口が裂けてもいえないことば (茶蕎麦)
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プロローグ ピリオド

「そういう、こと」

 

 涙の代わりに微かな頬を伝って落ちる、それはまるで紅玉の軌跡。

 そんな綺麗の滑りが、悪意の洞から溢れ出たものだなんて、とても思えない。それくらい、彼女の血は純だった。

 

 いや、おどろおどろしさ、というものが五臓六腑にまで行き渡っているものこそがホラーであるならば、その口裂け女の少女はいささか恐ろしさに欠けていたのかもしれない。

 人との間で愛を知り、踊ればたちまち花となる。

 誰にだって通じる言葉でさえずれば、無関係な物事に表情を変えたりもした。

 

「でも関係ないよね」

 

 果ての寸前、少女はくるり。

 まるでその紅いジャンパースカートは終幕のカーテンレール。ブラウスは意味を失った漂白の色だった。反してその小さな顔を覆っていたマスクは、役目を失い血に塗れている。それはそれは、らしくない。

 彼女は怖気のための舞台装置ではなく、もはやまるでひとつのキャラクター。関係を期待される一個。

 怪人としては、そろそろ失格であったのかもしれない。

 

「……生きていれば、死ぬ。ただそれだけ」

 

 口裂け女は、裂き尽くされた全身を痛みに捩った。

 生きて死に、だから退場する。そんなことは自然の流れ。

 そう、たとえその命が愛によるものでなくても、愛することが許されなくても、愛を残せなくても、生じたものが消えるのは定めだった。

 

「嫌だなぁ」

『そっか』

 

 でも、だからこそ、抗ったのに。

 口裂け女の少女はまるで笑ったように、裂かれ切った口を歪めて、切り裂きジャックの前でそれは無様な末期を晒す。

 やがて、最後のあがきで彼女は健やかでさえあれば空さえ駆けられるだろう引き裂かれた足を動かし、昏い水たまりを踏んだ。

 そうして少女、ハナコは終に至る。

 

「ああ……」

 

 切り裂くものが振りかざす鋭い凶器を、切り裂かれたものはどうしたところで避けられない。切り裂きジャックの前で、口裂け女の少女は、あまりに容易い切り取り線。

 故に、その命はジャックの心ひとつでどうとでもなり、そしてたった今その気持ちは動いていた。

 嗜虐に歪んだその瞳のどこにも愛はなく、またもハナコの期待は裏切られる。

 

『さようなら』

 

 光る銀閃。赫々と、ハナコのその身は刃を受け入れた。

 

「ぐぅっ……」

 

 霞みきった目の前に見えるは、その歪んだ命のピリオド。空白に至る闇がすべてを覆う。

 ハナコは他人に何度も味わわせたものである、どうしようもない死という諦観を前にして、想うことがある。

 張り裂けそうになるほど、叫びたいことがあった。

 

 ああこんな間違いが、もし伝えていいならば。

 

 

「でもそれは口が裂けても――」

 

 

 いえないことば。

 

 




 はじまり、はじまり。


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第一話 雲天

 

 吉田美袋(みなぎ)にとって、この世は努めなければ綺麗に見えないものである。

 そして、彼女にとって頑張るのなどわけないこと。嫌いからは目を背けて、好きには目を瞠る。見て見ぬ振りをすることで、大凡美袋の世界は美しかった。

 

 くすんでいたって、光満ちてはいる。百点満点の答案以外をだって、大事にできた。そこそこに長く付き合っていた男子といざ別れたところで、心引き裂かれやしないのだ。

 えいやっ、でもう気にしない。そんなルーチンにも慣れきっていた。

 

 美袋はむしろ清々しさを感じながら、緑色したワイドパンツをせかせか動かす。そう、少女は止まりやしない。何しろ無知蒙昧な乙女にとって停止の赤は、理解不能の怖気でしかないから。

 

「ふんふーん。今日も美袋ちゃんの人生は順風満帆!」

 

 吉田美袋は笑顔で元気を、独り吐き出す。そして雑踏の中、雑音は消えていく。そんなことにすら、どこか愉快げだと、努めて美袋は微笑むのだった。

 髪の癖と格闘した際の朝の嫌気はどこへやら。上機嫌に、今にマルをつけて美袋は笑顔で久しぶりの独り歩きを楽しむ。

 

 彼女は己を花と信じてやまない女子高生。世界平和にはほど遠く、未来のことを想像すらできない未熟であっても、しかし子供に満足は可能だった。

 キレイの秘訣は明るいことで、かわいいの理由は楽しいから。美袋はそんな台詞を聞きかじった覚えを信じている。己の内に潜む暗がりなんて認めず朗らかに、ずっと。

 

 少女は自分の靴の裏の染みになど見向きもせず。刃の危険を忘れて、ぶきっちょにハサミを繰る。そんな生きるための鈍感の隙間に。

 

 赤信号。

 

「あれ、七恵?」

 

 今日、魔が差した。

 

 

 

 曇天を見上げることは、蠢きの斑を目に入れることである。

 ひしめき合う水の相。決して満足でない光量を見上げながら、七恵はそれを評す。

 

「素敵」

 

 そう、遠い無為がおどろおどろしさを見せることこそ、終わってしまった少女の好み。そういう意味で、今の七恵にとって人間よりも曇りの方が優れた観察対象だった。

 

 流れる人々の点描の中で、紅一点。動くことも足掻くこともなければ、高橋七恵はひたすらに停まって見上げていた。

 だがそんな静止しきった彼女は衆目集めて、埋没しない。どうでもいい全ての中で、少女はどうしようもなくて尖った危険物だったのだ。更には、七恵の顔にはグランギニョールな一夜の経験のせいであどけなさはすっかり消失して、美しさばかりが残っていた。

 

 屍人の白が乗っかった肌は陶磁のようとみなされて、誰かの血が透けて覗いているばかりの頬の色は、何より愛らしい化粧。

 そしてその造作は、人の一種の理想に到達しきって、終えてしまっていた。多くの器物の美を纏う、そんな七恵は人間離れした美と捉えられる。

 

 こんなの、ただの人でなしでしかないというのに。

 

「七恵!」

 

 だがそんなだからこそ、見違えた彼女を彼女が見逃すことなどあり得ない。

 ふと見かけた遠くを追い掛けて、ようやく声が届くと確信出来る距離に至った美袋は、親しげに七恵に話しかけた。それが、独り言程度の意味しかないと知らず。

 当たり前のように、七恵は美袋をその他大勢のひとつとしか認められなくて、首を傾げた。

 

「えっと、貴女……誰、だっけ?」

「えー、七恵ひっどい! 美袋ちゃんを忘れちゃったのー?」

 

 しかし、美袋は己が汚れたズタ袋のようなものだと見られていることを知らず、冗談と解して笑う。そう、吉田美袋と高橋七恵は簡単には忘れられないくらいの印象をお互いに残した筈であるだろう旧友。

 美袋は中学時代の、まだ逸していないただの女の子だった頃の七恵のイメージに引きずられながら、ユーモアを想像して勘違いするのだった。

 

「美袋……ああ、有袋類の」

「ピンポーン! 私は美しきカンガルーこと、美袋ちゃんでした! ぴょん、ぴょん」

 

 そうして、名前の覚えからようやくこの世に視点を戻した七恵は、美袋の持ちネタを静かに認める。そして、その場でぴょんぴょん跳ねる下らないものを瞳に映して、七恵はただ惑わすためだけに、笑顔を偽った。

 そうして人でなしはまるで当たり前のように、嘘を返すのである。

 

「吉田さん、変わらないね」

「そう言う七恵さんは随分美人さんになったねぇ。お姉さんちょっとジェラシーだよー」

 

 のんびり柔らかを努めて、そんな冗句。しかしふざけているが、自分の美に九十点を点けていた美袋は、笑顔でいながらも百点満点の登場に言葉の通りに羨ましいと、心から思っていた。

 けれども美醜なんて皮膜ひとつで変わるものに価値を見出すことなんて出来ない七恵は、ただその言葉を飲み込み、素直に目に映る疑問を呈すのである。

 

「ありがとう。……あ、今気づいたけど、髪型変えたんだ」

「七恵ったらお目が高ーい! そうこの美袋ちゃんのお下げ髪はなんと……」

「なんと?」

「三つ編みになっております!」

「ふふ、見たとおりだね」

 

 そうして、ふうわりと、笑みを偽り続ける七恵に、美袋はすっかり気を良くする。以前にあったと思い込んでいる友情が、今も繋がっているという勘違い。しかしそれを本気にして、少女は健気な一人舞台を続けるのだった。

 

「にしても、どうしたのさ、こんなとこで七恵ちゃんともあろう方がぼっちさんしてさ。何、ナンパ待ちでもしてた?」

「ううん。ただ、空を見てたの」

「あらー、新たな観天望気でも見つけようとしてたのかなー、この子は。それで、今日の曇り空は七恵的には何点かな?」

「零点」

「んー? その心は?」

「零点で満点」

「なるほどー減点方式での満点だったかー! こりゃ美袋ちゃんやられたぜぃ」

 

 広めな富士額をぺちり。美袋は七恵の前でおどける。その無意味さを知らずにただ、友達に喜んでほしくて。

 全てに等しく無意味な零点満点をつけ続ける七恵は、笑みを深めながら言う。機微も弁えず鋭く真っ直ぐ、それこそ傷を付けるために。

 

「そう言えば吉田さんって、斎藤くんとはどうなったの?」

「うぐっ、俊君とのことですかい?」

「うん」

 

 頷くかけがえなさそうなどうしようもないを前に、オーバーリアクションをしながら美袋は内心げっそりする。

 恋は闇、痘痕は笑窪。顔立ちと運動能力ばかりを気にして中学時代熱を上げていた男子のことを今更に出され、美袋は苦笑しながら伝える。

 

「まー、彼とはご縁がなかった、ということですな。今、俊君はサッカーボールとお付き合いをしているようで……」

「そっか。だから吉田さん、違う男の子と付き合ってたんだね」

「うぇい?」

 

 そして、己を見通しているかのような七恵の言葉に、美袋は驚く。珍妙な声が、ガードレールにもたれ掛かっている美袋の唇から漏れた。

 いや、自分が前カレと仲良くしていたところをこの子は見たのだろうか。それとも、何か今までの自分の言動に察されるような部分があったのだろうか。不明に混乱する美袋。

 しかし、そんな内心を一笑に付し、七恵は静かに答えるのだった。

 

「ふふ。人の噂も七十五日。結構生きてはいるよね」

「えっと?」

「単に、人に聞いてただけ」

「あー、なーんだ! そっかぁ……別に私がカレと付き合ってたのはトップシークレットでもなんでもないもんねぇ……」

 

 うんうん頭を上下させて、美袋は七恵の言に理解を示す。そして、彼女は私の交際も七恵に届くまで轟いてたか、人気者だね私、と思うのだった。

 

「ふふ」

 

 勿論、人を同等の葦としか思っていない七恵に、他人の色恋沙汰など覚えるに値しないし、そもそも聞こえない。しかし、それを察する程度の眼は彼女にあった。

 少女の曇りの原因を覗いて、揺れる内心をまずまず愛らしいと取りながら、七恵は笑うのである。

 

 そして。

 

「いい人、紹介しようか?」

 

 いたずらに七恵は少女を地獄に引きずり込もうとして。

 

「え? マジですかい?」

 

 嘘の乗り気を見せる美袋のその手を冷たい指先が包もうとした、そんな時に。

 

 

「止めなさい」

 

 鈴を転がしたような、そんな子供の静止の声が響いた。

 

 



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第二話 異世界

 世界が一つであると決めたものは、何か。おおよそ、それは焦点がひとつどころにしか合わない人間の在り来りから来たのだろう。

 そう、ぼやけた視界の中で少女は思った。

 

「だから、私とは合わないんだ」

 

 呟きながら喉元のチョーカーを弄る少女、足立華子(かこ)はその緋色の瞳で花と散華した一体全体を垣間見る。

 彼女の前で次元は今や接続しきれない線の集まり。人々は、まるで金たわしによって執拗に引っかかれたかのように、おぼろ。華子が何も見たくない、を繰り返していけば、周囲はこのようにボロを見せていくのだ。

 そしてそれを通り越していけば、手はこの世を突き抜け、あの世に届く。

 

 血迷い続けたアリスは穴へと飛び込む。みしりと世界は軋み、やがてずっぽりと、少女は再びゴミ捨て場に迷い込んだ。

 

「……ただいま」

 

 変わらない錆色。唐突に顕になった袋小路の狭いビルの合間には、行き場のなくなった腐れた物ばかりが積もっている。

 最深部にはまだ遠慮があったのかゴミ袋に纏められてあったが、その上に上にと裸で積まれたゴミはその姿を風雨で更に濁して汚れていた。

 頂にあるのが鳥か何かの死体であって、黒い羽の中から骨の白さを僅かに露出させている様が、また象徴的である。

 

 終わっている、処。そう、怪異いわく、この場はゴミ捨て場。

 今にも消えて無くなりそうな怪談達が集まる異世界である。デスクトップからゴミ箱に追いやられたアイコン達と同じ、そんなどうでもいいが集まった場所に、少女は居た。

 

「はぁ。いい空気」

 

 あくまで腐臭の集まりでしかない全てを嗅いで、華子はうそぶく。そして、手近の屍のカラスをつるりとなで上げた。

 

 そんなふうにして彼女はこの世から、それ以外へ。命なくす以外の方法でそんなことを成すというのは考えにくい。とはいえこれもただ少女が望ましい全てから最悪の坩堝へ落ちたのだと考えれば、腑に落ちる。

 

 堕ちるのなんて、何にだって出来る簡単なのだから。

 

「帰ってきたよ」

 

 もう、この世にないものを探して落っこちはじめるようになってから、何度目か。影に蠢く怪異達の中に、華子はそんな呟きを投じる。

 返答は、悪意の沈黙。そんな何時も通りに彼女は柔らかな歪みを見せるのだった。

 

「あはは」

 

 お前なんて死んでしまえと何もかもからぞんざいに思われて、ようやく華子は花咲かせる。愛を失い、哀に慣れきってしまえば、憎悪こそが新鮮な感情だったから。

 そして、場違いな嫌われ者は辺りを見回して、問う。

 

「お兄ちゃんは、どこ?」

 

 愛は何処に。私のために居なくなってしまったあの人を、私はどうなってしまったところで見つけたい。

 そんな想いは、蒼白を基色にさせて、髪も唇だって強張らせた。唯一、爛々と輝く瞳ばかりが特異である。

 

「今度は私が見つけてあげる」

 

 そう、少女はどこまでも、それこそこんなゴミ捨て場にまで逃避して、最愛を探し続けていたのだった。

 

 

 壊れてしまった普通なんていらない。華子には、過去こそが全てである。

 

 

 

「どこだろ」

 

 血走りを超え、意に沿って全力を朱く集中させた力持つ目を走らせ、華子は無価値な全てを見定める。

 

「居ないなぁ」

 

 唐突に嘲笑って過ぎ去る無害なピエロに、怯えを誘うためだけに歪に形を換え続ける壁のシミ。指先ばかりが嫌というほど降ってきたと思えば、老翁の首が壁の上から勢揃いで覗いていたりもした。

 どれもこれもが呪わしくもあざとい、怖いだけ。慣れきってしまった華子は、唐突に耳元にて叩かれたタンバリンの騒音ですら嘆息のもとにしかならなかった。

 

「はぁ……どうでもいいのばっかり」

 

 そう、そんなゴミ捨て場行きになった怪異の二軍なんかに気を取られる華子ではない。

 むしろ、意に沿わない何もかもを睨み殺さんばかりの一瞥に、全てを散らして少女は歩く。

 

 魔を見慣れた否定の瞳。元の世界ではただ赤いばかりのその目は、しかしゴミ捨て場では強い意味を持つ。華子が、自分のために死んで欲しいという怪異たちの強い悪意を、跳ね除け続けて探索を続けられているのは、そんな魔眼を持っているためである。

 

「お兄ちゃん……」

 

 だが、そんな強力がひとつばかりあるだけで生き残れるほど魑魅魍魎は甘くなく、憎悪は浅くない。下等を睨んで退かせる、筋者と同じ。本物には負ける。

 

 そもそも、華子は背中とお腹の違いが分からないくらいに細く筋張っていて、覇気なんて失われて久しい。彷徨う少女は、やはり弱々しいものだった。

 

「……寂しいよ」

 

 十を数えたばかりの幼子は、凍えに震える。歩はやがて、止まった。不健康に小さく裂けた唇から、滴り落ちたのは鮮血ばかりではない。

 

 これまで華子は運よくゴミ捨て場の極めつけの危険、蛆に食まれ続ける人喰らいに出くわすことなく、そして見たり聞いたりするだけで命を落とす生きた人形などを見聞きすることもなかった。

 

「ふふ」

 

 そして、そんなどうしようもないよりも尚確とした怪異が今忍び寄る。

 最近昇格した一軍。ゴミ捨て場から再び拾い上げられた輝石。現に噂される怪人は闖入者を敏に感じて近寄りぴたりと華子の後ろに付いて。

 

 

 

「だーれだ」

 

 すっかり悲壮に染まった少女の顔に手を当てて瞳を隠し、そんな風にそっと問いかけたのだった。

 

「ハナコ?」

 

 そして、華子の言葉は正鵠を射る。振り返った少女が見て取った姿は正に。

 

「正解」

 

 お友達の口裂け女の花子さんだった。

 

「今日も契約を果たして、貴女を見つけにきたよ」

 

 言い、にっこりと、がま口を持った愛らしい彼女は笑う。

 

「じゃあ、今日も探すのはおしまいかぁ……」

「そうだね、華子ちゃんも一緒に戻ろう」

「うん。分かった」

 

 みいつけた、もうかえろ。

 

 そんなようにして、ぐちゃぐちゃと、ハナコに毀損されたばかりの蛆だらけの屍の身体を蠢かせる怪異の音色を、バックグラウンド・ミュージックにしながら幼い少女は手をとり合うのだった。

 

「お兄ちゃん、何時か見つけられるかな」

「だから、私が食べちゃったんだっていうのに……」

「嘘ばっかり」

 

 そんな下らない会話を交わす華子とハナコ。言葉ではなく彼女らの笑顔が並んでいることこそが、嘘である。

 

 やがて被害者の妹と仇はそこら辺にあったなにかの恨みつらみを踏み台にして、当たり前の、もとの世界へと戻るのだった。

 

 

 

 

 



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第三話 信じる

 

「止めなさい」

 

 美袋と七恵。まるで友達が友達に手を差し伸ばしたかのように見えて、その実女の子が化け物崩れに拐かされている二人の姿。

 見ていられない、そういう思いをマスク越しに表して、ハナコは七恵が美袋に手をかけるのを止めた。

 

「ふふふ、ハナコちゃん、どうしたの?」

 

 途端、七恵の視線は邪魔者であるハナコの元へと向く。

 その温度のないグロりとした視線を認めて、やはりこいつはどうしようもないと、口裂け女の少女は思うのだった。

 

「どうしたもこうしたも……」

 

 しかし、ハナコは返答に迷う。それは、良いことをした自分を恥じて。

 いくら嫌いな苦手相手とは言え、悪行を行うことを止めることを、そう何度もしたくはない。

 赤信号を渡ろうとする子供を止める当たり前の行為を怪人が行うことなんて、違う。自分はヒーローでも何でもないのだからと自嘲して、改めて小さなハナコは下から上に言った。

 

「そういうのは、私の目の届かないところでやってよ」

「そっか……うん。分かった」

 

 微笑み頷く七恵の返答はまるで心よりの優しさから来たかのような、声色を持つ。

 しかし、そんなものはただのカメレオンの能力と同じく環境に合わせた変色に過ぎない。

 爬虫類よりよっぽど愛のない隣人の瞳を知らず、二人の会話を聞いた蚊帳の外の美袋は首を傾げてから問った。

 

「えっと? お二人さんはお知り合いで?」

「うん。ハナコちゃんとは一年ほど前から仲良くさせてもらってるの」

「ええ、仲悪くさせてもらってるわ」

 

 七恵の笑顔の断言とハナコのマスク越しの否定は噛み合わない。違うもの同士の認識は噛み合わず、故に美袋は惑わされるのだった。太めのおさげをゆらり、彼女は尋ねる。

 

「うん? お話が合いませんなぁ。どーゆうことで?」

「ふふ。簡単なことだよ。私は好きで、ハナコちゃんは嫌い。だから擦れ合いが私は気持ちよくて、ハナコちゃんは気持ち悪いの」

「はぁ……つーことは何、七恵ったらこんな小さな子に嫌われちゃってるの?」

「うん」

「胸を張って言うことじゃないでしょうに。子供さんに何したのよあんたはさ」

「えっと……嫌がらせ?」

「わぁ、なんて大人げない!」

 

 笑み、さらりととんでもないことを言うお友達に美袋は、なんてこったい、と頭を抱える。

 中学時代の七恵は、嫌がらせ、なんてことを口にも出来ない真っ直ぐだった。それがこうもたちの悪い冗句を言えるようになってしまったなんて。時間って残酷だと美袋は思う。

 

「……はぁ」

 

 悪質がどこまでも本音を口にしているばかりなのに、信用しきっている美袋は言葉の深意を理解できない。故に、当然のように彼女はハナコの瞳の瞋恚を見逃すのだった。

 

 

 どうしようもない七不思議の少女に口裂け女の少女が怒りを燃やし、救いようのある道化が空気を読み違え続けるそんな最中。

 ハナコと同じくこの世に戻って来たもう一人の少女、手を離してしまった華子がようやくかけっこに追いついて、声を上げた。

 

「はぁ、はぁ……速いよ、ハナコ……あ、七恵さん。と、誰?」

「わぉ。またちっこい子がやってきましたよ……私めは吉田美袋という名の七恵のお友達ですよ。マドモワゼル」

「えっ、友達? ……七恵さんって友達なんていたの!」

「わぁ……本気で驚いてますねこれは……七恵が普段どういう感じに捉えられているか、透けて見えるわ。……七恵。ホント、あんたって私の知らない間に何してたのよ」

「うーん。この子には有る事無い事吹き込んでただけだけれど」

「どう考えても、それが悪い!」

 

 今明らかになった、友達の少女に対する嫌がらせに、ホラ吹き。美袋的にはツーアウトである。

 しかし追い込まれた筈の七恵はどこ吹く風ただ微笑んで、こう言うのだった。

 

「ふふ。でも子供には悪い見本の方が刺激的じゃない?」

「むむっ。確かにそれはその通りかもしんないけどさ……ワルい人って格好良く見えたりするし……」

 

 そしてまた、美袋は七恵の言に悩まされる。そう、彼女にとって結構イケてる男子ってマジメくんとは離れていたりするのだ。前の彼氏は予想より悪すぎたために別れてしまったのだが、それはそれ。故に、好かれるためにあえて悪くするということに理解は出来る。

 とはいえ。過去に引きずられ続ける少女は、当時の七恵のひたむきさを知っているからこそ、こんなことを言ってしまうのだった。

 

「けど、七恵が悪ぶるなんて、似合わないよ?」

 

 そう、善か悪かと言えば極悪なそんな七恵を誤解して、気遣う。

 当たり前の人の優しさ。だがしかし、少女のおおよその性を知っている二人にとっては冗談のようにしか思えない言葉だった。

 

「ぷっ」

「アハッ」

 

 笑う、怪人と堕ちた子。

 彼女たちは、七恵がどこまでも人でなしになってしまっているということを知っている。

 とはいえ、まさかお友達の七恵がこの世のすべてをどうでもいいと思っているなんて想像もできない普通の美袋は子どもたちの嘲笑を不快に思って疑問を呈すのだった。

 

「むむっ。ここは笑うところでしたかな? そんなに私、おかしなこと言った?」

 

 美袋は七恵の隣で首を傾げる。友を慮る、そんなことはあまりに当たり前のことで、笑われるようなことじゃないと彼女は思い込んでいる。

 しかし、美袋が友だと思い込んでいるものは、ただの終わりきった人でなしだからややこしい。それをようやく哀れと思ったハナコは、口走る。

 

「ううん。貴女はおかしくない。信じることは美徳だと私だって思うわ。けど……」

 

 そう、信じて貰わなければ、口裂け女も花子さんも、この世に存在できない。

 そして、それだけでなく信じあうことは愛に繋がる、それはそれは尊いものだとハナコも知識ばかりで知っていた。

 だから、それを持っている美袋は素敵だと怪人だって思うのだ。

 とはいえ、とハナコは七恵を観る。悪鬼羅刹を物語り、この世を地獄に落とさんとする化け物を前に、人の善心はあまりに儚くしか映らなかった。

 口裂け女は口の端結ばれ小さく開いた唇で続ける。

 

「人は変わるのよ?」

 

 そう、たとえこの世の全てを幸せにしたいと望んでいたとしても、普通を心より望んでいたとしても、そんな純真だって最悪に付け込まれれば、極悪に変わり得る。

 赤に染まり、怯えを失くしてすべてをどうでもいいと思ってしまった七恵。

 不通と不幸をこよなく愛すようになってしまった乙女を隣にして、しかし過去の少女の綺麗さに目を眩ませている美袋は言い張った。

 

「いやぁ。三つ子の魂百までとも言うじゃないですか。美袋ちゃんは大好きな七恵のいい人っぷりを信じますよ!」

 

 そう、吉田美袋は高橋七恵という人間のことを分かっていた。あの日、いい人にならなければと、頑張っていた少女を知っていたのだ。

 それが過去形で、今七恵という人間が終わってしまっていたとしても、美袋は信じたいと心より思っていた。

 

 なぜなら、美袋にとってこの世は努めなければ綺麗に見えないものであるけれども、七恵という少女のあの日の必死はどう見たところで、美しいものに違いなかったから。

 

「それは……たとえそれで死んでも?」

「そりゃあもう!」

 

 ハナコの脅しのような言葉にすら、美袋は頷く。

 彼女は死なんて分からない、想像もつかない少女である。とはいえ、少女にとって愛を捨てるなんて死ぬまでしたくないことだった。

 きらきらと輝く瞳。信じることが出来る人の美しさを、ハナコと華子は直視する。

 

 それを眩しいと目を伏せてから、華子はハナコへと向く。そして、意図は通じる。

 

「ハナコ」

「うん。……これ、貴女に貸したげる」

 

 怪人は近寄り、しかし害さず、ただそれを笑顔の美袋の手元へ預けた。硬い感触のそれをまじまじと見つめて、美袋はつぶやく。

 

「これはきりんさんの……ハサミ?」

 

 そう、それはプラスチックの鞘がキリンのデザインをした、子供用の小さなハサミ。こんなものを預けられても、と困る美袋にハナコは華子とおそろいの紅い至極真剣な瞳をして、言うのだった。

 

「そうね……もし悪縁が貴女に襲いかかってくるようなことがあったら……これでちょん切ってあげなさい。それじゃ」

「じゃあね」

 

 そのまま刃物を押し付け、去る子供二人。ボブカットと、過ぎるほどのロングヘアが遠ざかっていくのを認めながら、美袋はおもむろにハサミの鞘を取って刃に光を当ててみる。

 

「はぁ……」

 

 しかし、それは特に鋭く光返すような鋭さもなく、ただ普通にくもっていた。まあ子供が持っているものだしな、と思いながらその特別な切れ味を知らずに美袋は刃を収める。

 

 すると、当然のように我関せずだった七恵が寄ってきて、笑顔で言うのだった。

 

「プレゼント、良かったね」

「おっ、そうだね。よく分かんない流れだったけど、頂いたものだもんね。喜ばないと。わーい!」

 

 またぴょんぴょん跳ね出す美袋。から元気はお手の物。嘘でも楽しむのが、コツである。

 友が良かったと言ってくれたのだからと、彼女は笑顔満面。今を楽しむのだった。

 

「ふふ」

 

 そして、隣で七恵もまた、嘘で笑う。

 

 信じられて、しかし()()、どうでもいい。そんな七不思議の少女はただ一つ、思う。

 

 

 

 さあこの友情も台無しにしよう、と。

 

 



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第四話 後悔

「はぁ……今日も、僕は僕だな……」

 

 そんな言葉は吐息とともに、眼前の鏡を曇らせた。鏡面に映ったくせ毛の少年は、ま白い顔を憂いに染めたままに己を見つめている。

 過去と今が本当に繋がっているのか、そう不安になるときが明津(あかつ)清太(せいた)という青年にはあった。

 いちたすいちは、に。それは本当なのだろうか。蓄積される自分が本当に自分である証は。ともすれば昨日までの世界はさっき作り出されたばかりで、自分は記録ごとこの世に継ぎ足された歪ではないのか。

 そんな懊悩を、清太はばしゃりと多分の水気でごまかすのだった。

 

「んなの、高校生にもなって、悩むことかよ……」

 

 水で叩きつけるように顔を洗った清太は、洗面台の前で自嘲を零す。ぽたりぽたりと顎から落ちる滴に、当然のように色はない。そして、青年の中に巣食った気持ち悪さにもまた、答えはなかった。

 

 とはいえ、世界五分前仮説なんて大層なものを持ち出すまでもなく、彼は彼で、それでいい。最低でも、昨日の明津清太と今日の明津清太は、間違いなく同一だ。

 しかしそんな事実があろうが自分を十分に認められない、そんな故が清太にはあるのだった。

 

「明日は速く、なってるといいな」

 

 一人ぼっちの声色は重く、儚い。清太は自らの足を見る。筋肉が寄って太く実ったそれが地を駆ける、その遅さを心より恥じながら。

 

 

 

「は、は」

 足が速い。それは少年少女の自信に繋がる程度のもの。

 誰よりも、という枕詞が付いてくれれば大いに憧憬を浴びる結果にまで繋がるだろうが、中々そうはいかない。

 多くが競って、やがて一握り以外は現実を弁えて一番を諦めていく。自信は折れて、大人しさを身につける、そんな当然が世の中には蔓延っている。

 

「くそっ」

 

 しかし、清太は同じ部の仲間たちがゴール前で自分の横を楽々すり抜けていく、そんな現実にだって悔しさを禁じえない。

 

 過ぎゆく、背中。届かない手。ああ、こんなのは嫌だというのに。

 

 それでも疲れにろくに動いてくれない太ももは上がらず、そうして最後の直線に至る前にすっかりペースを落とした清太は、当たり前のように部の男子陸上中距離メンバーの中で最下位となるのだった。

 

「はぁ、はぁ……」

 

 四百メートルの距離にて全力出し尽くして疲れる身体。脳の奥まで痺れたような心地に、ただ呼吸音ばかりがうるさい。

 へたり込みそうになるその身を動かし、しかし一歩。タイムを測ってくれているはずの後輩へ清太は向かう。

 すると、染まらない彼と違って存分に日に焼けた新入生、杉林健人は呆れたような顔をして寄ってくるのだった。

 

「アカツ先輩、一分八秒六、っす。まーたタイム同じっすね」

「はぁ……そうか」

 

 息を飲み込むことすら、難儀だ。清太にとってはあまりに遅い、まるで嘘を吐かれているかのように現実感のない記録を聞かされて、不甲斐ない己に対する怒りは高まるばかり。

 何時もの通り落ち込んでいるふりをするのすら、難しかった。

 本当に、この程度が自分なのだろうか。清太はそう、思わざるを得ない。誰の後ろ姿も見えない位置が当たり前じゃないのか。認められない、認めたくない。

 彼がそんな負けん気を通り越した執念に飲まれそうになった時、おどけた様子で後輩は言うのだった。

 

「記録走とはいえやっぱ先輩端から飛ばしすぎっすよ。アレじゃバテて当たり前じゃないっすか」

「でも、もし保ったとしたら……」

「そりゃ最強っすけどねぇ。実際問題無理だってのに、アカツ先輩ったら懲りないっすね」

「まあ、僕だってペース配分が課題だってことくらいは、分かってるさ。大会ではちゃんとする」

「はぁ。今日も明日も指示ガン無視っすか。あんだけミーティングでせんせーに叱られてて、よくやれるっていうか……」

 

 最後にタイムを聞きに来た先輩にお決まりの文句を言う後輩を尻目に、清太は疲れに震える足を睨みつけるように見る。

 

 遅い。これはまるで嘘のようだ。こんなもの切り離したい、とすら思う。

 

 最初は期待されてクラブチームで短距離の一着をほしいままにして、そして中学校に上がって一度怪我をしてから清太のその成績に陰りが出るようになった。

 当たり前の一番はどんどんと遠ざかって、彼方に。最後の望みだった身体の成長も停まってしまえばただ抜かれていくばかり。

 そして何時か、彼は短距離で勝つのは無理だと指導者にみなされて、中距離を専門とするようになったのだった。

 

「こんなはずじゃ、なかったのにな」

 

 誰にも聞かれないように、清太はつぶやく。そして、誰より速かったはずの彼の心ばかりがここに取り残された。

 今や少年に最速を保つことは不可能と言っていい中距離だろうが最初から全力を繰り返すばかりの清太は、周囲にとって体の良いペースメーカー。馬鹿らしいと、誰も競ってなどくれないのである。

 

「ま、どんまいっす」

 

 そして、そんなまるで学ばない駆け方は、そろそろ大人になりつつある高校生たちには、理解の外。タイムを雑に記録して、健人も早々に落ち込んでいる様子の馬鹿な先輩から去っていくのだった。

 

「くそっ」

 

 人知れず、悪態をつくようになったのはいつからだろう。邪魔じゃないからと、多くに嫌われていない現状こそが、或いは自分の幸せなのだろうか。そんなこと、清太には認められなかったが。

 

「置いて、行かれたくないな……」

 

 最後にひねり出した一言。それこそが、清太の本音だった。

 

 

 

「うぅ……」

 

 少年は夢に見る。視界の先でまるで柴犬のしっぽのように弾むおかっぱ。遠ざかるサスペンダースカートの赤。背景となる軋んだ校舎はどこなのだろう。いつまでも、追いかけっこは終わらない。

 

 

 そして、ふと。いたずらに振り向いた少女は正に――――だった。

 

 

「おーいキミ。こんなとこで寝てて大丈夫?」

「……ん?」

 

 そんな真剣な夢中は呑気な声色であっという間に晴れていく。清太が起き抜けに目に入れたのは、間抜けそうな愛らしい女子の顔。

 それに見覚えは、あった。

 先までずっと突っ伏していたらしい机からゆっくりと顔を上げて、彼は彼女の名前を言う。

 

「吉田さん?」

「はーい。私は帰宅部の美袋ちゃんだよー。キミは陸上部の明津君だよね?」

「えっと、そうだけど」

 

 少し返答に窮しながら清太は、答える。

 吉田美袋。薄茶色に染められた長めのお下げ髪が特徴的な、明るく元気な可愛い少女。そういうクラスメートの情報くらいは彼も知っていた。

 清太は、目の前で作られた、まるで無理なく幸せそうな美袋の笑顔を見る。すると笑顔そのまま、予想よりずっと時針が進んでいる壁時計を指差してから、彼女は言った。

 

「陸上部、もう部活始めちゃってるみたいだけど、大丈夫?」

 

 そして、ようやく清太の耳も起きてきたのか、段々とグラウンドの運動部の掛け声を拾い出し始める。その中に、顧問の大声の部員に対するハッパを聞いた彼は、思わず頭を抱えるのだった。

 

「……うわぁ。やっちゃった……」

「ん? 明津君っておサボりさんじゃなかったの? じゃあドジっ子?」

「ただの寝坊助だよ。弱ったな……」

 

 自分と美袋以外に誰の姿もない教室を眺めきって、清太は今の今まで寝坊していたことに気づく。そうなれば、次はあの鬼の顧問に怒鳴られる要素が一つ増えたことに、頭を抱える番だった。

 果たしてどう謝ればいいのか。怖気づきながらも、彼はどうして陸部の誰も起こしてくれなかったんだと、見当外れに思ったりもした。

 

「なるほどねー、お寝坊さんかー。なら、うん。いっか。チョット待っててね」

 

 そして、悩む青年のつむじをしばらく眺めてからふと思い立った美袋は、唐突にバッグの中に手を入れて、携帯電話を弄くりはじめる。

 

「え?」

 

 美袋が帰りのカラオケの約束していた友達に断りのメッセージを飛ばしていることなんて、椅子に座ったまま待てと言われてぽかんとしている清太には分からない。そのタップの速さにばかり気が向くだけだ。

 ただ、大体そんな無理解すら理解している美袋は、気の抜けた様子の彼をやっぱり可愛いと笑みを作るのだった。

 

「はい。おしまい、っと」

「吉田さん?」

 

 美袋は携帯電話をするりとポケットに入れる。そして、ウインク。彼女が幼い頃に練習した経験があるだけやたらとこなれたそれに内心どきりとしながら、清太は尋ねる。

 くすりとしてから、美袋は言った。

 

「キミ、寝坊しちゃうくらい疲れてたんだよね……今日はもう、頑張んなくていいよ。一緒にサボっちゃお?」

 

 そして、見せるは小悪魔の笑み。彼女は以前から良いと思っていた彼に向けて、押せ押せ。後、予想外の連続に停止してしまった清太の手を取るのだった。

 

「っと」

「あは。手、あったかいねー」

 

 そんな感想を残して、美袋は不良へと誘う。椅子からぐいと起こされた清太は、ようやく合点がいったようである。そのまま彼は少女の半ば浮わついた気持ちを気遣いばかりと勘違いして、頷く。

 

「そんなに引っ張らないでも……分かったよ。一緒に行く」

「やったー、久しぶりの男の子とのデート! 美浦と一緒に温めてた美袋ちゃん特性ド級デートプランが今火を吹くぜぃ!」

「あはは。……変な子の手を取っちゃったかな」

 

 清太は妙なテンションでおどける美袋を前に、少し苦くも声を上げて笑った。

 

 

「大丈夫。後悔だけは、させないから!」

 

 

 美袋のそんな言葉はどこまでも正鵠を射る。

 そして彼は手を繋いだまま、平穏に連れて行かれたのだった。

 

 



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第五話 ちょんぎる

 

「清太君、次はこっちー。この、あばれるもんがーを取ってみない?」

「もんがー? いや、うん。このぬいぐるみが何かかはよく分からないけれど、美袋が欲しいのっていうのは分かったよ。……よし」

 

 騒々しい機械がクレジットを求めて光り輝く、そんな遊び場。大人達が下らないと切って捨てがちの楽しむしかない所にて、二人の大人足らずが青春を散らかしていた。

 最近この学校から少し離れたゲームセンターに時折訪れるようになったのは、清太と美袋。デートという名目で、二人は小銭と時間を捨てることに親しんでいた。

 今も、埋もれるほどに横たわったプライズを前に、真剣に清太はボタンに指を乗せる。そして、筐体に滑稽なまでに顔を近寄せるのだった。

 

「えっと、これ……くらいかな?」

「あはは。清太君、ざんねーん。その位置じゃ、人形の頭を撫でるだけだよ?」

「あ、アームが届いてないのか……難しいんだね、意外と」

「そーそー。ユーフォーキャッチャーっていうのも下手したらウチの学校のテストより難しいのかもよ? あは。私的には、テスト全部コレでもいいけどさー……ほいっと」

「……お見事。一発で取っちゃうなんて美袋、スゴイね」

「それほどでもありますなー。あははっ!」

 

 ちょっと磨いたら大分格好良くなった男の子の関心を受けて、美袋は調子に乗る。少女の愛嬌ばかりが、表立って愛らしく歪んだ。

 

「全く、ちょっと鼻につくけど、それでも可愛いもんだから困るなあ」

「いやはや。私ったらもう清太君をメロメロンにしちゃってますなー。私ったら罪な女!」

「いや、僕が可愛いって言ったのはそのぬいぐるみに対してだけど?」

「なぬー! なら、美袋ちゃんは清太君的にはどうなんだい?」

「プリティ」

「ひゃあ! やっぱり清太君ったらメロンちゃんだったぜー! やっほー!」

「あはは……喜んでくれるのは嬉しいけれど、メロンだけ残しちゃうとちょっと意味不明だね……」

 

 自分のことは嫌いだけれども、相手を褒めるのは、好きだ。そしてこの子はちょっとそうするだけで面白く反応してくれる。奇妙なケダモノのぬいぐるみを持って変わったポーズを取る彼女を見て、なんとはなしに相性の良さを感じる清太だった。

 

 その後も二人はもんがーを連れたままクイズゲームをわいわいやってみたり、リズムゲームでスコア勝負をしたりして、遊びを続ける。やがて二人して相手の顔を特殊効果で弄っておかしくなった写真を小さくプリントしてから、美袋はけらけら笑って言うのだった。

 

「おおー! バケモノが二人、仲良く並んでますぜ、こいつは! 清太君、すっごい顔色しちゃってまあ……」

「健康的を超えてもはや真っ赤になってるね……こんなふうにも出来るんだ」

「あは。そして、私は顎がずれて口が裂けたみたいになっちゃってるしー……いや、美人さんが台無しって奴だねっ」

「いや、むしろプリティさに拍車がかかっているような、そうでもないような」

「むむ、どっちなんだよー! いや、キミにはこんなしゃくれてる私のほうが愛らしく思えちゃうのかい?」

「そんなことはない。ありのままのキミが一番素敵だよ」

「唐突に熱烈な告白、いただきましたー。やっぱりメロンだー。あはは!」

 

 二人はゲームセンターの騒音と戦っているかのような、そんな大きな声ではしゃぐ。それこそ周囲の人間にいちゃついている、と認識されるくらいには近い距離をして。しかし、二人の間にはもんがーが挟まっていて、くっつくことさえないのだった。

 

「あは。笑った笑った……っておう、良い時間になっちゃったねえ」

「八時か……いや、親に連絡忘れてたし、普通に怒られるなコレ。飯抜きかな……美袋は大丈夫?」

「へへーん。美袋ちゃんは、親に絶賛放置されてる途中だから、幾ら遅く帰ろうが困ることはないんだなー」

「いや、それ威張るとこじゃないでしょ」

「そうー? えへへ」

「うーん……」

 

 会話をし、真剣になるところでもならない。そんな今時少女になんとはなしに、清太は違和感を覚える。なにせ、こんな態度は今までずっとだから。そう、美袋はおどけて、笑う。そしてソレに尽きていた。

 

「……困ってるんなら、相談にのるけど?」

「おー。清太君ったらやっさしい。神様仏様かな? 拝んどこ」

「はぁ。いつか茶化すのに飽きたら、僕の言葉、思い出すんだよ?」

「分かりました!」

 

 そしてふざけて敬礼をする、ポーズばかりの少女。明るい彼女の内面に、無数の暗がりがあることに、清太もそろそろ気づきはじめていた。美袋は、至極楽しそうなまま、言う。

 

「頼もしい彼氏君で嬉しいなっ!」

「ああ……」

 

 曖昧に頷く、清太。そう、彼と彼女はいつしか付き合うようになっていた。切っ掛けも何もなく、ただ美袋のそろそろお付き合い設定で行きましょう、という謎の宣言によって。

 それに、まあいいやとしてしまった辺り、清太も満更ではなかったのだろう。だが、今はどうかというと、難しい。

 強ばる眉根を隠して、世界を愛する地雷原から目を背けながら、彼はきゃっきゃする美袋を連れて歩き出すのだった。

 

「ま、何にもないならこのまま帰ろうか」

「そーだね。エスコート、お願いします!」

「任されたよ」

 

 そして、恋人たちは家路につく。二人並んで、並んだだけで。

 

「はぁ……なんか寒くない?」

「大丈夫! 私ったらかなり体温高めだから!」

「具体的にはどれくらい?」

「そりゃ、百度は超えてるんじゃないかな? アツアツだね!」

「なるほど、それは頭が沸いてるわけだね」

「むむ、どういう意味ですかなー?」

「通りで美袋が僕と手を繋がない訳だって、こと」

「あはー」

 

 視線を外す、ふざけた美袋に、清太はため息を飲み込む。そう、彼女は必ず、荷物を持つ手を彼氏の側にしている。もんがーは、つぶらな瞳で文句一つ言わないが、しかし体の良いバリアにされているのぬいぐるみは、どこかかわいそうにも思えた。

 

「これで付き合ってる、ねぇ……」

 

 手をつなげようとして、拒否されて、むしろ嫌われているのかとさえ思った。だがしかし、そうではない。ただ、彼女が変わっているだけだったのだ。

 

「ごめんねー、清太君。私ったら、ちょっと潔癖で」

「ああ、分かってるよ」

「……ホント、ごめん」

 

 美袋という少女が、これほど道化るようになったのは、何時からか。それは、前の彼氏に強要されることが続いたがため、なのかもしれない。もちろん、そんなことを察することなんてできず、清太には不満ばかりが募る。

 

「どして皆、ばっちいことばかりするんだろうね」

「さあ、ね……」

 

 本音を転がした美袋に、清太はそれが気持ちいいからだ、と本音を投じることは出来なかった。そして、そんな生優しさをこそ、彼女は喜ぶのだった。

 なにしろ少女は擦れ合いなんて、嫌いなのだ。だって、美袋という子供は痛いのが好きではないのだから。性愛なんてもってのほか。思わず、ちょんぎってやりたくなってしまうくらいに、気持ち悪い。

 

「だから、世界は綺麗だと、思わないとね」

「そっか」

 

 続く、少女の本音の転がりに、何も返せない自分を清太は呪う。だがああ、もしこの子が世界は汚いものだと理解してしまったら。その時は。

 

 きっと全てをちょんぎってしまうのだろうな、ということだけは分かるのだった。

 

「それじゃあ、またねー、清太君」

「ああ、また明日」

 

 ふざけている。だが、それは紛れもない真実で。

 

「ただいま」

 

 鍵を開けて、ドアを閉じる。一連の音以外しん、と静まった全て。自分以外に何もない一室に帰ってきた彼は。

 

「はぁ」

 

 自分と赤の他人以外に何もない、嘘みたいな一人ぼっちに、ため息を吐き出すのだった。

 

 



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第六話 零点満点

 学生が学ぶのは正しいことである。そして、少年少女が愛されることは当然至極、望ましい。

 

 ならば、足立華子という少女は優等である。彼女は小学校を学ぶだけの場所として通い続け、今はなき兄の分も過保護にも両親に愛された。

 しかし、正解ばかりを続けるのが幸せであるかどうかといえば、否であるだろう。

 

 無味乾燥な百点満点もあれば、意味深長な零点もある。そして、華子の八十点は、つい答案を破り捨てたくなってしまうくらいに少女にとって無価値であった。

 大凡の幸福なんていらない。ただ一点の価値を、あの人を。

 

 お兄ちゃん。私を愛して、こんな際涯まで至ってしまった男の子。ああ、あの人は私を助けて何処へと消えた。死んだと皆は口にせずとも物語る。そして、大好きなハナコは私が殺してしまったのだと口にした。

 

 勿論、そんな全てを華子は信じたくもないけれども。彼女は、古錆びた全てを赤く睨み付ける。

 

「知ってるよ。お兄ちゃんがいないの」

 

 分かる。華子は兄を現実に見つけられなくて、この世の裏側、いらないものが捨てられる異世界、通称ゴミ捨て場に行き着いた。そして、探してもう何ヶ月。

 

 昏い、全体である。それはしかし、華子の心象にほど近いもの。終わった救いようのないものばかりの、一体全体に希望なんてどこにもなかった。

 

 命に近い、しかしただ蠢くばかりの人でなし共。ああ、そんなのどこへ向かったところで変わらないのだな、と少女は下から全てを睨みつけた。当然のように、そんなことをしていて愛は見つけられるはずもない。

 

 彼女の赤く染まった大粒の瞳は、ここでの兄の不在をとっくに理解している。華子はそもそも、お兄ちゃんはこの世から捨てられるほど価値のない存在ではない、こんな場に似合わない人格者だと信じてもいた。

 

 居ない、なら諦めるのか。

 

「でも、ダメだよね」

 

 ジャリジャリと擦れてばかりの心が、悲鳴を上げながら否定した。

 

 確かに兄はこの世にもここにも見て取れない。そうならば、残るはあの世だろうか。そこに、私が至れば会えるのかもしれなかった。

 たとえば、先ほど睨み殺した脚がたっぷり付いた尖った木片、通り過ぎた穢で視覚情報が真っ黒のコンタクトレンズなんかを身体に受け容れてしまえば死ねるだろう。

 けれども、そんなことは到底出来ることではないのだ。何せ、あの日あの人に救われた命だから、何時もあの子に掬われている魂だから。

 

 だからもったいないと、まだ捨てきれないのである。それは同時に希望ですら。執着を持って華子は笑う。

 

「あは。私は決して諦めないよ。真実なんてなくても、証拠なんてなくても、何もかもが嘘であっても、そんな私自身が狂気であったとしても」

 

 人でありながら、人の世を否定し、ゴミ捨て場に堕ちる。そんな人間ろくでもない。つまり、足立華子は間違っていて、口から出す言葉全ては否定されるに足りている。勿論、その想いも。

 

 だが。ごわごわした自分の髪の毛に触れながら少女は。

 

「――――愛は、確かにこの世にあった」

 

 最期に、頭を撫でてくれた兄の温もり、忘れられないそれを抱き続けるのだった。

 

 

「はぁ」

 

 そんな無垢の元へと、少女が一人。何より大切な妹を見つけて欲しいという既に小さなお腹で消化しきったとあるお兄ちゃんからの約束のために、口裂け女の少女は不安定な華子を救うためにやってくる。

 もうどうしようもなくても、手が付けられなくても、それでも幸せになって欲しいと願ってしまったから、仕方なく。彼女は過去しか見ない華子の影からぞわりと、湧いて出た。

 そして驚かすこともなく、ただ、花子さんは、可哀想な華子の隣で呟く。

 

「やりにくいなあ、もう」

「あ、ハナコ」

「華子ちゃん、こんにちは」

 

 振り向く少女は、くすんでいようとも花だった。愛を信じる少女の様は、ホラー蠢くグロテスクな世界の中では、紅一点のように目立つ。世界に否定された愛して欲しいたちが集まる中で、何より肉親を請うそれは正しいものだから。

 

 それこそ、愛が欲しくてひっかじいてしまうハナコなんかには、見つめることすら辛いのである。純愛。なるほど、これが親愛であるのだろう。独りぼっちの自分に理解できるものでは無い。

 ないけれども、そんな風に自分にはないのが辛いという気持ちはどうしようもなく、故にこんにちはと言った口裂け女でもある少女の口の端は、深く深く沈んだ。

 

 しかし、辺りは未だにまるで暗く、対面の調子すら望めない中で華子はただ彼女の言葉に首を傾げる。

 

「こんにちは? 今は夜でしょ?」

「ああ、そうだったね。時間を忘れちゃってた」

「あはは。ハナコ、ボケ老人みたいー」

「む、このちんちくりんな姿を見て、老いを想像するなんて、失礼な」

「噂になってから何十年も消えない煙が、なんか言ってるー!」

「むぅっ」

 

 そして、合わない二人は会わさって、調子を崩して奇怪な子供の音色を立てていく。

 それは、ユーモアにも似た哀れ。互いが分からない子供二人が不通に親愛を奏でるのだから、悲しくもなる。

 しかしそんな悲哀な喜劇ですら、周囲の怪談崩れの死に体達は拍手も出来ずに羨むばかり。

 

 あれは愛ではない。でも、それに似ていて眩しくて。

 

「きゃあ、ハナコ耳を引っ張らないで! このー!」

「あ、こら負けずに頬を引っ張らないの。私の口がますます裂けちゃうでしょ?」

「わ、グロテスク! 血が飛んできたよー」

「ホラーに触れて、流血沙汰にならないわけないでしょ……ほら、拭ってあげる」

「わ、ありがとー」

「……どういたしまして」

 

 ああ。だから。

 

 

 

「ふふ」

 

 そんなの一息で吹き消してやりたいな、とこの場に居ない高橋七恵は常々思っているのである。

 

「後、もう少しだね」

 

 少女はステップを踏まない。

 だって、眼下に足場などなく、全ては空で、彼女は空想にほど近い。ならばきりなく浮いて、それでお終い。黒の中空に、嘘つき少女はただ独り。

 

 美しいその顔は、一面ではない。多色を容れて、なお眩しく。それでいながら、血が通っていない無情。何とも厳しい、陶器の欠片。

 

 けらりけらりとはもう口には出さず、何より人でなしとして口の端歪ませながら、誰よりも正しく間違っている最悪の満点である七恵は。

 

「楽しい」

 

 勝手に組み上がったばっちい哀れを崩すだけの、積み木遊びを楽しむのだった。ごちゃごちゃしているばかりのものなんて、壊して遊ぶしかないじゃない、と。

 

 

 

「ね?」

 

 そう、物語のトートロジーたる【私】を見上げて七つ不思議の少女は騙るのだった。

 

 



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第七話 ばれちゃった

 

 夕焼けに独りぼっちの影法師長く、地べたをなめる。

 愉快げに蠢くその黒は、そのうちに街灯に紛れて消えるだろう。

 だが、黄昏。色の階調の表現だけで手元のパレットを使い切ってしまいそうな、そんな空の多色の揺らめきの中、少女は微笑む。

 まるで嘘のような、合間の綺麗。そんな最中に作り物のような乙女は、やがてこうざわめくのだった。

 

「良い子はおかえり、悪い子ただいま。そろそろ残酷な夜が来るよ?」

 

 長い手足を円かに回して、少女はコンパスのように綺麗な丸を描く。

 踊りさえ綺麗であれば、所作の一つだって無垢そのもの。美しく彼女は現世に存在し続ける。

 しかし、そもそも彼女は正しくない。それこそ高橋七恵の心の捻子はそれこそ狂いに狂っている。言の葉すら歪んであの世を映してしまうくらいに、鮮やかにも誤っているのだった。

 

「それでは、怖い怖い物語のはじまりはじまり」

 

 夕方に怪異を語る七つ不思議。七恵がそう呼ばれはじめて少し経つ。

 本当でも嘘っぱち呼ばわりされてしまうのであれば、信じられない残酷をこそ語り尽くそう。そんな、あの世をこの世に描くまじないのような行為は、しかしどうにも効果的であったようだ。

 接点があれば繋がり、体をなすのは自然。輪郭こそ、絵であり噂である。そして噂こそ怪異の本体。恐怖は、具体化してゴミ捨て場から世界にばらまかれていく。

 この世に悲劇をもたらす、そのための不可思議を願うように祈るように七恵は騙る。

 全ては、あの人に観て貰うために。そう少女が持つのは恋心のような、乞う心なのである。

 残酷にも、盲目少女には彼以外を心に映さない。七恵にとってその他の大切なものなんて、総じてゴミ屑以下だった。

 

「それでは、今日の階段は、切り裂きジャックのお話ね」

 

 何時もは、終わってしまった過去の恐怖のお話。しかし今回に限って彼女はこれから先の残酷を祈りながら予言するのだった。

 聴衆――人見知りの子供に、震える大人、痣を掻き続ける女性に、首無し鶏たち――は、滑らかな七恵の語り口に期待を覚える。

 さあ、今日はどんな人でなしが、どんなどうでもいいを損ねてくれるのだろう。そしてその迫真の呪いは、果たして愛を食らえるのか。

 見上げてくるそれら全てを上から下に、白く眺めてから七恵は続けた。

 

「これは、ある日明くる日、近い未来。一人の少女は名無し、いわゆるジャックとなるの」

 

 ジャック。それは男性名。しかし、一人の少女はそうなるという。

 名無しの権兵衛。ジョン・ドゥ、ジャック。そんなどうでもいい存在に、彼女はなってしまうのだと七恵は語る。

 輝かしき未来は白紙に。縁は切り裂かれて、ただの孤独に。

 そんなものになりはててしまう、少女とは何者か。

 しかし、疑問の視線を構わずに、七恵は先を物語った。

 

「彼女はよくよく斬れる刃物を持って、街を彷徨い歩くわ。そして斬りやすいもの、弱い繋がりでも見つけたら、それを少女は断ち切ってしまう。……うふふ。それこそ人なんて、格好の標的でしょうね」

 

 七恵が騙るのは切り裂く名無し、そんな怪異。

 子供は戦き、大人は笑う。そして、つい今頃首無し鶏の命脈は尽き、骸と化した。

 

「斬れて切られて、殺されて。人間なんて、ただの掻き切れる芦」

 

 そう、嗤う少女に愛はなく、故に偏りばかりが彼女の心で隆起する。

 瞋恚を瞳に宿し、七恵は夜を見上げた。私を、見る。

 

「きっと彼女の足跡は血溜まりで出来ていて、彼女の行く先は悲鳴が教えてくれることでしょう」

 

 それは、悪なばかりの不通の存在。終わって極まって、刑され縄のネックレスばかりがお似合いになるだろう少女の結末。

 果たして、そんな最悪に誰がなろうというのだろう。高橋七恵だって、そんなところまで堕ちなかったというのに。

 けれども、人が底まで堕ちるのは当たり前であるとでも主張するごとくに、七恵は未来のジャックを騙る。そして。

 

「さあ、そんな彼女の本名は……なーんだ?」

 

 聴衆なんて本当は誰もいない、そんな嘘の一時を破って暗闇の中、少女は眼前に対して問う。そして当然至極に彼女の前には。

 

「え? 七恵?」

 

 希望に満ちた彼女が存在した。揺れる、お下げ髪二つ。

 突然闇夜に嘘のように顕れた友達に、吉田美袋は零れんばかりに目を張る。

 そして、そんな驚きに嘘を見つけた七恵は嗤い。

 

「こんばんは、ジャック」

「え、七恵、私は美袋ちゃんだよ?」

「嘘、嘘。あなたは、ただの人殺し」

 

 指をまっすぐ示して、この綺麗な世界を愛する子供に値札を付ける。

 それこそ最悪最低、人でなしだと七恵は言って。

 今日こそはっきりしない美袋の代わりにスタートテープをちょん切ってあげるのだった。

 

「あ、ああ……」

 

 友達の遠慮のない言葉に少女の顔は次第に歪みに歪んで口の端まで上がり。

 愛らしさはどこへやら。愛すべきでない相貌が作られる。

 

「あは、ばれちゃった♪」

 

 そして最期に美袋は、笑顔を形作ったのだった。

 

 

 静かに、夜の帳は降りる。

 少女にきりきり咲かれて愛されて、やがて全てはずたぼろになってしまうのだろう。

 

 



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第八話 手を握る

 

 吉田美袋が物心ついてからはじめて切ったものは、折り紙だった。

 

 赤い紙をぶきっちょに真っ二つ。切れ味の悪いハサミを右に左とさせながら切り裂いたそれの出来上がりは見事に歪んでいた。

 これは先に保育園で先生が行っていたほど綺麗な切断面ではない。でも、しかし自分がやってみたと思えば中々に誇らしく、それでいて不思議である。

 今となれば、細く圧されて断ち切れていることは理解できるだろう。しかし幼さにはガイドも無しにただちょきちょきするだけで物体が分かれていくことは理解の外だった。

 だが、存外に面白くはある。それこそ、恐る恐るで切った一枚だけでは物足りないくらいに。

 ならば、と美袋は残りの紙を重ねた分厚いものを、今度はハサミでちょきんとしてみた。

 勿論、厚めのものを断じるのには力が要る。ざくりざくりともいかずに、全力を尽くして二、三センチ程進めたばかり。これは無理だと理解できた頃には、小さな美袋は玉の汗を額にかいていた。

 

 さて、そんな風にして少女は切る面白さと切るに足りない無力を紙一つで知る。そして。

 

「こら! ダメでしょ、ママのハサミ勝手に使っちゃ!」

 

 その便利を取り上げられたことによる悲しみもまた、知ることになったのだった。

 娘の危険に慌てたのだろう。母の手で必要以上の力と勢いで手から奪われたために、まるでハサミはどこかに消えていってしまったかのよう。

 これでは切れない。もっとやりたいことが沢山あったのに。喜怒哀楽に優れた幼子の瞳は勝手に湿潤し、零れた。

 

「うわーん!」

「ああっ、もう仕方ない子ねぇ……」

 

 滂沱の落涙には母のゆっくり背中をさするその手も無意味。そもそも、理解がない不通の慰めのような空では、心に届くこともないのだ。

 だから寂しくって更に涙は零れ、疲れ切った美袋が丸くなって眠ってしまうまでそれは続いた。あまりのうるささに、母は刃物の隠し場所をもっと工夫することになる。

 だが、そんなこと子供は知らず。

 

「……ちょきちょき」

 

 それから両手をハサミにして、しばらくの間何かを挟んでみることで美袋は遊ぶようになったのだった。自分の顔を挟んで、或いは電話のコードをちょきちょき。けれども切れ味一つない二本指では、対象はそのまま安堵される。これは面白くないな、と少女は思った。

 やがて、そんな遊戯にも飽いてそれからずっと、切断の楽しさすら美袋は忘れる。

 

 そんな過去の全てを思い出したのは、ついこの前のことだった。

 

 

 暗がり疎らな街中。闇の恐れを拭い去らんばかりの電灯の群れに照らされながら、今を生きることばかりを急かされる夜。

 そんな無聊な当たり前の現代にて、時代遅れの少女が二人。互いに違う風に過去に囚われている同級。そして今は同類。

 高橋七恵と吉田美袋は、強い力でひん曲げられた石塊のような彫刻の上に座して、語らい合っていた。

 

「ねえ、七恵って求められたいタイプだったりする?」

「そうね。私は必要とされたい、そんな気持ちが強かったかもしれないわ」

「そ。今は違うのね。まあ、私はその逆でさ。結構サバサバした関係が好みだったりすんのよ」

「親しい人とも距離を置きたい?」

「……そうね。そんな感じ」

 

 二人揃って自然に紡がれるのは、どこかでよく話されるような、女子トーク。

 しかし、不通同士が話しているならば、それが一般から逸れていくのもまた自然。

 愛や恋など題目になるわけもなく、おどろおどろしく、彼女らは言葉を当時ながらもすれ違うのだった。

 

「それは、貴女の手から血の滑りが取れた気がしないから?」

「違うわ。触れた相手をちょんぎりたくなるからよ。触られるなんて、ばっちい」

「殴られるのは痛いものね」

「無理に動かれるのもクソよ。ったく、ずっとうそぶいてたくらいの思いやりが本当にあったなら、そもそも入ってこようとすんなっての」

「嫌らしい」

「否応無し、だったのよ」

「だから殺した?」

「切っただけ」

「そう」

 

 それは、彼と彼女の異常な結末。斬って終わり。痛かったから咬んで斬って、その後逃げるそいつをズタズタにした。

 しかし人が死んで当たり前。そんなホラーが居場所の七恵は少女の狂った独白をすら気に留めない。

 ただ、彼女はその心のさざ波ばかりを面白がった。

 

「後悔してる?」

「してるわ。すっごく」

「でも、貴女は切っただけでしょう?」

「あんたに言うことになるとは思わなかったけど、七恵ったら、バカね。切断の延長線上に死はあるのよ。そんなの考えるまでもない当然」

「ああ、吉田美袋は深く斬りすぎたのね。断っちゃうくらいに」

「深く斬り込まれたから、仕方なくね」

 

 ちょきんとまっぷたつ。そう、美袋は言った。

 ああ、何が仕方ないことがあるだろう。痛みは我慢し、その後に快はあるもの。

 しかし、潔癖だった彼女は世界を綺麗としか思いたくなく、それ以外は最早要らないものでしか無かったのだった。

 だから、切って捨てた。それが未だに見つからないのは、また不思議である。

 まさか、このにこにことしかしていない友人が。

 ここに至ってそう思うが、そうでもないかもしれないとも考える。だがそんな悩みもどうでもいいのだ。

 結局、未だに彼女の手首は自由で、それだけで良かったのだから。

 

「でもでも、貴女は楽しんだ」

「……まあ、大嫌いなアイツの無様っぷりは面白かったけど」

「いいえ、貴女は切り裂く面白さをこそ知った。そして、それは普遍的。斬るのは楽しく、だから何時だって辻に人の首は落ちている」

「はぁ? それって江戸時代の話? 今この頃に何言ってんのよ」

「いえいえ、それが誰もが無力な今こそあったら恐ろしい、だから私はそんな騙りを入れるわ」

「なるほど、あの子達があんたを嫌う訳ね。あんたはそうなって欲しくて嘘を吐くんだ」

「ええ、その通り」

 

 あなたも死ね死ね、と物語る。そればかりの少女が愛されてたまるものか。

 なるほど、七恵は変わった。でもそれが可哀想でもなく、ばっちくもない。なら、これでもいいかと思わなくもなかった。

 ただ、どうでも良くはないのが友情であるからには、言葉を交わし続けるのが自然であったが。つまらなそうにして、美袋は言う。

 

「なら、私が切り裂きジャックになるっていうのも願望なの?」

「そうね。私は貴女にそんな期待をしている」

「人を殺して、隠れて、また殺して。そんなこんなを続けて欲しいっての? 友達に?」

「いいえ」

 

 スカートひらり。彼女はその場で一周。そして世界も一重に変わってしまう。

 ああ、辺りはどうでもいいばかりに。気付けばここは切り捨てられたゴミ捨て場。上に乗っかっているのは飛べなくなった白い骨。

 そんなばっちいばかりが私達を歓迎しているそんな中。笑顔で七恵は言うのだった。

 

「私は、貴女に思いっきりこの世を斬って欲しいだけ」

 

 それが貴女の一番でしょうから。

 それは嘘ではない本心。嘯かれる、本音。しかし、そればかりは不通同士の間に橋を作った。だらりと、その間を鮮血が通う。

 

「あっはは! いいわね! 良かった、私ははじめて七恵に期待された! 以前あんたがあんなに困っていた時、伸ばした手を握り返して欲しいと何度思ったことか、七恵あんたは知らないでしょう。でも、なら今あんたの手を握るわ」

「良かった」

 

 笑顔笑顔。揃ったそれは、しかし心通わず。

 

 

 一つは深まり狂って裂けた。

 

「そして、そんな縁ごとさようなら」

 

 

 人と人とが繋がってるとか、ばっちいもんね。

 

 

 そう言って、彼女は彼女の手首をちょきりとしたのだった。

 

 



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第九話 禁句

 喜悦に富んだ人生などそうはない。

 或いは空をも飛べずに泥を味わい、やがて己の不幸を感じなくなるまでが普遍であるかも知れなかった。

 こと明津清太は、空を飛ぶトクベツ達に地べたを這いずる自分の足では追いつけないことに未だ慣れない不幸な青年である。

 今はダメでも、いつかは。そんな妄想ばかりで限界を理解できない子供のまま大きくなってしまった浅薄だ。

 彼の人生はまるで皮膜一枚のように薄く、脆い。泣きべその追いかけっこ。そんな一言で語れてしまうほどには、清太の命に価値はなかった。

 

「美袋は、どうしてこんな夜に僕を呼んだんだ?」

 

 しかし、そんな薄い彼も、中に血肉の充実した人である。そうであるからには、関わりも恋愛だって起きても不思議ではなかった。

 なるだけ急ぎ足で向かった近場。しかし、彼の足ではひょっとして遅かったのか。疲れ知らずの吐息は、果たして空へと消えた。

 彼が着いたのは表札に吉田とある家の前。想い通じているはずの恋人の実家に呼ばれて、しかし青年の表情に喜色はない。

 むしろ清太は、彼女から夜中メッセージアプリにて、家に来て、との短い文句を貰ってからこの方不信を覚えている。

 

「おかしいよな、色々と」

 

 そも、こんな文字の海でふざけない彼女ではないはずである。何時も、溢れんばかりの感情をわざとらしくも押しつけてくる少女が美袋であったのに。

 そして、美袋が吉田の家族を嫌っているのは、彼氏をやっているからこそ清太も分かること。潔癖だと聞く彼女の親が居るだろう時間に、恋人を呼ぶなんて果たして普段の彼女がするだろうか。

 

「なんか、あったんだろうな……」

 

 白く、白く、屋根ばかりが少しばかり昏い家。ツートンしかカラーのない家の中、置かれた少女の変心は、彼にとって間違いないことと思えた。

 ならば、寄り添うのが彼氏のやるべきことである。少女に汚らしく思われようが、平常に戻るまで安心のためにも心触れ合うのがきっと人間の当たり前。

 そのためにもまずは、話を聞こう。そう覚悟して、インターホンを鳴らすためにと玄関に一歩足を踏み入れ、そして。

 

「うぉっ、と」

 

 つい、滑りに足を取られかける。

 当然のように、若さと運動神経の良さがある清太は上手く持ちこたえて二足を滑る地面の上に安堵できた。

 筋力とバランス感覚は青年の密かな自慢である。とはいえ、こんな不意のために鍛えたわけでもないのだが、と思いながら清太は足下を注視する。

 

 それは、昏くどうにも粘ついていた。そして、家中から漏れ出る明かりから見てみれば、ほの赤いようでもある。そんなものが溜まっていて、続いていて、その元には。

 

「なっ!」

 

 白い白い犬が、赤く赤く、濡れている。そんな光景が闇に沈んでいた。

 赤いのは、当然のように血液だ。そして、それは彼か彼女かすら分からない彼女のーー存在すら知らなかったーー愛犬の喉元から零れていたようである。

 そして、それは今やもう途絶えていて、それはつまり。

 

「うぇ」

 

 やっとこれが獣の血の匂いだと知った清太は、えずく。足裏に不快を覚えて直ぐに血溜まりから彼は離れた。そして、死んだ毛の長い犬を遠目に、彼は遅まきに気付くのである。

 番犬は殺された。なら、次は。

 

「美袋っ!」

 

 先ほどからくすぶっていた心配は、もう瀑布のようになり清太を焦らせる。

 だからこそ、地面を蹴る足は何時もより素早く、瞬時と言って良いほどの時間で玄関のドアに縋り付いた彼は、慌てながら扉を開けられた。

 そして、明るさに開いた視界の先にあったものは。

 

「あ、清太君。こんばんわー」

「み、美袋……良かった」

 

 それこそ、白の中にいつも通りの間の抜けた表情をした、愛すべき彼女であった。

 制服のままの少女は何か用足しがあったのか片手にハサミを持って彼を出迎えてくれている。

 青年の安堵の溜息が、その場に深く響いた。

 

「はぁ。大丈夫そうで……良く、はないか。あのさ、聞いてくれ美袋、そこで君の犬が……」

「ん? アレがどうかしたの?」

「アレ……いや、兎に角犬が死んで、多分殺されていて……」

「あらあら。それは怖いことだねぇ。アレは誰彼に殺されてしまう程に弱っちくなかった筈だけど」

「そう、なんだ。信じてられないかもしれないけれど、本当に、そこに血溜まりがあって……」

「ふふ」

「美袋?」

 

 彼がいくら言い募っても届かない。少女はいつもの通りの笑顔である。わざとらしい、嘘みたいな満面であった。

 そして、吉田美袋は当然のようにふざけていた。面白くて楽しくて、だから本気で目の前のばっちいを殺さずに弄す。美袋は人知れず手の中でハサミを遊ばせて、どちらにしようかなと思うのだった。

 そして、そろそろおかしさに清太も気づき始める。

 何かが変だ。犬が死んでいたのは、まず異常。そして、愛おしい筈の少女の不通っぷりも変で、そして。

 

 どうして夜の家の中に普通にある筈の生活音が死んでいるのだろうか。

 扉の音で家中はとっくに来客に気づいているはずなのに、物音一つしない。それはまるで。

 

 やがて身じろぎ、蠕動。それすら許されないキリキリとした沈黙の中に飲まれた少年は言葉を発することなくしばらく少女の笑顔を見つめる。その内にそれが禍々しく思えてきた頃合いに、美袋は言った。

 

「ねえ、清太君。どうして美袋ちゃんが君を彼氏にしようと思ったと思う?」

「えっと、それは……」

 

 清太は頭によぎった文句を口にしようとして、止める。美袋が告白してきた際に散々言っていた理由。曰く、君って可愛らしいから。

 きっと、彼女にはそう見えたのかもしれない。けれども格好いいと異性に思って欲しいという男の見栄が清太にもあった。だから、それを口にするのは自認してしまうようで言えなくって。

 でも、それが正しかった。

 

「うんうん私の言葉を鵜呑みにしてオウムのように返さなくって偉い! 清太君は美袋ちゃんなんかに騙されない賢いさんだったんだねー、良かった」

「え、と……」

 

 手が届かない程度の距離で喜色を弾ませる、恋人だった筈の何か。少女の問いはとても意地悪で、最悪の答えが用意されていた。

 そして、ごく自然に美袋の口は終わりを紡ぐ。

 

「そう、美袋ちゃんが君を気に入ったのは、可愛いじゃなくて、可哀想だから、でしたー!」

「は?」

 

 ぴょん、と両手を広げて大の字に。そんな楽しさを全身で表現しながら、笑顔は先程と何ほど変わらぬままに、彼女は彼を心より見下げていたことを暴露する。

 そう、好きであった。それは、自分より下であったから。自分なんかよりよほど楽しそうじゃなくってつまらなくって、だからこそどうにでもできそうだから、愛おしくなった。

 そんな、少女の不純はしかしこれまで笑顔の奥にかくれていたのだろう、今更になって禍々しくも顕になっていく。

 

「頑張って、から回って無意味に汚れるハムスター。そんなの、かわいそうで可哀想で可愛そうで、大切にしてあげたくなっちゃったんだ。ばっちい全てから遠ざけてあげて、ね」

 

 辛いなら、サボってしまえ。それは、女の思いやりなんかでは決してない。だた、それで汚れたらただただキモいから、やらせなかっただけ。全ては全て、自分のためで、清太の心なんてどうでも良かった。

 

「あは」

 

 笑う笑う、嘲笑う。少女の面は正しくピエロの仮面。本心の全てを隠して世界から逃れるためのシャッター。だが、その奥に閉じこもっていた筈の少女は、果たして今どこに。

 まるで、その子の全てはどうでも良かったとでも言うかのように、怪人は恋人だった彼に語るのだった。

 震えによってその事実をようやく察した清太は心より恐れながら、問う。

 

「……君は、誰だ」

「お、清太君ったら鋭いねー。私が以前の美袋ちゃんじゃないっていうこと分かっちゃう? 素敵なことだねぇ。それはそれは、愚かな犬や下らない親よりも面白くって」

 

 ああ、そこにあったのはいついかなる時から単色になっていたのか、あまりにそうあるのが自然であったから分からなかった。だが、それが今何より怖気を催すものであるのは分かる。

 ばっちくぎい、と朱く染まったハサミは不純物を退けながら開く。そして、少女の口も再び開いた。

 

 もう、恋は美袋という少女の死、ジャックの誕生により終焉した。そして愛がこぞって口にされるべきものであるならば、それは。

 

「犯してあげたくなっちゃう」

 

 禁句だった。

 

 



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第十話 青年の死/赤マントの登場

 終わりの始まり、始まり。


 

 血はぽたりぽたりと垂れ落ちる。あまねく全ては重力に頭を垂れるものとはいえ、それは酷く粘って抵抗し、ようやく肉からはがれ落ちるものだった。

 終わった一般家庭の一つ屋根の下、男の子を女の子が刺し貫く、そんな非情が夜に溶けていく。

 怪人が人を殺めるなんて、道理である。あるだけで惨劇を引き起こすのがジャックの当然。

 刃をねじ込んで、大切を毀損して。そんなことが元吉田美袋という女の子だったものには、今や何よりお得意のことになっていた。

 だから、当然のように、涙より先に血は流れている。だが、しかしそれは求めていた程ではなく、だから笑顔でジャックは零すのだった。

 

「あらら」

「っ痛……」

「清太君ったら刃を掴むなんて、危ないことをするねぇ」

「誰の、せいだとっ!」

「うん。それって私のせい」

 

 それは見知った恋人の形である。だからこそ、怖じきれなかった清太が素手で凶器を防げてしまったのだろう。

 心臓に向けて迷い亡く突き出されたハサミは深々と手の平に刺さって、痛みと共に握り込まれた手の平によって停まる。

 自然、命乞いのような言葉が清太の喉から漏れていく。

 

「止め、てくれ……」

「止めないよ?」

「ぐぅっ!」

 

 激痛と共に歯を食いしばり静止を願う青年を前に、しかしそんなもの死というメインディッシュの前には前菜の価値すらもないというかのように、ジャックは冷静に返し続けた。

 ガタガタと、彼女は苦痛を気にせず肉に埋もれた刃を揺する。飛び散る血は顔を汚し、その気持ち悪さが更に少女を昂ぶらせていく。

 

「ねえ、どうして大人しく斬られてくれないの? 清太君って、私の恋人だったよね? ねえ?」

「ぐ、ぅ……」

 

 貫かれた右手に左手を重ねて、踊る刃が引き抜かれないように必死の男の子。だがそれだけで、決して彼は彼女を害そうとしない。

 それが彼にとって恋人だったものへ向けた情であり、情けないほどの弱さでもあった。

 

「くひ」

 

 そして、そんなの今の美袋には刃を伝って流れてくる血液の温もりと同程度しか感じない。温かいけど、ただただばっちいだけだ。そんなの、もういらない。

 

 ああ、じょきりじょきりと早くしたいな。大切なものほど、斬る甲斐がある。ひとつひとつを斬って棄ててしまえば、どんどん身体は身軽になっていくものだから。

 全く、法に愛に、そんなものどうしてあるのだろう。全てが全て、私を傷つけるものでしかないなら、そんなのに守られる意味なんてなかった。

 

 ああ、でもそんな理性的な思いなんて、どうでもいいか。ただ今私は。

 

「くひくひ。楽しいね、楽しいね!」

 

 それだけに尽きて、絶頂にあるのだから。

 

 ジャックは大好きっていうのはこんなに斬りごたえがあるんだなと、とても面白がった。

 

「ぐ、あ……」

「あ、抜けた」

 

 そして、留める力と引き抜く力。その均衡は、残酷なくらいにあっけなく終わる。

 そう、誰が痛み苦しみの中、血まみれの刃を握り続けられるだろう。そんなの、必死の少年程度には無理で、だからこそすっぽ抜けた良く切れるきりんさんのハサミは再び自由になった。

 

「じゃあね」

 

 削がれた肉に、血の流れ。そんな全てを纏ったばっちいハサミは今度こそ止まることなく青年の首元へと吸い込まれていく。そして、さよならの言葉と共に、それは真横に動いて掻っ捌き。

 

 じょきじょき。

 

「あ」

 

 図工作用の子供のハサミの働きによって大げさなくらいに、周囲には真っ赤な血が飛び散ったのだった。

 

 ぐるぐるぐるり。目標を失い逃げるように駆け回っていた、なんの価値もない青年はこうして終わりの色に至る。

 

 

「え?」

 

 彼の最期にジャックが存分に感じたそれは、紅いシャワー。臭くて粘い、ばっちいスプリンクラー。

 そしてその奥に愛したものの、汚い中身を知ってまたこの世に見切りをつけられると喜んでいた美袋は、しかし。

 

「なに、あんた」

 

 怒りにぱちりと瞳を大きく開いた。

 白いライトにまで飛び散り、終わりきった停止の赤が明滅する。さあどうしようもなく、喉を裂かれた彼は死んだはずなのに。

 

「僕だヨ」

 

 期待に反して返って来たるのはドブのヘドロように粘って落ちる、言の葉。

 そう、少女は刃によってめくり上げた人の皮の奥に、とんでもない人でなしを見つけたのだった。

 

 それは、少年を纏っていた。皮膜を帯びて、人生を騙り、そうして危険な少女の全てを知っていながら。何も正さず、ひたすらに規定路線を守っていた。

 

 そして何より、おぞましいほどにとある別の少女を愛していて。

 

「君の元恋人サ」

 

 どちゃり、と青年だったものを脱ぎ捨てそれを裏返しにマントとして羽織り、赤マントの怪人はそうほざいたのである。

 



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第十一話 笑み

 

 少女の日暮れにブザーは鳴らない。むしろ、闇こそが価値で、見えないことにこそ意味がある。

 そう、足立華子には、よく分からないものこそその奥に何かがあるかと思えて願わしいものだった。だからこそ、異世界とすら言えるくらいの違った魔物の世界、ゴミ捨て場に彼女の足は向かって止まない。

 勿論、呪わしき人殺し達の中に、救いを乞い続けるのは阿呆らしいものだ。たとえ腐臭の中に兄を見つけたとして、それは骸。決して、地獄に愛はないのである。

 

「ハナコ?」

「うん。私」

 

 だが、悲しいことに、少女を地獄から掬う約束だけは確かにあった。それは、口裂け女の花子さんが、華子の兄とした契約。

 自分なんてどうでもいいから、どこかに居るだろう妹を見つけて助けて欲しいという願いを契って、怪人はそのためにどうでもいい彼の命を奪った。

 そして、それからずっと、その契約を律儀にも守って、死んだ兄を追い縋ってゴミ捨て場にまで毎日堕ちてくる少女をハナコは掬うのである。

 それは、義務感。愛ではない。けれども、稚気は柔らかさの全てを優しさと勘違いする。

 兄を喰らったバケモノを嘘つきと勘違いして安心安全なシートベルトであるかのように、今日も大事に華子は抱く。

 顕になった怪人に寄って手をつなぎ、宵闇に近くなった紅の底にて、少女は問った。

 

「もう、今日もこれでおしまいにしないとダメ?」

「それは、当然。ほら、貴女の足に緑のゴキブリが集ってるわよ? 痒くなかった?」

「あ……気づかなかった。払ってくれてありがとう、ハナコ」

「どういたしまして。でも、貴女のべべは台無しね。穴あきだらけに、虫の汁で汚れて滴ってる」

「そう? まあ、冷たいけどまだ着れるから、帰るまでいいや」

「全く、どうしようもなく、見目を気にしない子ね、貴女も」

 

 嘆息は小さくて誰にも聞こえない。だが、確かに吐き出したい思いも怪人にはあった。

 契約、ルールが絶対なのは、お話の中の生き物である怪人であるからこその当然。だが、それに自分は囚われ過ぎてやしないかと、今更ながらハナコは思うのである。

 この子を守るのは、契約だ。だが、それ以上のお節介は余計でしかないのに。

 

 けれども、この子はあの美味しかった兄の妹。とても、気に入ったものによく似ていた。

 

 だから、どうしたって、棘を持って接せない。むしろ、愛着すら抱いてしまっているのかもしれなかった。

 それは、とても良くないことだ。きっと、誰にとっても。だから、疾く義務を終えよう。それが、自分の望みに成ってしまう前に。

 ハナコは華子の小さな手を強く握って、言った。

 

「帰ろうか」

「うん」

 

 都会の暗天に、星は非常に見えづらい。或いは空を眺めて月を知るばかり。空の蓋を眺めて、そこに自分の揺らいだ心地を覚えるものだった。

 ギラギラ輝く、反射光。そのものは石塊同然といえども、仰げば太陽と同等であるのだから、笑えない。

 そして、そんな月に魔が魅入られるのは、当たり前。いや、月こそ魔であり、故に夜ですらも魔なのだろうか。

 その時、華子は頷き、ハナコも足もとの汚物を踏み抜いてゴミ捨て場から去ろうとしていた。彼女と彼女の心は一つ。なら、帰還の望みは果たされても良いはずである。

 

「ぽぽ」

 

 なら、友情のように繋がる二人の足を引っ張ったのは、やはり人でなし。

 それは、月があった筈の高みから二人を覗いていた。高き壁の上、いやそれを越えた天上にて印象一つ残らぬ顔を置き、その上にボンネットを載せる。

 意味深い、朱の視線に揺らがず、むしろ喜色に彼女は揺らぐ。

 

「あんた……」

「えっと?」

「ぽぽぽぽぽ」

 

 その、どうしようもない程の高みの長身に跳躍の邪魔されたハナコの視線を受けて、高子は笑んでいた。心底楽しそうに、そのかぎ針のような指先を帽子の上から底なしの地へと降ろして、怪人高女は喋りだす。当たり前に、腐れの匂いが、華子の鼻についた。

 

「ぽぽ。危ないよ。今のところ二人はここに隠れていなくちゃ、ダメ」

「……なんでよ。人間にはここが一番危ないでしょ?」

「そうかな? 何時も大したものしかいないから大丈夫だと思うけれど」

「それは……偶々。だから、何時も私が華子ちゃんを助けにくるでしょ?」

「ぽぽぽぽぽ」

 

 二人、人間同士の当たり前のように、互いを信じて思い合う。そんな様を面白く、天上から見下ろすは、ゴミ捨て場の偽神。でいだらぼっち、八尺様、高女、またはそれ以外のいと高き何か。

 常の存在ならば、目を合わせただけで発狂して当然な顔を笑みで更に歪めて台無しにして、高子は説得を続ける。

 

「ぽぽ。ゴミ捨て場は、ゆりかごと同じだよ。あなた達のための始まりの海」

「だからって、こんな夢も希望もないところで死ぬまで安堵してろっての? それは、それだけは、あり得ない」

「ハナコ?」

 

 どこかで見たことがあるような、背高のっぽに向けて急に怒気を露わにするハナコに華子は驚く。確かにここは少女にとって、夢のゆりかごに近いというのに、でも彼女には違うのだろうか。

 

「……で、どうしてあんたが私に忠告するの? そんな義理はないでしょ?」

 

 首を傾げる華子に、口の端をまとめる糸が破けんばかりの怒りを次第に治め、ハナコは疑問を口にする。

 そう。この生きとし生けるものを下に見て、世界を悍ましくさせているバケモノが自分だけを気にしている筈がないのだと、ハナコは思っている。何しろ、これまでハナコがゴミ捨て場から現し世に出ることすら可能でなくなるくらいに零落した時ですら、救いにならなかったというのに。

 ああ、どうして母なることすら出来る呪いの神のお前が今更母の顔をして私を心配するのか。それが気になり睨んでみれば。

 

「ぽぽぽぽぽっっっぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽっっぽ」

「っ」

「うぅっ……」

 

 それは、狂っていて、壊れていて歪んでいて笑んでいた。果たして、先の意味ありげな言葉達は何だったのだろう。喜色に富んで、溢れ出すそれは明らかに世界を殺しかねない最悪。耐性を持っている筈の華子ですら吐き気を我慢できないくらいであるから、相当である。

 そして、当然人でなし程度でしかないハナコも笑顔を嫌い、華子を小さな背中に隠して傷に歪んだ顔を更に怒らすが。

 

「ぽ」

 

 その哄笑は唐突に止む。そして。

 

「あるよ? だって――――生きて/死んで欲しくて愛し/殺したくてたまらないくらい」

 

 よく分からない二つの意味を束ねて言葉にして女性は最後に。

 

「貴女たち、面白いから」

 

 だから、まだ死なないでとそう言って、柔らかく微笑んだのだった。

 

 



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第十二話 真っ二つ

 物語るばかりの道化が踊った黄昏時に、吉田美袋という少女は死んだ。彼女はやがて嘘みたいに残虐な切り裂きジャックと成り果てる。

 そして、明津清太という人間はそもそも嘘だった。薄っぺらの設定、人でなしがこの世に貼り付けた物語は暴かれ赤マントという怪人と姿を変えた。

 生きとし生けるものを切り捨てるジャックと、終わるまで穢しつくす赤マント。水と油のこれらの前身は、仲良く愛を語っていた時期もあった。

 けれども、そんな平和こそが薄弱な嘘だったことを思い知り、ジャックはその目を釣り上げる。先まで心地よく感じていた血の温とさを嫌って手の甲で拭い、幼い顔を汚しながら彼女は言った。

 

「あんた、気持ち悪いわ」

「ああ、そうだろうネ。きっと君のタイプの反対だろうサ」

「ああ、こんなのが存在していたなんて……この世が綺麗な筈がなかったものよ。ばっちい、ばっちい、キモい!」

「まあ、僕からしても、君なんてただの道具程度でしかないんだけどね」

「汚い手で触らないでっ!」

「おっト」

 

 ちょきんどころか、ずんばらり。トイレの花子さんが誤って預けてしまった、たからものは禍々しく無情な威力を発揮する。怒りとともに振られた一挺はきらんと闇夜に輝き、触れた赤い男の肩口までもを真っ二つ。呪われた誰彼の血液で満載のそれは溢れて、獲物にあぶれて空に死ぬ。

 赤マントの朱の一部はヘドロのように飛散し、切り捨てられて黒に消えた。

 

「余剰は全て捨てるカ。なんともそれらしい、残酷さだヨ。うんうん、可愛らしイ」

「死ね」

「今も、何度も死んだサ」

「っ!」

 

 返す刀よりも、ハサミの閉じる方がなお速い。一度で切り捨てきらなかったのなら、何度でも。彼女はこんな要らないの、斬って捨てて切って捨てて、愛したことすらなかったことにしたかった。

 だが、どれだけ削いでも、それは死なない。いや、生きていて、死んでいて、そして生まれ変わっていて、また存在をはじめている。

 ぶくぶくと、創傷からは赤いアブクが気味悪く湧いて、彼はそこから再誕を果たす。赤マントとはそんな不滅の現象。産穢、死穢。そんな全てが赤となって永遠を創り出す。

 

「くひ」

 

 勿論、理屈も意味も彼女の十数年で把握できることではない。だが、つまるところ潔癖過ぎる少女の前にあるのはこの上ない、気持ち悪い存在。傷ましい、グロ。

 そんな最悪と対して、成りたかった男性名ジャックと変われた美袋だった子は笑む。それは、当然のことながら嬉しかったからではない。ただこれまで摂理に悖って半分以下を切り捨てにし続けていた彼女は、ここにて会心の思いつきを得たのだ。

 

 ああ、どうしてウエディングケーキは二つにするのだろう。無垢なんて、嘘。本当は私以外に誰も要らないのに。でも、等分だってこの世に必要なやり方の一つ。だってだって。

 

「くひひひひぃ!」

「ァ」

 

 ほら、いくら生き汚かろうとも、こうして命を二つにしてしまえば、もうくっつくことなんてないのだ。どうしてハサミは二つの刃を持っているのか、それはこうするためだとジャックはようやく理解した。

 断面はあまりに精緻に切り裂いたために、血管すら驚き理解できずに凝る。血だらけだった筈の、そんな赤い視覚情報は溢れることすらなく綺麗に等分にされてしまい。

 

「こんな……事ガ……」

「くひ。真っ二つ。お前にはそれが正解だろう?」

 

 真っ二つ。死んで生きていた存在は、死ぬだけ、生きるだけの二つに切り裂かれてしまった。

 あっという間に、死んでいるだけの半身崩れた男の身体。最早再生などあり得ない、そんな赤マントだっただけの生きている半身は諦めて呟く。

 

「ここで、終わりカ」

 

 開かれ、常人のように血を命として垂れ流しながら、身動きすら許されないまま彼は星の光に露わになった凶器を見つめる。それは、麒麟の形を取りながら、ちょきんと動く。

 

「くひひ」

 

 あの日きっと愛おしかった、彼女はためらわずに笑った。

 

 

 

 明津清太は、嘘である。そして、赤マントも正しくはなかった。本当は、彼は憧憬の集合体である。

 

『追いかけっこ、しよう?』

『うん!』

 

 それは、子供達。怪異に拐かされた少年少女達の愛。おかっぱ彼女を気に入って追いかけた、そんな子達は彼女の可憐が大好き。

 

『いただきます』

『あ』

 

 でも、それらは沢山遊ばれた上に、最期に無常にも喰まれて終わっていた。

 

『ふふ』

 

 ああ、花子さんの怪談の糧として、果たしてどれだけの無辜の死があったのだろう。そんなのはきっと誰にも分からない。

 

 だが、やがて食べ残し、今やゴミ捨て場のランドマークのようになったゴミのように余計な便所に捨て置かれたそれらは。

 腐れて凝って、生きて死んだ坩堝の色は、果たしてどうなったというのか。

 

『あァ……』

 

 産声が腐れたものであっても然り。だがそれは自分の彼女に対する心の色も分からず、だからこそ彼のような何かは赤子らしく赤いマントを羽織って。

 

『赤がいい、青がいイ?』

 

 彼は誰もかもに赤に青、恋が良いのか復讐が正しいのか、問い続けたのだった。

 

 

 

「ありがとウ」

「え?」

 

 そして、やがて策謀を続けてしかし、愛されるに届かなかった赤マントは、ようやく己の中がぎっしりと赤で満たされていたことに気づく。それがどんどんと死に近づくことで熱を失っていくことを残念に思いながら、彼は身動きも取れないままに更に言葉を紡いで、そこまでは好きでもなかった女の子の幸せを、感謝とともに願ってみる。

 

「僕が悪かった。だから、助けよウ」

「何を、今更っ……」

 

 ああ、よく見れば吉田美袋は在りし日の花子さんによく似ていた。そんなものを、壊して毀損して、それで憂さを晴らして何になろう。

 だが既にやってしまって、覆水盆に還らず誤って正しく殺され己は死ぬ。そんな当たり前がとても嬉しくって故に赤マントの中の何者かはいつしかの笑顔を皮膜一枚で再現して。

 

「それでも、僕は君が可愛いって言ってくれたのが嬉しかったよ」

「あ……」

 

 最期に明津清太の顔でそんな呪言を落としていく。

 

「う……く」

 

 涙が、ぽろり。赤く赤く血が溢れていく人の半分を見下ろしながら、吉田美袋は。

 

 

 

 

 

「くひひ。やっぱりコイツ、なんだか可哀想だったね」

 

 

 思いの外ウケた自分を不思議がりながら、もう物言わぬ死体をずたずたに切り捨てたのだった。

 

「はーあ」

 

 そう、ジャックはそれを切って、棄ててしまったのだ。

 

 



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第十三話 この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません

 高橋七恵は、赤マントに見出された歪みである。おぞましき愛の赤に染められて人でなしになってしまった、最早心が無機物に近い噂の乙女だ。

 

「くっつかないわ」

 

 そして、その無感動な心は身体も同じく血の通わぬものにさせた。硬く、脆く、それこそ硝子のような冷たい全身に毀損が一つ。それはそれは、悪意の噂を垂れ流す呪わしき命未満。

 七不思議の少女は、大好きで苦手だった、今はどうでもいいとした切り裂きジャックにその手首を切り裂かれて、取り落とした手のひら等を拾って合わせてみたが、これがどうにも戻らない。

 

「どうしようもない、のね」

 

 所詮言葉はパズル。並べて意味が通ったと喜ぶための玩具でしかないというのに、どう頑張ってぐちゃぐちゃ傷口を擦り付けたところでこの嘘つきの指先が再起動することはなかった。

 だから、今更に少女は理解する。この世の道理、切って捨てられたものは地獄にも行けずになかったことになるだけというものを、まざまざと。

 そして、手と違って自由な足はふらついた挙げ句に現場へと辿り着く。それはいくら噂したかも分からないくらいのお気に入り。愛すべき、赤い赤い、それだけの男の今は亡骸。

 見下ろして呆然と、七恵は呟く。

 

「赤マント……」

 

 整列し命すら見失った美形が、それの名前を呼ぶ。物語るだけの役割を背負わされた七恵は、今やどうしたって詰まったように言葉を続けられない。

 七恵は知っていた。化け物にだって心があることを。そして、この男の迷妄はそれこそ、語り尽くせぬくらいに面白いものだったというのに。

 

 それが、今やただの血溜まりに変じて終えている。物語には句点が付き、末尾には空白すらなかった。ただただ、お終いが濁って垂れて、それっきり。

 こんなつまらない終焉に、思うところは勿論あった。七恵とは赤マントの思惑により作り変えられた道具。そして、道具は使われなければ意味がなく、ならば持ち主が死んだ今果たしてこの自由をどうすればいいのか。

 

「最期まで、無意味だったね、あなたは」

 

 少女は嗤わず、それについてただ語る。怪異に対する花もない、手向け。しかし切って捨てられた結果、何もない、になってしまう前に総評が落とされるのは、何よりの救いだったのかもしれなかった。

 

 赤マントという怪人は、ひたすらに口裂け女となってしまったトイレの花子さんに構ってとずっとずっと彼女を不快にさせるために動き続けた怪人だ。

 その所業は冷酷無比で悪。通り魔的に人を殺して赤の部屋か青の部屋かに中身と外側を分けて棄て、それを見ながらどちらにしようかなを続けてきた。

 そして、噂さされることなくなって零落した花子さんを助けるために噂するものとして、今の高橋七恵を作り上げた恋する男でもあったのに。

 

 それが、今や血痕すら蓋然性にさらわれ消える。あり得ないは、文字通りあり得ないからこそこの世の道理に耐えきる力さえ失えれば失くなるもの。こうして、彼らの恋は乞いは、全く無かったことになった。

 

「ざまあみろ、かな?」

 

 それに感じる者なんて、ない。首を上げて七恵は【私】を見上げて問っているようであるが、彼女の言に私は同意見と頷くばかり。

 この世に拗らせて見る影もなくなっておぞましいだけになった愛なんて要らない。ケチを付けて、お終いで良いのだ。

 

 ああ、でも。

 

「あれ。でもちょっとだけ。悲しい」

 

 しかし、彼に改造されて道具と成った少女は、主の不在に胸を痛めている。

 それは、未だくちゃくちゃと再接させようとしている手首と同じく罅だらけの器物のように頑なに固まった心の悲鳴。

 男は少女に悪たれと祝いだ。だが、そんなのに子が何時までも従ってられるか。心は思うもの。そして、最悪が思われない道理だってなく。

 

「そうね」

 

 だから、壊れた手首から先をついにどしゃりと放棄した、彼のために念願の他人なんてどうでもいい人になれた筈の高橋七恵の唇は、優しく動き。

 

「ありがとう、赤マント」

 

 それだけの物語に対する感想を言葉にして、ただ弔いに黙すのだった。

 

 

 やがて、時計の天辺を越えて、夜は深まる。暗がりはその深刻さを増し、悪意の噂は明瞭になって心に過るようになっていく。黒は善性を否定し、空白をも許さない。動的な光源達をはるか彼方に、闇はどろりと蠢き支配を続ける。

 

「そろそろ、でしょ?」

「あら、あんたいたんだー。まだ命があるなんて、きっしょいなあ」

 

 犯人は、現場に戻るという。そして、子供のようなものの頭部を持って血の酔いにふらふらと歩んで来たジャックは当然のように現行犯。

 だから、黙祷ついでに待っていた彼女は、彼女と再会する。笑って、七恵はお友達だったものとの再会を喜ぶようにうそぶくのだった。

 

「うふふ。命なんて、ないよ」

「なに、生きてなかったっての、七恵」

「ええ、私はこれまで一度も活きていたことなんてなかった」

「つまんないな、あんた。切り捨てる甲斐もなくってさ。この世は美しく汚いよ? せっかくだから、活きて私に殺されてくれると嬉しーんだけど」

「そうね……」

 

 じょきり、じょきり。暇なハサミは何者かの頭部を削って遊んでいる。落ちる、皮膚片と髪の毛。そんなものには目も向けず、ただ切り捨てる心地ばかりを楽しんでいるのが、切り裂きジャックという少女の真実。

 そう、七恵は騙って語って願った。赤マントと一緒になって、口裂け女な花子さんのその生命にまで届く程のちょっかいをかけるために。

 だが、その結果は不死の死そのものである赤マントの噂の消失。

 こうなってしまえば、ただ物語るばかりの七恵に存在意義は最早ない。

 なるほど、泣きわめきでもして、ジャックの笑顔を誘うことくらいしか、有意義はないのかもしれなかった。

 故に、少しだけ七恵は悩んで。

 

「――この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません」

 

 余白に駐訳を付けるように、呟く。

 それはあまりに無機質に謳われ、誰だってナレーションと理解できるものだった。

 

「え?」

 

 意味不明に首とおさげを傾げる、汚れた子供のハサミを持つ人殺しで化け物殺しな少女。物語。その意味が分からずにジャックは不思議がるが、ここで【私】ばかりはその意味を痛く理解ってしまう。

 

 そう、これはただ書かれているばかりの嘘であり、綴られただけの偽物でしかなく。

 

 

「これまでのお話はすべて、嘘でした」

 

 

 道化のごとくに両手を広げ、あまつさえ七不思議の少女はそう、騙ったのだった。

 

「嘘」

 

 美袋の驚き。ちょきんとするのすら間に合わず、そして、全ては裏返る。

 ぐるりぐるりと、真実こそが逆さに消えて、虚実な者たちこそ表立って隆起し、嘘みたいな解釈ばかりが凝って凍って。

 

 

 ぽい。

 

 

「ふふ」

 

 ああ、全ては話者の手のひらの上。切られたことすら嘘にして、健全至極な女子高生に還った少女は。

 

「さ。怖いお話なんて忘れて、帰りましょうか」

 

 没として捨てた、切り裂きジャックのお話なんて忘れて、不細工な光の元へと帰るのだった。

 



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第十四話 怖い話

 

 ゴミ捨て場にて亡くなった命の一つに、足立勇二という青年がいた。彼は花子の友達、足立華子の兄である。

 普通、一般の男子であった勇二は一年以上前にこの世のあり得ざる者共が忘れさられて消える前のゆりかごにまで迷い込んだ。

 要は怪人やお化けというゴミ共が棄てきられる前の安堵の場に、彼はこの世から消え去った妹を探し続けた結果、間違って落ちてしまったのだ。

 そんな勇二がはじめて出会った怪人が花子さんであったのが運の尽き。口裂け女と成り替わるために自らの口元を引き裂いたことまである、生きたがりの花子さんはゴミ捨て場に不案内な足立勇二とこう契約をすることにした。

 

 このゴミ捨て場から妹を見つけてあげるからその代わり、あなたをいただきます、と。

 

 その契約を普通一般で苛立ちに自らを傷つけてしまうくらいに焦っていた勇二は、花子さんが彼の死を基に怪談として元の世界に帰還を果たすという目論見を知らずに契約を快諾してしまう。

 やがて悪人に囚われていた妹はハナコの手により救われ、勇二は彼女の裂けた口にていただかれてしまった。

 後に、今は亡き赤マントの尽力と七恵の騙りのお陰もあり、ハナコは怪異の一軍として普通一般の被害者候補達が暮らす世界への切符を手に自由を取り戻して、めでたしめでたし。

 

「……ごちそうさま、だったね」

 

 だが一方で、当の口裂け女の花子さんは亡き勇二との契約に縛られ続け、彼の死後も兄を求めて毎日のようにゴミ捨て場へと堕ちてくる華子を掬いに往く羽目になってしまっている。

 また、足立勇二という青年に対する感想は、お上品に手を合わせてみたところで消化しきれずに裂けた口の端で血のあぶくはぷくぷくと弾け続けていた。

 

 ああ、命なんて死ぬことしか意味がなく、そして結局文字でしかない怪人なんて、死ぬことすら出来ずに消え逝く程度の無意味。その過程を幾ら【私】が伝えようとも価値など生まれようもないというのに。

 

「それでも、食べた分は生きないと」

 

 そんな全てを知って、ハナコは律儀に生きようとする。その死穢が赤マントの怪人と化すほどの犠牲によって噂となり、本家本元の口裂け女を引き裂いて入れ替わり、つい先日までゴミ捨て場に落とされていたところで諦めずに、今は一人の男子を喰らったことで活きた怪談として存在を続けている。

 たとえこの世が美しくなかろうと、汚くたって、それがどうした。私の糧達は、そんなものにすら浴することすら出来ずに、死んでいる。それが、辛くて哀れだから、私だけは永く生きないと。だって。

 

「私が消えたら、あの子達の死だってなかったことになってしまうもの」

 

 そう。恋しかったからこそ殺した全てを、怪異の少女は未だに背負い続けている。

 

 

 場は再びゴミ捨て場。静かに夜は深まり偽神は去った。ずっと、手を重ねて互いの命ばかりを感じていた二人の少女は震えることに飽いたからか、どちらからともなく離れる。

 そして、ハナコから華子へ問いただす。真四角にすぎるガーゼマスクから溢れた口の端は痺れたように持ち上がらず、故につまらなそうに少女は言った。

 

「高子がああ言ってたから……ちょっと、今日はここで一晩ゆっくりしましょうか?」

「やった! ハナコは私を直ぐに帰らせようとするから、あんまりここで一緒したことなかったものね。何しよう……楽しみ!」

 

 契約不履行。上から下に外出禁止を言い渡されているとはいえ、これは良くないことである。出来るなら、華子を人の世に帰してあげたいというのはハナコの本音。ゴミ捨て場なんかに馴染んだところで、グロテスクに慣れて腐臭を身に纏うことになる程度であるのは明白なのだ。

 そんな良いことなしの、終わったところ。現し世の模造、嘘と断じられた荒唐無稽な噂達の最期で最初のゆりかごは、でも少女にとっては一番の遊び場であり、最高のお友達との約束の地。

 それにどこだって危ないのは一緒なら、ここで終わってしまっても良いのだと微笑む。

 悪人に締め付けられた結果一生取れないとされた鎖の痕。それを隠すためだけのチョーカーを弄りながら嬉しそうにする少女は、でも決して死にたいと思っている訳では無い。

 ただ、自分を愛してくれる、この幻想と一緒だったら終わってしまっても許せるだろうから。

 

「はぁ……」

「ん」

 

 愛らしき全てを疲れと病の心に損ねた幼子を、でも仕方ないなとところどころ粘る髪を撫でる手。誰を愛する資格もない、でも愛したがりの怪人は、無償の愛を恐ろしいとすら思ってしまう心根でもって、ガマガエルのような微笑みを見せる。つい、少女は問った。

 

「全く、なら今夜はおにいさんについては、何もしないの?」

「それは……そうかも」

「そ、う……」

 

 否定するだろうと思いきや、返って来たのはまさかの頷き。兄の愛を求めて毎日のように堕ちてきていた筈の少女が、しかし今日はどうして満足してしまっている。

 それが、自分のせいだと思うと、ハナコは途端に気持ち悪くなってしまう。つい、今まで食べてぐちゃぐちゃにしたものを吐き出しそうになるけれども、そんな兄妹の再会なんて望めないから彼女は広すぎる口を押さえる。

 真っ黒な空を見上げながら、変わらない噂と違い、成長の余地の有りすぎる子供は呟いた。

 

「ねえ、ハナコは私のお兄ちゃんを食べたって言ってたよね」

「うん、そうだけれど……」

「今なら、信じられるかも。そのお話」

「……華子?」

 

 ハナコは、首を傾げた。疑心にずっと過去を見ない筈の華子。しかし幾ら頑なであろうとも生き物であるからには変じて当然であり、僅か見上げてくる少女の赤い目もどこか余計な色が混じっているような気もした。

 そして華子はぱちりと瞳を閉ざしてから、ハナコに向けてこう語り出す。

 

「私はね。お兄ちゃん以外の愛を信じられなかった。ハナコだって、義務で私を助けてたって知ってるし、これまで私はだからずっと独りで」

「そう、なんだ」

「でもね。今なら信じられるよ!」

 

 再び開いた少女のお目々は強く光を孕んで、決意をすら表しているようだった。間近のその生々しさに怖じすら覚えるハナコに対して優しく、それこそ壊れ物に触れるようにしながら華子は答え合わせをするのだった。

 

「ハナコは、お兄ちゃんのことが好きだったんだよね。だから、食べちゃった」

 

 子供は自由にさせれば好きなものしか食べない。華子はそんなことよく知る幸せな子供だった。記憶の残骸を漁って、今更になってこのお姉ちゃんも私と一緒だったのだと理解する。

 

 この子はお兄ちゃんのことが好きになってしまって、だから。それと似た私を拙くも愛そうとしてくれたのだ。そう信じたくなってしまったのはどうしてか。

 まだ歩けるけれども、止まってみたくなったから。愛は、愛によっても停止する。少女は本当の意味で、隣の少女を認めたのだった。

 

「……うん」

 

 案の定、ハナコは小さく肯定する。白き頬は紅を失い、青く白く。それは罰に首を差し出す罪人の如くに、哀れな面。しかし、彼女の頬に手を当て、華子は笑いながらこう続けた。

 

「あはは。やっぱり、そうだったんだ。殺したいくらいに好きっていう言葉って、私も最近七恵さんから聞いたよ」

 

 それは、黙っていても語り出す嫌なお姉さんの余計なセリフばっかりから引き出した輝く一つ。

 殺したいくらいに人は人を好きになれるなんて、それはどうにもおかしくって、素晴らしいものなのだろう。殺害が愛によるものばかりなら、この世はもう少し綺麗だろうからそれは稀なのだろうけれども。

 でも、私の隣でそれはあったのかもしれない。そう想像し、愛の殺害相手に聞いた。

 その答えは是である。怖じるハナコを前に、そっと華子は胸をなでおろした。

 

「でも、いいや。ハナコだからさ、許したげるよ」

 

 理解できない、言葉。捕食者は、同じ言葉を喋れども所詮はモンスター。通じ合えないと断じても仕方ない程の他。

 でも、それにだって好きという気持ちが確かにあったと知れたなら、許容の気持ちが起きることだってあるのかもしれない。

 なにせ、兄の愛の証こそが、この怪人の生。ならば、認めなくては。

 そう、愛に飢えて狂った乙女は仕方ないと言うのだった。

 

「そん、な……」

 

 無論、話して通じ会えたかもしれない相手を、だからこそ殺し続けた怪人に、そんな道理は理解の外。

 怖い。無理の許容なんて不明である。愛なんて、見知らぬものでしかない私はただのバケモノなのに。

 

「い、嫌……」

 

 再び、いやこれまで以上に恐怖に震えるハナコ。いただきますに、ごちそうさま。そんな、餌に対する許しの乞いばかりを続けていた少女は、許されてしまうことこそ認められなかった。

 

「私は、怖い話、なのよ?」

 

 そう、トイレの花子さんも口裂け女も恐れられ認められないからこそ噂されるもの。それを失くしてしまえば、あやかしなんて、ただの嘘。これまで通りに忘れられゴミ捨て場にて再び堕ちていずれ死ぬ。そんなことが嫌で嫌いなハナコは、本音を転がす。

 

「私を、嫌って?」

 

 本当は、愛されたいけれども、そうは決していえない傷心。だから生きるために真逆を投じるのだ。

 哀れと、そう思わずとも華子は否定のために二つ首を振って縋る少女に告げる。

 

「……幾ら考えても私は、皆の幸せなんて願えなかった。でも、ハナコは幸せになって欲しいと考えなくても思うよ」

 

 好き。それは、都合にばかりよるものではない。寄り添うことこそ癒やしであるなら、ただずっと近くに存在し続けてくれていたことがどれだけ悪意により傷つき壊れた華子の救いになったことか。

 皆の幸せなんて、知らない。なら、一人だけでも。愛しているからこの世を引っかき続ける愛おしい怪人に向けて、少女は言葉を更に続けようとして。

 

「だから……あ」

「え?」

 

 

 ちょきん。

 綺麗に纏まりそうだったお話を醜く削いで、ついでに可愛らしいあんよも真っ二つ。

 じゃきじゃきと、滑りすら切り裂きなかったことにした下手人は。

 

「よっこいしょ、っと」

 

 友達だったものに同刻ゴミ捨て場に落っことされたことを理解もせずに、ただ必要だからと起き上がる。切り裂きジャックは、そして両足を失った女の子がぐしゃりと倒れる音を聞いて。

 

「さてここは……どこかにゃあ?」

 

 そんなものよりもと、皿の目で汚い周囲を舐め回すように見つめ、満月の下にきりんさんのハサミを輝かせるのだった。

 



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エピローグ 口が裂けてもいえないことば

 

「が、あああぁああっ!」

「あれ、うるさいよ?」

 

 静寂は切創により死ぬ。少女の開いた口からおおよそ人の発するものではないような悲鳴が轟く中、罪悪滔天。

 切り裂きジャックのお姉さんは、慈悲もなくただ当たり前のように両足を失った華子の口元へ小ぶりのハサミを一直線。舌でもちょきんとしてしまおうかというその所作は止める隙も暇もなく、ジャックは正に残酷な切り取り線だった。

 そして、ハサミは閉じる。

 

「あやや?」

 

 しゃきしゃき、かちり。彼女はあまりに軽い感触に首を傾げた。

 

「お前っ……!」

 

 僅か近くで、赤いサスペンダースカートがひらり。ハナコが鋭く怪人を睨む。

 そう、ジャックの掻き切る行為の結果が伴わなかったのは、ハサミが閉じる前に持ち前の俊足を発揮しハナコが華子を奪取したため。

 口裂け女の噂と同調している少女の足は一つ跳んで路を蹴り、二つ跳んで屋根を踏み、三つで飛んで空を舞う程のもの。そのためハナコも速さには相当の自信があったのだが。

 

「っ」

 

 朽ちたアスファルトの黒にぽたり、ぽたりと血液二つ。口裂け女の花子さんは、自分のものだったハサミが人心に呪われて凶器となって手の端に切り傷を刻んだことに、遅まきながら気づく。使い込まれた鋏の柄のキリンの首は、いつの間にかもげていた。

 

「か、華子……」

 

 だが、そんなことよりもっと、強く胸に抱いた何よりも大切な少女のことが、心配である。

 目は閉じている、血は流れている、鼓動はあった。あまりに弱いその高鳴りばかりが救い。

 

「お願い、お願い!」

 

 ハナコは随分昔に舌を出して別れた神にすら華子の無事を祈る。そして疾く、ずたずたに斬られた足首を、スカート破きその布切れを用いて止血をはかった。だが、止まらない、温もりが、命が大切なものがどんどんと地を赤く汚していく。

 ああ、まるで広がったそれは赤いマントのように、染み込みこの世を穢していく。なるほど、これこそが私の業なのかと花子さんは思わずにはいられないのだけれども。

 

「それでも、貴女だけは救わないとっ」

 

 しかし歯を食いしばって、大切な契約でもなく心からハナコは華子を救おうとし続ける。強く強く、懐いて縛ってもう二度と離さないようにと。

 廃墟に積もるは魑魅魍魎。隙間を埋める妖怪崩れの跳梁跋扈に、情愛なんて全く持って似合わない。グロテスク達はあざ笑い少女たちの死ばかりを願う。

 そして、周囲の薄汚さを睨んでいた彼女もここでぐろりと瞳を向けた。ジャックは、戯けるようにして言う。

 

「ん? おやおや、邪魔をしたのは、私めにハサミをプレゼントして下さったマドモワゼルではありませんか? ご覧のように、とても友好的に活用させていただいていますわ」

 

 痩躯を抱く、矮躯。幼気な子供たちの庇い合いは、バケモノのレンズにはごっこ遊びにしか映らない。はいはい素敵ね、でもばっちいから別けてあげる。そういう想いしかもう切り裂きジャックには沸かないから彼女にも不思議だった。

 首を傾げて頭を横に。すると垂れたお下げ髪を認めた彼女は偏にちょきん。

 バラバラになって落ちた女の子らしさににこりとするジャックを目に入れ、花子さんは少女を庇いながらも問わずにはいられなかった。そのあまりの無惨な替わりぶりに愕然として。

 

「貴女は……何?」

「そうね。私は吉田美袋と名乗っていただけの、切り裂きジャック。美しき袋の中に隠れていたのは、血まみれの男の子だったのかもね。くひひひ!」

 

 少女はとっくに堕ろしたお腹を撫でながら、そう騙る。

 私も彼も、父も母も、ああ、変わりゆく何もかもがおぞましかった。愛だった筈の全てが汚らしくてばっちくって、切り裂きたくなるようなものばかりで。

 だから。

 

「もうこの世は愛せないよ」

 

 ずっと全てが綺麗と思い込もうとしていたけれど、赤津晴太が出会った時にはもう既に少女は限界だったのだ。そして、救いになるかもしれなかった青年が実は人でなしでしかなかったのなら。

 ああ、産まれるはずだったあの子はもう居ない。なら、もういいや。諦観。それこそがお母さんになれなかった少女が男子として鋏を操る理由。

 

「ジャック、名無しの権兵衛……貴女は」

「ねえ」

「ぐっ!」

「あんたは救えないよ。あんただけは、救わせないよ。くひひっ」

 

 そして、そんな壊れた彼女の前に愛を置いたらどうなるのかなんて、自明。ましてやこのちっぽけなものが、嘘でも恋していた男の子の本当の懸想の相手だとするなら、手に余計に力が入ってしまうのも仕方のないことか。

 庇うために、抱くハナコ。その身を刃が侵略し、挟んで割いた。ぐずぐずとなった身が、赤を纏って弾ける。

 

「そういう、こと」

 

 身が削れ、命が飛び散っていく最中、今更になって生きていることの悪にようやく報いが追いついたのだと知る。悪因悪果、因果応報。どちらもハナコにとっては選びたくないが、しかしその四文字に納得はいく。

 少女は死にたくない、という当たり前の思いを押し付けてこれまでどれだけの命を食んできたか。怪異だから、悪だからという文句はなんて通じない。だって、この人でなしだって考える葦の一つ。或いは隣人を想えたというのに。

 そうしなかったから、今更にこうなった。それは、仕方ないと諦める心はトイレから離れて自立して久しい花子さんにもあった。

 

「でも関係ないよね」

「……っ」

 

 もう守るための肉もあまりなければ、命だって不足している。ならば、名残惜しけれどもやっと大好きになった少女をハナコは遠く離す。

 刃から離れた華子は、起きぬまま重力に負けて一度だけ弾んでその場に安堵された。

 

「……生きていれば、死ぬ。ただそれだけ」

 

 頭を何度強かに斬られればこう目の中までも粘りに侵略されるのか。赤はそろそろ限界を超えている。庇い続けるために持ち上げていた手は片方どこかへ飛んでいき、もう片方は上がらない。そんな中、誰かさんのような諦観を、少女はただ口にした。

 

「嫌だなぁ」

「そっか」

 

 続いて隙間なく、口から吐いて出てきた感想に、頷き一つ。目ざといそれは、刃先を槍のように真っ直ぐ向けて、ハナコの顔面を貫かんとした。

 ぐらり、と痛苦に彼女が揺らいだのは幸か不幸か。ジャックの凶器はハナコの切れ目が入っていた頬の肉の大部分を弾き飛ばした。

 

「ああ……」

「さようなら」

 

 そうしたら、もう彼女は形から入ったばかりの口裂け女ですらない、ただの死に体の少女。か弱い、終わる寸前。別れの文句は、唯一無事だった耳朶の奥に強く響いた。

 

「ぐぅっ……」

 

 そのくぐもったような声は、唯一の望みであった胴に迫った鋏を全身で取り押さえるというものを叶えることが出来なかったためか。残酷な天賦によって、誰に教わることもなく極めて裂くのが得意なジャックは、こちらを抱こうとする花子の力に逆らい腹から溢れる臓腑の流れに沿わすようにして自らを逃した。

 

 身を挺して待った千載一遇のチャンスすら失ったハナコ。霞みきった目の前に見えるは、その歪んだ命のピリオド。空白に至る闇がすべてを覆う。

 

 ハナコは他人に何度も味わわせたものである、どうしようもない死という諦観を前にして、想うことがある。

 張り裂けそうになるほど、叫びたいことがあった。

 

 ああこんな間違いが、もし伝えていいならば。

 

 あの子に、最期に愛していたよと。

 

「でもそれは口が裂けても――」

 

 いえないことば。

 

 

 

 

 

 そう。こうやって、とても悪い悪い怪人は、とても悪い悪い怪人によってやっつけられましたとさ。めでたしめでたし。

 

「ぽぽぽ……本当に、これでいいの?」

 

 ああ、こんなバッドエンドなんて、笑い飛ばす他にない。その筈なのに、彼女は半笑いの【私】を見た。

 終幕のカーテンレールはぼろぼろで、シャッターも粘りに閉じることもなければ、見下ろす神未満はつまらない、と赤い終わりを躙る。

 

「ねえ。貴女は本当に、いいの?」

 

 笑いに酔い続けていた筈の高子からの突然の問いかけに何も言い返せず【私】は黙る。そんな語り手を他所にして。

 

 

「いいわけ、ないでしょっ!」

 

 

 少女は最期に赫々と、生きた。

 

 




 帳が降り、でもまだ、終わってはいない。


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蛇足 牛の首

 さて、以降は蛇足でつまりこれから述べる【私】とは何かという話に意味はない。

 そもそもアイアムアイに自信がなければ【私】と世界にはそれほど差異がないといったのは正直なところ。

 だが【私】こと千里件(せんりくだん)はそもそも未来を知りこの世を語るもの。また、牛の首を持つ聞いたものを恐怖で死に至らしめる怪談の主。

 そして迷宮の主たる資格すらも持つ、ゴミ捨て場の創作者だ。つまり、多くの役割を持った危険極まりない悪夢の一つ。

 

「ぽぽぽぽぽ。でも、件ちゃんはそれだけでしかないんだよね……ぽぽ」

 

 物語より遥か上から、高子は私を正確にそう言い表す。

 そう、千里件なんていうものは、語り謎掛けするだけしか許されない旧い小咄。

 機械仕掛けの神でもなければ、ゴミ捨て場の神すら降りた長大な高女に比べれば酷く矮小な存在だった。

 故に、決まった事柄をこの口や思考はなぞるばかり。無意味な現象として、白紙の上に流れる嘘っぱちの語り部。

 

 語りかけつづければ、そんな【私】は決まって口が裂けてもいえないような怪談を口にする。

 何故かと言えばそれこそが、最恐という中身のない怪談の主である千里件唯一の希望。

 そういった恐ろしい話が世の中には沢山転がっているということだけは、分かってもらえると信じているから。

 

「でも、終わっちゃったね。ぽぽ……」

 

 だが言の葉は陽炎。形を変えて人を惑わすばかりで、正しさだって蜃気楼。全ては無常に消えていくもの。

 まるで何もなかったかのように、通じ合っていたかもしれないという幻は消えていくのだった。

 

 格上たる高子とて、それは同じ。呪いが永遠であろうとも、頁ばかりは有限。

 コピーを続けて劣化していくばかりのこの世の中で、ただ一つの神に足る存在だとしても、終わりを看取るつまらなさはどうしたって捨てられないものである。

 

 だがゴミ捨て場にハッピーエンドなんてありえない。天冠を当たり前のように頭に載せて、手を組み合わせて幾ら偽神がこう願おうとも。

 

 

「全てに、幸せ(呪い)あれ。ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ」

 

 

 呪りとしか動かない世界は救いに追いつくことなんてあり得ずに、でもだからこそ廻り続けるのだろう。

 

 

 

 

 

 口が裂けてもいえないことば、了。

 

 

 

 

 

 

 

 

 さてこうして、全てを認めたくなくても認める頭でっかちな【私】は全部を語り終えた。

 決定稿としたなら、後には空の白が僅かあるばかり。だがもうメリーバッドエンドなんて絶対に嫌ならば。

 

 

 

 愛しき恐ろしい話たちよ、あなた達は存分に許される限りの呪言をここに記すといい。

 



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後書き ハッピーエンド

 ありがとうございました。


 

 ピリオドを決めつけられた、暗褐色の世界。

 ゴミ捨て場とはそういうもので、私はもう殆どこれに等しい。

 終わっていて、もう直ぐに消え去る。死とはそんなものであり、こんなものばかりを私を好んでくれたもの達に与え続けてきたことは慚愧に堪えないことだ。

 これまで口が裂けてもいえなかったけれど、本当なら私は変わりたかったのに。

 

「私は悪じゃなくって、皆が幸せなら私も幸せっていうそんな当たり前の生きた人間になりたかった」

 

 だが、そんな優しさなんてトイレの花子さんのお話には望まれない。

 少年少女達に向けてただただ酷く残酷な死ばかりを羅列させる日々。そんなものなんて、生きている意味なんて本当はない筈だ。

 高子に初めて出会った日に言われた通りに、面白くないなら無くなった方がいいに決まっていた。

 

「でも、諦められなかった、なぁ……」

 

 しかし、終わりに届くことなくトイレの花子さんの噂が無かったことにだけはされたくなかったのだ。そればかりはゴメンだ。

 だって、私は殺した彼らを知っている。無念の遺言を片時も忘れたことはなかった。

 あんなに可愛くて、愛されるべきだった全て。夢に希望に燃えていたそれらを焚べて私はホラーとして生じていて。

 

「あんなに殺したから、私は生きなければならない」

 

 だから、トイレの花子さんなんてなかったことにされて、一時的に悪意たちのゴミ捨て場に落とされたところで、私は挫けることもなかった。

 私はその日の内にメジャーだった新しい怪異、口裂け女と同期するために口の端をお気に入りの鋏で切り裂くこととなる。

 そして、忘れもしない三丁目の辻にて私はあの子の首を引き裂き、成り代わった。

 そのことにだって、今まで私は後悔したことなんてなかったのだけれども。

 

「死ぬんだ」

 

 紆余曲折の後に、私はこの場にて人のように死ぬ。

 最期に愛されたことを誇りにして、消え去るのが当然。

 何しろ、既に両の腕なく臓腑は丸出し、顔なんて切創の集合でもうどこまでが無事なのかも分からない程。

 愛を守れないだろうことなんて、忘れてもいいくらいに満身創痍。きっと後一息で飛んでいく命だったのだろうけれど。

 

「くひひ」

 

 でも、この百点満点の答案より憎たらしい笑顔が許せなかったから。

 

 

 もう人のように生きることなんて、止めだ。

 

 

「ごめんね。私これまで私に嘘ついてたの」

「ひ、ひ? ……ひっ!」

 

 そして僅かな命すら嘘だったと、切り裂く少女の命に亡くなった手で私はむんずと触れる。

 冷たいでしょう、恐ろしいでしょう、悲鳴をあげたくもなるでしょうね。

 ああ、幾らキャラクター化しようとも、切り裂ける程度に擬人化しようとも。

 

 

 根本的に花子さんって幽霊なのよね。

 

 

 だからこそ私は生きたかったし、そのフリをし続けたかったのだけれども。

 

「私は死んでいて、だから殺せないわよ?」

「は、離せ、離して……っ! 七恵っ!」

 

 ああ、切り裂きジャックの心の奥底で、僅かにあの日太陽のように語っていた少女の想いは生きていたみたいだ。

 末期に至って裏切られても彼女を信じるなんてそれはとっても美しい友情で、でも。

 

「だーめ」

 

 私は、あの子のために貴女を地獄に一緒に連れて行く。

 

 

 

 そう。消えゆく私達を見つめて肘で這いゆくテケテケ未満な華子。

 

「ハナコっ!」

 

 終に認めた死に去りゆく私は貴女に愛しているよとすら言えないけれど。

 

「――――ありがとう!」

 

 私のハッピーエンドを記し損ねた訳知り顔に、ざまあみろとだけは書き終えて。

 

 

 

 口が裂けてもいえないことばは胸に秘めたまま、白の余韻に私は消える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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