トレーナーさんが死んだ (穏健派)
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トレーナーさんが死んだ

 

 

「キミのトレーナーさんが亡くなった」

 

 部屋に寮長のフジキセキ先輩が飛び込んできたのは消灯直前の10時頃だった。

 携帯電話を固く握り締めた彼女の口から漏れ出した言葉を、最初は理解出来なかった。

 

「…………へ?」

 

 アタシ、ナイスネイチャはベッドに寝転んだ体勢のまま、素っ頓狂な声を出した。

 同室のマーベラスサンデーも状況が理解出来ないのか、ポカンと口を開けたままだ。

 

「………交通事故らしい。友人の結婚式の帰りに、車に轢かれて……」

 

 いつも颯爽とした態度でウマ娘達を翻弄しているフジキセキ先輩のウマ耳はペタンと垂れ、その顔は苦悶に歪んでいた。

 そんな光景を、アタシは呆然と眺めていた。

 

「アタシの……トレーナーさん……が?」

 

 ベッドからゆっくりと身体を起こしながら、震える声で言葉を紡いだ。

 

「嘘、ですよね……?」

 

 冷房が効き過ぎているという訳でもないのに、悪寒がする。

 身体がガクガクと震え、極寒の雪山のど真ん中に放り出されたかのように歯が独りでにカチカチと鳴り出した。

 

 認めたくない。

 

 認めたくない現実が、眼前まで差し迫っている。

 

「ははは、トレーナーさんが……? 無い、そんなことある訳無い。あんな健康で馬鹿真面目な人が……」

「ネイチャ……」

「そう、ですよね? トレーナーさんが亡くなったなんて、ドッキリか何かですよね?」

「…………ネイチャ」

 

 縋るような気持ちで尋ねるが、フジキセキ先輩は口を閉ざしたまま俯いて何も言おうとしない。

 ギリリ、と噛み締めた奥歯が音を立てた。

 

「……違うって」

「…………」

「違うって言ってよ!」

 

 思わず口を突いて叫んだ怒号が深夜の栗東寮に響き渡った。

 恐らくアタシの大声で跳ね起きたウマ娘もいるかもしれないが、そんな事に気を配る余裕は無かった。

 

 動揺と混乱のあまり呼吸が乱れ、残響が響く部屋の静寂に荒い息が溶けていく。

 だがそれも、次第に嗚咽に変わっていく。

 

「…………なんで?」

 

 ポロポロと熱く、凍えるような涙が双眸から溢れ出る。

 嗚咽混じりに湧き出る疑問に答える者は誰一人居なかった。

 もう、誰も答えられないのだろう。

 

 脳裏に浮かび上がるのは、彼の笑顔だった。

 

 URAファイナルズ中距離部門を制した後、商店街の福引で偶然手に入れた旅行券を使って行った温泉旅行。

 その時に彼の部屋で見た、無邪気で純朴な笑顔。温泉から上がった直後で紅潮した顔に浮かぶ微笑に、思わず胸が高鳴った。

 それを見た時、アタシは彼と共に生きたいと願った。

 ウマ娘として、女の子として、彼の心を射抜いてやると決意した。

 

——もうアタシはモブなんかじゃない。

 

 これからは胸を張って、堂々と生きよう。彼の隣に立つ為に。彼にとっての一着を目指す為に。

 しかし、もうゴールする事は叶わない。

 目指すべきゴールは無くなってしまったのだから。

 

 三年間で築き上げた彼との思い出が脳内を駆け巡る。

 楽しかった事、悔しかった事、辛かった事。

 多くの苦難を乗り越え、掴み取った栄冠はまるで砂上の楼閣のように呆気なく崩れ去った。

 

「と、トレーナー……さん……」

 

 身体が震える。

 

 頭が痛い。

 胸が痛い。

 心が痛い、痛い、痛い。

 

 痛いよ。

 

「ぅぁ」

 

 不意に全身から力が抜け、フラリと視界が反転した。

 

「——ッ! 大丈夫かい!?」

 

 咄嗟に飛び出したフジキセキ先輩がベッドに倒れ込んだアタシの両肩を揺する。

 慌てた表情で必死に呼び掛けるフジキセキ先輩の声が遠く聞こえる。

 

「ちょっ、何が起こったの!?」

「いいからそんな事より酸素ボンベ持って来てくれ! 寮長室に置いてある救急箱の中にある!」

「わ、分かった!」

「ネイチャ、しっかりするんだ! ネイチャ!」

 

 騒ぎを聞き付けて様子を見に来たウマ娘達が、異変に気付いて部屋に駆け込んでくる様子をどこか他人事のように思いながら、アタシの意識は深い闇の底に落ちていった。

 

 

 

 

 

 そこからの出来事はあまり詳しく覚えていない。

 

 白い布が被せられた彼の頰に触れ、お葬式に出席し、気付いた頃には彼の身体はすっかり軽くなり、バラバラになっていた。

 彼の身体の破片を箸で摘み取った時の感触は今でもこの手に焼き付いている。

 ザリザリしていて、園芸で使うボラ石のように軽かった。

 

 お葬式にはトレーナーさんのご両親は勿論、同僚のトレーナー達や乙名史記者、たづなさん、そしてなんと秋川理事長の姿もあった。

 仕事に真摯に取り組み、何事にも一生懸命な彼の人柄には多くの人が惹かれていたのだろう。

 皆がトレーナーさんの早過ぎる死を悼み、悲しんでいた。

 周りのトレーナー達がアタシに何か声を掛けてくれた気がするが、その内容は忘れてしまった。

 いや、そもそも何も聴こえていなかった。

 

 まだ、現実が受け入れられない。

 

 あの日からずっと、アタシの心は宙吊りのままだ。

 

「ッ……ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 叩き付けるような咆哮と共に、アタシは宝塚記念のゴールラインを駆け抜けた。

 

『ナイスネイチャ、圧倒的な実力を奮いゴールイン! URAファイナルズ初代王者の貫禄を遺憾無く見せつけました!』

 

 空に敷き詰められた鉛色の雲の下に歓声が響き渡る。

 

 世代最強格とも評されるウマ娘の走りに圧倒された観客達の歓声には色が無いように見える。

 それは誰かと共に浴びて、喜びを分かち合う事で初めて色付く物だという事を知ったのは、つい最近だった。

 

 ウイニングランを走りながら、アタシは観客席に目を向ける。

 だがそこに、あの人の顔は無い。大好きだった彼は、もう居ない。

 掴み取った栄冠が砂塵のように崩れ去り、指の隙間から地面に落ちていく。

 もうどんな勝利にも、この凝り固まった心は動かないのだろう。

 

「みんな、応援ありがとう!」

 

 見慣れない顔が並んだ観客席を尻目に、アタシは無理矢理顔に笑顔を貼り付けた。

 

 あれからアタシには専属トレーナーが付かなくなった。

 

 いや、実際には付いているものの、アタシが真っ向から拒絶するから一度しか顔を合わせていないので、あってないような物なのだ。

 トレーナーを付けずに単独で練習をこなし続けるという暴挙。

 初めの頃は他のウマ娘やトレーナーから苦言を呈される事も多かったが、復帰直後の日経賞で五馬身差を付けた一着を獲るとそんな声もパタリと止んだ。

 

 ウマ娘の意見を尊重するべきだ、という秋川学園長の意見の影響も大きかったのだろう。

 それ以来、他のトレーナー達は偶然すれ違った時に挨拶がてらアドバイスするくらいで、チームに勧誘したりする人はいなくなった。

 

『最近のネイチャ、なんかいっつもピリピリしてない?』

 

 友人のトウカイテイオーから言われた言葉を思い出す。

 

 そういえば、最近心の底から笑う機会も滅多に減っていた。商店街のみんなや学園の友達の前では笑顔を繕うが、それ以外の場合——特に独りの時——では笑う事が明らかに少なくなっている。

 テレビのお笑い番組を観ても、漫画を読んでも、何故か楽しいという感情が湧き上がらない。

 

 こんな一位を獲っても、誰かと喜びを分かち合えないのなら、ただただ虚しいだけだ。

 

 ウイニングランを終え、アタシは誰もいない控え室へ戻る。その間、一言も発さなかった。

 前まではトレーナーさんが一緒に居てくれて、控え室に戻る時も色々話し掛けてくれたのに。

 日常の中に空いた大きな穴を発見する度に、胸を針が刺すような痛みが襲う。

 

 そんな痛みを我慢し、黙々とウイニングライブの準備を整えていると、不意にドアがノックされた。

 

「月刊トゥインクルの乙名史です。ナイスネイチャさんはいらっしゃいますか?」

 

 どうやら顔馴染みの雑誌記者、乙名史悦子らしい。

 ウマ娘に関する知識と仕事に懸ける情熱は他記者の群を抜いており、同じく自分の仕事に使命感と並々ならぬ情熱を持つトレーナーさんともかなり親しかったのをよく覚えている。

 

「はーい、どうぞー」

「失礼いたします」

 

 両頬を叩いて努めて明るい声を出すと、乙名史記者はドアを開けて控え室へと足を踏み入れてきた。

 その表情にはややぎこちない微笑みが浮かび、重苦しい陰影が沈んでいる。

 

「改めて、宝塚記念制覇おめでとうございます。素晴らしい走りでした」

「ははは、そうですか? 嬉しいです」

「いかがでしたか? 今日のレースは圧倒的な差を付けてのゴールでしたが」

「はい。最初はスタートがもつれて不安でしたけど、仕掛けるタイミングも合って差し切れたから安心しました」

 

 肩を竦めてそう言うと、乙名史記者は笑みを零した。

 

「いつものレース運びですね。驚異的なまでの末脚は貴女の十八番ですから」

「……トレーナーさんに昔言われたんです。『お前は末脚を磨け』って」

 

 トレーナーさんの事を会話に上げた瞬間、乙名史記者がメモ帳に走らせていたペン先の動きがピタリと止まった。

 そして彼女はゆっくりと顔を上げる。

 化粧で隠れているが、その蒼い目の下にはドス黒いクマが滲んでいるのが分かった。

 

「……その時の言葉を、まだ胸に?」

「はい」

 

 そう言って頷くと、乙名史記者はメモ帳を畳み、それをスーツのポケットの奥に押し込んだ。

 

「彼は新人でしたが、貴女のような逸材を見事育て上げた素晴らしいトレーナーでした。とても、とても残念です……」

 

 彼女の苦虫を噛み潰したような表情、そして苦しそうな姿を見ると、何故か頬が緩んだ。

 

 そして乙名史記者を睨み付けながら、侮蔑混じりに言った。

 

「…………乙名史さん、強いですよね」

「そうですか?」

「はい。だって、恋人が亡くなったのにお仕事頑張ってるじゃないですか」

 

 その瞬間、乙名史記者の強張った顔からサッと血の気が引いた。

 仕事だからと気丈に振る舞っていたが、その分厚い化けの皮を剥がすと、棺桶に両手を掛け、泣き崩れていたあの時の雰囲気が露見する。

 彼の名前を嗚咽混じりに呼び続けた、弱い女の顔が虚勢にも似た情熱の向こう側に見えた。

 

「……アタシ、知ってたんですよ。トレーナーさんが貴女と付き合ってたの」

「……!」

「知らない訳ないじゃないですか。あの人、自分の体験した事をトレーニングに落とし込むのが得意だから、貴女から聞いた色んな知識を活かしたトレーニングをアタシにさせてたんです。彼女とどこに行った、何を喋った、何をした……そんな風にデートの内容を言いながら」

 

 ギリッと奥歯が音を立てた。

 そして、感情の丈を叩き付ける。

 嫉妬という名の感情を。

 

「アタシだって、トレーナーさんとデートしたかった! 朝帰りしたかった!トレーナーさんの手料理を食べたかった!」

 

 アタシの絶叫が二人しか居ない控え室に響き渡る。

 

 虚しく響く残響の中に、その独白を聞くべき人の姿は無い。

 その人に、冷たい墓石の下に眠る彼にはどんな言葉も届かない。

 そんな彼に、アタシは伝えたかった言葉を伝えた。

 

「トレーナーさんの……大好きな人の……一番になりたかった……!」

 

 ポロポロと双眸から涙が溢れる。

 

 涙を流したのは久し振りだ。お葬式の後の火葬を終えた時、実に二ヶ月の間一度も涙が出なかった。

 

 悲しい筈なのに何故涙が出ない。アタシにとってトレーナーさんはその程度の存在だったのか——そんな考えが過り、自己嫌悪に苛まれ眠れなかった夜もあった。

 夢であってほしい。

 眠りから覚めた時、今までの事は全て夢で、トレーナーさんと一緒に新たな目標を目指して突き進みたい。

 そんな淡い願望を抱いて、二ヶ月間走り続けた。

 

 でも、どんなに願っても、この長い長い悪夢から覚める事はなかった。

 

 どんな名誉や功績を得ても、ファンが増えても、虚しいだけだった。

 アタシは勝負服の裾で目元を拭うと、嗚咽を噛み潰しながら乙名史記者の顔を見上げた。

 

「……乙名史さん」

「……はい」

「トレーナーさんはアタシの事、何番目だったんでしょう」

 

 そう尋ねると、途端に乙名史記者の表情が青褪め、言い淀んだ。

 そんな彼女にアタシは間髪入れず言葉をぶつけた。

 

「アタシにとってトレーナーさんは間違いなく一番でした。乙名史さんの前で言うのはなんですけど、アタシはトレーナーさんが大好きでした。愛してました。一生傍に居たいと思ってました」

 

 アタシは自嘲するように肩を竦めた。

 

「重い女みたいでアレですけど、アタシにはトレーナーさんしかいません。もう他のトレーナーは付けずに、トレーナーさんが遺した練習メニューを繰り返しながらトレーニングを続けてます」

「…………」

「こんなアタシを、トレーナーさんはどう思ってたんでしょうか」

 

 静寂が広がる控え室に、アタシと乙名史記者の息遣いだけが響く。

 乙名史記者はあちこちに視線を動かしながら静かに考え、悩み、やがて一つの答えを出した。

 

「——————」

 

 震える声で紡いだ言葉が静寂を吹き飛ばした。

 その答えを咀嚼し、理解し、噛み締めたアタシはいつの間にか笑みを浮かべていた。

 

「ありがとうございます」

 

 そして、勇気を振り搾って答えを出した乙名史記者に深々と頭を下げた。

 

「アタシはもう、大丈夫です」

 

 勝負服の襟を正し、時計に目を向けてウイニングライブの時間が間近に迫っている事を確認すると、アタシは再び乙名史記者の方を真っ直ぐ見つめた。

 

「……アタシ、これからも頑張ります。当分の目標は秋の天皇賞に定めてトレーニングですね」

「ナイスネイチャさん……」

「大丈夫です。アタシはもう、大丈夫だから」

 

 それでは失礼します、と言い残してアタシは立ち尽くす乙名史記者の傍をすり抜けて控え室から出た。

 冷たい廊下を歩きながら、アタシは拳を握り締める。

 

 秋の天皇賞、それを終えた有馬記念。それで全てを終わらせよう。

 専属トレーナーが不在の状況で勝利を重ねてきたが、アタシが孤独だという事に変わりはない。

 誰とも喜びを分かち合えないのなら、もう走る意味は無い。

 

 もう潮時だ。

 

 有馬記念の勝利。それを餞に、表舞台から退こう。

 

 だから、絶対に、絶対に負けてたまるか。

 

 アタシの事を一番に想ってくれた、トレーナーさんの為にも。

 

 

 



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