遥かなるヴンダー (ブッカーP)
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プロローグ

「愛情には1つの法則しかない。それは愛する人を幸福にすることだ」―スタンダール


「シンジ君、3ヶ月後に転勤だから」

 

 夕食の席で唐突にそう告げられたシンジは、危うく瓦そばを喉に詰まらせるところだった。

 

「は、転勤?どこへ?」

 

「ミクロネシア」

 

 マリの口調は、隣の課に異動になったよ、ぐらいのものだ。

 

「奄美大島?」

 

「奄美大島じゃない。ミクロネシア。外国だよ」

 

「ミクロネシアって……どこ?」

 

「シンジくーん。もっと地図帳を読んだ方がいいよ。ミクロネシアはフィリピンのずっと東にある国だよ。日本から行ったら、グアムのもう少し先、と言えば分かるかな」

 いやいや、地図帳なんて読んで楽しいのはマリさんだけだよ。確かに、ネオンジェネシスでいろいろと「戻った」地球の姿を知った時はシンジも感動したものだったが、シンジにとって世界はそれっきりの価値しかないものだった。

 

「それ……本気?」

 

「冗談で言ったつもりはないけど」

 

「いや、だってマリさんの会社、そんなところに事業所ないでしょ。それにマリさんは研究職だって」

 

「それがあるんだにゃー。私の会社、知ってるでしょ?」

 

「もちろん。北崎重工って言ったら、三菱やIHIに匹敵する航空系製造業の最大手で……」

 

「そゆこと。私は簡単に言うとそのロボット部門にいるんだけど、今度からJAXAとか防衛省とか……おっと守秘義務だから今のは忘れて……宇宙服の開発をやることになったんで、北崎からも人を出すことになったんだにゃ。共同開発ってことよ。で、その開発をやる所が国連直属の開発研究専用大型人工島ってことなのよん」

 

 国連直属の人工島ねぇ……ネルフという国連直属の組織が今までの人生、そのほとんど全てだったシンジとしては言いたいことの一つもあったが黙っていることにした。目の前の女性はそれ以上に人生をネルフに費やしているはずだったからだ。エヴァの呪縛から解放されたはずなのに、ロボットで宇宙って……本当に呪縛はないのだろうか。

 

「で、その場所がミクロネシアって所なのよん。正確に言うとチューク諸島という島の集合体の中に、すっごく大きなメガフロート施設を作ったんだって」

 

「へー」

 

「あれ?わんこ君は興味ない?」

 

「い、いや。海外に引っ越すなんて考えたこともなかったし……」

 

 幸いかどうか分からないけど二人とも天涯孤独の身で、親族に気を使う必要はないけど、見たことも聞いたこともない国にいきなり引っ越しをするなど、それだけでシンジの頭の中はオーバーフローしてしまうのだった。手紙一通で新第三東京市に呼び出された時の方がまだマシとすら言えた。

 

「シンジ君、パスポートは新婚旅行の時に作らなかったっけ」

 

「そりゃイギリス旅行の時に作ったけど……じゃなくて!言葉とかどうするの?僕はほとんど英語喋れないのに」

 

「別に喋れなくたって問題ないよ」

 

「へ?」

 

「引越し先は日本企業の社員の居住区だから、英語なんて使うことないよ。まぁ、喋れればいろいろ便利だけどさ」

 

「……それはそうと、僕の会社はどうするのさ?ミクロネシアに支店なんてないよ!」

 残念ながら、シンジの職場はありふれた飲料会社のありふれた総務職である。海外はおろか県外にも拠点はあったかどうか。

 

「うーん。大変心苦しいのですが、辞めてもらうしかないですねー」

 マリの言葉はどこまで行っても明朗快活、悩みを探すのに苦労するほどだ。

 

「辞めて生活どうするのさ!」

 

「シンジ君、転職先探していなかったっけ?まぁ、南の島でだって仕事は探せば見つかると思うし、この際、永久就職に切り替える?」

 

「永久……就職……どこに?」

 回答など分かりきっていることだが、敢えて知らないふりをする。二人の経済的な力関係を認めることに、気恥ずかしさがあるからだった。

 

「私に決まってるじゃん。今度の職場だと、家賃はかからないし、遠隔地手当ががっぽり入るから、シンジ君には家で家事やって子供の世話してくれるだけでも十分やってけるよ。何年かして日本に戻ったら、キャッシュで家が買えるかもよ」

 

「子供なんていないじゃん」

 

「いずれそうなるんだから先に言っただけだよ。第一、シンジ君には何があってもついてきてもらうつもりだから」

 

「……どうして?」

 

「人類補完計画はゲンドウ君だけで懲り懲りだにゃ。君を一人ににはしておけないよ」

 

 そう言われてはシンジに返す言葉はなかった。

 




マリの就職先を北崎にするかサカタインダストリィにするか一瞬迷いました。
後者だったら舞台はハフマン島だったでしょうけど。


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JSP-03 (1)

「愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである。」―サン・テグジュペリ


「この飛行機は、ただいまからおよそ20分でチューク国際空港に着陸する予定でございます。ただいまの時刻は現地時刻で午前7時30分、天気は晴れ、気温は35度でございます。

着陸に備えまして、皆さまのお手荷物は、離陸の時と同じようにーー」

 

「ねぇ!シンジ君見て見て!!」

 窓際席に居たマリに襟を思いっきり引っ張られ、しぶしぶ窓から外の光景を見たシンジは、その威容に思わず感嘆の声を漏らした。

 

 シンジだけではない。

 

 機内は二つの集団に分かれていた。子供のように窓にへばりついて外を見ようとする者、何が面白いのだと言わんばかりに書類から目を離さない者。後者の共通点は、ここに何度も来たことがあることだった。

 だからといって、前者に属するひとびと全てが、この光景を初めて見るわけではなかった。

 

 眼下に展開されるのは巨大な環礁(ラグーン)だった。長い長い珊瑚礁が歪な三角形の囲いを形作っている。これだけ大型の環礁は世界でも類を見ないものだという。

 

 環礁の中には島が点在していた。ガイドブックには248の島が存在しているとあった。目が良ければ、その中で最も大きな島に滑走路があるのが見えたかもしれない。

 

 しかし、衆目を集めているのは、環礁でもなければ島々でもなかった。環礁の中に存在する巨大な十字型の構造物ーーそれこそが、観客の歓声を浴びている存在だった。

 

「あれがーーJSP-03なんだ……」

「そうだよ。巨大なメガフロートをいくつもつなぎ合わせて作った、超巨大人工島だにゃ。縦横それぞれ30キロだから、ジオフロントよりもずっと大きいんだよ。」

「へぇーー」

 

 まるで巨大な絆創膏のようだ、シンジは何故だかそう思った。

 

 羽田空港から直行便で5時間、二人はまもなく目的地のミクロネシア連邦チューク国際空港に到着しようとしている。

 

 

 

 マリから転勤を告げられてからの三ヶ月は、嵐のようなものだった。

 事前の予想と異なり、シンジの退社は滞りなく終わった。上司は一通り慰留したが、シンジが事情を話して拒絶の意思を示すとあっさりと引っ込めた。昔は女房が旦那の転勤についていったものだが時代が変わったのかねぇ、という感想とも嫌味とも取れぬ課長の一言が、唯一の抵抗と言えた。

 シンジとしては、むしろ祝福とか羨望の感想が強いのに戸惑った。いろいろ聞いた話を取りまとめると、テレビドラマに良くあるような裕福な海外駐在員の姿をシンジに重ねているらしく、シンジとしてはそちらの方がありがた迷惑であった。

 

 むしろ障害となったのは、海外転勤に伴う書類の準備とか引っ越しの準備だった。マリの仕事量が増えたため、それらの準備はほとんどシンジがやることになった。マリの代わりに、北崎の研究所に書類を取りに行った時、対応した社員から、ああーー貴方が碇さんのーーと訳知り顔で言われた時は、あいつ自分のことを何ていってるんだ、まさか他人にまでわんこ君呼ばわりしているんじゃあるまいな、と思ったものだった。

 

 三ヶ月間を手続きと荷造りと付け焼き刃の英会話教育で過ごし、碇シンジはミクロネシア連邦チューク国際空港に降り立った。

 

 

 

「海って……青いんだね」

 連絡船の中でシンジがつぶやいた。空港は、環礁の中にあるウェノ島という島にある。「巨大な絆創膏」JSP-03には連絡船を使って行かなければならない。直接行ければいいのにとシンジは思ったが、宇宙開発実験施設、JSP-03が機能を発揮するには、離れたところに航空路がなければいけない、ということらしかった。

 

 それまでのシンジが知る海とは、赤くて塩辛いだけの存在だった。ネオンジェネシスのあの瞬間、青く、どこまでも広い空間が海なのだと、初めて知ったのだった。

 

 セカンドインパクトによる海の浄化(by碇ゲンドウ)は、新しい世界では存在しなかった。セカンドインパクト自体はあったものの、それはアメリカ合衆国で発生した大規模テロに端を発する世界規模の核戦争、ということになっていた。

 

 日本もその災禍を免れることはできなかった。核の炎で関東は吹き飛ばされ、首都機能は第二新東京市に移転、将来の遷都先として第三新東京市が建設されていた。但し、後者に使徒とどうこうするという機能はなく、純粋に「高度な防災・防衛機能を有する」だけの都市だった。エヴァも使徒もこの世界には存在しないのだった。シンジの知ってる第二、第三と比べて都市規模もずっと小さいらしい。

 

 実際のーーそう言っていいならーーセカンドインパクトと比べれば随分とましじゃないか。シンジにはそう思えた。もちろん、それに賛同してくれる人はほとんどいないのだけど。

 

 

 

「そうだよ。知らなかった?」

 いつの間にかシンジの横に居たマリにそう言われて、シンジはびくりとした。右手には紙パックのジュースを二つ持っている。

 

「マリさんそんなこと言うんだ。……そうか、マリさんは『赤くなる前』を知っているんだね」

 

「ーーーーそうーーだね。また青い海を見ることができたのは、君のおかげだよ。君はよくやったよ。ユイさんも。私にはとても叶わないなぁ」

 

 シンジに一つジュースを渡すと、マリは連絡船のデッキですうっと息を吸い、目を閉じた。今まで起きたいろいろなことを思い出す。絶望(ロンギヌス)も、希望(カシウス)も、人の何倍も体験した。でも、自分の人生にはどちらもまだまだ足りないらしい。そういう人生になってしまったんだろうな。主に目の前の碇シンジによって。

 ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスは、自分の人生を喜劇に例えたと言うが、最後には自分もそういう終わり方でありたいなぁ。

 

「昔のことを思い出してるの?」

 

「どして?」

 

「マリさん、涙流してるよ。」

 

「え、あ、ほんとだ!」

 マリは慌てて目を拭った。柄にもない思い出などするものではない。第一、この世界では、そんな思い出を共有してくれる人は、ただ一つの例外を除いて存在しないのだ。

 

「思い出に浸るのもいいけど、しばらくは覚悟しておいてくださいよ。このスーツケースプラスアルファで一か月ぐらい過ごさなきゃいけないんだから」

 

「なーに。わんこ君が居れば心配なっしんぐさー。どんとこーいよ」

 

「まったく気楽なんだから……」

 

 シンジは嘆息しつつ船の進行方向を眺めた。白亜の十字要塞ーーJSP-03の初期デザインが公開された時にマスコミがつけた綽名ーーの威容が迫ってくる。絆創膏の中央部分にあるビル群は、シンジの知る新第三東京市もかくやという規模である。

 

 

 

「うーん。なんもないねー」

 

 マリが嬉しいような、困ったような声を出した。

 JSP-03の新居に入ってからの荷ほどき作業は、ぴったり15分で終わった。北崎重工が用意した社宅は、どうということはないマンションの3LDKの1室だったが、二人が広げる荷物は持参したスーツケースと、段ボールが数個、それだけである。とりあえずの着るものと貴重品、マリ(とシンジ)の仕事道具、デジタルデバイスと医薬品と食料品、それしかない。荷物がそれだけなら、荷ほどきもその程度というものである。

 どうしても、という荷物以外は船便にした結果がこれである。例えば、マリが一生懸命荷造りした大量の本は、今頃貨物船の中にあって太平洋のどこかに居るはずである。

 

 もっとも、これは初めから想定されていたことである。航空便を使っていてはお金が嵩むばかりでどうしようもない。ならば、荷物は最小限に止めて、後は現地調達してしまおう、これが二人の下した判断だった。幸いなことに、家具類は最初から用意されている。それに不満がなければ、生活するのには困らなかった。質さえ文句を言わなければ、テーブルもソファーもテレビも寝具もある(ついでに言うと新品を用意してくれた!)。エヴァパイロットとしての生活に慣れすぎた二人としては文句のつけようがない。

 

 シンジはテレビのリモコンを点けた。日本から遥か離れた場所に居るはずなのに、NHKのニュースをやっている(といっても、日本から電波が届くはずはないので、全チャネルケーブルテレビではある)。JSP-03の時差は日本標準時と比べて+1時間、ということはこちらの時間で午後八時の時に、NHKでは7時のニュースをやってることになる。

 

 

 こうやってNHKのニュースを見ていると、自分が日本から遥か離れた場所に来ている実感が湧かなくなる。まるで沖縄のリゾートに旅行に来たような感じだ。シンジは沖縄に行ったことがないからそう感じただけだけど。

 

「ま、しょうがないか。そろそろご飯にしよ」

 

 そう言ってマリはテーブルにあれこれ並べだした。といっても、オーブンレンジで温めたピザと付け合わせで買ってきたサラダとビール、そんなものぐらいである。設備さえ整っていればピザを焼くことなどわけもないシンジとしては、目の前の状況はある意味屈辱と言えるが、今日ばかりは仕方ない。妙にリゾート気分なのは、食卓のメニューがそうさせているのかもしれなかった。

 

「それでは、これからの新生活の成功を祈願しまして……」

 マリの音頭に二人は一斉に缶のタブを引っ張った。

「乾杯!」

 

 

 そして祝宴は夜通し続きーーとはならなかった。食事しつつ缶ビールを2缶空けたところでマリは轟沈してしまった。外から見る限り、常にパワフル全開燃料無尽蔵の彼女だったが、それでも燃料切れの瞬間というのは存在するらしかった。

 そんなマリをソファに放置し、シンジはテレビを見ている。日本と変わらない、どうということのない番組だったが、何故だか親近感を感じるものがあった。これがホームシックというやつか。今日来たばかりなんだけど。

 

 マリは相変わらず起きる気配を見せない。さすがに夜間に放置するのも問題だと思って、シンジはベッドから毛布を取ってきた。せめて眼鏡は取ってやらないと。

 

「シンジくぅーん……」

 

 毛布をかけようとして突然名前を呼ばれたのでシンジはびくっとした。だが、特に何かを聞くでもなく、また寝息をたてはじめたので、シンジは安心した。

 

「……わたしのこと、愛してる?」

 

 唐突に出てきた言葉ーー多分寝言だとは思うがーーにシンジは背筋を震わせた。マリはと言えば相変わらず寝息を立ててすうすう寝たままだ。

 一体どんな夢を見ているのだろう。シンジは思った。そういえば、冗談でもマリからあんなことを聞かれたことはなかったな。ネオンジェネシスで新たな世に「転生」し、マリとの絆を疑ったことはなかった。あの浜辺で消えるはずだった自分に、新たな生を紡ぐべきだと道を示してくれた人、どんなことがあっても迎えに行く、という誓いを果たしてくれた人。そんな人の想いを裏切れるわけはないんだけどなぁ。よっぽど心配性なのか、それとも信頼性がないのか。どっちだろうね。

 

 シンジはくすっと笑って、マリに毛布をかけた。

 

「もちろんだよ。マリ」

 




ネオンジェネシスで世界を書き換えた時、どこまで歴史を切り戻して書き換えるのか、なかなか議論が必要なところではありますね。


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JSP-03 (2)

「真の愛にハッピーエンドはない。なぜなら真の愛に終わりはないからだ。」―アレクサンドロス大王


 JSP-03を白い十字に例えるなら、居住地区は主にその中心部、二つの線が交差する所にあり、四方に伸びる線の中央部が会社のあるところ、先端部が港湾施設だとか企業の実験場とか倉庫とか、そういう施設になる。だから、人々は寄り集まって寝起きし、朝になると四方に散る、夜になると中央に寄り集まる、というルーティーンを繰り返すことになる。もちろん、そのためにモノレール、バスといった公共交通機関も十分用意されている。

 

 マリもその例外ではなく、自宅のすぐ近くにあるモノレールの駅から北崎の研究所に向かっていた。行きたい方角ごとに路線があって(E、W、S、Nとまるで遊園地みたいだとマリは思った)中央から行く分には、乗り換えというものは存在しない。行き先さえ間違えなければ、何とも便利だった。

 問題は、その「行き先」が何とも分かりにくいことだった。JSP-03では、地名とはこれすなわちメガフロートのブロックにつけられたコード番号であり、東西南北でEWSN(それと中心部のC)、それに数字がついたE-XXという数字列で表される。まるでJRのコード番号みたいで慣れないと覚えにくいんじゃないかとマリは思ったが、現地住民がどう思っているかはマリにはまだ分からない。

 

 待ち合わせ場所は、E-13駅の改札ということになっていた。改札と言っても、JSP-03では顔認証で行動が把握されるから切符のチェックという概念は存在しない。移動した分、料金が銀行口座から引き落とされるだけである。ここでの改札は、事故とかの都合で立ち入りを禁止する時だけ、その機能を発揮するのだった。

 

 駅の入り口近くに一人の若い男がきょろきょろとこちらを眺め回している。マリを認識したのか大きく手を振ってきた。マリもそれに気づいて駆け寄る。

「碇さん、ですね」

「どうもこんにちは。迎えに来てくれてありがとう」

「こんにちは。こうして直で顔を合わせるのは今日が初めてですか」

「そうだねぇ。今までオンラインでは何度も見てきたから、初めてというのも違和感あるけどねぇ。島村カズト君」

「そうですね」

 島村カズトと呼ばれた青年は、マリを案内してN-13駅の出口から階段で地上に降りた。髪をオールバックにして黒縁の眼鏡を掛けている彼を改めて見ると、振る舞いのどこかにシンジを感じるものがあるなぁとマリは思った。まぁ、あれぐらいの「見込みがある」男なら大体そうかもしれないけど。

「オンラインじゃ分からなかったけど、背、高いんだねぇ」

「そうですか?177ですけど」

「十分高いじゃん」

「そりゃどうも。ではこちらへ。車を用意してありますから」

 

 駅前に停めてあった軽自動車に、カズトと共にマリは乗り込んだ。

 車は自動運転だった。JSP-03では、自動運転対象の区画では、特段の事情がない限り人が運転することはできないらしい。ここで人が運転するのは贅沢の部類だ、カズトはそう言い切った。

「自動運転で心配にならないの?」

「慣れの問題ですね。長くても一か月ぐらいでみんな慣れてしまいます。まぁ、徹夜仕事で帰りに事故の心配をしなくて住むのは有難いですよ。配車サービスなんかよりよっぽど安心できます」

 

 ハンドルがひとりでにくるくると回る様をマリは不思議そうに見つめた。新型だとハンドルやアクセルはカバーにしまわれて見えないようになってますよ、とカズトは言った。運転席に座っているカズトは、外を見ようともせずにあちこちに電話をかけている。

 

 10分ほどして車は北崎重工JSP-03先端研究所、その正門入り口に到着した。

 

 写真では見ていたが、実際に目にする北崎重工業JSP-03先端研究所の威容には圧倒されるばかりである。3キロ四方のブロックを丸々研究所として使っているのだから、規模としては日本国内のどんな研究施設よりも大きいはずである。建物自体は5階建のどうということはないビルだったが大きさだけでお腹いっぱい、という感じであった。カズトとマリは入り口のゲートで認証を済ませると、車のまま研究所の構内に入った。

 

「研究所の棟ごとに駐車場はありますが、台数が限られています。いつもは正門から送迎バスを使うか、アプリで送迎カートを呼び出してください」

「正門から歩いていってもいいのかい?」

「炎天下の中でランニングしたければお任せしますよ。ただ、熱中症には気をつけてくださいよ」

「じゃ、やめとくか」

 

 程なくして車は目的地、先端研究所C棟の駐車場にたどり着いた。車を降りると、車の方は自動的に走り去っていく。社用車の駐車場に移動するのだそうだ。

 

「ひゃー」

 C棟の構内に入ったマリは、思わず感嘆の声を漏らして固まってしまった。

 宇宙服の開発のためには、宇宙環境の再現が必要であり、宇宙環境の再現のためには特殊水槽の中に宇宙環境と同じ設備を設置するのが手っ取り早い。宇宙空間で実験をするわけにはいかないからだ。

 こと宇宙開発について、水槽は伝統的かつ一般的なオブジェクトだったが、C棟に設置されているそれは規模が違いすぎた。体育館の50mプールをさらに拡大したような水槽が目の前にあり、水槽の深さは5メートル以上もあろうか。もちろん、周囲から中を見ることができるように、特殊ガラス製である。

 

「間仕切りしてありますから、水泳はできませんよ。横50メートル、縦20メートルのうち、こちら側20メートル四方がウチのテリトリーです。向こうは、来月のミッションのための訓練施設になってますよ」

「来月?例の宇宙ステーション増設工事のこと?」

「そうですよ。宇宙往還機はウチが出しますからね。訓練施設もウチのところでやってます。発射から宇宙空間作業まで全部ウチでやるのは今回が初めてで、気合入ってますよ」

 カズトは嬉しそうに言った。宇宙開発のために、わざわざ日本から数千キロ離れたところまでやって来るのは、大なり小なり宇宙に魅せられているから、というのが世間の見立てなのだが、カズトはその典型例らしかった。

 

「それだけじゃないんです」

 カズトの話は止まらない。

「これと同じ水槽がD棟にもあります。あちらは……まだ公開情報ではないですが、ヴンダープロジェクト用の実験施設として使われていてですね」

「ヴンダープロジェクト?EUの?」

「ですね。ま、ここだけの話にしておいてください。これは」

 カズトはまだ話し足りない感じであったが、胸に入れてある端末が鳴り出した。何事か話して、マリの方に振り向く。

「課長の会議が終わりました。うちの課のみんなが会議室に集まっているそうです。行きましょう」

 

 水槽のブロック、そのすぐ横が事務スペースになっていた。こちらは、どこにでもある会社の風景と変わらない。違うのは、男女共にベージュを基本としたブルゾンとパンツを着用していることだった。日本のものと変わらない、北崎重工の制服だった。おかげで、夏用スーツ姿のマリはひどく浮き上がっていた。

 

 カズトに課長と呼ばれた人は、デスクから立ち上がり手を差し出してきた。背は低く、マリの方が多分高いのだが、体つきはがっしりしているのが分かった。エネルギッシュを人型にしたような感じ、マリはそう思った。

「君が碇君か。課長の児玉だ。君の評判は聞いている。期待しているよ」

 マリは児玉ヒロシーー首から提げた社員証にはそう書いてあったーーから差し出された手を握ろうとして、逆に握り返された。痛い。素の握力はかなりのものらしかった。

「ああ、痛かったらこれは失礼。ついいつもの癖でね。娑婆の力加減……おっと今のは忘れてくれ」

 

 児玉はそう言うと、事務スペースの机に居る面々にマリを紹介して回った。大抵は事務的な自己紹介で終わったが、怪訝そうな顔をしてマリを見つめる人が多いことに気が付いた。宇宙服開発主任が女性だとは思っていなかったんだろうさ、児玉はそう言った。

 

 仕事で関係する設計官や事務員、医師等に挨拶して周り、最後に来たところは相手が不在だった。 

 穂積君はどこかね、児玉は先ほど自己紹介をした社員に聞く。あー、ミッションが押していたみたいですけど、そろそろ戻るはずですよ、という答えがあった。同じタイミングで、奥の扉が開いた。

「あ、すいません!遅れました」

 一人の女性が駆けてくる。小柄で、短髪で栗色の髪、顔立ちは幼く、見ようによっては中学生か高校生が紛れ込んでると見えなくもない(もちろんそうではないんだろうけど)。でも顔立ちは誰もが好意を持つようにできている。

「お、丁度いい。穂積君、こちらは新しく配属になった碇君だ」

「碇マリです。よろしくお願いします」

 マリは頭を下げた。穂積と呼ばれた女性はマリを眺めてぽかんとしている。どうやら、彼女も新しく配属されるのは男と思い込んでいたらしい。

「え、あ……穂積アヤノです。よろしくお願いします」

 アヤノは思い切り頭を下げた。マリはそんなアヤノを眺めていたが、ふと何かを思い出すものがあった。

「……どうしたんですか?」

「え、あ、いやー、ちょっと知り合いに似ていたもので。まぁ、これから、よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします。あ、では課長。EVAU(イーバウ)のセットアップに戻りますね」

 そう言うなり、アヤノは慌てて事務スペースから駆けだしていった。課長の返答には興味がないようだった。児玉はアヤノが出ていったドアの方を一瞥した。

「……済まんね。目の前に、そのEVAUの担当官が居るというのに」

「いえ、いいんですよ。彼女が新型EVAUのオペレーターですか?」

「そうだよ。君の三か月前に配属になったばかりの新人さ。外見が良くてエネルギッシュなのは有難いが、まぁ、大学出てすぐの時はあんなものか。多分、君と付き合いが長くなると思う」

「でしょうね」

 マリは彼女が出ていったドアの方を見つめたままだった。

 

 

 

「あー、今回、JSP-03先端研究所宇宙服開発第一課に配属となりました、碇マリでーす!よろしくおねがいしまーす!趣味は読書とダイビングと旦那さんデース!(ウケ狙いのつもりが完全にスルーされた)よろしくぅ!!」

 

 その夜行われたマリの歓迎会は、中央区にあるどうということもないチェーンの居酒屋で行われた。歓迎会と言いつつも事実上は普通の飲み会で、マリが席ごとに頭を下げて挨拶した以外は、各々テーブルで飲み食いしながらあれこれ話をしていた。

 

 席に戻ったマリは、課員のリストを頭に思い浮かべながら、何か忘れていないかをチェックしていた。

「あ、そうだー。カズト君」

「何です?」

「そういえば穂積さんはどこに居るんだっけ」

 課員のうち、穂積アヤノに挨拶していないことを思い出したのだった。

 

「あー。穂積さんはベジタリアンで、お酒も飲めないからこういう場にはあまり来ないんですよね」

「ああー。そうなんだ」

 

 マリはうなずいて、目の前に運ばれてきた刺身盛りに箸を伸ばした。こんなに美味しいのに実に勿体ない。そういえばシンジも、最初お刺身を気味悪がっていたことをマリは思い出した。無理もない。あちらの世界では、海産物なるものは存在しなかったのだ。

 もっとも、シンジが魚の味を覚えるまで一月もかからなかったのだけど。

 

「酒に対してまさに歌うべし。人生幾何ぞ、例えば朝露の如し……ドライ派(アルコールが飲めない人)はもったいないにゃ。うわばみのように飲むのも、それはそれで風情はないけど」

 

「短歌行、曹操かね」

 

 そう言われてマリが振り向くと、児玉が立っていた。焼酎のロックを持って立っている。

 

「あらー。分かりますか」

「そりゃそうだ。有名だからな」

「有名だって言ってくれた人、児玉さんが初めてですよぅ」

「漢詩か三国志に興味があれば、かな。知り合いに君と似たような人が居てね。仕事の偉いさんさ」

「うちの会社ですか?」

「いや。お役所の方だ。碇くんとは関わり合いにならないと思うが」

「ふーん」

「それはさておき、折角JSP-03まで来たんだ。仕事の活躍を期待しているよ。新型EVAUのテストは来週から本格的に始まる。あと、体調に気をつけてな。南洋ボケとかあるから」

「あ、それは座学で聞きました」

「そうか。なら、碇君の赴任とこれからの活躍を祈って」

「「「乾杯!」」」

 

 

 

「どうしたのマリさん。そんなに酔っぱらって」

「うーん。今日はペースを上げすぎたにゃ。久々に」

 歓迎会から帰宅するなりマリは玄関で倒れこんでしまった。慌ててシンジが駆け寄ってくる。

「そんな所で倒れていないで、せめてソファーに座ってよ。お水も持ってくるから」

「ついでに〇ャベジンも頼むにゃー」

「わかったわかった。で、どう?仕事はやっていけそう?」

「どうかにゃー。それはおいおい分かるんじゃないかな。でも、面白い人、沢山いることだけは確かだにゃ」

「例えば?」

「うーん。零号機パイロットに似てる人が居た」

「綾波に?」

 シンジの声のトーンが突然低くなる。

「え、あ、性格も外見も違うけど、雰囲気がねー」

「……まさか綾波じゃないよね」

「まぁ。そんなに気にすんない。世界に同じ顔の人は三人居るって言うしさ。まずは、私たちだけでも生きてみることだよ。もし、レイや姫がこの世に居るなら、縁が導いてくれるってものよ」

 それだけ言ってマリは本当に潰れてしまった。そんなマリを見るシンジは、「生き写しの女性」がどんなものかを想像したのだった。

 




 佐藤大輔ワールドからキャラがどんどん出てきます。代わりにエヴァの世界からキャラが出てくることはない予定なんですが、どうしましょうか。
 この世界がどうやって成り立っているのかについては、おいおい語っていく予定です。


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