江戸川コナンと魔術事件 (ラムセス_)
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地獄のかまど

 静寂なホテル内を引き裂くような女性の悲鳴が響き渡った。

 

 「っ!!この声は四階からだ!」

 

 コナンはとっさに、あるいはいつも通りに駆け出した。探偵としての性だ。謎があれば究明せねばならないし、事件があれば解決せねばならない。

 ホテルにエレベーターはない。狭い廊下の突き当りにある階段を、コナンは全速力で上った。

 

 四階に上がるとすぐに異常は知れた。

 階段を上がって二つ目の部屋、403号室の扉が開け放たれたままになっている。そしてその扉の前には座り込む女性の姿。食堂で知り合った宿泊客の一人、宮口さんだ。

宮口は青ざめた表情で目を見開き、恐怖に震えながら部屋の中を凝視している。

 

コナンが部屋の中に駆け込み、目を見開いた。

真っ黒に炭化した人型が、僅かに煙を燻らせていたのだ。

 鼻をつく異臭の中、コナンは鋭く口を開く。

 

「宮口さん、警察と救急車を!」

「………あ、は、はい」

 

呆然としたままゆるゆると携帯をポケットから出す宮口の横から、階段を勢いよく駆け上がる音が複数。

 

「コナン君!さっきの悲鳴は…………っ!」

「坊主!勝手にウロチョロするなって何度…………こいつぁ」

「安室さん、毛利のおじさん」

 

 部屋に満ちる焼死体の異臭と炭化した死体の凄惨な様子に、二人は息をのんだらしい。先走ったコナンを批難する毛利小五郎の視線も、瞬時に部屋の異常さに向けられた。

 遅れてやってきたオーナーや他の宿泊客に現場に立ち入らないよう注意しつつ、探偵たちは思考を高速で回し始める。

 

「……“地獄のかまどから人が漏れた”とはまた、言いえて妙ですね」

「馬鹿言ってねぇで警察に連絡だ!これが殺人以外のなんだってんだ」

「第一発見者の宮口さんが通報してくれてるよ、おじさん。それより、これは……」

 

 403号室はツインの客室だ。ベッドの上には無造作にボストンバッグが置かれ、テレビはつけっぱなし。ベッドの横に転がる運動靴は男性のものだ。

 荒らされた形跡はない。ただ長距離の運転に疲れた体でゆったり過ごしていた、そんな風情だ。

 

 そんな冬のホテルの日常を粉々にする、凄惨な事件の跡。

 死体はちょうどドアの目の前でこと切れていた。

 

 炭化し随分と小さくなってしまったそれは男か女かすら分からない。

 服も、装飾品も焼けてなくなってしまったのだ。手足は熱による筋肉の収縮であらぬ方向に屈曲し崩れ落ち、苦しみにもがいていたように見えなくもない。顔の肉は焦げ落ち、骨が露出して相貌すら定かではない。

 

 それほどのやけどを負いながらも、「彼」は動いていたようだった。

 

 ベッドの上からずり落ち、指をこぼしながら炭の跡を残してドアまで這った跡。

 そんなおぞましい痕跡が、黒々と絨毯を汚していた。

 

生きているはずのない、まさに“地獄のかまど”から人が這い出てきたかのような様相に、安室はこの地域に伝わる民話の一節を引用したようだった。

 

「おい、何があったんだ?」

「人が死んだって……」

 

ざわめきが波紋のように広がっていく。

これが殺人事件であるということは、すぐにでも知れ渡ることだろう。

 

 焼け死んだ人間の死体が、火の気のないホテル四階で見つかる。

 それは時代錯誤の焼身自殺でも試みたのでない限り、すなわち殺人である。

 

「……あの」

「宮口さん、どうしたの?」

 

おそるおそる、といった様子の女性の様子に、コナンは柔らかく声をかけた。

いまだ恐怖と混乱の引かない宮口は、携帯電話を片手に泣き出しそうに顔をゆがめていた。

 

「電話がつながらないんです。圏外でネットもつながらなくて……」

「圏外?でも昼間は問題なく……」

 

ズボンのポケットから取り出したコナンのスマホも、やはり圏外。

 

「僕のもです。1時間ほど前にかけたときはつながっていましたし、いくらここが山の上といっても電波が通らないほど田舎というわけでもありませんから。なにか基地局のほうで問題が起こったと考えるのが自然でしょうね」

「ったく、こんな緊急時に!亀山さん!ホテルに有線電話はないんですか?」

「あ、はい、一階のフロントに1台あります」

「ではそこから警察と救急車をお願いします!」

「警察と救急車ですね、わかりました」

 

口ひげを生やした痩身の男性、オーナーの亀山がざわめく宿泊客をかき分けてあたふたと階段を駆け下りていった。

 

「……基地局の異常、謎の焼死体。おまけに今日は猛烈な吹雪で外出はほぼできない。偶然だと思うかい?コナン君」

「もし、偶然じゃないとしたら……ホテルの電話に対策を打たないわけがないよね」

 

 密やかな二人の会話は、しばらくののち真っ青な顔色で上がってきたオーナーによって裏打ちされた。

 

 小さなスキー場近くの、小さなホテル。

 冬山の天気は荒れ模様で、ホワイトアウトするような猛吹雪があたりを覆いつくしている。

 スマホは通じない。有線電話も、ネットも何者かによって切断されている。

 そんな中、他殺死体が一つ。

 

「まるで古典的な推理小説のようじゃないかい?陸の孤島に閉じ込められた宿泊客たち。見つかる変死体。おあつらえ向きな地域の昔話」

「犯人は愉快犯。そう言いたいの?安室さん」

「昔ならいざ知らず、この現代に“タタリの仕業だ!”なんてならないだろう?連絡手段を断つのはともかく、わざわざ手間をかけて殺害方法を民話になぞらえるなんて何を考えていることやら」

 

 安室は大げさに肩をすくめた。

 

「死体は自分で動くはずないし、動いた跡があるならそれは動かした犯人がいるってこと。民話に合わせるためにわざわざ犯人は証拠を残していったのか、民話に合わせなきゃいけない理由でもあったのか……」

「ともかく、警察が来ない以上、できる限り僕らで調べるしかないね。毛利先生にはほかのお客さんたちへのケアもしてもらわなくちゃね」

 

 実質的にはこのホテルに閉じ込められる形となった宿泊客を落ち着かせるため、安室はにこやかに弟子の顔をかぶり、現場検証をしている毛利のもとへ向かっていった。

 

 その変わり身の早さに乾いた笑いをコナンは浮かべた。

 

 

 ふと、部屋の外、廊下に向かって振り返る。

 

 1拍、2拍。

 

  部屋に異常はない。しかし。

 …………なにかが、廊下側からこの部屋に向かって張り巡らされた、ような。

 

 視線とも殺気とも違う感じたことのない気配に、コナンは急速に身を引き締めた。

 まるで臓腑までまじまじと覗き込まれたような、あるいは細い細い蜘蛛の糸が部屋中に撒かれたかのような。

 

 廊下には遠巻きにこちらを眺める宿泊客が10人ほど。

 コナンは最大限に警戒しつつ、宿泊客の様子を探る。どの客も不安そうで、ドアの向こうに見える死体におびえて囁きあっている。

 

 その中で一人まっすぐに死体を見る男性がいた。

 

 日本人には珍しい自然な赤毛と、琥珀の瞳。体はがっしりしていて、おそらく鍛えているだろうことがうかがえる。

 夕食時食堂であったときに聞いた話によれば、剣道と弓道をかじっているというからそれで筋肉がついているのだろう。

 

 ロンドンに留学中で、現在は現地で友人になったイギリス人女性と旅行中の大学生。

 

 

 名を、衛宮士郎。

 

 

 奇妙な感覚と件の大学生の様子。

 何かに引っ掛かりを覚えつつ、コナンは現場検証に戻っていく。

 

 

それが、この世にも奇妙な一件の始まりであった。

平成のシャーロック・ホームズが、科学で解明できない、ロジックで理解できない、そんな魔術と神秘の世界をのぞき見ることになるきっかけ。

 それがおそらく、この赤毛の青年、衛宮士郎との出会いであったのだろう。

 

 

 

**********

 

 

 

 時刻は午後11時を過ぎている。もうすぐ日付も変わる夜更け、ホテル二階のロビーで古い壁掛け時計の音だけが規則正しく空気を揺らしている。

 

 ロビーにはホテルスタッフを含むホテルにいる全員が集まっていた。

 総勢23人。

 403号室に宿泊していたはずの男性客が一人姿を現さなかったが、誰もそれを指摘することはなかった。涙にくれる403号室のもう一人の宿泊客、行方不明の男性客の姉である宮口がひたすらに涙を流すさまを見ればその末路は明らかだった。

 

 ロビーには痛みの激しい皮張りのソファと古びたリビングテーブルが配置されていたが、今は脇によけられている。

 代わりにひろくとったロビー中央に青いビニールの敷物が敷かれ、宿泊客が不安のにじむ顔で各々スペースをとって座っている。

 

 そんな中、毛利小五郎はスタッフルームにあったホワイトボードの前に立ち、一つ呼吸を整えた。

 

 「えー、皆さん不安ななか、こんな時刻までありがとうございます。改めまして、私は名探偵の毛利小五郎です」

 

 名探偵、と強調する小五郎の声は自信に満ちている。

 実際の推理力はともかく、ネームバリューとみなぎる自信は宿泊客の不安を幾分か和らげる効果があったようだ。

 客たちの肩の力が抜けたのを見たコナンは、軽い笑いを覚えつつも素直に安堵していた。

 

「繰り返しになりますが、今日の午後8時13分、このホテルで死体が発見されました。死体は炭化しており個人識別は不可能でしたが、状況的に見て403号室に宿泊していた宮口正平さんでまず間違いないでしょう」

 

 小五郎の言葉にざわめきがさざ波建った。

 涙をかみしめて声を殺す女性、宮口に視線が集まる。

 

「死体の状況を見るに、他殺である可能性はきわめて高い。痕跡から推測するに、死亡した宮口正平さんは死後に部屋に運び込まれたと考えられます。それはすなわち、宮口さんを殺害して部屋に運び込んだ犯人がいるということ」

 

 宿泊客たちが息をのみ、一瞬ロビーは静まり返った。

 数瞬ののち、怯えを多分に含んだ叫びが上がった。

 

「それは、こ、このなかに殺人犯が紛れ込んでいるということか!!」

 

 声の主は恰幅のいい男性だ。

 肥満にすぎる腹部を冬用の分厚いセーターとブランド物のコートでふくらませ、バランスを崩しながらも立ち上がる。

 

 「それは断定はできませんが、外はこの大吹雪だ。逃げるにゃ凍死の覚悟すらしなきゃならんでしょう。私が思うに、犯人はまだホテル内に潜んでいる可能性が高い」

 

「あんた名探偵なんでしょう!こんだけ待たせといてまだ犯人がわかってないのか!」

「それは……」

 

 男性客は声を荒げた。かなり苛立っているように見える。

 対称的に、小五郎は言葉を詰まらせた。

 

 事実、この事件に関してわかっていることはほとんどないと言っていい。

 

 死体が発見されたのは午後8時13分。被害者は宮口正平。

 死因は不明。焼死なのか、何らかの方法で殺害された後で焼かれたのか、鑑識道具のないここで判別するすべはない。

 

 部屋に火の気はなく、また絨毯や調度品が焼けた様子もないので、遺体が焼かれたのはこの部屋の中ではないだろう。

 

 死亡推定時刻は午後2時から8時の間。その間宮口正平は自室にこもっていたらしく、目撃したのは2時に部屋の清掃に来たスタッフのみ。

 怪しい物音も殺害事件を示すような怒声・悲鳴を聞いた人物はいなかった。

 

 わかるのはホテルのオーナーとスタッフ2名の証言から、彼が2時から8時の間ホテルから出ていないということだけだ。

 つまり、午後2時から8時の間に彼はホテル内で何者かに殺害され、遺体を動かされたのだ。

 

 事件発覚後、すぐにコナンは安室と手分けして宿泊客に聞き込みを行った。

 そして分かったのは、宮口正平には殺される理由がない、ということだった。

 目立った金銭トラブルどころか、姉である宮口君江以外には面識のある人間すらいなかったのだ。

 ほかの宿泊客と被害者の接点はただ一つ、「今日同じホテルに泊まっていた」ということだけ。

 

 では宮口君江はどうか。

 こちらはアリバイがあった。

 

 昼間、食堂で昼食をとっていた時にコナンたちは宮口姉弟に会っているのだ。

 午後は近くのスキー場に滑りに行こうと誘う宮口君江の誘いを断り、弟の宮口正平がいかにも面倒くさそうなそぶりで部屋へ戻っていく姿をコナンたちは見ている。

 

 そしてそのあと、落ち込んだ君江をスキーへ誘ったのは毛利蘭だ。

 吹雪に吹かれてホテルに戻るまで、コナンたちは君江とスキーを楽しんでいた。

 昼間に別れた弟を、徒歩で20分も離れたスキー場から焼殺し、あげく死体を動かす魔術のごときトリックをコナンは知らない。

 つまり、ほかでもないコナン自身が、宮口君江のアリバイを確認しているのだ。

 

 殺害する動機を持つ余地がある人間には完璧なアリバイがあり、見ず知らずの人間しかいないホテル内で残忍に殺害された宮口正平。

 新たな証拠が見つかりでもしない限り、推理はここで打ち止めである。

 

 そもそも。人間を炭化するほどの火力は、ここにはない。

 遺体の熱傷はかなり激しく、焼却炉にでも放り込まれたかのような火力を感じさせるものだ。遺体にガソリンをまいて火をつけたとしても、ここまで炭化させるのにはかなりの時間がかかるはずだ。

 

 そうして炭化した遺体は非常ににもろい。少し触っただけでボロボロと崩れ落ちてしまう。

 そんなもろい遺体をほぼ完全な状態で4階の部屋まで誰にも見とがめられずに運び込み、加えて死体が這って動いたかのような細工まで施すなど、いったいどのようなトリックか。

 

 さらに、部屋に残る跡は、死体が運び込まれたときまだ熱を持っていたことを示している。

 

 犯人の痕跡も、トリックにつながる証拠も欠片すら見つからず、あるのは「地獄のかまどから人が漏れた」と形容するしかない異様な状況のみ。

 

 たとえば、本当に焼かれた死者が黒焦げの体を引きずってよみがえって来れるとするなら、

この現場に不自然なものなど何もないといえるほど、この殺人は完璧だった。

 

 

 ――――あるいは、本当に。

 

 

 コナンは思考を中断して安室の横に立ち、冷静に怒りに震える男性客を観察した。

 

 たしか、この男性は死体が見つかったのと同じ階である401号室の宿泊客だ。

 全身ブランドで固めている様子を見るに、かなり儲けているのだろう。金色のネックレスをこれでもかとジャラジャラ下げているが、こちらも本物の金を使ったアクセサリーのはずだ。

 

 職業は風水師。近くに上顧客がいるとのことでここに宿泊した、この殺人事件とは関係のないところできな臭いにおいのする人物である。

 

「申し訳ありません。なにぶん、ここは警察も鑑識も来ることのできないクローズドサークル。不可解なことも多い事件ですが、加えて科学的な証拠集めもできないのではいくら毛利先生といえど時間のかかる案件にならざるを得ません」

 

 安室はいつも通りの笑顔を男性客に向けている。

 穏やかな語り口物腰であるにもかかわらず、どこか反論しがたい威圧感。

 ちょっぴり降谷が顔を出してる、とはコナンの内心である。

 

「……っ、だったらさっさと部屋に戻らせてもらう!こんなところにいるより、鍵をかけた個室にこもってる方がずっと安全だろう!」

「……それは違う。生き延びたいならまとまっていた方が幾分か安全だ。鍵のかかった扉より、生きた人間のほうが強いに決まってる」

 

 予想外の方向から反論があった。

 驚きにコナンが視線を向けると、それはブルーシートの後ろの一角、赤毛の青年と金髪の少女という特徴的な取り合わせの二人組だった。

 コナンは注意深く二人組に意識を向けた。

 

 風水師に反論したのは赤毛の青年、301号室の衛宮士郎だ。

 赤毛に琥珀色の瞳、という随分日本人離れした色彩だが、国籍は日本。ロンドンのとある大学に留学中で、専門は英文学。現在はアーサー王伝説について研究しているらしい。

 同室に宿泊している金髪の少女はアルトリア・セヴァリー。アーサー王伝説の舞台となった地であるコーンウォール出身で、その縁で彼と知り合ったそうだ。イギリス英語にしてはラテン語風の名前も、アーサー王伝説になぞらえてつけられたものであるらしい。

 

 食堂で会ったとき、彼はミス・セヴァリーを「セイバー」と呼んでいた。

 ファミリーネームをもじったあだ名のようだが、少女に対して「剣士」と呼ぶとはいささか妙なネーミングだとコナンは感じた。

 

 彼らとは夕食時に少し言葉を交わしただけだが、驚くほどコナンの脳裏に引っかかるものが多い。

 不自然なほど気を張った様子、ミス・セヴァリーの衛宮さんを守るような動向。

 死体発見時もそうだ。

 

 死体発見時の衛宮士郎の様子は不可解なほど落ち着いていた。

 コナンや安室たちが死体を見ても動揺しないのは、探偵として数々の事件に関わっているからだ。

 たとえ刑事でも新任は凄惨な死体を見るとまいってしまうというのに、普通の大学生であるはずの彼がうろたえないはずがない。

 

 だというのに、衛宮士郎が焼死体を見る目は「見慣れたものを見る」それである。

 

 本棚に収まる本を見るような、あるいは木に留まるセミをみるような、当然の光景を見る目だ。

 聞き取り調査での言葉を信じるなら、死を悼む気持ちもあるし、次を起こさせないよう協力する意思もある。

 

 しかし、その衛宮士郎の様子はコナンの脳裏にどうにも引っかかっていたのだった。

 

 

「こ、この中に殺人犯がいるかもしれないんだぞ!いきなり襲われたらどうする!」

「よっぽど強い武器か鍛えてるかしない限り、こんなに人がいるところで暴れたら先は見えてる。よっぽどの馬鹿じゃない限りここで暴れるような真似はしないと思うぞ。逆に、この全員をなんとかできるほどのものがあるとしたら、閉じこもってても一人ずつ殺されるだけだ」

「……だ、だが……」

「それをわかってるから、そこの人たちもロビーにブルーシートをひいてここで寝られるようにしたんだろ」

 

 衛宮さんの言うことは正しい。ここにブルーシートを置き、予備の布団を隣のリネン室にまとめるよう指示したのは安室だ。

 この状況下において分散するのは第二の殺人を起こさせる可能性につながってしまうからだ。

 

 未だに殺害方法も犯人も分かっていないが、殺人の動機が衝動、あるいは理由のない何かである可能性も否定できないのだ。

 宮口正平さんを殺害するだけでなく、無差別に次々と宿泊客を襲うことがないとは言い切れない。

 

 ならば、二人以上のグループを作って見張りをし、持ち回りで夜を明かすのが最も安全だろう。

 

「……衛宮さん、でしたね。はい。僕たちもそう考えています」

 

 安室が探るような目つきで答えた。

 

「山の天気は変わりやすい。この悪天候も長続きはしないはずです。今夜を乗り切り、天候が回復し次第下山して警察に連絡すれば済む話です。不安は分かりますが、第二の犠牲者を出さないためにもどうかここは堪えてください」

「…………チッ、俺はお前らが殺されても助けんからな!」

 

 風水師の男は乱暴に腰を下ろした。

 

 この非常時に、衛宮さんの思考は冷静かつ現実的だ。

 慣れすら感じられるほど、彼は落ち着いてこの危機に向かい合っている。

 

 安室もそれを感じているはずだ。ただの大学生にはありえないその様子に疑念を向けているのがコナンにも分かった。

 …………本当に、彼らは何者なのだろうか。

 

「えー、ゴホン。これから夜番の組み分けを行います。五人一組で、2時間交代。子供3人は除外します。体力や腕っぷしに自信のある男性陣は手を挙げてください。各組一人は緊急時に対応できるようにしましょう」

 

 これまで黙っていた小五郎が若干居心地悪そうに話を切り出した。

 冷たい空気のただようロビーの時間が、のろのろと動き出したようだった。

 

 

 

 

「お兄さん、とっても落ち着いてるね」

「……ええと、コナン、だったよな。もう寝た方がいいぞ。いろいろあったし、疲れてるだろ?」

 

 組み分けを決めてしばらく。夜番の一組目となった衛宮さんにコナンは声をかけた。

 やはり彼の様子は落ち着いていて、幼い容姿のコナンを気遣う余裕もある。

 

「ううん。僕は平気!小五郎おじさんがいるから」

「名探偵の毛利小五郎さんか。俺もテレビで見たことあるよ。まさかこんなところで有名人に会えるなんて思ってもみなかったけどな」

「セヴァリーさんに日本を紹介するためにここに来たんでしょ?セヴァリーさんは大丈夫かな……」

「セイバーなら心配いらないさ。というか、セイバーが対処できないような相手だったら俺なんて手も足も出ない」

 

 衛宮さんの様子から冗談めいた香りはしない。

 

「セヴァリーさんってそんなに強いの?お兄さんは背も高いし、体もがっしりしてる。剣道をかじってるって言ってたけど、実は凄く鍛えてるでしょ」

 

 身長は180cmはあるだろう。

 若葉色のセーターを着こんでいて分かりづらいが、腕も足も鍛え上げられているはずだ。他の宿泊客のスキー用具運びを手伝っていた様子を見るに、かなり筋肉がついている。六人分のスキー板を小脇に抱えるなんて相当な筋力だ。一般的なスキー板は一組で5キロ程度。単純計算で30キロをひょいと持ち上げたことになる。

 手のひらは剣だこで硬く、かなりの鍛錬を想像させる。ただ、普通の竹刀を用いた剣道とは異なるように感じられる。たこのつき方が違うのだ。一本の竹刀を両手で振るというより、小太刀のような短めのものを二振り持っているかのような、そんな跡だ。

 

 現代剣道でも二刀流を学ぶものは非常に少ない。1992年から大学剣道では二刀流が解禁されたが、それ以前は長らく二刀流を学生大会で使うことが禁じられていたからだ。

 二刀流を相手にすることに慣れていない選手が大半なので大会では有利と言えなくもないが、基本的に二刀を扱うのはかなりの筋力と技術を要する。教えられるものも少ないので、公式大会でいくら認められているとはいえ、中途半端に終わる可能性が高い。

 

 しかし、毛利蘭の言葉を信じるなら、彼は京極真のごとき強者であるかもしれなかった。

 

「俺なんてまだまだ未熟者だ。努力は欠かしていないつもりだけど、やっぱり目指すところは遠い。セイバーから一本取るなんて、今のままじゃ夢のまた夢だ。……今回だって、俺は何もできなかった」

 

 己の手のひらを見つめ、遠くつぶやくように彼は答えた。

 深い情念、決意、誓い。あと、後悔。

 その様子は、あるいは安室透――降谷零の使命感にすら似ているとコナンは感じた。

 

 

 やはり、彼には何かある。

 コナンは疑念を確信に変化させた。

 

 此度の事件には裏がある。

 

 一つ。スキー場で聞いた噂話。

 ここ十年ほど、このあたりで行方不明事件が多発しているらしい。吹雪の日を前後して、一度に数人が行方知れずになる。

 地元住民はその話をこのあたりに昔からある「地獄のかまど」という民話に絡めて、都市伝説を囁きあうように教えてくれた。

 

 「地獄のかまど」とは、よくある子供向けの訓戒話だ。

 悪い子どもは吹雪の日、鬼がやってきて地獄にあるかまどに生きたまま放り込まれてしまう、というもの。

 もちろん信じているのは子供くらいのものだが、行方不明事件が起き始めてからは都市伝説じみたホラー話に変わってしまったようだ。

 『吹雪の夜、時計が壊れたら気を付けろ。時間を逆しまに廻すため、かまどの燃料を探す虹色の人型が現れる』

 

 都市伝説や民話はともかくとして、行方不明事件が10年前から続いているとしたら、今回の事件も表ざたになっていないだけで10年前から続いている可能性がある。

 そして、殺人を10年もバレずに繰り返すのは難しい。

 たとえば、バックになんらかの組織がいない限り。

 

 二つ。安室透の動向。

 彼は今回、毛利小五郎の弟子としてここについてきたわけではない。

 数日前からポアロのアルバイトを休み、コナンとは連絡が取れなくなっていた。

 純黒の悪夢を超えて安室とコナンはある程度の信頼関係を築いていたが、彼がバーボンとして動いているときはその限りではないのだ。

 

 その彼が、ポアロを休んでわざわざ田舎の山中のホテルにいる。

 彼はただの骨休めの旅行だと周囲に話していたが、まさか額面通りに受け取っていいわけがない。

 多忙な潜入捜査官がここにわざわざいる理由は、バーボンとしての仕事だろうか、公安としての仕事だろうか。

 

 三つ。黒づくめ。

 スキー場で一度。ここから15分ほど離れたガソリンスタンドで一度。コナンは二度ここに来てから黒づくめの格好をした人物を見かけた。

 コードネームもちのような存在感も雰囲気も感じなかったが、その電話内容はコナンを警戒させるのに十分だった。

 

 『例の鍵の取引は明日、いつもの場所だ』

 

 盗聴器はまだ生きているが、その電話以降目立った情報はない。

 例の鍵とやらがなんなのかも、いつもの場所というのがどこなのかも、さっぱりわからないままだ。

 

 

 この三つの情報は、コナンにいやがおうにも彼の組織の影を感じさせた。

 そんななか起きたこの事件が、組織と何の関係もないはずがない。

 

 常に周りに気を張った様子も、事件が起きることを知っていたような口ぶりも、この落ち着き様も、衛宮士郎という青年が何かを知っているという確信を補強する。

 組織が動いているなら周りに気を張るのはごく自然なことだし、取引が予定されているのなら事件の周期もある程度予測できる余地がある。

 不自然に落ち着いている、あるいは手慣れているのは、彼が組織の関係者か。

 

 あるいは――安室や赤井と同じ、組織を追う者か。

 

 

「お兄さんはさ」

「……ん?どうした?」

 

 コナンは淡く笑った。不敵にふるまえるほどの証拠はない。この状況下、証拠集めの時間も余裕もなかったが、それでもコナンはある程度の確度を持って言葉を告げた。

 

「悪い奴らの敵だよね」

「――――」

 

 目の前の赤毛の青年はわずかに目を見開いて息をのんだ。

 コナンは笑ったまま青年を見つめ続ける。

 

 衛宮士郎は善良な人間だ。昼間の言動の端々から無私の奉公の精神を感じ取れたし、スキーから帰ってくると彼は吹雪に吹かれて困り果てた宿泊客の手助けを行っていた。

 普段いくら善良に見えたところで、人間の奥底は分からないと探偵として数々の事件に関わってきたコナンは心の底から理解している。

 

 それでも、彼は信用のおける人格者だ。

 人を見続けた探偵としての勘が、コナンにそう告げている。

 

 かつて安室にも問うたその問いに、衛宮士郎はふっと表情を緩めた。

 

「悪い奴の敵、か。悪の敵……」

 

 言葉をかみしめるように繰り返す。

 

「そうだな。俺は悪の敵としてここに来た。でも、俺のなりたいものはそれとは反対のものなんだ」

「反対?」

「ああ」

 

 遠い憧憬をにじませるように、星の輝きに手を伸ばすように、青年はコナンに語りかけた。

 

「悪の敵より、……正義の味方に、なりたいと思ってる」

 

 

 

************

 

 

 

・二日前、ロンドンの時計塔にて

 

 

「件のバカは日本に潜伏中よ。まったく、簡易とは言え魔術礼装を一般人に流すなんて信じられないわ!」

 

 怒りに震えながらも麗しい、宝石のような美貌を持つ女性。

 繊細なボタンダウン・カラーの襟を持つ真紅のクレリックシャツと、黒い上品なシフォンスカートに身を包んだ彼女の名は、遠坂凛。

 

「はー……ごめん、士郎。迷惑かけるわ」

「遠坂も大変だな。宝石科(キシュア)も中立派になってからゴタゴタがあったんだろ?」

「魔術師の本分は根源への探求よ!派閥争いのめんどくささったらないわ!だいたい、現代魔術科(ノーリッジ)の小物が起こした事件になんで法政科が動くのよ!余計大ごとになるじゃない!」

「荒れていますね、リン」

 

 事の始まりはとある魔術師の逃亡である。

 現代魔術科に所属する三流魔術師が、降霊科(ユリフィス)の研究成果を持ち逃げしたのだ。

 

 科をまたいだ事件としてそれぞれの派閥同士の摩擦も起きたし、ただでさえ下層と目される現代魔術科のさらに三流魔術師が起こした大それた事件に降霊科の貴族はメンツをつぶされた。

 降霊科の魔術工房、ひいては魔術師自体の質が問われる事態にもなった。

 

 そこまでなら激怒した降霊科が件の魔術師を草の根を分けても探し出し、血祭りにあげるだけで済んだ。

 

 しかし事態はそうもいかない。

 盗み出した研究を粗悪に複製して作った魔術礼装を、あろうことか一般人に流し始めたのだ。

 

 金銭目的か、実験体の入手のためか、はたまた示威行為か。

 件の魔術師の思惑は定かではないが、一般人にも使える魔術的玩具など時計塔が黙っていられるはずがない。

 気づいた時には裏社会に出回っていたのも始末が悪い。

 

 結局それは大ごとすぎるがゆえに時計塔内でも極秘事項として扱われることになり、各学部の上層を玉突きのように移動し、時計塔全体のロードたる法政科が重い腰を上げ、めぐりめぐって宝石科へとわたってきたのであった。

 

「第一原則執行局からの指令はこうよ。神秘の隠匿を真っ向から破った魔術師を速やかに処理し、礼装を回収せよ」

 

 処理、とは『これ以上の神秘の漏洩が防げるのなら生死問わず、どのような状態になっても構わない』という意味である。

 

「私は降霊科内に犯人を手引きしたヤツを追うわ。士郎はセイバーと一緒に日本に飛んで」

「遠坂は大丈夫なのか?」

「リン、時計塔の魔術工房を突破するなど並みの使い手ではありません」

「こっちは過剰戦力よ。降霊科のロードが直々に動くらしいわ。私がほんとに必要かも分からないくらい。士郎は三流を任せた。せいぜいボコボコにしてやって」

「……心得た」

 

 連日の騒動で疲れがにじむ遠坂凛に、士郎は無言で紅茶を淹れた。

 

 時計塔に留学して2年。

 妖精が絡むご当地事件や秘儀裁示局の厄ネタ、エルメロイ教室のゆかいな仲間たちなど事件には事欠かなかった。

 しかし、今回の事件も規模でいえば負けていない。

 

 降霊科から盗み出された研究は、歴史こそ浅いが危険度は一級品だ。

 

 遠坂はアンティークのイスに優雅に腰かけると、ティーカップを傾けた。

 

「研究の詳細は開示されなかったけど、断片からでもろくでもないことがわかったわ。気を付けてね、士郎。もしアレに書いてある儀式が正常に作動したなら、時間に関わる大権能が吹き荒れる事態になりかねない。まあ、三流魔術師にはとても扱えるものじゃないから万に一つもないでしょうけど」

「権能……って、神霊の持ってる力だったか」

「ええ。物理法則が存在する前の世界の法だった力。神の持つ権利であり、法則よ」

 

 ランサー、クー・フーリンの因果逆転、ギルガメッシュの時空流の発生がそれにあたるだろう。

 

「アレは、簡単に言えば神の降霊を目指したもの。時間を司る現代神話の邪神を、生贄と偶像で呼び出そうとする大儀式よ。例の『鍵』も、時間を巻き戻すことによる若返りが表向きの効果だけど、神の似姿で生贄の選定を兼ねてる可能性が高いわ」

「…………そうか」

 

 魔術師では到底手の届かない神秘に、士郎は気を引き締めた。

 

 一般人へ、そんな危険物を流出させる。

 それは魔術師としても容認できることではないが、なにより、衛宮士郎という人物の根幹を成す信念に反することだった。

 

「件の魔術師は顔を変えてる。魔力も秘してるでしょうね。流出した『鍵』とかいう魔術礼装から大体の位置は逆算してるから、なにか大ごとをしでかす前に特定してふんじばればいいわ」 

 

 頼んだわよ、士郎。

 

 

 事件二日前のことである。

 



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其は祭壇なり

 深夜2時。まだ吹雪がやむ気配はなく、ごうごうと雪がコンクリートを打つ音が響いている。

 

 現在、コナンは3階廊下にいた。

 1回目の夜番の交代に乗じてロビーを抜け出してきたのだ。

 宿泊客はこの異常事態に気を張り詰めているし、毛利蘭も常になく不安な様子だ。コナンの不在がバレずにいるのはわずかな間だけだろう。

 

 コナンは素早く目当ての部屋の前にたどり着くと、ドアに鍵がかかっていることを確認してから金属製のクリップを取り出した。

 

「このホテルは建築から一階も鍵の取り換えをしてないことは確認済み。このぐらいの単純な鍵なら俺でも……よしっ!」

 

 ハンカチを当ててできるだけゆっくりと差し込んだピンをまわすと、カチリ、と開錠の音がわずかに漏れた。

 古びた建付けが錆びた音を出さないように慎重にドアを開ける。

 

 301号室。

 赤毛の青年と金髪の少女が泊まる一室である。

 

 中は使用中とは思えないほど綺麗に片付いていた。

 大きなキャリーバッグが二つ窓際に寄せられているのと、机の上にメモらしきものが残されている以外目立った使用感はない。

 ベッドもテレビも手を付けた形跡がないのを見るに、ろくにこの部屋を使っていないのだろう。荷物を置いてある、というだけの印象を受けた。

 

 自室の中ということもあってか、キャリーバッグの鍵はかけられていない。

 中を確認すると、これまた丁寧にたたまれ仕分けさせた着替えと旅行用品が入っていた。

 仕分け方法が二人ともまったく一緒なのは、どちらかが二人分を用意して持ってきたからだろうか?

 

 「これは……」

 

 キャリーバッグの片方、黒地に赤のラインが入ったメンズブランドのそれの内ポケットの中に、小ぶりの女性もののポーチが入っていた。

 もう片方は見るからにレディースものなのでこちらが衛宮士郎のバッグだと思っていたが、これはどういうことだろうか。

 

 ファスナーを開けて、コナンは驚愕に目を見開いた。

 慌ててポーチを持ち直し、ポケットからハンカチを出して慎重にソレを包んで持ち上げる。

 

 「宝石……しかもこれ、天然もののルビーか?なんでこんなものを」

 

 美しいラウンド・ブリリアント・カット。

 多数のインクルージョンを見る限り、人工ではなく天然ものだ。

 目算20カラットはあるだろう。しかも、ポーチの中の6つのルビーすべてが20カラット以上だ。

 

 天然もののルビーというのは驚くほどの貴重品だ。

 世界中でもダイヤモンドに比べはるかに少なく、限られた鉱山でしか採掘されない。2カラット以上の上質なルビーともなると、専用のルートに流されることだろう。

 かつてニューヨークで売りに出された16カラットのルビーは363万ドルの値がついた。

 

 この6つのルビーは天然ものにしてはインクルージョンが少なめで透明度は高い。

 大きさも20カラット前後。巨大という言葉がふさわしい。

 色は濃く豊かな真紅色で、カットは正統かつ美しい職人の技が見える。

 

 文句なしの一級品。

 彼の鈴木財閥相談役、鈴木次郎吉が怪盗キッドとの対決に持ち出してもおかしくないほどの超級のビッグジュエルだ。

 一つでもそれだけの価値があるのだ。6つなど、巨大ルビーに絞って世界中に財貨を振りまいてかき集めでもしない限り手に入れられないだろう。

 

 いうまでもなく、このような場所でぞんざいにポーチから出てきていいようなものではない。

 

 コナンは宝石を戻してしばし思考する。

 

 まず第一に、なぜこんな場所に持って来たのか。

 この宝石は間違いなく人の一生を左右できる価値がある。無意味に持ち歩くはずがない。

 考えられるとするなら、取引材料だろう。この付近で怪しげな取引があることは確認済みだ。巨額報酬としては十分すぎるものだ。

 しかし、取引に使うにしては管理が雑だ。ポーチに無造作に入れるなど、宝石にどんな傷がつくか分かったものではない。目くらましにしても最低限小分けにしてケースに入れるはずだ。

 

 第二に、なぜ彼が持っているのか。

 彼がこの一件に関わっているのはほぼ間違いない。

 赤髪の高身長、という見た目ならば取引の目印としても機能するだろう。彼自身にも最低限の自衛の力がある。

 思えば、同伴者のミス・セヴァリーは衛宮さんを守るように行動していた。

 彼が宝石の所持者だと考えれば、護衛として気を配るのは当然とも言える。

 

 第三に、彼の背景は何か。

 こんなものを個人で用意できるはずがない。必ず組織的な背景があるはずだ。

 ただ、これに関しては情報が少なすぎる。

 バッグの中に身元を証明するようなものはないし、黒の組織の取引相手ともなると隠ぺいもしっかりと整えてあるはずだ。

 一般に宝石は足がつきやすいと言われている。ここまでのものを組織的に用意したとなれば、発掘からして手が入っていることだろう。表にはこのような宝石が存在したという情報すら残っていないかもしれない。

 

 例えば、本来の宝石の持ち主は殺された宮口正平で、衛宮士郎はたまたまそれを知って強奪しただけだとしたら?

 それなら死体の状態はともかく、殺人の動機の無さ、衛宮士郎の落ち着き様、雑な宝石の管理に納得がいく。

 吹雪はたまたまで、基地局の異常は組織が取引のために起こした殺人とは別件のもの。

 

 ……いいや、それでは筋が通らない。突発的な犯行にしては計画的過ぎる。

 死体を炭化するまで焼いた後、わざわざ4階に運び込む意味もない。焼いた死体を砕いて山に捨てた方が楽だし、事件の発覚もはるかに遅くなったはずだ。

 

 では、山口正平が見せしめに殺された可能性はどうだろうか。

 衛宮士郎の取引相手が山口正平であり、彼が何らかのミス、あるいは契約の違反を犯して殺されてしまったというのは。

 死体があれほど悲惨な状態になっているのは、他の取引相手への示威目的と考えれば。

 ……それも筋が通らない。宝石の管理の杜撰さに説明がつかない。

 

 どうにも証拠が足りない。というより、なにか大きな見逃しがあるように思う。

 衛宮士郎が今回の一件に関わっているのはほぼ明らかだ。

 しかし、彼がどういう立ち位置なのかが判然としない。

 黒の組織の一員なのか、組織の取引相手なのか、ただの殺人事件の犯人なのか、それとも組織を追う何者かなのか。

 

 ――正義の味方になりたい、と漏らした衛宮士郎の柔らかな瞳を思い出した。

 

 「……今は考えても仕方ねぇか」

 

 宝石を失敬し、コナンはバッグを閉じて机に向かった。

 

 机の上は年代物の卓上ランプ、ホテルの規約と近隣の催し物の広告をはさんだバインダー、そして備え付けのメモ帳とボールペンがあった。

 ランプとバインダーは他の部屋と変わりない。開かれてもいないバインダーの中にはホテルのアンケートが白紙のまま残っている。

 

 対して、メモ帳はかなり使われたようだった。

 上から10枚近く破りとられている。うち数枚はゴミ箱の中、2枚は机の上に放置されている。残りは部屋の中には見当たらない。

 

 机の上のメモを手に取り、コナンはじっくりと検分した。

 

 ひとつはアンティーク調の鍵のスケッチである。

 備え付けのボールペンで描かれたそれはところどころ掠れたり滲んだりしている。

 特徴的なのは鍵の持ち手の形だ。それは鍵であるのに、持ち手は不安定に歪んだ門の形をしていた。取っ手や調つがいの彫刻があるのでその意匠が門だとわかるが、なんとも不安を煽るようなデザインである。

 

 もうひとつは部屋の見取り図だった。

 入口、ベッドの位置、窓のサイズ、テーブルの形……そして、遺体の位置。

 

 「403号室……あの人は中に入ったことはないはず。それなのにこの正確さ……」

 

 その見取り図はとてつもなく正確だった。

 設計図をそのまま写したかのように距離が縮尺に沿って正確に描かれており、まるで室内を計測した結果を描いているかのようだ。

 403号室には毛利小五郎と安室透、そしてコナン自身しか事件後は入っていないはずだが、入り口からは見えない部屋の右手奥の様子まで描かれている。

 

 ふと、コナンは初めに死体を発見した時に感じた謎の気配を思い出した。

 あのときの感覚は形容しがたい。

 部屋中に糸状の神経が張り巡らされたかのような、あるいは臓腑をまじまじと覗き込まれたかのような、部屋を構成する素材の一片すら解析しようとする意図を感じたのだ。

 

 ただの視線とは一線を画す、構造を見透かのごとき眼差し。

 あの感覚とこの見取り図には、なにか関係があるのではないだろうか、という直感。

 

 コナンがふたたび思案にふけろうとしたその瞬間、ぽん、と肩を叩かれた。

 

「やっぱり、君のことだからここにいると思っていたよ、コナン君」

「っ、あ、安室さん!」

 

 体をすくめて振り返った先にあったのは、信頼と安堵を等量にじませた安室の笑顔だった。

 

「君が大人しくしているはずがないことぐらい分かっていたけど、少々不用心に過ぎるよ。僕が部屋に入ったことすら気づかなかったなんて、君らしくもない」

「……心配かけてごめんなさい、安室さん」

「いや、そういうときの君は大抵の場合信じられないほどの成果を引っ提げてくるからね。後詰くらい僕たちに任せても罰は当たらないさ。で、成果の程は?」

 

 コナンは無言で2枚のメモ帳を安室に手渡す。

 それを受け取り、安室は表情を険しくした。彼のことだ。コナンの思い当たる疑念に当然行きついたことだろう。

 

「あらかじめ犯行に使用する部屋を下調べ……いや、それでも遺留品の位置まで正確なのはおかしい。僕たちの目を盗んで部屋に侵入した?いったいなんのために……」

「こっちの鍵については見覚えある?」

「ああ、それならコレのスケッチで間違いないはずだ」

 

 安室がジャケットの内ポケットから取り出したのは大きめの鍵だった。

 

「……それは」

 

 鍵は粘ついた虹色で塗装されている。

 至極単純な鍵の形。防犯よりも見目にこだわったアンティーク調の作り。

 持ち手に彫刻された門は今にも泡立ちそうな薄気味悪さを漂わせ、嫌悪感すらもよおす芸術的な立体美を持っていた。

 

 間違いようもなく、スケッチに描かれた鍵の実物であった。

 

「公安の押収品だよ。今回、僕はコレについての調査で動いていてね。組織から取引の情報を得たから先回りしてこのあたりで調査していたんだ」

「やっぱり組織の取引が計画されてたんだね。ガソリンスタンドでそれらしい人を見たよ。黒ずくめの二人組。5ナンバーのセダン、古めの黒い高級車」

「間違いなく組織からの人間だろうね。写真はあるかい?」

「うん、あとで送るよ。取引相手のほうは?」

「尻尾すら掴めずじまいさ。明日の正午、取引場所がこのホテルだという情報は入手できたけど、鍵の出所はおろかそれらしい目撃情報すらない」

 

 探り屋バーボンの情報収集能力は並ではない。

 その彼が「何も出ない」というのだから、異常なまでの隠蔽能力と言えるだろう。

 

「その『鍵』の相場は分かる?」

「うん?ああ、別の組織の取引情報ぐらいならあるから分かるけど……正直な話こんな気持ち悪い上に実用性もない置物にここまでの大金が動くなんて信じられないよ。あの組織は芸術品の裏取引には興味ないと思っていたんだけれど」

「その大金って、これで代替はできそう?」

 

 コナンが取り出した宝石に、さすがの安室も目を見開いた。

 

「……それはこの部屋から?」

「衛宮さんのバックの中にあったよ。取引商品かなって思ったんだけど」

「いや、さすがに多すぎるよ。ピカソの未公開作じゃないんだから。そもそも、組織は『鍵』を受け取る側だ。本当に衛宮士郎が取引相手なら、隠し持っているのは『鍵』じゃなきゃならない」 

 

 コナンと安室は黙り込んだ。

 二人の情報交換はさらに謎を深化させたようだった。

 

 謎の宮口正平の殺害事件。

 動機は不明、トリックも不明。

 衛宮士郎がこの事件の重要参考人であることだけが、現場の見取り図を描いたメモによって明らかになっている。

 

 また、組織の取引も捨て置けない。

 取引内容は『鍵』と金銭、取引場所はこのホテル、時刻は明日の正午、取引相手は不明。

 『鍵』のスケッチは、衛宮士郎がこの取引と何らかの関わりがあることを示している。

 

 最後に、ビッグジュエル。

 何に使われるのか、なぜここにあるのか全くの謎。

 衛宮士郎の持ち物である。

 

「どちらにしろ、衛宮士郎が全ての答えを握っているということかな」

 

 安室はバーボンとしての鋭さと降谷としての厳格さを瞳に宿して息をついた。

 それをコナンは見上げ、自然と安室が手に持つメモも見上げる形となった。

 

「! メモ、見取り図の方のメモの裏に何か書いてある!」

「これは……大量の矢印?」

 

 メモの裏には細い矢印が幾重にも書き込まれていた。

 気象予報における風向・風速の予想図にも似ている。矢印は入り組んではいるが大きな流れのようなものを作り、一か所に集まるように描かれている。

 

「このあたりの風向を示しているのか?」

「いや……そうじゃない」

 

 目を細める安室に、コナンは半ば独り言のように答えた。

 廊下の明かりが部屋に差し込み、メモを照らしている。

 ちょうどコナンの位置からは、メモの裏表が透けるように見えていた。

 

「矢印が集中しているところ。メモを透かすとちょうど『死体が這い始めた』位置に重なる!」

「本当だ。それだけじゃない、あの死体を引きずった跡も矢印の流れに沿ってついている」

 

 二人は目を合わせた。

 思考の回転はほぼ同等。アイコンタクトにも似た意思の一致を感じて、安室とコナンは同時に部屋を後にする。

 詰まりかけた推理にもたらされた一条の手がかりに、二人の足は早まる。

 向かうは403号室。 

 焼死体が見つかった、事件の始まりの現場である。

 

 

 二人は部屋に着くなり、慎重かつ素早く窓側のベッドを調べ始めた。

 403号室にはまだ肉の焼ける臭いが残っている。

 窓側のベッドからドアのそばまで伸びた黒々とした跡は、焼死体の表面が布とこすれあってできた粉状の炭である。

 死体が動かされた時点ではまだ熱を持っていたようで、絨毯は小さく焦げ付いている。 

 

 コナンがベッドの下を覗くが、三時間前に調べた時と変わった様子はない。

 安室がくしゃくしゃになった布団の表面を精査するが、手がかりになるようなものはない。

 現場を壊さずに調べられる部分を調べ終えてから、安室はゆっくりと灰の粉を動かさないように掛け布団を隣に移動させた。

 

「……前に調べたときはこんなものなかったと思ったんだけどね」

「僕もこんなものは見てないよ、安室さん」

「僕らがここを離れたわずかな間にこれだけのものを用意した、ということかな。少し現実味が薄いね。……でも、それ以外に考えられないのも確かだ」

 

 掛け布団を剥ぎ、シーツに包まれたマットレスがあるはずのそこには、すっぽりと別のものが埋まっていた。

 

 醜悪な虹色をした両開きの扉。

 枠は金属のような材質で、つるりとして滑らかだ。

 彫刻や装飾はなく、のっぺりとして凹凸に欠けているように見える。

 正しい長方形の形をしたベッドに埋め込まれているはずなのに、扉は見れば見るほど平衡感覚が歪みそうになるくらい不安定な形だった。

 そして、扉の中央には落ちくぼむようにシンプルな鍵穴が一つ。

 

「なるほど。『鍵』があるなら、錠前もあるのは道理かもしれないね」

「安室さん」

「分かってるよ、コナン君」

 

 安室は懐から『鍵』を取り出した。

 持ち手の彫刻は、吐き気を催すほど目の前の扉とそっくりだ。

 ゆっくりと『鍵』が差し込まれる。

 穴に落ちるように、吸い込まれるように『鍵』は鍵穴にぴったりとおさまった。

 『鍵』が廻される。廻される。

 

 コナンの視界にナイトテーブルに置かれたデジタル時計が映る。

 

 

 9999/99/99(豫) 99:99

 

 

「………………は」

 

 瞬間、景色が虹色に塗りつぶされた。

 

 

 

***********

 

 

 

 コナンは始め、己が目を開けているのか閉じているのか分からなかった。

 

 気づいたとき、視界はすでに虹色だった。

 目を閉じても開いても、焼けつくような極彩色が映っている。

 距離感が掴めない。上も下も均等に虹色で塗りたくられていて、絵の具の中に浮かんでいるかのように見える。

 体を起こすことで、やっと自分が気絶していたことを把握した。

 

 虹色の地面はツルツルとしていて冷たい。だが滑りやすいというわけではなく、吸い付くようにシューズを支えている。

 影も光源も見当たらない。子供の描くラクガキのようにチカチカする背景に己がはめ込まれている。

 

 そして、斜め後ろには未だ倒れ伏した安室がいた。

 

「安室さん!しっかりして!」

 

 コナンは体中の血がざっと滑り落ちる心地だった。

 あまりにも異常だ。

 いったいあの『鍵』を廻した瞬間何があったというのか。

 脳に異常をきたす薬品を投与された、錯視効果がある檻に放り込まれた。

 様々な「現実的」な可能性をはじき出すが、どれも等しく無理があり、どれも等しく意味がない。

 

 安室は悪趣味な『鍵』を握りしめたまま意識を失っている。

 コナンはこの異常事態に必死で安室に呼びかけたが、意識が戻る様子はない。

 

「くそっ!!」

 

 地平線まで虹色だ。

 脱出しようにも出口がなく、解き明かそうにも情報がない。

 なにより、こんなところに安室を置いていくわけにはいかない。

 

 なにか、なにか手がかりはないのか!

 

 打てる手の少なさに歯噛みしかけたそのとき、コナンの聴覚がわずかな声を拾った。

 

「っ!」 

 

 全神経を音に集中させると、それは空間全体から聞こえてくるようだった。

 

「…………##……#…………##」

「……####よ……#い###……」

「そ#……在ます……宇宙の###御……」

 

 暗い輪唱だった。

 年代も性別も異なる複数の声が陰鬱な祝詞を挙げている。

 歌のようにも聞こえるが、耳に不快な不協和音だ。聞いていると背骨を這いあがるような不安が湧き上がってくる。

 心を歪ませるような不吉な調べと平坦で鬱屈とした声色に、コナンは知らず息をとめていた。

 

「空の彼方の領域に在ます宇宙の養い親よ」

 

 コナンは、すぐ後ろから聞こえる声に素早く振り返った。

 

「……竹城さん?」

 

 コナンから半歩の距離にいたのは恰幅のいい男性だった。

 品のないヒョウ柄のジャケットと黒のスラックスはどちらもブランド物だ。

 どうにも安っぽいように見える純金のアクセサリーを幾重にも首からかけ、覚束ない足取りでどこへとも知らず歩いている。

 401号室に宿泊する風水師の男性、名前は竹城。

 衛宮士郎に食ってかかったあと、持ち回りの夜番を拒否してロビー脇のソファを占拠した男性客だ。

 

 いったいどうしてこんなところに。

 いつの間に。

 

 竹城はコナンの声が聞こえていないかのように、ふらつきながら前へ進んでいる。

 

「御身が治世は疾く来たれり……夜毎の祝宴にて我らの糧を授けたまえ……」

 

 いつの間にか、竹城の前に古びた焼却炉が黒いシミのように滲みだしていた。

 

 煤で変色し、黒と黄土のまだらとなった鉄製の外郭。

 今にも崩れそうな細く不安定な土台。

 ところどころ欠けた煙突からは汚泥のような粘着質の煙を噴き出している。

 

 突然現れた竹城と焼却炉。気味の悪い虹色の空間。

 何もかもがコナンの理解を超えている。

 いったい何処から疑問に思い、どうやって推測すればいいのかも分からないまま、何らかの一連の儀式はつつがなく進行していく。

 

虚ろな足取りで焼却炉の前に竹城が立った。

 

「御身の祭壇へ迎えたまえ……御身の永劫を詠いたまえ……」

 

 竹城の手が焼却炉の無機質な取っ手を掴んだ。

 凄絶な音を立てながら高温の取っ手に手が焼き付いても、竹城はなんの反応もしない。熱も痛みも感じていないかのように、表情ひとつ動かさず焼却炉の扉を開く。

 ごう、とおぞましい熱風が虹色の空間を揺らした。

 

「………………っ、」

 

 コナンはこれから起こる未来について、絶望的な予感を憶えていた。

 これはほとんど確信である。

 

 竹内の左手に握りしめられているのは、生理的な嫌悪を搔き立てるあの『鍵』だ。

 コナンは凍り付いたように動けなかった。声だけが制止の思いを漏らす。

 

「御身のささげられしものはぁぁああ……」

 

 吹雪のホテルで見つかった謎の焼死体。

 遺体をほぼ炭化させてしまうような火力は、「現実の」ホテル内には存在しない。

 遺体の熱が冷めやらない短時間で、脆いそれを人に見咎められず外から運び込む方策も「現実には」無い。

 

 眼下に広がる光景は、まさに『地獄のかまど』という表現が適切だろう。

 皮膚に張り付くような熱気と腕が総毛立つような狂気だ。

 焼却炉の業火は地獄の火そのもの。夢遊病の動きで吸い寄せられる竹城は、何か大きな力に連れ去られていく憐れな生贄だ。

 

 民話も都市伝説も、所詮うわさのはずなのに。

 

 竹城が焼却炉に足をかける。海外ブランドの紳士靴が高熱に炙られて斑に白くなった。

 コナンからでは竹城の表情は確認出来ない。ただ、狂ったような笑い声が邪悪な祝詞に混じって耳に反響している。

 

 竹城が身を乗り出す。顔を突き出し、身を屈め、左足が地面から離れる。

 コナンには、その全てがスローモーションに感じられた。

 

 腕時計型麻酔銃の秒針が、カチリと逆しまに廻った。

 

「やめろぉぉおおおおおおおおおおおおお!!!」

「全て清メらレテアリィィィイイイイイイイイイ!!!」

 

 竹城の狂気の絶叫とコナンの制止の叫びが重なる。

 竹城はためらいなく炎の中へ身を投げた。

 

 瞬く間に火は竹城の肌を舐め、肉を溶かしていく。

 全身が炎に包まれるのに、5秒もかかっていないはずだ。

 焼却炉の中、肉の体は踊り狂っている。熱に溶け、焦がされ、ただれた皮膚と溶けだした眼孔が煙となって空間に満ちる。

 

 驚愕と絶望に彩られる心とは裏腹に、コナンの頭脳はある種の納得を得ていた。

 焼死体の事件も、多発する行方不明事件も、鍵の取引すらも、きっとここに帰結していたのだ。

 この事件に「犯人」など存在しない。

 なぜなら、彼らは皆みずから炎に身を投げたのだから。

 

 焼却炉の中でだんだんと小さくなっていく男性の姿を見ながら、コナンは放心していた。

 

 こんなもの、どうしようもないじゃないか。

 

 誘拐も殺人も、全ては人の理の中で行われるものである。殺す理由は人の心の中にあり、その罪は人が定め、人が作った法で裁かれる。

 罪も罰も、人のためのものなのだ。

 

 炎の中、黒い影はもうピクリとも動かない。

 

 はたして、これは人が裁けるものなのだろうか?

 

 

「そ、らの彼方に……在ま……す…………」

 

 コナンのすぐ脇で聞き知った声がする。

 

「安室さん……?」

 

 安室がふらつきながら立ち上がった。目は虚ろで、焦点の定まらない瞳が虚空をとらえている。

 手はだらりとたらされ、いつも四肢に力が満ちた彼の様子をひどく弱弱しく見せているようだ。

 そして、右手には全てにつながる『鍵』がひとつ。

 

「宇宙の……やしないおやよ……」

「安室さん、しっかりして!」

「御身が治世は……疾く来たれり」

「安室さん!!」

 

 コナンはほとんど悲鳴を上げるように安室の名を叫んだ。

 飛びついて体を引っ張るが、コナンは小学一年生で、安室は鍛え上げられた大人だ。

 どうしようもない体格差にコナンの努力はほとんど実らない。ずるずるとコナンごと引きずって、安室は焼却炉へ向かっていく。

 

「こう、なったら!」

 

 コナンはとっさに安室へ麻酔銃を放った。

 安室が眠ったところで現状の改善にはならないが、あの火の中へ身を投げるのを黙して見送るよりよっぽどましだ。

 細く透明な麻酔針が、あやまたず安室の首へ命中する。

 

「夜毎の……………………う、ん……?」

「安室さんっ!」

 

 麻酔針が刺さったはずの安室は、眠りに落ちるのとなく茫洋と宙を見つめている。

 しかし、滅びへ向かう祝詞を歌い上げるのをやめてコナンを緩く視界に捉えたようだった。

 

「安室さん、僕のことが分かる!?」

「…………コナン君……?ここは……」

「良かった、気がついたんだね」

「………………」

 

 安室は夢見るような曖昧な表情で沈黙した。

 安室の後ろではまだ轟々と焼却炉が稼働し、肉の焦げる臭いを吐き出し続けている。

 手には『鍵』がひとつ。極彩色の悪夢の中、依然として醜悪に輝いている。

 

「…………ああ、そうだった。こんな所で立ち止まっている暇はないんだった」

「……安室さん、何を言っているの?」

「早くかみさまの下へ行かなくちゃならなかったね」

「っ、安室さん!!」

 

 コナンはたまらず安室に掴みかかった。

 意識は戻ったが、間違いなく正気ではない。どこかふわふわとした力無い口調に、常の鋭さの見当たらない眼。

 安室はぼんやりとした面持ちの中に困惑を浮かべた。

 

「いったいどうしたんだい、コナン君。何かあったのかな」

「何かあったのはアンタだ!正気に戻れ!このままじゃアンタも炉に身を投げちまう!」

「炉?何のことか分からないよ。……それよりも、僕は早くかみさまのところへ行かないと」

「……っ、その、神様ってやつの所に向かうのは止めてくれ!」

 

 いくらコナンでも、狂気にどっぷりと沈みこんだ人間と正常な意思疎通をした経験などない。

 せめてもの方策として安室の言葉に合わせると、やっと安室はコナンの意図を理解したようだった。

 

「どうしてコナン君は僕の邪魔をするんだい?」

「……安室さん、よく聞いて。神様の下に向かうってことは、死んでしまうということでしょ。組織に一矢報いることもできずに、こんなところで死んでもいいの?」

「死ぬ?あはは、大げさだなぁ。かみさまのところへ還るだけなのに。組織だってかみさまがこっちに来れば全部解決だ」

「神様が、こっちへ来る……?」

「そうだよ。みんなそのためにかみさまに還っていったんだ。僕らが還るたび、かみさまはこっちに近づく。僕の日本に来てくれるんだ。光栄だなぁ」

 

 安室は陶然と微笑んだ。

 その顔は一点の曇りのない幸福で満ちている。

 

「ああ、そうか、僕だけ先にかみさまのところへ還るからコナン君は嫉妬しちゃったのかな?」

「…………安室さん……」

「ごめんごめん、僕が悪かったよ。随分と大人びているから忘れがちだけど、君だってまだ小学生だ。僕だけ抜け駆けなんてずるいと思って当たり前だ」

 

 安室はしゃがんでコナンに目線を合わせると、ゆったりとコナンの頭を撫でる。

 

「そうだ、僕と一緒にかみさまのところへ行くのはどうだろう?呼ばれてるのは僕だけだけど、君は僕が認めたとびっきり優秀な名探偵だ。きっとかみさまも気に入ってくれるよ」

 

 悪意はない。ただ純粋に、安室はコナンを思って言っているようだった。

 安室とコナンはまだ出会って一年と経たない短い関係だ。しかし、数々の事件を通して一定程度の理解はある。

 それを思い起こすと、今の安室の様子は言動を差し引いても異常の一言だ。

 

 潜入捜査官として行動する彼は、笑顔の裏で常にかなりの緊張と警戒を張っている。

 人懐っこい性格も接しやすい人となりも、計算と思惑の上で成り立っているのだ。

 心を許さず、堅く張りつめていると言ってもいい。

 

 それが今、確かな幸せに蕩け、全ての憂いから解放されているようだった。

 

「そうと決まれば話は早い。さあ、行こうか」

「っ、待って、待って安室さん!」

 

 安室は軽々とコナンを抱え上げると、再び焼却炉へと歩き出した。

 グロテスクな色彩と毒々しい鉄錆に囲まれた悪夢の具現。そこにあって、安室は鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌さで軽やかに歩を進める。

 

「かみさまはね、コナン君。過去も未来もない。失ったものは隣にあって、これから失うものは何一つない」

「放して、放して安室さんっ!だめだ、こんなこと……!」

「だから、悲しいことなんて一つもなかったんだ。松田も、伊達も、……アイツも、失ってなんかいなかったし、これから失うこともない」

 

 コナンは一瞬息を飲んだ。

 

「失ったものは帰ってこない!それでも前に進み続けることができるのが、アンタのはずだっ!!」

 

 炎はもう目の前にある。

 熱風が肌を舐め、ヒリヒリと痛い。

 コナンは必死で抵抗するが、麻酔針はもうないし、キック力増強シューズにも手が届きそうにない。持ち上げられた不安定な体勢でうまく力も入らない。

 

「祈願文は僕が代わりに詠うから心配しなくていいよ。えっと、御身の祭壇へ捧げたまえ、御身の永劫を詠いたまえ」

「くそ、くそ、くそ……っ!」

 

 こんなもの、どうしようもないじゃないか。

 例えば己が自由に動けたとして、このキック力増強シューズでサッカーボールを飛ばし、安室に攻撃を加えるとする。それで止まらなかったら、次は足を折って動けないようにする。それでも駄目なら物理的に焼却炉に近寄れないように体を吹っ飛ばし続ける。

 

 じゃあ、そこまでしても安室が止まらなかったら?

 死体が動く異界の理。常識なんて通用しない。

 確実に眠りに落ちる量の麻酔が投与されたはずの安室が、眠気を訴えることすらしないのだ。優秀なコナンの頭脳はロジックエラーを起こしている。

 

 熱に溶けた死体の油が、肌をわずかにべたつかせる。

 踊るような心中の旅路は、コナンを絶望させるのに十分すぎるほどだった。

 

「こんなの、どうしろって言うんだよ」

 

 

 

 

 

「こうすればいいんです、少年」

 

 涼やかな声だった。

 清涼な青金が頭上から降り立つと同時に、不可視の刃が宙に翻る。

 それは瞬きのうちに安室の手首を『鍵』ごと切り落とした。

 支えを失うも、コナンは持ち前の運動神経でなんとか着地することができた。

 切断面から虹色の血液が噴き出す。コナンは、やはりここは異界常識に満ちているとぼんやり思う。

 

 安室は糸が切れたように崩れ落ちた。

 それを自然な動作で受け止める、金髪の少女。

 

 紺碧をたなびかせるXラインのロングドレス。しっかりした厚めの生地は絹のように滑らかだ。

 金のラインに同じく金にきらめく髪が交差する。複雑に結い上げられたそれは、欠片の綻びすらない美しさを保っている。

 白銀の鎧は中世騎士甲冑の意匠を残しつつも軽やか。青の文様が清廉さを引き立てる。

 

「失ったものが帰ることはない。ええ、その気高い考えは実に好ましい」

 

 科学の世界で救世が法と真実の形をとるように、この世界では救世は騎士の姿をとるのだろう。

 ついそんなことを考えてしまうほど、目の前の少女は正義と救済にあふれていた。

 





◆時計塔のレポートより、抜粋

ヨグ・ソトース
 ヨグ・ソトースは門なれば。ヨグ・ソトース門の鍵にして守護神なり。過去、現在、未来はなべてヨグ・ソトースの内の一なり。
 虹色、無定形とされる神。星の外に住まう知的生命体に崇拝される神格であり、星にとっての外敵。
 第五魔法に関わる魔術師には崇拝者も存在する。
 広く知れ渡る召喚方法として知的な生物をいけにえに捧げるものがあるが、成功例は未だ確認されていない。


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相対する決意

「セヴァリー、さん?」

「めまいや頭痛、吐き気などの不調はありませんか?」

「う……ううん、ないけど」

「それは良かった。ここまで高濃度の大源(オド)に曝されていたのですから、後遺症が残っても不思議ではありませんでした。よく頑張りましたね」

 リンと静寂を破るような声だ。

 鈴の音を連想させる廉潔さに、コナンははっと夢から醒めるように思考が戻ってきたのを感じた。

「あむ、安室さんは大丈夫なの!?」

 今、安室は意識を失ったままセヴァリーに抱き留められている。

 左手は『鍵』ごと切り落とされ、虹色の地面に同色の血をぶちまけている。腕からはとめどなく虹色の血が流れ続け、ジャケットを濡らしていた。

「この状態のままでは絶命は免れません」

「そんな……」

「心配はいりませんよ、少年。リンの宝石を持っていますか」

 宝石、という単語を聞いてコナンはぎくりと肩を揺らした。

「あ……その、これは……」

「盗取とは感心しませんね。ですが、そのおかげで魔術炉心の一つを特定できましたし、この青年の治療もできます。功罪相償う、ということで不問に付すこととしましょう」

 セヴァリーは優しげに表情を緩めてコナンと目線を合わせた。

 コナンはその清廉に過ぎるコバルト・グリーンに気後れして、目をそらしながら布に包んだままの宝石を差し出した。

「治療は……たしか、これでしたか」

 受け取った宝石を確かめて、セヴァリーはそのうちの一つ、コナンにはどれも同じにしか見えない美しいルビーを手に取った。

 その手は白銀に輝くガントレットに覆われている。

 超級の宝石が金属とぶつかり堅い音を立てるのを聞いて、コナンは居ても立ってもいられない心地だ。小さな小さな傷ひとつで、いったいどれほどの金額が宙へ消えるのやら。

 そんな心境に気づいているのかいないのか、セヴァリーは宝石を軽く握りなおす動作をして何ごとかを確かめていた。

 そして軽く頷くと安室の上体を起こして、血が滴る腕に宝石を握る手を近づける。

 次の瞬間、パキリ、という軽い音。

「え、えええええええええ!!?」

 セヴァリーによって哀れにも握り砕かれたビッグジュエルは、紅い破片となって落ちていく。

 日本円で億は下らない一点物がゴミへ早変わりする様に、さすがのコナンも肝をつぶした。

 しかし、その動揺は非現実への絶句に変わっていく。

「……手が、再生していく……嘘だろ……?」

 光に包まれながら手が元の形を取り戻していく。

 淡い紅色のきらめきは、環状に手首を取り巻いて未知の力を可視化させる。

 モダン・ホラーが唐突にファンタジーに宗旨替えをして、コナンは目を白黒する羽目になった。

「ん、う………………、っ!?」

 手が元の姿を取り戻して数秒。安室は意識が戻ると同時に飛び起きた。

 腰を低く落として構えを取り、真っ青な顔色のまま警戒をあらわにする。眼には恐怖がこびりついており、肩はわずかに震えていた。

「目が覚めましたか」

「アレは、……俺は、いったい、何が」

 安室の声色にはあらゆる恐怖が塗りこめられていた。

 当惑、混乱、絶望、恐怖。セヴァリーに警戒を向けているというより、見えない恐怖に怯えるかのように安室は己の手に視線を移した。

 手はわずかに震えている。

「Aランクに相当する精神汚染です。永続的に付与するのではなく、礼装に接触した対象に効果を発揮するもののようなので、礼装を手放した今ならほとんど影響は残っていないかと思います」

 コナンには影響が残っていないようにはとても見えなかった。

 安室は目に見えて憔悴しているし、今も何かに恐怖している。感情を隠すことに長けた彼がこうまでなっているのだ。唯人ならどんな狂乱状態になっているか分かったものではない。

 セヴァリーは残り5つになった宝石のうち2つを取り出すと、コナンに手渡した。

「え、これは……?」

「精神面への干渉を防ぐ精神防御の式です。肌身離さず持ち歩いてください。もう一つの方は彼の分です。落ち着いたら貴方から渡してくださると助かります」

 そう言うと同時に、セヴァリーは足元に転がる『鍵』と安室の手、そして虹色の血液を事も無げに踏み砕いた。

 金属と思しき『鍵』はまるでクッキーでできていたかのようにボロボロに砕け、手と血液はぐちゃぐちゃになったままするりと溶けて消えた。

 

 安室は動ける状態ではない。

 ならば、とコナンはセヴァリーに視線を合わせた。

 あの焼死体は本当に自ら動いていたのか。安室を操った『鍵』は何なのか。ここはどこなのか。

 この一連の奇怪と未知に答えを求めるとするなら、それは目の前の金髪の少女をおいてほかにはいない。

「ねえ、セヴァリーさん。セヴァリーさんは知ってるんだよね?」

「何を、ですか」

「この事件、全ての真相を」

 セヴァリーはコナンに向けて姿勢を正した。

 人型の巨獣が目の前に現れたかのような、全身が総毛立つ存在感。

 この少女もまた、人の理の外にいるものなのだ、とコナンは思考を超えたところで理解した。

 口がからからに乾く。少女にこちらを害する意思などないというのに、向かい合っている、ただそれだけで魂がつぶれるかのような圧迫感。

 コナンはただ相対し続ける、ということに全霊を込めていた。

「あなたがこの件についての真実を求めているのは分かります」

 セヴァリーは淡々と言葉を紡ぐ。

 ピシリ、とどこかで何かが欠ける音がした。

「ですが、私にそれを答える事は許されていないのです」

 ピシリ、ピシリ、ピシリ。ひび割れる音は数を増していく。

「ああ、それでも、一つだけ」

 上から虹色の破片がはらはらと舞い落ちる。

 この音は虹色の空間そのものが欠ける音だったのだとコナンは気が付いた。

 崩れゆく虹色は、真っ白な燐光を灯してゼロに帰っていく。

「ここから先は、どうか己の身の安全だけを考えてください」

「っ、待てっ!!」

 この言葉を最後に、虹色は崩れ落ちた。

 はっとコナンが気が付くと、そこは403号室だった。

 死体が這いずった跡、ベッドを調べた形跡。何一つ二人が来た時と変わらない。

「……帰って、これたのか」

 声の主は安室だ。呆然とした声には多大な疲労が滲んでいる。

「安室さん、落ち着いた?」

「なんとか、ね。……迷惑かけちゃったね。本当に、なんて言ったらいいか……」

「僕のことはいいよ。安室さんが無事で、本当に良かった」

「……コナン君、君っていう子は、やっぱり凄いね」

 やっと安室は笑顔を浮かべた。顔色は悪いが、調子は戻ってきたようだった。

 醜悪な扉が埋め込まれていたはずのベッドは、まるで幻だったかのように白いシーツとマットをさらしている。

 部屋の入口は開けっ放しで、廊下の蛍光灯の光が部屋の中に差し込んでいる。

 大きな二重窓はカーテンが閉められていた。轟々と雪が壁を打ち付ける音が聞こえる。

「もうだいぶ時間がたったはずだ。ロビーに戻らないと不審がられるかもしれない」

「そうだね、行こう」

 階段をなるべく音を立てずに降り、2階へ向かう。

 途中で宝石を一つ安室に渡した。それはある種の心の寄り辺でもあった。

 2階に降りてすぐがロビーだ。このホテルはつくりの関係でフロントが一階、ロビーが二階と別れてしまっている。ロビーは主に談話室として使われ、ぐるりと壁際には本棚が並んでおり、各種この地方の歴史や民俗などが書かれた本が詰まっている。

「…………なるほどな」

 安室の表情は絶望と挑戦が半々だった。

 ロビーは荒れ果てていた。

 倒れてボロボロになったソファ。散乱し、そのうえ踏みつけられてページが破れた本。半ばで割れたホワイトボード。カーテンは切り裂かれ、切れ端がまばらに落ちている。宿泊客が持ってきた貴重品は蹴とばされ、バックはロビーの端で転がっていた。

 明らかに、何かに襲撃された跡だ。

「己の身の安全だけを考えろ、か。つまり、アレで終わりじゃないということ。ああ、なんてことだ。B級ホラーの主人公を僕自身が演じることになるなんてね。隔離されたホテルの中、怪物に襲われて一人づつ減っていく宿泊客。バールでも探すべきかな?」

「武器で倒せるのか疑問だけどね。それより安室さん、ここにいた人たちは――」

 突如、女性の絶叫がホテルに響き渡った。

「この声は、蘭!」

「待つんだ、コナン君!」

 声は一階からだ。コナンはあらゆる最悪の事態をぐるぐると巡らせながら、飛び降りるように階段を駆け抜ける。

 リネン室と大浴場を抜けて、玄関へ。

「蘭っ!!!!」

 毛利蘭は気を失っていた。上下する胸に、生きてはいるようだと分かる。

 しかし、これから先も生きていられるかは非常に怪しい。

 なぜなら、毛利蘭は囲まれていた。

 玄関の前、一段低くなったタイル張りの土間。

 玄関は開け放たれている。自動ドアだったはずのそこは見覚えのある虹色の両開きの扉に変わっていた。

 その向こうには、ぺったりとした闇がある。

 そして、その闇の中から、目に映るだけで10体。

 異形だ。炭化した下半身と、虹色の泥にまみれた上半身を持っている。

 べたついた虹色を床に垂らしながら、ゾンビのごとき揺れる足並みで進んでいる。

 そのうち一体は毛利蘭の両手を持ち、もう一体は両足を持つ。

 それを護衛するかのように、8体の異形が取り囲む。

 向かうは扉の向こう。

 毛利蘭は、間違えようもなく攫われていた。

「蘭を、放せぇぇぇえっ!!」

 コナンは考えるより早くキック力増強シューズの設定を最大にした。しみついたボール射出ベルトを操作する手。

 スパークを纏った全力の一撃だ。鉄柵すら歪ませるサッカーボールの一撃は、プロ並みの卓越したコントロールでもって異形の頭を吹っ飛ばす。

 脆い頭は粉々に砕け、べちょりと泥を白い壁紙にまき散らす。

「……く、クソォッ、蘭、蘭!」

 頭を失った異形は、しかし何事もなかったように進んでいた。

「蘭さん!!」

 後から来た安室は、どこで調達したのか折り畳み式の三脚を武器に異形に切りかかった。

 やはり焼死体の体は非常に崩れやすいようで、アルミ製の三脚で問題なく胴体を破壊することができた。

「っ、くそ!」

 安室は飛び退いた。破壊した異形がバランスを崩したとき、上半身を覆う泥が安室の方にかかりかけたのだ。

 今のところ泥に何かしらの効力は認められていない。

 しかし、あの虹色の空間で起きたことを思えば、触れない方が賢明なのは確かだった。

 下手に攻撃すれば、毛利蘭に泥がかかるかもしれない。

「蘭、蘭、くそ、ラーーーーーンッ!!」

 そうして手をこまねくうちに、扉の向こうの闇に毛利蘭は消えていった。

「くそぉっ!」

「待つんだ、コナン君!」

 走り出しかけたコナンの腕を、安室が掴んだ。

「きっと、この扉の向こうは、あそこだ。虹色の、焼却炉だ」

「だから、だから早くしねぇと蘭が!」

「あんな場所で、僕たちに何ができる!」

「……っ」

 安室の声には悲壮感すら込められていた。無力感、自己嫌悪、絶望。自分の無力を口に出して、安室は打ちひしがれているようだった。

 コナンはとっさに何も言い返せなかった。

 虹色の狂気の中、コナンにできたことなど何一つなかった。

 焼却炉に身を投げる風水師の男を止めることができなかった。安室を正気に戻すことができなかった。あの空間からの脱出方法も分からなかったし、コナン自身の命すらセヴァリーが救助に来なかったら危うかっただろう。

 理論でもって推理しようにも、そこに満ちる理は科学からはるか遠いところにある。たぶん、もしかしたら、おそらく。証拠の何一つない推理は妄想と変わらない。

 ここで扉の向こうに突入したとして、何ができるだろうか。

 幼馴染を助けるなど到底言えた状況ではないのだ。身代わりになって自分が死ねればそれ以上の成果はないだろう。最悪、後追い自殺と大差ない結果になる。

「それでも、僕は蘭姉ちゃんを見捨てたりはできないんだ」

「コナン君!」

「安室さんはここで待ってて。僕なら行方不明のまま帰ってこなくたって困ることにはならないけど、安室さんは違うでしょう?……組織のこと、お願いします」

 半分以上遺言を遺す気持ちだった。

 コナンの穏やかな声を聞き、安室は目を伏せて沈黙した。

 正義感の強い彼に子供を見捨てるような真似をさせてしまって、コナンは申し訳ない思いを持ちつつも、譲れない思いに足を踏み出した。

 床に垂れた泥を避けて扉の前へ移動する。

 扉は403号室で見たもののように、凹凸の少ないつるりとした形状をしている。

 彫刻もなにもなく、ただ虹色の塗料で塗装されているように見える。

 両開きのドアは開け放たれており、塗りつぶしたような黒が広がっていた。

「コナン君」

 扉の前でたたずむコナンの後ろから、安室が声をかけた。

 そして、するりと隣に立つ。

「安室さん?」

「……僕も行こう」

「っ、あんたまで死ぬぞ!それも、まともじゃない方法で!」

「ここにいたって同じさ。ロビーが荒らされているのを見る限り、中に入ってもここで待ってても結末に至るまでの時間の違いしかないように思えるしね」

「それ、は……」

「それに、」

 安室は言葉を区切ってコナンを見た。

 アクア・グレイの瞳がかちあう。

「戦友を置いていくほど薄情になった覚えはないよ」

 ウインクをするさまは、彼の整った顔立ちとあいまって明るい魅力を持っていた。

 コナンは少しだけ笑った。

 純黒の悪夢の中で知ったのだ。彼らという人は、本当の窮地に至ってなお、コナンに手を貸してくれる人だと。

 無言で頷きあう。

 そうして、一寸の先も見通せない闇を二人はくぐった。

*************

 闇が晴れてまず二人が目にしたのは、おびただしい数の焼死体と剣だった。

 コンサートホールほどの広さの空間は、おそらくは鍾乳洞なのだろう。

 巨木ほどもある鍾乳石がそびえたち、一抱えもある石筍が点在している。

 山の斜面につくられた棚田のようなリムストーンプールがなだらかに広がり、天井の高さもあいまって劇場のようにも見えた。

 そんな美しくも壮大な景色は、死臭と躯、病的な虹色の泥にまみれている。

 焼死体はどれも無残に破壊されている。頭が崩れ落ちていたり、胴体がなくなっていたり。まるで空爆にでもあったようなありさまだ。

 焦げ付いた泥が石灰石に焼き付き、変色している。洞窟自体もところどころ破壊され、1メートルほどのクレーターを作っている。

 強烈な絨毯爆撃の跡が、チカチカする光を放つ虹の泥に照らされていた。

 荒らされきった呪詛の住み家に散乱するのは、場違いなロングソード。

 刀身は白銀に輝き、細やかな装飾の施された鍔は神聖さを放っている。

 コナンの目の前に突き立つ美しいロングソードの他にも、エストック、グラディウス、クレイモア、ダガー、トレンチナイフ、ククリ、バスターソード。

 そのどれもが息をのむほど美しい。

 十字の意匠をあしらった大剣は深緑の燐光を刀身に宿し、塚に埋め込まれた青い宝玉は黄昏の波を思い起こさせる。

  すぐそばの焼死体の頭に突き刺さった剣は、刀身自体が黄金に輝いている。刀身と鍔が一体となった不思議なつくりには、群青の文様が描かれている。

 種類時代を問わないありとあらゆる刀剣に属する武器が、剣林の如く洞窟中に突き刺さっていた。

「これ、は……」

 意図せずコナンは声を漏らした。

「この剣群、どう見てもこの人型の化け物の破壊を目的にばら撒かれているね」

 リムスト―プールの段差を降り、異形の背中を貫く5本の刀剣を吟味しながら安室が言った。

「こっちも、この死体も、剣で串刺しになってる。あの化け物の敵対者がやったのかな。どうやったのか、とか、どこから調達したのか、というのは生涯答えが出なさそうでもあるけどね」

 安室の言葉にはすでに理解をあきらめたふしすら見え隠れしていた。

 鍾乳洞ということは、通常の科学原理が適用されているとするならこの洞窟は石灰岩でできているということだ。

 地面をける感覚からすると、この石灰岩は特に密で硬い。石灰岩の硬度はセメントより少し上で、硬度4程度。衝撃に弱いような感じもしない。

 そんな岩石に、剣が深々と突き刺さっているのだ。

 刀身は曲がりも折れもせず、岩を鋭く切断している。

 こんな真似をしようとするなら、専用の重機での大掛かりな作業が必須だろう。そしてたとえ重機で行ったとしても、刀身が欠けたり折れたりすることは防げない。

 コナンもリムストーンプールを降り、洞窟の中央へ向かった。

 この無数とも言える剣の林が意図して作られた光景だとするのなら、それは人にはどうすることもできない戦術級の脅威がこの先にいるということだ。

「あの焼死体の怪物の明確な敵、というならセヴァリーさんだね」

「目算8メートル以上高所からの着地を見るに普通ではあり得ない……僕の手を切り落とした、というのも刃物という繋がりが見える」

「切り口からすると鋭利な刃物のようなものを持っていたんだろうけど、セヴァリーさんは手に何も持っていなかったし、切り落とした瞬間も刃物のようなものは見えなかったよ」

「ファンタジーの線で行くなら風の刃で、SFで行くなら光学迷彩かな」

「考えるだけ無駄、ってことだね」

 コナンはため息をついた。

 まったく理論が役に立たない。ノックスの十戒に真正面から喧嘩を売る状況なのだ。ジャンルはミステリーではなくファンタジーかホラーか、それともSFか。まともに考えてもどうしようもない。

「さっき入っていったはずの化け物の痕跡がまったく無いのは、ここが奴らの入っていった空間と違うからなのか、それとも時間軸がずれているのか」

「それ、どっちにしても厄介だね。空間が違うのは403号室から謎の虹色の空間に移動したことを考えれば十分ありえるし、民話に今回の件が深く関係するなら時間がずれてる可能性だって大いにある」

「蘭さんに会う前に僕らの寿命が尽きなきゃいいけど」

「逆におばあさんになっちゃった蘭姉ちゃんに僕らが会う羽目になるかも」

「浦島太郎より残酷な話だ!」

 お互いに軽口を叩きあう。

 それは緊張を和らげる意味もあったが、ここに入ってから感じている理解できない恐怖を紛らわせるためでもあった。

 まともに考えればあり得ないことばかり。コナンは常々心霊現象も魔法もなにもないと公言してきた。

 それはコナン自身の優秀な頭脳がこの世の不思議を余すとこなく科学で解き明かしてきたからだ。魔法なんてなくても、この世のすべては科学と理論で説明できた。

 しかし、今目の前に広がるのはトリックだとか錯覚だとかで説明のつかない、圧倒的なまでの神秘である。

 その神秘は形を持ってコナンと安室に襲い掛かり、命と精神をむごたらしく貪り食おうとしている。

 ただの命のやり取りなら緊張はしても頭脳で乗り切る自信がある。

 この理屈の破綻した摩訶不思議の前では無意味というだけ。

 いっそ楽しげにすら見える二人は、その実途方もない不安にさいなまれていた。

「こっち、安室さん、横穴がある!」

 コナンが巨大な鍾乳石の裏に発見したのは、一車線道路ほどの太さがある横穴だ。

 虹色の回路図のような模様が奥に向かって奔っている。

 洞窟の両端には焼却炉が並べられているが、そのどれもが破壊されている。

「炉には近づかないように、慎重に行こう」

「うん、そうだね」

 横穴内部は暗い。回路図のような模様がわずかに光っているため足元は見えるが、お互いのシルエットがかろうじて確認できる程度のあかりだ。

 両側に並ぶ焼却炉は、上から剣で貫かれていたり、至近距離で爆風を受けたかのように潰れていたりしている。

 原形をとどめないほどひしゃげた焼却炉の内の一基が、まだ奥に炎をともしている。

「……安室さん、あの、焼却炉の奥。あれって、今日の昼間の食堂じゃない?」

「やっぱり、君もそう思うかい?はす向かいに見えてるのは、僕の記憶違いじゃなきゃ三日前のゲレンデだよ」

 破壊されたはずの焼却炉のドアの向こうに見えるのは、炎ではなく外の景色だ。

 つぶされて中が見えないものも多々あるが、見えるものは時間も場所も違うどこかにつながっているようだった。

 長い横穴をひたすら進んでいく。

 無限に続く焼却炉の列の間を通っていると、時間間隔すら狂っていく心地だった。

「この辺で起きている行方不明事件、僕は地元の人からここ10年ほど続いているって聞いていたけど、それは犯人が10年前から活動しているということとはイコールで結べないみたいだね」

「焼却炉を使って時間移動をする犯人、か。人かどうかも分からないけど、これじゃあこの向こうに逃げられたら捕まえようが……っ、コナン君!」

 安室がコナンを抱えて素早く鍾乳石の裏に身を隠した。

 突然のことにコナンは身をこわばわらせた。

 コナンの口元を手で押さえ、横穴の向こうを確認しながら安室は小さく囁いた。

「しっ、コナン君。人だ。あれは……ホテルのオーナーの亀山さんに……衛宮士郎?」

「っ!」

 長い洞窟は唐突に体育館ほどの広さの空間に開けていた。

 コナンと安室は最大限の注意を払って様子をうかがう。

 そこは、どうやら最奥であるらしかった。

 横穴からはしる回路図は床を複雑にめぐり、壁を伝って天井に伸びている。

 天井は夜空を模しているらしく、太陽系のオブジェが釣られており、その中央たる太陽の位置する部分にはひときわ巨大な扉が備え付けられている。

 壁際は一面アンティークの書棚が並べられ、さながら古い図書館のようだ。

 大きな円盤が二重に重なった舞台の上、二人の男が相対している。

「秘儀裁示局、天文台カリオンからの通告だ」

 若い男の声だ。

 冷たく堅い威圧感を与えるそれは、衛宮士郎のものだった。

「ほう、ほう、ほう、あの間抜けどもはなんと?」

「ノーリッジの所属にしてこの地のセカンドオーナー、亀山俊樹。その重大な神秘の漏洩は、位階にしてAと判定された」

「うん?わたしの偉大な行いがたったのA?やはり協会の老害は頭が硬い。ああ、嘆かわしいことだ」

「通常、B以上の判定が出た場合刻印と研究資料は協会が接収する。しかし、今回は貴重な神霊召喚の成功例であるため、例外として恩赦が与えられる。亀山俊樹、協会の封印指定を淑として受け入れるなら、家の存続だけは認めよう」

 判決を下す裁判官のごとき、厳粛さと冷徹さを兼ね備えた言葉だった。

 コナンたちからは衛宮士郎の表情はうかがえない。

 しかし、その瞳に温度が無いことは簡単に予想がついた。

「くは!くはは!やはり度し難いほど愚かなり時計塔!」

 そんな絶対零度を目の前にして、亀山と思われる初老の男性は嘲笑した。

 なんてことはないセーターにスラックス。昼間見たときと何一つ変わらないホテルのオーナーであるはずの男は、しかし瞳に確かな狂気を写していた。

「我が儀式はすでに成った!神は降臨する!もうすべてすべて遅いのだよ協会のつかいっぱしり!戸口に潜むもの、彼方よりのものはここにいませり!家も刻印もなにもかもが意味をなくすのだ!」

「本当にいいのか。あんたはそれで」

「良い?これ以上の喜びがあろうか。我らは根源に還るのだ。こここそが根源となるのだ。精良も極まっているとは思わないのかね」

「……そうか。分かった。あんたが死ぬことすらできなくなる前に、俺が引導を渡そう」

「ひひ、ひひひ!この期に及んで神の御許へ向かうことに抵抗すると!無礼なり愚かなり!神に溶ける前に自ら命を散らすか!ひひひひひ!………………この愚昧を磨り潰せェェエ!!」

 亀山は激昂に顔を歪めて絶叫した。

 それと同時に夜空を模した天井から大量の虹の泥が落下する。

 べちゃり、という不愉快な音を立てて粘着質の泥が回路図を穢し、チカチカと脈打つように明滅する。

 泥は数秒のたうつように床でうごめくと、蛇のように立ち上がった。

 小刻みに震えながら形を変え、それは虹色をした人型になっていく。

「虹色の人型……!都市伝説のもとはアレか!」

「コナン君、出すぎれば見つかる!あんなものに襲われたらひとたまりもないぞ!」

 衛宮士郎を取り囲むように現れたおぞましい虹色の人型は、おおよそ100体。

 その一つ一つが2メートルの大男にも匹敵する体格を持つ。

 そんな、唯人には絶望しかない醜悪な神秘を前にしても、衛宮士郎は静かにたたずんだままだった。

 「ひひ、ひひ、恐ろしくて身動きもとれんか?そう、その反応は正しいぞ。こ奴らは神の落とし子。三流では一体にすら嬲り殺されるのがオチよ!ひは、ひ、ひははははははは!私の御使い、神の落とし子よ!丁重に、四肢を削り取るようにもてなすのだぞ!」

「――投影、開始」

 消えそうなつぶやき。

 コナンも安室も、衛宮士郎がなんと言ったのか聞き取ることはできなかった。

 瞬間、破裂するような音を立てて虹色の一体が弾け飛んだ。

 亀山の洋服に泥の跡を残して、本棚に体を散らす神の落とし子。

「あれは…………」

 安室は思わず声を漏らした。

 コナンも、言葉もなくその光景に見入っている。

 衛宮士郎の背後につき従うように出現した黄金の剣群。

 青白い霧の燐光を纏い、空間から滲みだすように現れたそれらは、目視では数えきれない。

 神聖な、邪悪な、精強な、無骨な。

 ありとあらゆる属性を持つ刀剣は、しかしどれも震えが走るほどの存在感を持っている。

 イイン、と耳鳴りするような音を立てて剣群が一斉に剣先を向けた。

「は……」

「神の落とし子か。実をいうと、神を相手にするのは初めてじゃないんだ」

 魂を磨り潰されるような圧迫感すら放つ剣群を従える、衛宮士郎。

 いっそ穏やかなほどに凪いだ言葉を向けた。

「神の似姿、人の敵。――そのことごとくを叩き落そう」

 



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共闘の契約

 それは神話の光景だった。

 無数の白刃の群れが碧い軌跡を描いて空を翔ける。

 美しい。

 コナンの抱いた感想はそれだけだった。

 現れては敵を穿つ剣はどれも姿かたちが大きく異なる。

 透き通ったパウダーブルーの水晶でできた刀身に、金細工でできた柄をもつバスターソード。獣の牙のごとく荒々しくうねるククリナイフ。繊細な宗教彫刻を施されたレイピア。

 一見装飾品にしか見えないそれらは、迫撃砲に匹敵する傷跡をばら撒いている。

 耳鳴りにも似た金属音を響かせて飛翔する刀剣たちは、臓物を揺らすような大音量をもって着弾と同時にクレーターを作る。

 時間にしてわずか10秒ほど。

 手を伸ばせば届きそうなほどの距離に光を残す流星群は、しかし破滅的なまでの威力を持って異形を破壊した。

 100はいたはずの虹色の人型は跡形もない。

 焦げ付いた泥と荘厳な剣林を残して果てたのだ。

「な……ば、馬鹿な!ありえるはずがない!最下級とは言え神から零れ落ちたものなのだぞ!並みの神秘では掠り傷すら与えられん!それが、そんな馬鹿な。なんだ、なんなんだそれは!」

 遠目から見ても分かるほどに亀山は酷くうろたえていた。

 半ばまで挙げた腕をぶるぶると震わせ、朧な足取りで後ずさる。その視線は剣林と衛宮士郎の間を交互に行き来している。

 亀山の裏返った悲鳴に、衛宮士郎は無言を貫いた。

「……あり得ない。そうか、分かったぞ。幻術、シングルアクションで私の回路を乱したな!魔眼か?それとも会話に術式を織り込んでいたのか?ふ、はは、この私の目を欺いたのには誉めてやろう。だがやはり三流だ。いや、能無しといった方がよいかな。もう少し現実味のある景色を写せば良いものを、こんなバカげた妄想を投射するとは!」

 静まった空間に男の声だけがこだまする。

 男はまくし立てるように語調を早めていき、独り言と狂乱の境に入っていく。

「ああ、やはり愚かしく低能な術者しかいないのだ時計塔には!術式の高度さ回路の多さなど、真に力ある者には無意味でしかない。簡素かつ純粋、最小限の力で最大の効能を。それが風雅というものだ。それを時計塔の蒙昧どもは、そろいもそろって血族血族。術式がいかに高度でも、それを使う頭脳の出来が悪いのでは出し物と同じよ!」

 突如、焼け付いた虹色が鮮やかに輝いた。

 亀山の手前、舞台の中ほどに広がる泥だまりは極彩色を纏って波紋を広げる。

「遅鈍な術式など我が神の前では塵に等しいことを教えてやろう!これを見よ!驚愕に打ち震えよ!我が洗練された祈りと理論により化身は来たる!門の導き手にして守護者、古ぶるしきもの!神の化身と同一視される夢見人の案内人!」

 にゅるり、と爬虫類を思わせる動きで出でたのは干からびた腕だ。

 泥だまりから体をくねらせ、粘ついた挙動で這い出てくる。

 それは全身が無色の織物で覆われていた。麻のようなざらついた生地はしわくちゃで、端がボロボロとほつれている。

 フードのように顔まで覆われ、シルエットが人型ということ以外分かることは少ない。

 ただ長く伸びたミイラじみた手が手招きするようにこちらに伸ばされていた。

 コナンはその姿を見るに、全身が総毛だったような気がした。

 背筋に氷が差し込まれ、心臓が煩いほどに臓腑を揺らす。

 脳が口の裏から丁寧に掻き回され、ねっとりとした虹色を垂らされる。

 そうしてぐずぐずに溶けた中身を啜られるのだ。

 あまりにも醜悪で信じがたい、腐乱した死骸よりなおおぞましいソレに、コナンは一瞬すべての思考を放棄しかけた。

「……あ、」

 それを引き戻したのは、安室の震える手だった。

「だめだ、見ちゃだめだ。気を強く持って。理解しようとしちゃいけない」

 安室はコナンを抱きかかえたまま、か細い声で囁きかけた。

 その瞳はコナンをとらえてはおらず、言葉もコナンを引き戻そうとしているというより己に向けて放ったもののように思う。

 顔色は真っ青で、震えるさまはとても正常には見えない。

 しかし、それでも安室の言葉でコナンは現実にひき戻された。

「安室さん、無理をしないで」

「ああ、見ちゃだめだコナン君。分かる、分かるんだ。扉の前で待っている。そういうものなんだ、あれは!」

「安室さん、落ち着いて。大丈夫だから」

 パキリと硬いものが割れる小さな音がして、コナンは安室の手を握ったまま音の出所を探った。

 安室の上着のポケットの中。

 手を伸ばして安室のポケットをまさぐり、コナンは顔を険しくした。

 大きくひび割れた宝石が出てきたのだ。無数の罅の入ったビックジュエルは輝きを失い、心なしかその真紅も色褪せて見えた。

「これは……セヴァリーさんが言うには精神防御の式、だったっけな。字面だけで考えるなら、奴らに操られたりおかしくされたりするのを防ぐ効果があるってことか」

 安室はコナンが苦しく感じるほどに力いっぱいコナンを抱きしめている。

 そして小さく何ごとかをつぶやき続け、肩を細く震えさせている。

「アレが表れたとたん宝石が割れた。……考えられるとするならオーバーフロー、か。このままじゃ安室さんが持たない」

 コナンはズボンのポケットから自分の分の宝石を素早く取り出すと、安室の手に握りこませた。

 宝石を握る安室の手を包むようにして自分も宝石に触れるようにする。

「あ……、コナン、君?」

 効果は半信半疑だったコナンにも信じられないほど顕著に現れた。

 目に光を取り戻した安室がコナンを視界にとらえる。

「大丈夫?安室さん」

「……なんとか」

「驚愕したか?絶望したか?そう、コレこそが神話に謳われるもの、タウィル・アト=ウルムである!」

 亀山が狂気に満ち満ちた歪んだ相貌を向ける。

 はっとコナンは衛宮士郎に目を向けた。なるべく彼のおぞましいものを視界に写さないよう注意しながら、コナンは焦りに目を見開く。

 あんなもの、人間が直視すれば正気でいられるはずがない。

 衛宮士郎だけがこの場でコナンたちの命をつなぐことができるのだ。その彼が正気を失ってしまえば本当におしまいだ。

 男が高らかに神名を謳い上げると同時に、その冒涜的な人型は動き出した。

 滑るように床を這いずり、衛宮士郎にかさついた手を伸ばす。

「同調、開始」

 衛宮士郎はいつから持っていたのか、片手に宝石を二つ掴んでいた。

 頭上に宝石を軽く投げると、一歩だけ後退した。

 宝石の真下、タウィルなる人型は彼のもとまであと数センチまで手を伸ばした。

「工程完了、重圧(Gewicht)」

 遠雷のような音をコナンは聞いた。

 紫と黒の入り混じる閃光がコナンの目を焼く。

 放たれた宝石は空間にひび割れのような裂け目を作り、ここにいても耳の奥が押さえつけられる感覚がするほど強烈な重圧を人型に叩きつけた。

「####ギギ#――!」

「――投影、開始」

 瞬きのうちに衛宮士郎が人型の後ろにまわる。

 コマを飛ばかのような入りと抜きの無い踏み込みは、コナンの眼には瞬間移動じみて映った。

 鋭い眼光。低い体勢で左手を振り上げている。

 次の瞬間、重圧に絡めとられて動けない人型に左腕を横一線にふるった。

 一瞬だけそれは紫の光を反射し、かろうじて軌道を空間に示す。

「ギ#――――#」

 瞬時に距離をとった彼の両手には、白黒一対の短剣が握られていた。

 鉈のような形状、鍔のない両刃。

 刀身に描かれているのは陰陽太極図だ。中国、あるいは道教に由来する品物だろうか。

「…………サスペンスに始まって、ホラーにファンタジー。最後にはヒーローもののアクション映画。この3時間だけで一生分の衝撃体験をした気分だよ、まったく」

「僕も正直自分の頭を疑ってる。あの布お化けみたいなのがヤバいことは十分わかるけど……衛宮さんの動き、実際に再現したらGのかかりすぎで内臓が潰れちゃうと思う」

「再現も何も、ここが実際の現場だよ。コナン君」

「ここが現実っていうことがこの事件で一番引っかかる点だよね」

「まったくもって同意見だ」

 少しだけ余裕を取り戻した安室は、冗談めいて肩をすくめたようだ。

 衛宮士郎の戦闘慣れした動き、超常の現象を見る限り、彼に心配はいらないらしい。

 宝石の所有者なだけはあって、あの化け物が現れたときもわずかな動揺すら見当たらなかった。流れるような戦闘移行だ。

 彼は戦う者なのだろう。

 ならば、探偵である自分たちは推理するより他にするべきことは無いはずだ。

 二人は軽口を交えつつも、高速で状況を思考する。

「衛宮さんとセヴァリーさんがつながっているのはまず間違いないね。僕がセヴァリーさんに渡した宝石をあの人が持ってるし」

「アレの敵、という意味でもそうだ。少なくとも、彼らは亀山俊樹のたくらむ何ごとかを止めようとしている」

「今回の一件は戸口ホテルオーナー、亀山俊樹さんの犯行だったということだね。行方不明、焼死体はいずれも神様なる存在を呼び出そうとした亀山さんが超常的な手口で行ったものだ」

「戸口ホテル、とはまた今思えば直球なネーミングだ。門、戸口、ね」

「ホテル自体は昔からあるものだったから繋がらなくても仕方ないと思うよ。まさか犯行のために時間旅行をするなんて思わないもの」

「身元を保証するものが何もない状態で、いったいどうやって旅館営業許可をとったのやら」

「安室さんにやったみたいに人の心に影響を与えるすべもあるみたいだしね。申請を誤魔化すぐらいいくらでもできると思うよ」

 極力声を潜めて思考を共有する。

 衛宮士郎と布をかぶった人型もどきは未だ戦闘中だ。干からびた腕と中華刀がぶつかり合い、ありえざる金属音を断続的に響かせている。

「鍵の取引については、美術品と偽って犠牲者を集めてた可能性も考えられる。鍵の流通経路が異様に分かりづらかったのも、手に入れた人間のほとんどが死んでいるからだと考えれば納得がいく」

「組織が絡んでるのは?」

「……考えたくはないけど、この手の犯行に黒の組織が参入しようとしているのかもしれない」

「それは……最悪中の最悪だ。元から尻尾を出さない連中だけど、いよいよもって犯行を証明する方法がなくなっちゃう」

「法律は魔法使いを相手に作られていないからね。けれど、彼らには彼らの法があるようなのは僥倖だったよ」

「『キョウカイ』とか『天文台カリオン』『時計塔』とかだっけ。あとは……『ヒギサイジキョク』かな。こういう超常的な出来事に対して何らかの取り決めをしてるみたいだし、情報の共有をできないかな」

「それは難しいと思うよ。僕の経験上、こういう裏組織はたいてい閉鎖的で秘密主義だ。もし接触するとするなら構成員である衛宮士郎に直接話を持ち掛けるしかない」

 衛宮士郎が再び剣の雨を降らせた。

 肌を痺れさせる力のこもった爆風を、鍾乳石の影に隠れていなす。

 人型はリネンのあちこちを切り裂かれ、満身創痍のように見える。

「『天文台カリオン』……。カリオンといったらフランス語で鐘楼群のことだ」

「鐘楼群の設置されている天文台をアジトにしている、というのはどうだい?」

「鐘楼群自体少ないし、その線で探してみるのもいいと思う。『キョウカイ』のことを宗教施設の教会のことだとするなら、時計塔、カリオン、教会と並べてヨーロッパキリスト教圏で絞れるんじゃないかな」

「キリスト教関係か。なら、『ヒギサイジキョク』は秘密の儀式で秘儀、祭事はミサを指すと考えられるね」

「セヴァリーさんがイギリス人だということを信じるなら、時計塔はビッグ・ベン、神秘学結社は黄金の夜明け団が当てはまるよ」

「黄金の夜明け団?それってたしか19世紀イギリスの秘密結社だったような。本当に君は思いもよらない知識があるね」

「あー、えっと、僕、そのころのイギリスに興味があって……」

「……ああ、ホームズか。そうだね、考えてみればシャーロック・ホームズの舞台もそのころだ。探偵の始まりと近代魔術の始まりが同時代の同じ場所なんて、皮肉もここまでくれば運命的だ……っと、コナン君もう少しこっちへ」

 剣戟がおさまる。

 衛宮士郎は円形の舞台の上で傷一つなく、平時と変わらない様子のまま立っていた。

 対する麻布に覆われた人型はボロボロで、布地が見えなくなるほど虹色の泥を付着させて刀傷まみれ。左腕にいたっては肩から切り落とされてしまっていた。

 泥まみれの床に倒れ伏し、ピクリとも動かない。

 決着が着いたようだった。

「そいつが本当にタウィル・アト=ウルムだって言うなら、こんなに簡単に斃れるわけがない。時計塔の資料によれば、それは時間の大神ヨグ・ソトースの具現のはずだ。神霊の化身にしては弱すぎる。あんた、何を呼んだんだ?」

「先ほどの宝石魔術、貴様とは違う魔力波長を示していた!誰の差し金だ!宝石科のロードの物か!その双剣も時計塔が保管していた物だろう!神秘の格が三流魔術師には過ぎている。伝承科(ブリシサン)の骨董品でも持ち出したか?そうでなくば我が御使いが破れるはずがない!」

「…………」

「おのれ、おのれおのれおのれ!時計塔の盆暗貴族どもめ、そこまでして神の降臨を妨げたいか!私の偉業を邪魔立てするか!神は貴様らの行いを見ている!必ずその報いを受けるだろう!呪いあれ災いあれ!」

 衛宮士郎は嘆息したようだった。

 亀山の様子は尋常ではなく、そもそも言葉を交わすつもりもないようだ。ただ自分に向けた自分の言葉を声高に叫んでいる。

「工程完了。全投影、待機」

 三十前後の剣群が軋むような音を立てて出現する。

 それらは引きよせられるかのように回転し、一斉に亀山に切っ先をそろえた。

「っ、ぐ……ひ」

「もう一度だけ聞こう。あんたは、その計画を捨てる気はないのか」

「ひ、ひひひ」

 美しくも恐ろしい白刃の群れを前にして、やはり亀山は狂気に嗤ったままだ。

「否否イナ!神の降臨は目前だ。これは運命である。宿業である。神の御許に行くことは人に課された使命である!ひひひひひ、ひ、御身の定めに万物は従えり!御身の次元に我らはあり!な、えす、さ、だ、だ、ぞた、ぞた、せ――ギャアァ!」

「敵の刃を前に質問に答えないばかりか堂々と2節以上詠唱するなんて、度胸あるんだな」

 亀山の肩口に白い中華刀が容赦なく突き立てられた。

 衛宮士郎の声の調子は変わらない。

 相手に対して素直に、率直に、しかしどこか空洞のあいたような堅さを持っている。

 コナンは身をこわばらせて、安室はいたって冷静に二人の会話を見守る。

「あんたの境遇はたしかに憐れまれるべきだと思う。誰がどう見たって悲劇だし、理不尽だ。そこを邪神に絡めとられたのも、仕方ないといえば仕方ない。……けど、あんたが自分自身で戻ってこられないなら、これ以上の犠牲者を出す前に」

「あんたを殺そう」

 衛宮士郎の声の調子は変わらない。

 正義の味方になりたいと思ってる。そうコナンに語ったときと同じ、静かで穏やかな声だ。

 若く落ち着いた深みのある声色に殺意はない。

 道を歩く老人の荷物を持つように、身重の女性に席を譲るように、自然な思いやりがそこにある。

 しかし燦然たる返り血にまだらに染まりながら凶器を持つ今は、そんな優しさに満ちた声は狂気でしかないのだ。

 コナンは己の見立てが決定的に間違っていたことを思い知った。

 衛宮士郎は善良な人間?衛宮士郎は信用の置ける人格者?

 そもそも前提が決定的に間違っている。

 アヌビス神の天秤が人の姿をとったとして、それは人間とは言えないのだから。

「ギ、ギァ、ヒ、ヒヒ」

 アメミットの牙が柔らかな首筋にそっとあてられているかのような状況の中、亀山は嗤っていた。

 肩を切り裂かれた激痛に震え、床に無様に転がったまま、彼は粘ついた表情でニタニタと嗤う。

 亀山の視線の先には斬り伏せられた人型がある。

「ヒヒ、ヒヒひひひ!」

 亀山が哄笑を上げた。

 痛みに引き攣れて裏返った声が鼓膜を細かく振動させる。

 衛宮士郎の後ろで、人型がマリオネットに釣られたような不自然な動きで立ち上がった。

「もう遅い!生贄はそろった!あとはもう降りてくるだけだ!」

 亀山は大きく自分の舌を歯で咥えた。

「ひゅひゅひ、ひゅいぃぃ、えっえっ」

 コナンは次に起こることを正確に把握した。

 安室と握りあっていた宝石から手を放し、できるだけ音を出さずに素早くキック力増強シューズのダイヤルを回す。

 安室はそれを見てすぐさま一歩だけ横にずれ、シューズの放つわずかな光が広間に見えないような位置に立った。

 罅の入ったルビーを左手に構える。

 人型が衛宮士郎の真後ろで手を振り上げた。

 亀山が黄ばんだ白目をむく。

「えっえっえひひひひひひひひひっチギィッ、ア゛!!!!」

「なっ!!!」

 それらはほぼ同時だった。

 亀山が自分舌を嚙みちぎり、口から脈打つ鮮血を勢いよく噴き出した。

 それに衛宮士郎は一瞬だけ目を見開き動きが止まる。

 人型はしわくちゃで長く伸びた茶色い爪を衛宮士郎に振り下ろし、コナンの正確無比なキックはビッグジュエルを的確に捉えた。

 罅だらけの最高級ルビーが猩々緋の軌跡を残し、過たず人型の残った右腕を弾き飛ばした。

 キィン、という超音波にも似た可聴域ギリギリの高音を放って砕け散る。

 人型は一瞬だけ硬直した。

 衛宮士郎がわずかに上体を左にずらし、頬を切り裂かれながら短刀を振りぬいた。

 静寂。

 どしゃり、と人型が崩れ落ちる。

 そのまま布の中身がぐずぐずに崩れ、残ったのは色褪せた泥とずたずたになった布だけだった。

 衛宮士郎が武器を持つ手をゆっくりとおろす。息をついたようだった。

「まに、あった……」

 コナンは大きくため息をついた。

 亀山の行動は自殺を利用した奇襲だった。

 あの男は元から自分の命など惜しくはなかったようだ。神様とやらが呼べればそれでよかったのだろう。

 自分が死んでも儀式を阻止する人間さえ居なくなればそれでよかったのかもしれない。

 もし衛宮士郎が死んでこの場に人型の化け物とコナンたちだけになってしまったら、その時点でバッドエンド確定だ。

 コナンたちに生き残るすべはないし、最悪神様とやらが降りてくる羽目になった。

「まさか誰かいるなんて思ってなかったけど、あんたらのおかげで助かった。ありがとう」

「衛宮さん」

 衛宮士郎はコナンたちに気づき、こちらにゆっくりと歩み寄った。

 手の中の双剣を光子に変えて宙に散らしながら視線を合わせる。

「けど、なんの準備もせずに工房に入ってくるなんて自殺行為だ。いくら俺が侵入して破壊した後だといっても、一般人じゃ通常空間に出ることすらできないぞ」

 コナン達を身を心配するが故の苦言であるようだった。

衛宮士郎は困ったように眉を下げている。

 コナンたちも「自分たちの身の安全だけを心配する」というセヴァリーの忠告を無視しているため、少々気まずい。

 安室はコナンに宝石を返すと申し訳なさそうにお辞儀をした。

「ご迷惑をおかけしてしまいました。この宝石にも助けられましたし、僕では賄いきれないほどです」

「ご、ごめんなさい衛宮さん……」

「まあ、事件のときのことを見る限り、あんたらは俺なんかよりずっと頭がまわる。何かこんなところに突入しなきゃならないようなことがあったんだろ」

「そうだ、衛宮さん、僕たちがここに来たのは蘭が、ホテルの人たちが……」

「ホテル?あっちはセイバーに――――っ、な」

 突如士郎が耳を押さえてうずくまった。

「衛宮さん!?大丈夫ですか!」

「く、う……音量が、魔力を音の、形で放出しているのか……?」

「音?僕たちには何も聞こえない……安室さんは?」

「耳鳴りのような音が少し。後遺症のようなものだと思ってたんだけど……」

 士郎は耳を押さえたまま辺りを見渡した。

 天井に埋め込まれた巨大な両開きの扉の前。部屋の中央頭上に士郎は鋭い目を向ける。

「とれーs、ォン」

 彼は自分の声が自身で聞ききとれないほどの大音量にさらされているようだ。

 その英語と思われる何らかの合図は大きさ発音が不安定になっている。

 コナンたちも何もできずに士郎の見つめる方向を向くが、異常があるようには見えなかった。

 正確には、用途不明の天井の扉や何故あるのかわからない舞台など、この広間には異常しかなかったためにどこに着目すれば良いのか迷っていた。

「破戒すべき全ての符(ルール・ブレイカー)」

 士郎の手の中に現れたのは歪な短剣だ。

 先ほどの中華刀と同じように青い燐光が集まるように出現したそれば、紫のグラデーションを帯びたバネのような刀身をもっている。

 鍔には黄金のリングが六つはめられており、ぶつかり合って小さく金属音をもたらしている。

 剣を出した、という事実に二人は身構えた。

 つまりは何らかの異常や危険がここに迫っているということが考えられるからだ。

 士郎は投げナイフの要領で中空を狙って短剣を放つ。

 コナンが訝しんだのは一瞬だった。

 雷撃が弾けたような音とともに、巨大な鉄製の檻が空間から揺らぎ出てきたのだ。

「蘭、それにおっちゃん!」

「蘭さん!あれはホテルにいた宿泊客……!」

 檻は部屋の四方から伸びた鎖によって扉の前で釣られていた。

 黒く無骨で、長く手入れされてないのか錆びだらけだ。

 南京錠で閉じられた中には毛利蘭や小五郎、ロビーからいなくなっていた宿泊客が折り重なるように入っている。

「な……ホテルはセイバーが守っていたはずだ、いったいどうして、……ん?」

 士郎がズボンのポケットから宝石を一つ取り出した。

 それは警報機のように一定間隔で明滅しながら震えている。

「セイバー、何かあったのか」

「やっとつながった!妨害系の術式を解除できたのですね。シロウ、緊急事態です!」

 安室は興味がありそうな顔でそれを見ている。

 どうやらあの宝石は通信の機能があるようだ。

 手を再生するほどの回復や精神の安定、と常識では考えられないような効果を見てきただけに、コナンにはあまりぱっとする物には見えなかった。

 ただ、安室は潜入捜査官なので一見それと見えない通信機というのは興味をそそられるものかの知れない。

「炉心を破壊するうちに通常空間の3層下を発見しました」

「2層だけじゃなかったのか!」

「ええ、1層目が複数の炉心と被害者の転送、2層目がシロウのいる工房となっていますが、3層目にはとんでもないものがいました」

「とんでもないもの?」

「神霊そのものです。サイズは縦1km、横5kmほど。通常なら空間が存在規模を支えきれずに崩壊するのですが、自ら異界常識を振り撒いて固定化しています。おそらく通常空間を目指しています。現在は交戦中です」

「事前情報が本物ならそいつは時間を司る最高神格のはずだ。セイバーは大丈夫なのか」

「はい、なんの戯れか権能を使う様子がないので辛うじて。しかし長くは持ちません。先ほども神霊の咆哮が下層に洩れました。そちらに影響はありませんでしたか?」

「さっきの大音量はそれだったのか。ああ、大丈夫。こっちはホテルの一般人と一緒だ」

「一般人?……まさか」

 セヴァリーと思しき声は息をのんだ。

 コナンは一つの推測を脳内で立てる。

 焼死体発見直後、猛吹雪に加えて電話線の切断と携帯電波の不調が確認された。

 そのときは非科学的な考えを排除して推理していたため、電波の不調を基地局への攻撃と推測していた。

 しかし現実は子供の落書きじみた悪夢の具現である。

 このホテルを何らかの超常的な方法で隔離してしまえば電波は届かない。吹雪だって意図的に起こせる可能性がある。

 ホテルに集められた一般人は、初めから生贄として捧げるために隔離されていたのかもしれなかった。

「ああ、やられた。一気に捧げることで加速度的に浸食が進んだんだと思う。こっちは工房でそいつを帰らせるすべを探す。セイバーは持ちこたえてくれ」

「私の剣にかけて」

「……ありがとう」

 衛宮士郎は通信を切り、コナンたちに視線を向ける。

 その顔には逡巡がありありとうかがえた。

 何度か口を開こうとして目線をそらし、士郎は息をつく。

「これは、こっちの落ち度だ。本当ならこんなことあっちゃいけないし、無事も保証できない。でも、どうか応諾してほしい」

 士郎は居住まいを正してコナンたちと向き合った。

 吊られた錆びつく檻を背に、衛宮士郎は探偵と相対する。

 琥珀の瞳が二つの群青をとらえる。

「協会の全体基礎科(ミスティール)所属、衛宮士郎。江戸川コナン、安室透両名に懇請する。現在、異界を通って超規模の神性存在が地球に接近している。もし通常空間に到達されれば未曽有の被害が予想されるだろう。そうなる前に退散法を探さなければならない。両名に求めるのは退散法探索協力と神秘の秘匿。報酬は……その宝石、ランクAの精神防御術式を刻んだルビーの完全な譲渡。これは口頭契約証文式(オーラル・ギアス)である」

 ずいぶんと改まった物言いだった。

 名前と所属、契約の詳細が述べられており、そのうえでギアスという文言が含まれている。

 ギアスといえば小説家クラーク・A・スミスの『七つの呪い』だ。行動を強制する魔術として作中に登場していることを考えるに、オーラル・ギアスとは契約魔法くらいの意味合いだろう。

 コナンは衛宮士郎の誠実さに笑みを浮かべた。

 こんな命のかかった状況で断れるわけがないのだから、報酬なんて与えなくとも強制できるはずだ。

 この契約も、どちらかといえば衛宮士郎がこのあと必ず報酬を支払うと示すためのものだ。

 出会って半日。

 衛宮士郎は善人と言い切るには難しいが、けして悪人ではない。

 コナンは安室と目配せしあって、頷いた。

「もちろん。僕たちでよければ力になるよ」

「探偵は謎を解き明かすのが仕事ですから、多少の力にはなるかもしれません」

「契約成立を確認、施錠。……よろしく、頼む」

 探偵たちと魔術師は、今ここに手を握りあった。

 



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 契約を交わしてから10分。

 衛宮士郎が檻を繋いだ鎖を切り落として蘭や宿泊客の人達を助け出したあと、情報の交換が行われた。

 この儀式は衛宮士郎の所属するとある組織によって研究されていたものだということ。

 組織は研究を持ち出した亀山の処分を決めたこと。

 衛宮士郎は言ってしまえば組織から差し向けられた刺客であるということ。

 等々。

 

 衛宮士郎の話す内容は随分と伏せられていたが、全体像を掴むのには十分だった。

 この儀式において、招来と退散はセットとして扱われるものらしい。

 儀式のもともとの作成者は随分な変人だったらしく、儀式には様々なギミックとこだわりが仕込まれている。

 儀式場は攪乱のため誤情報やトラップを大量に配置し、かつ見た目の美しさにも手を抜かない。

 かと思えば真面目に術者を儀式中にタップダンスさせる工程も作成。

 そんな混沌とした儀式を亀山はそっくりそのままここで実践したようだった。

 真面目に考えるとシュール極まりないが、その中に大変重要な情報も含まれていた。

 手順にも細かなこだわりがある製作者は、招来の手順の最後をそのまま繰り返し、最後に呼ぶ真名だけを逆読みさせれば退散になるようにしたと周囲に自慢していたらしい。

 降霊儀式全般の常識として、神霊の招来最終工程には必ず神霊の真名が必要だ。

 真名は絶対に儀式場内に刻まれるが、神霊にそれを削り取られないように隠されている。

 術によって隠すのはほとんど不可能であるため、それは古めかしい単純で人間的な方法で隠される。

 つまり、暗号である。

「『船は我が真下を進む。農耕神は第三宮で輝く。そのとき炎の正5/2角形を描いて第九詩篇の神の真名を3度唱えよ』、ね」

 今は亡き儀式製作者の研究資料から読み取れた、招来儀式における最後の手順を示した文である。

 術師は自分の研究成果を文章として残す場合、必ず外部に漏れないように暗号化したり別途術をかけたりする。

 今時わざわざ暗号化をするのは手間がかかるため、たいていは術式によって防ぐようだ。

 今回の場合、術はすでに解除されている。

 この暗号めいた文は儀式製作者の個人的な趣味とのこと。

「この緊急時に面倒なことを」

「悪い、事前に俺が解ければよかったんだけどな」

「仕方ないよ、もともと使う予定もなかったんでしょ」

 衛宮士郎が本棚の上に登ったまま安室のつぶやきに答えた。

 士郎は魔術的に隠されたものがないかを探っている。先ほどの捻じれた短剣でほとんどが解除されたとはいえ、うまくにすり抜けて残っている可能性が無いとも言えないからだ。

 その間に安室とコナンは渡された資料に向き合っている。

 二重円形の舞台の中央にB4ほどの大きさの紙を広げて話し合う。

「正5/2角形っていうのは普通に考えれば五芒星のことだよね」

「五芒星なら魔法的な意味合いもあるしね。炎の、というのが分からないけれど。あと、『農耕神は第三宮で輝く』という一節だけど、星座のことじゃないかな」

「第三宮……なるほど、黄道12宮か!第三だと双子座だ」

「双子座の星に農耕神関連のものは無いから、この場合の農耕神というのは惑星だと思うよ」

「農耕神ならローマ神話のサトゥルヌスが土星の由来になってる。なら、『農耕神は第三宮で輝く』というのは土星が双子座と重なってるということだけど……『船は我が真下を進む』も星の関係ということはないかな」

「ちょうど天井は太陽系の模型だ、十分にありえる」

 この広間の天井は黒く塗りつぶされ、可動式の太陽系の巨大な模型がいっぱいに広がっている。

 太陽に当たる位置は安室の身長と比べても五倍ほどの大きさの扉が埋め込まれている。

 扉はこれまでのものと同じように粘液質な虹色で塗装されているが、この扉に限っては繊細な彫刻が扉一面に刻まれていた。

 二人は天井を見上げた。

「でもなんで羊の彫刻なんだろう……」

「生贄の象徴かなぁ」

「スケープゴート?いや、扉は神様でしょ、なら生贄を彫るのはおかしいよ」

「そうだね。うーん、他には羊でギリシャ神話ならアルゴナウタイだけど、あれは長すぎるしかなりの数の英雄と神が登場するから、太陽と扉なんてありきたりなキーワードじゃ特定しきれない」

「星に関係する暗号に、太陽の位置にある扉。暗号に関係ないはずないと思うんだけど……情報が足りなさすぎる」

「本棚の方を見てみようか、なにか手がかりがあるかもしれない」

 安室の発案に反応したのは士郎だ。

 彼は埃だらけになりながら本棚の後ろからひょいと顔を出した。

「それだけど、本棚にある本はできる限り目を通さない方がいいぞ。見るんなら俺が代わりに見るよ」

「なにか危険でも?」

「ここにある本は全部魔導書だからな。しかもかなり悪辣なやつだ。見たら一生奇声を上げながら四つん這いする生き物として生きることになるぞ」

「……さすがにそれはごめん被ります。いっそ死ねた方が慈悲ですね、それは」

「こういうトラップは工房によくあるから、あんたらがここまで無事にたどり着けて本当に良かったよ」

「ははは」

 かなり洒落にならないことだったようだ。

 コナンは改めてタイミングの良さと自分たちの幸運に感謝しつつ、思考を暗号へと戻した。

 この部屋に船に当たるものは見当たらない。

 扉中央には大きく一匹だけ羊の彫刻がなされ、あとは解釈のできない飾り模様が彫られているだけだ。

 天体模型は作りこまれてはいるものの別段隠された暗号があったりはしない。

 円形舞台は石造りで変わった様子はないし、本棚に至っては近づくだけで全身の毛が逆立つために調べることすらできていない。

「衛宮さん、あの扉に彫ってある飾り模様はなにか意味はあったりする?」

「あー、うーん、ちょっと待ってくれ、見たことあるような無いような……?」

「どこで見たか思い出せる?」

「うーん、印章(シジル)の授業でたしか」

「シジル?」

「ラテン語で印って意味で、西洋儀式系でたまに使うんだ。召喚術の基礎知識として習った中に……そうだ、アモン!ソロモンの72柱の魔神で、序列は7位、大いなる公爵アモンを示すシジルだ!」

 悪魔アモン。RPGによく登場する悪魔として一般に知られており、イギリスに今も残存するグリモワール『ゴエティア』にその存在が書かれている。

 かつて大英博物館に訪れたときにそれが所蔵されていたのを、コナンは思い出した。

 展示解説によれば、召喚した人間に過去と未来の知識を与える悪魔で、その名前の由来はエジプト神話から来ていたはずだ。

「アモン、船、羊…………そっか、ラーだ!」

「っ、そういうことか!衛宮さん、さっきの脚立をお借りします!」

「えっ、なにが分かったんだ?」

 安室が先ほどの部屋の調査のために士郎に投影で出してもらった脚立をつかみ、地球の模型の下に置いて固定した。

 安室が脚立を揺れないように両手で押さえるうちに、コナンが軽快に登っていく。

「地点はエジプト、扉が真下に来るようにして……そのうえでギリシャの位置からは獅子座に土星が重なるように配置すれば……」

 脚立に乗って降りてを繰り返し、太陽系の模型を少しづつ動かしていく。

 模型は大きさに反して軽い。地球の模型ですら一抱えほどもあるのに、滑らかに軌道を動かすことができた。

 扉が真下、獅子座と土星が重なる位置に模型が配置された。

 かちり、というスイッチを入れたような硬質で小さな音。

「っ、これは……!」

 模型が一斉に輝きだし、薄暗い広間が光に満たされた。

 黒く塗られた天井が光に照らされて深みを増す。

 模型は輝くままにどんどんと上に上がっていく。

 がちりがちりと歯車の回る音がした。

 上に上に、天井のあった場所よりさらに上に――――しかし、それでも模型はコナンたちの目に見えている。

 鼓膜を揺らす超音波のごとき高音は、しかし耳に心地いい神秘性を帯びている。

 いつの間にか天井は星空に変わっていた。

 黒く塗られた夜空に、真に星となった模型たちが遠く輝く。

 満点の星空だ。天の川すら見えそうな、都会の光からほど遠い奥地で見える、最高の夜景。

 空はくり抜かれたようにぽっかりと浮かんでいる。

 ただその中で扉だけが元の位置に鎮座し、醜悪な虹色を振り撒いていた。

「模型が本当の夜空になる、か……ほとほとデタラメだな」

「ちょっと不思議なプラネタリウムくらいに思った方が楽だよ、安室さん」

「コナン君って意外に順応が早いよね」

 二人に駆け寄って夜空を見上げた士郎は、二人に疑問を投げかけた。

「なあ、船が扉なのはどこでつながったんだ?」

「えっと、わかっちゃうと凄く単純なんだけどね」

 コナンが扉を指さした。

「扉の彫刻のアモンなんだけど、これはエジプトの太陽神アメンが元になって生まれた悪魔。アメンは太陽神ラーと同一視されてる。そして太陽神ラーは変身する神様なんだ」

「変身……借体成型か?」

「専門用語は分かんないよ。でも、ラーが朝昼夜で姿を変えることは知ってる。朝はコガネムシの姿で地中から現れて、昼はハヤブサになって空を飛ぶ。夜は雄羊の姿で船に乗って冥界を旅すんだ」

「まさにかつての人間が太陽の動きを神格化したものですね。昼は空へ昇り夜は冥界――すなわち地の下を動いていく」

「……羊の彫刻がされた扉は、つまり太陽の船ってことか!」

「ええ。前半はエジプト神話。だから『我』はエジプトの人であり、エジプトから見て扉が下に来ればいい。それを満たした状態で後半の条件をクリアするんです。素人が作ったにしてはよくできていましたよ。扉は太陽神……つまり当時の最高神を表しています。それでいて悪魔としては未来と過去、すなわち時間をつかさどるものとして描かれている。農耕神サトゥルヌスもギリシャ神話では農耕神クロノスであり、同一名の神として時の神クロノスが上げられます。双子座の元となった双子ディオスクーロイは農耕神クロノスの孫」

「時の神とその孫が重なる……ああ、なるほど、タウィル・アト=ウルムっぽいものはそうやって召喚されたのか」

「しかしながらあくまでクロノスは農耕神ですから、そのタウィルと呼ばれた人型も偽物の神の同一存在となります。貴方が弱さを不審に思うのも同然でしょう。そも、これでは人違いですから」

「そういうことだったのか。あんたら、凄いな」

 ほう、と息をついて士郎は賞賛を口にした。

 なかなか表情が動かない青年だが、その様子を見るに素直に感心しているのだろう。

 声色に驚きの色が乗っていた。

「ならこの状態で炎の五芒星を……宝石を構えろ!!」

 至近距離で雷が落ちたような、空襲でも受けたような音と衝撃。

 部屋中が衝撃で地震さながらに揺れる。

 耳どころか頭蓋を揺らすような轟音に、コナンは手に持った宝石を取り落としそうになった。

「っ、くそ、これは……」

 士郎が扉を見上げた。

 扉は外側から大きな力を加えられたようだ。向こう側から破城槌でも喰らったかのようなありさまになっていた。

 そしてもう一度、二度、三度と衝撃が加えられていく。

「扉を破られるぞ!」

「分かってる、こうなったら……投影、開始。……無敗の(マク・ア)――」

 現れたのは、穂からけら首まで美しい金細工の施された槍だ。

 口金は複数の金環で構成され、コバルト・バイオレットの柄を持つ。銅金はなく、その代わりにツタが巻きついたような彫刻が彫られていた。

 華美ではないが上品な優美さをもったそれを、士郎は扉に向かって構える。

「――紫靭草(ルイン)ッ!!!」

 声とともに、槍から光が飛び出した。

 いや、光ではない。光と見まごうスピードで打ち出されたのは大量の水だ。

 周囲に多量の水しぶきをまき散らしながら、どこから現れたのか定かでない激流が扉に向かって伸びる。

 激流は扉に到達する直前、9つに枝分かれした。

 空間を裂くような高音。

 激流が縄のように編み込まれ、扉を包む水の結界を作り出す。

 次の瞬間、爆撃のような音が三人に降り注いだ。

「な……これ、が」

 虹色だ。

 粘着質で、醜悪で、おぞましくて、冒涜的で、悪魔的で、奇形で、汚らわしくて、凄惨で、ねっとりとして、不潔で、病的で、不安定で、身の毛もよだつような……虹色。

 それが目に入った瞬間、二人は震えが走るような強烈なおぞましさを感じた。

 まるで語りかけてくるかのようだ。こちらに。こちらに。

 安室が血が出るほどに唇をかみしめた。

しかしそれでも、決定的な狂気は訪れない。

水流の檻が膜となり、どこか対岸の火事のようなユルユルとした非現実感をコナン達に齎している。

透明な激流は神聖さと守護の意思を流れに乗せ、狂気の呼び声を堰き止めているようだった。

 溶解して泡だらけな触手が8つ、先を急ぐように扉をこじ開けていた。

 のたうつ触手が水流に触れ、弾かれて一瞬引っ込み、しかしまた勢いよく結界に一撃を加えようとする。

「############―――!」

 コナンは耳鳴りのような音を聞いた。キーンと高く、それでいて鼓膜自体に不快感を残すような音だ。

 安室は耳をふさいで眉をしかめた。片手でコナンの宝石に触れているため、左肩を上げて耳をふさいでいる。

 士郎は立っているのがやっとの様子だった。

 足は小刻みに震え、歯を食いしばって両目を強くつぶり、握りつぶすかの如くマク・ア・ルインなる槍を握りしめている。

 ほとんど槍で体を支えているようなものだ。

 槍から水流が噴き出し続けており、触手の衝撃に散った水はすぐさま補給されていく。

「ハゃく、はヤク最後の工程ヲ終ぇるんだっ!長くは持タなイ!」

「分かった!安室さん!」

「……っ」

 二人は全力で頭を回転させた。

 残るは『炎の正2/5角形を描いて第九詩篇の神の真名を3度唱えよ』。

「くそ、『炎』も『第九詩篇』も『神の真名』も分かってないぞ!」

「……コナン君!下を見て!」

「っこれは!」

 扉と宇宙に気を取られて気が付かなかった。

 変化していたのは二重円形の舞台だ。

 装飾のない石造りのそれに、浅葱色の光で文字と思しきものが浮かび上がっていたのだ。

 外側の一段低い円にはルーレットのような区切りと文字。

 内側の今コナンたちがいる円にも、外縁は同じようにルーレットの区切りと文字が書かれている。そのほかにも円形舞台中央には謎の文章が一つ。

 コナンは中央の文章に駆け寄って座り込む。

 それはルーンのようにはっきりとした角を持った文字だ。

 L字型が回転してWと合体したような、EとZをくっつけたような、あるいは郵便局の地図記号を逆転させたような。

 それは見たことのない文字であり、言語だった。

「……単字式換字暗号にしては記号の種類が多すぎる。これじゃ解けっこない」

 暗号には種類がある。

 換字式暗号とは、あ、い、う、という文字にそれぞれA、B、C、という文字を対応させたものだ。例えば有名な「踊る人形」が挙げられる。

 文字を並べ替えて意味をわからなくするのなら転置式暗号だ。アナグラムもそれにあたる。

 コナンの目に映る暗号は見たこともない形をしている。アラビア語のようなうねりに、楔形文字のような荒さ。

 その種類の豊富さは換字式にしては多すぎる。

 どちらかと言えば漢字に代表される表意文字が適切だろう。

 長さにして2行ほど。

 たったの二行は、この局面において永遠ともいえる長さを持っていた。

「あ、安室さん!なにを!」

 ふいに安室が宝石から手を話した。

 どこか焦点の合っていない目で文字に近づき、片膝をついて覗き込む。

「これの読み方は……いげ、いげ、いげ、てぃす、どぅる、いは=な、ごん、きりい、こん=こ おしゃ、きりい、こん=こ」

 どこの言語かも分からない奇妙なつぶやきの直後、外側の円形が石臼をひくような重い音を立てて回転した。

 ごご、ごご、ぎりとゆっくりと動き、ある一つの点でぴたりと止まる。

 それと同時に両脇の本棚が突然せりだした。

 ルービックキューブのような有機的かつ幾何学的な動きで本棚は回り組代わり、床に沈んでいく。

 そして一冊の本を残してすべて床の下に消えてしまった。

「安室さん、早く宝石を!」

「大丈夫、コナン君。ぎりぎりで正気だよ。この文字を見た瞬間、これで答えがわかると直感したんだ」

「聞かなきゃいけないことは多いけど、ともかく宝石を握りなおして!」

「いや、まだだ。たぶん本の内容もこれで読む必要があると思う」

「っ、……とってくる!」

 ぼんやりと中空をみつめる安室だが、声は比較的はっきりとしていた。

 安室の直感はコナンには分からない。

 これまで幾度も安室は正気と狂気の境を行き来している。それによる浸食と汚染は、彼に神話的な直感と知識を植え付けたのかもしれない。

 この場においてその直感と知識は大いに役立つ。

 しかし、この均衡も長くは続かないはずだ。

 頭上にはアレがいるのだ。

 コナンの頭が知性を超えたところで理解している。アレを見ておいてまだ何か物を考えられるということ自体が、キリスト復活にも値する大奇跡なのだと。

「これ、残ってた本だよ」

「ありがとう。コナン君は中身を見ないようにね」

 全力疾走で本をとってきたコナンに対し、あくまでゆったりと対応する安室。

 本を受け取ると、表紙を吟味してからぱらりとページをめくった。

 本は動物の皮を、毛を束ねた紐で綴じたものだった。

 皮は不揃いで生臭い。ぺっとりと油が残るそれに、表紙も裏表紙もないようだ。

 なんの動物の皮なのかは分からない。緑がかった白の皮は分厚く、所々ショッキングピンクの毛が残っている。

 舞台中央にあったものと同じ文字が焼き付けられ、辛うじてそれが文章をまとめたものだと示していた。

「エイボンの書、第四巻、第九詩篇……大神ヨグ=ソトースのへの祈り」

 安室はふわふわとした口調でつぶやきながらページをめくる。

「空の彼方の……ああ、ここは飛ばそう。ヨグ=ソトース様の真名は……これだ」

「っ、炎の五芒星は?」

「大丈夫、今なら分かるよ」

 安室は宙に指で五芒星を書いていく。

 中央に炎の瞳を持つ歪んだ五芒星の跡が、虹色に発光して示されていく。

「コナン君、僕の合図に合わせて、さ=ろえ、いる、さ=ろえ、いる、さ=ろえ、いる、とできるかぎり高い声で言うんだ。まだ声変わり前だから届くと思う」

「声の高さで意味が違うの?」

「これは地球人の言葉じゃないからね。大人の男じゃ出せないんだ。あと、これをきちんと発音するなら二人必要なんだ。僕がもう一つのパートを読み上げるよ」

「……わかった」

「よし、いくよ……せーの、」

「「###、###、#####」」

 ドォン、と轟音とともに大量の水しぶきが降り注ぐ。

 のたうつ虹色の触手は結界の中で暴れまわり、その包囲を崩そうとしている。

 槍を支える士郎の顔色は蒼白で、露出した手や首元は斑に内出血をしているのが見える。

 限界はそう遠くない。

「あれ、おかしいな。これであってるはずだけど」

「そんな……安室さん、もう一度やってみようっ!」

「いや、さっきの発音は完璧だったからもう一度やっても同じだよ。なにか欠けてるのかなぁ」

 安室の様子はふわふわと朗らかだ。

 ぼんやりとほほ笑んで、うーんと首をひねっている。

「真名だから普通のとは違うんだと思ってたけど、考えてみれば語の並びが変だなぁ。音が間抜けというか。うーん」

「くそ、どうしたら……安室さん!」

「なんだい、コナン君」

「さっきの……舞台中央のイゲイゲとかって、日本語だとなんて意味になる?!」

「うん?えっと、そうだね。『鍵は終わりなき永劫』ぐらいの意味合いになるかな」

「…………」

 コナンは高速で思考する。

 考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ。

 『炎の五芒星を描いて第九詩篇の神の真名を三度唱えよ』。

 これの神の真名をひっくり返して唱えれば良い。

 炎の五芒星は今の安室なら描ける。第九詩篇は手元にある。あとは神の真名だけだ。

 ……『鍵は終わりなき永劫』。

 そういえば円形舞台の文字が手つかずだ。

「安室さん、この円盤の外周の文字はどういう意味なの?」

「それかー。それは意味なんてないよ」

「意味がない?」

「あいうえお表みたいなものかな。外側も内側もおんなじ。ああ、こういうのを小学校のころつくったことがあったけなあ」

 安室はほやほやと笑っている。

 かなり進行しているようだ。こちらもこれ以上続けるのは危険だろう。

 士郎がついに膝をつき、槍に縋り付いて上半身を支えていた。

 水量はさきほどまでよりか細い。

 コナンは歯噛みした。時間がない。もう、一刻の猶予もない。

 ……小学校の頃に作った。

 ……『鍵』。

 ……円形。

 ……暗号。

「…………そうか、そうだったのか!!」

「コナン君?」

 コナンは安室の腕を引っ付かみ、全力で円形舞台に引きずっていった。

 安室は訳が分からず困惑しているが、抵抗する様子もない。

 そのまま円形舞台中央まで来て、コナンはやっと手を放した。

「安室さん、ヴィジュネル暗号だ!」

「うん?」

「この二重円の舞台、これは暗号円盤そのものだったんだ。中央に刻まれているのは暗号の鍵。暗号円盤は算数の授業なんかで子供に作らせることもあるみたいだから、安室さんがやってても不思議じゃない」

 ヴィジュネル暗号。フランスの外交官ヴレーズ・ド・ヴィジュネルの開発した多表式の換字式暗号の一つ。15世紀から16世紀後半にかけて編み出されたそれは、同系列の暗号の中では最も有名かつ難解だ。

 この暗号の解読法が発見されたのはそれから200年ものちで、かの天才数学者にしてコンピューターの父、チャールズ・バベッジが解読法を発見したのであった。

「んー?ヴィジュネル……ああ、そんなのあったね。鍵と暗号円盤はあるからどこに当てはめればいいかなぁ」

「神様の名前だよ。そこが暗号化されてたんだ。暗号化されていたから音の並びに安室さんが違和感を覚えたんだと思う」

「分かったよ、ヨグ・ソトース様の真名のところで、逆から三回だから……」

 水流はもう細長い糸のようだった。

 所々触手が結界を突破し、現実をうねらせている。虹色が滲みだし、広間には沸騰するような悪臭が満ち始めている。

 士郎はうつむいており表情はうかがえない。

「うん、さっきと同じようにコナン君はできるだけ高い声で、あ=ぐれ、かあるん、ぷは、あ=ぐれ、かるあん、ぷは、あ=ぐれ、かるあん、ぷは、ってお願い」

 コナンは頷いた。

 安室の向こう側には、虹色の触手が迫っている。

「いくよ、せーの、」

 息を吸う。

 音が遠い。

 太い触手が結界を突き破り、激しくうねり石壁を削り取りながらこちらへ迫る。

 口を開く。

 声を出す。

 3メートルはある触手が安室の数メートル手前にいる。

 あと2メートル。

 細かな石片と砂埃が轟音を立てて迫り来る。

 1メートル。

 声を出す。

 遠く衛宮士郎が目を見開く。

 30センチ。

 声を出す。

 10メートルはある巨大な剣が触手の前に出現する。

 15センチ。

 声を出す。

 飴細工のごとく剣が触手にへし折られる。

 2センチ。

 声を出す。

「「#####、#####、#####」」

そのあとの記憶が、コナンには無い。

 



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エピローグ

「ああ、いらっしゃい、コナン君」

「安室さんも、ポアロの仕事お疲れ様!」

 あの吹雪の夜から、一週間経過していた。

 昼間の客がいない時間帯だ。ガランとした喫茶店ポアロの中には安室とコナンしかいない。

 備え付けのおしゃれな時計がカチリと音を鳴らす。

コナンは慣れた足取りで高いカウンター席に飛び乗った。

「安室さんはあれから異常は無い?」

「幸いなことに、空中に虹色の文字を書いたり未知の言語をスラスラ読んだりはできなくなったよ」

「暗号として使うにはいいスキルじゃない」

「そりゃあ便利は便利かもしれないけど、あんなに頭が働かなくなるくらいなら今のままで十分さ」

「ほわほわ安室さんも癒し系だったよ」

「癒しは蘭さんあたりで満足するように」

いつも通りの気安いやり取り。

しかしお互い、本題が別にあることを分かっていた。

「……安室さんはさ」

「なんだい、コナン君」

「あそこであったこと、自分の見たこと、信じる?」

「……」

 安室はモーニングの客から片づけた皿を洗っている。

 皿が水を弾いてごうごうと音をたてている。

 安室は何も答えない。

「蘭姉ちゃんはさ、ホテルのロビーで見張りを交代しながら寝たけど、結局何も起こらなかったって」

「……」

「怖くて寝れなかったけどずっと僕といっしょだったし、朝が来るとすぐに吹雪も止んだで下山できたからよかったって」

「……」

「あの焼死体事件の犯人はオーナーの亀山さんで、警察が調べると彼の自室からガスバーナーとガソリンが見つかったみたい。近くの森の中で何かを焼いた跡も見つかったから、ほぼ犯人は彼で間違いないって結論付けたらしいよ」

「……」

「亀山さんは山の中で自分も首をつって死んでたのを警察が見つけたよ。犯行を自白する遺書もあった。二人を焼き殺したのは、衝動的なものだって。……そもそも、被害者の宮口さんと竹城さんを含めたあの日の宿泊客の中に、衛宮士郎とアルトリア・セヴァリーなんて人はいないみたいだ」

 コナンが目を覚ました時、そこはホテルのロビーに引かれた布団の中だった。

 朝日が窓ガラスに反射し、冷えた空気がサッシの隙間から漏れてくる。

 ロビーに荒らされた様子などまるで無かった。

 ズタズタだったカーテンはきれいなまま窓の両端にまとめてある。

 血痕の付着した絨毯は、元通り古びてはいるがよく手入れされた美しい状態を維持している。

 ブルーシートには他の宿泊客が思い思いに寛ぎ、グループを作って雑談をしていた。

 昨日のあのおぞましい事件が、ただの悪夢のだったとでも言うかように。

 案の定、昨日のことを覚えている人は安室を除き誰ひとりとしていなかった。

 皆口を揃えて、あんな事件があったから酷い夢を見たのだろうとコナンを心配した。

「……コナン君」

 安室がコップをコナンの前に置いた。

 中身はアイスコーヒー。ポアロ自慢のそれはコナンの大のお気に入りである。

「……衛宮士郎という人物を調べてみたんだ」

「っ!」

「戸籍はF県冬木市に見つかった。父親は衛宮切嗣。孤児であった彼は父親に養子として引き取られたたようだ」

「冬木で養子……冬木の大火災の被害者か!」

「間違いなくそうだろうね。引き取られた時期も一致していたし」

 冬木の大火災。1994年に起こったそれは、戦後最悪の大火災であった。

 500戸以上が全焼し、死者行方不明者は約2000人。街一つを地獄へと変えたその火災の原因は、未だに分かっていない。

 コナンはストローをアイスコーヒーにさしてくるりと回した。

「衛宮切嗣の戸籍は偽造だった。かなり手が込んでいたけど、弄られた形跡がある。冬木市内での人間関係も全て火災後のものだ。火災の前は彼はどこにいたのか、何をしていたのか分かる人はいなかった」

「それは……」

「火災の直前、あの街では猟奇殺人が起こっていた。死体を切り裂いて血を抜き、その血で魔方陣ような落書きを現場に残す、悪趣味な事件がね」

「……」

「他にもいろいろあったよ。ホテル爆破テロ、連続児童誘拐事件、海辺の集団幻覚、自衛隊機のスクランブル発進。ニュースになっていないはずがない事件がぽろぽろと出てきた」

「……僕はそんな事件ニュースで聞いたことないよ」

「君はそのころ生まれてなかったしね。仕方ないさ。それで、そこまで調べたところで上司に声をかけられてね」

「……なんて?」

「これ以上の捜査は認められない。これは私より上からの命令である、ってね」

 二人は沈黙した。

 時計の音が静寂なカフェの空気を揺らしている。

 アイスコーヒーに入れられてた氷が小さく音を立てた。

 氷はじわりと溶け、コーヒーの上に薄い水の層をつくっていく。

 コナンはポケットから正方形の黒いケースを取り出した。

 滑るような高級なつくりのそれは、工藤優作に言って入手してもらった一点物のジュエリーケースである。

 開くと紫のなめらかなクッションが目に映る。宝石を傷つけないように細心の注意を払って作られた柔らかな布地が使われている。

 そして、その中央にはさまれるように鎮座する、紅いビッグジュエル。

「証拠のない推理は妄想と変わらない。――けど、唯一で確かな証拠が、ここにはある」

 10億は下らない世界最高峰のルビー。

 美しいラウンド・ブリリアント・カット。インクルージョンは少ない。色は濃く豊かな真紅色で、カットは正統かつ美しい職人の技が見える。

 そして、あらゆる外敵から持ち主の精神を守る、そんな神秘が宿っている。

「コナン君は、どうしたいんだい?」

 安室が静かに問うた。

 洗い終わった食器を水切り台の上に並べる音がカチャカチャと響いている。

「……きっとさ、僕たちとあの人たちは、領分が違うんだと思う」

「領分?」

「生物学者がシェイクスピアの解釈を研究する必要はないし、外科医が幼稚園の運営方法を学ぶ必要はない。それと同じで、探偵が神様や悪魔に喧嘩を売る必要なんてないんだ」

「でも、君には異論がありそうな顔をしているね」

 コナンは目を伏せた。

様々な思いが去来して、上手く言語化できない。

 自分が頭を突っ込んだところで何も出来ない。

 神話の怪物に対してできることなんて、逃げ惑うか諦めて身を捧げることくらいだ。

 時すら凍りつく虹色の狂気の中、コナンは自分の無力を知った。

 頭脳と理論でどうすることも出来ない悪意が、この世界には存在する。

 人の営みを超えたところに現代法・現代科学は手が届かない。しかし自然現象と呼ぶには邪悪に過ぎる。

 探偵は人の理の中で謎を追うもの。

 悪魔の非道を裁くのは神の仕事だ。

 探偵の仕事ではない。

 それでも。

「それでも、僕達は知ってしまった」

 超常の力を、化け物の実在を、神の存在を。

 彼らを。

「きっとさ、また巻き込まれるよ」

「どうしてそう思うんだい?」

「安室さんの方が分かってるでしょ」

 それは予感を超えた確信だ。

 それを知ってしまった時、何かがアチラと繋がった。

 己を無礼にも覗き込んだ不届き者を、じっと見つめ返すように。

「今度から、犯人が魔法で密室に侵入した可能性も考慮に入れないとね」

「目撃者を操って嘘の証言をさせたり?」

「目に見えない化け物をけしかけた線もあるね」

「それ、証明のしようがないじゃないか」

 暗い空気を吹き飛ばすように笑いあった。

 知ってしまったからには、これから先をこれまでと同じように歩むことはできない。

 でも、それは当たり前のことだ。

 人は様々な困難に直面し、それを乗り越えて生きていく。

 ならばこれも、当たり前にある困難の一つでしかない。

 困難を超えるため明日をより良く生きるため、自分のできる努力をするだけだ。

 自分たちには、それだけの知性(チカラ)がある。

 アイスコーヒーが外気との差で水滴を垂らす。

 暖房の効いた喫茶店内は暖かい。

 2人は誰もいない喫茶店の中でひっそりと笑い合う。

 

 忍び寄る神秘と魔法に、不屈の誓いを交わしながら。

 

 

end.

 



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