トレーナーさんは眠らない(ガチ) (HK416)
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プロローグ


一人称の練習のつもりなので、読み難い、変なところがあったら教えてください!



 

 

 

 

 

 トルコには眠らない男性がいるそうだ。

 

 彼は30半ばのある日を境に不眠に悩まされるようになった。しかし、他の不眠症患者のように健康を害されるようなことは一切ない。

 どんな医者が、どんな薬物治療を試みても、果てや催眠術まで用いても、一切不眠の状況は改善されなかった。その間、実に55年。

 ある学者先生曰く、5分~10分ほどの超短期的な睡眠を無意識に、目を開けたまま繰り返すことで心身を回復させているのだとか。

 

 どうやら、オレは生まれた時から彼と同じ体質だったらしい。

 

 初めに気付いたのはオレが生まれた病院の看護婦さん。

 無事出産を終えたお袋とおろおろしていることしか出来なかった親父に抱き上げられ、記念撮影やらを終えた後、保育器の中に入れられた。

 しかし、どれだけあやしても、ぐずることはあっても眠らない赤ん坊など異常でしかないわけで。

 

 その後、担当医と両親どころか、病院の院長先生まで巻き込んで上を下への大騒ぎ。

 そのような症例など日本では確認されておらず、赤ん坊にとって睡眠は肉体や脳を成長させるための重要な要素。

 眠らない赤子がどうなってしまうのかを正確に予想は出来ずとも、良い想像だけは出来ないのだから当然だ。

 

 担当医も院長先生も同業者や専門家に片っ端から電話をかけて、両親はオレをあやしながら紹介された病院を転々として検査と診断の毎日。

 解決の糸口を全く見つけられず、担当医も他の先生方も院長先生も一人、また一人と逆に不眠症やら鬱を発症する中、なーんも知らない分からないオレはきゃっきゃと笑っていたそうだ。我ながら、とんでもなく傍迷惑な赤ん坊である。

 

 両親も始めの内はどうしてウチの子が、と嘆いていたようだが、特に問題なく成長していくオレを見て、あれこれウチの子大丈夫、大丈夫じゃない? と前向きさを発揮。

 これが子の個性と受け入れ、多くの方々の心労を余所に伸び伸びと育てようと決心したところ、とある大学の教授からトルコの男性の話を聞かされたらしい。

 最終的に、原因は不明であるが症例は似通っている上、現状では特に問題が見られないため退院。但し定期健診は必ず来るように、という運びに相成ったそうだ。

 

 オレは能天気でさえある前向きな両親に見守られ、すくすくと成長していった。

 眠らないことで手がかかっていたのは事実であったが、幸いなことに体格にも知能にも問題なく、気が付けば物心つく年齢。そうなれば周囲と自分の違いにも気付き始める。

 

 両親はオレの体質について語って聞かせた。

 体質はオレにとっても他人にとっても害のあるものではないが、本来であれば在り得ない他人との違い。

 肌の色が違うだけで殺し合うだけの理由になる世界と人々の中で、オレが自立して生きていけるか不安だったのだ。

 

 その話を聞いたオレは――――

 

 

「す、す、す、すげー! ボク、みんなよりもあさとひるとよるで、えと、えっと、とにかくいっぱいあそべてる!!!!」

「成程、そういう考え方もあるかぁ~……!」

「お母さんは勉強もして欲しいわぁ~」

 

 

 両親からきっちり能天気なまでの前向きさを受け継いでいたので、全く深刻には受け取らなかった。

 深刻になる必要など何処にもない。他人から気味悪がられるかもしれないが、事実を確認するために終始傍にいなければならず、複数人が交替で監視しなければならない。

 そんな手間を取る人など学者先生ばかりで、眠らなければ生きていけない人達からすればオレの体質など与太以外の何物でもないだろう。

 手元に残るのは健康な身体と人が一生の内に三分の一は費やさねばならない睡眠からの解放。

 

 子供の頃は兎に角、全力で遊んでいた。

 流石に両親が寝静まっている間に飛んだり跳ねたりは出来なかったし、体力はそう続かない。

 だから夜はゲームをしたり、本を読んだり、テレビを見たり。当時、確かにオレの世界は歓びと楽しみに満ちていた。

 

 そうして、眠らないとある一夜に――――彼女に出会った。

 

 そこで見たのは、深夜帯に流れていたレースの再放送。

 随分と古い映像で画質は荒かったが彼女の走りは、子供心に焼き付くほどに鮮烈だった。

 大地を踏み抜かんばかりの力強いスタート。逃げる対戦者達の背中を射抜く眼光。ゴール直前、狙い澄ましたかのように交わす姿。

 何処を見ても付け入る隙が無い。なぜ勝利できたかよりも先に、なぜ敗北してしまったのかを語られた生きた伝説。

 

 オレが見たウマ娘の名は『シンザン』。

 日本史上初めて五冠の栄光を手中に収めた稀代の怪物。同時に戦後低迷気味だったレースを国民的スポーツエンターテインメントにまで押し上げた立役者。

 活躍した時代から20年近くたった今も、彼女を最強のウマ娘と呼ぶ声は多い。実際、彼女の戦績を超える者は未だ現れていない。

 

 そうして、オレはウマ娘のレースにのめり込んでいった。

 引退したウマ娘の自叙伝を読み漁り、生中継されるレースを見て、両親にせがんで実際の競技場でウマ娘達へ向けられる歓声を間近で体験した。

 本当に、心の底から楽しかった。彼女達の戦いを見る度に胸が熱くなり、勝利の笑顔にも敗北の涙にも胸を打たれた。

 

 ただ、唯一の心残りがあるとするのなら――――シンザンのレースを生で見れなかったことだけ。

 実に子供らしい我儘だ。生まれてきた時代が違う以上、彼女の走りは画面の向こう側でしか見られない。

 

 それでも、どうしても見てみたかった。

 だからか、オレは何時しかウマ娘をサポートするトレーナーを志していた。

 シンザンは無理でも、彼女すら超える更なるスターをこの目で、それも間近で見れるかもしれないから。

 

 

「とーちゃん、かーちゃん! ボクね、トレーナーになりたい!」

「おお。母さん、俺達の息子がまた一つ大人になったぞぉ」

「あら~、じゃあお勉強も頑張らないとねぇ」

 

 

 生まれて初めてできた夢を、両親は子供の夢を否定するのではなく、肯定して迎えてくれた。

 

 しかし、トレーナーへの門は極めて狭い。

 門戸を叩く事自体は容易い。トレーナーの専門学校もあり、或る程度の学力があれば誰でも入学は出来る。

 その課程で優秀さを示せれば海外のように飛び級も卒業も認められている。

 問題はその課程。最新のスポーツ工学から栄養学、整体や医学までも必要最低限のラインまで叩き込まれる様は拷問にも例えられ、卒業試験の合格率は司法試験並み。

 トレーナー資格を入手後は、日本各地に点在するウマ娘の所属する学園に自ら試験と面接へ向かう。特に日本ウマ娘トレーニングセンター学園は天から二物も三物も与えられた天才が鎬を削り、潜り抜けられるのは更に一握り。

 

 今やウマ娘のレースは国の経済をよく回すエンターテインメント。

 其処で競い合うウマ娘達は文字通りのスターであると同時に、財産でもある。あらゆる面でサポートしなければならないトレーナーに要求される能力も当然高くなる。

 

 来る日も来る日も勉強勉強勉強。

 トレーナーになるために必要な能力と知識を詰め込む毎日。両親が心配するほど打ち込む日々。

 

 夢を追うのは苦痛ではなかった。

 誰が言ったか『夢は逃げない。逃げるのは何時も自分だ』という言葉は真を突いていると思う。

 

 オレはお世辞にも頭の出来はよろしくなかった。決して天才や神童と呼べる類の子供ではなかった。

 でも、オレは眠らなくて済む。体力にさえ気を付ければ、必要な知識を学ぶ時間は単純に計算しても人の1.5倍は確保できる。

 幼い頃からそれだけの時間を直向きに学び続ければ、どれだけ平凡で凡夫でもそれなりにはなる。無事に最短距離でトレーナー養成専門学校に入学した後も、座学も実技も齧り付きで学び続けた。

 

 ただ、それでも足りないと常々感じていた。

 中央のトレーナーはそれぞれの持ち味がある。徹底して故障の危険性を排して勝利を目指す管理能力だったり、ウマ娘と打ち解け合い人バ一体を目指すコミュニケーション能力だったり、と色々だ。

 特に代々トレーナーを輩出している天才の名門なんてものもある。人並み以上の努力などトレーナーになる上でやっていて当然。其処に、どうしてもプラスアルファが必要になる。なら、オレにしか持ちえない利点と特性は何だろう、と悩む時がやってきた。

 

 

「……あれ?」

 

 

 神様はクソ野郎だ。

 誰に対しても平等に不平等、悲劇も喜劇も一緒くたに見て笑っていやがるに違いない――――だから、それを自覚した時は、憧れ続けたシンザンから与えられた贈り物だと思う事にした。

 

 一日の合間に設けた休憩時間。

 専門学校の寮で何気なくつけたテレビのレース中継を見た時に、はたと気付いた。

 

 オレはどうやら対象のウマ娘について知れば知るほど、頭の中で展開を映像として予測できるらしい。

 恐らくはシンザンのレースを見続けるだけで飽き足らず、既に引退してしまった彼女と現役のウマ娘と想像の上で競わせていたからだと思う。

 

 当時は子供の遊びの範疇。

 けれど、脳の機能とは使えば使うほどに研ぎ澄まされていく。

 特に、その成長が尤も顕著なのはニューロンや神経が発達し切っていない幼年期。一流と呼ばれる者の誰もが幼い頃から鍛え続けている事実に行き当たるのはそのためだ。

 

 結果としてオレが得たのは、その日の調子だけではなく骨の太さや筋肉の付き方、蓄積された疲労までも透けて見えるほどの観察眼と、それで得た情報を基にした展開予測。

 的中率はどれだけウマ娘の情報を入手したか、どれだけ対象を直視したかで変動するが、これは途方もない武器になると確信した。

 レースの展開を正確に予測できるのなら、自らの担当する娘に的確な指示や作戦を提示してやれる。そうでなくとも対象の状態を正確に把握できるなら担当の伸ばすべき部分が明らかになり、故障の可能性も低減出来るだろう。

 

 そうやって一歩、また一歩と夢に近づいていった。

 

 専門学校の卒業試験は難なく合格。

 トレセン学園の試験も危なげなく通過。面接も観察眼と想像力を武器に自己アピール。

 

 結果、オレは狭い門を何とか潜り抜けることに成功した。

 

 そして、オレはようやく夢のスタート地点、トレセン学園の校門前に立っている。

 

 

「い、行きたくねー……」

 

 

 だが、オレは校門の前で二の足を踏んでいた。

 普通ならば意気揚々と足を踏み入れ、華々しいスタートを切るのだろうが、そうもいかない事情があった。

 

 今のオレにとっては確かにスタート地点なのではあるが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 酷い矛盾もあったものだが、何も不思議な事はない。最近流行りの転生だの、一昔前に流行った逆行というわけではない。

 

 オレはただ単純にトレセン学園に入ってからの記憶を失っただけ。所謂、記憶喪失という奴なのだ。

 

 原因は事故による頭部への外傷。

 担当していた()のレース優勝を祝った帰り道、飛び出してきた子供を回避しようとした車に突っ込まれたらしい。

 幸いだったのは、担当の娘にも子供にも運転手にも怪我はなかった事か。

 

 尤も、オレがそれを知ったのはトレセン学園お抱えの弁護士が全てを片付けた後だったが。

 その間、オレは運び込まれた病院で麻酔を投与されていたにも関わらず手術中に意識不明から覚醒して執刀医の腰を抜けさせたり、自分の体質を説明して更に仰天されたりしていた。ホント、ガキの頃から変わらない傍迷惑加減だ。

 

 まあ、それは兎も角。

 怪我自体はそれほどではなく、受け答えもしっかりしていたため、担当医の先生も検査の上で重度ではないと判断。オレと一緒に安堵の吐息を吐いたのだが、この時点で既に齟齬があった。

 オレは記憶を失っていたためトレセン学園へ向かう途中の事故と思い込んでいた。だから誰一人として、オレ自身ですら外傷性健忘を患っているなどとは想像すらしていなかった。

 

 ……それはまだいい。最終的には気付けたから。

 健忘とて不治の病ではなく、何かの切っ掛けで唐突に記憶が戻ることもあると聞く。

 悲観するほどのことではない。トレーナーとしての経験を失うのは痛いが、ゼロからの再スタートと思えばいい、と何時も通りのオレならば前向きに考えただろう。

 

 最悪だったのは、最悪のタイミングで、最悪の一言と共に周囲が気付いてしまったこと。

 

 その瞬間は病院の面会時間ギリギリにやってきた。

 入ってきたのは年若い小柄な少女と毅然とした表情と態度を持つウマ娘。

 

 

「うわっ、秋川理事長、どうして……」

「無論ッ! 優秀なトレーナーの見舞い以外に何があろうか!」

「はぁ……いや、優秀って、まだ学園に入ってもいないんですが……」

「…………?」

「苦慮ッ! 可笑しなことを言うものではない!」

「可笑しいって言われましても……あの、ところで、()()()()()()()()?」

「…………っ?!」

「ぐ、愚行ッ!! 何を言うのかね!?」

 

 

 オレは生まれて初めて、人が膝から崩れ落ちる瞬間を見た。

 年不相応の毅然とした表情が一瞬で崩れ去り、年相応の、いやもっとずっと幼い泣き顔を見てしまった。

 

 どうやらその子は、オレがトレセン学園に入って初めて正式に担当したウマ娘だったらしい。

 せめて健忘だと分かっていたのなら。そうでなくとも、せめて自覚して混乱していたのなら、或いは結果も違っていたかもしれない。

 誰も悪くない。余りにも間と運が悪過ぎた。だからこそオレはオレ自身を責める他なく、あの子は悲しみに暮れるしかなかった。

 

 やっぱり神様はクソ野郎だ。

 その上、クソ野郎はクソみたいな置き土産までしていきやがった。

 

 その後の検査で、オレは逆行性ばかりではなく前向性の健忘まで発症していることが判明。

 逆行性は三つある記憶のプロセスの内、想起が出来なくなる症状。ある地点から遡って記憶が引き出せなくなる。

 前向性は三つある記憶のプロセスの内、記銘が出来なくなる症状。新しい物事を覚えることができなくなってしまう。

 

 幸いなことに、オレの前向性健忘は一日の内、特定の時間帯――午前8時から午後5時の間の全てを忘れてしまうだけで済む。

 酷い場合はものの数秒で覚えたことを忘れてしまうこともあれば、もっと酷ければ自分の名前以外に何も思い出せなくなった挙句に眠ってしまうと一日の記憶がリセットされてしまう、なんて症例もあるのだとか。

 それに比べれば、忘れてしまう時間帯の内に何があったのか、何を覚えたのかメモを取り、それ以外の時間帯でメモを見ながら覚え直せる分だけ、一人で日常生活を送れる分だけまだマシだ。

 

 

 ――――ただ、オレの夢は、『シンザン』を超えるウマ娘をこの目で見たい、という願いは現時点では叶わない。

 

 

 トゥインクルシリーズ、更なる上位リーグにもナイターレースはない。

 オレが記憶を保持できる時間帯に開催されるレースはローカルシリーズの一部のみ。

 仮にローカルシリーズにシンザンレベルのスターが生まれたとしても、結局は中央に招かれてトゥインクルシリーズに参加する流れになる。

 例え、その目でシンザン越えの光景を目の当たりにしたとしても、今のままでは覚えていられない。興奮も歓喜も、存在しなかったかのように消え去っていく。それでは何の意味もない。

 夢には確かに近づいていたんだ。なのにこの様。願いは叶えてくれるが、願い以上の代償を支払わなければならない猿の手のような話だ。

 

 だから、オレは一つの決断を下した。

 今日、オレは夢を叶えるために夢から逃げ出す。

 

 幸い、オレの夢は健忘が治るだけでも叶う可能性がある。

 オレがトレーナーになったのはシンザンを超えるウマ娘を作り出すことではない。あくまでもシンザンを超えるウマ娘を一目見るため。

 生まれてくるまでの間に治療に専念し、この厄介な症状を根治させればいい。後は果報を寝て待つだけだ。

 

 トレーナーを続けようと思えば出来る。

 昼間の出来事を詳細に記録しておき、夜の内にもう一度覚えればいいだけだ。眠らないオレの夜は人よりも遥かに長い。

 オレはオレ自身のアドバンテージを、ディスアドバンテージを取り戻すためのリソースとして使えば何とかなる。だが、それならオレでなくともいい。

 恐らくオレがこれまでやってこれたのは、何をするにも人よりも1.5倍の時間を取れたから。後は埋もれていくだけ。そんな奴がトレーナーなど続けていてはいい迷惑だ。

 

 そして何よりも、人におんぶに抱っこで夢を叶えようとした俺が、多くの夢を背負って走る彼女達の脚まで引っ張る訳にはいかないだろう。

 

 

「腹、括るかぁ……さて、最後のワンチャンス。行ってみますか」

 

 

 既に用意してあった退職届をスーツの内ポケットに収めて、門を踏み越える。

 健忘の治療法は確立されていないが、逆行性健忘に関して言えば失われた当時の写真や日記、人や場所を訪れて記憶を引き出す取っ掛かりに触れ合う機会を増やすことが有効であるとされている。

 何年か過ごしたらしい学園に入れば、何かを思い出すかもしれない。それがトレーナーとしての経験であったのなら、或いはまだ芽はある。

 

 我ながら未練がましく惨めったらしい悪足掻きに、今から挑戦するとしよう。

 

 

「しっかし、信じらんないよなぁ……」

 

 

 門を踏み入れた瞬間、頭を掠めた記憶――――ではなく人伝(ひとづて)に聞いただけの情報に一人呟く。

 

 オレの担当していたウマ娘。

 オレが悲しませ、涙を流させてしまった少女の名を思い出す。

 

 

 彼女の名はシンボリルドルフ。

 

 

 無敗のまま皐月賞、東京優駿、菊花賞を制した三冠ウマ娘。

 これらクラシック三冠だけに留まらず、その先までも見据えている“皇帝”。

 ベテランには程遠く、中堅と呼ぶには経験の足りないトレーナーが担当したとは思えない余りにも華々しい相手と成果。

 

 彼女と共に歩んだ道程、共に分かち合った歓びを忘れ果てたオレには、何の冗談だと問いたくなるほど過ぎたウマ娘だった。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「ダメだな、こりゃ」

 

 

 退職届を提出するために願い出た理事長との面談まで後30分。

 最後の足掻きのために三時間近く早く学園入りしたオレであったが、成果はまるでなかった。

 学園の彼方此方にデカデカと建てられた現在地を示す点と学園の地図が張り付けられた看板頼りに彷徨ってみたが、記憶に引っ掛かるものもなければ、既視感(デジャブ)すらない。

 

 学生達は座学の授業中故に顔を合わせることはなかったが、警備員のおっちゃんや購買や食堂のおばちゃんには気軽に声を掛けられた。

 元々人見知りをする性格でもない。顔見知りはそれなりにいるだろうと予想はしていた。

 だが、相手が覚えているのにオレは忘れてしまっている事実を目の当たりにする度、覚える必要のない罪悪感でどうにかなってしまいそうになる。

 

 相手にはきちんと己の置かれた状況を説明し、頭を下げて謝意と学園を去る旨を伝えた。

 理事長はオレの身に起きた出来事を触れ回らなかったのだろう。誰も彼もが驚き、惜しみながらも別れと記憶の回復を願う言葉をくれた。いい人達だ。

 

 日に何度か話すのが関の山の相手にこの調子じゃ、担当以外のウマ娘とも懇意だったかもしれない。

 座学の時間帯を選んでよかった。下手に顔見知りと鉢合わせずに済む。もう二度と、年頃の娘にあんな顔はさせたくはない。

 

 

「――――――…………」

 

 

 最後に辿り着いたのは、学園内に設けられた競技場。

 ターフコースもあれば、ダートコースもある。日本最大のウマ娘訓練施設だけあって競技場は驚くほど広い。

 

 此処も、やはりピンと来ない。

 初めて見る景色、初めて嗅ぐ臭い、初めて触れる風の感触。

 新天地にやってきたのと全く変わらない感覚。但し、期待感はまるでなく不安感ばかりが募っていく。

 情報としては何年か此処で過ごしたらしいが、実感がまるでない。いっその事、理事長が新人に質の悪い悪戯を仕掛けたと言われた方がまだ信じられるくらいだ。

 

 

「…………ん」

 

 

 ターフコースの外周柵に両腕を乗せ、何も考えずに身体を預ける。

 

 違和感。倦怠感。無力感。

 何とも言えない胸中に少し疲れ、休憩のつもりでコースを眺めていたのだが、一人の生徒が走っていた。

 トレセン学園は文武両道が旨であるが、同時に自由な校風でもある。成績優秀者であれば、ある程度は座学を欠席して練習に打ち込むことも許される。

 

 走るフォームは美しいの一言。長い栗毛が印象に残るウマ娘だ。

 

 単なる練習の一環だが、そこそこスピードが乗っている。

 オレが見てから既に1000mは越える距離を走っているが、自身にとって7、8割ほどの速度を保ち続けているように見えた。

 

 其処から更にぐんと伸びる。恐らくはそれが彼女の全力。

 しかも全力を維持しておける距離も時間もまた長い。既に500mを越えているにも関わらず、まだまだ衰えを見せない。

 こりゃ逸材だ。レースの最初から最後まで先頭を走る稀代の逃げウマになれるだろう。

 

 考えてもみなかった才気を目の当たりにし、思わず頭の中から何度となくシンザンの映像を引っ張り出す。

 すると、実際に走る名前も知らない彼女の後ろに、出揃っている情報からフィジカル面での条件は全く同一――――彼女と同じだけの距離を同じ出力割合で走った状態のシンザンの幻影が現れる。

 

 逃げる彼女、追うシンザン。

 面白い。トレセン学園に入学してからどの程度の時間が経っているのかは知らないが、あのシンザンが徐々にしか距離を詰められない。

 

 しかし、オレが勝手に始めた遊びのレースは、コースの第四コーナーに差し掛かった瞬間に明暗を分けた。

 ほんの一瞬。一瞬だけであるが、先に走る彼女の身体がよれる。表情を見る限り、当人も気づいていない。

 その瞬間を見逃すシンザンではない。僅かな加速の伸びの悪さを捕らえ、残る脚全てを注ぎ込んでラストスパートをかける。

 

 コーナーを抜ける頃には既に両者の差は一バ身。

 最後の直線で激しく競り合う二人。だが、いち早くトップスピードに乗ったシンザンがどんどん差を詰めていく。

 

 

 全力で逃げる彼女! 容赦なく詰めるシンザン! しかしその差は僅か!

 並ぶか! 並ぶか! 並んだぁ!! シンザン、見事に差し切ってゴールイン! 素晴らしい以外の言葉が見つかりません! 着差以上の実力を見せつけてくれました!

 

 

 結果はシンザンのクビ差で勝ち。

 オレもかなりのシンザン贔屓だが、こうした遊びで能力上の贔屓をしたことはない。

 遊びだからこそ真剣に、武器と認識したからこそ本気で磨いた。まあ、脳内実況はお遊びだが。

 

 ただ、一つ擁護するのならば彼女のような逃げを得意とするウマ娘はシンザンにとっては尤も得意とする相手だった、というだけ。潜在能力で劣っているわけではないだろう。

 逃げウマの背中を見る形で先行し、測ったようにゴール前で交わすレース運びがシンザンの勝ち筋。

 レコードを一度も出してはいないが、レースに勝つために必要な力を必要な時に必要な分だけ出し、相手の弱点を差す。

 本当のレースだったとしても、あの僅かな加速の伸びの悪さをシンザンが見逃す筈もない。

 その上、オレの想像上のシンザンは多くのレースを勝ち抜いた姿。まだまだ発展途上の相手と比べる事自体が間違っている。 

 

 彼女の事情は知らないが、トゥインクルシリーズ中は不可能であっても更なる上位リーグにまで進出したのなら、シンザンを超えるかもしれない。

 それほどの潜在能力と伸び代を感じられるが、いずれにせよオレには関係ない話だろう。

 

 

「はっ……はっ……はぁ……ふぅ…………?」

 

 

 やっべ、目が合った。

 一瞬、病室で見たシンボリルドルフの表情をフラッシュバックし、どっと汗が噴き出す。

 しかし、彼女は怪訝な表情をするだけで、オレを知らない御様子。

 相手にバレないよう安堵の吐息を漏らす。今は顔見知りと会うよりも、顔も名も知らない相手の方がずっと気が楽だ。

 

 

「あの、何か……?」

「いやー、まー何と言うか……ナイスラン、面白いくらいの大逃げだったな」

「は、はぁ……」

 

 

 見ず知らずの男に見られていた疑問からか、彼女は声をかけてきた。

 その際に、チラリとオレの胸元に視線を落とす。其処に付けられたトレーナーバッジを見たのだろう。

 これがなければ不審者を目撃したと得意の逃げの走りで警備員のところまで一直線だったろう。

 

 取り敢えず不審者感を消そうと笑みを浮かべて、彼女の走りを称えてみた。

 しかし、返ってきたのは気のない返事。

 そらそうだ。自分の走りをボーっと眺めていただけにしか見えなかった男に称えられたところで嬉しくはないだろうし、そもそも一人で訓練をしていただけなのに何が大逃げなのか分かりゃしない。

 

 こりゃオレが逃げた方がいい。言いたいことだけ言って、さっさと理事長の所に行こう。

 

 

「第四コーナーのところでよれてたみたいだけど、足大丈夫?」

「えっ? ……よれて、ましたか? 私は、分かりませんでしたけど……」

 

 

 やっぱり気付いてないか。

 単純に体力が切れていたようには見えないし、痛みも感じていないようだ。となると……。

 これ言っていいのかなぁ? あんまり変なことは言いたくないし、ウマ娘とトレーナーの間に割って入って搔き乱すのもなぁ。かと言って捨て置くのも……うーん、しゃーない。

 

 

「もうトレーナーいるだろ? 相談してみた方がいいんじゃねぇかなぁ。癖だったら直した方が速くなるし、怪我でもしたら大変だし」

「………………」

 

 

 オレがトレーナーと口にした瞬間、彼女の顔が一気に曇る。

 紅潮していた頬がすっと冷めるや否や、耳まで外側に垂れた。

 ウマ娘の感情が一番出やすいのは耳だ。表情は大して変わっていないのに、その動きで感情が分かる時すらある。 

 尤も、耳に目を向けるまでもなく彼女の表情は余りにも暗い。

 

 え、なにこの反応。

 トレーナーとそんなに仲悪いの? デビューしてるか直前だろうに大丈夫か、この娘。

 

 方針か、指導か、性格も含めた相性か。

 いずれにせよ相当な不満、と言うよりも不安があるのは見て取れる。

 

 そんな相手を選んでしまった彼女が悪い、と言ってしまえばそれまでの話。

 けれども、それほど気が強そうにも見えず、口が達者そうでもない彼女にだけ責任を求めるのは聊か酷か。

 トレーナー側が無理に押し切って、彼女が返答に窮している間にあれよあれよと、なんて可能性もゼロじゃない。

 

 だから要らん世話を焼いてしまった。

 

 

「なんかよく分かんないけど、上手くいってないみたいだなぁ」

「そんな、こと……ただ、私が……」

「そうは見えんけど。ま、いいや。これから理事長と面談があるからさ、話しとくよ」

「えっ……? いえ、でも……」

「ああ、心配しなくていいよ。担当変えてやれとか大それた話じゃなくてさ。もうちょっと気にかけてやってくれとか、話し合ってみたら、とかそういうレベル。それならそんなに角も立たないでしょ」

「それ、は……」

 

 

 彼女の表情に浮かんだのは困惑だ。

 初対面の人間にトレーナーとの関係に首を突っ込まれた挙句、庇うような真似をされれば誰だってそうなる。オレだってそうなる。

 

 でもまあ、そんなに不思議でもないんじゃなかろうか。

 彼女は社会経験なんてないに等しい学生。オレも似たようなもんだが多少は大人。

 こっちだって余裕があるわけじゃないが、大人が子供を助けるのは当然の責任と義務だろう。

 今日トレーナーを辞めるにしても、大人であることは辞められない。ほら、何も不思議じゃない。

 

 

「じゃ、練習頑張ってよ。大逃げ、期待してっから」

「……あっ、待ってっ!」

「理事長との面談があるんで待ちませーん。じゃあねー」

 

 

 名前は教えなかったが、理事長からの話となれば、彼女のトレーナーも無下には扱えまい。

 仮に誰から聞いた、となっても理事長がトレーナーにオレの名前を出せばいいだけ。

 不満があるのなら記憶がないのに引き継ぎ作業をやっているであろうオレのところに来る。

 彼女に害はない……と思うが、万が一もあるから理事長に気に掛けて貰うとしよう。オレが入るよりも上役が絡んだ方が何かと事はスムーズに進む。

 

 あ、いっけね、こっちも名前聞くの忘れてた。

 …………まあいいか。あれだけ才能があれば、特徴を伝えるだけで理事長も思い至るだろ。

 

 そんな呑気なことを考えながら、足早にコースから離れていく。

 彼女は柵に阻まれて、後を追ってこれない。その気になれば飛び越えられる程度の脚力と跳躍力はウマ娘は持っているが、大事な足を壊しかねない。やりはしないだろう。

 

 オレはこの時、知る由もなかった。

 この気軽な行動が、とんでもない事態を引き起こすことになるなどと……!

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

 去っていく背中を追いかけることも出来ず、私――サイレンススズカはコースの中で立ち尽くしていた。

 

 お父さん以外とは余り話したことのない私でも、口を開くのに戸惑いを忘れてしまうくらいに優しい雰囲気。

 多分年齢よりもずっと幼くて屈託のない笑みは、男らしい顔立ちなのに不思議な愛嬌があった。

 

 私を褒める言葉も、心配する言葉も、気を遣う言葉も。

 耳にしただけで全て本心から発せられたと分かる。もしくは信じたくなるような人だった。

 

 だからこそ、心の底から動揺した。

 

 今日はそれなりに調子が良かっただけで、デビュー戦ももう近いと言うのにタイムは振るわず、練習試合ですら順位は落ちる一方。

 

 昔から走るのが好きだった。走るのが楽しかった。

 でも、今は楽しくない。苦痛ですらある。

 走れば走るほど両脚は枷を嵌められたように重くなって、力がまるで入らないから。身体には何の異常もない筈なのに。

 

 勝ち負けにそれほど拘ったことはないと思っていたけど、今は心底から勝ちたい。

 大なり小なり、ウマ娘にはそうした勝利への欲求があると思う。

 名声やお金のためじゃない。理由なんてきっとない。私達は()()()()()に生まれ落ちて、ただ一着だけを求めている。

 

 けれど――――けれど、どうしても上手くいかない。上手く出来ない。

 

 私を見出してくれたトレーナーの言っていることは正しい。

 友人であるエアグルーヴにも確認した。私よりもずっと賢くて、立派な彼女は肯定していた。

 

 トレーナーと上手く行っていないわけではないと思う。

 ただ、私が一方的に委縮してしまっているだけ。だって、トレーナーが正しいはずなのに、結果が伴わないのなら悪いのは他でもない私。

 

 勝つために指示された走り方を実践してから、もう随分と()()()()を見ていない。

 私の一番好きな、誰にも渡したくない、前に誰一人としていない先頭の白く輝くような景色を。

 

 

「…………いいなぁ」

 

 

 自分自身への情けなさ。

 そして、大逃げに期待している、と私の求めているものを見透かしているかのようなことを言ったあのトレーナーさんが担当している娘が羨ましくて。

 

 零れ落ちそうになる涙を堪えるために空を見上げる。

 私の心境など全く考慮してくれない空は、何処までも、何処までも、蒼く澄み渡っていた。

 

 

 ――――それが私とあの人の出会い。

 

 

 底抜けに明るくて。

 怖いくらいに真剣で。

 どんな辛苦も飲み込んで。

 見ている方が心配になってしまうほど、自分よりも他人を優先してしまう疑う余地のない善人で。

 

 私の大好きな光景と同じくらい……ううん、それよりももっともっと輝かしい道の、始まりだった。

  

 

 

 

 

 



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『発憤興起』

様々な御意見、御感想ありがとうございます。
色々と参考に書き直しさせて貰いした。

今後も良い作品になれるよう、御意見頂ければ幸いです。



 

 

 

「再考ッ! 其処を何とかッ! 考え直してはくれないかッ!」

「お伝えしてあった通り、症状が症状です。このまま続けても御迷惑になるだけですから」

「否定ッ! サブトレーナー、正トレーナーとしても目覚ましい実績があるッ! 自身を卑下すべきではないッ! 尚又ッ! 君の患う健忘はかつての記憶に触れるのが重要と聞くッ! 猶更ッ! 君は此処に残るべきだッ!」

「それはそうですけど……その実績は記憶の在った時のオレであって、今のオレじゃない。記憶に関してはその通りかもしれないですけど、症状を考えたら夜間の警備員辺りで十分かつ妥当でしょう?」

「む、むぐぐッ! こ、肯定ッ!」

 

 

 私、駿川 たづなは秘書として、理事長と彼の面談を見守っていた。

 理事長の提案も、トレーナーさんの決意もよく分かる。理事長とは長い付き合いで、トレーナーさんとも短い付き合いではないから。

 

 どちらの言い分も正しい。

 世間一般、常識の範疇で言うのなら、彼の決断の方がより正しい。

 彼と同じ立場になったのなら、他のトレーナーさんならとてもやっていけないだろう。けれど、それは常識常人の範囲での話。

 歴史に名を残すウマ娘がそうであるように、ある種の天才は常に常識外れ、型破りと形容される。どう考えても彼はそちら側だった。

 

 

「ぐぐぐ、うぐぐ…………再度、聞きたい。どうしても無理なのかね」

「無理ですよ。と言うより、オレに拘る必要はないでしょう」

「否定。ある、あるのだよ。私が拘る理由は」

「………………」

 

 

 理事長からは普段の元気溌剌さが消え失せて、今にも泣きだしてしまいそう。

 その年相応の様は、自分の置かれた現状をまるで理解して貰えずに苛立ち始めたトレーナーさんですら、冷静にならざるを得ない程でした。

 

 

「理想。君とルドルフ君の関係は、少なくとも私の目にはそう映った。人バ一体。君達二人は何時だって同じ方向を見て、共に戦っていたから」

「…………っ」

「謝罪ッ! 私より悔しいのも口惜しいのも君達の方だッ! 済まない、勝手を言ったッ!」

「…………いえ」

「提案ッ! 君の言う通り、学園の夜間警備員の仕事をするのはどうかッ! 貯金はあるだろうが、収入があって損はないッ! 無論ッ! 無理強いするつもりはないッ!」

「…………考えさせて、下さい」

「了承ッ! では、引き継ぎを頼むッ!」

 

 

 理事長の期待にも、理想にも応えられない不甲斐なさか。

 それとも、望んでもいない勝手な期待と理想を押し付けられる苛立ちか。

 

 トレーナーさんの場合は、恐らくは前者でしょう。

 他人を責めるよりも早く、自分に何が出来るのかを考えて実行する人でしたから。

 

 

「…………いや、その前に。名前は分からないですけど、何だかトレーナーと上手く行ってない娘がいたから気に掛けてあげて欲しくて」

「愕然ッ! それはマズいッ! 相手の名前はッ!?」

「名前は聞いてないんで特徴だけ。栗毛に長さは腰くらいまでのストレート。白いヘアバンド、緑のイヤーネット。脚質はたぶん逃げ。身長は161か2。体重は――――」

「それで結構ですよ。それから、外見から女の子の体重が分かっても公言しないようにしましょうね」

「そう、ですね。すみません、駿川さん」

 

 

 不躾さを指摘すると、彼は自分に余裕がなくなっていることに気付いたのか、大きく息をついた。

 

 チクリ、と悲しみで胸が痛む。

 記憶を失う以前、彼は私をたづなさんと名前で呼んでくれていた。

 それほど親しい間柄とは言えなかったけれど、人懐っこく密かに期待していた彼に忘れられるのは少々堪えるものがある。

 私ですら気落ちしてしまうと言うのに、彼と親しかった方達の痛みを思うと更に気分は落ち込んでいく。

 

 それが顔に出てしまったのだろうか、彼は申し訳なさそうに目を伏せ、困ったかのように笑った。

 

 …………やってしまった。

 彼よりも年上だと言うのに、一番苦しいのは彼だと言うのに、気を遣わせるような真似をさせてしまうとは情けない。

 

 気分を切り替える。

 彼の口にした特徴は具体的で、的を絞るのはそう難しくない。

 該当者はたったの一人。色々な意味で有名になっていた娘だったし、私自身も気になっていたから。

 

 

「それはサイレンススズカさんと思います。写真は…………此方ですね」

「確かにこの娘ですね。なんか気が弱い感じだったから、トレーナーの方から話を聞いて慎重にやって欲しいんですよ。それから……」

「それから?」

「なんか走り方とか身体つきが、凄く気になると言うか。自分でも言葉に出来ないですけど、違和感――――は違うな、不安感、か? があるような気がして……」

 

 

 目にした走りを思い出しているのか、顎を摩り、明後日の方向に視線を彷徨わせながらの発言に、私と理事長の目線が絡み合う。

 

 まるで未来を見てきたかのようなレース展開、着順予測はトレーナー間では有名で、故障に関してもまた同様。

 彼の何気ない一言で劇的に走りが変わった娘もいれば、ギリギリのところで救われた娘とトレーナーは数多くいる。

 

 一体、どのような世界が見えているのか。どのように世界を捉えているのか。

 常人に過ぎない我々には分からない。ただ、彼の見たものが、多くの人を戦慄させる程度に的確だったのは事実。

 どうやら理事長も私と同じく、事態を重く受け取っているよう。今の彼には思い出せないでしょうが、それだけの実績がありましたから。

 

 

「成程ッ! ところで、他に気になる者はいるかなっ?!」

「いや、その娘以外には会ってないんで何とも」

「了解ッ! 写真は用意してあるッ! 所感だけでも教えて貰いたいッ! 我々は君を信じているッ!」

「……む、無茶苦茶だぁ」

 

 

 トレーナーさんは理事長の無茶な要求に頭を抱えてしまう。

 全く以てその通り。私が理事長の指示で用意した資料を、ドンと重い音を立てて机の上に置いたのだから。

 

 トレセン学園に所属している生徒の数は2000人弱にも及ぶ。

 それに自分が此処まで信頼されている理由に、全く心当たりがないのだから当然でしょう。

 

 暫くの間、頭を抱えていた彼でしたが、盛大な溜め息を一つ吐くと資料に手を伸ばして、ページを捲り始める。

 その瞳に宿った光は諦めと呼ぶには眩しく輝かしい。本意であろうとなかろうとやると決めれば手を抜かない。だからこそ、信頼に値する人なんです。

 

 

「この子とこの子も、サイレンススズカと一緒で見てて不安になりますかね」

「感謝ッ! 彼女達に関しては我々に任せるようにッ! 君は引き継ぎに向ってくれたまえッ!」

「ありがとうございます。じゃあ、早速」

「追加ッ! …………彼女には君の口から担当を降りる旨を伝えるように。今回の件、君に非も責もないのは理解している。だが、それもまたトレーナーの果たすべき義務というものだ」

「…………分かり、ました」

 

 

 二時間近くをかけて彼の選んだ写真を受け取った理事長は、何時もの勢い任せな言葉ではなく、静かながらも凛と優しい声で告げる。

 今の彼には余りにも厳しく、誰であれ言いたくはない科白だろう。それでも誰かが言わなければならない。

 

 まるで血を吐く思いでようやく絞り出された余りにも弱々しい返事を最後に、彼は部屋を去っていった。

 上背と肩幅、春の日差しのような笑み。男性らしさと穏やかさの同居した彼は頼り易く、同時にその甲斐のある人だった。

 けれど、去っていく背中はまるで迷子の子供のように、気の毒なほどの不安で満ち満ちていた。

 

 とは言え、余人が手を出してはいけない問題も、手助けできない問題もある。

 今はまさにそれ。心苦しいけれど、我々は祈りながら願うことしかできなかった。

 

 

「それで理事長、スズカさんの件ですが……」

「早急ッ! 彼女とトレーナーに連絡をッ! まずは事情を聞かせて貰うッ!」

「写真の娘達は、どうしましょうか」

「困苦ッ! 彼自身ですら説明できない感覚を我々が紐解くのは難しいが、何某かの理由はあるッ! これまでもそうだったッ! まずは彼女達と話をしてみようッ!」

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

 理事長室の面談から二時間。

 時刻は16時00分。もう少しで、オレの頭は朝の8時まで巻き戻る。或いはリセットされる。

 

 少し前まではミーティングルームにいたのだが、引き継ぎ作業に嫌気が差して、今は敷地内をふらふらと歩き回っている。

 

 基本、個人専属のトレーナーにはミーティングルームは与えられない。ミーティングルームよりも遥かに狭い仕事部屋を与えられるだけだ。

 複数のウマ娘を率いてチームを形成するトレーナーにのみ与えられる特権なのだが、オレは例外で認められたらしい。

 未だに信じられないが、シンボリルドルフを三冠に導いた手腕があったとするのなら成程不思議ではない。

 

 記憶がすっ飛んでいるのに妙に詳しいのには理由がある。

 何もかんも忘れてミーティングルームどころかトレーナーの仕事部屋すら何処にあるか分からずにおろおろしていたところに声を掛けてくれた警備員のおっちゃんのお陰。

 どうやらおっちゃんとは知り合いだった上、昼間に挨拶していた別の警備員から事情は聞き、気に掛けてくれたらしい。

 

 有り難いと同時に申し訳なく思う。

 トレセン学園に居る限り、この気持ちは常に付いて回る。

 それを考えただけで気が滅入ったが、おっちゃんが文句も慰めも言わずに肩を叩いて命の無事を喜んでくれたことが唯一の救いだった。

 

 

「しかし、とんでもねー量だったなぁ。引き継ぎメチャクチャ時間が掛かりそうだ」

 

 

 ミーティングルームとは別に、学園の広大な敷地内にはトレーナー専用の倉庫もある。

 此方はトレーナーであれば申請を出すだけで借りられる私物置き場のようなもの。

 大抵は学園では取り寄せられていない実費で購入したトレーニング器具やら書籍などの物置として使われているようだ。

 

 一部のミーティングルームを借りられない専属トレーナーは、狭い仕事部屋よりもマシ、と勝手に改装してミーティングルームとして使っているとかいないとか。

 頭が良いというか発想の転換というか、何とも秘密基地感がある男心を擽られる話だ。

 

 オレはその倉庫を三つも借りていた。

 中は殆どが自分で作成したらしい資料やら買い漁った書籍を詰めた段ボールの山、山、山。

 量だけで眩暈を覚え、試しに開けてみた中から出てきた資料の余りにも詳細に記された内容に、過去の自分に自分でドン引きしてしまった。

 

 幸いだったのは、それなりに整理整頓が為されていたことか。

 それほど几帳面な方ではないが、一々目的のものを探す手間と時間を嫌って効率化を図ったのだろうと思う。

 

 ダンボールから出てきた人を殴り殺せるのではないかというほど厚いファイルの背表紙には、ウマ娘らしき名前がオレの字で書きこまれていた。

 

 シンボリルドルフを筆頭に、マルゼンスキー、ナリタブライアン、タマモクロス、etc、etc。

 資料の量からして、シンボリルドルフ以外は正トレーナーとしてではなく、サブトレーナーとして関わったのだろうと推測できた。

 

 それにした所で尋常な量じゃない。

 内容はトレーニングメニューやら、フォームの改善案、身体を作る献立やらと多岐に渡るが、異常だったのはその効果と結果を記した量。

 どうやらオレの目に映ったものをそのまま書き起こしているらしいのだが、我ながらそんなところまで、と思うほどだ。

 

 

 ――――本当に気味が悪い。

 

 

 確かにこれはオレの筆跡、オレの成果、オレの財産。

 だが、記憶と実感が無くなるだけで、不安を煽る呪いのアイテムと何ら変わりない。

 

 銀行口座に自分では到底稼げない額の金が、何の心当たりもないままに自分の名義で振り込まれていたとして、何も考えずに使える人間など何人いるだろう。

 

 もうオレは過去を取り戻したいとさえ思わなくなっていた。

 一刻も早くトレセン学園から立ち去りたい。此処に居るだけで不安感と不甲斐なさで圧し潰されてしまいそうだ。

 いっそ自業自得の結果だったらまだ精神的な余裕もあったかもしれないが、運命だの神様だの実在の証明できないものを恨むしかない現実は、想像以上に精神へと負担をかけている。

 

 

「あ、あのっ……!」

「…………あー、昼間ん時の」

「あ、ありがとうございました……!」

 

 

 学園にある三女神の噴水前を通りがかると、肩で息をする少女が声をかけてきた。

 今は制服に着替えているが、見間違えようのない。昼間見た栗毛の少女、サイレンススズカだった。

 

 一言目から礼を言ってきたということは、理事長と駿川さんが巧く取り成してくれたのだろう。

 あれからたったの二時間だと言うのに、行動も早ければ仕事も早い。あの活気溢れる理事長らしい成果だ。

 僅かに目元が赤く腫れぼったいが、浮かべている安堵と笑みは作り出したものではない。どうやら円満に解決したようだ。

 

 人間関係なんてそんなものだろう。

 誰も彼もが悪意に満ちているわけでなく、善意の行動が善い結果に繋がっているとは限らない。

 彼女とトレーナーの間には、ボタンの掛け違いのような些細な擦れ違いがあっただけ。

 

 

「何なら、お祝いに飲み物でも奢ってやるよ」

「えっ、い、いえ、今日会ったばかりの方に、そんな……!」

「いいっていいって」

 

 

 心底からほっとする。

 彼女はオレに助けられたつもりでいるようだが、救われていたのはオレの方だ。

 壊れかけのオレでも出来ることがある。その事実は、幾分心を軽くしてくれた。

 

 だから逆に感謝の気持ちで、彼女の現状を祝うつもりになっていた。

 

 終始、いいです、御迷惑ですからと遠慮する彼女を押切って、自販機の前にまで連れて行った。

 彼女の選んだのは余り見かけないスポーツ飲料水。お気に入りらしい。オレは無難に缶コーヒーを選んだ。

 

 

「理事長に間に入って貰って、それで私のトレーナーにも納得して頂けて……」

「そっか、よかったじゃん。これでオレが期待した通り、大逃げできるなー」

「でも、これから大丈夫かなって……また、元の走り方ができるか不安で……」

「新しい走り方を覚えるよりも、古い走り方に戻すのがずっと楽だよ。自転車の乗り方と一緒。一度でも乗れれば、何年も乗ってなくても問題ないしさ」

 

 

 三女神の噴水から正門に続く道の脇にあるベンチに腰掛けて、暫くの間、彼女の話を聞いた。

 それほど喋るのが得意でもなさそうなのに、自分から積極的に口を開く辺り、相当にストレスが溜まっていたのだろう。

 

 静かではあるが溌溂とした語り口調は、ストレスからの解放を意味している。

 この分なら、今回の件を機にトレーナーとより一層心を通わせて、己の夢に邁進してくれるに違いない。

 あの大逃げだ。きっと見ているだけで実況も結果もおもしろいことになる。

 もしかしたら、未来のスターが誕生してしまうかもしれない。尤も、オレには関係ない話だが。

 

 聞き役に徹していると、不意に彼女の表情が曇った。何か嫌な予感が――――

 

 

「ただトレーナーには、私には育てられない、と言われてしまって……」

「そ、れは、……」

 

 

 彼女が落ち込んでいないところを見ると、トレーナーが彼女を拒絶したのではない。

 自分の能力では貴方を望むところまで連れて行ってあげられない、と彼女の未来を案じて自ら身を引いたのだろう。

 

 そうなれば、新しいトレーナーを見つけなければならない。

 彼女自身の走り方を肯定してくれるトレーナーを。

 そんなトレーナーはいくらでもいる。生まれ持った長所を生かし、尊重する方針はポピュラーなものだ。

 

 そして一番手頃なのは、いま目の前にいる。

 

 

「その、もし、よろしければなんですが……私のトレーナーになって頂けませんか!」

 

 

 精一杯の勇気を振り絞ったのだろう。

 期待と希望に満ちた目は、かつて両親に夢を語った時のオレと同じだったろうか。

 

 けれど、今のオレには期待に応えてやれるはずもない。

 

 

「い、や……もう、担当の娘が、いて、さ」

「…………そっ、そうですか。そうです、よね。突然、すみませんでした」

 

 

 彼女の期待にも落胆にも耐えられず、思わず目を逸らす。

 嘘を付かずに騙す方法を選んだのは罪悪感からだ。まともな返事も出来やしない。

 

 オレを責めず、努めて明るく振舞い笑顔を浮かべているが、耳も尻尾も気の毒なほど垂れ下がっていた。

 

 

「色々と御迷惑をお掛けしてすみません。それから、気に掛けてもらってありがとうございます」

「……いや」

「私の大逃げ、期待していて下さいね」

 

 

 見るからに空元気。苦し紛れの強がり。

 そうとしか言えない言葉を耳にし、ようやく彼女の顔を見て――――オレは息を飲む。

 

 涙を堪えながらの笑みに、胸を締め付けられたのではない。

 夕焼けの光を浴びて黄金色に輝く栗毛に胸打たれたわけではない。

 況してや、悲観と諦念で腐る心と脳みそに嫌気が指したわけでもない。

 

 ただ単に、彼女を一目見た時から感じていた不安感の正体に行き当たって、総毛立っていただけだ。

 

 

「――――――」

「あっ、あの、どうかされましたか?」

 

 

 やばい。どうする。どうすればいい。

 

 反射的に時計を見る。時刻は16時59分。

 彼女の歓びに馬鹿面下げて付き合っていたオレは時間の確認すら忘れていた。

 今のオレに残された時間は、僅か1分。手帳に不安感の正体を書き残す時間すらない。

 仮に何かを書けたとしても、時間が少な過ぎて正確な意図が17時以降のオレに伝わらないだろう。

 

 次の瞬間、オレの口から出た言葉は考え得る限り最も愚かで、唯一の残された手段だった。

 

 

「いや、悪い。()()()()()()()()()()()だけなんだ。もし、それでもよければなんだけど、担当させて欲しい」

「ほっ、本当ですかっ!?」

「あ、ああ、まあどれだけ役に立つかは分からないけど」

 

 

 役に立つどころではない。

 ただ、足を引っ張るだけだ。

 でも、もし叶うのなら――――

 

 

「で、でも、どうして急に……」

「君の走りが()()()()()()()()()だったから、かな?」

 

 

 可能な限り慎重に、未来のオレへ向けて可能性を残す。

 

 

「それは……私に期待している、ということですか?」

「どうかな。ただ、やれるだけやってみようって思っただけかも……出来るだけのことはするよ。それでもいい?」

「はいっ……はいっ! 私も、期待に応えられるように頑張ります。よろしく、お願いします」

 

 

 頼む。頼む。頼む。

 どうか、この花が咲き誇るような笑みを、踏み散らすことだけはないように。

 

 

「じゃあ、ちょっと用事あるから行くわ。それから頼みが一つあるんだけど、いいかな?」

「私に出来る事なら。何ですか……?」

「この件を理事長か駿川さんに伝えて欲しい。用事がちょっと急ぎでさ。詳しい話は明日の17時以降にオレのミーティングルームで。他の二人も交えて説明すっから」

「そう、ですか。ちょっと不安です……いきなり増えたら、どう思われるか……」

「ああ、気にしなくていいよ。二人もまだ知らない筈だから」

「そう、ですか。良かった……じゃあ、早速行ってきます」

「悪い、頼むわ………………それから、ありがとう」

「…………?」

 

 

 オレが何に対して礼を言ったのか分からないまま、サイレンススズカは微笑んでから走っていった。

 

 残り30秒。

 すぐに行ってくれてよかった。

 オレの患っている病が彼女にバレた瞬間に、全てはおじゃんになる。一か八かの賭けだったが、何とかなるだろう。

 

 酷い嘘を吐いた。

 彼女は明日のこの時間に傷つく。もしかしたら、シンボリルドルフのように泣かせてしまうかもしれない。

 

 

 ――――だが、オレは“嘘にしたくないなら、本当にしてしまえばいい”と、能天気に考えていた。

 

 

 久方振りに軽くなった頭と思考で、それを許してくれた彼女を何時までも見送っていた。

 そうしてオレは手帳に一言だけ書き残し、全てを明日のオレに託したまま17時を示す鐘の音を耳にして彼女の与えてくれた救いも、覚悟も、全てを忘れ去った。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「………………」

 

 

 理事長との面談を終え、引き継ぎを開始した翌日。

 17時を越えて、手帳を頼りに今日一日の引き継ぎの進捗状況を確認していたのだが――――オレは不愉快と不快、憤怒と憎悪の絶頂に居た。

 

 

「冷静。落ち着きたまえ」

「この子達が怯えています」

「…………すみ、ません」

 

 

 いまミーティングルームにはオレと理事長と駿川さん、そして見ず知らずの三人が、机を挟んだ向こう側のソファに座っている。

 

 ソファの右端には、栗毛に白いカチューシャと緑のイヤーネットを付けた少女、サイレンススズカ。

 多分、三人の中では一番年上だろうが問題は其処じゃない。

 オレを見て、部屋に入るなり長い髪を揺らしながら軽く会釈してきた。以前に会ってるような反応だが、やはり記憶は蘇らない。

 

 中央には、煌めくような葦毛の凛とした少女、メジロマックイーン。

 居住まいからして品がある。両親から厳しい教育と確かな愛を受けて育たねばこうはなるまい。

 最初の反応から察するに、この娘は初対面のようだ。

 

 左端には、鴉の濡れ羽を連想させる美しい黒鹿毛のおどおどとした少女、ライスシャワー。

 自信の無さが外見に滲み出ているばかりか、震えていた。いや、違うか。オレのせいだ。

 こちらも初対面。だが、今はどんな表情をしているか分からない。彼女が俯いているのではない。オレが顔を見られないだけだ。

 

 ――――どうやらオレは、サイレンススズカに記憶を失う前、トレーナーとして三人を引き受けると言ったらしい。

 

 馬鹿な。ありえない。何があった。

 お前は何のつもりだ。お前は何を考えていた。ぶっ殺してやる。

 

 ぐるぐると自分自身への呪詛と怨嗟が腹の底と頭の中で渦巻いて、どうにもならない。

 恐らく、理事長と駿川さんがオレの180度違う行動を不審に思って来てくれなければ、衝動的に自殺していただろう。

 

 少なくとも、サイレンススズカは適当な嘘を言っているわけではない。

 オレはもう思い出せないが、他の二人の写真を何らかの理由で選んでいたらしい。

 彼女が理事長と駿川さんへ言伝を持って行った時点で、これを知っているのはオレと理事長と駿川さんの三人だけ。

 つまり、三人しか知らない情報を手にしている以上、彼女はオレからその情報を聞いたのも言伝を預かったのは事実ということだ。

 

 

「失礼。手帳を拝見させて貰っても構わないか?」

「…………」

 

 

 オレはポケットから取り出した手帳を、理事長へ放るように渡した。

 目上の人間に対してしていい行動ではない。年下の少女達の前で見せていい行動ではない。

 けれど、誰一人として責めはしなかった。気を遣ってくれているようだが、いっそのこそ責めて欲しかった。

 

 だが、手帳の書かれていた一言で、オレの怒りが限界を超えるには十分過ぎる一言だった。

 昨日、見た時は何だこれはと意味が分からなかったが、今は意味合いが変わっている。

 

 

「引き継ぎに関することと私達と話したこと……それに、“頼む”?」

 

 

 理事長が、昨日の日付で手帳に書かれた一言を口にした瞬間、一気に沸点を越えた。

 

 頼む? 頼む、だと?

 オレがオレに何を頼む! 無責任なオレが、何も分からないオレに対して一体何を!?

 此処に期待してやってきた彼女達をかっ!? 健忘で壊れかけているだけじゃなく、気まで狂ったか!?

 お前は、彼女達を裏切ることになるなんざ分かっていただろう! お前は、彼女達を失望させることすら分からなかったのか!?

 こんな真似をすれば悲しませることなど予想できただろうが! 自分が断ってその顔を見たくないから、今のオレに責任を押し付けたのか!?

 

 

「……ひっ」

「再度。言わせて貰う。冷静になれ」

「トレーナーさん。貴方は、いま貴方が考えているような方ではないですよ。私と理事長が保証します。何か理由があるはずです」

 

 

 自己嫌悪と怒りで、どうにかなってしまいそうだ。

 堪えきれない嚇怒はどうにもならず、無言のまま片腕を振り上げて机に叩き付けようとしていた。

 今は痛みが欲しい。今は苦しみが欲しい。肉を割いて、骨を砕いて、絶叫を上げてのた打ち回りたい。オレは、オレを許せないから。

 

 ライスシャワーの息を呑む怯えた声。

 理事長の鋭利なまでに冷たい声。

 駿川さんの優しい、オレを信じる言葉。

 

 理事長と駿川さんには頭が上がらない。

 この二人がいなければどうなっていたか。

 すんでのところで馬鹿な真似をしなくて済んだ。

 

 嫌悪と憤怒を吐き出すように、大きく息を吐く。それで、多少は冷静になれた。

 

 

「…………ごめん、怖がらせた。理事長と駿川さんがさっき説明してくれた通り、こんなんで」

「……いえ、その時、何があったかは分かりませんが、トレーナーさんの事情は理解しました。私の目からも、貴方が無責任な方には見えません。どうか、御自分を責めないで」

「ありがとう」

 

 

 三人を代表して、メジロマックイーンは今にも泣きだしそうなライスシャワーの肩を抱いて慰めながら、そう言ってくれた。

 期待を裏切られて落ち込んでいるのは垂れた耳を見れば分かる。それでもオレのための言葉を口にした。気丈で優しい子だ。

 

 お陰で、自己嫌悪は増したが、同時に冷静さも増す。

 今は、彼女が信じると言ってくれたオレを信じることにする。

 

 

「悪い、サイレンススズカ、だったよな。その時の話、聞かせてくれる?」

「は、はい。理事長とたづなさんと一緒にトレーナーと話し合いをした後に、私を育てられないと言われてしまって……」

「もしかして、余計なことした?」

「い、いえっ……ただ、トレーナーと私の走り方が合わなかっただけです。理事長も新しいトレーナーを探してみようと言ってくれて、これからどうしようと考えていたら、貴方を見つけて……」

「オレ、何か変な事しなかった?」

「変なんて……笑いながら私に飲み物まで買ってくれて、それに話も聞いてくれて……」

「それで、オレからあんなこと言ったのかな?」

「ち、違いますっ。私から、お願いしたんです。あの時、大逃げを期待していると言って貰えて、私の走り方を認めて貰えたようで、嬉しくて、舞い上がって……一度は断られて、少し間を置いてから、その後に……」

「一度は、断った……その後に、考え直した?」

「考え直したのかは、分かりません。でも、私の走りが()()()()()()()()()()()()()()って……ご、ごめんなさいっ、私、自分のことばかり考えて……」

「いい。いいんだ。落ち着いてくれ。ほら、オレも同じだからさ。君を泣かせたら、オレも泣きたくなる」

 

 

 今にも泣きだしてしまいそうな顔と震えた声。

 オレが自己嫌悪を募らせているように、彼女もまた己を嫌悪している。

 涙を流させたくはない。彼女の言葉の合間合間に相槌や合いの手を入れ、感情を抑制させる。

 

 確かに、妙だ。

 一度は断っている以上、彼女の申し出を受け入れられる筈がないと理解していた。なのに、その時は何故その考えを翻した。

 

 

 ――――まさか……まさか、その時のオレは今この状況を作り出したかったのか?

 

 

 何故だ?

 考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。考えろ。

 壊れかけの頭を回せ。腐った脳味噌で解を導き出せ。思い出せなくてもいい。だが、その時のオレに至れた答えなら、今のオレでも至れるはず。

 オレを信じてくれる人がいるのなら、オレはオレを信じられる。その時のオレは、必ず何かヒントを残している。

 

 何だ。違和感。分からない。だが何かある。不安感。何だ何だ何だ。焦燥感。おかしい。何かおかしいところがある気がする。

 

 …………そうだ。

 褒め方がおかしい。

 普段のオレなら点数化なんて面倒な真似はしない。走り方そのものについて言及しているはず。

 

 

 

「十点、満点……十、点…………テン、ポイント?」

「「…………っ」」

「…………?」

 

 

 ガチリ、と頭の何処かで歯車が噛み合った気がした。

 

 オレの呟きに理事長と駿川さんが息を呑み、その名に聞き覚えがあったであろうメジロマックイーンが怪訝な表情をする。

 

 テンポイント。

 

 シンザン引退後、颯爽と現れた次世代の英雄の一人。

 『流星の貴公子』とまで呼ばれた洗練された立ち居振る舞い、日に当たると黄金色に見える栗毛と男装の麗人ぶりは記憶に新しい。だってオレは直撃世代で、彼女に期待していた。

 惜しくもクラシックの冠を戴けなかったが、なおも天皇賞と有マ記念をもぎ取った姿に、戦績は及ばすとも能力はシンザンを超えるのでは、と思っていた。

 

 だが、流星の貴公子の最後は、レース史に残るほどの血と悲鳴で彩られている。

 有マ記念後に出走した後の日本経済新春杯で、悲劇は起こった。

 ライバルと競り合いながらも先頭を維持した彼女の左脚は、第四コーナーに差し掛かったところで、負荷の限界を超えた。

 

 突如として奇妙な形に圧し折れる左脚。誰もが思い描いた彼女が先頭でゴールする姿は永遠に訪れなかった。

 固唾を飲んで結果を見守っていた日本中が、その日曜日、歓喜の声を上げることなく沈黙した。

 

 後に彼女の関係者は語った。

 彼女に不備も原因もなかった。原因などあろうはずがない、と。

 

 あの時、オレは期待と一緒に生中継を見ていた。今日こそはきっと、彼女ならきっと、と。

 だが、テレビに映し出されるテンポイントの姿に、言葉に出来ない不安を覚えて、泣き喚きながら両親にこのレースを止めてくれと懇願した。

 

 遠く離れた地で見守ることしかできない者に何が出来るというのか。

 そうしてオレは、流星が地に落ちる瞬間を見た。皮膚を突き破るようにして折れた骨の音を聞いた気さえした。

 

 多分。多分だが、テンポイントの不調を、オレは無意識に感じ取っていたのだと思う。

 本人や周囲が気付いておらずとも、不調というものは何らかの形で現れる。例え、それが計器で計られないようなものであったとしても。

 

 なら、サイレンススズカも――いや、それどころか、他の二人さえもか?

 

 確証はない。確信もない。付き纏うのは不安だけ。

 何処が悪くて、何を見て感じ取っていたのかさえ分からない。

 

 どうする。どうすればいい。

 誰か別のトレーナーに――――いやそれは駄目だ。

 そもそもオレの不安感だけで、一体誰が本気になる。明確な理由を、明確な言葉と明確な数字で示さねば誰も信じはしない。

 テンポイントの関係者ですら、彼女が悲劇に見舞われた原因は分かっていない。なら数字として表れるのは微差。

 観察に観察を重ねて、検証に検証を繰り返して。初めて見えてくるほどの差異。それを、誰が見つけられる。

 

 胃が引っ繰り返って中身を全部ぶちまけてしまいそうな焦燥感――――

 

 

「あ、あのっ……だ、大丈夫っ、ですか?」

 

 

 明確な映像(ビジョン)となった不安に、顔色を変えたであろうオレを案じてか、ライスシャワーの声に我に返る。

 見れば、今にも泣きだしそうな顔をしているのに、精一杯の勇気を振り絞っている幼くも誇らしい姿が其処にあった。

 

 どうして、君はオレに優しくできる? 怯えさせた張本人だぞ? 

 

 その姿に、一つ救われた。

 

 

「理事長、トレーナーさんはお疲れのようですし、今日はこの辺りにした方が……」

 

 

 どうして、君はオレを気遣える? 傷つけた張本人だぞ?

 

 その言葉に、また一つ救われた。

 

 

「ほ、本当に、ごめんなさい。もう、いいですから、自分の身体を……」

 

 

 どうして、君が恥じる? 恥じるべきはこのオレだ。

 

 きっと、君にだって、オレは救われていたはずだ。

 

 

『――――頼む』

 

 

 その時、頭の何処かで、オレ自身の切なる叫びが聞こえた気がした。

 

 同時に、やめておけとも声がする。

 壊れかけのお前に一体何が出来るのか、と。

 

 トレーナーなどきっと続けられない。さっさと辞めてしまえばいい。

 目も耳も口も塞いで暮らせばいい。そうすれば、彼女達の血を見ずに、悲鳴も聞かずに済む。

 

 オレの不安感が現実になるなどと、何処の誰が決めたのか。

 自分の夢から逃げ出すことを選んだ男に、一体何が出来ると言うのか。

 

 

「…………いや、違うだろ。甘えんな」

 

 

 けれど――――胸に生まれていたのは別の想いだ。

 

 知らず知らずの内に漏れた心情は言葉になっていた。

 もしかしたら、彼女達の耳には届いていたかもしれない。ウマ娘は五感すら人間よりも遥かに優れているから。

 

 

「――――理事長」

「傾聴ッ! 何かなッ!」

 

 

 オレの夢はもうどうでもいい。

 叶うなら叶う、叶わないなら叶わないでいい。果報は寝て待てだけ。その程度で叶う夢なんだ。

 

 それ以上に、見ず知らずのオレですらを救ってくれた君達に報いたい。

 花のように美しくも誇らしい君達の、咲き誇る未来を見てみたい。

 

 壊れかけのオレに、彼女達の未来を輝かしいものと出来るかは分からない。

 あの悲劇が、沈黙の日曜日が訪れるのかさえ不確か。

 

 一つ積んでは君のため。二つ積んでは君のため。三つ積んでは君のため。

 待っているのは重ねた努力と結果が、17時を跨ぐ度に崩れ去る賽の河原。

 

 だが、その沈黙も、賽の河原を越えられるだけの武器も、オレにはある。

 

 シンザンから貰った観察眼と集中力。

 かつてのオレが残した、道程という名の情報。

 血反吐を吐く思いで詰め込み続けた知識。

 

 そして、彼女達の意志とオレが両親から受け継いだ能天気なまでの前向きさと異常な体質がある。

 

 彼女達の身を守りつつ夢を叶えられるだけの武器は揃ってる。

 何を恐れる事がある。何処にも迷う必要はない。

 記憶はなくとも一度は半ばまで歩んだ道だ。今度は最後まで歩み切る。

 

 

「彼女達のトレーナー、やらせてくれませんか?」

「………………不愉快ですッ! 私はメジロ家の者として成し遂げなければならない目標がありますッ! その邪魔をされたくありませんッ!」

 

 

 ただひたすらにオレを気遣っていた今までと打って変わった叱責と侮蔑の言葉。 

 でも変わったのは言葉だけで、心持ちまで変わっているわけではない。

 口を開く直前まで言葉を選んでいたことからもまる分かりだ。

 

 しかし、さてどうしたものか。

 オレに気を使っていようとも、彼女の言葉は実に正論。

 オレと同じ症状が出ているのならば、トレーナーは続けられない。

 常識的に考えれば、それが正しいが、オレの体質に常識は適用されない。

 

 

「慢侮ッ! 例え一日の内9時間の記憶が失われてしまおうとも、残り15時間が彼には与えられているッ! 何せ、彼は眠らないからなッ!」

「厳密には眠らないんじゃなくて、脳も体も睡眠時と同じ状態なのに、何故か意識はあるし身体も思い通りに動かせるって感じらしいけど」

「何を馬鹿な……ッ!」

「いや、ほんとだよ。オレ、生まれてこの方失神した時以外に意識を手放したことはない。それにネットで調べてみな。現実にオレ以外にもそういう人間はいる」

「言っておきますが事実ですよ。トレーナーさんが眠らないのはこの学園では有名ですから。何でしたら、他のトレーナーさんに聞いてみますか?」

 

 

 オレが事実を口にするだけでは、疑われているだけだったろう。

 だが、理事長と駿川さんが保証してくれたことで事実は補強される。

 

 メジロマックイーンは信じられないようなものを見る目で、オレを見ていた。

 何度も浴びてきたのと同じ類の視線。それを不快に思ったことは一度足りともない。

 当然だ、オレがこの体質ではなかったら、同じような視線を向けていただろうし、生まれつきではなく後天的になっていたのなら思い悩んだはずだ。

 

 ただ、其処から瞳に浮かび上がってきたのは、疑問だった。

 ライスシャワーも、サイレンススズカも同じ色で揺れている。

 

 

「何故……?」

「いや、だってなぁ。君達と話してて、随分と心が軽くなったから。ほら、生まれ変わったみたいじゃないか、オレ?」

「………………」

「だからまあ、その礼だよ。零落れていくのは構わないが、礼も言わずにだんまり決め込むのは性に合わない」

 

 

 久し振りに、まともな呼吸をしている気がする。

 目の前に広がっているのは暗闇に閉ざされた道一つない荒野だけ。

 だが諦念には程遠く、前に進む気概に満ちている。進めるところまで、進める分まで行けばいい。

 

 それに何より、自分だけ救われておいて、はいさようならをするとでも?

 笑わせないで欲しい。馬鹿にするのも大概にして欲しい。そんな真似、男のすることじゃない。

 

 どれだけ酷く罵ろうと、どれだけ身体的な欠点を指摘しようと。

 メジロマックイーンは、もう折れないと悟ったのだろう。閉口して押し黙った。

 

 

「それとも、オレじゃ不満?」

「不満なんて。経験を失って新人トレーナーと同じだったとしても、選抜レースも出ていない状態で声を掛けられて、嬉しくないわけがありませんわ。私達を認めて下さっている、期待して下さっているも同然ですもの」

「そんなもんか。こっちは死力(ベスト)を尽くすつもりなだけの新人のようなもんだよ」

「理事長もたづなさんも認めていらっしゃる上に、殆ど新人の状態からルドルフ会長の専属トレーナーになった方が何を仰るやら。それにスズカ先輩も相当入れ込んでいるようですし」

「マ、マックイーンちゃんっ!?」

「ですが、不満があると言うのなら一つだけ」

 

 

 彼女の揶揄に、サイレンススズカは顔を赤くして慌てふためいていた。

 年下に揶揄われるのがそんなに屈辱だったのか、はたまた――――。

 

 ともあれ、彼女が不満を抱えていたのは事実。

 それはオレの能力面に関するものではなかった。

 

 

「私達のトレーナーになるのなら、まず私達の走りを見てからにして下さい」

 

 

 矜持と自信に満ち溢れた姿は、余りにも眩しい。

 

 成程、確かに道理だ。

 そして、この上なく公平でもある。

 

 彼女達はオレが何をしたのかを知っているのに。

 オレは彼女達の走りを欠片も知らない。覚えてすらいない。

 

 確かにそんな状態でトレーナーになろうなど、やらされているようで気分が悪かろう。

 彼女達の走る理由は本能だ。だが、その走りにはだからこそ誇りで満ちている。

 

 ならば、やる事は一つだけ。

 

 

「分かった。明日の17時以降に第一コースで。君達の走りを魅せてくれ」

 

 

 使命感ばかりではない。興味はあった。

 

 純粋に。単純に。

 彼女達がどのように走るのか。

 どんな夢を背負い、どんな夢を見ているのか。見てみたい。

 

 

「不満ッ! まだ時間も早いッ! 今からでも構わないのではないかッ!」

「いえ、その前に筋を通します」

「…………そう、ですね。頑張って下さい」

 

 

 理事長と駿川さんは目を見開いて、寂しげに笑った。自身を理解してくれる人がいるのは本当に有り難い事だ。

 

 ほんの少しだけ彼女達に勇気を貰ったから、腹を括った。

 オレは明日、一人の少女に対して自身の口で自身の裏切りを口にする。

 

 謝りはしない。許しも請わない。恨まれるべきなんだ。

 それだけの決断を、オレは既に下していた。

 

 もう、どう呼んでいたかさえ分からないかつての愛バに、“皇帝”シンボリルドルフに、別れを告げに行こう――――

 

 

 

 

 



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『捲土重来』


ランキング入り、感想、投票ありがとうございます。
大変な励みと勉強になりますので、今後もお願いします。

そして今回は会長回。
気合い入れて書いてたら、なんか二万字超えてた。
次はもうちょっとサクっと読める量にしたいなぁ。



 

 

 

 

 

 彼の第一印象は何とも善良そうで、何とも優しそうな男、だった。

 

 

「えっと……あぅ……ここ、どこ……?」

「どうかしたのか? 私でよければ――――」

「おーい、どうかしたー? 大丈夫――――」

「「――――ん?」」

 

 

 初めて出会ったのは入学直後。

 広大な敷地で道に迷ってしまった同級生に声をかけたところ、私と同じことを考えていた彼も同じタイミングで話し掛けてきた、と記憶している。

 

 当時、彼は学園でもトップクラスのトレーナー、東条トレーナーにサブトレーナーとしてついていた。

 この学園では、それが習わし――実質的な規則と言える。

 新人トレーナーはいきなり個人を担当、チームを率いる訳ではない。必ずベテランの下で経験を積む。

 

 どれだけ知識を身に付けようと、実践はまた異なる。

 

 素人が野球選手の動きを頭で完璧に分かっていても、身体をその通りに動かせないように。

 そうした知識と実践の差異によって生じる弊害は、ことトレーナー業においては致命的。

 

 トレーナーとウマ娘間で生じる相互不理解、不和。

 相手方の意見ばかりを尊重し過ぎてしまう故の無理無謀の看過。

 何処を見ればいいのか分からず、些細な違いを見過ごしてしまった故の予後不良。

 

 皆、どれもが両者にとっての破滅に繋がるものだ。

 無論、ベテランとてその全てを把握しきれるわけではないが、新人よりも可能性は遥かに低い。

 そうした破滅を避けるためにベテランの補助から始まり、徐々に経験を積んでいく。

 

 ベテラン側も仕事が増えるだけ、不利益を被るばかりではない。

 若い感性、無知故の着眼点に触れることで、新たな視点を得ることもあれば、自らに足りぬ要素を知ることもある。

 

 互いに高め合う関係性は同一。されども、その手法は多種多様にして千差万別。

 自らの得意を言葉で伝える者もいれば、敢えて苦手分野に共に挑戦することで許される範囲での間違いを示す者もいる。

 

 その点、東条トレーナーと彼の関係性は異質ですらあった。

 彼女が自ら志願して彼を育てると理事長に宣言したにも拘わらず、全く指導している様子がなかったのだから。

 関わりの少なかった私から見ても奇異に映っていた。恐らく、彼女が当時担当していたミスターシービーを始めとする面々も同様だったろう。

 

 

「彼にはそれでいいのよ。見てるだけで十分。懇切丁寧に教えるよりも、見せてやらせた方がずっと早いから」

 

 

 不思議に思って東条トレーナーに聞いても、呆れと羨望が混同したような笑みでそんな言葉が返ってきた。

 

 不仲であったわけではない。

 余り感情を露わにせず、自他に対して厳しい彼女であったが、彼と話しているとふと笑みを零す瞬間さえあった。

 

 

「おい、私のフォーム見てくれ」

「何だよブライアン、突然だなぁ。そういうのはおハナさんに言った方がいいんじゃねえかな。オレが勝手やるのはなぁ」

「いいだろ、別に。まだるっこしい。あっちだってそういうのにお前が長けてるからサブトレーナーに置いてるんだろうが」

「じゃあ私も私も。お姉さんもアドバイスも欲しいし。後でドライブ連れてったげるから♪」

「えー、やだー。マルちゃんさー、カーブでアクセル踏むし、時々前見ないでこっち見て感想求めてくるじゃん。オレ助手席乗るのこわーい。しっかり仕事するのに罰ゲームしたくなーい」

「何よぉ、もー! 罰ゲームは酷くない?!」

「「酷くない」」

 

 

 そんな人柄故だろうか。

 東条トレーナーの下に集った者ばかりでなく、面識のあるウマ娘は皆一様に彼を慕っていた。

 

 少なくとも私は、彼ほど誠心の二文字に相応しい者を知らない。

 

 語り口調は軽快で、堅苦しさがなく話し易い。

 他者の悩みを受け止め、共に悩むか、解きほぐすかのように笑う姿は能天気には程遠く、誠実ですらあった。

 人を恨まず憎まず妬まず恐れず、陰口を叩くような真似もせず。

 指摘しなければならない欠点を見つければ、相手を慮った上で時に遠慮なく意見を口にする。

 道理さえ通っているのなら、相手の必死さを汲み取れば、伸ばした手を取ってくれる。

 

 正直に告白してしまえば、私は尊敬すらしていたように思う。

 

 どうにも、私は人との付き合い方が不得手だ。

 父と母から品と格を教えられ、私自身もそれを是とした。けれど、世の中の多くの人はそのような教育を受けてはいない。

 何を口にするにも堅苦しく、どれだけ相手を慮っても、そのつもりがないにも拘わらず威圧感や圧迫感を与えてしまう。 

 

 初めの内は何とかならないかと努力していたのだが、私の理想の理解者を得る内に適材適所と任すようになっていた。

 

 そもそも私が学園に入学した目的は、レースそれ自体に勝つことでも記録を残すことでもない。

 無論、勝利への欲求は他のウマ娘と同様に私の中にも強く存在していたが、あくまで夢の為の通過点。

 私の夢は、全てのウマ娘が幸福を享受し、笑顔で在る世界を創ること。そのためにはレースで名と実を得るのが一番の近道と判断した。

 

 

 その点、彼は私の夢を小規模ながら叶えてくれるような人物だった。

 

 

 私が気付くよりも早く、思い悩み、厳しい現実に苦しむ者に手を差し伸べる。

 私が頼むまでもなく、自分を客観視できなくなるほど追い詰められた者に声を掛ける。

 

 彼がやっていた行為は、言葉にすればたったそれだけ。

 だが、私にとっても、多くの人々にとっても例えようなく難しい。

 気後れも驕りも恐れもなく、当たり前のように他者に対して手を伸ばせる人間はこの世にどれほど居る事か。

 頼もしい、と両親以外で心の底からそう感じたのは、彼が初めてだったかもしれない。

 

 

「会長、トレーナーはどうするおつもりですか?」

 

 

 生徒会長の席に付き、私のトゥインクルシリーズ参戦前にも拘わらず“皇帝”と噂されるようになった頃。

 私が自ら選んだ右腕、『女帝』と称されるエアグルーヴは、そんな言葉を口にした。

 

 正直なところ、“そろそろ”とは思っていた。

 トゥインクルシリーズへの参戦はほぼ任意と言ってもよい。

 入学直後から参戦する者も居れば、必要な実力をある程度培ってから挑む者もいる。私は後者だった。

 

 参戦を認められる条件は比較的緩い。

 

 まずは選抜レースに勝利し、学園側に自らの実力と意思を示すこと。

 デビュー戦までの間にトレーナーにスカウトされて了承するか、トレーナーを自らスカウトして了承を得ること。

 そして、デビュー戦に勝利し、正当な参加資格を得ること。

 その後、トレーナーの手続きによって、最も重要な三年間が始まる。

 

 正直、トレーナーに関して不安はなかった。

 自信でも驕りでもなく私は事実として、学園の標語である“唯一抜きん出て並ぶ者なし(Eclipse first, the rest nowhere.)”をその時点で体現できていた。

 トレーナー側にも様々な欲求や夢があり、担当し、育成したウマ娘が結果を出すことが自身の結果そのもの。

 ならば、有力かつ自身の適性と相性の良いウマ娘を探すのは当然。いずれ、そうしたトレーナーが私の前にも現れる。それを私が選ばせて貰えばいい。

 

 其処まで考えた時、ふと思い浮かんだのが彼だった。

 

 その時点で親しいと言える間柄であったのはエアグルーヴを始めとする生徒会の面々に、マルゼンスキーの他には彼くらいのもの。

 尤も、彼の方にとってはどうだったか。分け隔てなく誰とでも同じように接する彼にとって、私はその他大勢の一人であったかもしれない。

 

 ただ、期待はあった。

 或いは彼なら、真摯に受け止めてくれるのではないか、と。

 或いは彼なら、見えてもいない頂を目指して、共に歩んでくれるのではないか、と。

 

 

「はー、そりゃまた。語彙力がなくて悪いけど、凄いなそれ」

「不可能とも言わないし、笑わないのだな」

「そりゃねぇ。オレも誰かに夢を肯定して貰って此処にいるわけだし。それだけ壮大な夢なら、自分一人で頑張らなくてもいいし、自分が実現出来なきゃ次の誰かに託したっていいしね」

「ふむ、確かに。一人で気負い過ぎていたかな? そう考えたことはなかった、な……」

「まあ君は人より優れてるからさ。自然とそうなるんだろうけど、人を使う事と同じくらい、人に頼る事を覚えた方がいいと思うよ…………気に入らない?」

「……? どうしてそう思ったのか、聞かせて貰いたいな」

「だって眉間に皺寄ってる」

「……っ」

「ははッ。君さぁ、自分で思ってるほどポーカーフェイスでもないから気をつけな」

 

 

 悪戯っぽい笑みと揶揄うような言葉。

 けれど、その瞳に浮かぶ色は嘲笑には程遠く、真摯そのもの。

 指摘したのは私の弱さであり、青臭さを揶揄っただけで、私の夢を笑ったわけではなかった。

 

 私自身の堅苦しさ故に周囲から距離を置かれる私であっても、彼は何一つ変わらない。

 善人のまま、優しさのまま、ありのまま。私自身ですら知らない私を引き出して、共に笑う。それが堪らなく心地良かった。

 

 

「私の夢は語った。折角だ、君の夢も聞かせて貰おう」

「そっちが勝手に言い出したのに確定事項なん?」

「そうした強引さも時には必要なのでね。それで返答は?」

「……まあ別に隠してるわけでもないからいいけどさ。シンザンを超える娘を見てみたい、それだけだよ」

 

 

 遥か遠くの空を眺めて子供そのものの顔で笑いながら、照れるでもなく恥じるでもなくそう言った。

 

 特段、真新しい夢な訳ではない。非礼を承知で言うのなら、ありきたりでさえあった。

 この業界、我々の競い合う世界では、シンザンが現役を引退してから二十年以上経った今でさえ最強の名をほしいままにしている。

 史上初の五冠達成。残された爪痕全てが日本史上に燦然と輝く、至高にして神とまで呼ばれたウマ娘。

 

 “シンザンを超えろ!”。

 二十年前から中央にとっても、この学園にとっても、トレーナーにとっても、我々ウマ娘にとっても変わらぬ標榜として、常に掲げられている。

 

 彼が他と唯一違っていたのは、“育てたい”のではなく“見たい”ということ。

 彼のシンザン好きは有名だった。語り出せば何時間と止まらなくなるレベル。私も巻き込まれたことがあり、辟易としたほどだ。

 其処が唯一の欠点。同じトレーナーであれ、ウマ娘であれ、皆一様に呆れと共に口を揃えてそう言った。

 

 二律背反。

 誰よりもシンザンに恋い焦がれ、追い掛けようとトレーナーになった。

 だからこそ、誰よりもシンザンを超えるウマ娘の走りを見たいと同時に見たくなかったのだろう。

 

 そもそもの話、見るだけであれば、海外にでも見に行けばいい。

 ウマ娘は世界中におり、シンザンを超える者は現時点でも必ず存在しているはずなのだから。

 

 

「ふむ。では、私のトレーナーをして貰えないだろうか?」

「えっ? 今の話でそう持ってける要素あった? そもそもオレ、話を聞いて貰いたいからって来ただけなんだけど……」

「むっ……少々意外で、心外だ。これでも多くのトレーナーからは引く手数多だと思っていたのだが、そうも嫌厭されようとは……」

「いや、オレは話の流れが迷子になってない? って言っているだけでね?」

「何もおかしくはないと思うが? 私は私の夢を笑わずに受け止めてくれた君を同志としてトレーナーに迎えたい。君はシンザンを超えるウマ娘がみたい。ならば私のトレーナーになるべきだろう」

「言い切ったな」

「自信でも自負でもなく事実だよ。今この学園で私が最もシンザンに近い」

「まー、そりゃ学園見渡しても頭一つどころか三つも四つも抜けてるのは認めるけど、すげー自信だぁ……」

 

 

 驕りではなかった、と今も信じている。

 シンザンは必ず乗り越えねばならない高く聳える壁。

 越えるためであれば努力を惜しまず、如何なる限界をも超えていく所存だった。

 

 私にしては感情的になっていた。

 自信とは言葉で示すものではなく、態度に自然と表れるもの。そう両親から教えられてきたにも拘わらず、口にせずにはいられなかった。

 ただ、少なくともこの時の私は、その理由を理解しておらず、自覚すらしていなかった。

 

 思えば、もうこの時点で私は彼に惚れ込んでいたのだろう。

 トレーナーとしての能力は未知数であったとしても、彼は疑う余地のない善人で、発揮した誠心と重ねた善行の分だけ正しく報われて欲しかった。

 彼の夢を叶える一助となりたかった。そして、私の夢を叶えるために手を貸して欲しかった。

 

 そしてきっと、シンザンに嫉妬していたのだ、私は。

 そんな彼の視線と思いを独占する彼女に。

 

 

「………………一つ条件がある。このままだと公平(フェア)じゃない」

公平(フェア)……ふふ。そうか、そういうことか。確かにそうだな。ではトレーナー君、折り入って頼みがある」

「流石に話が早い。そう畏まらなくてもいいと思うけど」

「畏まるさ。大事だからね――――返事は、私の走りを見てからに」

「ああ、君の走りを魅せてくれ。オレも、死力(ベスト)を尽くすよ」

 

 

 僅かに悩むような素振りを見せた彼だったが、少ない逡巡で決断を下した。

 望んだのは、正しいトレーナーとウマ娘の出会い。互いを知り、互いに認め合った末の関係性と公平性。

 

 ――――そうして、私達は手を取り合った。

 

 

「凄いな。身体を作るトレーニングメニューに献立、それにフォームの改善計画まで。まだ組み始めて三日目だぞ?」

死力(ベスト)を尽くすって言ったじゃん。元々、拷問部屋で知識だけは詰め込んであったし。それにオレ、寝なくていいから他の人より時間あんの」

「確かに、君の噂は耳にしたことはあるが……この量は流石に信じざるを得ないな。と言うより、拷問部屋とは……?」

「ああ、オレが選んだトレーナー専門学校のこと。卒業率は他よりも圧倒的に低いけど、中央への就職率が異常に高くて選んだまでは良かったが、あそこの寮ヤバかったよ。毎晩毎夜、勉強し過ぎて発狂して叫び出す奴とかいんのに皆慣れ切っちゃって勉強し続ける地獄みたいな環境。此処卒業しただけで一目置かれるかな」

「………………因みに、他に卒業してるのは?」

「おハナさんだろ? 黒沼さんだろ? あと地元に居た時から後輩だった南坂ちゃんだろ? …………二つ以上の意味でヤベー奴しかいねぇな」

 

 

 トレーナーとしての彼の実力は、私の想像を遥かに超えていた。

 後に知ることになるが、東条トレーナーはさっさと担当を決めて正トレーナーになれ、と再三に渡って言い聞かせていたようだが、如何なる理由かは定かではないが、ずるずると先延ばしにしていたようだ。

 その話を聞き、私を選んでくれた優越を抱いたのは言うまでもない。お前はシンザンを超えられる、と言われているようでこそばゆかった。

 

 苦手を潰し、得意を伸ばす効率の良いトレーニング。

 欲を満たすと同時に身体を作りながらも、摂取の過多を見て安全マージンを確保した献立。

 そして何よりも、私自身ですら気付いていないフォームの問題点の指摘と改善。

 

 どれをとっても素晴らしいの一言。

 知識量は勿論の事、東条トレーナーの下で学んだ実践への応用と個人に合わせた調整は舌を巻く他なかった。

 東条トレーナーが見込んだだけあって、生まれ持った天性のみならず、努力すら一切怠らない本当の天才。

 

 だが、その本当の理由を私はまだ知らなかった。

 

 

「失礼するよ、トレー――――っ」

「……………………………………」

 

 

 それを知ったのは、確か私のデビュー戦直前。

 今の仕事部屋では手狭だと、倉庫を改装して作った彼と私だけのミーティングルームを訪れた時。

 

 “唯一抜きん出て並ぶ者なし(Eclipse first, the rest nowhere.)

 

 其処でその言葉が、何もウマ娘(われわれ)にだけ適用される言葉ではないと思い知った。

 

 一意専心。万里一空。勇往邁進。勤倹力行。

 いずれも何らかの事柄に全霊と努力を些かも惜しまずに注ぎ込む意を持つ言葉であり、その四文字に相応しい人物は皆称賛される。

 

 しかし、彼は余りにも凄まじ過ぎた。

 ミーティングルームに足を踏み入れた瞬間、総毛立つ。

 まるで大型の肉食獣の居る檻に、何も持たずに放り込まれたかのような気さえした。

 

 彼は、私のデビュー戦に挑んでくる者の映像記録を見ていただけ。

 瞬き一つせず、僅かな懸念も残すまいと相手の癖や得手不得手のみならず、思考様式や成長性すら見抜かんとするその視線。

 

 本気、真剣、全霊、死力の姿は否応なく恐ろしい。

 より異質だったのは憎悪も嚇怒もないままに発せられる、私が呼吸すら忘れてしまうほどの集中力と雰囲気。

 壁にはホワイトボードにも書ききれなくなった映像から読み取った情報の数々、情報から導き出した答えが正しいかを確認するための数式がびっしりと書き込まれていた。

 

 最早、天才などという言葉に収まりきらない姿と才気、独自の感性。

 異質、異常、異端、異類、異形。彼が息をするように行っている事柄が、常人ならば死力を尽くしても至れない境地そのもの。

 

 そこで、はたと気付いた。

 彼が東条トレーナーのサブトレーナーをしていた意味を。

 東条トレーナーが彼を見込んだのではない。東条トレーナー――――この学園におけるトレーナーの頂点でなければ、彼の天才性と異常性に耐えられずに潰されるのだ、と。

 

 穏やかな善性の人格の下に隠された、当人ですらどうにもできない本性。

 彼をそのように成長させた両親に感謝すべき、と本気で考えた。

 そうでもなければ彼はただ其処に存在しているだけで周囲に悲鳴を上げさせ、才能の差を自覚させるだけで圧し潰す怪物になっていたに違いない。

 

 それでも頼もしく感じていた、と思う。

 私も周囲が委縮してしまう点において、似たようなものだったから。

 何よりも、彼は私よりも遥かに上手く生きていた。

 私以上に周囲を圧力で潰してしまうはずの彼が、私よりも多くの信頼を獲得している姿を心底から尊敬し、同時に憧れていた。

 

 

「なー、もう勝負服作っちゃわない?」

「何を言っているんだ、君は。デビュー戦もまだなのに、そんなことが許されるはずないだろう」

「ところがどっこい、勝負服作ってる服飾担当と仲良くなっちゃってさぁ。お願いしたらいいってさ」

「…………君のコミュニケーション能力にはいつも驚かされるな。……うん、しかし、私だけと言うのは、な」

「え? 別にいいんじゃない? やってくれるって言ってるし。じゃあマルちゃんとかブライアン、エアグルーヴに声かけてみるかー。こっちの要求に対してどれぐらいのものをお出しされるか見ときたいし。勝負服で失敗すんのはちょっとなぁ」

「むっ…………い、いや、その三人に迷惑をかけることはないだろう? 私が行こう。実は私も考えていたものが既にあってね」

「お、乗り気になったな。どんなんどんなん?」

「こう、やはり“皇帝”と呼ばれるからには、それに恥じない威厳が欲しい。軍人の礼服のような、肩章や飾緒があるものがいいな。色は落ち着いたもので、肌は余り見せたくない」

「なら色は群青か、深緑がいいかなぁ。肩章と飾緒は金糸使って貰ってアクセントにしてさ。いや、それだけじゃ地味だな……マント付けない? 走行妨害判定されない短くて真っ赤な奴」

「ほう、それは考えていなかった。マント、マントか。うん、いいかもしれないな」

「後さ、軍服みたいにするなら勲章も付けようぜ。八大競走を制覇する度に一つずつ増やしてくんだよ。戦闘機の撃墜マークみたいにさ」

「ふふっ、随分と挑戦的と言うか挑発的と言うか」

 

 

 嬉しかった。

 一人でも成し遂げるつもりであったが、これほどまでの理解と支えを得られるとは思っていなかったから。

 

 

「済まないな、トレーナー君。君にまで生徒会の仕事を手伝わせてしまって。こういう時は…………忍びねぇな、だったかな?」

「構わんよ! …………なんだ、ニュース以外も見るようになったじゃん」

「君のような軽妙洒脱な会話には憧れていてね。相手の視座に寄せて考える重要性と、同じ情報を共有した方がいいと学ばせて貰ったよ」

「頭かった! 君さー、まだまだ頭固いよ。もっと頭柔らかくしな。じゃあちょっと謎々やってみようぜ。こういうの結構面白いし、効くんだよな」

「そういうものか……ふむ、では問題を」

「訪れる姿は羊の如く、擦れ違う姿は矢の如く、去った後は山の如く動かない。これはなにか?」

「まるでスフィンクスの謎かけだな……ふむ、羊に、矢に、山……それぞれ動物、道具、それから風景、いや地形かな? 一見、共通点は見当たらないな……うぅむ?」

「はい時間切れ。これくらい秒で答えないとな。答えは“時間”。ゆっくりとだが確実に訪れて、一瞬で過ぎ去って、その後はもう二度と手を加えられない。ほら、簡単」

「ほう…………いや、待って欲しい。矢はまあ分からなくもないが、羊は確実に此方へと向かってくるわけではないし、山も切り開こうとすれば出来ないこともない。君の出題のし方が婉曲的で抽象的であることに問題があるのではないかと言いたい」

「負けず嫌いだなぁ、君! こういうのは例えなんだからいいんだよ。そういうところだぞ」

「そんなことはないだろう。では、私からも、だ。…………月曜は煮え湯を飲み、火曜は水を飲み、水曜は土を喰らい、木曜は風を生み、金曜日は地に出でた。これは何か? ふふっ、ちょっとした力作だぞ?」

「ふーん、月火水木金ね。その順序だとぉ……分かった。答えは“生命”だろ? 生まれたばっかの地球はマグマの海だった、そこから細菌だのバクテリアが生まれて水生生物になって、植物が育って空気を生んで地上に陸生生物が現れる。そんな感じか」

「……くっ! 正解ッ!」

「ふふーん、よゆー。ってホント負けず嫌いだよね、君」

 

 

 楽しかった。

 勇往邁進。甘く愚かな夢は一時たりとて忘れたことはなかったが、君の前では心も身体も軽くなり、夢が実現可能な範囲にあるとさえ思えたから。

 

 

「ところで聞いてくれないか、トレーナー君。新作が出来たぞ」

「エアグルーヴも居るからやめなぁ? やる気下がっちゃう!」

「き、き、貴様ッ! 余計なことを言うなッ!」

「エアグルーヴもこう言ってくれている。構わないだろう?」

「すげーなコイツ。エアグルーヴが聞きたくてしょうがないって思ってんぞコイツ。意外と暴君なところあるよなコイツ」

「おほん……この前、栄養補給でバナナを食していたのだが、ふと思った。()()()を食べ過ぎれ()()キロは太ってしまうな、と」

「………………」

「ふっ、ふははっ、どうだったかな?」

「エアグルーヴの やる気が 下がった!」

「い、一々私を引き合いに出すのはよせ!」

「今のお前、バナナの皮より滑ってんぞ」

「ぶっ! く、ふ……ほ、本当にき、貴様はぁ……!」

「くっ、ずるいぞっ……私の渾身の冗句を横から奪っていくなど、まるで鳶だっ」

「会話もダジャレも下手すぎんだろ、どうなってんだよお前」

 

 

 喜ばしかった。

 私の知らない私を見つけてくれる度、呼び方が君からお前やコイツに代わって、心の距離が縮み、より同じ方向を向いていると感じたから。

 

 

「――――君ならば分かってくれると思っていたが。エアグルーヴも心配し過ぎだ」

「そりゃ気持ちは分からんでもないけどなぁ」

「夢のために、私は私に限界を超えろと命じる。そうしなければならない。この程度で壊れるほど柔ではないよ」

「じゃあ逆に聞くけど、夏の合宿で限界超える必要って何処にあんの? 限界超えるのが常態化したらぶっ壊れるわ。アホか、どうせ超えるならレースで超えろ。焦り過ぎだろ、一歩ずつ確実に行こう」

「そ、それは……っ!」

「限界を超えなきゃならない瞬間ってのは確実に来る。だが、それは今じゃないでしょーが。オレも自分もあんま舐めんなよ」

 

 

 苛立ちもあった。

 怒鳴り合うような真似こそしなかったが口論にはよくなった。その度に自身の焦りを優しさと呆れと共に指摘され、何も言い返せなくなって、より一層頼もしくも思った。

 

 

「まずは一冠。ま、これくらいは余裕だな。対抗できる奴もいなかったし。それより勲章、オレが作らせて貰ったんだよ。どう? どう? 結構巧く出来たと思うんだよなぁー」

 

 

 なのに。

 

 

「これで二冠。ちょいと思うところもあるが、言ってもしゃーないしなぁ。それよか、こりゃ早目に次の勲章作った方がいいな。ん? 無駄になるかも? バカ言うなよ、なる訳ないだろ?」

 

 

 ――なのに。

 

 

「流石にちょっと驚いたよ。見えてはいたが、無敗のまま三冠とは。いやぁ、だけど、そうだな。………………おめでとう、()()

 

 

 ――――両親しか知らなかった幼い頃の名を明かし、彼も呼んでくれたのに!

 

 

「…………あの、ところで、()()()()()()()()()

 

 

 ――――君は一人で、全てを忘れてしまった。

 

 

 その一言で全てを理解した。

 そして、生まれた時以外に泣いたことのなかった私が、誰にも恥じることなく生きねばならないはずの私が全てを忘れて、零れる涙を抑えることが出来なかった。己の脚で立っていることさえも。

 

 ただひたすらに悲しかった。

 君と共にあった嬉しさも、楽しさも、喜びも、苛立ちですら、全てを否定されてしまった気がして。

 

 ただひたすらに自分を責めた。

 彼が事故に巻き込まれたのは、私の三冠を祝っての席の帰り道。

 私も居た。エアグルーヴも居た。ブライアンも居た。マルゼンスキーも居た。東条トレーナーも居た。なのに、何も出来なかった。

 我々は動揺とは無関係に、最善の行動を取ったはず。エアグルーヴは救命救急に連絡を入れ、ブライアンは車の運転手の状態を確認、マルゼンスキーは事故の原因となった親子の無事を確認、私と東条トレーナーは考え得る限り完璧に近い応急処置を施した。

 だが。救急救命士ですら太鼓判を押してくれた処置でさえ、彼の記憶を守ってはくれなかった。

 

 そして何よりも――――彼は、この先どう生きていけばいい?

 

 きっと、彼は私以上に自身を責めるだろう。

 思い出は生きた証であり、絆そのもの。自身が記憶を失うことで、一方的に絆を断ち切ってしまう事実に思い至らない彼ではない。

 

 その上、前向性健忘まで。

 トレーナー自体は続けられるだろう。彼の体質と才能があればやっていける。

 けれど、彼はそれを選ばない。人に足を引っ張られても笑って許したが、人の足を引っ張ることを是としなかった。

 どうすればいいかも分からないまま、私自身がどうしたいのかも分からないまま、逃げるように生徒会の仕事に没頭し続けた。

 

 エアグルーヴもブライアンも今はいない。前者はレースに、後者は東条トレーナーとトレーニングを行っている。

 エアグルーヴは再三に渡って休むように言ってきたが、その言葉は全て無視した。何かをしていないと不安と焦燥に圧し潰されそうだから。

 ブライアンはただでさえサボリ癖があったが、更に生徒会に顔を見せなくなった。責めるつもりはない。見ていられるか、と吐き捨てるように出ていった彼女だが、確かに私を気遣ってくれていたのが分かったから。

 

 余りにも暗澹たる状況だ。

 両親から相応しい教育を受け、“皇帝”などと持て囃されながらのこの様に、何度自嘲したことか。

 

 そうこうしている内に昨日、彼は学園に戻ってきた。

 

 彼には、まだ会っていない。

 恐かった。見ず知らずの誰かへ向けるものと変わらない彼の視線を浴びるのが。

 分からなかった。どうすべきなのかは勿論のこと、どうしたいのかさえ未だに答えが出ない。

 聞きたくなかった。私のためを思って、私の隣から去っていく別れの――――

 

 

「ちょっと、大丈夫?」

「…………っ」

 

 

 気が付けば、目の前に心配そうに此方を覗き込むマルゼンスキーの顔があった。

 

 思わずぎょっとして思考の海から引き戻される。

 生徒会室の机に座り、書類を片付けていたのに、まるで進んでいない。

 あの日から、こうして手の止まる時が増えた。情けないにも程がある。私を信頼し、同時に心配してくれているエアグルーヴにも顔向けできない。

 

 

「…………生徒会室に入るなら、ノックくらいすべきだろう」

「したわよ。でも無視されて、鍵もかかってないから入ってきちゃった」

「っ……すまない」

「いいわよ、これくらい。昔からそうなんだから、ちょっとくらい感情吐き出さないとくるくるぱーになっちゃう」

 

 

 苛立ちを吐き出すための、見苦しい八つ当たり。

 それでも彼女は真正面から受け止めて、私の所業は怒鳴りつけても許される非礼であったにも拘わらず、なおも微笑んだ。

 

 本当に、いい友人を持ったと思う。

 彼女とは学園に入学した当初からの付き合いで、随分と助けられた。

 私と気が合うと言うよりも寧ろ、彼女が誰とでも合わせられる人間性を持っているのだと思う。

 

 

「仕事、行き詰ってるみたいね」

「いや、考え事をしていただけだよ。すぐに終わるさ」

「だーめっ! どうせ同じ事繰り返すんだから、お姉さんと気分転換行きましょ?」

「…………ふっ、ドライブは御免だぞ?」

 

 

 トン、と柔らかい指先で額を押される。

 それだけで、随分と心が軽くなった気がした。

 

 マルゼンスキーはエアグルーヴと同様に、私を心配してくれている。

 生徒会に顔を出してくる機会が増え、昼休みの時間帯には引き摺ってでもカフェまで連れていく。

 それでもエアグルーヴのようにもうやめろとも、休めとも言わない。制止では意味がないと思っているのか、彼女も似たような状態なのか。

 

 いずれにせよ、彼女の言う通り。

 根を詰めても良い結果は得られない……そう言えば、そう教えてくれたのは彼だった。

 ふと、頭の隅を過ぎった考えを振り払い、鉛のように凝り固まった身体を椅子から立ち上がらせる。

 

 

「部屋の片付けも相変わらず、ああいうのってコツとかあるの?」

「小まめに行うのが一番だとは思うが、自分一人だと思うとどうしても後回しにしたくなる気持ちも分かる」

「そうよねぇ~。はぁ、何とか直さないとなんだけど、苦手意識がねぇ……」

 

 

 生徒会室を後にし、廊下を進む。

 その間、マルゼンスキーは私の苦手な他愛のない会話を繰り返してくれた。

 自身を慕う愛らしい後輩。最近食べたらしい美味しいスイーツ。私をして完璧に見える彼女の、本当は苦手な部屋の片付け。

 

 自然と笑みが零れたのは本当に久し振りで、強張っていた顔の筋肉が少しだけ痛かった。

 辛さや苦しさは未だ胸の内で燻っているが、普段の自分を取り繕うのに問題はなかった、のに――――

 

 

「…………よう」

 

 

 ――――校舎のロビーで、何の迷いもない穏やかな表情を浮かべて此方に向かってくる彼を見つけた瞬間、再び自分の全てが崩れていくのを自覚した。

 

 反射的に、逃げ出しそうになった。

 ただ、マルゼンスキーに手首を掴まれて止められた。予想はしていなかっただろうが、既にあらゆる覚悟を決めていたのだろう。

 

 心臓が、嫌な跳ね上がり方をする。

 レース前の心地よい高揚感とも違う、レース後の苦しさと興奮とも異なる、不安感ばかりが募って早鐘を打つ鼓動。

 

 しかし、同時に淡い希望と期待もあった。

 健忘にはかつての思い出に触れるのが肝要と聞く。

 この学園に戻ってきて数々の記憶に触れたことで、彼にとっても私にとっても都合良く、全てを思い出してくれたのではないか、と。

 

 

「オレは君の担当を降りることになった」

 

 

 現実は、彼からかつての記憶を奪い、これからの記憶すら奪い続けているのと同じに、甘くはなかった。

 彼は目の前に来ると一瞬だけ目を伏せ、其処からは二度と目を逸らすことはない。

 

 

「それから新しく担当に就く。皆、デビュー前の新人と入学したばっかの新入生でね。新人トレーナーには分相応だ。それも巧く出来るか分からないが、もう決めた」

「…………それ、は」

「謝るつもりはない。悪びれる気もない。恨んでくれて構わない。中途半端な自分は恥じるが、オレはオレのために君を裏切る」

 

 

 やめてほしい。気分が悪い。

 聞きたくない。眩暈が止まらない。

 消えてなくなりたい。胃液が喉元までせり上がってくる。

 

 何を選択するのか予想はしていた……してはいたが、彼の口から放たれたのは予想を遥かに上回る裏切りだった。

 

 彼が、私以外を担当、する……?

 在り得ない。そんな身体で、どうして自分を苛め抜くような真似をするのか。君にはゆっくりと身体を休めて欲しい。

 意味がない。昼の出来事を忘れてしまうのに、担当になった娘とどう絆を育むのか。それは人バ一体を標榜とする君の目指す道ではない筈だ。

 

 違う、間違っている、誤っている――――

 

 

「だけど、もし――――」

「分かった。もういい」

「ちょ、ちょっと、ルドルフ!」

 

 

 ――――気が付けば自分でも驚くほど冷たい声色で紡がれる言葉を斬って捨て、駆け出していた。

 

 マルゼンスキーが背後で何事かを叫んでいたが、よく聞こえなかった。

 

 嫌になる。

 立ち向かうことを選んだ彼と逃げ出した私。こんな小娘が“皇帝”などと笑わせる。

 

 嫌になる。

 確かな希望を見出して苦難の道を歩む選択をした彼を、私は一瞬でも恨んでしまった。

 

 本当に、嫌になる。

 そして何よりも、彼の言葉を聞いた瞬間、腹の底から湧き上がったドス黒い感情で、彼の選択を否定しようとした自分自身に反吐が出る。

 

 

「はっ……はっ……はぁっ…………は、はは……」

 

 

 逃げ帰った生徒会室の扉を乱暴に閉めて背を預け、思わず笑いながらずるずるとその場でへたり込む。

 

 呼吸が乱れる。心臓が暴れている。

 走ったのはレースに比べれば遥かに短い距離だったにも拘わらず、身体は悲鳴を上げている。

 

 いや、悲鳴を上げているのは心の方だ。

 私は、私が強いと信じていた。そう思ってきた。疑ってさえいなかった。

 私の下を去っていった者は少なくない。私の傍に居れば、高いレベルを常に要求される、強要してしまう。だから、来る者には覚悟を問い、去る者は追わなかった。

 

 だが、彼にだけは隣に居て欲しかった。

 彼の隣に立つのが私以外の誰かであることに耐えられない。

 

 嗚呼、なんて罪深い罰当たり。

 きっと彼なら、そう彼ならば、と。寄り掛かることだけ考えて、私は彼を支えてやることを考えてやったことがあっただろうか。

 

 ……なかった、のだろう。

 だからこうして彼の決断から逃げ出し、一人で膝を抱えて――――

 

 

「……いるわよね。何も、言わなくていいから聞いて」

 

 

 ――――その時、扉をノックすることなく、マルゼンスキーに声を掛けられた。

 

 何も不思議なことはない。

 逃げた私が何処に行くかなど、彼女にはお見通し。

 いや、これくらいはエアグルーヴやブライアンでも同じだろう。

 ただ、心配はしてくれても無理に私の意思を捻じ曲げようとしない。

 

 支えることよりも、寄り添うことを良しとしているからだ。

 いっそ迂遠とさえ言ってもいい優しさは、今は有難かった。

 

 

「彼と話してきたわ」

 

 

 扉の向こうから押し返すような圧力を感じた。

 彼女も扉を背にして床に腰を下ろしているようだ。

 

 どうやら置いてきた彼女は、彼と話してきたらしい。

 本当に、芯が強いのだと思う。私は全てを忘れてしまった彼と話すのが怖い。

 ふと漏らした思い出で、彼を傷つけてしまいそうで怖い。

 大切な思い出を、何も知らない表情で踏みつけられてしまいそうで怖い。

 

 彼女だって、彼を慕っていた。

 私も知らない多くの思い出があって、それは掛け替えのないものであったはず。なのに、どうして――――

 

 

「もうチョベリバよぉ、チョベリバ! こっちは夜も眠れないくらい心配してたって言うのに、自分は一人で忘れちゃって。ほんっと、酷い(ひと)で酷い話」

「……彼を、悪く言わないで、やって、くれ」

「そうね……でも私達は誰を恨んで、何を責めればいいのか。私達の気持ちや思いは、何処にぶつければいいのかしらね?」

 

 

 ようやくの思いで絞り出した声は、情けないほど震えていた。

 

 恨んでいい相手も、責めるべき相手もいない。

 敢えて言えば彼が巻き込まれた事故の原因となった者達であるが、罪の重さを計るのも重さに応じて裁くのも法の仕事。

 恨む事も責める事も倫理や道理は兎も角、心情として理解される。だが、我々がすべきはそんなことではない。最も多くの傷を負った者の多難な前途をより良くする事こそが……。

 

 

「彼、変わってなかったわよ。前と同じで困ったみたいに笑ってた。影はあったけどね」

「………………」

「私も何か言ってやろうと思ったんだけど、気を遣ってくれてありがとう、ですって。ほんと、酷い男。自分が一番辛いでしょうに、見てるこっちだって辛くなるわよ、あんなの」

 

 

 扉越しに聞こえるマルゼンスキーの声も震えている。

 

 いつか聞いた。彼女もまた学園の中で悩みを抱えて居たらしい。

 それがどんな悩みであったのかは分からないが、何か周囲に引け目を感じているような雰囲気は常にあった。

 

 けれど、何時の頃からかそんな雰囲気はなくなっていた。

 “怪物”と称されるほど他の追随を許さない速度と走りは、気高く優雅さまで携えているようになり、より多くの羨望と尊敬を得るようになった。

 

 だからきっと、その切っ掛けを与えたであろう彼との思い出は彼女にとっては決して失われてはならないもので。

 

 

「でも、私は覚えてる。彼が何を言ってくれたのか。私がどう思ったのか。全部……全部全部、覚えてる。彼は忘れてしまったとしても思い出が無くなったわけでも、無意味になったわけでも、無価値になってしまったわけでもないじゃない」

「…………っ」

「貴女は、それじゃ足りない?」

 

 

 足りない、はずがない。でも、私は、彼の苦しむ姿を―――― 

 

 

「私はそれでも構わないわ。じゃあ私は行くから。よくよく考えればチャンスよねぇ。おハナさんに相談して、彼のところ行ーこおっ♪」

 

 

 ―――――――――――――――――は?

 

 ちょっ……と、待て。少しだけ待って欲しい。

 マルゼンスキーは今、何と言った?

 

 彼のところに行く?

 それはつまり、彼をトレーナーとして指名するということか?

 な、何を、何を言っているんだ彼女は!?

 今の彼は新人も同然で、既に三人も抱えると決めているにも拘わらず、更に負担を背負わせるような真似をさせるなど……!

 

 

「あら、おかしい? そもそも新人の後輩ちゃんと新人トレーナーが組むのもおかしな話と思って。だってほら、真っ新な新人トレーナー君だったら、ある程度経験のある私の方が負担も軽いはずよねぇ?」

 

 

 意地の悪い、揶揄うような声色。

 だが、私としてはそんな事を気に掛けている余裕はない。

 

 た、確かにマルゼンスキーの主張にも一理ある。

 ある程度のレース経験とトレーナーから課せられるトレーニングを熟していれば、自分の限界も完璧ではないにせよ把握しているし、体調管理とて出来るだろう。

 必要とあれば、トレーニングの内容や量の問題点も指摘できる。出走するレースの相談も出来る。新人トレーナーとて巧くやっていけるだろう。

 

 恐らく、東条トレーナーも許可を下ろす。

 彼女も私と同様、来る者に覚悟を問い、去る者を追わず。

 厳しく管理はするが、ウマ娘の想いを蔑ろにする手合いではない。それは彼と出会ったことで加速している節すらある。

 

 だ、だが、それは――――

 

 

「……だ、駄目だっ!」

「きゃんっ……んもう、予想通りだけど、予想通り過ぎるのも考え物よね」

 

 

 気が付けば、悲観も懊悩も捨て去って扉を開け放っていた。

 扉に背中を預けていたであろうマルゼンスキーは支えを失って、そのまま生徒会室の床へと倒れ込む。

 唖然としているであろう私に対して、彼女はしてやったりと満面の笑みを浮かべると制服の埃を払いながら立ち上がった。

 

 

「答えは出た?」

 

 

 出た。

 これ以上ないほど明確に。私の意思とは無関係に。彼女に引き出して貰った。

 

 

「早くしないと、盗っちゃうぞ♪」

「…………背中を押してくれるにしては、頂点を狙う者の目だな」

「モチのロン! 順序と手順は守るけど、勝ち負けだけは話が別でしょう?」

「違いない…………行ってくるよ」

 

 

 マルゼンスキーは本当に強い。

 誰にでも誇れる自分を保ちながら、望んだものに手を伸ばしている。

 公正性を保ちながら、負けるつもりは微塵もない。

 

 誇りある最良の友に最大の感謝を。

 けれど、彼は私のトレーナーだ。その一点に関して、私もまた譲るつもりも負けるつもりもない。

 

 誰かが、トレーナーをこう喩えた。

 “大志へと続く道を共に歩む、信頼に足る杖”と。

 

 しかし、私にはそれでは足りない。人を道具呼ばわりする権利はないと信ずる故に。

 支えられるばかりでは据わりが悪い。我々の信頼は支え合ってこそ。

 仮令背負った重荷を肩代わりしてやれなくても、倒れそうになる身体を支え、倒れてしまった者に手を差し伸べることは出来る。

 私が辛い時、迷った時には君に倒れそうな身体を支えて欲しい。

 だから、君が辛い時、迷った時には君の倒れそうな身体を支えたい。

 

 君に、そう教えて貰ったから。

 

 私の求める頂きは余りに遠く、私自身が“皇帝”と呼ばれるには余りに弱い。

 だが、覚悟を決めたよ、トレーナー君。君が私の隣を離れると決断したように、私もまた決断を下した。

 

 かつての謎かけのように、過ぎ去った時間は巻き戻らない。

 山の如く頑として動かず、高揚や後悔、歓喜と寂寞の念と共に其処に在るだけ。

 だから、君が忘れてしまったとしても、決してなくならない。全て、この胸の内に残っている。

 

 我々は一蓮托生、人バ一体を旨として共に歩んできた。

 君の涙が涸れて声さえ尽きたのなら、共に泣く頬と喉をやろう。

 もしも血の一滴さえ残っていないのなら、この胸を裂いて全て捧げよう。

 

 何故なら君は、私の――――

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

 ――――気が付けば、オレは第一コースの柵外に立っていた。

 

 感覚としては、寝起きに近いのだと思う。

 思考が鈍ることは全くないが、朝から夕方までの記憶が抜け落ちている様は、偶の休日に惰眠を貪ってしまったかのようだ。

 

 コースの中を見ればサイレンススズカを先頭に、メジロマックイーン、ライスシャワーの三人が流す程度に走っている。

 コースに限りがあるため、他のチームや担当のウマ娘と共同で使うことも少なくないが、今は三人以外の姿はない。どうやら理事長か駿川さんが気を利かせてくれたらしい。

 

 オレとの約束通り、彼女達は正しいウマ娘とトレーナーの関係を築くために自らの走りを魅せてくれている。

 

 其処から目を外すのは気が引けたが、まずは昼間に何をやっていたのか確認しなくては。

 

 

『スズカ、マックイーン、ライスと呼んでいいらしい』

 

 

 手帳を開いてまず目についたのは、その言葉。

 昼間のオレはそれなりに上手くやったようだ。

 昨日の失態は思い出したくもないが、どうやら何とかなったらしい。いや、彼女達の優しさに甘えたのかもしれない。

 それでも愛称というか略称というか、そういったもので呼べるようになったのは嬉しい。ウマ娘はみな妙に名前が長くて呼びにくいし、心の距離が縮んだ気がする。

 

 

『駿川さんにカメラを借りた。期限は無期限。壊したら弁償』

 

 

 チラリと横を見ると三脚の取り付けられたカメラがある。

 これは覚えている。駿川さんが今日は理事長と共に学園の外で用があるようなので、わざわざ朝の8時前に持ってきてくれた。

 有り難い。本当に助かる。映像として彼女達の走りを記録できるだけで大分違う。これで、例え記憶を失う、思い出せなくなるとしてもオレだけの武器を最大限発揮できる。

 

 本当に二人には頭が上がらない。

 恐らく、他のトレーナーからオレに対する寛大すぎる処遇と行き過ぎた優遇を不満と共に突き上げを喰らっているだろうに。

 結果を出す。そのために死力を尽くす。面倒な連中はそれで黙らせる。彼女達の将来を思い、オレに託したのならば、それを返礼とするのみだ。

 

 そして、最後に――――

 

 

『シンボリルドルフに伝えた。また泣かせたかもしれない。もう一度、会いに行こうと思う』

『マルゼンスキーにも会った。資料があったからまさかと思ったが、やはり知り合いだった。ルドルフのフォローをしてくれる上に、自分を責めないで、と気を遣ってくれた。改めて礼を伝えなければ』

 

「はあ……だよなぁ……」

 

 

 残された二行に身体が重くなり、同時に重苦しい溜息が出た。

 

 昼間のオレが上手くやれなかったわけではないだろう。何せ、今のオレも上手くやる自信がない。

 どうやって自身の裏切りを伝えて、傷つけずに済ませろと言うのか。土台無理な話だ。

 覚悟はしていたが、また病室で見た彼女の泣き顔を思い出し、臍を噛む。

 

 唯一幸いだったのが、マルゼンスキーがその場に居たらしい事。

 どのような関係性だったのか、どのような性格だったのか、どのような会話があったのかはもう思い出せないが、感謝してもしきれない。

 

 やはり失敗だった。

 昼間、シンボリルドルフとマルゼンスキーとの間にどんな事があったのか覚えていないのでは、余りにも今のオレは卑劣過ぎる。

 先にあったスズカ達の約束と筋を通す事を優先したかったからそうしたが、彼女達の下を訪れるのならば、覚えていられる時間帯に訪れなければ嘘だ。

 

 理解を得たい訳ではない。

 況してや許されたい訳でもない。

 単にオレが何をしたのか、自らの犯した罪を自覚しておきたい。それがオレに与えられるせめてもの罰だ。

 

 時計の針が17時を越える前のオレは、こんな気分だったのか。

 相変わらず壊れかけの自身に対する不甲斐なさはあったが、自己嫌悪はない。

 

 今は目的がある。

 スズカ達の未来に何が待ち受けているのかを見極める事。

 シンボリルドルフにもう一度会い、次こそは全てを記憶しておく事。

 マルゼンスキーに何を言ってくれたのか、何をしてくれたのかを聞き、心からの感謝を伝える事。

 やる事は山ほどある。落ち込んでいる暇など、在ろう筈がない。

 

 っと、いけねぇ。折角、カメラを借りたんだ。しっかりと記録しておかないと。

 

 手帳に落としていた視線を走る彼女達に向け、カメラを動かそうと手を伸ばした――――もふっ。

 

 

「…………?」

 

 

 んん? 何だ、この感触は。もふっ?

 最上級の絹のような触り心地。ずっと触り続けたくなるような感触だ。

 丸みを帯びた硬い何かの上に、細長い紐のような束、そして適度な反発力を持つ温かい何かがある。

 

 いやこれカメラの感触じゃねぇよ。何だこれ?

 

 

「………………っ」

「…………ひゅっ」

 

 

 見れば、隣には今し方、会いに行こうと決めたばかりの“皇帝”が、両手を胸の下で組んだシンボリルドルフが立ち、此方をジト目で睨み付けてきている。

 オレが彼女の頭を撫でるような形。びっくりしすぎて変な呼吸をしてから心臓が止まったかと思った。

 

 待て。ちょっと待って欲しい。

 ど、どういうこと、なの? オレ、17時直前まで彼女と話していた? いや、それなら話し掛けて来ないとおかしい。

 

 まるで状況が分からない。

 もう一度会いに行こうと決めていたのだが、心の準備は何事にも必要だ。

 混乱の極致に叩き落されたオレは――――訳の分からないまま、彼女の頭を撫で繰り回すという訳の分からない暴挙に出てしまった。

 

 

「…………い、いつまでそうしているつもりだ」

「ご、ごめんなさい」

「い、いや、君がそうしたいのなら……あっ」

「す、すみませんでした」

 

 

 どっと冷や汗が吹き出し、心臓が早鐘の如く尋常ではない速度で脈打つ。

 驚きすぎて、ちょっと過呼吸気味になった息を胸に手を当てて、深呼吸を繰り返して何とか平時へと戻す。

 

 まだ覚悟も心の準備も出来ていなかったが、会わなければならない相手がやってきたと言うのなら逃げるわけにもいかなかった。

 意を決して、オレが裏切り置き去りにした彼女に向き直る。彼女の顔が赤いのは夕日の所為ばかりではないだろう。羞恥か、照れか。怒りではないと信じたい。

 

 

「彼女達が、私を裏切ってまで担当したかった理由を聞かせて貰っても構わないか?」

「…………テンポイントになる。少なくとも、()()()()()()はそう感じたらしい。もう覚えちゃいないが、何か重なるものがあったみたいだ」

「そうか。それは大事だ。あの悲劇は我々としても、トレーナーとしてもあってはならないことだからな…………ふふっ」

 

 

 シンザンがオレの憧れとするならば、テンポイントは教訓だ。

 絶対にあってはならない悲劇。オレが誰かを担当する上で、何を置いても考慮に入れ、避けねばならない可能性そのもの。

 

 もう思い出せないが、かつてのオレもそうだったろう。

 故障は彼女達の輝かしい未来を奪うばかりではない。シンザンを超えるウマ娘を見るという夢そのものにも繋がっている。

 関節系の炎症、筋肉系の断裂、骨格系の破損。いずれにせよ、引退を視野に入れねばならない事態に発展しかねず、完治までの間、トレーニングに費やせたはずの時間が無くなる。余りにも効率が悪い。

 

 唐突に出したテンポイントの名前に驚かなかった辺り、本当にオレは彼女を信じられないようだ。

 かつて語って聞かせたのか。何かを説明する上で引き合いに出したのか。ともあれ、未だに三冠バのトレーナーだったなどという現実感はまるでない。

 

 一つ気になったのは、彼女が何故笑ったのか。

 与太と笑ったのではなく、況してや自身と比べてスズカ達を笑ったのでもなく、ただ嬉し気に微笑んでいて。

 

 

「マルゼンスキーの言ったことは本当だった」

「……?」

「君は何も変わっていない。自分も辛いだろうに、他人を優先してしまうその気質。嬉しいよ、そして心配だ」

「…………っ」

 

 

 凛とした彼女には似つかわしくない、けれど実際には何よりも似合った微笑み。

 

 その笑みを見て、不意に涙が零れそうになった。

 ずっと不安だったんだ。今のオレに連続性がなく、時間を跨ぐ度に死んでいるようなもの。

 かつてのオレと今のオレは本当は別人なのではないかとも考えた。

 

 記憶と情報は別だ。

 他人の頭で再構築された情報は、どれだけ詳細に伝えられようと決して記憶にはならずに情報のまま。

 だけど、彼女の肯定はそんな情報さえ、記憶に変えてくれているようで。

 

 

「実はね、トレーナー君。私は負けたんだ」

「――――それ、は」

「菊花賞の後のジャパンカップで3着だった。カツラギエースとベッドタイムに私は破れた。彼女達には張り手を貰ったよ、本調子ではなかったからね。アレは痛かったな。お陰で、次の有マ記念では何とか持ち直せたが」

 

 

 可能性としては想定していたが、調べようとは思わなかった。

 菊花賞の直後にオレは事故にあった。ジャパンカップが例年通りに開かれたのなら、時間は一ヶ月もなかったはず。

 ウマ娘とトレーナーは比翼の鳥にも例えられる。己が半身を失った状態では、四冠の栄光など手が届こう筈もない。

 と言うよりも、その状態から持ち直し、有マ記念で1着を取れたこと自体が信じ難い。

 

 カツラギエースにせよ、ベッドタイムにせよ、他のウマ娘にせよ、今期のウマ娘は精神的に強い。

 彼女達とて決して弱いウマ娘、遅いウマ娘ではない。この“皇帝”の実力を十二分に理解した上で真正面から挑み、打ち負かす腹積もりでいるのなら能力も相応のはず。

 

 だからこそ本気で怒り、手が出てしまった。

 腑抜けてしまった“皇帝”に勝つことは、彼女達の本意でなかったから。

 

 オレに責任があるのだろうか。

 ない、と多くの人は言うだろうが、オレは……。

 

 

「…………もう、君は覚えていないだろうが、私からトレーナーになってくれないかと頼み込んだ」

「オレ、を?」

「ああ、失礼な話だが能力的なところではない。君が尊敬に値する人だから、私はそう願った」

 

 

 オレが何を考えているのか察したのだろう。

 彼女は少しだけ申し訳なさそうに笑いながら、照れたように告げて話題を変える。

 

 やはり信じられない。

 オレが見た中でも最上級の実力を有している。シンザンに最も近い。

 現時点の状態から逆算したとしても、出会った時ですら周囲から頭が三つも四つも抜け出ていただろうに。

 そんな彼女がオレを。勝つためではなく、一体何のために。

 

 

「君がシンザンの影を追うように、私にも夢がある。私は、全てのウマ娘が笑顔で暮らせる世界を創りたい」

「それはまた、巧く言えないが、凄いな」

「ふ、ふはははっ、君はあの時も似たような事を言った。そして今と同じく、決して愚かだとは笑わなかった」

 

 

 他人の夢を笑う資格など誰にあるのか。

 更に言うのならば、夢のために半生を捧げたオレだが、自らの手では決して叶えられない時点で本質的に他人の夢に潜り込む寄生虫でしかない。

 だから、道半ばで倒れ実現できなかったとしても、一人で背負うには過ぎた夢であったとしても、オレには全てが光に映る。

 

 

「…………昼間、私の所に来た時、裏切りを告げた後に“だけど、もし”と君は言った。私はその時、耐えられなくて逃げた。どうしようもないほど愚かで、底意地の悪い質問だが、聞かせて欲しい」

「――――………………」

「君はあの時、私に何と伝えようとした?」

 

 

 本当に酷い質問だ。

 オレの事情が分かっているのなら、決して聞くべきではない。

 今のオレではどう足掻いた所で思い出せない答えなのだから。

 

 だが、思い出せずとも、分かるものはある。

 

 

「もし、もし許されるなら、君のトレーナーを続けさせて貰いたい」

 

 

 分不相応にも程がある愚かな願い。

 無敗の称号に傷がついてなお、気高く邁進する“皇帝”に経験を失ったオレが何を出来るのか。

 けれど、オレには目の前にいる少女は“皇帝”と呼ぶには余りに儚く、夢の重さと現実の残酷さに手折られてしまいそうに見えて。昼間のオレもそうだったろう。

 

 答えは出ない。

 ただ一つ分かったのは、オレはどうやら難しく考え過ぎていたらしいということだけ。

 

 

「――――嗚呼」

「だけど、いいのかな。正直に言うとさ、自信ないよオレ」

「いい。いいんだ。私は君でないと嫌だ。他の誰かに隣を預けるなど考えられない。君がいい。君だけが、いい。君は私の………………その、尊敬、する人だから」

 

 

 彼女の瞳から涙が零れる。

 頬に手を添え、涙を拭う。また泣かせてしまったな。

 けれど、花の咲き誇るような笑みに、幾分と気は楽になる。

 オレは彼女達に救われてばかりだ。せめてこの胸の内に湧き上がる思いを、結果として返したい。

 

 やりたいこととやるべきことが一致した。

 後は矢のように後先考えずに進むだけ。

 

 だが、今はその前に――――

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

 最後に、一つだけ嘘を吐いた。

 きっとこの胸に浮かぶ思いは尊敬などではない。まさか、と自分でも信じ難い。

 

 そういえば、彼と一緒に映画を見に行った時、恋愛映画も見た。

 あの時の私は、銀幕の向こうで起きている出来事を客観的に捉えるばかりで、劇中の人物に視座を合わせようとはしなかった。

 

 今はそれがほんの少しだけ理解できる気がする。

 それを言葉にしなかったのは、公平ではないから。私と同じように彼を想う者は他にもいるだろう。

 正々堂々、真正面から受けて立つ。彼の隣を譲るつもりはない。

 

 

「その前に一つだけお願いがある。このままだと公平(フェア)じゃないと思わないか?」

「ふ、ふふっ……ああ、その通り。公平(フェア)ではないな。では、トレーナー君」

「話が早いな。もしかして、前も同じ事言った?」

「ああ、言ったとも――――返事は、私の走りを見てからに」

 

 

 何度でも何度でも。

 同じところを何度回ったとしても、それは円環ではなく螺旋。

 少しずつでも前に進む。それこそが、私も彼も肯定した道だったから。

 

 そして、何時かは必ず伝えよう。

 君が何度忘れてしまっても、何度でも伝えよう。何度でも一からやり直しても。

 

 

「君の走りを魅せてくれ。オレも今度は必ず、死力(ベスト)を尽くす」

 

 

 ああ、魅せるとも。

 私の走りで君の隣と心を奪う。そして、君の憧れを独り占めにするシンザンを超えてみせよう――!

 

 

 

 

 



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『嚆矢濫觴』


感想&ランキング入りありがとうございます。
正直、会長にしちゃ女々し過ぎる、湿度高すぎるかなぁ、とか思ってましたが、公表で何より。
これからも主人公以外の視点で書いていくので、何かあれば指摘して下さい。



 

 

 

 

 

 ライスは昔から良い事なんて何もなくて、周りに迷惑を掛けてばかり。

 それでもいつかレースで見た子達みたいに、絵本で読んだ蒼い薔薇みたいに。

 キラキラと輝いて、誰かを笑顔に出来る自分になりたくて、トレセン学園に入学した。

 

 けど、やっぱりライスは何も変わらず臆病なんだと思う。

 昨日、トレーナーさんが頑張るって、私達を担当してくれるって約束してくれたのに。

 

 ライスは第一コースの端にある木の陰から動けなかった。

 約束の時間までまだ30分近くあるのに、トレーナーさんはカメラを持って、もうコースの入り口で待ってくれていて。

 

 ……本当は、ライスの方が早く来ていた。

 

 遅刻しないか不安で早めにジャージに着替えてきたけど、今度は別の不安で足が動かなくなった。

 本当は、トレーナーさんもちょっと怖い。昨日、私達にではなかったけどあれだけ怒っていた人を見て、怖がらない人は凄いと思う。

 でもそれ以上に、酷い目にあっているあの人を、もっと不幸にさせてしまいそうで怖かった。

 

 

「はぁ……流石に、もう一回会いに行かないと拙いよなぁ。あの二人も納得しないだろうし、オレも納得でき…………?」

「……あっ」

 

 

 溜め息を吐いて少しだけ肩を落としたトレーナーさんが心配になって、木の陰から身体を出したらバッチリ目があった。

 反射的に隠れることも出来ずに固まって、情けなさと恥ずかしさで泣き出しそうになる。

 

 

「おーい! こっちこっちー!」

 

 

 でも、トレーナーさんは隠れていたことに何も言わずに、笑顔で手を振ってライスに呼び掛けてくれた。

 

 …………いい、のかな?

 大丈夫、かな? 迷惑、……かけちゃわない、かな?

 

 不安とほんのちょっとの期待。

 トレーナーさんの笑顔は涙が出そうなほど優しくて、でも少しだけ影があった。

 何も知らないはずなのに、変わりたいと願ったライスを肯定してくれているような笑顔に応えたくなった。

 

 心臓はバクバクしてる。手足は震えが止まらない。

 それでも、変わりたいから、信じたいから……が、がんばるぞ、おー。

 

 身体はカチコチ、右手と右足を一緒に出して、左手と左足が一緒に前に出る。

 やっとの思いでトレーナーさんの方へ近づいていく。

 近づけば近づくほどトレーナーさんの身長は大きくなって、すぐに見上げるくらいの差が分かった。

 こんな見下ろされるくらいの身長差のある人は、あんまりあったことがない。や、やっぱり、ちょっと怖いかも。

 

 

「いやぁ、よく来てくれたな。昨日は悪かったよ。余裕なさ過ぎてさ、バカになってた。ほんっとゴメンッ!」

「あ、あわ……あの……その……」

 

 

 トレーナーさんは怖がっているのが分かったのか、ストンと膝を折り曲げて、山のように大きかった身体がすっと縮む。

 胴よりも足が凄く長いから、今度は私が見下ろすような形になる。そして、顔の前で両手を合わせると同時に頭を下げた。

 

 其処まで気にしてくれているとは思わなくて、情けないけれど中々言葉が出てこない。

 だから、大丈夫ですとも、気にしないででもなく――――

 

 

「あの、……大丈夫、ですかっ? ちょっと、辛そう、だから……」

「…………!」

 

 

 そんな言葉を漏らしちゃった。 

 

 あ、あぁ、つ、辛くないわけ、ない……。

 話が難しくてよく分からなかったけど、多分、ライスが同じ病気になったら部屋を出るのも怖くなる。

 誰が知り合いで、誰が知らない人かも分からない。その日に起きた事も覚えられなくて、どんなに頑張っても無駄になる。きっとライスなら耐えられない。

 

 トレーナーさんの気持ちを考えたら、涙が零れそうになって。

 でも、トレーナーさんは一瞬だけ目を見開くと、すぐに首を振って、敵わないなと小さく言って笑ってた。今度の笑顔に影はなくて、心の底からほっとする。

 

 

「いや、ちょっと嫌な事……は卑怯か、人に嫌な思いをさせちゃってさ。どうしたもんかなぁ、って悩んでただけ」

「うぅ……ライスのせいかも、皆が不幸になっちゃうから……」

「ははっ、気にし過ぎ。防衛本能って奴だよ、同じ失敗を繰り返しちゃったら大変だろ? だから身体が次は気を付けようってしてるだけ。ほら、同じような不幸は連続したりしてないんじゃない?」

「そ、うかな……そう、か、も……?」

 

 

 顎に指を当てて考える。

 どうだろう。確かに皆が不幸になると思っていたけど、同じ不幸が連続していたような、いなかったような。

 本当はどうなのか分からない。けど、トレーナーさんの笑顔を見ていると信じられる気がした。

 

 

「あっ……今日は、よろしくお願いしますっ!」

「うん、此方こそ。楽しみにしてる。期待してっからさ」

「ふわ……」

 

 

 遅れちゃった挨拶のために、ぺこりと頭を下げる。

 返ってきたのは私の欲しかった言葉だったかもしれない。

 誰かを幸せに出来るように変わりたいと願ったことにじゃないけれど、今まで誰にも見向きもされなかったライスにはとてもとても嬉しかった。

 

 その後に、褒めるみたいによしよしとゴツゴツとした手で頭を撫でられた。

 お母さんの時とも違う男の人らしい硬さを感じたけど、お日様のような温かさに言葉に出来ない気持ち良さと優しさに、髪が乱れちゃうのも気にならなくて。

 

 何だか()()()みたい。そう思った。 

 

 だ、だから、だから…………ライス、がんばるよ! うん、がんばるぞっ、おー!!

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「…………はぁ」

 

 

 私は、溜息と共に指定された第一コースに向かっていました。

 体調が悪い訳ではなく、兎に角気分が重くて仕方がありません。

 

 正直に申し上げれば、まだ選抜レースの前にも関わらずにお声がかかり、有頂天の極みでした。

 だってそうでしょう? まだこの学園に入学したばかりの私を見初めて下さった。

 私の実力が認められたも同然で、それがあの“皇帝”シンボリルドルフ会長を三冠にまで導いた御方とあっては、舞い上がらないウマ娘はいないでしょう。

 メジロ家のウマ娘として恥じぬように、御爺様と御婆様の思い出のレースである天皇賞を制覇できるように生きてきた私にとっては正に好機。喜ばない筈もなく。

 

 でも、蓋を開けて待っていたのは、自身ではどうにもできない事柄に苦しんでいる方で。

 

 梯子を外された怒りはありませんでした。

 部外者に過ぎない私ですら、彼の抱く怒りが自分自身へと向けられ過ぎていて心配になるほどでしたから。

 

 理事長が仰ったトレーナーさんの境遇を考えれば当然の事。

 そして、心底から優しい方なのは理解できた。でもなければ、もっと周囲を責めている。

 

 理事長やスズカ先輩との会話の中でトレーナーさんは徐々に落ち着きを取り戻し、テンポイントの名を呟いた瞬間に顔を蒼褪めさせた。

 私にとっては盾の栄誉の一つを手にした先達にして超えるべき壁でしたが、彼にとってその名が何を意味するかまでは分かりません。ただ、何か重要な意味を含んでいるのは確かで。

 

 そして、私は人が蘇るのを、或いは生まれ変わるのを見ました。

 そうして彼は私達のトレーナーになることを選択した。

 

 トレーナーになるには、例えようもない狭き門を潜らねばならない。

 メジロ家にもトレーナー志望の子は居た。あの子達が何を思ってトレーナーへの道を選んだのか、それは分からない。

 けれど、寝る間を惜しんで、血反吐を吐くほどの努力をしていたにも拘わらず、今期メジロ家からトレーナーになれた者はゼロでした。

 それを思えば、経験を失ったとは言え、三冠の栄誉を手にした彼の能力に疑う余地はなく、また疑ってしまえばあの子達の努力を否定する事になる。

 

 そして、理事長やたづなさんの言っていた眠らなくとも済む体質。

 インターネットで調べてみれば、確かに同じような事例はありました。俄かに信じがたいですが、あの二人が仰る以上は事実でしょう。

 それらを考慮すれば、不安要素は並んではいますが文句などあろうはずもなく。それほど気高く、信じたくなるような光が瞳には宿っていた。

 

 でも……でも、どうしようもなく、ただ単純に心配で。だから、だから――――

 

 

 “………………不愉快ですッ! 私はメジロ家の者として成し遂げなければならない目標がありますッ! その邪魔をされたくありませんッ!”

 

 

「「あぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」」

 

 

 過去の自分の暴言を思い出し、思わず頭を抱えてその場に蹲ってしまう。

 

 もうちょっと、こう……その、もうちょっと何と言うか……何かそういうのがあったでしょうに私ぃッ!

 

 合わせる顔がないとは、まさにこの事。

 トレーナーさんも私の気持ちを汲んでくれていましたし、理事長もたづなさんも理解してくれていましたが、自分の高飛車さと短絡さに情けなくなる。

 いっその事、此方からお断りした方がいいか、とも思いましたが、私の方から走りを見て欲しいと言った手前、メジロ家の者として…………ん?

 

 …………今なにか、私の声に重なっていたような?

 

 

「……あっ、マックイーンちゃん」

「スズカ先輩……も、ですのね」

「え、あ、そ、そうね……」

 

 

 その場に蹲ったまま、スズカ先輩と目が合いました。

 彼女もまた頭を抱えて、私と同じ心境の御様子。

 

 当然かもしれません。

 詳しくは分かりませんが、スズカ先輩から彼の方にトレーナーになってくれないかと頼んだようですし。

 事情は知りませんが、自分を責めている、という点においては私と同じなのでしょう。

 

 

「い、行きましょうか……」

「そ、そうですわね……」

 

 

 き、気まずい。気まずいですわ。

 

 スズカ先輩との繋がりは薄く、挨拶以外は二、三言を交わしたことがある程度。

 ストイックな方でしたし、噂では最近スランプに陥っているらしく顔も合わせなくなり、元々薄かった繋がりはほぼ無きに等しい状態。

 

 つまり、会話の切っ掛けとなる共通の話題がない。

 ただでさえ重い空気が、更に重くなったような気が……。

 

 会話に苦手意識があったわけではないですが、この空気で口を開く勇気はちょっと……。

 頭の中では昨日の自分の愚かしさに対する嫌悪とトレーナーさんに対する心配とスズカ先輩への気遣いがぐるぐると廻って混乱の極みにあるよう。

 

 

「…………ライスちゃん、大丈夫かしら?」

「どう、でしょう……随分、怯えていましたから」

 

 

 スズカ先輩の方からようやくの思いで絞り出してくれたのは、ライスさんについて。

 彼女ともさして繋がりはなく、ほぼ初対面も同然。恐らくはスズカ先輩も同様でしょう。

 しかし、誰の目から見ても気弱で臆病と判断するには十分で。トレーナーさんの抱えた怒りと境遇を思ってか、気の毒なほど震えていましたもの。

 

 でも、勇気がないとも思わない。

 恐らく、トレーナーさんが自身を取り戻す切っ掛けとなったのは、真っ先に口を開いた彼女の一言。

 土壇場でしか勇気を発揮できない、と言うよりも、気弱な仮面の下に隠された芯の強さが発露した、というところでしょうか。

 

 身体(フィジカル)面では兎も角、精神(メンタル)面では侮れない。

 同じトレーナーさんに指導を受けるとは言え、我々は本質的にライバル同士。あっさり追い抜かれないように気を張らなくては。

 まあ、私もスズカ先輩も他人を気にしていられる状態ではないのですけど。

 

 

「い、急ぎましょうか……」

「そ、そうですわね……」

 

 

 ライスさんが既に待っていることを考えて、二人で第一コースへ向かおうとしたのですが……。

 

 スズカ先輩の足が止まれば私の足が止まり、私の足が止まればスズカ先輩の足が止まるの繰り返し。

 引け目がある分だけ足が重く、自己嫌悪とライスさんへの心配で前に進む。

 

 ようやくと言うべきか、とうとうと言うべきか。

 兎に角、第一コースに辿り着いた私達は待ち受けていたものは――――

 

 

「そ、それでね……青いバラを綺麗だっていうお兄様が現れてね」

「へー、魔法使いみたいな役割かな? それでそれで?」

(物凄く仲良くなってらっしゃいますわーーーーーー!?)

 

 

 ――――何という事でしょう。芝の上に腰を下ろし、仲睦まじげに話しているトレーナーさんとライスさんの姿が……!

 

 

 トレーナーさんはジャージ姿で両脚を投げ出したまま後ろ手を突き、ライスさんは膝を抱えてニコニコと笑っていて。

 一見、大型肉食獣と小動物という危うい絵面ですのに、二人が仲良く笑みを浮かべているから物凄く爽やか、爽やかですわ……!

 

 予想していなかった光景に、品もなく口をあんぐりと開けてしまいました。

 スズカ先輩の入れ込みよう、私自身も僅かに会話をしただけで確かに受け取った誠実さを考えれば当然かもしれませんが、コミュニケーション能力が桁違い……!

 

 正直、私は世間知らずなところがあって、クラスではやや浮き気味。

 メジロ家の常識が世間での常識とは異なると理解してきております。ライアンやパーマーのように愛嬌があればまだ違ったでしょうが。

 世間一般ではこれくらいが普通なのか、と隣のスズカ先輩を見るも、私と同じくポカンとしていらっしゃる。

 

 ですわよね。あの臆病だったライスさんと秒で仲良くなるとか、誰も予想できませんわ。

 

 

「おっ、来た来た。話の続き、また今度聞かせてよ」

「な、なら、私の絵本貸すよ……?」

「え、ほんと? ラッキー。あ、そうだ。携帯持ってる? LINE交換しようよ。ほら、それならオレ忘れちゃっても後から確認すればいいしさ」

「う、うん……!」

(しかも流れるように連絡先の交換まで……!)

 

 

 昨日は分かりませんでしたが、何と言えばよいのか、本当に他人との壁を作らない方のようで。

 しかも下心を全く感じないので、警戒心が全く機能しないのです。

 

 傍目から見ればナンパそのものですが、彼の境遇を考えれば対応策としても正しい。

 電話や会話では形に残りませんが、メールアプリなら後からいくらでも読み直せる上に、手帳に書き込む手間も省けてしまう。

 

 そして、ライスさんを傷つけないように気を遣っている。

 記憶を保てない人間に何かの貸し借りを行うのはタブーでしょう。何を貸したのか、何を借りたのかさえ分からなくなってしまうのだから。

 普通であれば、丁重にお断りすればいいでしょうが、今度はライスさんが自分を責めてしまう。それら全てを解決するのが、彼の選択。

 

 余りにも円滑な人間関係の回し方と頭の回転の速さに思わず舌を巻く。

 何が凄いと言って、彼にとってはそれが当たり前に過ぎず、意識すらしていない点でしょう。

 

 

「何だったらさ、そっちの二人も教えてよ。後々楽だし」

「いえ、まだトレーナーをして頂くと決まったわけではありませんわよね?」

「んぁ? まあそっちが断る可能性もあるか。オレやる気満々なんだけど」

「そう言って下さるのは嬉しいですが……」

「そう? じゃあ君達の走り見た後で教えて? 嫌だったらいいけど」

 

 

 この人、人見知りしないにもほどがありますわね。

 

 驚きを通り越して尊敬すら抱いてしまいそう。

 私も人付き合いは苦手ではありませんが、此処まででは。一流トレーナーとは皆こうなのかしら……?

 

 私もスズカ先輩も驚きの余り固まっていると、彼は申し訳なさそうに頭を下げる。

 

 

「……昨日は悪かった。みっともないところを見せちまった」

「い、いえ、そんな……私の方も事情も知らないで勝手なことを……」

「昨日も言わせて頂きましたが、お気になさらずに。事情を知らずに舞い上がっていたのは私も同じですから」

「じゃあ、お互い様ってことにしてくれるとありがたい」

「は、はい……っ!」

「あとさ、二人ともスズカとマックイーンでいい? ライスには聞いたんだけどさ、長いと舌噛みそう」

「もう、お好きになさって下さいな」

 

 

 トレーナーさんは恥じるように視線を逸らしましたが、私達の返事を耳にすると屈託なく笑いました。

 それだけで落ち沈んでいたスズカ先輩は持ち直し、私も随分と心が軽くなる。

 

 私達に対する期待を隠そうともしない少年そのものの笑み。

 余り無茶はして貰いたくはないけれど、既に私の心にあったのは走りに対する情熱だけ。

 メジロ家のウマ娘としての矜持を忘れたわけではないですが、久しく忘れていた、ただ走ることの歓びを思い出したような気がして笑みを浮かべてしまう。

 

 

 ――――よくも悪くも()()()、ですわね。

 

 

 すっかりと心を開いてしまっているのを自覚して、私がトレーナーさんに抱いた印象はそれでした。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「はっ……はっ……はっ……!」

 

 

 コースに敷き詰められた芝の上を駆ける。

 

 トレーナーさんが私――――私達に出した指示は身体を温めること。

 私達が集まったのは17時前で予定よりも少し早かったため、予鈴までは流すように言われた。その後は、コースを何周か回るように言われた。

 

 本当を言えば、第一コースに来るまでは気分が重かった。

 昨日、トレーナーさんを苦しめたのは他でもないこの私。

 

 トレーナーさんにその気があったかは分からないけど、一度は助けてくれたから。

 初対面の私の走り方も思いも尊重して期待してくれたのなら、きっと担当している子も同じだろうと羨ましくて。

 

 だから、自分勝手な思いを押し付けた。

 相手の都合や気持ちなんて一つも考えていなくて、あったのは自分の都合だけ。

 その結果が、ミーティングルームで見たトレーナーさんのあの姿。

 

 私と話していた時に何を考えて、担当を引き受けると言ってくれたのかまでは分からない。

 でも、次に会った時の彼は、過去の自分の言動に怒り狂っていた。それこそ、直ぐにでも自分の首を吊りかねないほどに。

 

 トレーナーさんが私の申し出を一度は断った理由に、どうして思い至らなかったのか。

 前向性健忘なんて具体的な内容まで分からなくても、何か理由があって一度は断ったと考えるくらいは出来たはずなのに。

 

 一人で舞い上がって、トレーナーさんに押し付けて。

 本当に恥ずかしくて、申し訳なくて、情けなかった。あの時ほど自分自身が嫌になったことはない。

 

 

「……でも」

 

 

 本当に良かったと思う。

 私のやったことは許されないし、許されるべきでもない。

 

 ただ、トレーナーさんが何を思ったのかは分からないけど。本人はもう覚えていないだろうけど。

 私に初めて話し掛けてくれた時と同じ、子供のような笑みが戻ってくれて本当によかった。

 

 私達への期待を隠そうともしないあの笑み。

 何と表現していいのか、よく分からないけど…………その、素敵だと思う。

 

 

「……っ」

 

 

 嬉しい。嬉しい。嬉しい。

 

 私は今まで一人で走ってきたつもりだった。

 誰にも邪魔されないで、熱くなった身体が風で冷まされていく感覚が、身体の中から聞こえてくる鼓動の音が、白く輝くような光景が好きだった。

 

 レースの世界に足を踏み入れたのは両親の勧めがあって。自分から望んで踏み入れた訳じゃない。

 でも勝利への欲求は常に心の何処かにあって、地元の大会で成績を上げて、トレセン学園に入学していた。

 

 そして、今日初めて気が付いた。

 何も奇を衒うことなく期待されることの歓びを。その期待に背中を押される高揚を。

 そうした期待をかけてくれていただろう両親や地元の友人には、気が付かなくて申し訳なく思う。

 同時に、気付かせてくれたトレーナーさんには感謝したい。

 

 脚が軽い。心も軽い。

 これまでの不調が嘘のように、面白いほど前へ前へと脚も身体も進んでいく。

 

 こんな気分で走るのは本当に久し振り。

 後ろに付いてきている二人には申し訳ないけど、この先頭でしか見れない景色を楽しみたい。

 

 

 ――――気が付けば、予鈴が鳴っていた。

 

 

 どうしようもないくらいに独りよがりだった私に期待してくれたあの人に。

 独りよがりな私でも担当してくれると言ってくれたあの人に。

 

 感謝の気持ちを伝えたくて、彼が立っていた方向を見た。

 

 

「…………っ」

 

 

 其処にあったのは、トレーナーさんとルドルフ会長が何かを話している光景だった。

 

 夕日に照らされた二人の姿はまるで映画のワンシーン。

 

 思えば、トレーナーさんは会長の担当を降りるとは言っていないし、理事長もたづなさんも何も言っていなかった。

 普通に考えれば、三冠の栄光を手にしたウマ娘の担当なんて、続けられる境遇じゃない。

 

 でも、あの人はきっとそうしないと思う。だって、あんなに誠実な人だから。

 相手が拒絶すれば受け入れるけど、もし相手が望めば力の限り応えようとするに決まってる。

 

 

「……ちょ、ちょっと先輩!?」

「は、速い……!」

 

 

 何だか自分でもよく分からないまま、思わず本気で地を蹴った。

 

 心の底から嬉しそうに、綺麗な笑みを浮かべながらトレーナーさんから離れていく会長の姿を見て。

 その背中を見送るトレーナーさんの優しい笑みを浮かべる顔を見て。

 

 さっきまであんなに嬉しくて楽しかったのに、自分でもよく分からないまま無性に悔しくて腹立たしくなっていた。

 

 芝の上を進む。

 今日一番の最高速。多分、私の持てる限界速度。

 

 トレーナーさんが立っている手前のコーナーを抜け、そのまま外柵のギリギリまで大きく膨らんでいく。

 

 

「うぉっ! はっやぁっ!? …………いや……速すぎる、か……?」

 

 

 擦れ違い様、トレーナーさんは驚きの声を上げた。

 すぐに後方に置き去りにしてしまって台詞の殆どが聞こえなかったけど、少しだけすっとした気分。

 

 

「……ふふっ」

 

 

 そのまま、歩いていく会長に追い縋る。

 けれど、追い越した私を見ようとすらしない。まるで歯牙にもかけていないかのように。

 

 何だか分からないけど、レースもしていないのに負けた気分になった。

 それが余計に腹立たしくて、もどかしくて、むかむかする。

 

 結局、私は心を満たすそれが何かも理解できないまま、ペースも考えずに気が済むまで走り続けた。

 

 

「はっ……はぁっ……ス、スズカ先輩、少しはペースを考えて下さい」

「ふぅー……むぅりぃ……きゅう……」

「はっ……ふぅ……ご、ごめんね、二人とも」

 

 

 走り終わった後は、私も含めて全員がへろへろになっていた。

 測っていなかったから分からないけど、相当なタイムは出ていたと思う。

 

 マックイーンちゃんは両膝に手を突いて、ライスちゃんはターフにへたり込んでいる。

 かく言う私も外柵に手を掛けて、何とか呼吸を整えている真っ最中。

 

 

「ど、どしたぁ? もしかしてオレ、17時前に変な指示とか出した?」

 

 

 走り終わった私達を追って、トレーナーさんがやってくる。

 誰の目からも明らかに困惑の色を帯びた顔に、大事なレースで掛かってしまったような恥ずかしさを覚える。

 それから申し訳なく思う。トレーナーさんが困惑しているのは私のせいだったから。

 

 

「いえ、スズカ先輩が突然……」

「だよなぁ……びっくりしたー」

「ん、んんっ…………そ、それで、どうでしたか? 私……達の走り」

「いや、正直驚いたよ。三人ともそれぞれ違うけど面白いな」

 

 

 背中に突き刺さるマックイーンちゃんの視線。

 多分、おかしなペースをした上に付き合わされて、ジト目を向けてきているだろうけど、気付かない振りをする。

 

 そして、咳払いを一つしてから、トレーナーさんに問い掛ける。

 返ってきたのはあの素敵な笑みと、少しだけ胸の内がモヤっとするような返事。

 

 

「スズカは逃げが得意なん?」

「は、はい……得意、というか、ただ好きで……前のトレーナーとは、それで……」

「ああ、オレが余計な事したんだっけ?」

「余計だなんて、そんな……凄く、嬉しかったです。大逃げ、期待してくれるって言ってくれて……」

「まあ、適性が中距離っぽくてあのペースをアレだけ維持できればなぁ。そりゃ期待するよ。だが……」

 

 

 褒めて、くれているの、かな?

 それだけでモヤっとしていた心が晴れて、走って熱くなっていた身体が更に熱くなる。悪い気はしなかった。

 

 でも、次の瞬間にトレーナーさんの目の色が変わった。真剣味を帯びたと言ってもいい。

 それだけで文字通りに喉元に真剣を突き付けられたような気がして、一歩だけ後退ってしまった。

 

 期待とは明らかに異なる犀利な光。

 どんな感情を抱いているのかは分からないけれど、少しだけ怖かった。

 

 

「ま、何とかするさ…………それで、マックイーンは完全に長距離志向(ステイヤー)か。最後の方まで伸び続けてた。そういや、メジロ家は天皇賞狙ってるんだっけ?」

「はい。天皇賞を制覇し、盾の栄光を持ち帰ること。それが私の目標であり、夢そのものであり、使命でもあります」

「うん、いいね。明確な目標があると方向性も決めやすい」

 

 

 マックイーンちゃんの鋼のような意思が込められた言葉にも、トレーナーさんは軽く笑う。

 目標を笑っているわけでも、馬鹿にしているわけでもない。寧ろ、褒めてさえいた。

 トレセン学園に入学しているからと言って、目標がある人ばかりではない。

 その中で明確な目標を持つマックイーンちゃんは、私でも尊敬してしまう。でも……むむ。

 

 

「ライスは、何かある?」

「ら、ライスは、そういうのはなくて……あの、その、ご、ごめんなさいッ!」

「あー、ごめんごめん。責めてるわけじゃなくてさ。オレの所感じゃマックイーンと同じで長距離向きだと思うんだよなぁ。こりゃいいライバルになりそうだ」

「あら。ライスさん、負けませんわよ?」

「あ、あうぅ……」

 

 

 逆にライスちゃんは困っていた。

 この子は明確な目標がなかったのだろう。ただ、それだけで劣っているとは決めつけられない。

 マックイーンちゃんは微笑みを浮かべながら静かな闘志と歓びを滾らせている。それはライバルとして相応しい素質を見出したからに他ならない。

 

 事実、ライスちゃんは最後まで、僅かに遅れながらも付いてきていた。

 トレセン学園に来る以前にメジロ家で厳しい訓練を積んできたマックイーンちゃんについていける時点で劣っているわけがない。

 

 むむむ……でも……そのぉ……。

 もうちょっと、私について何か言ってくれてもいいと思う。いえ、私の走りに一番驚いてくれていたけれど。

 

 

「よし、全員の走りは魅せてもらった。魅せられた。だからオレに担当させて欲しい。いいかな?」

「はいっ、勿論!」

「でも無理は禁物ですわよ? 私達も出来る限りサポートしますから」

「ライスも、頑張るね……!」

「よしゃ、んじゃま――――」

「「「「よろしくお願いします!」」」」

 

 

 四人で声を揃えて頭を下げて互いに礼を尽くす。

 尊敬すべき仲間にして、切磋琢磨するライバルを私は得た。

 

 これがトレーナーさんと私達のチームの始まりで最初の一歩。 

 静かな喜びと湧き上がるような闘志。でも、私の心に一番大きく浮かんでいたのは――――

 

 

 ――――負けない。

 

 

 そんな思いで。

 でも、この時の私は何に負けたくないのか、まだ気づいていなかった。

 

 

 

 

 



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『破顔大笑』

サブタイトルを四文字熟語にするんじゃなかった(挨拶)

ところで、マルゼンスキーお姉さん強い、強くない???
何か、育成ミスってステータス貧弱なのに、芝と短距離適性Sにしただけで今回のレジェンドレース勝ってくるんだけど、このゲキマブチャンネー。
流石、センスが古くて因子相性が悪いこと以外は完璧と言われるだけの事はあるぜ! この作品でも一番の良い女のつもりで書いてます。


今回は、短めで。
今日どうしても投稿したかったんだ。



 

 

 

 スズカ、マックイーン、ライスシャワーの走りを見た翌日。

 オレはトレーナー専用の寮にも帰らず、ミーティングルームに居続けた。

 

 スズカの全力の走りを見た瞬間に頭を過ったのは、その馬鹿げた速度と持続の危険性。

 学園に入ってから一年近くが経過し、トレーニングを積んでいるのであろうが、それにした所で速すぎた。

 まだデビュー前だと言うのに、トゥインクルシリーズ参戦初年度のジュニア級の中には彼女ほどの最高速を叩き出せるものはいないだろう。

 

 その上、まだまだ伸びしろを感じさせるのだから恐ろしい。

 最終的に辿り着くであろう実力が、ではない。最終的に辿る末路が、だ。

 

 そもそもウマ娘の脚はガラスの脚と形容されるほどに脆い。

 勿論、ただの人間などよりは遥かに頑丈だが、脚を構成する部位から捻り出される力と、接地によって生まれる衝撃に耐えられない。

 結果として関節や腱の炎症、筋肉の断裂、そして骨折へと至ってしまう。

 

 はっきり言えば、生き物として歪ですらある。より長く生き、より多くを生み出し、次に繋げるのが生命の本質。

 ウマ娘は本来在るべきバランスを度外視して速度を得たとでも言えばいいのか。その様はまるで何者かが“そう在るべし”と定めたか、作り出したかのような気味悪い意図すら感じる。

 故障の大半は自滅にも等しく、無事之名バ、安泰是名トレーナーなんて造られた格言もあるほどだ。

 

 そんなわけで、オレはミーティングルームに戻ってからひたすら計算をし続けていた。

 

 ヒントになったのはルドルフの資料に添付されていた一枚の写真。

 どうやらかつてのオレは、ルドルフのフォームの改善案を出すに当たり、必要な計算を壁を黒板代わりにしてやっていたらしい。

 

 まあ、効率がいいと言えなくもない。

 紙やノートに書き記せば一枚一ページを捲らねばならず、後から遡りたくなった時に手間。

 ホワイトボードに描けば、書いて撮って消しての繰り返し。

 壁なら広いしいくらでも余白はある。最後に写真を何枚か撮って終わり。壁の塗り直しは時間が空いた時にでもやればいいし。

 

 

「失礼するよ、トレーナー君…………おや」

「所詮、ざっくりとした数字をぶち込んだだけだが、これだけ出揃えば十分かな」

「タイミングが悪かったな。こうなっては梃子でも動かない…………仕方ない、椅子を借りて待たせて貰おうか」

 

 

 スズカの身長、体重、脚の各部位の長さ、筋肉の量と付き方、速度、関節の可動域、ストライドの広さ、その他諸々。

 オレの目算、そして録画した映像から出した数字を式にぶち込む。所詮は概算に過ぎないが、それでもある程度指針となる数字は重要だ。

 元々、オレはこっちの方を武器にするつもりだったから、こういう計算は得意ですらある。

 

 シンザンから貰った、と勝手に思っている観察力と集中力。

 其処からなる対象の状態を察する洞察力にせよ、レースの展開予測にせよ、まるでVRのようにその場に居ない対象がレースに参加しているように見えることにせよ。

 オレは自身にとって途方もない武器とは認識しているが、同時に信用ならないとも考えている。

 

 何せ、その原理がオレ自身ですら分からない。頼り切るのは危険すぎる。

 無理に理屈をつけるのなら、記憶の中から符号、相似のある映像を無意識の内に引っ張り出して、得ている情報と無意識の内に照合しているといった感じか。

 いずれにせよ、原理を確かめる術はなく、オレ以外にそんな人間が存在していない以上、これまでがそうだったと言って、これからもそうだとは限らない。

 

 それでオレ一人が痛い目を見るならまだしも、こちとらトレーナー。

 オレのミスで痛い目を見るのは何時だって担当する娘。

 その時点で、仮に生まれた時点から持っていたとしても決して信用もしないし頼りもしない。

 あくまでも使い勝手のいい道具、という認識に留めておかないと全てが破綻しかねない。

 

 

「…………この場所、君の匂いはやはり落ち着くな。生徒会室よりもしっくりくる」

「しっかし、ルドルフが来てくれてよかったぁ」

「…………ッ!」

「オレの手が入っているなら、ルドルフはオレの歩んできた道にある轍そのもの。これ以上の参考資料はない」

「むっ……何だ、そういうことか……はぁ、君と居ると肩透かしとぬか喜びばかりだ。マルゼンスキーも言っていたが、酷い男だよ、全く」

 

 

 その点、シンボリルドルフという現世代最強にして、オレが育てたと思しき彼女が来てくれたのは心強い。

 いや、来てくれたというのは正しくないか、傍に居てくれると言った方が正しいだろう。

 

 スズカ、マックイーン、ライスが帰った後に、彼女の走りを見た。

 

 凄まじい、その一言しか浮かんで来なかった。

 

 彼女の走りは何処を切り取っても高い能力で纏まっている。

 ウマ娘に与えられる戦法、脚質は大きく四つ。

 

 最初から最後まで先頭に立ち続ける逃げ。スズカがこれに該当する。

 逃げウマ娘の後を追う形で、バ群の前方の位置をキープする先行。マックイーンやライスは此処。

 序盤はバ群の後方辺りに位置し、中盤終盤で徐々に速度と位置を上げて最後の瞬発力で抜き去る差し。

 差しよりも更に後方、最後尾辺りから一気に先頭まで躍り出る追い込み。

 

 得意とするものはそれぞれ違い、得意に合わせてトレーナーが伸ばすか、問題がある場合は別の走り方を提示して矯正、或いは強制する。

 

 よって、精々が出来るのは一つか二つくらいのものだが、多分彼女はやろうと思えば全部できる。

 

 それほどまでに何処を切り取っても高い地力で纏まっている。

 速度、持久力、瞬発力、反射神経、判断力、知力、精神力などなど。

 特化した走りを見せる者にはそれぞれ及ばない部分もあるが、総合では大きく突き放す。そんなイメージだ。

 

 テンからの大逃げだろうが、最後尾からの追い込みだろうが思いのまま。

 得意は芝の中長距離と言ったところだが、適性が多過ぎる。やろうと思えば短距離だろうがダートだろうがいけるんじゃないかアレ?

 余りの万能振りにちょっと引いた。彼女の天性を良い事に、そんな風に伸ばした過去のオレにドン引きした。

 

 ただ、嬉しかったのは彼女がこれまでレース、訓練中に一切の怪我をしてこなかった事実。

 フォームの改善によって各部にかかる負担を僅かずつに減らしながら、速度を維持することにさえ成功すれば、資料を参考にすれば怪我無くスムーズに行ける。

 図らずも、最大の難関が最初に立ちはだかっている状態であるが、分かっているのなら精神的には楽だ。

 

 

「しかし、こりゃ暫くスズカ達に付きっ切りになりそうだ」

「私はそれでも構わないが…………しかし、こうなると傍目から見れば会話が成立しているのに、全くしていないのは相変わらずか……む? ……ふむふむふむ」

「ルドルフには改めて謝っとかないとな、あと礼も」

「……謝罪も礼も不要だよ。君は私のトレーナーで、私は君の愛バだ…………そ、それに私は君がす、す、す――――」

「ルドルフのトレーニングは話を聞きつつ一緒に考えて、ある程度は自分でやって貰うしかない、か」

「ふ、ふふふ、いかん。いかんな。性急すぎる上にマルゼンスキーにも申し訳が立たない。正々堂々としなければ。決して怖気づいたわけではない。うむ、決して」

 

 

 今日は全員揃ったら、その辺りから相談していこう。

 オレ個人の死力も重要であるが、それよりも遥かに効果も大きく、効率が良いのは集団の微力なのだから。

 

 まず差し当たってはスズカ達の今後。

 詳細は詰めなくてもいいから大まかな年間スケジュールを立てよう。

 マックイーンとライスは入学したばかり。今年一年はフォーム改善と基礎能力の向上に費やす。二人も不満はあるかもしれないが異論はないだろう。

 

 

「失礼します…………あっ」

「ルドルフ会長…………まあ、私達を担当してくださるなら、当然ですね」

「あ、あわわ……こ、こんにちは」

「やあ、話は彼と理事長から伺っている。チーム……には人数が一人足りないが、()()()()()()()を仰ぐ者同士、よろしく頼むよ」

「――――む」

(い、いきなりマウント取ってきますわね、この方)

「よ、よろしくお願いしますっ」

 

 

 問題はスズカだな。

 一見物静かでストイックに見えるが、その実、闘争心が凄まじい。

 本音を言えば、トゥインクルシリーズへの出走を見送って、一年はみっちりフォームの改善に費やしたいのだが、納得しないだろう。

 そんでもって闘争心は在る癖に、精神的に脆い部分がある。参加を先延ばしにするとどんどんメンタルが崩れかねない。

 

 シリーズ参加者を二人抱えることになった挙句、参加するレースを選びつつスズカのフォーム改善を行っていく必要がある。

 まあ、いけるか。資料を参考にすれば記憶はなくとも、三冠バを生み出した過程は何より貴重な情報だ。そして何より、一人ではないというのは心強い限り。

 

 

「ま、負けませんからっ」

「いきなりの宣戦布告か。頼もしいよ、サイレンススズカ。私も先達として――……ん? いや、意味合いが違うのか」

「それは、どういう……」

「……いや、気にしないでくれ、メジロマックイーン。ふふ、少しだけマルゼンスキーの気持ちが分かった気がする。成程成程、なかなか面白い」

「……?」

「そうだな、此処は敢えて――――私も負けるつもりはない。その覚悟はしておいて欲しい」

「……っ」

 

 

 よーし、ざっくり概算は終了。

 当面はストライドを広げて、ピッチを下げる方向で行こう。

 

 本来、歩幅を少なく歩数を増やす走法は筋肉と関節への負担を下げるものだが、ウマ娘に限っては別だ。

 骨の強度が強い故、おかしな接地をしない限りは瞬間的な負荷には極端に強く、速度の関係で一度に生み出される衝撃も極端に強い。

 いっそのこと歩数を減らしていった方が最終的な負荷は軽くなる。 

 

 

「それは兎も角、トレーナーさんは、何を……と言うよりも、我々に気付いてらっしゃいませんの?」

「壁に直接……」

「す、凄い量……頭、ぐるぐるしてきそう……」

「ああなると誰にも止められなくてね。自分から此方の世界に帰ってくるのを待つしかない。無理に止めるなら殴るくらいしないと駄目だろう」

 

 

 その後は、あの凄まじい最高速維持能力を更に高める方向で鍛え、同時に先頭を維持するための運動能力とは別の技能を学ばせる。

 

 現時点ではルドルフの方が圧倒的に上だが、一年後、二年後には分からない。

 速度に関する天性においては、明らかにスズカの方が上。他の要素はルドルフが上。

 どちらかにだけ肩入れするつもりはないが、どちらも面白いことになりそうだ。

 

 既にオレは現状を楽しみ始めていた。

 オレは自分が成長する実感を得るよりも、他人が成長していく姿を見る方が好きだ。

 恐らく、理由などないのだろう。オレは昔からそうだった。

 

 思わず漏れそうになる笑いを堪えながら、インクを使い切ったマジックペンをゴミ箱(狙い)も見ずに放り投げる。

 音からホールインワンを確信して、皆が来るまで待とうと振り返ると――――

 

 

「やあ、戻ってきたかな?」

「ほぎゃぁ!?」

 

 

 ――――もうなんか全員居た。

 

 全く、全然、これっぽっちも予測していなかったので、思わず後ろに下がって壁にぶち当たった挙句に変な声が出た。汚い高音という感じ。

 この娘ら、気配を消すのがウマ過ぎないか? ウマ娘だけに。もしくは、ウマ娘は全員忍者だった???

 

 オレの声を聴いて、誰もが口元を押さえるか、俯いている。

 

 

「ふ、く……君は、いつもいつも周囲を和ませるのが、ふ、ふふ……」

「す、凄い声、う、ふふ……」

「ふぐぐっ、ど、何処からそんな声出しますの……」

「んふっ、ふふ……ご、ごめん……なさい……ふふ……」

 

 

 ああ、20代の半ばと言うのに笑わせるのではなく笑われるのは流石に恥ずかしい。

 何とか、何とか威厳を、大人としての尊厳を維持しなくては……!

 

 

「よく来たな。じゃあミーティングを始めるか。お茶出すよ」

「いや、真面目腐った顔をしても無意味だぞ」

「誤魔化せてませんわよ?」

 

 

 ルドルフとマックイーンの突っ込みに、全員の腹筋が崩壊した。

 和やかな笑い声を上げてくれるのはいいのだが、オレの羞恥は高まっていくわけで頭を掻くことしかできない。

 

 …………くそぅ、次は笑わせてやるからなぁ!

 

 

 

 

 




……おや!? ションボリルドルフの ようすが……!

おめでとう! ションボリルドルフは マウントルドルフに しんかした!


トレ「これ目出度いか?」
マック「お、落ち込んでおられるよりはよいのでは……?」
会長「ムフー」
スズカ「むむむ」


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『合縁奇縁』


 様々な評価感想、ランキング入り、更には誤字報告までありがとうございます。
 励みにも、助けにもなっておりますので今後ともよろしくお願いします。



 

 

 

 

 

「いやぁ、集中し過ぎてた。お恥ずかしいところを」

「呆れましたわ。一晩中計算してらしたなんて。加減というものを覚えて下さい」

「休憩は取ったし、タイミング見計らって身嗜みも整えたから大丈夫。寝ないから体調には人一倍気を遣ってるんだこれでも」

 

 

 彼女達には紅茶を、自分にはコーヒーを入れてミーティングルームのソファに座る。

 対面に座ったライスは両手で持ったカップをふーふーと吐息で冷ましており、マックイーンは片手でカップを、もう一方の手で受け皿を持って呆れ顔かつ諭すような口調でオレの行為を諫めてきた。

 

 人はケアをしなくとも眠りさえすれば体力も疲れもある程度は回復する。

 しかし、こっちは眠らないので意識して体力も体調も管理していかなければならない。

 

 その辺りの加減が全く分からなかったガキの頃、体力を使い果たして意識はハッキリしているのにぶっ倒れて動けなくなったこともある。

 子供心にかなりの恐怖体験だったので、以後は気を遣うようになって倒れた事は一度もない。

 

 

(…………まあそっちの方はいいんだけど)

 

 

 ――――オレは今、三人掛けのソファで両サイドを固められている。

 

 左を見る。

 ルドルフが優雅に足を組んで、紅茶の香りを楽しんでいた。気品、というよりも威厳がある。

 しかし、なんか距離感がバグってる。肩と肩とが触れ合いそうなんですが。お肌とお肌の触れ合い通信か? 

 オレもそうパーソナルスペースが広い方ではないが、この距離感はちょっとぉ……。

 年頃の女の子がオレみたいな20半ばの男にこんな距離を詰めるのは流石にどうかと思う。

 

 逆サイドに逃げて距離を空けたいのだが……。

 

 右を見る。

 スズカは両手でカップを持って、チラチラとこちらに視線を送りながら紅茶を口に運んでいた。

 此方は気品と言うよりも、親の躾が行き届いている印象。距離感はバグってない。

 だが、表情が硬いと言うかむっとしていると言うか。おこ? おこなの?

 オレが覚えていないだけで何かやらかしたか、とも考えたが、視線が時折ルドルフの方に飛んでいるので其方を意識していると思われる。

 

 そんな訳で、両手に花状態。

 別に女慣れしてない訳ではないので、嬉しくもないしドギマギもしないが――――圧が! 両サイドからの圧が凄い!

 

 龍虎相対す、その間に挟まれちゃいましたぁ~、といった感じ。

 

 すげーよルドルフ。

 まだデビュー前の子に闘志を燃やすとか正に獅子博兎。

 大人げないとも言う。もう少し加減を覚えよう、なっ?

 

 すげーよスズカ。

 まだデビュー前なのに天下の皇帝様に挑む気満々とか正に黔驢之技(けんろのぎ)

 身の程知らずとも言う。もう少し実力を付けてからにしよう、なっ?

 

 

「「あっ……」」

 

 

 とまあそんなことを言うわけもなくオレはそそくさとコーヒー片手に一人掛けのソファに移動した。

 

 それが健全な競い合いなら止める理由も口を挟むつもりもない。

 勿論、レースや結果以外の方法で争うと言うのなら止めるが、これくらいなら互いに高め合う上ではプラスに働くだろう。

 

 しかし、次の瞬間にルドルフもスズカも寂しそうな表情と声を上げる。

 …………いや、君ら何なの? オレを間に挟んでたから圧をかけてたの? 怖いからやめて???

 

 

「……今後の話したいけど、いい?」

「ええ、勿論ですわ」

「は、はいっ!」

 

 

 なんかおかしい空気を変えるために、敢えて空気は無視して話題を変える。

 オレの問いかけに、今後を気にしていたマックイーンとライスは元気良く頷いた。

 

 そんな二人の様子を見て、我が身を顧みたのだろう。

 ルドルフはわざとらしく咳払いを、スズカは鹿爪らしく頷いて誤魔化している。いや、全然誤魔化せてないけどね。

 

 

「まずマックイーンとライスだけど、今年度はデビューを避けて身体を作りたい。構わないかな?」

「ライスはいいよ……?」

「私も構いませんわ。まだ教官のトレーニングを共にした程度ですが、この学園の方々はいずれも劣らぬ精鋭であるのは分かっております。挑戦したい気持ちはありますが、其処まで驕るつもりはありません」

 

 

 教官、というのはまだトレーナーからスカウトされていないトレセン生を担当する者のこと。普通の学校で言えば体育教師みたいなものだ。

 教員免許も持っていて、元トレーナー志望である場合が多い。一人を深く担当するよりも、多くを浅く広く教える方が向いていると自ら判断したり、学園側から判断された者がなる。

 入学したての新入生にレースやトレーニングのいろはを教える立場にあり、ある意味でウマ娘にとっても学園側にとっても、トレーナーよりも重要な立ち位置と言える。

 

 ライスにせよ、マックイーンにせよ、トレセン学園に入学を許された者のレベルを肌で感じているのだろう。

 トゥインクルシリーズ参戦への疼きはあるようだが、焦りはない。

 そして、オレに気を遣ってくれている。まあルドルフが来てくれたお陰で、こっちのキャパは逆に増えているが。

 

 一々残した資料を引っ張り出さなくとも、どんなトレーニングをしてきたのかルドルフに聞けばいい。

 その上、この娘はあらゆる方向に基礎を伸ばしているので、熟してきたトレーニングも多彩かつ豊富。

 スズカ達には、それを参考に適性に合わせて選べばいいだけになる。

 

 正に“皇帝”様々だ。

 でも仲間内でバッチバチにやり合うのは止めて欲しい。

 

 

「で、理事長から聞いたけど、スズカは7月にデビュー戦だっけ?」

「……はい」

「出るつもりある?」

「……え? 走って、いいんですか……?」

「正直、一年みっちり鍛えたいところだけど、可能な限りはそっちの希望には沿うよ。但し、こっちからも要求がある」

「何で、しょうか」

「全員そうだけど、身体に不調があれば必ず教えてくれ。これは絶対。黙ってたらバレないだの、一度くらいは大丈夫なんて甘ったれた考えは捨ててくれ。本気で怒るぞ」

「わ、分かりました」

 

 

 スズカだけでなく、他の皆の顔を見回すように釘を刺しておく。

 ルドルフとマックイーンは神妙な面持ちで、スズカとライスは僅かばかりに怯えた表情で頷いた。

 

 脅しているつもりはない。

 オレはシリーズに出走したのなら、大過なく終えるのが絶対条件で最低ライン。

 正直、言われるまでもなく不調を見抜くのがトレーナーの仕事と思っているが、今の状態では見落とす危険性を捨てきれない以上、彼女達の協力と自己申告は不可欠な要素。

 勿論、言い易い環境は作るし、此方も信頼を得られるように努力は惜しまないが、本気であると知っておいて貰いたかった。

 

 

「トレーニングに関しては互いに報連相で行こう。こっちの意図は説明するが、分からなければ聞いてくれ、必ず答える。文句も我慢しなくていい。但し、感情任せで穴だらけの理屈だったら説き伏せるからそのつもりで」

「はいっ!」

「取り敢えず、スズカはフォームの改善から入る。マックイーンとライスは併走しながら基礎固め、余裕が出来たらフォームの改善に移る」

「まあ、其処まで問題がありましたか?」

「いや、問題ってほどの問題じゃないよ。脚への負荷を少しでも下げたいだけ。勿論、速度を維持したままだよ。より速く、より安全に、より長期間を。最高だろ?」

 

 

 不満――――と言うよりかは不思議といった感じで、マックイーンが問い掛けてくる。

 

 ライスは兎も角として、マックイーンはメジロ家出身。

 家に専属トレーナーくらいは居ただろうし、指導も受けてきただろう。

 彼女のフォームからはそうした指導の影が見え隠れしていて、専属トレーナーの努力すら感じ取れる。

 ただ、大きい家だ。抱えているウマ娘の数が多い以上、一人ひとりへの指導時間はどうしようもなく減っていき、より個人に合わせた指導は難しくなる。

 

 それでもマックイーンほど無駄(ロス)の少ない走り方は珍しい。

 メジロのトレーナーが出来る限りを尽くした最善の結果だ。

 彼或いは彼女とマックイーン本人の努力を無駄にしたくはない。オレの仕事は最善を生かし、最高にまで引き上げることだろう。

 

  

「それで、ルドルフだけど……」

「トレーニングに関しては問題ない。君がいない間、東条トレーナーが代役を務めてくれた。自分で計画を立てられるように、指導もして貰ったさ」

「へぇ。礼を言っとかないとな。でも、其処までしなくてもよかったんじゃない? 東条さんにやって貰えばよかったじゃん」

「はぁ、君は全く。先日、言った通りだ…………トレーニングそのものは一人でも可能だが、計画は共に立てよう。構わないな?」

「そりゃ勿論。トレーニングの内容を聞きながら決める。ただ、その日の調子で切り替えたりはするから念頭に入れといてくれ」

 

 

 ルドルフは僅かばかりに責めるような視線と拗ねたような言葉を向けてきた。

 普段の気丈で公明正大な立ち居振る舞いとは異なる子供っぽい姿と拗ね方。

 彼女ほど己を律した生き方を身に付けているのであれば、子供時代も相応に躾けられてきたであろうし、自らもまた家や夢に恥じぬように邁進してきただろう。

 

 本当に、彼女はオレ以外をトレーナーとするつもりはないらしい。

 だからこそ、過去に置き去りにしてきた子供らしさをオレの前では見せていると思うと、嬉しいやら悲しいやら。

 こうなるまでには相応の積み重ねがあったのだろう。ルドルフへの申し訳なさよりも、オレ自身が思い出したくて仕方がない。

 

 

「それから東条トレーナーは君がサブトレーナーとしてついていた女性だ。おハナさん、と呼んでいた。そう呼んであげると喜ぶだろう。あぁ、そうした方がいいな。愛称は親愛の情を伝えるにはうってつけだ。愛称はとても大事なものだからね」

「お、おぉ、そうなんだ。分かったよ、あんがと」

「「「……?」」」

 

 

 きちんとオレの人間関係のフォローまで考えてくれる辺り、本当に有能で心遣いもできる娘だ。

 頼りになるどころの話じゃない。理事長や駿川さん同様に、頭の上がらないことになりそうだ。

 ただ、しきりに愛称を連呼している姿はオレ以外の三人には奇異に映ったようだった。

 

 …………これはアレだな。多分、過去のオレはルドルフ以外の愛称で彼女を呼んでたな。

 

 本人も無理を言うつもりはなく、あくまでも願望が発露してしまった、という感じなのだろう。

 その愛称がルドルフにとって重要であることは嫌でも分かる。分かるのだが、生憎と思い出せない。

 ちょっと人に聞いて回ってみよう。あとは資料を当たって何かヒントがあればいいのだが……。

 聞いてみてもいいけど、この様子ではムキになって教えてくれないか、傷つけることになりそうなので自力で何とかするとしよう。

 

 

「ところで、トレーナー君。一つ提案がある」

「提案……?」

「あの壁の件だ」

 

 

 ルドルフはオレが計算式を書き込んだ壁を指で示した。

 生徒会長として、ミーティングルームの使い方に問題があると言いたいのか?

 まあ確かに問題あるかもしれないが、いいんじゃなかろうか。

 自費自力で塗り直すつもりだし、誰に迷惑をかけるわけでもない。

 

 

「いや、書き込むに当たって大きく使いたいという気持ちは理解できるが、塗り直すのも張り直すのも手間だろう? 故にこういったものを探してみたのだが、どうだろう」

 

 

 そう言うと、彼女はスマートフォンを差し出してきた。

 受け取ってみると画面に映し出されていたのは通販サイトと一つの商品。壁に貼り付けるタイプのホワイトボードシートとあった。

 

 確かにこっちの方が効率が良い。

 ペンキで塗り直すのは時間がかかるし、ウマ娘は嗅覚も敏感だから暫くはミーティングルームに入ると気分が悪くなるかもしれない。

 もしかしたらルドルフは過去そんな場面に遭遇したのか。或いはオレの手間を考えて探してくれたのか。ともあれ、嬉しい上にありがたい。

 

 

「ほー、こんなのもあるんだ。うん、こりゃいいや。ちょっと高いが後の事考えるとこっちのが安そうだなぁ」

「経理に申請を出すといい。トレーナー業に必要な物品であれば、問題なく経費で落とせる筈だ」

「何から何まで悪いな。これじゃあどっちがトレーナーなんだか」

「卑下しなくていい。人に頼れるのは強みだと、他ならぬ君が教えてくれたことだ。君には随分と支えて貰った。次は私が支えよう、君は()()トレーナーなのだから」

「むっ、むむむ」

 

 

 記憶を失って学園の仕組みもとんと分からないオレに、さりげなく業務のフォローまでしてくれた。

 

 な、なんて頼りになる“皇帝”なんだ……!

 

 でもあの、何だか『私の』のところをいやに強調してらっしゃいませんでした?

 そりゃ確かに君のトレーナーではあったらしいけれども、今は君だけのトレーナーではなくてですね?

 

 思わず、チラリと他の面々に視線を向ける。

 ライスは目を輝かせて、会長すごい、ライスも頑張らなくちゃ、と好印象の御様子。素直過ぎるだろ、天使か?

 マックイーンはオレの責任と言わんばかりに、何とかしてくださいませんこと? とジト目を送ってくる。そ、そう言われましても私としても手の打ちようがなく……。

 

 一番の問題はスズカだ。

 見る間に機嫌が悪くなっていっている。むすっとした表情はちょっと不安になるレベル。お、オレにどうしろと言うのだ。

 

 他の娘達にマウントを取りに行くルドルフに、もうやめてと懇願気味に視線を向けるも、御本人はふふんとご満悦。

 すっごいドヤ顔だなぁ……! こんなのシンボリルドルフやない! マウントルドルフやっ! 公明正大に見えて意外と暴君だな、この娘!?

 

 空気がっ! 折角、今後の方針を話して入れ替えた空気が元に戻った!

 いや、それどころかマックイーンからの圧も加わって凄い事になってるぅ……。

 

 か、考えろオレ!

 オレ嫌だぞ! 毎回毎回こんな空気になっちゃってたら胃に穴が開いちゃう……!

 

 蟻地獄に堕ちた気分で、どうにかならんもんかと知恵を絞ったが、そう簡単に答えなど出る筈もなく。

 

 しかしその時、コンコンとミーティングルームのドアがノックされた。

 これを逃す手はねぇ! 来客を招き入れてこの空気を吹き飛ばす!

 

 

「おーい、おるかー?」

「はい、どうぞっ! 入って入って!」

「ほな邪魔するでー」

 

 

 扉の向こうからかけられた声に、やや食い気味に応える。

 ガチャと音を立てて扉が開くと、ルドルフのドヤ顔は消え去って悠然としたすまし顔に、スズカもむすっとした表情を柔らかに戻す。

 成程、二人ともアレか。人前だと外面を気にするタイプ、もしくは本来の感情や自分を表に出す場所を弁えているタイプか。

 

 い、いずれにせよ空気は変わった。目論見成功である。

 

 

「いやー、サブちゃんひっさしぶりやなー! 事故巻き込まれた聞いて心配したで」

「もぐもぐ」

 

 

 扉から入ってきたのは葦毛の二人。

 

 一人は小柄なライスよりも更に小柄でありながら、溢れ出るパワーを感じさせる関西弁の元気っ娘。

 もう一人は余り表情の変化が見られず、紙袋に入った焼き菓子を無心に頬張っている落ち着いた娘。

 

 や、やばい。小さい娘の方は知り合いっぽいし、もう一人は表情と振る舞いから関係性を予見できない。

 ルドルフを泣かせてしまった件で、学園で出会った知り合いと顔を合わせるのが完全にトラウマになってる。

 心臓は嫌な脈打ち方をしているし、冷や汗が止まらなくなっている。何とか口を開こうとするが、ルドルフの泣き顔がフラッシュバックして言葉が出て来ない。

 

 

「タマモクロスに、オグリキャップ。トレーナー君に何か用か?」

「会長はん、だけやないか。他にもおるやん。新しい担当かー? それともまた助けてやってるん? 病み上がりなのに頑張るもんやなぁ。まあええか。来たんはサブちゃんの様子見に来たんが一番やな。コミちゃんも心配しとったで?」

「……お、おう」

「顔色悪っ! だいじょぶかー?」

 

 

 またしてもルドルフがさりげなくフォローしてくれる。

 様々な感情が渦巻いて軽くパニックになった頭でも、名前を聞けば繋がってくるものがある。

 

 そうだ、小柄な方はタマモクロスだ。

 残された資料の中に彼女の写真やフォーム改善、トレーニングに携わったと思われるものもあった。

 

 しかし、彼女との関係性がよく分からない。

 単なるサブトレーナーに向けるにしては、やたらと親し気ではなかろうか。それともサブトレーナーとウマ娘ってこんなもんなのか?

 

 

「あの、トレーナーさんは……」

「少々事情がありまして……」

「事情? なんやまだ治りきっとらんのかいな。無理したらあかん。病院行った方がええんちゃうか?」

「もぐもぐ」

 

 

 ライスとマックイーンはほぼ初対面に近いだろうに、オレを庇うように口を開く。

 ただ、具体的な説明はしなかった。いや、出来なかったというべきか。個人の事情を許可なく明かしてしまうほど配慮に欠けてはいない。

 軽い口調ではあるが紛うことなき心配を向けるタマモクロスとまだ食ってるオグリキャップに、二人はどうしようと顔を見合わせてからオレを見た。

 

 ふっ。大丈夫だ、二人とも。

 トラウマで一瞬我を忘れたが、こういう時の対策は考えてあったんだ。

 

 すっ、と無言でソファから立ち上がり、後ろに回り込んで床の上に正座。

 そして、ギョッとしたタマモクロスとしっかり目を合わせた後に――――

 

 

「すみません。事情を説明させて下さい」

「なんで土下座すんねん???」

「武士みたいな潔さしてますね」

「トレーナー君、それは余りに威厳がないのではないか、と言いたい」

 

 

 初手から土下座謝罪敢行である。これ以外にどうしろと言うのか。

 スズカとルドルフの冷たい視線とツッコミが突き刺さる。君達、こういう時は息ピッタリね。仲いいのか悪いのかハッキリして。

 

 

「もぐもぐ」

 

 

 あとオグリキャップ、君はいい加減に食べるの止めよう???

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「大変な時に来てしまったな、もぐぐ」

「はぁ~~~~~~、そんなエラいことになってんのかいな」

「す、すみません」

「なんで謝んねん。別にサブちゃんは悪かないやろ」

 

 

 来客を座らせるため、ライスはオレの対面にある一人掛けのソファに、マックイーンはルドルフとスズカの座る三人掛けのソファへ。

 先程までライスとマックイーンの座っていたソファにはタマモクロスとオグリキャップが腰を下ろしていた。

 

 一通りオレの置かれた状況を説明すると、タマモクロスはニカッと笑ってそんなことを言った。

 

 

「思うとこはないこたないけど、ウチにはどうにも出来んしなぁ。それにずーっと思い出せへんわけやないんやろ?」

「どう、かな。正直、確立した治療法がないからなんとも。何かの拍子にすっと思い出す人もいれば、時間がかかる人もいる」

「ならええやん。可能性あるんやから問題なしや。記憶なくしたからってサブちゃんであること変わらへんし、新しく思い出作ってもええやろ」

「……君は強いな、タマモクロス」

「そか? サブちゃんもあんま気にしたらハゲるで」

 

 

 あっけらかんとした態度は、嘘偽りのない本音であることを示している。

 驚いたのはオレのことで相当に悩んでいたルドルフであった。ただ、それ以上に尊敬の念が強そうではある。

 

 ルドルフがどんな思いで決断を下したのかは分からないが、相応の懊悩があったのは想像に難くない。

 自分が悩んだ末に出したものと同じ答えをタマモクロスは呼吸をするように出してしまった。尊敬の一つも向けるだろう。

 

 

「ところでサブちゃんって何? オレ、名前にも苗字にもサブなんか入ってないけど」

「あははっ! 出会ったんがサブトレの時やったからなぁ、だからサブちゃん。ウチのことはタマちゃん呼んどったで」

「「……むっ」」

 

 

 タマちゃん……!

 このカラっとした雰囲気は凄くありがたい。関西人は皆こうなのだろうか。

 

 凄く、もの凄く話し易い……!

 皆いい娘だけど、こっちは年上で男。それなりに気を遣う。

 ただ、タマちゃんは何と言えばいいのか、男友達と話しているような気安さがある。これ南坂ちゃんくらいに話し易いぞぉ……!

 

 でもルドルフとスズカがぶすっとむくれていく。特にルドルフは愛称に思うところがあるので機嫌の悪さが一目で分かる。

 他所のウマ娘と仲良くすることは許されないということか。でも間に挟まれているマックイーンが居心地悪そうだから止めてあげて?

 

 二つの圧に挟まれ、マックイーンは堪らずに口を開く。

 

 

「そ、それで? タマモ先輩もオグリ先輩もトレーナーさんにどういった御用向きなのですか?」

「いや、ウチ言うか、オグリのことでちょっち手を借りたかったんやけど……流石に今のサブちゃんに頼るんはなぁ……」

「話くらい聞くよ?」

「け、決断が早過ぎるぞ、トレーナー君……」

「ちょ、ちょっと待って下さい、トレーナーさん。安請け合いはよくないと思います。身体のこともありますし……」

「ラ、ライスも、やめた方がいいと思う、よ……?」

「いや、話聞くだけならいいでしょ」

 

 

 ほぼノータイムで内容も聞かずに答えたオレをルドルフもスズカもライスも心配して焦っているようだが、話を聞くくらいなら負担でも何でもないだろうに。

 

 悩みなんて他人に相談できる時点で半分以上は解決しているようなものだ。

 そう重く受け止めなくてもいいと思う。オレが出来ないなら出来ないで、別の誰かに頼ればいいだけなんだから。

 

 オレの様子に何かを悟ったのか、ルドルフは困ったように笑い、スズカは不承不承という雰囲気を隠さない。

 ライスとマックイーンはただひたすらに心配そうな顔をしていた。 

 

 別に無理はしていない。

 ただ、このまま話も聞かずにタマちゃんを追い返すのは、オレにとって無理と言うだけ。

 

 

「ほな、遠慮なく。実はな……」

 

 

 腕を組み、僅かに悩む素振りを一時は見せたタマちゃんであったが、やがて観念したかのように語り出す。

 

 どうやらオグリキャップのトレーナーが倒れたらしい。原因は心労だとか。

 

 最近、ウマ娘関連の情報に触れてこなかったオレはとんと知らないが、オグリキャップは地方のローカルシリーズで名を上げて、中央にやってきたらしい。

 まだ正式にシリーズには参戦しておらず、登録もされていないため残念ながらクラシックには出走できないものの、世間からの期待は高い。

 かつて“地方競バの怪物”と呼ばれ、日本中にブームを巻き起こしたハイセイコーに似た経歴。更には日本人の判官贔屓ぶりを考えれば納得の至り。

 

 となれば当然、トレーナーにかかるプレッシャーも生半なものではない。

 オグリキャップを生かすも殺すもトレーナー次第。結果を出さなければトレーナーとしての腕を疑われるばかりではなく、世間様からも叩かれかねないのだから。

 

 ただ、タマちゃんの話ではトレーナーがスカウトしたわけでも、オグリキャップの側から声をかけた間柄でもないらしい。

 

 正式参戦前に人気を博し始め、ハイセイコーの再来を期待させられれば、客を呼び込んで金を稼ぎたい中央の主催者側からしてみれば不発で終わらせたくはない。

 そうした思惑もあってか、オグリキャップのトレーナーは無理に宛がわれただけであったようで、そうした立場が余計に心労を呼んだのかもしれない。

 流石の理事長も主催者側からゴリ押しされれば、どれだけ譲りたくなかろうと最終的には首を縦に振らざるを得なかったのだろう。

 

 

「まあ、それはええねん。オグリのトレーナーは可哀想やけど命に別状はないしな」

「もしかして、オレにトレーナーやれって話?」

「ちゃう。サブちゃんの話聞くまではそれもアリやと思っとったけども、今はナシや。ただなぁ、御覧の通りコイツめっちゃ喰うねん」

「もぐもぐ」

 

 

 それは分かる。

 だってミーティングルーム入って来てからも喰い続けているもの。

 

 健啖家であることは悪いことではない。

 ウマ娘は人より身体能力が高い分だけエネルギーの消費量も多い。当然、食事量も人の数倍に及ぶ。

 これが小食であるとガンガン痩せ細っていく。一流スポーツ選手も競技者生活の中で何が一番過酷だったかと問われ、試合でも訓練でもなく『食事が辛かった』と答える者も少なくない。

 

 そう考えれば大喰らいは立派な長所。

 勿論、レースにおいて体重増加は歓迎されるべき事態ではないが。

 しかし、少なくとも目算からオグリの身長、各部位の肉付きから体重やら筋肉と脂肪の割合をざっくり出してみても、理想値からやや外れているといった印象で其処まで問題があるようには思えない。

 

 

「その上、スーパークリークとも仲良くしててな。オグリのこと、甘やかしに甘やかしよんねん。お陰で体重がなぁ。知り合ったばっかやけど、速いしおもろい奴やから放っとかれへんわ」

「彼女か……」

「有名、ですものねぇ……」

 

 タマちゃんの人の良さよりも、スーパークリークの方が気になる。

 スーパークリークがどんなウマ娘かは知らないが、生徒会長のルドルフどころか新入生のマックイーンも知っている辺り、かなり有名人ではあるようだ。

 

 しかし、どんな風に有名なのか。

 マックイーンなんて顔を引き攣らせているし、ルドルフは頭痛でも覚えたように目頭を揉み解している。

 どうやら余り良い方向に有名なわけではないようだ。そりゃ甘やかすのは問題っちゃ問題だろうが、悪意ではなく善意でやっているのだろうから、そんな顔をしなくても。

 

 

「そうなってくると、オレに出来そうなのは献立メニュー考えるくらい、かなぁ。スーパークリークには釘差しといて、オグリキャップには間食を控えて貰うかするしかない。体重はトレーニングやってれば自然に落ちてくように調整するくらいは出来るよ?」

「あー、それ個人専用のメニュー作る言うことやろ? 担当トレーナーおらんと無理なんちゃうん?」

「いや、規則上、特に問題はない。トレーナー側だけでなく我々からもカフェテリアの責任担当へ事前に申請を出しておけば可能だ」

 

 

 基本、トレセン学園のカフェテリアはビュッフェ形式で栄養管理はウマ娘本人の自主性に任せられる。

 だが、ウマ娘やトレーナーの中にはより徹底した栄養と体重管理を求める場合もあり、そうした場合はカフェテリアに希望するメニューと一緒に申請しなければならない。

 食べないことで体重や身体を理想値に持っていく手法も存在するが、食べることで理想値に持っていく手法の方が断然いい。

 中には全部の食事を自分で作るべく、管理栄養士と調理師免許を取得している気合いの入ったトレーナーもいるほどだ。いや、気合いの入れる方向が間違っている気はするけれども。

 

 んー、スズカ達のメニューは考えるつもりだったから、其処に一人分増えたところでそう手間はかからないな。

 

 

「なら、出来れば食事量とかトレーニング量も知っときたいな。なんか分かるもんある? 口頭でもいいけど」

「おお、それならあるで。ほれオグリ、トレーナーのノート渡したり」

「もぐもぐ。私の為に色々と済まない、もぐもぐ。これがそうだ」

 

 

 色々と言いたいことはあるが、これだけ食べればもう無意味なので言わないでおく。

 

 恐らく、タマちゃんも同じ心境だろう。

 口うるさく止めないのは、コイツには口で言うても意味ないという諦め半分。そして期待半分でオレの下へやってきたというところか。

 

 オグリキャップは焼き菓子を咀嚼しながら、一冊のノートを差し出してくる。

 この娘、究極のマイペースというか何というか。タマちゃんが気を揉んでいることに気付いているのか分からない無表情である。大丈夫かな、これ……。

 

 嫌な予感と不安を覚えながら渡されたノートを捲る。

 中はおおよそ考えていた通りの、いや、それ以上の情報源だった。

 

 トレーニングの内容も詳細に書かれているし、食事に関しても記載されていて、量には面を喰らったが栄養面でも問題なさそうだ。

 一日ごとにオグリキャップの様子の変化も記されている辺り、倒れたトレーナーは押し付けられたは押し付けられたのだろうが、それでもやる気もあって責任感が強かったであろうことは伺えた。

 

 となると倒れたのは真面目過ぎたからか、などと考えながらコーヒーを片手にノートの一部に目を向けて――――

 

 

「――ぶぐん゛ん゛ッ!!??」

「うわっ、汚なぁッ!?」

「もぐもぐ」

「だ、大丈夫……?」

 

 

 ――――おもっくそコーヒーを噴き出してしまった。

 

 

「オグリキャップ、ちょっと確認したいんだけど」

「ど、どうしたんですの、突然……と言うかコーヒー……」

「もぐもぐ。何だ?」

「そ、それよりもトレーナーさん、顔…………ふ、拭きますね」

「むぐぐぐ、これ書いてあることマジ?」

「ごくん。さあ、よく分からない。でも、トレーナーは凄く頑張ってくれていたから嘘は書いていないと思うが……」

「ど、どうしたんだ、トレーナー君」

「ちょっとこれ見て」

 

 

 鼻から下がコーヒー塗れになって、スーツも汚れてしまったが気にならない。

 自分の状態を無視してオグリキャップに問い掛けていると、スズカが自分のハンカチを取り出して顔を拭いてくれたが、それさえも気にならない。

 問いかけたオグリキャップは惚けた表情をしており、思わず頭を抱えた。

 

 若干引き気味の表情で視線を向ける全員に、オレはノートを差し出して見せる。

 開かれたページはオグリキャップの体重を線グラフで書き記されており、それを目にした瞬間――――

 

 

「「「「「は?」」」」」

 

 

 ――――全員の心がひとつになり、目が点になった。

 

 そうだろうそうだろう。そりゃ誰だってそうなる。

 ルドルフはその手の知識がありそうだが、他の皆は知識もないのにオグリキャップの身体がおかしなことになっているのを分からせる問答無用の説得力。

 だってそのグラフ、上と下で差が激し過ぎるもの。もう心電図とか地震計みたいになっちゃってるもの!

 

 確かに体重が増減しやすい体質の人は往々に存在するし、体内の水分量によっては1日でもキロ単位で変わってくることもある。

 だが、それらを差し引いたとしても、オグリキャップの体重増減は明らかに異常値を示している。しかもごくごく短期間で。

 暴飲暴食で増えた体重を、無茶苦茶なトレーニングで落としているのが目に浮かんでくるようだ。

 

 担当トレーナーが倒れた理由は間違いなくこれだ。

 恐らく、どうにかしようと躍起になって方法を模索して限界を迎えたものと思われる。

 

 これはやばい。絶対にやばい。

 

 関節は消耗品と例えられるが、基本的に身体の部位は何処も消耗品だ。

 老化は勿論の事、酷使すればするほど擦り減り劣化していく。

 並の人間よりも遥かに強靭で頑強な肉体を持つウマ娘だって、その基本原則は変えられない。

 

 ただでさえ肉体を酷使するトゥインクルシリーズに、こんな状態で出走しようものなら確実に内臓の何処かにガタが来る。

 仮に重要な三年間を乗り越えられたとしても、身体は何処も彼処もボロボロになっているはずだ。

 

 

「――――?」

 

 

 しかし、この娘は自分の状態をなーんも理解していないので、皆の視線を一身に受けてもお気楽なもんだった。

 

 

 これがオレと後に“芦毛の怪物”と称されるオグリキャップとの出会いだった。

 

 

 

 

 





因みに、今のトレーナーとの相性◎の相手。


マルゼンスキー。
担当だったらヒロインレースで影も踏ませずぶっちぎりで持って行ってた真紅のスーパーカーにしてゲキマブチャンネー。
辛い時にはそっと寄り添い、頑張れる時には支えてくれるセンス以外は完璧なナオン。
トレーナーが別の誰かと付き合っても、笑顔でトレーナー君が幸せならバッチグーよ♪ してくれる。
本編では余裕の表情のまま未だゲートで仁王立ちしてる。


タマモクロス。
トレーナーと恋愛感情ないままに友達感覚で付き合ってくれる子。
記憶ぅ? そんなん関係あらへん、サブちゃんとウチの仲やんけ。がデフォ。
トレーナーとしても男友達感覚で気を遣わなくていいので、凄くメンタル的に楽。
ヒロインレースに出走しても最終的に恋仲にはならずに親友のまま楽しくやるタイプ。


ゴールドシップ。
落ち込んでる暇もないほどにあっちこっちに連れ回される。
そしてトレーナーはトレーナーでスペックも頭もおかしい奴なんで、ゴルシちゃんのノリに素面でついていけるし、恵体なので故障の心配が少ないので心労も少ない。
ゴルシちゃんはゴルシちゃんで、辛い思いしてる奴を見捨てる娘じゃないので相性抜群。

ゴルシ「なぁ、今度のレース勝ったら木魚ライブやっていいか?」
トレ「マぁジでやんのぉ? …………ならオレ後ろで虚無僧の格好で尺八吹いてようか」
ゴルシ「マジで?! 面白くなってきたぜぇぇぇぇ!!(絶好調」

こんな会話ばっかしてるハジケリスト共。
親友のジャスタウェイもどっかから連れてきて、ドバイと凱旋門制覇した伝説のトレーナーになる。
でもゴルシちゃんの言動をトレースとか作者には出来ないので本編には出て来ない。


会長「私は?」
トレ「あ、あくまでも設定上の話だから落ち着いて?(震え声」
会長「私は?(圧」



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『懇到切至』

 

 

 

 

 タマちゃんとオグリがミーティングルームを訪れてから早三日。

 事のヤバさを認識したオレは皆に断りを入れて、まず最初にオグリ専用の献立メニューを最速で完成させた。

 後は間食を控えるように伝えてあるが、ここら辺は本人の意思に任せる他ないのが歯痒い所だ。

 オグリを甘やかしているというスーパークリークにはタマちゃんの方から状況をしっかり説明して、釘を刺しておいて貰った。

 

 理事長にはオグリの状態を報告してある。

 早い所あらゆる意味で管理上手なトレーナーを宛がって貰わないと、オグリの将来が悲惨なことになりかねない。

 

 だが、人事権のないオレには理事長や駿川さんに任せる他なく――

 

 

「ありがとうございます!」

「ほい毎度ありー。また来てねー」

 

 

 ――学園の購買でのんびり店番をやっていた。

 

 トレセン生の一人にお釣りと買った商品を渡すと、笑顔で元気良く礼を告げてきた。

 その後ろ姿を手を振って見送り、椅子に座る。

 

 現在、時間帯は午前10時頃。二限目のちょっと長めの休み時間。

 朝8時からルドルフ達のトレーニングが始まるまでの間、トレーナー業はどう頑張っても軽くしか出来ない。

 やれてかつてのオレが残してあった資料を漁り、17時以降に目を通せるようにしておくくらいだ。

 それ以外の仕事は記憶を失ってしまう関係上、無駄になる可能性が高く、17時以降に集中してやった方が効率的。

 

 実際、スズカ達のトレーニングは順調だ。

 スズカはフォーム改善に意欲的。マックイーンもライスも生来の生真面目さもあって基礎訓練をサボったり手を抜くような真似もしていない。

 唯一懸念していたルドルフのマウントルドルフ振りとスズカの対抗心の折り合いであったが、意外なほど良好な関係を築いている。

 トレーニング中、ルドルフは合間合間に経験者として指摘こそするものの常に言葉は選んでおり、スズカも唯々諾々と従うばかりではなく素直に疑問を口にする。

 

 正に健全な先輩後輩関係だ。

 なのにどうしてミーティングルームに戻るとドヤ顔と不機嫌な表情が飛び交い、毎回あんな空気になってしまうのか。

 オレとマックイーンは辟易している。唯一の幸いはライスが空気の変化に気付いていないことだろう。

 

 まあそんなこんなで、17時以降は一応は順調。

 オレもルドルフから得た情報を大いに生かして計画も立てられている。

 

 ただ、昼間もやろうと思えばやれんこともないのだけれど、精神的な負担が大き過ぎてやりたくない。

 効果的なトレーニングを思いついたとしても、映像研究で何かを見つけたとしても、17時以降のオレに手帳や録音データで伝えたとしても齟齬が生まれる可能性は否定できない。

 何をしていても頭にそうした考えがチラつき、不安と無力感ばかりが溜まっていく。

 

 そんな調子ではいずれ精神の均衡を崩してしまうだろう。

 ならばいっその事、記憶を失う時間帯はトレーナー業に関して資料漁り以外はノータッチにすると決めた。

 殊の外、現実は上手く行かないことばかりだ。オレと同じ症状に苦しむ人は、こんな気分で日常を送っているのだろうか。

 

 無理をしている自覚はある。だからこそこれ以上の無理は重ねない。

 無理は余裕を奪って焦りを生んで視野が狭まる。焦りは後悔しか生まず、後悔は更なる後悔を生む羽目になる。

 その結果、オレの後悔に巻き込まれるのはルドルフを初めとした担当する娘達。避けなければならない事態だ。

 

 だが、そうすれば時間が生まれて暇になるわけで。

 基本的にオレは何もせずにじっとしているのが苦手な人間だ。落ち着きがないと言われたことはないが、少なくともオレはそう自認している。

 

 なのでオレは空いた時間で色んな人の手伝いをしていた。

 トレセン学園は制度も設備も整えられているが、人手が足りなくなる場面はどうしようもなく訪れる。

 本日は購買で家庭の事情による急な休みが出たらしく、シフト調整が難しくなったとかで、じゃあオレがと名乗りを上げた。

 購買のおばちゃん達はオレの事情を鑑みて最初の内は渋っていたものの、生徒達が殺到する激戦の始まる12時前までなら、と受け入れてくれた。

 

 ――――まあ、単に人助けをしたいだけじゃないんですけどね。

 

 

「……あら?」

 

 

 釣銭の渡し間違いがないかレジの中を確認していると一人の生徒が驚いたように目を見開いて足を止めた。

 鹿毛の長髪に、碧色の瞳。何よりも印象的だったのは品格と確かな教養がありながらも、相手に緊張感を与えない柔和な顔立ち。

 

 ルドルフと同学年だろうか。如何にもお姉さんと言った雰囲気の少女と目が合い、思わず固まりそうになった。

 少女は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに笑顔を浮かべて此方に近付いてくる。

 

 

「はぁい♪ 私のこと分かるかしら?」

「マルゼンスキー、だよな」

「ピンポーン、大正解♪ それから私のことはマルちゃんって呼んでちょうだいね?」

「もしかして、前はそう呼んでた?」

 

 

 彼女は情報として知っている。

 サブトレーナーとして関わっていたらしく、資料も残っていた。タマちゃんと違うのは、正式な形で関わったこと。

 どうにもタマちゃんの方は資料から察するに、全く関係のない小宮山トレーナーのところにオレが勝手に首を突っ込んだようだ。

 対し、マルゼンスキーことマルちゃんは、東条トレーナーことおハナさんの下に居た頃、正式にサブトレーナーとして関わっているらしい。

 

 その上、もう何を言ってくれたのかさえ覚えていないが、ルドルフの一件でも何かをしてくれたらしい。

 大事な絆を一方的に忘れてしまった申し訳なさ、助けてくれた恩すら覚えていられない不甲斐なさ。

 記憶もないものの、手帳に残された文字から抱いた本物の感謝の念に板挟みにされて、気後れしてしまう。

 

 しかし、彼女の態度は柔らかで、思わず気後れすら忘れてしまうほど。

 さりげなく過去の親しかった関係性まで匂わせてくれている。

 ただ、聞き返してみても返答はなく薄っすらと微笑むだけ。まるで無理することはないと言っているかのようだ。

 

 

「悪いね。前は助けて貰ったみたいで……」

「気にしないで。私は私でやりたいことをやっただけだから。ルドルフも明るくなったし、チョベリグねッ!」

「今日日聞かない言葉出てきたな」

 

 

 ルドルフがフォローの達人とするならば、マルちゃんは気遣いの達人と言うべきか。

 壁を感じさせない接し方は、オレが記憶を忘れている事実さえも忘れそうになる。

 

 なるのだが、完全な死語をお出しされて、若干脳が混乱する。

 いやチョベリグて。流行ったの何時だ。オレが小学校くらい、いやもっと前じゃないか?

 だが、完璧超人の意外な瑕を見つけてしまったかのような面白さがある。脳は混乱するが。

 

 

「出来れば教えて欲しいんだけどさ、前に会ったみたいだけどオレは何て言って、君は何て言ってくれた?」

「あら、どうして? 八方丸く収まってるなら、それで良くない?」

「いや、オレが覚えときたいだけだよ。人に優しくされたら、覚えとかなきゃ嘘でしょ」

「…………ふふっ。やっぱり変わらないわよねぇ、そういう誠実なところ。でも教えてあーげないっ♪」

 

 

 誠実、と言われてもピンと来ないし、余り興味もない。

 人からの評価など十人十色。良き評価も悪しき評価も気にしていたらキリがない。

 真摯ではあるべき、とは思うし、人からの意見に耳を傾けるべきとも思う。けれど、変えられない自分と言うものは存在しているわけで。

 その辺りのバランスは上手く取っているとは思うが、さてどうか。少なくともマルちゃんには好評のようではある。

 

 しかし、返ってきたのは意地の悪い言葉。

 尤も、これもまた気遣いの内だろう。そして、激励のようなものだ。

 礼を言うのならきちんと思い出してから、それまでは何時までも待ってあげる。そんな心境と言ったところか。

 

 そう言われると此方も男だ。

 健忘に関しては諦めにも似た境地にいたが、是が非でも思い出したくなる。

 そして、待つという態度が焦りを殺してくれる。この娘、人をその気にさせるのが相当巧い。

 事実、こうしている間にも後輩と思しき娘達がマルちゃんに元気よく挨拶しており、相当に慕われているようだ。 

 人間関係における卓越したバランス感覚と生来の気質と性格がなければこうはなるまい。

 

 

「それで、購買の店番なんかしちゃって、どうしたの?」

「いやぁ、暇なもんで」

「ふーん? 君、昔からそういうところあるわよねえ。見なきゃならない時は集中してるけど、手持無沙汰になるとふらっといなくなって別の何かしてたり、おハナさんも呆れてたわよ?」

「あー、そうなのか。まあ、今回は別の狙いも――――おっ」

「………………うっ」

 

 

 マルちゃんはカウンターに両肘をつくと手の上に顎を乗せて、事情を探るように問うてくる。

 先程までは気を遣っていたが、今度は面白がっているような雰囲気を醸していた。単純に興味があるのだろう。

 

 そんな事を話していると、正にその狙いと目が合った。

 購買のカウンターから僅かに離れた位置で、狙いはオレの存在を見つけてだらだらと冷や汗を掻いている。

 

 そう、いまオレがもっと懸念しているオグリキャップである。

 

 

「………………じゃ、じゃあ」

「お待ち、何をしに来たのか話してごらん?」

「くっ……」

 

 

 何をしに来たも何も、購買に来た以上は買い物しかあるまい。

 だが、分かっていながら敢えて口にしただけだ。

 

 にっこり微笑むオレに逃げられないと悟ったのか、オグリは観念したかのように此方に向かってくる。

 

 

「その、何か食べる物を、と……」

「間食しちゃダメ言ったでしょーが。どうしても我慢できない?」

「あ、あぁ、身体が勝手に……」

 

 

 余り強い口調で言わなかったが、助けを無下にしている自覚があるのか、オグリは気の毒なほど消沈している。

 いや、それだけではない。普段見せる無表情は鳴りを潜め、妙に落ち着かない様子だ。

 

 実は、タマちゃんからオグリのその後に関して聞いていた。

 三食の量に変化はないのだが、オレの作った献立メニューはしっかり守って、当人にも好評。

 スーパークリークの甘やかしも、食べさせる方向ではなく、別の方向に舵を切ってくれていた。

 

 凡そ狙い通りに事は進んでいたが、今度の問題はオグリ本人が間食を止められないでいる現状。

 スーパークリークから食べ物を与えられなくなるとこうして購買に来ているのだとか。

 アレ以降、オレは彼女を見かける度に声をかけていた。そうした様子は見られなかったから安心していたのだが、どうやらそう甘い話ではなかったらしい。

 

 オレが気になったのは、オグリ本人に抱いた印象とのチグハグさ。

 

 確かに、間食を続けていれば癖になる。

 しかし、倒れたトレーナーの残したノートに記されたトレーニング量は平均以上であり、それに加えて自主トレすらしている様子すら伺えた。

 その量は過酷と言ってもいい。秀でた身体能力だけでなく、当人の意志力もなければ成立しないだろう。そんな彼女が間食を我慢できない、というのが信じられなかった。

 

 だが、現にこうして購買に現れた以上は受け入れるしかない。

 そして、別視点からの切り口も必要だと改めて認識した。

 

 

「仕方ないな。じゃあ、食べるならこれにしときな」

「これは……?」

「おからと豆腐のドーナツ。カロリー少な目でおすすめ」

「そんなものが……! では、ダンボールで貰えるだろうか?」

「お願いだから加減して???」

「し、しかし、これだけでは……」

「じゃあ、飴ちゃんも付けよう。これ噛まないで舐めるだけならいいよ」

「むぅ……背に腹は代えられない。分かった。それで頼む」

 

 

 オレがカウンターの下から取り出したるは、カフェの方で作り、購買に下ろしているドーナツとノンシュガーの飴ちゃん。

 トレセン生は競技者と言えども年頃の女の子だけあって、甘いものが好きな娘が多い。

 体重を増やしたくない! でも甘いものが食べたい! という節度と欲求を同時に満たすため、こうした甘味をカフェ職員が提供しているのだ。

 

 量の少なさに不満ではあるのだろうが、メニューを考えたオレへの恩義も同時に感じているようで、渋々ながらも頷いた。

 

 

「ほい毎度。頑張れよー」

「ありがとう。もぐもぐ、頑張るぞ」

 

 

 言ってる傍から喰っていたが、まあ仕方がない。

 

 オグリは典型的な瘦せの大食い体質。

 基礎代謝に関係しているβ3アドレナリン受容体の型によっては、一日に消費するカロリーが人よりも多くなる。

 更には脂肪や脂質を燃やして熱に変える褐色脂肪細胞の活性値が異常に高いため、食べた傍からカロリーを熱に変換していくものと思われる。

 

 そんな痩せの大食いの体重が大きく変化すること自体が異常。

 仮に食べた直後の体重と運動後の体重を測ったのなら分からなくもないが、あれだけ熱意に溢れたトレーナーが決められた時間以外で体重測定などするとは思えない。

 

 体重増減の要因は食べ過ぎにあるのは間違いない。

 ただ、原因はもっと別のところにありそうだ。

 

 

「ふーん、今はあの子にゾッコンなんだ?」

「ゾッコンて。それほどじゃないけど、気になるんだよなぁ」

「ふふ、君はやっぱりその顔よね」

「顔……?」

 

 

 次の授業に向かうべく去っていくオグリの背中を観察していると、マルちゃんはまた半分死語を言った。

 いや、完全に死語か? オレは分かるが、最近の娘には通じないんじゃないかなぁ……。

 

 センスがズレてると言うか、明らかに年齢に対して年代が違う言動の数々に思わずそちらを見ると僅かに頬を染めて微笑んでいるマルちゃんの顔があった。

 

 

「怖いくらいに真剣で、でも優しい顔。私、好きよ?」

「そう言われてもなぁ」

 

 

 自分の顔など鏡がなければ分からない。褒められているかも判然としない。

 顔の良さなどウマ娘に及ぶべくもなく、最近流行りのイケメンではない自覚もある。彼女くらいの年頃に人気がありそうな顔立ちというと、南坂ちゃんの方だろう。

 

 

「うーん、なるへそなるへそ照れもしないのね。ふんふん、そういう感じ。私達はそもそも恋愛対象じゃない、と。前々から薄々感じてたけど、確定ね」

「何の話してんの?」

「いーえ、こっちの話だから気にしないで。それから、オグリちゃんのことが気になるなら見ておきましょうか?」

「え、いいの?」

「私もちょっと気になるのよね。前からよく食べるのは有名だったけど、あんなに間食してるところは見たことなかったから」

「へぇ……じゃあ手の空いた時でいいから、気に掛けてやってくれる?」

「ガッテン承知の助!」

 

 

 ガッテン承知の助と来たか。

 知ってはいるけどオレでも使ったことねぇ……でもなんかもう楽しくなってきちゃったぞぉ!

 

 などと考えていたが、マルちゃんは気になることを言っていた。

 ……これはオグリ本人を観察するよりも、第三者に聞いてみた方がいいかもしれない。

 おおよそ見当はついているが、推察を語るに当たって理事長へ報告するにはもっと確度が高い情報を得ておきたい。

 

 しかし、参った。

 ルドルフと言いマルちゃんと言い。最近は甘えてばかりだ。

 自分の置かれた現状を鑑みれば当然かもしれないが、何か返礼をしたいところではある。

 

 

「ん? もしかしてお礼でもしてくれるのかしら。それは――――」

「いや、それは思い出してからキチンと改めてするよ。ただ、先払いだけもしておきたいなって」

「んもう、律儀って言うのかしらねえ、こういうのも。なら、そうね。デートしましょう、デート」

「デートぉ?」

「そうよ、私のたっくんでドライブデート」

 

 

 ドライブデート、と言うことはたっくんとは車か。

 女の子って結構、普段使いの道具とかにも愛着もって名前つけてするよなぁ。

 

 しかし、デートか。

 まあそれくらいならいいか。この際、ドライブでも買い物でも何でも付き合おう。

 

 アイドル的人気を博すウマ娘が男とデートしていたくらいでは、この業界のブンヤは記事にもしない。

 そもそもトレーナーは男の方が若干多い。担当するウマ娘の休日に付き合って出掛けるくらいは普通にする。

 

 この業界専門のブンヤに良識がある、と言うよりか、過去の一件が絡んでいる。

 昔は単なるお出掛けがデート報道された挙句、学園側が否定して全面戦争が勃発。

 裁判沙汰になる一歩手前まで行って、最終的に報道側の降伏宣言によって完全勝利を収めた、なんて経緯もあって慎重になっているので、余程の不祥事でなければ心配はいらない。

 

 

「まあそれくらいなら」

「やった! なら次の休みは開けておいて!」

「……お、おう。それより、次の授業そろそろ始まるけどいいん?」

「あらま、私としたことが。オグリちゃんは見ておくから何かあったら教えるわね? じゃあバイビー!」

「バイなら~」

「ふふーん♪ デート♪ デート♪ デ・ェ・ト♪ ドライブデートぉ♪」

 

 

 くっ! 最後にオレも年代を合わせたつもりなのに気付いて貰えなかった! 古すぎたか!?

 いや、バイビーとバイならってどっちのが古いんだ? 分からん、今度ネットで調べてみよう。

 

 スキップしながら次の授業に向かっていくマルちゃんを見送りながら、手帳にはしっかりドライブデートの予定を書き込んでおく。

 オグリと知り合いではなかったようだが、彼女くらいに気安く話し易いタイプなら問題ないだろう。その時の様子は後で教えて貰って、参考にしよう。

 

 しかし、オレはこの時気付いていないどころか、考慮に入れてすらいなかった。

 

 

「うわっ、マジか。真っ赤なカウンタックじゃん。ひぇぇ、こんなお高い車だったのか。タントだと思ってた」

「ん? シートベルトくらいするよ。免許の点数減らされるのマルちゃんだしなぁ。は? 吹っ飛んじゃうから? 何を――――」

「――――うぃぃぃぃぃぃっ!!! シートにシートに押し付けられるッ!!」

「アクセルベタ踏みやめろぉっ! はっ!? まだまだこんなもんじゃない? ちょっと待って? やめて???」

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛、横Gが! 横Gが凄いッ! カーブでアクセル踏むなぁ!! それ以上攻めるなぁ!!」

「前ッ! 前見てッ! こんなスピードでナビ見るなっ! 日本の公道で乗る車じゃねぇよこれぇ!」

「つーか捕まる! 首都高警察が来ちゃう! は? オービスの位置もネズミ捕りをよくやってる場所も把握してる? ガチじゃん! この娘ガチ勢じゃん!」

 

 

 こんな罰ゲームみたいな目に合うなどと――――! 

 

 

 

 

 





マルゼンスキー参戦!
相手の状況や心境を察した上で、さりげなく手助けしながらデートの約束を取り付ける恋愛強者ですよ、このゲキマブは。

会長?
まあ恋愛弱者ですよね、普通に考えて。
お固いもんだから好意の示し方がそもそも知らない感じ。だからこうしてマウントルドルフにする!


会長「作者の解釈に悪意を感じるな。そもそもマルゼンスキーも未通女(おぼこ)だろうに」
トレ「その言い方やめて???」



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『飛耳長目』


今回も短いなぁ!
少なくともGW中はこれくらいの頻度と長さで投稿してきます。

マックちゃんにお小言を言われたいだけの人生だった。


 

 

 

 

 

「あ、あら? トレーナーさん?」

「お、マックイーン。ほい、らっしゃい」

「何を、してらっしゃいますの?」

「御覧の通りだよ?」

 

 

 購買部での店番、マルちゃんとのドライブデートを取り付けてから数日後。

 今度はカフェテリアでウエイターの真似事をしていた。とは言え、トレセンの学園は基本ビュッフェ形式。

 注文を取りに行くわけではなく、やっているのは使用済みの調理器具やら皿やらを洗うか、山盛りに盛り付けられた料理を並べにいくだけ。

 厨房に入れない訳ではないが、厨役は考え抜かれた役割分担で効率化されているので入ったところで邪魔になる。

 そんなわけでオレは、今まさに厨房から上がってきた保冷容器に入ったサラダを空の容器と入れ替えていた。

 

 現在、時刻は13時半頃。

 多くの飢えたトレセン生がやってくる11時から13時までの時間帯を乗り越えて、ようやく人が疎らになり出した時間帯。

 其処でマックイーンがカフェテリアにやってきた。学年や授業の取り方によっては、この時間帯になる者もいる。

 

 

「全く。少しは御自分を労わることを学んだ方がよろしいですわよ?」

「それ君らが言うかなぁ。こっちは治療法が確立してない障害だから社会や日常と巧く折り合いつけて根気よくやってくしかないけどさ。そっちは意図的なオーバーワークなんだから。隠れて自主トレし過ぎ」

「うっ、気付いてらっしゃいましたのね……」

「そらねぇ。疲労って立ち方そのものとか顔に出るから。思ったよりもしっかり見てるっしょ?」

「はぁ、敵いませんわね。そう言われたら、何も言い返せませんわ」

「ふふふ。気をつけろぉ、自主トレ増やした分だけこっちの指示出すトレーニングは減らしてくからなぁ」

「うふふ。ならスズカ先輩達にも伝えておかないとなりませんね。折角、御指導頂いているのに、そのような事態になったらトレーナーさんにも申し訳が立ちませんもの」

 

 

 初めは心配から責めるような目付きをしてたマックイーンであったが、次第に表情を柔らかくしていく。

 生まれも育ちも良く、ともすれば厳しい物言いは周囲を見下しているとも受け取られてしまいそうだが、その実、優しさ故の厳しさだと言葉の節々から伝わってくる。

 オレも出会った当初は年不相応に大人びてお堅い雰囲気を受けたが話してみると、年相応の俗っぽさというか愛らしさもある。

 ルドルフなんかは浮世離れした厳格さと言えるが、マックイーンは厳格さと矜持こそ持っているが俗世間と巧く折り合いをつけている印象だ。

 

 まあ、ルドルフはルドルフでミーティングルームではマウントルドルフと化して暴君になったり、拗ねてみたりと本当は俗っぽい。アレはアレで可愛げだろう。

 

 

「で、献立の方はどう?」

「正直、驚きましたわ。私もそれなりに気を遣っていましたが、食べない方向にばかり考えていて。きちんと栄養バランスを考えれば此処まで満足感を得られるものですのね。それにスイーツまで!」

「ハハ、スイーツ好きなの? やっぱりそこらへんは普通の女の子だよなぁ」

「あっ……い、いえ! それはその、スズカ先輩やライスさんも仰っていたと言いますか……! わ、忘れて下さい!」

 

 

 マックイーンは頬を上気させながら目を輝かせたが、醜態を晒したとでも思ったらしく別の意味で顔を赤くする。

 まだデビュー前だが、ストイック過ぎるところがあって心配していたが、こうした息抜きの仕方を知っている辺り安心した。

 妙に子供っぽいところはあるが、精神の安定度で言えばこの娘はルドルフに次ぐ。この分なら今後も心配はなさそうだ。

 

 スズカとか心配なんだよなぁ。

 走る事に対してストイック過ぎて、それ以外の人間的な部分が疎かになっていると言ってもいい。

 人生は走る事が全てではない。そして、結果は兎も角として、そうした人間的な要素も走りに良い影響を与えるのを知っておいて貰いたい。

 彼女が無駄と無意識の内に切って捨ててしまっている要素も、歴とした人生の一部。そこら辺を教えてやるのもトレーナーの仕事であり、一人の大人としての役割だろう。

 

 

「トレーナーちゃん、今日の所は――――おや、その娘が担当の娘かい?」

 

 

 その時、一人のおばちゃんが近付いてきた。

 トレセン学園に勤め始めて二十年。カフェテリアの総責任者にして、最も長く学園を見守ってきた影のドン。

 更には皆のおかーちゃんとも呼ばれ、実務から裏方雑務なんでも熟す食堂のおばちゃんである。

 

 

「そ。しっかりしてるように見えて実際しっかりしてんの。可愛いでしょ?」

「か、可愛いなんて、お、お世辞は結構です……!」

「ははは、何言ってんだいアンタ。私にしてみりゃトレセンの娘は全部我が子みたいだからねぇ。一人残らず可愛いもんさ」

「それもそうか。おばちゃんの博愛主義には敵わねぇや」

「しっかり尊敬しな。今日はありがとねぇ、助かったよ。もうこっちも落ち着いたし、折角だからその娘と一緒に食べてきな。それからあんまり無理をするんじゃないよ」

 

 

 どうやらおばちゃんとは以前から知り合いだったようで、今日のところも手伝おうかと言ってみたらすんなりと許諾をくれた。

 勿論、オレの状態に関しても知っている。それでも休めと言わなかったのは、二十年間で培った人を見る目で問題なしと判断したからだろう。

 下手に心配されて腫物扱いされるよりかはずっと気楽で、だからこそ一層の気遣いを感じる。ありがたい限りだ。 

 

 割と本心から褒めたのだが、マックイーンは照れてしまって不評の御様子。

 こういうところが可愛げなんだよな。あと、人間出来てるのは事実。

 オレが担当している娘は何処に出しても恥ずかしくない良い子達である。いや、バッチバチにやりあう事もあるけれども。

 

 

「だってさ。御相伴与ってもいい?」

「もうっ、お好きになさって下さいっ」

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「「御馳走様でした」」

 

 

 おばちゃんの勧め通り、カフェテリアの一角で遅めの昼食を取った。

 マックイーンは出が出だけに食事中の会話は一切ないかもと覚悟はしていたが、そうでもない。

 口に物を入れて喋るような真似こそしなかったが、オレが口を開くばかりではなく自ら手を止めて話す場面もあった。

 

 それに食べ方が見惚れてしまうほど綺麗だった。

 どれだけ美人でも食べ方が汚かったりすると引くものだが、マックイーンはマナーから所作から完璧の一言。

 親からの躾けもそうだが、彼女自身の努力がなければこうはならない。将来は引く手数多だろう。良い事だ。

 

 

「ふぅ。この満足感、久方振りですわ」

「失礼を承知で言うけどさ、そんなに気を遣ってた?」

「うっ……何と申しましょうか、そのぉ……正直な所、オグリ先輩やライスさんを羨ましく思っていたところはあるといいますか……」

 

 

 成程、遠回しに言っているので敢えてそれ以上踏み込まないが、体型に変化が起きやすいようだ。

 糖質は脂質よりも脂肪になりやすく、一般的に女性は脂肪が付き易く、筋肉が付き難いと言われている。

 典型的な体質だとするのなら甘いもの好きのマックイーンは、アスリートとして人一倍食事に気を遣わなければなるまい。

 

 特にマックイーンのような長距離適性(ステイヤー)は身長に合わせた体重、そして筋肉と体脂肪率の調整が難しい。

 体重が軽くなればなるほど消耗そのものが少なくなるが、筋肉を落とすと瞬発力と速度を生むパワーが落ちる。脂肪を落とすと今度はエネルギーの所蔵量が減って持久力そのものが落ちる。

 

 その理想値を見極めるのは死ぬほど難しいし、見誤ると天性や実力で劣っている相手にすら勝てなくなって後は悲惨だ。

 より一層食事に気を遣い、厳しい訓練を積む。そんなことを繰り返していればどんどん精神的に追い詰められていき、最終的には身体の何処も彼処もボロボロになっているなんて珍しくもない。

 

 マックイーンはライスを羨ましがっているようだ。

 実はオレの抱えている娘達の中で一番の健啖家はライスである。オレの三倍四倍は普通に食べる。

 これはこれで難しいところなのだが、隣の芝は青いという言葉の通りなのだろう。

 

 

「まあ、何にせよ良い傾向だよ。そうだ。ちょっと机の上に手、出してみて」

「はぁ……それは構いませんが、何か?」

「いや、ちょっと気になることがあって。触ってもいい?」

「ええ。それにしても、気になること、ですの?」

 

 

 少し唐突だったようでマックイーンはオレの言葉に怪訝な表情をしながらも、素直に両手を差し出した。

 

 食器をトレイごと横にズラし、相手に了承を得てから手を下から掴む。

 白魚のような綺麗な手だ。透き通る白い手の甲にも、細く長い指にも傷一つない。その日の内にでも手タレになれそうである。

 

 ただ、オレが気になっていたのは其方ではなく、初めて会った時の爪だ。

 冷静になった後、彼女を観察している過程で、爪に欠けを発見した。

 

 

「ふむ、爪も綺麗に手入れしてあるな」

「身嗜みは指先まで含みますので。メジロ家の者として当然ですわ」

「最近さ、立ち眩みも減ったんじゃない?」

「言われてみれば、確かに…………と言うよりも、どうしてそれを?」

「椅子からの立ち上がり方とかを見れば分かるよ。それに忘れ物もなくなったんじゃない? 消しゴムとか教科書とか宿題とか」

「うっ、もしかして先生方から相談でもありましたでしょうか?」

「いや、ただ軽い栄養失調だったみたいだからさ」

 

 

 オレの指摘に思い当たる節は色々とあるのか、マックイーンは気まずそうに目を逸らす。

 手入れしているにも拘わらず起きる爪の欠け。立ち眩みの頻発。記憶力の低下。

 いずれも軽度の栄養失調を示すサイン。マックイーンの場合は完全に食事制限のせいだろう。

 

 

「え、栄養失調ですの?!」

「そ。爪はタンパク質、立ち眩みは鉄分、物忘れはビタミンB群辺りがそれぞれ不足してる証拠」

「そ、其処までだったとは……」

「まー現代人なんて取る栄養素が偏り易いから珍しくもないけど、君の場合は分かるだろ? ちょっと頑張り過ぎたな」

「……返す言葉もありませんわ。以後、気を付けます」

 

 

 栄養失調という響きにマックイーンは驚きを示した。

 

 別に栄養失調は貧困で喘ぐ地域や国々で起こるばかりではない。日本にだって当然のように現れる。年齢層も様々。

 偏った食生活によって必要なエネルギー量は足りているが必要な栄養素が足りていないタイプは珍しくもない。これは男性に多い。

 過度の痩せ願望によって食事そのものを断ってしまい、エネルギーも栄養素も足りていないタイプも散見する。此方は女性に多い。

 これまでは文明社会の発展が遅れているから栄養失調が引き起こされていたが、文明が発展して余裕が生まれたからこそ発生する栄養失調もあるのは皮肉と言う他ない。

 

 マックイーンは思いも寄らなかった自己の危機的状況に、僅かに耳を垂れさせながら頷いている。

 

 オレは刺した釘が明確に機能しているのを確認し、カフェテリアを見回す。

 マックイーンとの食事は予定外。本来の目的はもっと別の所で――――

 

 

「…………しっかし、来ないなぁ」

「オグリ先輩は此方で殆ど食事はしませんわよ?」

「ありゃ、分かった?」

「ええ。トレーナーさんがとんでもないお人好しで、世話焼きなのは此処数日で嫌と言うほど分かりましたから」

「オレがっつーか、あんなの知ったらトレーナーとして放っとけないでしょ」

「そうは仰いますが、本来の仕事の範囲外かつ御自分の状況を理解できているとは思えない行動ですわ。まあ、会長が慕うのはそういったところなのでしょうけど……」

「そお? それに、いざって時には君等や理事長に頼ればいいかなって」

「っ…………はぁ、これですもの。お好きになさって下さいまし」

 

 

 ジトっとした目でオレを責めるマックイーン。

 彼女の言い分も尤もなのだが、オグリのあんな病気じみた体重の増減を見れば、トレーナーとしても一人の人間としても心配するのは当然だと思う。

 そりゃ自分の状況は分かっちゃいるが、いまオレとオグリのどちらに助けが必要なのかと考えれば、明らかにオグリの方だろう。

 オレはマックイーン達ばかりではなく理事長に駿川さん、おばちゃんなんかもいるが、オグリは交友関係が狭くタマちゃんやスーパークリークくらいしかいない。二人に止められず、トレーナーが倒れた以上は他の誰かが出張るしかない。

 

 そして、我ながらお気楽すぎる考えを口にする。

 実際、今でさえ理事長や駿川さんは勿論の事、ルドルフにさえ頼りっぱなしの現状だ。

 もう形振り構ってもいられないし、自分一人でやってやろうなんて形ばかり無駄に格好つけて、わざわざ効率の悪い方法を取る必要もない。

 最良の結果とはそうした個々人の努力と会話を積み重ねた末にあると信じている。

 

 出会って一週間ばかりなのにもう全幅の信頼を向けているオレに呆れているのか、はたまた照れているのか。

 マックイーンはツンとそっぽを向いて説得を諦めた。あくまでもオレを投げ出して否定するつもりはなく、静かで暖かな肯定だけがある。

 仕草は子供っぽいが、こういうところが信頼するに値する、と当人は気付いているだろうか。

 

 

「で、オグリは此処で食事しないってどういうこと?」

「此処で受け取って、何処か別の場所で食べているようですわ。大量の料理を運んでいる姿を私も見た事がありますから」

「へぇ……しかし何でまた」

「衆目を集めるのがお嫌いなのでは? 失礼ですが、私も初めて見た時は驚きましたもの。視線が集まれば集まるほど落ち着かないものですし」

「そりゃそうか。レースで注目集めるのとは訳が違うからなぁ。当人にとって普通のことが、異常として認識される状況は確かに落ち着かない。まあ、周りも悪くないしな。あんだけ食べれば嫌でも見ちまう」

「ですが、少々意外です。他人からの視線を気にするようなタイプではないと思いましたけれど」

 

 

 マックイーンは食後の紅茶で喉を潤してから、己の知っている限りの情報と自らの所感を語る。

 確かにオグリの天然振りとマイペース振りを見る限り、マックイーンの言い分も尤も。

 泰然自若という言葉がピタリと嵌る雰囲気は、そのままオグリの精神の強さと揺らぎの無さを示している。

 だが、決してストレスを感じないわけではないだろう。そして、その辺りに陥穽が潜んでいないとは限らない。

 

 

「成程ね。おおよそ把握した。ちょっと理事長のところ行ってくるわ」

「何度も言いますが、無理はなさらないで下さいね」

「応さ、了解。食器は片付けとくからゆっくり紅茶を楽しんでくれよ」

「それくらい自分でやりますのに……そうしたいというのならお任せしますわ。御言葉に甘えさせて頂きますわね」

 

 

 忠告はすれども止めるつもりはないらしく、マックイーンはそれ以上は何も言わずに紅茶の香りを楽しみ出した。

 こうした態度は実にありがたい。考えなしにオレを肯定するわけではなく、かと言って頭ごなしに否定するわけでもない。

 必要なタイミングで、必要な人間に、必要な言葉を送る。メジロ家で教えられたのか、はたまた彼女自身の処世術なのか。

 

 いずれにせよ、オレがマックイーンのみならず皆に救われているのは事実だ。

 会話をしているだけ迷いや不安が晴れていく。奮闘する姿を見ているだけで己も奮い立てる。

 だからせめて、彼女達に恥じぬ己で在りたいと望む。

 

 オレは退かした食器とトレイを一纏めにして返却口へと向かう。

 

 おおよその情報は出揃った。

 いまマックイーンから聞いた話だけでなく、マルちゃんから聞いたオグリの様子からも見えてきたものがある。

 

 推察は確信に変わり、要因を越えて原因が見えた。

 後は理事長に報告に上がるだけ。さて、何と言われるか。信じて貰えるように死力を尽くすとしよう。

 

 

 

 

 





この話のマックイーンは凄くしっかり者。トレーナーのブレーキ役。
でも年相応に抜けていたり、時々思い出したみたいにゴルシちゃんのお爺ちゃんだこれぇ! ってなる。
なおブレーキ役ではあるけれども、トレーナーが絶対前に進むマン、倒れるなら前のめりだ! 思想の生き急ぎ野郎なので役割が機能していないがメンタルに与えている影響はかなりデカいイメージ。


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『迅速果断』

 

 

 

 

 

 マックイーンと別れ、向かった理事長室。

 理事長は執務机に座り、その後ろには駿川さんが控えていた。

 

 調度品は簡素で必要最低限の部屋だが、どれを見ても高級品。手入れも行き届いて清潔感に溢れていて、何とも言えぬ重厚さがある。

 一にも二にも学園の生徒を想う理事長としてはこうしたところに金はかけたくはないだろうが、年齢と見た目もあって周囲や外部に舐められないための仕方がなしの処置と言った感じだ。

 

 オレは机を挟んだ二人の正面に立ち、視線を受け止めていた。

 既にオグリの件で伺うことは伝えてあったので、結論から伝えることにする。

 

 

「オグリキャップの件ですけど、軽度の過食症に近いです」

「「ファッ!?」」

 

 

 開口一番の結論は、理事長にとっても駿川さんにとっても予想外であったのか、素っ頓狂な声を上げた。 

 

 予想外と言えば確かに予想外だろう。

 地方から中央に殴り込みをかけたことといい、何を言われても動じない様子といい、メンタルの強さは折り紙付き。

 なおかつ過食症は一般的に過度な痩せ願望に起因している場合に多く、体型など殆ど気にしているように思えないオグリの態度も相俟って、似つかわしくはない。

 

 

「詳細ッ! 聞かせて貰いたいッ!!!」

「元々よく食べる娘ではありましたけど……」

「其処が盲点だったんでしょうね。普段から異常なほど食べるから、誰も正常なラインを判断できなかったんでしょ。痩せの大食いも考えもんですよ」

 

 

 案の定、理事長も駿川さんも即座に喰い付いてくる。

 ハイセイコーの再来を潰すまいという打算はなく、純粋にオグリの身を案じていた。

 話が進め易くて助かる上に、分かってはいたが親にも似た愛情をウマ娘に対して抱いていることが伺える。

 

 

「そういや出会ってすぐの頃、間食あんましてへんかった気ぃするなぁ……」

「あの子と話してみたけど、私とお喋りしてる最中は食べる手を止めてたわよ。でも別れた後は、途端に落ち着かなくなったと思ったら急に食べ始めてたのよねぇ」

「オグリちゃんねぇ、トレーニング前は腹八分でやめてたらしいわよぉ。お腹をぐうぐう鳴らしても我慢して。そう言えば最近、あの子の腹の虫聞いてない気がするわね」

「初めの内はカフェテリアで食べてたんだけど、あれだけ人目を集めればねぇ。今でも時々此処で食べるけど居心地悪そうさ。こっちももうちょっと環境整えてあげないとね」

 

 

 タマちゃんマルちゃんを筆頭に、購買や食堂のおばちゃんその他諸々から聞いて集めた情報、自身で目にした彼女の状態。

 何かを食べていない間の落ち着きようのなさ、強迫観念に駆られるように間食を続ける姿は間違いなく過食症のそれ。

 但し、痩せ願望とは起因が異なる。あの間食はストレスを解消するための代償行為だ。

 

 地方から中央への移籍。

 慣れない環境下ながらも更新され続ける自己ベスト。

 登録の問題でクラシックに出走できずとも、へこたれない腐らない。

 周囲からの期待、望んでいない嫉妬や羨望。

 地方出身という理由による嘲笑。

 

 当人のやる気を削ぐ要素が多いにも関わらず、熱意にも意思にも変化が見られないのはオグリの精神力が人並み外れている事を意味している。

 だが、人よりも優れた精神であったとしても、人よりも感じるストレスが少なかろうとも、決してゼロになりはしない。

 

 

「オグリキャップと話してみましたけど、郷土愛が強いみたいですね」

「肯定ッ! 私と初めて会った時も、故郷の皆に報いたいから中央でも走ると口にしていたッ!」

「話を聞く限り、周囲からも愛されていたようで…………原因は懐郷病(ホームシック)ですか?」

「それも原因の一つでしょうけど、どうにも自分に対して興味が薄いと言うか、あまり頓着がないんですよね」

「同意ッ! トレーニングシューズも学園から支給しているものを履き潰しているようだが、常にボロボロだったッ!」

「過食症は自覚症状が薄いもんですけど、ストレスそのものも自覚してない。でも妙にそわそわしてたり、落ち着きがない姿を頻繁に見てません?」

「確かに、いつもと違う様子なので声をかけた時も何でもないと言って、その後に何時ものように食べていたのを見た事はあります」

「これまでの環境も相俟って、自分に合ったストレス解消方法を知らないんでしょ。で、無意識に選んでいるのが食べること、って感じですかね」

 

 

 オグリと話してみて伝わってきたのは故郷への強い愛情。

 何かを褒めるにしても、此方の預かり知らない故郷の誰かを必ず引き合いに出していた。

 翻って、それらは故郷で大いに愛されて育ったことを意味し、彼女もまた自覚がある証左。

 

 金銭的にはいざ知らず、精神面での不足は一切なかった。

 仮にあったとしても、周囲が意識しないままケアを行っていたのだろう。

 それらから離れたことでメンタルケアの方法も分からず、ストレスの自覚は薄くとも溜まる一方。

 

 このままでは危険、と感じ取った無意識が選択した代替行為こそ食べるという行為そのもの。

 購買にやってきた時、落ち着きがなかったのはオレが居たからではなく、何かを口にしていなければストレスを解消できず、強迫観念に駆られていたからだ。

 

 

「早いとこメンタルケアや管理の得意なトレーナーを宛がわないと悪化する一方だと思います」

「承知ッ! と言いたい所ではあるのだが……」

 

 

 思い当たるところがあったのか、理事長は殊の外すんなりと信じてくれた。

 しかし、一時は五月蠅いほどの返事をしてくれたものの、その後に続く言葉は歯切れが悪い。

 

 

「其実ッ! オグリキャップ君のトレーナーが倒れたことは周知の事実ッ! 無論ッ! 何故倒れたのかもッ!」

「あー……それでトレーナー勢も腰が引けてる、と。じゃあ、理事長から名指しで指名するとか。東条トレーナーとか南坂トレーナーなら問題ないと思いますけど」

「東条さんの抱えている“リギル”は学園最大のチームです。所属には選抜試験を設けているほどですから不可能だと……南坂トレーナーはまだ新人に近い状態で“カノープス”を引き継いだばかりですから。どちらも難しいと思います」

「基本ッ! トレーナーとウマ娘は両者の合意の下に手を取り合うものッ! 強制ッ! は、私でも出来ないッ!」

 

 

 倒れたトレーナーも主催者から指定されただけで、理事長は関わっていないのかもしれない。

 

 マルちゃんから東条トレーナーとチームリギルの実情を聞いているし、南坂ちゃんは昔から心の機微に聡い奴だったからわざわざ名前を出したのだが。

 と言うより、オグリのストレスを緩和、或いは解消してやるには、何処ぞのチームにぶち込んでしまうのが一番早いと思う。

 

 代償行為を止めるには本人の意志力よりも周囲の理解と協力が不可欠。

 ストレスそのものを軽減させるには多くの友人や信頼できる人物を用意して、故郷の環境に近づけてやるのが最も効果的。

 となると、ライバルであると同時に仲間を得られるチームに入るのが理想だ。

 

 が、どれだけ此方が気を揉もうとオグリがその気になろうとも、トレーナー側が納得しなければ意味がない。

 トレーナーは横の繋がりが強い。情報の入手が遅れればスカウトの出遅れを招き、作戦が裏目に出兼ねない以上は当然だ。

 

 そして、人と人の間では良い噂よりも悪い噂の方が巡る速度が断然速く、印象に残り易い。

 メディアが事件をセンセーショナルに騒ぎ立てるのは、そうした理由で其方の方が金になるから。

 今頃、トレーナー間ではオグリがどう噂されているか、少なくとも良い印象ではないことだけは確かだろう。

 

 オグリはそもそもからしてトレーナーを探している様子はなく、トレーナーの方からスカウトする者も暫く現れまい。

 そうなると、どんどん症状が悪化しかねず、体重の増減は更に激しいものになりかねない。

 理事長に人事権はあれども強制はしたくはない様子。あくまでも互いの自主性を尊重するのが、彼女の方針だ。

 

 どうにも八方塞だ。

 だが、手の内にはこの状況を打破する銀の弾丸(シルバーバレット)は残されている。

 

 

「じゃあオレがやりますね」

「じ、迅速ッ! 果断ッ!」

「は、判断が早いし、気軽過ぎますよっ!?」

 

 

 オレの発言に理事長と駿川さんは悲鳴染みた声を上げた。

 

 気軽とは失敬な。決して気軽なわけがない。

 担当になるということは、オグリの競技者人生と未来を背負わねばならないことを意味する。

 とてもではないが、相応の覚悟がなければ自ら買って出るなど口を開ける筈もない。

 

 自分の身に起きている障害は理解していた。

 そりゃ毎日、嫌と言うほど味わっている。不意に不安と恐怖で叫び出したくなる時さえある。

 健忘に快方の兆しはなく、オレの未来に明るい展望はないままだが、およそ人生など誰でもそんなものだ。

 

 一寸先は闇。

 どれだけ順風満帆に見えても、些細な切欠で築いてきた全てが崩壊するなどよくある話。

 オレなど正にそれだ。夢へ向けて走っていたかと思ったら、気が付けばスタートラインに戻っていた。その間の記憶すらなくなっている。

 

 だが、決して無価値にも無意味にも堕ちたわけではない。

 努力で得た財産は資料という形でまだ残っている。

 ルドルフや他の娘達と育んだ絆が失われたわけではない。

 何よりも、皆のお陰でオレの心は蘇っている。

 

 多くの担当を抱える利点はメンタルケアやトレーニング内容、レース計画も複数人で相談し、実行できることにある。

 経験も知恵もあるルドルフは強い味方であるし、マックイーンには実家で学び実践してきた知識がある。

 それだけではない。タマちゃんを担当している小宮山さんとも、かつては面識があったらしい。必要とあらば、彼女にも頼る。

 

 

「ぐっ、本気っ! なのだね?!」

「本気じゃなきゃ、こんなこと言えませんよ」

「で、でも、今の時点で四人も抱えて、更になんて……」

「それこそ今更でしょ。オレの境遇を考えれば、今ここに立ってること自体がおかしいんだし。そんなオレを信じると一番初めに言ってくれたのは二人じゃないですか」

 

 

 途端に、二人は目を伏せた。

 自分達の信頼が無責任にもオレを追い詰めたとでも思っているのか。

 とんでもない。倒れそうな身体を支えてくれているし、背中を押してくれただけだ。

 

 此処の所、駿川さんとは毎日顔を合わせて話している。

 理事長だって、暇を見つけては顔を出すし、そうでなくともウマ娘を通じてオレの様子を確認しているのは知っている。

 断じて無責任ではなく、常にオレを気に掛けてくれている。

 

 無責任なのは寧ろオレの方だろう。

 如何に覚悟が決まっていようが、症状が悪化すれば投げ出さざるを得なくなる可能性を見据えた上で、こうして更に背負い込むような真似をしている。

 

 だから、万が一の備えは整え始めている。

 オレの背負い込んだ彼女達が、オレが居なくとも健康無事に自らの夢を掴み取れるように。

 さよならだけが人生だ。来るかも分からない別れを恐れるつもりはなく、いずれ訪れるだろう別れを惜しむつもりもない。やれるだけをやれるだけやればいい。

 

 

「…………了承ッ! その覚悟に応えよう!」

「よっしゃ、ありがとうございます」

「理事長、よろしいんですか……?」

「無論ッ! たづなにもサポートを頼みたいッ!」

「それは元々そのつもりですが……」

「追加ッ! トレーナー君、定期診断は必ず受けることッ! 忙しさにかまけて後回しは許さん、最優先事項だッ! 報告ッ! 結果は包み隠さず我々に明かすようにッ!」

「そりゃ勿論。親より早く報告させて貰います」

 

 

 短い懊悩の末、理事長は許可を下ろした。

 近い内に担当することになるだろう。直接スカウトしたわけではないが、オグリもトレーナーがいなければレースに出走できない。否が応にも首を縦に振るだろう。

 

 元々、おハナさんや南坂ちゃんに方法を伝えて任せるつもりだったが、こうなっては是非もなし。

 オレが無理をせず、皆に負担を強いることになってしまうが、方策を既に考えてある。

 オレがやることは如何にオグリの気持ちを軽くして、ストレスを軽減するか。

 要はよくコミュニケーションを取って、よく相手を見ること。この辺りは得意分野だ。

 

 その前に、やることがある。皆への説明だ。

 今日話したばかりのマックイーンは薄々オレの考えを察しているだろうし、説教や小言をくれようとも人の気持ちを踏み躙らない。無理に止めはしないだろう。

 スズカとライスは心配をかけるだろうが、彼女達に素直に頼ると宣言した上であれば助力は惜しむまい。

 ルドルフも他の三人と概ね同じだろう。ただ、説明するのならばいの一番にしなければならない。オレは覚えていないが、これまでの時間が彼女との間にはあるのだから。 

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

 時刻は20時半。

 トレーナー君の下に集った私達はトレーニングを終え、ミーティングルームで本日の成果と反省をした後、解散となった。

 

 そして今は彼と二人きり。

 元々は今後の予定と計画を立てるつもりであったのだが――――

 

 

「………………」

「怒んないでよ。そりゃ昼間のオレが勝手に決めたのは悪いと思ってるけど、元からそのつもりもあったしさぁ」

「怒ってなどいない。呆れているだけだ」

「嘘だぁ。眉間にメチャクチャ皺寄ってるし、声も低いよ」

 

 

 ――――事もあろうに、彼はオグリキャップまで担当すると言い出した。

 

 そして私は不機嫌の絶頂に至った。

 今もその場所から降りられないでいる。

 自分自身ですら騙せない嘘を吐いている時点で、我ながら冷静とは言い難い精神状態だ。

 

 彼の言い分は理解できる。

 オグリキャップの体重増減は目に余るどころか完全に異常な域にある。

 トレーナーの誰かが何とかしてやらねば、取返しのつかない事態にまで辿り着いてしまう。

 

 トレーナー側の心境や状況もまた理解できる。

 例え事実無根であったとしても、良い噂のないウマ娘の担当など好きこのんでなりたくはあるまい。

 根も葉もない噂に振り回されるなど言語道断。しかし、他に判断基準がなく、事実としてオグリキャップのトレーナーは倒れてしまっている。

 良からぬ想像を膨らませる材料は揃っており、彼が任せられると太鼓判を押す東条トレーナー達も手が空いていない。

 

 しかし、だからと言って仕方ないでは済ませられない。理解と納得は別だと今更ながら気付かされた。

 理路整然、強理勁直に適うよう律してきたつもりではあるが、彼と居ると未熟な自分が顔を出し、普段の自分が取り繕ったものに過ぎないと自覚させられる。

 

 思わず舌打ちをしそうになったが、寸でのところで堪えた。

 余りにも品がなく、彼の覚悟を踏み躙るからだ。

 それでも苛立ちと不安を何らかの形で発露したくて仕方がない。

 

 

「何も君がすべきでないのではないか? と言うよりも、君は自身の状態を本当に理解しているのか、と問いたい」

「理解してるつもりだよ。本当だったら、すぐにでも荷物を纏めて田舎に帰るべきだろうさ」

「それはまだトレーナーを続けて欲しいと言った私への嫌味のつもりか?」

「まさか。やると決めたのはオレで、支えてくれてるのは君の方だ。それにルドルフの夢にも添ってるとは思うけどな」

「…………それを言うのは卑怯だ」

 

 

 卑下でも卑屈でもなく、正しい事実として彼は現実をそう認識している。

 当然だ。彼の症例、体質、能力の要素が揃っているから故に形になってこそいるが、本来であれば療養するのが最善だ。

 

 私の言葉に自覚できてしまうほど棘があるのは、不安と希望の二律背反があったから。

 彼であってもという不安、彼ならばという希望。そして、私はまた寄り掛かっているだけではないかという不安、私なら――――私達なら支えられるという希望。

 

 けれど、私の夢を引き合いに出されれば、力なく笑うことしかできない。

 今ここでオグリキャップを見捨て、いずれ彼女に訪れるかもしれない出会いを待つことは、私の夢を否定する行為。

 そして、苦しむ誰かに当たり前のように手を伸ばし、死力(ベスト)を尽くせる彼だからこそ、私は惚れ込んだのだから。

 

 

「君も、こんな気分だったのか」

「……どういう意味?」

「いや、すまない。詮のないことだ。それから、私は君を犠牲にしてまで夢を叶えるつもりはない。誰かの幸福のために誰かが犠牲になるのは世の常だが、それでは私が納得できない」

 

 

 自分でも愚かだと分かっていながらも、彼にも自分自身にも釘を差すつもりで心からの本心を口にする。

 夢や幸福という名の椅子は常に全体よりも少なく用意されている。

 だから誰もが懸命に生き、時には他者を蹴落としてでもその椅子に座ろうとする。

 

 酷い理もあったものだ。

 この世は初めから誰もが数少ない椅子を奪い合うように出来ている。

 この構図を作り出したのが神だというのなら、かつて彼が神はクソ野郎だと口にした言葉は正鵠を射ている。

 

 だが、その道理を捻じ伏せてでも私は進む。

 私一人で不可能ならば、誰かに頼ろう。私が道半ばで倒れるならば、相応しい誰かに託すまで。他ならぬ彼が教えてくれたことだから。

 

 同時に、かつての彼の言葉を思い出す。

 時と場面を弁えずに限界へと挑もうとする私を諭すように、ウマ娘の故障は自滅にも等しい、と彼は語った。

 

 恐らく、それは正しい。

 何せ、何の故障もなくトゥインクルシリーズを終えるウマ娘は全体の実に0.3%以下。上位リーグまで含めれば皆無となる。

 己の夢を追うよりも故障を嫌い、その可能性を潰すことに身も心も粉にしてきた彼は、常に不安と煩悶と戦っていたはず。

 

 我々の脚はガラスに例えられるが、今の彼を例えるのなら(たきぎ)だ。

 ウマ娘が夢や誇りのために故障すら考えずひた走るように、今の彼は失われた正常を補うために過去も現在も未来の悉くを燃やして、文字通りの死力を尽くしている。

 立場が変われば見方も人も変わる。私が今まさに味わっているのは、かつての彼が味わっていたものと相似しているに違いない。

 

 それでも諦めには程遠い。

 私が望むのは何一つ欠けることのない幸福な結末。己との戦いで躓いてなどいられない。

 

 

「……しかし、最近休んでいないようだが?」

「そう言われてもなぁ。立ちっぱなしってわけでもないし、座り仕事が中心だよ」

「ああ、夜間警備員に教えて貰ったとも。だが、以前は眠らずとも横になって体力を回復させていた筈だ」

 

 

 彼がトレーナーを再開してから常に注意を払っていた。

 

 尤も昼間は兎も角、彼が本格的に活動する時間帯も、活動できる長さも違う。

 だから、監視というほど厳しいものでもプライベートを侵害するものではないが、夜間警備員に協力を願った。

 トレーナー君と初老の警備員は知り合いであり、彼の性格をよくよく理解しているからこそ私の申し出を快く引き受けてくれている。

 夜勤明け、日勤との交代時に時間を貰い、毎日様子を聞いていた。

 

 私は指摘と同時に睨むように見据える。

 彼は目を逸らしこそしなかったが両手を上げた。観念して降伏を示している。

 

 未だ心配は尽きず何一つ問題は解決していないが、僅かばかりに気が晴れた。

 何せ、かつては諭されるばかり。今日初めて彼を言い負かし、諭せたのだ。

 負け続けの相手に一勝を挙げたようなもの、これで気分の悪くなる者はいないだろう。

 

 その時、ふとした思い付きが頭を過ぎる。

 悪戯染みてはいるが、ふむ……ふむふむふむ。いや、中々悪くないのではないだろうか。思い立ったが吉日という言葉もある。

 彼は彼なりの信念があって行動している。諭した程度では意味があるまい。何らかの形で釘を差しておいた方がいいだろう。

 

 

「どしたの、突然」

「いやなに、私も人の事を言えた義理ではないと思っただけだ。生徒会と君のサポートで忙しくて、多少疲れている」

「それとこの距離感に、一体何の因果関係があるのでしょうか……?」

 

 

 ソファから立ち上がり、そのまま彼の隣へと移動して腰を下ろす。

 彼が指摘したように肩と肩が触れ合うほどの距離だ。心臓が僅かばかりに早くなるのを自覚する。

 かつてもこれほどの距離に近付いたことはないが、今は可能な限り傍に居たい。一秒でも長く、彼を独占しておきたい。

 

 今や、彼は私だけのトレーナーではなくなった。

 かつては誰にでも躊躇なく手を差し伸べる在り方に敬愛すら抱いていたが、今はそれだけではなくなった。

 

 別段、責めるつもりも否定するつもりもない。

 彼女達がテンポイントと同じ末路を辿るとは限らないが、彼独自の感性が嗅ぎ取ったと言うのなら私にとっては耳を傾けるに値し、また私の夢の一助となる行為。

 しかし、敬愛とは相反する筆舌にし難い感情があるのもまた事実。

 

 我ながら難儀なものだと思う。

 或いは恋とはこういったものなのか。未だに判然としない。

 

 

「すまないが肩を貸して欲しい。たまには休む必要もあるだろう?」

「休むなら寮に帰ってからの方がよろしいかと……」

「少しだけ。少しだけでいいんだ。だから君も少し休め」

 

 

 露骨に困った顔をするトレーナー君を無視し、頭を肩に預けて瞼を閉じる。

 優しい彼のこと、無理に振り払うことなどしない。

 こうして無理にでも動けない状況を作らなければ、彼は無理を続ける。

 

 しかし、私が覚えたのはどうしようもなく浅はかなもので。

 

 服を通して肌から伝わってくる彼の体温を感じる度に、得も言われぬ法悦を覚える。

 鼻腔を擽る彼の臭いを感じる度に、言葉に出来ない安らぎを覚える。

 

 全く、愚かしいにも程がある。

 彼のために選んだ行為だというのに、結局は私自身のためでしかなかったようだ。 

 

 

「…………ほんとに寝ちゃった?」

 

 

 勿論、寝たふりに過ぎないが、寝たふりだからこそ返答などする筈もない。

 

 それきり彼は口を開かず、どれくらいの時間が経っただろう。

 彼はそれ以上何も言わず、身動ぎもせずに私を受け止めてくれている。

 これで少しは私の抱えた様々な思いが少しでも伝わってくれれば――――

 

 

「………………っ」

 

 

 その時、彼の腕が動くのを感じて息を呑みそうになった。

 私の背後に回り込み、男らしい節くれだった手を頭の上に乗せ、優しく撫でる。

 

 

「心配かけて悪いな。でも、ルドルフのお陰で何とかやっていけそうだ。助かってるよ、ありがとう」

 

 

 私の髪を梳かし、耳の反発を楽しむように、手が頭を這い回る。

 彼の力になれている事実が、彼の支えになれている実感が、彼の心からの本心が、溜まらなく心地良い。

 

 全く、本当にどうかしている。

 君の度し難い人柄も、全てを忘れて歓びに浸っている私自身も。

 何一つ解決していないのにも関わらず、このまま何とかなってしまいそうな気さえする。

 

 もう、いいか。

 小難しい話は明日にでも。

 私達だけでなく、他の皆も交えて考えることにしよう。

 

 だから今は、この一瞬を、少しでも長く――――

 

 

 

 

 





なお、会長はこのまま本当に寝ちゃった模様。
トレーナーは起こさずにそっとソファへ横にして自分は退避。
その後? 会長は無断外泊で寮長のヒシアマ姐さんにひっそり怒られたよ!


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『焼肉定食』



タウラス杯始まりましたねぇ。
上位リーグは一戦も勝てそうになかったんで、素直に下位リーグに。
それでも勝てる気がしなかったエンジョイ勢ですが、ブルボンが逃げる逃げる逃げまくる。
固有スキルの発動率が高いのか、この娘。ゲキマブレベルで発動率高い、高くない?




 

 

 

 

 

 学園の一般科目が終わり、教官、専属トレーナー、チームトレーナーの下へ多くのウマ娘が集う放課後。

 

 オレと担当の子達は、トラックに集まっている。

 余所のトレーナーやウマ娘達はまばらながらも遠巻きに此方を眺めている。

 

 それもそうだろう。

 三冠バにして“皇帝”の異名で知られるルドルフ。

 デビュー前から注目を集めているスズカ、マックイーン、ライス。

 

 其処に加えて――――

 

 

「オグリキャップだ。今日からよろしく頼む」

 

 

 ローカルシリーズから鳴り物入りで中央にやってきたオグリまでいる。

 そんな現役のスターウマ娘や将来のスターウマ娘候補を、無理・無茶・無謀の三拍子が揃ったままトレーナーを続けているオレが担当しているのだから注目しない方がどうかしているだろう。

 

 

「オグリ、このままじゃ色々と拙いことになりそうだから、オレに担当させて貰えないか?」

「拙い……? よく分からないが、タマが信用しているなら腕は確かだろう。トレーナーも倒れてしまったし、困っていた。お願いしてもいいだろうか?」

 

 

 オグリをスカウトしたのはほんの数日前。

 予想していた通り、オレの健忘など覚えていないかのようにすんなりとスカウトを受け入れて貰えた。

 

 ストレスによる過食については話さなかったが、現状のまま体重の増減が続けば身体を壊しかねない旨だけは伝えてある。

 初めの内は半信半疑の様子であったが、学園に残っている記録から出した平均的な体重増減を見せると流石に驚いていた。

 ただ危機感からスカウトされたというよりも、レースに出走したいという情熱が勝っただけ。いや、食い意地もあったと思う。

 

 ともあれ、やはり落ち着いてはいるのだろうが、それ以上に自分の関心を持った事柄以外にはとんと興味を示していない印象を受ける。

 そして、自分自身にさえ無頓着。オレも余り人のことを言えた義理ではないが、この辺りも矯正していかないと後々禍根を残しそうだ。

 

 

「メジロマックイーンです。お噂はかねがね。よろしくお願い致します」

「ライスシャワーですっ、よ、よろしくお願いしますっ……!」

「……サイレンススズカです。よろしく」

「シンボリルドルフだ。君の勇猛無比な記録の数々は聞いている。共に邁進して行こう」

 

 

 オグリに対する反応は様々。

 前もって説明し、大なり小なり理解を得ていたものの、やはり感情と言うものは面に出るもので。

 

 マックイーンはある程度は予想していたらしく、説明した時から特に口を挟んでは来なかった。

 但し、呆れを隠していなかった。今はすまし顔であるが、内心は呆れ返っていることだろう。

 

 ライスとスズカはオグリではなくオレを見ている。

 顔に穴が開きそうなほどの勢いで、堪らずに目を逸らす。ゴメンネ、シンパイカケテゴメンネ。

 

 そしてルドルフは正に皇帝と言った感じで威風堂々とした御様子。

 今は人目がある上にミーティングルームではないのでマウントルドルフではない。こういったところの切り替えは流石だ。

 まあつい先日、ミーティングルームで眠りこけて寮を無断外泊した挙句、オレと一緒に寮長であるヒシアマゾンに怒られてションボリルドルフになっていたのだが。

 

 

「んじゃ、予定通りに併走始める前に、今日は一つ要求がありまーす」

「要求……?」

「そ。それぞれ自主トレやってると思うけど、その時にやって欲しいことがある」

 

 

 取り敢えず、オグリの件に関してはオレのやるべきこと、皆にやって欲しいことは伝えてある。

 説得によって一応の納得も得てはいるので、申し訳ないが全て黙殺する。

 

 その上で、オレが提示したのは自主トレの件。

 目の前にいる娘達の向上心は素晴らしい。ただ、行き過ぎている感は否めない。

 

 

「ほい、これ渡しとく」

「ノート、ですの……?」

「そうだ。表紙の裏に走る距離と目標タイムが書いてある。それを目指して一日五回タイムを計測してくれ。それぞれ手始めの距離と自己ベストを基にタイムを設定した。オグリのは前のトレーナーが残してくれたノートの数字を参考にしてある」

「そうなのか。しかし、これは……」

「……???」

「あの、私達の自己ベストに比べると、大分遅いと思いますけど……」

「それに、走る距離も短くありませんか?」

 

 

 ルドルフ以外のノートを行き渡らせ、中身を確認させる。

 各々が表紙裏にオレが書いた距離とタイムを目にすると、オグリとライスは不思議そうな顔をして、スズカとマックイーンは不満たらたらといった感じ。

 

 それもその筈、オレの狙いが何なのか全く理解できていない状態では、不思議にも不満にも思うだろう。

 ある程度、身体が出来上がっているオグリとスズカは距離1000m、自己ベストに+10秒。まだまだ身体を作る段階のマックイーンとライスは距離800m、自己ベストに+15秒。

 実際のレースにおいてトップとドベでも、これだけの秒数が開くのは余程の実力差があった場合だけ。ウォームアップなら兎も角として、自主トレに組み込むには如何にも手緩い。

 

 尤も、それは表面上の話。

 この訓練はただ闇雲に、ただ我武者羅に身体を苛めるだけの訓練よりも遥かに難しく、同時に効果的だ。

 

 

「会長さんは、いいの……?」

「ああ、私は既にやっているからな……あまり口を挟むのはトレーナー君の意図に反するが、敢えて言うのならこのトレーニングには強くなるため、速くなるため、勝つための要素が全て詰まっていると言っても過言ではない。距離とタイムばかりに目を取られるのは早計だ」

 

 

 ただ一人、ノートを渡されなかったルドルフを気に掛け、ライスが不思議そうに首を傾げた。

 

 このトレーニング、ルドルフに相談してみた所、かつてのオレも同じトレーニングをやらせていたらしい。

 流石に、記憶を失った状態でかつてのオレを越える真似などそう易々とは出来ないと思い知ったが、効果についてはルドルフの証言と実証もあって折り紙付き。やらない手はない。

 

 

「毎日やってくれ。これくらいなら自主トレに追加しても負担は少ないだろ? まあ、君等が考えてるより遥かに難しいぜ」

「我々を馬鹿にしてらっしゃいませんこと?」

 

 

 僅かばかりにムっとした表情をするマックイーン。

 確かに馬鹿にしているように聞こえるだろうが、このトレーニングのキモを話していないのだから仕方がない。

 

 

「まさか。現状、これを完璧に熟せるのはルドルフだけだ。誰も出来ないよ。速すぎても遅すぎてもダメだから。合格ラインは表記したタイムに対して±2秒以内」

「……はぁ」

「前日に雨が降ってコースが荒れていようが、ダートだろうが芝だろうが、自分よりも遅い誰かが前を走っていようが関係ない。目指すのは常にそのタイム」

「…………」

「それから目標を達成できた時とできなかった時、それぞれ自己分析して提出するように。最低でも3回連続して達成できたら、距離を長くタイムを短くして次の段階に進む」

 

 

 説明に対しても、それは確かに難しい、かも? と首を傾げるばかりで、オレの意図や狙いに誰一人として気付いていない。

 ルドルフは過去の自分と彼女達が重なったのか、笑いを漏らしていた。

 

 まずオレの一番の目的は自主トレの量を減らすこと。

 シリーズ出走者は言うに及ばず、トレセン生は向上心や闘争心が強すぎて根本的にオーバーワーク気味。

 ただでさえ頑丈さと出力が見合っていない身体でそんな真似を続ければ、どう頑張ろうが故障は避けられない。

 

 そこでこのトレーニングの出番。

 走る以上は誰かにタイムを計測して貰わねばならず、同じトレーニングをしている身内に声を掛けて計って貰った方が効率的。

 タイムを計測している間はその場を動く訳にもいかず、強制的に身体を休ませることができる。

 

 互いに計り合っていれば否が応にも時間を取られ、自己分析を挟む以上考える時間も設けなければならない。

 なおかつ誰かが上手くいっていなければ、相談し合うなんて展開もあるだろう。

 そうこうしている内に、自主トレのできる時間はどんどん少なくなっていき、結果的に量は減るという寸法だ。

 

 勿論、それだけではない。

 それだけでは練習量を減らされるばかりで彼女達も不満を溜めるだけだが、ルドルフが言っていたことは紛うことなき事実だ。

 レースが一人ひとり個別に全く同じ距離を走り、タイムを比較するだけの性能争い(トライアル)ならば、全くの無意味。

 だが、コース取りによって走る距離も変われば、バ場の状態でタイムも変わり、複数人で走る以上は何らかの紛れが起こるレースでは絶大な効果を発揮する。

 

 その辺りの意味や意義、理由も考えさせるつもりなので詳しくは説明しない。

 これで一番苦戦するのは、一人で悩みがちなスズカと自己分析とかしてこなかったであろうオグリか。

 

 マックイーンは肉体面だけではなく、技能面もメジロ家で鍛えられてきたからすんなりと達成するかもしれない。

 ライスはどうだろう。マックイーンと仲が良いから自然と引っ張られるかも。

 

 

「さてと、じゃあ柔軟しようか。何時も通り、ライスはオレと一緒に長めに柔軟して後から参加、スズカはその後でフォーム直してくぞー」

「了解した。では、オグリキャップは私と共に」

「分かった」

「スズカ先輩は私と、ですわね」

「お願いね、マックイーンちゃん」

 

 

 オレの指示に合わせ、それぞれ二人一組となって柔軟を開始する。

 やり方と注意点さえ知っていれば誰とペアを組もうと問題はない。

 それでもオレがライスと組むのはこの娘の身体が特別固いからだ。他の娘よりも時間をかけておかないと不味い。

 身体が固ければ固いほど捻挫や肉離れのリスクは増す。ライスには風呂上りにもストレッチをするように指示してあった。

 

 

「痛くないかー?」

「うん、これくらい、大丈夫だよ」

「それ痛いってことじゃん。ストレッチは我慢したっていいことないんだぞー」

「あっ、ご、ごめんなさい……」

 

 

 ライスに芝の上へと寝転がって貰い、オレが片足を持ち上げて爪先を脛の側へと倒すイメージで押す。

 その状態で30秒ほどキープ。こうすることで脹脛とアキレス腱が伸びる。

 注意点は無理しないこと。痛みを覚えない範囲に留める。

 多くの人々が誤解しがちであるが、無理に筋肉を伸ばしたところで身体の固さはそう変わらない。

 毎日ストレッチを続け、小さな積み重ねを続けることが真の柔軟性を獲得する最短ルートだ。

 

 なのだが、ライスは痛みに強いというべきか、常人なら悲鳴を上げてしまうような痛みにさえ耐えられてしまうのが困ったところ。

 人並み外れた精神力もそうなのだろうが、そもそも精神の形からして常人とは違うイメージ。

 

 これはこれで利点なのだが、同時に欠点になりそうで怖い。

 無理してはならないところで無理できてしまうからだ。ライスには人一倍気を遣ってやらねばなるまい。

 

 

「わっ、わっ、凄い……!」

「んぁ? ……おぉ、こりゃ確かに凄い」

 

 

 そんなことを考えていると芝の上で寝転がっているライスが、何処(いずこ)かを見て感嘆と尊敬の声を上げた。

 

 何事かとストレッチの力加減に気を付けながら視線を追えば、腰を下ろして肩幅に開いた脚の間に上半身を折りたたんで地面に顎を付けているオグリキャップの姿があった。

 ライスやオレばかりではなく他の皆も驚く柔軟性。この調子なら股関節だけでなく、全身が相当柔らかいに違いない。

 

 

「へぇ、生まれつき柔らかいの?」

「いや、違う。生まれた頃は膝が悪くて立ち上がれないほどだったが、お母さんが毎日何時間もマッサージしてくれたんだ。それだけじゃない。お母さんが仕事で無理な時はトメさん達がしてくれた」

「……成程、君の故郷愛の原点は其処にあるのか。体重管理には一層気を付けなければな」

「うぐっ…………が、頑張ってはいるんだ、頑張っては……」

 

 

 腰を押すルドルフの言葉にオグリは気まずそうに声を詰まらせ、ついに出てきたのは結果の伴っていない努力。

 オグリの状態は皆に伝えてある。当人の努力だけではどうにもならない部分もある、と理解してくれているので、ルドルフの言葉に続くような真似はしなかった。

 

 トメさんとやらが何者かは分からないが、オグリが周囲から相当に愛されてきたのは理解できた。

 故郷の皆に報いたいという思いも。本人すら気付いていない焦りも。何故、周囲から愛されてきたのかも。

 オグリも要注意だ。このまま怪我をさせて故郷に送り返すわけにはいかない。

 

 つーか、オレの担当は皆要注意である。

 安定感のあるルドルフやマックイーンにも危機感を覚えるところはある。

 いや、ウマ娘は誰でも危ういか。十代の少女が自分と他人の夢を背負って走り、時に人の夢を踏み躙らなければならないのだから当然だ。

 

 尤も、一番危ういのはオレなんですけどね?

 未だにまともだった頃の調子が抜けきらない。

 以前はアクセル全開で突っ込んでいけたところを今はブレーキを踏まねばならないのだが、どうにも上手く出来ていない。

 そうしたところも巧く折り合いをつけて人を頼ろう。生きるということは、そういうことだ。

 

 

「よし、じゃあ併走開始で。ペースは何時も通りスズカが作っていいよ」

「分かりました」

「無理してペース上げるなよぉ。後ろに近付かれたり抜かれそうになるとムキになるし」

「む、ムキになんてなりません……!」

「ほんとぉ?」

「本当ですっ!」

 

 

 揶揄い半分の言葉に返ってきたのは、誰が見ても聞いてもムキになっているスズカの声と表情。

 スズカ、そういうところだぞ。先頭を走ることへの執念が強過ぎて、大抵これである。

 もうちょっとこう、力の抜きどころというものを覚えて欲しい。

 

 その姿にルドルフはまた笑みを溢しているし、マックイーンは呆れ顔、ライスはちょっとビビリ気味、オグリはぼーっとそれを眺めている。

 

 ぷんすこしてコースに入っていくスズカ。後に続くマックイーンとオグリ。

 オレはライスのストレッチを続けながら、指をちょいちょい動かしてルドルフを呼んだ。

 

 

「オグリの実力が見てみたい。ライスが入る直前くらいでペース上げて」

「分かった。本気で、だな」

「いや、デビュー前の娘等の心を根こそぎ圧し折るような真似やめて欲しいんですけど???」

「いっそ有りではないだろうか。そうしてしまえば君は私にだけ専念できるだろうからな……ふむ、悪くないかもしれないな」

「やめろぉ! 目が怖いんですがぁ?!」

「ははは。冗談、冗談だとも。君の軽妙洒脱な会話を真似てみただけだ。では行ってくる」

 

 

 何が軽妙洒脱だよぉ!

 マジで出来る奴が言うと洒落にならない奴それぇ! オレそんな冗談言わないよぉ!

 

 にこやかに微笑んでいたルドルフであったが、目が半分くらい本気(マジ)だった。

 オグリの件をいの一番に説明したので許してくれているかと思ったが、甘かった。

 どうやら説明の前に相談しなかったことを根に持っているらしい。

 

 何だよ、そんなに怒ることないじゃん。気持ちは分からないでもないけどさぁ。

 あの後、ミーティングルームで寝ちゃったからそのまま寝かせてあげたじゃん。

 無断外泊の件で来た寮長のヒシアマゾンにも一緒に怒られたし、一緒に謝ったじゃん。

 

 そんなことを思いながらルドルフの背中を見送るが、言葉にはしない。

 ションボリルドルフになったりマウントルドルフになったりするが、これでも何のかんの信頼はしているのだ。

 だから信頼に応えてくれとは言わない。任せるのみだ。

 

 もしダメだったら? コースに入ってでも死ぬ気で止めます。

 

 

「よーし、ストレッチ終了。どう?」

「うん、身体中ポカポカするよ……!」

「オッケー。あと二、三周すれば一旦休憩入るから、その後から参加しよう」

 

 

 ストレッチに一時間ほど掛けて全身の筋肉をほぐしたライスはほっこりとした表情で頬を上気させていた。

 血行が良くなった証だ。トレーニング終了後と風呂上りにもやっているようだし、この調子なら暫くすれば問題ないレベルになるだろう。

 

 そうして、コースを走っている四人の姿を見る。

 オレは外柵にもたれ掛かり、身長の低いライスは柵に両手をかけてやや背伸びするように覗き込む。

 

 スズカがやや先行してペースを作り、ルドルフ、オグリが後を追って最後方にマックイーンが続く形。

 実際のところペースを作っているのはルドルフだ。スズカに己を意識させてペースを上げさせ、距離を離すことでペースを落とさせている。

 実力差そのものもあるだろうが、そうしたレースの展開作りが抜群に上手い。支配力とでも言えばいいのか、相手のペースから位置取りまで彼女は掌の上で転がせる。

 

 

「オグリ先輩、凄いねっ!」

「ああ。分かっちゃいたが、実際目にすると驚かされるよ」

 

 

 彼女を見た時点でよもやとは思っていたが、実際に見るとよもやよもやである。

 そして、アレを見て凄いで済ませられるライスも凄い。

 

 地方から中央にやってきたウマ娘は成績が揮わないことが多い。

 逆に中央から地方に行ったウマ娘は大戦果を挙げることが多い。

 これは地方と中央の実力差が明確に表れた結果だ。

 

 如何せん、施設・設備からトレーナーの腕まで、何から何まで地方の方が劣っているのだから当然だ。

 劣った環境の中で成長したオグリが、ルドルフの作るペースに涼しい表情で付いていけるのが異常でさえある。

 

 

「何だか、走り方が会長さんに似てる……?」

「体型と体幹のバランスが兎に角いい。それにストライドも広い。確かに似てるな」

 

 

 このレベルの天性は珍しい。地方からとなれば珍事どころか異常ですらある。

 脚質は先行・差しと言ったところだが、伸ばし方によっては追い込みも選択肢に入ってくるだろう。

 適性距離は1600くらいか。此方も伸ばそうと思えば2500まではギリ行けそうではある。その分、短距離はやや苦手か。

 地方出身だけあって、ダートもお手の物。芝も苦手ではない。

 

 大抵のウマ娘が脚質、適性が狭い範囲で収まっていることを考えれば、ルドルフに比肩し得る万能振り。

 

 地方もトレーナー不足。

 中央のように過剰とさえ言える試験内容もない。

 それはつまり、オグリが生まれ持ったものだけで今まで勝ち上がってきたことを意味している。

 

 正に天性の肉体。

 人にせよウマ娘にせよ。こうした理不尽な怪物が生まれてくるところが恐ろしくも面白い。

 

 

「…………」

「……ふっ」

「……ッ!」

 

 

 オグリの天性を十全に味わっていたであろうルドルフは、オレ達の視線を感じ取ると一気に加速を始めた。

 背後から急速に膨れ上がった気配を感じ取ったか、スズカもまた速度を上げようとしたが、今まで先頭を走っていたために消耗が最も大きく加速の乗りが悪い。

 マックイーンはスタミナこそ残っていたが、身体がまだまだ出来上がっていない。

 

 スズカを一息に、マックイーンを置き去りにしてルドルフが先頭に躍り出る。

 

 

「――――ほう」

 

 

 その影に追い縋るように付いていったのは、他でもないオグリ。

 少なからずルドルフも驚いていることは表情から伺える。

 

 ウマ娘のフォームは独特でそれぞれが厳密には異なるが、人間の陸上競技者のように胸を張るような走り方の方が珍しい。

 基本は頭を低くする前傾姿勢――――なのだが、オグリは更に一段低い超前傾姿勢。一瞬、転倒したのかと見紛うほどだ。

 

 地を這うような、とよく表現するが、オグリにはそれがピタリと当て嵌まる。

 抜群の体幹を利用して、頭部の重さすら前へ進むための推進力に変換しているかのようだった。

 

 現時点でルドルフの加速に付いていけるだけで十二分に化け物染みている。

 それを実現可能としているのは、尋常ならざるパワーと柔軟性。だからあんな姿勢でも無理なく走れている。

 

 個人的に何よりいいのは、走り方に余り危機感を覚えないところだ。

 誰からの指導もなくフォームが理想形に近い。それを天性だけで嗅ぎ分けて身に付けたとするのなら――――

 

 

「“芦毛の怪物”、か」

 

 

 まことしやかに囁かれるオグリの異名を漏らす。

 

 そもそも、中央は怪物が多過ぎるんだよ。

 マルちゃんといい、ナリタブライアンといい、怪物呼ばわりされる娘が多過ぎる。年頃の女の子に付ける異名じゃねーよ。

 

 そう呼ばれるだけのものを誰もが持っているのもまた事実。

 今の世代は粒揃いだ。誰もが頂点に立ってもおかしくはない。

 余りにも黄金期すぎて、今後は衰退していく一方ではないかと心配になるレベル。

 

 中には世紀末覇王とか自称している子もいる。もう世紀末越えてるんですがそれは。

 ラオウかな? ラオウみたいな子かな? と思ってワクワクしてたら、出てきたのは宝塚系の美人だったので逆にガッカリした。

 

 一人くらいラオウ系女子のウマ娘が居てもいいと思うんだ、オレは。

 相手のこと、うぬとか呼んじゃったりするウマ娘。面白い、面白くない?

 

 確かにこう、独特な娘ではあったんだけどね? 

 何と言うか、オレの考えていた方向とは別方向のネタに振り切れていて。いや、それでもクッソ速いし、強いから要マークなんだけどさぁ。 

 

 

「ライスも、あんな風になれるかなぁ……」

「え? テイエムオペラオーみたいに!?」

「……???」

「あ、いや、ルドルフとかみたいにか」

 

 

 オペラオーの事を考えていたので勘違いしてしまった。

 

 ライスの自信なさげな口調も分からなくはない。

 現時点で、性能的に劣っているのは事実だろう。

 だが、微差と呼べる程度であり、これからを考えれば十分に覆しようのある差だ。

 

 必要なのは地力の底上げと如何にして自信を持たせるか。

 自信を持てば走り方も変わる。取れる戦略の幅も増す。

 その辺りも考えてトレーニングや出走レースを選ぶのもトレーナーの仕事だ。

 

 

「難しいが不可能じゃないよ。ライスとオレの頑張り次第だ」

「うん……うんっ! そうだねっ! がんばるぞっ、おーっ!」

「……?」

 

 

 オレの言葉を疑いすらせず信じるライス。

 此処までの素直さは中々見ないが、それ以上に可愛らしいものを見た。

 

 右手で握り拳を作り、天に掲げる姿。

 彼女なりの鼓舞なのだろう。

 尤もライスの容姿と相俟って、勇ましさは微塵もなくひたすらに愛らしい。

 

 何だ、この素直さと可愛さは。

 もしかしてライスはウマ娘ではなく、天使だった……?

 

 

「あっ、これね。お母さんが教えてくれてね」

「成程。よし、じゃあオレもあやかって……頑張るぞぉ、おーッ!」

「ヒェッ」

 

 

 オレの声量が思った以上に大きかったのか、ライスは肩をびくりと震わせた。

 

 思わず腹から声出しちゃった。

 もうライスみたいな『おーっ!』じゃなくて『オォォォオォォォォ――――!』って咆哮か雄叫びみたいな声が出た。

 ライスどころか併走してる皆も、遠巻きに眺めている連中の視線まで集まっている。

 

 ご、ゴメンネ。びっくりさせてゴメンね?

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 時刻は20時直前。訓練コースの消灯時間が差し迫った時間帯。

 元々設定してあったトレーニングに加え、全員の自主トレも終了済。

 

 取り敢えず、トレーニング中はより細かく各人の様子を把握しておきたいので、手帳ではなくノートに切り替える。

 17時以前の記憶は相変わらず保持できないが、記憶を失う前と後での齟齬を可能な限り少なくできるだろう。

 

 加えて、ルドルフとも話して今日のトレーニング内容、彼女の気になった点も聞いておく。頼れるものは何でも頼らねば。

 

 

「……うーん」

「……よし」

「確かに、難しいものですわね」

「うぅ、何がダメなんだろう……マックイーンさんは?」

「私も似たようなものですわ。ライスさん……もですわね。ライン取りは意識しまして?」

「うん、なるべく内の方を」

「私も……タイムが目標を下回ることが多いですから、敢えて大きく膨らむのも一つの手、なのかしら?」

「……!」

 

 

 さて、他の皆はと言えば、コースの隅にあるベンチに仲良く並んでノートと睨めっこ中。

 

 スズカとオグリは基準よりも大幅にマイナス。

 つまりは早すぎる。タイムだけを見れば素晴らしいが、それだけでしかない。

 オレの意図や目的が何処にあるのか、何一つ理解できていないらしい。

 この調子では本当に時間がかかりそうだ。デビューが近い二人には早目に気付いて欲しいんだけどなぁ。

 

 対し、マックイーンとライスは基準の上と下を行ったり来たり。

 これはつまり、タイムを調整しようと試みた証に他ならない。

 先輩二人と違って、互いにタイムを見せあって相談してみたり、指摘してみたりと大変よろしい。

 自己分析だけで足りないと感じたのなら、客観的な意見を他人から貰うのも一つの手。予想した通り、クリア一番乗りはマックイーンかな。

 頭で分かっているだけではなく、身体に覚え込ませなければならない面があるので一日片時(いちじつへんじ)とは行かないだろうが。

 

 

「良い傾向だな」

「ああ、スズカとか君と同じ事を書いてきそうだけど」

「うっ……み、見たのか」

「見つけちゃったぁ~」

 

 

 すまし顔で後輩を見守っていたルドルフであるが、オレの指摘に恥じらいから顔を赤くした。

 

 残してあった資料の中には、彼女が挑戦したと思しきノートがあった。

 その一ページ目に書かれていたのは――――

 

 

『このトレーニングが想像以上に難しいことは分かった。しかし、意味があるとは思えない。トレーニング量を増やしたいのだが』

『この負けず嫌いの頭皇帝がよぉ』

 

 

 やたら丁寧な字で書かれた自己分析ではなく喧嘩腰の感想であった。

 そして、オレも赤ペンで喧嘩腰のコメントを残している。

 

 何だろう。当初のオレ達は仲が悪かったのだろうか。

 いやでも、あっちの方から頼んだと言っていたからな。お互いに信頼していたからこその不満と軽口の応酬といった感じか。

 

 そうしたところからも失われたものがどれだけ重かったのかが伝わってくる。

 ルドルフを一人置き去りにしてしまった申し訳なさ、オレが一人置いていかれてしまったかのような寂寞は同時に訪れる。

 

 …………いや、止めよう。

 何時か思い出せればいいだけだ。それが無理なら新しい思い出を作ればいいさ。

 

 

「よーし、そろそろお開きにするぞー。ノート提出してー」

 

 

 気持ちを切り替えるために、全員に向けて声をかける。

 すると、皆はベンチから立ち上がり、素直に近寄ってきた。

 

 さて、初日は何を書いてくるやら。まずはスズカから。

 

 

『凄く難しかったです。でも、これが先頭を走ることに繋がっているようには思えません。もっと走りたい』

 

「スズカさぁ~ん?」

「……………………」

 

 

 ノートから顔を上げてスズカを見ると、気まずそうに目を逸らす。

 成程、巧く自己分析できなかった自覚はあるか。でもだからって喧嘩腰になるのはどうなの???

 

 まあこれくらいは軽めに流すとしよう。

 余り自分を表に出そうとしない娘が本音を言わないにせよ、書きはしたのだ。

 オレが何を言っても見捨てない、と信頼している証拠と受け取ることにする。

 

 しかし、この娘ホント走ることしか考えてねぇ~。

 よし、コメント決定。『この頭ランニングウーマンがよぉ。明日からサイレンススズカからランニングスズカに改名するように』と。

 

 

「気持ちは分かったから、もうちょっと真面目にやんなさいね」

「うっ……で、でも」

「これ先頭を走ることにちゃんと繋がってるから安心しな」

「……敢えて、遅く走ることがですか?」

「そう、敢えて遅く走ることが。そうして得られるものは君みたいなタイプにとって一番重要で、一番強力な武器になるんだよ。それをまずは学んで欲しい」

「あっ、うぅ……はい……」

 

 

 ノートを返し、諭す意味合いも込めて手を頭の上に乗せて撫でてやる。 

 スズカはされるがまま顔を俯かせ、真っ赤になっている。ハハハ、こやつめ、一丁前に照れておるぞ。

 

 どうにもこの娘は焦りが抜けきらない。

 ルドルフという強大すぎるライバルの登場と元々スランプに陥っていたのもあって、焦る気持ちは分からないでもない。

 だが、焦りの果てに待つのは破滅と後悔でしかない。フォームの改善ばかりではなく、その辺りも気に掛けてやらねば。

 こうしてオレが馬鹿をやるのもいいだろう。人の緊張や気を抜いてやるのは得意なんだ。

 

 よし、お次はマックイーンとライス!

 

 

『目印の少ないコース上では時間を体感で計るのは難しいとよく分かりました。私なりの目安を探ってみます』

『今日は全部同じようにコーナーを抜けたから、次はコーナーの入り方と抜け方をもっと考えて試してみるね』

 

「二人とも、んぐぉかくッ!」

「や、やったぁっ……!」

「ふふん。この程度、メジロのウマ娘として当然ですわ……あの、ところでこの花丸は?」

「可愛いだろ?」

 

 

 オレの褒め言葉にライスはその場でぴょんと飛び跳ねて、マックイーンは口元をニヤけさせながら喜びを表現していた。

 二人のノートに書かれた簡単な自己分析を見て、ノータイムで花丸を書いてやる。

 

 そうそう、こういうの。こういうのが欲しかったんだよ。

 

 文字数自体は少ないが、初日からこれとか優秀以外の言葉が出て来ない。

 バカな子ほど可愛いと言うが、素直で優秀な子だって同じくらい可愛いもんである。

 

 この二人はこのまま協力しつつ高め合う方向性で行って欲しい。

 相性も悪くないようだし、互いに与える影響が良い方向にばかり転がっていくのは嬉しい限りだ。

 

 さて、最後はオグリ!

 

 

『お腹が減っていたから上手に出来なかった』

 

「………………」

「どうだろう、的確な自己分析だと思う」

「いや……あの、これ……」

 

 

 表情少ないオグリには珍しく、これ以上ないドヤ顔で胸を張っていた。

 

 ……マジか……えぇ……これマジィ?

 この娘、走ってる時以外は食うことしか考えてないの???

 

 確かに、先程からオグリの腹からは怒り狂った虫の声が聞こえている。

 自分に無頓着な彼女でも流石に恥ずかしいらしく、ずっと腹を摩って虫の怒りを鎮めようとしているのだが巧くいっていない。

 

 かなりの天然だと話していて思ったが、これじゃあただの――――いや、よそう。オレの勝手な推測で皆を混乱させたくない。

 

 

「オグリ、本当に、本当に君って奴は……」

「ふふふ。そんなに褒められたら流石に照れるぞ」

 

 

 こんなの“芦毛の怪物”じゃないわ! ただのオチ要員よッ! だったらオトせばいいだろ!

 

 という感想しか出て来ない。

 

 もうやるせなさと切なさと悔しさとダルさが込み上げてきて、思わずオグリの髪をわしゃわしゃしてしまう。

 

 

「褒めてねーよ! わぁぁぁぁぁぁッ!!!」

「な、何? ではどうして頭を撫でるんだ?」

「撫でてねーんだよこっちはさぁ!」

「うぅ~~~~~~~、やへるんら」

 

 

 まるで効果がないので、頬を両手で挟んで潰れオグリにしてやる。

 

 クソッ! 柔らかいほっぺたしやがって!

 このカサマツ産の饅頭銘菓がよぉ! いや、オグリは食べる側だけどさぁ!

 もうちょっと、こう……なんか、それなあれが……なんかあったろぉ!?

 

 

「うぅ、一体私の何が悪かったんだ……」

「あーもうやめだやめッ。今日はもうおしまい。皆、カフェテリアに夕飯食べにいくぞ」

「あっ……待ってくれトレーナー、私は部屋で……」

「いいだろ。皆で食べようぜ。カフェから部屋まで持ってったら冷めちまうよ。ライスも一杯食べるから気にすんな気にすんな」

「うん、ライスもたくさん食べるから、大丈夫だよ?」

「そ、そうか。むぅ、なら、まあ……」

 

 

 取り敢えず、何も分かっていないオグリは無視して気持ちを切り替える。

 ローカルシリーズでの戦績やレース内容を見る限り、全くの考えなしというわけではないし、学校の成績だって悪い訳じゃない。

 オグリには考える力を付けられるように、都度アドバイスしていこう。

 

 そして、オグリのストレス軽減策の一つを実行する。

 内容は奇を衒うでもなく皆で一緒に食事をするだけ。

 近所の人達に助けられていたのなら、食卓を囲むこともあっただろう。その頃の環境に少しでも近づける。

 

 これからライスにはオグリと極力一緒に食事をして貰う予定。

 彼女もまた健啖家。その細い身体の何処に入っていくのかと誰でも不思議に思うに違いない。そうして、周囲からの視線を分散させる。

 ついでに言えば、ライスは一噛み一噛みを本当に幸せそうに食べる。見ている側が思わず微笑んでしまうほどに。

 それを見せて、本当の食べる喜びというものを思い出して貰いたい。

 

 

「じゃあ、行こう。おばちゃんには時間の指定もしてあるから暖かいご飯が食べられるぞぉ」

「そうするとしよう。君の激しいスキンシップで時間を取られてしまったからな。ああ、悪いことではないし、私にはしていないが――――していないが」

「………………」

 

 

 カフェテリアに向かおうとした矢先、横から凄まじい圧を感じて堪らずに視線を向ける。

 其処には微笑みながらも圧を掛けてくるルドルフの姿があった。怖い。

 

 これは、アレかな?

 生まれたばかりの弟や妹に両親がかかりっきりになってしまった子供の嫉妬的なアレかな? アレだよね?

 

 よもや、よもやだ。

 まさか本日、真のオチ要員が彼女だったとは。

 

 ションボリルドルフ、マウントルドルフと来て――――今日の彼女は嫉妬リルドルフだった。

 

 

 

 

 



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『熱願冷諦』



ブライアンが、実装、だと……?
姉のことで気ぶりする妹が、どんな風にデレるのか気になるじゃあないか……!

持ってくれよ、オラの財布! 課金額3倍だーーーーーーーー!!


そして、皆さんのお察しの通り、この作品でのオグリキャップは走ってる時以外は常にシングレの簡単オグリ化しております。



 

 

 

 

 

 迫るデビュー戦に向けて、今日も走り込む。

 基本は坂路ダッシュで速筋と遅筋をバランスよく鍛えていく。これはトレーナーさんからの指示だった。

 

 

「スズカはさ、元々速筋と遅筋のバランスが速度を維持し続けるための黄金比なんだよ。どちらか一方ばかりを鍛えると折角の黄金比が崩れちまう」

 

 

 何でも速筋と遅筋の割合は生まれた時から決まっているらしく、筋量は変わっても割合は変わらないという研究結果が現時点で出ているのだとか。

 速度は天性、持久力は努力次第と言われているのはそういう理由なわけだ、とトレーナーさんは言っていた。

 

 だからこそ私は認めてくれた部分を徹底的に鍛えたいのだけど、それを許してくれない。

 ルドルフ会長は故障の可能性を出来うる限り減らしたいが故の配慮、と言っていた。

 

 理屈は分かったけれど、納得できない部分もある。

 

 会長は強い。併走しても先頭を()()()()()()()()()だけ。あの人がその気になればすぐにでも抜かれてしまう。

 オグリ先輩も強い。最高速なら此方が上だけど、油断しているとあの瞬発力と加速力であっという間に横並び。

 マックイーンちゃんだって油断はならない。今はハナに立てているけど、長距離になれば持久力の差で押しつぶされかねない。

 ライスちゃんも同じだ。時々、あの娘が後ろを走っていると会長に背中を追われている時以上の圧力を感じる。

 

 周囲の才能が有り過ぎて、自分がそれでも先頭に立てるのか不安になる。

 以前のトレーナーの下で走り方を変えて、バ群に飲み込まれていった時のよう。

 

 けれど、あの時のように脚は重くならない。

 寧ろ、身体の底から熱い何かが湧き上がって力に変わっている気さえする。

 

 多分、トレーナーさんとの会話が一方通行ではないから。

 何か思い詰めていると声をかけてくれて、入れ込み過ぎていると止めてくれる。

 兎に角、人の変化に聡くて、彼が笑っている顔を見るだけでも安心感を覚える。しっかりと私達の思いを汲んだ上で、接してくれているからだと思う。

 

 良い例は、オグリ先輩との付き合い方。

 

 

「もぐもぐ。おいひぃ」

「もぐもぐ。ん~~♪」

「二人とも幸せそうに食うよなぁ」

「ウソでしょ……」

「これは流石に…………厨房の食材が持つだろうか……」

「大丈夫だ、問題ない。こっちからオグリ達の食べる量は伝えてあるし。うん、しかしいっぱい食べる娘って可愛いよな」

「おかわりを頂くとしよう」

「私も」

「お二人とも、張り合う相手を間違ってますわよ」

 

 

 間食さえ止めれば三食を増やしても、最終的には総量も減って管理もしやすいから構わないという方針らしい。

 本人も気づいていない過食症。そのストレスを軽減するため、一緒に食事するよう言われていたけど、オグリ先輩とライスちゃんが揃うともう凄い。

 

 机の上に所狭しと並ぶ食べ物の数々。山盛りのサラダ、山盛りのおかず、山盛りの白米。

 思わずフードファイトでもしているの? と思ってしまうレベルだった。

 

 そして、会長と私の食事量まで増えて、体重も増えた。

 まだ大丈夫、大丈夫だけど、このまま行くと太り気味になるかもしれない……。

 

 それは兎も角…………兎も角!

 

 本当にオグリ先輩の間食は減ってきている。

 トレーナーさんは言うに及ばず、タマモ先輩やマルゼンスキー先輩、そして私達も積極的に話し掛けている効果なのだとか。

 

 私達にとっては然程苦ではなく、少し意識するだけのことだったけど、オグリ先輩は確かに明るくなった。

 ふとした拍子に見せる笑顔が増えて、何処か落ち着きのない様子は完全に鳴りを潜めている。

 

 私達をキチンと管理しているけど、意識させない手法とでも言えばいいのか。

 そういったものが抜群に巧い。例え気付いたとしても、窮屈さや不快感は全く感じない。

 

 その点はマックイーンちゃんやライスちゃんも同じことを感じているらしく、微笑みながら肯定していた。

 

 しかし、それを耳にした会長は――――

 

 

「ああ、そうだろう? 流石は()()()()()()()()だ」

 

 

 ――――とんでもないドヤ顔で、そんなことを言う。

 

 むむむ。

 ライスちゃんはそうですね、と嬉しそうに首肯していた。こういうところはこの娘の良い所だと思うけど、素直過ぎてちょっと心配になる。

 マックイーンちゃんはそうですわね、と呆れ顔だった。多分、このマウントの取り方に辟易としているのだと思う。

 

 でも、私は知っている。

 これはマウントを取っているんじゃない。

 

 会長と同じ顔を以前見た事があった。

 そう、それはまだ地元に居た頃、友人が見せた表情と全く同じだったから。

 

 余り興味がなかったから、どのタイミングだったかは詳しく覚えていない。

 けど、友人に初めて出来た恋人を紹介された時だったのは覚えている。

 

 恋愛なんてものに興味のなかった私は早く帰って走りたい、なんて失礼なことを考えていた。

 でも、友人の顔は覚えている。隣で恋人が照れるのも構わず、出会いやどれだけ素敵な男性なのかを語っていた時の顔と会長は全く同じ。

 

 

 つまり、彼氏を自慢する時の表情……!!

 

 

 様子を見るに、付き合ってもいないのにこれ。

 た、確かに私達よりも長い時間を過ごしたのは分かる。大切な思い出があったのは理解できる。

 でも、付き合ってもいないのに私のものみたいな顔をして自慢するのは意味が分からない。

 

 もう会長だけのトレーナーさんではなく、私の……じゃない、私達のトレーナーさんなんだから……!

 

 トレーナーさんだって困っている。

 言葉にはしていないけど、会長の態度には困っている。きっと。絶対。確実に。

 

 ………………話が逸れちゃった。

 

 どうも、トレーナーさんのことになると私は冷静さを失ってしまう。

 理由は自分でもよく分からない。胸がチクチクとして、負けないという気持ちばかりが募る。

 多分、会長への対抗心でそうなってしまっているだけ。うん、そうね、きっとそう。

 

 ……兎も角、オグリ先輩に発揮されたトレーナーさんの良い所は私のフォーム改善にも発揮されている。

 

 初めの内はコース上に等間隔で目印を置き、それを踏むことで広げたストライドで走るためのトレーニングをしていた。

 徐々に間隔を広げ、ある程度リズムを掴むと今度はコース上で実践となった。

 

 どうやらトレーナーさんは何とか併走して都度フォームの問題点を指摘したかったようだけど、流石に無理で。

 

 最終的にコースの内柵の中、向こう正面でフォームを確認。

 その後、ショートカットする形でスタート地点に戻って指導する、という形を取ろうとしたのだけど。

 

 

「クソがぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!」

 

 

 しかし、どれだけスピードを落とそうとウマ娘と人の間には身体能力において大きい開きがある。

 走る距離は私達の三分の一以下だろうと、私達の速度は三倍以上はある。どう頑張っても間に合わない。

 指導できるだけあってフォームも綺麗だったし、人にしては速い方だけど駄目だった。

 

 

「おらぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!」

 

 

 走っていては無理と悟ったトレーナーさんは、何処からかママチャリを用意して激走した。

 

 確かに走るよりも速いだろうけど、身体を酷使するのは同じ。

 ましてやコースの内側は芝や砂が敷き詰められている。アスファルトの上で乗るのとは体力の消耗が違う。

 

 

「ぜひゅー……ぜひ……ひゅーっ……オェっ……」

「だ、大丈夫ですか……」

「にゅ、入院生活で体力メチャクチャ落ちてやがる。マウンテンバイク用意しても無理だこれ……」

 

 

 スタート地点には私よりも早く辿り着いてはいたけど、もうヘロヘロ。

 内柵に身体を預け肩で息をする姿は、思わず私が走るのを止めてしまうほどだった。

 

 そして今日は――――

 

 

「じゃーんっ! 中古で買ってきましたっ!」

「ウソでしょ……」

「バイク、ですわね」

「相変わらずというか何と言うか。君は本当に、よく其処までということを……」

「おぉ、マサさんがよく乗っていた奴だ」

「あの、トレーナーさん、これでコース走っていい、の……?」

「いや、流石にそれはちょっと。でも柵の外ならいいってさ。理事長にもコースの整備士にも許可貰った」

 

 

 原付を購入したみたい。

 これは私も見たことがある。多分、スーパーカブという奴。

 

 こ、此処までするの……?!

 確かに私達と併走するにはこれくらい必要だけど!

 むしろそれでも足りないくらいだけど!

 

 しかも既に理事長と整備士さんには許可を取っているとか。

 な、なんて行動力なんだろう。誰とでも仲良くなれるコミュニケーション能力といい、こ、これが一流トレーナー……!

 

 …………いえ、何だか違うような気がする。

 

 

「まあ理事長の方は周りに十分注意するようにって言われた。整備士にはコース掘り返したら代わりにお前の肉をエグり返す。柵壊したら代わりにお前の骨を折るって脅されたけど」

 

 

 とんでもない脅されかたしてる……!

 

 でも、当然かもしれない。

 トレセン学園は私達のような学生がレースに向ける情熱は勿論のこと、職員が仕事に対する情熱も凄い。

 モチベーションが高いなんてレベルじゃない。カフェテリアの料理人も、コースの整備士の方々も、勝負服を作る服飾士も、命懸けで仕事をしているような迫力があるから。

 

 

「まー、兎に角やろうぜ。17時の30分前くらいになったら一旦降りなきゃだし、周りの安全考えたら人の少ない時しか使えないし」

「は、はい、分かりました」

 

 

 こうして、今日のフォーム改善トレーニングが始まった。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

 トレーナーさんは理事長との約束通り、コース周辺に他人がいないことを確認しながら安全運転のまま私を柵の外側から追っていた。

 

 トレーナーさんの課すトレーニングは量が少ない。

 多分、この学園のトレーナーの中では一番少ないと思う。

 けれど、だからと言って簡単とは言えない。

 

 

「足をもう5mm上げてー!」

「ご、5mm……!?」

「あと頭の位置をもう1cm上ー!」

「は、はいっ……!」

「ストライドはもう3cm狭くー!」

 

 

 要求される指示を達成する難易度が兎に角高い。

 今はフォーム改善だから各部位の位置の修正を要求されるけど、これがランニングならどの筋肉を使って加速しているのか、コーナーでは遠心力に対するために関節や腕の動きを徹底して意識させる。

 まるで身体を鍛えることと身体を苛めることは本質的に別。量を増やさずとも、質を高めれば十分過ぎるほど鍛えることは可能と言わんばかり。

 

 事実、徐々にだけどタイムの自己ベストは更新され続けている。

 

 こんなに細かい指示を出せるのは、計算で出した理想値を実現するための動きが頭の中に映像として出来上がっているから。

 そして、ヴァーチャルリアリティのように、その映像が現実の私と重なって見えているかららしい。

 

 説明されただけではとても信じられなかったけれど、詳しい数字と結果で示されては信じるしかない。

 初めて会った時から予感めいたものはあった。でも、想像していた能力を遥かに上回っている。勿論、人柄も。

 

 

「はっ……はぁ……ど、どうでしたか?」

「大分よくなったと思うよ。同じ距離を走っても、脚全体に溜まってる疲れも少なくなってるんじゃない?」

「そう、言えば、そんな気も……」

 

 

 トレーニングの小休止。

 トレーナーさんはスーパーカブを止めて、今は柵の上に両手を乗せてもたれている。

 私はちゃんと要求を満たせているのか不安になって聞いてみると、トレーナーさんは日の光を連想させる笑みと共に安堵させるような返答をしてきた。

 

 思わず脚を浮かせて、二度三度と動かしてみる。

 確かに筋肉にも痛みもないし、関節も問題なく軽く動かせている気がする。

 

 

「でもなぁ、コーナー入った時に妙にヨレるんだよなぁ……」

「あ、初めて会った時にも、同じ事を言ってました。私は、分からないですけど」

「ああ、そうなのか。となると、フォーム改善だけじゃ十分じゃないかねぇ、これは。もっと何か別の要因が……」

 

 

 口元を片手で覆ったトレーナーさんはすっと目を細めて私を見た。

 

 怖いくらいに真剣な無表情。そして、槍の穂先を思わせるような鋭い目つき。

 普段はにこにこと笑っているから分かり難いけど、トレーナーさんは一般では強面に分類される顔立ちをしている。

 

 ただ、その表情が私は思いの外好きだった。

 少しだけ怖いと感じはするけれど、本気の表情とは誰でもそんなもので、きっと私もレースの間は似たような表情と目をしている。

 

 その視線に貫かれると、ゾクゾクとした言葉にできない感覚を覚える。

 不快感はない。寧ろ、快感ですらあるような不思議な感覚。

 

 多分、トレーナーさんの視線と期待をその一瞬だけは独占しているからだと思う。

 

 

「思い当たる節はあるが、確証がなぁ……」

「そ、其処まで悩まなくても……私もフォーム改善を頑張りますから……が、がんばるぞ、おーっ! ……な、なんて」

「なに、ライスの真似? ストイックなとこあるから友達少なそうで心配してたけど、随分と打ち解けてるじゃん。良い傾向良い傾向」

「す、少なくなんてありませんっ!」

 

 

 トレーナーさんを安心させるつもりでライスちゃんの真似をしただけでも恥ずかしかったのに、揶揄われてもっと恥ずかしくなってしまう。

 

 きっと顔はリンゴのように赤くなっている。

 頬が熱くて、火を噴いてしまいそう。

 それを見られたくなくて、思わず俯いてしまう。

 

 ただ、トレーナーさんはそれで頭を差し出したとでも思ったのか、何の躊躇もなく頭を撫でてくる。

 凄く、気持ちがいい。思わず腰砕けになってしまいそう。そして、余計に気恥ずかしくてドキドキする。

 

 チラリとトレーナーさんを覗き見れば、其処には屈託のない笑みが刻まれていた。

 

 

「私、負けませんから……!」

「別にオレは負けてもいいと思うけどなぁ。勝ちも負けも同じぐらいに価値があるものだよ。まあ、勝負してる本人にこんなことを言うのはどうかとも思うが」

「なら、故障にも気を付けます。トレーナーさんには、それが一番なんですよね?」

「…………ハハ。ああ、オレにとってはそれが一番だよ」

 

 

 さっきの真剣な表情もいいけれど、笑っている顔がトレーナーさんには一番似合うと思う。

 私は、この人には何時だって笑っていて欲しい。見ていると安心するというのもあるけれど、それ以上に辛い境遇にある人だから。

 

 忘れられる気持ちは分かる。

 全てではないけれど、17時を跨ぐ度に昼間の私は何時も忘れられてしまうから。

 

 でも、忘れてしまう気持ちが分からない。

 掛け替えのない半日を忘れて、他人から貰った言葉を忘れて、自分が何をやったかすら忘れてしまう。

 それがどれだけ辛さと不安を伴うのか、私にはきっと一生理解できないだろう。

 

 だからせめて、その辛さと不安を少しでも減らしてあげたい。

 期待される歓びと自分以外の誰かと歩んでいく心強さを教えてくれたから。

 

 それが私の、先頭に立ってあの景色を見ることしか願ってこなかったサイレンススズカの――――新しく生まれた、もう一つの願いだった。

 

 

 

 

 





思ったよりも反響のあったゴルシちゃん世界線の一幕。


ゴルシ「へへー、おらぁ、勝ったぞトレーナー。ゴルシちゃんかっこよかったって言えよー。もっと褒ーめーろーよー(グリグリ」
トレ「背中に頭押し付けてくる。確かに勝ったけどさぁ、すげーデレだしてくるじゃん」
ジャスタ「ゴルシさんは気に入った人には大体そんな感じです」
トレ「そうなんだ……顔面にドロップキック決めてきたのは?」
ジャスタ「それもデレです(真顔」
トレ「そっかー……ならしょうがないな! よくやったぞ、ゴルシ! オレがときめいちゃうくらいかっこよかったぞ! よしゃよしゃ!」
ゴルシ「うぇへへへへ(デレデレ」
トレ「そして木魚ライブの準備も万端だ。ライブ関係者に演出相談して二着三着にも協力してもらおうとしたら、出たくないからお前とオレとジャスタウェイのチームライブになったけど」
ゴルシ「イィィィヤァッホォォォォォォ――――!!!(いつもの変顔」
ジャスタ「じゃあ私は帰りますので(塩対応」
トレ「逃がさん、お前だけは……! ジャスタウェイの好きなあのジャスタウェイの人形、今度のレースで優勝トロフィーに入れていいから!」
ジャスタ「仕方ありませんね、私は何を?(テノヒラクルー」
トレ「オレが虚無僧の恰好で尺八吹くから、隣で三味線を」
ジャスタ「分かりました。任せてください(真顔」


観客はこの後、オレ達は何を見せられているんだ状態に突入。
新聞で騒ぎ立てられるかと思いきや、トレーナーとジャスタウェイの演奏が上手過ぎて逆に褒められた。


ジャスタウェイは塩対応系の万能優等生をイメージ。
ゴルシちゃんに無茶ぶりされてもさらっとやったり、面倒になったらガン無視するタイプ。流石ゴルシちゃんの親友である。
トレーナーがネタのつもりで買ってきた銀魂のジャスタウェイ人形がお気に入り。
この娘はこの後、アーリントンカップで覚醒。
ゴルシちゃんと一緒に原作をメチャクチャにして荒らして回る活躍を見せる模様。


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『古往今来』

やった、ブライアンが当たったよ!
これがウチのブライアンだ!

ミホノブルボン
ナリタタイシン
黒マックイーン

さ、三人合わせれば皐月賞、ダービー、菊花賞制覇してるから実質三冠バナリタブライアンだから(震え声)
これは天井まで行くな(白目)




 

 距離とタイムを揃える自主トレを要求してから少し時間が経った。

 

 目標を最初に達成したのはマックイーン、次いでライスだった。

 やはり名門の指導、其処で培われる感覚というものは凄まじいものがある。

 ライスは名門出ではないものの、彼女自身の才能と特殊性がトレーニング内容とガッチリと噛み合った結果。

 二人は現在、スズカ・オグリの先輩コンビと同条件に挑んでいる。

 

 対し、スズカとオグリは悪戦苦闘中。

 オレの一番に求めているものが、二人にとっては兎に角苦手分野、無理もない。

 デビュー戦までそう日はないが、精神面でのフォローはすれども技術面での口出しは止めておく。

 失敗を繰り返すのを前提としているし、その失敗から何を見出すべきなのかを考えるのもトレーニングに含まれるからだ。

 ただ、感覚面の伸びは凄まじい。もしかしたらこの二人、オレの用意した意図に何一つ気付かないまま目標達成してしまうかもしれない。天賦の才も考え物だ。

 

 さて――――とは言え、毎日毎日学園のコースを借りられるわけではない。

 

 トレセン学園で鎬を削るウマ娘の数は2000弱。其処に個人やらチームやらが(ひし)めいている。

 実際のレースに近い状況で訓練できるコースは特に人気が高い。此処の所、使用できていたのは運が良かっただけ。

 理事長に目を掛けて貰っているし、天下の皇帝様を抱えちゃいるが、好き放題できるわけでも、コース使用の優先権があるわけでもない。

 

 というわけで、本日はプールを使った水練に。

 ウエイトトレーニングなんかも択の一つだったが、全身をバランス良く育てていきたいのでこっちを選択。 

 

 そして、今は皆が着替え終わるのを待っている最中。

 プールのみならず更衣室、休憩所、シャワールームまで完備した一棟の廊下。

 其処の壁に背中を預け、手にしたノートに予定しているトレーニング内容を書き込んでいた。

 

 

「おや? サブトレさん――――は、もう相応しくないね。今はトレーナーさんか」

 

 

 話し掛けてきたのは青鹿毛の少女。

 一目で女性だと分かる顔立ちだが、所作の一つ一つに男性的な振る舞いが見て取れ、結果として中性的な美貌に見えてくる。

 テイエムオペラオーも宝塚系だが、個人的にはこの少女の方がより宝塚系に思える。

 

 上にトレーニングウェアを着ているが、裾から覗く目も眩みそうな白い脚を見る限り、彼女もまた水練のためにプールにやってきたらしい。

 

 個人的に何より重要なのは、気さくに話し掛けてきた時点で知り合いは確定していること。

 またしてもトラウマでルドルフの泣き顔がフラッシュバック。心拍と呼吸が乱れて、冷や汗が噴き出してきた。

 

 もう駄目だ。

 トラウマに耐えられん。

 そのまま土下座謝罪を敢行して事情を説明させて貰おう。

 

 

「ああ、君の事情はおハナさんやマルゼンさん、ヒシアマゾンから聞いているさ。そんな真似をしなくても大丈夫だよ」

「お、おぉ、そう? その二人と知り合いってことは“リギル”の……フジキセキ、だったよな」

「二度目の自己紹介をしなくて済みそうだね。フジで構わないよ、気軽に呼んで欲しいな」

 

 

 悪戯っぽく笑う姿は酷く魅力的だ。

 年頃の娘に黄色い悲鳴で騒がれるタイプに見える。

 同性にモテそうな女子。それが今のオレがフジキセキに抱いた第一印象だった。

 

 しかし、トレセン学園には人間の出来た良い子しかいないのか。

 オレの担当している娘ばかりじゃなく、リギルの娘達もこっちに気を遣ってくれる。

 ルドルフ無断外泊事件の時、説教しに来たヒシアマゾンも最後にあんま無理すんなよ、と肩を叩いて帰っていったほどだ。

 

 

「色々と助けて貰ったからね。今度は私達の番さ」

「オレ、そこまでのことしてんの?」

「あははっ、記憶はなくても反応は変わらないね。気負いのなく手を差し伸べられる姿勢も、善行を当たり前だと思えるのも君の美徳さ。私としてはもっと恩着せがましくても構わないと思うけれどね」

 

 

 真正面から褒めてくれているのだろうが、いまいちピンと来ない。

 オレは“やりたい”やら“やらなければならない”と感じたことをやっているまでで、それが善行だったかと言われても首を傾げざるを得ない。

 如何せん、其処には相手への思い遣りがあるにはあるが、オレはオレの思いを何よりも優先している。

 結果として善き結果を招いているだけで、その過程が善行と呼ばれるだけのものがあったかは判然とせず、疑問符ばかりが浮かんでくる。

 

 オレの反応が面白かったのか、または気に入ったのか。

 フジは何度も首を縦に振りながら更に笑みを深めた。

 

 

「そういうところがおハナさんを変えたんだろうね。正直、君が来る前と後じゃ天と地ほどの差があった。昔から私達のことを一番に考えてくれてはいたんだろうけど、分かり難かったし正直息苦しかったよ」

「あー、そういうところある感じの人だよな、あの人。オレ、馬鹿ばっかやってたろうしなぁ」

「ハハ、そうだね。おハナさんが沖野さんとお付き合いを始めたのは君のお陰だし」

「…………オレ、他人の恋路に首突っ込むような真似してたのぉ?」

 

 

 この娘もまた気遣い上手のようだが、これまでとはまた違ったタイプ。

 

 似ているのはマルちゃん辺りか。

 あの娘は相手の様子を見つつ、距離感を測っている節がある。

 

 対してフジは見た目に依らず、タマちゃんレベルでぐいぐい来る。

 そして、オレの覚えていない過去もあっけらかんと明かしてくる。

 こちらとの距離感を測りつつ反応を見ながら、気になる過去を矢継ぎ早に明かして余計なことを考える暇を与えさせず、気後れもさせない。

 申し訳なさや不甲斐なさを覚えないのは、この会話術のお陰だろう。うーん、実に話し易い。

 

 口が達者で立ち居振る舞いも完璧。

 間違いない、この娘は絶対同性にモテる(確信)

 

 

「実際、私達から見ていても良い雰囲気だったからね。おハナさんが柔らかくなった決定打はアレだった」

「えぇ、ウソォ……なんて余計な真似を……」

「いやぁ、アレは傑作だった。ある日突然、リギルのメンバーを集めたと思ったら、神妙な面持ちで“おハナさんと沖野さんってどう思う? オレくっついたらいいと思う”って言いだしてね。全会一致で同意を得ていたよ」

「アホ過ぎて言葉もねえ」

「その後はリギルのメンバーで雰囲気作りをしたりしたね。君なんて“くそっ、じれってーな! オレちょっとやらしい雰囲気にしてくるわ!”と言って、色々やったかな」

「バカじゃん! もうその時のオレは君等に蹴られて地獄に落ちた方がいいんじゃないかな? 君等もよく付き合ってくれたなぁ!」

 

 

 沖野さんが何者かは思い出せないが、オレは兎も角としてリギルの面々が同意したということは相応しい男だったと信じたい。

 おハナさん、マジでいい人だから変な男に引っかかっておかしな事態に発展して欲しくない。

 

 暫く前にオレがいない間、ルドルフを一時的に担当してくれた礼をしに行った。

 記憶がなければ初対面も同然。如何にも冷酷無慈悲な鉄の女と近寄りがたい雰囲気を醸していた。

 オレはあまりそういうのは気にならないが、気弱な人間はとことん苦手な部類だろう。

 

 会話は一言目から説教。

 内容は人を庇うならばまずは自分の安全と無事を確保してからにしろ、という至極まっとうなもの。

 言葉の一つ一つが厳しくはあったが、オレを慮っていなければ出てこない言葉と理解できて、要らん反骨精神すら起きなかった。

 

 そして、その日の夜に飲みに誘われた。

 まだ言いたいことあるのかな、説教続くかな、オレ仕事出来る時間帯なんだけど、と色々思ったが、世話になった人なので断るわけにも行かず。

 如何にも出来る女、大人の女なおハナさんに連れていかれたのは良い雰囲気のバー、などではなくお高めの居酒屋だった。

 

 そしたらまあ飲むわ飲むわ、しこたま飲むわ。

 碌に会話もせず、種類を問わずにちゃんぽんし、空のジョッキに桝にグラスが机を埋め尽くした頃――――

 

 

『ごめん……私のせいで……ルドルフの戦績に、傷がついた……』

 

 

 ――――おハナさんはボロボロ泣き出した。

 

 その瞬間からオレはトラウマモードに入りかけたのだが、予期してもいなかった謝罪に困惑した。

 

 考えてみれば当然だったかもしれない。

 オレの事故によって過去最悪の精神状態で挑んだジャパンカップ。其処で刻まれた皇帝の一敗。

 その責任はオレにあると受け止めていたが、代わりを務めてくれたおハナさんも同様に責任を感じていただろう。

 冷徹な姿勢は誰に対しても平等に接しようとした単なる結果。その実、誰よりも情が深い人だった。

 自らの担当ばかりではなく、オレやオレの担当にまで本気で情や優しさを向けてくれた事実に思わず貰い泣きしそうになったが、ぐっと堪えてその日は飲み明かした。

 

 

「だ、大丈夫? その沖野って人本当に大丈夫?」

「はは、心配しなくていいよ。沖野さんは君とも仲が良かったしね」

 

 

 そんな一件もあったので、過去のオレの所業のせいでおハナさんが泣く羽目にならないか不安になって問い掛ける。

 フジは太鼓判を押してくれているが、沖野さんの情報が少なすぎて不安が一切解消されない。

 

 も、もっと情報を……! 情報をくれ!

 

 

「トレーナーとしての腕は一流さ。ウマ娘(わたし)達のことを一番に考えてくれる、そんな人だよ。だから安心して欲しい」

「……ほ、ほう。性格は良さそうで安心した」

「そうだね。性格はいいと思うよ、ちゃらんぽらんだけど。君よりも年上なのに」

「……え?」

「自分の担当していた子やら私達にも給料を使って奢ったりしてくれたよ、だから貯金とかは一切ないかなぁ。おハナさんに集っていたし」

「……?!」

「まあ、私なら付き合うのも結婚するのもゴメンだね」

「安心できる要素一個もなくない???」

 

 

 オレも、オレも割とちゃらんぽらんな自覚はあるけど其処までじゃないぞぉ?!

 おハナさんに集るとか軽くヒモしてるじゃん!

 最悪、オレはおハナさんを地獄に叩き落した戦犯になるかもしれない……!

 

 中央のトレーナーは、それなりに高給取り。

 実績と年齢で基本給が上がり、重賞やらクラシック優勝バを生み出せば追加報酬(ボーナス)も出るし、レースで担当の稼いだ賞金の一部が入ってくる。

 三冠バトレーナーになれば凄い。オレも何も知らない状態で自分の通帳を見て腰を抜かしたほどだ。

 

 フジが腕は一流と言っている以上、おハナさんほどでないにせよ、稼いでいるはず。

 それなのに集るって絶対にヤバい。金銭感覚が崩壊している恐れがある。

 

 いや、ウマ娘を育成する上で必要な道具や設備を私財で揃えている可能性もあるか。

 

 そう考えれば、確かに良い人…………なんだが、不安感が拭い切れない。

 

 

「大丈夫さ、沖野さんも憎からずおハナさんを思っている。お金のことは心配いらないよ。私達が勝って、おハナさんに稼がせるからね」

(沖野さんの男としてのプライド終了のお知らせ……!)

「おハナさんは絶対に幸せにして貰う。これは“リギル”の総意さ」

「ヒェッ」

 

 

 フジの見せた黒い笑みに、オレは思わず身が竦んだ。

 

 凄絶とさえ言える笑みだ。

 それほどまでにおハナさんに対して感謝を覚え、幸せを願っているのだろう。しかもリギルメンバーの総意と来た。

 

 ヒモルートから主夫ルートに舵が切られている。リギルの面々によって。

 なお、当人の意思でルート変更しようもんならリギルメンバーがすっ飛んできて袋叩きに遭う模様。

 

 もうこれ沖野さん逃げられねぇな。

 そしてオレも助けられない。オレはなんて無力なんだ……!

 

 でもヒモルートよりかは主夫ルートの方がまだマシなんでスルー。

 沖野さんの男としてのプライドは粉微塵に粉砕されて永遠に行方不明となるだろうが、このまま素直に人生の墓場に堕ちて貰うとしよう。

 

 おハナさんが不幸になるかもしれないって?

 ははは。リギルの面々がそんなん絶対に許さないし、オレも許しませんよ?

 万が一の時は皆で沖野さんに殴り込みかけるとしよう。

 

 

「あら、フジ先輩……?」

「トレーナーさんとお知り合いで……ああ、リギルの繋がりですわね」

「こ、こんにちは」

「やあ。ふふ、期待の新人達をこれだけ侍らせるなんて流石だね。ところで会長は?」

「侍らせるて。ルドルフは急用」

 

 

 フジと同じく水着の上からトレーニングウェアを着たスズカ、マックイーン、ライスの三人がやってきた。

 

 本日、ルドルフは生徒会の仕事が立て込んでいるらしいので臨時で休みにした。

 

 レースのことだって重要だが、ウマ娘は全員学生だ。

 学園生活とて疎かにすべきではない。

 

 青春全てをレースに費やさなくてもいい。

 経験を偏らせると、偏った光景や結論しか見えてこなくなる。

 それで苦しむ羽目になるのは他ならぬ彼女達。

 

 彼女達は競技者人生の中で多くの後悔や未練を抱えることになるだろう。

 だが、後で振り返った時にそれでも良かったんだと胸を張れるようにしてやるのも、オレはトレーナーの仕事だと思っている。

 

 

「へぇ……そうか、そうなのか。なら元サブトレーナーの(よし)みで私のトレーニングも見て貰おうかな」

「別にそれくらいならいいけど」

 

 

 何処か怪しい光を瞳に宿したフジはルドルフ不在でオレに手隙が出来たと思ったのか、そんなことを言ってきた。

 

 実際、空いていると言えば空いているので0.1秒で承諾した。

 今日オレが気を付けねばならないのは、泳いでいる時に身体の何処の筋肉を使っているのか意識させ、効率良く身体を鍛えることと溺れそうになった時の対処だけ。

 フォーム改善のように付きっ切りになる必要がなく、ルドルフもいないので余裕はあった。

 

 

「むぅっ……あの、トレーナーさん。私……達の担当なんですから、私達を疎かにするのは……」

「え? トレーナーさん、そう、なの……?」

「いや、優先はあくまで君等の方だよ。単に余裕あるからってだけ。おハナさんのことだから、トレーニングメニューは決まってるんだろ?」

「勿論♪」

「ならいいじゃん」

「むむむっ」

「ふふ。可愛らしいポニーちゃんじゃないか」

 

(スズカ先輩、いま私の、って言い掛けましたわね。……全く、コミュニケーション能力が高いのは素晴らしいとは思うけれど、八方美人になってしまうのは困りものですわ)

 

 

 スズカが心配し、ライスが不安がっているように疎かにする訳もない。あくまでもオレが優先するのは担当している彼女達。

 フジの方はおハナさんから指示されているトレーニングを聞いた上で、適切な言葉を掛けるだけ。頭を捻る必要すらない。

 そもそも一人で来ている以上、一人でも問題ないと信頼されている証拠。オレの出番があるかも疑問だ。

 

 しかし、スズカはそれでも不満があるのか、加速度的に機嫌が悪くなっていく。

 フジはそんなスズカを見て微笑んでいた。ポニーちゃんって何だよ。子猫ちゃん的なニュアンスか?

 

 いや、いま気にするのは其処じゃない。

 確かにスズカは内に籠るタイプだから、余り親しくない相手が近くにいるのは気が休まらないかもしれないが、そ、其処まで?

 

 こう、もうちょっと人と打ち解けられるようになった方がいいと思う。

 困った時に頼りになるのは自分よりも他人だ。オレは今まさに実体験として味わっている訳だし、そういったところも教えたいし学んで欲しい。

 

 

「あれ? オグリ先輩は……?」

「え? まだ来てないぞ? まだ着替えてるんじゃないの?」

「いえ、一番最初に更衣室から出て行かれましたわよ?」

 

 

 その時、ライスはオグリを探しながら首を傾げた。

 マックイーンの言葉を聞く限り、入れ違いになったらしい。

 

 スズカもそうなのだが、最近はオグリも元々あったやる気が更に溢れ出さんばかりに満ちている。

 

 ルドルフの存在が良い刺激になっているらしい。

 高い目標が近くにいる、というのはそれだけで多くの影響を受けるものだ。

 

 無論、精神面だけでなく実力面に関しても。

 団体競技において一人の天才に引きずられてチーム全体の実力が飛躍的に高まるように、オレの率いる娘達も通常では考えられない成長を見せている。

 トゥインクルシリーズ出走直前のスズカやオグリばかりではなく、マックイーンやライスも飛躍的に伸び始めていた。

 

 元々あった天性もあって、併走しているだけで多くを学んでいる。

 これならば相手が現役であったとしても、そう易々とは後塵を拝しはしないだろう。

 

 上ばかりではなく、下からも刺激を受けてオグリのやる気が増す一方。

 その分だけストレスも軽減されて間食も減ってきている。

 置いていかれる焦り、追い付かれる焦りに取り憑かれるタイプではないのが幸いした結果だ。

 

 

「先にプールへ行ったのか? まさか外行ってないだろうなぁ?」

「いくらオグリ先輩でもそれは……」

 

 

 困った事にオグリは大の方向音痴だった。

 自身の位置が分からなくなるのではなく、自然豊かな環境で育ったせいか、都会のように人工物の多い環境は見慣れないものが多過ぎて頭の中で地図を作れない、道を覚えられないようだ。

 トレーニングの開始に遅れる度に全員で探しに行く羽目になるのだが、当人は反省していても中々改善されない。

 

 

 健啖家具合と同じぐらいに方向音痴ぶりは凄まじい。

 何せ同じ場所を4、5回ぐるぐると回っていても自分が迷っている自覚が生まれないド天然。

 

 そうした印象はオレばかりでなくスズカの中にもあったのだろう。

 否定こそしたものの、心配そうに眉根を寄せていた。

 

 

「ま、まあオグリ先輩は食事は兎も角、トレーニングやレースに対してはストイックな方ですし、もう泳いでいるのではないですか?」

「そ、そうだね。きっとそうだと思うよ」

 

 

 流石に水着の上にトレーニングウェアのまま裸足で外に出て行ってしまうとは思えないが、オグリだからなぁ。

 

 そんなトンチンカンなことをしてしまうのがオグリなのだ。

 沸々と湧き上がってくる嫌な予感を振り切るようにマックイーンとライスは口を開いたが、二人とも顔が引き攣っている。

 どう見ても嫌な予感を振り払えていない。オレも一緒だ。

 

 その嫌な予感を別の形で示したのは、オグリの生活する栗東寮の寮長フジだった。

 

 

「いや、そっちの方が大丈夫なのかい? 彼女、泳げないって聞いたことあるけど……?」

「………………え?」

「「「…………」」」

 

 

 いや……あの……えっ?

 

 ……待て、待ってくれ。

 オレ聞いてない。オレそんなの知らない。オグリもそんな素振り見せなかったぞ、おい。

 

 全員目を点にしてフジを見るが、引き攣った笑みを見せるだけで噓は言っていない様子。

 思わずスズカ達に視線を向けても、三人が三人とも顔の前で手を振って同時に首も横に振る。私も聞いてないという意味だ。

 

 

「ふっ、はは、は……いやいやいや、流石にそれはないっ。オグリでも流石にそれはないっ」

 

 

 そんなことを言いつつも、オレは全身から血の気が引いていく音を聞いた気がする。サーッて音がするサーッって!

 

 既に嫌な予感が頂点に達したオレは、プールへ向かって歩き出していた。

 

 

「そ、そうですよ。オグリ先輩でも、それは流石に……」

「そ、そうですわ。泳げないにしても、きっとストレッチを始めているだけに決まってますわ!」

「そ、そうだね……そうかも…………そ、そうかな……?」

「そ、そうさ! きっとそうだ!」

 

 

 多分――――いや確実に、今この瞬間、オレ達の頭に浮かんでいたのはオグリの惚けた表情だった。

 そして、アイツならやりかねねえ! と心は一つになっていたに違いない。

 

 だって後を付いてくる皆ももう既に小走りになっていたもの。オレなんか全力疾走である。

 そう短くない廊下を進み、曲がり角でスピードを制御しきれずにオレは壁に激突しながらも何とか先頭をキープ。

 

 着替える前にプール設備を確認したのだが、間の悪いことにオレ達が一番乗りで他にはまだ誰も来ていない。

 

 つまり最悪の事態が起こり得るのである。

 頭に纏わりついて離れない最悪とスピードをそのままにプールに続いている扉を蹴破る勢いで開けると其処には―――――

 

 

「がばっ、ごぼぼ、がぼぼぼっ!」

 

「おぼれ、いや泳い、ど、どっちだい?!」 

「ウソでしょ!?」

「何をしてらっしゃいますのーーーーー!?」

「あわ、あわわ……!」

 

 

 ――――プールの中で溺れているのか泳いでいるのか分からないオグリの姿が。

 

 

「アホォーーーーーーーーーーーーー!!!」

 

 

 そして、オレはその姿を見た瞬間に、着の身着のままプールに飛び込んでいた。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「ひーっ……げほっ……はっ……はぁ……お、オグリ、無事か?」

 

 

 プールで暴れるオグリの首に腕をかけ、殆ど力業でプールサイドに引き上げたオレは疲れ果ててその場に座り込みながら問うた。

 

 

「ぴゅーーーーーー」

「ぴゅーじゃねえよ、ぴゅーじゃ!」

「あたっ。トレーナー、暴力はいけないぞ」

 

 

 見れば、オグリはプールサイドに横たわったまま口から水を噴水のように噴き出していた。

 思わず頭を軽く(はた)いてしまったが、反省の色は見られずに寧ろ此方を非難してくる。

 

 

「は、ははは。ま、まあ、無事で何よりさ」

「そ、そうですわね」

「よ、よかったぁ……」

「どうしたんだ、そんなに慌てて。私は泳いでいただけなのに」

「ウソでしょ……」

 

 

 オグリは起き上がると安堵からその場にへたり込んだオレ達を見回すばかり。

 キョトンとした顔でオレ達が何故慌てているのかに全く気付いていない。

 

 マジかよコイツ、溺れてた自覚がまるでない……!

 

 チラッと他の皆を見るが、もう既に諦めているのか無言で首を横に振るばかり。

 

 オレは溜息を吐きながら居住まいを正し、その場に正座。

 ちょいちょいと皆を手招きすると、慣れているチームのメンバーとオグリ、困惑しているフジも含めてプールサイドに全員正座した。

 

 

「えー、唐突ですが、オグリには一人で水練するのは禁止します。皆さんはどう思いますか?」

「えっ? 何故だ……?」

「異議無しですわ」

「右に同じく」

「ライスも……」

「流石に同意せざるを得ないね、これは」

「はい、賛成4、反対1で可決します。オグリはちゃんと守るように」

「むぅ……皆が言うのなら……しかし、何故……」

 

 

 オグリは不満は有りつつも納得しているらしいが、疑問は拭えないのかしきりに首を傾げている。

 その様子に誰もが呆れているし、同時に苦笑を漏らしている。オレも同じだ。

 

 やや強引であるがオグリの場合、自覚していない事柄を自覚させること自体が難易度ナイトメア。

 しかし、その分だけ実直なので、決定したことには従順で絶対に破ろうとしない。いっそ強制的であろうとも禁止を宣言した方が効果的だ。

 

 凄まじい天性を持ちながら、何処か抜けていて何処までも素直。

 困ったちゃんは困ったちゃんなのだが、そうしたところが故郷で周囲から愛されてきた理由なのだろう。

 事実、散々心配と苦労を掛けられたオレ達だが、既に許してしまっている。

 

 

「取り敢えず、オグリはビート板取ってきな」

「分かった、行ってくる」

「他の皆はストレッチ始めて。脚攣らないようにしっかりな」

 

 

 『学園内は静かに走るべし』という校則を律儀に守って、ぴゅーと駆けていくオグリを見送ってから指示を出す。

 

 取り敢えず、何時も通りにライスのストレッチを手伝うか。

 その後は、オグリの様子を確認。本当に全く泳げないのであれば、腕用浮き輪を付けてやらせる。

 

 それさえ無理なら浅いプールに移動して、重りを付けて水中ウォーキング。

 最近は走り詰めで脚への負担が増していた。浮力で関節や骨格への負担を減らしつつ、水の重さで筋肉を鍛えられてちょうどいいか。

 

 

「皆、可愛いものじゃないか」

「その上、素直で優しいと来てる。もうオレの誇りで、幸運そのものだよ」

 

 

 隣に立ったフジの言葉に、意識せずに本音が(まろ)び出た。

 

 間違いなく、トレーナーとして幸福な部類だろう。オレは実についている。

 シンザンを超えるウマ娘が見たい、という虚仮の一念でトレーナーになったが、それはあくまでも個人としての夢。

 だから、それは彼女達には関係のない事柄で、シンザンを超えられなかったとしても失望もしなければ、不幸とも思わない。

 

 最速のウマ娘も、最高のウマ娘も、最強のウマ娘も、トレーナーとしてのオレにとってはどうでもいい。

 オレはトレーナーとして求められるものを、死力を尽くして為すだけであり、それが仕事だからだ。

 相手側の能力も、オレの夢を差し挟む余地は初めから存在していない。

 

 能力の高さも、ウマ娘としての才能も性能も、相手が望む結末に必要な分だけオレが補えばいい。

 だが、心の在り方だけはいくらトレーナーでも補えない。

 だから人として当たり前の優しさや正しい心を持った彼女達に出会えたこと自体が、オレにとって――――

 

 

「…………私には、そう言ってくれないのかな?」

「あ……あー」

 

 

 目を合わせずに何処か遠い場所を見ながら、フジはオレのずぶ濡れになった裾を掴み、僅かばかり寂しげに呟いた。

 

 …………失言だった。

 おハナさんほどでないにせよ、サブトレーナーとして絆を育んできた相手に記憶を失ったまま口にすべき言葉ではなかった。

 フジの大人びた態度から油断していたが、年頃の少女が育んできたものを忘れ去られて気にしていない筈もないのに。

 

 参った。余りの迂闊さに自分を絞め殺したくなる。

 

 かと言って、その場限りの見え透いた嘘が何になるのか。

 だから、素直に本心を口にすることにした。

 

 

「今は思い出せないけど、前のオレにとってもフジは誇りだったと思うよ」

「何も思い出せないのにかい?」

「思い出せないけど、今のオレにとっても誇りになりそうだからな。オレが変わってないって言うなら、信じてくれてもいいんじゃない?」

「……ずるい。ずるいなぁ。君のそういうところ、ずるいと思うよ」

 

 

 掛け値のない本心だ。

 全てをなかったことにしたも同然のオレに、彼女は躊躇なく声をかけてきた。そうでなくとも、全てを覚悟した上で。

 根底にあった思いがどうであったかは別にしても、過去にあった出来事を明かしてきたのはオレが記憶を取り戻す切っ掛けになれば、という思い遣りがあったはず。

 

 そんなフジに出会えたこと自体を幸運と呼べずに何と呼ぶのか。

 思い出せずとも、そんなフジの一助になれていたであろう過去を誇りに思わず何を誇りと思うのか。

 

 するとフジは切ないような、泣き出しそうな、嬉しそうな複雑な表情で責める言葉を吐いた。

 

 

「でも、嬉しいよ。意外に私も単純と言うか現金と言うか。これじゃあ私がポニーちゃんだね」

「さっきも思ったんだけどさ、ポニーちゃんのポニーてなに?」

「ポニーちゃんはポニーちゃんさ」

 

 

 どうやら当人も理解していないらしい。ポニーとは一体……うごごご!

 

 

 ――――その疑問は兎も角として、心底からホッとした。

 

 

 オレの言葉を受け取って、フジは照れくささから頬を染めながらも、はにかむように微笑んでいたからだ。

 

 

 

 

 




おハナさん

此処のトレーナーのせいでアニメ版とは違って、当たりが随分と柔らかくなっている。
と言うのも、トレーナーがリギルの面々と打ち解けるのがクソ早くて、焦ったおハナさんが「は? 彼女達は全員私の愛バなんだが?」みたいなことを言ってしまってヤケクソになったから。
学園で誰よりも早くトレーナーがヤベー奴だと気づいたヤベー人。この話で出てくるトップクラスのトレーナーは全員漏れなくヤベー奴等。
拷問部屋出身。沖野Tとデキてる。

サポート効果:全トレーニング効果UP、自分以外の友情トレーニング効果大UP、バッドステータス獲得無効。

これくらい出来なきゃトップクラスのトレーナーは務まらない。



沖野T

アニメ版とは違ってチームを率いていない。
現在、海外に挑戦しにいったミスターシービーの付き添い中。当時担当がいないのを良い事におハナさんに任された模様。今日も海外でウマ娘のトモを触って蹴っ飛ばされている。
トレーナーとは意気投合している。うまぴょい伝説をデュエットして「オレの愛バが!」と熱唱したことも。お互いにお互いのことをちゃらんぽらんだな、とか思ってる。
おハナさんの下でサブトレやってた頃から、トレーナーのことは頭おかしいヤベー奴だと思っていたけど付き合い方を一切変えなかったヤベー人。
おハナさんの同期。拷問部屋出身。おハナさんとデキてる。トレーナーとリギルの面々に外堀埋められて逃げられない。

サポート効果:ステータスUP、体力+30イベントが頻発。やる気が「好調」以下にならなくなる。レースボーナス大UP。

ウマ娘に走りたいように走れと言えるからこんな感じ。
但し、放任過ぎるところがあるのでバッドステータスにはなる。



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『往古来今』


今回の話は、原作の騎手の方を逸話を参考に。
調べてみると、マジに天才で笑う。
脚質? 単なる目安だろ? 馬の能力? オレが何とかするわとか言いそう。

創作の中の天才も大概だけど、閣下然り、白い死神然り、和製ターミネーター然り、リアルチートはもっと頭おかしいよね。



 

 

 

 

 

「ふぅ、どうだったかな?」

「やっぱり慣れてるな。筋肉を鍛える動きに無駄がないよ」

 

 

 おハナさんから課せられた本日分の水泳トレーニング。

 予定の半分ほどを泳ぎ切ると、定められた休憩の時間となっていた。

 

 水に濡れて顔に張り付く髪をかき上げながら、トレーナーさんを見上げて問い掛ける。

 ずぶ濡れのままスタート台に腰掛けた彼は真剣そのものの表情を浮かべながらも、感心した声色で応答した。

 

 そうしている間にも、自分の担当するポニーちゃん達に異変がないか気を張っている。

 

 責任感の強さは相変わらず。

 そして、彼の目から見てもトレーニングを十全に生かせている事実に心底からホッとした。

 おハナさんと彼の努力を無駄にせずに済みそうだったから。

 

 

「しかし、屈腱炎か。大変だったな」

「まあね。でも、おハナさんと君のお陰で何とかなったよ」

 

 

 見ている方が心を痛めてしまいそうなほどの悲痛に歪んだ顔。

 けれど、あっけらかんと事実だけを告げる。おハナさんと彼に出会っていなければ、私は様々な意味で終わっていた。

 

 屈腱炎は人間でいう所のアキレス腱炎。

 名称が違っているのはウマ娘の身体の作りや形状そのものは人と同じなんだけど、各部位の内部構造が違っていて名称が異なるかららしい。

 兎も角、この屈腱炎は繋靭帯炎と同じく、多くのウマ娘を引退に追い込んだ不治の病。

 

 これに発症したのは、トレーナーさんがおハナさんの下に来てからちょうど一年くらいが経った頃。

 おハナさんからトゥインクルシリーズへの出走を言い渡された直後、違和感を覚えた彼に検査を勧められて発覚した。

 

 軽度の段階で発覚したことだけが不幸中の幸いで。

 

 舞台女優の母さんのように、レースを通じて多くの感動を人々に届けられると思った矢先。

 ようやくゲートに入れたと思えば、その先にコースはなく奈落だけが口を広げて待っていた。

 

 どうしようもない現実に、努めて冷静であろうとした。

 きっと大丈夫、必ず治ると自分自身に言い聞かせ、余りの不運に何度枕を濡らしたか。

 

 そんな時に、私を支えてくれたのは他ならぬおハナさんとトレーナーさん。

 

 おハナさんは方々を駆け回って治療法を探して回り。

 彼は口下手で不器用なおハナさんに代わって、メンタルケアに努めてくれた。

 

 

「アメリカで新しい薬が開発されたらしいけど……」

「仮に効果抜群だったとしても日本(こっち)で承認されるまでどれくらいかかるか」

「ドーピング検査で引っかかる可能性があるのも怖い。こっちとあっちじゃ規制内容も検査方法も違う。一瞬で全てが台無しになりかねないわ」

「こっちからコンタクト取れませんかね。中央としても使えるならスターの引退を先延ばしに出来る。あっちとしても売り出したいし、被験者も欲しいはずだ。無下にはされないでしょ」

「ちょっと……」

「いや、使うかどうかの最終判断は別ですよ。あくまで探りを入れるのが目的。問題がなけりゃ使えばいいし、懸念が僅かにでも残るのなら使わなきゃいい」

「…………駄目なら駄目で当初のプラン通り、現状認可されてる薬を使って炎症を治しつつ、フォーム改善で脚への負担を減らす、ね。それでいきましょう。でも、私は他のメンバーもいるから動けないわよ?」

「オレが行きゃいいだけでしょ。ちょっとした旅行みたいなもんだ。時期も時期だし、ケンタッキーダービーもついでに拝んできますよ」

「全く。こういう時に余裕があって、物怖じしない行動力は頼もしい限りね。諸々の手続きはこっちで何とかする。頼んだわよ」

 

 

 そんな会話があったと知ったのは、全てが終わった後の話。

 

 結局、トレーナーさんは単身アメリカに飛んだものの、新薬は日本の規制では引っ掛かる類のもので徒労に終わる。

 随分と落胆したそうだけど、二人ともおくびにも出さず既存の投薬治療とフォーム改善に切り替えていった。

 

 因みにケンタッキーダービーは見れなかったそうだ。

 彼が責任を投げ出して遊んでくるはずもない。

 

 おハナさんとトレーナーさんが最も危惧していたのは時間と再発。

 投薬治療はその時点で効果を上げていたものの、如何せん完治まで半年から1年などザラに掛かる。

 

 シリーズへの出走は当然取り止めとなっていたけれど、出走意思のない者を在籍させておくほど学園は寛容じゃない。

 その時点で私は入学からそれなりに経っていて、リギルに入ってからも身体作りに時間を掛けたから残されていた時間は二年ほど。

 

 更に、屈腱炎は何度となく再発する病。

 明確な原因は解明されていないけど、腱への継続的なダメージと生み出される熱が屈腱のコラーゲンを変性させてしまうからでは、とされている。

 フォームを改善して負担そのものを減らせたとして、どれだけ効果を上げるのか。再発の可能性は何時まで経ってもなくならない。

 

 半ば諦めの境地にあった私はただボンヤリとその事実を受け入れていた。

 夢破れようとしている悔しさも、理不尽な現実に対する怒りさえもない。

 

 もう無駄だ、とトレーナーの誰もがそう言った。

 無駄な努力だ、と私自身ですらそう思った。

 

 けれど、二人だけは違っていた。

 いっそ諦めてくれたならなんて。

 死力を尽くしてくれている人に対して余りにも身勝手な思いを抱きさえした。

 

 一番大きかったのは疑問だった。

 一体何を信じ、本質的に自分とは無関係な私の苦難に立ち向かっているのか。

 

 

 ある日の夕暮れ。

 コース横のベンチでリギルの仲間達がトレーニングしている様子を眺めながら。

 ずっと抱いていた疑問を付き添ってくれていた彼に向って口にした。

 

 

「そうだな。おハナさんは優しいからじゃないか。知ってる? あの人さ、リギルの選抜試験で落とした子のことも一人残らず覚えてるんだぜ?」

「……そうなのかい?」

「ああ。それでさ、落とした娘が別のトレーナーのところでレースに勝ったりしても嬉しそうに笑うし、引退するって聞くと残念そうにしてる。情の深い人だよ。自分にも他人にも厳しくして、線引きしなきゃやっていけないんだろうなぁ」

 

 

 彼の語る事実に、私は目を丸くしていたと思うけれど、腑には落ちた。

 

 おハナさんは誰もが認めるトレーナーの頂点。

 本能的に勝利や速さを求めるウマ娘は彼女の指導を求めている。

 その全てを受け入れるなど到底できない。彼の言うように線引きは必要だろう。

 

 でも、おハナさんは自分を求めてきた相手を簡単に忘れられるほど薄情ではない。

 情が深くなければ、受け入れられなかった娘のその後に安堵や悲しみを抱けず、屈腱炎になった出走前のウマ娘なんてとうの昔に見捨てていただろうから。

 

 

「じゃあ、君は……?」

「んー……理由は色々あって一つじゃないんだろうが、一番はアレだ。まだフジの口から諦めるって聞いてない」

「それ、は……」

「ならオレが先に諦めるのは違うよな、ってだけ」

 

 

 其処に期待もなければ信頼もない。

 私の復活を思い描いているわけでも、奇跡を望んでいるわけでもなかった。

 

 単に、私がまだ諦めを口にしていなかったから。

 たったそれだけの理由で、彼は寸暇も惜しんでサブトレーナーとして支えてくれていた。

 

 ならば解放しようと素直に思った。

 

 おハナさんはもう化粧では隠し切れないほど目の下に隈を作っている。

 眠る必要のない彼でさえ、プライベートを削り過ぎて日に日に窶れていっている。

 何よりも、私自身が苦痛と不安しかない道程を終わりにしてしまいたかった。

 

 

 ――――けれども、頭に思い浮かんだ諦めの言葉だけは、最後まで形にならなかった。

 

 

「もう、辛いんだ……歩くのも、やっとで、毎日毎日、不安なんだよ」

「…………」

「もし治っても、遅れを取り戻せるのか、再発するんじゃないかって……もう、此処に居るだけでも、辛いよ……」

 

 

 弱音は吐けても、諦めの言葉など口に出来る筈もない。

 トゥインクルシリーズで多くの人々に感動を届ける。

 それだけが私の夢で、他の生き方など考えたことすらなかったから。

 

 でも、吐露した心の内もまた、紛れもない本心で。

 

 

「最低限、お前のことはお前が決めろ」

「…………」

 

 

 突き放すような冷たい言葉に、思わず涙が零れた。

 

 一度決壊すれば止めどなく。

 嗚咽と共に漏れた感情に終わりなど易々とは訪れない。

 

 だけど、彼の言葉は何処までも正しかった。

 それが私の人生で、私自身に対する責任でもあったから。

 

 

「でも、まだお前の人生が終わるわけじゃない。お先真っ暗ってだけだ。誰でも同じさ」

「…………っ」

「今こうしている間も、地面に這い蹲って手探りで必死になって道を探している」

「う、ぐっ……ぅっ……」

「それをみっともないと――――希望もないのに、ってお前は笑うか?」

 

 

 涙の滲む視界で捉えたのは、彼の顔。

 笑みが消えた顔は強面と呼べるものではあったけれど、例えようもなく優しくて、また涙が零れた。

 

 無理はしなくてもいい。

 諦めるのもまた一つの道と手段で、決して恥ずべきものではない。

 夢に挑むだけで掴めはせずとも、其処に意義がなかったわけではない。

 少なからず、お前は挑んだ。その結果として夢破れただけのこと。

 

 これはたったそれだけの有り触れた話と言いながら。

 それだけでもいいんだ、と温かな肯定で満ちていた。

 

 

「…………笑わ、ないよ。他の誰かが笑っても、私だけは笑っちゃいけない」

 

 

 笑えるわけがなかった。

 それは諦めきれない私の姿で、私のために自身を削っているおハナさんと彼の姿そのものだったから。

 

 

「う、ぐ……ん……うん、決めたよ。みっともなくても、希望がなくても、絶望しか待っていなくても、私は一歩でも前に進む」

「そうか。なら、オレも死力(ベスト)を尽くすよ」

 

 

 ここは違う。これは違う。

 これはまだ結末ではないと思う。

 

 呆れた話、結局のところ私の心にあったのはそれだけで。

 どうしようもない終わりが見えるまでは、決して納得できず、諦めきれなかったから。

 

 だから誓った。

 私自身が納得するまで、足掻き続ける。

 その果てに、私の胸に去来した諦めすら超える感動を、おハナさんと彼に伝えようと。

 

 

 ――――其処からは治療とリハビリの日々。

 

 

 同期に置いて行かれる歯痒さはあった。

 迫る退学勧告(タイムリミット)への焦りはあった。

 

 それでも耐えられたのは――――

 

 

「あの、流石に教室まで付いて来なくてもいいんじゃないかなぁ?」

「えっ。でもフジが心配だし。死力(ベスト)を尽くすって言った。言ったじゃん」

「そんな獲物を盗られた狼みたいな顔しないでよ。と言うよりも、凄いな。どうしてそんな強面で愛嬌出せるのさ? それにおハナさんまで……」

「私はサブトレーナーの査定も兼ねて仕事ぶりを確認に来ているだけなのだが???」

「無理がある。無理があるよぉ、おハナさん」

 

 

 二人の献身があったからだろう。

 もう何か献身じゃなくて過保護というレベル。

 助けて貰っている私からしてドン引きだった。周りはもっとドン引きしていただろうね。

 

 朝、松葉杖を突きながら寮を出ると二人が待ち構えているなんて当たり前。

 二人だけではなくリギルのメンバーまで加わって大名行列染みたことになるのが週に何度か、なんてことも。

 昼になればカフェから私の食事を持ってきて、教室を占領してリギルメンバーで一緒に食べるわ。

 

 拷問部屋出身のトレーナーは全員頭のネジが外れている。

 

 と、トレセン学園では実しやかに囁かれていたけれど、噂に違わぬやりたい放題ぶり。

 もうブレーキの壊れたダンプカーと言った有り様。

 四角四面、真面目一徹のおハナさんなんてキャラ崩壊も甚だしい事態に。

 

 そのお陰、と言ってはなんだけれど、私は落ち込んでいる暇さえなかった。

 それでいて二人とも私だけに構うことなくリギルの面々に過不足なく接していた。

 それぞれの仕事をキッチリ熟していた上で、プライベートまで確保していたのだから凄まじい。

 

 でも、私が一番有り難いと感じたのは夜眠る前。

 

 

「こんな時間にごめん。少しいいかな?」

『おー、どした?』

 

 

 寮の門限も消灯時間も過ぎた頃。

 

 目が覚めてまた足の痛みが増していないか。

 完治したとしても再発を繰り返すんじゃないか。

 タイムリミットに間に合わず、全ての努力が無駄になるんじゃないか。

 

 夜の闇と静寂にそんな不安を煽られた時には電話をかけた。

 

 私は燻る不安を素直に吐露できるような性格じゃない。

 だから会話の内容は決まって他愛のないものだったけど、彼は嫌な声一つ出さずに付き合ってくれた。

 

 そればかりか――――

 

 

「な、何をしているんだい、君は?!」

「心配だから来ちゃったー」

 

 

 私の声色から内面を感じ取ると寮にまでやってきて。

 中には入らず窓の外から話すだけだったけど。

 本当に部屋が一階で、なおかつ当時は相部屋の相手がいなくて良かったと思う。

 もし二階や三階だったなら“トレーナーは寮への立ち入りを禁ずる”というルールを守るために、梯子までかけていたに違いない。

 

 そうやって励まされ、助けられながら。

 

 毎日、毎日。 

 来る日も、来る日も。

 歩くような速度で。

 少しでも構わないから、と一歩ずつ前へと進んだ。

 

 唯一、不満があったとするのなら一つだけ。

 

 ……その、ポニーちゃん達から黄色い悲鳴を向けられる私と言えども、当然だけど女であって。

 心折れた矢先に、仲の良いと思っていた男の人に其処まで優しくされれば…………まあ、その、そういう訳さ。

 

 しかし、私にとって彼は特別になっていたけれど、彼にとって私は特別でも何でもない。

 どのような献身にも苦痛は必ず伴うと理解した上で、やらなければならないと判断すれば寸毫の迷いもなく実行に移す。

 

 私は、そんな彼だからこそ――――

 

 

「やったわよ!」

「どうしたのさ、おハナさん。そんなに慌てて?」

「『スプラウト記念』の出走枠をもぎ取ってきた! それもフジの!」

「うおぉ、マジかよ。おハナさんスゲー……」

 

 

 治療を始めてから三ヶ月後。

 屈腱炎は殊の外早く一応の完治を迎え、再発を抑えるべく彼の考え抜いたフォームの改善に勤しむ最中。

 

 おハナさんの持ってきた話に揃って度胆を抜かれた。

 

 スプラウト記念。

 東京レース場で行われるエキシビション。

 ジュニア級までのウマ娘の中でも、特に期待の高い者だけが出走権を得る公式記録には残らないレース。

 それでも伝説に名を遺したウマ娘の多くは、此処で頭角を現すと言う。

 

 未デビューの私が出走枠を獲得するなんて異例を通り越して偉業。

 理事長に掛け合ったのか、はたまた二人で主催者に頭でも下げたのか。

 兎も角、おハナさんが立場を悪くしてまでもぎ取ってきたであろうのは、例えようもないチャンス。

 

 此処で勝てば、私の意思と価値を明確な形で学園と中央に示すことが出来る。

 年単位で退学勧告(タイムリミット)の先延ばしが可能。

 かつ屈腱炎再発の様子を見ながらシリーズ出走へのタイミングを計れる。

 

 

「スプラウト記念とフジは任せる」

「えーーーーーーーーー!? オレ、まだサブトレですよ?!」

「他は半年か一年で独り立ちするのが通例。二年近くもサブトレーナーしてるのは貴方くらいでしょうに」

「それはー……その、そうなんですけど……」

「チーム間での模擬レースでも、私に代わって手綱を握らせたでしょう。其処でも結果は出している」

「いや、でもほら、フジも不安がるし!」

「私は不安も不満もないよ」

「あれェっ!?」

「能力的に可能と判断したまで。必ず勝つように」

 

 

 困惑するトレーナーさんを余所に、おハナさんは涼しい表情で去っていった。

 これまでの献身とは打って変わって、激励の言葉すらない様は冷淡に見えたけど、実態は違う。

 私と彼の勝ちを確信していたからこそ、それ以上何も言わなかっただけ。

 

 本当に不安も不満もなくて、寧ろ安堵すらあった。

 

 “もし仮に、おハナさんの実力と実績を超えるトレーナーが現れるとするのなら、彼だろう”

 

 それがリギルの共通認識で、十分すぎる実力を私達に示していたから。

 

 おハナさんからの指示に一度は拒否感を示したものの、彼がそれで手を抜くはずもない。

 早々に気持ちを切り替え、出走相手の情報を収集し始めた。

 

 

「スプラウト記念、追込で行こう」

「また随分と思い切ったね。選んだ根拠を教えて貰えるかな?」

 

 

 そして一週間後に出した結論がそれ。

 思い切ったと言ったのは、私の脚質は先行だったからだ。

 

 他チームとの模擬レースでもあったが、彼はそうした選択も少なくない。

 時々、思い出したかのようにセオリーを無視した指示を出すことがあった。

 

 ヒシアマゾンのように差しや追込を得意とするウマ娘に、大逃げを打たせる。

 逆にマルゼンさんのように逃げを得意とするウマ娘に、追込を仕掛けさせる。

 

 それなのに不思議なまでに勝ててしまう。

 傍目から見れば慣れない新人が指示をミスし、学園最強のリギルの面々が強引に勝ちをもぎ取ったようにしか見えなかっただろう。

 

 けれど、その指示を受けた私達の見解はまるで違っていた。

 

 例えば追込と一口に言っても、種類はある。

 ロングスパートを仕掛け、無尽蔵とも言えるスタミナで押し潰す追込も居れば。

 爆発的とも言える瞬発力で、直線に入ってから一息に仕掛ける追込もいる。

 

 そうして細分化して何が得意なのか、何が有利なのかを明確に把握した上で、脚質に合っていないように見えて、その実、全てが嚙み合った指示を出していた、と思う。

 

 如何せん、私達も体験しながらも言葉にするのは難しかった。

 ただ一つ言えたのは ウマ娘の素養を見抜く目も。予言染みた展開予測も彼を語る上では単なる前提に過ぎない。

 言葉で表現できない何かが、彼には確かにあった。

 

 そして何よりも――――

 

 

「なんつーのかなぁ。アイツの指示で動くと初めの内は訳が分からないけど、走ってる最中に何考えてたのか分かるんだよなぁ。そうだ、ありゃあ――――」

「ピターって展開を言い当てるのもあるけど、判断を迫られた時に彼ならこうするって迷わず選択できるのよね。まるで――――」

 

 

 “彼を背中に乗せて走っているようだった”

 

 これはヒシアマとマルゼンさんの弁だけど、私達の誰もが口を揃えてそう言った。

 

 レースの最中、彼が何を考えているのか、判断を迫られた時にどうするかが分かるのは、私達に対する説明の巧さがあったからだろう。

 

 細かく説明することもあれば、敢えてボカして説明することもある。

 けれど、来るべき時が来れば点と点が一瞬で繋がり、明確な紋様と化して彼と思考が一致する。

 

 正に人バ一体の境地。

 その瞬間が堪らなく心地よく、普段とは異なる走り方をさせられても、文句の一つも覚えない。

 

 だからその時の私に不満はなく、不思議な高揚だけがあった。

 

 

「だってフジさぁ、スタート苦手じゃん」

「に、苦手じゃないさ! 人聞きの悪いことは言わないで欲しいなぁ!」

「ゲート試験五回も落ちてる奴が言っていい科白じゃねーぞ」

「い、いやそれは……と、兎に角、もう苦手は克服しているよ」

「ほんとぉ? ……まあ、冗談は兎も角だ、今までだったら信じてもよかったけど、ブランクがあるからなぁ。勘を取り戻すためにゲートトレーニング繰り返すより、今は体力を取り戻すのが先決だろ?」

「それは、その通りだね」

「一か八かに賭けるくらいなら、いっそスタートも好位につくのも捨てて体力を温存させた方がいい。出走メンバーを見たけど、単純な素質と能力はお前の方が圧倒的に上だし」

 

 

 先行を得意とする私に追込させようとしながらその言い草。

 呆れる以前に感心してしまった。もうこの時点で、私が勝てるだけの要素を見出していたらしい。

 

 

「集団に揉まれると無駄に走らされるってのもある。位置取りに苦労させられたり、マークされればコーナーで外に行く羽目になりかねないだろ?」

「それはそうだ。可能なら最低限の距離で済ませたいのが本音だよね」

「まあ、枠とバ場の状態でまた指示を変えるだろうけど、基本はずっと内埒沿いを走ってな。逃げや先行で集団を引っ張って消耗戦を仕掛けるんじゃなくて、最後方から前の背中を(つつ)いて性能差で押し潰してやれ」

 

 

 レースの走行距離は選択したコースによって当然変わる。

 内に入れば入るほど短く、外に出れば出るほど長く。

 

 理屈としては至極当然で、屈腱炎の再発を危惧している私にしてみれば1mでも距離を短くしたい。

 彼の提示した位置取りにおかしな点はない。

 

 

「もし前を塞がれたら? そのまま道連れにされかねないよ?」

「いや、それはない。この娘達ほぼ全員、コーナリングが巧くない。自然と外に膨らむ。おハナさんが技術を指導したお前なら楽々抜けるさ」

「仕掛け時は?」

「残り100m辺りで十分、かなぁ。それくらいの距離なら瞬間的に増大した負荷にも耐えられるはずだ。その時には、前に居るのは多分4人か5人くらいになってる。お前が追い上げてきて、焦ってへろへろだろうな」

「後は巧くいくかどうか、私がやれるかどうかだね」

「そんな感じ。あとは、そうだな――――」

 

 

 私は彼の協力と共に再起の道を突き進んでいった。

 

 水泳によるトレーニングを重ねたのもその折。

 プールサイドで私の動きを観察する彼の姿は周囲が怯えるほど。

 まるで獲物の喉笛を噛み切ろうとしている狼のようであったけど、それほどの集中力を発揮してまで取り組む姿勢を、私は頼もしいと感じた。

 

 一日を経る毎に少しずつ、本来の実力を取り戻す。

 一日を過ごす毎に少しずつ、本来の自分に返っていく。

 一日を共にする毎に少しずつ――――彼への思いを募らせる。

 

 そうして、『スプラウト記念』はやってきた。

 

 

『期待の優駿達が集うスプラウト記念! 10人のウマ娘の内、次代を担うのは誰になるか!』

 

 

 当日の天気は晴れ、絶好のレース日和。

 連日の晴天により、バ場状態は極めて良好。更にゲート位置は1枠1番。

 

 全ての条件が私の追い風となっていた。

 まるで、勝てと言わんばかりに。

 

 全てが滞りなく、澱みなく。

 私の人生が決まる大一番が始まった。

 

 

『おぉっと! 此処でまたフジキセキが順位を上げる!』

『スタートは出遅れ気味のようでしたが、デビュー前の彼女が此処まで奮戦するとは、期待してしまいますね』

 

 

 彼の想定していた通り、レースは展開していった。

 

 意図して作った出遅れを取り戻そうとはせず、機を待った。

 コーナーに差し掛かる度、遠心力に振られて前を走る者の速度が落ちる。

 抜き去ろうと意識する必要すらなく、私はおハナさんに鍛え上げられた足腰を使って遠心力を殺すだけで、面白いようにライバル達を抜いていけた。

 

 大事を見て模擬レースすらしてこなかったぶっつけ本番。

 けれど、走りに迷いはなく、乱れもない。

 

 

『さあ、最終コーナーを抜けて最初に立ち上がるのは誰だ!』

 

 

 全身に溜まる疲労が、風を切る音も酷く心地良い。

 心臓は今にも爆発してしまいそうだったけど、まだ脚は残っていた。

 

 そして、彼の指示したゴール板手前100m。

 前を走っていたのは、宣言よりも多い6人。

 

 

「道は開く、迷わず飛び込め」

(――――来た!)

 

 

 しかし、私に動揺は皆無だった。

 

 前を走るライバルの一人が消耗からほんの僅かに外埒へと斜行したその瞬間。

 確かに私は、レースを見守っている彼の声を聴いた気がして、残された最後の脚を解き放ち、内埒に開いた隙間に身体を滑り込ませる。

 

 刹那、私の耳は静寂に包まれた。

 

 正確に言えば、東京レース場から観客達の歓声が消え去り、実況者と解説者すらも絶句した。

 後に、その時の走りは“ラチの上を走ってきたかと思った”と称されるほどで。

 走行妨害の判定を受けない、我ながら、そして誰が見ても神業と呼べるものだった。

 

 

『差し切った! 差し切ったぞ、フジキセキ! 二着とは僅かハナ差! しかし、着差以上の開きが其処にはあったぁー!』

『見事、と言わざるを得ません。僅かな迷いすら見受けられない完璧なレース運びでした。これからのデビューが楽しみでなりません』

 

「――――い……おい、フジ? どうした、大丈夫か?」

 

 

 懐かしくも輝かしい過去の中から、トレーナーさんの声で現在に引き戻される。

 顔を上げれば、リハビリの最中に何度となく目にした、私だけを心配する彼の顔があって、また嬉しくなった。

 

 その後はまあ、会長に彼を盗られてしまったけどね。

 

 でもアレはちょっと会長が可哀想だったな。

 彼と来たら、会長のトレーナーになったのは頼まれただけだから、なんて特別な思いなど微塵もないようだった。

 

 リギルの皆も似たような心持ちだったんじゃないかな。

 私と同じ思いでなかったとしても、誰もが大なり小なり彼を慕っていて、同時にあんまりにもあんまりな物言いに呆れてもいた。

 

 だから、事故に巻き込まれたと聞いた時は、心臓を鷲掴みにされた気がした。

 だから、事故で記憶を失ったと聞いた時は、屈腱炎を発症した時以上に絶望したと思う。

 

 でも、いいさ。

 それで、いいとも。

 

 絶望するのはもう慣れた。

 乗り越えるのが不可能じゃないと知っている。

 忘れられた思い出(もの)への悲しみはあるけれど、なに、だからと言って人生が終わったわけじゃない。

 

 いま彼は諦めずに此処に居て、私も諦めずに前に立てている。

 

 

「大丈夫だよ。それよりも、手を貸して貰ってもいいかな?」

「あ、ああ、そりゃ構わんけど。本当に大丈夫か、脚は?」

「心配性だなぁ。君に嘘なんか吐けないさ」

「そこまで言うかぁ」

 

 

 私の頼みで差し出された手を握る。

 ポニーちゃんのそれとは違う、ゴツゴツと節くれだった手はウマ娘よりも遥かに非力なはずなのに、随分と頼もしい。

 

 そして、僅か一息でプールサイドに引き上げられた。

 続いてスポーツドリンクの入ったボトルを渡される。

 

 

「おーい! 皆ー、休憩するぞー!」

 

 

 “私達(リギル)のサブトレーナー”から彼女達のトレーナーになってしまった彼の横顔を眺める。

 

 かつてとは違う、僅かばかりに影の差した笑み。

 その影も、私が送る感動で晴らして見せるとも。君がかつてそうしてくれたように。

 

 人生は起伏に富んで、儘ならないことは多い。

 その手の話において、私は後塵を拝しているのだろう。

 けれど、スプラウト記念の時のように、焦りは皆無。

 

 だから、あの時と同じだ。

 君のお陰で為した神業のような走りと同じように、最後の勝ちだけは譲らないさ。楽しみにしておいておくれよ?

 

 

 

 

 





別世界線の分岐について、ぶっちゃけ会長次第。

会長が自らトレーナーに声をかける → 現在の分岐に
会長が尻込みする → リギルのサブトレ続けるけど結局似たような事故に巻き込まれて別世界線へ分岐。

なおゲキマブとフジはどっちに分岐してもルートが残る模様。強い(確信
タマちゃんは友人枠で顔を出す。


フジキセキ

相性はマルちゃん、タマちゃんに次ぐレベル。
既に挫折を知っているので、トレーナーの心情を最も理解できる。
互いに弱音も吐くし、支えることにも躊躇はない。
そして始まる無自覚クソボケ発言VS自覚的イケメン発言によるノーガードの殴り合いみたいな展開。

トレ「うわーーーーーーーー、女の子にされちゃう!」
フジ「うわーーーーーーーー、ポニーちゃんにされちゃう!」

と、お互いに顔真っ赤にしながら個性と個性がぶつかり合う。


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『笠松音頭』

 

 

 

 

 前日の急な参加者を交えた水練は何の問題もなく終了した。

 

 フジは寮長らしく面倒見の良さを発揮。

 不機嫌になっていたスズカと泳ぐこと自体に四苦八苦していたオグリの指導を手伝ってくれた。

 初めの内は大丈夫かなー、と心配していたが、其処は見た目もメンタルも宝塚系。

 元々寮長として顔見知りでもあったのも相俟って、心配は無用の長物だった。

 

 オレも含めた全員でキッチリ礼を言い、そのまま解散。

 

 

「ああ、そうそう。今度、お茶でもどうだい? 私だけでなくマルゼンさんや他のリギルメンバーも含めて」

「え……いやー、まあ、それはー……」

 

 

 ――になるかと思われたが、フジからの唐突なお誘いがあった。

 

 これまで会ったリギルメンバーは態度を見るに、オレの状態は既に知っていると考えていいだろう。

 だが、オレが相手の地雷を踏まないとは限らない訳で。正直、躊躇した。

 人を無自覚に傷付けてしまうのは仕方ないと覚悟していても、傷付ける可能性が高い場に出るのは流石に二の足を踏む。

 

 

「あぁ、安心して欲しい。フォローはするさ。君のために、ね」

 

 

 オレの右手を取り、安堵させるように微笑むフジ。

 刻まれた笑みは正に王子様と言った次第。こ、これが噂のスパダリ……! いや、違うか?

 

 

「ふぅーーーーーーーー………………」

「ど、どうかしたのかい? 急に溜め息なんて吐いて」

「いや、ちょっと本当の自分をね? 取り戻してる最中でね?」

 

 

 オレの長い長い溜息に、フジは動揺を見せたがそれどころではない。

 

 余りのイケメンぶりに、女の子にされてしまうかと思った……!

 精神に潜んでいた女性性を無理やり引き摺り出された気分。

 

 男性アイドルのライブに参加して、女性と一緒にきゃーきゃー騒ぐ男の気分が分かった気がする。

 そら男だって自分にはない男の魅力みたいなものを見せつけられれば騒ぐだろう。

 尤も、フジの場合は女性的な柔らかい魅力も詰まっているので、極めて中性的な雰囲気ではあるが。

 

 いかんいかん、雰囲気に圧倒されている場面ではない。返事をせねば。

 

 

「分かった、フジの誘いなら断らないよ。必ず呼んでくれ」

「ンン゛ッ!」

「ど、どうしたの?」

 

 

 オレの返答に、フジは鈴の音色を連想させる普段の声色からは連想すらできない低い声で呻く。

 頬を紅く染め上げて、口唇を噛む様は何かに堪えているかのようだった。

 

 

「ふーーーーーーーーーーーー………ポニーちゃんにされるかと思った……」

「なんて???」

「ふ、ふふ、久し振りの破壊力を体験してね。これがギャップの破壊力…………普段からずっと真剣でいてくれないかな? 私の為に」

「普段はずっとふざけてるみたいな言い方やめてくれる???」

 

 

 水着のまま胸元を握り締めたフジからの提案は流石に心外だった。

 一体どんな気分だったのか、目を合わせようとしてもくれない。

 

 いや、確かにちゃらんぽらんの御気楽極楽、能天気に前向きな自覚はあるが、この反応はいくらなんでも酷過ぎねぇ?

 

 

「ま、まあ、兎に角、準備が出来たら連絡するから。絶対に来てよ、絶対だよ!」

 

 

 そう言って、フジはそそくさと帰っていった。

 

 普段は自信と色香に溢れた立ち振る舞いは消え去っており、何と言うか年相応な感じだった。

 歩き方からして身体の方に異常はなかったようだったが、一体彼女に何があったと言うのか。

 

 とは言え、其処まで心配はあるまい。

 フジの潜在能力はそれほどまでで、其処におハナさんの卓越した管理と指導能力が加わる。

 屈腱炎の再発の可能性を鑑みて未だデビューしていないが、出走したらあっさりクラシック三冠達成なんてことも在り得るかもなぁ。

 

 うん、これは負けていられないな。がんばるぞ、おーっ!

 

 

「はい、というわけで本日のレッスンを始めまーす」

「や、やる気がまるで感じられませんわ!!」 

 

 

 ――――なんて考えていたのは昨日の話。

 

 本日のオレはとことんやる気がないのであった。

 

 

「ど、どうしてそんなに……」

「トレーナーは何時もニコニコしているがやる気はあるのにな。今日は溶けたアイスのようだ…………アイス、食べたいな……」

「オグリ先輩、それはご飯のデザートにして、ね……?」

「デザートにアイスまであるのか。これが中央……!」

「…………はあ」

 

 

 オレはダンスレッスン用のスタジオに身体を投げ出して不貞寝していた。

 

 本日はコースもプールもジムも借りられなかった。

 仕方なしに稽古スタジオを借りてダンスレッスンにした。せざるを得なかった。

 

 オレの余りのやる気のなさに皆はそれぞれの反応を見せている。

 

 唖然とした表情でオレを見下ろすマックイーンにスズカ。こんなやる気のない姿を見せたのは初めてだから仕方ない。

 しゃがみ込んでオレの頬をツンツンしてくるオグリ。溶鉱炉の前のスーパーカップみたいになったオレからアイスを連想しているらしい。

 涎を垂らすオグリの口元を優しく拭いて諭すライス。自分のハンカチが汚れることすら厭うていない。やはり大天使か。

 そして、盛大に溜息を吐いている皇帝様。ただ、反応を見るに予想だけはしていたみたい。

 

 

「会長、これはどういうことですの……?」

「まあ、その何だ……トレーナー君は基本ダンスレッスンではやる気がない」

 

 

 困惑気味にマックイーンはルドルフへ問い掛けたが、見たままの光景を語られるだけ。

 

 意味分かんねーよ。

 レースで脚に負担かかってんのに、なんでその後ウイニングライブで歌って踊って更に負担かける真似すんの?

 

 ライブは基本、入着上位3名がそれぞれのポジションで、それ以下はバックダンサーとして歌って踊る。

 それもレース終了まで結果が分からないにも関わらず、だ。

 つまり、レースに出走した娘は最低でも1着、2着、3着、バックダンサーの振付と自分の歌詞パートを覚えねばならないことになる。

 

 アホなのか?

 学生生活、レースのトレーニングに加えて、ダンスレッスンて。

 もう全てがウマ娘の脚に負担を強いるシステムになっている。

 そんなんやってるからガラスの脚って形容されるほどポコジャカ壊れてしまうんだ。

 

 その癖、中央のお偉方はウマ娘よりも収益の方が大事なのか知らんぷり。

 世間もライブ中止にすると騒ぎ立てる癖に、故障したらトレーナーやトレセン学園が無理をさせていたに違いないと責め立てる。

 もうさー、ウマ娘を大事にしてるつもりなのだろうが、やってることはひとりの人生を娯楽として消費しているだけと気づいて欲しい。

 

 これが世界の歪み……!

 武力介入をせざるを得ない。いや、何処に武力介入すればいいかさっぱり分からないが。

 

 というわけで、オレはウイニングライブ廃止過激派なのである。

 

 

「そうは言ってもだ、トレーナー君。観客はライブも含めて一日千秋の思いで私達を待っている。期待を裏切るべきではない」

「知らねえ、関係ねえ、ライブやらせたくねぇ。オレは知らん人の期待に応えるよりも君等の人生の方が大事なんですー!」

「…………む、ふふ、そうかそうか。それほどまでに私のことを……ふふっ」

「むむむっ……トレーナーさんは会長だけを気に掛けているわけじゃありませんからっ」

「いや、これは私についてだけ言っているに違いない……もはや告白のようなものだな、ふふっ」

「違いますっ!」

「ほら、トレーナーさん、会長とスズカ先輩がバッチバチにやり合ってますわよ。何時ものように何とか収めて下さいまし」

「ライスも一緒に頑張るから……ほ、ほら、頑張るぞ、おーっ!」

 

 

 バチバチと火花散るルドルフとスズカ。

 しかし、そんな光景は最早日常茶飯事なので、慣れてきたマックイーンは軽く無視しつつも出汁に使ってオレにやる気を出させようとしていた。

 ライスは飛び交う火花にビクビクとしながらも、いつものおまじないをやっている。

 そしてオグリは相変わらずオレの頬をツンツンしてる。

 

 二人の華奢な身体からは想像も出来ない力で、ぐいと腕を引っ張られて無理やり上体を起こされた。

 くそぅ、真面目ちゃんどもめ。今度その優等生面が二度と戻らないように、三人揃って幸福いっぱい腹いっぱいのスイーツ天国に連れて行ってやるからなぁ……!

 

 三冠バトレーナーの給料を舐めるなよぉ、オグリの胃袋を簡単に満たしてやれるくらい稼いでんだ、こっちは。

 なおその時の記憶がないので使うのは怖い模様。オレ、本当に犯罪行為とかに手を染めてませんよね?

 

 取り敢えずルドルフとスズカは放置しておく。

 どうせ見栄と意地を張ってるだけで、殴り合いどころかキャットファイトにすら発展しない。

 

 何のかんのこの二人も仲が良いのだ。

 ルドルフは有望な後輩として可愛がっているし、スズカは超えるべき壁であると同時に尊敬する先達として見ている。

 時々、歯車が噛み合わなくなる時があるだけだからへーきへーき。流血沙汰になるならオレが意地でも止めるし。

 

 

「メジロ家のウマ娘としてウイニングライブで恥をかくわけには参りません。それにほら、トレーナーさんなら足腰に負担のかからない踊り方も分かるでしょう? 御指導お願い致しますわ」

「へーい…………はぁん、駄目だ。力が入らない。見てほら、生まれたての小鹿」

「ハッ……確かにそっくりかもしれない……!」

「ふぐぐぅ――!」

「んぐっ、ひぇっ……ト、トレーナーさん、貴方という人は……!」

 

 

 立ち上がろうとするもやる気がなくて膝と腰に力が入らない。

 両手両足を床に付けたまま、力が入らないよアピールのために手足をぷるぷるさせてやる。

 

 そして続くオグリの迫真の表情と肯定を見たマックイーンとライスは堪えきれずに噴き出した。

 

 デデーン、マックイーン、ライス、アウトー! 

 

 ふっ、流石はオグリ、ナイスアシスト。

 狙ってないのに笑いを取りに行くなんて才能の塊だ。オレ達は無敵のお笑いコンビだぜ!

 もうこのままボケ倒して、ダンスレッスンの時間も踏み倒してやる……!

 

 それでウイニングライブで担当が恥をかいたらどうするか?

 じゃあもう面倒だからライブ会場に爆破予告の電話してライブそのものを中止するね?

 オレが逮捕されるのは考えないものとする。

 

 それぐらい嫌なんだよ、ライブ。

 観客は大喜びしてるかもしれないけど、オレはいつ脚が壊れる音が聞こえるかと気が気じゃない。

 

 やるのはまだいい。

 それがこれまでの伝統と慣習であり、無意味とは言わない。

 ファンだってウイニングライブを楽しみにしている側面もある。

 そのために決して安くない金でチケットを買っている以上、相応の権利というものは発生する。

 

 だが、そこはそれ。

 オレは断じて彼女達を娯楽としてなど消費させん。

 脚に不調変調が発生したら断固としてライブ中止を宣言するし、ライブ中に異変が発生したらステージに飛び込んででも止める所存である。

 

 

「しかしトレーナー、二人の言うことも尤もだぞ。私もカサマツにいた頃、ウイニングライブでやってしまってな」

「え? 何を?」

「ウイニングライブでカサマツ音頭を踊ったのだが、新聞で槍玉に挙げられてしまったことがある…………よくよく考えてみると何故なんだ?」

「いや、オグリキャップ、それはそうだろう……」

「ウソでしょ……」

「何故だ、一生懸命踊ったのだが……」

 

 

 マジかよ。

 コイツ、新聞の一面を飾った理由が分かってない……!

 

 何時の間にやら睨み合いを終えたルドルフとスズカも来て、皆と一緒に唖然としている。

 

 槍玉に挙げられもするだろう。

 ローカルシリーズだって設備も少ない中で簡易的なウイニングライブはある。

 中央から離れた土地では数少ない娯楽。中央(こっち)でもそうだがレースよりもライブの方を楽しみにしている客だっているに違いない。

 

 其処でお出しされたのが盆踊り。

 

 観客は確実に真顔でポカン、地方新聞も一面飾らずを得まい。

 

 クソ……クソゥッ! 何だよ、それ面白い!

 そういう感じのライブなら見てみたかった!

 皆が真面目なダンスを期待してる中、盆踊りをお出しするんだぜ?! そんなの絶対面白いじゃん!

 

 

「よし、我々チームはライブの際にはカサマツ音頭を踊ろうと思います! 世界に広がれカサマツ音頭の輪!」

「トレーナーは分かってくれるんだな、カサマツ音頭の素晴らしさを……!」

「却下だ」

「嫌です」

「お断りしますわ」

「ラ、ライスもちょっと……」

「ダメかーーーーーーー!!」

「何故だ……」

 

 

 勢いで押し切ろうとしたけど駄目だった。

 割と真面目にいいと思うんだけどなぁ、盆踊りライブ。

 ライブ会場の中心にステージとやぐら立ててさ、その周りをウマ娘が踊るわけだ。

 で、観客も一緒に踊る。サイリウム振るよりも絶対一体感あって楽しいよ。

 

 そう考えると是が非でもやりたくなってきた。

 いきなりライブは無理だから、ファン感謝祭の日にお試しでやって大盛況だったらそのまま押し通してライブに正式採用して貰おう。

 何がいいって、盆踊りみたいなゆったりした動きならそんなに脚へ負担がかからないのが最高だ。

 

 

「全く、斬新奇抜も結構だが、少しは真面目に、な。私の時はそれなりに真面目にやっていたぞ?」

「それは多分ルドルフの気持ちを汲んでいただけであって、内心は死ぬほど嫌だったと思う」

「其処までか…………むっ?」

(つまり、私の時は――――私の時だけは、ということか。他意はないのだろうが……ふむ、これは悪くない、悪くないな、ふふふっ)

「どうしたんだ、突然笑い始めたよぉ?」

 

 

 今の今までしかめっ面だったのに、突如として微笑み出すルドルフ。

 マウントルドルフ、ションボリルドルフ、嫉妬リルドルフと続いて今回はニッコリルドルフですね、これは。

 どれだけバリエーションが増えてしまうんだ、我が皇帝様は……!

 

 分からん。ルドルフの情緒が分からん。

 負の感情ではなく正の感情だからまだいいが、情緒不安定は情緒不安定だと思う。 

 でも怖いので、それ以上触れないでおく。

 なんかぽやぽやしているから大丈夫だろう、多分……!

 

 

「しかし、スズカがライブにやる気なのはちょっと意外だな」

「そう、ですか? うーん……何だか、多くの人に夢を魅せてあげられるような気がして」

「成程、ちょっと誤解してた。ゴメンな、ずっとスズカのこと先頭民族だと思ってたよ」

「せ、先頭民族?!」

「ああ、確かに……」

「そういうところありますわよね……」

「ウソでしょ?! 皆の中で私はそういう感じになってるの!?」

 

 

 ストイックというか、スズカのレベルまで行っちゃうともうちょっと怖いレベルだもん。

 レースに出ても周りの競争相手とか一切気にせず先頭だけ走って、終わるとファンサもせずに悦に浸ってそうなところあるじゃん。

 

 寝ても覚めても頭にあるのは先頭を走ることだけ。それが先頭民族である。

 “唯一抜きん出て並ぶ者なし(Eclipse first, the rest nowhere.)”は学園の標語だが、多分スズカみたいな意味じゃない。

 

 オグリとマックイーンがやや引き気味にスズカを見ている。

 どうやらオレと同じようなことを考えていたらしい。オグリに引かれるとか相当だぞ。

 

 

「ラ、ライスは、いいと思う、よ……?」

「ラ、ライスちゃん……!」

「ほんとぉ? ライス、無理しなくていいんだぞ。引いてるなら引いてるってちゃんと言ってあげないと、本人は何時まで経っても先頭民族だって気付かないんだ」

「また言った! 折角ライスちゃんがフォローしてくれたのに、どうしてそういう意地悪ばっかり言うんですかぁ!」

 

 

 スズカは顔を真っ赤にしただけでなく耳まで垂らして、涙目でポカポカ背中を叩いてくる。

 ウマ娘の力で叩かれたらドワォ! バキィ! と音がするがポカポカと可愛く済んでいる辺り、スズカも自分自身に思うところがあるようだ。

 

 冗談は兎も角、良い傾向だと思う。

 

 独特の世界観と価値観を持つことはいい。

 それは天才にのみ許されたある種の特権で、才能をより伸ばすために必要な要素でもある。

 

 しかし、閉じた世界には限界がある。

 膨れ上がった才能と能力に精神は驕りを抑えきれなくなり、周囲もまた理解から遠い位置にいる存在を忌避するものだ。

 俗に天才と呼ばれた者の生涯が悲劇と共に幕を引くのはそうした理由ではないか、と愚考する。

 

 他人の言葉に耳を貸せる余裕の分だけ視野が広がり、彼女の世界は広がっていくだろう。

 そうして得られるのは理解と助け。天才であるだけでは得られない強さが其処にはある。

 

 ……スズカも成長している。

 走るばかりではなく、見たい景色ばかりでなく、他者の夢にまで目を向け始めている。

 ならば、オレも手は抜けない。ようやくやる気のエンジンがかかってきた。

 

 

「よーし、やるかー」

「ようやく、ですわね。もしかして、ダンスレッスンは出来ない、とは仰いませんよね?」

 

 

 ちょっと前振りが長くなりすぎたのか、マックイーンが両腕を組んだジト目を向けてくる。

 成程、確かに心配にもなるか。オレがやる気のないのは、ダンスの指導が出来ないから、と思っても仕方がない。

 

 勿論、そんなわけがない。

 拷問部屋はトレーナーの専門学校。必要な知識も技能も全てが叩き込まれる。

 無論、歌やダンスの指導は言うまでもなく、ライブの演出なども学ぼうと思えば学ぶことが出来た。

 

 

「そりゃそういうのも勉強してるが――――オレよりも上手な奴がいてね。特別講師をお呼びした」

「「「特別講師……?」」」

「そう、ウマ娘をキラキラさせる天才だ!」

 

 

 オレの言葉に、ライスとオグリとスズカは揃って首を傾げていた。

 マックイーンなんて、またいい加減なことを、と言いたげだ。

 

 講師らしき人物を連れてきていないので、それも当然。

 だが実は、特別講師は初めからスタジオの中に居た。

 

 コースなんかもそうだが、他のチームと使用が被る場合もある。

 自分の担当するウマ娘の情報を少しでも絞っておきたい場合は、被らないように気を付けるのがセオリー。

 トレーナー同士が相談し合い、そうでなくとも申請を受け取る学園の事務側が気を使ってくれる。

 

 しかし、レースに直接関係のないスタジオ、ジム、プールなどはその限りではない。

 事前に担当トレーナーへとどこそこのチーム、或いは担当と一緒に使用して欲しいとの旨で連絡が入って合同使用する。

 今こうしている間も、スタジオの離れた場所で別チームが此方を気にせずダンスレッスンに没頭していた。

 

 オレは今日、このスタジオを使用するに当たって頼もしい講師を見つけていたのである。そう、その別チームの中に!

 

 

「頼むぜ、南坂ちゃん――!」

「え、僕ゥっ!?」

 

 

 その孤独なシルエットは、紛れもなく奴さ。

 オレの幼馴染にして後輩にして、チーム“カノープス”を引き継いだトレーナー、南坂ちゃん!

 

 

「いや先輩、僕なにも聞いてないですからねっ?!」

「細かいことは言いっこなしにしよう南坂ちゃん!」

「んんんんんんん、いつもこれだこの人は~~~!」

 

 

 

 

 




南坂トレーナーの紹介は次回で。

今回も思いついた別世界線。



アグネスタキオン


ウマ娘でも在り得ない眠らない体質に目を付けたタキオンにモルモットにされる。
相性はそんなによくない。一歩間違えればどっちも破滅しかねない。
が、トレーナーがそれに気付くので、基本相手に合わせてる奴にしては珍しく自らハジケリスト化。狂気に勢いで対抗する。


タキ「ふふ、いいモルモット君が手に入った。さて、今日も研究を――――」
トレ「なぁにトレーニングサボってんじゃボケェ! オラ、対ウマ娘犯罪用ネットランチャー発射ぁ!」
タキ「ぬわーーーーーーーーーーー!!」
トレ「何が研究じゃ! そんなことよりフォーム改善だ!」
タキ「くっ、この程度、ウマ娘の身体能力ならば……!」
トレ「バカなのか? ウマ娘犯罪用だっつってんだろ。倒れてる奴を引きずってくのに身体能力関係ありませーん(ズルズル」
タキ「いやこら拉致だよ!」


そして始まる私とモルモットくんの千日戦争。
扉を塞がれれば屋上からラペリング降下して窓から突入。窓も塞がれれば隙間から消火器をぶち込むして、あの手この手でトレーニングさせるトレーナー。タキオンは時々大泉洋になっちゃう。

薬などに関してもトレーナーのつもりだけどモルモットのつもりはないので断固拒否。


タキ「ちょうどいい。モルモット君、紅茶でもどうかな?」
トレ「(コイツなんか入れたな)貰うけどタキオン、この前作った薬の成分表見せろ。警察にでも入ってこられるとオレとお前だけじゃなくて学園が困る」
タキ「やれやれ、信用がないなぁ……さて、何処だったかな、と(ゴソゴソ」
トレ「…………」←自分とタキオンの紅茶を入れ替える
タキ「ああ、これだ。ほら……うーん、今日もいい香りだ、味も上出…………」
トレ「ぶふぉ! お、まえwwwwマwジwかwよwww黄緑色に発光してんぞwwwwwこうはならんやろwwwww」
タキ「なにわろてんねん」
トレ「オメーが人に何飲ませようとしてんだよ、イカれてんのか?」


頭脳と身体能力で敵わないなら小技と人間力で対抗していく人間の鑑。
が、最後まで見捨てないし離れもしないので、何のかんの信用は得られる。


トレ「おーいタキオン、メシ出来たぞー」
タキ(…………あれ? モルモット君を飼育してるつもりだったけど、飼育されてるの私のほうじゃ?)


最終的にこうなる。


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『形息名彰』

 

 

 

「そういうわけで、コイツが南坂ちゃん」

「ど、どうも。“カノープス”のトレーナーをしています南坂です」

 

 

 ダンススタジオを共同使用したのを良い事に、一つ下の後輩にほぼ無理やり講師を頼んだ。

 ライブに関係するあれこれで南坂ちゃんを超える者はいないと確信しているからだ。

 

 コイツは元々ウマ娘もレースも興味がなかった。

 だが高校の頃、何となしに連れて行ったレースで物の見事にドハマリした。

 尤もオレのように誰か特定の個人やレースという競技ではなく、ハマったのはライブの方。

 

 曰く、レースの後で苦しいはずなのに笑顔を振り撒いて踊るウマ娘は輝いて見えたのだとか。

 

 そこから南坂ちゃんは一念発起。

 オレはガキの頃から勉強しまくったというのに、遥かに短い年数で何の澱みもなく拷問部屋卒業も中央への就職も成し遂げた。

 

 更には新人に近い状態で先代からチームまで引き継いでいる。

 

 これは異例の事態だ。

 基本、チームを率いるのは経験と実績を重ねてからが常。

 一対多でウマ娘と付き合っていくには人間関係の構築は勿論の事、個々人のトレーニングと出走レースも考えていかねばならない。

 特に新人は挫折も知らずに功を焦って視野が狭くなりがちで、そんな真似はほぼ不可能に近い。

 となると優秀な個人を贔屓しがちになって、チーム内に軋轢を生んでしまいかねない。

 

 そうした理由から実績か経験は必要不可欠なのだが、南坂ちゃんはどちらもないまま学園側からの許可をもぎ取りやがったのである。

 

 トレーナーとしての腕も知識も一級品。

 其処に加えてライブから入っただけあってライブや歌唱、ダンスの知識と指導、更には営業力も生半可なものではない。

 

 まあ、オレが覚えているのは拷問部屋に居た頃の南坂ちゃんでしかないが。

 だが学園に戻ってきてからは直接話もしたし、周囲の反応や話も耳に入ってきている。

 

 出会った頃から天才だと思っていたが、あの南坂ちゃんがこんな立派になるとは想像していなかった。

 

 

「会長さんか……! でもターボ負けない! 最初っから最後まで一番で走ってやる!」

「はは。ツインターボ、相変わらず意気軒高のようで何よりだ。素晴らしい、此方も負けていられないな」

「えっ!? ターボのこと知ってるの?! そうかー、むふふ、ターボもついに其処まで……!」

 

 

 そして、南坂ちゃんの担当している娘達はまだ未デビューなのだが個性派揃いだ。

 

 ルドルフと話していたのは濃い青鹿毛の少女はツインターボ。

 ライスと同じくらいの背丈と華奢な身体付き。髪型は名前に合わせてか白黒のリボンでツインテールにしている。

 

 脚質はスズカと同じ逃げ。

 それも大逃げのところまで一緒。但し、もっと破滅的でもある。

 スズカは何のかんの自分のペースを考えているが、この娘の場合はペース配分もクソもない。

 

 情報収集の一環で模擬レースを見たのだが、オレは思わず笑った。

 もう楽しくなってしまってそのまま過去の模擬レースの映像も確認して更に爆笑。

 勿論、馬鹿にしたわけではない。他の連中がどう思っているかは想像に易いが、オレはもうすっかりファンになっている。

 

 

「はー、あの会長さんに、最近話題のオグリ先輩。このキラキラ感……いやー、アタシの場違い感がなー」

「キラキラ……? いや、君も十分キラキラしていると思うが……」

「うぇっ!?」

 

 

 何か眩しいものでも見るように目を細めていた鹿毛の少女はナイスネイチャ。

 しかし、オグリから想定外の言葉を貰って、目を丸くして白黒させて驚いていた。

 

 脚質は先行、差し。当人の好みとしては後者か。

 レースはセオリー通りに運び、受けた指示や作戦を最後まできっちり貫く優等生。

 ルドルフのように何処を切り取っても高い能力で纏まっているわけではないが、必要な能力は平均値を上回る高バランス型。

 

 そのせいか、勝ち切れない場面が多い。

 最後の直線でジリジリとした速度で追い付くか離されるか。

 あともう一つだけ何かが欲しい、という印象を受けるが侮れない。

 その武器を手にした場合は化ける可能性がある。

 

 

「其方が例の……良かったですね、マックイーンさん」

「ええ、イクノさんもトレーナーさんが見つかったようで何よりですわ」

「ありがとうございます。しかし驚きですね。南坂ちゃんさんがルドルフ会長のトレーナーさんとお知り合いだったとは……」

 

(先輩からの呼び方が移ってる……!)

(この子、真面目そうな見た目してノリいいな)

 

 

 マックイーンと親し気な雰囲気を醸している眼鏡を掛けた栗毛の少女はイクノディクタス。

 何でも寮の相部屋らしく、他の面々に比べて距離も近く気心が通じる間柄のようだ。

 お互いに担当トレーナーを見つけられたことを心底から喜んでいた。

 

 脚質は先行、差し。此方は先行がお好みの模様。

 レース運びは堅実そのもの。指示を受けるよりも、自分で戦略を練っていくタイプ。

 ナイスネイチャと同じく高バランス型と能力的には同様だが、性格面はより勝負への欲求が強い。

 

 特筆すべきは未出走でありながら、模擬レースを熟している回数が異常に多い。

 ふらりとコースを見に行くと必ずと言っていいほど走っている。

 中等部ながらも高等部を相手にして二着、三着をさも当然と奪っていく辺り、光るものはある。

 

 

「あ……この前、模擬レースで……」

「あれ? えへへー、ライスちゃん、私のこと覚えててくれ……」

「風邪で休んで……」

「はぐわっ……! はぐわっ……はぐわっ……ガクリ……」

「ど、どうしたの、タンホイザちゃん?!」

「あ、あわわ、ご、ごめんねっ、ごめんなさいっ、だ、大丈夫?!」

 

 

 ライスの何気ない一言が心の弱い部分に刺さった色素の薄い栗毛の少女はマチカネタンホイザ。

 両手両膝を床に付いたまま項垂れる姿は非常に哀愁を誘う。

 心優しいスズカは慌てて、ライスは涙目になりながら彼女を心配していた。

 何だこの娘達は、天使の集団か?

 

 脚質は先行、差し。どちらもバランスよくと言った印象。

 中々切れ味のある末脚の持ち主なのだが、一生懸命前に進み過ぎて必要な分の脚を残せていない印象を受けた。

 この娘もバランス型ではあるが、他の面々に比べてスタミナで勝る。

 中距離だけでなく長距離路線でも十分にやっていける筈だ。

 

 ただ、恐ろしく運がない。

 この前、学園内で見かけた時は転んで鼻血ぶーしているのを何度か目撃している。

 ライスの言っていた体調不良といい、調整から何から大変そうであるが、全ての歯車が噛み合った時の実力は決して侮れまい。

 

 

「他がなんて言ってるかは知らないが、いい娘達じゃん」

「僕としては、もうちょっと言うことを聞いて欲しいですけど……」

「それはお前が悪いよ」

「ですよねー」

 

 

 これがカノープスの面々だ。

 

 強いか弱いかで言えば、間違いなく強い。

 速いか遅いかで言えば、間違いなく速い。

 

 ただ、一部の上澄みに比べるとどうしても見劣りしてしまう個性派ウマ娘。

 総じて、トレーナーの腕前と成長を求められる娘達と言えよう。

 オレのように才能だけで勝ててしまえる天才を初担当にするよりも、ずっと賢い選択だ。

 

 自身と相手の才能をハッキリと線引きし易いのが何よりも良い。

 突出した才能を前にすると、勝てた理由を勘違いし、負けた理由を自分に求めてしまいがち。

 本当の勝因も敗因も見えなくなって、驕り高ぶるか、卑屈になるかで歪な成長を遂げてしまう。

 

 オレもそうならないように意識してはいるが、さてどうか。

 

 

「と言うか先輩、本当に僕が指導するんですか」

「いやほら、トレセン入ってからの記憶がぶっ飛んでるじゃん? だからダンスの振り付けも歌詞も一緒にぶっ飛んでさー」

「急に重いのぶっ込んできたなこの人」

 

 

 ライバルながらも仲睦まじく話す担当達を尻目に、聞き取られない小声で会話をする。

 

 流石に20年近い付き合いでもなければ、こんなに気軽には話せないし、聞かせられない内容だ。

 他の娘達は様々な意味でオレに気を遣っている。こんな事を言ったら確実に空気が澱む。

 

 冗談で済まない事柄を、冗談で済ませられる間柄、というやつだ。

 それくらい信頼しているし、許して貰える程度に信頼されている。

 

 

「じゃあ、こっちも担当のトレーニングメニューを考えて貰いたいんですけど。ギブアンドテイクという事で」

「そりゃそれくらいいいけどさぁ。いいのか、それで? 手の内バレるぜ?」

「別にいいじゃないですか。それにほら、先輩、昼間の記憶は嫌でも忘れちゃいますし」

「言ってくれるじゃんよ、南坂ちゃんコノヤロー」

「そう言われたくなかったらきっちり治してから復帰して下さい。順序が違うでしょう」

 

 

 不意に、鋭い視線で睨み付けられた。

 苛立ちの色はなく、できた傷口を見ているような観察と痛烈な批判の視線だ。

 冗談交じりの会話だと思ったが、どうやらマジの話だったらしい。

 

 理事長もルドルフも、オレがトレーナーを続けることをよく許してくれたと思う。

 こんな事を言っては何だが、南坂ちゃんにしてみれば二人の信頼は妄信にしか映るまい。

 

 この辺りを面と向かって容赦のなく口にするのは、コイツくらいだ。

 こんな風に、南坂ちゃんはオレを疑ってくれるからこそ信頼に値する。

 

 

「だろうな。でもやると決めた。南坂ちゃんなら全部投げ捨てて逃げちまうか?」

「言い方変えて、やることの印象変えるの止めましょうよ」

「印象変えようが、お前なら結論はオレと同じだと思うけどなぁ」

「それはそうですけどね……言っときますけど、潰れると思ったら僕は力尽くでも止めますからね」

「頼むわ、骨は拾ってくれよ」

「骨拾う羽目になる前に何とかするっつってんですよ、こっちは」

 

 

 学園に来てからの記憶を失っているが、オレ達の会話にも関係性にも特に変化はない。

 唯一違っていたのは南坂ちゃんが成長していたことだが、良き変化である以上は受け入れるのは容易い。

 それが無性に嬉しくなって、同時に泣きたくなったから、オレは思わず笑っていた。

 

 南坂ちゃんはそんなオレが気に入らないらしく、珍しく顔を顰めて語気も荒い。

 年頃の担当の手前、いつもにこやかな笑みを浮かべているが、実際のところは激情家。

 自分の感情を別の表情で覆い隠せる真のポーカーフェイスだが、今は巧くいかないようだ。

 

 オレの決断にまるで納得していない。

 それでも此方を見捨てようとしない辺り、信頼するならやはりコイツだ。

 

 確かな尊重と曲げ得ぬ意思との鬩ぎ合い。

 その上で、己の納得を全てに優先する在り方を貫くのは酷く難しい。

 

 だからこそ、男とは常にこうあるべきだろう。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「ライスさん、指先までしっかり伸ばすように意識してください。ダンスは全体のバランスです。些細な事でも見栄えが悪くなります」

「は、はいっ……指先まで……しっかり……しっかりっ……」

 

 

 南坂ちゃんの手拍子に合わせてライスがステップを踏む。

 入学して日が浅く、一番基礎が出来ていないので直接指導が入っていた。

 

 しかし、流石は南坂ちゃん。

 見る見るライスがステップアップしていくのは、才能よりも的確な指導があってこそ。

 もうアイドルのダンスレッスンも問題なく出来るんじゃないかこれ。

 

 

「マックイーン、ステップと呼吸を合わせな。ライブじゃ歌って踊ってだ。息継ぎのタイミングを合わせないと身体が付いていかない」

「成程…………しっかり指導できるじゃありませんの。もっとやる気を出してください!」

 

 

 オレは基礎が出来ている娘を担当。

 マックイーンは先程までのやる気のなさが気に入らなかったらしくプリプリと怒っていた。

 

 メジロ家ではダンスレッスンの専門講師がいるらしく、土台は既に出来ていた。

 この分では歌唱専門の講師もいただろうし、歌の方も問題ないんではなかろうか。

 

 惜しむらくは、それぞれが別に指導されてきた点か。

 メジロ家の考えとしては基礎をしっかりと固めるための措置といったところかな。

 一度に同時にやってどれも中途半端になるくらいなら、踊る歌うに重点を置いて指導して、歌って踊るはトレセン学園に任せる。

 似ているようで違う行為に、マックイーンもなかなか苦戦している様子。

 

 但し、オレのアドバイスには素直に従うし、言うべきことは言ってくる辺り、余裕のあるしっかり者で頼もしい。

 

 

「えー、オレはやらなきゃいけないこととやってあげたいことは真面目に真摯にやる。好きなことは好きにやる。嫌なことは嫌々やる、って決めてるから」

「結局はやるんですね……」

「投げ出さないのは、彼の素晴らしいところだよ」

 

 

 呆れているスズカと手放しに称賛してくるルドルフ。

 ルドルフは既にライブを経験しているし、スズカは密かに練習していたらしい。

 この二人は特に問題なく、卒なく熟せてしまえるだろう。

 

 社会人になればやりたくないこともやらなければ立ちいかない。

 断固拒否するなら相応の理由がなければ誰も納得しないだろう以上は当然のこと。

 

 ライブは反対ではあるが、皆がやりたい、見たいというのなら是非もなし。

 怪我に繋がると判断すれば止めるが、ライブそのものを否定するつもりは毛頭なかった。

 

 

「ほっ、ほっ、ひっ、ふー……!」

「おっ、なんだオグリもやるじゃん」

「これもカサマツ音頭とノルンエースがダンスを教えてくれたお陰だな……!」

「やはりカサマツ音頭……! カサマツ音頭は全てを解決する……!」

「いえ、違いますからね? そのカサマツ音頭推しは何なんですか」

「どう考えてもノルンエースとやらのお陰だろう。カサマツ音頭万能説を提唱するのはやめるんだ」

 

 

 オグリは奇妙な呼吸をしながらも、完璧なステップを踏んでいた。

 走ることと食べることと寝ることしか興味がないと思ったが、これが中々様になっている。

 今すぐにでもライブに出れるとまではいかないが、少なからず恥を掻くことはなさそうである。

 ルドルフの言う通り、カサマツの友人と思しきノルンエースの努力もあったに違いない。

 

 でもオグリはカサマツ音頭やってるからな……!

 

 もうオレはカサマツ音頭のことで頭いっぱいである。

 どうにかしてライブでオグリに踊らせてやれないものか。

 いや、オグリだけではない。全ウマ娘に踊らせるんだ。

 

 

「冗談は兎も角、そろそろ休憩にしない?」

「冗談か? 本当に冗談だな? 私の目を見て言うんだ」

「冗談ダヨ?」

「会長これダメなヤツです」

「ああ、分かっている。断固阻止せねばな」

 

 

 しっかりと目を合わせて宣誓したのに、全く諦めていないのがバレてしまった。

 オレの曇りなき眼を見ても、スズカは顎に手を当てて疑いの視線を向けてくるし、ルドルフは腕を組んで鋼鉄の意思を示している。

 

 クソゥ、駄目かぁ。

 絶対面白いと思うんだけどなぁ。別にライブなんて盛り上がればいいんだよ。

 かわいい、かっこいい要素がなくなって、面白い要素でだって盛り上げは可能である。

 

 心中では盆踊りライブを画策しながらも表面上はガッカリして、用意しておいたミネラルウォーター、スポーツ羊羹と低糖度バナナを持ってくる。

 人と全く同じ動きをしていようが、ウマ娘の方が消費するカロリーも水分も多い。

 倒れるまではいかないが、軽度の脱水症状くらいには簡単になるのでトレーニング中の休憩時には水分補給栄養補給は必ず行う。

 身体能力が高い、というだけでウマ娘を人間の上位種と勘違いする輩もいるが、相応のデメリットもあるものだ。

 

 勿論、カノープスの面々の世話になる予定だったので、人数分キッチリと用意してある。

 尤も、南坂ちゃんのこと、色々と用意しているだろうがそこはそれ。

 感謝は多少なりとも行為で示しておいた方がいい。

 

 

「ところでさ、トレーナーさんと南坂ちゃんって、どういう関係なの?」

「それは気になりますね。正直、三冠バトレーナーと南坂ちゃんさんとでは釣り合いが取れていません」

「いえ、あの……それよりもボクのことを南坂ちゃんと呼ぶのは止めてくれません……?」

 

 

 ダンススタジオの床に座って休憩中。

 思い思いに談笑、チーム間で交流を行っていると、バナナを食べ終わったナイスネイチャとイクノディクタスが口を開いた。

 

 そして、威厳のない呼ばれ方でガックリしている南坂ちゃん。

 一人の大人として舐められている、とでも感じているのか。

 そう落ち込む事もない。愛称で呼ばれるのは、親愛と信頼を覚えているに他ならないのだから。

 

 トレーナーのウマ娘に対する接し方は様々だが、こうした関係性も悪くない。

 時に厳しい言葉をかけなければならない立場であるが、壁を作る必要も常に威厳を醸す必要も何処にもない。

 

 妙に格好付けたがる後輩を横目に、オレは自然体のままでいることにした。

 

 

「釣り合いも何もなぁ。地元が一緒で、ガキの頃から一緒にバカやってた、ってだけだよ」

「へぇ~、幼馴染なんだぁ。どんなキッカケだったの、南坂ちゃん?」

「タンホイザさんまで……」

「私も気になるな。君は余り自身の過去について話したがらない」

「話したがらないって。別にそんなつもりはないけどなぁ」

 

 

 普段の威厳は何処にやら。好奇心を煌めかせながらルドルフが見つめてくる。

 

 全てのウマ娘の模範となるべく生きている彼女ではあるが、今は相好を崩している。

 必要な場面では威厳を発揮しつつ、こうした場面では力を抜ける頼もしい生徒会長さんだこと。

 

 まあ、今は正直話したくないところはある。

 オレから失われた思い出は、周囲の人間にとっても余りに重い。

 しかし、それはあくまでも失われた範囲に限った話でだ。

 

 以前のオレが自分から語らなかったのは、知って貰いたい過去などなかったからだろう。

 過去語りするほど年を食ってはいないし、吐き出さなければやっていられない過去もない。

 かつてを語るよりも現在や未来の話をしていた方が楽しかっただけ。

 

 だからマチカネタンホイザやルドルフだけではなく、他の皆もオレ達の子供時代に興味があるようなので、答えるのも吝かではない。

 

 ではないのだが――――

 

 

「キッカケ、ねぇ……………………なんでだったっけ?」

「えぇ……あんな出会い方して忘れますか、普通?」

「え? そう? ずっと仲良い奴との出会いなんて一々覚えてないって」

「それはそうかもしれないですけど、アレ忘れるとか……ないわー」

 

 

 オレはすっかり南坂ちゃんとの出会いを忘れていた。

 

 しかし、こんなもんだろう。

 劇的な出会いだろうが平凡な出会いだろうが、重ねた日々で更新されていくものだ。

 

 特に男なんてどれだけクールぶっていようが、内面はガキのまんまなんて珍しくもない。

 一緒にバカをやればもうその時点で親友みたいなところもある。

 

 ただ、南坂ちゃんにとってそうではないのか、首を振りながら呆れ返っていた。

 

 

「おお、これはきっとアレッ! 男同士の友情ッ! 河川敷で殴りあって認め合うやつ!」

「いえ、ターボさん、僕達が出会ったのは小学生くらいですから、それは流石に……」

「中学高校時代の南坂ちゃんならやってたかもな、お前荒れてたし」

「さらっと僕の黒歴史明かすの止めてくれます???」

 

 

 ツインターボは色めき立っていた。

 彼女の中では漫画かアニメのような過去が展開されているのだろう。

 

 だが、そんなことはない。

 小学校の頃の南坂ちゃんは兎に角ヒョロかったし、何時も暗い顔をしている典型的ないじめられっ子だった。

 喧嘩などするような性格でもなければ、オレも喧嘩を吹っ掛けるような真似はしたことがないので在り得ない。

 

 尤も、その反動か中学高校の南坂ちゃんは酷いもんだったが。

 そらもう触れる者みな傷つけると言った有り様で、女遊びもしまくっていた。

 トレーナーとして認められつつある事実に感心したのは、そういう理由もあった。

 

 

「へぇ~~~~、意外じゃん。ヤンチャしてたんだ?」

「あぁ~~~~~~、止めてください止めてください、本当に恥ずかしい過去なんですよ!」

 

 

 今の姿からは想像できない意外な過去に、ナイスネイチャを筆頭にカノープスの面々はニヤニヤと笑っている。

 過去のツケを払わされている南坂ちゃんは涙目になりながら頭を抱えていた。

 

 ヤンチャ自慢なんて聞いていて面白くはないが、本人が隠したい秘密を暴くとなると面白い。

 聊か以上に悪趣味と言わざるを得ないが、彼女達の気持ちは分からないでもない。

 

 しかし、もう反省はしているので、助け船を出してやるとしよう。

 

 

「もぐもぐ。ではトレーナーもヤンチャしてたのか? もぐぐ」

「どうだろうなぁ、勉強してた記憶しかない」

 

 

 ところが何の意識もしていないオグリが期せずして話題を変えてくれた。

 

 彼女はこういう所がある。

 空気を読めないだけなのだろうが、狙っていないにも関わらず良い方向に空気を持っていくと言うか。

 相手が無駄に噛みついてさえ来なければ、どうやったところでほんわかと空気を和ませてしまう。

 

 バナナとスポーツ羊羹を貪り尽くす勢いで食べているので、皆からはドン引きされていたが。

 

 取り敢えず、オレはスルーしておく。

 オグリが強迫観念に駆られて食べているか、単純に身体の求めるままに食べているか見分け易いからだ。

 

 それは腹の虫が鳴いているか否か。

 これは身体の血糖値が下がったことで起きる現象で、分かりやすい栄養補給のサインでもある。

 病気の可能性も否定できないので一概には言えないが、少なくともオグリにはピタリと当て嵌まる。

 

 今回は腹の虫を聞いているので、好きにさせておく。

 この場にある食べ物を食べ尽してもカロリーは許容範囲内で収まるし。

 

 

「嘘ですよ。ヤンチャはそんなにしてなかったけど遊びまくってましたよ、この人」

「えぇ? そう? そうかぁ?」

「そうですよ。人の倍勉強して、人の三倍遊ぶがデフォですからね。昔から自分の体質フル活用してましたよ」

「らしいと言えばらしいですわね」

「酷くない???」

「ふふ、根を詰め過ぎない性格と言っているだけですよ」

 

 

 マックイーンは何処か揶揄するような笑みを浮かべていた。

 心外、でもないが勉強よりも遊び、仕事よりも息抜きの方が重要、とでも思われていたのはややショック。

 スズカはフォローしてくれていたが、そんなちゃらんぽらんに映っていたのか。

 

 …………いや、ちゃらんぽらんだなぁ。

 

 少なくとも今日のオレを見て、ちゃらんぽらんと思わん人間はいないと思う。

 やたらカサマツ音頭を推すし、後輩にダンスの振付丸投げだし、そらそうである。

 

 

「それよりもそっちの……、そっちの………………チーム名なに?」

「そう言えば、私達も聞いてない……」

「まさかとは思うが、まだチーム登録を行っていない、などということはあるまいな?」

「いや、チーム登録はしてある。けど、名前がまだ決まってない」

 

 

 ツインターボに思わぬ方向から刃を捻じ込まれ、思わず息が詰まる。

 その様子にライスは不安そうに、ルドルフは威圧感マシマシで此方に視線を向けてくる。

 

 チーム登録に必要な全員の個人情報や同意書、志願書などの必要書類は既に提出済。

 ただ、チーム名はその場で思いつかなかったので、無記載のまま提出した。

 

 案の定、駿川さんから直々にお叱り、というほどでもない指摘を喰らって保留中。

 チームとしては学園側に登録されているものの、チーム名のない宙ぶらりん状態というわけだ。

 

 チームは伝統的に、星の名前から付けられることが多い。

 カノープスもリギルも一等星由来の名前なのだが、どうも星の名前って決まり過ぎてる感が否めないのが個人的な所感。

 

 シリウスとかもう決め過ぎ。天狼星に、意味は「焼き焦がすもの」、昔の人は何考えてこんな名前つけたの?

 アンタレスもヤバい。意味は「火星への反逆者」。反逆しちゃったよ、ウルトラマンレオとも戦ってやがる。

 アルタイルも凄い。意味は「飛翔する鷲」、ゲームの主人公にもなりやがった。

 アルデバランなんて最強だ。黄金聖闘士(ゴールドセイント)だぞ黄金聖闘士(ゴールドセイント)

 

 その点、カノープスはいい感じだ。

 戦乱時には見えず、世が平穏になると見えるなんて俗信もあって、人々が幸福と長寿を願う星。

 勝利を願うと共に応援もしたくなる和気藹々としたチームの雰囲気によく合っている。

 

 こっちはルドルフが看板のチームだからキメッキメの名前もいいが、率いるのオレだからなぁ。

 もうちょっとこう、決まり過ぎていない間抜けな感じの方がいい。

 

 

(……いや、だが)

 

 

 チラリとチームの面々を眺める。

 

 ルドルフは世界中のウマ娘の幸福を。

 スズカは先頭の景色を。

 オグリは故郷への礼と期待を。

 マックイーンはメジロの誇りと天皇賞制覇を。

 ライスは見ている者を勇気付けられるヒーローを。

 

 夢そのものは抽象的であれ、それぞれの明確な目標地点が決まっている。

 

 その道は果てしなく遠く、きっと険しい。

 だが、辿り着いた果てにあるものは、誰もが目を細めるような輝きに満ちているだろう。

 

 

「そうだな。じゃあ“デネブ”だ。“デネブ”にしよう」

「デネブ……えっと、確か、夏の大三角形の一つ……?」

「それから白鳥座の星でしたわね。何か意味でも……?」

「いや、特に。ほら、響きがちょっと間抜けで可愛くないか?」

「先輩、それは流石にないですよ。ないわー」

 

 

 チームの反応はやや不評だったが、忘れないよう手帳にしっかりと書き込んでおく。

 選んだ理由がちょっと間抜けな響きだから、では年頃の娘には面白くないだろう。

 まあ、本当の意味と込めた願いは全く別なので勘弁して欲しい。

 

 デネブは21ある一等星の中で地球から最も遠く、西暦10000年前後で北極星になるのだとか。

 

 どれだけ長い道のりを歩むことになったとしても、必ず夢を掴めるように。

 誰もが目を奪われて、指針となる夢と場所を彼女達が目指し、辿り着けるように。

 

 そして、さっさと辞めてしまえばいいものを、意地だけで周りへの迷惑を顧みず長く愚かな道を選んだオレへの皮肉も込めた。

 

 何の心配もいらない。

 オレ一人の力など大したものではなく、人より優れていたとしても特別には程遠い。

 必死で進んでさえいれば、道半ばで倒れたとしても信頼に足る「後に続く者」が現れる。

 悔いも未練も置き去りにして、オレ達は夢にも人生にも安心して幕を引けば良いのだから。

 

 

 

 

 




南坂T

此処のトレーナーのせいで、アニメ版とは大分違う。
トレーナーとは地元から一緒で兄弟のように育ってきて、ヤベー奴に潰されるどころかひーひー言いながらも付いてきてたヤベー奴。
長い付き合いなので、トレーナーが覚悟ガンギマリの超人メンタルしているのは知っているが、かなり弱っていることにも気付いている。
トレーナーはトレーナーで、南坂Tの天性に気付いているので、誰よりも頼りにしている節がある。
トレーナーとしての腕はおハナさん沖野Tにやや劣るが、その分ライブ関係では他の追随を許さない。
この辺りは、アニメ二期を見ててネイチャさんがテンション上がってるからって投げキスとかするか? → これはトレーナーの指導の賜物ですね(確信)→ デカした南坂ァ!! になったから。
稍重過去持ち。中学高校と荒れに荒れていた元ヤン。なおアニメでのウマ娘のお願いを叶えるために秒でライブジャックを考えつくサイコ野郎ぶりは健在の模様。

サポート効果:全体の友情トレーニング効果中UP。カノープスメンバーの友情トレーニング効果特大UP。レースボーナス大UP。やる気が「普通」以下にならなくなる。獲得マニー大UP。ファン獲得数大UP。

ライブに特化していてチームメンバーに印税生活させてやれるくらいの腕があるので、こんな感じ。
彼が担当したライブは常に大成功の大評判になる。



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『法界悋気』

 

 

 

「チーム作るとこんな事しなくちゃならないんですか。オレがガキの頃は自分で調べたけどなぁ」

「この業界は戦後からずっと成長期にありますけど、衰退は何時起こっても不思議ではないですからね。中央の委員会や学園の上層部も発信を義務付けているんです」

 

 

 決めあぐねていたチーム名を“デネブ”と決めた翌日。

 さっそく駿川さんに相談し、チーム名の登録など諸々の手続きを終えた。

 これで明日にでもチーム“デネブ”として正式に動き出すことになる。

 

 校舎にある事務局からミーティングルームへと戻るため、敷地内の舗装道を駿川さんと並んで歩いていた。

 

 しかし、オレは想像もしていなかった義務に面を喰らう。

 ピンと人差し指を立てながら懇切丁寧に説明してくれた駿川さんには悪いが、正直面倒でしかない。

 

 義務というのは、チームを率いるトレーナーはウマッターやウマスタグラムなどのSNSにアカウント登録するというもの。

 そして登録したアカウントから所属者の出走レース、メンバーの紹介などを発信していかなければならないのだとか。

 

 確かに今の時代、SNSは情報を発信する上で最適の手段だろう。

 気軽に、何時でも、何処からでも。電波の届く場所であれば個人が世界中にあらゆる情報を広められるITサービス。

 誰かに興味を持って貰うことに腐心して集客してきた業界にとって、広告料も手間もかからない情報発信源は正に待ち侘びた代物だ。

 

 情報発信を義務付けられたチーム側も手間ばかりがかかるわけではない。

 

 巧く宣伝できればデビュー前からでもファンを獲得、グッズの売れ行きも伸びて印税が入る。

 ファンが増えるほどレースの結果に関わらず、中央からトレーナーとしての腕を評価して貰える。

 宝塚記念、有マ記念はファン投票で出走者が決まるから、SNSを上手く使えば出走内定なんてこともありそうだ。

 

 個人的にファンなど実力を発揮すれば付いてくるもので、自ら動く必要性は感じない。

 しかし、トレーナーの義務と言われれば、此方としてもやらざるを得ない。

 

 SNSを使わないわけではないが、基本は受け取る側なので何を発信していけばいいのやら。

 正直、ちと困惑気味。下手な真似をして炎上させたらオレだけではなく皆にも迷惑をかけてしまうのも拍車をかけていた。

 

 

「お困りでしたら他チームを参考にされれば?」

「それが一番かー。ちょっと調べてみてもいいですか?」

「ええ、どうぞ」

「では遠慮なく」

 

 

 気を遣って説明のためにだけに付いてきてくれた駿川さんに、失礼を承知でスーツの内ポケットから取り出したスマホを見せる。

 すると彼女はニッコリと微笑みながら、気にした様子もなく寧ろ推奨してくれた。

 

 そのままスマホをタップしてウマッターを起動。

 取り敢えず、リギルのアカウントから見てみるか。

 

 まず出てきたのは『チーム“リギル”今月の出走予定』。

 書かれていたのは出走レースと出走者の名前、バ番枠番、開催会場と時間だけという簡潔さ。

 文体からして書いたのはおハナさんだろう。流石の無駄のなさと遊びのなさ、そして分かり易さであった。

 

 この分ではずっとこんな感じか、と過去の投稿を遡ってみると―――――

 

 

『これがナウなヤングにバカウケスイーツ……!』

 

 

 言葉選びからしてマルちゃんのものと思われる投稿があった。

 ちなみに張り付けられていた画像は、何処かの喫茶店と思しき場所で撮られたティラミスとナタデココ。

 

 その二つが流行ったのは平成初期頃。

 やはりセンスがどっかおかしい。一人だけ時代を逆行している。

 しかし、結構いいねを稼いで反応も中々好評な模様。

 

 そらゲキマブが面白いことしてたらファンもつくというもんである。おっと、語彙が。

 

 

「成程、チームだからアカウントを共有しておけばメンバーで何かしら投稿するのもありなのね」

「そういったチームも少なくありませんね」

「おっ、リギルは全員参加してやってるのか」

「東条トレーナーが投稿の仕方やネット上での注意点を指導して、その後は任せているようで。チーム“リギル”は安定してフォロワー数を増やしていますね」

 

 

 うーん、流石はおハナさん。抜け目もなければ抜かりもない。

 手腕が鮮やか過ぎて、参考にするどころか惚れ惚れしてしまう立ち回りである。

 

 気になったので他を見てみる。

 

 フジは不定期であるがマジックの動画を上げていた。

 そういうのが得意と言ってたな、そう言えば。

 

 どの程度の腕なのか確かめるために動画を再生してみる。

 

 其処にはにこやかに微笑んだフジが映し出され、何もない所からシルクハット取り出して中から鳩飛ばしてのけた。

 トランプとかコインを使ったテーブルマジック程度かと思ったが、完全に素人の範疇じゃない。

 手際といい、見せ方といい、緩急の付け方といい、完全に玄人のそれ。

 

 この道で食っていけるんじゃないかと思えるほどで、魔法にしか思えない。

 

 

『また動画を上げるから楽しみにしてね。ポニーちゃんに感動をお届けするよ。じゃあね!』

 

 

 楽しそうに笑みを深めてウインクをしたフジのアップで動画は終わった。

 

 うわーーーーーーーーーーーーーー!! また女の子にされちゃう!!

 フジの笑みとウインクが余りにも男前過ぎて、心の奥深くにあるドアを蹴破られて無理くり女性性を引っ張り出される……!

 

 

「ふーーーーーーーーーーーーー………………」

「ど、どうしたんですか? 突然、胸を押さえて……」

「いえ、ちょっと。この胸の高まりを抑えないと今すぐにでもタイに飛んで行ってしまいそうで」

「タイに!? 一体何が?!」

 

 

 そりゃタイは性転換手術が盛んだからである。

 隣に駿川さんがいなければどうなっていたことか、少なくとも黄色い悲鳴を上げていただろう。

 

 下手をすれば、航空チケットの予約までしていた可能性がある。

 衝動的に性転換手術まで視野に入れさせるなど、フジ、恐ろしい娘……!

 

 ビジネススーツの上から胸を抑え、めぎゅっと下唇を噛んで必死に女性性を抑え込む。

 オレが本調子ではないことを知っている駿川さんが心配そうにしてくれているが、決して身体と頭のことではなく心の問題なんです……!

 

 

「いかんいかん。オレは男オレは男」

「は、はあ、それは知っていますけど……ほ、本当に大丈夫ですか?」

「大丈夫、大丈夫。さーて他には、っとぉ」

 

 

 何とか本来の自分を取り戻し、気も取り直してリギルのウマッター鑑賞を再開する。

 

 マルちゃんやフジ以外で目に付いたのは、ヒシアマゾンの投稿だ。

 彼女が作ったと思しき弁当の写真が上げられている。

 

 それもウマ娘のキャラ弁。

 一目見ただけで誰か分かるほど特徴を捉えていて、クオリティが異常に高い。

 意外と言っては失礼だが、少し話しただけでも豪放磊落さが伝わってくる性格からは想像できない女子力の高さである。

 だが不特定多数のファンにとっては定番なのか、返信内容は称賛から辛口評価まで様々。

 

 流石はフジと双璧を為す美浦寮の寮長。 

 タイマンタイマン言っているだけあって、ファン数でもタイマン張れそうだ。

 

 他には花の写真と解説、今年リギルに入ったメンバーの写真と名前が投稿されていた。

 

 多分、前者はエアグルーヴ、後者はナリタブライアンだろうか。

 元は知り合いのはずなのだが、学園に戻ってから会話はしていない。

 

 しかし、為人(ひととなり)はルドルフから部下にして同志として、スズカから友人としての評を聞いている。

 個人の性格を情報として持っていれば、文体や言葉尻からでもある程度は推測は可能だった。

 

 

「でもなぁ……」

 

 

 ウチでそれやってもなぁ。

 ルドルフはマジレスと業務連絡みたいな投稿しかしないだろう。

 他の皆もどんな投稿をするのやら。正直、炎上案件が怖い。

 

 スズカはそもそも興味を持っていないのでやらないだろう。

 やったとしても走ることに関してしか投稿しなくて、見ている側が困惑するような発言をお出しするだろうから却下。

 

 オグリも興味はないだろうが、やれと言われればやってくれる。

 但し、天然発言か飯のことばかり……これはこれで人気が出そうだな。いやアイツ、スマホどころか携帯も持ってなかったな。

 

 マックイーンは割とムキになるところがあるから煽られればスルーできまい。

 ただ、自覚している部分はあるので断るだろう。

 

 ライスなんかは考え過ぎて知恵熱を起こしてしまいそう。

 何かと気にしいなので、一人ひとりに返信するとかやりそうだ。SNSなどやらせられない。

 

 となると、やはりオレがやるしかない。

 こういうのは南坂ちゃんが得意だから、アイツにも聞いてみよう。

 

 

「義務と言っても罰則等はありませんので、無理はなさらないで下さいね?」

「いやぁ、気を遣って貰ってばかり、世話にもなりっぱなしで申し訳ない。今度、メシでも奢りますよ」

「あら、デートのお誘いですか?」

 

 

 別に他意はない。

 昼間に起きた出来事を覚えていられないとなれば、相手にどれだけ迷惑をかけることになるか。

 今は流石に誰かと付き合う、結婚する気になどとてもなれない。

 

 ともあれ、此方まで笑みが零れた。

 

 何処か揶揄うような笑みを浮かべる駿川さんは酷く女性的である。

 同時に人間的な魅力まで詰まっていたからだ。

 

 

「南坂ちゃんやおハナさん、小宮山さんも誘うつもりですけど」

「まあ、それは楽しみですね! レースやウマ娘のお話も聞けそうですし、是非!」

 

 

 オレの誘いに、両手を顔の横で合わせ満面の笑みを浮かべた。

 

 流石にサシとなれば相手も委縮したり、ない下心を警戒されるのは予想していた。

 彼女以外にも南坂ちゃんもおハナさんにも世話になっているし、小宮山さんとはタマちゃんを通じて何度か話をしている。

 ならいっそのこと世話になっている人物は全員誘うのもいいだろうと考えていた。

 

 単なる思い付きではあったが、好評なようで何より。

 時間の調整と場所の予約は企画者のオレがするとしよう。

 幸い、全員の連絡先は知っているし、何かと忙しいトレーナーであるが一日休みを作るくらいは訳ない筈だ。

 

 

「………………」

 

 

 しかし、オレはこの時気付かなかったのである。

 

 この些細な思い付きと会話を聞いているウマ娘がいたなどと――――!

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「…………」

 

 

 ミーティングルームに戻って、時刻は14時。

 この時間にやることは、17時以降の計画を立てるのが主。

 前向性健忘になる以前であれば、ある程度無計画でも人よりも多い時間を使ってやりくりできたのであろうが、今はそうもいかない。

 何をやるのかを明確にしておかないと、記憶が失われた瞬間から無為になる時間が増える。

 

 そうした時の焦りや不安は尋常ではない。

 記憶にある範囲で時間が足りないと感じたことはなく、眠らないオレには無縁ですらあった。

 

 正直、眠らなければならない人々への敬意を禁じ得ない。

 こうした不安と日々戦いながらやらなければならない事柄を熟しているなど。

 健常であった頃には理解すら出来なかった事実を直視できたのは、手放しに喜べないが経験にはなっていた。

 

 トレーニングの効果と各人の様子を確認。

 スズカのフォーム改善の進捗状況と別の要因がないか。

 スズカ以降に予定している確認のフォーム改善案。

 今日の様子から明日以降のトレーニング計画の立て直し。

 各々の目的に応じた出走レースの選定。

 時間が余れば映像研究。

 

 やることは山積みだが、計画があるとないとではかなり違う。

 何処から手を付けていいか迷う必要がないというだけで精神的な負担も少ない。

 

 ある程度纏まってきたと思ったその時――――

 

 

「失礼するぞ、トレーナー君」

「はぁい、私も失礼するわね」

「ほいさ……うわ、二人とも勝負服じゃん。どうしたよ?」

 

 

 ノックもなしにミーティングルームの扉を蹴破る勢いで入ってくるルドルフとマルちゃん。

 珍しく非礼な振る舞いであるが、別にオレも疚しいことをやっていたわけではないので責める気も起きない。

 

 そして、別段珍しい組み合わせでもなかった。

 この二人は親友と呼んでも差し支えない間柄で、学園内でもよく一緒にいるのを見掛ける。

 物珍しかったのはGⅠレースでもないにも関わらず、二人が勝負服を着ていたことだ。

 

 勝負服は晴れ着そのもの。

 大舞台でのみ着用するものなのであるが、如何なる理由で身に纏っているのやら。

 

 

「ああ、これか。取材があってね」

「それで急遽、勝負服の写真が欲しいー、って言われちゃって」

「へぇ…………いやちょい待ち。オレ取材あるとか聞いてない」

「ああ、私個人へではなく学園全体へのものだったからな。こうなるのは想定外だったが」

「アレ、狙ってたわよねぇ……」

 

 

 個人への取材となるとトレーナーを通して様々な手続きと制約が生じる。

 対し、トレセン学園そのものに対する取材となれば手続きこそ必要だが、トレーナーを介す必要がなくなる。

 

 トレーナーはウマ娘を育成、補佐する立場で取材にも同行するのが常。

 如何に優れた能力を持つウマ娘と言えども、所詮は10代の少女。

 インタビュアーから大衆が喜びそうな醜聞や捏造しやすい言葉を引き摺り出される場合もある。

 そうした事態を防ぐために同行するのだが、ブンヤ側としては邪魔者にしか映るまい。

 

 その邪魔者を排除できるのが、この手段。

 大方トレセン学園の学生の印象を聞きたい、という名目で有名選手に突撃取材をしたわけだ。

 

 汚いな、さすがブンヤきたない。

 二人はブンヤの手段になど慣れ切っているのか、やや辟易としているだけ。

 無茶な取材や写真撮影に応えたのは、ブンヤの向こう側で待っているファンを思ってだろう。

 不用意な発言などしているとは思えないが、理事長に打ち上げて厳重注意をしておいて貰おう。

 

 

「いや、そんなことよりも――――駿川氏と食事に行くそうだな」

「はぇ? そりゃ行くけど、何処で聞いたんだ?」

「取材を受けている最中に偶々耳に入ってね……そうか、行くのか。そうかそうか、つまり君はそういう人間だったのだな」

 

 

 駿川さんと話している最中に近くにいたのか。

 まあ、ウマ娘の聴覚なら、近くなくても聞き取れるのだろうが。

 

 ………………しかし、なんか怒ってない?

 

 別に怖くも何ともないが、普段よりも威圧感マシマシである。

 何と言うか、『中央を無礼るなよ』と今にも言い出しそうだ。

 

 オレにあったのは困惑だけ。

 知り合いと食事に行くことの何がそんなに拙いのか。これがさっぱり分からない。

 確かにオレはトレーナーだが、プライベートで誰と食事に行こうと構わないだろう。

 そりゃルドルフ達に何らかの異常や不調が発生したというのなら、プライベートなどいくらでも犠牲にするが。

 

 助けを求めるようにマルちゃんを見たが、ルドルフの見えないところで口元を抑えて笑いを堪えているだけ。

 一目でこの状況そのものを楽しんでいるのが伝わってくるのだが、オレとしては解説か助け船が欲しい。

 

 

()()()()()()()でありながら、私を差し置いて食事に行くなど――――いやらしい」

「なんでぇ? 別に仲間内でメシを食いに行くなんて普通だろ。何なら、今だってルドルフ達と一緒に食べてるじゃん」

「違う。そうじゃない」

「違うのぉ? そうじゃないのぉ?」

「んんーーーーーーーーーーーっ!」

 

 

 キッカケはオグリの過食症対策だったけど、最近は全員馴染んできたと思っていたのだが。

 それぞれ出会ってから一月も経っていないのに壁らしい壁がなくなって、言いたいことを言い合える仲にはなってきている。

 ルドルフとオグリなんて一緒にスケートしそうなくらいに仲が良いのに何が不満だと言うのか。

 いや、流石にスケートまではしないか。困惑の余りに存在しない記憶が脳内に溢れ出していた。

 

 オレが困っているのが楽しいのか、ルドルフがやきもきしているのが面白いのか。

 マルちゃんは両頬をハムスターのように膨らませ、顔を真っ赤にして堪えている。

 

 色々と考えてみたが、もしかしてルドルフも一緒に来たいとか。

 それなりにお高いちょっといい店を探すつもりだ。

 普段よりもちょっといいものが食べられるとでも思っているのかな。

 

 

「じゃあ一緒にルドルフも来る? 何ならマルちゃんもいいけど……」

「違う。そうじゃない」

「違うのぉ? そうじゃないのぉ?」

「…………んぐっ、んふっ、ふふっ」

 

 

 流石にオグリほど食い意地は張ってないか。

 そもそも、ちょっとお高い程度では名家出身には嬉しくもないか。

 

 マルちゃんは遂に笑いを堪えきれなくなって噴き出した。

 ルドルフはもう気性難みたいになっちゃってるし、助けの手を差し伸べて貰えないオレは困惑の至りである。

 

 あと考えられそうなのは何だぁ……?

 

 

「…………他のトレーナーと一緒に行って手の内を晒すのを心配している、とか」

「違う。そうじゃない」

「違うのぉ? そうじゃないのぉ?」

「んふふっ、たーのしぃーーーー!」

 

 

 もう何をそんなに怒っているのか教えて欲しい。

 こっちとしては思い当たる節なんて一つもないのだから。

 何かが気に入らないというのなら改善するが、その何かが分からなければ改善しようもない。

 

 マルちゃんはもう全力でエンジョイしていた。

 一しきり一連の流れを楽しんでようやく満足したのか、目に涙を溜めながらもルドルフの肩を掴んで何事かを耳打ちする。

 

 

(いい加減になさいよ、ルドルフ。私達は()()恋人でも何でもないんだから、彼の行動を縛る権利なんてないでしょう……?)

(ぐっ、むぅ……確かに道理だ。し、しかし、君はそれでいいのか?)

(私はいいわよぉ? 最後に彼の隣に立っている自信はあるし。あんまりトレーナー君を困らせちゃだぁめ。余裕のない女は嫌われるわよぉ~♪)

(……ぐぅの音もでないとはこの事だな。だが、私も彼の隣を譲る気はない)

(その心意気、チョベリグねッ! 普段アレだけ聡い彼がこんなニブチンになっているということは、私達はそもそも恋愛対象じゃないのよねぇ。つまりは……)

(どれだけ彼に意識させられるかが勝負、ということか……!)

(あたりきしゃりきのこんこんちき!)

 

 

 やがて気が立っていたルドルフの態度が柔らかくなっていく。

 マルちゃんの言葉が怒りにスーっと効いて……これは、ありがたい。

 

 但し、オレを見る二人の瞳の奥に怪しい光が灯った気がする。

 何となく、何となくであるが、とてつもなく嫌な予感が……。

 

 

「トレーナー君、済まなかった。君の交友関係にまで口出しする権利などないにも関わらず……」

「いや、そりゃ構わないけど……」

「じゃあ丸く収まったみたいだから私は行くわね? あ、そうそう。トレーナー君、ちゃんとドライブデートの準備もしておいてね」

「ん? ああ、分かったよ。次の休みを合わせるから、その時に行こう」

「…………………………は?」

「ふふっ、じゃあドロンさせて貰うわ。バイビー!」

 

 

 最後にウインクを決めてスキップしながら退室していくマルちゃん。

 こちらはフジとは違ってヒロイックさよりもキュートさが前面に押し出されていて愛らしい。

 全力で人生を謳歌しているのが伝わってきて、羨ましいやら感心してしまうやら。

 

 オレも時には自らの置かれた境遇を忘れ、楽しむことだけを追い求めるのもいいかもしれない。

 悩みも重荷も全てを忘れ、ただ享楽にのみ殉ずるべく頭を空っぽに――――

 

 

「は?????????」

「いや、あの……」

「私を差し置いて、マルゼンスキーとドライブデート……? 済まない、意味が分からない。私に分かるように説明して欲しい」

 

 

 ――――出来ませんでした。

 

 だって能面のような無表情になったルドルフが、此方に虚無の視線を向けてくるんだもの。

 何時もは夢と誇りで煌めいている紫紺の瞳は、今や現実に空いた(うろ)のように底の見えない色をしている。

 

 あとバチバチと放電現象を起こしているのは目の錯覚だと思いたい。

 

 汝、皇帝の神威を見よ、と言った感じ。

 こんなんでは血眼して(おろが)んでしまい、うほおおー! してしまいそうだ。

 

 マジかよ……!

 さっきオレの交友関係に口出しする権利などないとか言っていたのに、舌の根も乾ききらない内にこれ!

 

 ほ、本格的にルドルフの情緒が分からなくなってきた!

 学生時代はそれなりに付き合ったりしてきたから女心は分かっているつもりだったが、これじゃあマジで秋の空模様と変わらない移ろい易さだよ!

 

 

「じゃあルドルフも行くか……?」

「そういうことを聞きたいのではない。どうせ君のことだ、マルゼンスキーのデートに同行するかなどと――――」

「……何なら二人だけでもいいけど?」

「な、何……?」

 

 

 別にそれでも構わない。

 前々からルドルフは堅い所があるから、息抜きの方法を知っているか気になっていた。

 

 夢に邁進するのも結構だが、それだけでは息が詰まる。

 世に結果を残してきた人間が、ただ一つにのみ人生を捧げたかと言えばそんなことはない。

 

 ガンジーとか若い頃、女遊びしまくって親の死に目に会えなかっただとか。

 ルソーが実はマゾヒストで、女性に罵って貰うために全裸になって捕まっただとか。

 

 そういった偉人達の残念エピソードは思いの外多い。

 いや、ルドルフにそのレベルになられたら困るのだが、要するに多少息抜きしたって結果は残せるよ、という話。

 

 多少でもそうした形で彼女の助けになれるのなら、オレも付き合おう。

 ピコピコと忙しなく動く耳、緩んだ口元と紅潮する頬を見るに満更ではないようで安心した。

 

 

「ルドルフが嫌なら他の皆も誘うけど?」

「こ、断る! それはまた今度だ!」

「そ、そうっすか」

 

 

 全力のオ(コトワ)ルドルフだった。

 マウントルドルフ、ションボリルドルフ、嫉妬リルドルフ、ニッコリルドルフに続いて五人目。

 皇帝戦隊ルドレンジャーの完成である。多分近い将来、六人目の追加戦士が現れることだろう。

 

 

「ふふふ、そ、そうか、デートか。君の方から誘われるとは思わなかったが、成程悪くない気分だな」

 

 

 すっかり上機嫌になったルドルフは今からもう楽しみなのか、ソワソワとその場を行ったり来たり。

 

 まるで遠足前にはしゃぐ子供のようだ。

 こりゃ責任重大だ。何時かは分からないが、きちんと楽しませるべくエスコートしなくては。

 

 

「…………っ」

 

 

 ――――その時、ふと彼女の右胸で揺れる勲章に目を奪われた。

 

 

 勝負服は専門のデザイナーが手掛けており、トレセン学園の外にも著名なデザイナーがいる。

 それを考えると勲章の本体となる章身の造りは稚拙で、明らかに職人の作ったものではない。

 

 ただ作成者が何をイメージしたのかは分かる。

 章身と胸を繋ぐ織物、綬と呼ばれる部位の色は彼女が達成した三冠――即ち、皐月賞、東京優駿、菊花賞の優勝レイを模したものだろう。

 

 自分でもよく分からないまま、涙が出そうなほどに胸が締め付けられる。

 まるでかつてのオレが忘れてはならないものを忘れている、と責め立てられているようで。

 

 だが結局、オレの壊れた頭は何一つ思い出せないまま、その答えを得ることさえ叶わなかった。

 

 

 

 

 








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『意趣卓逸』


ランキング入り、感想、誤字報告ありがとうございます。
大変励みになると共に、助かっております。

ところでジャミニ杯はどうでしたか?
作者はAグループまで行ったものの、グレードリーグでAグループに入れたまでは良かったが、結果3位に。残念!
黒マックもゴルシちゃんも、タイシンも運良くスピード、スタミナSまで行けて、回復スキルも獲得できたからもしかしたらもしかるするぞ、と思ったけどやっぱりA+、Sの壁は厚いなぁ。

そして次はヒシアマ姐さんktkr! でもキタちゃんが欲しいからそっちのピックアップはよ!




 

 

 

 

 

 僅かばかりに肌寒さを残した春先。

 街路樹の若葉やアスファルトから逞しく顔を出した野草が青々と生い茂る季節。

 

 日が沈み始めた夕暮れの時刻、オレは府中の街中に居た。

 普段のビジネススーツやトレーニング用のジャージではなく完全に私服。

 それなりに値の張るビンテージのジーンズ。無地の白いTシャツの上からグレーのカーディガンを羽織っただけ。

 

 ただでさえ190近い身長で筋肉もかなりあって目立つのだから、私服はこれくらい地味な方がいい。

 小洒落ているわけではなかったが、外に出ても恥ずかしくもない至って普通のファッション、だと思いたい。

 

 折角仕事の出来る時間帯に学園の外で何をしているのか、と言えば――

 

 

「すまない、待たせただろうか」

「いや、ぜーんぜん」

 

 

 ――今日はルドルフとお出掛け(デート)であった。

 

 この時間帯を選んだのはオレではない。

 彼女がどうしてもマルちゃんよりも先にデートへ行きたいと言い出したので、互いに折り合いをつけられるのが今しかなかった。

 更に言えば、記憶を保持しておける17時以降でなければオレが素直に楽しめない、とでも思ったのだろう。

 

 帰りが遅くなりかねない時間からのデートは流石にオレも拒否しようと思った。

 大事な記憶こそないが大切な相棒であることに変わりなく、仮にも親御さんから預かっているも同然の娘。

 蝶よ花よと愛でて大切にするだけのつもりはないが、世間体や常識を無視して夜に出歩き大事に至れば、それこそ親御さんどころかオレを信じた理事長やおハナさんにも顔向けできない。

 

 しかし、オレの至極全うだったと思われる言葉の数々をルドルフは嫌だ、断ると理由も言わずに子供っぽく断固拒否。

 かと思えば、寮長であるヒシアマゾンにきっちり門限外の外出申請もしていれば、理事長にも事前に報告して許可を貰ってきていたりもする。

 子供としての側面と大人としての側面を持ち合わせた()()()()の少女。それが今のルドルフだ。

 

 尤も、それを知っているのは近しい人間だけで、遠巻きに眺めるしかない者には非の打ち所がない完璧超人にしか映らないだろうが。

 

 

「予定通り、映画でいいか?」

「ああ。まだ何を見るか決めていないが、限られた時間ではちょうどよいからね」 

 

 

 待ち合わせの場所はトレセン学園から少し離れた何の変哲もない公園。

 母親に手を引かれ、或いは友人同士や兄弟同士で家路につこうとする子供達を見送りながら、映画館への道を並んで歩く。

 

 隣にいるルドルフもまた私服姿。

 

 何のロゴもない深緑のVネックTシャツ、白いパンツ。

 シンプルながらもスラリとしたスタイルと落ち着いた性格にはよくあった出で立ちだ。

 歩く度に揺れる赤革の腕時計と青いリボンベル、ショルダーポーチがアクセントになっていてモデルのようだ。

 

 普段は制服かトレーニングウェアの二択しかないので新鮮でさえあった。 

 顔の上に乗ったハーフリムの黒い眼鏡の奥にある瞳は、確かな歓びで瞬いている。

 

 …………いや、新鮮と言うのは違うか。

 

 トレーナーをしていた以上、それなりに仲は良かったはず。

 こうして出掛けたこともあっただろうし、単にオレが忘れているだけなのだ。

 

 何時まで経っても不意に訪れるこの瞬間には慣れない。

 自身が忘れている何かを自覚する度に去来する悔悟と寂寞。

 根明に育って心底から良かったと思う。でなければとうの昔に心は砕け、立ち上がれなくなっていただろう。

 

 

「何を見ようか。今は有名どころもやってないし、ルドルフはどんなの見る?」

「そう、だな。普段は史実に沿ったものやドキュメンタリーなどが多い」

「そうっすか。今の時期に何かやってたかぁ?」

「其処は気にしないで欲しい。以前は脚本の構成や流れにばかり目を向けていたが、登場人物の心を重ねて見ることを君に教えて貰った。それに、その……君となら何でも楽しめる気がするよ」

 

 

 ルドルフはこれから映画を見る高揚からか、頬を紅潮させながらも悪戯っぽく笑った。

 

 その柔らかな微笑みに、また一つ救われて心が軽くなる。

 オレが忘れてしまっても、確かな過去が其処にある事実は重くはある。

 それでも彼女の中で思い出が生きているのなら、決して無駄ではなかったと安心できた。

 

 壊れた頭への不安と不満を心の廃棄場に捨て去って、気持ちを切り替える。

 幸いなことにオレの胸中は面には出ず、ルドルフには気付かれなかった――と思う。

 折角のデートだ。楽しまなければ、楽しんで貰わねば損というものだろう。

 

 

「三流のクソ映画でもいいのか?」

「それはそれでいいじゃないか。見終わった後の批評も映画を楽しむ上での醍醐味さ」

「物好きだなぁ」

 

 

 言い方は相変わらず固かったが、確かにそれも悪くはない。

 

 映画は好きだ。

 現実とは切り離された創作も、史実に沿ったノンフィクションにもそれぞれ楽しみ方がある。

 没入感や感情移入させる手法も様々で、時には頭を空っぽにして見るのもいい。

 

 仲間内での批評もその一つ。

 他人ならではの視点を知り、自分ならではの視点を明かす。

 あそこが良かった此処が駄目だった、とあーでもないこーでもないと語り明かすのも面白い。

 ストーリーがめちゃくちゃな、役者の演技が大根のクソ映画でも其処は変わらない。

 

 何にせよ、楽しみである。

 映画そのものもそうだが、彼女がどんな感想を口にするのか。今はそれが一番気になった。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「……しかし、あの時の相手側の心境はどのようなものだったのだろうか。今一つ共感しきれなかったな」

「あー、どうかねぇ。相手の家柄もあったから物怖じしたんじゃないのか? 男側が自信を持ち切れない性格なのは散々描かれてたし」

「ふむ。恋愛物は余り見たことがないから何とも言えないが君の反応を見る限り、描写としては至って普通ということかな?」

「普通は普通なんじゃないか? 障害を前にしてどういう選択をするか、どういう反応をするかは登場人物の心情や性格を語るのに楽な手法だからなぁ」

 

 

 現在、20時の半ばまで長針が回った時刻。

 映画を一本見終わった後、近場のファミレスで食事を終えて、食後の紅茶とコーヒーを手にしながら映画の感想を口にしていた。

 

 結局、選んだのはさして人気のない恋愛物の邦画だった。

 現代版ロミオとジュリエットを謳うだけあってありきたりな描写、ありきたりな展開が続く王道を往く内容。

 それでも飽きや既視感を抱かなかったのは、役者の演技やカメラの視点はなかなか良かったお陰だろう。

 邦画はCGで洋画に大きく後れを取っているので、人間関係を主として描いたものの方がアタリが多い。今回はアタリの部類だ。

 

 しかし、ルドルフは主人公の告白を受けた男の反応が気に入らなかったのか、味も匂いも大したことのないドリンクバーの紅茶をティースプーンで掻き混ぜながら首を傾げていた。

 

 確かに、常に自信と誇りを胸に抱いている彼女では共感し難い性格だったので、仕方がないと言えば仕方がない。

 ただ、それは高慢さに満ちたものではなく単純な疑問が現れたものであって、随分と可愛らしくもあった。

 

 

「…………それにしても、君は相変わらずだったな」

「悪かったと思うけど怒らなくてもさぁ……ドキュメンタリー系を見るって言ってたじゃん?」

「だからと言ってだ、君はもう私の担当なのだから他のウマ娘に熱を上げるのはどうなんだ?」

「いやぁ、そうは言ってもだよぉ……?」

 

 

 そう言うと、一転してルドルフの表情が不機嫌さで急速に曇っていく。

 普段の聡明な皇帝様ではなく、ライオンのような凶暴さを秘めた暴君の表情だ。

 

 けれども、今回ばかりはオレが悪い。

 今日ばかりはションボリルドルフの出る幕はなくションボリトレーナーの出番である。

 

 何があったのかと言えば、向かった映画館でやっていたリバイバル上映されていたものが問題。

 

 題名は「シンザン~その軌跡~」。

 この映画はシンザンの引退直後に撮られたものであり、本人へのインタビューは勿論のこと、彼女のトレーナーも出演している真っ当なドキュメンタリー。

 しかし、当時はSFやらアクション、ホラー映画の全盛期。如何にスターウマ娘のドキュメンタリーと言えども興行収入は伸び悩んだ。そのお陰でビデオ化もDVD化もされないままお蔵入り。

 

 つまり、シンザン好き――いや、シンザン狂いであるオレでも見ていない映画……!

 

 見たくて見たくて仕方がなかった映画が、最近のレース人気にあやかってリバイバル上映されていると知れば何としても見たくなるというものだ。

 

 

『ルドルフ、これにしよう……!』

『すみません、「二人の時間」を大人二枚で』

『ちょっと? ねぇ? 何で? 何で無視するの?』

『かしこまりました。席はどちらになさいますか?』

『お姉さんも無視しないで???』

『ではE-15、16を。支払いは――――』

『あ、それはオレが出すから…………で、お姉さん、「シンザン~その軌跡~」の料金は?』

『二人で2000円となりまーす』

『じゃあピッタリで』

『はい、確かに! では、「二人の時間」をお楽しみ下さい!』

『あれェ!?』

 

 

 とまあ、こんなやり取りがあった。

 

 そりゃ確かにオレの意見をゴリ押ししようとしたのは悪かったけど、何もそんなに怒らなくても。

 

 憧れのウマ娘と担当するウマ娘とでは訳が違う。

 どちらが優れていて、どちらが劣っているという話ではない。

 オレが熱を上げているからと言って、ルドルフがシンザンに劣っている証明にはならない。

 事実、四冠までは手中に収めているのだ。シンザンに並ぶまで目前、超える瞬間はもう目に見える位置にまで来ているのだから。

 

 

「そういう話ではないよ。では聞くが、シンザンと私、どちらが好きなんだ?」

「はぁ? シンザンは走ってる姿しか知らないんだし、個人として知ってる上に担当なんだからルドルフの方が大事だよ」

「んン゛――――っ!??!」

「だ、大丈夫か?」

 

 

 自らの問い掛けに対するオレの答えを聞くと、ルドルフは口に含んだ紅茶を噴き出した。

 オレや他の人間の顔にかからないように窓側を向いている辺り、流石である。

 

 別に驚くこともない。

 所詮、シンザンは画面の向こう側や文字の羅列でしか知らない存在なんだ。

 今こうして目の前で話し、普段から接しているルドルフと天秤にかけること自体が間違った相手だろうに。

 

 つーか、憧れの相手に現を抜かして、目の前にいる人を疎かにするタイプの人間だと思われていたのは聊か以上にショックだった。

 

 

「ごほっ……す、すまない、気管に入ってね…………ふっ、そ、そうか、私の方が……ふ、ふふっ、そうかそうか……では、レースに出走しているウマ娘としても当然……」

「シンザン」

「そういうところだぞ、トレーナー君」

 

 

 一瞬、照れ臭さからかニヤけ出したルドルフであったが、オレの即答にスンッと無表情になる。

 

 そういうことなら話は別だ。

 ルドルフも、スズカも、オグリも、マックイーンも、ライスも、それ以外の娘達も皆それぞれに味があって魅せてくれるものがある。

 

 ただ、どうしたところでオレにとってはシンザンの鮮烈さには劣る。

 彼女は夢のキッカケで、この世界に足を踏み入れた理由そのものなのだから。

 

 いわゆる思い出補正という奴だ。

 魅力や能力を数値化できたとして劣っていようが、特別という意味において文字通りの別格。

 先程の天秤が比較すること自体が間違いならば、此方は天秤にかけるのさえ憚られる、といった感じ。

 

 

「……それでは、私が君にとっての頂点になれない、ということではないか」

「頂点って言ってもなぁ。そういう依怙贔屓はよくないと思う」

「そういう意味ではない、ないんだよ」

 

 

 担当に頂点も何もないだろう。

 

 そうした贔屓は宜しくない。

 不和や軋轢を生む最初の一歩になりかねないからだ。

 おハナさんも、南坂ちゃんのようにチームを率いるのならば、成績や気性の如何に関わらず同じように接している。無論、オレも。

 

 そんなことは分かっているだろうに、ルドルフはそっぽを向いてしまう。

 やはり追加戦士が現れた。ヘソ曲ゲルドルフである。

 

 そして、机の下の見えないところで脛を蹴ってくるのは止めて欲しい。

 折れていないので相当に手加減してくれているのは分かるけど、痛い痛い。

 

 シンザン云々に関しては今後変わる可能性もあるが、贔屓に関しては変えてはならない部分があるので話を変えることにする。

 

 

「一つさ、聞きたいことがあるんだけど」

「…………何だ」

 

 

 視線を窓の外に向けたままで不機嫌さを隠そうともしないが、耳だけは此方に向けている。

 こういう時にウマ娘は便利だ。耳を自分の意思で様々な方向に向けるので、別の何かに視線を向けていても会話を聞き漏らすことはない。

 

 そして、本気で怒っているわけでもない。

 ウマ娘が怒りに支配されると会話を聞きたくもないと言わんばかりに耳を伏せるものだから。

 

 

「この前に見た勝負服の勲章なんだけどさ」

「――――――」

 

 

 気になっていたのは、あの拙い勲章。

 他にも忘れていることは多い。ルドルフをどんな愛称で呼んでいたのかを思い出せないまでも、調べる必要はある。

 

 だが、ヒントらしいヒントは残されていない。

 これでも筆まめな方で、訓練やトレーニング、レースの結果や分析を資料として残してある。

 但し、日常は別。日記なども残していなかったし、資料に関してもあくまで仕事なので関係のない事柄などは書き記してはいなかった。

 

 恐らく愛称はルドルフにとって特別な意味を持つ。

 親しいマルちゃんにそれとなく聞いてみたが、彼女も知らないと言っていた以上、確定と見て間違いない。

 だからこそ、問うても答えは返って来ない。これはオレが思い出さねばならない事柄で、同時にルドルフにとっては思い出して欲しい過去だからだ。

 

 愛称はヒントもなく、答えを知る者が口を閉ざして待っている以上、気長にやっていく他ないが――――

 

 想定していなかった内容だったのか、ルドルフは不意を突かれたかのように目を丸くしてようやく此方を見た。

 

 

「その様子じゃ、あれを造ったのはオレか」

「あ、ああ、そうだ。思い出したわけでは、ないのだな」

「悪い、単なる推測……やっぱりそうだったか。なら、探しておくよ。八大競走の用意してるだろうからさ。見つからないならまた造るよ」

「そ、それは嬉しいが、三冠だけでも私は構わないのだが……」

「良くないだろ。まるで其処まで止まりみたいじゃないか。冗談じゃない、目指すのはシンザンも超えた誰も至っていない頂点(テッペン)だ。そうだろ?」

 

 

 珍しく気弱な――――と言うよりも、これは引け目や負い目だろうか。

 

 思えば、オレはルドルフを庇う形で事故に巻き込まれた。

 彼女の性格を考えれば、負い目を感じない筈もない。

 今日にしたところで、決して車道側を歩かせなかったのは、負い目がそうさせていたのだろう。

 

 しかし、あの勲章は彼女の輝かしい夢への旅路を彩る装飾。

 負い目があるからと止めるつもりはなく、他の誰かに譲ってはならない。オレは彼女のトレーナーだから。

 

 必ず見つける。必ず造る。

 

 例え、記憶が失われたままだったとしても、オレの愛バだと胸を張れるように。

 目を逸らせなくなるような大偉業を、誰もが一目で納得できるような証を残す。

 

 

「……分かった。私からもお願いするよ。けれど、くれぐれも無理はしないで欲しい」

 

 

 根負けして折れたかに見えて、それでいて歓びを隠し切れないはにかんだような、泣き出しそうな笑み。

 

 その顔に、想像はしていたが目指すべきか迷っていた夢想に思い至る。

 

 シンザンを超える。頂点に立つ。

 どうせなら誰の目からも明らかに、誰一人として文句のつけようがない結果を目指すべきだ。

 

 

「ジャパンカップの補填もある。その代わりも考えとかないとな」

「代わり、と言うことは来年のジャパンカップを、か」

「いや、それじゃあただの雪辱戦だ。前と同じ面子が揃う訳でもないしさ。だから、それ以上を目指す」

「それ以上、だと……それは……!」

「ほら、もう行くぞ。夜も遅いんだ、これ以上はいくらオレが居ても補導されかねない。そんな醜聞はゴメンだろ?」

「あっ、ま、待つんだトレーナー君!」

 

 

 聡明な彼女のこと、オレの夢想が何処にあるのか察してはいるだろう。

 だから僅かに気恥ずかしくなって、明確に言葉にするのは止めておいた。

 オレは支払いを済ませるべく席を立ち、ルドルフは慌てて続こうとしたが、ショルダーポーチを忘れて戻っていく。

 

 夢想は所詮、夢想に過ぎない。

 実現できるまでは決して口にしない方がいい。でもなければ、全てが夢のまま終わってしまいそうだった。

 

 ルドルフの才能は当代随一。

 日本と言う小さい島国では収まりきらないと断言できる。

 当人の努力もまた同様。頂点に対する執念深さも、苦境に耐えるだけの精神力も揃っている。

 これからまみえるであろう強豪達とも性能差は殆どないレベルにまで引き上げられる。

 

 だからこそ――――勝てるかどうかはトレーナー(オレ)次第だ。

 

 

 

 

 



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『毋妄之福』

 

 

 

 

 

 スズカのメイクデビュー戦まで一週間。

 オグリの中央デビュー初戦となるアーリントンカップまで残り二週間。

 オレとルドルフが相談しあった上で決めたトレーニングは絶大な効果を上げていた。

 そして、ラップ刻みと振り返りは頭で理解できていないが、身体には刻まれ始めている。

 

 ルドルフとの併走が効いている証だろう。

 併走は闘争心を煽るだけでなく、間近で高い次元の走りを見れば自らの走りに反映できる。

 スズカは元々優等生、オグリは成績が良いとはお世辞にも言えないが学習能力は高い。

 其処に意欲が加われば、どうした所で能力は伸びていく。

 

 どちらの出走面子も発表されており、映像研究を行ったが問題なく勝てると断言できた。

 

 それほどまでに天性の差があるだけでなく、当人達の努力もまた著しい。

 もう相手が可哀想になるレベル。心を圧し折られないのを祈るばかりである。

 

 

「…………うーん」

 

 

 そして、その間にルドルフが出走する日経賞が挟まる形。

 

 日経賞は言わば前哨戦。

 彼女のレベルを考えれば今更GⅡなど弱い者苛めでしかないのだが、目的は二つあった。

 

 一つは1着に与えられる天皇賞・春の優先出走権。

 尤も優先権がなくともこれまでの戦績と獲得賞金から出走は確定しているのでこっちはおまけ。

 

 もう一つの目的であるルドルフと息を合わせることが本命。

 レースまでの間に身体と精神を仕上げるのはトレーナーの基本であるが、更に踏み込んで思考まで同期させておきたい。

 

 オレの観察眼と展開予測は他の追随を許さない。

 付き合いの長い南坂ちゃんは勿論の事、おハナさんのような一流でさえ認めてくれている以上、揺るぎない事実だろう。

 

 しかし、事実と認識した上で、オレは信用も信頼もしていない。

 

 人とは間違いを犯す生き物で、全能どころか完璧にさえ程遠い。

 どのような調和の取れた世界でさえ、例外はどうしようもなく存在する。

 想定とは常に超えられるためにあり、想定外の事態はいずれ必ず起こる現実に他ならない。

 

 だからこそ立てた作戦が通用しなかった場合に備え、例外や想定外に対抗するために思考を重ねて人バ一体を目指す。

 

 一人では対応しきれない事態も、二人でなら勝ちの目は残る。

 例え共に走れずとも、まるでオレが背中に乗っているかのように。

 オレの思考形態を上手く伝えることで、或いは逆に意図的に隠すことで、言葉を介さずに残された勝ち目に気付かせる。

 

 酷く難しい――――と言うよりも殆ど夢物語に近い。

 他人の頭の中に、自分と同じ思考回路を搭載するようなものなのだから。

 

 だが、その辺りもまた心配していない。

 

 先にスズカとオグリでやってみてもいいのだが、二人は根本的に一人で戦うつもりしかない。

 そんな状態で無理に思考を重ねようとすると、逆に混乱を招きかねない以上、下手な博打に出るよりも可能な限り仕上げて性能差で勝った方がいい。 

 

 ノウハウを持っていたオレならそれでも何とか出来たかもしれないが、生憎と今のオレはそれら全てを記憶と共に失っている。

 

 其処でルドルフだ。

 記憶はなくとも過去は存在した。

 トレーナーとして担当したのならば、オレの思考形態を伝えるまでもなく知っている。

 記憶がない故に過程をすっ飛ばして結果のみを得た気味の悪さはあるが、何の問題もなく目指す境地に至れるだろう。

 

 

「見つからねぇ……」

 

 

 目下最大の悩みはレースではなくルドルフの勲章。

 寮の部屋を隈なく探したものの、影も形もないどころか手掛かりすらない。

 資料の詰まったダンボール箱でいっぱいの倉庫をひっくり返してみても結果は同じ。

 

 そして、今はミーティングルームを探索中。

 流石に皆で使う場所なのでメチャクチャにするわけにもいかず、時間がかかった。

 しかし、結果は同じ。手当たり次第にあたってみたが、それらしいものは見当たらず完全なお手上げ状態。

 

 

「造り直しともう一つ……」

 

 

 それはそれで構わない。

 見つけられなければそのつもりであったし、もう一つ追加で作っておきたい勲章もあった。

 

 学園には靴に蹄鉄を打つ装蹄師もいる。

 蹄鉄は鉄幹と呼ばれる鉄の棒を熱して叩きながら形を整えて作る――――のは昔の話。

 現在では時間の問題があるので、競技大会やら一品ものの特殊な蹄鉄を依頼された場合にしかそうした作り方はしない。

 レースでの公平性を保つため、基本は既製品の形をそれぞれに合わせて調整するのが基本だ。

 

 そういうわけで、金属を溶かせるだけの設備も加工する設備も学園には整っていて、自作のアクセサリー程度は作れる。

 顔を出してみれば装蹄師の中にも知り合いはおり、仕事の邪魔にならない範囲でなら貸してもいいとのこと。

 装蹄師の親父っさんの話では、以前に勲章を作った時にも色々と手を借りたようである。

 

 

「問題は造るよりもデザインだなぁ」

 

 

 製造の工程は熟練の職人達に指導を受けながらなら何とかなるだろう。

 

 しかし、デザインとなるとそうはいかない。

 全てがオレのセンスに委ねられるからだ。

 勝負服のデザイナーに頼る手もあるが、こればかりはどうしてもオレがやらねばなるまい。

 取り敢えず考えながら紙に書き出し、徐々に立体化して寸法を取っていくとしよう。

 

 頭に浮かんでくる形と色の中で何がいいのかを徐々に選別していく。

 

 出来るだけ見栄え良く、かつ走りの邪魔にならない形状。

 右胸には三つの勲章が取り付けられていて、左胸は飾緒が垂れているので、付けるなら腰当たり。

 となると、少し大きめのものでもいいだろう。綬を使わないタイプのものが――――などと考えていると、ドアが控え目にノックされた。

 

 

「はいはい、いますよー。どうぞー」

「失礼致しますわ」

 

 

 ノックへの返答を聞いてから入ってきたはマックイーンだった。

 

 今日はトレーニングのない休養日。

 各々がストイックなためルドルフは生徒会の仕事を、他は自主練に勤しんでいるものと思っていた。

 特に何か約束をしているわけではなく、ミーティングルームを訪れる理由などオレには思い当たらない。

 

 気になったのは少し悩むような素振りを見せていたことか。

 常にすました表情の彼女にしては珍しい。僅かながら心配になる。

 

 

「どうした? 何かあった?」

「いえ、折り入ってお願いごとがありまして……」

 

 

 はて、と思わず首を捻りそうになる。

 此処の所――と言うよりも、出会った時からマックイーンは常に柔らかながらも凛として、悩む素振りなど見ておらず心当たりが全くない。

 

 能力面での伸びとて悪い訳ではない。

 模擬戦では経験の問題でルドルフにはどうした所で勝てないが、2000m以上の距離ならスズカやオグリにも喰らい付いていく。

 マックイーンもライスもステイヤーとして順調に成長しているし、その実感がないわけではないと思う。

 

 思い当たる節がなく何となしに視線を下げると、彼女が手にしていた数学の教科書とノートが目に入った。

 オレが気付いたと悟ったマックイーンは、すすすと教科書とノートで赤くなった顔を隠す。

 

 

「その……どうしても分からないところがありまして、お忙しいところ申し訳ないのですが、教えて頂ければ、と……」

「………………いいよ!」

「ど、どうしてそんなに顔を輝かせていますの……?」

 

 

 一瞬、彼女が何を言っているのか理解できなかったが、脳が言葉を理解すると思わず目を見開いて笑ってしまう。

 

 そりゃ嬉しいからだ。

 常日頃からマックイーンとの間には壁を感じていた。

 

 避けられていたわけではなく言うべきことはきっちり言うが、必要以上に踏み込んでも来ない。

 出会ってから短い期間にしては信頼を得ているのであろうが、ビジネスパートナー以上の関係性を出ていなかった。

 元々そのような性格と言うよりも、オレの境遇を慮っての部分が大きいのは分かり切っている。

 

 マックイーンが特別と言うわけではないが、個人的にはもっと仲良くしていきたい。

 きっとその方が楽しいし、オレの性格やトレーナー観、方針に噛み合っている。

 

 それにマックイーンもライスも遠慮し過ぎだ。

 あれでルドルフやスズカはぐいぐい来るし、オグリもなかなか遠慮をしない。

 二人に対して申し訳なさを感じていた程だ。

 

 差し迫った事態であれ、自ら壁を乗り越える、或いは壁を壊そうとしてくれて嬉しくない訳がない。

 

 

「はっ、とぅっ! さぁ、何でも聞いてくれたまえ!」

「ず、随分乗り気ですのね……」

「いやぁ、人に頼られるって嬉しくない? それにいつも頼りにしてるマックイーンだから尚更さぁ」

「はぁ、全くこの方は……本当に()()()ですわ」

 

 

 仕事用のデスク、次にソファの背を飛び越えてそのまま着地と共に着席する。

 誰の目から見てもウッキウキになっているオレにマックイーンは呆れ顔。いや、少し嬉しそうか?

 

 最後の呟きはよく聞き取れなかったが、オレの隣に腰を下ろす。

 普段ならば対面に座るだろうが、勉強を教わるのなら同じ方向の方が効率はいい。

 

 

「此処なのですが……」

「ちょいタンマ。その前に聞きたいんだけど、これ予習? それとも復習?」

「予習、ですけれど、それが何か……?」

「重要だよ、勉強するタイミングって奴は」

「タイミング……?」

 

 

 トレーニングにしたところで、勉強にしたところでオレの目指す場所は変わらない。

 より短い時間、より少ない負荷で、最大限の効果を。これが基本だ。

 

 この辺りの考えが根付いたのは、やりたいこと、学びたいことが山程あったのに加えて、シンザンの影響もある。

 

 彼女は類稀な天性を持ちながらも、根っからトレーニング嫌いであったのは有名な話。

 “金が掛からなければシンザンは走らない”と担当トレーナーに言わしめるほどで、ウマ娘に関わる職についた者ならば誰もが一度は耳にしたエピソード。

 

 ただ、彼女とて生まれ持った天性だけで伝説になったわけではなく、レースの世界はそれほど甘いものではない。

 

 担当トレーナーの涙ぐましい努力があったのだ。

 トレーニング嫌いでも集中力を保てる範囲の時間で、可能な限りの最大効率を引き出すトレーニング方法。

 調整が間に合わないと判断すれば、レースですらも調整替わりに使う決断。

 当時は多くの関係者やファンからは、出走者やレースを馬鹿にしていると批判を浴びたようだが、オレはそう思わなかった。

 

 全てはシンザンの力を最大限発揮するための苦渋の決断。

 多くの期待を裏切ると理解していながら、それ以上の結果を生み出すために血反吐を吐きながら導き出された答え。

 当時の資料や自伝から推察されうる状況や情報は、全てがそう結論するに足るものだった。

 

 よって、オレはウマ娘のトレーニングを考案する上でシンザンの担当トレーナーの考えを大いに参考にさせて貰っている。

 

 オレも彼と同じ結論だ。

 身体を鍛えることと身体を苛めることは別。

 酷使などしなくとも十分すぎる伸び代は確保出来るし、苛め抜いた後に要する回復期間を考慮に入れれば結果がトントンになるようにすればいい。

 

 それは勉強方法でも変わらない。

 長時間机に向かっているからと言って、何もかもが身に付くわけではない。

 勉強というものは各々にあった方法もあるし、万人に共通する効率の良い覚え方、というものもある。

 

 

「脳ってさ、忘れ掛けていたものを思い出そうとしてすると刺激されて記憶が定着し易くなんの」

「そうなん、ですの?」

「これは研究結果が出てるからマジ。だから予習にせよ復習にせよ、前日やその日の内にやるのは効率が悪い。特に復習なんて、その日の内にやっただけだとテストの点が悪くなる、なんて研究結果もあったかなぁ?」

「そ、そんな……!」

 

 

 オレの言葉を聞いてマックイーンはショックを受けたらしく、見る間に耳が垂れていく。

 どうやらオレの口にしたダメな方の勉強法を実践してきたらしい。

 

 まあ全くの無駄という訳ではないので、そんなに気落ちしなくても。

 本当に記憶の定着や保持は人それぞれで、研究結果と個人の結果が必ずしも一致するとは限らない。

 

 思うに学び舎とは、知識そのものではなく学び方を身に着ける場だと思う。

 中学高校の勉強が人生で役に立つ場面など殆どないが、吸収する知識の如何に関わらず学び方自体は身に付けられる。

 

 知識の吸収の仕方、人との付き合い方、社会における身の置き方。

 上辺だけの知識ではなく、もっともっと単純かつ根本的なところを学んでいた方が、実社会ではよっぽど役に立つもんである。

 

 

「そういうわけで予習も復習も5日くらい前か後がいいと思う。程よく忘れて思い出すのに少し苦労する、くらいの期間を挟むのがオススメ」

「な、成程……!」

「あとは毎日5分くらいさらっと流す程度に復習するとか、25:5の勉強法とか色々あるから試して自分に合っているのを探してみ」

「そうしますわ。でも、どうしましょう。それでは教えて頂きたかったところが……」

「まあいいんじゃない、それは次からで。疑問を解消するっていうのも精神的に大きいからやる気に繋がるしさ」

「そうですか。では、この二次関数のところなのですが……」

「レベルたっか! 最近の中学生ってこんなところやってんの?」

 

 

 マックイーンの開いた教科書に目を通し、思わず声を上げてしまった。

 

 流石は文武両道を旨とするトレセン学園。

 オレはふっつーの公立中学に通っていたので、彼女と同じくらいの年齢では此処まで範囲に入っていなかったと思う。

 

 

「まさか、覚えてらっしゃいませんか……?」

「いや普通に覚えてる。勉強好きだったからさぁ」

 

 

 冷たいと言うか、不安そうな視線を向けてきたが、何の問題もない。

 人によっては中学時代の授業なんて全く覚えていない人もいるが、オレは割と好きでやっているところがあったからそうでもなかった。

 

 出来るだけ簡潔に分かり易く。

 同時に自ら思考する余地を残し、深く理解させるために全ては語らず説明に穴を用意する。

 

 しかし、用意しておいた穴に引っかかることはなく、落ちる前に気付いて自ら質問してくる。

 地頭の良さに加えて、基礎が身に付くまで反復を繰り返してきた証。

 分からないことを分からないままにしておかず、そういうものだからで済まさない性分でもあったのだろう。

 総じて教える側としても舌を巻き、同時に面白くなってくる優秀な生徒だった。

 

 

「ふふ、ありがとうございます。凄く分かり易くて、勉強が楽しいと思ったのは久しぶりです」

「そう言ってくれると甲斐があったってもんだ。オレは学校の勉強とかゲーム感覚で面白がってたからなぁ。その経験が生きたな」

「ゲーム感覚、ですの……?」

「うん。数学のテストとか暗算で全部答え出した後に途中の数式書き込んだり、現国で答えは書くけど隣に問題使って一人大喜利大会やって先生を笑わせて評価貰ったりさ」

「そ、それはまた……よく先生方も許してくれましたわね」

「教育はしっかりするけど、そういう、何て言うんだ? ……個性とか人格とかを否定する人等じゃなかったからな。恵まれてたよ」

 

 

 一通り即興授業を終えた後、紅茶を入れて休憩に洒落込んだ。

 折角、壁が一つ消えた直後。互いを更に知るために、取り留めのない会話を重ねていく。

 

 口を開く度、マックイーンは上品に笑う。

 気品や高貴さは確かにあるのに堅苦しさを覚えないのは、彼女の人徳のお陰だろう。

 上流階級の気位は身に着けているが、それはそれとしてどんな環境でも生きていけそうな頼もしさもある。

 余り良い例えではないが、ある日突然メジロの家がなくなって六畳一間の生活が始まっても、何の問題もなく這い上がっていきそうな適応能力があると言うか。

 

 ともあれ、酷く話し易いのは確かだ。

 年下の女の子だから気を遣う部分はあるが、それを差し引いても気安く接していける。

 

 

「それにしても……ミーティングルームも、随分と生活感が出て来ましたわね」

「そりゃ殆ど此処で生活してるしなぁ。あと君等も結構持ち込んできてるし」

「そ、それはそうかもしれませんが……それにしたところでベッドまで持ち込むのはやり過ぎではありませんか?」

「いいんじゃない? オレも休むのに使うし、ルドルフとかスズカとかオグリとか偶に寝てるし」

「あ、あの方達は……!」

 

 

 マックイーンの言うように、ミーティングルームには色々と物が増えた。

 以前は本当に仕事をするだけの場所かつオレ自身もあまり物を置きたがらない性分だったのは、作成した全ての資料を倉庫に保管していたことからも分かる。

 文字通りに生活感というものは皆無だったが、今は違う。

 

 いま言ったようにトレーナーの寮からベッドを解体して持ち込み、部屋の隅に。

 眠らないオレでも身体を横にして休めば体力の回復が早まるので寝具は割と重要だ。

 

 ただ、オレ以上に使っているのは先程挙げた三人の方だが。

 ルドルフやスズカはオレがいないと知らずに来た時、待っている間に寝てしまったというパターン。

 オレが戻ってきて起こすと顔を真っ赤にするのだが、そんなに恥ずかしいのなら止めればいいのに一向に改善が見られない。

 この間なんて、ルドルフは枕に顔を埋めてすーはーすーはーと深呼吸していた。オレの匂いが染みついているので止めて欲しい。

 

 

『ト、トレーナー君!? い、いや、これは、ちがっ……!』

『そんなに臭うかぁ? フレーメン反応が出ちゃうくらいに。えぇ、ショックぅ……』

『違う。そうじゃない』

『違うのぉ? そうじゃないのぉ? なら何でぇ……?』

『も、黙秘権を行使する……!』

 

 

 そんなやりとりがあった。

 あのルドルフの落ち着きのなさと赤面振りと言ったらなかった。そんなに恥ずかしがるならやらなきゃいいのに。

 

 まあ羞恥心を残しているらしいからまだいいが、オグリなんて酷いものだ。

 

 

『眠い。トレーナー、済まないがベッドを借りるぞ』

『お、おう』

 

 

 羞恥心も何もあったものではない。これ以上ないほど堂々と真正面から借りていく。

 余りにも迷いのない態度に、オレは何も言えなかったほどだ。

 

 保健室のベッドじゃないんだ、男に対する警戒心をもっと持った方がいい。

 ウマ娘を組み伏せるなんて真似、人間の男には不可能な上にオレにだってそのつもりは全くない。

 だが、それにしたところで年頃の女の子が無防備な姿を晒すのはどうなんだ、という話。

 

 いくら何でも食欲と睡眠欲に対して正直すぎる。

 そういう姿を見る度に、コイツ本当に走ってる時以外は食べることと寝ることしか考えてねぇ! となるのである。

 

 

「他にも色々ありますわね。花も生けてありますし」

「それはスズカが持ってきてくれた。花瓶はライス」

 

 

 デスクの上には花瓶が一つ。

 生けてあるのは黄色のマリーゴールドだ。

 何でも友人のエアグルーヴに渡されたらしく、そのままミーティングルームに持ってきた。

 

 もしかしなくても、エアグルーヴの気遣いだろう。

 花が一輪あるだけでも、それこそ部屋の雰囲気が華やぐ。そして、黄色のマリーゴールドの花言葉は「健康」だ。

 徐々に、ではあるが、こうした忘却に対して寂寞よりも歓びが勝り始めてきた。

 心配をかけているのは申し訳なくあるが、心配してくれる人がいると言うのは自らの存在と歩みを肯定して貰っているようで素直に嬉しい。

 近い内に、顔を見せに行こうと思う。遠い場所にいるわけではないんだ、ほんの少しの勇気があれば、それは簡単に叶うものだ。

 

 そして、そんなオレの変化に何も知らないまま気付いたのか。

 ライスは自分の持っていた花瓶をわざわざ持ってきてくれて、毎日世話をしてくれている。

 

 名前もあって食べ物の米だけではなく、花も好きらしい。

 あと好きな絵本の「青い薔薇」の影響もあるかもしれない。オレも読ませて貰ったが、なかなかに良い話だった。

 子供向けと侮るなかれ。アンデルセンの「醜いアヒルの子」や「人魚姫」のように大人が読んでも面白く、同時にタメになる童話もあるものだ。

 

 

「それに冷蔵庫と中の食べ物も増えたな」

「…………はぐぅっ」

「それくらい好きに食いなよ。ちゃんと管理できてるからさ。まあ、意外に食い意地張ってるとは思うけど」

「お、お、仰らないで下さい! これはぉ、そのぉ、……そう! トレーナーさんが管理上手過ぎるのがいけないんですわ!」

「そりゃいけないことじゃなくていいことだと思うけどなぁ」

 

 

 くつくつと意地悪く笑うと、マックイーンは赤面してお茶請けとして用意したクッキーを取りこぼしそうになる。

 食堂で用意して貰った夜食を保存しておくつもりで持ち込んだ冷蔵庫であったが、今や中は彼女達のおやつやら飲み物で溢れそうだ。

 

 ルドルフはお気に入りのコーヒー。

 スズカは昔から飲んでいるスポーツ飲料水。

 マックイーンは甘いものが中心。

 ライスはパンやおにぎり。

 オグリは何でも。

 

 ミーティングルームに集まると誰かが必ず何かを食べているか飲んでいるか。

 それだけリラックスできる空間、言い易い雰囲気を提供できているという証明なので口煩くするつもりはない。

 

 オグリの体重増減も安定してきているので、禁止していた間食をオレが計算して止められる前でなら、と僅かに緩めた。

 最近は強迫観念に駆られる姿は殆ど見られず、この分なら近い内に制限を解除してやってもいいかもしれない。

 

 マックイーンは手にしたクッキーを食べるべきなのか悩む素振りを見せていたが、一度素手で触ったものを戻すのも行儀が悪いからと言わんばかりにひょいと口の中に放り込んだ。

 

 

「……………………んん~~~♪」

 

 

 オレの視線を感じて暫くはすまし顔を維持しようとしていたが、咀嚼が進む事に頬が緩んでいく。

 何と言うか、緩んだ頬がぷるんとしていて饅頭のようだ。メジロ銘菓のメジロ饅頭である。実に愛らしい。

 

 こういう日常の一コマを切り抜いてメンバー紹介としてウマッターに投稿するとファンを獲得出来たりバズりますよ、と南坂ちゃんに聞いていたが、マックイーンは許可してくれまい。

 

 意外ではあるが、ルドルフやオグリはノリノリで付き合ってくれる。やや恥ずかしながらもライス。

 お陰さんで皇帝の意外にお茶目な姿、ハムスターのように頬を膨らませた愛嬌満点のオグリ、自信なさげなピースサインのライスと我がチームデネブの投稿は連日バズりまくりのファン獲得しまくりである。

 

 

「しかしまあ、懐かしいと言うか何と言うか」

「どうかなさいましたか?」

「いや、少し昔を思い出してさ。こうやって南坂ちゃんや友達と意味もなく集まって飲み食いしながら駄弁ったなぁ、って」

「今でもなさいますでしょう? ほら、大人ならではの付き合いというものもありますし」

「んー……年喰ってくるとやっぱり違うんだよなぁ」

「はぁ……」

 

 

 オレの感覚はよく分からないのか、マックイーンは首を傾げながら次のクッキーに手を伸ばしていた。

 完全に無意識であったが、お茶請けは安全圏内分しか出していないので何も言わずにおく。

 

 やはり子供の頃の集まりと大人になってからの集まりは微妙に違う。

 飲み会だってバカになって愚痴を漏らしたり、情報を交換したりするが、付き合いとしての意味合いが強い。

 だが、子供の頃の集まりは付き合いそのものではなく、良好な付き合いがあるからこそ発生する。

 

 ようは前提の違いだ。

 大人になれば仕事が前提の集まりも多くなる。

 本当に、自分の望むまま赴くままに集まれる相手との機会になど殆ど恵まれない。

 

 そう考えれば、ミーティングルームのノリは学生時代のそれに近い。

 初めの内は不安感と直感だけを前提にした使命感であったが、今はそういったものとは無関係で皆と一緒に居るのが楽しい。

 大人として、トレーナーとしての責任を投げ出したつもりも忘れたつもりもないが、とにかく居心地が――――

 

 

「…………あ゛っ!!!!」

「ひぁっ!? ど、どうしましたの?!」

「あ、や、ごめん、ちょっと……!」

 

 

 学生時代のフレーズで、唐突に衝撃が訪れた。

 そう言えば、実家に居た時は大事なものの隠し場所は決まって一つだった。もしかしたら……!

 

 突如として大声を上げたオレに、マックイーンは耳も尻尾もピーンと立てて目をまん丸に見開いて驚いていた。

 驚かせたことは悪いと思ったが、それどころではない。

 

 大慌てでソファを回り込んでデスクへと向かう。

 途中で転びそうになって、またしてもマックイーンに悲鳴を上げさせてしまったが今は無視する。

 

 そして、デスクの引き出しを手当たり次第に開けて、裏側から覗き込む。

 その内に一つに、底にペンが一本通るくらいの穴が開いているものがあった。

 目にした瞬間、単なる閃き、思いつきは確信に変わり、引き抜いた引き出しをデスクの上で引っ繰り返す。

 

 中に入っていた筆記用具やら認印がぶちまけられ、デスクの上から床へと転がっていく。

 

 その中に、見覚えのないケースが。

 掌に収まらない程度の大きさで、震える手で閉じていた蓋を開いた。

 

 

「あ、あった……!」

「…………それは?」

「大事なものなんだ、今は思い出せないけど…………でも、いくら大事だからって二重底とかやるかぁ、オレェ」

 

 

 出てきたのは余りにも拙い、素人の手製丸出しの勲章が5つ。

 どれもがルドルフの出走する予定だったGⅠレースをモチーフにしたものだ。

 

 見つからなければ造り直せばいいとは考えてはいた。

 いたにはいたが、見つかってよかったとも心底から思う。覚えていなくても、大切な思い出だから。

 

 ただ、あんまりにもあんまりな場所から見つかったので、思わず力が抜けてすとんと椅子にへたりこんでしまう。

 エロ本の隠し場所じゃねーんだぞ。手作りの勲章なんて、誰も盗んだりしない。手の込んだ隠し方なんかしてんじゃねーよ。

 

 尋常ではなかったオレの様子に、マックイーンは何かを察したのかそれ以上何も言わず、床に散らばった筆記用具を拾い集めてくれていた。

 

 

「素敵な勲章ですわ」

「そうかな? 素人の手製だ、大したもんじゃないさ」

「けれど、私はお金に換えられない価値があると思います」

「……そっか。うん、そうだな」

 

 

 マックイーンはケースの中の勲章を覗き込みながらも、引き摺り出された引き出しへと筆記用具を片付けながらそう言った。

 

 聡明な彼女ならオレの様子と態度に、勲章がどんな思いが込められて、どんな背景があるのかは推察できたのだろう。

 だが、その顔は何処か寂しげで、僅かに拗ねているかのようにも見える。

 

 間抜けめ。

 愚かなまでの迂闊さに、思わずオレは自分自身を心の中で罵倒していた。

 

 勲章は大事なものではあるが、同時に贔屓の証明でもある。

 記憶は失われているが、ルドルフとの付き合いはマックイーン達よりも長い。

 個人のトレーナーなれば、それでも良かった。だが、チームのトレーナーであれば話は別。

 依怙贔屓などあってはならない、とルドルフに言ったばかりなのにこれ。自分のバカさ加減に嫌気が差しそうだ。

 

 ――――…………ん、待てよ?

 

 

「……なあ、マックイーン。勝負服欲しくない?」

「え……は? いえ、勝負服は大切なものだとは思いますが……」

「いや、スズカとオグリの分もそろそろ申請を出さなきゃならないしさ。いっそのこと、マックイーンとライスの分も、と思って」

「で、でも、私達のデビューは来年と……」

「少しくらい早くてもいいじゃん。それくらいの融通利かせてくれるでしょ。駄目ならオレが服飾担当を説得する」

「トレーナーさんならそれくらいできそうですけど……どうしたんですの、突然?」

 

 

 突然も何も勝負服は重要だからだ。

 

 

「ほら、どうせ造るなら勝負服にあう感じじゃないと」

「………………」

 

 

 勲章のデザインを決定する上では特に。

 依怙贔屓が駄目なら、いっそのことチーム全体の伝統にしちゃえばいいんだよ。

 

 八大競走に限らず、GⅠレースのタイトルを獲得する度、勝負服に勲章を飾っていく。

 そもそもルドルフの勲章だってクラシック路線が中心だったので、ジャパンカップで補填してるわけだし。

 それならクラシックに出走できないオグリも問題なく胸に飾っていける。我ながら結構いい考えだと思う。

 

 暫くの間、目を丸くしながら口元を真一文字に引き結んでいたマックイーンであったが、やがて口を開く。

 

 

「一応、聞いておきますけど、それはトレーナーさんのお手製ですわよね?」

「そりゃ勝負服のデザイナーが造ったら、もっと立派なもんになるでしょ」

「どうしてそう自分から負担を増やしていくんですの、貴方は……」

「…………オレが、やりたいから?」

 

 

 片手で顔を覆い、頭痛でも覚えているかのようにマックイーンはそんなことを言ってきた。

 

 答えは言葉にした通り。

 やりたいから、好きなようにやるだけだ。それ以上の理由などない。

 

 彼女達がどんな栄光を手にするか、手にできるのかさえ分からない。

 そも栄光を形にすると言うのなら、優勝カップやレイがある。マックイーンの目指す春天、秋天ならば皇室から楯が下賜される。

 

 だが、それは多くの人々が彼女達を称えるためのもの。

 オレは個人として彼女達が手にした栄光を、そのために流した汗と涙を称えたいだけ。

 一人残らずもうオレの愛バなんだから。いの一番に称賛する権利を、誰にも譲りたくなどない。例え相手が日本の象徴のような方であってもだ。

 

 

「はぁ~~~~~~~~~~~~~~~、本っ当にこの方は……」

「えぇ、嫌だった?」

「違いますわ。そうではありません」

「違うのぉ? そうじゃないのぉ?」

「もう、お好きになさって下さいまし…………()()()はこれですもの。会長の気持ちが少し分かった気がしますわ」

 

 

 最後の呟きは聞こえなかったが、好きにやるとしよう。

 

 呆れ顔は相変わらずだったが、口元が緩んでいるのは見逃さない。

 建前はどうあれ、本音としてはルドルフへの羨望があったのかもしれない。

 ウマ娘とトレーナーの絆は無二のもので、彼女達は大なり小なり憧れがある。

 

 加えて言えば、自分のためだけの勲章など特別感が凄まじい。

 あのマックイーンが喜びを隠し切れないほどなのだから、相当だろう。

 

 なら、やる価値はある。

 それこそマックイーンが口にしたように、金銭には換算できないほどの価値が。

 

 さて、ではデザインはどうしよう。

 出来れば同じタイトルを獲得したとしても、デザインは変えていきたい。

 それぞれの勝負服に合わせたいと言うのもあるが、それぞれが支払った努力は全く異なる。

 他人に示すためのものであっても、その価値を真に知るのはオレ達だけ。世界に一つしかない拙い勲章なのだから。

 

 しかし、オレはこの時、後に発生する問題に全く気付いていなかった。

 

 そう、デートに出掛けて頗る機嫌の良かったはずのルドルフが、急転直下で嫉妬リルドルフに変貌を遂げてしまうなどと……!

 

 

 

 

 



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『飲水思源』

 

 

 

 

 

「じゃあ、お願いします」

「はい、任せてください」

「いい勝負服を作りましょうね!」

 

 

 トレセン学園には学び舎のみならず、数多くの施設があるのは周知の事実。

 

 その内の一つに“衣裳部屋”と呼ばれている一棟が存在する。

 服飾担当のデザイナー、スタイリストの仕事場であり、ウマ娘達の勝負服の作成、管理、補修を行う場所でもある。

 それだけでなく制服、トレーニングウェア、運動靴などのデザイン、選定も仕事の一つで、中には動き易さを追求するために生理学を学んでいる者もいる。

 酷く簡単に言ってしまえば、トレセン学園の衣類に関する事柄を一手に引き受ける場、というわけである。

 

 

「本当に勝負服を造ってしまうつもりなのですね……」

「い、いいのかな、私達も一緒で……」

 

 

 その棟の一室。

 普段は会議室として使われている部屋を間借りして、ルドルフを除いたチームの面々。

 そして、服飾担当二名が集まっていた。

 

 一人は主任スタイリスト。勝負服やライブ衣装の管理ばかりではなく、それぞれにあった髪型やら化粧も提案する妙齢の女性である。

 もう一人は新人デザイナー。まだ入ったばかりであるが、ウマ娘の要望を言葉として受け取りながら絵として出力する手腕に長けているそうだ。

 

 記憶を失っていて申し訳なかったのだが、主任にはルドルフの勝負服作りの時にも世話になったらしい。

 勝負服申請のついでにこの棟を訪れてみたのだが、彼女の方から声を掛けてくれた。

 タマちゃんの担当である小宮山さんと同じで大変気さくで会話がし易く、オレと面識のない新人を呼んでくれたのは気後れしないように気を遣って。

 

 思わず恐縮してしまいそうなほど、出来た女性だった。

 

 

「うぅむ、しかし勝負服と言っても……正直、思いつかないな。スズカは何かあるか?」

「私も特に考えがあるわけじゃ……」

「大抵の娘もそうなので、気構えなくても大丈夫ですよ! 好きな服や色があれば言って下さい! 必ず形にしてみせます!」

「は、はぃ……」

「凄いやる気だ」

 

 

 いきなりこんな場を用意されたとしても、何か思いつくわけではない。

 オグリは首を捻りながら、スズカは何の考えもなしに来てしまったことを恥じているのか、もじもじと委縮していた。

 

 しかし、そんな程度で困るトレセンスタッフではない。

 スケッチブックと色鉛筆を手にした新人さんがバチコーンとウインクして、親指を立ててサムズアップ。

 貴女達に最高の衣装を用意する、と断固とした強靭な意思と自信を見せつける。

 

 スズカは若干引き気味、オグリは感心したように頷いていた。

 トレセンスタッフのやる気は凄まじいものがある。ともすればウマ娘に直接関わるトレーナーよりも上なんて場合も珍しくない。

 輝かしい舞台を支える屋台骨たる自覚があるからだ。普段日の目が当たらなかったとしても、重要ではない仕事などない、と心から信じ切っていた。

 

 それは事実で、何ら恥じることのない働く大人の姿だろう。

 

 

「まずは採寸から始めましょうか。トレーナーさんは外で待っていて下さい」

「ほいほい。じゃあお任せします。君等も最高のもんを用意して貰えるからさ、遠慮なんかすんなよぉ」

 

 

 制服の上からでも採寸は出来るだろうが、より正確な方がいい。

 特にマックイーンは中等部で成長期真っ只中。成長分も見越す以上は服の上からではやや不安だ。

 

 下着姿を見て変態扱いなど御免被る。

 そもそも、そうした興味や欲求など向けたことなどないので、さっさと退散する。

 部屋を出る直前に皆の顔を見たが、既に困惑は消え去り隠し切れない期待の色で濡れていて、思わず微笑んでしまった。

 

 勝負服はそれだけレースに挑むウマ娘にとって大きな意味を持つのだ。

 GⅠレースでのみ着用を許される言葉通りの服。これを纏えるのは選ばれたトレセン生の中でも更に一握り。心躍らないわけもない。

 

 普段は走ること以外にはフラットな態度しか示さないオグリやスズカですら言うに及ばず。

 意図して大人びた態度を保っているマックイーンも、気弱そのもののライスでさえ目をキラッキラとさせていた。

 

 

「さてと……」

 

 

 会議室を後にし、廊下を歩んでいく。

 スズカはメイクデビュー、オグリは中央初戦も近く、表には出ていないがやや入れ込み気味だった。

 勝ちに拘るのは結構だが、拘り過ぎても周囲が見えなくなって足元を掬われるものだ。

 心持ちとして勝ちへの執念と普段のフラットな態度の間を入ったり来たりしているくらいが丁度いい。

 

 その点、勝負服作りは正解だったと言えよう。巧い具合にレースそのものから意識を逸らせた。

 適度に肩の力を抜いて、適度に勝ちへの執念を滾らせて、適度な緊張感で挑めるだろう。

 

 そして、オレはルドルフの下へと向かっていた。

 会議室にルドルフがいなかったのは、別の部屋で着替えているからだ。

 

 勝負服、と一口に言っても様々。

 ある日突然、どんな勝負服が欲しいと言われても困惑するのは目に見えていた。

 だから、既に勝負服を持っているルドルフの実際に着ている姿を見せ、インスピレーションを与えて貰おうという目的が一つ。

 

 尤も、そっちはおまけ。本命は勲章の方だ。

 依怙贔屓はいけない、とチームメンバーがGⅠレースで優勝したらたった一つの勲章を造ると決めたはいいが、それを聞いたルドルフは――――

 

 

『は??????』

『造るから』

『はぁ??????????????????』

『もう決めた。造るから』

 

 

 そら嫉妬リルドルフやヘソ曲ゲルドルフを超越したギャン切レルドルフ。

 もう追加戦士と言うよりも、闇落ちした離反戦士と言った有り様だった。

 

 耳を後ろに伏せ、地面を脚で掻く前掻きという動作を見せた。

 ウマ娘が何かを求めるに際して見せる本能的な動作。或いは、苛立ちを露わにするための動作だ。

 

 常人なら恐れから小さく悲鳴を上げるであろうが、その程度で恐れ戦いて引くオレではない。

 上手いこと殺されない程度の自信はあったし、万が一に対する備えもあり、全ての覚悟はトレーナーになった時点で決まっていた。

 何よりも、ルドルフへの信頼があった。記憶はなくとも短い間でそれだけのものを抱かせてくれるだけの献身を体験してきたのだから。

 

 とは言え、ルドルフもまた引く様子は見られない。

 そりゃそうである。ただ一人の担当だった頃の思い出を、贔屓は良くないという理由だけで分け合おうとすれば、激憤も致し方なし。

 

 このままでは一生平行線が続いていくだけ。

 なので、オレはあっさりと切り札を切ることにした。

 

 

『ほい、これ。見つけたよ』

『それ、は…………』

 

 

 マックイーンとの会話をヒントに、何とか見つけた手作りの勲章を見せてやった。

 

 卑怯な手ではあったが、開示する情報は順番を選ぶのは常套手段だ。

 先に印象を下げる情報を開示し、その後に印象を上げる情報を開示する。

 すると、逆の場合であったよりも、好感度が上がる。それは人物に対する評価だけでなく、行動に対しても同様だ。

 

 これを心理学ではゲインロス効果と呼ぶ。

 印象の良い優等生が子猫を虐待するのと、印象の悪い不良が子猫を助けるの、どちらがより大きく印象に影響を与えるのかを考えれば分かり易いか。

 

 実際、ルドルフの抱いていた怒りは見る間に萎えていき、逆に瞳が輝きが灯っていく。

 

 

『依怙贔屓は良くない。だがルドルフも納得してくれないなら、これもお蔵入りにするのも一つの手だよな?』

『なっ!? そ、それは、卑怯だ……!』

『だよな。だから別にいいだろ? ルドルフにとって大切ならオレにとっても同じだ。一番最初の担当で、大事な相棒であることに代わりはないよ』

『~~~~~~~~~~~~~~~っ!』

 

 

 してやったり。

 

 何かを言いたげに口を開きかけたルドルフであったが、平静さを保とうとして巧く言葉に出来ていなかった。

 何とかすまし顔を造ろうとするものの、頬が真っ赤になっていて全ては台無し。

 眉間に皺も寄っているし、上がろうとしているのか下がろうとしているのかよく分からない目尻は何とか平時と変わらない。

 口元も緩もうとしているのか引き結ぼうとしているのか定かではない。

 

 ともあれ、怒りの感情だけでないのだけは確かだった。

 

 

『はぁ。分かった、分かったとも。君の言い分にも一理ある。私が身勝手だったと認めよう。しかし、一つだけ頼みがある』

『頼み……?』

 

 

 何とか自らの感情と折り合いをつけたルドルフが口にしたのは、改まって頼むほどのことでもなかった。

 しかし、何処か拗ねるかのような、照れを隠すような表情は印象に残っている。

 

 今はその頼みを実行するために、向かっているのだった。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

 落ち着かない。

 今の心境を表すならば、その一言で事足りた。

 

 私が居る場所は“衣裳部屋”にある一室。

 写真撮影も行える棟には当然、撮影所ばかりではなく髪を整え、化粧で飾るための控室も存在する。

 

 その部屋で勝負服に着替え終わった私は、忙しなく動き回っていた。

 スタッフの用意してくれた紅茶にも手を付けず、椅子にも座らずにその場を行き来する。

 耳は私の意思を離れてあちこちに向けられ、自覚できるほどに意識が散逸してしまっていた。

 無理やり立ち止まって見ても、両親に矯正されたはずの前掻きまでも再発してしまう始末。

 

 とても人には見せられない姿だ。

 ただ、あったのは苛立ちではない。心の内に生じているのは待ち切れないほどの期待だった。

 

 …………いや、苛立ちが全くないと言えば嘘になるか。

 

 全く。トレーナー君と来たら、チームの皆に勲章を造りたいなどと。

 その言葉を聞いた時には、()()()()()()()としての自覚があるのか、と問い詰めてやりたくなった。

 

 確かに、彼は自らの選択として、チームを造る道を選んだ。

 今や彼は私だけのトレーナーではなく、チームのトレーナーである。

 だが、それは単なる事実であって、私のトレーナーであるという前提があってこそ――――などと言うのは子供染みた我儘だろうか。

 

 ……我儘、なのだろう。

 

 彼がチームの皆と仲睦まじく話している光景は、私の望んだ光景であろうに、黒々とした感情を抑えきれなくなる時がある。

 

 何と醜い嫉妬か。

 全てのウマ娘が幸福を享受できる世界を作るという私の夢、私の目指す場所には相応しくない感情。

 不思議だが、愚かしい我が身に対する自嘲と同時に奇妙な安堵もあった。私もまた一人のウマ娘に過ぎないのだ、と。

 

 だから、こうして一段と彼への想いが募る。

 だから、あんな頼みを口にした。

 

 思わず口元がにやけそうになった瞬間、控室のドアが力強くノックされる。

 

 

「おーい、着替え終わった? 入ってもいいか?」

「あ、あぁ、どうぞ」

 

 

 …………期待の余りに声が裏返ってしまった。恥ずかしい。

 

 私の言葉をドア越しに聞いた彼は、何時ものように大きい身体を僅かに屈めながら扉を潜る。

 

 その顔には苦笑が刻まれていた。

 私の期待と落ち着きのなさなどお見通しなのだろう。

 見えなかったが、より一層頬が赤く染まっているのを確信するほど熱くなる。顔から火を噴いてしまいそうだ。

 

 私は気恥ずかしさを払うように咳払いをして、彼を真っすぐと見つめた。

 すると、彼は約束通りに内ポケットからケースを取り出し、一つの勲章を額から外す。

 

 

「では、頼む」

「仰せのままに」

 

 

 私が望んだのは二人きりの叙勲式。

 皆のために勲章を造るのはいい。彼の気質を考えれば、当然の帰結であったであろう。

 

 しかし、彼の手で勲章を身に着ける栄誉だけは譲れない。

 彼の最初の愛バとして、これに与れるのは私だけ。その優越で、何とか自らを納得させた。

 この瞬間だけは、私は彼のものになって、彼は私のものになったから。

 

 何か慈しむような視線を向けながら、彼は勲章を勝負服の左脇腹辺りに取り付ける。

 そして、何度となく親指で勲章を撫で、口元は笑みを模っていた。

 

 

「どうだ、似合っているか?」

「ああ、よく似合ってる――――じゃ、ただの自画自賛か?」

「そうなってしまうか。かもしれないな」

 

 

 彼が指を離すと、一歩下がって見せつけるように小さく手を広げる。

 私の問いに苦笑を漏らすだけであったが、確かな満足と納得を得ていることだけは受け取れた。

 

 控室にある大きな姿見に向き直り、私もまた勲章に与った身を眺める。

 蒼と銀を基調とした菱形の勲章は、有マ記念の優勝レイを参考にしてデザインしたらしい。

 拙い、と彼は言っていたが、贔屓目を抜きにしても素晴らしい出来だ。とても素人が自身で考え、造り上げたとは思えない。

 

 うん、よく映えている。

 深緑の勝負服に、私と彼で得た栄誉が輝いているようだ。

 

 

「気に入った?」

「ああ、とても。少し、面映ゆいほどだよ」

 

 

 そりゃよかった、と彼は腕を組んで優しく微笑んだ。

 

 ああ、やはり君にはその笑顔が似合っている。

 新たな記憶を失っていく不安と戦いながらも、他者の幸福と歓喜に共感して浮かべる笑みとも違う、何の影もない陽光を思わせる笑み。

 その笑みを見るだけで、どんな被害を被ったとしても、どんな苛立ちを抱えていたとしても、私は全てを許してしまった。

 

 これまでも。きっと、これからも。

 

 私達だけの叙勲式を思いついた時は、正直なところ、もっと昏い愉悦があるものだと思っていた。

 他の皆と私は彼にとっては“より特別(違うもの)”と言ってくれているようだから。

 

 しかし、胸に去来したのは、静かで純粋な歓びだけだった。

 

 

「…………っ」

 

 

 同時に、勲章の重みが増した。

 掌に収まるほどの大きさでは感じるはずのない重み。

 

 それは現実の重みだ。

 

 本音を明かしてしまえば、ずっと現実感がなかった。

 

 彼が身を挺して庇ってくれた時も。

 血塗れのまま救急車で運ばれていくのを見ているしかなかった時も。

 彼が私を置き去りにして全てを忘れたと悟った時も。

 無惨な心境でジャパンカップに挑み、敗北した挙句に尊敬に値する強敵から張り手と罵声を浴びた時も。

 辛うじて立て直せた精神(こころ)で、有マ記念で勝利した時も。

 

 ずっと質の悪い悪夢の中にいるようで。

 足元はふわふわとして接地感がなく、何もかもが色褪せていた気がする。

 

 彼が学園に戻ってきてからも、質が変わっただけで現実感が抜け落ちていた。

 

 マルゼンスキーに背中を押されて、元の鞘に収まった時も。

 彼の下で新たな友と仲間を得て、距離を縮めていく時も。

 新たな歓びと新たな苛立ちを得ていく時でさえ。 

 

 今度は逆に、幸福なだけの夢の中にいるようで。

 僅かにでも気を抜いてしまえば、残酷なだけの現実が突き付けられそうだった。

 

 それが、勲章を得た瞬間、突如として全てが確かな実感を伴って現実だと認識できた。

 

 胸の下から込み上げてくる、甘さと痛みを同時に帯びた熱。

 私はその熱を言葉にすることも出来ず、抑えておくことさえも出来ずに、ただ思うまま、望むがままに動く他はなかった。

 

 

「おぐぅっ! …………あー、ルドルフさん?」

「……済まない。少し、少しでいいんだ。少しだけ、このままにさせて欲しい」

「……泣いてる?」

「五月蠅い。君は……時々、デリカシーが……ない、ぞ」

 

 

 気が付けば、彼の胸に飛び込んでいた。

 彼のぬくもりを、彼の匂いを、彼の鼓動も、彼の身体を、確かに其処に居る歓びを満喫する。

 溢れる思いは止め処なく、発した声は情けないほど震えていた。

 

 相手の顔も見ないまま、私の顔を見せられないまま。

 ただ、存在を確かめるように、壊れてしまわぬように抱き締める。

 

 

「…………よくやった。頑張ったな、ルドルフ」

 

 

 暫くすると、彼は辛うじて立ち続けていた私を労うように頭を撫で始めた。

 

 私のものとも両親のものとも違う、感触だけで男のそれと分かる大きい手。

 髪をすかれ、耳を押し倒されるだけで、接触している部分から背骨を伝って全身に電流が走るかのようだ。

 腰砕けになってしまいそうな心地良さと確かに其処に彼がいる現実を思う存分に噛み締める。

 

 唯一の不満があるとするのなら、私が呼んで(思い出して)欲しい名で呼んでくれなかったことだけだ。

 

 ――――それから、どれだけの時間が経っただろう。

 

 

「……す、済まない。はしたなかったな」

「いや、別に構わないよ。でも、男に自分から引っ付くのはやめときなぁ?」

「…………ふんっ」

「痛ぁいッ! どうして脛蹴んのぉ?!」

 

 

 前言撤回。

 余韻も何もなく、ひたすらに不満しかない。

 

 この男と来たら、此方がどれだけアプローチしても気を揉んでも意味をなさない。

 そう言えば、彼の鼓動を聞いていても全く平常と言った次第で、まるで動揺していなかった。

 

 それだけ意識されていないということだ。

 マルゼンスキーが言っていたように、何とか彼の見る目と意識を変えてやらねばなるまい……!

 

 そ、その、どうしたらいいのか全く分からないのは問題なのだが……。

 と言うよりも、マルゼンスキーも私と似たようなものにも拘らず、あの余裕と自信はどうなっているんだ……!

 

 

 ようやく彼が戻ってきた実感を得ると共に、新たな問題と疑問が浮かんでは消えていき、不安は尽きない。

 

 しかし、一つ言える事がある。

 今の私は不安よりも希望が強く、苛立ちよりも歓びの方が遥かに大きかった。

 

 この想いが届くまで。

 それがどれだけ無意味であろうとも、続けていこう。

 全てを思い出す、その時まで。君が自らの意思で私の隣に立つと決める、その時まで。

 

 

 

 

 





会長「ところで、トレーナー君、いくら何でも鈍感過ぎないか?(不満気」
トレ「そう言われましても……」
マル「まあ、私達のことを女として認識してるけど、恋愛対象と見てないものねぇ」
フジ「恋愛対象として見てないってレベルじゃないよね」

南坂「では僕が説明しましょう」
トレ「南坂ちゃん!? 説明って何をぉ?!」

南坂「先輩にとって、この程度のスキンシップは恋人同士でするものではないんですよ」
会長「この程度!? アレで!?」
南坂「何故そんな認識になってしまったのか。それは、御両親が連れ添ってから20年近く経った今でも新婚気分でちゅっちゅしているからです!」

トレ「おいばかやめろ。ウチの家庭事情を明かすな。オレが多感な年頃にどれだけ恥ずかしかったか分かんのか? なあ……! おい、聞けよ……!」

南坂「そんなわけで先輩の中の恋愛観はもうそりゃあヤベぇです。無自覚に八方美人で距離感が近い自覚はあるらしく、付き合い始めれば自分から内に籠り始めます」
マル「それは安心ね。恋人として嫉妬に狂うなんてしたくないし。で、それからそれから?(ドキドキ」
南坂「毎日のように好き、愛してるって抱き締めながらいいます」
フジ「そ、そんなに!(ドキドキ」
南坂「もうちゅっちゅなんて当たり前ですよ当たり前。人前だろうが関係ねぇと言わんばかりで。見てるこっちが砂糖を吐きそうになるほどです」
会長「ちゅ、ちゅっちゅ……!
!(ドキドキ」

トレ「お前! そんなん流石にしてねぇよ! して、して……してない、してない、よ?」


三人「「「……ゴ、ゴクリ」」」


トレ「三人とも目がこわぁい!!」




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『喧々諤々』

いつも感想、誤字報告ありがとうございます。
大変励みとなっています!

そして、フジキセキが来ますねぇ!
よくぞナーフせずに実装してくれた! 性能に関わらず回すぞ回すぞぉ!

では今回は完全にギャグ回です。どぞー。



 

 

 

「彼女達の勝負服はどういったものになるだろう。聊か以上に楽しみだな」

「ん? 他の娘のも気になるもんか?」

「我々一人ひとりを輝かせる大事な勝負服だ。如何に他人のものとは言え、興味関心を持たずにはいられないさ」

 

 

 二人だけの細やかな叙勲式を終えて、衣裳部屋の廊下を進む。

 

 ようやく得られた、彼が隣に居るという実感。

 それが何よりも嬉しく、同時に頼もしくもある。

 

 トレーナー君との一時によって望んでいた心地良さを味わい、我ながら分かり易いほどの現金さを発揮していた。

 先程までは自己の欲望を優先していたと言うのに、今はチームメンバーの笑顔を心から想っている。

 

 トレセン学園のスタッフは格致日新。

 日夜、努力と労力を惜しまず、輝かしい舞台へ立つに相応しい道具を用意し、準備を怠らない。

 私の勝負服を手掛けてくれた際もそうだったが、今頃は草案となるデザイン画を完成させていることだろう。

 

 

「戻りましたよー、入っても?」

「あ、あぁ、はい、どうぞ」

「……?」

「何か、どもってたな……?」

 

 

 辿り着いた会議室の扉をトレーナー君がノックし声を掛ける。

 すると、僅かながらに動揺の混じった声で入室を促す言葉が返ってきた。

 

 思わずトレーナー君と顔を見合わせる。一体、中で何があったと言うのか。

 悲鳴が上がっていない辺り、怪我を伴うような危険ではないようではあるが……。

 

 トレーナー君も思い当たる節などないのか、困惑している様子。

 互いに頷き合い、意を決して扉を開ける。中に広がっていた光景は――――

 

 

「わぁ、二人の勝負服も素敵ね」

「スズカさんのも格好いいよ……!」

「ありがとう。マックイーンちゃんなんて二つも」

「これもメジロの者として恥じぬように努力してきた褒美でしょうか、ふふふ」

 

「きゃっきゃうふふしてんなぁ」

「そうだな、其方はいいのだが……」

 

 

 サイレンススズカ、ライスシャワー、メジロマックイーンの三人が笑い合っていた。

 その笑顔は同じ女である私から見ても魅力的で、背景には花が咲き誇っているかのよう。

 

 気持ちはよく分かる。

 私のために用意されたいくつかのデザイン画を目にした時は胸が熱く滾ったものだ。

 実物を身に纏い、相応しい舞台に立ちたいという逸る気持ちと自分でも理由の説明できない不思議な高揚感。

 あの得も言えぬ感覚は何ものにも代え難く、普段は冷静な彼女達でもはしゃいでしまうだろう。

 

 愛らしくはあるが、ウマ娘(われわれ)として通常の反応であり、問題視するような光景とは言い難い。

 

 問題であったのは、残されたオグリキャップの方だ。

 

 

「あの、二人とも、其処まで悩まずとも……」

「そうよ、オグリさんが困ってるでしょうに……」

「先輩は黙ってて下さい! オグリさんを最高に輝かせるために協力者まで呼んだのに、手を抜けるはずもない……!」

「くっ、推しの勝負服作成に携わる栄誉に与ったと言うのに、あたしのダメセンスは……! くきぃぃぃ~~~~~!」

 

「何故アグネスデジタルがいる……」

「いや、知らん。オレ呼んでないんだけど……すげーな、オグリがドン引きしてるぞ」

 

 

 三人とは少し離れた場所では地獄が展開されていた。

 

 机に向かって必死にデザイン画を仕上げようとするデザイナーの姿。

 そして、彼女の対面には何故かアグネスデジタルが居た。

 会話から察するに両者には個人的な付き合いのあるようだ。

 そう言えばアグネスデジタルは趣味で絵を描いていると耳にしたことがある。その繋がりだろうか。

 

 しかし、何という執念か。

 二人は血走った目と鬼気迫る表情で筆を振るっているのだが、デザイン画が一旦完成するとその度に奇声を発しながら自ら破り捨てるを繰り返している。

 

 その様子には顔を引き攣らせざるを得ない。

 普段、余り表情に変化が見られないオグリキャップですら同様らしく、主任スタイリストは頭を抱えているではないか。

 

 

「お母様が現役時代に使っていたと言う髪飾りに合わせて……はぁ……無理……しんどい……その母娘の絆……しゅきぃ……」

「気をしっかり持つのよデジタルちゃん! そう、髪飾りの色は黄色、そしてオグリさんは芦毛! これに合うのはトリコロールカラー……!」

「そ、それです! オグリさんの主人公味溢れる経歴に合わせるなら……!!」

「「………………」」

「ダメじゃダメじゃ! これじゃあただのミンキーモモなんじゃ!! バッドエンド不可避になる! トレーナーさんは既に交通事故に遭ってるから更に不吉……!」

「ダメですダメです! どうしてもガンダムになってしまう! 確かに主人公機ですけどロボ味はブルボンさんの特権なのに!!」

 

 

 二人揃ってデザイン画を破り捨て、紙吹雪のように舞い散らせると同時に頭を抱える。

 デザイナーなど口調が変わっているではないか。そう言えば、広島出身とか言っていたような……。

 

 どうやら納得のいくデザインが決まらないらしい。

 芸術家にはそういったエピソードには事欠かないが、二人にも当てはまるようだ。

 

 

「ハッ!? ト、トレーナーさん! 良い所に!」

「そ、そうだ! 推しの担当なら魅力を最大限に引き出す何か、何かヒントを……!」

「えぇ、オレぇ……? そういうのはオグリに聞いた方が……」

「いや、私も特に考えがあるわけでもない。トレーナーの方からアドバイスしてやって欲しい。色々と助けて貰っている君の意見なら、私は何の不満もないぞ」

「そう? そうねぇ……」

 

 

 ……むぅっ。

 

 オグリキャップは全くそのつもりはないのだろうが、何と言うべきか。

 距離を詰めていないだろうか。物理的な距離ではなく精神的な距離が、だ。

 

 確かにトレーナーとウマ娘は信頼で結ばれて然るべき。

 其処に信頼関係がなければトレーナーはウマ娘の潜在能力全てを引き出せず、ウマ娘もまた自らの全身全霊を発揮できない。

 

 オグリキャップの気持ちは分かる。

 慣れぬ環境の中で自身を思って心を砕いてくれる存在を頼りにしないわけもない。それだけで全幅の信頼を預けるに値する存在だ。

 

 ……だが、うむ。やはり、()()()()()()()()であるという事実を忘れないで欲しい。

 

 

「そうだなぁ。オーソドックスに制服に近いタイプでいいでしょ」

「な、何を仰います! それでは推しの魅力が……!」

「奇を衒ったものが優れているわけじゃない。シンプルイズベストって言うだろ。勝負服はあくまでも当人の魅力を際立たせるものなんだからそれで十分だよ」

「た、確かに……!」

「あ、あぁ、推しの魅力に目が眩んであたしはなんて馬鹿な……! でも、答えは得た……!」

「やるんじゃ、デジタルちゃん! うおぉぉぉぉぉ――!!」

「うひょぉぉぉぉ――!!」

「もうなんか怖いなこの娘。アグネスのやべー方と覚えておこう」

「アグネスは彼女だけが……いや、何でもない。忘れてくれ」

 

 

 トレーナー君の言葉で脳裏に浮かんだのは学園の問題児である()()であるが、今は関係ない故に口を噤んでおく。

 

 デザイナーとアグネスデジタルは、これから戦場に向かう兵士のような闘志を露わに一枚の紙に二人で筆を走らせている。

 正直、私も怖いほどであるが、これだけの熱意であればきっと素晴らしいものが出来上がるだろう。多分。恐らく。

 

 

「まあいいや。皆のも確認しときますか」

「そうしよう。見せて貰っても構わないか?」

「ええ、どうぞ」

 

 

 トレーナー君も私と同じ事を考えていたのか、汗を流しながらも狂気の沙汰から目を逸らす。

 

 私の言葉が聞こえたのか、サイレンススズカがいの一番にデザイン画をトレーナー君に手渡した。

 こう言った所でも先頭に立つのは気質なのだろう。

 但し、普段と異なっていたのは、先頭だけを狙う真剣な表情ではなく頬を綻ばせていることか。

 

 

「おっ、スズカも制服系か。いいじゃん」

「ほう。これこそシンプルイズベストだな」

「ふふっ、そうですよね……!」

「緑のケープとか合わせてもいいかもなぁ」

「ああ、それは私も思ってました。パドックで投げるパフォーマンスにも使えるし」

「そういうのもあるんですね。でも、折角考えて頂いたのに御迷惑じゃ……」

「まだ実物が完成したわけじゃないから気にしなくてもいいわよ。最高の勝負服を用意する、それが私達の仕事だから」

 

 

 差し出されたデザイン画には、制服調の勝負服が描かれている。

 白を基調に緑を添えた絵は、彼女の栗毛と普段から使っているメンコに合わせたのだろう。

 黒いタイツと手袋を合わせて一切素肌を見せず、白と黒の色違いの靴がアクセントになっていた。

 

 トレーナー君が言うように緑のケープもよく合うに違いない。

 サイレンススズカの何処か儚げな雰囲気と何とも言えない色香を際立たせるに違いない。

 

 これはサイレンススズカは勿論の事、トレーナー君や主任、私も文句の付けようのない出来だった。

 

 

「じゃあライスは?」

「う、うん、ライスはこれ……!」

「ふむ。これも素晴らしいな」

 

 

 続いて見せてきたのはライスシャワー。

 

 彼女の勝負服は打って変わってドレス調。

 青みがかった黒を基調に、肩を大きく出したカクテルドレスに近い形状。胸元の青い薔薇と腰に携えた短剣が目を引く。

 青い薔薇は普段からしている帽子に合わせているのだろうが、偽物とは言え短剣の装飾は愛らしい彼女には一見似つかわしくない。

 

 綺麗な薔薇には棘がある、とも言う。

 ライスシャワーの実力はまだまだ未熟であるが、侮れないものがある。

 そういった未覚醒の、或いは彼女すら気付いていない未知の部分を表しているようだ。

 デザイナーの彼女が其処までを見抜いたとは思えないが、私はよく合っているような気がした。

 

 しかし――――

 

 

「…………」

「ど、どうしたトレーナー君!?」

「お腹痛いの……!?」

「いや……そ、そうか。ライスはこういう奴か……一個だけ聞かせて? ライスはこれがいいのか?」

「う、うん……だ、ダメ、だった……?」

「駄目じゃない。駄目じゃないんだけど……肩が……」

「君は、少し過保護が過ぎるぞ……」

 

 

 突如としてトレーナー君は膝から崩れ落ちた。

 その表情は下唇を噛み締めて、痛みにでも堪えているようだ。

 

 一瞬、事故の古傷でも痛み始めたのかと思ったが、漏らした発言を聞く限り違う。

 どうやら、彼はライスシャワーの勝負服で肩が露出しているのが気に入らないらしい。

 

 思わず呆れてしまう。

 以前から思っていたのだが、彼が我々を見る視点は兄や父のそれに近い。

 露出が多ければ多いほど、心配になってくるのだろう。

 

 しかし、この程度の露出で此処まで心配するとは。

 これではエアグルーヴやブライアン、ヒシアマゾンやフジキセキの勝負服を見たらどうなってしまうのか。

 

 

「よ、よし。次はマックイーンだ」

「え、ええ。此方ですわ。二つも考えて頂いて」

 

 

 トレーナー君の心境をいまいち理解していないメジロマックイーンは、動揺を見せながらもデザイン画を渡す。

 片膝をついたまま受け取ったトレーナー君の後ろから私は覗き込んだ。

 

 一つ目は黒を基調としたドレスコート調のデザイン。

 コートの裾や袖、胸元には白いフリルがあしらわれており、エメラルドグリーンのリボンとソックスが遊び心となっていた。

 黒と白は彼女の大人びた冷静さを、エメラルドグリーンは消え切っていない子供心と無邪気さを表しているようで、絶妙なバランスだった。

 

 問題は、もう一つの方だった。

 

 白を前面に押し出した礼服とドレスを合わせたかのようなデザイン。

 シンプルなように見えて、金のボタンや宝石を散りばめたかのような刺繍は華美でさえある。

 しかし、その華美さはあくまでも彼女の愛らしさと凛々しさの同居した美貌を際立たせるレベルで収まっているのは流石であった。

 

 ただ、その……臍が……。

 

 

「イ゛ィ゛ーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」

「「「ヒェッ」」」

「ト、トレーナー君」

 

 

 歯を食い縛り、眼球が零れ落ちそうなほど目を剥いた表情は恐ろしいの一言。

 そして奇声を発して四肢をついた姿は、デザイナーやアグネスデジタルに通ずる狂気を感じさせる。

 

 ある程度予想していた私は兎も角、過剰過ぎる反応に三人は小さく悲鳴を上げていた。

 

 

「許さんっ……! 許さんぞ! トレーナー権限で、この白い方は却下! 却下です!」

「な、何故ですの!? こんな素敵な!」

「素敵じゃねぇ! だってこれ、こんな、この……臍ぉ!!」

「こ、これくらいの露出なんてことありませんわ! 普通です普通!」

 

 

 色々と言いたいことはあるのだろうが、言いたいことが多過ぎて語彙がなくなり、端的に気に入らない部分だけを指摘していた。

 必死の形相で却下を提案するトレーナー君に対して、メジロマックイーンもまた必死に食い下がる。

 直截的に露出している部分を口にされるのは流石に恥ずかしいのか、顔を赤らめさせていた。

 

 その様は、正に派手な格好を咎める父兄と望む妹娘。

 サイレンススズカとライスシャワーはどちらの肩を持つべきか迷っているらしく、はらはらと両腕を所在なさげに彷徨わせている。

 

 私と主任はと言えば、片手で顔を覆って首を振ることしかできなかった。

 

 

「こんな、こんな破廉恥な格好させてレースに出走させるなんて、オレは親御さんに顔向けできねえよ! 女の子が腹を冷やすなぁ! 頼むからやめてぇ!」

「は、は、破廉恥だなんて! そんなことありません! ありませんわ! それにトレーナーさんがサブトレーナーをやっていたリギルの方々の方がよっぽど破廉恥な勝負服ですわよ!」

「マジかよ!? あ、でもマルちゃんは胸元が! いやでもこっちよりはマシだよ!」

「ナリタブライアンさんなんて胸元は殆どサラシですのよ!?」

「サラシぃ!? マジかよ!」

「ヒシアマゾン寮長なんてもう殆ど水着ですわ!」

「水着ぃ!? おハナさん何考えてんの?!」

「フジキセキ寮長なんて、一見すると男装の麗人と言った感じですけど、胸元はガバガバ! 破廉恥以上のドすけべですわ!!」

「胸元ガバガバでドすけべ!?!!?」

「お、落ち着くんだ、二人とも……」

 

 

 メジロマックイーンから矢継ぎ早に明かされる事実に、トレーナー君は絶叫染みた声を上げた。

 

 続き、私の方を見たが、私は目を逸らさずにはいられなかった。

 彼女の主観的な意見は兎も角として、客観的な事実としては殆ど間違ってはいないからだ。

 

 其処で、語られた言葉全てが事実だと察してしまったのだろう。

 トレーナー君は四肢をついたまま身体を震わせて、顔を上げた。

 

 

「最近の娘は進んでいると思っていたが、まさか此処まで……仕方ない。かくなる上は――――もがぐぐ」

「食べましたわーーーーーーーーーー!?!!?」

「ウソでしょ?!」

「トレーナーさん、山羊さんじゃないんだよ……?!」

「や、やめるんだ、トレーナー君?!」

「何をしてるんですか?!」

 

 

 決死の覚悟でトレーナー君の取った行動は、デザイン画を口に放り込むという暴挙だった。

 

 真っ赤な表情と血走った目で紙を咀嚼する姿は山羊と言うよりも悪魔のそれ。

 どうあってもあの勝負服を現実のものとしたくないらしい。いや、いくら何でもやり過ぎだぞ……!

 

 

「わ、分かりました! 勝負服は此方の黒い方にしますから!」

「もがが、もぐ、もぐぐぅ……!」

「皆、落ち着くんだ。私に任せて欲しい」

 

 

 見かねてメジロマックイーンが折れたのだが、トレーナー君の咀嚼は止まらない。

 

 その時、動揺する我々を割って現れたのは未だに狂気の中にいるデザイナーとアグネスデジタルの様子を見守っていたはずのオグリキャップ。

 私には預かり知らぬところではあるが、何か秘策でもあるのか表情には自信が満ち溢れている。

 

 この自信、此処は任せるべきか……。

 

 私が首肯するとオグリキャップは満足げに頷き、トレーナー君の前に片膝を付く。

 

 

「トレーナー、そんなものを食べてはダメだ。お腹を壊してしまう」

「もが、もがががが」

「そんなにお腹が空いているなら、これを食べるんだ」

「もがっ!?」

「そうだ。トレーナーが作ってくれた私の軽食用のおにぎり、その最後の一つだ。さあ……!」

「もごごご」

 

 

 違う。そうじゃない。

 狂気に陥ったトレーナー君も含めて、その場にいた全員の心は一つになったろう。

 

 トレーナー君は咀嚼を止めないながらも、信じられないものを見る目でオグリキャップを眺めていた。

 それもそのはず、彼女の弁を信じるのならば、差し出したのはアルミホイルに包まれたおにぎりであり、彼が作ったのなら見覚えもあっただろうから。

 

 我々も同様の視線を送ってしまっていたに違いない。

 何せ、この状況で空腹の余りにデザイン画を食べているとオグリキャップが信じ込んでいるのだから。

 トレーナー君も言っていたが、これでは本当に彼女は走っている時以外、食べることと寝ることしか考えていないも同然ではないか……!

 

 拒絶の意を示すために首を振ったトレーナー君を見ると、オグリキャップはキョトンとした表情をする。

 そして、ふっと笑うと立ち上がり、アルミホイルの包みをおもむろに開けながら我々の方を振り返る。

 

 

「駄目だった。もぐもぐ」

 

 

 差し出したはずのおにぎりを食べながらの一言は強烈なインパクトを伴っていた。

 その日、私達は芦毛の怪物と呼ばれる彼女の天然(恐ろし)さ、その一旦を垣間見たのであった。

 

 本当に、そんな方面での恐ろしさなど、知りたくはなかったのだが。

 

 結局、トレーナー君は意地でデザイン画を飲み下し、メジロマックイーンの勝負服は最初に見せたドレスコート調のものに強制的に決定。

 オグリキャップのデザイン画もデザイナーとアグネスデジタルの手により、渾身の作品が書き上げられた。

 勝負服を作る手始めになるはずが、一体全体どうしてこうなったのか。

 

 唯一私に出来たのは、二度と同じ事態を招かぬよう、こうしたデザイン画はトレーナー君よりも先に確認しようと誓いを立てることだけだった。

 

 

 

 

 




主任スタイリストさん
東京出身。年頃はトレーナーと同じくらいだが、割と重要なポジションについてる才女。
極めて真面目。時折暴走する後輩デザイナーちゃんの手綱を握り、ウマ娘の意向を拡大解釈してスケベ衣装を作るゲス眼鏡(フジキセキの勝負服担当)に制裁を加えたりする有能な苦労人。理事長も全幅の信頼を預けている。


デザイナーちゃん
広島出身。デジタルとは絵師繋がりで個人的な友人。
ウマ娘に最高の勝負服を! という一念でトレセン学園に就職してきた新進気鋭。
デザイン画ばかりでなくアニメ絵や漫画調の絵も描ける。裏アカで健全絵を投稿しまくっている神絵師。休日はデジタルの同人誌作成を手伝ったりするくらいに仲がいい。



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『季布一諾』


今回の話、作者の勘違いでこんな形に。
自分は何でメイクデビューを4月頃とか勘違いしていたんだ?

実際に、作中のスズカさんと同じ流れでデビューしようとした競走馬がいるようで。
まあ、細かい所は違うかもしれませんが、其処はこの話特有の独自設定と言う事で一つ。

そしてフジキセキのキャラストを見て、泡食ってトレーナー君からトレーナーさんに修正。
修正し忘れてるところがあったらまた教えてください。



 

 

 

 スズカのデビュー当日。

 オレは日本の四大レース場の一つである中山レース場にいた。

 

 天気は数日前から続く快晴で良バ場発表。

 体感だが風速2・3mと平均値、方向は追い風。スズカのようなスピードタイプには絶好の条件が整っている。

 

 午前中から始まっている未勝利戦のいくつかをスタンドで春の日差しを浴びながら眺めている最中だ。

 

 今日の所はスズカと二人きり。

 ルドルフもオグリもレースが近く、マックイーンとライスに入れ込み過ぎてオーバーワークにならないように監視を頼んだ。

 

 観客の数はそれほどでもない。

 未勝利戦など毎週土日に飽きるほど開かれているし、注目を集めるようなウマ娘がいなければ当然かもしれない。

 

 しかし、例えG1、G2でなくとも、一つのレースにはドラマがあり、出走するウマ娘には自らを焼き尽くさんばかりの熱意が存在する。

 オレ個人としては勝った負けたばかりではなく、そうしたところにも目を向けて貰いたいものではあるが、骨の髄までレース好きでもなければ共感は得られまい。

 事実、新馬戦、未勝利戦にただ一度も勝利できないまま学園を去っていくウマ娘の方が圧倒的に多い。見ている側も有望株でもなければ、覚えていられないだろう。

 

 分かり易い過程や結果しか見て貰えない勝負の世界。

 どうしようもない無常が存在するからこそ、出走する側は常に夢を追いかけ、観戦する側は常に夢を見る。

 

 ガキの頃から覚えていたやるせなさと、それを超える期待。

 肌で感じるレース場の空気は随分と懐かしい気さえしたが、同時に新鮮でもあった。

 

 こうしてトレーナーとして立つのは今のオレにとっては初めての経験になってしまうからだ。

 ルドルフには申し訳ないが、忘れている以上は心境としては当然であったかもしれない。

 

 

「……そっちの担当は調子が良さそうだな」

「黒沼さん。そっちの担当の娘も未勝利戦に勝ってたじゃないですか」

「ああ、調整に苦労したがな。どうにも、体質的に弱いとオレのやり方じゃ厳しいものがある」

 

 

 一人スタンドで何とも言えない心境と空気に浸っていると、後ろから一人の男性が声を掛けてきた。

 

 誰もが最初に抱く印象は厳つい、その一言に集約されるだろう。

 黒い帽子にサングラス、屈強な肉体を見せつけるようなファッションセンス。柔和さには程遠い顔立ち。

 何も知らなければ堅気にすら見て貰えないだろうが、トレセン学園が誇るトレーナーの一人、黒沼さんだ。

 

 おハナさんやオレ、南坂ちゃんと同じく拷問部屋出身。そのお陰で付き合いがあったらしい。

 学園に戻ってきてから話したのは数回程度であるが、それだけで厳格さと確かな信念の持ち主だと分かった。

 口数は少ないが人と話すのが嫌い、苦手と言うよりも、言葉の持つ威力、言責というものを理解しているからこそ慎重に言葉を選んでいるような印象だ。

 

 実績もトップトレーナーに恥じぬもの。

 勝利した重賞、GⅠレースは数知れず、上位リーグであるドリームトロフィーシリーズに何名も担当を送り出している。

 おハナさんが才気溢れる担当を更に高い位地に押し上げるとするならば、黒沼さんはどのようなウマ娘でも一定の成果を上げさせるいぶし銀。

 

 トレーナーとしての特徴は苛烈とも言えるハードトレーニング、結果として得られる適性距離の伸び。

 その手腕は見事なもので、短距離に適性があると思われたウマ娘を中距離で活躍させるほど。

 その分だけ故障の発生率が高まるのだが、限界ギリギリを見極める確かな目を持っている。

 

 総じて、性格的にも方針的にもオレとは反りが合わない、とは思うのだが不快感や反骨精神は沸いてこない。

 歩む道は違えども、互いに敬意を払っているからだ、と信じたい。

 

 

「しかし、また随分と無茶な真似を選んだな」

「6月まで待ってもよかったんですけど、思っていた以上に闘争心が強くて。仕上がりも尋常じゃないほどいいし、其処でフルゲート割れしているのを聞きまして」

 

 

 明らかな批判の色を孕んだ視線ではあったが、否定だけは存在していない。

 根底にあるのがオレとスズカに対する心配であり、レースの結果に関してある程度、予想しているからだろう。

 

 通常、メイクデビューは6月以降。

 其処で勝利するか、負けたとしても未勝利戦で勝つことで、トゥインクルシリーズに正式参戦となる。

 

 だが、その前提を覆す手段はある。

 

 それがクラシック競走の前哨戦とも称され、優先出走権を得られるトライアル競走。

 URAの規定上、このトライアル競走は未出走、未勝利であったとして年齢さえ満たしていれば出走できる。

 其処でオレが選んだのは皐月賞の前哨戦となる“スプリングステークス”。距離は1800m、格付けとしてはGⅡの重賞競走となる。

 

 普通は誰もこんな真似をしない。

 トゥインクルシリーズは初年度はジュニア級、二年目をクラシック級、三年目をシニア級と分けられ、出走できるレースが区分されている。

 クラシック競走は登録を行った上でクラシック級に至り、一定の獲得賞金、年齢を満たさなければならず、人生においては一度きりしか出走できない。

 つまり、例え勝った所で優先権が機能せずにメリットがまるでない。デビューするだけなら、面子が同じ未出走しかいないメイクデビューまで待った方が無難も無難。

 

 実際、このオレの選択はマスコミに取り上げられた。

 内容はサイレンススズカというウマ娘がそれほどのものなのか、と言う期待が二割。

 残る八割は、三冠バトレーナーの出走奨励金や特別出走手当を目的として小遣い稼ぎという批判だ。

 スズカを知らないURAのお偉方、トレーナー、ファンも恐らくは似たような見解を抱いているだろう。

 

 似たような真似をしたウマ娘はいるにはいるが、いずれもパッとしない成績のままレースの世界を去っているからだ。

 

 その上、ウマ娘は精神面での影響がもろに出る。

 たった一度の勝利、たった一度の敗北で、おかしな癖でも付こうものなら矯正にどれほど時間がかかることか。

 世間の反応は当然で、予期していたもの。故にメディアからのインタビューにもノーコメントを貫いておいた。

 

 違う反応を見せたのは極一部だけ。隣の黒沼さんもその一人。

 

 

「黒沼さんから見てどうです、ウチのスズカは?」

「オレに聞くか……才能も仕上がりもお前の言う通りだ。実戦経験の無さは痛いが、チーム内での模擬レースはしているんだろう?」

「勿論。ウチには三冠バと学園に来る前から家で模擬レースしまくってたメジロの御令嬢がいますんで」

「ならお前の選択も頷ける。勝ちの目は十分あるな」

 

 

 此方を気に掛けて、話し掛けてくれたのは分かっている。

 既に何処かで今日のスズカを目にしただろう故に、この結論だ。おハナさんも同じ事を言っていた。

 流石にトップトレーナーと呼ばれる存在。自分の担当ばかりでなく、余所の担当もいずれはぶつかるかもしれない相手として情報収集を怠っていない証拠だ。

 

 正直なところ、オレ自身もこの選択はバカげているとは思っている。

 

 ただ、彼女の闘争心は凄まじかった。

 併走や模擬レースで発散できていると思ったのだが、甘かったと言わざるを得ない。

 ルドルフやオグリに並ばれた時やマックイーンやライスに迫られた時、凄絶とさえ呼べる眼光が瞳に宿る。

 結果、空回りしてペース配分を誤り、必ずと言っていいほど逃げ潰れを起こしてしまう。スズカ自身が闘争心をコントロール出来ていない。

 

 今回の決断は、そのツケを払う結果だ。

 このままでは気性難になってしまいそうなので、これまでにない相手と走らせることで溜まりに溜まった闘争心を吐き出させるのが最大の目的。

 世間が思っているように、勝ち負けや金の話が焦点ではない。その後の成長のさせ方こそが焦点なんだ。

 

 ただ、問題があるとするのなら――――

 

 

「大丈夫なのか?」

「何言ってんですか、黒沼さんの考えてる通りです。経験で劣っていようが能力が違う。あっさり勝ちますよ」

「……オレが言ってるのは彼女じゃない、お前の方だ」

 

 

 溜息と共に投げ掛けられた言葉に、心臓が嫌な跳ね上がり方をした。

 見透かされている、素直にそう思った。

 

 

「どう、ですかね」

「そうか……余り無責任なことは言いたくないが……」

 

 

 流石に、人生経験豊富な人の前では強がりや上辺だけの言葉など通用しない。

 オレが内心を当てられて辛うじて絞り出した言葉を黒沼さんは静かに受け取るだけ。

 

 そして、顎の整えられた髭を弄りながら、慎重に言葉を選んでいる様子。

 言責というものを重々承知しているからこそ、

 

 

「トレーナーは導き支える立場だが、同時に教えられ支えられることもある。オレ自身、多くのものを受け取ってきたつもりだ」

「…………」

「オレは無我夢中でそのことに気付けなかったが、お前ならそれに気付ける。だから、そう気に病むな。大事なレース前だ、顔くらい見に行ってやれ」

「……そうします」

 

 

 それは先達としての言葉だったのだろう。

 しかし、今のオレには受け止めるには余りに重い。

 

 素直に受け取れず、かと言って無下にも出来ず。

 何とか黒沼さんの言葉を実行にだけは移すべく、笑っておく。だが、上手く笑えたかどうか。

 

 そのぎこちなさを見出したのか、黒沼さんはそれ以上何も言うことなく帽子を深く被り直すだけ。

 忘れたとしても再び胸に刻めるように、今の言葉を手帳に書き込んでおく。オレに出来たのは、それだけだった。

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

 レース場には様々な設備がある。

 一般人の入れるスタンド、食堂、売店から関係者しか入れない審議や着順の確定を行う審判室。

 

 その内の一つに、選手の控室がある。

 レース開始前の各々が着替えや化粧を済ませる個室。

 スズカに与えられた扉の前に立ち、乱れた心を整え直してノックする。

 

 

「スズカ、入るぞー?」

「――――あ、はい、どうぞ」

 

 

 ノックと掛けた声に僅かに遅れて返事があった。

 レースに向けて集中力が高まっている証拠だろう。やや入れ込み過ぎている感は否めない。

 

 扉を開けて中に入ると、体操服の上にゼッケンを付けたスズカが控室の椅子に座っていた。

 オレの顔を見るとパッと顔を綻ばせたが、瞳に宿った闘争心は炎のように揺らめいて消え去らない。

 

 やる気十分。デビューにGⅡを選ぶ愚行に不安すら覚えていない様子だ。

 同時に、そのまま何処までも走っていって、手の届かないところにまで行ってしまいそうな危うさがあった。

 当人でさえどうしようもない高揚と、僅かばかりの緊張が見て取れる。朝、目にした状態とさして変化は見られない。

 

 その時は精神的に余裕がなかったから気が付かなかったが、これは少し気を紛らわせてやった方がいいかもしれない。

 

 

「調子良さそうだな。レース前にはナーバスになる娘が多いらしいんだけどなぁ」

「そう、ですか? 私は、もう直ぐにでも走りたくて……」

「この前みたいにオレを置き去りにしてそのまま直帰なんてやめてよぉ?」

「あっ、あれは! ちがっ、違うんです! 置き去りにするつもりなんてなくて、忘れてしまっただけで!」

「それはそれで酷いと思うぞぅ?」

「あぅぅ、ご、ごめんなさい」

 

 

 もう忘れてしまって情報としてしか認識していないのだが、その時の話を出すとスズカは思わず顔を真っ赤にして縮こまっていく。

 

 少し前、学園のコースが使えず学園外でタイムを測ろうという話になった。

 一般道を使った訓練なので全力ではなく、あらかじめ走るコースを説明して流すだけの訓練だったのだが、其処で事件が起きた。

 

 春の陽気に当てられたのか、走ることが楽しくなってしまったスズカは途中でタイムの事など忘れ、コースも外れて何処かへ走り去ってしまったのである。

 生憎とその時は他のチームメンバーがいなかったため、彼女を止める者など誰もなく。

 

 その時に、オレが手帳に残したのは此方。

 

 

 河川敷 五時間経っても 待ち惚け

 

 

 季語もクソもない、哀愁ばかりが漂う一句だった。

 時間通りにその日の記憶を失ったオレはそれでもなお待ち続け、日が暮れた辺りで寮長のフジに連絡してスズカが無事に寮へと戻ってることを確認して帰った次第である。

 

 次の日、朝早くから顔を真っ青にしてミーティングルームにやってきたスズカの土下座せんばかりの勢いの謝罪は記憶に新しい。

 別にオレは全然怒っていなかった。まあ、頭先頭民族と付き合うならこれくらいは、ね?

 寧ろ、顔を蒼くさせたり赤くさせたりするスズカが面白くなって爆笑していたほどだ。

 

 ……ともあれ、スズカの気を紛らわせられたようではある。

 一瞬。ほんの一瞬でもレースから気を逸らせれば、入れ込み具合は解消されて集中は一から立て直し。

 レースまでに十分すぎる時間はあるし、彼女なら問題ないレベルまで立て直しもできよう。

 

 

「今回は特に指示しない。難しいことを言っても逆効果だろうしな」

「いいんですか?」

「いいも何も、スズカの走り方ならなぁ。小細工やら駆け引きなんて関係ないし。周りは殺気立ってるけど」

 

 

 そりゃ殺気立とうというものだ。

 未出走のままトライアル競走に殴り込みをかけてきた。

 真面目に皐月賞を狙っている側にしてみれば、不快以外の何ものでもあるまい。

 レースの世界を舐めている、私達を甘く見ている、と感じてもおかしくはない行為だ。

 ともすれば、感情に任せて徹底的なマークや悪質な妨害に出る者もいるかもしれない。

 

 だが、相手がどのような手段に打って出ようとも、オレとスズカはその上を行くのみだ。

 

 出走相手の脚質や性格、今日の仕上がりを見ても、何の問題もなく勝てる相手だ。

 何度頭の中で映像となった予想を行っても、結果は覆らずにスズカの勝ち。

 不安要素はスズカ自身が抱えたメンタル面の問題であったが、この分ならば修正の必要はないだろう。

 

 

「いつも通りに行こう。大逃げ、期待してっからさ」

「……! はいっ!」

「……?」

 

 

 一瞬ではあるが、スズカの表情が明らかに色めき立った。

 

 ……はて、オレの言葉はそんなに喜ばしいものだったのだろうか。

 オレなんかは期待も失望も、自身の行いに対する周囲の反応以上のものはないんだが……。

 

 まあ何にせよ、闘争心とはまた異なるやる気が灯ったのはいいことだった。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 結果だけ言ってしまえば、今年のスプリングステークスは世間にとっては大波乱の、オレにとっては当然の結果となった。

 

 スタートからハナに立ったスズカはそのまま誰にも先頭を譲らずゴール板を駆け抜けた。

 

 そもそも生まれ持った絶対能力やスピードからして違う。

 経験で培った策や駆け引きがスズカには通用しない。仕掛けようにも追い付けないのだから。

 

 そういった世界に引きずり込める者は限られる。

 

 ルドルフのような強靭な精神と明晰な頭脳を持った者か。

 マルちゃんやフジのような比肩し得るスピードを持った者か。

 オグリやタマちゃんのような末脚と並々ならぬ勝負根性を持った者か。

 マックイーンやライスのような無尽蔵とも言えるスタミナを持った者か。

 

 生憎と今回の出走者にそのような者は一人としていなかった。

 

 途中、スズカは掛かり気味になってしまい、無駄にスタミナを消耗してしまったが。

 結果、二着とは僅かハナ差。予想では一バ身は離せるとは思ったが、この辺りは今後の課題だろう。

 

 何にせよ、ハナ差であろうが勝ちは勝ち。

 寧ろ、未出走のウマ娘がクラシック級にまで駒を進め、皐月賞に挑まんとするライバルから勝ちをもぎ取った事実は何よりも重要だ。

 

 無謀に挑んだウマ娘を一目見ようとした観客達から一瞬の静寂の後に大歓声が。

 関係者からは称賛どころか愕然とした沈黙のみが送られた。  

 

 尤も、当の本人は初めてのレースとその感触を噛み締めていて、周囲に目を向けてなどいなかった。

 オレとしてはファンサービスしろとは言わないが、応援してくれた人達の称賛の声にも耳を傾けてやって欲しい。

 

 そうすれば、スズカの世界はまた広がる。

 いずれ、その期待も夢に至るための力になるはずだ。

 

 

「トレーナーさん、やりました!」

 

 

 控室の前で待っていると、戻ってきたスズカがオレの姿を認めて一目散に駆け寄ってきた。

 普段の控え目な彼女では見られない、子供のような幼い笑みと弾んだ声。心なしか、足取りも弾んで見えた。

 

 よし、足腰に異常なし。体力もまだ残っている。

 これならライブにも耐えられるだろう。

 

 

「ああ、大した大逃げだったよ。でも、途中で掛かってたろ?」

「あっ、やっぱり分かりましたか……?」

「そらねぇ、トレーナーさんですから。これからはレースの雰囲気と自分の闘争心に飲まれないように」

「は、はい……」

 

 

 取り敢えずは、まずは指摘しなければならないところを指摘しておく。

 

 これもまたゲインロス効果の使い方。

 笑いのコツは上げて落とすだが、指摘のコツは落として上げる、だ。

 

 

「だが、それ以外は流石だ。途中まで完全に一人旅だったしなぁ。よくやった。よくやったよ」

「あ……ぅ……そ、その、トレーナーさん、流石に廊下では恥ずかしいので……」

「なんだぁ? 一丁前に照れてんの? うりうり~」

 

 

 労うように頭を撫でてやる。

 他の目に晒される可能性があるからか、スズカはゼッケンをぎゅっと握り締めながら、顔を真っ赤にして上目遣いで物申してくる。

 

 しかし、本当によくやったと思うからこそ、止めてなどやらない。

 世間からの批判や周囲からのやっかみに負けず、勝ってきたのだ。

 

 そして何よりも、オレ自身が魅せて貰った。

 ガキの頃のように、何一つ余計なことを考えずに楽しんだ。

 まさか、もしかして。そんな夢が叶ってしまうのではないか、という淡い期待を抱いてしまうほどに。

 

 

「さて、と。じゃあ、ライブの準備をしてきな」

「え、でも、インタビューがあるんじゃ……」

「スズカ、そういうの苦手だろ? そっちはオレが適当に答えとくから気にすんな。これからは兎も角、今日くらいはいい気分で行っといで」

「はい! ありがとうございます!」

 

 

 しっかりとした感謝を伝えるために、深々と頭を下げたスズカはシャワールームへと向かっていく。

 背中では尻尾が高く揺れて、耳はピンと立っている。喜びと同時にリラックスしている証拠だ。

 おかしな癖もついていないようだし、これで当面は安心だろう。

 

 

「さてと、行きますか」

 

 

 スズカの姿が見えなくなるまで見送り、オレは気合を入れ直す。

 

 レースに勝利したことで、マスコミには大きく取り上げられることになる。

 世間に八割あった批判も掌返しで称賛と期待に転ずるだろう。

 そうなれば、インタビューの内容もより情報や此方のコメントを得ようと勢いを増す。

 

 中には此方の印象を下げようと悪意を持って厄介な質問をしてくるインタビュアーもいるかもしれない。

 ルドルフほど頭の回転が速ければ何の心配もないのだが、人付き合いが苦手なスズカには苦手分野そのものである。

 前面に立たせるのはまだ早い。今回は疲れがあるとして代役し、次回からは横でフォローする形を取るとしよう。

 

 こうしたマスコミへの対応も、トレーナーの立派な仕事だ。

 懸念があるとするのなら、インタビューではない。記憶を失った後だ。

 

 オレに課せられた最大の試練は、その後に待ち構えている。

 どうか、スズカや他の皆には悟られませんように。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「はっ……はっ……ふふっ……!」

 

 

 ライブ会場から先に戻ったトレーナーさんの待つ控室へ小走りで駆ける。

 

 私のデビュー戦とライブは大成功の形で幕を閉じた。

 レースが始まる前と間は自分の内にある熱を吐き出すことも出来ずに随分とやきもきした。

 けれど、終わってみればその熱は消え去って、また別の熱い想いが生まれてくる。

 

 ライブで歌い、踊っている最中、全身に叩き付けられるファンの歓声。

 私の走りを見た人達の応援と期待が、何よりも心地良かった。

 

 そして、レース前は刺々しさすらあったライバル達のヒリついた雰囲気も変わっていた。

 負けを認めて、次は勝つと宣言する人。泣きそうな顔になりながらも称賛の言葉を掛けてくれる人。

 自分がどんな気持ちであったとしても勝者に対する敬意を忘れないその姿に、私に欠けているものが何かを教えて貰った気がする。

 

 例え負けていたとしても、先頭を走れなかったとしても、同じ気持ちになっていたと思う。

 

 勝利以上に得るものの大きいレースだった。

 多分、以前の私では先頭を走れなかった事実にだけ目を向けて、それ以外には何も気づけなかった。

 

 そんな気持ちにさせてくれたのは、間違いなくトレーナーさんと皆のお陰だと感じている。

 期待に応えることの歓び、私の願いや思い以外にも大切なものがあると気づかせてくれた心からの感謝を伝えたかった。

 皆は学園にいるので明日にするとして、今はトレーナーさんに。

 

 ………………いの一番なのに他意はない。うん、決して。

 

 

「トレーナーさん!」

「おう、戻ってきたな。ライブよかったぞ」

「……?」

 

 

 扉を開け放って控室に入ると、一人掛けのソファに座りながらもトレーナーさんが迎えてくれた。

 

 でも、何だろう……?

 何時もと変わらない笑みを浮かべているはずなのに、何処か違和感を覚える。

 

 そして、予感めいたものも。

 この人と付き合っていく上で、その違和感の正体に気付かなければならない気がした。

 

 

「どうかした?」

「い、いえ、何かあったわけじゃないです、けど……」

「そう、か……なら、いいんだけど……」

 

 

 私の反応に、首を傾げた。

 それはそうだ。トレーナーさんに私の状態は分かっても、何を考えているかまで分からない。

 

 募る焦燥感はなんだろう。

 レースで射程圏内に捉えられてしまった時以上に、焦りを覚えている。

 

 その時、トレーナーさんは私からすっと目を逸らした。

 普段は相手の存在を認めるために、目を合わせて話す人が自ら。 

 

 そんな真似をするのは、何か疚しいところがあるから……? 

 

 

「……ああ」

 

 

 思い至ったのは二つの事柄。

 

 今の時刻は18時過ぎ。

 もうトレーナーさんに昼間の記憶はなくなっている。

 それは患っている病のせい。私も彼も理解していることで、今更説明されるまでもない。

 

 私がどう走ったのか、どんな風に勝ったのかさえも覚えていられない。

 

 それはいい。

 私も事情は知っているし、彼も全てを覚悟した上で私の担当を引き受けてくれた。

 

 でも、覚悟していたとしても目の当たりにした現実に何を感じるのかは、また別の話。

 今のトレーナーさんにとって、私の勝利はテレビの向こう側で語られる情報に過ぎず、経験とは言えない。

 そんな状態では、共感も同調もありはしないだろうから。

 

 だから、私の勝利を心から喜べないでいる自分を恥じている。それが一つ目。

 

 

(……そうか、私、この人のことが、好き、なんだ)

 

 

 もう一つはバカバカしいくらいに簡単なのに、今まで気づかなかった私の気持ち。

 

 自分ではどうしようもない事柄を、仕方ないで済ませられない純粋さと誠実さ。

 そんなトレーナーさんだからこそ、初めて会った時に担当をしている娘を羨んだ。

 

 そして、担当をして貰って、きちんと向き合ったからこそ、今は好きになった。

 

 そうとしか説明がつかない。

 会長や他の皆、チームメイト以外の人と仲良くする度に、胸が締め付けられたのは嫉妬だったから。

 頭を撫でられるほど、心配されるほどに嬉しくなってしまったのは、確かな喜びがあったから。

 

 だから、その気付きと胸の内のまま、私は動き出していた。

 

 

「あー、あの、スズカさん?」

「大丈夫、大丈夫ですよ。トレーナーさんが忘れても、私はちゃんと覚えていますから。だから大丈夫」

「…………っ」

 

 

 座ったままのトレーナーさんの頭を抱いて、逃げられないようにお腹に押し付ける。

 

 そして今度は、私が頭を撫でる番。

 少しでも不安と不甲斐なさを和らげてあげるように、優しく。

 心に生まれた愛おしさを伝えられるよう、壊れ物を扱うよりも慎重に。

 

 私の言葉に動揺したらしく、一瞬だけ身体を震わせたトレーナーさん。

 でも、単純な力でウマ娘(私達)に敵う訳もなく、身を任せるしかない。

 

 

「初めて会った時も、それに今日も言ってくれたんです。大逃げを期待してるって」

「…………」

「レースの後も、掛かり気味だったけど、よくやったって頭を撫でてくれて」

「スズカ、オレは……」

「凄く、凄く嬉しかった。それじゃ、足りませんか?」

「…………いや」

 

 

 トレーナーさんの動揺がなくなるまで頭を撫で続けてから解放する。

 

 露わになった顔には、私の好きな優しげな屈託のない笑みが刻まれていた。

 ほんの少しでもこの人の苦悩を晴らしてあげられたのなら、私は満足だった。

 

 そして、意を決して問いかける。

 

 

「これからも私――達と一緒に歩んでくれますか?」

「ああ、勿論。君達と一緒に、行けるところまで」

「良かった。嬉しいです」

「……黒沼さんの言ったことは本当だった。気に病む必要なんて、なかったんだな」

 

 

 改めて思いを新たにする。

 この人に笑顔と幸福を。そして、私が夢を掴む姿を見せられるように。

 

 ようやく自覚した気持ちはまだ伝えずにおこう。

 さっきの反応を見る限り、意識すらされていないのは分かり切っているから。

 

 この分じゃ、今日のレース前以上にやきもきする羽目になりそう。

 でも、それを楽しむだけの余裕が今の私にはある。

 

 まずは()()と逃げを打つのではなく、()と言えるように。

 そして、いずれは()()のためにではなく、()のために言って貰えるように。

 

 トレーナーさんと皆のくれたものを大事に慎重に、後悔のないように使いながら。

 望んでいたものを手に入れられるように、努力しようと思う。

 

 他でもない、生まれて初めて女として好きになった、この人と一緒に。

 

 

 

 

 



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『鎧袖一触』


またしてもランキング入り、評価、誤字報告ありがとうございます!
やる気がもりもり出てくるぞぉ!


それにしてもキャンサー杯、なかなか勝てないなぁ。
これでは決勝Aグループにいけるかどうか。
予想で聞いていたほどセイちゃんもそんな活躍してないし、もうわかんねぇなこれ。


スズカに続いて今回はルドルフ編。その次はオグリの初戦じゃい! 
でもあれだ、レース描写って難しいですわ。今回書いてみて実感した。
まあそんなに重要なとこじゃないから描写しないでザックリカットでもいいか。また考えます。



 

 

 

 

 

 スプリングSから一週間。

 レースにおいて最も強いと言われる「逃げて勝つ」を実現させたスズカ。

 未出走でありながらも重賞を勝ち切る偉業は瞬く間にマスコミに取り上げられ、期待のルーキーとして取材の電話が引っ切り無し。

 ついでに言えば、小遣い稼ぎと揶揄されたオレの悪評も掌返しで三冠バトレーナーの英断やら何やらと持て囃されている。

 

 とは言え、オレにせよスズカにせよ、持て囃されようが嬉しい性質でもない。

 アポなしの突撃取材は当然のようにお断り。無理に詰め寄ってくる場合は即座に警備員を呼んでお引き取り願った。

 記者やテレビ関係者が、売れるネタを手に入れられれば礼節も常識も関係ない、なんて輩が八割な時点で頭痛がしてくる。汚いなさすがマスコミきたない。

 

 ただ、そんな中でも熱意と誠実さに溢れた仕事人という人種はいるもので。

 そういった方々には此方も誠意を以て対応させてもらった。記憶の関係で不安が色々とあったので、理事長やたづなさん、ルドルフ、おハナさん、南坂ちゃんのいずれかに最低一人は同席していただいたが。

 

 なかでも印象に残ってるのは「月間トゥインクル」の乙名史という女性記者か。

 やや前のめりながらも、トレセン学園に所属する期待値の高い未出走者を調べていたり、レースやトレーニングに関する知識も十分と正にプロ。

 以前に何度となく取材を受けていたらしく、ルドルフが同席していなければ面倒なことになっていた。

 

 オレの健忘に関しては少なくとも学園外に流れていない。

 入院中はオレ自身ですら把握しておらず、退院後も理事長が色々と手を回してくれた。

 病院関係者も職業意識が高い上に、トレセン学園とは懇意。其処から情報が洩れることもない。

 

 オレとしても有り難い限りだ。

 マスコミにしてみればオレの現状など格好のネタ。

 シンボリルドルフの担当トレーナー記憶喪失! などと面白可笑しく騒ぎ立てられては堪らない。

 

 世間が同情するばかりのはずがなく、さっさと担当を降りて引退しろとの気運も高まる。

 トレセン学園内部には理事長から温情と特別扱いされているオレを敵視する人物もいて、これ幸いと動き出すこともあるだろう。

 そうでなくとも年頃の娘達が大半なんだ。ちょっとした取材で悪意も悪気もなくポロリなんてことも在り得る。

 

 そうならないためにも、まずは結果。これを出し続ける限りは言い訳もたつ。

 そして、あとはオレ自身の人間性と運。可能な限り彼女達と行けるところまでは行きたいが、それも何時まで続けられることか。

 

 

「トレーナー。トレーナー……?」

「ぅん? どうかしたか?」

 

 

 喜ばしくない未来を想像していたら、オレの異変に気付いたオグリに袖を引かれて現実へと引き戻された。

 

 本日の舞台もまた中山レース場。

 しかし、スプリングSの時とは違い、今日はチームでスタンドの最前列に立っていた。

 これから観戦するのは春天の前哨戦となるGⅡの日経賞、芝2500m。出走するのは勿論、ルドルフだ。

 

 

「しっかりなさってくださいませ。今は余計なことを考えずに目の前のレースと応援に集中を」

「悪い悪い」

 

 

 何処か上の空でいるオレにマックイーンは眉根を寄せながらもピンと人差し指を立てて忠告してくる。

 参ったね、口振りから察するにオレの内心を読み取っているかもしれない。こっちが困るくらいに聡い娘だ。

 誤魔化すこともできず、オレは苦笑いを浮かべる他なかった。

 

 オレの心を周囲に暴く真似もせず、かと言って貴方の問題と冷たく突き放してもいない。

 踏み込み過ぎず、離れ過ぎない絶妙な距離感。オレを気遣ってなのだろうが、有り難い限り。

 

 

「大丈夫? 何処か痛いの……?」

「いや、ちょっと考え事してただけ。大丈夫だよ」

 

 

 全くの見当違いではあったが、今度はライスが顔を覗き込んできた。

 ちょっと心配になるくらい幼さの残る彼女だが、その優しさは本物。打算的なものは何もなく、真心だけがある。

 

 そんな娘の担当であれる誇りと静かな喜びから、気が付けば彼女の頭を撫でていた。

 照れ臭さはあるのだろうが、それ以上に歓喜が勝ったらしく耳をぷるぷると震わせて笑みを浮かべる。

 ライスは割とストレートに褒められることを好む。なので手加減せずにわしゃわしゃしておく。

 

 

「…………」

 

 

 そして、オグリの反対側にはスズカが静かに佇んでいる。

 眩暈すら覚えそうな美貌は、高揚からか薄紅色に淡く色づいている。

 これから走るわけでなく、中山で先頭走って快勝した時を思い出して悦に浸っているらしい。

 スズカ、そういうところだぞ。そんなだから皆から先頭民族認定を受けるんだ。いや、言い出したのはオレで、皆は乗っかってきただけだが。

 

 

「…………」

「……ふふ」

 

 

 …………しかし、あの、なんか近い。近くない?

 

 ルドルフの距離感もバグっていたが、スプリングSを終えた辺りでスズカの距離感もバグり始めた。

 隣に立っているだけにも関わらず、肩と肩が触れ合ってしまいそう。お肌とお肌の触れ合い通信などする必要などないはずなのに……!

 

 圧が、スズカからの圧が凄い!

 先頭を走ると意気込んでいる時くらいの気迫を感じる!

 

 しかし、スズカも何かと注目される立場になってきている。

 マスコミにおかしな捉えられ方をしては面倒なので、意を決して伝えるべきことを口にしよう。

 

 

「あの、スズカさん、ちょっとぉ、距離を空けて欲しいのですが……」

「いえ、お客さんが多いので無理です」

「そ、そっすか……」

 

 

 出来るだけ穏当に、適切な距離を空けていただこうとしたのだが、にべもなく断られる。

 

 確かに、確かにスズカの言うことも尤もだ。

 本日の中山にはGⅡレースとは思えないほどの観客が集まっている。

 

 ミスターシービーというターフの演出家は海外への挑戦中。

 皇帝に一度は土をつけたカツラギエースは上位リーグへ。

 同期の桜にしてライバルだったビゼンニシキは中長距離から短距離マイルへと鞍替した上に、現在は怪我で療養中。 

 

 とどのつまり、現状トゥインクルシリーズにおけるスター選手はルドルフただ一人。

 GⅠレースはチケット入手の競争率と難易度は高くなるので、GⅡの日経賞で彼女の勇姿を拝もうと相当数の観客が押しかけている状態だ。

 ルドルフの出走が決まったおかげで、出走者の数は激減。本来は16人でフルゲートのところ、本日は8人立てだ。

 

 でもですね?

 人が一人立つのもやっとというくらいの密度ではないわけですよ。

 だから距離を……、と思ったのだが、スズカは更にぐいと肩を寄せてくる。いや、押し付けてくる。

 

 もうぐい、なんてレベルじゃない。ぐぃぃぃぃい! と言った感じ。

 

 ちょっ!? 凄い力だ!

 このままではオレはスズカとオグリに挟まれてサンドイッチの具みたいになっちゃう!

 

 オグリもオレに押されて迷惑しているだろう。

 ついでに助けを求めるつもりで反対側に視線を向けたが――――

 

 

「ずぞっ、ずぞぞぞぞぞぞぞぞ――――!!」

 

 

 …………こいつ、焼きそば食ってやがる。

 

 全く我関せずとばかりに、何時の間にやら買っていた山盛りの焼きそばに夢中になっていた。

 オレとの距離感なんて何も気にしていない。いくらトレーナーだからって、男との距離が近いのだからもう少し警戒心を持ってくれ。

 

 何となく気になって、オグリの向こう側にいるマックイーンとライスの方を前のめりになって覗き込む。

 

 

「もぐもぐ……あっ、マックイーンさんも、食べる……?」

「……えっ!? あ、いえ、こうして立ちながら食べるのは、はしたないかと……」

「そうなの……? でも、立食パーティーとかもあるし……」

「……で、では、お言葉に甘えて…………もぐっ……んん~~~~~~~♪」

 

 

 こっちも買ったばかりのベビーカステラを分け合っていた。大変微笑ましい。

 二人はルドルフやオグリの最終調整に付き合って、糖質も脂質も少なめな食事が多かった。オグリも含めて今日くらいは大目に見よう。

 

 よくよく考えると、ウチのチームは食い意地……もとい食欲不振の娘はいないな。

 オグリが来てからルドルフもスズカもよく食べるようになったし。良いことだ。

 

 見ていて安心する身体つきなのはルドルフとオグリくらい。

 スズカもマックイーンもライスも足から何から細すぎて不安になる。

 人間以上の強度を持っているのは分かっていようとも、見た目や印象から覚える不安というものはどうあっても生じるもんだ。

 況してや、こっちは速度や筋量から生み出される出力やら耐久値もおおよそとは言え把握しているわけで。何時まで経っても不安は尽きない。

 

 スズカの距離感から半ば現実逃避気味にそんなことを考えていると、スタンドが一気に沸いた。

 

 

「んぐぐっ、ごくん。来ましたわね。トレーナーさんの見立ては?」

「んー……ルドルフの勝ちは揺るがないだろうが、ワンチャン有りそうなのは人気通りカネクロシオかサクラガイセン辺りかなぁ」

 

 

 地下バ道から現れた出走者がコース上に足を踏み入れていた。

 

 スタンドのファンに向けて愛想を振りまく者。

 レースに集中して、ただ前だけを向いて歩く者。

 対戦相手を威嚇するかのように鋭い視線を飛ばす者。

 

 反応は様々だが、既にレースを経験しているだけあって必要以上に緊張している者はいない。

 

 沸き上がるスタンドの歓声を最も受けるのは、やはり一番人気のルドルフだ。

 この程度の歓声には慣れているのだろう。泰然自若、威風堂々と歩を進める姿は皇帝の名に相応しい。

 

 

 余談であるが、出走者の人気はチケットを買った際に得られる購入者の投票によって決まる。

 この際、投票した出走者が一着になると、後のライブで壇上手前の優先席に座れるシステムになっていて、金の戻ってこないギャンブル的な要素もある。

 

 余りライブに興味はないが、それなりにいいシステムではないだろうか。

 そうした方がファンもより一層のめり込むし、応援もひと際熱が籠る。

 トゥインクルシリーズが衰え知らずに成長期であり続けられる秘訣の一つだろう。

 

 そして、ウマ娘側としても嬉しい配慮と言える。

 万が一、一番人気を降して大穴を開けたとしても、自身のファンが間近にいれば人からの不興も不満もなんのその。

 気後れすることなく高らかに自らの勝利を歌い上げ、ファンの声援に最高の形で応えられるだろう。

 

 

 閑話休題。

 さて、トレーナーとしてすべき仕事をするとしよう。

 

 指を咥え、甲高い指笛を鳴らす。

 すると、大歓声を切り裂いた音はルドルフの耳に入ったようで目が合い、また意図も届いたようだ。

 ゲートに向かう出走者の列を抜け、此方側へと向かってくる。

 

 近づいてくるルドルフにファンはサービスの一環とでも思ったのか、より一層黄色い声を上げた。

 余りの人気と歓声に、スズカやライスばかりではなく、マックイーンも驚いていて、オグリなんか焼きそばを頬張ったまま背後を振り返っている。

 

 

「トレー……むぅっ」

「ル、ルドルフ、どうした急に」

「いや? 何もないが? ただ、相変わらず私のトレーナーとしての自覚が薄いと思っただけだ」

「えっ?! そんなに?!」

「……むふー」

 

 

 此方に近寄ってくる時は涼やかな笑みを浮かべていたのだが、突如として眉根を寄せるルドルフに困惑する。

 シンデレラグレってる。いや、シンデレラグレるってどんな動詞だ。混乱のあまりに訳の分からん電波を受信している。

 

 うんまあ、そうした自覚の薄さはオレ自身も分かっている。

 ただね? オレとしてもね? 君だけのトレーナーじゃなくてね? “デネブ”のトレーナーとしてね? 色々ね?

 

 それからスズカさん、ぐいぐい肩を押し付けてくるのやめて???

 

 ……いかんいかん。

 急速に機嫌が悪くなっていくルドルフと何だかよく分からんくらいに上機嫌なスズカに挟まれて、本来の目的を忘れるところだった。

 伝えるべきことを伝えねば。そうでなくてはわざわざ呼んだ意味がなくなる。

 

 

「作戦変更。どうも他の相手が落ち着きすぎてる。何か策があるかも分からん」

「……そう、だな。カネクロシオやサクラガイセン、チェスナットバレー、出走数も中山での経験も上だ。では、如何に?」

「好きに走っていい。ただ、()()()()()()

「また急だな、君は。しかし、分かった。()に私の走りを魅せるとしよう」

 

 

 オレの冗談を抜きにした真剣な指示を受け、機嫌の悪かったルドルフは一瞬で心持ちを切り替える。

 その結果、彼女が漏らしたのは他ならぬ苦笑だった。

 

 無理もない。

 昨日までに、今日のレースについての話は伝え終わっていた。

 注意すべき相手や懸念点、ルドルフ自身の仕上がり具合と所感を踏まえた上で、今日取る作戦は何時も通りの好位抜出。いわゆる先行策。

 相手がどんな策を弄そうが、能力の違いを明らかにする横綱相撲を展開する予定だった。

 

 だが、今は相手の策を受けきった上で超えるのではなく、何もさせずに勝てと言っている。

 並の娘なら混乱してしまうだろうが、ルドルフならば問題あるまい。

 

 ウマ娘の調子は変わりやすい。

 パドックで見た時とコースに立った時で調子が変わっていた、などよくある話。

 である以上、オレが覚えておらずとも、直前になって指示を変えることは間違いなくあったと考えていい。

 

 事実、ルドルフは驚くでもなく、容易く聞き入れるだけ。

 否定も動揺も見られず、それでいてオレの意図を察している様子でゲートに向かう花道へと戻っていく。

 最後にスズカに飛ばした鋭い視線が気になったが、この分なら大丈夫だろう。

 

 

「よろしかったのですか。スタート直前になってあんなこと……」

「問題ないさ。今日はあくまでも春天への前哨戦。此処で躓くようなら三つの冠も皇帝の名も返上した方がいい」

 

 

 余りにも厳しい物言いに、ルドルフを思って発言したマックイーンはむっとした表情になる。

 

 オレは一度吐いた言葉を取消も撤回もするつもりはない。

 それを信頼の証と受け取ったのか、彼女はそれ以上は何も言わず、スタート地点へと赴く選手達の後ろ姿に目を向けた。

 

 ゆったりと、並々ならぬ熱量と気迫を伴って進む姿は美しく、壮観ですらある。

 発バ機へと近づくごとに大歓声はこれから始まる真剣勝負に水を差すまいと徐々に静まっていく。

 

 何の澱みも予定外もなく、全てのウマ娘が各々の思惑と願いを胸に、ファンファーレが響き渡る中でゲートに収まった。

 

 

 

『各ウマ娘、ゲートに入って体勢整いました』

『春の天皇賞に向けての日経賞。ですが、ただの通過点にはならない彼女達の熱いレースに期待しましょう』

『さあ、今スタートです!』

 

 

 実況と解説の声に応えるように、ゲートが一斉に開いた。

 しなやかで強靭な五体を持つウマ娘達が芝を踏み抜いて、身体を躍らせながら飛び出していく。

 

 

『まずは綺麗に横並びのスタートです。最初にハナに立つのは――――おおっと!』

『これは……思いも寄らない、展開ですね』

『観衆もざわめきを隠せません! これは一体どういうことだー!』

 

 

 解説も実況も観客も、それどころかスズカ達ですら目の前の展開に息を呑んだ。

 唯一驚かなかったのは、言葉少ないながらも意図を正しく理解してもらったオレとまだ焼きそばを食べているオグリくらいのものだ。

 

 オグリは兎も角として、皆の反応は無理もない。

 ポンと好スタートを切った6枠6番のルドルフが、そのままハナに立ったのだから。

 

 おおよその期待と予想を裏切っての“逃げ”。

 しかし、動揺しているのは他人ばかりで、ルドルフは涼しい表情のまま第四コーナーからスタンド前の直線へと差し掛かる。

 

 

「ト、トレーナーさん、これはどういうことですの……?」

「いや、何か作戦でもありそうだったから。ならいっそのことハナを奪っちまえってだけだよ」

「だ、大丈夫かな? いつもの走り方じゃない、よね……?」

「君等に見せた走り方じゃない。だが、アレもルドルフの走りだよ」

「凄いな。もぐもぐ」

「…………良い機会だ。全員よく見ておけよ」

 

 

 …………こいつ、今度は牛串食ってやがる。

 

 両手に牛串を握ったオグリを取り敢えずそっとしておく。

 食べてはいるが、しっかりとレースは見ているからな。但し、明日の調整はちょっと追加方向にすべく手帳に書き込んでおく。

 

 

 さて、スタンド正面を越えて、レースは第一コーナーに差し掛かっていた。

 

 

 先頭は変わらずにルドルフが、二番手は二番人気のカネクロシオ。その後は殆ど団子状態で続いている。

 

 決して掛かっているわけではない。

 寧ろ、掛かっているのは現在三番手のカネアスカでさえある。

 あくまでも自分が2500を走り切るのに十分な体力を残しつつも、集団を引っ張る展開に持っていっているだけ。

 

 スズカのような“大逃げ”ではないが、これもまた逃げの一つだ。

 他とは隔絶したスピードがあるのはスズカと一緒。

 

 しかし、これは天から賜った才能に物を言わせた逃げではない。

 卓越した時間感覚と努力によって生み出される逃げだ。

 

 

「最初は1ハロン11秒刻みのペース、向こう正面に差し掛かってからは13秒刻みのペースに変えたな」

「トレーナーさん、分かるんですか……?」

「ああ、結構正確だぜ。何なら今度それで遊ぼうか。指定した秒数でストップウォッチを止められるから。コンマ1秒単位までならいける。ルドルフもコンマ5秒以内に収まるはずだ」

 

 

 オレの時間感覚は、シンザンを筆頭に様々なレースを見続けた結果。

 そして、頭の中でシンザンと様々なウマ娘を競わせ続けたことで培われていった。

 何の意味もないが、その気になれば月、年単位で数え続けられる。

 周囲の状況が分からなかったとしても、数えてさえいれば何年の何月何日の何時何分何秒かを当てられるだろう。

 

 そしてルドルフの時間感覚は、あのラップ刻みの課題によって培われたもの。

 

 逃げが勝つ秘訣は如何にして後続を騙すか、同時に程よく消耗を強いるかに尽きる。

 実際に逃げが勝ったレースを見ても、時計自体は早くないパターンが多い。

 ただ全力で逃げるのではなく、自身の脚と相談しながら後続を消耗させて粘り勝つのが大半だ。

 

 自身の大逃げとは全く毛色の違う逃げに、スズカは目を奪われていた。

 今の彼女にそんな真似は不可能だ。内から溢れ出る闘争心のまま、ハナに立ったまま押し切ることしかできない。

 

 スズカほどの才能であれば、そのまま続けていってもいい。

 スズカは百年に一度の天才だ。だが、もし仮に己を超える才能とぶつかった時はどうだろう。

 他の皆だって同じくらいの天才で、トレセン学園なら右や左を見れば五十年に一度の天才くらいはザラにいる。

 そんな環境で、どうして百五十年に一人の天才が現れないと言い切れるのか。

 

 そんなもの、ハッキリ言って想定が甘すぎると言わざるを得ない。

 

 だから、逃げというものの中には様々な幅や手段があることを学んで欲しい。

 

 どんな相手が立ちはだかろうが、僅かな突破口を残せるように。

 たとえ一度追い抜かされたとしても、再び追い抜かせるように。

 たとえ負けたとしても、ただ無様に負けるのではなく成長のヒントを得られるように。

 

 出来ない、やれないことと()()()()()()()()ことは天と地ほどの隔たりがある。

 例えば、スズカと同じく他とは隔絶したスピードを誇るタイプであるマルちゃんなんかは、出来るがやらないタイプだ。

 

 その違いが、モロに精神面とレース展開に表れている。

 マルちゃんだって闘争心はあるだろうが、これまで身に付けてきた技術と自信で完全に制御下において掛かったりなどしない。

 彼女ならばたとえ一度抜かれたとしても、もう一度差し返す気骨と余裕すら見せるだろう。

 

 どちらも今のスズカにはないものだ。

 それを手にすることが出来たのなら、彼女はもう一段才能を開花させることになるだろう。

 

 

『第四コーナーを回って直線コースに向きました! 残り400! 先頭は依然シンボリルドルフ!』

『恐るべきパフォーマンスです。開いた口が塞がりません』

 

「さてと、タイムは2.34ってところか」

「聞いてはいましたが、其処まで分かるものですの?」

「まあね。ここでオレの予想とルドルフの走りにどれだけズレがあるのか見るのも目的の一つだ」

 

 

 元々の予想に加えて、これまでのルドルフの調子から見えた結果。

 このまま二番手を六バ身も突き放してゴール板を駆け抜ける、と確信した。

 

 その確信に、マックイーンのみならず皆も半信半疑のまま眼差しを寄越す。

 無理もない。オレにとっては当然だが、彼女達にとっては目にしておらず、また聞いただけの事柄なのだから。

 

 第三、第四コーナーを回っても依然、先頭はルドルフのまま。

 表情は余裕そのもの。春天に向けて3200mの調整にも入っている彼女にとっては、まだ余力を残したも同然の状態。

 

 解説の言う通り、圧巻のパフォーマンスだ。

 あまりの格の違いに歓声もまばら。目の前の現実を受け入れるのに四苦八苦しているのだ。

 

 そんな中であってさえ、ルドルフは自らの走りを変えようとはしない。

 一人、また一人とついてこれずに脱落している中、最後に残ったカネクロシオの様子を確認する。

 

 

「そろそろ仕掛けるな。3、2、1――――行け、今だ」

 

「――――!」

 

『あぁっと! シンボリルドルフ、此処で後続を突き放しにかかる! なおも表情は涼しいまま、笑みさえ浮かべているぞ!』

 

 

 そして、カネクロシオが汗に塗れながら大きく息を吐いた瞬間、オレの言葉を耳にしたかのように豪脚が解き放たれる。

 

 仕掛け時として文句のないタイミング。

 全力には程遠いが、勝ちを確定させるためのラストスパート。

 これまでハナに立っていたとは思えない速度に、ようやく現実を受け入れ始めた観客の雄叫びが轟いた。

 

 影を踏むことさえ許さず、ぐんぐんと何処までも伸びていく。

 重心低く、ストライドの広い走り方は、まさに飛んでいるかのよう。

 

 そうして彼女は何の問題もなく、ゴール板を駆け抜けて――――

 

 

「……ん?」

「凄い……凄い凄い! 会長さん、あのまま逃げて勝っちゃった……!」

「正に圧倒的。皇帝の面目躍如ですわね」

「あんな風に逃げる方法もあるんだ……」

「けふー。凄かった、私も負けていられないな。走りたくなってきた」

「………………」

 

 

 …………こいつ、ゲップしてやがる。

 

 い、いや、今は其処じゃないな。

 地を揺らすような今日一番の大歓声の中、各々がそれぞれの感想を口にしていたがオレだけは思いも寄らぬ現実に思わず掲示板を見た。

 

 煌々と輝いて表示されるタイムは2.36.2。着差は四バ身。

 2500mにしてはやや遅めのタイムであるが、問題は其処じゃない。

 

 

「あら、トレーナーさんの予想とは二秒ほど遅いですわね」

「それでも私は十分凄いと思うが……」

「あっ、いえ、私は責めているわけではなくて……」

「いや、気にしちゃいないが……」

 

 

 揶揄すると言うよりも、寧ろ不思議そうな声色でマックイーンが呟いていた。

 オグリはそれでも十分だろうと言いたげで、受けたマックイーンは慌てふためきながら誤解を解こうと両手を彷徨わせる。

 

 しかし、オレはそれどころではなかった。

 渋面を作ってしまっているだろうが、それは全く別の理由だ。

 

 生じた二秒のズレ。

 この距離で二秒ともなれば、着差に変換して平均でもおよそ十から十二バ身。

 

 レースにおいては致命的な差だが、そこはまだいい。

 現実と差があるというのなら、都度修正していけばいいだけ。

 ルドルフと息が合っていないというのならば、これから合わせていけばいいだけ。

 オレが問題視しているのは、ズレが生じたそもそもの理由と見えてきた意外な()()()()

 

 ……いや、意外でもないかもしれない。

 

 これまでルドルフが歩んできた人生、受けてきた教育を考えれば何の不思議もない。

 上に立つ者として生まれてきたのであればある種当然とも言える癖であるが、ことレースの世界においては悪癖であり致命的な瑕となる。

 

 拙いな。非常に拙い。

 何が拙いと言って、ルドルフがその癖を自覚しておらず、また自覚していたとしても自身の力だけではどうすることも出来ない。

 そして、今日この時を以て気付いたオレでさえ、矯正しようがないことだ。

 

 このままではルドルフは負ける。必ず何処かで負ける。

 春天かその先の八大競走か。しかも酷くつまらない、何の為にもならない負け方をする。

 

 

「思いの外、前途多難だな……」

 

 

 ルドルフを称賛する声ばかりが轟く中で、オレの呟きは誰の耳に届くこともなく搔き消されていく。

 

 何処かの誰かがこう嘯いた。

 『レースに“絶対”はないが、彼女には“絶対”がある』、と。

 見当違いも甚だしい。現状のルドルフに絶対などありはしない。

 

 とは言え、頭を抱えてばかりはいられない。

 彼女もまた自らの走りを“絶対”のものとすべく日夜努力している。

 ならば、オレもまたそうすべく努力を怠るべきではないだろう。

 

 

 “日経賞は快勝。だが、別の問題を発見。今日のレースを見返して皐月賞、ダービー、菊花賞後の記録を当たれ。結論は同じだろうが、問題は浮き彫りになる”

 

 

 手帳に重要な事柄のみを記しておく。

 今のオレが解決策を思いつかない以上、記憶を失った後のオレも同じだろう。

 ただ、問題があると気づいているといないとでは、望む回答に至るまでの速度が違う。

 

 其処まで考えて、ゴール板を駆け抜けたルドルフを見る。

 他の競走相手が膝に手をついて荒い息を繰り返しているか、疲労困憊のまま芝の上に身体を横にする中、観客の応援に感謝を示すよう既に呼吸を整えて手を振っている。

 

 格が違うとは正にこの事。

 それほどのパフォーマンスを見せた。相手が誰であれ、今日の彼女に勝つことは難しかっただろう。

 

 取り敢えず、問題は棚上げしておく。

 オレが今やるべきことは、この光景を忘れてしまう不条理に苦悶することでも、発見した問題に思い悩むことでもない。

 

 今はただ、ルドルフに万雷の拍手と喝采を。

 オレの愛バに、そう呼ばれるに相応しい走りを魅せた彼女に、惜しみのない称賛と皇帝の誉れは此処に。

 

 ルドルフの誇らしい姿をその目に焼き付けて――――結局オレは、何時もの如く全てを忘れ去った。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「……ふふっ」

「すっげーご機嫌じゃん」

「うん? 今日も問題なく勝てた。嬉しくないわけがない。それに……」

「それに?」

「い、いや、何でもない」

 

 

 すっかりレースの顛末も愛バの活躍も忘れ去ったオレは、ルドルフを美浦寮へと送っている最中だった。

 

 ルドルフの勝利者インタビューの応答は完璧、ライブも問題なく終了。

 その後は中山から学園に戻ってきて、他の面々とは解散した。

 各々の顔を見る限り、何か得るものはあったようでオグリの最終調整を休みにした甲斐があったというもの。

 

 オレとルドルフはミーティングルームで少しだけ今日の反省会を行った。

 とは言え、何も覚えていないオレから言えることなどなく、ルドルフから顛末と所感を聞くだけだったが。

 

 手帳には見過ごせない言葉が書き連ねてあった。

 意味は分からず思い当たる節さえなかったが、何か無視できない予感めいたものがあったのも事実。

 ルドルフを寮に送り届けた後で、過去のオレからの忠告に従うことにした。

 

 

「……こうしてレースの後に送ってもらうのも、一年も経っていないのに随分と久し振りな気がするな」

「何だ、おハナさんは送ってくれなかったのか?」

「いや、そんなことはないさ。ただ、な。君ではないとどうにもしっくりとこない」

 

 

 レースが終わった後には寮へと必ず送り届けようと決めていた。

 

 勿論、スズカの時もそうした。

 ルドルフが驚くことなく受け入れたというのなら、過去のオレも同じように考え、送っていたのだろう。

 

 トレーナーにとってのレースは、ゴール板を駆け抜けた後も終わらないとオレは思う。

 

 勝ちに喜び、負けに落ち込むこともある。

 けれど、それは単なる結果。互いの努力が正しい形で結実しただけ。

 格好付ける必要もなければ、無理に強がる必要もない。粛々と受け入れて次に繋げればいいだけだ。

 そんなことよりも、愛バがしっかりと自分の脚でコースを去り、無事にライブを終えることの方がよほど重要だろう。

 そして、彼女達が何事もなく寮に戻ってこれた時こそ、其処でレースはようやく終わるのだ。

 

 

「しっかし、ルドルフが御褒美を強請るなんて意外だ。それに、こんなんでいいの?」

「私とて、努力が実ったのなら認めてもらいたくもなるさ。それに、人肌が恋しくなる時もあると言うか……まあ、そういうことだ」

 

 

 ミーティングルームに戻ってから、祝勝会の話となった。

 スズカにとっては正真正銘の初勝利。ルドルフにとってはオレが戻ってから初めての勝利。

 

 そして、来週にはオグリのアーリントンカップもある。

 オレの予測では勝ちは揺るがない。想定が甘いと言われるかもしれないが、彼我の実力差を可能な限り客観視したつもり。

 取らぬ狸の皮算用と言われれば返す言葉もないけれど、それくらい楽観視しても良い結果は出ている。

 

 其処で、どういうわけだか祝勝会とは別に個人的な褒美があってもいいかもな、という流れに。

 言い出したのはオレの方で特に考えがあったわけではないのだが、ルドルフが思いの外喰い付いてきた。

 

 もうその時の早口と来たらオネダリルドルフと言った次第。

 

 えっと、今何人目の皇帝戦隊だったっけ?

 この調子で行くとスーパー戦隊シリーズの最大人数は年内に超えることになると思われる。

 

 まあそれはそれとして、ルドルフの求めたのは手を繋ぐという些細ながらもやや抵抗を覚えるもの。

 初めの内はちょっとぉ、と忌避感を示していたオレであったが、あれよあれよと押し切られて現在に至る。

 

 そんなわけで、外灯と月と星の明かりが照らす寮までの道を、手を繋いで歩いていた。

 

 うん、でも――――

 

 

「人肌が恋しいなら、オレと手を繋ぐよりもライスを抱き締めた方がいいと思う。絵面的にも」

「…………ふんっ!」

「いたぁい!! どうして足踏むのぉ!?」

「そういうところだぞ、トレーナー君」

 

 

 何がそういうところなのぉ?!

 相変わらずルドルフの情緒もよく分かんないし、最近はスズカの情緒もよく分かんないよ!

 どうして、どうしてこの二人は距離感バグってんのぉ?!

 

 踵で踏みつけられた爪先に激痛が走り、思わず繋いでいた手を開いたが、生憎とルドルフは放してくれない。

 人間には215本も骨がある! 一本くらいなんだ! ということか。サラ・コナーかよ、コイツは。

 

 

「…………だが、思いの外悩んでいないでよかったよ。サイレンススズカのお陰かな?」

「……あー、まあそんなとこ」

「むぅっ、先を越されてしまったか」

 

 

 今も変わらず、ルドルフがレースを勝っていながら、心から勝利を喜べない自分がいる。

 置かれた境遇上、仕方のないことでオレ自身にはどうしようもない事柄だ。

 それを仕方ないと割り切れずにはいるが、重く受け止めることだけはやめた。

 

 記憶が失われたとしても、意味も意義も失われたわけではない。

 何度となく出した結論ではあるが、オレは何度となく堂々巡りを繰り返し、何度となく背中を押してもらい、倒れそうな身体を支えてもらうしかない。

 

 スズカにはそれをまた教えてもらった。

 だから、彼女達の前では出来るだけ笑っていようと思う。

 きついはきついが、何の事はない。一人ではないと分かっていれば、人は存外笑えるものだ。

 底抜けに明るくて、呆れるほど前向きなのがオレの良い所であるのだ。辛くなれば、素直に吐き出せばいいさ。

 

 

「まあ何にせよ、彼女には感謝だな。しかし、私のトレーナーであることは忘れないで欲しい」

「まだ言うの、それぇ」

「無論だ。何時までも言い続けるとも」

「どうしてそんなに拘るかねぇ」

「…………少しは気付け、バカ」

 

 

 そうして、ルドルフは唇を尖らせて強く手を握ってくる。

 随分とらしくない、子供のような仕草。いや、これまでも何度となく見てきたが、一層幼く見えた。

 

 それが何だか信頼の証のように思えて嬉しくなったから、思うままに遊ぶことにした。

 

 

「ほーら、人の事をバカ呼ばわりする悪い子はこうだ!」

「何を……あぁっ! と、突然何をするんだトレーナー君! 全く、君と言う奴は、ふふっ、あははっ!」

 

 

 繋いだ手を上に大きく持ち上げる。

 オレとルドルフには体格差があれば、自然と爪先は地面から離れて宙ぶらりん。

 親父譲りの体格と腕力があれば、彼女一人の体重を片手で持ち上げるなんて造作もない。 

 

 突然の悪戯染みた行動にルドルフは驚きこそしたものの、責めるよりも早くはしゃいで見せた。

 月明りに照らされる笑みは随分と美しく、同時に何処か無邪気なもので。

 

 また一つオレは救われて、前へ進む力を貰った気がした。

 

 

 

 

 



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『報恩謝徳』

 

 

 

 

 

 手帳に書き記されたルドルフの瑕は簡単に見えてきた。

 そして、残された資料を当たってみたのだが、案の定と言うべきか、過去のオレも気付いていた。

 

 最初はダービーを終えた頃。その後も合間は空いていたものの、たびたび瑕に関する記述が見て取れた。

 今のオレがそうであるように、過去のオレも危機感を募らせていたのであろう。

 しかし、分かっていたところで決定的な解決策を導き出せず、自身ではどうにもならない問題はある。瑕はそういった類のもの。

 

 いま必要なのは、ルドルフの努力やオレのひらめき、考案したトレーニングでもない。状況と機会こそが必要なんだ。

 

 ルドルフのデビューがもう一年遅ければ、或いはもう一年早ければ話は違っていたかもしれないが、こればかりは嘆いたところで仕方がない。

 不幸中の幸いは、つまらない敗北に繋がるものではあっても怪我に繋がるものではないことか。

 

 歯痒い話ではあるが、状況が整うまで危機感を募らせながら堪えるしかない。

 どうしようもない事柄をどうしようもないと悩むのは単なる無駄だ。今は、目の前のやるべきことに集中するとしよう。

 

 

「思ったよりも集まってんなぁー」

「あのハイセイコーの再来と言われてますし、アレだけ宣伝されれば当然では……?」

「うわぁ、凄い……!」

 

 

 スズカ、ルドルフから続いてオグリの中央初戦である“アーリントンカップ”。

 先のレースとは異なり、本日の舞台は兵庫の阪神レース場へと場所を移している。

 付き添いはマックイーンとライスの二人。スズカとルドルフはレース後ということもあり、ゆっくりと身体を休めて貰うことにした。

 

 客の集まりは普段のGⅢレースよりもやや多いと言ったところ。

 ルドルフの日経賞とまでは言わないが、少なくともスズカのスプリングS以上の集客率であるのは間違いない。

 地方から殴り込みをかけてきたウマ娘の走りがどんなものか、と物見遊山に来ているようだ。

 

 しかし、不審も少なくはない。

 マスコミはオグリの経歴を面白がってか、大々的に喧伝していて人気は出ているのだろうが、世間は逆に冷静さを取り戻したように思う。

 

 それもそのはず、地方からやってきたウマ娘が中央で活躍するなどそうそうない。

 初戦に勝つ確率はおよそ9%。重賞ともなれば、パッと思い浮かぶのはハイセイコーくらいのもの。

 その上、ハッキリとした論拠のない俗説ではあるが、“芦毛のウマ娘は走らない”などと実しやかに囁かれてもいる。

 

 これに期待するなどどうかしているだろう。

 カサマツでのオグリの活躍を生で見た者でさえ、期待はしているだろうが心から信じられている者が何人いるか。

 

 

「オグリ先輩、大丈夫かな……?」

「そうですわね。地方はダートが主流ですし、適性があるとは言え初戦から重賞は無謀が過ぎるのでは……?」

「常識で考えればね。でも、スズカやルドルフもそうだけど、オグリも常識なんて通用しない類だよ。完全に()()()()だ」

 

 

 だからこそ、人々もマックイーンとライスも思い知るだろう。

 オグリキャップというウマ娘の凄まじさ、その実力と常識を踏み荒らす豪脚を。

 

 誰も彼もが度胆を抜かれる光景を想像して、思わずくつくつと笑いが漏れてしまう。

 

 ふと見れば、ライスは不安そうな、マックイーンは不満そうな顔をしていた。

 どうやら、オグリばかりを称賛する様は贔屓とでも映ったらしい。

 

 経験も実績も少ないライスは、不安を抱いて今後チームでやっていけるかどうか。

 マックイーンは楽観視が過ぎること、そして贔屓なんてとジト目を送ってくる。

 

 そりゃ贔屓くらいはするだろう。

 オレが担当していて、すっかりファンになっているんだから。勿論、二人のファンでもある。

 

 

「なぁに、二人もデビュー戦の頃には、オレが軽口叩けるくらいに安心して見守れるようになってるさ」

「そうかなぁ……」

「そうであればよいですが……」

 

 

 気軽でさえあったはずの言葉に、二人は少々目を伏せる。

 

 それも仕方がないか。

 最近ではチーム内での模擬レースでは負けが込み、併走でも息絶え絶えになる場面も少なくない。

 

 しかし、それは当然の結果。

 オグリとスズカは年上で、身体の出来上がり方が違う。ルドルフなど現時点では比較すること自体が間違っている。

 それでも2500m以上の距離では前者二人に勝ちを拾え、あの皇帝に喰らい付いていける時点でライスもマックイーンも完全に向こう側だ。

 

 トゥインクルシリーズを終えた頃には、間違いなく長距離走者(ステイヤー)歴代最強候補として真っ先に名が挙がるほどになっているに違いない。

 

 

「ま、安心しな。長距離ならシンザンだろうがルドルフだろうが負けないようになるし、するからさ」

「そ、そこまで……?」

「大した自信ですこと……」

「自信じゃない、確信。オレの中じゃもうとっくの昔に確定事項だ。オレも自分もあんま舐めんなよ」

 

 

 敢えて恥ずかしげもなく、今は夢想でしかない言葉を口にする。

 ただ願う、ただ祈るなど冗談じゃない。況してや大言壮語も好きじゃない。

 

 だから、口にすることで夢想を誓いに変える。

 実現して欲しいではなく、実現させるという誓いともなれば、やる気も姿勢も変わるものだ。

 

 無理や無謀は百も承知。

 だが、やりたいのだから仕方がない。

 例え道半ばで倒れ伏すことになったとしても、誰かが跡を継いでくれればいいし、何かを見出してくれればそれでいい。

 人はそういう生き物で、これまで連綿と紡がれてきた全うな営みというものだろう。

 

 それが伝わったのか、ライスは顔を輝かせ、マックイーンは仕方のない人とばかりに微笑んでいた。

 僅かばかりであろうとも、オレの心持ちが伝わったのならば、そして彼女達の心を軽くできたのなら本望だ。

 

 するとその時、パドックが沸いた。

 

 

「ブラッキーエールさん、ですわね」

「ふわぁ~……」

「現時点での戦績は9戦4勝。初戦で相手するには十分すぎる相手だな。流石は一番人気、ファンも多い」

 

 

 観客達が口々に上げる期待と応援の声を浴びるのは、ブラッキーエール。

 黒鹿毛をまとめたポニーテール、やや悪い目つきが印象に残る少女だ。

 

 現在オープン、GⅢを含めて四連勝中。

 脚質は先行、差し。適性は芝の1000から1600の短距離走者(スプリンター)

 

 まあ、オレの凶相に比べれば随分と可愛げがある方だろう。

 オレは身体の大きさも相俟って、笑ってないと出会った人の八割くらいにビビられるからなぁ。

 

 自虐交じりのオレを余所に、彼女は歓声を浴びながら肩に羽織っていたトレーニングウェアを空に向かって投げると大きく右手を突き上げる。

 こうしたパフォーマンスはレースの主催者側から要求されるものだが、それにしたところで堂に入っていた。

 

 阪神でのレースは今日で三戦目。

 先の二つは共に勝利しており、阪神の空気もコースも勝ち方も知っている。

 経験ではどうしたところで敵わない相手。それがそのまま人気に反映されている。

 

 

「あっ、オグリ先輩だ……!」

「来ました! けどぉ……」

「大した落ち着きようだ。肝が据わってるよ、全く」

 

 

 ブラッキーエールに続き、二番人気であるオグリがパドックに姿を現した。

 歓声は徐々に鳴りを潜め、ざわめきに変わっていく。

 

 地方からやってきたにしては、人気は高い方だろう。

 同じ境遇にあったハイセイコーは中央初戦から一番人気。その後も二番三番人気になったのは三度だけ。

 それに比べれば可愛いものだ。それだけ地方からやってきたウマ娘の実力に対して半信半疑なのだろう。

 

 だが、そうした視線や思いなど気にしていないのか、オグリは茫洋とした表情で周囲を眺めているだけ。

 普通、ウマ娘はレース前になると大なり小なり興奮するものだ。スズカなんかは良い例だし、ルドルフでさえそれは変わらない。

 

 にも拘らず、オグリはフラットなまま。

 見ようによってはやる気があるのかさえ疑わしくなってくる程だ。

 

 暫く茫としていたオグリであったが、ハッと思い出したかのようにトレーニングウェアを脱ぐ。

 そして、投げるのではなく、ビターンと地面へと叩き付けた。

 

 その惚けた表情と来たらもう……。

 

 

「あちゃー。もうちょっとカッコいい方法、教えとくべきだったかー……」

「ま、まあ、アレはアレで挑戦状を叩きつけているようにも見えますし……」

「皆、驚いてるね……驚いてる、よね……?」

「いや、唖然としてるだけだわ、これ」

 

 

 もうちょっと、こう気概というか、そういうのを見せた方がいいと思う。

 

 パドックを見守っていた観客達も棒立ちしているだけだったら温かな応援の一つも送ったのだろう。

 でも、これじゃあポカンとするしかないよ。明らかにやらされてる感バリバリだもの。

 平静さを保つのもいいが、愛嬌を振り撒くとか闘争心を露わにするとかしないと良い印象が残らないのだが。

 

 いずれにせよ、担当が多くのファンを獲得できるようにするのもトレーナーの仕事の一つなので、これはオレの不手際だ。

 次はもう少しオグリらしい演出というものを考えておかないと。後で確認できるように手帳に書き込んでおく。

 

 

「取り敢えず、スタンドの方に行こうか。早めに行って最前列で立ち見しよう」

「そうですわね。オグリさんにしてみればアウェーですもの。しっかり応援いたしましょう!」

「うん、そうだね! 頑張るぞ、おー!!」

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

 レースを見守る観客が集う六階建てのスタンドを背に、屋外スタンドの最前列に立つ。

 

 アーリントンカップは芝1600m。

 元はペガサスステークスと呼ばれていたが、海外のアーリントンパークレース場と提携を結んだ折に改称された。

 レースは向こう正面からスタートし、元々あった第三、第四コーナーの外側に新設された外回りコースを通ってスタンド前のゴールを目指す。

 

 スタート直後、暫くは直線が続いて外回り第三コーナーに入っていく流れなので、枠順による有利不利は殆どない。

 600m辺りから下り坂が続き、200m付近から始まる高低差1.8mの上り坂があるお陰で、逃げ・先行の脚質は失速するケースはよく見られる。

 まあ中山の急勾配に比べればマシな方だ。脚質の幅は広くはあるが、差しを最も得意とするオグリには向いている。

 そして、良バ場発表。総じて、彼女の実力を測るにも発揮するにも、中央初戦初勝利を狙うにもお誂え向きのコースと状況と言えた。

 

 

「来ましたわよ!」

「お、オグリ先輩、頑張れー!!」

 

 

 今日まで減量と調整に付き合ってきた影響だろうか、マックイーンもライスも年相応に興奮した様子を見せていた。

 これもオグリの人徳だろう。自分にさえ興味がない部分はあるが、その惚けた部分が他人から愛される。それがオグリキャップというウマ娘の魅力だ。

 

 そしてマックイーンもライスも走るのも好きだが、レースを見るのも好きな方。

 研究熱心とは僅かばかりに異なるものの、お陰様で他者の走りから得ているものも多い。

 最終的にはスズカと同じく私も走りたいに行きつくのだが、そこはそれ。ウマ娘の本能みたいなものなので仕方がない。

 

 余り意識はしていないだろうが互いにライバル視しながらも支え合い、与え合う。

 それぞれがそれぞれに影響を受けながら、より良い形で血肉として己の一部としていく。

 

 正に好循環だ。チームとして理想的と言えるのではないだろうか。

 オレも頑張ってはいるが、これは彼女達自身の努力によるところが大きい。

 

 

「………………」

「普段と変わりません、わね……」

「あ、あれでいいのかな……」

 

 

 地下バ道から姿を現し、ターフの上に立ったオグリの表情は締まりと真剣味こそ現れていたが、やはりこれからレースに挑むとは思えないほど落ち着いていた。

 

 二人が不安になるのも無理はない。

 パドックでならまだしもコース上に立ってなおも余りに落ち着きすぎている。

 緊張しているよりかはマシだが、これから何をするか理解しているようには見えないだろう。 

 

 ルドルフの時と同じように指笛を鳴らすと、オグリの耳がピクリと動き、オレ達の姿を発見した。

 手招きをすると、コクリと頷いて此方の立つスタンド前へトコトコと寄ってくる。

 

 今回、特に作戦はない。

 伝えてあるのは相手方の情報と阪神の芝1600mコースの特徴だけ。

 作戦は必要ないと言う結論ではあるが、現時点で小難しい作戦を実行するだけの経験がないという割り切りでもある。

 同時に模擬レースとは異なる実戦の中でオグリがどれだけ実力を発揮できるか、という試金石のつもりでもあった。

 

 とは言え、それだけでは勝つための努力を怠っているも同然。

 マックイーンとライスも気を揉んでいるし、此処は一つ今回のレースにおける要点を問うてみることにした。

 

 

「トレーナー、どうかしたのか?」

「いや、レース前に一つだけ聞いときたくてな。カサマツと阪神(ここ)の違い、分かるか?」

「…………?」

 

 

 オレの問い掛けにオグリは首を傾げる。

 

 それは残る二人も同じ反応であった。

 このタイミングでわざわざ呼び出しながら明確な作戦を伝えるでもなく、気合を入れるわけでもない。

 傍目から見ても訳が分からない行動だろう。

 

 だが、これで十分だ。

 かなり天然の入ったオグリであるが、とにかく真面目。

 中央初戦ではあるが、地方であって芝での実戦経験もある。

 このレースにおける核心。それを突けるだろう。

 

 顔中ハテナマークだらけにしていたオグリであったが、暫くすると背後を振り返る。

 

 其処に広がっているのは阪神レース場。

 彼女にとっては何から何まで違う異国の地。

 雨こそ降ってはいないが太陽が見え隠れする曇天は聊か不安を煽るかもしれない。

 

 言葉もなく無言のまま眺めていたオグリであったが、相変わらず惚けた表情のまま此方に向き直ると一言だけ。

 

 

「…………広い?」

「そ、それは……」

「あ、当たり前じゃ……」

「よしよし、それが分かってるならいい。その広さを思う存分使ってきな」

「……分かった!」

「「今のでっ?!」」

 

 

 その答えに、マックイーンとライスは更に不安を煽られて声を上げる。

 

 しかし、オレは勝ちを確信した。

 やはりオグリは馬鹿ではない。重要なポイントというものを押さえている。

 当人自身も明確な理由や理屈は説明できずとも、本能か感覚として核心を突いていれば十分だ。

 

 そして、ふんすと鼻を鳴らし、オグリは発バ機へと向かう列へと戻っていく。

 オレは安心して、そして二人は唖然とした表情のまま、彼女を見送った。

 

 

「ト、トレーナーさん。もっと、こう、何と言いますか、作戦やアドバイスをしてあげた方がよろしかったのではなくて……?」

「そ、そうだよ。大丈夫、なの……?」

「ああ、オレは安心したくらいさ」

 

 

 困惑からか、マックイーンは兎も角として、ライスすらも非難するような視線を向けてくる。

 考えてみれば当然か。自分の時にそんな真似をされれば堪ったものではないだろう。

 

 ただ、ストレートに物事を伝えることだけが全てではない。

 思案を強いた方がいい場面というものは往々にして存在する。

 

 今が正にそれ。

 

 オレの言葉を、そういうものかと受け入れるばかりではなく、何故そうなるのかと疑問を呈して欲しい。

 提示した作戦や指示に穴がないとは限らない。レースの最中に穴が生まれる場合もある。

 

 それを埋められるのはオグリの思考と機転しかない。

 オレの考える人バ一体、一心同体とはそういうものだ。

 

 

「ん――――ハハ、見ろよ」

「あ、わわだ、大丈夫かな?」

「緊張……ではありませんわね。まるで、武者震いのよう」

 

 

 二人との会話もそこそこに、ゲートの前に辿り着いたオグリを見る。

 

 次々にゲートの中へと収まってくウマ娘の中、彼女は立ち止まって再びこれから走るコースとスタンドに目を向けた。

 改めて目にした中央の景色、五感から得られる全ての情報を前にして、身体が震えている。

 

 手足の先から徐々に徐々に。

 肩と膝を介して、背骨を通じ、最後には髪まで振り乱す。

 

 何も知らない観客ですらが目を奪われるその震え。

 マックイーンの言葉は正鵠を射ていただろう。 

 

 

 ――――何せ、オグリの顔には笑みが刻まれており、その笑みは獰猛と表現する他になかった。

 

 落ち着いていたかと思えば、闘争心を剝き出しにする。

 それでいて指示を無視する真似はしないのに、並ならぬ勝負根性で果敢に挑む。

 のんびりとさえ言える気質でありながら、物事の本質を捉える聡明さを持ち合わせている。

 

 相反するはずの様々な要素が、渾然一体としながらも理路整然と並んでいるかのよう。

 

 そうとしか表現しようのない独自の感性だ。

 

 知れば知るほどに不思議な魅力に溢れている。

 その上手く言葉に出来ない魅力は、人々を否応なしに引き付ける。

 

 気が付けばオグリを知っているオレやマックイーン、ライスばかりでなく、観客や実況すらも魅力に当てられていた。

 しんと静まり返る会場は、もう彼女しか見ておらず、思わず笑みが零れる。

 

 

「さあ、行ってこい。まずは手始めに“芦毛は走らない”なんて妄言、自慢の脚で踏み抜いちまえ」

 

 

 オレの言葉に誘われるように一斉にゲートが開く。

 そうして“芦毛の怪物”によるシンデレラストーリーが幕を開け、常識も規則も通用しない豪脚が、解き放たれた。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ」

「はふぅ。ライス、もうお腹いっぱい……!」

「ライスさんもですが、オグリさんも相変わらずですわね」

「よ・く・く・う・な~~~~~。まあ、今日くらいはいいでしょう。減量、皆して頑張ったもんなぁ」

 

 

 アーリントンカップとライブを無事に終えた後、オレ達はホテルのレストランに居た。

 中山や東京ならばいざ知らず、府中から遠いレース場で走るとなれば、とても日帰りでは帰れない。

 そのため、トレセン学園はレース場近くのホテルと契約を行い、登録されている学生とトレーナーは無料で宿泊、食事が可能になっている。

 

 トレセンと同じくビュッフェ形式のレストランで、オグリは減量の鬱憤を晴らすように盛り付けて持ってきた料理の山を無心で片付けていた。

 

 オグリの次によく食べるライスは満足げに椅子へと背中を預けてお腹を摩っている。

 ぽこんと出っ張ったお腹は妊婦さんのようで、妊娠三ヵ月と言ったところ。

 そんなことになれば制服の裾から臍やら何やら覗いてしまうのだが、オグリと一緒に腹巻――じゃなくてウェストウォーマーを渡してあるので心配なし。

 締め付けも少ないシルクの上物、色はそれぞれのイメージに合わせて黒と白だ。いやホント、買っといてよかった。

 

 そんな二人に、オレとマックイーンは思わず呆れてしまう。

 まあ普段は体重に気を遣っている彼女であったものの、今日ばかりは満足するまで食べていたし、今はショートケーキをお供に紅茶を楽しんでいるが。

 

 

「苺の風味を生かした程よい甘味と滑らかさのスポンジとクリームが……んん~~~~♪」

「…………」

「……ハッ! お、オホン!」

「いや、何も言ってないよ? 気にせずお食べ?」

「そ、それは最後まで頂きますが、そうではなくて!」

 

 

 コーヒーを啜りながら見ていたオレに気付いたのか、今にも天に昇っていきそうな表情でケーキを楽しんでいたマックイーンは咳払いをした。

 

 その頬を朱に染めていて、恥じているのか照れているのか。

 責めるつもりも揶揄うつもりもなかったんだけどな。

 余りにも幸せそうな顔をしているものだから、こっちまで幸せな気分になっていただけだ。

 久方振りの大好きなスイーツを堪能しているところを邪魔してしまった。ちょっと申し訳ない。

 

 確かに、減量の後に食事を急に元に戻すと揺り戻しは怖い。

 少なかった栄養を取り戻そうと身体が勝手に吸収率を良くして頑張ってしまうからだ。

 ダイエットに成功した後、リバウンドで元の木阿弥と同じ理屈だが、その辺りも見越しているので今日くらいは何も考えずに楽しんでくれていい。

 

 

「スズカさん、ルドルフ会長の“逃げて勝つ”に続いて、今日のオグリさんも強い勝ち方でしたわね」

 

 

 先程までとは一転して、真面目腐った表情でそんなことを言う。

 話題を変えたい、というのもあるが、それ以上に今の内にミーティングをしておきたいのだろう。

 オレだけホテルの部屋は違うし、招くのも招かれるのもメジロの御令嬢として在り得ない選択だ。

 

 そして何よりも昼間の記憶がないオレを気遣って。

 記憶と共に体験を伴う者の所感や意見は貴重だ。その気遣いに感謝して、乗らせて貰うことにする。

 

 

「大外ぶん回して直線一気。結果として六バ身のぶっちぎりだからな」

「驚きませんのね」

「想定してた通りの展開だし。小難しい駆け引きはまだちょっと早いよ。今は能力差を生かせればそれで十分だ」

 

 

 既に撮影されていたレース映像も、手帳の記載も確認済み。

 

 スタートはやや出遅れ気味だったが、第三コーナーから徐々に進出して、最後の直線で6、7番手からゴボウ抜き。

 大外をぶん回す以上は距離的不利がありながらも、この結果。差しとしては、これ以上ない強い勝ち方だろう。

 

 しかし、然程驚きはない。

 勝ち筋としては一番堅いし、オグリの能力を鑑みれば盤石ですらあった。

 一番警戒すべきブラッキーエールも先行して、終盤での失速。差し切るには十分な余力も残っていた。

 

 これなら次のレースは2000まで距離を伸ばしてもいい。

 GⅠは中距離が多いから、本質的にマイラーであるオグリには先んじて経験を積ませておいた方がいいか。

 

 

「あ、でも、トレーナーさん、レースの前に言ってたよ。カサマツと阪神は違うから広く使えって」

「正確には違いを聞いて、オグリさんが広いと答えたから、ですわね。そういった流れでしたわ」

「そうか。そういう流れも分かるのは凄く助かるよ。あんがとな、よすよす」

「え、えへへ」

「あ、あの、人前では恥ずかしいので……」

「成程、人前でなければいいと」

「あ、揚げ足を取らないで下さいまし!」

 

 

 両脇に座った二人の頭を撫でる。

 ライスはされるがままに身を任せ、ほにゃりと顔を綻ばす。

 マックイーンも気恥ずかしさから耳を使ってペチペチと手を叩いてくるも、茶化しても払い除けようとしない辺り可愛らしい。

 

 そして、随分と気が楽になる。

 手帳は文字通りの命綱。昼間のオレが嘘や出鱈目を書くとは思えないが、信じ切れないと言うか、どうしようもなく不安になる部分がある。

 書かれていた事柄が現実に起こったことであるのか。そして、書かれるまでに至った経緯や流れが全く分からない。

 文章からある程度は察せるように気を遣って書いてはあるものの、記憶がない以上は不審は消えてなくならない。 

 

 だから、経緯を知る二人の言葉は本当にありがたい。

 記憶はないままだが、書かれた文字を現実として受け入れられるまで強度を補ってくれるからだ。

 

 感謝の気持ちは堪えない。

 もう思うまま気の済むままに撫で繰り回してしまった。

 

 

「もぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐもぐ」

「あの、ところで、オグリさんの話なのですからもう少し参加されては……」

「いや、話はしっかり聞いてるからいいよ。話すのは好きなだけ食べてからで大丈夫だ」

「あ、あはは……」

 

 

 レース後のミーティングをしているにも拘わらず、走った張本人であるオグリは相変わらず食べ続けていた。

 

 此方に視線を向けることさえせずに、腹を満たすことに集中している。

 その様にマックイーンは頭痛でも感じているように額に手を当て、ライスは苦笑するしかない。

 

 オグリは常にこうだ。

 一度でも食べ始めたら、食べ終わるまで決して顔を上げない。

 それでいて、終わった後にはキッチリと話していた内容に返答してくるのだから、呆れてしまう他ない。

 

 まあ本格的にミーティングをするのはオグリが満足した後に――――ん?

 

 

「もぐもぐ、ごくん。そうだ、トレーナー」

「ど、どうした急に?!」

「「…………」」

 

 

 そんなことを考えていた矢先、彼女はおもむろに食べるのを中断した。

 

 これまで一度も目にしたことのない珍事に、オレは声を張り上げてしまう。

 そればかりか、驚きの余りに苦言を呈していたマックイーンとライスですら言葉もなく、ポカンと口を上げていた。 

 

 オグリが、食事中に顔を上げた、だと……?

 び……っくりしたぁ。え? なに、コイツ、食事を止めるとかできたの……?

 

 しかし、そんな胸中など知ってか知らずか、オグリは珍しく高揚した様子で口を開いた。

 

 

「今日は凄かった。走っている最中も、まるで背中に君を乗せているかのようで、スパートの時には“行け”と言葉が聞こえた気さえしたよ」

「お、おう。割とオレも狙っていたとこあるけど、オグリが凄いんだと思うよ?」

「そうなのか。スズカや会長もレースが終わった時には、こんな気分だったのか。不思議な感覚だ」

 

 

 幻聴は兎も角として、今日のオレとオグリはそれほど息が合っていたのだろう。

 映像で見たスパートのタイミングは今のオレでも完璧で、昼間のオレも同じ意見だったに違いない。

 

 これまでの積み重ねによる思考の同調。いわゆる阿吽の呼吸という奴だ。

 付き合いが長ければ長いほどに、言葉を介さずに相手の思考は読み取れるようになる。

 なるにはなるのだが、たった一ヵ月二ヵ月程度の付き合いで、ルドルフレベルにまで息が合ったのはオグリの類稀な素直さのお陰だ。

 

 アレだけの闘争心を持ちながら、而して頑なさはまるでなく折り合い抜群という訳の分からなさ。

 これまでの経験があればルドルフのように自ら息を合わせてこれるのだろうが、流石にこれにはオレも驚きを隠せない。

 

 

「オグリもよくやってくれたよ」

「ふふふ、君に褒められるのは嬉しいな。何だか、故郷の皆が褒めてくれているようだ。少し照れ臭い」

 

 

 対面に座ったオグリの頭に手を伸ばし、労うつもりで頭を撫でる。

 すると、指で頬を搔きながらもすっと目を細めて受け入れていた。

 

 彼女の脳裏に浮かぶのは、故郷の記憶であることを願う。

 遠く離れた土地で、折れず曲がらず腐らず挫けずに走り続ける彼女には、そう願わずにはいられない。

 

 

「ああ、そうだった」

「どうかしたか?」

「うぅん、こんなことを言ってもいいのか分からないのだが……」

 

 

 その時、何かを思い出したかのようにオグリはポンと掌に拳を打ち付ける。

 

 そして、作った拳をそのまま額に当てて、何か悩むような素振りを見せた。

 暫くトントンと額を叩いていたのだが、やがて意を決したかのように言葉を紡いだ。

 

 

「次のレースなのだが、ダートではダメだろうか?」

「「「ファッ?!」」」

 

 

 突然の申し出に、オレばかりではなくマックイーンもライスも素っ頓狂な声を上げた。

 

 確かに地方でダートの経験もあるわけだから、やれないことはないだろう。

 

 勿論、オレはダートのレースも味があって好きだ。

 芝でしか活躍しなかったシンザンをきっかけにこの世界に引き込まれたオレだが、ダートにしかない魅力というものも分かっているつもりではある。

 そもそもアメリカではダートが主流。芝、ダートというだけで優劣を語れるものではない。

 

 しかし、日本と中央においてダートは軽視されがちで、芝に適性のあるウマ娘はダート適性というものを下に見ている。

 

 今日のレースでオグリの芝適性はハッキリと認められている。

 そんな状態で芝とダートを行き来するようなローテションを組んだら、日本中からオレが叩かれる奴ですねぇ、クォレハ。

 

 まあ、別にいいんだけどね、それくらい。

 

 オグリのダート適性だって中々のものだ。

 ダートにだってGⅠはあるし、芝とダートのGⅠ獲得なんて珍記録も面白い。

 オグリキャップというウマ娘の凄まじさ、その適性幅の広さを分からせるには十分だろう。

 個人的に見たくもある。オグリの原点に立ち返るという意味でも、得るものはあるかもしれない。

 

 だが、芝とダートでは地面の状態が異なっていて、負荷の掛かる部分も僅かであっても変化は起こる。

 そうなった時、如何にオグリの持つ天性の肉体であっても歪みが生まれないとも限らない。

 

 だから、その前に、その考えに至った理由だけは教えて貰いたい。

 

 

「本当にどうしたんだよ、急に。自分の活躍を故郷の皆に届けるなら芝の方がいいと思うぞ、オレは」

「いや、どうせならトレーナーにも私の走りを見るだけではなく、覚えていて貰おうかと。ダートなら夜にもレースがあるのだろう? 君も皆も、私にとっては故郷の皆と同じくらいに大事だ」

「…………ハハッ」

 

 

 あっけらかんと告げられる理由に、頭が真っ白になって言葉に詰まる。

 空元気のような、乾いた笑いしか出てこない。

 

 深い考えなど、其処にはなかった。

 ただ、裏表のない感謝と真心があっただけ。

 

 壊れかけのオレを御荷物と見るのではなく、掛け替えのないものだと言っていて。

 況してや、それがオグリにとって何よりも大切なものと同列などと。

 

 余りに軽率な物言いに、何か一つでも言ってやろうかと思ったが、とても言葉に出てこない。

 

 

「何でしたら、私もダートに出ましょうか?」

「ライスも、頑張るよ……?」

「……っ、勘弁してくれ。いいんだ、そういうのは。覚えてなくても、見れるだけでも十分だよ」

「そうか? まあ、トレーナーがそういうのなら、私は構わないが」

 

 

 オグリの提案に乗っかって、マックイーンはこれまでの仕返しとばかりに意地悪く、ライスは大真面目にそんなことを言ってくる。

 

 辛うじて拒否できてよかった。

 そんなことになったら、スズカもルドルフも同じように言って、もうオレは耐えられない。

 

 溢れ出る歓びが、涙になって零れそうになる。

 

 マジかよ……。

 オレ、いい年こいて、年下の娘達に泣かされそうになってるよ。

 

 情けない姿は散々見せているので、もう今更だが、男である以上は意地はある。

 堪えきれない感情を何とか堪えるべく、目元を隠して臍を噛み、何とか深呼吸を繰り返す。

 

 

「は~~~~~~~…………ヤバかった」

「目元が赤いですわよ」

「クッソ、良い根性してるよ、このお嬢様は」

 

 

 どうにかこうにか耐えきったオレを、マックイーンが揶揄ってくる。

 ふふん、と紅茶を片手にドヤ顔してみせるお嬢様は憎らしくなるほどだ。

 

 まあ感謝はしている。

 彼女が揶揄ってくれなければ、確実に大泣きしていただろう。

 親しみ易くて面白可笑しいのに、人の心を分かっているマックイーンもまたオレにとって間違いなく救いだ。

 

 勿論、オグリもライスも。この場に居ない二人でさえも。

 

 

「まあいいや。府中に帰ったら祝勝会をしよう。実はもう予約してあってさ」

「あら、気が早いですこと。でも、何を?」

「焼肉。それなら皆でワイワイやれるしさ」

「焼肉……!」

「うわぁ、何処にしたの?」

「えっと、府中で一番いいとこ」

 

 

 湿っぽくなった心境を切り替えるために、話題を祝勝会に持っていく。

 

 選んだのはいわゆる高級焼肉店。

 チェーン店ではなく、食べ放題なんてものもないマジモンの高級店。

 

 お陰さんで、貸し切りになってしまったが。

 どうやら店の方は過去にウマ娘の団体客にえらい目に遭わされたらしく、トラウマになっているようだった。

 そら客の回転で収益を確保するのではなく、質をひたすら高めて保っている店にはウマ娘の規格外に食べる存在は恐怖でしかないだろう。

 

 

「まあ、あのお店ですのね! 以前ライアンやドーベルと行きましたが、お肉も新鮮で、口に入れるととろけるようで!」

「と、とろける。焼肉は、とろけるものだったのか……ご、ごくり」

「それにスイーツも絶品でしたわ! 季節の果物をふんだんに使ったパフェがもう堪らなくて!」

「す、スイーツも……ご、ごくり」

「お、おう」

 

 

 意外なことに、店の名前を出すと喰い付いてきたのはマックイーンだった。

 メジロ家御用達、とは行かないまでも、名家の御令嬢達が利用して満足できたとなると評判に偽りなしのようだ。

 

 でも、あの、食べてる途中のオグリも食べ終わったライスも……。

 

 凄い目をしている! これはもはや野獣の眼光だよ!

 膨れ上がった食欲には鬼が宿る、じゃねーんだよぉ?!

 

 その姿を見たオレの感想は、ただ一つだけ。

 

 

(店の命運と店員にトラウマ植えつけられるかどうかが)掛かっているようですね! 冷静さを取り戻してくれるといいのですが!

 

 

 明らかに現実逃避している何とも間抜けなものだった。

 

 

 

 

 



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『香美脆味』


レオ杯の告知来ましたねぇ。
水マブが運よく引けたものの、パワーが、パワーが伸びねぇ……! いっそのこと賢さ育成に舵切った方がいいかなぁ? でもスキルがなぁ……。

そしてハーフアニバーサリーも、確定ガチャでダブリなく引けると良いが、どうなることか……!

では、本編をどうぞー。




 

 

 

 

 

 四月の半ば。

 

 未出走でありながら、クラシック級を相手取って押し切ったスズカ。

 ジャパンカップでの不調から完全に復活を果たしたルドルフ。

 中央初戦から余裕綽々で重賞勝利をもぎ取ったオグリ。 

 

 始動した“デネブ”の第一歩は、世間から注目を集めるには十分な大成果。

 連日、ニュースに新聞、雑誌と辟易するほど取り上げられ、取材の依頼は引っ切り無し。

 

 だが、チームの雰囲気はさほど変化はない。

 取材は必要最低限に抑え、依頼を受けるのも発言や話を盛りもしなければ控えもしない信頼に値する相手のみ。

 いつものようにトレーニングをして、いつものように模擬レースをして、いつものようにフォーム改善をして、いつものようにダンスレッスンをちょこっとしていくだけ。

 

 驕り昂ぶりは無きに等しく、仲間内でも必要以上に持ち上げてもいない。

 元々気質的に(食い気的な意味を除いて)ストイックな娘達が揃っている。

 加えて、オレとしても勝ちはほぼほぼ確定した上での決断だったので、活躍を褒めこそすれ必要以上に喜びはしていない。

 だからか、皆はより一層気を引き締めてトレーニングに臨んでくれている。

 

 そして、今日は祝勝会だ。

 日々口にしなくとも溜まっていく些細な不満やレースに勝った喜びを思う存分に吐き出し、讃え合うため用意した場ではあるのだが……。

 

 

「ルドルフもスズカもさぁ、気にし過ぎじゃない……?」

「いや、そんなことはない。適切な対応だとも」

「えぇ、そうです。トレーナーさんの身に何かあったら大変ですから」

 

 

 夕暮れの赤い光が街を覆い尽くす中、トレセン学園からそう遠くない店へと向かっている道中。

 オレは右をルドルフ、左をスズカに挟まれながら歩いていた。

 

 二人、と言うか、今日は全員が私服姿。

 ルドルフは以前のデートで見たパンツスタイル、スズカは清楚としか言いようがないトップスとスカート。

 

 相変わらず距離感がバグっていて、肩と肩が触れ合いそう。

 親父譲りの大きい身体をなるべく小さく縮めるが、酷く歩き辛い。せめてもう2、30cmは離れて???

 

 ルドルフもスズカもオレの言葉に聞く耳を持ってくれない。

 今や彼女達の頭頂にある獣のような耳がピンと伸びている。この動きは警戒を意味している。

 

 鋭い視線を周囲に飛ばす様は、まるでSPのよう。

 擦れ違う人々はガンを飛ばされて、目を逸らしながらそそくさと去っていき、車道を車が通れば庇うように腕を伸ばす。

 そりゃまあ事故で酷い目にあっちゃいるが、何も其処まで警戒しなくても。

 でぇじょうぶだ、事故の状況だけは把握してる。次は何とか自分も助かるように立ち回れるから。

 

 

「皆さん、あちらですわよ!」

 

 

 先頭を進んでいたマックイーンがオーバーオールとスカートを一体化させたワンピースの裾を翻して、テンション高めに目的の店を指差した。

 やっぱり彼女も食べ物のことになるとテンションが上がる。スイーツだったらもう爆上げと言ったところだ。そういったところは年相応で本当に可愛らしい。

 

 だが気持ちは分かる。美味しいものとか好きなものを食べると幸せな気分になるもんなぁ。

 幸せな気分を台無しにしたくはないので、今回は指摘せずにスルーしておく。

 

 見えてきた店構えはビルの中や合間にあるようなタイプではなく、一見すれば料亭風の佇まい。

 おハナさんや黒沼さんもよく利用していて、南坂ちゃんも担当の売り出しのための接待で使うらしい高級店だ。

 祝勝会で使うには行き過ぎちゃいるが、こちとら上流階級の娘さんが二人もいるし、活躍ぶりを考えれば釣り合いは取れている。

 

 やたらと立派な棟門を越えて、これまた立派な引き戸を開けて中へ。

 店内は和で統一された内装になっており、天井からは提灯風の照明が垂れて淡く玄関先を照らしている。

 

 そして、割烹着を着た妙齢の女性が待ち構えていた。

 見るからに女将さんと言った次第で、振る舞いも立ち姿も品がある。

 

 

「予約した“デネブ”ですけど」

「お待ちして――――……」

 

 

 予約した名を告げると、女将さんは恭しく頭を下げる。

 そして、歓待の言葉を告げようとしたのだが、目を丸くして固まった。

 無理もない。オレの背後に居るオグリとライスの姿が目に入ったのだから。

 

 彼女達も本日は他の面々と同じく私服。

 オグリはジーンズにシャツの上からカーディガンと何処か垢抜けないオレと似たようなコーディネイト。

 ライスは人形のように可愛らしい膝下ワンピースで、今日はお気に入りの帽子ではなく、服に合わせた色のリボンをつけていた。

 

 ただでさえ均整の取れた身体つきと端正な顔立ちで視覚をぶん殴ってくるウマ娘に驚いた、のではない。

 

 

「うるるるるるるるるる」

「……食べる……いっぱい食べる……」

「二人とも、どう。どうどう」

 

 

 酷く低い唸り声を上げるオグリ。

 蒼い鬼火のような眼光を宿したライス。

 鬼を宿した二人の姿を見たからだった。

 

 獰猛! それは……『爆発するように襲い……そして消える時は嵐のように立ち去る』……正に今の二人の食欲を象徴したかのような姿だ。

 

 オレは必死に暴走状態に突入しそうな二人を諫めつつ、チラリと女将さんの顔を見る。

 

 その引き攣り蒼褪めた表情よ。

 どうやら過去に訪れたウマ娘の団体客に負わされたトラウマは相当なもののようだ。

 今にもふらりと倒れてしまいそうだが、どうにかこうにか気合で耐えていた。

 こうした高級店は、もてなしも料金にきっちり含まれる。

 金銭を受け取る以上は。その一念だけで震える膝を抑え込んでいる辺り、並々ならぬプロ根性だった。

 

 

「お待ちしておりました。どうぞ、此方で御座います」

 

 

 脱いだ靴を下駄箱に入れたあと、女将さんに引き連れられて店の中を進んでいく。

 廊下の窓の外に広がっている庭は小さいながらも岩で囲まれた池と鹿威し、水仙やカスミソウと言った春の花々が植えられている。

 行き届いた手入れを見ると、専属の庭師でもいるかもしれない。外観も内観も手が込んでいて、小市民のオレには別世界に迷い込んでしまった錯覚に陥りそうだ。

 

 そして辿り着いたのは一段と広い和室。

 畳張りの掘り炬燵の上に、テーブルと一体型のグリルが二つ並んでいた。

 一つは通常通りの大きさ。しかし、もう一方はグリルがやたらと大きい。恐らくはウマ娘の団体のために用意した特別製だろう。

 

 

「ふむ、では席だが――――」

「私がトレーナーさんの隣に座りますね」

「むっ……いやいや、サイレンススズカは酌の仕方も知らないだろう? 此処は私がトレーナー君の隣につこう」

「むむむっ……!」

「いや、二人ともマックイーンと一緒に奥の小さい方な。大きい方にオグリとライスが座って、オレもそっち」

「「……そ、そんな」」

 

 

 何時ものようにバッチバチにやり合い始めた二人にキッパリと告げる。

 別にオレの隣である必要はあるまいに。元々席は決めていたし、主役には楽しんで貰わねばならない。

 すると、ションボリルドルフとシュントスズカと化したが、今のオグリとライスを相手にさせるつもりはない。

 

 マックイーンはスキップしそうな軽やかな足取りで一番奥へ。

 ルドルフとスズカはやや気落ちしながらも続く。

 そして最後に戦場に赴くような力強い足取りでオグリとライスが。

 

 オレも腹を括って、オグリとライスの対面に腰を下ろすと、女将さんがそれぞれにメニューを配る。

 

 

「……たッッッ!」

「これは、大丈夫かトレーナー君?」

「気にしなくていいぞ。念のため今回のオレの取り分全部と+α下ろしてきたから」

 

 

 メニューを開いた瞬間、スズカが悲鳴のような声を上げ、ルドルフが即座に此方に視線を飛ばす。

 そりゃそうである。何せ、渡されたメニューの中に3桁台の品が一つもない。飲み物に至るまで、だ。

 

 食欲に飲まれたオグリとライス、元々金銭感覚が上流階級まんまのマックイーンは気にした様子はない。

 しかし、中の上くらいの家出身のスズカは衝撃を、両親の方針で家からの支援なく生活していて金銭感覚がしっかりしているルドルフは不安を覚えたらしい。

 

 大丈夫だ、問題ない。

 流石のオレも初めて利用する店の下調べはした。いまオレのバッグの中には8桁もの金が入っている。

 記憶はないがトレーナーの高給とルドルフの担当をやらせて貰っているので、貯金はまだまだあるので本当に問題はない。

 

 が、そこはそれ。

 それなりに裕福な家庭に産んで貰ったが、こちとら基本は小市民。

 下ろしただけで眩暈を覚え、持ち運びするのにどれだけ気を遣った事か。

 

 それがし、こんな金額を一晩で使うなんて初めてじゃ……武者震いがするのう!!

 

 

「取り敢えず、飲み物は烏龍茶、後は季節のサラダとわかめスープ、キムチの盛り合わせを全員分で」

「なっ、紅茶は! 紅茶はダメですの?!」

「紅茶は食後な」

 

 

 手始めの注文をすると、マックイーンが不満の声を上げた。

 根っからの紅茶党なのは知っていたが、そこまで? そこまでか? 焼肉に紅茶は合わんでしょ……。

 

 これもお肉の付きやすい彼女のため。焼肉屋でも太りにくい食べ方というやつだ。

 

 烏龍茶は脂質、糖質の吸収を抑える効果。

 キムチは酵素で腸内の環境を整え、カプサイシンで血流を良くして脂肪の燃焼効果アップ。

 野菜と海藻類でカロリー少なく食物繊維とミネラルを豊富に摂取し、適度に腹も膨らませる。

 あとはご飯ものや麺類も極力控えさせて、炭水化物の量も減らす。

 更に味付けは塩中心、メインの肉も赤身中心にしてしまえばボディビルダーもよく食べる高タンパク低糖質のメニューになるが、其処まではやり過ぎだな。

 

 今日は身体を造る食事ではなく、味や雰囲気を楽しむための食事。

 多少の制限は設けるが、メインの肉くらいは好きなように食べて貰うとしよう。

 

 

「トレーナーさん、お酒は飲まないんですか?」

「んー? 酒はいいよ」

「もしかして、下戸とか?」

「いや、強いし好きな方だよ多分。未成年の前で飲むほど見境ないわけじゃないだけ」

 

 

 こうした店で大人は酒を頼むものとでも思っていたのか、はたまた父親が頼んでいたのか。

 スズカは飲まないのかと聞いてきたが、元々そのつもりはなかったから断っておく。

 

 何にせよ、他の大人がどうかは知らないが、オレは未成年の前で飲酒しないと決めている。

 下戸と言うことはない。両親がザルなんで、お陰様で息子のオレもザル。それこそ店の酒を呑み尽くす勢いでもなければ前後不覚になることはないだろう。

 

 ただ、相手に酒を飲ませなければ、自分が酒に飲まれなければそれでいいという訳でもない。

 万が一ということもある。何かの手違いで誰かの口に運ばれてしまうのが怖い。

 

 ちょっとした手違い、誰も予想できなかった失敗であったとしても、最近はマスコミから一般市民まで含めた世論からのバッシングは常軌を逸している、と言ってもいい。

 未成年飲酒の事実がマスコミにすっぱ抜かれるのも、警察の耳に入ってお世話になるのも洒落になっていない。

 オレ一人で痛い目を見るだけならまだいいが、彼女達の未来が閉ざされるのだけはゴメンだ。当然の配慮だろう。

 

 スズカに何気なく返答すると、へぇと嬉しそうな顔をする。まるでオレの考えを知れただけでも嬉しいと言わんばかり。

 オレが下戸かどうかなんて興味を持つなんて、変わってるなぁ。それとも酒の味に興味あるとか?

 

 彼女が喜ぶ理由も分からず、首を傾げながらメニューに視線を落としたその時、今度はライスが口を開いた。

 

 

「あの、トレーナーさん、本当に、好きなだけ食べてもいいの……?」

「ああ、皆よく頑張ってるからな。今日は大盤振る舞い、気にせずに好きなだけ食べな?」

「ふ、ふふふ、そうか。普段はセーブしているのだが、今日ばかりは思う存分、か。ふふふふふ…………やりすぎてしまうかもしれん」

「「「「「………………」」」」」

 

 

 ライスの問い掛けに笑顔で返したのだが、誰よりも喜んでいたのはオグリだった。

 その顔に刻まれた笑みは、大胆なまでに不敵と言うべきか、底知れぬほどに不気味と言うべきか。

 

 いずれにせよ、二人を除いたチームメンバーの表情はスンと消えた。多分、オレも同じだ。

 更には女将さんの顔から血の気が引いている。オレの耳にまでサーッって音が聞こえた。

 

 オグリこいつ、急にバーン様みたいなこと言い出しやがった……!

 

 マジかよ……! 

 普段はセーブした状態だったの?! 

 あれだけ食べて、あんな妊娠初期みたいなボテ腹晒しておいて!?

 

 トレセン学園、いやウマ娘史に名を残しかねないオグリの胃袋が相手、か……ますます身震いがするのう!!(震え声)

 

 

「済まない、先程のサラダとキムチだが私は十人前に変更、そして塩キャベツ十人前も追加で……!」

「あ、ライスは五人前で同じものをお願いします……!」

「………………っ」

 

 

 あっ、女将さんが声もなく腰抜かしたーーーーー!

 

 そりゃそうである。

 手始めのサイドメニューからオグリとライスが気迫十分に注文した量はどうかしてた。

 そして、これから注文されるであろうメインの肉はどれほど食べるつもりなのか想像もつかない。

 

 恐らく女将さんの頭の中では、今日の仕入れで足りるかとか、厨房が注文は捌ききれるかとか、運ぶだけでどれだけの労力がかかるのかとかが際限なく渦巻いているに違いない。

 

 だ、駄目だ! オグリもライスも完全に掛かってしまっている!

 冷静さを取り戻させるとか、いくら何でも無理これェ!!

 

 

「あの、こっちの席は盛り付けとか気にしなくていいんで……」

「は、はい、ありがとうございますぅ……」

 

 

 オレが辛うじて絞り出せたのは、店側の負担を僅かでも軽くするための気遣いだけだった。

 カタカタしだした女将さんは、涙目になりながらコクリと力なく頷いて、感謝の言葉を口にする。

 

 しかし――――

 

 

「あぁ、見るんだ、ライス。牛刺しのお寿司やしゃぶしゃぶなんてものまである。これも食べなければな……!」

「ほ、本当だっ。頑張るぞ、おーっ!!」

 

 

 ――――二人はオレと女将さん、そして店の気など知らず、更に恐ろしい企てを満面の笑みで口にするのであった。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「わぁ、盛り付け方も綺麗」

「それだけではない。グラスや皿も小洒落ているぞ」

「見た目もいいですが、味の方も保証しますわよ!」

 

 

 烏龍茶で乾杯を済ませ、運ばれてきた前菜をつつきながらの一幕。

 

 スズカはまるでメニューに載せる写真そのもののように盛り付けられたサラダに目を輝かせていた。

 気持ちはよく分かる。写真と実物の違いにがっかりするのは、料理に限ったことではないがよくある現象である。

 こうした店は料理の見た目も料金に入っているものなので、客を満足させるための手間暇を惜しまないものなのだろう。

 

 こうした高級店に慣れているであろうルドルフは、手にしたグラスに注がれた烏龍茶をゆるゆると回していた。

 確かに、彼女が言うようにグラスや小皿は量産品ではあるが触り心地からして違いを感じる。

 サラダや肉の乗った皿は陶芸家が作ったらしいこの世に二つとない一品もの。これ一枚でいくらになるのか考えるだけでも恐ろしくなる。

 

 そしてウッキウキではしゃぎ放題のマックイーン。

 自分の店でもないのに、我が物顔で目を輝かせていた。食べ物のことになると性格変わるなぁ、この娘。

 

 かく言うオレはと言えば……

 

 

「と、トレーナーさん、もういいよね……?」

「まだ30秒しか経ってないから! 先にサラダとキムチを処理しとけ! ダメッ、ライスッ! ダメッ!」

「しょぼーん……もぐもぐ、キムチもおいひぃ……!」

「この辺りは大分育っているからもういいだろう……」

「まだダメだっつってんだろ! 塩キャベツ喰ってろ! ダメだオグリッ!! ダメダメッ!!」

「しょぼーん…………もぐもぐもぐ、うん、美味い」

 

 

 肉食獣と化したオグリとライスを必死で抑え、何とか草食獣に押し留めている最中だった。

 

 オレはグリルの上で両手の人差し指と中指を伸ばし、交差させながらバシバシ叩いて何とか牽制する。

 一番最初に選んだのは定番のネギタン塩。松阪牛だの神戸和牛だの、種類は色々とあったが選んだのは牛タンで有名な仙台牛。

 じゅうじゅうと焼ける肉の音と匂いはオレですら魅力的である。食欲旺盛な二人が火に誘われる夏の虫になってしまうのも分からなくはない。

 

 でもいくら牛肉だからってまだ早いって!

 タン刺しなんてものもあるけれど保存状態とか色々あるし、焼いて食べるように提供されるものを生で食べるのはまずいって!

 店の意図していない食べ方して食中毒とか関係者全員不幸にしかならないって!

 

 牛肉は中心温度が75℃1分加熱が基本。

 多くの不幸と悲劇の連鎖を押し留めるべく、オレは必死であった。

 

 

「春キャベツの柔らかさと甘味に塩ダレのしょっぱさが加わり、更に塩昆布とゴマの風味が鼻を抜ける。正に絶品だ……!」

 

 

 オレの気を知ってか知らずか、塩キャベツの食レポに入るオグリ。

 

 そう、彼女はただの大喰らいではないのだ。

 ひたすらに量と好みを食べられればいいわけではない。

 美味しいのは大前提であるものの、気にするのは寧ろ組み合わせ。

 

 カレーならばビーフにするか、チキンにするか、はたまたポークか。

 其処から脇に添えるのは福神漬けか、らっきょうか、いやいやいっそのこと無しか。

 付け合わせのサラダは口をサッパリとさせるべきか、野菜の旨味を堪能すべきか。そして、ドレッシングは何にするか。

 スープは? 飲み物は? と行くわけである。

 

 出されたものも選んだものも必ずぺろりと平らげるのだが、メンドクセッ! コイツほんとメンドクセッ!

 

 オレは栄養バランスとオグリの嗜好とを考慮してメニューを提示しなければならず、毎度毎度頭を捻らせている。

 更には量も半端ないので苦労は倍率ドン! で更に倍。食べて身体を造るのがオレの基本方針なので文句を言えないのが辛い所だ。

 まあ、彼女から食事の度に尊敬と感謝の言葉を受け取って、ついつい張り切ってしまうオレにも問題があるが。

 

 そうこうしている内に、網の上に置かれたネギタン塩はちょうどいい焼き加減になっていた。

 隣のテーブルはまだ焼けていないようだが、一足先に実食して頂くとしよう。

 

 

「ではオグリ先生、どうぞ……!」

「私が最初でいいのか……では、遠慮なく……もぐもぐ、うっ!?」

 

 

 上に乗ったネギを溢さぬよう慎重にトングを使って、まずは今日と言う日を誰よりも楽しみにしていたオグリの小皿に取り分ける。

 

 オグリは神妙に頷くと、まずは素材そのものの味を楽しむためか、レモン汁もつけずにパクリと一口。

 余りにも真剣味を帯びた表情に、その場の全員の視線が集まったが、次の瞬間に彼女は口元を押さえて呻き声を上げた。

 

 

「……っ」

「どうした急に?!」

 

 

 すわ何事かと見守る中、つーとオグリの頬に一筋の涙が伝う。

 

 

「う、美味い。美味すぎる……!」

「オグリが食レポを忘れる、だと……?!」

「ウソでしょ……」

「感謝するぞ! この味と出会えた、これまでの全てに……!」

「そこまでか…………そこまで、か……?」

 

 

 果てしなき熱意で牛を育て上げた畜産業の皆さん。

 食材を元に料理の域に押し上げた店員。

 焼き加減を見極めたオレ。

 そして、何よりも食材となった牛。

 

 全てへの感動と感謝の籠った涙。

 

 場面が場面なら感動していたかもしれないが、如何せんネギタン塩喰っただけである。

 確かに食べることの歓びを感謝として示せるのは素晴らしいと思うが、ルドルフが疑問に思うのも無理はない。オレも言葉が出てこなかった。

 

 

「さあ、ライスも食べるんだ……!」

「うん……食べる……食べる……もぐもぐ、むぐっ、おいひぃ!」

「我々も頂くとしようか……むっ、ほぅ、流石に値段相応だな」

「そうですね…………んっ……わっ、柔らかい!」

「さあ、堪能させて頂きますわ! あむっ……んん~~~~~~♪」

 

 

 困惑を振り払い、さあどんちゃん騒ぎに――とはいかない。

 個々の性格は基本的に冷静、或いは落ち着いているからだ。

 オレとしてはもっとはしゃいでいる方がいいと思うし、そちらの方が好きだが、落ち着いた楽しみ方もある。

 

 それに、年相応の部分が見れなかったわけではなかった。

 

 オグリとライス、マックイーンは何時までも目を輝かせ、もっきゅもっきゅと口を動かして舌鼓を打っていた。

 ルドルフとスズカは、肉の油で大きく立ち上った炎に可愛らしい悲鳴を上げたりと見ているだけで飽きはこない。

 

 しかし、その影で―――― 

 

 

「やることが……! やることが多い……!」

「結局フィジカル……! 仕事って……最後はフィジカル……!」

「ゆとりが欲しい……! こうしてゆとり教育が生まれたのね……!」

「メニュー開いて此処から此処まで十人前とか……もう少し考えろ! コンプライアンスを……!!」

「ノーフューチャー!! 店の明日がノーフューチャー!!」

 

 

 ――――店員さんの悲痛が厨房で響いていた。更に言えば……

 

 

「なんて、こった……」

(こっちがなんてこっただよ!!)

 

 

 もう思い出すのも怖くなるレベルの金を支払うことになるのだが、今のオレはそんなことを知る筈もないのであった。

 

 

 

 

 



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『形影一如』

 

 

 

 

 

「んぁ~、こんなとこかぁ……」

 

 

 祝勝会のあった翌々日の昼間。

 ミーティングルームで作業を一区切りさせたオレは、仕事机の椅子に座ったまま大きく両手を天井に向かって伸ばし、凝り固まった身体を解した。

 

 やっていたのはチームメンバーの出走レースとトレーニング内容を含めた年間計画の作成。

 この手の計画立てならば、17時を跨いで記憶を失っても形としては残るので気兼ねなく集中できる。

 

 尤も、余り詳細な内容ではなくざっくりとしたものだが。

 出走レースはメンバーに確認をとってから正式に出走届を出す形になるのであくまでも暫定。

 トレーニングも個人の状態や状況、見えてきた弱点を潰すために変更はあるのでこれまた暫定。

 そんなもんでは意味がないようにも思うが、前提となる計画があるとないとでは進み方が異なる。

 それに、万が一も十分に在り得る。備えておいて損はない。

 

 当然ではあるが同時に明るくない想像を、首を振って頭の中から追い出す。

 ちょうど息を入れるにはいいタイミングだ。コーヒーでも飲んでリフレッシュするとしよう。

 

 ミーティングルームに置かれていた戸棚を開き、オレのマグカップを取り出す。

 

 棚の中の数が増えた品々に思わず笑みを零れる。

 戻ってきた時にはオレとルドルフの分しかなかったが、今は人数分に加えて、必要あるものからないものまで色々と揃っていた。

 ルドルフは深緑、スズカは白地に緑のドット柄、ライスは花柄のマグカップが一つずつ。

 マックイーンはお気に入りのティーカップだけでなく、ソーサーからスプーンフォークにティーポットと一式揃えてしまっている。

 オグリなんかすげーや。マグカップだけでは飽き足りず、ジョッキまで用意してやがる。これで麦茶とか豪快に飲むんだよなぁ、あの娘。

 

 ミーティングルームも随分と賑やかになって、仕事場と言うよりも溜まり場と言った趣になっている。

 それがまるで彼女達が心を開いてくれている証のようで、心が喜びで波打つようだ。

 社会人としちゃ聊か以上に緩んでいるのだろうが、締めるところは締めているから問題ないだろう。

 

 まあ、困ったこともあるんだけど。

 

 その、ルドルフとスズカが、なんか挙って私物持ち込んでくるんだよなぁ……。

 筆記用具だのは生徒会の仕事をやったり、勉強会みたいなものもやるのでまだ許容範囲なのだが、タオルとかジャージの替えとか歯ブラシまで置いて行くの止めた方がいいと思う。

 

 アレか? 此処は私の縄張りだ、とでも主張しているのか? 

 あくまでオレを信頼して貸し与えられた部屋。決して私室ではないのだから勘弁して頂きたい。

 いや、殆ど私室化しちゃっていて、殆ど此処で生活してるオレも悪いけどさぁ。こっちは理事長にしっかりと許可を貰っている。

 

 思いも寄らぬ二人の挙動に悩みつつも、冷蔵庫から取り出した作り置きのアイスコーヒーをマグカップに注ぐ。

 もうちょっと寮の自室に生活基盤を移した方がいいかなぁ、でも人とは本格的に働ける時間帯が違うから帰るの手間なんだよなぁ、とか考えていると部屋のドアをノックされた。

 

 

「トレーナー、失礼するぞ」

 

 

 すると、此方の返事も待たずにドアが開け放たれて、鼻息荒いオグリが入ってくる。

 いや、別にいいんだけどさ。オレ、まだ口を開いてさえいないんだよなぁ。

 

 

「……オグリィ、ノックしたなら返事あるまで待ちなぁ?」

「ハッ、そうか。済まない、もう一度やり直す」

「いや、戻るな戻るな。もういいよ。次から、次から気をつけよう」

「分かった。次からは返事を待つぞ」

 

 

 ハッとした表情をすると、そろりと扉を閉めながら部屋の外に出て行こうとするオグリを引き留める。

 

 やってしまったものは仕方がない。

 見られたくないところを見られたわけでもなし、目くじらを立てるほどでもないだろう。

 それにオグリは素直なので苦言だけで十分だ。次からはしっかりと入室の言葉を待ってから扉を開けてくれる。

 

 

「それで、どした?」

「実はトレーナーに相談が……いや、頼み、だろうか……うぅん?」

「……?」

 

 

 オグリが見せたのは、右拳で額を数度叩く独特の所作。

 何か悩んでいたり、困っている時に見せる癖だ。

 

 オグリからの相談はさして珍しくはない。

 まだまだ学園での生活は不慣れな部分が多く、仲の良いタマちゃんだけではなく、最近ではチームメンバーやオレにも頼ってくる。

 その範囲は様々で、生活面だけでなく、トレーニングに学業と多岐に渡る。

 

 これもそれだけ心の距離が近づいた証左。良いことだろう。

 気になったのは、オグリの困り事に全く見当がつかなかったことだ。

 

 

「どっちでもいいけど、座りなよ」

「ああ、そうさせて貰う」

「何か飲む?」

「取り敢えず麦茶をジョッキで」

 

 

 オレに促されるまま、オグリはソファに腰を下ろしてそんなことを言った。

 

 確かにジョッキで求められるのは予想してたけどさぁ。

 そんな居酒屋の取り敢えず生でみたいなノリで頼む量じゃないんだよなぁ……。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「ごっごっごっごっ……ごくん、ぷはぁ! トレーナーの作った麦茶は美味しいな。香ばしさが素晴らしいぞ」

「……あっ、ああ、うん、そう。おかわりは?」

「頼む」

「お、おう」

 

 

 一息にジョッキの麦茶を飲み干したオグリにおかわりが必要か問うてみると、真面目腐った表情でジョッキを差し出してくる。

 

 す、凄い勢いだった。ダム穴に飲み込まれてく水みたいな勢いでなくなったぞおい。

 これで喉が渇いているわけでもなく、平常運転なのでオレもどんな顔をしていいのか分からない。

 もう食欲に関しては、ウマ娘のオグリキャップじゃなくて、オグリキャップという生き物という次元なんですが、これは。

 

 毎度毎度驚かされてばかりのオレは、何とかボトルに作り置きしてあった麦茶をジョッキに注ぐ。

 なみなみといれてやると、おっとっとと言わんばかりに口元に持っていき、窄められた口でずぞっとお行儀悪く啜る。

 見てて、見てて面白いんだけど、もうちょっとこう、乙女らしい所作を覚えた方がいいと思う。

 いや、もういいや。どうせオレしか見てないし。こういう所も愛嬌だと受け入れよう。

 

 

「それで、相談だか頼みは?」

「ああ、実は今回のレースで貰えた賞金を使いたくてな。だが、どうやって下ろせばいいか分からない。タマに聞いてみたらトレーナーに相談しろと言われたんだ」

 

 

 成程、確かにオレを介さねばどうにもならない話だ。

 

 中央・地方を問わず、レースで獲得した賞金をウマ娘は自由に使えないように制限と制度が強制されている。

 レースで獲得できる賞金は余りにも莫大で、10代の少女達が好き放題に使えるような状況は決して好ましいとは言えないからだ。

 

 将来的な金銭感覚の欠如、社会や人の悪意を知らぬが故の危機管理能力不足。

 大金を持っている、自由に使えるというのはそれだけで何らかの問題に巻き込まれる可能性に繋がる。

 

 実際、過去にやらかしたウマ娘はいる。

 ネズミ講やら新興宗教に賞金を突っ込んだり、詐欺事件に引っかかったり、親やトレーナーとの確執で裁判沙汰になったりと、割と頭の痛くなる歴史があるのだ。

 そうした諸々の問題・危険からウマ娘を守るため、いくつかの門戸が用意された。

 

 まず獲得賞金は学費やら学園側の取り分が引き抜かれた状態で、入学した時点で新たに作られる各々の銀行口座に振り込まれる。

 この口座に振り込まれた金は張本人であるウマ娘、学園における保護者に相当するトレーナー、実際の保護者であっても自由におろせない。

 ウマ娘による申請の後、トレーナーが内容を確認と承認、学園の総務経理に回されて同じく確認と承認、額によっては理事長、中央の委員会などの上層部にも回される形になる。

 

 恐らく、その後もトレーナーであるオレにも知らされていない何らかの手続きやら仕組みがあるものと思われる。

 手間は手間なのだが、こうでもしないと何処で誰が何をしでかすか分かったものではない。汚濁や不正は何処にでも湧く、複数による監視・管理というものは常に必要だ。

 

 

「生活費とかか? 短いスパンでなけりゃ、5万10万くらいだったら即日引き出せるけど」

「それはそれで必要だが、まずはお母さんに仕送りをしたい」

「ああ、成程。それはやっとかないとな」

 

 

 オレの言葉に、オグリはうんうんと頷いた。

 顔に刻まれていたのは、やっと恩を返せるという確かな歓びであった。

 それだけで、オグリがどれほど母親に感謝をしているか分かろうと言うものだ。

 

 尤も、気にしすぎだと思わないこともない。

 親にとって子供は、何時まで経っても子供なものだ。

 まともな大人なら子供に大きな期待などしない。ただ、現状を受け入れてそれでもいいと肯定するか、より良い人生を歩めと口にするかだけ。

 

 

「そう、貴方のやりたいようにしなさい。でも、駄目だと思ったら、いつでも帰ってきなさいね。あ、でも帰ってくる時は連絡を頂戴。お父さんと……うふふふ」

「仕送り? 要らんわ。子供に養われるほど零落れちゃいない。父さんはまだまだ現役だぞぅ! 母さんとの夜の方もな!」

 

 

 オレが無茶をすると決めた後、両親に報告した時にはそんな言葉を貰った。

 

 本当に良い両親の下に生まれたと思ったものだが、最後の一言で台無しである。もう結構いい歳なんだけど。

 いやほんと、息子にシモの話を明け透けにするのはやめて欲しい。両親のそういう話を聞くなんて願い下げなんだよなぁ。

 

 …………話が逸れた。今はオグリの仕送りの方が重要だ。

 

 

「それで、いくらぐらいにする?」

「取り敢えず、半分を考えているのだが」

「…………そうか、そうきたか。状況をようやく理解した」

 

 

 加減しろ、おバカ! いくらお母さんだって、そんな額仕送りされたら腰抜かすわ!

 

 と、喉元までせり上がってきた科白を何とか飲み下し、平静を装う。

 これはちょっと、オグリの天然ぶりを舐めていた。 

 

 世話焼きなタマちゃんが詳しい説明もせず、オレのところに送り込んできたのは、金に対する頓着のなさを何とかしてや、ということだったらしい。

 

 

「仕送りしたいのは分かった。だけどその前に、賞金と世間一般の話をしよう」

「……? 分かった」

「まず、今回の賞金だけど、いくらぐらいだか知ってる……?」

「…………トレーナーがレース前に言っていたような気がする。だが済まない、覚えていない」

「そうか。まあ次からは気を付けよう。賞金の取り分はオレが5%、学園が15%、オグリが80%。金額に換算するとざっくり三千万です」

「……………………三千円とかでなく?」

「三千万です」

「 そ ん な に 」

 

 

 全く予想していなかったのか、オグリの顔がポカンと緩んでいく。

 もうだるだるのゆるんゆるんで、一筆書きの簡単オグリみたいになっている。なんかゆるキャラみてぇ。

 

 案の定、自分がアーリントンカップでいくら稼いだのか把握していなかった模様。

 大体、三千円の仕送りなんてどれだけ生活の助けになるか。どうするつもりだったんだ、この娘は。

 

 尤も、金を稼ぐのが目的ではない以上、仕方のないことかもしれないが。

 そうした浮世離れした無欲さ(但し食欲は除く)もオグリの魅力かもしれないが、常識程度は身に着けておかねばなるまい。

 

 もう見ていて不安になる天然ぶりだ。このまま行くと人生を失敗しかねない。

 一度でも信頼すると頼るのに躊躇しないのは良い事だとは思うが、相手を選ぶことくらい学ばないととんでもない事態を招く。

 

 オレが守護らねば(使命感)

 

 

「半分は一千五百万だぞ。そんな金額送られてきたオグリはどう思う?」

「腰を抜かしてしまうな……」

「だろ? だから少額を毎月送るようにした方がいいよ。定期振込を組めば忘れることもないし、一々申請しなくて済むしな」

「成程……しかし、どれくらい送ればいいんだ?」

「そうだなぁ。家庭の事情にもよるから何とも言えないが、始めの内は二万三万くらいにしとけばいいんじゃないか?」

「むぅ……でも、お母さんは私を育てるために頑張ってくれた。もっと送った方が……」

「あんまり多いと受け取っちゃくれないよ。親にも意地ってもんがあるからな。どうしてもって言うなら、別に積立でもしたらどうだ? 親が本当に困った時にポンと渡せばいいだろ?」

「積立、そういうのもあるのか。流石はトレーナー、賢いな」

 

 

 オグリは尊敬の眼差しを向けてくるが、オレとしては呆れの方が強い。

 いや、オレが賢いんじゃなくて、オグリが考えなしすぎるだけだと思うよ???

 

 実際、この辺りの問題は親と子の意地の張り合いみたいなところがある。

 親は子にただ健やかに生きて欲しいと願うし、子は親にこれまで育ててくれた感謝として楽に生活して欲しいと願う。

 これらは相反する願いではないが、金が絡むと途端にぶつかり合って意地の張り合いの様相を呈してしまう。

 其処からは互いに手を変え品を変え、相手が折れるのを待つわけだ。大変結構なことである。

 

 世の中には自分の子供を道具のように扱う親もいれば、自分の親を憎しみの対象として見る子もいるが、それはどちらかと言えばマイノリティで健全な親子関係とは言い難い。

 意地の張り合い程度であれば、それは健全な親子関係だ。決して致命的な決裂や破滅に至らない辺りが凄くいい。何時かは笑い話になるだろう。

 

 

「取り敢えず、申請しようか。オグリみたいな娘は多いからな。どっちの申請もパソコンで簡単に出来るぞ」

「そうなのか。では、頼む」

「いや、オグリがやるんだよ。やり方教えてやるからこっち来な。パソコンの使い方も覚えとけ。色々と便利だから」

「そ、そうか……パソコン……パソコン、か。むぅ……」

 

 

 トレセン学園内でもペーパーレスは進んでいる。

 大事に分類されるような事柄でもない限り、各種申請は学園のサーバー上に設けられたWebサイト上からも可能になっている。

 いわゆるイントラネットという奴で外部からアクセスできず、また利用者認証で閲覧を制限されてセキュリティも万全である。

 

 仕事机の上からノートパソコンを持ってきて、ちょいちょいと手招きするとオグリは渋い表情ながらもオレの隣に移動してきた。

 裕福な家庭で育ったとは言い難いオグリにとって、パソコンも携帯も完全に未知の技術(オーバーテクノロジー)であろうが、現代社会で使えないのはヤバいって。

 

 急なトレーニング内容の変更なんかも、携帯を持っていなければ伝えるのに一苦労。

 こっちの都合もあるのでこうやって慣れさせ、何とかスマホを持って貰おうという腹積もりもあった。

 

 

「そうそう、そこをクリックして」

「クラッカー……? 何処に? 食べるのか……?」

「お腹空いてんの???」

 

 

 本当にパソコンなんて触れたこともなかったのだろう。

 悪戦苦闘するオグリへの説明に、オレも四苦八苦しながらも申請を進めていく。

 必要情報の入力するのに、両手の人差し指でキーボードを叩くオグリの姿は随分と微笑ましい。

 

 苦笑交じりにそれを横目に眺めながら、オグリの想いは届けども金は受け取られないだろうと確信していた。

 

 なぜ確信できるのかと言えば、オグリのお袋さんと顔を合わせたことはないが、電話越しに話しているからだ。

 というかオグリだけではなく、チームメンバーの親御さんには全員挨拶済みである。

 

 本来、そんな真似をするトレーナーは稀。

 根本的にトレーナーは保護者ではなく、ビジネスパートーナーや同僚に近い関係性。

 家庭の事情に首を突っ込んでゴタゴタに巻き込まれるのはゴメン、というのは何らおかしい考え方ではない。

 

 ただ、個人的にはやっておきたかった。

 大事な娘さんを預かる以上、最低限こちらからが何者かを明かしておかなければ納得できなかった。

 

 何よりも、オレの現状は外からでは把握できない。

 例え、相手の不安を煽る結果になろうとも明かしておくのが筋。

 その結果、担当を変更するように要求されたとしても、娘の将来を憂う親の反応として至極当然で、反論せずに受け入れるつもりであった。

 

 全ては杞憂に過ぎなかったが。

 そんな状態で娘の担当をするなと憤慨されるどころか、逆にオレ自身の心配をされてしまうほどで。

 そりゃこんな優しい親の下で育てられたのだから、彼女達の優しさも思い遣りも大きく育つわけである。

 親御さんの反応はそれ以外にも様々であったが、最終的には娘の判断を信じ、オレに任せるという結論に集約した。

 

 そして、会話の中から家庭環境や経済状況はおおよそではあるが把握できた。そして、その人柄も。

 

 ……マックイーンの御両親との会話から察するに、メジロ家はオレの現状を把握しているらしく、自分の知らないところで調べられている恐怖も味わった。 

 いや、メジロ家はこの業界とも関わりが深い。恐らく、理事長が先んじて情報を回したのだろう。きっと、多分、恐らく、メイビー。

 

 

「……ふぅ、全て入力したぞ、トレーナー」

「ほいさ。んじゃ、送信、と」

 

 

 最後に入力情報に不備がないかを確認し、送信ボタンを押す。

 これで明日にでも総務経理が動いてくれる。近い内にオレへと連絡が入る筈だ。

 

 オグリの要望通り、問題なく指定した金額が仕送られる。

 だが、それをどのように使うかは、オグリのお袋さん次第。

 

 人柄から考えるに、きっとオグリへの仕送りとして生活用品でも買って寄越すに違いない。

 金をそのまま返されてはオグリも気落ちするだろうが、形を変えて送られたのなら気付きすら与えられない。

 

 やや強引な手法ではあるが、これは卑怯なのではなく人生経験で一枚上手であるだけ。

 

 お袋さんは生活を切り詰める必要もないまま、難しかった娘への仕送りを気兼ねなく行い。

 オグリは確かにお袋さんの生活の助けになれている。

 

 正にwin-winだ。

 そうなるように、願っておこう。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「お母さんが色々と送ってきてくれた。笠松のお菓子もある。皆で食べよう」

「まあ、こんなお菓子もあるのですわね。これは鮎の形の御饅頭、かしら……?」

「こっちは栗羊羹とカステラの、サンドイッチ、かな……?」

 

 

 後日、考えていた通りにオグリのお袋さんからは仕送りがあった。

 生活用品と思っていたのだが、仕送りの九割が食料品だったのは笑ったが。

 

 笠松の銘菓を片手にミーティングルームを訪れたオグリの様子から察するに、自分の仕送りが使われているとは思っていないようだった。

 

 

「じゃあ、私はお茶を入れますね」

「――――くっ」

「どうかしたのか、トレーナー君?」

「いや、何でもない。ちょうどいいや、オレも休憩するから一個ちょーだい」

 

 

 まあ、オレも特に何か言葉にするのは止めておく。

 あくまでオレの予想は予想であって、現実でも事実でもない。

 仮に当たっていたとしても、当人には言わぬが花というものだ。

 

 

 

 

 



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『孟母三遷』

 

 

 

 

 

 四月の最終週。

 今年の春天は5月の初週にずれ込み、お陰でルドルフの調整には多少の時間的な猶予が出来た。

 

 仕上がりはほぼほぼ理想に近い。

 今は学園のコース上でチームの面々と併せを行っているが、時計もいい結果が出ていた。

 

 長距離への適性が極めて高いマックイーンとライスの存在が良い刺激になっている。

 スズカとオグリも前者二人に比べれば適性は低いものの、それぞれの走り方がそのままルドルフに迫られる択となり、経験値に貢献している。

 特定の相手ばかりと併せをしているとおかしな癖がつきかねないが、その心配はなさそうだ。

 

 相手側の情報も出揃っている。

 オレの分析、予測で負けはほぼないが、それが逆に困ったところ。

 ルドルフの瑕を何とかしたくとも、状況が整わない。これでミスターシービーが居てくれればまだ良かったんだが……。

 

 

「調子、良さそうね」

「ああ、どうも上河さん。偵察? それともスズカへの労いですか?」

「ふふ、そうね。どちらも、かしらね」

 

 

 ストップウォッチを片手に、カメラで併走を撮影しながら見守っていると後ろから声を掛けられた。

 

 ウェーブパーマの入ったボブヘアに、黒いパンツスーツ。

 下がった目尻は柔和な性格を表していて、薄い化粧は色香を際立たせている。

 

 おハナさんよりも僅かに年かさ。黒沼さんとは同期にあたるベテラントレーナーである上河さん。

 実績、指導ともに堅実。特に先行型のウマ娘を育てる手腕は間違いなく一流だ。

 彼女の育てたウマ娘のレースを見ていても、オレが取れと指示を出すであろうポジションに必ず付いている。

 ただ、その堅実さ――使う戦略の幅が少なく派手さがない分だけ、トレーナーとしての評価はおハナさんや黒沼さんに劣って見られがち。

 

 予想外の走りが魅力的なのは認めるが、予定通りの走りをそのまま最後まで完遂するのも難易度だけで言えば同様のはずなのだが。

 その辺りの難しさを見ているだけの人間に理解しろ、というのが無理な話か。

 

 そして、オレにとって何よりも重要なのは、彼女がスズカの前トレーナーということ。

 

 

「“デネブ”の滑り出しも順調なようだし、安心したわ。君に任せて正解だった」

「随分とヨイショしてくれますね」

「認めていなければ、私の見つけた才能を預けたりしないわよ。最近の若手の中でも期待してるんだから」

 

 

 冗談交じりのオレの言葉に、上河さんは苦笑を漏らした。

 

 彼女の言うように、その期待は肌で感じている。

 スズカの不調について理事長が話を持っていった時には、既に後任として幾人かの名前と共にオレを挙げてくれていたらしい。

 その後、オレが正式にスズカの担当となった際にも、快く納得してくれた。

 

 これは本当に珍しい話だ。

 トレーナーの評価は、如何にウマ娘を勝利に導いたかに尽きる。

 従って誰も彼もが勝ちに直結する才能あるウマ娘を獲得しようと躍起になる。

 スズカほどの才能ともなれば、望んでいるからと言ってそう易々と手放したりはしない。

 

 以前から交流――と言うよりも、御多分に漏れずオレが首を突っ込んだこともあったようで。

 それもあって、驚くほどオレを高く評価してくれているらしい。

 

 んー、相変わらず記憶がないので不安が尽きない。ほんと、余計なことしていないといいんだけど……。

 

 

「やりきったのはスズカですよ。スズカに声を掛けてやってください」

「それは勿論。けど、それよりも……」

「…………?」

 

 

 自身への称賛よりも、スズカの活躍を望んで手放した上河さんのこと。

 スプリングSでの勝利は期待を上回る驚きもあっただろうが、それ以上に歓びが勝っていただろう。

 今こうしている間にも、真剣ながらも笑みを浮かべながら走っているスズカの姿に目を細めて微笑んでいる。

 

 しかし、それもそこまで。

 彼女の表情は一転して、不快感に眉根が寄る。

 

 何かやってしまったか、と一瞬だけ心当たりもないままに焦ったものの、どうやら上河さんの覚えている不快感はオレ由来のものではないらしい。

 

 

「最近は鼠も多いみたいでね。天下のトレセン学園がこんな有り様なんて、不愉快極まるわ」

「そりゃまた。まあ、鼠は強いですからね。油断していりゃ何処にでも潜り込むでしょ」

 

 

 そう漏らした上河さんの顔は、股座に手を差し込まれたかのように極まった不快感が表れているようで、今度はオレが苦笑する番だった。

 

 普段決して怒らない人間は怒らせると怖いと言うが、彼女の場合は正にそれ。

 柔和だった顔立ちは眉根が寄って、下がっている目尻は今は逆に釣り上がっていた。

 

 それほどまでに鼠が嫌い、という線もなくはないが、トレセン学園は生徒の身を守るため衛生面で殊更に気を遣っている。

 病気の媒介になりかねず、食品や建物を喰い荒らす鼠が入り込むような余地がないように多くの対策がなされている以上、ストレートな意味ではない。

 

 これは遠回しな警告と情報提供だ。

 どうやら、トレセン学園内部で既に幾人かがオレに関する情報を外に漏らすような不穏な行動を取っているらしい。

 

 わざわざ遠回しにして濁したのは、上河さん自身が情報の出所をきちんと把握していないからか。

 パッと思いつくのは、知り合いの記者かマスコミ関係者が探りでも入れてきたという線。

 

 驚きはない。

 実際、トレーナーが集まる会議においてもそれとなく嫌味を言ってくる者もいれば、露骨にオレを排除しようと発言する者も居た。

 

 反応するのも面倒だったが、オレは発言の穴や差別とも取れる部分を突いて冷静に反論。

 理事長やおハナさんが実績を理由に庇い、黒沼さんや南坂ちゃんが二人の発言を補強する形で賛同。

 上河さんや小宮山さん、その他知り合いの方々が賛同を後押ししてしまえば、発言者も口を噤まざるを得ない、というのがある種の様式美となっている。

 

 

「大丈夫かしらね?」

「問題ないでしょ。方法はいくらでもあるし、対策も立てられてますし」

 

 

 心配するような視線を送ってきた上河さんに、何時ものように笑みを浮かべて返す。

 

 実は、そういった事態を警戒していくつか行動を起こしている。

 その内の一つが、情報をばら撒くマスコミ側に間者を送り込んだこと。

 

 以前取材に来た乙名史さん。

 突撃取材で此方を困らせてくれる藤井さん。

 他、口が堅く信頼に足る何名かにオレの現状を明かしている。

 

 彼女らは自分の発言や行動が、多くの人々の主観や言動を変え、一人の人生を容易く破滅に追いやりかねないとよくよく理解した人物。

 常識は兎も角として、まともな倫理観を持っていると断言でき、それ故にオレの明かした情報を悪用するとは考え難い。

 裏切られたと言うのなら、オレの人を見る目がなかったというだけなので、其処は黙って受け入れよう。

 

 かなりリスキーではあるが、これで世間に先んじてマスコミ側の動きを把握できる。

 今のところ、マスコミ側は耳に入った噂の事実確認に躍起になっている、と言ったところか。

 オレのところに直接問いに来ない以上は、誰も彼もが話半分で聞いている状態と見て間違いない。

 

 マスコミ側も慎重になろう。

 オレ自身に非のない現状を面白おかしく騒ぎ立てるとなると、オレと同じ境遇の人々を守る立場も腰を上げかねない。

 過去に根も葉もないスキャンダルでトレセン学園とは裁判沙汰にもなっているので、どうしたところで二の足を踏む。

 そして何よりも、オレが結果を出している内は動こうにも動けまい。

 

 あのトレーナーは前向性健忘で一日の何割かを忘れてしまうが、眠らない体質をフル活用して何とかしていたのだ!

 

 こんな記事を世間の誰が信じると言うのか。

 これで結果もボロボロならまだ信憑性もあったろうが、スズカのスプリングS、ルドルフの日経賞、オグリのアーリントンカップと連勝中。

 たとえ事実であったとしても、結果が出ている以上は凡そ多くの人々には性質の悪いフェイクニュースかジョークにしか思わない。

 オレですら、自分以外の人間がそんな境遇にあったら、あるわけねーだろと鼻で笑うところだ。

 

 そんな調子ではニュースが事実であるか否か以前に、まずは品性そのものを疑われかねない。

 オレを叩くつもりが、一転して自分が叩かれる立場になる。其処にトレセン学園から名誉棄損で訴える、などと言われようもんなら正に泣きっ面に蜂。

 

 勝ち続けている間は、取り敢えず警戒のみしておけばいいだろう。その分だけ、負け始めた時が厄介ではあるが。

 

 

「上河トレーナー……!」

「久しぶりね、スズカ。スプリングSは素晴らしかったわ。見ていて笑ってしまうくらいにね」

「……あ、ありがとうございます!」

 

 

 決められた距離を走り終わったスズカは、上河さんの姿を認めると駆け寄ってきた。

 互いに顔を綻ばせる様は、何のわだかまりも存在していないことを物語っていた。

 

 実際、上河さんは担当を辞した後もちょくちょく顔を見せて気に掛けている。

 スズカもそれが不快ではなく寧ろ嬉しいようで、世間話をしている姿をよく見かけた。

 

 自分の行いが悪い結果を招かないで心底ホッとする。

 

 大抵はどちらか一方が未練がましく恨みがましくしていて、もう一方は心底嫌ってしまうもの。

 二人の関係性は非常に珍しいケースで、これからも続けていって欲しい。

 

 

「でも、それだけにあの話は残念だわ。何とかならないの、トレーナー君?」

「そう、ですね。私はもっと走りたいのに……何とかなりませんか、トレーナーさん」

「二人して無茶苦茶言ってんなぁ! それに上河さんは分かって言ってるでしょ?!」

 

 

 上河さんは薄っすら意地悪気に笑いながら、スズカは餌を求めるハムスターのような懇願の瞳を向けてきた。

 

 あの話、というのはスズカとオグリのレース出走に関してだ。

 アーリントンカップが終わった後辺りで、オレは理事長に呼び出されてURAのお偉方と顔を突き合わせる羽目になった。

 

 

『サイレンススズカとオグリキャップに関してですが、他のウマ娘が新馬戦を終えるまでレースへの出走を禁じます』

『はぁ、そうですか。一応、理由を聞かせてもらっても?』

『貴方、分かっていて聞いているでしょう? 他の面々よりも先んじて経験を積まれては著しく公平性を欠くからよ』

『………………という建前と、あがが!』

『軽率ッ!』

『トレーナーさん、少し黙っていましょうね?』

『何か問題がありますか?』

『いえ、問題ないです、はい』

 

 

 やたらめったら威圧感のある女性幹部にそんなことを言い渡された。

 余計なことをポロリと漏らしてしまったので、理事長に足を踏まれ、駿川さんには脇腹に肘鉄を貰ってしまった。

 

 正直、予期していた事態ではあった。

 スズカは殆ど裏技めいた方法で先んじて。

 オグリは既に地方でデビューを果たしてこそいたが中央での階級はジュニア級。

 

 来る新馬戦まで凡そ二ヵ月もの時間があり、少なくとも一度、多ければ二度はレースに出走可能。

 その経験の差は酷く大きい。同年代に与えられる機会も多くなり、レースにおける公平性を欠く、という言い分も分からないでもない。

 

 オレとしては、ルール上は何の問題もないんだから、スズカとオグリが割り喰うことはないと思うのだが、そこはそれ。

 主催者側の意向、決定とあれば従わざるを得ない。これに文句を言うのなら、トレーナーとしてではなくURAの上層部になる努力をすべきだろう。

 

 

「でも本当に残念だわ。私はスズカの大逃げを見たかったんだけど」

「………………」

「やめて上河さん、ホントやめて」

 

 

 もう上河さんはスズカを煽る煽る。もう嫌がらせかと疑うレベルだ。

 スズカはスズカで闘争心を漲らせてムラムラしていた。

 ルドルフの日経賞を見て、成長してきたと思ったのにこれだもんなぁ。んもぅ、走ることしか考えてない先頭民族はこれだから……!

 

 

「ちょっと走ってきますね?」

「お、おう。あ、でもほどほどに、ほどほど――――駄目だ、聞いてねぇ! もう行きやがった!」

「ふふふ、スズカは相変わらずね。それでも成長しているようだけど」

「今ので元に戻っちゃいましたけどねぇ?!」

 

 

 もう我慢できないと湧き上がる闘争心のまま、ぴゅーと駆けるスズカ。

 日が暮れるまで走り続けるやつですねぇ、クォレハ!!

 

 全く、困ったもんである。

 最近はルドルフを見習って、()()()()()という手段を学び始めていたんだが。

 勿論、二番手三番手に甘んじるという意味ではなく、あくまでも先頭に立ったまま自分のペースと相手のペースを相談した上での話。

 

 それでも十分過ぎるので恐ろしい。

 自己ベストも更新し続けているし、ラップタイムも指定した目標に際どいところまで近づいている。

 

 卓越した才能と、身に付き始めた技術の数々。

 まず大前提としてスピードで肩を並べなければならず、其処から更に駆け引きと騙し合いの領域に引きずり込まれる。

 相手にしてみれば悪夢という他なく、その様は正に異次元の逃亡者だ。

 

 

「スズカさん、どうしましたの? また走り出して……あら? そちらの御方は……?」

「行っちゃった……あ、こ、こんにちは」

「スズカを前に担当してくれてた上河さん」

「それは…………いえ、不躾ですわね。失礼致しました、メジロマックイーンですわ。以後、お見知りおきを」

 

 

 ぴゅーと駆けていくスズカの背を不思議そうに眺めていたマックイーンとライスは此方に気が付いた。

 

 しかし、警戒や驚きの反応はない。

 こうしてオレが他のトレーナーと話しているのは珍しくない。もう慣れてしまったのだろう。

 

 南坂ちゃんを筆頭におハナさんや黒沼さんもよく顔を見せる。

 他にも、トレセン学園に入ってからの後輩――になるらしい、名門出の桐生院ちゃんやら“ターフの魔術師”と呼ばれた偉大な父を持つ奈瀬ちゃんなんかとも交流がある。

 

 オレは担当の実力を隠すためにその交流を断つつもりはない。

 交流で得られる情報交換という狙いもあるが、それ以上に多くの人々に支えられて今此処に立っている事実と温かみが喜ばしかったから。

 人に頼りにされるのは嬉しいし、人に頼れるのは心強い。

 

 その結果、手の内を晒してしまうことにも繋がるが、そこはそれ。

 こちとら勝負師だ。敢えて手の内を晒すという選択が、相手に択を迫る効果もあると知っている。

 レース中の駆け引きはウマ娘の領分であるが、レースまでの駆け引きはトレーナーの領分。やってやるさ、存分に。

 

 

「はい、こんにちは。メジロマックイーンに、ライスシャワーね…………そう言えば、二人とも先行型だったわね」

「はぁ、そうですけど……」

「私がスズカを預けたのだから、貴方は二人を預けてみない?」

「ちょっと?????」

 

 

 上河さんは冗談のつもりだろうが、目が半分くらい本気(マジ)だった。

 

 確かにね? オレもね? 上河さんの手腕はね? 認めますけどね?

 今はまだその時じゃない。その時じゃないから! その時がくれば上河さんみたいに快諾しますけれども! 今は勘弁してぇ!

 

 

「何か困ったことがあったら、言ってちょうだい。相談に乗るわよ?」

「……!」

「……え、えぇっと、ありがとう、ござい、ます……?」

「ははぁん…………ええ、その時はお願い致しますわ」

「……?!」

 

 

 し、信じらんねえ! 上河さん、オレの目の前で二人にツバつけやがった!

 

 ライスは可愛らしいもんで、どうして自分に良くしてくれるんだろうと不思議そうだ。

 しかし、ピコーンと頭上に電球を灯したマックイーンは、目元に影を作りながら微笑んで申し出を受け入れる。

 

 もうマックイーンは大体こんな感じだ。

 オレをイジれると判断すれば、全力で乗ってきやがる。

 

 この愉快な庶民派お嬢様はよぉ……!

 クソゥ、オレもイジれると思ったら全力でやるからなぁ。覚悟しとけよぉ、お見舞いするぞー!

 

 まあ、それだけ仲良くなったってことで結果オーライとしよう。

 マックイーンも上河さんの背景や思惑を察した上でやっているだけ。本気では言っているわけじゃないからな。

 

 

「じゃあ、私はそろそろ。貴方も、何かあれば遠慮はいらないわよ」

「そうさせてもらいます…………ライスゥ、ちょっと塩取ってきてぇ、でっかめのぉ、岩塩をぉ」

「……えぇ?! そ、そんなのないよぉ……!」

「いや、あるだろ。トレセン学園なら探せばある。食堂とかに」

「あら怖い。退散させてもらうわ」

「人の担当にツバつけるためなら、にどとくんな!」

「おほほほほ」

 

 

 高笑いを上げながらぴゅーと去る上河さん。ちくしょー、本気で塩撒いたろか。

 スズカと相性が悪かったのはあくまでも指導面だけであって、性格面ではそんなでもないようで走り方は妙に似ていた。

 

 とは言え、彼女の言葉は心強い。

 好き放題やらせてもらってはいるが、これでも味方は多いのだ。

 オレ自身、記憶がないので困惑しきりであるが、有り難い話だった。

 

 そして、オレを思っての言葉も素直に受け入れ、手帳に書き記しておく。

 やはり持つべきものは切磋琢磨する仇敵(ライバル)であり、同時に後を任せるに足る信頼できる味方だった。

 

 

 

 

 





上河トレーナー

スズカのキャラストで出てきたあの人。
名前は原作の最初と二番目の騎手から一文字ずつ。そして両者のジョッキーソウルを受け継いだベテラン。黒沼トレーナーとは同期。
欧州のレースを参考に好位抜出こそ正道にして王道と信奉しており、指導・レース展開は堅実の一言。
勝ちに派手さはないものの、勝てるところで確実に勝ちを広い、目も当てられないような惨敗は一度もない。
彼女が担当するウマ娘は確実に好走して掲示板入りを果たすと評判。
此処のトレーナーが天才性から彼にしか導き出せない選択肢を見出して何をしでかすか分からないタイプとするのなら、彼女は誰もが考え得る選択肢を確実に熟すタイプ。
総じて、玄人受けする職人のようなトレーナー。拷問部屋出身ではない。
なんか妙にキャラ崩壊してるのは、真面目なキャラほど面白可笑しくしたくなる作者の性癖。


サポート効果:先行適性UPイベ、先行スキル獲得ポイント低下、先行スキル特盛。



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『莫逆之友』


何とか更新できた。
先週は予防接種のあれなそれで死にかけてたから無理でした。

そして、アオハル杯始まりましたねぇ。
まだ慣れずに全然ステが伸びねぇ。サポカよりも因子が悪いっぽいなぁ。
スピ9はあるけど、スタミナとパワーが揃ってないので何んともかんとも。

そして理事長代理が想像してたキャラとは違うか弱い生き物で笑う。
これは何処かで登場させてキャラ崩壊させなくちゃ(使命感

……そろそろ、タグにキャラ崩壊いれるかぁ。


 

 

 

 

 

「こうして青いバラは道行く人々を幸せにしていったとさ、めでたしめでたし。うーん、かわいくて素敵なお話」

「そ、そうだよね……! ライスも大好きなお話なの!」

 

 

 本番を間近に控えたルドルフがどうしても外せない生徒会の仕事ということでチームでの練習はお休みに。

 先のレースでの快勝もあってやる気漲るスズカとオグリは自主練に向かい、マックイーンは勉強をしたいそうなので不在。

 手持無沙汰になったオレは、かねてから聞いていたライスの大好きな絵本をお借りして、二人で読書会と洒落込んでいた。

 

 絵本のタイトルは「幸せの青いバラ」。

 いわゆる挿絵付きの童話だが、子供向けと侮るなかれ。

 情操教育を目的として書かれただけあって、大人が読んでも楽しめたり、身に着けるべき教訓なんかも直接的で分かり易い。

 

 話の内容は暗い要素はありつつも、最後はハッピーエンドで締めくくられている。

 周囲にその色から気味悪がられていた青いバラが、ある出会いによって大輪の花を咲かす大団円。

 

 著書とは筆者の魂の切り売りだ。

 それは絵本だろうと童話だろうと変わりなく、伝えたい思いというものが必ず存在する。

 この絵本から伝わってくるのは、人に頼れる時は頼りなさい、諦めずに続けることに意義がある、幸福というものは人との出会いによって生まれる、と言ったところか。

 

 オレが口にした心からの感想に、ライスは目を輝かせて笑みを浮かべていた。

 それがなんであれ、自身の好むものを人が褒めれば嬉しいものだ。気持ちは良く分かる。

 

 

「小さい頃にこの絵本を読んでね、ライスもこの青いバラみたいになりたいなぁ、って思ったんだ。なれる、かなぁ……」

「もうなってるさ」

「ふぇ……?」

 

 

 少しだけ不安を瞳に揺らしながらライスはそんなことを口にして、オレは間髪入れずに答えていた。

 

 何せライスは既にオレを救ってくれているのだから。

 出会ったあの時、彼女が勇気をもってかけてくれた言葉はまだ胸の内で燃え続けている。

 

 倒れそうな身体を支えてもらい、肩を貸してもらえるような人との出会いが一生の内に何度あることか。

 心の救済は、即物的な幸福よりも遥かに価値があるように思う。

 

 だから、ライスはオレにとっては疾うの昔に青いバラそのものだ。

 

 

「じゃ、じゃあ、トレーナーさんは「お兄さま」だね……!」

「えぇ~、そんなぁ? そんなにぃ?」

「うん……!」

 

 

 冗談めかした言い方を、力いっぱいの肯定で返されて僅かばかりに面を喰らう。

 

 「お兄さま」は話の中の登場人物。

 青いバラが大輪の花を咲かすキッカケとなった人物で、灰被り姫(シンデレラ)で言えば魔法使いに相当する立ち位置だ。

 

 そんな人物と同列に扱われるとは、正直思ってもみなかった。

 

 確かに、最近はライスも明るくなってきた。

 出会ったばかりの頃とは異なり、何の因果関係もないままに周囲の不幸を自分のせいだと責めることはもう殆どない。

 トレーニングを通じて肉体面のみならず精神面でも成長しているのもあるが、それ以上に周囲の影響も大きい。

 

 自信は周囲に伝染していく。

 その点、己の夢を実現するために邁進するルドルフやメジロの名に相応しく在ろうとするマックイーンが良い影響を与えている。

 彼女達についていけている事実が自らの実力に対する確かな自信に繋がったようだ。

 

 それでいて気弱さは据置なので、皆そりゃもう可愛がる。

 最も年若いマックイーンを差し置いて、チームの末っ子扱いだ。

 一人っ子だったライスはそうした扱いを嫌がるどころか嬉しいらしく、素直に受け入れていた。

 

 いい傾向だ。

 周りのチームから見れば緩み切ったチームなのだろうが、これでも締めるところは締めている。

 家族や姉妹のような和やかさはあるが、併走やラップタイム訓練で対抗心を煽り、悩みやいがみ合いが生まれないようにそれぞれとのコミュニケーションを怠らずにおく。

 

 今のところ問題なく回っているチームに内心ホッとしていると、ミーティングルームのドアが控え目にノックされた。

 

 

「トレーナーさん、いらっしゃいますか……?」

「いるよー。入って入って」

「失礼します」

「あ、イクノさん……こんにちは」

「おや、ライスさんも。こんにちは」

 

 

 入ってきたのはマックイーンと南坂ちゃんとこのイクノディクタスだった。

 

 別段、珍しい組み合わせではない。

 マックイーンの付き合いは基本メジロ関係者で固まっているのだが、彼女は寮の同室というだけあって一緒にいる場面を何度となく見た。

 幼い頃は病気で伏せがちだったと聞いているし、もしかしたらマックイーンにとってはメジロとは関係ないところにいる初めての友人で、特別なのかもしれない。

 

 

「トレーナーさん、実は……」

「いいよ(0.2秒)」

「あの、まだ何も言ってないのですけど……」

「話が早くて助かります。ではお言葉に甘えて」

 

 

 申し訳なさそうに何事かを言おうとしたマックイーンに先んじて、了承の返事をしてしまう。

 すると、イクノディクタスは眼鏡をキランと輝かせながら素早くソファに腰を下ろした。

 しっかりしていると言うか、ちゃっかりしていると言うか。こんな子を担当出来て、南坂ちゃんも頼もしい限りだろう。

 

 何を言うつもりだったのかは持ち物を見れば聞くまでもなく分かる。

 彼女達の手には教科書、ノート、筆箱とお勉強セットが揃っていたから。

 

 以前にマックイーンが質問に来て以来、こうした機会が増えた。

 元々勉強嫌いではなかったようだが、かと言って好きというタイプでもない。

 好悪以前に学生やメジロの者として恥じぬ成績を、と義務感や使命感で向き合っていたのだろう。

 だが、どうやらオレの教え方が合っていたらしく、勉強の楽しさというものを自覚してきたようだ。

 

 頻度は週に二度三度とかなり多いが、此方の様子を伺いながら気になっているので負担は殆どない。

 それからオレに思い出すという行為を繰り返させることで、失われた記憶を取り戻させようとしてくれているのかも……。

 

 何にせよ、オレとしても楽しい時間なので、拒む理由はなかった。

 

 

「ついでだ、ライスも勉強道具持ってきな。一緒にやろうぜ」

「え……あ、うん、取ってくるね、お兄さま……!」 

 

 

 必要はないとは思うが仲間外れにするのも忍びないので、ライスの勉強も見ることにした。

 するとライスは驚きを見せたが、すぐに満面の笑みを浮かべるとミーティングルームを後にする。

 

 基本、オレの担当は成績優秀者が揃っている。

 唯一見劣りするのはテストの点数が平均点付近のオグリであるが、あれは勉強が苦手とか頭が悪いのではなく、のんびりとした性格なので問題を解き終わる前にタイムアップしてしまうだけ。

 実際、内申点は良い方だ。それとは別に担任から悪意がないとは言え腹の虫を鳴らして授業妨害するのを何とかしてくれませんか、と相談されたが。

 

 それは兎も角、直向きな努力家であるライスはテストの点数も内申点も問題ない。

 毎日コツコツやるタイプで、勉強に対して苦手意識を持っていないようだが、分からない部分がないわけでもないだろう。

 それに複数人での勉強は集中や効率の観点で言えばそこそこでしかないが、他の存在がそのままやる気に繋がる場合もあるので全くの無意味でもない。

 ライスは割と引っ込み思案なところがあるから、こういった経験を積んでおくのも悪くなかろう。

 

 

「「……お兄さま?」」

 

 

 出て行く直前、ライスの漏らした言葉にマックイーンとイクノディクタスは顔を見合わせた。

 二人にしてみれば、何のことやら。脈絡の無さすぎて怪訝な表情をする他ない。

 

 オレも思わず苦笑せざるを得ない。

 ライスにとってそれだけの人物になっている事実は光栄でさえあったが、今のオレには過ぎた評価でしかなかったのだから。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「成程、この文法ですか」

「そそ、英語の文法って基本が決まってるから、それを中心に組み立ててけば案外簡単。あとは単語をボチボチ覚えていけば何とかなるよ」

「ふむ、そう考えれば英語よりも日本語の方が難しいという評価も頷けますね」

「表現の仕方が豊富で詩的なところもあるからねー」

 

 

 勉強会が始まってから暫くして。

 イクノディクタスが分からなかったところがあったのは英語だった。苦手というよりも、行き詰ったという印象。

 

 そして真面目で頭も良いが、それほどお固くはない。

 思考の柔軟さに乏しさは感じるものの、対人関係や生き方に関する固さはマックイーンの方がよっぽどだ。

 

 会話をしていてもノリがいいし、真面目な表情のまま茶目っ気を魅せたりと、顔立ちの良さだけでなく愛嬌もある。

 彼女が相部屋だったのはマックイーンにとっても、そして担当になったのは南坂ちゃんにとって幸運であったと素直に思う。

 

 

「でもこういうの、南坂ちゃんには聞かないの? あいつだって勉強できないわけじゃないでしょ」

「南坂ちゃんさんにも聞きますよ。ただ、今は色々とお忙しいので……あ、いえ、トレーナーさんが暇そうにしているという訳ではなく……」

「あー……アイツ、レースやトレーニングばっかじゃなくて、音楽やダンスの関係で外部の人と打ち合わせとかしてるみたいだしなぁ」

「この前も、私達の専用曲を用意して下さいまして」

「えぇ……何それ、すご……こわ……」

 

 

 レース後のウイニングライブで使用される曲は種類がいくつかあるものの、年に何度か更新される汎用曲が基本。

 

 ただ例外的に、個人のために作詞・作曲された専用曲というものもある。

 そういった曲はG1で特定回数を勝利したり、ファン数が一定を超えたウマ娘のみが与えられる。

 それを出走前の担当のために人数分用意するとか、恐るべし南坂ちゃんのコネと交渉術……!

 

 何が凄いって、南坂ちゃんなら担当した娘には期待値に関わらず同じ行動をするだろうということ。

 そりゃレースよりもライブの方が好きなのは知っていたが、此処までするとか完全に気が狂ってる。どんだけ頑張ったんだよ、アイツ。

 オレが思わずドン引きしていると、イクノディクタスも困ったように微笑んでいた。

 

 それだけで彼女と南坂ちゃんの間にどれだけの信頼が育まれてきたのか分かろうというものだ。

 聞いた話では、イクノディクタスはトレセン学園に来て直ぐに屈腱炎を発症しているようなので、南坂ちゃんが八方手を尽くしたのかもしれない。

 

 そして、他のカノープスの面々も似たような思いを抱いているであろうのは察するに余りある。

 

 色々と拗らせて、自分の事で手一杯だった南坂ちゃんが、ねぇ。

 オレとしても、他者から信頼を勝ち取れるようになった後輩に、感動に近い思いを抱かずにはいられなかった。

 

 

「ところで話は変わりますが、少しお聞きしたいことが……」

「うん? なになに? 何でも聞いて?」

 

 

 南坂ちゃんとのあれこれは、其処で一旦終わり。

 イクノディクタスには大切だからこそ明確に語らず、胸の内にしまっておきたいのだろう。

 何とも可愛らしくもいじらしい思いを踏み躙るわけにもいかず、同時に何を聞きたいのか気になったので乗っておく。

 

 彼女が視線を向けたのは、少し離れたマックイーンの背中。

 はて、一体何を聞きたいのか、と考えていると、イクノディクタスはキラリと眼鏡を輝かせて鹿爪らしく頷いた。

 

 

「マックイーンさんですが、野球好きですよね……?」

「気付いてしまったか……」

 

 

 イクノディクタスは仲睦まじくティーカップに紅茶を注ぎ、お茶請けのクッキーを用意しているライスとマックイーンには届かない声音でそう告げた。

 実のところ、オレもハッキリとは分かっていないし、直接聞いてもいないのだが、同じ疑惑を抱いている。

 

 それらしい素振りは何度となく見てきたのだ。恐らく、彼女も同様だろう。

 

 ミーティングルームに置いてあったスポーツ新聞で野球の欄に目を通していたり。

 食堂で昼食に洒落込んだ時も、テレビのニュースで野球の試合結果が流れた時だけ箸を止めたり。

 チラリとしか見えなかったが、スマホのロック画面の壁紙が野球選手っぽい誰かになっていたり。

 

 別段、野球好きであることに問題があるわけでもあるまいに。

 スポーツ選手が別競技の誰かのファンなんてよくある話。

 其処に何某かの敬意(リスペクト)があれば、技術面で学ぶべきことはなくとも競技に対する向き合い方は学べることもあるだろう。

 

 ただ、オレと彼女が気になっていたのは、それを隠そうとしているところだ。

 野球の話を何となしに振ってみても、一瞬だけ目を輝かせるのだが次の瞬間にはおろおろと狼狽してはぐらかす。

 好きなら好きで公言すればいいものを、何に対して気を遣っているのやら。

 

 そういった精神状態は、オレはトレーナーとして、イクノディクタスは友人として望ましくないと思っている。

 今までは隠したがっているようなので触れずにおいたが、冷静に考えてみれば何を隠す必要があるのか。

 

 

「――――という建前ですが。ぶっちゃけマックイーンさんがどんな風に応援するのか、私、気になります」

「オレも気になる。別に恥ずかしがるような趣味じゃないし、隠している方が逆に精神衛生上よろしくない。よし、ちょっと手伝ってくれる? ごにょごにょ」

「ふむふむ、成程。お任せ下さい」

 

 

 何も知らずに鼻歌交じりにお茶を用意しているマックイーンを尻目に、オレはそそくさと用意を進めていく。

 もう完全に悪戯小僧の気分で、イクノディクタスの眼鏡はさっきから煌めきっぱなしだ。それにしてもこのウマ娘、ノリノリである。

 

 それから暫く経って――――

 

 

「どうぞ。今日は茶葉も私のお気に入りですわ」

「ほう、紅茶は詳しくありませんが、良い香りですね」

「会長さんが持ってきてくれたクッキーもあるから、どうぞ」

「では、早速。頂きます」

「オレももーらいっとぉ」

 

 

 ゆっくりと湯気が立ち上るカップが人数分配られ、全員がソファに座って休憩と言う名のお茶会が始まった。

 

 マックイーンはソーサーとカップを手にして口元に運ぶ。優雅さを感じるほどに洗練された所作だ。

 その隣でライスは両手でカップを挟むように持って、ふーふーと紅茶を冷ましている。

 

 何かと対照的な二人だが、こうして並ぶと姉妹のようだ。

 尤も、本来なら年下であるはずのマックイーンが姉、年上であるはずのライスが妹なのだが。

 

 そんな二人を余所に、カップに手も付けもせず、オレとイクノディクタスは目を合わせて頷き、無言で立ち上がる。

 

 

「ピリリリリリリッ!!!」

「イ、イクノさん、どうしましたの急に?!」

「こ゛っこ゛ま゛でも゛って゛こ゛ーい゛ユ゛・タ゛・カ゛ー! こ゛っこ゛ま゛でも゛って゛こ゛ーい゛ユ゛・タ゛・カ゛ー!」

「ピーッピッピッピーピッピッピッ♪ ピーッピッピッピーピッピッピッ♪」

「ふぇ……?!」

「んぐ、こ、これは……」

「ばーっばばばばっ! はい、わっしょいわっしょい! ばーばばばばっ! わっしょいわっしょい! はい! ホームラン! はい! ホームラン! じょうがいじょうがいホームラン!」

「ピーッピリリリピッピッピ♪ ピーッピリリリピッピッピ♪」

「んぐひぇ、んふ、んふふふふ――――ハッ?!」

「……???????」

「これはもう決まりだな」

「ピーーーーーーーーーーーーっ♪」

 

 

 渡してあったホイッスルを器用に吹き鳴らすイクノディクタスと阪神の私設応援団の真似をするオレ。

 

 突然の出来事にライスは首を傾げるばかりであった。何が起こっているのか分からない、これが普通の人の反応。

 マックイーンは笑いを堪えようとして堪えきれず、口元を押さえて俯いた。これは本物の球場で応援団を見た事のある人の反応だろう。

 

 オレとイクノディクタスの思惑に気付いたのか、マックイーンはハッとした表情をするがもう遅い。

 

 

「と、と、と、突然なんなのですの?」

「ピーーーーーーーっ♪」

「いや、なんかマックイーンが野球好きみたいだから、ちょっと試してみただけ」

「あっ、ホームランって言ってたから、野球の応援なんだ……」

「わ、私が野球観戦なんて。そ、そ、そそそんなはしたない真似をするはずが……!」

「いや別に、はしたなくなんかないでしょ。応援なんてこんなもんだぞ。レースだって変わらんだろ?」

「ピッピッピーっピピ♪」

 

 

 目をあちこちに彷徨わせながら、必死で誤魔化そうとするマックイーン。

 そんなの恥ずかしがることもあるまいに。

 

 何も知らないライスの反応とは雲泥の差だった。誤魔化そうとしても無理がある。

 ライスは目を丸くして困惑するばかりで、今ようやく合点が行ったところ。

 

 

「うっ、うぅ~~~~~~~~~~」

「ほら、認めてごらん? マックちゃんは野球が好き、それを恥ずかしがらなくていい。君は立派なやきうのお嬢様だ」

「ぐむ、ぐむむむっ…………はあ、もう分かりましたわ! そう! そうです! 私は野球が大好きですわ! これで満足ですの?!」

「ピリリリリリリリリリリッ♪」

「イクノさん、もうそれは結構ですわ!」

「おっと、これは失礼しました」 

 

 

 顔は真っ赤で涙目になりながら、ようやく観念したのか半ばヤケクソ気味にマックイーンは自身の趣味を認めた。

 

 その姿に、イクノディクタスは一仕事終えたとばかりに額の汗を拭って清々しい笑みを浮かべている。

 この子、オレが言うのもあれだが、結構いい根性してるなぁ……。

 

 

「別にオレ等の前で我慢する必要ないって。人に迷惑かけてるわけじゃないんだしさぁ」

「そ、それはそうかもしれませんが……あんな大声で応援するような真似は、私のイメージには、それにメジロの者として……」

「気にする必要はありませんよ。その程度のことで私は見方も接し方も変えるつもりはありませんし、無理に隠そうと我慢している方が友人としてよほど気になります」

「イクノさん……」

「ライスだって別に変には思わないだろ?」

「うん! 野球はよく分からないけど、誰かを応援できるのは凄く素敵なことだと思うよ!」

「トレーナーさん、ライスさんまで……」

 

 

 好きなものを好きと言えない環境は、それなりにストレスが溜まるものだ。

 メジロの看板を背負っている以上、自身のイメージを優先したくなる気持ちは分かる。だからと言って我慢する必要は何処にもない。

 オレ達の前でくらい、本来の自分を押し殺さなくてもいい。出来るだけ自然体で、出来るだけ気を楽にしていて欲しい。

 イクノディクタスとライスは友人、ライバルとして。オレはトレーナーとして、そう望む。

 

 何でも卒なく熟すマックイーンのこと、誰にも悟られることなくストレス発散くらいは出来るだろうが、そこはそれ。

 壁を作って一歩引かれてしまうくらいなら、嫌われるのを覚悟の上で此方から壁に穴を開けて歩み寄るまで。信頼関係とはそうして培っていくものだ。

 

 

「うぅ……分かりました。そこまで仰って頂けるのであれば……ですが! 他の方々には絶対に広めないでくださいね!」

「分かった、約束する」

「仕方ありません。嫌がるのであれば、無理強いは出来ませんね」

「しーっ、だね。分かった、絶対に言わないよ……!」

「んもぅ……皆さんには敵いませんわ」

 

 

 唇を尖らせながら告げたマックイーンは、彼女らしからぬ拗ねた表情を浮かべていたが、年相応の反応をしていた。

 普段の彼女もまた偽らざるマックイーンそのものであったのだろうが、こうした面を見せてくれるのをより一層距離が近づいたようで嬉しいやら楽しいやら。

 

 この貴重な一瞬を忘れてしまったとしても後から思い出せるように、こっそりと手帳に記しておく。 

 

 

『マックイーンは野球好き。でもイジり過ぎないように』

 

 

 こうしてオレ達の日常は変わらずに過ぎていく。

 覚えていられない辛さと不甲斐なさはあるが、誰かの心に何かが残るのなら、実感が伴わずとも構わない。

 自分だけが輪の外側にいるような疎外感は消えないが、なにそれで事実が消えるわけではない。恐れなど知らぬと前へ進んでいくだけだ。

 

 どうか、この日常が長く続いていきますように。

 彼女達の弾けるような笑い声を聞きながら、オレはそう願わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 



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『笙磬同音』

 

 

 

 春天の直前。

 以前、フジから申し出のあったリギルメンバーを交えたお茶会。

 あれから多少時間は開いてしまったが、今日は各々の予定が合うらしく、打診があった。

 

 折角かつフジからの誘い、断るつもりはハナからなく、予定を空けておいた。

 

 時刻は17時過ぎ。真っ赤な夕日が建物の中にも差し込んでくる時間帯。

 お茶をするには随分と遅い時間だが、オレの状態を考えてくれてのことだ。

 

 場所は、時間も時間故に学園内のカフェテリア。

 夕食の時間帯ではあるがトレセン学園では夜練などもあるので、混み始めるのはもう2時間も経ってから。

 それまでの間は人も疎らで周囲を気にしなくて済む。

 

 正直、聊か気は重い。

 共有していた思い出を失って、合わせる顔がないと言うべきか。

 それでも逃げ出さなかったのは、フジの心遣いを無下にしたくはなかった。

 そして、ルドルフを筆頭とした皆のお陰で随分と気持ちが楽になっていて、本来の能天気さを取り戻せているからだろう。

 足取りは想像していた以上に軽く、負い目よりも楽しみが勝っている部分があるらしい。

 

 幾人かの生徒達と擦れ違いながら向かったカフェテリアでは、既に一人が準備を進めている。

 彼女は此方の姿を認めると、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべて片手を上げて迎えてくれた。

 

 

「やあ、トレーナーさん」

「よっ……って、ちょっと早かった?」

「はは、そんなことはないさ。他の皆は少し遅れるみたいでね。私は……少し張り切ってしまったかな」

「そんなに楽しみだった?」

「勿論。こんなにも待ち遠しかったのは久しぶりだったとも。さあ、どうぞ」

 

 

 カフェテリアの片隅で誰よりも早く待っていたのは、提案者のフジだった。

 寮長としての仕事もあるだろうに、カフェテーブルの上には人数分のティーカップ、中央には時間帯を考えてか申し訳程度に添えられたお茶菓子が用意されていた。

 

 声を掛けるよりも早く此方の存在に気付いたフジは屈託のない笑みを浮かべて迎えてくれた。

 こうして知り合いと顔を付き合わせてお茶をするなんて珍しくもないだろうに、まるで子供のような喜びを全身から溢れさせている。

 その感性に困惑を覚えるものの、それほどまでに喜んでいるのならばオレとしても特に言うこともない。

 

 フジは笑顔のまま椅子を引き、片手で座るように促してきた。

 その振る舞いは瀟洒な執事を連想させたが、顔立ちどころか存在感そのものに華があり過ぎてまるっきり宝塚。

 

 くぅ、相変わらず封印したはずの乙女心を刺激してくる……!

 鉄扉を蹴破る勢いでやってきた王子様のようだ。

 

 いかんいかん、これはいかん。

 落ち着けオレ。オレは男、オレは男。取り敢えず、お言葉に甘えて椅子に座って深呼吸しよう。

 

 

「ふぅーーーーーーーーーーー…………」

「……そんなに疲れていたのかい?」

「いや、疲れているというか、自分自身を見つめ直している最中だから……」

「なんて?????」

 

 

 心配そうに覗き込んできたフジだったが、予想外の返しに困惑していた。

 だって、今この場で見つめ直さないと女の子になっちゃうから……。

 

 その目を見開いた顔を間近に見て、ふと気が付く。

 エチケットと呼ぶに相応しいナチュラルメイクに隠された不調。

 普段よりも肌艶はやや悪く、うっすらとだが目の下には隈も見て取れた。

 

 学生生活に加えて、おハナさんから課せられる厳しいトレーニング。

 其処まではトレセン学園の生徒ならば日常でさえあるが、フジには寮長としての仕事も加わる。

 元々の世話好きの気質もあって然程苦には感じていないだろうが、肉体的には疲れは溜まるものだ。

 

 おハナさんが気付いていないわけがなく、問題なしと判断しているからこそ看過しているのだろうが、念のため釘を刺しておこう。

 

 

「……そういうフジの方が疲れてるみたいだけど」

「あはは、やっぱりバレちゃったか。さっきも言ったけど、張り切って知らず知らずに無理をしてたみたいでね。うん、少しだけ疲れてる」

「なら日を改めようか? 他の皆にはオレから言っとくけど」

「本当に大丈夫さ。自分の体調を管理できないほどポニーちゃんじゃないよ。それに、トレーナーさんも無理をして時間を空けてくれたんだ。お流れにはしたくない」

「いや別に、今日流れたっていいじゃん。フジのためならいくらでも時間作るしさぁ」

「ふン゛ッ……!」

「ど、どうした急に?!」

 

 

 本当に日常へと支障が出るほどの疲れはなかったようなのだが、会話の途中で突如として奇怪な声を上げるフジ。

 唇をギュと噛み締め、服の胸元をぎゅっと片手で握り耳は伏せ気味。眉間に皺は寄っているわ頬は赤いわで尋常な反応じゃない。

 

 まるで鳩尾(ボディ)右脇腹(レバー)に良いのを貰ったボクサーみたいになっちゃってる……!

 

 きてるきてる、膝にきてる……! 

 そのままフジはよろよろと隣の椅子に座り込み、テーブルに突っ伏しそうになっていた。

 

 ど、どういうことなの。

 さっきまでそんなに疲れてなかったじゃない。オレちょっと釘を刺すくらいで十分と思ってたのに。

 

 

「ふーーーーーーーーー…………危なかった」

「な、何が……? 無理しないで休んだ方がいいんじゃね? また時間合わせるから……」

「い、いや、大丈夫。本当に大丈夫だから。ちょっと油断してポニーちゃんにね?」

「油断してただけでそんなのになっちゃうの???」

 

 

 思っていたよりも、フジはか弱い生き物だったのか。

 それ以前に、何に対して油断していたと言うのか。そしてポニーちゃんとは……。

 

 兎にも角にもすぐに持ち直してきた辺り、本当に大丈夫だろう。

 調子の悪さはどう覆い隠そうとも尾を引くものだが、フジにその兆候は見られない。本当に何だったんだ一体。

 

 

「悪い悪い、遅れちまって――――おや、トレ公はもう来てんのかい?」

 

 

 深呼吸を繰り返すフジにオレが背中を擦って落ち着かせていると、声を掛けてきた少女が一人。

 

 絹糸のように艶めいた黒鹿毛の長髪が歩く度に煌めいているようだ。

 女性らしさと育ちの良さを凝縮した顔立ちながらも、振る舞いや言葉遣いからは豪快さが溢れ出ている。

 それでいて、それぞれの要素が見事に調和している。ニカッと浮かべた笑みはお淑やかさよりも野性味が勝っているが、不思議とよく似合っていた。

 

 彼女は美浦寮の寮長であるヒシアマゾン。

 ルドルフ無断外泊の一件では随分と世話になったし、その後も何度か話している。

 気遣いや処世術と言うよりも元からの性格なのだろう。その豪放磊落さは話していて気が楽であった。

 

 

「やあ、ヒシアマ。準備を手伝ってくれるんじゃなかったのかな?」

「そう言いなさんな。こっちだって寮長、やることは山ほどあるさ。それに約束には三十分も前だよ? フジ、アンタちょっとはしゃぎ過ぎだろ」

「は、はしゃいでなんて……」

 

 

 フジはシニカルな笑みを浮かべてヒシアマゾンを咎めたが、揶揄うような返しにどんどん口調は弱弱しくなっていった。

 照れているだけかと思ったが、先程と同様に何でかよく分からないがダメージを受けている様子。

 

 

「オレは楽しみでした!」

「トレーナーさん?!」

「あははっ! トレ公、アンタはそうじゃなくちゃねぇ!」

 

 

 なので、オレははしゃいでおくことにした。

 ピーンと腕を上げて宣言すると、ヒシアマゾンはますます笑みを深めて背中をバシバシ叩いてくる。

 そんなオレ達にフジは呆れ気味だった。

 

 馬鹿をやって事を有耶無耶にしてしまうのである。

 場の空気が澱んだりおかしなことになったりした時には、割と有効な手段だ。

 それに気は重くはあったが、楽しみであったのはまた事実。

 誰かの話しているのは楽しいし、新しい知識や他者の感性に触れることは古くなった心の角質を落とすにはちょうどいい。

 

 

「まっ、何にせよ安心したよ。アンタがその調子じゃなきゃ、こっちも調子が出ないからね。会長も同じだろうさ」

「……だよな」

「こればっかりはどうにもねぇ。ま、無断外泊できるくらいには元気になったから良しとしようか。まっ、前みたいにアマさんって気軽に呼んどくれ」

 

 

 ヒシアマゾン――もといアマさんはオレの背中を叩いていた手を肩に置く。

 其処にはオレの覚えていない大切な思い出が籠っていたのだろう。手から伝わる温もりは慈しみすら含まれていた。

 

 少し前のオレなら申し訳なさから目も合わせられなくなっていたが、今は冗談を口にする程度の余裕はある。

 

 

「迷惑かけるねぇ、おっかさん」

「はは、野暮なことは言いっこなしだよ、おとっつぁん」

「ほら、野暮じゃなくて馬鹿なこと言ってないで、ヒシアマも座りなよ」

 

 

 以前話した時から思っていたが、アマさんも随分と話し易い。

 豪快な性格のお陰か、彼女の前でやっていい、言っていい許容範囲が人よりも広く設定されているのがよく分かる。

 デリケートな部分に踏み込んでいくのは戸惑われるが、それ以外を躊躇しなくていいのは安心感すらあった。

 

 一昔前のドラマのようなやり取りは馬鹿馬鹿しいが、だからこそ面白く自然と笑みが零れる。

 余りのノリの良さにフジは呆れ顔のまま、一仕事終えてきたアマさんを労うように椅子に腰かけるように促した。

 

 

「へーへー。ちょっと遅れたくらいで何も其処まで怒ることはないじゃないか。そりゃ一人で準備させたのは悪いとは思うけどね」

「そうじゃないんだけどなぁ……それから関係性を疑われるような冗談は誤解を招きかねないからやめるんだ。二人とも、いいね?」

「「アッハイ」」

 

 

 拗ねたように唇を尖らせたアマさんは促されるまま、椅子に腰を下ろす。

 その拗ねの中にも申し訳なさを同居させている辺り、性格の良さが滲み出ている。 

 

 しかし、何故だか薄っすら機嫌の悪くなったフジには通用しない。

 フジはテーブルの上に肘をついて両手を組み、その上に顎を乗せてニッコリと笑う。但し、その顔と背後には黒い怒りオーラを携えて。

 

 もうオレもアマさんも、一も二もなく同意する他ない。

 やっぱり年頃の娘の心ってよく分からないよ。一体、何がフジの逆鱗に触れてしまったのか。

 

 

「分かってくれればいいんだ…………さて、少し早いけど私達だけで始めてしまおうか」

「え? いいの?」

「いいんじゃないかい? 生徒会の二人は仕事で遅れるって連絡があったしね」

「マルゼンさんは……連絡がないってことは後輩のポニーちゃん達と何かあったんじゃないかな。楽しみにしていたから、時間になれば来るさ」

 

 

 全員揃うまで待つかと思っていたが、そう気を遣わなくてもいいらしい。

 そうこうしている内に、フジとアマさんはテキパキとカップを揃えて、紅茶を注いでいく。

 寮長という立場上、こうした場を設けて寮生の相談に乗る場面も少なくないのだろう。

 随分と手慣れていて、息も合った様子。オレが手伝う余地など何処にもなかった。

 

 そうして、一足先にお茶会は始まった。

 とは言え、することなど近況なんかや他愛のない会話ばかり。

 実りのある時間とは到底言えないが、休養とはまた違った意味での安らぎや心の栄養を得るためのもの、それで十分だ。

 

 

「あー……オレ、やっぱミスターシービーとも仲良かったのか」

「そりゃアンタがリギルにやってきた頃にゃ、もういたはずさ」

「付き合いの長さで言ったら、マルゼンさんと同じくらいじゃないかな? それに爪の怪我に関しても、おハナさんと協力して当たっていたしね」

 

 

 暫くして話題に上がったのは、海外へ挑戦しに行ったターフの演出家についてだった。

 

 現状、ミスターシービーはマルちゃんと同世代かつリギルでは最古参に当たる選手だ。顔見知りに決まっている。

 実際、彼女のフォーム改善やら怪我からの復帰に携わっていたのは、残されていた資料からも明らかだった。

 資料によれば、彼女の走法は足の先端に負担の掛かるものだったらしく、爪の怪我に悩まされていた。

 

 その負荷たるや、バレリーナさながら。

 バレリーナの足の指は爪が無残なほど変形してしまうのが当たり前で、多くが『爪なんてものいっそなくなってしまえばいいのに』と漏らすほどだ。

 

 ミスターシービーは元々の巻き爪も相俟って、出血と化膿は勿論のこと、裂傷にまで至っていたのだとか。

 特に顕著になったのは二年前の三冠達成後。一時は歩くことさえ困難になるほどの激痛だったようだ。

 そうなれば当然、トレーナーであるおハナさん、サブトレのオレも治療と改善に努めるのは当然なわけで。

 

 改めてその事実を突きつけられて、忘却したまま顔を会わせる怖さと申し訳なさと興味関心が、それぞれ2:3:5にブレンドされた心境。

 それでも大分マシになった方だ。学園に戻ってきたばかりであれば、顔を会わせないように逃げ回るかしか考えられなかっただろう。

 

 だが、今は違う。

 失われた記憶を取り戻すキッカケになれば、立ち向かうべき逆境だと思える。

 例え、相手を傷つけてしまう結果になろうとも、過去(きのう)現在(きょう)から確かに繋がる未来(あした)が欲しいから。

 

 何よりも海外挑戦した者の口から語られる経験は貴重だ。

 主観に塗れていようとも、レース振りとその人物の性格を紐解けば客観的な事実は見えてくる。

 オレが個人的に思い描く、ルドルフの最終目標には必要な情報だ。実体験にはどうしても劣るが、我武者羅遮二無二であるよりはずっといい。

 

 そのために、必要な計画(プラン)を考えている最中でもある――――なんて考えていると、フジとアマさんがふと顔を上げた。

 

 

「おや、来たみたいだね」

「だね。おーい、二人ともこっちだよ!」

 

 

 アマさんが招くように右手を大きく振った先には、二人の少女が歩いてきていた。

 

 

「えぇい、ブライアン! きびきび歩け!」

「……遅れると連絡を入れてあるんだ。それにまだ約束の時間じゃないだろう」

「そういう問題ではない。予定の十分前に待っておくのは礼儀だ、馬鹿者ッ!」

「はあ……まあ正論なんだろうがな」

 

 

 先を進んでいたのは、鹿毛をボブカットに、長く伸ばした前髪を左で分けた少女。名前はエアグルーヴ。

 赤いアイシャドウが印象的で、もう一人への説教と共に向けられた切れ長の目がより鋭く煌めいていた。

 自身の言動通りにきびきびとした歩みは自他に対する厳格さを示している。後輩へ礼儀の指導をしている辺り教育ママのようでさえある。

 

 その後ろには注連縄のような紐で括った長い黒鹿毛を左右に揺らしながら付いてくる少女。こちらはナリタブライアン。

 つっけんどんな言動は無骨な性格を表していて、同時に意志の強さも感じさせた。

 口に銜えた枝はチャームポイントだろうか、まるでドカベンの岩鬼だ。スタートしたりスパートをかけたらグワァラゴワガキィーン! とわけわかんない擬音が聞こえてくるかもしれない。

 

 どちらも資料にあった写真、あとはルドルフやスズカからの伝聞でしか知らないが、当人であるかを判断するには十分過ぎた。

 

 エアグルーヴは此方の姿を確認すると、テーブルの前までやってきてすぐに頭を下げる。

 

 

「済まないな、遅れてしまった」

「ま、生徒会の仕事じゃあね。仕方ないさ」

「それにブライアンじゃないけど、約束の時間には間に合っているから気にしないでよ」

「ほら見ろ、二人もこう言っているだろう」

「待つ側だからこその言動だ。遅れそうになった我々の口にできる言動ではないだろう。ほら、お前も頭を下げんか」

「これだ……ぐっ」

 

 

 エアグルーヴは自らの謝罪に続き、悪びれる様子を見せないブライアンの後頭部を掴んで無理やり頭を下げさせる。

 

 その様はしっかり者の姉と無愛想な妹と言った感じで、随分と微笑ましい。

 こうしたやり取りは珍しいものではないのか。アマさんはやれやれと首を振り、フジは苦笑を漏らしていた。

 

 オレはと言えば、第一声に何を選ぶべきか模索中。

 かつての距離感が分からない以上、気軽に挨拶でもすべきか、軽口の一つも叩いておいた方がいいのかも分からず悩ましい。

 

 結局、オレは明確な回答も得られずに口を開こうとしたのだが、顔を上げたエアグルーヴにじろりと睨まれて閉口せざるを得なかった。

 

 彼女は謝罪もそこそこに、挨拶もないまま此方の前に立つと、両手でパンと叩くようにオレの顔を挟み込んだ。

 

 

「ふん、相も変わらず締まりのない顔だ」

「あにょ……にゃにを……」

「肌艶も血色もいい。隈もない。充血もしていないな……」

 

 

 じんじんとする頬の痛みと突然の出来事に、されるがままに任せる他なかった。

 左を向かされ、右を向かされ、下瞼を親指で引っ張って広げられる。まるで医師の診察だ。

 

 いや、そんな生易しいものじゃない。顔面をひょっとこレベルで揉みくちゃにされている。

 心配をかけたからこそ、こうして状態を確認していると嫌でも分かって振り払えなかったが。 

 

 

「ふむ、健康なようだな。これならば……むっ」

「あー、それは単なる痕だから……」

「貴様にしては髪を伸ばしていると思ったが、そういうわけか」

 

 

 一時は表情を僅かに緩めたエアグルーヴであったが 眉が隠れるほどの前髪をかき上げると顔を顰めた。

 

 彼女の視線の先には、事故で出来た傷痕がある。

 幸い、脳そのものに出血等はなく開頭手術には至らなかったが、額から後頭部にかけて硝子でざっくり切れてしまった。

 

 縫合によって完全に塞がってはいるものの、どうしたところで痕は残る。

 ルドルフ達の負い目を刺激したくはなかったので髪を伸ばして隠していたのだが、此処までされれば流石に見つけられてしまう。

 

 暫くの間、エアグルーヴは痛ましげに眉根を寄せ、傷痕をなぞるように指を合わせていたが、やがて溜息をついて手を離す。

 

 

「……何にせよ、無事で何よりだ」

「御心配おかけしまして」

「まったくだ。だが、説教は勘弁してやる。会長やおハナさんがしてくれただろうからな」

「いやぁ、ははは……」

「だから私から伝えることは礼だけだ。結果はどうあれ、貴様のお陰で我々は無事だったわけだからな。癪だが、感謝している」

 

 

 色々と言いたいことは山ほどあっただろうに、エアグルーヴは全てを飲み込んで笑みと共に礼を伝えてきた。

 

 しかし、その笑みには力がないように見える。

 オレが戻ってきた安堵も確かにあるだろうが、それ以上に失われた記憶(もの)に対する悲しみもあって複雑なのだろう。

 

 確かな絆があったことを感じ取れるが、今のオレには何もできない。

 出来たのはその悲しみを真っ向から受け止めて、目を逸らさずにいることだけだ。

 

 

「……ブライアン、貴様も何か言ってやったらどうだ」

「取り立てて何かあるわけでもない。色々と聞いているが、無事ならそれでいいだろう」

 

 

 僅かばかりに気まずい沈黙を破ったのはエアグルーヴだった。

 

 彼女から話を振られたブライアンは、気だるげに答えながら椅子に座る。

 ぶっきらぼうな物言いは興味がないと言うより、よく観察したからこそ気遣いは余計と判断したからこそ。

 

 記憶喪失とは言え、二度と戻らないわけではない。

 ならばこれまで通りに接し、記憶が戻るまで気長に付き合っていけばいい。

 

 そんな考えが伝わってくるかのようだ。

 深刻に受け止め過ぎない姿勢は、オレとしても有り難い。

 

 

「いや~ん、もうまいっちんぐ~~~~~!」

 

 

 その時、今日び絶対に聞かない特徴的な語彙が耳朶を打つ。

 全員で視線を向ければ、校舎へと続く通路から“学園内は静かに走るべし”の校則を実践しているゲキマブの姿があった。

 

 本人にしてみれば軽くアクセルを踏み込んだ程度なのだろうが、その速度たるやスーパーカーの異名に相応しい。

 あっと言う間にテーブル前にまでやってきたマルちゃんは、勢いをそのままに両手を合わせた。

 

 

「遅れちゃってめんごめんごっ、後輩ちゃん達に捕まっちゃって!」

「我々も来たばかりですので、お気になさらず」

「マルちゃんらしいねぇ」

 

 

 汗の一つも掻いていないのは流石だったが、焦っていたのは事実。

 謝り方こそ普段通りであったが、抱いていた後ろ暗さは本物だったのだろう。珍しく耳が垂れていた。

 

 リギルの面々には時間に対するルーズさというものが、ブライアンを除いて存在していない。

 生来の性格もあるのだろうが、それ以上におハナさんの教育が行き届いているからか。

 少し気にしすぎと思わないでもないが、半ば社会人も同然の彼女達の立場を考えればこれぐらいがちょうどいいかもしれない。

 

 

「さて、全員揃ったことだし、改めて仕切り直しと行こうか」

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「うーん、ウェディングドレスもいいね。これなんて似合いそうだ」

「いやぁ、おハナさんなら白無垢も似合うんじゃないかい?」

「問題は相手の方だ。あの髪型で着物なんて似合うか?」

 

 

 全員が揃ってから暫く経って。

 始めの内は互いの近況やらを聞いて話してをしていたのだが、どういうわけだが今はおハナさんと沖野さんの結婚式に話題に移り変わっている。

 

 以前、フジから聞いて知っていたが、本気でリギルの面々は二人を結婚させるつもりらしい。

 他人に対して余り興味を示さないブライアンですら真剣そのものの表情で、マルちゃんが持ってきたブライダル雑誌に目を落としている。

 

 このおハナさんの愛されっぷりよ。まあ、あの人の愛情深さなら分からなくもない。

 そして、沖野さんは知らないところで外堀埋められている。これ本人が知らないところで両親にまで話行っちゃうやつだ。

 

 が、オレも二人をくっつけた責任があるらしいのでガンスルーで。何ならオレが沖野さんの両親のところに話を持っていってもいい。

 いやぁ、いいんじゃないっスかねぇ。おハナさんもアレで奥手な感じだし、聞いた話じゃ沖野さんも色恋よりも仕事って感じの人らしいし。

 周りがお膳立てしないと一向に話も進まないのは目に見えている。まあ、結婚の形態も変わってきているから余計なお世話以外の何ものでもないのだが。

 

 

「トレーナー君はどっちがいいと思う? あ、沖野さんがって意味じゃなくて、一人の男として、ね?」

「ふむ、男側の意見というものも必要ですね。おい、貴様はどう思う?」

「オレぇ? そうねぇ……」

 

 

 マルちゃんは興味津々、エアグルーヴは真剣な表情を向けてくる。

 フジもピクリと耳を動かし、言葉にこそしなかったもののニッコリと微笑みながら此方を見る。

 ただ、その、マルちゃんとフジの瞳には何と言うか、妙に計算高い光が灯っているのは気のせいだろうか。

 

 それは兎も角、予期していなかった話題の振られ方とマルちゃんの雰囲気に、やや困惑して言葉に選ぶべく思考を巡らせる。 

 

 

「うーん、そうだなぁ。相手の意見にもよるけど、オレは結婚式も神前式もやりたい」

「おや、意外だね。男ってのはこういうのは面倒だと思ってそうなもんだけど」 

「えー、だってぇ、好きな人の晴れ姿ならぁ、どっちも見たいしぃ。きゃっ、言っちゃった、恥ずかしいっ♡」

「気持ち悪い」

「地獄へ落ちろ」

「ひでぇ」

 

 

 ポッと頬を染めながら両頬を押さえると、エアグルーヴとブライアンの辛辣なツッコミが入る。

 デネブの面々はルドルフですら割とボケよりなので、こういうやりとりは新鮮でさえある。

 

 意図してボケこそしたが、割と本心だ。でなければ、彼女達の参考にはなるまい。

 とは言え、沖野さんがどう考えているかは分からないので、余り参考にはならないだろうが。

 世間一般のイメージはどうあれ、こういう男もいると伝えられれば十分か。

 

 実際、惚れた相手だと言うのならウェディングドレスも白無垢も見てみたくもある。

 尤も、最優先するのは相手の意見だが。理想や憧れよりも、現実や今後の生活の方が重要と言う女性もいるものだ。

 

 

「へぇ……じゃあ、参考ついでに聞いてみるけど、トレーナーさんはどんなタイプが好みなのかな?」

「………………」

「うっわ、露骨に嫌そうな顔するねぇ」

「貴様、そんな顔もできたのか……」

 

 

 ニッコリと微笑むフジの問いに、口角が下がり眉根が寄っていくのを自覚する。

 今度はマルちゃんが耳を立てて、GJね! と言わんばかりにサムズアップして目を輝かせていた。

 普段から意識して笑顔を心掛けているオレの歪んだ顔にアマさんとエアグルーブは驚いている模様。 

 

 そりゃ嫌だろう。

 おハナさんやらたづなさん、小宮山さんみたいな下の話も華麗にスルーして笑い話に出来る女性ならまだしも、年頃の女の子とはそんなこと話したくない。

 彼女くらいの年頃だと性そのものを汚らわしいものだと思い込んでいたり、逆に夢見がちだったりが常。

 人にとって当たり前の営みで、等身大の行為。秘するものではあるが、誇ることでも恥じることでもない。

 何にせよ、デリケート過ぎる問題なので、コンプライアンスというものが全く分からず、何処まで踏み込んでいいのやら。

 自分が嫌われることよりも、男に対して間違った先入観を抱いたり、何だか珍妙な性癖に目覚められても厄介だ。

 

 なんと答えたものか。これは悩ましい。かなり悩ましい。

 ある意味で記憶障害だとか、自身の今後についてだとか、担当した娘を平穏無事に引退まで支えられるか以上に悩んでるぞオレェ!

 

 

「別にそんなに気にしなくてもねぇ。おハナさんにも沖野さんの何処が好きなのかーとか、初体験はどうだったーとか聞いてるし」

「マジかよ!」

「はは、血とかドバドバ出るし、どちゃくそ痛いから気をつけなさいね、とか言ってたかなぁ」

「明け透け過ぎんだろ! 女同士ってそういうとこあるよね!」

 

 

 品も何もあったもんじゃねぇ……!

 オレは知り合いのそういう話を聞きたいタイプじゃないからドン引きである。

 

 この手の話題に顔を赤くしそうなアマさんもエアグルーヴもシレっとした御尊顔だ。

 まあ他人の体験は体験、実体験とはまた異なるのでこんなものかもしれない。最近の娘は進んでるなぁ~~(遠い目)

 

 

「ふふふ、そんなに悩まなくてもいいじゃない」

「ははは、そうだね。で、どうなのかなトレーナーさん?」

「………………」

 

 

 マルちゃんとフジの目が、目が怖ぁい!

 い、一体、何が彼女達をそんなに駆り立てると言うのか……!

 

 この後、オレは根掘り葉掘りタイプについて聞かれる羽目になる。

 見た目によるところのない性格にだけ言及した当たり障りのない返答を繰り返すのだが、もうメチャクチャ。

 恋愛に関してはよく分かっていないアマさん、半ば呆れ気味だったブライアンもエアグルーヴもノリ出して収拾がつかない始末。

 

 二人はそんな返答では納得できないと不満気だったが、どうにかこうにか丸く収めることには成功した。

 

 肉体的には兎も角、精神的にしこたま疲れた。

 だが、何気ない日常の一コマとしては悪くない。

 失われた記憶は未だ戻らないが、かつての日常までが失われたわけではないとよく分かる時間だった。

 

 

『先輩のタイプ? …………ケツがデカくて足の太い子がタイプって昔言ってました!!!!(クソデカ爽やかボイス』

 

 

 まあ、その後で南坂ちゃんに暴露されたんですけどね……。

 お陰さんでマルちゃんとフジだけでなく、デネブのチームメンバーの耳にまで入ってしまい、頭を抱える他なかった。

 何でか、ルドルフとスズカは普段のトレーニングは短パンなのにブルマ履き出すわ、マックイーンには冷たい目で見られるわ、散々だ。

 

 なので、オレは南坂ちゃんがDカップ以下は興奮しないおっぱい星人だと暴露してやった。

 後にイクノディクタス、ナイスネイチャ、マチカネタンホイザから執拗にローキックを喰らう南坂ちゃんの姿が目撃されることになるが、それはまた別のお話。

 

 

 

 

 



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『愉快適悦』


つえー、水マブつえー。
雑に地固め、緑スキル三つ、中盤スキル、アンスキ積んで、賢さ盛っただけでばんばかヴァルゴ杯勝ってきてくれた。

そしてデジタン実装。
出来ればダート要因として引きたいんだけど、生活がー!

今回は日常回で。
え? 会長の春天? ミスターシービーも海外行っちゃってる設定なのでカットです(無慈悲



 

 

 

 

 

「ルドルフは凄かったな。まさに圧倒的だ。あの距離では手も足も出そうにない」

「オグリはマイルがベスト、ギリ中長距離までは行けるけど、3200の長距離は流石に厳しいからなぁ」

 

 

 三日前、通年通り京都レース場で開かれたルドルフの春天。

 日本史上二人目の五冠。シンザンに並ぶ偉業は余りにも呆気なく簡単に達成された。

 

 レース展開はスタートをポンと出て終盤まで好位をキープ、直線で他を差し切って2着のサクラガイセンに2バ身半をつけてのゴール。

 映像を確認したが、教科書に載せてやりたくなるほどの見事な好位抜出だった。

 欧州では有り触れた戦法であるのだが、巷ではルドルフ戦法などと呼ばれているのだとか。

 

 波乱もなければ紛れもない。

 遊びもなければ面白味もない。

 ただ強い者が勝つと言う残酷な根本原理と圧倒的な実力差を見せつけるだけの結果。

 

 無論、オレも勝つ為に必要な調整を怠らなかった。

 

 3200を走り切るだけのペース配分の検討。

 当日に至るまで肉体と精神両面における調子の維持。

 デネブメンバーとそれぞれ走らせ、各脚質への対応力と勝負勘の育成。

 何より重要な基礎スペック向上。

 

 これで負けるはずもない。

 他の選手も決して弱くはなかったが、ルドルフが余りにも強過ぎた。

 オレでなくとも、彼女の絶対能力ならば余裕綽々で勝っていただろう。

 

 海外で武者修行を終えたミスターシービーが戻ってきていたのなら、まだ勝負は分からなかったが。

 しかし、既に終わった事柄に対して、IFの可能性を模索するのは余りにも無為で無益だ。

 

 

「……余り嬉しそうじゃないようだな?」

「あー……ルドルフが勝ってくれたのは嬉しいし、よかったと思うよ。だが、それ以上に懸念がなぁ……」

「懸念……?」

 

 

 府中の街中。

 学園から程近い位置にある街道に、オレとオグリはいた。

 街路樹の陰に設置されたベンチに並んで腰かけながら、彼女は此方の表情を覗き込んでくる。

 

 トレーナーは担当の勝利を一番に喜ぶ立場。

 担当が勝ちを重ねるほどに自身の評価もあがれば給料も増える。

 或いは、自身の利益とは全く別の所で、ただ担当の勝利を祝福するもの。

 

 にも拘らず、オレの表情は苦虫を潰したようだったのだろう。

 もう思い出せないが、レース直後も同じ顔をしていたはずだ。

 

 それがオグリにとっては不思議でならないのだ。

 責めてはいない。オレにはオレで考えがある、とは思っているのだろう。そして、それは的を射ている。

 

 今のオレに見えてきた、そして以前のオレも気付いていた皇帝の瑕は、勝利の喜びを掻き消すほどの懸念事項だった。

 

 

「ルドルフさぁ、本気じゃないんだよ……」

「むっ。いくらなんでも酷いぞ、トレーナー。ルドルフが本気でやっていないわけがないだろう」

「いや……言い方が悪かった。本気じゃないわけじゃなくて、()()()()()()()()()()()()()()()()

「……????」

 

 

 オレの言い分にオグリはあんまりだと言いたげに顔を顰め、訂正した言葉にまるでそれの何処に違いが、とばかりに首を傾げた。

 

 これが違うもんなのだ。

 似てはいるが、意味合いも生まれる結果も変わってくる。

 

 それもこれも、ルドルフの受けてきた教育と生まれ持った才気が問題だった。

 

 彼女の家は多角的事業形態のトップ、いわゆる財閥というやつ。それも、日本でも有数の。

 御両親の手腕は見事なもので、先代から引き継いだ立場に胡坐を搔くような真似はせず、事業を拡大するのみに留まらず、政治家とも繋がりを持ち、慈善活動にも精を出す大人物。

 直接会ったことがない以上、その為人(ひととなり)は推し量る他ないが、多くの成功を積み上げていることを考えれば、知能面でも人格面でも抜きん出ているのは疑う余地がない。

 

 そんな御両親が、娘であるルドルフに何を望んだのかは定かではないものの、家の名に恥じぬ教育を施してきたのは分かる。

 目上目下問わずに人心を掌握する話術。分野を問わない知識の数々。トレセン学園に入る以前から話題となる走行能力。

 どれも最高の環境で、最高の教師から教育されなければ身につかないものだ。

 

 そうした教育の中で、恐らく御両親はこう言っているはずだ。

 

 “本心はどうあれ、常に余裕と共にあれ”と。

 

 そのものでなくとも、似たような意味の言葉は必ず口にしている。

 見ても聞いてもいないのに何故そんなことが分かるのかと言えば、頂点に立つ者として必ず求められる心構えだからだ。

 

 頂点(トップ)が右往左往している姿を見れば、下にいる者、付いていく者は不安に駆られる。

 不安に駆られれば統制が乱れる。統制が乱れれば各々が最善を求めて自身の考えに沿った最善を動き、群れは瞬く間に烏合の衆へ。

 待ち構えているのは大損害、最悪は自他を巻き込んだ壮大な自滅。其処はどの分野であっても変わりはない。

 

 ルドルフの常日頃見せている外向けの態度を見れば分かる。

 まあ、それはいい。必要な教育であると認めるところ。教育自体に問題はない。

 

 問題があるとするのなら、ルドルフ自身の才気が他と隔絶していたことだ。

 これまでルドルフ自身の問題で、苦戦している様を見た事がない。恐らく、過去のオレも同様だろう。

 勉強は学園で常にトップ。レースにおいても苦しい表情を見せることさえしない。生徒会長としての仕事やその他諸々も同様。

 だから、当人の意識はどうあれ、本当の意味で本気を出したこともなければ、自身の本気がどういったものなのかをまるで理解できていない。

 

 常に本気である必要など何処にもない。

 勝てる相手には勝てる分だけの力量を発揮すればいいだけであるが、ただの一度も本気を出したことがないのでは話が変わる。

 手を抜いていいのは不測の事態に備えて、本気を自在に引き出せる者のみ。

 でなければ、流れを決める分水嶺、ぎりぎりの瀬戸際で必ず競り負け、相手の実力を見誤った時に立て直しがきかなくなる。

 

 これまで重ねてきたルドルフの勝利は、見ている者が考えるよりも薄氷の上に成り立っている。

 限りなく実力が近しい者と競り合った場合、逆に実力に開きがあった者が実力以上の性能を発揮した場合、驚くほどあっさりと負けるだろう。

 

 それでは世界と戦りあえない。

 それでは彼女の目指す“絶対”には程遠い。

 

 

「そういうものか……でも、トレーナーなら何とか出来るんじゃないか?」

「そう信じてくれるのは嬉しいけど、こればっかりはなぁ」

「……むぅ」

 

 

 全幅の信頼を向けてくるオグリに、ルドルフへの悩みすら後回しにしてしまうほど心配になる。

 確かに、信頼を得られるように努力はしていたのだが、短い付き合いでこれとは。

 純朴なのは結構だし、それがオグリの魅力なのだろうが、これでは誰かにころっと騙されそうで不安なことこの上ない。

 

 まあ、ルドルフの瑕に関しては、何もできないのが正直なところ。

 人か、状況か。いずれにせよ、これまで培ってきたものを一瞬で出し尽くすような経験が必要。でもなければ、ルドルフの本気を引き摺り出せない。

 

 残念だが、現状そんな人物はトレセン学園には存在しない。

 ワンチャンありそうなのはマルちゃんだが、トゥインクルシリーズを卒業してしまっていて状況が整わない。

 

 文字通りの八方塞がり。

 いっそ海外に挑戦すれば何らかの出会いもあるのだろうが、現状のまま向かいたくはなかった。

 その癖を矯正してからでなければ、何も得るもののない詰まらない敗北を繰り返しかねないからだ。

 

 とはいえ、泣き言ばかりも言っていられない。

 担当の夢を叶え、より高い位地へと押し上げるのがオレ達の仕事。可能性のありそうなものは、何でも試すべきだ。

 

 今のところ考えているのが、これまで通りに併走を増やすことだ。

 特にオグリとライスとの併走、それだけでなく模擬レースの数も増やす。

 オレの担当の中で、この二人は特に手を抜くことを知らず、常に一生懸命走っているからだ。

 

 特にライスは明確な目標があると必ずオレの予想を上回る結果を出してくる。

 単独でのタイムを測定した場合と模擬レースでのタイムを測定した場合では、後者の方が良い結果を出す。

 

 精神は肉体を凌駕する、と言うが、彼女の場合はそれがデフォルト。

 火事場のバカ力を自分の意思で引き出せるようなものだ。

 

 恐らく、ライスに対して覚えた不安はその辺りに起因しているのだろう。

 よく考え、よく見て導いてやらなければ、その末路は悲惨なものとなる。

 ルドルフとライスを足して二で割ればちょうどいいくらいなのだが、世の中巧くいかないものだ。

 

 ルドルフはライスから本気を出すとはどういうことなのか。

 ライスはルドルフから手を抜くことの意義と意味を学んで欲しい。

 

 尤も、そう簡単にはいくまいが。

 互いに自身の欠けている部分に気付いておらず、オレが口を出したところで話が拗れるだけ。

 二人とも真面目なので、真面目に取り込んで調子を崩すだろう。

 

 

「そういうわけだから、ルドルフにもライスにも言わないでくれ」

「そうか、トレーナーがそう言うなら仕方がないな…………あ、来たぞ」

「もっとゆっくりでも良かったのに。おーい、こっちこっち」

 

 

 もともと人との距離感が近いオグリだが、デネブの面々とは一層に近い。まるで、新たに出来た家族のように慕い、敬っている。

 同じチームの仲間として、何もしてやれないもどかしさを感じオグリは歯噛みしているようだった。 

 

 そうこうしていると、ようやく待ち人がやってきた。

 街道を此方に向かって歩いてくる人物は、今し方まで話題になっていた私服姿のルドルフだった。

 

 

「ふぅ……すまない、遅くなった」

「別に今日くらいはゆっくり休んでた方がよかったんじゃない?」

「そうだぞ、ルドルフ。レースが終わったばかりなのに。私のことなら心配せずとも大丈夫だ。トレーナーも居てくれるからな」

 

 

 オレ達の前に到着するなり息を吐いたルドルフの表情には疲れが滲んでいた。

 当然だろう。ウマ娘が一度のレースで消耗するエネルギーは計り知れない。

 

 最低でも一週間はトレーニングなど以ての外。

 本来であれば、出掛けるのも控えて休養に努めて貰いたいところであったが、オレとオグリが出掛けると聞いてどうしてもと付いてきたのだった。

 

 

「い、いや、うら若き男女が二人きりで出掛けるなど、何か手違いがあってはいけないからな」

「どういう意味だ???」

 

 

 信用ねー……。

 ルドルフの考えているような手違いなんて起こすつもりはないんだけどなぁ。

 

 オグリも頭の上にハテナマークを浮かべまくっているし、そんな雰囲気にすらならないだろう。

 そもそも、オレはオグリを恋愛対象にも性欲の対象にも見ていない。手を出しかねない、と思われていただけでかなりショックだ。

 と言うか、ルドルフと二人きりで出掛けてるんだけど、それはいいんですかねぇ……?

 

 

「お、オホン……それはそうと、今日はオグリキャップの携帯を買いに行くのだったな」

「正直、持ちたくはないのだが……京都レース場でやってしまったからな」

 

 

 オレの視線に気付くと、ルドルフは頬を染めながら咳払いを一つしてから話題を変える。一体、何を照れているのやら。 

 

 それは兎も角として、今日街へと繰り出したのはオグリの携帯を買うためだ。

 以前から携帯を持つように勧めていたのだが、オグリが嫌そうな顔をするので強引に持たせようとはしなかったのだが、そうもいかなくなった。

 

 理由は単純。

 このおのぼりさんと来たら、京都レース場で食べ物を買いに行ったまま迷子になってくれやがったのである。

 

 結果、オレは応援をスズカ達に任せて京都レース場を駆けずり回る羽目になり、ルドルフのレース振りを見ることは叶わなかった。

 まあ、それはいい。現状では生で見たところで覚えていられないし、親御さんから預かっているオグリの身の安全には換えられない。

 

 ただ、毎回毎回、よく知らない土地で迷子になられては身も心も持たない。

 かと言って犬じゃあるまいにリードを付けて連れ回すわけにも行かず、最低限連絡を取れてアプリで互いの場所が分かるように携帯を持ってくれと懇願した次第だ。

 かなり渋々であったがオグリも反省はしていたらしく、何とか納得してくれた。

 

 その最中にルドルフも割って入ってきて、一緒にという流れになった訳だ。

 オレとしては応援してやれなかった、オグリはそんな状況を作り出してしまった負い目もあって、断る理由もなかったためこうなった。

 

 

「さて。では、このまま携帯ショップに?」

「ああ、そのつもり……その後は、飯でも食いに行く?」

「行こう」

「「お、おう……」」

 

 

 オレの提案に、オグリは0.2秒ともはや喰い気味に乗ってくる。

 その食欲旺盛振りに何度となく見てきたはずのオレもルドルフも、どもってしまうほどだった。

 

 

「よし、では行こう――!」

「あ、待つんだオグリキャップ。そちらではないぞ」

「そ、そうなのか。済まない、道案内を頼めるだろうか」

「あいよ」

 

 

 意気揚々と一歩を踏み出したオグリであったが、残念ながら一歩目から目的地とは逆方向だった。

 ルドルフの指摘にオグリは足を止めると、照れたように頬を掻く。

 その姿は微笑ましいの一言で、オレもルドルフも微笑みを漏らす他ない。

 

 オグリに求められるまま、三人一列になって携帯ショップへの道を進んでいく。

 

 

「悪かったな。春天、応援できなくて」

「そう何度も謝らなくていい。気遣ってくれるのは嬉しいが、オグリキャップを放置していれば私は君をどう思っていたか。君らしくていいじゃないか」

「そうか、ならいいけど。また私のトレーナーとしての自覚が足りないと言われるかと思ってさ」

「それについては、今日の方が問題だな。全く、二人きりで出掛けるなど……」

「えぇ……だってルドルフとも行ったじゃん。ならいいじゃん」

「全く……鈍感め」

 

 

 一体、何が不満だと言うのか。

 応援できなかったことよりも、今日のお出掛けの方が問題だったらしい。

 うーん、相変わらずルドルフの情緒から何から分からん。別に携帯を買いに行くくらい、問題などないだろうに。

 

 しかし、オレの困惑を余所に、ルドルフは歩きながらも尻尾を使ってペシペシと尻を叩いてくる。

 然程怒ってはいないが、不満たらたらなのは明らかだった。

 

 久し振りに新たな皇帝戦隊の追加戦士が現れた。

 プンスコルドルフである。以前のギャン切レルドルフに比べれば全然マシだが、何とか学園に戻るまでに機嫌を直して貰わねば……!

 

 

「ルドルフはどっか行きたいとこないの?」

「ん? 何だ、御機嫌取りでもしてくれるのかな?」

「んー、まーそんな感じ」

「そうかそうか、そんなにも私を……ふふっ、悪くない気分だ。流石は私のトレーナー君だ……ふむ。とは言え、すぐには思いつかないな」

 

 

 オレの提案は予想外だったのか、ルドルフは一瞬だけ目を丸くすると、次の瞬間には口元を緩めて顔を覗き込んでくる。

 

 否定も肯定もしない曖昧な答えに、ルドルフはより一層笑みを深めた。

 そして、今度は尻ではなくオレの手首辺りに尻尾を巻き付ける。御機嫌取りが功を奏したと見てもいいだろう。

 ウマ娘にとって尻尾は耳と同様に感情がよく表れる部分だ。しかし、これをどう解釈すべきか。単純な喜びだけでなく、執着も含まれているような気もするが。

 

 ルドルフ当人は尻尾の動きに気付いていないらしく、行きたい場所を考えるように顎に手を当て、天を仰いでいた。

 なに、まだまだ時間はある。急かす必要はないだろう。

 

 

「……………………じゅる」

「こらこらオグリ、前を見て歩きなさいよ」

「あうぅ、済まない。あのたこ焼き屋が美味しそうだったから……」

「ふ、ははっ、相変わらずの強食自愛ぶりだ。素晴らしい限りだよ」

 

 

 街道にあったたこ焼き屋に目を取られ、そして匂いに釣られてどんどん歩幅が狭くなっていくオグリ。

 その頭を掴み、無理やり前を向かせて歩かせる。こんなことだから迷子になるんだよなぁ。

 

 そんな様子に、ルドルフは堪えきれずに笑い出す。

 強食自愛の意味は確か、しっかり食事をとって健康に気を遣うこと、だったか。

 うーん、どう考えてもオグリは暴飲暴食だと思うんだが、水を差すこともないので黙っておくことにする。

 

 さて、今日はどんな一日になることやら。

 不安と悩みは尽きないが、色々と面白可笑しい日常を予感させるには十分な滑り出しだった。

 

 

 

 

 



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『一視同仁』

 

 

 

 

 

 学園から歩いて30分ほどのところにあるショッピングモール。

 学園の生徒は勿論のこと、教師、トレーナーのみならずその他の職員もよく利用している。

 日常の消耗品は言うに及ばず、服飾品から家電製品、一風変わった趣味の一品まで揃う場所だ。

 

 かく言うオレもよく利用する。

 大型の書店があって、海外で発売された最新の運動生理学やら管理栄養学の書籍なんかも連絡すれば手に入るからだ。

 

 吹き抜け構造のショッピングモールはゴールデンウィークだけあって人が多かった。

 個人で訪れている者も居れば、恋人に友人同士、家族連れと年齢層も客層もバラバラ。

 人が多過ぎたお陰か、五冠達成の有名人ルドルフ、有名人になりかけのオグリを連れても然程騒ぎにはならなかった。

 人間の記憶と認識能力なんてものは存外いい加減で、顔をハッキリと覚えていてもシチュエーションによっては上手く機能しなくなるものだ。

 

 

「………………お、多いな」

 

 

 ショッピングモールの一角にある家電量販店の携帯コーナーに辿り着いたオグリが吐いた第一声は、そんなもの。展示台にずらりと並べられた携帯の数々に若干引き気味だ。

 

 田舎育ちの貧乏暮らしでは触れる機械など冷蔵庫やら固定電話くらいで、こうした精密機器には苦手意識があるのだろうか。

 聊か以上に偏見に満ちた考えなのだが、反応を見る限りは間違いではないようだ。

 或る意味で、オグリにとって此処はトレセン学園以上の異国の地にして魔境なのかもしれない。

 

 

「それでどれにする? オグリキャップは何かあるかな?」

「ど、どれにすると言われても…………正直、何が違うかもよく分からないぞ」

「そりゃそうだ。うーん、それぞれ機能なんてそう変わるわけじゃないから、使い心地よりも色とか触り心地で選んでもいいと思うけど、まずは触ってみれば?」

「触る? さ、触っていいのか? こんな高価そうなものを? 素手で? そのまま買い取りなんてことには……」

「そんな熟慮断行も事上磨練もない詐欺はないから安心するんだ」

 

 

 オグリは一体何を警戒しているのか、さっとオレの後ろに隠れて顔を半分だけ出して様子を窺っていた。

 盗難防止用のストラップに繋がれた数々の展示品を前にして、かつてないほどオロオロしている彼女の様子にルドルフと一緒に苦笑する。

 

 どうやらオグリの頭の中では精密機器=高級品みたいな扱いになっているらしい。

 確かに高級品は高級品なのだろうが、店側も壊れる、壊される前提で展示しているのだから、そこまで気にしなくても。

 

 ――というのは、慣れた人間の意見か。

 初体験の場に連れてこられた人間の反応なんて、こんなもんだろう。

 

 

「よ、よし、行くぞ……!」

「なんて不安と勇気の入り混じった姿勢なんだ……!」

「君は一体何と戦っているんだ。あとトレーナー君も面白がってないで助けてやれ」

 

 

 ファイティングポーズを取ったオグリは、ジリジリと展示品との距離を詰めていく。

 なんか初代ウルトラマンみたいな腰を落とした姿勢だ。いやこれもう完全に腰が引けてる……!

 

 トレーナーさん、何だか面白くなってきちゃったぞぅ……!

 普段は絶対に見られないオグリの姿に童心が戻ってくるようだ。してぇ~、悪戯してぇ~、からかいてぇ~。

 

 くっ、だがしかし、隣にいるのは真面目一徹のルドルフだ。

 これがイクノディクタスだったら眼鏡をキランキランさせながら一緒になってやってくれたんだろうが、彼女の場合はそうもいかない。

 割とマジに怒られかねないし、面白いと同時にオグリが可哀想になってきたから助け船を出してやろう。

 

 

「ほら、怖くない」

「む、むぅ……そ、そうか、そうだな」

 

 

 お手本のつもりで展示品を手に取ってみせる。

 するとオグリはようやく安心したのか、オレを真似して隣のスマホを手に取った。

 

 暫く手にしたスマホを眺めていたオグリは、おもむろに顔を上げる。

 その顔はどういう訳だが、はっとしていて目が点になっていた。

 

 

「大変だ、トレーナー。画面が真っ暗だ、壊れているぞ。ど、どうしよう。店員さんに伝えた方が……」

「ぐっ……はっ……ふっ……はぁーーーーーーーーっ……」

「…………んぐっ」

「ど、どうしたんだ二人とも?」

 

 

 マジかよ……!

 どんだけ天然なの、この娘ぉ……!

 

 オレとルドルフの笑いの沸点は一瞬でメーターを振り切った。

 

 笑ってはいけない、と反射的に思ったがオレ達の反応はそれぞれ違っていた。

 オレは噴き出す直前に口を大きく開き、息を吐いて何とか堪えたものの変顔を晒す羽目になり、ルドルフは堪えきれず腕で口元を隠して顔を逸らすのがやっとだった。

 そりゃ画面は真っ暗だろうよ。待機状態なんだから。何のボタンも押さずに持っただけなんだから。

 持ってる。持ってるなぁ、オグリは。(笑いの)曲線のソムリエ持ってやがる。

 

 無知を笑うのは恥ずべき行為であるのだろうが、勘弁してくれ。

 オグリの迫真の表情と完全に予想外の一撃を喰らえば腹筋は一瞬で崩壊するわ。

 

 

「ふっ、い、いや、ぐっ、大丈夫だ。側面の、ボ、ボタンを押せば、ロック画面になる」

「側面、これか……あっ、点いたぞ。ほっ、よかった」

「……や、ヤバい。ルドルフ、お、オグリヤバい……」

「天然だとは思っていたが、此処までとは…………くぅ、狡いな。何の冗句も口にしていないのに、この破壊力とは……!」

 

 

 光が灯りロック画面を映し出したスマホを見せつけ、オグリは心底安堵した表情を見せる。

 

 その様に腹筋が攣りそうになった。

 天然はどうしてこう面白いのか。何もかもが予想外過ぎた。

 自分とは全く違う思考形態に、引くよりも早く笑いが込み上げてくる。

 

 オレは内頬を噛んでひたすらに堪えていたが、ルドルフは何故か悔し気だ。

 どうして訳分からんないところで対抗意識◎を出すの???

 

 

「しかし、どうすればいいんだ? 画面だけでダイヤルもボタンもない……これでは電話をかけられな――――」

 

 

 オグリは電話と言えば回転ダイヤルかボタン、とレトロな感覚を抱いているようだ。

 

 この辺りは珍しい感覚ではないか。

 ウマ娘間の携帯の普及率は、スマホが登場するまで伸び悩んだ過去がある。

 と言うのも、スマホ以前の携帯では頭頂部に耳が位置するウマ娘にとって、相手側の声を聴くために耳元に持っていき、声を伝えるために口元に持っていかねばならず、使い難いことこの上なかったのだ。

 最近の固定電話はタッチパネル式なんてものもあるがトレセンの寮の電話はボタン式のようだし、発想自体がないらしい。

 

 買う前に簡単でも説明しておいた方がいいか、などと考えていると、突如としてオグリが飛んだ。

 何の比喩もない。本当に飛んだ。190近いオレの顔面の位置に、彼女の膝が来るくらいの勢いで飛んだ。

 

 思わずオレもルドルフも目が点になる。

 まるで背後にキュウリ落とされた猫みたいだこれ――――! 

 

 

「あわ、あわわ、わわわわ……!」

「ぐわーーーーーーーーーーー!」

「わ、私のせいか、これは……!」

「お、落ち着け、オグリキャップ」

 

 

 オグリが驚いたのは、一斉にピンポロパンポロ鳴りだした展示品が原因だった。勿論、彼女が手にしていたスマホも同様。

 誰かが悪戯で展示品のアラーム機能を弄ってこの瞬間に鳴り出すように設定したのだと思われる。

 

 まあ、それくらいはいい。

 店側にしてみればいい迷惑だが、客側は失笑するだけで収益にまで影響が出ないことを考えれば可愛いもの。

 ……ものなのだが、オグリが手に持っているタイミングで鳴り始めることはないだろうに。

 

 飛び上がったオグリはそのままオレの真正面から抱き着いてきて、視界が真っ暗になった。

 多分、感触からしてオレの頭に腕を巻き付け、両脚で胴を蟹挟みしているものと推測できる。

 

 頭蓋骨と首、胴体から聞こえちゃいけない音が聞こえる。骨が、骨が軋む音だこれ……!

 

 オグリはウマ娘の中でもかなり力が強い方だ。ベンチプレスで300キロとか簡単に持ち上げる。

 そんな超絶パワーで締め上げられたら、親父譲りの肉体を持つオレでもキツい。こ、呼吸も出来なくなってきた……!

 

 

「お客様ーーーーーーーーーーーー?!」

「と、兎に角、ま、まずは降りるんだ!」

「わ、わ、わか、わか――――ひぃっ!」

「ぐわーーーーーーーーーーーーー!!」

「お客様ーーーーーーーーーーーー!?」

 

 

 異常事態にすっ飛んできた店員さんも混じって、てんやわんやの大騒ぎ。

 何とかルドルフがオグリの混乱の元である展示品を奪い取り、冷静さを取り戻させるファインプレーで事なきを得た、とオレが知るのはもう少し後の話だ。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「す、済まないトレーナー……本当に怪我は……」

「いや、大丈夫だから。そう落ち込まなくてもいいって」

「幸い、大事はなかった。タイミングが悪かったな」

 

 

 店舗の片隅にある待合所の椅子に座りながら、揃って溜息を吐く。

 まだ首やら腕やら鈍痛はあるが、この分なら骨も折れていないし痣も残らない。

 しかし、凄い力だった。流石は穏やかな心を持ちながら激しい食欲によって目覚めたスーパーカサマツウマ娘、恐るべし。

 

 チラリとオグリの顔を見ると、見たこともないくらいに意気消沈している。

 混乱の最中にあったとは言え、人を傷つけかねない真似をしたのは初めてなのだろう。

 メチャクチャヘコんでいる。もうベコンベコンに凹んでいた。これじゃあベコリキャップである。

 

 

「本当に気にしなくていいよ。こんなもん可愛いくらいだ。地元じゃもっと酷い目にあったしな」

「これでか。何があったんだ……」

「いやー、知り合いの娘がね、レース場で暴走しちゃって。誰も止められなかったからオレが止めようとしたんだけど、ぶっ飛ばされて外柵に脇腹から突っ込んでね」

「笑って話すことではないぞ……」

 

 

 それにこれくらい、オレは笑って済ませられる。

 地元でもっとすげー気性難のウマ娘と出会ったことがあるからだ。

 

 あれは高校3年くらいか。

 拷問部屋に入学が決まって、空いた時間に必死こいて勉強している南坂ちゃんに付き合っていた頃だ。

 

 ふらっと近所を散歩している時に、同じウマ娘にいじめられている娘を見掛けて助けてやったことがある。

 で、どういうわけだかその娘に懐かれたオレは、兄弟もいなかったので随分と可愛がって仲良くなった。

 

 御多分に漏れずその娘もレースに興味があったらしいが、学校なんかじゃ成績は振るわなかった。

 で、どうせこれからトレーナーになるんだし、とおかしな癖がつかない程度に簡単な指導をしたのだったか。

 

 元々才能があったのだろう。

 その娘はメキメキと頭角を現して、地元で大きな大会に出走が決まった。

 で、その娘はレース会場に着くと普段の甘えん坊で大人しい態度から豹変。

 最後の直線で内ラチに切れ込むわ、ゴール板を越えてもスピード一切緩めないわ、挙句外ラチに突っ込んでいきそうになったのでオレが身体張って止める羽目になるわ。

 

 手が付けられない、とはああいうことを言うのであって、オグリなんて可愛いもんだ。

 その後も気性難を解消してやらねばと頑張ったのだが、残念ながら解消できないまま3月を迎えてタイムアップ。

 

 地元を離れる時には大泣きされたっけ。

 今はどうしているだろう。元気でやっているといいが。

 

 ……そう心配することもないか。便りがないのが良い便りとも言う。

 案外、地元近くではなくトレセン学園にやってきたりして、なーんて。そりゃ少し出来過ぎか……?

 

 

「……………………」

(トレーナー、ルドルフの顔が怖くなってきたのだが……)

(本当だ! どうして?! どうしてなの?! そんな怒らせること言ったオレェ?!)

「相変わらず、君は私のトレーナーとしての自覚が薄いようだな……」

 

 

 地元の思い出に浸っていると、ルドルフの目がギンギラギンにさりげなく、なんてレベルじゃない眼光を放っていた。

 ライオンだ。獲物を狙うライオンみたいな目をしている。これぞ正に八方睨み……!

 そんでまたトレーナーとしての自覚が薄いって言ったぁ! 結構気にしてるんだからなそれぇ! これでも頑張ってるんだぞぅ……!

 

 

「いやでも、ほら。ルドルフのトレーナーとしてはね。他の誰にも任せるつもりはね。なくてね?」

「っ、全く…………おほん。兎も角、オグリキャップの携帯を買うのだろう?」

 

 

 セーーーーーーーーフっ!!!

 オレの本心を言葉にしたからか、ルドルフはちょっとだけ機嫌を直してくれた。こういうのは実際、大事。

 

 ピーンと耳を立てて前掻きもしているが、尻尾はふりふりしていて上機嫌なのは分かる。

 

 口元はにやけているようにも見える。

 そんなに? オレがトレーナーとしての責務を全うしようとするのが、そんなに嬉しいか? そんなにかぁ?

 

 

「で、どれにする?」

「うぅ、む……そう言われても、正直困る」

「あんなことの後だ、気持ちは分かるが持って貰わねば此方も困るからな」

「そうか……そうだな……では、トレーナーと同じものにしようと思うのだが」

「……オレェ?」

「――――?!」

 

 

 オグリには特に深い理由などなかったのだろう。

 これまでの無知ぶりを鑑みるに、スマホの種類による違いや差なんて知るはずもない。

 だから単純に、親しい相手の使っているものにすれば安心。そんな程度の考えだ。

 

 でも、オレのは数世代前のものだから結構古い。

 この店舗ではその世代を契約していないから、同じものとなると何処かの中古屋でスマホ本体を買い取る必要があって、色々と手間だな。

 

 なら、いっそのことオレも買い替えるのが一番手っ取り早いか。

 別に最新モデルに拘るような性分じゃないが、少しでもオグリが安心して使えるならアリだろう。

 

 

「んー……じゃあオレも買い替えるかな。色とかどうするー?」

「――――?!」

「特に希望はないが、白が好きかもしれない…………そう言えば、タマも白い携帯を使っていた。ふふっ、トレーナーだけでなくタマともお揃いになってしまうな」

「なんだーこいつめー。愛い奴だ、うりうりぃ」

「――――――?!??!」

「ふっ、ふふ、やめてくれ、トレーナー。ふふふふふっ」

 

 

 オグリがあんまりにも愛嬌たっぷりな可愛らしいことを言うので、もちもちのホッペを突いてしまった。

 言葉ではやめろと言うものの、手を払い除けることはせずにされるがまま、照れたように頭を掻く。

 

 何と言うべきか、オグリはこうした些細であっても精神的な繋がりを大切にしている節がある。

 地元の期待を背負って裸一貫で中央にやってきて、周囲を愛し、周囲から愛されてきたからこそ絆を大事にしているのかもしれない。

 それこそ、レースの結果以上に。それでいて勝負根性は並々ならぬものがあるのだから不思議なもんだ。

 

 ところで、さっきからルドルフがそわそわしてるのはなんで……?

 

 

「………………そうか。ならば、私も買い替えるのもいいかもしれないな」

「え? ルドルフのはそんな古くないから別に……」

「 私 も 買 い 替 え よ う と 思 う の だ が ? 」

「アッハイ」

 

 

 圧が! 圧が凄い……!

 

 そわそわから一転して、この態度。

 ルドルフの情緒は相変わらずよく分からなかったが、更に混沌としてきている。もう秋の空ってレベルじゃねーぞ。

 その圧の強さと来たら、責任を取れと迫る暴力団みてーなことになってる。これが指詰め(えんこ)のマエストロ……!

 

 ルドルフの機種は最新モデルでこそないが、一世代前。

 無理して替える必要はないと思うが、まあ当人の選択だと言うのなら止める理由もない。と言うか――――

 

 

「なんだぁ? 仲間外れになるの、そんなに嫌だった?」

「そ、そういうわけでは……まあ、何だ、その…………す、少し」

「案外、可愛いこと言うなぁ」

「かわっ……か、からかうな!」

「だってなぁ、オグリ?」

「ああ、可愛いな」

「このっ…………ああ、もう全く! 君という奴は!」

 

 

 頬が緩むのも止められないまま顔を覗き込む。

 ルドルフはそっぽを向いたまま、一度はオレの指摘を否定したものの、思い直して肯定した。

 

 そして、オレのからかいとオグリの真顔による首肯に、ルドルフは顔を真っ赤にして狼狽する。

 

 こういう所は本当に年相応だ。

 学園の多くに与る生徒会長としてではなく、レースに挑む皇帝としてでもない素のままの表情。

 

 仮面を被るのは人と付き合っていく上で必要な行為だ。

 大なり小なり誰もがそうして自分を偽り、周囲に折り合いをつけて生きている。

 そうでもしなければ生き辛い。そうでもしなければ生きていけない。

 

 でも、時には被った仮面を脱ぎ捨て、感情を吐き出す行為もまた必要。

 そうした感情の受け皿にチーム“デネブ”がなれるのなら、そしてオレがそうなっているのなら嬉しい。

 

 色々と無理をして、トレーナーを続けた甲斐があった、チームを作った甲斐があった、と胸を張れる。

 たとえ、この記憶を失うとしても。それでいいのかと問うのではなく、それでもいいんだと笑って言える。

 

 

「ケースとかどうするか? オグリは首から下げるストラップタイプにした方がいいかもな」

「お、オホン。確かにな。ポケットに入れておくと先程のように驚きかねないし。何処かに忘れる心配もない」

「そういうのもあるのか……!」

 

 

 ――――今は、この実感と細やかな日常こそが、オレの希望だ。

 

 

 

 

 



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『不失正鵠』


『不失正鵠』

 物事の一番重要な部分を正確にとらえること。
「正鵠」は弓の的にある中心の黒い星。矢を外すことなく、正確に正鵠を射抜くという意味から。




 

 

 

 

「それでね。これを写真でパシャッてすると……」

「パシャッと……おぉ、連絡先が一瞬で。ライスは凄いな……!」

「え、えへへ」

 

 

 オグリにとっては初スマホ、オレとルドルフは最新機種へ買い替えた翌日。

 これから予定しているトレーニングに備えてジャージ姿でオレ達四人はミーティングルームのソファに座っていた。

 

 オグリとライスは隣同士で座り、互いのスマホを見せあっている。

 今はQRコードを使って連絡先を交換している最中だった。

 

 オグリは使い方を教えられる度に静かに驚き、目を輝かせながらふんふんと頷いている。

 スマホに忌避感を抱いていた割りに一度教えただけで覚える辺り、やはり地頭の良さは本物だ。

 

 対してライスは何処か得意げながらも照れている。

 元々誰かに勇気と幸福を、と願ってレースの世界に飛び込んできた娘。自信がとんとなかろうとも、人から頼られて喜ばない筈もない。

 

 

(それはライスさんが凄いわけではないのでは……)

(マックちゃんの顔が……)

 

 

 対面のソファに並んで座っているオレとマックイーンは微笑ましい光景を眺めていた。

 

 だが彼女の怪訝そのものの顔。

 割と添加物少な目のボケをかまし、冴えるツッコミを魅せるメジロの令嬢の気持ちは分かる。

 いやボケもツッコミも令嬢のスキルじゃなくて、芸人か関西人とかの必須スキルなんですけどね?

 

 しかし、オグリにスマホの使い方を最低限しか教えなかったのは逆によかったかもしれない。

 こうしてチームの面々に世話を焼かれれば仲は深まる。初対面でも仲良くなるキッカケにもなる。

 オレからはGPSアプリを入れて貰うとして、後はネットリテラシーとSNSの使い方の簡単な指導だけに留めた方がオグリにとっては良い結果になりそうだ。

 

 また一つ、オグリを取り巻く環境が当人にとってよいものになりそうな予感を覚えていると、ドアがノックされる。

 

 

「はい、どうぞ~」

「済まない、遅くなってしまった」

「はぁ……はぁ……ごめんなさい」

 

 

 オレの返事を待って入ってきたのは、一仕事終えてきたルドルフと一走り終えてきたらしいスズカだった。

 

 ルドルフは相変わらず生徒会の仕事。

 トレセン学園は生徒会の権限がやたらめったら大きい。

 建物の改修工事の予定や見積り、新しい設備導入の検討と決定など、どう考えても学園側の職員がやるべき仕事も担っている。

 ルドルフがその手の知識を持っているから成り立っているだけなんだが、別の誰かに代替わりしたらこの学園メチャクチャになんねーだろうな。

 

 そして、乱れた息と上気した頬、軽く汗を搔いているスズカ。もう既にウォームアップしてきてるぅ……。

 

 趣味は? 走ることです! 特技は? 走ることです! 休日の過ごし方は? 走ってます! 走ること以外の趣味とかは……? …………ジョギング?

 いま面接したら、こんなことになってしまいそうだ。貫禄の頭先頭民族振りである。スズカ、そういうところだぞ。

 

 

「……? 会長さん、何かあったの……?」

「ん? どういう意味かな、ライスシャワー?」

「どういう意味も何も……ウキウキしてらっしゃると言いますか、何となく雰囲気が……」

「………………」

「ふっ、バレてしまったか。ふふふふふふ」

「「……?」」

 

 

 ライスとマックイーンは一目でやたら御機嫌と分かるルドルフに首を傾げた。

 ここ最近の付き合いで、割と暴君な面も見てきているので感情を表に出さないタイプとは夢にも思っていないだろうが、確かに此処まで喜んでいる彼女は珍しい。

 その姿に、走っていて悦に浸っていたスズカもスンと真顔になっていた。妙に視線が鋭いのは気のせいだろうか……。

 

 すると、ルドルフはやれやれ参ったなと言わんばかりに、優越感に浸ったまま首を振る。

 そして、チラリとスズカに視線を飛ばした。牽制のつもりなのだろうか。いやしかし、何に対する牽制だ?

 

 と言うか、見せるのか……!

 ルドルフ……! やるんだな! 今、此処で……! 

 

 頼むからやめてくれ。

 そんなオレの願いも虚しく、ルドルフは徐にジャージのファスナーを下げていく。

 

 

「ふふっ。昨日、トレーナー君と一緒に買いに行ったのだが……」

「――――?!!?!」

「どうだろう、厳選した一着だ……!」

「「「…………………?」」」

 

 

 スズカだけはルドルフの言葉に酷くショックを受けたのだが、次の瞬間にはライスとマックイーンの二人と一緒になって目が点になった。

 

 彼女達は今、ルドルフの“領域(ゾーン)”に引き摺り込まれたのだ。

 何が起こったのか分かるまい。何も見えてないし、何も感じてもいない。

 いや、違う。何もかもが見えている! 全てを感じている! いつまでも情報が完結しない!! 

 

 これがルドルフの領域『無笑空処』……!

 三人とも宇宙を垣間見た猫みたいな顔になっちゃってる……!

 

 それもそのはず。

 ルドルフのジャージの下から現れたのは白地に「重大な十代」とプリントされたTシャツだった。

 謹厳実直、気骨稜稜な彼女がこんなクソつまんないダジャレTシャツを喜悦満面で着るなんて想像できないもの。普段とのギャップで脳を破壊されてしまうもの……!

 

 そう、昨日ルドルフの行きたいところはないか、と聞いた結果、連れていかれたのがダジャレTシャツ屋さんだったのだ。

 三人同様、オレも終始脳を破壊されっぱなしでした。

 

 

「「「………………」」」

「ふむ……不発だったか。では、オグリキャップ」

「むっ、そうか。任せろ、ルドルフ……!」

「「「えっ」」」

 

 

 無慈悲な沈黙を前にして、ルドルフはなおも引かない。

 すっとオグリに視線を飛ばし、受けた彼女はうんと力強く頷いてオグリがジャージの前を開いていく。

 そして露わになったTシャツには「日本で風呂に入ろう」「いいね、ジャパーン」と書かれていた。

 

 更に真顔で目が点になっていく三人。

 なお、オグリの反応を見れば分かるとおり、ルドルフの領域に引き摺り込まれていない。

 

 彼女もまた領域『天然暴食庭』の持ち主だから。

 ルドルフのダジャレをこれっぽっちも面白いなんて思っていない。こういうダジャレを即座に思いつく頭の回転の速さにずっと感心してるだけなのだ。

 

 恐るべきマイペース振り……!

 オグリがダジャレの意味を聞き返し、ルドルフが嬉々として返すと言う地獄みてーな展開を、オレはダジャレTシャツ屋さんで目の当たりにしたのである。

 一番ボケに対してやっちゃいけない奴なのに、オグリは無邪気にやってるし、ルドルフもノーダメージで説明しているのは何なの……?

 

 

「「「………………」」」

「こちらも不発か……では、トレーナー君のはどうかな?」

「「「えっ」」」

「……………………」

 

 

 やっぱり来た……!

 まあ分かってたけどさぁ……すっげーやだ。

 トレーナーさんの調子は絶不調である。これ、同じ生徒会のエアグルーヴとかブライアンも似たような目にあってねーだろうな。

 

 確かに、ダサTはオレも嬉々として着る。

 やるかやらないかで言ったら、間違いなくやる。

 

 たださぁ。こう、大事なレースの時に「乾坤一擲」とか「無我夢中」とか「全身全霊」とか。

 その日の気分やら状況を熟語で表すくらいのもんでね? こういうダジャレはなぁ……。

 身体張って笑いを取りに行くのはいいのだが、自分が面白いと思ってないことをやるのは嫌だ。

 

 でも流れは出来上がってしまっている。逃げるに逃げられない。

 こうして、ハラスメントというものが生まれてしまうのだろう。

 たまげたなぁ。セクハラでもパワハラでもモラハラでもなくダジャレハラスメント、略してダジャハラとは。

 

 もうこれまでと観念して、オレもジャージの前を開く。

 オレのは「野球しよう」「やあ、急だねぇ」である。

 

 

「――――ふふっ」

「「「えっ?!」」」

「分かってくれるのか、メジロマックイーン……!」

「おぉ、流石はマックイーンだな。頭が良い。私は何を言っているのかさっぱりだ」

 

 

 そんな中、マックイーンは上品に笑う。

 ルドルフはついに当たりか、と自らのセンスに狂いはなかったと自画自賛し、オグリは多分ダジャレの意味さえ分かっていない融通無礙っぷり。

 死んだ魚の目をしていたオレもスズカもライスも驚愕であった。いや、だって、ねぇ……?

 

 野球か? 野球が絡んでいるからか? などと困惑していると彼女は微笑み――――

 

 

「トレーナーさん……野球を馬鹿にしてらっしゃいますの???」

「……ち、違う。違うんですよ、マックちゃん……!」

「 馬 鹿 に し て ら っ し ゃ い ま す の ? 」

「……ゆ、許し亭……許し亭……」

 

 

 スンと真顔になってマジギレするやきうのお嬢様。

 

 胸倉とか襟じゃないけど、ジャージの端を掴まれた。

 ウワーッ! 凄い力だーーーー!!!

 ちょっと、予想外の反応すぎねぇかなぁ……?!

 しょうもないダジャレすぎて、野球好きの彼女を怒らせてしまった……! 

 

 

「これは折檻ですわね。さあ、お尻を出しなさい……!」

「え、いや、その…………はい……アオォ――――!!」

「凄い声だ」

「や、やめるんだメジロマックイーン……! や、やるならばトレーナー君ではなく私を……!」

「んっふ……ぐっ、ど、どうして、どうして素直にお尻を出すんですかトレーナーさん、んっ、んんっ……!」

「はーーーー……ダメ、笑っちゃダメ……お兄さまが、酷い目にあって……」

「ちょ、ちょっと待って! マックちゃんマジで待って! このままじゃオレのケツお猿さんに!」

「ふんっ! ふんっ! ふんん――――!」

「ア゛ッ、ヤッベッ……! ちょ、ちょっと、オ゛ア゛ァ゛――――!!」

「「んぐぐっ、ぶふーーーーーーーーー!!!」」

 

 

 ソファの背に掴まって、ケツを差し出す体勢で叩かれまくるオレ。

 マックイーンの気が済むまでスパンキング音は響き渡り続けた。これなんてプレイ?

 情けないにも程がある姿であったが、スズカとライスが笑ってくれたことだけは不幸中の幸いだった。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

「全く、トレーナーさんは! 全くぅっ!」

「いや、悪かった。今回はオレが悪かったわ。決してね? マックイーンと野球を馬鹿にしたわけじゃなくてね?」

「す、済まなかったな、メジロマックイーン。君が其処まで野球に興味関心があるとは……ところでトレーナー君、お尻は……」

「ケツが燃えてるみてーだ」

「ふっ、ト、トレーナーさん、そ、その話はもう……んふふっ……」

「すーーーーーーっ、はーーーーーーーっ……んんっ……!」

 

 

 もう泣きそうだよ、オレは。

 年下の女の子をキレさせるわ、折檻されるわ。オレの人生って一体……。

 

 まあいいんですけどね! オレの人生なんて大したもんでもねーし!

 マックイーンの機嫌がぷりぷり怒っている程度になって、スズカとライスがウケてくれれば儲けもんよ。

 

 でもオレのお尻はお猿さんどころかランブータン。

 ランブータンになってますネ。赤くテ、トゲトゲしてますネ。早く取っちゃって喰っちゃった方がいい、ランブータン。

 

 そりゃウマ娘の力でケツドラムされればこうもなる。

 正直、ソファに座ってるのも辛いレベルである。

 

 

「じゃあ、そろそろトレーニングに……」

「いえ、その前に。トレーナーさん、オグリ先輩と会長と一緒に買い物に行ったのに、どうして私――――達を誘ってくれなかったんですか……?」

 

 

 えぇ……? そこぉ? 今そこぉ……?

 オグリとライスの間に座ったスズカはずいと身を乗り出して問いただしてきた。

 

 あからさまに御機嫌ナナメの御様子。

 てっきり今日のトレーニングについて聞いてくると思ったのだが……。

 

 助けを求めるように隣のルドルフに視線を飛ばすが、彼女はドヤ顔ルドルフになっていた。

 

 

「声くらいかけてくれても……」

「あの、スズカさん、お兄さまはちゃんと誘ってくれてたよ……?」

「えっ?」

「確かに私達も誘って頂きましたわ。スズカさんは聞いてらっしゃらなかったようですけど」

「えぇーーーーーーー?!」

 

 

 そう、実は誘ってはいたのだ。

 基本トレセン生はトレーニング漬けの勉強漬け。

 選手と学生、両方の道を同時に歩む以上、生活もそれに見合うものになっていく。

 

 だから、息を抜ける機会があればオレは積極的に誘う。

 そうでなくても仲良くなる機会があれば見逃すつもりはない。ないのだが――――

 

 

『こりゃ携帯買わなきゃダメだな。ちょっと洒落にならんわ……』

『うぅ……済まない。迷惑をかけた』

『大事なくてよかったからいいって。折角だ、皆も来る?』

『そうですわね。ミーティングルームのお茶も少なくなってきましたし、折角ですので』

『じゃあ、ライスも……!』

『トレーナーさん、走りたいです。学園に戻ったら、外に走りにいってもいいですか?』

『お、おう…………済まん、マックイーン、ライス、付き合ってやってくれ。あれ何処までも走ってっちゃうやつだ』

『はぁ、仕方ありません。承りましたわ』

『そうかも……うん、分かった。頑張るぞ、おーっ!!』

 

 

 ――――というやり取りが、京都のホテルであったのだ。

 

 ルドルフの春天に当てられて、掛かり気味になったスズカを止める術などある筈もなく。なーんも話なんか聞いちゃいなかったのである。

 別に走りたいなら走らせてやればいい、と思うのだが、そうもいかない事情があった。

 スズカの場合は自主トレその他諸々含めてこっちから指示するトレーニング量を決めているので、走り過ぎて故障なんて問題はない。 

 

 問題なのは頭先頭民族振りだ。

 スズカときたら、走り出して楽しくなると何処までも走って行ってしまう。ちょっと前も酷かったんだよなぁ。

 

 

『もしもし、トレーナーさん。あの、こんな時間にごめんなさい……』

『いやー、気にしなくていいよ。で、どったの?』

『いえ、その……道に迷ってしまって……山の中みたいで……戻るのが遅くなりそうです……』

『ファッ?!』

 

 

 そんな電話が18時にかかってきたオレの気持ちが分かるだろうか。

 これまでは何のかんの寮の門限までには帰ってきていたので、河川敷で五時間ポツンと待たされても笑って済ませたが、オグリの迷子並に洒落にならない事態であった。

 

 幸い、スマホを持っていたのでオレに連絡を入れられたし、地図アプリで戻ってこれたであろうが、そういう問題じゃない。

 ウマ娘なら不逞の輩に襲われたとしても簡単に千切って逃げられるだろうが、年頃の女の子が夜に一人でいること自体が問題だ。

 そんなわけで、フォーム改善のために買った田舎のハーレーことスーパーカブをぶっ飛ばして迎えに行く羽目になり、流石のオレも頭にチョップを喰らわせた。

 

 以後、スズカは一人で学園の外に走りに行くことは禁止。

 最低でも一人は引き連れて走りに行くよう、きつく言い聞かせてある。

 

 

「そ、そんな……」

「ふふっ、奇貨可居だ。好機は見逃さずに捉えねばな。まあ、()()()()()()()()である以上、私が共にするのは当然のことだが」

「うぅ……!」

 

 

 煽るな煽るな。

 

 すんでのところで気付いて付いてきたルドルフはドヤ顔になっておる。

 結局、オレが誘わなかったのではなく、自分が頭先頭民族のせいで機会を逃したスズカは責められるものもなくなって涙目に。

 

 何か、悪いことしたな。

 てっきり出掛けるにしても、ショッピングよりもランニングの方が好きなんだと思い込んでいた。

 

 やっぱり、そういうところはスズカも女の子なのだろう。

 こりゃ何処かのタイミングで今回は同行できなかったマックイーンとライスを含めて、誘った方が良さそうだ。

 

 とは言え、その前にクリアすべき彼女達の問題は残っている。

 

 オグリは過食症があったけど、原因は突き止めて今はもう解決したも同然。

 以後、同じ状態に陥ったとしても、同じようにストレスを除去してやるように周りが努力すればいい。

 

 ルドルフは本気の出し方を知らない経験不足。

 こっちは解決の糸口を見つけられていないものの、原因は捉えているのでプランはある程度決まっている。

 

 ライスは自身の限界以上を引き出せてしまえるその性質。

 性質である以上完全な解決は出来ないが、手を抜ける場面でしっかり手を抜くことを教え、後はオレの調整能力の見せどころ。

 

 しかし、スズカとマックイーンに関しては、何故彼女達の走りに不安を覚えるのかを掴め切れていない。

 

 スズカの方は何となしに見えてきている。

 原因は彼女の左脚に隠されている、と当たりを付けていた。そう考える理由は左回りのタイムと妙なヨレにある。

 右回りに比べ、左回りはタイムがいいにも拘わらず、コーナーのみならず直線でもヨレる場面が見受けられたからだ。

 確かにウマ娘はどちらの周回が得意不得意かがタイムに表れることは多々あるが、スズカの場合はより顕著。其処に何らかの理由があると見るのは当然だろう。

 

 マックイーンに関してはもうお手上げ、何の手掛かりも掴めていない。

 気質も走りも何ら不安なものはなく。オレ自身ですら困惑を覚えてしまうほど。

 

 が、これで匙を投げてはいられない。

 自分ですら説明の出来ない感性、直感を其処まで信じているわけではないが、やるならば徹底的に。

 ありとあらゆる不安を潰し、彼女達の競技人生を盤石のものとする。トレーナーにとって死力(ベスト)を尽くすとはそういうこと。

 怪我負傷を心配せずにコースへと送り出し、共に勝負へと挑み、無事に帰ってきた彼女達と共に喜ぶ。オレが目指すは、そういったものなのだから。

 

 もっと――――もっと深くまで切り込んでいくべきだな。

 それこそ、当人達でも気付いていない癖や日常生活の中にある何か。

 レースやトレーニングだけでなく、もっと別の視点から、別のアプローチで不安の本質を掴む必要がある。

 

 

「う、うぅ~~~~~~~~」

「な、何だぁ……?」

 

 

 するとその時。

 スズカは突然立ち上がって、ソファの前から移動して部屋の隅へ。

 

 何事か、と驚いているとぐるぐるとその場で旋回しだした。何やってんだ、あれ?

 

 

「あ、あれ、お兄さま、知らなかったの……?」

「いや、知らない。初めて見る、んだけど……」

「癖のようなもの、らしいな。エアグルーヴも言っていたほどだ。何かを考えているとああしてしまうらしいが……」

「私も何度か見たことがあるな。驚いて声をかけたが、スズカも無意識のようだぞ?」

「トレーナーさんの前では気を張っていらっしゃるようですし、やらないようにしていたのでは?」

 

 

 え? 気を張ってるって、怖がってるってこと? 何それ、ちょっとショック……いや、今は其処じゃないか。

 

 驚いているのはオレだけで、他の皆は涼しい表情。

 スズカのその場をぐるぐると回る奇行はそう珍しいものではないようだ。

 いわゆる旋回癖、という奴だ。意識しているにせよ、無意識にせよ、ウマ娘の中にはこうした癖を持つ娘もいる。さして珍しいわけではない。

 貧乏揺すりをしてしまう『ゆう癖』やらもあるもんだが、一般的にこうしたみっともないとされる癖は親が矯正しようとする。

 矯正しようとして諦めたのか、或いは無理に矯正しようとはしなかったのか。親御さんの真意をオレに知る術はないが――――

 

 

「そういうことか――――!」

「ど、どうしましたの、急に?」

 

 我知らず怒号にも近い声量で叫びを上げ、オレはテーブルを跳ね飛ばしかねない勢いで立ち上がる。

 皆はぎょっとした表情で驚き、今の今まで旋回していたスズカも足を止めて此方を見ていた、

 

 驚かせたのは申し訳ないが、今はそれどころではない。

 

 点と点が繋がり、一本の線へと。 

 不安は確信に代わり、霧の中に包まれた事実は白日の下に晒される。

 必要な要素が出揃い、問題の核心を掴んだ。ならば後は、解決策を実行するだけ。運のいいことに、その手段はオレの手の内にある。

 

 

「トレーニングの前にやることが出来た……!」

「と、トレーナー君、何をするつもりだなんだ?」

「これだ――――!!」

 

 

 慌ててソファの前から、ミーティングルームの用具入れに移動する。

 中はオレの私物やちょっとしたトレーニング用品が入っているのだが、其処から必要な道具を取り出して見せてやった。

 

 

「メジャー……?」

「野球……いえ、アイスホッケーの防具、ですの?」

 

 

 しかし、皆の反応は困惑しきりで、あからさまにそんなもので何を? と言わんばかりだった。

 

 

 

 

 



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『遠慮近憂』


『えんりょきんゆう』


遠い将来のことまで見通した深い考えをもって行動しないと、必ず身近なところでさし迫った心配事が生じるということ。

「遠慮」は先々まで見通した深い考え、配慮のこと。
「近憂」は身近に迫った心配事の意。

孔子の弟子が残した論語には「遠き慮かりなければ、必ず近き憂い有り」と語られている。



 

 

 

 

 本日は雲一つない快晴。

 風は徐々に強さを失っていき、気温も同じように日々上がっている。

 春から夏への移り変わりを感じさせる節目。私は五月に入ってからすっかりと強くなった日差しに目を細めた。

 

 我々、チーム“デネブ”はコースの隅にあるベンチに集っていた。

 ミーティングルームで今日のトレーニング内容を打ち合わせをするはずが、開始もせずに移動したのだ。

 

 全てはトレーナー君の指示――――なのだが、その意図は測りかねる。

 キッカケは間違いなくサイレンススズカの見せた旋回癖なのだろうが、彼のそうまで慌てている理由は皆目見当もつかなかった。

 

 いや、そうでもないか。

 認めたくはないのだが、このチームを作った起点、もっと嫌な言い方をすれば()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()に関係していると考えるのが自然だろう。

 

 

『……テンポイントになる』

 

 

 流星の貴公子と呼ばれたウマ娘の悲劇的な結末。

 その情景、或いは彼女の影をサイレンススズカに見出したのが、記憶を失った彼が再び立ち上がる理由の一つになったのは既に聞いた話。

 与太話も大概にしろ、と言いたくなるが、我々とは見えている世界が異なるのではないかと思えるほどの観察眼を持つ彼の言であれば、私は疑わない。ただ彼の言葉と感覚を信じるのみだ。

 

 そして、サイレンススズカもまた私の夢にある幸せになって貰いたいウマ娘であり、大切な後輩であり、様々な意味でのライバル。

 普段はトレーナー君を奪い合う過程で詰まらない意地を張り、時に衝突することもあるが、それはあくまでも健全な関係性の上で成り立つが故。

 

 レースでの勝敗にせよ、彼の隣を手に入れるにせよ。

 誰に恥じることもなく手に入れるからこそ意味がある。強引な排除、彼女の不幸の末であっては何の意味もなければ、価値すら見出せない。

 

 

「やっぱりな……」

「あの、トレーナーさん、何が……」

 

 

 ある程度、彼の不安を知る私は努めて冷静であったが、何も聞かされていない他の面々にしてみれば何一つ理解できまい。

 事実、サイレンススズカを筆頭に、皆一様に彼の険しい表情に困惑しきっていた。

 

 加えて言えば、彼の指示は奇怪と呼んでも差し支えない。

 突然、此処にまで移動するや否や、サイレンススズカをベンチに座らせ、靴下まで脱がせて足を伸ばすように言ったのだから。

 

 渦中にいる彼女は首を傾げて不安を募らせていたが、やや外れた位置に立つ我々は分かりかけてきた。

 

 

「足の、長さが違うな……」

「ルドルフの言う通りだな。少しだけ左脚が短い、それとも右脚が長い、のか……?」

「こうして揃えたところを見ると、はっきりと分かりますわね」

「お兄さま、これって、やっぱりさっきの……」

「ああ、多分左回りの旋回癖が主な要因。他には日常的な立ち方、重心のかけ方とかかな…………しかし、結構差がある」

「え、えぇ……そ、そんなに違いますか?」

 

 

 脚を伸ばした姿勢になれば、その差は明らか。

 視点の位置からして差が分かり辛いサイレンススズカは兎も角、見やすい位置に移動できる我々からは一目瞭然だった。

 

 いわゆる脚長差と呼ばれるものだ。しかし、さほど珍しい症状ではない。

 原因は様々であるものの、全体の70%以上もの人間に左右の脚の長さに差があるとされており、長さが揃っている方が稀と言われる、のだったか。

 

 目の当たりにした現実に、かつて何かで手にした知識を掘り起こしている間にも、ある程度当たりを付けていたトレーナー君は次の行動に移っていた。

 

 彼女が伸ばしたままキープした脚にメジャーを当て、脚の付け根から足裏までの長さをそれぞれ測る。

 明確な数字となった差を目にした彼の表情はより一層険しさを増した。まるで一族郎党を皆殺しにされたかのような仏頂面だ。

 

 失礼だが、彼は俗に凶相に分類される顔立ち。

 それなりに整っていて男らしくはあるが、槍の穂先を連想させる目付きが全てを台無しにしている。

 大半の人間では笑っていなければ目を逸らしたくなるほどだろう…………まあ、私は好きだが。

 

 

「差は1cmか……精密に測ればもうちょい差がデカくなりそうだな」

「トレーナー、それは酷いものなのか……?」

「いや、酷くはないかな。これくらいなら、日常生活にも歩行にも問題ないが…………すまん、スズカ。ちょっと触らせて貰ってもいいか?」

「は、はい。ど、どうぞ……」

 

 

 オグリキャップはこの手の知識が何もない。

 そもそも何の問題があるのかも疑問を抱いている素振りすら見せている。

 

 そして、素直に疑問をそのまま口にしていた。

 確かにトレーナー君の言うように、この程度の脚長差は珍しくはない。

 私の記憶が正しければ、一般に3cm以上の差が生まれて初めて何らかの処置が必要になる、と言われていたはず。

 

 トレーナー君は簡潔に説明こそしたものの、自らの懸念を消し切れていないのは明らかだった。

 そして、サイレンススズカに断りを入れてから、新雪のような肌に包まれた脚に手を伸ばす。

 

 足裏から足首。足首から脹脛。脹脛から膝へと昇っていく。

 筋肉の付き方や関節の機能、骨の形を確かめるように。

 

 その手付きに邪さなどまるでなく、ひとえに脚の状態を確かめているのは間違いないのだが――――

 

 

「……っ、ん……ぅ……」

「は、はわ、はわわわわ」

「……あっ、や……ん、んん……っ!」

「な、何だか……」

「だっ……あっ……ぁっ……!」

「エッチだ……」

 

 

 ――――その、サイレンススズカの口から漏れる声は、聊か嬌声じみていた。

 

 確かに、彼女は女の私から見ても妙な色気がある。

 儚さと憂いを秘めた表情と華奢な体躯は、得も言えぬ魅力を秘めている。

 

 それが彼の手が生み出すこそばゆさと心地良さ、更には仄かな痛みに頬を上気させ、熱を帯びた吐息を漏らす。

 

 煽情的、或いは官能的とでも表現すればよいのか。

 くらりとする魔力か引き摺り込まれるような引力めいたものを感じる。

 し、しかし、いくら何でも艶めかし過ぎではないかろうか。

 

 メジロマックイーンとオグリキャップは仄かに頬を染めて魅入られている。

 ライスシャワーなど顔全体を真っ赤にして両手で目を覆っているではないか……いや、指の隙間から覗いているな。 

 

 かく言う私も妙な気恥ずかしさと彼の手がそんな声を上げさせている事実に、強烈かつ醜い嫉妬を覚える。

 我ながら何とも度し難い。二人にそんなつもりはないにも拘わらず、この心模様。

 い、いかんな。泰然自若、冷眼傍観であらねば。そも彼は疚しい目的で行っているわけではなく、サイレンススズカとて誘ったわけではないのだから。

 

 

「膝から下の骨に然程違いはない。トモの筋肉にも大腿骨にも問題なし。となると――――」

「はっ……はぁっ……あ、あの、トレーナーさん……そんなに上は……っ」

 

 

 膝から上へ移動した手はトモに至る。

 指を深く沈めながら筋肉の付き方や骨の太さや長さも探っているようだ。

 

 そして、遂には――――

 

 

「――――此処か?」

「ひ、ひわぁっ……ぅンっ、と、とと、トレ……っ!」

「悪い、少し黙っててくれ」

「はっ、はひっ…………ん、ンッ、んん~~~~~~~~~っっ」

 

 

 ――――両足の付け根、股関節に親指を押し込んだ。

 

 かなり際どく、更に言えばデリケートな部分だ。

 サイレンススズカ自身、異性どころか親にすら触らせたことはないだろう。

 

 その初めて触れられる感覚に、痛みによるものではない悲鳴を上げる。

 唇を噛み締めて瞼をきつく閉じ、脚をピンと伸ばす姿は何かに堪えているかのようだ。

 彼の手付きに卑猥さはまるでなく、真剣そのものの表情だからいいものの、事情を知らぬ者が見れば危うい場面にしか映るまい。

 

 

「……成程」

「はぅぁ……はぁ……はぁっ……」

 

 

 触診が終わるとサイレンススズカは息も絶え絶え。

 胸に手を当て、必死に呼吸と動悸を整えようとしていたが、まるで巧くいっていない。

 

 き、気まずい。酷く気まずい。

 彼は全く気にしていないようであるが、あんな声を上げていたサイレンススズカも、見ていた我々も何と言葉を発すればよいのか。

 対するトレーナー君は名残惜しむ様子も見せず、深く考え込みながらも立ち上がっていた。

 

 邪心など微塵も感じさせない振る舞い。

 実際に、考えているのは自らの危惧が現実のものとなるか否か。今の彼にそれ以外の事柄など瑣事に過ぎない。

 

 ……過ぎないのだろうが、いくら何でもあんまりではなかろうか。

 これでは彼女にまるで女性的な魅力を感じていないと言っているも同然。そして、恐らくは私であったとしても全く同じ反応をするに違いない。

 ライバルではあるが、いやライバルであるからこそ、同情を禁じ得なかった。

 尤も、彼女は旅立ったまま()()()に戻ってきていないので、要らぬ同情であっただろう。

 

 

「……まず一つ。スズカのは器質やら解剖学的な脚長差じゃなくて、機能的なもんだ」

「えっと、お兄さま、それってどう、違うの……?」

「んー、すげー簡単かつざっくり言うと単純に左右の骨の長さが違うわけじゃなくて、関節の使い方と立ち方に問題があるタイプって感じかな」

「それは……僥倖、と考えても間違いありませんわよね?」

「ああ、それは確か。前者だったら洒落にならん。差にもよるけど手術しなけりゃどうにもならないからね」

 

 

 脚長差は大きく分けて二つに分類される。

 器質的、或いは解剖学的脚長差は先天性、また発育期の成長抑制、過成長、何らかの変性疾患によって骨格そのものの長さが違ってしまっている。

 機能的脚長差とは、骨格そのものの問題ではなく、間違った関節の動きなどで身体に生じてしまった歪み。

 どちらの場合であっても差が大きくなればなるほど歩行障害が起こる。

 

 唯一の幸いは、機能的脚長差であったこと。

 此方であれば、トレーナー君でも対応する術があると私は知っている。

 持ち出したアイスホッケー用の防具は、そういった時のために用意したものだ。

 

 しかし、トレーナー君の表情は曇ったまま。

 そして、俯き加減で頭を掻いていたが、やがて意を決したように口を開いた。

 

 

「まず結論から言う。隠しておくのも無理があるし、オレの方針としてもそれはないからな。スズカ、この状態のまま走り続ければ、お前の左脚がもたない」

「それは、どういう……」

「折れる。オレの個人的な予測でしかないが、信じるかどうかは任せるよ」

「――――え?」

 

 

 彼の言葉は、我々を凍り付かせるには十分すぎる威力を有していた。

 

 

 

 

 



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『改頭換面』

『かいとうかんめん』

見た目は変化しても中身が何も変わっていないこと。

「改頭」は頭を新しいものに変える意。「換面」は顔を新しいものに換える意。
「頭を改め面を換う」とも読む。


今回は今後の計画や展開を改めたとしても、方針や本心に変化はないという意味を込めて。




 

 

 

 

 トレーナー君の余りにも残酷な宣言に、サイレンススズカのみならず私も含めた全員が息を呑む。

 誰一人として、一瞬で凍てついた空気を変えようと茶化す真似すらできなかった。

 

 彼の表情は今すぐにでも喀血してしまいそうなほど歪んでいる。

 冗談でも口にするような事柄でもなく、そんな冗談を口にする人柄でもない。

 トレーナー君の誠実さを知っている我々には、それだけで信じるに値する予言にも等しかった。

 

 予測でしかないと口にしていたが、恐らく数字としても提示できるだろう。

 トレーナー君はサイレンススズカについてフォーム改善の段階で調べ終えており、今回得られた新たな数字を其処に入力して計算し直せばいいだけなのだから。

 

 

「…………ど、どうにかならないんですの!?」

 

 

 沈黙に耐え兼ねて、メジロマックイーンが悲鳴のような声を上げた。

 オグリキャップもライスシャワーも言葉にこそならないようだったが、似たような心持ちだろう。

 

 同じチームの仲間として、同時に尊敬に値する好敵手として、そのような結末は決して認められまい。

 何よりも、彼女達はサイレンススズカがどれほど走ることそのものを愛しているのかを知っているからだ。

 

 私自身も併走中に何度となく目にしていた。

 迫る影に焦りを見せることもあるが、その中にも隠し切れないほどの喜びが見て取れる。

 恐らくは本能なのだろう。好物に理由などないように、彼女の走りに対する情熱と喜びにもまた理由などない。

 

 それでも、彼女の身を守るためには何より愛するものを奪う必要があるかもしれない。

 トレーナー君の言葉は、その未来を想像させるには十分過ぎた。

 

 しかし、サイレンススズカは大きく息を吐くと、努めて冷静に口を開いた。

 

 

「それは、今すぐに……?」

「……いや、“本格化”に伴って向上していく身体能力がピークに達した時が一番怖い。それだけスズカのスピードは稀代のもので、必然的に脚にかかる負担もデカくなるんだ」

「そう、ですか…………トレーナーさんに、何か考えはありますか?」

 

 

 自らの左脚を擦りながら、普段と変わらない口調で問う。

 

 自身では何の変調も感じられないから。

 起こるかも分からない未来の話だから。

 

 そう軽く受け止めているわけではない。

 起こり得るかもしれない未来だからこそ重く受け止めていた。

 或いは彼女自身も説明できない()()を感じたからかもしれない。

 

 

「二つある。一つ目は病院に行くことだ。オレが説明して、処置の必要性を認めさせる」

「でも、それは……レース、へは……」

「きっちりと処置を終えてからじゃないと、ほぼ間違いなくドクターストップがかかる」

「………………もう一つは?」

 

 

 サイレンススズカについて何も知らない医師ですら、納得させる自信があるのか。

 トレーナー君の物言いは断定に近く、事態がどれほど深刻なのかが否応なく伝わってくる。

 

 ウマ娘にとって骨折など軽度重度を問わず、よくある負傷ではある。

 しかし、レース中に起これば競技者としてだけでなく、自他を問わず人としての人生が終わりかねない。

 命を救う職業である医師ならば、まずは治療に専念するよう強制するのは目に見えている。

 

 しかし、サイレンススズカは納得しない。

 何時か訪れる未来を想像してもなお、走りへの情熱を捨てられない。それは彼女が彼女でなくなってしまうのと同義であったから。

 

 

「オレが矯正する。やること自体は病院と変わらん」

 

 

 だからこそ、トレーナー君の提案はより綱渡り染みたものだった。

 

 メリットはあった。

 通院は定期的であるのに対し、トレーナー君は日々の変化に即応できる。

 頭ごなしに走るなと言うのではなく、よりサイレンススズカに寄り添った形で事を進められる。

 

 それはその分だけ折れてしまう可能性が増えることを意味していた。

 だが彼女の意向を最大限汲みながらであれば、他に方法はない。

 

 

「幸い、資格も知識も経験もある。現状なら何とかいける」

「なら、私はその方が……」

「但し、クラシックへの出走は回避を選択する可能性が高い」

「トレーナーさん、それは……」

 

 

 断固とした意志の下に放たれるトレーナー君の言葉。

 口を開こうとしたものの結局は言い澱んだメジロマックイーンはサイレンススズカを見る。

 

 クラシックは一生に一度しか挑戦できない。

 日本レース界において最も伝統あるレースであり、多くのウマ娘にとっては夢の祭典。

 

 それらに挑戦すらさせずに回避させる。 

 いくらサイレンススズカにとって必要とは言え、残酷ではないか。

 そして、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだのは、メジロマックイーンもまたトレーナー君に全幅の信頼を寄せている証だろう。

 

 トレーナー君の考えもおおよそだが理解できる。

 それぞれの成長傾向に早熟型、大器晩成型とあるが、平均的に“本格化”を迎えたウマ娘の身体能力が上がるのは、クラシック級。

 ジュニア級はまだまだ身体能力が低く、シニア級は身体も完成して、其処までで培った経験もある。だからこそクラシック級を危険視しているのだ。

 

 加えて言えば、クラシックでは多くの者が限界を超えた力を発揮する。

 一生に一度と言う大舞台故にか、はたまた他者からの期待がそうさせるのか。

 いずれにせよ、如何に卓越した能力を持つサイレンススズカと言えども追い込まれる可能性が高く、引き摺られて限界を超えてしまうかもしれない。

 

 クラシックで華々しい結果を残せたとしても、以降には凡走を繰り返す程度であればまだ再起の目はあるが、彼女の場合はそうもいくまい。

 トレーナー君が危惧している以上、最悪の結果を招きかねないのは想像に易い。

 

 皆が彼女の気持ちを慮りながら重苦しい空気を醸す中、サイレンススズカは僅かな逡巡のみで決断を下した。

 

 

「分かりました。私は構いません。トレーナーさん、お願いします」

「す、スズカさん、いいの……?」

「ええ。残念ではあるけれど、クラシックに思い入れがあるわけでもないから」

 

 

 僅かに後ろ髪を引かれながらも、静かな決意が其処にはあった。

 

 確かに私の知る限り、彼女には明確な目標があるわけではなかった。

 例えばメジロマックイーンが天皇賞を目指しているといったような、特定のレースに対する思い入れもない。

 

 誰が相手であろうとも先頭の景色を独占して勝ちたい。

 自分の走りが、誰かに夢を見せてあげられるようになりたい。

 

 そんな漠然としながらも並々ならぬ思いがあるのみ。

 だからこそ、クラシック競走への出走を断念しても僅かに気落ちした程度で済んでいた。

 

 そもそも彼女にとって全てのレースに貴賤もなければ格もない。

 走りたいから持てる力を以って走っているだけで、舞台など関係ないのだ。

 故にクラシックに出れないことよりも、いま走れなくなることの方が余程問題なのだろう。

 

 

「スズカさんが納得しているのなら、私から言う事は何もありませんが。となると……」

「問題となるのはトレーナー君の評判だな」

「え……?」

 

 

 メジロマックイーンと私には気掛かりがあった。

 

 サイレンススズカは未出走でありながらスプリングステークスを勝ち上がり、既に世間から注目を集めている。

 それもただのまぐれ勝ちではなく、高い能力を見せつけた上での勝利。

 今後もレースに出走して勝ちを重ねれば、弥が上にも世間の期待は高まっていく。

 

 その中でクラシックを回避すれば、期待している側からすれば梯子を外されたようなもの。

 何の事情も知らない外野が好き放題に喚き散らし、トレーナー君に責任を求めるのは目に見えている。

 

 

「別にいいだろ、そんなの。スズカほどの選手をクラシックに出さずにどうするって心情も分からないでもないしな」

「それはそうだが……」

「言い訳なんていくらでも利くだろ。駄法螺なんて吹き放題だ。そんなことよりもスズカの方がよっぽど問題だ。だろ?」

「仰る通りではありますけど……全く、本当にこの方は」

「ま、色々と考えておくよ。出走を回避する可能性が高いだけで、出走できる可能性がゼロになったわけじゃない」

 

 

 あっけらかんと前向きな態度に、私もメジロマックイーンも肩透かしを食らった気分になる。

 これではまるで我々が度を越えた心配性のようではないか。

 

 ともあれ、呆れこそすれ責めることは出来なかった。

 彼の態度は絶望を見据えた上で希望を追い求めているからこそ。

 事実を重く受け止めたところで現実が変わるわけではなく、態度が軽いからと言って覚悟を済ませていないわけではない。

 

 トレーナーと言う職はレース界において主役ではない脇役であり、世間から叩かれやすい職でもある。

 結果を出せば出すほど周囲から求められるハードルは上がって些細なミスでも大きく取り沙汰され、担当の敗北、予期せぬ怪我に何の責任がなかったとしても責任を追及されるもの。

 

 だからこそ、トレーナー君はこの道を選んだ時点で全ての覚悟を済ませている。

 

 彼は素直でこそあるが、それは自身の納得が前提にあればこそ。

 間違いを認め、改善するだけの度量はあるが、自身が納得していなければ決して迎合しない。

 

 例え、メディアが何を言おうとも関係がない。

 例え、名前のない人々が何を言おうとも関係がない。

 

 決して譲れないものには結果や勝算の如何に関わらず立ち向かう。

 世界中の人間が白を黒だとしても相手の目を見て必ずこう言う。“そっちが退け”と。 

 

 そんな彼だからこそ、私は信頼を預けているのだ。

 

 

「じゃあ、早速やりますか、っとぉ。シャッ、頑張れオレェ!!」

「でも、防具なんて着込んで、何するの……?」

 

 

 まだ如何なる結果になるかは分からない未来については其処まで。

 一旦、話を区切ったトレーナー君は持ってきたアイスホッケー用の防具をいそいそと着込んでいく。

 

 そして、何度も頬を叩いて気合を入れていた。

 その気合の入れようは、ライスシャワーには奇異に映ったようだ。

 いや、彼女だけではない。他の面々も同様であり、疑問が表情に浮かんでいた。

 

 

「言った通りに矯正、今回は整体だな。気を抜くなよ、死人が出るぞ」

「はい、分かり――――え? し、死ぬ? 私が、ですか?」

「いや、オレだ」

 

 

 何時にも増して真剣な表情で告げられた言葉に、サイレンススズカは凍り付いた。

 

 いや、トレーナー君……間違ってはいないのだが、それはいくらなんでも言葉足らずではないか???

 

 

 

 

 



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『緊褌一番』


『きんこんいちばん』


気持ちを引き締め、十分な覚悟で挑むこと。難事や勝負を前の心構え。

「緊褌」は褌をきつく締めること。ひいては気を引き締める意。
「一番」はここぞ、或いは思い切って一度に賭ける意味。



 

 

 

 

 

「トレーナーさん、これは一体……」

「説明した通り、整体だ」

「いえ、それは聞きましたけど、どうして皆が……」

 

 

 サイレンススズカはトレーナー君の指示で背もたれのないベンチへと仰向けに寝かされた。

 体勢としては臀部をベンチの端に位置させ、両足は投げ出すような形で困惑の声を上げている。

 

 それもそのはず、チームの全員で彼女の身体を押さえていたのだから。

 私は両肩を上からベンチに押さえつけるように。

 メジロマックイーンは右腕、ライスシャワーは左腕を。そして右脚はオグリキャップが右脇で抱え込むように抑えていた。

 妙に物々しい対応にサイレンススズカは不安を覚えている様子。傍目から見ても何をしているのかさっぱり分かるまい。

 

 

「ほら、子供の頃、予防接種とか受ける時にウマ娘の看護師さんが近くにいなかったか……?」

「そう言えば、いたような……」

「ウマ娘に麻酔を使用しない医療行為を行う時はウマ娘が傍に控えるのは義務じゃないが通例なんだよ。反射的に身体が動くこともあるからな」

 

 

 サイレンススズカは大人しく、落ち着いた性格をしている。

 だから知らなかったのだろう。そして、周囲の大人も悟らせない努力をしてきたものと思われる。

 

 痛覚を麻痺させる麻酔や身体に負担をかけない拘束技術が発展するまで、ウマ娘の治療には医師以外にも資格を有していなくともウマ娘が立ち会うのが必須だった。

 

 理由は単純。ウマ娘も人類という大きな括りの中では人種の一つに過ぎない。

 だが、身体能力の桁が違い過ぎて痛みや不快感で暴れた時に手が付けられなくなる。そうでなくとも反射で動いてしまう場合もある。

 

 医療技術そのものが未熟だった時代、或いは戦時中など麻酔等の医薬品が手に入らなかった時代は悲惨そのもの。

 苦しみ藻掻くウマ娘を助けようとし、逆に怪我を負うなどザラ。酷い場合には死亡事故にまで至った。

 近年では様々な――科学医療は言うに及ばず、法整備やウマ娘の本能的な部分の解明や付き合い方も含めた全ての――技術革新に伴って数は大きく減少。

 こうした件での事故は殆どなくなっているが、古くからの慣習と万が一への備えで暗黙の了解として残っている状態だ。よって、医療や看護方面へと進むウマ娘も少なくはない。

 

 

「と言うよりも、何も青空の下でやらなくてもいいのでは……」

「いや、いくらトレセン学園でもそういう設備がない。なら周りに物がないところの方がまだマシだよ」

「医務室はあくまでも軽い怪我や病気の処置が前提。医師も常駐しているが、基本は応急処置まで。重篤な場合は即搬送だ。トレーナー君の言う通りではあるな」

 

 

 メジロマックイーンの疑問に、トレーナー君はこの場の方がいいと答えた。

 

 実際、トレセン学園の医務室はあくまでも簡易的なもの。

 整骨院や整体院のように整った設備はない。確かに、彼の言う通りではある。

 

 私としては、こんな危険を冒すくらいなら医師に任せて貰いたいものではあるのだが、サイレンススズカの希望に沿った形で実現するのならこれしかない。

 体のいいだけの言葉でしかないが、彼の腕を信じる他なかった。

 

 

「でも、どうするの……?」

「スズカの現在の状態だけど、凄く簡単に言うと骨盤が傾いてるのと、骨盤を構成する骨が微妙にズレて左脚が短くなってるわけだ」

「はぁ……」

「そうなのか」

 

 

 トレーナー君はライスシャワーの口にした問い掛けに、鹿爪らしく頷きながら口にする。

 とは言え、それを把握しているのは彼だけで、当人であるサイレンススズカは生返事をするだけ。

 オグリキャップはふんふんと頷いていたが、正しく理解しているかどうか。

 

 機能的脚長差は骨盤に起因する場合が殆どであるらしい。

 実際、左右の脚の骨の長さが均等であるのなら、確かに付け根となる骨盤に原因が集約するのは当然だ。 

 

 

「本来なら運動やらで徐々に矯正していくもんなんだが、骨へ蓄積するダメージを考えるとなるべく早く差をなくす、もしくは減らしたい」

「それはそうですわね。今は正常な状態ではなく、左脚に負荷がかかっているわけですし……」

「――――なので、脚を引っ張ります」

「「そんなわんぱくな方法で?!」」

「いや勿論ただ引っ張るわけじゃないよ? 骨盤の状態を把握して正しい方向に力をかける。これも立派な整体だ」

 

 

 こう、何と言えばいいのか。

 話を聞くだけでは強引極まる手法に聞こえるのだが、そもそも整体とは手を使って骨の歪みを正していく処置である。間違いはない。

 間違いはないのだが、メジロマックイーンとサイレンススズカはもっと穏やかな方法を想像していたようだ。

 

 しかし、トレーナー君は穏やかに微笑んで説明するだけ。

 可能な限り早急に、骨への負荷を減らしたいのだ。

 

 骨は瞬間的な圧力に対して多大な耐久力を発揮する。

 だが疲労骨折のように、ダメージが蓄積した結果として骨が折れる場合も間々ある。

 折れる瞬間が分からない以上、発生しうる要因を排除しておきたいのは当然の心理と言える。

 

 説明もそこそこに、トレーナー君はうむと頷くと人差し指を立てる。

 

 

「右ヨシッ! 左ヨシッ! 後方ヨシッ! いくぞッ!」

「は、はい……!」

「皆、抑えられないと思ったらすぐに離して後ろに倒れろ。特にオグリは脚だから気をつけろ」

「ああ、任せておけ」

 

 

 周囲に人がいないことを指差し確認し終えると、トレーナー君は意気衝天の様子でサイレンススズカの左脚を掴んだ。

 右手で足首、左手で太腿辺りを掴み、稼働域を調べるように右へ左へ、或いは股関節を始点に軽く回転させる。

 

 そうしている間にも、周囲への忠告も怠らなかった。

 ウマ娘は頑強さと出力のバランスが取れていない。同じウマ娘にその力が向けられた場合でも、大怪我は必定。

 

 だからこそ、最も力の強いオグリキャップを右脚を押さえる役に据え、当人はふんすと鼻を鳴らして気合十分だった。

 彼女はベンチプレスで500kgを持ち上げるほどの剛力を持つ。快速タイプのサイレンススズカの力も抑えきるだろう。

 本来であれば、自らの担当に危険が及ぶ行為をするなど褒められた行為ではないが、先の通り他に方法もなければ時間も惜しい状況。

 

 手を貸すと頷いてしまった以上は、私も同罪。他の面々も同様だ。

 リスクを背負うのならば全員で。それがチームの総意であり、同時にチームそのものの在るべき姿だと信じていたから。

 

 そんな我々の決意を知ってか知らずか、トレーナー君はおかしなことを口にした。

 

 

「ところでスズカ、坐骨神経って知ってる?」

「は、はぁ……えっと、確か、神経痛の病気とかで聞いたことがあるような……」

 

 

 余りにも唐突な話題の転換に、サイレンススズカは困惑しながらも自らの知識を口にした。

 恐らく、彼女の頭に浮かんだのは坐骨神経痛だろうか。厳密には病名ではなく病気によって引き起こされる症状なのだが、それは然程関係ないか。

 

 トレーナー君はにこやかに微笑むと、彼女の返答に補足を入れていく。

 

 

「そう、それだ。坐骨神経は背中の下から下肢全体を覆っててな、大抵の動物にとっては一番太くて長い末梢神経になる」

「それが、何か……?」

「今からやる矯正はちょっとその神経が圧迫されそうでな。正常な神経を圧迫されるわけだから――――めちゃくちゃ痺れるか、痛いぞ」

「えっ――――――――い゛っっっっっ!!!」

 

 

 トレーナー君の補足から処置までは寸毫の間も置かなかった。

 サイレンススズカが補足に気を取られ、脚に力を入れる隙さえ与えぬ一瞬の早業。

 身体を押さえる側に回った我々は、さほど力は必要とせずに跳ねることさえなかった。

 

 巧いやりようではある。

 敢えて会話で気を逸らして余計な緊張を生ませず、自ら引く力を想定した通りに身体と骨に伝える。

 関節が鳴るようなこともなく、我々には処置が行われたかさえ分からなかったのだが――――

 

 

「――ごっへぁっ?!?」

「「「「「あっ」」」」」

 

 

 ――――気が付けば、トレーナー君の身体は何の比喩もなく宙を舞っていた。

 

 それを目撃した瞬間、我々の口からは間抜け極まった声が漏れる。

 時の流れが緩やかになったかのように全てがスローモーションになっているにも拘わらず、思考がまるで働かない。

 サイレンススズカが痛みで反射的に彼の胸板を蹴り上げたと分かったのは、全てが終わった後だった。

 

 ゆっくり、ゆっくりと。

 トレーナー君が10mも離れた位置に投げ出される様を眺めていることしかできず。

 同時に全身から血の気が引いていき、背筋に薄ら寒い電流が奔る感覚に怖気を覚えながら。

 

 我々がようやく動き出したのは、彼が背中から芝の上に叩き付けられてからだった。

 

 

「と、トレーナー君ッ!!」

「だ、大丈夫ですかっ!?」

「――――???????」

 

 

 全員で泡を吹きながら倒れ伏した彼へと駆け寄っていく。

 サイレンススズカなど顔を蒼褪めさせながら裸足のまま駆け出していた。裸足は兎も角、顔色は全員同じだっただろう。

 

 しかし、我々の心配を余所に、トレーナー君は何事もなかったかのように上体を起こすと周囲をキョロキョロと見回すだけ。

 自分がどうしてベンチから離れた位置で倒れていたのかさえ分かっていない様子に見える。

 

 

「ごほっ、どうかした???」

「ど、どうかしたじゃありませんわよ?!」

「だ、大丈夫、お兄さま、痛い所はない???」

「トレーナー、受け身は取れたか? 受け身はとれたのか?!」

「え? 受け身? ごっほ、つーか、オレなんでこんなところに瞬間移動してんの????」

 

 

 大事に至っていないことに、まずは全員で胸を撫で下ろす。

 そしてオグリキャップ、今は受け身を取れたかどうかを心配するのはズレにズレているぞ。

 

 私と言えば心臓が異常なほど跳ね上がり、過呼吸になって眩暈もある。

 一瞬、彼に庇われた事故の瞬間がフラッシュバックした。それほどまでの勢いだった。

 

 と、兎に角、咳はしているが無事のようだ。

 骨や内臓に異常があればまともに会話など出来るはずもない。

 防具のお陰か、はたまたトレーナー君の肉体のお陰か。いずれにせよ、幸運には違いない。 

 

 

「そんなことより、スズカ。脚は大丈夫か?」

「そ、そんなことじゃありませんよ!? わ、私が……」

「何もなかった。何もなかったけど? オレがなんか瞬間移動しただけ。超常現象ってのは意外に起こるもんだな」

「流石に無理があるぞ、トレーナー君」

「無理でも何でもねーし! 兎に角、何もなかった。この話はそれで終わりだ、いいね?」

「「「「アッハイ」」」」

 

 

 トレーナー君の有無を言わせぬ物言いに、慌てふためいていた皆は押し黙るのみ。

 

 私は思わずその場にへたり込みそうになっていた。

 無事で何よりであるが、自分については二の次三の次が当たり前の男だ、彼は。

 今もサイレンススズカに罪悪感を抱かせないため、勢いで押し通すことにしたのだろう。

 

 人の心境を察し、自身の状況を計算に入れずに行動できるのは間違いなく彼の美徳だ。

 しかし、それは長所ではあるが同時に短所でもある。トレーナー君を想う私から見れば尚更である。

 

 小言の一つでも言ってやろうかと思ったが、止めておく。

 そういうところに惚れ込んだのは私自身も認めるところ。そして、そうした彼を隣で支えると決めたのも他ならぬ私なのだから。 

 

 

「まあ、兎に角――――いや待て。色々と立て込んで慌ててたから忘れてたけど、いま何時だ?」

「む? 任せてくれ、トレーナー、こういう時のためにスマホがあると学んだからな。あっ…………」

 

 

 突如としてスンと無表情になったトレーナー君の問いに、オグリキャップは自慢げにスマホへと手をかける。

 何処かに置き忘れることのないよう、首から下げるタイプのストラップとケースを買ったのだが、今までの流れではミーティングルームに置いてくる間もなかっただろう。

 

 だが、覚えたばかりのスマホの操作をすると彼女は固まった。

 

 

「………………その、16時50分だ」

「ひゅっ……!」

 

 

 見たものを見たまま、然れども難しい面持ちで伝えるオグリキャップ。

 彼女の言葉を耳にした瞬間、トレーナー君は妙な音を立てて息を呑んだ。

 

 それもそのはず、彼の記憶がリセットされる十分前。

 これでは折角の気付きも無駄になり、処置を何処まで済ませたのかも分からなくなる。

 しかも、今回の処置は今の彼にしか分からないもので、私達では処置をした事実しか伝えようがなく、詳細までは分からない。

 

 我々も事態が事態だけに、時間を気にする余裕がなかったのが仇となった。

 

 

「と、兎に角、どうなったかまずは調べる! スズカ、脚の長さ測るからもう一回ベンチ座ってぇ!」

「は、はい、分かりました……!」

 

 

 そこからの展開は、どう表現したものか。

 慌ててサイレンススズカの脚を測り、その結果と自らが何をしたのか記憶を失った自分に伝えるべく、トレーナー君は悲鳴を上げながら詳細に手帳に書き込んでいた。

 

 ああ、こういうものを正にてんやわんやと呼ぶのだろう。

 悲観を差し挟む余地もなく、ただひたすらに前向きに邁進する。全く以て彼らしいものだった。

 

 

 

 

 



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『遊戯三昧』


『ゆげざんまい』


なにものにもとらわれることなく、仏の境地に遊ぶこと。
または、嫌なことでもやることそのものを楽しむこと。

「遊戯」は仏教用語で、仏や菩薩、悟りを開いた者がなにものにもとらわれることなく、思いのままに振る舞うこと。
「三昧」は一つのことに夢中になること。


苦難苦境に囚われず、自然体で立ち向かうチーム“デネブ”とトレーナーの心意気、或いは在り方。


注意すべきは、誰一人として悟りの境地に辿り着けているわけではないことか。



 

 

 

 

 

「成程、そういう感じか。となると、手帳と文字だけじゃ伝えたい情報が足りなくなるなぁ……」

「ボイスメモやカメラではどうかな?」

「ないよりはマシだが、それでもまだ十分じゃない。どっちかって言うと整体は動きそのものより手から伝わってくる感覚の方が重要なことが多いし」

「ふむ。言語化するのは難しい感覚、か。況してや手感は想像以上に鋭敏で感じ取れる幅も種類も多い。確かに難事だ」

「泣き言ばっかり言ってられないけどな。ルドルフの提案通りにボイスメモから使ってみるよ。微妙なニュアンスの違いから伝わるものもあるかもしれないしな」

 

 

 時刻は18時過ぎ。

 日没までの時間は長くなり、初夏を迎えた現在はまだ地平線に朱に染まる夕日が見え隠れしている。

 目も眩むような焼け空の下、私とトレーナー君はコースの外でチームの練習を眺めていた。

 

 サイレンススズカは処置をした直後故に流す程度。

 歩様に問題は見られず正常な形に近づいたのだろうが、身体の微妙なバランスの変化に現状は何とも言えない違和感を覚えているらしく、無理はさせられない。

 ジョギングとさほど変わらない速度で、コースの外ラチ付近をゆるゆると周回していた。

 

 他の面々はコーナーを如何に無駄な力みやロスなく遠心力に対抗すべきなのか、併走しつつも共に研鑽を積む。

 かく言う私は、春天が終わってからそう日が経っておらず疲労が抜けきっていないため、トレーニングを見守る側に回っている。 

 

 そしてトレーナー君はサイレンススズカの処置後、念のために医務室へと向かわせた。

 診断結果は打撲と内出血の兆候は見られるものの、胸を中心とした骨、内臓への損傷なし、とのこと。

 緊急入院、通院どころか治療も必要なかったらしく、自己治癒に任せるのみで十分とのお墨付き。

 但し、医師にはウマ娘に蹴られて無事とかどうなってんですかアンタ一体、とドン引きされたようだが。

 

 単に運が良かったのか、はたまた父親譲りらしい偉躯(いく)のお陰か。

 いずれにせよ、我々が胸を撫で下ろすには十分すぎる結果であった。

 

 

「ところで、どう思う?」

「どうって、何が?」

 

 

 外ラチの上に両腕を乗せて、手帳を見返していたトレーナー君は怪訝に塗れた顔を上げて視線を向けてくる。

 

 余りにも唐突な私の問い掛け故に。

 主語も目的語もない。どころか、前後に会話の繋がりさえない。

 其処で彼はチームについてだとでも思ったのかコースの様子を眺めたが、私が問うたのは其方ではない。

 

 

「いや、わざとだったのかなと思ってね」

「わざとぉ……?」

「サイレンススズカの矯正に当たって身体の反射で何かが起こりかねないと予期したからこそ、彼女に要らぬものを背負わせまいとあの時間を選んだのでは、と考えた」

 

 

 17時以前は彼にとって一日が無駄になるか否かの瀬戸際。

 未来(さき)の自分に伝えるべき必要な情報の取捨選択をしておかねば、業務どころか生活も立ち行かない。

 自らの状況を受け入れた上で、さしたる苦も見せずに可能な範囲で最大限の能力を発揮しているが故に気付かないが、だからこそ一日において最も重要な時間帯。

 

 如何に重要な事柄に目を取られていようと、忘れることなどあるだろうか。

 

 一意専心、廃寝忘食。

 人並み外れた程度では生温い、完全に人から逸脱した集中力を有する彼には相応しい言葉だ。

 それでいて約束事において遅刻を見たことは一度もない。恐らく、私以外の相手でも同様だろう。

 時間感覚がハッキリしていると言うべきか、はたまた時間を認識するために思考が分割されていると言うべきか。

 

 ともあれそんなトレーナー君だ。

 勢いに誤魔化されてはいたが、冷静になって思い返してみると疑問は尽きない。

 

 

「いくら何でもオレのこと買い被りすぎじゃないかぁ?」

「いやに自己評価が低いな、君は。だが、少なくとも私は正当な評価だと考えているよ。で、どうなんだ?」

「まあ、そうだな。状況から察するに……5:5、いや3:7くらい……?」

「割合がそれぞれどちらの意味合いかは聞かないでおこう」

 

 

 大概な無茶に私は大袈裟に溜め息を吐き、彼はだから言いたくなかったんだと気まずそうに視線を逸らす。

 

 喜べばいいのか、憤ればいいのか。

 実に彼らしく、私もそうしたところを頼もしく感じてきたのは事実。

 しかし、こうして彼との距離が近くなればなるほど、心配は膨れ上がっていく。

 しかもそうした気質はサイレンススズカの脚とは違って矯正のしようがない。

 

 より性質が悪いのは己を軽んじた結果の暴走ではなく、問題なく解決できると怜悧な判断の下に行われていることか。

 せめて一言相談を、と言いたいところではあるのだが、私も何かと一人で背負い込み解決しがち、とエアグルーヴ達生徒会役員に苦言を呈されている以上、同じ穴の狢で何も言えない。

 

 心配が募ると同時に、これが他者から見た私の姿なのか、とも思う。

 憂わしいような、切なくなるような。それでいて喜ばしいような、誇らしいような。何とも妙な気分に浸る。

 

 

「…………ふぅ」

「む、戻ってきたようだな」

「スズカ、脚の調子はどうだ?」

「何処にも痛みはないんですけど妙に違和感があって……」

「矯正の影響だから仕方がない。暫く生活してればなくなるはずだ。違和感が続くようなら教えてくれ」

「はい、分かりました」

 

 

 コースを緩やかに3周ほどしてきたサイレンススズカは、我々の前で脚を止める。

 顔は不安に染まっていると言うよりも、不快感を感じているようでさえあった。

 

 実際のところ、彼女の脚は正常に近づいている。

 トレーナー君の測定では現時点での差は3mm~5mmほど。矯正前に比べれば遥かに良くなっている。

 ただ、どんな異常であっても長く続けばそれが基準となる。違和感を生み出しているのはその狂った基準そのもので、慣れてくればそれもなくなるだろう。

 

 問題があるとするのなら今後だ。

 トレーナー君が今回行ったのはあくまで緊急的な処置であって、脚長差の生まれた原因を排除してはいない。

 あの原因と思しき左旋回までも止めさせるつもりはないのは処置前の言葉通り。とすれば日常的な立ち方、歩き方、運動等で整えていく方向。

 また彼の仕事が増えてしまった。私自身も手を貸せない分野故、隔靴搔痒の心持ちにならざるを得なかった。

 

 

「はぁ……はぁ……オグリさん、以前に比べてコーナーの走り方が上手になっていませんこと?」

「ほっ、ほっ、ひっふー。むふふ、実はルドルフに教えてもらったんだ。ルドルフはコーナーも巧いからな」

「ひぃ……はぁ……そ、そうなんだ。どんなことを教えてもらった……?」

「それはな…………………………どう、説明すれば、いいんだ? ううん? …………もう一度皆で教えてもらおう」

「「……えぇ」」

 

 

 そうこうしている内に、オグリキャップ達も一通り走り終えて戻ってきた。

 

 彼女達の口にしたように、今日のオグリキャップのコーナーワークは見事なものだった。

 内ラチ沿いスレスレを進みながらも遠心力に振り回されず、ロスなくすっと何処までも伸びていくかのような走り。

 

 これならば私も教えた甲斐があったと言うものだ…………尤も、まともな指導とは言えなかったが。

 始めの内は理詰めで説明していたのだが、彼女には小難しい理屈は通用しなかった。

 どうしたものかと頭を悩ませた結果、私が選んだのは――――

 

 

『重心のかかる脚を意識して身体をくっと傾けて、内ラチ側の方をぐぃっと前に出すといい。そうすれば、いい、はずだ……』

『な、なるほど……! ちょっとやってみるぞ……!』

(他に手段がなかったとは言え、トレーナー君のように巧く説明できればよかったのだが。流石にあれでは……………………で、出来ているっ!)

 

 

 恐るべし芦毛の怪物。恐るべしオグリキャップ。

 あんな擬音塗れの説明で身に着けてしまうなど驚心動魄……いや、魂飛魄散の方が意味合いが近い気がする。

 

 こ、好意的に解釈するのなら、彼女は私の走りと言葉の微妙なニュアンスから最適な動きを導き出したのだろう。

 もしかしたら、こと天才性という点において彼女に勝るウマ娘は存在しないかもしれない。

 

 しかし、当然ながらメジロマックイーンとライスシャワーには説明できてない。

 頭で理解するのではなく、身体で理解していたのだから当然ではある。それでも十分に驚きだが。

 

 

「と、ところで、本当に大丈夫ですよね……?」

「スズカさん、医師のお墨付きも頂いていますし、安心なさっても……」

「で、でも、気持ちは分かるかも……」

「まぁ、それは…………トレーナーさんも何か仰っては?」

「へーきへーき。もっと酷い目にあってるから」

 

 

 幾分か軽くなっているとは言え、憂慮は尽きないもの。

 

 サイレンススズカは罪悪感混じりの。

 メジロマックイーンとライスシャワーはトレーナー君だけでなく、サイレンススズカも含めて。

 それぞれがそれぞれを慮っての心を砕いている。

 

 しかし、トレーナー君は相変わらずだ。

 確かにあの時の事故や地元で知り合った気性難のウマ娘の暴走に巻き込まれていたことを考えれば、遥かにマシだろう。

 心配をかけまいと強がっているのではなく、本当に問題がないからこその自然体。

 

 これでは逆に心労になろう。

 致し方ない。助け船を出すとしよう――――としたのだが、私より先に口を開いたのはオグリキャップだった。

 

 

「いっそのこと、皆に見せてやったらどうだ。その方が安心するだろう?」

「え゛っ」

 

 

 オグリキャップの提案に、これ以上ないほど顔を顰めるトレーナー君。

 打撲傷を見せるのが嫌というよりも、一部であれ身体を晒すのに抵抗がある様子。

 

 まあ、確かにその通りだ。

 相手が医師でもなく、担当に身体を晒すなど要らぬ誤解を招きかねないのだから。

 

 だが、その時、背筋に電流が奔った。

 

 無意識の内にサイレンススズカに視線を向けると、バッチリと目と目が合う。

 私達は無言で頷き合うと、トレーナー君に向き合って口を開く。

 

 

「良い提案だ。トレーナー君、見せてくれないか?」

「えぇ……その……そういうのは、ちょっとぉ……」

「いえ、私もその方が安心しますし、見せて下さい」

「あっ、スズカ、ラチ乗り越えたら危ないって。ルドルフもシャツの裾掴むのやめ、いや、ちょ、ちょっと、ウワーーーーーッ!! 凄い力だーーーーー!! 分かった! 分かったからちょっと待って!!」

 

 

 揃ってトレーナー君に迫り、シャツの裾に手をかける。

 

 疚しいところなど何もないが?

 これはそう、ただの診察の延長。単なる安全確認だ。サイレンススズカもきっと同じ気持ちに違いない。

 トレーナーとウマ娘は比翼連理の間柄。互いの不調は知っておいて然るべき。自然な流れだろう。そうだ、そうに間違いない。

 

 

「ったく、無理やり服脱がすなんてオレでもやらねーぞ…………周りに人はいないな。これ見られて変態扱いされねーだろうなぁ……」

 

 

 トレーナー君は鼻息荒い我々の手を何とか裾から外し、ぶつぶつと文句を漏らす。

 

 それでも我々の思いを察したのか、はたまた観念したのか。

 周囲をきょろきょろと見回して人目がないことを確認すると、また文句を垂れながらシャツの裾を捲り上げた。

 

 

「「……ご、ごくっ」」

「えぇ……何その反応……怖っ……」

 

 

 露わになった肉体に、私とサイレンススズカは生唾を飲み込んだ。

 

 その肉体を、どう表現したものか。

 とにかく何処も彼処も厚く太い。とても同じ人の身体とは思えないほどだ。

 無駄な脂肪など一切ついておらず、太い骨格に重厚な筋肉が巻き付いて構成された胸板と腹筋。

 

 女性的なものとは全く違う、逞しさと機能美を凝縮した男性的な色香に満ちている。

 最近は線が細く中性的な顔立ちの男性が持て囃されるようだが、わ、私は此方の方が……。

 

 これで我々の方が力が強いなど、とても信じられない。

 

 あの胸板に飛び込んで、両の(かいな)に抱き締められたら逃げられまい。

 あの肉体に組み敷かれ、何かを囁かれたのなら抵抗する気すら失せてしまいそうだ。

 

 男らしい色香にくらくらする。まるで顎にきつい一撃を叩きこまれたようだ。

 不甲斐ない姿を見せたジャパンカップでカツラギエースに喰らった張り手よりも効いている……!

 

 

「ひ、ひぇぇ……」

「痛そうだ」

「あ、足の形に青痣が……」

「これ逆効果じゃねぇかな? まー、ホント大丈夫だ。こんくらいなら明日か明後日には治ってる」

「これでか。私達でも一週間は治らないぞ」

「オレ、っつーか父方の家系が傷の治りがメチャクチャ早くてさ。親父とか、飯食って映画見て寝る! 男の治療と鍛錬はそいつで十分よッ! とか言いだすし」

「えぇ……何ですの、それ……」

 

 

 狙い通りというべきか、予想外の威力というべきか。

 くらくらしている私とサイレンススズカを尻目に、オグリキャップ達は問題の部分へと視線を向けていた。

 

 赤と青と黒。

 人体ではそうそう見られない色合いをした打撲傷。

 気弱で他者への共感性が強いライスシャワーなど涙目になっている。感じるはずのない痛みさえも感じているかもしれない。

 

 対して、オグリキャップとメジロマックイーンは比較的冷静だ。

 二人はトレーナー君の言葉に裏や嘘などないと信じているのか、驚いているだけ。

 

 そしてオグリキャップは何を思ったのか――いや、特に何も考えていないのか。思ったままの言葉を口にする。

 

 

「うーん。しかし、凄い腹筋だ。バキバキと言うのか、こういうのは。ライスも凄いが、元が細いからな」

「はわっ……?! お、お、お、オグリ先輩、い、言わないで~!!」

「むっ、そうか。なら、マックイーンのお腹は一番ぷにぷにだぞ」

「ひゅっ、ひゅーーーーー………………」

「どうした急に?」

「マ、マックちゃーーーーーーーーん!」

「「「………………」」」

 

 

 何の悪意もないオグリキャップに突然後ろから刺されたメジロマックイーンは、白目を剥いて喉を鳴らしながら断末魔のような呼吸をする。

 

 これは辛い。これは酷い。

 自分の身体について暴露され、顔を真っ赤にしていたライスシャワーですら余りの気の毒さに無言で目を逸らすしかない。

 

 私もサイレンススズカも同様だ。

 これであしざまに罵っているだけならばメジロマックイーンも反論の一つもしただろうが、悪意がない分だけ辛い。

 オグリキャップとしては単なる話題の転換、或いは女性らしい身体つきと言いたかったのだろうが、本人が気にしている部分を突くのは拙い……!

 

 

「だ、大丈夫だ、マックちゃん。体重も体脂肪率もちゃんと考えてっから!」

「そ、そうですわね。し、信頼していますわ、トレーナーさん!」

「お、おう…………もう仕舞ってもいいよな。ところで皆に一個聞いときたいことがあるんだけどさぁ……」

 

 

 何とか持ち直したメジロマックイーンであったが、まだ若干涙目だった。

 それを横目に見ながら、捲っていたシャツを元に戻すトレーナー君。

 

 むぅ、もう少し見ていたかったのだが。サイレンススズカも残念そうな表情をしている。

 まあ色々と確認できたから良しとしよう。あのままでは誤解をされかねない光景だったからな。うむ、疚しい所は何もなかった。

 

 しかし、トレーナー君の聞きたいこととは一体何なのか。

 改まった態度であったが、思い当たる節などない。他の皆も同じであったのだが――――

 

 

「なんかケツをシバき倒されたみたいに痛むんだけど、なんか知ってる?」

「あの時にお尻から着地しましたから、そのせいでは?」

「どうしたマックちゃん、急に流暢な口調になった上に食い気味だったぞ?!」

(ウソでしょ、私のせいに……?!)

 

 

 ――――その質問とマックイーンの気迫に、誰一人として口を開こうとした者はいなかった。

 

 

 

 

 



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『局面打開』


『きょくめんだかい』

行き詰った状況を切り開き、新たな方向を見出すこと。

「局面」は囲碁や将棋の盤面。または勝負の趨勢。転じて物事や事件、その時の状況や状態。
「打開」は、困難な状態や行き詰った状態から解決の糸口を見つけること。

そのままの意味。
そして、トレーナー自身の苦境そのものを打開できたわけではない。


 

 

 

 

 

「う~ん、参ったなこりゃ。どーしたもんか……」

 

 

 スズカの身体に隠されていた脚長差という歪みに気付いてから一週間。

 

 オレはミーティングルームで一人悩んでいた。

 悩みの余り業務机に脚を投げ出して後頭部で両手を組む大変お行儀の悪い格好で思案中。

 断っておくが、スズカに関してではない。おおよそではあるが、今後の計画は立て直しは終わって、実行の段階に入っている。

 

 骨格矯正を目的とした柔軟運動と普段から心掛ける立ち方、歩き方の指導。

 この辺りはフォーム改善の延長線上にあるようなものなので、スズカも慣れてきていて殊の外スムーズに進んだ。

 効果のほどは今後身体に変化として現れる。

 旋回癖の矯正は調子の変化を鑑みて最初(はな)から放棄しているので、毎日計測することで歪みと修正のせめぎ合いを確認するところに落ち着かせてある。

 

 しかし、最も危険なのはクラシック期と踏んではいるが、現時点でも差は存在している。

 つまり、不意に、唐突に、突然に、偶然に。脚の骨が折れてしまうだけの負荷がかかる可能性が他の娘よりも高い。

 其処で現時点の対策として、専用のインソールで短くなってしまっている分を補うようにした。

 

 スズカの足を型取り、石膏で足型を作って、それを元にインソールを作成。

 作るだけならオレ一人でも構わなかったのだが、衣裳部屋の方々に協力して貰った。

 日常用やトレーニング用だけではなくレース用のインソールも造っておきたかったからだ。

 

 脚に最も負担がかかるのがレースであり、負担軽減を求めているのならば最も必要になるのはレース用。

 そして、そういった身を守るための道具に関する規定も制限も結構厳しいのである。

 

 G3、G2で使用する体操服やシューズは指定されたものを使用せねばならず、専用の蹄鉄を使用している場合は主催者側のチェックが入る。

 G1も勝負服は様々な見た目や種類はあるが素材から規定が存在していて、それ以外のものを使用していようものなら即失格。

 個人の身長や体重、戦績まで考慮に入れた上で重さも範囲内に収めねばならない。

 全ては公正な勝負を展開させるための措置ではあるが、公正さを追求する規定を設ける側、衣裳を製作する側の並々ならぬ努力には頭が下がる。

 

 流石に、そうした衣装規定は専門家に任せた方が安心確実ということで、素材と情報提供をお願いした次第だ。

 

 結果はまだ分からないが、スズカは違和感を覚えていない様子。

 走っている最中に見せていたヨレも確実に少なくなってきている。後は矯正に合わせてインソールを薄くする方向で調整していく。

 そんなわけでスズカに関しては予断を許さないが、良い方向に向かっているといったところ。

 

 

「マックイーンはマジで問題があるように思えないのがなぁ……」

 

 

 目下、最大の悩みはマックイーンに抱いた不安感。

 自身でも説明できない感覚によるところが大きいものの、日増し夜ごとに募っていく。

 ただ、それを理屈と結びつけるだけの要素が、まるで見当たらない。

 

 ルドルフのような高い能力と育ちの嚙み合わせの悪さによって生じた競技における瑕疵ではなく。

 ライスのような生まれ持った精神性故に、超えてはならない領域へと踏み込んでいける危険性ではなく。

 オグリのような急激な環境の変化によって、上がった無意識の悲鳴ではなく。

 スズカのような日常の些細な積み重ねによる歪みでもない。

 

 確かに、マックイーンはあれで暴走特急みたいなところはある。

 オレと出会う以前は、どうしようもない体質を何とかしようと無茶な食事制限やトレーニングを繰り返していたらしい。

 この辺りは本人の申告ではなく、見かねていたイクノディクタスによる証言なので信憑性、客観性ともに十二分。

 だが、本質的には当人にブレーキがないタイプではなく、どちらかと言えばブレーキを踏み忘れているタイプ。

 頑固なところはあるにはあるが、外から口を挟んで理を説いてやればすんなりと非を認めて受け入れてくれる。

 

 性能面に関しても爆発的な伸び方こそしないものの、限界に達するまで右肩上がりで強くなり続けるタイプ。

 成長曲線や戦績が一定であることは自他共に力量を正確に把握しやすく、無理無謀に至らない要素になる。

 走り方も典型的な先行型。瞬発力勝負はせず、差しや追い込みに比べて脚への負担も少ない。

 

 安定感と言う一点においてはルドルフ以上。

 肉体面においても、精神面においても欠点が少ない。つまり負ける要素は元より、怪我や病気になる要素も少ないということだ。

 

 

「となると、別のアプローチだが、どうしたもんか」

 

 

 スズカのように日常の中に何かが潜んでいる点も否定はできない。

 だが、オレ自身が観察し、色々と聞いて回ってみても、特に問題があるようには思えない。

 野球は見るのもやるのも好きだとか、スイーツが好きで食い意地が張ってるだとか、クソ映画が好きだとか。

 ふふっ、あんな御令嬢みたいな見た目しといておもしれー…………いや面白がってる場合じゃなかった。

 

 出会ってから二ヵ月ちょっと。

 オレ自身も含めてチーム全員に何らかの問題を抱えている以上、マックイーンだけを集中的にとはいかないが時間は十分に割いてきた。

 それで何の見当もつかないとなると、もっと根が深い問題であり、探る方法そのものを一から見直した方がいいかもしれない。

 

 

「見直そうにも取っ掛かりがなきゃ…………」

 

 

 これまでとは全く別の視線、別のアプローチを考えるが、何処から手を付けたものか。

 何の手掛かりもない状態からでは、それこそ手当たり次第に試していくしかないのだが、藁山の中から針を探すようなもの。

 何らかの新しい理論を追求するのならばそれでもいい。科学なんかも気が遠くなるような試行錯誤と努力の末に、普遍性や再現性を得るものだ。

 しかし、そうした手段が許されるのは時間的な制約がない場合だ。生憎と、こっちにはタイムリミットがあると思われる。

 

 しかも、時間の線引きが何処に敷かれているのか分からない状態。

 時間表示の見えない状態で時限爆弾を解除しているようなもん。

 ある程度は当たりをつけてから取り掛からないと、絶対に間に合わない。

 

 余りの難題に机の上から足を下ろして、そのまま頭を抱えた。

 

 そうこうしている間にも、どんどん自分が追い込まれていく感覚を覚える。

 頭は確かに回っているのに、胃が引っ繰り返って吐き気を覚え、背筋が薄ら寒くなる。

 所詮は感覚だけの話、気のせいで済ませてしまえばいいだろうという甘い囁きと、絶対に見過ごしてはならないという直感が同時に襲い掛かってくる。

 

 堂々巡りの二律背反。

 その上、健忘に関して不安や悩みは尽きない。

 皆のお陰で精神的な調子は取り戻してきている。だが、だからと言って問題が解決したわけではない。

 

 現実は変わらず其処にあり、情け容赦なく追い詰めてくる。

 

 自分の精神が壊れていく音が聞こえるかのようだ。

 硝子が砕けるような一瞬で済むようなものではなく、まるでヤスリがけするように、ゆっくりとしていながら確実に削り取られていく。

 

 マックイーンの将来に対する不安が、自らに対する不安と綯い交ぜになる。

 不意に叫び出したくなった。今まで培ってきた自分自身を投げ捨てて、感情のままに叫びたい。

 

 情けない姿を誰にも見せたくないからとか。

 誰かを不安にさせるような顔を見せたくないからとか。

 そんな他者への気遣いや自分を良く見せたいという見栄さえない。

 

 そうでもしなければ立ち行かない。

 そうでもしなければ自分を保てない。

 

 絶叫と言うよりも情けない悲鳴が喉元までせり上がり、助けを求めるように視線を彷徨わせ――――

 

 

「………………いや」

 

 

 ――――ふと視界へと入ったものに、不安は掻き消された。 

 

 目にしたのは常に作り続けているマックイーンの資料と、それに挟まれていたメジロ出身の娘達のプロフィール。

 

 業界の名家だけあって、メジロの息のかかった娘は多い。

 何かのヒントになるものがあるかも、或いは今後鎬を削るライバルとなり得る、と情報を集めていた。

 

 既に何度となく目を通してきた資料とプロフィールだが、新たに得たのは閃き、別のアプローチ方法だった。

 

 

「……その手があるか!」

 

 

 既に不安は駆逐され、成果を得られるかは別として、やれることは見つかった。ならば、後は其処に手を伸ばすだけ。

 

 通常のウマ娘では使えない、名家出身のウマ娘でしか使えない手だ。

 長くレース業界に関わり、大きな共同体を形成して独自のノウハウを手にしている家ならば、或いは。

 

 どう転ぶかは分からないが、可能性があるのならば、やらない理由はない。

 

 まず必要なのは承認か。

 となれば、頼る相手は決まっている。

 

 

「そうと決まれば………………たづなさんですか?」

 

 

 オレは机の内線の受話器に手を伸ばし、まずは理事長と話すべく電話をかけるのだった。

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

 後日、某県某所。

 広大な敷地に、巨大な庭園と模擬レース場まで備えた大豪邸にオレは居た。

 

 

「と、と、と、トレーナーさんがどうして本家(ここ)に居ますのぉ~~~~~~~~!?!?!」

「へへっ、来ちゃった」

 

 

 そう、シンボリに並ぶ大財閥メジロ家。

 その総本山に当たる本家に、オレは乗り込んでいたのであった――――!

 

 

 

 

 



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