慈命信仰 / Imaginary Affection (宇宮 祐樹)
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慈命信仰 / Imaginary Affection
■
「もう、ここには来ないでくださいな」
ベールの放ったそんな言葉に、花瓶の水を入れ替えるネプテューヌの手が止まる。
「……どういうこと?」
「これ以上、無様な姿を見せたくありませんの」
白いベッドの上、窓の外を眺めるベールの瞳には、夕焼けの色が差しこんでいた。
一つの時代が、終わりを迎えようとしていた。
それは争いによる崩壊でも、退廃による終焉でもない。ただ、リーンボックスの人々が新たな女神を求めた、それだけのこと。ありきたりでつまらない、退屈な時代の終わりであった。
同時にそれは、仕方のないことでもあった。人々に選ばれなければそこで終わるだけ。女神とは所詮、そんな脆弱な存在なのだ。今更それを嘆いたところで、何かが変わるはずもない。
だからこそ、ネプテューヌは内にある憤りをどこに向けていいか、分からなくなった。
「そんな顔をしないでくださいな、ネプテューヌ」
「でも」
「いずれは来る運命でしたもの。受け入れる覚悟はいつだってできていましたわ」
浮かべたベールの笑顔は、いつもよりも弱々しく、儚いものだった。
それは、ネプテューヌが一番見たくない、彼女の表情でもあった。
「後悔してないの?」
「いいえ」
言い切るベールは、どこか少しだけ寂しそうでもあった。
「……でも、そうですわね。あと一つだけ、やり残したことがありますの」
そうして、ベールが懐から取り出したのは、一枚の小さなメモだった。
「これは?」
「行ってみれば分かりますわ」
首を傾げるネプテューヌに、ベールはただ一言。
「どうか、この子たちを愛してあげてくださいな」
言葉の意味は分からなかった。彼女が何を願っているのかすらも、不明である。ただ、告げたベールの瞳の奥には、後悔の爛れた色と、ネプテューヌに縋るような希望の色が、ぐちゃぐちゃに入り混じっていた。
何も言い返すことはできなかった。震える手から、小さなメモを受け取る。
ベールの指が動かなくなったのは、ちょうどその時だった。
「あなたにしか頼めませんから。お願いしますわ」
「……私じゃなきゃ、駄目なの?」
「きっと、あなたしか理解してくれませんもの」
返ってきた答えはそれだけだった。乾いた沈黙が、二人の間で流れていく。
やがて夕陽が地平線の向こうへと沈み、夜の帳が降り始めた。
「……楽しかったですわ。あなたたちと、同じ時を過ごすことができて」
「ううん、まだ終わりじゃないよ。私、最後までベールのそばに……」
「ネプテューヌ」
言葉を遮るベールの声は、そのまま消え行ってしまいそうなほどに儚いもので。
「どうか、私を――女神グリーンハートを、ここで終わらせてくださいな」
告げられたその言葉に、ネプテューヌは何も答える事ができなかった。そしてそれは、避けられない肯定を意味していた。握り締めた拳は、けれど行き場を失って、やがて弱々しく解かれる。
はじめてネプテューヌは自分のことを恨んでいた。友人がこんな姿になっても、何もできない非力さを。そして、そんな友人の望んだ終わりを素直に祝福できない自分を。
「……さよならを、しましょうか」
ベールが微笑みながら、ネプテューヌに語り掛ける。
そこには我が子を見守るような、そんな暖かな何かが込められているような、気がした。
視界が揺らぐ。瞳に浮かんだ涙が溢れそうになったけど、すんでのところで止めた。でなければ、ベールの最後の姿を見ることができなかったから。きっとそうしないと、ネプテューヌは一生後悔すると思った。
やがて息を大きく吸って、ネプテューヌが口を開く。震えた喉からは、思うように声が出なかった。
「ベール」
「はい」
「楽しかったよ、私も。みんなもきっと、そう思ってる」
「そう言ってくださって、光栄ですわ」
「……私の友達でいてくれて、ありがとう」
「こちらこそ」
惜しむように、短い言葉を交わしていく。けれど、それも終わりが近づいていく。
そして。
「さよなら、ベール」
「ええ。さよならですわ、ネプテューヌ」
ある一つの時代が、そこで幕を閉じた。
■
渡されたメモに記してあったのは果たして、とある家の住所であった。
弱々しい文字で記されたそれが示していたのは、リーンボックスのはずれにある小さな田舎町であった。教会が存在する中央部とは違い、
照り付ける太陽の下、ネプテューヌがあぜ道をとぼとぼと歩く。そのうちに何人かの人とすれ違ったが、少しの挨拶をするだけで終わった。自分が女神だと知られていないことにネプテューヌはひどく驚いたが、閑散としたその村の雰囲気を察すれば、すぐにそういうものか、と納得できた。
「こんにちは!」
すれ違う少女が、そうやって声を上げる。これで七人目だった。
「こんにちは」
「……あれ? お姉ちゃん、どこかで見たことあるような……」
すると少女はすぐに、あー! と大きな声で叫んで、
「もしかして、パープルハートさま!?」
「そうだけど……」
「うわ、すっごーい! ベールさまいがいのめがみさま、はじめてみたかも!」
きらきらと目を輝かせる少女は、けれどすぐに、あれ? と首を傾げて、
「どうして、パープルハートさまがリーンボックスにいるの?」
「……ベールに少し頼まれてね。ここに来てくれ、って」
「ベールさまに?」
「うん……君なら、ここがどこか分かる?」
そうして、ネプテューヌがベールから渡されたメモを、少女へと見せる。
すると彼女はすぐ、何か気づいたようにネプテューヌの顔を見上げた。
「うん! ここからすこし、とおくなっちゃうけど……」
「案内してくれる?」
「いいよ!」
笑顔で頷いた少女と共に、あぜ道を再び歩き出すこと、しばらく。
やがて少しの時間をかけて辿り着いたのは、一件の廃屋だった。
「……本当にここなの?」
「うん、ここだよ?」
何度かメモを見ながら、少女がこくりと首を縦に振る。
おおよそ人など住めるようなところではなかった。窓ガラスは殆ど割れていて、壁の塗装は剥げ落ちたまま。何なら強い風が吹けば、そのまま吹き飛んでしまいそうなほど、ぼろついた建物だった。
がたついた入り口を無理やりこじ開けると、天上から埃が降ってくる。髪に着いた汚れを振り落としながら、ネプテューヌが軋む床を踏みしめて、奥の方へと進んでいく。
「ベールったら、なに考えてんのさ……」
眉をひそめたネプテューヌが、小さくそんな言葉を漏らす。
小さな猫の鳴き声が聞こえてきたのは、それからすぐのことだった。
「にゃー」
灰色をした三毛だった。水色の瞳はじっとこちらを見つめていたかと思うと、すぐに何かに気づいたようにして、奥の方へと姿を消した。すぐにネプテューヌが少女の方へ振り向いたけれど、彼女は何食わぬ顔で首を傾げるだけ。問いかけるだけ無駄だと悟り、ネプテューヌが更に奥へと進んでいった。
そして。
「……なにこれ」
おそらくこの建物の中で一番大きな部屋であろう、古びた和室には。
十数匹の猫がぼんやりと座っている光景が、ただただ広がっていた。
「ぜーんぶ、ここにすんでるんだよ」
呆けた表情のまま固まるネプテューヌの隣で、少女が告げる。
「もともと、のらねこだったんだ。でもね、ベールさまがおせわしてあげてたの」
「……ベール、が?」
「うん。いそがしいから、たまにだけど」
確かによく見れば、部屋の隅々には世話をしている痕跡が残っていた。
『どうか、この子たちを愛してあげてくださいな』
最後にベールの遺した言葉が、頭の中で反芻される。きっと、この猫たちがそうなのだろう。それは論理的に理解できる。しかし、ネプテューヌはその事実にただただ打ち震えていた。
「国民ですら……人ですらなかった、っていうの?」
そう言葉を漏らすネプテューヌの傍に、一匹の子猫が駆け寄った。
まだ恐怖すらも知らなさそうな、幼い猫だった。丸い水色の瞳が、先程の三毛の子供だと教えてくれた。手のひらに収まってしまいそうなほどに小さなその体を抱えると、指と指との間から暖かな温もりが伝わってくる。そしてそれは、ネプテューヌの震えをだんだんと鎮めてくれた。
果たして、命とはこんなにも暖かなものだっただろうか。
「そのこ、このまえにうまれたばっかりなんだ」
「……そうなんだ」
今一度、その小さな体を指だけで抱きしめる。
「ベールさまも、そんなふうにしてたよ」
少女の言葉に不思議と疑問は抱かなかった。
きっと彼女は、命に魅入られていたのだと思う。女神とは消滅と誕生を繰り返すもの。いわば世界の仕組みである。そこに命はなく、慈愛は存在するが温もりがあったかというと、ネプテューヌでも定かではない。そんな自らにはない温もりを、彼女は求めていたのかもしれない。
子猫を膝の上に乗せ、その場に座り込む。
小首を傾げる猫の瞳には、今にも泣き出しそうなネプテューヌの顔が映っていた。
「私が、ベールと同じようにできるかわからないけど」
そうして彼女は、その子猫を優しく抱きしめてから、
「たくさん、愛してあげるからね」
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「今の私に、上手くできるかどうかは分かりませんけど」
「どうか、私の愛を受け取ってくださいな」
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