碇さんがもう、エヴァに乗らんでええように (足洗)
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碇さんがもう、エヴァに乗らんでええように

タグにヤンデレなどと付けておりますが彼女の愛憎怨怒慈悲の混淆具合はそんな一言で済まない熟成っぷりやなと。
もうめっちゃ好き(唐突な語彙消失)



 

 排出された“彼”はまず、棺に納められた。

 それは決して遺体を埋葬する為の箱ではなく、除染と精査、身体機能の補完を用途としたハイテクノロジーの鉄塊だけど。でもやっぱり外観はやたらに豪勢な棺だった。夥しい数の電極と配管に繋がれた鋼鉄の処女さながらに。そして入っているのは生贄の乙女ではなく、一人の少年。

 その装置は諸機能を思えば医療器具と呼べないこともない。だから決して時代錯誤な拷問器具などと同列に語るべきではないのだ。冗談でも、そんな不謹慎を口にするべきではない。誰あろう医療従事者たる自分は、猶更に。

 けれど、それでも。

 そこに納められた人は間違いなく、罪人だった。

 拷問のない罰が、声なき呵責が、これからの彼には待っている。

 目視検査用に嵌められた強化ガラス越しに少年の顔を見下ろす。昏睡状態は安定的で、そう時を置かず意識を取り戻すだろう。

 だのに彼はまだ、目覚めない。

 

「……!」

 

 その時、ポケットで携帯端末が震えた。

 取り出し、着信の表示を確認しつつすぐに受話ボタンを押す。

 

「はい、こちら衛生科……はい、除染完了してます。バイタルも安定して……え、搬送準備ですか? はい……了解しました」

 

 端末を切り、今一度検査室から棺を見下ろす。

 心拍が一段、早まるのを感じた。血流は増した筈なのに指先が冷える。自分の身体が緊張しているのがわかる。

 心が、乱れているのがわかる。

 

「……はぁ」

 

 鼻から短く呼吸してそれを誤魔化した。

 各スタッフに今し方の命令を再度通達する。鉄棺を開帳する為に。

 彼の眠りを、安寧を今、壊すのだ。

 

 

 

 現実感がまるでない。この14年間は。赤く染まる全て、記憶は血の赤と、兄とお義姉さん、産まれた赤ちゃん、死んでしまった父と友達、たくさんの人、人、人。助けても助けても、次の瞬間には塵屑のように死ぬ人、人、人、人。

 救いようのない世界。

 悪夢のような14年間。泥か脂のように遅滞する、けれど閃光、爆音のように一瞬で過ぎ去った時間。

 衛生担当医務官、少尉。今自分は、そんな肩書で呼ばれてる。冗談みたいな話。

 現実感なんて、ない。本当に。

 今、艦内通路の密閉ドアを潜ろうとする自分。この生白い金属の隔壁の向こう側には、現実があるのだろうか。

 私の現実。私の14年。私の────

 電気的稼働音と圧縮空気の吐息であっさりと扉は開かれた。その、敷居一段向こうに。

 私の。

 それは私の。

 検査ベッドに横たわる検体衣姿。ゆっくりと、慎重に、歩を進めて、その傍へ。

 寝息も聞こえない穏やかな眠りの中に在る、彼。

 

「……碇、さん」

 

 呼び掛けても、彼は応えない。当然に。

 肉体と魂のサルベージは完璧に遂行された。彼は完然の、碇シンジ。技術者の太鼓判付の。

 勿論、それを保証する為の各種検査は必要だし、データの数値が限りなく碇シンジという少年に近しいというだけなのだ。少年を再生した技術者も、その辺りの判断には慎重だった。

 油性ペンを取り出して、眠る少年の足元に回る。若々しくまだまだ柔らかな足の裏の皮膚に、検体に通し番号を打つ。あるいは新生児を識別する為の、横着のような心地で。

 BM-03。仮称・碇シンジ(S・IKARI??)

 彼に与えられた仮の個体名を書き記す。

 

「……」

 

 事前検査はほぼ全て終えた。彼が横たわるベッドはそのままストレッチャーであり、拘束具でもある。

 現実に、この目で見下ろした少年の体は想像のそれよりも遥かに細く、華奢で、電装品と剥き出しの金属で組まれたベッドがいっそ凶悪にも見えた。籠どころか、牢獄に繋がれた小鳥。

 少年の有様はそれほどに儚かった。

 寝顔を見る。見れば見るほど、幼気な顔立ちだった。

 十四歳。男性と呼ぶのも躊躇われる。表情が穏やかな所為だ。顔容は中性的で、睫毛も長くて、まるでほんの小さな男の子で。

 子供。そんな風に言うのは、私の傲慢なのだろうか。肉体的には確かに自分の方が年上だけど。

 無邪気な、何の苦しみ痛みも悲しみも知らなそうなその寝顔。それが、この人が。

 

 ────殺した

 

 父だけではない。友人だけではない。たくさん殺した。多くを殺した。無数に殺した。

 死を振り撒いた。あの凄絶をばら撒いた。

 おもちゃ箱をぶちまけるみたいに、全部を滅茶苦茶にした。

 こんな、こんな幼気な顔で眠る人が。

 

 憎い

 

 迷いなく、胸奥で湧き出るヘドロ。黒々と煮え立つ憎悪。

 丘一面を埋める墓標。近所のあの子、仕事仲間だった彼、患者だった彼女、名前も分からない、誰か。屹立する。乱立する墓標。墓。死体。死骸。人の成れの果て。モノ。死。死。死。死。

 

 あんたが殺したんや

 

 大切だった誰も彼も、大切だった何もかも、大切だったあの毎日を、唐突に、身勝手に、終わらせた。

 

 あんたの所為や

 

 泣こうが喚こうがどうにもならない日々。明日生きていくことさえ容易じゃない。死は隣人。すぐ、薄紙一枚向こうの客。

 理不尽だと思った。そんな慟哭も、目の前に押し迫る滅亡という現実が吹き払う。嘲笑いさえしない。ただ押されて流されて、なるようになった。

 必要に駆られて医師になった兄に倣って医術を学んだ。そうすれば少しでも、ほんの僅かにでも、隣り合う死を遠ざけられると思ったから。焼石になんたらだったけど、それでもやらずにはいられなかった。何もせずにただ生きるなんて贅沢、もうとうの昔に消えてなくなったんだ。

 ヴィレに入ったのは、たぶん泣き言を泣き言のまま眠らせていられなかったから。反骨心と呼べるほどに強くも熱くもない、ただ粘って纏わり付いてくるこの感情のやり場を、せめて反抗に費やして燃やしてしまいたかった。

 世界の平和の為。そんな風に思ったことはない。

 エヴァ殲滅、NERV打倒、そんなことにも正直、血道を上げるほどの興味はない。

 今、その粘つく何かが、胸の奥に停滞していた何かが、溢れてくる。

 

「……あんたが、あんたが……あんたがぁっ……!」

 

 ベッドに乗り上がる。患者衣の腹に馬乗りになって、両手を寝顔の間際に突き立てる。

 そのあまりにも穏やかな顔が。

 

 憎い、憎い……憎い!

 

 掌がシーツを滑る。滑り、その首に、細く、薄い、首筋を這う。指が皮膚を巡り、握る。

 指が埋まって、頸動脈の振れ、その奥に走る頸骨の気配。

 絞める。握り合わせ、圧し潰すように。

 簡単に終わる。簡単に殺せる。

 こんな細首、自分の筋力でも十分に縊れる。扼殺できる。

 そうしない理由があるだろうか。そうできない理由が、あるか。

 上官の命令? 組織としての秩序? 人としての、何? 知らない。そんなの、この憎しみを止める理由になどならない。

 

「あんたの所為で……! あんたの!!」

 

 殺せない理由なんて、無い────

 

「────お蔭で……」

 

 震える掌に力を込める。力が入らない。

 満身の力で首を絞める。手が動かない。

 息を吸うと、喉でしゃがれる。しゃくり上げて、上手く呼吸できない。

 滲む。その、寝顔が。

 ぽたぽたと零れたものが彼の顔を汚す。

 

「あなたの、お蔭で……私、生きとります……姪っ子の顔、見れました……今も、こうして」

 

 譫言だった。でも、それは事実だった。

 この人がいなければ自分は14年前に死んでいただろう。この人がいなければ、今のこの世界すらなくなっていただろう。

 知っている。この人が、どんな思いで戦っていたのか。

 理不尽を押し付けられてきた。自分のことで兄にも殴られた。

 汎用決戦兵器? 人造人間? そんな訳のわからないものに押し込められて、訳のわからない侵略生物と戦わされて。

 勝っても負けても、彼は傷付いた。大人は責任を負わなかった。子供のままであることを許しもしない。

 彼は、ただ、その時その時を懸命に、耐え続けてきたのに。

 こんな幼気な子が。十四歳の少年が。

 自分を不幸にしながら、それでも、戦ってきた人が。

 今、また、こんなところに戻ってきた。帰ってきて、くれた。

 

「こうして、会えました、ね……」

 

 私達の恩人。兄の友達で、私にとっては少し遠くに在る人。たぶん、私の憧れ。

 兄によく彼の話をねだった。兄もよく彼のことを話して聞かせてくれた。

 とんでもない兵器でとんでもない怪獣と戦っている。その癖、それにとても苦しんで、耐え抜いているのだと兄は痛ましげに言うのだ。

 どんな人なのだろう。その疑問はとても自然に私の中に芽吹いた。

 過去のデータを調べて、その影を追った。

 第三の少年。碇シンジという人間。特級の機密に当るそれらを調べるのは容易なことではなかったけれど、兄やケンスケさんという生き証人があり、そして時間だけはたっぷりと目の前には横たわっていた。

 少しずつ、断片的に寄り集まっていく人物情報のピース。そこから見えてくるパズルの絵は、英雄像には程遠かった。

 少年の苦闘。苦悩。苦痛。苦心。痛々しい生き方。

 憧れは、憐れみに変わった。

 不幸になるばかりの生き様に、同情した。

 憎しみと同じくらい、労しかった。憎いと思うほど、慈しみたいと想った。

 

「碇さん……」

 

 会いたくなどなかった。

 

「会えて、嬉しいです」

 

 涙が出るくらいに。

 零れる滴が顔を濡らし、顎を伝い、首にまで垂れる。

 首筋には、赤々と扼殺の未遂痕が残っている。痛ましい傷の兆し。内出血までには至らなかったが、指の紋が写し取られたように歴然として。

 それは、その痕こそ、私の激情だった。

 患部を冷やし、必要なら抗炎症系の薬剤を塗布すればいい。そうすれば跡形も残らず、こんな傷擬きは消える。消えてなくなる。

 私はそれをしなかった。

 

「…………」

 

 何故そうしなかったのか。そして何故、そうしたのか。

 ただ魅入られたように、私は傷跡に唇を這わせる。労しかったから、この人があまりにも痛ましかったから。

 私が彼を傷付けずに触れられる場所は、この粘膜質だけだから。

 それとも、私は。

 

「……は、ぁっ……」

 

 痺れるような陶酔も、滲み出すような熱も気付かぬふりをして、そっとベッドから降りる。

 サイドテーブルには簡易の医療キット、計測装置の他に、もう一つ。小振りなアタッシュケースが置かれていた。

 表面には非接触型静脈認証センサが内蔵され、そこには担当医官である自分のそれが登録されている。

 翳せばあっさりと、ケースはその口を開けた。

 その中心に鎮座する、首輪(チョーカー)

 世界、人類存続の保険。一人の少年の命を担保にして。

 この人の命を縛る。

 DSSチョーカーを手に、彼の枕元へ跪く。横顔に微笑んで、そっと首を持ち上げた。気道確保の要領である。

 赤く、赤く、自己主張するその、痕に被せ、這わせ。

 かちり、そんな軽々しい音で彼のしなやかな首に爆弾が巻き付く。もう二度と、彼の意思では外せない。

 外させない。

 でもこれは幸運の象徴だ。きっと、いや間違いなく。

 だって、これで、ようやく。

 

「もう、これで、エヴァには乗れませんね?」

 

 私は吐息する。心からの安堵を込めて。

 私は言祝(ことほ)ぐ。彼の、解放を祈って。

 …………でももし、それでもなお、この少年が、まだエヴァに囚われ、縛られているというなら。

 首筋を撫でる。そっと、優しく、慈しみ尊び、愛おしむように。

 その首に刻んだ赤。激情。誓いを果たす。

 

「碇さん……」

 

 

 

 

 

 

 

 



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なんかさらっと重大なルート分岐をしているような気がしますが、気の所為です。
あくまでも鈴原サクラさんの、ちょっとアグレッシブな魅力をクローズアップして描写するだけの話になります。



 面会室の強化アクリル板に白く走る罅割れを見るともなしに見て茫然と、少年は立ち尽くしていた。それ以外に何のやり様もなく、惑い驚き乱れる心の遣り場すらもない。

 問いを投げたって、誰も受け取らないし、応えない。枯れ井戸に石を落とすような無為。

 少年は放置された。

 衛星軌道に十数年幽閉され続けた彼が、今になって回収されたのは無論のこと、当然、万に一つの可能性もなく、断じて決して絶対に、エヴァに乗せる為などではない。

 保護し、防衛する為。

 “敵”が再び第三の少年を利用するが如き事態を阻止する為だ。

 碇シンジという肉体の再構成後、即座に実施された深層シンクロテストの数値は全くのゼロ。万分の一を遡ってなお0%だった。

 嬉しかった。心から、喜ばしかった。目出度い目出度いと拍手を送りたくなるほど。

 

「……」

 

 そして同時に、立ち尽くす少年を憐れに思う。

 葛城艦長、そして赤木副長とて何も彼憎しなどという思いで現状、実情の説明を省いている訳ではない。軽々に口に出来るほど、この世界の有り様は易しくなかった。優しく、なかった。

 それを何も知らない彼に教えることを躊躇う心持ちは浅からず理解できる。赤木副長はともかく、葛城艦長にとってはなお一層に。無慈悲で、無惨なことだろう。きっと、互いにとっても。

 

「碇さん、移動しましょか? 碇さんのお部屋にご案内しますね」

「……確かに、手を」

「え?」

「綾波の……綾波の手を、掴んで、こっちに引き戻したんだ。なのに……なんで……なんで、綾波……」

「…………」

 

 綾波、綾波、綾波……少年は繰り返し繰り返し呟いた。その名前を注意深く、大事そうに、捧げ持つかのように。

 それが唯一の依る辺であるかのように、何度も。

 

「………………」

 

 ────軽々しく、言い表せるものか。理解など出来てたまるか。

 彼の、自らの罪の重さを知らしめるのに、百聞を尽くしたって足りはしない。見せ付けなければいけない。

 思い知らなければ駄目なのだ。この人は。

 だから。

 携帯端末を起ち上げる。履歴を漁ってリダイヤルする。

 

「……もしもし、面会終了しました。碇シンジ(BM―03)の移送を」

 

 瞬間、地面が波立った。部屋が震えた。

 違う。船体が激しく上下したのだ。

 

「っ!?」

「なんだ……!?」

 

 衝撃が轟く。何度も何度も。そしてどうやらそれは爆撃ではない。経験的な感覚でそう判じる。空気を伝播する震動が薄い。これは火気を伴わない、もっと単純な、外壁が何かに()()されている。

 

「ミサトさん! リツコさん! これはなんなんですか!? 今攻撃を受けてるんですか!? 新しい使徒っ、それとももっと別の敵に!?」

 

 アクリル板の向こうで艦長と副長は指揮系統の統制の為に有線や端末から指示を飛ばしていた。少年の爆発するような疑問の嵐には一切取り合わず。そんな余裕などないと。戦闘配置下に入ろうかという状況なのだから、当然ではあった。

 しかし同時に、私はそこに倦み疲れた諦めのようなものを覚えた。今、この時この場で少年に掛けるべき言葉を、あの人達は持たなかったのだろう。

 そして思う。それは一種の逃避ではないか、と。説明責任どうこう以前の、この混迷なる状況に放り出された彼に対する不義理。あまりにも不条理ではないかと。

 元NERV本部作戦課長と、同技術開発部総責任者。彼女らの少年に対する存念など、想像するより外ないが、浅く軽いということだけはありえないのだとわかる。

 でも、だからって。でも、そうであったとしても。

 どうしてか、胸中に紡がれる言葉。

 

 ────後ろめたいんですか

 

 一言、そう問うてみたかった。

 不思議な感情が、初めての情念が、くつくつと煮え立つのを感じた。これは、なんだろう。

 苛立ちに似て、それはひどく熱っぽい。怒りのようでいて、遥かに静かな。

 

「っ、綾波……?」

「は?」

 

 少年は中空に、見えない筈の何かを見止めて言った。

 

「綾波の、声が」

「……」

 

 また。

 胸に湧く、胸で沸く。ぐつぐつぐるぐる。掻き混ぜられ、発酵する。匂い立って、膨張し、滔々と溢れる。

 その名前を、この人が口にするのが、ひどく、ひどく…………嫌。

 黒い靄の流出を抑え込んで、その背に声を投げる。

 

「碇さん! ここから移動────」

「綾波! ここだ!」

 

 衝撃。先程までのものとは比べ物にならない物理的破壊の暴風。

 金属の天井が失せて、抜ける。抜けるような青空が現れた。

 長方形だった部屋が半壊し、その一辺がごっそりと剥離された。装甲、外壁、内装、配管電気系統まで、千切れ飛ぶ。

 それを為したのは、巨大な手。手甲を鎧った灰色の巨大な掌が、無遠慮に穴をこじ広げて、こちらに手を伸ばす。

 少年に、手を伸ばしている。赤いモノアイが虹彩を拡張、収縮し、確実にそのフォーカスで少年を捉えている。

 敵性エヴァ。敵機。それが本艦に取り付いている。

 

『碇くん』

「綾波!?」

 

 外部拡声で響いた少女の声に、少年は驚いた様子で──喜びを、滲ませた様子で、一歩。エヴァの手に近寄った。

 駄目。

 

「碇さん!」

「……」

 

 呼び掛ければ彼は振り返る。こちらを見てくれる。その惑う瞳を精一杯に見返す。

 行っては駄目だ。行ってしまえば彼はまた、きっと、また。

 

「行ったらあかん! それに付いてったら、碇さんは……!」

「もう、必要ないって……何もするなって、ミサトさんがそう言ってたじゃないですか。他の人達だって……!」

「そうです! 碇さんはもう何もせんでええんです! ただここにおってくれはったらええんです!」

 

 それだけでいい。そうだ。せっかく、ようやく会えた。だからもう、それだけでいい。ここに居てくれさえすればいい。

 憎いけど、ずっと想い続けてきた。憎らしさと同じくらい、いやそれ以上に私は、あなたが。

 少年は戸惑っていた。躊躇に足を止めて、視線を揺らがせて。

 私を見てる。私を見て、そこに留まってくれて。

 

「……ごめん」

「────」

 

 小さな、暴風に吹き消されてしまうほどか細く、彼は言った。その翳った表情を隠して、私に背を向けた。

 私を置いて。

 私を見限って。

 彼は行く。行ってしまう。あのエヴァの手に、その身を委ねて。

 

「────は?」

 

 そんなの。

 

「許さへん」

 

 絶対に。

 

「行かせへん」

 

 勝手にどこ行かはるん行かせへん私あなたの医務官やからあなたのお世話するんが仕事で使命で夢で憧れで嬉しくて悲しくて…………。

 散らばった医療キット。散逸したその中から包装された注射器を拾い上げた。それも針から薬剤を抜き取る旧来のものではない。弾薬を実包に詰めるのと同じように、柄からアンプルを差し込むだけでそのまま使用できる。

 そして今必要な薬剤も、ちゃんとポケットにある。常に持ち歩いていたから。持っていてよかった。本当によかった。

 

「碇さん……」

「え」

 

 その背中に縋り付く。左腕できつく彼の体を抱き締めた。

 少年は硬直する。私の意表外の行動に。体温が上がり、背骨越しに鼓動の早まりを感じた。それが少し、嬉しかった。

 その首筋に注射器を刺した。

 

「がっ、は……!?」

 

 筋肉注射で十分だった。

 アンプルを押し込む。薬剤が流れ込む。

 即効だ。一呼吸の間で、少年の全身が脱力し、その場に崩れる。それを支えた。決して離さず、ぎゅっと抱き竦めて、自身諸共床面に下ろす。

 そうして叫んだ。

 

「BM-03確保しました!」

「マリ!」

『聞こえてるよーんっと!!』

 

 爆風にバイザーのレンズを砕かれ、それでも瓦礫を踏み付けて立つ艦長。その召喚に軽やかに応じる拡声。

 モノアイに黒鉄の銃口が突き刺さる。

 鮮やかなローズピンクの機体、エヴァ八号機が、手にした拳銃を直接叩き付けたのだ。

 

『お待んたせいたしましたーー!! うちは土足厳禁なのでお帰りは、あっちだにゃっ!』

 

 八号機αの蹴りで、黄色の敵機が空中に踊り上がる。すかさず拳銃が火花(マズルフラッシュ)を咲かせた。

 狙いは正確無比。敵機の頭部が頭骨と脳漿をぶち撒けながら四散する。

 しかし、なおも敵は沈黙しない。背面で蠢いていた触手が形状を変化させ、巨大な翼膜を形成した。

 灰色の烏さながらに飛翔する。

 

『ちきしょうにゃろめぇアダムスの器だ。短筒じゃ止まんないよ~!?』

「間合が取れれば十分! 護衛艦一斉射────()ぇ!!」

 

 ヴンダーの形成するATフィールドおよび重力制御で飛行随伴する戦艦群。それら無数の艦砲が敵機を集中砲火した。

 敵機損害は極めて甚大。翼膜が襤褸切れのようにずたずたになっていく。

 無論、特殊なエヴァンゲリオンであるらしい敵機がこの程度で機能停止することはないだろう。しかし、揚力を、飛翔能力の要である翼を失った今。

 敵は堕ちた。真っ逆さまに。

 

「逃すか……! 追撃する。主砲発射準備!」

「艦内ダメージコントロール。重力制御維持を最優先して」

 

 艦長が端末に怒鳴り、副長が冷徹に下知を送る。

 続く追撃戦に艦内放送が第一種戦闘配置のアラートを鳴らした。

 けれどそんなもの、どうでもいい。今自分がすべきことに、それらはどこまでも些末事だから。

 繋ぎっぱなしの端末へ、暴風に負けないよう声を張る。

 

「移送班! 隔離室までのルート確保! 碇シンジを運びます! 急いでください!!」

 

 脈を取る。胸に直接耳を押し当てて心音を聞く。

 顔色、血量、瞳孔、体温。この場で診られるあらゆる身体情況を五感全てで精査する。

 異常なし。勿論、この後の精密検査は決定事項だが、ひとまず彼は健常だ。

 安堵する。深く、息を吐いて。少年を抱く腕に、より一層の力を込めた。

 昏睡したその寝顔に微笑む。あどけない少年の顔、頬に触れる。

 

「どこへも行かせませんよ。碇さん」

 

 

 

 

 

 

 

 



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ニアサードインパクトから第三村に至るまで村の住人達がどうやって生き延びてきたのか、小説でも漫画でもどんな媒体でもいいから見たい。見たい(迫真)



 

 

 急ぎ艦橋を目指す者二人。

 葛城艦長、そして赤木副長。

 作戦指揮と分析担当官不在で艦隊運用、まして戦闘行動など出来ない。

 鉄路を踏む足取りも、我知らず噛むように鋭く強い。

 

「鈴原少尉に救われたわね」

「……何の話」

「彼女が動かなければ、碇シンジは奪取されていた」

「そうさせない為に、彼に首輪(あれ)を取り付けたんでしょう」

「貴女に使えた? あの時、あの場で。迷わずに」

「…………」

 

 右腰のホルスターに納められたグリップ型コントローラ。遠隔操作によってDSSチョーカーの作動と停止を司る。ほんの数十グラム、トリガーにかけた指を引くだけでコンマゼロ秒の誤差もなく起爆できる。装着者を即時、殺傷し得る。

 彼の、少年の、碇シンジの命。葛城ミサトが今、握り締めているもの。

 

「…………わかってる」

「本来、彼のようなリスクは排除が妥当よ。先の襲撃で碇シンジが未だトリガーとしての価値を有していることは明白になった」

「わかってる」

「私達の保険。危険因子に鈴を付ける意味、今一度理解しなさい。鳴らない鈴に意味はないわ」

「わかってるッ!!」

 

 激昂と共に、壁に拳を叩き込む。それは壁面の表層を僅かに歪ませた。

 

「その時が来たら、私が……私が蹴りをつける。私の手で……せめて」

「……」

 

 赤木リツコはこの上の意見具申を控えた。それは決して同情などではなかったが、その躊躇は、理解できる。不合理で、甘やかで、人らしい。

 冷酷冷徹を演じる葛城ミサトの滑稽を、“人間”を、赤木リツコは否定できなかった。

 

 

 

 

 

 冷えた空気を喉奥へ吸い込んだ。喉の肉が持つ人肌の熱を冷気の爪で掻き裂かれる心地。思わず、目を見開いた。

 白色の電灯を埋め込まれた金属室な天板。硬く、視界を圧迫する壁、やけに四角い空間。

 

「知らない……天井だ」

 

 いっそ、懐かしさすら覚えるほど。

 目が覚めて最初に目に入る光景は、いつだって記憶にない場所。自分の意思など反映されない。誰かの意思で眠り、覚醒させられる。

 受け身なばかりの人生だった。

 乗れと言われ、言われるまま戦い、耐えられずに逃げた。けれど、逃げることで得るものは何もなくて、むしろ失われるものの方が多かった。

 それが嫌で、結局はエヴァに乗った。

 その選択は、間違っていたのだろうか。僕はまた、間違えたのか。

 微睡みほど穏やかではない空ろな意識、そこへ不意に影が差す。

 自分を見下ろす人の顔。女の子。ベレー帽に、青いスカーフ。

 

「目、覚めましたか?」

「……鈴原……サクラ、さん?」

「はい、貴方の担当医官、鈴原サクラです」

 

 彼女は微笑んだ。どうしてか、喜びも深く。

 他人の表情からつぶさに感情を読み取れるような聡い機微なんて持ち合わせていない。そんなものがあれば、苦労はない。きっと、気の所為だろう。

 じっと、ずっと、彼女はこちらを見下ろしてくる。その穏やかな視線に耐えられなくて、室内を見回した。

 首をもたげようと身動ぎした時、気付く。

 体が動かない。

 

「な……これって」

「……」

 

 上半身に、まるで遊具の安全バーのように一本、武骨な鉄の棒が渡されている。それは両腕を巻き込んでがっちりと体をベッドに押さえ付けていた。身体との接触面にクッションを張るその親切心がなにやら滑稽でさえある。しかしその設計は、これが紛れもなく人間用の拘束具であることの証だった。

 両足首にも同様のものが渡されており、仰向けのまま自身は完全に固定されていた。

 

「なんで、こんな」

「碇さんが逃げようとするからですよ」

「逃げるって」

「敵性エヴァに身柄を明け渡そうとしましたやんか」

「ち、違っ、僕は逃げようとしたんじゃなくて、零号機が……そうだ! 綾波が僕を呼んでた!」

「……」

「どこですか!? あの後どうなったんですか!? 零号機が攻撃されて、あ、綾波は無事なんですか!?」

 

 矢継ぎ早に疑問が湧いては口をつく。

 冷静ではいられなかった。自分の知る今が、14年も昔に過ぎ去ったなんて。実感など持てない。それ以前の話だ。何もわからない。誰も応えてはくれない。返ってくるのは……無言の敵意と、重い疲労感だけ。

 縋る思いだった。目の前の、ようやくまともな会話に応じてくれる人に、感情のまま問いを投げ、ぶつけた。

 しかし、そんな彼女さえ沈黙する。先程までの柔らかさが、消えた。

 彼女の目に、険が宿る。

 

「あれは違います」

「違う……!? でも、確かに綾波の声が!」

「あれは、碇さんの知ってる綾波さんじゃないんです」

「?? それって、どういう、意味……?」

「ある人の遺伝子情報から人工的に造られた人間。綾波シリーズ、そう呼ばれるもの」

「………………は?」

「エヴァに乗るには適性がないとダメなんですよね? それを持った人間をクローンで増やす方が効率的……そういう意図もあったそうです」

「……ち、ちょっ、と、待ってよ」

「碇さんの言うとる“綾波レイ”さんは14年前、エヴァ初号機に取り込まれて消えました。回収された初号機からサルベージ出来たのは碇さんだけです。赤木副長が仰った通り、綾波レイさんは消えてなくなったんです」

「待ってよ!!」

 

 端的に、淡々と、彼女は言った。まるで書類の文面を読み上げるみたいに。確定した事実を口にするみたいに。

 事実を。

 

「嘘だ……だって、そうだ。プレーヤーが」

「……」

「綾波が持ってきてくれたんだ……あの時、わざわざ拾ってきてくれた……逃げ出した僕なんかの為にそれを、届けてくれたんだ。だから僕は、綾波を()()()()()ちゃ()いけないんだ!!」

 

 その為にエヴァに乗った。その為だけに。

 死んでも助けるって、誓った。自分自身も、世界すらどうだってよかった。

 変わりなんてない。綾波は綾波だ。それ以外にない。

 だのに。

 僕を見下ろすその目は、冷え切っていた。

 

「そですか。わかりましたわ」

 

 そう言って、彼女は手にしたタブレットを操作し始める。幾度かタップとフリックを繰り返した頃、突然眼前に矩形のウィンドウが現れた。空間に投影されたホログラムのディスプレイ。

 そこに映し出されたのは、何かの資料。作成年月日と情報管理部という電子判子の押印がされ、題字には。

 

「『ニアサードインパクト』……?」

「14年前の大災害を、私らはそう呼んどります。碇さん……あなたの引き起こした」

「!? 僕が?」

 

 冷え切った目、そして凍て付くような声音で彼女は言った。

 意味がわからなかった。

 

「わかってもらいます。知ってもらいます。全部、余さず。碇さんにはその義務があります。その権利が、ありますから」

 

 最後の一言だけは、どうしてかひどく優しげに囁いて。

 それは始まった。

 ────それは崩壊だった。煮崩れるような破滅で、滅ぼされていく命の懇切丁寧な説明であり解説であり絶叫。死。赤い死。人が溶けていく。人が消えていく。

 地割れが街を踊り喰らって、天上に開いた穴が地上を飲んでいく。火に晒された砂糖菓子より儚げな家々。山々。散華する大地。絶望の悲鳴と絶望の喘鳴と悲哀の涙は赤く紅く。人が死んでいく。

 人が死に、絶えていく。

 コア化。生命は尽く赤い何かに融解した。大地は生命の存続を許さず、そのほぼ全域が禁足の領域へと染まり上がる。

 月。白い月に赤い文様。それは分化する卵子のように、何かの誕生と創造を(おぞ)ましやかに予感させる。

 首無しのエヴァ擬きが苦しみのた打つように溢れ出、赤い廃墟を徘徊する。

 地獄絵図。この世の終わり。終末の底。陳腐な言葉で幾らでも表現できる。

 ただ、生命を許さなかった。世界が命を嫌っていた。

 液化した人の骸が、中途半端に散逸する。資料から画像へ。画像から映像へ。時に外界の地獄を。時に実験室で。時に戦場の光景を。

 避難所に寄り集まったぼろぼろの人、人の群。怒号が飛び、啜り泣きが響く。四肢を失った人が多かった。

 また画像。ガラス容器に納まる小さな手が現れた。紅葉のように小さな、赤子の手だった。

 

「あ、ぁ」

「たくさん、たくさん死にました。世界が、人の生きられない場所になりました」

「は、はっ、ぁ、はぁは、はぁはぁはぁ、はぁはぁはぁはっ」

「あなたが、切欠です。碇さん」

 

 人類の大量絶滅。赤い大災害ニアサードインパクト。

 

「あなたが」

「ち、ち、ちち違う違うっ、違う僕は僕はただ、あ、あ、綾波を、助けようとしただけで、こんな、ここ、こんなこと望んでなんか」

「それでも、あなたがやったんです」

 

 また切り替わる。今度は映像だった。L結界密度測定実験時における研究員コア化事故事例。防護服の中で人が形を崩し、どろりと溶け出てくる。溶け残った眼球がマスクの内側に張り付きこちらを見ていた。

 また切り替わる。今度も映像だった。避難民居住区で大量コア化事例。試作型封印柱の除染効果不十分。赤い液体が延々と地面に満ち、そこかしこに、無数に浮いた衣服、靴、そして時折、肉片と骨。白い骨。半端な数の五体。手を繋ぎ合ったまま浮かぶ腕。小さな頭があった、子供の頭が赤い海に浮かんで────

 

「やめてよ」

「見てください」

「これを、止めてよ、お願いだから」

「ちゃんと、見てください」

「ひっ、ぎ、ぁ、やめてよぉぉおおおおおおおおおおッッ!!」

 

 身体は固定されていて動かない。

 顔を背けようとすると、彼女は頭を掴んで無理矢理に正面を向かせた。

 目を閉じようとすると、彼女は瞼を指で抉じ開けた。

 

「見て、聞いて、知ってください。思い知ってください。あなたがやったことを。全部、全部!」

「うぁ、あぁぁあぁあぁあ」

「これ全部、あなたがエヴァに乗ったから起きたことです。あなたがエヴァに乗ったら、また同じことが起きるかもしれんのです」

「は、ぁ、あ、くぁ」

 

 わからない。この感情の名前が。

 罪悪感? 恐怖? それとも、絶望?

 それら全てが混じり合い、汚濁を作って六腑が満ちる。肉体はその汚穢に耐えかねた。抱えることを放棄した。

 

「うぶっ、おげぇあっ、ぶぁ、げぇっ、ごぼっ」

 

 吐瀉物はなかった。胃も腸も空っぽだった。ただ苦く酸いばかりの胃液が、喉を焼きながら口から溢れてくる。

 それは口の端から頬へ顎へ鼻へ、だらだらと零れて落ちた。呼吸は止まり、鼻腔は臭気で満ちる。

 それでも彼女は手を離さない。その手が胃液に塗れて汚れても構わず、ただ一心、ただ専心、真っ直ぐに僕を見下ろす。

 冷え切った目……いや、その真逆の。

 燃え盛り、血の煮え滾るような、熱い眼差しが。

 

「碇さん、これが私の14年です。あなたが私にくれた14年です。受け止めてください」

「ひゅぅ……ひ、ぅ……っ、ごぽ……う゛ぁ……ぁ……」

「あなたに、捧げますから」

 

 消えゆく意識、視界の虚ろに垣間見る。

 うっとりと微笑む、鈴原サクラ。

 

 

 

 

 

 



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漫画版カヲルくんの処置法、なかなかに罪深い。興奮する(唐突な性癖吐露)



 

 

 

 エヴァパイロット用の完全隔離空間および隔離居住ルームは船内に二区画二棟。AAAヴンダー船体のほぼ基幹部に存在する。

 部屋は、人の住処と呼ぶには無機質であり金属質な、合金のフレームで組み上げられたガラス張りの箱だった。

 虫籠だ。この(ねぐら)を表するならばそれが適当。中にいるサンプルを観察する為の。

 あるいは、檻。猛る獣を飼う為の囲い。

 獣の名は式波・アスカ・ラングレー。自分に何を期待されているのか、アスカはよくよく承知している。

 暴力、兵力、決戦兵器運用の為のパーツ。戦うことが自分の役目だ。戦い、守ることが。

 

「……」

「やっはろー! たっだいまお姫ー!」

 

 部屋の扉がスライドして、ピンクのプラグスーツ姿が現れる。真希波・マリ・イラストリアスは、言うが早いかベッドに横たわるアスカに飛び付いた。

 

「うざい」

「やーん今日は一段とCoolだねぇお姫。機嫌悪い? お腹空いてる?」

「空く訳ないって知ってんでしょバカ」

「ふふん、そだったそだった。て・こ・と・は、やっぱし理由はワンコくんかにゃ~?」

「…………」

 

 ベッドサイドのテーブルから携帯ゲーム機を掴み、電源を入れる。シンプルというより無味乾燥なUIが起ち上がり、パズルゲームがスタートする。

 返答の代わり。応える気はないという意志表示。

 まるっきり肯定しているも同じだけど。今更慌てふためいて屁理屈を捏ねて言葉を重ねて必死に否定するなんて可愛げ、とうの昔に失くして久しい。

 それでもマリは、無愛想なアスカに笑んだ。実に喜ばしげな笑みだった。

 それがひどく、腹立たしい。

 業腹なのはなにもマリの人を食った態度の所為ばかりではない。いやむしろ、それこそ、あいつの所為だ。

 

「バカがガキに退化してた。それがあんまりにも目障りだったってだけ」

「アグレッシブな脱走劇だったねぇ。まあ無事に失敗したけど。首輪を付けても、ワンコくんはお座りしてられないみたい」

「何も知らない何もわからない教えて教えて教えて、はっ! 極めつけの能天気が。見ててイライラする」

「仕方にゃいんじゃない? 目が覚めたら14年モノの浦島太郎くんだもん」

「知らないわよ。あいつの事情なんて誰が汲んでやるもんか。あんなガキは何も知らないバカのまま放置しとけばいいのよ」

「あっはは、やっさしいな~お姫は~!」

「誰が」

 

 マリの言葉に他意はない。その他意の無さが、最大級の皮肉となってこの身に刺さる。

 自分の思考が、厭わしい。苛立つ。この甘さ。このこびり付く……未練が。

 

「でも、お姫の情けの寿命は短かったみたい」

「?」

「どうやらサクラ医官(センセ)は、私らが思うよりもずっと手厳しい子だったらしいよ。ワンコくんにニアサーの記録文書から画像から映像から、たぁーっぷりと御開帳しちゃったらしくてさ」

「…………」

 

 ニアサードインパクトに端を発する人類補完計画の爆心サードインパクト。人類の物理的大量絶滅と人類の強制転化合一化をゼーレと呼ばれる狂信者集団が画策し実行した、謂わば人災。それらは実に半端に不出来に世界を滅茶苦茶にして御破算を迎えた。

 その代償と不始末で、外界はインフィニティの成り損ない、エヴァ擬きが跳梁し闊歩する地獄と生まれ変わり、その化物共と人類との長い長い生存競争が幕を開けた。

 戦い戦い戦い戦い抜いて、赤く凝固した地上に遂に、ようやく、狭域ながら人類の生存圏を獲得したのがつい昨日のことのよう。

 14年。あの頃の自分を丁度折り返すほどの年月が、気付けば一瞬で過ぎ去ってしまった。日本語では、射られた矢のよう、と言うのだったか。ふざけろ。

 

「……結構なこと。お望み通りの、知りたがってた事実じゃない。ただの事実。今この時代、一歩外を出歩けばどこにでも転がってるものよ」

「それでも、14年分一気ってのはちょっとスパルタ過ぎるんじゃにゃーい? お姫やクルーの皆が14年かけて咀嚼してきた現実を、小一時間で飲み込んで消化するのは。お腹ピーピーどころか、きっとワンコくんゲロっちゃうんだろうにゃー。ニャンコみたいに」

「吐けばいいわ。苦しんで苦しんで悶え転がって、現実ってものを心底思い知ればいいわ。それくらいしてようやく、」

「ようやく?」

「…………」

 

 ニヤケ面が覗き込んでくる。徹底の無視を決め込んでも、マリの興味深げな視線は離れない。鬱陶しい。

 あまりにも鬱陶しくて、一言吐き捨てた。

 

「ガキからバカに戻るだけよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふと気付くと、ガラスに映る誰かと目が合う。

 酷い顔だった。倦んで、膿んで、腐るのを待つだけの濁った眼球。黒々と眼窩の皮膚に塗り込められた隈。張りを失い衰えこけた頬。

 死人のようなものがそこにある。

 碇シンジという名のものがそこにいる。

 死人のようでも、生きていた。死んだような顔をして、それでも生きていた。

 生きている。夥しい死を、他者に強いたのに。

 数え切れない命をLCLにして。大地を穢す赤い染みに変えて。

 顔も知らない誰かが死んだ。たくさんたくさん赤い水になって死んだ。

 人が死んだ。死なせた。殺した。

 僕が、殺した。誰も彼も殺した。老いも若きも男も女も、赤子も、殺したんだ。僕の行いが、殺したんだ。

 人を殺した僕が、けれど生きていた。

 

「ああ゛あ゛ああぁぁあぁあああぁああああああああああああああああああ!!」

 

 喉を絶叫が焼く。血の味がした。命の味がした。

 自分が生きている実感。それは罪悪感と並列している。生きていることが後ろめたい。生きてここに在る自分が耐え難い。何故生きているのだろう。こんなに辛く、苦しく、痛いのに。罪の重さが背骨を軋ませる。

 蹲り、顔を膝に埋めて頭を抱えた。爪を立てて掻き毟る。頭髪の幾らかと皮を削った。

 痛い。血が滑る。暖かい。痛みが、生を実感させる。

 吐き気が胸奥から溢れ出た。

 

「おごぉっ、おぇ、げはぁっ、が、ぶ、ぐ、ぅえ゛っ」

 

 出てくるものは胃液、胃液、固形物は少なく、褐色の泥めいた吐瀉物が僅か。それでも食べ物が混じっている。与えられた食料を口にしたからだ。物を食うという行為を自分は許されたからだ。

 他人の、その当たり前を、お前は奪い取った癖に。人としての営みを、お前は永遠に摘み取った癖に。

 汚穢(おあい)、汚濁、自分の身の内に湧く汚らわしいものの象形。それらが胃の腑から食道を通り、喉に渡り口腔を満たし、口からも、鼻からも、漏れ出てくる。

 臭い。酸っぱくて、苦い。汚物の成り損ない。鉄錆の後味がいつまでも残る。いつまでも、いつまでも。

 

「はっ、は、は、ぁ、は、ひゅ、こひゅっ、ひ、ぃ、あ、はっ、はぁっ」

 

 腐った息を吐いて、けれど吸えない。呼吸さえ満足にできない無能。酸素の欠乏で脳が機能不全を訴えてくる。当の持ち主の精神が劣弱で怠慢だから、肉体の方に愛想を尽かされたのだ。

 視界から色が消える。輪郭線が朧に滲む。

 よたよたと体が傾く。胃液と汚物を踏み躙って足が滑る。

 仰向けに倒れる────しかし、体は床面に衝突しなかった。

 支えられていた。背後から抱き竦められている。

 そのまま膝から力が抜ける。思いの外ゆっくりと、地面に腰を下ろした。

 

「碇さーん、はい、息を吐いてくださーい。ゆぅっくり、ゆぅっくり」

「はっ、はぁ、ふ、ふぅ、ぶっ、う゛……」

「大丈夫ですよぉ。大丈夫。ゆっくり、ゆぅっくりで。今度は少しずぅつ吸ってー」

「ふぅ、ふぅ……ふ、ふぅ……」

 

 耳元から優しく、壊れ物を扱うように優しく、囁きが体の中を響く。軋んだ背骨を解すような、固化した脳幹を溶かすような、ひたすらに優しい声。

 ただ言われるままに従う。それ以外の思考能力はほとんど役立たずに沈黙を貫いていた。

 言われるままに、命じられるままに……それだけが取り柄だった。いつだってそうして嫌なことから目を背けてきた。処世術。そう嘯いて。

 自己嫌悪が、今更理性に火を入れた。視界が正常を目指す。十分にクリアになったとは言えないまでも、状況を理解する程度には回復した。

 自身の背中に密着する鈴原サクラに目を向ける。彼女は柔らかな顔で笑った。

 

「呼吸、落ち着いて来ましたね。立てますか? ベッドに移りましょか」

「…………はい。すみません、服と、床……また、汚して」

「そんなんええんですよぉ。さ、掴まってくださいねー」

 

 彼女に腕を取られ、立ち上がる。血流の変化で、また眩暈がした。

 ぐらつこうとする体を、けれどしっかりとサクラさんが抱える。汚物に浸った患者衣は、彼女のエプロンやシャツも諸共に穢した。

 それを彼女は気にも留めず、ゆっくりとベッドに導いてくれた。

 腰を下ろすと、手を取られて脈をとられ、ライトで両目も診られ、上体も触診される。

 その診察をぼんやりと見ていたこちらの視線に、照れ臭そうに彼女は笑みを返した。

 

「そらセンサーでピッとやったら一発ですけど、この辺はやっぱり感覚頼りなんです。医療も科学も日進月歩やのに、アナログやなぁ思いますよね。でも」

 

 言いつつ彼女はエプロンのポケットから布巾を取り出した。それでそっと、口許を拭われる。早くも渇き始め、粘つく涎、胃液を丁寧に丁寧に清拭して、また彼女は微笑む。どうしてか、こんなにも──嬉しそうに。

 

「こうやって直に触ると、あぁこの人はちゃんと生きとるんやなぁって、安心するんです」

「…………」

「生きとってくれはるだけで……嬉しいんです」

 

 その視線に耐えられず下を向く。俯き、ただただ頭を垂れる。

 それは逃げだった。謝罪や自戒や猛省なんかでは断じてない。罪科の重みにただ、頭蓋を重くして。

 その優しさから逃げる。逃げなければ、体が、心が、みしみしと潰れてしまう。その在りもしない恐怖にただ慄いて。

 俯く顔の傍に、プラスチック製のパウチ容器が差し出された。飲料水だ。

 

「とりあえず今は口、(すす)ぐだけで。胃がびっくりしとるから、しばらくは食べたり飲んだりは控えましょうね」

「…………」

 

 差し出されたものを受け取りもせず、見詰め続ける。

 受け取れない。受け取る資格が無い。水は貴重だ。稀少な資源だ。

 僕が、それを費やしていい筈がない。

 食料は貴重だ。稀少な資源だ。

 今、自分はそれを汚物として床にぶち撒けた。

 

「……もらえません。もらっていい理由が、ありません……今だって、全部、全部、吐いて……」

 

 飲み食いする自由も権利も、当然も、他人から奪い取った人間がそれを塵にする。その不遜。この無恥。こんな冒涜。

 

「栄養剤の点滴だけいうんはやっぱり良うないです。口に入れて噛んで、飲み込んで、胃と腸を働かせて吸収するんがなんやいうても一番健康にええんですよ」

「…………」

「あ、吐いてもうたの気にしとるん? どってことあらへんよぉ、一週間前は一口も食べれへんかったのに今日は20gも食べれましたやんか。碇さんは一所懸命にされてます。ホンマに」

「……そ、んな、わけない」

「ううん、碇さんは、ちゃんとしてます。ちゃんと生きてます」

「生きてるだけだ!!」

 

 焼かれた喉から出る声は、聴くに堪えない濁ったもので、濁った胃液の飛沫が手の甲を汚す。

 

「逃げて、逃げ切れずに、迷って迷って、結局エヴァに乗って、それでも、そうすれば、綾波を助けられると思ったから……でも、それが、あんな、あんな、あんな!! 僕が選んだんだ。僕は思ってたんだ。世界なんてどうだっていいって! 綾波さえ助けられればそれでいいって! どんな犠牲が払われるかも考えずに!! 犠牲っ、犠牲が、あんなにたくさん、死んだんだ!!」

「……」

「……僕が生きていていい理由なんてない。食べる自由も、話す自由も、息をする自由も、人のそれ全部をなくしたのに。僕が……どうして、生きて……いぎで……」

 

 両手で頭を圧し潰す。このまま砕いてしまえたら。そんな浅ましい願いを過らせて。

 どうして生きてるの。どうしてこんな僕が生きてるの。何の価値もない僕が、どうして生きてるの。

 

「……ひゅっ」

「碇さん……」

「はっ、ひ、はぁっ、は……!」

 

 また呼吸が乱れていく。吸っても吐いても体に行き渡るものがなかった。いや、その逆、貪欲に生き汚くも酸素を取り込み過ぎて、その他の必要なものを不精したから。

 精神と肉体の乖離。生きているのは辛いと駄々を捏ねる癖に、死にたくないと全身で叫んでいる。無様で、醜かった。

 このまま、息絶えられたなら。また浅ましい願いが一つ、脳を過った時。

 頬に両手を添えられて、頭を持ち上げられた。目の前には当然、サクラさんがいて。

 その唇が、自分のそれに重なった。

 

「んぐっ!?」

「……」

「んっ!? ぶ、ひゅ、ん゛ん、ぢゅっ」

 

 それは未体験の、生温かで、湿潤な、呼吸。

 息を吹き込まれた。口内に、そして肺に。彼女から送り込まれてくる吐息を、僕は抵抗もできず、ただ一心不乱に吸い続けた。

 肺の中、胸の奥、そこが自分ではない熱で塗り替わる。染まり上がる。

 不思議なほど息苦しさは覚えなかった。徐々に呼吸が整い、けれど心臓は鼓動を早めていく。

 数秒か、数分か、時間感覚を喪失した。長いようにも思えたし、ほんの一瞬の出来事にも思えた。

 

「っ」

 

 最後にぬるりと、舌で舌を撫でられた。労わるような感触で。

 離れていく彼女の頬はほんのりと赤い。照れたように微笑んで、サクラさんはまた手にした飲料水を差し出す。

 わからなかった。

 

「……どう、して」

「……」

「どうして、こんな……僕なんかに……どうして、どうしてだよ……」

 

 その献身がわからなかった。彼女の慈しみがわからなくて、あまりにも烈しくて、そして怖かった。

 自分自身のこの罪を知らしめたのは、その当の被害者の彼女なのに。

 訳がわからない。なにもかも、なんなのか。

 大水の川のうねりのように思考は混濁する。理解不能。理解不能。理解不能。

 物分かりの悪い患者を、サクラさんは優しげな目で見下ろした。

 

「あなたが碇シンジさんやからです。お父ちゃんの仇で、私の恩人が、あなたやから」

「…………」

「死ぬなんて許しません。生きてください。どんなに辛くて苦しくても、生きてください」

 

 手を取られ、掌に容器が乗せられる。サクラさんはぎゅっと両手で僕の手を覆った。

 昔から、人と触れ合うのが怖かった。自分と他者との境界が曖昧になることが怖かった。

 でも、その手は暖かい。それは命の熱だった。

 生きている、証だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ラブコメっぽいのが書けた(強弁)


 

 何も知らなかったんです。

 

「知ろうともしなかった癖に」

 

 そんなつもりじゃなかったんです。

 

「覚悟なんてないのよ。何の責任も、傷も、負いたくないから」

 

 僕はただ、助けたかった。

 

「あんた自身の為でしょ。自分が救われたいから。自分に優しくしてくれる相手だから。あんたは誰だってよかったのよ」

 

 僕はただ、ただ……。

 

「また言い訳?」

 

 僕の、所為なのか。

 

「あんたが選んだことよ」

 

 僕が、悪いのか。全部。

 

「あんたが選んだことよ」

 

 じゃあ一体、どうすればいいの。

 

「……さあ? 自分で考えれば。あんたが、自分で選んだことでしょう────私を選ばなかったあんたが」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこにある。

 あそこに。

 ここに。

 満ちる。

 嗅ぎ馴れた匂いだった。懐かしい、匂いだった。

 

 ────母さん?

 

 口をつく。それは求めるような、縋るような響きで。

 どうしてその名を、その人を呼んだのか。顔も覚えていないその人を。

 懐かしい。暖かい。不純のないところで、僕は眠る。

 不純のない水底。いつか、どこかで、揺れ動く水面の光と降り注ぎ流れる輝きの光景。匂いが思い出させる。

 そうだ。そう。皆で行ったあの。海洋生態系保存の為の、その研究所。そこで嗅いだ匂い。

 命の匂い。死んだ生き物達が腐って溶けた臭い。

 同じ。同じだ。

 どうして同じなんだ。

 あの青くて、綺麗で、光で満ちた海と。

 赤くて赤くて赤くて赤くて赤くて赤くて赤いこの、この赤い液体と。

 同じだった。鼻を蝕んで脳髄を侵す臭い。臭い。

 そうかこれが。この腐臭こそが。

 生命のスープ。人だったモノの成れの果て。

 そして僕の────罪だった。

 波の音がする。寄せて返し、小波が立つ。砂浜の白を侵す赤。暗く黒い夜空さえ蝕む赤。

 赤い海を見ている。ぼんやりと、独り、浜辺で。

 いや、違った。独りではなかった。

 首を巡らせると、向こうに誰かが立っていた。自分と同じように浜辺に立つ誰かが。

 誰かは、けれど、海を見ていなかった。

 僕を見ていた。

 その片目でじっと、僕を見て。鋭く、凝然と、僕を見て。

 枯れて掠れた声が耳を刺す。

 

「今更」

 

 

 

 

 

 

 

 

「いーかーりーさんっ」

「……あ、はい」

 

 顔を上げる。ベッドに腰掛けた自分の前には、いつの間にかサクラさんが立っていた。

 日毎、彼女はこの部屋に訪ねてくる。金属で組まれたこのガラスの箱。それが自分を閉じ込める為の籠であることは言われるまでもなく理解できた。

 担当医官、彼女は自身を差してそう名乗っていた。碇シンジという収容対象の健康状態を管理するのが彼女の仕事なのだろう。

 弾むような声、笑顔。鼻を掻くその仕草に、否応もなく懐かしさを覚える。

 サクラさんは聴診器やペンライトを使っててきぱきと触診を済ませ、タブレットに何かを記入していく。十日にもなる。もはや見慣れた作業風景。

 

「自覚できる不調や、痛みや吐き気はありますか?」

「いえ……特には」

「どんな些細なことでも、なぁんでも言うてくれはったらええんですからね。ただ隠したり我慢したりするんだけはメっ、です」

「は、はい。なにか、その、変わったことがあれば、ちゃんと言いますから……」

「……約束ですよ? 碇さんはギリギリにならんとなんっも言わはらへん。言うたらあれです、ホンマ肝臓みたいな人や」

「か、肝臓、ですか?」

「そ、沈黙の臓器。痛がった時にはもう手遅れ……や、洒落ならんわこれ。ごめんなさい忘れてくださいすんません」

「は、はあ……?」

 

 自嘲して、あせあせと手を振って、おどけて笑う。

 明るく朗かで、こちらまで絆されてしまうよう。

 気遣われていた。一人の患者に向き合うようにとても真摯に。一人の人間として、ひどく真っ直ぐに。

 どうして。疑問は尽きない。腹の底から、胸の奥から、喉を溢れ口内を満たす。嘔気にはすっかりと慣れ親しんでいるのに、この不快感はまったく別種のそれだった。

 いや、快不快という次元の話ですらない。

 正しくない。分際に見合わない。相応しくない。分不相応だ。

 どうして、優しくしてくれるのか。誰あろう彼女が。この人が。

 

 親の仇である僕に

 

「…………」

 

 誰かの仇である僕は、けれど今もなお生きている。穏やかに、健やかさを求められてさえある。

 意味不明。理解不能。

 因果は応報しなかった。天罰は覿面に為らなかった。

 悪因は、善果を貪っている。

 僕は生きている。

 罪があるのに、罰はない。どうして、僕は、僕は────

 

「碇さん」

「っ、はい」

「……そんなに、怯えんとってください」

「そんなこと、そんな、ないです……す、すみません……」

「……」

 

 しどろもどろの手前で口をつぐんだ自分を、サクラさんは見詰めていたような気がする。

 確かめる勇気はなかった。見上げることが怖くて、ただ視線の感触に身を固くする。

 

「……謝ることなんてあらへん────謝って済むようなことや、ない、から……」

「…………」

 

 重い、重い言葉を頭上に戴く。項垂れた上半身に鉛を乗せたような、痛みすら伴う重圧。

 呼吸が乱れる。心臓が早鐘を打つ。血が下がり、眩暈が起こる。

 それを、噛み締めて。

 

「っ……」

 

 ああ、()()は正しい。これで、正しい。

 しっくりくる。深く澄んだ憎しみ。あの日、彼女が僕に見せたもの。恐ろしいくらい純粋なもの。その嘘の無さに、僕は戦いて、喚き散らし、反吐と涙と洟に塗れながら嫌々と顔を背けることもできずただ厳然とした真実を突き付けられて。

 その嘘の無さに────何故か安堵した。それを懐かしいと感じた。

 

「……し、食事にしましょか! 今日の献立はなんと魚ですよ、天然もんの魚! 毎日あんなペーストみたいな病人食やったら味気ないし精も付きませんわ。最近は碇さん、食もちょっとずつ良うなってきはったし、ね! しゅっとしとる碇さんも素敵ですけど育ち盛りなんやから、もっと太らなダメですよ」

「……はい」

「たっくさん食べて、その……元気に、なってください。やいのやいの言うといてなんですけど、これは本心です。ホンマです。信じて……ください」

「はい……ありがとうございます」

「…………」

 

 白々しく感謝を口にする自分は彼女の目にどう映ったろう。それすらやはり、確かめられなかった。

 

「……」

「……」

 

 ただ、息の詰まるような沈黙が室内に降りただけ。そして、それは不思議なことに、彼女にとっても同じ重みと閉塞感をもたらしたように思えた。

 無言が無色じゃない。

 

「あの……?」

「あ、はい! えっと、今朝の検診は以上です! 食べ終わったらまた食器下げに来ますから。あは、あははは……」

「……?」

 

 見上げた彼女の笑顔は随分ぎこちなくて、定型句さえどこか言い訳染みていた。

 

「えと、えと……あ、せやせや! 碇さん、なんか欲しいもんとかないですか!?」

「えっ、欲しい物、ですか」

「はい! 娯楽品とか、身の回りの雑貨とか、必要なものがありそうやったらなんでも言うてください。あぁ勿論、物資の関係もあるんで、ご希望通りに全部どぞー言う訳にはいかん思いますけど……こぉんな殺風景なとこじゃホスピスもケアもへったくれもあらへん。心身の両面(りゃんめん)健康にでけへん。そないな手落ち……担当医官の名折れです!」

「な、なるほど」

 

 拳を握って俄かに奮起する彼女に、案の定、上手い返答は浮かばなかった。

 欲しい物。

 そんなものを強請れる立場か。

 胸中に湧くそんな自分への侮蔑を一旦脇に退け、考える。単純に必要なものを言えばいい。ここでの生活はきっともっと、長く永くなるのだから。

 数秒、頭の中で様々な物品を思い起こしては払い、思い描いては消す。どれもこれも嗜好品に過ぎず、今の自分に不可欠なものとは思えなかったから。今の自分の分に見合うものなど、この部屋の中で完結しているから。

 囚人に一番必要なのは物でも待遇でもない。不自由だから。自由を奪われることが、必要なのだ。

 

「……」

「碇さん……?」

「あの、一つだけ、いいでしょうか」

「! はい、なんですか? 本でも音楽プレーヤーでも、なんかこう可愛い……ぷ、プルォヴァンスな小物でもええんですよ!」

「い、いえ。小物はいいです……端末を一つ、貸して欲しくて」

 

 

 

 

 

 

 

 

 隔離室を後にして、宛がわれた仕事場であるところの医務室へ向かっている。

 通路の硬質な床を蹴る音。それは凝り固まった心中にやたらと響いた。

 淀む。清くない、正しくない何かで。汚くて、陰険な何かが。

 それは名を自己嫌悪と言った。

 

「…………」

 

 嫌味ったらしいと思った。自分の態度、うっかりと漏らした言葉が。

 恨み言を聞かせたい訳じゃなかった。

 

 ──どう言えば彼が痛がるのか知ってる癖に

 

 明るく振る舞って見せても、気遣わしげに労って見せても、白々しさが拭えない。彼に健やかでいて欲しいのは紛れもない本心だ。元気になって欲しい。

 笑って欲しい。笑いかけて、欲しい。

 

 ──苦しみ喘ぐ彼を見て、何を考えた?

 

「っ……!」

 

 息が詰まった。喉奥に(しこり)を覚える。実体のない違和感、なによりの不快感。

 彼が求めたもの。それは、厳密には艦内の共有ネットワークへのアクセスとデータ閲覧に対する許可だった。

 閲覧内容の検閲と、使用履歴の提出、報告を条件に、本件における赤木副長からの承認は実にあっさりと取り付けることができた。

 彼の手元には既に望みの品が渡っている。自分が業務で使用するのと同型のタブレット端末である。

 艦内の重要データには当然レベルに応じて閲覧制限が設けられている。各階級、各科によってアクセス可能な内容は種々別れるが、現状“仮称・碇シンジ”に開示される情報は、ヴィレが保有する膨大なそれを思えば極々僅かと言わざるを得ない。

 

『はい、構いません。見なくちゃいけないものを見られれば、それで……』

 

 彼はあっさりと承服した。

 何故なら、彼の言う見なければいけないものは、彼に許された至極狭域な権限であっても容易に閲覧することができるからだ。

 それは、ヴンダークルーの有志によりまとめられた記録である。手記、と呼ぶ方が合っているかもしれない。

 科学的、史実的な事実とするにはあまりに個人の主観が介在し過ぎていて、研究開発に利用できる数的な価値も薄い。

 それは一種の思い出だった。忘れ得ぬ過去であり、私達(ヴィレ)の原点であり、悪夢の始まり。

 ニアサードインパクト、赤い地獄の記憶だった。

 あの日を、これまでの日々を決して忘れない為に。そこにはクルー全員を対象に収集された災厄のあらゆる記録が保存されている。閲覧制限はない。ヴンダー内の全ての端末からそれを見て、聞くことができる。

 憎しみを、怒りを、無念を、悲しみを、喪失を。

 復讐の、願いの、祈りの、義心の、火を燈し続ける為の薪。

 そこには私の、父との思い出も仕舞われている。父との別離の日、幼い私と兄と父と、難民窟で炊き出しを食べている写真だった。ケンスケさんに撮ってもらったんだったっけ。そのすぐ後……父は赤い水に溶けた。

 忘れない。忘れない。忘れない。

 忘れられない。忘れてはいけない。

 私は、決して、その別れを、忘れない。その別れの元凶を許さない。

 元凶。源。全ての始まり。

 碇さん。

 ああ、碇さん。あなたが選んだんです。エヴァに乗って、あなたはあなた自身の願いを叶えようとした。それがどんなに真っ直ぐで、純粋で、それ以外にどうしようもない決断であったとしても。

 あなたの選択が、全ての始まりなんです。14年ずっと世界へ奔り続ける災禍というドミノの、最初の札を倒したのは、あなた。

 ……そんなあなたが、どうして?

 多くの人の嘆きと絶望と喘鳴に満ちた記憶を見ようとする。どうして。

 一度、それを見せた。見せなければいけないと思ったから。知ってもらわなければいけないと信じたから。

 誰あろう碇シンジは思い知らなければいけない。その選択が何を招いたのかを。是が非でも、完膚なく、骨の髄から、知らしめる。それがせめてもの、せめてもの……そう自分勝手に思い決めて、彼に過去の凄惨な記録をまざまざ見せ付けた。

 結果は、恐慌と錯乱。驚くことに、心因性の嘔吐と過呼吸だけで彼の肉体は生死の境を彷徨った。

 その後の心身衰弱の様子から、彼の罪の意識は極めて根深いと知れる。あるいは、過剰といえるほどに。

 

 それを見て、何を思った?

 罪に恐れ戦き、怯え竦む彼を見て、何を感じた?

 罪に、他者の憎しみに──私に苛まれながら、それでも、少年は自罰を選んだ。

 その姿を見た時、私は。私は、心の中で。

 

「あぁ可愛(かい)らしいなぁ……碇さん……」

 

 両手で口を覆う。

 今、喋ったのは。声を漏らしたのは。熱く、熱く吐息を零したのは。

 誰。誰……私?

 

「わ、私……なに、言うとるん……」

 

 生きていてくれるだけでいいと思った。彼がそこにいてくれるだけでいいと。

 憧れは憐れみに変わった。エヴァに乗るだけ苦しみ、不幸になっていくあの人を、慈しみたいと願った。

 それは本心。紛れもない私の希望。

 でも、同時に。

 罪に苦しみながら、罪を直視しようと、罪に目を焼かれるあの人は。あの人の、滑稽さが、健気さが。

 

 こんなにも愛おしい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヴンダー艦橋。

 球形の全天周型モニター、その眼下に赤い荒野を望む。

 脳幹を模した主塔から七方へ伸びる梁。その先端に据えられた各々のシートで、今もオペレータ達が忙しなく各セクションへ向け指示を飛ばし、また報告を受け取っている。

 主塔の頂きに立つは艦長・葛城ミサト。その隣で端末に目を落とす副長・赤木リツコ。

 

「梃子摺らせたわね」

「アダムスの器。旧来のエヴァとは根底から成り立ちを異にする存在よ」

 

 数日間に及ぶ追撃戦は、辛くもヴンダーの白星となった。

 敵方の当初の目的があくまでも碇シンジの奪取であったこと、単機による電撃作戦の都合上増援がなかったこと……これは捨て駒であった可能性も否めないが……とはいえ、常軌を逸した再生能力と弱所皆無の全身コア、無尽蔵のエネルギー機関を持った敵機を一つ潰せた事実は変わらない。

 

「機体墜落の直前にエントリープラグは排出されている。こちらは本体と違って取り回し易い旧式デバイスを踏襲したようね」

「捜索の必要性は無し、と私は判断します。どうか」

「副長からも異存はありません」

 

 赤い荒野に一際赤黒く描かれた十字架。磔刑の象形の如くに広がる液体は、形象崩壊した敵機の骸だった。

 

「有効な攻撃手段が要る」

「簡単に言わないで。分析が終わっても、あの機体の堅牢性をより証明するだけに終わるかもしれないわ」

「そのない筈の隙を見出せなければ我々に勝機はない。分析班に手心なくそう伝えて」

「……貴女のその無茶、14年も経つけれど未だに慣れないわ」

「年月を振り返る余裕があるなら、リツコもまだまだ若いわよ」

「……」

 

 手心のないその皮肉にリツコは眉を潜めた。平素なら聞き流すところだが、ふと思い立つ。

 今、リツコの手には返す刀が握られているからだ。

 端末を操作して、一件のデータを呼び出す。

 

「艦長、相談があるのですけど」

「?」

 

 持って回した言葉遣いに、ミサトが怪訝な顔をする。バイザーの下の目が、なんと珍しくも戸惑いを映している。

 リツコは端末の画面を見せた。

 それは監視カメラの映像記録。スピーカーをミュートに設定し、再生を開始した。

 

「!」

 

 隔離室、碇シンジの部屋であった。シンジと、その担当医官である鈴原サクラ少尉がいる。

 ベッドに腰掛けたシンジが突如、俯き苦しげに喘ぐ。無論、声は聞こえない。しかし、恐慌に歪む顔は、姿は、その喘鳴をミサトの耳に幻聴させるには十分だった。

 呼吸困難の様相で苦しみ続けるシンジに、す、とサクラが近付いた。医師である彼女が異状を露わにする患者に手を(こまね)いたままでいる筈もない。

 何かしらの医療行為が始まるのだろう……そんなミサトの予想は大きく裏切られた。

 サクラは徐に、シンジに口付けたのだ。

 

「ちょっ」

 

 思わず発し掛けた声を噛み殺す。

 艦橋に居合わせたクルー一同が何事かとミサトへ振り返っていた。

 それをどうにか黙殺しつつ、手元の端末を盗み見る。

 程なく、二人の唇は別離して、同じくしてシンジの異状も快復したようだ。

 

「……副長、説明を」

「碇シンジはヴンダー搭乗直後、ストレス性の過換気症候群を罹患していたようね。その発作を、鈴原少尉は咄嗟に、ああいった手段を用いて応急的に対処した。それだけのことじゃない?」

「…………」

 

 マジで言ってんのかこのアマ。バイザー越しに見えるミサトの目はそのような文言を発していたが、リツコは知らぬ存ぜぬと肩を竦めるばかり。

 ここ14年来見ないほどに情感豊かに、ミサトは瞳の奥で懊悩した。

 

「……監視を継続。少尉に注意喚起、目に余るようなら管理担当医官の変更も考慮します」

「余計な仕事が増えるわね」

「それと……アスカには見せないでよ、それ」

 

 新たな頭痛の種の芽吹きを覚え、ミサトは鼻から努めて浅く溜息を吐いた。

 

 

 

 

 

 



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アスカのパンチ力は素なのかエヴァ呪縛込みなのか。



 

 特にこれといった細工や、利便性を優先した手法……つまり不正規なクラッキングを用いる必要もない。

 自身のIDに許諾された権限で艦内監視システムに堂々とアクセスし、目当てのお部屋を選び出す。

 そのまま映像出力をエンターした、のだが。

 

「むむむ? ちょっとちょっと鍵かけたの誰ぇ……副長権限? なるほどリッちゃんか。んにゃろー味な真似を」

「……」

「そっちがその気にゃらばこちらもそのように致して進ぜよう! こちょこちょこちょこちょっと」

「コネメガネ、うるさい」

「ごめ~ん、ほんっとあとちょっとだから待ってて。あとほんのちょっとでイけるから。あ、イく。あぁっイっちゃうイっちゃう! あだっ!?」

「やめいっちゅーに」

 

 ベッドから伸びてきたしなやかな脚が、不穏なことを喚きながらヒートアップするマリの背中をストンプする。

 そして、まるでそれがスイッチと言わんばかり。

 

「いぃ痛たたた。姫のキックってば愛強すぎぃ……」

「籠めたのは良識よ変態」

「やんっ、またそういうこと言って喜ばすんだもん。ともあれ御開帳~っと」

 

 『Access』の点滅と共に映像が出力される。リアルタイムを示す時刻と録画時間の表示は早々に流し見て、目当ての彼は部屋の中央、ベッドに行儀良く腰掛けていた。

 第二隔離室。仮称・碇シンジに与えられた牢屋という名の私室である。

 

「いたいたワンコくん。うん、思ったより元気そうだね」

「……」

「しっかし動かんねぇ。良くないよータブレットばっかり弄って~。ピコピコばっかりやってたら頭馬鹿になっちゃうんだから。ねーお姫~?」

「大きなお世話よ」

「ふふふ~、では何を熱心に見てるのかちょっち拝見」

 

 プライバシーもへったくれもない調子の良さで端末にプログラムを噛ませる。カメラを直接ズームするより、この部屋、延いては彼の端末からアクセスされたデータ領域の閲覧履歴を追う方が手っ取り早い。

 

「うーん思春期の男の子の部屋を覗いて引出しまで漁ってるかのようだ。この背徳感が堪らないぜぇ~」

「キモい」

 

 辛辣極まりない、極めて正論を背中に受けてなおマリは意気揚々と家捜し(ハック)を続けた。

 しかしそんな暴言とは裏腹な、ちらちらとした実に遠慮深げな視線が、先程からずっとマリの背中を突いて止まないのだ。なればどうして、今この手を止められようか。

 筋違いの使命感に背を押され、目当ての受発信ログを探り当てた。

 

「え……おぉう……これは、また……」

「……?」

 

 スクロール、スクロール。ページを捲りファイルを跨ぎリンクを飛んでも、出てくるものは同じだった。ある一つの情報、情景、情念。それらを種々数多の言葉と画と音で表現した一つの事象。

 ニアサードインパクトの景色。十人十色が味わった地獄の手記だ。

 ログを遡っても遡っても、検索と履歴にこびり付いているのは赤黒い軌跡ばかりで。

 それは今も、この瞬間にも続いている。

 

「……」

 

 何を考えてこんなことを……その予想はつく。それはもう仄暗く、陰鬱な理由が。

 彼の性格を思えば、こうなることはある意味、自然の流れとも言える。

 幾つかの道はあった。

 現実逃避。これが一番わかり易い。現実から目を背けて、永遠にあの狭い隔離室で自ら心身を外界と隔離する。待っているのは穏やかな死。とても静かに朽ちて逝けただろう。

 あるいは、あるかもわからない希望に縋った暴挙。なにせ例の“槍”がある。ゼーレ……ゲンドウくん辺りなら、そういったシナリオを用意していそうだ。

 そのどちらでもなく、これを選んだのは幸か不幸か。贖罪。自罰。心の自傷。

 逃避することも、偽りの希望を見出すことも出来なかった少年に能う唯一の行為。せめてもの正義。独り善がり、でもあるけど。

 今彼が味わえる一番の痛み。それがこの、罪の黙読なのだろう。

 

「……ん?」

 

 漁っていたログの中に毛色の異なるものを見付けた。

 録画データが一部コピーされている。無論こちらと違って正規の手順を踏んだものであり特筆して奇妙な点はない。

 それが、碇シンジの隔離室の監視映像である点を除けば。

 至極当然のこと検める。映像はほんの数十秒間。変わり映えする筈もない隔離室には、人影が二つ。碇シンジと、鈴原サクラ。管理担当医官なのだ。室内に彼女が居たところで何の不思議も────

 

「にゃんとぉ!?」

「っ!? びっ……いきなり大声出すんじゃないわよ!」

「えあ!? あっ、あははははは! ごみんごみん!」

 

 弾くようにタブを閉じてホーム画面に戻る。幸いにもアスカからは自身が死角となって映像は見えなかったようだ。

 決定的というか、致命的なものを目撃してしまった。それがアスカにとってなのか自分自身、サクラ、あるいは当の少年にとっての死期を表してのものかはわからない。

 スキャンダラスではあるが、医療行為と言えなくも、なく……たかがキスの一回二回で大袈裟とは思うが。

 お姫様は繊細なのだ。

 

「……ちょっちお出かけしてくんね」

「あっそ」

「ワンコくんのとこ」

「御勝手に」

 

 興味関心一切ありませんといった風情。終始携帯ゲーム機に視線を落としたまま、ぞんざいにシッシッと手を払われる。

 電源の落ちたゲーム機に一体何が映っているのやら。

 可愛い可愛いお姫様。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静かだった。室内に響くのはタブレットをタップする鈍く小さな音だけ。

 いや、それともう一つ。

 

「はぁ……はぁ……ふ、ぐっ……うぶっ……おぇ……」

 

 それを追うように重なる、ひどく濁って、水っぽくて、汚ならしい音色が。

 やましいことをしている訳じゃない。ただの自儘な慰めだったなら、何も考えずそんなことに耽る余裕があったなら、どんなにか幸運だったろう。そう思う。それが一番いい。軽蔑はされても、人として真っ当だ。それは間違いなく人の営みの内だから。

 人の、僕が奪い去った誰かの、当たり前。

 誰かの幸せ、誰かの平穏が一瞬にして、誰かの嘆き、涙、絶望、血に変わる。

 眼下にある。膝の上に乗せたこの10インチほどの小さな画の中に詰め込まれた生命の終わり。崩れる。死に絶える。その追憶。

 それを見ていた。ひたすら、食い入るように、噛み締めるように、見続けた。

 目の奥に赤がこびり付く。視神経にまで残留するかのような赤色の暴力。赤、赤、赤。

 それでも、目を離すことはできない。してはならない。自分自身にそう強迫するかのように。

 それは義務感なのか、使命感なのか、罪悪感なのか。それともその全部なのか。

 明確な言葉にすることは躊躇われた。そうした途端、それらは薄ら寒いただの言い訳に成り下がる気がしてならなかったから。

 贖罪、償い、受刑、自罰。

 嘘っぱちだ。まやかしだ。自己弁護。自己欺瞞。それこそ、これこそ、慰めじゃないか。

 

「ぐ、ぅ……うぅ、ふ、ぎ……う゛っ……ぉあ……げぁ……!」

 

 赦しはない。それを強請ることすら許されはしない。

 なら、どうして生きてるの?

 誰の赦しを得て、生きてるの?

 この罪悪の重みを、苦痛を、恥知らずに厚顔に全身全霊を使って泣き喚いている癖に。それでも生きてる。

 どうして? 贖いと、言うなら。償いたいと迂闊に思い願うなら。

 何故、死のうとしないの?

 

「……それが一番、楽だから……」

 

 …………

 

「だから、できない……」

 

 タップして、検索する。手探って押し戴いて、感触を、匂いを、味を香りを、色を感じる。惨劇の、災禍の、災厄の日のそれ。

 僕が始めた地獄を、僕は見詰め続ける。

 嫌なことから目を逸らし続けてきた。逃げてもよかったのだと、誰かが言ってくれた気がする。逃げた先には、今よりももっと辛く苦しいことが待っているかもしれないけど。逃げることを選ぶのは自由だ。

 でも、今の自分は。

 逃げもせず、かといって進みもしない今、この僕は。

 どうして、ここに居ようと思ったんだろう。どうしてこんなことを始めたんだっけ。

 何かを、そう思い出して、何か。

 赤い景色、赤い浜辺、赤い。

 

 ────今更

 

 誰か。

 

 その時、扉が開いた。唐突に。

 

「ハロー」

「え?」

 

 滑らかにスライドした戸口には、女の子が一人立ってこちらに手を振っている。

 赤縁の眼鏡。にこやかで、いかにも人懐っこい雰囲気の見知らぬ人……いや、何処かで。

 

「あー! その顔は私のこと忘れてるね? ひっどーい」

「ご、ごめんなさい……」

 

 唇を尖らせぶうぶうと口ずさむ。

 怒った風を装いながら、彼女はベッドに飛び込んだ。スプリングが軋み、座っている自分ごと寝台が波立つ。

 呆気に取られて固まる自分の背中から、彼女はまるで這い上るようにして抱き着いた。

 

「うわぁ!?」

「にへへ~、どうよ」

「ど、どうって……?」

「このカ・ン・ショ・ク。思い出さない?」

 

 言って、さらに体が密着する。その段になってようやく物分かりの悪いこの脳と体は気が付いた。

 背中に押し当てられる、その柔らかなものを。

 

「ふわっ!? ちょ、ちょっと、あの」

「ん~? なーにー? どうかしたの~?」

「あ、あた、当たって……」

「んふふふふ、当たる? 何が当たってるの~? ちゃんと言ってくれないとお姉さんわかんにゃいな~」

 

 カーキのホットパンツに迷彩模様のカジュアルなキャミソール。無防備だった。そしておそらく、彼女は下着を身に着けていない。輪を掛けた無防備だった。

 家で寛ぐミサトさんを思い出す。あの人は不精で、だらしない印象が強くて、気の置けない人だった。それが萎縮の抜けない自分に対する気遣いなんだってわかってはいたけど。

 ……不意の懐かしさで我に返る。

 彼女が自分を揶揄っていることは、彼女の人を食った笑みを見た時から知れていたこと。

 

「は、放してください!」

「思い出してくれるまでやーだよー」

「えぇ!? えっと、えぇーっとぉ……うーん……あっ、パ、パラシュート! 屋上の! 降ってきた人!」

「捻り出した感すごいけどまあ、許して進ぜよう」

 

 ゆるゆると少女の体温が遠ざかる。半ば止まっていた呼吸が再稼働して、酸素のお預けを食っていた全身に血を巡らせようと心臓が躍起になって鼓動を打つ。

 にしし、擽られるような笑い声がした。

 

「うぶうぶだにゃ~。君、前にも増して可愛くなったんじゃにゃぁい?」

「っ、い、いきなりでビックリしただけです」

「いきなりじゃなかったら平気なの?」

「…………」

「ぷっ、ふふあははは!」

 

 少女はけらけらと笑い、ころんとベッドに倒れ込んだ。心底愉快そうな様がなんとも恨めしい。

 こちらのむっとした気配を察したらしい彼女は、起き上がってまた笑みを深める。

 真希波・マリ・イラストリアス。14年越しに彼女はそう名乗った。

 

「いやいやよかった。ちゃんと人らしさは残ってるね」

「……?」

「あんまり深いところに沈んでたらどうしようかと思ったよ」

「どういう、意味ですか……」

「それ」

 

 人差し指が示す。ベッドの上に投げ出されたタブレット端末。画面には──慌てて拾い上げ、電源を落とした。

 ただただ、後ろめたくて。

 

「むふふ、思春期男子っぽい慌て様……なのに色っぽくないにゃー」

「……」

「そんなの眺めてどうすんの。画像見るだけでも辛いんでしょ」

「…………」

 

 どうすることもできない。償いの方法なんて、ない。

 どこまでいっても自己満足の独善だ。価値はない。意味は、ない。

 

「自分が嫌いなんだ。一方的に傷め付ける方法と大義名分を見付けて、それで自罰?」

「……罰にもならないよ、きっと。でもこうしなくちゃ。こうしないと。でないと、息をするのも辛いんだ」

「……重症だね」

 

 処置なし。最初から決まりきっていた不治の病。

 この世には償えない罪がある。その証明が、僕だった。

 

「……頑固なところは親譲りか」

「え?」

「拘りのある生き方って私は好きだよ? 私には馴染みの薄い感覚だし。憧れ、みたいなものも覚えてる。でもこれはねー、あんまりにも非生産的」

「あっ」

 

 いつの間にか、タブレットがマリの手にあった。意識の隙を衝く早業、まるで手品師のような鮮やかさ。

 馬鹿みたいに感心を湧かせる自分に頭を振る。

 

「か、返して!」

「そうはいかんざき、ってね!」

 

 伸ばした手が空を掴む。

 高く掲げられた矩形の薄板を見上げた。

 こんなものに、自分は何故執着などするのだろう。中に詰め込まれているのは見るだに恐ろしい現実という罪。触れれば刺さる針。痛むばかりの刃。

 どうして。

 再三の自問。答えなどないと知って、それでも問う愚かしさ。

 

「いじけるのを止めた。で? 今度は禅問答? ほらまた、楽しくないことやってる。どうして? 君は願いを叶えたでしょう。シン化した初号機で可愛いあの娘とタンデム決めて。それが今はこの狭い部屋で一人後悔真っ逆さま?」

「違う……」

「えー違うのかにゃー?」

「後悔なんかじゃない……後悔なんて、もうできない。僕は……僕はっ」

 

 湧き出る。感情が、熱湯めいた血潮となって心臓から血管を伝播する。

 衝き動かす。それは決して、善いものではなかった。肉と骨を焼いて焦がして、皮膚を爛れさせる。憎しみ、それに近いもの。

 遠ざかる端末を追って、手を伸ばし体を伸び上がらせる。自分でさえ思いも寄らない勢いで。

 そこから逃れようと仰け反った少女が、バランスを崩した。落ちる。寝台の外へ。

 

「うわっとと!?」

 

 向こう側へ……手の届かない場所へ。

 あの時の、あのコアの底。

 

「あ……!」

 

 ベッドから落ちる、その寸前に少女の手を掴まえた。

 文字通り、全身で引き戻す。

 また勢い余って、彼女諸共ベッドに倒れ込んだ。

 腹の上に圧し掛かられて、ふと既視感。ああ、そういえば以前にもこんなことがあった。

 目の前に、赤いハーフリムの眼鏡。そして、その奥の蒼い目。

 枝垂れた茶髪が首筋に触れて、少し擽ったい。

 

「ふふふ、そんなに必死になって助けてくれなくてもいいのに」

「……」

「でも、ありがと」

 

 綻んだその顔を、直視できない。

 ほんの細やかなお礼の言葉一つが、今はこんなにも重い。

 

「……逃げたくないから」

「?」

「もう、逃げたくないんだ。逃げたって何も良いことはなかった。逃げずにやったことは最悪の結果に繋がった。何もしない方がいい……そう思う。今も……でも、選んだことだから」

 

 口から溢れ出るそれはまるっきり言い訳か泣き言だ。自問に対する答えなんて、何もない。禅問答。答えなんて初めから存在しない問い。

 悟りからは最も遠い。諦めに近いけど、もう少しだけ乾いていて、冷淡な。

 

「僕が選んだ。あの時、確かに、エヴァに乗るって。エヴァに乗って綾波を助けたい……そう願って選んだのは僕だから」

 

 責任。

 それを負うことからずっと逃げ続けてきた。

 助けられなかった、殺してあげる覚悟もなかった。駄々を捏ねて、責任から逃げた。今も駄々を捏ねて、現実の辛さに泣き喚いてる。アスカが怒るのも当然だった。

 戦うことで誰かが犠牲になる。全部を守るなんて無理だ。大切な妹に怪我をさせた。僕に対する正当な怒り。トウジに殴られた。理不尽だと思った。でも、それが責任だった。

 僕の願い。僕の決断。エヴァに乗ることを選んだ。

 たくさんの人が死んだ。僕が引いた銃爪が、世界を赤く(ころ)した。負い切れない。重過ぎる。潰れて死んでしまいそうになる。

 でも、それが責任。

 それが選ぶということなんだ。

 

「……めそめそぐずってるかと思ったら」

 

 マリは笑った。けれど、さっきまでの飄々とした雰囲気はそこになくて。

 呆れたように、痛ましげに……優しげに。

 微笑する。微笑が僕を包む。それが無性に暖かで、戸惑う。

 

「律儀というか、真面目というか。変に一途なとこだけはそっくり。かーなり下向きだけど。ふふふふふ」

「?」

 

 謎めいた笑みが、そのまま近付いてくる。

 鼻先が首筋に埋まり、マリは深く、それは深く息を吸い込んだ。臭いを嗅がれていた。

 

「っ、ちょ」

「……ん、はぁぁあ、ホント、いい匂い。14年経っても変わんないね。んん? むしろ初号機の中に居たから余計に醸成されてたり? ん、ふ」

「あっ、ぁ……!?」

 

 生暖かなものが首を這う。滑る。

 舌だ。彼女は首筋を舐り上げたのだ。

 

「な、なんっ、なにして……!?」

「君がさ。なんだか健気で、憐れで……あんまり可愛いから」

 

 熱い吐息が頬を撫でる。

 反射的に顔を背けたのとほぼ同時に、口の端に。

 少女の唇が吸い付いた。

 

「あんっ、もぉ~、なんで逃げるの」

「っ!? っ!?」

「んちゅ、んー、ちょっと苦くて、酸っぱい味……ふふっ、そっか。今朝も吐いたんだね」

「ッッ~!」

 

 舌なめずりして、そんなことを呟く。

 かっと全身に火が入った。羞恥心で焼け死にそうになる。

 

「ちょっと下品だったかな? ごめんごめん。気にしない気にしない。私は気にしないからさ」

「そ、そういう問題じゃ……!」

 

 抗議の文句が途切れる。患者衣の下から這入り込んだ手、その冷たさに息が止まった。

 滑らかな感触の指の腹、それが腹を、胸を、脇、肋骨をなぞる。経験にない感覚だった。電流のような刺激に、身悶えする。

 

「ひっ、ぃ、や」

「ふふ、すご~い。肌すべすべだね。女の子みたい」

「んぁ……!?」

「感じてる声も……可愛いよ」

 

 完全に組み敷かれていた。体格にそれほど差はない筈なのに、筋力で劣るからか、それともそういった体術に掛けられているのか。

 

「なんで……こんな、ぁ……」

「さっき言ったこと以上の理由はないよ。いっぱい慰めたげる。ワンコくん」

 

 マリは艶然と笑って、額にキスをした。軽やかで、やはりどこまでも優しげな。労しげな口付けだった。

 脳がぐずぐずと煮えて溶けて、思考能力を失っていく。現状理解の限界値(キャパシティ)を超えていた。

 わからない。わからない。わからない。

 この人の優しさも。サクラさんの献身も。

 そして、アスカになんて謝ろう────不意に、他人事のようにその少女を思い描いた。

 

 轟。

 

 その音を一字で表すならきっとそんな象形(かたち)だった。

 破壊的な衝撃。部屋全体を震撼させる揺れ……打撃。

 音の発生源に、その痕跡はあった。それを為した誰かもまた、そこに立っていた。

 一枚ガラスの壁に白く、蜘蛛の巣状の罅が走っている。その中心に突き立つ拳、赤いレザーグローブを纏った拳が。

 片目が僕らを見下ろしていた。いや、その黒い眼帯の下からすら熱線のような眼光が今にも溢れてしまうような気がする。

 そんな烈しさ。そんな危うさ。

 

「Oops……」

「あ、ぁ、アスカ」

 

 その時、扉がスライドして開く。しかし、アスカの姿は壁の向こう。

 扉を開いて現れたのは、ベレー帽の彼女。白衣のワンピースが眩いほどの、彼女。

 

「こんにちは、碇さん! それに────真希波大尉」

 

 明朗快活、白衣の天使と呼んでも差し支えない。それほどの献身でこの身を労わってくれるサクラさん。その手には今……注射器が握られていた。どうしてそんなものを。投薬が必要な病状の人間などここにはいないのに。

 まるで今すぐ、この場で、使う用があると言わんばかり。カバーは外されアンプルも装填済み何時なりと刺突もとい注入可能です、そんな様子で。

 笑顔。

 笑顔だった。

 

 

 

 

 

 



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ヴンダーって要はリヴァイアスじゃね?



 

 血の気が引いていく。ガラス一枚隔てた向こう側に立っている少女が、少女の視線があまりにも痛くて。

 心臓が跳ね回る。扉を潜って現れた彼女の笑顔が、笑顔に含有された色が途方もなく複雑で。

 恐いと思った。二人が。

 別に初めての感覚じゃない。他人を恐いとずっとずっと思い続けてきた。関りを、繋がりを、触れ合いを、恐れて嫌って……それでも乞い求めて。

 隔離室の空気は冷えている。そう感じるだけなのか。震えるような冷気、それを発している二人。

 僕はまた何かを間違えたのだろうか。

 

「あ、あれれ~、どうしたのかにゃ~。定期健診は終わった筈だよねサッちん」

「私は碇さんの管理担当医官です。健診以外にも身の回りのお世話やったらなんもかんもぜーんぶしてますから。いつでも訪ねます。なにか問題ありますか?」

「にゃ、にゃいんじゃにゃいかにゃ~」

「真希波大尉こそ、なにをされていらっしゃるんでしょか」

「いや、す、スキンシップ? みたいにゃ」

「碇さんに、馬乗りになって、患者衣捲り上げて、体中撫で回すんが、大尉のスキンシップですか」

 

 一言一句噛んで含めるようにサクラさんは言った。放たれる声音は平坦で冷淡で、こちらを見下ろす瞳には欠片も光を宿さずに。

 大津波の直前に凪いだ浜辺に立つ、そういう類の静謐。

 肌が泡立つような心地だった。

 不意に、

 

「……」

 

 そんなサクラさんの横合いを摺り抜けて、アスカが歩み寄ってくる。真っ直ぐ、淀みない足取りで。ミリタリージャケットのポケットに両手を突っ込んだまま。

 足が上がる。足が、天井を差す。そうして────処刑斧のようにそれは降ってきた。

 

「うわっ!?」

「にゃんとぉ!?」

 

 そんな奇声とは裏腹な俊敏さでマリはアスカが動くよりも前から既に動いていた。

 その場を跳び退く。退き様に僕をベッドの外へと押しやって。

 ベッドに、アスカの足が、踵が刺さった。シーツ、クッション、寝台の骨組み、それら全部を巻き込んで、ベッドがⅤの字にへし折れた。

 部品が散り散りになって床にばら撒かれ、金属フレームが打楽器のように鳴り響く。

 それら全てを蹴散らして、アスカは再び僕らを見下ろした。片目から注がれる烈火。肌を焦がす痛み。

 痛み。アスカに見られる。それがこんなにも痛いのは。後ろめたくて、遣り切れなくて、身の置き所すら見失う。

 不安。罪悪。罪悪。そして、湧き上がる怖気。

 罪を鳴らす。アスカはきっと今も僕を。

 憎んで────

 

「お、お姫~、いっくらなんでもそれ死んじゃう。私もワンコくんも真っ二つになっちゃう」

「ならないわよ。狙ったのはあんたの脛だから」

「痛い痛い痛い。Cry弁慶。マリちゃん泣いちゃう」

「両脛で勘弁してやるわ」

「Wow情状酌量の余地がねぇ」

 

 軽口の減らないマリにアスカがまた一歩、接近する。次はどんな蹴り脚が飛んでくるか。マリ目掛けて。

 僕ではなく。

 

「あ、アスカ!」

「……」

「け、喧嘩は、暴力はやめてよ!」

 

 尻餅をついたままのマリの前に躍り出てアスカを見上げる。蒼い鬼火めいた瞳を。

 片目が(すが)む。やはりそこには確かに、憎々しげな色があった。

 憎悪が、燃え盛っていた。

 途端に怯み、竦み上がろうとする体を、その場に縫い留める。蛇に睨まれた蛙とそれは同様だったけれど。

 逃げ足だけは踏み止まれた。

 

「ぼ、僕が……僕がマリさんの、その、悪ふざけを止めさせられなかったから。僕が悪いなら、謝るから……!」

「……また」

 

 歪む。その表情が、目が、尖る。

 憎悪、ではない。それは彼女らしい色。赤い赤い憤怒の顔だった。

 

「そうやって庇うわけ……他の女を………………私以外の女を」

「アスカ……?」

 

 譫言のように不明瞭、霞を吐くような囁き声だった。

 けれどその、熱。感情の烈しさだけは、肌を炙られたかのようにはっきりと、厳然と感じられた。

 

「……アスカ」

「…………」

 

 掛けるべき言葉があるような気がする。だのにこの舌は、てんで役立たずで、臆病に固まったままだ。喉は、迷いと躊躇で塞がっている。

 それでも、それでも何か。

 

「どいてもらえますか式波少佐。邪魔です」

「あぁ?」

 

 冷厳と言ったのはサクラさんだ。

 アスカの狂犬じみた視線も意に介さず、手にした注射器を構えて一歩、近寄る。その行く先はやはり。

 

「ちょーっとちょっとちょっとサッちん!? その注射どうする気なのか先に教えてもらっても!?」

「ただの鎮静剤です。大尉に今必要な」

「なして!?」

「年下の男の子襲うくらい盛りがついてらっしゃるらしいんで、鎮めてさしあげよ思いましてん。さ、腕出してください」

「いやいやいやいやいやいや」

 

 確定事項を羅列する。業務連絡というか、それこそ看護師の医療行為然としてサクラさんは言った。

 

「ほんの出来心だから! あ、まだAまでだよ? B未遂。挿してないから!」

「ちくっとしますよー」

「あぁん躊躇ゼロ! 助けてお姫~!」

「自業自得」

「あぁん慈悲もない! こうなれば……」

 

 じりじりと間合を詰めるサクラさん。

 逃げるように床を後退るマリ。マリの、その後ろ手にそれが見えた。

 タブレット端末。さっきベッドから取り落としたもの。

 マリは指先で素早くそれを操作していた。そう、思えばそれこそ、アスカの踵落としから逃れた時からずっと、マリは床に座り込んだまま。

 

「三十六計 Run away but win!」

 

 一際強く画面がタップされたその瞬間。

 視界が暗転した。

 

「くっ」

「ちっ! コネメガネぇッ!」

「な!?」

「なぁーはっはっはっは! さらばだ明智くん達!」

 

 隔離室、そしてその外部の非常灯すら消えた暗闇の中から高らかな笑声が響く。

 刹那、硬直する自分の手が掴まれた。

 

「行くよ、ワンコくん」

「い、行くってぇええうわぁ!?」

 

 こちらの反問などお構いなしに、掴まれた腕を引き込まれる。

 開け放しの扉をなんとかぶつからず搔い潜るように出た。直後、後ろ襟を何かが風切り、背後で破砕音。見える筈のないアスカの一撃、そして苦虫を噛んだような凶相が見えた気がした。

 

 

 

 

『コネメガネぇっ!』

『ホンマ、大概にしてほしいわ……!』

 

 主モニターが暗転して暫時、明らかな破壊行為を彷彿とさせる騒音と呪詛のような呟きを二言残して、二人分の足音が遠ざかっていく。

 外部カメラに切り替わり、日中の明るさを取り戻したヴンダー艦橋の空気は嫌に暗い。硬く、重く、不味い。

 

「ど、どうしますか。警備部に要請とか……?」

 

 実に怖々と両手で差し上げるように発した多摩ヒデキの言を、艦長ミサトは切り捨てる。

 

「不要です。鈴原少尉には碇シンジの回収を指示、エヴァパイロット二名には下知を飛ばせ」

「は、はい……あー、ちなみになんて言えば」

「『部屋に戻れ、ガキ共(Go home bitches)』。復唱不要」

「…………了解」

 

 心底慄きながら新米オペレーターは指示通りの仕事を即座に済ませた。

 架橋の先端で一人、北上ミドリは不愉快げに鼻を鳴らす。コンソールに表示したウインドウには、今現在も繰り広げられている逃走劇の艦内監視カメラの映像が流れていた。

 

「……ペナルティ無し。こんなの立派な脱走じゃん」

「って言っても、艦内で行ける場所なんて数えるくらいでしょ」

「はぁ? だから?」

「や、だからって」

 

 剣呑に声を低めてミドリはヒデキを睨んだ。

 青年はまたしても竦み上がり、二の句を飲む。

 

「……囚人は囚人らしく大人しく牢屋に入ってろっての」

 

 少年を見た。その幼気な顔を。

 華奢で薄くていかにも弱そうで、今など同じエヴァパイロットだった女から逃げ惑っている。情けない。まるで人畜無害な、こんな少年が。

 

「人殺し……!」

 

 呪わしくて憎らしくて仕方ない。

 

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか、マリの姿は消えていた。走り走る内に逸れてしまったようだ。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……体力、落ちてるな……」

 

 ここまで大した距離を踏んだ訳でもないのに体は驚くほど重い。疲労感が全身を包んでいる。心臓はいつ止むとも知れない早鐘を打ち続けた。

 轟轟と機械音がそこかしこで鳴り響く廊下。剥き出しのフレーム、配管、電装。

 昔、ネルフ本部にもこんな場所はたくさんあった。あまりに広すぎてよく迷子になったのを覚えてる。

 

「……」

 

 こんなことでまた、過去を懐かしむ。

 未練、それとも後悔? どうにもならないもの。自分が台無しにしたものを引き摺り続けている。

 滑稽だった。

 情けなくて、嫌になるくらいに。

 一向に鎮まらない呼吸を無視して進む。戻るべきところももうわからない。進むしかない。

 耳を打つ金属の足音。頭蓋を響く硬質な(かね)

 また、逃げてる。嫌なことから。辛いことから。

 罪から。

 廊下が途切れ、不意に仄暗かった視界に陽が差した。

 

「っ」

 

 暗闇に慣れた目にそれはあまりにも眩しくて、まるで眼球そのものが白く染まるようで。

 ほんの数秒、視力を失った。

 それでもすぐに世界は立ち戻る。人の迷いや躊躇なんてお構いなしに。

 そこに、広がる。

 

「────ぁ」

 

 赤い街並。赤いビル群。赤い赤い廃墟の交雑。

 赤ワインで煮崩れた肉の欠片みたいに、人の名残が砕けながら敷き詰められた大地。見渡せば、文明は確固として形を維持していた。ただそこに人がいない。ただ、命だけがない。

 生きとし生ける何もかもを拒絶する赤。L結界に包まれた死の空間。

 何もないというその一点でのみ、清い場所。浄化された世界。

 赤い罪はそこで待ち受けていた。きちんと、逃がさず僕を、歓待していた。

 

「ぁ……あ……っ……」

 

 小さな明り取り。外部観測の為の丸い覗き窓。小さく分厚い強化ガラスの向こう側に、現実があった。

 これこそが現実だった。タブレットに映し出すただの記録とは訳が違う。桁違いの生々しさで。圧倒的なリアルが肉眼を侵した。

 眼球は赤で染まる。さっきの眩暈とは比べ物にならない嘔気、怖気、恐怖、恐怖、恐怖!

 違う。これが本当の恐怖だ。どんな想像もどんな映像も音声も言葉すら敵わない。僕の犯した罪そのものが今、このガラス一枚向こうにある。

 責め苛む。僕を。僕の所業の末路をまざまざと顕して。

 

「ッッ!! ッ! ッ!!」

 

 骨が鉛に変わったかのように、肉が砂袋に挿げ替えられたかのように、体が軋む。今にも崩れ去る。今に。

 震え、震えが、瘧めいて皮膚を泡立てる。歯の根が合わない。焦点が霞む。気が遠退く。正気を、保てない。保ちたくない。

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ見たくない見たくない見たくない見たくないごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい僕が僕の僕の。

 願いたい。ただ一つ。求める。請い、欲する。それを得る為のあらゆることをやりたい。それがもし、与えられるならどんなことでもしてしまえる。

 許し。許しを、ください。お願いだから。

 許して────その懇願を、どうして。

 どうして、口に出来る。僕が。

 奥歯を噛み潰して、全身全霊でそれを飲み下す。たった一つの望み。たった一つの逃避。安楽。自分だけの救い。

 そんなもの、もうない。

 

「ああ……これが、僕の……」

 

 罰。ようやく巡り逢えた。

 眼下に広がる赤い世界こそが、碇シンジへの罰だった。

 

「は、はは……」

 

 元には戻らない。起きたことは覆らない。世界は、やり直せない。

 仮にそんな都合の良い手段が存在したとしても、きっと僕には扱えないだろう。

 許されない。そんなことは断じて。誰あろうこの世界が許しはしない。

 奪った者に出来ることはただ、罪の重さに潰れること。犯した罪は決して帳消しには出来ない。しては、ならない。

 今ある現実を否定する。それは最低最悪の……逃げだから。

 僕はもう逃げられない。逃げたくない。そう願ったから。

 願った、その結果、何も救えなかった。それどころか何もかも殺した。赤く塗り潰した。

 たった一人さえ、助けられずに。

 綾波。

 

「ごめん……ごめん、綾波……」

 

 罪を塗り重ねた。君を代償にして、僕が為したことは、よりにもよって“これ”だけだ。

 こんな地獄が、綾波の代わりなんだ。

 

「僕は結局、何もしてあげられなかったんだ……」

 

 罰に次いで知ったのは、その絶望。

 

「何も」

 

 自分の行為の無為を思い知る。無力を味わう。体と心で味わい尽くして、残るのは胸に穿たれる空虚。

 

「何も……!」

 

 骨の髄に埋まる罪の意識さえ、肉体を支える力にならなかった。

 崩れる。膝が折れて、冷たい金属の地肌に座り込んだ。

 轟轟と鳴り響く。それは巨大な機械と、巨大な有機素材の内臓の鼓動。脈動。

 まるで生き物の中にいるようだった。

 大きな命に、包まれているような。

 

『──』

 

 轟轟、轟轟。鳴り響く。

 その中に。

 

「………………え」

 

 微かに。

 

『──碇くん』

「────」

 

 呼ぶ声が、した。

 自分のことを呼ぶ誰かが。

 その時、そっと、肩に触れる。

 触れている。その柔らかなもの。誰かの手。知っている感触。懐かしい、その温度。

 暖かな、小さな、彼女の手。

 幻覚だ。妄想だ。錯覚。現実逃避の、なにか。きっとそうだ。そうに違いない。現に以前、綾波ではないアヤナミがここを襲ったばかりじゃないか。

 これだって、そうだ。そうだと、思わないと。何かの間違い、勘違いだって思い込まないと。

 もし、もしまた裏切られたら。この期待を、希望を取り去られたら今度こそ、僕は。

 僕は。

 

「…………」

 

 震える手で、ゆっくりと、注意深く慎重に、ゆっくりと肩に触れる。

 左肩に乗るものに、自分のそれを重ねた。

 

「っ!」

 

 不思議な手触りだった。朧気で、儚い。形もはっきりしない、まるで空気だ。

 でも、ある。

 細くて華奢で、少し冷たい。指、綺麗に切り揃えられた爪。

 そこにある。

 そして……そこに巻かれた幾つもの絆創膏。

 

「……綾波?」

『……』

「綾波……そこに、いるの……?」

 

 答えはなかった。静寂が背中に掛かる。

 でも、この無言を覚えてる。沈黙の中に、確かにある。

 応えはあった。確かに、綾波の声が聞こえた。

 

「はっ、ぁ、あぁ……!」

 

 それが一体どのような現象で、どんな理屈で起きていることなのか見当もつかない。今でさえ、これは自分にとって都合のいい幻なんじゃないのかと思う。

 それでも、どうしようもなく。

 

「ふ、っ、ぐ、ぅ……う、ぁ……あぁっ……!」

 

 涙が溢れてくる。ダメなのに。こんなもの許されないのに。

 止まってくれない。

 そうして、ふ、と。綾波の手が消える。背中に掛かる優しい静寂も。

 けれど、それを悲しいとは思わなかった。

 綾波はここにいる。ちゃんと今もここにいる。

 

「ずっと……そこにいたんだね……」

 

 今、鳴り響くこの音は。これは命の音だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「へぇ、こりゃまた随分とオカルティックだにゃ~」

「……」

「今……そこに……」

 

 廊下の向こうで頽れた少年と、その背中に寄り添う白い朧な影を見た。

 マリは喜色と好奇心を隠そうともせず笑う。

 アスカは声もなく、溜息を吐く。呆れと嘲りと、その懐かしさを吐き捨てるように。

 サクラは驚愕を隠せなかった。奇跡に近しい非現実に言葉が無かった。言葉は無かったが。

 

「……なんやのん、今更……!」

 

 湧き上がる焦熱を、ただ胸奥に抱き締めた。

 

 

 

 

 



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アスカさんの心情を書きたいのにいつの間にかサクラさんの情念を書いている。これが浸食タイプのヒロインか(違)


 

 今日も来てる。

 人間二人擦れ違うにも苦労しそうな狭苦しい廊下。木の根のように壁や床を這い回る電装と作動流体用器管を踏み退けて、薄暗い通路の先。

 そのバカは今日も、そこにいる。

 

「……バッカみたい」

 

 吐き捨てた。反吐のように。

 この行為に何の意味があるのか。無い。一切合切ありはしない。

 罪の意識に耐えかねて、逃げる口実を見繕っただけ。こうすれば心が楽になるから。自分は贖罪をしていると、言い訳できるから。

 自己欺瞞。嘘。逃避。

 そうに違いない。そうに。そうじゃなきゃ。

 

「……」

 

 窓の下に目を落とすその横顔は無表情に見える。そう、装ってる。

 その瞳に赤を映して、その奥の、奥底で、あいつは。

 あの、バカは。

 

「…………」

 

 それが、こんなのがあんたの責任の取り方?

 バカだ。バカ。バカ過ぎ。大バカじゃない。

 バカシンジ。

 何も変わっていなかった。鈍感なくせにガラスみたいに繊細で傷付きやすくて脆い。

 何も変わっていない──そう思っていた。けれど、ガラスは傷付いて傷付いて、いつの間にか私の知らない模様を形作っていた。消えない傷痕。

 見ないふりだって出来た筈だ。開き直るような度胸が無いのは知ってる。けど、目を閉じて耳を塞いで口を噤んで、自分の所為じゃないと思い込むことだって出来た。

 この世界にはもう、一個人の罪状に一々刑罰を割り当て執行するような悠長な文明維持統治の為のシステムは残っていない。

 始まりは理想と思想、それが狂った信仰に繋がり、そこに一つの願いが介入した。少年はその当事者であり、人類滅亡装置起爆の実行犯であり、ただの……被害者の一人だ。この世界に今や溢れて、路頭を彷徨い、それでも歯を食い縛って生き続ける人々の、ただの一人。

 

「今更」

 

 ポケットの中で握った拳が、軋む。

 その華奢な背中を見るだに、胸の奥の何かが軋む。

 バカ。

 何度となく、幾らでも罵倒してやる。

 今更、あんたが悔いたって遅いのよ。意味なんて無いのよ。あんたが、苦しんだって、痛がったって、どうしようもない。

 あんたが背負わなきゃいけない十字架なんて。

 

「…………」

 

 近付いてくる足音を足の裏に感じて、益体もない思考に堰を下ろす。

 今更。

 何度となく、幾らでも湧くこの罵倒。自嘲、自己嫌悪の罵詈。

 止まらない、この苛立ち。

 バカシンジ。あいつを見てるとイライラして仕方なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 金属質の廊下を歩く。靴底に感じる排水グレーチングの網目、機関の鳴動、そして機械の排熱。壁や天井に張り巡る配管はまるっきり生き物の血管と同じものだ。

 目的の場所はもうすぐ目の前にある。隔離室からここまで歩いて五分と掛からない。

 軟禁生活は常に運動不足との戦いだ、というのはサクラさんの言。その解消の為に彼女は、自分がこうして出歩く許可を取り付けてくれた。

 先日のドタバタで偶然辿り着いた観測窓。そこに、今のこの世界というものがあった。僕が知るべき、知らなければいけない光景、現実が。

 丸く区切られた罪の凝集景に目を凝らす。純白の雲の切れ間から覗くのは一様に一定に変わり映えもしない赤。赤い海原、穏やかに波立つ赤い水。

 そこには何もない……と、加持さんはそう言っていた。けれど今の僕にその言葉は頷けない。そこに宿る、流れ込み混淆した生命の存在をもう僕は疑えない。

 命の溶けた海。生命のスープ。

 今日も僕は、それを黙って見下ろしていた。眼球に焼き付ける思いで、ひたすらに。

 これが僕の新しい日課だった。

 自己満足で、何の価値もない、独善という名の義務だった。けれど。

 

「やっと、やっと実感が持てたんだ……僕がやったことの重み」

 

 鉛を吐く心地で吐息する。

 そこにない、けれどそこにいる君に、微笑む。

 

「だから大丈夫。僕は大丈夫だよ……綾波」

 

 何もない左肩の空虚に触れる。それだけで十分。それだけで。

 

「碇さん」

「あ、はい」

 

 背後からの声に振り返る。

 サクラさんだった。気付かない内に少し長居し過ぎたみたいだ。

 衣食住を保証された身で虜囚を自称するのは烏滸がましいけど、僕は自由を制限されるべき立場なのだ。

 この外出だって、十分な特例。担当医官である彼女の口添えがあって叶っている。

 

「今、戻ります」

「あ、いえ。別に急かしに来たわけとちがくて……」

 

 その気遣いに首を左右する。

 

「いいんです。手間取らせてすみません」

「……いえ」

 

 殊勝を気取るのもなんだか嘘臭い。自分の思考、一挙手一投足さえ、癇に障るような気がする。

 自分が思うより、以前よりも増して……僕は僕自身を嫌ってる。

 彼女に随って自室へ戻る。その道すがら、サクラさんは振り返って言った。

 

「そ、そうそう! 主計科からまた届いてましたよ」

「え? あ、はい。わかりました」

「今度は多いですよー。なんと段ボール箱三つ分! もー最初はやいのやいの言うとった癖に、役に立つてわかった途端これやわ。碇さん、ちょっと丁寧にやり過ぎです。もっと手ぇ抜いてもええんですよ?」

「ううん。少しでも使えるって思ってもらえてるなら、それで」

「でも……」

「僕に出来ることなんてこれくらいしかありませんから……我が儘なのはわかってます。でも何もせずにいるのはもっと申し訳ないんです。だから……お願いします」

「……はい」

 

 肩を落とすように彼女は頷く。俯く顔がどうしてか、ひどく辛そうに見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「縫製?」

「そうっす。最近主計科がうるさいでしょ。例のほら、物資の効率的運用推進計画」

「ああ、そんなメールが出回ってたな」

 

 多摩ヒデキがプラのフォークの先端で空中に文字を書く。その字面が見えた訳でもあるまいが、高雄コウジはその禿頭を叩いて得心した。

 艦橋にて、オペレーター一同が遅めの昼食を摂っている。

 暇潰しの世間話に満開花が咲くほど親しい間柄でもない。実の有る話の種が尽きると、近頃は決まって巡ってくるその話題。

 先の『US作戦』で衛星軌道上から持ち帰られたエヴァ初号機とそのパイロット。とりわけかの少年に対する関心は、ヴンダークルーならずとも浅からぬ。善きにつけ、悪しきにつけ。

 

「襤褸切れ同然の艦内着やらを雑巾にしたり包帯にしたり。節約節制、再使用再利用、補修できるものは補修して無駄と浪費を抑えるとか。何時までもあると思うな物資と命とか」

「主計ってそんなこともやってたんですか?」

 

 長良スミレがぽつりと呟く。食べ終えたレーションの空袋を丁寧に折り畳み、小さくしたそれを乱雑にダストボックスへ放り込んだ。

 

「みたいっすよ。経理やら管財やらよりそっちの方が忙しいくらいだってぼやいてたよ。あたしはお針子か! ってさ」

「まあ、整備科じゃあ雑巾(ウエス)は欠かせんからな。汚せる布切れは幾らあっても足りん」

「結構評判いいみたいっす。仕事が速くて細やかだって」

「ほー。そりゃ感心」

「だからなんだって話」

 

 空気に刺さる鋭さで響いたのは、北上ミドリの声の棘だった。

 苛立ちを隠そうともしない。憤懣を露わに、コンソールを指で叩く。叩く。叩く。

 

「それで罪滅ぼしのつもり? そんな雑用こなせばちょっと許された気にでもなれるわけ」

「い、いやー、それは知らないけど」

「思っちゃおるまい。あの坊主は」

 

 高雄は含みも持たせず言った。

 ミドリは不愉快げに表情を歪め、そして不可解に目を瞬いた。

 

「ああいう小賢しい顔したガキは、齢に似合わん気負い方をする。難儀なもんだ」

「……はあ? 意味不なんですけど」

 

 目を背けてミドリは吐き捨てた。気息と、やる方ない怒気、憎悪を。

 

「悪びれてるならいいのかよ……罪人が罪人らしくしてるだけじゃん……それで何が許されるのさ……何が……!?」

 

 滔々と怨嗟を溢すミドリに、長良も多摩も言葉はなかった。肯定はしないが、否定もしない。

 高雄コウジは苦笑する。あの人を食ったような男の笑みが懐かしい。その面の皮の裏側に、悲壮な覚悟を忍ばせる憐れを。

 罪悪に潰されながら、それを甘受する少年。懲役に服す囚人を心底から演ずる愚かを。

 そして目の前の、いじらしく憎悪を滾らせる娘っ子に。

 どいつもこいつも。

 

「難儀だな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一針一針丹精込めて、なんて。

 そんな風に言うと実に大袈裟だ。流石にそれはお為ごかし。自分はさも頑張ってますよー、一所懸命に仕事してますよー……そういう鼻につくアピールをまさか彼がする筈もなく。

 碇さんはただ作業に没頭している。

 少年の手付きは軽やかで、手馴れていて、驚くほど巧みである。

 あっという間に、綿のシャツが長方形の雑巾に変わった。同じ大きさに裁断し縫製されたものがもうすぐ百枚ほどになる。ミシンの使用が許されてからというもの、手縫いであった当初と比べれば生産数、制作ペース共に鰻上り、増すばかりというやつだ。

 数時間、たまのトイレを除けば休憩も挟まず、ひたすらずっと作業を続けて。

 雑巾の一枚を手に取って広げる。均一な縫い目、切り口、生地を選り分けているのか厚みすら整っている。

 

「はえー、こない綺麗になるもんですねぇ。私もたまーに主計科の子に呼ばれて手伝いますけど、こないええ感じになりませんわ……」

「小さい頃から自分の服は自分で直してたんだ。その方が安く済むし……買わなくていいからね」

「すごーい! やりくり上手やったんやねぇ」

「家事くらいしか取り柄が無いだけだよ」

 

 はにかむというより、自嘲の色を濃くして少年は言った。

 不意に、少年はミシンのスイッチを切る。

 

「ごめんなさい。何かと無理を聞いてもらって……」

「えっ、な、なんもなんも! そんな無理なんて! 気分転換大事やでー言うたん私やし。主計(むこう)かてもうホンッマ大助かり言うてましたよ」

 

 肩身を縮めていく少年に堪らず頭を振る。両手を振る。ぶんぶんと。

 

「むしろ嬉しいんです、私。碇さんが自分からやりたいこと言うてくれはったんが、ホンマに嬉しい……辛い思いさして苦しめたんは、私やのに……こんなこと言う資格ない思いますけど」

「違います!」

 

 少年は弾かれたように顔を上げた。そうしてすぐ、恥じ入って俯く。

 

「……サクラさんは、僕に、僕が知りたがっていたことを教えただけです。知らなければいけない、現実を教えてくれたんです。僕が……僕の……」

「……」

 

 続く言葉を少年は飲み込んで、こちら見てふっと笑みを浮かべた。一吹きで消えてしまいそうなほど儚い、微かな笑みを。

 

「……すみません。でも、サクラさんが負い目に感じることなんてない。ないんです。気を遣わせて、ごめんなさい」

 

 目礼気味に俯いて、彼はもう何度目かもわからない謝罪を口にする。

 痛みに怯えて、痛みを堪えて、罪の重さに慄いている。けれど。

 けれどそこに迷いはなかった。受刑者の刑務めいたこの作業を、今はこれが課された義務なのだと自身に定めて。

 部屋の隅で蹲っていた姿が遥か過去の光景であるかのよう。

 こんな雑用に、心の底から気負ながら取り組む様は、正直滑稽だ。まさに愚直と言える。

 でも、真っ直ぐだった。下向きだけど、暗澹の中にあるけど、真っ直ぐ進んでる。今、自分にやれることをやってる。

 選んだ今に、懸命だった。誠実だった。

 変わった訳ではない。彼は彼のままだ。碇シンジという少年のまま……何かを、取り戻した。

 それはきっと覚悟とか、責任とか、そういう重くて硬質なもの。それを、少年は持っていた。この艦で目覚めるよりずっと以前から抱えて、抱き締めていたのだ。

 それを、思い出させたのは。

 少年にそれを与えたのは。

 あの白。純白の影。無垢な幻影。

 

 ────綾波レイ

 

 消え去った筈の少女。運命を仕組まれた最初の子供。

 あの時、確かに。碇シンジに彼女は寄り添っていた。

 

「…………っ」

「? サクラさん?」

 

 声を掛けられてから、自分がパイプ椅子を立ち上がっていたことに気が付いた。

 声を出そうとしてから、自分が奥歯を噛み締めていたことに気が付いた。

 

「…………」

「サクラさん……?」

「す、すみません。医務データの整理せなあかんかったの忘れてました! 私、ちょっと医務科の方に出ます」

「そう、なんですか」

「なにかあったらいつでも呼び出し鳴らしてください。番号は碇さんの端末に登録したりますんで」

「あ、はい。わかりました」

 

 一礼してその場を後にする。扉を抜けて、逃げるように。

 

「……っ……はぁっ……」

 

 血流の増加が心臓を囃し、息を切らせる。

 身体が熱かった。体温の上昇を自覚する。そして自覚し得なかった火が今、体内に灯っていることに気付く。

 冷えた通路を早足に過ぎる。歩けど歩けど熱は、火は、収まらない。

 

「……なんでなん。なんで、今更……」

 

 良いことの筈なのに。碇さんの心が、ようやく暗がりから立ち戻った。絶望と罪悪を抱えながらそれでも、下向きでも仄暗くても、生きることを選んでくれた。

 生きていてくれるだけでよかった。ここで、生きていてくれさえすれば。

 ここで────私の傍で、碇さんが。

 

「────」

 

 その願望は、ずっとここにあった。14年前の憧れは、尽きず変わらずここにあった。いや、14年掛けてそれは醸成されていった。

 歪に。

 碇さん、私はあなたが。

 

「憎らしいです……」

 

 あの白い影の中に希望を見出すあなたが、憎いです。

 憎らしいほど────あなたが欲しい。

 あなたの喜び笑顔、痛みや苦しみすら。

 あなたの全部が欲しいです。

 

 

 

 

 

 

 

 



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やっとラブシーンが書けた。


 

 酷い顔。

 呆然自失。色も形もない無表情がこちらを見下ろしている。何も無い。何も、そこには人がましい何もかもが欠落している。

 けれどその目は、その目だけが爛々と。サイケデリックな彩で瞳を光が揺蕩う。混ざり濁り淀む前の、絵の具の水入れのような汚らしさ。あともうほんの僅かでも色を、感情を差し込めば、晴れて瞳は黒く汚濁するだろう。

 ほんの一押しで、彼は絶望の海に沈み二度とは浮上しまい。

 苦しい。首が、上から圧迫されている。体重と握力の限りに絞め上げられている。

 自分に馬乗りになった少年が一心不乱、私の首を絞めて───私を殺そうとしている。

 赤黒い夜空の下、白い砂浜、赤い海辺。

 潮騒だけが響いた。他には何もなかった。全て崩れて溶けたのだと、私は知っている。

 この世界に二人きり。少年と私。地獄(エデン)で重なり合うアダムとイヴ。

 間違いなく、これは悪夢だ。終末を迎えた世界に取り残され、ゆるやかに、甘やかな死の到来を待つだけの時間。

 人類とかいう連中は早々に現世を見限って幽世へ逝ってしまった。安らぎの園そのものと化して混ざり溶け合ってしまった。愚かな子供を二人、置き去りに。

 なるほど悪夢だ。

 悪い夢。それ以外の何だと言う。こんな、狂った赤の世界が、他の何だと。

 煮崩れ掻き回されぼろぼろの少年の精神が最後に望んだのがこれなのだ。他者への恐怖と嫌悪と拒絶、そして希望が。

 希望を持つから、人は絶望できる。少年は希望し、恐れ戦いてまた絶望の淵に立った。

 私という恐怖、私という絶望、私は……少年にとって唯一残った、希望だった。

 だから壊す。裏切られて拒まれて、傷付くのがこわいから。

 彼は私を壊す。

 彼の絶望。私が碇シンジの絶望になる。

 それは、それはなんて────

 

「気持ち悪い」

 

 なんて、素敵なことだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 見飽きた天井。二段ベッドの二段目、金属製の白い天板を仰いでいた。

 

「夢……はっ、このアタシが?」

 

 鼻を鳴らす。皮肉と、その思い付きの馬鹿さ加減に。夢どころか眠りさえ必要としなくなったこの肉体が今更そんなものを見せたと言うのか。真っ当な生き物から日に日に遠ざかり、三大欲求から二つばかりが姿を消して早どれほどになる。夢とは脳の記憶領域に対する最適化作業だ。間違っても神懸かりだのお告げだのオカルティックな現象ではない。

 睡眠による身体および脳の休息が不要である今、先程見た光景は幻覚か記憶混濁に類する何かと考えるべきだろう。

 しかしだとするなら、あれはなかなか末期的だ。精神異常が遂に極まったか。人類の死滅を妄想するだけならばいざ知らず、よりによってあんな……あのバカに。

 

「っ」

 

 荒く息吐き、左目を押さえる。ざらついた眼帯の手触りの下、無い筈の眼球が疼いた。少なくとも、神経とコラーゲンと硝子体を包んだ強膜の球体であるところの、正常な人体構成物たる眼球は既に存在しない。あるのは、ここに植わるものは、この世ならざる異物。

 なるほど、この目か。この化体の目が、あんな悍ましいものを見せたのだ。

 

「……」

 

 渇かない喉に、けれど今は水を欲した。異様な火照り、胸の奥に蟠るこの熱を洗い流したかった。

 ベッドを飛び降り、デスクから飲料水のパウチを乱暴に引っ手繰る。

 するとその拍子に、無造作に積まれていたハードカバーがどさどさと棚から雪崩落ちた。

 

「……」

 

 物質文明が赤く死に絶えたこのご時世、電子データではなくわざわざ紙の書籍を愛好するレトロ趣味など自分にはない。こうした蔵書は全てマリの私物だ。

 見渡せば、室内の床と言わず机と言わず、衣装ケースから寝台の枕元にまで、ジャンルも紙質も装丁もてんでばらばらな本が堆積され、各所に小山を築き始めている。これを放って置くとこの然して広くもない部屋は途端、まるごとあの女の本の収納箱になってしまう。

 何度注意しても治らない。学者崩れの収集癖。本人は偉そうに知識欲なんて胸を張りやがる。あの無駄にでかい胸を。

 得意げな顔で飄々と笑う腹立たしいその女が、今ここにはいない。

 八号機の換装および爆装、本艦とのビームワイヤによる()()同期。細かな調整やら手順手筈の確認やら近頃何かと小忙しいのだ。

 次の戦場が近い。

 ユーロネルフ、フランスはパリ支部。封印柱による復元作戦(オペレーション)。血染めの都と化したパリ市街に今再び花を……謳い文句はなんでもいいが。

 この作戦の主たる目的は、ユーロネルフの保有するエヴァ予備パーツと武器弾薬その他諸々の物資をくすねること。

 敵方のゼーレ、その先鋒たる現ネルフはエヴァ四号機を素体としたネーメジスシリーズ、通称使徒擬きを大量生産し湯水の如くに投入してくる。L結界に閉ざされた世界中のエヴァ研究開発施設が、実質的に敵の手中にあるのだから国力という観点でこちらは見事に大敗を食わされているわけだ。今もなお。

 その打開。来るべき反攻に向けた戦力強化。そしてその核心こそ────八号機のオーバーラッピング対応特殊改造。

 カチコミの主役はマリおよび八号機。

 自分と弐号機はそのお目付け役だ。

 実際それが一番腹立たしいのだが、ごねたところで益もなし。

 

「ちっ」

 

 舌先と喉で舌打ちを溢し、床に散らばった本を拾い上げる。それらを無造作に机の上に放り捨てて、目当ての水を一口呷った。

 ふと卓上に、本の影に追いやられていたそれを見付けた。タブレット端末だった。

 これもマリのものだろう。

 自分が普段使うのは音声通信用の小型端末だけだ。映像だの文書だのを私室で眺めようとも思わない。作戦資料であるならそれこそブリーフィング時に暗記すればいい。

 平時なら、一般クルーが艦内シフト業務に使用するだろうが。それを除けばただの嗜好品に近い。

 紙の本に腐心する女がこれを使うのは、往々にして良からぬことを企んだ時だ。前回の艦内監視システムに対するハッキングなどがいい例だ。

 

「……」

 

 電源を入れ、UIを起ち上げる。ホーム画面は部屋同様に種々のフォルダでごった返していた。うっかりと覗き見てしまったことを早くも後悔し始めた。

 目にも喧しい画面から逃げる心地で、直近の使用履歴をタップする。少なくともホーム画面の無法地帯ぶりよりは落ち着いたウインドウを流し見て、暇潰しの材料でもないものかとスクロール。

 

「……動画?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふ、と息を吐く。机に据え付けのデジタル時計を見ると時刻は既に夕方近い。最後に休憩を挟んだのは昼頃。食事も忘れて延々作業に向かう自分を、サクラさんが見かねて、軽食を持って中断を申し付けてくれた。

 その後、彼女が本来の医務に向かったのをいいことに、またこうして周りを見失って没頭している。

 時計の数字が24時間表記でなければそれが朝なのか夜なのかもこの部屋からでは確認の仕様がない。“日課”のお蔭で、昼夜が逆転する心配もないけれど。

 段ボールに手を入れてから、中身の乏しさに気付く。今朝届いた分もほとんど消化してしまった。

 

「……またお願いしないと」

 

 裁ち鋏でシャツを裂いていく。襟を取り、袖口を開き、数枚分の布切れにばらす。小さな端材は選り分けて、後で用途を考えよう。

 無心に作業を進めていく。他の何もかもを考えず、ただ一心不乱に。

 

「また逃げてる」

 

 鋏が止まる。膝に手を置いて、溜息を落とす。

 笑みが零れた。自嘲の、自己嫌悪の笑い。

 思考を平坦に、単純化するのは、今を生きている自分を認識するのが、思い知るのが痛いから。痛みに泣く心の慰めだ。

 そう思われても仕方ない。

 だから、そうならないようにしたい。

 その為の日課だし、その為にここにいる。忘れない為に、忘れたふりを許さない為に。

 でもふとした時、食事をし、日課をこなし、与えられた仕事を日々こなして眠りにつく。そこに、うっかりと、恥知らずに、安寧を覚えてはいないだろうか。

 慣れ。罪に対する鈍り。痛みが薄れていく。

 駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だと、わかってるのに。この心という奴は時間さえあればどんどんと感覚を鈍らせて、最後には消し去ってしまう。消し去ったかのように振舞う。

 僕は卑怯で、臆病で、弱くて、狡くて、いつもいつも逃げる術を探している。無意識にもそれは止まらない。御し難く、度し難く。

 忘れたくない。忘れてはならない。

 精神の劣弱さは何の言い訳にもならない。僕が犯したことを擁護する一欠片の理由にもなり得ない。

 

「…………忘れちゃダメだ」

 

 心が痛みを忘れるなら。せめて。

 裁ち鋏を見る。普通の鋏とは違って、その先端は鋭利だった。

 新しい痛みが要る。新鮮な、鮮烈な。

 だから。

 鋏の刃先をそっと掌に押し当てた。皮膚の表層を圧して、潰して、もうあと僅か。

 

「っ……」

 

 先端は表皮を破って、その弾力でより深く、肉にまで届いた。切先が5㎜ほど沈んでいる。

 それを縦に滑らせる。

 

「くっ……ぅ、ぎ……」

 

 血が滲む。掌から湧き出て、手首に垂れ落ちた。

 赤。

 眼球にこびり付いてもう離れることはない、赤。生命の色。

 痛い。

 ああ、僕は、こんな悪いことをしたんだ。人に恨まれて当然のことを、こんな痛みを、無数の人々に強いたのだ。

 実感を取り戻す。あの日、目覚めた後、彼女に思い知らされたものを取り戻す。

 傷口を握り込んだ。途端に血が拳の中から溢れ出した。痛み、熱、痛み、痛み、そして命。

 

「っ……うん、まだ、大丈夫……ちゃんと忘れてない」

 

 安堵する。罪人であるというその自覚に。

 その時、扉が開いた。

 業務を終えたサクラさんが戻ってきたのだろう。手の傷を隠しながらそちらを振り返って。

 

「! アスカ……」

「……」

 

 無言で佇む少女に、自分もまた言葉を失くした。

 その表情は、わからない。キャスケットの鍔で右目は隠れ、左目には黒い眼帯が──。

 

「っ……どう、したの」

「……」

「僕に何か用事、とか……? えっと……そう、縫製の手伝い、今丁度一段落ついたんだ……ごめん、お茶とか出せればよかったんだけど、なんにも置いてなくて」

 

 アスカは黙殺を貫いた。間を持たせようと言葉を探しておたおたする自分がひどく滑稽だった。

 黒い眼帯。それを見る。見るだに血の泡立ちを感じた。

 掌の傷なんて目じゃないくらいの、痛み。嘔気。罪悪。

 なんだ。

 こんな確認作業、必要なんてなかった。

 こんな近くに、彼女がいた。僕の、僕の無責任の犠牲者の一人が、来てくれた。

 

「アスカ」

 

 来てくれて、訪ねてくれて、その姿を見せてくれて、嬉しい。決して口にはできない不遜な喜びを胸に覚える。

 すると、アスカはこちらに近付いた。一歩、また一歩。噛むような足取りで。

 迫る。

 胸倉に手が伸びて、掴む。襟首が捻じれ、それを掌中に巻き込んで、吊り上げられた。キャスター付きの椅子が床の上を逃げていく。

 

「ぐ、ぁ!?」

「……」

 

 たおやかな腕、ほっそりとしたそれの何処にこんな力があるのか。アスカは事も無げに僕を投げ飛ばした。

 新しく運び込まれたベッドに、クッションを放るような無造作。寝台に背中からぶつかる。小馴れていないスプリングが固く嘶いた。

 落下の衝撃は然程ではない。痛みもなく、おそらく怪我も負っていない。

 ただ、混乱した。思考が理路を見失う。

 間の抜けた顔をしていた。鏡を見なくともわかる。

 僕を見下ろすアスカの瞳、その大きな蒼い目に、呆けた顔が映り込んでいた。

 腹の上に乗り上がり、アスカはじっと僕を見ていた。

 

「ア、アスカ、なにを」

「……」

 

 無、顔には何一つ色がない。形がない。

 少女の、変わらない容貌。14年前と変わらない美しさ。綺麗だと、ずっと知っていたから……だからその左目がどうしようもなく痛ましかった。目の当たりにすることさえ、苦しかった。おそろしかった。

 そんな甘え。

 僕の手で為したことなのに。僕が何もしなかった無責任の、その()()なのに。

 あるいは、ニアサードインパクトの災禍をも凌ぐ。罪業の実感。他者に与えた痛み。

 アスカの痛み。

 なにを? 今、思わず発した問いの愚かしさに気付く。何をされても当然なのだ。

 今、この瞬間、たとえ拷問が始まったとしても僕にそれを拒む権利などない。

 抵抗も言い訳も、許しを請う権利さえない。ないのだから。

 僕はアスカを見上げた。その無表情を。無色透明な貌を。そこにある、罪の象徴を。

 口から溢れそうになる謝罪の言葉を噛み潰し、吞み込んだ。

 目から零れそうになる自己憐憫の液体を眼球の裏に仕舞う。

 

「アスカ……アスカは」

「……」

「僕を、許さなくていいよ」

 

 ただの事実を口にする。今更、彼女にそれを告げる意味なんてないし、それを決める資格があるのは自分ではない。

 でも。

 

 ────あんたには関係ない

 

 関係はある。あるんだ。

 だから。

 

「……へぇ」

 

 不意に、その無色の顔に。

 現れたもの。感情の色、形。それは。

 

「許さなくていいんだ、アタシは」

「うん」

「あんたを恨んで、憎んでも」

「いいよ。アスカに恨まれて、憎まれることを僕はしたんだ。だからアスカは僕を許さなくていい」

「……それ、鈴原妹にも言ったの」

「え?」

「言ったか、言ってないか」

 

 ぎらりと蒼く瞳が輝く。それはネコ科の猛獣を想起させた。

 

「答えろ」

 

 首に、いつの間にか手が掛けられていた。指が首筋に埋まり、徐々に絞める力が強くなっていく。外見不相応なアスカの握力と腕力なら、自分の細首を縊る程度訳もないだろう。

 

「言って、ない。ずっと思ってたことだけど……言葉にするのを、躊躇ってた。恐がってた……」

「……」

「でも」

 

 死。

 こんなにも簡単に、死は現出される。一瞬先に待つ終わりを、感じられる。

 アスカは僕を殺せるんだ。アスカに殺される。それは、それはなんて────

 

「アスカには、言えた。アスカになら……」

「…………」

 

 これも甘え。

 まだ、この期に及んでもまだ僕は、アスカに頼ってる。縋ってる。

 それが恥ずかしい。情けない。掌を抉る痛みでも、この羞恥は誤魔化せなかった。

 アスカの目を直視し続けるのが辛かった。自分の瞳のその奥の、この惰弱を、見透かされそうで。

 それでも、満身の力で眼球を縛り付けて彼女を見る。彼女の顔を。

 アスカの顔に、笑みが浮かんだ。

 綺麗な微笑、美術品めいて整然とした微笑が────()()()いく。

 それは笑顔だった。歪んだ笑顔だった。ひどく黒くて、暗い。

 悦びの形をしていた。深く、底の見えない淵に、それがどろりと満たされていく。

 

「じゃあ、許さない。私はあんたを許さない」

「……うん」

「だから」

 

 不意に、アスカは僕の左手首を掴み上げた。

 

「あっ」

「……」

 

 掌に空いた赤い傷口をアスカは一瞬睨み付けて、そのまま。

 傷口に、口付けた。

 

「なっ!? アス、カ、が、ぁ!?」

「ん、ちゅ、ぢゅ、んぁ」

 

 舌が傷口を抉る。舐る。舌先でこじ広げ、開き、その奥へ奥へ。

 血が溢れる。アスカの口の端から唾液が零れる。少女の口から、掌に塗り広げられ、流れていく。

 血の紅に、その唇を彩って。

 痛み。熱。痺れ。震えるほどに甘く。

 掌に口付けているその間、アスカの片目は片時も僕を見逃さなかった。じっと、縫い留めるかのような強さ、鋭さと、重力さえ伴って、僕の両目を固定した。

 まざまざと見せつけてくる。手を、アスカの唇が、舌が凌辱する光景を。

 

「は、が、ぁ、ぶ」

「いっ……!」

 

 今度は横合いから手に噛み付かれる。ぞぶり、犬歯が食い込み、一層に血を湧き出させた。歯列ごと皮膚に食い入る。

 まるで刻み込めるようにして頻りに咬合が繰り返された。何度も、何度も。

 そうしてようやく口が開かれ、解放された掌には噛み痕がくっきりと残っていた。自分で空けた刺創以外からも血が滲んでいる。

 

「ふ、ふふ……あぁ~あ、当分消えないわね、これ。まあ、消えそうになったらまた着けに来るけど。文句ないでしょ。ないわよね? あんたが望んだことだもん。ねぇ?」

「いっ、あ……」

 

 手を握られた。指の一本一本、逃がすまいとするように絡まり、握り締めて。

 手の甲にアスカの爪が食い込んでいく。

 それをベッドに押さえ付けて、眼前にアスカの顔が近付いてくる。吐息すら掛かる間近に。

 笑み。また、アスカは笑った。ひどく優しげに。

 

「あんたを許さない。あんたを恨むわ。だから」

「……アスカ」

「あんたの痛みは私がもらう」

 

 左手が軋む。皮膚を、肉を、骨を砕いて潰してしまいそうなほど。

 アスカ自身の手すら傷付けるほどに強く。

 痛みを。

 

「誰にも、渡すもんか……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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病み描写を書きたいのにまたラブシーンに筆が滑ってしまったんだすまねぇ、すまねぇ。


 ごく当たり前の始末だと思う。

 彼女は、サクラさんは医療従事者で、僕の、碇シンジの健康管理が仕事なのだから。外見に顕れない体調不良ならいざ知らず、いやたとえそうであっても、些細な異変を見逃す筈がない。

 その意味でサクラさんはとても優秀な医師だった。常に人員不足に喘いでいるというこの(ヴンダー)で、それでも若い身空で少尉──尉官の階級を与えられているのは、間違いなくその能力を評価されたからに他ならない。

 ばれない理由がなかった。

 一抹でも、隠し果せるかもしれないなんて期待すること自体甘かった。

 部屋に入るまでは、強化ガラス越しにも見えていたその笑顔が、僕を見止めた瞬間に。

 

「おはようございます、碇さ────」

 

 消える。

 ふ、と灯りを落としたような、無明。朗らかで柔らかだったサクラさんの顔に新月の夜めいた暗がりが霞のように立ち込めていく。

 闇。

 それはきっと、色の混淆の極点。様々な彩を持った感情が、千差万別のそれらが全部ない交ぜになって出来る。純一の対極、漆黒の対義。

 凄絶な色。感情の氾濫する目を、けれど僕は。

 ひどく、懐かしいと思った。その目を知っている。昔、どこかで。

 記憶を辿って忘我したほんの一瞬、サクラさんは僕の手を飛び付くように奪っていた。

 僕をベッドに座らせて、彼女は既にして部屋に備え付けの医療キットからピンセットと消毒用コットンを取り出し、掌の傷口を拭い、洗う。

 

「っ」

「痛いですか? 我慢してくださいね」

 

 ものの一分と掛からず、気付けば左手には丁寧に包帯が巻かれていた。

 

「すみません……」

「何がですか? 碇さんが怪我しておられるんやったら私が治療するのん当たり前です。謝る必要ないですよ……それとも」

 

 白く帯に巻かれた手を、サクラさんは両手で包み込む。

 

「自分で、傷付けたこと……謝ってくれるんですか?」

「……」

 

 自分で、自分の手で、作った傷。自慰と同義の痛み。

 そんなものの為に彼女の手を煩わせた。サクラさんに、こんな、こんなにも悲しそうな顔をさせた。

 ────そうか。彼女は、悲しんでいたんだ。

 遅すぎる理解が胸から腹の底に落ちていく。

 複雑に移ろう顔容の色。そこには確かに深く、痛ましげな影が差していた。こんな自分を彼女は心から労り、憐れんでいる。自分のこの不実な行いに対する至極当然の憤りにさえ、気遣わしげな、安堵の吐息が交じる。

 

「……ごめんなさい。本当にごめん。僕は……」

「ううん……謝らんといてください。謝らなあかんのは私の方です。私が……私の、所為やから……私のっ」

 

 重ね合わせた手に、落ちる滴。サクラさんは泣いていた。

 

「私が……碇さんを追い詰めたんですね……こんなこと、させるくらいに……!」

「ち、違います! 僕はただ! ただ……忘れたくなかったんです。自分がしたことの大きさとか……罪悪感とか……一生覚えておかなくちゃいけないのに。でもふとした時、あっさり消えてしまいそうで……僕は弱くて、狡いから、都合の悪い現実からすぐに逃げ出そうとするから……」

 

 意味のわからない言い訳を並べている。

 自分のやったことの愚かさを、サクラさんの涙が思い知らせてくれる。

 

()()()を付けようと……」

 

 頭のおかしなことを口にしたという自覚はあった。けれどそれ以外に説明の仕様がなかった。

 それが到底、サクラさんを安心させられるものではないことも、わかる。恥知らずな後悔が胸に蟠った。

 

「しるし……?」

「ご、ごめん。変なこと言って……もうしない。しません、から」

 

 不明瞭に謝罪を繰り返して、俯く。

 手を強く、握られた。それは徐々に、徐々により強く。サクラさんの指が掌に沈む。食い込んでいく。

 傷口がややも捩れて痛みを発した。

 

「サクラさん?」

「なら、この歯形もしるしですか?」

 

 サクラさんは掌の側面に指を這わせて、そこに空いた溝をなぞる。点々と細い穴が形の良い半円を描いて、掌の表と裏の両面に刻まれている。

 歯形。誰が見ても、それが人間の噛み痕であることは明らかだ。

 アスカの……。

 

「そ、そうです。僕の」

「違いますよね」

「え?」

「だってこれ、碇さんの歯形とちゃうもん」

 

 迷いなく彼女は言った。一瞬とて疑うことすらなく。

 確信して。

 驚きに声も出ず、呆とする僕にサクラさんは微笑んだ。

 

「ふふ、そらわかりますよぉ。初号機からサルベージされた碇さんをどうやって本人確認した思います? 指紋とか掌紋とか虹彩とか、あと血液型やったり体の細かい傷痕を碇さんのデータと全部照合するんです。DNA検査は確度はすごいですけどクローニングがザラな現代やと体の同一性の証明にしかなりませんから。歯の治療痕見るんが、一番信頼ある方法なんです。昔ながらの、いうんですか? ふふふ」

「…………」

「嘘言うたってダメですよ、碇さん」

 

 不意に、サクラさんの手が伸びてくる。それは顔に、唇に触れた。紅を差すような所作で、指の腹が唇の粘膜を滑る。

 

「んっ」

「ああ、ちょっと乾いてますね。今度はリップ持ってきます」

 

 幾度か指が口の端から端を往復する。優しい指使い、繊細で、丹念な。

 その指が、唇を割って滑り込む。口内へ。

 

「んぶっ!?」

「……」

 

 指は歯列を撫で、歯茎を這い、奥へ。

 閉じ損ねた顎、その上下の隙間をこじ開けながら、奥へ。

 びりびりと痺れるような、疼痛。身を捩りたくなる擽ったさ。口の中を他人に触られる、侵略される未知の感覚────快感。

 

「んんっ!? ぐっぷ、んっ、ふぶ、ぅ!?」

「碇さん、歯並び綺麗ですね。歯茎も張りがあって、つるつるしてます」

「んおっ! ん、ひ、ぎゅ……!!」

「でもほら、これ。犬歯がちょっと丸いんです。前歯も控えめ。手の歯形とぜんぜん違う。ぜんぜん違うんです。ねぇ、碇さん」

 

 歯の一本一本の形状を検めるように、丁寧に丁寧に丁寧に、指が口中で蠢く。這い回る。

 唾液がだらだらと溢れて、口の端から、サクラさんの指の間から、顎に、首筋に、掌に、手首に、垂れて流れる。普通ならあり得ない刺激が唾液腺を突きまわし、涎はやたらに粘ついていた。

 ぐぷぐぷと泡立つ。ひどく水っぽくて、下品な音がした。

 かっと、血が上る。羞恥に、戸惑いに、混乱に。

 赤々と染まったであろう僕の顔を見て、サクラさんは微笑んだ。瞳が潤み、まるで、そう、恍惚として。

 何か、ひどく堪らなくなる。まったくもって抵抗の意思表示などではない。反射的に、彼女の指を噛んでいた。

 

「っ」

「!」

 

 一瞬、サクラさんは目を閉じた。驚きか、痛みか。

 慌てたのはむしろ僕の方だった。噛み合わせた歯を開く。にちりと、肉と皮の弾力の歯応えがした。

 サクラさんは────また、笑っていた。頬を朱に染めて、優しげに。あるいはまるで。

 

「もっと」

「……」

「噛んでもええんですよ? 痕が残るくらい、強く。血が出るくらいに深く……式波少佐がやらはったみたいに」

「っ!?」

 

 喜ばしげな顔で、そんな表情とは裏腹な低く、昏く澄んだ声で。

 ゆっくりと押し倒される。ベッドに仰向けになり、サクラさんはその上に馬乗りになった。

 ほんの少し前にアスカが僕にそうしたように。

 行為全てなぞるかのように。

 違うのは、この口の中の指。細いサクラさんの指が、僕の舌を撫でる。愛おしむような、柔い指使いで。

 

「しるし、なんです」

「ん、んっ、ぶ、ふっ……んぇ、あっ……?」

「これはしるし。あの人が碇さんに刻んだ所有権の宣言です。私にはわかります。そういう想いが、透けてますから……何様やねん。何を、今更……どいつもこいつも……碇さんが目ぇ覚ました時、なんもしてあげへんかった癖に、向き合うの怖がって近寄りもせぇへんかった癖に……」

 

 譫言めいた呟きの数々、そこには紛れもない怒り、怨嗟が木霊した。

 彼女がどうしてこんなにも憤るのか、僕には理解できなかった。その矛先が自分でないことが、ただただ不可解で。

 戸惑うばかりの自分の様子を見て、サクラさんは寂しげに笑った。そうして、そっと指を引き抜かれる。

 他人の熱が口内から消える。久しぶりに訪れた自由は、けれど何故か無性に寒々しくて、奇妙な寂しさを覚えた。やっぱり僕はどこかおかしいのだろうか。おかしく、なってしまったのだろうか。

 異常なことをされたのだ。非常識で、無体なことを。

 だのに、怒りは湧いてこなかった。僕を見下ろすサクラさんの、その弱弱しい微笑が、ただ労しい。

 サクラさんの指は僕の涎ですっかりと濡れていた。その、汚れ切った指を彼女は、舌を這わせて、舐める。

 

「っ!」

 

 また心臓が跳ねて、血流に乗って熱と羞恥が全身を焼く。

 顔を背けても、指をしゃぶる水音が耳を濡らす。

 

「碇さん」

「………………」

「もう、自分を傷付けないでください。傷と痛みで証立てなくても、碇さんはずっと苦しんどるやないですか。ずっと……ずっと……もし、それでも、耐えられへんのやったら」

 

 頬に両手が添えられる。背けていた顔を引き戻され、彼女を眼前にする。

 サクラさんの笑顔。優しい色を滲ませた……それこそ慈愛、そんなものを錯覚するほど暖かな色が。

 

「私を見てください、碇さん。だって私は────あなたが傷付けた最初の女です。あなたの最初の罪は、私です」

「………………」

 

 心臓が止まる。その、今更の、当然の、罪の所在を聞いただけで。

 僕への断罪を告げている。刃。彼女の慈愛の刃先が、胸の奥を抉る。

 

「私を見てください。私も、あなたを許さずに、あなただけを見てます。あなたが罪を忘れないようにずっと、ずっと見てます」

 

 柔らかな手付きで頬を撫でて、まるで赤ん坊を寝付かせるように彼女は囁く。

 許さずの誓い。とても愛おしげに僕を糺す。正しい義憤で人を罰する女神。昔、歴史の資料で読んだことがある。そう、あれはたしか……ネメシスという。

 まるで女神のような微笑を浮かべて、サクラさんは罰を下した。

 

「だから私を見てください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 艦長室などと。

 部屋の間取も造りも、一般クルーに宛がわれた私室と然したる違いもないこの空間をそのように呼ばわるのは如何にも大仰だ。

 空中艦隊旗艦の長たるこの身が今、腰を据える椅子に権威を顕すものはない。良く言えば極限まで機能性を追求された、悪く言えば飾り気も可愛げの欠片もない簡素で、貧相なオフィスチェア。

 権威? 馬鹿な。傲慢に何が誇れる。こんな自分が、人の上に在るなどと。

 自分はただの集団統率装置。それ以上でも以下でもない。

 

「…………」

 

 肩書きではなく、我が身の分相応の椅子(ポスト)に座り、各セクションから上がってきた報告書、分析結果、戦術・戦略立案等々に目を通す。懸案事項は山とある。私事などというゆとりを忘れて全てを責務に費やしてきたつもりだが、それでも人間種に与えられた時間は少なく、儚い。

 気が付けば14年経っていた。いつしか年月を数えることを止めて、過ぎ去っていく、消え去っていく何もかも、誰も彼も、見ないふりをし続けてきた。

 それを逃避と謗られて、どうして否やと嘯けよう。

 全ては、ネルフを、ゼーレを、その計画を挫く為に。人類存続、生命守護の為に。

 大それていた。しかしやらねば、ならなかった。

 それらを為し遂げる為に、心を殺し、機械のように在り続けてきた。人が人らしく人として享受する多くを擲ち、排して…………馬鹿馬鹿しい。全ては自己満足。己の罪の精算に過ぎない。

 罪悪への償い。購いだ。

 人類を代表して公の大義を謳うが如き厚顔無恥を称し振る舞えるほど、自分の精神は強靭ではなかった。

 現人類の、世界の、この有り様は。生命死滅のドミノ、その最初の札を倒したのは────()()()()のは。

 

「………………」

 

 何万回繰り返したかもわからないこの思考、確認行為、罪状の列挙、刻印、忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな忘れるな、断じて。

 私が、背負うべきものだった。

 間違っても彼に、あの子に押し付けることなどあってはならなかった。それなのに。

 

「………………」

 

 端末に表示されているのは、他の報告文書とはやや毛色の異なるもの。日誌、と表する方が適当かもしれない。

 『BM‐03医務管理記録』

 そこには治療記録(カルテ)とは別に、担当医官の素朴な所見が記されていた。日々の情景、その時々、彼の──碇シンジの様子を筆者の主観的所感に基づいて、詳細に、克明に。

 “食の細さが気懸かり”、“眠りは浅く床に入っている時間も短い”、“身体の数値的健全化より、メンタル面の健康に要注力”、“食事量に改善の傾向”、“ストレス性の腸炎か、腹痛、下痢、微熱”、“自覚した体調不良を隠そうとする!”、“拒食、嘔気、経過観察の必要有り”、“主計科より縫製・修繕作業を請け負う。体調管理を最優先に、作業量の調整を”、“軽作業はメンタルケアに効果を認む”、“一日当たりの嘔吐回数は減少傾向”、“当初に比べて口数が増している”、“会話への積極性……今日は彼から話し掛けてくれました”、“表情に明るさが……少しだけ、笑顔を見せてくれました”

 

 “碇さん、頑張ってます”

 

「………………っ」

 

 だのに今、この瞬間にも。

 重く背骨を潰されるように、苦しみ悶え、責め苛まれ、あまつさえその責め苦を甘受している。少年は罪を食んで、罰で自らの腑を焼いていた。

 

 ────“自傷行為の形跡有り”

 

「っ! く、ぅ……ぁ……あ……あぁっ……!」

 

 そこには少年の日々が描かれていた。少年の苦悩、少年の苦悶の表情が目に浮かぶ。

 同時に脳裏に過る。忘れ得ぬ彼との日常が、あの、帰らずの安息が。

 それが今や。今、私が彼に強いているものは。

 自身の胸倉を掴む。その奥で安穏と鼓動を刻む肉の内燃機関、それを抉り出す思いで。

 

「シンジくん……シンジくんっ……!」

 

 

 

 

 

 



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拾一

シンのサントラ聞けば聞くほどアスカさん登場シーンのヒロイック度合いが半端ない。

それはそれとしてどろどろしましょうね~。


「……復唱してもらえる? 少尉」

「はい、何度でも。式波戦時特務少佐」

 

 エヴァに関わる物資、とりわけ兵装、弾薬、予備パーツといった積載物は過大に重量物である。その為、搬送ルートは重力制御によってゼロG化され、各種物資の運搬を容易にしている。

 エヴァパイロット専用エントリープラグ直通路も、機体への迅速な搭乗を考慮され重力制御効果範囲内にある。エヴァ本体および兵装格納ブロックに接する位置関係上当然と言えるが。

 無重力下で女が二人、手摺を掴んで向かい合っている。長い髪が宙を泳ぐ。油断すれば体は今にも部屋の其処此処に流れて行きそうなほど頼りない。

 しかし頑として動かないものもある。

 この両目であり、対する片目。射し合い、刺し合う二種の視線が。

 アスカの出で立ち、赤いプラグスーツ姿はまさに今、エヴァに乗り込む直前であることを示している。

 それをわざわざ待ち伏せ捕まえたのだ。だから何度でも、噛んで含めて言い聞かせてやる。

 

「BM-03用隔離室の出入り、およびBM―03への接触、会話を制限します。これは現管理担当医官の診断において患者の健康維持管理上必須要件であります。ご了承いただけますね?」

「従う義務はないわね。少なくとも少尉、あんたからの命令には」

「命令じゃありません。通告です」

「ならなおのこと何の強制力もないわ」

「でも通告は完了しました。この時点で、少佐は小官の意見具申をご承知されました」

「だから?」

「少佐のご返答含めて、上に意見書を提出します。その後の対応については、ここでお話しする必要ありませんね」

「副長……艦長に直談する肚って訳だ」

「ご想像にお任せします」

「アタシがそれで折れると思う?」

「エヴァパイロットは二名おられますんで」

「そう。二人だけよ。スペアもバックアップもない。敵性エヴァに対抗できる予備戦力すらないじり貧。一々パイロットのご機嫌取りやってる暇なんてないのよ、今のミサトには。だから、猟犬を飼い慣らすより獣の放し飼いを選ぶでしょうね」

「勘違いされんでください。少佐の処遇に興味はないです」

 

 一瞬、怪訝に眇められた蒼い眼に得心の色が過る。

 

「……ふーん、あっそ。あのバカを連れ出す気」

「ご想像に」

「易々と、逃がすと思うわけ?」

 

 獣の喉笛が低く唸るような声だった。

 しかし、取り合わない。そんなものに怖じける可愛らしい女を演じる意味もない。

 

「ですから、言うてますねん。二名しかおられん稀少なパイロットさん」

「アタシが人類も地球も全部見捨ててあいつを拐ってくって考えないんだ」

「……少佐にはそんな真似できひん思います」

「ご信頼どーも。それに応えられるかは、わからないけど」

「……」

「……」

 

 打てば響くようだった応酬が不意に途切れる。その沈黙が、不都合を衝かれたゆえの(だんま)りでないことだけは確かだ。サクラにとって、無論アスカにしても。

 互いが互いを了解している。嫌になるほど。

 互いが何を望み、求めているのか。

 

「あんなバカに随分ご執心ね。まともに顔合わせたのだってついこの間でしょ」

「それこそ、少佐には関係ありません。それにニアサー前に一度……」

 

 言い掛けて、それを飲む。それは思い出だった。この想いの大切な源泉、あの人との始まり。

 それを軽々しく口に出すのはひたすらに咎められた。

 それを、よりにもよってこの人を前にして、つまびらかにしてやる義理はない。

 

「……ええ、執着してます。心底」

「へぇ……あのバカ、そこいら中で因縁作ってるじゃない。ホント、変わんない。変わらずのバカ」

「バカバカてアホの一つ覚えに言わんといてもらえますか。碇さんはバカなんかやありません」

「バカよ。現実を見ないし知らない無知なガキかと思ったら……やっぱりバカのままだった。14年前と同じ、心底からの自分嫌い。変わったのは自分自身の虐め方くらい……心置きなく自分を嫌えるようになった分、むしろ前より安定してるってんだから皮肉なもんね。でもまあ却って都合がいいわ」

「! なにを、言い腐って……!」

「昔のあいつは」

 

 こちらの語尾を跳ね退けるように赤い少女が迫る。にじり寄る。

 

「自分を嫌っても、自分に刃物押し当てて安心するようなイカれたメンヘラじゃなかった。親の七光りどころか、クソ重い因果を背負わされたただの……子供だった。当たり前のことに一喜一憂する、バカで、不器用で、鈍感で────真っ当な人間だった。“私”とは違う」

 

 蒼い目が刹那、現在から遠ざかる。それはここではない何時かを、どこかを、誰かを見ていた。

 

「違うままでよかった。何も知らないバカのままで、何の関係もないただの……」

 

 もう一瞬の後に、彼女はこちらを見詰めていた。それはひどく鋭い眼光だった。

 

「そんなバカが、あんな(ざま)になった。背負えもしない背負う意味もない罪だか十字架だかに喜んで潰されに行くようなイカれた囚人を気取ってる。ハッ! くっっだらない。クソくだらないことだってぇのにあのバカは、心底バカだから……」

「…………」

「あいつを()()した奴がいる」

 

 鈴原サクラをその鋭い、猛るような右目で射抜いて、式波・アスカ・ラングレーは囁いた。

 

「それが、あいつを苦しめる為だっていうなら……いい。あいつはどうしようもなく誰かにとっての仇で、誰かにとっての殺人犯だから。それを憎むのは正しい。あいつの目に、この世界の有り様ってやつを刻み付けずにいられないのも理解はできる。でも、もし」

 

 ブラウンの髪がそよぐ。空間に広がり、肥大する。

 少女の覇気が呼んだ、陽炎が。

 

「もし、そうでないなら。もし別の意味で、意図で、“欲”で、あいつに触れようとしてるなら……」

「……もし、そうやったら?」

「────」

 

 返答はない。

 赤い少女は手摺を引き付けるようにしてゼロG通路を泳ぎ去った。

 その後ろ姿を、頑として見送らず、自身もまた正面を見据えて彼女とは逆方向へ通路を進む。

 

「……」

 

 返答は、なかった。確かに、声も言葉も形として返ってきたものはなかった。

 けれど、(いら)えは。

 形無き意志、想念、些少な言葉なんていう不純物を必要としないほどに明確な、強烈なもの。呪いめいて、だのに純粋無垢な誓いでもある。

 それは実に冴え冴えと、はっきりと彼女は言った。

 

 殺してやる

 

 鮮やかな赤色をした、彼女の殺意は。

 

 

 

 

 

 

 艦内システム管理用コンソールルーム。人の背丈を優に越える巨大な電算装置の箱が立ち並ぶ空間にて。

 

「到底容認できるものではないわね」

 

 各セクションから上がってきた電子具申書の一覧から一件、ホロウィンドウに表示された文書。その内容に一瞥を呉れてすぐ、赤木リツコは言った。

 冷淡、というよりむしろ明朗に。出来の悪いジョークを、肩を竦めて流してやるような心遣いすら感じられた。

 ジョーク。そう、冗談にもならない。この要請は。

 

 ───検体BM-03に対する精神診断

 

 都度提出される報告書とはまた違う。多数のカルテと共に、そこには彼の心身衰弱が如何に著しいか、その結果以前にも増して日常行動に現れ始めた変容、異常、そして今後彼に施されるべき治療方針が克明に、詳細に綴られている。

 その具申書を暫時、葛城ミサトは見下ろした。

 静養に適した環境へ彼を移すべきとの旨、そしてその候補地として最も適した場所──村落もしっかりと記載がある。

 

“常時戦線に臨する本艦での居住、軟禁は、検体の心身健康状態に対する悪影響多大であり、その改善を考慮するならば第三村への移住は有効、かつ必須であると──”

 

 実にあからさまな私情に依ったピックアップだった。いっそ清々しいほどに。

 

「……」

「旧ネルフ、そしてゼーレも、かの少年に利用価値を見出だしている。この艦から彼を解き放てば敵は喜び勇んでその身柄を奪取するでしょうね。そうして下手をすればサードインパクトを凌ぐ補完の起爆装置にされかねない」

 

 人類補完(インパクト)のトリガーたる因子を持つのは、何も第三の少年に限った話ではなかった。神の模造物エヴァ。それを動かすことのできる仕組まれた子供達全てに、そのリスクが付き纏う。無論、適格者にもまた特殊な条件を要するが。碇シンジの存在が特別な意味を持っていることは明白だ。依り代として、あるいは生け贄か……。

 その為の首輪。

 その為の銃爪。

 その為に、この身は今ここに在る。その決断を下す為に。十四年、覚悟を練り続けてきた。その時が来たなら、必ず。躊躇いも、迷いも、愛惜も許さない。もう自分には何の資格もないのだ。

 あの子の細い背中を()()()その日から、もう何も、何一つ。

 だから。

 

「…………」

「ミサト」

「わかってる」

 

 幾度繰り返したろう。この遣り取り。この疎通を。

 赤木リツコの厳とした呼ばわりの声には、ただ正しさだけを感じる。彼女は正しい。彼女の懸念、危惧は、何一つ間違ったものを含まない。

 葛城ミサトの人間性なるものの甘さをこの旧友は、親友はよくよく了解しているのだ。だからこそ、何度でも彼女は釘を刺す。戒める。諫めの言葉は剣のように鋭い。それにどれほど助けられてきたことか。

 自己の瑕疵を疑わない。完全無欠に程遠い脆弱なこの精神を確信する。

 あの子に強いた痛みを思うほど、この胸は潰れる。渇いた土塊より脆く、崩れて、解けて、風にさらわれて消える。それほどに、自分という女は、嫌になるくらいに弱いのだと知っている。

 救われてあれ。そう願わずにおれない。あの子が、あの少年が、安寧でいられるなら、どんなことでもしてあげたい。

 救われてあれ。救われてあれ。

 誰(はばか)らず、謝罪を泣き喚き贖罪を乞いたい。

 手を握って、抱き締めて、大丈夫、辛かったでしょう苦しかったでしょう、そうたくさん、たくさん慰めて────そんな自己満足と自己憐憫を夢見てしまう。一体どの面さげてそんな真似ができる。

 無い。もう、無い。そんな資格はもはや、無いのだ。

 

「仮称碇シンジは依然として本艦内部にて収容、管理する。現在許可された一定範囲の行動自由を除き、原則耐爆隔離室での拘禁が妥当。その判断を変える気はないわ。変える意義もない」

「ええ、副長として異存ありません」

「今のところは」

 

 赤木副長の視線がこちらに刺さる。苦々しく顰められた眼差しが。

 

「……ミサト」

「その“意義”が生まれたなら再考の余地はある。それだけのことよ」

「葛城艦長!」

 

 諫言を過ぎ、それはもはや叱責だった。不甲斐ない己に対する至極当然の。

 再び見返した友人の目は、けれどこの不覚に対する怒りも少なく。

 そう、まるで憐れむように、ひどく痛ましげなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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拾二

ケンケンのシンジくんの呼び方がものっそい虚覚えですすみません。




 

 サスペンションが軋む。一瞬、シートから尻が離れるような浮遊感。うっかり隆起したアスファルトを減速が間に合わず勢い乗り越えてしまった。

 

「……ふぅ、危ない危ない」

 

 冷やりと背筋を汗が伝い、酸素マスクに溜息が篭る。

 舗装された道路とはいえ、メンテナンスを行う者が絶えて久しい。文明社会というやつは雑多で膨大で広範な癖に、殊更にデリケートときてる。

 たかが十四年。それでも風化して崩れるには十分だった。

 家屋の残骸、ビルの折れ残り、錆びた鉄塔がジャングルジムのようにひしゃげてこっちにお辞儀している。そして全ては赤く、煮染めたかのように赤く、赤く、赤い。ヘッドライトに照らされた暗闇から浮かび上がるものは赤。赤のみ。

 市街と住宅地の狭間で見る光景はどこも概ねそのような有り様。いや、地上に()()だけこれらは幾分マシだ。

 見上げれば、夜空の只中で鉄塔が回転している。30メートル近い金属の骨組みが、ゆっくりと、自転する惑星の様相で。実際、重力を無視しているのだ。地球の引力の影響から如何にしてか離れて、赤い光に軸だか座標だかを固定されてしまった物体が、他にも数多。其処彼処に溢れている。

 L結界と呼ばれるこの赤い汚染空間において、正常な物理法則なるものは通用しない。

 捻じれ、狂っていた。あるいは清浄で、澄み渡っていた。原罪を背負い、穢れ切った人間にとってここはあまりにも。

 この分厚い防護服がなければ人は人としての形状を保てず、赤い水(LCL)に融ける。

 

「……」

 

 村の近縁の地形の測量や環境変化の調査、その帰路。

 老朽化の激しい路面を注意深く噛むようにジムニーを走らせる。数センチのハンドル操作ミスが文字通りの命取りなのだ。

 相補性L結界浄化無効阻止装置、俗に封印柱と呼ばれる黒い円柱によって守護された領域だけが今、人類に許された生存圏だった。そこから一歩外に踏み出せば、人間を拒む赤い世界が延々と地球上のほぼ全域に広がっている。

 アクシデント一つで、簡単に融けて崩れて終わる場所。ここがそんな禁域であること、それを決して忘れてはならない。

 それが今の世界の現実。

 そんな世界に、あいつは戻ってきた。

 この赤いばかりの大地に、鮮やかな群青の星空から。衛星軌道に幽閉されたエヴァ初号機と共に、十四年ぶりの帰還を果たした筈だ。

 先のUS作戦、失敗の報は届いていない。あくまで民間協力者に過ぎない自分に作戦の成否やその詳細が逐一明かされる訳もないが、それでもヴィレ直下の支援組織クレーディトを通してその大まかな動き程度は知ることができる。式波から便りが無いのは……いつものことだが。つまるところ元気には違いない。

 式波に変調が無いなら、彼はきっと地球に戻ってきている。

 この、ひどく歪んでしまった世界に。

 

「はぁ、クソ……」

 

 友達が帰ってきた。それを心から喜んでやれない。その不実に歯噛みする。

 彼が無事であることを願う心持ちに偽りはない。会いたいと思う。会っていろんな話をしたいし、聞いてやりたいと思う。けれど。

 けれど同時に、どうしようもなく思う。思ってしまう。

 碇シンジは、帰って来るべきではなかったのではないか、と。この世界の有り様を知り、まざまざと目の当たりにした時、彼の心はどうなってしまうのか。

 何も知らず、あの夜空の向こうでこの星を見下ろしていた方が、あるいはずっと、彼にとって。

 

「……なんてな」

 

 馬鹿らしい。自分の弱気で愚昧な世迷言を鼻で笑う。

 トウジに聞かれた日には『アホぬかせ』なんて怒鳴られそうだ。

 十四年間忙殺されてきた。ただ一つ、生きるというその行為だけに。第三村を興し、人々の生活基盤が出来上がってようやく思索に耽るなんて余裕が生まれた。

 悪いことなら幾らでも湧いてくる。しかしそこには何の生産性もない。脳のカロリーの無駄というやつだ。

 彼がもし村を訪れたら暖かく出迎える。秘蔵のどぶろくで、トウジと親父さんも交えて飲んだくれてもいい。トウジとあの委員長の馴れ初め話を、本人達を前に開陳してやってもいい。さてはてどんな顔をするかな。

 こんな世界で、それでも友達と再会できた。それを目一杯祝えばいい。

 

 ────現実も悪いことばかりじゃないんだぜ、碇

 

 まだ見ぬ友人に会えたなら、何を言ってやれるだろうか。そんなことに思考のリソースが偏った所為だろう。

 一瞬、ヘッドライトに過った影に反応が遅れた。

 

「!?」

 

 ハンドルを切る。右前方へ躱す。

 路面にタイヤを削られ、後輪が滑る感触をシート越しに味わう。縁石を乗り上げながらしかし、幸いにも回避した先は空き地だった。錆より赤い地面にタイヤ痕を盛大に刻み制動する。

 即座車を飛び出すような真似を堪え、助手席のバッグに手を突っ込む。探るまでもなく掴み出した黒光りのグリップ──H&K製自動拳銃を手に、ゆっくりとドアを開け、外へ。

 封印柱の効果が少なからず及んでいるとはいえ、近辺のL結界密度は人類の許容限界を優に超えている。だが、先のあれは確かに……人影だった。それも防護服を纏ったような大柄なシルエットではなく、人の頭と手足の形を認められるほどの軽装。

 人の形をした“人でないモノ”である可能性を考慮しなければならない。有り難くもないことに、今の御時世そういったモノが在り得るのだ。

 よしんば人であったとして、こんな時刻、こんな禁域を出歩くような人種がまともである保証はない。

 そうして自分の思考に苦笑する。

 

(人の敵は人、か……)

 

 そんな事実には慣れ切り、飽き切っている。うんざりするほど。この十四年で、十分過ぎるほど。

 埒もない感慨に区切りをつけ、頭部のフラッシュライトを点灯させる。視界は良好。銃を構え、片側二車線の道路の反対車線にライトと視線を向ける。

 歩道には複数台の自動販売機が設置され、赤い雑草や苔がそれらを取り巻くようだった。

 そのすぐ傍に、それは横たわっていた。

 シルエットばかりでなく、それは黒いカラーリングの。

 

「! プラグスーツ」

 

 すっかり見慣れたものだった。

 式波は私服に無頓着、というより必要性だの感心だのを失ったのか、家では専ら襤褸切れのようなシャツかパーカーを素肌に羽織るだけだ。その際、乱暴に脱ぎ捨てられた彼女のプラグスーツをよく片付けたりしたものだが。

 黒いプラグスーツ姿。そして照らし出したその顔を見て、思わず銃口を下げた。

 青みを帯びた白い髪。病的に白い肌。2年A組の窓際の席に座り、彼女はいつも物憂げな表情で外を眺めていた。その姿を頻りに気にする少年を、トウジと一緒に茶化したりした。

 困惑と同じほどに溢れ出す懐かしさ。その名は、ごく自然と口からこぼれ落ちていた。

 

「綾波……?」

 

 十四年前から何一つとして変わらない。それは級友の少女の姿をした、誰かだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 BM-03用隔離室、四角い金属製の骨で組まれたガラスの箱の中。

 消灯した室内は、非常灯の朧な光が照らすばかりで仄暗い。先達て戦時特務少佐の暴挙から新調されたベッド、その脇に据え置かれたパイプ椅子に腰掛けて、少女はじっとそれを見ていた。

 ベッドで寝息を立てる少年を見ていた。

 碇シンジを鈴原サクラは見詰めていた。

 目覚めてより少年は慢性的不眠症だ。入眠困難であることは勿論、睡眠剤を投与しなければ彼は延々と縫製作業に従事するか、あるいは端末でニアサーの記録を貪り続ける。身体が物理的機能不全を起こすまで、おそらくは永遠と。

 薬剤によって齎された眠りは、けれど安寧とは言えない。寝入ったかと思えば、頻りに少年の顔は苦悶を浮かべ、喉奥からは掠れた呻きが漏れる。毎夜毎夜、少年は魘されながらに眠る。焼かれるように、溺れるように。おそらくは記憶が、彼が自ら脳に刻み込んだあらゆるものが、彼をその夢の中で呵責している。

 夢の中にさえ彼の安息はなかった。

 脂汗を垂らし、浅く息せき切らす少年の喘鳴。

 額や首筋の汗をタオルで清拭し、時にはその手を握って、私は少年を見守る。

 少年を見ている。

 彼を見詰める。

 一晩中、ずっと。ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと。

 

「っ……ぅ、あ……はっ、ぁ……」

「……」

 

 苦しみ、悶え、震え、歯を食い縛り、時には涙すら流して。

 揺れ動く瞼の裏に、きっと少年は地獄を見ている。己が犯した罪を見ている。

 その様が、その姿が、私は、私には。

 

「あぁ……碇さん……」

 

 愛おしくて、愛おしくて堪らない。

 罪を知り、罪を思って苦しむ貴方がいじらしいんです。労しいです。でも、どうしようもなく、その姿を見る度に、苦悶の声を聞く度に。

 この胸は救われます。この胸に熱い熱いものが溢れてくる。

 喜悦だった。それは仄暗い、どろりとしたコールタールのような、穢らわしい感情だった。それは明らかに、憎悪の充足だった。憎い者の苦しみを祝う、最低最悪の業だった。

 愛欲だった。自分の罪科を疑わず、逃げもせず、拒みもせず、針を呑むかのように辛苦し痛む少年が、ただただ愛おしかった。一度この胸に掻き抱いたなら永遠に離さない、放せない、そんな確信すら過るほどの。

 

「碇さん……碇さん……私、私は、最低な女です……醜い人間なんです……」

 

 少年の頬に震える手を添えて、少年の意識が無いのをいいことに私は無責任な懺悔を口にする。繰り返す。

 脳内をリフレインするのは、あの赤い少女の言葉。

 

 ────別の“欲”で、あいつに触れようとしてるなら

 

 彼女には見透かされていた。自分の心の奥底で煮詰まるこの感情、欲望を。

 憎悪と同じほど、愛惜が募った。悪夢のような記憶を思い起こすほど、昔日の憧れは強くその烈しさは止め処なかった。

 少年が苦しむ姿に愛憎が満たされていた。少年が苦しめば苦しむほど、心は悦楽で満ち満ちていった。

 

「私、私て、こんな、こんな醜悪やったんですね……」

 

 自覚などとうの昔からあった。けれどそれを言い当てられて、それを断じて許さないと宣言されて、ようやくその罪深さを思い知った。

 

「…………」

 

 そうして今、少年を前に私は途方に暮れる。

 罪を知って欲しかった。それがどんなに、他にどうしようもない、やむを得ない事情の末の、犠牲だったのだとしても。

 もう不幸になって欲しくなかった。貴方は優しい人だから、追い込まれるだけ耐えてしまう。壊れるまで我慢して、結局全てを失ってしまう。

 幸せにしたいと、思った。本当に、心から。

 

 ────同じほどに、苦しむ貴方が愛おしかった。

 

「ッ! ッ! ッッ!」

 

 頭を抱えて、両手で頭蓋骨を押し潰す。その程度で砕ける訳もない。その内側に据わる悪性の脳味噌を握り潰せる筈もない。

 私は、私がわからなくなった。何がしたいのか。彼を、どうしたいのか。

 わからない。

 

「碇、さん……」

 

 苦痛の眠りの中に在る少年、その手を今一度握る。

 少年は強く、強くこの手を握り返してくれた。それがたとえ、溺れる最中に掴んだ藁と同じ意味であったとして。

 私の心はひどく、満たされた。

 私はまた一つ、自分が嫌いになった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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拾三

こっそり上げればばれへんか。

前半2000文字くらいはシン・エヴァ冒頭の焼き直しなので読まなくてもいいかもしれない。



 

 エッフェル塔の傍ら、渇いた西風に吹かれて望むラップ通り。

 赤一色に沈んだ街並を形作るあらゆる建築様式、荘厳と絢爛と遊び心に満ちた意匠は無惨にもシュールな奇怪風景で侵食されている。奇怪、サイケな赤一色に。

 ゴシックもルネサンスも知ったことかとばかり。新時代(アールヌーヴォー)の風情などはもはや見る影もなし。

 花の都パリは今や遠い時の彼方。

 今、この地に咲くのは花などではなく、空をつんざく砲火である。

 音速の三倍に迫る初速で放たれるオートマティックライフルの連射連弾が、快晴の空に緋色の軌跡を描く。

 

「エヴァ44A航空特化タイプ第三群沈黙! ……うわっ、六時方向より第四群擬装空間から出現! うじゃうじゃ出てます! キモッ」

 

 空が割れる。

 比喩なく、空間の只中に無数のハニカム形の亀裂が走り、それが張りぼての板切れのようにぼろぼろと崩れ落ちていく。

 使徒擬きの面目躍如。ATフィールドの全開運用による空間歪曲は現行のあらゆる索敵センサーを欺瞞し果せる。

 異空間よりの奇襲攻撃、その成功は約束されたも同然だった。

 まるで初めからそこに存在していたと(のたま)うかのふてぶてしさで、編隊飛行する無数の異形。腹這いに飛翔する人型の物体は見るだに不気味だ。

 そうしてそれらは実に美しい螺旋を描いて────片端から撃ち落とされていく。先刻と何一つ変わらず、同じように。

 エヴァ改2号機γ火力特化仕様。その右手に握られた大口径ライフルと左義肢として換装された高出力レールカノン。超長砲身二門による二重奏であった。

 さらに、両肩部に装着(マウント)したランチャーに装填された対Nシリーズ誘導弾。その積載数108発。

 防塵シールドの開放から僅か三秒足らずでその全てが吐き出された。白煙の尾を引きながら、大量の特殊火薬を内包した鉄の筒が異形のエヴァ達を爆散させる。

 無数の十字光、そしてそれを押し流す赤黒い爆轟。

 空に響き渡る爆音、そして。

 

『はぁあ!! 目障りだってェのぉ!! おおおぉらぁアアアアアッッ!!』

 

 獣の咆哮。

 赤い機影が街路を()()

 その鋭角なボディは先のUS作戦の焼け残り。大気圏突破用耐熱シールド『Pod-2´』の片割れであった。高高度に陣取った旗艦ヴンダーの牽引ビームによる操演を受け、吊られたシールドを今、改2はまるでサーフボードのように乗りこなす。

 重力下にある徒走の人型決戦兵器たるエヴァでは不可能な三次元機動と速力。

 振り子運動が最大の速度へ達するその勢力のままに。右手に握ったライフルの砲身下部から銃剣が突き出る。その切先は寸分違わず、44A編隊の先鋒を貫いた。

 そうして突撃する騎兵さながらに、改2の突撃槍(ランス)は容易には止まらない。

 迂闊にも縦列を組んだ大量のエヴァ擬き、それらを諸共巻き添えにして串刺していく。一匹とて逃さず、許さずに。

 

『羽虫がァッ……!!』

 

 団子状に雁字搦めとなった異形の群。その頂で突き刺さったライフルを手放し、足下のボードで蹴り上げる。

 跳ね上がる。空へ。無様で醜いエヴァでもない使徒でもないもの。

 そんな憐れな出来損ないに、最後のレールカノンの放火を呉れる。

 刹那、爆音と共にそれらは巨大な一本の十字架と成った。

 

「エヴァ44A航空特化編隊……反応消滅。うっそ、もう……?」

「はあ!? 会敵からまだ62秒っすよ!」

「式波少佐やっぱぱねぇ」

「というか恐ぇよ……」

 

 巨大な円柱形、ユーロネルフ第1号封印柱。その黒い頂点に今探査艇(DSRV)が乗り付けられている。

 呆れか感嘆か、北上ミドリの呟きに整備班一同が同調する。あるいは恐怖を、共感して。

 

「無駄口叩くな! 何の為に稼いだ時間だと思ってる!」

「は、はいぃ!」

「ス、ステージ4クリア!」

「トレース始めます!」

 

 整備班の面々はその一喝で肩身を震え上がらせた。

 彼らの直属の長たる伊吹マヤは、険を尖らせ怒気を隠さずひとえに厳しい。叱責に声を荒げながら、その手元のノート型端末のキーを叩く手は一瞬たりと緩めない。

 

「……アスカの好調を無駄にするな」

「「「はい!」」」

 

 訓示として、とても正しい言葉だった。同時に、赤木リツコはマヤの微かな沈黙に宿った怪訝に共感した。

 改2号機の鬼神の如き強さ。アスカの鬼気の、その凄まじさ。

 VR装置を用いた訓練時とは文字通り桁違いの戦闘能力を発揮している。どころか敵勢は、当初想定の遥か上を行く物量で波状に襲い掛かってきた。にもかかわらず。

 個別通信を繋げば、スピーカーからは獣のような息遣いが響いた。しかしバイタルは戦時における正常値を示している。

 その激しい高揚はあくまでも現在の精神状態の現れでしかない。式波・アスカ・ラングレーは戦場に在っては常に冷徹だ。

 冷徹、冷厳な殺意。それが焼け付くような激情に裏打ちされたものであることを知っている。そういうどうしようもない危うさは赤木リツコの中にある“女”の自分が嫌というほど教えてくれた。

 今までは、こうではなかった。彼女は猛々しい戦士ではあっても、決して獰猛な獣などではなかった。何かが作用し、彼女に変化をもたらした。

 何か……その何かは実にシンプルで、そして呆れるほど明白だ。

 

「いや恐いし……エヴァパイロットってやっぱりおかしい────!? 高エネルギー反応!?」

 

 擬装された空と地上、その境界面が崩れ、歪曲から正常化した空間に新たな異形が姿を現す。

 電力供給特化型エヴァ44Bおよび陽電子加速砲塔型エヴァ4444C。頭と両腕を取り除かれた歩行する足が横列を組み、それらにかしずかれながら下半身を切り落とされた上半身が四つ、超超長砲身を頭上に搭載している。

 陸戦用超火力固定砲台、その完成形であった。

 

「エヴァ44B大出力電力放射装置蓄電開始! ってもうフルチャージ!? や、ヤバいレベルの電力溜まってます!?」

 

 直撃を許せば封印柱はおろか一帯が焦土と化すだろう。

 その砲身が────既にして破断されてさえいなければ。

 抜き打ちの一閃であった。小太刀を思わせる片刃の切先は目視不可能な速度で振動していた。高周波振動ブレード、その太刀を握って。

 エヴァ改2号機は操演により吊られたボードから跳躍し、出現直後の陽電子砲本体に取り付いていた。MAGIがあらかじめ敵増援出現位置を予測計算していたこともあるが、なにより敵攻勢第一波であった44a航空特化型による陽動があまりにも無意味に終わったこと。

 改2は、アスカは速すぎた。獲物に食らい付く餓狼のように。

 

「獲物が抵抗する力を先んじて奪う。あの手並みは捕食動物のそれね」

「ひっ」

 

 果たしてその喉笛の悲鳴は誰のものか。狂犬のように振る舞う猟犬の怖気すら催す狩りの手管。

 如何に大電力を高効率高速で発電できたところで、間髪入れず接近されれば即応は困難だ。大火力大容量の固定砲台ともなればなおのこと。

 

『コネメガネぇ!!』

『はいなただ今!』

 

 上空からの直接火砲支援(ダイレクトカノンサポート)。本来、今作戦の前衛を張る筈だったエヴァ8号機は改2号機の援護に回っている。

 改造の主体たる8号機を温存するという意味で、このポジション変更は合理性がある。が、それは、私情を優先させる為の裏付け、理屈付けでしかない。

 8号機からのスナイプは、随伴する44Bの潰された頭部へと直撃。それが計四発四体それぞれに炸裂した。膨大なエネルギーを蓄えていた機体はそれを放出しながら大爆発を起こす。

 その爆炎の只中、電力供給源を失った独活の大木(4444C)を足蹴に、改2号機がその上に立つ。

 

 

 シンクロによって投影された敵機を“左目”で見下して赤い少女は歯を軋ませる。

 

「こいつらも」

 

 奪いに来た。また奪いに来た。

 人類補完の鍵、最後のトリガー、第三の少年を、碇シンジを。

 ここ数ヶ月、かつての十四年間とは比べ物にならないほど増加したヴィレに対するゼーレおよびネルフ製エヴァンゲリオンによる襲撃。度重なるMark4シリーズの攻勢で損傷を強いられたヴンダーが、今作戦で後方支援に徹するのもそれが理由。

 その原因、その目的はただ一つ。碇シンジの奪取だ。

 ゼーレはともかくとして、碇ゲンドウは諦めていない。頑としてその願望を、その切望を。そこへ如何にして到達する腹積もりかはわからないが、きっとその手段にかの少年はどうしても欠かせないファクターなのだ。

 ヴンダー(こちら)の戦力増強を嫌った此度の妨害の力の入れ様からも、おそらく次はこの数倍、その次はさらに数倍する兵力を投じてくると考えられる。

 ()()の差は明白だった。持久戦などは初めから論外の仕儀。敵はじりじりと時間を掛けてこちらを削り潰せる。

 そうなればあいつは、あのバカは。

 

「なら、何度だって」

 

 高周波振動ブレードを逆手に、そのままコアへと突き入れた。砲塔を支えるエヴァ型の外骨格ならいざ知らず、その本体の強度はATフィールドを中和されてしまえば何程のこともない。

 バターに熱したナイフを刺し入れるように、いともあっさりと。

 貫く。

 何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も。

 

「殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやるッ……!!」

 

 今更、渡すものか。誰の、どんな思惑だろうと知ったことか。

 あいつの痛みも絶望も恐怖も全部、全部。

 

「アタシの!!」

 

 

 “私”だけのものだ。

 “私”が見付けたものだ。

 

 

 十四年、その呪縛を超えた“今”に、見付けて、触れて、感じたのだ。

 碇シンジの傷。あの赤々と鮮烈に燃える熱を。どろどろと煮え立つ自己憎悪を。

 恋しいと、労しいと想い遣る少女の“アタシ”は既にない。そんなものはこの十四年の戦いの日々が鑢に掛けて削り去った。

 今、この身の内にあるのは、胸倉の奥深くに巣食うのは、もっとどうしようもないもの。優しさからは程遠かった。安らぎなどもたらしはしない。暗く暗く、ただ泥中に沈むような、肩を背骨を圧する鉛のような重さで。

 “私”はひどく、あの憐れな少年が欲しいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 縫製作業が単なる日課から一任の業務のようになった。拙い手作業くらいで仕事をした気になって、それが誰かの為になる、達成感を得ていると思い込む……なんて、間違ってもそんな勘違いはできないけど。

 それでも手を抜いていい理由はないし、さも身を入れて忙殺されたように振る舞う自分は気持ちが悪い。思考と記憶の反芻行為からどうにかして逃れようと躍起になっている。

 皮膚を切るような鋭さ、凶々しさの現実は、今だってこの爆薬に塗れた金属の壁の向こうと床の下遥か彼方までを覆っている。

 血肉色の赤が、ずぅっと。

 逃げる。慣れた行為。馴染んだ思考回路。

 嫌なことから逃げ出すことばかりの過去。幼い頃から染み付いた処世術。向き合うのも、触れ合うのも、怖かった。見ず聞かず口を閉じて、拒絶することで世界と距離を隔てて、孤独という安堵に縋った。

 怖い。怖い。

 逃げ出したいほど怖い。罪の現実が、“今”が、ただただ怖い。

 怖いと、知っている。ちゃんと忘れず、覚えている。自分の怖れるべきものを、自分は恐れ戦き続けなければならないことを理解している。

 

「はっ、はぁ……はぁ……はぁ、は、ぁ……」

 

 身震いした。指先が震えて、手繰っていた白い布地をミシン目がミミズのようにのたくった。

 呼吸が乱れて、心臓が跳ね回り、耳の血管で重い血の脈動がうるさいほど鳴り響いていた。

 

「ひっ、ぃ……ふ……く……っ」

 

 恐怖。罪悪の在処を認識して、僕は僕の分際を知る。

 歯を食い縛って、浅く乱れる息を呑み込んで、背中にびっしょりと汗を掻きながら、さあ──刑務を再開しよう。たぶん今、自分が生きていて創出できる価値らしきものは、これだけだから。

 世界(ここ)にいてもいい理由なんて、これ以外にないから。

 自分の甲斐の無さが可笑しかった。自分の価値の無さが少しだけ、虚しかった。

 その時、出し抜けに扉が開く。

 はっとして振り返ると、出入り口に立っていたのはプラグスーツ姿のアスカだった。

 驚きは意外に少ない。時折こうして、アスカはここを訪ねてくる。多くはないけど、ここ最近はその頻度も増えていた。

 顔を合わせる機会は増えたのに、いざ面と向かうとこの喉は第一声を見失う。有り触れた挨拶でもいい。体調を訊ねてもいい。

 でも、そのどれもが妙に白々しく思えて。

 ちょくちょく顔を見せてくれることが、それが、その事実が……その何かを自覚するより先に、アスカは手にしていたものをこちらに放り投げた。

 

「うわっぷ」

「はい、仕事」

 

 ぶっきらぼうな声が、赤いポリエステルの生地の向こうから聞こえる。

 手に取ったそれはジャージの上着だった。それもアスカが普段プラグスーツの上から羽織っているものだ。

 見ると、肩口と袖の縫い目が大きく解れ、ぱっくりと破れている。

 

「これ、どうしたの?」

「前この部屋で鈴原妹とコネメガネとでいろいろ暴れた時に解れた。そのままにしてたらこうなった」

「ああ……」

 

 そう遠くもない記憶なのに、なんだか随分昔の事のように思える。ただあの時の疲労感だけは鮮明に体が思い出した。

 アスカはなんだか箇条書きを読み上げるように言って。

 

「わかったらとっとと直しなさいよ」

 

 そう締め括った。腰に両手を当てて、胸を張りながら見下ろされる。仏頂面の命令口調。それが妙に、懐かしい。

 

「……うん、わかった」

 

 不意に湧いた暖かなものを隠して、頷く。無性に後ろめたくて下を向く。

 

「出来上がったら届けに……行ったらまずい、かな。えっと、じゃあ、ごめん。悪いけど、連絡するからアスカの方から取りに来てもらってもいい」

「今、すぐ、やって」

「え、でも」

「文句ある?」

 

 二の句を許さず詰問と睥睨が降って来る。

 部屋の隅、部屋の外の通路にも、洗浄済みの衣類や布切れが詰まったケースが積み上がっている。些末な雑用を押し付ける先として重宝がられているらしく、縫製の他にも幾つか内職染みた手作業の打診があった。とはいえ別段急を要する作業などない。期間や優先順位を指定されている訳でもない。

 アスカにもう一度頷き返す。生憎、断る文句は浮かばなかった。

 

「ん」

「え?」

 

 アスカがベッドを指差して、顎をしゃくった。一瞬意味がわからず、首を傾げる。

 

「そこ、座って」

「ベッドに? でも、これ」

 

 据え置きのミシンを使うならデスクに腰掛けなければならない。

 そう続けようとするこちらの言葉も予想済みで、アスカはさもつまらなそうに言った。

 

「手でやれば」

「う、うん」

 

 ますます意図はわからない。勿論、手作業でも補修はできるけれど相応に手間が掛かる。ミシンの方が完成は早いし出来栄えも細かに調整が利く。

 いろいろ不可解を抱えながら、とりあえず裁縫道具を持ってベッドに腰掛けた。

 その途端、どんと腿に衝撃。

 

「うわ!?」

「っしょっと」

 

 アスカはベッドに寝転び、僕の膝を枕にして頭を乗せてきたのだ。

 

「あ、危ないだろ! 針とか鋏とかあるんだから!」

「はいはい」

「もう……!」

 

 至極当然の注意に声を荒げる自分が、どうしてか間抜けだった。

 そうして至極当然のようにアスカは取り合わない。軽くいなして、それどころかどこか面白がっているようにも見えた。

 

「さっさとやれば。日が暮れるわよ」

「……うん」

 

 淡いゴールドの髪は光の具合で時折亜麻色のように暗む。細く艶があり、豊かに膝で広がってそれらは脛、足首にまで届く。

 ひどく擽ったい。肌身の感触ではなく、胸の内、今この時この場の居心地が。悪い、とは遠く対極の意味で。

 不機嫌そうに僕を見上げる青い目を、けれど僕は、やはり、どうしようもなく懐かしいと思う。思ってしまう。

 赤い少女との不思議な時間が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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拾四

ゲリオンファイトォ! レディィイゴー!!



 針が布地を通って、引き抜いた糸が衣擦れを起こす、音とも呼べない音がする。

 聞こえてくるのはほんのそれくらい。隔離室はひどく静かだった。ほとんど密閉されているこの箱の中からでは、臓器のように犇めく機械装置の鳴動すら遠く隔たれている。

 それでも時折、耳を擽るのは。

 左膝の上にもたれる少女の微かな息遣い。傍らで上下する胸。その奥底で、鼓動。

 己の顎先から頬をなぞり上げ、注ぎ込まれる彼女の視線。感触さえ伴う光。青い光。

 アスカが僕を観察する。

 けれどそれは罪人を見張る看守というより、子供が草花を眺めているような素朴さで。

 

「エヴァに、乗ってたの?」

「あんたに作戦内容を知る権利はないけど、聞きたいなら教えたげるわ」

「ん、ごめん。ならいいよ」

「そ。まあ、そうね。完勝だったとだけ言っとく。独り言よ」

「そっか」

 

 もたげた心配は筋違いで、口が裂けても────とは言えないけれど。事も無げな曰く独り言に、否応なく安堵を覚えた。

 あぁ無事で────

 穏やかだった。溜息が出てしまうほどに、穏やかな時間。

 分不相応だ。こんなもの享受する資格はない。それも、よりにもよってアスカに……そうわかっているのに。

 卑しく安らぎを噛み締める自分がここにいる。

 

「……ふ」

 

 不意に、蝋燭の灯を吹き消すような吐息。それはどうやら笑い声だった。

 アスカは僕を見ながら笑った。明らかな嘲りと僅かな呆れ、もう一滴、憐れみを添えて。

 

「まるで叱られた後の犬ね。今のあんたの顔」

「……そうかな」

「そうよ」

 

 小馬鹿にしたその言い様を受けても、苛立ちや憤りはない。ただ嫌気が差す。この期に及んでまだ、自分は他者の憐れみを乞うことに腐心しているのではあるまいか、と。

 惨めに振る舞えば誰かが優しくしてくれる。構ってくれる。声を、言葉を、心を向けてくれる。

 そんな浅ましい願望が必死になって表情筋をそう形作ったのか。

 

「そうやってまた百面相。くふっ、ふふふ」

「っ!」

「背けるな」

 

 羞恥で逸らせた顔を、顎を掴んでまた下へ向けられる。見上げる少女の瞳に晒される。

 

「見せろ」

「っ……!」

 

 冷ややかな声だった。今度こそは受刑者を咎める看守の冷厳さ。

 でも、瞳は。

 この目に注がれる光は、火傷を幻覚するほどに熱い。遠からず眼球がぐずぐずに煮崩れてしまいそうなほど。

 特に、どうしてか、黒い眼帯に覆われている見える筈のない左目が……ある筈のないその目が。

 刺すどころの話ではない。視線は針と糸を備え、ぐちゃぐちゃに雁字搦めに巻き付き纏わり僕を固く縫い止める。

 妄想だった。それも(すこぶ)る性質の悪い。

 自分が潰した、みすみす喪わせたも同然のそれをして、何を考えているのか。

 動悸がする。口の乾きと喉奥を塞ぐ嘔気。

 震えそうになる唇を一噛みで押さえ付ける。

 自分は今、さぞ奇妙な顔をしていただろう。けれど、アスカは。

 歯を剥いて、口の端を引き上げて、()()()と笑った。

 

「そんなに怖い? これ」

 

 こつこつ、赤い指先が眼帯の表面を爪弾く。

 

「怖くなんて、ないよ」

「嘘」

「う、嘘なんかじゃ」

「あぁ別にびくつかれるのが不愉快ってんじゃないわよ」

「?」

 

 ころころと少女は上機嫌に笑う。

 アスカが笑う。笑ってくれている。

 

「あんたには関係ないって、散々言ってやってるのに」

 

 だのに積み上がるのは不安ばかりだった。(うずたか)く、一吹きで倒壊する石塊の塔を根元から見上げる心地。その頂点にはアスカがいる。

 眼下に横たわる少女に見下ろされるという矛盾。

 心弱いからだ。後ろめたいからだ。罪悪感で全身の皮膚という皮膚を掻き毟り剥ぎ取ってしまいたい。そんな夢想に逃げ込むくらいに、惰弱。劣弱だから。

 正視できない。少女の笑顔。その左目。左目が。アスカの綺麗だった青い目が、もう、もう。

 

「ダメ」

「だって」

「目を逸らすな」

「僕が」

「もっとよ、もっと」

「僕がっ」

「もっと痛がれ。私がばらされた時と同じくらいに」

「ひぎっ……ぃ、う゛……!」

 

 喉で悲鳴が反響する。食い縛った歯列の隙間から漏れ、それは唾液混じりの異音に変わる。

 唾液の飛沫が、粘る涎の糸がアスカの頬を汚す。

 咄嗟に謝罪の言葉を探して、塞がれた口から何も吐き出せないことに気付く。

 顎を掴んでいた手が、いつの間にか口唇を覆っていた。頬骨を掌握し、頬の肉を親指と残り四指で押し潰し、眉間に指の腹を滑らせ、目の下、鼻の下、唇の際、口の端をなぞり、弄る。顔面の造形、輪郭、凹凸から各パーツのスケール、材質まで、全てを指と手で検めるように。

 この顔の形作るものをつぶさに、余さず、触診されている……いや、違う。違うのか。そう。

 ────味わってるんだ。

 指先を舌に代えて、アスカは僕の表情に映える感情を食べていた。

 

「『許さなくていい』あんたが言ったことよ。だから“私”はあんたがどんなに苦しんでも、痛がっても、泣いても叫んでも許してあげない。()()()()()()のどん底で心が煮崩れて死にたい死にたいって懇願してきたって、絶対に(にが)さない。たとえ誰が許したとしても、“私”だけは絶対、死んでもね」

「…………」

 

 不断の宣言。その言葉通りの、永劫不動の誓い。

 驚くべきことだろうか? 否。当然のことだった。単純な確認行為なのだ。これは。彼女はただ、彼女が持つ正しい権利を、義務者に対して履行しているに過ぎない。

 罪に罰を。過ちに報復を。痛みには、痛みで。

 僕が彼女に強いた喪失を、彼女は僕の苦痛で埋め合わせる。

 正しい。アスカは、昔からずっと正しい。

 赤黒い過ちで世界を汚濁させ混濁させた僕は、整然とした正しさに餓鬼の如く飢えていた。突如、天から降ってきた桃を押し戴くかのように。

 僕の肯きを掌に感じたのだろう。笑みを口端に刻んだままアスカが瞠目する。

 

「へ、へぇ……じゃあ」

 

 腹筋運動だけでアスカは仰臥から起き上がった。

 そのままの勢い、素早さで、僕の手から裁縫針を奪い取った。その右手に糸を通した針。左手では僕の右手を掴み。

 アスカの右手に針が掲げられ、赤い糸が宙に踊る。そうして尾を引きながら。

 掴まれた右手がアスカの左手に包まれる。指が絡み、まるで恋人同士がするように。プラグスーツ越しに体温を感じた。熱い。熱い。烈日の出会いを思い出させる。

 

「これでも?」

 

 握り込んだ針をアスカは叩き付けた。まず自分の左手に。

 そして、畳針で畳を射貫くのとほとんど同じ所作で、僕の右手を貫いた。あろうことか、自分の左手ごとだ。

 

「ぎっ……がぁっ……!?」

「これも言ったわよねぇ!? 何度でもつけてやるって! さあ!」

「っ!?」

 

 掌の中心近く。人差し指と中指の骨の隙間を正確に狙い打たれている。裁縫針なんて所詮数センチ程度。けれどその短く些末な筈の針は、しっかりと二人分の皮膚と肉を貫通してみせた。

 ()()()()手をアスカが握る。強く、掌同士をぴたりと密着させる。僅かに覗くばかりだった針の尖端が、こちらの手の甲からまたさらににじり出てくる。雫が赤く、幾筋か垂れ流れ手首を滴った。

 

「傷なんて、どうせ薄れて消えるし。なにかと小五月蠅い医者もいることだし。お誂え、針に糸までついてる────このまま縫い付けちゃおっか」

 

 そう、おどけて笑う。お世辞にも正気の沙汰ではないことを、ひどく優しい声で、息を呑むほど可憐な顔で。ママゴトの最中に新しい思い付きを披露する子供のようなあどけなさ。

 彼女は今、間違いなく十四歳の少女だった。

 その幼気な少女が針で掌を突く……過言でなく猟奇的だ。

 何故、とは問わない。問う資格がないし、尋ねるようなことでもなかった。

 自分はこうされて当然だから、彼女はこうして当然だから。

 でも。

 それでも少し、この愚鈍な脳味噌をフル回転させどうにかして目の前の赤い少女を慮ってみる。

 思い返す限り、彼女に格別な嗜虐趣味なんてなかったと思う。言動は常々乱暴で、傍若無人に振る舞ってみせても、自信家ではなく自負で、自分の能力を誇る。矜持に懸けた生き方。

 式波・アスカ・ラングレーとはそういう少女。そういう気高い人だった。少なくとも、僕の記憶の中で。

 そして目の前の人は、間違いなくアスカだ。

 長く、そしてきっと途方もないくらい濃密な戦いの日々を乗り越えて磨かれた精悍さの中に、その奥底に、あの日、あの出会いの時に見た烈日のような有り様がある。

 変わらず、ここにある。

 変わらない彼女は言った。許さないと。

 殺してやるでも、居なくなれでもよかった。言葉を交わす必要だってない。この隔離室に飼い殺して、勝手に衰弱死するのを放って置くことだってできた。

 彼女は僕を許さない。その痛みと苦しみで贖うと言った。剣のように研ぎ澄まされた赫怒(いかり)を奮って。心からの強い想いで。そう言ってくれた。

 僕に、その価値を認めてくれたんだ。

 それは、僕にとってどうしようもなく、泣きたくなるくらいの────慈悲だ。

 その慈悲にどうして報いずにいられる。拒絶など思考の隅にも上らない。他者を怖れて拒み続けたこんな僕が、心の壁を自ら踏み越えてでも縋り付いたものがそこにある。

 この手の中に。

 僕はそっと、アスカの手を握り返した。針の痛みが血の雫と一緒に溢れて、流れる。

 

「っ! ぁ……ぁ……!」

 

 アスカは一瞬、か細い悲鳴のようなものを漏らして、破顔した。笑っていた。獰猛に、肉食獣めいて口顎(あぎと)を歪ませて。

 その笑みは、けれどどうしてか、まるで泣いているみたいで。

 泣きじゃくる寸前の子供みたいで。

 それがひどく胸を衝いた。

 針が手錠で、糸は鎖。そう嘯くにはあまりに儚いけど、これが彼女の望む罰ならそれでいい。それで正しい。

 ようやく一つ“正しい”ができる。

 

 ────扉がスライドした。空圧の抜ける音、そして金属が擦れ合う雑音。

 開き切らない扉を無理矢理に押し退けて、その人は室内へ駆け込んで来た。

 白衣代わりの白いワンピース姿。彼女は、サクラさんは手にした容器を振るい、その中身を目の前の僕らへぶち撒けた。

 赤い液体が視界を染めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 肩で息をして、狭い室内に満ちる消毒液の匂いを頻りに吸い込んだ。

 ベッドシーツ、そこに腰掛けた二人、特にその間で繋がれた手と手、赤いイソジンがより無惨に何もかもを彩っている。

 

「サクラさんっ……」

 

 少年はこちらと、こちらの暴挙に心底驚いて、次いで何かを口にしようとして失敗した。

 片や、傍らの女。式波・アスカ・ラングレーは依然として、薬品に塗れながら笑みを絶やさない。むしろより一層深め、歪めて、私を見ていた。

 勝ち誇ったように──そう見えるのは、私の妄想だろうか。内燃する感情が陽炎を作り、現実を歪んで見せて。

 違う。

 違う。

 違う。

 断じて、妄想なんかじゃない。

 

「ハッ、案外遅かったわね」

「式波少佐、碇さんから離れてください」

「補給・回収作業に衛生科まで駆り出されて、日課の覗き見する時間も無かったって訳だ」

「離れて!」

 

 赤い少女が部屋の四隅を順々に視線でなぞる。

 監視カメラの位置を彼女が把握していたところで何も驚くに値しない。医務官は対象者を看護するのが仕事だ。かの少年を看て護るのが私の使命だ。

 だから、これは。これは当然の、当たり前のこと、で。

 すっくと、アスカがベッドから腰を上げて私に詰め寄った。後退ろうとしたところを、襟首を掴まれて無理矢理引き寄せられる。

 そうして、耳元にその唇を寄せて。

 

「知ってんのよ、あんたがこいつをオカズにしてること……」

「────」

 

 気付くと平手で少女の頬を打っていた。

 彼女は避けなかった。避けられたのに、わざとそうしなかった。きっとそうだ。

 だって、打たれた方の口角を引き上げて、この女は心底愉しげに笑っている。

 

「ぷっ……なんだ、図星なんじゃない」

「アスカぁ……!!」

 

 青い片目を睨み上げ、私はポケットの中で“グリップ”を握った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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拾五

戦闘開始と同時にシンジくんの部屋は二十畳ほどのバトルフィールドに変化しています(嘘)




 

 

 アスカとサクラさん。

 この二人の関係性について自分が知っていることはその実、驚くほど少ない。

 数ヶ月、同じ船で生活した……なんて言えば親しみでも覚えられるだろうか。顔を合わせる機会も、言葉を交わす機会も、常に受け身で、この箱の中で待ち受けるしかない自分には、彼女らの戦時下なりの私生活を知る術などなかった。

 エヴァパイロットと衛生科医務官。戦闘従事者と医療従事者なら良くも悪くも接点には事欠かないように思える。それも互いに不可欠で、互いに一定の信頼を置き合うような。

 理想。

 そして目の前には、その真逆の現実。

 アスカとサクラさんは明確な敵意を以て対峙していた──敵意?

 ひとつとふたつ、色の違う瞳と瞳、そこに宿る一念を、彼女達の想いを、心に愚鈍な筈の僕が珍しく取り違えなかった。

 それは、そんな生易しいものではなかった。

 殺意だ。

 『お前の存在を認めない』という意志、その極限の精製物が、不可視の刃になって互いを刻み合っている。

 

「どうしたの? ほら、さっさと()()()?」

「っ!」

「それは見せびらかしてなんぼの玩具よ。仕舞ったままじゃ脅しにもならない。それとも使い方がわからない? 私が教えてあげようか」

「よう喋りますね。碇さんの血ぃ見て興奮したんですか? ケダモノさん」

「……」

「……」

 

 僅かに残った歩み寄りの余地とかいうものががりがりと殺ぎ落とされていく。

 進退が窮まる。進み、互いで互いを潰す未来が、すぐそこに。

 

「だ、駄目だ。駄目だよ……やめてよ、二人とも」

 

 譫言の体で発した情けない声はこの狭い部屋なら容易に聞き取れたろう。そして当然のようにそれは黙殺された。

 繋がれたままだった手が、不意に離れる。離れる直前に微か、もう一度手を握り返された気がした。

 くちり、と水っぽい音を皮膚感覚で、鋭痛を神経に響かせる。針はアスカの掌に居残っていた。

 アスカは手の甲から出た針の(めど)を噛んで引き抜き、床に吐き捨てた。そうして掌に舌を這わせる。それこそ味わうような艶めかしい舌遣いで。

 

「サドの変態かいな……!」

「ナイチンゲール症候群拗らせてる奴に言われたかないわ」

 

 臨戦体勢。号令などなくとも二人は始めるだろう。骨肉の、それを。

 背中から陽炎のように戦気を立ち昇らせながら、アスカの呼吸は穏やかだった。闘争に特化する、自己を変革するという行為に戦士たる彼女は精通している。

 そんな猛虎の如き武力行使者を前にして、彼女とてもまた一歩も退く気配を見せない。

 僕を、魂に懸けて許さない、アスカと同じようにそう言ってくれたもう一人の人……鈴原サクラさんは。その全身に怒りを燃え上がらせてアスカを睨み付けている。

 どうしてだ。

 愚昧の極みで声もなく腹腔に叫ぶ。それは状況、心情、現実に対する最低最悪の無理解の吐露であったが、しかし同時にこの理不尽に対する堪えがたい怒りでもあった。

 理不尽。理に合わない。

 何故、彼女らは全霊でそのような殺意を応酬させる。無限の憎悪を滾らせる。それは間違っている。徹頭徹尾全てが間違っている。あってはならない。

 だってそれは、その刃のようなそれは────自分にこそ向けられるべきものなのに! この胸を、心臓を、罪人・碇シンジを抉る為にこそ、あるべきものなのに!

 復讐の権利人たる彼女らは、その執行対象を誤っていた。

 僕だ。僕に。それは僕が、受けなければならない痛みだ。

 恥知らずに疑問を抱く。何故、何故だ、と。

 わからなかった。もっと注意深く、力を尽くしてわかろうとすべきだった。アスカのこと。サクラさんのこと。

 愚劣蒙昧な、厚顔無恥な、無知。二人の行動の意味が、今の碇シンジには理解できなかった。

 

「セーフティは外した? 撃鉄は上がってる? まさか(アモ)を弾倉に入れ忘れてたりしないわよね? ふふふ」

「……ええ、しっかりと用意できてます」

「そ。なら」

「はい」

 

 火蓋は切られた。唐突に。

 先に動いたのはサクラさんだった。

 ポケットに納められていた手が引き抜かれ、前方へ、アスカへ。

 対するアスカの反応は敏速を極めていた。サクラさんの一挙動の間で、アスカは倍かそれ以上の行動速度を発揮する。戦闘従事者と医療従事者、どうしたところでこの差は歴然だった。

 しかし、そのアスカの機先が、乱れる。

 サクラさんの手に握られた小さな筒──スプレーから、ミストが噴出したのだ。

 

「!?」

 

 それはアスカにとってひどく意表外の行動だったらしい。踏み込みに躊躇が生まれ、白煙を避けるように上体をスウェイ、裸眼を守って右側へ傾く。

 それを予測していたのだろう。サクラさんはその逆方向、部屋の隅のデスクに逃れた。

 

「催涙……イイ根性してるじゃない……!」

「お互い様ですよっ!」

 

 デスクの上にはミシン、そしてこの部屋据え置きの医療キットの箱が置かれている。サクラさんは迷わず、そこから尖った鉗子を手に取り、アスカに投げつけた。次は裁ち鋏を。その次はペン立てを。遂には、救急箱そのものを

 アスカは催涙ガスを腕で薙ぎ払い、そのまま往復ビンタ気味に投擲されるそれらを叩き落とす。

 

「えぇい鬱陶しい!」

「くっ」

 

 もう一度、と。スプレー缶を握ったサクラさんの右手を、詰め寄ったアスカが掴み上げた。

 同時に手首が捻じられ、サクラさんは呻きながら缶を取り落とす。

 詰み。軍隊格闘を修めるアスカに組み付かれてしまえば素人には抵抗の術はない。

 クロスレンジ、間境、つまりは互いが触れ合う距離。

 そのままサブミッションへ────

 

「ちっ」

 

 舌打ちし、アスカの右手が動く。

 宙を走ったサクラさんの左手を掴む。注射器が握られていた。接近された瞬間にも、サクラさんは左ポケットへ手を入れ備えていたのだ。

 両者の両手が拮抗する。

 

「つっ、ああああああッ!!」

「ちぃいいいいい……!!」

 

 アスカの首目掛けて満身の力で迫る注射針、それを突き刺そうとするサクラさんと封じようとするアスカ。

 拮抗は、けれど数秒も持たなかった。

 アスカがサクラさんを蹴り飛ばしたからだ。

 投げ出されたサクラさんが、部屋の隅に積み上がったケースにぶつかる。箱は崩れ蓋が開き、中身である再利用用の布切れや雑貨、各種の備品が床にぶち撒けられた。

 倒れ込んだサクラさんにアスカが近付く。が倒れたままサクラさんは床の物を滅多矢鱈に放った。

 薄汚れた作業着、手袋、使い古しの安全靴。

 

「汚っ、こんのぷっつん女! なんでもかんでも投げんじゃないわよ!」

「あんたに言われたないわ! 万年反抗期!」

「はぁああああ!? くっ、この、くっそ、痛っ、とにかく殴らせろ! 殴り合え卑怯者!」

「いぃやぁでぇすぅう!!」

 

 牙を剥いて追うアスカと、逃げながら手あたり次第物を投げ付けるサクラさん。

 一進一退、決着がつかないまま、ただ部屋の中だけが荒れ果てていく。

 縦横無尽に駆け回る二人、その後をおたおたと僕は追う。

 

「や、やめ、やめてよ! こんな」

「邪魔なんですよ!」

「そっくり返す」

「ねぇ、二人とも……!」

「これ以上碇さん傷付けてどないする気ですか!?」

「あんたには……あんたにだけは関っ係ないってぇの!!」

 

 デスクが倒れた。箱が踏み潰された。備品が散らばり、薬品が漏れ出て、何もかもぐちゃぐちゃになった。

 止まらない敵愾の興奮と暴挙。怒気。増悪。憎悪。憎しみ。(にく)しみ。悪し悪し悪悪悪悪悪悪────本当の邪悪を、僕を置き捨てて争いは終わらない。

 限界だった。許してなど置けなかった。

 

「やめろぉ!!」

「!」

「っ!? 碇、さん……?」

「はっ、はぁはぁはぁはぁはぁ……」

 

 思った以上に衰弱していた喉は、突然の怒声一つで裂けて血を滲ませた。鉄錆の味を口中に感じながら、肩で息をして心臓は早鐘を打つ。

 血の昂ぶりに、鈍った身体が追い付かない。ややもすれば視界は白化して頭はぐらぐらと惑乱した。

 それを噛み潰して、二人を見る。今の自分が二人にとって、癇癪を起こす鼠同然であることを承知で。

 屹度、この罪なき人達を見据える。見据えながら、僕は床を指差して。

 

「資源は、大切にしなさい!!」

「「………………はい?」」

 

 ~~~~ちょっと待って! ダストボックスに落とす前に

 

 文明社会の黄昏刻、あなたの小さな心づかいが、みんなの心を豊かにする

 今一度考えよう! 再資源化(リサイクル)、そして再活用(リユース)

 使った物はきちんと分別、使えそうな物は資源回収係まで

 

 いつまでもあると思うな資源と命

 艦内生活向上の一歩を踏み出しましょう

 

 

ヴンダー生活向上委員会インフォメーション♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ハロータロー岡本太郎~! っと……え、なにこの地獄みたいな空気」

「「……」」

 

 なんか珍しく心底戸惑って、マリさんは赤縁眼鏡の奥でぱちくりと目を瞬く。

 アスカは雑巾で床を拭き、サクラさんは散らばった雑貨や備品を拾い集め、僕は縫製の終わった布切れ(ウエス)を畳んで箱に仕舞う。

 全員、頑として無言で。

 

「えぇ……無視ですか……」

「暇ならあんたも手伝いなさいよ」

「あ、はい」

 

 そう広くもないガラス張りの室内を、マリさんを加えて四人、やっぱり無言で掃除した。

 隔離室、仮にも独房である筈のここがやたらとぴかぴかに磨き抜かれた頃。

 今一つ納得のいっていないマリさんが、手にしたタブレットを掲げて言った。

 

「ワンコくんに辞令だよーん」

「え」

「……はあ?」

「碇さんに、ですか? ……私らにじゃなく?」

 

 サクラさんの反問は尤もで、艦内人員(クルー)でもない、ヴィレの構成員でもない、厳密には隔離収容“物”である碇シンジに対して辞令が発されるなどおかしな話だ。

 画面には電子書類が表示され、その隅の署名欄にしっかりとサインが。いつか見た、あの人の筆記体の名前が記されていた。

 

「詳細は面会室で、艦長、副長から直々にと仰せつかってますにゃ」

「……」

 

 生憎、良い想像は浮かばなかった。自分の相応しい処遇、あるいは処理の結論が遂に下ったのか。

 この身に科されるべき処刑の日取りが、ようやく。

 

「悲壮なこと考えてるね? いや、悲愴かな。どっちにしろ残念ハズレ~。罰としてお姉さんのハグハグの刑に処しちゃいま~す」

「えぇ!?」

「コネメガネ」

「真希波大尉」

「ライバルの共闘展開は少年誌的で燃えるけどサンドバッグは勘弁にゃ~」

 

 先程よりは幾分柔らか、というかインスタントな殺気が二本ばかりマリさんを射貫く。

 よよよと泣き真似しながら、後退りマリさんは溜息一つ。そうして軽やかに笑む。

 

「ま、ぶっちゃけちゃうと、君に引っ越しの時期が来たのさ。ワンコくん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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拾六

艦長として冷徹なミサトさん好き。
子供みたいに泣きじゃくるミサトがもっと好き(変態並感)


 

 一ヶ月ぶりに訪れた面会室の様相は、当然ながら変わらない。無機質な金属の壁と床。壁面にずらりと露出した機械装置が点検用ハッチなのか、機械式のパーテーションなのか、電装系の収納ボックスなのかはわからない。正方形の空間、その中央をアクリルガラスが縦断する。アスカが拳で罅を入れた大窓は既に新しいものに取り替えられている。

 室内に居並ぶ面子も、マリさんが加わったことを除いて前回と同じ。

 些細な違いがあるとすれば、今回アスカが向こう側ではなく、こちら側に居るということ。壁際に腕組みして佇立し、パイプ椅子に腰掛ける自分の背中を見詰める様子が、アクリルガラスの表面に映っていた。

 監視されているような……あるいは、見守られているような。その視線に緊張と安堵をほぼ同量ずつ覚える。不思議な心地だった。

 ふと、傍に立つサクラさんがほんの半歩ほど、心なしかこちらに近寄ったような気がする。どうしたのか、といった意味合いで見上げた彼女は、ただ優しく微笑み返してくるだけだった。

 首を傾げる。

 その時、デスクに据えたノート端末を操作しながらリツコさんが口火を切った。

 

「碇シンジ君。貴方の身柄の引き渡し先が決まったわ」

「……はい」

 

 姿勢を正す。傾聴の態度を示す。

 これから発される辞令……命令は、自分自身の進退だ。どのような内容であれ自分はそれを一つ残らず受け止め、咀嚼し、理解しなければならない。

 たとえその裁決が真実、流刑であったとしても。

 唯々諾々、他人の言う事に従うだけで済まされた時代はとっくの昔に終わりを迎えた。受刑者ならなおの事、処断を甘受など許されない。罪を知り、己を知り、その重みを思い知って、考え続けなければ。贖罪に、肉体と精神の全てを費やさなければ。

 内心に自嘲で吐息する。ろくろく話も始まっていないのにこれでは、まさに早合点だった。マリさんも言っていた。悲愴を気取るにも、まずは事実を知ろう。

 

「本来、我々は貴方に命令を下す立場にない。というよりヴィレの命令系統に貴方は属していない。ゆえにこれは法規度外視の強制執行。拒否権は認められないこと、了解してちょうだい」

「はい、了解しました」

「結構」

 

 言うや、ホログラムウインドウがガラス面に投影された。そしてウインドウの様々なUIに囲まれて一枚の画像が拡大表示される。

 丸い嵌め殺しの窓に縋るようにして、一心不乱に外を見る患者衣の背中。滑稽なその姿は紛うことなく自分だった。

 そして、その背後に立つ────白い影。霞か靄、あるいは蒸気の白煙にも見える。けれど、それが何なのか、誰なのかを、僕はよく知っていた。

 

「これって……」

「そう。先日の乱痴気騒ぎ(トラブル)の際、貴方が隔離室を脱走、いえ追い出された時に記録されたものよ」

 

 気付けば身を乗り出していた。まじまじと画像を見詰める。

 白い霞、まるで自分の背後に寄り添うようにして立ち昇って、佇んでいる。画質の粗さもあってディティールはぼやけているが、でも。確かに、それは人影のように見えた。

 

「っ! やっぱり……幻じゃなかったんだ」

「ええ、歴とした現象です。形而下のそれではないでしょうけど」

 

 画像に並んでもう一枚、今度はグラフだ。3Dグラフィックで表現された無数の蛇のようなものが折り重なる独特の絵面のそれは、過去幾度も目にしたことがある。馴れ親しんだと言えるほどに、良い思い出はないけれど。

 深層シンクロテストの波形パターンと数値。直近に見た時は、ただ虚しく『0』が並ぶばかりだったものが、僅かだが値を示していた。

 先に動揺を露わにしたのは、自分ではなくサクラさんだった。

 

「どういうことですか!? 前測った時は確かに!」

「何を切欠としたかは未だ不明です。ともかくその現象が発生した数秒間に低域ながら機体人体双方向のシンクロが観測された。覚醒に至る数値に達しこそしなかったものの、本艦に内蔵された状態であっても貴方は初号機へアクセス、ないしリンクする能力を有している可能性がある」

「……」

「変動を観測してから現在までの二ヶ月間、継続的に行った深層シンクロテストの結果から、少なくともBM-03には未だ適格者としての性能が残存すると判断します」

「そんな、嘘……嘘や……なんで……」

 

 愕然と、画面を凝視しながらにサクラさんは切れ切れに声を零した。まるきり我が事のようにショックを受ける様が、ひどく労しかった。

 

「勿論、先のUS作戦時においても初号機には覚醒の前例がある」

「前科でしょ」

「貴方を拘束することも、監視と()()を容易にする為の当然の措置だった。しかし、初号機を主機として稼働する本艦に貴方を内包することそれ自体に危険性があるとデータ的に証明が為されてしまった」

 

 アスカの軽口をリツコさんは無視して続ける。

 

「……また、検体への対応として適切ではない行為も幾つか報告を受けています。艦内に要らぬ動揺と規律の乱れを喚起する要因(BM-03)を遠ざけたい──という極めて下らない事由も本件には含まれていること、理解しておきなさい」

 

 リツコさんがガラス越しに並ぶ面々を流し見る。アスカは鉄面皮で迎え、マリさんはわざとらしく口笛を吹いて忍び笑い、サクラさんだけはバツが悪そうに下を向いた。

 戦時下。その最前線にこの船は在る。そんな極限環境に無意義な厄介事が持ち上がるなど、本来あってはならない。

 その元凶は間違いなく自分だ。それを除いてしまおうというリツコさんの……ミサトさんの判断はどこまでも正しい。

 拒む理由は何一つなかった。

 

「以上の要件から、貴方は退艦し、こちらの指定した拠点で保護・監視を受けてもらいます」

「わかりました」

「……」

 

 サクラさんの痛ましげな視線を左頬に感じながら、頷く。

 そこがたとえどんな場所で、どんな苛酷な環境でも、それが罰なら受け入れる。むしろ冗談のようだった流刑が本当に執行されようとしている。その事実に不遜にも、安堵さえ覚えてしまうのだ。

 不意に、リツコさんが端末から離れてこちらと向き直る。無表情に近かった顔が、ふ、と吐息と共に少しだけ和らいだように見えた。

 

「……次の移送先は住環境としてかなり良好なところよ。少なくとも、戦闘艦の中に比べれば、ずっと」

「そう、ですか」

「作戦の推移によってはもう会うこともないでしょう。元気でね」

「はい…………リツコさんも」

 

 舌は重く、喉に物を詰まらせるような躊躇いがあった。誰かの息災を願うという行為が、後ろめたくて後ろめたくて、仕方なかった。それを願える分際になかった。

 リツコさんはそんなこちらのごちゃごちゃした内心を酌んでくれたのか。唇で薄く笑み、肩を竦める。

 その時、無言で壁に背を預けていたミサトさんが初めて口を開いた。

 

「通達は以上。BM-03の移送はこれより72時間後に行う。各員、持ち場に戻りなさい」

 

 言い終わると同時に踵を返す。噛むような、残る者を突き放すような足取りで。

 

「ぃ……ミサトさん!」

 

 その背中に、声で追い縋った。無視されることも覚悟したが、彼女の背中はまだそこにある。

 立ち止まり、次の言葉を待ってくれている。

 言葉、言葉を。

 ……一体、何を言えるっていうんだ。今更この僕に、何を言う資格もありはしない。

 違う。資格の有無なんてただの逃げ口実だ。無いかもしれない。きっと無いだろう。それでも、話すべきだと思う。ほんの一言でもいい。話をしなくちゃいけない。今生の別れだというならなおの事。

 葛城ミサトという人は、碇シンジに様々なものを与えた。

 決して全てが良い事ばかりではなかった。辛くて苦しくて痛くて怖かった、逃げ出してしまいたくなるくらいに。エヴァに纏わること、エヴァに乗る自分、それらに付随する現実は否応なく針のように心を刺した。

 でも、僕を見付けてくれた。孤独の微温湯の中、停滞していた僕の時間を動かしてくれた。手探りで、不器用に、自分自身でさえ怖がりながらそれでも────居場所になってくれようとした。それが今なら、今になってようやく、わかる。

 十四年前、そんな彼女との最後の記憶は、玄関の戸口、敷居を隔てた背中越し。顔も見ずに、引き留める声と手を、その縋るような手を払って、僕は。

 逃げ出した。

 使徒化した3号機、それを殺戮した初号機、何もしなかった僕。それを知ったこの人の悲しみを、後悔を、自罰を理解していた癖に。

 罪悪感を怒りで覆って、何もしない言い訳を他人に擦り付けて。その逃避すら中途半端に終わった。

 目の前に広がる焼けた荒野を無我夢中で走り、走り、気付けばまたエヴァに乗っていた。今度こそ、言い訳の余地もなく、自分で選び自分で決めて、自分の意思で。

 勝手だ。自分勝手に、何の責任も負わず、考えもせず行動した。あの時の自分にその暴走がどんな結果を生むかなんて想像することすら不可能だったろう。無知で愚かなことに胡坐を掻いて、何も知ろうとしなかった僕に、何も理解なんてできなかったろう。

 言い訳だ。罪を逃れる為の汚い理屈立てだ。

 汚くて狡くて臆病な僕の。そんなどうしようもない僕を。

 ミサトさんは、信じてくれた。

 無知で愚かで、自分勝手な僕を、それでも信じてくれた。

 そして、僕はその信頼を裏切ったんだ。ミサトさんの期待を、希望を、不器用で優しい気持ちを赤い地獄にして返した。

 

「ミサトさん……ミサト、さん」

「…………」

「────ごめんなさい」

「!」

 

 アクリルガラスに両手で縋って、額を押し付けながら声を絞り出す。

 謝罪の言葉。

 それは無責任の標榜。明白な責任逃れ。醜い免罪への乞食。

 許されない。許されない。許されない。

 断じて、罪人が赦しを乞うてはいけない。赦しとは贖罪の果てに与えられるものだ。与えられなければ、求めてすらいけないものだ。

 そう理解している。

 でも、口をつくのは。この口から垂れ流れてくるのは。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい、ミサトさん……僕はなにもできなくて、僕がなにもかも、台無しにして……!」

「────」

 

 屹立した背中に、ただひたすらに罪を吐露する。自分の業を告白する。

 

「ごめんなさい……!」

「…………っ!」

 

 一度、荒く乱れた息を吐いてミサトさんは面会室を去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 艦長室の扉を潜り、背後でそれが閉じられたと同時に肩から壁に衝突する。背骨が喪失したように、支えを失った身体は重力に引かれずるずると崩れて落ちた。

 軍帽が落ち、床を滑る。投げ出した足の両膝に、気付くと黒く染みができていた。ぽたぽたぼたぼた止め処なく、それは頬を流れ顎から滂沱する、涙。

 

「ふ、ぐっ、ぅ、ぅうう、っ、ふ、ぅ、ひ、ぎ、あぁっ……」

 

 無責任の標榜。明白な責任逃れ。醜い免罪への乞食。そして自己憐憫と、それらを燃やし尽くす罪悪、自罰。

 枯れ果てたと信じたそれが、身体のどこからか溢れてくる。

 罪を負わせ、傷を負わせ、責任すら負わせ、それでも少年は己自身の罪を疑わず、あろうことかこの身にその在所を表明した。

 罪悪は自分にあるのだと、謝罪の言葉を口にした。口にさせた。

 

「あぁぁあぁあぁっ……!」

 

 恨んで欲しかった。憎んで欲しかった。お前の所為だと罵って欲しかった────貴方に罪などないのだと知って欲しかった。

 現実は。

 私は、少年の慈悲を貪っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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拾七

ヴンダーの情報管理ガバガバすぎんよー(責任転嫁)



 グリーチングの廊下を蹴って歩く二人。一方は足取り鋭く一見して苛立ちも露に、もう一方は軽やかに時折スキップさえ踏みながら。

 辞令とは名ばかりの少年に対する退去勧告に、アスカは当然に憤懣を抱えた。それがシンジへの憐みや優しさや、まして愛護の情がもたらす怒りだなどと当人は断じて! 決して! 認めまいが。

 とはいえ、衛星軌道くんだりからわざわざ引きずり下ろした少年を拘束し収監し生殺与奪すら首輪(チョーカー)で巻き取りながら、大勢の変化もとい『こっちの都合が変わったから出ていけ』と(のたま)うミサト達の態度が、その理不尽が、猛烈に気に食わないというのも事実だ(その都合が変わった原因の中に、己自身の種々の行為も含まれていることは棚上げに)。

 この世界の今にあって、私心など考慮されない。する余暇も意味も意義もない。対NERV殲滅および地球の生命守護存続を目的に設立された組織WILLEの一挙一動の全ては人類種を含むあらゆる生物の生存戦略、その布石、柱であらねばならない。地獄のような十四年間を歩んだ今、今の自分なら理解できる。その理念、その大義を。

 だが。

 

「籠の小鳥を勝手に逃がされてお姫様は御立腹かにゃ?」

「飼い犬よ、精々がね」

 

 こちらを覗き込んでいるだろうマリのニヤケ面を努めて視界の外に追い遣り、吐き捨てる。犬呼ばわりなどは、この女にしてからが今更である。

 それ以外は特に否定する箇所はなかった。

 

「ようやく躾が()()()きたってぇのに、ミサトもリツコも余計な事してくれたわ」

 

 私のモノを、私の手から、遠ざけようと言うのだ。それも先に述べた理念、大義に依らぬ、極めて個人的感情の介在によってだ。

 ミサト。冷徹、冷酷、非情を演じる愚かな女。憐れな戦友。その後悔と自罰をアスカは知っている。知っているからこそ。

 

「自分が一体誰のモノなのか、また教え込まないといけないじゃない」

「わぁお……そいつは情熱的だぁ」

「あのバカが自分から望んだことよ」

 

 自分から、その一語に我知らず力が篭る。感情が乗る。否応なく、重く強く噛み締める。

 

「そうだね……そうなんだよねぇ」

「……なに」

 

 賛同の言を吐きながら大いに含むものを持たせる。

 依然そちらには目を遣らぬまま、先を促した。

 

「今のワンコくんはなかなか危ういって話さ」

「あいつに……自分で自分の首なんて括れないわよ」

 

 自殺。それが平然と選択肢に上る程度にこの世界はあいつにとって最悪だろう。

 空惚けて口にした言葉に、微笑が返る。見なくともわかる。労しげなその視線が、私の内心を透かし見ている。

 私が知った。シンジの痛みの意義。

 マリ曰くの、少年の危うさ。

 

「うん、できない。それが一番楽だから」

 

 唄うように言って、マリは薄く浮かべていた笑みを解いた。

 

「希死念慮と贖罪の義務感が均衡してる。おかしな話さ、世界が壊れる前より精神的にはむしろ安定してるんだもん」

「……」

「危ういのはワンコくん自身より周りの人間だよ。今の彼は……言いたくないけど、自己犠牲の権化だ。自分自身を使い潰す選択肢を虎視眈々探してる。望まれれば何でもやる。誰の、どんな望みでも。全身全霊で叶えようとしてくれるだろうね」

 

 マリの言葉尻を掻き消して金属音、そして濁った異音。前者は床を踵が踏み付け、踏み抜いて穿った衝撃。後者は噛み締めた奥歯が軋み、そして砕けた音だった。

 どんな望みも叶える。それが、自分を恨み憎む者ならば────誰でも。誰でも。

 誰でも?

 

「許さない」

「うん」

「……許せない」

「そうだね。酷い男だよまったく、ワンコくんってばもう本当にプンプンッだよ!」

 

 拳骨を頭に乗せて渾身のぶりっ子をかますマリの両目に目潰しを呉れた。眼鏡に阻まれるがそのまま押し込む。突き込む。抉り込む。

 

「あぎゃあああああ!? レンズっ! レンズ眼球に当たってますこれ!?」

「当ててんのよ」

「セリフだけ色っぽくてもうれしくにゃーーい!!」

 

 暫し後に解放する。顔面を押さえて蹲るマリを見限り、しかし足はその場を動かなった。

 歩き出すだけの気力が湧かなかった。

 

「…………」

「ふぅ、はぁ、はぁっ、眼鏡が無ければ即死だった……もう、ひぃめぇ~落ち込まないのー」

「うるさい」

 

 背中に覆い被さるうざい女を、振り解けない。

 それが事実だとわかっているから。少年の慈悲は、償いの名の下に供される献身は、あまねく人々、万人無差別に振る舞われるものなのだと。

 碇シンジの罪を糾すあらゆる者に。

 私ではない誰かに。

 私以外の、誰かに。

 

「……まったく、あれは魔性だ。一番して欲しいことをしてくれる。一番言って欲しい言葉を口にしてくれる。その逆も然り」

「…………」

 

 つい先刻、その一際痛烈なのをミサトは浴びせられ、おめおめ部屋から逃げ出したのだった。

 

「針を捨てたヤマアラシってとこかな。他者を暖める為なら自分自身が血塗れになったって構わないんだ」

「バカシンジの癖にっ! あいつは臆病で弱虫なくらいが丁度いいのよ……それで、いいのよ」

「でも、血塗れの彼はとても耽美だ」

「…………」

「ホント、罪作りな男の子だねー。誰に似たやら────どちらに似たやら」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「小型輸送艇一番、二番、三番、四番、五番、それぞれ発艦準備終了。各艇は所定のケージにて現在待機中。それぞれ担当の小包を積み込み次第いつでも出荷可能です」

 

 まるきり小売の業務連絡の体で多摩ヒデキは報告を終えた。符牒とはいえ、放送を聞いた者に失笑を誘うだろう。

 これより五艘の降下艇が五ケ所の補給拠点に降ろされる。検体BM-03はこのいずれかの船に積み込まれ、極秘密裏に新たな収容場所──流刑地へ送られる手筈だった。

 移送を一度に五つの艦艇に分けて行うのは、検体の移送先を特定され難くするというごく細やかな偽装工作である。敵の目を欺く為に。そして何より……ヴィレ、ヴンダー、その()()()()()碇シンジを追わせない為に。

 

「……」

 

 現在、艦橋(ブリッジ)には操舵主の長良、機関制御の高雄、電算の多摩、そして分析および索敵の北上が詰めている。オペレーター主要メンバーは艦隊運用の統括を職務とする都合上、作戦時における艦内の物流と人流をコンソール上から俯瞰的に認知できる。

 どの部署の幾人が、何処でどんな作業に従事するか。

 しかし、そんな彼らに対しても検体の移送先だけは秘匿されていた。

 

「事情はわかりますけどちょっと神経質過ぎません? 俺らって信用ないんすねー」

「極めてデリケートな問題です。艦長、副長の懸念も理解します」

「……理屈じゃあねぇからな。こればっかりは」

 

 ヴンダーは、復讐者達の為の揺籃だ。世界を壊され、家族を殺され、憎悪と憤怒を胸に宿して大なり小なりの地獄を皆生き抜いてきた。大義や使命感を理由とする者の方が少ない。郎党尽くが胸奥のやり切れぬ情念を内燃機関(しんぞう)に焼べて、敵を撃つ為に、仇を討つ為に、ここにいる。

 そして北上ミドリはここにいる。

 

「…………」

 

 

 

 

 

 

 

 艦橋を飛び出して一般クルー用のエレベーターに乗り込み自室とは別の階層に降り立った時、北上ミドリは初めて自身が何処へ向かっているのかを覚った。

 検体の移送先はオペレーター達にすら秘匿されている──しかし、ミドリにはその行方に見当がついている。それはルームメイトの動向を知ればこそ明らかだ。BM-03の管理担当医官たる鈴原サクラ、彼女はあろうことか、流刑に処されるアレに付き添うという。移送に同行するだけではなく、その後も管理任務は継続されるというのだ。

 ありえない。馬鹿げてる。どうして。どうしてどうして。

 何故、そうまでアレを気に掛けるのか。北上ミドリには理解できない。したいとも思わない。

 エヴァ覚醒のリスク、さらなるインパクトのトリガー、ここのところ増加傾向にある敵襲、碇シンジはもはや名実共に疫病神だ。

 追い出す、ならばまだいい。まさに厄介払いだ。悪性の腫瘍の如き気障りが消える。そう思えばまだ、まだ、理解はできる。納得などできはしないが。

 許すことなどできはしないが。

 そう、許せる訳がないのだ。

 

「逃げる気……」

 

 一人、安全な場所へ。安穏と暮らせる場所へ。復讐者達の憎悪の針の筵から逃げ出して、安息の土地で平和に、何事もなく。何も、何もかもを忘れて。忘れたふりをして。何もなかったみたいな顔で

 お前が。

 何もかもを滅茶苦茶にしたお前が。

 お前が!

 

「っ!!」

 

 艦尾出撃口に停泊中の三番艇、第三村へと降ろされる船にアレは乗り込む。

 ケージに繋がる人員用通路。のっぺりと白く長い壁と床は幼い頃に見た病院の廊下を思い出させた。風邪を拗らせて、母に抱っこされながら診察室へ向かう道。病棟中に満ちる静けさと緊張感に、滅多矢鱈に不安を掻き立てられた。清潔な純白の裏側にひどい痛みと苦しみが隠れていて、それがいつなりと自分に襲い掛かろうとしている。そんな想像に恐ろしさを抱いていた。

 母の首に縋った腕の強張り。必死に、離したら最後、自分はこの恐ろしい白い場所に一人取り残されてしまうんだという焦燥。そんなことばかり覚えている。

 いい思い出なんかじゃなかった。

 ────けれど、日常だった。平和だった。ありふれた日々の、その一日の、一瞬。

 それが今こんなにも懐かしい。胸を掻き毟りたくなるほど。これはもう戻らないと、決して還らないのだと知っているから。

 白い隧道のその先にアレは立っている。ルームメイトに付き添われて、ゆっくりと歩く後ろ姿。

 ミリタリージャケットを肩に羽織った背中は、データで見たよりも遥かに細かった。華奢で、幼い、十四そこらの子供……。

 

「だから、なんだってのよ……!」

 

 歯噛み交じりに声が漏れていた。それを聞き取ったのだろう、前を行く二人が足を止めてこちらに振り返る。

 

「ミドリちゃん……? どうして」

 

 戸惑うサクラの呼び掛けにも応えず、進む。一路、真っ直ぐに。一人、ただそいつに。

 振り返った少年の両手には重厚な手錠が施されていた。電子ロック式の頑強で巨大なフレームが手首はおろか前腕すらややも覆う。

 子供に対するあまりな仕打ち。残虐だった。暴虐だった。倒錯的ですらあった。

 だから、どうした。

 罪人に枷を嵌めて何を咎める。こいつは仇だ。家族の仇だ。私の家族を皆殺しにした────

 

「殺人犯がなに逃げてんだよ!?」

「!」

 

 襟首を掴んで引き寄せる。その眼球を貫く思いで睨む。

 少年は一瞬、息を呑んでこちらを見上げた。しかしもう一瞬で、その顔は平静さを取り戻す。その反応は、自己の体内で燃え盛る赫怒の火に油を注いだ。

 襟を両手で捻るように掴み、そのまま引っ張る。まるで投げ付けるようにして、生白い壁に叩き付けた。

 

「がっ……!」

「碇さん!?」

 

 水を満杯にしたポリタンクのような、重く鈍い音色。肩と、そして頭を樹脂と金属で組まれた壁にぶつけられたのだ。喉奥から漏れる呻きが、痛痒の激しさを物語る。

 それが、それがどうした。

 お前はまだそうやって痛みを感じて、悶え苦しむことだってできる。

 

「私の家族は、もっと痛かったんだッ!! 苦しんで! 泣き叫んで! どろどろに溶かされて死んだんだよ!!」

 

 難民窟のある朝に目が覚めると父の首から上が枕を汚していた首のない父の亡骸を抱いて泣き叫ぶ母の両脚は既に赤い溜め池の中にあって私はそれを防護服のマスクから見てただ見ていて縋る母をこちらを見る母を母と父だったモノを置いて逃げた呼んでも叫んでも全て遅く全て遠く家族だった赤い液体が昨日まで一緒だった人達が全部全部全部全部────

 少年を壁に叩き付ける。家族の仇を打ちのめす。何度も何度も何度も。それが壊れるまで。目の前の少年が壊れるまで。壊れてしまうまで。

 

「お前が! お前が起こした! あの地獄を! お前がぁ!」

「ッ! ぎっ! ぁ……!」

「やめてミドリちゃん!」

 

 肩に縋り付くサクラの手を振り払って、そのまま振り被った拳を、少年の頬に叩き込む。頬骨の尖った感触がグローブ越しに指骨に響く。

 

「ぶっ、ヴっ……」

「っ!」

「あっ……あ、ぁ……!? ミドリちゃん!!」

 

 鋭い痛みが拳を伝い腕を通り脳の芯を弾く。けれど出鱈目な量の血が全身の血管を走り、不慣れな殴打のその痛みすら洗い流した。

 もう一発。同じ個所へ。

 もう一度。今度は頬肉の柔らかさ。そしてその奥に、歯列。

 つつと一筋、少年の口から血が零れて落ちた。

 自分が為した暴力が一つの到達を迎える。血。傷と痛みの証し立て。微かな怯みを自覚して、慌ててそれを怒りで塗り潰す。

 睥睨する。吐血した少年の様を。

 少年は、痛みに顔を歪め、しかしそれだけだ。

 敵意を剥くでもなく、恐怖に慄くでもなく、驚きすら出会い頭に覗かせたきり。

 違和。見合わない。行為と反応、予想と現実が噛み合わない。少年は依然として平静だった。無表情の冷静さ……ではない。ただ、どうしてか、ひどく穏やかなのだ。

 なんだこいつ。

 なんで、こいつ。

 少年はそっと、こちらを見上げた。静かな眼差しで私を見上げた。

 引き結んだ唇が震え、瞳が揺れる。けれどやはりそれは、怒りや恐れの生む動揺ではなくて。

 見上げる。伏し目ではなく、顎を上げ、真っ直ぐ。まるでこちらを()()()ように。

 

「っ!? くっ!」

「ぐっ……」

 

 その視線に耐えられず、私は少年を放り捨てる。

 両手を封じられた少年は受身も取れず、固い床に全身を叩き付けながら倒れた。

 

「碇さん!」

 

 サクラが駆け寄って少年を抱き起す。私への非難よりも治療が優先されるあたり流石は医師。

 場違いな感慨を頭の隅に掃いて捨て、私は腰のホルスターから銃を抜いた。

 黒く角張ったフォルム。型式なんて覚える気もなかった。ただチャンバーに弾を装填し、撃鉄を上げた今、後は銃爪を引くだけでいい。

 

「……」

「ミドリちゃん……本気なん」

 

 人差し指は銃爪の細い湾曲に触れている。照準をしっかりと少年に向けて、その顔に、こちらを真っ直ぐに見上げるその綺麗な顔に。

 銃を目の前にして、それでも少年は私を、拝して迎えた。

 

「っ! なによ……なんなんだよ!? あんたはっ、私の家族の仇で! あんたは今から私に撃たれるんだ! なのに……!」

 

 なんだその顔は。なんだ、その目は。

 サクラが碇シンジを抱き寄せ、その身を前に挺する。銃の盾になるように。

 けれど、それを当の少年が両手で制し、そっと押し退けた。

 サクラの問うような視線に少年は頷き返す。納得とは程遠い様子のサクラを置いて、碇シンジは銃の前に立った。

 痣と血が顔面の半分を彩ったことが、どこか危うい艶美を生んだ。美しく傷付いた顔で、少年が私を見ていた。

 

「君は……貴女は正しい」

「は?」

「貴女が今僕にしたことも、今から僕にすることも、何一つ間違ってない」

「…………は?」

 

 同じ文言を、同じ音程、同じ音量で繰り返す。まるっきり馬鹿丸出しで。

 意味がわからない。

 こいつはわかっているのだろうか。いや、いや。きっと何もわかっていないのだ。

 

「ひ、人殺し! お前の所為で何人も死んだ! 数えられないくらい死んだのよ! お前がエヴァに乗ったからニアサーが起きた!!」

「……」

「私のお父さんとお母さんも、お前の所為で、私の目の前で、赤く煮崩れてなくなったんだ!!」

「…………」

「だから、だから私は、私は! お前をこの手で、こ、こ……っ! 殺すッ!」

「………………」

 

 殺害の宣言は単純で明快で明白。勘違いの余地はない。

 動機に不服だろうが構うものか。構う義理などない。

 ころす。ころす。ころす。

 口にするのも恐ろしく、思うことさえこんなにも、硬く重く痛い。

 自分でもわかっている。自分の殺意の未熟さを。磨かれる前の原石のような不格好さを。

 それでもぶつけた。積年のそれをぶつけた。刺して貫く思いで、必死に。

 そして少年はそれを受け取った。その場で留まりしかと、一時とて目を離さず全身に受けて立った。

 ()()()()()、と。

 

「は、あ……??」

 

 殺されると言う。私に、この場で、この銃で、撃ち殺される、と。

 少年は全身全霊でそう応えた。

 意味がわからなかった。

 

「つ、強がりでしょ」

 

 そうやって腹を据えたように振る舞えば、こちらが怯むと思って豪胆を演じてるに違いない。

 

「それとも、つ、罪の意識で、心折れちゃったわけ」

 

 あまりにも重い罪。世界を壊した罪。そんなものは想像もできない。想像してやる義理もないが、でも確実に人間一人の手に余ることは確かだ。

 巨大すぎる罪悪に、精神が参ったのだ。銃口を前に諦めの境地に至ったのだ。

 

「しっ、殊勝ぶって!」

 

 免罪を期待しているに決まってる!

 だからこんな、こんなにもこの少年は堂々と。

 真っ直ぐに────跪き、銃にそっと額を押し当てて。

 

「僕は、あの時、自分の意思で、エヴァに乗りました。自分で選んでエヴァに乗りました。エヴァに乗って、戦ってでも叶えたい願いがあったから……そして、ニアサードインパクトが起きました」

 

 復讐の弾丸を、拝して受け入れる。

 背負える筈のないものを背負って、少年は己の罪の在処を告白した。

 

「僕は……エヴァンゲリオン初号機のパイロット、碇シンジです」

 

 黒鉄の銃身の下、穏やかで、優しい瞳が私を仰ぎ見ている。まるで、(かいな)を差し出す母のような柔らかな眼差しが、私を。

 私を。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……ッッ!!」

 

 震える。指先が、手が、腕が、全身が瘧のように。

 ころす。ころす。そう宣言した。この殺意は真実だと。私の絶望、あの赤い地獄の釜の底に置き去りにした家族の命、耳孔にこびり付いた絶叫を忘れない。断じて忘れないと誓った筈なのに。

 私は、この少年を、この少年を。

 

「は、あ、あ、ぁ、あっ、ああぁああぁあぁああ」

 

 この慈愛に満ちた眼差しのひとを、ころ、す────

 

「ミドリちゃん」

「え」

 

 呼ばわりに顔を上げる。背筋を震撼させるものが、躊躇なのか恐怖なのかももうわからない私は、究極で最悪の選択から逃げる口実を探し、サクラにそれを求めた。

 サクラ、ルームメイトで、衛生科の医療担当、少し抜けてて、でも誰よりも優しい子。誰かを想い遣れる、慈しむということを知っている。尊敬すべき友人。

 彼女は微笑んでいた。

 優しく私に笑い掛けながら、手にしたそれを掲げ見せた。

 銃のグリップに似た形をしたそれは、鍵。グリップ下部から出力された小さなホログラムのフラッグには『READY』と表示されている。

 DSSチョーカーの起動キー。それをサクラが握っている。

 

「大丈夫」

「……なに、が」

「碇さんは大丈夫。だって私がついとるもん」

 

 サクラはそう言ってまた、華やぐように笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 



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拾八

 検体BM-03の移送が下知されたその日、どうしてか私は再び面会室を訪れていた。

 先刻の解散間もなくの、赤木副長からの直々の呼び出しである。

 前置きも少なく、彼女はいつも通りの怜悧な無表情で卓上にケースを滑らせた。武骨な合金のフレームと複合強化繊維製のボディで鎧われた高高防護性能ハードボックス。

 外殻表面にある光学センサに副長が手を翳す。認識を報せる電子音と共に、多重の物理・電子ロックが次々に解かれ、減圧の吐息を漏らしながらにその箱は口を開けた。

 

「っ!?」

 

 箱の中身を見下ろして、息を呑む。保護ウレタンに包まれて横たわるグリップ型のコントローラ。機能美を通り越して無味乾燥な外観に、しかし禍々しさを覚えずにはいられない。

 DSSチョーカー起動キー。エヴァパイロットの生命剥奪を、それだけを目的とした器械。つまるところそれはあの首輪に仕込まれた爆弾の起爆装置だった。

 

「これって、艦長の……」

「艦長が現在携帯している起爆装置(スターター)はエヴァパイロット三名全てのDSSチョーカーに起動命令を送信できる、謂わばマスターキーです。対してこれはその複製品、それも()()()にデチューンされた」

「単一って」

 

 その意味を私は即座に理解していた。この合鍵がどの鍵穴に合うものなのかを────誰の、身命(しんみょう)と結ばれたものなのかを。

 

「このスターターが起動できるのは、検体BM-03仮称・碇シンジが装着しているDSSチョーカーのみよ」

「…………」

「鈴原少尉、これを貴女に管理してもらいます」

「!? 私に、ですか」

 

 意表外の命令に動揺する。そのあまりの……望外に、心身が震えた。

 

「これは私の一存です。今回の移送に当たって、仮称・碇シンジの監視は実質的に貴女に専任、いえ一任することになる。ヴンダーがこれより先、ネルフ・ゼーレとの決戦を控え前線から離れられない以上、彼というリスクの傍にはスターターを握る誰かが必要です」

「その役目を、私が」

「ええ」

 

 そっと、ほとんど無意識に箱に伸ばしていた手を止める。重責に対する恐怖か、そうではない何か──正反対の何かで指先が震えた。

 欲しかった玩具を目の前にした子供同然の、その意地汚さを自覚する。だらしなく垂涎するこの心を。

 現実に、喉は生唾を飲んでいた。

 暴れ出ようとする手足を制して副長を見上げた。

 

「どうして……わざわざこれを」

 

 DSSチョーカーは装着者とエヴァとのシンクロ、プラグ深度を検知して、それが想定され得る危険域に達した段階で自動起爆される。専用設備あるいはMAGIに匹敵するクラッキング能力でもない限り、“人間業”では取り外すことも不可能だ。

 リスクに対する保険という意味で、チョーカーは単体でも機能する。

 それでも、人間の監視役をつけるのは、敵が人間業を超越する恐れがあるから。

 

「彼を人のまま死なせてあげられるのは、同じ人だけ……なんて、情に寄り過ぎてるわね。機械と人間のダブルチェックの体制に、臨機応変な判断を下す頭脳の役割を貴女には期待しています」

「でも、私は碇さんに……」

「特別な感情を抱いていることはこちらも認知してるわ。それでも」

 

 赤木副長は一瞬目を伏せ、そうしてこちらを正面に据え。

 

「“その時”に相対したなら、貴女なら躊躇せず断行できる。その信用に足ると判断しました」

「……」

 

 その時。

 彼が間違えてしまった時。彼が、エヴァに乗ろうと決意した時。

 それを私が止めなければならない。必ず止めなければならない。何をしてでも。

 彼の命に、終止符を打ってでも。

 

「それに……貴女、私に似てるから」

「えっ」

「好きな男なら殺せる。違った?」

 

 常にない艶然とした貌。妖しく美しく微笑む赤木リツコに、私は咄嗟に返す言葉を失くす。

 (ちがう)、とは、どうしても口に出来なかった。

 箱から取り出した起動キー、たった一人の為の殺戮器械を、私は両手で包み、胸に抱いた。固く強く、決して離すまい。もう決して、誰にも渡すまい。渡すものか。

 あぁ、私は今────碇さんの命を抱き締めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして今、少年の命を握り締めながら、私はミドリちゃんに笑い掛けた。

 白い廊下、犇めき蠕動する機械を内包した金属の壁に囲われた三人。銃を構えて呆然とこちらを見るミドリちゃんと、銃口に額を預けて、それでも静かに呼吸する少年の背中を前に。

 

「ミドリちゃん、ミドリちゃんは正しい。碇さんの言うとおりや」

 

 その憎しみも、殺意も、全く何もかも他人事ではないから。

 

「ミドリちゃんの気持ちようわかるよ。私もそうやったもん。ヴィレの人ら皆そうや。わからんはずないやんな」

 

 北上ミドリに共感する。過去、見聞きし味わい全身に浴びた赤い地獄の実感を、恐怖を、それをもたらしたモノへの憎悪を私は否定しない。否定できない。

 碇シンジは憎まれる。彼の人生がいかに惨く憐れで、そこにどれほど同情の余地と、情状酌量の理があろうとも。

 憎悪に理屈など通らない。道理などない。

 報いを。報いを。報いを。報いを!! 理不尽を強いた者共に、愛する者を奪われた悲しみに、相応しい罪科を、厳罰を欲してきた。

 反抗組織ヴィレの理念は人類、人類以外の生命種保護・保存、そして存続。それは大義だ。

 けれど、原動力は。人々の集結と団結を編み上げたものは間違いなく、憎悪だった。ネルフへの。ゼーレへの。狂った崇拝者と理想論者、そして一人の夢想家(エゴイスト)への。エヴァへの。

 エヴァに乗った、少年への。

 

「碇さんが憎い。今やってその気持ちは変わらへん。だから、死なせません。死なせてなんてあげません。そうや、碇さんが一番わかっとることや。死ぬのが一番楽なんやって」

「…………」

 

 少年の背中は動かない。そして私の言葉を否定もしなかった。

 彼はそっと、銃口に頷いた。

 私はそれに微笑んだ。じくりじくりと胸に痛みが広がっていく。熱い、あまりにも熱い痛みが。

 

「碇さんがエヴァに乗った所為でニアサーが起こりました。碇さんがエヴァに乗って戦ってくれたお蔭で、私らこうして生き残れました。お父ちゃん、碇さんに殺されました。私は碇さんに生かされました。碇さんが頑張ってくれたから、ここにおるんです。ここでこうしてまた、碇さんに会えたんです」

「っ……!」

 

 熱く満ちる。

 震える貴方が、罪の重みに心を軋ませる貴方が、こんなにも愛おしい。

 

「だから、生きてください。一生懸けて生きて償ってください。一回死んだくらいで許しません。絶対許しません。生き続けて、苦しみながら贖罪に命を費やしてください」

 

 ミドリちゃんが碇さんを見て、私を見た。驚いているような、戸惑っているような、怖がっているような目で。

 だから私はまた精一杯、優しい顔で笑い掛ける。安心して欲しくて。彼を、彼の贖罪を、わかって欲しくて。

 

「大丈夫やよ。私ずっと見とるから。碇さんが間違えへんように、()()持ってずっと傍で見とるから! せやから、ごめんミドリちゃん」

 

 ────碇さんの命、あげられへん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その映像は、艦内全ての通信端末、設備、出力装置にリンクされた。

 白い廊下、無垢な空間に、凶器を握った女が二人、銃口に跪く少年を互いに見下ろして。

 異様だ。異常だ。

 しかし、彼女らの語る言葉に何かを想わずおられる者など、ヴンダー内にはいなかった。一人一人が十人十色に赤の地獄を知っていた。血を滲ませ血で血を洗い血に流れ融け逝く──苦闘に、十四年を費やしてきた。誰もが。

 その映像、小さなホロウインドウに流れるこの光景こそ、彼ら彼女らの心象、その凝集だった。

 憎む者が在り、憎まれる者が在る。

 北上ミドリの絶叫は正しい。そのどこに瑕疵などあろうか。彼女は自分達の憎悪の代弁者に他ならない。

 …………だが。

 だが碇シンジの献身は、あまりにも、痛ましい。命乞いも赦しを乞う事さえもせず、どころかその幼い子供は目の前の復讐者に自ら命を差し出しているのだ。自己に対する報復殺人を、容認さえしているのだ。

 馬鹿げていた。

 少年の行動が、ではなく。この状況が。この暴虐が。

 子供の命一つで罪を、憎悪を、失った何もかもをさも贖えると信ずるその思考。

 彼ら彼女らは理解した筈だ。自分達の心中に発生した加虐心を、殺戮という手段で満ちようとする暗い悦びに。

 切な願いは変質し、罪に対する覿面の処罰ではなく、もはや罪人に対する破壊衝動の充足を求めている。

 憎悪に理屈は通じぬという。ならば、お前達は間違いなく人道に悖る生命の略奪者だ。人倫を踏み躙り欲望を満たさんと欲する鬼だ。

 お前達が憎悪するゼーレという名の狂信者共、ネルフという名の理想論者集団、そして────碇ゲンドウというエゴイストと、同じではないか。

 

「にゃどと思っちゃうんだなぁこれが」

「…………」

 

 MAGIシステムと自身の端末を自身のIDを用いて正当な手続きで繋ぎ、堂々と広域開放通信(オープンチャンネル)で艦内某所の映像を艦内全域に送信しながらにマリは笑った。

 耐爆隔離室にはその部屋の主が二人。マリはノート端末をデスクで操り、それをベッドに腰掛けてアスカが眺めている。

 

「偉そうなこと言うとさ、私は一歩引いたところに居る。心も立場も思惑も。だからニアサーの被害者には同情できないし、かといって持論振り翳して否定する気もない。憎いものは憎いからしょうがにゃい! と思ってたわけ。今までは」

「訳知り顔で剽軽気取ってた癖に、いきなり何」

「気が変わったんだ。ワンコくんを見て。私もね、まさかああいう精神構造に仕上がるなんて思ってなかった。罪の意識と自罰と自己嫌悪、でも同時に彼には他者への恐怖があった。触れ合う肌も探り解り合おうとする心の()()も、怖くて心を閉ざすのが彼の常だった……それが、順序が変わるだけでこうも……」

「……?」

「……姫と同じ。姫は加虐で、彼は被虐で、自分の心を表現しちゃう。ぶきっちょお姫とぶきっちょワンコくんだ」

 

 アスカには意味がわからなかった。

 そんなアスカにマリは苦笑した。

 

「傍観者面ついでに言ってやろうと思って。あんたらが虐め殺そうとしてる子供は、こういう子だよ……ってね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




映像を見た後のヴンダークルーの皆さん
A「鈴原少尉こっっわ」
B「第三の少年可哀想」
C「やべぇ女に目をつけられて」
ミドリちゃん「疫病神……ファイト」

サクラちゃん「あるぇー」


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拾九

今回こそ村に行くと思った? 残念まだです!!!!(逆ギレ)



 艦長室の空気は重い。

 この狭い空間を占めているものは鉛のような無念であった。女は肩身を震わせ、握り固めた拳を軋せた。

 デスクに開かれたノート端末には、今も映像が流れ続けている。現在時刻と進行する録画時間、なによりそこに映し出された三名の姿が、そこに広がる光景が今まさに起きているということを如実に表している。

 葛城ミサトはおもむろにバイザーを剥ぎ取る。黙して壁に背を預けていた赤木リツコの胸倉を掴み上げ、その眼で対する女を睨みつけた。

 

「リツコッ! あんた……!!」

「間違った判断を下したとは思ってないわ」

「だからって!」

「貴女には、もう無理よ」

「私が……私がやる。私が、やらなくてはいけないことなの。私は十四年前にそこから逃げた……あの時、本当は私が、私があの子をっ……」

「貴女にシンジ君は殺せない」

「ッ!」

 

 予断を一切排したリツコの見解は反論の余地すら絶無。

 ミサトの声は喉奥でひしゃげ、行き場を失くした。怒りが、体内を焼く。その炎の名は自己嫌悪という。

 指先から力が抜け、よろめくように一歩後退る。

 デスクに体重を預けたミサトをリツコは乱れた襟元も直さず静かに見下ろした。

 

「……余計な手間、取らせたわね」

「スターターを複製することは元より視野の内だった……すべき仕事をこなしただけよ、私は」

「ええ、いつも……いつもそうだった。そしてまたあんたの仕事の完璧さに助けられた」

「あら、じゃあ感謝の一つもしてくれる?」

「そうね。死ぬ間際だったら考えてもいいわ」

「ふふ……ならそう遠くはなさそうね」

 

 皮肉にすらならない。

 女達は仄暗く笑みを交わした。

 

 

 

 数分にも満たない映像の中で演じられた復讐劇の未達は、艦内に悲喜交々の波紋を呼びヴンダー延いてはヴィレの組織力に大きな影響を与え……といった事態へは、幸か不幸か至らず。

 それから暫く後、僅かな異論を差し挟まれることすらなくあっさり終結を迎えたのだった。

 その結末を甚だ意外だ──と、当のクルー達自身が冗談交じりに(のたま)うのだから、益々おかしな話で。

 さらに、あの映像の拡散後、離艦希望者の数が減少したことも、艦長、副長他、各セクションで統率の地位にある者に少なくない驚きをもたらした。

 ヴィレは正規の軍組織ではない。構成員の多くは軍属の経験すらない民間技術者だ。義勇兵といえば聞こえも良ろしい、危急存亡により選択の余地なく追い立てられ集められた民兵集団。それがヴィレの実態。

 少年の姿が人々の義侠心を打った、などと馬鹿げた妄言はまともな羞恥心を備えていれば口にするのも、されるのも憚ろう。大義を謳う者などいない。彼ら彼女らの根底にある願いは、どうしたところで怨敵への逆襲、それただ一つなのだから。

 しかし、事実としてヴィレは健在だった。北上ミドリに倣い()の憎悪を選び、公の闘争を見誤る者はその後遂に現れなかったのだ。

 

「俺らだって、そこまで暇じゃないっすからね」

「ふはっ、違いねぇ。このじゃじゃ馬エンジンのご機嫌伺いで毎日忙しいったら」

「私の仕事は操舵でネルフに殴り込むことですから」

 

 秀でた人格者はいない。全ての罪を赦せる聖人など存在しない。理由も理屈も理性も心を上回ることはできない。憎悪は胸に、喪失と絶望の記憶は今なお赤々とこびり付き離れない。けれど。

 ────けれど戦わねばならない。殺す為に? 守る為に? 否、生き残る為に。

 

「人類の黄昏に行き会って人が成長したのか、それともこれが人を人たらしめる資質なのか。議論の余地はありそうだけど」

 

 その発露が消極的かつ消去法的に選択されたものであっても、倫理(ひとのみち)を歩もうとする人の姿は、確かに、きっと尊い。

 

「ふぅむ、先生かユイさんに意見を仰ぎたいところ。いや言わずもがな、なのかにゃー? あの人らに言わせりゃ」

 

 これは、ただそれだけの話。

 

 

 

 

 

 

 ちなみに、徒な、けだし悪戯な愉快犯的情報漏洩を犯した真希波・マリ・イラストリアスには懲罰として向こう一年、新たな紙媒体の書籍の入手および閲覧禁止令が下されたそうな。

 

「わっつはぷんっ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小型輸送艇の船室、そこにぽつんと空いた丸い覗き窓から巨大な鯨の腹を見上げる。

 つい先程まで自分が収められていた胃袋の持ち主。ヴンダーと呼ばれる飛行艦、早気付けば僕らは外に吐き出されていた。

 

「ほえ~、外から見るん久しぶりやわ~。やっぱ大っきぃわヴンちゃん」

 

 傍らで同じように空を仰いで、サクラさんが感嘆の声を上げた。

 エヴァ初号機を主機、心臓にして動く巨大戦艦。実際に乗り、内部で少なくない時間生活して、こうしてその全貌を目の当たりにしてもやはり一向に、実感は湧かなかった。あの中に今も初号機が……綾波がいるということも。

 僕は、彼女を置いていく。そう感傷に浸っていい筋合いなのかももうよくわからない。彼女を助ける為の行動が結果として災禍を呼び、地獄のような世界を生んだ。勿論、彼女に一切の過失はないし、彼女を救い出したことが間違いだなんて絶対に思わない。

 過失、僕の過ちに、彼女を巻き添えにしてしまった。結果論だけど、つまりはそういうことだ。

 初号機と僕と綾波。あの時、コアに融け合ったものの中で、僕だけが外界に吐き出された。おめおめと、のこのこと。

 人の形を取り戻して、人の世界に再び生きることを許された。

 だから僕は、やはり彼女を置いていくんだ。

 無責任に勝手に助けて、無責任に置き去りにして行く。

 

「碇さん……?」

「ぁ、はい。なんですか」

 

 心配そうな顔が覗き込んでくる。注意深く、まるで目の奥まで(あなぐ)るようだった。

 

「じぃっと艦の方見とるから、どないしたんかなーて」

「い、いえ、なんでもないです。ただ、その……この先また、乗る機会はあるのかなって」

「……なぁんか後ろ髪引かれとるみたいな言い方ですね」

「そ、そうかな」

「はい」

 

 一言ごとに声色が詰問染みていく。気に障ることを言ったのか、そんな態度を取ったのか。生憎どちらにも心当たりはなかった。

 やや理不尽を覚えながら、上手い言い訳を脳髄に求めて、ふと。

 

「あの、サクラさん」

「残念ですけど、もう一度この艦に乗せてくださいは無しですよ」

「い、いやそうじゃなくて」

 

 サクラさんは今や患者を叱る医師の貌。たじろぐような愛想笑いで実際身を退きながら、脳裏には別の記憶を思い起こしていた。

 無責任、無責任な謝罪。

 結局、謝罪を投げ付けてそれきり、僕は未だあの人と会話も、満足な言葉を送ってすらいない。

 もう会うこともない……リツコさんがそう言うなら本当にもうこれで、下手をすれば今生の、別れなのだ。

 

 ────葛城を守ってくれ

 

「…………」

 

 いつかの、晴れた青空の下で嗅いだ土の匂いを思い出す。不意に交わした約束を。

 何もできなかった。僕にしかできない、あの人は無念を呑んでそう言ってくれたのに。

 

「電話を、させてもらえませんか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 艦長室。執務用のデスクの上で端末が鳴動する。

 手に取り画面を検めて、微かに訝しむ。

 

「守秘回線……?」

 

 業務・特務の連絡は専ら有線の据え置き通信機が用いられる。流石に現代の無線通信網をして脆弱とは言うまいが、物理的作用を除いて破断しない有線通信への信頼度は未だ厚い。となれば、こんな個人用の無線端末に寄越される連絡は、十中八九私信(プライベート)ということになる。()()()から対人の情報戦の意義が薄れて久しいといった理由もないではないが。

 ただの電話が鳴ったのは随分久しぶりだった。

 送信者の登録者番号は、鈴原サクラ少尉のそれ。今頃はこの足の下、あるいは地上に降着済みやもしれない彼女が今になってなにを。

 

「葛城です」

『作戦行動中に失礼します。さ、碇さん』

『は、はい……』

 

 送話口から僅かに聞こえた声で、心臓が四半段動きを早めた。

 一吸い、鼻から気息を胸に溜め、それを鎮める。

 

『も、もしもし』

「……なにか。要件があるなら手短になさい」

 

 声を冷やし、言葉は硬く、感情を殺し、冷酷を気取る。

 心底必死な自分を背後からもう一人の自分が指差し、嘲笑う。

 

『ミサトさん。あの……っ……』

「……」

 

 言葉を探し、迷う少年のほんの静かな息遣いが、鎮めた心臓を強かに叩く。

 こんなにも自分という女は脆かったのか。呆れと侮蔑、そこに純粋な驚きが並び立つ。

 この少年の所為だ。碇シンジを前にすれば、葛城ミサトはこんなにも容易に瓦解する。

 十数年掛けて繕ってきた不格好な冷徹の仮面は、もうそこら中罅だらけだ。

 躊躇い、躊躇い、躊躇い。沈黙の中で少年の喉はその声ならぬ感情を詰まらせる。言葉一つ、迂闊に紡ぐことさえも罪。彼はもはやそう信じて疑わない。

 自分自身の罪を疑わない。

 それが、それがこんなにも、痛い。

 

『ぃ…………いってらっしゃい、ミサトさん』

「────」

 

 痛みを堪えて、罪悪の針を呑んで、少年はそっと壊れ物を差し出すようにして言った。

 それは私の言葉だった。それはいつも、私が口にしていた言葉だった。恥知らずに子供の背を押して兵器の搭乗口へ突き落す為の。戦場へ押しやる為の。死地へと誘う為の。

 己の無力を呪う(ことば)

 そして。

 その帰りを(こいねが)う、祈りの言葉。

 

「────いってきます」

 

 声は震えていないだろうか。上擦って、掠れてどもってやしないだろうか。

 いずれも自信はなかった。

 端末を切って、椅子に深く腰掛け背もたれに上体を預ける。顎を上げ、天井を仰ぐ。

 そうしなければ溢れてしまう。また、無責任と無恥の象徴が流れ落ちてしまいそうだったから。

 

「ふぅ……年かな……ふっ、ふふ、ふ……」

 

 罅割れの冷徹の仮面、その隙間から一滴、頬を伝う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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廿

ヒロイン相手にしてる時よりシンジくんが心動かしてる気がする。



 

 

 夕暮れに黒々と、深緑の田畑が広がっている。

 リヤカーを押したり背負子を肩に担いだ作業着姿の老若が、疲れの見える足取りで畦道を歩いていく。

 耳馴れた蝉の鳴き声がしない。代わりに遠く、子供の笑い声が聞こえた。

 ジープの助手席から見える営みは、身に覚えのない懐かしさを胸奥に灯した。別に田舎暮らしに殊更親しみがあるわけでもない癖に。

 湧き起こるこの仄暖かなものを、もしかしたら望郷と呼ぶのかもしれない。

 ノスタルジーを気取る自分は心底滑稽だ。思わず鏡を指差して嗤いたくなるくらい。

 ここは決して僕の故郷になどならない。間違ってもそんな風には呼べない。呼んではならない。

 車窓を過った名前も知らない人々は、その誰も彼もは、きっと、間違いなく碇シンジの被害者なのだ。僕が加害した誰かなのだ。

 

「……」

「もー、家やなくてまず診療所来いぃて忙しないわぁ。荷物も下ろしたいのにー。碇さん、すんませんです。ホンマ気の利かへん兄で」

「いえ、僕は大丈夫ですから」

 

 身内らしい忌憚のない彼女の声色が少し新鮮だった。いや、家族同士の気安さ、この()()に、ひどく不馴れで縁が薄くて、なんだか落ち着かない。

 

「あっ、ちょっと停めますね」

「?」

 

 トタン屋根の小振りな家々が身を寄せ合うようにして立ち並ぶ通り。今し方過った小路に振り返りながらサクラさんは言った。

 ハザードランプを点けて車を停めると、彼女はドアを開けて外に出る。

 

「松方さーん! お久しぶりですー。わぁお腹おっきぃなっとるー!」

「サクラちゃん!? 久しぶりねぇ! いつ帰ってきたの?」

 

 青いカーディガン姿の女性だった。そしてゆったりとしたワンピースの腹は大きく膨らんでいる。

 

「予定日、そろそろや言うてましたもんね。おめでとうです!」

「あはは、まだ早いわよぅ。でもありがとう」

「えへへへ。あ、私また診療所の方でお手伝いしよう思てますんで、改めて診さしてもらいます。せやからこれからはなんっでも相談してください」

 

 その後二、三遣り取りをしてから、サクラさんは妊婦の女性と手を振り合い別れた。

 戻ってきた彼女が微笑みかけてくる。慈愛の篭った笑顔だった。

 

「臨月なんですよ松方さん。来月か、もっと早いかも。もうすぐ生まれるんですって」

「そ、そう、なんですか」

「はい!」

 

 晴れやかに、心からの喜びを現すサクラさんを僕は何故か直視できなかった。

 背中に感じる黒く重いものが、明るいものを嫌う。祝福という光るもの、綺麗なものに炙られる。熱く痛みを発する。

 何を言うのも憚られた。遠ざかる身重の背中に、祝いの言葉一つ送れない。

 僕にそんな権利はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 診療所は、列車の線路が()り集まるそのほぼ中央に建っていた。それが旧い駅舎を改装して用立てられたものであることがわかる。

 目的地が見えた時から、心臓の鼓動が早まるのを感じた。血が冷たくなるような、節々が強張るような、緊張。それに怖気。

 開放された両扉を潜り、元券売所だったのだろう窓口を横切る。

 血が血管を流れるじくじくとした音が耳から直接頭に響く。浅く、息が乱れる。

 薄暗い廊下の向こう、正面に大きな明り取りの窓があって擦りガラスから柔く茜色の陽が差し込んでいた。

 白い仕切り用カーテンの合間を整然と病床が並ぶ。その一角から一人、白衣の男性が顔を出した。

 短く刈られた髪、浅黒く日焼けした肌、背が伸びて、肩幅も増して、その人は少年ではなく大人の男性の体格をしていた。記憶の中の少年の姿と確かにあらゆる点で似通っているのに、精悍さを備えた顔立ちが、どうしても思い出の中の彼と食い違う。

 こちらを見止めた時、彼は目を見開き浅く吐息して笑みを浮かべた。ほんの一瞬で、沸き起こった複雑な感情に区切りをつけて、笑顔の下に仕舞った。

 そんな風に見えた。それは、僕の背中の黒いものがそう見せるからなのか。後ろめたさが、罪の悪寒が。

 動悸がする。呼吸が乱れる。背中にじっとりと汗が滲む。

 

「シンジ」

 

 肩が跳ねた。油切れのブリキ人形みたいに固く、ゆっくりと顎を持ち上げ眼球を動かす。

 白衣の彼を──トウジを見上げた。

 

「はぁ……久しぶりやのう」

「……」

「わかるか? わしやで。トウジや。老けたやろ、はははっいや話には聞いとったけどシンジは変わらんなぁ。いや、ちょっとやつれたか? なんやヴィレはしっかり飯も食わせてくれへんのんかいな!」

「んなわけないやろアホ! 三食しっかり出しとるわ! ただ碇さんは食細いから体重増えにくいだけやし。お兄ちゃんと違って繊細な人なんです~」

「久しぶりに帰ってきおった思たら開口一番アホとはなんやアホとは。くぅ~っ、シンジ見てみぃ、昔はあない可愛かったサクラも今じゃすっかりこないな生意気娘に育ってもうて、わしゃあもう悲しゅうて悲しゅうて……!」

「はぁぁあ!? なに言うねん! パチキかますでこら!?」

「おぉこわぁ。ははははっ!」

 

 戯れ合う二人の空元気が、自分を気遣ってのものなのだと理解できる。

 声が出せなかった。舌が麻痺したように、唇を震わせ口を開いて、何かを紡ごうとして、失敗する。喉に石が詰まっていた。ざらざらとした質感の武骨な石が、咽頭の肉を無遠慮に圧迫している。ミサトさんに相対した時と同じか、あるいはそれ以上の息苦しさで。

 掠れた呼吸音が静かな病室に響く。陸に上がった魚めいて無様なのは、自分だった。

 その時、背後で足音が立った。

 

「お! なんや大将、今日はお早いお越しやな」

「いいところで区切りがついたんだ。ジープが見えたからもしかしてと思ってこっちに寄ったけど正解だった」

 

 はっと振り返る。

 硬質なワークブーツの靴底がコンクリートを打つ。暗い色味の厚手のブルゾンとカーゴパンツは長く使い続けた(こな)れのようなものを感じられた。

 落ち着いた、穏やかな面差しをしている。だからそのフレームレスの眼鏡と茶色の癖毛には余計強く懐かしさを覚えてしまう。

 変わった。トウジと同じように、成長し成熟し、老いて。

 変わらない。その眼差しだけはあの頃のままだ。トウジも、そして今目の前に立ったケンスケも。

 

「久しぶりだな、碇。サクラちゃんも、おかえり」

「はい! ただいまです。相田先生」

「どや? 眼鏡はそのまんまやしわしよりよっぽど分かり易いやろ。ケンスケやで」

「おいおい、俺の印象は眼鏡だけか」

「せや! それが眼鏡を掛けるもんの宿命っちゅうもんや」

「いいのかな~? そんなこと言って。今日はせっかく秘蔵のあれを放出してやろうと思ってたのに」

「ホンマか!? いやはや相田センセ、本日もお勤めご苦労さんです。つきましては拙宅で再会を祝して一席設けますんで。な? ええやろ?」

「ふーむ、まったく。そういうことならしょうがないか」

「さっすが大将や!」

「いいですねぇ! 私も御相伴さしてもろてええですか?」

「もちろん」

「それはええけどやなお前、ちっとは遠慮せぇよ。貴重な酒をこの女、水みたいにかぱかぱいきおる」

「サクラちゃんは第三村きっての大笊だからな」

「ちょっ、碇さんに変なこと吹き込まんといてください! もう!」

 

 牧歌的で、飾り気のない風景。三人の形作る平穏という世界を、一歩外側から眺めている。立ち入ることはおろか、触れることさえ総身に躊躇が走る。

 この日常を手に入れるまでに、この人達は一体どれほどの、どんな犠牲を強いられたのか。幾つの地獄を踏破したのか。それを想像しようとして、怖気と嘔気が全身を震撼させた。それはこの脳髄の矮小な想像力を容易に絶する。

 十四年ぶりの再会に実感など伴わなかった。

 齢を経た級友の姿にただ戸惑う。ただ、自分がその年月を惰眠に費やしたという事実を知る。

 その年月の重みを、思い知る。

 それでも。

 

「…………」

「シンジ? どないした、気持ち悪いんか?」

「碇?」

 

 心配そうな面持ちで二人がこちらを覗き込む。

 心配なんてされる筋合いじゃない。そんな権利はない。資格はない。

 だから“これ”も駄目なのだ。“これ”を思うことがどれほど罪深い行為なのか、自分は理解している筈だ。赤い地獄を目に焼き付けて、自戒を、自罰を、自縛を。

 思ってはいけない。喜びも悲しみも浮かべてはならない。そうする権利を奪い去った者が、自己にそれを許すなど許されない。それは最も醜悪な欺瞞であり、独善だから。

 ……でも。

 トウジを見た。ケンスケを見た。

 確かに、今、この瞬間、生きた彼らを見て、認めて、実感して。この胸に、湧いてくるものは。

 思うな。思うな。思うな。思うな。

 

「っ……ぁ……」

「……うん、ええんやでシンジ。なんや言いたいことあるんなら言うてくれ。なんも遠慮することない」

「ゆっくりでいい。無理するな、碇」

 

 優しさの篭った声が言葉が、暖かな刃が脳髄を貫く。頭蓋骨の中でありえない流血の感触を覚えた。熱い血潮が満ちていく。

 それは脳を流れ落ちて、頭蓋骨から溢れ出して、眼窩を満たし、瞼から零れた。

 涙。自己正当化の叫び、肉体が恥知らずに己が無実を訴え、自分自身の罪業から必死になって目を覆う為の汚らわしい液体が、後から後から。

 止まらない。拭っても、押さえ付けても、擦り上げても、滂沱する。それは止め処なく流れ続ける。

 しゃくり上げる喉が何かを絞り出そうとする。強張る舌が、頬肉が、口腔が言葉を紡ごうとする。その予感に歯噛みした。

 いけない。駄目だ。こんなもの。

 涙が眼球を曇らせる。熱病に浮かされ、思考力は一秒毎に低下の一途をゆく。

 忘れるな。罪を知れ。思い出せ。僕が産み落とした赤い地獄。赤い命の溜め池に浮かぶ子供の頭。ガラス瓶に浮かぶ赤子の手。死。死。死。死。

 (おまえ)が振り撒いたものの犠牲者が今目の前にいる。

 だから。

 

「ッッ! ふ、ぐっ、ぅ、が、はっ、はぁっ、ぁ、は、あぁぁああぁ……!!」

 

 その場に膝から(くずお)れた。

 傍らでトウジが寄り添う。ケンスケが跪き、肩に手を置く。

 暖かだった。人の体温、血肉の存在、魂の実在、生きているという証。

 生きていた。生きていたんだ。

 

「ちがう……ごめん……ちがうんだ……こんな、ごめん、これ、こ、これ……は……ぼくに、こんな……こんなっ……!」

 

 言い訳を並び立てていた。この涙に対してなのか、この思いに対してなのか、この場に今も生き永らえる自分自身に対してなのか。わからなかった。

 何もわからず無恥な僕は、また一つ恥知らずにそれを口にする。

 

「よが、っだ……いぎで……いぎ、て……ッッ!」

 

 声にならない汚らしい呻き声を吐き続ける。

 背中を擦る大きな手はトウジの。肩をしっかりと掴んで揺する手はケンスケの。

 触れ合うことを恐れ続けた自分が、触れ合うことでようやく、他者の存在を実感した。二人の、二つの生命の存在に、心底から安堵した。

 よかった。

 繰り返す。罪深い喜びを噛み締めて、僕は何度も、何度も。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かつん、白いカーテンの先から硬い音色。靴音とはまた毛色の異なるもの、プラスチック、あるいは特殊な樹脂を思わせる。

 不思議と耳馴染みがあった。

 いつかどこかで聞いた。その感触さえ覚えていた。

 そうだ。これは、プラグスーツを着た時の。

 滲む視界の先に立つ黒い人影。夕日の赤光(しゃっこう)に長々と、彼女の影法師が横たわる。

 

「碇くん」

「……綾、波……?」

 

 黒いプラグスーツに身を包んだ少女。アヤナミレイがそこにいた。

 

 

 

 

 

 

 



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廿一

息子が父親を超えた瞬間である(社交性的な意味で)


 茜色の中に黒く暗く、人形の穴が穿たれたかのようだった。夜空より濃い宇宙の暗黒の上に、星屑めいて光る蒼と銀の髪。

 赤い瞳、白く透き通るような肌、あるいは病的なほどに、無垢な少女。

 綾波レイ。もはや形を失い実存すら薄らいでしまった彼女、あの方舟の中にしかなかった筈の彼女の姿が今、目の前に立っていた。

 

「綾波……どうして」

「せやせや、すっかり待ちぼうけにさしてもうたな」

 

 白紙の無表情が僕を見下ろす。それがどうしてか、懐かしい。

 ふと甦る。鼻の奥の鉄錆の臭い。頬の痛み。校舎裏で仰向けになって空を見上げたあの日、無色透明な顔で僕を見下ろす彼女が。

 最初に出会った頃の彼女だ。無感動で、無関心な、心を育む前の彼女だ……何故か、そんな風に思えた。

 今一度彼女を呼ぼうとして、それは阻止された。文字通り目前に躍り出た細い背中に。

 

「碇さん下がって!」

 

 サクラさんに。

 彼女は、その手に────黒い鉄器を握っていた。それはひどく、異様な存在感を放っている。この空間という油絵用の画布に絵具ではなく墨を溢してしまったかのような違和感。場違い、とも言える。

 それはここにあってはならない。それがこの場に、サクラさんの手の中に存在することが、どうしようもなく厭わしい。忌まわしい。そして、なにより、恐ろしい。

 拳銃だった。

 

「サクラさん!?」

「お、おぉ!?」

「なんで、なんでここにおんねん! あんたみたいなもんが!」

 

 焼けつくような叫び。ここからでは覗えない筈の彼女の瞳に今、あの烈しい光が灯ったのがわかる。純粋な、純真な、怒り。

 サクラさんの華奢な手に握られたその形、リボルバー、と言えばいいのだろうか。銃火器に対してケンスケのような造詣を持たない自分には、それがどういった種別で、どんな特色と性能を備えたものであるのかなど当然ながら皆目わからない。

 しかしたった一つだけ、明白なのは。

 それが人を殺せる器械であるということ。それが目前の誰かを殺す為の道具であるということだ。

 目の前の、少女を殺す為に、サクラさんはそれを構えて差し向ける。

 その現実に皮膚が粟立った。

 気付いた時には、体が動いていた。

 立ち上がり、彼女の後ろから構えられた銃口を両手で包む。

 

「っ!? 碇さんっ!」

 

 離れようとする彼女に詰め寄る。彼女の持つ凶器に肉薄して、覆い被さり、その矛先を自身の鳩尾に抱え込んだ。

 硬い金属が胸骨の中心を抉る。衣類越しにもその冷えた感触が、暴力装置の非情が神経を通じて肉を、骨を凍てつかせる。

 背骨に響く恐怖。今触れている物体の秘めたる性能を身を以て感じ取った。過不足なく微塵の相違もない死を、これは製産できるのだと確信を得た。()()さえ、抱いて。

 

「ど、退いてください! はなっ、放して! 碇さん!!」

「ダメだ! 撃たないで、ください。綾波……あの子は」

「違います。あれは綾波レイなんかやない。言いましたやんか! アヤナミシリーズ。あれは仕組まれて、複製されたアヤナミレイの一人。碇さんの知ってる子は……あの子はヴンダーの、初号機の中です。碇さんかて見たでしょ!?」

「でも、あの子には撃たれなきゃいけない理由なんてない」

「あります! あれはネルフのエヴァパイロットです! 私達の敵なんです! 発見次第、殺さなあかんのです……!」

「何も、何もしてないのに……何の罪もないのに、殺されていいわけないよッ!!」

「碇さん……ワガママ言わんとってください!」

 

 死ぬのは一人。死ぬべきは一人。あの子ではない。罪を確定された者がここにいる。断罪されなければならない者はもう決まったのだ。判決文は既に読み上げられた。晴れて執行を待つ囚人がここにいる。僕はここにいるのに。

 こんな無法は許せない。有罪の徒が永らえ、無実の少女が死ぬなどと。あってはならない。

 進退は窮まった。

 身体のまさに中心へ突き刺さった弾丸はきっと貫通しない。背後の無垢な少女にその凶弾は届かない。

 あぁ。

 一瞬先、銃爪(ひきがね)一掻き分の未来に約束された死、碇シンジの終わりに、僕の、僕だけの終局に、僕は────卑しく安堵を噛んでいた。

 

「い、碇さん……なんで……なんでぇ……!」

 

 滲む声がする。潤んだ瞳が僕を見ている。

 そうか。僕はまた、サクラさんを悲しませたのだ。

 不意に、横合いからぬっと手が伸びて。

 

「!」

「えっ」

 

 ケンスケの手が、拳銃を上から包む。指先はしっかりと銃の本体である回転式弾倉(シリンダー)を掴んでいた。

 驚き戸惑い疑問、様々に感情の入り乱れる目でサクラさんがケンスケを見る。

 ケンスケはゆっくりと、まるで言い聞かせるように首を左右した。

 

「どアホゥ!!」

「っ!」

 

 怒声が建屋を揺らした。現実に、木造の壁や窓ガラスは反響でびりびりと震えている。

 目を怒らせたトウジが、少女と僕らの間に立ち塞がった。

 

「ここを何処や思とんねん! よりによってここで、人の命助ける場所でそないなもん見せびらかすな!!」

「で、でも、お兄ちゃん!」

「でももストもない! 誰だろうがどんな事情やろうがわしは許さん!」

 

 表情で全身で感情を露わにする彼の姿はあの日のままだった。腹腔から叱責に声を荒げる様は、いつかの夕暮れ時に見た妹想いの兄の顔だった。そして、医師としての義憤を燃やすトウジが、僕にはなんだか遠くに見えて、なんだかとても眩しかった。

 サクラさんは俯き、唇を噛む。悔しさ、なんかではなく心から恥じ入るように。トウジの言葉は鈴原サクラという人の心の琴線を震わせたに違いない。

 彼女だって、立派な医師なんだ。

 グリップを握る手が緩み、そのままケンスケが拳銃を引き取る。

 

「すまなかった。俺のミスだ。あの子のことはクレーディト経由で報告を上げてたんだが……どうも行き違いになってたらしい。もっと早く行動すべきだった。いや、事前に連絡できていれば」

「い、いえ。相田先生の所為じゃ……」

「……碇も、変に驚かせて悪かった」

「ううん、僕はいいんだ。あの、サクラさん」

 

 おずおずと名前を呼ぶと、サクラさんも伏し目がちにこちらを見上げる。

 掛けるべき言葉を少しだけ迷って。

 

「ごめん。えっと、その……ありがとう」

 

 納得してくれて──()()()くれて。

 

「っ、なんでお礼なんて言うんですか……私碇さんに、じゅ、銃向けてもうたのに、お礼なんてされたら……アホ! 碇さんのアホ!」

「ご、ごめんなさい」

 

 サクラさんが怒鳴る。舌足らずな罵倒に打たれる。ある意味、先程の比ではない怒りがそこには篭っていたような気がする。

 そこから逃げるような心地で振り返る。

 やはり少女は変わりなく、静謐な目でじっとこちらを見詰めていた。

 

「ちょっと前にな、村の外で倒れとったんをケンスケが連れ帰って来たんや。軽い栄養失調状態やったもんで点滴打って念の為に診療所に寝かしといたが。検診で異常は出んかったさかい大丈夫やろうとは思う。どや、調子の方は」

「……」

 

 トウジの問いかけにも少女は答えない。きょとんとした目でトウジを見ている。単に応え方がわからないだけなのかもしれない。

 

「出歩けるんなら上々。今日で晴れて退院や。おめっとさん! ははは!」

「おめっと……?」

 

 小首を傾げる。そうしてまた、彼女はこちらを見た。

 向き合って、顔を合わせて、すぐには声がなかった。あたふたと内心に言葉を探して、まごつく唇を叱咤する。

 

「えっと……」

「……」

「はじめまして、でいいのかな。君は……」

「……綾波レイ」

 

 こちらの声色に誰何するような響きを感じ取ったのか、彼女は名乗った。懐かしくて、仄暖かな、“彼女”の名を。

 そしてやはり、無反応じゃない。まだ感情が希薄(うす)く、静かなだけだ。この子はただあの頃の綾波と同じなんだ。

 

「でも、違う」

「え?」

「綾波レイじゃない。あの人がそう言った」

 

 背後に流れた視線はサクラさんに注がれていた。

 サクラさんはばつが悪そうに目を伏せる。

 

「いいんだ」

 

 自然とこの口はそう溢していた。

 サクラさんの警戒心も、目の前の少女の無垢な無知も、責められることなんかじゃない。

 悪くない。

 誰も悪くない。

 僕ははっきりとただ一人の瞭然な咎人を知っている。だからこの場の誰もが無実であることを確信できる。

 自分でさえ驚くほどに迷いなく。

 

「綾波は綾波だ」

「……そう」

「うん」

 

 頬が強張り、歪む。

 小さく呟く少女の所在無さげなその姿に精一杯の笑顔を作ろうと努力してみたけれど、上手く出来た自信はなかった。

 笑うって、こんなに難しかったのか。

 

 

 

 

 

 

 所用を済ませてくると言うケンスケと診療所で別れ、サクラさんの運転するジープに四人で乗り合う。といって、徒歩数分の場所に建っている家に、車で向かえば一分も要さない。

 木造平屋の一軒家。扉の横にスズハラとマスキング塗装された表札が提げられている。

 他人の家の匂い。少し、苦手な空気。

 

「ただいま」

 

 土間を抜けて、居間へ。卓袱台には男性が一人座っていた。黒より白の目立つ髪を短く刈って、丸い眼鏡を掛け、壮年を送り老年に差し掛かった年恰好の。

 

「こちら、洞木の親父さんや」

「……こんばんは」

「あっ、こ、こんばんは……え、でも、洞木って」

「くふふ、せやで~。まあまあ、それについてはまた後でのお楽しみっちゅうやっちゃ」

「ぷっ、なんやの勿体つけてから」

「ええやろサプライズや、サプライズ」

 

 呆れたように笑うサクラさんに、トウジはいかにも大袈裟にお道化た。

 

「お義父さん! ご無沙汰してます」

「おお、サクラちゃんか。お勤めご苦労だったね」

「いえ……道半ばで帰ってきてしもて。またお世話になりますね」

「なんの。自分の家に帰って咎められることなんてないとも」

「んで、こっちの二人が昼間連絡した子ぉらです」

 

 背中に添えられた手がそっと体を押し出す。

 紹介を受けたからといって、何か気の利いたことを言える訳じゃない。

 こちらを見上げる目に怯みを覚えながら、それでもなんとか口を動かす。

 

「ぃ、碇シンジです。今日から、お世話になります……」

「あぁ、そうか。君が……」

 

 腰を折って、頭を下げる。お辞儀というより前屈みたいだ。

 畳の目に視線を落として、頭上に曖昧な応えを聞く。言葉を探しあぐね、喉奥に出かかったものを淀ませ、含む声。

 それが当然だと理解している癖に、それでも体は、心は震えた。

 この人も、きっと()()なのだ────

 

「…………」

「あぁいや……そ、そうだ。預かるのは一人だと聞いてたが、そっちのお嬢さんはどちらさんだい?」

 

 返答に窮したのは何も自分だけではなかった。洞木さんはまるで逃げるように少女の方へ視線を泳がせる。

 居間に入ってから、“アヤナミ”は会話にも空気にも交ざることなく静かに佇立していた。

 

「あー事情がややこしゅうて説明が難で。わしの同級生のー、そう! そっくりさんです」

「そらそうやけど……もっと言い方ないん?」

「しゃーないやろ、そっくりさんはそっくりさんや。相変わらず細かいとこに喧しいやっちゃな」

「あんたが大雑把やっちゅうとんねん!」

「へへぇ、そらえろうすんませんなぁ」

「ッ~~!」

「おぉ! 怒った! 般若がお怒りや!」

「誰が般若やねん!?」

 

 サクラさんの控えめなボディブローがトウジの脇腹を打つ。

 ひどく幼稚な応酬を、けれど洞木さんは懐かしそうに眺めていた。

 家族が帰ってきたからだ。それも遥か遠く、戦地から。

 僕の所為で、サクラさんはあの戦闘艦から降りることを余儀なくされた。でも、今こうして“故郷”に、家に帰って来られた。

 ……頭を振る。都合の良い自己解釈を払う。

 何も思うべきじゃない。況してや、それを幸いだなんて、どうして考えられる。どうしてそんな風に受け取っていいだなんて勘違いができる。

 その場に正座して、もう一度頭を下げた。

 

「どうぞよろしくお願いします」

「ん、ああ」

「ほら、アヤナミも」

「どうして?」

 

 立ったままのアヤナミが、また小首を傾げて不思議そうに僕を見下ろす。

 少し考える。

 

「……大事なことだと、思うから」

「大事なこと……命令?」

「ち、違うよ。命令なんかじゃなくて……知る為に、必要なこと」

 

 相手を知る為に、そして相手に自分を知ってもらう為に。

 僕がずっと忌避し続けてきた当たり前。

 とても些細で、ずっとずっとずっと心底怖かった。今も怖い。この、歩み寄るという行為。

 怖くて、痛くて、辛い。()()()そうする。怖くて痛くて辛いなら、それは今の僕がすべきことなんだ。

 

「知ってもらうんだ、僕と、アヤナミのこと」

「……そう」

 

 ぽつりと呟いて、アヤナミは僕の隣に同じように正座した。

 そうしてくたり、と頭を下げる。

 

「願います」

「ち、ちょっとはしょりすぎかな……」

「?」

「ふ」

 

 惚けた遣り取りに呆れたのか、可笑しかったのか、洞木さんは少し笑った。

 

「そう畏まらんでくれ。私など、半ば隠居の無駄飯食らいだ……こっちこそよろしく頼むよ、シンジくん」

「っ! は、はい」

 

 卓上に下げられた白髪を見て、慌てて頭を下げ直す。

 お辞儀をし合うだけの束の間が、なんだか可笑しくて、くすぐったい。

 

「なんやなんや堅苦しい。自分の家や思てリラーックスしたらええねんで。ほれ、こういう具合に」

「碇さんは行儀とか礼節とかちゃんとされとるんです。も~ええ歳こいてはしゃぎなや恥ずかしい」

「これは泰然自若いうんじゃ」

「今でこそこんな感じだがね。昔トウジくんが娘と婚約したことを報告に来た時なんかガチガチだったぞ。今のシンジくんの比じゃないくらいだ」

「ちょっ、親父さんそら言いっこなしですわ!」

「ふはははは」

 

 豪快な笑い声が居間に響く中、ふと引き戸の開かれる音が聞こえた。ただいま、という声と共に。

 控えめな足音、程なく襖が開き、そこに女性が立っていた。

 

「おぉ、おかえり。待っとったで」

「遅くなってごめんなさい」

 

 化粧気の薄い和かな面差し。記憶野を刺激したのは、その印象的なそばかすだった。髪を一つ結びに纏めて年相応の落ち着きが見える。そして以前よりもずっと、嫋やかな佇まいをしていた。

 柔らかな気配、それはきっと腕に抱いた小さな存在を包み込む為の。

 洞木ヒカリ……いや、鈴原ヒカリその人だった。

 

「委員長……!」

「ふふ、懐かしい。その呼び方。久しぶりね、碇くん」

「うん、久しぶり。あの……その子は、もしかして」

 

 満面に驚きを映している自覚はあった。

 実際、トウジはしたり顔でそんな僕を笑っている。

 

「わしらの娘、ツバメや」

 

 つぶらな瞳に自分の顔が映って見える。それくらい澄んで、綺麗な目。赤ん坊らしいふくよかな頬、袖から覗く手もむちむちとしている。

 血色の良い顔はとても表情豊かだ。不思議そうにこちらを見詰めていたかと思えば、むずがって目も鼻も口も皺くちゃにする。

 頻りに開いたり閉じたりする手のひら。宙を掻いていたそれが、す、と伸びてきた黒い指先を握った。スーツに包まれたアヤナミの指だった。

 アヤナミは大きな目をさらに大きく見開いて、赤ん坊に見入っていた。

 

「ぉ」

 

 反射的に発し掛けた言葉を、寸でのところで飲み込んだ。不意の驚きが招いた迂闊さを呪う。自制、自制、自制。

 この口が、その言葉を吐く呪わしさを思って────

 

「いいの、碇くん」

「え」

「言葉にして聞かせて。そうしてくれたらとっても嬉しい。私もこの人も、ツバメも」

 

 優しい笑みだけがあった。委員長もトウジも、アヤナミにあやされるツバメも、笑っていた。

 息が詰まる。振り絞っても勇気など出て来やしない。躊躇が舌に貼り付いて、突発性失声症を引き起こそうとする。

 だからこれは、勇気でも強さでもない。ただ零れ落ちてしまっただけだ。

 溢れ出すように、ただ一言。

 

「……おめでとう」

「ありがとう」

 

 身の程知らずの吐いた言祝ぎを。

 この人達はどうして、こんなにも喜んでくれるのだろう。

 

「どうして泣いてるの?」

「っ、な、泣いてなんかないよ」

「でも」

 

 なお言い募ろうとするアヤナミから顔を背けて、腕で覆い隠す。

 羞恥心と罪悪感で胸の中はぐちゃぐちゃだった。きっと、それと同じくらい僕の顔はぐちゃぐちゃになってる。

 無垢な視線が痛い。

 労しげに背中を擦る手が、痛い。

 この家も、この人達も、どうして────どうしてこんなに優しいんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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