恋するメジロマックイーンは怪我にも抗いたい (ジャスSS)
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愛しい貴方に、触れる為の勇気を

 ──屈腱炎、骨折、繋靭帯炎……

 この言葉達は皆、全てのウマ娘に関わる者に恐怖を与える。

 レースからの長期離脱は当たり前、引退の原因になることも珍しくなく、下手をすれば走ることもままならなくなる。

 高く高く素質が評価されていても、どれだけレースの実績を積んでいても、全ての人が活躍を願っていても、これらの怪我の前にウマ娘は無力と化す。

 神様はただ、無作為にウマ娘を選び、一人嘲笑うだけだ。

 故に、彼女たちの育成を承るトレーナーたちは疲労や事故に誰よりも敏感になる、いや、ならざるをえないのだ。

 最高で時速60kmのスピードを叩き出すウマ娘。

 当然そのスピードを生み出すパワーは果てしなく、たった2本の脚で支えるにはあまりに過ぎた代物だった。

 例え頑強と名高いウマ娘でも、最後までケガと無縁で競争生活を終えられる者は相当に少ない。

 だからこそ"無事是名バ"ということわざは存在するのだろうし、そうした者を称える為に必要とされている。

 それほど、レースの世界というのは過酷で、厳しい世界なのだ。

 しかし現実には多くのウマ娘は怪我を負う。

 今日もまた、一人のウマ娘に苦しみが襲う──

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

「あと1ハロン! 目標は11秒後半だぞ!」

 

 ここは"日本ウマ娘トレーニングセンター学園"。 通称トレセン学園。

 URA直属のウマ娘養成機関で、国内最高峰の設備を整えており、当然ここに入ってくる子たちもまた国内最高峰。

 常にハイレベルなレースが見られるトゥインクル・シリーズの多くは、ここに入っている子らによって構成されている。

 そんな彼女たちは日々トレーナーと呼ばれる人たちの指導を受け、その能力を磨いている。

 

「──よし! ラスト11.8! 自己最高も更新だ!」

 

 そんなプロフェッショナル軍団の中にも当然序列はつけられる。

 特にトゥインクル・シリーズで最高ランクに位置付けられているレース、GⅠレースに出走するというだけでも相当な試練が待ち受けている。

 そんなGⅠレースを制する者は多くの人に敬われ、嫉妬され、様々な注目を一挙に集める。

 そんなGⅠウマ娘ですら、真に強いウマ娘に完膚なきまでに敗け、屈辱を味わうことがある。

 

「ふふん、大レースが近づいてるですもの。 これくらいの時計は出せますわ」

 

 坂を凄まじい勢いで駆け上ったこのウマ娘、"メジロマックイーン"は現役最強と目された選手であった。

 

「しかし凄いな。 まさかこの時期にしてまだまだ進化し続けるとは…… 全く末恐ろしいよ」

「貴重な誉め言葉として、ありがたく受け取りますわ」

 

 大規模な組織改編があったチーム・シリウスのエース。

 ここまで天皇賞(春)2連覇を含むGⅠ4勝。

 先行してゴール前に相手を抜き去る模範的なレースで、多くのウマ娘を絶望の底に叩き落したターフの名優。

 そのお嬢様然とした振る舞いも含め、多くの人の憧れを背負っているウマ娘だ。

 

「おいおい、俺はちゃんと褒めるときは褒めるぞ」

「あら、そうでしたの? 最近はライスさんにお熱のようでしたから、てっきり褒められていないと勘違いしてしまいましたわ」

 

 そんな模範生といえるマックイーンだが、彼女とて一人の少女、人間である。

 一心同体ともいえる程の信頼関係を結んだトレーナーに対し、嫉妬心を込めた意地悪も言いたくなるものだ。

 

「ライスにお熱、か…… まあ現役も長いマックイーンに対して、ライスはまだまだ未熟なところもあるからな。 マックイーンが一人でも完璧にこなせるのもあって、そうなってしまうのも仕方ないかな」

 

 だがそんなマックイーンの隠された心はあまり届いてない様子であった。

 

「むっ……確かに、そうですわね」

「ん? どうしたんだそんなに機嫌を悪くして」

「はぁ……なんでもないですわ。 全くもう」

 

 あまりの鈍感っぷりに、さすがにお嬢様の口からため息が漏れる。

 彼女の可愛らしいお耳も、つい垂れてしまう。

 だがそれを見てもなお、彼女の想い人は理解をしきれない。

 

「……この唐変木」

「え? 何か言ったか?」

「別に聞こえなくてもいいですわ! もう一本上ってきます!」

 

 そう恨み節を言って、マックイーンはいそいそと坂下に戻っていく。

 嵐が過ぎ去ったかのように、その場には静寂が走る。

 

「ハァ全く、おめぇーは鈍感すぎんだよなあ」

 

 やれやれといった様子で、マックイーンと同じシリウス所属のゴールドシップが近づいてきた。

 

「ん、確かに言われてみれば……まだ彼女一人ではままならないようなこともあったりするのだろうな。 やっぱりしっかりと見ていかないといけないのかな」

「やれやれホントに……いや、それはそれでオッケーなのか?」

「何を言ってるんだゴルシ」

「いやぁ? なんでもないですわよぉ?」

 

 本来のゴールドシップからはとても似つかわしくない高貴な口調を可笑しく感じたのか、彼女たちを監督する立場であるチーム・シリウスのトレーナーは笑みをこぼした。

 

「……おいトレーナー、ちょっと気持ち悪いぞ」

「え、そうか?」

「あぁ。 ま、マックイーンが見たらズッキューンとなってたかもしんねーが、普通に見たらただの不審者に過ぎないからな。 外ではすんなよ、後生の為にも……な」

 

 意味深長なことを言い残し、彼女もまた坂下へと戻っていく。

 台風が過ぎ去ったかのように、再びその場には静寂が戻る。

 

「──まあ賑やかなのは良いことだよな。 数年前と比べると特に……」

 

 かつての寂れた日々を思い出していると、坂下から声が響いた。

 

「トレーナーさーん! 今から走りますわよー!」

「分かったぞー! よーい……ドン!」

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

「メディカルチェック? レース直前のこの時期にか?」

「ええ……正直、必要ないと考えてはいたのですが……」

 

 坂路トレーニングの後、マックイーンは俺を部室の外へ呼び出すなりそう告げた。

 

「考えてはいた……ということは、今は必要だと?」

「はい。 今朝の話になるのですが……」

 

 聞くところによると、今朝学園の保健室周辺を歩いてたところ、保健室の先生に歩様の乱れを指摘されたらしい。

 マックイーン自身は全く認知していなかったので最初は気にしないようにしたらしいが……秋の大レース、天皇賞(秋)を控えている手前、念のためということで受診を決意したようだ。

 

「まあ最終追い切りは今日終わったしな。 今んとこ調子はばっちりだし、これからはレースに向けての調整期間に入るからな。 分かった、行ってこい」

「感謝いたしますわ、トレーナーさん」

 

 そう言うと、マックイーンは深々と礼をしてくれた。

 こう一つ一つの所作を見ると、本当にお嬢様なんだなあ……

 

「しかし歩様が乱れてる、か。 確かに言われてみれば乱れてるように見えるな」

「あら、トレーナーさんも気づかなかったのですの? それならわたくしが気づけないのも納得ですわ」

「おいおい、さすがに自分のことなんだからさ……」

「言ったでしょう? わたくしと貴方は一心同体。 お互いの体の変調は、お互いに気づくものですわ」

 

 それは少し、一心同体の意味を履き違えてるような気もするが……

 とは言え、自分が担当する子の異常に気づけなかったのは素直に悔しい。

 今回はたまたま発見してくれたから良かったものの、本来は自分が見つけなくてはいけないはず。

 偶然による幸運がなかったら、彼女はその異常を抱えたまま、天皇賞に出走していたことになるのだから──

 

「しかしわたくしたちで気づけなかったことに気づいたあの保健室の先生は一体何者なのでしょう……」

「噂によると、アメリカでもう絶対に走れないと診断されたウマ娘を再起寸前まで蘇らせた凄腕だとか」

「へえ──ん? 再起寸前ということはまさか」

「ああ。 結局は故障が再発してしまって、レースから身を引いてしまったんだとよ。 とは言え復帰寸前まで行くんだから、すごいよなあ」

 

 俺には医学の知識があまりない。

 だから羨ましいとまでは思わないが、もしドクターになれるのならこんな人になってみたいな──

 

「ですが能力喪失と診断されたウマ娘の治療は、過酷を極めるものと聞きましたわ。 相当な苦しみを何日も、何か月も耐えて……」

「そうだな。 俺も実際に見たことはないんだが、先生からそういった話は何度も聞かされたことはある。 きっと、俺たちじゃ完璧に想像することもできないほど、その苦しみは壮絶なものなんだろうな」

 

 そんな過酷な闘いでも、結果としてレース復帰を勝ち得れば最終的には喜びに変わる。

 だが、実際に起きた闘いの末には──

 

「でもそれらの救われない点はさ、そうした大怪我からレースに戻れた子がいまだにいないことだろうな……」

「ええ……どれだけ辛い思いをしても、何も得ることなく終わってしまう……神様に慈悲というものはないのだと、強く思い知らされますわ」

 

 慈愛に満ちたマックイーンの顔を見る。

 

 

 

 ──もし俺の担当が──マックイーンが、そのような怪我を負ってしまったら。

 俺は彼女の為に、どのような判断ができるだろうか。

 彼女の願いを叶えようと考えるのは当然だ。

 だがその願いが切り開かれたことのない茨の道だったら? 

 苦しみの先に何も生まれないと分かった闘いだったら? 

 俺は──どんな判断を下すべきなんだ──? 

 

 

 

「……トレーナーさん?」

「……うお、どうしたまじまじと顔覗いて」

「そ、それはこちらのセリフですわ…… 貴方、さっきからわたくしの顔を見つめ続けていたのですわよ」

「いや……ちょっとな……」

 

 先ほどまでの思案をマックイーンに素直に伝えた。

 一瞬でも考える素振りを見せるのかな、と思ったが、意外にもすぐにキッパリとした顔で──

 

「──ふふっ。 本当に、トレーナーさんは心配性なんですから」

「え……そうなのか?」

「ええそうです。 いいですか、わたくしは貴方と共にあり続けると決めたのです。 この決意は決して揺るがず──そして、誰にも歪められないほど固いですわ。 例え相手が神様であっても、です」

 

 力強く話すマックイーンの目は、レース前と同じように炎をたぎらせている。

 この言葉たちにはレースと同じだけの想いがあるということなのだろうか。

 

「身体を壊すことなく、気持ちを切らすことなく、最後のレースまで貴方の隣で走り続けますわ。 ですから、そんな簡単に貴方の前から消えるようなことなど、決してありえるはずのない出来事ですの。 というより、そんなものはわたくしが阻止いたしますわ」

「ははは、それは頼もしいもんだな」

「もう、わたくしは真剣に申しておりますのに……」

「でもありがとう。 おかげで心配事が一つ減ったよ」

「それならよかったですわ。 まったく、トレーナーさんは心配しすぎですのよ。 このわたくしを誰だと思ってるのです?」

 

 さっきのような鬼気迫る表情は溶け、いつもの柔和な顔に戻った。

 やっぱり、普段はこの顔の方が安心するな。

 

「わざわざ言わせる必要あるかい、それ」

「む……本当にトレーナーさんはつれないんですから……」

 

 この顔でいるときは、からかうとこういう面白い表情を見せてくれる。

 その表情を見るが為にからかう──というのは間違いではない、大正解だ。

 

「まあ恐らく、明日診察を受けるからそんな心配をしてしまったのでしょうね。 ですがこれに関しては問題ないでしょう。 わたくし自身に違和感はないですし、今日の坂路でも自己記録を更新するほどでしたから」

「そうであったらいいな。 それこそ、去年の骨折のようなことはもうこりごりだ」

「あ……も、もう! その話は今しないでくださいませ!」

 

 やっぱり、マックイーンはからかいがある。

 それだけの隙があるということでもあるんだろうけど。

 

 ──と、もうこんな時間になってたか。

 

「さてそんな与太話をしてるうちに……もう19時だ。 どうせ明日は早いんだろ? 今日のトレーニングの疲労抜きの為にも、早めに戻っておいた方がいいんじゃないか?」

「……ふう。 そうですわね。 向こうではゴールドシップさんがこの時間帯というのに騒がしすぎてますから、早く戻らなくてはいけませんわ」

 

 マックイーンが目線を送った先から、ゴールドシップのいたずらな大声と、それを制止しようとするライスシャワーの声が聞こえてくる。

 

「またあいつ……ホント苦情を言われないだけ奇跡だな」

「きっと巧くやってるのでしょうね。 少し締めてきますわ」

 

 そう言うやいなや、マックイーンはチームメイトのいる部屋の方へ向かった。

 しかし締めてくるって……間違っても出してはいけない言葉でしょうが……

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

「それではトレーナーさん、また明日に会いましょう」

 

 ゴールドシップさんが起こした騒ぎを鎮圧した後、私たちは帰宅の途へとつくことになった。

 シリウスでは暗くなるまで学園にいた際、トレーナーさんが寮まで私達の帰途についてきてくれる。

 "夜道ではどんなのがいるかわからないから──"という理由でわざわざついてきてくれるのだ。

 一秒でもトレーナーさんといたい私からすれば、こんなのは嬉しい以外の何物でもない。

 いつもは学園までの時間が、少しだけだけど延長される。

 些細かもしれないけど、その些細な時間を愛おしく思わざるをえない。

 そんな時間が今日もまた──終わってしまう。

 

「いやいやマックイーン、明日は診察だろ? 次に会うのは明後日だろうが」

 

 確かにそうかもしれない。

 でも私はここで離れることが辛くて──明日も会えないかもしれないという不安で、つい嘘をついてしまう。

 

「きっと、すぐ終わりますわ。 そうなれば早めに学園に戻れるでしょうし、練習も少しできるかもしれません」

「ははは、そうなるのに越したことはないけど……マックイーン自身の体調に関わることなんだし、ちゃんと診てもらうんだぞ?」

「そこは心配しなくても大丈夫ですわ。 入念に状態を見てもらったうえで、万全の状態で戻ってきます」

 

 確固たる根拠はない。

 でも、自信はある。

 胸の奥から、自信が湧き出て仕方ないのだ。

 

「まあ戻ってこなくてもいいけどなー? 練習相手には困んねーし、な? ライス?」

「え? う、うん! あ、でもこれは決して、マックイーンさんが必要ないわけじゃなくて……」

 

 普通ならとても失礼なゴールドシップさんの発言と、それをフォローするライスさん。

 ある意味二人らしさを感じる掛け合いには、つい心地よい気持ちになる。

 

「わかってますわよ、ライスさん。 でももうライスさんはわたくしをも破って、現役最強のステイヤーとなってます。 わたくしなどいなくとも、チームを引っ張っていけるだけの実力を既に有してるのも、また事実ですわ」

「え、えぇ!? そんな、ライスまだまだマックイーンさんには遠く及ばないし、それに、この前のオールカマーではターボちゃんの逃げ切り許した上に他の子にも負けて4着だったし……」

「それは、ライスさんの場合は距離が足りないからしょうがないですわ。 200m、300mと伸びるジャパンカップと有マ記念ではきっと勝ち負けできますわよ」

「マックイーンさん……」

 

 ライスさんを励ます為、好走を意味する"勝ち負け"という単語を使ってしまった。

 でも、実際には"勝ち"はもたらされることはない。

 なぜならば──

 

「ですが、本番で勝つのはどちらもわたくしですわ。 クラシックディスタンスの府中、暮れの中山では絶対に負けませんから」

「う、うん! ライスも、絶対にマックイーンさんに勝つから!」

 

 さすがはライスさんです。

 あの天皇賞から秘めたる自信が解放されていて、相当手ごわくなってます。

 

「ですが、わたくしだって負けるわけには──」

「はいはい二人とも、ライバル心むき出しにするのは嬉しいけどさ、まだジャパンカップどころか天皇賞も終わってないんだから。 特にライスはジャパンカップに一点集中してるわけだし……」

「もちろんわかってるよトレーナーさん。 秋の天皇賞は、マックイーンさんの応援に全力を注ぐんだもんね」

「確かに……わたくしも、まずは目の前の天皇賞へ気持ちを注がなくてはいけませんわね」

 

 途中でトレーナーさんに遮られたことで、失った落ち着きを取り戻せた。

 いくら雪辱の秋シーズンにしたいからといっても、さすがに我を失ってしまうのはダメだ。

 自らのリズムを乱さないためにも、そしてトレーナーさんからの期待に応える為にも。

 

「そんじゃ、夜更かししないでちゃんと早く寝るようにね」

「はーい!」

 

 ゴールドシップさんが勢いよく返事する。

 それに釣られて、他の子たちも言葉を返していく。

 もちろんわたくしも──と思っていたら。

 

「特にマックイーンは気を付けて。 レースも近いんだしさ」

 

 特別に、私だけに気を遣っていただいた。

 私はそれが嬉しくてつい──

 

「えぇ! もちろんですわ!」

「お、おう。 それじゃ、みんなおやすみなさい」

「おう! グッドナイトだぜ、トレーナー!」

「え、えぇ。 おやすみなさい、トレーナーさん」

 

 少しはしゃぎすぎてしまいましたわ……そんなつもりなかったですのに。

 

「はい、おやすみ、トレーナーさん」

 

 脳内で反省を考え込んでいたら、みんながトレーナーさんの元を離れて寮へ向かっいく。

 私はそれについていかなくてはいけない。

 でも、離れたくない──私を襲うジレンマが、この脚の歩みを止めてしまう。

 

「おいマックイーン? 早く来ねえとお前の夕飯食っちまうぞー?」

 

 あぁ、離れなくてはいけませんよ、マックイーン。

 目の前の愛しい人(トレーナーさん)も困り果てた顔をしてらっしゃいますわ。

 早く脚を動かして。

 あの人を困らせてはいけませんわ──

 

 

 でも、離れられない。

 ならいっそ──

 

「っ!? マックイーン!?」

 

 彼の手を握る。

 手のぬくもりだけでも、覚えておきたい。

 本当は抱き着いて全身でぬくもりを感じたいが、それは今の私にはまだ許されてない行為。

 だからこんな風に、物足りなくても手を握ることしかできない。

 それが、今の私に出せる最大限の愛情表現なんだ。

 

「……それでは、良い夢を!」

 

 そんなことを言ってるけれど、きっと良い夢をみれるのは私の方だろうな──

 

「あ、あぁ! 良い夢を!」

 

 恥ずかしくてパッと振り返ってしまったから、トレーナーさんがどんなお顔をしてるかまでは知ることができない。

 でも声色は少し上ずってるように聞こえるし、もしかしたら顔を赤らめてるのかも──

 いや、それの方ならわたくしの方がずっと赤いのでしょうね。

 それも、風邪かと見間違えるほどに──

 

 

 

「マックイーン……お前もまったく、隅に置かねえなあ!」

「いったいなんのことですの? 先ほどのことなら、ただの親愛表現に過ぎない行為ですわよ」

「マックイーンさん……それはさすがに無理があるんじゃ……」

「もううるさいですわね! 皆さんのお夕飯、全ていただいてもよろしくて!?」

「なに!? まさかの大食い大会緊急開催か!? その分野じゃぜってー負けねえぞおい!」

「そういうことでもありませんわ!」

 

 なんやかんやでいつものような会話になり、それにみんなも乗っかっていった。

 さりげなくスルーしかけましたが……ゴールドシップさんの気遣いにはちゃんと感謝しないといけませんわね。

 あの人も隅に置けませんから……

 

 

 

 ──しかし、先ほど感じたあの人の手のぬくもり。

 徐々に冬が近づいてるからか、少し冷たかったような気もする。

 自分の温かい手で少しでも温められたら、勇気を出した意味もあるというものだ。

 

「……大きかったな、あの人の手」

 

 いえ──決してあの人の為ではない。

 自分勝手に、あの人の手を握ったに過ぎないんだ。

 そうして掴み得たあの人の感触──

 

「……明日まで、しばしの我慢ですわね」

 

 その手で口を覆い、明日へ、その先へと、思いを馳せた。

 

 

 

 

 




「おいおい……俺様のマックイーンが見知らぬ男に惚れちゃってんじゃねえか!?」
「え……? スズカさん! なんか変な人が!」
「スぺちゃん…… (現実における)私たちのお父さんよ……」



 桜花賞も近づいてますね。

 最低でも今年のダービーまでには終わらせる気持ちで頑張ります。





 今回の謎ウマ娘はサンデーサイレンス、日本競馬を大きく変えた超スーパースゴイ種牡馬です。
 実はメジロマックイーンとは繋養先の放牧地が隣同士で、すこぶる仲がよかったそうです。
 スペシャルウィークやサイレンススズカの父ですが、それ以外にもアグネスタキオン、アドマイヤベガ、マンハッタンカフェ……とまあ、とんでもないほどGⅠ馬を生んできたのです。


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愛しい貴方の、思い出を(上)

 ────

 10月28日、秋の天皇賞まであと三日の今日。

 私、メジロマックイーンは足のメディカルチェックの為、実家のメジロ家へ向かった。

 午前七時に爺やを呼び、冬の到来を徐々に感じる街中を抜け、たどり着いた我が故郷。

 着いたやいなや、主治医に足の状態を診てもらう。

 

「……お嬢様、少々お手数をおかけしますが、超音波検査を受けていただきます」

 

 すぐに終わらせて、一刻も早くチームに合流する──という予想は簡単に成されると思ったが、意外にも時間がかかってしまうようだ。

 まったく……心配しすぎだと何度も言いましたのに……

 

 

 

 機器の準備があるから、という理由で、私はしばし自室で待機することになった。

 学園に入るまで過ごしてきた、私専用の部屋──この家を離れてから数年経つが、あの時とレイアウトは全く変わらない。

 唯一変わってる点は、おもちゃ等によって少々散らかってたのが新居同然のように整然としていることくらいだろうか。

 

「しかし……この様子なら小学校の卒業アルバムなどもちゃんと残ってるのかしら」

 

 つい気になってしまったので、記憶を頼りに探してみる。

 この数年間、休暇を利用してこの家に戻ることは何度かあったものの、会食やらトレーニングやらの為、ゆっくりとこの部屋でくつろぐような時間はなかった。

 だからこそ、少しばかしの興味を持ったのだが──たいして思い入れもなかった小学生時代の代物なんて覚えてるはずもなく、思い当たるところには目当ての物はなかった。

 しかしその代わり、幼稚園の卒園アルバムが姿を現してくれた。

 

「まさか10年以上も前のが見つかるなんて……最後に見たのはいつだったかしら……」

 

 学園に入るまで、こういう物には興味を示してなかった自分。

 せいぜい卒業の際に一回目を通すくらいだろうから──まさか10年ぶりなのだろうか。

 全く記憶にないこのアルバムの内容に、新鮮な懐かしさを期待して目を通してみる、が。

 

「うーん……さすがに昔過ぎて、懐かしさというのを感じられませんわ……」

 

 大体の写真に思い出が追い付かなく、ただでさえ少ない、自分が出ている写真を見ても何も感じ取れない。

 いかに自分にとって真っ白な時代だったのか──今になってだが、よく分かってしまう。

 

「はぁ、少しでも期待してしまった自分が馬鹿馬鹿しく思えますわ……ん?」

 

 もう閉じてしまおうか──そう思っていた刹那、アルバムの中の一コーナーに目を奪われた。

 

「『メジロマックイーン』『将来の夢』……」

 

 それは、各園児が書いたこれからの夢や希望などをまとめたものであった。

 そして当然、自分が書いたものもそこには記載されている。

 

「……す、素敵な旦那様を見つけて……け、結婚して良いお嫁さんになる!?」

 

 思わず大きな声を出してしまった……いや、それ相応の衝撃であるのは事実だけども。

 しかし、こんなにも恥ずかしい夢を書いていたなんて……幼稚園児が持つ無邪気さというものを、改めて思い知らされる。

 だがしかし、この夢は意外にも実現するかもしれない。

 なぜなら、今の私には──

 

「ってもう! わたくしったら、何て破廉恥なことを考えてますの!」

 

 身についた虫を払うように、右手で煩悩を払う。

 気を取り直し、続けて書いてあった文も見てみる。

 

「『小学校でやってみたいこと』『ずっとげんきにすごす』……なるほど、納得しましたわ」

 

 そこに書いてあったのは、エネルギーが有り余る幼稚園児には本来似つかわしくない言葉。

 しかし自然と納得する、というのもそれは自分にとって思い当たる節があるからだ。

 

「そういえば、いつの間にか影も形もなくなってましたわね。 病弱な体というものが」

 

 そうして私は、過去に思いを馳せた。

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

「おかあさま、きょうもがっこうにいってはいけないのですか? もうおねつはさがりましたのに」

 

 私は子供のころ、とても体質が弱かった。

 頻繁に熱を出し、足を痛め、その度に外出を禁じられる。

 だから幼稚園や小学校に行けない日も多く、最初はそのことをとても嫌がっていた。

 

「学校には大切なお友達が沢山いるでしょう? その子たちに風邪をうつしてしまってもいいの?」

 

 幼稚園でも小学校でも、最初は友達が沢山できた。

 今思えば、私がメジロ家のウマ娘だからそれ目当てだったのだろうが──何も知らない当時の私は、その友達のことが大好きで、その子たちに会える場所も大好きだった。

 

「それはいやです! わたくし、みんなのことがだいすきですもの!」

「えぇ、わかったわマックちゃん。 我慢出来てあなたは偉いわね」

 

 本音を言うと、皆に会いたい。

 でも母に言われた以上、それに反抗する意義も特になかった。

 

 

 

 そうして休みを頻繁に挟んでいるうちに、やがて私の周りから友達はいなくなっていった。

 皆が楽しく遊んでいる場に、私一人だけいない。

 そうした日々を繰り返していけば、徐々に疎遠になるのは必然であろう。

 

「マックちゃん、これはあなたの足を守るためなのよ。 分かってくれる?」

「はい、わかりましたおかあさま」

 

 気が付けば、私は自分から学校に行きたいと言わなくなった。

 行っても何も楽しくない、それならここで、気心の知れた者と戯れた方がいい。

 それは体質が改善され始め、休むことが減った高学年になっても、何も変わらなかった。

 

 

 

 ────

「それでは、新入生総代、メジロマックイーンさん──」

 

 私は誇り高きメジロ家の令嬢として、大事に、そして厳しく育てられた。

 体質の関係であまり運動ができなかった分、自室で勉学に励み、外ではなく内との関係性が深かったことで、家が望むような性格に育っていった。

 やがて体質改善に目途が立つと、軽めではあるがレースに出る為のトレーニングを積むようになった。

 すると、そこで自分も驚くほどの良い動きを見せたことで、気が付けば周りからの期待を大きく受けるように。

 周囲の推薦を受けた私は、小学校卒業と同時にトレセン学園への受験を決めた。

 簡単には受からない──そう聞いていたトレセン学園の試験も、筆記試験で最高点、実技試験でトップクラスの成績を記録したことで一発合格。

 それどころか、なんと首席をも獲得してしまい、新入生の代表として入学式でスピーチすることにもなった。

 

「──組、メジロマックイーンです。 まずは本日、このような──」

 

 

 

 案の定、入学当初の私の周りには人で溢れていた。

 首席だから、メジロ家だから、愛想がいいから──色んな理由があったのだろうが、そんなことはどうでもいい。

 久しく忘れていた、友達と共にある日常──これほどまでに、胸が温かくなるとは思わなかった。

 決して離したくない、忘れたくない。

 私は強く、誰よりも願った。

 

 

 

 でも現実は非情だ。

 これまでとは違う、トレセン学園のハードなトレーニングにこの身体が持たずに、怪我を負ってしまった。

 これで周囲との差が生まれてしまう──そう思った私は、怪我が治って以降、その身に到底合わない厳しいトレーニングを課すようになった。

 当然、すぐに怪我をする。

 また周囲との差を意識した私は、より負荷を増したトレーニングをする。

 それでまた怪我をする。

 こうして、このメジロマックイーンは抜けられない負の螺旋階段にハマってしまったのだ。

 

「分かりました。 熱が出ているのであれば、無理は出来ませんからね。 こちらから先生に伝えておきます」

「感謝しますわ、イクノ」

「別に大丈夫ですよ。 では、お大事に」

 

 抜け出せない地獄に苦悩する私に、やがて元の病弱さが顔を出す。

 怪我と病に挟まれ、私は安定した学校生活を送ることも難しくなった。

 そんな私に待ち受けるのは当然、他人と感じる微妙な距離感。

 あぁ、まただ──身に染みて消えない、嫌な思い出が蘇ってくる。

 しょうがない、これなら前と同じように、誰とも関わらず、無害な女として過ごしていこう──だがその時の私は、どこか気がふれていた。

 もうこんなのは懲り懲りだ、でも、どうすることもできない──そう考えるうちに、私は周りに牙を向け、空しく威嚇するか弱い虎と化した。

 自分を囲むように壁を作るだけでなく、そこから刃物を突き出す。

 いつしか攻撃的になった私を、ある人は煙たがって自ずから遠ざかり、ある人は恐怖さえ覚えて無意識のうちに排除しようとする。

 無害な少女だった私は歳を重ね、危害を与える女へと姿を化し、そして孤独の深みへと沈んでいった。

 

 

 

 ────

 学園に入って一年。

 昨秋から始まった選抜レースの嵐も終わりが近づき、私たち世代のメイクデビューが始まるまで二か月を切った。

 当然多くのクラスメイトがトレーナーとの契約をすませており、各々デビューに向けたトレーニングを積んでいた。

 その中には、私と同様に体質が弱い子もいた。

 彼女たちは体が弱いなりに、独自の方法でトレーナー陣にアピールして契約を勝ち取っていった。

 それに対し、当の私は──何もしていなかった。

 元々トレーニング不足を理由にレースに一切出ていなかったが、それを補うような行動を何も起こしていなかったのだ。

 このままいけば、別の学科に移ってもらう──担任からの言葉も、心に全く響いてなかった。

 トレーナーがまだ決まってないことに実家は相当焦っていたが、それらを無視して毎日を送る。

 だがある日、同室のイクノディクタスからの言葉を聞いて愕然とした。

 

「そういえばマックイーン、ようやく明日レースに出るようですが……この時間までトレーニングしなくてもいいのですか?」

「……? どういうことですの、レースに出るって……」

「は……? 言ってる意味が分かりませんが……」

 

 どうやら、家の者が勝手に選抜レースへの登録をしていたらしい。

 自分の意志を無視したその行動に私は怒りの電話を入れようとしたが、今の自分が起これてる状況を考えれば、そんなことはできるはずもなかった。

 トレセン学園に入ったにも関わらず、レースに出ないでトレーナー探しもしない。

 ただ惰眠を貪ってるだけの存在が親に抗議するなど、あまりに価値のない莫迦な行動であった。

 結局、大した練習を積むことなくぶっつけで、初めての選抜レースに挑むことになった。

 

 

 

「──先頭一着! 二番手は──」

 八人で行われた選抜レース。

 結果は六着、だが後ろの二人は道中アクシデントがあったようで、実質ビリ。

 それでも私は、どこか充足感を感じていた。

 

「何もなく走れただけ、良かったと思わなくては……」

 

 ほぼ準備もなく、突然に走ったのだ。

 それで完走できたのなら、十二分の結果と言える。

 それにこれだけ悪い結果を叩き出せば、誰も私をスカウトしないだろうし、家の方も諦めてくれるかもしれない。

 そう考えれば、一番いい結果になったかもしれない。

 レースに負けて、勝負に勝った──満足した私は、観客席の端のほうで一人祝勝会を開いていた。

 

「さて、これでレースには出られなくなったでしょうから、これからどうしようかしら。 やっぱり自分へのご褒美として、スイーツパラダイスでも……」

 

 独り、勝利の実感を噛みしめる。

 負けたことを喜ぶウマ娘──なんてはしたない存在なのでしょうか。

 でもそれでいい、これで良かったんだ──いや、本当にそうなのか──? 

 本当に負けたから嬉しいのか──? 

 実は、完走できたことに喜びを得てるのではないのか──? 

 真実は、本音は、どこに──

 ──いやいや、そんなことはない。

 本音も真実も、全てこの堕落した気持ちなはずだ。

 きっと──そのはずだ。

 

 

 

 ────

 その時だった。

 

「レースに出ないってどういうことだ? むしろ今日の結果ならもう一回出ないといけないだろ?」

 

 後ろから聞き覚えのない、男性の声が響いた。

 

「きゃああ!? だ、誰ですの! このケダモノ!」

「け、獣!? 俺はなんもしてないぞ!」

「後ろから名乗りもせず話しかけるなど、人間としてあるまじき行為ですわ! あ……まさか貴方、私に怪しい物を売りつけようと……」

「いやいやそんなことするわけないじゃん! というかそれしたらこのバッジ外されるわ!」

「もうそんなに言うなら……って、バッジ? バッジって、まさかその……」

 

 彼から仕掛けた押し問答の末、やれやれといった様子でその佇まいを整える。

 自らの胸元につけたバッジを強調して、その男は自らの正体を明らかにした。

 

「あぁそうだ。 俺はこのトレセン学園とちゃんと契約を交わしてる、正真正銘のトレーナーだ」

「まさかそんな……いや、でもどうしてこのわたくしを……?」

 

 その時、頭の中にある考えが思い浮かんだ。

 きっと、この堕落した自分を嘲笑うため──多分の諦観と、僅かに抱いた希望を混ぜ込んで、仕方なく話を聞く。

 

「どうしてって、そりゃ君のことをスカウトするために他ならないでしょ」

「は……?」

 

 いや、まさかそんな、こんな私を──

 待て待て、自分の"メジロ家"というステータスに惹かれてスカウトしてるだけなのかもしれない。

 

「……どうせ、メジロの力を欲してるだけでしょう? 上手く隠し通そうとしても、無駄ですわよ」

「メジロの力? うーん、それがあったとして、自分の人生に大きな影響でるかな……あんまり名家について詳しくないから、よくわかんないな」

「なるほど、あくまでシラを切るつもりですわね。 でもこのメジロマックイーンの目は──」

「あのさ、何があったか知らないんだけど、なんでそんなに自分を卑下するんだ? 嫌じゃなきゃ聞かせてくれないか?」

「……っ」

 

 予想外だった。

 こういう風に刃を立て続ければ、いつか消えてくれる──実際、これまではほとんど全員消えてくれていたのだ。

 でもこの男は違う。

 自分に関する悪評も、さっきまでされてきた無礼さえも、全てない物かのように自分に手を差し出してくれる。

 その手に自分の手を伸ばしても──待て、どうせこれも罠だ。

 自分を油断させ、地獄に突き落とすための罠だ──絶対にそうだ。

 

「どうして、名も素性も知らぬ貴方に話さなくてはいけないのですか。 今ここで貴方を信用しろと?」

「嫌なら別にいいんだ。 俺たちトレーナーは、そこまで聞ける権利がないからな。 ただ……これだけは信用してほしい」

 

 そう言うとその男は、猫背気味の姿勢を正し、私の目を見て真摯に言葉を紡いだ。

 

「君がどんな過去を背負っていたとしても、今日見せてくれた走りには関係ない。 俺はただ、君の走りを見て未来を感じた……いつかタイトルホルダーとなる、そんな未来をね」

 

 紡がれた言葉は、それまで閉ざされていた鋼鉄の心に、僅かな亀裂を刻み付けた。

 話す男の表情から、嘘などという卑しい言葉は浮かばなかった。

 ──一瞬だけでも、信じてみよう。

 もし裏切られても、一瞬だけの信用なら、傷は最小限で済む。

 燃えるような瞳の彼に、決意を込めた瞳で応えて、私は──

 

「そのスカウト、受けさせてもらいますわ。 このわたくしに、一瞬でも夢を見せてくださいな」

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

「なるほどな、君が是非連れてきたいと言ってたのは、この子だったのか」

「はい、先生! 本当にこのメジロマックイーンは凄くて──」

 

 観客席でのやり取りの後、私たちは彼が所属するチームの部室へと向かった。

 そしてここで、このスカウトが普通のことではないことを知った。

 まず、彼は私と同じく昨年赴任したばかりの新米であり、これが初めてのスカウトでかつ初めてメイクデビューから引退までを担当する、ということ。

 そして二つ目は、彼があのオグリキャップをはじめ、多くの名ウマ娘を輩出したチーム・シリウスのサブトレーナーであるということ。

 そして彼の所属がシリウスであるということはつまり、自分はシリウス所属のウマ娘となる、ということでもあった。

 

「なんだっけか……落ち着きがあって、雨でもへこたれない根性があって、しかもギアチェンジも早い……だっけか?」

「昨日はそういってましたけど、今日の走りでもう一つ長所が見つかったんですよ! それは……マックイーン、分かるよね?」

「は? 何を言い出してるのですか貴方は。 あの結果に褒められる部分など……」

「いやいやそんな……はっ、待て。 ということはマックイーン、君は全然苦しく感じなかったということか! これは想像以上だ!」

「もう、まったく意味が分かりませんわ……」

 

 どうやらこのサブトレーナー、かなりのウマ娘オタクで、ペースやコース取り、道中でのリズムなど複合的に俯瞰しているようであった。

 曰く、道中何度もぶつけられリズムを崩されながら、激しいペースのアップダウンにも律儀についていき、コーナーで大外を回されても最後の200mまでは先頭集団についていってたことで、相当なスタミナ能力を感じたらしい。

 ──そう説明されても、少ししか理解することができなかったが。

 

「よくあの展開でトップと0.5秒差に収めたぞ! しかも、あまりトレーニングを積めてなかったんだろ? 凄いじゃないか!」

「でも、わたくし6着ですのよ? 前に五人もいたのですのよ?」

「え、でも0.5秒差だぞ? 三バ身差しかないんだぞ? これからトレーニングを積んで、経験も積めば簡単に塗り替わる差じゃないかなぁ」

 

 正直、反論しようと思えばいくらでも反論できるであろう。

 でも知識も薄い自分がこれ以上何を言っても無駄なだけ──それに、こんなにも細かく分析してくれてるのに文句を言うのはさすがに気が引けた。

 サブトレーナーの熱っぽい話を聞き流すと、今度は壮健な様子の、チーム・シリウスメイントレーナーが口を開く。

 

「まあ数字やデータだけ見ればそう思うかもしれないが……まさか君が、この子を連れてくるとは。 正直、想定外だ」

「え、まさか先生、マックイーンのスカウトを許してくれないんですか……?」

「いや全く。 というよりむしろ、お前らしい良い選択だと思うがな。 誰よりもウマ娘に詳しくて、誰よりもウマ娘を気にかけて……そんなお前に、ピッタリの子だろうな」

「それじゃ、マックイーンは……」

「あぁ。 今日にでも色々な手続きを進めておく。 そっちもぬかりなく、な」

 

 その瞬間、サブトレーナーの目はパッと見開き、こちらに視線を送る。

 私もまた、彼に目を遣る。

 彼は喜びと希望を持って、私は驚きと幾何かの不安を持って。

 

「やったなマックイーン! これでトゥインクル・シリーズに出れるぞ! よーしそれじゃ、早速デビューに向けたミーティングするぞ!」

「え、えぇ。 良かった、ですわ──って、急に腕を引っ張らないでくださいまし! 聞いてるのですか!?」

 

 そうして、希望を信じる者と、信じきれない者、二人のキズナは交叉された。

 これが、今のトレーナーさんとの馴れ初めであった。

 

 

 




「ん……? マックイーンの奴、ずいぶんと色んな過去を背負ってるんだな……」
「んんん!? こいつは……ずいぶんと危険な香りがするじゃねえか! おい、ナカヤマ!」
「ゴルシ……そいつは私らの(現実での)親父だ……」



白毛馬のソダシ、良血お嬢のサトノレイナス、これは燃え滾りますね。

今週末の皐月賞で、皆様に幸運が訪れますように。





 今回の謎ウマ娘はステイゴールド、ゴールドシップのおとんで、メジロマックイーンの血を引く繁殖牝馬との相性が良かったんですよね。
 更には厩舎(池江泰郎厩舎)の後輩でかつ、主戦が途中で武豊さんに変わったことも一緒です。
 とにかく面白い馬生を歩んでいるので、解説動画などをぜひご覧あれ、という感じです。
 ちなみにナカヤマフェスタの父でもあります。(フェスタは母父がマックイーンではない)


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愛しい貴方の、思い出を(下)

 ────

 あれから四か月後、私はサブトレーナーさんと二人三脚で、デビューに向けた準備を進めていた。

 さすがは育成のプロといったところか、新米のサブトレーナーさんでもこの私に的確な指導を施してくれ、私の実力はメキメキと上がっていった。

 そして彼の指導はレースに限らず、日常生活にも及んだ。

 というのも、私の虚弱体質を重く見たサブトレーナーさんはクラシック級での克服を目標に掲げ、食事指導や睡眠改善をしてくれた。

 するとどうだろう、次第に体調を崩すことも減り、他の人と同じようなトレーニングメニューを行えるようになっていったのだ。

 もしかしたら、本当にすごい人なのかもしれない──それまで心のどこかで疑っていた部分が、少しずつ溶けていくような気がしていった。

 順調にいけば、王道の秋デビュ──ーしかも、名選手を多く生んだ菊花賞デーのデビューを視野に入れていると聞いた時は、久方ぶりに心が躍ったものです。

 

 

 

 しかしそう簡単にポンポンと行かないのがこの世界。

 ある日、右足にこれまで感じたことのない違和感を覚えた為、足を診てもらうことになった。

 

『結論から言いますと、管骨骨膜炎、俗に言うソエですね。 しばらくは運動を控えてください』

 

「──と言ってましたが、その、恥ずかしながらソエというものを名前しか知らないのですが……」

 

 恥を承知でサブトレーナーさんに聞く──が、当の彼は珍しく厳しい表情を続けていた。

 

「ソエっていうのはな、デビュー前のウマ娘によくみられる足の炎症のことだ。 まだまだ成長期にあるうちに強い負荷をかけると発症しやすくてな、いわば成長痛みたいなもんだ。 屈腱炎とか、繋靭帯炎とは違って大事になることはないんだが、まあその、なんていうかな……」

「……? どうして言い淀むのです、成長痛ならすぐ回復してもおかしくないのでは?」

「経過が良ければちょっと調整が遅れるくらいになるんだがな、マックイーンの場合、少し厄介なタイプで……数週間単位でデビューが遅れるのは避けられないんだ」

 

 それを聞いた瞬間、相も変わらず暗い顔の彼と対照的に、自分の中ではいつもと変わらぬ感情が展開されていた。

 数週間──? そんなのいくらでも待ってやる──

 元々ないものだと思ってたデビュー戦、それが実現できる分だけ恵まれている。

 

「そのくらい、いくらでも待ちますわよ。 それで、次はどこを視野に入れてまして?」

「そうだな──ジャパンカップくらいがいいんじゃないかな。 もし長引いても、有マ記念の日には間に合うようにはしておくよ」

 

 

 

 ────

 しかしこのソエ、夏を越しても、GⅠシーズンを迎えても、当初のデビュー日を迎えても、全く治まる気配が見えなかった。

 それに連動して、初戦の予定は後ろへ後ろへ、ずれていく。

 ジャパンカップウィークの予定が有マ記念ウィークへ。

 有マ記念ウィークの予定が未定へ──

 後ろにずれればずれる程、平然としていた心に焦燥感が生まれる。

 どうして、どうしてこの足はまた、私の行く手を邪魔するの──

 ウマ娘にとっての"相棒"と言える両の足に、無意味と分かってても当たってしまう。

 昔からこの身体を恨んではいたが、この時はそれまでで一番の恨みを持っていた。

 とはいえ、自分にできることは適切な治療を受けながら、体が鈍り切らないように軽い運動をするだけ。

 それに、サブトレーナーさんはこんな自分を励まし続けてくれてる。

 この期待に、応えなくてはいけない。

 まだこの心は、崩れてなかった。

 

 

 

 ────

「オグリさんの、有マ記念を……」

「あぁ。 最近気が張ってるようだったし、気分転換にどうかなって」

 暮れのグランプリも近づいたある日、私はトレーナーさんに誘われ、オグリキャップさんの二度目となる有マ記念を見に行くことになった。

 結局、この日まで私のソエは完治することなく居座り続け、依然として私の心を蝕んでいた。

 さすがにここまで長引くとは──そう言ってたトレーナーさんの沈んだ顔に、自然と自分の心も暗くなっていた。

 そんな私の様子を見てか、その日以降彼は無理に笑顔を作って、このように私を遊びに誘ってくれるようにしてくれた。

 その気遣いを私は喜んで受けていたが──正直、遊びに行っても暗い気分は晴れずに残り、心の底から楽しむことができなかった。

 それは彼も一緒だったのか、互いに微妙な距離感を作ってしまい、親交を深めるどころかむしろ関係を冷えさせてしまっていた。

 なんとかしたい、変えたい──そう思っても言い出す勇気を出せない私は、ついつい彼に甘えて怠惰な時間を作ってしまう。

 シリウスに所属して八か月、変わりつつあった私の心は、結局この体質のせいでまた元の鞘に収まろうとしていた。

 

 

 

「──外からイナリワン迫る! スーパークリーク粘るが厳しいか! オグリキャップは三着も無理か! 先頭は、イナリワンだゴールイン!」

 

 この年を盛り上げた三強に決着がついたその瞬間、観客から割れんばかりの歓声が轟く。

 その観客達の頭上、関係者専用席にいた私たちシリウスの面々は、惜しくも五番手での入線となったオグリさんの結果に様々な反応で返した。

 まさかの結果に落胆する者。

 やはりなという様子で納得する者。

 結果はどうあれと、お疲れ様でしたの声をかける者──

 

「うーん疲労が思ったよりも響いたのかね。 なあサブトレーナー……っておいお前ら」

「……あ、はいそうですね。 多分、疲労じゃない、ですかね……」

 

 その中で私とサブトレーナーさんだけは、レースと関係ない暗さを持ち込んでしまっていた。

 目の前で繰り広げられた激闘などつゆ知らず、各々の中で沼に嵌まって抜け出せない。

 前々からそれを咎められていたが、一向に改善されないその様子に諦めがついたか、トレーナーさんはそれ以上何も言わなかった。

 

 

 

 その日の夜、シリウスは学園近くの居酒屋で、オグリさんへのお疲れ様会を兼ねた忘年会を開いていた。

 

「しかし、問題ないと思っていた疲労がここまでとは……さすがに予想できなかったな」

「すまねえなオグリ。 俺もこの手の見極めには自信あったんだがな……」

 

 トレーナーさんとオグリさんが二人で反省会をしてると思いきや、オグリさんはその片手間で大量の食事に手をつけていた。

 それには及ばないものの、他の人もまた我を忘れて食事を取っている。

 当然私も──というわけにはやはりいかず、食欲がなかなか出てこない中ちまちまと口に物を運んでいく。

 それは隣にいるサブトレーナーさんも同じなようで、こちらは普通の人間な分殆ど手につけていない状態だった。

 そうして進んでいった忘年会は、食事音が減るに連れて人の声で溢れるようになる。

 それぞれ今年を振り返ったり、来年の展望を語り合ったり、今日の有マ記念について話し合っていたり──

 そして案の定、私たち二人はその輪に加わることなく、ただ黙って座っていた。

 とはいえさすがに飽きがきてしまった──と思って周りを見渡すと、何人かがいなくなっているようだった。

 そういえば帰るのは勝手にしてもらっても構わないと言ってたような。

 それではわたくしももう帰ってしまおう──あ、でもサブトレーナーさんに一言いれておいても──

 

「お、お前サブトレーナー探してるのか?」

 

 彼を探してる様子を見てか、私と同じ芦毛のウマ娘が声を掛けてくる。

 あれ、確かシリウスには私とオグリさん以外芦毛の子はいなかったはずじゃ──

 

「え、えぇまあ」

「あいつなら今花摘みにいってるぜ? なんでも、世界が救えるか救えないかの瀬戸際ってとこらしいぞ?」

 

 何言ってるの──と思ったが、つまるところトイレに行ってるということだろうか。

 それならしょうがない、彼には後で連絡しておけばいいだろうし、ここはさっさと戻ってしまおう。

 

「感謝しますわ。 ええと、失礼ですが貴女は……」

「アタシの名か? それを知りたければ、まずはこの国家機密情報の保持に関する同意書にサインしてもらって、それで──」

 

 あぁ面倒だ。

 感謝は伝えたし、早く帰ってしまおう。

 そうして私は、楽し気な喧騒の中を突っ切って、店を出ていった。

 

 

 

「──それで、このアタシに情熱のハグを交わしてな……」

「すまんそこの君、メジロマックイーンを知らないか?」

「マックイーンか? こんなところで取る食事より、油くさいラーメン屋に行く方がこの身になりますわ! って言ってここ出ていったが」

「なるほど、ほとんど嘘だろうが出ていったのは本当なんだな。 ありがとう、感謝する」

「それほどでもあるな! いや、もはやその範疇に留まることなく──」

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

 しかしまあ、本当のことを言うと、今日はあまり楽しくなかった。

 今度こそ何か変わるかも──そう意気込んで今日に臨んだが、やはりそう簡単に変わるわけない。

 ほんの少し、気持ちがすれ違ってるから今がある──そう考えていても、どこを直せばいいかなんて分からない以上どうすることもできない。

 

「……あ」

 

 そう考え込んでるうちに、いつの間にか寮の前についていたようだ。

 こうしてまた、怠惰な一日が過ぎてゆく。

 いつもいつもそうだ、帰る道中で独り反省会を繰り広げるも、寮についてご飯を食べ、寝てしまえば全て無と化す。

 明日起きたときにはリセットされて、そしてまた一日を過ごし、また独りでに──

 

「……ふふっ、前と何も変わってないではありませんか。 こういう日常は、慣れっこなはず……」

 

 ふと、昔の自分を思い出す。

 いつ切れるも知らぬ、芦毛の問題児──

 パッと頭に湧き出た言葉は、これ以上ないほど自分を貶しめるには十分だった。

 あぁそうか、自分は元々こういう人間だったんだ。

 人間関係もまともに構築できず、それから逃げようとすれば他人に牙を向く最低な女。

 一瞬だけ夢をみたけど、それはあくまで夢に過ぎない。

 あっという間に弾けてなくなる、バブルのように。

 本来の自分に戻っていこう──偽りのマックイーンの衣を脱ぎ捨てて。

 さようならしよう──ようやく見つけた理想のマックイーンに。

 

 

 

 ────

「おーい! 何黄昏てるんだマックイーン!」

「……っ!? さ、サブトレーナーさん!?」

 

 後ろから聞こえる聞きなれた声。

 この八か月、自分のことを誰よりも見てくれたあの人の声に間違いない。

 思わず後ろを振り返る。

 

「おいおいいきなり帰るからビックリしたぞ──って、どうした!? そんなに涙流して!」

「え……?」

 

 そう言われて、目元を人差し指でさする。

 ──液体、これはなんだろう。

 まさか、自分でも知らない間に涙を流して──? 

 

「まさか、誰かにつけられたとか……いや、それは自分か。 それじゃ、まさか襲われたとか……」

「そ、そういうのではないですわ! そもそも、これは涙でも、なんでもなく……!」

 

 彼の声を制して、無理やりな主張を押し通す。

 その主張は本当に無理やりで、サブトレーナーさんは私の言葉を無視してこちらに向かってくる。

 

「いやいや、どっからどうみてもそれは涙だ。 ほら、ハンカチ貸すからこれで拭いて」

「……ありがとう、ございます」

 

 結局、私は彼の押しに負け、涙の存在を半ば認めた。

 

 

 

「……そうか。 ごめんな……俺ももっと、誘うだけじゃなくて積極的にアクションすれば良かった。 ずっと、遠慮しちまって……」

「い、いいえ! せっかくお誘いしてくださったのに、それに甘えてきたわたくしのせいですわ!」

 

 どうして涙を流したのか──推測ではあるものの、その理由を赤裸々に話すことにした。

 そしてそこから、これまで話してこなかった昔の話も全てした。

 これまでも学校に馴染めてこれなかったこと。

 トレセン学園で嫌われ者になっていたこと。

 そして、自分はとても不器用で強がりなウマ娘であることは──結局言わないでおくことにした。

 でもこの時ほど、彼が隣にいて良かったと思うときはない。

 それまで誰にも出せなかった"自分"を、初めて共有できたような気がする──

 

「はは……まったく、これじゃトレーナー失格だよな。 自分の担当ウマ娘を泣かすなんてさ……」

「サブトレーナーさん……あ、そういえば、どうしてわたくしを追いかけてきて……?」

 

 ずっと微かに抱いてた疑問。

 いくら自分の担当とはいえ、わざわざ追いかけてくることなんて普通に考えればないはずだ。

 

「いやそれがさ……ちょっと、デビューに関する妙案を思いついてな」

 

 デビュ──ーデビュー!? 

 

「ど、どういうことですか!? わたくしのソエはまだ完治してないですわよ!」

「うん、それはもちろん分かってるさ」

 

 どうしましょう、ますます混乱してきましたわ──

 

「ソエってのは別に完治しなくてもいいんだ。 というか、ソエ発症しながらクラシックレース走ってる子もいることにはいるし」

「え、それならそうと先に……」

「まあ待て。 前にマックイーンの場合は厄介だと言っただろう? だからレースを使う段階にもまず入れなかったんだ。 けど、このまま行ったらメイクデビュー戦がなくなって相手が既走歴のある子しか残らなくなる……でも芝のレースを使うのは中々難しい……と、そこでだ」

 

 そういうと、胸ポケットからスマートフォンを取り出してロックを解除し、私に液晶画面を見せてくる。

 

「阪神1700m、ダート……ダートですか!?」

「そう、その通りだ!」

 

 突然私の手を握り、興奮した様子で話を続ける。

 

「ダートなら、芝と違って足への負担は小さい。 正直、クラシックや天皇賞とか取らせることを第一に考えてたから、ギリギリまで芝に拘ろうとしたんだけど……もう背に腹は代えられないなって思ってさ」

「なるほど、そうでしたのね……」

 

 ただただ、素直に嬉しさが込み上げてきた。

 自分の為に、こんなにも考えてくれてる──

 そんなこととうの昔から知っているのに、どうしてか胸の鼓動が高鳴っていく。

 その鼓動を察してか、再び涙が零れそうになるが、なんとか踏みとどまった。

 

「ただな、一つだけ問題があって……」

 

 サブトレーナーさんは難しい顔をしてこちらを見る。

 なんか、変に意識してしまいます──

 

「先生がな。 ほら、あの人大切にレース使ってくる人だからさ」

「あぁ、そういえばそうでしたわね……」

 

 シリウスを纏めるトレーナーさんは、それこそ私が生まれる前から無理なレース選択をしないことで有名であった。

 オグリさんを連闘でGⅠを使ったことがあるように、状態によっては攻めたこともするにはするが、状態が整わなければ絶対に出走を許可しないので、"過保護"と揶揄されることもままあった。

 

「確か"一勝より一生"、でしたか。 それなら多分、わたくしの出走も許していただけないでしょうね……」

「普通なら許してくれないだろうな。 でも、俺には秘策がある」

「ひ、秘策……?」

 

 何か嫌な予感がする。

 悪寒が体をまとうように吹いた。

 

 

 

 ────

「先生お願いします! マックイーンの出走に許可を出してください!」

 

 案の定、この男は無鉄砲な強硬策に出ていた。

 確かに、頼み込むしかないかもしれないが、それにしても突然すぎでは──

 頼み込んだ先は、既に宴も終わりに近づいてた所であった。

 

「はぁ……お前さんも分かってると思うが、今日はもう遅いんだぞ。 そういう話は明日になってから──」

「いや、今日じゃなきゃダメなんです! だって先生、明日からしばらく顔出さないじゃないですか!」

「それはまあそうだが、それでもいきなりはなぁ……」

 

 ──なるほど、冷静にこの問答を聞くと、今突然聞きに来た理由が分かった。

 今トレーナーさんは酒が入ってて、少しではあるが判断能力が鈍っている。

 その隙をついて──って、中々サブトレーナーさんも策士で強引な方ですのね。

 

「それに……もういいでしょう? 彼女は完治こそしてませんが、かなりソエの状態は良くなってます。 芝はともかくとして、ダートなら出してもいいんじゃないですか?」

「お前の言わんとすることは分かるが……なあマックイーン、お前はどう思ってる?」

 

 突然振られた話の中心。

 だがここでは、まったくもって悩むはずもなく答える。

 

「それはもちろん、レースに出たいですわ。 ソエのことは少し不安ではありますが──」

 

 そこまで言ってから、私はサブトレーナーさんの顔を見る。

 

「彼が──サブトレーナーさんが背中を押してくれるのならば、わたくしは怖くありませんし、彼の為に走ることを誓いますわ」

 

 自分の中の率直な気持ちを、今まで出すことのなかった熱を持って伝えた。

 これは絶対、トレーナーさんに届いているはず。

 するとそのトレーナーさんは、困ったような様子で私たちを見ていた。

 

「そうかそうか。 それはまあお熱いことで。 これならまぁウマ娘の方では文句はねえ。 そんじゃ、サブトレーナー。 もしこのレースが原因で、彼女が取返しのつかないような事態に陥ってしまったら──お前はどうするんだ」

 

 それは、ずいぶんと挑発的な表情で問われたものだった。

 彼女──つまり自分が、とんでもない状況に陥ってしまったら──

 それを想像するだけで、尻尾の先まで緊張が走る。

 そしてそれは、そうなった時の彼の行動というものも、緊張の対象となっていた。

 彼はどうするのだろう──聞きたいようで、聞きたくないような。

 

「彼女の人生に大きな影響が出たら──その時は、一生をかけて、その責任を負うつもりです」

「え、えぇ!? 貴方今なんとおっしゃって──!?」

 

 い、一生!? 

 それじゃまるで、プロポーズのようではありませんか──

 耳まで真っ赤になりそうになると、トレーナーさんは突然に笑い出し、それを怪訝そうにサブトレーナーさんは見つめている。

 

「……? 何がおかしいんです……?」

「ふぇ? いやぁちょっと、これは傑作だって思ってな」

 

 そうして、トレーナーさんは姿勢を正して──

 

「良いだろう! マックイーンのデビュー戦、許可を出す。 明日の朝に登録用の紙持って、俺の家までこいよ」

 

 その言葉を聞き、彼は一気に表情を明るくさせ、首を垂れて言った。

 

「あ、ありがとうございます! 絶対に彼女を勝たせて、そして怪我させないようにします!」

 

 彼の勢いに押されるがままに、私も頭を下げて感謝を伝える。

 もちろん、顔は赤らめたままだが。

 

「にしてもマックイーン、お前さんもいい男をパートナーにできたな──って、それはサブトレーナーも一緒か」

「へ? あぁ、はい……?」

 

 ──え? まさかサブトレーナーさん、全然意識してないのですか──? 

 一人で舞い踊ってた感情を冷却し、彼の目を見る。

 確かに、そんなこと微塵も考えてないような気もする。

 きっとさっきの言葉は、熱くなってつい出た言葉なのだろう。

 だから私が火照って考えた妄想には、なんの意味にもならなかったということで──

 

「まったくお前は……マックイーン、こいつのお世話、ちゃんと頼むぞ」

「え、えぇ! 彼が一人前のトレーナーとなるまで、しっかりとそばにあり続ける所存ですわ!」

 

 ──まあ、これはこれで悪くないでしょう。

 まだまだ先はあるわけで、今焦る必要は全くない。

 あれ、焦ってるとは一体どういうことでしょう──? 

 

「ともかく。 マックイーン、早速明日からトレーニングするからな。 ちょっと実家には帰りづらくなるだろうけど……いいか?」

「も、もちろんですわ。 ……明日からデビュー戦に向けて、頑張らないといけませんわね」

 

 落ち着かない心を無理に落ち着かせ、気合を入れる。

 明日から始まる、栄光への道しるべ。

 今まさにゲートへ、ゆっくりと歩みだしたのであった。

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

 有マ記念の日から約二か月。

 私たちはデビュー戦にむけ、二人三脚でのトレーニングを行っていた。

 まだソエが完治してないことから、通常よりは軽いメニューをこなしていたものの、実力はしっかりとついてきてる感覚があった。

 そしてこの間、私は自分の気持ちというものにも整理をしていた。

 それによって分かったことが二つあった。

 まず一つは、私は彼に──サブトレーナーさんに恋をしているということ。

 そして二つ目は──この恋は、決して実らない恋ではない、ということ。

 というのも、ここ最近トレーニングの合間に彼に色々なことを聞いてみたところ、誰かとお付き合いしている、という雰囲気ではなかったのだ。

 もちろん私が惚れた殿方ですから、彼を魅力的に思う女性は多く、同期の女性トレーナーさんや理事長付きの事務員さんと会話を交わすことも多いのですが──

 

「絶対に、負けません……」

 

 狙った対象は必ず仕留めなさい──

 母から教わったその言葉を胸に秘め、恋の戦争を戦い抜く。

 

 

 

「ついに、ここまでこれたな」

「えぇ……本当に、長かったですわ……」

 

 2月3日、阪神レース場。

 第4レースに行われるダート1700mのメイクデビューに、私の名前は登録されていた。

 

「晴れの日には相応しくない、雨模様と不良バ場だが……行けるか?」

 

 本バ場入場前の地下バ道。

 サブトレーナーさんに言われ、私は右足の様子を確認する。

 ──大丈夫、行ける。

 

「問題ないですわ。 まだ完治はしてませんが、これでも最終追い切りでは自己最高を更新したほどですもの。 一着を取れる自信は、十分ありますわ」

 

 三日前の追い切りでいい動きができた私は、本番に向けての自信を深めていた。

 その好調さを買われてか、メジロマックイーンは観客から二番人気に推され、専門家からの印も多くつけられるくらいの位置に立っている。

 

「さすがだなマックイーン。 ただ、それでも二番人気だ。 相手は状態面に不安がなく、追い切りでも好時計を連発している。 ここは楽勝というのがおおよその見方だろう。 他にも調子の良い子が複数いるし、あくまで挑戦者の気持ちで臨んでいってくれ」

「もちろん。 それに今後のことを考えれば、ここは絶対、確実に勝たなくてはいけませんわね」

「……? 勝つに越したことはないのは事実だけど、どうしてそんなに拘るんだ?」

「それは──」

 

 サブトレーナーさんから湧き出た疑問。

 彼の手を取り、自信を持って答える。

 

「クラシックに、連れていってくれるのでしょう? わたくしの目標はメジロ家が大事にしてきた天皇賞盾の獲得ですが、貴方の目標はわたくしをクラシック競走に行かせること。 そして、貴方の目標はわたくしの目標。 今のわたくしの最大目標は、貴方と共に、クラシック出走を果たすことですから」

 

 彼の目を見る。

 その目からは、安心や信頼──少なくとも、私を信じてくれていることが伝わった。

 

「……なんか、こそばゆいな。 そんな自信満々に言われると」

「ふふっ、これくらいで恥ずかしがっていたら、来年まで身体が持ちませんわよ!」

 

 こうやって彼をからかえるようになったのは、果たしていつからだろう。

 彼をからかうと意外な反応が見れて、すごく温かい気持ちになる。

 誰も知らない、好きな人の一面。

 私だけが独占できることに、ただ喜びを感じる。

 

「ははっ。 それくらいの活躍、期待してもいいんだな?」

「もちろんです。 このメジロマックイーンを見続けてくだされば、必ずや頂点の景色を、ご覧に入れさせてみせますわ」

 

 悩むこともなく、実直に伝える。

 それは彼に、未到の絶景を見せたい──いや、共に見たいという信念からくるものだった。

 

「第4レースに出走する皆さーん! そろそろ入場お願いしまーす!」

 

 奥の方から係の人の声が響いてくる。

 私のトゥインクル・シリーズが、人生を掛けた争いの全てが、始まる時が来た。

 

「それでは、行って参ります」

「あぁ。 行ってこい」

 

 サブトレーナーさんと最後の言葉を交わし、バ場へ歩んでいく。

 ここから先は振り返らない──そう決めていたが我慢できず、つい後ろを見てしまう。

 サブトレーナーさんに一切の迷いはなかった。

 当然自分も──最後のアイコンタクトを送り、地下バ道を抜け、いざ晴れの舞台へ。

 

「あいにくの雨模様となりました、阪神レース場。 第4R、彼女たちにとって、関係者にとって、勝っても負けても思い出に残るメイクデビュー。 出走する各選手、ご紹介してまいります。 まずは──」

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

「なんというのも、もう半年以上前のことなのですね……」

 

 あのメイクデビュー、結果は先行した私が最後にキッチリと逃げの子を捕らえ、見事に新バ勝ちを果たした。

 その後、急にソエの状態が上向いたことから一時期ダービー出走の話が出たものの、結局は大事を取り、三冠最後の菊花賞を目指したローテーションを組むことになった。

 夏場は休養に充て、晩夏に始動したわたくしこと、メジロマックイーン。

 賞金不足で登録除外の可能性があったものの、なんとか今日、菊花賞のターフに立つことが叶った。

 

「いやぁ、マックイーンがここに出れるなんて、去年の年の瀬には思ってもみなかったよ」

 

 私の幼馴染で、最大のライバル。

 同期のメジロライアンが話しかけてくる。

 

「あら、そういうことならわたくしも、ここまでGⅠを勝てないままとは思ってもみませんでしたわ。 ずっと上位人気でしたのに……」

 

 彼女は今回の菊花賞で、堂々の一番人気を背負ってここに立っている。

 しかし背負ってるのは人気だけではない。

 私と同じく、新人のトレーナーさんと二人三脚で、ここまで戦い抜いているのだ。

 そんな彼女は常日頃から、トレーナーさんと共にGⅠの景色を見たいと話している。

 私に似ているな──しかしそれならば、絶対に負けられない理由がもう一つできた。

 この戦いはきっと、どちらがよりパートナーを想っているか、愛しているかの勝負になる。

 それならば負けるわけにはいかない。

 彼の担当ウマ娘の名に懸けて。

 この挑発染みた発言も、その一端だ。

 

「お、なかなか言ってくれるね。 あのトレーナーさんに出会ってから、言葉遣いが随分と攻撃的になったなと思ったけれど……これはなかなかのパンチ力だね」

「それもそうですわ。 だって今日は、負けらない戦いなのですから」

 

 しばし、ライアンとのにらみ合いが続く。

 すると突然、観客席からわあっという歓声が轟いた。

 

「さぁこの二選手。 ともに担当トレーナーに初のGⅠ勝利を届けるべく、ここまで研鑽を積んできました。 メジロライアンは三冠皆勤で一番人気。 三度目の正直でGⅠ制覇を成し遂げられるでしょうか」

 

 どうやら、ターフビジョンに私たちが映し出されていたようだ。

 向こうにいるサブトレーナーさんも、この様子を見てらっしゃるのでしょうか──

 

「しかしその他の子も負けてません。 ダービー三着、トライアル圧勝でここに来た二番人気ホワイトストーン。 春のスプリングステークスを完勝した魅惑の大器アズマイーストが三番人気。 もう一人のメジロ、メジロマックイーンは重賞初挑戦で四番人気です」

 

 中心となる子の紹介の中に、自分が割って入っていた。

 これが初の重賞競走、それもGⅠ。

 しかしそれに怖じ気づく私ではない。

 

「さあスターターが台に上がって、ファンファーレです!」

 

 ──ターフで初めて聞く、GⅠファンファーレ。

 その圧は観客席で聞くそれの比ではない、大層特別な物。

 これから、何度も何度も、聞けるようにならなくては──

 その序章となるファンファーレが終わると、各ウマ娘が続々とゲートに入る。

 

「それじゃ、勝負と行こうか。 マックイーン」

「えぇ。 正々堂々、よろしくお願いしますわ」

 

 大外18番に入るライアンとはここで一旦分かれる。

 そして自分の枠入れ。

 早々に落ち着くため、誰よりも早く2番の枠に収まる。

 

「最後、メジロライアンが入って、18人のゲートイン完了!」

 

 さあサブトレーナーさん、ご覧ください。

 これがメジロマックイーン、貴方のパートナーですわ。

 だから──だから、わたくしだけを。

 ずっと、見ててくださいませ──

 

「態勢整って……スタートしました!」

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

「随分と長く、思い返してしまいましたわね……」

 

 それだけ思い入れがあるのだろう──ふと外を見てみると、あれだけ晴れ渡っていた空が、少しずつ雲に覆われてる様子が見える。

 だが私とサブトレーナーさん──いや、今のトレーナーさんとの思い出は、これだけに留まらない。

 辛い時期も、楽しい時期も一緒に乗り越えたトレーナーさんとは、今や一心同体とも言える関係を結んでいる。

 あとは最後の一押しだけ。

 その一押しで、彼とは真の意味で"一心同体"となれる。

 ──が。

 

「そのようなこと、できるわけありませんわ!」

 

 ベッドに身を預けて心から叫ぶ。

 最後の勇気さえあれば、とは何度も思ったものの、やはり上手くは行かないものだ。

 

 

 

 ──と、何やら後方より不気味な気配を感じた。

 恐る恐る振り返ると。

 

「お嬢様、検査の準備ができました」

 

 これは失態、もしや見られてたのではないか。

 なんとか態勢を立て直すが、あまり意味がないように感じる。

 

「えぇ、分かりましたわ」

「はい……あ、それと先ほどのは誰にも言いませんので、お許しいただければ……」

 

 ──って、思い切りみられてるではありませんか! 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

「あれ、今日雨の予報だったっけ」

 

 ぽつりと降った雨に気を取られ、上を見る。

 

「あれじゃねーか? ゲリラ豪雨ってやつ。 この時期にしちゃ珍しいけどよ」

「そうか……」

「トレーナーさん。 これもっと降りそうだし、室内に切り替えたほうが良さそうじゃないかな」

「そうだな……よし! 一旦撤収! 学園内に戻るぞ!」

 

 ライスシャワーの進言を受け、トレーニング中のチーム・シリウスを引き返させていく。

 しかしこの雨──

 

「んあ? どおしたトレーナー、雨が心配なんか?」

「天皇賞も近いし、あまりバ場が荒れるのも良くないよね……」

「いや、まだ開催まで数日あるし、そこまで深刻にはならないだろう。 それに、マックイーンは重バ場でも走るから、多少の雨なら問題ないさ」

 

 実際そうだ。

 このくらいなら然したる支障は発生しない。

 むしろパンパンの良バ場にならない分、良い物と捉える見方もあるだろう。

 だがそれでも、この雨に対するモヤモヤが──嫌な胸騒ぎを覚えるのは何故だろうか。

 気のせいであればいい、と思ったのも束の間、ポケットのスマホが精一杯に振動する。

 

「お、ようやくマックイーンから連絡か? ずっと待たされて、アンタ悲しそうだったもんな……!」

「いやいや何涙声してんだ……えーと……」

 

 こちらをからかうゴールドシップは置いといて、誰かからの連絡を確認する。

 そこに記されてたのは──

 

『トレーナー様、至急、お館まで来ていただけますでしょうか メジロ家主治医』

 

 

 




「はわわ、マックイーン先輩の行く末が心配ですー!」
「ちょ、謎のウマ娘ちゃん発見!? ファル子さん、この方は!?」
「デジタルちゃん、この人私たちが太刀打ちできなかったドバイのレースで二着に入ったんだって! 敬わなきゃ!」



 書くこと増えたせいか二つに分割となりました。
 とはいえこの三話目も相当な分量になってしまいましたけど……

 次回が本作の山場だと思うので、気合入れて頑張ります。

 関係ないですけど、エフフォーリアの枠順がアグネスタキオンと一緒でなんか運命を感じますよね……!
 無敗戴冠に期待です。





 ちなみに今回の謎ウマ娘はトゥザヴィクトリー、マックイーンとは厩舎の後輩で主戦武豊さんも一緒。
 牝馬ながらドバイワールドカップで二着に入って(牝馬としては歴代最高順位)大金を持って帰ったりしてて、母としても活躍しました。
 頭の高い走法で、黄色いシャドーロールを揺らしてたのが印象的。
 出演者はドバイに挑んだもののボコボコにされた者たちでした。


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愛しい貴方が、憎くて(上)

 ────

 マックイーンが足の検査を受けに行った、その日の午後三時。

 突如として、メジロ家から呼び出しの連絡を受け、俺は早急にあの豪邸へ向かうことになった。

 

『いざという時は連絡しろよ』

 

 珍しくゴールドシップが真面目な顔をして言ってたのを思い出す。

 ぽつりと雨が降る空の中捕まえたタクシーで行く最中、マックイーンの様子を想起する。

 

『わざわざ呼び出すから、何か大変なことが起こったのかもしれないね……』

 

 不安な表情のライスシャワーも脳裏に浮かぶ。

 確かに検査結果に異常がなければ、それこそメール等の手段で軽く伝えるのが定石だろう。

 そうでない、直接会って伝えられる、ということは──

 もしや、骨折か? 

 いやでも骨折ならば、あんな平然とした様子ではいられないはずだ。

 それに、昨日は坂路で自己最高を更新したわけで、身に大きな負担が掛かるようなものではないだろう。

 そういうことはない──となると、では一体なんなのか。

 

 ──まさか、足の炎症か? 

 屈腱炎や繋靭帯炎、これらはウマ娘の選手にとってみれば職業病のようなものだが、罹れば現役引退に追い込むことすらある恐ろしい怪我だ。

 もし復帰を目指すとしても年単位の時間がかかるうえ、もし復帰しても再発のリスクが高く、ウマ娘にとっては天敵と言っていいものだ。

 これらの怪我に苦しめられたウマ娘は星の数ほどいるものの、未だに明確な完治への方法がなく、現代でも尚全ての人に恐れられている。

 もしマックイーンがその怪我になってしまったのなら、この秋はおろか、来年も棒に振る可能性が高い。

 それに復帰しても再発する可能性があることを考慮すると、取るべき手段は──いや、あまりこのことについては考えないようにしよう。

 この曇った空のように、気分がただただ沈んでいくだけのこの思案に、エネルギーを取られるべきではない。

 そうだ、違う怪我の可能性もある。

 同じ炎症でもフレグモーネのような、ちゃんと安静にすれば完治するものかもしれない。

 あとは挫跖なんかもあるか──まあ、どちらにせよ直近の天皇賞は回避しなくてはいけないだろうな。

 せっかく調子が良いから残念だけど、こればっかりはしょうがない。

 ──本当に、そんな感じの軽いものだったらいいんだけどな。

 ふと、窓の外の雨空に目を遣ってしまう。

 この雨、ゴールドシップはゲリラ豪雨とは言ってたけど、本当にすぐに収まるのか? 

 

「この雨、深夜まで止まないそうですよ、お客さん」

 

 タクシーを手繰る運転手さんから突然話しかけられる。

 

「そうなんですか、深夜まで」

「えぇ。 そうなると水分量も多くなりますし、明後日からの東京開催にも影響が出そうですねえ。 トラックでのトレーニングも、渋った路盤でやることになりますから、トレーナーさんも少し頭を悩ますのでは?」

「お詳しいことで。 ですが最近の芝は水除が非常に良いんで、雨の中での開催でもなければ大丈夫だと思いますよ。 学園のトラックに関しては、重いバ場への適応になるという側面もありますし、そんなに悩むことはないですよ」

 

 一生懸命な説明をすると、後ろ姿しか見えない運転手さんは納得した様子をしていた。

 

「さすがウマ娘のことに関しては通なトレーナーさんだ。 私たちタクシー運転手は、雨降ると売り上げが伸びるもんでね。 稼ぎ時だとしか思ってませんよ」

「なるほど。 僕たちは屋外が主戦場なんで、雨降ったら基本憂鬱なんですが……タクシーはまた別なんですね」

 

 いつもは嫌な思いしかしない事象も、視点が変われば幸となる。

 人を育てることを生業とする俺たちトレーナーには必要な考え方と言えるだろう。

 ──今、マックイーンはどういうことを考えてるのだろう。

 家の方でどういう風に過ごしてるかは分からないが、マックイーンの脳内構造は。

 不安に思ってるだろうか、いや、それは無駄だと無心で過ごしてるのか。

 何もないはず、と楽観的に考えてるだろうか──全く分からなくなってしまう。

 彼女の担当になって四年半。

 ずっと一緒にやってきたのに、俺は彼女のことを理解しきれていない。

 あっちの方も同じように、俺のことを知り尽くせてないのかな。

 ──いつか、全てをさらけ合う時が来れば。

 いつかも分からぬその時まで、一緒に暮らすことができれば、それに勝る幸せはないだろう。

 そう夢想しながらも、タクシーは雨の中、目的地に向かって進んでいた──

 

 

 

 ────

「突然のお願いにも関わらず、よくぞお越しくださいました、トレーナー様」

 

 目的地に着くやいなや、メジロ家の者全ての健康状態を総括する主治医さんが、わざわざ玄関の前で待っててくれていた。

 頭を深々と下げており、よほど自分に来てもらいたかったのだというが分かる。

 

 

「いや、マックイーンのことならどこにいてもすっとんできますよ。 これくらい朝飯前です」

「そう言っていただけると嬉しいです。 さぁ、お部屋にご案内いたします」

 

 

 

 そういって案内されたのは、見るからに病院の診療室、という一室であった。

 存在感を放っているモニタには、マックイーンの物と思われるレントゲン写真などが映っている。

 

「さて、結論から話した方がよいでしょうか。 それとも一から説明いたしましょうか」

 

 それまで必要以上のことを話さなかった主治医さんが、突然沈黙を破って話す。

 

「……それは、覚悟が必要なものですか」

 

 我慢できず、どうしようもない質問を投げかける。

 こんなことを聞いても、出る事実は変わらないというのに。

 

「必要なものならば、先に結論を聞きたいのでしょうか」

 

 こんな空しい質問に対しても、主治医さんはしっかりと答えてくれる。

 しかしこの返答は、もう答えを言ってるようなものだ。

 

「そうですね。 せめてもの慰め、ぐらいにしかならないですけど……」

「では、早速話させていただきます。 覚悟して聞いてください」

 

 さて、答え合わせの時間だ。

 大丈夫、マックイーンがそんな簡単に終わるわけはない。

 神様に愛された人生とは言えないかもしれないが、それならここで、これまでのツケが回ってきてくれてもおかしくないだろう。

 だから、大丈夫──大丈夫──

 目を瞑り、彼女が無事であることをただただ願った。

 

「単刀直入に言わせてもらいますと……お嬢様は──」

 

 彼の宣告を聞いたその瞬間、諦めきれない心と、諦めなくてはいけない心が氾濫し、俺の体を蝕むようになっていった──

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

「お人形遊び、か」

 

 検査後、安静にしてくださいと言われ入っているベッドから、自室の隅のぬいぐるみを発見する。

 懐かしい代物だ──学校をお休みした日は、あれで遊ぶことが多かったのだっけか。

 よくやってたのはごっこ劇、特に結婚式のごっこ劇はよくやっていた。

 何故それなのか、という理由に関しては全く分からないが、きっと素敵な恋をしたいという想いの表れであろう。

 純真無垢な子供の頃とは言え、少しばかり恥ずかしい記憶だ。

 

「今のわたくしがやるなら……」

 

 新婦役を私としたら、新郎役はトレーナーさんかしら。

 あら、そう考えると少し火照ってきますわね──

 せっかくなら他の役も決めましょう、しかもシリウスの方限定で。

 神父様役はライスシャワーさんにしましょう。

 新婦を見送る父の役は──ゴールドシップさんとかだと、面白そうですわね。

 トレーナーさん側の親戚席には先代トレーナーさんとオグリキャップさんがいて、私たちの門出に涙を流して祝ってくれる。

 ──いや、オグリさんは涙を流さないでしょうけど。

 

 しかし、このような妄想をすることは本当に楽しいですわね。

 最も、妄想であるので決して成しえるものではないのは事実ですが。

 あ、でもわたくしが新婦で、トレーナーさんが新郎というのは、実現できる夢でしょう。

 いや、実現しなくてはなりません。

 彼の隣に立って、彼の為に走っていく。

 そうして掴んだ栄誉の果てで、彼と永遠の契りを結び、慎ましく妻として生活する──

 なんて甘美な未来なのでしょう、甘すぎてスイーツも食べられませんわ。

 

 

 

 そういえば、この前撮ったトレーナーさんの寝顔、とても良かったですわね。

 この家にいる間、待ち受けにしてみても──

 

「マックイーン、いるか?」

「わ、わわっ、と、トレーナーさん!?」

 

 扉の外から聞こえる声に、あからさまな動揺をしてしまう。

 それもそうだ、だって彼のことを──トレーナーさんのことを考えてたのだから。

 

「いきなり声を掛けないでくださいませ──って、どうしてここにいるのですか!?」

 

 今になって導いた疑問に、トレーナーさんは苦笑を伴って答えてくれる。

 

「どうしてって……マックイーンに用があってきたんだよ。 ここに来る理由なんて、それしかないだろ?」

「そういうことではありませんわ! だって昨日、気にしなくてもよいと言ったではありませんか!」

 

 たいそう気を揉んでた様子であったため、昨日は何度も大丈夫だと言い続けていた。

 それでも来るなんて──それだけわたくしに夢中なのでしょうか。

 そんなことはないと思いつつ、やんわりとした期待を抱いて、彼との会話を続ける。

 

「いやさ、ちょっとマックイーンに聞いてほしいことがあってね」

 

 ──って、なんですのそれは!? 

 聞いてほしいこと──色々想像するだけで、心が熱くなってしまう。

 ──いやいやいや、そういうことはこんな所で言わないはずだ。

 もし彼から言うのなら、もっとロマンチックな時分であるだろうし。

 

「へ、へぇ……それは一体、何を聞いてほしいのです?」

 

 しかし私も思春期の少女、裏返った声色で返事をする。

 

「うん、その前にね……このドア開けても大丈夫か?」

「あ、大丈夫ですわよ。 カギは掛けてないので、貴方から開けてくださいまし」

 

 部屋入りへの合図をすると、彼がすっと入ってくる。

 いつもと変わらぬ様子ではあるが、少し雨に打たれたのか、髪は湿り気を帯びていた。

 

「そういえば、マックイーンの部屋に入るのは初めてだったっけ」

「わたくしが記憶してる限りでは……初めてですわね。 まあ、ここに呼ぶ理由も特になかったからでしょうけど」

 

 確かに、彼がここに来ることはなかったかもしれない。

 そもそもこのメジロ家の館に来ること自体がそこまでないので、実家にいることそれ自体に半ば興奮を覚える。

 それがこの部屋にまでとなると、通常の精神状態ではいれるわけもない。

 現に私は、このパーソナルスペースに入った彼を拘束して、ずっと二人きりで過ごしていく──なんていう危険極まりなり発想を得てしまってるのだから。

 

「そうだな……へぇ、結構整理された部屋なんだな」

「も、もう! あまりじろじろ見ないでいただけますか!」

「ははっ、ごめんごめん。 マックイーンの素が出る場所なんて初めて来たから、つい」

 

 はにかむ笑顔で釈明してくれるトレーナーさん。

 だがいつもより固いような気もする──気のせいだろうか。

 あまり考えるようなことでもないだろうし、彼にもそういう日だってあるはずだ。

 

「でも、ここで暮らしてたのは学園に入るまでですわ。 学園に入った後、貴方と築いた思い出の品々、なんていうのはここにはありませんの」

「え、むしろそれがいいんじゃないのか。 俺が全然知らない、会ったこともない、話の中だけの幼少期のマックイーン。 もう直接知る術はないけども……」

「前に言いませんでした? わたくしが小学校にいた頃なんて、なんの面白味もない、退屈な日々であると」

「それでも知りたいんだ。 俺マックイーンのこと、あまり知らないなぁって思ったし」

 

 これまでずっと共に在った彼でさえ、"あまり知らない"と言うほど。

 それを言われたら、私もまた、彼の幼少期をあまり知っていない。

 いや──私が出してる情報に比べれば、彼の情報ははるかに少なく、謎に包まれている。

 きっとパートナーのことをよく知ってないのは私の方だ。

 そう思うと、わたくしもまだまだだなと、自分に喝が入る。

 彼をよく知り、彼の一番の理解者になること──ふふっ、新たな目標ができましたわね。

 

「マックイーン、どうした? 突然笑い出して……」

「えっ? いえ、なんでもないですわ」

 

 危ない危ない、心の感情が出てきそうになってたようだ。

 なんとか取り繕ったが、気にしてないだろうか。

 

「そうか……あ、このアルバムは──」

 

 気にしてない様子でほっとしていたが、彼が一冊のアルバム──先ほど見ていた幼稚園のアルバムをふと見つけたことにまたも焦る。

 

「ちょっと、トレーナーさん! それは見る必要ないでしょう!」

 

 思わずベッドから出そうになる──が、それを見たトレーナーさんは私よりもっと焦り、叫ぶ。

 

「動かないで!」

「え……?」

 

 突然の声に驚いたので、体はすくんで動かなかった。

 しかし彼がこんなに焦るなんて、思ってもみなかった。

 ──何か嫌な予感がする。

 

「……そういえば、聞いてほしいことがあるのでしたわね。 そのこと、教えていただけませんこと?」

 

 意を決した発言に、彼の顔はすっと暗くなる。

 そして彼も決意を固めたのか、ベッドに近づき、私の顔を見て話しだした。

 

 

 

 ────

 どうやって伝えよう。

 そう考えてるうちに、彼女の方から先に切り出されてしまった。

 もう逃げるような真似はしない。

 そう思っていたのに、彼女に気を遣わせてしまった。

 それならもう、自分も逃げない。

 向き合わないといけない現実に、目を背けるのは罪だ。

 結局一番苦しむのは、彼女なのだから。

 

「俺が伝えたいのはな、今日の検査の結果のことなんだ」

 

 自分だって、彼女の走りをもっと見たい。

 レースに勝って隠しきれない笑顔を浮かべる、あの瞬間が好きだ。

 レースに負けて悔しがり、もっといい走りをしようと努力する姿には感動を覚える。

 一選手としてのメジロマックイーンには、他の誰も勝てないような、底知れない魅力がある。

 それを、俺の口から終わらせてしまう──

 仕方のないことだとしても、受け入れられるようなことではない。

 だが、現実は俺たちを待ってくれない。

 せめて終わらせるのなら、自分から終わらせてあげたい。

 

「検査結果を、貴方から……」

 

 彼女はなんて言うだろうか。

 しょうがない? 諦める? 

 いやきっと、諦めたくない! 乗り越える! そう言うはずだ。

 できることなら、自分もそれに乗ってみたい。

 乗って奇跡を起こし、全てがハッピーエンドに終わる──最初はそれも考えた。

 でも奇跡を起こすには、あまりにリスクが高すぎた。

 ほとんどの確率で負ける上に、負けたら何もかも失う。

 そんな賭けを、人生掛けてやる必要はない。

 だから俺は諦める。

 彼女の未来を守る為、彼女が苦しむのを避ける為。

 だから、だから──

 

 

「これから言うことを、マックイーンは冷静に、そして納得して聞いてほしい」

 

 信じてほしい。

 俺は君を守りたいんだ。

 

 

 




「終わりの始まり……私たちの一族も……終わりが……」
「ちょっと君! そんなに暗くなってはダメじゃないか! そうだ、ボクたちが相談に乗ってあげよう! そうだろう、アヤベ!」
「オペラオーさん……その方は私たちと共にクラシックを駆け抜けた人ですよ……」



 良いところで終えられてるので、今回も分割です。
 基本短い方が良いのかな……?
 5000文字もあればいいのでしょうかね。

 今回もお手に取っていただきありがとうございました。

 感想評価共にお待ちしております……(小声)



 今回の謎ウマ娘は99年クラシックにひっそりといたロサード、ということはオペラオーやアドベガと同世代ですね。
 サンデーサイレンスと死別した後、マックイーンが移動した先にいたのがこのロサード。
 サンデーの子供であるロサードは、すぐマックイーンと仲良くなったそうです。
 ロサードが言う"一族"とは"薔薇の一族"という母系のことで、昔は勢いがありありだったのですが、最近は全然活躍馬がでておらず、苦戦しているようです……


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愛しい貴方が、憎くて(下)

 ────

 先ほどから、トレーナーさんの様子がおかしい。

 何かに圧せられたような表情で、一つ一つ、大事に言葉を選んで話している。

 でも、彼がそこまでの状況に至る理由が、私には分からない。

 まさか足に何か異常が──? 

 いや、今の今まで足に違和感など何もない。

 むしろ絶好調──昨日はあんなにも動いたのですから。

 それに、今の私が怪我を負うわけがない。

 絶対の自信が、根拠を越える自信が、私にはある。

 だが今の私には、それ以外の可能性を探り当てることができない。

 分からない、分からない──

 それがこんなにも苦しいことだなんて、今まで感じたこともなかった。

 彼の胸中を、今すぐ知りたい。

 

「早く言ってくださいまし。 貴方にそんな顔は似合いませんわ」

「分かった……その前に、結論から聞きたいか? それとも──」

「結論から……早く、言ってくださいませ!」

 

 もうじれったい。

 彼は何を恐れているのでしょう。

 わたくしは貴方を信じておりますし、貴方がおっしゃるのならなんだってできます。

 だって、貴方を愛してるから。

 貴方がわたくしの中で一番だから! 

 だから、言って──

 これ以上、わたくしを不安にさせるのは止めて──

 そんな顔で、わたくしを見るのは止めて! 

 

「……分かった。 じゃあ、言うね」

 

 険しい顔は一切変わらない。

 私を厳しく、一直線に見つめる。

 まるで嫌われたかのように、じっと。

 私は一つ息を置いた。

 

「メジロマックイーン。 君の右足は今──繋靭帯炎を発症している」

 

 

 

 ──繋靭帯炎? 

 初めて人の言葉を聞いたかのように、頭の中がショートする。

 でもこの言葉は、記憶の中にしっかりと刻まれている。

 そして分かる、これは絶対に毒リンゴだ。

 私を殺す──招かれざる果実。

 

「マックイーンも分かると思うが、この怪我はとても性質が悪い。 でもマックイーンの場合は──」

「その怪我は、いつ直るのです?」

 

 失敗した。

 彼がまだ話してるのに。

 どうしてこんなに焦ってるのだろう、私──

 気が付けば私は身を乗り出し、彼との距離を縮めていた。

 

「マックイーン……?」

「わたくしの場合は──軽いのでしょう? すぐに復帰できるわけではなくても、来年には……」

 

 こんなに前のめりで聞くつもりじゃなかった。

 明らかに私は今、彼を困らしている。

 こんな風にやる必要なんてない、そう分かってるのはずなのに。

 

「マックイーン、来年には復帰できない」

「……それでは、再来年ですの? そうですわよね?」

 

 分かった、この焦りの正体が。

 想像してるんだ、最悪の事態というものを。

 そんなもの訪れるはずない──ふざけた慢心を裏切るような事実を知りたくないだけだ。

 なんと幼稚で、くだらない理由なんだろう。

 でもごめんなさい。

 こんなメジロマックイーンを許して──

 

「再来年にも……いや、君は──」

「──っ! 待って!」

 

 もう気づいてるはずだ。

 自分が今、どういう状態なのか。

 自分がこれから、どうなるのか。

 でも嫌だ、聞きたくない聞きたくない! 

 

「君はもう……復帰することはできない」

 

 あぁ──

 

「現役を、引退してほしい」

 

 やだ──私は──! 

 

「もう……走らないでくれ……」

 

 その瞬間、留められていた涙が溢れて、私の中の柱が壊れた。

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

「マックイーン……?」

 

 私の醜い顔を見て、彼は気を掛けてくれる。

 こんな辛いことを伝えなくてはいけないのに、あの人はなんて優しいのだろう。

 でも私は、この優しさを──裏切らなくてはいけない。

 

 

 

 まだ走らなくてはいけない。

 走って、彼に恩返しをしなくてはならない。

 一昨年見た悪夢も、去年失った半年間も、今年失墜した盾の栄冠も。

 全てを振り払って、私は勝たなくてはならない。

 彼が不当に得てしまった汚名を返上できるのは、それを作り出した私自身しかいない。

 彼が多くの人に称えられ、敬われる一番の近道は、私が栄冠を得ること。

 だから私は走る。

 それが、私にできる精一杯。

 ここまでの栄光を獲得しても尚、私が走る理由──それは、全て彼の為なのだ。

 いや、あの人はもうそんなことを求めてないかもしれない。

 いいんだよ、十分だよって。

 でも、それに私は納得しない。

 ──怖いんだ、彼を失うのが。

 走るのを止めた時に、彼は私を向いてくれるのか? 

 勝てなくなった私を、彼は大事に想ってくれるのか? 

 彼がいない毎日など、絶対に想像できない。

 だから彼を、私の栄光で縛りたい。

 なんて危険な考えだろうと私でも思う。

 でもしょうがないじゃない、これが私のやり方だから。

 他の子──それこそ、ライスさんとかに取られない為にも。

 だから私は、彼に反抗する。

 彼が、私から離れないように。

 

 

 

「……どうして、走ってはいけないのですか」

 

 知識のない私がそのようなことを聞いても意味なんてない。

 もちろん分かってる。

 でも、諦めるわけにはいかないのだ。

 

「一応、レントゲン写真を持ってきたんだ。 これなんだけど」

 

 そうして差し出してきた白黒写真から、どのような状況かは一瞬では分からない。

 だが分からないなりに、それが意味するものを理解する。

 

「──ここ、複数白いところがあるでしょ。 これが炎症してるところ」

 

 その言葉でようやく分かった写真の意味に、ひたすらに恐怖する。

 その炎症は複数の個所に、大きく、映し出されていた。

 

「これはもう、どうしようもないほど重い。 もし復帰できても、再発する可能性はかなり高い」

「……再発してしまったら、どうなるのですか?」

 

 恐る恐る、聞きたくないことを聞いてしまう。

 もしその顛末が地獄のようなものであっても、どうせ私はこの未来に反抗するのだから、なんの意味もない問答だ。

 

「まず、走る最中に強烈な痛みを覚える。 それだけじゃない、もっと大きな怪我に──それこそ、一生自分の足で歩けないような大きな怪我になることもあるだろう」

 

 一生歩けない。

 走れないどころでなく、歩けない。

 それは──とても、苦しいことでしょうね。

 

「だから、もう走ってほしくないんだ。 痛いだけじゃない、これからの人生を棒に振るような──永遠とも思える苦しみを、君に味合わせたくないんだ」

 

 そんな私の姿を見たらきっと、心優しい貴方は見放さなくなるでしょう──こんなにしてしまった自分が、全て悪いのだと。

 でもそれを求めてるわけじゃない。

 私が欲しいのは哀れみではなく、愛。

 彼から愛を受けながら、これからも生きていきたいのです。

 その為には、どんなに危険な賭けでもやらなくてはいけないのです。

 

「分かってくれるよな? マックイーン……」

 

 分かりません。

 いや、分かりたくありません。

 むしろ、分かってほしいのはこちらの気持ちですよ、あなた。

 

「……まだ走りたいと、わたくしが言ったら?」

「その時はどんな手を使っても止める。 俺は君が苦しむのを見たくないんだよ」

「知ってます? この世界には奇跡という二文字があることを」

「あぁ知ってるさ。 でもその奇跡を起こすのに、これからの人生を掛ける必要はあるのか。 君に、その勇気はあるのか」

「ありますとも。 ですから、このように口答えしてるのですわよ」

 

 そこまで言ってから、彼の顔がようやく青ざめた。

 やっと私の真意を理解したようで、信じられないという顔でこちらを見る。

 きっと貴方にも、自分の信ずるものがあるのでしょう──それは、惚れさせた女を中途半端に放ってもなお続くものですか? 

 私は貴方を説き伏せます。

 それが最良であるという、自分の信ずるものに従って。

 

「ねえ、貴方」

「……っ、マックイーン! あまり動いちゃ──!」

 

 ほら、このように立つことができるではありませんか。

 確かに、一旦症状が和らいでもまた痛みが出るかもしれないが、それは我慢すればいい。

 もしかしたら、一生動かなくなるほどの──それこそ、昨日話した大怪我したウマ娘のような地獄を味わうかもしれない。

 ならすぐ獲れる冠を獲って、さっさと引退してしまえばいい。

 もう何も恐れる必要はない。

 だって、貴方のパートナーはこのメジロマックイーンなのですから。

 

「わたくしに、分かってほしいとおっしゃいましたが……わたくしも、貴方に分かってほしいのです」

 

 彼にゆるりと近づく。

 それを見た貴方は固まって、何かことが起きるのを待つしかない。

 

「走ることは、恐れるものではないことを。 この怪我は、乗り越えられることを。 奇跡を起こす、時が来ているということを」

 

 これが私の気持ち。

 思いの丈を伝え、私は彼と抱擁を交わした。

 いつもならこんなことできないが、今日は別。

 

「だからトレーナーさん。 わたくしを信じてついてきてくださいませ。 一緒に、遥かなる栄光を掴みましょう……?」

 

 その言葉を告げて、私はより力を強めてトレーナーさんを捕らえる。

 私を離さないでほしい──そんな思いも込めた、愛の伝達。

 この想いはきっと、伝わってるはず。

 伝わったのなら、この私を見過ごすわけがない。

 

「……マックイーン」

 

 さあ聞かせて、貴方の答えを。

 

 

 

 

 

「──ごめん」

 

 しかしトレーナーさんが取った行動は、私を裏切る行動だった。

 自らを包んでいる腕を優しく解き、少しばかり距離を離し、厳しいとも哀しいともとれる表情を浮かべたのだ。

 

「──っ、どうしたのです。 そのような顔をなさって……」

「マックイーンが本気で復帰を考えてるのなら……俺は、君の担当を外れる」

「……え?」

 

 なんで──なんでそんなことを! 

 この人に対して初めて、憎悪と似た感情が湧き出ていた。

 彼は私の気持ちを、なんら理解してくれなかった。

 貴方の為でもあるのに──

 

「ちょっと……どうして!」

「俺は君のレース復帰を絶対に許すことができない。 だからこうやって説得したんだ! それでも復帰しようとするなら……別のトレーナーの元でやってくれ」

 

 彼の目はひたすらに冷たくなっていた。

 あの人は私を拒絶したんだ。

 この私から、すっと消えるように離れていくんだ。

 それが怖くて、憎くて。

 

「どうしてわかってくれないのです! わたくしは貴方のことを想って言って──」

「それならさ……!」

 

 それまで冷徹を通してた彼が突如、私の肩を掴む。

 少しどころではない、尋常なる恐怖が私を包んでいく。

 

「俺のことを想ってるんだったら、もう走らないでくれよ……俺の気持ちを分かってくれよ……!」

 

 しかし私が感じる恐怖とは違って、彼は今にも、涙が出てきそうな顔をしていた。

 でもそんなものに惑わされてはいけない──私だって、同じことを思ってるんだ。

 

「分かってほしいのはこちらですわ! そうやって最初から諦めて……意気地なしのトレーナーさん!」

「諦めなきゃいけないんだよ。 そうじゃなければ、君は──!」

 

 こんなに言っても届かない。

 彼は何も分かっちゃいない。

 それなら──もう──! 

 

「この分からず屋!」

 

 ──彼の頬を一発、はたいた。

 思わぬ出来事だったのだろう、彼は驚いたような表情を浮かばせる。

 そしてすぐ、私を憐れむように、痛めつけられた左頬を手で覆いながらこちらを見つめた。

 

 その時になってようやく、自分がしてしまったことに気づけた。

 私は彼を──傷つけたのだ。

 それも自分勝手に激昂してのものだから、とんだ大うつけだ。

 こんなことをした私は、嫌われたかもしれない──

 熱を帯びた右手が、少しずつ震える。

 

「マックイーン……」

「やめて!」

 

 彼は怒ってるのだろうか。

 いや、怒ってないはずがない。

 だっていきなりビンタされたもの。

 こんな暴力女のことを、許してくれるはずもない。

 彼の顔は、見たくない。

 

「わたくしに近づかないで……!」

 

 彼を手離すつもりなんて、本当はなかった。

 どんなに言われても、最後には絶対、共に進んでいこうと決めていた。

 でも一時の気の迷いのせいで、あろうことか、自ら彼を手離すような真似をしてしまった。

 望んでもない展開を、手繰り寄せた自分のことが嫌いでしょうがなくなる。

 彼に嫌われ、闇のように閉ざされるであろう世界が見えた。

 

 もうどうすればいいの──

 このままじゃ、また私はひとりぼっちに──

 彼に、見捨てられて──! 

 

「っ、マックイーン!」

 

 逃げ出したい。

 後も先も考えずに、ただ今のこの状況から逃げたい。

 そう思って私は、トレーナーさんを置いてこの部屋から出て行ってしまった。

 目から零れた涙を落としながら。

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 こんなはずじゃなかった。

 本当なら、彼女を何とか説得して、走るのを止めてもらうはずだった。

 その為の覚悟も決めた。

 彼女を傷つけまいと、慎重に言葉を選んだ。

 それでもあの子には、なんら通用していなかった。

 それどころか、彼女に突き放されて、嫌われてしまった。

 結局俺は、マックイーンのことを何も理解してなかったんだ。

 ここまで過ごしてきた末の結果が、これかよ。

 なんてまぬけで、とんでもない無能なんだろう。

 彼女がここを立ち去ってすぐ、体に脱力感が宿る。

 何もしたくない。

 誰にも会いたくない。

 ひっそりと一人で、この世界を生きていきたい。

 

「……もう、帰ろうかな」

 

 

 

 ──でも、それでいいのか? 

 このまま何もしないままでいいのか? 

 彼女を見捨ててもいいのか? 

 メジロマックイーンがいない世界を、生きてもいいのか? 

 それらに──俺は耐えられるのか? 

 否、それこそ、俺が一番望んでないことだ。

 自分が責任もって大事に大事に育て、共に過ごしてきたパートナー。

 一心同体と言えるそんな彼女と、こんな終わり方をしてもいいのか? 

 

「……見捨てるなんて、一番言っちゃいけない言葉だ」

 

 追いかけよう。

 また突き放されるかもしれない。

 もう大事に想ってくれてないかもしれない。

 それでも、俺は彼女を守らなければいけない。

 

『一生をかけて、責任を負うつもりです』

 

 マックイーンの出走で揉めた時、先生に言った言葉がフラッシュバックする。

 あの時の約束を果たすときは、今なんじゃないか。

 

「……待っててくれ」

 

 立ち上がって、走り出す。

 誰かが見てたら怒られるかもしれないが、そんなことは関係ない。

 俺は彼女の──メジロマックイーンのトレーナーなんだ。

 そして俺が一番、彼女のことを理解しているはずだ。

 俺が行くしか、あの子を救うことはできない。

 

「きっと……あそこだな」

 

 マックイーンが向かう場所なんて、手に取るように分かる。

 目的地は外の練習場──そこにいないという可能性はない。

 根拠はないが、それを越える自信がある。

 勢いよく外に出ると、空から無数の雨粒が飛んできた。

 これならなおさら、彼女を追いかける必要があるじゃないか。

 体が弱いのに、こんな雨にさらされていたら、絶対に風邪を引くだろう。

 

「全く、世話のかかるお転婆娘だな……」

 

 そうだ、彼女はいつもいつも世話がかかる。

 勝手にスイーツは食うし、突然野球応援に来るように言われ、誘拐同然で連れられたこともある。

 泣き虫なところもあるのに、変に気が強い。

 でもそんな彼女と過ごす毎日は、とても煌びやかで輝いていた。

 俺の中の一等星。

 それがメジロマックイーンという存在。

 いなきゃいけない、いてもらわなくてはいけない存在。

 失ってようやく気づくなんて、あまりに遅すぎる──

 今度こそは、その手を絶対離さない。

 心に決めて、俺はマックイーンを追いかけ続けた。

 

 

 

 

 

 ────

 彼から逃げて、逃げ続ける。

 行く当てもない逃避行──のはずだった。

 でも僅かな可能性であったとしても、彼に見つけてほしくて、私は屋外トラックへ向かおうとしていた。

 

「──っ!?」

 

 足が痛い。

 あぁそうだ、今怪我してるのでした。

 でも逃げ続けるのを止めることは出来ない。

 どうすることもできないのだから、仕方ないことでしょう──? 

 

 

 

 その足の痛みは、じわりじわりと増していく。

 雨に打たれて冷えた体が、痛みをより強くさせる。

 だけどこの足は留まらない。

 この現実から、世界から逃げる為。

 そうしてがむしゃらに走り続けるうちに、目的地へと着いてしまった。

 

「はぁ、はぁ……」

 

 息は荒く、体は錘でも付いてるかのように重かった。

 それでも着くことができた自分は、やはりは第一線で戦うウマ娘だ。

 

「ふ、ふん……動けるじゃ、ありませんか……トレーナーさんの、嘘つき……」

 

 しかし言葉にしようとすると、つい傲慢さが見え隠れする。

 本当はもう体なんて動かない。

 それでもこう言うのは、彼に対するせめてもの反抗の意志なのだろうか。

 

「ここでもっと、走れば……トレーナーさんも、考えを改めて──」

 

 しかし私の足はそこで一切事切れる。

 倒れた私を支えるのは、もはやあるだけの足という名の棒と、両の手足だけ。

 ふと気になって、左足も触ってみる。

 

「あぁ……ここも、痛めてしまいましたわね……」

 

 知らず知らず、使い物にならない右足を庇って左足がとても頑張っていたようだ。

 そして案の定、左足も使い物にならなくなる。

 身には雨が降りつけて、この身体を濡らしてゆく。

 もはや廃人同然となった自分の体には、乾いた笑いと、雨と紛れるような涙しか出なかった。

 

「はぁ……結局、あの人がいないと、わたくしは何も、できないのですわね……」

 

 もし彼がそばにいたらどうしてただろう。

 すぐに私を抱きかかえて、まずは雨宿り場所を見つけてくれるだろう。

 そこに置いて、ある手持ちでなんとか体を治療する。

 献身的な看護の末、私は自力で歩けるようになって──

 

「でも一人じゃ、何もできない……」

 

 彼のことを誰よりも大事に想っていた、という自負は、一体何だったのだろう。

 まるっきり嘘じゃないか──分かってくれないイライラを彼にぶつけるなんて、一番やってはいけないことだ。

 これならライスさんの方が、彼のパートナーに相応しい。

 私は大事な人と、仲良く、一緒に過ごすことすらできないなんて。

 

 空から打ち付ける大雨が、私の存在を抹消しようとする。

 寒い──助けて──! 

 か細い声が宙を飛んで弾ける。

 でも誰もやってこない。

 人を大切にしないという業を背負った者に相応しい、無様な姿だ。

 いっそ死んでしまおうかとも、思い始める。

 彼に愛してもらえないのなら、生きる意味なんてあるはずない。

 彼なしでは生きていけない哀しい生物だから。

 このまま体を冷たくし、ひっそりと死んでしまおう。

 明日、冷たくなったわたくしを見つけた時の、トレーナーさんの顔が──

 

「……いやだ!」

 

 そんなもの、見てほしくない。

 彼にそんな辛い思いなど、させてたまるものか。

 でも、やっぱりこの足は動かない。

 私には彼がいないと、生きていけることすらできない。

 そう分かってたはずなのに──

 後悔は積もりに積もって、山となった。

 もう時計の針は戻せない。

 彼との関係も戻せない。

 目の前には、絶望しか広がっていなかった。

 

「はぁ……考えることすら……もう……」

 

 絶望が広がった後、現実の視界が徐々に黒くなっていく。

 

「これが……死ぬってこと、ですのね……」

 

 本当に死を実感すると、途端に恐怖が増していく。

 会いたい──誰でもいいから会いたい──

 

「おかあ、さま……おばあ、さま……」

 

 でも、一番会いたいのは──

 

「トレーナー、さん……」

 

 微かに出した声も、誰かに届くわけがない。

 言葉を絞り出し、自分は、深い意識の底へと──

 底へと──

 

 

 

 

 

 ────

「──クイーン!」

 

 自分を呼ぶ声に、はたと意識が戻る。

 声の主なんてすぐわかる。

 トレーナーさんだ。

 

「マックイーン!」

 

 その涙声が、より大きく聞こえてくる。

 泥を蹴る音も聞こえるようになった──かなり近づいたのだろう。

 あぁ、こんな雨なのに、なんで──

 

「マックイーン、大丈夫か!」

 

 泥を蹴る音がなくなり、声も隣にいるかのように聞こえてくる。

 やっと──私を見つけてくれた──! 

 

「マックイーン、起きてるのなら返事をしてくれ……」

 

 トレーナーさんに頭と腰を抱きかかえられ、ぐったりとしながらも、私の上半身が起きる。

 それに連れて、脳の機能も稼働を始めた。

 

「トレーナー、さん……」

 

 本当にいる。

 一度突き放されたのにも関わらず、この人は私を見つけてくれた。

 どんなに泥をかぶっても、必死に私を突き止めてくれた。

 どうしてそんなに、貴方は優しいの──? 

 

「良かった……ほんっとうに良かった……!」

 

 涙交じりのその言葉は、嘘なんて単語は似合わない程清廉としていた。

 

「……マックイーン」

「はい……」

「その……ごめん」

 

 やや恥ずかしそうに、だがしっかりとした声色でそう言った。

 

「なんで、貴方が謝るのです?」

「俺は君に、一番言っちゃいけないことを言った。 復帰しようものなら、担当から外れるってな。 そのことさ」

 

 それでは──いや、その前に。

 私も、しなくてはいけないことがあるはずだ。

 

「あ、でも──」

「ごめんなさい……!」

 

 彼が話そうとする前に、先んじて謝罪を伝える。

 もちろん、彼にハッキリと聞こえるように。

 

「マックイーン?」

「わたくしも、貴方にとんでもないことを……! 貴方に手を上げるなんていう、はしたない真似を……! それを謝りたくって!」

 

 良かった、伝えられた。

 あとは彼に、その気持ちが届いてるかどうかだけ。

 

「……そんなの、別に怒ってなんかいない。 むしろ今、そうやって謝ってくれて、俺を嫌いになったわけじゃないんだって……そう分かって、嬉しい」

「あ……トレーナーさん……! 当たり前です! 貴方を嫌いになるなど、あるわけないですわ!」

 

 そうか──彼は怒ってるのではなく、むしろ怖がってたのだ。

 ちょっとした気持ちのすれ違いで、こんな大事になるなんて。

 でも、知れて良かった──

 思わず彼に抱き着いてしまう。

 だが彼はそれを拒絶せず、むしろ抱き返してくれた。

 しばらく私たちは、抱擁を続けていた。

 

 

 

「──それでさ、マックイーン」

「はい……!」

 

 佇まいを直し、互いの顔を突き合わす。

 自然と声も弾んでいく。

 体は相当濡れてるはずなのに、そんな気配はほとんど感じない。

 逆に、内の方から暖かいものを感じる。

 やっぱり、私はこの人には敵わないんだ。

 

「俺は今まで、君のトレーナーをやっておきながら、君のことを全然理解してあげられなかった。 だから、君の気持ちを──本音を、教えてほしいんだ」

「……えぇ!」

 

 そういえば、彼に想いの丈を伝えたことはなかった気がする。

 いつもいつも恥ずかしがって、強がりなことを言って──

 だからこのようなすれ違いを起こすのだ。

 変わらなきゃ。

 

「──怖かったのです。 貴方といつか、離れる日が」

 

 好きを自覚したその日から、それはずっと続いていた。

 

「ウマ娘とトレーナーという関係は、契約によって成り立つ関係。 レースをしなくなったその日に、二人の関係は変わってしまいます。 だからわたくしは、できる限りまでレースを走り、その日を延ばそうとしました」

 

 いつかやってくる限界に、少しでも抗いたかった。

 

「でもその日はいつか来る……だから、貴方の中でわたくしが一番であってほしかったのです。 それも、一生涯にかけて」

 

 彼の中でずっと私が生きていれば、関係が途切れることは絶対にない。

 

「沢山のGⅠに勝って、沢山の偉業を成し遂げて……引退する最後の日まで、貴方に栄光を届け続ける。 そんなウマ娘になりたかったのです」

 

 そうでもしなければ、彼を取られる──

 そのような強迫観念に囚われていた。

 

「でも……そんなわたくしの夢はもう、終わってしまう……」

 

 そこまで言い切って、貯め込んだ涙を解放する。

 だが彼はそんな涙を、雨粒と共に払ってくれた。

 

「……トレーナーさん?」

「そんなこと、気にする必要はない。 だって、俺の中ではもう一番なんだから」

「え……?」

 

 彼は優しい顔で言ってくれた。

 いつも見てる、大好きな顔。

 

「初めて君を見た日から、俺は君に惚れていた。 絶対にGⅠを勝てるって……凄いウマ娘になってくれるって。 メイクデビューを勝った時にそれは確信に変わった。 菊花賞を勝った時にはもう、心の中で一番になったさ。 だから俺も……願ってたんだ。 君の中で、俺のことが一番だったら良いなって」

「そんなの──!」

 

 体の重心を前にして、極限まで顔を近づける。

 顔が熱くなるのを感じるが、それすらも心地いい。

 

「一番ですわ。 四年間ずっと、貴方がわたくしの一番でしたわ。 一秒たりとも、貴方を想わなかった時はありません……!」

 

 やっぱり涙が溢れて止まらない。

 思いが通じ、心の底から安堵したのだからしょうがない。

 当たり前の日常をまた過ごせることが、こんなにも嬉しいなんて──

 

「……ほっとしたよ。 同じように思ってくれていて」

 

 またも抱き合う私たち。

 雨の中であることを忘れて、互いの感触を刻み合わせ、離れないようにする。

 

 

 

 ──そうだ、彼にちゃんと伝えないと

 

「トレーナーさん、わたくし──引退いたしますわ」

 

 そのままの態勢で、耳元に向かって囁く。

 彼の顔が震えたような気もしたが、真面目な話をしてる今は我慢しないと。

 

「……ありがとう、マックイーン」

「その代わり──」

 

 またも顔を突き合わせる──今度は額をくっつけて。

 

「ずっと、わたくしと一緒にいてくださいませ」

 

 微かな告白の意も込めた、親愛の約束。

 それを彼が断わるはずもない。

 

「もちろん。 だって昔、言っただろう? 何かあったら、一生責任取るって」

 

 思い出される、あの時の記憶。

 なんてことないと思っても尚、覚え続けてた擬似的なプロポーズ。

 そんな意味を込めてないと分かっていても、この言葉に気分は高揚する。

 こんな甘い雰囲気の中で、私たちは二人、笑い合った。

 

 

 

「──トレーナーさん」

「ん? どうした?」

 

 柔和に聞き返す彼に、少しばかりの色欲が湧いて出た。

 今、私と彼とは決して愛を交わす関係ではない。

 特に私は現役の選手で、彼は学園に属するトレーナー。

 だから本来止めなくてはいけない──なのに、理性が徐々に浸食されていく。

 奪ってほしい──

 何もかも、私の初めてを。

 でもあちらからするわけない以上、私からいくしかない。

 火照った体が、胸のドキドキをより高めていく。

 

「本当の気持ちは……」

 

 止まらない情愛が熱を帯びて。

 一度だけならと、脳を書き換えて。

 額を離し、彼の顔に手を添える。

 

「ずっと、貴方のことが……」

 

 彼は困惑していたけれど、受け入れるかのように一切動こうとしていなかった。

 

 

 

「大好きです」

 

 

 

 唇を重ね合わせる。

 恋人同士の、愛の確認行為。

 でも愛し合う関係ではない私たちのそれは、ただの求愛行動。

 愛してほしいという、せめてものメッセージ。

 でもここでは届いたかどうかに意味はない。

 ただ彼の唇の味を、知りたかった。

 

 男はキスを拒絶しなかった。

 女は更に押しつけていく。

 永遠とも言える、長き口づけ。

 それでも終わりはやってくる──私が息を欲したから。

 

「……マックイーン」

 

 彼の心情はよくわからない。

 でも複雑であることは間違いないだろう。

 それほどのことをしたのだから。

 

「トレーナーさん、もう一回……」

 

 欲望は更に増し、二度目のキスを要求する。

 今度はもっと、はしたないことを──そう考えていたが。

 

「……マックイーン?」

 

 ふっと視界が飛ぶ。

 頭が動かなくなってきた。

 思考力も、徐々に、失って──

 

「あ……」

 

 そして、事切れた。

 

 

 

 

 

 ────

 突然こちらに力なくもたれかかった。

 意識がなくなったかのように、彼女は機能を停止している。

 

「マックイーン……!」

 

 心音を聞く。

 ──大丈夫、生きてる。

 それに、可愛らしい寝息も聞こえてきた。

 ただ、疲れて眠ってるだけのようだ。

 

「そういえば、こんな雨なのに、何もせず……」

 

 慌てて着ていた上着を彼女に羽織らせる。

 濡れて妖艶な雰囲気をまとっていたマックイーンだったが、それに欲情しないように、それもろとも包む為でもあった。

 そして、先ほどまでの不思議で危険な、大事に至る時間を想起する。

 

「……キスされたなぁ」

 

 ギリギリ理性は保たれたが、彼女の口づけを止めることまではできなかった。

 もし意識が続いていたら、どうなってしまってたのだろう。

 ──いや、そんなことを考えるより。

 

「連れてかないと、な……」

 

 彼女をおんぶして、館の方へ踵を返す。

 軽い彼女の体が、先ほどしてしまったことへの罪意識をより強めた。

 

 確かに俺は、一生分責任を取るとは言った。

 でも、こういう形での責任は想定してなかった。

 いや正確には──想定したくなかった。

 俺は彼女の愛を、受け入れる資格がないと思っている。

 名門メジロ家の令嬢であるメジロマックイーンと、平凡で取柄も家柄もない自分。

 社会的にも、能力的にも、そして自信という意味でも、彼女を愛すことはできないと思っている。

 だから俺は、あの子を好きにならないように律してきた。

 だから俺は、あの子に愛されないように努めてきた。

 自惚れだったかもしれない心配は、本当に実現してしまった。

 

『大好きです』

 

 その言葉に鼓動が早くなる。

 俺はあの子を、好きになってしまったんだ。

 そして彼女もまた、俺のことを好きになった。

 両想い──これが普通の男女ならハッピーエンドで終わる。

 でも俺たちは違う──何故なら許されないから。

 きっとあの子には、自分より遥かに魅力的で、相応しい相手がいるはず。

 そいつを差し置いて、自分が彼女の隣にいるのは、双方にとって良いことではない。

 だから彼女には俺のことを諦めてもらう。

 その方が絶対、メジロマックイーンという少女の為になる。

 そして俺は、彼女のトレーナー過ぎないまま、これからを生きる。

 それ以上でもそれ以下でもない、ただの人間なのだから──

 

 

 

「──トレーナーさまー!」

 

 悪天を切り裂いて声が聞こえる。

 ようやっと、メジロ家の人が来たようだ。

 俺は後ろに背負った少女を渡し、一人悩みながら、館へと戻っていった。

 

 

 




「なんかおじいの匂いがしたから見に来たら……なんであいつら雨降ってんのにぼーっとしてんだ」
「キ、キタちゃん! あのウマ娘さん、もしかしたら三冠を制したあのウマ娘さんじゃ……!」
「きっとそうだよ! あ、でもあまり話しかけない方が良いってフラッシュさんに言われてたような……」



 エフフォーリアはシャドーロール付いてたり、飛び方が似ていたり、どこかアーモンドアイを感じますね。
 二冠達成はどうなるのか……今年のクラシックもあらかた構図が決まりましたね。

 あと二、三話くらいで終わる予定ですが、残りの話も是非楽しんでいただければと思います。





 今回の謎ウマ娘はオルフェーヴル、父ステイゴールド、母の父メジロマックイーンの所謂"ステマ配合"の代表格ですね。
 ゴルシとは違うベクトルの問題児でしたが、爆発力はディープをも凌ぐかも。
 キタサンとサトノにとっては憧れの三冠馬さんではないでしょうか、ということで出演となりました。


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愛しい貴方は、控えめで(上)

 うおおおおおおお今回からパンパンの良バ場です!
 でも話はまだまだ続くぞ!


 ────

 子供の頃。

 家の中に囚われていた私は、この世界の多くを本から吸収していた。

 空に広がる宇宙の誕生、地面を創造した地球の成り立ち、この日本という国の二千年以上の歴史。

 何億年も昔から続くこの世界に、自分は僅かな時間しか共に在れない。

 一時壮大なことを考えたこともあったが、自分がやってもちっぽけなことだと思い、身近なことに興味を示すこととした。

 私が興味を持ったのは人間社会の最小単位・家族のこと、特に夫婦という関係。

 気になって母に、おばあさまに、知ってる限りの夫婦に馴れ初めを聞いてみたりすると、皆お見合いという単語の一点張り。

 そういうものなのかと思って本を頼ってみると、意外な結果が返ってきた。

 それは、夫婦になるには好きだという必要だということ。

 そんなこと聞いたこともないから、またも母に聞いてみる。

 すると母は──

 

『私たちとマックちゃんは違ってくるからね。 あなたが誰かと結婚する時、それは好きという気持ちでなることになるのよ』

 

 そう言われてからというもの、誰かを好きになる、という感情を体験したくもなった。

 そんなある日、私は一つの小説に出会った。

 物語は単純で、対立する二つの家それぞれの子息が恋に落ち、駆け込みで挙式を挙げたものの、闘争に巻き込まれていき、結局夫婦は死んでしまうという、悲劇的な話。

 私はその中のヒロインに、どこか親近感が湧いていた。

 名家の女子として生まれ、家の言うことに抗わずに成長した、深窓の令嬢。

 でも恋だけは誰にも譲れなくて──まあ、その勝気さが仇となったのだけれど。

 可愛いその子に似ているなんていうのはただの自惚れでしかないが、それでも親しみを感じるからしょうがない。

 そんな彼女が悲劇を演じることになった理由はただ一つ。

 愛を家よりも取ったこと。

 でも自分が彼女なら──そうしてしまう自信がある。

 家のメンツなんてどうでもいい、だって好きな彼から求められてるのだから。

 子供の時点でそんなロマンチシズムに浸ってるのだから、こんな性格に育つのも当然か。

 でも由緒ある家系というのがそれだけで成り立つわけがない。

 親戚の姉さんが結婚するって聞いて話をしたら、どうやらお見合いで決まった婚姻だったそうで。

 それを聞いた時は、自分もそうなるという気持ちが強まっていくのを感じ取っていた。

 でも──そんなのは絶対に嫌。

 お姉さんはお見合いでも愛は出来るよって言ってはいたけど、本物の恋には絶対に負けるだろう。

 なら私は、家に逆らっても、友に反対されても、自分を貫くと心に決めた。

 それこそ、物語のあの子のように──

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

 結局、マックイーンを家の人に渡した後に疲れたでしょうと言われて、自分はこの豪華な館に泊まることになってしまった。

 当然着替えはなかったのだが、メジロ家が持つ数少ないメンズ服を借りてなんとか凌ぐこととした。

 雨で冷えた体を温めるべく風呂に入った後、マックイーンの状態が気になったので、その借りたメンズ服を身にまとってじいやさんの所に顔を出すと──

 

『お嬢様なら何も心配いりませんよ。 今は体を休めるべく眠っておりますが』

 

 と聞けたので、ひとまず安心。

 そこまで聞ければ十分なので踵を返そうしていた、その時。

 

『すみませんトレーナー様。 明日の朝、お嬢様がご起床なさるまで、部屋にいていただけますか?』

 

 一瞬意味が分からなかったので、それは自分が寝る部屋かと聞いたら、なんとマックイーンの部屋の意だということを理解して驚愕。

 いくらトレーナーといえど、女性の寝起きを間近で見るのはデリカシーがないのでは──

 と思いながらも俺は今、ベッドで寝ている彼女の隣で椅子に座っているのだが。

 

「──しかし、本当に整理された部屋だな」

 

 部屋にはそれこそ、子供らしい乱雑さが全く感じられなかった。

 多分マックイーンがいない間に使用人が目一杯掃除した成果なのだろうが、それでも元々の綺麗さというのが残ってる気がする。

 さすがはメジロ家の令嬢、といったところか。

 

 ──メジロ家の令嬢という単語が出た瞬間、心はずんと沈む。

 昨日の出来事を思い出す。

 とにかく内容の濃いイベントではあったが、なんやかんやハッピーエンドに近い形で終わったと記憶している。

 が、最後の接吻──もといキスは、トレーナー業のバッドエンドを導くには適当な導線となってしまった。

 彼女の愛を明後日の方向に散らせるという、自分史上最大のミッションを悲しくも引き受けることになってしまったが、心の中でどこかそれを嫌がるような声が聞こえてくる。

 当然だ、俺も彼女のことが好きなんだから。

 しかし自分に彼女の愛を受け取る資格はないし、それに応える自信もないし、何より社会が絶対に許してくれないだろう。

 だからこうやって諦めてるわけで、それをヘタレだとか肝が小さいだとか言われる筋合いはない。

 これは真っ当な理由であり、世界の常識である。

 

 そんなことをうだうだと悩んでいたら、マックイーンの様子がジワリと変わっていった。

 ──寝起きを拝めるのも、これが最後かも。

 そう考えながら、白紫のシンデレラのお目覚めを待った。

 

 

 

「──ふぁあ……って、トレーナーさん!?」

「おはよう、マックイーン」

 

 そこからちょっとばかり時間がたってたが、ようやくマックイーンが目覚めてくれた。

 可愛らしい寝ぼけまなこをしながら、少しばかりの寝癖をまとい、まさにオフという感じの彼女。

 ここにトレーナーという人間がいることにはさすがに驚いきつつ、昨日の出来事について確認をしてくる。

 

「その……トレーナーさん。 昨日は確かその、キスを──」

 

 いじらしい様子で聞いてきたのは、やはりこの質問。

 でも意識がなくなる寸前だし、もしかしたらあやふやかもしれない──

 少し心が痛むが、嘘でもついて誤魔化そうと試みる。

 

「なんの話? そんなことしてるわけないでしょ」

「え……そ、そうでしたか……」

 

 あれ、意外とすんなりと上手くいったな──

 彼女が赤面しながらも、少し笑っているのが気にはなるが。

 

「早速で悪いけど……もうすぐ朝ごはん用意されるから、準備だけでもしてほしいな。 立てるか?」

 

 俺に言われるまま、マックイーンはベッドから降りて二本足で立とうとする。

 昨日は怖くてなかなか見れなかった、エメラルド色のキャミソールを、白いパーカーで覆った姿。

 

 

「……大丈夫です。 少し疲れはありますが、痛みはあまり。 歩行にも問題はないかと」

「良かった……じゃあ、俺部屋出るから。 外で待ってるから、準備できたらこっち来て」

 

 さすがに安堵の表情を浮かべ、足取りを出口へと向かおうとする。

 

「分かりましたわ……あ、そういえば今時間は──」

「八時。 学園だったら、遅刻ギリギリの時間に起きたな」

 

 壁の上部、時計を指さし確認させる。

 そこまでしてから、俺は一時間居座ったこの部屋からすっと抜け出した。

 

 

 

 ────

 扉が閉まる音が聞こえてから数秒後、私はパジャマからいつの間にか準備されていた普段着に着替えるべく行動を始めた。

 それと同時に、今の今まで我慢していた笑顔を解放していく。

 

「……トレーナーさん、嘘があまりお上手ではないようで」

 

 一人、好きを伝えた彼に向けて言葉を発する。

 起きてすぐのタイミングでは、昨夜の記憶はあやふやな状態であった。

 だからトレーナーさんに説明を求めたわけで。

 しかし一瞬での脳細胞の活性化により、その記憶は鮮明に思い出されたので、彼がどんなに嘘をついても事実隠蔽することはできないのだ。

 そして思い出されたタイミングで嘘がつかれたものだから、面白くなった私は少しばかりの悪戯をしかけてみることにした。

 それは私も嘘をつくこと──まんまと彼は引っ掛かり、昨夜のキスを私は覚えてないと、どうやら勘違いしたようだった。

 さて、どのタイミングでバラシてやろうか──

 そんなことを考えてるうちに、いつの間にか着替えが終わってしまったようだ。

 パジャマと同じ、エメラルドのサロペットで、白いブラウスに彩を加える。

 これが自分の、彼に対する勝負服。

 早く彼の顔を見たい──そう思い、すぐさま声を掛けて。

 

「トレーナーさん! 今向かいます!」

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

「え、寝ている合間にレントゲンを!?」

 

 メジロ家豪邸の朝食室。

 ここで暮らしていた頃はこの部屋で朝食を取っていたので、私としては懐かしい気分になった。

 だがトレーナーさんには聞きなれない部屋名だったからか、非常に驚かれたものだ。

 そして今は私が驚いてる──

 

「うん。 眠りがあまりに深いから、今のうちにやっちゃえーって主治医さんが。 それでも起きなかったのはすごいけど」

「そ、そうでしたのね……どれだけわたくし、疲れていたのでしょう……」

 

 身の毛もよだつ事態だが、過ぎたことなので気にしないようにしなくては。

 それに検査が寝てる間に行われたというのは後々煩わせることがなくなったので、一応良かったということにしておく。

 一つそう考えて、皿にわずかに残された人参を放り込んだ。

 ちなみに今日の朝食は目玉焼きと野菜、白いご飯を添えてある。

 

「言う必要ないかもだけど、結果とんでもない大怪我は見つからなかった。 まあ、悪く言えば昨日と全く同じってことだけど……」

「あ……」

 

 そうだ、自分は今怪我をしていて──

 机の下で、右足が微かに震えた。

 

「今の今まで、いつもと変わらない生活を送ってましたので、気にしてませんでしたが……わたくしはもう、走ることはないのですわね……」

 

 こうして言葉にしてみると感じる、現実の重み。

 今までレースの為として暮らしてきた日常が、今日を境にガラッと変わる。

 これから自分は、どうしていけばいいのか──

 

「トレーナーさん、わたくし──」

「大丈夫。 気にするな」

 

 私の不安ごもりの声を聞いてか、撫でるかのように話してくれ、安心を与えてくれる。

 霧がかっていた心情が、ジワリと晴れてゆく。

 

「これからのことはちゃんと考えてある。 ちゃんとメジロマックイーンが輝けるように、な」

「それなら、安心いたしましたわ。 流石わたくしのトレーナーさんです」

 

 そのお褒めの言葉がこそばゆいのか、目の前の彼は頬をわずかに紅潮させる。

 

「でも……もっと先、引退した後の、所謂セカンドライフに関しては、わたくし自身で決めていかなくてはいけないのですね」

「まあ……それは確かに、そうだな」

 

 しかしこの話をした途端、一気に彼の顔が複雑なものへと変わってゆく。

 どこか迷いとか、諦めとか、そういった雰囲気を出していて。

 あまり私が好きなタイプの表情ではないことは明らかだった。

 

「どうしましたの? そのような顔をなされると、美味しいものも美味しいと感じられませんわ」

「いや、なんもない。 心配かけてごめんな」

 

 少し心配する様子を見せると、すぐに元の朗らかな顔を取り戻そうとする。

 幾分かは戻っていたものの、やや暗さは残ってしまっているようだ。

 

「……そうでした。 検査が既に完了したということは、もう学園の方に戻ってもよいのでは?」

「それもそうだな。 一応昨夜に会長とかたづなさんに引退の旨は伝えててな、厄介なメディアさんのブロックも既にやっててもらってるから、まだそれなりにゆっくりできるけど……」

 

 手を回すのがあまりに早い。

 それもそうか──メジロマックイーンというウマ娘の動向には、あらゆるメディアが競争するほどの注目度を集めているからだ。

 そんなウマ娘が電撃引退──尋常でない報道合戦が繰り広げられるだろう。

 それを思えば、彼が既に手を打ってるのは相当に感謝すべきものだ。

 

「ありがとうございます、トレーナーさん。 ですが、会長や理事長秘書さんにとっては突然の対応を迫られたわけですし、すぐにでも行って直に報告するのが筋というものでは?」

「うん、分かった。 じゃあご飯食べ終わったら、身支度して向かおうか」

 

 それに返事をすると、彼は早速席を立ち、寝ていた部屋に戻ろうしている旨を私に伝えた。

 ──と同時に、人参の残された皿をこちらに差し出してきた。

 

「トレーナーさん、人参が残ってますけど……?」

 

 そう聞くと、彼はバツの悪そうな顔をして答える。

 

「いやそのな……実は人参が苦手なんだ。 残すのは失礼だし、マックイーンに食べてもらおうと思ってね」

「なるほど……そういえば、今まで一緒にいて人参を食べてらっしゃるのを見たことがありませんでしたわね……」

 

 ほとんどのウマ娘が好物と答える人参。

 彼女たちと過ごす時間が多いトレーナー達もまた、人参が自然と好きになってると聞くが──どうやら彼の場合は違うようだった。

 

「確かに見せたことはなかったな。 最後に食ったのはそれこそ、小学校の頃だった気がするなあ」

「……ということは、今では食べられるようになってる可能性もあるのでは? アレルギーとかならともかく、せっかくの機会、もう一度挑戦してみてくださいな」

 

 と言って、その皿を差し返す。

 バツの悪い彼の顔は、その深刻度を増していた。

 

「いや……久しぶりとなるとな、ちょっと怖くて。 だから美味しく食える人にあげた方が良いかなとは思ったんだけど」

 

 確かに、彼の考えも一理あるだろう。

 だが食材というものは作った人の想いも込められていて、この人参は彼に食されることを一番に望んでいるに違いないはず。

 それに──将来メジロの令嬢の伴侶となってもらうなら、食わず嫌いは絶対に直して頂けませんと。

 とはいえ、このままいけば話は平行線になってしまう。

 ──名案が思い付きましたわ。

 

「では、トレーナーさん……」

 

 私は箸で件の人参をつまみ、一瞬食べる仕草をする。

 それにホッとした様子のトレーナーさん。

 その隙をつき──すぐさま、彼の口元へと人参を運んだ。

 

「わたくしがその……食べさせてあげますから。 ですから、ちゃんとご自身でお食べくださいませ」

 

 いきなりのことで当然ビックリするトレーナーさん。

 私も正直、恥ずかしさでどうしようもなく、かなり赤面しているはずだが、ここまで来たら背に腹は代えられない。

 あくまで彼の食わず嫌いを直す為──そう何度も唱えて、口を開けるようせがむ。

 

「いや、そこまではしなくても──」

「いいから、早く口をお開けください!」

 

 恥ずかしさが先に限界になり、突っつくように開口をねだる。

 そこまで言うならという様子で、しぶしぶ彼も口を開けた。

 

「いいですわね、絶対に食すのですよ」

「ああったよ」

 

 口を開けたまま返事をするその姿は、かなり滑稽な感じだった。

 

「でははい、あーん……」

 

 口の中に人参を運ぶ。

 まるで自分が、彼のお世話をしているような気分になり、その思いに体中が興奮を覚える。

 彼が人参を捕らえたのか、箸もろとも口が閉じられる。

 あれ、そういえばこの箸、自分のでは──

 

「ん、んー」

「──あ、申し訳ありません! 今抜きますわ!」

 

 苦しい呻き声が聞こえて我を取り戻し、急いで箸をこちらに戻す。

 彼はそのまま咀嚼をしていたが、そんなことは私にはどうでもよくて。

 

「んー……うん、意外と美味しかった。 ありがとうマック──マックイーン?」

 

 呼びかける彼のこえも届かず、私は一人呆然としていた。

 当然間接キスなわけだが、実は私の方にまだ料理が残っている。

 ということはつまり、もう一回は間接キスをしなくてはいけないということ。

 この事実に気づいたが為に、顔を真っ赤にして尻尾をぶんぶん振り回し、耳がしおれているのだ。

 

「えっと……もう行くね。 あと、これからは人参を食べていこうと思う。 こんなに美味しいわけだしね」

「──え、えぇ! 是非、そのようにしていただければ……と、思いますが……」

 

 あまりに混乱が極まってたからか、言葉遣いがかなり変になっている。

 少し怖くなったのか、彼はそれ以上は何も言わずに静かに、その場を去って行ってしまった。

 

「……はぁ。 せっかくの機会でしたのに、まったくわたくしは……」

 

 一人残された部屋で、そう呟くメジロマックイーン。

 今まで彼に甘えたことはあっても、彼に甘えさせるという経験はあまりなかったので、貴重だと思って意気込んだのだが──

 結果的にそれよりも意識することができてしまい、またそれ以降の進展も特に起きずという、悲しい結果となってしまった。

 顔はまだ高温を維持したままで、どうにも平常心に戻るのは困難な感じであった。

 

「ですが、残ってるレタスを食すには、この箸しか……」

 

 目の前の箸を見る。

 そこにはトレーナーさんの成分と自分の成分が交わってて、これから私はそれを口につけるわけで──

 

「って、昨日直接にキスしたのですから、そんなこと気にしなくてもいいではありませんか! そうですわ、一度キスをしたのですからこのくらい──」

 

 独り言を言いながら、昨日の出来事を思い返す。

 するとみるみるうちに、体温が上がって──

 

「あーもう! 何も考えずに食べればいいのですわ!」

 

 結局は勢いに任せ、レタスを掴んで口に押し込むこととなった。

 そうして口にしたレタスの味は──

 

「……キスの味がいたします……」

 

 どうやら甘かったようだ。

 

 

 

 

 

 ────

「──では、今から学園に向かうということ、会長さんに伝えておきますね」

「よろしくお願いします、たづなさん」

 

 俺は電話越しで繋がるその女性へ、コンタクトを取っていた。

 これまでもチームシリウス、並びにマックイーンへの支援を何度もしてくれたその人には、正直頭が上がらない。

 今日も突然の情報封鎖を敢行してくれたおかげで静かに学園に行けそうなので、更に貸しを作ることになったわけだが。

 

「はい。 では事故に気を付けてくださいね、トレーナーさん」

 

 その言葉に形式的な挨拶を返して、電話を切る。

 そして先ほどの出来事を巡って、思案を広げていく。

 

「……やっぱり、俺のこと好きなのかな、あいつ」

 

 問題となる人物は当然、芦毛のメジロマックイーン。

 いきなり、所謂"あーん"ってものをされたという事実は、俺の心を熱くさせるのと同時に、自惚れだと思いたかった自分の推測を裏付けるものとなってしまった。

 当然複雑な気持ちにもなるわけだ。

 

 そう思いながら、スマホに届いた一通のメールを開く。

 そこには若干のたどたどしさを含んだ、日本語文が記載されている。

 

「……神のウマ娘か。 イギリスにはそんなのもいるんだな」

 

 記載されているのは、トレーナーである俺に対するある英国のウマ娘の紹介文と、ぜひ来てくれというリクエスト。

 俗に言うスカウトというものだ、しかも海外からの。

 

「欧州三冠ウマ娘の復帰手助けか。 そんな任務、どうして俺なんかに……」

 

 スマホを手に、あれこれと悩む。

 通常であればこんな話、そうそうあるわけがない。

 海外の超大レース、凱旋門賞だけでなく、本場イギリスのダービーも制した名ウマ娘。

 そんな選手のレースを手助けする仕事だ、とんでもないスカウトである。

 受けるのは当たり前──だが俺にはそれよりも大事な、チームシリウスとメジロマックイーンがいる。

 だからこんな話は受けないのが、俺の中の筋だ。

 だが──今の俺は、とんでもない問題を抱えている。

 メジロマックイーンという女性と、どう付き合っていくか。

 もちろん彼女のことは好きだ、というより愛している。

 そして自分は愛してるからこそ──彼女と付き合うのは良くないと思っている。

 だから俺はこのスカウトを、受けるべきなのかもしれない。

 マックイーンと、身も心も離れる為に──

 

 

 




「マックイーン先輩、凄く乙女でしたね! 私のこの喉もうるおっ──げほっげほっ!」
「あら、あなたも乙女を感じたのね? 私たち気が合いそうね……ね、スカーレットちゃん?」
「え? そ、そうですねパール先輩──この人たちの喉なり、大丈夫かしら……」

 良バ場とは言いましたが、最後だけちょいと重くなってます。
 ちなみに今週は国内でGⅠないですが、香港GⅠの方で日本馬が複数頭出る予定です。
 皆さんで応援しましょー






 今回の謎ウマ娘はゴールドアリュール。 マックイーンの厩舎の後輩です。
 喉なりの影響で引退してしまいましたが、種牡馬としてスマートファルコンを生むなど、ダートの名馬を多数生みました。
 喉なり繋がりでの出演と各々なりました。(ダスカは姉さんが喉なり)


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愛しい貴方は、控えめで(下)

 ────

 陽が真上に登ろうかという時刻。

 門の外のリムジンに、私たち二人が乗ろうとする。

 

「それでは学園のほうへ、ですな。 忘れ物はありませんね?」

 

 こちらから見て右側の運転席に座る執事がタクシー運転手かのようなお話をする。

 しかしそれはもう出立間際のここで言うことなのだろうか。

 

「大丈夫ですわ。 元々手持ちが少ないわけですし、ね? トレーナーさん」

「着替えも何もないわけだしな……しかしじいやさん、これ本当に貰ってもいいのですか?」

 

 トレーナーさんが指す"それ"とは、昨日の夜から着ていたというメジロ家所有のメンズ服。

 というのもこの服、どうやら執事が以前着ていたものであるというが、もう十年以上着ておらず、タンスの肥やしになっていたようなのである。

 

「えぇ。 この家に残しておいても、誰も使わずに宝の持ち腐れとなりますからね。 それなら着てくれる人に来てもらった方がよいかと」

 

 今朝トレーナーさんが着ていたことで初めて見たその服だが、執事の趣味と見事にマッチしていたからか、いつもの二割増しくらいにカッコよく見えたので、譲り受けてもらったのは正直嬉しい。

 これからも何回か見れるということを考えると、心が躍るのは致し方無い。

 

「それに……トレーナー様がその服を着ている姿をもっと見たいという強い想いを、お嬢様から感じ取りましたから」

「ちょっと、じいや!?」

 

 まさか、見透かされてるとは──

 ゾクッとする暇もなく、それは違うと反論を並べる。

 

「そうか……なら、言ってくれたらいつでも着ていくけど」

「ト、トレーナーさん! 別にその、着てほしいなんて思ってない、わけじゃない、ですけども……」

 

 しかし本心はその逆を主張しているからか、後半になって言葉が混濁してしまった。

 そのことの恥ずかしさも含めて、今の自分は相当紅潮しているに違いない。

 この件の発端となった執事は優しい笑顔を浮かべ、トレーナーさんは苦笑しながらも少し頬を赤らめて私を見ている。

 当然私も彼を見るわけで──後方の座席にて、甘い空気が流れる。

 

「ごほんっ! 発進いたしますので、シートベルトをお付けください」

 

 言われて確認すると、どうやら二人ともベルトを着けていないようだった。

 普段は座ったらすぐに着けているのに──そのことを共に可笑しく感じたのか、彼と目を合わせて微笑み合う。

 

「では、学園の方へ向かいます」

「えぇ、よろしくお願いしますわ」

 

 

 

 

 

 ────

 そうして着いた、トレセン学園の生徒会長室。

 どうやら理事長秘書さんや会長の政治力は本物だったようで、道中全く記者さんと遭遇することがなくここまで来れた。

 学園は絶賛昼休み中だったからか、門を通ると沢山のウマ娘に囲まれて色々な話をされた。

 というのも、私とトレーナーさんが午前中いなかったことがかなりの噂を呼んでいたらしく、遂に結婚前提での交際を始めただとか、メジロ家からの了承を得られなかったから駆け落ちしようとしていただとか、根も葉もない流言が閑歩していたのだという。

 いくらアスリートとはいえ、年頃の女子が多い学園らしく、その手の話に火が点くと止まらないようだ。

 しかしそれら一つ一つに対応するわけにもいかないので、急いで彼と並んでその熱を抜けていき、何とか会長室まで辿り着いた、というのがここまでの経緯である。

 

「すまない。 マスコミは何とか対応できたが、学園生まではどうすることもできなかった。 大変だっただろう」

 

 申し訳なさそうにしているこの人は、我らが生徒会長のシンボリルドルフさん。

 三日月型の流星を揺らしながら無敗の三冠街道を突っ切った凄い人で、現在はドリームトロフィー・リーグへと主戦場を移して戦っている。

 今は高級そうなソファに座りながら、同じように座っている私たちと面と向き合って談笑している。

 三人の手元には、茶色が鮮やかな麦茶が出されていた。

 

「いや、突然のことに対応してもらってる時点で、こちらとしてはありがたい。 今はいないたづなさんも含めて、本当に感謝してるよ」

「なに、それが会長としての責務だからな。 これぐらい当然だ」

 

 泰然自若としている会長さんは、それまでの仕事量ととても比例しないほどの冷静さをまとっている。

 さすがは最強のウマ娘と呼ばれるだけある。

 

「しかし会長さんも引退されるとは……走れる限り走り続けるのだとばかり、思っていましたわ」

 

 そう──会長さんは先週、私と同じく、今年限りでの引退を発表したのである。

 学園に属していないと出場できないトゥインクルシリーズとは異なり、ドリームトロフィーリーグは卒業後も希望すれば出場することができる。

 なのでこれまでの歴史においても、走力が完全に衰えるまで走り続けたウマ娘もいるにはいるのだが、会長さんは自身の卒業と同時に、競技人生に区切りを付けると決心したのだ。

 とはいえもうレースに出ない私と違い、冬のWDTを持っての引退となるので、私とは持ってる意味が大きく異なるのだが。

 

「まあ、来春には学生ではなくなるからな。 将来を考えて、ここで引退する方が最善だと、考えただけだ」

「でも何もしなくなるわけじゃないだろ? これからはどうするんだ」

 

 全てにおいて完璧に近い会長さんの去就となると、当然注目度は嫌でも高まる。

 やはりそのキャリアを生かしてURA入りか──それとも、スカウトを受けて一般企業か──

 

「これからは──そうだな、来年までの秘密だ」

「あら、いじわるですのね、会長さん」

 

 ニヤリとした顔をしている彼女は、それまでの冷静さにより拍車をかけている。

 

「それを言うならマックイーン、君はこれからどうするんだ? 卒業までまだまだ時間があるが……」

「正直、昨日引退を決めたばかりで、まだこれと言ったものはありませんわ。 でも──」

 

 そう言って、私は隣の彼へアイコンタクトを送る。

 それを察したか、彼も私の方をチラリと見る。

 

「トレーナーさんが色々と考えてくださってるようで、しばらくはやることに困らない予定ですの」

「そうか……ではその"予定"とは、一体どういうものか。 教えてもらおうじゃないか」

 

 あ──そういえば自分もまだ教えてもらってませんでした。

 すると隣から、ソファが反発する音が聞こえてきた。

 

「あぁ。 まあ予定と言っても、引退式兼ライブのことなんだけどな。 さすがにメジロマックイーンという名ウマ娘の引退に、花道を作らないわけにはいかないし、ライブくらいなら問題ないと主治医さんにも言われたからな」

 

 なるほど、確かにこれからかなりの時間を取られそうな代物だ。

 ウマ娘個人の引退式はこれまでも実例があるが、そのほとんどが通常のウイニングライブとは比にならないほど豪華に仕立てられており、相応の時間が要求されるのも納得である。

 

「なんだそのことか。 引退式ならこちらの方でもある程度考えているし、いつでもスケジュールは抑えられるが……」

「それなら、ホープフルステークスの日などがよろしくありません?」

 

 今度は私が身を乗り出し、会長さんに提案する。

 

「ん……まあいけなくはないが、どうしてホープフルの日なんだ。 それこそ、翌日の有馬でもいいのでは?」

 

 当然のごとく湧き出る疑問だが、それに少し頬を赤らめて──

 

「それはその……クリスマスの日、だからですわ……」

 

 恥ずかしそうに答えると、会長さんはやはり笑い出した。

 

「もう……! 別に笑うところではありませんわ!」

「いや、名優の意外な一面を見ると少しな。 君のトレーナーも同じ思いのようだし」

 

 言われて隣を見ると、彼は控えめながらも笑顔の状態であった。

 普段その顔を見るのはとても愉快なものではあるが、ことこの場面では少し──

 

「トレーナーさんは十分に知っているでしょう!?」

 

 赤い頬をぷくっと膨らませながら、そこから暫し説教を施したのであった。

 

 

 

 

 

「──そうだ、これは私個人の提案だが……」

 

 引退式についての話を進めて、そろそろお開きかなというタイミング。

 さてどういう話かなと思って耳を立てる。

 

「歌って踊っての引退ライブというのもありではあるが、いつもそうだと盛り上がりに欠ける部分もあるし、傷んだ足にも良くないなと思ったんだ。 そこでマックイーン、君の異名である"ターフの名優"に因んで、劇でもやってみてはどうかと思うんだ」

「劇……なるほどな。 確かにありではある」

 

 私もトレーナーさんの反応と同様に、盲点を突かれたかのような気持ちになった。

 

「経験したことのないものではあるが、チャレンジする価値はあると思う。 どうだマックイーン、やってみる気はあるかい?」

 

 会長さんはこちらの顔色を窺うように尋ねる。

 もちろん演技の経験はほとんどないに等しいので、ライブのそれよりはある意味大変なものになるだろう。

 しかし興味はあるし、やってる姿を彼に見てほしいという気持ちも強い。

 ──それなら、あの物語を出してみよう。

 

「やってみたいですわ! それと、やってみたいお話もございますの!」

「ほう……かなり乗り気のようだな。 それで、やってみたい話とはなんだ?」

「えっと……"ロミオとジュリエット"をやりたいと思いまして……」

 

 ロミオとジュリエット──対立する二つの名家それぞれに生まれた男女が恋に落ちるも、死という悲劇的な結末を迎えてしまう、中世ヨーロッパの名作戯曲。

 昔この本を読んだことで私は、誰かを愛してみたいという気持ちが芽生えた。

 それはまだ経験値の少ない子供ならではの好奇心ではあるが、いつの間にか愛せずにはいられない人が生まれた今となっては、その重さが身に染みて感じる。

 そんな思い出があるからこその選択だが、できることならば、私の相手役にはトレーナーさんだったらなと夢想してしまう。

 当然裏方側に属する彼が出るのは現実的に見てありえない。

 しかし優しい御曹司として出てくるトレーナーさんの姿を一瞬でも考えたら、妄想が止まらなくなるのだ。

 恋に落ち、唇を奪われ、夫婦となって──

 そんな卑しい考えをしていることも露知らず、会長さんとトレーナーさんはその提案に唸っていた。

 

「マックイーンらしい、至極ロマンティックな回答ではあるな。 しかしトレーナーとしては、その提案には賛成だ。 会長は?」

「……うん、いいと思う。 誰もが知ってるものだし、長さもアレンジを加えればいい感じになるだろうな」

 

 うんうんと頷きながら答える会長さんの姿は、安心感を与えてくれるものではあるが、ともすれば寒い展開になるかもしれないという予感もある。

 

「となると、マックイーンはジュリエット役が適任か……ジュリエット役には十二分(ジュウニブンッ)と……」

 

 瞬時、冷たい木枯らしがふっと吹き付けてきて──

 

「お、面白いですわね……」

 

 苦笑することが精いっぱいであった。

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

「──ってことはもう、マックイーンは走らねえってことかよ!?」

 

 一日空いて訪れた、チームシリウスの部室。

 一昨日はトレーナーさんと二人で話したことが印象に残っているが、今はチームメンバー全員が集められてここに立っている。

 目的は当然、この私、メジロマックイーンの引退を伝える為だ。

 

「そっか……マックイーンさん、もうレースには出れないってことなんだよね……」

「そういうことになる。 入院はしなくてもいいから、これからはチームに残って、引退式に向けて準備していくことになる」

 

 やはり各メンバーの顔色は良くない。

 普段からダウナーなライスさんは昔のような暗さになっているし、騒がしさなら学園一のゴールドシップさんは珍しく真面目な顔になっている。

 長期休暇など、私がチームをしばらく離れる時には、おもちゃを取り上げられた幼児の顔になっていたのだが、今日に至ってはちゃんとこの現実を受け入れているようだった。

 

「マックイーン……あたしは今、モーレツに悲しいぞ!」

 

 うわああんという叫び声とともに、ゴールドシップさんがこちらに抱き着いてくる。

 いつもなら半ば体当たり的に抱き着きにくるのだが、足のことを考えてくれてるのか、随分と優しい感じだ。

 ──今日の彼女、優しすぎて怖いですわね。

 

「もうゴールドシップさん……いなくなるわけではないのですから……」

「マックイーンさん、私もすごく悲しくて……」

 

 そこにライスさん他、トレーナーさんを除く全チームメンバーが私を囲んでくる。

 みんな目に涙を浮かべていて、枯らしたはずのこちらの涙袋も、いつの間にか同じ涙で溢れてしまう。

 

「皆さん、そんなに泣かれては、わたくしだって泣いてしまいます……」

「そうか……マックイーンの目にも……鬼の目にも涙だなぁ……」

 

 ──は? 

 感動的な雰囲気の中、芦毛の問題児の問題発言が流れていく。

 一瞬にしてその場の雰囲気は凍り、全員が垂れ流していた涙も、自然と引っ込んでいた。

 そして言われた当の私としては、当然看過できないわけで──

 

「──ゴールドシップ、さん?」

「おっとこれはもう……逃げるしかねえ!」

 

 ハグする手をするりと抜け出し、真っ先に部屋のドアへと向かって駆け出していく不沈船。

 しかし私とて逃すわけにはいかない。

 囲まれた空間の間隙を突き、芦毛のウマ娘を追走する──わけにはいかないので。

 

「ライス、行ってくるね!」

「ゴール板までには捕らえるんだぞー」

 

 "あれ"にマークされたら、叶うウマ娘など存在するはずもない。

 黒い刺客が追いかける様は、まるであの天皇賞を思い出すようで、少し身震いがした。

 とはいえ今日は追跡される立場ではないので、安心して送り出すことはできたのだが。

 

 しばらくすると、完全に差し切られたゴールドシップさんを抱えたライスさんが戻ってきたので、やはり私の目に狂いはなかったようだ。

 

 

 

 

 

「そんじゃ、引退式ではミュージカルをするってわけだな?」

 

 頭にたんこぶを浮かべたゴールドシップさんが、ちょっと意味が違うことを口にしてしまう。

 

「いや、まだ歌う予定はないけどね。 だから劇って言ったんだけどねさっき」

「そうだよな……マックイーンがヒロインになるわけだから……」

 

 トレーナーさんの諫める声など聞こえてないかのように、話題を変えていくこの人はやっぱり変人だ。

 しかしここにいるのは、そんな変人っぷりを長い時間体感してきた人しかいないわけで、困惑するわけもなく話は進んでいく。

 

「ロミオ役は誰になるんだろう……やっぱり、オペラオーさんとかかな?」

「あの人ですか……」

 

 頭の中に件の人物を思い浮かべる。

 あれが心優しい貴公子に──

 

「いや、絶対に合いませんわ。 これだけは断言できます」

 

 頭をぶんぶんと振って取り除こうとする。

 

「でもよぉ、普段の性格と演技はまたちげぇんじゃねぇか?」

「それもそうだが、何も役は一つだけじゃないんだぞ。 それこそ、このチームで出演する人がでてくるかもしれないし」

 

 そう言うトレーナーさんにこそ、出てほしいと強く思っているのは私だけだろうか。

 もちろんライスさんやゴールドシップさん、他にもライアンやドーベルなど、縁故のある人には多数出演してほしいとは思っている。

 しかし一番に出てほしいのは、いつも私を見てくれてるトレーナーさん──まあ、裏方だから厳しいのは百も承知だが。

 役にも合っているのにな──

 

「ほうほう……んじゃ、トレーナーがロミオ役ってことでいいんだよな?」

「……は?」

 

 ──爆弾が放り込まれた。

 当のトレーナーさんは当然間の抜けた声を出すし、私は脳内の空想が召喚されたかのような気分になり、混乱が極まってしまう。

 チームメンバーは至って変わらないのが、ことさらに可笑しく感じた。

 

「うん確かに……トレーナーさんがマックイーンさんの相手役をするの、凄く似合ってると思うよ!」

「そ、そうですの!?」

 

 嬉しいことを言われてしまってか、こちらも声が上ずってしまう。

 心の方は少し躍っているのが性質が悪い。

 

「いや、俺が出るってのは普通ありえないし、一番やっちゃいけないことだと思うんだが」

「そうか? 劇なら正体わかんねえだろうが。 トレーナーが出ようが案山子が出ようが」

「カカシさんはさすがにバレると思うけど……」

 

 相も変わらず突拍子もない発言に鋭く突っ込むのはライスさん。

 いつもは私が突っ込むはずなのを彼女がしているのは、自分の身に起きている異常を容易く表している。

 とりあえず件の彼を見ると、少し紅潮していたので謎のシンパシーは感じられた。

 

「……まずはな、マックイーンの本音を聞いてみないと分からないだろ?」

「ふぇ?」

 

 上ずるどころか、完全に間抜けな声を出してしまった。

 というより、いきなり爆弾を渡してくるなんて──さすがにいじわるが過ぎる、仕返ししたい。

 しかし今はそんなことを考える暇などなく、切羽詰まった頭で自身の答を出さなくてはいけない。

 

「マックイーン的には当然出てほしいだろ? だってトレーナーだぜ?」

「え、ええと……」

 

 誰も止める気配を出さないどころか、むしろ押せ押せムードで推移するこの状況。

 きゃぴきゃぴとした声も聞こえる中、意地悪なトレーナーさんは申し訳なさそうな顔でこちらを見ている。

 

 

 

 これならもう、本音を──

 

「……出てほしい、ですわ……わたくしのその、恋人役として……」

 

 あぁ言ってしまった! 

 恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい──

 体温は明らかに熱暴走していたが、僅かに残る理性でトレーナーさんを見ると、同じような顔をしていた。

 歓声とも悲鳴とも言える声はどこまでも響いていたけども。

 

「マ、マックイーンさん……! すごく大胆に……!」

「おいトレーナー! アンタのフィアンセがそう言ってんだから出なきゃ男がすたるだろ!?」

 

 この様相は年頃の女子学生らしいが、まさか自分がからかわれる側に立つとは。

 あまりの恥ずかしさに何も言えずに立ちすくんでいたが、私と同じ当事者であるトレーナーさんがすっと立ち上がっていた。

 

「……みんなが出てほしいって思ってるのは分かった。 でも現実的にみて無理だろ? 俺だって顔が知られてるわけだし……」

「顔が知られてるだぁ!? そんじゃアンタの顔を整形でもしてやろうか!?」

「ゴールドシップさん!」

 

 拳をぶつけながら言うゴールドシップさんと、必死に止めるように諫めるライスさんの声。

 しかし彼は毅然と話し続ける──顔は赤いけど。

 

「とにかく、俺は絶対に出ないからな! 観客席で勇姿を見る予定だからな!」

 

 その宣言と共に、トレーナーさんは部屋を出ようとする。

 

「マックイーン! 今から理事長のとこ行くぞ!」

「ちょっと、待ってくださいまし!」

 

 そう言われるがまま、私は彼の後ろについていき、興奮で上気された部室を出て行った。

 

 

 

 

 

 ────

「なんか、夫婦みたいだったね……」

 

 いつ見てもお似合いの二人がこうやって何事もなく戻ってきてくれたことには、正直嬉しさしかない。

 私は不幸を呼ぶウマ娘ってずっと言われてて、私自身ずっとそう考えていた。

 その考えを改めてくれたのはチームシリウス、特にトレーナーさんとマックイーンさんだ。

 だから二人の恋路はずっと応援していたけど、ようやくここまで来たかという気持ち、そしておめでとうという気持ちで一杯だ。

 

「違う……あれはあまり進展してない。 いや、変な方向に進展してしまったというのか? ともかく、結局いつものヘタレ同士のままだぞ」

「え、そうなの……?」

 

 隣でゴールドシップさんが言う。

 この人は変に勘が鋭いところがあるから、こう言われるとそんな気もするような──

 

「そういう関係になってるならな、あいつらは恥ずかし合うんじゃなく、もっと人目も気にせず甘え倒してるはずだ……それこそ、上目遣いで頼むほどにな。 だが今のところそういう気配はない……」

 

 顎に指を当てて考えてる姿はさながら探偵。

 妙な集中力をここぞとばかりに使っている。

 

「それに、当たり前かのように顔赤らめてたからな。 あれは劇薬でも投与しないといけねえ……それにアタシな、あれはもっと面倒なことになってるような気もするんだ」

「厄介なこと……!?」

 

 なんだろう、そんな良い予感はしない。

 

「あぁ。 きっとトレーナーは……誰かのスカウトを受けている!」

「えぇ!? それは困るよ!?」

 

 根拠も何もない、ただの勘だろうが、あの人の実績的にはありえなくはない話だ。

 そうなったらマックイーンさんはもちろん困るだろうけど、さすがに個人的にもかなり困る。

 

「だろうな。 だからこれは──シリウス存亡の危機でもある!」

「でもトレーナーさんがスカウトなんて受けるかなぁ?」

 

 タレ目気味の子が呈した疑問は、確かにと私を唸らせるものだった。

 

「よーく考えろ、これはジャパンの話じゃねえ……ユーロやメリケンの話に決まっている!」

「ってことは、トレーナーさん海外にいってしまうってこと!?」

「それしかない……いや、そうできゃ最愛のマックイーンを捨てるなどという辛い行動はしないだろう……」

 

 事件の謎を解き明かしたかのような清々しさで悦に浸るゴールドシップさん。

 私もなんとなく納得はしたけど、一部ではちょっと疑問に思っている人がいて──

 

「でも、そうなったらマックイーンちゃん、それこそ地の果てまで追いかけそうじゃない?」

「そもそも、根拠というものがない限りどうしようもないんじゃないですか?」

 

 黒髪の子と、前髪がぱっつんとしている子が持つ懐疑心は、至極真っ当なものであった。

 それにさあゴールドシップさんはどう答えるかと気にしていたら。

 

「……こんなこともあろうかと、実は新人の有望株をスカウトしておいたんだぜ!」

 

 無視した! 

 まあこんなことはよくあるので、誰もやっぱり気にしない。

 

「いきなりだね……ゴールドシップさん……」

「そうかぁ? ま、アタシが呼んだんじゃなくて、あっちから勝手に来たんだけどな」

 

 あっちからやってきた──

 そんなプロフィールを持ちそうな子は、風の噂で聞いたことがある。

 

「きっとトレーナーのことだ。 有望な新人がいれば、ここを離れるわけにはいかねえだろ」

「それで上手くいけばいいんだけどね……」

 

 そもそも仮定に仮定を重ねたこの話に何の意味があるんだろう。

 冷静になって考えてみると馬鹿馬鹿しく感じるが、それよりも新人の子というのがとても気になる。

 

「ゴールドシップさん、その新人の子って……?」

「ふふーん、聞いて驚くなよ? そのルーキーの名はな──」

 

 

 




「どうでもいいけど、ライスさんにあたし、シンパシー感じるんだよね~ 小さいとことかヒール扱いされがちなとことか」
「ん? なあスカーレット、こんなやついたか? 俺覚えてないぞ?」
「あんたは一緒にダービー出た子の名前くらい覚えなさいよ……一応アタシ達と同世代の子よ?」





 来週は天皇賞春、二連覇した翌年の優勝馬は菊花賞で好走した馬が必ず来ています。
 三連覇がかかったメジロマックイーンを破ったのは──そう、ライスシャワーでしたね。





 今回の謎ウマ娘はドリームジャーニー。 オルフェーヴルの兄で、メジロマックイーンの血を持ちます。
 グランプリ連覇した名馬だけど、あまり語り継がれてないよね……
 ウオッカダイワスカーレットとは同世代ですが、なんかブエナビスタとの対戦の方が印象に残ってます。


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愛しい貴方を、逃さない(上)

 ────

『わたくしメジロマックイーンは、レースの第一線から退くことを、発表いたしますわ』

 

 "あの日"から一か月ほどが過ぎた。

 天皇賞の前日に電撃的に発表された"メジロマックイーン現役引退"というニュースは、レース開催中にも関わらず、とんでもない速度で日本全国へと発信された。

 その日の全レース終了後に設けられた会見の場で、本人の口から正式に引退を発表。

 そして12月25日、クラシックへの希望に溢れるであろうホープフルステークスが行われる日の中山レース場にて、引退式を施行することも併せて発表された。

 この会見の模様はUmatubeで生中継されたのだが、その視聴者数はなんと50万人を超え、Umatterでは世界トレンド一位になるなど、とんでもない影響を及ぼしているのには本人も相当ビックリしていた様子。

 とはいえ後から聞いてみると、こんなにも沢山の人に引退を惜しんでもらえて嬉しい、と言っていて、満更でもなかったようだ。

 

「でも今思えば、ちょっと前まで強すぎて退屈だって言ってた人達が、手の平を返して引退を惜しむって……少し都合が良すぎませんこと?」

「人ってのはそういうもんだよ。 いなくなって初めて、その存在の大きさに気づく。 マックイーンが世界一、誰からも注目を集めたことが、何よりの証拠だよ」

「ん……もう! そのいじわるはよしてくださいって、昨日も言ったではありませんか!」

 

 しかし当のマックイーンに変わったところは何もない。

 レースに出ることがなくなったので以前よりスイーツを食べるようにはなったが、引退式を控えている以上暴食するわけにもいかないので、満足するまで甘味を食べる、という彼女の野望は未だ達せられてはいない。

 そして内面はご覧の通り、変化している所を言う方が難しいほど何も変わっていない。

 最初の数日はいつもの生活が完全に崩れたことでフワフワとしていたところはあったが、今ではすっかり元通り。

 こうやってからかえば、いつものように恥じらって文句を言ってくるわけで。

 

「ごめんごめん。 マックイーンの反応が面白くてついな」

「……それ、もう五回は聞きましたわよ」

 

 頬をぷすっと膨らませ、腕を組んで説教の態勢に入る。

 しかし五回も言っていた自分は、もしかしたら怒られたいとさえ思っているのかもしれない。

 

「全く……そんなに怒られたいなら、そう言えばいいのに」

 

 ボソッと呟くマックイーンの姿には、どこか愛らしさも感じる。

 見とれていると、どうやらマックイーンがそれに気づいたようだ。

 

「そ、そんなにじろじろ見られては……恥ずかしいでは、ありませんか……」

 

 赤面した顔で言われるその言葉を聞くと、やっぱり自分は彼女のことが好きなのだと、絶対的に自覚してしまう。

 

 あぁやっぱり、可愛い──

 

 この気持ちは一か月後、なくなるどころかより想いを増していたのだ。

 そんな今は彼女と二人きりで、トレーナー室にて甘い甘い触れ合いを謳歌している。

 ソファでくっ付くように座り、彼女が淹れた紅茶を飲む昼下がり。

 彼女は時に、自分の頭を俺の肩にもたらせたり、膝に寝かせたりしてくる。

 そういう大きなアクションをするときは大概、彼女の心臓の鼓動が聞こえたり、大きく息を吸ったりなどの予備動作があるから、事前の準備には困らないでいられる。

 ライバルの事前調査と称し、一応ノートパソコンを机に出してはいるが、正直置いてるだけになっている。

 

「さて、そろそろ海外のウマ娘のレースビデオを──」

 

 彼女に好きの気持ちを悟られぬよう、目の前のパソコンに手を出そうとすると、不意に手を止められる。

 案の定、マックイーンが止めたのだ。

 

「昨日全部見たのでしょう? まだ少し、こうさせてくださいまし……」

 

 そう言うと、マックイーンは突然立ち上がった。

 なんだろうと思っているのも束の間、なんとこちらの膝へ、ゆるりと腰を下ろしてきたのだ、しかも面と向かって。

 

「マックイーン……」

「貴方のお顔、真っ赤に染まってますわ」

 

 それは君もじゃないか──と言おうとしたが、それを言うとまた怒られるだろうから、やめておこう。

 その代わり、彼女と目を合わせ続けていく。

 藤色の瞳と、何度も目が合う。

 何も言わず、ただただ見つめ合う時間。

 これを幸せと呼ばずして、何と呼ぶのだろうか。

 

 すっと、彼女が顔を近づけてくる。

 気を抜いたら、唇同士がくっついてもおかしくない距離感。

 彼女はそれを狙ってるかもしれないが、俺はその誘惑には絶対に屈しない。

 しかし理性が徐々に消えかかってることを、脳は一生懸命に伝えようとしている。

 完全に理性がなくなるまでは我慢しよう。

 限界が来たら、彼女を離して──

 

「……マックイーン?」

 

 チキンレースへの覚悟を決めた途端、マックイーンはぷいっと反対方向を向いてしまう。

 依然膝に体を乗せてはいるが、さっきまでと比べれば理性の消耗スピードは断然緩やかだ。

 少し顔色を窺うと──顔がとんでもなく紅潮しているのが見えた。

 

「……今日はわたくしの負け、ですわ……」

 

 しょんぼりにも恥じらいにも聞こえた声が、またも俺の心を鷲掴みにしてくる。

 正直かなりギリギリではあったが、どうやらまた彼女に勝ったようだ。

 まあこれに、勝ち負けが必要かというと疑問だが。

 マックイーンはこちらに振り向くと、母性溢れる微笑みを浮かべて、元の頭の位置に戻していく。

 しかし俺の膝は、彼女に占有されたままであった。

 

 

 

 

 

 こんな甘い日々は、会見後から毎日のように続いていた。

 もちろん互いに求め合ってるからに他ならないが、自分には他にも理由があった。

 それは──彼女を好きになれる時間が、もう少なくなってきているから。

 チームのトレーナーとして責務を果たす傍ら、俺は一か月前に届いたある依頼を受諾する準備を進めていた。

 遠く離れたイギリスの"神"と呼ばれるウマ娘の完全復活。

 そのプロジェクトの最重要人物として、俺はスカウトされたのだ。

 本来なら、大好きなシリウスを手放すようなスカウトを受けるつもりはない。

 それでもなお受けようとするのは、それだけ待遇が良い──というわけでもなく、マックイーンと強制的に距離を取る為である。

 俺とマックイーンはあまりに仲良くなりすぎた、それは本来守らなくてはいけないラインを越えて。

 だから最初に彼女と物理的に離れて、次に心の距離を離していく。

 そうすることで、彼女は俺を忘れてこれから生きていってくれるだろう。

 最初は辛く感じるかもしれないが、いずれ乗り越えなきゃいけない試練なのだから我慢してもらうしかない。

 だが俺を忘れることができた際には、きっと素晴らしい未来が彼女を待っているはず。

 これは俺の願いだから、分かってくれるよな? 

 

 

 

 明日のジャパンカップデーで、件の海外ウマ娘が来日する。

 目的はもちろん、契約の最後の詰め──つまり、契約を交わす為だ。

 ライスシャワーのことがある以上、すぐに飛び立つわけじゃないが、年明けてしばらくしたら出国するつもりである。

 それまでの間、欲望に従える限られた時間を、マックイーンと積極的に触れ合う為に使っている。

 しかし人間というのはどうしようもない生物で、この時間を重ねていく度、彼女と離れることが辛く感じるようになっている。

 でも我慢しなくてはならない──自分が選んだ道なのだから。

 

 

 

 

 

「そういえばトレーナーさん、あの子──サトノダイヤモンドでしたっけ? どうするのです、結構チームに入りたがってますけれど」

 

 マックイーンが言うサトノダイヤモンドとは、今年トレセン学園に入学したウマ娘だ。

 入学前からその素質はかなり評判になっていて、最近始まった選抜レースでも余裕の走りで完勝しており、多くのトレーナーからのスカウトを現在進行形で受けている。

 しかしそんなサトノダイヤモンドには、とてつもなく入りたくてやまないチームがいるらしい。

 それこそが、このチームシリウスなのである。

 

『私、メジロマックイーンさんに憧れていて……だから、このチームに入れさせてください!』

 

 どうもメジロマックイーンにかなりの憧れを抱いているらしく、それが為にシリウスで活躍することが夢になったのだとか。

 普段ならば嬉しいはずの逆スカウト──しかし今においては、かなり難儀な問題になっている。

 というのも、トレセン学園でのトレーナー業を休業して海外での就業を望む場合は、それまでの一年間、デビューしてないウマ娘を受け入れてはいけないことが規則として定められている。

 つまり、今サトノダイヤモンドをチームに加入させた場合、俺はイギリスで働くことができない、ということになるのだ。

 当然それは避けなくてはいけない為、あの手この手でそのお願いを躱し続けてきた。

 レースを見たことないから判断しにくいだとか、色んなチームをちゃんと見るべきだとか、マックイーンはもう現役ではないから入っても一緒には練習できないだとか、まあそんな感じですぐに入るべきでない理由を羅列させていった。

 しかし彼女の意志は相当固いようで──

 

『レースを見てないから、ですか? 学園には選抜レースの映像が沢山ありますし、なんなら家の者に撮らせた私の走る映像が沢山ありますから、それを見れば良いと思います!』

『色んなチームを見ろ? ふふん、四月に入学してからというもの、全てのチームの特性や練習スケジュール、雰囲気すらもチェック済みです! その上で、このチームが良いと言っているのです!』

 

 特に厄介そうなのが、彼女はマックイーンに限らず、マックイーンを育てた俺にも憧れを抱いていること。

 

『私、マックイーンさんを超一流のウマ娘にしたトレーナーさんにも憧れがあって……トレーナーさんの指導を受けて、トゥインクルシリーズで活躍することが夢なんです! ……ダメですか?』

 

 こんな上目遣いで言われたら、断ろうにも心が痛む。

 それはマックイーンも同じだったようで、その時ちょうど一緒にいたところな為、かなりの嫉妬を背中から感じてはいたのだが、懸命にお願いする姿にジェラシーはすっと消え去り、逆に受け入れさせろと言うようになってきたのである。

 そういう経緯を経た結果、今サトノダイヤモンドはチームに入ってこそいないものの、チームの練習には参加しているという、宙ぶらりんな状況に立っている。

 これがしばらく続いてくれたら言うことなしだが、そう上手くいかないのが現実で。

 基本的にトレーナーの指導を受けるには契約を交わさないといけない為、この関係がバレたその時には、チームに入れさせるか練習参加させないようにするかの二択になってしまうのだ。

 それならハナから指導しなければよかったじゃないかと思われるかもしれないが──

 

「正直、あんないい子を悲しませるのは、心が痛むよなぁ……」

「えぇ、一から十まで同感ですわ」

 

 とにかく、サトノダイヤモンドの取り扱いだけが悩みの種になってしまった。

 

 

 

 そうして過ごしている最中、ドアからノックする音が聞こえてきた。

 だらしない姿を見せない為か、マックイーンがこちらと距離を離し、姿勢を正してくる。

 それを確認してからどうぞと言うと、小さい黒髪の女の子──ライスシャワーが入ってきた。

 

「どうしたましたの、一人で来るなんて。 珍しいではありませんか」

 

 至福の時間を取り上げられてしまったことへの恨みからか、少しギラギラとした目をしているマックイーン。

 昔のライスならここでひるんでいただろうが、今の自信溢れる彼女ではそうはならないようで、いつもの足取りでこちらに近づいてくる。

 

「あのね、ゴールドシップさんがステイヤーズステークスに出たいって言ってて。 特別登録の書類を持ってきたんだ」

「は? ゴルシが、ステイヤーズステークスに?」

 

 ステイヤーズステークスというのは、ジャパンカップの翌週に行われる重賞で、URAで一番距離が長いマラソンレースである。

 しかし大事なのはそこではなく、一週前に突然、重賞への出走をしたいと言ってきたことである。

 予測不可能なゴールドシップらしいと言えばそうなのだが、それにしても急すぎる。

 間の抜けた声を出してしまうのもしようがない。

 

「いきなりですけれど、何か理由は……?」

「えっとね、『酸素を失った後の世界を体験してみたい』って言ってたんだ」

「はぁ……?」

 

 マックイーンが首を傾げているが、それに相当するくらい意味が分からない。

 まあゴールドシップの行動に理解可能な動機を求めてる時点で負けな気はするが。

 

「まあいいけどね。 元々長距離レースに適性があるわけだし、勝ち負けは十分にできるだろう。 分かった、その書類に判押しておく」

「えぇ!? ……じゃなくて、ありがとうトレーナーさん!」

 

 ──あれ、一瞬驚いてなかったか? 

 いや、きっと気のせいだろう──そう思って、渡された紙に判を押す。

 それを持ってライスは部屋を出て行ったが、どうも何かおかしいような気がする。

 

「トレーナーさん? どうしましたの、そんな顔されて」

「いや……? 何もないはずだけど……」

 

 ライスが遠のいていくのを確認して、再び接近してくるマックイーン。

 うーん……あれ、そういえばゴルシってシニア級に上がってたっけ──

 まあいいか。

 そうしてまた、マックイーンとの甘い時間を過ごしていった。

 

 

 

 

 




「うちの妹がこんなに人に甘えてたなんて……私にはツンツンしてたのに……」
「あれ~? ねえねえタマちゃん、あの人知ってますか~? マックちゃんのことずーっと見てますけど……」
「ん? って、おお! 久しぶりやないか! クリーク、アンタは覚えてへんかもしれんけど、確か……有マの時以来やないか?」





 今日は短めです。
 というのも意外と文章量が多くなりそうで……分割せざるをえなくなってしまいました。
 まあ書きたいこと書けたからヨシ!ってことで考えますか。
 次回のバ場状態はどうなるのでしょうか……週末の天気も気になりますけどね。





 今回の謎ウマ娘はメジロデュレン、マックイーンの兄……もとい姉です。
 ウマ娘本編には出てきそうにもない感じですが、それはダイワメジャーもそうなんですよね。
 悲劇的な出来事が起きた1987年有馬記念の勝ち馬で、タマモクロス、スーパークリークといった組とは僅かですが対戦歴があります。


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愛しい貴方を、逃さない(中)

 ────

 11月28日、東京レース場。

 好天に恵まれた今日は、まさに絶好のジャパンカップ日和といえるだろう。

 そんなジャパンカップには、我がチームシリウスから、今年の天皇賞春を勝ったライスシャワーが出走する。

 前走のオールカマーではツインターボの逃げ切りを許したが、GⅠで必ずやリベンジを、と気合を入れ直してトレーニングを積んできた。

 そんなライスシャワーが所属するチームシリウスに属するものは、当然その成果を見に来るわけで。

 

「去年は出れませんでしたからね……やはり、いつもの府中よりは国際色に溢れて、活気がありますわ」

 

 東京レース場内部のファストフードコートエリアで、あちらこちらに立つのぼりをメジロマックイーンはうっとりと見ていた。

 ジャパンカップはURA唯一の国際招待競走で、海外からの参戦が非常に多いレースである。

 それ故に来場者も外国の方が多く、食事処となる場所では異国情緒溢れるラインナップとなっていた。

 特にスイーツに目がないマックイーンにとってみれば、ここは見知らぬスイーツに出会える絶好のチャンス、というわけである。

 

「ウエストホールも結構外人さんが多かったですもんね! 皆さん、体が大きくてびっくりしました……」

 

 今レース場を閑歩している俺たちはシリウス所属の人がほとんどだが、一人だけ、サトノダイヤモンドのみそうではない。

 では何故彼女がいるのか──理由は単純、正式に加入していないだけで、実質的にはチームの一員だから。

 なのでシリウスでの行動をする際は、必ずと言っていいほどこの子もついてくる。

 でもチームに入れさせはしない、というこの状況を、周りからは焦らしプレイと揶揄されることもあるが、全くもってそんな意味はない。

 しかしそうなっている真意を伝えるにはまだ早いので、仕方なくこの状況を受け入れてるのである。

 

「アメリカのウマ娘は体が大きい子が多いんだ。 芝重視の日本と違って、力のいるダートが主流のアメリカらしいよな」

「でも、欧州のウマ娘はあまり日本のとは変わらないですわよね。 芝しかないからでしょうか」

「そうだね、体の大きさはあまり変わらないかも。 でも日本と違って坂が多かったり、力がいるバ場を走ったりしてるから、走り方という面では結構違ってくるんだよ」

 

 そこそこ丁寧な解説をすると、メンバー全員が興味津々という感じでこちらを見るようになっていた。

 こうやって自身のことについて、知識を沢山得ようとするその意欲には、トレーナーとしては感服せざるを得ない。

 彼女たちは頑張って走ることを担当し、頭を使う部分は担当のトレーナーがやればいい──と思っていたが、こういう風にされるとその考えを改めなくてはいけない。

 

「……あら、トレーナーさん? どうされたのです、考え込んで」

「いや、みんな凄いなって……ウマ娘の走り方とか、正直違いがわかりづらいから気にする人あんまいないんだよ。 だからこうやって興味ありげなみんなに、感心してるんだ」

 

 少しいじらしい答え方をすると、マックイーンはニヤニヤしながらこちらを覗き込む姿勢をとる。

 

「あら? 頑固なトレーナーさんもそういうところがあるのですね……わたくし、新しい一面を知ってしまいましたわ!」

 

 ぴょんぴょんと尻尾を振り回しながら、楽しそうな笑顔を見せる彼女の姿は、それはもうたいそう美麗なものではあるが、言っていること自体は相当に憎たらしい。

 その憎たらしさも、可愛さへと変換されるのだが。

 しかし自分もいじられっぱなしでは満足しない。

 

「はぁ……せっかくマックイーンのこと見直してあげようと思ったのに、そんなこと言うんじゃな……」

 

 ちょっと意地悪なことを言うと、彼女は余裕綽綽の笑顔から、焦りと紅潮を含んだ顔へと変貌させた。

 

「そ、それは反則ですわ! そういうのに弱いことを知っておいて、どうしてそんな……酷いです!」

 

 悔しさからか、涙目になりながらそう訴えるマックイーン。

 さすがに公衆の面前で泣かれるのはマズイ──そう思って、急いで彼女のことを慰めに入る。

 

「ごめん、そんな風になるとは思わなかったよ。 許してくれるか?」

「……頭を撫でてくださったら、許します」

 

 くっ、この上目遣いは反則だ。

 涙で少し潤む瞳や膨らんだ頬、犬のように垂れ下がった耳も併せて、殺傷能力はとんでもないほど高くなっている。

 流石に勝てるわけもないので、仕方なく頭を優しく撫でることとした。

 するとさっきまでしおらしかったお顔が、いきなり笑顔の花を咲かせていた。

 

「……なあ、もういいだろ? 恥ずかしいんだが……」

「……ふふっ、まだまだ許しませんわ」

 

 まさか、これが狙いだったのか──

 内心唖然としながらも、御許しを貰ってない以上、どれだけ恥ずかしさが積もっても頭を撫で続けなくてはならない。

 だが当のマックイーンは顔を赤くし、耳もピンと立てて嬉しそうなので、結果的にはよかったかもしれない。

 

 

 

 頭を撫で終え、改めて仲直りをしてふと後ろを見ると、ゴールドシップ達が興奮しながら喋ってるのが見えた。

 俺たちの視線に気づいたのか、彼女たちがすっと歩み寄ってくる。

 

「おいおいトレーナー……アタシらもドキがムネムネしちゃったぞ!」

「マックイーンさん! 凄くその……キュンキュンしちゃいました!」

 

 彼女たちなりの、思い思いの思春期らしい感情を吐露していると、自然と自分の顔もまた赤くなる。

 マックイーンも同様だったようで、すっかりさっきと同じ様相を曝け出していた。

 

 

 

 

 

 ──また、彼女と甘美なエピソードを重ねてしまった。

 今日まさに離別の決心をしなくてはいけないのに、更に切ない気持ちを増していってしまう。

 だけど彼女といると、つい本能が主張を強めてしまうのだ。

 しかし、我慢するのが俺だけならば、何も問題はない。

 でもこの場合、彼女はもっともっと辛くなってしまう。

 やめなくては──自制しなくては──

 儚い使命は、すぐに散っていってしまう。

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

「東京第8R、ベゴニア賞──」

 

 関係者専用のスタンド席。

 一般の方を下に見れるこの席にて、今日のメインレースを見る予定である。

 そのメインレース、ジャパンカップは第12Rに行われる為、まだ発走には二時間も空いている。

 俺はさっと、スマホの通知を確認する。

 

『──トレーナー様、ロビーの端の方でお待ちしております』

 

 ──来た。

 噂の外国から来たウマ娘、そのマネージャーと思しき方からのメッセージ。

 すぐに向かうべく、マックイーンにしばし不在にすることを告げよう。

 

「マックイーン、ちょっと今からここ離れるから、何かあったら電話してきてね。 あと、絶対に付いてはこないように」

 

 後ろから突然言われたからか、マックイーンはビクッと耳を動かして応対する。

 

「え? あぁ、分かりましたわ。 お気をつけて」

 

 そうそう見ない、子を見送る母のような顔で話してくる。

 そんな遠くに行くわけではないのに、大げさなことだ。

 

「あぁ、行ってくる」

 

 彼女を裏切るような、罪の気持ちを備えて離れていく。

 

 

 

 今日のジャパンカップに出走するウマ娘の関係者しか入れない、限られた空間のロビー。

 何脚かの椅子で囲まれたテーブルの組が無尽蔵に配置されており、それぞれの人たちが交流する場として機能している。

 しかし普段からここを使う人はあまりいないので、全てのテーブルが占拠される、なんていう状態には全くと言っていいほどならない。

 現に、そんなロビーを進んでいく中ではあまり人影を見ることなく、進んでいけた。

 そして奥の方に到達すると、俺の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。

 声のする方を進んでいくと、今日のメインターゲットの姿を拝むことができた。

 

「……あなたが、紹介にあったウマ娘ですね。 "インビジブル"さん、初めまして」

 

 挨拶を受けるやいなや、そのウマ娘──インビジブルは、小さな体をずんと前に出し、挨拶を返してくれた。

 

「アナタがこの国のトップトレーナーね? ワタシの名前はインビジブル! みんなから"GOD"と呼ばれるウマ娘よ!」

 

 ブロンドのセミロングヘアが美しく靡き、自信満々ですと言わんばかりの表情を修飾している。

 首元にはスカーフを巻き、頭にはミスターシービーを思い起こさせる小さめのハットを被るなど、小洒落た感じも伝わってくる。

 しかし何よりも圧倒されるのは服の配色。

 かなり目立つ青一色のコートを羽織りながら、その下には明るい緑を基調としたワンピースが見える。

 とにかく派手で目立つし、こんなのがそこら中を歩いてたら、誰だって好奇の目で彼女を見るだろう。

 しかしそれでもなおこのコーディネートができるのは、自身を神と呼ぶその絶対的余裕からだろうか。

 体が小さいにも関わらず、そのオーラは今まで見た中でも最大級。

 その姿に圧倒されていると、後ろに待機していた秘書のような女性が礼をしてくれた。

 

「一応、面と向かって会うのは初めてですね。 私は、彼女のマネージャーを務める"リバーズコア"です。 ウマ耳が付いているのでお察しかと思いますが、現役の選手としてレースに出走することもあります」

 

 ダークブルーのスーツを身をまとい、一切自分を飾ることないその佇まいには、隣の少女とは真逆という言葉がふさわしい。

 髪色は同じくブロンドであるが、何故かインビジブルのそれとは存在感に差がありすぎる。

 しかし彼女の付き人ということを考えると、主人を引き立たせるという意味では大正解なのかもしれない。

 

「リバーズコアさんも、初めまして。 俺の名前は──」

 

 一見すると形式的に感じる挨拶を交わして、ここまでに至って思ったことをまず話していく。

 

「いきなりこんなことを言うのは変かもしれませんが……日本語、結構お上手ですね」

 

 挨拶の段階から気にかかっていたが、外国の人にしては日本語がペラペラすぎる。

 インビジブルは初来日と聞いていたのだが、学園にいるエルコンドルパサーやタイキシャトルなどと比しても遜色ないほど上手いし、リバーズコアに関してはもはや日本人と同等レベルだ。

 

「インビジブルは昔から日本に興味がありまして、幼少期より来日を切望しておりました。 故に日本語の勉強を独学でかなりこなしてまして、今では日常生活に苦労しないレベルまで上達しております」

 

 その説明が終わると、インビジブルは胸を張って自慢げな態度をとった。

 

「私の場合は、以前日本のトレセン学園に交換留学した経験がありまして、その時のトレーナーさんに日本語を徹底的に叩き込まれたので、ネイティブに近いくらいには話せるかと」

 

 なるほど、元々日本との繋がりが深かったのか──ん、交換留学? 

 一応その制度は今もあるにはあるが、それを利用して日本にやってきた留学生なんていうのは今まで覚えてる限りでは一例しかないはず。

 ──まさか。

 

「失礼ですが、リバーズコアさんが留学生としてやってきたのは四年前ですか?」

「あら、よくご存じで。 四年前、世にも珍しいイギリスからの留学生としてここにやってきたウマ娘、というのはこの私です」

 

 頭の端で引っ掛かってたモヤモヤが一気に解放される。

 どこか見たことのある顔立ち、プロフィール──

 

「俺がペーペーの新米だった時、先生が率いてたシリウスにいましたよね?」

 

 天を衝くかのような解答を捻りだすと、リバーズコアはやれやれという態度をとった。

 

「ようやく思い出しましたか……えぇ、あなたがメジロマックイーンさんにかかりっきりになってた時期に、ひっそりと加入して帰国していた、リバーズコアですよ」

「あ、あはは……ちょうどマックイーンが大変な時期だったもので、あまり周りの状況を見れなかったんですよ……」

 

 実のところ、当時の彼女についての記憶は全くと言っていいほどない。

 俺がマックイーンだけに集中していたということもあるが、そもそも彼女は先生についていってばかりいたので、同じチームと言っても関わりが何も生まれなかったのだ。

 とはいえ一時期のチームメイトを完全にど忘れするのは、さすがに頂けないが。

 しかしこれで、謎が一つ解けた。

 何故、マックイーンらを育てたとはいえまだ二十代の俺が、こんなスカウトを貰ったのか。

 

「私があなたを推薦した理由の一つとして、実際の仕事ぶりをこの目で見たことがあるから、というのがあります。 観察できた時間はごくわずかでしたが、あなたの担当ウマ娘に対する真摯さが並外れたものであることは、誰の目から見ても明らかでしたので」

 

 まるで、昔マックイーンに言われたことを思い出すようなお褒めの言葉。

 あまり他人の評価を聞かない性分ではあるが、やっぱり外からでもそう思われていたのか。

 

「もちろん、メジロマックイーンさんやライスシャワーさんをステークスウィナ──ー日本的に言うとGⅠウマ娘にした実績や、伝統に囚われないフレッシュさも、あなたが選ばれた理由です」

「だから! ワタシのトレーナーになってほしいのデス!」

 

 そこまで消えていくような存在感だったインビジブルが、怒りと共に、突如としてカットインしてくる。

 派手な格好をしているせいか、ギラギラとしたオーラが一気に増してそれまでの空気を全て覆っていく。

 

「まったく二人は。 昔の話に夢中になりすぎて、大事なこのワタシのことを忘れてませんカ!?」

 

 明らかな不機嫌顔をする光景は、神と呼ばれるにはやや幼すぎる様相を示していた。

 多分感情が前面に出やすいタイプなのだろう。

 

「すまない、インビジブル。 だが安心しろ、ここからはお前のターンだ」

 

 初めて聞くリバーズコアのタメ口を聞いて、今度はインビジブルが次々と語りだしていく。

 

「知ってると思うケド、ワタシは今年、ダービー、キングジョージ、Arc──ここで言う凱旋門賞の、トリプルクラウンを制覇したわ! でも今は大ケガをしてしまって、またレースにリターンする時に、ヘビーなこ……後遺症が問題になるの! だから!」

 

 英語交じりでの自己紹介をし終わった途端、こちらの手を勢いよく握手してきた。

 

「ワタシのトレーナーに、なりなさい!」

 

 随分と勢いよく、握る手を強烈に強めて言われた。

 正直握られた右手の痛みが相当に凄いが、ハナからこのスカウトを受ける予定であることは決めていたので、そんなことは些細なものだ。

 

「……インビジブル」

「What's up?」

 

 ネイティブな英語と共に、顔を傾げてはてなマークを浮かべるインビジブル。

 それに俺は、返答の意味を持って右手で握り返す。

 

「これから、よろしく頼むな」

 

 この言葉を告げた途端、インビジブルの目はぱあっと輝きを持ち、こちらに抱き着こうとしてくる。

 ──が、自分の胸を貸したくないという反骨心が芽生えたので、そのハグをするりと抜け去った。

 

「ちょ、ちょっと! なんでよ!」

「……彼女のことは置いておいてください」

 

 ぶーぶーと文句を垂れ続けるインビジブルをよそ目に、マネージャーに言われ、俺たちは契約の詳細を確認する。

 リバーズコアはビジネス的な契約書類を取り出し、自分に見せてくる。

 

「契約開始は来年の二月から。 それまでに、シリウスのメンバーの子たちの整理をしておいてください。 報酬については──」

 

 

 

 

 

 一つ一つの条項について、しっかりと確認していく。

 日本の法律が適用されない世界との契約な為、普段よりも文章をしっかりと見ていかなくてはいけない。

 もしトラブルに巻き込まれたら大変──ん、何か監視されてるような気配を感じる。

 いや、気のせいか──? 

 

「……大丈夫ですか?」

「え? あぁいや、大丈夫です」

 

 いかんいかん、ボーっとしていたようだ。

 集中しなくては──

 

 

 

 

 

 ────

 見てしまった見てしまった見てしまった──

 トレーナーさんが付いてくるなって言うせいで、逆に付いていきたいと思ってしまって、気が付いたらここまで来てしまった。

 そしたらトレーナーさんがあの時の留学生さんと、全然分からない変な小娘と会話してて。

 聞いちゃいけないと思いながらも、気になって仕方なさすぎてつい盗み聞きしてしまった。

 最初は昔話をしてたりしてて、あぁやっぱり引き返そうかなと思っていたら、突然あの小娘が私のトレーナーになれなんていう無礼なことを言うものだから、耳が離せなくなってしまって。

 その後も色々聞いていったら、なんとトレーナーさんが海外に行ってしまうというとんでもない話を聞いてしまった。

 正直、この時点で涙が出てきてしまうほどのショックを受けていたのだが、どうしてか秘密の会談をそのまま聞き続けることにした。

 心中穏やかでない状態で耳に入り続ける、トレーナーさんの契約話。

 嘘であってください──頭の中でずっとそう唱えていても、この現実が夢になることはなかった。

 ショックに打ちひしがれていた私は、彼に見つかるまいと、あちらが解散する前にその場を離れ、そして今に至るわけである。

 

「……トレーナーさんの、嘘つき」

 

 誰にも聞こえないように、ぼそっと呟く。

 一か月前、あの雨の中で語ってくれた思いは、偽りのものだったのでしょうか。

 濡れていても感じ取れた、抱き着いた時の全身の温かみは人工的なものだったのでしょうか。

 わたくしとした──あのキスは、無意味なものだったのでしょうか。

 一つ一つ思い返すだけで、頭が絶望に浸食されていく。

 そして、とある悲観的な答えにたどり着いてしまう。

 

 あの方はわたくしのことを、愛してらっしゃらないのかもしれない──

 

 この考えに至ってすぐ、全身に脱力感が襲い掛かる。

 こんな思いをするのなら、付いていかなければ良かった。

 知らずにいれば、幸せなまま今日を過ごせたのに。

 結局、私は彼に愛されてるはずもなかった。

 トレーナーと、ウマ娘。

 ただその関係にすぎないことなんて、考えれば分かることだ。

 なのに私は期待するだけして、こうやって涙を流す。

 

「……もう、帰ろうかしら」

 

 ごめんなさいトレーナーさん。

 こんなバカでダメなマックイーンを、許してくださいまし。

 明日には──いや明後日には、元通りになって帰ってきますので。

 少しでも愛してもらえるような、マックちゃんに──

 

 

 

 

 

 ──待て。

 彼がいない世界で、私はどう生きていくつもりなのだ? 

 私は彼の存在なくして、今を得ることはできなかった。

 そしてこれからの幸せな未来にも、彼がいなくては何も始まらない。

 もはや自分にとって、その存在はとても大きく、欠けてはならない人になっている。

 私はそれを簡単に、手放すのか──? 

 否、私はメジロマックイーン、狙ったものは絶対に逃さない。

 彼が海を渡ろうものなら、私も海を渡ろう。

 彼が極点に行こうものなら、私も極点に行こう。

 彼が宙へ向かったのなら、私も宙へ向かおう。

 きっと家は、そんなことを許してくれない。

 それなら家を裏切ってでも、彼に付いていくつもりだ。

 そのくらいの覚悟、とっくにできているはず。

 

「……どうしてこんな時に、忘れてしまったのでしょうか」

 

 伝えよう。

 あの日、雨で流された想いを伝えよう。

 結局、またヘタレて言えなくなるかもしれない。

 それでも、一時のその意志に意味がある。

 神様、わたくしに、勇気をください──

 

「……トレーナーさん」

 

 下だ。

 下のソファ席──そこに愛しき人の気配を感じる。

 やっぱり根拠はない、でも自信はある。

 そこに向けて、下へ下へ動くエスカレーターを駆け下りていく。

 はしたない行為かもしれないが、彼の為ならば結構。

 大好きな貴方と共に在れるのなら、私はなんだってする。

 

「待っててくださいませ……!」

 

 今度こそは、その手を掴んでみせる。

 心に決めて、彼を探した。

 

 

 




「ひいおばあ様の香りがすると思ったら……私の嫌いな東京レース場じゃないここ!」
「えっと……お姉さん、マックイーンさんに用ならドーベルさんに聞いた方が良いと思います……!」
「フラワーちゃん……あまりドーベルさんって呼んでほしくはない、かな……」



 三分割しました! 申し訳ない!
 (下)はすぐ出ますのでお待ちを……!

 しかし東京競馬場、今は入れないので構造忘れがちですね……今年のダービーだけは観客有でやってほしいなと思いました。







 今回の謎ウマ娘はラッキーライラック。 オルフェーヴルの現状代表産駒で、つまりメジロマックイーンの血を受け継いでます。
 ただマックイーンらしさはあまりないですね。 東京で勝利したことがないくらいしか共通点がないです。(マックイーンは秋の天皇賞ほぼ勝ってましたが)
 メジロドーベル、ニシノフラワーはそれぞれ、阪神ジュベナイルフィリーズ(二頭の当時は阪神3歳牝馬ステークスって名前でした)の勝ち馬でありながら、その後も活躍した名牝ということで出演です。 ドーベルとはエリザベス女王杯連覇も一緒ですね。


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愛しい貴方を、逃さない(下)

 ────

 これで、良かったのだろうか。

 思考の狭間で反復する、いつまでも残る迷い。

 ちゃんと覚悟を決めたはずなのに、今になって大きく、大きく、今までになく揺らいでくる。

 本能が、これから向かう現実に対して悲鳴を上げている。

 抑えなくては──しかし、徐々に理性が本能に押されてゆく。

 気が付けば、重い罪を背負っている感覚がひんやりと伝わってきた。

 苦しい──

 

 

 

 

 

 冷やりとする感覚が、想像上のものではないことに気づく。

 何かが、自分の肩に──

 恐る恐る振り返ってみると、そこにあったのは、自分が今一番大切に思っている対象であった。

 

「マックイーン……」

 

 緊張の糸が張り巡らされてるからか、耳や尻尾の先はピンと立っている。

 よく見れば、口元は微かに震え、瞳は今にも泣きそうになっている。

 ──そうか、また俺のせいで、彼女は泣きそうになっているのか。

 自然と至るその考えは、俺の罪意識をより強くさせた。

 

「……どうしたんだ、何かあるんだろ? 言ってくれ」

 

 彼女は俺の肩に震える手を置いたまま、黙ってこちらを見続けていた。

 俺も当然、彼女の瞳に釘付けになる。

 しかしふっと、彼女は何かを決心したかのように目を閉じて、そこから大きく息を吸い上げる。

 そしてそれらを全て吐くと、真っすぐな瞳で話し始めた。

 

「……トレーナーさん、海外に行かれるのですよね?」

 

 ──やっぱり、気づいていたのか。

 恐らくさっき話していたのをどこかで見ていたのか、それとも誰かからその話を聞いたか。

 どちらにせよ、このことが彼女にバレてしまったことには、どうしてか不快感を感じなかった。

 むしろ、少し清々しい気分ですらいる。

 

「……あぁ。 俺は来年の春にはもう、この国を離れてイギリスでトレーナー業をする」

「……どうして、わたくしを連れて行ってくれないのですか……?」

 

 告げられた言葉に、一瞬耳を疑った。

 連れていく、彼女を? 

 それは一番、許されてざる行為なのではないか。

 

「そんなこと……できるわけないだろ! だって君は、メジロ家が大事に大事にしてる令嬢なんだぞ! もっと自分の立場を理解して──」

「それはわたくしだって分かってますわ!」

 

 遮られ、涙を飛ばして悲痛に叫ばれた。

 

「でも……わたくしは家の命令に従うような、出来た人間ではないのです……貴方と共に、ずっと在り続けたいと願っているから!」

 

 彼女の宣言に、自分の中のどこかに強い衝撃が走る。

 俺はいつの間にか、どこか彼女を見くびってたのかもしれない。

 

「貴方が地の果てまで行くと言うなら、わたくしも地の果てまで行きます。 天まで昇ろうというのなら、わたくしだって空を駆けてあげましょう。 一心同体を誓った者同士が一緒にいるのは、当然のことなのですから!」

 

 そこまで言い切ると、彼女がすっと歩み寄ってくる。

 そして大切そうに、しかし力を込めて抱き着かれた。

 

「だから、わたくしを離さないで……どこに行ってもいいから、一緒にいさせて……」

 

 顔を埋め、涙を胸に擦り付けて言う言葉に、胸が打たれる。

 ──元々、彼女と離れる必要など、なかったのかもしれない。

 俺は彼女を包むように抱きしめ、頭を撫でた。

 

「……俺はもう、君と一緒にいるべきでないと思ってたんだ」

「トレーナーさん……」

 

 もう隠し事はしないようにしよう。

 俺が彼女に求めたように、自分の本音を伝えなくては。

 

「ごくごく平凡な家に生まれた俺と、名家に生まれた君。 一緒にいたら、君が不幸になると考えてたんだ。 だから俺は、こんなことを……」

 

 貰ってきた涙が零れそうになるのを抑えていると、彼女が上を向き、微笑みを浮かべてくれた。

 

「何を言ってますの……貴方といれないことこそが、わたくしにとって一番の不幸──死んでしまいたいと思ってしまうくらい、辛いことですわ。 どうして貴方はそんなに、鈍感なのですか……?」

「……ごめんな、マックイーン。 気づいてやれなくて」

「……えぇそうです。 貴方は本当に……鈍感なのですから……」

 

 一生懸命、誰かが剥がそうとしても剥がれないような、力強いハグをする。

 再び彼女が涙を零して、粒を落とし、その粒が俺の足まで到達した。

 

「……マックイーン」

「はい……!」

 

 明るさを取り戻したその声にはやはり、安心させられる。

 これを永遠に守り続けることが、俺の使命だ。

 

「今から、先方に契約の破棄を希望しに行ってくる」

「え……? いいのですか? だってこれほどの話、そうそうあるわけではないのに……」

 

 上を向いた彼女は困惑の表情を浮かべてはいるが、少し嬉しそうなのを我慢しているのは見え見えだった。

 しかし俺のことを考えて、この話を受けるべきだという思いは本物のようだ。

 

「もちろん、凄い光栄な話だとは思ってるし、普通なら受けるだろうな。 でも俺はまだまだ未熟なトレーナーだ。 このプロジェクトを遂行できる自信は正直ないし、このまま受けるのも迷惑がかかる。 それに、俺はマックイーンがいるチームシリウスを、家族ぐらい大切に思ってるからな」

「家族のように……」

 

 何故かその言葉を反復させるマックイーンだが、理由がなんとなく分かってしまったかもしれない。

 それを言うと、絶対に怒られるだろうけど。

 

「でもまぁ、決まった話をいきなり取り消せってのはありえない行為だからな。 ちょっと……大変なことになるだろうね」

「……っ、それなら!」

 

 ハグしていた腕が解かれると、今度はこちらの手を掴んできた。

 

「わたくしも一緒にいますわ。 これは貴方の我が儘だけでなく、わたくしの我が儘でもあるのですから。 それに……」

 

 手を握られたまま、突如として彼女はこちらの横に立ち、そしてカップルがするという手の繋ぎ方──所謂、恋人つなぎをしてくる。

 

「この人はわたくしのものであると、言わなくてはいけませんから」

 

 悪魔的な顔をする彼女は、今日見てきた表情の中で最も魅力的で、体がゾクッとするほど煽情的であった。

 この子にこんな側面があるなんて──

 いつか来てしまう、理性が完全に壊れる瞬間が恐ろしくも、楽しみになってきた。

 

「それじゃあ……行こうか」

 

 あの人たちの居場所は分かっている。

 それはマックイーンも感じ取ってくれたのか、何も言わず、連れられるがままに歩みを共にしてくれた。

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

「東京第10R、シャングリラ賞──」

 

 やはりレースは熱い。

 この学園に来てから八か月近いが、この興奮に慣れる時は来るのだろうか──それほど、体が上気している。

 しかし今日のメインレースまでにはまだ一時間もあって、そこまでにはここ東京だけで二レースある。

 もう一方の京都でも京阪杯があるし、こんなに楽しくてもいいのだろうか。

 ──あれ、そういえばトレーナーさんがいない。

 

「ゴールドシップさん、トレーナーさんがどこにいるか知ってますか?」

 

 席で新聞片手にレースを見ていたゴールドシップさんに問うた。

 正直この人が知ってるような気はしないが、マックイーンさんも何故かいないんだからしょうがない。

 

「んあ? んなもん知らねえよ……アタシはこのシャングリラ賞で万バ券当てなきゃなんねえからな……」

 

 ま、万バ券? 

 何を言ってるかさっぱり分からないが、とにかく居場所が分からないことだけは理解できた。

 

「わ、わかりました……」

 

 やっぱりと言うべきか、知らなかったようだ。

 

「まああれじゃね? マックイーンとラブラブキャッキャウフフ・うまだっちうまぴょいなフラワーカーペットを歩んでるんだろ」

「どういう意味ですか……」

 

 長すぎて一発で意味を理解できなかったが、多分あの二人が仲良くいるかもしれないよね、ということか。

 確実ではないが、恐らくあの二人は付き合ってるのだろうし、その線は全く不思議ではない。

 ──そうだ、この際聞いてみよう。

 

「ずっと気になってたんですけど、トレーナーさんとマックイーンさんって付き合ってるんですよね? だってあんなに仲いいですし……」

 

 言うと、意外なことに彼女は厳しい顔をしてしまった。

 

「……あいつらは、付き合ってない」

「え、そうなんですか?」

「あぁ……普通ならとっくのとうに付き合って、やることやってるもんだけどな。 あいつらのヘタレ度が飛ぶくらいレベチだからか、全くそんな関係にならずにここまで至ったんだ……」

 

 苦労してきましたよみたいな態度で話をしているが、こればかりは同情してしまう。

 あれだけラブラブな雰囲気を醸し出しておいて、正式にお付き合いしてないとは──

 

「きっとあいつらをがっちゃんこさせるにはな、多分稲妻クラスの衝撃を与えなくちゃならねえ……」

「それほどの、衝撃を……」

 

 ただの色恋沙汰だと思っていたが、なかなかに大変な話に見える。

 普段は自由奔放に活動するゴールドシップさんがこんなにも考えてるわけだから、今シリウスで最もホットな問題なのだろう──私も、解決策を提示しなくてはいけないのでは。

 

「こういう時に効果的なのは、"吊り橋効果"ですよ!」

 

 吊り橋効果──恐怖や緊張をしている時に、それらを共有している相手に恋愛感情を持ちやすい、という心理学での理論である。

 まあ二人は既に恋に落ちているだろうが、それは気にしない。

 

「それはな……もうやってしまってるんだ。 しかも一か月前にな!」

「う……それなら"ロミオとジュリエット効果"はどうですか!?」

 

 ロミオとジュリエット効果──何か障害が立ちふさがってる場合、その障害を乗り越えようという気持ちが高鳴って、二人のキズナが強まる、という同じく心理学の理論である。

 しかし二人は既に何回も障害に立ちふさがれて、その度に協力して乗り越えてきてるだろうし、今更これをやる意味があるのかは、不明だ。

 

「ロミオとジュリエット……そうか!」

 

 私が言った"ロミオとジュリエット"にどうやら反応したようで、閃いたという顔をした後、ゴールドシップさんは一言も発さず下を向いて考え込むようになってしまった。

 なんというかこう、情緒が不安定すぎて色々不安になる。

 

 

 

「……あまり触れない方がいいのかな──ってわぁ!?」

 

 振り向くと、目の前には緑の人が。

 完全に油断していた所、なんと、知らない間にアサシンの如く、学園理事長の秘書さんが近づいてきてたではないか。

 もし彼女が忍者だったら、間違いなく私はやられていただろう。

 それほど、突発的にぬっと登場してきたのだ。

 

「すいませんねサトノダイヤモンドさん。 ちょっと、ここのトレーナーさんに用があるんですけど、電話が繋がらなくて……」

「え、トレーナーさんに!? ライスさんに何かあったのですか!?」

 

 彼女は理事長の秘書という立場なので、URAのレース運営にも結構噛んでいたりしているし、そうなると出走者に何かがあったら、当然それも分かるわけで。

 まあそれでライスさんに何かあったとしても、こんなアナログな方法では来ないでしょうけど。

 

「いえいえ、ライスさんは順調そのものですよ。 それではなくて、別の理由で探してるんです」

「なるほど……それは、急がないといけませんか?」

「うーん……そうですね、急ぎの用事です」

 

 首を傾げる彼女の姿は見た目の年齢にそぐわない、とてもフレッシュなものであった。

 しかしライスさん以外のことで急がなくてはいけない用事となると、一体何なのだろうか。

 

「実は私たちも知らなくて……そろそろ、ライスさんの所に向かった方が良いんじゃないかなと思ってるんですけど──」

「……天啓が降ってきたぞ!」

 

 それまで声のしなかった方──ゴールドシップさんの方向から大きな声が聞こえる。

 びっくりしてそちらの方を見ると、ゴールドシップさんが空に手を上げて仰いでいた。

 

「こ、今度はゴールドシップさんですか!?」

「分かった……このレースの勝ちウマと、二着三着……そしてトレーナーの位置が!」

「本当ですか!?」

 

 たづなさんがぱあっと明るい顔になるのを見るや、ゴールドシップさんは手を頭に持っていった。

 何をするのだろうと思っていたら、いきなり人差し指を一方向に下ろしてくる。

 いうなればうさみみポーズの手をより下方向にして、指を人差し指のみにした感じ──まあ、本人にウサギの意味は含んでないだろうが。

 

「ゴルシちゃんダウジングによると……ここだぁ!」

 

 たづなさん、分かりますか。

 あまりに抽象的すぎて、私には分かりません。

 

「なるほど……ゴールドシップさん、ありがとうございます!」

「え、分かったんですか!?」

 

 驚いてたづなさんの方を向いたが、もうすでに彼女の存在は確認できなかった。

 は、速すぎる──

 というより、ツッコミどころが多すぎてもうよく分からない。

 呆然としていると、ゴールドシップさんが今度は新聞の一部分を指差していた。

 

「このウマ娘……絶対に来る!」

「そうですか……」

 

 ゴールドシップさんは置いておいて、気になるのはたづなさんのこと。

 なんとかなってほしいと思いながら、次のレースが始まるのを待つこととした。

 

「……ハマる時は、案外ハマるもんだな、ライス……」

 

 ゴールドシップさんがまた何か言ってる──

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

 インビジブルは世界で大活躍するウマ娘だ。

 当然彼女を受け入れるURAも、最高級の待遇を用意しているはず。

 となると、ただの関係者では入れない、とんでもないVIPルーム──通称"ダービールーム"にも入れるはずだ。

 そこにいる可能性が一番高いと思われるので、我々はそこに向かうこととした。

 俺たちがそのダービールームに入れるか、という問題はあるが、多分インビジブルは入れてくれるだろうし、大丈夫だろう。

 一応、リバーズコアにメールを送っておいた。

 

「トレーナーさん、リバーズコアさんのこと覚えてらっしゃらなかったのですか? まったく……そういうところは直した方が良いですよ」

 

 恋人つなぎしたまま、窘める顔をするマックイーン。

 そのまま歩幅を合わせて横並びに歩いてるから、二人はどっからどう見てもカップルにしか見えないはずだ。

 しかし悪い気分はしない。

 

「すまん……その時はマックイーンのことしか考えてなくて……」

 

 自然と、少し気障なセリフを口走ってしまった。

 彼女に怒られるだろうか──と思って振り向いたら、意外と少し嬉しそうな表情であった。

 

「わ、わたくしのことしか……それなら、しょうがありませんわね」

 

 少し浮ついた発声が、嬉しいことを裏付けている。

 ふと背中を見ると、尻尾は落ち着かない様子で右へ左へと動いていて、可愛らしさをまた感じ取ってしまった。

 

 

 

 

 ────

「ここだな……」

 

 リバーズコアから受け取った情報をもとに、辿り着いてしまったドア。

 ドア横の表札には"8"の数字と"シンボリルドルフ"というウマ娘名が併記されていた。

 どうやら部屋一つ一つに、ダービーウマ娘と部屋ナンバーが割り振られてるようだ。

 そういえば14番には、"トウカイテイオー"の名前が書かれていたな──

 

「すごくわたくし、緊張してまいりました……一番大変なのはトレーナーさんであると分かってますのに……」

 

 見ると、握るマックイーンの右手が少しであるが震えていた。

 大レースに何度も出ている彼女でも、こういう場所で震えるというのは、少し意外だった。

 そして正直なところ、自分もかなり緊張しているが──それを悟られてしまうと、彼女をもっと不安にさせてしまう。

 だから我慢、どれだけ怖くても、彼女よりは毅然としなくちゃいけない。

 

「……っ、トレーナーさん?」

 

 震えている右手を、すっと俺の左手で握り返す。

 大丈夫、俺がついてる──そういうメッセージが、伝わればという行動だった。

 

「ふふっ、暖かい……貴方がいるから、怖さもなくなってきました」

 

 緊張の糸が切れたようで、柔和で安心した表情を見せてくれた。

 

「じゃあ……行こうか」

「えぇ、行きましょう」

 

 合図をして、ドアをノックして声を掛ける。

 返事は思いのほか早く返ってきた。

 

「トレーナーか!? いいぞ、入ってこい!」

 

 元気な声は間違いなく、インビジブルのものだ。

 このルームの主の許可が出たので、恐る恐る扉を開けた。

 

 

 

 そこには、椅子に鎮座しているインビジブルと、その横で立っているリバーズコアの姿が。

 

「おおトレーナー! 一体ワタシに何の用──って!」

 

 きっと、入ってきた人が、見知らぬ女性と手を繋いでるのを見て驚いたのだろう。

 その人が自分の将来的なトレーナーなのだから、なおさらだ。

 それは彼女のマネージャーも同様だったようだが、さすがにインビジブルと違ってすぐに冷静さを取り戻していく。

 

「……お久しぶりですね、メジロマックイーンさん」

「え、えぇ。 会うのは四年ぶりになるのでしょうか」

「そうですね。 そこの、君専属のトレーナーさんも、同様です」

 

 仏頂面なリバーズコアの語り口は、怯えやすいお嬢様に威圧感を与えるには十分だった。

 しかしマックイーンは決してひるむことなく、頑張って立ち続けている。

 

「……それで、何の用でしょうか。 契約の確認──ではなさそうですね」

「はい」

 

 すうっと、息を吸う。

 呼応するように、隣の彼女も息を吸っていた。

 そして同時に、吸った空気を吐く。

 

「……先ほど交わした契約を、取り消してもらえませんでしょうか」

 

 重い言葉を出してから、頭を深々と下げる。

 連れて、マックイーンも頭を下げる。

 耳には、驚く少女の声と、呆れたというようなため息が入ってきた。

 

「……どうしてか、教えてください」

「……はい」

 

 頭を上げると、顔を手で押さえるリバーズコアと、唖然としているインビジブルが目に入った。

 申し訳ないという気持ちが強まる──だが自分の主張を押し通さないといけない以上、避けては通れない。

 

「俺がチームシリウスに所属していることは、お分かりですね。 俺はそのシリウスを……離したくないんです」

「なんで! それならこっちにも魅力的な──んぐ!?」

 

 慌てたインビジブルが前に出てあれこれと喋ろうとしていたが、空気を読んでくれたマネージャーさんによって口を塞がれる。

 当のリバーズコアは、ただ黙ってこちらの話を聞いていた。

 

「俺にとって、シリウスは家族のようなものなんです。 ライスシャワーにゴールドシップ、他にも──」

 

 シリウスのチームメンバー五人と、俺が先生と慕う先代トレーナーやオグリキャップ、まだ正式加入してないが、サトノダイヤモンドの名前も出していく。

 

「そしてもちろん、メジロマックイーンも。 みんな、俺にとって大事な仲間なんです。 そんな人たちとは、まだ……離れることはできません」

 

 一つ一つ、言葉を慎重に選んで話していく。

 この思いが偽りでないことを、しっかりと伝えるため。

 

「ですから、無理なお願いだとは重々承知してます。 この契約を、なかったことにしていただけないでしょうか」

 

 再び頭を下げる二人。

 しばらくすると、目の前にいるはずのリバーズコアが重い口を開けてくれた。

 

「……あなたの言い分は分かりました。 所属しているチームから離れたくない気持ちは、私も昔味わったものですから」

「リバーズコアさん……」

「……ですが、私たちとて引くわけにはいきません。 そう簡単に、あなたという人材を放ってはおけないのです」

 

 鋭い眼光で俺たちを睨みつけていくリバーズコア。

 彼女の立場を考えれば当然なわけで、これくらいはもちろん想定している。

 

「リバーズコアさん、わたくしからもよろしいでしょうか」

 

 今度は俺の隣にいる少女が口を開く。

 気が付けば、彼女の右手は震えることなく、がしっと俺の手を掴んでいた。

 まるで、この人は渡さない、と言わんばかりに──

 

「えぇ、いいですよ」

「ありがとうございます。 ……わたくしたちチームシリウスは三年前、先代のトレーナーさんやオグリキャップさんの引退に伴って、新しく生まれ変わりました」

 

 マックイーンと俺だけが歩んだ足跡を、まず最初にと丁寧に話している。

 

「当時はサブトレーナーと呼ばれていた、今の彼がトレーナーになったものの、当時のチームメンバーは、わたくしを除いて全員、チームを脱退してしまったのです」

「……っ、だからチームメンバーが大きく……」

 

 合点がいったような表情をするリバーズコア。

 元チームメンバーだからこそ、その謎が生まれていたのだろう。

 

「そこからわたくしたちは、先代が託してくれたチームシリウスを守る為に尽力してまいりました。 変な勧誘活動をしたりもしましたが……結局は、わたくしが春の天皇賞を制したことで、チーム存続の為に必要な規定の五人を集めることができました」

 

 集まってくれた四人の顔を思い浮かべる。

 よくもまあ、あんな終わりかけのチームに入ってくれたものだ。

 

「翌年にはライスシャワーさんも加わり、六人に……チームシリウスでの日常は、わたくしが今まで感じたことのないほど、幸せな日々が続きました。 トレーナーさんも含めた七人で、トゥインクルシリーズを勝つために日々研鑽を積み、時には笑い合いながら、誰かが悲しんだ時はメンバー全員で慰めたりもしました」

 

 脳裏に、あの大雨の天皇賞秋が出てくる。

 マックイーンが真のエースになったあのレースは、シリウスというチームの強さを表した典型例だ。

 

「そうしてわたくしたちは強いキズナを結びあって、今に至ります。 もちろんチームメンバー同士という関係に変わりはありませんが……このトレセン学園の中でも最も強い繋がりを持っていると、確信しております」

 

 彼女の握る手が、更に強くなった気がする。

 

「トレーナーさんは、そんなシリウスにとっての核──なくてはならない存在なのです。 彼がいなくなれば、シリウスは瞬く間に弾け、消えてなくなってしまうでしょう。 わたくしたちはそんなシリウスを、見たくはありませんわ」

「シリウスが弾ける……」

 

 そこまで言われると、少し照れてこそばゆくは感じるが、この雰囲気に呑まれてか顔はそこまで変化しなかった。

 

「ですから、わたくしからもお願いいたします。 彼を──トレーナーさんとの契約を、翻してはいただけませんか」

 

 三度垂れていく頭。

 三度目となるとさすがのリバーズコアもばつが悪く感じたのか、顔を上げる旨を伝えるようになっていた。

 顔を上げると、頭を掻いてどうしたものかという所を見せてきている。

 

「……私も、本国から言われてここにきています。 どうしても、引き下がるわけにはいかないのです」

 

 しかし情勢は変わらず、いつまで経っても平行線なまま。

 不安がってきたのか、隣のマックイーンの手の力が少し弱まってきたような気がする。

 

 

 

 

 

 これは長期戦か──そう思っていた瞬間、後ろのドアからコンコンという音が響く。

 

「……? 誰だ、一体何の用だ?」

「えーと……インビジブルさんとリバーズコアさん、そこにシリウスのトレーナーさんはいらっしゃいますかぁ?」

 

 この声は──

 

「たづなさん!?」

「あ、これはいますね! ちょっと失礼します!」

 

 こちらが少し混乱している中で、堂々とダービールームに入ってくる緑の理事長秘書さん。

 俺とマックイーンが唖然としているのをスーッと通ると、リバーズコアと俺たちとの間に入った。

 URAの上層部に位置している彼女だからだろうが、あまりにも容赦がなさすぎる。

 

「たづなさん、お久しぶりです」

「はい、リバーズコアさんはお久しぶりですね。 インビジブルさんは……一応初めましてですね?」

 

 視線をたづなさんからインビジブルへと向けると、いつの間にか塞がれてた口は開けられていたようだ。

 

「そうだな、Nice to meet you! ワタシの名前はインビジブルだ!」

 

 こんな状況でも元気一杯な彼女には、正直驚きしかない。

 

「はい、初めまして。 では早速、本題へ移りたいのですが……」

「……ん? 一体どうしました?」

 

 こちらを探してきたはずのたづなさんだが、こちらを向かずにリバーズコアの方を向いた。

 当然、リバーズコアも気になって訊くだろう。

 

「何やら、あなたたちがうちのとあるトレーナーさんと、海外就業の契約を結ぼうとしているらしい、という話を風の噂で聞いたのですが……それは本当ですか?」

「えぇ、本当です。 その相手が、そこのトレーナーさんですが……」

 

 リバーズコアはこちらを指さすと、たづなさんはニンマリとした顔をして今度はこちらを向いた。

 

「そうですか、ありがとうございます。 それで、実はですねトレーナーさん……これ、正式に受理されたんです!」

 

 そう言うと、彼女は懐から一枚の紙を出してこちらに見せてきた。

 いきなりでビックリしたが、マックイーンとともに読み進め、内容を確認すると──

 

「"トレーナーの、ウマ娘との担当契約の、受理に関する報告書"。 "甲はサトノダイヤモンドと、トレーナーとして担当契約を結んだことを"──って、これなんですか!?」

 

 そこに書いてあったのは、簡潔に言うと、俺がサトノダイヤモンドのトレーナーになりましたよ、ということをURAが認めたもの。

 つまり、サトノダイヤモンドは正式に俺と契約をしたわけで、そうなると──

 

 

 

「お分かりですか、トレーナーさん。 未デビューのウマ娘さんを引き受けたので、規則として、これより一年間は海外に拠点を移してのお仕事は認められません! なので、この契約は実質的には無効となります!」

 

 満面の笑みでそれを伝えるたづなさんは、こちらにとっては天使のように見えたが、向こうからすれば悪魔のようなものだろう。

 そしてその向こう側はというと、二人とも口があんぐりと空いていて──

 

「そ、それは何時に受理されたのです!?」

「それはここに書いてありますよ? ほら、午前9時とありますよね。 一応ホームページでも確認はできますが……」

「いやでも、レースの開催日は基本、契約の受理をしていないはずでは……」

「えぇ。 "基本は"受理してませんが、規則として受理してはいけないという決まりはありませんので……」

 

 あらゆる逆転の目を、さらりさらりと潜り抜けていくたづなさん。

 その笑顔で言われると、こちら側も足が竦んでしまうのですが。

 

「じゃあ、トレーナーはどちらにしても、わが国には来てくれないということか!?」

「えぇそうです、インビジブルさん。 私たちとしても大変心苦しいのですが、ルールですので……」

 

 大焦りで聞いたインビジブルだが、たづなさんの得も言えぬ圧に屈したか、今にも泣きそうになってしまう。

 正直、ここまでくると胸が痛んで同情せざるをえない。

 しかし、こちらとて全く謎がないわけではない。

 

「た、たづなさん。 俺、書類にサインした記憶ないんですけど……」

「え? でもトレーナーさんの判子はしっかりと押されてましたし……ちゃんとこちらに提出した印章であることも確認済みです」

 

 当然URAに渡した印章でないと受理されないが、しかしそうなると別の誰かが押したという線はかなり薄くなってくる。

 となると、どっかのタイミングで自分が押したことになるが──まさか! 

 

「その契約書がURAに提出されたのって、昨日の昼過ぎですか?」

「はいそうですよ。 ライスシャワーさんが、持ってきてくれました」

 

 なんてことだ──昨日碌に確認せずに押した書類が、そんな大事な書類だったとは。

 いや、結果的にいい方向には進んだから、結果オーライか? 

 でもたまたま上手くいっただけだから、これからは気を付けないと──

 

「でも秘書さん、あれってゴールドシップさんのレース登録の書類では……?」

「え? ゴールドシップさん? はて、そういう話は……」

 

 まさか、俺はライスシャワーやゴールドシップに半分騙されていた、というわけか。

 しかし俺が書類をちゃんと確認してさえいれば、全然上手くいかなかったわけで──賭けにしてもとんでもないぞ。

 俺とマックイーンは二人して、昨日のあの出来事を思い返しながら戦慄していた。

 

 

 

「……残る」

 

 混濁した空気が流れる中、インビジブルの声が切り裂く。

 

「インビジブル、残るって……?」

「日本に残る! もう国には帰らない! ここのスクールに入って、シリウスにも入るもん!」

 

 駄々をこねる子供のように振舞いながら発せられた言葉が、またも場を混迷へ突き落とす。

 

「はぁ!? 今あんたなんてことを言ったの!?」

「さっき言った通り! シリウスで、このトレーナーと一緒に頑張るの!」

「トレーナーさんの隣はわたくしですわよ!?」

 

 慌てるリバーズコアと、相変わらずのインビジブル。

 そこに何故か嫉妬したマックイーンも入ってきて──色々分からなくなってきた。

 

「リバーズ! 今から本国に行き、交換留学の手続きをしてきなさい! ワタシは日本に残ってるから!」

「あら? インビジブルさん、手続きが完了するには少しお時間かかりますけど、それまではどうするのですか?」

 

 たづなさんが当たり前のことを聞くと、しばらく考えこんで──

 

「そうね……じゃあ、日本全土のレース場を回るわ!」

「そこまでのお金ないんじゃ……」

「では、わたくしがお金を出してあげましょう! その代わり、"お一人で"お行きになってくださいね? トレーナーさんはまだやることがありますので……」

 

 マックイーンの嫉妬がかなり甚だしいことになったが、それよりも。

 

「待ってインビジブル! そもそも私はそんなこと認められ──」

「それじゃワタシ、ウェルカムステークスを見ないといけないから! あとはリバーズ、お願いね!」

「ちょっと──!」

 

 勢いそのままに、インビジブルは部屋を出て行ってしまった。

 リバーズコアも急いで追いかけるが、はてさてどうなるのか。

 とんでもない嵐が過ぎ去ったと思ったが、その気持ちはマックイーンも一緒のようで。

 

「す、すごいバイタリティですわね、あの人……」

「あはは……マックイーンもちょっと、勢いすごかったけどね……」

 

 隣の少女の独占欲が並外れてるのを見ると、これから大丈夫だろうかという気持ちが先行してきてしまう。

 

 

 

「でもトレーナーさん……これで、来年からもシリウスのトレーナーですわね!」

 

 嬉しそうに尻尾をぶんぶんと振り回すマックイーン。

 彼女の安堵も含まれた笑顔を見ると、頑張った甲斐があるってものだ。

 

「でも大丈夫か? 結構圧が強かったけど、怖くなかったか?」

 

 両手で彼女の手をそっと握ると、マックイーンがいじらしく答えてくれた。

 

「怖くなかった、というと嘘になりますわ。 でも……トレーナーさんがずっとこの手を握ってくれたから、わたくしは立ち向かえました。 本当に、ありがとうございます」

 

 少し涙を零しながらも、面と向かって一生懸命、伝えてくれている。

 そして彼女もまた、こちらの手を握り返して──

 

「でも、離したらまた怖くなってしまうかもしれません。 だから……今日は別れるまで、ずっと手を握ってもらえませんこと?」

 

 

 

 

 




「というわけで、インビジブルだ! "神のウマ娘"だぞ! トレーナーと一緒に、Twinkle Seriesのトップ目指して頑張るぞ!」
「はぁ、なんでこんなことに……リバーズコアです」
「えぇ!? ライスがいない間にこんな人たちが……って、マックイーンさん!? 顔凄く怖いよ!?」



 インビジブルとリバーズコアの元ネタは下の方に残しておきます。

 しかしこのトレーナー、割とえげつない行動してますね……まあ絶対的な聖人として書いてるわけではないのですから、あれですけど。
 あと、ここまで来てまだ付き合ってないって、すんごいヘタレですよね。
 書いてる本人が言うのもズルいですが。


 
 いつも読んでいただき、本当にありがとうございます!
 あと一章で終わりとなるはずですが、残りのお話もどうぞよろしくお願いいたします。







 インビジブルの元ネタは、"神の馬"と呼ばれたラムタラ。
 新馬、英ダービー(本場のダービー)、キングジョージ(日本で言う宝塚記念)、凱旋門賞(世界最高峰の芝レース)の四戦全て勝った後引退したという、とんでもないキャリアのお馬さんです。
 レースだけでなく、自身の生命の危機や周辺の人間関係のゴタゴタなど、数奇な運命を辿ってきているんですよね。

 リバーズコアの元ネタは、外国の馬ながら安田記念を武豊さんで制したハートレイク。
 ただ先に設定の方を考えたキャラなので、名前以外に元ネタ要素はほとんどないです。

 細かいネタ解説は完結したら出そうかな……


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愛しい貴方へ、愛してます(上)

 ────

 私、サトノダイヤモンドは本日、休みを利用して街に繰り出している。

 ──ゴールドシップさんに半ば強制的に連れられて。

 

 

 

 昨日のこと。

 

「ダイヤ、こいつのことどう思う?」

 

 ゴールドシップさんが見せてきたのはUmatterの一画面。

 どうやら何かへの愛を叫んでいるように見えるが──

 

「えーと……"マックイーンとそのトレーナーははよ結婚すればいいのに"、"あいつらのイチャイチャ見たことあるけど、付き合ってすらいないってマジ?"、"メロンパフェ食べ合いっこしてるのみたけど尊かったわ"……って、なんですかこれ!?」

 

 見た感じマックイーンさんとトレーナーさんに関する投稿であるが、結婚だとか付き合うだとか、恋愛的な文章が多い。

 どうやら検索してそういう投稿を抽出しているようだが、下へスクロールしていくと高い頻度で投稿されていることなのだと分かる。

 少なくとも一定の割合ではそれを望むファンがいるようだ。

 

「あとな、これはちょいと衝撃なんだが……」

 

 と、次に見せられたのはネット上のとあるコミュニティサイト。

 

「これは……"メジロマックイーンの恋路を応援するの会"!? これこそなんですか!?」

「何って、そのままだぞ。 マックイーンの恋が成就するようにっていう、私設の応援サイトだ」

 

 そんなものが──というより、ファンがウマ娘の恋愛を応援するって、中々に変な状況な気が。

 

「おかしいなって、思っただろ?」

「まあ、そうですね……」

 

 どこかワクワクしてるようなゴールドシップさん。

 何か嫌な予感がするのですが。

 

「その実態を調査するためにな、週末、中山レース場行くぞ!」

「えぇ!?」

 

 

 

 というわけで、ファンにマックイーンさんのことについて聞くべく、今週から開幕した冬の中山開催の初日に私たちは乗り込んだ。

 土曜日であるというのにこの大人数具合は、苦手な人がいったら吐くレベルである。

 

「いやぁ、中山はやっぱちっせえな!」

 

 共にいるゴールドシップさんがその場を俯瞰して言う。

 中山レース場は主要四レース場の中でもっとも小さいレース場で、小回りと呼ばれることもある。

 とにかくカーブが急なので、コーナリング能力が大事だというのは有名な話。

 あとは直線途中で急坂があるので、それにヘロヘロ状態でもしっかりと登り切れる基礎パワーも要求される。

 総じて適性が問われやすいトリッキーなコースの為、中山巧者と呼ばれるウマ娘が定期的に登場しやすく、暮れの有馬であっと言わせる好走をしたりするのは昔からよく見てきた。

 しかし今日はそういうウマ娘的見解は必要でなく、ファンの気持ちを私たちは求めている。

 

「確かにここならファンの方に会えますけど……本当に聞くんですか?」

「おうよ! アタシたちの圧倒的コミュニケーション能力、見せてやろうじゃねえか!」

 

 指をポキポキと鳴らすと、なんと一気に駆け出して行ってしまった。

 早速聞き込みしてるし──こちらも動かなければ。

 

「あの……すいません、今大丈夫ですか?」

 

 とりあえず近くにいたほわほわとした感じのお兄さんに聞いてみる。

 正直結構な恥ずかしさがあるが、なんとかそれを押し込む。

 お兄さんはどうしました、と柔和に返してくれた。

 

「お兄さんって、メジロマックイーンさんのファンだったりしませんか?」

「え? まあそうですね。 引退報道が出た時にはショックを受けましたよ」

「それじゃあ……マックイーンさんとトレーナーさんのことについては、ご存知ですか?」

 

 そう言うと、いきなりお兄さんは目の色を変えてきた。

 そして妙に落ち着き払った雰囲気で語りだす。

 

「あの二人は……すごくお似合いだね……」

「ふぇ?」

 

 突然話の感じが変わったものだから、変にびっくりしてしまった。

 

「この前、レース前の記者会見を四年分見たんだけどね。 年を追うごとにトレーナーさんとの息がピッタリと合うようになってきて、ラストランとなった京都大賞典の時なんかは、もう夫婦と見間違えるような空気が漂ってて……」

「はあ……」

 

 怒涛の語り口に呆然としてしまう。

 が、とにかく二人の仲の良さを肯定的に見てることはよく分かった。

 

「で、ではマックイーンさんはもう引退されますが、これからについてはどう思ってますか?」

「これから? 自分は彼女の関係者でないから、あまり過ぎたことは言えないんだけどさ……もし担当のトレーナーさんと結婚したりする場合は、絶対に祝福するし、個人的にはそうなってほしいなとは思ってるよ」

 

 二人の結婚を祝福する──

 ウマ娘はある種アイドルの側面も含まれているので、結婚話に嫌悪感を抱く人も少なからずいると聞くが、こんな風に喜んでくれる人もしっかりといるのだなと、少し嬉しくなる。

 

 

 

 その後も色々と聞き込みしていったが、聞く人みな、マックイーンさんとトレーナーさんのラブラブ度合いを肯定的に見ていたというのだから驚きだ。

 またとんでもない熱意を持つ人も結構いて、それこそ最初に聞いたお兄さんの熱意などへでもない人たちが沢山いた。

 

「そうか、ダイヤの方もそうだったのか……」

「ゴールドシップさんはどうでした?」

 

 聞き込みを終えて中山レース場を去った我々は、寮の私の部屋にて夕飯時前の会議を行う。

 ゴールドシップさんに調査結果をまとめたスマホを見せるのに対して、ゴールドシップさんはノートパソコンで結果を見せてくれた。

 私のそれよりサンプルが多いのには驚いたが、それよりもグラフをしっかりと作って視覚的に分かりやすく整理してあるのには驚きを越して鳥肌が立った。

 

「すごいですね……こんな沢山のデータを、短時間で整理するなんて……」

「そうか? まあ結果としてはダイヤのと同じで"あの関係尊くて死んじまうわぁ"とか"早くうまぴょいしやがれ!"みてえな意見で埋め尽くされてるけどな」

「う、うまぴょい……?」

 

 うまぴょいと言えば、伝説的な曲として崇められてる"うまぴょい伝説"しか思いつかないが、一体何のことだろうか。

 こちらが思案を巡らせる間に、ゴールドシップさんは新しい情報を提示してきた。

 

「あとな、Umatterでアンケート取ってみたんだよ。 マックイーンとトレーナーについてどう思ってるかっていうな」

 

 昨日とは違ってタブレットを見せられると、やはりUmatterの投票画面が映されている。

 

「結構な数投票されてますね……」

「んで、結果はご覧の通り97%が肯定的だ。 リプライも凄いんだぞ? 気持ち悪いくらい愛を込めてるもんが大量発生してる」

 

 下にスクロールされると、他人と他人の色恋沙汰に過ぎないにも関わらず、必要以上に気にかけて文を打ってるファンの方しか見受けられなかった。

 やはり語り口は今日会ったファンの人たちと同様だ。

 

「さて、これで全てのエビデンスは整ったな」

 

 情報を表示する電子機器全てを床に置き、腕組をしたゴールドシップさんが言った。

 

「世間は望んでいる……あいつらの甘々な生活を!」

「それはまあそうなるでしょうね……」

 

 こんなに声が集まったら、そう判断せざるをえない。

 

「でも、一ウマ娘であるマックイーンさんの色恋にここまでの関心を集めているなんて、他の人じゃ聞いたことありません」

「まあインタビューとか会見とか特集なんかで、あんなにトレーナーのこと話したらな……この前バズってたインタビューあったろ?」

 

 頭の中に件の記事が浮かんでくる。

 確か、引退に際してこれまでの競技人生を振り返っていく、長編記事だったような。

 

「アタシな、そのインタビューの現場にいたんだけどよ……マックイーンがしてる話の90%くらいはトレーナーのこと話しててな。 だいぶそこの部分削られて記事出されてたけど」

「え……?」

 

 

 

『何故GⅠを四勝もできたか? それはもちろん、トレーナーさんがわたくしの体調を完璧に管理し、体の調子をレースにピッタリと合わせれるようにしてくれて、何よりもレース前に彼と甘いひと時を──』

『わたくしがトレーナーさんの為、競技人生を全て尽くそうと考えたのは……そうですわね、まずは五年近くも前に初めてお会いした時の話をしなくてはならないかと──』

『トレーナーさんの能力を否定する勢力……? そんな不逞の輩は一体どこのどいつですの!? そいつらをとっ捕まえて、みっちりとトレーナーさんの素晴らしさを──』

『え、最近トレーナーさんと仲良くしてる同僚の女性トレーナー? はぁ……そのくらい知ってますわ。 情報交換することが、シリウスをもっと強くさせる為になることだと、わたくしも重々に承知して──って、どうしましたの? ……顔がおぞましい?』

 

 

 

「ちょ、ちょっと待ちましょう!?」

 

 濃密にもほどがある。

 明らかにデレデレなのを隠しておらず、五年分のエピソードを余すことなく放出し、敵対分子は先に撲滅しながら独占欲と嫉妬心を隠そうとしても全然しきれていない──

 体の一部で起きていた鳥肌が全身へと伝播しているのが感覚で分かる。

 

「んだよ……さっき話した内容は惚気話の三分の一も満たしてないぞ?」

「まだあるんですか!?」

 

 そんなに話して、本人は何も意識してないのだろうか。

 だんだんと頭が混乱してきたが、ゴールドシップさんはそれら全てを聞いてきたわけなので、私よりも困惑していたはずだ。

 

「そういえば今日の夜に特集番組あるだろ? あれにも同行できたんだけどな」

「あなたはあなたで何者なんですか……」

 

 よくよく考えればこの人もたいがい凄すぎる。

 まあ生態が謎に包まれてるから、何でもありではあるけども。

 

「さすがにカットされてるだろうがな──」

 

 

 

『これはデートではありませんわ! スイーツ激戦区・表参道の現況を確認する、立派なデ……下見活動です! え、なぜ腕を絡めてるのかって? そ、それは歩幅が合わないかと思い、彼を置いてけぼりにいしないようにという、わたくしなりの配慮ですわ!』

『きゃっ!? ……さすがに、日曜日のレース場は混んでますわね……え、トレーナーさん……? あら、それならこうやって──繋いだほうが、離れづらくなりませんこと? ん、恋人繋ぎ? そ、そんな意図があるわけないですわ! これは……とても効率がいい繋ぎ方だからしてるのであって、決してトレーナーさんとそういう関係になりたいとか、そういうのは──』

『このおしるこは、昔おばあ様がよく作ってくれたもので……今年の宝塚記念の前、トレーナーさんと一緒に作った時に初めて作り方を学びましたの。 その時に彼が美味しいと言ってくださったので、それから定期的に、彼専用の味付けで、彼が満足する量を作ってまして。 それでこの前は……その、初めて弁当を作ったところ、愛がこもっててとても美味しいねと言われまして……! あまりに嬉しくて、ここ一週間は毎日作って──』

 

 

 

「それはカットされても仕方ないですね……」

 

 よくこれをテレビカメラの前でやったものだ。

 というか、トレーナーさんもトレーナーさんで何考えてるのでしょうか。

 

「まあそんなのが三年くらい続いたら、ツインターボでも気になるだろ」

「納得しました……」

 

 私はマックイーンさんに憧れを持つと同時にトレーナーさんにも憧れを抱いたが、まさかそういった草の根活動が原因だったのでは──?

 そういう考えはすると止まらなくなるので、一旦打ち止めにする。

 

「それでゴールドシップさん、このデータを得てどうするつもりなんですか?」

「そういやまだ言ってなかったな……アタシの崇高な計画ではな──」

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

「ライスさん……今日はあまり負担をかけないようにと、トレーナーさんに言われていたでしょう?」

 

 なんやかんやあったジャパンカップから一週間後。

 世間ではGⅠチャンピオンズカップで盛り上がっているが、ダートを主戦場としてる子が一人もいない我がチームにはあまり関係のない話なので、毎年この日は観戦に徹してるのがお決まりとなっている。

 そんな日の午前中となると各々が自由に時間を過ごすことになるわけで。

 "黒い刺客"と呼ばれた少女を例に取ると、彼女はオーバーワーク気味に練習を積んでいて──

 

「ふぅ、ふぅ……分かってるけど、ジャパンカップの結果が悔しくて……」

 

 先週行われたジャパンカップ。

 シリウスを代表して出走したライスシャワーさんの着順は、まさかの14着。

 第四コーナーまでは良い感じに持って行けたものの、直線途中で力尽き失速。

 調整に失敗したわけでもなく、レース展開に嵌められたわけでもない。

 元々2400mでも短いとは言われていたが、それでもこれほどの大敗は不可解だ。

 それ故に、このように生まれた焦りから彼女は今、過剰に練習してしまってしまっている。

 だが過度なトレーニングというのが逆効果にしかならない、というのは私が一番よく理解している。

 なんとかライスシャワーさんを諭さなければ、という信念を持ちながら、トラックのゴール板前で息を整えてる彼女に話しかけているのだ。

 

「確かに、ジャパンカップの結果は残念でしたが……だからといって必要以上の練習をしては、故障の危険性が高まるだけで何もいいことはありませんわよ」

「それは、そうかもしれないけど……」

 

 やはりライスさん自身、分かってはいてもなかなか納得はしないようだ。

 春の天皇賞を制してからというもの、怪我で離脱したブルボンさんに代わって、世代を代表するウマ娘として、シリウスのエース候補として良績を求められる立場になり、以前のような"走ることを楽しむ"というような表情はあまり見せなくなってきた。

 わたくしが引退を発表してからその傾向は顕著になり、このジャパンカップはまさしく"新エース"という肩書を証明する為のレースとなったわけで、レース前の気合の入りようは菊花賞のような"勝つ時"と全く一緒であった。

 それでも好走できなかった──だからこそ不可解な大敗と言われてるのだが。

 以前と少しだけ、気の持ちようが違うからだろうか。

 

「ライスさん、今は有マ記念に向けて息を入れる期間ですわ。 レースも同じでしょう? ずっと全力で走って途中で息を入れなければ、絶対に直線早々で沈んでしまう。 それと全く同じです」

 

 なんとか説得できたようで、ライスさんは外ラチに向かって歩き出してくれた。

 

「……うん、分かった」

 

 私も当然それに追従する。

 

 

 

 

 

「──それにしてもマックイーンさん、日に日にサブトレーナーらしくなってきたね」

「え、そうですの?」

 

 レースの世界から身を引いたあの日以降、レースという大きな目標を失った私の為にとトレーナーさんが用意してくれたのが、サブトレーナーという役職、そしてそれに付随するお仕事。

 かつてのトレーナーさんがやっていたように、ウマ娘のトレーニングの手助けをするのが主な仕事内容となっている。

 とはいえ私はトレーナーとしての勉強をしてきたわけではないので、やってることと言えばトレーニングでの走りのタイムを測ったり、柔軟運動のパートナーになったり、レースデータを収集したり──と、普通のウマ娘なら簡単にできることだけをやっているわけではあるが。

 ただこれだけでもトレーナーさん的にはだいぶ助かってるらしく、睡眠時間を増やすことができて良かったとかなんとか言っていた。

 ──これで睡眠時間を増やせたのなら、昔からいくらでもやってあげたのに。

 

「うん。 トレーナーさんも凄い助かってるって頻繁に言ってるし……いっそのこと、トレーナーとしての勉強を始めてみたらどうかな? いつか本当の意味でのサブトレーナーになる為にも……」

「トレーナーの勉強ですか……」

 

 確かにこの日常が始まってから、"トレーナー"という職業に対する興味は増し続けていた。

 ただ自分がトレーナーとして一人のウマ娘を育て上げるというのは全く想像できないので、ライスさんが言うような補佐の役割を担うことにはなりそうだが。

 

「ライスね、トレーナーさんの右腕として頑張るマックイーンさん、っていうの凄く良いなって思って……トレーナーさんも喜ぶだろうし、良いんじゃないかなって」

「わたくしが右腕に……はっ! それはまるで、その……"奥様"みたいでは……」

 

 そういえばこのトレセン学園には、担当トレーナーとの結婚を機に所属チームのサポートメンバーに回り、"チームのお母さん"と呼ばれるまでになった元選手がいるらしい。

 まさか自分がそういう立ち位置を狙っているのだというのか。

 それを考えると途端に顔が熱くなってしまう。

 

「え……? そうじゃないの?」

「ら、ライスさん!?」

 

 平然とした顔で言う彼女には遠慮というものがないのか。

 確かにそういう関係を夢想することもあるが、さすがに現実との区別は付けるべきだ。

 

「マックイーンさん、もういい加減にそうやって躱し続けても、ライスを騙すことはできないよ!」

「ですから、本当にそんなことは考えてなくて──」

 

 私が言い切る前に、ライスさんに口を人差し指で押さえられた。

 完全に心を見抜かれてるような気がしてならず、そこから先はどうも言えずじまいになる。

 

「顔真っ赤で、耳がピンと立ってて、尻尾ブンブンに振り回してる人が言っても説得力ないよ……」

 

 一旦冷静になって自分の状況を確認する。

 ──指摘された通り、明らかに冷静さを失っていたようで、否定の為の身振り手振りも相応に大きくなっていた。

 

「……ここだとみんなに聞かれるかもだし、人気のいないところいこう?」

「……わかりましたわ」

 

 

 

「それで……マックイーンさんってやっぱり、トレーナーさんのこと好きなのかな?」

 

 学園の中庭で一番人がいないだろうスペースにあるベンチに座った私たち。

 彼女がこれまであまり見せたことのない、恋に興味を持つ思春期学生のような顔を見せながらも、鋭く核心を問われる。

 いきなり直球すぎないかと言いたいが、多分また怒られると思うのでやめておこう。

 しかしちゃんと口にすると、聞いてるのが一人とはいえ恥ずかしく感じてくる。

 

「──きですわ……」

「聞こえません!」

「あぁもう、好きですわ! 大好きです! もう一生離したくないくらい!」

 

 まずい、少し叫びすぎたか。

 と思って隣のライスさんを見たが、特に気にせず興味津々だったので気にしないこととした。

 

「……本当はもっと言えるんじゃないですか?」

 

 な、なんと恐ろしい子なのでしょう──

 初めて親の顔を見たいと思いましたわ。

 

「……いつかは結婚して、子供を作り、幸せな家庭を築いて……彼が世界一、いや宇宙一のトレーナーと言われるように支え、退職された後は孫と楽しく戯れながら、二人で静かな時を過ごしたい……このくらいで十分です?」

「うん……さすがに老後のこと考えてるのは想像できなかったけど……」

 

 さすがに愛を叫びすぎたが、どこまで要求されるかわからなかった以上しようがない。

 しかし目の前の少女は少し顔を赤らめてるので、やりすぎだった面もあるか。

 ただ昔のように気弱ではなくなったライスさんは、依然変わらずに疑問をぶつけてくる。

 

「じゃあ、なんでマックイーンさんはトレーナーさんにそういうこと伝えないの? ……好きってことを」

「っ、それは……」

 

 それだけは──どうしても伝えられない。

 何かルールがあったり、明確な理由があるわけでもないが、何故かそれを伝えることだけはできない。

 心の問題だろうが、どこを、どう打ち直せばいいかが分からないから、どうすることもできない。

 

「でも、こうやって他の人に伝えることはできる」

 

 ライスさんの言うとおりだ。

 恐らくこれは、ゴールドシップさんやダイヤ、オグリキャップさんにも言えることだ。

 ただ一人だけ──トレーナーさんにだけは、好きの二文字を、一秒で言えることを、伝えられない。

 

「うーん……こういうのでよくあるのが、一気に関係が変わるのが怖いってあるけど……」

「それは、恋人になるということです? それはむしろ公然と触れ合えるので、大歓迎なのですが……」

 

 自分の胸に問い質しても返ってくるのはそれだけ。

 少なくとも恋人になりたいとは思ってるのだろう。

 

「じゃああとは、もし振られたらってことを考えてしまって──って、二人に限ってそれはないよね」

 

 確かに、あんなスキンシップを許容していて私を振るなんてことはないはず。

 

 

 

 ──いや、本当にそうなのか?

 怪我を告げられたあの日、海外に行くと言われたジャパンカップの日──

 私たち二人は一心同体を誓ったという割に、互いを考えすぎるあまりに危険なすれ違いを起こしてるような気がする。

 どちらのすれ違いも、何の前兆もなく起きた事象だ。

 今は大事なく過ごせているが、それは前だって同じ。

 今告白して、もしまたすれ違いが起きてしまったら──?

 それで今度こそ、離れ離れになってしまうかもしれない。

 考えれば考えるほど、体に悪寒が襲う。

 この僅かにありうる、キズナが崩れる可能性──それに私は、恐れているのではないか。

 納得すると同時に、これが勇気を持って告白してみないと答えが分からないものであることに忸怩たる思いを抱いてしまう。

 結局は自分がどれだけ頑張れるかだ。

 

 

 

「マックイーンさん……?」

「──え?」

 

 どうやら考えすぎたようだ。

 ライスシャワーさんがこちらの顔を心配そうに覗き込んでいる。

 

「マックイーンさん、ずっと黙ってて考え込んでたから……でも、何か分かったりしたのかな?」

「え、えぇ……一応、少し答えが分かったような気がしますわ」

 

 私のその言葉を聞くと、ライスさんの顔が安堵の表情に変わった。

 

「良かった……ライス、マックイーンさんの手助けできたかな?」

「ライスさん……当然、助けになりましたわよ。 ありがとうございます、ライスシャワーさん」

 

 ベンチを立ち、目の前で座っている少女に一礼する。

 当のライスさんは恥ずかしそうにしながら、同じように席を立ってそうでもないよと謙遜した。

 

「ライスの方もね、こうやって落ち着いて話せて、すごくリラックスできたの。 だからお礼を言いたいのはこっちも一緒だよ」

「そうですの? ただ話しただけですのに……」

「うん。 だって今ライス、心が軽く感じるんだ。 マックイーンさんと話せたことで、なんか……モヤモヤが晴れたような気がするの。 気分転換になった、って感じかな」

 

 ライスさんは胸に手を当て、優しい天使のような顔をする。

 ここ最近はあまり見ることのない柔和な表情ゆえに、こちらも安心だ。

 

「それなら良かったですわ。 最近、ライスさんもずっと張りつめてましたから……そうだ、今度一緒にパフェを食べにいきませんこと? しばらく食事制限はないとトレーナーさんも言ってましたし、その……わたくしも食べにいきたい店がありますし……」

「ふふっ、嬉しいお誘いだけど……有マまで三週間切ってるし、トレーナーさんが良くても私はやめておこうかな。 それに、トレーナーさんと行った方がマックイーンさんとしては一番楽しいいと感じない?」

 

 完全に心を見抜かれ、紅潮してしまう。

 ライスさんと食べるスイーツ、というのも非常に楽しいものだろうが、さすがにトレーナーさんに比べてしまうと負けてしまう。

 でもライスさんと行く、というのにも別の楽しみがあるので──

 

「それなら洋食店などどうです? 美味しいオムライスのお店を知ってるのですけれど、トレーナーさんよりはライスさんと一緒に行きたいな、と……」

「……分かった。 じゃあ今度の土曜日、練習が終わったら行こうね!」

 

 私の気持ちを理解してもらえたのか、お出掛けの約束を取り付けることができた。

 ありがたいと思いながら、中庭にある時計を見ると──

 

「あっ! そろそろチャンピオンズカップが始まっちゃうよ! 早く場所取りに行こう!」

「わっ、ちょっと早いですわよライスさん!」

 

 あっという間に加速して離れてしまう黒髪の少女。

 声を掛けたらすぐに止まってくれたが、やはり気持ちが軽くなって走りやすくなったのだろうな、と思わざるをえない。

 それの一助になれたのなら、この自分の気持ちと向き合った時間にも、貴方なりの意味があったと、胸を張って言えるから。

 

 

 




 なんとか話をコンパクトに収めれるようにとは思ってますが……なかなかに長くなってしまいますね。
 あと何話とはいいません。 だって絶対に予定より多くなるもん!(一応あと二話)


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愛しい貴方へ、愛してます(中)

 ────

 メジロマックイーンの引退式で劇をやると決めて以降、トレセン学園では出演者の募集を続けていた。

 見世物として劇をやる、というのはトレセン学園初の試みであるのにも関わらず、どうやら演劇に憧れる人が大勢いたようで、定員をはるかに超える希望者が集まってしまった。

 そこで、会長であるシンボリルドルフとの協議を経てオーディションを開催。

 そうして選ばれた、エキストラ役を除いた主要人物12人の配役が決まり、そして今日、稽古の初日が始まる。

 

「──それで、どうして俺も台本覚えなくちゃいけないんだ。 しかも男性役全部」

 

 ダンススタジオで行われる稽古に向けて、俺とマックイーンは歩みを共にしていた。

 俺自身は出演するわけではないが、さすがに彼女の初稽古くらいは見ておかなくては、ということで見学を希望した。

 が、どういうわけかゴールドシップに台本を覚えろと言われて今日を迎えてしまったのである。

 

「ロミオ役のフジキセキさんがたまに稽古に出れないらしく……その時の代役として、トレーナーさんが選ばれた、ということらしいですわ」

「いやいや俺だって毎日暇なわけじゃないんだからさ、他の子にそういうのは──」

 

 隣の小さな少女の方を向くと、俺の裾を可愛らしく握り、上目遣いでこっちを見つめていた。

 

「ダメ、ですの……?」

 

 俺がそういうのに弱いことは知ってるはずなんだが、それでもやるのはズルい。

 元々こういう悪魔的な行動はしてたにはしてたが、先月辺りからそれが目立つようになっていて、嬉しさ半分、困惑半分の毎日。

 これが例えば現役中におけるスイーツに関わる話ならば、なんとか理性を持たせてノーと言うのだが、ここではそこまでして逆らう理由がないので、素直に彼女の誘惑に負けよう。

 

「分かったよ。 稽古の時だけだろ?」

「えぇ! お願いいたしますわ! ……よし!」

 

 笑顔を隠すことすらしなくなった彼女の顔が可笑しく見える。

 声も完全に漏れてるし、こういう抜けているところも可愛らしい。

 

「そういうマックイーンはどうなんだ? 一応、台本読みこんできたんだろ?」

「えぇ。 その成果を今日、トレーナーさん相手に見せますわ!」

 

 なるほど──って、今日? 

 どうやら彼女も同じタイミングで気づいたようで、しまったという表情がまた可笑しく感じたわけだが、それよりも発言の真意が知りたい。

 

「マックイーン、まさか初日から……」

「……お察しの通りですわ」

 

 

 

 しばらくして着いたダンススタジオのドアを開けると、ものの見事にフジキセキだけがいなかった。

 マックイーンの反応的に、この段階で知らせて少し驚かせてやろう、という悪戯心があったのだと推察される。

 

「いきなり主演が休みか……多分寮関係でのっぴきならない出来事が起きたんだろうが……」

「鋭いですわね。 聞いた話だと、昨日寮からの脱獄者が出たとかなんとかで、今日はどうしても来れないそうですわ」

 

 なんということだ、と素直にうなだれてしまうほどの大事件。

 正直大変困ることではあるのだが、これも承知で配役した以上仕方のないことか。

 一応それ以外の人は全員来てるようなので、俺が代わりに入れば稽古自体はできる状況下にはいる。

 

「あ、二人ともようやく来ましたね。 それじゃ……始めましょうか」

 

 椅子に座っている、黒髪の小さな少女が立ち上がった。

 演劇については素人な我々の為、今回学園側が用意してくれた先生なのだが、その名前はなんとマンハッタンカフェ。

 実は彼女、昔から女優として活躍していたというキャリアがあり、その実績を会長に見込まれて今回の劇で総合演出、所謂監督的立場としてこちらを指南していくらしい。

 コーヒー片手にこちらに近づいてくる様相は貫禄満載だ。

 

「分かってると思いますが、今日はフジキセキさんがいないので、代役としてマックイーンさんのトレーナーさん、よろしくお願いします」

「あぁ。 さすがに初日でこれはビビったけどな……」

 

 豊かな表情のマックイーンと違って平静としてるマンハッタンカフェの視線が、マックイーンの方へ差し向けられた。

 

「……それとマックイーンさん。 顔、綻んでますよ」

 

 その言葉を聞いて隣の子の顔を見る。

 ──確かに、ニンマリとしたそれは少し怖いくらいだ。

 

「ふぇ? ……あっ」

 

 気づいた瞬間、彼女は顔は真っ赤にし、尻尾をしおらしく垂らしてしまった。

 俺が自惚れてなければ、きっと一緒にできるのを喜んでるからそうなってるのだろうと思われるが、それでも分かりやすいように破顔するのは逆に凄い。

 だがそれだけ一緒にやれるのを楽しみにしてるということなのだから、まあ悪い気分はしないに決まってる。

 

「さて、まずは一回通してみましょう。 台本持ってもいいので、まずは流れを体感することからです」

 

 

 

 

 

 ────

「──今宵の仮面舞踏会で一緒に踊ることができたら、我が娘はきっと、貴方のことを好きになるでしょう!」

 

 さすがはエンターテイナーたるウマ娘たち。

 稽古初日であるにも関わらず、それぞれがしっかりと台本を読み込んできているからかスムーズに通しができている。

 まだ一部台本を持ちながらという部分はあるも、数日後にはもう上演できるくらいのものができるんじゃないか、という気さえ生じるくらいだ。

 まあプロのお眼鏡には全然敵わないだろうから、さすがに数日で完成、となるわけはないが。

 

「はっはっはっ! お父さんと呼ぶ日が、ボクは待ち遠しいよ!」

 

 今はパリス伯爵という嫌味だが超金持ちな貴族が、ヒロインのジュリエットへの求婚をその父に話してるシーン。

 この時まだジュリエットはロミオに会ってないが、好きな人と結婚したいと思うジュリエットは求婚をやんわりと拒否、それを父がなんとかしようと、仮面舞踏会を開いて自然と好きにさせることを企んでる、という段階だ。

 そんな嫌味な伯爵を演じるのはテイエムオペラオーなんだが──主演の存在感を食うほどに、役にピッタリとハマっている。

 絵面が完璧だし、声も想像通り。

 何より、リアルでこういうこと言ってそうなのがハマり度に拍車をかけている。

 

 

 

 さてそんな中マックイーンはというと。

 

「あの方と結婚ですって!? 私は、好きな人と結婚したいのに!」

 

 この中で一番練習してきたのは恐らく彼女だが、それに相当する演技の上手さはしっかりと見せている。

 さすがはターフの名優と呼ばれたウマ娘だ。

 ただ問題はこれに見合うほどの演技を今の自分ができるか──もう少しで仮面舞踏会、主演の二人がここで初めて邂逅し、そして恋に落ちる。

 その場面、今日は入れないが、本来は踊りをするところらしい。

 となると、念のために自分もできるようにならなくてはならない。

 しかも自分が踊る相手は当然マックイーンになるわけで、彼女の足のこととか体格差などをしっかりと考えてエスコートしなくてはいけない。

 そして恋に落ちるシーンは周りの視線を一挙に集め、決して誤魔化しの効かない状況になる。

 稽古だけだから気にしなくてもいいじゃないかと言われるかもしれないが、いくら稽古でもマックイーンに恥をかかせることだけはしたくない。

 それは彼女のトレーナーとして最低限のマナーであろう。

 

 

 

 

 

 その仮面舞踏会のシーンがやってきた。

 

「本番ではダンスをしてもらう予定ですが、今日は必要ないです。 軽い動きくらいで。 ではよろしくお願いします」

 

 マンハッタンカフェに言われて劇が始まる。

 

 

 

 ジュリエットの家──"キャピュレット家"が主催した舞踏会に、本来敵であるロミオとその仲間たち──"モンタギュー家"の一派が潜入する。

 意味は何もない、いわば青年の好奇心からくるちょっとした出来心によってもたらされた潜入であった。

 

「さあジュリエット、ボクと踊るんだぁ!」

 

 圧倒的存在感を放つオペラオ──ーじゃなくてパリスから逃れるように喧騒から離れるジュリエット。

 それに合わせるように俺もメインステージから脱していくと、そこには仮面を付けたジュリエットもいた。

 付けた仮面をそれぞれに外し、一時の休息を得ようとするが、目の前にいる人にそれぞれ気づく。

 

「……!」

 

 俺はジュリエットを。

 マックイーンはロミオを。

 運命を感じた二人だが、ここは仮面舞踏会──仮面を外しての交流は厳禁だ。

 急いで仮面を付け直して喧騒の中へ。

 しかし感じたときめきに抗えないのがこの二人。

 喧騒の中でも互いを見つけ出し、一緒に舞を踊る。

 まあ今日は本格的に踊るわけではないが。

 

「これが……約束の出会い……」

「これが……愛し合う喜び……」

 見つめ合い、手を取り合って、一目惚れを確信して顔を近づける。

 そこから一言も発さず体を合わせ、抱きしめ、唇を近づけて──といったところで。

 

「この中に、モンタギューの者が紛れているだと!?」

 

 ジュリエットの従兄、ティボルト役のウオッカの声によって我に帰らされた二人は、急いで密着していた体を離す。

 そしてロミオと仲間たちが属するモンタギューの者たちは皆、その舞踏会から姿を消した。

 理由は一つ、モンタギュー家はジュリエットの生家、キャピュレット家と血を流すほどの犬猿の仲だからだ。

 しかしジュリエットにとって重要なのはそこではなく、恋をした相手が逃げる一派の中にいたこと。

 相手の名を知らぬジュリエットは、自身の乳母に名前を問い質す。

 聞かれた乳母は、主人の問いに明確な焦りを持って答えた。

 

「ロミオです! 憎きモンタギューの、子息ですよ!」

「ロミオ……!?」

 

 

 

 

 

 ────

 とまあそんな感じで二人が出会う場面をなんとかこなすことができた。

 恋に落ちるだけあって、演技の静と動をすることだったり、わずかな視線の動かし方にも細心の注意を払ったりなど、必要とされるものが多いこのシーンは、自分がやる中での最初の難関。

 最初の、というだけあってまだまだ難しいシーンはあるが、とりあえずは一安心ということで。

 

 ここから愛し合った二人はどうなるのかというと、ロミオがキャピュレット家のバルコニーに人目を忍んで入ってきて、ジュリエットと再会。

 再び愛を確認した後、ジュリエットが結婚させられそうになってることを知ったロミオは、すぐにでも結婚式を挙げることを約束して別れ、その日を終えた。

 翌日、ロミオは神父様の所へ向かい、対立する家の子息同士の結婚、という無理難題をやってほしいと頼み込み、神父様はその熱意に敗れその日の内に結婚式を挙げることを決定。

 ジュリエットの使いとして参った彼女の乳母に結婚のことを伝えて、ロミオは一人式が行われる礼拝堂へ。

 そして約束の時間──やっぱりやってきたジュリエットと、愛を誓い、キスをし、結婚してめでたしめでたし──

 となるわけがなく。

 

「はい、これで第一幕は終わりとなります。 次の第二幕まで、十五分の休憩をとるので、各自水分補給だったり確認作業をやっておいてください」

 

 とまあ、マンハッタンカフェが言うように、ここまでが幸せそうな前半部分。

 地獄のような展開になる後半部分がまだ控えているので、気を引き締めなくては。

 

 

 

「──トレーナーさん……」

 

 結婚式のシーンが終わったので水筒を、と考えていたら目の前のジュリエット──じゃなくてマックイーンがこちらの裾を引っ張ってきた。

 演技中のマックイーンはもはやジュリエットにしか見えない程役に没入していたが、今こうやって見せられてる愛らしさは間違いなくマックイーンそのものなので、安心感を覚えてしまう。

 

「どうした? 顔赤いけど」

 

 周りにあまり聞こえないように問うと、更に顔を赤くしたマックイーンがむっとしてきた。

 

「もう、そういうことは言わなくても……! ……先ほどのキスシーン、どうして本当に口付けしてくれなかったのです……?」

「はぁ!?」

 

 聞かれないように、というのを早速破って大声で驚いてしまう。

 当たり前だ、だってキスしてほしいというのとほぼ同義のことを言ってきたのだから。

 

「どうしました? マックイーンさんのトレーナーさん」

 

 気になったのだろうマンハッタンカフェがこちらを気に掛けるが、二人で解決しなくてはいけない問題に過ぎないので大丈夫と伝えた。

 とはいえこの問題は少し特殊というか──彼女の要求に応えることが一番ダメな解決法である以上、こちらが案を出して納得させるしかない。

 今度こそ周りに聞かれないように話していく。

 

「まず聞きたいんだが……マックイーンとしては、実際にキスしてほしいのか?」

「え? それとはまた、別といいますか……」

 

 上ずった声と垂れた耳を考えると、してほしいけど恥ずかしい、という感じだろうか。

 それならば、こういう妥協案を出せば納得してくれるはずだ。

 ひそひそ声で彼女に耳打ちする。

 

「……後で誰も見てない中なら、しようか……?」

 

 まずい、これはかなり照れくさいぞ──

 そう思っていたが、目の前の彼女はわなわなと震えながら何か我慢するようにそれを聞いてたので、多分こちらの方が恥ずかしがってる。

 

「……! それでは、稽古の後にトレーナー室に行って、そこで……」

 

 なんとか絞り出したような言葉を聞き、交渉が成立したと分かる。

 しかしこんなにも卑しい約束を取り付けられるようになるなど、俺たちの関係性も随分と変わったように感じる。

 以前ならそもそもスキンシップですらまともに行えなかったのに、今やキス──

 いや、キス──嘘だろ? 

 気づいた時にはもう、後戻りできなかった。

 

 

 

 

 

 ────

 昨日ライスさんに話してからというもの、内に眠る情欲というものが私をおかしくして憚らない。

 今日は稽古の時までなんとか我慢できたが、演技でキスのふりをされてからというもの、体が疼いて仕方なくなってしまった。

 しかしこんないやらしいお願いをするつもりは一切なかったのだが──無意識のうちにそこまで欲が溜まってるのだろうか。

 一応発散したりはしてるはずなのだが、それでも収まらないほど彼を求めているらしい。

 自分が恐ろしく感じる。

 

「トレーナーさん、何か話してくださいまし……」

 

 初めての稽古を終え、私たちは秘事を果たすために、並んでトレーナー室に向かっている。

 冬のせいで早まった夕焼けが私たちを照らす。

 ところが隣の彼はずっと黙ったまま。

 これから予定されてる出来事への覚悟を決めている段階だからだと思われるが、それで放ってかれる私の気持ちも考えてほしい。

 

「……」

 

 それでも彼は、固い口を開けてはくれなかった。

 ──そちらがそう考えてるなら、こっちにも考えがある。

 

「トレーナーさん……!」

 

 右隣にいるトレーナーさんの両腕を掴むと、そのまま窓ではない壁の方まで強引に押していく。

 そのまま彼を抑えつけ、力を込めて動けなくさせていき、私の支配下に置いた。

 

「……っ、どうした……そんな焦るなんて君らしくないぞ?」

 

 頑張って私を宥めようとして、こちらを睨むトレーナーさんの姿に愛くるしさを感じて興奮する。

 そういう顔を一方的に見たいと思って、こんな罰をしかけたのだが、これは自分の理性をも吹っ飛ばしてしまいかねない。

 当初の予定にはなかったが、いっそここでことを致してしまうのも一興。

 ──いや、もう我慢できないかも。

 そんな私のうっとりとした感情を考える暇などないだろうトレーナーさんは、なんとか体の自由を奪い返そうとするが、全くもって敵わずにじまいになる。

 

「……トレーナーさん、力ではこちらの方が上なのですよ? 大人しくされたらどうです?」

「いいのか? ここだと誰が見ているか分からない……いきなりそこのドアから人が出てきてもおかしくないんだぞ?」

 

 以前の私なら、誰かに見られるというのを嫌ってこういうことは絶対にしなかった。

 でも今は理性が壊れて完全に暴走してる──つまり、今私の世界にいるのはわたくしと貴方だけ。

 だから何も恥ずかしくない、貴方だけを見てるから。

 しかしここで何度も接吻するのは少しもったいないような気もする。

 それに僅かに残った律する心が少し遠慮してやれとうるさく言うので、一回で我慢してやろう。

 

「一回だけ……じっとしてくださいまし?」

 

 腕を抑えたまま、顔だけを突き出す形で唇を近づけていく。

 私よりも頭一個分高い彼の顔に近づくには、つま先立ちでもしないといけないのだが、バランスを崩した場合は顔ごともたれて押し付けるようにキスしてやろうか。

 

「んっ……」

 

 一か月と少し振りのキス。

 意外にも、シラフの状態でやるのはこれが初めてか。

 しかしとてもそうは思えない程、長い口づけを交わした。

 

 ──9、10

 もっと付けておきたいが、ここで離しておこう。

 

「……よかったな、幸運にも誰もいなくて」

「ふふっ……では次は、誰もいないところでやりましょうか……」

 

 彼の左腕を引っ張って、約束した密閉された空間に向かう。

 

 

 

 トレーナー室のドアを開けるなり、私は慣れた手つきでカギを閉めて、二人だけの世界を作った。

 そして目の前の彼にハグを求めた。

 

「わたくし……どうなってしまったのでしょう、可笑しくなってしまいましたわ……」

 

 彼の胸の中で、甘い声色で伝える。

 

「よかった、自覚はしてるんだな」

「……その生意気な口、今すぐ塞いで差し上げましょうか?」

 

 すぐさま顔を近づけて、二度目のキスに向け準備を整える。

 彼の顔にも困惑の二文字はなく、気持ちが固まっているようだった。

 

「今度は、20秒……」

 

 ハグをしたまま上を向き、先ほどと同じように顔を近づける。

 宣言してから合わせる唇。

 さっきと違い十分に準備させてからなので、息継ぎの心配は全くない。

 

 ──20秒が経ち、約束通り離していく。

 

「……トレーナーさんの唇って、どうしてそんなに甘いのです?」

「それは錯覚だ。 俺の口は苦いぞ」

「あら、ならもっと確かめなくては──」

 

 今度は不意打ち的にキスをした。

 驚く彼の顔が好きすぎて、もっと虐めたくなる。

 舌を入れてみようか──と思ったが、先に息継ぎのターンが来た。

 

「……今度は、トレーナーさんからしてくださいまし」

「いやだ」

 

 トレーナーさんは基本的につれない態度をとる。

 いつも私が甘えてばっかりで、あちらの方から甘えてくることはない。

 いつでも甘えてきてもいいですわ、と言ってはいるが、彼の動きはゼロ。

 愛されてると分かってても、愛されてる気がしなくて寂しく思うのだ。

 

「それより、もう十分だろ? そろそろシリウスの為の時間な気がするが」

「……いけず」

 

 本当につれない人。

 ボソッと呟いた一言が彼を奮い立たせられたら、と薄氷の希望を想ったが、彼には届かずそのまま抱擁が振りほどかれてしまう。

 力を込めて拘束することはできるが、そんなことをしたら本当に嫌われてしまう気がするからできなかった。

 

「さ、行くぞ」

 

 ドア前で振り向く彼の顔は、わずかに差し込んでいる夕陽もあってかとても赤く見えた。

 しかしきっと、彼自身が発してる熱のおかげもあるだろう。

 

 ──もう一回だけ。

 

「……トレーナーさん!」

 

 急いで駆け出し、四度目の口づけを交わす。

 ここまですると、彼の唇からは私の味もしてきて、どこかもったいなさを感じてしまう。

 とはいえ行為自体が私の情欲を埋め合わせるものだから、満足はしてるが。

 

「……ごちそうさまでした。 また頂きます」

 

 ニヤリとして感謝を伝える。

 彼の紅潮していた顔が更に赤くなってるのを見ると、また色欲が増してはくるが今日はここまで。

 黙ったまま扉を開けて部屋を出て行く彼の隣にすっと入り、手を取っていく。

 

「これくらいはいいですわよね?」

「……わかった」

 

 恋人繋ぎで歩む道。

 彼の手は熱く、大きかった。

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

 初稽古から三週間が過ぎ、遂にこの日がやってきた。

 

「どうどう! やってきちゃったよマックちゃんの引退式が!」

「言ってもまだ数時間あるけどな」

 

 有マ記念前日、クリスマスの中山レース場で行われる全レースが終わってすぐに、ゴールドシップは言う。

 その引退式が行われる時間は二時間半後の18時45分。

 それまでは俺たちチームシリウスも、自由な時間を与えられている。

 ただその自由時間を超自由に過ごそうとする輩もいて。

 

「おっしそれじゃあダイヤ! これ売りさばくぞ!」

 

 そう言ってゴールドシップが取り出したのは、"メジロマックイーン引退記念焼きそば"と銘打たれた文字通りの焼きそば。

 一体どこから出したんだと突っ込みたくなるが、まあ無視が正解か。

 

「Wow!? それってヤキソバってヤツよね! 売るんでしょ? ワタシもそれ、売ってみたいわ!」

「おぉっ? いいぞインビジブル! もう一セットあるからこれ使えい!」

 

 つい先日、留学生としてチームシリウスに入ってきたインビジブルが、日本独自の文化である売り子に興味を示した。

 その意気に応えて、いつの間にか六台目を引っ張り出したゴールドシップは彼女にセットを着せていく。

 

「こ、これは……! とってもWonderfulね! これでヤキソバを売りつけて……」

「売りつけるとはちょっと違うんじゃないかな……」

 

 何故かこの販売仕事に巻き込まれてるサトノダイヤモンドがインビジブルを窘める。

 世間知らずなところがあるインビジブルのことだから、本当に無茶な売り方をしてしまうかもしれない──という考えのもとだろう。

 

「そういえばライスシャワーはドコかしら? 彼女だけいないわよ?」

「ライスシャワーは明日の有マ記念を控えてるからね。 引退式まで練習してて、こっちに来るのは直前になる」

 

 昨日、ライスに練習見ておこうかと聞いたら何故かレース場に行けと強く推されたのはなんでだろう、と思い返しながら答える。

 

「ふーん……あれ、それじゃトレーナーはこの後どうするの? セット着てワタシと一緒に売り子すればいいのに!」

「いや、俺は……」

 

 わずかに嫌な予感がして、ついゴールドシップの方を見てしまう。

 目を合わせたら巻き込まれる──と思ったが、当のゴールドシップの答えは意外なものだった。

 

「いや、トレーナーのは用意してねえ。 というかインビジブルので最後だからな。 それでも? 売りたいというなら予備はあるけど?」

「間に合ってます……」

 

 ですよねーという笑いを含んだチームメンバーの声が聞こえる。

 

「まあトレーナーは今のうちに、マックイーンへの差し入れ用にスイーツでも買っといたらどうだ?」

「それは至上命題だな。 分かった、じゃあみんな無理しない程度に頑張ってこいよ」

 

 メンバー全員と一旦別れて、こちらはこちらでしなくちゃいけないことをこなしていく。

 とりあえずはパドックの方にある甘味屋さんの所に行って、そのあとはコンビニスイーツを──

 

「おいサブトレーナー」

 

 

 

 

 

 と考えてる最中、聞いたことのある声に足止めされる。

 これは間違いなく、シリウスの先代トレーナー、俺の先生だ。

 声のする後ろの方を振り向いた。

 

「先生! お久しぶりです!」

 

 一礼しながら挨拶して答える。

 視界に捉えた先生の姿は、勇退した三年前とは何ら変わらないままだ。

 ハッチ帽と白髪交じりの髪。

 老健なシルエットは名伯楽のオーラを引き立たせている。

 

「ふん、元気なご挨拶どうもありがとう。 どんだけ偉くなっても、お前は変わんないままだな」

 

 どうやら変わらないと感じていたのは先生も同様のようだ。

 

「俺も同じこと考えてましたよ。 先生は老いてないなと」

「これでも随分、歳の影響きてるんだがな……ま、まだお前ら若造には一歩も引くつもりはないが」

 

 ニヤリとしている先生の顔は、余裕という二文字がたいそう似合うものであった。

 自分もいつかこの人のように、と新人の頃から思っていたが、この余裕さは逆に差を付けられるに値するものだと痛感する。

 先生はそんな俺の思案も知らず、自ずから話を切り出していく。

 

「さて、三年間も面と向かって会ってない分、積もる話はあるんだが……今回は一つだけ、聞いてもいいか?」

 

 一体なんのことだろう──

 そう思いながら肯定の返事をすると、先生は容赦なくすぐに問うてきた。

 

「マックイーンが引退した後のこと、どうするんだ?」

 

 どうにも答えづらい質問が来てしまった。

 二か月前に保留にしてからというもの、この手の進退に関することは話し合ってこなかったが故に、どうしてもぼんやりとしたビジョンしか示せないからだ。

 

「今彼女には、俺の補佐として裏方の仕事を一部してもらってます。 そこからトレーナー業というのに興味を示す可能性はありますが、彼女の成績や家のことを鑑みれば、ウマ娘とは関係ない進路を取る可能性も──」

「そういうことじゃあない」

 

 話を遮られて、思わず怯んでしまう。

 しかし先生が求めていたのは、こういう話ではなかったのか。

 

「あの子とこれから、どういう付き合いをしていくかってことだ。 一応お前ら、社会的には契約で結ばれた関係に過ぎないんだ。 その契約、今日で切れてしまうが」

「それは……」

 

 この手の話はもっと答えづらい。

 今の自分が、彼女との未来を勝手に言語化するのはおこがましいし、それは彼女も思ってるはず。

 彼女が望むなら彼女を受け入れ、彼女が望まないなら変わらずに接する──それがメジロマックイーンのトレーナーとして、最良の振る舞いだと思ってる。

 それを先生に伝えればいいはずなのだが、先生のこの聞き方は以前と関係が変わる中でどう過ごすか、ということを聞いてるのだろうから、以前と変わらないという答え方をしても納得してくれないだろう。

 とはいえそれ以外に選択肢は持ってないので、こう答えるしかないか。

 

「彼女がどう思ってるか次第です。 もうこれからは契約に縛られない、自由な身になりましたから……」

 

 素直な気持ちを伝えたが、一方の先生は呆れたという反応を示した。

 

「マックイーンは今まで、何か言ってきたりしなかったのか?」

「……ないです」

 

 二か月の間に、俺とマックイーンの距離感はもっと縮まったとは思う。

 だがしかし、今の今まで彼女からどういう関係になりたいかという話を聞いてないのも事実。

 忙しさを理由に話してこなかったのかもしれないが、もしかしたら明日以降も黙ったままかもしれない。

 

「……不安がってるようだな。 まあ、お前が原因のほとんどを担ってると思うが」

「どういうことですか?」

 

 俺の言葉を聞くと、先生は大きな溜め息をついて更に呆れてしまった。

 

「単刀直入に言うぞ? 原因は、お前自身がマックイーンとどうなりたいかってのを、あの子にはなんも伝えてないからだ。 いい加減、そういう大事なことを担当に委ねるのはやめた方が良い。 自分から聞いたら自分に責任が回ると思ってるんだろうが、そんくらい背負う歳だろお前は」

 

 厳しい視線が向けられる。

 

「あと今は知らんが、あの子は自分から何か言う性格ではなかったと思うぞ? 特にトレーナー、お前のことに関しては奥手だった気がする。 それで将来のことあっちから話してほしいってのは、いささか虫が良すぎだと思うが」

「それはまあ、確かにそうですけど……」

 

 これまで彼女は、悩んでることも内に秘めさせたままにすることが何度もあった。

 それを一番知っているのは自分なはずだ。

 

「まあそれがお前の良さでもある。 担当のウマ娘の意思を尊重することで、気持ちよく走ることに集中させてる……マックイーンやライスシャワーがGⅠ勝ったのも、基本自由に考えさせて走らせたからだろうな。 でもたまには、自分からマックイーンを引っ張ったらどうだ?」

「俺が引っ張る……」

「そうだ。 男なら、ってのは今は言っちゃいけないんだったか。 でも、人として惚れた子をリードするくらいの気概は見せろよ。 俺についてこいって感じでな」

「惚れたって……!」

 

 そうじゃない、と口だけでは否定することができるが、もう既に見抜かれているだろう。

 暗に先生の予想を認めながらも、言われたことについて考える。

 

 ──俺が彼女を、マックイーンを引っ張る。

 

「まさか怖いって言ってるんじゃねえだろうな? 惚れさせた自覚があるんなら、ちゃんと覚悟を決めろ。 怪我をさせたら一生責任を取る、だろ?」

 

 ──そうだ、自分はその約束を守らなきゃいけない。

 また忘れそうになったが、今日こそ果たさなくてはいけないだろう。

 なら俺がすべきことは──

 

「おっと……どうやらお前さんに客人のようだぞ」

「え?」

 

 耳を澄ませると、遠くから俺を呼ぶ声が聞こえてくる。

 その声は徐々に近づいてきて、そして姿を現した。

 

「トレーナーさん、ここにいたんですか!」

 

 声の主は駿川たづな。

 荒い息を吐きながらも、先生に遅れて気づくと軽く一礼を交わして、周りに聞かれないようにすぐに用件を伝える態勢に入った。

 

「たづなさん、どうしました?」

「劇の方で問題がありまして……フジキセキさんが、急病で出れなくなったんです!」

「はぁ!?」

 

 フジキセキとなると、今回のロミオ役──つまり主人公だ。

 それがいないというのは一大事だが、それを俺に急いで伝えたということは。

 

「まさか、俺を代役に……?」

「はい! というより、できるのがあなたしかいません!」

 

 そりゃそうだ、だって稽古出たのが俺とフジキセキしかいないのだから。

 だがそうなると、俺がステージの上に立って大勢の観客の前でやるわけで──と思考を巡らせていると、背中に強烈な衝撃が走る。

 後ろを振り返ると、いつの間にか先生が後ろに立っていた。

 

「行ってこい。 お前なら大丈夫だ」

「先生……」

 

 大丈夫、俺とマックイーンなら。

 拳を胸の前で握りしめ、覚悟を決めた。

 

「行きます。 どこに向かえばいいですか?」

 

 ぱあっと明るくなったたづなさんに導かれるまま、先生と離れて俺は勝負の舞台に向かう。

 別れ際、先生が力強く俺に告げてくれた。

 

「自分の使命、忘れるんじゃねえぞ」

 

 もちろんですよ、先生。

 

 

 

 

 

 ────

「ごめんなキセキさんよ。 あとでいくらでも奢ってやっから」

 

 焼きそばを売りさばき、引退式へ向かおうとするゴールドシップの一派の中には、誰にも気づかれないように変装したフジキセキの姿が。

 急病とはなんだったのか、彼女はピンピンとしていた。

 

「本当だよ。 一か月も芝居打たせて……これがたづなさんにバレた時のことを考えると、今から憂鬱だね」

「それでも受けてくれた理由はなんですか?」

 

 引退式に間に合ったライスシャワーに問われ、フジキセキはふうっと一息つき、伊達メガネの奥から黒鹿毛を見つめて答える。

 

「そりゃあ、あの二人のじれったさを見るとね。 手を貸さずにはいられないよ」

「ほう……さすがは寮長だな」

 

 ニヤニヤとするゴールドシップを無視し、フジキセキはこれから目の前で起きる事象に目を向けた。

 

「それと、普通に私より彼の方が上手いからね。 お客さんに最良の物を届けるのは、何ら間違ってないだろう?」

「あれ、そうなのか。 意外とキセキも大したことないんだな」

「……もっと高いもの奢ってもらおうかな?」

「すまん、さっきのは撤回だ」

「本気じゃないよ」

 

 慌てて手を合わせて謝るゴールドシップに愉快な顔で許すフジキセキ。

 

「それより、彼が入ること自体は大丈夫なのかい? 君の提案だから、大丈夫だとは信じてるけど」

「そのまんま信じていいぜ。 ちゃんと調査はしてきた。 さすがにあいつらに被害を被らせるわけにはいかないからな」

「それならよかったよ」

 

 そんな会話をよそに、場に音声アナウンスが入る。

 

「さて……そろそろ始まりそうだ。 楽しもうじゃないか」

 

 観客席は光が当たらず暗くなり、舞台は明るく照らされた。

 ──メジロマックイーンの引退式が、始まる。

 

 

 




 あらすじの"甘々展開多すぎじゃねえか!"部分の回収が最近多い気がしますねえ……

 そんな感じでクライマックスが近いですが、なんとかダービーまでには終わらせるくらいで頑張ります。
 清々しい気持ちでダービー見るんだ……!


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愛しい貴方へ、愛してます(下)

 ────

「トレーナーさん!」

 

 控室に向かうと、劇の為に全力でおめかしされたマックイーンが。

 その姿に一瞬息を飲んだが、冷静さを取り戻し、同じく部屋にいたマンハッタンカフェと劇について相談していく。

 

「話は聞いた。 とりあえずはリハの通りに動けばいいか?」

「はい、参加してくれたリハから変更はありません。 それ以外で確認してほしいことは──」

 

 リハーサルで扱わなかった部分について確認していく。

 といっても、劇後の舞台挨拶からの引退式に関することなので俺が主体になって行うことはそんなにない。

 

「了解。 じゃあメイクしてくるけど──」

 

 カフェに指示されるがまま、目当ての場所に向かう。

 そこで化粧や衣装への着替えをするわけだが、どうしてか本来必要ない俺専用の衣装が用意されているのだ。

 リハの時から存在していたそれがどうしてあるのか、誰が用意したのか、そもそも使う機会ねえだろ、と色々最近考えてはいたのだが、まさかここにきてこれが効いてくるとは。

 準備してくれた見知らぬ誰かに感謝しないと。

 

「待って」

 

 控室を出ると、ジュリエットになっていたマックイーンが俺の裾を引っ張る。

 どうした、と振り向きながら声を掛けると、彼女は深呼吸を二度ほどして、貴顕たる瞳を映して口を開けた。

 

「……今日はわたくしに、全てを任せてくださいませ。 名優として、貴方を導いてさしあげます。 だから……」

 

 すっと身を寄せ、腕を俺の背中に回してから、耳に近づいて囁く。

 周りにはスタッフさんや出演者が忙しく動いたりしていたのだが、全くそんなことを感じない程世界が狭く感じた。

 

「大丈夫。 貴方とわたくし、二人が揃えば、何も怖いものはありませんわ」

 

 その声に体中がゾクッとしたが、どうしてか多量の安心感も身に付いた。

 五年間、共に駆け抜けてきた人と紡ぐ集大成。

 それが失敗に終わるわけがない、という自信がひしひしと伝わる。

 さすがはメジロマックイーン、最強のウマ娘だ──だが俺も、先生と約束したのだ。

 

「ありがとう……でも、俺だってリードされてばかりじゃいられないから」

 

 抱き返し、囁くとまではいかない、しっかりとした声色で宣言する。

 自然と腕に力が入ってしまったが、彼女も同じように力を強めてくれたから、知らぬうちに抱擁は強固なものへと化していた。

 全身に伝わる小さな体の感触が、庇護欲を掻き立たせる。

 

「……トレーナーさん、ちょっとよこしまなこと考えてません?」

 

 顔だけをぴょこっと出したマックイーンが意地悪い笑顔で問う。

 

「まさか。 守らなきゃいけないなって、ちょっと思っただけ」

 

 ちょっと気障に返してしまったが、当の彼女は顔を赤くしていた。

 

「も、もう……調子の良いことだけはすぐにおっしゃるのに……」

「ちょっとした仕返しだ」

 

 微笑みを交わし合う。

 

「でも、そんなことを言えるのでしたら何も心配はありませんわ。 さすがわたくしのトレーナーさんです」

 

 珍しく素直に褒められたからか、俺も少し体温が上がっていく感覚を覚える。

 それを知ってか知らずか、彼女の顔は慈愛に満ちた様相になっていた。

 

「……では、いってらっしゃいませ」

 

 そうして彼女は腕を解く。

 そうして解放された俺の体は、彼女と反対方向に向いて歩みだす。

 ごくわずかな触れ合いの時間だったが、この身にパワーがもたらされた気がする。

 

 大丈夫、大丈夫──

 

 心の中で唱えて、勝負の時を迎える。

 

 

 

 

 

 ────

 舞台袖に着くと、観客が織りなすざわざわとした声が大きくなる。

 普段はウイニングライブで立つこの場所が、いつもと違うように感じた。

 しばらくしたら、私はトレーナーさんとともに舞台に立つ。

 まさかフジキセキさんが離脱するとは思わなかったが、過ぎてしまったことを考える余裕はない。

 今自分にとって大事なのは、トレーナーさんをいかにエスコートできるか。

 いくらリハーサルもやったとはいえ、今回のトレーナーさんは代役なわけで。

 一番熟練してるだろう自分が、彼を精一杯引っ張らなくてはいけない。

 しかし不安がないわけではない。

 私はこれまで、彼にエスコートしてもらってばかりだった。

 トゥインクルシリーズで走ることができたのも、GⅠを何度も勝てたのも、こうやって引退式を開けたのも。

 すべてすべて、トレーナーさんが私の手を引いてくれたから。

 そんな私が今日いきなり、彼の手を引こうとしている。

 なんて無謀な思考なのだろう。

 だが何故か、できるという絶対的な自信が私の頭に付いて回る。

 きっと、彼のことが好きでしょうがないから、死に物狂いで頑張ろうと思えるのだろう。

 

 ふと、少し離れた場所にいた愛しい人を見つめた。

 役にハマり込み、心優しくも気弱なロミオになったトレーナーさんを見ると、どうしても母性が湧き出てしまう。

 ずっと認知してたが、やはり自分はあの人のことが好きなようだ。

 

 今日この引退式が終わった時、私は彼の何になるのだろう──

 

 そのことに恐怖していた時もあったが、ライスさんと話したこともあってか、今まさに心が決まった。

 

 ──今夜気持ちを伝えよう、大好きだと。

 

 受け入れてくれないかもしれない。

 でもいずれ伝えるのでしたら、早い方がいいでしょう? 

 なら今、その勇気を振り絞る。

 彼と永遠の愛を、結ぶために。

 

「トレーナーさん、わたくしだけを見て……」

 

 遠くにいる愛する人へ、誰にも聞こえないような小さな言を送る。

 きっと彼はまた、自分がマックイーンを引っ張る、などと考えているだろう。

 実際先ほどその類のことを告げてたわけで、やはり私のトレーナーさんだなと感じざるをえなかった。

 でも、今日だけは私に全てを預けてほしい。

 頼りないと思ってるのかもしれないが、私は彼の隣に立つべくずっと努力してきた。

 

 貴方が大好きだから、貴方とずっと一緒にいたいから──

 

 この想い、鈍感な貴方に分かってもらえるかしら? 

 多分、この式を終えても彼は気づかないままでいるだろう。

 まったくもって、世話の焼けるトレーナーさんだ。

 女の子のこんな分かりやすい気持ちを無視するなんて、私以外じゃ誰も許してくれないだろうに。

 そのくせ恋のこと以外は凄く鋭いし、わずかな変化もすぐに見抜いてくる。

 誰よりもウマ娘たちに誠実で、私たちを勝たせる為なら自分を限界まで虐めることも厭わない。

 私が隣にいないと、彼はいつか儚く消えてしまう。

 でも隣にいたらいたらで、隙を見せたらすぐ調子に乗って私に意地悪してくる。

 だけどちゃんとするときは私よりもちゃんとしていて、ずっと敵わないと思ってさえいた。

 そんな姿を他の子にも同様に見せていたら、嫉妬するなというのは無理な話だ。

 まあ、そんな彼だから私は好きになったわけだが。

 

「もう少しで五年か……」

 

 無気力で生きていた日々も、夢に向かって進んでいた日々も、全てを思い返した。

 あっという間に駆け抜けたトゥインクルシリーズの、トレーナーさんとの最初の五年間の、集大成を見せる時。

 

「本日は、ウマ娘・メジロマックイーンの引退式にお集まりいただき──」

 

 アナウンスが鳴り、始まりの時が近づいてることを告げられる。

 拳を強く、強く握りしめた。

 

 ──さあトレーナーさん、皆様を魅了させましょう。

 

「──開演でございます」

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

 突然の準備でも、意外となんとかなるもんだ。

 稽古を真面目にやってきた分貰った、神様からの褒美だろうか。

 劇はつつがなく、順調に進行していき、そろそろジュリエットとの結婚式──つまり、第一幕の終わりが近くまで来た。

 最初の難関である仮面舞踏会も、彼女のリードのおかげで綺麗にできたので、とりあえずは一安心だ。

 マックイーンの方はさすがの安定感、名優の名に相応しい好演を続けている。

 万事異常なし、このままいけば成功間違いなしのはずだ。

 

 ただ一つだけ、少し不安な点がある。

 愛を確認し合うバルコニーの場面ではキスをするのだが、さすがにこの場で本当にキスするわけにはいかない。

 なのでちゃんと演技のキスをリハーサル通りしたが、その際にどうしてかマックイーンが一瞬むすっとした顔を見せていたのだ。

 ちゃんと観客に見えないように表情を変えていたので、劇になんら影響はないのだが、何か妙なメッセージを送られた気がして落ち着かない。

 いくらマックイーンとはいえ、こんな大事な舞台で仕掛けてくるとは思えないが──

 

「ロミオ様は午後の礼拝の時間に、礼拝堂でお待ちしていると……!」

 

 と、そろそろ舞台に出る為に準備しなくては。

 青を基調とした衣装に変えて、神父役のマチカネフクキタルと共に所定の位置へ向かう。

 

 幕が上がると、マックイーンが扮してるジュリエットと乳母さんが舞台の手前に、彼女たちを待ち受けるロミオと神父が奥に。

 ジュリエットは結婚式用に赤をたいそう強調した衣装に身を包んでいた。

 二人はそのまま、神父様の導きのままに粛々と儀式を進めていき、そして最後の誓いのキスまでやってきた。

 もちろんキスはふりだけだが、先ほどのことがわずかに頭にちらついて離れない。

 さすがに大丈夫だろう──と信じながら、顔を近づけていく。

 

 劇におけるキスの基本は、男性が女性の顔を観客に見せないように覆って行う。

 こうすれば振りであっても不自然でなく、鑑賞に集中している観客に水を差さないような仕組みになっている。

 とはいえ劇場というのは席によって見える角度が違うわけで、完全に防げるわけではなく、場合によっては見えてしまうこともあるわけで。

 だから本当に口付けしないようにはしてきたのだが──

 

「……んっ」

 

 マイクも拾わない小さな息遣いの直後、触れてしまう暖かいぬくもり。

 間違いなくそれは、メジロマックイーンの唇であった。

 驚いて声が漏れそうになるも、なんとか抑えて冷静な顔を保ち続ける。

 幸い触れた時間はごくわずかだったものの、キスをしたという事実だけが俺の頭を混乱させにくる。

 

 しかし時は止まってくれない。

 進行に支障が出ないように演技を続け、なんとか幕が下りるまで混濁する頭を我慢させた。

 

「第二幕は、20分後──」

 

 幕が下りるとマイクは切られるので、ここでせき止めていた感情を吐露させる。

 

「嘘だろ……」

 

 素直な気持ちがつい出てしまったが、そのくらい衝撃的な出来事だったのだ。

 とにかくすぐにでもマックイーンに確認しなくてはいけないか。

 

 

 

「マックイーン」

 

 確認の為入ったマックイーンの控室に入ると、彼女は案の定椅子にちょこんと座っていた。

 俺の存在に気づくやいなや、椅子の上で体育座りをし、膝で口元を隠しながらこちらに向けてた目線を意図的にずらしてきた。

 

「……なんですのわざわざ」

「わざわざって……」

 

 反抗期の子供のような態度をとるマックイーン。

 ようやくこっちに向けてくれた瞳からは、今不機嫌ですと言わんばかりに訴えていた。

 でも色々訊きたいのはこちらの方なのに、そんな顔をされても正直困る。

 

「時間もないし、短く言うけど……」

 

 俺が話し始めると、彼女はすっと身構えてくる。

 

「二幕の方ではちゃんと、我慢しろよ」

「……どうしてです?」

 

 細目で構成される眼差しが突き刺さる。

 多分彼女もなんだかんだ分かっているからこそ、こうやって顔を少し隠して感情も隠そうとしてるのだろう。

 ならば少しだけ、彼女を甘やかしてやれば案外折れてくれるかもしれない。

 

「……今すれば我慢してくれるか?」

 

 彼女に近づいて顔を覗き込む。

 白い耳がぴくっと動き、明らかに嬉しそうに体をよじらせる。

 しばらく待つと彼女は小さく頷いた。

 

「はい、それじゃ口出して」

 

 彼女は言われるがまま膝を下ろして口を曝し、早くしなさいと言わんばかりの不愛想な面持ちの顔をちょっとだけ突き出してくれた。

 

「じゃあするぞ」

 

 気が迷わないよう、すぐに口付けをする。

 劇中のと違ってちゃんと認識して臨むキスだからか、口紅の独特な味がマックイーンを圧倒してしっかりと感じられた。

 下で見えるマックイーンの顔はお化粧のせいかいつもより妖艶な雰囲気が出ていて、下手をすれば悩殺されてしまうほどの綺麗さを誇っていた。

 

 長い時間付けた唇を離すと、名残惜しかったのかマックイーンに顔を掴まれて再び口づけさせられる。

 さっきのようなソフトなキスでなく、乱暴に押し付けられるようなキス。

 しかしこのキスはすぐに終わり、マックイーンは荒い息をしながら掴む手を離す。

 口元のファンデーションは少し剥がれてしまっており、早急に化粧が必要となりそうだ。

 

「……これくらいならすぐに直せますわ。 トレーナーさんも同様です」

 

 マックイーンに言われてようやく自分も同じであると察する。

 控室にある鏡をチラリと見ると、確かに自分の化粧も同様に落ちてしまっていた。

 

「ほらトレーナーさん、顔を貸してくださいませ」

 

 思わずポカンとしてしまったが、マックイーンに腕を引っ張られて鏡の前に座らされると、軽く化粧直しをされる。

 慣れた手つきで化粧品を扱う姿には、出会った頃の子供っぽさが抜け、大人になっているのだと感じざるをえない。

 そんなことを思ってるうちに、マックイーンによるメイクが終わったようだ。

 

「はい、これで大丈夫ですわ」

 

 そう言うと彼女は次に自分の化粧を隣でやり始めた。

 しばらくは話しかけないでおこうと、自分の顔が映る鏡をじっと黙って見ていたが、マックイーンがふっとこちらを見て甘い声でこう言ってきた。

 

「……時間が来るまで、そばにいてくださいます?」

 

 いつもより割増で綺麗に、美しく、魅惑的な彼女からのいつもと同じおねだりに、俺はやはり承諾した。

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

 第二幕。

 ロミオとジュリエットの結婚は瞬く間に広まり、キャピュレットとモンタギューに大きな衝撃を与えた。

 特にかねてよりジュリエットに好意を寄せていた従兄のティボルトは、ロミオを殺すと決意し若衆を連れてモンタギューの者たちと殺し合いに。

 ロミオの友人マーキューシオを殺害すると、それに憤慨したロミオによって自身も殺されてしまう。

 街を治める大公は、そんな悲しい事件の責任をロミオに求め、彼にこの街からの永久追放を言い渡した。

 処分を受けたロミオはジュリエットと一夜を共にしたいと、期限となる翌朝までの時間を彼女の寝室で過ごし、陽が昇る直前、ヴェローナの街を出て行った。

 一方キャピュレット家はジュリエットとパリスの婚姻を勝手に決めるも、それを心底嫌ったジュリエットは神父に助けを求める。

 神父がそんなジュリエットに渡したのは、42時間仮死状態になる毒薬。

 その薬で家の人間に死んだと思い込ませ、墓場で生き返ったタイミングでロミオと合流、そのまま駆け落ちしようという計画であった。

 そして計画は実行され、予定通りジュリエットは墓場に運ばれることになり、あとはロミオの合流を待つだけだったが──

 

 

 

 

 

 ────

 二幕でも通常通り進んでいく劇。

 そして遂に、最後の場面が。

 俺が舞台に立つと、せりだされた台の上に、マックイーン演ずるジュリエットが横たわっている。

 死んだふりとはとても思えない、安らかな顔。

 ロミオは本来、神父の出した使いによってジュリエットが仮死状態であることを知る手はずだったのだが、運命の悪戯か、使いの者と行き違いになってしまい、ジュリエットが本当に死んでると勘違いしてしまっている。

 ロミオはまず、ジュリエットが死んでしまってることを確認する為肌に触れていく。

 仮死状態のジュリエットの肌は当然冷たく、死んだことを確信したロミオは悲しみの中で呟く。

 

「あなたが死んだ世界に、もう未練はない。 この毒薬が手に入ってよかった……」

 

 という感じでロミオは腰につけていた毒薬を手にし、そのまま口に全て突っ込ませた。

 まだ目覚めないジュリエットのそばで、ロミオは苦しみながらも、彼女の手を取って生涯を終えた。

 

 それを演じ切った俺は今、マックイーンの手を取りながら台の上で横たわって進行を待っている。

 しばらくすると隣の方で音がして、マックイーンが動き出したのを察する。

 今度はジュリエットがこちらの死を確認する番──だが一つだけ、懸念点がある。

 というのもジュリエットはロミオの死を受けて自殺を試みるのだが、最初に試すのが彼の口に残った毒を摂取して死ぬとかいうふざけた方法なのだ。

 一応リハーサルでは上手いこと隠して実際にキスしないようにしていたものの、一幕のことを考えると本当にキスしてもおかしくない。

 途中、寝室の場面があってそこでは普通にキスの振りをしていたのだが、ここでしないとは限らない。

 

『二幕の方ではちゃんと、我慢しろよ』

 

 休憩中の約束が頭の中を駆け巡る。

 マックイーンというウマ娘は、約束は絶対に守る律儀な子ではあるが、ことこれに関しては信用できない。

 

「ロミオ、起きて。 これからは、二人だけの世界が待ってるのよ」

 

「どうして起きないの……? ……っ!?」

 

 ロミオの胸に触れ、死んだことに気づいたジュリエット。

 色々と嘆いた後、自殺しようと、まずはロミオの唇に──

 

「……っ」

 

 ──触れてはこなかった。

 いや、ストーリー的には触れているが、マックイーン自身は俺の唇に触れてこなかった。

 色事に関しては我慢を知らないマックイーンが、ちゃんと自らを律することができるなんて──

 少し感心してしまったけど、よくよく考えればこれが普通のはずなんだがな。

 しかしこれは、劇の後に色々おねだりされるような気もする。

 

 

 

 その後、ジュリエットはロミオが持ってた短剣を胸に刺して絶命。

 深く愛し合っていた二人の死に両家は悲しみながらも、この悲劇を生んだのは自分たち自身だと知ると、手を取り合って争いをやめることを神に誓い、幕が閉じられた。

 

 

 

 ────

 閉められた幕の向こう、観客席から割れんばかりの拍手が轟く。

 そうか──自分は今、課せられた任務を見事果たせたのだ。

 目を覚まし、隣のマックイーンを見遣る。

 彼女は横になったままではあるが、安堵の表情でこちらを見ていた。

 なんて気の抜けた顔だろう──と思えるのも僅かの間。

 すぐに舞台挨拶、そして引退式が行われる関係上、我々はすぐに立ち上がって準備をしなくてはならないからだ。

 体を起こし、先に台を降りようとすると、手を掴まれる感触がした。

 

「……ん」

 

 言葉を発さず、目の動きだけで俺に指示するお嬢様。

 劇中ずっと俺をエスコートしてくれた彼女による、少しくらい甘えさせろという合図。

 俺はコクっと頷いて、彼女の手を取り舞台の前まで案内した。

 

 やがて出演者全員が舞台上に顔を出すと、閉じられた幕が開けられる。

 再び拍手に包まれる会場の中で、マックイーンが前に出て挨拶し始めた。

 

「……本日は、わたくし、メジロマックイーンの引退式にお越しいただき──」

 

 

 

 

 

 ────

「トレーナーさんっ!」

 

 ようやく果たせた自分の責務。

 引退式が終わり、すぐさま化粧を落とした私はトレーナーさんの胸に飛び込んでしまった。

 しかしそんな私でも、トレーナーさんは優しく包み込んでくれる。

 彼の腕のぬくもりが私に伝わる。

 

「わたくしの演技、どうでしたか? 観客の方は拍手を送ってくださいましたが、トレーナーさんは……」

 

 一番近くで見てくれた最愛の人へ、いの一番に聞く。

 こんな質問をするのは当然、今日の自分に自信があるからだ。

 

「とても良かった。 本当に……俺を引っ張ってくれたんだな。 ありがとう」

 

 ありがとう──

 何の変哲もない感謝の言葉なのに、その一言で私の胸は鼓動を勝手に早める。

 今日、この日の為に頑張ってきた甲斐があるというものだ。

 まあ、こんな形になるとは、とても思わなかったけども──

 

「でもこれが、わたくしが浴びる最後のスポットライトになるのですね……」

 

 数分前のあの時を思い起こす。

 三年前、京都で初めて味わった数万の人の注目。

 最初は慣れなかったが、数をこなしていくうちに自然となれていき、今では緊張なんてものは全く感じなくなっていった。

 しかし今日、その日々が終わっていく。

 それを自覚した途端、体の至る所から力が抜けていくような感覚を覚える。

 何か背負っていた、大きなものがすっとなくなったような感じだ。

 

「……マックイーン?」

 

 僅かな変化に気づいたのか、トレーナーさんが心配してくれる。

 

「すみません……全て終わったことを考えたら、気がふっと……これまで走ってきた先輩方も、同じ気持ちだったのでしょうね……」

「そうだな……」

 

 暖かい声のトレーナーさん。

 すると、頭の方が撫でられる感触が伝わってきた。

 昔、母様にされたものを想起させる、繊細な撫で方。

 

「涙袋も緩まるくらい、だからな」

「ふぇ……?」

 

 神経を研ぎ澄ますと、確かに泣いているような気が。

 それも大量に──これでは、トレーナーさんの胸が濡れてしまう。

 

「すみませんトレーナーさん! 今離れて──きゃっ!?」

 

 急いで彼の腕から抜けようとするが、逆に胸の方への勢いを強くさせられた。

 トレーナーさんの腕が、私をより強く抱きしめたのだ。

 

「あのな……その顔、誰にも見せたくないなって思って……いや、独り占めしたいとかそういうのじゃなくて、ふしだらな姿だから──」

 

 あれこれと言い訳を並べていくトレーナーさん。

 赤くなった顔を見ると、照れ隠しなのは見え見え。

 しかしそれは可愛いと思ってくれてるわけで、嬉しくないわけがない。

 私も同じく熱を帯びてしまう。

 

「分かりましたわ……この顔は、貴方専用です。 他の誰かには、絶対に見せませんわ」

「……そうしてくれると助かる」

 

 無理に決まった顔をする姿もまた可愛らしい。

 だから意地悪したくなるのだけれど、今日はそれよりも伝えたいことがあるのだ。

 

「……トレーナーさん」

「どうした?」

 

 トレーナーさんの顔にドキッとしてしまう。

 ここで言ってしまうのは、少し浪漫に欠けるから──

 

「その……この後、寮の前で待ってていただけますか? ちょっとお話したいことがありまして……」

 

 目を瞑って返答を待つ。

 大丈夫と思っていても、怖いものは怖いのだ。

 しかし当の返答は期待した通りのものだった。

 

「いいよ。 というか、俺も話したいことあったし」

「……! では、すぐにでも準備をしなくてはいけませんわね!」

 

 そう言って、私はトレーナーさんによる拘束から抜けて自分の控室に入っていく。

 

「……ですからトレーナーさんも、早くしてください!」

 

 入る直前、彼の方に振り返って放った言葉は、できるだけ満面の笑みを志したが、しっかりとできただろうか。

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

 12月24日の22時。

 街ではイルミネーションが美しく映えているこの時間が、待ち合わせ時間とされた。

 にしても、この寒空で待たされるのは少し堪えるが。

 

「お待たせして申し訳ありませんわ!」

 

 中山レース場から一旦、寮の自室に戻っていたマックイーンがやってきた。

 あれこれとコーディネートを悩んでいたからだろうか、待ち合わせに遅れて美しい彼女が登場する。

 翠玉色のダッフルコートを羽織ったその姿は、今までにない魅力が詰まっていた。

 

「お、来たか……初めて見るコートだけど、最近買ったのか?」

「え? えぇ……まあ……」

 

 素っ頓狂な声を出していたが、それほどに嬉しいからだろうか。

 可愛らしいな、と正直に思ってしまう。

 しかしそれよりも、気になることが一つ。

 

「ところで……あの車はメジロのものってことでいい?」

 

 俺が指差す先には、リムジンでなく高級そうな外車。

 違っているのなら恥ずかしいが、運転席にはじいやさんがいるわけで。

 

「そうですわ。 行きたいところに向かうために必要なので、呼ばせていただきましたの」

「そうか……さすがはメジロ家、リムジンじゃなくても高級外車だもんなあ……」

 

 少し苦笑いを浮かべながら言う。

 

「そういや、連れてきたいところって?」

「それは……」

 

 ウキウキとした彼女に腕を組まれると、そのままに車の中へ連れてかれる。

 

「着いてからのお楽しみ、ですわ!」

 

 

 

 

 

 しばらく車に揺られた後、あまり光のない場所で車は止まった。

 ここから先は徒歩で、というじいやさんからの無言のアドバイスなのだろう──マックイーンと共に外の世界に出る。

 

「ここか……」

 

 道中であらかた場所を察したが、あえて言わないまま行くことにした。

 それはマックイーンも同じのようで、二人で共に進む。

 ふと神経を研ぎ澄ましていくと、隣のマックイーンから大きな鼓動が聞こえるような気がする。

 

 

 

 しばらく歩いた後、ちょうどいい場所にベンチを発見したので、そこに座ることになった。

 

「到着、って感じか?」

「えぇ……ほら、トレーナーさん、上……」

 

 俺は空を見上げ、同じように彼女も空を見る。

 そこには、都内とはとても思えないほど煌びやかに光っている、無数の星々が。

 一つ一つ、一生懸命に明かりを灯していて、俺たちを照らしてくれている。

 

「……綺麗だな」

「今日が晴れで良かったですわ。 もし曇りだったら……」

 

 こんな景色は見れてない、と言いたいのだろうか。

 確かに、この好天じゃなければ見れないものがある。

 空を指差して、説明をしていく

 

「これ、マックイーンも聞いたことあるだろ? 多分冬の大三角だと思う」

 

 べテルギウス、プロキオン、シリウス。

 シリウスという名に惹かれて一度調べたことがあったが、まさかここで有効に使えるとは。

 しかし隣の彼女はニヤリとした顔を浮かべ、意地悪にもこう言ってくる。

 

「トレーナーさん、わざわざシリウスのことを調べたことがあるのでは? 普段はそのようなことに興味ないはずですが」

 

 ギクッ。

 さすがはメジロマックイーンだ──五年の間に繋いだキズナには敵わないか。

 

「ははっ……バレたか。 いや、少し気になってね……」

 

 思わず頭をポリポリと掻いてしまう。

 そんな様子を可笑しく感じたのか、彼女は微笑むように笑い出した。

 

「そんな笑うことじゃないだろ?」

「いえ、そうして頭を掻いてるのが可笑しいだけですわ」

 

 可愛らしい笑い声を入れた彼女の弁明に、俺はどうもこれ以上話すことができない。

 すると彼女の方も何も話さないまま、場に沈黙が続いてしまった。

 

 

 

 しかし今回は、どうしても伝えたいことがあるのだ。

 この沈黙は、ちょうどよく伝えれる好機かもしれない。

 

「「あの!」」

「「あ……」」

 

 見事に被ってしまった。

 いつもなら息ピッタリということで少し嬉しく感じるも、この場面では恥ずかしさと気まずさが勝る。

 

「トレーナーさんの方からどうぞ……」

「いやいやマックイーンの方から……」

 

 まずい、これは中々終わらないパターンだ。

 どちらかが妥協しなければ、何も発展しない。

 

「「じゃあ(では)、俺が(わたくしが)!」」

「「あ……」」

 

 また被ってしまった。

 こんな時にまた息ピッタリにならなくても、と少し自分を恨んだ。

 気まずさが頂点に達し、結局俺と彼女、二人とも何も話さなくなってしまう。

 この静寂を打ち破るには言葉を発さなくてはならないが、それで二回失敗してるわけで。

 どうすれば──そうだ、ボディタッチなら。

 すぐさま彼女の左肩に手を乗っけると、俺の右肩に何か乗せられてる感覚がした。

 

「トレーナーさん……?」

「マックイーン……?」

 

 その感覚の正体は、彼女が持つ珠のような右手だった。

 これまた、同じ行動をしてしまったのだ──ここまでくれば、もはや笑ってしまうレベル。

 

「……ふふっ、ここまで一緒なんて……わたくしたち、本当に息が合いますわね」

「そうだな……一心同体にしても、ここまではいかないだろ普通」

 

 さっきまでの静けさはなんだったのかと言わんばかりの、笑い声を含みながらの会話で安心する。

 恐らく彼女も、同じ感情を抱いてることだろう。

 

「……俺から言わせてくれ」

 

 しかし、次の段階では先手を取る。

 空いてる左手で彼女の右肩を掴み、正面に持ってこさせる。

 目の前のマックイーンは意を決したような表情を取り、俺は掴む手を少し力ませて、深い呼吸を一度、交わした。

 

 

 

「──メジロマックイーン」

 

 普段は言わないフルネームで。

 

「俺は……あなたのことが好きです。 俺とお付き合い、していただけませんか」

 

 

 

 ──これを伝えるまで、本当に時間が掛かった。

 真夜中でもハッキリと、彼女の火照った顔が分かる。

 きっと自分も、熱を帯びてることだろう。

 しばし無音の世界を過ごした後、目の前の彼女が口を開いた。

 

「わたくしで、いいのです?」

 

 そんな、当たり前のことを──

 

「君だからいいんだ」

 

 できるだけの笑顔を出して答える。

 すると、突然体の自由が奪われ──抱擁されてることを察した。

 

「……こんなわたくしでよければ、よろしくお願いいたします」

「……あぁ!」

 

 嬉しい。

 ずっと夢に見ていた、この瞬間。

 自分も彼女の背中に手を回し、抱き着き合って、互いの愛おしさを確認した。

 これまで何度もやってきた行動も、今結ばれた関係に変わって大事さを痛感する。

 

「トレーナーさん……」

 

 突如目の前に現れる彼女の顔。

 少し息が荒くなってるそれは、きっと彼女なりの誘惑の表情なのだろう。

 それに応えなければ。

 

「……分かった」

 

 暖かく白い息を掛け合い、息を合わせる。

 目を瞑って待つ彼女の唇を塞ぐ。

 今までに何度もしてきたこの行為も、恋人というフィルターを通すともっとしたくなる。

 

「……んっ」

 

 少し待つと、口腔内に何か入る感覚が。

 これはまさか、舌だろうか──

 しかし恋人という名の下の魔力からか、拒絶することなくすぐに呼応して舌同士で絡め合っていく。

 なんてはしたない、卑しいものだろう。

 彼女がたいそう、色っぽく見えた瞬間だ。

 

 しっとりと、永い接吻を交わしていった。

 

「……ぷはぁ」

 

 長い長いキスを終えると、二人の口が支えとなって銀橋がかけられた。

 紅潮してる顔などもはや当然で、吐息が僅かに純白な顔を取り戻そうとしているだけ。

 

 

 

 すっと、寒い風が我々を襲った。

 

「……もう帰ろうか」

 

 彼女を冷えさせてはいけない、そう思った俺は腕を解いて立ち上がると、彼女も追従して立ち上がった。

 

「あ、それなら……」

 

 突然にカップルがする腕組みをされた後、俺の懐に潜り込んだ彼女は上目遣いで頼み込んでくる。

 

「先ほど、外泊申請をしてきまして。 今なら、貴方の家に泊まることもできますわ」

「……っ」

 

 やはり、彼女の上目遣いは何よりも破壊力がある。

 これに勝てる人はいるのだろうか、そう思いながら俺はしっかりと答える。

 

「……いいよ」

 

 年頃の少女を家に連れていくという、かなりの背徳感を感じるこの状況。

 もし、理性を失ってしまったら──

 彼女を悲しませないことだけは誓おう。

 

「では行きましょう! こんな夜では、温まるものも温まりませんわ!」

 

 強く引っ張られた腕を頼りに、来た道を引き返していった。

 空では一等星シリウスが、俺たちを優しく見守ってくれていることだろう。

 

 

 

 

 

 ────

 初めて訪れる好きな人の家。

 胸は高鳴るのみで、抑えつけることもままならない。

 

「あまりここからじゃ星が見えませんわね……」

「そりゃ、周りに建物があるからな。 さっきのは周りになんもないからこそ、鮮明に見えたんだ」

 

 窓に身を乗り出した私の後ろから、彼も身を乗り出していた。

 上は夜らしい暗い空模様が広がっていたが、左右や正面を見るとイルミネーションで彩られた世界がある。

 

「でもいいのか、窓開けて。 このままだと匂いが……」

「いいのです。 むしろ、これを周りの方々に自慢したくなってきましたの」

 

 小悪魔的な顔をしながら、彼に答えた。

 きっと彼はこの顔が好きだろうから、少し前から意図的に行っている。

 それに打ちひしがれる彼の姿は、それはもう可愛くて可愛くて。

 しょうがなくなるから、意地悪するのだけれど。

 

「そんな自慢することでもないし、近所迷惑になるんじゃ……」

 

 不安そうな彼の表情に免じて、ここまでにしておくか。

 

「むう……それなら、閉めておきますわ」

 

 そう言って、寒風を運んでいた窓は閉めると当然、またも私たち二人の世界が続く。

 

「よし、それじゃ……」

「……えぇ」

 

 

 

 リビングに心を戻した私たちは──炬燵の中に入り、その上に置かれてるものに目を遣る。

 そこには──

 

「なんて美味しそうなホットケーキなのでしょう……!」

 

 家に着くなり、お腹が空いてしまった私の為にと彼が作ってくれた、愛情籠るホットケーキ。

 炬燵の上に何枚も積み重なった、こんがりとした焼き目に目が眩んでしまう。

 こんな夜中になんて、現役の間は全く許されてなかったが、今日でそれは終わり。

 とはいえ、さすがに何度もしていいわけではないけれど。

 

「ほら、はちみつ。 それともキャラメルの方が好きだったかい?」

 

 取り出されたそれを見た私にふと、ある考えがよぎる。

 

「ふむ……それなら、こうやって……」

 

 二つの見るも分かりやすい甘味を両方手に取り、はちみつは私の方へ、キャラメルは目の前の彼の方へかけていった。

 

「こうすれば、どちらのも食べれるでしょう?」

「強欲だなぁマックイーンは」

 

 強欲なんて、あまりに言い方が悪すぎる。

 

「効率が良いと、おっしゃってくれません?」

 

 分かりやすく頬を膨らませて不平を通したが、彼に届いただろうか。

 だが彼の方は、そんな私をじっと黙って見続けたまま。

 まさかこんな頬をつまんでみたい、などと思っていないだろうか。

 いやそれもまた良いのだけれど。

 しかし何もないなら、目の前のホットケーキの方に注力しなくては。

 

「いただきます」

 

 さてさて、お味の方は。

 ──はちみつがホットケーキに絡み合って、ただでさえ甘いホットケーキを更に甘くしている。

 

「うーん……美味ですわ」

「それは顔で分かるよ。 うっとりとしてるもんな」

「トレーナーさんも食べれば、同じようになりますわ……ほら」

 

 私が持つフォークを彼のホットケーキに刺し、そのまま彼の口元に運んでいく。

 そして彼が好きであろう、甘い言葉を並べていった。

 

「ほら、あーん」

 

 口を開けて待ってくれている彼に、ホットケーキを与える。

 どうだろうか、美味しいだろうか。

 

「──これは美味いな。 自分で作っておいてあれだけど」

「もっと自信をもってくださいませ。 美味しいものは美味しいのですから」

 

 確かにな、と相槌を打つ彼は、今度はご自分のフォークでホットケーキを食す。

 ──あら、口元にキャラメルが。

 気づいたわたくしが、取って差し上げなくては──

 

「あの、トレーナーさん」

「ん?」

 

 呆気にとられる彼を尻目に、私は立ち上がって隣に近寄る。

 

「少しじっとしてくださいませ……」

 

 そのまま、彼の口元に近づいて──

 

「んむ……」

 

 舐め取るように、口元に付いたキャラメルを取ってあげる。

 驚いているからか声を出せない彼に構わず、私の舐め取りは強さを増していく。

 そのまま、全てのキャラメルを吸い取って──

 

「……ごちそうさまでした」

 

 美味しさか、それとも卑しいことをした興奮か、体の熱が危険な域まで達してしまう。

 

「口元にキャラメル、付いてましたわよ?」

「あ……そういうことか……」

 

 あまりに呆然とする彼にもっともっと色んなことをさせたくなるが、さすがに我慢しなくては。

 今は愛しいこの人と、この甘味を共に味わう時間なのだから。

 

「さて、冷めないように早くいただきましょう?」

「あぁ」

 

 互いにホットケーキを食すこの瞬間。

 目の前には好きな人がいて、味を二人で語り合い、笑顔を絶やさず過ごしていく。

 今までもあった幸せだけど、これからは恋人としてこの幸せを享受できる。

 この五年間、私たちの前には沢山の障害が立ちふさがり、時には私たち二人にも壁ができることがあった。

 それでも綿々と繋いだこのキズナが今、赤い糸として結ばれている。

 これからもきっと、沢山の壁が私たちの行方を阻んでいくだろう。

 それでも、この方となら──

 

「ねえ、マックイーン」

「どうしましたの?」

 

 いじらしそうに、彼は聞く。

 

「……俺のこと、好きか?」

 

 そんな当たり前のこと、考える必要もない。

 

「大好きという言葉では足らないくらい好きですわ……それとも、こちらの方がよろしかったかしら?」

 

 微笑みを越えて。

 愛しい貴方へ──

 

「愛してます」

 

 

 

 

 




 お待たせしました。
 そして最終回は次回です。
 なんかもう終わりみたいな雰囲気出してますけど、もうちっとだけ続くんじゃ
 という感じで、どうぞ次回もよろしくお願いします。


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エピローグ:幸福なる、王様たち

 ────

 朝、先ほどまで二人分の温もりを得ていたベッドに私は向かう。

 

「ほら! 朝食できましたわよ! 起きてくださいませ!」

 

 朝から大声を出すなんて、本当に大変。

 いくら自らの伴侶を起こす為といっても、ほぼ毎日はさすがに看過できない。

 

「うーん……あと二十分……」

「もう、まったく……」

 

 この人、昔はこんな怠惰ではなかったはずだが。

 結婚してから甘やかしすぎたのか、以前のしっかり者できりっとした彼はすっかり鳴りを潜めてしまった。

 甘やかしすぎないことを志してはいるけども──

 

「マックイーン……すきぃ……」

「っ──あなたったら、しょうがありませんわね」

 

 私は今、明らかに赤面してるだろう。

 こうやって懐柔されるのがオチというわけだ。

 

「……少しなら、待って差し上げますわ」

 

 彼の寝顔のすぐそばに寄り、それをまじまじと観察する。

 いつも苦労させられてる私に対して、唯一支払われるご褒美がこれだ。

 いつ見ても襲いたいほど可愛くて、つんつんと意地悪したいくらいのお顔。

 でも私の毎朝のルーティンは、それらを我慢し続けること。

 朝から激しいことなどしたら、学園内で倒れてしまう。

 その代わり、私は彼の耳元にささやかな攻撃を仕掛ける。

 

「──愛してますわ、あなた……」

 

 繊細な声が、耳の中を通って鼓膜を響かせてることを確認する。

 彼の体がじれったそうによじり、仕返し完了。

 これがメジロマックイーン流、好きな人の起こし方だ。

 

「……おはよう、マックイーン」

「えぇ、おはようございます。 もうご飯できてますから、早く立ってくださいまし」

 

 促して体を起こさせ、できたての朝食が待つダイニングに向かった。

 

 

 

 

 

 ────

 私、メジロマックイーンの引退式から数年。

 時の荒波にもまれていくうちに、周りの状況はガラッと変わってしまった。

 私がトレセン学園を卒業したのは当然だが、同じくライスさんやゴールドシップさんも卒業し、彼女たちが信ずる道へ、それぞれ進んでいった。

 ライスさんは引退式の後、故障もありスランプ期間が長引いたものの、一年半後の天皇賞春にて二年前の天皇賞春以来の勝利を飾ると、その後十分な休養を挟んだ後に挑んだ三度目の天皇賞春でも勝利。

 見事春の盾V3を成し遂げ"漆黒のステイヤー"の名をほしいままに引退した。

 ゴールドシップさんはクラシック級にて皐月賞・菊花賞・有マ記念とGⅠを三勝。

 史上初の宝塚記念連覇も含むGⅠ6勝を挙げた。

 もっとも、注目されたのはその実績より日常やレースでの振る舞いで、特に宝塚記念三連覇の掛かったレースでの大出遅れは彼女を象徴するエピソードの一つだ。

 シニア級二年目にはフランスの大レース凱旋門賞に出走。

 結果は日本勢最下位となる14着だったものの、異様に現地ファンに親しまれていたのは何だったのだろうか。

 

「──今年のドリームトロフィー・リーグから、チームシリウスのエースとして活躍したサトノダイヤモンドが入ってきますが──」

 

 朝食を摂る傍ら、テレビが流す映像に目を向ける。

 ダイヤはハイレベルと評されたクラシックを戦った後、幼馴染でライバルだというキタサンブラックと有マ記念で激突。

 見事ゴール前で捉え切ったダイヤはGⅠ二勝目を挙げたが、その後はまさかのスランプに。

 しかし一年半ぶりの勝利となった京都大賞典で復活の手掛かりを掴むと、その年の有マ記念で見事に差し切りが決まり二年ぶりにGⅠを勝利。

 その後もタイトルを積み重ねた彼女は、今年からドリームシリーズへと駒を進めた。

 

「しかしシリウスとなると、昨年からドリームトロフィー・リーグに入ったインビジブルとの同チーム対決が楽しみですね」

 

 私の引退のタイミングで留学生として来たインビジブルは、怪我が癒えるとトゥインクルシリーズに本格参戦。

 大阪杯、宝塚記念、ジャパンカップ、有マ記念の四レースを無敗で制すという離れ業をやってのけると、留学期限が来た為イギリスへと一時帰国。

 そしてあちらの学園を卒業した昨年、日本に戻り本格的にドリームトロフィー・リーグへ参戦してきたのだ。

 その破天荒な生活には周りも振り回されてるようで、秘書のリバーズコアさんの苦労話は散々させられた。

 

「シリウスも海外でのGⅠ制覇から、一気にチームとしての厚みを増しましたからね」

 

 愛すべきトレーナーさんは今や学園で一番のチーム、シリウスのトレーナーとして沢山の実績を積んできた。

 それは日本国内に限らず、ドバイや香港のGⅠすらも勝利し、インビジブルの件もあってか海外での知名度も高いようだ。

 そんな彼だが、ただ唯一、東京優駿のみは勝つことができずにいる。

 二着こそは何度もあるが、あと一歩だけ着を上げることができない。

 先代トレーナーが率いたシリウスもダービーを勝つことができなかった為か、世間ではすっかり"シリウスはダービーに縁がない"と揶揄われている。

 

 

 

 そして今、私はというと。

 

「うーん、やっぱりマックイーンが作る飯は美味いな! 特にこの卵焼きなんかはホント絶品」

「当たり前ですわ。 あなたの妻になったのですから、これくらい出来て当然です」

 

 彼──チームシリウスのトレーナーさんとめでたく結婚したわけだが、そこまでに色々あったわけで。

 まず、あの日を境に将来を約束した関係となった私たちは、早速メジロ家に交際を報告。

 おばあさまになんて言われるのだろう、と思っていたが意外や意外、素直に私たちの関係を認めてくださったに留まらず、なんと婚約や結婚式までも話が飛んで行っていくほどのノリノリっぷり。

 そんな実家のことはさておき、トレーナーさんと今後のことを話し合った私は、将来を考え学園に属しながらトレーナーの勉強と料理等家事の勉強をすることになった。

 卒業後、無事にトレーナーバッジを手にした私はシリウスのサブトレーナーになれたのだが──

 

「さすが、強豪チームシリウスの母と呼ばれるだけはあるな」

「もう! その呼び名はやめてくださいと言ったではありませんか!」

 

 トレーニングのことは彼が担当する影響で台所などのコンディション面を担当することが増えた影響か、いつの間にかついたあだ名が先ほどの通りで。

 こんな大きな子供を貰った記憶はありません、とは何度も言ってきた言葉だ。

 しかし母と呼ばれる程の信頼や安心を与えてることを考えると、悪い気はしない。

 

 

 

「でもそろそろ本当に母親になるわけだし──あ、体調大丈夫?」

「えぇ、大丈夫ですわ。 この時期はつわりもそこまで酷くありませんので」

 

 そう、今私はお腹の中に新たな命を授かっている。

 正真正銘、彼との間に生まれた私たち夫婦の子供。

 予定日は10月、例年では菊花賞の頃なのだという。

 少し前までは本当に妊娠してるのか分からないくらいのシルエットではあったが、今やぽっこりとお腹に膨らみが出てきはじめている。

 

「俺とマックイーンの子供か……マックイーン似だったら良いのにな」

「あら? わたくしはあなた似なら良いのにと思ってますけれど?」

 

 しかし関係が変わっても尚、私たちの相手を立てすぎる、考えすぎる所はあまり変わっていなかった。

 その風景は何度もマスコミに撮られ、私たち夫婦にはすっかりおしどり夫婦のイメージが定着してしまった。

 別に嫌というわけでもないが、この遠慮しがちな所がもとで色々あったこともあり、少しずつでも直していきたいと考えていたのだが。

 

「じゃあ間を取って……それでも少しはマックイーンに近い方がいいかな」

「それならわたくしだって、数センチでもあなたに近い方が──」

 

 こうやって譲り合いという名の底なし沼は続いてしまうのだ。

 

 

 

 

 

「──ですが今日はなんといっても、ウマ娘の祭典日本ダービー! 今回のダービーはある一人のウマ娘に、大きな注目が集まっています!」

 

 テレビが映すは東京優駿の特集、それに釘付けになる二人。

 当然私たちトレーナー陣が気にしないはずもない話題ではあるが、今年は例年と違ってなおさら気になってしまう明確な理由がある。

 

「あのメジロマックイーンやサトノダイヤモンドを輩出したチームシリウス所属、無敗の皐月賞ウマ娘である"ディープインパクト"です!」

 

 そこに映しだされたのは、小柄ながらも絶大なるオーラを持つ、ロングヘアのウマ娘ディープインパクト。

 一人全く次元の違う走りで、4戦4勝の成績にて軽々と皐月賞を制覇。

 当然今日行われる東京優駿での二冠達成を期待される立場なのだが、世間の目はもはやどんな勝ち方をするか(・・・・・・・・・・)にしか目が行っておらず、三冠は間違いなし、歴代最強ウマ娘と呼ばれるのも時間の問題と言われる程という、とんでもない逸材なのだ。

 そんな彼女が何故シリウスに入ったのか、というと。

 

「凄いよなマックイーンは。 だってこんな注目されてるディープに姉さんって言い間違えられたりしてるもん」

「さすがに何年もの付き合いになるのですから、いい加減に直してほしいとしか思ってませんわ……公衆の場で言い間違えないか、いつも冷や冷やしますもの」

 

 元々、彼女の一つ上の姉を家族のように世話してたこともあり、妹であるディープとは学園に入る前から親しい関係だった。

 となると当然、チーム選びの際にシリウスを選ぶようになるわけで。

 しかしあまりに親しくなりすぎたのか、その姉妹に"姉さん"などと言い間違えられるようになったのは如何なものか。

 

「でもママとかお母さんよりはマシじゃない? 俺なんかこの前オヤジなんて言われたんだが」

「オヤジって……まだあなたそこまでの歳ではないでしょう……?」

 

 私の胸の中に一人のウマ娘が浮かぶ。

 そんなぶっきらぼうな言い方をする子など、今のチームには一人しかいない。

 

「でも確かにお母さん、と呼ばれたことはありませんわ。 別に呼ばれたい、というわけではありませんが……」

「まあ心配しなくても、数か月したら君もお母さんと呼ばれるんだ」

 

 すると、彼はすっと立ち上がってこちらの膨らんだお腹を撫でてきた。

 

「だから俺も、ちゃんとお父さんにならなくちゃな……ごちそうさま、今日も美味しかったよ」

 

 細かな気配りの含んだ言葉の後、寝室に戻っていってしまった。

 恐らく着替えの為であろう──それを見送った私は引き続き朝食を食していった。

 

「……ようやく、ダービーを勝てそうですわね」

 

 ディープが圧勝した皐月賞を映すテレビを前に、一人呟いた。

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

 梅雨入り前、ファンの願いが届いたかのような晴天の下の東京レース場。

 いつもと違う異様な雰囲気のまま進んだ今日の開催も、遂に11R、ダービーの時が来た。

 地下バ道でディープを見送ると、バ場の方から勇ましい音楽と共に本バ場入場が始まった。

 

「さあそしてやってきた、一億が望む巨大彗星、府中に見参するはディープインパクト! 史上6人目の無敗二冠達成へ、グリーンカーペットが広がります」

 

 彼女の名を呼ばれると同時に、レース場全体から地響きのような歓声が沸き起こる。

 それは関係者席に向かおうとエレベーターに乗る寸前の私たちにも届いたほど。

 本バ場入場だけでこれとは。

 

「とんでもないな本当に……これレースが終わったら聞くクラスの歓声だよ」

「テイオーの時でもこれほどは……それだけ今日に掛かる期待が大きいということでしょうが……」

 

 これまで何度も見てきたダービーを思い出す。

 ライスさんの時も、ゴールドシップさんの時も、ダイヤの時もかなり盛り上がっていたはず。

 それらを遥かに凌ぐこの歓声──私たちが背負っているものの重大さが身に沁みて分かる。

 

「ディープ、緊張してないかしら……イレ込んでなければいいのですが……」

「まぁそれは、あそこまで送った俺たちがいくら気にしてもどうしようもないさ。 なるようになる」

「……どうして、あなたはそこまで冷静ですの?」

 

 乗っていたエレベーターが止まり、関係者席へ向かっていく。

 この動きを過去何度もしてきた彼の足取りはいつもと変わらないまま。

 悲願のダービー制覇が目前に迫っているこの状況でこの冷静さは、ある意味不気味だ。

 

「長年トレーナー業をしてきて、名伯楽と呼ばれた先生ですらダービーを勝ってないんだ。 俺みたいな若輩者が簡単に勝てる舞台じゃないと思ってるからね」

「そういうこと言って……ダイヤがハナ差で負けた時は、夜通しわたくしの胸の中で泣いていたではありませんか」

 

 これを言うと彼は少し顔を赤くして、私に向かって反論してくる。

 

「それを言うならマックイーンだって、ゴルシが負けた時にバ場がおかしいと言って騒いでいたじゃないか」

「あれは本当におかしいくらいの高速バ場でしたわよ!? だからおかしいことは何も──」

 

 更なる反論を返そうとすると、どこかからせき込む音が鳴る。

 空気を読めという意図を持った音の主は、顔をも覆うほどの黒髪をもつ淑女。

 

「二人とも、そんなに大声出したらめっ、だよ? もう立派な大人なんだから……」

 

 可愛らしい叱り方をするライスシャワーは、現役の選手として活躍していた頃より随分大人っぽくなった様子。

 それでも変わらないちんまりとした姿が、目の前の人物の特定を簡素にさせていた。

 

「それに、二人は今日の主役の保護者さんでもあるんだよ? 親としてちゃんとしないと……」

「保護者になった記憶はございませんけど……」

「確かに騒ぎ過ぎたな、すまん」

 

 息ピッタリに私たちの総意を伝える。

 ライスさんも納得したようで、共にスタンドへ向かっていく。

 

「今日って、一応ライスだけが来る予定だったよな?」

「うん。 もう一回声掛けてみたりしたけど、結構皆忙しいらしくて……」

 

 ウマ娘のセカンドキャリアは基本、私と同じように育成に携わったり評論家に回る人など、変わらずウマ娘と近い関係にある仕事に就く人が多い。

 特にシリウス出身の子はその傾向が強く、今目の前にいるライスさんを除けば皆ウマ娘関連の職に就いてるというのだから驚きだ。

 そしてこの時期はダービーだけでなく、その翌週から始まるメイクデビューに向けての準備が激しくなる時期でもある。

 故に、最もチームメンバーが集まりづらい時期であるのだ。

 

「こういう時ゴールドシップさんはよく来てくださいますけれど……あの人もあの人で大人になったということなのですわね……」

 

 学生で味わった青春などとうの昔のことであるのに、それを実感しない体の感覚。

 気が付けば彼との関係は夫婦になって、今年ついに父と母になってしまった。

 チームメンバーの状況が変わるのも当然だ。

 

「だがゴルシのことだ、実はこの府中に潜んでる可能性だって否定できない……そうだろ?」

「忍者か何かと勘違いしておりませんの? あなた?」

 

 窘める私の姿を見守ったライスさんはどうしてか、昔のように分かりやすい笑顔を浮かべてきた。

 

「マックイーンさん、いつの間に"あなた"って自然に……! 前までは"トレーナーさん"と言ってて夫婦感なんてなかったのに……」

 

 彼女の言葉に体は熱を帯びる。

 トレーナーさんを見ると、そんな私を見てニヤニヤとしていた。

 

「べ、別にいいでしょう! わたくしがどんな呼び方をしても!」

 

 慌てて反論したが、これは逆効果になってそうである。

 案の定愛しい彼は、さあどう弄ってやろうかと言わんばかりにニヤニヤ度を増していた。

 

「あなたもですわ! 昔からそうやって隙あらばいじめようと──」

 

 

 

 

 

 しばらくの説教の後、席の方で発走を待つように。

 さすがにここまで来たら、冷静を纏っていた彼にも緊張の糸が張り巡らされたようで、口を真一文字に結んだまま祈るように手を合わせていた。

 

「……なあ、ディープは本当に勝てるだろうか。 今日も無事に、走り切れるだろうか……」

「あなた……」

 

 珍しく体だけでなく、声でも弱気さを出してきた彼。

 それだけダービーというのは重く、大変なレースなのだということを実感する。

 しかしこんな弱気な彼は見たくない──そんな一心が無意識に働いて。

 

「マックイーン……?」

 

 つい手を取ってしまう。

 

「……大丈夫。 私たちが信じる彼女なら、間違いはありませんわ」

「マックイーン……そうだな。 ディープなら、この舞台でも差し切ってくれる。 ダービーを勝ってくれるはずさ」

 

 いつものような夫に戻り、とにもかくにも一安心。

 手を取り合ったまま、私たちはディープの動向を見ることにした。

 デビュー当初からのウィークポイントとしてメンタル面が挙げられた子というのもあり、この大歓声に押しつぶされないかが気がかりだが。

 

「ちょっとチャカついてるな……皐月の時はここから落ち着いてきたから、今日もそんな感じでお願いしたいんだけど」

 

 祈りも込めた夫の言葉。

 するとそれが届いたのか、ファンファーレが終わると同時にディープは急に落ち着き始め、ゲートにすんなりと入っていった。

 しかしそれまでの様子とのギャップはかなり激しいもので、逆に不安を感じるくらいだ。

 

「冷静になったらなったで、あれは少し不気味すぎますわ……」

「まあゲートで出遅れても、ここのレベルなら届く自信はある。 まずいのは心身のバランスを崩すことだし、だとしたら落ち着いてるなら及第点だ」

 

 そう話す彼の瞳は、勝負師が持つものと一緒だった。

 そんな彼の瞳に導かれ、アスリートとしての自分は大成した。

 今彼に導かれてるうら若き学生たちに嫉妬してしまうこともある。

 だがその度に思い出す──一緒に帰るお家が私たちにはあることを。

 

「ウマ娘を愛する全ての人に、日本ダービー衝撃! さあそのスタートは──」

 

 

 

 

 

 ────

「早くも、早くも、ディープインパクト先頭か!」

「内ラチ一杯、インティライミも頑張った、残り200を切りました!」

「さあディープディープ、上がってきているのはディープインパクト」

「インティライミ二番手、態勢全く変わらない!」

「このスピード、そしてこの強さー! 遂に決めた無敗の二冠達成! そして秋の京都へ、衝撃は引き継がれます!」

 

 2分24秒先にもたらされた結果は、全ての杞憂を嘲笑うようなものだった。

 第4コーナーで何事もなく外に持ち出し、そのまま直線弾けて5バ身差の圧勝。

 この時、私たちのトレーナーさんは遂に"ダービートレーナー"の称号を戴いたのだ。

 

「……あれは凄すぎるな」

「えぇ……! ほんっとうに、凄すぎますわ……!」

 

 興奮が抑えられないスタンド席。

 周囲からのお祝いを受けながら、私たちは手を取りあいながらその強さに打ち震えるのみであった。

 

「おめでとうトレーナーさん、マックイーンさん!」

「感謝いたしますわライスさん。 思えば、貴方の二着から新生シリウスのダービーは始まったのでしたわね」

「あれから数年か……先生も喜んでるだろうか」

 

 きっとどこかで見てくれてる先代トレーナーを想っていると、元より大きい歓声が更に大きく轟いた。

 バ場を見ると、ディープが観客に向けて二本指を突き出し、かつての皇帝がとったように二冠ポーズをしていたのだ。

 

「……会長──じゃなくて、理事と一緒ですわね」

「皐月の時もやってたな……三冠か」

 

 どこか遠い目でそれを見ている彼。

 三冠という言葉の重みを感じているのだろうか──できることなら、少しでもその重しを肩代わりしてやりたいが。

 そう気持ちを固めてると、室内に向けて足取りを進めようとしていた。

 

「それじゃ、地下バ道まで迎えに行くか」

「えぇ!」

 

 

 

 

 

 連れられるがまま、地下バ道に着くとちょうどディープがその姿を現してきたようだ。

 勝利者インタビューも終え、爽やかな表情でこちらに近寄るその姿は本当にダービーを走った後なのかと疑ってしまうくらいのものだった。

 

「トレーナーさんマックイーンさん、おめでとうございます。 栄誉たる"ダービートレーナー"ですよ」

「それはこっちのセリフだ。 二冠達成おめでとう、ディープ」

「そうですわ。 貴方が勝ち得たタイトルなのですから自信を持ってくださいませ」

 

 私たちの褒めちぎりについには顔を赤くし照れてしまうディープ。

 あまり褒められることに慣れてない彼女らしい。

 

「確かに走ったのは私です。 が、ここまで私を連れてきてくれたのは他でもないトレーナーさん、そしてマックイーンさんなのですよ」

「……本当に貴方は、わたくしによく似ておりますわ……きっと、こうも考えているのではないかしら」

「三冠を達成するまで気は抜けない、と」

 

 どうやら図星だったようで、してやられたといった感じに口を開いた。

 

「はい。 もっと言えば、その後に控えるシニア級の一線級との対決、そして海外遠征──気は全く抜けませんよ」

 

 強い強い意志を持った瞳が私たちに訴えかける。

 レースで追い込みを始める時のような怖い目。

 それだけ彼女のレースに対する思いが強いという証左であろう。

 

「もちろんだ。 まずは夏を越して秋──菊花賞だな」

「あら、菊花賞ならここに覇者がいますわよ? わたくしを参考にすればよいのです」

 

 胸を張ってみると、二人の視線が少し怪しい雰囲気になった。

 

「そうだな。 シリウスにはライスシャワーやゴールドシップ、サトノダイヤモンドと菊花賞ウマ娘が三人もいるし、予習材料に不足はないな」

「はい。 特にゴールドシップさんは同じ追い込みということもあって、凄く勉強になるでしょう」

「え……?」

 

 明らかにいじめられてるこの状態。

 分かってて二人がやってるのは理解していても、どこか腹が立つ。

 彼らに分かりやすいよう、頬を膨らませて抗議の意思を示した。

 

「分かってる分かってる。 最強ステイヤーと呼ばれたマックイーンのことは一番信じてるから、そんなリスみたいな顔して怒らないでくれ」

「……最初からそう言えばよかったのですわ」

 

 本日何度目か分からない感じのこの揶揄い具合だが、それを仕掛けてる彼の楽しそうな顔を見ると許してあげたくなる気も強まる。

 

「でもマックイーンの経験に期待してるのは本当。 ライスの時もダイヤの時も、マックイーンのおかげで勝てた側面があるからな」

「……褒められると逆にこそばゆいですわ……」

 

 身をよじると優しく二人が視線を送ってくれた。

 すると、ディープの名が呼ばれる声が地下バ道に響き、それに返事した彼女が踵を返す。

 

「追加取材のようです。 少し長くなるかもしれないので、控え室で目黒記念でも見ておいてください」

 

 私たちが分かったというと、そのまま彼女は人混みの中に消えていってしまった。

 

「……三冠か」

「あなた……?」

 

 消えていくディープを見ながら呟いた夫の言葉。

 

「いや、ダービーが終わってようやく重圧から解放されると思ったら、更に重いプレッシャーが掛かったからな。 多分、彼女が引退するまで続くんだろうな」

 

 ディープの控え室の方に足取りを向け、歩調を合わせて向かって行く。

 

「それは……わたくしの時も思ってましたの?」

 

 隣にいる彼の顔を見つめる。

 彼も同じようにこちらを見てくれた。

 

「もちろん。 特にマックイーンは初めての担当だからな、菊花賞の時とか緊張して仕方なかったぞ」

「やっぱり……」

 

 彼がプレッシャーに押しつぶされる映像を浮かべると、全身からぞわっという感覚が襲った。

 現役の間は表に出されてなかったが、より親しい関係になったことでようやく知れた彼のもっと弱い部分。

 それを私自身が味合わせていたなんてことは、考えたくもない。

 

「マックイーンは心配性だなぁ。 そんなプレッシャーを遥かに上回るくらい楽しいからこの仕事続けてるんだ。 マックイーンの時もそうだったんだぞ?」

「本当ですの?」

「ホントホント。 現役最強のウマ娘に携われるなんて、とんでもない幸福だからな。 その相手がマックイーンとなりゃ、毎日がパラダイスだ」

 

 少し嬉しくなるようなことを言ってくれて、つい気持ちが弾んでしまう。

 

「マックイーンは重圧を共有しようと思ってくれてるんだろうけど……俺としてはさ」

 

 それを悟られないように努めると、彼に手を取られ、一旦足を止めて言ってくれた。

 

「楽しさってのを一緒に共有したい。 沢山のレースを勝って、沢山の景色を見て……その隣には、マックイーンしか考えられないんだ」

「……っ」

 

 まったくもう、この人は──

 

「本当に、調子が良いんですから……」

 

 少し恥ずかしいのか、頭をポリポリと掻く大好きな彼。

 

「……その申し出、もちろんお受けいたしますわ。 あなたと一緒に見る景色……きっと、素晴らしいものしかないのですから」

 

 かくいう私も、少し気負ったことを言ってしまう。

 当然のように頬を赤らめたが、気持ちの良い恥ずかしさなので後悔なんてない。

 

 ──あぁ、本当に好きなんだな。

 

 甘い気持ちが私を支配し切った。

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 

 ────

 ライブも終えて、府中のレース場から学園に戻る車の中で。

 

「……ディープ、寝てしまいましたわ」

「冷静さを装ってたけど、やっぱりのしかかった重圧が凄かったんだろうな」

 

 車を運転する夫に知らせると、とてんと、こちらの肩にディープが頭を預けてきた。

 不意打ちでビックリしたが、顔を見るとただただ可愛い少女の表情だったので心が安穏とする。

 

「ディープが菊に挑むころには、お腹の子も生まれてくるのでしょうか。 そうなると、京都には付き添ってあげられないかもしれませんわ」

「そうだったな……菊花賞の実施、遅らせてもらうか?」

「面白い冗談ですけれど、ありえませんわね。 きっとわたくしは家から、彼女の勇姿を見守るだけですわ」

「でもこっちが遠征中にちょうどよく生まれてしまったら……」

「負けてはなりませんわね。 血を分かつ子供の顔を、清々しい気持ちで見たくはありませんの?」

「そんなの、当然清々しく見るつもりだ。 無敗の三冠を達成してな」

 

 彼の力強い宣言に、安心感を覚える。

 嬉しくなって、ちょっとばかり欲求が芽生えてしまった。

 

「……ねえ、あなた」

「どうした?」

「愛してると、言っていただけません? ちょっと、欲しがりになってしまいましたわ」

「唐突だな……愛してるよ、マックイーン」

「えぇ……愛してますわ、あなた」

 

 ずっと、ずーっと。

 

 

 

 END

 

 

 




 まずは、ご愛読いただき誠にありがとうございました。
 自身初めてここまで読んでもらえた作品はないので、もう本当に感謝感謝しかありません……!
 そして誤字報告してくださった方、評価や感想などを送ってくださった方、お気に入りに入れてくださった方、全ての人に深く感謝を申し上げます。

 そして!ダービーまでに終えるという公約を果たすことができず!誠に申し訳ございませんでした!
 いや当日ならセーフ……? やっぱりアウト……?
 あ、シャフリヤールと関係者の皆様、ダービー制覇おめでとうございます。

 最後に、後日仕込んだネタ等の解説を活動報告の方でさせていただきますので、ご興味ありましたらそちらもどうぞ。
 それでは、さらばだー!
















「トレーナーさん知ってます?」
「夜空に輝く星にも必ず、寿命があることを」
「寿命が来た星というものは盛大に弾け、跡形もなくなくなってしまいますわ」
「では消えた星がその後なんの役にも立たないかというと、そんなわけはないそうですの」
「爆発して飛んで行った星の残骸が、宇宙の至る所に放出されて──」
「その残骸が寄り集まることで、新しい星を生むらしいですわ」


「──怪我をして、儚く散ってしまったメジロマックイーンという一等星にも──」
「いつか、その残骸から凄いウマ娘が生まれるのでしょうか」


「──わたくしは貴方と、それを見届けたいですわ」
「また新しい"シリウス"を──」


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