慈命信仰 / Imaginary Affection (宇宮 祐樹)
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慈命信仰 / Imaginary Affection

 

「もう、ここには来ないでくださいな」

 

 ベールの放ったそんな言葉に、花瓶の水を入れ替えるネプテューヌの手が止まる。

 

「……どういうこと?」

「これ以上、無様な姿を見せたくありませんの」

 

 白いベッドの上、窓の外を眺めるベールの瞳には、夕焼けの色が差しこんでいた。

 一つの時代が、終わりを迎えようとしていた。

 それは争いによる崩壊でも、退廃による終焉でもない。ただ、リーンボックスの人々が新たな女神を求めた、それだけのこと。ありきたりでつまらない、退屈な時代の終わりであった。

 同時にそれは、仕方のないことでもあった。人々に選ばれなければそこで終わるだけ。女神とは所詮、そんな脆弱な存在なのだ。今更それを嘆いたところで、何かが変わるはずもない。

 だからこそ、ネプテューヌは内にある憤りをどこに向けていいか、分からなくなった。

 

「そんな顔をしないでくださいな、ネプテューヌ」

「でも」

「いずれは来る運命でしたもの。受け入れる覚悟はいつだってできていましたわ」

 

 浮かべたベールの笑顔は、いつもよりも弱々しく、儚いものだった。

 それは、ネプテューヌが一番見たくない、彼女の表情でもあった。

 

「後悔してないの?」

「いいえ」

 

 言い切るベールは、どこか少しだけ寂しそうでもあった。

 

「……でも、そうですわね。あと一つだけ、やり残したことがありますの」

 

 そうして、ベールが懐から取り出したのは、一枚の小さなメモだった。

 

「これは?」

「行ってみれば分かりますわ」

 

 首を傾げるネプテューヌに、ベールはただ一言。

 

「どうか、この子たちを愛してあげてくださいな」

 

 言葉の意味は分からなかった。彼女が何を願っているのかすらも、不明である。ただ、告げたベールの瞳の奥には、後悔の爛れた色と、ネプテューヌに縋るような希望の色が、ぐちゃぐちゃに入り混じっていた。

 何も言い返すことはできなかった。震える手から、小さなメモを受け取る。

 ベールの指が動かなくなったのは、ちょうどその時だった。

 

「あなたにしか頼めませんから。お願いしますわ」

「……私じゃなきゃ、駄目なの?」

「きっと、あなたしか理解してくれませんもの」

 

 返ってきた答えはそれだけだった。乾いた沈黙が、二人の間で流れていく。

 やがて夕陽が地平線の向こうへと沈み、夜の帳が降り始めた。

 

「……楽しかったですわ。あなたたちと、同じ時を過ごすことができて」

「ううん、まだ終わりじゃないよ。私、最後までベールのそばに……」

「ネプテューヌ」

 

 言葉を遮るベールの声は、そのまま消え行ってしまいそうなほどに儚いもので。

 

「どうか、私を――女神グリーンハートを、ここで終わらせてくださいな」

 

 告げられたその言葉に、ネプテューヌは何も答える事ができなかった。そしてそれは、避けられない肯定を意味していた。握り締めた拳は、けれど行き場を失って、やがて弱々しく解かれる。

 はじめてネプテューヌは自分のことを恨んでいた。友人がこんな姿になっても、何もできない非力さを。そして、そんな友人の望んだ終わりを素直に祝福できない自分を。

 

「……さよならを、しましょうか」

 

 ベールが微笑みながら、ネプテューヌに語り掛ける。

 そこには我が子を見守るような、そんな暖かな何かが込められているような、気がした。

 視界が揺らぐ。瞳に浮かんだ涙が溢れそうになったけど、すんでのところで止めた。でなければ、ベールの最後の姿を見ることができなかったから。きっとそうしないと、ネプテューヌは一生後悔すると思った。

 やがて息を大きく吸って、ネプテューヌが口を開く。震えた喉からは、思うように声が出なかった。

 

「ベール」

「はい」

「楽しかったよ、私も。みんなもきっと、そう思ってる」

「そう言ってくださって、光栄ですわ」

「……私の友達でいてくれて、ありがとう」

「こちらこそ」

 

 惜しむように、短い言葉を交わしていく。けれど、それも終わりが近づいていく。

 そして。

 

「さよなら、ベール」

「ええ。さよならですわ、ネプテューヌ」

 

 ある一つの時代が、そこで幕を閉じた。

 

 

 渡されたメモに記してあったのは果たして、とある家の住所であった。

 弱々しい文字で記されたそれが示していたのは、リーンボックスのはずれにある小さな田舎町であった。教会が存在する中央部とは違い、長閑(のどか)な田園風景とぽつぽつと点在する家々、三々五々に散らばる人々など、言ってしまえば都市整備が整っていない未開拓の村のようでもあった。

 照り付ける太陽の下、ネプテューヌがあぜ道をとぼとぼと歩く。そのうちに何人かの人とすれ違ったが、少しの挨拶をするだけで終わった。自分が女神だと知られていないことにネプテューヌはひどく驚いたが、閑散としたその村の雰囲気を察すれば、すぐにそういうものか、と納得できた。

 

「こんにちは!」

 

 すれ違う少女が、そうやって声を上げる。これで七人目だった。

 

「こんにちは」

「……あれ? お姉ちゃん、どこかで見たことあるような……」

 

 すると少女はすぐに、あー! と大きな声で叫んで、

 

「もしかして、パープルハートさま!?」

「そうだけど……」

「うわ、すっごーい! ベールさまいがいのめがみさま、はじめてみたかも!」

 

 きらきらと目を輝かせる少女は、けれどすぐに、あれ? と首を傾げて、

 

「どうして、パープルハートさまがリーンボックスにいるの?」

「……ベールに少し頼まれてね。ここに来てくれ、って」

「ベールさまに?」

「うん……君なら、ここがどこか分かる?」

 

 そうして、ネプテューヌがベールから渡されたメモを、少女へと見せる。

 すると彼女はすぐ、何か気づいたようにネプテューヌの顔を見上げた。

 

「うん! ここからすこし、とおくなっちゃうけど……」

「案内してくれる?」

「いいよ!」

 

 笑顔で頷いた少女と共に、あぜ道を再び歩き出すこと、しばらく。

 やがて少しの時間をかけて辿り着いたのは、一件の廃屋だった。

 

「……本当にここなの?」

「うん、ここだよ?」

 

 何度かメモを見ながら、少女がこくりと首を縦に振る。

 おおよそ人など住めるようなところではなかった。窓ガラスは殆ど割れていて、壁の塗装は剥げ落ちたまま。何なら強い風が吹けば、そのまま吹き飛んでしまいそうなほど、ぼろついた建物だった。

 がたついた入り口を無理やりこじ開けると、天上から埃が降ってくる。髪に着いた汚れを振り落としながら、ネプテューヌが軋む床を踏みしめて、奥の方へと進んでいく。

 

「ベールったら、なに考えてんのさ……」

 

 眉をひそめたネプテューヌが、小さくそんな言葉を漏らす。

 小さな猫の鳴き声が聞こえてきたのは、それからすぐのことだった。

 

「にゃー」

 

 灰色をした三毛だった。水色の瞳はじっとこちらを見つめていたかと思うと、すぐに何かに気づいたようにして、奥の方へと姿を消した。すぐにネプテューヌが少女の方へ振り向いたけれど、彼女は何食わぬ顔で首を傾げるだけ。問いかけるだけ無駄だと悟り、ネプテューヌが更に奥へと進んでいった。 

 そして。

 

「……なにこれ」

 

 おそらくこの建物の中で一番大きな部屋であろう、古びた和室には。

 十数匹の猫がぼんやりと座っている光景が、ただただ広がっていた。

 

「ぜーんぶ、ここにすんでるんだよ」

 

 呆けた表情のまま固まるネプテューヌの隣で、少女が告げる。

 

「もともと、のらねこだったんだ。でもね、ベールさまがおせわしてあげてたの」

「……ベール、が?」

「うん。いそがしいから、たまにだけど」

 

 確かによく見れば、部屋の隅々には世話をしている痕跡が残っていた。

 

『どうか、この子たちを愛してあげてくださいな』

 

 最後にベールの遺した言葉が、頭の中で反芻される。きっと、この猫たちがそうなのだろう。それは論理的に理解できる。しかし、ネプテューヌはその事実にただただ打ち震えていた。

 

「国民ですら……人ですらなかった、っていうの?」

 

 そう言葉を漏らすネプテューヌの傍に、一匹の子猫が駆け寄った。

 まだ恐怖すらも知らなさそうな、幼い猫だった。丸い水色の瞳が、先程の三毛の子供だと教えてくれた。手のひらに収まってしまいそうなほどに小さなその体を抱えると、指と指との間から暖かな温もりが伝わってくる。そしてそれは、ネプテューヌの震えをだんだんと鎮めてくれた。

 果たして、命とはこんなにも暖かなものだっただろうか。

 

「そのこ、このまえにうまれたばっかりなんだ」

「……そうなんだ」

 

 今一度、その小さな体を指だけで抱きしめる。

 

「ベールさまも、そんなふうにしてたよ」

 

 少女の言葉に不思議と疑問は抱かなかった。

 きっと彼女は、命に魅入られていたのだと思う。女神とは消滅と誕生を繰り返すもの。いわば世界の仕組みである。そこに命はなく、慈愛は存在するが温もりがあったかというと、ネプテューヌでも定かではない。そんな自らにはない温もりを、彼女は求めていたのかもしれない。

 子猫を膝の上に乗せ、その場に座り込む。

 小首を傾げる猫の瞳には、今にも泣き出しそうなネプテューヌの顔が映っていた。

 

「私が、ベールと同じようにできるかわからないけど」

 

 そうして彼女は、その子猫を優しく抱きしめてから、

 

「たくさん、愛してあげるからね」

 

 




「今の私に、上手くできるかどうかは分かりませんけど」

「どうか、私の愛を受け取ってくださいな」


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