランさんが目を輝かせて次の曲を入れる。

 

「ノヴァちゃん、次は『彩 Phantasia』歌おうよ! ネル先輩はもちろん歌えますよね!?」

「もっちろーん。ティアラ路線狙ってるからねぇ」

「いや、あの、『ぴょいっと♪はれるや!』以外は本当にカラオケレベルですよ……?」

「私も今はそうだから、大丈夫大丈夫!」

 

 ランさんの押しの強さに負けて、結局私も歌うことになる。

 

 ……私は牡馬! 牡馬ですよ!?

 

 そんな心中の主張がランさんに届くはずもなく。皆で門限ギリギリまで粘って歌い、今日私が歌った曲は全て動画に撮られて当然のように美月へと送られたのだった。




途中出て来た不審者ウマ娘2人は、今のところ再登場の予定はないです。

ラフィとランが提案したコーデの参考にしたコーデはこれこれです。


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第29話:泳げないウマ娘は珍しい

ライブシアターで確認したところ、トモエの身長が150cm程度しかなかったため、第9話、第20話、第21話の描写を修正いたしました。
詳細については各話後書きに記載しています。
このままお読みいただいて問題ありません。

日曜日の内に間に合わず、申し訳ございませんでした。


 無数の三角錐が集まって出来た、立体トラス構造の屋根が見える。おそらく青いのだろう壁が私の両脇に聳え立ち、その上で眠たげな眼をした調教師の男や、もし騎手になれなければ絵描きかアイドルにでもなっていただろう鞍上が、心配そうに私の泳ぐ様子を見守っていた。

 

 パノラマ写真のように横方向に広く、しかし赤系の色が判別できない視野は前世で慣れ親しんだものであり、これが夢であることを物語っている。

 

「相変わらず、ここまで泳ぎが下手な馬は見たことないな」

「泳いでいると言うか、溺れてると言うか」

「普通の馬は特に習わなくても泳げるんだが」

「ドリーはちょっと普通じゃないですからね……」

 

 脚が付かない深さの温水プールで必死に4本の脚を動かし、適度にひんやりとした流水を掻き分ける。しかし水の流れは容赦なく私を押し戻し、私の進むペースは差し引きなめくじのような速さだった。

 

 肺に空気を溜め続けていなければ沈んでしまいそうだ。なるべく息を止めて、時折深く大きな呼吸を素早く済ませて、どうにか肺を膨らませている時間を確保し、浮力を維持する。

 

 私の記憶が正しければ、この夢の数か月前の調教中に左前脚に痛みが出て検査をしたところ、種子骨の頂部が折れていることが判明したはずだ。おそらくだが、この夢は手術でその骨片を取り除いた後、ようやく中断していたトレーニングを再開した日の記憶だろう。

 

 私が藁を掴めない馬の身で奮闘する様をしばらく見つめていた鞍上が、私を見たまま調教師に声を掛ける。

 

「先生、ドリーをいきなり弥生賞に出すって、本気ですか?」

「開業したばかりのウチに来るとは思えんほどの素質馬だからな。トライアルは未出走でも出せるんだから、条件戦に出す方がもったいないだろう?」

 

 わざとらしく肩を竦めてそう言った調教師が、鞍上の方を向いた。

 

「それに、ギンシャリボーイが叩きで出るって言うじゃないか。お前だって、あの朝日杯は見ていただろう」

「えぇ、当日平場で出ていましたから」

「持ったまま、最終直線の最後方から3馬身差だ。2歳とは言えども、マイルGIをな」

 

 お手上げだと言わんばかりに調教師が両手を上げて、そのまま腕を組んだ。

 

「化け物と一緒に走らせたいなんて思うやつは、そうはいない。今年はフルゲートにならないだろう。そうなれば、ドリーが滑り込む余地は十分にある」

 

 調教師が私に向き直る。先ほどからほとんど進んでいない私を見て、眉間に小さく皺を寄せた。

 

「まあ、正直なところ、あれに勝てるかはやってみないとわからないが、ドリーなら勝負に持ち込める。未出走馬なんて誰もマークしないから、奇襲が上手く行けば1着だって取れるし、最悪でも2着は固い。そうすれば収得賞金が入るから皐月賞に優先出走できるし、皐月賞で入着すればダービーにも出せる。ほら、出さない理由がないだろう?」

「先生が言うならそうでしょうけど……」

 

 自信なさげに鞍上が俯く。デビュー2年目にして見習を脱した(通算100勝超えの)、疑いようもない天才だ。しかし、このころはまだ大舞台で緊張してしまうのか、重賞で勝利した経験はなかったはずだ。

 

「ドリーとならGIにだって勝てる、つったのはお前だぜ? 俺もそう信じているんだから、言い出しっぺのお前は腹括って乗ればいいんだよ。屋根が弱気じゃ、勝てるものも勝てないぜ?」

 

 調教師がバシバシと鞍上の背を叩く。眠たげな目つきに反して、意外と体育会系の男だった。どうやら闘魂を注入されたらしい鞍上の表情が晴れていく。

 

「それもそうですね。僕が信じないで、誰が信じるんだ……!」

「馬主だろうなぁ」

「そこで梯子外さないでくださいよ……」

 

 男2人が声をあげて笑う。それを私は、2mほど進んだ位置で聞いていた。

 

 私が裏切ってしまった人たちの、楽しそうな笑顔。もしここで泳ぐのを止めたら、一瞬悲しませてしまうかもしれない。それでも、鞍上がおおよそ3年後の天皇賞で私から落ちて、脊髄を損傷することも無くなるだろう。

 

 ……きっと、みんな幸せになれる。

 

 理性は「夢なのだからそんなことはあり得ない」と言っている。それでもその誘惑に耐え切れなくて、衝動的に脚を止めて息を吐き出した。音もなく、冷たく暗い水底に沈んでいく。そのうち、前後左右どころか天地も分からなくなっていき、五感も消え去っていく。これまでに2度――夢も含めたら数えきれないほど経験したそれに、生存本能が悲鳴を上げた。悔恨の情が赴くままに自死を選択しておきながら、今更自らが消えていくことに怯え、まだ生きていたいと左手(・・)を伸ばす。

 

 誰かの暖かな両手が左手を包み込んだ。世界が急速に明るさを取り戻していき、柑橘系の――今日は甘いオレンジの匂いがする。

 

「ノヴァさん、大丈夫ですか?」

 

 鈴の音よりも済んだ美しい声が、私の目を覚ました。ベッドサイドのランプが、翠色の大きな瞳と前髪の流星、整った顔を照らしている。知らぬ間に荒くなっていたらしい呼吸が、少しずつ、ゆっくりと落ち着いて行く。

 

「……大丈夫です。ちょっと、溺れる夢を見ちゃって……」

 

 以前も似たようなことがあったな、と思いながら誤魔化した。人を騙すことばかり上手くなっていく私は、碌な死に方をしないだろう。

 

「そうですか……」

 

 私のベッドに腰かけたラフィさんが、じっと私の目を見つめて来る。目を逸らして何かあると気取られないように、私も見つめ返した。数拍ほどの間を置いて、ラフィさんが口を開いた。

 

「ノヴァさん、少しこちらに来てもらえますか?」

「……はい。わかりました」

 

 意図がわからず首を傾げながら、体を起こし両手をついて、ラフィさんの前へと動く。

 

「これでいいですか?」

「はい」

 

 ラフィさんがそう言うや否や、暖かく柔らかな感触が私を包む。私はラフィさんの首筋に頭を埋めた形になっているようだ。発散しやすい香水の匂いや高級そうなシャンプーの匂いに混じって、女の子特有(ラクトン)の良い匂いがする。それなのに心の中の牡馬ソウルが馬っ気を出さないあたり、自覚はなかったが精神に来ていたらしい。

 

「大丈夫です。もう怖くないですよ。大丈夫、大丈夫」

 

 ラフィさんの手が、私の後頭部を撫でる。しばらくの間、私はラフィさんの厚意に甘えるようにもたれかかっていた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 朝に甘えさせてもらったことを除けば、朝4時の自主練習を含めていつも通りに過ごした平日の午後、私は目の前の光景に気力を削がれていた。

 

 6レーンの50mプール――飛び込み台付きの、とても深い温水プール。それがトレセン学園のプールだ。脚が付かない深さと言う点では今朝に夢見た前世通りであり、流れがない分難易度的には簡単になっている。それでも、溺れる夢を見た当日に泳ぎたいと思う人はいないだろう。

 

 もう何度目かになろうと言う水泳の授業だが、毎回憂鬱な気分にさせられる。大きな窓から見える空も、梅雨らしくどんよりとした色をしていた。競走馬だった頃はギリギリ沈まない程度には泳げたのだが、ウマ娘になった今となっては完全な金槌なのだ。

 

 私たちの1つ前の子たちが、教官の合図でプールに入り泳ぎ始める。

 

 ……次は、私の番だ。

 

 前の子が波立たせた水面を見つめたまま、胸に抱えたビート板を抱きしめた。

 

 しばらくすると、横を通って私の前に来たランさんが、私の顔を覗き込んでくる。私よりも少し高いランさんの体は、なかなかのボリュームがあるとても女の子らしい曲線を描いていた。

 

 お互いにきっちり水泳帽を被って、学園指定のスクール水着を着ている。描き分けが必要なアプリやアニメならともかく、実際に授業として泳ぐのであれば、水泳帽を被らないと言うのはあり得ない。泳ぐうえで髪が大きな抵抗源になるし、塩素に晒されると髪が痛んでしまうからだ。

 

 じっと私の顔を見ていたランさんが、口を開く。

 

「ノヴァちゃん、顔色悪いよ?」

「いや、今朝溺れる夢を見たので……」

「それは、縁起悪いね……」

 

 自身のことに置き換えたのか、ランさんが嫌そうな顔をしながらそう答えた。

 

「まあ、夢は夢ですし、泳ぎはしますが……」

「無理しちゃダメだよ」

「無理なんかしませんよ」

「本当かなー」

 

 ランさんが訝しむような半目で私を見る。明らかに私の言葉を信じていない目だった。

 

「な、何ですか?」

「いや、だって、ローズ先輩とトモエ先輩の応援行った時、体調悪そうなのに『大丈夫』って言い張ってたでしょ? ノヴァちゃんは絶対無理しちゃうタイプだと思うんだよね」

「いやいや、私ほど諦めの早いウマ娘はいませんよ」

「えぇ……?」

 

 3歳の秋から1年間、ギンシャリボーイに勝つことを諦めていたのだ。抜かれそうだと、そう思った瞬間に足を緩めて。最後まで諦めなければ、勝てたかもしれないのに。調教だって、雨が降った日は露骨にやる気を出さなくて。あの1年間を真面目に過ごしていれば、もしかしたら。

 

「次!」

「あっ、はい!」

「本当に無理しちゃダメだからね」

 

 教官の声に応え、梯子を下りてプールに入る。すぐ後ろに並んでいたランさんも一緒だ。

 

 胸に抱き込んだビート板だけが、私の命を保証してくれる。普段は意識しないものの、他人に言われると少し頭に来る程度には気にしている、発育のハの字くらいしかないような大平原じみた薄い胸――サイレンススズカと同じく、決して無と言うわけではないそれが、今だけは頼もしい。ビート板との間に余計な隙間が空かない分、沈んでいる体がより水面に近づくからだ。

 

 どうにか自分の泳ぐレーンまでたどり着き、右腕でビート板を抱いたまま、水面下にある掘り込みの足場とプールの縁を使って体を固定する。

 

 ブザーの音と同時に左手を縁から放し、両腕でしっかりとビート板を抱きしめて水を蹴る。格好良くドルフィンキック、なんて私には出来やしない。背泳ぎではどのようにキックしたらよいのか。プール授業が始まる前にランさんに教えて貰っていても、実際に泳いでいる今は油の切れたブリキのおもちゃのようなギクシャクとした動きだ。

 

 上手く進んでいるのか、それともほとんど動いていないのか、それすらよくわからないまま必死に脚を動かし続ける。時折顔に掛かる水が不快で、思わず目を瞑ってしまう。そのまま泳ぎ続けてしばらくした時。

 

「止まって、ノヴァちゃん!」

 

 ランさんの声を聞いて、脚を止める。ランさんの手が私の頭頂部に添えられ、慣性に従って進んでいたらしい私の体が壁に当たる前に止まった。

 

「ありがとうございます、ランさん」

「良いの良いの。何事もなくて、良かったぁ」

 

 トレセン学園のプールは、この深いプールしかない。ならば泳ぎの下手なウマ娘は、一体どうするのか。答えは簡単で、泳ぎの上手い子とペアになるのだ。私の場合は、それがランさんだったわけである。

 

 ……頼むから、素直に浅いプールを作ってほしい。

 

 私としては切にそう願うのだが、何でも『ビート板が無ければ浮くことすらできないウマ娘』と言うのは、例年中等部高等部合わせて1人いるかどうか、と言うレベルで珍しいらしく、そのためだけに作ると言うのはなかなか難しいそうだ。前世でも、全く泳げない競走馬はいないと聞いたことがあるので、ウマ娘もそうなのだろう。そのあたりは、前々世を持ってしまっていることが悪さをしているのかもしれない。泳ぎに関する記憶は無いが、間違いなく金槌だったのだろう。

 

「じゃあ、頑張って帰ろうか、ノヴァちゃん」

「また、50mですか……。わかりました」

 

 左腕だけをビート板から放し、どうにかこうにか方向転換を済ませると、私は泳いできたレーンを逆方向へ向けてもがき始めた。




薄々お気づきかとは思われますが、本作は独自設定がかなり多いです。

なお、天皇賞(春)は夕飯代が消し飛ぶ程度で済みました。


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第30話:期末試験に備えて

難産再び。短めです。


「可愛い! 可愛いわ! うちの娘たちがこんなにも可愛い!」

「そうだね。ノヴァも、センスの良い友達が出来たようで何よりだよ」

 

 6月も半ばを過ぎた土曜日のお昼時、梅雨真っ只中でありながら晴れ上がった空の下で、私は美月と一緒に散歩をしながら、お母さんが持っているカメラの被写体になっていた。この間ラフィさんたちとショッピングへ行った時に、洋服代を出してもらった対価である。いつも通りお父さんはサポートに回っていて、お母さんと阿吽の呼吸で撮影道具のやり取りをしていた。

 

「あっ! お姉ちゃん、ここ、つばめいるの!」

「どこ? あっ、いたいた。もうだいぶ大きいから、ぎゅうぎゅう詰めだね」

 

 嘴をぎゅっと引き絞ったように見えるつばめの子たちが、巣の中から零れ落ちそうなくらいに詰まっている。美月と一緒に少し観察していると、雛鳥たちが黄色い口の中を見せるように大きく開きながらピィピィ大騒ぎし、ほぼ同時に音もなく親鳥が巣に戻って来た。

 

「かわいいでしょ!」

「可愛いねぇ」

 

 ……うちの妹がこんなに可愛い!

 

 私が寮に入ってから、家の近所や小学校の通学路で見つけた些細な変化を一生懸命に話してくれる。天使かな?

 

 美月が「お姉ちゃんと遊びたい!」と臍を曲げないか両親と共に少し心配していたし、もしそうなったら撮影会はまた今度にする予定ではあった。しかし、この愛らしい妹は私と一緒に何かをするだけで満足らしい。何とも出来た子である。

 

 時々近所の人がすれ違い挨拶をするのだが、あちらもお父さんお母さんの様子にはすっかり慣れたものだ。私と美月の周りで実に楽しそうに撮影を続ける両親に、小学校の登校班が一緒だった子のお母さんが、「今日はどんな風に撮るんですか」などと自然に話しているくらいである。

 

 そんなこんなで美月の歩く速度に合わせて、私もほんの数か月前まで使っていた1kmもない通学路やその周りを、あっちへふらふら、こっちへふらふらと見て回る。

 

 1時間以上はそうしていただろうか。美月も一通りのものを見せたようで満足気であり、散歩兼撮影会はお開きとなった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 買った服は1度クリーニングに出した後、お母さんが寮に送ってくれる手筈になっている。来ていた服をハンガーにかけて部屋着に着替えてリビングに戻り、ソファに座っている美月の隣に腰かける。

 

「お姉ちゃん、また夕方に行っちゃうの?」

「外泊届、出してないからね」

「そっかぁ」

 

 少し寂しそうな美月が俯き、肩を落としてしまう。

 

 しかし、先月まではともかく今日ばかりは仕方ないのだ。期末試験まで残り1週間であり、ランさんの勉強を見ると約束した以上は、たとえ一晩でも間を開けるわけにはいかない。どれだけ追い込めるかで、ランさんの成績が決まってしまうと言っても過言ではないのだ。泊って美月を甘やかしたい気持ちは山々だし、来月からは泊っていくことも出来るだろうが、今回だけは我慢してもらうほかなかった。

 

 しかし、可愛い妹ががっかりしているのも心苦しい。ですので。

 

「はい。耳触っていいから、元気出して」

「……いいの?」

 

 頭を下げ、美月の触りやすそうな位置にウマ耳を差し出す。美月は小さい頃から私の耳が大好きで、幼稚園の頃などは隙あらば触ろうとしてきたし、油断するとしゃぶられることすらあったほどだ。ウマ娘にとって耳はデリケートな部分だと知ってからは触って来ることはなくなったが、時々私の耳をじっと見つめていたことを私は知っている。

 

「いいの。ほら」

 

 かなり無遠慮だった以前とは異なり、恐る恐る伸ばされたのだろう指が耳に触れる。ふにふにと感触を確かめるように軽く摘ままれ、毛並みに沿って何度か指が滑る。かと思えば、時折毛を逆立てるように指が動く。

 

 私のウマ耳は、私より大きな耳だと確実に言えるような子をトレセン学園でも見かけなかったくらいには大きい。昔まだしょっちゅう私の耳を触っていた頃の美月曰く、「とっても大きくて、柔らかくて、すごく良い」らしく、どうやら触り心地抜群らしい。同じ美浦寮で朝の玄関開放を待っているときによく見かけるライスシャワー相手だと流石にわからないが、まさか「耳の大きさ勝負しましょう」などと言うわけにもいかない。

 

 私たちの様子を見たお母さんが、LDKのキッチンの方からこっそりとカメラを向けてくる。音の出ない設定にしているのか、シャッター音が聞こえてこないために、美月はどうやら気が付いていないらしい。

 

 そのまま30分近く耳をもふられ、その間ずっと頭を下げ続けたためか解放される頃には首や肩がバキバキになっていた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 少々後ろ髪を引かれる思いで美浦寮に返ってきた私は、北棟4階の自室で勉強道具を手に取り談話室へ向かう。ラフィさんはアダラの方で勉強会があるので、今は不在だ。

 

 娯楽室と談話室の違いは、防音加工の程度だと言う話である。各棟に1室だけある娯楽室は、ある程度運動しても大丈夫なように防音加工が施されている。しかし、各棟の各階にある談話室は、そこまでのものはされていないらしい。「ゲームで盛り上がりすぎて大声出しても大丈夫だけど、流石にドタバタしたり台パンしたりするとダメだからね」と、ネルさんがしみじみ言っていた。栗東寮で1度やらかしたのだろう。

 

 スマホに届いていたメッセージ通り、ランさんの居室がある南棟3階の談話室へ入る。

 

「ごめんなさい。電車1本逃しました」

「おかえり。先にプリントやってるよ」

 

 そこには、この勉強会の主役であるランさん、私の成績が良いと聞きつけてわざわざ栗東寮からやって来たエレジーさん、昼休みに私とランさんが勉強会の日程を決めているときに乗って来たクラスメイト達が揃っていた。

 

「それじゃあ、いつも通りでお願いします」

「はーい」

 

 皆が口を揃えて答える。『いつも通り』とはつまり、プリントを一通り終えた人から声を掛けて貰い、皆が終わったら解説をすると言うことだ。ただし、もともとランさんのための勉強会なので、解説もランさんの理解が追い付くペースだ。

 

 その様子を見ながら、私はランさんの隣に座る。黙々と皆が問題を解き進め、シャープペンシルの芯が紙に当たり削れていく音が静かな談話室に響いていた。時折、1つ2つ分の音が消え、その代わりにうんうんと悩むような声がする。

 

 今ランさんたちに解いてもらっている問題集は、トレセン学園で副教材として購入した問題集だ。1週間ほど前までは私が小学生の時に(ちょっと前まで)使っていた問題集から抜粋した問題が主で、ランさんがこれから勉強を進めていくために必要な基礎を固め直すためのものだった。しかし今日では、既にこの間の中間試験で試験範囲から外れた範囲が中心になっている。中学1年生の1学期、まだ小学校の範囲からそこまで進んでいないとは言えども、間違いなくランさんのモチベーションの高さが現れていた。

 

 皆が問題を解き終わるのを待つ間私が何をしているのかと言えば、社会の勉強である。いわゆる理科系の科目は、授業さえ聞いていれば大楽勝だ。お母さんから貰ったスポーツ生理学やトレーニング理論の専門書を全く苦にせず読めるのと併せて考えると、知識はあってもまともに記憶が残っていない前々世の影響と考えて良いだろう。しかし、歴史や地理は前世や前々世とは細かな部分が変わっているため、間違えてしまう可能性が高い。実際に中間試験で農林水産省と文部科学省を間違えた以上、きちんと今世に合わせて覚え直さなければならない。

 

 しばらく授業中に取ったノートとにらめっこをしていると、エレジーさんが私に声を掛けてきた。

 

「ノヴァちゃん、丸付けまで終わったよぉ」

「どうですか?」

「式変形で、不等号の向き間違えちゃった」

「あぁ、うっかりですね」

 

 エレジーさんは、成績が良い組である。解いたプリントを見たが、それ以外は途中式まで含めて完璧だった。ではなぜ勉強会に参加しているのかと言えば、本人曰く1人だとサボってしまうかららしい。

 

 ……それにしたって、わざわざ別寮かつ別クラスの私のところに来る理由がわからないけど。

 

 何かしら考えがあることは間違いないだろう。尋ねるべきかと逡巡していると――。

 

「ノヴァちゃん、終わったよ!」

「あっ、はい。どうですか?」

 

 丁度クラスメイトたちがプリントを終えたようで、それを見てどう解説したものか考えているうちに機会を逸してしまった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「では、今日はここまでで」

「ありがとう、ノヴァちゃん」

「ありがとね」

「ありがとぉ。また明日ねぇ」

「どういたしまして。また明日」

 

 時々息抜きを挟んで集中力を保ちつつ、2時間ほどみっちりと勉強をして今日のところはお開きとなった。居室がこの談話室と同じ南棟3階にあるランさん以外が、私に礼の言葉を掛けて帰っていく。今日は私が実家に帰っていたので短かったが、明日はほぼ丸1日勉強をする予定である。

 

 今日の勉強会では、ランさんが1番苦手としていた数学で、初めて最初に問題を解いた時点で6割正解するなど、期末試験へ向けて希望が見えてきた。

 

 足元の基礎を固め、ひたすら問題を解いてアウトプットをさせて、分からなかった問題や解き方に自信がなかった問題に集中して勉強するだけでこれだけ伸びるのだから、やはりやり方がまずかっただけなのだろう。以前に今までの勉強方法を尋ねたら、「いつもまとめノートを作るので精いっぱいだった」と言う話だった。インプットに偏りすぎて、アウトプットが足りなかったと言ったところか。

 

 この調子でいけば、全教科平均点越えも夢ではない。成績の悪い子の方が点数を伸ばしやすいとはいえど、驚異的な伸び率である。

 

「ねぇ、ノヴァちゃん」

 

 まだ部屋に残っていたランさんが、私に声を掛ける。ランさんの方を向き、私は問いかけた。

 

「何ですか?」

「本当に、ありがとう」

 

 とても、とても綺麗な笑顔だった。ラフィさんを女神様と信仰する私が、一瞬呼吸を忘れてしまうほどに。

 

「……そう言うのは、期末試験が終わってからですよ」

 

 照れを隠そうとして、少しぶっきらぼうな言い方をしてしまう。

 

「そうだね。それでも、ありがとう」

「……どういたしまして」

「うん」

 

 笑顔を見せる価値など私にはないのに、ランさんは嬉しそうに笑っていた。




ノヴァのウマ耳は、とても大きくて薄めの柔らかい耳です。肉厚で触り応えが良いと言うよりは、ふにゃふにゃと柔らかな手触りをしています。

オークスは今週のお昼代が吹き飛びました。


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第31話:開放感に満ち溢れたひととき

大難産でした(N度目)。


「試験時間終了です。筆記用具を置いて、裏返したまま後ろの人から解答用紙を前へ回してください」

 

 試験官を担当する先生のその言葉と共に教室内がざわざわと騒がしくなる。宝塚記念の終わりを待って始まった期末試験から、生徒たちが解放されたのだ。

 

 学習指導要領に則った義務教育に加えて、レースに関係して来る分野も教科として存在すると言うこともあり、トレセン学園の試験はとにかく科目数が多い。ほとんど小学校の復習だった最初の中間試験とは異なり、期末試験では当然ながら新しく学んだ範囲からも出題された。数か月前まで小学生だったほとんどの1年生にとっては、なおさら負担が大きく感じられたことだろう。先生も本来であれば全ての答案を回収できたと確認するまで静かにさせなければならないのだが、初めてということもあり多少は大目に見てくれているようだ。

 

 体をねじって後ろの席の子の様子を伺い、お互い息を合わせて答案の束を受け取る。それに自分のものを重ねて前の席の子へ渡した。そのまま、私は姿勢を正し沈黙を保つ。

 

「よし。これで期末試験は全て終了です。皆さん、お疲れ様でした」

 

 しばらくして全数の確認を終えた先生が、試験終了を告げて教室を出て行った。

 

 正真正銘期末試験が終わったのだと確認してから、両手を組んで腕を天井に伸ばし、緩める。付随して声が漏れるが、それを咎めるような人はもう教室の中にはいない。誰も彼も、早くも夏休みに何をするかの話題で持ちきりだ。

 

 教室の後方、聞き慣れた位置から私目掛けて足音がパタパタと迫る。軽快なリズムのそれを聞き取った私のウマ耳が、半ば無意識に動く。

 

「ノヴァちゃん、打ち上げ! カラオケ行こ!」

 

 輝くような葦毛のサイドテールを棚引かせ、もう待ちきれないと言わんばかりに現れたのは、予想通りランさんだった。立ち止まった彼女にほんの少し遅れて、そよ風が吹く。1度柔らかな髪束に含まれたのだろうそれは、蜂蜜の匂いがした。

 

「早く早く!」

 

 テストが終わりもう遊ぶことしか考えていないらしい彼女は、私の左手を掴んで立ち上がらせようとしてくる。だがしかし。

 

「落ち着いてください。お昼どころか、帰りのホームルームもまだですよ」

「あっ、そっか。じゃあまた後でね!」

 

 軽やかな足取りでランさんが席に戻っていく。私たちのやり取りを見ていたらしいクラスメイト達が笑っていた。ここ数日のランさんは表情が明るかったので、よほどの手応えがあったのだろう。そこに試験期間終了の解放感が加われば、テンションが振り切れてしまうのも致し方ないことだ。

 

 今日の午後は授業もないので、勉強会に参加していたメンバーで集まって簡単な打ち上げを予定している。梅雨真っ只中ではあるが、窓の外を見る限り天気は持ちこたえそうだ。

 

 しばらく待っていると、廊下から耳に馴染んだリズムでパンプスの靴音が響いて来る。それは私たちのいる教室前で止まると、教室の引き戸を開いた。予想通りに担任の先生だ。私たちと干支が1周しない程度の年齢差しかない彼女は、トレーナー資格こそ持っていないが教員としての評判はすこぶる良い。普段であれば生徒たちもすぐ着席して静かになるくらいには、このクラスを良くまとめている。しかしながら、今日ばかりは皆、静かになることなく歓談し、そわそわと自席以外を動き回ったままである。

 

「ホームルーム始めるよ。席についてー」

 

 先生は仕方ないなぁと言わんばかりの苦笑を浮かべながら、両手を叩いて皆の注目を集めた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 お昼を終えてから、完全にテンションが上がり切った勉強会の参加者――ランさんやエレジーさん、クラスメイトたちと一緒にカラオケ店に入る。この時期は多いのか、店員も慣れた様子だ。そうして広めの個室に通されるなり、私はランさんに背中を押されてモニターの前に立たされた。

 

「あの、ランさん? 何ですか?」

「打ち上げの挨拶、何か一言言ってよ!」

「そういうの、あまり得意ではないのですが……」

 

 皆をまとめることは、苦手とまでは言わないがそう得意ではない。前世の現役時代もボス馬らしき立場には立たされた。しかしそれは、2着続きとはいえ一応GI常連だった私に厩舎のスタッフたちが下にも置かない対応をしている様を見て、他の馬たちが勝手にそう扱ってきただけの話だ。併走でこそ全員打ち負かしていたが、馬格に劣り基本的には人間に良く従う私は、本来ボス馬扱いされるタイプではない。

 

 今世でも小学校では1人でいることが多かったので、やはりリーダー役にはふさわしくないだろう。渋る私を見て、クラスメイトの1人――栗毛を三つ編みにしたアクアフォールさんが口を開いた。

 

「まぁまぁ。先生がいなかったら、みんな今頃死んだ顔して追試の予定確認してただろうし」

「先生ではないです」

 

 彼女の言葉に訂正を入れる。勉強会に参加していた子たちは、どうにも隙あらば私を先生扱いして来る。

 

「えぇ? ノヴァちゃんは先生だよぉ。ねぇ?」

 

 するとエレジーさんが改めて私を先生扱いし、うんうんとランさんやクラスメイトたちが頷く。

 

 どうやら味方はいないらしい。これは、腹を括るしかないだろうと1つため息を吐いた。

 

「仕方ありませんね……」

 

 私が抵抗を諦めた途端、ぱちぱちと拍手の音がいくつも響く。部屋の中を見渡せば、隣に立ったままのランさんも、ソファに座っているエレジーさんやクラスメイト達も、みんな笑顔だ。期末試験の手応え的に、後顧の憂いはないと言うことだろう。

 

「えぇっと。表情を伺う限り、皆さん期末試験では手応えがあったようで、私も嬉しく思います。ですから、うーんと……」

 

 良い感じの言葉が思いつかない。ボス馬をさせられていた頃は1つ嘶けばだいたい何とかなったので、こうして皆の前で挨拶をすることには慣れていない。

 

 ……まぁ、長くてもあれだし、もういいか。

 

 半ば投げやりな気持ちで、右手を高く上げて宣言した。

 

「今日は楽しみましょう!」

 

 「いぇーい!」だの「ふぅー!」だの、皆思い思いにハイテンションな掛け声をあげ、タッチパネル付きのリモコンに手を伸ばす。その様子を見ながら私はソファのモニター側、皆が空けておいてくれた場所へ腰かけると、ランさんは私の向かい側に座った。

 

「メロン、何歌う?」

「『夢咲きAfter school』!」

「……先生、ウイニングライブで歌うの以外知ってるかな?」

「……どうだろう?」

「何ですか? スレーインさん。エフェメロンさん」

 

 黒鹿毛の長い髪をそのまま下ろしたスレーインさんと、褐色肌と長い葦毛のコントラストが印象的なエフェメロンさんに一言物を申す。

 

「私だって、いくつかならウイニングライブで歌わない曲も知ってますよ」

「じゃあメロンちゃんが歌いたい曲、知ってる?」

 

 ふふんと胸を張ろうとしたところで、ランさんに言葉で制されて私は固まった。記憶の中を一通り探るも心当たりがない。沈黙は、金だ。

 

「テレビ見てれば絶対知ってるはずなのに……」

「……ノヴァちゃん、この間歌ってたバラードっぽいのと、ウマ娘が歌ってるの以外で知ってる歌、ある?」

 

 黙っている私に、アクアフォールさんとランさんが追撃を仕掛けて来る。前々世でウマ娘関連の曲として発表されたものと『小さきもの』を除くとなると。

 

「……教科書に載ってる奴なら、全部そらで歌えるようにしました!」

「ノヴァちゃん、すごいなぁ。でも、世間知らず(・・・・・)なのは変わらないねぇ?」

 

 ポツリとエレジーさんの零した言葉が止めだった。努力を認められている分、威力が高い。何も言い返すことが出来ず、言葉にならない声を出した後で私は黙り込んだ。

 

「ごめんごめん。ノヴァちゃん拗ねないでよぉ」

「拗ねてないっ」

 

 エレジーさんの一言でウマ耳がぎゅうと引き絞られていることに気が付いた私は、それを手で撫でつけて向きを戻そうとする。何度正そうとしても、それはしつこく手が離れた傍から後ろを向き続けた。

 

 ……別に、前世込みで27歳は年下の女の子から『世間知らず』呼ばわりされたのが悔しかったわけじゃない。悔しかったわけじゃないから!

 

「感謝祭でもそうだったけど、ノヴァちゃん本当に負けず嫌いだよね」

「口調崩れてるの、気が付いてなさそう」

「何ですか。何かありますか」

 

 こそこそと声を潜めて何か話していたスレーインさんとエフェメロンさんに声を掛ける。

 

「んー? 世間で人気の歌なら、私たちがノヴァちゃんの先生になれるねって。ねー?」

「ねー」

 

 2人は顔を合わせてお互いに同意し合う。思わずむっとしてしまいそうになるが、1回深呼吸をして頭を冷やす。27年と13年、合わせて40年生きているのだ。それを考慮したら、あまりにも今の私は子供染みていた。

 

「……それでは、お願いします」

「本当? 任された! レーちゃん!」

「よし! 私とメロンで最初に歌うね! みんな良い?」

「良いよー」

「おっけぃ」

 

 皆の賛成と共に始まったその歌は、未来は夢と希望に満ち溢れていて当然だと信じている少女たちが今を謳歌する明るい曲だった。

 

〽だから全開前進目指したい

〽希望ばっかり膨らむ今が好き

〽声そろえて海に叫んで

 

 あいつと出会った弥生賞――前世で遅れに遅れたデビュー戦までは、姿形は違えど私もそうだった。鞍上となら誰にも負けないと根拠もなく信じていた。だが、そうはならなかった。

 

 ……今思い出すことじゃない。もう、終わった話だから。

 

 軽く頭を振って思考を切り替えると、机の上に置いてあったタンバリンを手に取る。どこで合いの手を入れるべきかは、2人が1番を歌っている間に覚えたから問題ない。

 

 他の人が歌っている間に合いの手を入れて見たり、ウイニングライブの曲をみんなで歌ってみたり。世間知らず扱いがやっぱりまだ少し悔しかったので、教えて貰った曲のうち1つを皆が忘れた頃に歌い、1発である程度形にしたそれで皆を少し驚かせてみたり。全力で時間いっぱいカラオケを楽しんだ私たちは、すっかり声を嗄らして店を出る。

 

 最初に年甲斐もなく不機嫌な態度を見せてしまったことを除けば、全体として打ち上げは極めて円満に終わった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 週が明けて月曜日、1時限目のテスト返しが終わった直後に、私の席へランさんがやって来た。

 

「ねえねえテスト何点だった?」

 

 ランさんは歓喜に心弾ませているのか、歌うように私に問いかける。淡灰色の瞳は輝きを増し、ウマ耳は私の答えを待ちきれないと言わんばかりに忙しなく動き、尻尾が上機嫌そうにゆらゆらと揺れていた。

 

 問いかけの歌には心当たりがある。何せ、2日前に教えて貰ったばかりなのだから。故に、それをなぞるように答えた。

 

「いい点取ったんでしょ?」

「うん!」

 

 にっこりと絶好調の笑顔をランさんが見せる。1枚写真を撮って国語辞典に載せたら、『喜色満面』の解説はそれで十分だろうほどだ。

 

「ノヴァちゃん! 凄い点取っちゃった!」

「私史上、最高得点!」

「私たち、やればできる子だった!」

 

 ランさんの後に続くように、勉強会の参加者たちが成果を見せに来た。みんな満面の笑みを浮かべて嬉しそうに声を弾ませている。私にとって、その光景は何よりの褒美だった。




2022/6/20 23:55

楽曲コードの入力漏れを修正いたしました


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第32話:北海道旅行したい季節の模擬レース

久し振りにレース回です。


 一般的な生徒たちを苦しめる期末試験が終わったからと言って、すぐに夏休みになるわけではない。特にトレセン学園の場合は一般校と異なり、終業式までの2週間の間に模擬レースや選抜レースの予定も詰め込まれているので、なかなか忙しい。

 

 私も模擬レースに参加するため、クラスメイト達と共にグラウンドに来ていた。来ていたのだが。

 

「ノヴァちゃーん、大丈夫(だいじょーぶー)?」

「……溶けそう」

 

 私は梅雨明けの暑さで完全に伸びていた。ランさんが声を掛けて来たので言葉を返すも、口調にまで意識を回す余裕がない。

 

 出走を待つ生徒たちのためにスタンドには臨時のテントが張られており、じりじりと肌を焼くような日差し自体は遮られていた。更にミストシャワーも設置されており、日陰かつシャワーの風下になる位置を選べば、微かに涼しさを感じる。だがしかし、気持ち程度の涼しさだ。そもそも気温が高すぎる。

 

「暑いの苦手?」

「……はい」

 

 馬と言う生き物は、暑さに弱い。そのため、前世において競走馬の調教と言うものは、明け方から午前中にかけて行われるものだった。当然私も前世では比較的涼しいその時間帯に調教を受けていたし、そもそも夏場はオーナーが――亡くなってからは孫娘さんが経営する牧場のある北海道に、避暑と休養を兼ねて放牧されていた。前世の北海道は温暖化の影響でかなり暑くなってきてはいたが、それでも関東に比べたらまだ涼しかったのだ。

 

 今世でもトレセン学園入学前は競走馬だった頃の習慣に従って午前中に走っていたし、入学後の午後の授業も今までは本格的に暑くなる前だから問題なかった。故に、猛暑の中走る経験は今世では初めてのことである。

 

 ……暑い。無理。死ぬ。

 

 夏に走る子たちに尊敬の念を抱かざるを得ない。他の時期とは異なり、暑熱そのものへの適性が要求されるとしか思えなかった。

 

「でも、ノヴァちゃん?」

 

 スレーインさんが言い辛そうに口を開く。普段は降ろしている黒鹿毛の髪をポニーテールにしていて、心なしか涼しげだ。

 

「暑いのダメなら、冬用のジャージから着替えたら?」

「それは、まあ、そうなんですが……」

 

 6月の衣替え――夏服の半袖で露になったラフィさんの白い肌にテンションがものすごく上がり、『夏服ってえっちだよね。薄手だし』などと脳内で供述した時期を過ぎても、私は冬服のまま過ごしていた。梅雨の時期は少し肌寒かったと言うこともあるが、梅雨が明けても冬服のまま過ごしている最大の理由は紫外線対策である。

 

 前世では青鹿毛遺伝子持ちの葦毛だったこともあり、皮膚がんの発病率が遺伝子的に非常に高かった。極めて幸いなことに死ぬまでに発がんすることはなかったし、今世で葦毛のウマ娘ががんになりやすいと言う話も特に聞かない。

 

 ……でも、怖い。

 

 前世4歳の夏、日に日に死の気配が濃くなって行くオーナーの姿が脳裏に過ぎるたび、もし自分がそうなったらと考えてしまう。日焼け止めを塗れば大丈夫だと言うが、トレーニングで大汗をかいて流れてしまうのではないかと心配になる。メーカーはそこまで考えて作っているとわかっていても、ダメなのだ。理屈が頭で理解できていても、精神的に受け付けないのである。そのため、私は日焼け止めをしっかり塗り込んだうえで丈の長い上下を着ていた。

 

「紫外線が嫌なので……」

「それで体調崩したらダメだよ、先生」

 

 どこかへ姿を眩ませていたエフェメロンさんが、「はい」と冷えたスポーツドリンクの入った紙コップを渡してくる。褐色肌なので相当暑そうに思えるのだが、本人はけろりとしていた。

 

 飲み物は熱中症対策のために学園側が準備したもので、テント下のクーラーボックスに入れてある分は飲み放題になっている。それを注いできてくれたのだろう。

 

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 

 紙コップを受け取り、ぐいと煽る。よく冷えた飲み物が喉を通り、深部から体を冷やしていく。

 

 一息ついたところで、今まで余裕が無くて見ることが出来ていなかった模擬レースの進み具合を確認すると、既に私の2つ前の子が走り始めるタイミングだった。

 

「あぁ、なるほど。ありがとうございます、ランさん」

「本当に大丈夫? 教官に言って、後に回してもらったら?」

「そこまでは弱っていないから、大丈夫です。行ってきます」

「あっ、うん。行ってらっしゃい」

 

 心配そうに眉を寄せているランさんたちに走ることはできると伝え、スタンドのほぼ目の前にある芝2000mの発走位置まで返し馬(・・・)を兼ねて軽めに走って行く。テントの下から出た瞬間に、思わずくらりとするほどの熱が肌の露出した部分を焼き始める。日焼け止めを塗っていなければどうなっていたのか、考えたくもないほどだ。

 

 私が走っている間に芝コースで行われていた2つ前の模擬レースが終わり、ダートコースで1つ前のレースを走るウマ娘たちがバリヤー式発バ機の後ろへ並び始める。それと同時に私が走る模擬レースの準備のため、ゲート式発バ機(・・・・・・・)が芝コースに侵入した。入学から3か月が経過し、ゲートで発走できるようになった新入生が現れ始めたため、今回から新入生たちが走る模擬レースの一部にもそれが使われるのだ。

 

 教官やゲート入りを手伝う職員たち、そして一緒に走る生徒たちに挨拶をしてから、私はゲートの後ろをくるくると円形に歩き回る。その場にいる人たちから「何をしているんだろう」と言わんばかりの目が向けられているが、気にしない。前世でやっていた輪乗りの再現だ。

 

 ラフィさんたちは今日はダンスレッスンの予定なので、この場にはいない。一抹の寂しさを紛らわせるように、歩き回ることでレースへの集中力を高めていく。

 

 日を浴びる芝の濃い匂い、わずかに土ぼこりを含んだ風、発走に関わるヒトの気配。誰も乗っていない背中はあまりにも軽く、記憶の中のそれと比べて、スタンドから聞こえてくる声も随分と小さい。

 

「枠入りを始めてください」

 

 今日の私は1枠1番――1番最初のゲート入りだ。誰の助けも借りずにするりとゲートに入り、他の子が入って来るのを待つ。模擬レースとは言えども緊張するのか、授業でうまくゲートに入れた子でも少し苦戦しているようだ。それでも1つ、また1つと後扉の閉まる音がする。9人目が入ったところで片足を引いて姿勢を整え、わずかな音を聞き洩らさないように聴覚に神経を集中させる。

 

 ほんの少しの間を置いて、前扉の金具が外れる音がした。それと同時に私は駆け出す。金属の軋む音と共に開いて行く前扉の隙間を通り抜けながら、全力で加速する。

 

 試験期間の間はコースを使うウマ娘が少なかったこともあり、芝の状態はかなり良好だ。暑くて他のレースをよく見ていなかったが、この調子だと内枠有利の前残り馬場だったのだろう。外から私に競りかけてこようとする相手はいないようで、独走態勢のままコーナーへ入る。

 

 前世でもそうだったが、私は体格が小さいこともあり、基本的に脚の回転数で勝負するピッチ走法で走る。加速力とコーナリングに優れ、中距離以下の重馬場を得意とする走法だ。加速中、もしくは加速し切ってすぐにコーナーに入るようなコースは、本来私が得意とするところである。コーナー最内の状態が良好と言うこともあり、私は髪が内ラチを掠めるギリギリの位置を通る。

 

 一瞬だけ後方に目をやると、5バ身後ろをストライド走法で追走する栗毛のクラスメイトが1人いた。レース形式では今日初めて一緒に走る子だが、4月にタイム測定で一緒に走った子たちと比べてかなり詰められている。

 

 ストライド走法は、ピッチ走法とほぼ反対の特性を持つ走法だ。1歩で進む距離(ストライド長)が長く、脚の回転数が減る分スタミナ消費が減るので最高速を維持する能力に優れ、中長距離の良馬場を得意とする。

 

 おそらく、この子は本格化を迎えつつある。スタートダッシュとコーナーを相対的に苦手とするストライド走法で私についてくると言うことは、そう言うことだ。

 

 しかし、完全に本格化しているわけではないだろう。せいぜい3合目と言ったあたりか。もし完全な本格化を迎えているならば、もっと詰めてスリップストリームを利用し、最終コーナーで余裕を持って私を抜かしていくはずである。本格化の有無は、ウマ娘の競走能力にそれだけ大きな影響を与える。

 

 だが、私にとってそれは敗北を許容する理由にはならない。こう言っては追走して来る彼女に失礼なのだが、この程度勝てなければ到底あいつには敵わない。

 

 故に前世持ちならではの秘策を使う。バックストレッチに入り姿勢が安定した瞬間、私はギアを変えるように走法を切り替えた(・・・・・・・・)。前世であいつに勝つため、5歳(現役最後)の夏に会得したものだ。前世では2つの走法の間を無段階に調節できたのだが、今はまだウマ娘の体に最適化できていないので、見てわかるような切り替え方しかできない。前回使わなかったのは、まだレースで試そうと思えるほどの熟練度に達していなかったからだ。

 

 私は大跳びで走ることによるスタミナ消費の軽減分を、そのまま走行速度の増加に割り当てる。理想的には最終直線で発揮する最高速度の向上に割り当てるべきだ。しかし、情けないことに今の私では足が竦んでしまう。だから平均速度を上げるような使い方をせざるを得ない。

 

 ハイペースを維持したまま向こう正面を駆けて行き、コーナーの入口に差し掛かる直前に再び走法を切り替える。

 

 第4コーナーに入り、後方のウマ娘たちが仕掛け始め――けれど、困惑したような気配を感じる。末脚が思ったように伸びず、予想よりも速いペースに足を削られていたことに気が付いたのだろう。それでも、私を追走してきた栗毛の子だけはじりじりと近づいてくる。

 

 ……走法を切り替えていなければ、負けていたかな。

 

 最終直線に入り3回目の走法切り替えを行い、そのまま決勝線を駆け抜けた。見掛け上は危うげない半バ身差の勝利だ。

 

 しかし、そこに喜びはない。予想よりも1バ身余計に詰められた。私のレース勘が鈍っていたこともあるだろうが、それ以上に彼女が強かった。言い訳自体は考えられる。本格化途上のウマ娘の能力を正確に推し量るなど、一流のトレーナーでも難しいのだから。それでも、能力の振れ幅まで考慮してレースを組み立ててこその逃げウマだ。反省が必要である。

 

「ねぇ、ノヴァちゃん」

 

 私を追って来ていた栗毛のウマ娘が声を掛けて来る。お胸が大変大きい。

 

 ……いや、何を考えているんだ、私は。相手は右耳飾り(牡馬)のウマ娘だぞ。

 

 変なことを考えて集中が途切れたせいか、全身から汗が噴き出て来る。より正確には、それを認識したと言うべきか。

 

 邪な感情を気取られないように、私の予想を超えてきた栗毛のウマ娘――マルシュアスさんの目を見る。

 

「次は、負けないから」

「……次がいつになるかはわかりませんけど、また逃げ切って見せますよ」

「言ってくれるね」

 

 マルシュアスさんが頭の横に手を開いたまま掲げる。彼女の意図を汲んだ私は右手を掲げて開き、どちらからともなく掌を叩き合わせた。




2023/10/22 23:20
一部修正いたしました(今日は坂路練習をするため→今日はダンスレッスンの予定なので)


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第33話:妖精たちが夏を刺激する

投稿間隔が丸々1か月以上空いてしまい、申し訳ございませんでした。
指に出来た疣の治療が予想より長引きそうなので、今後数話ほどの間は相応に投稿間隔が開くかもしれません。


 夏休みの初日、私はラフィさんたちと一緒に府中駅から京王線とバスに揺られた後、遠い空に浮かぶ入道雲を眺めながら炎天下を歩いていた。たった数分歩いただけであるにも関わらず、いつもの白いシャツワンピースの下に着た肌着(スリップ)がべったりと肌に張り付くほどの汗が、全身の汗腺から湧いてくる。非常に不快だが、今日の目的地はそれだけの価値がある場所だ。

 

 夏の濃い緑の匂いとアブラゼミの大声量に包まれながら、山沿いの平坦な道を進んでいく。すると、何台ものバスが止まっている広い駐車場が左手側に現れて――。

 

「着いたー!」

「やったプールだ!」

「暑かったぁ!」

「先輩たち! 早く早く!」

 

 大きな屋根を備えた建物が見えた。先頭をどんどん進んでいたランさんと、せっかくだからと一緒に行くことになったクラスメイトたち3人――札幌でのデビュー戦を来週に控え、泣く泣く不参加となったエレジーさんを除く勉強会のメンバーは歓喜の声を上げると、こちらに振り返って待ちきれないと言わんばかりに両手を振る。

 

「よーし、あとちょっと! 皆行くぞー!」

「おー!」

 

 それに応えるように、同じくテンションの上がったリツさんが耳をピンと伸ばしながら駆けだした。ランさんたち4人もそれに続き、突発的に駐車場ステークス(アスファルト300m)が始まる。

 

「走ったら危ないよー」

 

 トモエさんが笑いながら注意をする。リツさんとトモエさんは体の一部分を除いてよく似ているので、普段から姉妹に見られることが多いらしい。しかし今日はトモエさんが髪をルーズサイドテールにまとめて来たせいか、お姉さんと言うよりはお母さんの雰囲気だ。

 

「ママみを感じる。良いよね。良い……」

本当(ほんっとう)ブレないよね、フユ……」

 

 私の前を歩くフユさんが腕を組んでうんうんと頷き、それにネルさんがツッコミを入れる。トモエさん絡みではいつもの光景だ。

 

「ふぅ。日が出ていると暑いですね、ラフィ」

「そうですね。ポニーテールにしてきてよかったです」

 

 そして一団となって歩いて来た私たちの最後方には、ローズさんと真夏の女神様がいた。ほんのりと水色をした涼し気なサマードレスを身に纏い、日傘を差したラフィさんの姿は宗教画のようですらあった。

 

 ……うなじの辺りをくんくんしたい。真っ白な首筋をかぷかぷしたい。

 

 邪念が混じったせいか、私の視線に気が付いたラフィさんが不思議そうに首を傾げた。

 

「……どうかしましたか? ノヴァさん」

「えっ? いえ、何度見ても綺麗だなぁと思いまして」

 

 えへへ、と笑いながら麦わら帽子をかぶり直して誤魔化す。ラフィさんは私の様子を見て取ると、笑みを浮かべて答える。

 

「ありがとうございます。ノヴァさんも、とてもよく似合っていますよ」

「そうですか? いつもとほとんど変わりませんけど……」

「麦わら帽子があると、印象が違いますね」

「そうでしょう。そうでしょう」

「あー、わかる。白ワンピに麦わら帽子、青い空と白い入道雲。後は一面のひまわり畑にいてくれたら100点満点って感じだよね」

 

 ローズさんとネルさんがラフィさんの意見に同調する。褒められて悪い気はしない。

 

 ……なんでひまわり畑何だろう?

 

 そのような疑問も浮かぶが、ネルさんのことだからオタクネタなのだろう。

 

(みーんなー)(はーやー)くー!」

 

 先行した5人のうちリツさんが痺れを切らしたようで、ボイストレーニングで鍛えた声量でこちらに呼びかけてくる。それにトモエさんが答えた。

 

「リツが早すぎるだけだよー!」

 

 リツさんたちの頭上にある看板には、バブリーランドと書かれていた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 バブリーランドは、バブル時代の浮足立った雰囲気を愛するオーナーが開園させた、ウォーターアトラクションを中心とする遊園地である。2度の転生で競馬やウマ娘に関係ない分野がほとんど破損している前々世の記憶が、脳裏で「サマーだったような……?」と自信なさそうに主張しているが、バブリーである。

 

 2週間後にラフィさんの1勝クラス昇級戦(昇級後の初戦)が決まったこともあり、アダラは週明けから2週間にわたる夏季合宿の予定が入っている。合宿期間自体は例年通りであるらしいのだが、今年はラフィさんのレースに間に合わせるため、毎年8月に入ってから始まる合宿を前倒しで行うのだそうだ。

 

 今日は「合宿前に羽を伸ばして来い」と言うアダラトレーナー陣の粋な計らいで、ラフィさんたちはトレーニングを休んでバブリーランドにやって来たのである。

 

 更衣室のブースに入り、水着に着替える。以前の買い物で買ったそれは胸元にフレア、腰にスカートが付いたフレアワンピース水着で、パッと見たら丈の短いワンピース服に見えるだろう。泳ぎが苦手なので、浮き具もネルさんお勧めのものをばっちり準備して来ている。後でポンプを借りて膨らませる予定だ。

 

 変なところがないか確認してから荷物を持ってブースを出ると、丁度ラフィさんも出てくるところだった。

 

 ……ミ゜ッ!?

 

 ラフィさんはハイネックのオフショルダーフレアビキニとパレオを身に纏っている。だがしかし、フレア部分とパレオが両方ともレース生地で出来ているので、白く柔らかな肌が透けて見えるのである。パレオからちらちらと覗く生脚も実に眩しい。

 

 ……隠さないよりえっちなんですが!?

 

 ひひぃんと私の中に残された牡馬ソウルが嘶く。一緒に買い物に行ったし試着した姿も見ていたからわかっていたはずなのに、それでも魂からの高ぶりを抑えきれない。

 

「あっ、ノヴァさん! とてもかわいいです!」

「ひゃい。ありがとうごじゃいます」

 

 呂律が回らない。

 

「ラフィさんも、とってもきれいでしゅ……」

「ありがとうございます! 早く遊びたいですね、ノヴァさん! 私、ウォータースライダーが大好きなんです!」

「ひゃい……」

 

 水着に着替えて気分が開放的になっているのか、いつもよりも明らかにラフィさんのテンションが高い。キラキラ輝いて見えるラフィさんに対して、これから健全に遊ぶと言うのに抱いてしまう煩悩を抑えるため虚空を見つめる。ほんの数秒ほどで、視線の延長線上にあるブースの扉が開いた。

 

 ……ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛!?

 

 現れたのは、モノキニを着たランさんである。しかし胸周りのフレアと腰に巻いたパレオが、私に止めを刺すようにレース生地で透けている。ラフィさんと同じショップで買ったものなので、デザインが似ているのだ。

 

「あっ、ラフィ先輩! とても似合ってます!」

「ランさんも、よく似合っていますよ!」

「ありがとうございまーす!」

 

 顔に熱が昇って来るのを感じ取り、悟られないように俯く。落ち着くのを待たなければ、と考えた次の瞬間には続々とブースの扉が開いて行く音がした。

 

「わぁ、みんな可愛い!」

「ふっ、わが生涯に一片の悔いなし……!」

「フユー、莫迦なこと言ってないで鼻血止めなー」

「トモエ先輩とネル先輩、すっごぉい……」

「メロンのはメロンじゃないもんね……」

「殴るよ? レーちゃん?」

 

 早くも時間切れである。

 

 ……これもうだめかもしれない。

 

 半ば諦めたような気持ちで、私は顔を上げた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

「大人のおねーさんの色香に酔っちゃったかぁー! いやぁ、ごめんね!」

「えっ、私と大して変わりませんよね?」

「……私が子供だと言うかっ! ノヴァちゃん!」

「リツさん、言ってはならないことを……! 誰がお子様体型ですか!」

 

 などと言う不毛なやり取りをリツさんと交わしたおかげか、どうにか調子を取り戻した私は一旦皆と別れた。青いクリア素材と白い半透明素材で出来たイルカ型の浮き具を、貸し出されているコンプレッサーで膨らませるためだ。膨らんだイルカをつんつんと突き、十分に空気が入っていることを確認してから、ラフィさんたちの下へと歩いて帰る。

 

 ウマ娘は種族的に全員が美女か美少女なので、ラフィさんたちが変な奴にナンパされないか心配だったのだが、ネルさん曰く「自分より強い相手にしつこくナンパする男なんていないから、大丈夫だよ」と言うことらしい。確かに技量を無視して身体能力だけ(・・)で言えば、私でも格闘技の重量級選手を捻り潰せるはずなのだ。如何せんウマ娘の世界に生まれ落ちてからそういった経験がなかったので、前々世や前世の常識に引っ張られてしまったらしい。そんなわけで、私は安心して生命線を膨らませることが出来たのだ。

 

 私と同じくらいの大きさのイルカを抱えて歩いていると、何やら微笑ましいものを見るような視線を感じる。「何だろう」と疑問を持ちながらラフィさんたちと合流したとき、私は全ての答え――ネルさんの思惑を知ることになった。

 

「可愛い! 可愛いです、ノヴァさん!」

「だから言ったでしょ、ラフィ。ノヴァちゃんみたいな小柄な女の子が、でっかいイルカフロートを抱えているのは絶対絵になるって! ノヴァちゃん、写真撮るねー」

「えっ、あっ、はい?」

 

 カシャカシャと、お母さんの持っているカメラとは違う電子音式のシャッター音が響く。

 

「帰ってからアダラのtwitterに写真上げてもいい?」

「……水着はちょっと」

「やっぱり? じゃあしょうがないかぁ。ノヴァちゃんの家族にだけ送るねー」

「まあ、それなら……?」

 

 そう答えてすぐに、ネルさんのスマホから小さな電子音がする。

 

「よし。待たせてごめんね、皆。それじゃあ――」

(あっそ)べーぃ!」

「私が言おうと思っていたのに!?」

 

 ネルさんのセリフを横取りしたリツさんが、巨大な屋内プールに足からドボンと飛び込む。

 

「心臓に悪いよー、リツー!」

 

 先陣を切ったリツさんに続いて、他の皆もどんどんと入っていく。私もイルカを抱きかかえたまま、静かにプールへと入った。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 バブリーランドは非常に大きな施設であり、屋外にも多種多様なアトラクションが用意されていて、ラフィさんが大好きらしいウォータースライダーも屋外に設置されている。

 

 私たちは屋内プールで1時間ほど遊んだ後、屋外にある巨大な流れるプールで半周分流されて、複数人でゴムボートに乗って滑るタイプのウォータースライダーに来ていた。

 

「もうすぐ順番ですね! はぁ、楽しみです!」

「そ、そうですね……」

 

 ラフィさんは非常にわくわくとした様子で、尻尾がぶんぶんと勢い良く振られている。しかし、私には余裕がなかった。

 

 ……思ったより、高い。

 

 プラットホームが5階建てビルの屋上ほどの高さにあるのだ。しかも最大6人程度で乗ることが出来るゴムボートは円形であり、最悪後ろ向きに傾斜47度を滑り落ちていくことになるのだ。

 

 流れるプールで上半身を乗せて一緒に流されていたイルカくんを預けているので、怖いからと言って抱きしめるものもない。くるりと巻かれて脚の間から出て来た尻尾、その長い毛を掴んで心を落ち着ける。

 

「大丈夫? ノヴァちゃん」

「全く、全く大丈夫ですよ、ランさん。あはははは」

「目がやばいよ、ノヴァちゃん……」

 

 クラスメイト達に心配されるが、問題ない。問題ないと言ったら問題ないのだ。

 

「先に滑ってきますね!」

「あっ、はい。行ってらっしゃい、ラフィさん」

 

 専用ボートが最大6人乗りと言うこともあり、ラフィさんたちアダラの6人が先に滑り始めた。「きゃあ」と、聞いたこともないほど楽しそうなラフィさんの悲鳴が聞こえて来る。

 

 そしてとうとう、私たちの番がやって来た。

 

 ……大丈夫大丈夫。菊花賞でも春天でも、淀の下り坂を全速力で駆け抜けたんだから。どうせ大した速度が出ないんだから大丈夫大丈夫。大丈夫大丈夫。

 

 ボートの下り坂に正対する位置に収まり、しばらくしてボートが流され始める。スライダーの斜度が増す部分で内臓がふわりと持ち上がる感覚が、実に不愉快だった。しかし皆は楽しそうだ。そしてトンネル区間に入ると――。

 

 ……あ、あれ? 後ろ向きに滑り落ちている!?

 

 さぁっと血が下がった瞬間に、角度が増した。

 

「うわ゛ぁ゛ー!?」

「きゃあー!」

 

 本気の叫び声をあげたと同時にトンネルを抜け、漏斗状のコースへとボートが滑り落ちて行く。

 

 気が付けば叫んでいるうちにゴールに達していたようで、ふらふらとした足取りでボートを降りる。

 

「ノヴァちゃん、肩貸そうか?」

「……お願いします」

 

 そのままラフィさんがもう1周してくるまで、私はランさんに付き添ってもらいながらベンチで休んでいた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 事前に寮へ届けを出していたこともあり、私たちは日が沈んでからバブリーランドを出発して帰寮していた。夕飯もバブリーランドで食べて来たので寮でやるべきことはお風呂に入るくらいであり、それすらもう済ませてしまったので後は眠るだけである。

 

「すっごく楽しかったですね。ノヴァさん」

「はい。トレーニングや授業以外では久しぶりでした」

 

 乾かした髪を編んでいるラフィさんが、笑顔で話を振って来る。私としてはウォータースライダーでだいぶ肝を冷やしたが、心の底から楽しそうにしているラフィさんがとても可愛かったので、感情の収支はプラスである。

 

 しかし、ラフィさんの笑顔を見ていると水着姿が脳裏を過ってしまい、午前中ぶりに頭に血が昇っていく感覚がする。このままではいけないと、慌ててベッドに潜る。

 

「ちょっと疲れちゃったので、その、おやすみなさい」

 

 普段ならもう少し話してから眠るのに、今日は突然もう眠ると宣言した私に対して、ラフィさんは優しく微笑んで答えた。

 

「はい。おやすみなさい、ノヴァさん」

 

 ウマ耳まで掛け布団をすっぽりと被る。顔の熱は、引きそうになかった。




記念アイテム:ノヴァとラフィの写真
ネルが撮影し、ノヴァの家族に送られたツーショット写真。
あまりの楽しさに体力を使い切っていたのか、帰りの電車でノヴァとラフィが肩を寄せて眠っている。


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第34話:多摩川沿いの、もう1つの学園

第2話、第18話で『カワサキ』と表記していた部分をシンデレラグレイ作中の表記に合わせて『川崎』に修正、および第12話に40文字強の補足程度の加筆を行いました。
詳細については各話後書きに記載しています。
このままお読みいただいても問題ありません。

中4週近く空いて申し訳ございませんでした。


 ラフィさんたちが合宿に出発した日の翌日、私は普段より30分ほど遅れて起きる。主のいないもう一つのベッドに少し寂しさを覚えながら、いつものジャージではなく、長袖のパーカーとTシャツ、ハーフパンツとタイツに着替えて、玄関へと降りていく。夏にする格好ではないが、春と比べて紫外線が強い以上、これくらい着込んでおかないと不安である。

 

 玄関まで来て最初に覚えた違和感は、ほぼ毎日玄関で外出禁止時間の終わりを待ち構えている見慣れた面々――『いつもの面子』とでもいうべきウマ娘たちが、普段よりも少ないことだ。彼女たちもラフィさんと同じく、合宿をしているのだろう。

 

 そんなことを考えているうちに現れた今日の当番が、眠たげに玄関の鍵を開いた。「二度寝してこよ」と欠伸をしながら呟いた彼女に頭を下げて、日の出のほんの少し後に私は寮の玄関を出る。

 

 湿気と熱を帯びた風が肌を撫でる中、私はトレセン学園からJR府中本町駅へ向かい、始発の1本次の南武線に乗る。南武線には初めて乗ったのだが、沿線に公営賭博の施設が多く治安があまりよくない――らしい。明らかに柄の悪そうな人などもいて少し警戒していたのだが、肩透かしなほどに平和だ。よく考えてみれば、ウマ娘ならば私程度の体格と幼さであっても、身体能力だけは重量級の格闘技選手を圧倒できるので、喧嘩を売ってくるようなヒトがいないことは当然と言えるだろう。もちろん、その競技の練習をしていないウマ娘では、その道のプロと実際に試合をしても技量の差で負け越すことは言うまでもない。

 

 のんびりと40分弱揺られて、川崎市の鹿島田駅で降車する。そこから駈足――ウマ娘基準で軽めに走って15分ほどの場所に、今日の目的地はあった。辺りが開けている分相対的に爽やかな風が吹く多摩川の河川敷、その一角を占める楕円状の設備は、青森産の砂が敷き詰められた1周1200mのトラックだ。近くに立てられた占用許可の看板には、そこが川崎トレセン学園の練習グラウンドであると明記されている。

 

 グラウンドのすぐ傍を通る『かわさき多摩川ふれあいロード』と名付けられた河川敷沿いの道、その小向仲野町信号付近で、私は待ち人たちの乗った車が来るまでグラウンドを眺めていた。私が来る前から既に走っているウマ娘もいれば、交差点すぐ傍にある正門の銘板に『小向寮』と書かれた建物――川崎トレセン学園の寮からたった今出て来たウマ娘もいる。にこにこと笑顔で「おはよう」と挨拶をしてくるので、私も挨拶を返す。

 

 しばらく挨拶返しをしているうちに、聞き覚えのあるエンジン音が南から近づいて来た。目線を向けると、予想通りのナンバープレートを付けた車だ。そのミニバンは緩やかに速度を落とし、私のすぐ傍の路肩に停車する。止まり切ったかどうかと言うタイミングでスライドドアが開くと、小さな影が私に向けて突撃して来た。

 

「お姉ちゃーん!」

 

 我が家の大天使ちゃんだ。満面の笑みで突進してきた美月を両腕を広げて受け止めると、抱きしめながらその場でくるくると回って勢いを落としていく。ぴたりと回転が止まったところで、腕を緩めて美月の顔を見る。

 

「おはよう、美月! 良い子にしてた?」

「してた!」

「偉いねぇ!」

 

 右手で髪を梳いてあげると、美月は「むふー」と上機嫌そうに息を漏らす。可愛い可愛い妹を愛でていると、ミニバンの運転席の窓が開いた。

 

「おはよう、ノヴァ」

「おはよう、お父さん」

「お父さんは車止めて来るから、美月と一緒にお母さんについて行ってくれるかな?」

「わかった」

 

 私がそう言い切ると、助手席からお母さんが下りて来て、お父さんが出発する。

 

「おはよう、お母さん」

「おはよう、ノヴァ。美月のこと、よろしくね」

「うん」

 

 そう挨拶を交わして先に歩き始めたお母さんの横顔が、私と美月の母としての優し気なものから変貌する。それは、ローカルシリーズの中でもレベルが高いとされる、南関4()の重賞常連トレーナーとしてのもの――つい最近までレースに関することを忌避してきた私が一度も見たことのない一面だ。

 

「ね、ねぇ、美月。お母さん、前とだいぶ違う気がするんだけど……」

「んー? お母さん、テレビに映るときはいつもこんな感じだよ?」

「そうなんだ……」

 

 以前小学校の課題のために練習を見せて貰った時は、相当配慮されていたのだろう。家族の中で私だけが知らなかった母の姿を後ろから観察しながら、私は美月と手を繋いで母の後に続いた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 どうしてトレセン学園生である私(中央所属のウマ娘)が、美月と一緒に両親の仕事(地方の練習)について行っているのか。それには建前で3つ、究極的には1つの理由がある。

 

 建前の理由1つ目、それは学園施設の利用優先度の問題だ。

 

 競走()登録と呼ばれる出走に必要な手続きをしていない生徒は、学園施設の利用優先度が低いのである。それはつまり、調教――もとい、トレーニングに必要となる坂路やウッドチップトラック、プールや屋内のトレーニング器具の枠がなかなか割り当てられないと言うことだ。

 

 もちろん学園側も可能な限りの配慮をしているが、如何せん生徒が多い以上、現役かデビュー間近のウマ娘が優先されることは致し方ないことである。それに設備が使えずとも、トレーニングについて教官たちに相談するなど学園外で出来ないことはたくさんあるのだ。故に、大半のウマ娘は盆休みやサマーウォークでのリフレッシュを除けば学園に残っている。

 

 しかし、一部のウマ娘はそうではない。学園の施設が使えないならば、いっそのこと学園外でトレーニングをしても変わらないと言う発想だ。ウマ娘への指導ができる人に心当たりがあるのであれば、下手に学園に残るよりも有意義に過ごせるだろう。

 

 私もその1人である、と言うことだ。

 

 このような需要を見越して各種トレーニング設備を整えた、前世で言うところの外厩に当たる施設もある。しかしながら、生徒であれば無料で使える学園の設備と異なり、こちらは利用料がなかなか良いお値段だ。他2つの理由もあり、私は使わないことにした。

 

 2つ目の理由は、トレーナーの視点を持つことだ。

 

 つまり、『そのトレーニングにはどのような効果があるのか』、『なぜそのトレーニングを今行うのか』と言う知識を身につけるのである。たとえ付け焼刃であっても、何も知らずにやみくもなトレーニングを重ねるよりは良いだろうし、自分なりの納得を得てトレーニングをする方が、何を意識して練習に挑むべきかと言う姿勢が整うのではないかと思ったのだ。それに、身内ならそのあたりのことも尋ねやすい。

 

 そして3つ目は、美月のお留守番問題である。

 

 去年までは、私と美月は2人とも小学生だったので、長期休みでも2人で留守番が出来た。小学生2人でほぼ毎日留守番させると言うのは両親としても心配だったようだが、ウマ娘かつ年齢に不相応なほど(前世持ちで)しっかりした長女()がいたこともあってか、毎日帰ってきたら今日は何もなかったか心配そうに尋ねる程度で済んでいた。

 

 しかし、私が進学した今年は違う。共働きでトレーナーをしている両親がこうして出勤してしまうと、美月は家で独りぼっちのお留守番である。去年までわざわざ美月を図書室で待たせて一緒に下校していた私としても、今年から学童保育の時間に合わせてどちらかが早く上がっている両親としても、心配で心配で練習どころではない。

 

『1人でお留守番だなんて、可愛い可愛い()にそんな危ない事させられない!』

 

 私とお父さんお母さんの意見が一致したことは当然である。

 

 ……過保護と笑え……! 美月に自立心が芽生えて嫌がるまでは、全力で守護(まも)らねば……!

 

 今のところは美月の口から1度も不満を聞いたことがないので、問題はないはずだ。過保護すぎて免疫が付かないのではないかと言う危惧はあるが、小学4年生なら過保護なくらいでまだ良いだろう。

 

 ……中学生になったら、いやでも美月はヒトだし、不埒な大人が危害を加えようとしたら私と違って切り抜けられないかも。なら高校生――も心配だなぁ。じゃあ大学生、と言いたいところだけどいくら何でも過保護すぎるし。高校生かなぁ。

 

 最終的には両親と美月とで話し合って決めるだろうが、姉としてはやはり心配である。

 

 とは言えども、理由がこの3つだけなら私が来る必要はない。優先度が低くとも学園設備は利用できるし、知識を付けるなら教官に質問すれば十分であるし、美月のお留守番問題も今こうしているように両親の仕事についてこさせれば解決するのだから。

 

 究極にして最大の決め手は、「お姉ちゃん、帰ってこないの……?」と電話越しに寂しそうに呟いた、我が家の大天使ちゃん(マイ・スウィート・リトル・シスター)の鶴の一声だ。

 

 先月まで寂しい思いをさせてしまったと言う負い目もあり、夏休み丸々とは流石に行かないが、ラフィさんたちが合宿でいない2週間に合わせて実家に帰ることにしたわけである。両親にトレーニングを見て貰えば、設備と環境の整った学園から離れるデメリットも相殺できると踏んだのだ。

 

 これらの理由があって、私は今日から2週間、両親が手掛けているチームの練習を手伝いながら、ついでにトレーニングを見て貰うことにしたのである。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 私たちがグラウンドへ降りるスロープを歩いているうちに、バ場の入口となる外ラチの切れ目前に設けられた広場へ10余名程度のウマ娘が集まり整列する。両親のチームに所属するウマ娘たちだろう。自分たちのトレーナーの後ろに子供が2人ついて来ているのか気になるのか、お互いに顔を見合わせて何か話している様子だ。しかし、そのうちの一人は明らかに私を見て手を振っていた。

 

 ……誰だろう?

 

 私の疑問を他所に、お母さんは彼女たちの前で足を止め、姿勢を正して声を出した。

 

「おはよう、みんな」

「おはようございます」

治明(はるあき)さんは車を止めてから来るから、先に始めるわ」

 

 そして、朝のミーティングが始まる。短い時間ではあるが、出欠や体調の確認、月曜日と言うこともあり今週の大まかな予定と、今日1日の全体メニューや個人メニューの確認など、話すことは多い。

 

 それらがほぼ終わろうかと言う頃に、お父さんが合流してきた。しかし、お父さんの方は普段と雰囲気が変わらない。それがなおさら、お母さんの雰囲気の違いを際立たせているように感じた。

 

 そんなことを考えていて少し油断していた頃に、お母さんが私たちに話を振って来る。

 

「それと、みんな気になっていただろうけど、今日からしばらくの間、トレーニングにゲストが加わるわ。ノヴァ、美月」

「はい」

 

 仕事モードなのか鋭い雰囲気の母に気圧されて、ものすごい他人行儀になってしまった。

 

「キャンドルノヴァです。皆さんのトレーニングのお手伝いと、その合間の時間でトレーニングをしに来ました。今日から2週間だけですが、よろしくお願いします」

 

 挨拶と共にお辞儀をする。戸籍上の名前は別にあるが、ウマ娘がそれを名乗ることは滅多にない。

 

「えっと、星崎美月です! お姉ちゃんと一緒に、トレーニングのお手伝いをします! 夏休みの間、よろしくお願いします!」

 

 美月が私の見よう見まねで自己紹介をした。頭が下がると共に、ツーサイドアップの長い髪がさらさら流れる。初々しくて大変愛らしい。

 

「はい、美空(みそら)さん! 質問良いですか?」

「何かしら」

 

 両親のチームのウマ娘が、勢い良く手を挙げた。

 

「ノヴァちゃんは、美空さんの親戚の子ですか?」

「いいえ。血の繋がった娘よ。ノヴァがウマ娘だから不思議に思ったのかもしれないけど、ヒトの夫婦からウマ娘が生まれてくることも稀にあるの。世間一般にはウマ娘はウマ娘から生まれると思われているくらい、とても珍しいけれどね」

「へぇー。ありがとうございます!」

 

 「そんなこともあるんだね」と他のウマ娘たちが小さな声で話している。この手のやり取りも、私たち家族はもう慣れたものだ。

 

「他にはない?」

 

 お母さんは誰も声をあげないことを確認し、お父さんに話を振る。

 

「治明さんは?」

「早速だけど、ノヴァと美月にもトレーニングの準備を手伝ってもらおう。バーフニュカ、案内をお願いできるかな」

「任せてください!」

 

 そう答えたのは、先ほど私に向けて手を振ってきたウマ娘だ。黒鹿毛の長い髪をポニーテールにまとめた彼女は、随分と張り切っている様子である。

 

「僕からはもうないよ。それじゃあ、トレーニングを始めよう」

「はい!」

 

 そう返事を返し、ウマ娘たちがそれぞれの準備に向かう。私の方へはバーフニュカさんと数名のウマ娘がやってきた。

 

「ノヴァちゃんだよね? 久し振り」

「えっと、お久しぶり、です?」

 

 とても親し気に話しかけて来てくれているのに申し訳ないが、私は全く覚えていない。

 

「覚えてなさそー」

「あ、あれー?」

「だから言ったじゃん? 先輩。何年も前に1回会ったきりの相手なんて覚えてないって」

「そっかー」

 

 おそらく、以前小学校の課題のために見学に来た際に会ったことがあるのだろう。がっくりと肩を落とされると、忘れてしまっていたことも相まって心が痛む――。

 

「まあ、これから仲良くなればいいか!」

 

 ――間もなく、バーフニュカさんは復活した。

 

「ノヴァちゃん、美月ちゃん、用具倉庫からミニハードルとかタイヤとか色々出すから、一緒について来て」

「わかりました」

「わかった!」

 

 ここにいる誰よりもやる気満々の声を出した美月がとても可愛らしい。バーフニュカさんも微笑ましいものを見る優しい顔をしており、お互いの表情に気が付いた私と彼女は、どこか通じ合うものがありどちらからともなく笑うのだった。




バーフニュカは元ネタの完全に存在しない架空ウマ娘です。
アプリ版のモブウマ娘は全員が中央所属なので、地方所属のウマ娘には出来れば使いたくないと言うことが理由です。


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第35話:川崎の愉快な人たち

4回も締め切りを伸ばして申し訳ございませんでした。


 お母さんからもらった書籍の受け売りではあるが、ウマ娘のトレーニングというものは、脚に走行負荷を掛けるメニューについては午前、もしくは午後の半日のみとすることが一般的である。大昔からの経験則上、そして近年のデータから統計学的に導き出した結果上も、それ以上の量をこなしたところで効果は薄く、しかし程度の軽微重大問わず故障確率が急激に高くなっていくのだとか。

 

 私の推測でしかないが、ウマ娘たちがその名と魂を受け継ぐ競走馬たちの受ける調教が、午前中の2時間程度でしかないことが関係あるのかもしれない。

 

 午前中いっぱい美月と一緒にトレーニングのお手伝いに駆け回った私は、そんなことをぼんやりと考えながら締めのミーティングを眺めていた。

 

「今日のトレーニングはこれで終わりよ。ご苦労様」

「お疲れさまでした」

 

 正午の5分前、練習終わりの挨拶とともに、ウマ娘たちの纏う雰囲気がアスリートのものから思春期の少女たちのそれへと緩んでいく。その様を私はお母さんの隣で見ていた。

 

 「今日の日替わり定食なんだっけ?」と隣の子に尋ねる腹ぺこウマ娘もいれば、「お昼食べたら、ルフロンの水族館一緒に行かない?」と他の子を遊びに誘うウマ娘もいる。少し浮ついた雰囲気の彼女たちの様子を見て、お父さんが思い出したように言葉を発した。

 

「ああ、そうだ。午後はもちろん好きに過ごしていいけど、夏休みの宿題もきちんと計画立ててやること。いいね?」

「嫌なこと思い出させないでくださいよー」

 

 つい先ほどまで真剣な顔で指導を受けていたバーフニュカさんが、お父さんの釘差しにしおしおくちゃくちゃの表情で答えた。その表情筋の限界に挑んでいるような顔を見たウマ娘の内1人が笑い出し、他のウマ娘たちにも連鎖していく。

 

「顔芸、やめてよっ。おなか、痛くなるからっ」

「本当、あんたの顔、どうなってんのよ」

「お姉さん、面白ーい!」

 

 美月にも好評なようで、きゃいきゃいと笑っている。かくいう私も、ほとんど真正面で見てしまったせいで口元を手で隠して笑いを堪えるのに必死だ。私が肩を震わせている間に変顔から戻したバーフニュカさんは、私の様子に気が付いたのか数歩私に近づき、目線を合わせるように屈む。

 

「ノヴァちゃん、笑ってる?」

「……笑って、ないです」

 

 ……辛うじて。

 

 ウマ娘はみんな顔が良い。そしてバーフニュカさんは美人といわれるタイプの顔である。もし彼女について何も知らない状態で、今こうしているように近距離で目を合わせていれば、10人中8、9人くらいはしどろもどろになってもおかしくないだろう。

 

 だがしかし、私は先ほどの変顔を見てしまっているのだ。そのギャップがじわじわと私の腹筋へダメージを与えてくる。バーフニュカさんはすぐ何かしてくるということもなく、数秒ほど見つめあう。そして。

 

「んばぁ」

「ぶふっ」

 

 至近距離で再びしおくちゃ顔を見せたバーフニュカさんを見て、私は堪らず吹き出した。

 

「はい、勝ちー」

「2回は、反則じゃ、ないですか!?」

 

 腹筋の制御が利かず、蹲りながら抑え込んだ口からくつくつと笑い声が漏れる。

 

 私がそうしている間に、バーフニュカさんは両親と話し出した。

 

「美空さん、治明さん。お昼はノヴァちゃんたちと食べますか?」

「えぇ。食堂に行くつもりよ」

「私も一緒にいいですか!?」

 

 バーフニュカさんの耳がピンと伸びる。

 

「いいよ。バーフニュカ以外にいるかな?」

「はーい」

「私も行きまーす!」

「じゃあアタシもー」

 

 お父さんの呼びかけに数名ほどのウマ娘が手や声を挙げ、お昼は大所帯となることが決まった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 梅ごはんと、けんちん汁と、シューマイ。神奈川の郷土料理3点セットが今日の日替わり定食であり、私のお昼ご飯だ。湯気と共に立ち上るシューマイの匂いとしか呼べない独特なそれや出汁の香りが、朝ご飯を忘れていた胃袋を刺激する。

 

 

 ちなみに、恥ずかしながら今日の朝食をどうするのか全く考えていなかったのは私だけだった。お父さんお母さんと美月は朝出てくる前に食べて来て、両親のチームのウマ娘たちは、昨日のうちに寮の食堂に頼んで軽い朝食を作り置きしてもらっていたのだ。練習の手伝い中に思いきり腹を鳴らしたときは、穴を掘って埋まりたくてしょうがなかった。かわいいかわいい我が妹に会えるからと、我ながら浮かれすぎである。

 

「お姉ちゃん、それで足りるの?」

「あら。ノヴァ、その量で大丈夫?」

「もう2、3人前買ってこようか?」

「大丈夫だよ。今日は手伝いだけで、あんまり動いてないし」

 

 一緒に列に並んでいた美月とお母さんお父さんが、ヒト基準で大盛り程度の分量しかない(・・・・)私のトレイに乗った料理を見て心配してくる。

 

 ……美月はともかく、お父さんとお母さんはトレーナーなんだから、カロリー収支なんて見ただけでわかるでしょ。

 

 そんなことを言いたくもなるが、そこは親心ということだろう。テレビなんかでも、実家に帰ってきた子に山ほど料理を出す親を見たことがある。親とは、きっとそういうものなのだ。

 

 前世ではスタリオンステーション在籍時代は種付けしたらそれっきりであり、成績の悪さから追い出されて孫娘さんの牧場で繋養されていた時も、数年後には動物園の肉食獣たちの餌になっているかもしれない子供たちに情が移らないようにと顔を合わせることはしなかったので、私にはわからない心理である。

 

 それはそれとして。

 

 これでも券売機で売っている中では1番大盛りになるものを選んでいるのである。というのも、川崎の生徒や、川崎レース場で開催されるレースの出走ウマ娘は食べ放題の対象なので、必然的に食券を買うような層は基本的にヒトなのだ。

 

 未だに「夏バテかな」などとちょっと心配そうな家族をどうにか説得し、バーフニュカさんたちと合流して席に着く。

 

「いただきます」

 

 そうみんなで挨拶をして、食事を始める。さわやかな梅の香りと出汁の味わいが染みたごはんがとてもおいしい。

 

 もぐもぐぱくぱくと食べていると、机の向かい側左でサンマーメンをふうふうと冷ましていたバーフニュカさんが話しかけてくる。

 

「ねぇねぇ、ノヴァちゃん。私たちのトレーニングと、ノヴァちゃんのいる中央のトレーニングって、何か違いあった?」

 

 口の中にまるまるシューマイを入れた直後だったこともあり、手のひらをバーフニュカさんに向けて一旦待ってもらう。

 

「あっ、ごめんね」

 

 首を横に振って謝らなくていいと伝え、よく噛んでから飲み込む。

 

「そうですね。やっていることそのものはそんなに変わりませんけど、設備面は結構違いますね。まずコースの大きさが違いますし、坂路もプールもありませんし……」

「あー、小林に行かないと坂路はないね」

 

 ……あれ?

 

「……中央所属だとか、私言いました?」

 

 自己紹介でそんなこと言ったら、人によってはマウント取っていると解釈されかねないので言わなかったはずなのだが。今日トレセン学園のジャージを着てこなかったのも、ジャージで所属が分かるからである。

 

「美空さんから聞いたよ」

「お母さん?」

 

 じとーっとさせた目つきを、向かい側右のお母さんに送る。私の真正面でバーフニュカさんと私の話を聞いていた美月も、私の真似をしてお母さんを見ている。

 

「あの、私から言いふらしたわけではないのよ? 本当よ?」

「本当かなぁ」

「本当だから、ね?」

 

 お母さんは、私の中央合格後最初の仕事休みの日に横断幕を作って、近所一帯に「娘をよろしくお願いします」と走り回って宣伝しようとした人である。横断幕を持ってあとは外に出るだけというところで私に許可を取りに来たし、私が本気で「やめて」と言ったら残念そうにしたとは言えどもやめてくれたが、そういう人なのである。お父さんはもう少し常識的だけど、根っこが同じなのでお母さんのブレーキにはならない。雑談の話題として出していてもおかしくないのだ。

 

「まぁまぁ、ノヴァちゃん。美空さんが自分から言い出したわけじゃないのは本当だから」

「いや、まぁ、言いふらしたとまでは思ってないですよ? ぽろっと言っちゃったくらいはしてそうですけど」

「お父さん、娘からの信用が無いわ!」

「あはは、こればかりは擁護しづらいかな……。僕も他人のことは言えないし」

 

 よよよとお母さんがお父さんに縋りつく振りをする。お母さんもお父さんも娘のことになると箍が緩みがちだと、私と美月はよく知っていた。それを考慮してなお、私にはもったいないくらいに良い親だ。

 

 バーフニュカさんは話を続ける。

 

「実は、結構前に美空さんも治明さんも(すっご)く機嫌が良かった日があってね」

「そうそう、私たちの誰かがGI勝ったんじゃないかってくらいニコニコしてたんだよね」

 

 同席している両親のチームのウマ娘が、相槌を打った。

 

「その日が中央の合格発表の次の日で、ノヴァちゃんがちょうどそれくらいの歳だって私は知ってたから。それで試しに鎌かけてみたら、ぽろっと」

「やっぱり、ぽろっと言ってる……」

「あんな聞かれ方されたら、言っちゃうのよー!」

 

 もはや教え子たちの前で取り繕うこともしなくなったお母さんが、頭を抱える素振りを見せる。とは言えどもこれに関してだけは、お母さんは無罪と言って良いだろう。そもそも、本気で責めるつもりはない。

 

「こんなにあたふたしてる美空さん初めて見た……」

「ねー」

 

 私と美月にとってはいつも通りのお母さんだが、川崎のウマ娘たちにとっては見ることのない姿らしい。

 

「まあ、そんなわけでノヴァちゃんが中央の子だって私が教えたから、みんな中央がどんなことしてるのか、興味があるんだよね」

「えっ? いや、バーフニュカさん? 話広めたんですか?」

 

 咎めるように私はバーフニュカさんを見つめた。彼女はへらっとした身振りと態度で答える。

 

「まあまあ、うちのチームだけだから」

「そ、そうですか。……そうですか?」

「何はともあれ、一旦話は置いといて」

 

 バーフニュカさんが、何か箱状のものを持って横に除けるような仕草をした。

 

 ……なんだか丸め込まれているような。

 

 疑問を抱くも、それを差し込む余地なく彼女は話を続ける。

 

「今年の羽田盃と東京ダービーは中央の子に持って行かれたからさ。南関のウマ娘としては、3冠目まで譲りたくないんだよねー」

 

 そう軽い調子で呟いたバーフニュカさんの瞳の奥には、闘志の炎がぎらついている。前世の私には、4歳の夏までなかったもの。ギンシャリボーイ(あいつ)のような強者だけが持つ、息苦しい程の威圧感を伴う闘志だ。

 

 彼女は何かに気が付いたように自らの両頬を数回叩き、「ごめんね」と謝罪する。そこでようやく、私は私が気圧されていた(・・・・・・・・・)ことに気が付いた。まったく予想していなかったところで当てられたからか。我ながら情けない。

 

「そう言うわけで、中央の子の強さの秘密、ノヴァちゃんのお話から探ろうかなって思うんだよね」

「まだ入学して半年も経ってませんし、チーム所属でもないですよ……?」

 

 首を傾げ、言外にそれでもいいのかと伝える。はっきり言って、大したことは言えないのだ。

 

「それはわかった上でだよー」

「自分たちが気にもしてない当然のことが重要なことだってあるし、地方のトレセンにいる子なら誰でも、中央のお話は聞けるなら聞きたいから」

 

 他のウマ娘たちもバーフニュカさんの作った流れに乗る。承知の上でならば、私自身は話すこと自体は吝かではない。しかし。

 

「それなら良いですけど、その……」

「なぁに?」

 

 お母さんとお父さんに目線を向ける。私はよくても、家族は別だ。何か予定を入れているかもしれない。そう考えてこの後の予定を尋ねようとしたところで、私の様子から何を言うか察したらしいお父さんが素早く口を開いた。

 

「急ぎじゃない書類仕事がそこそこあるし、せっかくだからそっちを片付けるよ。お父さんたちのことは気にしなくていいから」

「美月もいい?」

「私も一緒にお話聞く!」

「じゃあ、そうしましょうか。ノヴァ、よろしくね」

「あっ、うん」

 

 目線を送っただけで、トントン拍子にこの後の予定が決まってしまった。

 

流石(さっすが)、うちのトレーナーさんたちは話が分かるぅ!」

「お父さんもお母さんも、美月も良いと言うなら、いくらでも話しますけど――」

 

 バーフニュカさんたちのテンションが上がっているところ悪いのだが、今この瞬間、何よりも重要なことがある。

 

「――ご飯冷めちゃうので、先に食べていいですか……?」

「あっ、ごめんね。……って、やばい! 麵ちょっと伸びてる!」

 

 慌てて麵を啜ったバーフニュカさんが「熱い!」と悲鳴を上げる。

 

「猫舌なのにサンマーメンなんて頼むからだよ」

「何やってんのさ、バーフニュカ」

 

 おっちょこちょいなバーフニュカさんに、他のウマ娘が笑いながら突っ込みを入れる。つい先ほど彼女が見せた威圧感との差があまりにも大きくて、なんだか可笑しく思えた。




川崎編については長くても次で終わる予定です。
書いてみないとわかりませんが、書いていてしっくりこなかったら次の話の冒頭にはトレセン学園に戻っています。


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第36話:小向で鍛えた最後の日

お待たせいたしました。


 光陰矢の如しとはよく言ったもので、2週間はあっという間に過ぎ去っていく。

 

 ストライドを伸ばすためにマーカーを使ったり。

 美月と一緒にイカになってインクの撃ちあいをしたり。

 ピッチを上げるためにミニフレキハードルを使ったり。

 美月と一緒に駅前のショッピングセンターにある水族館に行ったり。

 交流競走ではない地方の重賞のライブ曲練習に混ざったり。

 美月やバーフニュカさんたちと一緒にカラオケに行ったり。

 中央とは構造の異なる宮道式ゲートでゲート練習をしたり。

 美月の夏休みの宿題をバーフニュカさんたちと一緒に見たり。

 

 パッと思い出した分だけでも半分くらいは美月と一緒に遊んでいるが、そもそも美月に寂しい思いをさせないために来たのでこれで良いのだ。

 

 そんなこんなでお父さんお母さんが指導するチームの練習に参加して14日目、最終日を迎えた私は――。

 

「あれ? ノヴァちゃん、元気ないね?」

「お姉ちゃんの応援してる先輩が負けちゃったの」

「なるほどね」

 

 ――ちょっと凹んでいた。

 

 8月最初の開催で行われたラフィさんの昇級戦は、内枠から好位につけて4角から攻めるも4着。とは言えども、2着と3着、3着とラフィさんの着差はクビ差で、1着の子が抜けて強かったというべきだ。掲示板には入っているのだから、いずれ勝ち上がるだろう。

 

 だがしかし、いずれだ。目標としている菊花賞へラフィさんが出走するためには、ここは勝っておきたいところだったのだ。ここを勝って、8月中に2勝クラスも勝って3勝クラスに上がり、菊花賞のトライアルレースであるセントライト記念か神戸新聞杯で3着以内を確保する。ラフィさんにとっては、それが最も確実に菊花賞へ臨むことができるローテーションだった。

 

 もちろん、まだ可能性が潰えたわけではない。トライアルならフルゲートを超えないこともあるから、1勝クラスのままでも抽選無しで出走できることもあるし、トライアルまでにもう1勝できれば2勝クラスだから、抽選になっても望みはある。しかし、3勝クラスまで上がってしまう方が遥かに確実だ。

 

 当然、ラフィさんだってそれはわかっている。金曜の午後、レース場へ出発する前のラフィさんに電話した時の気合の入り方は、電話越しでも良くわかるほどのものだった。

 

 レースが終わり、間違いなく失意に沈んでいるラフィさんをどう元気づけようか。以前ラフィさんが未勝利戦で負けたときは、美月が私にしてくれることを思い出して、その勢いのままハグをして結果オーライだったのだ。しかし今回は、言葉だけで合宿先に戻っただろうラフィさんを励ます必要がある。どう言ったものか考えて、スマートフォンの画面の上で指が彷徨ううちに深夜になってしまい、結局は『お疲れさまでした』と、とてもではないが応援にならないようなメッセージを送っただけだった。

 

 ……どうやら私は、励ますことも満足にできない無能だったみたい。あっ、そもそも競走でも繁殖でも無能だったか。無能三冠だよ。前世じゃクラシックでも春と秋の古馬でも全戦あとちょっとで差し切られた準三冠馬だよ。無様だね。

 

「うわっ、俯いたまま笑い始めた」

「怖い怖い怖い」

「お姉ちゃん、たまーにこうなっちゃうの。こういう時はね」

 

 集合時間になるまでのつもりで練習バ場のベンチに腰掛けて、メッセージアプリの既読が付いただけのルーム画面を見つめていた。すると、腕を押し退けて美月が横向きに膝へ乗ってくる。3歳差とは言えど、膝に乗られると私が小さい分美月の方が目線が高い。

 

「どしたの、美月」

 

 美月は私の問いかけに直ぐには答えず、体を捻って私を抱きしめる。真夏とは言えどもまだ比較的涼しい朝だからか、私より少しだけ平熱が高い美月の体温を感じる。

 

「美月?」

「ぎゅーってして、私の元気分けてるの」

「……そっか。また心配させちゃってごめんね」

 

 スマートフォンをベンチに置き、美月を抱きしめる。

 

「ぎゅー。美月のおかげで、もうすっかり元気だよ。ありがとう」

「もっともっと元気上げる。ぎゅー」

「もう、美月がぎゅーってしたいだけでしょ? ぎゅー」

 

 ……美月は宇宙一かわいいなぁ!

 

 私はお父さんとお母さんから集合の掛け声があるまで、美月を甘やかし倒すことにした。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 お昼まで残り30分、午前中最後――私の川崎での練習の締めくくりに、バーフニュカさんの併走相手を務めることになった。

 

「ノヴァちゃん、よろしくー」

「よろしくお願いします、バーフニュカさん」

 

 併走前の挨拶を交わしてから、直線の外ラチに2つ設けられた入出場口のうち中央にある北側から、タイミングを見計らってコースに入る。そしてそのまま、1ハロン(200m)20秒のペースで右回りに走り出す。

 

 本格化を迎える前と後のウマ娘を併走させることなど、普通はない。アプリ風にいうのであれば、根性と賢さはともかく、スピード、スタミナ、そしてパワーに大きな差があり、お互いのためにならないのだ。

 

 では何故バーフニュカさんと併走することになったのか。

 

 答えは簡単で、バーフニュカさんがそう提案したからだ。朝のミーティングで私だけが単走の予定となっているのを目敏く見つけ、「私が2本走るから」と両親に申し出たのである。もちろん、バーフニュカさんに余計な負担が掛かるので断ろうとした。したのだが、「JDC(ジャパンダートクラシック)まではまだ時間があるから」、「坂路2、3本上るのとそこまで変わらないから」、「今日だけ、今日だけだから」と、バーフニュカさんに押し切られてしまったのである。

 

 お父さんもお母さんも「他で負荷は調整するから」と許可した以上、大丈夫なのだろうとわかってはいる。しかし、本来は予定に無かったメニューの追加だ。少しばかり心配である。

 

 ちらりと後ろを見ると、0.5秒後方にバーフニュカさんが着いて来ている。先に他のウマ娘と1本併走した後であるにもかかわらず、息の上がった様子もフォームの乱れもない。

 

 ……馬とウマ娘じゃ色々と違うし、余計な心配かな。

 

 杞憂だったかと少し安心したところで前を向いて走る。そしてぐるりと半周を回り、中山の外回りに近いおにぎり型コース、その向こう正面にある半マイル標識――右回りでのゴールを目印として、15-15(1ハロン15秒)まで加速した。今日どの程度のペースで走るのかは、お母さんから予め指示されている。

 

 左手側を並行するように流れる多摩川の方から湿気た風が吹き、舞い上がった砂塵が私の顔に付着した。不愉快なそれを袖で拭う。

 

 後ろを走るバーフニュカさんの気配が、まるで私を抜くタイミングを探るように左右に動いている。併走の前半で抜くとも思えないので、これはプレッシャーの掛け方の練習だろう。本気で抜こうとしているのではなく、先行する逃げウマ娘を刺激し、ペースを上げさせてスタミナを消費させるための動きだ。そうわかっていても、逃げ()の本能的に反応しかけてしまうが、それを理性で抑える。

 

「へぇ」

 

 時速にして凡そ50km、聴力が良い分風による雑音で聞こえにくいはずの、バーフニュカさんの感心したような声が聞こえた気がした。

 

 緩やかなカーブで構成され、向こう正面と一続きになった第1コーナー、その終わりにある最初のハロン棒を通過し、半径わずか70mの第2コーナーを抜ける。ホームストレッチ――ゴールが反対側にある右回りの週にそう呼んでいいのかわからないが、練習(調教)スタンドと呼ぶにはあまりにも簡素な小屋側の直線は350mある。しかし、バーフニュカさんは私をつつくばかりでまだ来ない。

 

 直線のほぼ終端にある残り3(ハロン)の標識を横目に、1F14秒まで加速する。音だけでの判断になるが、バーフニュカさんは既に1バ身差(後方0.2秒)まで迫っているだろう。

 

 半径80mの第3コーナーを抜けたら、残り2Fだ。ここからゴールまでの目標速度は、1F12秒である。現役競走馬や本格化を迎えたウマ娘としてはごく当たり前に出せる速度、しかし本格化を未だ迎えていない今の私では限界を超える必要のある速度に挑む。

 

 ……最終直線相当だけど、直線じゃない。東京の芝じゃない。レース本番じゃない。だから、大丈夫。大丈夫。大丈夫……。

 

 前は限界を超えようとして、脚が折れた。脚を庇って姿勢の崩れた私から鞍上が落ちて、下半身不随になった。でも、今はそうならない。万が一何かあっても、それで直接被害を受けるのは私だけだ。だから、必要なものは覚悟だけ。

 

 それに、この練習コースの向こう正面は半径350mと250mの複合カーブで構成されていて、直線区間がない。私自身を騙すにはちょうど良い、はずだ。

 

 ……いつまで経っても、怯えていたらダメだから……!

 

 300mの最終直線に入ろうかというところで、加速するために強く踏み込む。その瞬間に私の視界を大量の砂粒が覆った。

 

「ゔぶぇっ」

 

 そのまま口の中や目に飛び込んできた砂粒に怯み、失速する。

 

 ……キックバックか!

 

 コースを走る他のウマ娘たちが跳ね上げた砂だ。何が起きたのか理解し、袖で顔を拭い再加速したときには、もうバーフニュカさんは外を回って遥か前方にいた。差を縮めることができないまま、ゴールポストとして設定したハロン棒の横を駆け抜ける。

 

 ……最後流されても目算で8バ身差くらい、か。

 

 現在の地力の差を痛感する差だ。ため息をつき、脚を緩めながら再びコーナーを回る。前方を走っていたバーフニュカさんが減速し、私に並んだ。

 

「キックバック苦手?」

「そうですね。雨も降っていると嫌です」

「あぁ、やっぱり?」

 

 納得したようにバーフニュカさんが声を上げた。高い位置から真夏の日差しが降り注ぐ中、直線南側の入出場口から練習コースを出る。不完全燃焼な気持ちと汗で髪と砂粒が張り付いた不快感とで、あまり気分は良くない。

 

「にしても、今日で最後かぁ。ノヴァちゃん、川崎(うち)の子にならない?」

「そう言って頂けるのはうれしいですけど……」

「まぁ、ノヴァちゃんは芝向きだよね」

 

 ……ダート適性G、と言ったところかなぁ。

 

 両手を振っている美月に手を振り返しながら、そんなことを考える。自身の適性を再確認する併走だった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 小向練習場のシャワーを借りて汗と汚れを流し落とし、バーフニュカさんたちと別れの挨拶を交わして家に帰る。そして家族でだいぶ早い夕食を取り、また月末に帰ってくる約束をして寮へ戻った。それから寮室の鍵を開けようとして、それが既に解錠されていることに気が付く。部屋の中で、誰かが驚いたような物音がした。

 

 様子を窺うように扉を開くと、ラフィさんがタイキシャトルのビッグパカプチを抱えてベッドに腰掛けている。翠色の瞳は潤んでいて、目元は少しだけ赤く腫れていた。

 

「おかえりなさい、ノヴァさん」

 

 にっこりと微笑んでそう挨拶するラフィさんは、無理に感情を押し殺したような様子だ。おそらく、私が予想よりも早く帰ってきたのだろう。背に隠そうとしたと思わしき、少し濡れたタオルが隠し切れていない。

 

「……はい。ただいまです、ラフィさん」

 

 自分のベッドにリュックを下ろし、腰掛ける。考えなしの行動だ。どこかへ出かけて感情を吐き出させてあげるべきか、何か声をかけて励ますべきか。悩んでいる間にうっかり座ってしまった。

 

 ラフィさんがパカプチを横に置き、緊張感のある沈黙が部屋に満ちる。ピンと虚勢を張っていたのだろうラフィさんの耳が、へにょんと萎れ始める。

 

「……すみません」

 

 最初に口を開いたのは、ラフィさんだった。

 

「えっと、何がですか?」

「昨日も今日も、気を使わせてしまいましたよね」

 

 ラフィさんがぎゅうと両手を握りしめる。

 

「いえ、その、私の方こそ、あまり気の利いたこと言えなくて、すみません」

「いえいえ、とても気を使ってくれていましたよね? ありがとうございます」

「えっと、あの、……はい」

 

 ……はい、じゃないでしょ。

 

 それだけは、わかっている。だがしかし、何を言うべきか。私の()生経験ではわからなかった。前々世のヒトだった頃の記憶は破損が著しく、馬やウマ娘に関連していないことは自分の性別すら思い出せない。ある程度はっきりと思い出せる前世の27年間は辞書通りの意味合いで畜生だから、言葉を使う機会は皆無だ。言葉で人を励ます方法は、今世13年分だけの経験しかあてにならない。

 

 視線を自分の両膝へ落とし、どうするべきか思案する。沈黙で満たされた部屋の中には、廊下ではしゃいでいる生徒たちの声が入り込んでいた。

 

 そうして10秒か20秒か、30秒は超えていないだろう時間を費やして、1つの結論を導き出す。

 

 ……ハグをしよう。

 

 莫迦の一つ覚えだった。しかし、今朝のように塞ぎ込んでいる時の私、3か月少し前に未勝利戦で負けた時のラフィさん、ダービーを一緒に見に行った時のラフィさんと、少なくとも効果がある事はわかっている。

 

 意を決して面を上げ、口を開く。

 

「ラフィさん――」

「ノヴァさん――」

 

 ……被った。

 

「――えっと、ラフィさん、お先にどうぞ」

「――いえいえ、ノヴァさんこそお先にどうぞ」

「あっ、はい」

 

 ラフィさんの前へ歩みを進める。立っている私とベッドに腰掛けているラフィさん、いくら身長差があるとは言えども、今はラフィさんが私を見上げる形だ。私と少しだけ首を傾げたラフィさんとで見つめ合う。

 

「ちょ――」

 

 思いのほか大きな声が出たうえ、盛大に上ずった。ラフィさんの翠色の眼が丸く見開かれる。

 

 どうやら緊張しているらしい。そう自覚した途端に顔へ熱が上り、全身から汗が噴き出す。しかし黙っているわけにもいかず、私は手汗でしっとりとした両手を握り込んで言い直す。

 

「――ちょっと、立って貰って、いいですか」

 

 きょとんとしていたラフィさんは私の様子が可笑しかったのか、くすりと笑う。

 

「はい。いいですよ」

 

 そう答えて立ち上がったラフィさんは――そのまま、私を抱きしめた。

 

「な゛っ?」

 

 予想していなかった展開に変な声が出て、全力疾走直後のように心臓が早鐘を打つ。

 

 ふわふわと柔らかくて、陽だまりのように暖かい。前回までと違い屈んでもらうなどしなかった分、ラフィさんの首筋に鼻を埋める形になっているせいか、ほのかな柑橘系の香りと甘い匂いが鼻腔を満たしていく。

 

「あら? もしかして、違いましたか?」

「い、いえ。違わない、ですけど、なんで……」

「前もこうして貰いましたよね。あの時はちょっと驚いちゃいましたから、お返しです」

「そう、ですか」

 

 衝撃とそれに伴う混乱こそ抜けないものの、私は当初の予定通りに振る舞おうとラフィさんを抱きしめ返す。とは言えども、ラフィさんに上から抱きしめられているので、腰に腕を回すので精一杯だ。

 

「どう、ですか」

「暖かいです。とても」

 

 そう言ったきり、ラフィさんは再び黙り込んだ。ときどきラフィさんが私の髪に手櫛を入れたり、お互いより収まりが良くなるよう抱き締め直したり、そんなことをして10分ほどが経過しただろうか。ラフィさんが1度、大きく深呼吸をする。

 

「ありがとうございました」

 

 その一言と共にラフィさんが腕を解いた。惜しむ気持ちはあるが、それに合わせて私もラフィさんを放す。

 

「まだ芽があるのに、落ち込んでばかりではダメですよね」

 

 ゆるゆると首を横に振り、ラフィさんはそう独り言ちる。

 

「明日からまた――っと、明日はトレーナーさんから休むよう言われていました。明日もう1日お休みして、また頑張ります」

「新幹線のチケット、予約しておきます」

「ノヴァさんの期待に応えないとですね」

 

 吹っ切れたのか、ラフィさんはにっこりと笑っている。

 

 ……元気になってくれて良かった。

 

 ラフィさんの笑顔を見て安堵した私は、ふと先ほど2人の声が被ったことを思い出す。

 

「そう言えば、さっきラフィさんは何を言おうと思っていたんですか?」

「あのまま黙っているのはどうかと思って、お風呂に誘うつもりだったんです。少しは気分も晴れますから」

「なら、今から行きませんか?」

「そうですね。一緒に入るのも久しぶりです」

 

 2週間ぶりに寮に戻って来たのだから、ラフィさんと一緒のお風呂も当然2週間ぶりである。1学期の間ずっと一緒に過ごしてきて少しは慣れてきていたはずなのに、脳裏にラフィさんの艶やかな姿が過った。

 

 ……これは、またダメになってるかも。

 

 少々浮足立った心地のまま準備を進め、私はラフィさんと一緒に浴場へと向かった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 この時はまだ、あんなことになるだなんて思ってもいなかった。




小向トレセンの練習馬場が実際にどう使われているのか調べるのに時間を要しました。
何か違いがありましたら是非ともご指摘ください。



2023/3/5 23:50
ノヴァが寮へ戻ってきて以降の展開を修正いたしました


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第37話:急変

4か月以上お待たせし、申し訳ございませんでした。


 翌朝――8月最初の月曜日、いつも通り保険としてセットしたアラームが鳴る前に目が覚めた私は、しかしいつも通りではない光景を見ることになった。

 

 普段なら目覚ましが鳴るか私が起こすまで無防備に眠っているラフィさんが、すでに起きていたのだ。まだ目覚めたばかりなのか、右手に体重を半ば預けて横座りになったラフィさんの腰から下を、夏用のダウンケットが覆っている。

 

 ……やはりラフィさんは女神様。ただ座っているだけでも華があるなぁ。

 

 などと2週間ぶりにラフィさんの美しさを礼賛しようとして、些細な違和感を覚える。その正体を探ろうとよくよくラフィさんの様子を見て、私はようやく気が付いた。日の出前かつ照明も点けていないために見えにくいが、首を傾げたラフィさんのウマ耳が何かに耐えるように後方へ絞られているのだ。

 

「ラフィさん、どうかしたんですか?」

 

 むくりと起き上がった私は、挨拶をするよりも前にラフィさんに体調を尋ねた。するとラフィさんは、みぞおちの辺りを押さえて答える。

 

「……少し、胃が良くないみたいで。自分で思っていたよりもストレスだったみたいです」

 

 ラフィさんはそう言って、自嘲するように笑う。しかし私にとっては笑い事ではなく、頭から血の気が一気に引いていった。()にとって胃腸の不調は、以前私が騒ぎを起こしたしゃっくりとは比べ物にならないほど危険なことがあるのだ。

 

 ベッドを飛び出て、ラフィさんに詰め寄る。

 

「いつからですか!?」

「えっと、ですね……」

 

 ラフィさんの眼が泳いだ。

 

「正直に答えてください」

「昨晩から、です……」

 

 昨晩。昨晩と言ったか。しかし昨晩の時点では耳を引き絞るようなことはしていなかった。痛みが増しているということだ。

 

「どうして何ともない振りしたんですか!?」

「すぐ治ると思っていましたし、またノヴァさんを心配させるのも悪いので……」

 

 以前の『しゃっくりで救急車要請未遂騒動』が、悪い方向に働いている。

 

「どうしますか? 保健室行きますか? いえ、病院行きましょうか。寮長に電話して、救急車呼んでもらいますね?」

「大丈夫、大丈夫ですから。スマホを放してください。ね?」

 

 ラフィさんは苦笑し、広げた両手でまあまあと抑えるような身振りを交えて私を落ち着かせようとする。

 

「ちゃんとお薬を飲んで休めば治ると思いますから。朝練も今日はお休みします。どうですか?」

 

 私としては、今すぐにでも病院に行って欲しい状況だ。しかし、ラフィさんの意思を尊重したいという気持ちもあり、板挟みにむむむと唸る。

 

「これ以上悪くなるようなら、保健室に行きますから」

「……わかりました」

 

 渋々とラフィさんの主張を受け入れる。心配の種は残ったままであるが、以前のように迷惑をかけるわけにもいかない。

 

「でも、ラフィさんがちゃんと眠れるまで、私も朝練を休んで見守らせてもらいます。良いですよね?」

「良いですよ。もう、本当にノヴァさんは心配性ですね」

 

 そう言って、ラフィさんは笑う。

 

 いつも私の心を蕩かせるその笑み。しかし今だけは、一抹の不安を取り除いてくれなかった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 結局のところ、ラフィさんは一睡も出来なかった。少なくとも、私はそう判断した。

 

 ラフィさんが穏やかな寝息を立てることなく、布団の中でもそもそ(・・・・)と胃の痛みの少ない角度を見つけようとしているのだろう様を、私は寮の朝食の時間を迎えるまで見届けることになった。

 

 朝ご飯だって、今日のラフィさんは好物であるクロワッサンをたったの半分しか食べなかった。普段なら、クロワッサンを1ダースと日替わりメニューを食べているのだ。いくらラフィさんが「大丈夫です」と主張しても、心配が増していくばかりである。

 

 ……やっぱり、朝ご飯の後でせめて保健室には無理やりにでも連れて行った方が良かったかなぁ。

 

「――ゃん。ノヴァちゃん?」

「えっ? あっ、はい。何ですか?」

 

 ランさんの呼びかけで我に返り、出口もなく渦を巻いていた思考から抜け出す。辺りを見渡すと、勉強会の面々が心配そうに私の様子をうかがっていた。

 

 ……そうだった。今日は勉強会の皆で、夏休みの宿題を一緒に片付ける約束だった。

 

 大量の蔵書を保管している図書室特有の、古書の匂いがする。夏休み期間中でも開放されており空調も効いているので、自由研究も含めた勉強をするには最適だ。そう考えて、今日の勉強会の場所をここに決めたのは、2週間と少し前――実家に一時戻る前の私だった。

 

「ため息ついて手止まってたから、どうしたのかなって」

「……ラフィさんの体調が良くなくて、どうにも心配で」

 

 しかし、彼女たちには関係のないことだ。私は今この場では教える側なのだから、散漫とした態度を見せることはよろしくない。そう思い直し、気持ちを切り替えるように頭を横に振る。

 

「すみません。集中しないとダメでしたね」

「前みたいに心配し過ぎとかじゃないよね?」

 

 首を傾げたランさんが問う。例の騒動で、私には『心配症を通り過ぎた心配性』というイメージが付いている。不本意ではあるが、ランさんの疑問は当然出てくるものだ。

 

「朝練ができないくらい胃が痛いみたいで」

「んー、そこまでだと心配だね」

「はい……」

 

 ランさんが眉をひそめる。

 

 本音を言えば、勉強会を投げ出してでもラフィさんの看病をしたい。しかしこの勉強会は私が実家に2週間戻る前から決まっていたものだし、当のラフィさんが「約束を破ってまで看病していただく必要はありませんから」と固辞したのだ。

 

 思わずまた1つ、ため息が出た。そんな私の様子を見かねたのか、エレジーさんが1つ提案をしてくる。

 

「ねぇ、ノヴァちゃん。お昼はご飯より先にぃ、先輩の様子見てきたらぁ? 落ち着いて食べられないでしょ?」

「そだよ、先生。先輩もきっと心寂しいよ」

 

 アクアフォールさんがうんうんと首を縦に振る。明るい栗毛の三つ編みが揺れていた。

 

「そうだ! どうせなら、お粥持って行ってあげたら?」

「名案だね、メロン。カフェテリアまで歩いてお昼食べるのも大変だろうし」

「そうでしょ、レーちゃん」

 

 スレーインさんに褒められたエフェメロンさんが、ふふんと平らかな胸を張る。

 

 ……気を使わせているなぁ。

 

 申し訳ないと思うも、心配で集中できていないことは紛れもない事実だ。

 

「では、お言葉に甘えて。お昼は少し別行動させてもらいます」

「あっ、ノヴァちゃん。お粥持ってくなら私も手伝おうか? お盆持ったままドアとか開けるの大変でしょ?」

「……そうですね。お願いします、ランさん」

「任せて。あと、ラフィ先輩に伝えておいたら?」

「はい」

 

 スマートフォンのメッセージアプリで、お粥を持って行く旨を書き残す。

 

 ……何はともあれ、今は集中しないと。

 

「ところでノヴァちゃん。この問題の答え、どうしてこうなるの?」

「どれですか? ……ああ、これはですね」

 

 どうにか気持ちを切り替えて、どうやらタイミングを見計らっていたらしいアクアフォールさんの質問に答える。

 

 心の奥底には、ちりちりとした焦燥感のような何かが残っている。お昼になっても、既読はついていなかった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 お昼を迎えた私たちは1度カフェテリアへ向かい、職員の方に事情を話す。急なお願いにもかかわらず、職員の方はレトルトのお粥と少しの漬物を用意し、さらにそれらを運ぶための出前箱を貸してくれた。

 

 ありがとうございますと頭を下げ、エレジーさんたちには先にお昼を食べてもらうようお願いして、ランさんと一緒に寮へ向かう。

 

 朝は遠くに浮かんでいた入道雲が黒く変色し、学園に迫っている。すぐにでも一雨あるだろう。

 

「道具も貸してもらえましたし、ランさんは先に食べていて良かったんですよ?」

「ノヴァちゃん1人だと、何かあった時に大変でしょ?」

「それは――」

 

 例の騒動では、実際に救急車が呼ばれることはなかった。

 

 ……頭が真っ白になって、救急車の番号すら出てこなかったから。

 

 痛恨の極みである。それを考えると、ランさんが一緒にいると心強いことは事実だった。

 

「――そうかもしれませんけど……」

「でしょー?」

 

 そのような調子でランさんの話に答えながら、校門を出て片側1車線の道路を横切る。するとすぐに寮の敷地だ。私とラフィさんの居室は北棟――学園側にある寮の正門を通ってすぐの棟である。

 

 寮の玄関をくぐり、階段前に来たところでランさんがつぶやく。

 

「体力的には全然だけど、階段上ったり下りたりするの面倒だよね……。いっそ坂にしてくれた方が速そう」

「こんな勾配の坂じゃ、雨の日危ないですよ……」

「そこは、ほら。大きな駐車場みたいな坂作って」

「そこまでやったら階段の方が速くありませんか?」

「……そうかも」

 

 ランさんは、他愛もない話を普段以上に矢継ぎ早に振ってきている。

 

 ……だいぶ、気を使わせているなぁ。

 

 私が余計なことを考えないように、という配慮だろう。前世の件もあり、本当に頭が上がらない。

 

 今度何かお礼をしないといけないな。話しながらそう決意した頃合いで、自室にたどり着いた。

 

 寝汗を拭うために脱いでいるかもしれないので、念のためノックとともに声をかける。

 

「ただいまです、ラフィさん。お粥持ってきました」

「先輩、調子如何ですか?」

 

 返ってこない。何も。

 

「……ラフィさん?」

 

 もう一度、ノックをして呼びかける。

 

 答えがない。

 

「落ち着いて、ノヴァちゃん。寝てるかもしれないから」

「……そう、そうですね。そうですよね」

 

 声の震えを押さえつけながら、「入りますね」と一声かけて扉を開いて――。

 

「――えっ?」

 

 倒れている。ラフィさんが。お腹を――お腹の右下を押さえて。

 

 ガシャンと何かが落ちる音がして、止まっていた思考回路が再び回り出す。

 

「ラフィさん!?」

 

 今まで出したことのないような、悲鳴に似た声と共にラフィさんに駆け寄る。強い痛みに耐えるような浅い呼吸と、時折漏れるうめき声。

 

「……ノヴァ、さん?」

 

 掠れたような弱弱しい声だ。

 

「今起こします!」

「すみません……。冷蔵庫の水、取ろうとしたら、急に、目の前、真っ暗になって……」

 

 抱えたラフィさんの体は尋常ではない高熱を出しており、全身から脂汗を掻いている。

 

 知っている。私は、この状態に近いヒトを見たことがある。オーナーさんがすい臓がん闘病末期の終末期ケアで牧場に返ってきたあと、モルヒネが効かなくなってきたとき。それと、秋天で私が足を折った拍子に背中から落ちた鞍上が、脊椎骨折の痛みに耐えているとき。

 

 命に係わりうる状態だと、直感が訴えかける。

 

「救急車! 救急車、呼ばなきゃ……!」

「ノヴァちゃん! 私が寮長に電話するから、そのままラフィ先輩抱えてて!」

「でも、先に救急車――」

「私とノヴァちゃんだけじゃ、担架で運べないから!」

 

 ランさんはそうぴしゃりと言い放ち、電話をかける。

 

 ヒシアマゾン寮長と応援の子が来て、緊急時の連絡網に従って保健室の先生やアダラのトレーナーたちが来て、空がすっかり黒い雲に覆われた頃に救急車が来て、大雨が降る中ラフィさんが搬送されて。

 

 私はずっと、役立たずだった。




少々描写が散文的なようにも思われますので、余裕があるときに加筆いたします。

皐月賞は、気が付いたら書いている間に終わっていました。


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第38話:運命の神がいるならば

お待たせいたしました。


 1時間近く水のカーテンが流れていた寮の食堂の大きな窓、その水幕が所々切れてきた。バケツをひっくり返したような激しい雨の音も、少しずつ弱まっている。

 

 救急搬送されるラフィさんと同乗した紗雪さん(アダラのサブトレーナー)の出発を見届けた後、少々時間がかかったものの、私はわずかながら気力を取り戻した。どうにか動けるようになった私は、体調を崩した場合に備えて図書室から食堂の片隅へ移動することにこそなったものの、勉強会の面々と宿題の続きをしていた。ランさんたちは「今日はもうやめようか」と言ってくれていたが、私が「約束は守らないといけないから」と無理を言って強行した形だ。

 

 もちろん、許されるならラフィさんについて行きたかった。しかし私とラフィさんの関係は、客観的にはたまたま同室になっただけの先輩と後輩だ。故に、救急車が来たその場にチームの大人がいる以上、私が救急車に同乗するなんてことがあるはずもない。

 

 そして、ラフィさんが搬送された今、私にできることは何もないのだ。私に何かできたとするならば、ラフィさんが倒れていたあの瞬間だけだ。けれども、私は無様に狼狽するばかりで何もできなかった。

 

 ……いけない。集中しないと。

 

 油断すると、後悔と自己嫌悪のループに陥る。それでラフィさんの状態が良くなるならいくらでもするが、そうでない以上は普段通りに振る舞う必要がある。だから、私自身に何か考える時間を与えないように、宿題の1つである数学の問題集を解き進めていく。

 

 しかし、誰かにトントンと右肩を叩かれる感覚がして現実に引き戻された。右の方を向こうとして、頬に指が突き刺さる。

 

(いっ)

「やっほ、ノヴァちゃん」

「……リツさん?」

 

 そこにいたのは、ジャージ姿のリツさんだ。雨の中アダラの部室から移動してきたのか、少し濡れている。アダラのウマ娘は、土曜日に出走したラフィさん以外は今日も練習であるはずだった。

 

 シャーペンを置いて、リツさんの方へ体ごと向く。

 

「今日はトレーニングの予定だって聞きましたけど」

「雨降って来ちゃってたし、ラフィのこともあるからさ。今日は休みになったんだよ」

 

 重馬場の練習したかったんだけどなぁ、とリツさんはこぼす。

 

「……すみません」

「いやぁ、ノヴァちゃんにはどうしようもないでしょ? あれは」

「でも、10時ごろに様子を見に行っていれば、何か違ったかもしれません」

「んー。まあ、そうかもね。ラフィは変に我慢するし」

 

 リツさんの言葉で、ラフィさんと一緒にダービーを観戦した時を思い出す。あの時も、いつもと様子が違うと明確に気が付いたのは、ダービーのパドックが始まってからだった。

 

「ま、終わったことをいつまでもくよくよしててもしょうがないよ。ラフィはもう病院に着いて診察受けてるらしいし、あとはお医者さんに任せよう」

 

 その言葉を聞いて、荒れていた気持ちがほんの少しだけ落ち着いた様な気がした。診察を受けていると紗雪さんが連絡できる程度には、ラフィさんの容態が安定しているのだろう。

 

 私の変化を感じ取ったのか、リツさんがほっとしたように小さく息を吐いた。

 

「それより、周り見てみなよ」

「周り……?」

 

 さっきまで向かっていた宿題――そこから目線を上げると、私の様子を探るようなランさんたちの視線がさっと逸らされた。

 

い、(イ、)いやぁ、(イヤー、)この問題は簡単だねぇ(コノモンダイハカンタンダネー)

せ、先生がいいからねー。(セ、センセイガイイカラネー。)エレジーちゃん(エレジーチャン)

そうそう、そうだねぇ。(ソウソウ、ソウダネー。)ランちゃん(ランチャン)

 

 どうやら私はリツさんに指摘されるまで、ランさんたちに心配をかけさせていたことに気が付いていなかったらしい。13年(今世)27年(前世)何年か(前々世)を生きているのに、情けない話だ。それにしても。

 

 ……誤魔化し方下手くそ選手権でも開催してるのかな?

 

 リツさんは私たちの様子を見て、思わずといった調子で吹き出した。

 

「みんなの分も一緒にお茶淹れてくるからさ。いったん休憩したら?」

「先輩、私が淹れてきます」

「いいよ、いいよ。部室からパクって来たお茶淹れるから、私がやる」

 

 スレーインさんの申し出を断って、リツさんは広い食堂のあちこちに置いてあるドリンクバーコーナーの1つへ向かっていった。

 

 リツさんがいなくなった場には、沈黙が漂っている。先鋒となったのは、やはりと言うべきかランさんだった。

 

「ノヴァちゃん、ちょっと落ち着いた?」

「まぁ、そうですね。すみませんでした」

「まぁ、まぁ、仲の良い子が倒れたら慌てちゃう気持ちはわかるしー」

 

 エフェメロンさんが私をフォローするようなことを言う。

 

「そういえば先生」

「なんですか?」

「先生のやってるとこ、多分2学期の終わりくらいにやる場所(とこ)じゃない?」

「えっ」

 

 アクアフォールさんの指摘で問題集を見返すと、確かにだいぶ先の単元だった。

 

「わっ、本当(ほんと)だ」

「出来る人は違うねぇ」

「でも、小学校の時塾行ってた子はこれくらい先の内容やってたような気がする」

「つまり、先生は塾の先生だった?」

「禁断の愛ってこと……!?」

 

 ランさん、エレジーさん、アクアフォールさん、スレーインさんまでの話の繋がりはまだわかるのだが、エフェメロンさんが話を明後日の方へと飛ばした。

 

「少女漫画の読み過ぎじゃないですか……?」

「ノヴァちゃんは優しくてイケメンでちょっと年上の男の人に興味ないの!?」

「別に……」

「担当のトレーナーさんとゴールインは!?」

「性別問わず中高生に手を出すのは、ただのヤバい人でしょうに……」

(うっそー)!?」

 

 エフェメロンさんの冗談――冗談ですよね?――を切っ掛けとして騒いでいる間に、リツさんがお茶を載せたお盆片手に戻ってくる。

 

「お茶淹れてきたよー」

「ありがとうございます、リツさん」

「どういたしまして」

 

 ことりと小さな音を立てて、ティーカップが置かれる。ふわりと何かの花の香りが鼻腔をくすぐる。お盆に入りきらなくなるからか、下に置く小皿(ソーサー)はなしだ。

 

 リツさんの淹れてきた淡い褐色のお茶は、匂いと色の濃さからして紅茶ではないだろう。どこかで嗅いだことのある匂いだとは思うが、花には詳しくないので思い出せない。それでも、これはおそらく。

 

「ハーブティー、ですか?」

「おっ、正解(せいかーい)。ラフィが部室で時々飲んでるラベンダーだよ」

「ラフィさんが……」

 

 ハーブティーを飲むことがあるなんて、知らなかった。私は、ラフィさんについて何も知らないのだ。異変に気が付けるはずもなかった、ということだろうか。

 

「あー、ほら。ラフィだったら、ノヴァちゃんが落ち込んだままでいるよりは、戻ってきたらお茶仲間が増えてる方が嬉しいと思うからさ。とりあえず飲んでみなよ」

「……はい」

 

 カップを顔に近づけていく。ふわりと香るラベンダーの匂い。一口含んでも特に渋さは感じず、飲み込めば舌に爽やかさのある後味が残る。

 

「結構好きですね、この感じ」

「えぇ、本当? パック開けた瞬間、むせるくらい匂いが濃かったんだけど」

 

 リツさんがラベンダーティーに口をつけ、しかめっ面をした。

 

「うーん、私は好みじゃないなー。途中で色変わっちゃったし、何か失敗したのかな?」

「色変わったんですか?」

「うん。淹れ始めは綺麗な青緑色だったんだよね。こっち持ってくる間にこうなっちゃった」

「何ででしょうね? リンゴみたいに酸化されるんでしょうか……?」

「さぁ……?」

 

 ランさんたちも飲むが、評価は半々と言ったところだ。

 

「紅茶の方が好きかなぁ」

「私は好きかも」

「ママが、ラベンダーは人を選ぶって言ってたような」

「そうなの? レーちゃん」

 

 そうして盛り上がったお茶の話が一通り終わった後、おそらく私の様子を見るためにそのまま居座ったリツさんも一緒になって勉強会は続いた。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 数時間後、そろそろ夕飯も近いので解散しようというタイミングで、リツさんのスマートフォンから通知音が鳴る。その通知を目に入れたリツさんが、「あっ」と声を上げた。

 

「ラフィの診察結果出たよ」

「どうですか!?」

「急性虫垂炎? だって」

 

 さっと血の気が引いていく感覚がする。虫垂――つまり消化器系の病気だ。競走馬の内科系疾患では最も危険な部類である。少しだけふらついて、直後に支えられる。

 

「大丈夫?」

「……大丈夫、です」

 

 ランさんだ。左隣に座っていた彼女が手を差し伸べてくれていたようだ。また迷惑をかけてしまったなと、自責の念に駆られる。

 

 そうしている間に、アプリを開いて詳細を確認していたらしいリツさんが顔をしかめた。少なくとも、良い報告ではないだろう。

 

「ラフィさんに、何か、あったんですか?」

 

 自分の声は、思っていたよりも震えていた。

 

 私の様子を見たリツさんは少し悩むそぶりを見せた後、「隠してもしょうがないか」と口を開いた。

 

「手術するみたい」

「……手術?」

 

 ただオウム返しにすることしかできない。

 

「うん。だから、その……」

 

 言い淀むリツさんに、視線で続きを保たす。

 

「年内には、復帰できないだろうって」

 

 ……どうして、ラフィさんが辛い目に合わなきゃいけないの?

 

 私が前世の報いを受けるのであれば納得だ。負けて腐って1年を無駄にした結果オーナーへ勝利を届ける機会を失い、脚を折った時に保身を優先して鞍上の未来を断ち、悲惨な繁殖成績で関係者の期待を裏切り、自分で死ぬ勇気がなかったせいで孫娘さんの牧場に負担をかけて、競走で結果を残せず馬肉になるほかなくなる子供たちを作り続け、前世のランさんをはじめとした故郷の牧場にいる繁殖牝馬の貴重な機会を奪い続けた。

 

 けれど、ラフィさんは前世の記憶なんてないごく普通のウマ娘で、思うように行かなくても腐らず一生懸命に頑張れる強い心があって、負け続きの時期ですら新入生の私に気を配れる優しさがあって、私の知る限り誰とでも仲良くなれる才能がある、非の打ちどころのない女神様なのだ。

 

 ……どうして。

 

 ぐるぐると思考がループし続け、しかし1つだけ確信できることがある。

 

 運命の神がいるならば、やはりそいつは何が何でも蹴り飛ばさなければならない、私に匹敵するろくでなしだ。




ラベンダーティーを実際に飲んでみてから当該部分を書きました。初心者には厳しいかと思っていましたが、意外と良いものでした。


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第39話:手術が始まるまで

最悪いつまでと言っておきながら1週間延ばして申し訳ございませんでした。


 どうにか自力で動揺から抜け出した後で、まず最初に私がとった行動――それは、ラフィさんの病状がどれほど重いのか確認をとることだった。

 

「あの、リツさん」

(なぁに)?」

「ラフィさんの病気って、どれくらい重いんですか?」

「えっと……」

 

 リツさんがスマートフォンの画面に視線を向ける。

 

「……そこまで書いてないね。でも手術するってことは、重いんじゃないの?」

「それはそうですけど。でも、虫垂炎の手術って、たぶんそんなに大きく切らないですよね?」

「そうなの?」

「たぶんですけど。なので今年はもう走れないなんて、少し納得できなくて」

 

 虫垂は右下腹部の盲腸にぶら下がっている小さな器官だ。いくら開腹手術とは言えども、そこまで大きく切るとは思えない。傷口が小さいなら、体への負担は比較的抑えられるはずである。

 

 それに、いつまで経ってもウマ娘に獣医学を適用しようとする私ではない。診察結果を聞いた瞬間に狼狽してしまったが、消化器系の病気が致命的だというのはあくまでも前世における競走馬の話だ。ヒトではなくとも人間ではあるウマ娘ならば、現代の医学でどうにかならないのかと考えることは自然だろう。

 

「なるほどねぇ。トレーナーさんに聞いてみよっか?」

「お願いします」

 

 リツさんがスマートフォンを操作し始めたところで、自分に向けられている数対の視線に気が付く。勉強会の面々だ。

 

「あっ、すみません。まだ勉強会の途中でしたね」

「いや、それは別にいいよ。て言うか。先生具合悪そうだし、今日はもう終わる?」

「そーだね。もうすぐ夕飯だし、丁度いい時間だし」

「よし、片づけちゃおう」

「んにゃあっ、ふぃ。疲れたぁ」

 

 スレーインさん、エフェメロンさん、アクアフォールさんが示し合わせたように話を進め、エレジーさんは話に便乗するようにわざとらしく伸びをした。今日はもう解散の流れだ。私自身もうそろそろ時間だとは思っていたが、気を使わせてしまったようで少々申し訳ない気持ちである。

 

「……すみません」

「いやいやぁ。もうお腹すいたしぃ、ノヴァちゃんが具合悪くなくてもぉ、もう終わりだったよぉ」

「そうそう。メロンなんて集中切れちゃって、さっきからずっとシャーペンでノート叩いてるだけだったし」

「レーちゃんだって、ずーっとあくびばっかりしてたでしょ!」

「2人とも落ち着きなって。目立つから」

 

 ……今日は一日、気を使われてばかりだな。

 

 いつもの勉強会では集中力が持たないことも考えて適宜休憩を取っていたし、散漫とした様子が見えてきたら少し早めに休憩にしていた。しかし、今日はそこまで頭が回らなかった。教える側としては、これはよろしくないだろう。

 

「……すみません。いつもより休憩少なかったですよね」

「えっ、あっ、いや、そういうつもりで言ったわけじゃないんだけど……」

「レーちゃんさー」

「メロンだって乗って来たじゃない!」

 

 こうして話している間にも、エレジーさんはささっと机の上を片付けていた。ここにいる中では彼女1人だけが栗東寮の寮生なので、夕飯時に備えて席を空けようという配慮だろう。そうして彼女自身の荷物がまとめ終わるや否や、エレジーさんは立ち上がる。

 

「もう席空けないとだしぃ、じゃあねぇ、みんなぁ」

「ちょっと待って」

 

 エレジーさんの挨拶を遮り、ずっと沈黙を保っていたランさんが声を上げた。

 

「次の勉強会なんだけど、ノヴァちゃんが余裕取り戻してからの方がいいと思うの。どうかな?」

「えっ?」

 

 思わず声が出てしまった。

 

「あー、そだね。今のままだと先生の負担になっちゃいそうだし」

「それもそうね」

「リツ先輩は、どう思いますか?」

 

 アクアフォールさんが、質問の送信が終わって私たちを見ていたらしいリツさんに話を振る。「うーん」と少し考えるような素振りを見せてから、リツさんは口を開く。

 

「ノヴァちゃん次第じゃない? 落ち込んでいるときだからこそ気晴らしに何かしたい子もいるし、反対に何もせずゆっくり休んで気力回復させてくる子もいるし」

「何とも言えない感じぃ」

「いやぁ、そうなんだよね。エレジーちゃん。アダラ(うち)の先輩がどうしてるか考えたんだけど、こういうときにすることが真逆でさ」

 

 少しげんなりしたような顔をして、リツさんが話を続ける。

 

「トモエはああ見えて全員引きずり回して何かしたがるから、宝塚記念の後まるまる一日カラオケに付き合ったし。反対にローズは、『何事もありません』見たいな顔しといて、トレーニングすっぽかして1週間くらい部屋から出てこなくなるんだよね」

 

 ランさんの耳がピンと伸びる。

 

「えっ。ローズ先輩すごく真面目そうなのに、意外です」

「でしょ? 午前中の授業だけはちゃんと出てくるらしいんだけどね」

 

 話を横から聞いていて、ふと1つ思い出したことがある。

 

「あれ、水着買いに行ったときって……」

「そう。安田記念負けた後、部屋の外に出てきたところ見たのはあの日が初めて」

「えぇ……」

「でも、ちゃんと楽しんでたでしょ」

「はい」

「だから、こういうのは人それぞれってこと」

 

 私だけではなく、勉強会の面々にも聞かせるように、リツさんは普段より少しゆっくりとそう言った。

 

 ……こういうときは先輩らしい面見せるんだなぁ。

 

 意外なことだ。何せ普段は、後輩であるフユさんやネルさんからも弄られるアダラのマスコット枠だ。ご飯と勉強が絡まなければ、リツさんも立派な先輩と言うことだろう。

 

「それで、ノヴァちゃんはどうしたい?」

 

 考える。できれば、私の都合で予定に穴を開けるということはしたくない。しかし、ラフィさんのことで頭がいっぱいで集中できないこともまた事実だ。故に。

 

「とりあえず、明日と明後日だけ、勉強会はお休みにさせてもらっていいですか? 明々後日からはまたする予定でお願いします」

「ノヴァちゃんがいいなら、それで」

「わかったぁ」

「おっけー」

「するか。自習」

「出来るならそもそも参加してない気がする」

「……確かに」

 

 スレーインさんとアクアフォールさんが何やら遠くを見ている。

 

 そのまま今日は解散となり、エレジーさんは栗東寮へと帰っていった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 解散したは良いものの、エレジーさん以外は美浦寮所属なので、結局夕飯は一緒に食べることになる。いまいち食欲が湧いてこないものの、少し心配そうに様子をうかがってくるランさんたちを安心させるためにも、今日の夕飯であるカレーを胃袋に詰め込んでいく。そしてそろそろ食べ終わろうかと言うところで、リツさんが通知音を鳴らしたスマートフォンを見て声を上げた。

 

「あっ、トレーナーさんから返信来たよ」

「どうですか?」

 

 ガタリと、背後で音が立つ。少し驚いて後ろを見ると、それは私が無意識に立ち上がって動いた椅子の音だった。

 

「まあまあ、落ち着いて、落ち着いて」

 

 リツさんに保たされるまま、椅子に腰を下ろす。

 

 アプリを開いたリツさんが、「うへぇ、長い」と独り言を漏らした。

 

「んっとね。まず、病気自体は重いけど最悪じゃないみたい。虫垂ってところが破裂寸前まで腫れちゃってるけど、破れてはいない。だから急いで手術すれば、何か悪いことが残ったりはしないだろうって」

「良かった――いえ、すみません。そもそも病気になってるんですから、良くはないですね」

 

 後遺症は残らないと聞いて思わず安堵してしまったが、今もラフィさんは苦しんでいる。それに手術が終わっても、秋の大目標どころか年内復帰すらできない見込みである以上、ラフィさんの苦しみは続いてしまうのだから。

 

「まぁ、何も残らないっぽいのは良いことだし、言いたいことはわかるよ。で、今年走れない理由はね」

 

 リツさんが再度スマートフォンの画面を見る。

 

「えーっとね、病院の都合で開腹手術っていう体の負担が大きい手術をするんだって。で、ウマ娘って手術するために筋肉切っちゃうと、元通りに運動できるようになるまでヒトより時間がかかることが多いんだって」

「そう、ですか……」

 

 いまいち納得がいかない。それが正直な感想だった。

 

「もしよければ、どうして時間がかかるのかも聞いてもらっていいですか?」

「全然いいよー」

 

 ……リツさんには世話になりっぱなしだし、今度何かスイーツを奢らないとなぁ。

 

 そんなことを考えながら、スマートフォンを操作するリツさんを見る。

 

「よし、おっけ。返事返ってきたら、ノヴァちゃんに送るね」

「ありがとうございます」

「これでも先輩だからね」

 

 リツさんは腕を組んでささやかな胸を張り、ふふんと威張って見せる。

 

「流石先輩です」

「いいよ、いいよ。もっと褒めたまえ」

 

 耳がピコピコと上機嫌に動いている。

 

「えっと、アダラのムードメーカー! 短距離界期待の星! 世代のマスコット枠!」

「いやぁ、そこまで褒められると――」

 

 何かに気が付いたように、リツさんは怪訝そうな顔をした。

 

「――ん? マスコット枠……?」

「かわいいということです」

「なるほどね。いやぁ、照れちゃうなぁ」

 

 ……これだけじゃれ合っているところを見せたら、みんな心配しなくなるかな。

 

 そんな意図も込めてリツさんとしばらくふざけ合ったのはどうやら正解だったようで、ランさんたちから時折向けられていた様子をうかがうような視線は、時間とともに減っていった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 その後、私たちは少し残っていた夕飯を食べ終えて解散し、それぞれの寮室へと戻ることになった。

 

 北棟の4階、南側に面した418号室――実家に戻っていた2週間を除いて4か月弱を過ごしてきた部屋の鍵を開けて、中へ入る。薄暗い部屋の窓からは、寮を構成する他の棟、そして日が落ちてなおわずかに明るさを残した群青色の空が見えた。

 

 照明をつけることもなく、机に荷物を置いてそのままベッドに腰掛ける。

 

 ……ただいまって、言わなかったな。

 

 しばらくの間は、お帰りなさいと言うこともないのだろう。やけに広く感じられる部屋の中で、一人ため息をつく。

 

 視線の先にあるラフィさんのベッド、その上にはこの時間になってもぐちゃぐちゃになったままのダウンケットが置いてある。いつも朝練の間は湿気を逃がし、戻って来てからきちんとベッドメイクをするラフィさんならありえない光景だ。

 

 ……手術、大丈夫かな。

 

 また一つため息が出る。皆の前では誤魔化すために頑張ったが、今はもう到底何かをする気分にはなれなかった。トレセン学園で身に着けたことと言えば、周りを心配させないための嘘のつき方と、ついでにウマ娘の体の効率的な動かし方くらいのものだろうか。

 

 ……ダメだなぁ。

 

 思考回路が負に傾いていると、そういう自覚はある。今の精神状態的にすぐ出てこないだけで、ほかにも色々と学びや良いことはたくさんあったはずなのだから。けれども、一人でいるととにかく考えが暗くなっていくのだ。

 

 窓の外の空は、まるで私の思考と同期するように色を濃くしていく。何もする気が起きず、時折通知で明るくなるスマートフォンの画面に目線を向けるとき以外、私はただそれを見つめていた。

 

 空がもう夜の色と言っていい頃になって、スマートフォンに電話の着信が来る。表示された名前は、リツさん。

 

「もしもし、ノヴァです」

「リツだけど、今大丈夫?」

「大丈夫ですけど、その、何かあったんですか?」

 

 意図せず声が震える。メッセージを送ると言っていたのに、わざわざ電話をするということは、何か重大なことが起きたのだろう。

 

「悪いことじゃないから、安心して。ラフィの手術が始まったよ」

「あっ、そう、ですか。そうですか。良かった……」

 

 ふぅと息を吐く。心臓の鼓動の音がうるさい。

 

「あと質問の返事だけどね、まだちゃんとわかってないって」

「医者でもですか?」

「みたいだよ? いくつかこうじゃないかって言うのはあるけど、どれも説明できないことがあるんだって」

 

 ウマ娘がトレーニング復帰まで時間がかかる理由について、理屈では完全には説明がつかない。ならばそれはおそらく。

 

 ……運命、か。

 

 一説に拠れば、前髪以外禿げてるろくでなし(・・・・・)。前世の最晩年には尻尾の毛が少々寂しいことになっていた私の同類。

 

 もちろん、私が勝手にそう考えているだけだ。ただ単にウマ娘の人口が少ないがために症例が集まらないだけなのかもしれない。けれども、ウマ娘は異世界の名前と魂を受け継いで生まれてくるオカルト寄りの存在で、私が調べた限りでは現役中に負う怪我や病気もほぼその通りになる。療養期間もそれに準じたとしても、おかしくはない。

 

 今日何度ついたかわからないため息を再度ついて、通話中であると思い出す。

 

「あっ、すみません。今日はありがとうございました」

「全然いいよ。じゃあ、また明日ね」

「はい。おやすみなさい」

 

 通話を切って、スマートフォンをベッドの上に放り出す。そしてそのまま、頭をぶつけないように背の方へ倒れた。

 

 何も手に着く気がせず、そのまま数時間ほどを足だけベッドの外に投げ出したまま横になって潰す。ラフィさんの手術が無事に終わったとの連絡が来て胸中の不安がある程度晴れたのは、いつもならとっくに眠っている消灯時間の直前だった。




 ノヴァのちゃんとした勝負服デザイン案が出来上がったので、調子乗って依頼して書いてもらおうかとも思ったのですが、そもそも依頼サイトの数が多くて戸惑うなどしました。そのうちプロローグの勝負服描写を修正します。

 ついでにノヴァを育成キャラにしたらどうなるかを妄想したものもできたので、いつになるかはわかりませんが本編中にある形で出す予定です。



2023/7/16 14:35
最後の1行を修正いたしました


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第40話:サプライズお出迎え、失敗?

予定から6週間と3日間投稿が遅れたうえ、短くて申し訳ございません。


 ラフィさんが入院している間、私とラフィさんを繋ぐものはメッセージアプリだけだった。

 

 ラフィさんから送られてくるメッセージは、そのほとんどが『私は元気です。心配しないでください』と主張するものだった。『起き上がってベッドに腰掛けられるようになりました!』と自撮りが送られてきたり、『今晩から普通のご飯です!』と配膳された病院食の写真が送られてきたりと、順調に回復している様子を伝えるメッセージだ。ラフィさんが倒れていた時に酷く狼狽していた私を気にしているのか、少しでも私を安心させようという心遣いが感じられる。

 

 しかし、メッセージは些細な回復でも送って来てくれるのに、お見舞いや通話は理由をつけて断られてしまった。お見舞いは『1週間で退院できるそうなので大丈夫です』と断られ、通話も『まだ喉が痛くて』と拒まれては、どうしようもない。

 

 ただ、これらの理由は本音ではないだろう。通話を断られたときに、最初は『八つ当たりしてしまいそうなので』と吐露するメッセージが送られてきたのだ。そのメッセージはすぐに送信を取り消されて喉を理由としたお断りが送り直されてきたし、『ごめんなさい』『さっきのは忘れてください』と矢継ぎ早にメッセージが来たが、忘れられるわけがない。

 

 全てが終わった後もラフィさんの心が悲鳴を上げ続けるほど出たかったダービー、それを諦めて再設定した大目標である菊花賞にも出られないことが確定し、トレーニングですらいつ再開できるかわからないのだ。今世の私の1つ上――14歳の女の子でしかないラフィさんには、酷な話だ。そんな状況でもラフィさんは他人を気遣っていて、負の感情を見せることを良しとしない。

 

 ……ただ少し長く生きているだけの私と違って、ラフィさんは立派だなぁ。

 

 私は少なくとも40年以上生きているのに、未だに前世の夢を見た日は丸1日不調になるし、それで周りを心配させてしまうことがある。今も昔も、結局私は自己中心的な駄()のままだ。

 

「ノヴァちゃん?」

「あっ、はい! 何ですか?」

 

 自己嫌悪に陥っていたところに、リツさんの声が聞こえて我に返る。私とそう身長の変わらないリツさんが、私の目をじっと見つめてきていた。

 

 今日はラフィさんの退院日だ。アダラの大浪トレーナーがラフィさんを車で迎えに行っており、寮の前で下ろす予定になっている。退院したばかりなのだから一旦実家で療養させたら良いのにと思ったが、どうやらすぐに学園へ戻ってくるのはラフィさんの意思らしい。

 

 そこで、ラフィさんと同じくアダラに所属するリツさんたちがサプライズお出迎えを計画し、それにラフィさんと同室の私が呼ばれたのだ。このために早めに勉強会を切り上げた後、時間があるからとランさんもついてきていた。

 

「ぼーっとしてたけど、大丈夫? 水飲んできたら?」

「ちょっと考え事してただけなので、大丈夫です」

「そう? なら良いけど……」

 

 私も含めてローズさん以外は正門すぐ傍の寮敷地内にある植え込みに身を隠していたのだが、両隣りにいたリツさんとランさん以外のみんなが、私の様子が気になったのか出てきてしまっていた。

 

 安心してもらうため、「大丈夫ですよ」と両手をひらひらとさせて皆にアピールする。しばらくの間――特に隣にいたリツさんとランさんが――疑うような目線を向けてきたが、根負けしたのかみんな隠れ直した。

 

「ローズも、体調悪くなったらすぐ言ってよ」

「ちゃんと準備してますから、問題ありませんよ」

 

 ローズさんも正門前での道路の監視に戻る。私としては、「アダラの中では一番目立たない色だから」と言う理由で正門前に立つことになった黒鹿毛のローズさんの方が、熱中症が心配である。

 

 意識が現実に返って来たせいか、つば広の麦わら帽子の中に籠った湿気が少し不快だ。帽子を何度かパタパタと持ち上げて換気する。

 

 そのまま隠れていると、予定よりも2分ほど早くローズさんが呼びかけてきた。

 

「来ました」

「オッケー。ローズも隠れて」

 

 ローズさんも双眼鏡――お母さんと同じ、かなり高級なもの――をしまいながら植え込みに隠れる。

 

 トレセン学園の共用バンと思わしきエンジン音が正門前で止まった。そしておそらくは運転席側のドアとスライドドアの開く音がして、続けて誰かが下りてくる音、荷物を下ろす音がする。

 

「ありがとうございました。トレーナーさん」

「これも仕事だ。気にしなくていい。そもそも俺の指導力不足が原因だからな」

「そんなことは――」

「そうなるんだ。それがトレーナーの責任って奴だ」

 

 ラフィさんが少し大きな声で否定しようとしたのを、トレーナーが遮る。

 

「夢を叶えてやれなくて、すまなかった」

 

 ラフィさんからの返答は、ない。

 

 視線を感じて振り返ると、ランさんと目線が合った。

 

 ……この雰囲気でサプライズするの? 本当に?

 

 不思議と何を言いたいのか伝わってくる。リツさんの服の裾を摘まんで振り向かせ、ランさんと一緒になって目線で訴える。リツさんは正門を挟んで反対側のメンバーと身振りでやり取りすると、口パクで「やるよ」と言った。アダラのウマ娘たちが中止の意思を見せないので、サプライズお出迎え継続である。

 

 私たちが言葉もなくやり取りを終えた直後、大浪トレーナーが溜息を吐いた。

 

「本格的なトレーニング再開は、医者の許可が出てからだ。それまでは特別に運動をしようとするなよ。今は日常生活の運動でもきついだろう?」

「……はい」

「俺は車を返してくる。それで、あぁ、なんだ」

 

 大浪トレーナーが一瞬口ごもる。

 

「みんな待っているから、行ってやれ」

 

 ……もしかして、今サプライズのこと思い出しました!?

 

 結果的に盗み聞きになってしまい、非常に後ろめたい気分だ。

 

「……はい。お疲れさまでした」

「あぁ。お疲れさん」

 

 ドアが閉じて、車が走り去る。ラフィさんの気配だけが正門前にあった。リツさんの身振りに従って飛び出そうとした直後、ラフィさんが独り言ちる。

 

「みんなは、進んでますよ」

 

 ……あっ、まずい。

 

 おそらく、全員の心が一致した。しかし動き出した勢いは止められず、みんな植え込みから姿を現す。

 

「退院おめでとう!」

 

 もう破れかぶれだったが、奇跡的にみんなの祝福の声が揃う。ラフィさんは目を白黒とさせて固まっており、私たちは盛夏なのに空気が凍り付いている。結果論だが、割と最悪寄りのタイミングでのサプライズだった。

 

 セミの鳴き声だけが響き渡る中、リツさんが口火を切る。

 

「えっと、その、盗み聞きするつもりはなかったって言うか。ごめんね」

「あの、えっと、それは大丈夫、です」

 

 少しぎくしゃくとしながらも、同じアダラのウマ娘と言う関係性で会話が進みだす。

 

 その間、私は見に徹していた。一見すると元気そうに振舞ってはいる。だがしかし、意図せず盗み聞いてしまった会話とこぼれた独り言、数日前に取り消されたメッセージからして、元気なはずがない。そういう先入観を持って観察していて、ようやくわかる以前からの変化があった。ラフィさんのウマ耳は常日頃であれば感情に合わせてとても良く動くのだが、今日は全く動いていないのだ。おそらく、付き合いの長いアダラのウマ娘も気が付いているだろう。

 

 アダラの5人がラフィさんと話し終わる頃合いを見て、私も声をかける。

 

「面と向かっては、お久しぶりです。ラフィさん」

「はい、お久しぶりです。ノヴァさん」

 

 ラフィさんの耳が、ほんの少し萎えた。

 

「お見舞いとか、ごめんなさい」

 

 断ったことではなく、メッセージで一瞬とは言えども負の感情を漏らしてしまったことへの謝罪であるように感じた。それに気が付いていない振りをして、私は答える。

 

「療養が1番ですから、気にしてません。おかえりなさい」

「……はい。ただいま帰りました」

 

 いつも見ていたはずの笑顔が、今日はどこか儚げだった。



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第41話:箸より重いものは持たせたくない

再び度重なる締め切り延期を行い、申し訳ございませんでした。

なお、本話投稿に先立ち、第32話について一部内容を修正いたしました。
トレセン学園の坂路はグラウンドとは別にあると勘違いしていたためです。
このままお読みいただいて支障ありません。


 全休日、と呼ばれるものが前世のトレセンには存在した。

 

 普段通りなら開催明けの月曜日がそうで、基本的にその日は馬場もコースも閉じられており調教がなかったのだ。なので我々競走馬としては、馬房で1日のんびり過ごす日だった。

 

 もちろん、休日とは言えども生き物相手の仕事なので担当の厩務員は餌やりに来るし、調教師は馬主との会合があったり外厩の馬の調子を見に行ったりと忙しくしていた。私は元人間のくせに、「人間って大変だなー」と他人事のように思いながらごろごろしていた記憶がある。

 

 そして、今世のトレセン学園にも全休日のようなものがある。

 

 毎週その日は、いつもならトレーナーやトレーナー付きのウマ娘を優先する施設予約が、そうでないウマ娘優先になるのだ。練習バ場や坂路はもちろん、ジムやレッスン室もそうなる。そしてトレーナー付きのウマ娘たちは学園において少数派なので、その日は基本的に部室で出来る範囲のことしかできない、らしい。聞いた話である。その週の重賞に出る場合など例外もあるとか。

 

 何はともあれそう言うわけで、競争率が気持ち落ちる月曜日、その午前に私たち勉強会の面々は坂路の抽選予約を勝ち取ることができた。

 

 ここ数日の猛暑も何のそのと元気な芝、造園担当職員の尽力が垣間見えるそれを踏みしめる。心を騒めかせる芝の香りを意識から押しやり、顔を上げてコースの先に目を向ける。そこにはウッドチップの敷かれた坂路があった。

 

 1人で駆け上がっていく子もいれば、2人以上で併走している子もいる。次の選抜レース出走間違いなしと言われるような子が、本格化前の子たちをどんどん追い抜いていく。

 

 各々にそれぞれの目的がある十人十色の練習風景だ。私たちも、その中の一員である。

 

 じっと風景を見ていると、エフェメロンさんが長い葦毛の髪を風任せに靡かせ、髪と対照的な褐色の右腕を突き上げて叫んだ。

 

「よーし、30分しかないし、どんどん登ろう!」

「メロン、まだ何回も登れる体力ないでしょ」

 

 黒鹿毛の長い髪が顔にかからないように手で押さえながら、スレーインさんが突っ込みを入れる。しかし、エフェメロンさんは舌打ちのような音と共に人差し指を左右に振った。

 

「こういうのは気持ちが大切なんだよ、レーちゃん」

「何様よ……」

 

 2人が話している横で、栗毛の三つ編みを揺らしながら靴ひもを結び直していたアクアフォールさんが立ち上がる。

 

「お待たせ。今結び終わった」

「じゃあ、レッツゴー!」

「オッケー」

「あっ、待て! メロン、アクア!」

「待ちませーん!」

「待たないよー」

「不意打ちで出遅れさせるのは卑怯でしょ!」

 

 エフェメロンさんたちが姦しく3()併せで駆け上がっていき、スタート地点には私とランさんだけが残った。後で映像確認をする時に楽になるよう、間隔を空けるためにわざとそうしているのだ。

 

 残念ながらエレジーさんは、チームシリウスの練習と時間が被ってしまったので不在だ。今日は部室でビデオを見てフォームチェックをするらしい。

 

 1人だけ仲間はずれにするのもどうかと思い、規則をよく確認してエレジーさんをねじ込む算段を整えていたので、少々肩透かしを食らった。チーム所属のウマ娘とそうでないウマ娘では、時間の都合がどうしても合わないことはあるので致し方ないことではある。

 

 少々収まりの悪いゼッケン――タイムの自動計測と映像追跡用のICタグが付いたそれを引っ張り、位置を調整する。そうしている間に、先に走り始めた3人が芝からウッドチップにバ場が切り替わる部分に差し掛かった。

 

 トレセン学園の坂路は、少し奇妙な構造をしている。ウッドチップコースと一体化しているだけならともかく、バ場の一部が芝なのだ。前世なら、馬がびっくりしてしまうので可能な限り避ける構造である。

 

 そして、前世の経験がある私としては正直物足りない坂路でもある。なにせ上り勾配区間がたったの3ハロン(600m)しかなく、高低差も10m行くかどうかであり、しかも後半はカーブになっているのでしっかり追い切れないのだ。

 

 ……今はともかく、本格化したら4、5本は登らないと話にならないなぁ。

 

 前世でやっていた坂路3本と同等の負荷をかけるには、それくらいの数をこなさなければならないだろう。

 

 そこまで考えたところで捕らぬ狸の皮算用をしている自分に気が付き、呆れの籠ったため息が零れた。

 

 すると、併走相手であるランさんが尋ねてくる。

 

「どうしたの?」

「立っているだけでも暑いのに、これから坂路かと思いまして」

 

 息をするように誤魔化した。他人を欺くことばかり上手くなっている。

 

 私の答えを聞いたランさんは、少し呆れたように息を吐いた。

 

「いつも言ってるけど、その格好で言うことじゃないよ。ノヴァちゃん」

「それはまぁ、そうですけど……」

 

 夏も真っ盛りだが、私は相変わらず丈の長い冬用のジャージ姿だった。『見てるだけで暑い』と言われたこともあるが、紫外線対策なのでやめる気はない。

 

 ランさんは私の紫外線嫌いを知っているので、着替えなさいとまでは言ってこない。言ってこないのだが。

 

「そうだ。次の抽選、プールだけ入れる?」

 

 プールと言う単語を聞いただけで、意図せず自分の耳が引き絞られていくのを感じる。何かとプールを推してくるのは勘弁してほしい。

 

「えぇー、プールですかぁ? ジムとかレッスン室とかにしません?」

「ノヴァちゃんって、本当プール嫌いだよね。泳ぐのはとても良いトレーニングだって、自分で言ってるのに」

「実際泳ぎたいかは別ですー」

「私が教えてあげるよ?」

 

 ランさんがふふんと胸を張る。どこか自慢げな様子に、ふと頭に浮かんだことを言ってみる。

 

「……もしかして、たまには教える側に回りたいだけだったりします?」

 

 スッと目線をそらされた。こやつめ。

 

「まぁ、プールの予約が取れてしまった時はお願いします」

「うん。任せて!」

 

 会話に一区切りがついたところで、スタンドから女神様の美しい声が響く。

 

「ノヴァさーん、ランさーん、もういいですよー」

 

 視線を向けると、樹脂製のメガホンを持ったラフィさんがこちらに小さく手を振っていた。スタンドの椅子に傘ホルダーを取り付けて日傘を差しているので、日射で体調を崩すこともないだろう。膝の上には坂路のカメラ映像を確認できるタブレット端末が置いてある。タブレットがちょっと羨ましい。

 

 ラフィさんには指導担当として来てもらっている。元々はエレジーさんをねじ込む手段として用意していた立場だ。

 

 まだ退院してから1週間と言うこともあり、ラフィさんは療養最優先でトレーニングを免除されている。なので私としても来てもらうつもりはなかった。なかったのだが、少し寂しそうに「私もお手伝いに行っていいですか」とお願いされて、気が付くと許可を出してしまっていたのである。体調が悪くなったらすぐ戻ると条件こそ付けたが、我ながらちょろすぎる。

 

 しかし、しょうがないのだ。朝練のため毎朝4時に部屋を出る私や、朝ご飯終わりにトレーニングへ向かうリツさんを、ラフィさんが何かを堪える様に送り出す姿を知っている。手伝いすら断るほど心を鬼にはできなかった。

 

 はーい、とラフィさんの呼びかけに答えて、ランさんの外側に並ぶ。

 

「じゃあ、さっきのじゃんけん通り私が外で」

「むー。そういう意味じゃないって、わかっていても嫌な気分」

「まあまあ」

 

 前世において併せ馬と言うものは、基本的に強い馬が外側を回る。それは今世でも同じようで、併走をする時に「私が外回るね」と言うのは、遠回しに「お前は私より弱い」と言っているようなものだったりする。

 

「じゃあ」

「うん」

 

 せーのと声を合わせ、同時に走り出す。併走なので、加速はランさんに合わせて少し控えめに。足元がスピードの乗りやすい芝から柔らかく力のいるウッドチップに切り替わり、登り坂が始まる。入学当初と比べると細かく砕け香りはないも同然のウッドチップが、このコースが多くのウマ娘たちに使い込まれてきたことを伺わせた。

 

 勾配そのものは前世で走り慣れた美浦の坂路と同程度だろう。違う点があるとすれば、それは私の体だ。前世で鍛えぬいた体とは異なるのだと、走るたびに嫌でも思い知らされる。

 

 もどかしさを感じながら、自己暗示(最終直線ではない)と共にほんの少しだけランさんより前に出る。するとランさんも負けじと加速し、私より前に出ようとする。その瞬間わずかにペースを落とすと、加速し過ぎたと勘違いしたランさんもペースを落とす。それに合わせて再度わずかに加速し、ランさんの再加速を誘発する。

 

 登り始めてから1ハロン(200m)の地点からコーナーが始まり、内を走る分有利になったランさんが前に出る。少し気に食わないが、ここは我慢だ。後ろからランさんをつつく様に、自分の足を削らない程度の加速を繰り返してランさんを揺さぶる。

 

 登り区間最後の50m程で、過剰な加速を幾度も繰り返した分スタミナを削られたランさんの姿勢が崩れ、速度を維持できなくなる。目論見通りの状況に持ち込めたことにわずかな満足を覚えながら、声にならない声を漏らすランさんを追い越して第2コーナー中ほどの最高点に到達し、脚を緩めた。

 

 前世よりも1ハロン短い坂路なのに、息が上がっている。やはり全盛期とは程遠い。そう自覚しながら息を整えつつ流していると、ランさんが追いついてきた。

 

「もー! ノヴァちゃんはそういうことするタイプって、わかってたのに引っかかった!」

「まあ、6割頭なんて言い方あるくらいですから、しょうがないですよ」

 

 走っているウマ娘は酸素が筋肉に回る分、普段の6割程度まで頭の働きが落ちるという俗説がある。

 

「それでも! もう!」

 

 ランさんが牛になってしまった。まんまと罠にかかったのがよほど悔しかったのだろう。私は前世の経験分、大逃げする私相手に競り合ってくるような根性のある相手の潰し方も心得ている。レース経験の浅いランさんが引っかかること自体はしょうがないことだ。

 

 もうもうとふくれっ面のランさんを宥めつつ、ウッドチップコース――事実上の帰りバ道をぐるりと流してスタンドへと戻る。

 

 先に走った3人は水分を補給したり、ハンディタイプの扇風機を胸元に突っ込んで涼んだりしている。私たちが帰って来たことに気が付いたのか、ラフィさんが声をかけてきた。

 

「おかえりなさい」

「ただいまです」

 

 ラフィさんの傍に置いておいた水筒2つを手に取り、片方をランさんに渡す。

 

 ラフィさんの気が利かないわけでは断じてない。まだ荷物を持ったりすると手術痕が痛むようなので、私からラフィさんに「タブレット以外は絶対に持たないでください」とお願いしてあるだけの話だ。本当ならタブレットすら持たせたくない。それどころか食事も私が手ずから食べさせたいくらいだが、それは流石に言葉にしたら気持ちが悪い自覚はある。

 

「ラフィさん、お腹痛くないですか?」

「座っているだけなら、もう痛みませんよ。大丈夫です」

 

 ラフィさんがひらひらと両手を振る。かわいい。

 

 私とラフィさんのやり取りを見て、エフェメロンさんとスレーインさんが呆れ気味に口を開いた。

 

「先生、先生。いくらなんでも過保護すぎー」

「もう2週間でしょ? ちゃんとくっついてるって」

「それはまあ、そうなんですけど」

 

 頭ではわかっていても、心配なものは心配なのだ。

 

 ……ただ、まあ、それでも。

 

「先に3人の映像を振り返りましょうか」

「はーい」

 

 ラフィさんとエフェメロンさんたち先発組3人が、同じタブレット端末に顔を寄せる。ICタグの情報をもとに、坂路のライブ映像を巻き戻して確認しているのだろう。

 

 そんなラフィさんの横顔は、久しぶりに寂しくなさそうで。来てもらって良かったなと、そう思うのだった。




アニメ3期にさらっと独自設定した部分を壊されておりますが、私は元気です。
第26話で、本作中の安田記念は文部科学省賞典であると描写しました。
しかし、3期2話での菊花賞の成り立ちに関するみなみとますおの会話から考えると、農林水産省賞典のままと思われます。
ウマ娘の力があれば農林水産業でも大活躍でしょうから、考えてみれば農水省が賞典を提供していてもそこまでおかしくはありません。
ノヴァに自分は異物なのだと思わせるための設定でしたが、安易に変えてはいけないと反省しております。
幸い明言されていないので、本作では文部科学省賞典扱いでごり押します。


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第42話:それぞれの新学期

ノヴァの席の位置を間違えていたため、第26話を修正いたしました。
このままお読みいただいて支障ありません。


 トレセン学園の新学期は、今時珍しく9月1日から始まる。

 

 理由はいくつかある。開校当時の教師陣や校舎の設計が外国人だったために、欧米の影響を強く受けたこと。学制公布よりも前――まだ元号が慶応だった頃に開設された、日本初の近代学校であると言う矜持。9月に学年が変わる国から留学してくるウマ娘もいるので、その方が都合がいいこと。

 

 歴史と伝統と現実が噛み合った結果の9月1日なのだ。

 

 その新学期が始まる朝、寮の玄関が開くのを待っている私の隣には、一か月半ぶりにラフィさんの姿があった。

 

 両手を組んで伸びをしているラフィさんが、少し艶めかしい声を漏らす。夏休み前の私なら心の馬っけが思わず出てしまいそわそわしていただろうが、今はとある心配の方が勝っている。

 

「ラフィさん、そんなに伸びてお腹は大丈夫ですか?」

 

 そう尋ねると、ラフィさんは「んー」と考えるような声を出した。そしてそのまま、上半身を左右に軽く捻り始める。傷口に障らないか冷や冷やしながらそれを見守ること数往復の後、ラフィさんは手術痕のある辺りを擦りながら答えた。

 

「大丈夫、だと思います。何か変にくっついていたり、剥がれたりするような感じはしませんから」

「それなら良いんですけど……」

 

 昨日に『ヒト並みの運動であれば再開しても良い』と言う医者のお墨付きが出ている。そのため、ラフィさんも制限付きではあるが朝練に参加できるようになった。それ自体は非常に喜ばしいことだ。

 

 しかしながら、療養明けにいきなり以前と同じ強度の朝練をするのはあまりにも不安が大きい。何せ、ウマ娘はヒトを遥かに凌ぐ身体能力があるために、『(ウマ娘基準で)軽い運動をしたら傷口が開きました』という例も少なくないと聞く。

 

 故に、少なくとも1週間くらいは朝練と言ってもトレセン学園周辺を歩いて回るだけにするつもりだ。それだけでも療養中に落ちたラフィさんの体力をある程度つけ直すことはできるはずだし、朝練は軽くして復帰に向けたトレーニングはアダラのトレーナー陣に任せた方が良いだろう。

 

「無理しちゃダメですからね」

「はい。わかっていますよ」

「ちょっとでも変だなって思ったら、背負って帰りますからね」

「では、負担をかけないよう自重しないといけませんね」

「……そうしてくれるなら、いいですけど」

 

 ……出来れば私への負担じゃなくて、自身の体調の方を気にしてほしいんだけどなぁ。

 

 焦る気持ち自体は私にもわかるので、完全には止めない。多少の無理をしなければ目標を果たせないという考え方自体は私にもあるから。こういう気持ちは誰かが制御できる環境で発散させた方が良いだろう。

 

 そもそも私自身、体調管理の面ではあまり他人のことは言えないのだ。肉体面はともかく、精神面があまりにもぜい弱だ。

 

 最終直線に入った後で加速しようとすると、未だに足が竦む。芝の匂いを嗅いだ時になんの前触れもなく過去を想起して動けなくなることがある。

 

 眠るためにベッドに潜った後、2度の死の瞬間――私を構成する何もかもが抜け落ちていき完全な無に向かっていく感覚を思い出してしまい、眠れなくなることがある。前々世では、夜眠る前にうっかり死後とはどのようなものか、完全な無とはどのようなものか思いを馳せてしまい、恐怖に震えたことがあった。実際に経験したそれは想像とは比べ物にもならないもので、脳裏にこびりついたそれは不定期に私を苛む。

 

 ……朝から嫌なこと思い出しちゃったなぁ。

 

 どうして自ら気が滅入るようなことを考えてしまったのか。一度考えだすと精神的にドツボにハマるから良くないとわかっているのに。

 

 頭の中で反省をしていると、眠たげな眼を擦りながら今日の解錠担当がやって来た。鍵を錠に差し込む小さな金属音がして、玄関が開き始める。そして前に続いて歩き出そうとしたその瞬間。

 

「退いて」

「うわっ」

 

 不意に誰かに押し退けられて、身体が左へと倒れ出す。踏ん張るために左脚(・・)を動かそうとして――悪寒が背筋を這い上がり、体を硬直させた。転倒までの短い時間で、それは致命的だ。これはこのまま転ぶだろう。頭を打ち付けなければ御の字か。そう覚悟する。

 

 しかし、私の体はぽふっと暖かく柔らかいものに受け止められた。安心感すら覚えるほど馴染みがある柑橘類の香水の匂い。

 

「少し乱暴ですね」

 

 目線だけ上げると、艶やかな唇がほとんど目の前で動いていた。ラフィさんだ。私を押し退けた子を目で追っているらしい。翠色の目に籠った感情は相手への不愉快だろうか。だが、それだけではないような気がする。

 

「怪我はないですか?」

 

 優しく声をかけられて我に返り、転ばないよう抱き留めてくれていたラフィさんから離れる。あまりにも目まぐるしく感情が動いたせいか、心臓が早鐘を打っていた。

 

「だ、大丈夫です。ラフィさんは――」

「大丈夫ですよ」

 

 じっと見つめて様子を伺うが、特に不審な点はない。

 

「なら、良かったです。今ので悪くなったらどうしようかと」

「これくらいなら本当になんてことありませんから、安心してください」

「うーん。頭ではわかっているつもりなんですけど……」

「心配性ですね」

 

 仕方ない子だなと言う声色だ。ラフィさんからすれば鬱陶しいくらいだろうに、ただ微笑んで許してくれる。それが少しばつが悪くて、話題を変えた。

 

「それにしても、今までこんなことなかったんですけどね」

「そろそろ未勝利戦が終わりますから。焦っているんだと思います」

「……そっか。9月に入ったから」

「はい」

 

 クラシック級(3歳)未勝利戦は9月で終わる。そうなれば、競走者としての進路は3つに絞られる。再契約を結んで中央で1勝クラスへの強制格上挑戦を続けるか、地方トレセンへ転校して競走を続けるか、あるいは競走者としては引退するか。

 

 引退を選んでも、トレセン学園が学校である以上は在籍し続けることができる。よほどの問題児でもない限りは、学園の方から引退した子を退学させるということもしない。これは入学前の説明会で聞かされる話だ。

 

 実際、デビューしたタイミングによっては未勝利戦終了時点で中等部か高等部の卒業まで半年を切っていることがあり、そういう子のごく一部はそのまま卒業までトレセン学園に在籍するそうだ。だが、未勝利戦を突破できず心を折られて引退を選んだ大抵の子は、たった半年でも耐えられず退学していく。

 

 何故なら、競走ウマ娘を目指すような子はほとんどが尋常ではない負けず嫌いで、地元では誰にも負けたことのない天才だ。そんな子が、夢を叩き折られてトレセン学園では底辺に近いのだと思い知らされて、それでも学園に残ることを選べるだろうか。ヒシミラクルならともかく。

 

 改めて玄関から出ていく子たちを観察してみると、その顔に焦りを浮かべた子が意外と多くいることがわかる。気にしたことがなかった――特にここ1か月は気にする余裕がなかったので、今まで気が付かなかった。

 

 そんな彼女たちを見ていたラフィさんが、溜め息をついた。

 

 ラフィさんの先ほどの視線と、今の溜め息に籠った感情。それは、安堵だろうか。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 朝練を終えてシャワーを浴び、下着も含めて娯楽室に用意しておいたものに着替えてから一度部屋に戻る。本当はここで部屋に戻る手間をなくしたいが、洗濯物を一旦部屋に持ち帰る必要があるので仕方ない。改めて制服に着替えて、授業に必要なものや宿題を忘れていないか確認する。問題なければ荷物を持ち、部屋を出て食堂へ向かう。朝のルーティンワークだ。

 

 1学期と違うところがあるとするなら、私が2人分のスクールバッグを両肩に提げている点だろう。こんな重たい荷物をラフィさんに持たせるなんて、正気ではない。2人並んで階段を降りようと廊下を曲がると、見慣れた尾花栗毛の少女が踊り場の壁にもたれてスマホを弄っていた。

 

「おはようございます。リツ」

「おはようございます」

「ん。おはよう、2人とも」

 

 リツさんはスマホを仕舞い、身体のバネだけで壁から離れて足元に置いていたバッグを肩に掛ける。

 

「もう朝ごはん食べ終わったんですか?」

「まだだよ。2人を待ってたからさ」

 

 まるであり得ないものを見たとでも言わんばかりに、ラフィさんが目を丸くする。

 

「……今日は雪が降るかもしれませんね」

「ひどくなーい?」

 

 リツさんがわざとらしく文句を言った。

 

「冗談ですけれど。リツが食事より優先するほど体調悪く見えますか?」

「いや、全然。ただ、新学期でしょ? ノヴァちゃんがどうかなって」

「見ての通りです」

「やっぱりねぇ」

 

 ラフィさんとリツさん、2人揃って私を見てくる。ラフィさんの鞄の紐を握る手に、意図せず力が入る。

 

「な、なんですか」

「ノヴァちゃんは世話焼きだなって話」

 

 そう言うとリツさんはこちらに手を差し出す。

 

「はい、ノヴァちゃん。荷物よこして」

「私が持って行きますよ?」

「食堂行くまでならそれでもいいけど、その後は学年が違うでしょ? 私はクラスも一緒だから、私が持ってく方が良いよ」

「鞄くらい、もう持てそうな気はするのですけれど……」

「ダメだよ、ラフィ。心配性のノヴァちゃんが心配で心配で勉強に手が付かなくなっちゃうから」

 

 理屈は通っているし、ラフィさんが持たないなら特に反対する理由もない。素直にリツさんに鞄を渡す。

 

「どうぞ」

「あっ、素直に渡してくれた。一応秘策も用意してたんだけどなぁ」

「参考までに聞いても良いですか?」

「後輩に荷物持たせてる先輩って、他の子が見たらあれじゃない? ラフィは事情があるけど、パッと見だとわからないし」

「……なるほど」

 

 ……そこまで考えていなかった!

 

 スッと血の気が引いていく感覚がする。私のせいでラフィさんの評判に傷がついたかもしれない。

 

「あ、いや、美浦寮の中なら大丈夫だよ? あの時寮にいた子は皆知ってるし」

「いなかった人もいますよね?」

「みんな周りの子に聞いてたから大丈夫。それくらい超お世話焼きモードなノヴァちゃんは目立ってたから」

「助かりましたけれど、家でもお風呂のお手伝いはなかったので、その……」

 

 少し恥ずかしそうに顔を赤らめたラフィさんが、誤魔化すように笑う。入浴の介助と言っても、少し前かがみにならないと届かない膝から下や、腕の回りにくい背中くらいなので、そこまで恥ずかしがらなくてもという感じがする。

 

 ……お肌すべすべだったなぁ。

 

 いけない、邪念が漏れる。

 

「と、とにかく、食堂行きませんか? 良い席が埋まっちゃいます」

「あっ、誤魔化した」

「誤魔化しましたね」

「いいから、早くいきましょう」

 

 誤魔化しは誤魔化しでも、別方向の誤魔化しだとは言わない。藪をつつく真似はしないのだ。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 校舎に入ったところでラフィさんたちと別れ、教室へと向かう。先にB組に来ていたクラスメイトと挨拶を交わし自席へ荷物を置いたところで、ランさんが鼻歌交じりに軽やかな足取りでやって来た。

 

「おっはよーう、ノヴァちゃん」

「おはようございます、ランさん」

「なんか不思議だねぇ。新学期なのに、久しぶりって感じがしないの」

「そうですね」

 

 私の小学校6年間は他の子と全く話が合わずぼっちを極めていたが、それでも新学期初日は久しく感じるものだった。

 

 こうして言葉を交わしている間も、ランさんの淡い灰色の瞳は爛々と輝き、ウマ耳はピコピコと動き、尻尾もぶんぶんと振られている。

 

「なんだか機嫌よさそうですけれど、何かありました?」

「そうかな?」

「はい。わかりやすいくらいに」

 

 ランさんは「うーん」と天井を見上げる。そしてすぐに「あっ」と心当たりがあったような声を上げた。

 

「もしかしたら、始業式より前に宿題が全部終わってるなんて初めてだからかも!」

「えっ。それ、大丈夫だったんですか?」

「出す日の朝までに終わっていればいいから」

 

 間に合わないよりはずっと良いが、そんなに「ふふーん」と胸を張って言えることではないだろう。

 

「小学校の時は自習、出来てたんですよね……?」

 

 そう問うと、ランさんは照れくさそうに髪を撫でつける

 

「夏休みは誘惑が多くて……」

「何々? 何の話?」

「挨拶くらいしなさいよ、メロン。おはよう、2人とも」

 

 いつの間にか登校してきていたらしく、エフェメロンさんとスレーインさんが現れた。

 

「おはようございます」

「おはよう。アクアちゃんは?」

「今日出す宿題部屋に忘れたみたいで、三女神様の広場辺りで慌てて戻っていったわ」

「たまにドジだよねー」

 

 人数が増えたためか、一気に騒々しくなる。こうなるともう私は圧倒されるばかりで、基本的に受け身でみんなが楽しそうにしている空気を楽しむ形になる。だが、それも悪くない。

 

 ラフィさんのこともあり夏休みは平穏無事とはいかなかったけれど、新学期は穏やかに始まった。




【トレセン学園開設時期に関する独自設定について】

・ドラマCD『トレーナー候補の為のトレセン学園案内』の発売が2018年
 同CDの2:00ごろから、たづなさんが「当学園は(中略)150年ほど前に設立されました(後略)」と言っているので、設立は1868年の前後5年間のどこか

・日本初の常設洋式競馬場である『横浜競馬場』の開場が1866年(慶応2年)

・洋学の流れを汲む最初の近代小学校である『沼津兵学校付属小学校』の開校が1868年

・日本最初の近代的学校制度を定めた『学制』の公布が1872年

以上から、本作ではトレセン学園を日本初の近代学校としています


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第43話:文化祭の定番と言えば

二次創作作者あるある『原作登場キャラの口調が合っているか、こんなことを言うのか不安になる』に陥っておりました。

なお、本話投稿に先立ち、プロローグに主人公の立ち絵を掲載いたしました。八代明日華(Twitter:@gurivinesyu)様に依頼し描いていただいたものとなります。ぜひご覧ください。


 トレセン学園には『聖蹄祭』と呼ばれる行事がある。毎年スプリンターズSの前週に開催されるそれは別名を『秋のファン大感謝祭』と言い、春の感謝祭と異なり催し物が文化系に特化していることが特徴だ。一般の学校で言うところの文化祭に相当する行事である。

 

 そして、文化祭と言うものには定番の催し物がある。飲食系の模擬店だとか、縁日系のミニゲームだとか、体育館の舞台を使ったパフォーマンスだとか、そう言うものだ。

 

 そんな数多ある催し物の中で私の現所属である1年B組が選んだもの、それは――。

 

「うちに来たお客さん、(みーんな)ビビらせちゃうぞー!」

「おー!」

「聖蹄祭準備、開始ー!」

「おー!」

 

 ――お化け屋敷だった。聖蹄祭約2週間前の放課後、教壇に立った学級委員が拳を突き上げて高らかに宣言し、クラスメイト達もそれに元気よく応じる。およそ怪異と呼ばれうるものは皆退散しそうなほどの陽の気がそこにはあった。

 

「……おー」

 

 私以外には。

 

 ……やっぱり反対しとけばよかったかなぁ。

 

 何をするか決めたのは1学期の終わりなので、後悔するにしても今更の話だ。

 

 正直に言って、私はお化け屋敷が得意ではない。より厳密には、お化け屋敷と言う場が苦手だ。お化け屋敷と言うものはどうしても、お客さんを怖がらせるための雰囲気作りが伴う。そういう雰囲気の場所が、良くないものを呼び寄せないかと言う点が心配で心配でたまらない。

 

 前々世の頃はオカルトやスピリチュアルなものなんて欠片も信じてなどいなかったし、何ならそう言うものを信じている人を内心馬鹿にすらしていた。そんな覚えがうっすらとある。

 

 しかし、今の私は転生などと言うオカルトを2回も経験してしまっている。私の存在そのものが今世におけるオカルトの実在を証明してしまっているのだ。ならば、アプリ版で描写されたような怪異が存在しても全くおかしくない。

 

 ……蹴り飛ばして退散させられるなら、まだいいんだけどなぁ。

 

 ゾンビや吸血鬼など対処法が存在するものは、怖いとは思うが震えあがって動けなくなるほどではない。これと言った対処法が無くても物理的になんとかできるなら、ウマ娘の身体能力で切り抜けられるかもしれないのでまだ、まだ耐えられる。最悪でも逃げてしまえばいいのだから。

 

 本当に怖いのは、物理的な抵抗手段がなく逃げることすらできない怪異だ。そうなると私にはもうどうしようもないので、死と同義になる。万が一にもそういう怪異が来ないことをただただ祈るしかない。

 

 お化け屋敷をすることに対する不安がぐるぐると胸中を渦巻いているが、それを大っぴらに表に出したりはしない。皆は楽しみにしているのだから、一応は大人である私が我儘を言うわけにはいかない。

 

「ノヴァちゃん、どうかした?」

 

 物思いにふけっていた私に、突然学級委員が声をかけてくる。教壇に立つと生徒の様子が良くわかるという話は本当らしい。学級委員の呼びかけに反応したのか、周りの子たちも私に目線を向けてきていた。

 

「何がですか?」

 

 こういう問いかけに「何でもない」と答えてはいけない。本当に何もないなら、そんな返答はしないからだ。心底何を言っているのかわからないように見せかけなければならない。

 

「ちょっと元気なさそうに見えたから」

「あー、まぁ、えぇ。今のところ大丈夫です。気にしないでください」

 

 それでも追及してくるなら、心当たりがあるように見せかけつつ両手を振って問題ないとアピールする。そうすれば勝手に体調不良(・・・・)だと誤認してくれるだろう。こういう時はウマ娘が娘であってよかったと思う。

 

「もしかして、苦手だったりする? お化け屋敷」

「……そんなこと、ないですよ?」

 

 ……なんでバレるの!?

 

 前々から今日のためにしていたイメージトレーニングが無駄になった瞬間だった。

 

 どうにか誤魔化そうとするも、周りの子たちはもう私はお化け屋敷が苦手であるという前提で騒がしくなっている。「言ってくれれば他のにしたのにー」とか、「今から変えられないか生徒会に相談しに行こうか?」とか、口々に気遣いをくれる。クラスメイト達は皆、思いやりのある優しい子ばかりだ。

 

 ……だから、隠してたんだけどなぁ。

 

 こうなってしまったからには致し方ない。このまま皆がお化け屋敷を楽しむためにどう説得するべきか、頭を捻る時間が始まった。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 結局、お化け屋敷と言う場が苦手なのだと正直に話して、お化け屋敷が完成している期間――保護者も参加できる校内公開日とファンの方々が参加する一般公開日は全日外での呼び込みを、約2週間の聖蹄祭準備期間は小道具を担当することになった。学級委員からは準備期間も会計専任になってもらおうかと提案があったが、計画では会計は他の担当と兼務することになっている。そのため、「公開日両日に最大限配慮してもらっているのだから、これ以上負担をかけたくない」と伝えて辞退させてもらった。

 

 今は、お化け屋敷に飾る生首の製作中だ。1年B組が作業用に借りた南棟1階の談話室に作業ブースを作り、買ってきた被り物に詰め物をして形を整え、絵具で血を塗り足していく。程々の粘度がある赤い絵具は画材問屋の娘であるクラスメイトが調製したもので、おどろおどろしく血餅を表現するにはぴったりだった。あっという間に、目をそむけたくなる血みどろの生首の完成である。

 

 私と同じく準備期間は小道具担当になったランさんが、私の作った生首をまじまじと見ている。

 

「ノヴァちゃん、血の表現上手いね」

「そうですか?」

「うん。そういう映画見てるの?」

「いや、自分からはみませんね」

 

 ホラー映画は積極的に見ようとは思わないが、苦手と言うほどではない。ホラーゲームも同様だ。所詮は作り物でしかない。お化け屋敷は、怪異が実在するだろう今世で怪異を呼び込みかねない場を作ってしまうから苦手なのだ。

 

 小道具作りが上手いのは、おそらくは今でも見る悪夢由来のものだろう。特に10月、未勝利戦が終わってしまった後の――。

 

 杭で額を撃ち抜かれ、首から大量の血を流す若駒の姿が脳裏を過る。

 

 ――やってしまったと後悔するも、手遅れだった。この夢は、今世で屠畜について調べてから見るようになったものだ。私が生きているせいで産まれてきた私の子供たちがどう死んでいったのか知るべきだと思って、小学校の自由研究テーマに選んで、それから。

 

「――ちゃん、ノヴァちゃん。どうしたの? 顔真っ青だよ?」

 

 ランさんの呼び声で我に返る。辺りを見渡すと、同じ班の子達も心配そうに私を見ていた。

 

「あぁ、すみません。小学校の頃、自由研究で動物がどう肉になるのか調べたことがあって。もしかしたらその時見てしまったものが、こういうのに活きているのかもしれませんね」

 

 とりあえず、誤魔化す。そう不自然ではないだろう。知識欲旺盛な小学生が屠殺について調べてトラウマになるだなんて、いかにもありそうなことだ。

 

 心配そうにしているクラスメイト――絵具を調製した子が、1つ提案をする。

 

「やっぱり、今からでも他の班に入れてもらう?」

「大丈夫ですよ。交代したって、昔見たものの記憶が消えるわけでもありませんから」

「でも……」

「大丈夫ですから」

 

 既にかなりの配慮をしてもらっているのだから、準備期間くらいは頑張らないといけないだろう。

 

「今日はもうやめておこうか」

「そうだね。結構切りもいいし」

 

 班長達がそんな相談を始めた時、談話室の扉が突如開かれた。

 

「君たち、もう消灯時間を過ぎているよ」

 

 南棟の棟長(・・)だ。怒っているというよりは、注意しに来たといった雰囲気だ。私も含めて皆の視線が談話室の時計に向かう。22時を5分ほど過ぎていた。班長が慌てた様子で棟長に答える。

 

「すみません。片付けして、すぐ帰ります」

「うん。夢中になる気持ちはよくわかるけど、時間は守らないとダメ。明日からはアラーム鳴らすとかしてね」

「はい」

 

 完成したものや製作中の小道具を乾燥用の棚に置き、画材一式は絵具を調製した子の指示に従って掃除し、ごみを処分する。棟長も親切に手伝ってくれたため、片付けはあっという間に終わった。

 

「それじゃあ、君たち。他の棟にも連絡しておいたから、ちゃんと部屋に戻るんだよ」

「はい。すみませんでした」

「すみませんでした」

 

 班長の謝罪に併せて私たちも頭を下げる。こういうのは誰か1人でも時間に気が付けばよかったので、連帯責任だ。

 

「最初だし、明日から気を付けてくれたらそれでいいよ。廊下はもう電気ついてないから、足元には気を付けてね」

「はい」

 

 棟長に見送られて廊下を帰っていく。最初は皆で歩いていたが、居室が南棟にあるランさんたちと階段室前で別れ、渡り廊下を渡った後で部屋が中央棟にある子と別れ、北棟に辿り着くころには私一人になっていた。

 

 非常用誘導灯の明かりしかない薄暗い廊下、その空間を静寂が満たしている。直前まで皆で騒がしく作業していた反動か、普段は感じることのない不気味があり、無意識に立ち止まってしまっていた。

 

 どのくらいそうしていただろうか。ほんの一瞬かもしれないし、数十分は立っていたかもしれない。曖昧な時間感覚の中、これ以上怖がっていても仕方ないと歩き出そうとして――。

 

「ひゃっ」

 

 ――脚に何かが触れて、思わず変な声を上げてしまう。それはすっかり丸まった私の尻尾の毛だった。

 

 ただ暗くて静かなだけで平常心を失い、些細なことで情けない声を出したという事実に羞恥が込み上げる。

 

 ……1回角曲がって、階段上って、もう1回角曲がって、真っ直ぐ部屋まで行くだけ。

 

 一つ二つと大きく深呼吸をして気を取り直し、左手側の壁伝いに階段へ向けて再び歩き始める。私一人分のごく小さな足音だけが廊下に響いていた。

 

 ……消灯時間過ぎているとは言っても、準備期間なんだからもっと誰かいても良さそうなものだけどなぁ。

 

 そんなことを考えながら角を曲がると、全く前触れなく影が現れた。完全に虚を突かれ、息を呑んでびくりと固まってしまう。

 

 しかしその影は、よく見るとウマ娘だ。カラスが翼を広げた姿を連想させる綺麗に切り揃えられた長髪、今日空に浮かんでいる満月のような黄金色の瞳。私が前々世から一方的に知っているウマ娘――マンハッタンカフェだ。

 

「あっ、す、すみません。こんばんは」

「……こんばんは。良い夜、ですね……」

 

 挨拶を返した彼女は、しかしすぐにその目線を私の目ではなく耳の方へ向けた。小道具の詰め物に使った綿が付いているのかと思って触ってみるが、特に何もない。

 

 向かい合ったまま沈黙が続く。その間もずっと、彼女の目は私よりも上の方の2点を交互に見ていた。その目線の動きは、まるで私の背後にいる何か――私よりも大きな何かとそれに乗る何かに目を合わせるようで。

 

 ……アイコンタクト? 霊視できるマンハッタンカフェが(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 思い至った瞬間に耳や尻尾の毛が逆立ち、血の気が逆流するように引いていく感覚がした。目の前が暗くなり、立っていることすら出来ずにその場にへたり込んでしまう。

 

 ……何かが、いる。

 

 私にはその気配を全く感じ取れない。つまり、私にはどうしようもない何かだということだ。

 

 何か硬いものが繰り返しぶつかるような異音が聞こえ始めた。脚は産まれたてのように力が入らず、手の感覚は薄手の手袋をしたかのように鈍い。息は浅く、まるで呼吸筋が痙攣したかのようだ。

 

 (うずくま)って動けなくなった私の背に、何かが触れた。私にはただ、びくりと首を竦めて震えることしかできない。

 

「大丈夫、です……。安心してください……」

 

 それは、マンハッタンカフェの手だった。あやすように私の背を擦っている。私にはどうにもできずとも、怪異専門家と言ってもいい彼女がそう言うのなら、大丈夫かもしれない。そう思うと少し気持ちに余裕が生まれた。そこで初めて、カチカチとした異音が自分の歯の根が震えていることによるものだと気がつく。

 

「す、すみません、先輩」

 

 意識して、呼吸を深くする。彼女がいる以上、今すぐ何かをされることはないはずだと信じて。

 

「あなたに憑いている子たちですが……」

 

 ……あっ、私個人に取り憑いているんですか。そうなんですね。

 

 聞きたくなかった事実に胃が痙攣し始めているのか、まだ吐くほどではないものの吐き気が込み上げてくる。

 

「悪い子たちでは、ありません……。あなたのことを、とても心配していて……、守ろうとしています……」

 

 悪霊の類ではなく、守護霊に近いと言うことだろう。彼女のお墨付きに吐き気は少々落ち着き、少しずつ血の巡りが戻ってくるような感覚がする。だがしかし、そういった存在に心当たりはなかった。

 

「あの子たちは、いつも……あなたの傍にいます……。少しだけでも、信じてあげてください……」

 

 彼女に背中を擦られたまま5分ほど経って、ようやく立ち上がれるところまで体調が回復する。

 

「すみません。ありがとうございました、先輩」

「いえ……。気にしないで、ください……」

 

 そう言うと、マンハッタンカフェはまた虚空に視線を合わせる。私もその空間を見るが、相変わらず気配は全く感じ取れない。だがしかし、彼女は笑顔で友好的な態度を見せているし、害意や敵意と言ったものがないことは事実なのだろう。

 

「おやすみなさい……」

「あっ。はい、先輩。おやすみなさい」

 

 マンハッタンカフェと別れの挨拶を交わし、また一人になった。しばらくそのまま立ち尽くしていたが、このままここにいても致し方ないと部屋へと歩みを進める。現金な話だが、北棟に1人で戻って来た時と比べて、少しだけ足取りは軽かった。

 

 専門家の彼女がそう言うのだから、私に何かしら守護霊みたいなものが2体憑いていることは確かなのだろう。私には知覚できない以上不気味さは拭い切れないが、まともな対抗手段の無かった存在から守ってもらえるのだと思えば、悪くはない。何かあった時は、目に見えない彼らに頼ろう。

 

 そう思った途端、壁の中から低くくぐもった音がする。

 

「ひゃいっ」

 

 頭を抱えて小さく丸まると、音はすぐに減衰して消えていった。

 

 ……早速守ってくれたのかな?

 

 数分待って落ち着いてから、今の音はトイレの水が流れる音だったのではないかと気がつく。

 

 今世ですっかり染み着いてしまったビビりは、そうそう簡単には治りそうになかった。



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第44話:初めての聖蹄祭

投稿まで2ヶ月以上を要してしまい、申し訳ございませんでした。

ノートPC買い換えに伴いキーボードが変わったため、誤字脱字や誤変換が前話までより多いかもしれません。こちらでも確認はしておりますが、もし見つけましたら誤字報告をお願いいたします。


 歳月人を待たずとはよく言ったもので、とうとう聖蹄祭の校内公開日を迎えた。2週間の準備期間はあっという間に過ぎ去り、直前まで皆それぞれの仕事に追われる羽目になってしまったが、その分良いものができたはずだ。

 

 ファン感謝祭としては明日の一般公開日こそが本番なのだが、既に校内全体に浮かれたような雰囲気が漂っている。

 

 なにせ、校内公開日には在校生の保護者やOG、進学検討中の児童とその保護者が入場してくるのだ。上京してきてなかなか地元に帰れない子たちにとっては、久しぶりに親に会える日だろう。先輩たちにとっては、卒業した更に上の先輩、あるいは転校した同級生や後輩と旧交を温める日になるだろう。人によっては、地元のレースクラブで面倒を見ていた子が来ることもあるだろう。

 

 中でも、初めての聖蹄祭となる私たち1年生の教室が集まった階は、のぼせていると言ってもいい有様だった。なぜなら1年生は大半がデビュー前なので、名家出身でもない限りファンなんてほぼついていないのである。故に、久しぶりに家族や知人に会える今日こそが本番という気持ちなのだ。

 

 私自身、8月の頭以来もう1ヶ月半ほど家族に顔を見せていないこともあり、年甲斐もなくそわそわとした気分である。どうにも落ち着かず今日のために用意した腕時計を見ると、まだ開場時間の3分前だ。先ほど確認したときから1分と経っていなかった。

 

「ノヴァちゃん、着付けどう?」

 

 教室から出てきた受付担当のクラスメイトが、声をかけてきた。彼女は頭に巨大な釘が刺さったように見える仮装をしている。

 

 私を含めた呼び込み担当ももちろん仮装している。私のそれは、皿屋敷のお菊――いわゆるお皿を数える亡霊だ。仮装と言っても、着物を着て紙のお皿を17枚(・・・)持っているだけなのだが。私としてはもっと本格的なものの方が良いと思ったのだけれど、「ノヴァちゃんは可愛くした方がお客さん呼べそうだから」と言う意見が多くてこうなってしまった。

 

「大丈夫です。流石のお手前で」

「お祖母ちゃんには負けるんだけどね。苦しくなったらいつでも言ってね」

 

 呉服屋の娘である彼女は持ち場へ戻っていく。

 

 クラスメイトが戻っていった教室の中は、すっかり本格的なお化け屋敷と化している。昨日のうちに写真を撮ってきて貰って内装を確認したのだが、寝不足になりながら生首を頑張って量産しただけの甲斐はあったと言えるほど、非常におどろおどろしい雰囲気だった。準備前のただの教室だった段階で四隅への盛り塩を強行していなければ、今後精神的な忌避感で入れなくなっていたかもしれない。

 

 呼び込み担当の仮装はなんだかんだ可愛い路線が多いので、詐欺的ですらある。

 

「あだっ」

「あっ、ごめん」

 

 危なくないようにスポンジで出来ている釘が他の子に当たったようで、謝る声が聞こえた。

 

 地に足がつかない心持ちで教室前の廊下をうろうろと歩き回る。しばらくして、ようやく開場時間になったことを知らせるアナウンスが流れてきた。

 

 1年生の階は上の方にあるから、最初に来るのは基本的に保護者だろう。入場口である正門に近い方の階段を注視し、耳をそばだてる。数分ほど経って、階段へ繋がる角から人が現れた。

 

「聖蹄祭へようこそ! 1年B組のお化け屋敷を見ていきませんか?」

 

 接客用の笑顔とともに来場者へ声をかける。本番の始まりだ。

 

 

 

 ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ ⏰ 

 

 

 

 校内公開日といえども、全校生徒の保護者、入学志望者とその保護者、卒業したOGが来るとなれば相当の人数になる。それに加えて初めての聖蹄祭ということもあって少々気合いが入りすぎていたのか、最初の休憩時間を前にして、今シフト担当の呼び込み係は少しの疲れを見せ始めてきていた。

 

 それは私も例外ではない。前世では、競走馬としての成績がパッとしなかった場合の保険として、積極的にファンサービスをしていた。故に、接客には手慣れているつもりだった。しかし、ウマ娘の体での呼び込みは、良い写真や動画が撮れるように振る舞うこととは勝手が違う。授業でボイストレーニングをしていなければ、とうに声は枯れていただろう。

 

 私の集中力にも少々の陰りが見え始めた、その時。

 

「久しぶりだなぁ、ノヴァ!」

 

 背後から両肩を捕まれた。どこかで聞いたような覚えのある声だが、突然のことだったので思い出せず――。

 

「うひゃあっ!?」

「あ、(いって)

 

 驚きのあまり暴れた尻尾が、私の背後をとった誰かにクリーンヒットした。お化け屋敷ということで、知らず知らずのうちに気が張り詰めていたかもしれない。痛がる声はやはり聞き覚えのあるもので、背後に立つその人が誰なのかを薄々察する。

 

 肩から手が離れたのでぐるりと背後を向き、その人の姿を目で捉えた。

 

「はぁ。びっくりさせないでください。スタークさん」

「いやぁ、すまん。ここまで驚くとは思ってなくてな」

 

 下手人は、今も地元でお世話になっているシアトルスタークさんだった。普段根岸公園で会うときは休日の趣味の時間ということもあって、ジャージ姿で少し気の抜けた感じであることが多い。しかし今日はスーツを着てピシッとした雰囲気であり、いかにも仕事のできそうな人という印象を与える。

 

「お久しぶりです。6月以来ですよね?」

 

 小首を傾げて確認をとる。7、8月は両親の元で練習をしていたので、スタークさんには会う機会がなかったのだ。

 

「あぁ、そうだな。それにしても……」

 

 スタークさんが私の頭の天辺から足先までを見た。クラスメイトのお墨付きが出ているので妙な衣装ではないはずだが、どうだろうか。

 

 一通り確認したらしいスタークさんがへらりと破顔する。

 

「おまえの身長変わらねぇな」

「変わりましたが? 去年より3ミリ伸びてますが?」

「伸び鈍ってんじゃねぇか」

 

 けらけらとスタークさんが笑う。いけない。反射的に反論してしまった。

 

「まぁ、今のはちょっとした冗談だよ」

 

 スタークさんの表情が、本気で褒めるときのそれに変わる。

 

「衣装、よく似合ってるな」

「……そう言ってもらえて、良かったです。同じクラスの子が選んで着付けてくれたものですから」

「良いセンスの子だな」

 

 いつもと比べて、スーツを着ている影響なのか格好良く見えることもあり、少しくらっと来た。私が転生していないただのウマ娘だったら、落とされていたかもしれない。トレセンにいた頃のスタークさんは、相当の生徒たちをその道に突き落としてしまったに違いない。そう確信させるほどだった。

 

 気の迷いを振り払うように口を開く。

 

「スタークさんは、スーツなんて珍しいですね?」

「あー、ノヴァからすればそうか。ま、恩師と古巣に顔見せる以外にも、うちの製品ひいきにしてくれてるトレーナーやウマ娘への挨拶回りも兼ねてるんでな」

「……それ、良いんですか?」

 

 スタークさんは、大手蹄鉄シューズメーカーの開発部に勤めている。OGとして来ているのに営業行為をするのは、アウトであるように思われた。

 

「OGなら、名刺渡さずに数分立ち話するくらいは学園も大目に見てくれるんだ。間接的に卒業なり中退なりしたやつの進路確保になるからな」

「へぇー」

 

 気の抜けた返事が出る。前々世の記憶は破損が激しくて、そのあたりの大人の世界の話は今世で知った分しか知らないのだ。履歴書にトレセン学園と書いてあると、少なくともウマ娘向けスポーツ用品のメーカー就職時に有利になる。そういうことなのだろう。

 

「ま、この話は置いといて、だ」

 

 スタークさんが話題を変える。

 

「3ヶ月の間どうだったんだ? もうトレーナーはついたか?」

「まだ選抜レースにも出てませんよ。でも、まあ、最近タイムも伸びてきてますし、身体の調子も結構良い感じなので、前にスタークさんが言ったとおりに年末頃か、遅くても春には本格化しそうな気がします」

 

 前々世でよく遊んでいたアプリ版の設定とは異なり、今世ではウマ娘の本格化はある程度客観的な判断ができる。確証が持てない程度の精度なので、最終的には選抜レースで確かめる必要はあるのだが、本人の主観だけでしかわからないものではなくなっているのだ。

 

「お、そうか。じゃあ、なんとなく適性が見えてきた頃になったら連絡してくれよ。靴用意しとくからさ」

「あれ、デビューしたらって話だったと思いますけど?」

「そうだったか? まあ、早くなる分にはいいだろう」

「まあ、助かりますけど」

 

 話題が途切れて、一瞬沈黙が生まれる。それでようやく、私の本来の仕事を思い出した。

 

「あ、どうだ。スタークさん、うちのお化け屋敷見ていきませんか?」

「そうだな。せっかくだし見ていくわ。いやぁ、懐かしい。私もやったなぁ」

 

 そう言ってスタークさんはうちのクラスのお化け屋敷に消えていき――。

 

「うぉわー!」

 

 散々叫んだあげく、げっそりとした顔で出てきた。ウマ耳は萎れ、尻尾も先ほどより力なく垂れている。

 

「どうでしたか?」

「力、入れすぎだろ……。生首が飛んでくるなんて思わなねぇって」

「あっ、私の班の力作ですね」

「ノヴァが作ったのか? えっげつないもの作りやがって」

「でしょう? 私は絶対入りません」

「お前さぁ」

 

 思わずといった様子で笑うスタークさんにつられて、私も笑う。

 

「スタークさんたちのお化け屋敷と比べて、どうでした?」

「絶対こっちの方がやばい」

 

 彼女は、降参とでも言うように両手を挙げた。

 

「まあ、完全に私たちだけで作ったわけではないんですけどね。生徒会から、昔の聖蹄祭で出したお化け屋敷の図面を貰って研究したんです。多分、スタークさんたちのも参考になってますよ」

「言われてみれば、受付周りの工夫に見覚えがあるわ。なるほど、道理で」

 

 スタークさんが一瞬腕時計を見た。

 

「あっ、やっべ。もう少し話していたいところだけど、そろそろ次行くわ」

「はーい。また来週末」

「ん? ああ、そうか。また来週な」

 

 手を振ってスタークさんを見送る。

 

 その姿が丁度人混みの中へ消えた瞬間だ。背後の雑踏の中から、今のところは私だけに聞き分けられる音が近づいてきた。

 

 ……この足音は!

 

「お姉ちゃーん!」

 

 背後を向くと同時に聞こえてきたその声は、間違いなく我が家の大天使のものだ。人混みの隙間を縫って突撃してきた小さな影を受け止める。

 

「今日も元気だね、美月。久しぶり」

「うん、久しぶり!」

 

 美月と目線を交えて挨拶を交わす。いつも通りのやりとりのはずなのに、なぜか違和感を覚えた。先ほど身長を弄られて敏感になっているせいだろうか。1ヶ月半ぶりに会う美月の身長が、ずいぶんと伸びているように感じられる。

 

 ……現実逃避は、やめよう。つむじが見えなくなってきてない?

 

 数年前までは並んで立つと美月のつむじが見えていたくらいの身長差があったはずなのだ。

 

「ノヴァ、久しぶり」

「元気にしていたかい?」

「あ、うん。久しぶり」

 

 美月の後を追ってきた両親に、挨拶もそこそこに確認をとる。

 

「ねぇ、お父さん、お母さん」

「どうかした?」

「何かしら?」

 

 私の様子が少しおかしいと感じたのか、お父さんもお母さんも私の疑問に答えてくれる姿勢を見せた。

 

「もしかして、美月に身長追いつかれて来てる?」

「……来年中には、追い抜かれるんじゃないかしら」

「そうだね。でも、ウマ娘の身長はヒトよりばらつきが大きいから、気にしなくていいよ」

「……やっぱり?」

 

 実際には、数年前から差は縮み始めていたのだろう。きっと、庇護すべき妹というイメージが強すぎて、私が気がついていなかっただけなのだ。

 

「どしたの、お姉ちゃん?」

「んー? 美月は成長期だねって思っただけだよ。きっと将来は傾国の美女だね」

「けいこく?」

「凄い美人になるってこと」

「そうかな?」

「そうなの」

 

 抱きしめたまま美月の頭をうりうりと撫でていると、教室から交代の子が出てきた。丑の刻参りの衣装を、高下駄やろうそくなど危ない部分を安全になるよう改変したものだ。

 

「ノヴァちゃーん、交代の時間――あっ、妹ちゃん?」

「うん。宇宙一可愛いでしょう?」

「わーお。シスコンだぁ」

「シスコンじゃなくて。事実」

 

 世界の真理を語っているうちに、代わりの子が何かに気がついたように首を傾けた。

 

「……あれ、いつもの敬語じゃないね?」

 

 ……いけない、いけない。テンションが上がりすぎた。

 

「ちょっと美月、お父さんとお母さんの方行っててくれる?」

「うん。わかった」

 

 一旦美月を解放して、咳払いをした。

 

「……気のせいではありませんか?」

「それは、無理があると思うよ。ノヴァちゃん……」

 

 ほんのりと顔が熱を帯びている。何やらシャッター音がしたのでその方向を見ると、お母さんがカメラを構えていた。あえて無視をする。

 

「まあまあ、細かいことはいいじゃないですか。交代ですよね? 時間までお願いします。5分前までには戻りますから」

「はーい。いってらっしゃい」

 

 往来の邪魔にならないようどこから回るか作戦会議をするために、美月や両親と共に廊下の端に寄る。

 

「美月、何見に行きたい?」

 

 シフト上は3回ほど休憩時間はあるが、うち1回はラフィさんたちの所属であるチームアダラのミニライブを見に行くと決めている。故に家族で回れる時間はどうしても限られてくるので、一緒に回りたいところに目星をつけるために、美月とお父さんお母さんは先に聖蹄祭を見て回って来ているのだ。美月の心の内はもう決まっているだろう。

 

「あのね、絶対に一緒に行きたいところがあるんだけど、いい?」

「もちろん。どこ?」

「こっち!」

 

 ぐいぐいと私の手を引いて美月は歩いて行く。どことなく子犬の散歩を連想させる。私たちの後ろを、ビデオカメラを持ったお父さんと普通のカメラを持ったお母さんがついて来ていた。

 

 美月に手を引かれて階段を下りた先にあった模擬店、それは――。

 

「ネイル?」

「うん!」

 

 教室1室が丸々ネイルサロンの模擬店になっている。非常に陽の雰囲気を放つその空間の主は、どうやらトーセンジョーダンであるようだ。非常に生き生きとしているように見える。

 

 ……そうか。美月もお洒落に興味を持つお年頃か。

 

 美月はトゥインクル・シリーズの平場レースすら熱心に見ているくらいのウマ娘好きで、GI級競走の煌びやかな勝負服を幼い頃から見ている。そういうことに興味を持ち出すのは、むしろ遅かったくらいなのかもしれない。

 

 ただ、一つだけ心配事がある。

 

「ネイルって、かなり時間必要だって聞いたけど」

「そうなの?」

「私も友達に聞いただけだから、何とも」

 

 一応は女子中学生、勉強中の雑談にそういう話題が出ることもある。私は中身競走馬のまがい物なので、「へぇー」と気の抜けた返事しか返せないのだが。

 

 私の疑問には、お母さんが答えた。

 

「決まったデザインのネイルシールから選んでいるみたいだから、始めちゃえば30分かからないと思うわよ」

 

 模擬店内を覗いてみると、確かにネイリスト担当の生徒とお客さんでよく話し合ってデザインを選んでいる様子が見える。聖蹄祭(文化祭)でネイルサロンをやるための工夫なのだろう。

 

 ……多分、トレーナーと一緒に頑張ったのかなぁ。ウマ娘のトーセンジョーダンは、そういうところまで頭が回るタイプじゃなかった気がするし。

 

 そんなことを考えながら、模擬店の列に並ぶ。意外なことに、10分とかからず私たちの番が来た。

 

「いらっしゃいませー」

「私と妹の2人、一緒にお願いできますか?」

「2人? 大丈夫ですよー。11番のテーブル行ってくださーい」

 

 少し軽いノリでテーブルに案内される。そのテーブルには担当のウマ娘が2人いた。友達グループ対応用のテーブルなのだろう。

 

「ようこそー」

「見本のシールから選んでほしいんだけど、どれがいい?」

「うわぁ、きれい……!」

 

 美月は色とりどりのサンプルを見て目を輝かせている。

 

「美月はどれがいい?」

「んーとね……」

 

 うーんうーんと可愛らしく悩んでいる。担当のウマ娘たちも美月の愛らしさに思わずといった様子で微笑んでいる。

 

「美月ちゃんはどんなのがいいの?」

「お姉ちゃんに似合うやつ!」

「えっ。私?」

「うん!」

 

 接客の子の呼びかけに、美月は予想外の答えを返した。

 

「えっと、美月の好きなの選んでいいんだよ?」

「お姉ちゃんの好きなのと一緒がいいの」

「なら、私が決めるけど……」

 

 少し、困ってしまう。美月が決めたらそれとお揃いにしようと思っていたので、「いろいろあるんだなぁ」くらいにしか見本を見ていなかったのだ。

 

 待たせてはいけないと急いでサンプルに目を通し、ほとんど勘でデザインを決める。それは、星空を連想させる黒ベースにラメ入りのものだった。

 

「じゃあ、わたしもそれでお願いします!」

「えっと、美月、本当にこれで良いの? もっと可愛いのが良かったりしない?」

「お姉ちゃんとお揃いの方がいい!」

 

 にこにこと満面の笑みで美月はそう言った。

 

 ……ん゛ん゛! 今日も妹が可愛い……!

 

 こんなこと言われたら、お姉ちゃん冥利に尽きてしまう。

 

「それじゃ、爪のケアから始めるねー」

「あっ、はい。お願いします」

「お願いします!」

「ふふっ。はい、お願いされます」

 

 それからはもうお任せだ。私自身、普段から爪の形をやすりで整えてこそいる。しかしそれは何となく削蹄のようで懐かしいからであり、お洒落のためではない。甘皮を処理するだとかまではしたことがなかったから、そんなことするんだと新鮮な体験だ。つけて貰うネイルシールは、硬化不要のジェルタイプと呼ばれるものらしい。施術中に「シールタイプより見た目が良くて、硬化するジェルタイプより爪に優しいんだよ」と、担当の子が楽しそうに語っていた。

 

 30分ほどで施術が終わり、美月と手を隣り合わせて見せ合いっこをする。

 

「お姉ちゃん、きれいだね!」

「そうだね、とてもきれい」

 

 両手の全ての爪が、夜空のような色合いになった。そうして初めて、どうしてこのデザインが目に留まったのかを理解する。

 

 ……あっ、そうか。前世の蹄の色そっくりなんだ。

 

 最初から、こうあるべきだったのではないか。そう感じてしまうほどに、ネイルを施した指がしっくりと来ていた。



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