「二重螺旋」二次小説 (おとよ)
しおりを挟む

「二重螺旋」二次小説
予期せぬ告白


「二重螺旋」1巻、中学生の尚人が高校を卒業したら家を出ていくという告白をしたその後、自室へと消えた雅紀が何を考えていたのか、という場面を描いたSS。


 雅紀は自室のドアを閉めと、そのまま固まって動けなくなってしまった。

 こめかみがどくどくと脈打つ。背筋がぞくりと粟立つ。たった今聞かされた尚人の告白が何度も頭の中で繰り返される。

 ––俺……高校まで行かせてもらえれば、それでいいから。

 ––そしたら、あとはどこでだって、ちゃんとひとりでやれるし。

『何だよ、それ』

 動揺をごまかすように雅紀は毒づく。

 不意打ちもいいところだった。

 まさか、尚人がそんなことを考えているなんて思いもしなかった。

 青天の霹靂。どころではない。上段から必殺の面を喰らったかのような衝撃だった。

 確かに母が亡くなってこちら、尚人に対し優しくできなかった自覚は充分にある。弟たちさえいなければ。自分のことだけ考えればいいのであれば。そう、思ったことがあるのも事実だ。

 母の死はあまりにも唐突過ぎて、雅紀でさえも突きつけられた現実を受け止めるのに苦労した。それでも雅紀は、葬儀をひとつの区切りとして、けじめとつけたと自分では思っていた。

 なのに–−

 半年ほど経って、突然、雅紀の世界から色が抜けた。心にぽっかりと穴が開いたような虚無感に襲われて、何もかもが無味乾燥になった。そんな自分を持て余し、すべての元凶である慶輔をナイフで滅多刺しにして「いっその事ひと思いに殺してくれ」と哀願する程に切り刻んでやれば、身に巣食う寂寥感が少しは晴れるのだろうかと、そんなことを考えもした。

 出来なくはなかった。己のことだけを考えればいいのであれば。

 でも……、

 ––兄が人殺しになったら、ナオはどうなる?

 ただでさえ厄介な状況にあるのに、これ以上の波乱にナオは耐えられるだろうか。世間の誹謗中傷は、ナオをどれほど傷つけるだろうか。

 それを思えば、あんな男のために殺人犯になるのも馬鹿馬鹿しいと、存在自体を切り捨てた。

 遣り場のない喪失感は、仕事を詰め込むことでごまかした。それでも、深夜に帰宅した時のうっそりとした暗闇が重苦しくて、苛立たしくて、吐き気がこみ上げるほど嫌いで、次第に酒に逃げることを覚えた。仕事が終わって遊び仲間と酒場に繰り出してはアプローチして来た女と一夜を過ごす。刹那的なセックスをして溜まったものを吐き出す。生理的な排泄行為で時間を潰し、そうして夜が明けて家に帰る頃には大抵尚人は学校へ行った後で、尚人と顔を合わせないままに次の仕事へ出かけることも少なくなかった。

 尚人はそれを、自分たちを養うために寝る間も惜しんで仕事を頑張っている、と受け止めているようだったが、実際は違う。合わせる顔がなかった。それが正しい。

 沙也加は母と雅紀を罵倒して篠宮の家を捨てたが、雅紀だって、尚人に家の全てを押し付けて現実逃避していたのだ。それを全く自覚していないわけではなかったが、「俺は金を稼いできている」その一点だけを言い訳にして己を正当化した。

 そうでもしなければ、耐えられなかったのだ。そういう己の弱さを尚人には知られたくなくて、つれない態度でごまかし続けた。

 しかし、逃げ場のない尚人はどんな思いだっただろう。

 仕事を言い訳にして家に寄り付かない兄と、怒りを抱えて部屋に閉じこもったままの弟の間で、孤軍奮闘していた尚人は。

 さっさと自立してこの家から出て行こう、そう思っても不思議はないのかもしれない。

 それでも雅紀は、尚人の口からその決意を聞かされるまで、そんなことを尚人が考えているなんて思いもしなかったのだ。

 沙也加がこの家から出て行った時は、正直ほっとした。母と自分をあれほど罵倒して出ていったのだから、これから先の人生で沙也加と交わることはもうない。肩の荷が一つ降りて、安堵した。裕太のことは嫌いではなかったが、正直どうでもよかった。堂森のじいさんが欲しがっているというのなら、あちらに預けるのも有りかと前々から思っていた。もし裕太があちらへ行くことが決まれば、雅紀は尚人と二人この家を出て、都内のマンションにでも引っ越そうかと思っていたくらいだ。

 尚人はこれから高校受験だ。いま引っ越すなら、最初から志望校を都内の高校に絞って受験すればいい。この時期での転居では公立校は学区外受験扱いになってしまうかもしれないが、それなら私立受験をすればいいだけの話で、それだけの稼ぎのあてはある、と雅紀は漠然とながらも考えていた。

 二人なら、尚人の負担も随分減る。尚人だってそれがいいはずだ。そう、思っていた。

 それなのに、

 ––この家を出て、俺は……どこへ行けばいいわけ?

 ––俺が必要とされているのは、この家でだけ……だろう?

 淡々として口調の裏に、尚人の心の叫びが聞こえた気がした。

 どこにも行けない。誰にも必要とされていない。この家以外に居場所がない。この家で毎日淡々と家事をこなすことだけが自分の存在意義で、それ以上の価値は自分にはない。

「そんなことはない!」と、雅紀は叫びたかった。「お前がいるから、俺は頑張れるんだ」と。

 しかしいくら雅紀が声高に叫んでも、おそらく尚人の心には響かない。尚人がそう思ってしまうだけの仕打ちをしてきたのが、他ならぬ雅紀自身だからだ。

 そんな尚人に対する罪悪感と、突如聞かされた決意への動揺。それを隠し切れる自信がなくて、情けないことに雅紀は、こうして自室へと逃げ込んだのだ。

 息苦しいほどに脈打つ鼓動が治らない。仕事でならばいくらでも出来ると自信のあったセルフコントロールが効かない。

 手のひらが異様に汗ばむ。

 視界が歪む。

 あえて無視しようとした不安が鎌首をもたげて雅紀に襲いかかる。

 ––ひょっとして、ナオに捨てられる?

 それを思った瞬間、心臓が痛いほどに跳ねた。途端、急に足元が覚束なくなって雅紀は支えを求めるように壁に手をつく。そしてそのままずるずると力なく床に崩れ落ちた。

 一体どうしてこういう展開になったのか。

 床にぶちまけられた弁当を見た瞬間、雅紀は今まで抑えていた嫉妬心が怒りに変わった。尚人が裕太のために毎日せっせと弁当を作っていることは知っていた。それを、裕太が今まで一度だって食べたことがないことも。朝帰りすると裕太の部屋の前に必ず弁当が置いてあったからだ。

 ––俺にはないのかよ。

 いつ帰ってくるかわからない奴のために弁当なんか作れないことは承知の上で、そんな埒も無いことを思ったことは数知れず。

 ––どうせ裕太は食わないんだし、だったら俺が食ってもいいよな?

 廊下に置かれた弁当を流し見て、そう思ったことだって幾度もある。さすがに実行したことはないが、部屋に閉じこもっているだけの裕太が尚人の過分な愛情を受けている気がして、雅紀は正直不満だった。

 裕太は、尚人の作った弁当を頑なに食べないことで、尚人の自分への愛情を測っている。おそらく裕太自身は無自覚だろうし、本人に指摘したところで認めることもないと思うが。雅紀に言わせれば、裕太の行動は、自分の行動がどこまで許されるのか試す自認行為以外の何ものでもない。

 末っ子の裕太はやんちゃで甘え上手で、どんなわがままも大抵許された。特に慶輔は、子供達の中で一番自分に懐いてくる裕太を誰よりも可愛がり、裕太も「自分は兄姉弟の中で一番父親に愛されている」と信じて疑っていなかった。その父親にひと言の言い訳すらもなくゴミ屑のように捨てられた時、裕太の信じていた世界は崩壊した。

 まだ小学四年生だった裕太には酷過ぎた、と今なら思う。が、当時は雅紀だって突きつけられた現実を受け止めるのに精一杯で、さらには次々と襲ってくる現実的な問題に対処するのに必死で、裕太を気遣う余裕などなかった。特に、尚人が小学生ながらに家の中の空気を読んで自分の感情を押し殺し、家族のために自分ができることを黙々とこなす姿を見せていただけに、自己主張を繰り返して荒れるだけの裕太を慰めてやろうなどという気も起きなかった。

 誰からも愛されていたはずの自分に、誰も手を差し伸べてこない現実。それを目の当たりにして裕太は、、荒れるだけ荒れたあと、今度は自分から周囲を拒絶するという手段に切り替えた。

 当然雅紀は、そんな裕太を構ってやるつもりも手の差し伸べてやるつもりも毛頭なく、

 ––勝手にしろ。

 ただ、そう思っていた。

 さすがに、餓死してしまえ、とまで思っていたわけではないが、仮にそうなってしまったとしても、ちくりとも良心が痛むことはなかっただろう、という気はしている。それくらい、裕太に関心がなかった。

 それと同時に、

 ––ナオは、放って置けないだろうな。

 という確信があった。

 尚人は、自分と違って家族に対する愛情が深いのだ。

 家の中がどんなに暗く淀んで、皆の気持ちがバラバラになって、互いをいたわり合う余裕など無くなってしまっても、家族という絆を一人必死に繋ぎ止めようとしていたのが尚人だ。

 家族は一緒にいてこそ家族、という母の言葉を、食事は家族の基本、という母の信念を、一人守り続けていたのが尚人だ。

 だから尚人は、一度だって食べてもらえない弁当を作り続ける。

 母子相姦という禁忌を犯した雅紀にとって、亡母への感情は複雑で、単なる思慕の対象にはもはやなり得ないが、それでも家族を大切にしていた母のその思いまで否定しようとは思わないし、その母の思いを引き継ぐ尚人を否定するつもりも毛頭ない。ゆえに雅紀は、尚人に「甘やかすな」とは言っても「弁当を作るのをやめろ」とは言わなかった。

 まあ、それに、尚人にそう言ったところで、尚人が素直に聞き入れるとは到底思えなかったが。

 尚人は、普段は大人しく聞き分けがいいが、実は兄妹弟の中でも負けず劣らずの強情で、一度こうと決めればてこでも動かない我の強さがある。おっとりとした見た目と言動がその本質を隠しているが、幼い頃より尚人を溺愛してきた雅紀は知っている。

 だからこそ雅紀は、尚人と裕太の我慢比べのような日常を見て、先に根負けするのは裕太の方だろうと思っていた。案の定、無視するという意思表示に反応を返さない尚人に先に焦れたのは裕太で、次の手として裕太は、弁当をぶちまけるという行動に打って出たのだ。

 ––これでも弁当を作り続けるつもりかよ。

 歪んだ裕太の愛情の測り方は、次の段階へと進んでいたわけだ。

 雅紀は、慣れた手つきで床にこびりついたおかずを黙々と片付けている尚人を見た瞬間、裕太のこの行動が初めてではないことを悟った。と同時に、そういう行動を見せても裕太に構い続けている尚人に対し怒りが込み上げた。

 ––俺にももっと構えよ!

 そのあとの行動は、何か意図したり、思惑があったりしたわけではない。気づいたら体が動いていただけ、のことだ。裕太を部屋から引き摺り出し、床にぶちまけられていた唐揚げを口に突っ込んだ。これまで何度も自分が食いたいと思っていた弁当だ。嫉妬心が爆発した。

 その結果のこのざまである。

 壁にもたれかかったまま、雅紀はため息をついた。

 都内のマンションに引っ越そうと言っても、尚人はこの家がある限りこの家に残ると言うだろう。

 ––では、この家が無くなったら?

 きっと、高校卒業を待たずして自活し始めるのだ。自分一人くらいどうにか出来るよ、と小さく笑いながら雅紀に告げて。

 これは、予想ではなく確信だ。その確信が、雅紀の胸をじくじくと犯す。

 ––この家は、絶対誰にも渡さない。

 雅紀は虚空をにみつけたまま、ぐっと唇をかみしめた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

真実の在処

3巻「攣哀感情」で、尚人を暴行した犯人に関する仰天事実がすっぱ抜かれた、その周囲の反応を雅紀のマネージャー市川視点で描いたSS。



「ねぇ、市川さん。これって、事実ですかね?」

 そっと耳打ちしてきた同僚の問いかけに、市川は差し出された週刊誌を見やってしんなりと眉を潜めた。見開きページの冒頭には、先頃何かと世間を騒がせていた自転車通学の男子高校生ばかりを狙った暴行犯の正体ついてセンセーショナルな見出しが躍っている。

『用意周到に練られた襲撃か?』

『MASAKI 実弟を襲った犯人 まさかの実父愛人の妹と幼馴染み』

 記事の内容にざっと目を通すと、愛人M姉妹とMASAKIの実弟を襲撃した少年Sのどちらもが、状況は違うが両親の愛情が不足する家庭環境で育ったという共通項があり、二人がいつ頃からの知り合いで、どういう間柄であり、なぜ今回の襲撃に至ったのか、慶輔とMASAKI達兄妹弟との確執を絡めて憶測混じりに書き立ててある。

 記事の内容がどこまで事実であるのか、そんなことは市川も知らない。しかし、この記事を雅紀が目にすれば怒髪天をつかんばかりに怒り狂うだろうと予測がついた。

 雅紀の怒り方は、感情発露型ではない。静かに深く怒るのだ。

 それが返って怖い。

 青味を増した双眸はブリザードのごとく冷たく、声は静かに抑えながら、それでいて身体中から発する殺気は連火のごとく容赦がない。

 市川は、そんな雅紀を一度だけ見たことがある。

 いや、あれは、市川自身が雅紀の地雷を踏んだのだ。数年前の記憶に、市川はぶるりと小さく身震いをした。

 モデル界の帝王加々美蓮司に見出されてデビューした雅紀は、見る者を惹きつけるその圧倒的な容貌ばかりでなく仕事に対する真摯な姿勢もあって、順調にキャリアを重ねていた。だから市川は、雅紀がプライベートな部分で多少の羽目を外しても目を瞑っていた。「女喰い」という噂が密かに囁かれ「日替わりで女を持ち帰る」と陰口を叩かれても、「あの容貌じゃ、それで当然だろう」と周囲も納得せざるを得ないほど雅紀の容貌は群を抜いていたし、仕事に穴を開けることは当然、手を抜くこともなく、仕事とプライベートはきっちり別物という姿勢は返って現場スタッフに好評で、「プライベートの充実は、仕事の充実にもつながる。若い男性なら余計に」と、市川はそう捉えていた。

 しかし、デビューから二年ほど経った頃からだろうか。雅紀の表情に時々影がさすようになった。仕事が順調に増えて行く中で次第に夜遊びは減っているようだったが、なぜか郊外の実家住まいを辞めようとしない雅紀は、都内との往復に時間を費やす分だけ睡眠時間を削っているようなもので、さすがに疲れが溜まっているのだろうと市川は思っていた。

 雅紀の家庭は少々複雑で、雅紀の稼ぎで家族を養っている、というようなことは社長から聞いていた。正直なところ、芸能の世界にそんな者は数多いる。だから市川は、雅紀の家庭事情を聞いても「そうなんだ」と思った程度のことで、そういう事情があるなら簡単に辞めはしないだろう、という安心材料にした程だった。

 実際、雅紀は事務所の期待以上の成長を見せた。おかげでギャラも順調に上がった。駆け出しの頃ならまだしも、これからは拠点を都内に移し、家族へは仕送りをする形をとっても充分やっていけるはずだ、と市川は思った。今だって、仕事が立て込んだ時は都内のホテルに連泊することも多い。そのくらいならいっそ思い切って都内に移り住み、実家には休みの日にだけ帰る、というふうにした方が生活にメリハリが付くし、睡眠時間の確保だって出来る。それに、家の中のことは中学生の次男が全てやっている、ということも聞き及んでいた。洗濯掃除炊事、何でも主婦ばりにこなすらしい。だったら、生活費の心配さえなければ、家の方はうまくいくという事だろう。家族の様子が気になるなら、電話でもネットでも連絡手段はいくらでもある時代だ。

 だから市川は、マネージャーとして雅紀に言ったのだ。

「そろそろ拠点を都内に移してはどうですか。その方が、仕事もしやすいでしょう? もし、一人暮らしでのハウスキーパーを心配しているなら、信頼のおける業者を紹介しますし」

 直後、雅紀の目の色が文字通りスッと変わると、心臓が止まりそうなほどの苛烈で冷たい気配を全身から吹き上げた。突然のその豹変に、市川が息を呑んで固まると、雅紀はひたと市川を見据えたまま、恐ろしいほど低く静かな声で言ったのだ。

「家は出ません。その話、二度としないでもらえますか?」

 今でも、あの発言の何があんなに雅紀の怒りを買ったのか、わからない。でもその後、雅紀にとって弟は何より大事な存在であるらしい、ということは理解した。それは、あの事件後のマスコミ報道や雅紀自身の記者会見発言があったから、ではない。決して仕事に穴を開けることがなかった雅紀が、あの日市川に電話をしてきて言ったひと言が市川にとって衝撃的だったからだ。

「市川さん、明日の仕事全部キャンセルしてください」

 その日は人気雑誌『MARCURY』の秋物コレクションのグラビア撮りが入っていた日だ。予定では四時には終了するはずだったので、六時半過ぎに雅紀から着信があった時、市川はようやく「終わった」という連絡が来たのだと思った。プロ意識の低い相手との絡みで撮影が押すとものすごく不機嫌になる雅紀だが、互いに良い仕事をするために時間が押す分には全く気にならないらしい。そんな雅紀にとって今日の仕事は押しても苦にならなかったはずだ。だから市川は、特に構えることなく出た電話で、感情のこもらない淡々とした声でそれを告げられた時、冷水を浴びせられたかのように驚いたのだ。

「突然、どうしました? 何か、トラブルでも?」

 言いながら市川は、慌てて明日のスケジュールを頭の中に並べた。

 明日は、数日後に開催されるショーで着る衣装の最終確認が朝イチであり、その後ピンでのグラビア撮影。そのまま雑誌の取材が入り、夜にはMASAKIがメインを張っている雑誌出版社の取締役との会食が予定されている。その出版社は、近々海外メディアも入れた大きなショーを開催する計画を立てているらしいという情報があって、明日の会食は、そのショーでMASAKIを使ってもらうための大事な根回しを兼ねている。ドタキャンとなれば心証が悪い。下手をすると、雑誌の方も降板させられるかもしれない。

 そんな市川の心配を察したかのように、雅紀は静かな口調のまま告げた。

「それでその後の仕事がダメになっても、仕方ありません。頭を下げる必要があるところへは、後でいくらでも下げに行きます」

 静かな声には決意があった。

 それで市川は、ここで押し問答しても仕方がない、と頭を切り替えたのだ。

「まずは、何があったのか説明してください」

 市川が促すと、

「ナオが……、下校中に事故に遭って、病院に搬送されたと。先ほどナオの同級生から連絡があったんです」

 思いがけない返答に、市川は息を飲む。

「怪我の具合は? ひどいんですか?」

「……詳しいことは、まだ何も。今、病院に向かっている途中なんで」

 返ってきた声音は、市川の知る雅紀とは思えないほどに心許ない。そのことになぜだかどきりとしたが、市川は自身の動揺はさておいて、マネージャーという立場に徹することにした。

「では、状況が分かり次第連絡ください。思いの外、軽度であることもありえるでしょう? 仕事の調整は、それから、ということで」

 市川が言うと、

「また、連絡します」

 そう答えただけで電話は切れた。

 市川は、回線の切れた音を聞きながら、ひとつ息をつく。

 ナオ、とは当然弟の尚人のことだろう。雅紀を送迎した時に何度か顔を合わせたことがある。最初、雅紀とは兄弟と言われても信じられないほど似ていないことにびっくりし、次に中学生とは思えないほどしっかりした対応に驚いた。複雑な家庭環境と聞いていたので、多少の偏見があったことは否めない。その最初の驚きが去ると、どこからどう見ても普通なのに、雅紀と並んでも見劣りするわけでもなく、しっとりと視界に納まる不思議さに驚いた。

 市川はこれまで、雅紀とのツーショットでグラビア撮りした相手に「かわいそうに」と思ったことが何度かある。イケメンで通していても、雅紀と並べば見劣りする相手がどうしてもいる。どんなイケメンにだって多少はある短所が、普段は気にならなくても、雅紀と並ぶと如実に浮き彫りになってしまう。それはおそらく本人も出来上がった写真を見れば自覚することで、それで雅紀との共演をNGにした者もいるくらいだ。

 それなのに、どこからどう見ても普通な弟が、雅紀と並んでも見劣りしない不思議。それに対して市川は、

 ––やっぱり、兄弟だから?

 とりあえずそう結論づけることで自分を納得させる以外に答えが見つからなかった。

 その時の記憶にある尚人の顔を脳裏に浮かべながら、市川はスマートフォン画面の通話終了ボタンを押した。

 ––さて、どうしましょうかね。

 スケジュール帳を確認しながら、市川はいくつかのパターンに雅紀の予定を組み替えてみる。しかし、衣装の最終確認はショーの本番が迫っていることから日程をずらすことが難しく、会食のキャンセルだけは避けたい、と思うとスケジュールの変更は現実問題ほぼ出来ないに等しく、市川が雅紀からの連絡を待ちながら頭を抱えている間に、驚きのニュースが飛び込んできたのである。近頃世間を騒がせている自転車通学の男子高校生ばかりを狙った暴行事件に新たな被害者が出たというのだ。その被害者が千束市在住の翔南高校生だと聞いて、もしや、と市川は思った。それで十一時過ぎに再度雅紀から電話があった時、市川は真っ先に確認したのだ。

「まさかと思いますが、弟さんの事故って、例の暴行事件に関係していますか?」

「……」

 沈黙が回答のようなものだった。

「十時のニュースで流れたんですよ。例の暴行事件に新たな被害者が出て、それが千束市在住の翔南高校生だって。弟さん、確か翔南高校に通ってましたよね?」

 市川が言うと、雅紀が電話の向こうで深々とため息をついた。

「病院の前にメディアが(たか)っているのは知っていましたが、もうニュースになっていたんですか」

「それで、弟さんの具合は?」

 暴行事件の被害者となれば、軽度では済まないかもしれない、と市川は覚悟していた。これまでの被害者の中には、いまだ意識が戻らない者や半身不随の重症を負った者がいるとも聞き及んでいる。

「打撲と捻挫。自転車ごと倒された時に側頭部を壁に強打したらしく、頭部から出血がありましたが、検査の結果脳波に異常はないと。先ほど意識が戻って、会話も出来たんで、しばらく入院すれば大丈夫と思います」

「––そうですか」

 市川はひとまず安堵の息をつく。

「これから入院手続きをとって、今日は一旦家に帰ります。明日は朝から入院に必要な着替えなんかを届けついでにナオの診察に付き添います」

 キッパリとした口調に、これは決定事項だ、という雅紀の意思を読み取る。

 それで市川は、

「わかりました」

 そう、答えるしかなかった。

「明日の日程ですが、ショーで着る衣装の最終チェックは午後に回します。これだけはしてください。十四時入りで調整しておきます。そのくらいの時間なら、朝から病院へ行ってからでも間に合うでしょう? グラビア撮影と雑誌の取材は別日で調整をしてみますが、調整不可の場合はキャンセルします。––会食は、……仕方ありません。こちらから断りの連絡を入れておきます」

 市川がいろいろ考えた末の調整案の一つを提案すると、

「ありがとうございます」

 雅紀はただひと言そう答えた。

 雑誌出版社との会食のドタキャンは、やはり取締役達の心象をかなり悪くしたようだったが、暴行事件の被害者がMASAKIの実弟であったことが報道されるや状況は一変した。ドタキャンせざるを得なかった事情を汲み取り、仕事よりも家族を優先させたことが返って印象をよくし、記者会見での応対ぶりに家族思いの人間性が垣間見え、今後とも是非ともMASAKIを使っていきたいと社長直々に事務所に連絡があったのである。雅紀が暴行犯を殴りつけた、という報道に対しても世間はどちらかと言えば同情的で、市川は事件の余波が最小限に留まってほっと胸を撫で下ろした。

 その後は、暴露合戦のように篠宮家の家庭崩壊劇やMASAKIがカリスマモデルへと転身を遂げるサスセスストーリーがありとあらゆる媒体を賑わせたが、雅紀は一切を黙殺した。市川の目には、雅紀にとって世間のそんな騒動など関心がないように見えた。

 その雅紀が、尚人に関することには異常なくらいに神経を使っていたのが市川には意外だった。尚人の病室にメディア関係者が潜り込んでくるのを防ぐため、雅紀は自分の伝手のある病院に早々に尚人を転院させた。そこでは見舞客すら気軽には立ち入れない特別病棟の個室を準備するほどの念の入れようで、尚人を世間の喧騒から引き離し、治療に専念できるよう環境を整えた。それから雅紀はどんなに遅くなっても毎日病室を訪ね、回復具合を確認し、退院の際には絶対にメディアに写真を取られないよう気を配った。

 市川は正直、ここまでするのかと驚きを隠せなかった。

 写真を撮られたところで、一般人のしかも未成年である尚人の顔にはモザイクが入る。しかしどうやら雅紀は、篠宮家の事がスキャンダラスに報道されることは構わなくとも、尚人個人がターゲットになるのは、例えそれが『無事退院』というどちらかと言えばおめでたいニュースであっても、許せない事のようであった。

 それを目の当たりにしていたから、市川は、同僚に見せられた雑誌の記事に眉を潜めたのだ。

 記事は、愛人M姉妹や慶輔を悪者にするため、篠宮家を不幸にした金で愛人Mの妹が私立のお嬢様学校に通っているのに対し、生活費も養育費も払われない極貧生活の中でMASAKIの弟が塾にも通わず公立の超進学校に合格して毎日五十分もの道のりを自転車通学しているとあり、その片道五十分の通学時間が今回の事件で次男がターゲットにされた要因で、少年Sは最初から篠宮家の次男を襲うことが目的でヤンキー仲間を『ゲーム』に誘ったのだと、まるでそれが真実であるかのように書いてある。それが証拠に、少年Sは逮捕された時に

「こんなことなら、鉄パイプでさっさと、あいつの頭カチ割っときゃよかった」

 と、発言したらしい。だったら今回の事件は『暴行事件』ではなく『殺人未遂事件』なのではないか。そして、少年Sの本当の目的が『暴行』ではなく『殺害』であったのなら、それは次男と面識のない少年S の計画したことではなく、誰かの教唆があったのではないのか。とまで、記事はまことしやかに煽り立てている。

 市川は、深々と息を吐き出して、雑誌を広げ持つ同僚に視線を向けた。

「命が惜しければ、その雑誌、今すぐにでもシュレッダーにかけた方がいいですよ」

「え?」

 虚を突かれた顔で同僚は市川を見返す。市川はそんな同僚に真剣な眼差しを向けた。

「この後、雅紀さん事務所で打ち合わせなんです。予定では、後一時間もすれば顔を見せるはずですから」

 市川がそう告げた直後だった。入り口の受付にいる女性事務職員の甲高い声が事務所内に響いた。

「あ、MASAKIさん、お疲れ様です! 予定より早かったんですね♡」

 その声に一瞬で蒼白になった同僚は、悪あがきのようにあたふたと雑誌を書類の束の中に突っ込んだのであった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

重なる思い

高校3年に進級した雅紀と尚人のある日


 尚人の部屋のベッドの上で胡座をかいてメールチェックをしていた雅紀は、ふとあることを思い出して、PCを操作する手を止めた。

 ––高校の三者面談の時期って、いつ頃だっけ?

 尚人はこの春三年生に進級した。高校最後の年。当然、進路決定に向けた三者面談があるはずだが、尚人がその話を話題にしたことがまだない。

 中学生であるならば、高校受験は当たり前で、進路選択イコール志望校をどこにするか、という話にしかならないが、高校生ともなればその先の進路は多様だ。尚人が通う翔南高校は県下随一の進学校で、その進路はほぼ100%有名大学進学だと聞いてはいるが、だからと言って尚人がその選択をするとは限らない。

 ––俺……高校まで行かせてもらえれば、それでいいから。

 ––そしたら、あとはどこでだって、ちゃんとひとりでやれるし。

 中学生の時、尚人がふと漏らしたセリフが脳裏によぎって雅紀は顔をしかめる。

 家族の絆が砕け散り、家の中の空気が重く淀んで、誰もが自分のことだけに精一杯だった時、一人何の自己主張もせず、黙々と家事をこなしているだけに見えた尚人は、実は静かに決意を固めていたのだ。その事実を知った時、雅紀は目の前が真っ暗になるほどの衝撃を受けた。

 しかもその決意は、具体的な行動を伴っていた。

 ––学生の時に取れる資格は取っておいたほうが、就職の時に有利になるかと思って。

 そんな考えのもと受け続けていた英検は、今では一級である。それだけで就職先が見つかるだろうと思える十分な資格だ。

 それでなくとも現状、すでに尚人を虎視淡々と狙っている者たちがいる。

 アパレルブランド、ヴァンスのチーフデザイナーであるクリストファー・ナイブスは、尚人を自社専属のモデルにしたがっているし、アズラエルの統括マネージャーである高倉も、バイト要員の既成事実を積み上げて自社に引っ張り込もうと画策しているとしか思えない。

 そして一番厄介なのが、加々美が尚人に興味津々なことだ。

 雅紀は、加々美にだけは頭が上がらない。いまだ超えることができない壁でもある。その加々美が、尚人の素質に惚れ込み、後見役になるとの提案までしてきたのだ。加々美は本気だろう。雅紀は、誰にも尚人を託したくないという本心を告げて断ったが、加々美は雅紀のそんな想いを尊重しながらも、人たらしの本領を発揮してくるかもしれない。なにせ、モデルになる気など全くなかった雅紀が、気づけば加々美の誘いに乗ってモデルの世界に足を踏み入れていたくらいだ。

 いかなるスキャンダルとも無縁の王道を行くメンズモデル界の帝王は、色気と愛嬌、寛容と貫禄、気軽さと厳しさを併せ持つ、真の色男。どれをとっても、雅紀の遥か上をいく。その加々美に尚人の良さを褒められるのは嬉しい。けれども、尚人には自分以外の誰をも魅了して欲しくはないジレンマ。尚人が結構無自覚な人たらしだと気が付いた昨今、雅紀の密かな嫉妬心は抑え難くなってきている。

 雅紀は、尚人には大学に進学して欲しいと思っている。自分が行きたくても行けなかったから、ということもあるが、これから先尚人には本当にしたいと思うことを思う存分させてやりたいのだ。

 不倫して父親が家から出て行った時、尚人は小学六年生だった。それからずっと家事は尚人が負うべき役目になった。学業と家事。その狭い世界に尚人は押し込められた。––いや、自分が押し込めたのだ。結果論であったとしても。

 家事はある意味やって当たり前のところがある。朝昼晩と飯が出てくるのが当たり前で、洗濯物はすぐに洗濯されてきれいに畳まれているのが当たり前で、家の中は定期的に掃除されているのが当たり前で、石鹸やシャンプーやトイレットペーパーなどは補充されているのが当たり前で、その当たり前を維持することがどれほど大変なことか、一緒に住んでいても意識しない、それさえもが当たり前だったりする。

 実は雅紀も、最初は母の心配ばかりに目がむき、次に現実的な問題に対処するのに必死で、その内仕事にかこつけて現実から目を背けていたがゆえに、尚人にどれほどの負担をかけているのか、想像すらしていなかった。

 雅紀がそれを意識するようになったのは、皮肉にも遊び仲間達との酒の席での会話である。

「実家にいた時は一人暮らしって超憧れてたけどさ、実際始めたらけっこう色々面倒くさいよな。全部自分でしなきゃだし」

「わかるー。疲れて帰っても、勝手に飯が出てきたりしねーし。朝使った皿とか、シンクにそのまんまだし」

「洗濯物もさ。カゴに溢れて、気づいたら着る服ねーの」

「俺も、よくそれある」

 仲間たちが一人暮らしあるあるを言い合って、けたけたと笑い合う。それを聞きながら雅紀は、自分がそんな思いをしたことが一回もないことに気が付いた。

 家に帰れば当然飯がある。それも食べ慣れた自分好みの味だ。帰る、と言ってさえいれば、尚人はどんなに帰りが遅くなっても雅紀の分の食事を用意しているし、昼近くに起きても朝昼兼用に準備された弁当が置いてある。時には、ちょっとした夜食用やつまみ用とおぼしき物が冷蔵庫に入っていることもあり、そんな時は仕事で疲れていることが多く、雅紀は冷えたビールと共に遠慮なく頂いていた。洗濯物も脱衣所のカゴに放り込んでおけば、翌日には綺麗に畳まれて部屋に置いてある。掃除も行き届いており、家の中の埃が気になったことなど一度もない。庭の雑草も「随分伸びてるな。まあ、夏だし」と思っていると、次目にした時には綺麗に引いてあるのが常であった。

 その全てを尚人は、学業の合間に一人やっていたのだ。雅紀は、自分が中学生の時には、朝練夕練が当たり前の部活動に明け暮れる忙しい日々を送っていたが、家では、家事などたまにするお手伝い程度で案外ゆっくり過ごしていたように思う。いや、家でのゆっくりした時間があったから、学業とハードな部活動をこなすことができていたのだ。いわゆる家族の支えがあって、というやつだ。

 では、孤軍奮闘している尚人は? 誰に支えられているのか。

 ふと、それを意識した時、雅紀はとんでもない罪悪感に襲われた。なのに尚人には労わりの言葉も感謝の言葉も掛けることが出来なかった。尚人への邪な想いを自覚して、その想いを押さえ込むのに必死で、屈託のない笑顔を返されたらその必死に抑えている想いを抑え続けられなくなるのが怖くて、そんな想いを自分にさせる尚人が腹立たしくて、結局現実から目を背け続けたのだ。

 雅紀にとっては、思い返すだけで胸焼けする苦い記憶である。そして、尚人を孤独へ追い込んだそのつけは、雅紀自信、思わぬ形で払う羽目になった。

 中学の進路選択。尚人は雅紀に相談することなく志望校を決めていた。その三者面談は、雅紀の頭を飛び越えて加門の祖母へ話が行っていた。三者面談の希望日提出期間と雅紀の海外ロケが丸かぶりしていたと後から聞いたが、それでも保護者を自認していたのに尚人にさっくり無視されたようで腹立たしくてならなかった。

 志望校合格後は、何の相談もないままに、片道五十分もかかる道のりを自転車通学をすると一人勝手に決めていた。雅紀は密かに、翔南高校までの通学方法調べて検討していたのだ。定期代がどれくらい掛かるかも含めて。それなのに、である。仕事に逃げて尚人を無視していたのは自分なのに、腹立たしくて「勝手にしろ」と言い捨てた。その時の尚人の寂しげな笑顔がぐさりと雅紀の胸を抉って、自分の吐いた言葉を後悔して自家中毒を起こしそうだった。その時も、いたたまれずに自分の部屋へ逃げ込んだのだ。

 あれから雅紀と尚人の関係は変わった。秘めていた想いを全て吐き出して、心も体も繋げている。雅紀の歪んだ愛情に最初は怯んでいた尚人も、今では受け入れてくれている。

「まーちゃんが好き」

 というその言葉も、子供の頃とは意味が変質しているはずだと思いたい。

 それでも時々、尚人が実は兄妹弟の中でも負けず劣らずの強情で、一度こうと決めればてこでも動かない性格の持ち主だと思い出して不安になるのだ。

 ––俺……高校まで行かせてもらえれば、それでいいから。

 ––そしたら、あとはどこでだって、ちゃんとひとりでやれるし。

 あの時のあの決断は、ちゃんと覆っているのだろうか、と。

 雅紀は視線を上げて、机に向かって勉強に集中している尚人の背中を見つめた。受験生のはずの尚人の邪魔をしたくなくて、でも少しでも尚人と一緒に居たくて、雅紀は最近、尚人の勉強中はこうして尚人の部屋でメールチェックをしたり仕事用の資料を読んだりしながら静かに過ごしている。

 視界に尚人の姿が入るだけで安心する。心が満ちるのがわかる。本当は今すぐにでも抱きしめて頭のてっぺんにキスし、耳たぶを食んでくすぐったげにくすめた首筋を舐め、そのまま唇を重ねて歯列を割り、差し込んだ舌で口内を思う存分蹂躙したいが、我慢して尚人の勉強が終わるのをじっと待っている。その待っている時間に、勉強が終わったら尚人をどうしてやろうかと頭の中で好き放題妄想するのが近頃雅紀が覚えた楽しみだ。待たされた分、セックスは濃厚さを増し、痺れるような快楽はより深くなった。だから、こうして尚人の勉強が終わるのをじっと待っている時間も雅紀は苦ではない。

 だが今は、ふと思い出したことがどうにも気になって、妄想を楽しむどころではなかった。疑念をすぐにでも解消したくて、雅紀は尚人が振り向きはしないかと熱い視線をその背に送る。が、集中力半端ない尚人の背中は身動ぎさえしない。それが何となく腹立たしくて雅紀は顔をしかめた。

 自分勝手すぎる、という自覚は十分すぎるほどありながら。

 だから雅紀は、数分後、尚人の背中が揺らいで尚人が大きく伸びをした時、すぐさま歩み寄って背後から力一杯尚人を抱きしめたのだ。予想通り尚人のほっそりとした体がびくりと反応して、雅紀はうっそりと笑う。

 尚人は、背後から急に体を触られるのが好きではない。それは、ぐでんぐでんに酔っ払った雅紀に何の労りもないまま後蕾に熱く猛った物を突っ込まれた時の痛みと怖気(おぞけ)、それと、自転車通学の男子高校生ばかりを狙った暴行事件に巻き込まれた際の背後から自転車ごと蹴り倒された時の恐怖が刺激されるからだ。刺激が強すぎると、尚人はパニックを起こす。尚人の抱えるトラウマだ。

 それを知っていながら、あえてトラウマを刺激するような事をしたのは、思い通りの反応が返ると自分が尚人をコントロールしている気になって満足するからだ。歪んでいる。そんなこと、雅紀は十分すぎるぐらい自覚していた。

 そして雅紀は、驚かせたお詫びとばかりに甘いキスをする。尚人が大好きなバードキスだ。角度を変えて何度も唇をついばんでやる。そうしている内に尚人の体温が上がってくるのを感じる。快感が刺激され感情が(たかぶ)ってきた合図だ。それでお許しが出たと判断した雅紀は、唇をきつく吸ってから口内に舌を差し入れ、歯茎の裏も表もしつこいくらいに舐め回し、思う存分舌を絡め合った。

「まー、ちゃん」

 雅紀が満足して尚人を解放した時、尚人は息も絶え絶えだった。隠微に潤んだ瞳が雅紀を見つめる。それに雅紀の下腹部は刺激され、熱く立ち上がって脈動を始めた。このまま押し倒してしまおうか、と思わなくもなかったが、それよりも先に疑念を解消しなければならない。

「ねえ、ナオ。三者面談の連絡ってまだ?」

 雅紀が口にすると、

「三者面談?」

 虚を突かれたように尚人の双眸に驚きが浮かんだ。「いきなり何?」と、言いたげだ。

「三年生なんだから、そのうちあるだろう? 年間予定とかである程度時期が決まってるなら聞いとこうと思って。その方がスケジュール調整もしやすいし」

「んー、どうだったかな」

 尚人はそう呟くと棚からファイルを取り出して広げた。どうやら学校からのお知らせを綴っているファイルらしい。きれいにインデックスの貼られたプリントの中から尚人はすぐさま年間行事を見つけ出して目を通す。

「年間計画の中には載ってないかな。こないだ、二者面談ならあったけど」

「二者面談?」

「一週間5・6限の授業を自習にして、クラス全員、担任の先生と進路相談を兼ねた面談があったんだよ」

 頬がピクリと反応して、雅紀はプリントに視線を落としたままの尚人の横顔をむっと睨んだ。

 ––なんだそれ、聞いてないし。

 進路相談を兼ねた面談なんて、大事な話じゃないのか。

「それって、いつの話?」

「先、……先週だったかな?」

 つまりは、二週間も前の話ということか。

「ナオ」

 つい、声が尖る。すると尚人の口元が微かに引きつったのが分かった。声音で雅紀が何を言いたいのか察したのだろう。

「あの、……相談内容は進路だけに限らないって、先に説明があってたし。それに、その……。進路については、まだ決めきれてなくて」

 尚人の声が尻すぼみに小さくなる。

 ––決めきれてない、ってどういう意味だよ。

 就職先をどこにするか? それとも、就職試験を受けるか大学受験をするか? それとも、どの大学を受験するかってことで?

 雅紀は、ベッドの端にどさりと座ると、机に向かったままの尚人に声をかけた。

「ナオ、こっち向いて。それって、大事な話だろう?」

 雅紀の言葉に尚人がぎくしゃくと椅子ごと体を向ける。しょんぼりとしぼんだ表情が可愛すぎて、雅紀はむしゃぶり付きたい衝動に駆られたが、保護者を自認する兄としての務めを果たすことが先だとぐっと我慢した。

 牡として尚人を抱くのは、この後ゆっくりすればいい。

「決めきれてない、ってことは、迷ってるってことだろう? 何をどう迷っているのか、聞かせて欲しいんだけど」

 雅紀が促すと、尚人はわずかに上目遣いに雅紀を見た。

「卒業後の進路については、その……。企業を受けるか公務員試験を受けるかの二択で考えてたから、まーちゃんに去年大学受けていいって言われて、それから大学のこと調べ始めて。––正直、大学ってこんなにたくさんあるって知らなかったし、大学によって学べることが全然違うってことも、知らなくて」

 どうやら大学受験を前提には考えているらしい。雅紀はほっと息をつく。

「つまり、大学が多すぎて迷っている?」

「うん。でも、多いって言っても、家から通える範囲とか、合格が見込めそうとか、そういうことを考えると、そんなに多くはないんだけど」

「ナオ、大学はナオが本当にやりたいことができるかって基準で選んでいいんだからな。都内の大学だって、電車を使えば通えるんだし」

 何なら都内にマンションを借りたっていいのだ。尚人が承知するとは思えないが。

「うん。わかってる。––っていうか、一番悩んでるのがそこって言うか」

 尚人は微かに言い淀むと、今度は雅紀の目を真っ直ぐに見つめた。

「俺、この先もずっと、まーちゃんと一緒にいたい。だから、どうやったら、ずっと一緒にいられるんだろうって。お荷物なままじゃなくて、ちゃんと自分の足で立って、時にはまーちゃんの支えになってあげられる位の存在に、どうやったらなれるんだろうって。考えてるんだ。そのために、大学に行って何を学んだらいいんだろうって。……その答えが、なかなか見つからなくて」

 雅紀は、尚人の告白にじんと胸が痺れた。自分が思っている以上に尚人が自分を思ってくれている事実に、体中が熱くなる。雅紀はもう我慢ができなくなって、尚人の腕を掴んで引っ張ると、膝の上に抱え込んでぎゅっと抱きしめた。

「ナオがそんなふうに考えてたなんて、すごくうれしい」

 雅紀は、尚人の首筋に顔をうずめてささやく。

 愛しくて、愛しくて、愛しくて、たまらない。一時は手放すしかないのかと考えたこともある。自分の歪んだ愛情で尚人を汚すのが怖くて。尚人に普通の未来を与えてやりたくて。それでも、手放せなくて。想いに蓋をし続けることが出来なくて。払っても払って湧き上がってくる欲情を無視出来なくて。

「俺は、ナオが傍にいてくれるだけで、何だって出来る気がするよ」

 雅紀は、熱い熱い想いを込めて、尚人の唇に自分の唇を重ねた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

思い出の痕跡

4巻「相思喪曖」に登場したお向かいさん、森川家の長女明美(架空キャラ)視点の話。


「こんにちは」

 実家の門扉を開けようとしていた明美は、背後から掛かった声に内心舌打ちをした。

 明美は、現在都内の会社に勤める社会人1年生。普段は会社近くのアパートで一人暮らしをしているが、夏休みを実家で過ごそうと帰省してきたのである。本気でのんびりしたければ、旅行より実家だ。三食昼寝付き、洗濯もしてもらえる。いまだ慣れない会社勤めでくたくたになった体は、思いっきり甘やかしてくれる実家で英気を養う必要がある。

 が、近所付き合いだけが面倒くさい。実家周辺は昔からの顔なじみばかりで、道端でばったりご近所さんに出くわせば無視するわけにもいかない。近所のおばちゃんの中にはやたらと近況を詳しく聞きたがる『取調おばさん』もいて、そんな人に捕まれば話が長いどころか、話した内容は瞬く間に近所中の知る所となるのだ。

 例えば「森川さん家の明美ちゃんは、〇〇という会社に勤めていて、今住んでるところは〇〇町で、会社までは毎日○○分掛かって通勤をしていて、休日は〇〇で過ごすことが多くて、現在彼氏は募集中らしいわよ。ねえ、あなた、明美ちゃんに紹介できそうな、いい人知らない?」などと。

 だから、最寄駅からここまで、近所の誰にも会わずにほっとした所だったのに、まさか家の前で声を掛けられるとは。しかし、挨拶された以上、無視はできない。

「こんにちは」

 明美は、渾身の力を振り絞り、愛想笑いを浮かべて振り向き様に挨拶を返す。直後、明美は挨拶の相手を確認して軽く驚いた。

「え、あ。ひょっとして、尚くん?」

「そうです。お久しぶりですね、明美さん」

 にこにこと温和な笑みを浮かべているのは、間違いなく向かいの篠宮家の次男、尚人だ。歳が離れているため親しく交流していたわけではないが、それでも家が真向かいということもあり何度も顔を合わせたことがある。子供の頃は母親同士互いによくお裾分けをし合っていた記憶があり、明美もそのお裾分けを届けるために篠宮家を訪ねたことが何度もある。

 まあ、その時は、長男の雅紀に会えるかも、という下心あってのお手伝いだったのだが。

 尚人は今学校から帰ってきたのだろう。夏の制服姿で自転車を押している。カゴには、途中スーパーで買ってきたと(おぼ)しき買い物袋からネギが飛び出していた。

 男子高校生の自転車カゴに積まれるにはあまりにも違和感のある映像に明美が何と言葉を繋いだものか思案している間に、

「では、失礼します」

 尚人は笑顔のまま軽く会釈して、ガレージの方へと姿を消す。その背を見送って、明美は自分でもよくわからない息を一つ(こぼ)した。

 

 

「ただいまー」

 玄関先で声を上げると、明美はそのままリビングへ直行した。キッチンで洗い物をしていた母親がエプロンで手を拭きながら振り返る。

「あら、明美。おかえり。早かったのね」

「うん、どうせならこっちでお昼食べようと思って、何かある?」

「残り物で良ければあるわよ。あ、素麺(そうめん)湯がいてあげようか」

「うん。お願い」

 明美は答えて荷物を自分の部屋へ運ぶと、洗面所で手を洗ってリビングに戻った。

「今、家の前で尚くんに会って。ちょっと、びっくりしちゃった」

「え、何で。尚くん、何か様子でもおかしかった?」

「いや、そんなんじゃないけど」

 テーブルについた明美の前に、ポテトサラダとナスの煮浸しが置かれる。直後鳴ったアラームは、素麺が茹で上がったことを知らせるタイマー音で、母親は手際良くザルにとって冷水で〆ると、ボウルに盛り付けてテーブルに並べた。

「いただきます」

 座っているだけでご飯が出てくる至福。「やっぱり、実家って最高」と心の中で呟きながら素麺を頬張る。母は麦茶片手に向かいに座った。

「で、尚くんがどうだったって?」

 心配げな母の表情に、明美はキョトンと母を見返した。お向かいさんとはいえ、よその子がそんなに心配なのか、と。明美にとっては違和感があったのだ。

 だが、そう思ったところで、向かいの篠宮家が、大変な状況にあったのだったと思い出す。父親が不倫して家を出て行き、母親が精神を病んで自死したと聞いた。その渦中、明美は大学受験に専念しており、その後は都内の大学に通うために実家を離れた。だから、ご近所中で噂だったというその事実を知ったのはずっと後のことだ。雑誌で雅紀を見かけるようになって、実家に帰省した時にその話題を口にして、母が「奈津子さんも、もうちょっとだけ頑張っていられたらねぇ」と呟いたことで知ったのだ。篠宮家がどれほど悲惨な状況にあったのか。雅紀がなぜモデルの道を選んだのか。

 そして最近では、自転車通学の男子高校生ばかりを狙った暴行事件の被害者がカリスマモデルMASAKIの実弟だったと報じられたことをきっかけに、篠宮家のスキャンダルは全国区でダダ漏れになった。

 ––あ、そうか。尚くんって、あの事件の被害者だった。

 だが、さっき会ったばかりの尚人は、そんなことを思い出させもしない雰囲気だった。柔和な笑みに耳に優しいまろやかな声。男子高校生とは思えないような自然で涼しげな雰囲気。自転車に乗ることも抵抗がないように見えた。

「尚くん、大きくなったなぁって」

 明美が言うと、「何だ、そう言うこと」と言わんばかりに母が安堵の息をつく。

「私が最後に尚くん見たのって。多分、大学進学で実家離れる前だから……」

 小学生のはずだ。

 ––そうだ、あの時だ。

 と、明美は思い出す。

 近所のスーパーの前だった。長男の雅紀と二人、買い物袋を手に下げていた。

「ナオ、そっち持ってやるから、こっちにちょうだい」

 雅紀が弟の尚人に優しく声を掛けていた。雅紀は高校生だ。もともと近所でも評判の美形兄妹弟だったが、高校生になった雅紀の美貌は目が眩むばかりだった。家が真向かいとはいえ、そうしょっちゅう顔を合わせるわけではない。部活に打ち込んでいるらしい雅紀とは生活時間のズレもあり、明美が雅紀を見かけたのは本当に久しぶりだった。

 ––超ラッキー♡

 明美は、ただ単純にそう思ったのだ。

 だが今振り返ると、あの時二人が両手いっぱいの買い物袋を手にしていた意味が重い。あの時にはすでに、父親は不倫して家を出て行き、母親は四人の子供を養うために慣れない会社勤めで体を壊し、食事の準備もままならなくなり始めていたのだ。

 それを考えると、我が家の何と恵まれていることか。

「そういえば尚くん、制服姿だった。今日登校日だったのかな」

 明美がふと疑問を口にすると、母が呆れたようにため息をついた。

「あんた、ねぇ。尚くん、翔南高校に通ってるのよ。課外に決まってるじゃない」

「え、翔南高校って、こんな時期まで課外するの?」

 明美は驚く。明美の通った高校だって一応進学校だ。当然、夏休み課外も組まれていた。が、ひと月半ある夏休み期間の内、課外があるのは前期十日、後期十日と決まっていた。それでも、県内では結構長い方だったはずだ。高校時代は「こんなに課外があるんじゃ、全然夏休みじゃない」と文句タラタラだったのは言うまでもない。

「翔南高校は、夏休み実質二週間らしいわよ」

「うっわー。さすが超進学校」

 明美はポテトサラダを口に放り込んでから感嘆の声を上げた。

 地元民ならば、翔南高校がどれほど偏差値の高い学校か誰もが知る。県内公立高校間では、密かに国立大学進学率を競い合っているのだが、どの高校も翔南高校には勝てないと分かっているので、実質二番手競争をしているようなものだ。明美の通った高校でも、進路担当の先生が集会等でよく「昨年度は〇〇高校に勝った。お前たちは、その上を行け」みたいな発破の掛け方をしていた。正直言ってうざかったが、何となくプライドを刺激されていたのも事実だ。Fランクと言われる大学に行ったってしょうがないんだ、みたいな。

 大人になってみれば、何とも馬鹿馬鹿しい限りだが。

 進路は見栄で選ぶのでも、学校の面子とやらを保つために選ぶのでもない。

 それでも、

「翔南高校って、すごいよね。尚くん」

 素直にそう思える。

 尚人が高校受験の頃は、すでに両親ともいなかった時期だ。しかも一番下の弟は、中学校進学と同時くらいに引きこもりになったと聞いている。仕事でほとんど家にいない兄と引きこもりの弟の間で、家事を一手に引き受けていたのが次男の尚人だと、近頃メディアではひっきりなしにそう紹介していた。

 そういえば今日も買い物袋が自転車カゴに入っていたと思い出す。袋から飛び出したネギの青さが妙に目に鮮やかだった。

 明美が篠宮兄妹弟と多少なりとも交流があったのは、小学生までだ。雅紀が一つ下、沙也加が四つ下だったから、登校時はよく顔を合わせたし、近所の公園で見かけることもよくあった。公園で見かけた時は、雅紀はよく尚人と楽しげに遊んでいた。弟思いのお兄ちゃんなんだな、というのが明美の印象だ。あんな王子様みたいにきれいな顔をしているのに五歳も下の小さな弟と砂場で一緒に遊ぶんだ、というのが驚きでもあった。

「ナオ。もう、砂だらけじゃなか。ほら、払ってあげるからこっち来て」

「ナオ、ほっぺに砂がついてる。こっち向いて。拭いてあげるから」

 柔らかな笑顔で、いつも弟の面倒を見ていた。

 明美にも弟がいるが、あんなに面倒見れない、と思ったものだ。

 それに対し「尚ばっかりずるい」と、いつも不満げな顔で雅紀にまとわりついていたのが沙也加だ。

 明美は、正直言って沙也加が苦手だった。四つも下なのに、何と言うか目力が強すぎて、近寄りがたいのだ。それに、何となくいつも不機嫌な表情をしていた。家の前で会って挨拶をしても、愛想笑いの一つもしない。つんと澄ましていて、どこか見下されている感じすらあった。

 それはひょっとすると、明美の中に雅紀に対するほのかな恋心があって、––というか、近所の同年代の女子で雅紀に好意を抱いていない女子など一人もいなかったはずだが、その内面を見透かされたかのように、

「私のお兄ちゃんに近づかないで」

 と、面と向かって言われたことが関係しているのかもしれない。

 中学校に進学すると、一つ下の雅紀とは二年間同じ中学だったが、剣道に打ち込んでいた雅紀とはまるで接点はなく、時々廊下で見かけても視線がかち合うこともなかった。ただ、雅紀が入学して来た時の同級生の騒ぎっぷりと言ったらすごいものがあり、家が真向かいと知ったクラスメイトなどから、訳のわからない羨望も中傷も受けたのがいい迷惑だった。

 だから雅紀がMASAKIとして売れ始めても、「私、家が真向かいなんだ」などとは親しい友人にも決して口にしなかった。余計なトラブルしか生まない、というのをすでに経験済みだったからだ。

「尚くんって、なんか雰囲気変わったよね。子供の頃って、物静かっていうか、おっとりって言うか」

 いまいち存在感ない、みたいな……。とは、さすがに声には出さなかったが、明美には一番しっくりくる言葉だった。超絶美形な兄と目力半端ない姉の下で、あまりにも普通というか。

 さらには一番下の弟はエネルギーの塊みたいな存在で、8コも違えば明美にとっては近所の単なる悪ガキという存在でしかなかったが、尚人が静かながらもせっせと作っている砂山を裕太が豪快に蹴散らすという場面は何度も目にした。

 まあ、あれは案外、兄に構ってほしいヤンチャ坊主なりのアピールだったんじゃないかと今なら思うが。

 尚人の、穏やかで静かな感じは変わらない。けれども、静けさの種類が変わった、とでも言うのだろうか。『静か』というのが『存在感がない』という意味ではなく、『確かにそこにある安心感』とでも言えばいいのか。

 高校生相手にそんな風に思うのも、おかしいのかもしれないが。

 そんなことをつらつらと考えていると、

「あんた、今頃何言ってんのよ」

 母が心底呆れたように明美を見やった。

「近頃は、密かに雅紀くんより尚くんの方が人気あるんだから」

「え、人気って何?」

 明美は本気で聞き返す。

 母がわずかに身を乗り出した。

「あんた、覚えてない。小学生の時に一緒のクラスだった野島さん」

「ん? ああ、野島さんね。確か、5、6年生の時一緒だったかな」

「その野島さんのお母さんね、近所のスーパーでパートしてるのよ。で、時々顔を合わせた時に話をするんだけど、尚くんが学校帰りにスーパーに寄ってくれた日はめちゃくちゃ癒されるって、パートさんたちに人気らしくてね。それで夕方時間帯のシフトって、密かに激戦なんですって」

「なに、それ」

 明美はぽかんと口を開けた。

「尚くんって買い物の時、すっごく吟味して商品選んでるらしんだけど、その真剣な顔がたまんないらしいのよ。で、時々半額のお肉とかあった時に、すっごく嬉しんだけど喜びすぎちゃダメって感じで我慢している顔がまたものすごくいいんだって。それで、尚くんがスーパーに顔を出したら、パートさんたちがこっそり先回りして半額シール貼ったりすることもあるんですって」

 明美はもう開いた口が塞がらなかった。

「パートさんが、勝手にそんなことしていいの?」

 明美が至極当たり前の疑問を口にすると、母はわずかに肩を(すく)めた。

「店長もさ、あそこの家が大変な思いしたの知ってるから、目を瞑ってるみたい。時々、程々にねって、遠回しに注意されるみたいだけど」

「へぇ」

「まあ、そうは言っても、こないだ尚くんと雅紀くんが二人でスーパーに現れた時は、スーパーのバックヤードで皆大興奮して、初めて生で雅紀くん見た人の中には、本気で卒倒した人がいたんだって」

 明美は、麦茶で喉を潤す母を見遣りながら苦笑するしかなかった。子供の頃から雅紀の美貌を見慣れているはずの明美だって、テレビや雑誌で雅紀の姿を見かけると、どうしようもなくドキドキする。長らく生の姿を見ていない現在、急に見かけたら自分だってどうなるか、明美にもわからない。

「お母さんはさ、家の前で雅紀くん見かけたりするの?」

「それが、滅多にないのよねぇ。今はほら、雅紀くん車使ってるから、ガレージに車があるかどうかで帰ってるかどうかの判断はつくんだけど」

 言われて明美は、先ほど視線を向けたガレージに車が止まっていなかったことを思い出す。つまり今は、雅紀は不在ということだ。

 母と他愛もないことを話しながら昼食を終えて、使い終わった食器をシンクへ運ぶ。家のインターンフォンが鳴ったのは、その時だった。

「はい」

 と、母が応対する。親機は玄関近くの廊下だ。相手の声は聞こえなかったが、応対する母の声がリビングまで響いた。

「あら、尚くん! 今、玄関開けるから」

 それからバタバタと母が動く気配が響いて、1分も経つか経たないかという時間で母はリビングへ戻ってきた。

「明美、あんたが帰ってきたのを見て、お裾分けですって」

 そう告げる母の手に握られてたのはクッキーの入った袋だった。

 明美はただキョトンと見返す。

「試作品で悪いけどって。シナモンと紅茶とナッツのクッキーだって」

 テーブルに置かれた、市販品と遜色のないそれらを見遣って、明美はただ固まった。

 ––え、尚くんの手作りってこと?

 ––尚くん、男子高校生だよね? 女子力高すぎじゃない?

 正直、クッキーなんて焼いたことない。

「––てか、何で私に?」

 ––ひょっとして、尚くん……

 と、明美がほんのちょっとだけドキッとすると、

「何言ってんの。あんたにじゃないわよ」

 母が、あっけらかんと笑う。

「こないだ、お中元で貰ったハム、お裾分けしたのよ。だから、そのお返し。尚くん律儀だから、何かお裾分けすると必ずお返し持ってくるのよ。それがすっごく自然でさりげないっていうか、わざわざ感がないのがすごいのよね。時々高校生って忘れちゃうくらい」

 母はそう言いながら、早速袋を一つ開ける。

「んー、さすが尚くん。市販品なんかより断然美味しい」

 口に頬張り、母が笑う。

 今は明美も弟も家を出て、実家は母と父の二人だ。まだまだ若い二人だから健康面での心配はしていないが、寂しくはないだろうかと、少しだけ心配していたのは事実だ。

 だが、それも杞憂だったようで、明美は小さく苦笑する。

「お向かいが篠宮さん()で良かったね」

 奈津子さんが生きていた頃、母がよく口にしていた言葉だ。

 ––お向かいが、篠宮さん家でよかった。

 明美の言葉に、母はただにっこりと微笑んだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

現実の切れ端

尚人を暴行した犯人についての「独占仰天スペシャル」を目にしての裕太の反応。


「はあぁぁ!」

 家には裕太以外誰もいない平日の昼下がり。自室でパソコンと格闘していた裕太は、何気にクリックしたニューストピックスの記事に、思わず声を上げた。

 そこには、カリスマモデルMASAKIの実弟を暴行して捕まった犯人の正体について、仰天事実をスクープした雑誌の紹介という形でニュースが掲載されており、雑誌からの転用だと注釈が付いたその記事によると、尚人を襲った犯人は、あのクソ親父の愛人の妹の幼馴染みとある。それであの事件が実は、不特定多数を狙った不良少年たちの暇つぶしなどではなく、最初から尚人をターゲットにしたものだったのではないか、と書き立てているのだ。

 ネット記事のコメント欄には、

『まじか。ありえんの、こんなこと』

『今年どころか、ここ数年で一番驚いたニュース』

『これが事実なら、父親鬼畜すぎて、まじトリハダ』

『世の中にはこんな親もいる。それが現実』

『まてまて、オヤジの教唆とは限らんでしょ。愛人の方の指示じゃないの? そもそも暴行犯は愛人姉妹と知り合いみたいだし』

『他人不幸にした金でお嬢様学校に通える厚顔無恥の愛人妹。それだけで、すごすぎ』

『経済的な困窮に追い込むだけじゃ満足できずに、不良の幼馴染みけしかけたって理解でいいの?』

『母親自殺したのも、愛人からの嫌がらせが背景にあるんじゃない?』

『母親の方は精神的に追い込んでコ○し、息子の方は暴行してコ○そうとした。こんな女のどこがよくて愛人にしてんの?』

『そりゃ、アッチの方の相性がいいんでしょ』

『下半身の欲望に負けた。ある意味男らしい』

『実は姉だけじゃなくて、妹の方も喰ってたりして』

 ネットユーザーたちは言いたい放題だ。所詮他人事。真偽など、どうでもいいに違いない。

 裕太は、コメント欄を読むのを途中でやめた。

 おそらく、ここに真実など何もない。

 パソコン初心者の裕太にとって、最初ネットの世界は驚きに満ちていた。家にいながら、ありとあらゆる情報が検索できる。最新のニュースも、新聞やテレビで確認するまでもなく、検索サイトのトピックスとして上がってきて、気になればそこをクリックしさえすればいい。

 だが、篠宮家のスキャンダルに関する記事を何度か目にしている内に、ネットに書かれていることが全て事実なわけじゃない、ということに裕太は早々に気が付いた。というより、ネット記事は無責任でいい加減で、ほとんどが憶測混じりの虚構だと言ってもいい位だ。

 それを思い出して、裕太はネット記事に反射的に驚いてしまった自分に舌打ちした。

 裕太は、他人に感情を揺さぶられることに不快感がある。それは今まで散々、親の都合、大人たちの都合、上の兄姉たちの都合を押しつけられた、という事に対する怒りがあって、そして、そのどうしようもない怒りの持って行き場がなくて周囲の全てを拒否するという行動を取ったものの、実はそれが独りよがりの身勝手でしかなかった、ということに気付いたからだ。

 ––これからは周りの人間には振り回されない。自分で考え、自分で結論を出す。

 裕太はそう決意したのだ。

 雅紀は、尚人を襲った暴行犯と対面するなりその顔面を思い切り殴りつけた、らしい。雅紀にとっては、相手がクソ親父の愛人と繋がりがあろうがなかろうが関係ないに違いない。尚人に手を出した時点で、殴り殺してやりたいくらいの相手なのだ。

 事件後、尚人が深刻な精神的後遺症を抱えていると裕太が知ったあの夜、雅紀の見せた不穏な気配は背筋がぞくりとするほど本気だった。もし尚人があの事件で最悪命を落としていたら、雅紀は本当に相手を殴り殺していただろう。

 では、自分はどうか。

 姉の沙也加からの電話で、尚人が近頃世間を騒がせている暴行事件に巻き込まれたかもしれないと知った時、裕太は言葉にできない恐怖に襲われた。家に一人取り残されることの得も言われぬ寒々しさ。足が(すく)んで、部屋に戻ることすらできなくて、雅紀が帰って来るまでリビングのソファーで一人膝を抱えて過ごした。

 あの時裕太の中にあったのは、犯人に対する怒りではなく、一人ぼっちになってしまうかもしれないという恐怖だった。

 今の篠宮家が何とか三人で家族という形を保っているのは、尚人がいるからだ。尚人がいるから雅紀はこの家に執着し、尚人が裕太を構うから雅紀は裕太をこの家に置いている。尚人がいなくなれば、篠宮の家はあっさり消えて無くなるだろう。

 もし、そうなれば自分は一体どこへ行けばいいのか。

 堂森の祖父母の家? あり得ない。

 沙也加がいる加門の祖父母の家? それはもっとあり得ない。

 ––この家を出て、俺は……どこへ行けばいいわけ?

 かつて尚人はそう言ったが、それは裕太だって同じだ。この千束の篠宮の家以外に裕太の行き場はない。この家だけが裕太にとって家なのだ。そして裕太の唯一の居場所であるこの家は、尚人の存在で持っている。

 だから裕太は、尚人の怪我が思ったよりも軽度だったと知ったとき、心底安堵したのだ。

 ––だけど、本当にそれだけ?

 近頃心の奥底で、そんな声がする。

 尚人の怪我は思ったよりも軽度で済んだ。だが尚人は、見た目とは裏腹に精神的後遺症を抱えた。事件以降、尚人は時々、夜中にうなされる。背後から襲われた恐怖が何かの拍子に刺激され、パニックを起こすのだ。呼吸もままならないほどに体を固く硬直させ意識を失う。放置すればそのまま呼吸が止まって死んでしまうのではないかと思うほどの症状だ。それが怖くて裕太は、尚人が寝ついてしまうまで眠れなくなった。階下の気配を伺い、尚人が就寝したはずの十二時過ぎ、一度尚人の部屋の前まで行って耳をすまし、何の声も聞こえないことを確認する。それが裕太の習慣になった。

 それが、尚人を純粋に心配する行為なのか。自分の居場所を失わないための行為なのか。それとももっと別の意味を持った行為なのか。

 裕太自身、わからない。

 とにかく毎日、尚人が寝静まるのを確認する。

 そうしないと裕太自身落ち着いて眠れなかった。

 もちろんそれは、雅紀がいない日に限った話だが。

 雅紀は家に帰れば必ず尚人を抱くから、そんな時に階下の部屋から聞こえてくるのは尚人の淫らな喘ぎ声だ。日頃の尚人からは想像もできなくらい艶っぽい声を出す。その声に裕太の下腹部は刺激される。熱く猛って先っぽが湿り、思い切り精を吐き出したい衝動に駆られる。最初は受け入れ難かったが、どうしようもない事実だ。事実を事実として受け入れなければ、何も進まない。それが、裕太がこの五年で学んだ真実だ。だから裕太は、尚人の嬌声に刺激され、自慰にふける自分を受け入れることにした。

『俺はナオにしか発情しないんだよ』

 雅紀は、見事なまでに開き直ってそう言った。

 雅紀の言う『発情』は『愛している』の同義語だ。それは、一度二人がセックスしている生々しい現場を覗き見て思い知らされた。雅紀は裕太が見たこともない程の優しい眼差しを尚人に向け、それはそれは愛おしげに尚人を撫で回し舐め回していた。セックスの経験などない裕太だが、あのセックスが単なる性処理ではないことは一目瞭然だった。

 では、尚人の艶声に刺激される自分は、何なのだろう。ケダモノには違いない。兄二人のセックスに興奮しているのだから。しかし、他に経験がないから、尚人以外の声にも刺激されるのかどうかが解らない。だが、解らないからと言って、アダルトビデオをレンタルしてこようという気にはならないし、ましてやそれが男同士のものならなおさら、考えただけでも嫌気が差す。

 尚人が特別なのか。

 尚人だから特別なのか。

 いまだ結論が出ない。そのことに裕太は近頃もやもやしている。

 その時不意に、階下で音がした。

 裕太は一瞬どきりとする。あのクソ親父が家の権利書を狙って家に侵入してきたのはついこの間だ。気持ち悪い猫なで声で裕太の名を呼んだ。それが鳥肌が立つほど不快で、気が付いた時には手にしていたバットで殴っていた。

 その時のことを思い出したのだ。

 しかし、あのあと雅紀はすぐさま家のセキュリティーを強化し、玄関は電子錠に変えた。あのクソ親父が合鍵を使って侵入してくることは二度とないはずだ。

 そう思っていると、階段を上がってくる足音が響く。一定のリズムを刻むゆったりとした少し重いこの足音は雅紀のものだ。

 雅紀の予定などほとんど把握していない裕太にとって、この帰宅が予定通りなのか違うのか知らないが、仕事を終えて帰ってきたのだろう。モデルをしている雅紀の帰宅時間は本当に不規則だ。

 雅紀は、扉を開けたままの裕太の部屋の前を素通りする。廊下から裕太の姿が見えるはずだが、裕太になどわざわざ声を掛けない。「ただいま」という言葉すらだ。そして裕太も「おかえり」などと言わない。それも、いつものことだ。

 裕太は時計に目をやる。

 午後一時過ぎ。そろそろ尚人が課外を終えて学校から帰ってくる時間だ。多分ではなく絶対、雅紀はこの時間に間に合うように帰ってきたのだ。

 定刻、再び階下で音がする。尚人が帰って来た音だ。続いて、雅紀が階段を降りて行く。

「ただいまー。って、まーちゃん、帰ってたの。おかえり!」

 予想通り、弾んだ尚人の声が響いた。

 普段の尚人は静かで落ち着いた声質なのに、雅紀の前だと数トーン跳ね上がる。それは電話でも同じことで、だから裕太は、尚人が雅紀と電話している時はすぐにわかる。

「お昼は? 食べてきた?」

「いや、家で喰おうと思って帰ってきた」

「じゃあ、今から作るから、ちょっと待っててね」

「昼からの予定は?」

「んー、特にないかな。スーパーに買い出しに行こうかなとは思ってるけど」

「じゃあ、車出してやるよ」

「え、本当? じゃあ、ディスカウントストアも寄ってもらっていい? トイレットペーパーとか買いだめしときたいから」

「ああ、もちろん」

 何気ない兄二人の会話に耳を傾けながら、裕太はパソコン画面に開いたままだったネットニュースを閉じた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幸せの余韻

11巻「悋気応変」で臨時の通訳バイトを終えてホテルで一夜を明かした尚人と雅紀。


 カーテン越しの光の眩しさに目を覚まし、雅紀は腕の中にある温もりを確かめて微笑んだ。

 尚人は寝息も立てず静かに眠っている。目を閉じた尚人は普段より幼く見えて、昨夜の淫らさなど欠片もないほどに無垢だ。雅紀はそんな尚人の髪を何度も()いて額に軽くキスをする。それでも身動ぎさえしないのは、昨夜の情事に疲労困憊なのだろう。

 昨夜、ホテル最上階のスカイラウンジでの食事を終えて部屋に戻って来たあと、

「キス……して」

 ひっそりと囁くような尚人の呟きに誘われて、雅紀は尚人にむしゃぶりついた。

 歯列を割って上顎をねぶり、小刻みに震える唇をねっとりと舐め上げて、舌を思う存分絡めあった。吐息にも似た甘い喘ぎと共に口角の端から唾液がこぼれ落ちていく様が淫らで、雅紀は尚人のこぼした唾液を追って首筋を舐め上げ、鎖骨のくぼみを通ってそのまま乳首を吸い上げた。

 刹那、尚人が小さく鳴いた。その声に雅紀の下腹部は熱を増し、脇腹が痺れた。尚人をもっと鳴かせたくて、股間にそっと手を伸ばして濡れそぼった蜜口を軽く(いじ)ってやると、尚人は身を仰け反らせてさらに愛液を吐き出した。

 そのあとは、尚人にねだられるままに双珠を揉んでしゃぶり、尖り切った乳首を指先でこねくり回しながら強く吸い、先走りでヌルヌルになった密口をしつこい位に弄った。人生初のアルバイトを無事にやり遂げた高揚感と、自宅とは違うホテルの豪華な雰囲気に当てられたのか、止まらなくなった尚人の(あえ)ぎはいつにも増して艶っぽく、雅紀の(おす)の部分を煽り立てた。

 尚人の中に早く入りたいと渇望する雅紀の熱く猛ったものが、先走りの(よだれ)を垂らし続ける。早く早くと脈動し、痛いほどに怒張する。それでも雅紀はぐっと我慢して、尚人をトロトロの快感の波に沈めていく。

 尚人のことが好きだから、尚人のことが愛しいから、尚人を大切にしたいから、暴走しそうな己の欲をコントロールする。ミルクを搾り取られ、もう出ないと息も絶え絶えに訴える尚人を四つん這いにして後蕾を舌先で(つつ)き、ジェルを絡めた中指をゆっくりと差し込んで第二関節まで沈めると、雅紀は腹側に指を曲げて硬く当たる部分を優しく刺激した。何も知らなければただ痛いだけのそこは、繰り返し刺激されることで快感を生む。男性にだけ存在する性感帯、前立腺だ。尚人とセックスを重ねる間に、雅紀がゆっくり時間をかけて開発してきたそこは、すぐさま尚人に射精する快感とは別の快感を与え始める。尚人の息が荒くなり、喘ぎながら身をよじる。指を二本にして刺激を強くしてやると、尚人は押し寄せる快感に抗うようにシーツに爪を立てつつも、自ら腰を振り出して、もっともっととねだった。

「まーちゃん、まーちゃんのでして」

 もっと強い刺激が欲しくて、指よりも太く熱いものが欲しくて、尚人が急かす。雅紀は尚人からのお許しをもらって、嬉々として後蕾に己を沈めた。絡みついてくる肉襞(にくひだ)の、そのあまりの気持ちよさに、雅紀の先端からはすぐさま精が吐き出される。それで少し落ち着いて、雅紀はゆったりと腰を揺すった。浅く深く出し入れを繰り返し、尚人の中をたっぷり味わう。雅紀をぴったりと包み込む肉襞が気持ちいい。尚人の喘ぎ声が脳髄を刺激する。いきり立った雄蕊(ゆうずい)を突き刺すたびに、快感が腰から背筋へと駆け上がっていく。

「ナオの中、すごくきもちいい」

 雅紀はささやきながら、ギリギリまで引き抜いて、また突き上げる。外からも下腹部を押してやり、リズミカルに腰を揺すって尚人の快感を引き揚げていく。

 しかし、雅紀に余裕があったのもそこまでだった。

「もっと、もっとして。もっと奥まで突いて、掻き回して」

 尚人のおねだりに、雅紀のなけなしの理性はあっけなく吹き飛んだ。あとはもう尚人の望むままに、激しく突いて掻き回し、足を思い切り開かせて腰を叩きつけ、中いきした尚人を休ませることなく突き回し、奥の奥へ気の済むまで何度も精をぶちまけた。

 そんな昨夜の情事を思い出し、雅紀はうっそりと笑う。

 ––最高の正月だな。

 加々美から連絡をもらった時は、正直不快だった。尚人を正月早々アルバイトに駆り出すなんて言語道断もいいところで、加えて一人で撮影現場に行かせるなんて心配の種しかなかった。

 尚人を信用していないわけではない。周囲の大人たちを信用していないのだ。

 ただし、加々美以外。––という注釈がつくのが、雅紀の弱点だった。

 結局、切羽詰まった加々美に押し切られ、アルバイトの件を承諾した。年内最後のカウントダウンステージの本番が迫り、ごねる時間も余裕もなかったせいもある。おかげで本番までの気持ちの持っていきように、雅紀は珍しく苦労してしまった。

 イベント後の打ち上げも、雅紀は加々美と2、3杯飲んだだけで早々にホテルに引き上げた。加々美と話したい者は行列をなしていて、雅紀が独占するわけにはいかなかったし、加々美以外の人間と酒を酌み交わしたい気分でもなかった。

 ––本当なら、元旦の昼には自宅に帰り着いて、ナオの作った雑煮を食べてまったり過ごす予定だったのに……。

 と思えば、悶々として気分は晴れなかった。それで昨日の目覚めは、あまりすっきりとは言えなかったのだ。

 それが一日経ってみれば、これである。雅紀は昨日と今日の自分の気持ちの有り様の違いを自覚して、苦笑せざるを得なかった。

 髪を梳いてキスをする。幸せな気分で尚人の寝顔を眺め、何度かそれを繰り返していると、尚人の(まぶた)がぴくりと揺れて、ゆっくりと見開いた。

「……まーちゃん」

 そのかすれ声に、雅紀は微笑む。昨夜、鳴き過ぎたせいだろう。

 鳴かせ過ぎた自覚は、大いにある。

「おはよう、ナオ」

「おはよう、まーちゃん」

 まだどことなくぼんやりとした瞳で自分を見つめてくる尚人が可愛すぎて、雅紀は尚人の唇を軽く(ついば)む。すると、尚人がわずかに顎を上げて、雅紀の唇にキスを返した。

 幸せすぎて、雅紀は尚人を腕の中に包み込む。すると尚人がもそりと動いて、雅紀の背中に腕を回した。

 素肌が触れ合うことで感じる穏やかな快感。雅紀は、背中から臀部にかけて尚人をゆったりと撫でる。尚人の背中は、しっとりとしなやかで、指感触(ゆびざわり)が気持ちいい。尚人もそうして撫でられるのが気持ちいいのか、微かに甘い吐息を漏らした。

 いつまでもそうしていたかったが、そういうわけにも行かないのがホテル泊の欠点だ。先ほどちらりと時計を確認したら、すでに九時過ぎだった。このホテルはチェックアウトが十二時だからまだ余裕はあるが、それでもそろそろ起きなければならない。

「ナオ、腹減っている? ルームサービス頼もうか?」

 雅紀が問いかけると尚人が小さく首を傾げた。

「ルームサービス?」

「朝飯、部屋に運んでもらうんだよ」

「部屋で朝ごはん食べるの?」

「ラウンジでも食えるけど、ナオ、まだ腰立たないだろう?」

 雅紀が口の端に笑みを乗せて言うと、尚人は耳を赤く染めながらも、こくりとうなずく。その姿が可愛すぎて、雅紀の笑みは自然と深まった。

「いつまでもナオにくっついていたいけど、そんなわけにも行かないからな」

 雅紀は、尚人のおでこに一つキスをしてから起き上がり、モーニングのルームサービスを頼むためにフロントに電話する。それからあちこちに散らばった衣服を拾い上げてバスルームへと持っていき、湯船にお湯を張った。

「ナオ、飯来るまで時間あるから、風呂に入ろう」

 そう囁いてから尚人を抱き上げ、風呂へと運ぶ。高級ホテルだけあって浴槽もそれなりに大きい。尚人を膝に抱えて入っても、ゆったりしていた。

 尚人が自然と肩口にもたれ掛かってくる。二人で風呂に入るのに慣れた証拠で、雅紀の独占欲を満たす。右手で湯を掬って肩に掛けてやりながら時々首筋を撫で、左手で尚人の体を支えついでに腹部をゆったりと撫で回す。

「ナオ、体大丈夫?」

 雅紀がこめかみに唇を寄せて囁くと、雅紀になされるがまま、ゆっくりと呼吸を繰り返していた尚人は、わずかに身をよじって視線を向けた。

「––まだ、体の奥にまーちゃんがいる感じ」

 刹那、雅紀の体がぞわりと反応した。

 ––ナオ、それって……反則だから。

 昨夜あれほど激しく抱き合ったのに、思い切り精をぶちまけたのに、尚人のひと言で下腹部が熱を持ち始める。

「ナオ……」

 もう一回喰っちまおうか。雅紀が本気で葛藤していると、部屋のチャイムが鳴った。ホテルスタッフがルームサービスを運んできたのだろう。

「残念。時間切れだ」

 雅紀は、尚人の首筋に手を添えて頬にキスをし、

「ナオはここにいて」

 そう言い置いて風呂から上がると、さっとバスローブを(まと)ってドアへ向かった。

 部屋の前で姿勢良く並んでいたホテルスタッフたちはさすがのプロで、無駄口など一切たたかず、手際良くテーブルに朝食をセッティングすると、必要な説明だけしてあっという間に部屋を出て行く。その姿を見送って再び風呂場へ向かった雅紀は、尚人を湯船から引き上げ、脱衣所の椅子に座らせて体を拭いてやった。

「 自分で拭けるよ」

 と言う尚人に

「知ってる」

 と雅紀は返して体を拭き上げると、バスローブを羽織らせる。

 バスローブ姿の尚人はなぜか裸でいるよりエロくて、自分で着せておきながらすぐさま剥きたい衝動に駆られたが、雅紀はそんな自分の欲望をぐっと飲み込んで我慢し、尚人をテーブルへ(いざな)った。

「わあ、すごい」

 テーブルクロスの掛けられた窓際の席には、サラダとオムレツ、ベーコンとウィンナーが彩りよく盛られたプレートに、パンとスープ、オレンジジュースとフルーツが並んでいる。典型的なホテル朝食だが、尚人の目には物珍しく映ったのだろう。ぱっと目の色が輝いた。

「すっごく、おいしそうだね」

「時間あるから、ゆっくり食っていいぞ」

 うん、と笑顔でうなずいて、尚人は「いただきます」と手を合わせる。

「あ、パン暖かい。焼き立てかな」

 呟いて口に頬張り、

「んー、おいしい」

 と顔を綻ばせる。

「洋風の朝ごはんって、なんかセレブっぽよね」

 そんなことを真顔で言う尚人が可愛すぎる。

 まあ、確かに、正月早々都内ど真ん中の高級ホテルのジュニアスイートで、ルームサービスを頼んで朝食を楽しむのは、雅紀でもしたことがない贅沢だ。と言うかこんなこと、尚人以外としたいとも思わないが。

「ちょっと通訳のアルバイトしただけなのに、すっごいおまけがついてきたよね」

 そんなことを言う尚人はどこまでも本気なのだろうが、通訳は英語が話せれば誰でも出来るというわけではない。話せる英語が日常会話程度ならばそもそも話にならないし、話の内容を直訳すればいいということでもない。意味を汲み取って最適な表現を選択する。それをタイムラグなしにするのが通訳だ。特に今回のような雑誌インタビューの通訳ならば、その訳した内容が雑誌に掲載される。相当な語学力がなければ務まらない。

 ––やっぱ、英検一級の語学力ってすげーんだな。

 英検一級に必要な語彙数は一万語以上とされ、英語ネイティブでも合格は難しいと言われている。毎年二万人以上が臨む試験で、合格率は約一割。聞く、読む、書く、話す、全てにおいて高い英語力が必要だ。

 だが、そんな英語力があったとしても、初アルバイトで見事大役を難なくこなした尚人の度胸には感服する。尚人ならば大丈夫だろうという思いはあったが、こうもあっさりこなされてしまうと、尚人があっという間に独り立ちして自分の元から去ってしまうのではないかという恐怖が湧き上がってきてしまう。

 兄でありながら尚人の唯一の(おとこ)でありたいと渇望する雅紀のジレンマだ。

「これも全部、まーちゃんのおかげだね」

 そう言って笑う、尚人の笑顔に雅紀は目を細めた。尚人の笑顔が好きだ。すごく幸せな気分にさせてくれる。胸の燻りが一気に晴れて、雅紀は自分のお手軽さにクスリと笑った。そんな自分が嫌いではない。

「ホテルの朝飯もいいけど、俺はナオが作った雑煮が食いたい」

「お正月だもんね」

 ちょっと天然なところもいい。

「帰ったら作るね。まーちゃんに食べてもらおうと思って、いっぱい食材買い込んでるから」

「すっげー、楽しみ」

 帰ったら、雑煮を食って、それからまたナオを好きなだけ喰おう。正月なのだから、明日一日ベッドの中で過ごしても罰は当たらないはずだ。

 雅紀は心の中で呟いて、にっこりと微笑んだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

交差する思惑

11巻「悋気応変」で臨時の通訳バイトを終えた尚人の様子を聞くために石田宏明を呼び出した加々美の話


 アズラエル本社ビルから一駅離れた繁華街の裏通りにある小さな日本料理店。日頃贔屓(ひいき)にしているその店に石田を呼び出した加々美は、約束の時間より十分も前に着いたのに、既に石田の姿があることに驚いた。何かイベントがあれば現場責任者を務める石田は、日頃より多忙を極める。だから、今日もどうせ何かと業務が押して遅れてくるだろうから、気心知れた大将相手に、先にちびちび始めとくか、と加々美は思っていたのだ。

「よう。もう着いてたか。早かったな」

 加々美が軽く片手を上げて挨拶をすると、

「私もつい先ほど着いたばかりです。今日はお誘い頂き、ありがとうございます」

 石田は至極丁寧に頭を下げた。

「今日は、あれやこれや、じっくり話を伺わせていただきます」

「それは、こっちもさ」

 加々美は答えて、大将にビールを2つ頼む。出されたお絞りで手を(ぬぐ)い、すぐにビールで乾杯した。

「今年は年明け早々大変だったな」

 加々美が口火を切ると、石田はビールを流し込んでから、律儀に姿勢を正した。

「何とか無事に終了しまして、安堵いたしました。これもそれも、加々美さんのおかげです。本当に、ありがとうございました」

「あの企画は雑誌とのコラボがメインだったからな。通訳が直前にインフルエンザでダウンしたった聞いたときは、さすがの俺も焦ったぜ」

 過ぎたことだから笑えるが、代打が見つからなければ会社として大打撃を受けたに違いないほどの一大事だった。

 ヴァンスは今、世界的に勢いがあるブランドだ。そのヴァンスがメンズへ本格参入するとあって、日本のメンズ界はいい意味でざわついている。アズラエルとしては、ヴァンスがこれから日本で展開するメンズファッションの専属モデル契約を狙っており、正月元旦のあの企画が、日本でのターゲット層を広げたいヴァンス側と、そのヴァンスに自社モデルを売り込みたいアズラエル側の思惑が一致した結果のぶち込み企画であったとはいえ、初手で(つまず)いていては幸先が悪過ぎる事態になるところだった。

 石田から連絡を受けたとき、加々美は本気で一瞬天を仰いだ。

 高倉とは前日に、

「じゃあな。四日までは何があっても俺に連絡はつかないからな」

 と言われて別れたばかりだった。社用も私用も携帯の電源は切っておくからと。

 もちろんそのときは、

「おう、正月ぐらいゆっくり休めよ」

 と返したのだ。当然である。こんな事態になるなんて思いもしなかったのだから。

 高倉に連絡さえつけば、最悪高倉に代打を頼めたのだが。今更あれこれ後悔したところで仕方がないとはいえ、万が一のために私用携帯の電源ぐらい入れておけ、と言っておけば良かったと舌打ちしつつ、加々美は誰か頼めそうな奴はいなかったかと記憶を手繰った。内容が内容だけに誰でもいいというわけではない。当然口の軽い奴には頼めないし、他事務所との絡みがある者に頼むわけにもいかない。明日自分がフリーなら買って出るところだが、生憎明日はアズラエルとは無関係の仕事が入っていた。近頃始動させたプロデュース業の方の仕事だ。

 アズラエルとマネジメント契約を結んでいる加々美は、モデル加々美蓮司としての仕事はアズラエルを通す必要があるが、企画等のプロデュースを個人的に請け負うことについては何の問題もない。実は既にそのための個人事務所を立ち上げていて、その点についてはアズラエルとも合意済みだ。完全独立ではないこのやり方は双方に旨味のある話で、今のところ順調に動き出している。

 昨年発売した『エレメント』は、その個人事務所立上げ後の記念すべき初仕事だった。雅紀のおかげもあって大好評で、その第二弾の計画が早くも動き出している。明日はそのための会合で、どうしても身動きが取れない。

 悩みに悩んで、そのとき加々美の頭にぽっと浮かんだのが、雅紀の弟である尚人だった。

 学校の課題だという職場体験の引率を引き受けて、尚人の為人(ひととなり)を知った。雅紀は出会った時から色々と規格外で衝撃だったが、尚人は一見普通そうに見えて何もかもがハイスペックなことが驚きだった。

 雅紀の話を聞く限りにおいては、庇護すべき対象というイメージの刷り込みがあったし、一度雅紀の忘れ物を届けに来たときに見かけた印象では、高校生にしては素直で初心(うぶ)で可愛らしいという印象だっただけに、加々美にとっては驚きの連続だったのだ。

 まずは、コニュニケーション能力。落ち着いた声音とおっとりとした口調であまりにも自然に会話するものだから、最初加々美でさえ意識していなかったが、よくよく考えたら高校生が大人相手に自然に会話を続けられることがすごかった。三日間ほぼ付きっきりだったが、その間会話が苦になったり、不自然になったり、妙な気を遣ったり、ということが全くなく、ランチをしながらの会話では、話が弾んで楽しくて仕方なかったくらいだ。

 次に、周囲の空気を読む能力。これまた自然すぎるほど自然に場を(わきま)えるのだ。

「質問があったら、何でも遠慮なく聞いてね」

 と最初に加々美が言ったので、尚人は本当に色んなことを質問していたのだが、ランチタイムの時に、

「あの、これって聞いていいか、わからないんですけど……」

 と切り出して、確かにその場で聞かれても答え難かったが、この場ならいいよ、という質問を受けた。それで尚人が、その場で質問していい内容かどうか取捨選択していたんだな、と加々美は気づいたのだ。

 そして極め付けが、英会話能力だ。

 少し休憩しようという流れになって、加々美は尚人を3階のカフェテリアへ連れて行った。そこで加々美は一服しようとカフェテリアに併設された喫煙室に入った。ガラス張りの作りで、自販機でカフェラテを買ってベンチ席に座った尚人の姿は見えていた。

 そこに外国人の来客が数人現れて、カフェテリアに入ると、なぜか尚人に声をかけたのである。

 会話の内容までは聞こえなかったが、発した言語が英語なのは確実だった。それにきょとんと見返した尚人の表情が困っているように見えて、加々美が助けに行ってやろうかとタバコを消して喫煙所を出た途端、尚人が流暢な英語で返したのである。びっくりしている加々美の前で、外国人と尚人の会話は数分続いた。その間尚人は言い淀むことも戸惑う様子もなく、とても流暢な英語で会話し続けた。

 それで加々美は、来客が去った後に、

「すごくきれいな英語喋るね。雅紀に習ったの?」

 と聞いたら、

「いえ、兄は忙しいので、そんな時間は。独学なんですけど、おかしくなかったですか?」

 と、はにかんだ表情が男子高校生とは思えないほど可愛らしくて、さらには英検一級だと聞いて度肝を抜かれたのである。

 雅紀は見るからに規格外だったが、弟の方は上手に隠す方だったか、と。

 まあ、本人的には、隠してる、という自覚はなさそうだったが。

 その時のことを思い出して「尚人くんなら間違いない」と加々美は思ったのだ。

 それで雅紀を拝み倒して尚人を引っ張り出した。雅紀がそう簡単にOKしてくれるとは思わなかったが、加々美も必死だった。とにかく安全第一、余計な雑用はさせないと誓って首を縦に振らせた。その点は事前に石田にも重々言い含めた。

 だがそれでも、当日はどうにも現場が気になったのは事実だ。何しろ人生初のアルバイトだったらしいし、万が一何かあれば、無理を言った雅紀に申し訳が立たない。それに尚人は、見た目以上にしっかりしているが、初心(うぶ)なことには違いない。家と学校を往復するだけの狭い世界で生きている。親父は極悪非道だったが、それとはまた違った種類の悪い大人が世の中にはいることを、知らないように見える。だから、万事筒がなく終了したと石田から報告を受けたときは、加々美もほっと一安心だった。

「雑誌の売れ行き、好調らしいな」

 刺身をひと切口に運んで、加々美は石田に視線を向ける。

 件の雑誌は、無事発売日を迎えていた。今注目度の高いヴァンスのチーフデザイナーの独占インタビュー記事が掲載されているとあって、かなり衆目を集めたようだ。加々美も既に目を通したが、インタビュー記事はかなりいい出来だった。ヴァンスのことをよく知らない人間にも、ヴァンスの求めるファッションがどういうものか分かりやすく説明されていたし、クリスの真摯でウイットに富んだ人柄も文章からにじみ出ていた。あれだけ充実したいい記事が書けたということは、インタビューがうまくいったということだ。自身も今まで何度もインタビューを受けてきた経験から察するに、当日はかなりいい雰囲気だったのだろう。

「ええ、そのようです」

 石田は、山菜の煮付けに箸を伸ばして頷いた。

「『KANON』の大崎さんからも、あのあと、わざわざ連絡がありまして。篠宮くんのおかげでとてもいいインタビュー記事になったと。こんな連絡があるの、珍しいんですよ」

「へぇ。そりゃ、よっぽどだな」

 加々美は軽く目を見開く。通訳は一般的に言語の変換者でしかない。その場で「お疲れ様でした。ありがとうございました」程度の礼は言っても、個人の個性にスポットが当たる存在ではない。

「尚人くんの通訳。実際どんな感じだったんだ?」

「非常に自然でした」

 石田は即答する。

「自然でクレバー。それに尽きます」

 石田の言葉に、加々美は、ほうっと呟く。

 自然でクレバー。なるほど……。

「正直に言いますと、本社前で落ち合ったときは、まさか原田さんの代打で高校生が来るなんて想像もしてなかったんで、びっくり仰天どころか、本当に大丈夫なのかと心配が先に立ちまして」

「まあ、普通はそうなるな」

 加々美はすんなり同意する。尚人のことを知らなければそれが普通の反応だ。

「すぐにいい子だなっていうのは分かったんです。渡した資料も丁寧に目を通していましたし、 会場での振る舞いも問題ありませんでしたし。…… なにより、加々美さんのご推薦ですし。……それでも、如何せん失敗できない仕事でしたから、本当に通訳として役に立つのか、ということに関しては、ずっとはらはらしていたんです」

 石田はため息混じりに吐露する。

「正直、自分に多少の英会話能力があれば、英語で話しかけて事前に英語力チェックするのに、とまで思ったんですよ」

「尚人くん、そういう雰囲気全然出さないからなぁ」

 加々美は苦笑する。

「俺も、尚人くんが外国人の来客相手に流暢な英語で対応始めたときはびっくりしたし」

「そういえば、以前職場体験の社内案内役されたんでしたっけ?」

「ああ、雅紀に頼まれてな。学校の課題だったらしい」

「それが社内で密かに噂になってるって、後から知ったんですよ。元旦のイベントで一緒だった斉藤さんとその後のイベントでもご一緒したんですけどね。彼が、篠宮くんのことを『彼って噂の加々美さんの秘蔵っ子でしょう? 先日のイベント見学はデビュー前教育の一環ですか』なんて言って来て、もうびっくりですよ」

 わずかに口を尖らせる石田に、加々美はくつくつと笑った。そんな噂が立っているとは加々美も知らなかったが、急に聞かされた石田はさぞ驚いたことだろう。

「で、お前はなんて答えたんだ?」

「手が足りずにお願いしたアルバイトの一人だという認識でした。加々美さんとの関係については承知してないのでわかりません、って言いましたよ。それ以外に何が言えるっていうんです?」

 石田は少々うらめしそうに加々美を見る。

 MASAKIさんの弟なんて言えるはずもないでしょう、と言わんばかりの顔だ。

「––まあ、何はともあれ、案ずるより産むが易しと言いますか。インタビューが始まったら全て杞憂だったとすぐにわかりましたけどね。彼の英語って、とても聞き取りやすくて。しかも何というか、耳触りが良くて。会話の仕切りも初めてとは思えないほど上出来で、非常にスムーズでした。『KANON』の大崎さんも、彼が細かなニュアンスまで丁寧に訳してくれるからとてもやりやすかったって、大絶賛でしたし」

 石田は一旦言葉を切って、ビールを口に運んだ。

「あの度胸の良さには脱帽ですよ。それに、––彼、ものすごく頭の回転早そうなのに押し付けがましさがまったくないっていうか。あの年頃の子って、普通はもっと小賢しいもんでしょう? なのに全然そういう感じじゃなくて。逆に、なんか、見ていて癒されました」

 石田の言葉に加々美はくっと吹いた。

「さては、お前もやられたな」

「と、言いますと?」

「いやー、尚人くんてさ。全くスレたところがなくって初々しいと言うか。強さはないけど脆弱ではなくて。たおやかで、しなやかで、凛としていて。そういう感じが、媚びてるわけじゃないのに目が離せないって言うか。––あんな家庭環境にあったと知った後だと、そういうのが全て奇跡に見えるって言うか。でも、だからこそのあの芯の強さなんだろう、とも思うわけだ。あの年代特有のアンバランスな危うさが微塵もなくて、お前が言ったように、自然でクレバー。だから見方によっては、深窓の令息(おぼっちゃま)にさえ見えてしまう」

「そうなんですよ」

 石田が被り気味で頷いた。

「まさにそれなんです。本社前で彼に自己紹介されてもMASAKIさんとリンクしなかったのは。加々美さんが通訳として問題ないって太鼓判押すくらいだし、ひょっとすると、海外育ちの裕福なご家庭のご子息なのかなって、思ったんです。決して派手じゃないのに、整ったきれいな顔で、人目を引き付ける独特の雰囲気がありましたし。それに彼、立ち姿がとても綺麗なんです。––元旦の人気(ひとけ)のないときじゃなかったら、見かけたうちのスカウト部の誰かが絶対声掛けてましたよ」

「元旦じゃなきゃ、本社前で待ち合わせなんてさせるかよ。待たせてる間に悪い大人に引っ掛かってましたなんてことになったら、俺が雅紀に殺されるだろう。あいつ、駅からタクシーに乗せるほど尚人くんのこと大事にしてんだから」

「うちのスカウト部は、悪い大人じゃ……」

 言いかけて石田は言葉を飲み込む。きっとMASAKIにしてみれば大差ない、と気づいたのだろう。何しろ超クールを通り越してブリザードと揶揄されることもあるMASAKIが、バイトを終えた弟をスタジオ前まで大急ぎで迎えに来た場面に立ち会ったのだ。恐らく信じられないものを目にした思いだっただろう。

 加々美だって、雅紀と尚人が一緒にいる所を初めて見たとき、雅紀が今まで見せたことがない柔らかな笑顔をしていることに驚いたのだ。

 本当に、尚人くんのことが可愛くってしょうがないんだな、と。

「まあ、今回、彼の正体は現場でバレてないんですけど、でも、きっと、かなりのインパクトを残しましたよ。––ひょっとすると、もうすでに、かなりの噂になっているかもしれません」

「どういうことだ?」

 加々美は首を傾げる。

「インタビューの通訳しただけだろう?」

「ええ、それはそうなんですが……。実は、撮影が終わるなりユアンくんがなぜか篠宮くんのところへ直行しまして。突然、篠宮くんに話しかけたんです」

「はぁ? ユアンが? 尚人くんに?」

 あの、超絶人見知り、とぼやかされているコミュ障のあのユアンが?

 と加々美は絶句する。

「まじで?」

「まじです」

 石田は至極真面目な顔で頷く。

「もう、周りはびっくり仰天ですよ。……話しかけても塩対応、が通説ですし。というか、実際そうでしたし。なのに、篠宮くんの所へまっすぐ向かって行って自分から話しかけたんですから。周りはみんな、あの子誰? 状態でした」

「––ってか、何でユアン。尚人くんに声掛けたんだ?」

「唐揚げ食べたいって、って言ってたみたいです」

「はぁ?」

 ますます意味がわからない。

「今回同行していたユアンくんの従兄弟のカレルくんとも、何やら意気投合して話してましたし。彼って、本当にコミュニケーション能力が高いと言いますか。人を惹きつける何かを持っているんでしょうね。クリスさんも篠宮くんに興味津々て感じで、インタビュー後に色々話しかけてましたし」

 石田が次々と繰り出すエピソードに、加々美はもう苦笑するしかなかった。

「尚人くんって、天然の人たらしだよなぁ」

 加々美の呟きに石田が同意するように頷く。

「ところで、そう言う加々美さんは、どうなんです?」

「へ、俺?」

「ええ。篠宮くんのこと、どう見てるんですか?」

「めっちゃ可愛い。今時の高校生とは思えない。って、思ってるけど」

「モデルにスカウトしようとか、思わないんですか?」

「尚人くんを?」

 加々美は石田の言葉に驚く。そんな発想はなかった。

 いや、面白い個性だな、とは思っていた。化けたらどうなるんだろう、と。

 だが、本気でモデルをやらせたいとは思わなかった。というか、考えたことがなかった。

 だって……

「雅紀が絶対嫌がるだろう」

「そうなんですか?」

 石田はわずかに首を傾げた。

「MASAKIさんって、加々美さんが口説き落としてデビューさせたんでしょう? 彼の妹も、今度うちからデビューすることが決まったじゃないですか」

 だから弟がモデルをすることにも抵抗ないはずだ、というのが石田の図式なのだろう。

「騒動の元だった親父さんが亡くなって、これからようやく落ち着いた生活ができるって時だろう? それで尚人くんがデビューするかも何て話がマスコミの噂になったら、また騒がしくなっちまうじゃないか。そういう状況は、あいつの望むところじゃないと思うけどな」

「そうなんですかねぇ……」

 石田は呟いて、野菜の天ぷらを口に運ぶ。

「––でも、ですね。加々美さん。彼のあの個性はちょっと他に見ない個性です。もし自分がスカウト部に所属していたら、どうやって口説き落とそうか、今頃必死に考えてたと思います」

 石田は至極真面目な目つきで加々美を見やった。

「磨けば光る原石は他に取られる前に、っていうのがこの業界の常識でしょう?」

「……まあ、それはそうなんだが」

 加々美は困ったように頬を掻く。

「そもそも本人が、モデルやる気がないと思うけど」

「どうして、そう思うんです?」

「そりゃあ、尚人くんのモデルのイメージが雅紀だからだよ」

「兄のようにはなれないと?」

「っていうか、自分が同じ舞台に立つ必要性はないって思っているような」

「……なるほど」

 加々美の言葉に、石田は何か考え込むようにしばらく黙り込んだ。

「確かに。モデルになる必要性は、ないかもしませんね」

 何をどう考えての結論なのか、石田は納得顔で頷く。

「彼なら、企画部でも総務部でも重宝するというか、欲しい人材といいますか。あのコミュニケーション能力の高さは、逆にモデルじゃもったいないですね」

「おいおい」

 加々美は意外とまじな顔つきの石田に苦笑する。

「高校生、リクルートしようってか?」

「何言っているんですか、加々美さん。彼、今年の春にはもう高三でしょう? 一年後には大学生ですよ。そしたら、企業訪問したりインターンしたりで就職試験先決めて、なんてあっという間ですよ」

「だが、今はほら。就活ルール厳しいんだろう? フライング禁止って聞くけど」

「表向きはですね。就活解禁以降じゃないと内定出せないってなってますよ。でも実際は、バイトとかインターンとか称して優秀な学生を事前に囲い込んじゃう企業も結構あるんです。内定は出してなからルール違反じゃないし、囲い込んでたはずの学生が別企業にエントリーしても文句は言えないんですけど」

「抜け道はあるってか」

 加々美は唸る。

「彼と仕事するの楽しいでしょうね。真面目で頭良くって、それでいて小賢しくなくて。自然で構えたところがなくて、穏やかな感じで。しかも彼の声ってなんか、しっとりと落ち着きがあって聞いていて耳障りいいんです。現場が荒れてピリピリしても、彼がいたらきっと簡単に中和されちゃうんじゃないかな」

「もはやベタ褒めだな」

「ま、とはいえ(わたくし)、人事部ではございませんので、ただの妄想でしかありませんが」

 そう言って、石田は笑った。

 加々美も口の端で笑って、話題を終えた。

 しかし、石田の言葉に加々美の中の何かが確実に揺さぶられていたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

因果な因縁

13巻「水面の月」で、加門の祖母からの電話を受けた裕太の話


 買い出しから戻ってきた裕太は、ガレージの隅っこのいつもの場所に自転車を止めて、前カゴに入れていたスーパーの袋の中をそっと(のぞ)いた。

 今日の買い物はいつもより多めで、しかもリストに卵まであった。リストに卵があると裕太は少し緊張する。過去、道路のちょっとした段差で卵が跳ねて割れてしまったという失敗を何回かしてしまったことがあるからだ。慎重に自転車漕いで帰って来て、今日は卵が飛び出さなかったと安心していたら、袋の中で他の食材に押し潰されていたこともある。

 引きこもりをやめて依頼、買い出しは裕太の役目だ。自分も家族の一員であると証明したくて、自ら買って出た。家族の中で役割がある。それが自分を変えるために始めた裕太の第一歩だ。

 買い物リストは、一家の主夫である尚人が作る。リスト通りに買い物をするだけなのだから楽勝だと、最初裕太は思っていた。しかし、鮮度とか値段とかお得感とか、買い物をするときには考えることが色々あって、実際始めてみると買い出しは思ったほど簡単じゃなかった。しかも買えば終わりではなくて、買ったものを痛めないように上手に自転車カゴに詰め込んで、帰って冷蔵庫に仕舞うまでが買い出しだとすぐに裕太は気がついた。

 そもそも最初は、アジとサバの違いもわからなかった。小松菜とほうれん草に至っては、今でもラベル表示を見なければ区別がつかない。それでも、少しずつ慣れた、と思う。ネットで調べたり店員に教えてもらったりして、野菜や魚の鮮度の見分け方も随分覚えた。

 尚人が裕太の買ってきた食材を見て、

「うわぁ、今日のサバすごい立派だねぇ。脂が乗っててすごく美味しいそう」

 などと驚くと、裕太は内心すごく嬉しい。

 決して、顔に出したりはしないが。

 そんな裕太が、いまだ苦手意識を克服できない食材が卵なのだ。

 尚人が裕太の失敗を責めることは絶対ないが、裕太の矜恃(きょうじ)が許さない。割れた卵をきれいに片付けて、再度スーパーに自転車を走らせたことも一回や二回じゃない。もちろん捨てるなんてもったいないことはできないので、そういう時は、自分なりにできる調理法で胃の中に収めた。

 そんなとき尚人は、

「お腹減ってた? お弁当少なかったかな?」

 と本気で心配していたが。

 今日食材が多いのは、明日雅紀が一週間ぶりに帰ってくる予定だからだ。雅紀が夕飯に間に合うように帰ってくる日の食卓は一気に豪華になる。尚人はいつもよりそわそわした雰囲気で雅紀の好きな物をせっせと作り、食卓に並べて細々(こまごま)と雅紀の世話を焼く。嫉妬するほどではないが、何だかなぁ、とは思っている。

 まあ、家の中がギスギスしていた頃に比べれば、今の方が平和には違いないが。

 裕太は、袋の中の卵が無事なことを確認してほっと息を()いた。そのまま袋を抱えて家に入る。電話が鳴ったのはその時だった。

 ––こんな時間に、誰からだよ。

 家の電話は基本留守電対応だ。だからそのまま無視しても良かったが、裕太は一応ディスプレイの表示を見た。雅紀や尚人からの可能性もゼロではない。

 ––この番号って。

 見覚えのある番号に、裕太はわずかに顔をしかめた。

 母の実家、加門の家の番号だ。沙也加は自分の携帯から掛けてくるから、祖父母のどちらかだろう。裕太は一瞬迷って、受話器を取った。

「もしもし」

『ひょっとして、裕太ちゃん? おばあちゃんよ。わかる?』

 出た瞬間、やっぱり無視すれば良かったかな、と後悔した。すでに面倒臭い。

 祖父母にはちやほやと甘やかされた記憶がある。が、裕太は正直、祖父母のことを好きだったわけではない。ねだれば小遣いをくれたが、額が少なくて内心不満に思っていたし、誕生日にわざわざ送ってくる玩具(おもちゃ)も趣味じゃなかった。電話口では調子よくお礼を言っても、すぐさま尚人に押し付けていた。

「ナオちゃんが欲しそうにしてたからあげた」

 そう言えば、祖父母は返って裕太を褒めたからだ。

「裕太ちゃんは、お兄ちゃん想いで偉いわねぇ。それに比べて尚ちゃんったら、弟のお誕生日プレゼントを欲しがるなんて。思い遣りが足りないのね」

 (かたわ)らで尚人が何の言い訳もせずに複雑な表情をしているのを見ると、いっそ胸がスッとする思いだった。

 今となっては自己嫌悪に陥る嫌な記憶だ。

「何か用?」

『元気にしてる? おばあちゃんね、あれからも裕太ちゃんのこと、ずっと心配してたのよ』

 祖母の言う、あれから、とはクソ親父が家に侵入して来た時のことだろう。あの事件のあと、昼間一人で家にいる裕太を心配して、加門の祖父母は家にまで押しかけて来た。裕太を引き取りたいと雅紀に迫り、裕太の部屋の前でも何かごちゃごちゃと言っていた。それがあまりにも(うるさ)かったので、

「おれは加門の家なんかには行かない!」

 と、とりあえず一言叫んだのだ。

 尚人が、あれだけ世間を騒がせた事件に巻き込まれて入院までしたのに、見舞いにすらこなかった祖父母が、裕太のことになるとすっ飛んで来たのが何故だか胸糞が悪かった。

 幼い頃は、そういったあからさまな贔屓(ひいき)が裕太の優越感を満足させていたのに。

「元気だけど」

『そう、ならいいんだけど。でもね、裕太ちゃん。(うち)に来たくなったらいつ来てもいいのよ。おばあちゃん、裕太ちゃんが来るの待ってるからね。沙也加もよ。あの子も、裕太ちゃんはこっちに来た方がいいんじゃないかって思ってるんだから』

 祖母の言いように、裕太はげんなりした。

 前回祖父母が家に押しかけて来たあと、確かに沙也加からも電話があった。沙也加は裕太に「篠宮の家にしがみ付いていてもいいことはない」と言い「お兄ちゃんは、尚さえいれば良いんだから」と言って、裕太に加門の家に来るよう促した。「ちゃんとした環境でやり直してもらいたい」と裕太を心配するその言葉の裏に、裕太は沙也加のやり場のない怨嗟(えんさ)の声が聞こえる気がした。自分には何の落ち度もないことで一人篠宮の家から弾かれてしまった。そのことが我慢できなくて、裕太を引っ張り込もうとしている。そんな気さえした。

『沙也加がうちに来たときも、ちょうど今の裕太ちゃんと同じ年でしょう? あの時はほら、いろいろあって沙也加も大変だったから。落ち着いた環境で受験勉強する方がいいって、自分の経験からも思ってるみたいなのよ。おばあちゃんもその方がいいと思うわ。勉強も沙也加に見てもらえるし』

「お姉ちゃんが落ちた翔南高校にナオちゃん通ってんだよ。勉強なら、ナオちゃんに見てもらうからいい」

 もはやとっとと会話を終わらせたくて、裕太はわざと辛辣(しんらつ)な言葉をぶつけた。そもそも中学に一回も行っていないのに、当たり前に受験を持ち出す祖母の思考回路にも笑える。

 案の定、電話口の向こうで祖母が息を飲む気配がした。

『––だって、それは仕方ないじゃない。ちょうど受験の時期に、あんなことがあったんだもの。本番で力が発揮できなくても、当然でしょう。そういう言い方は、ないと思うわ。それにね、尚ちゃんも尚ちゃんよ。沙也加が行きたくて仕方なかった高校をわざと選んで受験するなんて。だからね、おばあちゃん、尚ちゃんが高校受験する前にちゃんと言ったのよ。もっと沙也加のことも考えてあげてって。じゃないと、高校に受かっても、おばあちゃん喜んであげられないわよって。当然でしょう? 沙也加が落ちた高校に尚ちゃん受かったって、沙也加に言えると思う? もっと思い遣り持ってって。それが弟ってものでしょう、ってそう言ったのに、尚ちゃん、全然おばあちゃんの言うこと聞かないんだもの。翔南高校受けたって聞いたときは、信じられなかったわよ』

 ––信じられないのはこっちだよ!

 と、裕太は叫びたかった。

 翔南高校を受けるなと言った? 尚人に思い遣りがない? しかもそれを本人に言った?

 もしそれが自分だったら、祖母のことをメタクソに言って、今頃絶縁している。

 尚人が高校受験する時期、家の中は冷え切っていた。自分は部屋に閉じこもって全てを拒絶し、尚人がとにかくうざくて、尚人の作った弁当を床にぶちまけたりしていたし、雅紀もほとんど家に寄り付かず、帰って来ても刺々しい雰囲気をまとわりつかせて、兄弟間はぎくしゃくとしていた。

 そんな中で、祖母にも暴言を吐かれていたとは。一体あの時、尚人の味方はいたのだろうか。ただ一人、現実から目を逸らさず、我慢して、踏みとどまっていたのが尚人だったのに。

 それを思うと、裕太は今更ながら、尚人の芯の強さを思い知る。

 ––自分が決めたことだから。

 尚人が時々口にするのを聞いたことがある言葉だ。

 自分が決めたことだから、周りに何と言われても、誰一人味方がいなくても、貫き通す。普段あんなにおっとりしているのに、どうして、ああも強くあれるのだろう。

「話はそれだけ?」

『ああ、それとね。沙也加からも連絡があったと思うけど。ピアノのことよ』

「それが?」

『沙也加がモデルの仕事することになってね。裕太ちゃん、その話聞いてる?』

 何故だか少し得げなその口調がむかついて、裕太が黙ったままでいると、祖母はどう判断したのか、勝手に話を進めた。

『オーディションに出場して、業界最大手の事務所からスカウトされたのよ』  

 そりゃ、MASAKIの妹という付加価値があるからだろう、と裕太は心の中だけで突っ込む。姉の沙也加は世間一般的に見れば美人の類に入るだろうが、雅紀に比べれば他を圧倒するというほどでもない。

『でね、そのお仕事の一環で、どうしてもピアノの練習をする必要があるんですって。だから、篠宮のお家に置きっぱなしになってるピアノ、あるでしょう? あれを引き取るって決めたんだけど、日程はどうなったのかしら。沙也加に聞いても要領を得なくって。あの子も、遠慮してるのよ。あんまり、細やかに連絡すると悪いって。だから、本当ならそっちから連絡して然るべきだと思うのよ。雅紀ちゃんも忙しいとは思うけど、沙也加のことを考えれば、その程度の連絡、できるはずでしょう?』

 裕太は、今すぐにでも電話を切りたかった。だが、口を開けば暴言しか飛び出さない予感がして、だんまりを貫くしかなかった。

 ––そもそも、モデルの仕事するのにピアノが必要って意味わかんないんだけど。

 雅紀が近頃仕事の一環でピアノを披露したことは知っている。しかしそれは、すでにカリスマモデルとしての地位を確立している雅紀に付く付加価値で、これからデビューしようとしている人間は、ピアノの腕前を磨く前にモデルとしての腕前を磨く方が先ではないのか。

 裕太には、モデルとしての腕前の磨き方など想像もつかないが。

『沙也加はね、本当に寂しい思いをしているのよ。一人でこっちにいるでしょう? 去年色々世間が騒がしかった時も、雅紀ちゃんに頼らず一人で頑張ってたのよ。女の子一人でじっと耐えて、健気だと思わない? あの子、色々言いたいことも言わずに飲み込んで我慢しちゃうところがあるから、おばあちゃん心配なのよ。ピアノの件だってそう。あの子なりに色々考えて、結論出して、動き出したのに、そっちからのフォローが何もないでしょう? あの子、また飲み込んで我慢しちゃうんじゃないかって思うと、かわいそうで。だからね、裕太ちゃん。このこと、ちゃんと雅紀ちゃんに伝えておいてね。裕太ちゃん昔から優しかったから、お姉ちゃんのために動いてあげてね。じゃあね、裕太ちゃん。また、連絡するから』

 祖母はそう念押しすると、一方的に会話を終わらせた。

 通話の切れた音に、裕太は深々とため息を吐いてから受話器を置く。

「疲れた」

 それが、裕太の偽らざる本音だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幸せの形

ある日の夕食の一場面


「ナオって、何でこんなに可愛いんだろうな」

 夕食時、雅紀が急に漏らした呟きに、裕太は思わず口に含んだ味噌汁を吹き出しそうになった。

 ––雅紀兄ちゃん、飯食いながら、急に何言い出すんだよ。

 先ほどから雅紀が、尚人をじっと見つめていることには気づいていたが、まさかずっとそんなことを考えていたとは。

 雅紀の感情が尚人に振り切っているのは知っている。雅紀が尚人にしか発情しないことも、尚人の所有権を主張してセックスという名のマーキングをしていることも知っている。

 が、しかしまさか、飯を食っている最中もずっとそんなことを考えていたとは。

「……ま、雅紀兄さん」

 尚人も何と返したものか、困ったように固まる。しかし雅紀は、そんな弟二人の戸惑いなど意に返す様子もなく、

「どの角度から見ても可愛い」

 至極真面目な顔つきで言葉を重ねた。

「なんでだろう」

 ––そりゃ、雅紀兄ちゃんの目にフィルター掛かってるからだろ。

 裕太は、心の中だけで呟いて、どうにか平静を取り戻す。

 雅紀の言動がおかしいのは今に始まった話じゃない。

 いつから雅紀が尚人を抱くようになったのか、正確に知るわけではないが、尚人が自転車通学の男子高校生ばかりを狙った暴行事件の被害に()った後から雅紀の言動は明らかに変わった。それまでも、二人の関係が裕太にバレても構わないという感じで、雅紀は平気で尚人を抱いていたが、それでも、そういう姿をわざわざ裕太に見せつけようという感じではなかった。それが事件以降は、家のそこら中で、裕太が居ようが居まいがお構いなく、ベタベタと尚人にまとわり付くようになった。裕太の目の前でいきなり尚人にキスするなんてのはもはや日常茶飯事で、ソファーに座る尚人にいきなり覆いかぶさって、まさかここでおっぱじめるんじゃないだろうな、というほど盛り出したことだってある。

 そんな時尚人は、いつも可哀想になるほど困惑していて、

 ––雅紀兄ちゃん、もうちょっと時間と場所を考えてやれよ。

 と、裕太は心の中で突っ込んでいる。

 言うだけ無駄なので、口に出したことはないが。

「……そうかな」

 今も尚人は、見るからに戸惑っている。おそらくこれが二人っきりなら、また違う反応なのだろうが、裕太の手前どこまで雅紀の言動に乗ったものか迷っているのだろう。その点雅紀は、日頃から尚人にセクハラし放題だから、今だって裕太の存在などどうでもいいに違いない。

「しかも、ずっと可愛い」

「その……、ずっと、って、いつから」

「生まれた時から」

「それは……」

 幼いが故の可愛さというやつではないのか。

「雅紀兄ちゃん、ナオちゃん生まれた時のこと覚えてんの?」

 裕太が口を挟むと、柔らかな視線で尚人を見つめていた雅紀の目つきが明らかに変わった。

「当たり前だろう」

「へぇ、そうなんだ」

 尚人が生まれ時、雅紀は五歳だ。記憶があっておかしくはないが、裕太自身は五歳児当時の記憶はあまりない。いくつか断片的なエピソード記憶はあるものの、人の顔の記憶というのがほとんどないのだ。案外、人の顔を意識して見ていなかったのかもしれない。そのせいか、久々に親戚と(かい)した祖父の葬儀の時は、誰が誰やら全くわからなかった。

「ナオ、生まれた時からめっちゃ可愛かった」

「赤ん坊の頃って、みんな可愛いんじゃないの?」

「んー」

 尚人の問いかけに、雅紀が考えるように唸ってちらりと裕太を見やる。おそらく、裕太はそうでもなかった、と思っているのだろう。

 ––別にいいけど。

 そもそも、雅紀に可愛いと言われたくもない。

「何というか。ナオの可愛さは別格だった。ずーっと眺めてても、全然飽きなくって。––そう言えばあの頃から、何でナオって見飽きないんだろうって、不思議だったんだよな」

 確かに雅紀は昔から、尚人だけを可愛がっていた。幼い尚人を膝に乗っけて絵本を読んでやり、沙也加が私も私もと割って入ろうとすると、笑いながらも沙也加をあしらって、尚人を抱えて自室へ連れ去っていた。風呂にもよく一緒に入っていた。

「ナオー。風呂入れてやるよ」

 そう声を掛ける雅紀は、あくまでも弟の面倒を見て遣っているつもりだったのだろうが、それが尚人限定だったことを思えば、本当は、あの頃から雅紀は何も変わってはいないのかもしれない。元から雅紀の中には尚人に対する愛情と執着があって、以前は一般常識に収まる範疇の部分だけが自覚できる感情として表に出ていたものが、色々あって雅紀の中の一般常識が崩れた時、押し込まれていた部分まで自覚感情として発露してしまったのかもしれない。

 ––ナオちゃんねぇ。

 裕太は、改めて尚人の顔を見やった。ごくごく普通だ。目がくりっと大きいとか、鼻がすっと高いとか、唇がぽってり厚いとか、そういった個性になる特徴は一切なく、また、雅紀のように人目を引く派手さもない。世に言うイケメンの部類には入らないだろうとは思うが、だからと言ってブサメンでは決してない。

 毒にも薬にもならない、という言い方が正しいのかはわからないが、視界を邪魔しないという意味ではしっくりくる。

「そういえば小学生の頃って、ナオを学校に一緒に連れて行って隣に座らせときたいってずっと思ってたんだよな。そうしたら、絶対何倍も学校が楽しいのにって」

 ––そんなこと考えてたのかよ。

 裕太にとって雅紀はずっと越えられない壁だった。落ち着きがあって寛容で、周囲の大人たちは誰もが一目(いちもく)置いて。勉強だってスポーツだって何でもできて、ピアノのコンクールでも入賞して。家中に雅紀が貰った賞状やトロフィーが飾ってあった。

「まーちゃん、すごいねぇ」

 尚人はそれを素直に称賛していたが、裕太はどこか鼻持ちならなくて、返って反発心を覚えていた。

「だからナオと登校が被った一年間は、学校行くのめっちゃ楽しみだったんだよな。学校がっていうより、登校の時間がだけど」

「俺も、雅紀兄さんと手を繋いで登校できて、楽しかったよ」

 尚人が照れたように笑うと、雅紀の表情がとろけた。

 きっと、めっちゃ可愛い、とか思っているのだろう。

 もはや、勝手にやってろよ、である。

 裕太は食べることだけに集中して「ご馳走様」と手を合わせると、食べた食器をシンクに運んで洗った。そのまま部屋へと上がる前に、二人がまだいる食卓をちらりと一瞥(いちべつ)すると、雅紀は尚人のうなじに手を回し尚人の唇を貪っていた。

 ––飯ぐらい、落ち着いて食わせてやれよ。

 もちろん口には出さない。言うだけ無駄だからだ。

 おそらくもう、雅紀の頭の中に裕太の存在はない。

 そして明日は日曜日。多分ではなく絶対、これからアレが始まる。

 そのことを考えた途端、裕太の下腹部が微かに脈動した。

 反射的にかっと耳が熱くなったが、着いた火種を消そうとは思わなかった。

 ––先に風呂入っとくか。

 裕太はお湯張りするために、風呂場へと行き先を変えた。

 

 

 食事の最中に急にキスされて、尚人はどうしていいかわからず固まった。こちらに背を向けているとはいえ、台所にはまだ裕太がいる。これが二人きりならば、尚人だって快感に身を(ゆだ)ねてしまうところだが、裕太が目の前にいると思えばどうしたって抵抗感が拭えない。雅紀を拒むことはできないが、素直に受け入れることもできない。そんな状況に尚人は、ただただ固まるしかない。

「ま、まーちゃん」

 息継ぎさえままならないほどに、雅紀のキスは深くなる。口内を蹂躙されて、舌を絡めとられる。角度を変えて、何度も唇を吸われる。雅紀がようやく解放してくれた時には、尚人の息はすっかり上がっていた。

 そんな尚人に、雅紀は視線を合わせてくすりと笑うと、親指の腹でさっと尚人の唇を拭う。その態度が雅紀の余裕を表していて、尚人は何だか自分一人だけが感情を先張らせた気がして恥ずかしくなってしまった。

「唐揚げ、倍増しで美味くなった」

 雅紀は耳元で囁いて自分の唇をぺろりと舐めると、何事もなかったかのように食事に戻る。尚人は、そんな雅紀の様子を見やって、ただため息をついた。

 ––まーちゃんが、何をしたいかわかんない。

 雅紀を喜ばせたい、雅紀の役に立ちたい、雅紀の望むことなら何だってしてあげたい。尚人はそう思っている。けれども、裕太の前でのスキンシップはどうしたって抵抗があるし、こんな風にキスされて、体の奥に火種だけ付けられて放置されてしまうと、どうしていいのかわからない。もっとして欲しいけど、でも、この場では困る。だから本当は、食事を終えて、部屋に戻って二人きりになってから、ゆっくりキスして欲しい。そうしたら、自分だって、体に(とも)った火種を感情のままにたぎらせていくのに。

 何しろ、雅紀が帰って来たのが一週間ぶりなのだ。電話では毎日話していたけれども、直接肌と肌を合わせる安心感に勝るものはない。雅紀と抱き合いたい。雅紀の温もりを全身で感じたい。雅紀と体を深く繋げ合いたい。

 でも、それはもう少し後のことで。だから体が変な風に先走らないように、あえて考えないようにしていたのに。

 尚人は、皿に残っていた食べかけ唐揚げを口に放り込む。

 雅紀からのリクエストで作ったおかずだ。昨晩からニンニク醤油に浸けて仕込んでいた。ジューシーに揚った鶏肉に程よく味が染みていて美味い。

「そういえば一昨日、カレルからメールが来た」

 尚人は気を紛らわせたくて話題を変えた。

 ユアンやカレルとメールのやり取りをすることは、雅紀の承諾を得て既に始まっている。尚人は送られて来たメールに文章で返すのみだが、あちらからのメールには大抵、動画やら写真やらが添付されていて、今回も動画付きだった。カレルが今度仲間たちと路上パフォーマンスする時に使用する楽曲を練習している横で、ユアンが黙々と柔軟体操をしていた。演奏を終えたカレルの説明によると、近頃のユアンは、カレルの奏でるロックをBGMに柔軟するのを日課にしているらしく、柔軟体操を始めたくなったらカレルに演奏するよう(うなが)すのだそうだ。

 仲の良い二人の様子を、尚人は微笑ましく眺めた。

「そのメールに添付されてた動画で、ユアンがすっごく丁寧に柔軟体操しててね。やっぱりモデルとして体に気を使ってんのかなぁって、ちょっと意外だった。ユアンって現実離れしているから、そんなことしなくてもさらっとこなしちゃう、みたいに思ってたんだよね」

「まあ、モデルは体が資本だからな」

「そうだよね。まーちゃんだって、普段から鍛えてるもんね」

「体力付けとかないと、ステージや撮影で体もたないからな」

「活躍してる人たちって、見えないところできちんと努力してるんだよね。本当尊敬しちゃう。俺、運動できないし、楽器も弾けないし、人に誇れるようなことが何もないから余計に」

 言って、自分で落ち込む。

 本当に、自分には何もない。

 そもそも出来ることが勉強ぐらいしかなくて、それで翔南高校を受験したようなものだ。自分にも何か一つでも出来ることがあると証明してくて、頑張れば叶うことがあると実感したくて、それで学区で一番偏差値の高い翔南高校を志望先にしたのだ。だから、合格した時はとても嬉しかった。頑張れば自分にも何か出来ると、一つ証明できたから。

 だが……

 クラスメイトの桜坂は空手の有段者で将来を嘱望されている。中野は最新のトレンドに詳しくて日頃からアンテナを高くして色々な情報を収集しているし、山下はパソコン関係に強くて聞けば何でも答えてくれる。

 彼らは同じ翔南高校の同級生で、勉強は出来て当たり前だ。

 そう思うと、自分はまだ、出来て当たり前のことしか出来ていない。

「ナオ。こっち向いて」

「何?」

 またキスされた。でも今度は唇が触れるだけの優しいキスで、尚人は何だか泣きたくなってしまった。

 

 

 一週間ぶりの帰宅に雅紀は上機嫌だった。やっと尚人に会える。しかも、夕食の時間に間に合うよう帰れた。昨夜の電話で食べたい物を聞かれ、唐揚げだと答えて以降、今日の晩飯は尚人の唐揚げ以外考えられなくて、それをモチベーションに今日一日過ごしたようなものだ。

 もちろん、唐揚げと答える前に、尚人以外なら、と頭にくっつけたのだが、電話越しでも刹那尚人が息を飲んで照れるのがわかって、こんな遣り取り、もう何十回やったかわからないのに、いまだ初々(ういうい)しい反応を見せる尚人が可愛くって仕方がなかったのは言うまでもない。

 雅紀が帰宅すると、尚人はちょうど唐揚げを揚げているところだった。

「ただいま」

「あ、おかえり。まーちゃん。もうすぐ出来るから、ちょっとだけ待ってね」

 エプロン姿で振り返り、にっこり笑いながらそんなことを言われたら、今すぐにでもむしゃぶりつきたい。

 ––ほんっと、ナオって、何でこんなに可愛いんだろう。

 雅紀は自分の部屋に荷物を持って上がって部屋着に着替えると、すぐにリビングへ降りた。そして、ソファーに座って、台所に立つ尚人の後ろ姿を好きなだけ視姦する。うなじから服の下の背中の細い線を想像しながら視線を落としていき、ほっそりとした腰を通ってそのまま臀部(でんぶ)へ。衣服の上から好きなだけ視線で舐め回す。

 今日の撮影の休憩時間、モデル仲間たちが理想の彼女談義に花を咲かせていた。

「俺は、見た目重視かな」

 誰かが言った。

「正直、不細工な子。連れて歩けないし」

「わかるけどさ、それだけってわけにもいかなくね。性格きっつーとか、一緒にいて疲れんじゃん」

「確かにー。モデルに多いよな。まあ、引っ込み思案のおっとり系じゃ、モデルなんて最初(はな)からしないんだろうけど」

「俺は、体の相性かな。だって、彼女って突き詰めるとそれありきじゃん」

「おお、正直な意見」

「でも体の相性って、やってみないとわかんないだろう? 付き合う前に確かめんの?」

「あ、それはパス。すぐやらせてくれる女は、誰とでもそうだから」

「なんだよ。そこはこだわるのか」

「まあ確かに、男経験多そうって子は、俺もパスかな」

初心(うぶ)なのにエロいは最高だよな」

「俺は正直なとこ、料理上手な子かな。全く作れませんって、なし」

「俺は、逆にさ、料理下手くそなくせに作りたがる女の方がなしかな。まっずい飯食わされてさ、美味しい? とか聞かれても困るし」

「下手じゃなくても、毎回インスタ映え狙っただけの飯出されても辛いよな。SNSで彼氏に作ってあげましたーとかUPしてんの見ると、自己満じゃん、って思うし」

「俺は前の彼女に草ばっか食わされてた。女って何でカラフルな草好きなんだろうな」

「せめてサラダって言えよ」

「草は草だろう? その反動でか、彼女と会わない日は焼肉ばっか食ってた時期あんだよな」

「それはそれで体に悪そう」

「家で食うなら、普通の家庭料理食べたいよな。張り切って作ってんのが可愛いって思えるの、正直付き合いたての頃だけだし」

「じゃあ、まとめるとさ。理想の彼女って、見た目可愛くて、性格良くて、初心(うぶ)でエロくて体の相性抜群で、料理上手で、しかも男の食いたいものわかってる家庭的な子ってことでOK?」

「いねーよ、そんなの!」

 そう言って笑い合い、彼らの話は終了した。

 雅紀は、傍で聞き流していただけだが、

 ––正にナオのことじゃん。

 心の中で呟いた。

 見た目可愛い。性格最高。料理上手で、いつまで経っても初心(うぶ)なのに体の相性は抜群。加えて、頭脳明晰で努力家で、芯が強くて我慢強い。

 改めて考えてみると、奇跡のような存在だ。

 そんなことをつらつらと考えながら食卓についたせいか、食事中、

「ナオって、何でこんなに可愛いんだろうな」

 思わず口をついて出た。

 刹那、尚人が固まった。耳がほんのり赤いのは、照れている証拠だ。その姿がまた可愛くて、雅紀は微笑む。

 ––可愛すぎて、どこにも出したくないよなぁ。

 そんなことを思っていたら、どうにもキスしたくてたまらなくなって、我慢できずに雅紀は尚人の唇を貪った。

 食事の最中に行儀が悪すぎるかな、と頭の片隅で思いはしたが、これもそれも全て、尚人が可愛すぎるのがいけない。

 雅紀が満足して尚人を解放した時、尚人の息はすっかり上がっていて、その表情がエロすぎて、雅紀の情欲を煽り立てた。

 ––やべー。めっちゃしたくなってきた。

 出来ることならこのまま押し倒してしまいたい。が、流石に食卓ではまずいだろう。

 しかし、本心では、

 ––ナオから誘って来ないかなぁ。そしたら今すぐにでも喰っちゃうのに。

 と、そんなあり得ないことを、ほんの少しだけ期待した。

 雅紀は、尚人が裕太の気配がするところでのスキンシップに戸惑いがあることを知っている。体を重ねることに慣れた今でも、尚人は二人っきりの空間じゃないと嫌なのだ。雅紀と尚人がセックスしていると、すでに裕太にはバレバレだと知っていても開き直ることができない。だからこそ雅紀は、あえて裕太の気配のするところで尚人にキスをするのだ。どんなときでも尚人は自分のものだと、尚人自身に植え付けるために。

 歪んでいる。そんなこと、充分すぎるほど自覚している。

 その後、尚人が急にユアンやカレルの話を始めたので、雅紀の機嫌は一気に下降した。正直なところ、ユアンやカレルに全く興味はないし、ヴァンスの連中にはどちらかと言えば不快感がある。

 理由はもちろん、チーフデザイナーを筆頭に尚人に興味津々で、やたらと視界をちょろちょとして目障りだからだ。それでもメールの遣り取りを許したのは、カナダにいる連中と時たまメールをやり取りするだけで何か実害を被るとは思えなかったし、尚人の世界が広がっていく邪魔はしたくなかったからだ。英語を使う機会が増えたと尚人は喜んでいた。それだけでも価値があると、雅紀は自分を納得させた。

 尚人の話に適当に相槌を返していたら、急に尚人がトーンダウンした。

「活躍してる人たちって、見えないところできちんと努力してるんだよね。本当尊敬しちゃう。俺、運動できないし、楽器も弾けないし、人に誇れるようなことが何もないから余計に」

 その台詞に、尚人が何をどう思ったのか、雅紀には丸わかりだった。

 尚人は子供の頃から褒められる機会が少なかった。堂森の祖父は孫差別をする筆頭で、穏やかな性格の尚人に物足りなさを感じて常に叱り付けていたし、加門側の祖父母も沙也加や裕太を可愛がるあまり、二人を引き合いに出して尚人に暴言まがいの説教をすることも度々あった。

 尚人は、色々なことに挑戦する機会を自分で自覚する前に奪われてきたのだ。

 運動系は、やんちゃな裕太に比べて、おっとした尚人には無理だろうという大人たちからの刷り込みがあったし、音楽系は、家にピアノがあったにもかかわらず触りさえもしなかった。雅紀が弾くととても喜んでいたので、音楽自体に興味がないわけではなさそうだったが、雅紀がどんなに勧めても決して弾こうとはしなかった。

 その理由を雅紀が知ったのは、ピアノを辞めてからだ。

 母の前で、

「何でナオって、絶対ピアノに触らないんだろう」

 と呟いた時、母がちょっぴり苦笑しながら、

「多分、一回沙也加に怒られたことが影響してるんだと思う」

 と言ったのだ。

「確か、沙也加が小学校に上がってすぐぐらいだったと思うけど、尚人がピアノに触っていたら、学校から帰ってきた沙也加がすっごい剣幕で『ピアノに触らないで。尚は弾けないでしょ』って言ったのよ。その時に、ピアノは触っちゃダメなものだと擦り込まれたんだと思う」

 それを聞いて雅紀は、沙也加の言動に呆れつつも、その一回で絶対に触らないと決めて貫き通している尚人の頑固ぶりにもため息をついた。

 それでも、小学校の高学年になると、学校の中でのお兄さんお姉さん的な存在として任されることが増えて、それで少しずつ自信をつけていく機会があるはずだった。だが、そのタイミングで家族が崩壊してしまった。自分の努力だけではどうにもできない現実を突きつけられ、世間の中傷混じりの憐憫(れんびん)から自己を守るために周囲と距離を置き、家事と学業だけで手一杯で、成功体験を重ねていく機会を失ってしまったのだ。何しろ金がない、というどうしようもない現実を前に、尚人は全てを飲み込んで諦めてしまうしかなかった。

 思春期をそうして我慢して過ごしたものだから、尚人はどうしたって自己評価が低い。だが尚人は、それでいながら全てを放棄してしまっていたわけではなく、静かに現実と向き合って、どうすべきなのかを模索していた。出来る限りの努力を続け、将来を見据えていた。

 雅紀は、尚人の一度こうと決めたら貫き通すその意思の強さには舌を巻くし、短時間で効果を上げる集中力の凄さには感心するし、毎日片道五十分の自転車通学を続けるその体力と持久力には脱帽する。

 でもそんなこと、口にしたところで尚人は、慰められた、としか受け取らないだろう。尚人にとっては当たり前だからだ。

 当たり前のことが当たり前で出来る凄さを、尚人は知らない。

 だから雅紀は代わりに、尚人の唇にそっとキスをした。

 ––俺は知ってる。

 そんな思いを込めて。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

反駁する岐路

引きこもりをやめた裕太を図書館前で沙也加が待ち伏せ


「本当なんだ」

 図書館から出てきた裕太の姿に、沙也加は目を見張った。

 ––裕太ちゃん、近頃は近所を出歩くようになったんですって。

 先日、夕飯の席で祖母がそう言った時、沙也加はにわかには信じられなかった。

 中学進学と同時に引きこもりを始めた裕太は、これまで何度も祖父母や沙也加が電話で「環境を変えてやり直した方がいい」と呼びかけても拒絶してきた。「おれはこの家を出ない」と言い張り、何も知らないくせに「お姉ちゃんだって、おれたちを見捨てて独りで逃げ出したくせに」と沙也加を責めた。

 あの家で何があったかも知らずにしがみ付いている裕太がいっそ可哀想で、一時は沙也加もどうにか裕太をこちらの家に連れて来たいと思っていたが、近頃はもう無理だろうと諦めていた。馬鹿で我儘(わがまま)で身勝手な弟は、このままどうしようもない人生を歩むのだろう、と。

 あの救いなどない、(けが)れた家の中で。

 しかし何がきっかけだったのか、その裕太が、引きこもりをやめた、というのだ。祖母が飽きもせずに、裕太を引き取りたいと再三の電話をした時に雅紀が言ったらしい。

 ––裕太なりに変わろうと動き出している。

 ––だから、今は静かに見守って欲しいだけど。

「雅紀の言うことも最もだな」

 それが祖父の答えだった。

「大事なのは裕太が自分から動き出したってことだ」

 自分から? 本当に?

「それって、やっぱり、あいつが死んだから?」

「まあ、それもあるのかもしれん」

 そうなのか。あいつが死んで、区切りがついたのか。

 なら、裕太は自分より恵まれている、と沙也加は思った。自分は、母が死んで返って呪縛された。いや、死によって呪縛されてしまった。沙也加の言葉を免罪符に、一人さっさと楽になる道を選んで、沙也加に消えない罪悪感を植えつけていった。本当に、ひどい母親だ。

 一方の裕太は、父親が家を出て行ったと同時に、荒れて手がつけられなくなった。自分を溺愛していたはずの父親から一言の言葉もなくゴミ屑のように捨てられたという現実を受け入れきれなかったのだろう。自分勝手で我儘で我慢することを知らなかった裕太らしい反応だった。一緒に住んでいた時はそんな裕太の行動が目に余って腹立たしいばかりだったが、離れて暮らすと、裕太の心情も理解できる気がして可哀想だと思った。しがみつく価値もない穢れた家に必死にしがみついて、訪れるはずもない幻想ばかりを見ている。そんな裕太を哀れに思っていた。

 なのに、あいつが死んだ途端、全てをリセットしようというのか。

 ––でも、そんなに簡単にリセットできる?

 裕太はすでに中三だ。本当なら、受験生のはずだが、中学に一回も通っていない裕太が受験なんて出来るはずがない。しかしこの先、中卒ではまともな仕事になど就けない。しかも実質小卒だ。モデルなら学歴不問だが、あの性格の裕太がモデルなんてするとは到底思えない。三年も引きこもっていたツケは、かなり大きいはずだ。

「で、四月からどうするって? どこか学校に行くつもりなの?」

「それがねぇ。その辺りは未定なんですって。一回裕太ちゃんと電話で話した時は、勉強は尚ちゃんに見てもらっているみたいなことを言っていたんだけど。尚ちゃんだってまだ高校生でしょう。自分のことで手一杯のはずだし、ちゃんと一回話をした方がいいと思うんだけど」

 しかし、そういう話も含めて、雅紀に「今は静かに見守ってほしい」と言われてしまったようだ。

「雅紀なりに何か考えがあるんだろう」

「そうよね。裕太ちゃんが引きこもりをやめたのだって、きっと雅紀ちゃんの励ましあってのことだろうし」

 ––お兄ちゃんが裕太を励ます? 絶対あり得ないんだけど。

 沙也加はそっと鼻で笑った。

 その逆ならわかる。

 あいつが死んだのに、いつまで引きこもっているつもりだと。このまま引きこもるつもりならこの家を出す、と。冷ややかに裕太に迫る姿なら想像がつく。

 いや、そうであって欲しいのかもしれない。

 雅紀に、いらない物を切り捨てるような冷たい視線を向けられるのが自分一人ではないと。そう、思いたくて。

「私から、裕太に連絡とってみようか?」

「そお? 沙也加、そうしてくれる?」

「裕太が引きこもりやめたなら、私も話したいことあるし」

 それで沙也加は、裕太が近頃足繁(あししげ)く通っているという図書館前で裕太を待ち伏せたのだ。

 場所をそこにしたのは、もちろん、篠宮の家には近づきたくなかったからに他ならない。

 ––本当に、引きこもりやめたんだ。

 図書館から出てきた裕太は、祖父の葬儀で見た時よりも落ち着きある顔をしていた。すっきりと引き締まった容貌は、少年から青年へと成長段階にある若者らしい凛々しさすらある。今の裕太を見て誰も、ついこの間まで引きこもりだったなど信じないだろう。

 エントランスの階段を降りてくる裕太の視線がふと上がった時、沙也加と視線がかち合った。刹那、裕太の目が切れ上がった。

 不快な物を見るようなその目つきに、沙也加は息を飲む。と同時に、怒りが沸き起こった。

 ––何よ、裕太のくせに。

 沙也加は、ぎりっと奥歯を噛み締めて、つかつかと裕太に歩み寄った。行手を阻むように前に立つと、裕太ははっきりと眉間にシワを寄せた。

「何か用?」

 口調はさらに刺々しかった。

「引きこもり、やめたのね」

「だったら、何?」

「話があるんだけど」

「おれはない」

「あんたがそうでも、私にはあるのよ」

 沙也加は裕太の態度に苛つきながらも、図書館横の小さな広場へ裕太を連れ出した。

 

 

 裕太は、図書館を出てすぐの場所に沙也加の姿があることに気がついて、しんなりと眉を潜めた。待ち伏せされていたのは確実で、その事実が単純に不快だった。

 ––一体、何の用だよ。

 沙也加が自分たちに近づいてくる事はもうないと思っていた。それは、沙也加が間違いなく、雅紀と尚人の三人だけの秘密にしておきたかった事実を自分も知っていると告げたからだ。

 ––何にも知らないくせに。

 それが、今まで沙也加が裕太に言い続けてきた言葉だ。それを盾に沙也加は、ずっと裕太をお子様扱いしてきた。だから裕太は沙也加に突きつけたのだ。

 自分は全てを知っている。知った上で、この家にいるのだ、と。

 それで沙也加はもう、何も言えなくなるはずだった。

 なのに、

「何か用?」

 さっくり無視してしまいたかったが、目の前に立たれるとそういうわけにもいかない。それに、逃げた、と思われても(しゃく)(さわ)る。

「引きこもり、やめたのね」

 沙也加の言葉にため息が漏れた。だったら、何だというのか。

 ––まだ、姉ちゃん(づら)するつもりかよ。

 裕太の中で、もはや家族と呼べるのは雅紀と尚人の三人だけだ。篠宮の家を捨てた沙也加はもう家族ではない。雅紀も言っていた。自分と母を罵倒して出ていった時から赤の他人も同然だ、と。あの尚人だって、溝が埋まらないならもういいと割り切っている。母と雅紀の情事を目撃してしまった衝撃は理解するが、いつまでもそこに捕われている沙也加に同情する気はない。

「あんた、これからどうするつもり? 学校、行く気あるの?」

「それ、お姉ちゃんに関係あるのかよ」

「あるに決まってるでしょう? あんたは、私の弟なんだから」

「それをいうなら、ナオちゃんも弟だろう。ナオちゃんのことは気にならないのかよ?」

「は? なんでここで尚が出てくるのよ。あの子は、ちゃんと学校行っているでしょう?」

「高校卒業後、どうするつもりなのかって、気にならないのかよ?」

 裕太が問うと、沙也加は苛立つように眉根を寄せた。

「翔南高校に通ってるんだから、大学進学は当たり前でしょう? お金なら、あいつの保険金降りたんだし。奨学金借りて大学に進学した私なんかより、よっぽど恵まれてるじゃない」

「お姉ちゃんはさ、お母さんが死んだあと、あの家がどんな状況だったか、想像したことあるの?」

「は?」

「あの家に、当たり前なんてひとつもなかったってこと、お姉ちゃんはわかってる?」

「何よ。何が言いたいのよ」

 (いら)つきを見せる沙也加に、裕太は嘆息した。

 自分に散々「何もわかってない」と言い続けてきた沙也加こそ、本当は「何もわかってない」という事実に裕太は今更ながらに気がついたのだ。

 沙也加はおそらく、自分が高校受験に失敗したのは、ちょうど受験の時にあんなことがあったからだと思っている。だから、本番で力を発揮できなかった。それは、ある面事実かもしれない。学内でもトップクラスの成績だと、得意げに自慢していたのを祐太は覚えている。だから沙也加は、あんなことさえなければ自分は第一希望の翔南高校に受かったはずだ、と信じているのだろう。そして尚人の時は、自分の時とは違って、受験に専念できる環境になっていた。だから、尚人は翔南高校に受かった。

 当たり前、にそう思っている。

 尚人が高校受験する時の篠宮の家の中が、どういう状況だったか知りもせず。

 尚人ほどの芯の強さがなければ、翔南高校には受からなかっただろう。学業の(かたわ)ら家事の一切をこなしていた。しかも、あの時の尚人には、誰一人として味方がいなかった。それでも尚人は、自分が決めたこと、としてやり通した。それは誰にでも出来る、当たり前、なことではない。

 しかし沙也加は、自分はタイミングが悪くて、尚人はタイミングが良かった。当たり前にそう思っている。そして今回も、尚人は大学進学前に学費の心配をする必要がなくなった。尚人ばかりがタイミングがいい。そう思っている。

 高校さえ出してもらえれば自活する。そう、決意していた尚人を、沙也加は知らない。そこを乗り越えて今がある、という事実を沙也加は知らない。篠宮の家が再生するまでにどれほどの痛みを伴ったのか、沙也加は知らない。

 でも、そういう一切を、裕太は説明する気にはならなかった。沙也加が真に理解するとは思えなかったからだ。

 そう思った時、

 ––あ、そういうことか。

 裕太は、不意に悟った。

 かつて裕太が、雅紀に

「お母さんとセックスしているのがナオちゃんにバレたとき、雅紀にーちゃんさ、どうせ舌先三寸でいいように丸め込んだんだろう? なのに、なんで、お姉ちゃんの時は––そうしなかったわけ?」

 そう問うたとき、雅紀はこう答えたのだ。

「俺が沙也加に何も弁解しなかったのは、そういうことを、一から十までくどくど説明するが面倒くさかったからだよ」

 あの時は単純に、尚人は手放せない存在で、沙也加は切り捨てても気にならない存在、だからだと思っていた。(じょう)もない相手に説明するのは面倒くさい、と。

 だが、説明したところで真に理解しない、と思えば、説明するのも面倒くさい、という気持ちになるのもわかる。

 あの時、雅紀は沙也加の顔を見て、そう判断したのだ。だから、面倒臭かった、のだ。まさに今の自分と同じように。

 だとすると、沙也加が雅紀に切り捨てられたのは、二人を罵倒して一人家から逃げ出したから、ではない。真に理解し合えない。そう判断されたからだ。

 ––沙也加はずっとあんなふうだから、俺には重すぎる。

 それは、超がつくほどのブラコンのことを指すのではなく、一方通行すぎる思いに対しての言葉だったのだろう。だから、同じ超ブラコンでも、尚人は丸め込んで、沙也加は切り捨てた。

 クソ親父がゴミ屑のように家族を捨てた時、雅紀には長男としての責任がその肩にのしかかった。出来た長男とはいえまだ高校生で、バイト三昧で家計を支える中で、精神を病んだ母親からは夫の代用品としてセックスを迫られていた。そんな修羅場の日常生活の中、雅紀が渇望したのが双方向の思いだったのだろう。

 一方的な沙也加は重い。裕太は、懐かないペットみたいで可愛げがない。だから、尚人に(すが)ることだけが雅紀の救いだったのかもしれない。

「––お兄ちゃんは、何て言ってるの?」

「高卒じゃなくても、大学検定があるって」

 その辺のことは、まだ祐太自身何も決めてはいないが。

「––大検。そうね。確かに、そういう選択肢もあるわね」

 沙也加は、ぼそりと呟く。正直裕太には、どうでも良かったが。

「じゃあ、勉強はしてるのね」

 ––だったら、何なんだよ。

 裕太は、沙也加が一体何をしに自分を待ち伏せしていたのか測りかねた。近況を訊ねるだけなら電話で良かったはずだ。わざわざ待ち伏せまでした意味があるのかないのか。それがわからない。

「話はそれだけ?」

「––お兄ちゃんは、元気にしてるの?」

「元気だよ」

 昨夜も散々尚人を()かせていた。毎日学業と家事に追われて、雅紀のセックスの相手までしている尚人の体の方が心配になる。何しろ雅紀は、いつでもどこでもどんな状況でも、尚人に発情するケダモノだ。しかも自覚して開き直っているだけにたちが悪い。

 裕太の返しに、沙也加は黙り込む。何か言いたいが、何を言えばいいのか迷っている。そんな様子の沙也加に、これ以上ここにいても時間の無駄だと判断した裕太は、

「じゃあ」

 一声かけて(きびす)を返した。振り返ることなく、自転車を止めている駐輪場へと向かう。その背に沙也加が声をかけてくることはもうなかった。

 

 

 こんなはずではなかった。

 沙也加は、遠ざかる裕太の背中を見つめながら、身動ぎできなかった。

 裕太に軽くあしらわれた。

 そんな気がした。

 沙也加の質問にまともに答えることもせず、訳のわからないことを逆に問うてきた。

 ––尚が一体何なのよ。

 尚人は翔南高校に通っている。翔南高校は、有名大学進学率ほぼ100%を誇る超進学校だ。大学進学は当たり前のはずだ。

 ––あの家に、当たり前なんてひとつもなかったってこと、お姉ちゃんはわかってる?

 裕太の意味深な言葉がリフレーンする。

 ––何よ、それ。どういう意味よ。

 翔南高校に通っておきながら、大学進学するつもりがない、ということなのだろうか。それを思った時、

 ––まさか。

 沙也加は、はっとして息を飲んだ。

 先月、アズラエルの本社ビルで見かけた光景がフラッシュバックした。アズラエルの双璧と言われる、総括マネージャーの高倉とモデル界の帝王加々美蓮司の後ろを尚人がさも当然の顔をして歩いていた。しかもその横には、今何かと話題のヴァンスのチーフデザイナー、クリストファー・ナイブスがいて、尚人とにこやかに談笑していた。

 しかも、英語で。

 雑誌『KANON』が掲載したインタビュー記事で、尚人がその通訳をしていたことを後で知った。それで、クリスと面識があるのは理解できた。しかし、それでもあの時、あの顔ぶれでアズラエル本社内を歩いているのが何故なのか、わからなかった。

 しかし、

 ––まさか、そういうことなの?

 沙也加は急に足元が覚束なくなって、近くのベンチに座り込んだ。

 雅紀をモデルデビューさせた加々美蓮司。業界最大手アズラエルの統括マネージャー高倉真理(まさみち)。そのアズラエルと専属モデル契約を交わしたヴァンスのチーフデザイナー、クリストファー・ナイブス。その三人が揃って尚人に会う理由。

 ––まさか。

 鼓動が早鐘のように打つ。

 沙也加の脳裏に、アズラエルとモデル契約した時のことが(よみがえ)る。

「新人モデルは、売り出し方が非常に重要なんです。沙也加さんは、MASAKIさんの妹だと認知されてしまっているので、特に。色付きがメリットになることもあれば、当然デメリットになることもあります。どんなに素材が良くても、読者受けしなければスポンサーは使ってくれませんから」

 マネージャーの唐沢は、沙也加にはっきりと言った。

 MASAKIの妹だからこそ、難しい面もある、と。

 ––だから、尚人をデビューさせるためにストーリーを作った?

 雑誌通訳のアルバイトをして、そこでデザイナーに見出された、というような。

 そうでなければ普通、雑誌インタビューの通訳などという大役を高校生に任せたりしないだろう。

 加々美は、雅紀をスカウトしてモデルデビューさせた恩人で、その加々美は、尚人の学校の課題だという職場見学の引率を引き受けていた。それで加々美が、面識のあった尚人に雑誌インタビューの通訳を頼み込み、その縁で尚人はヴァンスのデザイナーの目に留まった。一見自然に見える、出来過ぎたストーリー。

 ––うそ。いや。なに、それ……

 そんなのって、ズルじゃない。

 そんなことはありえない。そう思う一方で、妄想が沙也加を侵食していく。

 そうなの?

 本当に? そんなことってありえる?

 尚人をそこまでお膳立てする必要、ある?

 でも、雅紀が加々美に頼んだとしたら? ありえるのか……。

 お兄ちゃんのコネ?

 でも尚は、お兄ちゃんのいうことなら何でも聞く、使い勝手の良いハウスキーパーでしょう? 尚が家事しなくなったら、誰がするの?

 ありえない。……でも、ひょっとすると。

 思考がループする。

 沙也加は、今すぐにでも真実を確認しないと気が済まなくなって、慌てて立ち上がると、裕太の向かった駐輪場に走った。全力で駆けて、裕太の背中を追う。しかし、駐輪場に裕太の姿はなく、沙也加はそのまま一番近くの敷地出入り口まで走って辺りを見回したが、裕太の姿はもうどこにもなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

時を待つ

13巻、『水面の月』で来日したクリスの帰国後の話


「どうしたの? ずいぶん機嫌良さげだね」

 そう声を掛けられ、クリスはにっこり微笑(ほほえ)んだ。

「もちろん、最高の気分さ」

 滞在期間三日の強行来日から帰って来たばかりだったが、疲れは微塵(みじん)もなかった。インスピレーションが次々と湧いてくる。今はそれを一刻もはやく形にしたかった。

「ナオには会えたの?」

 カレルの問いかけにクリスは、もちろん、とうなずく。

 今回の日本行きの最大の目的は、アズラエルと正式に契約を交わすことだったが、クリスが個人的に楽しみにしていたのが尚人との再会だった。

 初来日で出会った、日本の高校生、篠宮尚人。彼は、カウントダウンステージ翌日の雑誌企画のインタビューで、インフルエンザでダウンした通訳のピンチヒッターとしてクリスの前に現れた。

 いや、正確にいうと、最初の出会いはその前にあった。

 撮影本番直前になってユアンの姿が見えなくなり、捜し回った先の控室に彼はいた。そして、その場で見つけたユアンは、なぜか彼の持参した弁当を遠慮なくつまみ食いしていたのである。

 ––おい、おい、おい、おい。まじかよ。

 クリスは自分が目にした光景が信じられなかった。ユアンは誰かに興味を持ったとしても、滅多に自分からコミュニケーションを取らない。ましてや、他人の食べているものをつまみ食いするなんて、これまで一回も目にしたことがなかった。ユアンは人に対してもそうだが、食に対してもあまり興味を示さない。そのユアンが、見知らぬ日本の少年に心開いている。それが、衝撃的すぎた。

 その少年がインタビューの通訳だと知った時は何の冗談かと思ったが、インタビューが終わる頃には、クリスはすっかり尚人に魅せられていた。

 聞き取りやすいきれいな発音。耳障りの良い穏やかな声。テンポの良い仕切り。言い淀むことのない端的な表現。とても、通訳を務めるのが初めてとは思えなかった。おかげで、通訳に思考を邪魔される、という時々起きる厄介な問題に、悩まされることがなかった。

 そんな彼のクレバーさもさることながら、クリスは、彼の持つ独特の雰囲気に強く興味を持った。中性的なユアンと似ているようで似ていない、静かで凛とした雰囲気。ほっそりした体つきなのに、決して儚げではなく、たおやかでしなやか。スッと伸びた背筋がきれいで、ユアンと並んだ時も、決して見劣りしなかった。

 二人並んで色違いの衣装を着せたら、きっと映えるに違いない。

 クリスの脳内に、その映像が具体的なイメージとして浮かび上がった。

 似て非なる、対となる個性の共鳴。ギャップとコモンがシンクロすることで生み出す新しい世界。

 ––いいねぇ。

 俄然、彼にモデルをして欲しくなった。だが、その願いは叶わなかった。尚人自身に、モデルをする気がない、と断られたからだ。

 しかしクリスは、完全に諦めてしまったわけではない。

 まだ機が熟していない。そう気持ちを切り替えた。

 実際、クリスの目にはそう見えた。

 彼の家庭は厄介な問題を抱えていて、ようやくその問題から解放されそうなタイミングだとクリスは教えられた。しかもまだ彼は高校生で、学業を優先する必要があるのだと。

 ならば、一年後二年後には、彼の環境は変わる。そうすれば考えも変わる。その時、同じ答えが返るとは限らない。

 ユアンだって、最初からモデルにやる気を見せたわけではない。クリスが試作品を着せているうちに、モデルはただ服を着れば良いというわけではないということに気付いて、徐々に興味を持つようになっていったのだ。

 あくまで主役は服だが、人を魅きつけられるかどうかはモデルの着こなしにかかる。その、面白さ。その、真剣勝負。それに気付いて、ユアンは本気になった。

 それと同じことが尚人に起こらないと、なぜ言えるだろう。

 大事なことは、縁を切ってしまわないことだ。

 今回の来日で、ユアンのサポートに尚人をつけて欲しいと結構無理な注文をつけたのは、それを狙ってのことである。もちろん、自分の方がわずかだが有利な立場にあると理解してのゴリ押しではあったが、見事尚人を引っ張り出して来たアズラエル側にも何やら思惑あってのことのように見えたのは穿(うが)ち過ぎだろうか。

「彼のサポートのおかげでほら」

 クリスは、スマホ画面にユアンの控え室で撮った写真を表示してカレルに見せる。画面を覗き込んだカレルは、感嘆の声を上げた。

「うわ……」

 二人が並んで微笑んでいる。とても穏やかな表情で。滅多に見ることができないユアンの笑顔もレアではあったが、二人並んでのショットがなぜか目を引く。それでクリスは思わず撮ってしまったのだ。

「やっぱり二人並ぶと、なんか良いよね」

 カレルもクリスと同じように思ったらしい。

 ユアンは衣装に着替える前のジャージ姿で、尚人は白シャツにブルーグレーのニットという大人しい服装ではあったが、

「これはこれで、『日常』をテーマにして撮ったって感じ。きっと、雑誌に載ってても全然違和感ないと思う」

 確かにその通りだが、クリスは並んだ二人を目にして、デザイナー魂が(うず)いてしょうがなかった。

『そういえば、こないだのあれ、どうしたの? 着てみたりした?』

 ショウ待ちをしていた時間、クリスが問いかけると、尚人は少し苦笑した。

『着てはみたんですけど。……その、ちょっとサイズが合わなくて』

『あー、そうなんだ。ユアンと同じくらいかなって思ったんだけど。ちょっと、測らせてもらってもいい』

 クリスがそう言って常備しているメジャーを取り出すと、尚人はすんなりOKして立ち上がった。それでクリスは、内心にんまり笑いながら、尚人の各寸法をしっかり測って脳内メモに書きつけたのである。

『なるほど。ウエスト、ちょっと大きかったでしょ』

『はい、そうです』

『んー、肩幅は同じだけど、肉付きが薄い分だけジャケットはちょっとだぶついたかな』

『ええ。その通りです』

 そういうやり取りをしていたら、なぜかユアンが尚人の横に並んだ。

『ナオ、僕より小さい?』

 どうやら背比べをしたかったらしい。それで、二人を背中合わせにしようとしたら、なぜかユアンは向かい合わせになって尚人とおでこをくっつけた。一瞬の出来事だったが、それがとても絵になる光景で、写真に収められなかったのが残念なほどだった。

『ナオと同じぐらい』

『そうだね、身長は同じぐらいかな』

 ユアンの突飛な行動にも尚人はただ微笑んでいた。まあ、若干びっくりはしていたようだったが。

「あー、やっぱり僕も一緒に行きたかったな」

 本気で残念がるカレルの様子にクリスはくすりと笑う。渡航前も「一緒に行きたい」「でも、学校あるし」と独り煩悶(はんもん)していたのだ。

「また、チャンスはあるさ」

 そうでないと困る。そんなクリスの思惑はさておき、カレルは「そうだよね」と(うなず)いてから、何か思い付いたようににっこりと笑った。

「ナオをさ、こっちに呼んでも良いよね。そしたら、僕のバイオリンも直接聴かせてあげられるし」

 アトリエに置いてる試作品も着せ放題だし?

「それも、いいねぇ」

 クリスは微笑む。

「日本の学校って、いつが休みなんだろう」

「その辺のことは、メールで聞いてみたら?」

「そうだね。そうする。今度はね、僕の通う学校の動画撮って送ろうと思ってるんだ。そしたら日本の学校とどう違うか、いっぱいおしゃべりできそうだし。絶対ユアンも興味持つよ」

 カレルはそう告げると、軽やかな足取りで部屋を出て行く。

 その背を見送って机に向かい直したクリスは、愛用しているタブレットを取り出した。ペンを使ってそれにアイデアをざっくりと描いていく。視覚化されることでアイデアはより具体的なイメージとなって立ち上がり、さらなるアイデアが生まれてくる。デザイナーとして一番楽しい時間だ。

 クリスは心弾ませながら、その作業に静かに没頭していった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

区切り

13巻『水面の月』最終節「終業式」より少し前の話


「なあ、明日第二土曜だろう? 暇なら一緒に本屋行かね?」

 代表委員会の終わった帰り道、いつもの面子(めんつ)で駐輪場へ向かっている道中、中野が山下に話し掛けた。

「いいぜ。どこの本屋行く?」

「欲しい参考書あってさ、ちょっと大きめのところ行きたいんだよな。駅前の丸文か、ショッピングモールの中に入ってる福武屋書店」

「あ、それなら俺、ショッピングモールの方がいい。ついでにフィギュアショップ覗きたいし」

「いいぜ。––なあ、篠宮。お前も時間あるなら付きあわねぇ?」

 中野が振り返って尚人に声を掛ける。桜坂と並んで中野たちの後ろを歩いていた尚人は、向けられた視線に顔を上げた。

「ごめん。明日は、ちょっと用があって」

「あ、そうなんだ。残念」

「裕太の卒業証書、受け取りに行かなきゃいけなくって」

 尚人が言葉を付け足すと、中野は軽く目を見開いた。

「え、あ。……そうかぁ。中学の卒業式って大体どこも三月の第二土曜だもんな」

「じゃあ、裕太くんもいよいよ卒業なんだ」

 山下が感慨深げに呟くのが何だかおかしくて、尚人は小さく笑った。

「結局、最後まで登校しなかったけどね」

「人にはそれぞれペースがあるんだから、それでいいんじゃね?」

「そうそう。裕太くんには心強い兄ちゃんが二人も付いてるしな」

 中野の言葉に山下が頷く。尚人はわずかに苦笑した。

「雅紀兄さんはまだしも、俺のことはそんなふうに思ってないよ。裕太によく、うざいって言われるし」

 まあ、それも、近頃はずいぶん減ったような気はするが。

「態度と心の中で思ってることが同じとは限んないじゃん」

「そうそう。兄ちゃんのこと好きじゃないと、文化祭見に来たりしねぇって」

「……あれは、リハビリ兼ねてたし」

 それに、文化祭を見に行きたくても行けない雅紀の代わりに写真を撮る使命もあった。

 まあ、動機がなんであれ、裕太が自分から外へ出て行こうと思ってくれたことは、尚人にとって喜ばしいことではあったが。

「俺、篠宮が自分の兄ちゃんだったら、すっげー感謝するけどなぁ。引きこもった当初はいろいろあって、自分の感情すら持て余して、存在がうざいと思っててもさ、落ち着いたら支えられてたんだって気づくじゃん。毎日飯作ってくれて、洗濯も掃除もしてくれてさ」

「まあ、そこら辺は家族だから」

「俺、同じことしろって言われても絶対できないし」

「いや、それはお前だけじゃなくて、ほとんどのやつができねーって。篠宮って、何気にすげーこと、さらっとやっちゃうから」

「ああ、あの修学旅行の時の通訳とかな」

「あれはまじびびった。篠宮、急にペラペラ英語喋りだすし。俺一応英検準2級持ってるけどさ、日常会話おぼつかないし」

「俺も、長文読解は得意な方だけど、実践では使えないんだよなぁ。独学であれだけ喋れるって、どういうことだよ」

「クラスまとめるのもうまいしさ」

「そうそう。先頭に立って引っ張るわけでも、自分の意見押し付けてくるわけでもないのに。うまい落とし所見つけてくれるみたいな」

 ––急にどうしちゃたんだよ、二人とも。

 突然持ち上げられて、尚人は背筋がむず痒くなる。

 褒めても何にも出ないよ? と、心の中でそっと呟いていると、

「卒業証書受け取るって、具体的にどうするんだ?」

 今まで黙っていた桜坂が尚人に視線を向けた。尚人はわずかに首を(かし)げる。

「多分。職員室で担任の先生から預かればいいと思うんだけど」

 裕太の担任の麻木から卒業式に関する連絡があったのは、先月下旬のことだ。てっきり定例の様子伺いの電話かと思っていたので、卒業式の話が出てきたとき尚人は少しびっくりした。

 ––あ、そうか。もう、そんな時期なんだ。

 頭ではわかっていたはずなのに、裕太の中学校卒業を実感した瞬間でもある。

「卒業生は、九時登校で式典の開始は十時からです。––もし、その、教室には入りにくいけれども式典には参加したい、という場合は、別室で待機して体育館入場の際に他の卒業生と合流するというような対応を取ることも可能です。……で、篠宮くんの参加は、どうでしょうか?」

 麻木なりに裕太が参加しやすいよう色々考えてくれたのだろう。

 しかし、

「一回も登校してないのに、卒業式だけ行くわけないだろう」

 というのが裕太の意思だった。

 それで裕太の不参加を伝えると、それでは家族の誰かが卒業証書の受け取りに来て欲しい、と言われたのである。それで雅紀とも話し合ったのだが、その日は雅紀がスケジュール的にどうしても無理ということで、尚人が受け取りに行くことになったのだ。

「担任の顔、知ってるのか?」

「うん。裕太の担任、三年間一緒だから。俺がまだ中学にいたときは、時々プリント預かったりしてたし」

 尚人は何度か会ったことがある麻木の顔を思い浮かべた。少しぽっちゃり体型で、トレードマークは銀縁の丸メガネ。担当学年が違ったので尚人は麻木の授業を受けたことはないが、一部の生徒たちからは『あさぎん』と呼ばれ慕われていた。

 裕太が入学して間もない頃は、麻木は足繁く家庭訪問を行い、自らプリントなどを自宅へ持って来ていたが、それがいつ頃からだったか、家庭訪問は電話連絡に変わり、必要なプリントは尚人が預かるようになった。月一くらいで担任から「帰る前に職員室の麻木先生を訪ねるように」と伝えられて職員室に寄っていたので、尚人にとって職員室は案外思い出の場所だ。

 複雑な思いを抱えて向かっていた職員室。二年経って、またそこを訪ねることになるとは思いもしなかった。

 中学卒業の時、尚人に感傷はなかった。卒業式の三日後にある高校の合格発表だけが頭を占めていた。何にもできない自分から脱却し、未来のために歩き出す。高校合格は、そのための一歩、と思っていた。しかし、翔南一本しか受験しなかった尚人は、万が一の場合のことを覚悟しないわけにはいかず、密かに緊張を抱えていたのである。

 ––俺は、前に進む。

 卒業式を終えて中学の学び舎を去る時、尚人は決して振り返らなかった。必要なのは過去ではない。自分は今日、義務教育を終えたのだ、と自分自身に言い聞かせていた。

 ある面、(かたく)なにそう思わなければ、あの時は自分を支えきれなかったというのが正しい。

 期待と不安の中で、まだ不安の方が断然大きかった時だ。

 しかしあれから尚人の環境は劇的に変化した。自分にも何か出来ることがあるという証明にしたかった高校に合格した。そこでは、中学時代一人もいなかった友人に恵まれた。(うと)まれていると思っていた雅紀から愛されているとも知った。

 裕太も引きこもりをやめて、変わろうと動き出している。

 今ならかつての学び舎も違ったふうに見えるかもしれない。

「俺、久々に中学校行くの楽しみかも」

 尚人が桜坂を見やってそう呟くと、桜坂は軽く目を見張った後に、口の端で小さく笑った。

「そうか」

 たったそれだけのことが、尚人はうれしかった。

 

 

 翌日、尚人は翔南高校の制服を着て母校明和中学に向かった。三年間毎日歩いて登校していたその道を、今また歩いているのがなぜだか新鮮だった。

 道中、式典に参加して帰宅する在校生の集団とすれ違う。卒業生たちよりも一足早く下校になったのだろう。自分の時もそうだった。中学時代のことをあれこれ思い出しながら、尚人は懐かしい中学校の校門をくぐった。

 校門の横には立派な桜の木があるのだが、まだ開花の気配はない。硬い蕾を見遣って、尚人はそのまま視線を落とす。桜の向こうに校庭が広がっているのだが、見る限り人影はなく、校内は思いのほか静かだった。在校生はすでに下校し、卒業生はまだ各クラスで最後のホームルームの最中だからだろう。尚人は慣れた足取りで生徒昇降口とは別の校舎正面口に向かうと、そこから入って来客用のスリッパに履き替えた。職員室へ向かい、ドアをノックする。その直前。

「あら、ひょっとして篠宮くんじゃない?」

 背後から声を掛けられた。振り返って、尚人は軽く目を見張る。

「あ、高尾先生。お久しぶりです」

 理科の教科担当だった高尾教諭がそこに立っていた。三年の時はクラスの副担任でもあり、懐かしい顔に尚人から自然と笑みが(こぼ)れた。

「久しぶりだねー。元気だった?」

「はい」

「翔南の制服似合ってるじゃない。かっこいいなぁ」

 高尾は二三歩離れた距離から、しげしげと尚人を見回してにっこりと笑った。

「それに、いい顔つきになってる」

「ありがとうございます」

 尚人が微笑んで会釈すると高尾の笑みは深まった。

「実は今年ね、翔南受験した生徒が二人いるのよ。先輩に翔南合格者がいるっているのが励みになったみたい」

 言って高尾は、当時を思い出したのか、ふふっと笑った。

「あの当時小沢先生は心配しかしてなかったけどねぇ。翔南一本なんて心配すぎて痩せ細るって。––それに、今だから言うけどね。小沢先生、あそこの兄弟は揃いも揃って頑固者、ってよく職員室で愚痴(ぐち)ってたのよ。まあ、それも心配の裏返しだけど」

 懐かしい名前に尚人は笑む。三年生の時の担任だった小沢が、まさか雅紀の二年生の時の担任だったと知った、あの時の三者面談も今では懐かしい思い出だ。

「で、今日はどうしたの?」

「弟の卒業証書を受け取りに来たんです」

 尚人が告げると、高尾ははっきりと苦笑した。

「もう一人の頑固者ね」

 高尾のその言いように尚人も苦笑する。高尾は裕太の登校拒否をそう受け止めていたということだ。ある意味、正しい。裕太の引きこもりは、裕太なりの主張だったのだから。

「でも最近、動き出したんですよ。裕太なりに色々考えているみたいです」

「そう」

 高尾が笑顔で(うなず)いたその時だった。

「あ、篠宮くん。お待たせしちゃいましたね」

 ホームルームを終えたらしい麻木が職員室へ戻って来たのだ。礼服姿の胸にはまだコサージュが付いていて、卒業式の雰囲気を醸し出している。

 高尾は麻木の姿を見やると、じゃあね篠宮くん、と一声掛けてから職員室の中へと消える。尚人は会釈して高尾と別れ、麻木に向き直った。

「今日は、お世話になります」

「いえいえ、こちらこそ。わざわざ来てもらって、申し訳ないです」

 麻木は尚人を職員室前で少し待たせて手ぶらで戻ってくると、なぜか尚人を別室へと案内した。

 ––卒業証書受け取るだけじゃないのかな。

 と思っていると、通された先は何と校長室で、そこには担任の麻木の他、三人が待ち構えており、校長と学年主任、クラス副担任だと紹介された。

 ––え、何かすごく大事なんだけど……

 内心戸惑う尚人に対し、校長は、卒業式というのは学校として大事な行事で、筒に入ったままの証書をはいっと渡して終わりだというわけにもいかないのだと説明し、校長室で参加者四人という小規模ながらも卒業証書の授与式が行われた。校長は尚人を前にして証書内容を読み上げ、尚人は式典同様に校長から証書を受け取る。読まれた名前は当然裕太だったが、尚人は中学校を卒業し直したような、何だかとても不思議な感じがした。

 あるいは、裕太と共に、これできっぱり過去から卒業するのだという証をもらったような––。

「三年間、本当にお世話になりました」

 尚人は深々と頭を下げて校長室を後にした。

 それから、正面口まで見送りに来た麻木と一言二言言葉を交わしてから尚人は校舎を出る。一歩外へと踏み出すと、晴れ渡った空の青さが目に染みた。

 やはり、今日来てよかった。

 尚人は目を細めて空を仰ぐ。

 何とも言えない清々(すがすが)しい気持ちだった。

 苦しみと悲しみと孤独を内に抱え込んで過ごした中学校の三年間。懐かしく思い出すことなどないと思っていた。しかし、もう、かわいそうな子供でしかなかったあの頃の自分はいない。

 自分たち兄弟は、暗く長いトンネルから抜け出して、これからは本当の意味で、未来へ向かって歩んでいくのだ。

 今日、雅紀が帰って来たら、今のこの自分の気持ちを話そう。うまく伝えられるか分からないけれども、伝える前に諦めることだけはもうしない。

 それにきっと、雅紀は分かってくれる。

 気持ちを通じ合わせるのに必要なのは言葉だけではないからだ。

 ––よし、帰ったら張り切って晩ご飯作ろう。

 何しろ卒業のお祝いだ。

 尚人は、卒業証書の入った筒を片手に、晴れやかな気持ちで帰路についた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

銀波ノ雫 1

『沙也加さん、急で申し訳ないんですが、今からアズラエル本社まで来ていただけませんか?』

 沙也加がマネージャーの唐澤からそんな電話をもらったのは、大学構内のカフェテリアで加持や相田達と旅行の計画を立てている時だった。

 後期期末考査や課題レポートの提出も終わり、大学はこれから約二ヶ月の春休み期間に入る。まだゼミに所属していない一年生にとってはサークル活動以外に大学に顔を出す必要のなくなる期間で、ある意味遊び放題なのだが、バイトや帰省とそれぞれのスケジュールで動いてしまうと、なかなか友人とも会えなくなってしまう期間でもある。それで相田が言い出しっぺとなり、せっかくの春休みなのだからスケジュール調整をして四人で旅行に行こう、ということになったのだ。

 お互いのスケジュールを確認し合うと、三月上旬に二泊三日の旅行ができそうだった。今年に入ってモデルの仕事を始めた沙也加も、レッスンやスポンサー回りなどの予定がそこそこ入っていたが、スケジュール帳が真っ黒になるには程遠い。前からやっているバイトのシフトはこれからいくらでも調整可能で、旅行計画に支障なかった。

 旅行なんていつぶりだろう。まして友人だけでの旅行なんて行ったことがない。

 沙也加の気持ちが自然浮き立つ。

 それは皆も同じようで、二泊あればそこそこ遠出ができると、沖縄や京都、北海道と、あちこちの地名が飛び交って話が弾んだ。候補地情報をスマホで検索して名産品がヒットすると、今度はあれが食べたい、これが食べたい、と話が膨らんでいく。

 沙也加の携帯が鳴ったのは、そんな時だった。

「あ、ちょっと。ごめん」

 沙也加は、ディスプレイに表示された名前を確認し、皆に軽く断りを入れてから席を外すと、カフェテリアの隅の人気のない場所へ歩きながら通話ボタンを押した。

「はい。沙也加です」

『お疲れ様です。沙也加さん。今は、まだ大学ですか?』

 電話の相手はマネージャーの唐澤だった。

「はい。そうです」

『今日の講義は終了しましたか?』

「今日は、レポートの提出に来ただけなので、この後はフリーですけど?」

『では、沙也加さん。急で申し訳なんですが、今からアズラエル本社まで来ていただけませんか』

 唐澤の言葉に、沙也加は首を傾げた。

 一体なんだろう。

 想像がつかなかった。

 今までこんなふうに、急に電話で呼び出されたことがなかったからだ。

 しかし、マネージャーがすぐに来い、と言う以上、行かないわけにはいかない。なにせ沙也加はまだ新人で、マネージャーに逆らうなどという生意気な真似はできないからだ。

「はい。わかりました」

『できれば、タクシーで来てください。タクシー代は事務所で持ちますので』

 それほど急ぐのか。と沙也加は内心驚きつつ、了解を示して電話を切った。

 いい話なのか、悪い話なのか。どんな時も淡々としている唐澤の口調からは読み取れない。沙也加が若干気持ちをざわつかせながら席に戻ると、相田たちはまだ、沙也加が席を立つ時に話題にしていた、ご当地ソフトクリームの話で盛り上がっていた。

「ごめん。悪いんだけど、急に事務所から呼び出しかかっちゃった」

 沙也加が言うと、三人はおしゃべりをやめて沙也加に視線を向けた。

「仕事?」

「うーん。わかんない。そんな予定は、入ってなかったんだけど」

「ひょっとすると、誰か仕事に穴開けたんじゃない? それで沙也加に声かかったとか?」

 柏木が言うと、それに相田が同調した。

「ありえるー。こないだの『ノエル』すっごく、良かったもん」

 それは、沙也加がデビューした雑誌だ。

『自分らしさを彩る 春色ジュエリー』というテーマの雑誌企画があり、沙也加はそれでモデルデビューを果たしたのだ。グラビア撮影当日は、衣装やジュエリーを何度も交換して様々なポーズで何十枚と撮ったのに、雑誌に掲載されたのはたった一枚だったが、それでも沙也加的に満足いく出来だった。

 普段から『ノエル』を購読してるらしい相田からは、雑誌が発売されるやすぐさまLINEが入り、「すっごく良かった」と、スタンプ付きメッセージが送られてきて、沙也加は「ありがとう」とだけ返したが、本当はものすごく嬉しかったのだ。

 有頂天になりすぎてはダメ、と自制する一方で、やっぱり他人が見ても良かったよね? と浮き立つ気持ちが抑えられなかった。

 そして、もっと紙面の中心を飾りたい、できれば表紙を、という欲求が大きく膨らんだ。

 世の中には、代打でチャンスを掴んで売れたモデルもいると聞く。だが、万が一柏木の予想が当たっていたとしても、穴埋め要員が沙也加一人とは限らない。のんびりしている間に、掴めていたかもしれないチャンスを失うことだけはしたくなかった。

「とにかく、私行くね」

 何か決まったら連絡ちょうだい、と言い置いて、沙也加は荷物を掴んでカフェテリアを出た。そのまま早歩きで大学構内を横切り、東門から外に出る。そこから出た方が大通りに面し、流しのタクシーを捕まえやすいからだ。

 ラッキーなことに、タクシーはすぐに捕まった。

「アズラエル本社ビルまで」

 沙也加がそう告げると、運転手は迷う様子もなく車を発進させた。

 平日の昼過ぎのこと。道路は比較的空いており、目的地に到着するのにさほど時間は掛からなかった。

 沙也加は一階エントランスの総合受付で入館手続きを取ると、慣れた足取りで受付奥にあるエレベーターホールに向かい上階行きのボタンを押した。そしてわずかに待ってやって来たエレベーターに乗ると、モデル部門のある三階のボタンを押す。途中誰も乗って来ることなくエレベーターは目的階に到着し、沙也加はエレベーターを降りた。

 ホールのすぐ脇にフロアカウンターがある。沙也加は、早足で歩み寄ると、そこにいたスタッフに声を掛けた。

「唐澤さんから連絡をもらって来たんですけど。唐澤さんはどちらに?」

 スタッフは沙也加の名前を確認すると、少々お待ちください、といって内線電話を掛け、短いやり取りで電話を切った。

「すぐに参りますので、こちらで少々を待ちください」

 その言葉通り、唐澤はすぐに現れた。

「急に呼び立てて申し訳ありませんね」

 唐澤の態度は至って通常通りだ。

「いえ」

 と小さく口の中で答えて、沙也加は探るように唐澤を見やった。

「それで、あの。急にどうしたんでしょう?」

「部屋を押さえているんで、話はそちらで」

 唐澤はそれだけ言って沙也加を一つ上のフロアへ連れてく。そして403と書かれた部屋の扉をノックもせずに開けると、沙也加に中に入るよう促した。

 ひょっとしてここで誰かが自分を待っているのかも、と沙也加は思ったが、中は無人だった。そっけない作りの小さな部屋で、長机と椅子が置いてあるだけ。いかにも少人数での打ち合わせに使いますといった雰囲気だったが、正面に大きな窓があるため、広さの割に開放感があった。

「どうぞ、座ってください」

 勧められて、沙也加は素直に従う。唐澤は机を挟んで沙也加の正面に座ると、机の上で両手を組んでひと呼吸置いた。

「今日は早急に確かめたいことがありまして、こうして来ていただきました。正直にお答えいただきたいと思います」

 唐澤のその言葉に、沙也加は思わず眉を潜めた。

 ––何よ、一体。

 この雰囲気はどう考えても、柏木が予想したような状況ではない。

 何かトラブルが起きて、沙也加に真偽を確かめようとしている。そんな雰囲気だ。

 ––嫌な感じ。

 沙也加の中で反射的に拒絶反応が起きる。

 今まで散々、自分の意思とは関係のないトラブルに巻き込まれて来た。その時に染み付いた嫌悪感が、沙也加の心臓をぎゅっと掴む。

 何を聞かれるのか。

 構えた沙也加に、唐澤は至極淡々とぶつけた。

「弊社所属のモデル、タカアキさんとは、個人的お付き合いがありますか?」

「は?」

 唐澤の言葉に沙也加は思わず耳を疑った。

 聞かれたことが予想外すぎて、聞き間違ったかとすら思った。

「あの、もう一度言っていただけますか?」

 その沙也加の言葉をどう受け取ったのか、唐澤はわずかに口の端を歪めて、小さく嘆息した。そして(おもむろ)に一冊の雑誌を取り出す。

「明日発売予定の週刊誌です」

 唐澤は迷うことなく目的のページを開いて、沙也加の前に差し出した。

 恐る恐る覗き込むと、そこには、

『芸能人の春模様』

『あの人も この人も カップル誕生か』

 そんな見出しと共に、いかにも週刊誌らしい書き振りで芸能人カップルの恋愛模様が特集されていた。見開き紙面に複数カップルの記事を載せているため、一人一人の扱いは小さい。良くも悪くも週刊誌でよく見る穴埋め記事だった。

 ––これが?

 と一瞬首を傾げた沙也加の目に、ある見出しが飛び込んできた。

『SAYAKA×タカアキ』

 沙也加はギョッとした。

 ––うそ。いや、何これ。

 身に覚えのないことを書かれた。そのことよりも先に、誰かにそういう目で見られた、と言うことに言葉にできない嫌悪感が湧いた。

 沙也加は、兄と母の(ただ)れた現場を目撃して以来、男性から好意を向けられること自体が苦痛になった。男性の好意の先に必ずセックスがあるような気がして、異性から向けられる好意は恐怖でしかなかった。

 自分には、あの母と同じ血が流れている。

 雅紀にしがみつき、髪を振り乱してよがっていた。ケダモノみたいな気持ち悪い声を上げて、いやらしく悶えていた––––母。

 セックスをしたら、まさか自分もああなるのか。

 そう思うだけで虫唾が走る。

 しかしもう一方で「意識し過ぎ」と自嘲するもう一人の自分がいて、そんな自分の葛藤を他人に悟られることすら嫌だった。

 だから、異性からの好意は、何でもないような慣れた振りをして断って来た。

「ごめんね、今は誰とも付き合う気がないの」

 それはそれで、お高く止まっている、と周囲の女子たちの反感を買うことになったが。

 記事には写真が添えられていた。カフェの窓際の席でひと組の男女が丸テーブルを挟んで座っている。小さいが、見る者が見れば誰が写っているのかわかる写真だ。

 ––あの時だ。

 沙也加はすぐにピンと来た。

 初グラビア撮りをした数日後。レッスン終わりに皆で食事に行こうという流れになった。正直沙也加は行きたくなかったが、断るのも角が立つような雰囲気で、渋々参加したのである。

 もちろん、顔には出さなかったが。

 レッスンスタジオを出た時は女性モデルばかりだったが、そこに何故か、タカアキとその仲間だという若手メンズモデルが合流した。成人している者たちも多く、食事会は自然と半分飲み会になった。酒が入ると皆テンションが上がる。未成年の沙也加は当然最後まで素面(しらふ)で、酔っ払いの乗りについて行けずに内心うんざりだった。

 それで解散した後、気持ちを落ち着けるためにカフェに入ったのだ。すると何故かそこに少し遅れてタカアキが現れて、さも当然の顔をして沙也加と同席したのである。

 そこを週刊誌の記者に撮られたのだ。

『今春一番のビックカップル誕生か。先月モデルデビューしたばかりのSAYAKAが同じ事務所の先輩モデル、タカアキとカフェデート。SAYAKAはあのカリスマモデルMASAKIの妹であり、今年活躍が期待される女性モデルの一人。一方のタカアキは事務所最大手アズラエルの大型新人モデルで、MASAKIとは何度も同じグラビア誌面を飾っている注目株の一人。兄も公認の仲なのか。この二人から目が離せない』

 そんな煽り記事が添えられている。

 ––信じられない。

 雅紀の名前まで持ち出して、事実無根のことをさも事実かのように書いてある。

 怒りに震えた。

「個人的な付き合いはありません」

 沙也加はわずかに震える声できっぱりと言い切った。

「モデル仲間たちと食事した後、一人でカフェに入ったら、タカアキさんがやって来たんです。モデルの心構えなどについて少しアドバイスをもらって、その場で別れました」

 それが沙也加の真実だ。

 いきなり同席したタカアキの真意はわからないが、タカアキからも男女の付き合いをほのめかすような言動はなかった。

「さっき、あまり話せなかったから」

 そう言って、本当に世間話をしただけだ。モデル現場の裏話などは多少興味がそそられて、それで少々話が弾んだのも確かだが。

「そうですか」

 唐澤は、疑いの目を向けるようなことも、さらなる追求をするようなこともなかった。静かな眼差しを真っ直ぐ沙也加に向けただけだった。

「ひょっとすると、この記事のことでどこかのマスコミがコメントを欲しがるかもしれませんが、すべて『事務所を通してください』と答えるようにお願いします。否定や弁明など、余計な発言をすればマスコミの思う壺です。彼らは言葉の切りはりするプロですから。いいですか?」

「わかりました」

 沙也加は頷く。

 かつてマスコミに囲まれても一瞥(いちべつ)もくれずに堂々と歩いていた雅紀の姿が脳裏の浮かんだ。

 ––私だってできるわよ。

 無視すればいいんでしょう?

 今までだって散々マスコミに付け回されて来たのだ。

「大丈夫です。慣れてますから」

 沙也加がきっぱりと言うと、唐澤は今日初めて小さな笑顔を見せた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

銀波ノ雫 2

「––で、どうだった?」

 アズラエル統括マネージャー高倉真理の執務室。呼び出した二人の社員に高倉がそう問いかけると、沙也加のマネージャーである唐澤とタカアキのマネージャーである加藤は、ほぼ同じ内容の報告をした。

「なるほど」

 高倉は優雅に紅茶を一口すすって呟く。

 正直なところ高倉は、二人が個人的に親密な仲であるのかないのかは、どちらでもよかった。若い男女のこと、健全な交際をすることに反対はない。モデルはアイドルと違う。ファンを繋ぎ止めるためにフリーを装う必要はない。ただ、会社として正確なところを把握しておきたかっただけだ。

 ––しかし問題は、写真に撮られたのが本当に偶然かってところだろうな。

 高倉は、そこが一番引っかかっていた。

 二人で何度も会っている中で撮られた一枚なら、週刊誌の記者も話題が欲しくて張っていたんだろうと思う所だが、二人の話が本当だとすると、たった一回、二人きりになった所を狙いすましたかのように撮られたのだ。もしこれが本当に偶然なら、その記者はラッキーだったとしか言いようがないが、世の中、そんなラッキーはなかなか転がっていない。

 ––最初から、沙也加嬢を張ってたのか?

 何せ、SAYAKAは、あれだけ世間を騒がせた篠宮家の長女で、あのカリスマモデルMASAKIの妹なのだ。何かあればすぐに世間の話題をさらう。そういう存在は、週刊誌にとって美味しい存在だろう。

 かつては一般人の未成年ということで、顔出しもあまりしつこい取材もNGだったが、今はモデルデビューしたのだ。ならば公人同然で、週刊誌にモザイクなしで写真を掲載しても何の問題もない。と思うのが世論だろう。

 まあ、細かいことを言えばモデルとしての肖像権の問題が生じるのだが、覗き見趣味の世論と正論のどちらがマジョリティになるかはケースバイケースで、会社としてもメリットデメリットは常に天秤にかける必要がある。

 それに今回の記事は、多少読者を煽るような表現を使っているが嘘を書いているわけでもなく、名誉毀損といきり立つような話でもない。どちらかと言えば、顔と名前を売るための話題作りの一つになる可能性が高く、わざわざ「そのような事実はありません」と事務所発表するほど大袈裟な話でもない。

「現状、様子見だな」

 高倉が呟くと、二人も同意するように頷く。

「もしこの件で何か動きが生じるようだったら、速やかに報告するように」

 高倉は二人にそう告げて、この場は解散とした。

 ––にしても、タカアキと沙也加嬢ねぇ……。

 一人になって、高倉は執務椅子に深々と腰掛けた。机の上には例の週刊誌。二人が並んで写っている写真を今一度確かめる。

 アズラエル一押し新人モデルタカアキが、カリスマモデルMASAKIを意識しまくりなのは、もはや業界内の常識だ。しかもそのMASAKIには歯牙にもかけられず、一人ライバル心剥き出しなことも。

 そのことがまた、タカアキの敵愾心(てきがいしん)に繋がっている。

 そのMASAKIの妹とわざわざ二人きりになった、タカアキの真意。

 マネージャーの加藤は、

 ––タカアキくんは、同じ事務所の後輩の面倒を見てやろうという気持ちだった、と言っています。SAYAKAさんは、先日雑誌でモデルデビューをしたばかりだし、何か困っていることがあるんじゃないかと。皆と別れた後に一人でカフェに入るところを見かけて、ひょっとするとそうなのかもと思ったから追いかけた、とそう言っています。それで、SAYAKAさんから特に相談されたわけではないけれども、何らかのアドバイスになればと思って自分の経験を少し話した、と。

 聞き取った内容をそう説明した。

 その説明に特に違和感はない。沙也加側の話とも一致する。

 だから何がこんなに引っかかるのか。高倉自身もわからない。

 しかし喉に刺さった魚の小骨のように、無視できない違和感が高倉にはあった。

 ––ま、現状様子見するしかないんだがな。

 雑誌を閉じて執務机の端に放り投げる。ノックもなく部屋の扉が開いたのはその時だった。

「よう、おつかれさん」

 陽気に現れた加々美に高倉は視線だけで返す。それに対し口の端で軽く笑む、そのさりげない仕草さえ色男の匂いぷんぷんで、高倉はひっそり苦笑した。

 ––こいつは幾つになってもこうだよな。

 いやむしろ、年齢を重ねるごとに男の色気が増している気がする。

 加々美は、いつものようにセルフでコーヒーを淹れると、当たり前のように革張りのソファーにゆったりと腰を下ろした。

 その様は、まるで自室で休憩しているかのように馴染んでいて、高倉は時々、加々美はここを自分専用の休憩室と勘違いしているのではないかと錯覚する程だ。

「今、唐澤と加藤が揃って出て行ったけど、何かあったのか?」

 さすが目敏(めざと)い。

 高倉は小さく笑う。

 加々美が単なるモデルで終わってしまわないのは、こういうところだ。

「明日発売の週刊誌の記事の件で、ちょっと確認したいことがあって。報告を受けたところだ」

「週刊誌?」

 問うような視線を向けた加々美に、高倉は雑誌を見せた。

「へぇ……」

 目を通し、加々美がひと言呟く。それきり何も言わない加々美に、高倉は軽く片眉を上げた。

「お前にとっては、どうでもいい記事だったか?」

「うーん。コメントしようがない、と言うのが正直なところかな」

 加々美はコーヒーをひと口運んでから呟く。

「まあ、若い男女のことだからな。恋愛くらいするだろう。別に、問題ないんじゃないか?」

「本人たちは、個人的な付き合いはない、と言っている。たまたま一緒にカフェにいたところを写真に撮られたらしい」

「それで? 事実ではありませんと、事務所発表でもして欲しいと?」

「いや、それはない。沙也加嬢の方は、内心ではかなり憤慨(ふんがい)している様子だったと、唐澤は言っていたが」

「自分からマスコミ相手に事実じゃないと(しゃべ)りそうとか?」

「そういう事はしないよう唐澤が釘を刺したようだ。下手に喋ると、火のない所に煙を立たせようとするからな、マスコミは」

「まあ、そうだな」

「父親の件で散々マスコミに付け回されたんだから、その辺はマネージャーに言われずとも十分心得ているとは思うが」

「親父さんの功罪だな」

 加々美は口の端で笑った。

「この件でMASAKIが何かしら動くと思うか?」

 高倉の問いかけに、加々美は肩をすくめた。

「そりゃ、ないだろう。マスコミが雅紀のコメントを欲しがっても完全黙殺だと思うぞ、俺は」

「妹のことなのに?」

「何か言うだけマスコミの思う壺ってのを十分知ってるからな、あいつは」

 確かに父親がらみの騒動で、コメントを求めて群がるマスコミをMASAKIはいっそ惚れ惚れするほど完全黙殺していた。あれを見せられたら、自社のモデルが束になっても敵わないと、認めざるを得なかった。

 あの騒動でMASAKIの知名度は一気に上がり、そしてカリスマの地位を不動のものにした。彼が見た目だけでカリスマと呼ばれるようになったわけではないと、視聴者の誰もが納得したからだ。

 そのMASAKIが、マスコミのぶら下がり取材に反応したのは、たった一回。父親である篠宮慶輔が暴露本を出版した時、マスコミの質問に何も答えないMASAKIにある記者が投げかけた言葉が引き金だった。

 ––このまま何も言っていただけないのなら、弟さんに直接伺うことになりますよッ!

 その一言にMASAKIは足を止め、殺気のこもった冷たい視線を記者に対し向けたのだ。刹那、(やかま)しいほどにコメントを求めていた記者たちは一斉に言葉を飲み込み、画面を通してさえ痛いほどに沈黙が張り詰めたのがわかった。

 MASAKIは、記者の発言を、弟を人質に取る行為だと断言し、それは自分に対する強迫だと明言した。そして、未成年である弟にマイクを突きつけて、しつこくまとわりついて付け回すようなクズには一切容赦しない、と宣告したのである。

 MASAKIのあの苛烈さには、正直高倉も驚いた。

 真夏のスタンドイン事件で、初めて尚人と二人でいるところを見たときに、今まで見たことのない、とろけるよう笑顔を尚人に対し見せていたのが衝撃的すぎて、MASAKIが弟を溺愛しているのはわかっているつもりだったが、あそこまで全力で弟を守ろうとする姿勢を見せるとは思いもしなかった。家庭環境が最低最悪で、兄妹弟肩よせ合って様々な苦労を切り抜けて来たのだろうと思えば、兄妹弟の絆は普通の家庭より強固であって不思議はないが、それをマスコミに対し隠しもしないどころか、正々堂々喧嘩を売ってまで、というのが意外だったのだ。

 今まで高倉が抱いていた、おそらく世間一般の抱いているイメージと大差ないはずの、超クールというMASAKIのイメージからかけ離れすぎていたせいかもしれない。

 しかしそのギャップがまた、視聴者の心を鷲掴みにした。

 日頃はクールで通していても、いざとなれば家族を守る。

 その男気が、カリスマをさらにカリスマにした。

 最強の守護天使。それが、MASAKIの代名詞になった。

 若い女性は、彼みたいな彼氏が欲しいと願い。年配の女性は、彼みたいな息子がいれば最高だろうとさざめきあった。若い男性は、彼のようにありたいと願い。父親世代の男性らは、家族を大切にすることの意味を改めて痛感させられた。

 そうして、老若男女誰もが、MASAKIに魅了された。

 沙也加はそんなMASAKIの妹で、その事はすでに、ガールズコンテストに出場した時から世間バレしている。そして高倉も、MASAKIの妹だからこそスカウトした。

 MASAKIという紐付きがメリットなのかデメリットなのか。今のところまだ答えは出ていない。アズラエルとしても、SAYAKAを売り出すのにMASAKIを前面に押し出すのはやめた。世間バレしていなかったらMASAKI押しはインパクトがあって話題をさらうが、既に世間バレしてしまっている状態では、いまさら感が出てしまってかえってマイナスだろうと判断したからだ。

 沙也加にキャリアを積ませて、世間に実力を認めさせた上で、兄妹グラビアを企画する。それが高倉が描いている構想だ。

 沙也加の真価が問われるのはこれからだ。

 さすがMASAKIの妹、と評されるようになるのか否か。

 大化けする可能性は十分にある、と高倉は見る。

 ただそれも、沙也加が抱えているらしい雅紀に対するコンプレックスを克服した先にしかありえないが。

「でも、尚人くんが対象になったら、違う反応を見せるんだろう?」

 高倉が口にすると、加々美は明らかに眉を寄せた。

「……そりゃ、おまえ。俺は考えただけでも肝が冷える」

「MASAKIにとって、妹と弟はそれほど違うのか?」

 その辺が高倉にはいまいちわからない。

 篠宮家の事情は、マスコミ報道や慶輔自身の暴露本によってだだ漏れではあったが、高倉は沙也加がアズラエルと正式に契約を交わした後、リスクヘッジの一環として社内独自に再調査した。それで篠宮兄妹弟の中で沙也加一人が、高校受験に専念するためと祖父母宅へ身を寄せ、そのまま今もそこで生活を続けている事は知っている。

 母の死の瞬間に家にいた者といなかった者。

 母の葬儀に参加した者としなかった者。

 そこに線引きでもあるのか。ないのか。

 そんな家族の内情までは、どれほど優秀な調査機関に依頼してもわからない。

「妹と弟がって言うより、尚人くんとそれ以外が違うって感じじゃないか」

「へぇ」

 加々美の言葉に高倉は軽く目を見張る。

「じゃあ、もう一人いると言う弟と尚人くんも違うのか」

「あいつははっきり言って、家の話する時は尚人くんの話しかしねぇよ。まあ、家が最低最悪の状態だったときに、尚人くんばかりに苦労かけたって思ってるみたいだからな。雅紀と下の弟二人で愚痴のサンドバックにして、家のことは全部尚人くんが一人で引き受けて、したいことも我慢して家と学校を往復するだけの毎日だったみたいだから。それでも文句ひとつ言わずに頑張ってくれた尚人くんが、雅紀は可愛くて仕方ないんだよ」

 そりゃ、可愛かろう。しかも、あの素直さだ。

 尚人とは知らない仲ではないだけに、高倉も理解できる。

「だから、おまえにだって尚人くんは預けられないってわけか」

 高倉が呟くと、加々美は軽く肩をすくめた。

 一度加々美を通して雅紀に、尚人をアズラエルで預かると言う話を振ってみたのだが、見事断られた。MASAKIが加々美にだけは懐いているというのは業界の常識だったので、案外すんなり話がまとまるかもと期待したのだが、簡単にはいかないようだ。

 しかし先日、尚人にユアンのサポートをお願いして、尚人の様子を間近でじっくり見させてもらった高倉は、益々尚人が欲しくなった。

 あの自然さ。あの柔軟さ。あのクレバーさ。

 そして何よりも、ユアンと並んでも遜色ない、独特な雰囲気。

 静かで凛としてたおやかで、しなやか。強烈な個性を包み込む無色透明さ。

 他には見ない、オリジナリティだ。

 尚人には、単なるモデルでは終わらないポテンシャルがある。

 正直に言えば、沙也加よりもよっぽど面白い。

 なのに、その姉の存在がネックになっていると知ったときは、正直舌打ちしたい気分だった。

 家族問題は、こじれると赤の他人より厄介だ。

 篠宮家の一連の騒動は、まさにそれを世間に知らしめたようなものである。何しろ、父が息子を刺すという傷害事件にまで発展したのだから。

 だが一方で、何があっても、何かをきっかけに全てを許してしまえるのも家族だ。世間には、親から虐待まがいの暴言を受けて育ち、絶対に許さないと思っていても、老後弱った親の姿に何もかもどうでも良くなってしまったと親身に親の介護をしている者だっている。

 誰も彼もがそういう気持ちになれるわけでは当然ないが、逆もまた然りが真実だ。

 となると、沙也加が何かをきっかけに雅紀に対するコンプレックスを払拭したとき、兄妹弟間の関係はあっという間に変わるかもしれない。

 そして、若い女性が変わるきっかけというのは、往々にして恋愛だ。

 のめり込まれると困るが、誰かに愛されているという実感は、確実に女性を輝かせる。多くのモデルを間近で見てきて、高倉はそれを肌で感じてきた。

 ––そう考えると、タカアキと沙也加嬢の組み合わせは、悪くないかもな。

 MASAKIへのコンプレックスを抱えている者同士だ。うまくいけば意外な相乗効果を生むかもしれない。

 ––これは、ひょっとすると瓢箪から駒か?

 高倉にこれまでなかった構想が浮かんだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

銀波ノ雫 3

「MASAKIさん、妹さんの熱愛報道ご覧になりましたか?」

「あれは事実なんですか?」

「交際について、お二人から相談は受けたんですか?」

「MASAKIさん、ひと言お願いします!」

 グラビア撮影を終えてスタジオから出るなり、雅紀は待ち構えていた報道陣に囲まれた。

 ––今度はなんだ?

 慶輔が死んで、しばらくご無沙汰だった光景に内心首を傾げた雅紀だったが、その疑問はすぐに報道陣の質問によって解消した。

 ––あー、あれか。

 沙也加が同じ事務所の先輩タカアキと交際しているのではないかという疑惑がメディアを賑わせたのは知っている。

 真偽のほどは知らないし、正直興味もなかった。

 ––勝手にしろよ。

 雅紀は報道陣に一瞥(いちべつ)もくれることなく歩き出す。

 マイクを向けられ取り囲まれ、次々と質問されても、雅紀の表情は一切変わらず歩みが止まる事ももちろんない。一定のリズムを刻むその歩調に、報道陣は一定の間隔を取りつつも雅紀を追いかけてくる。しかし質問を声高に口にしながらも若干腰がひけて見えるのは、昨年の一連の騒動の時に『マスコミ潰し』という異名が雅紀に対し付けられたからだろう。

 コメントは欲しいが、雅紀の地雷は踏みたくない。それが最前線に送り出された記者たちの本心だ。

 しかしそんな報道陣らの様子にさえ無感心で、完全黙殺のまま、雅紀は駐車場に止めていた車に乗り込む。

 やっぱりダメか、という表情の報道陣を置き去りにして、雅紀は車を発進させた。

 

 

 ––もう、いやっ!

 沙也加は苛立ちを抑えられないでいた。

 何故自分がこんな目に合わなければいけないのか。本気で呪われているのではないかと思う。

 事務所の先輩タカアキとカフェで同席した写真が撮られたときはここまでではなかったが、思いもよらぬ偶然がその後沙也加を襲ったのだ。

 それは、友人三人と計画して出かけた北海道旅行。沙也加達が宿泊したホテルに、仕事で来ていたというタカアキが全く同じ日程で宿泊していたのである。

 それを週刊誌にすっぱ抜かれた。

『容易周到なカモフラージュ』

『SAYAKA 友人との旅行に見せかけてお泊まりデート』

 この記事は週刊誌で大々的に特集が組まれ、宿泊中の二人の行動を比較して二人きりになった時間を憶測的に算出し、それがまるで事実かのように書き立てていた。

『密室八時間 二人はどのように過ごしたのか』

 そこに書かれていた憶測記事はとても沙也加が耐えられるような内容ではなく、憤慨しすぎて神経が焼き切れてしまいそうだった。

 さすがに沙也加は唐澤に訴えて、きちんと事務所発表をしてほしいと頼み込んだ。

 しかし、

「偶然同じホテルに宿泊したが、ホテル内で二人きりになった事実はない」

「二人は事務所の先輩と後輩であり、個人的に付き合っている事実はない」

 そう発表しても、世間はそれを「苦しい言い訳」としか受け止めなかった。

 ネット上では、

『二人ともフリーなんだし認めればいいのにね』

『下手に隠そうとする方が怪しくない?』

『友人との旅行をカモフラージュに使うなんてあざとい』

『利用された友人がかわいそう』

『堂々と交際できない理由でもあるの?』

『MASAKIが俺の妹に手を出すな、とか言ってるとか?』

『ひょっとするとタカアキ、MASAKIに消されちゃうかもね』

『兄ちゃんが怖くてこそこそ付き合うとか、カッコ悪くね?』

 などと、二人が付き合ってること前提で言いたい放題だ。

 当然、ワイドショーも取り上げ、外に出てマスコミに取り囲まれない日はなかった。

 前回の暴露本出版の際の騒動は、あくまで篠宮家がターゲットで、加門の祖父母に直接不躾なマイクが突き付けられる事はほぼなかったが、今回は同居している孫のことである。マスコミの魔の手は加門の祖父母にも容赦なく襲いかかった。

「今回の交際について、SAYAKAさんから何か聞かれていますか?」

「事前にご相談とかあったんでしょうか?」

「SAYAKAさんの本当の旅行目的は把握されていましたか?」

「お二人の交際を認めているんでしょうか?」

 家の前には常にマスコミが張っていて、祖父母はそれで買い物に出かけることも出来なくなった。しかしマスコミの本当のターゲットは沙也加で、祖父母の代わりに沙也加が出かければ、それはそれで大騒動になった。

 それで由矩(よしのり)叔父からは、騒動がおさまるまで加門の家から離れてはどうかと言われてしまったのだ。

「沙也加はそもそも大学生なんだし、一人暮らししてもおかしくない年齢だ。金なら、あいつの保険金が下りたんだし、どうにかなるだろう? その方が、お袋達も落ち着いて生活できるだろうし」

 祖母は、こんな騒動の中沙也加を一人にするなんて、と最後まで渋ったが、由矩は引かなかった。

「沙也加には事務所のマネージャーが付いているんだろう? こういう事は、事務所がきちんと対応すべき事だ。そうじゃないのか? それに沙也加だって、こういう事で、じーちゃんとばーちゃんを(わずら)わせるのは本意じゃないんじゃないか?」

 そう言われてしまっては、「加門の家から出ていかない」と強靭に言い張ることなどできなかった。

 そもそも沙也加は、仕方なく身を寄せている存在なのだ。篠宮の家から逃げ出して、他に行くところがなくて加門の家に来た。今はその加門の家に迷惑をかけている。恩を仇で返した、などと思われたくはなかった。

「わかりました」

 沙也加は渋々ながらも由矩の提案を受け入れて、都内のウィークリーマンションに移ったのだ。転居先は唐澤に見つけてもらった。

 転居してきた日は、思ったよりも綺麗でこじんまりした物件が気に入り、初めての一人暮らしに心が浮き立ったが、一日中独りという状態はすぐに沙也加の精神状態を蝕んだ。

 大学は春休み。友人と顔を合わせる機会もない。以前からのバイト先には、沙也加に付いてくるマスコミに「うちの店が何か不祥事を起こしたように見られたら困る」という理由で、しばらくシフトから外れるように言われてしまった。モデルの仕事もまだそんなにあるわけではない。というより騒動後、スケジュール調整という名の下にいくつか入っていたはずの仕事がなくなってしまった。

 沙也加は今、無収入の状態だ。それで一人暮らしの生活費を捻出しなければならない。あいつの保険金があるとは言え、無尽蔵ではない。じわりじわりと焦りと不安が沙也加を侵食していく。

 気分転換にどこかへ出掛けたくても、どこにマスコミがいるかわからない。そう思えば、外出は最低限の食材の買い出しだけ。加持や相田たちは、自分たちが旅行に誘ったことが原因と気に病んでいるのが丸わかりで、返って連絡しにくい。誰とも喋らない日々が続く中、沙也加の限界は近づいていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

銀波ノ雫 4

 年明けからこちら、雅紀は多忙な日々を過ごしていた。

 尚人にも本気で

「ちょっと、働きすぎだと思うんだけど」

 と心配される始末だ。

 モデルの仕事は好きだ。最初は生活費を稼ぐための手段でしかなかったが、今では天職だと思っている。それに尚人を大学へ行かせるためなら、スケジュール帳が真っ黒になるまで頑張れるという言葉に嘘はない。

 とはいえ、この一週間は家に帰れず流石(さすが)に疲れが溜まっていた。尚人が足りない。尚人に飢えている。一刻も早く家に帰って、尚人の匂いを思い切り嗅ぎたい。唇を思う存分(むさぼ)って、尚人の全部を舐めたい。尚人がトロトロになるまでいかせて、尚人の中に己を埋めて精の全てを吐き出したかった。

 午後十時少し前。そんなことを考えながら、仕事を終えた雅紀が、定宿にしているシティ・ホテルに戻ってくると、狙いすましたかのように携帯電話が鳴った。

 こういう時の電話は加々美からのことが多い。が、ディスプレイには見たことがない番号が表示されていて、雅紀は一瞬どきりとした。

 尚人が自転車通学の男子高校生ばかりを狙った暴行事件の被害にあった時のことがよぎったからだ。あの時電話を掛けてきたのが尚人のクラスメイトの桜坂で、以降知らない番号からの電話に雅紀は反射的に構えるようになってしまった。

「はい。雅紀です」

 雅紀が電話に出ると、耳元で微かに息を飲む気配がした。

 思い切って電話を掛けたが、とっさに何を言えばいいのか言葉に詰まる。こういう電話もいい思い出がない。

 ––誰だよ。

 雅紀がわずかに眉を(ひそ)めると、

『……お兄ちゃん』

 耳元にこぼれ落ちてきた声に、電話の相手が誰だか悟って、雅紀はさらにきつく眉を潜めた。

 ––一体、何の用だよ。

『––お兄ちゃん。お願い。……助けて』

 ––はぁ?

 一体何の冗談かと、雅紀は唖然とした。

 助ける? 俺が? 沙也加を?

 その内容はともかく、沙也加とはすでに縁が切れている。それは、沙也加も承知しているはずだ。昨年、慶輔が暴露本を出す直前に加門の家にその話をしに行った時、五年ぶりに再会した沙也加と顔を突き合わせて、二人の間にある溝はもう埋まることはないと確認しあったのだから。

 だから拓也の葬儀の時も、沙也加は自分たちに近寄っては来なかった。そうではないのか。

『お兄ちゃん。お願い。もう、限界なの』

 沙也加の声は涙に濡れている。しかし、雅紀の中に同情も心配も沸いては来なかった。

「一体、何の話をしているんだ?」

『週刊誌にデマを書かれて。……事務所の先輩モデルと交際してるって。それでマスコミにつけ回されて』

 だから?

 モデルは顔を売るのが仕事だ。その程度の記事を書かれて参っているようなら今すぐやめた方がいい。

『加門の家の前も張られて。それで、おじいちゃんとおばあちゃんに迷惑がかかるから、しばらく加門の家からは離れた方がいいって由矩(よしのり)叔父さんに言われて。……今、都内のマンションに一人でいるの』

「賢明な判断だな」

 さすが由矩叔父さんだ。

 マスコミに付け回されるのがうんざりなら、しばらくそこで大人しくしておけばいい。マスコミだって暇ではないのだ。いつまでもいちモデルの恋愛事情ばかりを話題にするわけがない。

『……独りで、不安で仕方ないの』

 ––だから、何なんだよ。

 雅紀は、沙也加がなぜ自分に電話を掛けて来たのか、全く読めなかった。

 独りが不安なら、友達でも彼氏でも呼べばいいじゃないか、と雅紀は心の中で吐き捨てる。あの駄犬が彼氏なのかどうか知らないが、そんな事は雅紀にとってはどうでもいい。何より、自分に助けを求めるのはお門違いもいいところだ。

「日本で独りが不安なら、いっそ海外にでも行けば? お前、以前留学したいって言ってたんだろう? 今なら金の心配もないだろうし。ちょうどいいじゃないか」

 そうやって、どこまでも逃げればいい、と雅紀は思う。

 篠宮の家から逃げ、加門の家から逃げ、仕事から逃げ、日本から逃げ。そうやって逃げた先に何かあるとは到底思えないが。

『……そうやって、切り捨てにするんだ』

 沙也加の声が低く淀む。その声音に昨年の夏がフラッシュバックするようで

 ––また、それかよ。

 雅紀はうんざりした。

『でも、そうよね。お兄ちゃんにしてみれば、私のこと絶対許せないもんね』

 沙也加の声はどこか自嘲混じりで、雅紀の神経を逆撫でする。

 許せないのはこちらではなく、そちらだったはずだ。

 拒絶したのはこちらではなく、そちらなのだから。

 そして、母と雅紀を汚いと(ののし)り、二人の関係を糾弾し、さらには、

 ––おかあさんなんか、死んじゃえばいいのよぉぉッ!

 激昂のまま吐き出した言葉通りに母が死んだ時、二人の間に生じた壁も溝も傷も永遠のものとなった。そのはずだ。

『私のせいでおかあさんが死んじゃったから……。だから、私のこと許せないんでしょう? ––––でも』

 沙也加は黙り込む。

 雅紀はいい加減電話を切りたかった。

 疲れて帰ってきて、一刻も早く尚人に電話して少しでも癒されたいのに、訳のわからない電話に付き合わされるのはうんざりだった。

『千束の家に戻りたいの』

「はぁ?」

 ––何言ってんだよ、おまえ。

 雅紀は素で驚いて思わず声を上げた。

『忘れるから。全部忘れる。––全部、なかったことにするから。だから、千束の家に戻りたいの。だって、もう私には。……他に帰れる所がないんだもの』

 ––ふざけるなよ。

 雅紀は目眩がしそうだった。

 沙也加の考えていることが、全く理解できなかった。

 自分たちの間にある溝は、二度と埋まらない。それは絶対だ。

 なのになぜ、その溝を飛び越えて来ようとするのか。

「あったことをなかったことにはできない。いい加減、そのくらい分かれよ」

 雅紀は冷たく言い放つ。二度と沙也加が勘違いしないように。

「それに、あの家におまえの居場所なんてないってこともな」

 雅紀はそれだけ言うと、一方的に通話を切る。

 これ以上、訳のわからない電話に付き合う気はなかった。

 

 

 

 通話の切れる音を沙也加は茫然と聞いた。

 勇気を振り絞って電話したのに。今まで沙也加を呪縛し続けてきたあの事実を忘れると決意したのに。雅紀は容赦なく沙也加を切り捨てた。

 救いの手を差し伸べてはくれなかった。

 いや、その前に話すら聞いてもらえなかった。

 千束の家に本気で戻れるとは、沙也加だって思っていない。どんなに忘れると言っても、記憶は消去できない。そんなこと沙也加だってわかっている。あの家の戻れば絶対、あの日見た光景が沙也加の目の前に立ち上がってくるに違いなく、あの部屋の扉の前で沙也加は立ちすくむしかないのだ。

 だから、そんな家には帰れない。

 ただ、沙也加は、わかってもらいたかっただけ。

 デマを書かれて大変だな、と。話ぐらいは聞いてやるよ、と。雅紀にそう言ってもらいたかっただけだ。そうすれば、今の状況だって耐えられる。雅紀の励ましさえあれば、群がるマスコミだって無視し続けられる。

 そう思っていたのに––

 沙也加は、体の芯から力が抜けるような感覚に、その場に膝から崩れ落ちた。

 涙が溢れて止まらない。痛みと苦しみで息もできなくて、声を上げて泣きたいのに、嗚咽さえ出てこない。

 独りだ。独りだ。自分は本当に独りなのだ。

 そのことが苦しい。

 どうして雅紀は、いつも沙也加の欲しいものをくれないのか。そんな大層なものを欲しがっているわけではないのに。ほんの少し、手を差し伸べて欲しいだけなのに。尚人に向けている眼差しの半分でもいいから自分にも向けて欲しいと思っているだけなのに。

 それは、そんな大層な願いなのか。

 雅紀にとって、自分はそんなに不要な存在なのか。

 ––だってこれが尚だったら、お兄ちゃん、絶対全力で守るんでしょう?

 昔から、なぜか雅紀は尚人ばかりを可愛がる。

 一緒に風呂に入り、一緒の布団で寝て、膝に抱えて絵本を読んでやるのも尚人だけ。沙也加が唯一雅紀と一緒に出来たのがピアノの連弾だったのに、そのピアノも中学生になって剣道をするようになるとあっさり辞めてしまった。沙也加がどんなに辞めないでと懇願してもダメだったのに、尚人がねだればいつでも弾いてやっていた。

 ––何で尚ばっかり。

 沙也加がテストで百点を採ってもさしたる関心もなさそうなのに、尚人が百点を採れば頭を撫でて褒めてやる。尚人が家の手伝いをしていたら偉いと褒めるのに、沙也加には私も褒めてと言わないと褒めてくれない。

 昔からそうなのだ。

 小学生の頃は、週末よく尚人を連れて近くの公園へ行き、一緒に砂場で遊んでやっていた。沙也加が一緒にバドミントンしようと誘っても、滅多にお願いを聞いてはくれなかった。やっと一緒にバドミントンをしてくれたと思っても、尚人の作る砂山を裕太が壊すのを横目に見た途端に、すぐさまバドミントンをやめて「ほらナオ、一緒に作り直してやるから」と尚人に構い始めるのだ。

 ––尚なんか、いなくなればいいのに。

 そう思うたびに、自分の胸から血が流れる。

 ああ、自分は何ということを思うのか。

 尚人は自分にとっても弟なのに。

 胸が痛い。息が苦しい。

 それでも、

 ––尚なんて、生まれてこなければよかったのに。

 どうしても、そう思ってしまうのだ。

 二人きりの兄妹だったらよかったのに。

 私だけのお兄ちゃんならよかったのに。

 そしたら、こんなことにはならなかったのに。

 あんな過ちなど、そもそも起きなかったのに。

 ––ねぇ、お兄ちゃん。ナオがいなくなったら、どうする?

 沙也加は焦点の定まらない視線で、じっと部屋の壁を見続けていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

銀波ノ雫 5

 二年生三学期の終業式を終えて、尚人は春休みに入っていた。

 春休みは約二週間と短いものの、課外が一切ない。学校は、年度末の事務処理に加え、新入生を迎える準備に先生たちの定期異動と忙しく、課外をする余裕がないのだ。しかしその分家庭学習が重要で、二年生最後のホームルーム、担任は、春休み二週間の使い方が受験に向けてのスタートを左右すると口を酸っぱくした。それで尚人は自分なりに学習計画を立て、この一年間の復習ができるようスケジュールをみっちり組んだが、片道五十分の通学時間がなくなった分だけ尚人の生活はいつもよりゆったりしたものになっていた。

 尚人の一日は朝五時に始まる。これは、すでに体に染み付いてしまった習慣で、目覚ましがなくてもこの時間に目が覚めてしまうので、あえて二度寝しようとは思わない。学校がある日と同じように洗濯をし朝食を作る。いつも家を出る六時半には朝の分の家事は終わってしまうので、そこから尚人は机に向かう。そこから四時間、集中して勉強する。その後、家の中の掃除をし、昼食を作る。休みなのだから買い出しは自分で行こうと思っていたが、それは裕太に拒否されたので、昼から尚人は結構暇になる。図書館に行くこともあるが、ほとんどはまた自室にこもって勉強する。裕太が買い出しから帰ってきたら、夕飯の支度を始めて、二人で晩ご飯を食べたらまた勉強して、風呂に入って一日が終わる。

 雅紀が帰ってきた日は、そこに二人だけのスキンシップが加わる。そういうときは、翌朝ほんの少し起きるのが遅くなる。

 春休みなのだから、そのくらいの怠惰(たいだ)は許されるかな、とひっそりと思う。尚人にしてみればこの上ない贅沢だ。

 目を覚ました時に、雅紀が横にいる幸せ。

 肌と肌が触れ合う、温もりの心地よさ。

 雅紀は寝顔でさえ綺麗で、尚人は目も心も奪われる。

 ––まーちゃん……

 隣で雅紀はまだ眠っていた。

 昨夜は三日ぶりに雅紀が帰ってきて、尚人が風呂から上がって自室に戻ると、すぐさまベッドに押し倒された。

 深いキスをされながら太腿にねじ込まれた雅紀の膝頭で股間をぐりぐりと押し上げられると、尚人の息はすぐさま上がった。しなった下腹部の膨らみの先端からは先走りの蜜が溢れ出し、軽く擦られただけで快感が腰から背筋へと駆け上がった。

「ナオのここ、湿ってる。もう、漏らしちゃった?」

 雅紀にくすりと笑われて、羞恥で顔が焼けた。

「俺がいなくて寂しかった?」

 雅紀の囁きに尚人は頷く。

「そっか。じゃあ、ナオの溜め込んだミルク、全部搾り取ってやらないとな」

 耳たぶを軽く喰みながら雅紀が煽る。そのままパジャマのズボンをずり下ろされ、さらけ出した股間をしつこいほどに(なぶ)られると尚人の思考は飛んだ。

 あとはもう与えられる快感に喘ぐばかりで、いつ寝入ってしまったのかも記憶にない。体にベタつきがないので、ひょっとすると寝ている間に雅紀が風呂に入れてくれたのかもしれない。

 もそりと動いて、尚人は上体を持ち上げると、雅紀を正面から見つめた。雅紀が起きていたら、こんなに間近でじっくり眺められない。

 ––まーちゃんって、何でこんなに綺麗なんだろう。

 子供の頃から見慣れた兄の顔。だが、じっくり眺めると改めて思う。

 しかも雅紀は、ただ綺麗なだけじゃない。

 強くて優しくて、何でも出来て。いつでも自分を守ってくれる。心強い存在。

 でも、いつまでも守られているばかりではいけない、と尚人は近頃強く思う。

 頑張りすぎれば、誰だって疲れる。疲れすぎると、いつか心がぽっきり折れてしまうかもしれない。

 自分のために、雅紀にそうなって欲しくはない。

 だから、自分も雅紀を守れる存在になりたい。

 今はまだ、空を飛び回る鳥を地上から羨ましく眺めているだけのような存在だが、いつか、きっと、自分も––

 そんな思いを込めて、尚人はゆっくりと顔を近づけると、そっと唇を重ねた。

 直後、雅紀の腕がスッと動き、尚人は雅紀に抱きしめられた。そのまま体位を入れ替えられ、組み敷かれて唇を貪られる。歯列を割って侵入してきた舌に口内をしつこいほど舐められ、舌を吸われ、ようやく解放された時には尚人は息も絶え絶えだった。

「まーちゃん。……起きてたの」

 尚人が少々唇を尖らせて呟くと、雅紀はくすりと笑う。

「目覚めのキスされたから、お返し」

 そして指の腹で尚人の濡れた唇をさっとぬぐい、さらに笑みを深めた。

「ナオが煽るから、ほら。––このまま、昨夜の続きやっちゃう?」

 雅紀は尚人の手を掴むと自分の股間に押し当てる。昨夜あれだけ激しく抱き合ったのに、雅紀のものは硬く立ち上がっていた。

 かっと耳を赤くして、反射的に手を引こうとした尚人を雅紀は許さない。どうしていいかわからず戸惑う尚人の反応を楽しむように、雅紀は尚人の手をつかんだままゆったりと上下させた。

 尚人の手の中で雅紀のものはさらに硬さを増す。

「ほら、ナオが刺激するから、ますます硬くなってきた」

「それは、まーちゃんが……」

「俺が何?」

「まーちゃんが、……動かすから」

「でも、俺の触ってるの、ナオの手だろう?」

 意地悪い顔をして雅紀が(ささや)く。

 わかっている。雅紀はこうやって自分を困らせて楽しんでいるのだ。

「ナオに責任とってもらわなくっちゃ」

 そう言いながら、雅紀は尚人の耳たぶを喰む。

 熱い吐息に刺激されて、体の芯に残った昨夜の余韻がうずき出す。

 しかし、

「––まーちゃん。今日、昼から仕事じゃなかったっけ?」

 尚人が芽吹きそうな快感をやり過ごして呟くと、雅紀はピタリと動きを止めた。

「あー、そうだった」

 三日ぶりに帰ってきた雅紀だが、明日は早朝から大阪で仕事が入っている。そのため前入りしておく必要があるとかで、今日の昼には家を出ると言っていた。一度事務所に顔を出してから大阪に向かうらしい。

「仕方ない、この続きは大阪から帰って来てからだな」

 雅紀は心底残念そうに言って、尚人のおでこに軽くキスすると、視線を合わせて甘く囁いた。

「ナオ、わかってると思うけど。俺が帰るまで、一人でしたらダメだからな」

「……わかってる」

「ちゃんと我慢するんだぞ」

 尚人が頷くと、雅紀はほんの少し意地の悪い顔をした。

「ちゃんと口で言って。何を我慢するんだ?」

「……オナニー」

「ナオ」

「まーちゃんが帰ってくるまで、オナニーしないで我慢して待ってる」

「いい子だ、ナオ」

 雅紀はにっこり微笑むと、もう一度尚人のおでこにキスをした。

 

 

 

 近頃は滅多に鳴らなくなった家の固定電話が鳴ったのは、雅紀を大阪に送り出した翌日の昼過ぎのこと。

 家の電話は基本留守電対応なのでそのままさっくり無視してしまってもよかったが、たまたま近くにいたため、尚人は自然とディスプレイに視線を向けた。

 雅紀のことを考えながら家の掃除をしていたので、ひょっとすると雅紀からの電話かもしれないとも思ったのだが。

 ––この番号って、確か……

 表示された携帯の番号は雅紀のものではなかったが、記憶にあった。

 ––沙也姉

 尚人は一瞬、出ようかどうしようか迷う。

 沙也加が自分に用があるはずがなく、生憎、裕太は今買い出しに出かけている。しかし、沙也加が留守電にメッセージを残しても裕太が折り返し掛けるとは思えず、沙也加は繋がるまで何度も掛けてくるかもしれない。それを思うとほんの少しだけうんざりして、尚人は受話器を取った。

「もしもし」

『尚?』

 受話器の向こうから、予想通りの声がする。

 反射的に尚人の中の何かが揺さぶられて、わずかに口元を引き締めた。

「そうだけど」

『話があるんだけど』

「裕太なら、出かけてるけど?」

『あんたに聞きたいことがあるのよ』

 沙也加の言葉に尚人は首を傾げた。

 聞きたいこと?

 予想がつかない。

 以前、学校の前で待ち伏せされた時には、慶輔が暴露本を出した直後で、それについての話かもと推測できた。しかし、慶輔は死んだ。スキャンダルの元凶がいなくなって、自分達を(わずら)わせる存在はいなくなった。あったことをなかったことにはできないし、受けた傷はまだ完全に癒えたとは言えないけれど、いつまでも同じ場所に留まっているわけにもいかない。だから、あとは前を向いて進んでいくだけ。

 だから今更、沙也加が自分に用があるとは思えないのだが……

 ––あ、ひょっとして、ピアノのことかな?

 尚人は、その問題がまだ解決していなかったことを思い出す。裕太がさっくり無視して以降音沙汰なかったようなので諦めたのだとばかり思っていたが、そうではなかったのかもしれない。ひょっとすると今度は自分に、雅紀にピアノを譲るよう話をつけろと言い出すのかもしれない。

 電話では(らち)があかないと思って。だから、直接。

『今から出てこれる?』

「どこに?」

『……二人きりで話せる所なら、どこでもいいけど。千束の家の近所の図書館。そこならどう?』

「––いいけど」

 尚人は言いつつも、できれば行きたくなかった。

 もし本当にピアノの話なら、尚人はどうあっても承諾できないからだ。決裂することがわかっている話をしに行くのは、どう考えても気が重い。

 また、平手打ちを喰うのかもしれないと思えば余計に。

『できれば、二人で会ってたってばれたくないのよ。裕太にも、……お兄ちゃんにも』

 沙也加の言葉に尚人は一瞬黙り込む。

 かつて、同じようにして沙也加に呼び出されたことがある。雅紀と母との関係を前から知っていたのかと詰問されたときだ。その時のことは、今も雅紀に黙っている。当時は、家の中の空気が最悪で、互いに(ろく)に顔も合わせず、口も効かないのが常態化していたし、その後は、わざわざ蒸し返す話でもなかったからだ。

 しかし、今は違う。

 雅紀に、隠し事はするなと言われている。

 ––おまえが怪我をすると、俺も痛い。

 ––隠し事なんか、二度とするな。

 ––おまえは俺のモノなんだから。

 そう言われて、尚人は雅紀に二度と隠し事はしないと誓ったのだ。

 ただ、事前に言う必要があるかどうかはケースバイケースだと思っていて、そもそも今雅紀に電話したところでどうせ繋がらない。

 要は、後からきちんと話をすればいいのだ。

 ちょっとは怒るかもしれないが、雅紀はわかってくれる。

「今裕太は出かけてるから、大丈夫だよ。……雅紀兄さんは、今日は帰ってくる日じゃないから」

『––そう』

 どこかほっとした声が受話器からこぼれ落ちる。

「三十分くらいで行けると思う」

『わかった』

 その返事と共に通話は終了した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

銀波ノ雫 6

 裕太が買い出しから帰ると、いつもの場所に尚人の自転車がなかった。

 ––あれ、ナオちゃん。出かけてんのか?

 ほんのわずか首を傾げて、裕太は買い物袋を抱えて家に入る。

 裕太が家を出る時、尚人に出掛けるような素振りはなかった。玄関周りの掃除をしていて、このあとはキッチン周りの掃除もしようかな、と言っていたからだ。

 裕太は買って来た物を冷蔵庫に仕舞うためキッチンへと向う。

 玄関周りは綺麗になっているが、キッチン周りに掃除された痕跡がないところを見ると、ひょっとすると掃除に必要な物を切らしていて、慌てて買いに行ったのかもしれない。

 食材を冷蔵庫へ仕舞い、水のペットボトルを取り出して飲む。そのまま部屋へ上がろうとして、食卓に一枚のメモが置かれていることに気がついた。

『図書館に行って来ます』

 ––ナオちゃんって、ほんと律儀だよな。

 メモを手に取って裕太は苦笑した。

 

 

 近頃裕太が夢中になっているのは、プログラミングだ。パソコンがそれなりにひと通り使えるようになった時に、図書館で見かけたプログラミングの本に興味が惹かれて、それで始めるようになった。まだ初心者レベルだが、それでも本を読みながら四苦八苦するのがそれなりに楽しい。

 作業に夢中になっていると、ふと気づいた時には六時を回っていた。近所の図書館は六時までだから、そろそろ尚人が帰って来てもいいはずだ。

 すっかりぬるくなってしまったペットボトルの水を一口飲んで、裕太はキリのいいところまで終わらせようと再びパソコンに向かった。

 それから三十分、尚人はまだ帰らない。

 ––ナオちゃん、何やってんだよ。

 家から図書館まで、自転車ならば十分ほどの距離だ。図書館を閉館時間ぎりぎりの六時に出たって、もう帰りついていなければおかしい。

 ––どっか、寄り道でもしてんのか?

 しかし、仮にスーパーに寄っていたとしても遅い。

 ––自転車、パンクでもしたのかよ。

 ––それとも、途中で誰かと長電話でもしてんのか?

 裕太は気になって、尚人の携帯に電話を掛けた。

 遅くなる理由がはっきりしさえすれば、裕太はそれで安心できる。

 コール音が続く。

 電話中でないことだけははっきりしたが、出ない理由がわからない。

 二十回程コールしたところで、裕太は諦めて電話を切った。

 ––電話に出れない理由ってなんだよ。

 裕太は顔をしかめる。

 ––携帯落として捜してるとか?

 それはあり得る……かも。

 なにせ、今日は雅紀が帰らない日だ。夜には絶対雅紀から電話がある。その時に携帯に尚人が出なければ、雅紀は死ぬほど心配するだろう。

 ––いや、だったら、家電から雅紀にーちゃんの携帯に『落とした』って連絡すればいいだけだし……

 その時に繋がらなければ、留守番電話にメーッセージを残すなり、PCからスマホにメールを送るなり、連絡手段は色々ある。

 ––でも、その辺はナオちゃんだしな。雅紀にーちゃんに買ってもらった物失くしたってことの方が重大かも。

 何となく尚人が帰ってこない理由が納得できて、裕太は安心する。

 しかし、さらに一時間が過ぎても尚人は帰ってこなかった。

 もう、七時半過ぎだ。何の連絡もないまま、というのは、さすがに遅すぎる。

 もう一度、携帯に掛ける。

 しかし、尚人の携帯はコール音はするものの、やはり繋がる気配がない。

 裕太は、我慢できなくなって家を出て自転車にまたがった。そして、家から図書館までの道をゆっくり進む。途中で尚人に会うかもしれないからだ。

 近所のスーパーは既に閉店している。一応途中のコンビニを覗いたが、尚人の姿はなかった。そのまま図書館にたどり着いて、駐輪場に向う。

 ひっそりと人気(ひとけ)のない駐輪場。屋根に取り付けられた薄暗い蛍光灯の明かりが数台の放置自転車を照らしている。

 ––あ。

 裕太はその中に尚人の自転車があることに気がついて、思わず目を見張った。

 尚人は間違いなく図書館に来たのだ。

 ––どういうことだ?

 裕太は眉を潜める。

 自転車はここにある。図書館はとっくに閉館している。尚人はまだ家に帰らず、途中の道中にも姿はなかった。

 携帯は繋がるが、尚人は出ない。

 ––もしかして、出ないんじゃなくて、出れない?

 そう思った瞬間、裕太の心臓が跳ねた。

 ––いや、いや、いや、いや。

 裕太は慌てて否定する。それではまるで何かの事件に巻き込まれたみたいじゃないか。

 ドクドクと脈打つ鼓動を裕太は必死になだめた。

 そんなはずない、と。そんなことしても誰も得しない、と。可愛い女子高生ならまだしも、尚人は普通の男子高校生だ。通りすがりの変な奴に目をつけられて拉致される何てことはありえない。

 雅紀なら、急にとんでもない方向に感情が振り切って、突然尚人を拉致監禁してもおかしくはないが、その雅紀は今大阪で仕事中のはずだ。それに雅紀なら、わざわざ外出先で拉致しなくとも、そもそも家の中で尚人にしたい放題だ。

 そこまで考えて裕太は顔をしかめた。

 何かが思考に引っ掛かりかけたが、うまく形にならない。

 裕太は、目の前にある尚人の自転車を睨みつける。

 尚人が、この状況を自ら生み出しているとは思えない。しかし、図書館に来たのは尚人の意思だ。わざわざメモを残していた。それが証拠だ。

 出かける予定のなかった尚人。だから、裕太が家に帰った時に心配しないようにメモを残した。それは、出かけるけど帰ってくる。その意思表示だ。

 最初から帰るつもりのない、いわゆる家出ならば、わざわざメモなど残さない。

 まあ、あの尚人が、家出なんてするはずないのだが……

 しかし現実問題、尚人はまだ帰らない。

 それはつまり、尚人の意思ではないということだ。

 ––誰かにここに呼び出された?

 それで急に出かけることになった。

 ––そして誰かに連れて行かれた?

 ならば、相手は車を使う人物だ。尚人を呼び出し、自分の車に乗せた。だから尚人は、ここに自転車を残したまま帰ってこない。

 だとするならば、尚人を呼び出した人物は、尚人の知らない相手ではない。尚人は天然のお人好しだが、知らない人の車にほいほいと乗るほど迂闊でもない。

 そこまで考えて、裕太は先月ここで、沙也加に待ち伏せされていたことを思い出す。

 これからどうするつもりなのかと、まだお姉ちゃん(づら)してそう問うてくる沙也加が鬱陶(うっとお)しくて、同じ弟であるはずの尚人のことは気にならないのかと、そう聞いたのは自分だ。

 ––それでまさか今度はナオちゃんを?

 春休みで学校前で待ち伏せできないから、図書館に呼び出した?

 そうなのか?

 しかし、あれからもう二ヶ月近くは経つ。今更感がぬぐえない。

 もっと別のきっかけがあった?

 尚人の顔など見たくもないはずの沙也加が、尚人に連絡を入れる決意をしたきっかけ。

 そこまで思って、裕太ははっとした。

 ––もし、ナオちゃんを呼び出したのがお姉ちゃんなら、家電に履歴が残ってるはず。

 なぜなら沙也加は尚人の携帯の番号を知らないはずだからだ。

 裕太は慌てて自転車に飛び乗ると、疑惑を確信へと変えるため、急いで家に引き返した。 

 

 

 

 雅紀の携帯が鳴ったのは、大阪での仕事を終えて、駅へと向かうタクシーの中だった。

 明日フリーならこのまま東京行きの新幹線に乗るところだが、あいにく明日は名古屋で仕事がある。なので今日はこのまま名古屋へ向かい、駅近くのホテルに一泊するのだ。

 正直雅紀は、一刻も早く家に帰りたい衝動を必死に抑えていた。

 昨日家を出る前の尚人が可愛過ぎて、早く家に帰りたくて仕方ない。あの続きをしたくてたまらない。春休みなんだから一緒に連れてくればよかったかな、とちらりと思ったほどだ。尚人と一緒ならホテル泊が何泊続いても気にならない。尚人のいる場所が自分の居場所だからだ。

 雅紀はジャケットの内ポケットからスマホを取り出す。表示された番号は自宅の固定電話で、雅紀はわずかに首を傾げた。尚人ならば自分の携帯から電話するはずだからだ。

 ––裕太か?

 裕太が電話を掛けてくることは滅多にないが、全くないわけではない。そういう時は必ず、尚人がらみではあるが。

 ––何かあったのか?

 雅紀は気になりながら通話ボタンを押した。

「もしもし」

『おれだけど』

「どうした?」

『雅紀にーちゃん。今どこ?』

「大阪での仕事が終わって、名古屋に向かってることだけど?」

『……ナオちゃんが、まだ帰ってこない』

 わずかに淀んだ裕太の言葉に、雅紀はしんなりと眉を潜めた。

 時間を確認する。八時過ぎ。

『俺が昼過ぎに買い出しに出かけて戻って来たら、図書館に行くって書き置きがあって。それで、図書館に行ってるんだとばかり思ってたんだけど』

「違ったのか?」

『閉館時間過ぎても帰ってこないから携帯に電話したんだけど、コール音はするけどナオちゃん電話に出なくて。……それで、図書館見に行ったら、ナオちゃんの自転車があった』

 どういうことだ?

 雅紀は眉間にシワを寄せる。

 まさか図書館から誰かに連れ去られた?

 そんなこと、ありえるのか?

 それとも俺の弟だと知ったうえで、あえて?

 雅紀の頭の中に次々と疑問が浮かんでは消える。

 身代金目的の誘拐。そんな言葉も頭に浮かんだ。

 その時、

『––お姉ちゃんかもしれない』

 は?

「何でそう思うんだ?」

『先月、おれ。図書館前でお姉ちゃんに待ち伏せされてたから』

 何だ、それ?

 初耳だ。

 いや、裕太と沙也加のことなど興味も関心もないが。そこに、尚人が絡んでくるなら話は別だ。

「何の用だったんだ?」

『さあ? これからどうするつもりなのかって、そんなこと聞かれたから、それってお姉ちゃんに関係あるのかよって返したら、弟だからあるっていうから。……じゃあ、ナオちゃんのことは気にならないのかよって、返して」

 それで、ナオにも話を聞こうと思い立った?

「それはいつの話だ」

『二月の頭』

 それで気にして尚人を呼び出すには、時間が経ち過ぎている気がする。

 それよりも雅紀が気になったのは、先週の沙也加からの電話だ。マスコミにあることないこと書き立てられたと精神的に追い詰められ、あろうことか雅紀に助けを求めて来た。

 ––独りで、不安で仕方ないの。

 そう訴える沙也加を雅紀はばっさり切り捨てた。

 だからか?

 ––俺が相手にしなかったから、それでナオに?

『家電の着信履歴に、おねーちゃんの携帯番号が残ってたから、お姉ちゃんからの電話にナオちゃんが出たのは間違いないんだ。それで、お姉ちゃんの携帯に電話したんだけど、電源切ってるみたいで繋がらなくて。加門のじいちゃん()にも電話してみたんだけど、今お姉ちゃん、加門の家を出て一人暮らししてるって。雅紀にーちゃん、知ってた?』

「ああ。そういう話は聞いた」

『そうなんだ。……それって、やっぱり。近頃のあの騒動のせい?』

「ああ。じーちゃんやばーちゃんにも迷惑がかかるからって、由矩おじさんが提案したらしい」

『そうなんだ。それで、じーちゃんたちに一人暮らし先の住所教えてないんだ』

 裕太が小さく嘆息した。

『それで、雅紀にーちゃんは、お姉ちゃんの一人暮らし先の住所って知ってんの?』

「知らない」

 雅紀が即答すると沈黙が落ちた。

 これ以上捜索する手段を失って、途方に暮れているのだろう。

「とにかくお前は家にいろ。どこからか連絡が入るかもしれない」

『雅紀にーちゃんはどうすんの?』

「心当たりを捜してみる。ナオの携帯電源入っているなら、位置情報掴めるかもしれないし」

『……わかった』

 裕太はぼそりと呟く。

『何かあったら、また電話する』

「ああ、そうしてくれ」

『そっちも、何かわかったら、すぐに連絡くれよ?』

「ああ」

 雅紀はうなずいて通話を終了した。そしてすぐさま、尚人の携帯の位置情報を検索するためのアプリを立ち上げる。裕太が言うように携帯の電源自体は入っているようで、画面に表示された地図に現在地を示すマーカーが表示された。手がかりのあることに雅紀はわずかにほっと息を吐いたが、しかし詳細地図ではどこかがわからず、地図を広域表示にして雅紀は目を見張った。

 県外に出て随分南下した場所を指し示している。家からは、車で高速道路を利用しなければ移動できない距離だ。

 ––やっぱり、沙也加の仕業か?

 雅紀は、確認のため尚人の携帯に電話する。コール音が鳴る。二十回、三十回。しつこく鳴らしても繋がる気配はない。次に雅紀は、携帯の履歴を遡って沙也加の番号を表示すると通話ボタンを押した。しかし、こちらは電波の繋がらない理由を案内する音声ガイダンスが流れるだけだった。

 裕太の言う通りだ。

 その間にタクシーは駅に到着し、雅紀はタクシーを降りて改札を抜ける。そして、プラットホームに向かいながら電話を掛けた相手は、加々美だった。

 コール音五回で電話は繋がった。

『よう、雅紀か。おつかれさん』

「お疲れ様です。加々美さん。今、電話大丈夫でした?」

『おう。今は高倉と飯食ってたとこだ。お前も時間あるなら来ないか?』

「すみません。今仕事で大阪なんですよ」

『何だ、そうなのか。お前も相変わらず忙しいな』

「おかげさまで。––それで、そのちょっと聞きたいことがあって電話したんですけど」

『おう、何だ』

「プライベートなことで申し訳ないんですけど。沙也加のマネージャーと連絡が取れないかと思って。もし、ご存知なら教えて頂きたいんですが」

『妹のマネージャー? 唐澤だな。連絡先は……、ちょっと待て』

 それからしばらく通話が保留される。そして次に加々美が電話口に出た時、その口調が一変していた。

『確認だが、何かあったのか?』

「どうしてです?」

『今、高倉の方に唐澤から連絡が入って、昨日からお前の妹と連絡がつかないと。それで、一人暮らししているマンションに様子を見に行ったみたいなんだが、車ごと姿がないって』

 雅紀はため息をついた。

 これで確定だ。

『近頃、週刊誌やワイドショーでいろいろ話題にされてただろう? それで随分精神的に追い詰められてたらしいから、唐澤が心配して。……警察に連絡したほうがいいだろうかって、高倉に判断仰いできてる』

「警察は、ちょっと待ってもらえますか? ……たぶんナオが一緒なんです」

『どういうことだ?』

「俺も状況が掴めているわけじゃないんですが、さっき下の弟から連絡があって。昼過ぎに図書館に行くという書き置きしたまま、ナオ、まだ帰って来てないらしいんです。で、その図書館に行った理由と言うのが、どうやら沙也加に呼び出されたみたいで」

『それでお前、妹の居場所の確認しようとしてたんだな』

「そうです。マネージャーが沙也加の居場所を把握しているなら、別の可能性が浮上しますから」

 耳元で盛大にため息をつく音がした。

『お前に唐澤の連絡先教えるから、お前の連絡先も唐澤に教えていいか?』

「ぜひ、お願いします」

『で、お前。二人が今どこにいるのか、心当たりはあるのか?』

「ナオの携帯の位置情報は掴んだんで、今からそこに向かおうと思っています」

『それってどこだ?』

「名古屋の桜山展望公園」

 それから雅紀は、加々美に教えてもらった唐澤の携帯番号を控えて通話を切る。

 名古屋行きの新幹線が到着したのは、ちょうどその時だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

銀波ノ雫 7

 沙也加から呼び出しを受けて図書館に着いた尚人は、駐輪場に自転車を止め、

 ––沙也姉、どこいるんだろう。

 と、周囲を見回してすぐにその姿を見つけた。

 尚人が到着するのをどこからか見ていたのか。沙也加は、まっすぐこちらを見据え、迷うことなくつかつかと歩み寄って来るところだった。

 その雰囲気の刺々しさに、尚人はここへ来たことをすぐさま後悔する。

 言葉を尽くせば分かり合える。そんな雰囲気は微塵もない。

 大嫌い、大嫌い、あんたなんか大っ嫌い。

 目が、態度が、雰囲気が。それを隠そうともせずに尚人に向けられている。

 一体、何を言われるのか。

 いや、そもそも話とは何なのか。

 沙也加を前に尚人が構えると、

「駐車場に車置いてるから」

 前置きも何もなく沙也加は開口一番そう告げた。

 意味がわからず尚人は沙也加を見返す。すると、沙也加は不機嫌な表情のまま尚人を一瞥(いちべつ)した。

「どこにマスコミがいるかわからないから。さっさとして」

 ––そうなの?

 それだけ言って沙也加はさっと(きびす)を返して歩き出す。付いて来いということなのか。そう判断して尚人は、とりあえず追った。

 立ち話をすれば誰に聞かれるかわからない。そういう意味だろうかと疑問に思いつつ駐車場まで付いて行くと、見覚えのある軽自動車が止まっていた。学校の前で待ち伏せされていた時、沙也加が乗り込んだのがこの軽自動車だ。

 沙也加はポケットからキーを取り出してロックを解除すると視線だけで尚人に助手席に乗るよう促す。その有無を言わさない雰囲気に、尚人は渋々ながらも助手席に乗り込んだ。

 沙也加がガールズコンテストに出場して、それをきっかけにアズラエルとモデル契約したことは尚人も知っている。それは、わざわざ自分から調べようと思わなくても、一時期ネットニュースのトピックスに連日上がり目を引いたからだ。

 だが、それ以上のことは知らない。沙也加が既にモデルとしてデビューして活動を始めているのかどうかも、世間の知名度がどのくらいあるのかどうかも。

 だから尚人は、沙也加がなぜそんなにマスコミを気にするのか想像がつかない。

 まあ、あれだけ篠宮家のスキャンダルが世間を賑わせ、散々マスコミに付け回されてうんざりしただろうに、あえてモデルの道を選んだ沙也加の心境も尚人には想像がつかないが。

 モデルは顔を売るのが仕事だ。ゆえに、仕事を頑張れば頑張っただけ、当然世間に顔が知れ渡る。有名になれば、メリットもあるかもしれないが、当然デメリットだってある。雅紀はそれを有名税だと言っていたが、モデルを続ける以上それを払い続ける覚悟が必要なのだと尚人は受け止めていた。

 マスコミ対応などそれの最たるものだろう。

 沙也加は運転席に乗り込むと、おもむろにエンジンをかけた。

 そしてそのまま車を発進させる。 

 車に乗ったのはあくまで話をするためではなかったのか。と、驚く尚人をよそに沙也加は説明する気もなさそうだった。

 目的地があるのかないのか。

 それさえもわからない。

 沙也加は迷う様子もなく国道に出て、あとはひたすらまっすぐ進む。

 一瞬、加門の祖父母宅へ向かうのかとも思ったが、方向が違う。

 呼び出しておきながら何も言わない沙也加に焦れて、

「ところで、聞きたいことって……何?」

 思い切って口火を切ったが、

「しばらく運転に集中させてくれない?」

 素っ気なく沙也加に返されてしまった。しかも言葉には何となくトゲがあって、

 ––しばらくって、どのくらい?

 疑問に思ったが、それが聞けるような雰囲気でもなかった。

 尚人はひっそりと溜息をつく。

 おそらくは、自分のことなど大嫌いなはずの沙也加だって、さっさと話を終わらせたほうがいいだろうに。と尚人は思ってしまう。

 重苦しい沈黙を車窓を眺めることでやり過ごしていると、やがて高速道路のインターチェンジを案内する緑色の表示が現れた。何気なくそれを眺めた尚人だったが、沙也加は迷うことなく案内に従って左にハンドルを切る。

 ––って、ええ? 高速に乗っちゃうの?

 尚人は驚いて沙也加を振り返った。

「さ、沙也姉?」

 本当にどこまで行くつもりなのか。

「しばらく家に閉じこもってたから、気分転換したいのよ」

 前を向いたまま、沙也加は淡々と告げる。

 気分転換?

 尚人は予想外の言葉に戸惑う。

 話があるから呼び出したのではないのか。

 それとも、話があるというのは口実で、気晴らしのドライブに付き合わせるのが本当の目的だったのか。

 いや、しかし。沙也加は自分を嫌っているはずで、気分転換のドライブに付き合わせたい存在ではないはずだ。

 沙也加が何を考えているのか、本当にわからない。

 尚人は心の中で盛大に溜息をつく。

 車は高速のゲートを通過すると、あとはひたすら南下し、県内とはいえ行ったことのない地名の案内表示を次々と通過していく。

 ––このままだと、県外に出ちゃうけど……

 尚人がそわそわし出した頃、ようやく沙也加が口を開いた。

「––あんたさあ。アズラエルの本社ビルに行ったことあるでしょう?」

 ––沙也姉の聞きたいことって、それだったの?

 意外な質問に、尚人は沙也加を見た。

 アズラエルとモデル契約をして、ひょっとして何か耳に入ったのだろうか。

「……うん。去年の夏休みに、学校の課題で。職場体験をしてその体験レポートを学校に提出しないといけなかったから」

「それって、お兄ちゃんに頼んだわけ?」

「……他に、頼める人がいなくて」

「で? お兄ちゃんのコネで図々しくも加々美さんにアズラエルを案内してもらったんだ?」

 沙也加の言葉は淡々としながらもやはりトゲがある。

「最初は、そのつもりじゃなかったんだけど、雅紀兄さんがどうしても仕事の都合がつかなくて。それで、加々美さんに頼んでくれたみたいで」

「ふーん」

 聞いてきた割に、興味があるのかないのか。沙也加の口調は素っ気ない。

「でも、あんたがアズラエルに行ったのって、その時だけじゃないでしょ?」

「え?」

「見たのよ、私。あんたが、高倉さんと加々美さんといっしょにアズラエル本社内歩いてるとこ。––ヴァンスのチーフデザイナーも一緒だった」

 ––あの時、沙也姉いたんだ……

 気づかなかった。

「あれ、何の用だったのよ」

 問われて、尚人は言葉に詰まる。

 おそらくあの一件は、おいそれと話していい内容ではない。何せ契約直前でモデルの差し替えをしようとしていたのだから。

「何よ。言いなさいよ」

 尚人がだんまりを続けていると、沙也加がちらりと一瞥(いちべつ)して声を尖らせた。

「あんたって、昔からそうよね。自分に都合が悪くなるとだんまりを決め込んで。お兄ちゃんは、それが口が硬いって思ってるみたいだけど、あんたのは単に自分に都合の悪いこと黙ってるだけでしょう? そうやって周囲を騙すのが、あんたの手口よね」

 沙也加の口撃は容赦ない。

「あの時だって、あんたが黙っていたせいであんなことになったのに。でもあんたは、自分のせいじゃないって思ってるんでしょう?」

 ––沙也姉何かあったのかな?

 尚人はそっと溜息をつく。

 今更蒸し返してもしょうがない。それがわかっていても口にせざるを得ない、そんな気分になってしまう何かが。

 まあ、それを尚人が口にしてみたところで、沙也加の気持ちはさらにささくれ立つだけだろうが。

「で、あんたさ。大学行くつもりなの?」

 ––今度は、急にそっち?

 脈絡のない話題展開に尚人は面食らう。

 ひょっとすると、すべては、本題に入る前の口慣らしだったりするのだろうか。

 真意はわからないが、尚人はうなずいた。

「そのつもりだけど」

「ふーん。––それって、お兄ちゃんの稼いだお金で行くつもり?」

 侮蔑まじりの沙也加の言葉に、尚人は刹那言葉に詰まる。

 尚人は、そもそも高校を出たら就職するつもりでいた。そのための準備を中学生の頃から少しずつやってきてもいた。しかし昨年雅紀に大学に行けと言われ、考えを改めた。自分にも選べる未来があると知って正直嬉しかったし、金の心配ならしなくていいと言ってもらい、安心したのも確かだ。

 就職したら返そう。そうは思っていた。雅紀は受け取らないかもしれないから、その時はいざという時のために雅紀のために使えるように取って置いたらいい。そう思っていた。

 しかし沙也加の言うとおり、雅紀の稼いだ金で大学に行く。そのことに違いはない。

「また、だんまり?」

 沙也加が鼻で笑った。

「あんたさ、いつまでお兄ちゃんのお荷物続けるつもり? お兄ちゃんは優しいから、あんたに大学行っていいとか、金の心配なんてしなくていいとか、言ってくれてるのかもしれないけどさ。いい加減、開放してあげようとかって思わないわけ? いつまで、お兄ちゃんにくっついているつもりなの?」

 ––そんなの、沙也姉に関係ないだろう。

 尚人は心の中だけで呟く。

 誰に何を言われても、尚人は雅紀から離れるつもりはない。家の中の空気が最低最悪で、雅紀に疎まれているとばかり思っていた頃は、早く独り立ちして自分のことは自分でどうにかしようと思っていたが、今は違う。雅紀と心も体も繋げて、愛し愛されていると確認しあっている。それが心地良くて、いつまでもそうしていたくて。だから尚人は、雅紀の横を誰にも譲るつもりはない。

 それを沙也加が妬ましく思っていることには、とっくに気づいている。

 まだ家庭が崩壊する前、沙也加は誰に対しても超ブラコンぶりを隠そうとしなかったし、雅紀に近寄る者には誰に対しても容赦なかった。

 ––私のお兄ちゃんに近寄らないで。

 ––私のお兄ちゃんなんだから。

 沙也加は口癖のように、よくそう言っていた。

 昔は主張の激しすぎる沙也加の前ではどうしても一歩引いてしまっていたが、今は違う。黙ってただ待っているだけでは何も手に入らないと理解したから。何もしないで諦めてしまうのは愚かだと気づいたから。

 それに、そもそも篠宮の家を捨てたのは沙也加だ。

 それなのに今更、家の中のことに口出しされても困る。

「どうしても大学行きたいなら奨学金でも借りればいいでしょう? それに、あいつの保険金だってあるんだし? バイトもすれば一人暮らしだって可能でしょう?」

 きっと沙也加は、何かで生じているイライラを尚人にぶつけたいだけだ。尚人でストレス発散している。雅紀には言えないし、裕太では喧嘩にしかならない。それがわかっているから、きっと自分をターゲットにしたのだ。

 しかしそれがわかったところで、今は高速を走る車の中。尚人に逃げ場ない。

 いや、ひょっとすると、尚人を逃さないために、わざわざ高速に乗ったのかもしれない。

 沙也加は一体どこまで行くつもりなのか。

 車窓から綺麗に見える駿河湾を眺めて、尚人はそっとため息をついた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

銀波ノ雫 8

 隠れ家的和食ダイニング『真砂』。加々美が常連のこの店に今日誘った相手は珍しくも高倉だった。

 何かと多忙を極める高倉は、加々美が飲みに誘っても滅多に応じることはないのだが、今日はやけにあっさり承諾し、さらには意外なことに「たまにはうまい飯でも食わせろ」と言ってきた。それでここ、『真砂』へ連れて来たのだ。

 近頃何かと忙しく、さすがの高倉も気分転換を図りたいのかもしれない。

 ビールで乾杯し、先付けを頂く。

 菜の花の煮浸しがうまい。

「ヴァンスとの契約締結記念に出版予定のムック本、評判上々らしいな」

 加々美が口火を切る。まずは幸先のいい話をしたい。

 今月頭に撮影が行われたユアンとショウの豪華ムック本は、完全予約販売で、予約の締め切りが今月末までだ。雑誌『KANON』でヴァンスの特集が組まれてヒットしていただけに、ムック本発売は発表当初より話題を集めていたが、『チラ見せ』としてユアンのオフタイム写真が公表されると予約数は一気に倍増した。いつもなんとなく無表情で、どこか非現実感のある妖精王子(フェアリー・プリンス)ことユアンが、オフタイム写真ではやんわり微笑んでいて、それが女性たちに受けたのである。

 ––妖精が微笑んでる!

 ––信じられないくらい可愛い!

 ––視線の先に一体何見つけたの! 気になる。

 ––ムック本買ったら、視線の先にあるものも映ってる?

 などなど、ネット上ではかなり盛り上がっていたらしい。

 しかし残念ながら、世間の期待する『視線の先』は公表できない。なぜなら視線の先にいるのは尚人だからだ。尚人には『裏方ってことを徹底してもらえれば』という条件で無理を言ってアルバイトに来てもらった手前、その約束を違えることはできない。

 如何せん今後のことがある。

 加々美と雅紀の関係と、尚人に対する高倉の思惑。

 しかし、尚人とユアンの二人が映るオフショット写真を何枚か見せてもらった加々美は、

 ––あー、これが日の目を見ないなんて。本当もったいないよな。

 と心底思ったのは事実だ。

「予約が予定数を超えたからな。出版部の方が盛り上がってて、すでに第二弾の計画が上がっている」

「へぇ」

 加々美は驚く。まだ発売もされていないのに第二弾とは。どちらかと言えば慎重な出版部にしては珍しい。

「クリスの方も、スケジュールが合えばって感じで、どちらかと言えば乗り気だ」

「もうそこまで行ってる話なのかよ」

「鉄は熱い内に打てというだろう」

「まあ、そうだな」

 加々美は頷いて、出された刺身に箸をつける。旬を迎えた真鯛は脂が乗ってうまい。

「まあ、クリスの言うスケジュールっていうのは、尚人くんのことなんだがな」

「は?」

 あまりに淡々と言われて、加々美は一瞬、高倉なりのジョークなのかと思ってしまった。

 いや、この高倉が、そういうジョークを言うはずないのだが。

 それがわかるくらいには、加々美と高倉の付き合いは長い。

「はっきり言ってきたからな。当然ユアンのサポートに尚人くんを付けてくれるんだろうって」

「まじかよ」

 加々美は絶句する。

 それほどクリスは尚人に執着しているということか。

「まあ、その点に関してはこちらとしても願ったり叶ったりではあるんだが。––今は如何せん、少々ゴタついているからな」

「妹の方の問題か?」

 加々美が問うと、高倉は表情を変えずに首肯した。

 沙也加とタカアキが示し合わせて北海道でお泊まりデートしていたのではないかという疑惑が週刊誌やワイドショーを賑わせているのは加々美だって知っている。

 世間に『隠れてこそこそ』とイメージ付けられてしまったのは確かに痛手だし、何かと世間を騒がせた篠宮家の長女でなければそもそも新人モデルの恋愛事情などメディアが取り上げることもなかったと思うが、交際が事実だとしてもそれが社会的に問題になる二人ではない。加々美にしてみれば、必要以上に大袈裟に捉えすぎているのではないかと思うのだが。

「沙也加嬢の方が、精神的にかなり参っているらしい」

「へぇ」

 加々美は驚く。

 極悪非道の父親のせいでメディアに散々付け回されるという経験をしてもなお、顔を売るモデルという道を選んだのだ。言っては悪いがこの程度の騒動、平気で無視できるのかと思っていた。

「意外だな」

 雅紀は見ての通りの鋼の心臓の持ち主で、その弟である尚人は、一見雅紀とは正反対だが、しなやかで崩れ落ちない芯の強さを持つ。

 だから当然沙也加も、強い意志の持ち主かと思っていたのだが。

「雅紀や尚人くんとは違ったってことか」

「正直なところ、あれほど精神的に(もろ)いとは思わなかった」

「それほどなのか?」

 高倉は肯定も否定もせず、ビールを飲み干して加々美に視線を向けた。

「最初のカフェデートの記事の時には気丈に振る舞っていたようだが、お泊まりデートの記事の時は唐澤の前でヒステリックに泣き叫んだらしい。その様子にしばらく仕事は無理かとスケジュール調整したら、今度は週刊誌の記事のせいで仕事がなくなったと思い込んだみたいで。どうにも情緒不安定で、今は唐澤が毎日様子伺いの連絡を入れているようだ」

「確か祖父母と同居してるんだろう?」

 その辺は家族のサポートがあるんじゃないか、と思った加々美だが、

「今は、都内のウィークリーマンションにいるらしい」

「また、何で?」

「祖父母に迷惑がかかるのが心苦しかったらしい」

「あー、まあな」

 その気持ちは分からなくはない。そもそも前回の騒動の時に祖父母は節操のないメディアの攻撃にかなり参っていたようだ。その時の不安解消のはけ口は雅紀に向かっていたようだが。

 ひょっとすると今回沙也加は、自分も不安定なのに、祖父母のケアまでというのが重荷だったのかもしれない。

 加々美の携帯が鳴ったのはその時だった。相手によってはそのまま着信拒否しようかと思ったが、ディスプレイに表示された名前を見て加々美はニンマリ笑った。

「雅紀からだ。噂話しが聞こえたかな?」

 悪戯っぽく笑って、通話ボタンを押す。

 そのタイミングで高倉の携帯も鳴って、高倉がほんのわずか硬い表情をしたのを加々美は横目で見ていた。

「よう、雅紀か。おつかれさん」

『お疲れ様です。加々美さん。今、電話大丈夫でした?』

「おう。今は高倉と飯食ってたとこだ。お前も時間あるなら来ないか?」

 半分冗談で半分本気だ。

 雅紀がこの場に来るなら、いろいろ話したいこともある。

 が、

『すみません。今仕事で大阪なんですよ』

 返ってきた答えに、加々美は苦笑した。

「何だ、そうなのか。お前も相変わらず忙しいな」

『おかげさまで。––それで、そのちょっと聞きたいことがあって電話したんですけど』

「おう、何だ」

『プライベートなことで申し訳ないんですけど。沙也加のマネージャーと連絡が取れないかと思って。もし、ご存知なら教えて頂きたいんですが』

 思わぬ言葉に加々美はわずかに首を傾げた。

 妙な符号の一致。これは偶然なのか必然なのか。

「妹のマネージャー? 唐澤だな。連絡先は……、ちょっと待て」

 加々美は通話を保留して、高倉を見やる。

 唐澤の連絡先は、高倉に聞けば一発だからだ。

「で、部屋の中は? 何か不審なのか」

「それで警察は、……早すぎる気がするが」

 ––って、何の話してんだ?

 加々美は高倉の言葉にぎょっとする。

「ちょっと待て、すぐに折り返す」

 高倉はそう言うと一旦通話を終了した。

「唐澤からだ。昨日から沙也加嬢と連絡がつかなくなっているらしい」

「それで、警察って何だ?」

「携帯が繋がらないから部屋に様子を見に行ったら、車ごと姿がなくて。祖父母宅にも帰ってはいないそうだ。それで、最悪の事態を想定したみたいで」

 加々美はごくりと生唾を飲む。

 そこまで逼迫(ひっぱく)した事態なのか。

「そっちは、何だって? MASAKIからなんだろう?」

「唐澤の連絡先教えてくれって」

 加々美が言うと、高倉がはっきりと顔をしかめた。

 このタイミングというのが、偶然とは思えなかったのだろう。

 既に加々美もそう思っている。

 高倉は、携帯画面に唐澤の番号を表示させて加々美の前に置く。

 加々美は、保留していた通話を再開させた。

「確認だが、何かあったのか?」

 加々美が問いかけると、一瞬間があった。

『どうしてです?』

 平静を装っているが、声質が硬い。長い付き合いだけに、加々美にはそれがわかった。

「今、高倉の方に唐澤から連絡が入って、昨日からお前の妹と連絡がつかないと。それで、一人暮らししているマンションに様子を見に行ったみたいなんだが、車ごと姿がないって」

 電話の向こうでため息を()く気配がした。

「近頃、週刊誌やワイドショーでいろいろ話題にされてただろう? それで随分精神的に追い詰められてたらしいから、唐澤が心配して。……警察に連絡したほうがいいだろうかって、高倉に判断仰いできてる」

『警察は、ちょっと待ってもらえますか? ……たぶんナオが一緒なんです』

「どういうことだ?」

 加々美は驚く。

『俺も状況が掴めているわけじゃないんですが、さっき下の弟から連絡があって。昼過ぎに図書館に行くという書き置きしたまま、ナオ、まだ帰って来てないらしいんです。で、その図書館に行った理由と言うのが、どうやら沙也加に呼び出されたみたいで』

「それでお前、妹の居場所の確認しようとしてたんだな」

 加々美はようやく納得した。

 雅紀はあくまでも尚人の行方を捜しているのだ。

『そうです。マネージャーが沙也加の居場所を把握しているなら、別の可能性が浮上しますから』

 加々美は息をつく。

 これが万が一マスコミに漏れたら、篠宮家騒動第二弾が勃発しそうだ。

 雅紀&尚人VS沙也加。

 想像しただけで頭が痛い。

「お前に唐澤の連絡先教えるから、お前の連絡先も唐澤に教えていいか?」

『ぜひ、お願いします』

「で、お前。二人が今どこにいるのか、心当たりはあるのか?」

『ナオの携帯の位置情報は掴んだんで、今からそこに向かおうと思っています』

 弟の位置情報を常にキャッチ出来るようにしているのが過保護な雅紀らしい。

「それってどこだ?」

『名古屋の桜山展望公園』

 なぜ、名古屋? という疑問はあるが、加々美はとりあえず唐澤の番号を雅紀に伝え通話を切った。

 それから、雅紀とのやりとりを高倉に説明する。

 高倉は了承したように頷くと、唐澤に折り返した。

「沙也加嬢は、弟の尚人くんと一緒にいる可能性が高いようだ。そう、だから警察の件はまだ保留だ。尚人くんの携帯の位置情報が名古屋の桜山展望公園を示しているみたいだから、おそらくは沙也加嬢も名古屋に。––ん、ああ、そうしてくれ。無駄足になるかもしれないが。ああ。わかった」

 高倉は、唐澤との通話を終了すると、成り行きをじっと見守っていた加々美に視線を向けた。

「今から、名古屋へ向かってみるそうだ」

 今から?

 と思わなくもなかったが、そもそも情緒不安定気味だった担当モデルの件だ。マネージャーとして向かわないという選択はあり得ないだろう。

 しかし、名古屋までは高速をどんなに飛ばしても四時間。今からの出発では、到着するころには日付が変わっている。

「こりゃあ、今日は眠れそうにねぇな」

 加々美は呟きながら、もう一切れ刺身を口に放り込んだ。

 

 

 

 名古屋駅に到着すると、雅紀はすぐにタクシーに飛び乗った。

「桜山展望公園まで」

 そう告げると、運転手はわずかに首を傾げた。

「お客さん。そこ確か、九時には閉園のはずだけど」

「閉園後は入れない場所ですか?」

 雅紀が問うと、運転手はあっさり否定した。

「いや、駐車場の出入り口にチェーン張ってあるだけだから、入ろうと思えば入れるけど。ライトアップが終わると、照明なくて真っ暗だよ」

「とりあえず、向かってもらっていいですか?」

 雅紀がそう告げると、運転手は車を発進させる。スマホを取り出して尚人の携帯の位置情報を再度確認するが、最初に検索した時から動きがない。

 ひょっとすると、携帯だけがその場所にあるのかもしれないが、雅紀にはそこへ向かうしか手掛かりがない。

 目的の場所は、駅からそう遠くはなかった。夜で道が空いていたこともあり十分程で到着する。

 新幹線での移動中にスマホで検索したところによると、桜山展望公園は、小高い山の頂上に小さな展望デッキがあるだけの公園だが、山の斜面に桜が植えられ、昼間は伊勢湾が眺められる眺望の良さと、夜はライトアップされた桜と名古屋の夜景のコラボレーションがなかなか綺麗で、知る人ぞ知る穴場スポットらしい。普通に検索しても出てこなかったが、インスタを検索したらヒットした。

 山の麓に駐車場があり、設置された階段を上がって行った先に展望デッキがある。標高は一五〇メートルほどで、子どもの足でも楽に登ってしまえる高さだ。

 運転手が言った通り、公園は闇に包まれ、駐車場の出入り口にはチェーンが張ってあった。車は中に入れない。運転手が言うには、駐車場の脇に階段があり、その階段を登った先に展望デッキがあると言う。

「ちょっと、待っててもらっていいですか?」

 雅紀は運転手にそう告げると、スマホとカバンに常備しているLEDライトだけを手にチェーンをまたいで公園敷地内へ入る。言われた通り先へ進むと『展望デッキ入り口』と書かれた看板の横に階段があった。雅紀はその階段をあっという間に上り切り、展望デッキに出る。周囲に照明がないので、遠くに見える街の明かりが返って綺麗だった。

 ––やっぱり、ナオはいないか。

 尚人どころか、人の気配がない。

 雅紀は、スマホを取り出して尚人の携帯に掛ける。

 コール音が鳴る。

 それとシンクロするように、闇の中から携帯電話の着信音がした。

 雅紀は、耳をすませて音の位置を捜す。

 デッキの下。そのさらに下の、山の斜面。雅紀は、ライトで照らして当たりをつけると、スマホを繋げたままポケットに入れ、注意しながら斜面を降りた。幸いにもかなり管理された山で下草はほとんどなく、降りて行けないほど急でもない。

 慎重に十メートル程下ると、音がかなり近くなった。ライトの明かりとコール音を頼りに雅紀は周囲に目を凝らす。と、地面に小さな点滅を見つけた。

 着信した携帯電話が発する光だ。

 ––あった。

 雅紀は、半分地面に埋まるようにして落ちていた携帯電話を拾い上げた。尚人の携帯電話で間違いない。画面を確認すると、雅紀の名前を表示して淡い光を放っていた。

 状況を鑑みるに、おそらく展望デッキから放り投げられたのだろう。尚人が間違いなくここに来たことだけはわかったが、これ以上捜索する手段を失ってしまった。

 雅紀は尚人の携帯もポケットに入れて、デッキの所まで上がる。そして階段を降りて駐車場に戻った。

 裕太に聞いた話から推測すると、尚人が沙也加と図書館で会ったのは、おそらく二時前後。それからすぐに移動を開始してここへまっすぐ来たとしても到着は六時過ぎごろだ。裕太が尚人に電話して繋がらなかったのが六時半過ぎ。ひょっとするとその着信で尚人が携帯を持っていることに気がついて、沙也加が取り上げて放り投げたのかもしれない。

 それから三時間半だ。もう、近くにはいないだろう。

 雅紀はこの場でのこれ以上の捜索は無意味だと判断して、タクシーを宿泊先のホテルに向かわせた。

 

 

 

 雅紀の携帯が鳴ったのは、チェックインの手続きが終わり、部屋に入った直後だった。

「はい、雅紀です」

『加々美だ。すまんな、どうにも気になって。あれから、何か進展はあったか?』

「すみません、加々美さんにまで迷惑をおかけして」

 雅紀は小さく嘆息する。

 正直、このタイミングで加々美を相手に話が出来ることが救いだった。

 気分がささくれだっている。

 怒りと不安が渦巻いている。

 わずかでも感情を吐き出すことが必要だった。

『いや、お前の妹はアズラエル所属のモデルでもあるわけだし。完全部外者ってわけでもないだろう? で、どうだ?』

「桜山展望公園へ行って来て、落ちてたナオの携帯を拾って来ました」

『あー、なるほど』

 加々美が呟く。

「山の斜面に落ちてたんですけど。……一緒にナオがいなくて残念なのかホッとしたのか。自分でもわかりませんよ」

 加々美が一瞬沈黙した。

『……おまえ、それは。だって、一緒にいるの姉だろう?』

「沙也加は一度、ナオを学校前で待ち伏せして、思い切りナオを平手打ちしてますからね。かっとして何をしでかすか。正直、斜面に突き落とすくらい、しでかしても不思議はないんで」

 耳元で息を飲む気配がした。加々美も何と返したものか迷ったのだろう。重苦しい沈黙が落ちた。

「……すみません。こんなこと加々美さんに言っても仕方ないのに。でも、正直なところ不安で仕方ないんですよ。……ナオが無事なのかどうか」

『おまえ、そりゃ、無事に決まってんだろ。何言ってんだよ。妹は今ちょっと精神的に参っているかもしれないけどさ。弟に何かするはずないだろう。むしろ、尚人くんに癒されているかもしれないしさ』

 それはない。

 雅紀は心の中で断言する。

 沙也加は、尚人のことが憎くて目障りで腹立たしくて仕方ないのだ。なぜなら沙也加は尚人になりたかったから。尚人さえいなければ、尚人が持っている全てが自分のものだったはずだと信じているからだ。

 そんなことあり得ないと、ちょっと考えればわかるはずなのに、沙也加はそれを信じている。

 尚人が生まれたから、沙也加に向けられていた雅紀の愛情が尚人に向いたわけではない。それが証拠に、裕太が生まれても尚人への愛情は変わらなかった。

 尚人がいなければ、沙也加が翔南高校に受かったわけではない。

 むしろ姉の惨敗ぶりを見てもなお努力を重ねて果敢に挑戦した尚人がすごいのだ。

 尚ばっかりずるいと、沙也加は口癖のように言っていたが、人を羨むばかりでは何も手にできないのだと、いい加減気付きべきなのだ。

 ––くそっ!

 雅紀は抑えきれずにベッドを蹴りつける。

 ––ナオに何かしてたら、ぶっ殺してやるからな。

 ドロドロとした感情が内から喰い破って出てきそうだ。

『おい、雅紀。落ち着け。聞いてるか?』

「すみまません。加々美さん。もう切ります。どこかから電話が掛かってくるかもしれませんし」

『ああ。そうだな。時間をとらせてすまん。でも、尚人くんは絶対無事だからな。それだけは、信じろよ』

 加々美は言い聞かせるように言葉を重ねてから電話を切る。

 雅紀は通話の切れた携帯を握りしめ、大きく呼吸を繰り返した。

 高ぶる感情を何とか終え込み、雅紀は家に電話を掛ける。

 2コールで電話は繋がった。

『もしもし』

「俺だ」

『ナオちゃん、見つかった?』

 裕太の口調は(せわ)しない。おそらくキリキリしながら連絡を待っていたのだろう。

「いや。ただ、名古屋の公園でナオの携帯は拾った」

 間が開く。どういう状況か飲み込んでいるのかもしれない。

『……じゃあ、名古屋に行ったのは間違いないんだ』

「ああ、そうだな」

 雅紀としてもそれ以上何も言えない。二人の間に沈黙が落ちた。

「今言えるのはそれだけだ。そっちは、何もなかったか?」

『今のところ、何もない』

「そうか」

 雅紀は呟く。

「何かあれば、また連絡する」

『わかった』

 兄弟の会話は重苦しいため息だけを残して終了した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

銀波ノ雫 9

 沙也加は、電源の入っていない、真っ暗な画面のスマートフォンをじっと見つめていた。思考は飛び飛びで、自分が何を考えているのか。あるいは、何も考えていないのか。それすら判然としない。

 真っ暗な画面の向こうに、これまで何度も何度も表示させて眺めた、雅紀の携帯番号が浮かんで見える。

 電話してみようか。

 何度もそう思った。

 ちょっとでも声が聞きたい。

 それは沙也加の切実な願いだった。

 でも、何の話をすればいいのか。

 不自然ではない理由が欲しかった。

 いろいろこじつけて。

 頭の中でシミュレーションして。

 それなのにいざとなったら勇気が出なくて。

 だから……

 雅紀の方から電話をくれたらいいのに。

 そう願っても、雅紀から電話が掛かって来ることは実際なくて。

 だからなのか、沙也加は篠宮の家を出て以降、幾度も雅紀に電話する夢を見た。

 夢の中で沙也加は、緊張しながらコール音を聞く。

 電話が繋がるのを待ちながら、

 どうしよう。やっぱりこのまま切ってしまおうか。

 沙也加は葛藤する。

 しかし、

 ––沙也加か?

 電話が繋がって、耳元にこぼれ落ちて来るその声は、驚きつつも柔らかで。思いがけない電話を歓迎する雰囲気に包まれてていて。沙也加はその声に、心底ほっとするのだ。

 ––あのね、お兄ちゃん。聞いて。今日、こんなことがあったのよ。

 沙也加は取り止めのない話をする。

 雅紀はそれに相槌を打つ。言葉は少なくても、ちゃんと聞いてくれているのがわかる。話が弾んで、あっという間に時間が過ぎる。

 ––ごめんね。お兄ちゃん。忙しいのに、くだらない話に付き合わせちゃって。

 ––構わないさ。沙也加からの電話なら、いつだって歓迎するよ。

 耳元で雅紀の優しい声が響く。

 沙也加はそれにうっとりする。

 夢の中の雅紀は、いつだって沙也加の欲しい言葉だけをくれた。

 それなのに……

 ––日本で独りが不安なら、いっそ海外にでも行けば?

 ––あったことをなかったことにはできない。いい加減、そのくらい分かれよ。

 ––あの家におまえの居場所なんてない。

 現実に返された言葉は、ひとつも沙也加に優しくなかった。

 労りなど、どこにもなかった。

 勇気を振り絞って、初めて雅紀に電話したのに。

 冷たい拒絶だけがそこにあった。

 ––あったことをなかったことにはできない。

 そんなこと、今更言われなくてもわかっている。

 沙也加は、真っ暗なスマートフォン画面を見つめながら唇を噛む。

 母と雅紀はセックスしていた。

 沙也加はその関係を汚いと糾弾した。

 当たり前だ。

 母子相姦など、許されるはずがない。

 あの時母は、既に母親ではなくなっていたのだ。

 息子に関係を迫るケダモノに成り果てていた。

 ケダモノに死んでしまえと言って何が悪いのか。

 ケダモノが死んで、それで雅紀はケダモノから解放されたのだ。

 むしろ、感謝されるべきではなかったのか。

 お前のおかげで救われた。

 そう言って、沙也加を迎えに来るべきだったのではないのか。

 無視して、放置して。あったことをなかったかのように振る舞っていたのはどちらか。

 それなのに、なかったことをあったかのように書き立てられている沙也加のことは冷たく切り離す。

 あったことをなかったことにできないのなら、なかったことをあったかのように放置されるのも許されない。

 そのはずだ。

 沙也加は、ぐったりと横たわる尚人を一瞥(いちべつ)すると、スマートフォンの電源をオンにした。

 

 

 

 雅紀の携帯が鳴ったのは、加々美との電話が終わってしばらく経ってからだった。

 その時雅紀は、デスクに置いた携帯をただただ眺めながら、途方に暮れていた。

 尚人の携帯電話はここにある。沙也加の携帯は、何度掛けても同じアナウンスしか流れない。唐澤は高速を移動中で、特段情報を掴んでいるわけでもない。

 完全に手詰まっている。

 どこかから連絡が入るのを雅紀は待つしかない。

 それは、裕太が掛けて来る自宅からの電話なのか。

 沙也加から解放された尚人が公衆電話などから掛けてくる電話なのか。

 それとも、こんなことをしでかした言い訳をする沙也加からの電話なのか。

 それで、ディスプレイに沙也加の番号が表示されたとき、雅紀は待っていたものが来たのだと下腹に力を入れた。

「もしもし」

『沙也加よ』

「ナオは、一緒なのか?」

『お兄ちゃん。お願いがあるの』

「質問に答えろ」

『お願いがあるのよ』

「ナオの無事を確認するのが先だ」

 雅紀が重ねて言うと、耳元でくつりと笑う気配がした。

『相変わらず尚の心配ばっかりね。……それで、尚のことなんか知らないって言ったら、お兄ちゃん、私の話、聞いてもくれないの?』

「高校生が、こんな時間まで家に帰ってこないって連絡受けたら、心配するのは当たり前だ」

『へぇ。……それって、裕太から?』

「そうだ」

『尚だって高校生だもん。春休みだし、夜遊びしてるのかもよ』

 とぼけた様子の沙也加の口調に雅紀は苛立つ。

 一体、何のつもりなのか。

 尚人を図書館に呼び出し、名古屋まで連れ出したことはわかっている。

 問題は、今もまだ一緒にいるのかどうかだ。

「沙也加。俺はお前と言葉遊びするつもりはない。俺にお願いとやらがあるなら話を聞こう。だが、ナオが無事なのかどうか、確認が先だ。一緒にいるなら電話口にナオを出せ」

 雅紀は静かな口調で迫る。すると電話口に沈黙が落ちて、沙也加の逡巡するような息遣いだけがしばし続いた。

 それ以外に音はない。

 と言うことは、沙也加が今いる場所は外ではなく、室内なのだろう。

『––それは、ちょっと難しいかな』

 やがて沙也加がぽつりと言う。

『全然、起きる気配ないし』

 雅紀はわずかに眉を(ひそ)めた。

 まだ日付が変わる前だ。いつも尚人はもっと遅く寝る。睡魔に勝てずに眠り込むような時間ではないだろう。特に、沙也加と一緒で、安心しきったように眠りこけるはずがない。

『薬の量、間違えちゃったかも』

「沙也加!」

 雅紀は反射的に声を荒げた。

 母の死顔が嫌でも脳裏に浮かんで、心臓がはねた。

『……お兄ちゃんって、そんなふうに怒るんだ』

 淡々とした沙也加の口調が雅紀の苛立ちを(あお)る。

『あ、そうか。お母さん、睡眠薬自殺したんだったね。……睡眠薬って飲み過ぎたら死んじゃうんだった』

 雅紀はぎりっと奥歯を噛み締めた。

 まさか沙也加がこんなふうに出て来るとは思わなかった。

 いつもむくれて、(ひが)んで、文句ばかりたらたらで、その場で地団駄を踏んでいるだけなのが沙也加だったのに。

「電話に出れないなら、写真を送れ。今すぐだ」

 地を這うように低く雅紀は告げる。つぎつぎと急所狙いの必殺技を繰り出し来るかのような沙也加に、雅紀は平常心を保つのが精一杯だった。

『––わかった。じゃ、一旦電話切るから』

 それでぷつりと電話が切れる。写真はすぐに送られて来た。

 ホテルと思われる室内のベッドに尚人は横たわっていた。

 写真で見る限り、いつもの寝顔だ。起きている時よりほんの少し幼い顔つきで、ただ静かに、眠っているように見える。

 もちろん写真では、息遣いまではわからない。

 ただ、ベッドで死んでいた母のように、どこか作り物めいた、蒼白で温もりなどどこにもない顔ではなかった。

 そのことに雅紀は安堵する。

「写真受け取った」

 雅紀はすぐさま沙也加に折り返した。

「で、お前のお願いとやらは何だ」

『尚にしたことと同じことをして欲しいのよ』

 ––?

 雅紀は首を傾げた。

 一体、何のことを言っているのか。

『メディアの前で、俺の妹に手を出すなって言って欲しいの』

「記者会見でも開けって言うのか?」

 おそらくは、前回沙也加が雅紀に助けを求めて来た、あの件の続きなのだろう。

 前回はばっさり切り捨てられた。だから今回は、尚人を人質に取った。

 雅紀に要求を飲ませるために。

 つまりは、そう言うことなのだろう。

『そんな大袈裟なこと、返って逆効果でしょう? だから、さりげなく自然な形でして欲しいのよ』

「具体案でもあるのか?」

『お兄ちゃん、明日名古屋でイベントでしょう?』

 雅紀は眉を潜める。

 確かに明日は、名古屋で行われるチャリティートークイベントに参加する。百貨店の吹き抜けホールが会場で、イベント自体は無料で観覧できるが、現場に募金箱とネット配信される画面からワンクリック百円の募金が可能で、途上国や難民キャンプなどに衣類を送るための資金に使われるのだ。

『そのイベントに一般人装っていくから。イベント終わりに偶然見つけたみたいな感じでステージに呼んで。来てくれてすごく嬉しいって。そういう顔をして。そしてメディアの前で、俺の妹に手を出す奴は許さないって、そう言ってよ』

 なぜ名古屋なのか。

 ––そういうことかよ。 

 理由がわかって雅紀は冷静さを取り戻す。

 雅紀がいるから名古屋に来た。

 独りでは話を聞いてもらえないから尚人を巻き込んだ。

 尚人が自分から連絡を取れないように携帯を投げ捨て、そして逃げ出さないように睡眠薬で眠らせた。

 前回沙也加が尚人を学校前で待ち伏せし平手打ちを喰らわせた件は、あくまで尚人が売られた喧嘩だが、今回は違う。

 雅紀相手に沙也加は喧嘩をふっかけて来たのだ。

 しかも尚人を巻き込んで。

 ならば買ってやろうじゃないか。

 雅紀は腹を据える。

『そうしてくれたら、尚のいる場所、教える』

「それだけでいいんだな。お前をステージに呼んで、お前に手を出すなって、メディアの前でそう言えば、それでいいんだな」

『そう。それだけでいいの。難しい話じゃないでしょう?』

「わかった」

 雅紀は了解を示す。確かに難しい話ではない。事務所的にも問題ないだろう。

「明日のイベントは十一時からだ。遅れるなよ」

 ––この落とし前はきっちり付けさせてもらうからな。

 雅紀は心の中で付け足して、通話終了のボタンを押した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

銀波ノ雫 10

 翌日、アズラエル本社。統括マネージャー高倉真理の執務室で加々美蓮司はやや緊張の面持ちでその時を待っていた。

 昨夜、深夜0時を回った頃、高倉から連絡が入り、

「今、唐澤から連絡が入った」

 との前置から始まった電話は、

 うそ?

 マジで?

 それって本気?

 の驚きの連続だった。

「まさか弟を人質にとって兄に要求を飲ませるとは。––いやはや、何というか」

 さすが篠宮の血統?

 加々美はつい思わず、そんなことを思ってしまった。

 やることが過激で半端ない。

「俺はむしろ沙也加嬢の評価を上げたよ。MASAKI相手にここまでやるとは」

「そりゃ、お前はそうかもしれなけどさ。俺は胃が痛いぜ」

 加々美は嘆息する。

「尚人くん巻き込むなんて、完全に雅紀の逆鱗に触れてるだろう。今後絶対、うち(アズラエル)に尚人くん貸してくれないと思うぜ、俺は」

「そこは、まあ。……兄妹喧嘩。な、わけだし?」

 ––本当にそれで納まると思ってるのか?

 加々美がじろりと高倉を()め付けると、高倉はわずかに肩をすくめた。

 時間が迫って来て、高倉はPC画面を室内の大画面モニターに映し出す。雅紀が今日参加するトークイベントはネットでライブ配信されるのだ。

 昨日急遽名古屋に向かった唐澤も、イベント会場に向かうことになっている。

 モニターが会場を映し出す。まだイベント開始前のステージ上には開始時間を告げるパネルだけが置いてあり、TVではありえない、ネット生配信ならではの画面垂れ流し状態になっていた。

 その画面を見続けていると、イベント開始数分前、ようやく司会進行役のインタビュアーが登壇した。今回のイベントがチャリティーであることの説明や、ネットからの募金方法などの説明をひと通り終えて時間になると、

『さあ、ではいよいよ、本日のゲストをお呼びしましょう。カリスマモデルMASAKIさんです。みなさま、拍手でお迎えください!』

 高らかにMASAKIを呼ぶ。

 と同時にバックステージからMASAKIが登場し、周囲はものすごい歓声に包まれた。

「……いや、すごいな」

 加々美はモニター越しに響いて来る歓声の凄さに素直に驚く。もはや悲鳴に近い。それが五分以上は続いた。

 進行役のインタビュアーも、いつまでも収まらない歓声にインタビューを始めようにも始められず、途中から少々苦笑気味になっていた。

 イベント中、雅紀は終始笑顔だった。穏やかな表情でインタビュアーの質問に答えていく。主にファッションショーのステージに関する内容で、本番に臨むまでの気持ちの持って行き方や、裏舞台での様子などについて軽快に答えていた。

 ––演技なんてできないって言ってたくせに、随分な役者じゃねぇかよ。

 加々美は思う。

 溺愛する弟を人質に取られているなど誰も思うまい。

 いや、そもそも、妹が弟を人質にとって兄に要求を突きつけるなど、そんなことがあるなど世間の誰も思いもしないだろうが。

 イベント時間は三十分だ。そろそろ終わる。

 進行役も終わりの時間が近づいて来ていることを口にする。

「そろそろ、だよな?」

 唐澤経由の話では、イベント終了間際、観客に紛れ込んでいた沙也加に雅紀が気づき、妹が来てくれていたと歓迎ムードで壇上にあげ、近頃事実と異なる内容の報道がなされて兄として(いきどお)っていること、妹に手を出す奴は許さない、と言った内容のことをMASAKIが言うことになっている。

 あれだけ世間を騒がせ、美族のDNAと世間に浸透した篠宮兄妹初のツーショットだ。一人ずつの画像はすでに公表されているとはいえ、二人並べば当然、世間の話題をさらうこと間違い無い。おそらくはすぐさま、妹をかばうMASAKIの発言もろとも、ネットで拡散するだろう。

 そしてそれは、イベント主催者が気を悪くする話ではなく、スポンサー関係に迷惑をかけるわけでも無い。沙也加の一発逆転を狙ったメディア戦略は、いいところに目をつけた、としか言いようがなかった。

『残念ながら、時間となってしまいました』

 進行役が終了を告げる。

 それを合図に、MASAKIが軽く腰掛けていたハイスツールから立ち上がった。

『MASAKIさん、お忙しい中、今日は本当にありがとうございました!』

 その言葉とともにMASAKIは観客席に笑顔を向け、––––そしてそのまま、バックステージに姿を消した。

 ––あれ?

 加々美は、モニターの前で固まる。

 壇上に一人残った進行役は、今一度募金のお願いをし、観覧者たちに感謝とイベント終了を伝え、そしてネット配信は何事もなく終了した。その後モニターに映し出されたのは、映画のエンドロールのようにしてネット画面から募金する方法の告知のみだ。

「どういうことだ?」

 説明を求めるように高倉を見やると、高倉はわずかに肩をすくめた。

「さあ?」

「予定が変わったってことか?」

 それとも、沙也加の要求を跳ねのけた?

 いや、あの雅紀が尚人を見捨てることだけは絶対にない。

 それだけは確実だ。

 ただ、当初の予定どおりにイベントは終了した。

 その事実だけがあった。

 

 

 

 ––うそ、なんで。

 雅紀の消えたバックステージを見遣って、沙也加は呆然とした。

 呼ばれなかった。

 それが信じられなかった。

 ––尚のこと、見捨てたってこと?

 それとも、見捨てられたのは自分なのか。

 観客は、ざわめきを残しつつも、ゆっくりと引いていく。ひょっとすると再登壇のサプライズがあるかも、と粘っていた観客らも、十分もすれば、どうやら本当にイベントは終了らしいと去っていく。

 その中に沙也加は、ぽつんと取り残されていた。

 意味がわからない。

 状況が飲み込めない。

 何が起きたのか、さっぱり理解できない。

 沙也加はただ憮然と立ちすくむ。

 ここまできて雅紀に無視されるなど、思ってもいなかった。

 あり得ない。

 あり得ない。

 あり得ない!

 足が縫い付けられてしまったかのように沙也加はその場から一歩も動けない。

 固まったまま空っぽのステージをただただ見つめる。

 たった今まで、雅紀のいたステージ。

 目と鼻の先で、雅紀が微笑んでいたステージ。

 そのステージ上の雅紀を見つめながら、あの視線がいつ自分を捉えてくれるのかと、心(たかぶ)らせていた待っていたのに。

 あの落ち着いた声音にほんの少しの甘さを加えて、いつ自分の名を呼んでくれるのだろうと、はやる気持ちを(おさ)えて待っていたのに。

 雅紀の視線は最後まで沙也加に向けられることはなかった。

 雅紀の笑顔が沙也加に向けられることはなかった。

 雅紀が沙也加の名を呼ぶことはなかった。

 それはまるで昨日の約束など、なかったかのように。昨日の電話でのやりとりが、沙也加ひとりの妄想だったのではないかと錯覚してしまうほどに。雅紀は最後までMASAKIだった。 

 ただただ呆然と、沙也加はたたずむ。

 そんな沙也加に、

「沙也加さん」

 背後から静かな声がかかった。

 名を呼ばれ、沙也加ははっと我に返る。

 名古屋に知り合いなんていない。

 そんなことを思いつつ、ぎくしゃくと振り返ると、視線の先にいたのはマネージャーの唐澤だった。

 ––どういうことよ。

 沙也加は、反射的に眉を潜めた。

 なぜ、唐澤がここにいるのか。

 どうしてここにいると、わかったのか。

 沙也加は軽く混乱する。

 唐澤がここにいて、雅紀が自分を呼ばなかった––––その理由。

「尚人さんは、私が保護しました。今頃控室で、MASAKIさんと再会しているはずです」

「どういうことよ」

 思わず口をついて出た、沙也加の声が震えた。

 どうしてここで唐澤が絡んでくるのか。唐澤がどうして尚人の居場所を突き止められたのか。

 スマートフォンは、雅紀と会話したときだけ繋いだ。

 パソコン関係に強くない沙也加とって、どういうふうに位置情報がキャッチされるのかわからなかったからだ。とにかく電源を入れていると居場所がバレる。そう思っていた。

「沙也加さんがMASAKIさんに送った写真に位置情報がついたままでした。MASAKIさんに写真を転送してもらって、私がPCで確認したんです」

 唐澤は淡々と告げる。

 沙也加は驚きに目を見張った。

 写真から位置情報がわかるなんて知らなかった。

 では、むしろ尚人を眠らせないで、電話口に出した方が良かったのか。

 沙也加は愕然と震えた。

 せっかくの計画が無駄になってしまった。

 あれだけ必死に考えて、意を決して実行したのに––

 途中まで、うまくいっていたのに!

「帰りましょう、沙也加さん。マスコミ対策の方は私がきちんとしますから。……沙也加さんの希望に添える形に持っていける方法を考えますから」

 その言葉に沙也加は、唐澤が何もかも知っているのだと気づく。

 雅紀が何もかも唐澤に話したのだと。

 そのことに気づく。

 雅紀のその行為が、他事務所のモデルへの苦情を担当マネージャーに言うかのような、そんな行為に思えて。雅紀ではなくMASAKIとして突き放されたような気がして。沙也加の体から血の気が引いた。

 そんな沙也加を前に、いつも淡々とした唐澤が、どこか寂しげに笑う。

「至らないマネージャーで本当にすみません。でも、もう少しだけ頑張らせてください。沙也加さんを一流のモデルに育て上げるのが私の夢なんですから。だから、もう少しだけ、一緒に。……一緒に、頑張ってくれませんか」

 その言葉に、沙也加はくしゃりと顔を(ゆが)めた。

 欲しくて欲しくてたまらなかった言葉を、雅紀にこそ言ってもらいたかった言葉を、他人に言われたその寂しさが、どうしようもなかった。

 雅紀とはこれで本当に終わったのだ。

 沙也加の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

 

 

 * * *

 

 

 イベントが終了し、雅紀はイベントホール裏に設けられた専用通路を通って控室に戻った。

「ナオ!」

 雅紀は、控室にいた尚人を抱きしめる。

 実質会わなかったのはたった一日なのに、数ヶ月ぶりにようやく再会できたような気持ちだった。

「まーちゃん、ごめんね。心配かけたみたいで」

 腕の中で尚人が小さく呟く。

 雅紀は尚人の頭の天辺にキスをして、尚人の匂いを思い切り嗅ぐ。

 こんなとき、どこにでもマネージャーがついて来るような事務所でなくてよかったと思う。控室には、雅紀と尚人の二人きりだった。

 とにかく無事でよかった。

 こうして自分の元へ帰って来た。

 それだけで感無量だった。

 が、

「……なんかいつもと違う匂いする」

 雅紀は腕の中の尚人の匂いを嗅ぎまくって呟く。

 いつもすっきりグリーン系の匂いがするのに、今日は何とも甘い。

「ここに来る前にホテルでシャワー浴びたからかな」

 尚人が呟く。

「唐澤さんに、しっかり目を覚ますためにシャワー浴びたほうがいいって言われたから」

 見知らぬ男性に起こされてびっくりした、と言いつつも、状況説明に納得すると、初対面の相手の言葉にも素直に従うのが尚人らしいといえば尚人らしい。

 ––こんな甘い匂いさせてたら、今すぐ喰いたくなっちゃうだろう。

 雅紀は、尚人を抱きしめながら思う。

「よし、ナオ。さっさと帰ろう」

 帰ってナオを好きなだけ喰おう。

 思い切りキスをして、身体中舐めまわして、密口をしつこいほどに擦り上げて、声が枯れるほどに啼かせて、明日ベットから出られないほどに何度もいかせてやろう。

 もう、どこにも行かないように。

 尚人がずっと、自分の腕の中にいるように。

「仕事は、もう終わったの?」

「ああ」

 雅紀は尚人を腕の中から解放し、荷物を手早くまとめる。

 もはやさっさとここを退散し、一刻も早く新幹線に乗りたい。

 新幹線に乗る前に駅弁を買おう。いつもならそんなものに興味はないが、遠出したことがない尚人は喜ぶに違いない。

 雅紀はゆったりと微笑む。

「あ、そうだ。これ、ナオに返しとかないとな」

 雅紀はカバンから尚人の携帯電話を取り出す。それを見て、尚人は溢れんばかりに目を見開いた。

「まーちゃん。もしかして、拾って来てくれたの?」

「ああ。ナオと連絡取るための大事な電話だからな」

 まあ、見つからなければ買い直せばいいだけなのだが。昨日は、携帯電話の場所に尚人が一緒にいるかどうかも確認する必要があったのだ。

「ごめんね、まーちゃん。携帯、落としちゃって」

 雅紀はくすりと笑う。どう考えてもあの状況は『落とした』ではないが、そういう言い方をするのが尚人らしかった。

 ––それとも、見つからなかったことにしてスマートフォンに買い直したほうが良かったかな。

 ちらりとそんなことが脳裏をよぎったが、まあ、いい。瞳をうるませながら感動している尚人を見れば、こちらのほうが正解だ。

 雅紀は尚人と仲良く並んで通用口へ向かうと、イベント関係者に見送られながら待っていたタクシーに乗り込む。その後部座席。雅紀が尚人の手をそっと握ると、照れたように小さく笑った尚人がたまらなく可愛かった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

銀波ノ雫 エピローグ

 隠れ家的和食ダイニング『真砂』。加々美と食事をするときにはすっかり定番になっているこの店に、雅紀は約束の時間より少し早めに到着した。

 先日の騒動の一件で、加々美にも随分迷惑と心配をかけた。そのお詫びを兼ねて今日は雅紀の方から声をかけたのだ。なので、自分が遅れるわけには行かない。それで早めに来たのだが……

「よう、おつかれさん」

 通されたいつもの個室には、既に加々美の姿があった。

 雅紀は軽く驚いて、慌てて居住まいを正す。

「すみません、加々美さん。こちらから声をかけたのに、お待たせしてしまって」

「なあに。俺の方が早く着きすぎたのさ。なにせまだ、時間前だ」

 加々美は腕時計を見せて指先で軽く叩く。

 ハイブランドのプレミアもので、人によってはこれ見よがし感が出まくるのだが、加々美の腕にあると似合いすぎていてかっこいい。

「先日は本当にご迷惑とご心配をおかけしました」

 雅紀は座敷に上がって改めてきっちりと腰を折る。加々美は艶っぽく笑った。

「とりあえず、乾杯しようぜ」

 そう言って、加々美はビールを頼む。雅紀が誘おうとも、場の主導権があるのはいつだって加々美だ。そのことに異存はない。

「納まるべきところに納まったってことで、いいんだろう?」

 運ばれて来たビールで乾杯し、ひと口流し込んだところで、加々美がほんの少し上目遣いに雅紀を見る。雅紀はわずかに口元を歪めた。

「その納まるべきところがどこなのかはわかりませんけど。俺的には、ナオが無事だったんで、それだけでいいです」

「ま、そりゃ、そうだな」

「唐澤さんから報告受けたんでしょう?」

「まあな。中途半端に首突っ込んだ以上、気になるからな」

 それは当然、そうだろう。

「俺もあの日唐澤さんがいろいろ動いてくれて、とても助かりました」

「写真から尚人くんの居場所、割り出したんだってな」

「そうなんです」

 雅紀は頷く。

 まさか雅紀も、スマートフォンで撮影した写真に位置情報がくっついているなんて知らなかった。

 あの日、沙也加との電話が終わって、雅紀はすぐに唐澤に電話を入れた。

 その会話の中で、唐澤に指摘されたのだ。

「ひょっとすると、写真に位置情報が記載された状態のままかもしれません。よければ転送してもらえませんか。PC持って来てるんで、すぐ確認できます」

 尚人の寝顔を他人に見せるのに抵抗がなかったわけではないが、背に腹は変えられなかった。運転交代要因としてアシスタントと一緒に移動中だと言う唐澤からはすぐに返答があった。

「位置情報ついてました。地図を送ります」

 それで確認すると、思いの外、尚人が近くのホテルにいることが分かったのだ。

 本当はすぐにでも迎えに行きたかった。

 沙也加に飲まされたらしい睡眠薬の影響も心配だった。

 特に母が睡眠薬の飲む量を間違えて死んでいるだけに、杞憂と流すことができなかったのだ。

 それでも、唐澤と話し合って、尚人に一番影響のでない方法で尚人を保護するには、沙也加がイベント会場に出発したのち、尚人が一人になったタイミングを待つのが一番だろうと言うことになった。

 もちろん、そのタイミングでは雅紀は迎えに行けない。それで唐澤が尚人を迎えに行ったのだ。そして唐澤は、沙也加のマネージャーという立場をフル活用し、ホテル側から部屋の鍵を借りるのも難なくやってしまったのである。あの日唐澤が名古屋へ来てくれていなければ、もう少しややこしい状態になっていたのは間違いない。

「唐澤さんには本当にいろいろ助けてもらって。電話ではお礼を言ったんですが、いつか改めてお礼をさせてください」

「いや、それには及ばないさ。唐澤の方も、担当モデルのことでお前に迷惑かけたって恐縮しきりだったからな」

 加々美はそう言って唐澤の話を思い出す。

 アズラエル本社、高倉真理の執務室。名古屋から戻って来た唐澤は、当然、上司である高倉に報告にやって来たのだが、いろいろ気になる加々美もその場に同席させてもらった。それで、写真データから位置情報を掴んだことや、イベント前に尚人を保護して雅紀にも連絡したこと。イベント終了後に沙也加と接触し、唐澤の運転で沙也加を東京まで連れ帰ったことなどを知ったのである。

 高倉は篠宮兄妹のツーショットが実現せずに残念な様子だったが、今後の雅紀や尚人との関係を考えれば、ベストな終わり方をしたのではないかというのが加々美の結論だ。

 何しろ世間的には、何もなかった、のだから。

 もともとこじれているらしい雅紀と沙也加の関係は、今回の件で決定的なものになっただろうが、沙也加にとってはむしろその方がいいだろうと加々美は思う。中途半端な期待など、邪魔なだけだ。

 それよりも加々美は、報告が終わって、ほんの少し雑談タイムのような状態になった時に唐澤がため息混じりに呟いたことの方が気になってしょうがない。

「それにしても、社内で加々美さんの秘蔵っ子って噂になっていた彼が、まさかMASAKIさんの弟だったとは、びっくりしましたよ」

 位置情報を取得するために雅紀に送ってもらった写真を見て、唐澤は気づいたらしい。

「加々美さんが社内で連れ回しているところをちらりと見た時に、随分雰囲気のある子だなと思っていたんですが。……寝起きの色っぽさは、本当ヤバかったです」

 は?

 加々美は唐澤の呟きに耳を疑った。

 色っぽいって、尚人くんが?

「起きている時は、爽やかさと言うか、涼やかさの方が前面に出て、イノセントな雰囲気ですけど」

「寝起きは全く違った?」

 加々美が興味津々にほんの少し前のめりになると、唐澤は至極真面目な顔つきでゆっくりとうなずいた。

「無垢な色っぽさってあるんですね。あれはある意味衝撃でした」

 無垢な色っぽさ?

 加々美は想像がつかなくて唸る。しかもそれがよく知る尚人であれば余計に。

 尚人と色っぽさも結びつかなければ、無垢と色っぽさも結びつかない。

 その後唐澤にいろいろ説明させたが、最終的には『あれは実際目にしないとわからない』と言われてしまった。

 加々美はそれが気になってしょうがないのだが、まさか雅紀に面と向かって

「尚人くんの寝起きって、色っぽい?」

 なんて聞けるはずがない。

 恐らくそんなこと口にしたら、雅紀に視線で殺される。

 どういう目で尚人を見ているんだと。

 ひょっとすると、尚人に二度と会わせてもらえないかもしれない。

「にしても、お前のトークイベント、一体どんなことになるんだとドキドキしながら見てたのにさ。まさか本番前に決着ついてたなんて。正直教えて欲しかったぜ」

「すみません」

 雅紀は謝る。しかしまさか、加々美がライブで配信を見ていたなんて思いもしなかった、と言うのが本音だ。

「唐澤さんが実際ナオと接触できるまで、どうなるか読めないところもあって。それで唐澤さんには全部終わるまで、ナオの位置情報掴んでいることまでは漏らさないで欲しいとお願いしてたんです」

「まあ、それもそうだよな。尚人くんの安全確保が第一だし」

 加々美の呟きに、雅紀もその通りと頷く。

 本当に無事で良かった。

 それに尽きる。

 ただそれでも、なぜ尚人が沙也加の呼び出しに素直に応じたのか、それは疑問だった。前回のあの平手打ち事件があって、尚人の中でも沙也加は、家族から切り離した存在になっていたはずだったからだ。

 話があるなら電話で済む。

 そのはずだからだ。

 それで、あの日の帰路の新幹線内。ほとんど乗客のいないグリーン車の座席に着いて、雅紀は聞いたのだ。

「ナオ、沙也加に何て言って呼び出されたんだ?」

 すると尚人は少し気まずそうな顔をして、ぽつりぽつりと口にした。

「……聞きたいことがあるから、今から出て来れるって。そんな感じで」

 それだけで?

「最初は裕太に用事なのかなって思ったんだけど、俺に話があるっていうから。 ……ひょっとして、ピアノのことかなって、思ったんだ」

 ピアノ?

 雅紀は全く話が見えずに尚人を見つめる。

「ちょっと前に、沙也姉、家にあるピアノ引き取りたいって裕太に電話して来てて」

 なんだその話は?

 聞いてない。

 全くの初耳の話に雅紀は眉を潜めた。

「もう一度ピアノが弾きたくなったからとか、裕太に言ったみたいなんだけど。その時裕太、家のピアノが欲しいなら雅紀兄さんに直接言えって言ったみたいで」

 そんな連絡はもらってない。

 ま、当然か。沙也加がそんなことで、連絡して来るとは思えない。

 ––にしても、ピアノねぇ。

 雅紀は口の端で笑う。

 今さら感が否めない。

 沙也加がピアノをしていたのは、慶輔(父親)が家を出ていくまでだ。それからみるみる家計が困窮し、ピアノ教室など通える余裕は無くなったし、受験時期とも重なって、尚人と担っていた家事の合間に優先すべきはピアノよりも学業だった。

 あれから五年だ。

 また弾きたくなったからと言って練習を再開したところで、今さらそれが仕事になるわけではない。趣味の話だ。ならばもう、いつ出ていくかわからない祖父母宅にピアノを入れるというのは、少々やりすぎの話だろう。ピアノを入れるためにはそれなりに床の補強がいる。防音対策のリフォームもいる。そのためにまるまる一部屋潰さなければならない。金がかかる割に、沙也加が家を出て行ってしまえば、どうしようもないお荷物だ。

 ––でもま、沙也加が可愛い、じーちゃんとばーちゃんなら、それでいいって言ったんだろうな。

 案の定、

「そのことで、ばーちゃんからも連絡があったみたいで」

 尚人が呟く。

「でも裕太。それも無視したみたいで。……だから、今度は俺に、その話するつもりなのかなって」

 なるほど。

 雅紀は納得する。

 ついに沙也加が直談判に動いた。

 尚人はそう思った、ということなのだろう。

「で、図書館に着いたら、沙也姉に、どこにマスコミいるかわからないから車に乗れって言われて。車の中で話をするのかなって思ったら、急に運転し出して。……で、そのまま高速乗って」

 気付いたら名古屋?

 尚人の話を聞いて、雅紀は溜息をつく。

 信じられないほどの狡猾(こうかつ)さだ。

 よほど用意周到に計画を練ったとしか思えない。

「ごめんね、まーちゃん。沙也姉に呼び出されたこと、まーちゃんが仕事から帰ってきてから話せばいいって思って。……まさか、こんな大事になるなんて思いもしなくて」

 尚人はしゅんとうなだれる。

 その姿が可愛すぎて、雅紀は抱きしめたくってしかたなかったが、乗客が少ないとはいえ今は新幹線車内で、雅紀はぐっと我慢した。

 そもそも、姉が弟を拉致して人質に取るなんて、常識的にあり得ない。

 まあ、尚人は今回の騒動を、そこまで認識はしていないのだが。

 あくまで、沙也加に振り回されて一時行方不明状態になり、それで裕太と雅紀が心配して捜していた。としか思っていない。

 それでいい、と雅紀は思う。

 尚人を悩ませることにしかならない事実を、わざわざ知らせる必要などない。

 尚人だって今後、沙也加と二人きりで会おうとは思わないはずだ。

 尚人が無事だった。

 だから、今回は見逃そうと思う。

 しかし二度はない。

 同じことを繰り返すなら容赦はしない。

 今回は唐澤に随分助けられた。

 だから見逃すのだ。

 ––出来るマネージャーを付けてもらったことに感謝するんだな。

 それが偽らざる雅紀の本音だった。

 一歩違っていたら、沙也加はいずれ、MASAKIの妹であることを呪わしく思う日を迎えることになっていただろう。

 そのくらい雅紀のはらわたは煮えくり返っていたのだ。

「で、話は変わるが。今、ネットでかなり話題になっている『リアル・コスプレ選手権』。お前すごいことになってるみたいだな」

 それを皮切りに、加々美との話題はいつもどおりの仕事がらみの話に変わる。

 雅紀もすっかり気持ちを切り替えて、加々美との食事を楽しむ。

 が、その途中のふとした瞬間、

 ––あのね、まーちゃん。今回のことはいろんな人に迷惑かけちゃったし、結局沙也姉が何したかったのか最後までわかんなかったけど。……でも、途中で立ち寄った公園の桜がすごくきれいでね。ほんのちょっと、来て良かったかなって、思ったんだ。

 あの日、尚人が帰りの新幹線の車内で、駅弁を食べている最中に、ちょっぴり上目遣いで言った言葉が急に胸をかすめた。

 ––遠くに見える海に沈む夕日と桜の対比がとってもきれいで。……いつか、まーちゃんと一緒に見れたらいいなって。

 その時の、尚人のはにかんだ笑顔が脳裏に浮かぶ。

 雅紀の頬は、知らずゆるんだ。

 よし、今度は尚人と一緒に遠くへ出かけよう。

 尚人が行ったことがない所へ連れて行って、尚人が見たことがない物を見せてやろう。尚人はこれから受験生だから、しばらくは無理かもしれないが、一年後には高校を卒業する。来年の今頃は、たっぷり時間があるはずだ。

「ね、加々美さん。加々美さんがお勧めするお花見スポットってどこですか?」

 雅紀が問いかけると、加々美は一瞬きょとんとした顔をした後、盛大なため息をついた。

「お前。俺の話、全然聞いてないだろう」

 その加々美の様子が何だかおかしてくて雅紀は口の端で笑う。加々美はわざとらしいため息をつきつつも、とっておきだという場所を雅紀に教えてくれたのであった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一陣ノ風 1

「ナオが全国大会に出場する⁉︎」

 雅紀は、尚人の言葉に驚いて思わず声を上げた。

 隣に座る尚人は、ナスの煮浸しをパクリと口に放り込んでから、可愛らしくこくりと頷く。

「うん。先週の日曜に地区大会があってね。それで優勝して、県代表に選ばれたんだ」

「……」

 雅紀は少々唖然と尚人を見やる。

 部活もやりたいことも我慢して、家と学校を往復するだけの毎日。そんな尚人が三年生に進級してすぐに弁論部の部員に頼まれて臨時部員になったことは知っていた。

 その時の尚人の説明によると、尚人の通う翔南高校には弁論部なるものがあり、伝統ある公立の進学校らしく高校生弁論大会ではなかなかの強豪校だという。

 しかし、その弁論部の部員の中で有志を募り、ここ数年チャレンジしているという即興英語ディベート大会の方ではなかなか成績が振るわず苦戦続き。というのも、国際派を掲げる私立の方が英語に強い、というか、そもそも英語で育って来たような帰国子女が出場してくるため、どうしても即興という部分での英語力で負けてしまうらしい。それでも昨年は地区大会ベスト8の好成績を修めたとかで、今年はそれ以上の成績を狙っていた。らしいのだが––

「去年出場したメンバーの一人が三年生で、その人が卒業した後に一緒に参加してくれる人がいないんだって」

 即興英語ディベート大会は三人ひとチーム。メンバーが揃わなければ、出場すらできない。それで昨年出場組のメンバー二人が『カップルガイド』騒動で「英語ができる」と認識された尚人をスカウトしに来たようなのだ。

「毎日放課後英会話の練習してるみたいなんだけど、それは免除してもらって。ディベートのコツ? みたいなものを習得するために、週一で来てくれればいいからっていうから」

 尚人はOKした。その話は聞いていた。

 しかし、

「優勝したんだ」

「うん。みんなすっごく喜んでた」

 それは、そうだろう。今までの最高成績がベスト8だったのに、いきなりの優勝。全国大会出場だ。

 全然分野は違うが、雅紀だってインターハイ出場経験者。全国優勝した雅紀だが、だからといって地区大会が楽勝だったわけではないし、地区大会で負ければ当然全国には進めない緊張感もあった。県内には力の拮抗したライバルもいて、一試合一試合が真剣勝負で、優勝を決めた瞬間に感じた喜びは今も鮮明な思い出だ。

「……でね。全国大会は東京大学の講堂が会場で、1日目が予選で、勝ち進んだら二日目が決勝なんだけど。決勝進出が決まったらいろいろ作戦会議する必要があるからってことでホテルに泊り込むんだって。でも、決勝進出が決まってからホテル捜すのは無理だから、事前にホテルは押さえてて、予選で負けても次の日の決勝戦を見てから帰るらしいんだ」

 尚人がほんの少し視線を向けてポツリと言う。その横顔を見つめながら、雅紀は、尚人が何を言いたいのかわかった気がした。

 おそらくは、全国大会に出場する交通費と宿泊代が個人負担だと言われたのだろう。優勝してもこのテンションの低さは、それが原因としか思えない。

 中学から剣道に明け暮れ、部活の強豪校に通っていた雅紀にとって、遠征費問題は身近な話だ。

 瀧芙高校では、そもそも全国大会出場を目標としていたから、部費や学校に払う諸経費に遠征費や大会参加費というものが最初から含まれていて、そこにOBなどからの寄付も加わり、いざ全国大会出場となったときの個人負担はかなり抑えられていたが、翔南高校の、しかも弁論部という文化系部活動ではそういった積み立てなどしていないのだろう。

 それはある意味、当然のような気もした。

「もし、出場するための交通費や宿泊代のことを気にしてるんなら、心配する必要なんかないからな。ナオが全国大会なんて晴れの舞台に出場するんだから、金ならいくらだって出してやるさ」

 それに、都内に行く交通費や一泊のホテル代などたかが知れている。というのは、仕事柄ホテル泊が当たり前になってしまった雅紀の感覚で、尚人にはとんでもない負担に感じるのだろう。なんと言っても、散々金の苦労をしてきたのだから、その辺りは仕方ない。

「それより、全国大会っていつあるんだ?」

「8月頭」

「へぇ。ちなみに観覧って可能?」

「うーん、その辺は確認してみないとわかんない。……けど、雅紀兄さん来たりしたら、みんなパニックになっちゃうんじゃない?」

「どうかな。全国大会って結構みんな自分のことに集中しているし、有名人見かけても、わーきゃーする余裕なんてないんじゃないかな」

「そんなもん?」

「ディベート大会なんて行ったことないからわかんないけど。大会なんだから、場の緊張感はたぶんどこも似たり寄ったりだろう」

 雅紀は、ディベート大会がどういったものかいまいちイメージできなかったが、何はともあれ、尚人が全国という舞台で頑張ろうというのだ。その姿を見れるものなら見たい。それは当然の思いだ。

「観覧可能だったら絶対行く。ナオが頑張ってるとこ、超見たい」

 雅紀が言うと、尚人は初めてほんの少し照れたようにはにかんだ。

 

 

 * * *

 

 

「おおー、すげーじゃん」

 校舎の屋上から吊り下げられた幔幕を見上げて中野が声を上げた。

 そこには

『高校生即興英語ディベート大会 全国大会初出場』

 の文字が踊っている。

 超進学校である翔南高校は、部活動もそれなりに頑張っているものの全国大会出場など滅多になく、よってこういった出場を祝う幔幕が校内を飾ることは珍しい。

 他の生徒たちも鮮やかに目に飛び込んでくる幔幕を見上げて、

「へぇ、全国大会に出場するんだ。すげー」

「即興英語って、やばくね」

「おれ、日本語でもディベート無理なのに」

 などとさざめきあっている。

「篠宮投入した効果絶大だよな」

 中野が山下を振り返ると、幔幕を見上げていた山下も神妙な顔でうなずいた。

 弁論部の部員が、即興英語ディベート大会に出場するため尚人を臨時部員としてスカウトしにきた話は、尚人から直接聞いていた。

 中野と山下は三年生のクラス編成でも尚人と一緒のクラスになれなかったし、代表委員でもなくなって定期的に顔を合わせる機会もなくなっていたが、昼休みなどに時々駄弁(だべ)りに行く。その時に尚人にそういう話を聞いたのだ。

「近頃は裕太が随分家のこと手伝ってくれるようになったから、週一くらいの活動なら大丈夫かなって思うんだ」

 スカウト話を受けるかどうかという時、尚人はそう言って結構前向きだった。

 修学旅行の時に尚人の英語力を見せつけられていた中野や山下は、

「篠宮参加したら、うちの学校、優勝しちゃうんじゃね?」

 と言い合っていたのだが、まさか本当に優勝するとは、である。

「さすが、篠宮だよなぁ」

 そもそも尚人の言葉には、妙な説得力というか、つい聞き入れてしまう力がある。強いリーダーシップを発揮するわけではないのに、尚人の言葉によって、それぞれが、それぞれの落とし所に納まり、クラスが纏まっていく。そんな感じだ。困りごとがあると誰もが尚人を頼る。尚人は決して八方美人ではないし、無理なことは無理ときっぱり言いもするが、それでもいい加減に聞き流さないからか、尚人に相談することで解決への糸口が掴める不思議さがある。

 ディベート大会は、英語の「表現力」と、主張の「内容」の二つの要素でジャッジされ、どちらのチームにより「説得力」があったかということで勝敗が決まるというので、尚人はまさに適任。弁論部の連中もいいところに目をつけたとしか言いようがない。

「行けるもんなら、応援、行きたいよな」

 しかし、全国大会があるという8月頭は、翔南高校ではまだ夏季課外中だ。出場メンバーは当然公欠扱いだろうが、応援のための欠席は認められないだろう。

 二人は軽くため息を吐きながら、それぞれの教室へと向かったのだった。

 

 

 

 

 終礼後、教室内が一瞬のざわめきに満ちて、部活へ行く者、帰宅する者、それぞれ別れて教室を出ていく。桜坂も配られたばかりのプリントを仕舞って鞄を手にすると、駐輪場へ向かうべく教室を出た。

 桜坂は空手をやっているが、学校の部活動ではなく道場に通っている。そのため授業が終わればすぐに帰路に着く帰宅部だ。先に教室を出た尚人も同じで、自分と同じ昇降口へ向かうものと疑っていなかった桜坂は、階段を降りずに廊下をまっすぐ進んだ尚人を不思議に思って声を掛けた。

「篠宮。帰らないのか?」

 その声に尚人が立ち止まって振り返る。桜坂と視線があって、微かに微笑んだ。

「今日は部活して帰るから」

「弁論部の活動は週一だったんじゃないのか?」

 それは確か火曜だったはずだ。それで昨日は、尚人が昇降口とは違う方へ向かっているのを見ても不思議に思わなかった。

「うん。そうだったんだけど、全国大会にむけて杉本と清田がすっごくやる気出してるから。俺もできる限り参加しようと思って」

 尚人が言う。

「へぇ」

 尚人自身がそう決めたのなら、桜坂に文句はないが。

「家の方は、大丈夫なのか?」

「うん。裕太も、帰りの時間さえわかっていれば毎日でもいいって言ってくれたし」

「そうか」

 桜坂は呟く。

「大会、来月頭だっけ?」

「そう」

 ならば、ひと月切っている。大会までにもうひと成長できるか、という大事な時期だろう。まあ、空手とは違うのかもしれないが。

「無理しすぎんなよ」

 桜坂が言うと尚人はにっこりと笑った。

「うん。ありがとう、桜坂」

「じゃあな」

 桜坂は尚人と別れて階段を下りる。

 その背を見送って、尚人も弁論部の部室へと向かった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一陣ノ風 2

「じゃじゃーん。今日は、これを見ようと思います!」

 そう言って、英語ディベートメンバーのリーダーを務める杉本が鞄から取り出して見せたのは、一枚のDVDだった。

「それ、何?」

 反応したのは清田だ。

 この杉本と清田の二人が尚人をスカウトしにきた弁論部の部員で、二人は一年生の時から英語ディベート大会に参加しているという。

 二人が言うには、

「一年生の時は恥かきに行ったようなものだった」

 らしいが、それで本気モードに火がついた、というか負けず嫌いスイッチが入ったらしく、

「翔南の英語ってあのレベル」

 と笑った連中を見返すべく、英会話の猛特訓を積んできたらしい。現在二人とも英検二級まで取得済み。日常会話は全く問題ないレベルだ。高校最後の参加となる今年は三年間の集大成。念願だった地区大会で優勝し、レベルが地区大会とは段違いと噂の全国大会でも「せめて一勝」と燃えていた。

「過去の全国大会の決勝戦の映像です! 坂下先生が極秘ルートで入手してくださいました」

 杉本が何やら含みを持たせて二人に告げる。

 しかし、DVDのジャケットには、『第八回英語即興ディベート大会決勝戦』の文字と共に『開催事務局監修 3,000円』の記載があり、正規販売されていたものだというのがわかる。

「へぇ。そんなDVD販売してんだ」

 清田が呟くと、杉本は人差し指を立てて小さく振った。

「販売されてるからって簡単に手に入ると思わないでよね。これは会場で購入予約しないと買えないレアものなんだから」

「え、ってことは。坂下先生、全国大会見に行ったことあるんだ?」

 清田が驚いたように呟くと、杉本は軽く咳払いした。

「これは、借り物です」

「ああ」

 なるほど、と清田が納得したように頷く。

 だから『極秘ルート』なのか。

 坂下は、英語教師だ。弁論部には主顧問として国語科の教師がいるのだが、英語ディベート大会に出るようになってから副顧問として英語科の教師がつくようになった。英語ディベートの方の指導専門で、杉本と清田は弁論部の活動と並行して坂下に英語力を鍛えてもらってきたらしい。

 その坂下が、いろいろと知り合いを頼ってこのDVDを借りてきてくれた、というのが杉本の説明だった。

「ところで、どこで見るの?」

 尚人が素朴な疑問を口にする。弁論部が活動場所として使っている多目的学習室には、テレビもDVDデッキもない。

「パソコン室の使用許可をもらっています!」

 杉本が抜かりなしと言った顔で告げる。既に鍵も借りてきていたらしく、ポケットから取り出した鍵を二人の前に掲げた。

「じゃあ、さっさと移動しようぜ」

 清田が荷物を手に立ち上がる。常にハイテンションな杉本と冷静沈着な清田はいいコンビだ。

 三人は揃って教室を出てパソコン室へ向かった。

 

 

 

『只今より、第八回即興英語ディベート大会決勝戦を行います。チーム代表はくじを引いてください』

 会場アナウンスが響く。

 再生されたDVD画面を尚人は興味深く眺めていた。

 映し出された会場がどこかはわからない。地区大会があった体育館のような場所ではなく、劇場あるいは講堂のような、最初から観衆のための椅子が設置されている場所だ。今年の会場と同じ東大講堂かもしれない。その舞台上に各チームの代表がいて握手してジャンケンをする。くじをどちらが先に引くのか決めるためで、それは地区大会でも同じだった。

 くじは、提示された論題に対し「賛成」意見を述べるか「反対」意見を述べるか決めるためのものだ。

 尚人は今回弁論部の部員に誘われるまで、ディベートがどんなものかよくわかっていなかった。イメージ的には、賛成反対に分かれて自分たちの意見を声高に言い合う討論のようなものかと思っていたが、今回参加している英語即興ディベート大会には明確なルールがあった。

 最初に「賛成(肯定)」意見を述べるか「反対(否定)」意見を述べるかをくじ引きで決める。そして次に、発表された論題に対し与えられた時間内(おおよそ十五分)で、くじで決められた方の意見を述べるための理論構築をする。これは出場する三人全員で考えていい。そして、ディベートがスタートすると、まず論題の肯定側の第一スピーカが肯定する理由を述べる。その次に、否定側の第一スピーカが、肯定理由に対する反論を述べて、なぜ自分たちが否定するのか理由を述べる。肯定側の第二スピーカは、否定側の第一スピーカが述べた内容に反論し、自分たちがなぜ賛成なのか理由を補強する。否定側の第二スピーカは、その意見にさらなる反論を述べて、自分たちの意見を補強する。スピーカの順番は固定で、スピーチ時間は各三分。持ち時間を過ぎると強制終了させられる。途中質問も可能だが、スピーカ側が質問を拒否することも可能で、質問時間も持ち時間の三分に含まれる。質問を自分たちの意見補強にうまく使えるかどうか。あるいは、相手の意見に切り込む鋭い質問ができるかどうか、も評価の内だ。逆にスピーチを邪魔する意図だけで質問しているとジャッジに判断されるとマイナス評価になる。各チームの第二スピーカまでのスピーチが終了すると、三番手が、前二人の主張やそれまでのやり取りをまとめ、自分たちの意見の方が相手よりも勝っていた理由を述べる。この時、前二人が言ってもいないことを「自分たちの意見」として新たに付け加えることはできない。あくまでも遣り取りされた意見のまとめ役である。

 どの学校も大体この三番手に三人の中で一番英語力が低い者を置く、という話だった。なぜなら、まとめ役は、事前にある程度定型文を用意することが可能だからだ。最初の二人が何を言うかは理論構築する十五分の時間で一応わかっており、そこに、ディベート中に出てきたワードをうまく一つか二つ入れこめられれば、まとめ、になるからである。まとめのスピーチ中は質問受付もないから、突発的なことに対応する必要もない。

 しかし部顧問の坂下は、あえてこの三番手に尚人を置いた。

「篠宮くんの英語力とその発音の綺麗さは、うちの学校の武器になる」

「必殺の武器は、最後の最後まで取っとかないとね」

 というのが理由だった。

 尚人はよくわからなかったが、二年連続で大会に出場して、それなりに「ディベート独自の戦い方」の感覚を掴んでいるらしい杉本と清田は、顧問のその発言に大いに頷いて、それで尚人は地区大会では三番手を務めた。

 要は、みんなの話をよく聞いてまとめを言う役だ。それは、二年生でクラス代表委員を務め、行事毎にクラスの話し合いをやった時とほぼ同じ感覚だった。クラスの代表としてみんなの意見を最後にまとめる。言語が日本語か英語か違いがあった程度のことだ。Aさんの言うこともわかるけど、今回はこう言う理由でBさんの意見の方を採用しよう。みたいな感じだ。

 週一で部活動に参加し、ディベートのコツとやらを学んで、反論する時のポイントや質問のタイミングなどの練習もした尚人だったが、よってそれらを活用する場面はなかった。それが尚人的にほんの少し残念で、同時にホッとしたところでもある。杉本や清田のディベートを見ていて、自分にはああいう主張はできない、と思うことばかりだったからだ。一年生の時から弁論部に所属しディベート力を鍛えてきた二人はやはりさすがで、自分の意見を相手が納得するように伝えるってこういうことなんだ、と勉強になることばかりだった。

 発表された論題は『日本も飛び級制度を導入すべき』。尚人たちも練習で使用したことがある論題だ。

 賛成意見側のチームのスピーチが始まる。

〔なぜ年齢が同じというだけの理由で、日本国中で同じことを学ばなければいけないのでしょう〕

〔個々人の能力差に目を瞑り、同年齢であれば同じ学習能力を有するという決めつけは、ある意味国家の怠慢とさえ言えるのではないでしょうか〕

 賛成側が個人差を強調して肯定意見を述べる。それに対し反対側が反論する。

〔学校は学習だけを行う場所ではありません〕

〔出来る子が出来ない子に手を差し伸べること。そこから生まれる協和、友情も大切です〕

 質問の手が上がる。

〔友情は、同年代でしか育まれないという考えですか?〕

 なかなか鋭い質問だ。

 スピーカ側が質問の受け入れを表明する。

〔友情自体は、年齢差があっても生まれるでしょう。しかし、人はアイデンティティの形成期において、自他との差を自覚することも大切です。その自他との差は、同い年の子と比べて自分はどうか、というのが非常に重要と考えます〕

 否定側のスピーチが終わると、すかさず肯定側のスピーチが始まる。否定側が使った「アイデンティティの形成」というワードをうまいこと織り込んでいく。

 ディベートは、自分たちの理論形成の際に、相手側がどういった反論展開をしてくるか予想しつつ組み上げるのがポイントだ。こう言われたらこう返すというのをある程度予測して準備しておくためである。スピーチ時間は三分しかない。もたつけばジャッジの心証が悪い。かと言って論点外れの反論はもっと悪い。

 地区大会では、相手の意見などそっちのけで自分たちが用意した意見を述べるだけのチームがいくつか存在した。もちろんそんなチームはすぐに姿を消して行ったが、「思いもしなかった質問」には「質問拒否」で対応しているのが見え見えのチームも多かった。しかしDVD映像は、さすがは全国大会決勝というべきか。どちらのチームも出てきたワードに即座に対応してスピーチを展開している。質問内容がよほど見当違いでない限り受けるのが前提のようで、まさに即興の英語ディベートだ。

「全国大会やばすぎ!」

 最後まで見終わって杉本が叫ぶ。

 清田も、同調するように頷いた。

「スピーチ内容もだけど、使ってる英語がハイレベルすぎ」

「『ん?』ってなってる間に途中から置いて行かれちゃった」

 みんな早口すぎるー、と杉本が頬を膨らませる。

「けどさ、難しいっぽいこと言えばいいって感じにも受け取れたかな。俺、この論題で練習した時さ、篠宮が言った『飛び級できたら親の経済的負担が減る』って言葉に一番納得したもん」

「確かにー。公立の小中学校では授業料も教科書代も無償だけど、学校ってその他にもいろいろお金かかるもんね」

「篠宮の感想は?」

「おもしろかった」

「どのあたりが?」

「どちらのチームも、学校生活が充実してるんだろうなってのが透けて見えたところが」

 尚人が言うと、杉本が興味津々といった感じで身を乗り出した。

「どういうこと?」

「んー。ディベート内容の論点まとめると、賛成側の着目点が学習能力で、反対側の着目点が精神的成長だったでしょ? それって車の両輪みたいなもので、どちらかだけ一方ってわけには行かないと思うんだよね。多分それはどちらのチームも気づいていて、だから賛成チームは能力があるならどんどん先に学習を進めていくべきだという理論展開しつつも、他者との関わりを否定しない学習環境を想定してて、反対チームは学校は協同こそ大切としつつ個人の学びは塾で補填できるって理論展開してたわけだよね? それって結局、どちらのチームも学校って場所が大事って思ってて、そう思う彼らは学校が楽しいんだろうなぁって」

「……そんなこと考えながら見てたわけ?」

「うん」

 尚人が頷くと、杉本と清田は二人同時に息を吐き出した。

「いつも思うけどさ、篠宮って一人違う視点から物事見てるよな。達観とは違うけど俯瞰(ふかん)してるって感じ?」

「そうかな?」

「なんかわかるー」

 首を傾げた尚人に対し、杉本が頷いた。

「地区大会の決勝の時のまとめスピーチでさ、私、篠宮くん急に何言い出してんのー! ってびっくりしてたんだけど、最後にすっごく納得したもん」

「ああ、それ俺も」

「え、そうだったの?」

「でも、あれで勝ったと俺は思ってる」

「ジャッジも、ちょっとびっくりした顔してたもんね。そんな展開でくるか! みたいな」

「そうかな」

 尚人は首を(かし)げる。

 尚人的には奇をてらった訳でもなんでもない。

 地区大会決勝の論題は『未成年の携帯電話所持は法律で禁止すべきである』だった。「賛成」のくじを引いた翔南高校は、ゲームや動画視聴による長時間使用の問題。SNSを利用した犯罪に巻き込まれる危険性などを軸に「賛成」の理論展開をした。

 それに対し相手チームは、緊急時に家族と連絡が取れる利便性、GPSを利用した見守り機能など有益性を強調し、「賛成」側の理論は、使い方のルールを家庭や学校で学べば解決する問題であると反論した。

 そういった応酬のまとめとして尚人は自分の経験を踏まえてこう言ったのだ。

〔携帯電ははとても便利なものです。いつでも家族の声を聞くことができ、また電話に出られない状況の時もメールで用件を伝えることができます。いつでも連絡が取れるという安心感は携帯電話最大のメリットと言えます。動画視聴やSNSの問題は、利用制限をかけることで簡単に解決する問題であるようにも思います〕

 しかし、と尚人は続けた。

 地震などの大規模災害では回線がパンクして携帯電話は繋がりにくいこと。そういう時は公衆電話の方が有効だが、近頃の小学生の中には公衆電話の使い方を知らない子もいること。携帯電話を持たせているから「安心」というのは、ひょっとすると幻想かもしれないこと。

 尚人は、相手チームへの反論として清田が持ち出した「家族と連絡をとりたいなら公衆電話という方法だってある」という言葉を利用してまとめをしたのだ。

〔携帯電話は麻薬と一緒です。一度持てば手放せなくなります。それくらい便利なものです。だからこそ、子供たちに持たせるのは慎重にならなければなりません。しかし、持たせていた方が安心という考えがある限り、子供に携帯電話を持たせる親は後を絶たないでしょう。であるならば、法律で禁止するのもやむなしと言わざるを得ないのではないでしょうか〕

「もはや何言っても最後に篠宮くんがうまいことまとめてくれるって感じだよね」

「しかも、篠宮の落ち着いた声質と完璧な発音で言われると、なんかもう何言われても納得するって感じだし」

「さすがうちの最終兵器」

 それって、なんか違うくない?

 尚人は心の中で苦笑する。

 けれども、二人にそこまで言ってもらうと、仲間として認めてもらっている感じがして、尚人はくすぐったくもうれしかった。

 最初に二人から誘いを受けたとき、大会というものに今まで出たことがない尚人は、なんとなく尻込みする気持ちもあって、どうしようか迷ったのだ。しかし、元旦正月の通訳アルバイトの時のことを思い出して考えを改めた。自分に何ができるか。漠然とした悩みを抱えている中でチャレンジした初アルバイト。思いのほか楽しくて、誰かの役に立てたことが嬉しくて、自分にもできることがあると実感できて。これからは機会があればもっともっと、いろんなことにチャレンジしてみようと思ったのだ。

 その時のことを思い出して、自分を奮い立たせた。

 これは、前へ進んでいくための次なるステップだ、と。

 勝ち負けがある勝負事だから、頑張りが必ず結果に結びつくわけではないし、チーム戦となれば、自分一人よければという話でもない。

 けれどもチーム戦であるからこそ、尚人は挑戦してみようと思ったのだ。

 それは、夏休み中の職場体験やアズラエルでのアルバイトで、モデルの裏方で働いている人たちが、一つのチームのようにそれぞれの役割を果たしていることが印象的だったからだ。

 チームで一つの目標を目指す。

 その体験をする貴重な機会だと思った。

 もしこれが、まったくのど素人ばかり三人集まって大会に出場する、という話だったら尚人も断ったかもしれない。

 杉本や清田の真剣さに当てられたのも事実だ。

 尚人のイメージ的には、前線に出て奮闘している二人を後方支援している程度にすぎない。

 それでも三人ひとチーム。それぞれが、それぞれの役目を果たす必要がある。

 第一スピーカの杉本が元気いっぱいに自分たちの主張を展開し、第二スピーカの清田が冷静に受けて意見補強をする。それを受けて尚人がまとめる。

 このコンビネーションは地区大会を通して徐々に補強された。

「篠宮くんさえいれば、全国制覇だって夢じゃないかもね!」

 杉本がドヤ顔をすると

「お前はまず全国のスピードに慣れろよ」

 と清田が冷静に突っ込んだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一陣ノ風 3

「あ、杉本! ちょっと」

 廊下で声を掛けられて、杉本玻奈(はな)は足を止めて振り返った。

 放課後。これから部活に向かおうとしていたところで、声を掛けて来たのは隣のクラスの小坂井聡だった。

「おや、ぶちょーじゃん。どうしたの?」

 小坂井は、杉本が所属する弁論部の部長だ。それで杉本は愛称として小坂井をそう呼ぶ。部活以外の場面でもそう呼ばれることを最初は嫌がっていた小坂井だったが、近頃はすっかり慣れてしまったのか何の反応も示さない。

 それが杉本的に、ほんの少しだけ寂しかったりする。

「実は、一年生に二人、新規の入部希望者がいてさ」

「へえ。この時期に?」

 杉本はわずかに首を傾げた。

 翔南高校では部活動への入部は完全希望制で強制は一切ないが、それでも例年一年生の八割近くが、四月に行われる体験入部を経て、とりあえず何らかの部活動に入部する。高校生活を満喫したかったり、内申点を上げる目的だったりと、理由はそれぞれだが、運動部だけでなく文化系部活動も結構バラエティ豊かに揃っていることが入部率を上げている要素で、中学校まで勉強しかしてこなかったような生徒も入りやすいのだ。

 つまりは、一学期も終わろうというこの時期に、まだどこにも入部していないということは、理由は様々あるだろうが、最初から部活をする気がない生徒がほとんどで、逆に、翔南高校の超ハードな学習進度を体験し、勉強との両立ができないと感じ始めた一年生が部活を辞めだすのが今の時期だったりする。

 そういう裏事情もあって、この時期の新規入部希望者というのは本当に珍しいのだ。

「英語ディベートの方に興味があるっぽい。まあ、はっきり言えば、あの全国出場の幔幕効果だな」

 小坂井はそう言って、ほんの少し苦笑した。

 弁論部は県下の強豪校と言っても部員数が多いわけではない。翔南高校の中でも「うちにそんな部活あったんだ」程度の認識である。即興英語ディベートにチャレンジしているのはその数少ない弁論部の中のほんの数人で、今年は杉本と清田の二人しかいなかったぐらいだ。それで臨時部員として尚人を拝み倒したのである。

 ちなみに、メンバーが揃わなくて困っている杉本に

「篠宮に頼んでみたら?」

 と提案したのが小坂井だ。

 小坂井は二年の時尚人と同じクラスだった。そういう経緯がある。

「とりあえず英語ディベートの練習見学させて欲しいって言ってるからさ。杉本の方で面倒みてくれない?」

「見学するくらい別にいいけど」

 杉本は頷く。

 正直言うと、大会前で一年生の世話を焼いている暇はない。が、これまでの出場経験で得たノウハウをせっかくならば後輩に伝えたいという思いもある。興味があるならなおのこと、ここでガッチリ掴んで正部員になってもらいたい。

「じゃ、あとはよろしくな」

「了解!」

 杉本は軽快に答えて、部活動場所の多目的学習室へ向かった。

 普段少人数のコース別学習で使用している多目的学習室は、机と椅子があるだけの普通の教室だ。その教室の黒板側を英語ディベートチームが使うのが近頃の定番になっている。英語表現を確認するために板書することが度々あるためだ。

 弁論部の日頃の活動内容は、簡単に言うと『雑談』で、あるテーマに対してそれぞれの考えを言い合うことを中心とする。意外かもしれないが、雑談することで自分の意見を自覚するのだ。それに、他人の意見を聞くことで視野が広がる、ということも当然ある。雑談は思いの外、侮れない活動で、それに雑談する程度には、そのテーマに対して知識や関心がないといけない。日頃からいろんな話題に敏感に反応するアンテナも育っていく。

 英語ディベートチームのメンバーはその雑談を英語でする。英語で雑談ができるようになるまでが結構大変な努力が必要だったわけだが、現在のメンバーである杉本と清田と尚人の三人は、その最低ラインは軽く超えていた。

 メンバー三人が揃うと英語ディベートチームの雑談が始まる。

〔昨日のニュース見た? 飼い猫が産んだ子猫、育てられないからって、ゴミと一緒に捨ててた事件〕

〔見た。ひでー話だよな〕

 杉本の振った話題に清田が答える。

〔私最初は、死んだ子猫の埋葬場所に困ってゴミ袋に入れたのかと思ったんだけど。そうじゃなくて。生きたままゴミ袋に入れたって聞いて、びっくりしちゃった〕

〔ゴミ袋の中で子猫が動いているのを見つけた人が慌てて救出したみたいだけど。死んじゃったらしいね〕

〔いくら育てられなくてもさ。あの選択肢だけはないよね〕

〔今はインターネットがあるんだからさ。引き取り手なんて、捜そうと思えば見つかると思うんだよな〕

〔でも、絶対見つかるわけでもないよね? 育てられない事情があるのに、引き取り手が見つからないままに大きくなっちゃったら、どうしたらいいんだろう?〕

〔そもそもの話をすると、飼い猫が出産して困るなら、きちんと避妊手術をしておくべきだったし、そういう知識がないままに猫を飼うべきじゃなかったんだけど。生まれて来た命にはやっぱり責任を持つべきだと思う〕

〔俺もそう思う。生まれて来た命を自分の都合でゴミのように捨てるべきじゃない。自分で飼えないのなら、必死に里親捜しするべきだし。里親が見つからなかったら自分で飼うしかない、と俺は思う〕

〔二人は、何かペット飼っているの?〕

〔私はチワワ飼ってる。『そぼろ』って名前なんだ。ちょーかわいいんだよ〕

〔俺ん家にペットはいないけど。ずっと飼っている金魚ならいる。小学生の時夜市の金魚すくいで手に入れた金魚でさ。びっくりするくらい大きくなってんだぜ〕

〔えー、すごい。金魚すくいの金魚ってすぐ死んじゃうイメージだったけど。清田くんの育て方がうまいのかな〕

〔普通に育ててるだけだけど。毎日餌やって、時々水変えてやって〕

 話はそれから、小中学校時代にクラスや学校で飼育していた生き物の話やその世話の体験談などの話になり、顧問の坂下が登場したところで雑談は終了した。

 ここからは、坂下の示した論題について、賛成反対どちらの意見も出し合って話し合う、より実践的な活動だ。大切なのは、自分がどちら側なのか、なのではない。意義ある討論にするための、論題のポイントを絞り出していく作業だ。この時に重要なのは視座を固定しないこと。時に大人目線になる必要があり、時に子供目線になる必要がある。あるときは女性目線で考えてみる必要だってある。この作業が尚人は結構好きだった。

 今まで尚人は、あえていろんな事を考え過ぎないようにして来た。尚人を取り巻いていたのっぴきならない状況は、深く考えれば自分を雁字搦めにしかしなかったし、周囲の大人たちに散々好き勝手に言われるのにもうんざりしていた。耳を塞ぎ目を閉じ、自分の感情さえ奥底に押しやって、日常を淡々と過ごす。そうやって尚人は自分を守って来た。本当はそのことさえ無自覚だったが、今振り返ってみればそうなのだ。いろんなことが好転し始めた今だからこそ、それがようやく自覚できるようになっただけである。

 そして今、ディベート部の活動を通して知った、物事をいろんな視点から眺め考える、という行為によってまた見えてくるものがあるということに、尚人は面白さを感じていた。あえて違う視座から眺めてみる。そこから見えてくる世界。客観的に考え尽くした後に残る主観によって自分の考えがクリアになる感覚も心地よかった。

〔じゃあ、今日はここまでにしましょう〕

 坂下のその言葉を合図にその日の活動が終わる。

 直後杉本が、すぐさま立ち上がって、教室の隅っこに座って見学していた一年生に歩み寄った。

「見学してみてどうだった?」

「すごかったです! 先輩たち皆さん英語ペラペラで尊敬します!」

「えへ? そうかなー」

 一年生の感嘆の声に、杉本が照れたように笑う。

 その様子を、尚人は少し離れた席から横目に見た。

 今日の活動が始まる前、杉本に入部希望の一年生が見学すると聞かされた。少々緊張気味に現れた一年生二人は「皆川亜湖」と「渡辺香織」と自己紹介した。英語ディベートに興味があって、見学したいのだという。二人は同じクラスの友人同士ということだったが、皆川はキャピキャピ系、渡辺は大人しい系と随分と性格の違う二人だった。

「二人とも入部してくれるといいね」

 尚人は、今日の討論内容のまとめをしている清田に声をかける。ディベート活動で記録は大切な活動の一つ。毎日当番を決めて回しており、今日の当番が清田なのだ。もちろん英語で記録する。この活動も最初は四苦八苦。スペル間違いも大量にあったらしいが、今では「随分マシになった」と清田は言う。それでも、いまだ活動時間内に書き終わらない清田は、尚人が最初に記録当番をした時に、活動終了時に全て書き終わっていたことにものすごく感動していた。

「マジかよ、篠宮。って、筆記も綺麗だし! なんか記録ノートが一気に格式高くなった感じじゃんか」

 そんなに感動されるとは思っていなかった尚人がきょとんとすると、清田は苦笑して

「篠宮は何気に凄いことをさらっとやっちゃうって聞いてたけど、マジだな」

 と呟いた。

「……それ、誰情報?」

「もちろん、中野」

 清田と中野は今同じクラスだ。

「あー、まぁ。部員が増えるのはいいことだろうけど」

 清田は呟いてちらりと視線をあげる。

 女子三人で盛り上がっている。いや、正確に言うと、皆川と杉本の二人が盛り上がっている横で渡辺は聞き役に徹しているが。

「なべっち、実はすでに英検準二級持ってるんですよ。あ、なべっちってこの子のあだ名で、普段なべっちって呼んでるんです」

 皆川が親しげに渡辺の肩にポンと手を置く。しかしそれに対する渡辺はほぼ無反応で。そんな二人の温度差は見るからに明らかだ。

 押しの強い皆川に渡辺は引っ張られて来ただけ。そんな雰囲気ありありだが、それでも尚人は何となく、互いに気の合う部分のある二人なんだろうと思った。

「そうなんだ。じゃあ、私もそう呼んでいい?」

「え、あの。……はい」

「一年生ですでに準二級ってすごいね」

 杉本が気さくに声を掛ければ、渡辺は俯き加減のまま小さく返す。

「……いえ、そうでもないです。……日常会話、できませんし」

「英語って、使ってなんぼだからねー」

「あ、やっぱりそうなんですか?」

「うん。日常的に使ってないと言葉がとっさに出てこないもん」

「私も先輩方みたいに英語ペラペラになりたいです。でも、英語ってなかなか日常で使う場面ないですよね?」

「まあねぇ。道端で外国人見かけたからって、いきなり英語で話しかけても不審者だしね」

「そうなんですよねぇ。杉本先輩はどうやって喋れるようになったんですか?」

「私は完全に部活でだね。坂下先生に鍛えてもらったから」

「じゃあ、ディベート部に入れば、私も先輩方のようになれますか?」

「まあ、努力次第かな。あと、一応言っとくけど、うちディベート部じゃなくて弁論部だから。日本語弁論の方も活動あるからね。英会話の活動は即興英語ディベート大会に出るために、あくまで有志でやってるだけ。今は私と清田くんの二人だけだし」

「え、あの。じゃあ、篠宮先輩は?」

 尚人は一年生の口から自分の名前が出てきたことに少し驚いた。一年生は自己紹介したが、こちらは自己紹介しなかったからだ。まあ、昨年あれだけ世間を騒がせたのだから、あのMASAKIの弟である『篠宮』という名前の先輩が在籍しているということくらい新入生だって知っているかもしれないが。顔ばれしていることが少しだけ意外だった。

「即興英語ディベート大会に出場するのにメンバー足りなくて、拝み倒して参加してもらっている臨時部員」

「へぇ。そうだったんですね。……あの、じゃあ。篠宮先輩は、どうやって英語喋れるようになったんですか?」

 皆川の視線が尚人に向く。

 それで尚人は、皆川に視線を向けた。

「普通に、独学で」

 尚人が答えると、皆川は興味津々と言った感じで軽く身を乗り出した。

「独学って、どんな勉強の仕方ですか?」

「ひたすら、読んで、書いて、聞いて。あとは、洋画を字幕なしで見たり」

「へぇ。それで英語ペラペラになるんですね。先輩の英語が一番聞き取りやすかったです。すごく発音が綺麗で、耳馴染みがいいっていうか」

「あ、わかるー。篠宮くんの英語って全く癖がないもんね」

 また女子三人での会話に戻る。尚人はそのタイミングで、清田に「じゃあ、お先に」と声を掛けると教室を後にした。

 その背を皆川が視線で追っていたことなど、尚人は気づきもしなかった。

 

 

 * * *

 

 

 翌日、一年二組の教室。

 皆川が登校すると、すぐさま親友の伊藤朱音が駆け寄ってきた。

「アコ。あんた昨日、本当に弁論部見学に行ったの?」

 その表情も声音も好奇心丸出し。

 そんな伊藤に皆川は、自分の席に鞄を置いてにこりと笑う。

「当たり前じゃん。行くって言ったでしょ?」

「弁論部なんてかたそーな部活、あんた絶対向いてないじゃん」

「なんでよ」

 皆川はわずかに目を眇めて見せたが、伊藤のこういう歯に衣着せぬ物言いが実は結構好きだ。

「––って、まあ正直、弁論には興味ないけど。英語ペラペラ喋れるようになったらかっこいいじゃん。私、将来グローバルな仕事したいし」

「とか言ってさ。本当のところは、篠宮先輩狙いなわけでしょ?」

「まあね」

 皆川は笑う。

「一年と三年じゃ、同じ部活にでも入んないと接点ないし」

「で、昨日は篠宮先輩と接近できたわけ?」

 伊藤の問いかけに、皆川は思わせぶりにふふっと笑った。

「もちろん。少しだけど、話もしたし」

「おお! さすがアコ。やること早いね」

 伊藤が軽く目を見張る。

 そんな伊藤に皆川は、小さく肩をすくめた。

「まあ、ほんとに、ちょっとだけなんだけどね」

「それでもすごいよ。私がいつも感心するのはさ。アコのその、有言実行する行動力と、思い立ったが吉日とばかりの速攻性だよ。で、正式入部するの?」

「んー、そこはまだ保留かな。篠宮先輩、どうやら弁論部の正式部員じゃないらしいし」

 皆川はそう言いつつ、席に座って鞄から筆記用具と朝課外のテキストを取り出す。伊藤は、まだ来ていない皆川の前の席に座ってわずかに首を傾げた。

「それって、どういうこと?」

「即興英語ディベート大会に出るのにメンバーが足りなくて。それで、篠宮先輩にお願いして臨時部員になってもらってるんだって」

「へぇ。篠宮先輩って、そんなに英語できるんだ」

 伊藤が感心したように呟く。

 皆川は、昨日のことを思い出しながら頷いた。

「ペラペラだった。めっちゃ発音も綺麗だったし」

「じゃあ、あの噂って本当なのかな」

「噂って?」

「去年京都で、カップルガイドってのが話題になったの知ってる?」

「あー、聞いたことある。外国人観光客相手に歴女の説明を完璧に通訳する高校生カップルの正体が実は修学旅行中の翔南高校生だったって話でしょ?」

「そう、それ。最終的に学校ホームページにお騒がせしましたって謝罪文載せただけで該当生徒の名前は伏せられてたけど。それって篠宮先輩だったからだって。去年まで翔南にいた従姉妹に聞いたんだよね」

「へぇ。そうなんだ。それってやっぱり、先輩の名前出しちゃうと騒ぎになっちゃうから?」

「そうじゃない? それに、先輩のお兄さんがさ。ほら『うちの弟に手を出すな』って感じでマスコミ相手に超ガードしてたじゃん。だから、学校内でも篠宮先輩の名前を安易に出すのはまずいって雰囲気あったみたいだよ」

「へぇ」

 呟いたところで渡辺が教室に入ってくるのが見えて、皆川は手を振った。

「あ、なべっち。おはよー! 今日も一緒に部活見学行こうね」

 皆川の声に近くにいたクラスメイト数人がびっくりしたような顔をしたが、皆川はさっくり無視する。

 前にいた伊藤がだけが、怪訝な顔をして皆川を小突いた。

「あんた、渡辺さん誘ったの?」

「うん。やっぱ一人は無理じゃん。それになべっちなら、いかにも弁論部って感じだし?」

「そもそも、あんたいつから渡辺さんのこと、なべっちなんて呼んでんのよ」

 呆れたように呟く伊藤を横目に、

「そんなこと、どうでもいいじゃん」

 皆川は軽く流すと、小さく返事を返した渡辺に笑顔でひらひらと手を振った。

 

 

 皆川亜湖が篠宮尚人のことを知ったのは、自転車通学の男子高校生ばかりを狙った暴行事件の被害者の一人がカリスマモデルMASAKIの実弟だったとメディアが報じた時だ。名前は伏せられていたが、在籍する高校名は公表された。翔南高校に入学すればMASAKIの弟がいる、というのは皆川たちの学年で話題にならないはずがなかった。

「翔南に合格してMASAKIの弟と面識持ったらさ。MASAKIとも知り合いになっちゃうかもね」

 それは半分夢物語で、半分本気で。それが理由かどうかは定かではないが、その年の翔南高校の入学倍率は例年より若干高めだった。

 しかし、翔南高校は県下随一の進学校で、希望すれば入れるという高校ではない。皆川が翔南を受験した理由も、MASAKIの弟を見てみたい、というミーハーなものでは当然なく、将来は有名大学に進学してグローバルな仕事がしたいという夢実現のためである。

 しかし、入学すればどうしても『先輩にMASAKIの弟がいる』という事実を意識せずにはいられなかった。

 最初は、どの人が『篠宮尚人』なのか、確認できればいい程度の軽い興味だった。しかし学年が違えばその確認さえ簡単ではない。教室は知っていてもまさか直接訪ねるわけにはいかないし、靴箱前で待ち伏せは目立ちすぎる。それで皆川は、自転車通学の『篠宮尚人』を見つけるために、駐輪場が見える渡り廊下で朝夕の時間を過ごす生活をしばらく続けた。

 入学してすぐに仲良くなった伊藤は呆れて、二つ上にいたという従姉妹情報から

「MASAKIには似てないらしいよ」

 としきりに言っていたが、皆川にとっては別に、似てる似てないは問題ではなかった。

 単に見てみたい。

 それだけの興味なのだから。

 そうして観察を始めてすぐに、皆川は一人の気になる男子生徒を見つけた。

 見つけた、というより目が引きつけられた、と言う方が正しい。人混みの中にあっても、その男子生徒だけ妙に目を引いたからだ。

 最初はその理由がわからなかった。綺麗な顔はしていた。クラスの男子とは全然違う、品みたいなものもあった。一人の時もあれば、二人か三人と連れ立っている時もあって、そのどちらでも、その男子生徒の放つ雰囲気は変わらなかった。

 凛として、しなやか。

 華やかさはないが、独特な穏やかさがある。

 やがて、歩き方が綺麗なのだと気が付いた。

 今まで人の歩き方など気にしたことはなかったが、よくよく見れば皆、大小違いはあれど、前傾姿勢になっているか、体軸を揺らしながら歩いている。そのなかで、真っ直ぐ綺麗に歩くのだ。それが不自然ではなく、とても自然に。

 あの人は誰だろう。

 そう思っていたら知ったのだ。その人こそ『篠宮尚人』だということに。

 すごく衝撃だった。

 カリスマモデルMASAKIとは全然似ていない、というのは伊藤の言う通りだったが、世間にだだ漏れの悲惨な子供時代を感じさせるものが何もなかったからだ。

 気になる男子生徒が『篠宮尚人』と知る前は、

「絶対良家のおぼっちゃまだよね」

 と思っていたくらいだ。

 皆川亜湖が篠宮尚人に本当の意味で興味を持ったのはそれからだ。興味は恋心とリンクした。校舎を飾った幔幕の『高校生即興英語ディベート大会 全国大会初出場』のメンバーの一人が篠宮尚人と知った時、皆川はもうじっとしてはいられなくなったのである。まずは部活見学。と思いはしたものの、さすがに一人は心許ない。仲良しの伊藤はすでにバドミントン部に所属している。それでクラスで一番英語が得意そうな渡辺に声を掛けたのだ。渡辺は大人しい性格で、クラス内でも一人でいることが多い。昼休みはよく読書をしていて、一度渡辺が読んでいた本が気になって声を掛けたことがあるが、その程度の関係だ。しかし、皆川が部見学に誘うと意外にもすんなりOKした。ひょっとすると渡辺も、前々から英語ディベートに興味があったのかもしれない。ただ、皆川にとってそれはどうでもいいことだった。三年生しかいないメンバーの中で一年生が自分一人というのは辛い。その程度のことだ。ただ、昨日の感じでは、杉本はすごくフレンドリーで喋りやすかったし、弁論部全体で見れば一年生も数人いた。もう少し場に馴染めば渡辺がいなくても大丈夫だろう。それに、皆川の主目的は篠宮尚人と個人的に仲良くなることで、その目的さえ達成できれば部活にこだわる理由はない。

(あー、せめて帰る方向が一緒だったらなぁ)

 部活帰りに一緒に帰りませんかと声を掛けて、ぐっと一気に仲良くなれるのに。まさかの正門を出てすぐに真反対だ。それに、大会までひと月を切っている。篠宮尚人が大会に出るための臨時部員である以上、大会が終われば部活に顔を出すことはなくなるだろう。それでなくとも三年生は、最後の大会が終われば引退するのが普通だ。

(ぼんやりしてられないよね)

 皆川は心の中でそっと呟く。

 しかし、何かいい方法が思いつくわけでもなく、今のところは、一週間が期限という部見学に行くことくらいだ。

 朝課外の始まりを知らせるチャイムが鳴ったのは、その時だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一陣ノ風 4

 その日尚人が部活に顔を出すと、定位置に座る清田の横に一年生の姿があった。

 皆川亜湖だ。

 清田が机に広げている記録ノートを横から覗き込むようにして、皆川がわずかに体を乗り出している。

 それが何だかいい雰囲気に見えて、

 ––ひょっとして、おじゃまだったかな。

 と尚人は内心焦る。

「杉本はまだみたいだね」

 場を繕うように尚人が声を掛けると、視線を上げた清田が、

〔日直だから、少し遅くなるって〕

 なぜか英語で答えて、

〔そうなんだ〕

 つられて尚人も英語で返した。

 日頃英語を使うことが増えたせいか、近頃尚人は、英語と日本語の切り替えが無意識だ。部活動の成果としては喜ばしいのかもしれないが、それで昨夜は少し恥ずかしい思いをした。

 昨夜はカレルから届いたビデオメッセージを見て、その返信を書いていた。雅紀から電話があったのがその直後で、尚人は無意識に、

〔Hallo,Ma-chan.〕

 と電話に出たのだ。

〔どうした。えらくご機嫌だな〕

 問われて首を傾げ、

〔え、そう、でもないけど?〕

 と答えると、

〔ふーん〕

 雅紀は呟き、

〔何してたんだ?〕

〔カレルからメール届いてたから、それに返信したとこ〕

 尚人が返すと、

「だから英語なのか?」

 日本語で問われて初めて、自分が英語で喋っていたことに気づいたのだ。

「あ、ひょっとして気づいてなかった?」

 笑いを含んだ声音に、尚人の顔がかっと熱くなった。

 恥ずかしいことではないはずだが、無意識だったのが何とも気まずい。

〔いいんじゃないか? 部活の成果だろう?〕

 あえて英語で言ってきたのが丸わかりで。

「……まーちゃんのいじわる」

 尚人がぼそりと言うと、電話口からはさらにクスクスと笑いがこぼれ落ちた。それでなんとなく意地になって英語で会話を続けたら、雅紀はあろうことか英語で睦言を仕掛けてきたのだ。

〔ナオ、〇〇って知ってる?〕

〔××って何のことかわかる?〕

 それらはおそらくスラングで。わかるようで、わからない。が、想像がつかないこともなくて。

 でも、とてもそんなこと口には出せず。

〔〇〇は、〇〇って意味でしょ〕

 普通に返せば、雅紀は予想通りという反応で。

〔別の意味があるんだけど。ナオ、知らない?〕

〔……知らない〕

 そう答えれば

〔じゃあ、今度。じっくり教えてやる。きっと、ナオ好きだよ〕

 などと思わせぶりなことを言われて。いたたまれなくなった尚人は、一方的に電話を切ったのだ。

 それにしても雅紀は、一体どこでそんなスラングなど覚えるのか。

 雅紀が一時期派手に女遊びをしていたことは知っている。雅紀に相手にされなくなった相手が、どこからどう調べるのか、自宅にまで電話を掛けてくることがあったからだ。その電話は、尚人との肉体関係が始まってからもしばらくは続いた。だから尚人は、雅紀の相手は自分一人ではないのだろうと、過ぎる期待を持ってはダメだと言い聞かせていた。

 自分は雅紀のものでも、雅紀は自分のものではない、と。

 ––ナオとするのが一番気持ちいい。

 そう言われるたびに、比較する相手がいるのだと思い知らされた。

 しかし今は、そんなことどうでもいい。

 雅紀が自分以外の誰かと肉体関係があったとしても、そんなことは関係ない。

 愛し愛されていることを知っている。それで十分だ。

 ……しかし。

 ––やっぱり、そういうことだよね?

 だからスラングを覚えるようなきっかけだ。

 実践で使ったこともあるのだろうか。

 それが脳裏をかすめた瞬間、気持ちがもやもやしたので、それ以上は考えるのを止めた。考えたところで不毛なだけ。なことを、悶々と考えたところで意味はない。

〔篠宮先輩、こんにちは〕

 顔を上げた皆川が英語で挨拶する。それで尚人も英語で返した。

〔こんにちは、皆川さん〕

〔今、ノートを、見ていました〕

 少々ぎこちないが、皆川が英語で話しかけてくる。それが彼女のやる気に思えて、尚人は微笑んだ。

〔そうなんだ〕

〔このページ。篠宮先輩が書いたところですよね?〕

〔そうだよ〕

〔えっと……。この単語、どういう意味ですか?〕

〔これは、こうこうこういう意味〕

〔では、これは?〕

〔これは、こういう意味〕

「じゃあ、この英文の意味って『××については、〇〇できない』って意味ですか?」

 皆川の会話が日本語になる。それで尚人も合わせて日本語で返した。

「否定強調だから『××については、どんなに〇〇しても、し過ぎることはない』って意味だよ」

「……あ、そうなんですね」

「高一じゃまだ習わない表現だから、わかんなくって当然」

 清田がさりげなくフォローしたので、尚人は、

 ––へぇ……

 清田をちらりと横目に見て、心の中だけで呟いた。

「ってか俺も一年の時は、こんな表現絶対わかんなかったし」

「でも、清田先輩って、一年の時から即興英語ディベート大会に参加してるんですよね?」

「まあ、散々な結果だったけどな。荒木先輩に誘われて、俺と杉本と三人でチーム組んで出たんだ。俺、中学の時結構英語できる方で、英語弁論大会に出場して県大会で優勝した経験もあったからさ。ディベートも楽勝だと思ったんだよな」

「弁論とディベートって、何が違うんですか?」

「自分の主張を一方的にいうのが弁論。相手と討論を交わすのがディベート」

「あ、なるほど」

「一方的に喋るだけの英語弁論大会はさ。事前に用意した原稿を頭に叩き込んで、まあいうなれば、そこそこの発音でスピーチすればいいんだけどさ。ディベートは、そういうわけにはいかないだろう? 特に今回参加してる即興型はさ。相手の主張内容や質問に即座に対応しなきゃいけないわけだし。何言ってるかわかっても、とっさに返す言葉が出てこなかったりさ」

「私も、結構英語できる方だって自信あったんですけど。昨日の先輩たちの討論内容、半分もわからなかったです」

「まあ、俺も、完璧に聞き取りできるようになるまで結構苦労したしな。前はどうしても英語を日本語に翻訳しながら理解しようとしてしまうところがあって。一個でも意味がわかない単語出てくるとそこで引っかかって、置いていかれちゃう感じで」

「わかります。私も、そんな感じなんです」

「でも、部活で記録取りやってるうちにいちいち変換しなくなったかな。英語聞いて英語書くのに日本語挟んでたら、二回訳してるみたいなもんだし。それでいつの間にか聞き取りの方も英語を英語で聞く感じになって。わからない単語も、一応その音のまま頭においとくって感じで」

「そうなんですね。篠宮先輩はどうですか?」

「英語と日本語が頭の中で同時に並んでいってる感じかな? まあ、でも俺の英語は実践的じゃないから。英会話の参考にはならないかも」

「実践的じゃないってどういうことですか?」

「英検受けるのが目的だったから」

「でも、それで一級って。凄すぎだよな」

 清田がぼそりと呟く。

 それに皆川が驚いたように何か言いかけたが、ちょうどその時杉本と顧問の坂下が現れて、三人の雑談はそこで終了した。

 

 

 * * *

 

 

 部活終わり。昇降口へ向かっていた杉本は、部長の小坂井に声を掛けられた。

「例の一年生二人。頑張ってるな」

「うん。二人とも正式入部してくれたし。めっちゃ頑張ってる」

 杉本は頷く。

 一週間の体験入部の後、皆川と渡辺は二人とも正式に入部届を出した。

 元々人懐っこい感じの皆川は、すぐさま馴染んで英語での雑談に加わるようになり、その皆川に引っ張られる形で大人しい渡辺もメンバーの輪に入れている。

 渡辺は照れがあるのかなかなか英語での会話で言葉が出てこないが、喋ればさすが英検準二級だけあってそれなりにちゃんとした英語を使うし発音も綺麗だ。一方皆川は、度胸だけはあるのでいろいろと英語でチャレンジする。文法がめちゃくちゃな時もあるが、そういう時は三年生の誰かがすかさず訂正する。それが板書しながらの英文法説明会になったりするので、三年生メンバーも基礎振り返りのいい勉強になっていた。

(まあ、皆川ちゃんはどう見ても篠宮くん狙いだけどね)

 あからさまではないが、それが透けて見える程度には皆川の行動はわかりやすい。雑談の時も尚人に話を振る割合が高いし、「勉強になるから」ということで始めている討論内容のまとめ––––これは杉本が、皆川と渡辺の二人ともに提案して、二人とも取り組んでいるのだが––––を、顧問の坂下に提出する前に必ず尚人に見せてもいる。

「篠宮先輩、この英文って合ってます?」

「もっといい表現ってありますか?」

 そんな感じで声を掛ける。

 一方、そういったことに初心(うぶ)(うと)そうな尚人は、皆川の質問に丁寧に答えてやってはいても、あくまで後輩の面倒を見てますといった様子だ。皆川も、今のところは自分の気持ちを前面に押し出してぐいぐい攻めようという感じではなく、尚人への恋心を英語学習の原動力にしているようなので、杉本としては暖かく見守っている。

 何しろ、恋愛は自由だ。

 とはいえ、

(篠宮くんが誰かと付き合ったりしたら、嫉妬が凄そうだよね)

 杉本がそう思う程度には、尚人は結構同級生女子の人気が高い。しかし、尚人の周りは常に男子が取り囲んでいたし、あの事件があって、尚人がカリスマモデルMASAKIの弟だと言うことが周知の事実になって以降は、まさに手が出せない高嶺の花になった。

 杉本のクラスメイトの中にも尚人ファンが何人かいて、

「今、廊下で篠宮くんとすれ違った! めっちゃラッキー」

 と騒いでいる女子がいる。が、彼女ら曰く

「篠宮くんと付き合おうだなんて、考えるだけで恐れ多過ぎる」

 らしい。

「大会の方の準備はどう?」

「ふふ、それはもう抜かりなく。坂下先生が、色々とコネを当たってくれて。今度の日曜、桜ヶ丘国際大学の学生相手に実践練習することになってるんだよ」

「すげーな」

 小坂井が軽く目を見張って驚く。

「やっぱり、二年間コツコツ続けた成果だよな」

 そう呟く小坂井は、実は早々に英語ディベートを諦めた口なのだ。当時は大会で全然結果を残せなかったし、同学年の清田と杉本は、小坂井から見て「こんなに喋れるなんてすげー」と思うほど英語ができる二人だったにも関わらず、大会では「翔南の英語ってあのレベル」と他校生に笑われ、自分には到底無理だと痛感したのである。

「まあ、私も清田くんも負けず嫌いだからねー」

「それは言えてる」

 小坂井は笑う。二人とも主張の強い者が多い弁論部の中では大人しい方だが、こうと決めれば貫き通す我の強さがある。でなければ、他校生に英語レベルを笑われて「やる気スイッチが入った」とはならないだろう。

「がんばれよ。応援してるから」

「おう!」

 杉本がいつもの調子で答えると、小坂井は破顔した。

「じゃ、俺。鍵返しに職員室に行くから」

「じゃーねー」

 階段前で二人は別れ、杉本はそのままテンポ良く階段を駆け下りた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一陣ノ風 5

 午後七時過ぎ。雅紀は押しに押している撮影の休憩時間に携帯電話を取り出すと、尚人にメールを打った。

【撮影が押してて、帰りは何時になるかわからない。晩飯待たなくていいから】

 送信して、ため息が漏れる。

 今日は五日ぶりに家に帰れる。しかも、スケジュール通りに仕事が終われば尚人の晩飯にありつける。それをモチベーションに頑張ってきたのに。誇張でも何でもなく、メールする手が震えた。

 今日の撮影は、『大人のおしゃれ』をテーマにした雑誌企画で、スーツ&ジャケットスタイル特集の撮影だ。意外性を出すためか、日頃スーツなど着ないだろうと思わせる二十代前半の男性ばかり、タイプの違う五人が集められていた。

 朝ドラ出演でヒットし人気急上昇中の若手俳優。YouTube投稿動画をきっかけにメジャーデビューしたことが話題のシンガーソングライター。小説家転向宣言で世間を騒がせてる元人気アイドルグループメンバー。現役有名私立大学生であることを売りに活動しているタレントモデル。それに雅紀を加えた五人だ。

 それぞれ個性が強い五人だけに、それを何とか一枚の絵に収めようというカメラマンは苦心惨憺。しかも雅紀以外、モデルとして撮られることに不慣れで、フレームへの意識がほぼないのだから、撮影が押しまくるのもある意味当然だった。

 携帯に、すぐに返信がある。

【残念。久々に一緒に晩ご飯食べられるかなって楽しみにしてたけど。お仕事ならしょーがないね。今日は、まーちゃんの好きなサバの竜田揚げだよ】

【帰ったら食う。取っといて】

【いっぱい作ったから大丈夫だよ。トースターで焼き直せば、揚げたてみたいになるしね】

 語尾にハートマークが見えるのは、雅紀の脳内妄想だ。

 エプロン姿で台所に立つ尚人の姿が脳裏に浮かんで、ほんのわずか、下半身が疼いた。

 尚人が足りない。尚人に飢えている。

 五日も会えていない。ばかりでなく、近頃の尚人は忙しい。

 週一で始めた部活で全国大会出場が決まると、尚人は毎日部活に参加するようになった。それはとりも直さず毎日の帰宅がその分遅くなると言うことで、帰ってきてから寝るまでの尚人のスケジュールはそれこそ分刻みになった。以前から学校に支障が出たらまずいと平日のセックスはそれなりにセーブしていたが、近頃は尚人を甘く泣かせることすら難しい。土曜課外の日も、以前は昼過ぎには帰宅していたが、今は午後から部活をして帰ってくるため、その分尚人は日曜も自宅学習に余念がない。何と言っても、尚人は受験生なのだ。それがわかっているから、雅紀だって尚人の勉強の邪魔をしてまでセックスしようとは思っていない。

 が、頭でわかっていることと、心と体は別物だ。

 帰宅してキスを(むさぼ)り、余裕を見せてそれだけで満足した顔をしているが、本当は、身体中()めまわして尚人をくたくたのグズグズにし、ペニスの先端をしつこいくらいに擦り上げて双珠に溜まったミルクを全て絞り出したい。体をしっかり一つに繋げて奥の奥まで突き回し、尚人の腰が立たなくなるまでイかせたい。そして、喘ぎ声が枯れるまで啼かせ、疲労困憊のまま眠りについた尚人を腕に抱いて、尚人が確かに自分のものだと実感したかった。

 しかしその一方で、尚人が部活動を経験し、忙しくも充実した学校生活を送っているのは雅紀にとって喜ばしいことだった。

 尚人には今まで、やりたいことを我慢させ家のことを全て押し付けてきたという負い目がある。自分が、ピアノに剣道とやりたいことをさせてもらい、それなりの結果を残してきたのに比べ、家庭が崩壊した時小学生だった尚人は、そもそもチャレンジする機会さえ与えられず、他の兄妹弟に比べて大人しいことを理由に親族内での評価も常に低かった。そのせいで尚人は、自分自身への評価が低い。自分にできるのはせいぜい家事と勉強だけ。だから、自分に出来ることを毎日淡々とこなす。尚人はそう思っているが、それがどれだけ凄いことか。尚人自身わかっていない。

 しかし世間的に見れば、家事は家族の誰かがするのが当たり前の、世の中で最も評価されない労働であるし、高校生が勉学に励むのはある意味当たり前である。だから、尚人がそう思ってしまっていてもある意味仕方がない。

 けれども、やって当たり前のことを手を抜かずにやり続けるには覚悟がいる。持続するための力がいる。自分を律する強い精神力がいる。

 普段の尚人は聞き分けが良く滅多に自己主張などしないが、一度腹を据えれば兄妹弟の中でも一番の頑固者。

 自分で決めたことだから。

 食べてくれなくても、裕太のために毎日弁当を作る。

 担任の賛同は得られなくとも、高校は翔南一本しか受けない。

 定期代も馬鹿にならないから、高校へは片道五十分自転車で通う。

 高校卒業後を見据え、就職に有利なように英検を受け続ける。

 全て、尚人が一人決意したことだ。雅紀は後になって知った。だから、それらの事に口を挟む余地はなかった。

 弁論部の臨時部員の話も同じだ。

 尚人がその話を雅紀にした時、言い方こそ『相談』だったが、尚人の決意がそれなりに固まっていることに雅紀はすぐに気がついた。

 ––弁論部から即興英語ディベート大会に出るための臨時メンバーになってくれないかって話があってね。週一の参加でいいって言ってるし、チャレンジしてみようかなって思ってるんだけど。まーちゃん、どう思う? 裕太は、帰りの時間さえわかってるなら晩飯がちょっと遅くなっても構わないって言ってくれてるんだけど。

 尚人がやりたいと思っているなら、雅紀に反対する理由などない。頑張っている尚人を応援してやりたいし、やりたいことを思い切り頑張っている尚人の姿を見たい、という思いもある。

 ただ正直、自分より先に裕太に相談していたという事実が気に食わなかったが、それは兄としてのプライドを保つために口にするのはぐっと我慢した。

 わかっている。もし雅紀が毎日定時に帰る仕事をしているなら、尚人は真っ先に雅紀に相談したはずだ。尚人の帰宅時間が日常影響するのは雅紀より裕太で、その裕太の承諾を得ることは、尚人にとって決断のための大切なプロセスだったに違いない。だからこそ雅紀は、尚人が本気でチャレンジしてみたいと思っているんだろう、と感じ取ったのだ。

 その頑張りの成果は確実に出ているようで、先日の電話はなぜか英語だった。しかも、雅紀が指摘するまで気づいてもいなかった。尚人の英語を耳にするのは初めてだったが、本当にきれいな発音だった。日頃の穏やかでまろやかな声質はそのままに、英語特有のイントネーションで発せられる言葉は、まるで聖歌を聴いているようでもあった。

 それを思った瞬間、雅紀の内に潜む、無垢なものを汚す淫靡な快楽が疼いた。それで仕掛けた卑猥なスラングに、尚人が電話越しにも羞恥に戸惑う様子が伝わって。それなりに満足すると同時に、今度セックスする時にも試そうと密かな楽しみにしているのだ。海外ロケに行く度に、現地スタッフに散々(ささや)かれてうんざりしていたスラングだが、こういう使い道が出来るとは、雅紀にとっても意外だった。

 日本語では、しつこい位に尚人に囁いた。それは、雅紀と尚人の関係が、労りも何もないまま猛ったものを無理やりねじ込むという最低最悪の強姦から始まったせいで、最初尚人は雅紀が近くに寄るだけで身を強張(こわば)らせていたからだ。優しいキスをして腕の中の強張りが解けるのを待った。尚人が雅紀とのキスに慣れると、今度は舌と口を使って身体中の快楽の在処を掘り起こしていった。母と雅紀との関係を知って以降、性的なことに無意識にストッパーをかけていたらしい尚人は、思っていた以上に無垢で、雅紀は言葉のアメとムチを使って、羞恥で凝り固まった尚人の体を開かせたのだ。

「セックスは怖くない」

「気持ちいいのが本当のセックス」

「ナオとのするのが一番気持ちいい」

「全部俺がしてやるから。オナニーするの禁止」

「俺の言うこと聞けないなら、お仕置きだからな」

 そうして雅紀の手で股間を揉みほぐされて射精する快感を植え付け、尚人が雅紀の与える快楽に淫らに悶えるようになると、今度は卑猥な言葉を散々囁いた。それは尚人に「自分たちのしていることはそう言うことだ」と植え付けるため。そして尚人にして欲しいことを言葉で言わせるためだ。

「ちゃんと口で言って。ナオがして欲しいこと全部してやるから」

 求めるだけではなくて、同じくらい求められたい。そう渇望する雅紀のエゴ。それでも、そうして手に入れたものに雅紀は癒され生かされている。

 何があっても手放せない、掌中の珠だ。

 ––さて、もうひと頑張りするか。

 雅紀は携帯を仕舞うと、気持ちを切り替えた。

 

 

 * * *

 

 

 深夜十一時過ぎ。雅紀はようやく帰宅した。車をガレージに止め、電子錠の玄関を開けて家に入る。家の中は明かりが消えて薄暗かったが、雅紀は迷うことなく、一階の突き当たりにある部屋に向かった。ノックもせずに扉を開ける。予想通り、机に向かう尚人の姿があった。

「ただいま、ナオ」

 声を掛けて、頭の天辺にキスをする。それでようやく雅紀の帰宅に気づいたらしい尚人が顔を上げてにこりと笑った。

「おかえり、まーちゃん。お仕事お疲れ様」

(はあ。癒されるよなぁ)

 心底思う。

 顎に手をかけてキスを貪る。それだけで、色々内に渦巻いていたものが落ち着いた。

「ご飯、食べる?」

 雅紀のキスですっかり息が上がった尚人が、顔を紅潮させながら口にした言葉がそれであることに雅紀はくすりと笑う。

「思ったより遅くなったから、軽く食って来た」

「じゃあ、お茶漬けにする? 今日は、鯛茶漬け出来るよ」

「うまそうだな」

 雅紀が呟くと、尚人はにっこり笑って立ち上がった。

「作るのに十分位かかるから。先にお風呂入る?」

「ああ、そうしようかな」

「じゃあ、お湯張りするね」

 本当に至れり尽くせりだ。これでセックスの相性もいいのだから、仕事が終われば真っ直ぐ家に帰りたくなるのも当然と言うものだろう。

 雅紀は荷物を持って二階の自室へ上がり部屋着のスエットに着替えると、持ち帰った荷物の中から洗濯する物を取り出して風呂場へ向かう。そして、脱衣所の籠に洗濯物一式放り込み、まだお湯貼り途中の浴室に構わず入った。

 先にシャワーで体を洗う。その間にお湯張りが終了したことを告げる電子音が流れた。自宅の風呂にゆっくり浸かると、それだけでリラックスできる。

 風呂から上がってリビングへ行くと、尚人はキッチンで海苔を刻んでいるところだった。その姿を視線で撫でてから、雅紀は冷蔵庫から尚人が作り置きしている麦茶を取り出してコップに注ぐ。それをその場でがぶ飲みし、食卓に着いた。

「はい。お待ちどおさま」

 出されたのは、尚人特製ごま醤油につけ込まれた鯛の上に、海苔と小葱が載っている、結構本格的な鯛茶漬けだった。見た目も綺麗で食欲をそそる。いただきます、と手を合わせ雅紀は箸をつけた。

「まじ、うまい」

「本当? よかった」

 冗談でもお世辞でもない。料亭で出される茶漬けより格段に上を行っていた。ほんの少し添えられたワサビがいいアクセントだ。

 うますぎて箸が止まらず、あっという間に完食する。そのタイミングでほうじ茶が出て来て、温かなお茶にほっと一息つく。

「幸せすぎる」

 雅紀が思わず呟くと、尚人がぷっと笑った。

 そんな何気ない日常の一コマが、本当に幸せだ。

 明日は日曜だし、これであとは尚人を心ゆくまで堪能すれば言うことなし。だったのだが、

「明日は、出かける用事があるから。だから……」

 部屋に戻って尚人をベッドに押し倒し、そのままキスを(むさぼ)って、尚人の股間を膝頭でぐりぐりと刺激してやっている最中。息も絶え絶えに尚人はそう言って、腰が立たなくなるのはまずい、と訴えた。

「用事って?」

「部活の、練習」

「日曜に?」

 自分の高校時代は、土日祝日関係なく練習していたというのに。雅紀はほんの少し不満げに尚人を見る。

「大学生が練習相手になってくれるみたいで」

 なるほど。それは、貴重な実戦練習だろう。

「どこで? 学校?」

「桜ヶ丘国際大学。九時集合」

「じゃあ、明日は送って行ってやるよ。それなら、いいだろう?」

 雅紀は、尚人が何か言う前にキスで口を塞いだ。

 

 

 珠を揉んでしゃぶる。先ほどから尚人のペニスの先端からは、先走りの蜜がたらたらとこぼれ落ちている。五日ぶりの快楽に、尚人の(あえ)ぎは止まらない。珠を揉むと乳首が尖る。そう擦り込んだせいで、尚人は悶えながら乳首が痛いとぐずる。

「まーちゃん。痛い、乳首痛い」

「お願い、まーちゃん。乳首、噛んで吸って」

 尚人の晒す痴態に煽られる歓喜。いつもならすぐにお願いを聞いてやるところだが、雅紀は焦らすように尚人の珠をやわやわと噛みながら口の中で転がす。そうすると、綺麗に剥けたペニスの先端の割れ目からこぼれ落ちる蜜はまるでお漏らしでもしているかのように量を増した。

(たまらないよなぁ)

 雅紀が我慢できずにぺろりと舐め取ると、尚人は身を仰け反らして可愛らしく啼いた。その声に煽られて、そのままペニスを咥え込んでしゃぶってやると、尚人はその刺激だけですぐさま濃厚な精を吐き出した。

「ンッ、あぁ〜〜〜!」

 かすれた啼き声が耳にいい。

 尚人の吐き出したミルクを一滴残らず飲み込んで、雅紀は口の端で笑った。

「今回は漏らさず我慢できたみたいだな。ナオのミルク、すっごく濃かった」

 雅紀が言うと、尚人は羞恥に顔を歪めた。その予想通りの反応に、雅紀は満足する。

「我慢できたご褒美だ。ナオの乳首、好きなだけ噛んで吸ってやる」

 雅紀は耳たぶを甘噛みしながら囁いて、尚人の珠をやわやわと揉んでやりながら、乳首を噛んで吸う。すると、尚人の上げる嬌声が艶を増した。

「はぁ、はぁッ! あっ、あぁぁぁ! まー、ちゃん……」

 さらに唇で咥えたまま乳首を引っ張ってやる。尚人は身を仰け反らせて更に啼き、股間を揉む雅紀の手を新たな蜜が濡らした。滑りが良くなったペニスを軽くしごく。

「ンッ、あッ!」

 一度イっているのでこの程度の刺激では吐射しない。それがわかっているから、雅紀はギリギリのところを攻めて快楽を与え続ける。時々先端を指の腹で擦り上げてやると、先走りの蜜は次々と溢れた。

 雅紀は左手で尚人の根元をしっかり締めると、蜜口を舌で穿(ほじ)る。それと同時に右手で尚人の乳首を乳暈ごと強く摘んでやると、尚人の背中が跳ねた。

「あ〜〜〜〜〜!」

 尚人の喘ぎは止まらない。

 このあとは、蜜口をしつこく擦り上げて、尚人のミルクを全部搾り取ってやるのだ。臍もたっぷり舐めてやろう。そして雅紀の物をしっかり根本まで咥え込めるよう後蕾をほぐしてやって、尚人の喘ぎ声が枯れるまでイかせてやろう。

 甘くて淫らな二人の夜は、まだ始まったばかり。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一陣ノ風 6

 七月某日、朝八時三十分。雅紀は尚人を助手席に乗せ、自宅を出発した。一学期の終業式を間近に控えた日曜の朝。本来なら課外も部活も休みの日曜日は、日頃家事に勉学にと追われる尚人がほんの少しゆったり過ごせる日であるのだが、今日は特別に部活動があるというので、雅紀が送迎を買って出たのである。

 正確に言えば、昨夜、「明日部活がある」ことを理由にセックスに消極的な姿勢を見せた尚人を(なだ)(すか)してガッツリ食べるために、「送る」を一方的に宣言し、しかもそれを雅紀は免罪符としたに過ぎない。何せ尚人とのセックスを楽しみに五日ぶりに帰って来たのに、ベッドに押し倒した後にそんなことを言われても「じゃあ、今日は止めとくか」などという選択肢は雅紀の中にはなかった。

 もちろん、それなりにセーブするつもりではいた。「送る」と言っても、実際腰が立たないのはまずいし、部活の内容が「ディベート」なので声が(かす)れて出ない、なんてことになったら目も当てられない。にもかかわらず、尚人の嬌声に煽られて、途中から「明日」のことが雅紀の頭からすっぽり抜け落ちてしまった。尚人を散々啼かせた挙句、精の全てを尚人の中にぶちまけた。その結果、朝起きたとき尚人の声は掠れていたし、腰が立たずに起き上がるのもひと苦労だった。

 その状態に、さすがの雅紀も「しまった」と思いはしたが、

「……まーちゃん、ひどい」

 ちょっと泣きそうな顔で剥れた尚人も可愛くて。何より昨夜の情事の気配が残った気怠(けだる)そうな尚人が色っぽすぎて。

(やば。こんなナオ、誰にも見せられないんだけど)

 と思うと当時に、いつまでもベッドの上で尚人とくっついていたくて。

(今日は休ませようかな)

 と、本気で葛藤したくらいだ。

 もちろん、そんなこと出来ないことは雅紀もよくわかっている。尚人たち英語ディベートのメンバーは、全国大会に向けて本気で頑張っているのだ。今日はそのための貴重な実践練習である。自分の経験を振り返ってみるまでもなく、そんな大切な日に

「ちょっと羽目を外し過ぎまして」

 なんて理由で休めるはずがない。

 本当は、昨日尚人に告げられた時点で、我慢するのが兄として取るべき選択であったのはわかっている。ただ、その辺の常識を持ち出せば、踏み(とど)まるべきラインはもっとずっと前にあって、そこをすっかり超えてしまった今の雅紀にしてみれば、これもそれもどれも、

 ––ナオが可愛すぎるのが悪い。

 と言うことになるのだ。

 まあ、そんな内なる言い訳はさておき、剥れた尚人の機嫌が少しでも直るよう雅紀は朝から尚人を温かい風呂に入れてやり、喉にいいと聞く生姜入り紅茶も飲ませてやった。それで、家を出るまでには何とか尚人の腰も回復し、声も若干掠れてはいるが支障ない程度になったのだが、内に残る気怠さがあるのか、車に乗ってからも尚人はめっきり無口だったし、制服を纏って醸すアンニュイな雰囲気がそこはかとなく艶っぽくて、雅紀の心をざわつかせた。

「ナオ。まだ怒ってる?」

 信号停車時。チラリと横顔に視線を向ける。雅紀を見やった黒目がちな双眸が無自覚に誘って見えるのは、単なる雅紀の願望だろうか。

「最初から、怒ってないよ。……どうしようって、焦ったのは確かだけど」

「そう。なら、いいけど。珍しく、ナオが無口だから」

「まーちゃんこそ。せっかくの休みなのに。––もう少し、寝ときたかったんじゃない?」

「最初から、送るって言ってただろう?」

「……そうだけど」

 ひょっとして、それを気にしていたのだろうか。それを思うと、尚人の口に出さない気遣いに雅紀の口元が自然と綻んだ。

(そう言えば、こうやってナオを送るのも一年ぶりか)

 ふと、雅紀は思う。

 尚人が自転車通学の男子高校生ばかりを狙った暴行事件の被害に遭って足を捻挫した時、雅紀は自転車通学ができない尚人をしばらく車で送迎していた。その頃はまだ、雅紀と尚人の関係は微妙だった。雅紀は自分の願望の形も欲望の在処も自覚していたが、自分と尚人を繋ぐ鎖を強固なものにすることに腐心するあまり、間抜けなことに、尚人への切なる思いを言葉にしてきちんと伝えることを忘れていたのだ。それで尚人は、雅紀の教え込んだ肉体的快楽に身悶えながらも、兄弟相姦という二重禁忌に身を(すく)ませ、さらには「捌け口にされているのでは」と思い込んでいた節がある。

 ––好きだ、ナオ。

 そう初めて告げた時、尚人の背中はヒクリと震えた。

 その震えが、言葉にされるより明確に、尚人の心情を表していた。

 驚きと、戸惑い。自分に与えれることはないだろうと思っていた、思いがけない言葉。それに素直にしがみ付いて良いものか。躊躇するのは捨てられる悲しみと痛みを知っているから。一度は耐えられても、二度は耐えられないと思う恐怖。いい子であり続けた尚人が内に抱え込んでいた孤独を思うと、雅紀はその震えさえ愛おしくてならなかった。

 ––俺は、お前しかいらない。

 ––お前だけがいればいいんだよ。

 仮にその思いに応えがなくても雅紀は尚人を手放すことなど出来なかったが、幸いにも尚人は応えてくれた。

 ––まーちゃんが好き。

 思い思われ、身も心も一つに繋がることの幸福。

 それだけで良かったはずなのに。近頃雅紀は、時々どうしようもない感情を持て余す。部活を始めた尚人は忙しい。ばかりでなく、庇護されるべき子供のままではいてくれないのだと実感させられるからだ。一年前よりほんの少し大人びた尚人の横顔にそれを見る。表裏一体の喜びと不安。雅紀はその感情をかき消すように、青になった信号にアクセルを踏み込んだ。

 

 

 家から桜ヶ丘国際大学までは、車で行けば二十分もかからない。特に日曜の朝は道も空いていて、あっという間だった。

「適当に、そこら辺でいいよ」

 そう告げる尚人の言葉を聞き流し、雅紀は待ち合わせ場所だという大学正門前に車を横付けする。すると、そこにはすでに翔南の制服を着た高校生が三人立っていた。

 女子が二人に、男子が一人。そのうち二人が車に視線を向けるなりわずかに驚いた顔をしたのは、恐らく、雅紀の車に見覚えがあるからだろう。尚人を学校へ送迎していた時、正門前は毎朝黒山の人だかりだった。それでも駆け寄って来て雅紀に握手を求めたり、不躾にカメラを向けたりする生徒が皆無だったのは、さすがは超進学校の生徒達。場を(わきま)えているというか、事件被害者である尚人への配慮があったのだろう。

 しかし、今の雅紀の関心は、そこではなかった。

(部員って、二人じゃなかったのか?)

 雅紀は内心首を傾げる。

 三人ひとチームのディベート大会に出場するのにメンバーが足りないから尚人を臨時部員としてスカウトしに来た。そのはずだ。

「あれ? 今日、皆川さんも参加するんだ」

 尚人が、驚きを(はら)んだ呟きを口にする。それから察するに、どうやら一人はイレギュラー参加者のようだ。

「皆川さんって?」

「先週正式入部したばっかりの一年生。あの、髪の長い方の女子」

(へぇ)

 この時期に、新入部員とは。瀧芙高校ではありえない。

「こんな時期に部活に入る生徒がいるんだな」

「んー。何か英語ディベートに興味があるっぽい。全国出場が決まって校内に幔幕が飾られたから。それで、そんな活動があるって知ったんじゃないかな」

(それは何ともミーハーな話だな)

 雅紀は思う。最初から英語ディベートがしたいと思っていたなら、もっと前に調べてわかっていたはずだ。尚人の話を聞く限り、英語ディベート大会へ出場するための活動は、数年前から翔南高校で行われていたのだから。

(まさか、こいつ。ナオが参加してるって知って入って来たんじゃないだろうな)

 思わず穿(うが)ってしまう。

「じゃあ、雅紀兄さん。ありがとう」

 尚人が助手席から降りる。そのあまりにもあっさりした別れが何となく雅紀の気持ちをささくれさせて。雅紀は、尚人の背中を見遣りながら運転席から降りた。

「ナオ。帰り迎えに来るから、終わったら電話しろよ」

 声を掛けると、尚人がぎょっとした顔で振り返る。

 ––なんでわざわざ降りてくるの。

 その目がそう言っているのが丸わかりで。雅紀は思わず口の端で笑う。その表情で確信犯だと悟ったのだろう。尚人がわずかに口の端を歪めた。

 一方、正門前で待っていた三人は、雅紀を認めて固まっている。その様子を見て、尚人がため息を吐いた。

「……雅紀兄さん。もう、行っていいよ」

(そんな邪険にするなよ)

 心中拗ねる。

 その時だった。

 正門の内側から一人の女性が現れた。

「ああ、みんな揃ってたわね。って、あら、篠宮君のお兄さんもいらっしゃったんですね」

 雅紀を見やってにっこりと微笑む。どうやら引率の教員らしい。雅紀の見知った教員ではなかったが、丁寧に頭を下げた。

「弟がお世話になっています」

「顧問の坂下です」

「日曜までご指導いただいて。ありがとうございます」

「いえいえ。篠宮くんには教えることより教えられることの方が多くて。それに、ディベート実践練習の時は、私は完全にギャラリーなんです。今日も、この子達がどんな戦い方を見せてくれるのか、それが楽しみでして。––––ところで篠宮さんは、ディベート大会を観戦したことありますか?」

「いえ。残念ながらまだ機会がなくて。それに恥ずかしながら、ディベート大会がどういったものかも、よくわかっていないんです」

 雅紀が言うと、坂下は、まあ、と微笑んだ。

「では、せっかくの機会ですから、観覧して行かれませんか? もちろん、時間があるならばですけど」

「いいんですか?」

「ええ、もちろん」

 それは、願ってもない提案だ。尚人はなぜか微妙な顔をしたが、雅紀はさっくりと無視した。

「あちらの守衛室で臨時入構の手続きをすれば、大学内に車の乗り入れ可能ですから」

 坂下はそう言って、正門から少し入った先に見える小さな建物を示す。その先に入構を制限する車止めのバーが見える。

「私も一緒に参りますので、車をあちらまで移動させてください」

 雅紀は坂下の言葉にありがたく従った。

 

 

 * * *

 

 

「びっくりしたー。一体、何のサプライズだよ」

 雅紀が車を移動させるために一時的にその場からいなくなって、緊張の糸が切れたようにぼそりと呟いたのは清田だった。

「篠宮送って来ただけでもびっくりだったのに。しかもいきなり観覧とか。……坂下先生、浮かれすぎだろ」

「あ、……やっぱり?」

 尚人もそんな気はしたのだが、あからさまにわーきゃーしなかったので口を挟み込み兼ねたのだ。

 大人の対応恐るべし、である。

「にしても篠宮の兄貴って、やっぱ生で見ると迫力あるよな。一般人とは違うオーラ出まくりって感じ」

「そう?」

 尚人は首を傾げる。雅紀が超絶美形なのは尚人も認めるところだし、時々相手を威圧するような無言の圧を放つことがあることも知っているが、今日の雅紀は至って普通だった、はずだ。

「そりゃ、篠宮は慣れちゃってるかもしれないけどさ。俺たち一般小市民の前に急にカリスマ現れたら、普通ビビっちゃうって。ほら、女子二人だって」

 そう言う清田の言葉に促されて尚人が女子二人に視線を向けると、皆川は確かに固まっていたが、杉本の目は完全にハートマークになっていた。

「はぁぁぁ。篠宮くんのお兄さん、カッコ良すぎるー♡ 目の保養。超やる気出た。今日来て良かったー。ってか、坂下先生、グッジョブ! カリスマに見守られながら実践練習なんて、もう天辺取ったも同然‼︎」

「……なんかよくわかんないけど。杉本のやる気に繋がったのなら良かったよ。……で、ええ、と。皆川さんは、大丈夫?」

「え、あの。はい。大丈夫です。……っていうか、やっぱり本当だったんですね」

 尚人の声かけに、皆川はようやく我に返る。

「カリスマモデルのMASAKIが、篠宮の兄貴ってこと?」

「そうです」

 清田の問いかけに皆川がこくりと頷く。

(やっぱり一年生だって知ってるよね)

 昨年あれだけ世間を騒がせたのだから、ある意味当然だろう。尚人がそんなことを思っている横で、杉本が皆川に真顔で囁く。

「皆川ちゃん、今日来てラッキーだったね。ご利益あるよ」

(それ、どういうこと?)

 尚人は首を傾げたが、何となく、突っ込むのはやめた。

「ところで、今日は一年生も参加だったの? 渡辺さんは?」

「一年生は自由参加。なべっちは塾があるとかで欠席」

「そうなんだ」

 大学生相手の模擬戦は見るだけで勉強になるとは思うが、わざわざ日曜の休みを潰して参加するとは。よほど英語ディベートにやる気を持っているのか。はたまた別目的があるのか。

 尚人は、偶然か必然か並んで立っている清田と皆川を見やって、自分が斜め上のことを考えていることなど思ってもいなかった。

 

 

 

 坂下と合流して会場となるゼミ室に尚人達一行が姿を見せると、案の定、会場は一時騒然とした。

「えー、うそ!」

「まじで!」

「本物⁈」

 幸いだったのは、日曜とあって廊下で誰ともすれ違わなかったことと、ゼミ室で尚人達を待っていたのも、教授プラス学生三人という最低限の人数だったことだろうか。

「今日はお世話になります。翔南高校で弁論部の副顧問をしている坂下と申します。日曜日のお休みの日に対戦練習を受けてくださって本当にありがとうございます。貴重な実践練習ですので、今日は色々と収穫を得て帰りたいと思います。なお、急遽保護者の方が一名観覧することになりましたが、全国大会の決勝トーナメントでは、観覧席が一般開放されますので、観客の視線に慣れる練習になればと思っています。どうぞよろしくおねがいします」

 坂下がさらりと雅紀の存在を説明して挨拶する。保護者、という言葉に学生らは、ハッとして、ピンと来て。そして、ミーハーな雰囲気を引っ込めた。こういう時は、篠宮家の事情が世間にだだ漏れというのも悪くないと思ったりもする。

「では、時間がもったいないので、早速始めましょうか」

 このゼミ室の(あるじ)だと言う猪瀬教授が告げる。

「ディベートの進行は、今回翔南高校さんが参加する即興英語ディベート大会の規定通りとします。学生達にも事前にルールは説明済みです。ただ、本来ジャッジは奇数であるべきなんですが、今日はジャッジが私と坂下さんの二人しかいませんので、もし票が割れた場合は、私の方のジャッジを勝ちとするということにしたいのですが、いいですか」

「はい、それでいいですよ」

 坂下が答える。

 尚人達も依存はない。ディベートの練習試合で、勝ち負けはあまり重要ではないからだ。それよりも票を入れなかった方のジャッジが「なぜそう評価したのか」の方が重要で、そこに、自分たちの反省点と改善点がある。

(よし。まーちゃんにいいとこ見せるためにも、頑張らなくっちゃ)

 尚人は気合を入れる。

 練習試合が始まった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一陣ノ風 7

「それでは、即興英語ディベート大会模擬戦第一試合を始めます。チーム代表はくじを引いてください」

 坂下教諭がジャッジ兼進行役を務める。完全ギャラリーだと言っていたのは、冗談だったのだろう。雅紀は、急遽用意された観覧席に座って興味深く会場内の様子を眺めた。

 多少離されて準備された向かい合わせの長机に、三つずつ席がある。その下座に審判席。正面には、スポーツの試合で使いそうな大型のデジタルタイマーが準備されており、そこそこ本格的だ。

 互いのチーム代表が、歩み寄って握手をし、ジャンケンをする。そして勝った方の大学生チームが先にくじを引いた。くじと言っても、机上に置かれていたA4番用紙を二つ折りにした紙だ。それぞれが引いて、同時にくじを開く。大学生チームの方に『賛成(肯定)』とあり、翔南高校チームの方に『反対(否定)』との記載があった。その結果を受けて、大学生チームが向かって左手の席に着席し、反対側に高校生チームが座る。どうやら『賛成(肯定)』意見を述べるチームの方が左手に座るというルールがあるようだ。

「それでは論題を発表します。論題は『選挙での投票を国民に義務付け、投票を怠った者には罰金を科すべきである』です。それでは討論開始まで十五分の準備時間を取ります。では、始めてください」

 そのアナウンスとともに、正面のタイマーが動き出す。同時に、各チームがそれぞれ三人集まって話し合いを始めた。この時間は、持ち込んだ資料を見ることが許されているようだ。

(にしても、結構難しい社会問題を論題にするんだな)

 そのことが雅紀的に驚きだった。こんなこと、高校時代に聞かれても

『は? 選挙なんて行きたい奴が行けよ』

 で終わらせただろう。要は、興味も関心もない、というやつだ。しかし尚人達はこれからディベートをしようと言うのだから、資料を持ち込んでいると言っても、それなりの予備知識が頭に入っているはずだ。それはつまり、日頃からそう言った社会問題に目を向け、情報を収集し、それに対し「どう思うか」ということを思考しているということで。それを思うと、家事の合間に効率よく勉強しているのでさえ「すげーな」と密かに感心しているのに、部活を始めてからの尚人の頭が日常どれだけ回転しているのか。雅紀は想像もつかない。

 時間が来て、大学生チームの先頭に座っていた学生がスピーチを始めた。

〔私たちは論題に対し賛成です。理由は、ここ数年の国政選挙において投票率は常に50%を割っており、半分にも満たない投票結果が国民の意思を正しく表しているとは考えられないからです。2年前に総務省が行った意識調査によると、若者が選挙に行かない理由として「関心がない」「投票に行くのが面倒」「政党・候補者がよく分からない」が上位を占め、そもそも選挙に「行かなければいけない」という意識が希薄であることを示しています。これは、自分の周囲の友人知人の言動と照らし合わせても納得する調査結果です。では、このような若者達に政治に関心を持ってもらい、投票に行くようにするにはどうしたらいいのでしょうか? 長期的な視点を持てば、学校による教育も考えられます。子供の頃から投票することに関心を持たせ、選挙権を持つようになったら必ず選挙に行くよう意識づけを行う。そうすれば、今よりは若者が投票に関心を持つようになり、投票率も上がるかもしれません。しかし、この方法が確実に投票率を伸ばすと言えるでしょうか?〕

 さすが国際大学に通う大学生、というべきか。すらすらと流暢に英語で賛成意見を展開していく。しかしそんな大学生を前にして動揺など見えない高校生も大したものだ。真剣な顔をして大学生の意見に耳を傾けている。これから反対意見を述べるのはわかっているのだから、もっと敵愾心みたいなものを露わにするのかと思っていたが、その真摯な姿がちょっと意外だ。三番手に座っている尚人に至っては、うんうんと納得顔で頷きながら相手の発言をメモしている。雅紀の勝手なイメージだが、ディベートなのだから「言い負かした方が勝ち」つまりは「相手の意見に納得したら負け」的なイメージがあるのだが、違うのだろうか。

〔以上のことから、選挙に対する無関心から生じる投票率の低さを解消するためには、罰金を科すという方法が最も即効性のあるカンフル剤であると考えます〕

 学生側のスピーチが終わる。即座に翔南高校の一番手がスピーチを始めた。

〔私たちは、論題に対し反対です。理由は大きく二つあります。一つは、選挙権はあくまでも権利であって義務ではないこと。もう一つが、投票率が低いことがなぜ問題なのか、ということに疑問を持つからです。賛成側の意見は、投票率の低さを問題とし、投票率が50%に満たない選挙結果に対して、果たしてそれが国民の意思の表れと言えるのかという疑問を呈していましたが、私たちは、投票率の低さも含めて民意である、と捉えるべきと考えます。つまり、投票率の低さは「選挙に行くほどの争点がなかった」という国民の意識の現れであり、「その程度の論点ならば、誰がやっても同じ」政治をやっているのだという判断を国民にされたのだということです。このように考えると、無投票も国民の意思であり、無投票という意思表示をしている国民に対し、罰金を科すなど言語道断だと言わざるをえません。しかも、選挙権は我々国民の権利であって、そこには権利を行使しない権利も含まれていることも看過してはならないでしょう〕

 高校生の反論に雅紀は唸る。まさか、こんなにしっかりした反論展開をしてくるとは思わなかった、というのが正直なところだ。相手の意見をきっちり盛り込んで理論展開しているが、それが最初から「こういうふうに言ってくるだろう」と見越していたものがぴたりとはまったのか、本当に即興で返しているのかは分からない。が、前者なら相手の攻め手を読んでいたということで、それはそれで凄いことだ。

〔棄権する権利がある、と言うのであれば、それは、白票を投ずることで守られると思いませんか〕

 大学生側が質問する。高校生側が「受け入れ」を表明した。

〔投票することで意思表示をしろと強制するのであれば、その方法を取らざるを得なくなるでしょう。しかし、投票に行かなかった人たちの中には「行きたくても行けなかった」という人たちがいることを無視してはいけません。賛成チームが先ほど取り上げた、2年前に総務省が行った意識調査によると、最初から選挙に行かないと答えた人は全体の一割強程度でしかありません。つまり国民の大多数は「行こうとは思っている」けれども実際の投票率には結びついていない現実があるのです。それは「行こうと思っていたけど、当日になったら面倒になった」ということもあるかもしれませんが、「体調不良で行けなかった」「急な仕事が入った」「子育てや介護に追われている間に行きそびれた」ということも考えれます。そいういった個々の事情を鑑みることなく、一概に投票に行かなかったら罰金というやり方は暴挙としか言えません〕

 翔南高校側のスピーチが終わる。

 間を置くことなく、大学生側の二人目がスピーチを始めた。

〔投票率の低さそのものが民意である、との見方は、果たして現実を反映していると言えるでしょうか。最初に示したように、若者が選挙に行かない理由の上位は「関心がない」「投票に行くのが面倒」「政党・候補者がよく分からない」です。このことは、政党・候補者が何を訴え、何が選挙の争点となり、それをきちんと理解した上で投票に行かないことを選択したわけではない、ということを示しています。投票に行かなかった若者の多くが、そもそも政治に関心がなく、投票に行くことそのものが面倒だと感じているのです。この若者の政治に対する無関心をこのまま放置するとどうなるでしょうか。時間の経過とともに無関心層の年代は広がります。国民全体に政治への無関心の風潮が広がれば、政治に対する国民のチェック機能は働かないことになります。そうなると、いつの間にか一部の人々にのみ都合の良い法案が成立していた、ということにもなりかねません。つまり、投票率を高く保つことは、健全な国家運営という観点からも非常に重要と言えます〕

〔無関心層が義務だけで投票に行った場合、政策内容も何も分からないまま適当に投票することで、返って民意が歪むとは思いませんか?〕

 高校生側からの質問が入る。大学生側が「受け入れ」を表明した。

〔そういった懸念が発生することは否定できません。が、必ず起きる現象であると断言することもできません。それより、誰もが投票に行かなければならないとなれば、政策への関心は自ずと高まり、自分の投じた一票が国政を左右するという実感を国民が持つようになるメリットが生じる可能性の方が高いと考えます〕

 それから大学生側は、世界の国では実際投票を義務付け罰金を科している国がある事例があることを紹介し、その国での投票率の回復に触れてスピーチを終えた。

 高校生側の二人目が、間を置くことなくスピーチを始める。

〔投票率を上げるために投票を義務化するというのは、あまりにも安直ではないでしょうか。投票が義務になれば、嫌々投票する事態が生じ、自分たちが国政を左右していると感覚よりも先に、させられている感が生じることになりかねません。それは例えるなら、勉強は自分のためにするものであるのに、「勉強しろ」と口うるさく言われると、勉強する気がなくなるのと同じようなものです。それよりも、投票率を上げるための手立ては他にあると考えます。現在日本の選挙において、投票日は日曜の一日しかなく、しかも住民票上の居住地によって投票する場所が決められています。投票日に用事がある場合に限り、期日前投票も認められていますが、時間も場所も限定的です。この現状が投票から足を遠ざけている要因になっていると考えます。例えば、投票期間を数日設けることで、「うっかり忘れていた」あるいは「急な用事が入ってしまった」という場合でも、「明日行けばいい」という選択肢が生まれますし、学校や職場で投票ができれば、わざわざ投票所へ行かなければいけないという面倒臭さは解消します。本人確認の課題はありますが、インターネットによる投票ができるようになれば、スマートフォンを使い慣れた若者の投票率は一気に上がることが予想されます。これらのことから、投票率を上げるためにまずすべきは、投票の義務化よりも、投票しやすい環境を整えることではないでしょうか〕

 高校生側のスピーチが終わる。次は順番で大学生側がスピーチするのかと思ったら、尚人がスピーチを始めて雅紀は少々驚く。どうやら三番手は、順番が入れ替わるらしい。

〔健全な国家運営とは、どのようなものでしょうか〕

 尚人が流暢な英語で喋り出す。

 前二人も、高校生にしてはそこそこ流暢に喋っていたが、尚人の英語はネイティブよりもネイティブらしい。癖がなく、聞き取りやすい。そしてしっとりと、耳馴染みが良かった。

〔日本は間接民主主義の国です。よって、国民が代表者を選出し政治を委託することで国家が運営されています。この代表者を選出する大切な選挙において、投票率が50%に満たないということは、選挙に立候補した全員分の得票数を合わせても国民の半数以下の信任しか得られなかったことを意味します。このような状況で選ばれた人々が、果たして国民に選ばれた代表者と言えるか、ということを考えたとき、低い投票率で推移することは、健全な国家運営がなされている、とは言い難いように思います〕

 ––?

 雅紀の頭に小さな疑問符が浮かぶ。

(ナオって、否定意見を述べる立場だよな?)

 どうにも理論展開が、真逆をいっているような気がするが……。

 思わず心配になってしまうのは、尚人を信頼していないからではなく、保護者を自認する兄バカ気質だ。

〔しかし、先ほど述べたように、投票率の低さも含めて民意であり、「その程度の論点ならば、誰がやっても同じ」だというメッセージを含んでいるものであると考えると、「その程度」では収まらない争点が生じた場合や、魅力ある政党が登場した場合など、投票率は一気に跳ね上がる可能性があります。そういう動きの読めない大多数の票が存在しているという状態は、常に選挙によって選ばれている政治家にとって、ある意味脅威ではないでしょうか。政権与党であっても、沈黙して見えた国民が投票に動いた時、たちまち政権を追われるかもしれない可能性を否定できないからです。このように考えると、投票を義務化し、嫌々投票に行かせて票の固定化を生じさせるより、低い投票率であっても投票しない自由を維持する方が健全な国家運営ができると言えます。そして、沈黙した国民をより脅威に感じさせるものが投票環境の改善であり、投票しやすい環境を整えることは、罰金を科してまで投票を義務化するよりも、個々の事情に配慮し、個人の意思が尊重される、より良い未来の構築に寄与すると言えるのではないでしょうか〕

(なるほどなぁ……)

 雅紀は頷く。

(ナオの言うとおりだよな)

 雅紀自身、律儀に投票に行っているわけではない。多忙を理由に棄権したこともあるし、海外ロケや地方での仕事で忙しく飛び回っている間に選挙が終わっていたということもある。

 それに、

 ––選挙なんて、やりたい奴だけでやってろよ。

 そんな気分になるのは、仕事関係で行ったパーティで政治家と出くわすことも少なくなく、「選挙運動に来たのかよ」と思う場面に巻き込まれることも多々あるからである。そんな時も一応表面上はそつなく対応するため、ある程度政治家の顔と名前は頭に叩き込んではいるが、どんなに「清き一票」のお願いをされても投票してやる気になれないのは、そもそも政治に関心がないからだ。しかしその一方で、頭の片隅に、大人としての責任を果たしていないような罪悪感があったりもする。それは雅紀の中に、弟たちに大人としての兄の背中を見せたい、と願う気持ちがあって、社会的責任を果たすということが、大人の一つの条件であるように思っているからだ。だから、投票を何度も棄権しているという事実に、雅紀はほんの少しの罪悪感を抱く。いや、今まで抱いてきた。明確に自覚する感傷でなかったとしてもだ。しかし今、尚人の主張を聞いて、雅紀の心は少しながらも軽くなった。

 自分がここだと思った時に、動けばいいのだ。

 そんなふうに肯定された気がしたからだ。

 そんなことを考えている間に、大学生側の最後のスピーチが終わっていた。

「では、判定に入ります。ジャッジは、票を入れる側の手を挙手してください」

 進行役の坂下教諭の言葉に、審判員を務めていた二人の右手が上がる。同時に、審判員の右側に座っていた翔南高校生から「よしっ」という小さい声が上がった。尚人が隣に座っていた男子生徒に促されるようにハイタッチしている姿が微笑ましい。

 その後、審査員による総評があり、十分ほどの休憩を挟んで第二試合が行われた。次の論題は、『学習意欲を高めるため、小学校の教科書は、国語を除いた全ての教科書を漫画にすべきである』という本気か冗談かわからないものだったが、これが予想外に議論が白熱して、雅紀的に面白かった。

 三回の実戦練習が終わると正午を超えていた。全国大会の一日目予選が三試合あることを想定しての模擬戦だったようだが、十分程度の休憩を挟んで立て続けに行うディベートは、雅紀の目からもそれなりにハードだった。

(ディベートって、言論を武器にした武道みたいだな)

 本気でそう思った。それほどに集中力がいる。そう感じた。しかも、順番にスピーチしていくディベート方式は、一対一の個人戦のように見えて、実は全体で理論展開してく団体戦である。ということにも雅紀は気がついた。それは剣道の団体戦にも似て、個人の勝敗もさることながら、次に繋げる試合運びを意識した試合展開に通じるものがあるように思い、それを言えば最後を務める尚人は主将戦で、先方次鋒の稼いだポイントをきっちりと勝利に結びつける重責を担っている感じがした。それに先にスピーチをする高校生二人も、最後に尚人がしっかり締めてくれる、という信頼を寄せているように見えて、チームワークの良さが感じ取れた。

 尚人の取り組む即興英語ディベートがどういう活動であるか、わかったこともさることながら、尚人の学校生活が充実している様子が垣間見えたことが雅紀的に何よりの収穫で、雅紀の表情は自然と綻んでいたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一陣ノ風 8

『尚君、久しぶり。ちょっと会って話せないかなって思ってるんだけど。どうかな?』

 夏休みに入ってすぐ、久々に零から電話があった。智之が入院して以降、何度かメールでの連絡はあったものの「会って話がしたい」と言われることはなかったので、尚人はわずかに首を傾げた。

 ––何かあったのかな?

 しかし自分からは問わない。向こうから話す分には構わないが、余計なことに口を出さない。というのが、零と連絡を取る上で尚人が決めた線引きだからだ。

「日曜の午後なら大丈夫だけど」

 尚人が返すと、零からはそれでいいとの返事がある。それで尚人は約束の日曜日、零と会うときの定番になっている駅前に向かった。約束の時間より早めに着いたのは、せっかくなら再開発された駅前の大きな商業ビル内に入っている大型書店に寄ろうと思ったからだ。滅多に外出しない尚人は、最初ここで待ち合わせした時は、立ち並ぶ大きなビルの中にどんな店が入っているのか知りもしなかったが、その後、中野や山下と会話する中で、結構品揃えの良い大きな本屋があると知ったのだ。

 ––いつか行ってみよう。

 そう思っていたものの、なかなか時間が取れなかったし、無理やり時間を作ってまで行こうと思う程でもなかった。そういう意味では、零からの電話はちょうどいいきっかけだった。

 目当てのビルに入ると、真っ先に目に飛び込んできた巨大な吹き抜けホールとその正面のエスカレーターの規模の大きさに尚人は度肝を抜かれる。つくづく自分がこういう場所に慣れていないと実感させられながら、目当ての書店がどの階に入っているのか確認するため、インフォメーションボードへと歩み寄った。

(5階か)

 尚人は行き先を確認してエスカレーターに乗る。レディースファッションや時計宝飾などを扱う煌びやかな階を通過して目当ての5階へ来ると、そこはワンフロア全て書店だった。

(……すごい)

 予想外の規模の大きさに尚人は一瞬絶句する。自分がすごい田舎者になった気分だ。が、すぐさまワクワクが上回った。

 漫画、文庫本、新書、小説。それらが並ぶコーナーを抜けていくと、次に雑誌コーナーがある。ファッション紙以外にも、園芸、陶芸、裁縫、ホビー、料理などのほか、バイクや鉄道、カメラ、時計といったあらゆる趣味の雑誌が並ぶ。

(あ、まーちゃんだ)

 尚人は、雑誌の表紙に雅紀を見つけて思わず手に取る。

(はぁ。やっぱり、まーちゃん、かっこいい……)

 女性誌に載っている時はにっこり笑顔が多い気がするが、今手に取ったのが男性紙だからなのか、開いたページの雅紀は、キリッと引き締まった表情でさりげないポーズをとっているのが痺れるくらいにかっこいい。左手を顎に持ってきているのは、おそらく腕につけている時計を見せるためだろう。

(この腕時計、まーちゃんにすっごく似合ってる)

 そう思いつつ、雑誌の下に小さく表示されている時計の値段を見て、尚人は絶句する。尚人が預かる篠宮家の一年間の生活費の倍以上もする金額だ。つまりは、二年間尚人たちが飲まず食わず我慢しても買えない金額の時計だということで。

(すごい……)

 尚人的に、それしか言いようがなかった。

 尚人は雑誌を棚に戻し、さらに奥へ進む。美術書、歴史書、専門書などの書棚が並ぶ。

(あ、洋書コーナーもあるんだ)

 尚人は引き寄せられるように歩み寄って、適当に一冊手に取った。流石に近所の小さな本屋では洋書の扱いはないし、図書館もそんなに品揃え豊かではない。小説以外にもビジネス書や経済誌などそこそこ豊富に並んでいるのは、近隣に住む外国人のためなのだろう。数人の外国人が立ち読みをしていた。

(これ面白い。買おうかな)

 尚人は手に取った雑誌の値段を確かめる。手持ちで十分買える値段だ。時間を確認すれば、そろそろ零との待ち合わせ場所へ行かなければいけない。尚人は雑誌を手にレジへ向かう。その途中、参考書のコーナーに見覚えのある姿を見かけて尚人は足を止めた。

(……あれって)

 間違いない。清田と皆川だ。私服姿なのだから、きっと二人で待ち合わせしてここにいるのだろう。真面目な雰囲気で参考書を選んでいるが、日曜にわざわざ二人でいるということは、そう言うことなのだろう。

(邪魔しちゃ悪いよね)

 尚人は、声を掛けずにそのままレジへと向かった。

 

 

 * * *

 

 

 日曜日、零は朝からずっとワクワクそわそわした気持ちが止まらなかった。久しぶりに尚人に会える。そう思うだけで、気持ちが高揚した。尚人との待ち合わせ時間になるのが待ち遠しくて、零は早めに家を出た。

 尚人に最後に会ったのは、去年の十二月、尚人から修学旅行のお土産をもらった時だ。その後は、大学受験本番が直前に迫り「ちょっと息抜き」何て言っている余裕は無くなったし、無事に大学に合格した後は、家計を助けるためすぐさまアルバイトを始め、零自身忙しかった。雅紀からの支援のおかげで(智之)の入院費用の心配はなかったが、母のパート収入だけではじわりじわりと家計を蝕む。特に、スポーツ特待で高校に入ったわけではない()の部活費はかなりの負担だったが、母も零も、瑛に部活をやめて欲しいとは思っていなかった。周囲の誰も彼もを敵と思い込んでいる瑛にとって、野球は今、唯一瑛を支えているものだというのは二人の目に明らかだったし、少しずつ調子の良くなってきた智之が、瑛の頑張りを楽しそうに聞いているのが回復の手助けになっているように思えたからだ。

 半年前は、どうなるのだろうという先行きの不安しかなかったが、少しずつ好転し始めている。尚人という心の支えや、雅紀からの金銭的援助がなければ、今頃どうなっていたか。それを思うと、従兄弟たちには感謝しかない。それが零の偽らざる本音である。が、瑛はまだ相変わらず従兄弟たちを敵視している。母が折々に雅紀に電話を入れ、智之の回復状況の報告と合わせて金銭的援助に対する感謝を伝えているのを耳にするたびに、

「そもそもあいつらの親父(おやじ)が元凶なのにさ。そんなに何回も礼を言う必要なんてあるのかよ」

 と愚痴り、それを(たしな)めると、

「それともあいつら、しつこく礼を言わなきゃ、マスコミに『援助してやったのに礼も言わない』と垂れ流すとでも脅してきてるのかよ」

 とまで言う始末だ。もはや何をいっても瑛の敵愾心は拭えない。そう悟った母は、瑛のそんな物言いに何も言わなくなった。零も同じだ。互いに不快にしかならないのなら、言いたくもない。が、瑛はそんな空気を読み取って、ますます(かたく)なになる。もう半年以上、零と瑛はまともに口を利いていない。そもそも、大学生になってバイトも始めた零と、朝練夕練が当たり前のハードな部活動をしている高校生の瑛とでは、生活時間にかなりのズレが生じ、そもそも顔を合わせる機会が減ったということも理由ではあるのだが。

 どうして瑛は、いつまでもああなのか。瑛のあの態度さえなくなれば、家の中の空気はもっとずっと良くなるのに、と零は思わずにはいられない。父は順調に回復してきている。そのことに母は安堵し、母の精神的負担が軽くなっているのがわかる。だから、あとは瑛だけなのだ。それを思うと、零のやるせなさは積もる一方だった。

「お待たせ、零君」

 声を掛けられ、零はハッと我に返る。振り向くと私服姿の尚人が立っていた。白シャツにライトグレーのスリムパンツという大人しめの格好だが、尚人のほっそりとした体のラインがさりげなく強調されていて、とてもよく似合っている。しかもシャツのボタン糸が青で、差し色の使い方がなかなかおしゃれだ。

「あ、尚君。久しぶり」

「うん。久しぶり。やっぱり、大学生になると、ちょっと雰囲気違うね」

「そう?」

「うん。去年会ったときより大人っぽい」

 尚人にニコニコ顔でそう言われると、くすぐったくも素直に嬉しいと思える。

 零の中に(くすぶ)っていた、モヤモヤとした気分が一気に吹き飛んだ。

「お昼食べた?」

「うん。軽くね。零君は?」

「俺は、まだ。尚君と食えば良いかって、思って来たから」

「じゃあ、どっかお店入る?」

「暑いし、そうしよっか」

 零は尚人と連れ立って、駅前のビルに入った。

「食いたいのもある?」

「うーん、特には。零君は? 零君の入りたいお店でいいよ」

「じゃあ、あそこにしようかな」

 零は、尚人を伴って地下へ降りる。実は、こういう展開になるだろうと思って下調べして来たのだ。リーズナブルで、ちょっと長居しても良さそうな洋食の店に入る。昼飯の時間帯が終わった頃で、席にはすぐに通された。

「奢るから、好きなもの頼んで」

 席に着いて零が言うと、尚人はびっくりした顔をした。

「そんな、悪いよ。俺、ちゃんとお金持ってるし、大丈夫だよ?」

 尚人のそんな様子が可愛らしくて、零はプッと吹き出す。

「俺が、尚君にご馳走したいんだよ。去年、辛かった時に尚君には本当に色々支えてもらったから。だから、バイトして自分で稼いだ金で、尚君にご馳走したいんだ」

 零が言うと、尚人は零を見つめたまま、それじゃあ、と言ってはにかむように笑った。

「お言葉に甘えて、ご馳走になろうかな。って、零君、本当に一気に大人になっちゃった感じ」

(それなら本当にいいんだけどね)

 零は、心の中でひとりごちる。

 こんな穏やかな気持ちで笑えるのは、相手が尚人だからだ。うつ病の父が入院したことで家の中の重く淀んでいた空気は薄まったが、その分、兄弟間のギスギスとした空気が濃厚になった。家の中で笑い声など絶えて久しい。

(尚君が弟だったら、よかったのにな)

 つい、そう思ってしまう。そう思ってしまうほどに、瑛の態度は頑なで、手を焼いている。しかし、それを言えば裕太だって相当手を焼いたはずだ。何せ、荒れまくった後は、中学時代の三年間全く学校へ行かず引きこもっていたのだから。

 ––刺々しい空気を周囲に撒き散らすくらいなら、いっそ、部屋に引きこもってくれた方がマシ。

 そう思って、零は自己嫌悪に陥る。

 そちらが良いなんてはず、ないのだから。

 引きこもりになれば、それが何年続くかわからない。将来どうなるのか。先行きの見通せない不安しかない。だから、零と母は二人とも、瑛の支えになっている野球を辞めさせようとは思っていないのだ。

 引きこもってくれた方がマシ、とつい思ってしまうのは、裕太が引きこもりをやめたと言う結果があるからだ。しかし、引きこもりを辞めたからと言って、裕太の将来的な心配が何もなくなった、ということはないはずだ。何せ、中学校に一日も通っていないのだ。学習の遅れは当然想定されることで、今のところ高校へも進学していないと聞いている。中卒でこの先どうなるか。普通だったら、お先真っ暗、と落胆するところだ。ただ千束の従兄弟たちには雅紀がついている。それだけで大きな励ましになるだろう。

 そんなことをつらつらと考えていると、真剣にメニューを眺めていた尚人が視線を上げた。

「決まった?」

「うん。これにしようかな。おすすめランチプレート」

「へぇ、色々載ってて、美味しそうだね」

「零君は、どれにする?」

「俺は、ガッツリ食べたいから、このオムライスランチセットにするよ」

 卓上ボタンを押して店員を呼び、注文する。ランチメニューにセットでついているドリンクバーから、それぞれ烏龍茶とジンジャーエールを注いできて、再び席に座った。

「尚君、今日、駅の反対側から来たみたいだったけど。電車で来たんじゃないの?」

 零は、少し気になっていたことを問いかける。零は、やって来る尚人を見逃さないように、改札の見える場所で尚人を待っていたのだ。

「あ、せっかくだから、本屋に寄ろうと思って早めに来たんだ」

「本屋って、このビルの5階に入ってる?」

「そう。結構大きな本屋が入ってるって話だけ聞いてて。いつか行ってみたいなって思ってたところだったから。––––で、実際行ってみたら、ワンフロア丸々本屋だったから、びっくりしちゃった」

(そうなんだ。だったら、先に言ってくれればよかったのに)

 そしたら、一緒に付き合ったのに、と零はつい思ってしまう。

「俺も、できたばっかりの時一回だけ行ったかな。大きすぎて、逆に捜したいものが見つからない、って感じで。それ以来行ってないけど」

「確かに、品揃えすごかった」

「何か買ったの?」

「うん。ちょっと気になった雑誌があったから」

「へぇ」

(尚君って、雑誌買ったりするんだ)

 興味がそそられる。

「どんなの買ったの? 見せてもらってもいい?」

「うん。いいけど」

 尚人は、カバンから書店名の印刷された手提げ袋を取り出す。その中から雑誌を出して零に渡した。

(あ、なんか(かた)そうな雑誌)

 雑誌と言えば、ファッション誌か趣味系の雑誌かと思っていたので、ちょっと意外だ。そして、パラパラっとめくって零は固まった。

(……って、これ。全文英語じゃん)

「尚君。普段からこんな雑誌読むの?」

「ううん。雑誌なんて滅多に買わないんだけど。ちょっとだけ立ち読みした時に、アメリカの経済ジャーナリストが、日本とアメリカの学校教育の違いに言及しながら今後の日米の経済的成長への私見を述べてる特集記事が面白いなって思って」

「へぇ……」

(衝動買いで、そんな雑誌買うんだ……)

 しかも英語の。

 どちらかと言えば英語が苦手な零は、尚人にそう説明されても

 ––そんなこと書いてあるんだ。

 と思う程度で、何が書いてあるのかさっぱりわからない。しかも、「学校教育」や「日米の経済成長」なんて堅いワードを出されて、それが「面白い」と言われてしまうと、自分とのレベルの違いをひしひしと感じずにはいられない。

 やっぱり、超進学校に通っていると、普段から気になるものが違うのだろうか。

「ねぇ、零君。大学ってどんな感じ? やっぱり、高校とは違う?」

 烏龍茶を一口飲んで、尚人が問いかける。尚人の方から質問してくるなど珍しく、零の沈みかけたテンションはそれだけで上がった。

「全然違う」

「どんなところが?」

「高校までって、授業の時間割って決まってて、自分で選べる授業って何個かの選択教科ぐらいでしょ。でも、大学は全部自分で時間割組むんだ。ただ、絶対取らなきゃいけない必修科目と進級に必要な単位数ってのが決まってるから、その辺のことは考えないといけないんだけど」

「それって、結構緊張するね。うっかり取り損ねてたってなったらどうなるの?」

「大学はすべて自己責任だから。単位取り損なって進級単位足りなかったら留年。ただ、大学は前期と後期に分かれてるから、前期のうっかりは後期でフォローできる場合もあるかな。ただ、前期にしか取れない授業、後期にしか取れない授業ってのもあるから。やっぱり、時間割組むときはしっかり考えないとやばい」

「そうなんだ」

 尚人が興味津々といった目を向けてくる。その姿が何とも微笑ましい。

「必修科目と必要単位数満たしてれば、あとは自由に授業取れるから。どの授業受けるか結構迷った。興味あるなし以外にも、この教授は厳しくてなかなか単位くれないって噂があったりすると、取るのやめとこうかなってなるし。バイトのシフトとの絡みで、この曜日は五限目に授業入れるのやめとこう、とかも考えたし」

「へぇ。大学って、そんなに自由なんだね」

「尚君は、志望校はもう決まったの?」

 零が問いかけると、尚人はわずかに乗り出していた身を引っ込めた。

「実は、まだ迷ってて」

 それは、珍しい。と思うのは、超進学校に通う尚人なら、もっと計画的に受験対策をしているように思っていたからだ。

「実は俺、高校卒業したら就職するつもりだったんだ」

 急な尚人の告白に、零はどきりとする。翔南高校に進学して、高卒で就職しようなんて思う生徒がいるのだろうか。

「俺が高校受験する時って、家の中が結構最低最悪の状態でさ。お互いにギスギスしてて。ほとんど口も利かなくて。それに、雅紀兄さんに負担かけてるのは明らかだったし。だから、自分のことは自分でどうにかしなきゃって、思ってて」

(そう、なんだ……)

 尚人の言葉に零は息を飲む。千束の従兄弟の家が、結構大変な思いをしたことは知っていても、実際どうだったのか、というのは知らない。塾には通えなくても、家事の一切を担っていても、翔南高校という超進学校に合格できたのだから、それなりの家庭環境は維持できていたのだとばかり勝手に思っていた。特に、尚人と雅紀は、互いに思いやり、労わりあいながら、二人手を携えて辛い時を乗り越えて来たのだろうと。子どもの頃、兄妹弟の中でも明らかに尚人ばかりを可愛がっていた雅紀の姿を見ていただけに、ドン底時代も、雅紀の尚人に対する態度は変わらず同じだったに違いないと思い込んでいたのだ。

「そしたら、去年、雅紀兄さんに大学受けていいって言ってもらって。それから大学のこと調べ始めたら、色々迷っちゃって」

「大学の二次試験って結構大学によって傾向違うから、志望校決めるのが遅くなると、受験対策も大変じゃない?」

「実は、そういうことすら最近まで知らなくって」

 尚人が苦笑する。本当に大学進学が頭になかったのだろう。

「でも、その辺は友達がいろいろ教えてくれて。結構みんな詳しいから、すっごく参考になった」

 まあ、そうだろう。それに翔南高校は、有名大学進学率ほぼ100%という噂だから、二次対策のノウハウなど学校側がいくらでも持っているだろう。

 会話が途切れたタイミングで、注文した料理が運ばれてくる。いただきます、と手を合わせ、零はホワイトソースのかかったオムライスを口に運んだ。

「実はね、父さん、今月末に退院できることになったんだ」

「そうなんだ」

「うん。退院って言っても、自宅療養に変わるってだけで、完治したってわけじゃないんだけど。これからは通院に切り替えて、少しずつ日常生活に馴染んでいく治療に切り替えていくって」

 零の説明に尚人が穏やかに微笑む。

「よかったね。智之おじさん、回復に向かってて。それが聞けて、俺も少し安心したよ」

「これも雅紀さんのおかげ。雅紀さんの援助がなかったら、俺たちだけでは入院させられなかったから」

「俺もね。お金の使い方の勉強になった。やっぱり雅紀兄さんって、すごいなって」

 そう言って尚人が笑う。その笑顔に、兄に対する絶対的な信頼と揺るぎない敬意が透けて見え、零は本気で従兄弟たちが羨ましくなった。

 どうして自分たち兄弟は、従兄弟たちのような関係が築けないのか。瑛のあの頑なな態度がほんの少し軟化するだけで改善するはずなのに。瑛の態度を軟化させる方法がわからない。実際に自分たちに害を与えたわけではない従兄弟たちを敵視し、金銭的援助を当たり前だと主張して感謝の気持ちすら見せない。今は家族の中でその態度は許容されているが、社会に出てそんな態度で通用するはずがない。ずっと野球をやってきた瑛は、むしろ零よりも実感を持ってそれがわかっていたはずだ。それなのに……

(って、俺。ずっと同じこと、ぐるぐる考えてるよな)

 零は密かに溜息をつく。

 本当は、思いの全てを尚人に明かして話を聞いてもらいたかったが、尚人を前にすると、そんなみっともない自分をさらけ出せなくて。年下の尚人に頼り切ってしまうのもカッコ悪くて。零はその後、他愛もない話に終始したのだった。

 

 

 * * *

 

 

 予定されていた仕事が一つキャンセルになって、雅紀はもう一泊する予定だったホテルをさっさと引き払うと、ジムで一時間ほど汗を流してから自宅へ帰った。

 日曜の午後三時過ぎ。てっきり家にいるものと思っていた尚人の姿がない。

 ––買い物か?

 とも思いつつ、雅紀は、扉を全開にしている裕太の部屋の前で足を止める。

「裕太。ナオは?」

 雅紀が声をかけると、こちらに背を向け、パソコン画面によくわからない記号を打ち込んでいた裕太は、どこかふてくされたような顔でチラリと振り返った。

 ––ホント、こいつって、かわいげがないよな。

 改めて思う。

「ナオちゃんなら、出かけた。智之叔父さんとこの、兄ちゃんの方と会うって言ったけど?」

「零君と?」

 そんな話、聞いてない。

 そう思って、つい気持ちがささくれる。

 一体いつの間に、会う約束などしていたのか。昨夜のおやすみコールの時も、そんな話は出なかった。

 一時期頻繁に鳴っていた零からの電話は、年明けあたりからぱたりと止んだ。零自身大学受験に専念する必要もあっただろうが、雅紀が智之の治療費を援助したことで負い目ができたからだ。と雅紀は思っている。これまでのように無邪気に尚人に甘えるなど出来ない心境になったはずだ。

 それに、治療費の心配はいらなくなっても生活費はまた別の話。麻子のパート収入だけで大学生と高校生の息子二人を養っていくのは大変だというのはわかり切ったことで、家計を助けるため、大学生になった零は、できる限りバイトをせざるを得ないだろう。それこそ「負い目」があるのだから、呑気に大学生ライフなんて送れるはずはないのだ。

 そんな雅紀の目論見通り、尚人の周りをチラつくウザい存在がいなくなって、雅紀は清清していた。

 それなのに……、である。

(智之叔父さんの退院が決まったからか?)

 それは、麻子から報告を受けていた。

 雅紀が智之の治療費を援助して以降、麻子はまめに雅紀に連絡を入れるようになった。智之の回復具合を報告し、治療費援助への感謝を述べる。多忙な雅紀に配慮するように、毎回二、三分程度の短い電話ではあるのだが、

 ––そんな頻繁に報告してこなくってもいいんだけど。

 というのが雅紀の本音だった。ただ、電話してくる麻子の心境も理解はできて、一応そつなく対応していた。麻子としては、義理を通しているつもりなのだろう。

 そんな定期的な麻子からの連絡で、「退院が決まった」と報告があったのが先週だ。近頃は随分と調子がいいような様子だったので、担当医から、自宅療養に切り替え、日常生活に馴染むための治療へと段階を進めいきましょう、という話が出たらしい。

「退院したからって、完治したってわけじゃないんだけど。一歩前進したことは確かで」

 電話の向こうからこぼれ落ちてくる麻子の声は、わずかに震えていて。

「ひとまず、よかったですね」

 雅紀がそう返すと、麻子の声ははっきりと涙に濡れた。

「ありがとう。雅紀ちゃん。本当に、ありがとう」

 ––それで、嬉々として尚人を呼び出したのか?

 あり得そうな話に、雅紀は思わず顔をしかめる。と、その時、裕太がじっと雅紀を見やっていることに気付いて、

「何だ?」

 問えば、裕太が溜息を吐きつつ肩を竦めた。

「雅紀にーちゃん、嫉妬が顔に出まくりだって。余裕ぶっこいて連絡取るの認めたのは、雅紀にーちゃんだろ」

 正論をかまされて、雅紀はさらにきつく眉根を寄せた。

 ––裕太のくせに生意気。

 なのだが、言い返す言葉もなくて。雅紀はそのままその場を立ち去った。

 

 

 尚人が帰宅したのは午後五時過ぎだった。

「あ、雅紀兄さん、帰ってたんだ」

「仕事が一つキャンセルになったから、とっとと帰ってきた」

 雅紀が玄関先で出迎えると、尚人がわずかに驚いたような表情をしたあと、にっこりと微笑む。その姿がとにかく可愛くて、思わず抱きしめてキスをする。以前は玄関先でのキスを嫌がっていた尚人だが、近頃は素直に受け入れるようになった。軽くついばむだけのキスでは物足りず、歯列を割って舌を絡ませる。溶け合うほどにキスを貪ってから尚人を解放すると、尚人の息はすっかり上がっていた。

「……まーちゃん、キス、深すぎ」

 熱を帯びた尚人の視線に煽られる。

(んー、このまま喰っちゃいたい)

 とは思ったが、晩飯前にそんなことをすれば、間違いなく裕太がブー垂れるだろう。そんなことは飯食ってからでいいだろう、とか何とか。

「今日の晩飯、何?」

「オムライスにしようかなって思ってるんだけど」

「珍しいな」

 尚人は料理上手で基本何でも作るが、メインは和食だ。もちろん洋食だろうが中華だろうが、尚人が作るものに文句があろうはずがない、というのは言うまでもない。

「昼に零君が食べてるの見て、何だか食べたくなっちゃって」

 ––何だ、それ。

 ほんの少し、雅紀のテンションが下がる。

 会っていただけでも何だか気持ちがささくれるのに、まさか一緒に飯まで食っていたとは。

「零君と、会ってたんだ?」

「うん。一昨日、急に連絡があって」

「何の用だったんだ?」

 問うと、尚人はほんの少し首を傾げた。

「何だったのかな? 智之叔父さんの退院が決まったって言ってたから、それを言いたかったのかも」

(その程度の話なら、電話で済むだろう)

 雅紀は思う。しかも、尚人が零の要件をはっきり認識できなかったということは、会って話した内容のメインが、それというわけでもなかった、ということだろう。

(てか、智之叔父さんの退院を口実に、ただナオに会いたかっただけなんじゃねーの)

 思わず穿ってしまう。いや、恐らくは、ほぼ正解の推論のはずだ。

「あ、お昼ご馳走になったから、それが用事だったのかも」

 ––は?

 それは何とも聞き捨てならない。

「バイトして自分で稼いだ金でご馳走したいって言われて。俺、びっくりしちゃったけど、こういうのは断るのも失礼かなって思って。なんか零君、大学生になって、一気に大人びちゃった感じだった」

 ––へぇ……。

(ってか、ナオを餌付けするためにバイトしてるわけじゃねーだろ)

 何だか腹が立つ。

 雅紀の中のもやもやとした気分は、尚人がせっせと晩ご飯を作っている最中も治まらなかった。ソファーに座って、キッチンに立つ尚人の姿を視姦しながらも、オムライスを作る尚人の頭の中に零の存在があると思うだけで不愉快だった。

 尚人の作るものに不満があるわけではない。その後ろにチラつく零の存在が不満なのだ。

 ––マジで目障り。

 零にはすでに一発かましているというのに、案外鈍いのかもしれない。

「はーい。お待たせー」

 尚人が食卓に出来た料理を並べる。その声に、雅紀はソファーから食卓の席へと移動する。

「裕太ー。ご飯できたよー」

 尚人が、裕太を呼びに行く。その一人になったわずかな時間。雅紀はうずく遣り場のない独占欲と悪戯心につき動かされた。

 You’re mine.

 尚人のオムライスにケチャップで書く。

 戻ってきた尚人は案の定驚いた顔をして。耳の先をほんのり赤く染めて。その姿に多少の溜飲を下げた雅紀だったが、雅紀の隣の席に座りながら、尚人が小さな声で可愛らしく、

 ––I hope so too.

 と答えると、雅紀の相好は一気に崩れたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一陣ノ風 9

 八月某日。ついに全国大会当日を迎えた。始発の電車に乗って会場入りし、三人揃って受付を済ませる。開会式と予選の組み合わせを決める抽選会が大講堂で行われ、それから予選会場となる教室へと移動した。

 突き抜けるような日本晴れ。尚人は緊張よりも、ワクワクが上回っていた。どこまで勝ち進めるかはわからない。しかし即興型ディベートには、論題と相手の理論展開次第という一期一会の出会いがある。今日は一体何と出会えるのか。意外すぎる論題か。思いもしなかった展開か。はたまた()()れするようなチームプレーか。どんな出会いも世界が広がる。そのことに尚人はワクワクしていた。

「みんな。楽しんでいくわよ!」

 顧問の坂下が喝を入れる。

「「「はい!」」」

 尚人たちの熱い戦いが始まった。

 

 

 * * *

 

 

 雑誌企画『デニムはここまで進化した』

 新進気鋭のデザイナーたちのデニムファッションを特集するグラビア撮影のため、雅紀は朝からスタジオに詰めていた。

 異素材と組み合わされたジャンバージャケット。レザー加工されたデニムパンツ。一部デニムを使った革靴など。雅紀は、それらとハイブランドを合わせたり、あえてシンプルに着こなしたりして、カメラの前で爽やかに微笑んだり、艶やかに流し目をしたりする。

 デニムのロングコートなど、一般人が着ても野暮ったいだけ、にしか思えないようなファションも、雅紀が着ればとんでもないおしゃれアイテムへと変わる。––––のだが、撮影は先ほどからしばしば中断していた。

「アンナさん、もっと笑顔ください」

「アンナさん、もう少し寄りでおねがいします」

「アンナさん、ちょっと硬いんで、もう少し自然に」

 対になるレディースファッションのモデルとの絡み撮影が進まないのだ。

 今日の相手『アンナ』は、三年務めた人気女性ファッション誌の専属読者モデルを今年の春に「卒業」し、プロのモデルとして活動を始めた、今話題の女性モデルの一人らしい。

 読者モデル時代は、「カリスマ読モ」と言われ、いつプロデビューするのかというのが読者の間でも注目され、プロ初仕事となった専属読モを務めた雑誌への「恩返しグラビア」は、話題となって雑誌の売り上げに大いに貢献したらしい。

 ––そもそも、恩返しグラビアってなんだよ。

 というのはさておき、初対面の雅紀は、彼女のそんな経歴など知らなかったし、きっちり仕事さえしてくれれば、別に「元読モ」だろうが「新人」だろうが「カリスマ」だろうがどうでも良かったが、撮影前に挨拶に来た、どことなくお調子者な感じのマネージャーがペラペラと教えてくれ、その上、その口調の端々に、うちの『アンナ』は、プロとして「新人」ではあるが、単なる「新人」とは違う、と言いたげな様子だったので、お手並み拝見と期待してのだ。が、撮影が始まれば中断に次ぐ中断。仕事中に感情を表に出すことのない雅紀だが、本当は、予定通り進まない撮影に、椅子の一つも蹴り上げたいくらいイライラしていた。

 なぜなら、今日は、尚人の全国大会決勝の日だからだ。

 ここ数日仕事でホテルに詰めている雅紀の携帯に、尚人からメールが入ったのは昨日の夕方六時過ぎ。

【無事に予選通過しました】

 まじか!

 そのメールに驚いて、本当はすぐにでも電話したかった。のだが、チームのメンバーとまだ一緒にいるのだろうと思って、ぐっと我慢した。

【おめでとう! ナオ、すごすぎ‼︎】

 即レスすると、少し待って返信があった。

【まーちゃん。それじゃまるで、優勝したみたいだよ(笑) 明日は、午前中が準々決勝で、それで残れば午後一時から準決勝です】

 尚人の返信は謙虚だったが、全国大会初出場で予選を通過するなんて凄いことだ。

 先日大学生との実践練習を見学させてもらい、即興英語ディベートがどんなものかよくわかったし、尚人たち高校生メンバーが大学生相手に一歩も引けを取らないディベートを繰り広げていたのには感心したが、それでも全国大会のレベルを知らない雅紀にしてみれば、尚人たち翔南高校メンバーが大会でどの程度結果を残せるものかは想像もつかなかった。それに、尚人の凄さは知っているが、そのことと大会で結果を残せるかどうかもまた別の話である。実力の他に、当日の調子や緊張からくる失敗など、大会には思わぬアクシデントがつきものだ。ピアノや剣道のコンクールや大会に出まくってきた雅紀は、実際に悲喜交交(ひきこもごも)見てきた。平常心というのが思いのほか難しいということも。特に試合感覚は、経験によってしか掴めない。

 だからこそ、初出場で予選通過はすごいことなのだ。しかし尚人は、今まで狭い世界で生きてきたせいなのか、凄すぎることをさらっとこなして自分の凄さに気づかないところがある。人によってはそれを「天然」と表現するかもしれないが、雅紀的には「大物」だ。その尚人の凄さを、自分の目で見て実感したい。それは雅紀にとって当然の希求だ。そもそも尚人のことで自分の知らないことがあるなんて許せない。

 本当は昨日の予選から見に行きたかったが、予選は非公開だった。三教室使ってどんどん回していくので、観客を入れる余裕もスペースもないらしい。

 ただ、ベスト8が進む二日目の決勝は、大講堂で一般観覧者を入れて行うというのは事前情報として聞いていて、尚人の結果がどうあってもいいように、本当は一日スケジュールを開けて置きたかった。しかし、ずいぶん前にマネージャーの市川にスケジュール調整を依頼したのに、あっさり「無理」と言われてしまったのだ。絡みのある仕事だから、雅紀の都合だけでスケジュールを動かすことはできない、と。その代わり、午前中の一件だけ、というのが市川の折衷案だった。それで雅紀も折れたのだ。

【仕事終わったらすぐ行く】

 だから、勝ち進んでほしい。そんな思いをメールに込めた。

【対戦相手の抽選は明日だから、どこと当たるかまだわかんないけど。昨年の優勝校が順当に勝ち進んできてて。二日目は、どこと当たっても厳しいかな。これから今日の反省会して、明日のための作戦会議です!】

 いつもとは違った雰囲気のメールからは、尚人の気持ちの昂りが感じられた。予選は三試合勝たないと通過できないという話だったから、相当に集中力を要したはずだ。雅紀の経験的に、試合慣れしてくるとオンとオフの切り替えが短時間でできるようになり、それが体力の温存へと繋がるのだが、大会というものに初めて出た尚人は終わった後も興奮冷めらやぬ感じなのだろう。となると、興奮が引いた時にどっと疲れが出る。その証拠のように、いつもならまだ起きているはずの十時頃に一度メールをしてみたのだが返信はなかった。

 今朝尚人からは【おはよう】のメールはあったが、決勝前に邪魔するのも悪いと、雅紀も【おはよう。今日も頑張れ】と軽く返しただけに止めた。それもあって、雅紀は少しでも早く撮影を終わらせたいのだ。

 丸一日尚人の声が聞けてない。

 一分一秒でも早く尚人の元へ行きたい。

 ピン撮りならいくらでも巻きで撮影する雅紀だが、この調子ではいつ終わるかわかったものじゃない。

(元カリスマ読モとやらの力を見せてみろよ!)

 と思わず心の中で毒づく。

 そこに

「十分休憩入れまーす」

 とアシスタントの声が響いて、雅紀は思わずため息をついた。

 これで何度目の小休憩かわからない。

 もはや、撮影時間より休憩時間の方が長いのではないかという気がしてくる。

 雅紀は衣装を脱いでスタジオを出た。

 一服して気持ちを落ち着けさせたい。

 声を掛けられたのは、そのタイミングだった。

「よう」

 ––誰だよ。

 少々神経をピリつかせながら顔を上げると加々美がいる。

 雅紀は軽く目を見張った。

「加々美さん。今日は、どうしたんです?」

 相手はアズラエル所属のモデルでもなし。撮影スタジオがあるだけのこのビルに何用だろうか。

 雅紀が伺うような視線を向けると、加々美はなぜか苦笑した。

「どうしたって、お前こそどうしたんだ。––––こう言っちゃ何だが、人殺しそうな目してたぞ」

 加々美の言葉に雅紀はひっそりと眉を潜めた。

 そんなひどい顔をしていただろうか。

「何だ。撮影、進まないのか?」

 加々美がどことなく同情するように言う。それに雅紀は視線だけ返しつつ、タバコに火をつけて深く吸い込んだ。相手が誰であろうと、悪口になるようなことは言いたくない。自分の吐いた言葉はいつか自分に返ってくる。それが雅紀の信条だからだ。感情的になっている時には特に、気をつけなければならない。

「ちょっと、押し気味なんです」

「ふーん」

 加々美もタバコを取り出す。

「相手、誰?」

「エリーゼの新人女性モデルですよ。『アンナ』という。元カリスマ読モらしいですけど。加々美さん、知ってます?」

「いや、知らない」

 加々美は迷う様子もなく首を振る。

「元読モってことは、まだプロになりきってないって感じなのか?」

「さあ? フレームに収まる収まらない以前の問題ではありますが」

 雅紀の口からつい本音がポロリとこぼれ落ちると、加々美が口の端で笑った。

「そりゃ、お前があれだけ刺々しい空気ばらまいてたら、相手は萎縮すんだろう。何、イラついてんだ」

 加々美の指摘に雅紀は息を吐いた。

 加々美の侮れないところは、こういうところだ。的確に、本質をついてくる。

 適当に誤魔化しても仕方ないので、雅紀は本音を吐き出した。

「ナオが全国大会に出場してて、今日決勝なんです。だから、さっさと撮影終わらせて応援に行きたいんですよ」

 雅紀が声を潜めながら言うと、加々美が思い切り目を見開いた。

「何だ、その話。全国大会って、何の?」

「即興英語ディベートです」

「へぇ、そんな大会あってんだ。––ちなみに、どこで?」

 雅紀は言いかけて、はたと加々美を見据える。

「……加々美さん。まさかと思いますが、自分だけ行こうなんて思ってませんよね」

「お前、何言ってんだ。お前の代わりに応援に行ってやろうかなっていう、親切心だろう?」

「そんな親切心はいりません。俺が行けないのに、加々美さんが行くなんて、わけわかんないでしょう?」

「いやぁ、ほら。俺だって、尚人くんとは知らない仲じゃないし?」

「だから、何なんです」

「––だから、お前。その目やめろって。まじ怖いから」

「加々美さんのせいですよね?」

「え、おれ? いや。違うと思うけど……」

 言い淀む加々美に雅紀が目をすがめると、加々美は降参とばかりに両手を軽く広げる。

「わかった。わかった。勝手に行ったりしねーって」

「本当ですか?」

「ああ、行くならお前と一緒に行くって。それならいいだろう?」

「ええ、まあ」

「よし、そうと決まれば。さっさと撮影終わらせるぞ」

 加々美はそう言うと、表情を変えた。

「まず。お前のその刺々しい空気やめろ。大抵のやつは、その空気にびびるから」

 加々美の指摘に、雅紀はかすかに口元を歪めた。

 そんなつもりはない。

 相手を威嚇するつもりもない。

 相手が勝手に萎縮しているだけだ。

 そんな雅紀の心の声が聞こえたかのように、加々美は小さく苦笑した。

「普段なら別にそれでもいいけどさ。相手の雰囲気に呑まれてるようじゃ、その程度のモデルってことだし。 ––––でも今日は、撮影、さっさと終わらせたいんだろう?」

 加々美は雅紀にささやく。

 もちろんだ。

 雅紀は頷く。

 さっさと撮影を終わらせたい。

 高望みはしないから、予定通り午前中に終わってくれさえすればいいのだ。

 ただそれも、すでに絶望に近いが。

「そういう時は、相手をうまくエスコートしてやるんだよ。大切な彼女をここ一番のデートに誘うときみたいにさ。特に相手が女性なら、自分の隣にいるのは大切な彼女だと自分に暗示をかけてだ」

「……加々美さん。申し訳ないんですけど。例えが、わからなさすぎます」

 そもそも雅紀に、エスコートしたいと思うほど大切な彼女がいたことがない。女性との付き合いは常に刹那的で、尚人への恋情を自覚してからは、それがより顕著になった。

 雅紀にとって大切にしたいのは尚人だけ。

 一緒にいたいと思うのは尚人だけ。

 笑顔が可愛いと思うのも、寝顔を独り占めしたいと思うのも尚人だけ。

 欲情して、体を一つにつなげたいと切望するのも尚人だけ。

 たとえ嫌われても憎まれても、手放せないと思うのも尚人だけだ。

「……まさかと思うけど、お前って、女性との付き合いもそんな感じのドライなのかよ?」

「それって、今、関係あります?」

 雅紀が問うと、加々美は何やら言いかけた言葉を飲み込んだ。

 視線を向けたまま、思案げに沈黙する。

 廊下で帝王とカリスマが対峙している様は傍目には絵になっていたかもしれないが、二人に間にはなんとも微妙な空気が漂っていた。

「……わかった。じゃあ、尚人くんだと思え」

「は?」

「今日一緒に撮影してるのは、尚人くんだと思うんだよ。初めての撮影で、勝手がわからなくて困ってる。そんな尚人くんをお前が手取り足取り教えてやってだな」

「……ナオは、もっと可愛いですけど」

「だーかーらー。脳内変換しろって言ってんだよ」

 加々美は思い切り片眉を跳ね上げると、雅紀の肩に手を回した。

「尚人くんの応援、行きたいんだろう?」

 加々美の問いかけに、雅紀は頷く。

 それは、切実な願いだ。

「じゃあ、やるんだよ。このまま手をこまねいて、時間を無駄にするつもりか?」

 加々美が耳元で囁く。まるで悪魔の囁きの如く。しかもそれは最もな指摘で、雅紀は覚悟を決めるかの如くタバコをもみ消したのだった。

 

 

 * * *

 

 

 課外が終了するなり教室を飛び出し、中野大輝は駐輪場へダッシュした。自転車カゴに荷物を放り込み、取り出したスマートフォンを起動させる。

 翔南高校では、校内での携帯電話の使用は禁止で、電源も切らないといけないルールだが、帰宅前に家族等へ連絡を入れることを想定し、放課後の駐輪場では使用が認められていた。

 スマートフォンのわずかな起動時間さえもどかしく感じながら、中野はネット検索をかける。知りたいのはもちろん、今日行われている全国高校生即興英語ディベート大会二日目の速報だ。

「なあ、結果どうなっている?」

 少し遅れてやって来た山下が、上がった息を整えながら中野に声を掛ける。ここまで全力で駆けて来たのだろう。ついでに、日頃から話の長い担任への不満がここぞとばかりに溢れ出す。中野はそんな山下をさっくり無視して、大会公式ホームページにアクセスすると『大会結果速報』の文字をタップした。そして、表示された画面をほんの少しスクロールする。

「うわ! 勝ってる! マジか!」

 中野が思わず叫ぶと、

「え! 見せて」

 山下が画面を覗き込んだ。

「七対二か。圧勝じゃん!」

 大会結果は、午前中に行われた準々決勝の結果だ。

 今回行われているディベート大会のジャッジ方法は、全てのディベートが終了した後、先攻の賛成意見チームの方が勝っていたと思えば赤旗を、後攻の反対意見チームの方が勝っていたと思えば白旗を上げる、というものである。ジャッジ人数は予選で三人。決勝で九人。それは予選時には三会場同時に行われて試合が決勝では一会場になり、各会場三人いたジャッジが一堂に会するからだ。

 そういったことは、事前にリサーチ済みの中野と山下である。

「準決勝は、一試合目一時からか……」

 中野は現在の時間を確認して呟く。

 今日の決勝からはネットでライブ配信されており、勝ち進んでいたら山下の家で一緒にライブ観戦する約束になっていた。中野の家より山下の家の方がほんの少しだけ学校に近いからだ。昼食を確保するため途中のコンビニで弁当を買っていく予定で、その時間を考えたらあまり余裕はない。

 中野は携帯を仕舞う。

 その時になってようやく駐輪場に姿を見せた桜坂に

「おい、弁当買って山下ん()に行くぞ」

 そう声を掛けただけで、桜坂は何もかも承知したように頷いた。

 

 

 時同じ頃、ネットではあることが話題になっていた。

 それは、一人の呟きから始まった。

『今、高校生即興英語ディベート全国大会二日目のネット配信見てたんだけど。勝ち進んでるS高のメンバーの一人って、MASAKIの弟だよね?』

 その呟きは、水面に投げ込まれた一石のごとく、あっという間に波紋を広げた。

『校名と名前から、ひょっとしてそうかも、って思って見てたけどやっぱり⁈』

『私も見てた。でも、他人じゃない? 似てないし』

『MASAKIは兄妹弟の中でも一人先祖返りして日本人離れしていることで有名。だから、似てなくて当然じゃない?』

 書き込みは、怒涛の如く。次々と皆が呟きを残していく。

『妹は似てなくても、MASAKIの妹って納得するけど。S高のメンバーは似てないどころか真逆のタイプ』

『妹の顔って公開されてんの?』

『ガールズコンテストに出場して今はモデルSAYAKAとして活動してる。アズラエルの公式HPにプロフィール載ってるよ』

『サンクス。見て来た。確かにMASAKIの妹って感じ。目力凄すぎ』

『あの家の次男って確か「和み系」じゃなかった? だったらMASAKIとは真逆で当然じゃ?』

『確かにマスコミがつけてたキャッチフレーズ。長男超絶美形、長女正統派美人、次男和み系、三男やんちゃ系だったね』

『S高の彼、確かに和み系イケメンだった』

『やっぱりイケメンなんだ!』

『端正で綺麗な顔立ちだったけど、私はイケメンって言葉より、深窓の令息って言葉の方がぴったりくる』

『わかるー。例えるなら光源氏の息子夕霧って感じ。美形のDNA引いてるけど真面目実直で頭いいとこ。英語の発音もすっごく綺麗だったし』

『だったらやっぱり他人じゃない。だってMASAKIの家って、最低最悪のクソ親父のせいで散々苦労させられたでしょ? 家族の暴露本とかマジありえなかったし。あれやられて深窓の令息って雰囲気になる』

『苦労しすぎて悟っちゃったとか?』

『悟ると育ち良さげになるの?』

『同年代より大人びはするかも』

『なるほど』

『ところで、あの家庭環境で英語ペラペラになれる? 英会話塾とか当然通えないよね?』

『あの家庭環境でS高行っちゃうくらいだから。相当頭は良さそう』

『MASAKIはネイティブに英語喋るって噂だけど。だからあの騒動あるまでファンの誰もが外国育ちのハーフだと思ってたらしい』

『じゃあ、英語は兄ちゃんに習ったんだな』

『ってことは、やっぱり大会に出てるS高メンバーはMASAKIの弟?』

『ところで、大会の様子って録画配信はされてないの? ライブだけ?』

『ライブだけ』

『見たかった』

『午後から準決勝ある』

『準決勝第一試合、午後一時から。翔南高校対甲咲高校』

 そのやりとりはあっという間に拡散し、噂が噂を読んで。

『今日の午後一時から配信の高校生即興英語ディベート全国大会準決勝にMASAKIの弟が登場するらしい』

 その情報をキャッチした、多くの覗き見趣味の者たちによって、大会ホームページにはかつてないほどのアクセスが殺到した。

 

 

 中野と山下と桜坂の三人は、途中のコンビニで弁当を調達すると、山下の家を訪れた。

「おじゃましまーす」

「おじゃまします」

 昼間は誰もいないと聞いてはいたが、中野と桜坂はひと言挨拶して玄関を上がる。山下は二人を先導する形で階段を上がり、二階の正面の戸を開けると二人を促した。

「荷物はその辺にてきとーに置いて」

 山下はそう言うと、すぐさまデスクチェアーに腰掛けて卓上のパソコンを起動させる。それから、キーボードをパチパチと物凄い速さで叩き、マウスをカチカチッと手早くクリックする。それでモニターにはすぐさま、大会公式ホームページの画面が表示されるはずだったが……。

「え、なんで」

「……まじかよ」

「……うそだろ」

 山下は何度か操作を繰り返して苛立たしげに呟く。

「どうした?」

 中野の問いかけに、山下は盛大に顔をしかめた。

「大会ホームページが開かない」

 一瞬、自分の家のネットワークに問題が発生したのかと思った山下だったが、他のサイトは問題なく開いている。

「まじで?」

 中野は、自分のスマートフォンを取り出すと、サイトにアクセスした。しかし、つい三十分前には繋がったはずのサイトは、アクセス中を示すクルクルと回るサークルを表示するばかりで繋がる気配がない。

「何でだよ」

 中野の口調もつい尖る。

 二人がただただ黙って、パソコンやスマートフォンをいじること数分。

 山下が突然叫んだ。

「うわ! まじか」

「どうした?」

「これ、見てみろよ」

 山下に促され、中野と桜坂はパソコン画面を覗き込む。

 とある呟きサイト。そこに、今日行われている即興英語ディベート全国大会にMASAKIの弟が出場しているらしいこと。弟が出場する準決勝が今日の午後一時から大会公式ホームページでネット配信されること。などの書き込みが大量に続いた後。大会公式ホームページ繋がらない。アクセスが殺到してサーバがダウンした模様。などの投稿が続いている。

「まじかよぉー」

 中野は天を仰ぐ。

 どうしようもない重苦し溜息が、部屋の中に落ちた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一陣ノ風 10

 タクシーの後部ドアが開くと同時に、雅紀は飛び出すようにタクシーを降りた。そのまま早足で大学の門を潜り、構内へと入る。大学も夏休み期間に入っているのか、思いのほか人の姿は少ない。それで返って雅紀の存在が際立つのか、何人かの学生らしき若者が、足を止め、視線を止めて、遠目に雅紀を見やる。しかし雅紀は、そんな周囲の視線など一顧(いっこ)だにすることなく、全国大会の会場となっている大講堂を目指した。

 そんな雅紀を、タクシーの支払いを丸投げされた加々美が、慌てたように追いかけてくる。

「って、おい。雅紀。ちょっと待てって!」

 小走りのその姿さえ、帝王の威厳を損なうものではないのだが、もちろん雅紀はそれにさえ目もくれない。

「おい、って」

 加々美は雅紀に並ぶと、息を整えるように小さくふうっと息を吐く。その姿さえ色男の風情たっぷりだ。帝王とカリスマが肩を並べて闊歩する様など、なかなかお目にかかれるものではないのだが、二人を遠巻きに眺めるわずかな視線が、その価値にどれだけ気付いているかは不明だ。

 が、もちろんそんなこと、雅紀にとってはどうでもいい。

「置いていくなって。俺、会場がどこだか知らないんだから」

「正面に見える大講堂ですよ」

 雅紀は答えながら、時間を確認する。午後三時を回っている。もうまもなく決勝戦が始まる時間だ。

 中断を繰り返していたグラビア撮影は、加々美のアドバイスもあって、その後は何とか進んだ。

「もう少し腰をこちらに寄せて。その方がフレーム収まりがいいから」

 雅紀は相手の女性にそう小さく囁いて、腰にそっと手を添えて微調整する。

「顔はこちらに。首から肩のラインをきれいに見せて」

 にっこり微笑みながら、顎をクイっと持ち上げる。

 そうすると、最初はガチガチだった女性モデルが、次第にトロンとした視線を向けるようになって、

 ––うぜー……

 という言葉が頭に浮かびそうになるたびに、

 ––ナオだから。今、隣にいるのナオだから。

 と雅紀は自分に言い聞かせた。

 と言っても、やはり女性モデルを尚人と思うことはできなくて。

 ––ナオの方が、もっとほっそりした腰してるよな。

 とか、

 ––この距離でナオの顔があったら、絶対キスしちゃうな。

 とか、

 ––ナオのうなじって、何であんなそそるんだろうな。

 とか、そんなことばかり考えていた。

 まあ、始終尚人のことを考えていたので、加々美的に

「やればできるじゃねーか」

 だったようだが。雅紀的には、終わってくれれば何でもよかった。

 ただ、何を勘違いしたのか、お調子者のマネージャーが撮影終了後に

「どうです、MASAKIさん。この後、親睦を深めるために、一緒に食事でも」

 と言いただした時には、さすがに、

 ––ふざけてんじゃねーよ。

 という視線ひとつで黙らせたが。

 何しろ無事終わったと言っても、予定をかなり押していて、カメラマンからOKが出た時にはすでに午後一時を回っていた。午前中に終わる予定だったはずなのに、である。

(準決勝もう始まってる時間じゃねーかよ)

 時間を確認して舌打ちし、事前に大会公式ホームページでライブ配信があると聞いていたので、せめてライブ配信を見ようと思ったのだが、なぜかホームページに繋がらなくて、さらに舌打ちした。そんなこんなで、バタバタと帰り支度をしている最中に尚人から

【準決勝勝ちました! 決勝が三時十五分からです】

 というメールが届いたのだ。

【今仕事終わった。これから向かう。応援してるから頑張れ!】

 当然即レスした。

【気をつけて来てね。慌てて事故とかあう方が心配だから】

 こんな時でも相手を気遣う尚人の優しさが嬉しくて、雅紀はそれで多少なりとも苛々とした気持ちを和らげた。

【大丈夫。タクシーで向かうから。泣いても笑っても最後なんだから、思い切り楽しめ】

 かつて自分が掛けられて、一番心に残ってる言葉を尚人に贈る。インターハイ決勝。平常心のつもりでいても、どこか肩に力が入っていた。それを見抜いたOBから掛けられた言葉だ。

【ありがとう。まーちゃん。楽しんでくるね!】

 できれば直接言いたかった。と思いつつ、雅紀は捕まえたタクシーに飛び乗ったのだ。

 足早にプロムナードを抜けて、会場である大講堂に着くと、出入り口に大会会場であることを示す看板はあったが、思いのほかひっそりとしていた。決勝戦を見に来た者は既に会場に入ってしまっているのかもしれないが、剣道のインターハイのイメージが強い雅紀にしてみれば、全国大会の会場周辺に人気(ひとけ)がないというのが少し意外だった。

(看板があるんだから、ここで間違いないんだよな?)

 雅紀は建物の正面から中に入る。その時だった。出入り口付近にいた女子高生が、じっと雅紀を見つめていると思ったら

「あ、あの!」

 と声を掛けて来た。

 そのまま無視しようと思った雅紀だったが、次に掛けられた声に足を止めた。

「篠宮先輩のお兄さんですよね」

(ん?)

 思わず女子高生を見る。雅紀は、掛けていたサングラスをずらした。

「皆川さん、だったかな?」

 雅紀は記憶を掘り起こす。間違いない。先日、大学生との実践練習の時にいた、翔南高校の一年生だ。ディベートが始まってしまうと興味も関心もなくなって、その場にいたかどうかも記憶があやふやだが、待ち合わせの正門前で顔を見た記憶がある。

 雅紀の言葉に、女子高生は明らかにホッとした顔をした。

「そうです。お兄さんが来たら、学校関係者席に案内するように言われて、待っていました」

 女子高生の言葉に、雅紀は軽く目を見張る。そんな気遣いを受けるとは思っていなかったからだ。

「それは、ありがとう」

「あの。では、こちらへ」

「おおっと、お嬢さん。ついでで悪いんだけれども、俺も一緒にいいかな?」

 皆川の後についていこうとした雅紀の肩を止めて、加々美が身を乗り出す。

「俺も尚人くんとは親しく交流しててね。応援に来たんだ」

 戸惑い顔の女子高生に畳み掛けるように加々美は続ける。女子高生相手に、何色気振りまいてるんです、と突っ込みたくなるような笑顔だ。

「加々美さん……」

 それは、ちょっと、図々しすぎやしませんか?

 と雅紀が口を開く前に、皆川がぎくしゃくとながらもうなずいた。

「はい。あの。大丈夫、……です。どうぞ、こちらへ」

 上機嫌の加々美に何かひと言言ってやりたい気もしたが、もう時間が迫っている。雅紀は、皆川の案内で会場内へと向かった。

 

 

 案内された席は、ステージ正面で、壇上にいる者と視線が合いそうなくらいの距離だった。雅紀と加々美が連れ立って会場に入れば、さすがに人目を引いたのか、観客らが一瞬さざめく。しかし会場内は、いよいよ決勝戦が始まるという直前の雰囲気で、注意事項アナウンスが流れていたこともあり、一瞬のさざめきも、すぐに静寂に飲み込まれていった。

「携帯電話の電源は、お切りになるか、マナーモードにしていただきますようお願いします。ディベート中の携帯電話の使用は、大会運営に支障をきたす可能性がありますのでお控えください。また、会場内での写真撮影、動画撮影、録音行為は一切禁じられておりますので、ご了承ください」

 そのアナウンスに、雅紀は携帯を取り出して電源を切る。長い足を持て余し気味に隣に座った加々美も、ジャケットの内ポケットから取り出した携帯電話の電源をオフにしていた。

「それでは、決勝戦に勝ち進んだチームの紹介をします。各チームは登壇ください」

 そのアナウンスに、壇下に控えていたらしい高校生たちが登壇する。それと共に、決勝戦に勝ち進んだのが翔南高校と青山清峰高校であること。青山清峰高校は昨年の優勝校で過去三回の優勝経験を持つ伝統校であるのに対し、翔南高校は全国大会初出場で決勝戦まで勝ち進んできたこと。などが紹介された。

(何だか、自分が出るより緊張するな)

 雅紀は壇上に立つ尚人を見る。壇上の尚人は、落ちついているようだが、いつもの尚人とは違って見える。晴れの舞台に立つその姿が眩しい。

「只今より、第十一回即興英語ディベート大会決勝戦を行います。チーム代表はくじを引いてください」

 アナウンスが大会の開始を告げる。

 雅紀は自分の気持ちを落ち着けるように、大きく息を吸い込んだ。

 

 

 * * *

 

 

 壇上に上がった尚人は、観客席に雅紀の姿を見つけた。

(あ、まーちゃん。間に合ったんだ。よかった)

 準決勝が終わった後、尚人はすぐに雅紀に結果報告のメールを入れた。午後からは行けそうという話だったが会場内に姿がなかったので、仕事が終わらなかったのだろうと察したのだ。

 雅紀の仕事はいつだって不規則だ。予定が押したり早まったりは(つね)のこと。それはわかり切ったことなので、尚人は気にしない。今はメールでやりとりできるので、簡単につながることもできる。

 ––仕事中ならメールも見れないかな。

 とは思ったが、それでもよかった。一番に報告したい。それが本心だから。しかし即レスがあって、尚人はそれだけで嬉しくなってしまった。

 そうやってメールを打っていると、その姿を見た清田が

「兄貴にメールしてんの?」

 と聞いて来たので、

「うん。仕事終わったから、これから来るみたい」

 と何気に答えたら、なぜか、だったら学校関係者席に座ってもらおう、という流れになったのだ。その方が会場内も混乱しないだろうから、と。そう言われると尚人も「そうかな」と思わざるを得なかったのだが。なぜかその隣には加々美の姿まである。

(加々美さんも一緒だったんだ)

 おそらく、出迎えを任された皆川は、びっくりだったんじゃないだろうか。

 その時、観客席の雅紀と視線があった。

 ––頑張れ。

 その目が、そう言って穏やかに笑う。

 その視線に、尚人は物凄いパワーをもらった気がした。

 やっぱり、メールだけより、目の前で応援してもらった方が断然いい。

「チーム代表はくじを引いてください」

 そのアナウンスに、翔南高校のチーム代表である杉本が、相手チームの代表と握手してからジャンケンをする。勝った杉本が最初にくじを引き、相手チームと同時にくじを開く。杉本が引いた方のくじに「賛成(肯定)」とあり、尚人たちは左手の席に座った。

「それでは論題を発表します。決勝戦の論題は『世界的な人口爆発を解決する手段として火星移住計画を本格的に推し進めるべきである』です。それでは討論開始まで十五分の準備時間を取ります。では、始めてください」

 論題の発表と同時に会場が少しざわめいたのは、論題が意外だったからだろう。今までは時事問題や教育問題などが論題になることが多かった。観客席からも、ヒソヒソとではあるが、

「決勝でこれ系って珍しくない?」

「意外すぎる」

 などと声がする。

「はあー。まじか! って感じ」

 杉本も、論題発表と同時に小さく唸った。

「なんで? 面白い論題だと思うけど」

 尚人が言うと、杉本は口を尖らせる。

「だってー。反対意見ならめっちゃ思いつくけど、賛成意見なんて思いつかない。なんでこのお題で賛成のくじ引いちゃったかな。火星移住なんてファンタジーすぎる」

 ––ファンタジー

 尚人は、何となくその言葉を口の中で繰り返しつつ

「杉本が思いつく反対意見ってどんなの?」

 問うと、杉本の口からはよどみなく言葉が飛び出した。

「まずは、現実問題宇宙空間に飛び出すだけでも大変でしょ。訓練もせずにど素人が宇宙に行けるのはSFの世界だけだって。それに、ロケットにはそんなにたくさんの人乗れないから、何回も打ち上げないといけないし。それだけでどんだけ費用が必要なのって感じ。そして、そうやって行った先の火星が、そもそも移住できるような環境にないんだよ。水も空気もないんだから。そこに移住しようってなったら、まずは人が住める環境を作り出さないといけないわけでしょ? そういうこと考えたら、いくらお金あっても足りないし、そんなお金あるなら地球内でどうにかした方が現実的じゃん」

「そうだね。じゃあ、地球内でできる現実的な対策って何?」

「……人口減らす」

「直接的すぎる対策だな。今いる人間を減らすってことは、殺すか死んでもらうかってことだぞ」

 清田が冷静に突っ込む。

「または、人口が増えないようにする」

「中国のひとりっ子政策みたいなもんだな。しかしあれは別の問題を誘発して結局廃止された」

 清田はそう言ってから、わずかに思案顔をした。

「俺は、増えた人口に対応し続ける、ってのも対策の一つだと思う。人口爆発が問題なのは、様々な不足を生み出すからだろう? 食糧不足、用水不足、雇用不足、住宅不足。それらが全員に十分行き渡るなら、そもそも問題にならない」

「ということは、この論題のポイントは、火星移住が現実的か否かということじゃなくって、人口爆発が生み出す諸問題にどう対応するかってことだね。対応できる具体策がないなら火星移住もやむなしってことになるんじゃない?」

 尚人が言うと、清田と杉本は同時にニヤリと笑った。

「いけるな」

「いけるね」

 二人はグータッチしてから、具体的な展開を話し合う。

 タイマーが十五分経ったことを表示すると、杉本は、いつもと同じ調子で元気いっぱいにスピーチを開始した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一陣ノ風 11

〔私たちは論題に対し賛成です。理由は、増え続ける世界の人口によって引き起こされる様々な問題を解決するためには、人口を減らすか、新天地を切り開くか、二者択一しかないからです。世界の人口は、十八世期の産業革命以降急激に増え、今や七十億人を突破していると言われます。この七十億人を養っていくだけの食糧や水が潤沢にあるならばいいのですが、そうではないので世界各地で貧困や飢餓が問題になっているのです。かつて日本では、子供が生まれても養っていけないと判断した場合「間引き」というものが行われていました。「間引き」は、生まれたばかりの赤ん坊の命を奪う行為です。明治時代初期まで行われていたと言いますが、私たちは、こんな愚かな方法を繰り返すわけにはいきません。また、人口増加への抑制策としては、中国で一人っ子政策が取られましたが、これは、二人目が生まれても出生を隠すという事態が多発し、無戸籍状態により学校教育や医療などの行政サービスが受けられない子供を生じさるという別の問題を発生させました。つまり、命や人権などが大切にされて当たり前の現代において、私たちは、人口を減少させる手段も、人口を抑制するための手段も持ち合わせてはいないのです。となると、残された手段は新天地の開拓しかありません。火星移住と聞けば、まるでファンタジーのような話に聞こえるかもしれませんが、それは火星移住が簡単ではない、と認識されている裏返しでもあります。しかし、簡単ではないからこそ、早めに、そして本気で、開発を進めなければならないのです。以上のことから、私たちは、世界的な人口爆発を解決する手段として火星移住計画を本格的に推し進めるべきであると考えます〕

〔火星移住が実現するまでにかかる費用は、いくらだと試算していますか?〕

〔試算するための資料を持ち合わせていませんので、お答えのしようがありません〕

 翔南高校側の答えに、青山清峰高校のメンバーたちが小さく頷き合う。

〔私たちは、論題に対し反対です。理由は二つあります。一つは、課題解決の方法として火星に移住するのは、あまりに非現実的であること。二つは、人口爆発の問題は、地球内で十分解決可能であると考えるからです。まず、理由の一つ目である、火星移住が非現実的であると考える理由についてですが、とにかく費用がかかりすぎます。ロケット開発のコストは、世界各国が開発するようになって段々下がってはきていますが、現在日本で開発しているロケットで約二千億円です。それを打ち上げるための費用が約百億円です。搭乗人数は七人程度。開発がさらに進むことで、その金額が百分の一になったとしても、一機につき製造と打ち上げでかかるコストは二十一億円ということになります。これを使用して人類が火星に移住する場合、仮に全世界人口の二割にあたる十四億人が移住対象と考えても、二億機のロケットが必要となり、二十一億掛ける二億の合計四十二京円と言う、とんでもない金額が、移動だけでかかることになります。繰り返しますが、これは移動だけで必要になる金額です。当然、移住先の火星の開発費用、居住地建設などにはもっと多額の費用が必要になる、ということは容易に想像できることです。これだけの金額を投入するのであれば、わざわざ地球外の荒野を開拓するより、地球上の荒野、砂漠を農地に変える方法を開発する方が現実的であり、かつ、有益であると言わざるを得ません。現在耕作できない荒地で作物が育てられるようになれば、食糧不足の問題は解決します。そこに雇用が生まれれば、雇用不足の問題やそれから生じる貧富の格差も是正されます。このようなことから私たちは、人口爆発の問題は、地球上で十分解決可能であると考えます〕

〔砂漠を農地に変える具体案はありますか〕

〔すでに様々な実験が行われています。例えば、そもそも乾燥に強い作物を開発するということもそうですが、少ない水で作物を育てられるよう多孔質ガラスを土壌に混ぜ込んだり、どのような場所でも敷くだけで土壌の代わりとなるマットを利用する方法が試されています〕

 

 

(へぇ……)

 加々美は、高校生のやりとりを眺めながら、心の中で呟いた。

 正直加々美は、即興英語ディベートというのがどういうものか分からずにやってきた。「英語ディベート」というのだから、英語を使ってディベートをするのだろうという想像はついたが、その程度のことで、そもそも、尚人が出ているというので見にきた。それだけの興味だった。

 しかし始まってみると、なかなか面白い。最初「火星移住」と聞いたときは「そんなこと議論するのかよ」と笑ってしまいそうになったが、翔南高校側の賛成意見を聞いて、「お」っと思い、「なるほど」と納得させられてしまった。単なるファンタジーの話ではなく、問題解決のための方法であると、その理路整然と意見を述べる様子に感心した。が、今度は反対側の意見を聞いて、またまた「なるほど」と納得してしまった。

 やっぱり火星移住なんて、現実的じゃないよな、と。

 ディベートなのだから、おそらくは観衆を唸らせた方が勝ちだろう、という気がする。それが理詰めなのか、情に訴えるのか。方法はあるだろうが。それでいくと今のところ、相手の高校に()があるように思う。

 もちろん、心情的には尚人の通う翔南高校に勝ってもらいたい気持ちはある。

 が……、

(やっぱ、このお題で賛成意見は厳しいだろ)

 くじ運も勝負の一つ、と言ってしまえばそうなのだろうが。

(てか、尚人くんがめっちゃ納得顔だしな)

 加々美は、うんうんと小さく頷きながら相手の発言をメモしている尚人を見やって、小さく苦笑した。

 

 

〔人口爆発の問題は、砂漠が農地になりさえすれば解決するのでしょうか。ある意味そんなに単純なことであるなら、なぜ世界はまだその課題を解決できないでいるのでしょうか。先ほど反対派の方が自ら述べたように、すでに砂漠を農地化する様々な方法が開発されているというのなら、なぜ実用化を加速させないのでしょうか。––––理由は、実に単純明快です。砂漠の農地化というのが、国や民間の行う人道支援や社会奉仕、あるいは研究者の研修対象枠内のことに留まり、世界経済の中でビジネスに繫るような市場価値がないからです。そもそも人口爆発を引き起こした要因は、大航海時代から始まった植民地主義と産業革命が結びついて生まれた大量消費社会にあります。現在急激な人口増加に悩まされている国や地域は、アフリカや南米、東南アジアといった発展途上国が占めていますが、その理由は、豊かな国が、それらの国の人々を工場で働かせる安い労働力として使役してきたから、ということにあります。つまり、安い労働力を使って大量消費社会を支えるという、企業にとって旨味のある構造だったのです。一方、この社会構造は、貧困国の人々に労働力としての家族が多ければ多いほど、世帯収入を増やすことができる、という構図を生み出しました。このことが、人口爆発に繋がったのです。しかし、発展途上国は、増えた国民に見合うだけの食料調達が国家としてできなかった。だから、飢餓の問題が発生したのです。つまりこの問題は、食糧不足で困っている国に食料を支援してあげればいい、あるいは、砂漠を農地に変えて自給自足できるようにしてやればいい、という単純な問題ではないのです。大量消費という世界経済の流れの中で生み出された問題は、世界経済の流れの中でしか解決できないのです。先ほど火星移住に必要な経費は、移動だけで四十二京円との試算が示されました。つまりは火星移住はそれほど大きな市場であり、民間企業にとってもビッグビジネスに繋がるかもしれない、美味しい話ということになります。これから宇宙ビジネスは注目を集めていく分野でしょう。ロケットだけで二億機必要だというなら、それだけ人手も必要になるということです。ビジネスチャンスがあれば企業が動きます。企業が動けば経済が回ります。この経済の流れの中に人口爆発によって生じている問題を組み込むこと。これが問題解決に必要不可欠なのです〕

 アラームが鳴る。持ち時間いっぱいであることを警告するアラームだ。スピーチをしていた翔南高校の二番手は、それでスピーチをやめた。

〔経済の流れの中に人口爆発の問題を組み込みさえすれば、問題が解決するという考えは、絵に描いた餅、としか言いようがありません。人口爆発に悩む発展途上国の国々が抱えている問題は、食料問題だけでなく、教育問題もあるからです。十分な教育を受けることができず、専門知識はおろか、そもそも読み書きすらできない。そんな境遇に置かれているがゆえに、低賃金の単純労働に使役されてきたのです。そのような人々が宇宙ビジネスに携わることが可能でしょうか? 賛成派の方の理論は、まさに「パンがなければお菓子を食べればいい」というような、問題の根本をわかっていない、机上の空論です。空を見る前に地に足をつけなければいけません。途上国の国力をつけ、生活の質の向上を目指し、衣食住を整え、そして教育を整備していくのです。そのための一歩が、自給自足できる農地の確保なのです。一朝一夕に行かないこの方法は、なんとも気の長い話に聞こえるでしょうが、それが問題の根本を解決していく唯一の方法です。先ほど、砂漠を農地化する技術の実用化が加速されていないとの意見がありましたが、それは先進国に住む私たち若者も反省すべき点です。世界の問題に目を向け、関心を持ち、ほんの少しの募金をするだけで実用化が進むかもしれません。遠い他国の話だと思わず、同じ地球に生きる仲間のことだと考え、問題解決に向けて一人一人が出来ることを行えば、わざわざ宇宙に行くまでもなく解決できる問題であると私たちは考えます〕

〔日本の食料自給率は、約三八パーセントです。その他の先進国においても百パーセントに満たない国は多々あります。食料を自給自足することにこだわる必要はあるでしょうか?〕

〔日本は技術大国です。工業製品を売って外貨を得、それで海外から食料を輸入しています。山林が多く、農地に適した平野が少ない日本においては、農業立国を目指すよりも適した国のあり方であったと言えるでしょう。それに日本は、鎖国を辞めたときに、海外に売り出す様々な物や技術を持っていたという強みもあります。しかし、途上国は海外に売りに出すような製品も技術も持たないから途上国であり、まずは自分たちの生活を整えるのが先です。日本と同じように考えるわけにはいかないでしょう〕

〔私たちの意見をまとめます。人口爆発を解決する手段として火星に移住することは、コストの面から非現実的であると考えます。移住に要する費用は、移動だけで四十二景円と試算され、これに移住先の火星の開発費や居住地建設などを加えると莫大な資金を要することが容易に想像されるからです。これだけの資金を火星移住に投入するくらいならば、砂漠を農地化する方が現実的であり、かつ、有益であると考えます。砂漠を農地化する方法はすでにいろいろ試されています。それが実用化されれば、問題解決に向けた大きな糸口となることは間違いありません。空を見る前に地に足をつけること。私たち日本に住む若者も世界の問題に目を向け関心を持つこと。そして一人一人が出来ることを行えば、わざわざ宇宙に行くまでもなく人口爆発の問題は解決できる、と私たちは考えます〕

 

 

 青山清峰高校側のスピーチが全て終わる。

 加々美は考え込むようにステージを見ていた。

 どうやら三番手は、これまでのまとめを言うだけの役割らしい。ということは、互いの意見は出尽くした、ということなのだろう。

(うーん、正直なところ、いい勝負って感じかな)

 翔南高校側の理論展開はなかなか面白いところをついているが、相手チームの「空を見る前に地に足をつけなければならない」という言い回しは、情に訴えるなかなかいい表現だ。

(それにしても高校生ってすげーな)

 心の中で呟く。

 そのとき加々美は、壇上の尚人の表情がスッと引き締まったのを見た。

 

 

〔火星移住というのは、現実問題として、実現可能でしょうか〕

 ゆったりと落ち着いたスピードで最後のスピーチが始まる。

〔現在、火星探査は、アメリカやロシア、また日本においても行われていますが、探査機による無人探査においても失敗が多く、有人探査に至っては実際に行われた例がありません。そのような現状の中で、火星へ移住するというのは、ファンタジーにしか聞こえなくても仕方がないことでしょう。しかし、人類がまだ火星へ到達してはいなくとも、宇宙開発は着実に進んでいます。すでに宇宙ステーションが築かれ、そこに人が長期滞在し、様々な実験が行われています。人はもう宇宙へ飛び出しているのです。人口爆発の問題は、大航海時代の植民地主義と産業革命が結びついた大量消費社会が生み出した社会問題です。決して、問題を抱える国のみの問題として片付けてはいけません。大量消費社会の恩恵を受けている国全てが当事国であり、日本に住む我々も当事者なのです。恩恵と慈悲を与えるという上から目線はやめようではありませんか。地球を一つの地域と考え、地球に住む全人類の発展を目指すのです。火星移住がファンタジーに聞こえても、宇宙ビジネスはこれから間違いなく拡大していく分野です。ビジネスチャンスがあればお金が動きます。お金の流れは経済にとって血の巡りと同じです。滞れば病気になり、状況によっては死に直結します。流れ続けることが大切で、それは川の流れのように(あらが)っても意味のないことです。この流れを全人類に行き渡らせること。それこそが重要なことです。火星移住が現実的か否かは、本論題の根本ではありません。火星を目指すことによって生み出される経済の流れを活用すること。それこそが、私たちの言う新天地開拓であり、人口爆発が生み出す諸問題を解決する糸口になると言えるのではないでしょうか〕

 

 

 * * * 

 

 

 アズラエル統括マネージャー高倉真理の執務室。加々美はいつもごとくセルフで淹れたコーヒを手に、本革張りのソファーに腰を下ろす。執務机でパソコンに向かっていた高倉は、チラリと視線を投げてよこしたが、何も言わずにまたPC画面に視線を落とす。それで、忙しいんだろうと判断した加々美は、気にせずひとりコーヒーブレイクを堪能することにした。高倉が忙しいのはいつものことで、加々美もコーヒーだけ飲んで特に何を言うでもなく部屋を去るのは珍しいことではない。

「お前、ネットで話題になっているぞ」

 それで高倉が、前置きも何もなく、いきなりそんなことを言ってきたので、加々美はほんの少し驚いた。

「へぇ」

 呟いて、何かしたかな? と考える。

 近頃は、表に出るような仕事はしていない。プロデュースを計画中の写真集があるが、まだ世間には公表していない。週刊誌やワイドショーを喜ばせるような不祥事も起こしていない、はずだ。

「高校生即興英語ディベート全国大会決勝の会場に、あの加々美蓮司がいたって」

「ああ。あれか」

 加々美は頷く。尚人の応援に行くと言う雅紀に半ば無理やり付いて行って、即興英語ディベート大会を観覧したのは先週のことだ。あれはなかなか刺激的な体験だった。高校生侮りがたし、とつくづく実感させられた。

「尚人くん、出てたみたいだな」

「ああ、すごかったぜ。英語が堪能なのは、よーく知ってたけどさ。ディベートってなるとどうなんだろう、って思ってたんだが。いやはや。もう脱帽って感じだった」

 加々美が言うと、高倉は執務机から加々美の前へと移動した。

「詳しく聞かせろ」

 そう言う高倉に、加々美はできる限り詳細に説明する。

 しかし、

 ––あの、ぞわりとする感覚までは、伝えられないだろうな。

 と思った。

 加々美はあの後、即興英語ディベート大会のルールを知ったのだが、最後尚人が務めた三番手は、前二人の主張やそれまでのやり取りをまとめ、自分たちの意見の方が相手よりも(まさ)っていた理由を述べるのが役目らしい。つまり、ただまとめるのではない。自分たちの意見の方が(まさ)っている、と審査員や観衆に思わせないといけないのだ。尚人はスピーチの中で、「恩恵と慈悲を与えるという上から目線はやめよう」と言うことで、相手チームの「一人ひとりが出来ること」「ほんの少しの募金」という意見を遠回しに切って捨て、「地球を一つの地域と考え」と提言することで、途上国の国力をつけることにこだわった相手チームの視野の狭さを酷評したのだ。さらには、「火星移住が現実的か否かは、本論題の根本ではありません」と言い切ることで、相手チームがそもそも論題を否定する根拠の大きな柱としていた「コストの面から非現実的」という意見を「的外れ」と言外に指摘する同時に、「問題の根本をわかっていない、机上の空論」と言った相手チームへの痛烈なしっぺ返しとしたのである。

 正直、尚人があれほど遠回しながらも的確な攻撃をするとは思っていなかった。あれこそがディベートのあるべき姿、とはいえだ。しなやかな雰囲気の裏に潜む強靭な精神力を垣間見て、加々美は尚人が雅紀とかぶって見えた。しかし、そのよくよく聞けば相手をけちょんけちょんに(けな)しているスピーチも、穏やかでまろやかな声で言うものだから、それに気づかなかった者も多かったはずだ。相手チームだって尚人のスピーチの真意にどれくらい気付いていたか。わかっていたら、緊張とは違う顔の引きつりを見せたのではないだろうか。

 ただ、さすが審判員たちはわかっていたようだ。が、ジャッジに時間がかかったのは、あまりにも尚人のスピーチのインパクトが強すぎて、それだけの判断になってしまってはいないか、と言う自問があったからだろう。

 正直、尚人がスピーチするまでは、互角の勝負、というのが加々美も抱いていた印象だったからだ。

「で、結果が翔南高校の完全勝利というわけか。こちらもネットでかなり話題になってる」

「いやー、すごかった。あの場に立ち会えてめちゃくちゃラッキーだった」

 心底そう思う。

 あの日はたまたま、雅紀が近くのビルで撮影していると知って、陣中見舞いのつもりで寄ったのだ。都合がつきそうなら食事に誘うおうとも思って。そこで、尚人が全国大会に出ていると聞かされて興味を持った。出場している大会の内容は正直どうでも良かったが、ディベートと聞いてちょっとだけ意外だった。尚人には、他人との意見の対立を避けそうな勝手なイメージがあって、ディベートみたいな活動は苦手なのではないかと思ったからだ。

 しかし、実際は違った。あんな遠回しなディスり方があるんだと言うくらい尚人のスピーチは痛烈だった。しかも、笑顔を引っ込め、キリッと引き締まった表情の尚人の双眸は、引き込まれそうな不思議な力があった。スポットライトが当たっているわけでもないのに、壇上で一人その存在感を放ち、目が離せない。こんな存在をなんと言うか加々美は知っている。

 金の卵、だ。

 しかも、羽化が近い。加々美はそれを実感を持って悟った。そして、それを雅紀が、尚人を可愛がることで遅らせようとしていることも。

 しかしそれは、悪あがきに過ぎない。雅紀も重々わかってるだろう。

「で、お前がなんでわざわざ高校生の大会なんて見に行ってたんだってことが、あちこちで噂になってるわけだが」

 ––あー、そういうことね。

 加々美は納得する。アズラエルがMASAKIと親しい加々美を使って尚人を獲得しようと動いている。そんな感じの憶測がまわっているのだろう。まあ、それは、完全に誤りとも言えない憶測ではあるが。

「言いたい奴には言わせておけばいいじゃないか?」

「それが、そう言うわけにも、いかなくてな」

 珍しく高倉が、歯切れ悪く言う。問う視線を加々美が向ければ、高倉はいつものポーカーフェイスにほんの少しの苦々しさを見せた。

「うちが動いているなら、契約が成立する前に割って入ろうと。そう思っているところがあるようだ」

 高倉がこういう言い方をするならば、ほぼ確実な動きなのだろう。

「どこ?」

 その問いに返ってきた答えに、加々美は眉根を寄せたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一陣ノ風 エピローグ

「地元新聞の取材ですか」

 雅紀が、部顧問の坂下から電話をもらったのは、大会翌日のことだった。

 尚人は「課外があるから」ととっくに家を出た後で、雅紀は、大会明けで疲れが溜まっているだろうにサボらず課外に行く尚人のタフさに感心しつつ、午後からの仕事のため、そろそろ家を出ようとしていた時間だった。

「地元新聞は、日頃から、県下の学校をよく取材されていまして。学校が何らかの活躍をしたり、取組をしたりした場合は、記事を掲載して地元に情報発信をしているんです。それで、昨日のディベート大会で本校が優勝したことも記事にしたいからと。今、取材の申し入れが入っているんですが。出来れば出場したメンバーの顔写真入りで掲載したいとの申し出なんです」

 坂下は非常に丁寧に状況説明をしてくれたが、雅紀は、坂下の説明がなくとも状況は察した。なぜなら、雅紀は高校生の時、東の青龍という渾名がつけられるほど全国的にも注目されていた選手で、地元新聞の担当記者とは顔見知りになるぐらい取材を受けていたし、インターハイで優勝した時も真っ先にコメント取りをしに来たのは地元新聞の記者だった。なので、地元新聞に、地元に密着した情報を発信したい、地元の子供達の頑張りを応援したい、という熱意があることは知っている。

「顔と名前が世間に公表されるようなものですから、保護者の方の意向確認が必要かと思いまして」

 坂下は言う。その配慮を雅紀は素直にありがたいと思った。しかし今回のことは、慶輔絡みのスキャンダルでハイエナのごとくまとわりついていたマスコミとは違う話で、尚人自身の頑張りによるものだ。それを雅紀が横からごちゃごちゃと、口を挟むのもどうかという気がする。

「いろいろと思うところがあるのは事実ですが、頑張りに対する称賛を受けるのはナオの権利ですから。ナオの意思に任せたいと思います。もちろん、ナオ自身が新聞に写真が掲載されるのは嫌だと言うなら、無理強いして欲しくはありません」

「わかりました。では、これから、このやりとりも含めて生徒たちと話をします。取材を受けることになったら、明日の新聞に掲載されますので」

「わかりました」

 それで電話は切れた。

 尚人はどう判断するだろう。少々気になりながら、雅紀は仕事へ向かった。

 

 

 

 午後八時過ぎ、雅紀は仕事を終えて帰宅した。裕太と尚人は先に夕飯を食べ終わっていて、一人食卓についた雅紀の前に尚人は夕飯を並べて向かいに座った。

「いただきます」

 手を合わせて箸をつける。今日のおかずは、豚の生姜焼きだ。それにポテトサラダとインゲンの胡麻和えがついている。味噌汁の具はナスと豆腐だ。

 雅紀が食べ始めると、向かいに座る尚人は、楽しそうに今日一日の出来事を話し始めた。

「今日学校に行ったら、駐輪場で中野と山下が待ち構えててね。すげーって何回言うのってくらい中野が連発してさ」

「昨日は山下の家に、中野と桜坂三人でライブ配信見ようって集まったらしいけど、大会ホームページのサイトがダウンしたらしくて見れなかったんだって。中野がすごく残念がってた。けどそれに対して山下が、よくよく考えれば、見れても何言ってるかはほとんど分かんなかっただろうけどなって、冷静に突っ込むのがおかしくてね」

「クラスでも昨日の結果紹介があって。みんなから、おめでとうの拍手されて。そんなことされたことがないから、ちょっとくすぐったくってさ」

 おしゃべりが止まらない尚人は、今日一日皆から祝福されたことが嬉しそうで、雅紀も嬉しくなる。

「とにかく今日一日、いろんな人に、おめでとうとか、すごいとか言われて。全国優勝したんだって実感が湧いた感じ」

「そうか」

 よかったな、と雅紀は心の底から思う。頑張りが実を結んで、皆から労いや祝福を受ける。尚人が正当な評価を受けるのは、雅紀にとっても喜びだ。

「で、新聞社の取材も受けた」

 尚人はそう言って、にこりと笑った。

「坂下先生に、頑張りに対する称賛を受けるのは俺の権利だって、まーちゃんが言ってたって聞いて。俺、すごく嬉しくって。まーちゃんのこと考えたら、変に注目浴びないほうがいいのなかって、思ったりもしたんだけど。そんなふうにまーちゃん、考えてくれてるんだって」

「当然だろう。全国優勝なんてすごいことだし」

 そうだね、と尚人はうなずく。

「でも俺は臨時部員だったし。一年の時からずっと頑張ってきた杉本や清田と同列みたいに取材受けるのはどうかなって、っても思ったんだけど。でも、杉本や清田がチーム戦だったんだから、取材受けるならチーム全員揃ってないとおかしいって言うし。そう言われたら、それもそうだなって」

 それで、いつも部の活動場所にしていた多目的教室で取材を受け、顧問の坂下も入った四人で優勝トロフィーを手に写真を撮った、と尚人は語った。

 ––明日掲載だって言ってたっけ?

 雅紀は、坂下の電話を思い出す。

 ––永久保存版だな。

「でね。今日取材に一緒に来たカメラマンがね、記念にって、これくれたんだ」

 尚人はそう言って、雅紀の前に茶封筒を差し出した。

「何入ってんだ?」

「開けてみて」

 何やら思わせぶりな顔で尚人が言う。雅紀は箸を置くと、茶封筒を手に取って封筒の中身を確認する。中に入っていたのは一枚の写真で。雅紀は取り出してから軽く目を見張った。

「これ、インターハイ決勝の」

「あ、やっぱりわかるんだ」

 写真には、剣道の防具に身を包み、今まさに一本を決めようとしている瞬間の剣士の姿が写っている。防具をつけているためその表情は窺えない。しかし写真全体から、その場の張り詰めた緊張感や気迫といったものが立ち上がってくるようだった。

 垂れに付けている『瀧芙高校 篠宮』の名札が懐かしい。

「今日来たカメラマンの人が撮ったんだって。今までインターハイの取材は何回も行って、たくさん写真撮ってきたけど、この写真以上の写真が撮れたことがないって。だから、すごく思い出に残ってる写真なんだって」

 確かこの写真は、インターハイで勝利を飾った翌日の地元紙に大きく掲載されたはずだ。しかしあの時、篠宮家はすでに新聞をとる経済的余裕はなかった。だから尚人が目にするのは初めてなのだろう。

「そっか。秋山さん、まだ頑張ってたんだな」

「まーちゃん、カメラマンの人の名前、覚えてるんだ」

「あの時は、結構何回も取材受けてたからな。インターハイの時は、初戦から張り付いてたし」

 それが本当はちょっとだけうざいと思っていたのは秘密だ。

 しかし、そんなセピア色の思い出全て含めて、剣道をしていた頃のことは過去に過ぎない。

 雅紀はわずかに苦笑して写真を尚人に返した。

「え、まーちゃんが持ってなくていいの? 多分、カメラマンの人もまーちゃんに渡したかったんだと思うけど」

「ナオが貰ったんだから、ナオが持っとけばいいさ」

 雅紀が言うと、尚人は感動したように目を潤ませた。

「本当にいいの? すっごく大切にするね。この写真のまーちゃん、卒倒しちゃうくらいにかっこいいんだもん。全身から気迫が出てて。どこにも隙がないって感じで。––––よくよく考えたら、この写真のまーちゃんと今の俺って同い年なんだよね。全然信じられない。まーちゃんがすごいのは重々知ってるけどさ、同い年って考えたら、もう、すごいってしか言えないよね」

 雅紀は苦笑する。これだけ持ち上げられて、気分が悪かろうはずがない。

 しかし、

 ––ナオだって、十分すごいんだけど。

 雅紀は思う。昨日の全国大会決勝。スピーチの内容もさることながら、雅紀は壇上で尚人の放つ力に視線が釘付けだった。ディベートは、最終的に聞く者を惹きつけないといけない。それは、正論を言えばいいとか、隙のない理論武装をすればいいとか、そういったものとはまた別の要素だ。耳障りのいい声質で、テンポの良いリズムで、穏やかながらも堂々とスピーチする尚人はとても高校生とは思えない雰囲気で、しかも理知的な双眸は引き込まれそうな不思議な光を帯びていた。

 あんなの、高校生の時に真似しろと言われても、絶対に無理だ。今だって、できるかどうか怪しい。ジャッジも尚人のあの雰囲気に呑まれたのだ、と雅紀は思う。理屈を超えたところで魅了された、その結果のあの判定だった。そう雅紀は思っている。

「まーちゃん、ご飯の後はお風呂入るでしょ?」

「ああ」

「じゃあ、お湯張りしてくるね」

 そう言って席を立った尚人を雅紀は呼び止めた。

「ナオ」

「何?」

「風呂、一緒に入ろっか?」

 雅紀が言うと、そんなことを言われるとは思いもしなかったらしい尚人は、一瞬息を呑み、そして、耳の先を赤くしつつも、こくりと頷く。

 その姿が、舐めまわしたいくらいに可愛い。

「明日は?」

「……休み」

 ぼそりと返ってきた答えに、雅紀はにっこりと微笑んだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縹色(はなだいろ)ノ雲 1

 八月某日、午後四時。篠宮明仁は、少々の手土産を持って智之(末弟)の自宅を訪れた。

 昨年慶輔(次弟)の巻き起こした一連の騒動で、心労の末うつ病を発症した智之は、甥である雅紀の援助を受けて長らく入院治療を受けていたのだが、先月末にようやく退院できた。ただ、退院と言っても完治したわけではなく、通院が必要な自宅療養に切り替わっただけではあるが、それでも退院できたと言うことは症状が改善している証で、喜ばしいことには違いない。それで、退院祝いがてら一緒に晩飯でも食おうと言うことになって、明仁はこうして智之の家を訪れたのである。

「麻子さん、おじゃまするね」

「あら、お義兄(にい)さん。いらっしゃい。早かったんですね」

 玄関先で麻子の出迎えを受けて、明仁はリビングに通される。そこに智之が庭を眺めるように胡座(あぐら)を組んで座っていた。

「よう、明仁兄貴。久しぶりだな」

 元ラガーマンのその体は、この一年でかなり(しぼ)んだ。うつ症状の一つである食欲不振により、体重がみるみる落ちたのだ。これでも、一番最悪だった時よりは増えているのだが、特に智之がスポーツマンだっただけに細い腕が目に痛い。

 しかし明仁は、あえてそのことに触れなかった。冗談でも触れられない。それが正しい。

「どうだ、自宅での生活は?」

「やっぱり、病院より何倍も良いさ。落ち着くし、飯もうまい」

「そうか。––––だそうだよ、麻子さん」

 明仁が麻子を振り返ると、麻子は照れたように苦笑した。

「やーね、お義兄さん。病院食は単に味付けが薄いからですよ」

「口に合った味が一番ってことだろう」

「明仁叔父さん、いらっしゃい」

 リビングの賑やかさを聞きつけたのか、零が顔を覗かせる。大学生になった零は、しっかり麻子()の支えになっているようで頼もしい。子供の頃は虚弱体質で、外遊びがあまり得意ではなく、盆の集まりでも半分は寝込んでいるような感じだったが、今やしっかり者の長男だ。そんな零は、今年に入ってから明仁の書道教室に通い始めた。週一とはいえ、大学生になってバイトも始めて、忙しさからやめてしまうかもしれないと密かに思っていたが、しっかり続いている。時間を見つけて家でも練習をしているようで、少しずつだが上達していた。

「そうだ、零。今度書道コンクールがあるんだが、出してみないか?」

 明仁が声をかけると、零は苦笑した。

「やだな、明仁叔父さん。まだそんなのに出せるような腕前じゃないって」

「いや、こう言うのはな、コンクールに出すっていう目的を持つと、案外一気に上達したりするもんなんだ」

「そうなの?」

「ああ、それに、尚人もずいぶん頑張ってるようだし。お前も、チャレンジしてみたらどうだ? 知ってるか? 尚人が全国大会で優勝した話?」

「何それ?」

 驚いた表情の零を見て、明仁は持参した新聞を取り出す。

「ほら、ここ。即興英語ディベートの全国大会に出場して優勝したって。載ってるだろう?」

 零が興味津々といった様子で覗き込んでくる。麻子もその隣から誌面を覗き込んだ。記事には生徒の個人名の記載はなかったが、明仁達には、にこやかに写真に写る翔南高校生のメンバーの一人が尚人であることは一目瞭然だった。

「……本当だ」

「まあ、尚人ちゃん。すごいのね」

「新聞で記事見つけて、びっくりしてさ。尚人がディベートできるくらいにペラペラ英語喋るなんて思いもしなかったし。––––で、一言お祝い言おうと、すぐ千束の家に電話を入れたんだが、雅紀も尚人も実に淡々としてるって言うか、冷静っていうか。何か、興奮して電話した俺の方が恥ずかしくなる感じでさ」

「尚君、対応が大人だもんね」

「今も時々会ってるのか?」

 盆で帰省すると、零と尚人は結構べったりくっついていた。その二人が、仲良く一緒に明仁の書道展を見に来ていたと知ったのは昨年のことだ。長らく途絶えていた交流が復活したことに、明仁は密かな喜びを感じていた。大人たちはどうあれ、従兄弟同士仲良くすることは悪いことではない。

「この間、久々に会った。その時尚君英語雑誌持っててさ。書いてある内容が日米の学校教育の違いに見る経済成長とかって言うし。すっごいの読んでるなって思ってたんだけど。きっと、ディベート大会に出るための勉強だったんだね」

 誌面には、予選から決勝まで翔南高校がディベートした論題とその時のジャッジも紹介されている。圧巻なのは決勝で9−0で勝利していることで、大会初のことらしい。大会に出場したメンバーの内二人は一年生の時からチャレンジしており、最後の出場となる今年は、メンバーが足りず英検一級を持つ同級生を誘って大会に臨んだと書いてある。

「この英検一級って、尚君のことかな?」

「どうやらそうらしい。勉強はできるんだろうとは思ってたけど、まさか英検一級持ってたとはな。あれだろ。英検一級ってネイディブでも取れないって話なんだろう?」

「そう聞くね」

「何かお祝いしたほうがいいかしら?」

「あまり気を使うと、向こうも返って負担かもしれないから。何かの折におめでとうの一言でいいんじゃないかな」

 実は明仁も何かお祝いをしようかと考えたのだ。しかし、食事の誘いは「受験生なので」と時間が裂けないことを理由にやんわり断られ、物を贈るのは「その気持ちだけで十分嬉しいです」と丁寧に断られた。

「そういえば、瑛は?」

「まだ、部活なんです」

「そっか。そういえば、瑛は残念だったな。あと一勝で甲子園だったのに」

「ええ、本当に。決勝戦は、主人も外出許可とって応援に駆けつけたんですけど。逆転負けですもんね。あの子も、相当悔しかったみたいで」

「まあ、なぁ。二点差をひっくり返されたからな。でも、瑛は来年もあるんだし。楽しみだよなぁ」

「明仁兄貴、早いけど始めようぜ」

 智之が冷蔵庫から缶ビールを運んでくる。

「飲んでもいいのか?」

 明仁が確認すると、智之はさほど表情を動かさずにうなずいた。

「ほどほどなら構わないって、医者に言われてる」

「そうか」

 その言葉に明仁は手渡された缶ビールのプルタブを開けた。

 特に言葉もなく、軽く缶をぶつけて乾杯する。

 少しずつだが色々なことが好転している感覚に、明仁は小さな喜びを感じていた。

 

 

 * * *

 

 

 瑛が部活を終えて帰宅すると、家の中に珍しく話し声が響いていた。

(あいつ来るの、今日だったっけ)

 瑛は、明仁(叔父)智之()の退院祝いを兼ねた食事会に来ると、母に告げられていたことを思い出す。その話を聞いた時、瑛の中に沸き起こったのは嫌悪だ。

 そもそも智之()がこうなってしまった原因の一端は、明仁にもある。瑛はそう思っている。なぜなら、慶輔が暴露本を出した時、智之()は最初長兄である明仁に相談に行ったのに、明仁は動かなかった。だからだ。明仁には、篠宮家の長男として、慶輔の兄として、事態の収拾に動くべき責任があったはずなのに、明仁はその責任を放棄した。それで仕方なく智之()が動かざるを得なくなったのだ。それでこんなことになってしまった。それは明確な事実で、智之()は、責任感の強さゆえに貧乏くじをひかされたのだ。

 智之はようやく退院できたが、完治したわけではない。これからも通院治療が必要で、仕事復帰はまだ見通しが立たない。なにより、痩せ細ったその姿がショックで、瑛は父が家に帰ってきても全然喜べなかった。

 それなのに明仁は、呑気に「退院祝い」などと言うのだ。自分の責任を全く理解していないとしか思えない。しかもことあるごとに麻子()には「これも雅紀のおかげ」などと言うのである。ひょっとすると千束の従兄弟たちと結託しているのかもしれない。そうして智之一家を下に置き、愉悦に浸っていに違いない。どん底から這い上がるには自分より下の存在(もの)が必要だ。自分たちはその生贄にされている。

 そんな思いが、瑛の中に渦巻く。

「お、瑛。帰ったか。遅くまでご苦労だな」

 リビングの前を通ると、目敏く見つけた明仁が声をかけてくる。酒が入っているのか、普段より陽気なその姿がさらに瑛を苛立たせた。

(うぜーんだよ)

 しかし、父にも声をかけられ、素通りもできなくて瑛は、リビングに顔を出して「ただいま」とだけ挨拶する。

「瑛、すぐご飯にするなら準備するけど?」

「先に風呂入る」

「そう。じゃあ、もうお湯張りしてるから、(ぬる)かったら沸かし直してね」

 台所に立っていた麻子に目だけでうなずいて、瑛は自室へ向かった。

(自分は座って酒飲んで、母さんは台所に立たせっぱなしかよ)

 それも腹が立った。

 何となくあの食卓に混ざるのが嫌で、瑛はいつもの倍の時間をかけて風呂に入った。

 

 

 長風呂から上がってリビングへ行くと、そこには後片付けをしている母の姿しかなかった。宴会はもうお開きになったのだろうか。何となく気になって

「父さんは?」

 と聞けば、

「酔い覚ましにちょっと外散歩したいって言い出して。お義兄さんと一緒に散歩中」

 と返ってくる。

「兄ちゃんは? 部屋?」

「そう。今週中に仕上げないといけないレポートがあるみたいで」

 その答えに、瑛は「ふーん」と気の無い返事をして、いつもの席に座った。

 大学生になった零と瑛は、同じ家に住んでいるとは思えないくらい顔を合わせない。朝は、瑛が朝練に出た後に起きてきて、夕方は、バイト先で(まかない)を食べてくるらしく、一緒に食卓につくことがほとんどない。バイトがない日は、瑛が帰った時にはすでに夕飯を終えて部屋に閉じこもっている。

 一度

「そんなにアルバイトして、なんか欲しいものでもあるのかよ」

 と聞いたのだが、零は答えてくれなかった。今年に入って急に明仁の書道教室に通い始めたので、色々と道具が必要なのかもしれない。野球のバットやグローブなどと違って、書道の紙や墨は使えばなくなる。それに筆や硯も、いいやつはそれなりの金額がするらしい。そう言う意味では書道は金のかかる趣味で、瑛はなぜ零がいきなり書道を始めたのか全く理解できなかった。(うち)にはそんな余裕はないはずだ。家計の詳細を知るわけではないが、智之()が入院しているのだから、その程度の想像はつく。それに大学は、高校以上に授業料がかかるはずで、零が大学生になって、おそらく家計はますます厳しくなっているだろう。

「母さん、ちょっと和室に布団敷いてくるから。食べ終わったら、食器は水につけといてね」

「叔父さん、泊まるの?」

「お酒入ってるからね。帰れないでしょ」

 麻子はそう言って、部屋を出ていく。一人残された食卓で、瑛は取り分けされていたらしい握り寿司を完食し、味噌汁を胃に流し込む。言われた通りに使った食器をシンクに運び、そのまま自分の部屋へ上がろうとして、瑛は、リビングのローテーブルに見慣れないレイアウトの新聞が置いてあることに気がついた。

(県外の地方紙?)

 瑛は気になって、何気にページをめくる。そして目に飛び込んできた記事に、反射的にかっと血をたぎらせた。

 尚人がにこやかに笑って写っている。何の記事かわからないが、その笑顔が許せなかった。自分たちをどん底に追い込んだ男の息子のくせに、笑って写真に収まっているというその事実が許せない。さらには、人生のスポットライトを浴びるが如く笑顔で新聞の取材を受け、人前に顔を晒せるその神経を疑う。

(何なんだよ、こいつ!)

 新聞を引き裂こうとして、瑛ははたと手を止めた。一時期ネットで、MASAKIの弟の顔が見たいと賑わっていたことを思い出したのだ。

(そうだ、こんなふうに人前に顔を晒したいなら、もっと多くのやつに晒す手伝いをしてやるよ)

 瑛は、ものすごくいいことを思い付いたかのようにうっすらと笑う。

 あの暴露本騒動の折、瑛は、野球部のベンチウォーマーにネチネチと言われたことにはとにかく腹がったったが、それとは別に、学校内のありとあらゆるところで、何かを言ってくるでもない、ねっとりとまとわりついてくる視線が嫌で嫌でたまらなかった。正直、ネチネチとでも直接言ってくるなら反撃のしようもある。それで実際手を出して謹慎処分を受けたが、それは原因を作ったと相手側も同じ処分を受けた。しかし、何も言わないまま視線だけを向けてくる相手には、手の出しようがない。睨みつければその場は退散しても、すぐに別の視線が絡みついてくる。

 ––––ほら、あれが篠宮だよ。爺ちゃんが自分の息子刺して死んだ。

 ––––父親は、ラグビーバカで、叔父さんはホモの独身なんだろう? 

 ––––MASAKIが従兄弟って、欠片もないじゃん。

 ––––結局はあいつも感情のコントロールが効かない野球馬鹿なんだろ。

 ––––高校で少々野球ができたからって何になるの? プロになれるわけでもないじゃん。

 そんな声は、目の前で直接言われるわけでなく、どこからともなく耳に入る。

「言いたいことがある奴は、はっきり言えよ!」

 そう叫べば、クスクスとした笑い声だけが響く。

 あの不快感。あの腹立たしさ。

 人の視線の不愉快さを、瑛は嫌と言うほど体験させられた。

 それを思い出したのだ。

 マスコミはMASAKIに遠慮して千束の家の周辺には近づかないみたいだが、一般のネットユーザーは違うはずだ。見たいと思えば、行ってみる。住所が分かれば特にそうするだろう。

 ––––覗き見趣味の者たちの餌食になればいい。

 心の底からそう思う。そうすれば、あの騒動の時に自分が受けた気持ちが少しはわかるはずだ。

(少しは思い知れってんだ)

 瑛は新聞を手につかむと、そのまま自室へと向かった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縹色(はなだいろ)ノ雲 2

 翔南高校では夏季課外も後半に入り、三年生の間には、いよいよ受験モード突入といった雰囲気が漂い始めていた。部活動をしていた生徒も最後の大会を終えて引退し、受験に向けて勉強に集中できる環境になった、と言うこともさることながら、夏休みに入ると同時に開始された三者面談を経て、それぞれの志望校が明確になったことも大きい。漠然と国立大文系志望とか私立大理系志望とか言っていた生徒たちも目指す大学が具体的になったことで自ずと気が引き締まり、それが三年生全体に漂う空気感になったのである。

 尚人も、学校が盆休みに入るぎりぎりの時期に三者面談を終えた。最後の最後まで受験する大学を迷っていた尚人だが、三者面談までには意思を固め、事前に雅紀にも伝えた。その時、雅紀は尚人の決断に、「そうか」と静かに答えた。

 ––––それが、ナオがずっと悩んで、いろいろ考えて、出した結論だって知ってるから、俺はそれについては何も言わない。

 ––––ただ、俺がナオの頑張りを手助けしたいって思ってることはちゃんと知っていて欲しいし、その目標に向かうために、俺にして欲しいことがあったら遠慮なく言って欲しい。

 雅紀はそう言った。そのことが尚人はすごく嬉しかった。自分のことをすごく大事に思ってくれていて、自分は一人じゃないと感じることができたから。もはや自分の進むべき道は『暗闇で何も見えない』のではない。雅紀に見守られながら、はっきりとした『明日』に向かっていく道だ。そう思えた。

 その日の放課後。課外を終えた尚人は日直の仕事をしてから昇降口へ向かった。すると久々に、中野と山下に行き合った。

「篠宮じゃん! すげー久しぶり。元気?」

「うん、元気だよ。中野は?」

「俺? 俺は、最近ずっと寝不足だよ。『サイモン』の課題のせいでな」

 中野の言う『サイモン』とは、理系クラスを受け持つ数学の斎藤先生のことだ。尚人は文系クラスにいるので授業を受けたことはないが、その独特の授業スタイルや難解な課題の噂は聞いたことがある。いわゆる学校の名物先生だ。

「くそー、何で毎日毎日数学があるんだよ」

 中野の口からため息混じりの愚痴がこぼれ落ちるが、数学どころか三年生の夏課外は六教科毎日だ。ホームルームや実技系の教科をしないので一日中机にかじりついている。

「へぇ。噂には聞くけど、やっぱ『サイモン』ってすごいの?」

 山下は尚人と同じ文系クラスだ。

「課題自体は数問なんだけどさ。めっちゃ難しいのをへーきな顔で出すんだよ。で、次の課外は、その課題の解説から始まるんだけど。『サイモン』の解説を聞くとさ、昨晩俺が睡眠時間削ってうんうん唸りながら結局ギブアップした問題がさ、なぜかめちゃ簡単に思えるんだよ。あ、この視点さえ気づけば解けたのに、何でここに気づかなかったんだろう、みたいな?」

 理系クラスでは、それを『サイモンマジック』と呼ぶらしい。

「理系クラス担当の先生って何か個性派揃いだよな。『アラジン』だってボティビル体型で古典とか、なんか笑えるし」

「『アラジン』授業は至って普通なんだけど、力加減の調節効かねーのがなぁ。一回授業中に教室のチョーク全部折ってさ。次来た先生が、『このクラスには折れたチョークしかないのか!』ってブチギレしたことあんだぜ」

「マジかよ。さすが『アラジン』」

「で、『さっき荒木先生の授業でした』って誰かが言ったらさ。その先生が『ああ、』みたいな納得顔して」

 名物先生の逸話に尚人もくすくす笑う。久々に三人揃って話が弾んだ。そのほとんどは下らない雑談だったが、駐輪場についても話は終わらず、しばし立ち話をしてからようやく三人は別れた。

 盆を過ぎれば、夕方は一気に短くなる。午後六時過ぎ。いつもより遅くなった帰宅に尚人が自転車を飛ばして帰着すると、なぜか家の前にパトカーが一台止まっている。反射的にぎょっとして固まった尚人に声をかけてきたのは、警察官と何やら話をしていたお向かいの『森川さん』だった。

「あら、尚君。おかえり。遅くまで大変ね」

 その口調は、いつもと変わらず切迫したものではない。それで幾分尚人も冷静さを取り戻した。

「こんばんは。森川さん。……あの、何かあったんですか?」

「何かって、わけじゃないんだけど」

 森川はわずかに言い淀んで、傾げた頬に右手を当てた。

「二、三日前から、見慣れない人がこの辺うろうろしてるんもんだから。ちょっと、心配になっちゃって」

 それでどうやら警察に一報入れたらしい。しかし、不安があまりにも漠然としすぎていて警察への通報が適切だったのか今更ながら不安になってしまったのか。そんな森川の心中を察したように、応対していた若い警察官が真摯な口調で答えた。

「奥さん。ちょっとでも気になることがあればご一報くださった方が、我々としては助かります。空き巣の下見ってこともありますし、ターゲットを探しているワイセツ犯と言うこともあり得ますから」

「そうよね」

「防犯に勤めるのも我々の仕事ですから。しばらくは、この辺りを重点的に巡回します。また、何か気になることがあればすぐに連絡ください」

 警察官は森川にそう告げた後に、尚人にも視線を向けた。

「君は、何か不審な人物を見かけたことはなかったかな?」

「いえ、特には」

 尚人が答えると、警察官は軽くうなずいてから言葉を続けた。

「日中人通りの少ない住宅街は空き巣被害に遭いやすいから、出かける時は施錠を確実にするように。何かあれば些細なことでもいいので、こちらへ連絡してください。110番するほどでもないと思うことでも大丈夫ですから」

 警察官はそう言って、最寄りの交番の電話番号が入った名刺を尚人に渡す。尚人はその名刺を受け取って、家に入った。

 

 

「ナオちゃん。家の前、何なの?」

 尚人が玄関を開けて家に上がると、裕太が待ち構えたように立っていた。パトカーの存在に気付いて気になっていたのだろう。

「何か、お向かいの森川さんが呼んだみたい。見かけない人がうろうろしてるって、心配になったみたいで」

「ふーん」

「裕太は、何か気になることなかった? 俺は、警察官に聞かれても心当たりなかったから、ないって答えたけど」

「……特には。というか、道端で見かけた人が近所の人かどうかって、俺わかんないし」

(まあ、そうかもね)

 裕太が引きこもりをやめて、まだ一年も経たない。親戚の顔すらほとんど記憶になかったのだから、近所の住民の顔など記憶からすっぽり消えて無くなっていてもおかしくはない。裕太が認識してるご近所さんは、お向かいの森川さんなど、ここ最近挨拶するようになった隣近所の住人ぐらいだろう。

「空き巣の下見かもしれないから施錠はしっかりするようにって。それと、何か気になることがあれば些細なことでもいいから電話してだってさ」

 尚人はそう言って、裕太にももらった名刺を見せる。

「わかった」

 存外に素直に裕太は頷く。尚人は電話台の引き出しに名刺を入れ、いつものように夕飯の準備に取り掛かった。

 今日のメインは豚肉と卵の他人丼だ。麺つゆを使えば簡単に作れる。玉ねぎに火を通している間に、レンチンしてほぐしたササミと細く切ったきゅうりをマヨネーズとオイスターソースで和える。味噌汁は朝作っていたものを温め直すだけだ。これだけでは少し寂しい気がしたので、刻んだ大葉と梅に鰹節を混ぜて豆腐に乗せて食卓に出す。ご飯は裕太が炊いててくれるので、十五分ほどで夕飯の支度が整った。

「いただきます」

 二人で手を合わせて食べ始める。

 二人きりの食卓に会話はあまりない。それでも特に気づまりではないのは、これがいつものことだからだ。それより尚人は、裕太の食べる量が一年前と比べれば確実に増えていることが嬉しい。以前は、もそりもそりとちょっとずつしか食べ進まなかった食事のスピードも、ぱくりぱくりと食べるようになった。その様子に、やんちゃで甘え上手で誰からも愛されて元気一杯だった頃の裕太の姿を垣間見る。勉強も自分のペースで頑張っているようだ。尚人が使っていた教科書とノートを使って勉強しているようだが、わからないところがあっても、ネットを使って自分で調べているらしい。理科の実験など実際できないことも、ネットに動画がアップされているのでそれを見れば充分理解できると言っていた。それでもわからないことは尚人に聞く。そうやって頼られるのが嬉しい尚人は、今日は何か質問ないのかな、と密かに期待しているのだが、裕太はなるべく自力で解決することを信条としているのか滅多に聞いてくることはない。

 聞けば早い。そんなこと裕太だってわかっているだろうが、裕太は近道がしたいわけではないのだろう。だから尚人は、裕太が聞いて来ない限りその手の話題を振ることはなかった。

「……あ」

 (どんぶり)を掻き込んでいた裕太が、いきなり呟いて箸を止める。

「どうかした?」

 尚人が視線を向けると、裕太は丼を机に置いた。

「ひょっとしたら、あいつがそうだったのかも?」

「あいつ?」

「さっきの、不審者の話」

 裕太の言葉に、尚人も箸を止めた。

「心当たりあるの?」

「思い返せばって程度だけど。一昨日スーパーに買い物行く途中、メモ片手に辺りをキョロキョロしながら歩いてる奴がいて。誰かん家に行きたくて捜してんだろうって思っただけで特に気にしてなかったんだけど」

「……それは、本当に訪問先捜してただけじゃない?」

 メモを手にしていたのなら、目的地が明確だと言うことだろう。

「そいつが、スーパーから帰ってきたら家の前にいた」

「え?」

「じっと家見てたからさ。なんか用、って声かけようと思ったんだけど、その前に歩き出していなくなったから。ま、いっかって。スルーしてたんだけど」

 うーん、と尚人は唸る。その話だけでは、不審者と判断するには弱い気がする。

「ちなみに、どんな人だったの?」

「若い女」

 予想外の答えに、尚人は目を(しばたた)かせた。不審者イコール空き巣の下見という構図が頭の中に出来上がっていた尚人にとって、空き巣イコール若い女が成立しなかったからだ。

「……それは」

 ––––まーちゃんのファンとか?

 雅紀は『MASAKI』と言う名前以外公式には何も公表していないが、昨年の騒動のせいで今や篠宮家のプライバシーは全国的にだだ漏れだ。住所や電話番号もどうやって調べるのか、一時期家の前にはマスコミが多数張っていたし、電話攻撃も酷かった。番号を変えて基本留守電対応にしてから電話で悩まされることは激減したし、雅紀の「未成年にマイクを突きつけて、しつこくまとわりついて追い回すような奴は、悪質極まりないクズも同然」と言う発言以降、マスコミが自宅周辺をうろつくことも無くなったが、それは、住所も電話番号も知らないと言うこととは違う。おそらくは今だって、篠宮家の住所も電話番号も、どうにかすれば入手可能で、いきなり見知らぬ人物が家を訪ねてくることだってあるのかもしれない。

 あの、真山瑞希だっていきなりやって来たのだ。あの時の不快さを考えれば、ただ家を見ていくだけの人はいくらでも無視できる。それが、家の中にまで侵入して来るような、犯罪に発展するのは困るが……。

「もし、何回も続くようなら雅紀兄さんに相談しないといけない、と思うけど。……しばらくは、様子見ってことで」

「わかった」

 うなずいて裕太は食事を再開する。が、すぐに裕太は再び顔を上げた。

「あ、そうだ。ナオちゃんに何か荷物届いてたけど」

「荷物?」

「ソファーに置いてる。あの、箱」

 裕太に言われて、尚人は視線を向ける。そこには、どこかで見たことがあるようなロゴの入った小ぶりの段ボール箱が置いてあった。

「誰から?」

「誰って、ナオちゃん買ったんじゃないのかよ。あれって、宅配じゃなくてネット通販だろ?」

「ネット通販? ……使ったことないんだけど」

 尚人は戸惑いながら、箸を置いてソファーに歩み寄ると、段ボール箱に貼ってある伝票を確認する。宛先には尚人の名前と住所が書いてあり、裕太の言う通り、送り元には尚人でも知っている有名なネット通販の会社名が書いてあった。

「これって、代引きだったの?」

 ネット通販は、確かクレジットカード決済か、届いた時に現金で払う代引き払いで支払いをしなければいけなかったはずだ。尚人はクレジットカードなど持たないから、ネット通販を使うためには代引きで支払うしかない。この代引きという支払い方法を悪用して、世の中には「送りつけ詐欺」なるものがあったはずで、たしか、中野や山下がそういう話をしていたことがある。

「いや、すでに払い済みだから受け取るだけだって。だから、受け取ったんだけど。……って、ナオちゃん。本当に心当たりないのかよ」

「ない」

 尚人が答えると、裕太の視線が睨みつけるように強くなった。

「ってことは、誰かがナオちゃんの名前使って通販で買い物したってこと?」

「そうなのかな? ––––でも、支払い終わってるってことは、どういうことだろ?」

 詐欺ではないだろうが。支払いを済ませた物を尚人へ送ることに何か意味があるのだろうか。

「……あ、ひょっとして明仁叔父さんかも」

「は?」

「こないだ電話があって。新聞の記事見たって」

「全国大会のやつ?」

「そう。それで、お祝いを贈るっていうから、気持ちだけで十分だって断ったんだけど」

 ひょっとすると、ネットで見つけた物を贈り物として尚人に送ってきたのかもしれない。

「だったらさ。事前に一言電話連絡あってもよくね? 今回は受け取っちゃったけどさ。心当たりのない荷物は、受取拒否することだってありえるだろ?」

「うーん。確かにそうだけど。ひょっとしたら、こんなに早く着くとは思わなかったとか?」

 尚人は自分で言いながら、その可能性が高い気がした。

「後で明仁叔父さんに電話してみる」

「ってかさ。そもそも中身は何なんだよ」

「––––確かに」

 電話するにも中身が何なのか、知らなければ始まらない。尚人はその場で箱を開けた。

「……何これ?」

 やって来た裕太が箱を覗き込んで呟く。中に入っていたのは一冊の本で、タイトルに『One Hundred Poets, One Poem Each』とある。直訳すれば、『百人の詩人、それぞれ一つの詩』だ。

「えっと、百人一首の英訳本、かな?」

「は?」

 裕太は、訳がわからないと言わんばかりに顔をしかめる。しかし尚人は、箱の中身の意外性と相まって興味が惹かれた。三十一音の短い日本語を、その裏にある心情を、どういう風に英訳しているのだろうか、と。手にとってじっくりと眺めたい。そんな衝動に駆られたが、贈り主がわからないうちは、と思いとどまった。

 裕太は、中身がわかってしまえば興味を失ったのか、席に戻って夕飯の他人丼をさっさと食べ終わると、食器を片付けて二階へ上がってしまう。尚人も食事を終えてキッチンを片付けると、荷物を抱えて自室へと向かった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縹色(はなだいろ)ノ雲 3

 海外での仕事を終えて雅紀が久しぶりに帰宅すると、珍しく家は無人だった。平日の昼過ぎ。尚人は間違いなく学校だろうが、裕太も買い出しに出ているのだろう。

 引きこもりをやめて以来、スーパーへの買い出しは裕太の仕事だ。その仕事に慣れると、裕太のお手伝いは少しずつ範囲を広げているようで、

「近頃は、風呂もトイレも裕太が掃除してくれるから、ほんと家事が楽」

 と尚人は言っていた。料理も、簡単なものならいくつか作れるようになったらしい。そういった裕太の成長は喜ばしいことに違いないが、それよりも雅紀にとっては、そういうことを嬉しそうに話す尚人の姿が見られることの方が重要だ。

 二年前は、家族のこんな形は想像もできなかった。雅紀は、尚人への劣情を自覚して、自ら弟を汚すことを恐れてなるべく家に寄り付かないようにしていたし、裕太は怒りを抱えて周囲の全てを拒絶し、部屋に鍵をかけて閉じこもっていた。そんな状況の中、家族の拠り所となる家という入れ物が無くなってしまわないよう、孤独を抱えながらも孤軍奮闘し、日常を守り続けたのが尚人だ。

 そんな尚人の頑張りを、最低最悪の方法で踏みにじった自覚は十分にある。雅紀が隠すことをやめた願望の形に、尚人が身を(すく)ませていたこともわかっている。それでも雅紀とって、欲しいものはたった一つだった。それを希求する中で、家族の形が歪にねじ曲がってしまおうとも、雅紀にしてみればどうでもよかった。自分の腕に中に尚人がいるということだけが重要だったからだ。だが、それでも、尚人が笑ってくれている方がいいに決まっている。尚人が幸せそうに笑っている姿を見ると雅紀も幸せな気分になる。だから、紆余曲折しながらも、家族が今の形に落ち着いて、穏やかな平和を得られたことは純粋に嬉しい。

 雅紀は荷物を持って二階の自室へ上がると、スーツケースの中を整理する。海外での仕事は日本とは違う刺激があって嫌いではないが、どうしても家をあける期間が長くなってしまうのが難点だ。一週間も帰れなければ、どうしたって尚人が不足する。電話だけでは埋めがたい。尚人を渇望する気持ちが抑えられなくなる。

 それでも、尚人を大学へ行かせるために仕事をしてるんだと思えば、まだ頑張れる。尚人の口からはっきりと受験する大学名を告げられたのは海外に出発する前のこと。尚人がずっと進路について悩んでいたのは知っている。それを知っていて雅紀があえてあれやこれや口を出さなかったのは、最終的には尚人が決断することだと思っていたからだ。自分の思いはすでに伝えていた。それを尚人がしっかりと受け止めてくれていることもわかっていた。だから、その先の決断は受け入れるしかない、と腹を(くく)っていたが、実際に受験する大学名を尚人の口から聞かされた時は正直ほっとした。どこの大学がどうとか、ということではなく、尚人が間違いなく大学受験という選択をしてくれたことに安堵したのだ。

 もう、高校受験の時のような思いはさせたくはない。何もかも一人で抱え込んでしまうようなことにだけはさせたくない。雅紀と尚人の関係は、あの頃とは劇的に変わった。今はお互いにちゃんと心を通じ合せているとわかってはいるが、それでも尚人は、何かあってもぎりぎりまで我慢してしまうところがある。仕事が忙しい雅紀を気遣ってのこととわかってはいても、雅紀はそれが不満だ。何かあればすぐに言って欲しいし、どんな些細なことでも尚人がらみのことなら知っていないと気が済まない。そんな雅紀の気持ちを折に触れ尚人に伝えれば、尚人は「わかっている」とは言うが、本当の意味でわかっていない、と雅紀は思っている。

 雅紀がどれほど尚人に執着しているか。尚人は、真には理解していないのだ。

 雅紀は荷物の整理が終わると、久々の自宅風呂を堪能することにした。海外から帰ってくると無性に湯船に浸かりたくなるのは、やはり日本人ゆえだろう。少しぬるめの湯を張って長風呂を楽しむ。窓から差し込む明るい日差しの中で入る風呂は、子供の頃から入り慣れた自宅の風呂であっても何だか雰囲気が違う。家の中は静かで、外から響いてくる音もない。何も考えず、頭を空っぽにする。それで、いろいろなものがリセットされた気がした。

 風呂から上がると、首にタオルを引っ掛けたままキッチンへ向かう。いつの間にか裕太が帰っていたようでソファーに姿があったが、雅紀は特段声をかけることなく冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出してガブ飲みした。

「雅紀にーちゃん。風呂、長すぎ」

 手にしていた本を閉じて、ぶすりと裕太が呟く。

 開口一番聞かされた台詞(せりふ)がそれで、気分の良いはずがない。

 ––––こいつって、ほんと可愛げなさすぎだろ。

 尚人の半分とは言わないが、十分の一位可愛げがあってもいいだろうに。

 何の用だ。

 目だけで問う。そんな雅紀の視線に、裕太はソファーから立ち上がって近づいてくると、強い視線を雅紀に返した。

「ここ最近、ナオちゃんに不審な荷物が届く」

「は?」

 どういうことだ?

 裕太の言葉が意外すぎて、雅紀の不機嫌は一気に吹き飛んだ。

「ネット通販で購入済みの物とか、差出人欄にもナオちゃんの名前が書いてある宅配便とか」

「ナオには、心当たりがないんだな?」

 雅紀が問うと、裕太はわずかに口元を歪めた。

「最初の荷物が、ネット通販で購入された物で。代引きでもなかったし。俺、てっきりナオちゃんが買ったんだとばっかり思って受け取ったんだけど。ナオちゃん、心当たりがないって。そもそもネット通販なんて使ったことないって。……まあ、そう言われたら、そうだなって。ナオちゃん質素倹約が信条だし。実物も見ずにネットで物を購入するなんて性格的にできなさそうだし。……ただ、その時は明仁叔父さんからの全国大会で優勝したお祝いかもしれないって話になって。ナオちゃんが中身を確認したら、百人一首の英訳本だって言うし。けど……」

 裕太は一旦言葉を切って、渋い顔をした。

「ナオちゃんが明仁叔父さんに電話したら、そんなの送ってないって言われたみたいで。で、その時に智之叔父さんのとこかもって話になって。明仁叔父さんが智之叔父さん家に行った時に、ナオちゃんが載った新聞持って行ったからって。––––でも、それも違ったらしくて」

「つまり、見知らぬ誰かがナオの名前を使ってネットで買った物をナオに送りつけてきたと?」

 裕太は頷く。

「で、その後も同じような荷物がちょくちょく届いて。……俺が全部、受取拒否してるから、ナオちゃんは知らないけど」

 裕太の話に雅紀はひっそりと眉を(ひそ)めた。差出人のわからない荷物なんて受け取っていいことは一つもない。裕太の受取拒否はナイス判断だ。が、一体何が起きているのか。訳のわからない事態を放置はできない。今は、受取拒否で対応できても、それでは済まない事態に発展する可能性があるからだ。

 ––にしてもナオのやつ……

 毎日電話で話しているのだから、一言連絡なり相談なりあってもいいんじゃなかろうか。

「このことで、ナオちゃん問い詰めたりするなよ」

 つい不機嫌になった雅紀の顔色を読み取ったらしい裕太がぼそりと告げる。仕事ではどんなに腹が立つことがあってもポーカーフェイスを通せる雅紀だが、尚人絡みになると別だ。とは言え、自分ではそこまで自覚していなかったことを祐太に指摘されるのは、ほんの少しだが腹が立つ。

「問い詰めたりはしないが、確認は必要だろう?」

 雅紀が答えると、裕太は思いのほか真剣な眼差しを雅紀に返した。

「俺は、この件にナオちゃんには関わって欲しくない。こんな訳のわかんないこと、放置はできないって思ってるし、何でこんなことになってんのか調べられるなら調べた方がいいって思ってるけど。––––ナオちゃんに知らさずに解決できるなら、そうした方がいいって思ってる。だって、ナオちゃんは受験生だろう? だったら、余計なことに関わってる場合じゃないじゃん」

 裕太の言葉に雅紀は軽く目を見張る。確かに、裕太の言には一理ある。尚人には、余計なことに煩わされることなく受験に専念して欲しい。そう思うのは雅紀とて同じだ。が、正直なところ、これほど裕太が尚人を気にかけるとは意外だった。

 幼い頃からずっと、裕太はどことなく尚人を下に見ていた。ヤンチャで甘え上手で誰からも可愛がられていた祐太に比べ、大人しくて甘え下手な尚人は親戚の集まりではいつも軽んじられがちだったから、そういった大人達の雰囲気を読み取って、調子に乗っていたのが祐太だった。皆が何となく尚人を軽く扱うから、自分も何となく尚人を軽く扱う。欲しいものは自分の物にし、いらない物は尚人に押し付ける。そんなことは、祐太にとって当たり前だった。

 しかしそれはある種、祐太なりの尚人に対する甘えだった。おっとりしていた尚人は大抵のことは許してしまう。それが祐太にとってはスルーされたかのように感じてしまうのか、尚人が自分を無視できないようなことをあえて繰り返す。そうやって尚人の視線を自分に向けたがっていると、雅紀の目には写っていた。引きこもっていた際の尚人への過度な反発も、ある意味その延長だったといっていい。

 プライドだけは高い祐太なので、一度雅紀が

「ナオに甘えんのもいい加減にしろよ」

 と言えば、

「ナオちゃんなんかに甘えてない」

 と言い張っていたが。

 あの時からの変化を思えば、引きこもりをやめた裕太は、確かに変わろうとしているのだろう。

 すべては、家族の絆を手放さずにいた尚人のおかげだ。

「確認だが、ナオが認識している不審物は、最初に届いた本だけなんだな?」

「そう」

「それは、まだナオの手元にあるのか?」

「たぶん。部屋にあると思う」

 裕太の応えに雅紀は迷わず尚人の部屋へ向かうと、すぐさま、すっきり片付けられた部屋に片隅に、ネット通販会社のロゴの入った小さな段ボールを見つける。後をついてきた裕太が、それで間違いないと頷くのを見て、雅紀は箱の中身を手に取った。

「確かに、百人一首の英訳本だな」

 パラパラとめくってみても、何か不審物が挟まっている様子もない。本のチョイスから言っても嫌がらせとは思えないが、送り主不明な贈り物など気持ち悪いことに違いない。

 しかし、雅紀には気になることがあった。尚人への不審物が届くようになったのが、全国大会の結果が新聞に掲載された以降のことである点だ。

 実は、雅紀にも似たような経験がある。インターハイで優勝し、その記事が新聞に掲載された時のことだ。直後、ファンレターのような物が、学校宛てだけではなく自宅にも届いた。当時は、住所や電話番号の書かれた生徒名簿など簡単に手に入る時代で、そう言ったものが自宅に届いても「すっかり有名人だな」と友人達に茶化される程度の話ではあったが。その手紙には物が添えられていることもあって、正直処理に困るというのが雅紀の本音だった。

 しかし今は、住所や電話番号は簡単には教えられない個人情報だ。尚人の通う翔南高校では緊急連絡網なるものもない。学校からの緊急連絡は、クラス委員の保護者から各家庭に通達されるか、先生達が手分けして全生徒に電話するのが基本だ。新聞に掲載された尚人を見て、どこかの誰かがファンになったとしても、簡単には住所も電話番号も入手できない。そのはずだ。が、もちろん絶対はなく、その気になれば情報を入手する方法はいくらでもあるだろう。

 違法に手に入れた情報。その後ろめたさ故に匿名で物を送る。そう考えられなくもない、が。

 もう一点気になると言えば、今回の新聞記事には、生徒の個人名の記載がなかったことだ。それが本人たちの希望だったのか学校側の配慮であったのかはわからないが、掲載されたのはあくまでも『翔南高校英語ディベートチーム』であった。そもそも尚人の顔を知らなければ『尚人が新聞に載っている』ということすらわからない記事だったのだ。

「……で、どうするつもり?」

 裕太の声に、雅紀はつらつらとした思考の淵から這い上がる。裕太をチラリと見やり、手にしていた本を箱に戻した。

「どうするかはこれから考える。……が、もし今後同じように荷物が届くなら、これからは伝票の写真を撮った上で受取拒否しろ。万が一の時の証拠になるかもしれないから」

「わかった」

 裕太はうなずいて、伝えるべきことは伝え終わったとばかりに部屋を出ていく。

 雅紀は、胸に小さなざわめきを感じつつ、そのままベッドにごろりと体を投げ出した。

 

 

 * * *

 

 

 尚人が課外を終えて帰宅すると、尚人の部屋に一週間ぶりに雅紀の姿があった。

 ––––まーちゃん、帰ってたんだ!

 思わず上げそうになった声を、尚人は慌てて飲み込む。ベッドに横たわる雅紀が静かに眠っていたからだ。

(さすがに疲れたよね)

 今回の出張先はイタリアだと聞いていた。海外で結構有名な雑誌に載ったのをきっかけに、イタリア人デザイナーの手がけるコレクションモデルのオファーが来るようになったらしい。雅紀はあまり仕事関係の詳しい話はしてくれないが、出張先を尋ねる中でそんな話を聞いたのだ。

 MASAKIの名はもはや日本を飛び出して、海外でも広まりつつある。きっとこれから海外での仕事はもっと増えるだろう。そのことを素直に「すごい」と思う一方で、寂しさが足元に絡みつく。海外での仕事は、どうしたって家を空ける期間が長くなる。今は一週間程度でも、もっと大きな仕事をするようになったら、もっと長い期間現地に滞在する必要が出てくるはずだ。カレルから、ユアンは今どこどこのコレクションに参加してるから一ヶ月は帰ってこない、とかそういう話を聞くと、雅紀だっていずれは、そういうことになるのではないかと、尚人は思うのだ。

 しかし兄の長期不在を想像して寂しがる自分に

 ––––十八にもなって、それってどうよ。

 と自嘲する自分もいる。それで、

 ––––やっぱり、俺って。まだまだ子供だよね。早く大人になって、まーちゃんに迷惑かけないようにしなきゃ。

 と、反省するのだ。

 尚人は雅紀を起こさぬよう、そっと荷物を置いて、着替えるために制服を脱ぐ。今日は雅紀が帰ってくるということで、晩ご飯は既にいろいろ仕込みを終わらせていて後は仕上げをするだけなのだが、せっかくだから雅紀が起きるまで待った方がいいだろうか。そんなことを考えながら着替えていると、急に後ろから抱きしめられた。

 刹那、尚人の体がびくりと震えて、心臓が跳ねる。反射的に身を強張らせた尚人の耳元に、すぐさま柔らかな声が落ちた。

「ナオ、ただいま」

 甘いテノールが脳髄を刺激する。と同時に、首筋にかかった息のくすぐったさに尚人は首を竦めつつ、体の緊張を解いた。

「おかえり、まーちゃん。寝てるかと思った」

 視線を向けると、柔らかな眼差しが返る。青みを帯びた琥珀の瞳。その魅惑的な双眸に、尚人は吸い込まれ、絡め取られる。

 見つめ合ったまま、言葉もなく唇が重なった。

 啄むように何度も唇を吸われ、やがて重なり合って熱く溶け合う。

 厚みのある舌が尚人の口内に侵入して上顎をねぶり、舌と舌が絡み合い、きつく吸われて尚人は喘ぐ。

 飲み込めきれなかった唾液が口角から溢れてこぼれ、尚人の首筋を滴り落ちた。

「まーちゃ……」

 息苦しさを訴える尚人の声は、雅紀に容赦なく飲み込まれた。無意識に引きかけた腰を固く抱え込まれ、尚人はそのままベッドに押し倒される。雅紀は言葉もなくこれでもかとばかりに尚人の唇を蹂躙しつつ、膝頭で尚人の股間をぐりぐりと刺激する。久しぶりの刺激に尚人のものはすぐに膨らんで固くしなり、先っぽが湿った。それを確認するかのように、雅紀の右手が尚人の股間を握り込む。

「はッ、あ!」

 わずかに上下されただけの刺激で、射精感が押し寄せた。しかし吐射するには弱すぎて、そのもどかしさに尚人の腰が揺れた。

 ––––もっと、もっとして!

 尚人は雅紀にしがみついて腰を自ら押し付ける。けれども、雅紀の手はくすぐるように尚人を焦らすばかり。どうして欲しいかなんてわかり切っているはずなのに。

 だから、

「もっと、ちゃんとして」

 そう声に出して訴えたいのに、深いキスがそれを阻む。呼吸もままならなくて、尚人の口から漏れるのは、喘ぎにも似た息遣いばかりだ。

 もどかしさと息苦しさに思考はとぎれとぎれで、「くちゅり」という卑猥な音を残してようやく唇が外れたとき、尚人はすでに裸に剥かれていた。

 のそりと上体を起こした雅紀が、今度は首筋を舐めあげる。片方の手はやわやわと尚人の珠を揉みしだき、もう片方の手は尚人の乳暈を摘み上げる。

「あァァッ!」

 ぞわりとした痺れが背筋をかけ上がった。それと同時に、首筋を舐めていた雅紀の舌が鎖骨を通って胸郭の谷間を這い、ゆっくりと乳首へと近づいていく。

 やっと乳首を舐めてもらえる。その期待感に尚人の乳首がさらに尖る。しかし雅紀の舌は焦らすように乳首の周りをちろりちろりと迷走するばかり。

「乳首、ちゃんと舐めて。––––舐めて、吸って」

 荒い呼吸を繰り返しながら哀願する。それに答えるかのように、雅紀の舌先がようやく乳首に到達する。しかし雅紀は、さらに焦らすように尖らせた舌先で弄ぶように乳首を転がすのみ。

「まーちゃん……」

 喉の奥で啼く。すると雅紀は、舌の腹で乳首全体を擦るように撫で回して尚人の乳首を唾液まみれにした後に、ようやくパクリと口に含んで吸い上げた。

「あァァァァァ……–––––」

 快感が脳天を突き抜ける。

 後はもうただただ言葉もなく、与えられる快楽に尚人は喘ぐばかりだった。

 

 

 




※二重螺旋14巻が発売されたことにより、原作と齟齬が生じている部分がありますが、すでに投稿している作品においては、齟齬修正はしませんのでご了承ください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縹色(はなだいろ)ノ雲 4

 都内の某ホテルラウンジ。雅紀はそこでマネージャーの市川を待っていた。仕事の打ち合わせなのだが、事務所ではなくホテルなのは、市川の都合だ。今日はこの近くで、事務所の新人モデルに帯同しているらしい。雅紀の所属するオフィス原嶋には三人のマネージャーがいるが専任はなく、市川も数人のモデルのマネジメントを掛け持ちしている。

 今日一日フリーの雅紀は、昼近くに起きると尚人が作り置きしていた弁当を食べてから家を出て、会員になっているスポーツジムで一時間ほど汗を流してからここへ来た。

「すみません、雅紀くん。お待たせしてしまいました」

 市川は十分ほど遅れてやってきた。新人モデルの売り込みが時間通りに進むはずがない。その辺の事情はわかっている雅紀は、市川に視線だけで「問題ない」と返し、近頃持ち歩くようになったタブレット端末を閉じた。

 雅紀は、市川にイタリア出張の報告をし、今後のオファーを打診された件について、近々事務所の方に連絡が入るはずだと伝える。雅紀のメールに直接来た連絡も市川に転送した。市川の方からは今後の仕事についての説明がひと通りあって、雅紀はその場でスケジュールを埋めていく。

「実は、日野氏から新ブランド立ち上げのイメージモデルをやってくれないかという打診が入ってまして」

「日野って、日野一平?」

 雅紀は軽く目を見張って確認する。日野一平は、日本での一般的知名度は低いが、世界四大コレクションに参加経験のある世界的デザイナーで、ファション業界では結構な有名人だ。

「そうです。二、三十代の男性をターゲットにした個性的なスマートカジュアルの新ブランド立ち上げを進めているようでして。同じアイテムでも着こなし次第でフォーマルよりにもカジュアルよりにも出来るモデルを探している、というのが雅紀くんを指名してきた理由だそうです」

「具体的な仕事内容は?」

「ブランドイメージの顔になるような仕事全般です。具体的には広告のためのグラビア撮影やコマーシャル出演。それと、世界展開を見据えた各国で開催されるショーへの参加です」

 雅紀は瞬時黙る。おそらくこれは、雅紀が今まで受けてきた仕事の中でも、かなり規模の大きな話だ。

「世界各地で行われるファッションショーの開催に合わせて、世界中を飛び回ることになります。なので、日野氏としては出来れば専属契約を結びたいという意向ですが、既に入っている仕事もありますから、そこはこの仕事を受けるにしても要検討といったところですか」

「ちなみに、新ブランド立ち上げって、どういうスケジュールです?」

「今年の十月に新ブランド立ち上げに関する記者発表。十二月の国内のファッションショーで初お披露目。年明けから、ワールドツアー開始です。記者発表のイメージ写真から雅紀くんを使いたいと言っていますので、了承の回答をすればすぐにでも衣装合わせが始まると思います」

「そのスケジュールって、入ります?」

 雅紀が既に決まっている仕事との絡みを頭に浮かべながら問うと、市川はわずかに微妙な顔をした。

「……詰め込めば、可能です。が、非常にタイトになると言わざるを得ません」

「俺に、休みなく働け、と」

「……休みが取りづらくなるのは事実ですね」

 冗談じゃない。

 雅紀は心の中だけで愚痴る。

 尚人を大学へ行かせるためなら、スケジュール帳が真っ黒になるまで頑張れる。その言葉に嘘はないが、実際真っ黒になったら尚人とセックスする時間がなくなってしまう。そうなったら、一体何を活力にすればいいのか。一週間で結構ギリギリなのに、これ以上の長期不在は耐えられない。

 昨日だって、尚人が帰ってくるなり我慢できなくなって押し倒してしまった。本当は、楽しみにしていた晩飯を堪能し、気になる送り主不明の本のことを軽く聞き出してから、甘く尚人を啼かせるつもりだった。しかし、ただいまのキスをして、腕に抱いた尚人のほっそりとした抱き心地の良さと久々に嗅いだその匂いに、あっけなく理性が吹っ飛んだ。

 そのせいで晩飯が九時過ぎになって、裕太が「いい加減にしろよ」という目で雅紀を睨みつけていたのは別にどうでも良かったが、尚人に無理をさせたのは申し訳なかった。雅紀は別に無理をしてまで尚人に晩飯を作らせるつもりはなかったのだが、尚人が「まーちゃんに食べてもらいたくて準備してるから」というので折れたのだ。とはいえ、痛む腰を我慢して台所に立つ尚人を見ていられなくて、雅紀も率先して手伝った。それはそれで結構楽しくて、こういうのも悪くない、と思う日常の一コマだったりしたのだが。そういうささやかな日常が、雅紀には必要なのだ。

 それに……、と雅紀は心の中で独りごちる。

 尚人の周りで看過できない事態が起きている今、あまり家を空けたくない、というのが雅紀の正直な気持ちだった。何かあった時に駆けつけることすらできないのでは、何のために仕事をしているのかも分からなくなる。

「いい話ですが、現状、お断りします」

 雅紀がきっぱりと告げると、市川ははっきりと渋い顔をした。

「以前にも伝えていましたが、年明けにはナオの大学受験が控えています。それに向けて出来る限りのサポートをしてやりたいってのが俺の意向です。実際問題何ができるのかって言うのはありますが、俺が忙しく仕事に飛び回っていれば、ナオは何かあっても気を遣って俺に言わない。そう言うのが嫌なんですよ。どんな些細なことでも不安とか心配事があったら相談できる状況にしておきたいんです」

 仕事を好き嫌いで選ぶつもりはないが、優先順位はある。そう言うことだ。それについては、マネージャーにも理解しておいてもらわなければならない。

「わかりました」

 市川は溜息はついたものの、余計なことなど何も言わずに頷いた。

「日野氏には、そのように伝えます」

 事務所的には逃したくはない仕事のはずだが、市川が存外にあっさりと引き下がったのは、短くはない付き合いの雅紀の性格をよくわかっているからだろう。ひょっとすると、事務所の別モデルを推すつもりなのかもしれないが、雅紀は自分の後釜には興味も関心もなかった。

 打ち合わせを終わらせて、雅紀はホテルを後にする。それから数件馴染みのショップを周り、加々美との待ち合わせ場所である『真砂』へ向かった。

「よう。おつかれ」

 雅紀が店に着くのとほぼ同時に、加々美も現れる。連れ立って店に入り、いつもの座敷に通された。

「昨日帰ってきたんだっけ? 帰国早々すまんな」

「いえ。加々美さんからのお誘いなら、いつでも歓迎ですよ。とはいえ、今日は車で帰りますので、お酒の相手はできませんが」

「ま、それはまた今度ゆっくりな」

 加々美は席に座りながら艶っぽく笑う。

 雅紀が加々美から「ちょっと話があるんだが、近々会えないか」と連絡をもらったのはイタリア出張中のことだ。いつもは特に理由もなく食事に誘ってくる加々美にしては珍しく「話がある」と言うのが気になった雅紀は、帰国したらすぐに会うとの約束をしたのである。

「今日はさすがにフリーだったんだろう?」

「ここに来る前に、マネージャーと打ち合わせだけしてきました」

「相変わらず、お前も忙しいな」

 お通しが運ばれてきて、会話が一時中断する。雅紀に合わせたのかどうかはわからないが、加々美も今日は酒を頼まなかった。

「そういえば、日野一平がお前とタッグ組みたがってるって噂聞いたんだけど?」

 さらりと加々美が口にした言葉に、雅紀はそっと息をつく。

(ほんっとこの人って、どこでそんな噂聞きつけるんだか)

 情報が早すぎて、驚くよりも呆れる。

「俺だって今日初めて聞いたのに。どこでそんな噂拾ってくるんです?」

「どこって。……まあ、それは置いといて。やっぱり本当だったんだな。聞いた時から、俺的にありだなって思ってたんだが」

「そうなんですか?」

「ああ。噂じゃ、スマートカジュアルに特化した新ブランド立ち上げのイメージモデルなんだろう? 同じアイテムできっちりフォーマルにもカジュアルにも着こなして見せるモデルって、俺の中じゃ、二、三人しか思い浮かばないし。その中ではお前が断トツだしな」

「それは、ありがとうございます」

 雅紀は素直に頭を下げる。加々美に評価してもらえるのは、理屈抜きで嬉しい。

「でも、断りましたけど」

「は?」

 加々美は、通しで出された焼きなすを箸で掴みかけてポロリと落とす。唖然としたその顔はなかなかの見ものだったが、もちろん茶化す気になどならなかった。

「なんで?」

「1番の理由は、年明けからワールドツアーが始まる計画になってたことですかね。その頃は、ナオの大学受験が本番の時期なんですよ。俺にとってはそれが最優先事項なんで。そんな大事な時期に、家を長期に空けたくないんです」

「そっか……」

 加々美は呟いて、小鉢に落ちたナスを掴みなおして口に運ぶ。

「尚人くん、受験生だもんな」

「イタリア出張の前に三者面談があったんですけど。ナオがはっきり志望大学を言ってくれて、正直ほっとしました。今まで本当に色々あって、ナオにはずっと我慢させてきましたから。これからはナオがしたいと思うことを思う存分して欲しいし、そのためのサポートを惜しむつもりはないんで」

 雅紀の吐露に加々美は柔らかな眼差しを返す。こんな時に茶化したりしない、加々美のような存在があることに雅紀は素直に感謝する。加々美がいるからこそ、雅紀は肩肘ばかり張らずに、時々、年齢相応の青年の顔をすることができるのだ。

 テーブルに、ハモの湯引きと夏野菜の天ぷらが並んで、旬の味に雅紀はしばし舌鼓を打つ。海外出張中は栄養バランスを気にしつつも、できる限り現地の物を楽しむようにしている雅紀だが、やはり和食の方がうまい、と思う。

 もちろん、尚人の手料理が一番なのは言うまでもないことだが。

「正直言うと、やりたいことを思う存分やった尚人くんが、どう成長するのか。俺も興味ある」

 加々美の呟きに、雅紀は視線を上げて、チラリと加々美を見る。

(やっぱりまだ、諦めたわけじゃないんだろうな)

 だから、尚人のアズラエル預かりの件だ。

 雅紀はきっぱりはっきり断ったのだが、その後もなし崩し的にアルバイトの依頼があって。加々美からの「お願い」であれば断りきれない雅紀は、心情的に非常に複雑なのだ。

「こないだのディベート大会もすごかったしな」

 加々美が、口に端に笑みを載せる。

「スピーチ内容もさることながら、あの時の尚人くんの雰囲気。鳥肌ものだったぜ」

 言いたいことはよくわかる。雅紀もまさにそれを実感した一人なのだから。

「ステージ上で人目を惹きつける力を持っているか否かって言うのは、見た目の美醜とか努力とかとはまた違ったところにある。まあ、こんなこと、お前には言うまでもないことだけど。––––今までも、尚人くんには、お前みたいな派手さはなくても人を惹きつける凛とした涼やかさがある、と思ってはいたが。ステージ上であれほど観衆を惹きつける力を放つとは思わなかった、と言うのが正直な感想だ」

「加々美さん」

 尚人を褒められて悪い気はしない。それは当然だ。しかし、その先に終わった話をぶり返すつもりであるのなら、雅紀としては看過できない。そんな心情がつい口調にこもって、加々美が苦笑した。

「そう、尖るなって。お前の気持ちはわかっているし、尚人くんが嫌がることを無理強いするつもりもない。……けどな、そうじゃない連中もいるってことを覚悟しておいた方がいい」

 雅紀はわずかに目を眇めた。

「どういう意味です?」

「実は、尚人くんの存在は前々から水面下で結構話題にはなっていたんだが。それこそ色々あって。お前の地雷源だってことも認識されて。それで、興味はあるけど誰も手が出せないって状態だったわけだ。でも、お前の妹がモデルデビューした後ぐらいから、妹の次は当然弟もって、またざわつき始めてさ。––––それで、他所に取られる前に正式な交渉権を得てしまおうって。そう考えてる事務所があるようなんだ」

「それは、どこ情報なんです?」

「高倉」

 加々美の返答に雅紀ははっきりと眉を(ひそ)めた。業界最大手の敏腕マネージャーである高倉が情報源だというなら、業界内に間違いなくそういう動きがあるのだろう。

「ひょっとして、加々美さんの話っていうのは、これですか」

「そうだ。現在尚人くんは未成年で、お前が保護者代わりってのは周知の事実だ。だから、尚人くんとの交渉に動こうと思えば、当然お前のところに話が来る。––––事前に、耳に入れといたほうがいいと思ってな」

「それは、ナオにいきなりスカウトマンが接触することはないってことですか?」

「俺の聞いてる範囲じゃ、そうだ。まあ、どんなルート使ってみたところで最終的にお前は避けて通れない存在だし? なら、下手に策を弄するより最初から正攻法で攻めようって。つまりは、それだけ本気ってことでもあるが」

「その動きにアズラエルは関わってくるんですか?」

「高倉的には、思案中ってとこだな。正直言えば尚人くんは欲しい。でも、一度断られてるし、まだ高校生だから慌てる必要もないって思ってたみたいだが。周りが動くとなれば、手をこまねいて傍観しているわけにもいかないって、なるだろ?」

「にしても、なんで今なんです?」

(タイミングとしては最悪だろう)

 と雅紀的に思う。高校三年生という受験期に余計な雑音など入れたくない。それでなくとも今現在、尚人の周りで不可解な出来事が起きているのだ。

「さっきも言った通り妹がデビューしたことが大きい。が、それと合わせてこの間のディベート大会も無関係じゃ無い」

「どういうことです?」

 高校生が高校生のための大会に出場したからといって、それが全国大会であっても、業界が騒ぐことになるはずがない。

「あの大会って、準々決勝からネット配信されてたんだろう?」

 それは知っている。尚人にも事前に聞いていた。だから、あの日予定が押して準決勝に間に合わないとなったとき、せめてネットで確認しようと思ったのに、何故かホームページに繋がらなかった。

「あの日の午前中の配信後にさ、お前の弟が出てるってネットで話題になってたらしい。それで、ひと目見たいって連中のアクセスが殺到して、午後の配信の時にサーバがダウンしたらしいんだが。それと合わせて、決勝の場に俺がいたってことが、ネットで取り上げられてたみたいでさ」

 ––––なるほど……

 何となく、先が読めてきた。

 なぜ、あの加々美蓮司が高校生の大会など見に行っていたのか。兄だと世間に認知されているカリスマモデルMASAKIと加々美との関係性と絡め合わせて、さぞかしいろんな憶測が駆け巡ったことだろう。

「つまり、加々美さんにも一因があると」

 含むところがあったわけではないが、雅紀がポツリと呟くと、加々美はわずかに苦い顔をした。

「後悔先に立たずとは言うが、あの時はまさかこんな事になるとは思わなかったんだ。俺としても、大事な受験期の尚人くんを大人の都合で引っ掻き回したくはない。––––で、だ。これは高倉にも話していない、俺個人からの提案なんだが」

 瞬時に、加々美の表情が変わる。加々美が時々見せる、誤魔化し無しの本気の顔つきだ。

 加々美がこの視線を自分に向けてくる時、雅紀は同時に自分も試されているのだと言う気にさせられる。この質量を持った眼差しに本気の答えが返せるのか、と。

「実は俺、プロデュース業のための個人事務所を構えていて。これはモデルとしてのマネジメント契約を結んでいるアズラエルとも合意の上の正式な事務所なんだが」

 加々美の告白に、雅紀はわずかに目を見張る。

 これまでそういう噂を耳にしたことはあっても、加々美自身それを公表したことはない。雅紀に対してだって、チラリともそんなことを匂わせるような話すらしたことがなかった。なのに、このタイミングでそれを持ち出す意味。雅紀はそれを嫌でも考えざるを得なくて、刹那押し黙った。

「その俺個人の事務所で尚人くんを預かるってはどうだろう。尚人くんが今後どういう道に進むにしても、それを後押しする、いわゆるプロデュース契約ってことで。これならば、尚人くんとマネジメント契約を結びたい事務所も俺の事務所を通さなきゃいけないってことになるし、尚人くんが成人した後も、直接本人にスカウトマンが押し寄せることはなくて、やりたい事に集中できるっていうメリットもある」

「随分と有難い話ですが、加々美さんに何かメリットがあるんですか?」

「もちろん、ある」

 加々美は頷く。

「俺は尚人くんのプロデューサーって事になるわけだから、大手を振って尚人くんを色んな所に連れ回して、色々経験させてやることができる。デビューしたばっかのお前をあちこち連れ回したみたいにさ。芝居見に連れて行ったり、うまい飯食わせてやったり、一緒に酒飲んだり。お前の時も随分楽しかったが、尚人くんはまた違った楽しさがあるだろうって思ってる」

 加々美はそう言うと一転艶っぽく笑った。大人の寛容さと色っぽさを兼ね揃えた、雅紀には到底真似できない帝王の笑みだ。

(本当に、この人は……ずるい)

 雅紀は、心の中で息をつく。

 人たらしの本領発揮だ。

 加々美の真摯な忠告は有難いし、それに対する提案も、もったいないくらいにいい話には違いない。ただ、雅紀の兄としての矜持と男としての悋気(りんき)()(むし)られのはどうしようもない。

「タイミングを見てナオに話してみます。それで、いいですか?」

「ああ。じっくり話し合って決めてくれ」

 状況は刻一刻と変わりつつある。自分の思いはさておいて、すでに以前と同じ回答ではいられないのだろうと言う予感が雅紀の中にあった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縹色(はなだいろ)ノ雲 5

 大学二年生の夏休み。沙也加はそこそこ多忙で充実した毎日を過ごしていた。

 一時期、ありもしない恋愛騒動を週刊誌に書き立てられて精神的に参ってしまった沙也加だが、メディアの喧騒はひと月もしない内に嘘みたいに静かになって、沙也加の日常生活はあっという間に元に戻っていた。それはそれで、良くも悪くも旬なものにしか興味を示さないメディアの実態を垣間見た気がして複雑な気分にさせられたのだが、とりあえず平穏な日常に文句はない。

 今週はデザイナー主催のオーディションを一件受けて、雑誌のグラビア撮りが一本あった。初グラビアを飾った雑誌『ノエル』には、それなりに評価してもらったようで、コンスタントに仕事が入ってくる。とはいえ、モデル一本で食べていけるには程遠く、モデルのステータスとも言えるランウェイデビューがまだであることが沙也加の矜持を燻り続けていた。

 もちろん、ステージに拘らないモデルは多くいる。雑誌やCMの仕事の方が世間的認知度が上がりやすく、ギャラも高い、ということもある。しかし、沙也加の中には常に雅紀の存在があって、雅紀の見ている世界を自分の目で見てみたい、というのがモデルの世界に飛び込んだ動機でもある以上、ステージを中心に活躍している雅紀と同じ舞台に立つことが沙也加の目標であった。

 そのためのレッスンも受け続けている。しかし、ハイヒールを履いて真っ直ぐきれいに歩く、と言うのは案外難しく、沙也加は悪戦苦闘していた。如何せん運動部経験などない上に、大学生になってからはどこへ行くにも車移動をしていた沙也加は、圧倒的に腹筋背筋が弱い。そのため、インナーマッスルを鍛えるためのトレーニングも受ける必要があった。大学の授業を受けつつレッスンやトレーニングに通い、その合間にバイトもする生活はなかなかハードだったが、頑張ってきた甲斐あって「デビューしたての頃より随分マシになった」と自信がついてきた。そういった自信が雰囲気にも現れるのか、マネージャーの唐澤からも「モデルが板についてきた」と言ってもらい、それが励みになっている。

 しかし、モデルとしての実力と実績を着実に積み上げている一方で、沙也加を悩ませる事態も起きていた。いわゆるモデル仲間からの『いじめ』だ。聞こえよがしの陰口悪口は可愛い方で、ウォーキングのレッスン中に足を引っ掛けられる。少し目を離した隙にレッスン用のハイヒールを折られる。荷物を入れていたロッカーの鍵が壊されて中の荷物が水浸しにされる、なんてこともあって。泣き寝入りはしたくないが、泣き言も言いたくない沙也加は、

 ––––こんなことして、ばっかじゃないの。

 と、思うことでやり過ごしてはいたが、それでも胸は燻り続ける。それで、夏ゼミで久々に大学に顔を出したその日、講義終わりに大学構内のカフェテリアでお茶の流れになったいつものメンバーを前に、沙也加は雑談の最中にポロリとこぼれた愚痴をきっかけに、ため込んでいた鬱憤(うっぷん)がここぞとばかりに(あふ)れ出た。

 沙也加の話に加持や相田達は、最初びっくりした顔をしたものの、すぐに一緒に憤慨してくれて、

「信じられなーい! 仮にもモデル目指してる子達がやることとは思えなぁい」

「ひょっとしてモデルって、見た目綺麗でも腹の中は真っ黒? 皆んなが皆んな、そうというわけじゃないだろうけど」

「そりゃ、周りは仲間っていうよりライバルかもしれないけど。そんな卑怯な手を使ってライバル蹴落として仮に売れたとしてもさ、それってうれしいのかな?」

「競争倍率激しい世界だから。売れたら何でも嬉しい、って人もいるのかも?」

「でも私ならー。もし、自分が雑誌見て素敵って思ったモデルがそんなことしてたって知ったら幻滅するぅー」

「まぁねぇ。でも、そういうのは、絶対表には出てこないんだろうね」

 喧々諤々、三者三様。沙也加の代わりに怒ってくれて、沙也加はようやく胸の内に燻っていたものが落ち着いた。

「皆んな、ありがとう。なんか、愚痴言うのもカッコ悪いって、わかってるんだけど。このところ、何だか気持ちのやり場に困っちゃって」

「そんなのー。全然いいのにぃ。溜め込む方が良くないよぉ」

「そうだよ、沙也加。なんかあったときには、言ってくれて構わないよ」

「私たちは、聞くくらいしかできないし」

 口々にそう言ってくれ、やっぱり持つべきものは友人だと、沙也加は感謝する。と同時に、頑張って志望する大学に合格できて本当に良かった、と改めて思う。この大学に入れたからこそ友人もできたのだ。

 高校時代は自分が心を閉ざしていたこともあって、友人と呼べるような存在は一人もいなかった。家庭環境が最低最悪でも、自分の頑張り次第で道は切り開けるのだと示して周囲を黙らせるつもりでいたのに、合格間違いなしだったはずの滑り止めに落ち、起死回生を信じて半ば意地で受けた第一希望の高校にも落ちた時、沙也加のプライドはズタズタに引き裂かれた。屈辱とも言える後期二次募集を受けたのは、祖父母になだめられるまでもなく流石に中学浪人だけはできなかったからだが、合格したところで少しも嬉しくなかったし、校名など恥ずかしくて口にもできなかった。

 そこから這い上がれたのは、大切なのは最終学歴だ、と思い直したからだ。大学を出れば出身高校など関係なくなる。それこそ県下随一の進学校を出ようが、大学進学率数パーセントの三流高校を出ようが、同じ大学を卒業しさえすれば学歴は同じ。そう思うことで沙也加は奮起した。

 いや、そうとでも思わなければ立ち直れなかった。それが正しい。

 私は、こんなところで腐って終わったりしない。大学は絶対、第一志望に受かってみせる、と。

 その甲斐あって、見事沙也加は第一志望の大学に合格できた。そのことで自尊感情を取り戻せたし、気持ちにゆとりも生まれた。それが、良好な友人関係の構築にも寄与したと沙也加は思っている。

 自分の頑張り次第で未来は開ける。その経験が自分を大きく成長させてくれた。そう思うから沙也加は、この大学に合格できて本当に良かった、と思うのだ。

「話は変わるんだけど。そういえば、こないだ。地元の友達から気になるラインが来てね」

 話がひと通り終わったあと、柏木がそう言って、スマートフォンを取り出した。

「その子。私が沙也加と友達って知ってて、送ってきたんだけど。これって、沙也加の弟?」

 沙也加は、柏木がなぜそんな話題を始めるのかと怪訝に思いながら、差し出された画面を覗き込む。そこには、切り抜きされた新聞記事のような写真が表示されていた。

 沙也加は、反射的に息を飲む。写真に写る三人の高校生の左端に写るのは間違いなく尚人で、そこに『翔南高校英語ディベートチーム 全国大会初優勝』の見出しがついていたからだ。

 ––––全国大会って、何それ。

 ––––英語ディベート? 尚、そんなことしてたの?

 しかも、優勝って……

 刹那、理屈ではない嫉妬心がこみ上げ、やり場のないどす黒い感情に沙也加は固まる。

 そんな沙也加の様子を見やって、柏木がどう受け取ったかはわからないが、とりあえずは事実だと確信したのだろう。

「やっぱり、これ、沙也加の弟なんだ。友達から送られてきた時に、MASAKIの弟ってハッシュダグついてるけど本当? ってコメントついてて。一時期、弟の顔も見たいってネットで騒ぎになってたから、そういうのに便乗したデマかもって思ったんだけど」

 その言葉に、相田も加持も興味深そうに画面を覗き込む。

「あ、すごぉーい。全国優勝って書いてあるぅ」

「弟どれ? 左端?」

 加持の問いかけに、沙也加は頷く。

「やっぱり弟くんもぉ、整ったきれいな顔してるねぇ」

「うん。なんか、そこらへんにいる高校生とは違う感じ。しかも、英語ディベートで全国大会優勝って。超進学校に通ってるっては聞いてたけど、沙也加の弟、本当すごいんだね」

 加持の何気ない言葉に、沙也加の胸は掻き毟られる。

 わかっている。加持や相田らに悪気はない。沙也加が弟である尚人を毛嫌いしていることなど、彼女らは知らない。そんな状況では、兄弟のことは褒めるのが普通だ。

「問題は、そこじゃなくって」

 柏木は少々険しい顔でそう言いながら画面をスクロールさせる。すると、切り抜かれた新聞記事の下に明らかに書き加えられたとわかる状況で、

『左端が、MASAKIの弟の篠宮尚人』

 とあり、さらには千束の住所まで書いてあった。

 最後の番地までバッチリ。間違いなく千束の篠宮家の住所だ。

「沙也加ぁ、これって?」

 相田が驚いた顔をして、わずかに上目遣いで伺う。沙也加は自分を見つめる三人を見返し、ゆっくりと首肯した。

「ネットで勝手に住所ばらしたりするのって、犯罪じゃないのぉ?」

「そもそも誰が何のためにって、思うけど。考えるとこれって、同時にお兄さんであるMASAKIの住所もばらしてるってことになるよね?」

 加持のその一言に、沙也加ははっと息を飲む。

 正直、尚人のことなどどうでもいい。ネットで顔を晒されようが、住所を暴露されようが、そのことで尚人が何らかの実害を被って悩まされようが、沙也加には何の関係もない。むしろ、昨年の騒動で沙也加ばかりが割りを食ったその分を、今度は尚人が受ければいいとすら思う。

 しかしそれが、雅紀にまで波及するとなると、話は別だ。

 ––––尚のせいで。

 そう思うと、苦々しい思いが沙也加に込み上げた。

 あの時も、尚人が黙っていたから、あんなことになった。

 今回も、尚人が目立つことをするからこんなことになる。

 そもそも、新聞の取材など受ける必要があったのか。昨年あれだけ騒ぎになったのだ。同居する雅紀のことを考えれば、世間の衆目を集めるようなことは極力控えるのが当然ではないのか。

 そんな思いが、沙也加の中に湧き上がる。

 おそらくは、全国大会優勝に浮かれて、そんな配慮すらできなかったのだろう。『チーム』とあるのだから、優勝は尚人ひとりの実力ではない。記事にあるように英語が少しできるから頭数合わせで入れてもらったにすぎないはずだ。

 それでも、全国大会優勝という結果は、尚人の一つの経歴になるのは事実。

 そのことが、どうしようもなく悔しい。

 県下随一の進学校である翔南高校に合格して、英語が堪能になって、将来グローバルな仕事をするのは沙也加の夢だった。しかし、高校受験に惨敗した時、沙也加の夢は夢で終わった。もう一度頑張ろうと気力を取り戻すまで一年以上かかった。その直後のことだ。尚人が翔南高校を受験すると知ったのは。

 落ちろと願った。自分と同じ辛酸を尚人も味わうべきだと思った。自分がどんな気持ちだったか、その一端でも思い知るといいと期待した。

 しかし、沙也加の願いも虚しく、尚人は合格した。沙也加が行きたくて行きたくてたまらなかった翔南高校に、尚人だけが合格した。

 そして今、その翔南高校で尚人は英語がペラペラになり、英語ディベート大会で全国優勝するという栄冠まで手に入れた。

 許せない。

 こんなこと、到底受け入れがたい。

 篠宮の家を崩壊させた元凶は慶輔(あいつ)であることは間違いないが、沙也加の視界の先をいつもいつも邪魔するのは尚人だ。

 だから沙也加は、尚人が憎い。尚人が目障りで、苛々する。

 沙也加が踏ん切りをつけて、自分の気持ちに折り合いをつけて、次に進もうとするその先を、いつもいつも尚人が邪魔をする。

 しかも尚人は、いつもすることなすこと雅紀を巻き込んで、雅紀にその尻拭いをさせている。

 本人にその自覚がないのも、腹立たしくてたまらない。

「ねぇ、それって、出所がどこかってわかるの?」

「さあ、そこまでは。友達も、別の友達からラインで送られてきたみたいだし。でも、その友達が言うには、この情報が嘘か本当か確かめに行こうって、盛り上がってる人たちもいるって話で。 ––––大抵は、その場のノリの冗談らしいけど」

 それでも、実際に行ってみようと思う人が出てきたっておかしくはない。

 雅紀は、こんなことになっていると知っているのだろうか。

 マスコミが家に押しかけるのと、一般人が家にやって来るのは全然ちがう。マスコミは一応彼らなりの協定やルールや法令遵守の精神があって、家を取り囲んでも私有地内に無断で入って来ることまではしないが、一般人にその常識が通用するとは限らない。特に、MASAKIのファンが自宅の場所を知ったりしたら、どういう事をしでかすか。犯罪紛いのことだって、平気でするかもしれない。

 ––––お兄ちゃん……

 電話してみようか。

 こんなことになってて、心配してるって。

 そう理由をつけて。

 篠宮の家を出て以来、沙也加はずっとずっと雅紀に電話したくて。ほんの少しでもいいから雅紀の声が聴きたくて。でも勇気が出なくて。いろんな理由を頭の中でこねくり回して、馬鹿みたいにシミュレーションして。それでも出来なくて……。

 そんな中、マスコミに嘘ばかり書かれて精神的に追い詰められて、藁にもすがる思いで掛けた電話は、沙也加の思い描いていたものとは全く違うものだった。冷たく突き放された、というよりも、ばっさりと切り捨てられた。

 その事実が受け入れ難くて、尚人をだしにある計画を実行したが、失敗した。その時のことを思い出せば、雅紀に電話などできるはずがない。それはわかっている。わかってはいるが……。

「悪いけど、それ、私にも送ってくれない?」

 沙也加は、柏木にそう言うと、自分のスマートフォンを取り出した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縹色(はなだいろ)ノ雲 6

 図書館に行った帰り道、裕太は怪しい通行人を見つけて自転車を止めた。数日前、尚人から近隣を彷徨(うろつ)く不審者の話を聞かされた時には心当たりなどない裕太だったが、以降外出時に通行人の様子を気にするようになると、不審者っぽい人物にアンテナが働くようになった。

 うろうろと視線を彷徨(さまよ)わせていたり、地の利がなさそうにふらふらと歩いていたり。そんな者は、街の空気に馴染んでいない、よそ者の気配を纏っている感じも共通していた。

 とはいえ、周囲に注意を払うようになって初めて、そういう挙動が不審な者の存在に気づくようになった裕太は、こういうのも、見ようと思わないと見えないもんだな、とつくづく思い、さっさと警察に連絡までした森川のおばちゃんのアンテナの鋭さには改めて感心してしまう。

 巡回パトカー効果なのか、今のところ近所で何の被害報告も聞かないのが幸いだが、裕太は、近隣に出没する不審者達の目的が篠宮の家を見つけることではないかと疑っていた。というのも、家の周辺で見かけることが圧倒的に多かったし、出かけようとして見知らぬ人物が家を覗き込むように門前に立っていたことも何回かあったからだ。

 そういった者は、裕太と顔を合わせるなり慌てて立ち去って行くのが常ではあったが。当然、気分のいいものではない。

 いつか何かされるのではないかという警戒心だって当然湧く。

 今見つけた不審者も、そっと後をついていけば、やはり篠宮の家の前で足を止めた。

 これが若い女性なら雅紀のファンかと思うところだし、年配男性ならマスコミ関係者かと思うところだが。今目の前にいるのが自分と同じ年齢ぐらいだろうと思われる少年であることが裕太にはどうにも()せない。

 まあ、カリスマモデルMASAKIに憧れる若い男性ファンだって存在はするだろうが––––。

「おい! おまえ。何してんだよ!」

 裕太は、少年が手に持っていたスマートフォンで突然表札を撮影したのを確認して声を上げた。その声に少年の背中がびくりと跳ねる。

「何やってんだって、聞いてんだよ!」

 ぎくしゃくと振り返る少年に、裕太は自転車をその場に置いて、さらに凄みながら歩み寄った。

「なにって……。べつに、なにも……」

「はぁ? スマホで人ん家の表札撮ってただろう」

「そんなこと」

「ないって? じゃあ、見せてみろよ」

 裕太がスマートフォンを渡せとばかりに手を出すと、少年は手にしていたスマートフォンを慌ててポケットに突っ込んだ。

「––––これは、ちょっと。時間を確認しようとしてただけで」

「はあぁ? いいから、ごたごた言わず見せろって!」

「…………」

「やましいことがないなら、見せられるだろう。見せられないってことは、やましいことしてたって自覚があるってことだよな?」

 裕太は少年を睨みつける。それに対し、少年はきまり悪そうに視線をそらして口をひき結んだ。

「おい、聞いてんのか?」

「スマホ見せろって言ってんだよ」

「だいたい、人ん家の表札撮ってどうするつもりなんだよ。ネットにでもアップするつもりか?」

 立て続けの裕太の口撃にも少年は口を閉じたまま。どうやらだんまりを決め込んだらしい少年に裕太は思い切り眉を寄せた。

「黙ってりゃやり過ごせると思うなよ。警察に通報するからな」

 そのひと言に、少年ははっとした顔で視線を上げた。「警察」のひと言は、やはり効果絶大のようだ。

 とはいえこの時裕太は、本当に通報しようと思ったわけではない。少年が表札を撮影したのは間違いないし、その画像を何に使うつもりか知らないが、そのまま放っておける話ではない。だから、少年が素直に撮影を認め、ちょっとした出来心だったとか何とか理由をこねつつも一応の謝罪をし、その場で撮った画像を消去するなら、それで終わらせるつもりだった。

 しかし、少年は強張(こわば)りついた顔を上げ、裕太を睨みつけると、––––いきなり裕太の肩を両手で思い切り突き飛ばした。

 不意を喰らって、裕太はバランスを崩す。如何せん、威勢は良くても筋力も腕力もないのが裕太だ。大きく体制を崩した裕太は踏ん張りきれずにそのまま後ろに倒れる。しかも運の悪いことに、その時背後に止めていた自転車を巻き込んだ。

 派手な音を立てて、裕太は自転車と共に地面にひっくり返る。その瞬間、幸か不幸か、森川のおばちゃんが玄関先からちょうど顔を覗かせたところで。

「きゃーーーー! 裕太ちゃん!」

 おばちゃんの絶叫が近所中に響いた。

 

 

 * * *

 

 

 午前中の仕事を終わらせて、雅紀がひとりホテルのレストランで遅めのランチを食べている最中、携帯電話が鳴った。

 表示された番号を確認し、雅紀は通話をオンにする。

「はい、篠宮です」

 仕事中定番にしている『雅紀』で出なかったのは、発信番号が勝木署のものだったからだ。

 裕太が、家の前で声をかけた不審者から突き倒されて、あちこちにアザを作ったのは先月末のこと。(さいわい)にして大した怪我ではなかったものの、裕太から報告を受けた雅紀はすぐに被害届を出した。それは、加害少年が裕太を突き飛ばしてそのまま逃走したことに腹を立てたから、では当然ない。今回の加害少年を捕まえることで尚人の周りで起きている不可解な出来事を解決する糸口が掴めるかもしれないという思いがあったからだ。

 家に不審物が届くことと、家に不審者が訪ねてくることには関連がある。雅紀はそう見ていた。

「勝木署の長野です。今、お電話大丈夫でしたか?」

「はい。大丈夫です」

「出されている被害届のことですが、加害者の特定ができました。それで、加害者側が被害者本人及びご家族に直接謝罪したいと申し出ているんですがね」

 長野の言葉に、雅紀は「やはりそう来たか」と思う。当然、これを狙っていたのだ。警察は、被害者といえども加害者の個人情報や捜査上知り得た事など教えはしない。だが、加害者と直接会えれば、色々と話を聞き出すことができる。雅紀は加害者を罰したいのではなく、情報収集がしたいだけだ。

 だがもちろん、そんな本心は表には出さない。長野は被害者側が立てた代理人である弁護士に雅紀の連絡先を教えてもいいかと尋ねるので、雅紀は了承し電話を切った。

 程なくして、見慣れない番号が着信する。

「はい、雅紀です」

 雅紀が電話に出ると、非常に落ち着いたトーンの男性の声が電話口から響いて来た。

(わたくし)、弁護士をしております刈谷と申します。篠宮雅紀さんでお間違えなかったでしょうか」

「そうです」

 雅紀が答えると、刈谷と名乗った男は改めて自己紹介し、今回の傷害事件の加害者である有村宏之少年の代理人であることを説明した。

「宏之君は、今回の件を大変深く反省しており、また、宏之君のご両親も篠宮さんに直接の謝罪をしたいという意向を持っております。それで、近日中にそう言った、謝罪の場を持たせてはもらえないだろうかと考えているのですが。––––ただ、誠に勝手な都合とは思うのですが、宏之君のご両親は、篠宮さんが大変な有名人であることを気にしておりまして。今回のことがマスメディアに取り上げられることを、正直に申し上げれば、とても恐れておられるのです」

 それで、宏之少年の姿が事件当日近所の住人に目撃されたこともあって、現場となった篠宮家を訪ねるのだけは避けたいという思いがあり、出来ればホテル等自宅以外の場所での面会をお願いできないだろうか、と言う。

(まあ、そうだろうな)

 雅紀は思う。

 昨年の一連の騒動を知っている者なら、そう言った警戒心が働くのは当然だろう。篠宮家に何か騒動があったと嗅ぎつければ、マスコミが飛びつくのは間違いない。『篠宮』や『MASAKI』の名を出すだけで視聴率が取れる。週刊誌が売れる。雅紀にとっては迷惑千万な話以外の何物でもないが、スキャンダル・キングの名は伊達ではなく、それだけ覗き見趣味の者が世の中に溢れているということだ。

 今回加害者となってしまった家族も、この間までは、そう言った他人事を面白おかしく眺めるだけの側だったはずだ。それが一転、マイクを突きつけられる側になるかもしれないと思えば、今まさに戦々恐々としているだろう。

 子ども同士ちょっと揉めて相手を押し倒した程度のこと、本来なら大した問題にはならない。恐らく警察は不起訴処分にするだろうし、雅紀とて尚人が絡まなければわざわざ被害届を出したりしない。しかし、世間は雅紀の中で尚人と裕太が明確に線引きされているなど知らない。どちらも『弟』であり、『MASAKIの地雷源』という認識だろう。だからこの程度のことでも被害届を出したのだ、と思っているはずだ。ゆえに、どうせ不起訴処分になるだろうから示談交渉など不必要、などとは思えず、代理人まで立てて雅紀に面会を求めるのだ。

 子どもの将来を思えば、なんとか示談にしたい。示談にして被害届を取り下げてもらい、穏便に済ませたい。そう思うのが普通の親心だ。

 ある意味、雅紀の狙い通りに––––

「こちらとしては、それで構いません。メディアに騒がれるのは、私としても望むところではありませんので」

 雅紀が答えると、相手は明らかにほっと息を吐いた。

「ありがとうございます。それで、日程ですが……」

 雅紀は、自分の都合を確認して伝え、刈谷は会場の準備が整ったらまた連絡すると言って電話は終了した。

 雅紀はそのまま自宅に電話をかける。コール三回で電話は繋がった。

『もしもし』

「俺だ」

『何?』

「今、加害者側の代理人から電話があった。直接謝罪したいから近々会いたいそうだ」

 雅紀は端的に要件を伝える。余計な言葉は一切ない。相手が裕太では、これがいつも通りだ。

『……雅紀にーちゃんの言った通りってわけ?』

 裕太の声のトーンがわずかに下がる。雅紀に何かと反発して来た裕太の複雑な心境が透けて見えるようで、雅紀は喉の奥で微かに笑った。

 あの日、裕太が見知らぬ少年に突き倒されて怪我をした日。あちこち出来たアザを隠しきれなかった裕太は、尚人に「自転車で転んだ」と説明したらしい。その日のおやすみコールで尚人がそのことを話題にして雅紀は知った。運動神経抜群でやんちゃだった頃のイメージが抜けない尚人は「あの、裕太が、まさか自転車で転ぶなんて」と驚いた様子だったが、雅紀的には「まあ、三年も引きこもってたんだし? 怪我の程度も軽度なら、次からは気を付けろよ」ぐらいの気持ちだった。だが次の日帰宅して、裕太の怪我の原因が、家の表札を撮影していた不審な少年に声をかけたら押し倒された、と知ったのだ。それを知って雅紀は、すぐに被害届を出すことを決めた。

「そんなことまでする必要あんの?」

 と、怪訝な顔をした裕太に、雅紀が自分の狙いを説明すると、

「そんなに思い通りに行くもん?」

 と懐疑的ながらも被害届の提出に同意したのだ。

 ただ最後まで、

「それが原因でナオちゃんに全てバレるってことにはならないよな?」

 というのが裕太的にネックだったみたいだが。事態究明に繋がる可能性のあるものは掴みに行かなければいつまで経っても解決しない。雅紀的に、放置が一番最悪の選択だった。

「面会の日取りが決まったら、また連絡があるそうだ」

『それって、あいつら家族が家に来るってこと?』

「いや。向こうが、それを嫌がっているらしい。万が一にもマスコミに嗅ぎ付けられたくないようだな。家には常にマスコミが張ってるとでも思ってるんだろう」

『––––ああ。なるほど』

「で、ホテルかどこか会場を準備するそうだ」

『それって、ナオちゃんに気づかれずに出かけられんのかよ』

「こっちの都合は平日の昼間って伝えてるから大丈夫だろう。それに、二人で出かけてたってバレても、言い訳のしようは色々あるさ」

 それこそ「社会勉強のために連れ出した」と言えば、尚人はむしろ喜びそうだ。それに、そういう表現は嘘でもない。

「今伝えるのはそれだけだ」

『わかった』

 それで二人の会話は終了する。

 雅紀はスマートフォンをジャケットの内ポケットにしまうと、途中だったランチを再開した。

 

 

 * * *

 

 

 加害少年との面会は、都内某ホテルの一室で行われた。会議や結納など少人数の集まりに多目的に使用される小さな会場で、ソファーの置かれた前室の奥にある扉の向こうに十人ほどが座れる長テーブルがあった。

 雅紀が裕太を連れて部屋に入ると、正面に座っていた家族が慌てて立ち上がってお辞儀する。雅紀は刈谷の案内に従って、有村家族の対面に腰を下ろした。

「この(たび)は、うちの息子が、とんだご迷惑をおかけしてしまいまして。誠に、申し訳ありません」

 父親とおぼしき男性が口火を切って頭を下げる。隣にいた女性も揃って頭を下げた。

「あの、これ。お口に合うかわかりませんが。どうぞ、お納めください」

 妻がそう言って、有名店の包装紙に包まれた菓子折を差し出す。

(菓子なんて食わねーし、いらねーよ)

 と言うのが本心だが、もちろんそんなこと(おくび)にも出さない。

「まずはお座りください。私は、弟を突き飛ばした加害少年が、どこの誰かということも知らなければ、どんな理由で家を訪ねて来たのか、ということも知りません。まずは、そこらへんの説明を本人から聞きたいのですが?」

 雅紀が、ひたと相手を見つめつつ冷静にそう告げると、夫婦は小さく息を飲んで「すみません」と呟き、互いに目配せして席に座った。

 有村一家は、良くも悪くも一般的な家庭に見えた。身なりや立ち居振る舞いから、特段裕福にも、かと言って経済的に困窮しているようにも見えない、という意味でだ。ある意味、かつての篠宮家と同じような家庭環境であろうと伺えた。父がいて、母がいる。そして、父母に守られつつも、日頃それを自覚するでもない子どもがいる。今回加害者となってしまった少年からも、非行に走っているような(すさ)んだ雰囲気など感じない。おそらくごくごく普通の高校生であり、今回のこの一件は、ありふれた日常を穏やかに暮らしていた家族に起きた青天の霹靂とも言える一大事であろうと伺えた。

 心痛な面持ちの両親は、口をひき結んだまま力なくなだれている少年に何やら耳打ちする。すると、ずっと節目がちだった少年がわずかに視線を上げ、噛み締めていた唇を緩めた。

「僕は、私立桐原学院高校に通う一年生の有村宏之です。……あの日、家を訪ねたのは、ネットに情報が載ってて。それで、友達と本当かどうか確かめようって話になって。それで……」

「ネットに、うちの情報が載ってたってこと?」

 尻すぼみに言葉を途切れさせた少年に雅紀が問いかけると、

「あ。いや。あの、……正確に言うと、ラインで流れて来たんです」

 少年は、慌てて訂正した。

「俺、あ、僕のに、じゃなくて。友達が塾の友達と作ってるグループラインになんですけど。––––それを見せてくれて」

「そのラインに、どんなふうに書いてあったの?」

「翔南高校の英語ディベートチームが全国大会で優勝したっていう新聞記事みたいな写真に、『左端がMASAKIの弟の篠宮尚人』って書いてあって、その下に住所が書いてあって……」

 雅紀はひっそりと息を()く。

 つまりは、地元新聞の記事を入手可能で、尚人の顔と名前と住所を知っている誰かが、故意にSNS上に情報を流出させた、ということか。そこには、全国優勝に対する称賛を広く共有しようというよりも個人情報を世間に暴露してやろうという悪意を強く感じる。

「で、その住所が本当がどうか。君は確かめに来たわけだ?」

 雅紀が確認するように尋ねると、少年は俯いて黙り込んだ。その様子に隣に座っていた母親が、庇うように口を開いた。

「あの、この子も、止むに止まれぬ状況で。……お友達に強要されたんです」

 急に割って入ってきた母親に、雅紀は眉根を寄せた。庇いたくなる気持ちはわかるが、雅紀は宏之の口から聞きたいのだ。親と言えども第三者の口からではない。

 それで雅紀が

(お前に聞いてんじゃんねーよ)

 そんな視線を母親に向けると、母親は慌てて口を閉じた。

「宏之君。君は自分のしたことを、自分の口で説明する責任がある。今回のことを反省し謝罪したいという思いが嘘じゃないというなら、その責任を(まっと)うすべきだと思うけど?」

 雅紀が静かに語りかけると、宏之少年は再び視線を上げた。

「最初に見せられた時から、人の住所を勝手にネットにアップしたり、ラインで流したりするのって、よくないことじゃないかなって、思ったんです。でも、それを友達に言ったら『自分がアップしたわけじゃないし、自分が誰かに流したわけでもない。勝手に送られてきただけだから。俺は何も悪くないだろう』って言われて。……まあ、確かにそうなんですけど。でも、そのあといつものメンバーでゲームしてる最中に、負けた奴がさっきのライン情報が本当かどうか確かめに行こうぜって盛り上がって。行った証拠に、その住所にあった家の表札撮ってくるってことでって。それを聞いて、自分は行きたくないなって思ったんですけど、ゲームで負けなきゃいいだけだって思って……」

 しかし、そんな思いとは裏腹に宏之はゲームで負けてしまい、結果、篠宮の表札を撮りに行かざるを得なくなった、というのが宏之少年の説明だった。

「で、君はあの日うちの表札を撮って、みんなに見せたわけ?」

「いいえ。……あの日、警察に通報するって言われて。怖くなって。撮った写真はすぐに消しました。……友達には、行ったけど場所が全然わからなかったって。そう、言い訳して。––––だから、警察が家を訪ねてきて、ちょっと話を聞きたいって言われた時も、写真も残ってないし、バレるはずないって」

 雅紀は心の中で嘆息する。

 おそらく宏之は、警察の事情聴取に最初しらばっくれたのだろう。そんなこと、雅紀の知るところではなかったし、実際どうでもよかった。そのことが宏之の罪悪感を大きくしたのだとしても、自業自得でしかない。

「怪我、させるつもりなんてなかったんですけど。俺、あの時、パニックになっちゃって。……押し倒したりして、すみませんでした」

 強張りついた表情で宏之は頭を下げる。

 両親も、涙ぐみながら頭を下げた。

 そんな有村家族の様子に、雅紀の心は微塵も動かなかったが、とにかく聞きたかったことは聞いた。

「裕太。後は、お前の気持ち次第だ」

 雅紀は最もらしいことを言って裕太に後処理を押し付けると、既に別のことを考え始めていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縹色(はなだいろ)ノ雲 7

 二学期が始まっても、尚人の生活はいつもと変わらない。

 毎日が規則正しく流れる。

 朝の起床は午前五時。まだ夜も明け切っていないキッチンに灯を点け、自前のエプロンを付けることから始まる。

 そして、洗濯機を回し、朝食と弁当作りに取り掛かるのだ。

 家族の気持ちがばらばらだった時は、家族の『拠り所』としての『家』を整えることこそが『生きる』ということに直結しており、『生きる』ためにあえて尚人は一日をマニュアル化していたが、今は違う。

 やっていることは同じでも、気持ちが違う。それがとても重要だ。それに、引きこもりをやめた裕太の食欲は以前とは比べ物にならないから、尚人の朝食作りも自然と気合が入る。以前は朝昼兼用のお弁当が一つだったが、今は朝用と昼用と二食用意する。といっても、尚人が食べるものと同じものを用意するだけなので、手間は変わらない。二人分の朝食を皿に盛って、一皿はラップをかけて食卓に並べておき、昼用のお弁当は二人分詰めて一つは冷蔵庫だ。裕太の昼用をあえて弁当にするのは、弁当なら外に持っていけるから。今日は天気もいいし外で食べようかな、と思うきっかけになれば、尚人はそれだけで嬉しい。

 そうして尚人は自分の分の朝食を食べ、洗濯物を干し、身支度をして六時半には家を出る。七時半から朝課外。それが終わると六限の正規の授業。その後さらに五十分の夕課外。学校でのカリキュラムがすべて終わるのがちょうど午後五時だ。それから自転車で五十分かけて下校すると家に着くのが午後六時。帰宅してすぐに夕飯を作り、出来上がるのが六時半。近頃は、裕太がご飯を炊いておいてくれるし、サラダなどの簡単な副菜も作っておいてくれるから、夕飯作りは格段に楽になった。部屋にいる裕太を呼んで二人で食卓を囲み、夕飯を食べ終えると七時頃になる。それから尚人は、キッチンの片付けと翌朝のための仕込みをして、七時半過ぎに自室に戻って勉強を始める。それからみっちり三時間。自学の後に風呂に入る。長風呂の尚人は三十分は風呂を堪能し、リフレッシュしてからまた寝るまでの時間勉強する。就寝は十二時。これが尚人の一日だ。

 雅紀の帰ってきた日は、多少変則になるがあまり変わらない。風呂から上がって寝るまでの間が勉強ではなくスキンシップの時間にはなるが––––。

「––––ナオ」

 甘いトーンで呼ばれて、雅紀の膝の上に後ろ向きに抱かれ、さらけ出した股間をしなやかな長い指でゆるゆると揉みしだかれる快感。尚人の下腹部はすぐに熱を帯びて硬く立ち上がり、乳首が尖る。耳元で囁かれる卑猥な言葉の数々は、今では尚人の快感を呼び起こす媚薬だ。身体中、どこもかしこも敏感になって、快楽を(むさぼ)ること以外、何も考えられなくなる。雅紀の舌と口で溜まった精の全てを搾り取られ、腕を上げるのでさえ億劫に感じるほどの倦怠感に沈んだまま、いつの間にか眠りにつく。

 それが、嫌なわけではないのだが––––

「まーちゃん。近頃、俺ばっかりで。だから、その……」

 以前から雅紀が、学業に支障が出るのはまずいと平日のセックスはそれなりにセーブしているのは知っている。しかしここ数週間、雅紀の休みが週末と重ならず最後までしないことが続いて、尚人はそれが気になっていた。「ナオが気持ちいいと俺も気持ちいい」雅紀はそう言うが、やっぱり挿入して射精したいはずだと思うのだ。

 だから––––

「……最後まで、してもいいよ」

 そう言おうとして尚人は、本当は、最後までして欲しいのは自分の方ではないのかと気づいて唇を噛んだ。雅紀を言い訳にしようとする自分がすごく(ずる)い気がして、それだったら素直に、「最後までして」と言うべきだが、意識してしまうと恥ずかしくてそんなこと口にできない。それに、いつまで経っても雅紀を喜ばせられるようなテクニックを持たない自分は、結局は雅紀にしてもらうばかりで。そんな雅紀の優しさに甘えるだけの自分の怠惰(たいだ)を自覚して、何も言えなくなってしまった。

「ん? ナオ、どうした?」

 言いかけた言葉を飲み込んだまま黙り込んだ尚人に、雅紀は柔らかな眼差しを向けながら耳たぶを()み、髪を梳いて口づけ、尚人の唇をぺろりと舐める。背中に回った手が尚人を優しく撫でさすり、尚人を抱き込んでゆるゆると揺する。

 ––––きもちいい……

 素肌が触れ合う心地よさは、股間を揉みしだかれる痺れるような快感とも、蜜口を散々(いじ)られた後にようやく射精することを許された開放感ともまた違った良さがある。尚人も雅紀の背中に腕を回してしがみ付く。すると、より密着度が増して、心地よい安心感に包まれる。

「……まーちゃんは、出さなくていいの?」

 ぼそりと尚人が呟くと、耳元で雅紀がくすりと笑った。

「ナオは明日も学校だろう?」

「……そうだけど」

「だったら、腰が立たなくなったらまずいだろう?」

「……それは、そうだけど」

「ナオと最後までする楽しみは、週末まで取っておくさ」

「……でも、先週も、先々週も、まーちゃん、土日休みじゃなかったでしょう?」

 尚人が言うと、雅紀は動きを止めて尚人の顔を覗き込んだ。

「ひょっとして、後ろ、足りなかった?」

「そ、そんなことは––––」

 尚人は、羞恥に顔を焼く。挿入しない日も、雅紀は後蕾も舌で丹念に舐め(ほぐ)し、指を差し込んで中を刺激し射精するのとはまた違った快楽を尚人に与える。指だけでイかされるのは何故だか恥ずかしくて堪らないが、教え込まれた快楽に体は抗えなかった。

 雅紀はもそりと上体を持ち上げると、耳元で甘く低く囁く。

「今度の日曜は休みだから。ナオ、覚悟しとけよ」

 そして、額に軽くキスをして、

「おやすみ、ナオ」

 そう言って雅紀は部屋を出ていく。その背を見送って、尚人は何とも言えないため息を小さく吐き出した。

 

 

 

 尚人の部屋を後にして、雅紀はそのままバスルームに向かうと、ほとんど水に近いシャワーを浴びた。

 ––––やばかった……

 雅紀は、頭から冷水を浴びながら、体の芯にこもった熱をやり過ごす。尚人があんまり可愛いことを言うものだから、もう少しでがっつくところだった。

 ––––だって、それは。やっぱり、まずいだろう?

 まだ、それくらいの理性はある。

 尚人とセックスするようになって、もう丸二年。これまで何度体を一つに繋げたかわからないのに、尚人の初心(うぶ)なエロさに雅紀は煽られっぱなしだ。

 本来今夜は、ホテル泊の予定だった。しかし、思ったより早く仕事が切り上がった時、「今から帰ればナオが寝る前には帰り着くな。明日は、八時前に家を出れば仕事に間に合うし」そう思って雅紀は、迷うことなく自宅へ帰ることを決めた。ほんの少しの時間でも、尚人を抱きたくてたまらなかった。

 雅紀が帰り着いた時、思った通り尚人はちょうど風呂から上がってきたところで、雅紀はそのまま尚人を裸に剥いて膝に座らせ、大きく足を開かせると、股間を思う存分揉みしだき、尚人が双珠に溜め込んだミルクを執拗に吐き出させた。

 喘ぐ尚人の息遣いが、たまらない。

 快楽に身を(ゆだ)ね、悶えて身を(よじ)るその姿態が、雅紀を煽る。

 尖りきった珊瑚色の乳首が、雅紀を誘う。

 雅紀の愛称を口にしながら尚人が啼くと、脳髄が痺れる。

 熱を帯びた尚人の視線が、雅紀の独占欲を満たす。

 最後までしなくとも、雅紀は十分に満足だった。

 それなのに、

 ––––まーちゃんは、出さなくていいの?

 尚人にそう可愛らしく質問されるや否や、雅紀の雄蕊は脈動した。

 もちろん、尚人の中で擦られるのが一番気持ちがいい。それは、動かしようのない事実だ。しかし、尚人の中に己を沈めて、ちょっと、で済むはずがない。それがわかっているから、雅紀は平日尚人を抱く時に、挿入まではしないと決めているのだ。翌朝腰が立たずに登校できない、なんてことになったら目もあてられない。まだ、そこを死守するだけの正気は保っているつもりだ。しかし、尚人は無自覚に、そんな雅紀の必死の痩せ我慢を崩しにかかる。罪深いほどの無垢な誘惑に、後先考えずにむしゃぶりつく痴態。そんな自分を想像して、悪くない、と思う時点で本当は終わっている。それを自覚しつつ、それでもなけなしの矜恃を保つために余裕のあるフリを装ったものの、正直雅紀は、ぎりぎりだった。

 雅紀は股間に手を伸ばすと、いきり立った自分のものを鷲掴みにして(しご)き上げた。ほんの数回で簡単に達し、浴室の壁にはその証である精がぶちまけられる。実は昨日もホテルの浴室で、尚人の裸を妄想しながら吐き出したというのに。我ながら雅紀は、少し呆れてしまった。

 吐き出すものを吐き出せば、熱はスッと冷める。

 雅紀はシャワーを止めると、風呂から上がってスエットに着替えた。

 もう寝たであろう尚人の睡眠の邪魔をしないように、雅紀は静かに階段を上る。尚人の朝は早い。朝五時起きを寝坊することなく毎日続けるのだから、本当にすごいと思う。

 そうして雅紀が静かに階段を上り切ると、そのタイミングで裕太の部屋の扉がわずかに開いた。

「雅紀にーちゃん。ちょっと……」

 視線で促してくる裕太を無言で見返して、雅紀はとりあえず裕太の部屋に入る。

「何だ?」

「見つけた」

 裕太の答えは端的だが、言葉が足りない。

「何をだ?」

「ナオちゃんの記事が載ってる、ネット掲示板」

 裕太はそう言うと、ノートパソコンの画面を雅紀に見せた。雅紀は画面を覗き込む。見覚えのあるどころか、雅紀が永久保存版として大事にしている地元新聞の切り抜き記事の画像が目に飛び込んできて、雅紀はひっそりと眉を顰めた。その記事には明らかに書き加えられたとわかる状況で『左端が、MASAKIの弟の篠宮尚人』とあり、さらには千束の住所まで書いてある。

 宏之少年が言っていたのとまさに同じ書き込みだ。

「ここが出所ってことか?」

「そこまではわかんないけど。いろいろ検索した結果、その可能性は高いかなって感じ」

「その画面って、印刷できるのか?」

 雅紀が問うと、裕太は返事の代わりにパソコンを触る。するとすぐさまプリンターが動き出し、何枚か紙を吐き出した。プリンターが止まって、裕太はその紙の束を雅紀に渡す。

「一枚目が、画面をスクショしてプリントしたやつ。で、その次からが、パソコン画面のPCコード」

 雅紀は渡された紙をめくる。正直、二枚目から延々と羅列されている英数字と記号が何を表しているのかさっぱりわからないが、詳しい者が見れば、ここから様々な情報を拾うことが可能なのだろう。以前沙也加が送ってきた尚人の写真から位置情報を拾い出したみたいに––––。

 にしても、いつの間に裕太はこんなにPCに詳しくなっていたのか。雅紀は内心驚く。勉強がしたい、と言っていた裕太の言葉に嘘はなかったということだろう。目に見える成果を出せ、と言った雅紀に対するこれも一つの答えなのかもしれない。

「……で、雅紀にーちゃんはこれからどうするわけ?」

 裕太の問いかけに、雅紀自身問う。

 ––––さて、どうしようか。

「この情報から、記事を投稿した個人って特定できるものなのか?」

「俺には無理。IPアドレスがわかったところで、そのIPアドレスを使った個人の情報ってプロバイダ止まりだし。まあ、警察の捜査が入れば別だろうけど」

「なるほど」

 雅紀は顎を撫でる。

(要は、警察が捜査すれば個人の特定も可能ってわけか)

「これを証拠に、プライバシー権を侵害されたと警察に被害届を出すのもありかな」

 この程度の記事で警察がどこまで本気で対応するのかはわからないが、自宅周辺を不審者が彷徨(うろ)く現状を加味すると一応捜査に動くかもしれない。

 その後の対応についてはケースバイケースだ。

「だったら、併せてこの掲示板の管理者に個人情報が不当に掲載されてるって抗議した方がいいかも。こっちからの抗議と警察からの捜査が同時に来れば、このアップされている情報の削除は絶対するだろうし、警察の捜査にも全面協力するかも」

「なるほど」

 雅紀は口の端で笑う。

 裕太も結構役に立つではないか。

「裕太、よくやった」

 雅紀が裕太の頭をくしゃりと撫でると、案の定、裕太は盛大に顔を(しか)めたが、ブスくれた裕太も今夜はどことなく可愛く見えた。

 

 

 * * *

 

 

 その時尚人は、無視できない尿意にベッドから起き上がった。何となく寝付きが悪くて、これならばさっさとトイレに行ってスッキリした方が眠れるかもしれない。そう思って尚人は部屋を出る。そしてそのまま一階のトイレに行こうとしたのだが––––。

 二階から人の気配がした。

 尚人は何気なく足を止めて、二階に目を向ける。階下から二階は直接見えない。それでも、裕太の部屋の扉が開くのがわかった。

(裕太。まだ起きてるのかな)

 そう思った直後、

「今日は、もう寝ろ。続きは、また帰ってからだ」

 小さく響いてきた雅紀の声に、尚人は驚いて息を詰める。雅紀が裕太の部屋から出てきたのは明らかだった。

(何で、まーちゃん。裕太の部屋から……)

 雅紀が裕太の部屋から出てくる、その理由。しかも、こんな時間に。

 それを考えた時、何故だか突然、尚人の脳内に雅紀がかつて言ったセリフが蘇った。

 ––––ナオの代わりに裕太を喰っちまおうか。

 ––––裕太ともしてみる? 案外あいつ、抵抗ないかもよ。

 尚人の心臓が、どくんと跳ねた。

 いや、いや、いや、いや……。

 とっさに否定しつつも、

 まさか……。と、どこかで思う。

 ––––俺が我慢させたから?

 ––––それとも、裕太ともしてるから、()れなくてもよかったってこと?

 刹那。脳みそが、変なふうに揺れた。

 一気に耳の奥がざわついて、ノイズがかかる。

 手足が急速に冷え、鼓動が激しく全身を打つ。

 やばい。

 尚人は、自覚症状に焦る。

 ゆっくり、ゆっくり、呼吸をしなければ––––。

 そう思うのに、返って息が詰まる。

 体が硬直して、嫌な汗が全身から噴き出す。

 その汗が背筋を流れていく不快な感覚は明確なのに、それ以外の感覚も意識も剥ぎ取られるように一気の遠のいていく。

 支えが欲しくて尚人は壁に手をつこうとしたが、天地が逆転した感覚に、もはや壁がどちらにあるのか定かではなかった。

 音を出してはダメ。音を出したら、上の二人に気づかれる。

 尚人は、上げそうになった声を奥歯を噛み締めて耐える。

 世界が回る。

 体が闇に落ちていく。

「ナオ!」

 遠くで雅紀が自分の名を呼んだ気がしたが、尚人の意識はそこで途絶えた。

 

 

 * * *

 

 

「今日は、もう寝ろ。続きは、また帰ってからだ」

 雅紀はそう言ってから裕太の部屋の扉を閉める。そしてプリントアウトされた紙の束を手に自分の部屋へ足を向けたその時、雅紀は微かな物音を耳に拾って足を止めた。

(何だ?)

 階下で何かの気配がする。

 ––––ナオは、もう寝たはずだが……

 そう首を捻りつつも、

(ひょっとして、トイレに起きたかな?)

 そう思った、直後。

 どさり、と重たい何かが床に倒れる音が響いて、雅紀ははっとした。

 ––––まさか。

 雅紀は階段を数段降りて下を覗き込む。そして、そこに横たわる人影を見つけて、顔面からさっと血の気が引いた。

「ナオ!」

 慌てて階段を駆け下り、雅紀は尚人の体を抱き起こす。

 意識のないままに尚人は体を痙攣(ひきつ)らせ、全身を硬直させていた。これまで何度も見てきた尚人のパニック症状だ。しかし、(うめ)き声さえ上げず、ただただ歯を食いしばるその様子が今までと違って、蒼白な顔は呼吸をしているのかどうかさえ定かではなかった。

「ナオ! しっかりしろ!」

 雅紀は、尚人の頬を叩く。しかし、反応は返らない。雅紀の声に何か非常事態が起きたと察した裕太も部屋から飛び出してくる。バタバタと激しい足音を響かせて階段を降りてきた裕太に、雅紀は鋭く言い放った。

「裕太! 薬と水! 早く持ってこい!」

 一目でどういう状況か察したのだろう。裕太は返事をする間も惜しいとばかりにすぐさまキッチンへ走り、そして尚人の部屋から薬を取ってくる。雅紀は裕太から薬と水を受け取ると、食いしばった歯列を無理にこじ開けて噛み砕いた薬をねじ込み、口移しで水を注ぎ込んだ。

 祈るような気持ちで。二度、三度。

 それを繰り返すと、噛み締めた奥歯が少し緩んで、尚人の口から喘ぐような細い呼吸音がし始めた。

「いい子だ、ナオ……。そう、ゆっくり。吸って……、吐いて……」

 雅紀は、腕に抱いた尚人の背中をゆったりとさする。

「ゆっくり。そう、……いい子だ、ナオ」

 呼吸のリズムを先導するように、雅紀もゆったりと呼吸する。

 大きく吸って、静かに吐き出す。

 それを何度も繰り返す。

「いい子だ、ナオ」

 ぴったりと胸を合わせ、背中をゆったり撫でながら雅紀は囁く。

 するとやがて、尚人の呼吸が雅紀の呼吸とシンクロし、強張(こわば)っていた四肢の力がスーッと抜けたかと思うと、雅紀の腕の中で、くったりと尚人の頭が落ちた。

 雅紀は大きく安堵の息を()く。

「いい子だ、ナオ」

 ぎゅっと抱きしめ、頭を撫で、雅紀は尚人を抱き上げると、その場に立ち竦んでいた裕太に、もう大丈夫だと視線で合図する。裕太は尚人に一度視線を向け、コクリと喉を上下させてから雅紀に視線を戻すと、ゆっくり頷いてから静かに階段を登って行った。

 雅紀は、尚人を部屋へ運ぶと、そっと静かにベッドに寝かせた。そして、吹き出した汗をタオルで(ぬぐ)ってやり、汗で濡れたパジャマも下着も全部新しい物に着替えさせてやる。そうするとようやく、いつもの見慣れた尚人の寝顔になった気がした。

 雅紀はベッドの端に座って、静かな呼吸を取り戻した尚人の寝顔を見つめながら髪を梳く。何度も、何度も、静かに、優しく。それから尚人の横に添い寝して、タオルケットを被り、尚人を腕に抱き込んだ。

 ––––何で今頃……

 雅紀は、それが一番()せなかった。

 もう1年以上、尚人にパニック症状は出ていなかった。正直なところ、もう大丈夫だと思い込んでいた。暴行事件の被害にあった直後は、大きな音や、背後からの接触など、それこそ些細なことでパニックを起こしていた尚人だが、ひと月も経てば症状は随分と収まり、以降は、身体への危害を連想するような、よほどショックなことが起きない限り症状は出なかった。

 それから1年。雅紀の密かな心配も杞憂に終わるほど尚人の症状は落ち着いた。かのように見えていたのに––––。

 二人で甘い時間を過ごした後の、何でもない平日の夜に、尚人が一人パニックを引き起こしたことが、雅紀にとっては衝撃だった。

 一体何が引き金になったというのか。

 その理由が全くわからなことも衝撃だった。

 理由がわからなければ、また同じことが起きるかもしれない。その可能性が否定できなことが怖い。

 もしこれが、自分が不在にしている時に起きていたら?

 それを思うと、雅紀はゾッとした。

 部屋で一人発作を起こしていても、呻き声さえあげないのでは、二階の裕太が気づくはずがない。朝、白く冷たくなってベッドで死んでいた母の姿を思い出しても今更動揺することもない雅紀だが、その姿に尚人の姿がちらついた時、雅紀は心臓に痛みが走った。

 ––––ナオ、ナオ、ナオ、ナオ……

 雅紀は、腕の中の尚人をぎゅっと抱きしめて、おぞましい妄想を振り払う。尚人の匂いを嗅いで、温もりを全身で感じて、それでも消え去らない恐怖に雅紀は震えた。

 傷は見えないだけで、まだ根深く尚人を苦しめているのだ。それを思い知らされて、雅紀は胸が締め付けられる思いだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縹色(はなだいろ)ノ雲 8

 『ガリアン』の主催する、メンズ・モード・コレクションの本番が無事終了し、人でごった返すホテルの打ち上げ会場で、雅紀は仕事の仕上げとばかりにいつものごとく各方面への挨拶回りをしていた。

 一般的に、厚顔不遜を地で行く、と思われがちな雅紀だが、義理を通すべき相手への挨拶は欠かさない。いくら人気があっても、モデルは使ってもらってなんぼの世界であり、挨拶と謝辞は仕事の基本、というのが雅紀の姿勢だからだ。それは、媚びることとは違う。驕らず、慢心せず、謙虚に、それでいて矜持を失わず。譲れない一線の引き場所を間違ってはいけない。

 そうやって飲食もそこそこに、ひと通りの挨拶回りを終えて、会場を後にしようかと思っていたその時、一人の男性がスッと雅紀に歩み寄って来た。

「モデル事務所『イニティウム』の二木と申します」

 男は、そつがない笑顔と隙のない態度で、簡潔な自己紹介と共に名刺を差し出す。タイミングがバッチリすぎて、雅紀は無視することもできなかった。

「イニティウム、ですか……」

 雅紀は名刺を受け取って、二木と名乗った男を見やる。雅紀の記憶違いでなければ、目の前にいる男は確か『イグニス・プロダクション』の遣手マネージャーだったはず。それこそ、業界最大手『アズラエル』の敏腕マネージャーである高倉を唯一出し抜ける男として有名な––––。

 その『イグニス・プロダクション』の名刺を出してこないことが、返って雅紀の警戒心を刺激した。

 『イグニス・プロダクション』は、事務所規模こそ小さいものの、有望マネージャーを積極的に独立させる『起業システム』により独自の傘下グループを築き、このグループ連携によって芸能業界を牛耳っていると言って過言ではない有名な事務所だ。

 ただし、この繋がりを積極的には見せない。『イグニス・グループ』として宣伝もしない。ゆえに、業界に疎いものは、この事実を知らなかったりする。

 そう言った者が、事務所単体の規模だけを見て侮ると痛い目を見る。その典型的な相手が、『イグニス・プロダクション』であり、その傘下にある事務所であると言えた。

「今年立ち上げたばかりの事務所です。どうぞ、お見知り置きください」

 雅紀は、諸々湧き上がった感情を一切顔に出すことなく、もらった名刺を内ポケットに仕舞うと、自分の名刺を取り出す。こういう場で名刺を出して来たということは、名刺が欲しいということだ。その程度の大人の常識は身につけている。

「オフィス原嶋所属のMASAKIです」

 雅紀は名刺を差し出す。雅紀の名刺は至ってシンプルだ。所属事務所と名前と事務所の電話番号しかない。それはもちろん、モデルとしても人としても尊敬している加々美蓮司のシンプルな名刺に倣っているからだ。

「ありがとうございます」

 二木は笑顔で名刺を受け取る。

「それでMASAKIさん。個人的に連絡を差し上げたい場合は、どちらへ連絡すればいいですか?」

「個人的、ですか?」

 雅紀は二木を見やる。

 仕事の話は事務所を通す。当然、そんな常識わかり切った上でのこの質問だ。

(ってことは、こいつが加々美さんが言ってたやつか)

 つまり、尚人を狙う事務所の存在のことだ。

 さて、どう答えようか。

 刹那迷う。その時––––

「よう、雅紀。ここにいたのか」

 聴き慣れた声がして、加々美が姿を見せた。周囲が小さくさざめく。しかしそんなことは慣れっことばかりに、加々美は気にする様子もなく雅紀の横に並んだ。

「捜したぜ。今日のステージもばっちり決めてたな」

「ありがとうございます」

「あいかわらず、お前のウォーキングは惚れ惚れするぜ」

 加々美はそう言って男の色気たっぷりに微笑み、やっと二木の存在に気づいたように視線を向けた。

「おっと、『イグニス・プロダクション』の二木さんじゃないですか。失礼。雅紀と歓談中だったかな?」

「加々美さん。ご無沙汰しております。今は、MASAKIさんにご挨拶させていただいておりました。それと、加々美さん。実は私、『イグニス・プロダクション』は退社致しまして。今は新しく立ち上げたモデル事務所『イニティウム』で代表を務めております」

 二木はそう言ってもう一枚名刺を取り出すと、加々美に差し出す。加々美はにっこり笑顔で名刺を受け取った。

「やっぱり、出来る男は独立が早いな。で、挨拶は…、もう済んだみたいだな」

 加々美は、二木の手にある雅紀の名刺を視線で指して軽く笑む。

「じゃ、雅紀。話があるんだ。ちょっと付き合え」

 加々美はそう言って雅紀を促す。雅紀は二木に軽く会釈をしてから、先に歩き出した加々美の後を追った。

 二人は会場を抜け、エレベーターに乗り込み、ホテル最上階のラウンジに入ると、加々美が先導するままに窓際の席に座った。

「こいつとは、どこまで話を?」

 加々美は席に着くなり、手に持ったままだった名刺を軽く掲げる。

 雅紀は小さく息を吐いた。

 やっぱり、そいうことか、と。

「名刺を交換しただけですよ。個人的な連絡はどこにしたらいいのかと聞かれて、答える前に加々美さんが現れましたから」

「じゃ、タイミングバッチリだったわけだ?」

「そうですね」

 雅紀の名刺に事務所の電話番号しか書かれていないことは、加々美も知っている。そもそも自分で営業するわけではない事務所所属のモデルが名刺を持つ必要はないし、実際名刺を持たないモデルも多い。が、雅紀は加々美のアドバイスに従って、デビュー当初から名刺を携帯していた。

「顔と名前を売るアイテムは、持ってた方が得だろう?」

 それが加々美の言だったが、色々苦労はしてもまだまだ子供にすぎなかった雅紀に、大人のマナーと責任を、押し付けがましくない方法で教えてくれたのだと思っている。

「先日、加々美さんが言ってたのは、彼のことですか?」

「ああ、そうだ」

 加々美は頷く。

「高倉が警戒していたのも、二木が動いているって噂があったからだ。やつには濱中健太を横取りされた因縁があるからな」

 濱中健太は、高校生でモデルとしてデビューすると、その甘いマスクと十代らしからぬ適度なキザっぽさが若い女性に受けて一気に人気に火がつき、すぐに俳優転向して、今やドラマに映画に引っ張りだこの超売れっ子役者だ。

 正直なところ、雅紀は、濱中健太に興味も関心もないし、彼のスカウト劇の裏に業界内のどんな駆け引きがあり、その結果どんな確執が生じていたとしても、どうでもいい他人事だが、そのリベンジマッチを尚人を使ってしようというのでは迷惑な話でしかない。

 だが、「迷惑」と切って捨てれば済む話ではないのが厄介なところだ。

「で、尚人くんと話は?」

「まだです」

「––––そっか」

「というか、加々美さん。すみませんが、前回の話、なかったことにしてもらえませんか?」

 雅紀が言うと、加々美は驚きも戸惑いも見せなかったが、珍しいほどの静かな視線を雅紀に向けた。

「理由は?」

「俺に出来ることがあるうちは、まだ、それを手放したくないからです」

 尚人のスカウト交渉を自分に持ちかけてくると言うのなら、それに対応すればいい。それだけの話だ。そもそも答えは決まっている。百回交渉されても、同じ答えを百回繰り返すだけだ。

 加々美の提案は、もったいないくらいにいい話には違いない。自分以外にもう一人、尚人の防波堤となる大人ができるのだ。雅紀的にも安心感は増す。

 それは、わかっている。

 しかし––––

 そう、せめてまだ、尚人の保護者でいられるうちは。保護者としての責任を全うさせて欲しい。いや、その責任の一端でも、他人に譲りたくない。

 雅紀が改めて強くそう思うようになったのは、もちろん、先日の尚人のパニック発作にある。あの一件で雅紀は、すっかり癒えたと思っていた尚人の傷が、まだ根深く尚人を苦しめているのだと見せつけられた。

 それなのに、尚人は欠片も弱音を吐かない。

 あの日も翌朝、尚人はいつも通り五時に起きて、朝食作りを開始した。

「ナオ、大丈夫なのか?」

 問えば、尚人は

「心配かけてごめんね。でも、もう大丈夫だから」

 そう繰り返すだけ。しかし雅紀は心配で、一日くらいは様子見で休ませたかったのだが、一日の遅れを取り戻す大変さを考えると休みたくない、と言われると無理に休ませるわけにはいかず。しかしそれでも、自転車での登校だけは認めるわけにはいかなくて、半ば強引に車での送迎を承諾させたのである。

「何があった?」

「え?」

 加々美の唐突な問いかけの意味がわからず、雅紀は戸惑う。

「前回と同じ理由で断るなら、話を持ち出した時に断りゃ済む話だ。いったん持ち帰った上で、しかも尚人くんと話し合うでもなく、そう言う答えを返すってことは、何かあったってことだろう?」

 加々美の言葉に、雅紀は小さく息を吐いた。

 これだから、侮れないのだ。

 些細な情報を拾い集めて見逃さない。人の機微に聡く、それでいて懐深い。

 加々美に対しては、安易なごまかしなど通用しないのだ。

「––––ナオの抱えていた傷は、俺が思っていたよりも深かったってことです」

 雅紀が、口に苦いものを感じながらぽつりと告げると、初めて、加々美の眉がひっそりと寄った。

「どう言うことだ?」

「加々美さんには話していたと思いますが、ナオは、暴行事件の被害にあったことで、時々パニックを起こすようになりました。最初はそれこそ、思いがけない物音とか、背後からの接触とか。そんな些細な刺激で、パニクって発作を起こしていたんです。ただ、それもずいぶん落ち着いて。今年に入ってからは、全く症状が出たことがなかったんですけど。––––なのに先日、ナオが急にパニック発作を起こして。夜、一階の廊下で一人倒れていたんです。……本当に、肝が冷えました」

 雅紀は深く息を吐き出した。

「なんで急にナオが発作を起こしたのか。わからないんです。……というか、ナオが今まで黙って飲み込んできた諸々の出来事は、ナオが自分で自覚してるよりも、深くナオを傷つけているんだと。そしてその傷は、見えないだけで、まだナオを苦しめているんだと。そう思ったら……」

 加々美は沈黙する。

 これで、加々美が黙って引いてくれたらいいのだが。

 雅紀がそんなことを思っていると、

「––––雅紀、お前もだ」

 加々美が静かに言葉を発した。

「これまでの出来事に、自覚しているよりも深く傷ついているのは、お前もだ。雅紀。––––俺には、そう見える」

 雅紀はわずかに目を眇めた。

「親父さんの裏切り。おふくさんの死。お前は、俺に取っては何でもないって顔をして来たけど、そのことに深く傷いついて来たのは、お前も、同じじゃないのか? 幼い弟たちをどうにかしなきゃと考えるあまり、自分が傷ついていることにすら、無自覚だったんじゃないのか?」

 加々美の真摯な言葉に、雅紀は心の中だけでうっそりと笑った。

 加々美は知らないから、そう言えるのだ。

 自分は、被害者ではない。

 尚人にしてみれば、慶輔に負けず劣らずの、(いな)、慶輔よりもっと卑劣な加害者だ。劣情の果てに我を忘れて強姦し、その後は怯えて身を竦ませる尚人を半ば脅してセックスを強要した。体に快楽を教え込み、逃げられないように深い楔を打ち込んだ。尚人が二重禁忌にどれほど怯えようとも、愛情に飢えた状況では最終的には自分に縋るしかないのだとわかり切った上での確信犯だった。

 尚人がパニック発作を起こすようになった原因の半分は自分にもある。それさえも、雅紀は自覚している。何も知らない体に、突然、なんの労りもなく、いきり立った物を突っ込まれたのだ。その恐怖と痛みで意識を飛ばした尚人は、翌朝目を覚ましたとき、それこそ雅紀の顔を見るなり、パニックを起こして泣き叫んだ。

「いや、やめて。こないで!」

 悲痛な尚人の叫びは、今でも耳の奥にこびりついている。

 あのとき雅紀は、死にたくなるほどの後悔と同時に、暗い喜びに血が騒いだ。

 無垢な弟をものにする、願ってもないチャンスじゃないのか。体の関係が先にできてしまったのなら、あとは何をやっても同じだろう、と。

 その内なる囁きに、雅紀は罪悪感など感じることなく素直に従ったのだ。

「だったら、どうだと言うのです?」

 雅紀は低く問う。

「俺が、仮に、加々美さんの指摘する通りだったとして、何か変わりますか?」

「見えない傷に苦しんでいる尚人くんを守ってやりたいとお前が思うのと同じようなことを、俺がお前に対して思うことはおかしなことか?」

 静かな加々美の言葉に、雅紀は刹那目を見張って、沈黙した。

 加々美の視線はどこまでも真摯で。茶化しているわけでも、揶揄(からか)っているわけでもないとわかる。

 わかりはするが、雅紀は返答に窮した。

 自分はもう庇護されるべき子供ではない。成人した、いい大人だ。仕事ではそれなりの評価を得、経済的にも自立している。

 そんな自分も、加々美から見れば、まだ子供同然、と言うわけだろうか。

「勘違いするなよ」

 まるで雅紀の心の声を聞き取ったかのように、加々美が柔らかく笑った。

「俺は、お前のこと、お前が思っている以上に評価してんだ。この世界にお前を引っ張り込んだのは、俺の業績だって胸張れるくらいにな」

「………」

「尚人くんのバックにお前がいるように、お前のバックには俺がいる。ま、今のところはそれだけ、覚えておいてくれればいい」

 太く笑う加々美に、雅紀は何も言えなかった。

(本当に、この人は……ずるい)

 少しだけ体温が上がった気がして、雅紀は、そっとため息を()いたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縹色(はなだいろ)ノ雲 9

 夏休みも残り数日となった某日。広尾隼斗は、久々に集まった中学時代の友人数名と近所のショッピングモールを彷徨(うろつ)いていた。駄弁(だべ)りながら服を見て歩き、いつもなら近寄りもしないアクセサリーショップに入って物色し、ゲームコーナーに立ち寄ってクレーンゲームで盛り上がる。そして昼近くになってフードコートに移動すると、それぞれ喰いたい物を調達して来てフリースペースの一画を陣取った。

 今は違う高校に通う久々に会った友人同士、話は止まらない。それぞれの近況を報告し終えると、中学時代の思い出話に花が咲く。

 体育大会や、修学旅行。クラスマッチに、文化祭。その時感じた達成感やら敗北感やら。今だから言えるその裏で起きていた甘酸っぱい出来事などなど。ひとしきりそんな話で盛り上がった後、ふと川島学が口にした。

「そう言えばさ。二組に篠宮瑛って奴いたの、覚えてる?」

「もちろん。野球部のエースだった奴だろう? すでにスカウトマンが付いてるって噂のあった」

「そうそう。そいつ。––––で、俺、最近知ったんだけどさ。去年散々メディア賑わせてた篠宮一族って、あいつん()らしいな」

「あ。それ、俺も聞いた」

「え? マジ。どう言うこと?」

 メンバーの中で一人だけ、早瀬孝臣が初耳とばかりに驚きの声を上げる。

「じゃあ、何。あいつ『MASAKI』の弟だったの?」

「ちがう、ちがう。『MASAKI』の弟は超頭いい学校に通ってんだろう? じゃなくて、親戚の方。最強ヒールって世間賑わせてた『MASAKI』の父親と瑛の父親が兄弟らしい」

「ってことは、あいつ、『MASAKI』とは従兄弟ってこと?」

「まあ、そうなるかな」

「マジかよ! ってか、『MASAKI』に全然似てなくね?」

「従兄弟って、普通そんなに似なくね?」

 メンバーの一人が苦笑しながら突っ込むと、早瀬はシェイクを一口飲んでからわずかに口元を歪めた。

「まぁ、そうだけどさー。欠片もないっていうか。『MASAKI』って、ハーフぽいじゃん。けど、あいつさ、どっからどうみても日本人だったよな?」

「まあ、それはそうだな。けど、それは『MASAKI』が特別なんだろ。テレビでも、なんか一人だけすっごい先祖返りみたいに言ってたし」

「らしいな。俺、あんまニュースとか見ないから。『シノミヤ』って聞いても中学の同級生に同じ名前のやつ居たなーって思ったぐらいで、まさか『MASAKI』とあいつが親戚とかって思いもしなかったんだけど。それこそ、見た目全然違うしさ。でも、この間、たまたま加治木に会って」

「おお、加治木。なつかしー。あいつ、今何してんの?」

「三高行って野球してる」

「三高って、今年甲子園出場したとこじゃん」

「初戦敗退だったけどな」

「それでもすげー」

「でさ。その甲子園出場をかけた地方大会の決勝戦戦った相手があいつの行ってる須賀高だったらしくて。その時のあいつの雰囲気が、中学時代と全然違って。なんか雰囲気悪くて、気軽に声掛けられる感じじゃなくて。チームメンバーとも一人離れている感じで。それにびっくりしたって、加治木の奴が言っててさ。その時に、去年あれだけの騒動が起きた影響かもしれないって、言うの聞いて、初めて知ったんだよな」

「須賀高、ってことは。隼斗、お前同じ高校じゃん」

 早瀬の呟きに、隼斗は頷く。

「まあ、クラスは違うけど」

「あいつ、今どんな感じなんだよ」

「どんなって……。雰囲気変わったよ。目つき悪くて、雰囲気が刺々しくってさ、誰も近寄れないって感じ。『MASAKI』の親父が暴露本出して、あいつが親戚だってことが学校中にバレた後に、爺ちゃんが息子刺す事件が起きただろう? だから、その直後は学校中その噂で持ちきりで。あいつも気にくわねぇことがあったら、相手刺すんじぇねえの、って言ってたら、部活の先輩ぶん殴って謹慎処分受けたからさ。たまたまナイフ持ってなかったから刺さなかっただけで、持ってたら刺したんだろうって。みんな言ってた」

「マジかよ。終わってんな」

「それに噂じゃ、爺ちゃんが息子刺した現場に同行してたのがあいつの親父で。そのショックであいつの親父、今うつ病発症して入院してるらしい」

「ひぇー、不幸のダブルパンチって感じ」

「これでドラフトにかかってプロに行けるんなら、サクセスストーリーになるんだろうけど。今年は甲子園逃してるしな。あと、ワンチャンって感じ?」

「別に甲子園行ったからって、ドラフトにかかるわけじゃないだろう? 高卒でドラフト指名受けてプロになるって、東大に合格する奴より少ないんだし。大抵の奴が、高校野球では活躍した奴、で終わるじゃん」

「まぁな」

「いくら従兄弟とはいえ、誰もが『MASAKI』になれるわけじゃねーしなー」

 話に夢中の隼斗たちは、隣の席でハンバーガーにかぶりついている冴えない中年男性が、胸ポケットに潜ませているボイスレコーダーをオンにしていることなど、気づく由もなかった。

 

 

 * * *

 

 

「榎本さん。今回もずいぶん面白い記事書かれましたね」

 フリー仲間の声かけに、榎本は(くゆ)らせていたタバコをそのままにニヤリと笑った。

「読んだか?」

「ええ。にしても、いったいどこで話の種、拾ってくるんです?」

「たまには、地方のショッピングモールふらつくのも悪くないってことだ」

「へぇ……。でも、大丈夫なんですか?」

「何が?」

「いや、ほら。『MASAKI』方面ですよ」

 潜められた声に、榎本は笑い飛ばす。

「大丈夫に決まってんだろう。『MASAKI』は弟のことさえ書かなきゃスルーだから」

「そうなんですか?」

「そうだよ。春に妹のこと結構あけすけに書いたのに、何も反応なかったし」

「あけすけって。あれ、同じ日に同じホテルに泊まったってこと以外は、全部憶測だったですよね?」

「だから、そう書いただろう。二人きりになれたはずのこの時間帯に何してたんだろうなって」

「まあ、確かに。嘘は書いてなかったですね」

「ほんの少しの真実と、そこから膨らんでくる憶測。それを、どれほど読者に『そうなのかもしれない』って思わせられるかが、俺たちライターの仕事だろうが」

 榎本が言うと、フリー仲間は苦笑した。

「すげーかっこいいこと言っている風ですけど、俺たちが書いてるのって、所詮はゴシップですからね」

「結局は、それが一番売れるんだよ。世間のニーズに応えんのが、俺たちの仕事だろう?」

 榎本はタバコをもみ消すと、

「じゃあな。俺は次の飯の種を見つけに行くわ」

 そう言って、その場を後にした。

 

 

 * * *

 

 

 

『篠宮慶輔氏 一周忌を終えて 彼の残した影』

 週刊誌にそんな特集記事が掲載されたのは、狙ったのかどうなのか、慶輔の暴露本『ボーダー』が銀流社から出版されてちょうど丸一年にあたる日だった。

 記事の内容は、夫と息子を立て続けに失った老母秋穂の衰弱ぶりや、長兄明仁の運営する書道教室がなかなか以前のような賑わいを取り戻せずにいる現状などに触れつつも、焦点は明らかに、末弟智之とその一家のことであった。

 智之が、刃傷事件後、父の愚挙を止められなかった自責の念からうつ病を発症し七月末まで入院していたこと。現在も完治はしておらず、自宅療養を続けていること。そのため仕事復帰の目処が立たず、現在は妻のパート収入に頼るしかなく、大学生になった長男もバイト三昧の生活をしていること。次男の続ける野球の部費や遠征費が家計に重くのしかかるが、プロ野球選手になって人生の一発逆転を信じているが故にやめられないこと。しかしそれも、部内で起こした暴力沙汰によって暗雲が立ち込めていることなどなど。事実と憶測混じりで、好き勝手に書いてあった。

 この記事は、特に大事件が起きていなかった平和な日本の昼間のワイドショーで取り扱うのにちょうど良かったのか、どの局も軒並み話題にした。

《この事件も随分と尾を引きますね。高橋さん、どう思われますか》

《うつ病は、誰もが発症しうると言う認識が広まりましたけど、実際発症すると、やはり本人も家族も大変ですよねぇ。今回の智之氏のようにフリーランスで働いていた場合は、休業イコール無収入を意味しますし》

《確かにそうですね。週刊誌の記事にも、現在は奥様のパート収入と御長男のアルバイト収入でなんとか家計をやりくりしているとありますが。大学生と高校生の息子さんのいる家庭ですからね。おそらく家計は火の車ではないでしょうか》

《そう言う意味では、慶輔氏は、自身の家族のみならず、弟家族も経済的に追い込んだと言えますよねぇ》

《死した後も一族を苦しめるって。本当、疫病神以外の何者でもないわよね》

《まあ、慶輔氏自身は、最後は死神に取り憑かれたような亡くなり方でしたが》

《彼に取り憑いたのは、死神じゃなくて、捨てられた愛人の怨念でしょ。まあ、そんなことより、いつまでも慶輔氏に苦しめられる家族はたまったものじゃないわよねぇ。特にうつ病を発症した三男の智之氏は、本当にお気の毒と言うか。私の知り合いのご家族にもね、うつ病の方がいるのだけど、もう十年以上浮き沈みを繰り返してて。うつ病って一度発症すると、なかなか完治が難しいってイメージがあるのだけど。どうなのかしら? 栗田先生はご専門でしょ?》

《まあ、確かにうつ病は、発症してから時間が経つほど完治が難しくなりますね。そのため、早期発見、早期治療が肝心です。なので、智之氏がすぐに入院の選択をされたのは良かったと思いますよ》

《でも、栗田先生。入院してたのに完治しないまま退院って、大丈夫なの? 退院して悪化しちゃうってことはないのかしら?》

《そこは、担当医の判断ですから。智之氏の状態が、このまま入院し続けるより、退院しての自宅療養の方がいい、という状況なのだと思いますよ。ただ、そう言う判断に至った経緯については、ここに出ている情報だけではわかりませんね。というのも、入院が長くなると、今度はそのことで入院うつのような状態になってしまう患者さんもいらっしゃいますので。退院の時期を見極めると言うことは、担当医にとってとても重要なんです》

《なるほど》

《まあ、入院費用も馬鹿にならないでしょうしねぇ。長引けば、今度はそのことが気掛かりになっちゃいますよね》

《そうよねぇ。でも、よくよく考えたら、この家計状況でよく入院費用の工面ができたわよね。保険とか効くのかしら》

《それについては、こちらをご覧ください。今回のようなケースで入院治療を受けた場合に必要な金額を調べてみました。まずは治療費の方ですが、保険診療内の治療でしたら、こちらは高額療養費の対象になりますので、月額の自己負担は十万円程度です。これに部屋代や食事代などの自己負担の部分が加わってきまして、大部屋利用、食事も一般的なものと見積もって計算しますと、月額六万円程度。つまり毎月の入院費用はこの二つの合計金額である十六万円程度ということになります。智之氏は、およそ七ヶ月程度入院していたということですから、この計算でいきますと、入院費用の合計は百十二万円ということになります》

《……結構するわね》

《いやー。この金額は、家計に厳しいですよね》

《確かに、奥様のパート収入と御長男のアルバイト収入が頼りの中、この金額は厳しいですよね。それで、どうやって入院費用が工面できたのか、と、まあ、誰もが気になる疑問かと思いますが。それについて、病院関係者からの証言ということで週刊誌の中に記載がありまして。どうやら智之氏の甥にあたる『MASAKI』さんからの援助があったようです》

《まあ、そうなの!》

《いやー。すごいですね。普通、叔父さんの治療費って出せなくないですか? しかも彼、まだ二十二か、二十三才ぐらいでしたよね》

《普通だったら、美談として吹聴しちゃうわよね。自身のインスタとか、ツイッターとかでさ。そうしないところが『MASAKI』よね》

《まあ、実際に『MASAKI』さんがいくら援助したのか、と言うことまではわからないんですけど。おそらくは、この金額以上であろうと》

《こう言うのは、金額がどうこうじゃないでしょ。援助してやろうって気持ちが大切なんだから》

《すみません。一応、参考までに、ということで》

 スタジオ内のコメンテーターたちは、軒並み、とばっちりでうつ病を発症してしまった感のある智之に同情的ではあったが、しかしそれでも、当事者家族にとっては、プライベートな内容がテレビで放送されることは、ようやく訪れた平穏を再びかき回されるような出来事だった。

 麻子は、昼間に何気なくつけたテレビの情報番組で、自分たち家族のことが当たり前のように話題にされていることに驚いて慌ててテレビを消した。その後は、バクバクと逸る心臓を(なだ)めるのに時間がかかった。その時智之がリビングにいなかったのがせめてもの幸いで、麻子はその後、テレビをつけるのが怖くなってしまった。しかし自分が見ないようにしていたところで、周囲は見ている。パート先で掛けられる声に、麻子は神経をすり減らした。下手な軋轢を生まないよう、それでいて余計な詮索をされないよう、そつなく対応しなければならなかったからだ。中には純粋に心配してくれているのだろうという人もいたが、全員がそうというわけではなかったからである。

「甥っ子に『MASAKI』がいるなんて、ラッキーよね」

「カリスマモデルなんだもの。随分と援助してもらったんでしょ?」

「本当は、パートなんてしなくても大丈夫なんじゃない?」

 半分は当て擦り、と分かっていても、どうしてそういう発想になるのか。麻子は不思議でしょうがなかった。もし、雅紀が甥っ子でなければ、そもそも我が家はこんなことになっていない。それに、治療費を援助してもらったのは確かだが、そこからどうやれば、生活費の面倒まで見てもらっているという発想になるのか。あちらにはまだ、未成年の弟が二人いて、兄の雅紀がその生活費や学費を稼いでいる。今までの報道を全て見ていれば、そのくらいわかるはずで、自分の都合の良いところだけをあげつらって話しかけてくるパート仲間には本当にうんざりだった。

「もう、放っておいてください! それって、仕事に関係あります?」

 何度そう言いたくなったことか。しかしそれを言えば、一巻の終わりだ。パート仲間から爪弾きに合えば、職場に居辛くなる。パート間の軋轢を嫌う社員に疎まれると、最悪、仕事を辞めなければいけなくなるかもしれない。まだ智之の仕事復帰が見通せない現状で、麻子まで仕事を失うわけにはいかなかった。

 正直、零のアルバイト収入はありがたい。とても助かっている。しかし、せっかくの大学生活がバイト三昧になってしまっていて、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。本来、授業以外のサークル活動などで視野も人脈も広がるのが大学生活の醍醐味の一つのはずだからだ。

 今、麻子が仕事を失えば、零は間違いなく大学を辞めて就職すると言い出すだろう。麻子は、それが怖かった。そしてそれ以上に、この報道を瑛が知ることが怖かった。

 瑛は未だに、周囲の全てを敵のように思い込んでいる。智之の治療費を出してくれた雅紀に対しても、その態度を崩さない。感謝の気持ちなど一切なく、当たり前だと言って憚らない。

 今の瑛は頭に血が上ったら何をしでかすかわからない恐ろしさがある。以前先輩を殴った件は、自宅謹慎と、スタメンから外される程度の処罰で済んだが、今度何か事件を起こせば、退部させられてもおかしくはない。野球は、唯一瑛を支えているものだ。それを瑛が失った時、瑛はいったいどうなるだろう。自暴自棄になって、何もかもを投げ出してしまうかもしれない。学校へ行くことや、勉強すること、そしてその先に繋がる自分の人生の諸々。その結果、引きこもるのならまだマシで、腐って投げ出して、やり場のない怒りを他人に暴力を振るうことで解消しようとするようになってしまったら人生破滅だ。麻子は、瑛がどことなく拓也に似た気質があるように見えるだけに、心配でならなかった。

 そして、そんな麻子の心配は最悪なことに的中してしまうのである。

 

 

 * * *

 

 

 放課後、瑛はいつものごとく部活動へ行こうと、大きな野球バッグを抱えて昇降口へ向かった。以前は邪魔になる野球バッグなど朝部室に放り込んだらそのままにしていた瑛だが、今はわざわざ教室まで持っていく。それは、部室に置きっぱなしにしていて、荷物が荒らされたり、バッグの中にゴミを突っ込まれたり、そんな嫌がらせが続いたからだ。部活の荷物をいちいち教室まで持っていくことは、何となく負けを認めた気がして悔しかったが、状況的に犯人の証拠を上げられるわけもなく、かといって、嫌がらせを受け続けるわけにもいかず。自衛のためには仕方なかった。それに、瑛の起こした暴力沙汰が原因で半年間の対外試合が禁止になったことは動かしようのない事実で。腹の立つことも多少は飲み込まざるを得ない立場だったことも否めない。

 大好きな野球を続けるためには、多少腹の立つことも我慢しなければならないと学んだ。何より、自分が野球を頑張ることが父の回復につながるのだという思いが瑛の中にあった。幼い頃より瑛を全面的にサポートし、瑛の活躍を誰よりも喜んでくれたのが父である。そんな父を甲子園に連れて行ってやりたい。甲子園で活躍する自分を見せたい。今年はあと一歩届かなかったが、来年こそは必ず。そんな思いが、瑛を支えていた。

 瑛は昇降口へ着くと、下履に履き替えるため自分の靴箱を開ける。

 と、そこに見慣れないものを発見して、瑛は一瞬動きを止めた。くたびれたスニーカーの上に茶封筒が置いてあったのだ。

 ––––何だこれ?

 手にとって、ピラリと表と裏を確認する。差出人とか、中身に関する記載とか、そんなことは一切書かれていなかった。

 不思議に思いつつ、瑛は靴を履き替えながら中の書類を取り出す。きれいに折り畳まれていた紙を広げると、週刊誌の記事をコピーしたものだった。

『篠宮慶輔氏 一周忌を終えて 彼の残した影』

 目に飛び込んできた見出しに反射的に顔をしかめ、おもわず一気に記事を読む。

『自責の念からうつ病を発症』

『フリーランスのために無収入』

『次男の続ける野球が家計を圧迫』

『将来を期待されつつも暴力沙汰で謹慎処分。その気質は祖父譲り』

『入院費用は『MASAKI』が援助』

『慶輔』を見出しにしながらも、書いてある内容はほぼ自分たち家族のことで、最後まで読み終えた時には瑛の頭は煮え立っていた。

「何だよこれ!」

 こみ上げた怒りに任せて衝動的に靴箱を蹴る。鋼製の靴箱が派手な音を立てて、近くにいた生徒数人がびくりと振り返った。

 あいつらだ。あいつら。あいつらの仕業だ!

 反射的に、瑛は思う。

 俺のしたことへの仕返しだ!

 くそ!

 くそ!

 瑛は、怒りが収まらずにもう一度思い切り靴箱を蹴る。

 奥歯を噛み締めて、それでもやり場のない怒りに、拳で叩いた。

 自分がしたことといえば、尚人の載った新聞記事に実名と住所を書き加えてネット掲示板にアップしただけ。それでどれだけの人間の目に触れるのかわからない程度のささやかな行為だ。それなのに向こうは、芸能人でも有名人でもない自分たち一家のことをマスコミに売って世間の晒し者にしてきた。

 こんなこと、許されていいのか。

「おい、どうした」

 (ざわ)めきを聞きつけたのか、何事かと、近くにいた教員が顔を覗かせる。

 それにも構わず瑛は、雄叫びを上げて再度靴箱を蹴った。

「篠宮! 何をしている!」

 慌てた男性教員が、駆け走ってきて瑛の肩を掴む。その行為が瑛の怒りをさらに煽った。鼻息荒く振り返って相手を睨みつけ、その手を振り払って野球バックを投げつける。その勢いに男性教師はよろめいて尻餅をついたが、瑛の目にはすでにそんなものは写っていなかった。

「っざけんな! ぜってー、許さねぇからな!」

 震える拳を握りしめ、全速力で校門に向かって走り出す。

 目指す先はもちろん、千束の篠宮家だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縹色(はなだいろ)ノ雲 10

 定時に下校して裕太と夕飯を囲む。いつもと代わり映えのない日常の一コマ。しかしあの日以来、尚人は裕太と二人きりの時間が何となく気詰まりだった。

 あの日、––––深夜、雅紀が裕太の部屋から出てきた気配がしたあの時。本当は二人で何をしていたのか。知りたい気持ちと、知りたくない気持ちがせめぎ合う。

 案外何でもないことのような、––––例えば、今後の進路についての相談をしていたとか、そんなこともあり得るような気がして。ならば、さらりと聞いて答えを知ってしまった方がスッキリすると思う一方で、思っている通りだったらどうしようという恐怖心が尚人の口を重くする。それに、もしそうだったとして、果たして自分にそれを素直に言うだろうか。そう思うと、問うこと自体意味がない気もして––––。そんな思考のループに尚人はずっぽりと(はま)ってしまっていた。

 唯一の救い、というべきは、あの日以来、雅紀はセックスをするしないにかかわらず帰ってきた日は必ず尚人と一緒に寝るようになったことだ。おそらくそれは、久々に起こした発作を心配してのことだとは思うが、それでも朝目が覚めた時、雅紀が隣に寝ていると尚人は心底ほっとした。

 ––––まーちゃんだけは、裕太にだって取られたくない。

 そんな自分のエゴを、尚人は自覚する。自覚して、自己嫌悪に陥る。裕太だって長らく抱え込んでいたやり場のない感情をようやく飲み込んで、今、何とかそこから這い上がってこようとしている中、尚人が癒されたのと同じ種類の愛情が必要かもしれないのに。どうしてもそれだけは許せない。裕太の兄でありながら、そう思ってしまう。そんな自分の狭量さを尚人は自覚しないわけにはいかなかった。

 

 

 * * *

 

 

 あの日以来、裕太はどことなく気持ちが落ち着かない。

 あの日、と言うのはもちろん、尚人が久々に発作を起こした日のことだ。

 あの日、雅紀に話すべきことを話し終え、今日はここまで、となった後、廊下から響いてきた雅紀の切羽詰まった声に、裕太は驚いて部屋を飛び出した。

 雅紀が声を上げることは滅多にない。それは、昔も今も同じで、優等生の皮をかぶっていた頃はもちろん、大人になってからは、いっそ冷淡に思える程低く落ち着いた声音(トーン)で喋るようになった。そんな雅紀の感情を良くも悪くも揺さぶることができるのは尚人だけ。それを嫌と言うほど知っているから、階下から響いてきた雅紀の声に、裕太は尚人の身にただならぬことが起きたのだとすぐさま察した。

 慌てて部屋を飛び出して階段を駆け下りると、尚人は雅紀の腕の中で意識のないまま体を硬直させていた。ひと目見るなり、パニック発作だと分かった。わかりはしたが、なぜ今なのか。裕太は驚きを隠せなかった。

 尚人が事件の後遺症からパニック発作を起こすと知ってから、裕太はしばらく尚人が寝付いた後、そっと部屋の様子を伺うことがやめられなかった。自分が気づかない間に尚人が発作を起こしていたらどうしよう。そんな恐怖が裕太を支配していた。

 しかし実際は、寝付いてしまえば尚人が発作を起こすことはなかった。尚人の発作はどうやら、身体への危害が連想されるような場合に起きるみたいだったからだ。だから、大きな物音がダメで、テレビの中であっても暴力的なシーンがダメで、急に事故や怪我の話をされるのがダメなのだ。

 それゆえ裕太は、有村宏之に突き倒されてあちこちアザができた時、自分の怪我のせいでせっかく落ち着いた尚人の発作がぶり返しやしないかと心配した。実際は自転車で()けたと嘘をついたわけだが、体にできたアザを見ただけで尚人のトラウマを刺激しないかと心配したのだ。しかしそれは杞憂に終わった。もう一年以上、発作は出ていない。だから、尚人のパニック発作は完治したのだ。そう思っていた。

 なのに––––

 なぜあの日、尚人は急に発作を起こしたのか。雅紀もわからないみたいだった。だからなのか、あの日以来雅紀の過保護ぶりは拍車がかかり、それこそ寝ても覚めても尚人のそばを離れない。

 まあ、それは別にどうでもいいのだが……。

 裕太の気持ちが落ち着かない理由は、実はそこではない。近頃尚人の様子がどことなくおかしい。そんな気がするからだ。二人だけの食卓に会話が少ないのは前からで、話しかければ普通に答えが返る。なのに、どことなく尚人の雰囲気が違う気がする。自分をじっと見る静かなその眼差(まなざ)しが「俺に何か言うことがあるんじゃないの?」と言ってる気がしてならない。

 ––––ひょっとして、ばれたかな。

 そんな思いがよぎる。

 尚人が久々に発作を起こして一階の廊下で倒れていたのは、尚人のことが載っているネット掲示板を見つけた報告を雅紀にした直後のこと。タイミング的に話を聞かれていたとは思えないが、雅紀が裕太の部屋から出てきたのには気づいたかもしれない。

 ––––二人でこそこそ何してたの?

 ––––俺に言えない話?

 尚人の視線がそう言ってるように見えるのは、隠し事をしているという後ろめたさゆえだろうか。

(うーん。素直に言うべきか……)

 しかし、全て勘違いだったら自爆もいいところ。そもそも、尚人には黙っておこうと提案したのは自分の方で。それはもちろん余計な騒音に煩わされることなく尚人には受験に専念して欲しいとの思いからだが、家族間で隠し事があると言うのは実際やってみると何とも(にが)い。

 そもそも自分は、それが原因で全てを拒否っていたのだ。

 どうして父と母がこんなことになってしまったのか、知りたいだけだったのに教えてもらえずに腹が立った。受験が終われば帰ってくると言っていた沙也加がなぜ帰ってこないのか、理由が全くわからず見捨てられた気持ちでいっぱいだった。母が死んだと言うのに泣きもしない、薄情な兄二人を軽蔑した。堂森や加門の祖父母が裕太を引き取りたいと言う話を断らない雅紀に自分は不要の存在だと言われている気がして頭が煮えた。

 自分は父に捨てられ、姉に置き去りにされ、母に先立たれ、長兄には存在を無視されている。そっちがそうならこちらも。裕太の引きこもりは、そう言った反発心の(あらわ)れだった。

 そう言った諸々の出来事の背景にあったものを全て理解した今になってみれば、自分の行動が、思考パターンが、いかに自分勝手で子どもじみていたかわかる。自分が拒否していたものに実は守られていたのだと言うことも、今は理解している。だから今度は自分が家族を守れる立場になりたい。––––そう思うのだが。果たして自分のやり方は合っているのか。やり方を間違えているから、尚人が発作を起こしたのではないのか。そんな気もしてならない。

「ナオちゃん」

 声をかけると、何? と言う視線が返る。

 尚人にまっすぐ視線を向けられると、裕太はなぜかいつもトクンと小さく心臓が跳ねる。

 理由は、わからないが……。

「森川のおばちゃんが言ってた不審者って、あれからどうなったの」

「どうって……」

 尚人は箸を止めて、わずかに思案顔をする。

「具体的なことは何も聞かないかな。巡回してるパトカーは時々見るけど」

「……ふーん」

「何か気になることあるの?」

「いや、そう言えばどうなったんだろうって。ちょっと気になっただけ」

「あ、そう言えば裕太。前、(うち)を覗き込んでた人がいたって言ってたけど。あれからどう? 近頃は、そういったことはないの?」

 問われて裕太は、うっと言葉に詰まる。ゆるーく探りを入れるつもりが、(かえ)って墓穴を掘ってしまった感じだ。

 しかし、逆に考えると、尚人にこれまでのことを切り出すチャンスか、との思いもよぎる。実は斯々然々(かくかくしかじか)こういうことがあって、雅紀と話して解決した、とその辺りのことを話してしまえば、この胸の(つか)えも少しは取れるのではなかろうか。ネット掲示板の件はまだ保留になっているので、話すのは躊躇(ためら)うが……。

「あー、あの件ね……」

 裕太が口を開きかけたその時だった。家のインターフォンが鳴った。思わず時計を見る。午後七時。

「誰だよ、こんな時間に」

 裕太はうっそりと眉を顰め、尚人はきょとんと玄関の方を振り返った。

「雅紀兄さん、のわけないね。宅配便かな?」

 尚人の呟きに裕太はさらにきつく眉根を寄せた。尚人に届いていた不審物の件を思い出したのだ。近頃はめっきり届かなくなっていたし、配達時間も基本昼間だったのですっかり油断していた。考えてみれば、本人が確実に在宅している時間に届くよう時間指定だってできるのだ。

「あ、俺出る」

 裕太は立ち上がる。尚人への荷物ならその場でソッコー受け取り拒否だ。尚人には誤配だったと言えば済む。そう思いつつインターフォンに歩み寄れば、せっかちな来客が再びインターフォンを鳴らした。

(ったく、誰だよ)

 そう思いつつ、室内機の画面を覗き込み、裕太はそこに写る人物に思わず目を見張った。篠宮家のインターフォンは、雅紀がセキュリティーを強化した時に来訪者が確認できるカメラ付きに変わっている。

(って、こいつ。あいつの弟じゃん)

 瑛だ。間違いない。

(こんな時間に何の用だよ)

 一度訪ねてきたときの用件が用件だっただけに、当然いい感情は湧かない。裕太は警戒心バリバリで通話ボタンを押した。

「はい」

『話がある。出てこい』

「は?」

『話があるって言ってんだよ! このクソ兄弟が!』

「お前、いきなり人ん()に押しかけてきて何言ってんの」

 前回も大概だったが、今回はあからさまに喧嘩腰だ。いや、喧嘩腰を通り越してもはや恫喝である。

『ぐだぐだ言ってねーで、さっさと出て来いよ! それとも、怖くて出てこれねーか。この引きこもりの中卒野郎!』

「裕太。どうしたの?」

 インターフォン越しの怒鳴り声に何事かと尚人もやって来る。そして画面に映る来客の姿を確認して驚きの声を上げた。

「って、瑛君⁉︎ どうしたのこんな時間に?」

『どうもこうもあるか! さっさと出て来いって、言ってんだろーが!』

 刺々しく言葉を吐き捨てながら、瑛は画面越しに拳を振り上げてカメラを殴りつける。直後、画面にノイズが走って通信が途切れた。

「何? どうしたの? どういうこと?」

 尚人の呟きはそのまんま裕太の疑問だったが、そんなことより裕太は尚人の呼吸が乱れたことにハッとした。

「ナオちゃん」

 外からは、途切れることなくワーワーと声を張り上げて騒ぐ瑛の怒鳴り声が響いてくる。インターフォンが切れたことに気づいたのか、今度はダイレクトに玄関を蹴る音がした。

「クソ兄弟が! お前らのこと、ぜってー許さねぇからな! ざけんなよ! 俺たちをマスコミに売りやがって」

 外から響いてくる怒鳴り声は、相変わらず訳がわからない。しかし、裕太はすでにそんなことどうでもよかった。

「ナオちゃん。呼吸して!」

 言われるまでもなく、尚人も必死に呼吸を取り戻そうとしているのがわかる。しかし、今度は自転車を蹴り倒すような派手な音がして尚人の体がびくりと震えた。直後、尚人の顔から一気に血の気が引く。見開いた視線が固まり、青ざめた唇が引くつくように痙攣する。そして尚人の体はそのままグラグラと膝から崩れ落ちた。

 完璧にパニック発作だ。

(薬!)

 裕太は、慌てて尚人の部屋に走る。いつもの引き出しから薬を取り出し、流しにあったコップをひっつかんで溢れるのも構わず水道水をざっと注ぐ。

「ナオちゃん、薬! 飲める? 口開いて!」

 裕太は体を硬直させた尚人の口を無理にこじ開けて薬を突っ込むと、口移しで水を注ぎ込む。その間も外からの騒音は止まない。そのせいなのか、いつもは薬を飲めば戻る呼吸が戻らない。

 怒鳴り声に続いて、自転車を窓にぶつける音がした。ガシャン! というガラス音と共に ドン! という振動が家中に響く。

(くそっ!)

 瑛の存在に裕太は苛立つ。

 いっそのこと外に出て、バットでぶん殴ってやろうか。

 そんな思いがよぎる。

 しかし、

 ––––窓ガラス、全部防犯ガラスに変えたから。

 ––––ハンマーで叩かれても簡単には割れない。万が一、家に不審者が来ても施錠さえちゃんとしとけば侵入は困難のはずだから。 

 家のセキュリティーを強化した時の雅紀の言葉を思い出し、裕太は気持ちを鎮めるため大きく息を吸い込んだ。

 外の奴は放っておいていい。どうせ、家の中には入れない。それよりも尚人だ。薬が効かないなら、すぐに病院へ連れて行かなければならない。

 裕太は、ゆっくり息を吐き出して立ち上がると、救急車を呼ぶべく玄関脇の電話に歩み寄って受話器を取る。その時にはすでに、近所の誰かが通報したのか、遠くからパトカーのサイレンが響いていた。

 

 

 * * *

 

 

 深夜の病院。雅紀は、人気(ひとけ)のない廊下を進み、教えられた病室へ静かに体を滑り込ませた。

「ナオ」

 ベッドに寝かされた尚人の顔を覗き込む。寝息さえ立てないのはいつものことで、静かに眠る尚人の表情に雅紀はほっと安堵の息を吐いた。

 顔色はわずかに冴えないが、呼吸は安定している。薬が効いているのだろう。

 仕事が終わっていつものごとく携帯をチェックし、入っていた裕太の留守電を聞いた雅紀は、一体全体何が起きたのかすぐには理解できなかった。

『瑛が急に家を訪ねてきて、わーわー騒いだせいで、ナオちゃんが発作を起こして。薬飲ませたけど効かないから、救急車呼んで、今病院。ナオちゃんが前入院してた榊病院に搬送してもらったから』

 メッセージはそれだけだった。

 瑛君が家に?

 それでナオがパニック発作?

 疑問だらけだったが、とにかく雅紀は榊病院へ急いだ。

 榊病院は雅紀の顔が効く。尚人が以前入院していたのでカルテもある。実は今もお守りがわりの薬を時々処方してもらっていて、そのおかげで先日久々に起こした発作の時も薬で対応することが可能だったのだ。

「雅紀にーちゃん?」

 雅紀が尚人の髪を梳いて額に軽くキスしていると、尚人の横で眠りこけていた裕太がぼんやりとまぶたを持ち上げた。

「今着いた」

 雅紀が告げると、裕太は大きく伸びをしながら起き上がる。

「今何時?」

「十一時過ぎ」

「あっそ。ひょっとすると来れないかもって思ってたんだけど。仕事、大丈夫なのかよ」

「あのメッセージを聞いて、行かないって選択肢はないだろう。で、一体何があったんだ?」

 雅紀が問うと、裕太は眠たげに目を擦りながら、思い切り顔を(しか)めた。

「何がなんだかわかんねーよ。いきなりあいつが家に来たんだから」

「あいつって、瑛君?」

「そう。いきなりやって来てインターフォン越しに訳わかんないこと怒鳴り散らして。話があるから出て来い、俺たちのことマスコミに売りやがって、とか何とか。で、あいつインターフォンぶった叩いて壊して。そのあと外の自転車蹴り倒したり、窓に投げつけたりして。それで、その音でナオちゃんが発作起こして。あいつが騒ぎ続けるせいか、薬飲んでもナオちゃんの発作が(おさ)まらなくて」

 裕太の話に雅紀はひっそりと眉を寄せた。

(マスコミに売るって、ひょっとしてアレのことか?)

 先日週刊誌が慶輔一周忌にかこつけて特集記事を載せたことは知っている。そしてそれをテレビのワイドショーが取り上げたことも。何社かのメディアが雅紀のコメント欲しさに押しかけて来たからだ。当然、完全黙殺を貫いたが。

(って、あの記事を俺が書かせたとでも思ったのか?)

 そんなことするメリットは雅紀には1ミリもない。どうして瑛がそんな勘違いをしたのか、皆目見当がつかない。

「で、瑛君は?」

「近所の誰かが警察に通報したみたいで。駆けつけた警察に連行された。あとは知らねー」

(それって現行犯逮捕されたってことか?)

 正直瑛のことなどどうでもいいが、もしそうなら、相当マスコミを騒がせることになるだろう。何しろ『篠宮』の名を出すだけで視聴率が跳ね上がる、なとど揶揄されているのだ。その『篠宮』の一人が逮捕されたなどマスコミ格好の餌食(ネタ)以外の何物でもない。

 ただ、それに尚人を巻き込むことだけは許さない。瑛のやったことの尻拭いは、あちらの家族だけでやってもらわなければ。そして、今後あちらの家族がどうなろうと雅紀の知ったことじゃない。

 だが……

(うち)で暴れて警察に連行されたって事実がある以上、無関係ってわけにもいかないんだろうな)

 それを考えるとため息が出そうになる。

 白石看護師が、警察が雅紀と面会したがっていると告げに来たのは、まさにそのタイミングだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縹色(はなだいろ)ノ雲 11

「おじいちゃん、おばあちゃん。おはよう」

「おはよう、沙也加」

「うむ。おはよう」

 平良市清原にある加門の家でいつも通りの朝が始まる。

 一時期、ありもしない恋愛騒動でマスコミに付け回されるのにうんざりして都内のウィークリーマンションに一時的に避難していた沙也加だったが、今は元の通り加門の家に戻っている。それは祖父母の強い希望があったから、なのだが、沙也加的にもあのまま加門の家を出ていくことにならずにほっとしていた。

 やはり誰もいない家に帰るのは寂しい。ほんのわずかな期間の一人暮らしだったが、沙也加はそれをしみじみと感じた。

 それに、––––沙也加にはもう、この加門の家以外帰れる場所がない。都内のマンションに一人でいた時、千束の家に帰りたいと必死の思いで雅紀に電話を掛けて懇願したのに、雅紀にはっきり言われてしまったのだから。「あの家におまえの居場所なんてない」と。冷たく切り捨てるような声音で。

 あの時のことを思い出すだけで、沙也加の心は冷たく震える。辛すぎて息苦しささえ覚える。だから、あえて考えないように、思い出さないように、胸の奥底に押し込めて。何気ない日常の向こう側へ追いやってやり過ごしているのだ。

 今日の朝ごはんは、南瓜の味噌汁に塩ジャケとほうれん草のおひたし。一汁二菜の簡素な和食が朝の定番だ。沙也加は定位置に座って「いただきます」と手を合わせる。朝の時計代わりにつけっぱなしにしてあるテレビから『MASAKI』の名が聞こえて来たのはその時だった。

《では、続いてのニュースです。昨夜七時ごろ、モデル『MASAKI』さんの自宅敷地内に不審者が侵入し、大声を上げて暴れていたところを駆けつけた警察官によって逮捕されると言う事件が起きています。現場に中川キャスターが行っています。中継を繋いでみましょう。中川さん》

《はい、中川です。私は今、『MASAKI』さんの自宅近くに来ています。通勤通学の方以外は通行人のいない民家が立ち並ぶ閑静な住宅街です。私が今立っているここから、この路地を入って行った先に『MASAKI』さんのご自宅があるということなんですが、ご覧の通り警察の規制線がありましてこれ以上先には進めません。これより先に入るためには、警察の方に住民であることの確認を受けなければならず、私の他にもマスコミ関係の方が数人いらっしゃるんですが、誰もこれより先には近づくことができない状況です。近所の方のお話では、昨夜七時過ぎ頃、大きな怒鳴り声と共にガラスが割れるような音が響いた、ということなんですが、ここからは『MASAKI』さんのご自宅が現在どのような状況になっているのか、というのは確認することができません》

(え、何。どういうこと?)

 沙也加は思わず画面に食い入る。

 ––––千束の家に不審者が侵入?

 ––––ガラスが割れる音?

 ––––それって、家の中にまで入って来たってこと?

 画面に写るのは確かに記憶にある住宅街。学校への登下校で何度も通った千束の家周辺だ。

《中川さん。今、ご自宅に『MASAKI』さんはいらっしゃるんですか?》

《それなんですが、昨夜事件が起きた時間帯は、グラビア撮影のため都内のスタジオにいらっしゃったことが確認されています。つまり、事件のあった時間帯、『MASAKI』さんは留守だったということなんですが。その後の帰宅については確認が取れておりません》

《『MASAKI』さんは確か、未成年の弟さん二人と同居されていましたよね? では、昨夜は弟さんが二人で家に居るところを暴漢に襲われたと言うことなんでしょうか?》

《そうだと思われます。その弟さんについては気になる情報が入っておりまして。昨夜は、パトカーと同時に救急車も現場に駆けつけたことがわかっているんですが、その救急車で弟さん達が救急搬送されたのではないかとみられています》

《それは、『MASAKI』さんの弟さん達が暴漢に襲われて怪我をした、ということなのでしょうか?》

《その点ついてはわかりません。救急搬送されたのではないか、とみられてはいますが、実際怪我をしたのかどうか。あるいは念のために病院へ搬送したということなのか。詳しい情報はまだこちらには入って来ていません》

「裕太ちゃん……」

 祖母がボソリと呟く。その声に沙也加はようやく我に返った。

「裕太ちゃんは、大丈夫なのかしら?」

 呟く祖母の声が震える。唖然と画面を見つめていた祖父もはっとした顔で祖母を振り返った。

「ねぇ、沙也加。雅紀ちゃんに電話してみてくれない?」

「え?」

「雅紀ちゃんに確認してみて。裕太ちゃんが無事なのかどうか」

 青ざめた顔で見つめられ、沙也加は咄嗟の返事に詰まった。

 沙也加とて弟達の状況は気になる。細くてひ弱な尚人など最初から話にならないし、裕太は威勢は良くても所詮はこの間まで引きこもりだったたもやしっ子だ。逮捕されたという不審者がどんな人物かわからないが、二対一でも体格の良い大人なら相手にならないだろう。

 しかしだからと言って、雅紀に気軽に電話できる状況ではない。以前思い切って電話して返された言葉があれだったのだ。沙也加は今でも思い出すだけで心が冷たく痺れる。あの痛みからまだ立ち直れない。けれども、あんなことがあっても沙也加にとって雅紀は一番大切で、大好きで大好きでたまらない存在であることは変わりなく、雅紀の声が聞けるならそのチャンスを棒に振るのももったいなかった。

 それにしてもなぜ千束の家が狙われたのか。

 沙也加は首を傾げる。

 雅紀が有名人だから?

 そんなことを言ったら、芸能人は誰も彼も襲われなければいけないことになる。

 仕事上のトラブル?

 モデルの仕事をするようになって、雅紀を悪く言うスタッフには出会ったことがない。

 痴情の絡れ?

 考えたくはないが、きっとモテるであろう雅紀には一方的に言いよる女性だって多くいるはずで。勝手な逆恨みをする勘違い女だっているかもしれない。

 ––––それにしたって、自宅にって……

 住所がわからなければ、行きようがない。

 それを思った時、沙也加ははっとした。

 ––––あれ……、だ。

 尚人が載った新聞記事。あれに千束の住所が書き加えられてネット上で拡散されていた。

 ––––尚のせいだ。

 あの投稿は確実に悪意があって、ターゲットは尚人だった。

 間違いない。

 あの時、柏木にラインを見せられた時、沙也加が危惧したことが現実になったのだ。

 そもそも雅紀は、『MASAKI』という名前以外一切のプロフィールを公表していないことで有名だった。それが、昨年慶輔の起こした騒動のせいで、慶輔の不倫から始まる家庭崩壊劇の一部始終が世間にだだ漏れとなり、『MASAKI』のみならず篠宮一族のプライベートは丸裸にされた。それだって、最初に尚人があんな事件に巻き込まれなければ、起きなかったかもしれないのだ。

 ––––また、尚のせい。

 沙也加の中に苦々しい思いが再燃した。

 あの時も尚人が黙っていたからあんなことになった。前回も尚人のうかつさのせいであれだけの騒動に発展した。そしてまた今回、尚人が余計なことをするからこんなことになる。

 いつだって尚人のせい。

 篠宮の家に(わざわい)を呼び込んでいるのは尚人だ。

「––––わかった」

 沙也加は視線を上げた。

「お兄ちゃんに電話してみる。私も、言いたいことあるし」

 あの家から排除されるべきは尚人だ。

 沙也加の中である決断の音がした。

 

 

 * * *

 

 

「なあ、朝のニュース見た?」

「見た見た。でも、途中まで。家出る時間になっちまったから」

「俺、何も見てねー。何の話?」

「知らねーのかよ。篠宮の家が暴漢に襲われた話」

「え、マジ?」

「マジ」

「で、『MASAKI』の弟が救急車で搬送されたって。……それって、篠宮のことだよな?」

「あ、……今日、まだ来てねー」

「まじかよ」

「怪我、ひどいのかな」

「救急車で搬送されるくらいなんだから。何もないってことは、ないんだろうけど」

「けど暴漢って。普通家にいて襲われるか?」

「それが、従兄弟らしい」

「は? 何それ」

「テレビでそんなこと言ってた?」

「いや、これはネット情報。しかも篠宮の兄貴が治療費援助してやってたうつ病発症して入院してた叔父さんの息子ってんでネット炎上気味だった」

「どう言うことだよ。親父の治療費援助してもらってんのに家に乗り込んで行って篠宮に怪我させたってのか?」

「わけわかんねー」

「俺も」

「要は逆恨み?」

「親の治療費出してもらってて逆恨みって、どういう神経してんだよ」

「そいつも鬱なのか? 情緒不安定とか?」

「野上みたいな?」

 その一言に皆が一斉に黙る。重い沈黙に、一瞬にして気不味い空気が漂った。

 誰もが思い出したのだ。尚人の親切心が仇となってしまった事件がこの学校を舞台に起きたことがあったことを。

 優しさが必ずハッピーエンドを迎えるわけではない。尚人の同級生達は、そんな現実をまざまざと見せつけられた。

「……何にしても篠宮って、人生波乱すぎだよな」

 その呟きが皆の心情を代弁していた。

 

 

 * * *

 

 

 朝食を食べ終えて自室へ戻った沙也加は、取り出した携帯電話を手に静かに深呼吸を繰り返した。

 携帯を持つ手が微かに震える。気持ちがどこかで尻込みする。しかし、今のタイミングでなければ電話し辛くなるのは明らかで。沙也加は心の中で自分を励ました。

 ––––テレビ見たの。

 ––––おばあちゃんが心配してて……

 ––––もちろん、私もだけど。

 頭の中で練習する。不自然でないように。変に言葉が詰まってしまわないように。雅紀に呆れられたりしないように。

 そして沙也加は、覚悟を決めて発信番号を押した。

 プ、プ、プ、プ……、トゥルルルルウ……、トゥルルルルウ……

 コールが五回、六回。

 永遠にも思えるその時間、沙也加は息を詰めて電話が繋がるのを待つ。

 トゥルルルルウ……

 トゥルルルルウ……

 七回、八回、九回、十回。

 なかなか電話は繋がらない。

 ひょっとして今は、電話に出られない状況なのか。

 ––––しつこく鳴らし過ぎたかも……

 一旦切ろうか。そう思った、その時だった。

『はい。雅紀です』

 しっとりと落ち着いた美声が耳元に響いた。

 沙也加の心臓がどくりと跳ねる。

 思わず言葉が詰まって、慌てて発した声が上ずった。

「あの! ……お兄ちゃん、私。沙也加だけど……」

 尻すぼみで小さくなる。電話の向こうに落ちた沈黙に沙也加は赤面した。

 慌てた声音に、雅紀はきっと呆れたに違いない。二十歳にもなってこれかよ、と。しかし、沈黙が続くのも怖くて、沙也加は矢継ぎ早に言葉を続けた。

「––––あの、テレビ見て。おばあちゃんが心配してて。……家の方、どうなの?」

 沙也加の問いかけに、雅紀が受話器の向こうで小さく溜息をつくのがわかった。

『後で家に電話する。祖母(ばあ)ちゃんにそう言っといて』

 雅紀との電話は、その会話だけであっけなく切れた。

 

 

 * * *

 

 

 夜明けの気配に目を覚まし、尚人は自宅とは違うが見覚えのある室内に自分がどこにいるのかすぐに悟った。ゆっくりと体を起こす。少し広めの個室に尚人以外の人影はない。枕元のローテーブルに視線を向けると一枚のメモ。見慣れた雅紀の文字で『迎えに行くまで大人しく寝ているように』とあった。

(まーちゃん、来たんだ)

 そう思っただけで尚人は心がぽかぽかする。

 ベットを抜け出しカーテンを開けると、立ち並ぶ建物の向こうから朝日が顔を覗かせるところだった。いつもならとっくに朝の準備に取り掛かっている時間だ。

 色々と気にかかることはある。

 裕太が怪我をしていないかとか。雅紀に無理させたんじゃないだろうかとか。家はきっと片付けしないといけない状況だろうなとか。今日の授業はどこまで進むだろうかとか。

 それでも、考えてもしょうがないことは考えない。それは諦める事とは少し違って、この六年の間に尚人が身につけた自分を追い詰め過ぎないための(すべ)である。

 しばし頭を空っぽにして、刻一刻と変化していく朝の空の色を楽しむ。そうして白々としていた空が爽やかな青味を帯びる頃、白石看護師がやって来て尚人の体調を確認し検温と血圧測定をしていった。その後朝食が運ばれて来て、そこそこのボリュームだったが、昨夜夕飯が途中になってしまっていたせいか尚人はぺろりと食べ終える。その後は何となく手持ち無沙汰に過ごしていると診察室に呼ばれて榊医師の診察を受け、病室に戻ると雅紀の姿があった。

「あ、雅紀兄さん」

 部屋のソファーにゆったりと腰掛け、手にしたタブレットを眺めていた雅紀は、尚人の声に振り返って柔らかく笑った。

 その笑顔が綺麗過ぎて、尚人は思わず息を飲む。

「体調はどうだ?」

「うん。大丈夫。……心配かけて、ごめんね。仕事、大丈夫だった?」

「問題ない。ナオが最優先だから」

 扉を閉めて尚人が数歩歩み寄ると、雅紀もソファーから立ち上がって尚人にゆったりと近づいて来る。向かい合ったところで雅紀に優しく抱きしめられ、その温もりに尚人は心底安堵した。

 尚人は雅紀の腕の中で、胸に顔を(うず)めてこすりつける。そうすると昔から不安な気持ちが薄まって安心する。そしてその状態で頭をよしよしと撫でられると「大丈夫」という気持ちになれるのだ。

「ありがとう。まーちゃん」

 尚人が呟くと、返事の代わりにキスされた。

 優しいキス。触れ合ったところから雅紀の熱がダイレクトに伝わってくる。尚人はそれだけで頭の芯がじわりと溶けて、鼓動がドクドクと逸った。歯列をなぞられる気持ちよさに尚人が吐息をもらすと、すかさず舌をねじ込まれる。舌と舌が絡まりあって、その快感に背筋がぞくりとした。

 ––––ああ、落ちる……

 尚人が雅紀にしがみつこうとした、その時。静かな病室に携帯の着信音が響いた。尚人の物とは違うその音は、先ほどまで雅紀が座っていたソファーから聞こえてくる。しかし、雅紀は着信音に気づかないのか無視しているのか。いつまで経ってもキスを止めない。そんな雅紀に、尚人ははぐはぐと喘ぎながら訴えた。

「まー、ちゃん。電話、鳴ってる」

「ん?」

「電話鳴ってるって」

 尚人の訴えに、雅紀はようやく唇を離し、わずかに顔をしかめた。

「一体誰だよ。ナオとキスしてんのに」

 ぶつくさぼやきながら雅紀はソファーへ戻って転がっていた携帯を拾い上げる。そして、画面を見て小さく首を傾げ、通話ボタンを押して耳に当てた。

「はい。雅紀です」

 この、ちょっと硬質な声音で話すときは仕事の電話だ。尚人はベッドに腰掛けて雅紀の電話が終わるのを大人しく待つ。––––つもりでいたのだが、

「後で家に電話する。祖母(ばあ)ちゃんにそう言っといて」

 雅紀は一言そう言うと、さっさと電話を切った。気のせいか少々機嫌が悪そうだ。雅紀がこんな感じの電話応対をするのは珍しく、仕事関係ならば絶対にない。

「ひょっとして、裕太?」

 家からの電話なら着信時に分かりそうなものだが。あんなことがあった後だ、裕太は今家にはいないのかもしれない。

(ひょっとして、加門の家に一時避難してるとか?)

 そう思っていると、

「いや」

 すぐに否定され、尚人はもう一つの可能性に気付いてわずかに目を見張った。

「じゃあ、沙也姉?」

 わずかな沈黙があって、「ああ」と雅紀は首肯する。

「まーちゃん。沙也姉と連絡取り合ってるの?」

「まさか」

 雅紀は盛大に息を吐き出すと、ソファーに体を投げ出すようにどさりと座った。

「ナオを勝手に連れ回した時が最初で、それ以来だよ」

(そうなんだ……)

 それにしても、沙也加が雅紀の携帯に直接電話するとは驚きだった。沙也加にとって雅紀は抱える感情が複雑すぎて簡単に近寄ることなどできない存在だったはず。だから今まで他人同然に過ごして来たのだし、何か用事があっても裕太を通していたのだ。

 まあ、裕太がメッセンジャーの役割を果たしていたとは言い難いのだが。それとこれとはまた別の話である。

 その沙也加が、雅紀に直接電話をするようになったとは、どういう心境の変化なのだろう。ひょっとして、一度でもしたのならあとは何度しても同じ。それと同じ理屈なのだろうか––––。

「沙也姉、何て?」

「テレビ見て、昨夜のことを知った祖母(ばあ)ちゃんが心配してるって」

「やっぱり、もう流れたんだ?」

「そうみたいだな」

「ひょっとして今頃、家の前ってマスコミだらけ?」

「路地に入る手前のところで警察に規制線張ってもらったから、家の真ん前にはいないはずだけど」

「そうなんだ。……って、まーちゃんはもう家の様子見に行ったの?」

「ああ、昨夜警察に話が聞きたいって言われて。一夜(いちや)明けたらマスコミが殺到するのは目に見えてたからそのまま現場検証に付き合って。で、ついでに今日一日ぐらいは近所迷惑を考えて規制線張ってくれってお願いして来た」

 はぁ、と尚人は息を吐く。雅紀のやることはそつがなさすぎて、ため息しか出ない。

「で、裕太は?」

「家の片付けと、業者対応のために置いて来た」

「––––裕太一人で大丈夫なの?」

「まかせろって鼻息荒くしてたから大丈夫だろ。ま、業者と連絡取ったのは俺だし。あとは玄関開けて業者を家の中に入れてやればいいだけだしな」

「……家、ひどかった?」

 尚人には、瑛がインターフォン越しに拳を振り上げてカメラを叩きつけ、家の外から派手な音が響いていた辺りのことまでしか記憶にない。

 モニター画面に映し出された瑛の刺々しい視線と振り下ろされた拳が視界に飛び込んできた途端、尚人の脳みそは変なふうに揺れた。一気に耳の奥がざわついてノイズがかかり、手足が急速に冷えて鼓動が激しく全身を打った。

 発作が起きる前の自覚症状にやばいと思いはしたが、ゆっくりと深呼吸をしようとした矢先に自転車が倒れるような派手な音がして、それで息が詰まった。目の前が急に霧かかったように真っ白になり、意識が剥ぎ取られながら世界が回った。

 尚人の記憶はそこまでしかない。

「インターフォンと一階リビングの窓ガラスの交換。防犯ガラスの優秀さに正直感動した。と同時に、瑛君の馬鹿力ぶりにも呆れたけどな」

「瑛君には会ったの?」

「いや、取り調べ中だから外部との接触禁止だろう。たぶん、あちらの家族も会えてないんじゃないか」

「そうなんだ……」

 その点については、尚人には語るべき言葉が何もない。瑛がどうしてあんなことをしたのか、という疑問はあっても特段怒りは湧かないし瑛の今後を心配する気持ちも湧かない。どんな理由があったとしても自分のしたことの責任は自分で取らなければいけないからだ。かつて雅紀が言っていたように。それが真理だと思う。

「ナオ」

 雅紀はソファーから立ち上がるとベッドの端に座る尚人の横に移動した。そしてそのまま尚人を抱きしめる。

「俺は、ナオだけが大事で、ナオのことだけが心配で、ナオのことだけ考えてる」

「……まーちゃん」

「だから、ナオは何も心配しなくていい。俺に全部任せておけばいいから」

 その囁きはどこまでも甘く、そして心地いい。

 麻薬のような中毒性。それに溺れることの意味をわかりつつも尚人は素直に頷いた。

「……わかった」

 尚人は雅紀の背に手を回して抱きつくと、その胸に顔を埋めて目を閉じた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縹色(はなだいろ)ノ雲 12

 これは一体、何の罰なのだろう。

 自分達に落ち度など何ひとつなかったはずなのに。

 至って平凡な毎日を月並みに過ごしていただけ、だったはず。

 ささやかな不満はあっても、どうにも我慢ならないほどではなく。

 将来に向けて漠然とした希望はあっても野望と呼べるほど壮大なものではなく。

 ただ淡々と。ある意味粛々と。日々を過ごしていただけ、だったのに––––。

 一度狂ってしまった歯車は、もう元には戻らないのか。

 どん底だと思った所は、まだ途中に過ぎなかった。

 奈落は、その先にあった。

 それを、思い知らされた。

 いや、最悪の方法で、目の前に突きつけられたのだ––––。

 

 

 

 

 人の行き交う病院の待合室で、零は項垂(うなだ)れたまま固まっていた。

 どうしてこんなことになってしまったのか。

 夢ならいい加減覚めてくれよ、と願わずにいられない。

 しかしこれは「ああ夢で良かった」と思える悪夢ではなく、––––現実。

 そのことに零はため息すら出なかった。

 始まりは、昨夜麻子()の携帯に掛かって来た一本の電話だった。

 夜八時半過ぎ。いつもなら部活を終えて帰って来ているはずの瑛がなかなか帰ってこなくて、「今日は遅いわね」と話題にしている最中だった。そんな中、突然電話を掛けて来た相手は勝木署の長野と名乗り、特段前置きもなく淡々と「お宅の息子さんが私有地内で大声を出して暴れているところを、通報があって器物破損の現行犯で逮捕した」と告げたのである。

 警察からの電話と聞いて、零は最初、瑛が事故にでも会ったのかと思った。母の顔色がさっと青ざめたのを見て重症なのかと心配もした。しかし、「すぐに行きます!」と答えて電話を切ったあとの麻子の説明に、零は予想外すぎて絶句するしかなかった。

 ––––器物破損で現行犯逮捕って、何だよそれ……

 とにかく三人は慌てて麻子の運転する車に飛び乗り、瑛が連行されたという勝木署に駆けつけたのだ。が……、

 瑛に会うことはできなかった。

 取り調べ中は家族であっても会えないのだと言う。しかも詳しい状況説明もしてもらえなかった。智之も麻子も零も、何が何だかわからないまま警察署のロビーに立ち尽くすしかなかった。

 しかし、やがて智之に、

「こうして三人突っ立っててもしょうがない。ここには俺が残るから、お前達は一旦帰れ」

 そう(さと)され麻子と零は後ろ髪を引かれつつも自宅へ帰ったのだ。

 しかし、風呂に入って布団に入ったものの寝付けないまま朝を迎えた。それは麻子も同じようだった。そして何気につけたテレビの朝のニュースで知ったのだ。『昨夜七時ごろ、モデル『MASAKI』さんの自宅敷地内に不審者が侵入し、大声を上げて暴れていたところを駆けつけた警察官によって逮捕されると言う事件が起き』たのだと。そのニュースで麻子と零は、瑛が何をしたのか否が応でも察した。勝木署が県外の千束市にある時点で察するべきだったのかもしれないが、「それだけはない」と無意識に思い込んでいたのである。なぜなら、千束の従兄弟である雅紀には父智之の治療費を援助してもらっていたのだから。そんなことは万が一にもあってはならなかった。瑛がどうにも感情が抑えきれなくて怒りをぶつける相手が生じたとしても、それは千束の従兄弟達以外でなければならなかった。

 麻子はそのまま過呼吸を起こして倒れ、零は慌てて救急車を呼んだ。

 そして今、麻子が運び込まれた病院の待合室で零はひっつかんできた携帯であちこち検索した結果、予想が間違っていなかったことを突きつけられていた。

 ––––何でだよ。

 ––––何で何だよ。

 ––––何でこんなことになるんだよ。

 先ほどから、そればかりが頭の中をループする。

 わからなすぎて

 わかりたくもなくて。

 同時に申し訳なさすぎて。

 零は泣くに泣けなかった。

『在宅していた弟達二人が救急車で搬送された模様』

 特にその一文が重すぎた。

 合わせる顔がないどころではない。

 心配することすら許されない、そんな立場のように思えた。

 零は、一年前、謝罪のために呼び出した尚人の背後にいた雅紀の姿を思い出す。零と尚人が親しくしていることが気にくわない瑛が、尚人に喧嘩をふっかけるために千束の家に押しかけて行ったと知った時のことだ。

 ––––これ以上、ナオに迷惑をかけるなら許さない。

 ただ立ってこちらを見ていただけだが、雅紀からはそんな気配が漂っていた。

 その姿が視界に入った途端、零は体が固まった。今でも思い出すだけで背筋がぞくりとする。しかし……

 零にとって尚人はよすがだった。

 話をしているだけで心が軽くなれた。

 誰に言われても受け入れられない言葉も、尚人に言われれば素直に心に響いた。

 だから雅紀に無言のプレッシャーをかけられても手放せなかった。

 それなのに……

 瑛が全てを台無しにした。

 母がどんな思いで瑛に野球を続けて欲しいと思っていたか知りもせず。零のバイト代が一体何に消えていたのか考えもせず。瑛は自分勝手なフィルターを通してのみ見えた世界で不平不満を喚き散らしていた。

 雅紀からの援助は気にくわないくせに、もらって当たり前だと口にする。ちっぽけなプライドを掻きむしられたことが受け入れられず、自分ばかりが不幸の中心にいるように振る舞う。そんな瑛が、……いっそ憎かった。

 そう思って零は自己嫌悪に陥る。

 こんなことになる前に瑛と向き合うべきだった。その振る舞いが目に余るならこんこんと(さと)すべきだった。あるいは、とことん話し合うべきだった。

 ––––瑛君とはよく話し合った方がいいと思う。

 尚人はあの時そう助言してくれたのに。

 ––––どうせわかってもらえないんだったら何を言ってもムダ……とか思うのが一番マズイかなって思う。

 その言葉が心に引っかかりながらも、結局は瑛と向き合うことから逃げてしまったのは自分。

 だから、こうなったのも当然。……なのかもしれない。

 診察が終わった麻子は、そのまま入院を余儀なくされた。(うつろ)な目をしたまま起き上がることさえできなかったからだ。抜け殻のように表情なくただぼんやりと天井を眺めるその母の姿に少し前の父の姿が重なって見えて、零はただただ胸が痛かった。

 

 

 * * *

 

 

「『MASAKI』さん! 智之氏から連絡はありましたかッ?」

従兄弟(いとこ)のA君に言いたいことはありませんかッ」

「被害届は出されたんでしょうか?」

「どうなんです、『MASAKI』さん!」

「『MASAKI』さん! 一言お願いします!」

 質問、質問、また質問。

 グラビア撮影が終わってスタジオを出るなり、雅紀は待ち構えていた報道陣に囲まれた。ここ数日ずっとこの状態だ。

 雅紀の口から発せられたその一言で視聴率は倍に跳ね上がり、雑誌はバカ売れする。それはただの冗談でも皮肉でもない。ゆえに現場に派遣されたレポーター達は必死だ。収穫もなく帰れば、スポンサーやプロデューサーにどやされるのは目に見えている。しかし相手はマスコミ潰しと異名を取る『MASAKI』で、進んで地雷を踏みたがる者などいないのもまた事実だった。

 雅紀は突きつけられたマイクもICレコーダーも無視して歩く。

 沈黙は最大の防御。––––である前に、雅紀はこの件について考えることさえうんざりしていた。

(だから、俺達を巻き込むなっつーの)

 それが本音である。

 あの日瑛が暴れてあちこち物を壊して行った件については、さっさと業者を呼んで修繕したことで片がついた。瑛の振る舞いに尚人が驚いて発作を起こした件については多少腹が立つが、大事には至らなかったので過ぎてしまえばどうでもいい。だから、雅紀的には、あとは智之一家内の問題である。そう思ってる。

 それなのに、である––––。

 取り調べの後、瑛は未成年であることを考慮され翌日夕方には仮釈放された。その瑛を伴って智之が警察署を出た途端、二人は外で待ち構えていた大勢の報道陣に囲まれた。眩いばかりのフラッシュと飛び交う怒号のような質問。それを前に智之は立ち竦んで顔を引きつらせ、そして、

「雅紀に申し訳ない。直接会って謝罪したい」

 そう言って泣き崩れるように土下座したのである。

 その映像が繰り返しテレビで流された。

 そんなことをするものだからテレビで好き勝手を言うコメンテーター達が、

《器物破損は親告罪ですから。A君が起訴されるかどうかは、『MASAKI』さんが被害届を出すかどうかによりますね》

 などと言って油をどばどば注ぎ。マスコミ連中がこぞって叔父の土下座に『MASAKI』はどうするのかと騒ぎ立てるのだ。

《実父でさえ「視界のゴミ」と切り捨てた『MASAKI』さんですからねぇ。叔父や従兄弟だからといって、大目に見るなんてこと、ないんじゃないですか》

《治療費を援助していたという経緯あっての今回の事件ですからねぇ。恩を仇で返されて、どんな心境でしょうねぇ》

《弟さんがショックを受けて病院へ救急搬送されたみたいですし。大事な弟さんを傷つけられて『MASAKI』さんが許すとは思えないですよねぇ》

 知った顔でそんなことを言い合う。それさえも鬱陶しかった。

(ナオを心配するのは俺だけの権利だっつーの!)

 それだけは声を大にして言いたかったが、もちろん現実にそんなことをすれば大炎上するのは間違いのないことで。詰まるところ完全黙殺が最上策に違いなかった。

 とはいえ、マスコミには無視を通しても身内の方はそうもいかないのが雅紀にとって頭痛の種だった。謝罪したい、を理由に智之から何度も電話があるのだ。いつも仕事中にかかってきて留守電が入っているのだが、正直折り返す気になどならない。なぜならこちらは別に謝罪など望んでいなからだ。望むことはたった一つ。金輪際自分達の視界に入ってこないこと。それだけ。折り返しがないことでそれを察して欲しいのだが。

 それに智之の声はどこか慶輔(あの男)に似て、はっきり言って不快だ。仕事の後に聞きたい声ではない。

『言い訳するわけではないが、こちらも色々と抱えているものがあって』

 そんな弁明メッセージが入っていると、

『お父さんにも言い分がある』

 あの男の胸糞悪い台詞を思い出して気分が悪い。

 そもそも瑛がこちらを敵視するに至った理由は、零と尚人が仲良くしていることが気に食わなかったからだ。それについては雅紀も同意見で、両家がこのまま疎遠になることは双方利のある話だとすら思う。

(この件で零君が二度とナオに近づかなかったら瑛君にお礼を言いたくらいだよな)

 まあ、二度と近づけさせる気もないのだが。

 雅紀はそんなことを考えながら芸のない質問を繰り返す報道陣をさっくり無視して車に乗り込むと、何とも言えないため息を漏らす彼らをその場に置き去りにして走り去った。

 

 

 * * *

 

 

 明仁は途方に暮れていた。

 どうしてこんなことになってしまったのか。

 全く理解できなかった。

 あの日––––。自分が少々の浮かれ気分で智之の自宅を訪れて、退院祝いをしたあの日。明仁は少しずつだが色々なことが好転している感覚に小さな喜びを感じていた。

 それなのに––––

 あれからたった二ヶ月。

 テレビはどこをつけても、昨年に増して篠宮の名を連呼する。

 どうして今回このようなことが起きたのか。検証特番まで組んで、慶輔が起こしたスキャンダルと絡めて過去を蒸し返し続ける。

 慶輔がなぜ家族を捨てたのか。

 慶輔に捨てられた家族がどんな生活を強いられたのか。

 そこから、『MASAKI』がどうやって這い上がったのか。

 カリスマモデルへと上り詰めた、かつて捨てた息子『MASAKI』と慶輔の確執がどんな騒動を巻き起こしたのか。

 その確執が、どんな結末を迎えたのか。

 それを前振りのようにしつこく繰り返し、その騒動に巻き込まれた智之一家の転落劇を真偽などお構いなしに好き勝手に語る。

 そこにはプライバシーもへったくれもなかった。

 そもそも篠宮一家のことは、慶輔が暴露本で実名公表しているのだから今更ぼやかす必要などない、という判断なのだろうか。すでにモデルデビューしている沙也加はいざしらず、智之も麻子も明仁も、なぜか時々引っ張り出される秋穂までも実名で報道される。さすがに未成年の零や瑛は仮名(かめい)だったが、頭文字アルファベットを使って「須賀高野球部の篠宮A君」などと言われては、もはや実名報道と同じことであった。

 今回の一件で智之一家は事実上離散状態になってしまった。

 瑛の起こした騒動を知って倒れた麻子は緊急入院後二日で退院はしたものの、とても万全とは言えず。かと言ってマスコミの押し寄せる自宅では気の休まる暇もなく。それで、ひとまず実家で療養を、ということになったのだ。

 それに家に押しかけたのはマスコミだけではなかった。瑛の行動を非難する人々も押し寄せたのだ。それは身の危険を感じるほどで、とても家にいられる状況ではなかった。さらには、そういった状況は近隣住民からの苦情にも繋がり、智之達は地域の中での居場所も失ったのである。

 女手を失ったこともあって智之は堂森の実家を頼った。(さいわ)い秋穂は「どんな息子でも息子は息子」であるから、孫はもっと可愛いと瑛共々受け入れた。

 零はそれに同行しなかった。零なりに色々と思うところがあったのだろう。

「自分一人くらいどうにかする」

 と言ったが、それにしたって準備期間がいるだろうと、ひとまず明仁の家に引き取った。明仁の自宅から大学に通えないこともなかったからだ。年明けからこちら書道を習いに来ていたため来慣れていたこともある。胸中複雑そうではあったが、零は明仁の提案を受け入れた。

 それが事件発覚から五日以内に起きたことで、まさに怒涛の五日間だった。

 朝のニュースで事件を知って、驚いている最中(さなか)に零から電話があり。身動きの取れない智之に変わって麻子の入院手続きをしたり、智之達を迎えに行ったりしたのも明仁である。

『ちょっと相談したいことがあるから、こちらへ来てもらえないか』

 明仁が智之からそんな電話をもらったのは、智之一家がそれぞれの居場所に身を据えた直後だ。

 ––––相談があるならそっちから来いよ。

 という思いを飲み込んで、明仁が気の休まる暇もないままに堂森の実家へ足を運んだのは、智之が退院後「運転が怖い」と言っていたことを思い出したからだ。集中しているつもりでもいつの間にかぼんやりしており、それを自覚するととても怖くて運転などできないのだと言う。それもうつ症状の一つなのだろう。

 家の前に張り付いていたマスコミを無視して車に乗り込み実家に到着すると、そこにも案の定山のようにマスコミが(たか)っていたが、明仁は完全黙殺して合鍵で門扉を開けて中に入った。去年はマスコミの姿を見るだけで苛つき動悸がしていた明仁だが、今は正直慣れてしまった。無感情を貫けば集るマスコミも街中の雑踏と同じ。浴びせられる質問は騒音に過ぎない。そうやって無視することを覚えた。

「あら、明仁。早かったのね」

 チャイムは鳴らさず玄関ドアを開けて入り、リビングを覗くと秋穂がソファーに座って編み物をしていた。編み物は秋穂の唯一の趣味だ。慶輔の死後しばらくは何も手がつかないような放心した状態だったが、慶輔の一周忌法要をした辺りから気持ちの整理がついたようだった。そんな中での今回の騒動だ。明仁はひそかに秋穂の心理状態も心配していたのだが、どうやら杞憂だったようである。

「お茶でも飲む? それとも、コーヒーの方がいいかしら?」

 編み物をテーブルに置き、老眼鏡を外して秋穂がおっとり尋ねる。

「じゃあ、コーヒーをお願いしようか」

 明仁がソファーに座りながら答えると、秋穂は立ち上がってキッチンへと向かった。

「智之は?」

「さあ? 部屋にいるんじゃない?」

「どんな様子?」

「どんなって。別に普通よ」

「瑛は?」

「部屋にいると思うけど?」

 明仁の質問に返ってくる秋穂の答えは淡々としたものだ。

 ––––智之達のこと心配じゃないのか?

 (かえ)ってそう心配してしまうほどに。

 秋穂は二人分のコーヒーを淹れて戻って来た。一つを明仁の前に置き、一つは自分の手に取る。二人の間に特に会話もないままに明仁が秋穂の淹れてくれたアメリカンコーヒーを飲んでいると、智之がのっそりとリビングに顔を出した。

「……明仁兄貴。わざわざ悪いな」

「いや。で、相談ってなんだ?」

 口慣らしの世間話をしてもしょうがない。明仁が単刀直入に問うと、智之はちらりと秋穂に視線を投げ、わずかに口元を歪めた。

「……その話はこっちで」

 智之はそう言って明仁を目で促す。明仁は

(ここじゃできない話なのか)

 と思いつつ、コーヒーを流し込んで智之の後に続いた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縹色(はなだいろ)ノ雲 13

 智之の後をついていくと、智之は実家を出ていくまで自室として使っていた部屋に明仁を招き入れた。

 部屋の中は、智之が使っていた頃とあまり変わらない。私物がないだけでベットや机がそのままだからだろう。

 智之はベットに腰掛け、明仁はデスクチェアーに座った。

「色々考えなきゃいけないことが多くて。正直、一人では結論出せなくってさ」

 智之の口調は重い。

 まあ、その気持ちはよくわかる。確かに、色々なことが智之の肩にのしかかっている。本人もうつ病が完治していない中、相当な負担だろう。 

「どうしてこうなっちまったんだって。……そう思うと余計に考えがまとまらないっていうか」

 智之は大きく息を吐き出した。

「瑛がしたことは、確かに悪い。悪いが、……理由があるっていうか。あいつもいわば被害者っていうか。慶輔兄貴の暴露本のせいで何の関係もないあいつまで騒動に巻き込まれて。大好きな野球だって集中できない環境に置かれてさ。あいつはあいつなりに我慢に我慢を重ねてきたんだ。けど誰もがそんなの関係ないって感じで今回の事件だけをあげつらって。やっぱり血は争えない、息子を刺した短慮な爺さんの孫だって決めつけて。……でも、よくよく考えると、それを言わせてしまう原因を作ったのは俺なんだなぁって。俺が探偵使ってまで慶輔兄貴の居場所捜して親父連れて行ったりしなきゃよかったんだって。––––あの時明仁兄貴に慶輔兄貴のことはほっとけって言われたのに。そうすればよかったんだなぁって。そうすれば、瑛だってあんなことしでかすまで追い詰められたりしなかったんだろうなって思うと、瑛に申し訳なくって。……実は、瑛の学校から進路変更の検討がいるって電話があっててさ。近々面談したいって言われてるんだ。––––が、俺としては、そんなすぐに結論は出したくないって言うか。正直、雅紀と話し合いで決着がつけば所詮は身内の騒動っていうか。だから、学校を辞めさせられる理由なんてないんじゃないかって思えて。––––でも、それを学校側へ説明するのは、雅紀にきちんと謝罪してからだって言うのは、当然で」

 ぽつりぽつりと語っていた智之が一旦黙り込む。

 明仁は色々と言いたい事はあったが口を挟まず智之が話し出すのを待った。

「雅紀に何回か電話を入れたんだ。でも、雅紀も忙しいみたいで。いつも留守電でさ。メッセージは残してるんだが、折り返しはなくて。……で、連絡を待ってる間に色々考えてたら、雅紀は俺と口を聞きたくもないくらい怒ってるんじゃないかって気がして来て。すでに警察に被害届を出しに行ってるんじゃないかって思ったり。そんなこと考えだしたらさ、雅紀に謝罪するときに、その……、金銭的なことも話し合わなきゃいけないんじゃないかとか。……瑛が千束の家で暴れて物を壊したのは事実なんだし。弁償するのは当然なんだが。それに加えて、雅紀には俺の治療費の援助してもらってるわけだし。それの返金とかも……」

 智之は、一旦押し黙って、明仁に視線を向けた。

「なぁ、明仁兄貴。雅紀は今回の件、どう思ってると思う?」

「––––俺は雅紀じゃないからな。雅紀の気持ちはわからん」

 明仁は、息を吐き出しながら呟いて言葉を続けた。

「ただ雅紀が、慶輔と関わりのある物全てを拒否したいと思っているということは知っている。そして、お前に治療費として援助した金の出所が、慶輔の死亡保険金だってこともな」

 明仁は答えつつ、雅紀が智之の治療費援助を口にした時の事を思い出していた。

「雅紀がお前への、……というか、お前達家族への援助を決めたのは、お前達家族が精神的に疲れ切って、家族がバラバラになってしまわないように。––––というか、はっきり言ってしまえば、精神的経済的に追い詰められて家族の誰かが死を選ぶようなことになったりしないように。それを心配しての決断だ。あそこの家族は雅紀の踏ん張りがあってこそ、最後はなんとか踏みとどまったと思うし。だから俺は雅紀のことを尊敬するし、あの年でと思えば頭の下がる思いがするが。雅紀にしてみれば後悔しても仕切れない部分もあるんだと思う。どうしたって奈津子さんのことがあるからな。けど、自分達の事は取り返しようのない過去でも、お前達家族はこれからのことで。自分の稼ぎで援助するのは筋が違うが慶輔の保険金ならば。そう思ってのことだったように俺には感じた」

 明仁の言葉に、智之は唇を噛んだ。

「保険金の件については、本当に降って湧いたような話で。雅紀にとっては欲しくもない慶輔絡みの金だったが、弟達のことを考えて均等配分に合意したんだ。散々金に苦労して来たから、自分の意地で弟達まで巻き込むわけにはいかんと思ったんだろう。けれども、自分のためには一円だって使いたくない。それが雅紀なりの意地なんだと思う。だから、お前が返金を申し出たところで、雅紀は雅紀なりの意地を通すんじゃないかと思うが。––––なあ、智之。俺がわからんのは、瑛がなぜ、千束の家に行って暴れたのかって事だ。あいつは、雅紀にお前の治療費を援助してもらっているってのは知っていたはずだ。慶輔絡みのことであいつも色々あったかも知れんし、慶輔の保険金で父親の治療費を援助されるってことに抵抗感もあったかも知れんが。それだって何で今このタイミングで千束に行って暴れなきゃいけなかったんだ?」

 明仁の問いかけに、智之は一瞬表情を歪めた。

「俺は知らなかったけど、少し前に俺の治療費を雅紀が援助してるってことが週刊誌に掲載されたんだろう? 瑛は、それをどうやら雅紀がマスコミにリークしたって思ったみたいで」

「は? 何だそれ」

 週刊誌が慶輔一周忌にかこつけて特集記事を載せたことは知っている。そしてそれをテレビのワイドショーが取り上げたことも。昨年ほどではなかったが、明仁の元にもマスコミ数社が取材に来たからだ。

『書道教室の方は順調ですか?』

『一時期は生徒さんが大量に辞められたと聞きましたが、現在はいかがですか?』

『慶輔氏に今だからこそ言いたい事はありませんか?』

 そんな質問に心底うんざりした。

 ––––お前らがそうやって押しかけて来るから生徒が逃げるんだよ!

 ––––死んだ人間に今更何か言っても意味ないだろ!

 もちろん口には出さなかった。何か一言でも発すれば、真偽関係なく言ってないことまで言ったかのようにされるのは目に見えていたからだ。完全黙殺が最大の防御であると嫌と言うほど学んでいた。

 しかし、不意打ちのダメージは確かに大きかった。ようやく平穏が訪れたと思っていた時のいきなりのマスコミ取材だったからだ。

 ––––勘弁してくれよ。

 それが偽らざる本音だった。とはいえ、明仁はあの一件を雅紀と結びつけるなど思いもしなかった。なのに瑛はなぜ「雅紀がリークした」と思い込んだのか。そもそもマスコミ潰しなどと言われた雅紀が、わざわざマスコミが喜ぶような話題(ネタ)を提供してやるはずがない。

 明仁がその疑問を口にすると智之は重たげに口を開いた。

「それが……。明仁兄貴覚えてるか? 俺の退院祝いってことで俺の家で食事会した時、明仁兄貴新聞持って来ただろう?」

「尚人が全国優勝した記事が載ったやつか?」

「そう、それ。それを……、瑛がネット掲示板に上げたらしいんだ。––––実名と住所入りで」

「は? 何でそんなことしたんだ?」

 従兄弟自慢? 確かにあの記事には生徒の個人名の記載はなかったので、尚人の顔を知らない者は尚人だとわかりようがない。だから、わざわざ名前を入れて世間に公表したということだろうか。『MASAKI』の弟が翔南高校に通っていることはすでに公然の秘密のようなもので、全国優勝した翔南高校英語ディベート部員の一人が「篠宮尚人」であると明かせば、取りも直さずそれは『MASAKI』の弟だと世間に公表するも同然。それは回り回って瑛の従兄弟の快挙であることを公表することに繋がるわけではあるが……。篠宮の名がスキャンダラスに世間に垂れ流された現状にあって、わざわざそんなことをする意味がわからない。

「その辺のことについては、よくわからん。瑛に聞いても、要領を得ないっていうか、適当にはぐらかすって言うか。––––ただ、瑛が千束の家に押しかけた日。学校の靴箱に週刊誌のコピーが入れられてて。それを見た瞬間に、仕返しをされたって思ったらしい。というか、瑛は今でもそう考えていて。正当な抗議をしに行っただけだ、って。物を壊したのは確かにやり過ぎだったって反省はしているんだが、そもそもあっちが悪いって。そう言い張ってて……」

 智之の言葉に明仁は驚いて、そしてため息をついた。

 何とも言いようがない。

 それが正直な気分だった。

 瑛の行動が理解できない。

 瑛の理屈が理解できない。

 自分で掘った穴に自分が(はま)っただけ。

 そんなふうに思えてならない。

 しかしその穴を掘らせた動機(もの)は何なのか。

 智之が言うように慶輔がらみのことでは無関係だったはずの瑛まで巻き込まれた。そのせいで学校では散々好き勝手に言われただろう。部活動で先輩を殴った件もそれの延長だったはずだ。

 しかし……

 その怒りの矛先がなぜ千束の従兄弟たちに向かうのか。

 慶輔憎しから派生した雅紀達兄弟への敵愾心?

 例えそうであっても、尚人の載った新聞記事に個人情報を記載してネットで拡散させた行為の正当な理由にはならない。しかもそんなことをしておいて、勝手に仕返しをされたと思い込んで家の乗り込んで暴れるなど(もっ)ての(ほか)

 ––––そんな状況で謝罪なんて無理なんじゃないか?

 明仁はそう思わずにいられなかった。

 

 

 * * *

 

 

「ほら、ナオ。こっちにおいで」

 雅紀が呼ぶと、尚人がゆっくりベッドへ上がって来る。耳の先をほんのり赤く染めて。ちょっとドキドキした表情で。その姿が可愛くてたまらない。

 雅紀は手を伸ばして尚人をからめ取り、そのほっそりとした身体(からだ)を抱き込んで肩口に顔を埋めて思い切り匂いを嗅ぐ。風呂上りの尚人からはすっきりしたグリーン系ボディーソープの匂いがする。それに尚人の熱が混じり込んで雅紀の鼻腔を至福へと誘う。

「んー、いい匂い」

 雅紀はそのまま尚人を組み敷いてキスをする。口角を変えて何度も唇をついばみ、舌をねじ込んで歯列をなぞる。上顎も下顎も執拗に舐め回し、尚人の震えるような吐息を飲み込んで舌を絡ませる。尚人の心臓が逸る。雅紀にしがみつくその四肢が熱を帯びる。いつもは静かな色を湛える双眸がとろりと淫靡に艶めく。

 たまらなく、いい。

「キスだけで、ナオの乳首ビンビンに立ってる」

 雅紀が耳元で囁きながらスエットの上からその(とが)りに触れると、尚人が小さく啼いた。

 鼻から息が漏れるような(かす)れたその声がいい。

「下も触って欲しい?」

 雅紀は尚人の耳たぶを()みながら、ゆっくり手を下へと持っていく。そのままスエットの裾から手を差し入れて下腹を撫でる。すると、すでに半勃起状態だったそれは雅紀の手の刺激によって一気に硬さを増した。ほんの少し撫でただけでこの反応なのは感度の良い証拠。尚人が興奮している証だ。

「ここ、どうして欲しい?」

「揉んで、……しゃぶって」

「どこを?」

「……珠」

「ナオ、ちゃんと言って。でないと、してあげられない」

 意地悪く雅紀が言うと、尚人が羞恥に顔を焼きながらも言葉を続けた。

「珠、揉んでしゃぶって」

「それだけでいい?」

「先っぽもぐりぐりして。……乳首も噛んで吸って欲しい」

「いいぞ、ナオ。全部してやる。ナオがいっぱい気持ちよくなるように。ミルクも全部搾り取ってやるからな」

 雅紀はにっこり笑って、尚人を裸に剥く。そして、足をM字に開かせて尚人の股間に顔を(うず)めた。珠を寄り分けてしゃぶる。口いっぱいに含んで転がす。すると尚人の先端の割れ目から先走りの蜜がたらたらと溢れる。そのまま熟れた蜜口の先端を指の腹で擦り上げて秘肉を露出させ爪で引っ掻くように弾いてやると、尚人が背を仰け反らせて嬌声を上げた。

 快感に喘ぐ尚人が可愛くてたまらない。

 雅紀の愛称を呼んで乱れる様が愛らしい。

 艶めく痴態が雅紀を煽り、どこもかしこも敏感になったその身体に雅紀は貪りつく。一度吐射させて、それから執拗に攻める。イきたくてもイかせてもらえないその状況に尚人の体がより貪欲になっていく。吐き出す先を求めて尚人の身体が震える。ギリギリまで我慢させてイかせてやると、体の芯まで痺れるような深い快感が得られる。そうやって溜まった精を搾り取ってやると、より感覚が敏感になるのだ。

 尚人の双眸がとろけたように熱に濡れる。その瞳に自分しか映っていないことに雅紀は満足する。それから尚人を四つん這いにして後蕾をほぐすのだ。

 胡座(あぐら)を組んだ膝の上に尚人をホールドして双丘を剥き出しにする。ぴったりと閉じたピンク色の蕾をつつつっと指先で撫でると尚人が背中をぴくりと震わせる。その指を玉袋の付け根まで落としていくと尚人の腰が捩れた。

 最近見つけた、尚人のいいところ、だ。

 そこを何度も撫でた後に、雅紀はちろちろと舌先で舐める。そして今度は舌先で同じように裏筋を撫でると、尚人の腰は面白いほどに(よじ)れた。

「あッ、はぁ! ま、ーちゃん。はあぁ! あッ、あぁぁッ……」

 (かす)れたよがり声を上げ続ける。その声に連動するかのように後蕾がひくつく。固かった蕾が少し柔らかくなったところで、雅紀はジェルを掌で温めて伸ばし、可愛らしいそこにつぷりと一本指を差し入れる。軽く出し入れし、馴染んだところで中を刺激する。一本を二本に増やし、つぷつぷとそこを押し広げてやると、尚人の息もせわしなくなって来る。さらに二本を三本に増やす。その頃には雅紀も限界で、尚人を正面にして思い切り広げさせた足を持ち上げると、剥き出しにした後孔に固く立ち上がった雄蕊をゆっくりと差し入れた。

 何度もそうやって繋がっているのに、この瞬間、尚人はいつも息を詰めたように身を固くする。最初はそのせいで、いくらほぐしてもなかなか挿入できないでいたが、近頃は随分スムーズに全部飲み込めるようになっていた。

 ––––それなのに……

「ナオ、大丈夫だから。力抜いて」

 カチカチにこわばった尚人の体を雅紀はゆるゆる揺する。下腹を優しく撫でてやり、緊張を解きほぐす。

「ほら、ゆっくり呼吸して。大きく吸って、……吐いて」

 その呼吸に合わせて、雅紀は己を差し入れる。それでも一気に入ってしまわなくて、雅紀は辛抱強く繰り返した。

「ああ、大丈夫。ナオ、全部入った」

 そう言って、雅紀は尚人の首筋にひとつキスを落とす。はぐはぐと喘ぐ尚人の体に雅紀のものが馴染むまで待ってやると、やがて尚人が大きく息を吐き出して身体を弛緩させた。

「大丈夫、何も怖くない」

 耳元で囁く。

「二人で気持ちよくなろうな」

 尚人がこくりと頷いて、雅紀はゆっくりと出し入れを繰り返した。

 絡みついてくる肉襞が気持ちいい。ぴったりと雅紀のものを咥え込んで離さない、その熱に溶けてしまいそうだ。雅紀は尚人を抱きかかえて腰を振る。気持ちよくてたまらない。痺れるような快感が体の中を駆け抜けていく。突き上げてかき回し、ギリギリまで引き抜いて、また一気に突き刺す。繋がったそこが卑猥な音を立てる。腰を痙攣(けいれん)させながらあられもなく啼き続ける尚人の乳暈(にゅううん)を摘んでやると、より一層高い声で尚人が啼いた。その声に理性がふっとんだ。

 あとはもう欲情のままに激しく突いて掻き回し、中いきした尚人を休ませることなく腰を振る。思い切り足を開かせて、奥の奥へと叩きつけて精を吐き出す。尚人の中が雅紀の吐き出した物で一杯になる頃には、尚人は精魂尽き果てたようにぐったりとしていた。

 腕を上げるのでさえ憂鬱そうな、その気怠い雰囲気がまたいい。ぼんやりとしたその瞳がたまらなくエロい。雅紀は満足な笑みを浮かべて尚人の額にキスすると、その腕に尚人を抱いて横になった。

「寝ていいぞ。身体、ちゃんと拭いといてやるから」

 雅紀が髪を梳いて囁くと、聞こえているのかどうなのか、尚人の頭が頷くようにこくんと落ちた。寝入ってしまった尚人は起きている時より幼く見え、先ほどまでの痴態が嘘のように無垢だ。

 雅紀は腕の中で静かに眠る尚人の髪をやさしく何度も梳く。尚人の髪はさらさらと指感触(ゆびざわり)が良くて、撫でると気持ちがいい。

 男は射精すると気持ちがスッと冷めると言われる。よく言われる賢者タイム。しかし雅紀は、激しいセックスの後に、くったりと寝入った尚人を腕に抱いて余韻に浸る時間が好きだった。

 尚人が確かに自分のものだと実感できるから。

 しかし今日はどうにも、あることが引っ掛かっていた。

 挿入するときの尚人の様子だ。

 尚人とセックスするようになった最初の頃、尚人はどれだけ時間をかけて後孔をほぐしても、いざ挿入しようとすると身を固くしてスムーズには挿入できなかった。それは、始まりが何の労りもないまま猛ったものを突っ込まれるという最低最悪の強姦だったから致し方ないとはいえ、怯える尚人を見るのは辛かった。どんなに快感を植えつけても、一度擦り込まれた恐怖が尚人の体を支配している。それを見せつけられて、自分がしたことの罪深さを思い知らされた。

 だから雅紀は、挿入には殊更気を使った。これで己の欲望のままに無理に突き刺せば尚人はセックス恐怖症になってしまう。「大丈夫」と囁いて「一緒に気持ちよくなろう」と甘く告げる。これからすることは気持ちいいことだ、と尚人に刷り込み、怖くないと教え込む。尚人の体が雅紀を素直に受け入れるように、雅紀は根気よく尚人の体を馴染ませた。

 その甲斐あって、近頃はずいぶんとスムーズに挿入できるようになっていた。一度で一気に、とはいかなくても、怯えたように固く身を竦ませることはなくなっていた。尚人を快感の渦に沈めて気持ちを昂らせてやると自らねだることもあったぐらいだ。

 それなのに……

 尚人がまた、挿入時に体を強張(こわば)らせるようになった。

 確実にあの時からだ。

 深夜突然発作を起こした、あの日から。

 しかもあの日以来尚人は頻繁に、子供の頃甘えたい時に見せていた仕草をするようになった。雅紀の胸に顔を埋めて擦り付ける。その仕草だ。子供の頃はそれをされると可愛くて可愛くてしょうがなくて、よしよしと尚人の気が済むまでいつまでも頭を撫でてやっていた。そうやっているとそのうち尚人が自分の気持ちに折り合いをつけて、「まーちゃん、ありがとう」とはにかむように笑う。その姿がまた可愛くてたまらなかった。

 いまだって尚人が甘えて来るのは可愛い。腕に抱いてよしよしと頭を撫でてやるだけでは済まないけれど、自分の腕の中で甘える尚人を見ると独占欲が満たされる。けれどもここ最近、甘える尚人のその瞳の奥に消えない影がある。雅紀にはそう見える。

(ナオも不安に思ってるってってことか?)

 深夜の発作は雅紀にとって予想外だったが、尚人自身にとっても予想外だったのだろう。何がきっかけになるかわからない。そんな不安を感じてしまったのかもしれない。

 先日一晩入院したついでに、雅紀は榊医師にそのことを相談した。

 その時榊からは「心的外傷からの回復は、目に見える傷と同じようにはいかない。良くなってるように見えて振り戻すことはよくあること。しかしその時に周囲が過度に反応すると今度はそのことを気に病んでしまう可能性もある。自分の思いを受け止めてもらえたと思えると症状が緩和する傾向にあるから、静かに見守りつつ何かあればしっかり話を聞いてことが大切」そんなことを言われた。ついでに「受験期なら自覚しないストレスを抱えていることもあるから、適度に息抜きさせてやるのもいいかもしれない」ということだった。

 今度週末に休みを合わせて尚人を何処かへ連れて行ってやろうか。

 雅紀はそんなことを考えながら、静かに眠る尚人の額にそっとキスをした。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縹色(はなだいろ)ノ雲 14

 第二土曜。それは土曜課外が当たり前の翔南高校で月に一度の休みの日。今や学校も企業も週休二日が当たり前の中、超進学校に通う尚人が二連休になる数少ない週末だ。雅紀はこの日に休みを合わせて、尚人と二人一泊二日の旅行計画を立てた。とは言えそんなに遠くに行けるわけではなく、宿泊先は高速を使って直行すれば二時間弱で着く場所(ところ)。しかし、旅行最大の目的は尚人との甘々ドライブデートで、少々遠回りしつつ景色のいいルートを通って行く計画だ。そして最大のお楽しみが尚人としっぽり楽しむお風呂エッチ。そのために雅紀は、眺めが良くて部屋で食事ができて個室に露天風呂が付いている宿を捜して予約した。

 ドライブデートと聞いて尚人はピクニック的なものを連想したのか、お昼用にと張り切ってサンドイッチとおにぎりを準備した。それを持って昼前に二人で家を出る。行き先は着いてからのお楽しみと言うことで尚人には秘密だ。

 その出発間際。尚人は裕太の部屋をノックして声を掛けていた。

「じゃあ、裕太。ちょっと出かけて来るから、留守番よろしくね? 施錠だけはちゃんとしないとダメだよ」

「わかってるって。ガキじゃねぇんだし。心配しなくても大丈夫だってば」

「……うん。それは、そうなんだけど。あと、夕飯冷蔵庫に入れてるから。チンして食べてね」

「腹が減ったら食う」

「もし、なんかあったら携帯に電話してね」

「もういいから早く行けって。雅紀にーちゃんが痺れ切らしてんじゃね」

「うん。じゃあ、行ってきます」

 裕太が引きこもりをやめたことで、裕太には裕太なりの時間の使い方があると認識したらしい尚人は二人きりで出かけることに抵抗感を示さなくなった。それでも出掛けには何くれと声掛けしていかないと気が済まないのだろう。それはそれで尚人らしくて好ましい。

「ナオー。先に車に荷物積んでるからな」

 雅紀が声をかけると

「あ、すぐ行くから待って」

 ぱたぱたと急ぎ足で階段を降りて来る。その足音すら可愛らしい。

 一泊分の旅行荷物と尚人が準備したお昼を車に積んで雅紀は上機嫌で車を発進させた。

 隣の助手席に尚人が座っているだけで楽しい。その尚人がワクワクと楽しそうな表情をしているのを見ると雅紀の気分は一層浮き立った。

「あ、そう言えば、この前アキラさんからメールが来てね」

 車が動き出してすぐ、尚人が弾んだ口調で今度発売予定のミズガルズのCDについて喋り出した。アキラからの(ちょく)メールで一般に公表されていない情報がちょこちょこ入っているらしく誰かに話したくても話せない状況に口がムズムズしていたのだろう。目をキラキラさせて笑顔で語る尚人は可愛い。……が、正直妬ける。そのせいで、あげあげだった雅紀のテンションがちょっとだけ下がった。

 尚人にそんな気がないとわかっていても、他の男の話を楽しげにされて聞き流せるほど雅紀の度量は大きくない。むしろ尚人に限っては嫉妬深くて狭量でほんの些細な関心も他人に向くのが許せない。

 なぜなら「尚人は俺のもの」だからだ。その心も体も思考も全てがだ。

 独占欲丸出しの利己主義者(エゴイスト)。そんなこと、とっくに自覚済みである。

「そう言えば、今年の文化祭はどうだったんだ?」

 雅紀は話題を変えさせるためにふと思い出したことを口にした。

 昨年は家庭内でも話題に上って、裕太のいきなりの観覧宣言などもあり、雅紀にとっても何かと記憶に残る出来事だったが、今年は瑛の起こした事件のせいか気づいたら終わっていた。

 まぁもちろん、今年だって尚人に「来てね♡」とかわいくお願いされても「行くよ♡」なんて返事は出来なかったので結果は同じなのだが。

「うーん。特に問題なく終わったって感じかな。今年はクラス委員してたわけじゃないから執行部に絡むような事は何もしてないし。クラスの出し物がショートムービーだったんだけど裏方の仕事しかしてないしね」

「ショートムービー?」

「『三年三組物語』って言うタイトルの翔南高校あるあるを混ぜ込んだ学園物? って設定のドラマを撮って文化祭当日にクラスで上映したんだ。結構評判よかったんだよ。学校紹介ビデオみたいな一面もあったから、『翔南高校の意外な一面を知った』みたいな感じで」

「へぇ」

 それはそれで高校の文化祭らしい。

「で、裏方ってナオは何をしたんだ?」

「映像に英語字幕入れようって話になって、その字幕制作の担当。台詞を字幕にするのって通訳とはまた違った感じで面白かったかな。意味より雰囲気を大事にしたり、画面に入りきる文字数に収まるように考えたり」

「それはそれで楽しそうだな」

「うん。字幕担当のメンバーでワイワイ言いながら考えて結構楽しかった。クラスメイトの北原って女子がちょっと古いハリウッド映画のファンでさ。当時流行った英語の言い回しいろいろ教えてくれて。それを所々取り入れたり」

「へぇ」

 楽しげに語る尚人の横顔に自然と雅紀の口元も綻ぶ。

 家では色々あったが、学校ではそれなりに楽しく過ごせていたようだ。

「けど出し物が映像じゃ、準備は大変でも文化祭当日はさしてすることがなかったんじゃないか?」

「来客対応の当番が決めてあったから全く仕事がなかったわけじゃないんだけど。まあ、去年に比べたらね。クラスでの仕事はそんなになかったかな。でも、その分弁論部の方の手伝いがあったから」

「あー、なるほど」

 尚人が臨時部員を頼まれて即興英語ディベート大会に出場したのは今夏のこと。全国大会初出場にしてまさかの初優勝。文化部である弁論部が文化祭でそのアピールをしないはずがないだろう。

「弁論部がいつも活動場所に使ってる多目的学習室で部活動の内容を紹介する展示発表してて、そこに即興英語ディベートのブースもあってね。清田と杉本が一般開放日にそこで『即興英語ディベート大会参加報告座談会』ってイベントやるから参加してくれって言ってきて。来場者の前で即興英語ディベートのルール説明したり、大会に参加した感想を英語で言い合ったりするトークイベントをやったんだ。お客さんの入りがすごくてね。会場の学習室に入り切れないで廊下から立ち見する人もいたんだよ」

(あーくそ、見たかったなぁ。ナオのトークイベント)

 心底思う。ついでにそんな貴重なイベントに参加出来た顔も知らない一般人にちょっとだけ嫉妬する。翔南高校では雅紀の出身校である瀧芙高校のように文化祭DVDを卒業記念として配付したりはしないのだろうか。

 その後も色々とお喋りを楽しみながら一時間ほど車を走らせたところで、雅紀は昼食休憩のため公園の駐車場に車を止めた。

「そろそろメシにしようか」

 雅紀の言葉に尚人が持参したバスケットを開く。ツナサンド、卵サンド、ハムサンド。どれも美味しそうだ。

「おにぎりはね、こっちから塩ジャケ、梅干し、昆布の佃煮。はい、まーちゃん、好きなのどうぞ」

 そう言いつつ尚人が笑顔でバスケットを差し出す。そんな尚人が一番美味しそうだ。抱き寄せてキスしたいが、さすがに車中じゃまずい。

(それは夜のお楽しみだな)

 雅紀は心の中で呟いて、まずはツナサンドを手に取って口に放り込んだ。

「うまい」

「本当? よかった。はい、お茶もどうぞ」

 持参した水筒からお茶を注いで尚人が差し出す。水筒の中身は暖かいほうじ茶だった。そのあと卵サンドもハムサンドも食べる。卵サンドはパンに塗ってある粒マスタードが効いていて美味しく、ハムサンドは一緒に挟み込んであるチーズとシャキシャキレタスとの相性が抜群だった。雅紀はおにぎりも全種類制覇し、再び車を発進させた。しばらく走って海沿いの道から山道に入る。少し標高が上がると迫る山々の木々が綺麗に紅葉していた。

「わぁ、きれい!」

 感嘆の声を上げ、助手席の尚人が興奮気味に車窓に釘付けになる。その姿に雅紀の口元は(ほころ)んだ。

 このルート通って正解だな、と。

「上に行けばもっと色づいてるはずだ」

「そうなの? 俺、こんなにしっかり紅葉見たのって初めてかも」

 確かに家族旅行の定番は夏だったし、仮に子供の頃に

「もみじ狩りに行こう」

 なんて言われても子供たちは誰も賛同しなかっただろう。そこにバーベキューとかアドベンチャーパークとか別のイベントが付属していない限り子供にとっては「それって楽しいの?」という気持ちになったはずだ。

 紅葉を楽しむのは大人の行楽。とは言え雅紀は、尚人と一緒でない限り紅葉を見に行こうなんて思いもしない。尚人とならば何をしても楽しいし、今まで狭い世界に閉じ込められてきた尚人に色んなものを見せてやりたいという気持ちもある。

 目をキラッキラに輝かせて景色を楽しむ尚人をちらりと横目に見遣り、雅紀の相好は崩れ放題だった。

 

 

 

 充分にドライブデートを楽しんで、夕方目的の宿に到着した。

 全室十部屋。客のプライベートを何より重視する造りの宿で、駐車場から部屋まで他の客に会う事なく案内された。

「うっわー、すごい!」

 部屋に入るなり尚人が感嘆の声を上げる。部屋の正面が前面ガラス張りの大パノラマで、夕焼けに沈んでいく紅葉した山々と赤く染まった空とが目の前に広がっていたからだ。

 ちなみに、そのガラスの向こうに張り出した広いテラスの真ん中に露天風呂があり、昼間は大パノラマ、夜は星空を眺めながら露天風呂が楽しめるというのがこの部屋の売りである。

 部屋全体はシックな和モダンテイストで、室内出入り口で外履きの靴を脱いで上がる旅館風の作り。テラスに続く手前は畳敷きの小上がりだが、落ち着いた壁色のベッドルームが別にある。テラスには部屋からも直接出られるが、ベッドルームに隣接したシャワー室からも行けるようになっていて、二人きりの濃密で甘い時間を色々楽しめそうな作りだった。

 旅館に到着して一時間ほどで部屋に食事が運ばれてきた。京懐石をベースにした料理長こだわりの創作和食で目に美しい。これにも尚人は感動しきりで、

「食べるのがもったいよねぇ」

 とひとしきり感嘆し。箸をつけると、

「美味しすぎて言葉が出ない」

 と瞳を潤ませた。

 雅紀的には尚人のその姿だけで白飯が何杯もいける感じだ。

 たっぷり時間をかけて食事を堪能し、スタッフに御膳を下げてもらうと、いよいよ楽しみにしていたお風呂タイム。シャワールームで軽く体を洗ってからテラスに出る。十一月、夜風はさすがに冷たい。しかしその分、露天に浸かると気持ちがよかった。

「ナオ、こっちに来て」

 雅紀に続いて入ってきた尚人が、そのまま隅っこにちょこんと座ろうとするのを手招きする。ほのかな間接照明に照らされて暗闇に浮かぶ尚人の白い裸体はぞくりとするほどエロチックだ。

 そんなこと、尚人自身は知りもしないだろうが……。

 ゆっくり近づいたきた尚人の手を取って、雅紀は尚人を膝の上に座らせて後ろから抱きしめる。そうやって入ると、星空を眺めながら尚人の体が触り放題だ。

「あー、最高」

 ほっそりした尚人の体をぎゅっと抱きしめ、肩口に顔を埋めて匂いを嗅ぎ、ぷっくりした耳たぶを()んでから雅紀は呟く。

 尚人が雅紀の腕の中でくすぐったげに首を(すく)めた。

「いつも頑張ってるナオにご褒美って思ってたけど、完全に俺のご褒美になってるよな」

 思わず本音が漏れると、尚人がちらりと振り返ってやんわり笑った。

「まーちゃんはずっと頑張ってきたから、いっぱいご褒美もらっていいと思う」

(ほんっと、かわいいこと言うよなぁ)

 雅紀は尚人の振り向きついでにキスをする。軽く(ついば)むだけのつもりがそれだけでは我慢できなくなって、舌を差し込んで歯列をなぞり、上顎も下顎もしつこく(ねぶ)って舌を絡ませた。後ろ抱きにしてた尚人の体を正面に向かせ、膝に(また)がせて抱きかかえる。左手で尚人の背を支えつつ右手で尻を撫でると、尚人の体が小さく震えて熱い吐息を吐き出した。

 その熱に雅紀の下腹部が立ち上がってくる。

 しかし、夜はまだ始まったばかり。急ぐことなはない。今日は二人きりの非日常をゆっくり楽しむのだ。

 雅紀は尚人から唇を離すと、はぐはぐと喘ぐ尚人の頬をそっと撫でる。

 自分を見る濡れた瞳が何とも扇情的だった。

 その瞳に雅紀が見惚れていると、

「––––ねぇ、まーちゃん。……ひとつ聞いてもいい?」

 尚人の呟くような小さな声が、夜風に混じり込んでぽつんと落ちた。

 その声音が静かすぎて、何故だか雅紀の心臓がとくんと跳ねる。

「何を?」

 そう問う口調は平静を装っても、雅紀は内心ばくばくだった。逡巡する気配の奥に確固たる決意が見えて。尚人が意を決して口にしたのだと感じ取ったからだ。

 実は雅紀は尚人が何かを決断することが怖い。それは、尚人が日頃はすごく聞き分けがいいくせに、一度こうと決めれば誰に何を言われても貫き通す兄妹弟の中でも一番の頑固者だからだ。

 だから雅紀は、ある日突然

 ––––俺……高校まで行かせてもらえれば、それでいいから。

 ––––そしたら、あとはどこでだって、ちゃんとひとりでやれるし。

 あの告白を聞かされた時のような、目の前が真っ暗になるような決意を突然聞かされるかもしれない恐怖に密かに怯えている。

 しかし、実を言えばあの時はまだ、尚人の決断の真の怖さに気づいてはいなかった。急な告白に動揺したのは事実だが、口ではそう言ってもそう思っているだけ、とたかを括った。家庭内では色々あったとは言え、所詮尚人は家と学校を往復するだけの狭い世界に生きている子供で、世の中のことなどまだ現実的に捉えていないから見込みの甘い将来を口にしているのだと。そう思って尚人の告白を聞き流した。

 しかしその後、尚人が早々に学区一の翔南高校一本に狙いを定めて受験対策をしていたと知り、さらには本当に翔南高校に合格した時、雅紀は尚人の決意が本気だったとようやく理解した。しかも高校生活がスタートすると、尚人は今まで通りの家事もこなしながら自転車で片道五十分かかる通学を休むことなく続けた。朝課外もある中、毎日自転車で片道五十分なんて無理だろうという雅紀の予想を見事に裏切って。

 三年なんてあっという間だ。

 どうしよう……。

 高校を卒業したら尚人がこの家から出て行ってしまう。

 俺の前から去ってしまう。

 尚人への劣情を自覚しつつも己の手で弟を汚すことを恐れて家に近寄りもしないくせに、尚人が家から出ていくことには動揺を隠せない。そんな情けない自分を見せられなくて家に帰ってもろくに顔も合わせないのに、気づけば視姦している。頭の中では尚人をいいようにこねくり回すあられもない妄想ばかりを続け、どうにもこうにもどん詰まりになっていたときに雅紀は気心知れた旧友達との飲み会で浴びるほど酒を飲んでしまった。タクシーで家に帰り着いた記憶はあるが、その後の記憶はすっ飛んでいる。目が覚めるとそこが母親が使っていた一階の寝室だとすぐに気づいて、おそらく帰宅してそのまま真っ直ぐこの部屋に倒れ込んだのだろうと思った。

 しかし––––

 同じベッドに尚人がいた。

 しかも、裸で。青ざめた顔は涙でぐしょぐしょで、その体は鬱血と噛み跡だらけ。シーツには鮮血と精液とが染み付いていた。

 記憶がなくても自分が何をしたのか一目瞭然だった。

 とにかく謝り倒したものの、それから尚人は雅紀の姿を見るだけで怯えるようになってしまった。

 それはそうだろう。何の労りもないまま猛った物を肛門に無理やり突っ込まれるという身体的苦痛と慕っていた兄から強姦されるという心理的苦痛を受けたのだから。

 このままでは尚人は高校卒業を待たずして自分の元から去ってしまう。それは、予感ではなく確信。だからもう雅紀は出来の良い兄の顔を捨て去って尚人に欲情する雄の顔を隠すのをやめた。そうやって体を一つに繋げて、尚人が自分から離れていかないように見えない鎖でがんじがらめに縛り付けた。

 これでもう安心。そう思っていたのに。尚人が暴行事件の被害にあって部屋を二階から一階に移した時に見つけた英検の合格証書。

 ––––就職する時に有利かと思って。

 そう思って受け続けていたという英検はすでに一級を取得済みだった。それを見て雅紀は、尚人の「高校まで」という決断が継続中なのだと思い知らされた。

 お前は俺のもの。そう(ささや)いて快楽を与えるだけでは尚人は本当の意味で自分のものにはならない。それを悟って雅紀は、尚人ともっと真剣に向き合うと決めた。それがどれほど情けない自分をさらけ出すことになっても、たった一つの欲しいものを手に入れるためなら。自分のちっぽけな自尊心(プライド)などどうでもよかった。

 天上には白銀に光る満天の星。冴え冴えとした闇夜に、微かな照明を映してきらきらと揺らめく湯面から立ち昇る湯気が二人の間に揺蕩(たゆた)う。遠くでざわっと笹の葉音が響いて、遅れて湯気を含んだ雅紀の前髪を揺らした。

「––––俺が夜中に発作を起こした日、あったでしょう?」

 尚人が静かに呟く。

 もちろん覚えている。

 あの時は本当に肝が冷えた。

 しかもあの日以来尚人は挿入時にまた身を強張(こわば)らせるようになってしまったのだから、雅紀の心配は今だ継続中だ。

「あの時。俺が発作を起こして倒れる直前。まーちゃん。裕太の部屋から出てきたよね? ……裕太と、何してたの?」

 予想外の質問に一瞬目を見張り、そして雅紀は小さく息を吐いた。

 原因は、それか……。

 こそこそと隠し事をされている気配。それが尚人の不安感を煽ったのだろう。

 だとしたら、全てを話さなければならない。

 雅紀にとって優先されるのは、裕太よりも尚人なのだから。

「その話をするためには、初めからちゃんと説明しないといけない」

 そう言って雅紀は、裕太と秘密にしていた話を全て尚人に打ち明けた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縹色(はなだいろ)ノ雲 15

 雅紀の話に尚人は驚きを隠せなかった。

 え?

 ……うそ

  そんなことが起きてたの?

 尚人にしてみればそんな気分だ。

 それが不快とか、そういうことではなく。純粋な驚き。全く気づきもしなかった自分の鈍感(にぶ)さにも言葉がなかった。

 自分はもっと目端が効いて色んなことに気を配れる人間だと思っていた。こと家族のことに関しては。それなのに……

 それがほんの少しショックだった。

「そんなことが起きてたんて。……俺、全然気づかなかった」

「裕太も、裕太なりに気を遣ったって言うか。ナオには周囲の雑音に煩わされることなく受験に専念して欲しいって思いがあって。当然、それは俺も同じで」

「うん……。わかってる」

 言いたいことが色々と脳裏を駆け巡ったが、一周回って残った感情は、家族の絆があることへの喜びと感謝。それだけだった。

 父が家を去り、母が突然亡くなった時、尚人が何よりも悲しかったのは家族の気持ちがみんなバラバラだったことだ。沙也加は篠宮の家を拒絶して出て行き、裕太は怒りを抱えたまま部屋に閉じこもった。雅紀は家計を支えるために家を空けることが多くなり、帰ってきても気難しい表情を崩さなかった。

 そんな中で尚人ができたことは、それまであった日常を続けるということだけ。淡々と日々の家事をこなし、家族の『拠り所』としての『家』を整える。そうすればいつか元の通りの家族の形が戻るのではないかと。そんな淡い夢を見て。

 しかし厳しい現実の前では甘やかな夢は所詮夢でしかなかった。そのことを突きつけられるたびに尚人は心の中でしくしくと泣いた。

 過ぎる夢は見ない。

 そんなふうにわかったふりをしてみても、食べてもらえなかった食事を捨てる時、数日ぶりに帰ってきた雅紀に目も合わせてもらえない時、尚人は心が折れそうだった。

 そんな時に耳にしたミズガルズの『赤と黒のイリュージョン』

『自分勝手に夢を見て、叶わないからって嘆くのは、ただの愚か者だろう。道はひとつだけじゃない。見える道だけが道じゃない。今は暗闇で何も見えなくても、進むべき明日は誰の心の中にもきっとある』

 そのフレーズに、ハッとして。じわりと胸に染みて。やがて背中をそっと押されたような気になった。

 いつまでも雅紀のお荷物になるわけにはいかない。

 自分のことは自分で何とかしなければ。

 自分がしがみついているこの家から雅紀を解放してやらなければ。

 その決断は寂寥感を伴ったが、覚悟を決めたことで尚人の視界はそれまでよりもクリアになった。

 あとは自立という目標に向かって一歩一歩できることを積み上げていくだけ。そう思っていた矢先に突如始まった雅紀との体の繋がり。

 最初はただただ怖かった。一夜の蛮行を思い出して身が竦んだ。しかし、

 ––––キスから始めよう。

 そう言って雅紀に泣きたくなるほど丁寧に優しく抱きしめられて身体中にキスされて。その人肌の温もりに安堵して。

 できることなら何も考えずに、与えられる快楽に溺れてしまいたい。そう思う一方で、またいつか冷たく突き放されるのではないかという恐怖が消え去らない。

 一度は耐えられても二度は耐えられないと思う恐怖。

 気まぐれかもしれない優しさに慣れることへの怖気(おぞけ)

 けれども尻込みする尚人の思いとは裏腹に雅紀の浸食は容赦なく進んでいく。

 雅紀の手で股間を揉みほぐされ、舌と口とで珠も茎も(ねぶ)られる。男性の生理は単純で、気持ちよければ勃起し、一度帯びた熱は射精しなければ収まらない。そのことを思い知らされ、いつしか濃厚な愛撫に抗えなくなっていく。

 そのことへの狼狽。

 そのくせに求める快楽。

 もはや自分が何を望んでいるのかさえ分からなくなっていく。

 このままズルズルと二人で堕ちるところまで堕ちていくのではないか。

 それを思うと尚人は恐ろしくてしょうがなかった。

 しかし––––

『好きだ、ナオ』

 その一言が全てを吹き飛ばした。

 本当に?

 俺だけじゃないの?

 まーちゃんも俺のこと好きなの?

 ––––マーチャンニ スキッテ イッテモ イイノ?

 揺れ動く心境を隠せない視線に返された柔らかな眼差し。

 おずおずと差し出し手をしっかりと握り返された時、尚人はもう、この場所は誰にも譲れない譲る気もないと自覚した。

 しかし尚人は雅紀の腕の中でただ守られるだけの存在になりたいわけではない。ぬくぬくとした安全な場所に安住したいわけではない。雅紀の横に自分の足でしっかりと立って、並んで歩いて行きたいのだ。

 時に守られ、時に守り。

 時に励まされ、時に励まし。

 支えられるだけではなく、互いに支え合いたい。

 そういう関係になりたいのだ。

 尚人は雅紀に抱きついて肩口に顔を埋めた。

「……まーちゃん、ありがとう」

 尚人が呟くと、返事の代わりに雅紀の手がそっと尚人の背を撫でた。その心地よさに尚人の口から安堵の吐息が漏れる。

「でもね、まーちゃん。俺はそうやって大事に守られるだけじゃ嫌なんだ。まーちゃんからしたら俺はまだ子供で、実際自分だけではどうにも出来ないことだって多いのは事実なんだけど。––––守られてばかりじゃいつまでたっても子供のままだから。だから、きついこととか辛いこととか、そんなことがあっても、ちゃんと向き合って行きたいんだ」

 尚人が必死の思いで口にすると、雅紀は尚人を抱え直して視線を合わせた。

「––––そうだな」

 雅紀は呟く。

「ナオだっていつまでも子供じゃない。……頭ではわかっていても、もう少し子供のままでいて欲しくて。腕の中に閉じ込めて置きたくて。そんな俺のエゴで、本当に大切にすべきはナオの気持ちだってことを失念していた。––––あと三ヶ月もしたらナオも高校卒業だし。そしたらナオの世界はもっともっと広がって。……ぼさっとしてたら俺が置いて行かれるかもな」

「俺はね、まーちゃん。まーちゃんと一緒に歩いて行きたいんだよ。自分の足でちゃんと立って、並んで歩いて行きたいんだ。後をついて行きたいわけでも、先に進みたいわけでもない。……それに、もう少し先の話だけど。まーちゃんが甘えたくなったら、いっぱい甘やかしてあげられるようにもなりたい」

「––––それは」

 雅紀はわずかに目を見張り、そしてやんわりと笑った。

「楽しみだな」

「うん。楽しみにしてて」

 尚人がはにかんで笑うと雅紀は尚人を抱き寄せてキスをした。

「じゃあ、今から甘える練習しとかないとな」

 そう言って雅紀は尚人の唇を甘噛みし、舌を差し込んで尚人の口の中をねぶり、舌を絡ませて吸い上げる。

「ナオからもキスして」

 おねだりというには雅紀の態度は余裕すぎるが。尚人は雅紀の求めるままに、いつもされるみたいに口角を変えて何度も唇を重ね、舌を差し込んで絡ませた。

 鼓動が逸る。

 重なり合ったところが溶けそうな程に熱を帯びてくる。

 きつく抱き合って二人でキスを貪り、互いに立ち上がった下腹部を擦り付けあう。雅紀が尚人のモノに手を伸ばして先端をぐりぐりと撫でるので、尚人の乳首がきりきりと立ち上がった。

「はぁッ、まーちゃん」

 甘い声が鼻を抜ける。

「乳首、噛んで。吸って」

 雅紀を甘やかしたいと言いながらの体たらくに頭の片隅では呆れながらも、尚人は昂った感情を抑えられなかった。

「して、まーちゃん」

 尚人のおねだりに雅紀が応える。珠をクニクニと揉まれながら乳首を吸われると頭の芯が痺れた。

 ああ、いい……。

 快楽が体の中を駆け抜けていく。

 まーちゃん

 まーちゃん

 まーちゃん

 尚人はぐずぐずと思考が崩れ落ちていく感覚に躊躇なく身を委ねた。

 

 

 

 

  尚人の舌が口内をくすぐる。いつも雅紀がしていることをトレースするかの如く、歯列をなぞり舌先を吸う。もう幾度となくキスしているのに、どことなくたどたどしくて、物慣れないのに懸命なその感じが堪らない。

 尚人は「もう少し先の話」と言って雅紀のことを「いっぱい甘やかしてあげられるようにもなりたい」といったが、雅紀はずっと尚人に甘えっぱなしなことを自覚している。

 母の死後、現実を直視するのが嫌で、うっそりと重苦しい空気に満ちた家に帰るのが嫌で、「仕事が忙しい」ことを言い訳に尚人に色々なものを押し付けてきた。

 甘えていたのだ。何の不平も不満も口にしない尚人に。

 辛いはずなのに弱音を吐かない尚人に。

 思い返せば情けないばかりだが、自分の感情を持て余し平気でイライラをぶつけたり自分勝手に無視したりを繰り返した。

 そんな状況でも兄として慕い続けてくれる尚人の存在に雅紀は甘えた。自分から切り捨てることはあっても尚人が自分を切り捨てにすることは絶対にない。そんな勝手な思い込みに慢心してもいた。

 しかし、そうやって甘えられる存在があったから雅紀は救われた。尚人がいなければ雅紀は母の死後空っぽの魂を抱えて死んだように生きていくことになったはずだ。

 だからこそ雅紀は、この先は尚人をいっぱい甘やかしたい。自分勝手に傷つけてきた分だけ尚人を甘やかしたい。そう思うのだ。

 それに尚人は何にも変えがたい、雅紀にとって唯一無二のものだから。本当は、誰にも取られないように大事にしまって、二人きりしかいない世界に閉じ込めて、尚人の頭の中からも自分以外の全てを消し去りたいくらいだ。

 しかしそんなことはできないから、せめて二人でいる時ぐらいは尚人の体も視線も思考も全て自分だけで満たしたくて。雅紀は可愛らしいキスに夢中の尚人の下腹部に手を伸ばして、硬く立ち上がっていたそれを軽く握り込んだ。

 刹那尚人の体が小さく震える。そのまま先端を指の腹でぐりぐりと撫でてやると尚人の腰が捩れた。

「乳首、噛んで。吸って」

 そう言って尚人が尖り切った乳首を雅紀に突き出す。

 抗えない誘惑。

「して、まーちゃん」

 催促されるまでもなく、雅紀はぷっくりと立ちあがった尚人の乳首にむしゃぶりついた。

 口に含んで吸い上げると尚人が可愛らしく啼いた。その声をもっと聞きたくて、雅紀は尚人の双珠をくにくにと揉み込みながら乳首を噛む。尚人の腰が揺れて湯面が細波(さざなみ)立った。

(舐めたい)

 雅紀は渇望する。

 尚人の足を思い切り開かせて恥部を眼前にさらけだし、双珠も茎も後蕾も全部舐めまわしたい。恥じらいながらも尚人が雅紀に全てを差し出して、与えられる快楽にくずくずと落ちていく姿を見るのがたまらなくいいのだ。

 その姿を想像し雅紀の喉が鳴る。

 このまま湯船の(へり)に座らせて思う存分舐めまわしてもいいが、十一月の寒空の下。そんなことをすれば尚人は湯冷めして風邪を引いてしまうだろう。

「ナオ。ベッドに行こう。がっつりナオを抱きたい」

 ムードも何もあったものじゃない。しかし雅紀は、自分の欲望を包み隠さずさらけ出すことに躊躇(ためらい)はなかった。

 尚人の手を引いて湯船から上がり脱衣所でさっと体を拭いてベッドに尚人を引っ張り込む。全身をピンク色に染めた尚人は見るからに美味しそうで、雅紀はすぐさま尚人にかぶり付いた。首筋を噛んで吸い上げ、そのまま舌を這わせて乳首を舐める。そして雅紀は尚人の膝裏に手を差し入れて持ち上げると尚人の足を大きく開かせた。雅紀の目の前に尚人の恥部が包み隠されることなく晒される。立ち上がった股間がこれからされることを想像してふるふると震えているのが何とも可愛らしい。

 緊張と興奮できゅっと持ち上がった尚人の双珠を雅紀はぱくりと口にする。はむはむと甘噛みし舐りながら転がすと尚人が啼きながら密口の先端から愛液を吐き出した。それをしつこく続けると尚人の腰が捩れて啼き声が嬌声に変わる。その瞬間が雅紀は好きだった。

「もうダメッ! まーちゃん! あッ! ハァッ! もう出させて! イかせて、まーちゃん、イかせて!」

 まーちゃん!

 まーちゃん!

 まーちゃん!

 尚人の晒す痴態に雅紀の下腹部はさらに固く立ち上がる。

(何も考えられなくなるくらい気持ちよくしてやるよ)

 雅紀は片頬でうっそりと笑うと、しつこくしつこく尚人を攻め続けた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縹色(はなだいろ)ノ雲 16

 カリスマモデル『MASAKI』の自宅敷地内に従兄弟が侵入し器物破損の現行犯で逮捕されたという報道が世間の話題をさらってひと月。マスコミの取材を無視し続けていた『MASAKI』がついに記者会見を開いた。

 この報道がなかなか下火にならないから、ではなく、とある報道機関があろうことか下校中の尚人の姿を盗撮して放送したからである。番組趣旨的には、事件後救急搬送されたと放送された『MASAKI』の弟が元気に登下校していることを伝えたかったようだが、モザイクをかけていたとはいえ、その盗撮行為を雅紀は許さなかった。

 記者会見の冒頭『MASAKI』は、「今回の騒動は、あくまで篠宮の親戚内で生じた問題であり、世間一般の皆様に迷惑をかけた話ではない」ことを強調し、「よってこれは篠宮の親戚内での話し合いによって解決されるべき問題」とマスコミが騒ぎ立てる現状を暗に非難した。何より今回の会見を開くに至ったのは、「この一連の報道のせいで受験生である弟の学習環境が脅かされている」からであり、「盗撮行為はいかなる理由があっても許されない犯罪」で「報道機関だから許されるわけではない」としつつも、「落ち着いた環境の中で受験に専念したもらいたいという気持ちを汲んでもらって、これ以上の報道は謹んでもらいたい」と締めくくった。その後、いくつかの質疑応答があったが、回答は概ね会見で語ったとおりだった。

 この会見に世間の反応は

『そりゃ、そーだ。MASAKIの言うことが最も』

『そもそもMASAKIは弟第一主義だし? この騒動のせいで受験生の弟がとばっちり食っちゃ、MASAKIも黙っちゃられないよね』

『弟君は下校中に暴行事件の被害に遭ってるし。知らない人に待ち伏せされてたって思ったら普通に怖いよね』

『弟君のためにも、この報道もう終わりにしたら?』

『一般人相手にモザイクかけてりゃオッケーっていうルールもおかしいし』

 この会見後、盗撮をしたと指摘された放送局には視聴者から苦情が殺到し、局幹部が「局内のコンプライアンスを見直す」と謝罪会見する事態に追い込まれた。それもあって、この件を報道各局が取り扱うことは一切なくなったのである。

 まとわりつくマスコミがいなくなって清々した一方、雅紀は新たな課題を抱えることになった。会見の中で今回の騒動を「篠宮の親戚内での話し合いによって解決されるべき問題」と啖呵を切った以上、智之からの連絡を無視し続けるわけにはいかなくなったからだ。

 明仁を仲介して日程調整を行い、雅紀と智之は堂森の篠宮家で対面することになった。

(ったく、何の因果なんだか)

 雅紀は堂森に向かって車を走らせながら胸中ぼやく。あの男(慶輔)に引導を渡すためにこうして車を走らせて堂森に向かったのがちょうど一年前だ。あの男が自分勝手に撒き散らして行った因縁がまだしつこく絡みついている気がして、雅紀は不快感が拭えなかった。

 堂森の祖父母宅へ到着すると、門前は思いの外ひっそりとしていた。マスコミの姿は全くない。あの会見を受けて、こちらからも完全に手を引いたということだろう。門前に車を止め、門扉を開けて入る。雅紀がドアフォンを鳴らすと、すぐにドアが開いた。

「忙しいのにわざわざすまんな。ま、入れ」

 出迎えたのは明仁だった。仲介を頼んでいたので居て不思議ではない。が、通されたリビングに零の姿があったのは意外だった。目が合って、零が固い表情で会釈する。雅紀はそれを一瞥しただけだった。

「あら、雅紀ちゃん。来たのね。お茶とコーヒー、どっちがいいかしら?」

 台所から秋穂が顔を覗かせて、おっとりと尋ねる。雅紀は秋穂にきっちり腰を折った。

「ご無沙汰をしております」

 昨年、秋穂が慶輔を選んだ時点で祖母との縁は切れている。それは慶輔が死んだからと言って変わるものではない。が、だからと言って祖母に横柄な態度を取るつもりはなかった。

 それはそれ、これはこれ、だ。むしろ他人なのだから、他人行儀に対応して然るべきだ。

「コーヒーをお願いします」

 雅紀が言うと、秋穂が台所に姿を消した。昨年ここで会った時より随分と雰囲気が柔和なのは、今回の件は自分には関係ない、とそう思っているからだろうか。

(まあ、変に首を突っ込まれるよりいいけど)

 雅紀がそんなことを考えていると、明仁が雅紀にそっと囁いた。

祖母(ばあ)ちゃんな、実は痴呆(ボケ)てるんだ」

「は?」

 思わず振り返る。明仁の苦渋の表情を見ると冗談ではないらしい。

「気づくまで時間が掛かったんだが。……日常生活に支障はないし。ある意味、普通だしな」

「では、なんでそう思うんです?」

「まだら痴呆(ボケ)っていうのか? 日常生活には全然支障がないのに、今回の事は全く認識できてないって言うか。智之と瑛がここで生活してるのも、何にも気にしてなくてさ。子供の頃、夏休みに泊まりに来た時と同じ感覚でいるって言うか。だから、瑛が学校に行かないで毎日家にいるのに何とも思ってないって感じで。でも、瑛が小さな子供じゃないってことはわかってて」

「あいつが死んだことは?」

「わからん。仏壇に毎日手は合わせるが、親父の遺影もあるしな。……今日お前が来るってことを伝えた時も、『あら、そうなのって。じゃあ、お寿司でも取る?』って。そんな感じで」

 雅紀は言葉がなく黙り込んだ。何と言っていいものやらわからないが、日常生活に支障がなく、自分が見たい世界だけを見ていると言うなら、ある意味幸せかもしれない。不都合な記憶を全部消し去ったあいつみたいに。

「智之を呼んでくる。座って待っていてくれ」

 明仁はそう告げて一旦部屋を出ていく。二階に明仁達三兄弟が子供の頃使っていた部屋があり、おそらく智之達はその部屋で寝起きしているのだろう。子供の頃、ここへ泊まりに来たときに何度か入ったことがある。大部屋で布団を並べて子供達と一緒に寝ていた母親達とは違って、父親達はさも当然という顔をしてかつての個室でゆったり寝ていた。ただ、それだけの思い出だ。

 雅紀は秋穂が運んできた香りばかりの薄いコーヒーを飲みながら、居間から見える庭に目をやった。記憶にある景色よりだいぶ(すさ)んでいる。手を入れなくなったら庭というのはあっという間にこうなるのだろう。それを思えば、我が家があの状況の中、あの生活環境が維持されたのはまさに奇跡としか言いようがない。そしてその奇跡はひとえに尚人の努力の賜物なのだ。改めて考えるまでもなく、頭の下がる思いだった。

 その時––––、

「雅紀」

 声をかけられて雅紀が室内に視線を戻すと、部屋の入り口に智之の姿があった。記憶にある智之とはあまりにも見た目が違っていて、雅紀は本気で一瞬誰だかわからなかった。

「すまん!」

 智之が突然その場に膝をついて土下座する。その姿に明仁が口元を歪め、部屋の隅で息を殺して立っていた零が表情を強張らせた。

 そんな三者三様の姿を一瞥してから、雅紀は手にしていたコーヒーカップを目の前のローテーブルに置いた。

「智之伯父さん。まずは座ってください。でなければ、話もできません」

 智之の激変も土下座も雅紀の感情を揺さぶるものではなかった。

「それに。謝罪なら、俺じゃなくてナオにすべきです」

(そうだろう? 零君)

 雅紀がそんな視線を零に向けると、零の口元が引きつった。どうやら自覚はあるらしい。

「もちろん。面会させてもらえれば尚人にも、裕太にも謝罪する」

 智之が床に額を擦り付けたまま声を震わせる。その答えに雅紀はため息を吐いた。どうやらこちらは、何もわかってはいないようだ。

「智之。雅紀が言う通り、まずは座れ」

 いつまでも土下座をやめない智之を明仁が促してソファーに座らせる。その背後に瑛の姿はない。家の中にいるのかどうかもわからないが、今日の話し合いに顔を出す気はないのだろう。

(ま、いいけど)

 雅紀は思う。雅紀は智之や瑛から謝罪の言葉が欲しいわけではないし、円満解決して今後も親戚付き合いが続くことを望んでいるわけでもない。これを持って縁を切り、金輪際互いに一切関わりを持たない。そのことを双方理解のものにしたいだけだ。

「本当にすまなかった。瑛のしたことは、言い訳できる話じゃない。尚人や裕太に怪我がなかったと聞いて、それだけが不幸中の幸いだったと思っている」

「智之伯父さんは、瑛君がなぜ(うち)に来て暴れたのか。その理由はご存知なんですよね?」

「……ああ、瑛に聞いた。俺の病気のことを週刊誌に書かれたのが、お前の仕業(せい)だって勘違いして。かっとなってしまって」

「伯父さんは、瑛君が家に来たのが今回が初めてじゃないって、知ってます?」

「え?」

「去年も一度(うち)に来てるんですよ。ナオに喧嘩をふっかけに。それ、知ってますか?」

 智之が目を見開いて固まる。隣に座った明仁も「そうなのか?」という驚きの表情をしていた。雅紀は部屋の隅に立ったままの零に視線を向ける。零だけが青ざめた表情で固まっていた。

「そうだよね、零君」

 雅紀の言葉に、智之と明仁が「なぜ零に話を振るのか」という怪訝さを滲ませながら振り返る。三人の視線に零が目を伏せた。

「今回のことを話し合うためには、事件の背景にあったことをまずは共通理解する必要があると俺は思う。そのためには零君。まずは君から話始めるべきだと思うけど? 理由はわかるよね?」

 雅紀が問うと、零は固い表情のまま小さく頷いて、静かに深呼吸してから視線を上げた。

「––––瑛は、俺が尚君と親しくしてたのが気に食わなかったんだ」

 去年、と零は言葉を続ける。

祖父(じい)ちゃんの葬式で久々に尚君と再会して。尚君が色々あったはずなのに昔とちっとも変わってなくて。すごく話しやすくて。それで、俺が尚君を頼ってしまって。ちょくちょく電話するようになったんだ。……でも、瑛はそれが気に入らないみたいで、何度も文句を言われたんだけど。どうして俺が瑛の気にいるように振る舞う必要があるんだって思いもあったし、なにより尚君と話をすると楽に呼吸ができて。尚君との繋がりを切りたくなかったんだ。それが瑛には、弟の自分より従兄弟の尚君を取ったって感じがして許せなかったみたいで。去年、尚君の文化祭を見に行く約束をしていた時に電話を盗み聞きして。それで瑛、尚君に直接文句言おうと、文化祭前に千束の家に行ったって、……俺も後で知って」

「で、その時瑛は?」

「尚君より前に裕太に会ったみたいで。それでその時は、裕太にだけ難癖をつけて帰ったみたいだけど……。俺たちは不幸のどん底にいるのに、自分たちだけ涼しい顔して立ち直ろうとしてるのは許せないって。当たり前の顔をしてそんなことを言う瑛のことが俺は全然理解できなくって。––––それに瑛は、雅紀さんが父さんの入院費用を援助してくれた時も、当然だって平気で口にして。俺や母さんがそんな瑛の態度を(たしな)めても、ふてくされるだけで。ますます態度を(かたく)なにして。そんな瑛にもう何を言っても無駄って、諦めてしまって。瑛にとっては、自分をこんな状況にした慶輔叔父さんの子供である千束の従兄弟たちは憎むべき対象で、尚君と仲良くする俺の方がおかしいって考えなんだ」

 零が言葉を切って唇を噛むと、明仁が渋い顔でため息を()いた。

「だから、ネット掲示板への投稿だったのか。瑛にとってあれは憂さ晴らしだったんだな。ようやく理解できたよ」

 明仁が呟く。それに怪訝な顔をしたのは零だった。

「ネット掲示板って、何?」

「零は知らないのか? 瑛が、週刊誌の記事を『仕返し』されたと勘違いして千束の家に行ったのは、そもそも瑛が、尚人が載った新聞記事に個人名と住所を書き加えてネット掲示板に上げたかららしいんだ。だから、その『仕返し』として週刊誌に自分たち家族の情報を売られたんだって思い込んだみたいで」

「新聞記事って、あの、全国優勝のやつ?」

「そう。智之の退院祝いの時に俺が持って来て見せたやつだ。どうやらあの時の新聞をパソコンに読み込んで使ったらしい」

「……あいつ、そんなことしてたの」

(あれ、瑛君だったのかよ)

 二人の会話を聴きながら、雅紀は内心驚いていたが、顔には出さなかった。

 あの一件は、日頃お世話になっている弁護士に相談し、結局警察へは被害届を出さなかった。

「おそらく日本ではまだ、一回きりの投稿でプライバシー権が侵害されたと警察に訴えたところで、警察が捜査に動くことはないと思います」

 と言う見解だったからだ。なので弁護士を通して掲示板の管理者に「不当に個人情報が掲載されている」ことを申告し「しかるべき対応がなければ、掲示板管理者を訴える」ことを匂わせながら削除依頼をするに(とど)めたのだ。それにより掲示板情報はすぐに削除された。ひとまずそれで良しとするしかなかった。……のだが。

(あー、でも犯人が瑛君って。順当すぎて、むしろほっとした気分?)

 見ず知らずの人間に向けられた敵意じゃなかった。それが分かっただけでも今日ここで得た収穫は大きい。

「その投稿のせいでナオが実害を受けたんです。ナオの名前でネットショップで購入した物とか、差出人もナオの名前になっている宅配便とか。ひと月くらい、そう言った差出人不明の荷物が家に届いていたんです。ナオは大事な受験期なのに、いい迷惑でしたよ」

「あ、それってもしかして。本を贈ってくれたかって尚人から電話があった」

「そうです。それが最初の不審物だったんです。明仁叔父さんからお祝いの電話をもらった直後だったから、うっかり受け取ってしまったみたいで」

「あら、でも。差出人が分からないからって迷惑がるなんて、贈った人に失礼じゃない? 尚ちゃんって、そんな気配りもできないのかしら?」

 突然、秋穂が割って入った。

「俺に言わせれば、差出人不明の荷物なんて危険物と同じです。開けずに処分が当然で、受取拒否が常識です」

「それは、カリスマモデルの雅紀ちゃんだからでしょう? 一般人が一般人に何か贈ろうって思うのは、善意以外にあるはずないじゃない。それを、穿(うが)って見るなんて。まして、それを瑛ちゃんのせいにするのはおかしいと思うけど?」

 話の噛み合わない感覚に、雅紀はひっそりと眉を(ひそ)める。しかし、ここで秋穂の考えに賛同できないからと自分の意見を主張し続けるのも面倒くさいし、そもそもそうやって秋穂に自分の考えを押し付けたいとも思わない。

 それに今日話し合うべき相手は智之で、秋穂ではない。

 雅紀はそう思って気持ちを切り替えようとしたが、秋穂の方が口を閉じなかった。

「雅紀ちゃんは昔から本当に面倒見の良いお兄ちゃんで、兄弟の中でも大人しく見える尚ちゃんのことは庇ってあげたくなるのでしょうけど。でもね、尚ちゃんって、子供の頃から(したた)かっていうか、ずるいところのある子だったのよ。大人の目のない所で平気でひどいことするっていうか。あれはいつだったかしら、裕太ちゃんのために買ってきたおやつの羊羹、気付いたら尚ちゃんが横取りして食べてたことがあるのよ。裕太ちゃんのために買ってあげたおもちゃも、取り上げて自分の物にしてたことがあったし。裕太ちゃんに聞いたら欲しそうにしてたからあげたって言ってたけど、普通弟の物そうやって欲しがって取り上げたりしないでしょう? 裕太ちゃんも優しいからお兄ちゃんを(かば)って。あーそうそう、病み上がりの零ちゃんを無理に裏山に連れ出して、零ちゃんが熱中症で倒れちゃったことあったじゃない。あの時、雅紀ちゃんが俺がちゃんと見てなかったからって尚ちゃん庇ってたけど。零ちゃんも後で自分の方が誘ったって、尚ちゃん庇ってたわよね。そうやって、みんなにうまいこと後始末させる(すべ)()けてるって感じで。お祖母ちゃん、尚ちゃんのこと昔から苦手なのよね」

(一体、何の話をしているんだ?)

 雅紀は軽く混乱した。

 これは、秋穂の中の記憶の話なのか。それともこれが、まだら痴呆(ボケ)とやらの症状なのか。

「それに瑛ちゃんが尚ちゃんのこと恨むのも仕方ないことでしょう。だって、お祖父ちゃんが死んじゃったのは、尚ちゃんのせいなんだもの」

「は? お袋、何言ってんだ?」

 さすがに慌てたように明仁が口を挟んだ。

「親父が死んだのは、慶輔を刺したショックだろう。尚人のせいじゃない」

「そもそもマスコミに散々騒がれるようになったのは、尚ちゃんのせいでしょう? 尚ちゃんが用心せずに狭い道通って帰って。それで事故に遭ったから」

「あれは、不良グループがゲーム感覚で自転車通学の男子高校生ばかりを狙って襲っていたんだ。尚人は被害者だ。そんな言い方するもんじゃない」

「そもそも不良グループに目をつけられるなんて普通じゃないわ。つまり尚ちゃんが本当はそういう生活をしてたってことでしょう? 雅紀ちゃんは仕事が忙しくてほとんど家にいないんだから、尚ちゃんが普段何してるかなんてわかりっこないし。だから裕太ちゃんもちゃんとご飯食べさせてもらえなくて、一回栄養失調で倒れて入院したんじゃない」

「お袋! いい加減にしろ!」

「あら、やだ。大きな声出さないで。びっくりするでしょう」

「自分が何言っているか分かってるのか?」

「本当のこと言ったら怒られるの? 嫌になっちゃうわ」

 秋穂はプイッとそっぽを向くと、そのまま部屋を出て行った。

 夫唱婦随を美徳としていた秋穂のこんな自由勝手な姿を見るのは初めてで、明仁も唖然とした様子だった。

「雅紀、すまない。まさかお袋が、突然あんなこと言い出すなんて」

 動揺を隠せないままに明仁が謝罪を口にする。しかし雅紀にとってそんな謝罪何の意味もなかった。

「––––俺は、ずっと勘違いしてましたよ」

「え?」

「俺は、子供の頃ここへ来るたびに、祖父ちゃんが些細なことでナオを叱り付けるのが嫌でたまらなかったんです。だから本当は、祖父ちゃんのこと大嫌いでした。それに対して祖母ちゃんは、裕太贔屓(びいき)がひどかったけど祖父ちゃん程には嫌う要素がないって思ってたんです。でも、今の話聞くと、祖母ちゃんも同じくらい(きら)っとくべきだったんだなって」

「……雅紀」

「俺は、ナオを傷つける奴は一切許さない。記憶がない? 痴呆(ボケ)てる? 関係ありません。勘違いも、思い違いも、そんなつもりなかったも、関係ありません」

 雅紀は淡々と言い放つと立ち上がった。

「俺が言いたいことはそれだけです。もう、ここへ来ることは二度とありません」

 そして雅紀は振り返ることなくそのまま堂森を後にした。

 

 

  * * *

 

 

 電子錠で、我が家のドアを開けて入る。

 そのドア一枚が、世間と自分たち家族を隔てる(ゲート)だった。家に帰ってくれば、世間を騒がせる雑音も、しつこくまとわりつく煩わしさからも解放される。

 なのに……

 雅紀は胸の中のざわつきが取れなかった。

 イライラとムカムカが、胸の中でぐるぐると渦巻いていた。

 同時に、愛しさと切なさがどうしようもなく込み上げてくる。

「ただいま」

 雅紀がダイニングキッチンに顔を出すと、

「おかえりなさい」

 シンクの水を止めて尚人が笑顔で振り返る。

 その笑顔に慰撫されつつ、雅紀は尚人に歩み寄ってぎゅっと抱きしめと、頭のてっぺんにキスをした。ついでに尚人の匂いを思い切り吸い込む。

「––––話し合い、大変だった?」

 腕の中で尚人が問う。前もこんな状況だったからだろう。

「大変というか……」

 秋穂の爆弾発言のせいで、話し合いになどならなかった。しかし雅紀は話し合いでの円満解決を望んでいたわけではなかったので結果は同じだ。絶縁状を叩きつけた。これで篠宮の親戚全てと縁が切れるなら願った通りだ。

 しかしそう思っても、胸の中の苛立ちが消えなかった。

 痴呆(ボケ)て記憶があやふやになっているのかもしれない。しかしそれでも秋穂が尚人をどう見ていたのかというのは変わらないはずで。尚人のことをずっとそんな目で見ていたのかと思うと、怒りがこみ上げて仕方なかった。そして同時に、おそらくはそんな祖母の視線を察していただろう幼い尚人がどう感じていたのか。それを思うとやりきれなかった。

 ––––どこにも行けない。誰にも必要とされていない。この家以外に居場所がない。

 それを口にした時の尚人の気持ちが今更ながら胸に刺さった。

「……今すぐナオを抱きたい」

 雅紀はこめかみにキスし、耳たぶに舌を這わせながら呟く。

 情けなくも切実な感情だった。

 ナオを抱きしめたい。

 ナオにキスしたい。

 ナオの温もりを全身で感じて、ナオと一つに繋がりたい。

 優しくしたい。

 そう思う一方で、抱き潰すくらいに激しく精を注ぎ込みたいとも思う。

 何も考えられなくらいの快楽を与えて、己の腕に中に閉じ込めてしまいたい。

 ナオ。

 ナオ。

 ナオ。

 雅紀はあふれる感情を我慢できなくて、尚人をそのままベッドに引っ張り込んだ。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縹色(はなだいろ)ノ雲 エピローグ

《盗撮行為はいかなる理由があっても許されない犯罪》

 マイクの束を前に、雅紀が顔色ひとつ変えることなく静かなトーンで語っている。しかし、『インペリアル・トパーズ』と呼ばれる金茶の目は青味を帯びていて、激しい怒りを隠そうとはしていなかった。

 先日行われた『MASAKI』の記者会見。沙也加は、その画面に釘付けになる。

 録画して、もう何度も繰り返し見ていた。

 どうしても、その姿を、その声を、目に耳にしたかった。

 のだが……

 ––––どうしてよ。

 ––––どうして、尚ばっかり。

 その思いがあふれる。

 沙也加が週刊誌にデマを書かれたとき、雅紀は助けてくれなかった。必死の思いで電話して、藁にもすがる思いだったのに……。

「日本で独りが不安なら、いっそ海外にでも行けば?」

 雅紀は冷淡なくらいバッサリと、そう言って沙也加を切り捨てた。

 それなのに、尚人がターゲットになるとすぐさま記者会見を開く。尚人の顔にはモザイクがかかっていて、悪意のある内容の報道でもなかったのにだ。

 沙也加が週刊誌に載った時は、モザイクなんてなかった。あれだって盗撮だった。沙也加はどうしたって、尚人と自分の扱いの差を思わないではいられない。

 尚人が憎い。

 尚人が目障りでしょうがない。

 自分から何かを主張することがないくせに、沙也加の欲しいものは全部持っていく尚人が大嫌いだ。

 雅紀に大事に守られて、尚人がそれを当然と思っているのも癪に障る。

《受験生である弟の学習環境が脅かされている》

《落ち着いた環境の中で受験に専念したもらいたいという気持ちを汲んでもらって、これ以上の報道は謹んでもらいたい》

 画面の向こうで雅紀が記者らに配慮を求めている。

 (ひとえ)に尚人のために。

 去年、マスコミに散々付け回されて、沙也加だってとても勉強に集中できる環境になかった。頑張って頑張って入れた大学だったが、一時は留学すら考えた。それくらい沙也加の日常は(おびや)かされていた。自分で何とかするしかないと独りもがき苦しむ沙也加を誰も助けてはくれなかった。

 いつもは沙也加に甘い祖父母も留学には賛同してくれず、あろうことか叔父の由矩にも話をしたらしく、由矩からも反対された。みんな寄ってたかって沙也加の考えを否定するばかりで、誰も沙也加の気持ちを汲んで慰めてはくれなかった。

 沙也加だって金のかかる自費留学は現実的ではないと分かっていたのだ。分かっていてもそれを考えざるを得ないほどに追い詰められていた。本当はその気持ちこそをわかって欲しかった。

 それなのに……

 沙也加は録画映像を切るとため息を一つ落とした。

 先日雅紀に直接電話した時のことを思い返す。

 朝のニュースで『MASAKI』の自宅敷地内に不審者が侵入し、器物破損の現行犯で逮捕されたと知った時のことだ。

 雅紀に電話などできない。そう思う一方で、どうしても声が聞きたい。祖母が心配している。それを理由(いいわけ)に思い切って電話を掛けた。

 前回は自分の気持ちを一方的に言いすぎた。だから、会話が続かなかったのだ。その反省を踏まえて、今度は祖母の心配を前面に押し出せば、雅紀だって色々と話をするはずだ。口が滑らかになって来たところで、徐々に話題を変えていけばいい。

 しかしそんな沙也加の思惑と計算は、呆気(あっけ)なく砕け散った。

「後で家に電話する。祖母(ばあ)ちゃんにそう言っといて」

 雅紀はそのひと言だけでさっさと電話を切ってしまったのだ。

 きっと電話するタイミングが悪かったに違いない。

 忙しかったのだ。忙しい中にも緊急事態かと思って電話に出たのだ。だけど安否を確認する内容で、今すぐ対応しなくてもいいと判断して電話を切った。

 そうに違いない。

 そう思うことで、沙也加は自分自身を慰めた。

 そうとでも思わなければ、たったひと言で電話を切られたショックに耐えられなかった。

 その後、雅紀から祖父母宛に電話があったのかどうか知らない。わざわざ確認する気にもならなかった。もし尚人や裕太が重症ならマスコミがそれを報道しないはずがなく、そう言う騒ぎを耳にしないということは二人は無事だった証だ。ならば二人の状況など沙也加にとってはどうでもよかった。

 沙也加は先日手に入れた雑誌を本棚から引っ張り出して開く。海外に活躍の幅を広げている『MASAKI』を特集した記事が載っている。その中にインタビュー記事があった。

 

 記「近頃は、海外にも活躍の幅を広げていますが、今後は海外に主軸を置くつもりですか」

 M「海外での仕事は刺激があってやりがいを感じます。オファーをいただけるなら積極的に受けるつもりですが、拠点を海外に移す考えは今のところないですね」

 記「それはやはりご家庭の状況によるものでしょうか?」

 M「そうですね。俺は弟の飯に支えられてるんで。弟がいないと痩せ細ってしまいますよ(笑)」

 記「高校生ながら完璧に家事をこなすと噂の弟さんですね。ところでMASAKIさんは、人生のパートナーはどんな方を理想としますか? やはり弟さんみたいに完璧に家事をこなす女性がいいのでしょうか?」

 M「家に帰った時、散らかってるよりは片付いていた方がいいし、疲れて帰って来た時にうまい飯が出て来た方がいい。男性なら誰だって思うことじゃないですか? けれども、やりたいことがあるのにそれを我慢させてまで家事に縛り付けることはしたくはないです」

 記「近頃ファンの間で、大人の色気が増したともっぱら評判ですが、ご自身ではどう思ってますか?」

 M「その前に、そんな話初耳なんですけど?」

 記「では、自覚はないと?」

 M「そうですね」

 記「いい恋愛をしてるから色気が増してるんじゃないかと言う噂なんですが。実際、どうなんですか?」

 M「恋人がいるか、と言うご質問ならノーです。仕事が忙しくて、彼女なんて作ってる暇がありません」

 記「そうなんですね。MASAKIさんがフリーだとわかったら、この記事を読んだ女性が殺到するかもしません。ズバリ、どんな女性が好みですか?」

 M「女性にしろ男性にしろ、俺は努力を続けている人を好ましいと思います。きついことから逃げず、辛さを人のせいにしないで、自分のできることを頑張っている人を見ると俺自身力をもらえますから」

 記「なるほど。MASAKIさんが言うと意味深長ですね」

 

 沙也加は雅紀のインタビュー記事を読んで雑誌を閉じる。

 ––––私だってモデルで成功するために頑張ってるんだから。

 そんな思いが沙也加の胸を占めていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

劣情 1

夏夜の蛮行直前の話(全3話)


「MASAKI。この後食事、一緒に行くでしょう?」

 撮影終了後、雅紀はそう声をかけられてにっこりと微笑んだ。

「ええ、もちろんですよ」

 雅紀のその答えに、声を掛けて来た女性が「よく出来ました」とばかりに優雅に笑む。大物女優天地貴子(あまちたかこ)。近頃雅紀は彼女に可愛がられていた。

 天地貴子は老舗ジュエリーブランド『アウラ』の広告塔(かお)を数年前から務めていて、今や『アウラ』と言ったら天地貴子というほど世間に浸透している。その『アウラ』のグラビア撮影で『若い男性にジュエリーをプレゼントさせる大人の女性』というコンセプトで撮影があった時、天地の相手役に雅紀が抜擢されたのが二人の初顔合わせだった。大人の色香ぷんぷんの天地貴子と若いのにどこか泰然とした雰囲気のある雅紀との組み合わせで撮った一枚は世間の評判をさらい、それでスポンサーも気を良くして、その後も貴子の相手役としてちょくちょく撮影に呼ばれるようになったのだ。

 『アウラ』のグラビアを飾るのは、デビューしたての新人男性モデルである雅紀にとって大抜擢と言っていい大きな仕事だった。とはいえ、この仕事にさして情熱が持てないのは、雅紀にとってはステージモデルを極めたいという思いが一番だからだ。とは言え仕事は仕事。幼い弟たちを食べさせていくためにも選り好みしていられない。それは、嫌というほどわかっていた。

 今日の撮影も『アウラ』新作のためのグラビア撮影で、大きく胸元の開いたドレスを纏う彼女(天地貴子)の首元に輝く大粒のダイアモンドがあしらわれたエレガントスタイルのネックレスを彼女に贈る男性役が雅紀の仕事だった。これから本格化するクリスマス商戦をねらった広告で、主要女性雑誌を中心に複数メディアに掲載される予定らしい。

 箱から取り出したジュエリーを彼女に差し出して見せる。彼女の首筋に手をはわせジュエリーをつけてやる。ジュエリーをつけた彼女と今にもキスしそうな雰囲気で見つめ合う。様々なシーンを撮影し、予定時間内に無事カメラマンのOKをもらって終了した。

「あなたが相手だと時間通りに終わるから楽だわ」

「俺のせいで忙しい貴子さんの時間を無駄にするわけにはいきませんからね」

「あら。一人前みたいな口を利くのね」

「生意気言いました。すみません」

「ふふ。冗談よ。せっかく早く仕事が終わったんだもの。MASAKI。この後食事、一緒に行くでしょう?」

「ええ、もちろんですよ。そのために、時間通りに終わらせたんですから」

「口がうまいわね」

「生意気ですか?」

「素直でいいわ」

 帰り支度を済ませて二人揃ってスタジオを出る。その際雅紀が天地の腰に手を添えてエスコートする。もう何度も繰り返された光景にいまさら驚いた視線を向けるスタッフなど一人もいなかった。

 

 

 

 二人は、天地の専属マネージャーが運転する車で彼女御用達だというシティホテルに向かった。このホテルに入っているフレンチレストランのVIPルームで食事をとり、時間差で部屋に流れ込むのがいつものパターンだ。歳の近い遊び仲間とバーで騒いで女性をお持ち帰りするのとは違う、女優天地貴子が求める大人の遊びに付き合わなければならない。頭の片隅でそれを面倒臭いと思いながらも、男の生理的欲求を処理できるチャンスを無駄にしたくもなくて、雅紀は天地の誘いを断ったことはなかった。据え膳食わぬは男の恥、というやつだ。

 それに、雅紀はここ最近順調に仕事が増えていて、以前のような遊びはできなくなっていた。モデルは体力勝負。体を維持するための自己管理が大切だ。いつまでも徹夜で遊びまわっているわけにもいかない。大事な撮影の日に体調不良でダウンすれば、その枠を別の誰かが奪っていくのがこの業界の常識。それもあって、近頃はセックスフレンドから連絡が来ても睡眠を優先させる方が多くなった。ただ正直な気持ちを言えば、やるだけならいいのだが、やった後にぐずぐずと時間を過ごされるのが嫌だった。

 その点、天地貴子との情事は、彼女の準備した部屋に行くのだから適当な時間で帰ることができる。

「朝まで一緒にいたいけど、誰かに見られてもまずいでしょうし」

 そう言えばいいだけだ。彼女も大人だから変に引き止めることもない。

 大物女優天地貴子をセックスフレンドというのはおこがましいが、それでも雅紀的に今一番都合の良い相手であることには違いなかった。

 シャンパンで乾杯し、他愛のない話をして食事を楽しむ。面倒臭いと思いながらもそれを顔にも態度にも出すことが一切ないのは「女性をきちんとエスコートできるようになれ」というのが雅紀が尊敬する加々美蓮司の教えの一つだからだ。実践の場だと割り切って天地に付き合う。

「あなた、本当に食べ方が綺麗ね。その齢でテーブルマナーが完璧なんて、外国の貴族出身って噂、本当なのかしら?」

「そんな噂があるんですか?」

「ええ。実はロイヤルに繋がる高貴な血統という噂も」

 ふふ、と天地が笑う。雅紀は思わず苦笑した。

 その見た目から自分が周囲にハーフだと思われているのは知っている。特に肯定も否定もしないでいるのは面と向かって聞いて来る者がいないからだ。が、さすがに「外国の貴族」や「ロイヤルに繋がる血統」などという噂があるとは知らなかった。『MASAKI』というモデル名以外、一切のプライベートを公表していないミステリアスさがそんな噂を生んでいるのかも知れないが、事実を知れば皆唖然とするに違いない。日本人の両親のもと極々一般的な家庭に育った。そこまでは「へぇ、そうなんだ」程度かもしれないが、父が不倫して家を出て行った後、奈落の苦しみを味わった。しかも未だそこから完全には抜け出せないでいる。家の中の雰囲気は最悪で、近頃は尚人とまともに口も利いていない。

 まあ、そんなこと、この場でペラペラと喋る気もないが。

「そんなわけ、ないじゃないですかって答えたら、もう貴子さんから声を掛けてもらえなくなりますか?」

「馬鹿ね。そんなわけないじゃない。出自は自分で選べないけど、生き方は自分次第でしょう? 私、あなたの仕事のやり方、結構気に入ってるのよ」

「貴子さんにそう言ってもらえるなんて。嬉しくて勘違いしそうですよ」

「あら、何を勘違いするの?」

「貴子さんみたいな素敵な人が、俺だけのものになるんじゃないかって」

「若いのに口がうますぎるわ。でも、そんなところも気に入っているの」

 天地はそう言うと、ハンドバックからカードキーを取り出してすっと雅紀の前に置いた。

「先に行くわ。あなたは、ゆっくりコーヒーを飲んでから来てちょうだい」

 先に席を立つ天地を雅紀は見送る。天地がコース料理を最後まで堪能しないのもいつものことだった。

 

 

 

 一人になっても雅紀はマナーを崩すことなく食事を続けた。「いつでもどこでも人目を気にしろ」というのも加々美の教えだからだ。食事の相手がいなくなってもホテルスタッフが見ている。目の前にない視線が自分を評価している。それくらいの気概がなければ一流のモデルにはなれない。

 とはいえ、そもそも雅紀にとって、外面を取り繕うことはそんな難しいことではなかった。子供の頃から優等生の皮を被ってきた。意図的な打算があったわけではないが、周囲の大人達が期待する子供を演じることが別に苦ではなかった。優等生でい続けることで尚人が真っ直ぐな憧れを自分に向けて来るのが心地よかったからだ。

 父が愛人を作って家を出て行き、母が日に日に弱っていく中では、できた息子の顔をし続けた。自分の不安や不満などとても母には見せられなかったという事情もある。尚人にとっても頼りになる兄でい続けたかった。

 だが、その母が死んで、雅紀はいい息子の顔をする必要がなくなった。いい息子の顔をするのをやめたら、同時に頼りになる兄の顔もできなくなってしまった。理由はわかっている。わかっているが、どうにもできない。ジレンマが雅紀の中でのたうちまわっている。自覚した時から一生身の内に飼い続けるしかないケダモノ。このケダモノが自分の内側から自制を食い破って出てきた時、雅紀は尚人の兄ではいられなくなってしまう。尚人を失うくらいなら気難しいと思われても兄のままでいたかった。

 雅紀は尚人の前で兄の皮を被り続けている。それに必要な胆力に比べれば、常に人目を気にした所作を心がけるなどさしたる苦労でもない。

 最後に出されたデザートを堪能し、コーヒーを飲み干すと、雅紀は卓上のカードキーをジャケットの内ポケットに入れて席を立った。レストランの入っている五階からさらに上に行く。そのために使うエレベーターにはカードキーをかざす必要があった。エレベーターの中に各階のボタンはない。カードキーをかざすと、部屋のある階に止まる仕組みになっているのだ。

 エレベーターを降りるとホールと廊下の間にガラス戸があった。その扉を開けるためにもカードキーが必要で、宿泊者以外の侵入を徹底的に排除するシステムになっていた。天地貴子がこのホテルを愛用するのはこういうところに理由がある。

 そうした幾つものセキュリティーを通り抜けた先に辿り着いた部屋の扉を雅紀はノックもなくカードキーを使って開けて入る。夜景の綺麗な最上階のスイートルームが彼女のお気に入りで、雅紀も幾度となく来たことがある部屋だった。その部屋の窓際のソファーに彼女はいた。すでにシャワーを済ませたバスローブ姿で、ルームサービスの赤ワインを開けていた。

「お待たせしました、貴子さん」

 雅紀は天地に歩み寄って、後ろから抱きしめる。

 撮影の時には感じなかった、甘い香水の匂いがした。

「料理は堪能したかしら?」

「ええ、存分に。なので今度は、貴子さんを味わせてください」

 耳元でくすぐるように囁く。彼女がほんの少し振り向いたタイミングで雅紀は唇を重ねた。

 どちらからともなく舌を絡め合う。くちゅくちゅと卑猥な音が室内に響く。彼女の手が雅紀に絡みつく。はだけた胸元から豊かな乳房がのぞいて、雅紀がたもとから手を差し入れて軽く触れると、彼女の吐息が熱を帯びた。

 立ち上がった乳首を親指の腹で擦る。

「あぁぁッん」

 彼女が甘やかな声を上げたところで、雅紀はキスをやめて彼女の胸をはだけさせた。白い乳房が眼前にあらわになる。雅紀はソファーに座る彼女の前に膝立ちになると乳房を両手で揉みしだきながら固く立ち上がった乳首を口に含んだ。彼女は乳首を攻められるのが結構好きなのだ。片方の乳首を舌で転がして吸い、もう片方の乳首を指で摘んでくにくにと揉んでやる。それで彼女の喘ぎ声が忙しなくなった。

 その状態で雅紀は彼女の片方の足を持ち上げて自分の肩に担ぎ上げる。乳首を吸いながら開いた股間に手を伸ばして秘壺をいじると、すぐにくちょくちょと卑猥な音を立て始めた。

「あ、ああぁ。いい、いいわ」

 指を二本にして中をかき回す。柔らかい彼女のそこは細いとは言えない雅紀の指二本を簡単に飲み込んで、雅紀の手を愛液で濡らした。乳首と秘壺の三点を同時に攻められて、彼女の腰が浮く。

 彼女の呼吸が荒くなってきたところで雅紀は彼女の中から指を引き抜くと、両足を持ち上げて足を大きく開かせ、両の肘掛けに彼女の足をかけた。ホテルのソファーであり得なほど淫らな姿を天地貴子が晒している。しかし彼女はそれを恥じる様子もなく、早く続きをしろと目で訴える。雅紀は彼女の前で腰を落として正座状態になると、両手で彼女の秘所を完全にあばき、剥き出しになった花芯に舌を這わせた。

「あぁぁぁぁッ!」

 彼女が喘ぐ。最初はチロチロと、そして次第に吸うように激しく彼女の秘所を舐めながら雅紀は自分のベルトを緩めると、立ち上がっていた肉茎を引きずり出した。自分でいじって快感を引き揚げる。そして完全に立ち上がったところで、素早くコンドームをつけた。

「このまま挿れていいですか?」

 雅紀は這わせていた舌を離すと同時に指で花芯を擦る。彼女の快感が逃げてしまわないように、問いながら再び乳首も攻めた。

「あぁぁぁん。いいわ。早くちょうだい」

 お許しをもらって雅紀は彼女の膣内に肉茎を(うず)めた。彼女の体熱が雅紀を包み込む。愛液で濡れた膣内への挿入はスムーズで、雅紀は腰を振って己の肉茎を叩きつけた。奥に突き立てれば愛液が溢れ出し、挿入に合わせて繋がったところが卑猥な音を立てる。しかし、湿り切った膣内に肉茎を擦り付ける行為に気持ちいいという感覚はあっても、上り詰めるような快楽はなかった。

 白い乳房をさらけ出し喘ぎが止まらない彼女を何処か冷静に見つめながら、雅紀は腰を振り続ける。しかし達する感覚には程遠くて、雅紀はいったん動きを止めた。

「やっぱりここじゃ動きにくいです。ベットへ移動しましょう」

 濡れた肉棒を引き抜いて、雅紀は彼女を抱えてベッドへ移動する。そして中途半端に脱いでいた服を全て脱ぎ払うと、彼女の腰を抱え込んで今までよりも深く突き刺してかき回した。

「あぁぁぁぁん!」

 彼女がよがる。嬌声が室内に響く。花芯を一緒に刺激してやると彼女の腰が(よじ)れた。

「ああ、イく、イく。もう、イっちゃう! あーーーーーッ!」

 激しく抽送(ちゅうそう)を繰り返す雅紀の下で、彼女が叫び声を上げて背をしならせた。下腹を引きつらせているところを見るとオーガズムに達したのだろう。しかし、雅紀の肉茎はまだ熱を内包したままで。雅紀は彼女の体が弛緩するのを待って、甘く聞こえるように耳元で囁いた。

「もう少し、付き合ってください」

 そして雅紀は彼女を背面に抱き直す。セックスの時、相手の顔が見えるのがどうにも苦手だった。いつもとは違うとろりと熱を帯びた女性の視線が雅紀から性的興奮を奪う。

 ––––慶輔さん。

 ––––慶輔さん。

 ––––行かないで、慶輔さん。

 ––––抱いて。もっときつく抱いて、慶輔さん。

 (うつろ)な母の視線が急に脳裏に蘇って、雅紀は思わず顔をしかめた。その残像を消し去るために、雅紀はあえて初めて尚人に欲情した時の光景を脳裏に浮かべた。

 夏の定番、タンクトップと短パン姿で尚人はリビングのソファーでうたた寝をしていた。肉付きの薄い華奢な体。毛も生えていないつるりとした脇からタンクトップ越しにピンク色の乳首が見えた。短パンから剥き出しになった生足が妙に艶かしくて、触ってみたくてしょうがなかった。

 ちょっとだけ。ちょっとだけ……。

 幼児の頃から尚人の裸など嫌というほど見てきた。プール遊びも一緒にしたし、風呂にも入った。股間にぶら下がっているものが小さくて可愛いと思っても、ただそれだけだった。自分と同じものがついてる。何の不思議もなかった。

 そのはずだったのに……。

 一緒に風呂に入らなくなって何年経っただろう。あの可愛らしい股間の膨らみは今どうなってる?

 ちゃんと剥けてるのか?

 隠毛は生えたのか?

 精通はしたのか?

 今まで思いもしなかったことが立て続けに頭に浮かんだ。

 見たい。

 触りたい。

 舐めたい……。

 あの艶かしい足を思い切り開かせて、自分の目の前に全てをさらけ出させたい。珠をしゃぶってやったらどんな声で啼くだろう。茎を(ねぶ)ってやったら、どんな味の精液を吐き出すのか。尚人の中はどんな感じだろう。尚人の中で擦られたら……。

 そんなことを妄想している間に、雅紀の先端から精が吐き出されていた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

劣情 2

 その日、雅紀は朝九時にスタジオ入りして雑誌のグラビア撮影を行い、予定通り夕方四時に終わらせると事務所に顔を出した。近頃市川とは、メールや電話のみでのやりとりが(メイン)になっていたのだが、市川の方から「事務所に顔を出して欲しい」と言われたのである。いくつかオファーが被っていて、今後の方針も含めて仕事の調整がしたいのだという。

「MASAKIさん、お疲れ様です♡」

 入り口受付にいた女性スタッフがいつもの如く満面の笑みで迎えるその前を雅紀は軽く会釈しただけで通り過ぎる。「いつでも、どこでも、人目を気にしろ」と口をすっぱくして繰り返す加々美に見られたらひょっとすると怒られるかもしれないが、雅紀的に事務所スタッフは身内。気取った態度を見せる必要を感じる対象ではなかった。そう感じるのも、雅紀の所属する『オフィス原嶋』が、あまりにも規模が小さくて、スタッフ一同全員家族、みたいな雰囲気があるからかもしれない。

 今でこそ笑い話にできるが、雅紀は加々美に初めて『オフィス原嶋』を紹介された時、「この人この事務所の社長に借金でもあって、俺をその(カタ)に差し出そうとしてるんじゃないだろうな」と本気で疑った。それ以外に、あれだけ足繁く通って自分を口説き落としたくせに、自身の所属する『アズラエル』ではなく、小さな『オフィス原嶋』に紹介する理由が思いつかなかった。

 まあ、その時は色々ありすぎて周囲の大人が信用できない状況だったこともあるのだが。もちろん(のち)にそれは考えすぎで、雅紀の性格を考えると『アズラエル(こっち)』よりも断然『オフィス原嶋(あっち)』の方が合っていると考えた加々美の親心だったとわかった。そしてそれが加々美だからこそ許された掟破りだったということも。

 今では、その加々美の判断に感謝している。この業界のことが色々とわかってきて思うのは、確かに自分は何かと縛りの強い大手より自由が効く今の事務所の方が合っている。

 事務所との契約というのはなかなかに厄介で、契約した後に「この事務所とはやり方が合わないので辞めます」とは簡単にはいかない。引退ならまだマシかもしれないが、移籍となればまず揉める。そのせいで仕事自体を失うモデルも多く、だからこそ最初に契約する事務所選びは慎重にも慎重を重ねる必要があるのだが、大抵の者は、契約イコールデビューと勘違いして浮かれてしまい、たいして考えもせずに契約を結んでしまう。

 ひとつフォローするなら、素人が熟慮を重ねたところで情報が足りなさすぎて結果は同じということもありえるのだが……。

 だから雅紀はラッキーだったのだ。この世界を知り尽くした加々美蓮司に見出されて、彼が後ろ盾になってくれて。しかし、そのラッキーをラッキーだけで終わらせてしまうのか。どうなのか。あとは自分次第。海千山千ひしめくこの世界はラッキーだけでは渡っていけない。自覚と覚悟がいる。

 それに雅紀は、幼い弟達を養っていくためにも、モデルとして成功する必要があった。

 雅紀は、自分がした苦労を弟達にさせたいとは思わない。特に尚人には、金がないから深夜のアルバイト、なんて経験させたくはなかった。真っ昼間の書店スタッフなら社会経験と思ってギリ許せても、雅紀がしていたような外国人相手のナイトクラブのホールスタッフなど問題外だった。どう考えても、貞操の危機しかない。性に対してオープンな者が多い外国人は、同性同士のセックスもフランクに捉えていたりして、経験上、きっぱりはっきりノーセンキューを突き付けなければ勝手に勘違いしたりする。雅紀も散々誘いを受けて辟易したが、世間知らずの尚人なんて気づきもしない間にペロリと美味しく食べられてしまうに決まっている。

 そんなこと、絶対に許せるわけがない。考えただけで神経が焼き切れてしまいそうだ。

 受付を通り過ぎて、雅紀が雑然と事務机が並ぶオフィス内を覗くと、奥の席でPCを睨みつけるように仕事をしていた市川の視線がふと上がった。瞬間、雅紀の視線とかち合って、市川がはっとした顔をしてわずかに腰を浮かせた。

「雅紀君、すぐ行くので奥の部屋にお願いします」

 それに片手を上げて答えて、雅紀は事務所の奥にある小さなミーティングルームへ向かう。半分物置のようになっている部屋だったが、そこが雅紀が事務所に顔を出した時にいつも使用している打ち合わせ部屋だった。

 

 

 

「夏開催のショーですけど。すでに起用が決まっているブランドの他に、三つのブランドからオーディションに参加しないかと打診が来ています」

 市川がやって来てすぐに打ち合わせが始まる。

「それって、指名ですか? それともオープン?」

 雅紀が問うと「指名です」と答えが返る。

 ショーにどのモデルを起用するかという権限はどこのブランドも概ねデザイナーにあり、大抵「専属」や「お気に入り」が務めるが、一度に数名あるいは数十名のモデルの起用が必要な大きなショーの場合、またはモデルを一新したい場合など、オーディションをすることがある。オーディションのやり方は様々で、指名した者だけを呼び集めて行う場合もあれば、誰でも参加自由の一般公募の場合もある。指名の時は、起用の意向はあるが他のモデル達とのバランスを見て決めたいということが多く、今回何らかの理由で起用に至らなくても次に繋がる可能性が大きい。そもそも指名されるということはデザイナーに興味を持ってもらっているということだからだ。

「三つともスケジュールに入れてください」

 雅紀が迷わず答えると、市川はうなずいた。

「わかりました。……ただ、三つとも最終契約に至った場合『アウラ』さんの撮影を入れるのが結構厳しいんですよね。ぎちぎちにスケジュールを組めばいけないこともないんですが。万が一、衣装合わせの日程がずれ込んだら、七月は二十日連続休みが取れない可能性が出て来ます」

「『アウラ』って、あの毎年の、クリスマス用の?」

「そうです。今年はまだ正式な打診を受けているわけじゃないんですが。昨年のグラビアも結構評判が良かったみたいで。『アウラ』さん側から事務所に「来年もよろしく」という連絡が一応あっているんです。なので、依頼が来る心算(こころづもり)でスケジュールを組んでいた方がいいかとも思うんですが」

「まだ正式な依頼もないのに、そのためにスケジュールを空ける必要はないですよ。そもそも、俺的にはステージの方が優先ですし」

「しかし、ワンステージより『アウラ』さんのグラビアの方が、ギャラはいいですよ?」

 さらりと吐き出された市川の言葉に雅紀は瞬時黙る。ギャラのいい仕事がしたいというのは、確かにデビューしたての頃ちょくちょく思っていたことだ。とにかく金を稼ぐことが何より必要だったのだから切実だった。

 しかし、その「ギャラがいい」とは何を持ってそう言うか、との問題も同時にあった。グラビア撮影は一本いくらの出演料としてギャラが決まるので、一本単価でいくなら、断然、男性誌より女性誌の方が良かった。購買数の違いがギャラにも反映されるのだ。その女性誌の中でもギャル雑誌が一番良かった。しかしグラビア撮影は、どれだけ時間がかかっても延長料金的な「時給」が発生するわけではないので、撮影が短い方が時間単価が上がる。それでいくと、ギャル雑誌の撮影は相手が素人同然のギャルであることも多く、時間通りに撮影が終わらないことが多かった。はっきり言って、撮影効率が最悪だった。何よりプロ意識の低い相手との絡みは、雅紀にとって苦痛以外の何物でもなかった。

 そういった諸々のことが雅紀的にジレンマだったのだが、そんなこんなの時期を乗り越えて、そこそこ自分自身のギャラが上がって、仕事も少しは選べるようになって来た現在、出来ることならステージに専念したいという思いもある。加々美蓮司のように––––、とはおこがましくて口にはできないが。

 ただ、『アウラ』撮影の相手、天地貴子はプロ意識の高い女優で、ギャル雑誌のグラビア撮影などとは全然違う、雅紀的にも学ぶことが多い現場だった。ギャラがいいのに撮影も時間通りで。おいしい仕事、だったことは確かだ。

「『アウラ』の仕事がなくても大丈夫です。ナオも、無事に公立高へ進学することが決まりましたから。入学金や授業料の目処は立ちましたし」

「ああ、弟さん。高校合格決まったんですね。それは、おめでとうございます」

「……ありがとうございます」

 雅紀は大人の対応として謝辞を口にしたが、何かを含むわけでもない市川の言葉に一人勝手に心を(ざわ)つかせた。理由は明白だ。おめでとう。当然のそのひと言を、自分は尚人に掛けてやらなかった。

 合格発表があったのは先週で、市川にわざわざそのことを言ったわけではないが、雅紀はその日スケジュールを空けた。もちろん合否が気になったからだ。尚人は尚人なりの勝算を持って翔南高校一本に絞って受験したようだが、そこには行く気もない私立を滑り止めで受けても意味がないという考えがあったことは否めない。翔南に落ちたら、尚人は中学浪人になってしまう。だから万が一の場合は、尚人を説得して後期二次募集を受けさせる必要があった。二次募集は定員割れしている高校しか行わないから選択肢はぐっと狭まるとはいえ、雅紀は尚人を中卒にする気はなかった。

 しかし雅紀のそんな心配をよそに尚人は見事合格した。帰宅した尚人の高揚した雰囲気ですぐさまそれを察した。近頃は雅紀の前では強張った表情ばかり見せていた尚人が珍しく笑顔も見せた。

「まーちゃん。翔南受かった!」

 本当はあの時、尚人を抱きしめて頭を撫でやりたかった。

 ––––ナオすごいな。よく頑張ったな。

 そう言って、褒めてやりたかった。

 しかしそんなことをしたら、それだけではすまないことはわかりきっていた。尚人を腕に抱いたら、絶対にキスしたくなる。キスしたら次は身体中まさぐりたくなって。そのまま尚人を裸に剥いて、ソファーの上で足を思い切り開かせて……。

 取り返しのつかないことをしてしまう自覚は十分にあった。

 だから溢れそうになる感情を押し殺して

「そうか」

 とただひと言発するのが精一杯だったのだ。尚人の寂しそうな笑顔が胸にぐさりと刺さりながらも、ケダモノになるよりマシだと自分に言い聞かせた。

「もともと志望が公立一本だったんですけど。万が一にも私立に行くなら、と考えてた部分もあったんで。なので、今後はステージ優先で大丈夫です」

「わかりました。では、今後はその方向でスケジュールを組みます。『アウラ』さんの仕事は、無理なく入る場合のみ受けますね。それで、いいですか?」

「はい」

 その後、来週から行く予定になっている海外ロケのスケジュールの最終確認を行い、市川に手配してもらった航空チケットを受け取って打ち合わせは終わった。

 

 

 

 打ち合わせが終わって自宅へ帰り着くと夜九時を回っていた。帰宅時間は告げていなかったが帰る予定であることは伝えていたため、食卓には雅紀の分の晩飯がラップをかけて置いてあった。鍋の味噌汁を火にかけて温め直し、保温されていた炊飯ジャーから白飯をよそう。おかずのメインはチキンカツで、『トースターで温め直してください』とメモ書きがあったが面倒くさかったのでそのまま食べた。当然冷めていたが、思いのほか衣がサクサクで柔らかくて美味しい。副菜の白和えは、疲れた体にほっとするような味付けだった。

(ナオも、もう高校生か)

 改めて思う。

 外に愛人を作っていた父親が、不倫がバレてその関係を解消するどころか、家族をゴミのようにポイ捨てして出て行った時、尚人は小学校六年生だった。以降雅紀たち一家は不幸の坂道を転がり落ち、泥水を啜るようにして一日一日を耐え忍びながら生きて来た。

 何とかここまで来た。

 ここまでやって来られた。

 中学の三年間、尚人には我慢させ通しだった。入学時はとにかく金がなくて、制服は近所の人から譲ってもらったお下がり。校納金も何度も滞納して督促された。当然家で着る服に金をかけられるはずもなく、尚人の夏の定番はタンクトップに短パンととても中学生とは思えない格好だったが、尚人がそれに不満を言ったことは一度もなかった。

 経済的な問題が多少解消された現在、尚人には人並みに高校生活を楽しんでもらいたいとの思いがある。高校時代の友人は雅紀にとって大きな財産だ。本当に苦しかった時雅紀は随分友人たちに助けられた。そんな友を尚人にも持ってもらいたい。家事全般を担う尚人が部活なんてしている暇がないのはわかり切ったことなので、せめて青春時代の思い出を共有する友人くらいはと思うのだ。

 しかしその一方で、

 ––––俺……高校まで行かせてもらえれば、それでいいから。

 ––––そしたら、あとはどこでだって、ちゃんとひとりでやれるし。

 その言葉がどうしたって無視できない。県下一の偏差値を誇る翔南高校に合格した今現在、あの時の尚人の言葉が、単なる思いつきでも口先ばかりの虚勢でもないことを思い知らされたからだ。

 そうやって雅紀が独り煩悶しながら夕飯を食べていると、風呂場の方から物音が響いた。二階の自室で勉強しているとばかり思っていた尚人だが、どうやら風呂に入っていたようだ。

(どうする)

 反射的に雅紀はあせる。

 このまま晩飯を終わらせて、さっさと二階の自室へ逃げ込むか。それとも、尚人がそのまま二階に上がることを期待してこのまま晩飯を続けるか。

 正直雅紀は風呂上がりの尚人に遭遇したくなかった。何と言っても風呂上がりの尚人は破壊力がありすぎる。ほんのり上気した肌からボディーシャンプーの香りがすると、雅紀が必死に閉じ込めているケダモノが自制を食い破って出て来そうで怖い。

 しかしもたもたしている間に、尚人の足音がこちらに向かって響いて来た。

(最悪)

 雅紀は心の中で舌打ちする。尚人がダイニングキッチンに顔を出したのはそのタイミングだった。

「あ、雅紀兄さん。おかえりなさい」

「うん。……ごちそうさま」

 雅紀は残っていた味噌汁を掻き込んで手を合わせた。遭遇してしまったものはしょうがない。後はなるべく目を合わさずに、すばやくここを立ち去るのが一番だ。

「あ、お茶。いれようか?」

「いい」

 雅紀は使った食器をシンクに運んで、そのまま立ち去ろうとしたのだが。

「あの、雅紀兄さん」

 珍しくも尚人に呼び止められた。

「何だ?」

「あの、今日。翔南高校の合格者説明会に行って来たんだけど」

「え? 今日だったのか? 説明会って保護者同伴だろう? 加門の祖母ちゃんにでも頼んだのか?」

 驚きと同時にわずかな怒りが込み上げた。

 またハブられた。

 そんな思いがよぎったからだ。

 しかし沙也加贔屓の加門の祖母は、尚人の翔南受験を快く思っていなかった。

「合格しても。お祖母ちゃん、喜べないわ」

 はっきりとそう口にしたくらいだ。その加門の祖母が果たして説明会への同伴を了承したのだろうか。

「案内資料にはそう書いてあったんだけど。事前に高校に問い合わせたら、どうしてもの場合は生徒だけでいいって言われたから。俺一人で行って来た」

 雅紀は息を吐く。どうしてこう尚人は、一人で何でも勝手に解決してしまうのか。確かに今日は、どう言われてもスケジュールを動かせなかったが。そのことと説明会の日時を事前に言わないのは全くの別の話だ。

「その話はちゃんと聞く。座れ」

 雅紀は尚人を促して食卓に座り直した。

 

 

 

「今日が説明会だったなんて、俺聞いてないんだけど」

 雅紀が声を尖らせると、尚人がわずかに目を伏せた。

「……ごめんなさい。合格もしてないのに説明会の日程を伝えるのもおかしいと思って。だから、合格したら言おうと思ってたんだけど……。合格発表があった日にはすでに、今日、雅紀兄さんが仕事だってわかってたから。……その、言うと迷惑をかけるかと思って」

 合格発表から今日まで一週間。確かにその期間でスケジュールを動かせるはずがない。それは確かなのだが。

「俺が行けるかどうかと、日程を知ることは別問題だろう?」

「ごめんなさい」

 尚人なりに気を使ったのだろう。それはわかるが自分が何に怒っているかをきちんと伝えないと尚人は同じことを繰り返す。

 とはいえ尚人を避けているのは自分の方で、雅紀は「どの口がそれを言うか」との思いも当然あった。しかも、目の前に座る尚人は案の定白い肌をほんのり上気させていて。雅紀の怒りを感じて、もじもじとしている様子も可愛くってしょうがない。

 最初に感じたイライラなんてあっけなく吹き飛んで。代わりに自制がゴリゴリと擦り潰されていく。

 平常心。

 ……平常心。

 ………平常心。

 雅紀は身体の奥にたぎる熱を必死に押さえ込む。

「で、説明会はどうだったんだ?」

「入学式の日程の説明と、春休みの課題の配布があって。あとは、これから納める必要があるお金の話と、制服の採寸をして」

「資料があるんだろう?」

「あ、うん。もらって来た」

「テーブルに置いとけ。風呂から上がってから目を通すから」

「わかった」

 雅紀はそれだけ言って風呂場に向かった。

 尚人と面と向かっていられるのは、それが限界だった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

劣情 3

 年に一度の同期会。雅紀はその日の仕事を終わらせて、少し遅れて顔を出した。

 会場は桐原の顔が効くという居酒屋で、雅紀もこれまで何度か来たことがある。

「おー、来たな。篠宮。待ってたぜ」

 懐かしい顔ぶれがすでに出来上がった状態で雅紀を迎えた。

「ほら、お前の席ここだよ。ここに座れ」

 皆にわいやわいや言われながら空いた席に座り、勝手にビールを注文されて目の前に置かれる。これは決してチヤホヤされているわけではなく、さっさと座って、ちゃっちゃと遅れた分を取り戻せという同期ならではの愛情表現。押し付けがましくない強引な優しさ。同期ならではの雰囲気が心地いい。

「よーし、篠宮来たから乾杯やり直しな。かんぱーい!」

 海棠が場を仕切って音頭をとった。皆と軽くグラスをぶつけて乾杯する。そのビールを雅紀は一気に煽った。

「おー、いい飲みっぷり。おねーさーん、このイケメンにビールもう一杯!」

 海棠が追加を頼むと、すぐさま雅紀の前に新たなジョッキが置かれた。

「篠宮来るとさ、店のサービス一気に良くなるよな」

「そりゃあ、店員がずっとこっち見てるからな。注文がサクサク通るってもんさ」

「店員の反応も年々面白いことになるよな。前はチラ見程度だったのに、だんだんガン見になって来てるし」

「さすがカリスマモデル」

 茶化した口調で海棠が言う。これが同期じゃなかったら視線で撫で斬りにするところだが、同期のおふざけは単なる酒のつまみだ。

「そーいや、俺。こないだお前の載った雑誌見たぜ。『デートで着たい勝負服』ってやつ」

 九鬼の突然の爆弾発言に、雅紀は思わず、通しで出された牛蒡のきんぴらを吹き出しそうになった。

「あれ、ギャル雑誌だぜ。おまえ、そんな雑誌読むのかよ」

 つい本音が溢れる。九鬼は表情を崩すことなく、さらなる爆弾を投下した。

「俺じゃなくて、彼女が読んでんだよ」

「って、お前、彼女いるのかよ!」

 雅紀も驚いたが、大声をあげたのは海棠だった。何しろ九鬼といったら堅物で、ストイックに空手道を突き進んでいるイメージがある。

「なんだ、文句あんのか?」

 九鬼がじろりと海棠を睨む。

「いや、あるだろう」

 冷静に突っ込んだのは織田だった。

「何でお前に彼女がいて、俺にはいないんだ」

「知るか」

「篠宮に彼女がいても仕方ないけど、お前に彼女がいるのは許せない」

「何でだよ」

「俺にいないからに決まってるだろ。別れろ」

「おまえ、マジで締めるぞ」

「有段者がそりゃまずいだろう。勝負なら千メートル走にしようぜ」

「距離がなげーよ」

「じゃあ、百メートルハードルにするか」

「ハードルどっから持って来るんだよ」

「こいつらマジでアホだな」

 九鬼と織田のやり取りに、桐原が(かたわら)でケタケタと笑う。皆酒が入っているから、しょうもないことで盛り上がり、喧々諤々(けんけんがくがく)しつつもふざけ合いが続く。

 肩肘張る必要のない、気楽なノリが同期会の醍醐味だ。

「そういや翔南受けるって言っていた弟君、どうなったんだ」

 隣に座っていた桐原が突然、雅紀に話題を振った。雅紀は三杯目のビールを流し込んでいるところだった。

「……受かった」

「おー、マジか。すげーな、弟」

「何の話?」

 向かいの席の犬童が話題に加わる。

「こいつの弟、翔南に受かったんだってさ」

「え、マジ。すげー。篠宮もさ、嫌味なくらい何でも出来るやつだったけど。やっぱ、弟も出来るんだ」

「弟は、俺とは全然頭の作りが違う。俺だったら塾にも行かずに翔南に合格するなんて絶対無理だし」

「なあ、写真ないの。弟の顔みたい」

「写真なんて持ってねーよ」

「え、何で。篠宮、高校生の頃からめっちゃ弟可愛いって話してたじゃん。てっきり持ち歩いてるのかと思ってたけど」

 高校生の頃ならまだしも、今尚人の写真なんて持ち歩いてたら、煩悩が刺激されてどうしようもなくなる。それに、写真なんてなくても、尚人の顔ならいくらでも思い浮かべることができた。

 それどころか、最近では気づいたら脳内で尚人を好きに弄り倒していて、妄想が暴走してどうしようもなくなっている。夢の中では、もう何度も尚人を犯していた。実の兄にそんな妄想をされているなど、尚人はつゆ程も思っていないだろう。

「ちなみに弟って今でも可愛いの?」

「それは見た目の話なのか、存在そのものの話なのかで変わって来るんじゃないか?」

 誰かがそんなフォローのようなことを言ったが、どちらにしろ尚人が可愛いことには違いない。

「……めちゃくちゃ、かわいい」

 酒が入っているせいか、雅紀の口も滑りが良くなっていた。

「見た目も性格も何もかも可愛い」

「マジか! 篠宮がそんなに言う弟に俄然興味湧くぜ」

「男子高校生で可愛いって、全然想像がつかないよな」

「少なくとも瀧芙にはいなかった」

「みんな汗臭い連中だったからな」

「篠宮に似てんの?」

「俺に似てたら可愛いわけないだろ」

「まあ、確かに。お前に可愛げはないな」

 皆がどっと笑う。

「部活は? 何かしてんの」

「家のことで手一杯で、そんな暇ねーよ」

「ああ。ま、そっかー」

「前に、家事は何でも完璧にこなすって言ってたもんなあ。一人暮らしの俺ん家に派遣してくんねーかな」

「何でだよ。ナオは派遣のハウスキーパーじゃねー」

「派遣じゃなくて同居でもいいぜ。お前の代わりに俺がめっちゃかわいがってやるからさ」

「ふざけんな。マジ殺すぞ」

 雅紀が目を(すが)めると、桐原が「どうどう」と宥めた。

「篠宮がマジになってるって。死人が出る前に、この話やめろ」

「わりー。冗談だって」

「気を付けろよ。こいつは兄ちゃんとしての見え張り過ぎて、ブラコン拗らせてんだから」

 フォローになっていない桐原の言葉に雅紀はムッとしながら、目の前のグラスを煽る。桐原には散々世話になって来たので、桐原だけには頭が上がらない。その上、桐原の言葉は耳に痛い所を突いている。

「空いたグラスお下げしまーす」

「すいません。ハイボールを」

 テーブルに来た店員に雅紀が声をかけると、すぐさま女性スタッフがハイボールを運んできた。

 これが何杯目の酒なのか。すでにわからなくなっていたが、運ばれて来たハイボールも雅紀はすぐさま空にする。

「そういやこないだ実家帰りついでに部屋掃除してたら、卒業記念DVD発見して。ついつい見ちゃってさ。改めて見ても、あの剣道部の剣舞鳥肌モノだったぜ」

「なつかしー。あれは完全に白虎隊越えだったよな」

「演技後の歓声もの凄かったよな。本気で鼓膜破れるかと思ったし」

「瀧芙の体育館に珍しく女子の黄色い声が響いてたしな」

「ああ、他校の女子の観覧数、すごかった」

「あれ全員、篠宮目当てだったんだぜ」

「そんなん、今更だろ」

「そのあと篠宮と写真撮りたいって女子がいつまでも校内うろうろしててさ。生徒部の先生たちが必死に追い出してたもんな」

「俺、篠宮目当てでうろうろしてた女子と一緒に写真撮ったぜ。いい思い出だ」

「悲しい思い出の間違いだろ」

 思い出話にも花が咲き、談笑が絶えない。同期との楽しい酒が、雅紀の中で日に日に膨らんでいく胸を掻き毟らんばかりの劣情を一時的に忘れさせる。

 近頃は、家の中でうまく息ができない。

 尚人の気配を感じるだけで身体中がうずく。

 対面するのを避けているくせに、視線は無意識に尚人を追う。追って視姦する。その姿を目に焼き付けて、頭の中であられもない妄想ばかりを繰り返す。自己嫌悪に陥りながらもどうにもやめられないのだ。

 尚人を渇望する。

 尚人に劣情する。

 欲しくて、欲しくてたまらない。

 他の何を捨ててもいいから、手に入れたい唯一のもの。

 しかしそれだけは許されるはずがなく。

 何を持っても埋められない飢渇感。

 それを誤魔化すために酒を煽る。

 お開きになった時、雅紀はかなり酔っ払っていた。

 

 

 店にタクシーを呼んでもらう。それに乗り込んで自宅へ帰り、玄関を開けて入る。雅紀の意識が辛うじてあったのはそこまでだった。

 頭の中がぐるぐる回っていた。

 足元がふわふわとおぼつかなかった。

 誰かに体を揺さぶられる。

 雅紀兄さん。起きてよ。

 ここで寝ちゃダメだって。

 ベッドに行こうよ。

 尚人の声がする。

 ––––ああ、いつもの夢か。

 ぼんやりと雅紀は思う。

 近頃自分を避けている尚人が、こんなに親しげに声をかけてくるはずがないのだから。これは夢なのだ。

 自分勝手な都合の良い夢。

 尚人を自分のものにしたくて。

 尚人から誘ってくれたらいいのに、何て思ったりして。

 だから都合の良い夢を見る。

 ベッドに行こう、なんて。

 そんなふうに誘われたら、貪りつくしかないじゃないか。

 尚人が微笑みかけている。

 その目が、その唇が、誘っているようにしか見えなくて。雅紀は尚人の腕を掴んで身体を引き寄せるとキスをした。

 かぶり付くようにねっとりと唇を合わせ、舌をねじ込んで口内を舐め回す。

 いつもの夢とは違う。熱を感じるその感覚に、雅紀は夢中になる。

 甘い吐息を全部飲み込んでしまいたい。

 うねる尚人の体を抱きしめて、身体の下へ組み敷く。

 下半身が疼いた。

 今まで感じたことがないほどの興奮に雅紀のものが怒張する。

 身体の奥からマグマのように吹き上がってくる熱に雄蕊がどくどくと脈動する。

 その(たかぶ)りを尚人の体に押し付けて、雅紀は自分の興奮を伝えた。

 ––––セックスしよう。

 その合図だ。

 尚人の下着を剥ぎ取る。

 片足を取って大きく開かせる。

 最奥の(すぼ)まりを指でグリグリとまさぐって挿れるための準備をする。

 男性同士のセックスなんて知らない。しかし、体を繋げるためには肛門を使うしかない。アナルセックスなんて言葉があるくらいなのだから、入らないはずがない。

 雅紀は己の雄蕊に手を添えて、尚人の後蕾に挿し入れていく。入り口が狭くて入りにくくて、そのもどかしさに、雅紀は思い切り腰を入れて突き立てた。

 熱が、雅紀を包み込む。

 狭くて動きにくくて、でもその分、雅紀を咥え込んで離さなくて。

 今までのセックスでは感じたことがない、痺れるような快感があった。

 ––––ああ、夢でこの感覚はヤバすぎるだろう…… 

 気持ち良すぎる。

 ナオ。ナオ。ナオ。ナオ……

 雅紀は夢中で腰を振り続けた。

 そうして、叩きつけてねじ込んで、精の全てを注ぎ込む。

 目覚めたら全て忘れている夢––––

 そう、これは夢なのだ。

 夢だから許される。

 ナツヨノ ユメノ ハナシ

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鳳雛(ほうすう)ノ翼 1

(おや、あれは確か……)

 アズラエル本社ビル三階モデルフロア。

 加々美は、その階での用事を済ませて最上階にある高倉の執務室へ向かう途中、偶然視界に入って来た人物に若干歩調を緩めた。

 ロングストレートの黒髪。手足の長い抜群のプロポーション。遠目にもわかる力強い眼差しと全身を覆う硬質な雰囲気。どことなく『MASAKI』に似ていなくもない。二十歳そこそこかと思える若い女性。

 雅紀の実妹、篠宮沙也加、で間違いなかった。

 昨年『ニューヒロインを探せ』をコンセプトに、人気ファション雑誌『KAGUYA』とウェブTV『ビーラム』が共同で仕掛けたモデル発掘オーディション、カールズ・コンテスト。彼女はそれに出場し、入賞こそ逃したものの、高倉の引きによって『アズラエル』所属のモデルになった。

 つまりは、事務所の後輩、なわけだが、加々美はまだ沙也加と直接言葉を交わしたことはない。機会がなかったし、わざわざ声を掛けにいくような理由もなかった。それだけのことだが、顔と名前はコンテストに出て来た時からチェックしていた。

 もちろん、雅紀の実妹だからだ。

 現在カリスマモデルとしての地位を不動のものとし、他の追従を許さない『MASAKI』は、加々美自ら足繁く通ってスカウトした。外国人クラブで働いている姿を初めて見た時から、雅紀にはそれだけの価値があると思ったし、高校生の素顔を知ったのちは余計に、この出会いを出会っただけの関係で終わらせたくない、そんな感情が湧いた。

 見た目は抜群、背筋がスッと伸びた後ろ姿が綺麗で、腰の位置がぶれないしなやかな足取り。モデルとしての素質十分だったが、それ以上に加々美は、目があった瞬間に感じた雅紀が内包する「何か」に惹かれた。

 学校に特別に配慮してもらって夜のアルバイトをしている状況を鑑みれば、家庭に何らかの問題があるのは間違いなかった。恐らくはその関係で、警戒心バリバリで、言動に可愛げがないのだろうとも思った。しかし加々美は、それさえも良い、と思った。いや正確には、他人にこれほど警戒心を見せるこの青年が、自分にだけは心開いてくれる、そんな関係になりたいと思った。

 早い話が、高校生の雅紀に魅せられたのだ。

 二人の関係を、年齢差を越えた深い付き合いにしたい、と本気で願った。

 だから加々美は、雅紀から「もう少し詳しく話が聞きたい」と電話があった時には天にも登る気持ちだった。他人からの電話があれほど嬉しかったことはない。モデルの世界がどんな世界か、経験を踏まえて話してやり、熱心に、そして真摯に、雅紀を口説いた。雅紀がデビューしたのちは、モデルとして直接役に立つことも立たないことも、あちこち連れ回して経験させた。

 何も知らないままにこの世界に引っ張り込んだ責任。それが自分にはあると加々美は思っていた。

 そして、そんな交わりの中で見えて来た、雅紀の頭の良さと勘の良さにはとにかく感心したが、それ以上に、物事に動じないその鋼の神経に舌を巻いた。

 ––––こいつ、本当に十代かよ。

 何度もそう思った。

 その一方で、時々に垣間見せる大人に対する不信感。

 その理由を加々美が知るのはずっと後になってからのことだが。こいつにだけは信頼される大人でいたい。加々美はそう思って雅紀と付き合って来た。

 常に感情を隠し、仕事用以外では笑顔など滅多に見せない冷静沈着な雅紀が、二人きりの時だけに見せる素顔。それが自分だけの特権に思えて、加々美は満足していた。

 しかし––––、

 雅紀の忘れ物を届けに弟が現場に来た時に雅紀が見せた、とろけるような笑顔。

 それを見た瞬間。

 ––––こいつ、こんな顔できるのかよ。

 正直、マジで、驚いた。

 クールビューティ。鉄壁のポーカーフェイス。居るだけで現場の体感温度が下がる。などと言われる雅紀がメロメロなのだ。例えるなら、永久凍土が溶けて、荒涼とした大地に一気に春が来たという感じだった。ツンドラ地帯に色とりどりの花が咲き乱れる映像まで脳裏に浮かんで、加々美は一瞬自分の目を疑ったほどである。

 この一件で加々美は、雅紀にとって弟がものすごく大切な存在なのだと思い知らされた。その時すでに篠宮家の愛憎劇は世間にだだ漏れになっており、雅紀の「弟大事」は一般にも知れ渡っていたが、正直「あれ程」とは思わなかったのだ。

 聞くにつれ、呆れるほどの猫かわいがりで。弟は大事な「箱入り」で。

 それ程までに弟を可愛がっているのならば当然妹も。

 普通はそう思う。

 しかし、実際は全然違った。

 ドライを通り越して、いっそ無関心?

 それ位、雅紀の弟と妹の扱いは違った。

 一体なぜなのか。理由はわからない。

 突っ込んで、聞いてはいない。

 ただ、察するものはある。

 ––––ナオが思っている以上に妹のやっかみがひどい。

 ––––見当違いの嫉妬やくだらないやっかみでナオが不当に八つ当たりされるのが我慢できない。

 その言葉に雅紀の本心が凝縮されていたように思う。

 妹との間に決定打となる何かがあったのか、なかったのか、はわからない。しかし、雅紀の中で妹は弾かれた。そう言うことなのだろう。

 人の愛情は等分されるものではないのだから、仕方ない。それを薄情だと糾弾するのはただの偽善者だ。加々美はそう思う。

 それにしても……

(尚人君より、よっぽど雅紀に似てるよな)

 際立つ美貌。半端ない目力。出会った頃の雅紀のような、排他的な刺々しさ。それは一つの個性だ。しかし……

(雅紀の妹って認知された中では、どうしたって雅紀の二番煎じになるかな)

 そんな思いはある。

 男と女の違い。それを差し引いても、「『MASAKI』の妹」という世間のフィルターを超えるほどの個性がない。それがデビューしてから一年経とうというのに、高倉が狙っていたほどには売れていない理由のような気がする。

(ウェブTVが入ったオーディションを選んだのがミスだったかもな)

 沙也加が出場したオーディションは、その様子がウェブTVで放送され、インターネットを通じて一般人も投票できるのが売りだった。

 オーディションの過程を公開するメリットは、悲喜交交(ひきこもごも)の現場を視聴者に擬似体験させることでオーディション参加者たちに感情移入させ「この子の活躍を応援したい」と言うファンをデビュー前に作ることにある。オーディション優勝者が事務所指名できる権利を与えられたのも、優勝者は審査員の求める基準をクリアしていることにプラスして、事前のファンを獲得していると言う付加的な商品価値があると判断されたからだ。

 しかし沙也加の場合は、一人状況が違った。ネット上で「『MASAKI』の妹」の情報が流出した途端、一般投票一位に浮上した。それは、主催者側が期待した事前のファン数とは違うものだ。だからこそ沙也加の総合順位は4位に終わったと言える。『MASAKI』ブランドの功罪であるが、とにかく、オーディションの状況が一般に公開されたことで「『MASAKI』の妹が見たい」という大衆の欲求は満たされてしまった。彼女は売り出すための最大の武器をデビュー前に使い果たしてしまったことになる。

 とはいえ、そもそもが、「『MASAKI』の妹」というだけの価値で仕事ができる世界ではないので、デビュー後は色々な戦略で勝負させていくのがマネージャーの腕の見せ所だ。しかし、唐澤が付いていてもいまいちパッとしない現状を考えれば、「『MASAKI』の妹」に続く次なる武器がないのか、弱いのか、どちらかなのだろう。

(ま、引っ張って来たのは高倉だし? 今後どうするかは高倉が考えるだろ)

 加々美はやって来たエレベータに乗り込むと最上階のボタンを押した。

 

 

 

 モデル事務所最大手『アズラエル』本社内、統括マネージャー高倉真理(たかくらまさみち)の執務室。加々美がその部屋に顔を出すと、常にポーカーフェイスの高倉が珍しく渋い顔をして執務椅子に座っていた。

(お、ヤバイときに来ちゃったかな)

 そう思ったが、顔を出してすぐ引っ込めるわけにもかいず。加々美は、いつもの如くコーヒーを自分で()れると皮張りのソファーにゆったりと腰を下ろした。

 俺はコーヒーを飲みに来ただけだから、すぐに退散しますよ。

 そんな雰囲気を出して。

 しかし、加々美のそんな思いとは裏腹に高倉はおもむろに立ち上がると加々美の前に移動して腰を下ろした。

「尚人君の件なんだが」

(……前置きもなく、いきなりそれかよ)

 加々美は心の中だけで身構えて、高倉に視線を向けた。

「尚人君が、どうかした?」

「受験が終わりさえすれば、スカウト交渉が解禁されると言う噂が業界内でまことしやかに流れている」

 ––––は?

 加々美は思わず動きを止め、口に運びかけたカップをそのままソーサーに戻した。

「なんでそんな噂が?」

「この前、『MASAKI』が記者会見を開いただろう?」

 もちろん知っている。下校中の尚人を盗撮して放送した番組があり、それに対し雅紀が怒りの記者会見を開いたのだ。

 相変わらず(尚人)のことになれば雅紀は過剰反応を示す。

 それも、今更ではあるが。

「それがどうした?」

「あの会見で『MASAKI』が、『受験生である弟の学習環境』とか『落ち着いた環境で受験に専念』とか言っただろう。だから、弟が受験生である今はダメだが、受験が終わればオッケーだと。そう受け止めた連中がいると言うことだ」

「はぁぁぁぁ?」

 加々美は思わず驚きの声を上げた。

「あの会見で、どうしてそう言う解釈になるんだ? ありゃ、尚人君を盗撮した報道機関を非難して、もし繰り返すなら許さないって牽制する内容だっただじゃないか。スカウト話とはまるっきり違う話だろう?」

「趣旨は、まぁそうだったな」

 高倉は頷く。

「しかし、そう拡大解釈した連中がかなりの数いるのは事実で。すでに業界内では『受験後』を見据えた動きが活発化している」

(雅紀が知ったらぶちきれそーじゃねーか?)

 加々美は深々とため息を()いた。

「そこでだ。そんな動きがあるとわかっていながら、指を咥えて眺めているわけにはいかないってことは、わかるだろう?」

 加々美は渋い顔でコーヒーを口に運んだ。

「そうは言うが。『アズラエル(うち)』はもう何回も断られてるじゃないか。これ以上のゴリ押しは逆効果にしかならないと思うけど?」

「では、諦めろと?」

「 もう少し機が熟すのを待てって言ってんだよ。そもそも尚人君自身は現時点でモデルをやりたいって思ってるわけじゃないんだし。だったらどっかが交渉を持ちかけたところで、雅紀がオッケーするわけないじゃないか」

「お前が『MASAKI』をスカウトした時も、最初はモデルをする気はないって言ってたんだろう?」

「けど、あいつはあの時すでに、何らかの方法で金を稼ぐ必要があった。尚人君とは全然状況が違う」

 高倉が黙り込む。到底納得したようには見えないその表情に加々美は小さく息を()く。高倉が尚人に固執するその気持ちはわかるが、加々美としては、あまりしつこくこの話題を雅紀に振りたくなかった。無理を通し過ぎれば雅紀との関係が捻れてしまう。それを危惧するからだ。

 加々美は、高倉の気を逸らすために話題を変えた。

「それより、妹の方をどうにかした方がいいんじゃないのか?」

「妹……。沙也加嬢のことか?」

「素材としては悪くないのに、いまいちぱっとしない。このままじゃ『MASAKI』の妹ってだけで終わるぞ。ものになるかならないかは本人の努力次第って部分があるのは事実だが、お前自ら引っ張って来たのに何年も売れずに燻ってますってことになったら、『アズラエル(うち)』の事務所としての力量だって侮られることになるぞ」

 加々美が言うと、高倉が表情を変えてメガネのブリッジを押し上げた。

「それについては、つい今し方唐澤とも話したところだ」

(へ、そうなの?)

 それで三階フロアに彼女の姿があったのだろうか。

「で、唐澤は何だって?」

「素材は悪くない。努力できる性格でもある。地道な企業回りも嫌な顔せずにする。––––が、どうしてもモデルとして成功したいんだって言う気概みたいなものがいまいち足りない。と言うのが唐澤の評だ」

「要はやる気が足りないと?」

「簡単に言うと、そうなるかな? やる気を持たせるのもマネージャーの腕の見せ所ではあるんだが。彼女の場合は明からさまなやる気のなさではないし、アドバイスすればなまじ返事はいいだけに、唐澤もどう発破をかけたものか悩んでいるようだ」

「うーん。まあ、どんなに素材が良くて、本人が努力しても、幸運の女神に愛されない者がいるのは確かだけど……」

 残酷な話だが、それが現実だ。沙也加がそうだと断言するわけではもちろんないが。世間にだだ漏れの篠宮家の事情や雅紀から聞いた話から察するに、彼女のこれまでの人生が幸運に恵まれて来たとはとても言い難いのもまた事実である。

「人生の一発逆転だってあるわけだし?」

「その一発逆転のための戦略なんだがな。この際、彼女最大の武器『MASAKI』の妹全面押しと言うのはどうかと、唐澤から相談された」

「……というと?」

「『MASAKI』とのツーショットグラビアだよ。どこかの雑誌とタッグを組んで掲載する。––––で、その衣装提供に『ヴァンス』を絡ませるのはどうかと考えてたところだ」

「そりゃ、おまえ……」

 何と言ったものか。

 加々美は驚き過ぎて言葉を失った。

「俺たちはナイブス氏に結構貸しがあるはずだよな? 尚人君の件然り。旗艦店のプロモーション・ビデオの件然り。そろそろまとめて返してもらってもいいと思わないか?」

(いや、思わないかって言われても……)

「ということで、俺はナイブス氏への交渉にあたるから、『MASAKI』への根回しはお前に任せる」

「おい、勝手に決めるなよ」

「お前が言った通り、社運がかかってる。頼りにしてるからな」

 加々美は何となく高倉に(はめ)められた気がして、盛大に顔を(しか)めたのだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鳳雛(ほうすう)ノ翼 2

 今年最終日の大晦日。雅紀は午前中に予定されていたトークイベントに参加してから定宿にしているシティホテルに入った。そしてホテルのラウンジで、かなり早めの夕食を取る。

 これから毎年恒例のカウント・ダウン・ランウェイのイベントに参加するのだ。このショーは、レディース&メンズのモデルが一堂に会して本年を締めくくるファッション業界の一大イベントで、このショーでランウェイを歩けるかどうかで来年のステータスが決まると言っても過言ではない。ゆえに、受験生である尚人をサポートするためかなり仕事を絞っていた雅紀も、このイベントだけは(はず)すわけにはいかなかった。

 ––––ナオとの年越しセックスも魅力的なんだけどな。

 数日前、尚人に年末年始のスケジュールを確認されて。雅紀がため息混じりにそう答えると、尚人は耳を真っ赤にして固まっていた。その姿を思い出して、雅紀は思わずにやける。

 本当に、どうしてああもいつまでも初心(うぶ)なのか。尚人の可愛いは際限がない。

 そんなことを考えながらシャワーを浴び、バスルームから出て来たところでテーブルに置いてあるスマホが鳴った。

 表示を確認して思わず雅紀は顔を(しか)める。

 デジャブ?

 電話の相手は加々美だった。

「はい、雅紀です」

『俺だけど。今、どこ?』

「ホテルです」

『そっか。……って、バリバリ嫌そうな声だな。何か警戒してる?』

「そりゃ、そうでしょう。加々美さんだって自覚あるんじゃないですか?」

『まあ、そう言うなって。今日は尚人君絡みじゃないから』

「当然でしょ。ナオはあと二週間でセンター試験本番なんですから」

『ああ。もう、そんな時期か。まあ、尚人君なら大丈夫だと思うけど』

 何を根拠に?

 そう思わなくもなかったが、雅紀は本題を聞き出すために頭を切り替えた。

「……で、用件はなんですか?」

『打ち上げの誘いだよ』

「は? ……ずいぶんと気が早いですね」

 嫌な予感しかない。

『予約入れとかないと、お前つかまらないだろう?』

「打ち上げ会場には顔出しますよ?」

 本当はそのまま直帰したいが。そういうわけにもいかないのは十分承知だ。

『ま、そういうことだ。じゃ、お前のランウェイ楽しみにしてるからな』

 つまり、今詳しく話す気はないと?

 そんなことを思っている間に加々美の電話は切れていた。

 

 

 

 加々美からのよくわからない電話に気持ちをモヤモヤさせながら、雅紀はイベント会場に向かった。会場入りすると、すぐさまスタイリストにメイクとヘアセットをしてもらう。本番に着る衣装のフィッティングを行い、演出家立ち合いの最終リハーサルに参加して、衣装に着替えて本番を待つ。ショーは一発勝負だ。やり直しは効かない。スポットライトを浴びながらランウェイを颯爽と歩く。その姿は一見華やかだが、何百何千という目が自分の一挙手一投足を見つめているのだから、その緊張感たるや並ではない。とはいえ主役はあくまで服であってモデルではなく、モデルはその主役の魅力を最大限引き出して見せるのが役目だ。

 しかし、業界人だけで行われるこのカウント・ダウン・ランウェイは、モデル披露の一面もあった。ファッション業界の各方面に携わる人たちが、今後仕事で使うモデルを品定めに来ている。よって、ランウェイで見せる決めポーズで自己アピールできるかどうかも重要で。このワンステージで翌年の仕事が決まることもザラだった。

 今年一番の注目株は、何と言っても『ヴァンス』の専属を射止めた『ショウ』だ。新人でありながら大口契約を引き寄せただけに、業界内での注目度は高い。もちろんその背景に所属事務所『アズラエル』のお膳立てがあったことは誰もが知るところで。その契約内容に実力が伴っているのかどうか。注目はイコール値踏みされるという意味合いもあった。

 『ヴァンス』専属モデル『ユアン』の実力はすでに世界で認められている。それと比べて遜色がないのか。そんな視線を向けられると分かっていながらランウェイを歩くのは、なかなかに胆力を必要とする。『ショウ』にとっては勝負所だろう。

 そんなことが気になったわけでもないが、『ヴァンス』とは今年一発目から色々あっただけに、第一部の自分の出番が終わって、雅紀は第二部の『ヴァンス』のステージを舞台袖から観覧した。妖精王子(フェアリー・プリンス)こと『ユアン』が、独特な色使いの『ヴァンス』の衣装をきっちり着こなして、回遊魚の如く舞台上を滑らかに歩いていく。年明けには日本に旗艦店がオープンするとあって『ヴァンス』の注目度は益々上がっている。それを証明するかの如く『ユアン』が登場した時の会場の盛り上がり方は半端なかった。

 続いて『ショウ』がランウェイを歩く。

(悪くはないんだけど。まあ、『ユアン』と比べるとな)

 雅紀がそう思うのだから、会場にいる目の肥えた業界人たちも同じ印象だろう。『ユアン』との実力が雲泥の差だ。衣装の着こなしも、『ユアン』と比べるとどうしたって見劣った。

 ひと言で言ってしまえば、『ユアン』とのバランスが悪い。それに尽きる。

(だからと言って、ナオに固執されても困るけど)

 加々美の無茶振りから始まった『ヴァンス』との因縁。通訳のアルバイトをしに行っただけでどうして「モデル指名」に発展するのか。雅紀的に全く意味がわからなかったが、ひと言で言ってしまえば、尚人の持つ魅力が『ヴァンス』のチーフデザイナー、クリストファー・ナイブスの琴線に触れてしまったということだろう。しかしそれでも「ごめんなさい。モデルなんてする気ないです」と本人の口からきっぱりはっきり断られれば諦めるのが普通であろうに、「それは分かった。でさ、ユアンと友達になってくれない?」なんて変な搦手(からめて)を出してきて。そこからずるずると『ヴァンス』との縁が切れないでいる。

(ど素人のナオ見てモデルに使いたいって思うくらいだから。今ならもっとやばいかもな)

 雅紀は密かに心配している。

 というのも、昨年、学校の課題でモデル現場の裏方の職場体験をしたことや、その後の『アズラエル』でのアルバイトなどを通して、尚人も何かと考えることがあったのか。時々、雅紀に仕事の話を聞いてくるようになった。

 ––––モデルのポージングって、何か決まり事みたいなのってあるの?

 とか、

 ––––ポーズを決める時のコツっていうか。まーちゃんのこだわりみたいなのってあるの?

 とか。

 ––––俺のことにそんな興味ある?

 雅紀がニマニマしながら問うと、尚人が可愛らしくこくこくと頷くので。フレームへの収まりや、体のラインと見え方の効果について説明してやり。尚人にも実際にポージングさせてみたりして。そんなことを遊びで繰り返していたら、尚人はあっという間にコツを掴んでしまった。

 勘がいい。

 これには雅紀も驚いた。

 運動全般を苦手とする尚人は、体を使って何かを表現することも苦手だろうという勝手な思い込みがあったのだ。しかし実際やらせてみると、「雅紀の真似」では終わらなかった。

 モデルとしての素質があるかどうかは、見た目以外に、カメラマンの要求を理解して体現できるかという部分も大きい。モデル志願の者たちは、レッスンを受けてモデルとしてのスキルを身につけるわけだが、相手の要求を読み取る「勘の良さ」はレッスンでは鍛えられない。それでいくと尚人は、相手の言わんとする所を理解する「勘の良さ」が抜群に良かった。

 それに尚人は、「他人にはない個性」というモデルとして最も重要な要素も兼ね備えている。加々美が初見で指摘したところの「イノセンス」。世間の汚泥を啜ってもなお無垢でいられる尚人のその個性は、「着る者を選ぶ」とさえ言われる『ヴァンス』の独特の色使いさえもしっとりと馴染ませてしまう。今年初めのアルバイトで『ヴァンス』に押し付けられた衣装を尚人に着せてみた時に受けた衝撃。あの時は流石に、着こなしていた、とは言えなかったが、尚人の涼やかさと『ヴァンス』の個性が共存するという事実に雅紀は眼から鱗が落ちる思いだった。

 ポージングのコツを覚えた尚人が改めて『ヴァンス』の衣装を纏えば、あの頃より確実に着こなすだろうし、おそらく、派手さを我がものとする『ユアン』と並べば、動と静、陽と陰、太陽と月、そんな感じの「対」として、互いの個性を引き立て合うだろうと思えた。

 クリストファー・ナイブスが尚人に目をつけたのも今なら嫌というほど理解できる。が、それと尚人がモデルをする件を了承できるかどうかは別の話だ。

 これから尚人は大学受験をして、うまくいけば春には大学生だ。万が一うまくいかなければ浪人生になる。これは雅紀の中の決定事項だ。大学の一浪や二浪なんて珍しい話じゃない。ただ尚人は、大学受験に失敗すれば大学を諦めると言い出しそうなので、説得のための言葉を雅紀は考えていた。

 これから尚人は自分のやりたいことを自分で見つけていって、自分なりに世界を広げていくのだ。その過程において、思惑だらけの大人たちに横槍など入れられては堪らない。大人たちの勝手な都合に振り回されるのは、もう十分だ。

 第二部のステージも終わって、雅紀は再びステージに上がった。イベントの締めは、出演者全員でのカウントダウンだ。「スリー、ツー、ワン」とカウントされて、「ゼロ!」の斉唱と共に会場内にド派手な紙吹雪が舞った。同時に『Happy New Year!』の声が会場内に響く。この年明けを告げる声が同時にイベント終了の合図でもあった。

 雅紀はステージを降りて、舞台裏へと向かう。着替えてメイクを落として、これから打ち上げだ。

(そう言えば加々美さん。待ち合わせ場所とか何も言わなかったな)

 そんなことを思いながらメイク室へ向かう通路を歩いていた時、雅紀は『ユアン』と行きあった。別に、雅紀に用事はない。だから声を掛けることもなくすれ違おうとしたのだが。

〔あ、……あの〕

 まさか、ユアンの方が声を掛けて来た。

 超絶人見知りと影で揶揄されるほどコミュ障と言われるユアンが自分から声をかけたものだから、周りにいた者達がびっくりしたように足を止めて二人を見やった。その視線せいでユアンを無視するわけにもいかなくなって。雅紀は、内心ため息を()いて足を止めた。

〔何か?〕

〔––––あ、あの……。…………。〕

 そのままユアンが固まる。しかし視線だけは雅紀をガン見で。

(面倒くせーな)

 思わず舌打ちしそうだった。

〔用事がないなら、行くけど?〕

 雅紀がそう口にすると、ユアンの瞳が揺れた。

〔––––今日の……ステージ。とても、よかった〕

(何様だよ)

 もちろんそんな本音は表に出さない。

〔そう。ありがとう〕

〔––––ナオは。……来てないの?〕

(聞きたいのは、それかよ)

 正直イラッとした。

〔ナオは受験生だから。今は家で勉強してる〕

 暗に、邪魔するな、と込めて雅紀が伝えると、ユアンは〔そう〕と小さく呟いて去っていった。

(……ったく。コミュ障すぎだろ)

 あんなのと、どうやったら話が弾むのか。尚人の凄さを改めて感じてしまう。その一方で変なものを手懐けてしまう尚人の天然っぷりは心配の種でしかない。何しろ尚人にその気がなくても、勝手に懐いて来てしまう。野上にしろ、零にしろ。尚人の癒し効果にどっぷりハマってしまって、無自覚に尚人を傷つけた。

 雅紀の目にはユアンとて同類に見える。これ以上近づけさせたくはなかった。

 着替えを済ませてセキュリティーボックスから私物を取り出す。近頃の現場は、盗難防止のため貴重品を管理するセキュリティーボックス常備が当たり前だ。とりあえず尚人に「あけおめメール」をしようとスマホを起動させるとショートメールが一件入っていた。

 加々美からだった。

【ホテルのカクテル・ラウンジで待ってる】

 まるで逢引かのようなメッセージに雅紀は思わず苦笑する。それに了解の返信をし、尚人にメールを送った。

【あけましておめでとう!】

 もしかしたらもう寝たかもと思っていたが、尚人からはすぐに返信があった。

【あけましておめでとうございます。まーちゃん、お仕事お疲れ様でした! ゆっくり休んで帰って来てね。お雑煮作って待ってます】

(今すぐ帰りてー)

 それが雅紀の偽らざる本音だった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鳳雛(ほうすう)ノ翼 3

 カウント・ダウン・ランウェイの華やかなステージを沙也加は観客席から眺めていた。残念ながら沙也加は、このショーでランウェイを歩く栄誉は手にできず、関係者として会場に入れてもらっていた。

 このワンステージが、モデルのステータスを上げるためにはとても重要だということはすでに理解している。そして同時に、実力もない新人を歩かせてくれるような場所ではないことも。しかし、見るだけでも勉強になるからと、マネージャーの唐澤が関係者パスを用意してくれたのだ。

 来年はあそこを歩く側になってください。

 暗にそう尻を叩かれたのだと沙也加は理解した。

 このことは沙也加自身誰かに言ったわけではないが、情報というのはどこからともなく漏れるのか、会場に入るためのパスを手に入れられなかったレッスン仲間からは聞こえよがしの嫌味を言われた。

 ––––贔屓があからさますぎて引くよね。

 ––––これも『MASAKI』効果? いいよねー、『MASAKI』の妹ってだけで贔屓してもらえて。

 ––––でもさ、その『MASAKI』効果持ってしても、ランウェイは歩かせてもらえないってことでしょ? それって、よっぽどってことだよね?

 ––––歩き方が見苦しいって?

 ––––ひどーい。私そこまで言ってないって。

 ––––見た目よけりゃモデルできるって、勘違いしちゃったんだろうね。

 ––––見た目って言ってもさ、『MASAKI』ほどずば抜けてるわけでもないじゃん?

 ––––まあ、『MASAKI』は特別だから。

 ––––兄が特別だから、自分も特別って思ってるとか。

(馬鹿じゃないの)

 沙也加は思う。

 誰かを羨ましがっても自分が惨めになるだけ。

 それは沙也加自身嫌と言うほど体験して来た。だから、わかる。

 羨ましがる暇があるなら、努力すること。研鑽をやめないこと。精進を続けること。そうしないといつまで経っても誰かを羨ましがり続けなければならない。

 しかし今回は、人が羨ましがるような機会を一つもらえたのは確か。だから沙也加は、しっかり勉強して帰るつもりでイベント会場にやって来た。

 関係者パスを首から下げて、舞台袖に近いところからランウェイを見上げる沙也加の目の前を、レディース&メンズのモデルたちがBGMに合わせて颯爽と歩いていく。

 さすがに経験豊富なモデルたちのウォーキングは素晴らしい。バッチリ決めたメイクと服の着こなしが抜群にマッチしていて、ランウェイを歩く足取りは滑らか。高いピンヒールで足元がぐらつくなんてことは絶対になく、床に付くほど長い裾も軽やかに捌く。

 その中でも断トツ一位は、やはりカリスマモデル『MASAKI』だった。

 『MASAKI』が登場しただけで、会場の空気が変わるのがわかった。ピリッとした緊張感。そこからじわじわと会場を覆っていく期待感。『MASAKI』の姿に人々の視線は釘付けになり、その一挙手一投足から目が離せなくなる。人々を惹きつけるオーラが半端なく。流し目一つで男も女も悩殺される。ビシッと腰の位置が決まったウォーキングは高邁にして優雅。他の追随を許さない品格と迫力があった。

 沙也加はその姿に見惚れた。

 ステージに雅紀が登場しただけで心臓がドキドキし、目と鼻の先を歩いていく姿を夢中で追った。沙也加が雅紀のランウェイを生で見るのは初めてで。その迫力は、やはりネット検索で見つけた動画とは全然別物だった。

 ––––お兄ちゃん、やっぱりすごい……

 熱に浮かされたように沙也加は雅紀を見つめる。

 その一挙手一投足を。

 沙也加を魅了してやまない、金茶の瞳を。

 そうして見つめている間に雅紀はあっという間に舞台から姿を消してしまった。しかし沙也加は目に焼き付いた雅紀の姿を頭の中に何度もリプレイし、一人うっとりとその余韻に浸った。

 そんな沙也加の目に、その後登場したモデルたちの姿など写りはしなかった。

 

 

 

 沙也加がようやく我に返ったのは、

『Happy New Year!』

 会場内にその声が響き渡った時だった。

 その声と同時に、ド派手な紙吹雪が舞う。その量たるや客席から一瞬ステージが見えなくなる程で、

(掃除が大変そうね)

 沙也加は反射的にそう思ってしまった。

 その紙吹雪が舞う中を、モデルたちは三々五々散っていく。最後までステージに残っていたのは、妙にテンションの高い若手モデル達数名だった。

 そんなモデル達を横目に、

(このまま帰ってもいいのかしら?)

 沙也加は逡巡する。

 会場内にはイベント終了を告げるアナウンスが流れていて、客席にいた人々も次々と出口へ向かっていた。唐澤には「勉強になるから」とステージを見るよう指示されただけで、それ以外のことは何も言われていないが、このイベントには事務所の諸先輩たちが多く参加していて、ど新人の沙也加が、誰にも挨拶せずに帰っていいものなのか判断がつかない。

 それとも、マネージャーもついてない状態で誰かに挨拶しようとするのがおこがましいことなのだろうか。

(あーもう、私ったら。イベント終わりをどうしたらいいか、ちゃんと聞いとかなきゃダメじゃない)

 今からでも唐澤に電話してみようか?

 そう思って鞄から携帯電話を取り出したタイミングで、電話が鳴った。

 唐澤だった。

「もしもし」

『唐澤です。今、どちらですか?』

「まだ、会場ですけど?」

『では、A−5出口から出てください。そこで待ってますので』

「はい、わかりました」

 唐澤の電話はすぐに切れる。沙也加は指示された通りA−5出口に向かう。出てすぐの所に唐澤の姿があった。

「これから舞台裏の控え室に向かいます。付いて来てください」

 唐澤はそう言ってすぐに歩き出す。いつもより歩調が早めで、時間がないことを暗に示していた。

「あの、どなたかにご挨拶するんですか?」

「挨拶というより、面通し、ですかね? 今は詳しく話せないんで、とにかくはぐれないように付いて来てください」

 そう言われれば、沙也加は黙って付いていくしかない。人が行き交う狭い通路を縫うように歩き、沙也加は必死に唐澤の後を追った。

 そうして行き着いた先の控え室に二人の男がいた。

 『アズラエル』統括マネージャー高倉と『ヴァンス』のチーフデザイナー、クリストファー・ナイブスだった。

 沙也加は驚く。

 まさかこんな大物が居るとは思わなかったのだ。

 よくわからない緊張感に胸がドクンと鳴った。

 唐澤が高倉に小声で到着を告げる。高倉がそれに目だけで答え、その流れで一瞬沙也加を見た。

〔ナイブスさん。彼女が、先ほど言った弊社のモデルです。いかがです?〕

 高倉が『ヴァンス』のチーフデザイナーに声を掛ける。英語だったが、何とか聞き取れた。どうやら沙也加を彼に売り込んでいるようだ。

 ナイブスの視線が沙也加に向けられる。人当たりの良さそうなにこやかな笑みを浮かべていたが、その目はオーディションの審査員と同じだった。

 自然身が引き締まる。

 しかし、ナイブスが沙也加を見たのは一瞬だった。

既製服(レディー・メイド)を着る分には、ちっともかまわないよ。最初に取材を受けた雑誌にも確かそういうコーナーがあったよね? 自分でセレクトして、個性を楽しむ。彼女みたいなタイプのモデルが、どういう風にうちの商品を着こなしてくれるか、楽しみにしてるよ〕

 癖のある英語で、半分ぐらいしか聞き取れない。沙也加は状況が飲み込めずに、固まっているしかなかった。

〔……彼女が『MASAKI』の妹だと告げても、同じ答えかな?〕

 高倉がそう言うと、ナイブスの目に驚きが浮かんだ。しかしそれも一瞬で、すぐさま口元に笑みが浮かぶ。

〔タカクラ。君って人は、本当に策士だな。つまり彼女はナオト君のお姉さんになるってこと?〕

〔まあ、そうなる〕

〔確認だが、彼女の件と、僕がずっと希望しているナオト君の件はリンクしてるのかな?〕

〔そこは何とも言えないが、ウィンウィンで行きたいとは思っている〕

〔なるほどね〕

 ナイブスの視線が再び沙也加に向いた。

 何事か思案しつつ視線で沙也加を品定めしていく。

 先ほどよりは丹念に。

 しかし、しばらくして、ナイブスが小さく肩を竦めた。

〔魅力的な提案だけど。答えは同じだ。そういう取引は、後々お互いのためにならないって予感しかない。それに僕はあくまで『ヴァンス』のデザイナーだからね。ブランドイメージってものが大事だって理解してくれるだろう?〕

 ナイブスの答えに高倉が小さく息を吐き出した。

〔……了解した〕

 沙也加は退散を促され、その場を後にする。

 一体全体何が起きていたのか。はっきりとはわからなかったが、沙也加は訳のわからない敗北感に包まれていた。

 

 

 * * *

 

 

 打ち上げ会場になっているホテルのカクテル・ラウンジに雅紀が顔を出すと、カウンター席に加々美の姿があった。加々美は雅紀の姿を認めて軽く手を上げると、バーテンダーに声をかけて窓際のソファー席に移った。

「いやー、お疲れ。お前のランウェイは、いつ見ても惚れ惚れするな。今日も最高に良かったぜ」

「ありがとうございます。加々美さんのその一言が、何よりの励みになります」

 仕事終わりの一杯。まずはビールで喉を潤す。他愛もない雑談をし、程よく口もこなれたあたりでオン・ザ・ロックに切り替えた。

「そう言えばお前、近頃随分仕事をセーブしてるみたいだな」

「ナオの受験が終わるまでは、ナオのサポート重視ですから」

「ああ、そういうことか。日本の仕事を整理して、海外に拠点を移すつもりなのかって、俺に聞いてくる奴がいてさ。そんなの直接本人に聞けよって答えてたんだが」

「直接も聞かれましたよ? 誰に聞かれたかは覚えてないですけど。そんなみんなして、俺を海外に行かせたいんですかね?」

「行ってもおかしくないって思えるからだろ。で、本音ではどうだ? 海外コレクションで活躍しようって気はないのか?」

「興味があるのは事実ですけど。……ナオが学生の間は、海外に拠点を移す気はありません」

「尚人君が心配か?」

「心配に決まっているじゃないですか。断っても断っても、ナオにしつこくまとわりついてくる連中がいるんですから」

「あー、まー……。それだけ尚人君が魅力的ってことだな」

 加々美が軽くグラスを傾ける。氷がグラスに当たってカランと静かな音が響いた。

「……その尚人君の件なんだけど。業界内でどうやら、受験が終わりさえすれば、スカウト交渉が解禁されると言う噂が流れているらしい」

「は?」

 雅紀はひっそりと眉を寄せた。

「何ですか、その噂は」

「お前がこないだ記者会見で、『受験生である弟の学習環境』とか『落ち着いた環境で受験に専念』とか言ったのを、都合がいいように解釈した連中がいるんだとさ」

「それ、高倉さん情報ですか?」

「そう」

「––––で、加々美さんは、高倉さんからまた何か言われて、今日ここに俺を呼び出したってわけですか?」

「言われたのは事実だが、尚人君の件じゃない」

「じゃあ、何の件です?」

「––––お前の、妹の件だよ」

 反射的に雅紀は眉を(ひそ)めた。

 まさかここで沙也加の名前が出てくるとは思わなかった。

「どういうことです?」

「お前の妹がデビューしてこの方、どうにも(なぎ)の状態が続くからさ。何とかしてビッグウェーブに乗せたいみたいで」

「それで?」

「その波を起こす起爆剤として、お前とのツーショットグラビアを画策してるって話だ」

 雅紀は閉口した。

(本気かよ)

 そんな思いが湧く。

「俺とツーショット撮ったくらいで、波がたちますかね。そもそも俺の妹だってことは世間バレしてるじゃないですか」

「一定の需要はあるだろうな」

「その程度の見込みなら、乗れるほど大きな波にはならないんじゃないですか?」

 雅紀は口の端で小さく笑った。

「そもそも、学生との二足の草鞋(わらじ)で、どっちつかずのことやって、売れるような甘い世界じゃないでしょう? 妹が本気で売れたいって思ってるなら、大学を辞めさせたらどうですか? 授業料だって馬鹿にならないんだし。けど、モデル一本で食ってく覚悟がないっていうなら、学生アルバイト感覚で、たまに雑誌に載るくらいのことで満足するべきじゃないんですかね」

「––––お前。妹のことになると、辛辣だよな」

「事実を言ったまでです」

「まあ、確かにそうだけど……」

 黙り込んだ加々美の横顔をチラリと見遣って、雅紀はグラスを口に運ぶ。事務所を通じて沙也加とのツーショットグラビアを正式に受けるとなれば仕事と割り切る雅紀だが、果たして沙也加の方が仕事と割り切って撮影に臨めるのか。(はなは)だ疑問だ。去年、あの男が暴露本を出すと言う情報を加門の祖父母に伝えに行った時、沙也加とは五年ぶりに再会した。その時の沙也加の表情は、雅紀を見る(こわ)い視線は、五年前の決別の時と何一つ変わっていなかった。沙也加の中ではまだ全てがあの時のままなのだと、苦笑したくなるほど明らかだった。いみじくも尚人が指摘したように。ならばどんなに時間をかけて撮影しても、カメラマンが満足する一枚は撮れない。断言できる。そんな時間の無駄、雅紀は付き合う気はなかった。

「この際だからはっきり言っときます。俺は、仕事なら何でも割り切って受けます。しかし、妹だからって何か特別な配慮を求められてもお断りです。俺と仕事をしたいって言うんなら、せめてプロ意識はないと。交渉の余地はありません」

「高倉に伝えとく」

 加々美があっさりと引いたことに安堵しつつ、

(加々美さんも面倒なこと押し付けられて大変だよな)

 心底そう思った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鳳雛(ほうすう)ノ翼 4

 年が明けてあっという間に二週間。ついにその日はやって来た。

 大学入試センター試験。

 二日間にわたって5教科7科目の試験が行われる、国立大学を希望する者は必ず受けなければいけない試験だ。

 センター試験が行われる週末、雅紀はもちろん休みをとった。

 何ができるというわけではないが、万が一何かあった時、最大限のサポートをしてやりたかったからだ。

 それには試験会場までの送迎も含まれていたのだが、尚人に確認したところ、試験会場は翔南高校近くにある私立の工科大学のキャンパスということで、

「慣れてる道だし。自転車で行くから大丈夫だよ」

 と笑顔で言われてしまった。

 さらには、

「車だと渋滞が読めないし。心配だから」

 とどめを刺された。

 どうやら現役生は、在籍する高校単位で受験会場が決められるらしい。前日にしっかり下見をし、一緒に試験を受ける桜坂達とも会場内で落ち合う約束をしているのだと言われれば、ほんの少し安心したが。

 試験開始は九時半。課外のために毎朝六時半には家を出る尚人にしては、ゆっくりめな時間で出発した。

(天気が良くてよかったよな)

 尚人が出発してしまって、ガラリと静かになった家のリビングから空を見上げて思う。悪天候だったら、尚人が何と言っても車で送ったが、それでも会場内で難儀することには違いない。足元が濡れた状態で一日試験を受けることになれば、本来の力を発揮できない恐れだってある。そんな「不運」で万が一尚人の希望が叶わないなんてことになったら、雅紀の方が気持ちのやり場に困りそうだった。

 今まで色んなことを我慢して、家事と学業の両立を頑張って来た尚人が、悩んで自分で決めた進路だから、希望が叶うことを心から願う。大学入試の本丸は二月下旬にある二次試験だが、尚人が受験する予定の大学はセンター試験の得点で一次選抜という足切りをされる可能性もあるというのだから、一点だって無駄にできない。––––はずだ。

 大学受験を諦めた雅紀には経験がないから、詳しく知るわけではないが。

 尚人が家を出てしまった朝七時、雅紀はすでに手持ち無沙汰になる。これがいつもの休みなら寝直すところだが、尚人が今から大事な試験に臨むのだと思えば、呑気に寝ている気にもならなかった。

 とりあえず、リビングのソファーに座ってタブレットでメールチェックする。最近仕事のやりとりはメールが主体(メイン)だ。履歴が残るし、そのままタブレット内のスケジュール帳に落とし込むこともできるので便利だ。

 返信が必要なものは返信をし、市川へ転送が必要なものは転送する。その最中に裕太が起きて来た。冷蔵庫から何かを取り出し、食卓に着いて尚人が準備していた朝飯を食べ始める。その気配は感じていたが、雅紀は視線をやることもなければ声を掛けることもない。その必要を感じないからだ。

 そうやって、さくさくメールを処理していた雅紀だったが、次のメールを開こうとして思わず手を止めた。反射的に眉を寄せたのは、送り主が『クリス』だったからだ。

 『クリス』というのが、『ヴァンス』のチーフデザイナー、クリストファー・ナイブスであるのは間違いなかった。『ヴァンス』の日本旗艦店で流すプロモーション・ビデオに雅紀を使いたいとクリスがオファーして来た時、仕事上必要だからとメールアドレスの交換をし、実際、何度か遣り取りをしたことがある。しかし、それも今は区切りがついて、このタイミングでクリスからメールをもらう心当たりなどなかった。

 あるとすれば、次なる面倒ごと、しか思い浮かばない。

 ––––一体、何用だよ。

 そう思いつつ、メールを開く。

【ハッピーニューイヤー。ちょっと遅くなったけど、新年の挨拶だよ。年明けから今まで、旗艦店のオープンイベントでバタバタしていて。ようやく一息ついたところなんだ】

 どうでもいい冒頭の挨拶に、雅紀はイラッとする。

(忙しいんならメールすんなよ)

 心の中だけで毒づく。

【店内のプロモーション・ビデオが大好評でね。とても満足しているよ。おかげで新たな客層を取り込めそうだ。ただ、ひとつ意外だったのは、予想よりも外国人客が多かったことかな。日本限定アイテムがインバウンド消費に繋がったみたいなんだけど、そのせいで事前に準備していた外国語対応専用スタッフでは足りなくてね。それで多少店内が混乱してしまったものだから、ナオト君が助っ人で来てくれたらって、本気で何度も思ったよ】

 もはや、雅紀にとってはどうでもいい内容が続く。

 商売繁盛でよかったな。でも、尚人は今後一切貸し出し不可ですから。そんな気持ちにしかならない。

【ところで話は変わるけど。君の妹にあったよ】

(は?)

 雅紀はひっそりと眉を顰めた。

【カウント・ダウンのイベントの後にね。タカクラに、会って欲しいモデルがいるって言われて。そしたら君の妹だった】

(高倉さんが? へぇ……)

 そしてふと思い出す。

(加々美さんのあの話とリンクするのか?)

 イベント終了後、雅紀は加々美にカクテル・ラウンジに呼び出された。そこで、沙也加を何とか波に乗せたい高倉が、雅紀とのツーショットグラビアを画策しているという話を聞かされた。

 その時雅紀は、

「俺とツーショット撮ったくらいで、波がたちますかね」

 と答えたのだが、高倉の思惑は、単なるツーショットグラビアではなかったのかもしれない。

(『ヴァンス』も巻き込もうとしてたってことか?)

 『ヴァンス』は今、アズラエルと専属モデル契約を結んでいる。だから、『アズラエル』所属のモデルが『ヴァンス』の衣装を着てグラビアを撮ることは何の問題もない。

 しかし……

(沙也加と『ヴァンス』ねぇ……)

 ただでさえ「着る者を選ぶ」と言われる『ヴァンス』だ。そこをあえて選ぶ高倉は、チャレンジャーすぎはしないだろうか。

 まあ、「意外」で攻めなければ、高倉が期待するような「波」は起きないのも事実だろうが。

【ナオト君よりよっぽど君に似てるよね。妹だって聞いて「ああ、なるほど」って納得しちゃったよ】

(どういうことだ?)

 何となく気持ちがモヤッとする。

 別に、沙也加に似ていると言われて不愉快なわけではないが。

 まだ尚人や裕太が幼かった頃、近所や学校で篠宮兄妹といえば、雅紀と沙也加の二人のことだった。特にピアノコンクールでは「美男美女、兄妹」と言われ、沙也加のことはよく「このお兄ちゃんの妹って感じ」と評されていた。先祖返りの雅紀の異相と違って沙也加は日本人外形だったが、それでも兄妹と言われれば納得する。そんな感じの受け止め方だった。

 それに対し、尚人は違った。学校が被ったのは、小学校時代のたった一年間で、兄弟だと知らない者も多く、雅紀が尚人の手を引いて歩いていると、初対面の人は必ず近所の子の面倒を見ているのだと勘違いした。兄弟だと説明しても、大抵の人は意外そうな顔つきだった。

(ナオは俺と違ってかわいいから)

 雅紀はそう受け止めていたが、兄弟に見られない不満はどことなく雅紀の中で燻っていた。そんな、幼い頃の刷り込みというものは侮れないものだ。

 そんなことをつらつらと思い出していたら、

「雅紀兄ちゃん、そんな嫌な奴からのメールなのかよ」

 不意に裕太に声を掛けられた。

「すっげー顔してるけど。それとも、ナオちゃん絡み?」

 案外鋭い裕太の指摘に雅紀は呆れる。誰にって、もちろん自分にだ。まあ、家でまでポーカーフェイスを貫き通す必要もないのだが。

 雅紀はちらりと視線を上げて裕太を見た。

「お前の今日の予定は?」

「別にいつも通りだけど? 午前中のうちに風呂とトイレの掃除して、午後からスーパーに買い出し。雅紀兄ちゃんは?」

「一日家にいる」

「あっそ」

 兄弟の短い会話はそれで終わって、雅紀は再びタブレットに視線を落とす。そして最後までどうでもいい内容のクリスのメールを雅紀は迷わず消去した。

 

 

 * * *

 

 

 夜七時、辺りはすっかり暗い。

 尚人はまだ帰って来ていなくて、キッチンでは裕太が味噌汁やサラダを作っていた。主菜は尚人が事前に作り置きしているらしく、それに添える副菜を裕太が準備しているのだ。最近の篠宮家では、これが日常の風景になりつつあった。

(裕太も変わったよな)

 つくづく思う。

 父親が出て行って、裕太は最初荒れに荒れまくった。学校や近所からの苦情が絶えなくて、警察に補導されて雅紀が迎えに行ったこともある。その時期を過ぎると、今度は一転、部屋に引きこもって出てこなくなった。結局、中学校へは一日も通わず卒業した。それはそれで日本の義務教育のあり方に疑問を抱くが、いつまでも「そこ」に留めないシステムは、裕太には向いていたと言える。

 自動的に学校を追い出され、部屋に閉じこもり続けることも雅紀に禁止されて、裕太は「自分はどうすべきか」の模索を始めた。ノロノロとした亀の歩みでも、自ら動き出したことは大きな一歩だった。それには言わずもがな尚人の存在が大きい。雅紀は一度尚人に「黙って手を引いてやるのは、優しさとは言わない」と言ったことがあるが、裕太にとっては、尚人だけは自分を見捨てない、というその確信こそが必要で、その確信があったからこそ、祐太は再生を始める気になったのだ。『家族の絆』を大切にし続けた尚人の粘り勝ちとも言えた。そして、その尚人が大切にした『家族の絆』の土台にあるのが『食』で、裕太が引きこもりをやめて最初に始めたことが「スーパーへの買い出し」というのも、何やら意味のあることのように思える。

 尚人がいてラッキーだったのは、裕太に限らず雅紀も同じだ。だからこそ尚人には自分ができる最大限のことをしてやりたいと雅紀は思う。しかし、尚人の手伝いを買って出るようになった裕太の姿を見ていると、いつまでも尚人に甘えているのは自分だけのような気もして来て、雅紀はほんの少し心がざわついた。

 今日に限って言えば、雅紀はただ家にいるだけの存在でしかない。

「っと、あとはナオちゃんが作ってる唐揚げ温め直せばオッケーだな」

 祐太が呟いて時計に目をやる。その姿に雅紀もつられたように時計を見た。

 七時半。もう、帰って来てもいいはずだが……

(ちょっと、遅くないか?)

 試験の終わりは夕方六時と聞いている。

(そんな時間まで試験受けるのかよ)

 最初聞いた時は驚いて、そんなに集中力が持つのか疑問だったが、尚人はあっさり

「俺は何日にも分けられるより、一日にぎゅっと詰め込んでくれたほうがいいかな」

 と言うので、そんなものかと納得したが。

 ひょっとすると、一日集中し続けられる能力、とやらも一緒に計られているのかもしれない。なんて思ってみたりもする。

(あー、やっぱり携帯持たせたほうが良かったかな)

 今日尚人は、携帯電話を置いて行った。試験会場では、不正防止のため携帯電話の取り扱いを厳格に定めているが、それでも持込不可ではない。

 だが尚人は、

「万が一、操作ミスって試験中に鳴ったら、俺それで集中できなくなっちゃうから」

 だから、持って行かない。その尚人の意思を雅紀は尊重するしかなかった。のだが––––

 事前の「帰るメール」に慣れてしまうと、連絡がないことが不安でしょうがない。

 そんなことを考えていると、玄関ドアが開く音がした。

「ただいまー」

 雅紀はすぐに玄関に顔を出す。

「おかえり。飯、すぐに食うだろう?」

「うん。着替えて、手洗ってくるね」

 笑顔で答える尚人の顔を見て、雅紀はほっと安堵の息を吐く。

 この表情ならば、それなりに手応えがあったと言うことだろう。

 色々話を聞きたいが、試験は明日もあるのだから、今はそれに集中させたい。

 今日一晩また英気を養って、明日も頑張れ、と心の中で応援する雅紀だった。

 

 

 * * *

 

 

 センター試験二日目。尚人は前日と同じ時間に家を出て、前日と同じルートで会場に向かった。受験者用と指定された駐輪場に自転車を止め、会場内の待ち合わせ場所にしている広場に向かうとすでに中野と山下の姿があった。

「よっ」

「おはよー」

「今日も天気で良かったよな」

 その言葉に尚人は頷く。

 高校の先生達には散々、

「センターの日はなぜが大寒波が来る」

 と脅されていたが、二日間とも天気に恵まれた。

「俺の日頃の行いが良いからだろうな」

「お前、全国何万人といる受験生の代表かよ」

 中野の言葉にすかさず山下が突っ込んで、今日のこの日であってもいつもと変わらない二人の様子に尚人は思わずぷっと吹き出す。

 少し遅れて桜坂も合流した。開場時間まで四人で過ごし、時間になると互いの健闘を耐えあって別れた。会場内の席順は五十音順で四人は見事バラバラの教室なのだ。

 尚人の試験教室は、情報棟2110−Bという教室だった。

 二日目ともなれば随分と勝手がわかる。尚人は階段を使って教室のある二階に上がり、自分の受験番号の貼られた席に座ると、受験票を机の右端に置く。その横にHBの鉛筆数本と消しゴム、定規を筆箱から取り出して並べ、尚人は静かに試験開始の合図を待った。

 定刻になると問題の配付が始まった。試験問題は、監督者が一人一人に配っていく。冊子の表紙には注意事項が書いてあり、尚人は丁寧に目を通す。昨日受けた問題とほぼ同じ内容の注意事項だが、これから受験する理科は科目選択制なので、解答科目を正しくマークしていない場合は0点になるとの記載がある。先生達からも口をすっぱくして言われて来た注意事項で、「受験番号と解答科目欄は、問題に取り掛かる前に必ずマークしろ」が鉄則だ。

 試験開始の時間になって、試験監督者が開始を告げた。

「それでは、始めてください」

 同時に教室内に、一斉にページをめくる音が響く。

 その中で尚人は落ち着いて、まずは試験の鉄則、受験番号と解答科目欄をマークした。

 

 

 

 午前中の試験が終わって、四人は再び広場で落ち合った。

「はー、やっと午前中終わった」

 外のベンチに場所を確保して、持参した弁当を広げる。

 本当に天気で良かった。教室は試験が終われば追い出され、次の開場まで立ち入り禁止となるため、昼食は各自、勝手に場所を見つけて取らなければならない。大学内の学食エリアは別の高校が「予約」して抑えているため、翔南高校生は先生達から事前に「外で食え」と言われていたが、これで雨天ならどこで食べて良いものやら迷っただろう。

 だが、天気がいい時に外で食べる弁当は、いい気分転換になる。学食で食べている学校の生徒達も、今日みたいな天気なら外で食べたいと思っているかもしれない。

「理科も数学も、例年並みな問題だったよな」

「まあ、そうかな。数学の最終問題はちょっと手間取ったけど。お前何番選んだ?」

「俺、3」

「お、一緒」

「おい。終わった試験の話は、明日まですんなって先生に言われてんだろ」

 桜坂が嗜めると、中野が少しバツの悪い顔をした。

「わりー。ちょっと、ほっとして」

「気分転換になるんなら、ちょっとくらいいんじゃない?」

 先生達がそう言うのは、まだ次の試験があるのに終わったことを気に病んで集中できなくなると困るからだ。

「さすが篠宮。フォロー上手」

「こいつ甘やかしてもいいことないぞ」

「別に甘やかしるつもりはないけど」

「こいつ本当は理数1科目でいいから、気持ち的に終わった気でいるんだよ」

「あ、ばれた?」

 中野が苦笑する。

 翔南高校では、中野のように受験する大学が理数一科目しか課してない場合でも、全科目受けるよう指導されている。それは、二次試験に提出する時に点数がいい方を使っていいからだ。万が一、数1でコケても、数2を使う。そんな感じに保険を掛けるのだ。が、基本的には数1より数2の方が難しいし、理1より理2の方が難しい。そして午後行われる試験が数2と理2なのだ。

 尚人の希望する大学は全科目必要だから午後からも気が抜けないが。

「まあ、桜坂。これでも食って気を治せって」

 そう言って中野が、鞄からチョコレートを取り出して全員に配る。

「脳に必要なのはやっぱ糖分だろ」

「お、気が効くじゃん。まさか朝からコンビニで買って来たのか?」

「かーちゃんに持たされたんだよ」

「そこが彼女じゃない点が悲しいよな」

「悲しい言うな。かーちゃんがかわいそうだろ。篠宮くんにあげてって言って昨日スーパーで買って来たのに」

「篠宮のおこぼれかー」

「お母さんに、ありがとうございますって言っといてね」

「そんなこと言ったら、家のかーちゃん、篠宮にますますメロメロになっちまうぜ」

「お前ん家のかーちゃん、篠宮の兄貴押しじゃなかったのかよ」

「それは別腹らしい」

「デザートかよ!」

 二人のやりとりに尚人はクスクス笑う。

 こんな時でも二人はいつも通りで、やはり面白い。

「よっしゃー。じゃ、エネルギーチャージしたところで、午後からも頑張るか」

「おう。じゃ、また明日な」

「おう」

「じゃあ」

 四人はまたそれぞれの教室へ向かう。帰りは落ち合わない。そのまま帰って、明日は学校で自己採点だ。

 尚人も気合を入れ直して、残り2科目に集中した。

 

 

 * * *

 

 

「ただいまー」

 尚人が玄関を開けて家に入ると、昨日と同じ、雅紀がすぐに顔を出した。

「おかえり」

 その顔を見て、尚人はなんだか無性にほっとする。

 昨日と今日、雅紀が家にいてくれて良かった。それだけで心強かった。

「すぐ、飯にするだろう?」

「うん。着替えて、手洗ってくるね」

 尚人が靴を脱いで家に上がる。そのタイミングで雅紀に頭を撫でられた。

「お疲れ、ナオ」

 雅紀が柔らかく笑う。

 その一言が尚人の胸にじわりと染みて、尚人の顔から自然と笑みがこぼれ落ちた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鳳雛(ほうすう)ノ翼 5

 栄光を手にする者がいるその裏には、必ず挫折を味わう者がいる。

 光あるところには影ができ、成功のメソッドはあるようでない。 

 良くも悪くも、それが真理で、華やかな舞台でスポットライトを浴びるためには、努力だけではどうにもならないこともある。

 幸運の女神は気まぐれだ。

 しかし、そんな分かった顔をしてみたところで現状打破できるわけでもなく、結局は自分が出来ることを最大限やり続けるしかない。

 そんなモデル業界において、規模(レベル)格付け(ランク)季節(シーズン)を問わず、祝宴(イベント)と名の付くパーティーは願ってもない社交(売り込み)のチャンス。オーディションよりお手軽で、時間もそれなりに節約できて、各方面に顔繋ぎができる。謂わば一石三鳥の機会。

 新人はもとより更なるステップアップを望む者達にとっては、とにかく『顔』と『名前』を覚えてもらうことが重要だ。

 一月後半から二月にかけての新年会シーズンは、そんな思惑が入り乱れ、昨今縮小気味のこういうイベントが一番活気付く時期である。

 とはいえ、イベント参加には招待状が必要で、コネやツテを使ってそれをゲットするところから勝負は始まっている。当然大手事務所に所属していた方が有利で、有名になりたいだけの個人が入り込める余地はない。だからこそこの業界は、きちんとした事務所に所属することが重要なのだ。

 沙也加は唐澤の指示で、『神南堂』主催の新年会に参加することになった。『神南堂』といえば誰もが知る大手広告会社。そこのパーティーに新人モデルが参加できるのは、もちろん『アズラエル』が業界最大手だからだ。

「これまでの企業周りと同じと思わないでください」

 唐澤からはそう言われて、衣装から身につける宝飾品まで事務所に用意された。当日はスタイリストがついて完璧にメイクもヘアもセットしてもらい、まるで今からグラビア撮影に臨むかのようだった。

 完璧に整えた格好で、沙也加は唐澤と共にハイヤーで会場のホテルに向かった。大庭園が有名な都内高級ホテルで、今日は貸し切りだと言う。その規模の大きさに沙也加は度肝を抜かれた。

(まるでシンデレラにでもなった気分?)

 ホテルに到着した瞬間、沙也加はそんなことを思ったが、しかしそんな浮かれ気分は、ホテルのエントランスを潜るまでだった。

 会場にずらりと顔を揃えていたのは、沙也加でも知っているような、有名俳優や、歌舞伎役者、大物政治家達。そんな人たちが、ウェルカムドリンク片手ににこやかに談笑していて、とても沙也加が気軽に声を掛けて入っていける雰囲気ではない。参加者達の醸し出す大物感(オーラ)が半端なかった。

 ––––パーティー会場では、とにかく私にくっついて歩いて、勝手な行動はしないでください。

 ––––私が自己紹介するよう話を振るまで、自分から声を掛けたり、話をしたりはしないでください。

 ––––とにかくいつ誰に見られているかわからないと言う気持ちで、堂々としていて下さい。パーティー会場は、謂わばオーディション会場と同じですから。

 事前にそうレクチャーされていて、沙也加は場の雰囲気に圧倒されて萎縮しそうな自分に喝を入れ直した。

(沙也加、勝負所よ!)

 メイン会場に足を踏み入れると、沙也加は言われた通りに唐澤について歩く。唐澤は周囲に視線を飛ばしながら人混みの中を抜けていき、とある人物の前で足を止めた。

「相沢さん、ご無沙汰しております」

 唐澤が声を掛けると、ホールスタッフから新しいグラスを受け取ったばかりの男性が視線を向けてにこやかに笑った。

 仕立ての良さそうなスーツを着こなす四十代半ばぐらいの男性だった。

「あー、唐澤さんじゃないですか。お久しぶりですね。お元気でしたか」

「おかげさまで。相沢さんこそ、お元気でいらっしゃいましたか」

「ええ。昨年はちょっと忙しくしてたんですが、おかげさまで何とか」

「シンガポール支社を立ち上げられたとか?」

「さすが唐澤さん。情報が早いですね」

 そうして、しばらく互いの近況を伝え合う挨拶が続く。二人のやりとりをそばで聞きながら、沙也加は唐澤の事前リサーチとそれを頭に叩き込んでいる情報量に密かに感心していた。

(まさに大人の世界って感じ?)

 沙也加がそんなことを思っていると、ようやく唐澤が切り出した。

「––––で、こちらが現在私が担当しているモデルです。自己紹介させていただいてもよろしいですか?」

「ああ」

 相手が頷いて、唐澤が視線で合図する。沙也加はようやく回ってきた出番に事前に練習していた通りに挨拶をした。

「『アズラエル』所属のモデル『SAYAKA』と申します。どうぞ、よろしくお願いします」

 にっこり笑顔をつけることも忘れない。

 そんな沙也加に相沢が品定めするような視線を向けた。

「『SAYAKA』って。もしかして……。彼女が、そうなの? あの『MASAKI』の」

「そうです」

 唐澤が首肯すると、相沢は改めて沙也加を見やったが、それだけだった。

「へぇー、そうなんだ。お兄さんにもよろしくね。じゃ、唐澤さん。また」

「はい。では、失礼します」

 唐澤は沙也加を売り込むような言葉を付け足すでもなく、ただ謝辞を言ってその場を離れる。沙也加は結局、相沢なる人物が、どこの誰なのか、わからなかった。ただ漠然と、シンガポールに支社を必要とするような会社の経営者なのかしら? と思った程度だ。

 沙也加はまた歩き出した唐澤にくっついて、会場内を歩く。しばらくして唐澤は、先ほどと同じようにある人物の前で足を止めて声を掛けた。

「野田社長。ご無沙汰しております。お元気でしたか?」

「おお! 唐澤くんじゃないか。久しぶりだなー」

 それから近況を報告し合う会話が始まる。

 びっくりするくらい、先ほどと同じ流れだった。

 唐澤が見知った顔に声を掛け、近況を報告しあい、沙也加を紹介する。沙也加は唐澤に促されて自己紹介する。

 すると相手が、

「ああ、あの『MASAKI』の?」

 と問いかけ、唐澤が首肯するも、特にそこから話が広がるでもなく別れる。

 そこまでがパターンで、沙也加は、唐澤にくっついて歩いて、笑顔が引きつりそうになる程それを何度も繰り返した。

(これって本当に仕事に必要なの?)

 沙也加は、途中から内心うんざりし始めた。

 事務所に用意された衣装を着て、事務所に用意された宝飾品で身を飾り、ただただ笑顔を浮かべて自己紹介する。その自己紹介だって、唐澤に事前に言われていた通りの所属と名前を言うだけのもの。

 これでは単なるマネキンだ。

 ここに、自己など存在しない。する意味がない。なぜなら沙也加の内面などカケラも必要ではなく、笑顔という(こび)だけを売り続ければいいのだから。

 『外見』だけを品定めされ、『(沙也加)』というアイデンティティは必要ない。

 外見も含めて個性。そう言えば聞こえはいいが、沙也加は急に自分が、『見た目』だけが重要な『商品』という『物』に貶められた気がした。

 唐澤が『商品』を売り込む。相手は『商品』を値踏みする。気に入れば買い、気に入らなければ買わない。そんな売買は、『女性』であることを『商品』にする業界(世界)と何が違うのか、と思った瞬間。––––沙也加は、急に嫌悪が湧いた。

(嫌だ。……帰りたい)

 唐突に思う。

 自分を見る他人の目が突然気持ち悪いものに変わった。

 値踏みするかのようなその視線が、情事の相手を見つけているような、そんな視線に見えた。

 一度そう思ってしまうと、どうにも我慢ができなくなってしまった。

 今すぐにでも帰りたい。

 この場から立ち去りたい。

 でも、そんな我がまま、通るはずがないこともわかっていて。

 それでも、このままこの場にい続けられる気がしなくて。

「––––あの。唐澤さん」

 沙也加は、前を歩く唐澤に小さく声を掛けた。

 唐澤が足を止めて振り返る。その視線は、「どうかしましたか?」と言いたげだ。

「あの。お手洗いに行ってはいけないかしら?」

 小声で沙也加が問うと、唐澤は「ああ」という頷く。

「気づかずに済みません。レストルームは、確かエントランスホールの先にあったはずです。近くまで一緒にいきましょう」

 唐澤がそう言って先導する。

 一旦人混みを抜けられることに安堵しながら、沙也加は唐澤の後について行った。

 

 

 

「私はここで待っていますから」

 レストルームが見えるホールの端で、唐澤はそう言った。

「すみません」

 沙也加はそう言って、レストルームに足早に逃げ込む。化粧直しする空間が別に設けてある広いレストルームで、沙也加は化粧室の空席に腰を下ろした。

 とりあえず、ほっと息を吐く。

 男性の視線がなくなって、それだけで呼吸が楽になった。

 考えすぎだというのは分かっている。しかしそれでも、母と兄のあの行為が、目に焼き付いたあの情景が、沙也加のトラウマだった。

 性的な感じが少しでもすると、沙也加はどうしても嫌悪を覚えてしまうのだ。

 ハンドバックから口紅を取り出す。備え付けのティッシュで軽く抑えてから、口紅を付け直す。普段はつけないような真っ赤な口紅は、スタイリストに持たされた物だ。

 元が派手な作りの沙也加の顔は、化粧をすることで華やかさが増す。それは自分でも分かっている。しかし、日常生活ではその華やかさが悪目立ちするので、沙也加は普段あまり化粧をしない。しても薄く軽くナチュラルに見える程度だ。だから、バッチリメイクを施した自分の顔は見慣れない。

 ––––本当に自分なのかしら?

 沙也加は鏡に写る自分の顔をしげしげと眺めて、そんなこと思う。

 こんな、素顔も分からなくなるほど化粧して。ますますここにいるのが「自分」である必要があるのかわからなくなってくる。

 鏡の中の姿に、本当の自分が存在するのか。沙也加は探すように鏡を見続ける。

 すると、空けて一つ隣の席に座っていた女性が、ぷっと笑った。

「あなた、そんなに自分の顔眺めて楽しいの? ナルシストなのかしら?」

 急に声を掛けられて、沙也加は驚いて振り向く。自分に対する声掛けなのかどうかも確かではなかったが、今ここには、沙也加とその女性しかいなかった。

「それとも、魔法をかけてもらったシンデレラ? 自分の姿に驚いているとか?」

 女性は楽しげに言葉を続ける。

 その女性を確かめて、沙也加は小さく驚きの声を上げた。

 芸能界に疎い沙也加でも知っている大物女優、天地貴子だった。

 思いもしない出会いに、沙也加は固まる。

 ––––こんな時ってどうするのが正解なの?

 適当に流す?

 きちんと挨拶する?

 万が一この後仕事で一緒になることがあったら?

 たった一度の印象が、その後を左右するかも?

 瞬時ぐるぐると思考を彷徨わせ、

 ––––私が自己紹介するよう話を振るまで、自分から声を掛けたり、話をしたりはしないでください。

 唐澤に言われていた注意事項が頭をよぎる。

 しかし、最初に声を掛けてきたのは天地の方で。それでも、自己紹介するのが正しいのか迷っていると、天地は沙也加の顔をじっと見遣ってわずかに首を傾げた。

「あら……、あなた、どこかで会ったことあったかしら?」

「いえ。初対面です。ご挨拶させてください。私は『アズラエル』所属の新人モデル『SAYAKA』と申します。お見知り置きください、天地さん」

 沙也加が半ば勢いで立ち上がって自己紹介すると、天地が「へぇ」という顔をした。

「『アズラエル』の新人さんなのね。……ってことは、ひょっとしてあなたが『MASAKI』の妹さんなのかしら?」

「……はい、そうです」

「私、『MASAKI』とは一緒に仕事したことあるのよ。知ってるかしら?」

「はい。存じ上げています。『アウラ』ですよね?」

 天地貴子は長年、老舗ジュエリーブランド『アウラ』の広告塔(かお)を勤めている。おそらくは今つけているきらびやかな宝飾品も『アウラ』の商品のはずだ。雅紀はデビューして間もない頃、何回か天地と一緒に『アウラ』のグラビアを飾った。

 雅紀に会いたくても会えない沙也加にとって、雅紀のグラビアを集めることは一種心の支えだった。しかし、『アウラ』のグラビアだけは、沙也加はコレクションしていない。仕事とわかっていても写真から滲み出てくる雅紀と天地が醸し出す甘やかな雰囲気が、どうにも受け入れられなかったからだ。

 だからこそ却って、記憶に残っているとも言えた。

「あの、兄がお世話になりました」

 沙也加がそう言うと、天地が鏡を見ながら口紅を抑え、くすりと笑った。

「『MASAKI』は完璧だったわ。仕事の姿勢も、テーブルマナーも、ベッドの上でもね」

(––––え)

 聞き間違い?

 沙也加は、大人の色香漂う天地の横顔を凝視する。

「『MASAKI』に伝えておいて頂戴。またルームキーが欲しくなったら、いつでもいいわよって」

 天地はそう言ってハンドバッグを手に立ち上がると、そのままレストルームを後にする。

 一人残された沙也加は、言われた意味が受け入れられなくて、わかりたくもなくて、ただただ茫然と立ちすくんでいるしかなかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鳳雛(ほうすう)ノ翼 6

 二月に入って、尚人はいよいよ追い込みシーズンに入った。雅紀も裕太も

「飯はなんとかするから、作らなくていい」

 と言ったのだが、

「気分転換になるから」

 と言って尚人が譲らず、どうせ作らなくてはいけない弁当込みの朝ごはんと、夕飯の主菜は相変わらず尚人が作っていた。

 尚人が言うには、

「料理している間に、一回頭をリセットする感じがいい」

 のだという。

 まあ、嫌でも染みついてしまった生活のリズムなのかもしれない。

 飯の手間をかけさせることを思えば、いっそ仕事を詰め込んで、家に帰る回数を減らした方がよっぽど尚人のためになるじゃないかと、そんなことを思ってもみた雅紀だったが、

「近頃まーちゃんが、いっぱい家にいてくれるから安心する」

 と言われれば、気分の悪かろうはずがない。尚人はどうしてこうも可愛いのか。雅紀はますますメロメロで、尚人の腰が立たなくなるような激しいセックスは流石にご無沙汰だったが、一緒にくっついて眠る、甘やかな夜は増えた。

 夕方仕事を終わらせて家に帰り、三人で一緒に食卓につく。そんな日の後片付けは雅紀が買って出て、尚人は夕飯後すぐに机に向かう。一区切りついたところで朝飯の仕込みをして風呂に入り、寝るまでまた机に向かう。雅紀は、その間尚人の部屋のベットの上でタブレットを操作して、仕事に必要な資料を読み込んだり、メールでやりとをして時間を過ごし、就寝時間が来ると尚人と一緒に眠った。

 時々は、尚人のものをしゃぶってやって、溜まったものを吐き出させることもあったが、腕の中ですぐに安心したように眠りにつく尚人を見るのが雅紀にとってこの上ない幸せだった。

(もう、これでいいって感じだよな)

 心底、そう思う。

 箱庭の幸せ。それでもよかった。

 しかし理想と現実は、いつだって乖離してるものだ。

 毎年一月下旬から二月にかけては新年会シーズンで、『MASAKI』ほどになれば不義理できない相手もできる。要は、無視できない招待状がやってくるのだ。

 いい迷惑、なんて口が裂けても言えないのは、所詮モデルは使ってもらってナンボの世界であり、天狗になれば足元を救われる。

 傲る者は久しからず。は、(いにしえ)からの真理だ。

 ということで、

「明日は、まーちゃん、泊まりだよね」

 尚人にそう確認されて、雅紀は頷いた。

「本当は、顔だけ出してさっさと帰りたいけど。そう言うわけにもいかないしな」

 酒も入るし、当然泊まりになる。

「せっかくだし。楽しんできてね?」

「終わったら、おやすみコールする」

「準備万端にして待ってる」

 はにかみながらそんなことを言う尚人が可愛くて、雅紀は腕に抱き込んで頭の天辺にキスをした。

 

 

 * * *

 

 

 その日雅紀が顔を出したのは『イプシロン』の新年会だった。

 『イプシロン』とは、雅紀がメインを張っているメンズ雑誌を含めたファッション系出版社である。会場のホテルは、スポンサー、デザイナー、カメラマン、モデル、スタイリストなどなど、業界関係者で派手に埋め尽くされていた。

 まずは出版社のお偉方に挨拶し、礼儀にやかましい重鎮を順番に回る。そこで交わされる会話は新年の挨拶の定型文のようなものだが、ふと飛び出した話題に地雷が埋め込まれていることもあるので、会社の経営方針や派閥の人間関係などはできる限り頭に叩き込んでいる。知ってて知らない振りが基本ではあるが、知らずに自爆は身を滅ぼすことがあるからだ。

 スポンサーやデザイナーとの挨拶の中では、具体的な仕事の話になることも多い。新人の頃はそれで仕事に繋がることを期待しているわけだが、『MASAKI』レベルになると、向こうも酒が入って口が軽くなったところで言質(げんち)を取りたいと手ぐすねを引いて待っていることがあるので、交わす会話は慎重を期す。うっかり口約束、酔った勢いのリップサービス、が後々自分の首を締めかねない。

 つまり、パーティーというのは、『MASAKI』にとって基本楽しむところではない。それに、極力顔を合わせたくない人物とばったり遭遇ということだってある。

 その代表格と言えるような男とよく似た巨体が視界の端をかすめた時、雅紀は最初見間違いかと疑った。

 この場にいるはずがない。

 こんな場所、呼ばれても来そうにない。

 偏屈を絵に書いたような人物。

 その時点で、視線を流してさっくり無視してしまえばよかったのに、思わず焦点を合わせてしまったのは、ビュッフェの一画をまるで我が物顔で占拠して、堂々と食事を堪能するその姿が突き抜けすぎていたせいである。

(––––伊崎さん?)

 その瞬間を狙ったかのように、伊崎が振り返った。

「おう、雅紀」

 視線がバッチリあって、伊崎が片手を上げる。

 名指しされて、雅紀は今更無視するわけにもいかなくなってしまった。

「お久しぶりです。……珍しいですね。こんなところに顔を出されるなんて」

 雅紀が仕方なく歩み寄って挨拶をすると、当の伊崎は周囲の驚きなど意に介する様子もなく、不遜な笑みを浮かべた。

「お前が来るってんで、わざわざ顔出したんだぜ」

「…………」

 何と返すのが正解なのかわからず、雅紀は思わず黙り込む。

(俺は、会いたくなかったけど)

 本音はそれだ。

「今度のPV撮影のプロットだ」

 そう言って伊崎は、ポケットからクシャクシャのメモ用紙を一枚取り出すと雅紀に渡した。

 伊崎の言うPVとは、『ミズガルズ』が結成10周年を記念して作成するDVD BOXに特典映像として収録されるもので、『MASAKI』出演で伊崎が撮ることが決まっていた。

 撮影は、三月下旬に予定されている。もちろん、雅紀の都合だ。正直なところ雅紀は、結構な無理難題というか、一方的な我が儘を押し付けて、相手側に「スケジュールが合いません」と言わせるつもりでいたのだが、『ミズガルズ』のメンバーもカメラマン候補として上がっていた伊崎も「それでいい」と言う返答をしたものだから、雅紀はこのオファーから降りることができなくなったのである。

 まあ、尚人がコアなファンらしく目をキラキラさせて、その10周年記念DVD BOXの販売日を

「すっごく楽しみ」

 と言う以上、頑張るしかないのだが。

 雅紀は渡されたメモに目を通し、思わず眉を(ひそ)める。伊崎にちらりと視線を向ければ「できるだろ?」と言わんばかりの太々(ふてぶて)しい笑みを浮かべていて、挑発されているのだと確信した。

「確かに受け取りました」

 雅紀はそれだけ言って、メモをジャケットの内ポケットに仕舞う。

 これで用事は済んだだろうと思った雅紀だったが、伊崎は

「あー、それで。ついでなんだが」

 と言って、ポケットから何やらもう一つ取り出した。

「尚人に渡しといてくれ」

 あまりに、さらっと、普通に言われて、雅紀は反射的にムッとする。

(友達感覚かよ)

 尚人の携帯にむりやりメールアドレスを登録した時に

『これで、俺はお前のお友達だ』

 などとほざいていた伊崎だが。本気で友達になったつもりなのだろうか。

 高校生と三十過ぎのおっさんが。

「何ですか、それ?」

 見た目だけで言うなら、USBメモリーであることは間違いないが。

 問題は、そこではない。

「まあ、何と言うか。俺からの激励だな。受験が終わってからのお楽しみだと伝えておいてくれ」

「…………(怒)」

 しかし、ここで

「ナオへの荷物なら自分で郵送したらどうですか?」

 と言うのもおかしいし、

「データならメールで送ればいいじゃないですか」

 と言うのも、直接の交流を促しているようで言いたくない。

 一番無難なところとして、ここで受け取るしかないのだが。

(ソッコーで、踏み潰して破壊してやろうか)

 つい、そんなことを思ってしまう。

 伊崎からのプレゼントだと言えば、尚人は間違いなく喜ぶ。一流写真家からの個人的な贈り物という特別感ではなくて、尚人は純粋に写真家『GO-SYO』の撮る映像美に感性を刺激されているからだ。

 それでなければ、わざわざ伊崎の写真集を(カレル)に贈ったりしない。

 雅紀に事前承諾も得ずに、伊崎の写真展に行くと決めたりしない。

 このUSBを渡した時の驚きと喜びが混じった尚人の顔が容易に想像できる。

 受験後のお楽しみ、なんて言われれば、ワクワクしてその時を待つ尚人の顔が目に浮かぶ。

 自分以外の男にもらった物を尚人が喜ぶのは、正直腹が立つ。しかしその一方で、尚人の楽しみを奪うこともできない。兄でありながら尚人の唯一の(おとこ)でありたい、雅紀のジレンマだ。

「じゃ、俺は用事済んだから。これで帰る」

 伊崎はそう言ってさっさと会場を出て行く。伊崎のその俺様な振る舞いに取り巻き連中が慌てふためいた様子で追いかけて行くのを、雅紀はあきれた視線で見送った。

 

 

 * * *

 

 

 机に向かって黙々とテキストに取り組んでいた尚人は、区切りがいいところで手を止めて大きく伸びをした。

 時間を確認する。

 午後十時半。

(––––そろそろかな)

 尚人はそう思ってちょっぴりドキドキする。

 今夜雅紀は泊まりの仕事で家にいない。そんな日は『おやすみコール』が定番で、尚人はその時をそわそわしながら待っていた。

 雅紀からの電話が掛かってくる時間は、十時から十一時の間が多く、仕事が押してホテルに戻るのが遅くなると十二時近くになることもある。でも今日は仕事関係の新年会だから、そこまで遅くなることはないはずだ。

 まだかな。

 ……まだかな。

 …………まだかな。

 携帯電話を一度確認し、電話もメールも着信履歴がないことを確認する。

(––––今日は、遅いのかな)

 『イプシロン』の新年会は、業界関係者が多数参加する随分規模の大きなパーティーだと聞いている。挨拶回りが忙しくて飲み食いなんてほとんどできない、と雅紀は言っていたが、それは裏返せば、それだけ多くの人が雅紀と挨拶したがっているということだと思う。さっさとホテルに帰りたくても帰してもらえない。何てこともあるかもしれない。

 何せ雅紀はカリスマ・モデルなのだから。

 雅紀の美貌は、子供の頃から突き抜けていた。近所では評判の美少年だったし、道を歩けば誰もが振り返った。スカウトなどそれこそ日常茶飯事で、家族旅行中に断って歩くのが大変だったこともある。

 今の雅紀を見ていると、モデルは天職だと思う。

 見た目の美貌が生かされている、というだけでなく、仕事にやりがいを感じているように見えるからだ。

 ただ、それでも……。尚人は思うところがある。

 あの時、あの男が、自分たちをゴミ屑のようにポイ捨てしなければ。

 あるいは、せめて親としての責任を全うし、養育費を払っていれば。

 雅紀は、夢も進学も諦めることはなかったはずだ。

 雅紀が高校生の頃、どんな夢や希望を抱いていたかなんて、聞いたことはない。雅紀と尚人の間にある年齢差は大き過ぎて、そんな話をする関係ではなかった。しかし、日々剣道の練習に打ち込み、インターハイで日本一の栄冠を手にしていたことを考えれば、その先だってさらに精進を重ねて、ゆくゆくは全日本チャンピオンに––––と考えていたかもしれない。

 しかし、家計が底をついて。母が日に日に弱っていって。雅紀の稼ぎに頼るしかなくなって。

 そんな中雅紀は、家族を養うために、否応なしに夢や希望を諦めざるを得なくなって……。

 その時雅紀は、どんな思いだったのだろう。

 何を考えていたのだろう。

 自分たちの存在が、どれほど雅紀の(かせ)になっていたのだろう。

 勉強の合間のふとした時間に、尚人は近頃よく、そんなことを思う。

 雅紀が人生の決断を迫られた時と同い年になったからだ。

 自分と同じ高校三年生だった時、雅紀がどんな気持ちでいたのか。いくつもあったはずの道が閉ざされて選べるものがたった一つになった時、何を思っていたのか。周りが大学進学に向けて邁進する中で、ひとり道を逸れていかなければならない現実。それをどんな思いで飲み込んだのか。

 深夜一人、薄暗い家のリビングでタバコを吸っていた雅紀の背中を思い出すと、尚人は今でもやるせない気持ちになってしまう。

 けれどもそんな気持ち、安易に雅紀には言えない。

 雅紀の失ったものが大き過ぎて、その領域にずかずかと踏み入ることなどできない。

 傷は見えないだけで、まだ疼いているかもしれない。

 あるいは、何気ない一言が、塞がっていた傷を穿(ほじく)り返すことになるかもしれない。

 でも、本当は、いろいろ言い訳してみたところで、自分の無知をリアルに突きつけられることが怖いだけ。––––だったりする。

 自分はチャンスをもらえた。

 純粋に嬉しいし、雅紀に感謝している。

 与えられた機会を大切にしたいと思う。

 でも、自分の喜びの背景には雅紀の犠牲があるのだと、思わずにはいられない。

 雅紀の犠牲がなければ、自分が今こうして大学を目指すなど、到底無理なことだったのだから。

 それを思えば、安易に、ありがとうとも、ごめんとも言えなくて……。

 尚人は、胸に(しこ)りを抱えながら、結局は、自分にできることを一つずつ積み重ねて行くことしかできない。

 その時、電話が鳴った。

 尚人は急いで通話ボタンを押す。

「もしもし、まーちゃん?」

『今、ホテルに戻ってきた』

「お仕事、お疲れさま」

『そっちは何もないか?』

「うん。いたって平和だよ」

 尚人の口元が思わず綻ぶ。

 雅紀の声を聞くだけで、ほっとした。

『––––こっちは、あまり平和じゃなかったかな』

「どうかしたの?」

『……伊崎さんに会った』

「え? ––––伊崎さんって、パーティーに参加したりするんだ?」

『俺もびっくり。……でな、ナオに渡してくれって荷物預かった』

「そうなの? 何を?」

『USBメモリー。何が入っているのかは知らない。受験が終わってからのお楽しみだってさ』

「そうなんだ。––––すっごい気になるよね」

『明日の昼には帰るから』

「うん。ゆっくり休んで、気をつけて帰ってきてね」

『ナオも、あんまり根つめて頑張りすぎるなよ』

「ありがとう。まーちゃん」

『じゃ、おやすみ。ナオ』 

「おやすみ。まーちゃん」

 電話が終わった時、尚人は先ほどまで下がり気味だった気分が一転、ぽかぽかと暖かな気持ちに包まれていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鳳雛(ほうすう)ノ翼 7

「で、一体全体、何が起きたんだ?」

 加々美は高倉に呼び出され、『アズラエル』本社、高倉の執務室にいた。

 目の前に置かれたコーヒーをサーブしたのは珍しくも高倉で、紅茶派のはずの高倉もなぜか今日はコーヒーだった。

 どんな心境の変化なのか、聞くのも怖い。

「わからん」

 そう言う高倉の顔は苦りきっている。おそらくは、飲み慣れないコーヒーのせいではないだろう。

「先々週、唐澤が『神南堂』の主催する新年会に沙也加嬢を連れて行ったんだが」

「『神南堂』? そりゃ、えらくでかいところへ連れて行ったもんだな」

「良くも悪くも名前ばかりは売れているからな。いっそ、大物揃いのところへ連れて行った方がいいだろうと。そういう判断だったんだが……」

 以来、沙也加の様子がおかしい、という。

 連絡がつかない、というのだ。

 唐澤が電話してもメールしても無視され、自宅に様子を見にいけば対応した祖母から、

「これから大学の試験期間になるので、しばらくそちらに集中させて欲しい」

 と伝言を伝えられただけで、本人には会えずじまいだった、というのである。

「本当に、ただ試験に集中したいだけってことはないのか?」

「レストスームで青ざめた顔で茫然としていたって事実がなければ、そうも思うんだがな。パーティー会場で何かあったのは間違い無いんだが……」

 唐澤の報告によると、当日は途中まで順調だったという。場慣れしない感じはどうしてもあったが、唐澤にくっついて会場を回り、いい感じでにこやかに挨拶できていた。それが一転したのは、レストルームに行ってからだという。

「ちょっと、お手洗いに」と言う沙也加を、唐澤はレストルームに案内した。その時点でちょっと表情が強張(こわば)って見えて、唐澤は、緊張が続いてさすがに疲れてきたのかと思った、という。

 レストルームの出入口が見えるホールで、唐澤は沙也加が出てくるのを待った。しかし、沙也加はなかなか出てこない。女性だから時間がかかると思いはしたが、十五分過ぎたあたりで気になり始め、二十分待ったところで、ひょっとしたら急な体調不良でも起こしているのではないかと心配になり、ホテルスタッフに声を掛け様子を見てもらいに行った。すると、沙也加は化粧室の椅子に茫然とした様子で座り込んでいたという。スタッフの声かけで我に返った様子だったが、体調が悪いのかと言う問いかけには「大丈夫です」と答えるばかり。しかし、レストルームから出てきた沙也加の表情は明らかに青ざめていて。この様子ではとても挨拶回りは継続できないと、唐澤の判断でそのまま本社に連れ帰って着替えさせ、その日は唐澤の運転で自宅へ送り届けた。その道中も、沙也加は何やら思い詰めたような強張った表情だったという。

「それじゃあ、レストルームの中で何か一悶着あったんじゃ無いのか? 女性はライバルを蹴落とすために、時にかなり手厳しいことを口にするからな」

 この業界では、そんなのあるあるだ。

 ちなみに、女性ばかりではなく男性も同様で、加々美だってデビューしたばかりの頃に経験がある。それだけ競争がし烈ということでもあるのだが。

「……それなら、何があったかぐらい唐澤に言ってもいいような気がするんだよな」

 唐澤に会うことすら避ける。それが気になる、と高倉は言う。

「しばらく、そっとしといたらどうだ?」

 パーティー会場で、何かあったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。しかし現状、とても仕事に集中できる心理状態にないのだと言うなら、無理やり引っ張ってきたところで使い物にはならないだろう。

「何かあって潰れるのも、踏ん張って持ち堪えるのも、本人次第だろ?」

「それは、そうなんだが……」

 高倉にしては歯切れが悪い。

「何がそんなに気になるんだ?」

「––––仮にこのまま沙也加嬢がモデルを辞めると言い出した場合なんだが。妹が逃げ出した事務所に弟を預けることを『MASAKI』が了承すると思うか?」

(心配はそこかよ)

 ある意味納得。

 加々美は小さく息をついて、コーヒーを口に運んだ。

「雅紀が気にするのは、尚人君自身がそれを望むのかどうかって点だけだろうよ」

「以前、沙也加嬢と尚人君の関係が結構拗れていると言っていたよな?」

「……まあ、関係良好とは言い難いみたいだな」

「二兎追う者は一兎をも得ず、か……」

「お前にしちゃ、弱気だな」

「計画が色々狂い過ぎてる」

「だったら、大幅な計画変更が必要なんじゃないか?」

 加々美はわずかに肩を(すく)めた。

「こないだ雅紀と話した時に、『モデルっていうのは、学生との二足の草鞋(わらじ)で、どっちつかずのことやって、売れるような甘い世界じゃないんだから、妹が本気で売れたいって思ってるなら、大学を辞めさせたらどうですか?』って言っててな。辛辣なこと言うなとは思ったが。『モデル一本で食ってく覚悟がないっていうなら、学生アルバイト感覚で、たまに雑誌に載るくらいのことで満足するべきじゃないですか』って言われたら、それもまた事実だなって思ってさ」

「耳が痛いな」

「はっきり言って、女性モデルは大学を出るまで待ってたら遅い。その頃には、どこのコレクションも使ってくれねーよ。路線変更するか、進路変更するか。どちらにせよ、本人の腹の括り具合による。まずはそこの見極めが先決じゃないのかって思うが。俺的には、『どうしてもモデルとして成功したいんだって言う気概みたいなものがいまいち足りない』って言ってた唐澤の言葉が全てって気もする」

 努力が報われる世界ではない。適性もあれば、運不運もある。とはいえ、他人を蹴落としてでもチャンスを掴みに行く気概がなければ、生き残れるような世界ではないのも事実。モデルになりたい者は、それこそごまんといるのだから。

「クリスの食指も動かなかったみたいだし?」

「決して『ヴァンス』向きじゃない『MASAKI』に興味を持つぐらいだから、沙也加嬢にも興味を持つと思ったんだが」

「クリスが執心してるのはあくまで尚人君だから」

「けど『MASAKI』を『当て馬』にしたわけでもないんだろう?」

「あいつは、俺たちが考えるより、もっとずっと計算高いってことだろ。雅紀はそれをわかった上で受けて立ったと思うけどな」

 高倉は何やら思案げに黙り込む。

 そんな高倉を尻目に、加々美はカップに残ったコーヒーを飲み干しながら、

(確か、尚人君の二次試験って今週末だったよな)

 そんなことを考えていた。

 

 

 * * *

 

 

 二月最後の金曜。その日から全国にある国立大学で二次前期試験が開始する。尚人が受験する大学も金曜と土曜の二日間に渡って行われる予定だ。

 受験する都内の大学まで、電車を使えば一時間ちょっと。尚人は、通学する時のことまで考えて受験大学を選んだので、試験日も当然、朝から電車で行こうと思っていたのだが、

「当日、悪天候や事故で電車が止まることだって考えられる。人生を左右する大事な試験なんだから、大事をとって前日から会場近くに泊まった方がいい」

 雅紀にそう説得された。

 さらには、試験会場近くにすでに宿泊先を押さえていると言われれば、尚人は雅紀の提案に従うしかなかった。

 雅紀のその準備の良さに驚きつつも感謝し、尚人は試験の前日、雅紀と共に家を出た。

 宿泊先は当然ホテルかと思っていたら、一見普通に見えるマンションだった。しかし、「ここだ」と言われた部屋に入ると室内は高級ホテルみたいな内装で、尚人はただただ驚いた。

 近頃流行のゲストステイと言われるタイプの宿泊スタイルだという。家具もアメニティもホテルばりに揃っているが、キッチンがついていて自分で料理もできる。観光からビジネスまで幅広く利用されていて、短期ステイにも長期ステイにも対応できるのが魅力らしい。キッチングッズも最新の物が色々揃っていた。

「すごい……」

「ここなら、家にいるのと近い感覚でいられるだろ?」

 雅紀はそう言ったが、高級感のある家具とお洒落なインテリアの並ぶワンルームタイプの広々した室内は、どう考えても「家と同じ」なわけがない。

(まーちゃんが、一人暮らししてるマンションに来た感じ?)

 それが近い。

 とにかく大学までは徒歩十五分ほどで、最高の立地だった。下見を終えて尚人が宿泊先に戻ってくると、雅紀が既に色々とデリバリーを頼んでいた。都内ではテイクアウトを代行してくれる業者がいて、そこに「この店の〇〇をいくつ」みたいに注文すると、注文通りに買って回って届けてくれるのだと言う。デリバリーと言ったらピザか寿司ぐらいしか思いつかない田舎者の尚人にとっては、「こんな物まで届けてくれるんだ」というような驚きの料理が並んだ。

(まーちゃんみたいな有名人には、すっごく便利なサービスだよね)

 箱のままでは味気ないと言う雅紀が皿に綺麗に盛り直すと、デリバリーしたとは思えない豪華な食卓になった。それをゆっくり二人で楽しんでから、尚人は明日の試験に備え持ってきたテキストに目を通した。もはや、今更焦って頭に詰め込んでも仕方ないので、覚えたことを確認する作業に終始する。適当に切り上げて風呂に入り、いつもと同じように十二時頃ベッドに横になった。

「ナオが寝付くまで添い寝してやるよ」

 そう言われて雅紀の温もりを感じながら目を閉じた尚人は、安心感からあっという間に眠りについた。

 

 

 * * *

 

 

「ナオ、忘れ物ないか?」

「うん。大丈夫。受験票も入れたし、時計もしてるし」

「筆箱は?」

「ちゃんと入れている」

「じゃ、頑張ってこい」

「うん。まーちゃん。行ってきます!」

 尚人が元気に出かけていく。

 試験二日目。今日二科目受けて、尚人の受験は終了する。午前中が地歴、午後に英語。試験の最後に得意の英語が来るとあって、尚人は気分的に少し余裕があるようだった。

 今日も天気に恵まれている。それに雅紀は安堵する。先週は都内でも積もるほどの雪が降ってかなり冷え込んだので、今週末の天気を少し心配していたのだ。

 雪が降ったら、ナオが難儀するよな、と。

 会場まで歩いて行ける場所に泊まっているとは言え、道が凍れば転倒の危険もある。雅紀の心配は尽きなかった。

 本当は会場まで一緒について行きたいくらいなのだが、そんなことをすれば余計な混乱を生みかねないので、ぐっと我慢する。今日の試験の終わりは午後四時で、雅紀は尚人が帰ってくるまで気を揉んで待つしかない。

 正午になって、雅紀は一人昼飯を食べる。尚人の午前中の試験が終わる時間だ。昼休みは二時間もとってあり、そんなに長いんなら一旦帰ってくれば? とも思った雅紀だったが、翔南高校にはOB、OG達から受け継がれた「受験当日の昼休みの使い方」が蓄積されているとかで、尚人もしっかりレクチャーを受けたらしい。国立大学の受験対策がしっかりしているのは超進学校ならではだろう。

 午後四時。試験が終了する時間。しかし昨日の尚人の話では、試験が終わってから会場を出るまでにかなり時間がかかるという。回答用紙の回収を丁寧に確認しながら行うことに加え、構内が混雑するのを回避するために教室ごとに退出時間をずらしているかららしい。

 尚人が無事に帰ってきた時、午後五時を回っていた。

 

 

 * * *

 

 

「ただいまー! まーちゃん」

「おかえり、ナオ」

 尚人が部屋の扉を開けて室内に入ると、雅紀が待ち構えていてすぐに抱きしめられた。

「お疲れ、ナオ」

 頭のてっぺんにキスされて、背中をよしよしと撫でられる。

 それだけで、尚人は幸せな気分になれた。

「よし。じゃ、荷物まとめて帰ろうか」

「うん。豪華なこの部屋も良かったけど、やっぱり自宅が一番だよね」

「デリバリーより、ナオの飯の方が断然うまいしな」

「帰り着くのは、六時半くらいかな?」

「作るの大変なら、食って帰ってもいいぞ」

「ふふ。今日はね、もう唐揚げ用の肉を醤油だれにつけて仕込んでるんだ」

「うまそうだな」

 雅紀がにっこり笑って、尚人の耳元で囁いた。

「家に帰ったら、唐揚げもナオもたっぷり堪能しないとな」

 その甘い囁きに尚人の顔が焼ける。

「明日は休みだろ? 久々に、腰が立たなくなるまでたっぷり可愛がってやるからな」

 

 

 * * *

 

 

「ほら、おいで。ナオ」

 ベッドの上から雅紀が手招きすると、風呂上がりの尚人が耳の先を赤く染めながら、そろそろとベットへ上がってくる。雅紀はその体をそっと抱きしめて風呂上がりの尚人の匂いを思い切り嗅ぐ。

「うーん。いい匂い」

 ボディシャンプーの匂いに尚人の熱が混じり込んで、雅紀の鼻腔を至福へと(いざな)う。

 雅紀は甘いキスをする。尚人が怯えないように。(ついば)むような優しいキスから始める。

 口角を変えて唇を重ね、舌を差し込んで歯列をなぞる。舌先でつつくように上顎を舐ると、尚人の体が小さく震えた。同時に甘い息を吐き出す。そのタイミングで雅紀は舌をねじ込んで、舌と舌を絡ませた。

 尚人がしがみ付くように雅紀の背に手を回す。

 その感覚がたまらない。

 もっともっと尚人が欲しくて、雅紀は尚人の腰を抱え込んで口内を蹂躙する。やがて飲み込めなかった唾液が尚人の口角から滴り落ちて、雅紀は尚人のこぼした唾液を追って首筋を舐め上げた。

「あぁッ……」

 鼻から抜けるような、かすれた声を尚人があげる。

 雅紀はスエットの裾から手を入れて尚人の下腹部に触れた。するとそこはすでにガチガチに勃ち上がっていて、すでに先走りのしずくでベタベタに濡れていた。

「ナオのここ、もうガチガチになっている」

 雅紀はわざと言葉にして尚人の羞恥を煽る。

「湿ってるし。漏らしちゃった?」

 ここのところ激しいセックスはご無沙汰だった。久しぶりへの期待感と受験が終わったことの開放感。それが尚人の感情を(たかぶ)らせているのだろう。

「一回、先に出しとく? それとも、我慢する?」

「……出したい」

 雅紀が耳元で尋ねると、尚人が顔を真っ赤にしながら呟く。その姿に雅紀は片頬で笑う。恥じらいつつも快楽に従順な尚人が可愛らしい。

「今日は、今まで頑張ったご褒美だからな。いっぱい出していいぞ」

 雅紀はそう言って尚人の下着を剥ぎ取ると、勃ち上がっていた肉茎をパクリと口に咥えた。舌を這わせて舐めあげる。するとほんの数回で、尚人は濃厚な精を吐き出した。

「はぁぁぁッ!」

「落ち着いだだろう? あとはゆっくり、気持ちよくさせてやるからな」

 雅紀はそう言うと、今度は珠を寄り分けてしゃぶる。くにくにと口の中で転がし、吸うように舐る。

「はぁぁ。だめ! そんなに強く吸っちゃダメ!」

 尚人の叫びは気持ちいいの合図だ。雅紀はさらに舌で転がして、乳首に手を伸ばして摘んだ。

「あぁぁぁぁぁッ!」

 尚人が背をそらしてよがる。

「まーちゃん、乳首。噛んで……。噛んで、吸って」

「いいぞ。上手におねだりできたからな。ナオが好きなだけ、噛んで吸ってやる」

 雅紀は尚人の上着も脱がせると、熟れて尖りきった左の乳首を舌でねぶり上げ、甘く噛んだ。同時に股間を揉んでやる。珠袋を握り込んでしごいてやると、尚人はとろとろと蜜をこぼした。

 快感に喘ぐ尚人が可愛い。

 喘ぎながら雅紀の名を呼んで乱れる様が愛らしい。

 その痴態を目にすると、もっと啼かせたくなる。

 何も考えられなくなるほどに快感を与えて、ぐずぐずにしてしまいたい。

 雅紀は、尚人の熟れた蜜口を指の腹で擦り上げて秘肉を露出させた。そこを爪で引っ掻くように弾いてやると、尚人が背をしならせて腰を揺らす。しつこくしつこくそこを攻めると、尚人が激しく喘ぎながら啼いた。

「もう、イかせて。イかせて、まーちゃん!」

 根元をきっちり締めているので、イきたくてもイけない尚人が、快感の捌け口を求めて身をよじって叫ぶ。

 その痴態が雅紀の興奮を(あお)る。雅紀のものがギチギチにいきり勃つ。尚人の中に早く入りたいと、先走りの(よだれ)が先端からこぼれ落ちるのを、雅紀はぐっと我慢した。己の性欲よりも、尚人を快感の波に沈める方が重要だ。

「まーぁちゃん」

「よし、イっていいぞ」

 雅紀が根元の拘束を緩めると、尚人が二回目の精を吐き出した。もちろんそれも雅紀は口で受け止めて嚥下する。残った残滓も搾り取って舐めた。

 そうやって全て吐き出させた後に、後蕾を剥き出しにしてほぐす。固く閉じたそこに舌を這わせて何度も舐め上げる。シーツに顔を埋めた尚人の息が忙しなくなってくると、雅紀はまずは指を一本、ツプリと差し入れる。軽く出し入れを繰り返しローションが馴染んだところで、指を二本にして押し広げていく。リズムよく中を刺激してやると、吐精するのとは違った快感に尚人が喘いだ。

「後ろ、気持ちいい?」

 雅紀が問いかけると、尚人がシーツに顔を埋めたままこくこくと頷く。指が三本入るまでほぐすと、雅紀は尚人を正面にして後孔にゆっくりと押し挿れた。

 雅紀のものが尚人の熱に包まれる。

 ゆっくりとながらも雅紀のものを一気に飲み込んで、尚人のそこがぴっちりと閉じた。

「ああ、全部入った」

 雅紀は尚人の首筋にひとつキスを落とす。

「大丈夫、何も怖くない」

 耳たぶを甘噛みしながら囁く。

「だから、二人で気持ちよくなろうな」

 尚人がとろりとした瞳で頷く。その瞳を見つめながら、雅紀はゆっくりと腰を振った。絡みつく肉襞がきもちいい。雅紀のものを包み込む熱に、擦れ合うところが溶けてしまいそうだ。

「ナオの中、すごく気持ちいい」

 雅紀は囁きながら抽送を繰り返す。ギリギリまで引き抜いて突き上げ、張ったエラの部分で尚人のいいところを刺激してやる。徐々に激しく腰を振り、叩きつけてねじり込む。

「ハァっ、アァッ! あぁぁぁ……。ああッ!」

 尚人の体を激しく上下に揺さぶると、ギシギシとベッドが軋んだ。

「まーちゃん! まーちゃん! まーちゃん!」

 自分の名を呼ぶ尚人が可愛くて、雅紀は腰を振りながらキスをする。上も下もぐちょぐちょと卑猥な音を立てて、どこもかしこも気持ちよかった。

「あ、あッ、あぁッ、イくッ。イくぅ……」

 尚人の体の震えに合わせて、雅紀も上り詰めた。熱いほとばしりを尚人の奥にぶちまける。

「……まーちゃん」

「ナオ、まだ、これからだ」

 雅紀は尚人の片足を持ち上げて体勢を変えると、再び腰を振った。

「ヤダ。待って。まだ、待って。まーちゃん、待って!」

 中イきした尚人が泣きを入れるが、もちろんそんなことには耳を貸さない。

 雅紀はすでに、ケダモノスイッチが入っていた。

「待たない」

 雅紀はうっそりと笑って、奥をえぐる。

「朝まで寝かせる気ないから」

 まだまだ時間はたっぷりある。

 甘く激しい夜は、これからだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鳳雛(ほうすう)ノ翼 8

 『G線上のアリア』の厳かな調べが、翔南高校の体育館に響いていた。

 整然と並んだパイプ椅子の後方の席は、礼服に身を包んだ保護者ですでに埋め尽くされていたが、ステージ側の前方の椅子は、金属性の硬質な光を反射させながら、座るべき人物の登場を静かに待っている。

 三月一日。雲ひとつない晴天。そんな麗かな春の日に、尚人がついに卒業の日を迎えた。

「卒業生、入場」

 BGMを邪魔しない、けれども力強いアナウンスが会場内に響く。それと同時に体育館後方からきりりと身が引き締まるような冷気が流れ込んできて、胸に華やかなコサージュをつけた生徒たちが整然と並んで姿を見せた。生徒たちは、保護者席の間に設けられた通路を通り抜けて、順番に前方の席を埋めていく。まっすぐ前を向いて、胸を張って入場するその姿は一人一人が輝いていた。

 万感胸に迫るものがあるのか、保護者席の中からはすでに啜り泣くような声がどこからともなく響く。皆同じ格好。同じ制服。しかし、雅紀はその中にすぐ尚人の姿を見つけた。

 三年間着続けたブレザーは流石に体に馴染んで、その姿にはどことなく風格すらある。まだまだ子供と思っていた尚人が急に大人びて見えて、雅紀の心は複雑に揺れた。

 全員が揃うと、一斉に着席する。

 その揃った音が、程よい緊張感の中で清々しかった。

「只今より、翔南高校、卒業証書授与式を挙行いたします」

 壇上に上がった教頭が開式を宣言する。

 学生の頃は学校の式典など面倒くさいと思っていた雅紀だったが、今日このように厳粛な雰囲気のなか盛大に卒業式を開催してくれる学校に感謝しかなかった。

 尚人の卒業式に雅紀はどうしても参加したかった。

 しかし、やはり遠慮と懸念はあった。自分のせいで余計な混乱やトラブルが起きたら申し訳ないという思いがあった。それで雅紀は事前に学校に相談したのだ。

「卒業式に参加したいと思っているのですが、可能でしょうか」と。

 学校側の回答は即答だった。

「もちろんです。保護者の方には是非参加していただきたい」

 さらには、会場運営は学校の責任であり、懸念されるような混乱が極力起きないように配慮するので安心して参加してほしい、とまで付け加えられた。

 それで今日雅紀は礼服に身を包み、学校へやって来たのである。

 学校に到着すると、保護者の車を入れているグランド側とは反対側の駐車場に誘導され、そこからすぐに校舎に上がり控え室に通された。

 そこで雅紀は、

「来賓入場の直前に会場へ案内します」

 と伝えられ、特別に設けられた控室で一人、時間が来るまで大人しく待った。そして時間になると、案内の教諭の誘導ですっかり人気(ひとけ)のなくなった校舎内を通り抜け、卒業生が入場のために整列していた出入り口とは別の出入り口から体育館に入り、空けてあった一番後ろの席に着席したのである。

 ほぼ同時に来賓が入場し、彼らが座り終わると、すぐさま卒業生入場のアナウンスが流れた。座席後方にいた数人が雅紀の存在に気付いて驚いた視線を向けたが、場がざわつくことも混乱することもなかった。

 国歌斉唱があり、すぐさま卒業証書授与へ進む。クラス毎に生徒の名の読み上げがあり、一人一人名を呼ばれて、卒業生は大きな返事とともにその場に立つ。最後にクラス代表が壇上で校長から卒業証書を受け取って次のクラスへと移る。三組の尚人の順番は、早い段階で回って来た。

「麻生隆」

「はい!」

「井上康太」

「はい!」

「桜坂一志」

「はい!」

「海原春樹」

「はい!」

 三組の生徒が順番に立ち上がっていく。

「篠宮尚人」

「はい!」

 よく通る透き通った声だった。桜坂と比べればその背は小さい。けれども背筋のスッと伸びたその後ろ姿は美しく、決して見劣ることはない。

 雅紀はその背に見惚れる。

 昔、雅紀と加々美が出会ったばかりの頃。加々美は雅紀を口説くのに「後ろ姿に惚れた」と言った。雅紀はその時「この人、けっこうズレてんじゃないか」なんて思ったが、今ならその心境が嫌と言うほどわかる。

 努力に裏打ちされた自信。謙虚さを兼ね備えた自尊心。自分が自分であることの意味。飾らない等身大の自分であることで得る、たおやかな強さ。

 そういった尚人の内なる輝きが背中に出ていた。

 人の魅力は背中に出るのだと、雅紀は知る。

 しかしその背は、座席後方の生徒が立つとすぐに見えなくなってしまった。

 それを残念に思っていると、サプライズはその後にあった。

「三組代表、篠宮尚人」

「はい!」

 名を呼ばれて、尚人が壇上に上がる。

 クラス代表だなんて聞いていなかったので、雅紀は驚いた。

 尚人は演台まで進み、校長に一礼する。

 ランウェイでも見ているかのような綺麗な歩き方だった。

「三年三組七号、篠宮尚人。右の者は本校において高等学校の過程を卒業したことを証する。おめでとう」

「ありがとうございます」

 尚人が校長の手から卒業証書を受け取る。

 その瞬間、隣の席から嗚咽が響いた。雅紀が目をやると中野大輝の母親だった。

「篠宮さん。––––よかったですねぇ。尚人君がこの日を迎えられて」

 どうやら壇上の尚人の姿に感極まったようだ。しきりに目元の涙をハンカチで拭っていた。

「おめでとうございます。篠宮さん」

 こういう風に全くの他人が卒業を喜んでくれる。これが、尚人がこの学校で三年間積み上げたものの一つの成果なのだろうと思うと、雅紀の顔は自然と綻んだ。

「ありがとうございます」

 壇上から降りてくる、尚人の姿が眩しい。

 雅紀はその姿を、しっかりと目に焼き付けた。

 

 

 

 

 式典が終わり卒業生が退場すると、保護者代表による謝辞があり、その後保護者はそれぞれの教室へ移動することになった。

「教室へは担当者が案内しますので、それまで保護者の皆様は着席したままでお待ちください」

 アナウンスが流れ、三組の前に案内役の職員が現れる。

「では、まずは三組の保護者様を教室へ案内いたします。私について来てください」

 そう言われて、三組の保護者が一斉に立ち上がる。教室へ向かう列の中、雅紀の横に並んだのは桜坂の父親だった。

「篠宮さん。今日ご列席できてよかったですね」

「ありがとうございます。学校側にもいろいろ配慮いただいて。ありがたい限りです」

「篠宮君には一志が本当にお世話になりました」

「いえ。こちらこそ、桜坂君にはお世話になりました。学校生活ではいろいろ心配することもあったのですが、桜坂君がいてくれると思うだけで安心感がありましたから」

「それを言うなら、こちらの方こそ。篠宮君と出会えてよかった。一志は、篠宮君と出会ったことで明らかに変わりました。それまでは、他人との関わりを積極的に持つ方ではなかったのですが。勉強以上に大切なものを学ぶことができたみたいです」

「篠宮さん。今日は本当によかったですね」

 山下広夢の母にも声を掛けられる。

「ありがとうございます。山下君にもお世話になりました」

「あら、やだ。お世話されたのは、広夢のほうですよ。篠宮君と同じクラスにならなかったら、三年間ボーとしたまま過ごしてたって言ってましたから」

「うちの子なんてもっとですよ。家でも篠宮君の話ばっかりで。何かもう、我が子みたいな気分になってしまって」

 中野の母も加わって、保護者同士話をしているうちに、あっという間に教室に着いてしまった。

 他の保護者と連なって初めて尚人の教室に入る。

(へぇ、こんなところで授業受けてたんだな)

 学校の教室なんて、どこも代わり映えはしないが、尚人が一日の半分を過ごしていた場所だと思えば興味深かった。

 そして案の定と言うか、予想通りというか。雅紀が教室に姿を見せると、教室内がざわめいた。

 ––––すごーい、本物だよ!

 ––––まじやばい!

 ––––私、目つぶれるかも。

 ––––最高の卒業祝い。

 ––––私、一生の思い出にする。

 ザワザワ、ガヤガヤ。女子がひそひそと顔を寄せ合って盛り上がる。

 しかしそれでも雅紀に殺到したり、スマホを向けたりしないのは、さすが翔南高校生というべきだろうか。あるいは、尚人の兄と認識されているだけに、その辺暗黙の配慮があるのかもしれない。 

 そんなざわつく生徒たちに、担任が一言。

「えー、後ろが気になると思うが、先生との最後の別れだ。先生を見ろ」

 そう言って笑いを取る。

 クラスの雰囲気がそれだけでわかった。

 最後のホームルームも終始、親しげな笑いと、穏やかな空気と、別れを惜しむ友情に満ちていた。

 最後に、生徒保護者全員揃って記念写真を撮って別れる。桜坂、中野、山下の三人は最後の最後まで尚人との別れを惜しんでいた。

 大学の合格発表後に一度絶対会おう、と口々に言い合う。合否の結果に関係なく必ず、と。

「うん。必ず、会おうね」

 尚人も手を振って笑顔で別れる。

 国立大の合格発表は、十日後だ。

 後ろ髪ひかれる気持ちは十分理解しながら、雅紀は助手席に尚人を乗せて翔南高校に別れを告げた。

 

 

 

 

 走り出した車から顔を出し、尚人は皆が見えなくなるまで手を振っていた。

「何だか、あっという間だった気もするな」

 雅紀がポツリと呟くと、姿勢を戻した尚人が隣でくすりと笑う気配がした。

「びっくりするくらい、いろんなことがあった三年間だったけどね」

「––––まあ、そうかもな」

 そこには、雅紀的に胸を張れない出来事がいくつか含まれてはいるが。しかし、雅紀と尚人にとっても、岐路となる三年間だった。それだけは間違いない。

「俺ね、本当に翔南高校に行けてよかったって思ってる。中野や山下や桜坂っていう友達もできたし。縁がないって思い込んでた部活だって経験できたしね」

 そして尚人が、ふふっと笑う。

「それに、あの距離を毎日自転車で通えたってことで、自分の体力に妙な自信がついちゃったし」

 本当にその通りだと、雅紀は思う。

 毎日片道五十分の距離を、猛暑だろうが、厳冬だろうが、通ったのだ。すごいと思う。しかも道は平坦ではなく、車なら気にならない坂道も、自転車では結構な負荷だ。週に二、三回、時間を見つけてジム通いしている雅紀よりも、よほどトレーニングしていたことになる。

「にしても、今夜は本当に家でいいのか?」

 せっかくの卒業祝いだ。外で豪華な食事でも、と思った雅紀だったが、尚人が卒業祝いは家でしたいと言ったのである。

「もちろん。だって、裕太が準備するって張り切ってるんだよ。特別すぎでしょ?」

 尚人がそう言って笑う。

 そうなのだ。卒業式の夜は三人揃って家で食事がいいと言う尚人に、

「だったら、その日の夕飯は俺が用意する」

 と裕太が買って出たのである。

「だって、ナオちゃんのお祝いなのに、ナオちゃんが準備するんじゃ、おかしいだろ?」

 そう言って。

「夕方六時までに準備しとくから、その時間まで帰ってくんなよ」

 さらにはそう付け足したのである。

「ま、期待半分、怖さ半分だが。夕方まで帰ってくるなって言うんだから、このままナオとランチデートだな」

「俺、制服だけど大丈夫?」

「着納めだ。俺が脱がすまで、着とけばいいさ」

 雅紀が囁くと、尚人が可愛らしく耳の先を赤くした。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鳳雛(ほうすう)ノ翼 9

 隠れ家的和食ダイニング『真砂』。加々美と食事をする時はすっかり定番になっているこの店に、雅紀は久々に訪れた。

 諸々お礼を言いたくて、雅紀の方が誘ったのだ。それで約束の時間より前に到着しのだが。

「よう、おつかれ」

 いつもの個室に通されると、すでに加々美の姿があった。

「すみません。お待たせしました」

 雅紀が言うと加々美が太く笑う。

「俺も今来たところだ。とりあえず、ビールでいいだろう?」

「はい」

 雅紀がコートを脱いでいる間に、加々美がサクサク注文する。場の主導権があるのはいつだって加々美で、雅紀はそれに異存はない。

「また、忙しく動き出したみたいだな。この間の記者会見見たぜ」

 加々美が茶目っ気たっぷりに笑む。恐らくは先日行われた『ミズガルズ』結成十周年記念DVD BOXの特典PVに関する記者発表の件だろう。記者発表など、別に必ずしなければならないものでもなかったのだが、アキラがのりのりで半ば強引に開いたのだ。あれは一種コメディーだった。––––と、雅紀は密かに思っている。

 ま、尚人が楽しんでくれたようなので、雅紀的にオッケーではあるが。

「加々美さん。ナオの卒業に関しては、お心配り本当にありがとうございました」

 電話ではすでに礼を述べていたが、雅紀は改めてきちんと頭を下げる。

 卒業の日、加々美から豪華なアレンジメントが自宅に届いたのだ。箱入りの花束などもらったことなどない尚人は、とにかく感動しきりだった。

「その件については、尚人君からも電話もメールももらった。こう言っちゃ何だが、花一つであんなに喜んでくれるなんて。もっといいもの贈ればよかったかなってこっちが恐縮したくらいだ」

「俺たちは、正直花束なんてもらい慣れちゃってる部分がどうしたってありますけど。ナオにとっては新鮮だったみたいです。特に、見るからに高そうな薔薇の花束だったでしょう? ナオがしきりに、花束の向こうに加々美さんが見えるって言ってて。––––正直、ちょっと妬けました」

 雅紀がほんの少しトーンダウンすると、加々美はくすりと笑った。

「じゃ、今日はとりあえず、尚人君の卒業に乾杯かな」

 出されたグラスを加々美が掲げる。それに雅紀は自分のグラスを軽く当てた。

「ありがとうございます」

「––––で、大学の合格発表の方は、まだなんだよな?」

「はい。明後日です」

「そっかー。結果が分かるまでは、落ち着かないよなぁ」

 加々美がグラスのビールをぐいっと煽って呟く。

 確かにその通りだ。卒業はしたが次がまだ決まらない今の状態は、何とも宙ぶらりんの状態で、雅紀も「春から」の話など尚人に振ることができないし、呑気に旅行計画も立てづらい。

 当然、合格していることを願っているが、結果は出てみないとわからない。

「––––で、どこ受けたんだ? 都内?」

「はい。東京大学です」

 雅紀が伝えると、加々美が動きを止めた。

「東京()大学じゃなくて、東京大学?」

「そうです」

「つまり、東大ってこと?」

「そうです」

「……すごいな。–––––––––さすが尚人君?」

「まだ、受かったわけじゃありませんけど」

「いや、でも受験しようって思う時点でっていうのがあるだろう? 尚人君に限って記念受験みたいなことはないだろうし」

「翔南高校では毎年数人は東大受験者がいるみたいなんで。ナオが特別ってわけじゃないんです。……まあ、そうは言っても、俺だってナオの決断を初めて聞かされた時は、内心ど肝を抜かれましたけど」

 尚人が受験先の大学について色々と悩んでいたのは知っている。尚人の中で候補になっている具体的な大学名を聞いていたわけではないが、大学選びの要素として「自宅からの通学が可能か」とか「合格が見込めそうか」などの言葉を聞いていたので、そこにはまる選択肢として、まさか「東京大学」があるとは思わなかった。その辺さすが尚人というべきなのだろうか。尚人の視野は雅紀が思っているよりずっと広く、そして、覚悟を決めたときの腹の括り具合がすごい。「東大受験」を口にしてから、尚人が受験先を再考するような、悩むそぶりは一片もなかった。そこには、尚人なりのヴィジョンがあっての決断だった、というのもあるのだろう。それに、卒業生に東大合格者が何人もいるのだから、学校側としても無謀な挑戦という感じでもなく、三者面談した時も担任に驚いた様子はなかった。「正直簡単な大学ではないですが、チャレンジする価値はありますよ」と。そんな感じで。

 やっぱ翔南ってすげーんだな。

 その認識を新たにした。

「東大って言えば、英語ディベートの全国大会の会場だったところだよな」

「そうです。あの時に、東大キャンパスを実際目にしたことで、具体的なイメージが湧いて、それが決め手になったみたいです」

「人生って、どこがどう繋がるか、わからないよなぁ」

「……だから、まだ受かってませんって」

 受かっていて欲しいと心の底から願うが、こればかりはわからない。超難関であることは確かだが、毎年数千人の合格者が出るのもまた事実。何万人もの応募者の中からたった一人のグランプリを選ぶオーディションと比べたら、難しい倍率ではない、––––という気もするが。比べること自体がおかしい、と言われたらそれまでだ。

「まあ、万が一不合格だった場合は、さくっとこう、進むべき道を変えてもらってもいいわけだしな」

「なんですか、それ。変なフラグ立てないでください」

「尚人君の前には、すでにいろんな道があるってことだ」

「……それって、加々美さんが前言ってたやつも含まれるんですか?」

「もちろん、それも一つだ。俺的には、そこを選んでくれると嬉しいんだがな」

 雅紀は刹那黙る。

 ここまでしつこいということは、加々美は本気なのだ。万が一尚人が大学受験に失敗すれば、加々美はそれこそ本気モード全開で尚人を落としに来るかもしれない。

 そして、もう一人。尚人にしつこくまとわりついているあの男も。

「……実は、今日加々美さんをお呼び立てしたのは、ちょっと、ご相談したいことがあって」

「へ、お前にしちゃぁ、珍しい。何だ?」

 加々美が鯛の刺身を口に放り込んで雅紀を見やる。

 雅紀は、グラスに残っていたビールを飲み干した。

「……『ヴァンス』のチーフデザイナーのことです」

「クリス? まさか、また何か仕掛けて来たのか?」

 加々美がそういう言い方をするのも分かる。旗艦店のプロモーション・ビデオの時は結構な反則技だった。メッセンジャー代わりにされた加々美もいい迷惑だっただろう。

「実は、ナオの卒業祝いを送り付けて来まして」

「……ひょっとして、それって」

「『ヴァンス』のオートクチュールです」

 雅紀の言葉に、加々美が絶句したように固まった。

 それはそうだろう。どこの世界に、一般人に一方的にオートクチュールを仕立ててプレゼントするブランドがあるというのか。

「当然、サイズがぴったりで」

「……で、尚人君に着せてみたわけ?」

「–––– 一緒に入っていたメッセージに、是非着てみた感想と写真を送って欲しいって書いてあって。……だから、ナオ的には着ないわけにはいかないでしょう?」

「で、写真を撮って送ったのか?」

「それを迷ってるんです。本当に送っていいものかって」

「つまり、お前的に、送るのを躊躇(ためら)うような写真ってことだな」

 さすが、加々美は鋭い。

「なあ、その写真って今あるのか」

「はい」

 雅紀はタブレットを取り出して尚人の写真を表示させると加々美に渡す。加々美はタブレットを受け取って、真剣な眼差しで食い入るように画面を見つめた。ポーズを変えて撮った写真数枚を、それこそ穴が開くほどじっくりと。

 いつもの、大らかで少しだけヤンチャの入った表情ではなく、加々美が時々仕事で見せる本気の顔つきだった。

「……お前、尚人君にポージング指導したのか?」

「それは、勉強の合間の息抜きみたいな感じで。時々遊びで」

 雅紀が言うと、加々美は大きく息を吐き出した。

「はっきり言う。尚人君は才能がある」

「………」

 それはもはや今更だ。雅紀だって嫌と言うほどわかっている。

「この写真をクリスに見せたら、おそらくはすっ飛んでくる。この写真を見てなり振りを構っていられるなら本気じゃない。––––雅紀、覚悟しろよ」

「つまり、写真は送るなってことですね」

「違う。––––俺が見たってことをだ」

 腹の底に響くような加々美の声音(トーン)に、雅紀はどきりとした。

 真っ直ぐに向けられた視線が雅紀を射抜く。

 空気が緊張を孕んで、肌をピリピリと刺激した。

「クリスより前に俺が見た。俺はその僥倖(巡り合わせ)を手放す気はない。雅紀、俺は明日、尚人君に会う」

「ちょっと、待ってください。いくら何でも明日というのは」

「覚悟しろと言ったはずだ」

「加々美さん」

「今ここでお前がゴネて尚人君を箱に閉じ込めようとしたところで、そんなのは時間の問題に過ぎない。しかもその時間というのも、二年後とか三年後とか、そんな話じゃないぞ。すでに、明日か、来週か、来月か、という話だ。そして、来週になれば遅い、と俺の勘が言っている。––––雅紀。問題を先送りしようとすればするほど、理想と現実は乖離するぞ」

「––––加々美さんの言いたいことはわかります。でも、ナオは明後日が合格発表で。その先の話は、それ次第でしょう?」

「わかった。じゃあ、明後日だ。合否に関係なく食事の場をセッティングしよう。合格してたら合格祝いってことにして、不合格なら慰労会を兼ねた次の進路選択の話ってことにすればいい。その方が、多少は尚人君に会うのも自然だろう?」

 もはや否やを言える状況ではない。外堀を埋められた。まさにそんな心境だった。

 その後、加々美との会話はいつも通りに戻ったが、雅紀は食事も酒も全く味がしなかった。

 

 

 * * *

 

 

 大学の合格発表は、正午から。大学構内の掲示板に合格者の受験番号が張り出されるが、公式ホームページでも確認できる。

 尚人は雅紀にも事前に話をして、ホームページで確認することにした。家で確認できるなら、わざわざ大学まで出かける必要はないという思いもあったが、それ以上に、現地に絶対一緒には行けない雅紀に少しでも早く、合格なら共に喜んで欲しかったし、不合格なら慰めて欲しかった。

「リビングで待っているから」

 雅紀は言った。

「結果は、ナオの口から聞きたいから」

 それは、どんな結果でもまずは自分で受け止めろ、ということだと尚人は受け取った。

 時間より少し前に、尚人はパソコンを立ち上げて準備する。そして静かに時間になるのを待った。

 心臓がドキドキと脈打つ。

 手応えはあった。全くだめだった、という気はしていない。

 しかしそれでも、最難関大学だ。だめでもともと、と思っているわけではないが、簡単でないこともよくわかっている。

 時間になって、尚人は特設ページをクリックする。

 アクセスが集中しているのか、なかなか繋がらない。

 気持ちを落ち着かせるために何度も深呼吸して、尚人はページが繋がるのをじっと待つ。

 画面が、ポンと表示された。

 画面いっぱいに番号が並んでいる。

 尚人は画面をスクロールさせて、自分の番号を捜した。

 そしてその中に、尚人は自分の番号を––––––––––––––––––––

 

 

 * * *

 

 

 雅紀はその時を、リビングのソファーに座って待っていた。

 合否発表は正午から。そう聞いていた。

 ホームページでの確認を一緒にしないと決めたのは、結果がどうであれ、まずは尚人自身が噛み砕く必要があると思ったからだ。

 次に進むために、人はきちんとその時その時の節目を作る必要がある。

 と同時に雅紀自身、自分の気持ちを沈める必要があった。

 一昨日の加々美との会食からずっと、雅紀の思考はループしている。

 ––––ナオが合格していたら。

 ––––ナオが不合格だったならば。

 いつもだったら、「たら、れば」の話をしてもしょうがない、と割り切る雅紀が「たら、れば」ばかりを考えている。

 それぞれの結果の、その後。そして、今夜の加々美との約束。

 覚悟と不安。そこを行ったり来たり。

 三十分が経過しても、尚人はまだ部屋から出てこない。

 ––––もしかして……

 不合格なら加々美はむしろ嬉々とするだろう。

 何の遠慮もない。

 何の障害もない。

 何の問題もない、とばかりに。

 カチャ、と尚人の部屋の扉が開く音がした。

 静かな足音がリビングに向かってくる。

 姿を見せた尚人は、意外にも無表情だった。

 喜びも、悲しみも読み取れない。

 ただ静かな眼差しをまっすぐ雅紀に向けた。

「……まーちゃん」

 尚人はただそう呟いて、ソファーに座る雅紀にしがみついた。

 膝の上に座って、雅紀に抱きついて、顔を胸の中に(うず)める。

 雅紀はその身体をそっと抱きしめた。

 尚人の背が微かに震えている。

 それで、吹き出しそうな感情を、尚人が必死に内に留めているのだと気づく。

 ゆっくりと深呼吸を繰り返す尚人の背を、雅紀はゆったりと撫でた。

 尚人の気持ちが落ち着くまで。ずっと。優しく。

 やがて尚人が細く長い息を吐き出して、上体を上げた。

 視線が合う。

 静かで穏やかな双眸だった。

「結果を教えてくれるか?」

 雅紀は尚人の頬をそっと撫でる。

 尚人の可愛らしい唇がゆっくりと開いた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鳳雛(ほうすう)ノ翼 10

 合否の結果に、尚人は自分が思っていたよりも心が揺り動かされた。

 どちらであっても冷静に。そう思っていたのに、パソコンの画面を見つめたまま呼吸をするのが精一杯だった。

 叫びたいのか、泣きたいのか。

 体の中で感情の圧が高まって、吹き出す先を求めてのたうちまわっている。

 下手に刺激すれば、感情が爆発的に吹き出して、コントロールを失ってしまいそうな感覚に、尚人はデスクチェアーに座ってただじっと固まっているしかない。

 ––––ナオ、ゆっくり。吸って……、吐いて……。

 ––––そう、いい子だ。ナオ。

 頭の中で柔らかな雅紀の声がした。

 その声に従って尚人はゆっくりと呼吸を繰り返す。

 やがて気持ちがゆっくりと鎮まっていく。

 よし、大丈夫。

 尚人はゆっくりと立ち上がると、部屋を出て、雅紀の待つリビングに向かった。

 ソファーに座っていた雅紀が、静かな眼差しで尚人を出迎える。

 雅紀の視線を真っ直ぐに受け止めて、大丈夫、と思っていた感情が何故かまたざわついた。

 息が詰まって、尚人は、感情の高ぶりをやり過ごすために雅紀にしがみ付く。

 雅紀には、冷静に伝えたかった。

 きちんと、自分の言葉で。

 雅紀の手が優しく背中を撫でてくれる。

 それが心地良くて、尚人の感情はゆっくりと鎮まった。

「結果を教えてくれるか?」

 意を決して尚人が体を持ち上げると、雅紀の手が尚人の頬をそっと撫でた。

 尚人は、雅紀の綺麗な瞳を真っ直ぐに見つめて、大きく息を吸い込んでから、ゆっくりと言葉を吐き出す。

「受かった」

 尚人を見つめる雅紀の目が、刹那、小さく驚いて、柔らかく笑った。

「受験番号あった。合格してた」

「そうか。ナオ。おめでとう。よく頑張ったな。––––ナオは、すごいな」

 その時、尚人の目からとめどもなく涙が溢れ出た。

 泣くつもりなんてなかったのに、次から次から、涙が溢れて止まらなかった。

 ––––よく頑張ったな。

 その一言が、欲しくて欲しくてたまらなかった三年前の感情が、今変わりに溢れているような気がした。

「……まーちゃん、ありがとう。ありがとう、まーちゃん……」

 ありがとう、しか言えない自分がもどかしくて、尚人は雅紀に抱きつく。

 そんな尚人を抱きしめ返して、雅紀はそっと頭を撫でてくれた。

 

 

 * * *

 

 

「……で、な。ナオ。実は今夜、加々美さんが合格祝いの席を準備してくれているんだ」

 尚人の感情が落ち着くのを見計らって、雅紀は切り出した。案の定尚人は、驚いたような顔をした。

「そうなの? それって、俺が落ちてたらどうなったの?」

「うーん、実は、落ちてても、それはそれで慰労会というか、そんな会にすればいいって。……要は、加々美さんがナオに会いたがっているんだ」

「へぇ、そうなんだ?」

「加々美さんもナオの今後については、色々気にしてくれていて」

「ふーん。そんな気を遣ってもらうなんて、何だか恐縮だね。でも、加々美さんにはいろいろお世話になったのは事実だし。俺もせっかくなら、直接会って、無事に大学合格しましたって言いたかったから。ちょうどよかったかな」

「そうか……」

 にこりと無邪気に笑う尚人に雅紀は一人心をざわつかせつつも、尚人の頭をぽんぽんと撫でて立ち上がった。

「ということで、出かける準備、しようか」

「そんなすぐ出るの? 待ち合わせって何時?」

「七時だけど、せっかくならナオのスーツ見に行こうと思って。大学の入学式ってスーツで参加だろう?」

「あ、そっかー。そんなこと、全然思いもしなかった。大学生になったら、着ていく服とかも考えなきゃだね」

「じゃあ、ついでに服も見に行くか。ナオに似合うだろうなー、って思ってたショップがいくつかあるんだよな」

「まーちゃんにコーディネートしてもらうなんて楽しみ」

 尚人が笑う。

 これからは、こうして一緒に出かけられる機会も増えるのかもしれない。それを思うと、尚人の成長も不安ばかりではないのかもしれない、と雅紀はほんの少し気持ちを持ち直す。

 ––––不安がってばかりいても、しょうがないしな。

 尚人は自分で決めた道を進む。

 四月からは大学生になり、尚人の世界は益々広がっていく。

 雛は巣立ちの時を迎えたのだ。

 力強く羽ばたくその瞬間を見守るしかないのだと、雅紀は自分に言い聞かせた。

 

 

 * * *

 

 

 加々美が準備してくれた会食の場所は、外資系ホテルに入っているフレンチレストランだった。以前加々美と二人でランチをした時もかなり高級そうなレストランだったが、今回はさらにその上をいっていた。

 VIPルームっぽい個室に通されて、尚人はむしろほっとする。

 何せ、モデル界の帝王とカリスマ・モデルが揃っているのだ。外資系ホテルの高級レストランとあって客層もかなりセレブ揃いな雰囲気だったが、加々美と雅紀の放つオーラは飛び抜けていた。自然と人目を引く。その中に「誰あの子」的な、場違いも甚だしい尚人(子供)がくっついているのだから、周囲の好奇心をさらに煽ったに違いない。ちらちらとした視線を感じたのは、自意識過剰ではないはずだ。

「加々美さん、今日はお招きいただいてありがとうございます」

 個室に入ると尚人はすぐに頭を下げた。

 お礼を述べる尚人に、加々美が大らかに笑う。

「いや、こちらこそ、来てくれてありがとう。どうしても、尚人君に会いたくてね。今日が大学の合格発表だって聞いてたから。今日まで誘うのを待ってたんだ。––––で、結果を聞いてもいいかな?」

「はい。無事に合格しました」

 尚人が笑顔で伝えると、加々美は驚いたような顔をしつつも笑みを深めた。

「そうか。それは、おめでとう。じゃあ、尚人君も四月から大学生だな」

「はい」

「大学生になったら何かやってみたい事とか考えてる?」

「色々経験してみたいとは思っているんですけど、具体的なことはまだ何も。ただ、これまで加々美さんに紹介してもらったアルバイトみたいな、言葉を使って人と繋がったり、自分の世界が広がったりする経験が出来たらなぁって思ってます」

「そっかぁ。それについては、俺も尚人君に話したいことがあるんだ」

 加々美はそう言いつつも、まずは食事を楽しもうと席に促す。

 席に着くと、まずはオードブルが運ばれて来る。皿の上にサラダや貝柱などが彩りよく盛られていて食欲をそそる。次に出されたコンソメスープは、驚くほどシンプルな見た目だったが、尚人が知っているコンソメスープとは全然別物だった。

「雅紀に聞いたんだけど、クリスからプレゼントが届いたって?」

 加々美がそんな話題を振ったのは、目の前に魚料理が運ばれてきた時だった。サーブしてくれた人の話によると、綺麗な焼き目のついた魚は甘鯛だという。

「はい。そうなんです。卒業祝いって書いてあって。服を一式」

「その服を着て撮った写真をね、雅紀に見せてもらったんだ」

「え、そうなんですか?」

 尚人はちらりと雅紀に視線を向けたが、雅紀は魚料理に舌鼓を打っているだけだった。

「……お恥ずかしい。加々美さんみたいなプロのモデルさんに見せられる写真じゃなかったでしょう?」

「いや。すごくよかったよ。クリスが尚人君に固執する理由もよくわかったしね」

 尚人がわずかに首を傾げると、加々美はわずかに苦笑した。

「尚人君にオートクチュールを送って来たってことはね、モデルの話を諦めてないっていうメッセージだよ。でなけりゃ、仕事と関係なくオートクチュールを仕立てて贈るはずがないんだから」

「––––そう、だったんですね。じゃあ、今からでも送り返した方がいいんですか?」

「それは、モデルをする気がないから?」

「そうです。それに、自分がモデルに向いているとも思えませんし」

「そうかな。俺はそうは思わないけど。あの写真、服の良さがよく引き立ってた」

「……あれは、きっとクリスさんが俺に似合うように仕立ててくれたから」

「そこだよ」

「え?」

「デザイナーっていうのはね、いわばアーティストだ。想像(イメージ)を形にしてみんなの前に披露する。しかし、服飾デザイナーというのは、絵画や彫刻みたいなアートと違って、最終的な披露をモデルに託すしかない。服はあくまで着てなんぼだからね。そして、その披露の仕方で人々の受け取るイメージが変わる。同じ服でも、この人が着てると何かかっこいいのに、この人が着てるとそうでもない、ってことは日常でもよくあることだろう? 一般人にとっては、それを『似合う』『似合わない』って言葉で片付けていいけど、デザイナーにとっては見せ方がまずくて評価されないってなったら死活問題だ。だからどのデザイナーも自分の作品をよりよく見せてくれるモデル選びには神経を使うし、イメージにぴったりはまるモデルが見つかったら手放したくない。そしてモデルの方も、デザイナーの想いが託されていると分かっているから最大限服の魅力が伝わるように努力する。デザイナーとモデルっていうのはね、そういう関係なんだ。つまりね、クリスが尚人君のために服を仕立てたってことは、クリスのイメージとして最初から、尚人君が着ることで完成ってことなんだよ」

「つまりモデルって言うのは、ただかっこいいとか、きれいとか、そう言うことではなくて、デザイナーのイメージの体現者ってことですか?」

「正に、そのとおり」

「……加々美さんは、俺にモデルをして欲しいって思ってるんですか?」

「正直言うとね。モデルをやる尚人君が見たいっていう思いはある。あの写真を見ちゃうとどうしてもね。他の服を着たらどうなんだろうって、想像して、わくわくする。今まで見たことがないものを見せてくれそうな気がするしね。––––でもね、こんな思いでいるのは、実は俺だけじゃないんだ。尚人君のことはね、業界内では結構話題になってて、是非契約したいって思ってる事務所が幾つもあるんだ」

「え?」

 思いもしなかった言葉に尚人は戸惑う。雅紀は相変わらず料理に舌鼓を打っていて、こちらの話に参加する気がなさそうだ。

「それって、俺が雅紀兄さんの弟だからじゃないんですか?」

「そう言う事務所もあるかもね。この業界は、はっきり言って海千山千ひしめくところだから。綺麗事だけでは片付かない話も山ほどある。だからね、尚人君。俺は、尚人君の代理人としての正式な立場が欲しいんだ。俺は、尚人君にはモデルをやって欲しいと思うけど。それでも、尚人君がやりたくないって思ってるなら無理強いしようとは思わないし、尚人君自身がやりたいって思ってることをサポートできたらいいと思ってる。去年お願いしたみたいな、英語の音声ガイドとかね。ただあの時は、決定権を持っている伊崎からの依頼という形で俺が間に入ったけど、ああいったことは毎回できるわけじゃない。正式な立場を持たずに介入することは、どんな業界でも掟破りって思われて敬遠されるからね。だから今後も尚人君をサポートするためには正式な立場が必要なんだ」

「あの、つまり、どういう話ですか?」

「一度、雅紀には話したんだけど。俺はモデルとしては『アズラエル』に所属しているけど、それとは別にプロデュース業のための個人事務所を持ってるんだ。その事務所で尚人君を預かって、尚人君が世界を広げていくためのサポートがしたいって話だ。どうだろう?」

「……あの、それって加々美さんにどんなメリットがあるんですか?」

「磨けば光ると思っている原石が目の前にあったら、俺は自分で磨いてみたくなる。メリットが何かと聞かれたら、それしかない。そして尚人君は、世界を広げたいんだろう? だったら、俺を利用したらとんでも無く世界が広がるぜ」

 お茶目に笑う加々美を見て、尚人は一体全体加々美はどこまで本気なのだろうと逡巡する。自分みたいな小市民を加々美みたいな大物が必死に口説くその理由がいまいちわからない。

「加々美さんは、俺が雅紀兄さんの弟じゃなくても、同じことを言うんですか?」

 尚人が問うと、加々美の表情がほんの少し変化した。

「そもそも、それを問う意味があるのかな? 尚人君が雅紀の弟だってことは変えようのない事実で、そこを『たら、れば』で考えても、結局は空論でしかないんじゃない? ––––ただね、逆はあったかも」

「逆?」

「雅紀の弟であっても、尚人君じゃなければ必死に口説こうとは思わなかったかもってこと」

 尚人は黙り込む。

 雅紀が口を挟んで来ないと言うことは、きっとこう言う会話をすると事前に二人の中では話がついていたのだ。そして、決断するのは尚人自身だと、雅紀は無言を貫くことで示している。

「この話を断ると、どうなるんですか?」

「俺が非常にがっかりする」

「それだけ?」

 やや拍子抜けする。

「俺的にはね。ただ、さっきも言ったように尚人君と契約したいって思ってる事務所がいつくもあるから、尚人君や雅紀の所にいろんな人がやって来るだろうね。まあ、それも、断り続ければいつか来なくなるだろうけど」

 なるほど、と尚人はようやく理解する。

 自分はものすごいチャンスを目の前にしているのだ、と。

 モデルをする気がないのなら、スカウトマンの話を断ればいい。確かにその通りだ。しかし、加々美の話は少し違う。世界を広げるためのサポートをしてくれると言う。今まで加々美経由で話の来たアルバイトは、尚人にとってとても刺激的で、すごくいい経験だった。けれども、何の経験もない高校生を使ってくれたのは、加々美が後ろ盾になっていたからこそ。尚人個人を信頼して仕事を任せてくれたわけではない。そしてそれは尚人が大学生になったからと言って変わるわけではなく、尚人がどれだけ世界を広げたいと思っても、個人の力では限界がある。そこをサポートしてくれると言うのだから、こんなに美味しい話はない。

 つまり、加々美は尚人の将来性を買ってくれた、と言うことだ。そこには加々美なりの打算、つまりは関係性が深まる中でモデルをする気になってくれるかも、という思いがあるかもしれないが、どう考えても尚人の方にメリットが大きい。

「加々美さんの事務所で預かるって具体的にどう言うことなんですか?」

「俺の持ってる個人事務所と代理人(エージェント)契約を結ぶことになる。それ以降は、尚人君に何か仕事を頼みたいと言う人がいたら俺を通す必要があって、俺は尚人君と相談しながらどの依頼を受けるかという調整をしていくことになる」

「依頼がなければ?」

「尚人君がやりたいって思ってることを俺が見つけて来ることになる。例えば、通訳の仕事がしたいって尚人君が思えば、どこか通訳を必要としている仕事がないかってな感じで」

「契約ってどのくらいの期間ですか?」

「基本的には一年間で、その後自動的に更新していく。興味があるなら、すぐにでも契約書を作らせるけど? 判を押すかどうかは、契約書をじっくり読んでからでいいし」

「最後に一つ聞いてもいいですか?」

「どうぞ」

「雅紀兄さんの時も、こんな感じで口説いたんですか?」

 尚人のその問いかけに、加々美は苦笑し、雅紀はなぜか盛大に吹き出した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鳳雛(ほうすう)ノ翼 エピローグ

クリスが一件のメール着信に気づいたのは、目覚めのコーヒー片手にタブレットを立ち上げた時だった。

『NAOTO』

 その送信者の名前に、クリスは急いでメールを開く。

 待ちに待っていた写真がようやく届いて、クリスは画面に釘付けになった。

(いや、はや、これは……)

 想像以上だ。

 今すぐにでも広告に使いたいぐらいだった。

 クリスは逸る気持ちを抑えきれずに、すぐさま携帯電話を取り出して電話を掛ける。相手が忙しいのは分かっているが一分一秒でも時間を無駄にしたくなかった。

 かなりしつこくコールするとようやく電話がつながった。

『〔今、何時だと思ってんだ〕』

 いきなり、耳元でかなり尖った声がした。

 開口一番のそのセリフに、クリスは時差を失念していたことを思い出す。

(そう言えば、日本って今何時だっけ?)

 そう思いはしたが、悪びれた気持ちはなかった。

 何しろこちらは、一分一秒を争っている。

「〔ごめんね、カガミ。慌ててたものだから。時間を確認するのを忘れてたよ〕」

『〔じゃあ、教えてやるよ。日本は今深夜二時だ。よほどの急用じゃない限り掛け直せ〕』

「〔それが、急用なんだ〕」

 クリスがそう答えると、電話の向こうから特大のため息が聞こえた。

『〔何の用だ?〕』

「〔すぐにでもナオト君に会いたい。僕はこれから空港に直行して日本行きの飛行機に乗るから、ナオト君と会えるようセッティングして欲しい〕」

『〔随分と無茶を言う。尚人君だって暇じゃない〕』

「〔もちろん、それは分かっているよ。分かってて、あえてお願いしているんだ。それくらい、大事な急用だからね。何時でもいいし、必要があれば僕の方がどこへだって行くから〕」

『〔必死だな〕』

「〔そうだよ。必死なんだよ。だから、お願いできるかな?〕」

『〔断ったら?〕』

「〔––––ナオト君の自宅に勝手に押しかける〕」

『……迷惑な男だな』

 ぼそりとした呟きが耳元に落ちる。しかし日本語だったため、クリスは意味が掴めなかった。

「〔何? 何だって? 英語で言ってくれよ〕」

『〔その様子じゃ、尚人君の写真が送られて来たんだろう?〕』

「〔––––って。その言い方は、カガミも見たってこと?〕」

『〔ああ、お前より前にな〕』

「〔それで?〕」

『〔尚人君を口説き落として、俺の個人事務所と契約することになった〕』

「〔個人事務所? それってカガミの? 『アズラエル』じゃなくて?〕」

『〔ああ、俺が個人的に持ってる事務所。尚人君のやりたいことをサポートするための代理人(エージェント)契約を結んだんだ。先週な〕』

(!!!!!)

 クリスは驚いて、言葉を失った。

 まさか、そんな展開になっていたとは思いもしなかった。

「〔カガミ! きみって人は。タカクラより策士だったとはね!〕」

『〔今後は、尚人君に仕事を依頼したいなら俺を通す必要がある。ただ、『ヴァンス』は『アズラエル』と専属モデル契約を結んでいるから、モデルの依頼はNGだ〕』

 クリスは唸る。

 唇を噛んで、思い切り顔をしかめた。

 あの写真を見せられた後に、まさかこんな風に門前払いを受けるとは、悪夢としか言いようがない。

 考えたくはないが、まさか妹の売り込み(オファー)を蹴った仕返しだろうか。

 しかし、クリスはふとあることを思い出して、口元に笑みを浮かべた。

「〔それは、日本での話だろう? 今うちの主要旗艦店は世界に十店舗ある。当然、それぞれの国でCMを流したり、雑誌にグラビアを載せたりしている。そこにナオト君を使うのは何の問題もないはずだよね?〕」

 電話の向こうで再び盛大なため息が聞こえた。

 痛いところを突かれたと、そういう感じのため息だった。

「〔カガミ、僕はとりあえず今から日本行きの飛行機に乗るから。この先の話は、日本に着いてからやろう〕」

 クリスはそう宣言すると電話を切った。

 そして大急ぎで必要最低限の荷物をスーツケースに詰め込む。

 すでに次々とイメージが浮かんで止まらない。

 こんなワクワクした気持ちは久しぶりだ。

 クリスの心はすでに日本に飛んでいた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) プロローグ

※尚人が大学生になって、原作とはかなりかけ離れてきています。創作キャラも多数出てきますので、それが苦手な方は閲覧ご注意ください。




「津田さん。随分とおっきなため息ですね」

 そう声をかけられて、津田章成(つだあきなり)は振り返った。

 自販機の並ぶ会社の小さな休憩スペース。そこで買った缶コーヒーを飲みながら、眼下のビル群をぼんやり眺めている時だった。

「ああ、斎木君か。久しぶりだな」

 津田は去年まで机を並べて仕事をしていた同僚の姿に笑顔を返す。

 社内人事で配置転換になって以来だ。そういえば勤務はまだ同じビル内だったと、今更ながらに津田は思う。

 二人が勤務する音響機器メーカー『リゾルト』は、事業の新規開拓を狙って参入したパソコン事業に失敗し、かなり大きな損失を出してしまったことで昨年大規模な社内改革が断行された。その際二人が所属していたマーケティング戦略部は解体され、それぞれ別の部署へ異動となったのだ。

 津田は今、営業本部が管轄する商品戦略部に所属する。斎木は確か管理統括部だったはずだ。

「職場でため息つくなって言ってた津田さんにしては珍しいじゃないですか」

 斎木が自販機のボタンを押しながらそんなことを言う。

 津田は、苦笑するしかなかった。

 確かに以前は、一緒に仕事をするメンバーに偉そうにそんなことを言っていた。

 津田はもともと『リゾルト』のファンで、それが入社の動機だ。自分が好きな会社の商品を、多くの人に使って欲しい。そして、大手メーカーほど知名度がない『リゾルト』の名を世間にもっと広めたい。そんな思いで仕事をしてきた。仕事である以上、思い通りに行かないことなんて山ほどあったし、チーム一致の企画が上司の胸一つでボツにされたことだってある。そんな時に「ため息をつくな」「そんな暇あったら次に進もう」そう言っていた半分は自分への叱咤激励だった。

 良い物は必ず受け入れられる。その想いが根底にあった。『リゾルト』ファンであるだけに、妄信していた部分もあったかもしれない。パソコン事業の失敗は、そんな考えの甘さを突きつけられる結果となってしまった。

 そもそもが音響機器メーカーである『リゾルト』がパソコン事業への参入を決めたのは、パソコンが世の中に一気に普及していく中で、これからは音楽もパソコンで楽しむ時代になると踏んだからだ。他社に遅れを取るわけにはいかないと、かなりの巨額投資をしてパソコン事業に参入した。『リゾルト』が得意とする『音』に(こだわ)ったパソコンに特化することで、他社との差別化を図れるとも見込んでいた。

 「パソコンで音楽を楽しむ」それが『リゾルト』パソコンのコンセプトだった。苦労の末商品化に成功し、発売にこぎつけたのはわずか七年前。発売当初こそ、他社にはない「音へのこだわり」がうけて、そこそこの出荷台数を確保したのだが、ミニコンポ代わりになる程の音質だったわけではないし、そもそもパソコンにスピーカーがついていることすら不要と考えるビジネス利用の者には全く見向きもされなかった。津田的には「すごいパソコンができた」そんな思いでいたのだが、販売数だけでみれば完全に失敗だった。そして、苛烈な開発競争の中、開発費ばかりが膨らんで『リゾルト』はわずか五年でパソコン事業からの撤退を余儀なくされたのである。

 社内では、「マーケティング戦略部のリサーチ不足」を指摘する声も少なくなく、当時の部長は部署の解体と共に会社を去った。表向きな理由は、本人の希望による早期退職だったが、事実上の解雇だったと津田達は知っている。社内の不満を抑えるために責任を負わされたのだ。好きで入った会社だっただけに、そう言った裏事情を目の当たりにするのは、辛くてたまらなかった。

 しかし好きで入った会社だからこそ、このままでは終われない。そんな思いも同時に沸いた。原点に立ち返って、『リゾルト』らしい良い商品をきちんと消費者に届けたい。津田は今、そんな思いだ。

 斎木が自販機から取り出した缶コーヒを手に津田の隣に並ぶ。砂糖入りのカフェオレだ。甘すぎて津田は好きではないが、斎木は「脳に必要なのは糖分ですよ」といつも甘い飲み物を好んで飲んでいた。そんなささやかな記憶を津田は思い出す。

「ため息の原因は、仕事ですか? プライベートですか?」

 そんな斎木の質問に、

「仕事だよ」

 津田はそう答えてコーヒーを口に運ぶ。

「これから売り出そうとしている商品にぴったりくるタレントが見つからなくて」

 適当にごまかす必要もないことなので、津田はいっそあけすけに打ち明ける。一年前までは、仕事の事は何でも話し合っていた仲だ。

「CM起用ですか?」

「そう。今の社内事情じゃ、広告打つのにも大手を使うような経費は認められないからさ。小さな事務所に声かけてコンペ形式でコンセプト決めて。そこまでは順調に進んだんだけど。じゃあ、実際どのタレントを起用するかって段で、足踏みしてる状態で」

「ちなみに、商品って何です?」

「イヤホン」

「へぇ。––––すでにリゾルト(うち)って五種類くらいイヤホン展開してますよね?」

 斎木の言いたいことはわかる。しかし今の『リゾルト』には、冒険するほどの余力はない。というよりも、原点回帰こそ今の『リゾルト』には必要なのだ。

「今までの技術を応用して、さらに進化させた新感覚イヤホンなんだ。小さな音量でも頭全体に響くような感じがするのが特徴で、重低音もよく響くから音に厚みを感じるんだ。でも、指摘の通り普通に売り出しても消費者は『新商品のイヤホンが出たんだ』程度にしか思わない。普通に見えるけど普通じゃないって。そんな感じのするタレントを使って商品の特徴を表現したいと思ってるんだが……」

「普通に見えるけど普通じゃない、ですかぁ」

 斎木がカフェオレを口に運んで、しばし思案気味に黙り込んだ。

「じゃあ、濱中健太さんとかどうです? モデルデビューしてすぐに俳優に転向した、今若者に大人気の俳優さん。彼って、若いのに何か大物感あって、普通じゃないって感じしません?」

「有名人すぎる。どっちかって言うと、まだあまり名前の知られてない新人タレントの方がいいんだ」

「それは、ギャラの問題で?」

「まあ、それもあるけど。それよりも新鮮度の問題かな。イヤホンって言ってみればすでに世の中に溢れまくってる商品だろう? それを新鮮に見せるのに、タレント自身の新鮮さを利用したいんだ。それに、濱中健太じゃ、普通っぽいのにと言う部分にすでに当てはまらない」

「ああ、まあ、そうですね」

 部署違いなのに真面目にアドバイスしてくれる斎木には悪いが、その辺はすでに考え尽くした後だ。濱中健太はもちろん、テレビへの露出が少ないモデルの『MASAKI』や、彼の実妹でデビューしたての『SAYAKA』の起用も考えてみた。しかし、新商品のコンセプトにいまいちハマらない。

 コンペを経て採用を決めたコンセプトは、まだ三十にはならないと言う若い社長が率いる『MIRAI・Labo』という会社が提案したものだ。その会社が提案した「普通の若者が『リゾルト』のイヤホンを通した音を聴いて『覚醒』する」というアイデアに津田は魅かれた。『音』で『覚醒』する。それは、『音』にこだわり続けてきた『リゾルト』の真骨頂であるような気がした。

 しかし『覚醒』を表現するには、有名すぎるタレントは向かない。有名であるということは、言ってみればすでに『覚醒』しているのだ。『リゾルト』の『音』を聴いて初めて『覚醒』した印象を与えることができない。だから津田は新人タレントにこだわるのだが……。

「実は、いろんなタレント事務所にも声をかけて、紹介してもらった新人タレントのデータを朝からずっと見てるんだ。もう今日だけで百件以上は見たかな。正直目の限界で。ちょっと休憩って思ってここへ来たところなんだ」

「ああ、なるほど。だから、遠くを見てたんですね」

 斎木が小さく笑う。

 津田は、残っていたコーヒーを飲み干した。

「正直妥協したくないんだけど。……でも、理想ばっかりは追えないのが現実だからなぁ」

 津田は半ばぼやくように呟くと、空き缶をダストボックスに捨てた。

「じゃあ、俺はもう行くよ。話聞いてくれてありがとうな」

「いえ。お疲れ様です」

 斎木の爽やかな笑顔に見送られて休憩室を後にしようとした。その時、

「あ、そうだ。津田さん。いま、ちょっと思ったんですけど」

 そう言って斎木が呼び止める。

「津田さんが望むような、普通じゃない感じのする新人なら、デビューしたらすぐさま頭角を表しちゃうような気がするんですよね。だから、すでにデビューしてる新人タレントの中で探しても、津田さんの探し人は見つからないんじゃないですか?」

「じゃあ、どこを探せと?」

「CMオーディションをするのが手っ取り早いんでしょうけど。そんな金ないっていうなら、街中から探してくるしかないでしょうね」

 冗談なのか本気なのか。

 津田は小さく苦笑すると、

「心に止めとくよ」

 そう返して、今度こそ本当に休憩室を後にした。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) 1

「近頃、随分と楽しそうじゃないか」

 背後からかかった声に、加々美はぎくりとして歩みを止めた。

 振り返らずとも声の主はわかる。

 学生の頃知り合った付き合いの長い友人で、かつ、加々美の専属マネージャーを務め、いまや『アズラエル』の裏総裁とまで言われる男。––––高倉真理。その男の声を加々美が聞き間違えるはずがない。

 日頃からクールでポーカーフェイス。遣り手ビジネスマンである高倉は、口調も実に淡々としていて、良くも悪くも感情がこもらない。……はずなのだが。今日はやけにぞくりとするような冷たさを孕んでいる。それが気のせいではないことを確信しつつ、加々美はむしろ、にこやかな笑顔を浮かべて振り返った。

 大抵の者は、加々美がおおらかに笑ってみせれば、つられて表情を緩めるからだ。

「このフロアにいるなんて、珍しいな」

 しかし視線の合った高倉は、にこりともしなかった。

「俺がここにいたら、何か問題でも?」

 むしろ寒々しい視線を返され、加々美は心の中で苦笑する。

「……いや、全然」

 高倉が、自分に文句の一つや二つ、いや、三つも四つも言いたい心境なのは、よーくわかっている。だから加々美は、しばらく顔を合わせないようにしていたのだ。

 具体的に言うと、高倉の執務室にコーヒーブレイクしに行くのを当面見合わせていた、ということだが……。

「お前のために最新のコーヒーメーカーを入れたってのに、近頃ちっとも顔を見せないなんて。––––俺とお前の仲で、随分とつれないんじゃないか?」

「あー……」

 下手な返しは自らの首を締める。それがわかっているがゆえに、加々美は返答に迷う。

「この時期は、お前も忙しいだろうし?」

「べつに。忙しいのは年中同じで。この時期が特別忙しいわけじゃない」

 高倉の応えは素っ気なさすぎて取り付く島がない。

「そう……、だったかな?」

「ああ。だから、いまから俺の部屋に来て、コーヒーでも飲まないか? せっかく最新のコーヒーメーカーを入れたんだし」

「––––じゃあ、そうしようかな」

 表面上はにこやかに笑って見せる。

 逃げられない。

 加々美は、観念するしかなかった。

 

 

 

「俺はお前に、二度も裏切られた気分だ」

 高倉が淡々とした口調で加々美に恨み節をぶつける。

 最新のコーヒーメーカーで淹れたというコーヒーは、味に深みがあって確かに、うまい。

 ………が、やけに苦かった。

「これが一番の最善策だったんだよ」

 加々美はいっそ開き直ってそう言った。

 なんのことって? もちろん尚人との代理人契約のことだ。

「いろんなことを勘案すると『アズラエル』預かりの話は、簡単にはまとまらない。でも、尚人君のこれ以上の放置はできない。そんな状況でさ、尚人君を口説き落とすためには、俺の個人事務所預かりにするのが一番だったんだよ。雅紀だって渋々かもしれないが納得したし。それに、俺がするのはあくまで尚人君のやりたいことのサポートだしな。だから、もしかしたら、尚人君がこれからモデルをやりたいって思うかもしれないだろ? そしたら、そこから『アズラエル』にマネジメントを依頼するってことだって選択肢としてはあるわけだし。大学卒業後に入社って線もないわけじゃないだろ? まさにウィンウィンウィンじゃねえか」

「––––で、お前が一番美味しいところを持っていくってわけか」

「………それは否定しない」

 近頃加々美の頭の中を占めるのは、尚人をどこに連れて行ってやろうか。何を見せてやろうか。何を経験させてやろうか。そればかりだ。考えるだけでワクワクする。こんなに楽しいのは、雅紀を口説き落とした以来だ。

「で、早速、クリスがお前(エージェント)のところに交渉に来たみたいだな?」

「深夜二時に叩き起こされた」

 加々美はまさにウンザリとばかりに肩を竦めた。

「あのフットワークの軽さは尊敬するが、他人の迷惑を顧みないところは、誰かを彷彿とさせるよな」

 加々美はもう一人の腐れ縁の男を脳裏に浮かべる。

 あちらもあちらで、何やら尚人に入れ込んでいるようで、あの偏屈男が「受験が終わってからのお楽しみ」とやらの激励品を尚人に贈っていたと知ったときは、あんぐり開いた口が塞がらなかった。

 加々美の知る限り、そんなことをする男ではない。良くも悪くも『人』に興味がないのだ。––––今まではそう思っていた。

 しかし、正確にはそうではないのだろう。普段はネイチャー・フォトグラファーの伊崎だが、食指が動けば『人』も撮る。それ考えると、伊崎は感性が揺り動かされさえすれば何でも撮るが、その割合が『自然』であることが多い、というだけなのかもしれない。が、伊崎の尚人への関心は、それだけでは説明がつかない気もして。加々美的になんとなくもやっとする。だって、あの伊崎が、わざわざ人に何かを贈るだなんて。そんな感情がある男だとは、今の今まで思いもしなかったのだから。

 尚人の話では、伊崎にもらったのは無音の風景動画だったらしい。

「以前、カレルに友人たちと創作したっていう曲を送ってもらったことがあるんです。その曲は、伊崎さんの写真集にインスピレーションを受けて作曲したもので。曲を聞いてると伊崎さんの写真が頭に浮かんでくるような曲だったんですよ。だから、伊崎さんにも是非聞いて欲しくて、転送したんです。そしたら伊崎さん、写真とのイメージ・コラボっていう発想が新鮮だって言ってて。だから、今度はその反対って感じ? 音楽(クラシック)からイメージした風景動画撮ったけど、お前はどんな曲が頭に浮かぶって感じのメッセージが添えられてて」

(……何だそれは)

 伊崎は完全に尚人との関係(遣り取り)を楽しんでいるではないか。

「下手な答えは返せないから、いろんな曲を頭に浮かべて。映像にぴったりハマる曲はどれだろうって考えて。その時間がすごく楽しかったです」

 わずかにはにかみながらそんなことを言われれば、可愛いしかない。

 隣に座っていた雅紀のでれでれの表情が、ちょっと本気で見ものだった。

「で、クリスは何て言ってきたんだ?」

「日本以外でなら尚人君を使えるだろって」

 確かにその通りではあるのだが。

「尚人君は四月から大学生で、学業優先ってことで契約もしてるって説明しても、あーだこーだしつこくって。まったく、まいったぜ」

「で、お前としては。どうするつもりなんだ?」

「何を?」

「ここまで来てとぼけるつもりか?」

「そんなつもりはない。尚人君の件なら、尚人君の意思が最優先だ。それ以外にない」

 加々美はそう答えると、カップに残っていたコーヒーを飲み干した。

 

 

 * * *

 

 

 その日雅紀が仕事を終えて家に帰ると、ちょうど尚人が夕飯を食卓に並べているところだった。

「あ、雅紀兄さん。おかえりなさい」

「ただいま」

 エプロン姿でにっこり笑顔で出迎えられて、雅紀はほっこりする。

「タイミングばっちりだったね。天ぷらはやっぱり揚げたてが一番だから」

 事前に「帰るメール」をしていたから、時間を見計らって準備していたのだろう。食卓には、美味しそうに盛り付けられた野菜やきのこの天ぷらが並んでいた。

「着替えてくる」

「うん。待ってる」

 雅紀は荷物を抱えて二階の自室へ上がり、部屋着のスエットに着替えると洗面台で手を洗ってリビングに戻る。尚人と祐太がすでに座って待っていて、雅紀が着席すると「いただきます」と声を揃えて食事になった。

 尚人の揚げる天ぷらは、外はカリッと中はふわっとで本当にうまい。玄人はだしだ。以前聞いた話では、天ぷらを上手に揚げるコツは油の温度の維持と事前に衣をしっかり冷やすことらしい。何でもスーパーの惣菜コーナーを担当するパートさんが教えてくれたのだとか。尚人の人たらしは年齢性別を超えると、つくづく思う。

「で、今日の観劇はどうだった?」

 少し腹が落ち着いたところで雅紀が話題を振る。今日尚人は加々美に誘われて演劇鑑賞に行ったのだ。

 無事に大学に合格した尚人は、大学が始まるまでの今現在春休み。その期間を無駄にできないとばかりに加々美が早速あちこち連れ回している。加々美は尚人を連れ出すのに代理人(エージェント)であること盾にしているが、代理人(エージェント)は決してそんな存在じゃないと思うのは雅紀だけではないはずだ。……が、加々美の目的は最初から大手(おおで)を振って尚人をあちこち連れ回すことだから、肩書きなんてそれっぽければ何でも良かったに違いない。

 今日見に行くと言ってた演劇は、シェークスピアの作品を現代風にアレンジしたもので、脚本演出が今話題の『ショーケン』とあって、なかなかチケットが取れない人気の舞台らしい。

「すごかった」

 雅紀の問いかけに、尚人の目がキランと光る。

 これはよほど刺激的な体験だったのだろう。

「俺、演劇って見るの初めてだったんだけど。あんなすごい世界だったんだって、もうびっくり。舞台装置も大掛かりですごかったし、目の前で演じる役者さんの迫力もすごいし。なんかもう、すごいってしか言えない自分がもどかしくなるくらいすごかった」

(こりゃ、相当だな)

 雅紀は思わず苦笑する。

 尚人はどちらかというと、感情の起伏は小さい方だ。大抵のことには寛容で、落ち着きがある。幼い頃はそれが大人し過ぎると受け取られて祖父母には不評だったが、尚人は周囲の大人たちが思うよりもずっと大人だっただけだ。

 まあ、それに加えて、主張の激し過ぎる沙也加()祐太()に挟まれて空気を読むのに嫌でも()けてしまった、ということもあるのだろうが。

 こうでね。

 ああでね。

 そして、こうなってね。

 尚人の口は止まらない。

「へぇ」

「それは凄いな」

「それで?」

 雅紀が相槌を打つと、尚人がますます熱弁を振るう。

 その姿が可愛くて、雅紀の口元は緩みっぱなしだった。

 

 

 * * *

 

 

「ナオ、一緒に風呂入ろう」

 そう誘われて尚人は雅紀と連れ立って脱衣所へ向かう。

 さっさと服を脱ぎ捨てる雅紀を横目に、尚人はモゾモゾと服を脱ぐ。

 今更、と言われるかもしれないが、いつまで経っても雅紀の目の前で服を脱ぐという行為が恥ずかしいのだ。特に、脱衣所の鏡に、肉体美が眩しい雅紀と比べて貧相な自分の裸体が映ると余計羞恥心がこみ上げる。

(俺って、何でこんなにダメダメなんだろう)

 薄い。ひょろい。……なまっちろい。

 どう考えても、雅紀が自分と同じ年頃の時には、すでに「大人の男」の気配を漂わせていたように思う。

 中学に入ってからずっと剣道の鍛錬をしていた雅紀と、何もしてない自分とを比べること自体がおこがましいことかもしれないが……。

 高校を卒業し、これから大学生になろうかというのに、いつまでも「子供」ではいけないと思っているのだが。この体格だけはどうしようもない。

(何か運動したほうがいいのかな)

 高校の三年間、毎日片道五十分の自転車通学を続けたことで、持久力にはそれなりに自信はついたが。筋肉は全くつかなかった。

 まあ、自転車は足しか使わないから、体が筋肉むきむきになるはずもないのだが……。

(桜坂に体の鍛方教えてもらっとけばよかったかな)

 密かにそんなことを思ってしまう。

「ナオ、何してんだ」

 もたもたしてたら、雅紀に怪訝に声をかけられてしまった。

「……まーちゃん、先に入ってて」

 尚人がそう言うと、雅紀は何故かニヤリと笑った。

「脱ぐの手伝ってやろうか?」

「……大丈夫。自分で脱げる」

「じゃあ、ちゃんと出来るか見といてやるよ」

 不遜な笑みを口元の浮かべる表情を見るからに、これは完全に意地悪モードに入っている。

「ほらほら、早く」

「やっぱり一人じゃ出来ない?」

「本当は、俺に脱がせて欲しいんじゃない?」

 雅紀は、尚人を揶揄うように急かす。

 裸なんて何回も見られている。そんなことはわかっている。それどころか、自分では見ることが叶わない秘所の奥の奥まで雅紀には見られているのだ。––––それでも、……恥ずかしいものは、恥ずかしい。こればかりはどうしようもない。

 ちっとも視線を逸らしてくれない雅紀を前に、尚人は背を向けて下着をずり下ろす。これ以上もたつくのはかっこ悪い。そう思って潔く脱いだつもりなのだが。

「もう、ナオってば。もったいつけすぎ」

 裸になった尚人を、雅紀が背後から抱きしめてきて耳元で囁いた。

 その吐息に尚人の産毛が立つ。

 首筋がぞくりとした。

 肌と肌が触れ合って、雅紀の体温がダイレクトに伝わる。

 雅紀がべろりと耳たぶを舐めた。

「––––……んッ」

 吐息が詰まる。

 それが合図でもあったかのように、雅紀の手が尚人の下腹部に伸びた。

「まーちゃ……」

 こんなところで––––

 抗議の声は、重ねられた唇で塞がれる。

 顎に手を添えられて。半ば強引に上を向かされて。口内に舌をねじ込まれて、ねっとりとねぶられる。

 息苦しさと快感が交差して、尚人はあえぐ。

 容赦無く股間を揉みしだく雅紀の愛撫に尚人の射精感が(たかぶ)った。––––その瞬間。雅紀の手が突然離れる。

 急に訪れた喪失感。

 行き場を失った感情の昂りに、尚人が困惑の眼差しを雅紀に向けると––––

「ナオ、続きは風呂の中で」

 そう囁かれて、尚人は浴室へと引っ張り込まれた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) 2

 その日、『ミズガルズ』のメンバーはそわそわとある人物の到着を待っていた。

 今年結成十周年を迎える『ミズガルズ』は、これから一年、色々なイベント企画が目白押しで控えているのだが、その中でも今日のこの企画はメンバー全員が最も楽しみにしているものの一つと言って過言ではない。

 なぜなら、今日の仕事の相手が、篠宮尚人だからだ。

 『ミズガルズ』メンバーと、カリスマモデル『MASAKI』の実弟、篠宮尚人との出会いは二年近く前のこと。最初に駄目元で『MASAKI』にオファーして、思いがけずミュージック・ビデオに出演してもらえた時、その理由が「弟が『ミズガルズ』の大ファンなので」と言う意外すぎるものだった時から、メンバー全員『MASAKI』の弟への興味関心はあったのだが、実際に会えたのは『MASAKI』に二度目のオファーを受けてもらえた時。アキラがしつこくしつこく、それはもうしつこく、「それって逆効果じゃ?」と思ってしまうほどにしつこく、新曲のレコーディングに弟込みでの見学に誘った時のことだ。『MASAKI』と共に噂の弟がスタジオに現れた。

 その時の、尚人の男子高校生とは思えない可愛らしさと、スレてない素直さと、初対面なのにしっくり馴染んでしまう穏やかな雰囲気に、メンバー全員がやられた。その後は突発ライブに『MASAKI』共々招待し、––––というか、メインは完全に尚人だったのだが––––、ライブ後の楽屋では『リョータ』とも引き合わせた。尚人が『ミズガルズ』の曲の中で一番好きなのが『リョータ』が実体験をもとに作詞した曲『赤と黒のイリュージョン』だと言っていたからだ。

 と言っても、『ミズガルズ』の曲は表向き『トーゴ』が作詞していることになっている。『リョータ』が表に名前を出すことを嫌がったからだ。なので、『ミズガルズ』六番目の男の存在を知るのは、本当に極々わずか。そんな裏事情を知らされたせいもあるのだろう。『リョータ』と対面した時の尚人は、緊張でガチガチになって、耳の先まで真っ赤にして、声も上擦っていたが、その姿が(かえ)って可愛らしくて、『リョータ』もあっという間に尚人にメロメロになっていた。

 実はこれはまだ内々の秘密の話なのだが、その時の尚人との出会いに思うところがあったのか、『リョータ』は尚人との対面後、一遍の詩を書き上げた。『リョータ』の紡ぐ言葉には、いつも自身の実体験がベースにある。飲酒運転の車にぶつけられて家族を失い、自身も車椅子生活を余儀なくされることになった。その実体験。人を恨み憎み、人生を悲観し絶望し、もがき苦しみ、そこから生まれてきた言葉たち。それは『リョータ』自身を慰撫し、聞く者の心を揺さぶってきた。

 その『リョータ』が今度は尚人という存在にインスパイアされる。

 今はそれに曲をつけている段階だ。

 

 

νありふれた不幸

 他人事の同情

 残酷な気休め

 当たり前の日常が崩壊する音を聞く

 

ν生と死の境

 無慈悲な現実

 足下の奈落

 平凡な日々が突然終了する声を聞く

 

ν泣きたいのに泣けない

 辛いのは自分ばかりではないと知っているから

 叫びたいのに叫べない

 苦しいのは自分ばかりではないと知っているから

 

ν必要なのは救いじゃない

 求めているのは慰めじゃない

 嘆いても仕方ない

 諦めではない

 強がりでもない

 そこにあるのは覚悟

 

ν青く澄んだ空の下

 大地に咲く一輪の花

 可憐さに気品を纏い

 凛としてしなやか

 美しいのは孤独を知るから

 穏やかなのは本当の悲しみを知るから 

 

ν一条の光に手を伸ばし 青空に向かって羽ばたく

 自分の足で大地を蹴って 力強く飛び出す

 今こそ覚醒の時 向かうは未来

 

ν悲しみは抱えたままでいいと気づいたから

 寂しさを忘れる必要はないと気づいたから

 

 

「尚君まだかなぁー」

 控室でアキラがもう何度目かの言葉を呟く。

 遅刻魔のアキラにしては珍しく今日は一時間も前からスタンバイしている。その様子はまるで遠足が待ちきれない幼稚園児だ。

 今日予定されているのは、十周年を記念して発売されるDVD BOXの予約特典の収録。DVD BOX自体に収録する特典(オマケ)PVは『MASAKI』出演で伊崎が撮ることが決まっているが、それとは別に、予約特典として配布する小冊子に付属のQRコードを読み込むことで、期間限定の「収録現場スタジオ紹介」なる映像が見られる計画になっているのだ。ファンのための「メンバーの素顔紹介」みたいなものだが、その素材撮りに「せっかくならファン目線を意識したカメラワークにしたい」とメンバーの中から声が上がり、「だったらファンにカメラつけて撮影するのが一番じゃん?」「だったら尚君に撮影協力をお願いする?」と言う運びになり、なんだかんだでマネージャーの瀬名がうまいこと話をつけてくれたようで、尚人に協力してもらえることになったのだ。

「瀬名さんもたまにはやるじゃん!」

 とメンバーの間でマネージャーの株がバク上がりだったが、メンバーに無茶振りされる→先輩の高倉に泣きつく→高倉が加々美に話を持っていく(この時点で既に尚人の代理人(エージェント))→加々美が尚人に仕事のオファーが来たと話をする→初仕事に尚人が舞い上がる、と言う流れになっていたとは、この時はメンバーも瀬名も知らない。

「尚人さん到着されて、今控室で準備中です」

 瀬名が控え室にひょっこり顔を覗かせる。その伝言にアキラが目をきらっと輝かせて立ち上がった。

「尚君、来たーーー!」

「あ! アキラさん、待ってください! 尚人さんがこちらへ来る予定なんですから!」

 控室を飛び出して行くアキラに瀬名が慌てて声をかけたが、アキラの姿はあっという間に廊下の向こうへ消えた。

 

 

 * * *

 

 

 加々美に連れられて尚人は某音楽スタジオへやって来た。

「篠宮尚人です。今日はよろしくお願いします」

 尚人が深々と頭を下げると、出迎えてくれた男性はにっこりと微笑んだ。

「『ミズガルズ』マネージャーの瀬名です。こちらこそ、よろしくお願いします」

 今日は、加々美と代理人契約を締結してからの初仕事。記念すべき第一回が『ミズガルズ』との仕事とあって、尚人は朝から気合が入っていた。

 今年結成十周年を迎える『ミズガルズ』は、記念DVD BOXの発売を予定しているのだが、その予約特典として「収録現場スタジオ紹介」の映像を期間限定で見られるようにする計画らしい。ファンには嬉しい「舞台裏のメンバーの素顔見せちゃいます」みたいなものだ。

 その映像を撮るのに、「せっかくならより『ファン目線』に近い感じで撮りたい」とメンバーから要望があがり、「それならば」ということで、ファン代表として尚人に白羽の矢が立ったようだ。メンバー全員と面識のある「がちファン」と言うところが良かったらしい。

 控室に待ち構えていたスタッフに尚人は小型カメラを付けられる。こめかみ横に装着することで、より目線に近い映像が撮れるのだと言う。

 控室に用意されているモニターでスタッフがカメラの映りを確認している。

「リアルな映像が欲しいので、普通にしててもらって構いませんから」

 受けた注意事項はその程度だった。尚人の声は全てカットされる予定だから、喋るのも自由にしてもらって構わないと言われた。

 ただ「普通に」と言われても、何が「普通」なのかが疑問だが。

(よし、とにかく頑張ろう)

 尚人が心の中で自分にエールを送っていたその時だった。

「尚君! 久しぶりー!」

 控室に元気な声が響いた。

 その声に尚人が振り返ると、バーンと開け放った扉の所にアキラの姿あった。

「あ、アキラさん、お久しぶりです。お元気でしたか?」

「元気、元気。ちょー、元気! 尚君は? 元気だった?」

「はい、おかげさまで」

「今日会えるのめっちゃ楽しみにしてた」

「俺もです。今日はよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくー」

 アキラに手を差し出され、尚人はおずおずと握手する。

 初めてではないが、何度しても感動ものだ。

「あの、昨日放送の『ミュージック・エイト』面白かったです。––––魚の三枚おろしに初めて挑戦した話をされてた」

「あ、あれ。放送昨日だったんだ」

「はい」

 『ミュージック・エイト』は夜八時放送の人気音楽番組だ。ランキングや楽曲の紹介だけに留まらず、司会者と出演アーティストが結構長めのトークをするのが特徴で、そのトークで司会者が音楽とは全く関係のない話題を振って、トークに慣れないアーティストがあたふたと答える中で意外な一面がポロリと露呈するのが人気の理由だ。

 昨日のゲストが『ミズガルズ』で、受験期には録画でしか見られなかった番組だが、春休み中とあって尚人はリアルタイムで放送を見た。

 司会者に「今ハマってるものは?」と聞かれてアキラが「料理」と答え、先日初めて魚の三枚おろしに挑戦した話をしていた。ネットにアップされている動画を見ながら挑戦したらしいが、結果は散々で、

「やっぱ、参考にした動画で捌いてたのがイカだったのが失敗だった」

 と言うオチがおかしすぎて尚人は腹を抱えて笑った。

 というか、今思い出してもちょっと笑いがこみ上げる。

「あー、尚君。思い出し笑いしたいの我慢してるでしょ?」

「だって、アキラさんのトーク、面白すぎです」

「尚君にそんなに受けてたって知ってたら、あの後祝勝会すべきだったなぁ」

「何言ってんだ。あの後も、ふつーに飲み行ったろ」

 他のメンバーもゾロゾロと室内に流れ込んでくる。その後ろで瀬名がなぜかひとりワタワタしていた。

(……って、あれ? 打ち合わせで聞いた話じゃ、俺がメンバーの居る控室に会いにいくんじゃなかったっけ?)

 尚人は心の中で小首を傾げたが、

(ま、いっか。普通にしててくれって言われたし)

 尚人はすぐに開き直って、メンバーとの久々の再会を喜び、雑談に花を咲かせた。

 その後、メンバーに案内されてスタジオに入り、収録風景––––といっても、今回の撮影用でガチ収録ではないが––––を見学した。それから、サプライズでドラムを叩かせてもらったりした後に、

「腹減ったから、飯食いに行こーぜ」

 の言葉で、撮影終了かと思ったら、ディレクターが

「ぜひ、そこまで撮影しましょう」

 となって、尚人はカメラを付けたままメンバーと同じ車に乗り込み、メンバー行きつけだと言う中華料理屋でたらふく中華を堪能した。

 朝の十時から始まった撮影は、何だかんだで午後三時の終了となったが、尚人的に本当にあっという間で、仕事というよりも、終始特別なファンサービスを受けたような感じだった。最後にはメンバーと記念写真まで撮って握手とハグで別れた。

 尚人の記念すべき初仕事は、こうして無事に終了したのである。

 

 

 * * *

 

 

「瀬名さん、お疲れ様でした」

「井芹さんも、名川さんも、今日はお世話になりました。どうでしょう? 使えそうな映像撮れましたか?」

 素材撮りが何とか終了して、瀬名は今日の撮影スタッフに丁寧に頭を下げる。いろんな人のサポートがあって初めて成立するのが音楽活動だ。特に商業的に成功させるためには、業界人に嫌われてしまうのは致命的で、マネージャーは人間関係には殊更気を使う。

「彼、すごくよかったですよ」

 ディレクターの井芹が白い歯を見せて笑う。

 井芹は人当たりが良い方だが、この表情はお世辞ではない。

「最初、素人って聞いて大丈夫かなって心配してたんですけど。彼がすごく自然に会話するから、メンバーも終始リラックスして、いい表情見せてたでしょ。声カットするって言ってたけど、あのトークカットするのもったいないなって思う場面がいくつもあって。あと、一番驚いたのが彼の姿勢の良さっていうんですか。一応カメラにブレ補正機能ついてるんですけど、それでも普通の人が歩いてる映像って、どうしても小刻みに上下に揺れて、それずっと見てると酔うんですよ。でも、彼が付けてる映像全然ブレがなくて。本当にウェアラブル・カメラで撮ってるのかなって思っちゃうくらいで」

「はぁ……。そうなんですね」

「オマケ動画なんだから、五分もあればいいかなって思ってたんですけど。使いたい場面が一杯あって。これじゃ、逆編集泣かせもいいとこですよ」

 そう言って笑う井芹を眺めながら、瀬名はただただ今日の仕事が無事に終了したことに安堵していた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) 3

「篠宮? 翔南高校の篠宮尚人だよな?」

 その出会いは突然だった。

 その日尚人は、入学手続きのために大学キャンパスを訪れていた。

 人のごった返す会場であたふたしながらも何とか諸手続きを終え、自分のクラスが示されたブースに入った時だった。

「俺のこと、覚えてない?」

 そう言って親しげに声をかけて来た人物は、どことなく『アズラエル』の統括マネージャー高倉に似たイケメンで。尚人は見覚えがあるようで思い出せない。

「あの……」

(誰だっけ?)

 自慢じゃないが尚人の交友関係は狭い。中学までは家庭事情が影響して親しく付き合う友人などおらず、高校でもほとんど家と学校を往復するだけの生活だった。そんな中でも親友と呼べる存在が出来て充実した学校生活を送ることができたのは本当にラッキーだった、というのは今は関係ない話で……。相手が翔南高校生でないことだけは確実だ。翔南高校からの東大現役合格者は尚人の他に三人いて、全員クラスは違うが顔はわかる。

 ということで、翔南高校生以外の同い年の知り合いとなれば、メル友のカレルぐらいしか思いつかない尚人だが––––

(んー、どっかで会った気がするんだよなぁ)

 喉の奥に魚の小骨が引っ掛かっているかのようなもどかしさ。そんな尚人の様子を見て、なぜか相手はにやりと笑った。

「俺、青山清峰の」

 そう言われて、尚人はハッと思い出す。

「即興英語ディベート大会決勝の––––」

「そう!」

「第二スピーカだった!」

「そう、その鷺原亮司(さぎはらりょうじ)! ここでまさか篠宮に再会できるなんて、すっげーうれしい。よろしくな」

「こちらこそ、よろしく」

 誰なのか解ったスッキリ感に、尚人は差し出された手を握り返して握手する。

 意外な再会がここで待っているなんて思いもしなかった。

 尚人が、杉本、清田という同級生二人に誘われて、高校生即興英語ディベート大会に出場したのは去年のこと。尚人たち三人は、チームワークを武器に地区大会を突破して全国大会へと駒を進め、さらには全国の舞台でも快進撃を続けて決勝へと勝ち進んだ。その決勝戦の対戦相手が、前回大会の優勝校であり、かつ過去三回の優勝経験を持つ強豪、青山清峰高校だったのだ。

 その第二スピーカだった男、––––鷺原亮司。……名前は今知ったが。

「篠宮と(おな)クラになるなんて。合格発表の時より興奮するな」

 鷺原が口角をくいっとあげる。

 スタイリッシュな銀縁メガネのせいか、記憶にあるより随分大人びて見えた。

「俺さ、あの時の篠宮のスピーチが衝撃的過ぎて。あの後結構引きずったんだぜ」

「そう、……なの?」

 尚人は言われて、去年の夏の事を思い出す。

 八月初旬に行われた全国高校生即興英語ディベート大会。その決勝。論題のテーマは『世界的な人口爆発を解決する手段として火星移住計画を本格的に推し進めるべきである』だった。

 聞いた瞬間、尚人の頭の中にいろんなことが駆け巡った。関連する知識や情報のみならず、肯定意見も否定意見も湧いて出て、尚人は一瞬のうちに頭の中が満杯になった。混沌とした脳内。その整理を杉本や清田との会話の中でおこなって、自分たちの意見を構築する道筋を立てているその最中、清田が言った。

「こちらの弱点は、火星移住を実現させようとしたら費用がかかり過ぎるという問題にどうしたってぶち当たる点だ。その弱点をカバーするために、あえて具体的数字は相手に言わせる。自分の言った言葉は引っ込められない。それを逆手に取る」

 その時尚人は、ディベートの真骨頂を見た気がした。

 ディベートとは、論破するのではない。自分たちの主張を補強するのに、時には相手の言葉をうまく利用すること。論点が平行線になっては意味がなく、弱点さえも利用して自分たちが望む議論展開へと誘導すること。それが大事で、最終的に観衆の心を動かした方が勝ちなのだと。ディベートとはそういうものなのだと。改めて清田に教えられた気がした。

 だから尚人は、杉本や清田の主張を補強しつつ、相手の言葉の無力化、に心血を注いだのだ。相手の主張は所詮問題を他人事にしようとしているという印象を観客が持てば、こちらの勝ち、だと思ったからだ。

 人は、実現可能な意見にのみ心動かされるわけではない。

 それが功を奏したのかどうかはわからない。ただ結果は、勝ち、だった。

「二連覇狙ってたしさ。途中までは、いけたって手応えもあったし。でも、最後の最後で全部一人で持ってったって感じだっただろう? 観客も審査員も全員の視線を釘付けにしてさ。こんな高校生いるんだって茫然自失。しかも大会初の完敗だろ。涙も出ないって心境だったんだぜ」

 尚人は鷺原の言い様に苦笑(にがわら)いする。あの時は優勝できた喜びと安堵感で一杯で、相手校の生徒がどんな思いでいたかなんて想像すらしなかったが。改めて聞かされると何とも複雑だ。

 ただ、あの経験があったからこそ、尚人はこの大学の受験を決めたのだ。その時限りだと思った出会いがここに繋がる。何とも不思議な気分だった。

「決勝トーナメントが始まったぐらいから、翔南の三番手はやばいって噂が流れて来てさ。それで準決勝観戦したんだ。で、その時は、確かに英語の発音綺麗だし、これまでにない切り口のまとめ方するし、とは思ったけど。やばいの意味がそこじゃないって気付かなかったんだよなぁ。それで、決勝でいきなりのオーラ全開だろ? 反則じゃん? って感じ? あの時の篠宮、完全にカリスマ入ってたからな」

 ?

 尚人は、はたと首を傾げる。

 何となく、鷺原と噛み合ってない気がする。

 鷺原が引きずったのは、自分たちの言葉が逆手にとられたことではなくて?

 「コストの面から非現実的」という意見を「的外れ」にしてしまったことではなくて?

 「問題の根本をわかっていない、机上の空論」といった言葉を、そのまま暗に返したことではなくて?

 カリスマ? 誰が?

(んー、確かにあの時、まーちゃんも来てたけど?)

 頭の中に疑問符が残りつつも、尚人はひとまずさっくりと無視をした。

「で、鷺原君は、俺に文句言うために声かけたの?」

「んなわけないだろ。偏屈な自覚はあるが、そこまで狭量でもない」

(そうなんだ)

 尚人は心の中で苦笑する。

 見た目はクールな高倉で、中身は何となく俺様気質な伊崎といった感じだ。

「篠宮みたいなやつと初めて出会ったからさ。大会直後はショックで茫然としたけど、冷静になったら、今度は何で連絡先交換しなかったんだろうって、それがショックで」

 鷺原が一旦言葉を切った。

〔あんなやっべー奴と何で友達にならないまま別れたかなーって、ずっと後悔してたんだ。––––完全に片思い〕

 尚人はぷっと吹き出す。

 何で急に英語? と思ったが、日本語では気恥ずかしすぎて言葉にできなかったのかもしれない。しかし英語とは言え、そんな臭いセリフを真顔で言うそのギャップが何となくおかしかった。

「じゃあ、改めてよろしく。鷺原君」

「呼び捨てでいいって。同期だろ」

「わかった。じゃあ、鷺原って呼ぶね」

 右も左も分からない大学生活の始まりにドキドキしていた尚人だったが、あっという間にできてしまった友達? に、ひとまず安堵する。

 尚人の大学生活の第一歩はこうして始まった。

 

 

 * * *

 

 

 外回りがひと通り終わって、津田は休憩しようとコーヒーショップに立ち寄った。カウンターでホットのブラックを注文し、商品を受け取って窓際のカウンター席を確保する。平日の昼間だったが、店内は思いのほか賑わっていた。

(あー、そういえば春休み期間か)

 学生と(おぼ)しき若者が多い客層をチラリと見やってそんな時期だったと思い出す。社会人に春休みなんてものは存在しないので、春休み、の響きがなんとはなしに懐かしい。

 眼下の通りを眺めれば、こちらもまた若者が目立つ。これから新生活が始まるのだろうか。何となく誰も彼もが浮き足立って見える。

(俺も、初めて上京した時はわくわくしたよなぁ)

 津田は、行き交う若者の姿を眺めながら、もう十何年も前のことを懐かしく思い出す。

 津田は九州の出身で、大学進学のために上京した。……というよりも、東京に出たくて志望校を決めた。東京の私大に進学したいと両親に告げたとき特に反対はされなかった。一応、有名私大と言われる部類の大学だったからだろうか。合格した時はとても喜んでくれた。

 しかし……

 父親は普通のサラリーマン、母は専業主婦。地元では一般的な家庭で特に裕福と言うわけではなく、今考えれば子どものために仕送りするのは大変だったはずだ。だが当時はそんなことには考えも及ばず、有名私大に現役で合格した自分はむしろ親孝行な息子だと思っていた。それに、バイトもせずに学生生活をエンジョイできるほど潤沢な仕送りをもらっていたわけではない自分は、どちらかと言えば苦学生ぐらいな気分でもいた。

 私大の高額な授業料を全額出してもらっていたにも関わらずだ。

(今考えると、世間知らずもいいとこだよなぁ)

 高校生の時は「地方の大学を出たって意味がない」そんな風に考えて東京の大学にどうしても進学したかったが、別に地元大学を出てたら今の会社に絶対入れなかったかと言われれば、そんなことはない。一緒に働く同僚の中には地方大学出身者も結構いる。

 まあ、だからと言って自分の進路選択が間違っていたとまでは思わないが––––。

 親に甘えた。それは確かだ。しかし大学の四年間はとにかく楽しかった。行きたくて行った大学。それもあるし、地元では出会えないような面白い奴らが大学にはいっぱいいた。そんな出会いも含めて人生の財産。そう思える。自分の世界が広がった。それに価値がある。

 それに『リゾルト』への就職を決めたのも、「元々ファン」というのもあるが、上京して間もない頃に、偶然『リゾルト』本社を目にしたことが大きなきっかけだ。

「うわ! 『リゾルト』の本社って、ここにあるんだ!」

 その時の妙なテンションとともに、『リゾルト』に就職したいという思いが込み上げて。津田はその思いだけで突っ走ったようなものだ。

 そして今、改めて思う。

(俺ってやっぱり『リゾルト』が好きだよなぁ)

 正直会社は今結構なピンチだ。パソコン事業の失敗はかなり厳しい。株価はずっと右肩下がりで、スマートフォンアプリのコメント欄には批判的なコメントしかない。そもそもそんなアプリにコメントするようなユーザーは、ほんのちょっとの乱高下にも一喜一憂するにわかトレーダーなので気にする必要なんてないのだが。そうとは思いつつも、ついつい見てしまう。

 自分が好きなものは少しでも褒められたいのが人の心理だからだ。

(いや、単に俺の願望か……)

 そんなどうでもいいことを思いながら、津田は目の前を行き交う若者の姿に、ふと先日斎木とした会話を思い出す。

 ––––すでにデビューしてる新人タレントの中で探しても、津田さんの探し人は見つからないんじゃないですか?

 ––––CMオーディションをするのが手っ取り早いんでしょうけど。そんな金ないっていうなら、街中から探してくるしかないでしょうね。

(まあ、その通りっちゃ、その通りだよなぁ)

 とはいえ、お目当ての若者がそんな簡単に見つかるなら、その手の事務所のスカウトマン達は苦労しないだろう。会った瞬間きらりと光るものを持っていると確信させるようなオーラを持つ者なんて、そうそうはいない。だからこそモデルだってタレントだって、大々的なオーディションをして何万人という中から一人を選び出すのだ。

(でも、まあ。友達と街中歩いているときにスカウトされたのがデビューのきっかけ、なんて話してるタレントも結構いるよなぁ)

 モデルの『タカアキ』は確かその口だ。一方で一般人の方が先に見つけて話題になるタイプもいる。今一番旬の俳優濱中健太がこのタイプだ。一般人のSNS上で「めっちゃかっこいい高校生いる」というのが話題になって、その情報をキャッチしたモデル事務所最大手の『アズラエル』と、傘下グループの連携によって芸能業界を牛耳る『イグニス・プロダクション』とが、熾烈なスカウト合戦を繰り広げたというのがまことしやかに流れる噂だ。

 その一方で、濱中健太がモデルとしてデビューしながらすぐに俳優に転向したことから、『アズラエル』はそもそも本気じゃなかった、何て噂も聞く。『アズラエル』はタレント部門も持ってはいるが、本業はモデル事務所。濱中健太がモデルとしての素質十分だと見たら、あの『加々美蓮司』が直接動いたはずだ、というのが理由らしい。

 そんな噂が流れるのも、カリスマ・モデルとしての地位を不動のものとする『MASAKI』の素質に惚れ込み直接口説いてデビューさせたのがモデル界の帝王加々美蓮司だというのは有名な話だからだ。しかも、同じ事務所で上下の関係ができてしまうことを嫌って、わざと他事務所に預けるという掟破りまでするほどに、加々美蓮司が『MASAKI』を特別可愛がっているのは業界では有名な話。仕事柄芸能界の情報もちょくちょく耳に入る津田も、その程度のことは「常識」として知っている。

 近頃では、その『MASAKI』の弟を巡ってスカウト合戦が繰り広げられているらしい。『MASAKI』といえば一昨年の騒動でプライベートが丸裸にされたようなものだが、その時一緒に話題になったのが『MASAKI』が何より大事にしている弟だった。マスコミが弟に近づく気配を見せた途端『MASAKI』の逆鱗に触れ、それによって実際に業界から姿を消した者もいるのだとか。しかし『MASAKI』が大切にすればするほど、人々の興味を引きつけてしまうという皮肉。あの『MASAKI』がそれほどに大切にするのだから、弟はよほどの逸材に違いない。そんな感じに。津田は実際『MASAKI』の弟を見たことはないし、どんな人物なのかも知りはしないが。『MASAKI』の弟、というだけで話題になってしまうということはそういうことだろうと思っている。

(妹はオーディション組だしなぁ)

 『MASAKI』の実妹『SAYAKA』は、すでにモデルとしてデビューしている。確かに『MASAKI』に似たところがある正統派美人だ。あれほどの美人ならば、よくスカウト場所として話題に上がる渋谷あたりを歩けば、すぐさまその手のスカウトマンに声をかけられそうだが。それでもデビューのきっかけはオーディションだった。

 まあ、ひょっとすると、オーディション参加は実力でデビューしたと印象付けたい一種のパフォーマンスだった可能性もあるが。総合四位という結果ながらモデル事務所最大手の『アズラエル』に入ったのだから、最初からその筋書きがあったと言われても不思議はない。何しろ芸能という世界はイメージが何より大事で、一人を売り出すために大々的な出来レースの公開オーディションを開催することだってある。

 しかし津田は、それを滑稽だなんて思わない。

 どんなに良くても、その良さが大衆に伝わらなければ売れない。それは人であっても、物であっても基本は同じ、と思うからだ。

 だから、良さを伝えるための方法はとても大事なのだが、成功のメッソドはあるようでない。そもそも成功の方程式があるのなら、誰だって使うだろう。

 あの手この手の仕掛けをしても大衆の心に響かないこともあるし、製作費などほとんどかかっていないようなチープなコマーシャルが受けてヒット商品になることだってある。今はどの企業だって宣伝のためにそれほど金をかけたくないが本音だ。だが、それでも金をかければそれなりに見栄えのする物ができるというのも事実であるがゆえにバランスに苦慮する。出来るだけ金をかけずにクオリティーの高いものを。それを求めると、自ずと自社社員が走り回ることになる。

(自分で街中から見つけてくる、かぁ……)

 もし本当にそんなラッキーに出会えたら、どれほど良いだろう。

 例えば、こうしてたまたま入ったコーヒショップで、窓の外をぼんやり眺めていたら、目の前を通り過ぎる数多の若者の一人に突然視線が引き付けられて、そのまま釘付けになって。はっとして。

 ああ、彼こそ俺が探していた人物だ!

 確信して、慌てて店を出る。人を縫うようにかけ走って、若者を追いかけて。

 そして、肩を掴んで声を掛ける。

「ねぇ、君。コマーシャルに出てみる気ない?」

(それじゃぁ、不審者だな)

 津田は自分の妄想に苦笑する。そもそも発想が陳腐すぎて滑稽だ。

(馬鹿なこと考えてないで、会社に戻るか)

 津田は残っていたコーヒーを一気に飲み干すと席を立った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) 4

 朝はトースターで焼いた食パン一枚に茹で卵。

 大学生になって一人暮らしを始めた鷺原亮司の食生活は、実家暮らしの頃と比べて一気に質素になった。

 引っ越してきたばかりの時は、はまって自炊しようと思っていたのだが、ネットでレシピを検索すれば、一つの料理を作るのにも意外とたくさんの食材が必要だったし、調味料も揃えないと作れない。効率よく献立を考えないと、かえって高くつきそうで。何より今まで料理をしたことがなくて「包丁がうまく使えない」という壁に当たってあっさり諦めた。

 今は惣菜も冷凍食品も種類が豊富で、それを活用すれば食に困ることはない。昼は大学の学食を利用すればいい。その方が時間も有効活用できる。––––が、当然財布には響く。親からの仕送りだけではけっこう生活が厳しいのが現実だ。

(はー。やっぱ早めに、割のいいバイト始めるしかないなぁ)

 できれば家庭教師はごめん(こうむ)りたい。性格的に無理なのだ。理解の遅いやつを相手にするとイライラする。絶対教師に向かない性格だ。だからと言ってバイトの王道コンビニスタッフとかファストフード店スタッフなんてのもやりたくない。低賃金でこき使われるなんてまっぴらごめんだからだ。

 大学の授業の始まりは、朝の八時半から。しかし今日受けなければいけない授業は二限からで、鷺原は十時少し前に家を出た。

 大学まで歩いて十五分。ちょうどいい時間に教室に着く。

 教室に入ると、鷺原は目当ての人物をすぐに見つけて隣に座った。

「よう、篠宮。おはよ」

「あ、鷺原。おはよう」

 篠宮がにこやかに笑って挨拶を返す。

 挨拶が爽やかすぎる。

 今まで、こんなににこやかで爽やかに挨拶する奴に会ったことがない。

 逆隣りにはすでに、あっという間に篠宮にべったりになった同クラの安藤という男が座っていた。何でも利用する電車の路線が同じらしく、毎朝電車の中で一緒になるらしい。

 本日一発目の授業は東大生でもつらいと評判のALESAだ。英論文の書き方を学ぶ授業で、授業は全て英語でおこなわれ配付される資料も英語で書いてある。回答も質問も当然全部英語でしなければならず、最終的には英語で論文を書いて提出しなければならない。

 これまでの授業はざっくり言うとガイダンス。参考文献の見つけ方や題材の決め方などについての説明があった。

 鷺原は幸い英語は得意。高校生の頃、即興英語ディベート大会に出るために頑張った甲斐がある。英語が理解できさえすれば授業内容的にはそこまで高度ではないのだが、英語を聞くのも読むのも一苦労という学生は、そもそも教師が何を言っているのかについていけず、資料もちんぷんかんぷんといった感じで。最初の授業ですでに死んだ顔をしたやつが半分くらいいた。

 受験英語(ペーパー)対策だけをやってきた連中は所詮そんなものだ。

 そんな中、さすが篠宮はちがう。どうしてもついていけない奴のために授業中こっそり同時通訳なんてしてやっている。教師が全く日本語ができない外国人なので気付いていないが、日本語がわかる教師だったら「通訳されたら英語で授業する意味がない」と怒るかもしれない。

 しかし、篠宮に救われている学生は結構いて、篠宮の近くの席は大人気だった。

「ねー、鷺原君。席変わってくれない。君、英語得意でしょ?」

 そんな図々しいお願いをしてくる奴がいるぐらいに。

 当然、素気無(すげな)くお断りだ。

 今日の授業から、文献の引用の仕方や論文構成に関する説明に入り、書く作業に慣れることを目的に、授業中も結構英文を書かされた。今まで篠宮の通訳で凌いでいた連中は、青ざめた顔をしながら変な英文を必死に書いていた。これからは毎時間レポートが課されるという。教室のあちこちから、深いため息が響いた。

 授業が終わって、篠宮と連れ立って学食へ向かう。そこに当然の顔をして安藤がくっついてくる。すっかり日常になりつつある学食での昼食は、鷺原が篠宮を誘ったのがきっかけだ。弁当を持参していると言う篠宮は最初学食で弁当を広げることに気が引けている様子だったが、何度か繰り返すと慣れた。今では、鷺原が注文に行っている間に席を確保してくれている。

 今日は『チキンおろしダレ』に『ツナ豆サラダ』をつけた。はっきり言って、昼飯が唯一まともな栄養源だ。朝と夜は、「とりあえず腹に入れば何でもいい」の生活をしている。

 丼物にしたらしい安藤が先に席に着いていた。

「あ、今日はチキンにしたんだ。美味しそうだね」

 篠宮が鷺原のトレイに目を向けてにこやかに微笑む。そういう篠宮の弁当は、いつも彩りが良くて本当にうまそうだ。

 はっきり確認したことはないが、篠宮の弁当はおそらく自作。篠宮のプライベートについては高校生の頃散々メディアが垂れ流しにしていたので記憶にある。両親のいなくなった家庭で、家事を一手に引き受けているのが高校生の次男だと言っていたはずだ。とはいえあの頃は、全く知りもしない他人の話だったで「世の中には、こんな家もあるんだな」と思った程度だが。

 おそらく同クラの連中で、篠宮があの篠宮だと気付いている奴はいない。会話を聞いているとそれがわかる。あの騒動を知っていれば聞くのを遠慮しそうなプライベートなことを質問したりするからだ。おそらくは、篠宮の見た目から悲惨な子供時代なんて微塵も感じないから、というかむしろ、良家の令息(お坊ちゃん)の雰囲気すら醸しているので、思いもしないのだろう。あるいは、勉強ばかりしていて世間のゴシップニュースなど全く見ていなかったか。

 そして篠宮はというと、答え難い(プライベート)質問は、不自然でない程度にさりげなく流す。その姿に鷺原は、同年代にはない篠宮の以外な『大人の姿』を見る。それと同時に、すごく人当たりが良くて誰とでも友達になれそうな雰囲気の篠宮が、案外他人との付き合いにおいては、踏み込ませない一線をきっちり引いているのだと見せつけられた思いだった。

 鷺原が、篠宮があの篠宮だと知っているのは当然、高校生即興英語ディベート大会で顔を合わせたからだ。その時にはすでに、カリスマモデル『MASAKI』の弟が翔南高校に通っているというは有名な話で、その翔南高校のメンバーの一人が篠宮という名前だと聞けば、当時は誰でも最初に「それって、あの?」と連想した。それに決勝戦の時は会場内に噂の兄の姿もあって、そのせいで大会終了後の女子の騒動が凄かった。

 ––––近くで見たい!

 ––––一緒に写真撮りたい!

 ––––握手してほしい!

 騒ぎまくって講堂(会場)周辺を探し回っていたが、当の本人はどうやら裏口を使ってさっさと帰っていたようで、遭遇接近は不可能だったようだ。応援メンバーの中には、優勝を逃したことよりもあからさまにそっちを残念がる女子もいた。

「なあ、篠宮」

 ナイフでざっくり切り分けたチキンを口に放り込んで咀嚼し、鷺原が声をかけると、ちまちまと弁当を口に運んでいた篠宮が視線を向けた。

「何?」

「何かバイトしてる?」

「………単発なら、何回か」

 聞いておきながら、その答えがなぜだか思いのほか意外で、鷺原は食事の手を止めてつい篠宮を見やった。

「そうなんだ。どんなバイト?」

 聞いてから、ほんの少し「しまった」と思う。兄がカリスマ・モデルの『MASAKI』なのだから、そっち関係の手伝い的なバイトをしてたっておかしくない。しかしそんな個人的事情(プライベート)、篠宮は話すのを嫌がるだろう。

 と、そんな先走りの心配をした鷺原に対し、篠宮は至って普通に言葉を返した。

「通訳とか。英語の音声ガイドとか」

「……篠宮らしいな」

 返ってきた答えの意外さに鷺原はボソリと呟く。

「知り合いに頼まれて、良い経験になったのは確かだけど。でも、どれも一回限りだから、学生アルバイトとはまた違うかな? 他にもいろいろ経験してみたいって思ってるし、小遣いくらいは自分で稼がないとなぁって思ってるところなんだけど。そう言う鷺原は? 何かしてるの?」

「いや、まだ。でも、俺はもっと現実的な問題で。しなきゃなんだけど。どんなバイトしようか迷っててさ。どうせなら割のいいバイトがいいじゃん」

「割のいいバイトかぁ。どんなのがあるんだろうね」

「あ、それならバイト探しのいいウェブサイトあるよ」

 安藤がそう言って会話に混ざってくると、スマートフォンをいじりだす。

「これ、条件を色々設定して検索できるんだ。バイトできる曜日とか時間帯とか。あと、希望する職種とかも設定できるし」

「へぇ、便利なサイトがあるんだね」

 篠宮が興味津々といった感じで画面を覗き込む。

「時給って、千円台がほとんどなんだ。仮に千円で三時間、休みなく働いてもひと月十万もいかないのかぁ。……バイトで生活費を稼ぐって大変だね」

「いや、そこまで稼がなくても大丈夫なんだけど。でも、時給千円でこき使われんのはなー。俺の価値って時給にしたら千円なのかよって思っちゃうし」

「あ、ドラマのエキストラなんてのもある。土日のみOKで、日給一万円だって。こんなのもアルバイトで募集するんだ」

「いや、俺に演技は無理だろ」

「鷺原はさ、英語できるんだから、塾講とかカテキョとかしたらいいんじゃない? 一番割がいいと思うけど」

 安藤が、人受けるすような柔和な笑みを浮かべて鷺原に視線を向けた。

「それはパス。俺、人に教えるのに向いてないから」

「んー、そうかなぁ。塾講には向いてそうな気がするけど。俺が通ってた塾の東大受験コースの英語講師が、なんて言うか。ちょっと高圧的な感じで。こことここが大事なんだからお前ら覚えやがれって感じだったんだけど。そのキャラが結構生徒に受けててさ。今考えると、その塾講、ちょっと鷺原に雰囲気似てるんだよね」

 なぜだろう。遠回しにディスられている気がする。

 鷺原がいまいち安藤を好きになれないのがこういう点だ。

 それをいちいち口にするほど子供ではないが。

「それに、あれヤダこれダメなんて言ってたら、いつまでたってもバイトできないし?」

 安藤がクスリと笑う。

 鷺原はその表情に内心イラついた。

 こいつ(安藤)は、人当たり良さそうにみせて絶対腹黒だ。篠宮にくっついてくるんじゃなかったら絶対交流しないタイプだが、「お前、篠宮から離れろよ」なんて言える立場でもないのもわかっているだけに、鷺原は自分の感情をぐっと飲み込むしかなかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) 5

 五限の授業が終わって、尚人は大学前の駅から電車に乗って家に帰る。

 大学の授業の五限の終わりは夕方六時三十五分。帰着時間は夜八時を過ぎる。家に帰り着く頃には辺りは既に真っ暗だ。

 大学生になった尚人の生活は随分変わった。

 起床は朝の五時。これだけは体に染み付いてしまった習慣なので変わらないが、大学の授業は必ず一限目から受けなければいけないわけではないのが高校までと大きく違う。授業のコマ割りは一日五時限。一コマ一〇五分で、一限の始まりは朝八時半、五限の終わりは夕方六時三十五分。この時間内に設定されている授業のうち、必修と準必修、それと選択科目から自分で選んで授業を受ける。

 シラバスで色々調べて確認し、尚人が最低受けなければいけない授業は週によって違うが一日大体三コマだった。それに尚人はその他気になる授業をプラスして、一日平均四コマの授業を受けることにした。

 一限目から授業を受ける日は、七時前に家を出る。大学の最寄り駅まで電車を使って一時間ぐらいなので、教室まで歩いて行くとちょうどいい時間になるのだ。しかしこの時間は通勤通学で電車内が非常に混み合う時間帯なので、授業が二限目からの時はもう少し遅く出る。その方が電車内でゆっくり過ごせるからだ。

 帰りの時間もバラバラで、五限目まで授業があると帰宅時間は夜八時を過ぎる。しかし三限目で終わる日もあって、その時は授業後直帰すれば午後四時過ぎには帰り着けた。

 そんなふうに帰宅時間が週によってバラバラなので、夕飯の準備は裕太と話し合って分担することにした。授業が五限目まである週三日は裕太が担当し、それ以外は尚人が作る。生活パターンが変化したと言う意味においては、裕太にとっても四月は新生活のスタートとなった。

「ただいまー」

 尚人が玄関を開けて家に入ると、キッチンから物音がする。覗くと祐太がせっせと夕飯の準備をしていた。

「ナオちゃん、おかえり」

 尚人の気配に祐太が振り返る。笑顔でにっこり、とまではいかないが、誰かに「おかえり」と迎えられる生活はすごく幸せだ。

「すぐ夕飯だけど?」

「うん、荷物置いて、手洗ってくる」

 尚人はそのまま一階の自室へ荷物を置きに行くと、洗面台で手を洗ってリビングに戻る。

 祐太が今日のおかずを皿に盛り付けている。それを見遣って尚人はお箸を席に並べ、ご飯と味噌汁をよそって運んだ。

「いただきます」

 今日のおかずはチキンのトマト煮だ。

「うーん、おいしい」

 祐太の料理の腕前は日に日に上がっている。それに何と言っても、帰ったら晩飯が準備されているというのがとんでもなくうれしい。家族が繋がっている。そんな気になるからだ。

 祐太は本来であれば高2になる年齢だが、学校へはまだ行っていない。自分で色々勉強はしていて、知識を身につける面白さは感じていても、それが学校へ行って学びたいという気持ちとはリンクしないようだ。雅紀も特に祐太を急かすそぶりは見せない。

 雅紀が祐太に課したのは、ただ「変われ」ということだけ。そして祐太は確かに変わった。閉じこもっていた部屋の扉を開け、放り出していた勉強に手をつけ、家の手伝いも買って出て、今は料理も出来るようになった。

 歩き出した祐太は、これからも少しずつ少しずつ変わっていくのだろう。今は夕飯作りを分担してくれているが、ひょっとすると来年には「そんな暇ない」という状況になっている可能性だってある。そんな祐太の未来を思うと

(祐太に甘えるのも程々にしないとダメだよなぁ)

 と思う尚人なのだった。

 

 

 * * *

 

 

 兄弟二人きりの食卓は、篠宮家ではもう長いこと定番だ。長兄の雅紀は仕事で家を空けることが多く、帰って来ても二人の夕飯が終わった後、ということも珍しくない。

 二月の下旬までは、受験生だった尚人をサポートするためかなり仕事を絞っていたようで一緒に食卓につく頻度も多かったが、尚人が大学生になった今現在、雅紀はまた忙しく仕事を詰め込んでいる。

 というか、しばらく仕事を絞っていたそのつけが回ってきているという感じらしい。

 ––––向こうからオファーが来るって状況はありがたいことなんだけどな。

 そうは言いつつも、尚人と過ごす時間が減ることは雅紀にとってかなりのダメージなのだろう。そのせいか週末のセックスは以前に増して激しくなった気がする。大学生になって土曜も休みになった尚人を土曜の真昼間から抱いていることも珍しくない。

 祐太が知る限り、雅紀が尚人を抱くようになってもう三年。にもかかわらず雅紀の尚人に対する執着は収まる気配がない。世間では、……というか、巷にあふれるチープなドラマやゴシップを見る限り、最初はどんなに情熱的な恋愛であっても、三年も経てば目移りして浮気が始まったりするのが定番だ。それを考えれば、雅紀の執着もそろそろ収まっても良いのではないか、と思ったりもするのだが。

 尚人とのセックスはそれほどに魅力的なのだろうか。

 ふと、そんなことを考えている自分に気づいて祐太はびっくりする。この家の常識が世間の非常識だというのはわかっている。わかっているのに……、近頃妙にそれが気になる。

 リビングのソファーに座って本を読む尚人のその真剣な横顔に視線が縫い止められる。形のいい耳からうなじにかけてそっと視線でなぞる。雅紀はいつもあそこを好きに舐めているのだと、一度見た二人の情事を思い出し、そして想像する。

 あそこを舐めたらどんな感じなのだろう、と––––。

 うまいはずがない、と呆れるその一方で、確認したい気持ちもわずかながら持っている自分を自覚する。実の兄、とわかっていながら、白くて細いその首筋に妙な艶かしさを覚える。

 これもそれも全て、雅紀が尚人への執着を、劣情を、隠しもせずに自分に見せつけるせいだと祐太は思う。そう思うから、どこか開き直って考える。

 自分が雅紀と同じことを尚人にしたら、尚人はどんな反応をするのだろうかと。戸惑って、嫌がって、拒否しつつも、首筋を舐められれば嬌声をあげるのだろうか。臀部を撫でられれば体を震わせるのだろうか。雅紀がしていたように無理に股間をしごいて一度でも自分の前で精を吐き出させれば、自分にも体を開くようになるのだろうか、と。

 それでも祐太は、実際にやってみようと思っているわけではない。

 雅紀は尚人への劣情を抑えきれなくなって、酔った勢いで強姦したと言っていたが、そんなこと祐太はしたいわけじゃない。

 祐太にとって尚人はあくまでも家族だ。一人ずつ家族が欠けていった篠宮の家の中で最後まで繋がっていたいと思う唯一の存在だ。とても、とても大切なものだから、その絆が砕け散ってしまうかもしれないことをしたいとは思わない。

 自分が作った晩ご飯を、尚人が笑顔で「おいしい」と言う。それがすごく幸せなことだと祐太は感じる。ただ、そんな恥ずかしいこと絶対口に出しては言わないが。

 大学生になった尚人は明らかに変わった。

 もともと落ち着きある性格だが、纏う雰囲気がより落ち着きあるものになった。人によってはそれを大人びたと表現するかもしれない。何より、視線が合うとどきりとする。雅紀や沙也加のような目力なんてないのに、吸い込まれそうな深みがあって、絡めとられてしまいそうになる。

 雰囲気が変わったと思う理由の一つに、着る物も影響しているかもしれない。大学生になって私服で学校へ行くようになった尚人のために、雅紀がしょっ中尚人をショッピングに連れ出している。カリスマ・モデルの雅紀がコーディネートしてやるのだから、尚人が着る服はさりげなくおしゃれなものばかり。それが高校生までとは違う、しっとりとした大人の雰囲気を醸すのに一役買っている。そんな気がする。

 なんにせよ、尚人は大学生になった。三年前はそんなこと考えられなかった。高校受験を控えた頃、尚人も「高校まで行かせてもらえればそれでいい」と言っていた。当時家の中の空気は最低最悪で、兄弟の間に会話はほとんどなかった。祐太はいろんなことにイライラして、ムカムカして、全てを拒否して部屋に閉じ籠っていた。

 あれから色んなことがあった。本当に色んなことがあった。尚人が暴漢に襲われ、それをきっかけに『MASAKI』との関係が取り沙汰され、なし崩し的に篠宮家の過去が日本中に暴露された。時同じくして、借金で首の回らなくなったあの男が家の権利書を狙って家に忍び込み、それを祐太がバットで殴って撃退すると、金策のために今度は暴露本を出版した。そこにあることないこと書かれて腹を立てた祖父の拓也があの男を衝動的にナイフで刺し、頭に血が昇りすぎたのかその場で脳卒中を起こしてそのまま死んだ。刺されたあの男も一命は取り留めたものの、記憶がぶっ飛んで自分のやらかしたことを全て忘れ、新たな騒動をまき散らした。その男も愛人と共に交通事故で死んだ。

 全て終わってしまえば何とも馬鹿らしい。祐太にはそんな感想しかない。そんな馬鹿らしいことに五年も振り回された自分がまた馬鹿らしくなる。

 その間も尚人は着々と前に進んでいたのだ。だから今がある。あんな家庭状況だったのに、今ではまさかの東大生だ。

 ––––ナオちゃんって、ほんっと何て言うか。……スゴすぎ。

 その一言に尽きる。

 いい子ぶりっこの、勉強好きのガリ勉。以前はそんな風に内心馬鹿にしていたが、ここまで突き抜けられるともはや嫉妬すらできない。しかも尚人はそれを鼻にかけることもなければ、浮つくこともない。

 ––––裕太も色々協力してくれて。おかげで合格できた。

 それが本心なのだ。大体祐太が引きこもりをやめたのは、尚人の高二の終わりの頃で。それまでに尚人にかけた迷惑を考えると、裕太が出来たことはこれまでの全てをチャラにできるものでは当然ない。

 ––––ナオちゃんって、ほんっとお人好しだよな。

 それが少し心配になる。勉強はできても世間知らずの箱入り。それが尚人だからだ。しかも尚人は天然の人誑(ひとたら)しだから、変な奴が勝手に懐いて妙な勘違いをする。大学生になれば今までよりも確実に、行動範囲が広がるし交流関係も広くなる。その中で、第二第三の野上や零と言った存在が現れる可能性だってありえるのだ。雅紀は尚人のことになると極端に視野が狭くなる独占欲の権化だから、尚人に何かあれば雅紀が何をしでかすか。そういう怖さも含めて、祐太は尚人の「お人好し」が心配になる。

「あ、そうだ祐太。俺、明日ちょっと遅くなるから」

「明日?」

 会話の少ない食卓で、モクモグと食べることに集中していたら、突然尚人が言った。明日は、いつもなら授業が三限で終わるとかで早く帰ってくる日だ。

「あ、そう。わかった」

 祐太はうなずく。

「晩飯は?」

「晩飯も食べてくる。祐太の晩飯は、どうする? 準備しとこうか?」

 その言葉に祐太はひっそりと眉を顰めた。

 大学生なのだから、スケジュールが流動的になるのは折込済みだ。だから晩飯の分担決めをする時、急な用事などで帰宅時間が遅くなる時は、電話一本入れてくれさえすれば飯はどうにでもするから気にしなくていい、というのが裕太の提案だった。そもそも自分一人なら白飯と味噌汁くらいでもいいのが祐太だ。そんな取り決めをしているのだから、事前に帰りが遅くなるのがわかっているならなおのこと、晩飯など自分でどうにでもする。

 いつまでも『家族のお荷物』ではいたくない。祐太にはその思いが強い。

「いや、いい。自分で準備するから」

「そう?」

「それに俺しか食わないってわかってるなら、初めて作る料理も心置きなくチャレンジできるし」

 それは本心だ。いくつか作ってみたい料理がある。失敗しても自分の腹に収めればいいのなら気が楽だ。

「じゃあ、うまくできたらいつか食わせてね?」

 祐太が頷くと会話は終了した。

(……で、遅くなる理由は言わないんだ)

 別に気になってしょうがないわけじゃないが。

 高校卒業後、なぜか尚人は加々美に連れ出されることが増えた。理由を問えば、何かと面倒を見てもらう、そういう契約をしたのだと言う。

(なんだ、それ)

 何よりも、そんな契約に雅紀が同意したことが驚きだった。『加々美』と言う存在はそれほど雅紀の中でも大きいのか。

(なんか本当に、すげー弱み握られてんじゃね?)

 自分たち兄弟の中に他人が入ってくる不快感。祐太はどうしてもそれが拭えないでいた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) 6

 その日尚人はいつもとは違う路線の電車に乗って、授業が終わるとある場所へ向かった。教えられた駅で降り、地図を片手に道を進む。しかし見慣れないビル群と行き交う人々の波に尚人の足はたびたび止まる。実はこうして都内を一人で歩くのは初めてだ。

 今まで都内に用事があった時は、基本降車駅からすぐにタクシーだった。去年伊崎の写真展を見に六本木へ行った時はそれなりに都内を彷徨(うろつ)いたが、ショッピングのためによく都内まで足を伸ばすと言う都内慣れしている中野や山下が一緒で、尚人は二人にただくっついて歩けばよかった。今は毎日都内の大学へ通ってはいるものの、家の最寄駅から電車に乗った後は、大学の真ん前にある駅で降りて構内に入るだけ。正直そんな生活では、キャンパス内のことには多少詳しくなっても、周辺のことはコンビニがどこにあるかすら把握していない。

 大学帰りに寄り道するのは、これが初めてだった。

(ええ、っと……。ここが三つ目の信号のある交差点で。ここを右だよね?)

 尚人はきょろきょろと辺りを見回しながら道を確認する。目印のネオカメラビルがあることを確認して、尚人は道路を渡るために歩行者用信号が青に変わるのを待つ。その時だった。

〔すみません。道をお尋ねしてもいいですか?〕

 声をかけられた。

 振り向くと随分と雰囲気のある外国人男性が立っている。

 髪は染めているのか地毛なのか、グレーっぽい銀髪で、Tシャツの上に爽やかなブルーのテーラードジャケットというカジュアルな装い。それがバッチリ決まっていて、お忍びで日本を訪れた外国人俳優と言われても納得してしまいそうなイケメンだった。

(やっぱり都内って、道聞いてくる人も只者じゃない感じ?)

 そんなことをつい思い。

(いやいやいやいや。そんなことより、俺でわかるかな)

 尚人は瞬時戸惑う。何しろ自分も地図を頼りに何とか目的地を目指している最中だ。しかし、ここで知らんぷりをするわけにもいかず。

〔どこへ行きたいんですか?〕

 尚人が問い返すと、英語で返ってきたことに安堵したのか、男性はにこやかに微笑んだ。

〔『ブルー・ビー』っていう店に行きたいんだ。この辺りのはずだけど、見つからなくって〕

(青い蜜蜂? ……いや、そういう店名かな)

 もちろん聞き覚えはない。

 しかし、知りませんと答えるのも申し訳なくて、尚人は質問を重ねた。

〔店の住所ってわかります?〕

〔○○区✖️✖️って聞いてて。でもその住所を地図に打ち込んでも––––〕

 男性はそう言って自分のスマートフォンを見せる。すると表示された地図には、交差点の真ん中に目的地であることを示すマーカーが付いていた。地図アプリの表示がうまくいってないのか、そもそも教えられた住所が間違っているのか。

(うーん、確かにこれじゃ困るよね)

 尚人は自分の携帯電話を取り出した。尚人の携帯はガラケーで、スマートフォンほどには機能豊富ではないが、多少のネット検索はできる。とりあえず「○○区」「ブルー・ビー」「店」などの言葉を並べて検索してみると一軒の店がヒットした。

〔この近くに結構有名な老舗喫茶店があって、そこが『ブルー・ビー』って名前みたいなんですけど。捜してる店って喫茶店ですか?〕

〔そう、それ。至福の一杯が味わえるって話を聞いてて〕

〔ええ、と。じゃあ、多分ここから二つ先の通りを右に入った所ですね。俺も一緒に行きます〕

〔それはありがとう〕

 あやふやな場所を教えるわけにも行かず、尚人は男性と共に歩き出す。

〔ところで君、学生さん? 高校生かな?〕

 問われて尚人は心の中で苦笑する。やっぱり外国人に日本人は幼く見えるのだろうか。最初にカレルに会った時も中学生に間違われた。

(それとも俺が子供っぽいのかな)

〔大学生ですよ。なったばかりの一年生ですけど〕

〔あー、そうなんだ。じゃあ、十八? 十九?〕

〔まだ十八です。来月誕生日が来たら十九歳ですけど〕

〔じゃあ、俺の一つ下だね〕

 言葉が急にフランクになった。

 尚人がたった一歳違いであるというその事実に驚いて男性を見やると、男性はにこやかに笑った。

〔俺はジェイミー・ウェズレイ。君は?〕

〔ナオト・シノミヤです〕

〔どこの学生なの?〕

〔東京大学〕

〔聞いたことある。日本で一番有名な大学だよね?〕

〔それはわからないけど。ジェイミーは留学生? それとも観光客?〕

〔仕事で来たんだよ。世界中あちこち行ってるけど、日本は初めてなんだ〕

(へぇ……。この歳で世界中飛び回ってるって、やっぱり俳優とかモデルだったりするのかな)

 ジェイミーのただならぬイケメンぶりに尚人は改めて思う。にしても、初めての来日で行きたい所が喫茶店とは。よっぽど珈琲好きなのか。

 そんな雑談をしている内に目指していた通りに辿り着いた。

(この辺りのはず、なんだけど……)

 キョロキョロしてみるものの、店名を示す看板などは見つからない。

「あの、すみません」

 尚人は思い切って道行く人に声をかけた。

「この辺に『ブルー・ビー』っていう喫茶店があるはずなんですけど。知りませんか?」

 その問いかけに、声をかけたちょっと年配の男性は、「ああ」と心当たりありげに頷く。

「それなら、あのビルの地下一階だよ。看板なくてちょっとわかりにくいけど、木製扉に小さく店名書いてあるから」

「ありがとうございます」

 尚人は謝辞を述べて男性と別れ、ジェイミーを誘導して教えられたビルの階段を下りる。すると言われた通りの木製扉があった。

 中が全く窺い知れないその店構えは、喫茶店というよりバーの装いだ。

〔ここだよ〕

 尚人が『ブルー・ビー』の表示を指し示してジェイミーを振り返ると、ジェイミーがかけていたサングラスを外して微笑んだ。今まで見えなかったブルートパーズの瞳が露わになって、その美しさに尚人は一瞬見惚れた。

〔ありがとう。わざわざ案内までしてくれて。で、よければだけど。一緒に珈琲を飲んで行かないかい? 案内してくれたお礼をしたいんだ〕

〔ありがたい申し出だけど、俺も目的地に行く途中だったから。じゃあ、ゆっくり楽しんでね〕

 尚人がそう言って踵を返しかけると、ジェイミーが呼び止めた。

〔あ、待って。せっかく会えたんだから。メルアド交換しない? こういうのって、日本では確か「イチゴイチエ」っていうんだよね?〕

〔一期一会は、出会いを大切にして縁を結ぶって意味じゃなくて、一生に一度しかない機会を大切にしてそれに専念するっていう意味だよ。茶道に由来する言葉だから『ブルー・ビー』で過ごす時間にぴったりの言葉かもね〕

 尚人はそう言ってにっこり微笑むと、今度こそ踵を返し、本来の目的地へ向かうべく、たった今降りてきたばかりの階段を駆け登る。

 

 その後尚人は、待ち合わせをしていた中野と無事に合流し、山下が一人暮らししているアパートへ一緒に向かうと、そこで久々の再会と鍋パーティを存分に楽しんだのであった。

 

 

 * * *

 

 

〔ジェイミー! どこ行ってたの? 心配したのよ!〕

 ホテルに戻るなり、マネージャーのダニエラの声が室内に響いた。

 叱責を含む声だったが、ジェイミーはいつものことに驚きもしない。

〔アンジーが日本に行ったらぜひ立ち寄るべきだってインスタにあげてた喫茶店に行って来たんだ〕

 ジェイミーが答えると、案の定ダニエラは、信じられないと言わんばかりの表情を浮かべる。

〔一人で街中をうろつくなんて何を考えてるの? 危険でしょ〕

〔ダニエラ。君が何でそんなに怒るのか俺には理解出来ないね。日本は世界で一番安全な場所で、そして礼儀正しい国民が住んでいる場所だろう?〕

〔一般的にはそうでしょうけど。あなたは世界的に有名なモデルなのよ。ファンが殺到して混乱に巻き込まれたらどうするの?〕

〔残念ながら、日本人は誰も俺のことを知らないみたいだったよ。道行く人に声をかけられることもなければ、カメラを向けられることもなかった。誰も俺のことを知らない場所を好きに歩けるってすごいなって思う反面、俺の知名度もまだまだなんだなって。ちょっと複雑な気分?〕

〔日本は閉鎖的な国だからよ。そもそも世界の情報に疎いし〕

 ダニエラがどこか不満げに呟く。

 ダニエラは自分が相反することを口にしている自覚があるのだろうか。そんな疑問が脳裏をよぎったが、ジェイミーはくつりと笑うだけで終わらせる。

 それも、いつものことだからだ。

 所属事務所の敏腕マネージャーとして有名なダニエラは、出会った時からこんな感じだ。自分を特別な存在なのだと思わせてくれる一方で、同じくらいに窮屈な思いを味わせてくれる。全ては彼女の考える「世界で成功するためのメソッド」だ。彼女はそうして世界的に有名なモデルを何人も育てていて、ここ数年はジェイミーの専属を務めている。

 つまりジェイミーは、ダニエラのお眼鏡にかなった逸材、というわけだ。

 ちなみにこれは、周りが聞こえよがしにするジェイミーへの評価だ。

 ジェイミーの活動拠点はヨーロッパ。世界四大コレクションに参加するため世界中を忙しく飛び回る間に『VOGUE』や『GQ』などの雑誌グラビアをこなす。日本にはなかなか来る機会がなかったが、今回ようやくジャパン・コレクションに参加できることになって来日した。

 ジャパン・コレクションは世界四大コレクションの次席に位置づけられる世界的なコレクションのひとつで、ファッションウィークの最後を締めくくる。それでジャパン・コレクション参加後に、ジェイミーはそのまましばらくの休暇を日本で過ごすことにしたのだ。

 なので今現在、ジェイミーは休暇中。しかし、敏腕マネージャーであるダニエラからそこそこ長期の休暇をもぎ取るためには完全休養は無理だった。そのために休暇と言いながら時々仕事があって、日本の雑誌に掲載するためのグラビア撮影が予定されていたり、日本(こちら)代理店(エージェンシー)契約をした事務所代表者との顔つなぎ会食が予定されていたりする。

 しかしその程度の仕事量なら、ちょうどいい刺激だった。

 ダニエラがまだ何か言っていたが、ジェイミーは構わずソファーに座ってスマートフォンを取り出し、フォトアプリを起動して写真を開く。

 写真に写るのは、今日偶然見かけた日本人の若者だ。

 名前は『ナオ』と言った。

 フルネームは覚えていない。というか、よく聞き取れなかった。日本人の名前は馴染みがないせいか難しい。何とか最初の二文字だけが響きとして頭に残った感じだ。

 モデル仲間のアンジーがインスタに上げていた『ブルー・ビー』。そこへ向かう途中に(ナオ)はいた。雑踏にあっても不思議と目を引く。そんな若者だった。彼の周りだけ空気感が違うというよりも、まるで水を纏っているような、そんな不思議な雰囲気を漂わせていた。

 仕事柄色んな個性を発揮する人たちを見てきたジェイミーだが、彼のようなタイプは初めてだった。だからジェイミーは、どうしても彼に声をかけてみたくなってしまったのだ。いつもだったらそんなことはしない。いや、今まで一度だって同性相手にナンパ(まが)いの声かけなどしようと思ったことはない。それに、モデルとしてそこそこ顔と名が売れた今では、一般人との過度な交流はむしろ避けている。

 それなのに––––、である。

 ここが知名度のない日本だから?

 久々の自由にあてられたのか。

 それにしても––––、である。

 しかし、理由もなく声をかければ不審者。いきなり「一緒に珈琲を飲みに行きませんか」ではただのナンパだ。それで思いついたのが「道を訪ねるフリ」だった。

 そう、実は『ブルー・ビー』の場所はちゃんとわかっていたのだ。

 日本人は英語が話せない人が多い。そんな印象だったが、今はスマホの翻訳アプリを活用すればそこそこコミュニケーションが成立する。どうにかなるだろうと、ジェイミーは思い切って声をかけた。すると予想外に綺麗な英語が返って来た。それで嬉しくなってしまった。

 それに、少々驚いた表情で自分を真っ直ぐに見つめたその双眸は、遠くから眺めていただけでは分からない、不思議な引力があった。

 声のトーンも柔らかくて耳障りがよかった。

 目的地までの短い会話では満足できなくて、もっともっと彼とじっくり話がしてみたくてしょうがなかった。それで一緒のコーヒーブレイクに誘ってみたのだが、振られてしまった。

 きっと知名度のあるフランスやイタリアで同じことをしたら、誘ってもいない人まで同じテーブルについていたはずだ。それを思うと、自分の日本での知名度のなさが良いのか悪いのか。ジェイミーは複雑な心境だった。世界的に有名なモデルに誘われた。それを知ってさえいたら、ナオは自分の誘いに応じたのだろうか。あるいは、それでも断ったのだろうか。

 もし、後者だったら?

 それはそれで、何となく寂しい気になる。

 メジャーになることで天狗になることはない。そう心の中で戒めていたのに、有名人である自分に与えられる特権に慣れていた自分を否応なしに自覚する。ナオは、そんな自分の初心さえも思い出させてくれた存在である、ということが既に何とも特別だった。

 道端ですれ違っただけの存在なのに。

 はっきり言って、縁を結びたかった。

 それでとっさに「一期一会」を口にした。その響きを知っているだけで「日本を知ってますよ」という気になっていた。ひょっとすると、そんな浅はかな知識にひけらかしが透けて見えて、呆れてしまったのかもしれない。

(もう少し日本の文化を調べとけばよかったな)

 あれから『ブルー・ビー』で珈琲を飲みながらジェイミーは「一期一会」について考えていた。

 ––––一期一会は、出会いを大切にして縁を結ぶって意味じゃなくて、一生に一度しかない機会を大切にしてそれに専念するっていう意味だよ。

 ナオは教えてくれた。茶道に由来する言葉だということも。

 だから喫茶店のマスターに思い切って尋ねてみた。

〔一期一会って、茶道に由来する言葉って聞いたんですけど、どういうものですか?〕

 若い頃世界中を回って珈琲を飲み歩き、それでこの店を開いたというマスターはちょっとクセのある英語でジェイミーの問いかけに答えてくれた。

〔日本のおもてなしの精神とも繋がるものだね。お茶や珈琲なんて毎日飲むものかもしれないけど、私が今淹れたこの一杯を飲むお客様は、この一杯というものとは一生に一度の出会いをする。その出会いを大切にしてほしくて、私は真心込めて一杯一杯コーヒーを淹れる。そういう思いが一期一会という言葉に凝縮されているんだと私は理解しているよ〕

 そう説明されて、自分が安易に「一期一会」を口にしたことをジェイミーは後悔した。

(マスターに教えてもらったことをナオに話したいな)

 そしたらナオはどんな返しをするだろう。

(たしか、東京大学の学生だって言ってたよな)

 ジェイミーはスマートフォンで「Tokyo University」と検索を開始した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) 7

 ファッション・マガジン『KANON』の専属ライター大崎美月は、携帯の着信に気づいて電話に出た。

「はい、大崎でございます」

 営業口調で応対すると、電話の相手は『アズラエル』の石田で、内容は、数日後に予定されている世界的モデル『ジェイミー・ウェズレイ』のインタビューに関することだった。

「○時に〇〇ホテルですね」

 大崎は手帳を開いて確認する。石田からはそのほかに細かな指示と確認がいくつかあった。

 『ジェイミー・ウェズレイ』は、今回ジャパン・コレクション参加にあたり『アズラエル』と代理店(エージェンシー)契約をした。それでインタビュー企画に『アズラエル』スタッフである石田が関わっているのだ。ジェイミーが日本の事務所と代理店(エージェンシー)契約をしたということは、今後活動範囲を日本にも広げるつもりであることを意味する。雑誌企画のインタビューはその第一歩。石田からも質問内容にはそのあたりのことを含めるよう指示があった。

「はい、大丈夫です。はい。はい。で、通訳は? ああ、原口さんですね。はい、わかりました。当日はよろしくお願いします」

 受話器越しに丁寧に頭を下げ大崎は通話を切る。

 直後、思わずため息が漏れた。

(……原口さんじゃダメってことじゃないんだけど)

 石田との仕事の時にお世話になることが多い通訳の原口は、元ホテルマン。そのため原口はどんな相手でも如才なく対応する。海外セレブの中には扱いにくい者も少なくない中、原口に対する大崎の信頼度はかなり高い。しかしどうしても、大崎はあの経験が忘れられないでいた。

 『ヴァンス』初来日と合わせて企画された雑誌のロング・インタビュー。もともと通訳を務めるはずだった原口がインフルエンザでダウンすると、そのピンチ・ヒッターとして現れたのは、まさかの高校生––––篠宮尚人だった。最初大崎は何の冗談かと思ったが、いざ始まってみると、ただの高校生じゃなかった。

 驚くほどやりやすかった。

 通訳で生じるタイムラグがほとんどなく、まるっと最後まで聞いてから相手に伝えるので、中途半端に言葉を切られて話の腰を折られるようなストレスは全くなく、しかも言葉の意味に重点を置いて通訳することに心がけていたのか、『ヴァンス』のデザイナーが伝えたいと思っていることがすごく分かりやすかった。

 そして何と言っても印象的だったのが、彼の声の良さ。耳触りが良くて、聞き取りやすい。それは大崎の聞く日本語ばかりでなく、英語も同じであったようで、『ヴァンス』のチーフデザイナーもインタビュー後に彼の存在が気になってわざわざ声をかけたぐらいである。

 それには大崎もびっくりだった。

 普通通訳なんて「今日はどうも」で別れる相手だ。『ヴァンス』のチーフデザイナーともあろう彼が興味津々に個人的なことを根掘り葉掘り尋ねる相手ではない。

 しかし、いろいろ質問したくなるクリスの心境も理解できた。

 それくらい、篠宮尚人という存在は驚きの塊だったのだ。

 あれから通訳が必要なインタビューをするたびに、ちらりと思う。また彼と仕事できないのだろうか、と。

 一度石田にさりげなくその話題を振ってみたことがあるのだが。

「篠宮君とは、実は自分もあの日初めて会ったんです」

「原口さんの代わりがなかなか見つからなくて人伝(ひとづて)に派遣してもらったので、連絡先知らないんです」

 そんなことを言っていた。

(……って、そんな素性の知れない相手(高校生)に大事な仕事任せようって腹を括った石田さんも大概よね)

 最初はそう思っていただけだったが、あの石橋を叩いて渡るような仕事ぶりの石田が、単にやけになって、とは思えない。

 つまり––––、

 石田が信用するしかないと思えるような相手からの紹介だった?

 そうなると、ますます篠宮尚人が何者だったのか。気になってしょうがない。

(あんな可愛い子、『アズラエル』がほっとくはずもないと思うんだけどなぁ)

 まあ、親の教育方針で芸能界NGという可能性もあるが。すごく育ちが良さそうな雰囲気だったので、それは十分あり得る。

 兎にも角にも、大崎は今受け取った電話の内容を手帳に記録すると、インタビューに備えて『ジェイミー・ウェズレイ』に関する資料を再確認しようと棚からファイルを取り出した。

 

 

 * * *

 

 

「まずは、初めてジャパン・コレクションに参加した感想をお伺いしたいと思います」

 インタビューが始まった。

 ジェイミー・ウェズレイは、ホテルの窓際に設置されたソファーにくつろいだ様子で座っている。今回はインタビュー風景が雑誌に掲載される予定になっているので、彼の周りには照明が設置されている。そのため、対面に座る大崎の視界に映る景色は、ジェイミー自身の放つオーラと相まってキラキラと(まばゆ)い。

(すっごいイケメンよね)

 大崎はジェイミーを見やって思う。

 撮影用にバッチリ決めていることもあってか、仕事柄いろんなイケメンと対峙してきた大崎もたじろぐほどのイケメンぶりだ。

〔すごく刺激的な体験でした。パリやミラノやニューヨークともまた違った熱がジャパン・コレクションにはあって、参加できてとても光栄です〕

 ジェイミーが言葉を切ってにこやかに微笑む。

 その笑顔が何ともチャーミングで親近感が湧く。イケメンすぎる男が持つ近寄り難さがいい意味でなく、容姿人柄的にパーフェクトだった。

〔実は、日本には前々から興味あって、ずっと行きたいって思っていたんです。ですから、こうして日本に来る機会を得られて、本当に興奮しています〕

「日本に興味を持ったきっかけは何でしょう?」

〔今、日本の文化は世界中で興味の対象です。日本の文化は本当にクールで面白い。特にアニメは私の育ったイタリアでもたくさん放送されていて、私も子供の頃に『ルパン三世』や『キャプテン翼』をはまって見ていました〕

「そうなんですね。それは何とも意外な気がするといいますか。ジェイミーさんをグッと身近に感じますね」

 大崎は笑顔でそう答えつつも、多少のリップサービスは入っているだろうと頭の片隅で思う。その辺外国人は非常に上手だ。

〔ありがとう。しかし、私が日本に興味を持ったのはアニメだけが理由ではありません。実は、私の曽祖母の兄が日本人と結婚して日本に移住しているんです。私が生まれるずっと前の話で、実際会ったことはないのですが。幼い頃に、日本に親戚(ファミリー)がいるんだよって話を聞いてて。それで、日本は私にとってすごく身近に感じる国なんです〕

「そうだったんですか」

 大崎は素で驚く。

 インタビューにあたり、ジェイミーのことは事前に色々調べていたが、そんな情報はどこにもなかった。

「日本とそんな縁のある方だとは知りませんでした。その日本のご親戚とは現在交流はないんですか?」

〔残念ながらね。曽祖母の時代はまだヨーロッパと日本は簡単に行き来出来る距離ではなかったから。何回か手紙の遣り取りはしたみたいだけど、その内音信不通になってしまったとかで〕

「それは、残念ですね」

 そう答えて、大崎は頭の片隅で何かが引っかかる感じがしたが、今は仕事に専念しようと気を引き締め直す。

「では、次に。今後の日本での活動についてですが––––」

 大崎は手元の手帳に目を落とし、次の質問事項に移る。

 インタビューは終始和やかな雰囲気で進行し、そして問題なく終了した。

 

 

 

「今日はどうもありがとう」

 インタビューが終わって、ソファーから立ち上がったジェイミーが大崎と握手をし、通訳を務めた原口とも握手する。愛嬌があって、態度も悪くない。すでに世界で活躍するモデルがこれほど謙虚な姿勢を見せるなら、日本でも間違いなく成功するだろう。

 大崎がそんなことを思いながら手荷物を纏めている時だった。

〔ちょっと、質問してもいいかな〕

 ジェイミーが何やら原口に話しかけている。

(ん?)

 何だかデジャブ?

 しかし二人のやりとりは英語で、何を話しているのかわからない。大崎が「何事?」という感じで原口を眺めていたら、ひと通り会話が済んだところで原口が説明してくれた。

「なんでも先日親切に道案内してくれた学生さんにもう一度会いたいから、大学まで捜しに行こうと思うけど、日本の大学は一般人が入っても大丈夫なのかって。質問されまして」

(ああ、そうなんだ)

 当たり前だが、原口への個人的質問ではなかったことに大崎は納得する。

「入っても構わないでしょうけど。……その前に、どこの学生さんかはわかっているんですか?」

「東京大学らしいです」

「へぇ……」

 それなら外国人に道を聞かれても普通に英語で対応しそうだ。

 あくまで、大崎のイメージだが。

「けど、大学に行ったからって見つかりますかね?」

 大学に学生なんて山程いるのだ。キャンパス内をうろうろしたからと、たった一人の学生に偶然ばったり出くわす可能性は低い気がする。自分の学生時代を思い返しても、同じ大学(キャンパス内)に数十人はいるはずの同郷の子を偶然見かけることなんてほとんどなかった。そもそも、大学生の生活は不規則で、授業だって毎回真面目に出席するわけでもない。

 まあ、東大生がどうかは知らないが……。

「そうなんですよねぇ。問題はそこですよねぇ」

「東大ってことは、本郷ですよね?」

「いえ、一年生らしいので、駒場キャンパスですね」

「え、東大って駒場にもキャンパスがあるんですか?」

 東大といえば赤門が有名な本郷キャンパスのイメージしかない大崎は、本気でちょっぴり驚く。

「ええ。東大生は一、二年生のうちは駒場キャンパスで教養を中心に勉強して、三年生から専門を勉強するために本郷キャンパスへ移動するんです」

「……原口さん詳しいですね」

 ひょっとして、東大出身?

 そんな大崎の疑問を感じ取ったのか。

「昔の仕事柄、東京のことはそれなりに頭に叩き込んでいますから」

 そう言って原口は柔和に微笑んだ。

 原口が元ホテルマンだと知ってはいるが、ホテルマンというのはそんな知識も頭に入れているのかと感心する。やはり、宿泊客にいろいろ質問されても対応できるように、ということだろうか。

「せめてフルネームが分かっていれば、まだ捜せそうではありますけど」

「名前わからないんですね?」

「『ナオ』としか聞き取れなかったみたいです」

「ナオ?」

 大崎は思わず目を見開く。

 まさかのまさかだが––––。

(そんなことって、ある?)

 以前原口の代わりに通訳を務めた篠宮尚人は、通訳者名として『NAO』と記載した。高校生の実名公表はできないという配慮と、海外でも『NAO』の方が通りがいいだろうという判断からだ。

(いや、でも。ねぇ? 『ナオ』って結構ありきたりの名前だし……)

 それでも、道端で英語で質問されて英語で返す。

 大学一年生。

 年齢もぴったりで、篠宮尚人であってもおかしくない。

(けど、東大?)

 非常にクレバーな感じはしたが。

〔ひょっとして心当たりある?〕

 大崎の表情に何か感じ取ったのかジェイミーが話しかけてくる。

 大崎がチラリと原口を見やると、原口が通訳してくれた。

〔実は写真持ってるんだ。彼だよ。知ってる?〕

 ジェイミーがそう言ってスマートフォンを操作して大崎に画面を見せる。そこに写っていた若者を見やって、大崎は思わず叫んだ。

「やっぱり篠宮君!」

 一体どんな引きの良さなのか。

 大崎は、ますます篠宮尚人という存在の不思議さに惹かれずにはいられなかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) 8

 夜十時過ぎ。仕事を終えて帰宅した雅紀は、いつものごとく玄関から迷うことなく一階の突き当たりにある尚人の部屋へ向かう。子供の頃から使う二階の自室はすでに荷物置き部屋と化していて、尚人が自室として使うひょっと広めの一階の部屋がすでに雅紀にとっても寝室同然だった。

 ノックもせずに扉を開けて部屋に入る。

 机に向かっていた尚人が振り返り、

「おかえり。まーちゃん」

 そうやってにっこり笑顔で出迎えられると、すごく幸せな気分になる。その日仕事でどんなに腹が立つことがあっても、くたくたに疲れていても、その笑顔で癒される。

 のだが––––。

(あれ?)

 扉を開けて一歩足を踏み入れたところで雅紀は固まった。

 煌々と明かりの点いた室内はまさかの無人。帰ってすぐに尚人の笑顔で癒されて、腕に抱き込んで思い切り匂いを嗅いで、甘いキスで尚人をトロトロにしようと思っていたのに……。

(何で俺が帰ってきた時に部屋にいないんだよ)

 そう思って思わずムッとする。

 自己中なのは自覚済みだ。

 そもそも今日は、帰ると伝えていた日ではない。しかし、少しでも早く尚人に会いたくて、急いで仕事を終わらせて帰ってきたのだ。

 だからこそ、以心伝心。尚人にも

「ひょっとしたら今日帰ってくるかも」

 何て期待しながら、待っていて欲しかった。

 それなのに……

 部屋にいないということは、風呂にでも入っているのだろう。

 何もこのタイミングで風呂に入らなくてもいいではないか。などと、雅紀はほんの少し拗ねた気持ちで部屋に入って戸を閉めた。

 何となく浮き立っていた甘い気分が削がれて、雅紀はどさりと荷物を床に放り出す。そのままベッドにゴロリと横になろうとして、すっきりと片付いた机の上に一冊の雑誌が置かれていることに気がついた。

 尚人にしては珍しい。ファッション雑誌だった。

(ナオ、こんなの買って読んでんのか?)

 表紙は今日本で話題沸騰中の世界的モデル『ジェイミー』だ。雅紀も参加したジャパン・コレクション参加のために初来日し、『アズラエル』と代理店(エージェンシー)契約をしたという話は雅紀の耳にも入っている。つまりは、今後は日本でも本格活動するつもりなのだろう。日本発刊の雑誌掲載はその第一歩といったところか。

 雅紀は、ジャパン・コレクションで見かけた『ジェイミー』を思い出す。担当したブランドが違うので言葉を交わす機会はなかったが、舞台裏での『ジェイミー』は、ちょっと軽薄そうな今時の若者という雰囲気だった。しかし、舞台に出ると醸すオーラが一変した。さすが世界で活躍するだけはある、と思わせるランウェイで、雅紀は『ジェイミー』のウォーキングに不覚にもぞくりとしてしまった。まだ二十歳らしいが、日本のひよっこなど束になっても敵わない。そう思わせる貫禄があった。

 ––––いやー、すごい。さすが世界で活躍するだけはある。

 『ジェイミー』については加々美もベタ褒めだった。

 ––––あれでまだ二十歳ってんだから、末恐ろしいよな。

 ––––これで日本のメンズ・モデル界も、もうちょっと活性化するといいんだが。

 何気に吐き出された加々美の言葉に、チクリと動いた感情は、嫉妬心か敵愾心か。それともそろそろ若手を牽引する年齢であることの責任感か。

 パラリと雑誌をめくると、中にはインタビュー記事が載っている。

『世界を魅了するイケメン ついに日本上陸』

 煽りの見出しがなかなかだ。

(そういえば、ナオが前に通訳した記事が載ったのってこの雑誌だったよな?)

 ふと思い出し、通訳者を確認する。

 ひょっとしたら、また加々美経由で通訳の依頼を受けたのかと思ったのだ。それなら「仕事の記念」として、尚人がファッション誌を購入するのも頷ける。しかし、インタビュー記事の最後に小さく書いてある通訳者名は全くの別人だった。

 尚人が、雅紀の載った雑誌を何冊かひっそりコレクションしているのは知っている。それを見つけた時にはニマニマ笑いが止まらなかったが、この雑誌に雅紀は載っていない。自分以外の男が特集された––––しかも、表紙をデカデカと飾っている––––雑誌を、尚人が「仕事」とは全く関係なく、プライベートに所持しているという事実が、雅紀には何となく面白くない。

 浮気された––––、わけではないが、雅紀的にはそれに近い。

 嫉妬心で気持ちがざわつく。

 いや、ざわつくどころかイラつく。

 はっきり言って、許せない。

 そんな気分を持て余していると、尚人が風呂から戻ってきた。

「あ、まーちゃん。帰ってたんだ。おかえり」

 無邪気な笑みを浮かべて尚人が出迎えの言葉を口にする。

 風呂上りでほんのり頬を上気させた尚人は、見るからにうまそうで。そんな尚人が無防備に自分に近づいてくるのを見やった途端––––。雅紀の中で嫉妬心が嗜虐心にすり替わる。獲物を見つけた獣のような狩猟本能が刺激された。

「––––ただいま」

「帰ってくるの明日だと思ってた」

 尚人が笑顔で雅紀に近寄ってくる。

 目の前にいるのが、兄の皮を被ったケダモノとも知らず。

「仕事早く終わったから」

「お仕事お疲れ様。お腹減ってない? 何か作ろうか?」

「飯は食ってきたからいい」

(喰いたいものなら別にあるけど)

 雅紀は手にしていた雑誌を机に戻すと、尚人の手を引っ張って膝の上に抱え上げる。そうして肩口に顔を埋めて、風呂上がりの尚人の匂いを思いきり嗅ぐ。

 ボディーソープと尚人の熱が混じり込んだ匂いは鼻腔の至福。本来ならこのまま甘いキスを貪って尚人をトロトロにする予定だったが、今はそれよりも前に確かめなければならないことがある。

「ナオがファッション誌購読してるなんて知らなかった」

 雅紀が首筋に唇を這わせながら呟くと、尚人がくすぐったそうに首を(すく)めてわずかに振り向いた。

「この雑誌のこと?」

「そう。……珍しいなって思って」

 大学生なのだから、お洒落に目覚めてファッション誌を買って読むくらい世の中普通のことかもしれない。しかし、尚人のことに限って言えば、「自分以外の男」をしげしげと眺めているかと思うと、どうしても嫉妬心で胸がざわつく。

 雑誌を買うなら俺が載ってるやつでいいじゃないか。

 どうしたってそう思うからだ。

 それに、表紙が『ジェイミー』であることも雅紀には不満だった。

 悔しいが『ジェイミー』の実力を認めているからだ。

 完全なる嫉妬。それは自覚していた。

「実は、この間中野との待ち合わせ場所に向かってる時に、外国人に道を尋ねられてね」

 尚人がさらりと口にする。雅紀が初めて聞く話だった。

「その外国人がすっごいイケメンで。東京は道尋ねる人も只者じゃない感じだなって思ってたんだけど。今日本屋で見かけた雑誌の表紙飾ってるからびっくりしちゃって。やっぱりモデルさんだったんだーって。何か、思わず買っちゃった」

(何だその話は)

 雅紀は思わず眉を(ひそ)める。

(つまりその道尋ねてきた外国人が『ジェイミー』だったってことか?)

 世界で活躍するモデルが、一人で都内をうろつくなどあるのだろうか。しかも、たまたま尚人と行き合って、道を尋ねる。そんなことが?

 そんな疑問がちらりと脳裏をよぎったが、それより問題なのは。

「……つまり、ナオはこの表紙のモデルが気になってるってこと?」

 思わず声が尖る。

 その声に何か察したのか、無邪気に弾んでいた尚人の声がトーン・ダウンした。

「……そういうわけじゃ、ないんだけど。別れ際に『ジェイミー』が一期一会って言葉を口にしてたから。その時のやりとりをちょっと思い出して……」

 雅紀は尚人があまりにも自然に『ジェイミー』と口にしたことに苛立つ。

 道を尋ねてきただけの外国人の名前なんて、普通記憶に留めない。そうではないのか。

「一期一会じゃない縁を感じたってこと?」

 雅紀の問いかけに尚人は瞬時押し黙り、ボソボソと続けた。

「一期一会って言葉をちょっと勘違いして覚えてたみたいだから、簡単に説明したんだけど。……俺の言葉も正しかったかなってちょっと気になってて。……だから、何て言うか……」

 つまり、相手がどうこうと言うわけではなく自分の言動が気になって記憶に残っていた、とでも言いたいのだろうか。

 しかし雅紀にしてみれば、どちらでも大して変わらない。

 結局、表紙の男が雑誌の購入理由であることに違いないからだ。

「俺、前に言ったよな? 俺は嫉妬深いって。ほかの男の話なんてされたくないって。ナオがそんなつもりじゃなくても、ほかの男の話をするだけで妬けるって。それなのに何? 表紙の男が理由で雑誌購入とか。ありえないから」

「––––ごめんなさい」

「別に謝って欲しいわけじゃないんだが」

 雅紀は這うような声音で呟くと、白くほっそりとした尚人の首筋に歯を立てた。

「いッ……。まー、ちゃ。––––やめて」

 尚人の呻き声を無視して、雅紀はそのままきつく吸い上げる。

 自分のものである証を体に刻みつけてやりたかった。

 深く深く。消えないほどに深く。

 わかっている。こんなことしたって尚人が怯えるだけだってことは。しかし、尚人が持つどんな感情も自分のもの。そんなどうしようもない独占欲が雅紀の中に渦巻いていた。

「ナオ」

 雅紀が抱きしめる腕の力を強めると、尚人がびくりと体を震わせた。

「ナオは誰のだっけ?」

「……………まーちゃんの」

「ナオは口ではそう言うけどさ、その意味ちゃんとわかってる?」

「………………」

「ねぇ、ナオ。聞こえてる? ナオが俺のものって、どう言うことだと思ってるんだ?」

 雅紀は執拗に問いかける。

 うなだれた尚人は泣きそうな顔をしているに違いない。

 しかしそんな様子が余計に嗜虐心を煽って。雅紀は、くっきりと歯形のついた首筋をべろりと舐めると、あえて甘く囁いた。

「ねぇ、ナオ。答えて」

 

 

 * * *

 

 

 甘く尖る雅紀の声に尚人はうなだれる。

 雅紀の地雷を踏んでしまったのは明らかで、先ほどまでの、予定外の帰宅に浮かれていた気分は一気に(しぼ)んだ。

 雅紀は誰よりも綺麗で格好良くて。

 尚人にとって唯一無二の存在で。

 雅紀以外の誰かを欲するなんて、そんなことありえないのに––––

 内心では、

 雅紀の隣を誰にも取られたくなくて。

 雅紀を自分だけものにしたくて。

 時には自分でも驚くほどのドス黒い感情が渦巻いていることだってあるのに––––

 ––––まーちゃんが好き

 その言葉だけで自分が抱いている感情の全てが伝わっているとは思っていない。

 いやむしろ、尚人は雅紀への思いをさらけ出すことを恐れている。

 全てを吐き出して、その結果。

 そんな重い愛はいらないよ、と……。

 そう言われてしまったら––––

 そのことが、とてつもなく––––––––怖い。

 だから尚人は自分の心にブレーキをかける。

 行きすぎないように。

 暴走しないように。

 ––––好きだ、ナオ。

 その言葉以上のものを欲さないように––––

 雅紀が言うように、滅多に買わないファッション誌を買ったのは、表紙が『ジェイミー』だったから。

(あ、あの時の……)

 驚きよりも、ああやっぱり、と言う納得感。

 自分とたった一歳違い。それなのに醸すオーラが違った。存在感に圧があるとでもいえばいいのか。最初から只者ではないと感じたその存在感は、どことなく雅紀の発する存在感にも似て。尚人の中に無視できない興味が湧いたのは確かだ。

 でもそれは『ジェイミー』への興味なのだろうか?

 尚人的には、『ジェイミー』を通した雅紀への興味と言ったが方がしっくりくる。

 近すぎて見えなかったことの再発見? とでも言おうか。

 世界で活躍する『ジェイミー』と『MASAKI』の違いは何なのか。グラビア写真に、特集記事に、そのヒントがあるのかと気になった。明らかに雅紀の方がかっこいいのに。世界でのネームバリューは『ジェイミー』の方が上で。だったら、雅紀が本気で世界進出を考えるなら、不可能ではないという気がして。そして、そんな雅紀を日本に閉じ込めている要因を考えれば、それは間違い無く自分たちで––––。

 家の事情が今だって雅紀を縛り続けている。

 『ジェイミー』の存在は、尚人にそれを強く意識させた。

 どうしてだろう、とは思う。

 『ユアン』だって、世界的に有名なモデルだ。でも、『ユアン』では感じないことを『ジェイミー』には感じてしまう。

 『ユアン』は『ヴァンス』専属のモデル。そのこともあるかもしれないが、おそらくは、『ジェイミー』と『MASAKI』が似ているせい。

 顔かたちの問題ではなく、醸すオーラの近似性とでも言うのか。

 だから尚人はモデルである『ジェイミー』が気になる。

 でもそれをうまく説明できる自信はなくて……。

 それに、仮にうまく説明できたとしても、雅紀の機嫌が治るとも思えなくて。

 なぜなら雅紀は「ほかの男の話なんてされたくない」のだから。

 だから尚人はうなだれて黙り込むしかない。

 甘い刺を含んだ声で雅紀が尚人に服を脱ぐよう指示をする。

 自分に全部見せろと。甘い声でささやく。

 ベッドの上に横になって。自ら足を大きく開いて。竿も珠も後孔も。全てをさらけ出せと尚人にささやく。

 尚人は服を脱いで雅紀の言う通りにする。

 雅紀の言葉には逆らえない。

 しかしそれだけではないことは尚人自身もわかっている。

 羞恥心に交差する期待感。

 何もされていないのに体の奥がうずいてくる。

 雅紀の言う通りに全てをさらけ出したのに眺めているだけで何もしれくれない雅紀に、尚人は()れてねだる。

「まーちゃん。触って。俺の、俺の、珠。揉んでしゃぶって」

 して欲しいことは口に出さないとしてくれない。その代わり、きちんと言葉にしさえすれば必ずしてくれる。

 雅紀に散々言われ続けて刷り込まれたことだ。

 そして、快楽に対して素直にならなければ泣かされるだけだと言うことも。これまでの経験上尚人は嫌と言うほどわかっていた。

「ナオは俺に珠しゃぶって欲しいんだ?」

 尚人のさらす痴態に雅紀はうっすらと笑みを浮かべると、ゆっくりと歩み寄ってきて耳元で囁く。そのままペロリと耳たぶを舐められて、その熱に体がぞわりと反応した。

「……まーちゃんにして欲しい」

 そもそも雅紀の帰宅が五日ぶりなのだ。部屋にその姿があった時から尚人は体の奥には火がついていた。

 雅紀の手が内腿を撫でる。たったそれだけの刺激で尚人の下腹部が立ち上がる。

 雅紀がくすりと笑った気がした。

 羞恥で顔が焼ける。それでも期待感の方が上回った。

「まーちゃん。して」

 再度ねだる。いつもならそれで大きな(てのひら)に握り込んでやわやわと揉んでくれるのに。焦らすように雅紀は、珠にふうっと息を吹き掛けただけで、内腿を舐めてそのままそこをキツく吸い上げる。一箇所だけではなく何箇所も。痛いほどの力で吸われて尚人はうめく。しかしその痛みさえも刺激になって、珠も竿も触られてはいないのに、尚人の肉茎はがちがちに勃ち上がった。

 雅紀が浮き上がったその筋を尖らせた舌先でなぞる。

 たったそれだけのことで、尚人の中を快感が駆け抜けた。

「はぁぁッ!」

 射精感が押し寄せる。しかし吐き出すまでは至らない。

 もどかしくてたまらなくて。もっとちゃんとして欲しくて。尚人は泣くようにおねだりを繰り返した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) 9

「こんにちは。あの、食事中にごめんなさい」

 見知らぬ女が突然声をかけてきたのは、いつものように鷺原が尚人と学食で昼飯を食べている時だった。

 同年代っぽくは見えないその女性を学生じゃないなと鷺原が瞬時に思ったのは、年齢ではなく、女が垢抜けたファッションセンスに社会人的雰囲気を纏っていたからだ。

 ––––誰だ、こいつ。

 反射的に警戒心が首をもたげたのは、鷺原が決してフレンドリー体質ではないから。人見知りというほど人との付き合いを苦手とするわけではないが、見知らぬ他人からの声かけは基本好まない。

 だからと言って無駄に攻撃的になるほど性格に難があるわけでもないつもりで。

「何か用ですか?」

 鷺原がそう問いかけようとした矢先だった。

「篠宮君、私のこと覚えてるかな?」

 女が尚人だけをまっすぐに見つめて微笑む。

 その態度とその言い方に鷺原はなぜかカチンときた。

「知り合い?」

 顔に出そうになった不快感を飲み込んで鷺原が尚人に確認する。それよりも前に、尚人が驚きを含んだ声を発した。

「大崎さん、でしたっけ? お久しぶりですね」

「ああ、よかった。覚えていてくれて」

 大崎と呼ばれた女がほっとしたように胸をなで下ろす。

 その仕草さえ鷺原には不快だった。

「あの、大崎さんはどうしてここに?」

「実は、篠宮君を捜してて。東大(ここ)の学生だって聞いたから。ひょっとして学食なら会えるかもって」

(つまり、待ち伏せしてたってことか?)

 大崎と尚人がどういう関係かも、尚人にどんな用事があるのかもわからない。しかし、鷺原はとにかく突然現れた(大崎)の存在が不愉快だった。

 一緒に授業を受けてても授業中私語はできない。鷺原にとっては、こうして学食で一緒に昼食を取る時間がほとんど唯一と言っていい尚人と談笑ができる時間で、その貴重な時間を横取りされたのだから当然いい気分はしない。しかも尚人の様子を見るからに、久々の再会を喜んでいるようには見えないどころか、その表情には戸惑いが浮かんでいて、どちらかといえば迷惑そうにすら見える。そんな相手に好印象を抱く方が難しい。

「ちょっと話したいことがあるんだけれども。この後、時間取れないかしら?」

「え……っと」

 女の言葉に尚人は戸惑いの表情を深めた。

「話って、––––前回のアルバイト絡みの話ですか?」

(アルバイト?)

 そういえば以前、通訳や英語の音声ガイドのアルバイトをしたことがあると言っていた。アルバイト絡みなら、「これ系」の女性と尚人が顔見知りであっても何となく納得できる。

「えーと、今ここでは詳しく話せないんだけど。ざっくり言うと別口の話、かな」

 女が言葉を濁す。

 尚人はほんの少し思案げな顔をした。

「今日はこのあと三限の授業が終われば空いてるので。その後なら時間取れますけど」

(時間取ってやるのかよ)

 鷺原は心の中で舌打ちする。

 こんな突然現れた女の要求など聞いてやることないのに。

(っていうか、俺だって授業終わりに篠宮と過ごしたことないんだけど?)

 尚人は授業が終わればさっさと帰る。サークルにも所属していないし、今のところアルバイトをしている様子もない。けれども、尚人の家がどんな状況かわずかなりとも知っている身としては授業後に遊びに誘うのも気が引けて。はっきりいえば遠慮していた。

 まあ、鷺原自身もアルバイトを始めて、授業後にそんなに時間があるわけではないのだが。

「三限の終わりって何時かしら?」

「二時四十五分です」

「じゃあ、その時間に門のところで待ってるわね。食事中に邪魔して本当に悪かったわ」

 女はにっこり笑って名刺を一枚尚人に渡してから去っていく。

 最後まで腹の立つ女だった。

 

 

 * * *

 

 

 大崎の登場は尚人にとってあまりにも突然で意外だった。

 え?

 それって……

 どういうこと?

 頭の中は疑問符だらけだったが、「今ここでは……」と言われてしまっては、授業後に会う約束をするしかなかった。何しろ、多忙なはずの大崎がわざわざ大学まで尚人を捜しにくるほどの話なのだ。内容は想像もつかないが、「今日はちょっと」と言ったところで諦めるとは思えなかったし、しつこく日程調整をされるくらいならさっさと片をつけてしまった方がいいと思えた。話の内容によっては加々美を通してもらう必要があるかもしれないが、それだって話を聞かないことにはわからない。そして、もしそうだとはっきりすれば自分には今代理人がいると言う事実をきちんと伝える必要があるが、その話を鷺原や安藤の前でするのは憚られた。学校生活とプライベートは、できれば切り離しておきたい。なのでその面からも、二人きりで話ができる時間を確保する必要があった。三限の授業は選択科目で、鷺原とも安藤とも一緒ではない。尚人はひとまず大崎の存在は忘れて授業に集中した。

 

 

 * * *

 

 

 放課後、大崎と落ち合って、二人で最寄りのコーヒーショップまで移動した。大崎の先導で入った店は、カウンターで先に注文するタイプの店で、尚人は初オーダーに戸惑いながらも何とかカプチーノを受け取って大崎と共に奥の席に着く。

「改めまして、おひさしぶり。今日は時間取ってくれて本当にありがとう」

 大崎がにっこりと笑う。

 尚人もとりあえず笑顔を返した。

「で、俺に話って。何ですか?」

 口慣らしの雑談をしてもしょうがない。尚人は単刀直入に尋ねる。大崎がなぜ尚人が東大の学生だと知り得たのか。そしてなぜ大学まで尚人を捜しにきたのか。その辺のことも気になるが、おそらくは大崎の言う「話したいこと」にそこら辺も全て含まれている気がした。ならばさっさと要件を聞いてしまった方が早い。それが尚人の判断だった。

「その前に確認なんだけど。篠宮君『ジェイミー』を知ってるかしら?」

「モデルの、ですか?」

 尚人が問うと大崎が頷いた。

「そう。道を尋ねられたことがある、とか?」

「ええ。少し前に偶然。ただ、その時はモデルさんだって知らなかったんですけど。あとで、たまたま本屋で表紙を飾ってる雑誌を見かけて。それでモデルさんだったんだって知って」

 尚人はそこで一旦言葉を切ると、少々の上目遣いで大崎を見た。

「……あの。大崎さんは何でそのことを知ってるんですか?」

「実は仕事で『ジェイミー』にインタビューする機会があったんだけど。その時、インタビュー終わりに『ジェイミー』が、先日道案内してくれた日本の大学生にまた会いたくて捜してるって言い出して。話を聞くとどうも篠宮君ぽくって」

「それで大崎さんは『ジェイミー』の代わりに俺を捜しにきたんですか?」

「まあ、そんなところ」

 大崎は頷く。

 嘘ではないだろうと尚人は思う。

 大崎は仕事柄『ジェイミー』と知り合う機会があっておかしくないし、『ジェイミー』はあの時も連絡先を交換したがっていた。そしてその『ジェイミー』には尚人自ら名前を名乗り「東京大学の学生」だと伝えたのである。だが、こういうふうに話が繋がって、大崎が自分の前に現れるとは思いもしなかった。と言うのが正直なところだ。

 世間は広いようで狭い。一般に言われるその言葉を尚人はしみじみ実感する。

「で、『ジェイミー』には、篠宮君が見つかったら連絡するって伝えてるんだけど。よかったら篠宮君の連絡先教えてもらえないかしら。今度『ジェイミー』が日本に来た時に会えるようにセッティングしたいし」

 大崎がにこやかな笑みを浮かべたまま告げる。

(……………)

 尚人はその笑顔を黙って見つめ返し、どうしてそう言う話になるのかと困惑した。『ヴァンス』の時もなぜか「ユアンと友達になって欲しい」と言う話になって、雅紀の許可のもとメールのやり取りをするようになったが。基本やり取りしている相手はユアンではなくカレルだ。同い年の音楽家の卵。狭い世界で生きてきた尚人にとって、自分の夢に向かって頑張っている同い年の外国人との交流はすごく刺激になった。なのでクリスの無茶振りから始まった交流だが今では縁があって良かったと思える。

 しかし……

 尚人は先日の雅紀のとのやり取りを思い出す。

 どう考えたって『ジェイミー』と個人的に繋がるのは雅紀がいい顔をしないだろう。それに、尚人自身『ジェイミー』と個人的に親しくなりたいと思ってるわけでもない。

 まあ、だからと言って、邪険にしたいとか、そんなわけでもないのだが……。

「大崎さん」

「ん、何?」

「俺が『ジェイミー』と会わないといけない理由って何ですか?」

「え?」

 大崎の顔から笑顔が引っ込んで、驚いた表情が浮かんだ。

「俺にとって『ジェイミー』は、偶然道を聞かれただけの人です。行き先が分からなくて困っているみたいだったんで、少し道案内して、その間軽く雑談しましたけど。それだけの関係です。向こうはひょっとすると初めて来た日本で親切にしてもらって、それでまた会いたいと思ってくれているのかもしれませんが。でも、それは向こうの事情であって俺の事情ではありません」

「え? あの。それって––––」

 大崎は戸惑いの言葉を口にして、伺うように尚人を見やった。

「……ひょっとして、迷惑って話かしら?」

「俺の方には『ジェイミー』に会う理由がないって話です。またどこかで偶々会うことがあれば、それはそれで縁があったなとは思いますけど……」

(うーん、何と言ったら上手く伝わるのかな)

 尚人は言葉を模索して黙り込む。

 その姿をじっと見つめていた大崎は、思いもしなかった尚人の言葉に正直驚いていた。

 尚人のことは高校生とは思えないほど落ち着きのある、非常に人当たりの良い、フレンドリーな人物だという印象だった。そんなイメージがあったから、世界的モデル『ジェイミー』が個人的に会いたがっているなんて聞けば当然、ウェルカムな対応をするものと疑わなかった。大崎のもたらす話に驚き戸惑いつつも『ジェイミー』と再会できることを喜ぶだろうと。

 しかも相手はあの世界的モデル『ジェイミー』なのだ。そんな人物に目をつけられた特別感。大崎はその朗報をもたらす喜びの使者のような気持ちでいた。

 しかし––––

 尚人の見せた反応は大崎の想像とは真逆で。それに大崎は戸惑う。

 ––––俺の方には『ジェイミー』に会う理由がない。

 まさかそんな言葉が尚人から飛び出すとは思いもしなかった。

 意外……、というか。たった一度の出会いが衝撃的すぎたために、頭の中で勝手に尚人に対する虚像ばかりが膨らんでいたのだろうか。

(まあ、確かに篠宮君にとっては、たまたま道を聞かれただけの外国人かもしれないけど……)

 でも

(相手はあの『ジェイミー』なのよ?)

 どうしたって大崎はその思いが強い。

 そう思って大崎はふと思い出す。前回の通訳のピンチヒッター。あの時石田に尚人を紹介したのは誰なのか。面識もない高校生をあの石田が起用するとは、かなりの大物からの紹介だったのではないか。と、そんなことを自分が推論していたことを。

(––––ひょっとすると篠宮君って只者じゃないのかも)

 そう思った途端、記者魂がうずいた。

「そうよね。急にこんな話。困っちゃうわよね」

 大崎は微笑む。相手の反応によって話題を変えるのは仕事上必要なスキル。しかも大崎の中ではすでに目的も変わっていた。『ジェイミー』との約束は一旦保留だ。尚人が一体何者なのか。それを確かめたい。

「前回篠宮君があまりにも完璧な仕事をしてくれたから。私自身、また一緒に仕事ができたらなって思ってたの。だから、『ジェイミー』を理由に篠宮君を捜しに来たけど、本当は私の方が篠宮君に会いたかったのかも。これまで仕事をしてきた中で篠宮君の通訳が断トツやりやすかったし」

 大崎がそう言うと、尚人は少し照れたようにはにかんだ。その表情は、大崎の抱く尚人のイメージそのもので。やはりこの顔もまた尚人の持つ顔の一つなのだと納得する。褒められたら喜ぶその素直さに、十代男子とは思えない可愛らしいさがある。しかも笑顔が綺麗で、はにかんだその表情にはあざとさが少しもない。

「出来れば石田さんを通さないで個人的に通訳がお願いできればって思ってるんだけど。それって可能なのかしら? それとも篠宮君に仕事をお願いしようと思ったら、誰かを通す必要があるの?」

 大崎はさりげなく問いかける。するとそれに返った返事が意外すぎて、大崎は絶句したのだった。

 

 

 * * *

 

 

 店先で尚人と別れた大崎は、にこやかに笑顔で別れたものの、たった今聞かされたばかりの情報をどう処理していいのか整理できずにいた。

 ––––仕事の依頼なら、加々美さんを通してください。

 ––––カガミさん?

 それってどこのカガミさん?

 大崎の問いかけに尚人が返した応え。ファッション業界に身を置く者が「カガミ」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは一人だが。

 まさかね?

 半信半疑。そんな大崎に、

 ––––モデルの加々美蓮司さんです。今、代理人になってもらっています。

 そう言って渡された『加々美蓮司』の名刺。それを手に大崎は固まるしかなかった。

 それって、

 一体、

 どういうこと?

 加々美蓮司といえば言わずもがなメンズモデル界の帝王で。ファッション誌の記者をやっている大崎がその存在の凄さを知らないはずがない。正直なところ、大崎にとっては雲の上すぎる存在だ。

 その加々美が代理人だという。

 ––––篠宮君、モデルだったの?

 それともこれからデビューするのか。

 ––––いいえ。違いますよ。俺にモデルは務まりません。

 そう答える尚人は構えるところもなくあくまで自然体で。

 そんなことないと思うけど……。とは思いつつ。モデルデビューの予定もなくあの加々美蓮司が代理人になるとは一体どういうことなのか。『アズラエル』に所属しているのかとも思ったが、そうではないという。

 そんなことってあるの?

 しかし、尚人が『加々美蓮司』の名刺を所持しているのは間違いのない事実で。となると、『篠宮尚人』は加々美蓮司の秘蔵っ子ということになる。

(篠宮君、すごすぎでしょ……)

 どこでどんなふうに加々美蓮司に見出されたのかは知らない。しかし、加々美自ら代理人を務めるとは、あの『MASAKI』を超える逸材と加々美に判断されたということだろう。そんな『篠宮尚人』を勝手に『ジェイミー』と引き合わせようとしていたとは……。

(知らないって最強よね)

 大崎はつくづく思った。

 そして、そんな暴挙、実行することにならなくてよかった、と。

 そんなことを思っている時だった。

「大崎さん」

 声をかけられて大崎は我に返る。視線を向けると、そこに立っていたのは以前何度か仕事で顔を合わせたことがある『リゾルト』の津田だった。

 『リゾルト』の商品はデザイン性が高く、ファッションとコラボさせた商品も多い。そのため『リゾルト』商品を『KANON』で取り上げたことがある。その時『リゾルト』側の担当者の一人が津田で、マーケティング戦略を担当する津田は広報活動に携わることも多いと言っていた。

「ご無沙汰してます」

 津田がにこやかに微笑む。

 大崎もにっこりと笑顔を返した。

「お久しぶりです。お元気でいらっしゃいましたか?」

「ええ、おかげさまで。大崎さんは取材途中とかですか?」

「まあ。そんな感じです」

 大崎は適当にそう返す。

「津田さんは、営業回りとか?」

「ええ。まあ、そんなところです。うちの商品を置いてもらっている量販店を定期的に回って。売れ筋商品の確認をしたり、販売員さんから商品の改善点のアドバイスをもらったり。そのついでの若者ウォッチングです」

「若者ウォッチング?」

「実は、CMに起用できそうな若者を探している最中なんです」

「へぇ。……そんなことも津田さんのお仕事なんですか?」

 CM制作といえば、広告代理店にイメージやらコンセプトやらを伝えたら、起用タレントとの交渉も含めて、具体的なことは全て代理店が行うはずだ。それとも、提示されたタレントが上のお眼鏡に敵わなかったのだろうか。

「一応。広報も仕事のうちではあるんですが。今回は、広告代理店を使わずに自社主導でCM製作を進めていて。それで」

「そうなんですか?」

 大崎は少々驚く。CMを作成するのに必ず広告代理店を通さないといけないわけではもちろんないが、タレントとの出演交渉や撮影カメラマンの決定、スタジオの確保、あるいはロケ場所の選定。そんなことを全て自社でするのは結構大変だ。だからこそ、代理店なる業種が繁盛するのである。

「ああ、そうだ。ここでお会いしたのも何かの縁です。顔の広い大崎さんにもお力添えをいただけると大変ありがたいです」

 津田はそう言って、名刺を一枚取り出す。

「新商品を売り出すためのCMなんですけど、『フレッシュ感、凛とした雰囲気、控えめだけどどことなく普通じゃない感じがする』若者を起用したいんです。まだ全くの無名の新人というぐらい世間に顔が売れてない方が理想です。もし、該当するような方がいたらご連絡いただけると助かります」

 津田の説明を聞きながら、大崎の頭に真っ先に尚人が浮かぶ。

(いや、でも。ねぇ。勝手に名前出せないわよね?)

 それでも大崎の中で何かがくすぐられた。

「わかりました。もし、良さげな子がいたら連絡しますね」

「ありがとうございます」

「ところで津田さん。『控えめだけどどことなく普通じゃない感じがする』若者をお探しなら、東大キャンパスとか覗いてみたらどうです? 彼らって、一見どこにでもいる学生ですけど、最高学府に通っている学生ですよ。それだけで普通じゃないでしょ?」

「え? あ、まぁ……」

 冗談のつもりなのか本気なのかと、大崎の本心を図りかねたように戸惑いの表情を浮かべる津田ににっこり微笑んで、大崎は津田と別れたのだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) 10

 『ミズガルズ』十周年記念DVD BOXの発売予約が開始されるや予約特典に関する話題でファン交流サイトは派手な盛り上がりを見せた。

 ––––予約特典動画マジやばい!

 ––––メンバーがカメラ目線で終始笑顔だからもてなされる感ハンパない!

 ––––メンバーとカメラとの距離が近いんだよね。それがたまらない。

 ––––アキラなんか特に、このままキスされちゃう? って思うくらい近づいてくるし?

 ––––中華屋でのご飯シーンが一番好き。あーんってして食べさせてるところ。

 ––––私も好き。何回も見ちゃう。

 ––––ウェアラブル・カメラで撮ってるっぽいけど、一体誰にカメラつけて撮ったんだろう。

 ––––そこ、気になる。メンバー全員、ガチで楽しんでる感じだしね。

 ––––女子だったらやだなって思ったけど、ドラム叩かせるシーンで一瞬映った手、男の子だよね?

 ––––私も男子だと思う。スタジオに入った直後のシーンでガラスに一瞬姿が映るんだよね。

 ––––そこ私も気づいた! 結構ほっそりした体型だけど、確かに男の子。

 ––––え、見逃してた! 今から見直す!

 ––––私勝手に、突発ライブの時『MASAKI』の隣に座ってた子だと思ってた。

 ––––私もそうかなって思ってた。

 ––––よかった、私だけがしてる妄想じゃなかった!

 ––––私も、もしかして〜と思ってた。

 ––––あの時『MASAKI』の笑顔とろけてたもんね。メンバーだってメロメロかも。

 ––––ガチファンで有名だし。メンバーが撮影協力依頼してもおかしくないし?

 ––––あの子なら、メンバーとあの距離でも許す!

 ––––ってか、あの子ならむしろ顔出しして欲しい。

 ––––それは無理じゃ? 『MASAKI』の許可が下りないって。

 ––––それもそうかぁ。

 コアなファンの視点はもはや別次元へ移行しつつある感じで。書き込みをチェックした『ミズガルズ』メンバーは誰もが苦笑せざるを得なかった。何にせよ、予約特典のオマケ動画は評判上々で、買えばいつでも見られる『MASAKI』出演の特典PVよりも、期間限定でしかアクセスできないオマケ動画の方が貴重だとするネット書き込みもあり、その効果か、『ミズガルズ』の結成十周年記念DVD BOXは新曲を収録するわけでもないのに業界関係者たちを驚かせる予約数を叩き出した。それと合わせて「オマケ動画もDVD BOXに正式につけて欲しい」という要望が事務所に殺到し、事務所幹部達の頭を大いに悩ませたのだった。

 

 

 * * *

 

 

 青山の一等地にあるフォト・スタジオ。軽快な音楽が流れるその一画で、雅紀はグラビア撮影を行っていた。

 視線はあっち。

 今度はこっち。

 にっこり笑顔で。

 カメラマンは指示を出しながらシャッターを切り続ける。

「次は、俺様的なオーラお願いしまーす」

 時々意味不明な言葉が挟まるが、何一つ文句を言うわけでもなく雅紀はポーズを取り続ける。そして、

「はーい、お疲れさまぁ。今日は、これでラストでーす」

 アシスタントの声が響くと、ようやく今日の仕事が終了した。

「どうも『MASAKI』さん。お疲れさまでした」

 今まで何度か組んだことがあるスタイリストが駆け寄ってきて、雅紀の肩から上着を脱がせる。セットから降りると、いつもならそのまま着替えのために更衣ブースへ向かうのだが、出入り口ドアのそばに加々美の姿を見つけた雅紀は歩み寄って挨拶をした。

「ご無沙汰してます。加々美さん」

 きっちり腰を折って挨拶する。プライベードでどれほど親密であっても、そこは大事な一線だ。

 おう、と加々美が軽く手をあげて答える。

 そんなさりげない仕草さえ、帝王の貫禄たっぷりだ。

「メシ誘いに来た」

「しばらくは俺なんかに構ってる暇はないのかと思ってましたが?」

「嫌味か」

「まさか。そんなわけないじゃないですか」

「ほんとかよ。で、このあと時間は?」

「もちろん。ありますよ」

 雅紀が答えると、加々美は口の端に笑みを乗せた。

「ンじゃ、下の駐車場で待ってるからな。さっさと降りて来いよ」

 ヒラヒラと手を振って加々美はさっさと姿を消す。帰り支度を済ませて、雅紀はその後を追った。

 

 

 

 加々美の車に同乗し着いた先はいつもの『真砂』だった。これまたいつもの奥の座敷に通されて、とりあえずビールで乾杯する。

「とりあえず、お疲れさん」

 おそらくは先週雅紀がミラノ・コレクションへ参加してきたことに対する労いの言葉だろう。ミラノ・コレクションは世界四大コレクションの一つで、それに参加できたことはモデルとして一つステップアップしたことを意味する。

「どうだったミラノは?」

「はやり、熱気が違いましたね。色々勉強になりました」

「びっくりするくらいタイトなスケジュールだっただろう?」

「ええ。聞いてはいましたが。着いてすぐにフィッテングして、キャスティングして。ランウェイを一回歩いて。その間にモデルの数がどんどん減っていって。シビアな世界だなって再認識しました。でも、モデル同士は思いのほか和気あいあいで。次どこどこでオーディションがあるとか。ここの事務所がこんな募集かけてるとか。世界中の情報を交換しあっていて。モデルたちの視野が広いというのがよくわかりました」

「いい経験になったみたいだな」

 加々美が笑う。

 雅紀はビールをグイッと煽った。

「……で、加々美さんはその間、ナオと二人で楽しくディナーを楽しんでたみたいですね」

 出張中のおやすみコールは定番。尚人が大学生になったタイミングで尚人の使うPCを一新しスカイプができるようにしたので、今では顔を見ながら話をすることができる。声だけよりも顔が見えた方が断然いい。便利な世の中になったものだとつくづく思う。

 その定番のおやすみコールで、加々美にディナーに誘われたことを聞いた。加々美は尚人の代理人(エージェント)という名の後見人なのだから食事に誘われたら行くのが当然。そこに雅紀が口を挟む余地はない。が……

「イタリアから帰ってきてすぐに、ナオが店の雰囲気から出てきた料理まで、キラッキラの目をして、そりゃあもう楽しげに報告してくれましたよ」

 楽しそうな尚人を見るのは嬉しい。今まで知らなかった世界に触れて、驚いたり喜んだりしている尚人の姿はそれだけでかわいい。

 とはいえ、それをもたらしているのが自分以外の男だと思えば、どうしたって嫉妬心が刺激される。

(加々美さんばっかり、ずるいよな)

 どうしたって、そう思ってしまう。

「ディナーって。連れて行ったのうなぎ割烹だぜ」

「コース料理だったってナオが言ってましたけど?」

「そりゃあ、お前。尚人君にはうまいもの色々食わせたくなるだろう? 湯引きとか天ぷらとか、初めて食べたって言いながらすっごい感動して食べてるの見るとさ。今度は何食わせてやろうかなぁって、考えるのがまた楽しくなるし」

(それだけ聞くと、まるでデートみたいじゃないかよ)

 雅紀はますます心の中で拗ねる。

「で、その時尚人君から、大学生活も慣れてきたし、そろそろアルバイトをしてみたいって相談があって」

「アルバイト?」

「そ、学生アルバイト。周りの友人達がコンビニとか飲食店とか家庭教師とか。そんな学生らしいアルバイトをして自分の小遣いやら生活費の一部やらを賄っているのを見ると、自分も(お前)に甘えてばかりじゃいけないって思ったらしくて」

「学生の本分は勉強なんだから、必要に迫られない限りそんなことする必要ないと思いますけど?」

 雅紀はひっそりと眉を寄せた。

 小遣いが足りないならいくらでも渡してやる。という思いもありはするが。平日授業後のアルバイトであれば帰宅はどうしたって夜遅くなる。その点が雅紀的にひっかかる。真っ暗な中、尚人が深夜一人歩いて帰ってくるなんて、どんな危険があるかわかったものじゃない。それに、アルバイトが仮に週二日とか三日とかその程度だとしても、今でも帰宅後毎日机向かって予習復習を欠かさない尚人が遅い帰宅後にそれをするのでは身体的負担が大き過ぎる。それを考えれば、無理をしてまでアルバイトをする必要などない、と雅紀は思う。

 しかし、尚人がいろんなことを経験したいと思っているのは知っていて、アルバイトもその一環であろうという想像はする。だが、じゃあ土日昼間なら、なんて話になってしまうと、今度は尚人とゆっくり過ごせる週末がなくなってしまう。これまた雅紀的に認めるわけにはいかなかった。

「尚人君は、学生の本分は学業だっていうのは重々わかっているさ」

 加々美はアスパラの天ぷらを口に運んでから若干の上目遣いで雅紀を見た。

「当然ながら、お前に学費を出してもらっている以上、本分を疎かにはできないって思いも強く持っている。だけど、自分で金を稼ぎたいって思いも強くあって。その根底にあるのが、お前がした苦労の一端でもきちんと理解したいって思いだな。お前に感謝はしていても、自分で稼いだことがないから稼ぐ苦労というのは結局想像でしかないって。そのことがどうにも心に引っかかってるって感じだ」

 雅紀は一つ息をつく。

 確かに金の苦労は散々した。

 あの男が突然家を出ていき、あろうことか一円だって家に金を入れないという暴挙に出ると、篠宮家の生活費はたちまちのうちに底をついた。専業主婦だった母はパートで働き始めたものの慣れない仕事で体を壊し、心身ともに疲弊してしだいに精神も病んだ。そんな状況の中、当時高校生だった雅紀の直面した問題はどうやって金を稼ぐかだった。

 いろんなアルバイトを掛け持ちし、夜間のアルバイトでくたくたになって授業中に爆睡することも多々あった。しかし、その時にはすでに成績なんて二の次三の次で。卒業に必要な出席日数を確保できればそれでいいという思いになっていた。本当は、卒業さえどうでも良くて、中退して働こうとも思ったのだ。しかしそれは、友人や担任らに止められた。できることは協力するから一緒に卒業しよう。そう言ってくれた友人たちは、割のいいアルバイトを紹介してくれたり、学校が禁止している夜間のアルバイトを認めてくれるよう先生たちに掛け合ってくれたり。本当に色々助けてくれた。

 なんで俺ばっかりこんな目に。そんなふうには思わなかった。幼い弟たちをなんとかしないと。雅紀の中にあったのはその思いだけだった。

 家族がいたから踏ん張れた。それが雅紀の思いだ。

 しかし尚人は、篠宮家の家庭事情の一番の犠牲者は雅紀だと、そう思っているのだろう。だが、雅紀は金を稼ぐことに集中するその一方で、家のことは全て尚人に押し付けた。家事のことも引きこもりを続ける祐太のことも。ねぎらいや気遣いさえ見せず。

 尚人が金を稼ぐ苦労を本当の意味で知らないというのなら、雅紀は一人黙々と家を整え続ける苦労を本当の意味で知らない。しかし、役割分担をしたのだと。そう思えばいいと雅紀は思っている。だから、金を稼いできた俺に感謝しろだなんて、そんなことはこれっぽっちも思わない。––––だが、少しでも雅紀のことを理解したい。そう思う尚人の気持ちは素直に嬉しい。

 とはいえ––––。

「しなくて済む苦労なら、わざわざすることないと思いますけど」

 雅紀がぼそりと呟くと、加々美が小さく苦笑した。

「若い時の苦労は買ってでもしろっていうのが先人の言葉だがな」

「ナオはもう十分苦労したからいいんです」

 雅紀が言い切ると、加々美はやんわり笑った。そのままビールを口に運ぶ。

「ま、お前の気持ちも察するが。俺は、尚人君がしたいことをサポートするのが役目だからな」

「なら、最初から。俺の意見なんて無意味じゃないですか」

「すねるなよ。当然保護者の意向は尊重する」

「でも、ナオがやりたいっていうなら、加々美さんは手助けするんでしょ?」

「尚人君が本気でそれを望んでいるならな。それはお前だって、同じだろう?」

 ニヤリと笑う。そんな見透かされてる感に雅紀は思わず眉を寄せた。すると加々美がぷっと笑う。

「お前、ほんっと、普段は可愛げがないくらいのポーカーフェイスのくせに。尚人君のことになると感情だだ漏れだな」

 それは仕方ない。だって、尚人は雅紀にとって何者にも代えがたい掌中の珠で、決して失えない、何よりも大切なものなのだから。余計な見栄を張ったり、格好つけたりする余裕なんてない。

「で、結局のところ。ナオに何かアルバイトさせるんですか?」

「正直、金を稼ぐだけが目的なら、尚人君を使いたいってうるさい『ヴァンス』のオファーを受ければ、一般的なアルバイトの何倍も稼ぎはするが」

 まあ、それはそうだろうが。それだけは雅紀的に受け入れがたい。もはやこれは条件反射的嫌悪だ。

「とりあえず考えとくって答えてる。候補はいくつかあるんだが––––」

 雅紀が目で問う。

「何事も徐々にってのがセオリーだ。まずは、授業が早く終わるって聞いてる木曜週一からだな」

 もったいつけるように、加々美はそれ以上のことは教えてくれなかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) 11

 加々美にアルバイトの相談をして二週間後。尚人は加々美が紹介してくれた喫茶店で働くことになった。

 某駅近にある大きなオフィスビルの2階。エントランスホールから吹き抜けになっている大階段を上がった先にあるその喫茶店は、開放感と高級感を兼ね備えたホテルラウンジ風で、誰でも利用可能ではあるが、主にビル内にオフィスを置く会社の社員が個人利用から打ち合わせや商談など、幅広い用途で利用するのだと言う。外資系企業が多く入るオフィスビルゆえに日本語を全く話せない外国人の利用も多く、英語が話せるホールスタッフは大歓迎と、店舗マネージャーと面接し、週一でオーケーとの返事をもらって尚人のアルバイトは始まった。

 授業が終わった後に大学前の駅から電車に乗って数駅移動し、三時半から閉店までのシフトに入る。

「篠宮尚人です。不慣れなことばかりでご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが、精一杯頑張りますので、よろしくお願いします」

 尚人が緊張の面持ちで初日の挨拶をすると、スタッフ全員暖かく迎えてくれた。

 『カフェ・スペース・アコード』のスタッフは、バリスタ二名、厨房担当二名、ホール担当三名で、営業時間は月曜から金曜の朝十時から夜七時まで。土日は休業日。飲食店なのに土日休みなのかと最初は驚いた尚人だったが、ビル内で働く社員向けのカフェ・スペースであることから、休みを企業に合わせているという話を聞いて納得した。近頃の企業は、土日休みの週休二日制が当たり前だ。

 現場スタッフを束ねているのはチーフの前園で、初日の尚人はこの前園にとにかくくっついて仕事を覚える必要があった。

 カフェ・スペースの入り口に来客の姿があると前園はすかさずそこへ向かってにこやかに客を出迎え、来店の用件をさりげなく聞き出して最適な席へと案内する。ちょっと休憩に来た、と言う一人客には、時にバリスタと会話ができるカウンター席に案内し、時にひとりゆっくり過ごせるテラス席に案内する。商談で来たという客には複数名が対面して座れる応接スペースへ案内し、仕事の打ち合わせだと言う客には資料が広げやすいテーブル席へと案内する。自然で無駄のないコミュニケーション。しかも前園は以前利用したことがある客の顔と名前は頭に叩き込んでいるのか、基本的に来客者には名前で呼びかける。そのレセプションサービスのさりげない質の高さに尚人はひそかに感心しながら前園の動きを頭に叩き込んだ。

〔前園さん。今日は随分と可愛い子を連れてるね〕

〔今日からアルバイトで入ってもらうことになった篠宮君です〕

 その客が来店したのは、五時過ぎだった。〔今日は定時で上がれたから早めに来た〕と言うその台詞(せりふ)からは、この客が定期的に来店していることが伺えたが、前園との会話がなぜ英語なのかが尚人には不思議だった。

 どう見ても日本人。––––であっても、海外に育って母語が英語ということはあり得るが。使う英語が少したどたどしくてネイティブには思えなかったからだ。

 ひょっとして、英語以外の外国語が母語とか?

 そんなことを思っていると、前園が説明してくれた。

〔今日はこれから木曜会の集まりがあって、唐木様はそのメンバーです〕

〔木曜会?〕

 英語で話しかけられたので尚人も英語で返す。高校三年生の時の部活動の経験からか、英語には反射的に英語で返すようになってしまった。

〔このビルに入っている会社の社員さんたちが、会社の垣根を超えて自発的に作っているサークルです。英会話の上達と業種を超えた情報交換を目的に、木曜の仕事終わりにここに集まって一時間ほど英語で雑談されていかれるんですよ〕

 それで、この木曜会の集まりの時は、店内では英語以外使用禁止というのがサークル内でのルールらしい。

〔へぇ。そんな活動をされているんですね〕

 社会人の部活動みたいなものかと尚人は理解する。何となく楽しそうだ。

〔君、英語できるんだ〕

 唐木がちょっと驚いたように尚人を見やる。

〔ひょっとして帰国子女?〕

〔いいえ。高校生の時に英語ディベートの部活動をして。それで鍛えてもらいました〕

 尚人がそう答えると、唐木の表情が動いた。

〔へぇ、そうなんだ。その話面白そうだな〕

〔あ、唐木さん。もう、来てたんですね〕

 新たな来店者がやって来て、にこやかに唐木に挨拶する。どうやら彼も木曜会のメンバーのようだ。

〔渡辺様。いらっしゃいませ〕

 前園が穏やかに出迎えて、二人をソファー席へと案内する。そこが木曜会メンバーの指定席だという情報を尚人は頭の中のメモに書き加えた。

 

 

 * * *

 

 

 夜十時過ぎ、雅紀が仕事を終えて帰宅すると、尚人はいつもの如く机に向かっていた。集中力半端ない尚人は、勉強に没頭してしまうと、こうして雅紀が部屋に入っても気配に気づいて振り返ることはない。その集中力には感心する一方で、

(入って来たのが不審者だったらどうするんだよ)

 と少々心配になる。

 家の中に不審者。というそのシチュエーション自体どうなのか、というツッコミはこの際なしだ。

 何にせよ、大学生になっても尚人は相変わらず勉強に余念がない。雅紀の勝手なイメージだが、大学生は授業で専門を学んで時々レポートを出す必要はあっても、高校までのような日々自宅学習に時間を割いて勉強に取り組む必要などないと思っていた。だから大学生は、授業以外の時間をサークルやバイトに(つい)やせるのだと。––––しかし、尚人の大学生活は高校生までとあまり変わらない。どころか、授業時間が長くなった分だけ帰宅が遅くなり、帰って来てからが慌ただしい。雅紀が夜遅くに帰って来た時、尚人はいつだって机に向かって何やら勉強している。その姿が当たり前だ。

「ナオ」

 声をかけて肩を軽く揺する。それでようやく尚人が気づいて振り返った。

「あ、まーちゃん。おかえりなさい」

 にっこり笑顔でそう言われて、雅紀はほっこりする。

「ただいま」

「ご飯食べた? お腹減ってない?」

「飯は食って来た。それより、ナオ。アルバイトはどうだったんだ?」

 雅紀は、ベッドの端に腰をかけ、何より気になっていたことをまず問う。加々美に紹介されて始めることになっていた喫茶店のアルバイトが今日からだったのだ。

 店自体の営業が夜七時までとそんなに遅くないことと、駅前という立地から帰宅もそれほど危険はないと、一応雅紀的にも納得のアルバイト先ではあったが。些細なことがあれやこれやと気になって今日一日気を揉んだ。心配しすぎて仕事が手につかない何てことはさすがになかったが、それでも休憩中のふとした時間に気づけば尚人のことばかり考えていた。

「最初は緊張したけど、スタッフさんたちみんないい人ばっかりで。さりげなく色々フォローしてくれて。覚えないといけないことはまだ一杯あるけど。でも、楽しかった」

「そうか」

 尚人のその表情に雅紀はひとまずほっとする。

 モデルの仕事をする前、雅紀もいろんなアルバイトを経験したが、正直職場環境は一緒に仕事をする人間の雰囲気に左右される。スタッフ同士気遣いがある職場は不思議ときつさも半減するが、人間関係がギスギスしていると倍増しする。しかし、アルバイトであっても仕事は仕事。雰囲気が悪いからと言って簡単に「辞めます」とは言えないものだ。何よりきついことから逃げてばかりでは「逃げ癖」がついてしまう。そんな人生では何も得られない。それが雅紀の持論だ。

 しかし、尚人に限って言えば、きつい思いをしてまでアルバイトをする必要はない、とどうしたって思う。金なら俺が稼ぐ。その想いが根底にあるからだ。本当は、尚人にはずっと家にいて欲しい。それが雅紀の本心だ。

 今のところ、それを言葉にして伝えるのは我慢してるが……。

 尚人がにこにこと笑顔で、アルバイト初日の感想を語る。初めて注文をとりに行った時は緊張したが高二の文化祭の和菓子喫茶の経験を思い出してそれなりにうまく行ったこと。若手社員達が英語で雑談するサークル活動をしていると知って、即興英語ディベートの部活動を思い出したことなど。目をキラッキラにして話をする尚人の姿はとにかく可愛くて。雅紀は我慢できなくなって、尚人の手を引っ張って腕の中に抱き込む。肩口に顔を(うず)めて思いきり匂いを嗅ぎ、首筋から耳たぶにかけて唇を這わせて甘噛みすると、尚人がくすぐったげに首をすくめた。

 そのままベッドに押し倒してキスをする。

 始めはついばむだけの優しいキス。

 足を絡めあって、ゆったりと抱きしめる。

 尚人が怯えないように。とびっきり甘く優しいキスから始める。

 するとすぐにドキドキと尚人の鼓動が逸り出す。

 尚人が興奮しているのを感じて雅紀はキスを深めた。口角を変えて何度も唇を重ね、同時に膝頭で尚人の股間をぐりぐりと刺激する。次第に尚人の呼吸が荒くなり、尚人が甘い吐息をもらしたタイミングで口内に舌をねじり込むと歯列をなぞり上顎も下顎も執拗にねぶって舌を絡ませた。

「まー、ちゃ……」

 雅紀がスエットの裾から手を差し入れて胸の尖りを指の腹で押しつぶすと、尚人が体を震わせて小さく啼いた。その声が可愛らしくて、雅紀はキスを貪りながらそのまま尖りをいじくり回す。

「あぁッ……」

 尚人の吐息が熱い。

 瞳が淫らに濡れている。

「ナオは、ホント乳首いじられるのが大好きだな」

 雅紀はわざと言葉にして尚人の羞恥を煽ると、スエットをたくし上げて熟れて尖り切った乳首をさらけ出して甘く噛んだ。

 尚人の体が小さく跳ねる。

 雅紀はそのまま乳首を舌でねぶり上げて吸いながら、右手を下腹部へと滑り込ませる。半勃起状態だった尚人のものを雅紀がゆったりと握り込んで撫でると、雅紀の手の中でそれは完全に勃ち上がった。

「はぁぁぁぁ……」

 尚人がかすれた声を上げる。その声がたまらない。

 雅紀はそのまま執拗に尚人の乳首を攻めた。舐めて噛んで吸い。指先でこねくり回してつまみ上げる。同時に股間をやわやわと揉んでやると、尚人は腰をよじりながら先走りの蜜を吐き出した。

「ナオのここ。もうべたべたに濡れてる」

 耳たぶを甘噛みしながら雅紀はささやく。

「ここも舐めて欲しい?」

 露出した先っぽを指の腹で撫でると、さらにじわりと蜜が溢れ出て雅紀の手を濡らす。

「それとも、このまま指でグリグリして欲しい?」

 ちなみに尚人はどちらも好きだ。露出した秘肉の先端を舌先でほじるように刺激してやるとそれはそれは可愛い声で啼き続けるし、爪の先で念入りに擦り上げて刺激してやるとたまに本気で気をやってしまうほどそこが弱い。

「……舐めて欲しい」

「ナオは俺に舐められたいんだ?」

「まーちゃんに、いっぱい舐めてほしい」

 雅紀はにんやりと笑う。快楽に従順な尚人が可愛い。

「じゃあ、ナオのいいとこ。俺に全部見せて」

 雅紀が言うと、尚人がもぞもぞとスエットを脱ぎ捨てる。そして羞恥で顔を焼きながらも、足をM字に大きく開いて雅紀の前に股間をさらした。

「いい子だ」

 雅紀は尚人の股間に顔を埋めると裏筋に舌を這わせた。尖らせた舌先で浮いた筋をなぞり、エラの切れ目を舐め、そこに唇を当てて上下する。

「あッ。そこ、……きもちぃ」

 カリ部は男性ならば誰もが気持ちよく感じる部分だ。

 尚人が内腿をひきつらせながらあえぐ。本当に気持ちが良いのだろう。尚人の気が済むまでしばらくそこを刺激してやってから、雅紀はぷっくりと膨れた秘肉の先端を舌先でチロチロと舐めた。別の刺激に尚人の声が変わる。一緒にくにくにと珠を揉んでやると先走りの蜜がつぎつぎと溢れ出た。

 雅紀は尚人が勝手にイったりしないように、根元をきっちりと締めて刺激を与え続ける。するとやがて、イきたくてもイけない尚人が快感の捌け口を求めて身をよじりながらあえいだ。

「イかせて。まーちゃん! もう、イかせて!」

 啼きながら懇願する尚人を雅紀は少し休ませてまた刺激する。こうして緩急をつけながら快感を与えるだけ与えた後に吐射させてやると、簡単に射精するのとは違った痺れるような深い快感が得られるのだ。

「よし、イっていいぞ」

 雅紀が根本を締めていた指の輪を緩めると、尚人は体を震わせて濃厚な精を吐き出した。それを全て口で受け止めて、雅紀は嚥下する。

「んー、ナオの、濃くて甘い」

 雅紀はベッドの上でくたりとなって荒い呼吸を繰り返す尚人を見やって笑みを浮かべる。気怠そうにベッドに沈む尚人は、とにかくエロくて。濡れた瞳は、どう見たって誘っているようにしか見えない。

 当然、これで終われるわけがない。

「ナオ、明日は二限からだよな?」

 雅紀が問うと、整わない呼吸の中で尚人が瞬きだけで返事をする。雅紀はその返事を確かめて、舌舐めずりするようににやりと笑った。

「明日は送っていってやるよ。だから、ナオ。最後まで付き合ってくれよ」

 雅紀はそう言うと、再び尚人にむさぼりついた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) 12

 朝の通勤通学のラッシュがひと段落した九時過ぎの最寄駅。安藤丈宜(たけのり)はICカードをかざして改札を抜けると慣れた足取りで四番ホームへ向かう。エレベーターを降りてすぐの乗車口もほとんど人は並んでいなかったが、わざわざ少しホームを歩いて2両後ろの乗車口に並んだ。

 待つこと数分。時間通りに電車がやって来て、目の前に止まった車両に乗り込む。車内は立っている乗客がまばらにいたものの混んではいない。通勤通学のラッシュが落ち着いたこの時間帯の登校は本当に快適だ。

 これぞ大学生の醍醐味ってやつだよな。

 安藤は思う。

 高校時代、同じ路線を使って都内の私立高校へ通っていたが、一年の最初の頃は学校へ行くだけでヘトヘトで慣れるまで本当に大変だった。今でも一限がある日は満員電車にもまれるが、耐性がついてさほどく苦痛ではないのは高校時代の三年間の経験があるからだ。

 それに、今は通学のちょっとした楽しみがある。同じクラスの篠宮尚人。使う路線が同じで朝電車の中で一緒になる。熱気むんむんの満員電車の中にあっても尚人の周りだけなんだか空気感が違って。視界に入るだけで癒される。今まで出会ったことがない不思議なタイプだ。

 安藤が尚人の存在に気付いたのは、入学手続きのために大学へ行った日のこと。クラス分けの掲示板を確認し自分のクラスが示されたブースに入ったそこに尚人はいた。人のごった返す場所にあっても自然と目を引いて、何となく気になる。最初からべったりとくっついている邪魔な奴がいてその日は声をかけられなかったが、すぐに使う路線が同じとわかって親しくなった。

 同じ電車に乗っているはず、とわかるまでは電車内で見かけることはなかったのだが、捜せばすぐにいつも何気に乗っていた車両の二両後ろに乗っていることが分かった。おそらくは尚人が利用する駅ではその車両の乗車口が一番乗り込みやすいのだろう。それが分かってから安藤はわざわざ二両後ろの乗車口に並ぶようになった。乗っていると分かれば混み合う車内でも簡単に見つけられる。何しろ尚人は一度その存在に気付いてしまうと目が離せない不思議な引力を持っていた。

 しかし––––

(? ……いない)

 安藤は車内を見回してわずかに首を傾げる。いつもはすぐに見つかるその姿がない。

(今日は別の車両とか?)

 今まで尚人が別車両に乗っていたことはないが、そんなことだってあるかもしれないと、安藤は人の間を通り抜けて隣の車両に移る。しかし隣の車両にも尚人の姿はなく、そのまま尚人の姿を探して最後尾まで行ってみたがやはり姿はなかった。

(休みとか?)

 いや、もしかすると一本前の電車に乗ったのかもしれない。通学に便利な快速電車はそんなに本数が多いわけではなく、二限目の授業に間に合う電車で時間的にちょうどいいのがこの電車だが、授業前に図書館に寄りたいとか、そんな時にはこの電車ではぎりぎり過ぎて時間に余裕がなさすぎる。

 安藤はなんとも言えないため息を吐き出してカバンからスマートフォンを取り出そうとした。その時だった。

「あれ、タケじゃん。ひさしぶり〜」

 懐かしい愛称に反応して視線をあげる。次の駅に到着して停車していた電車に、ちょうど乗り込んできたところらしい女性がひらひらと安藤に向かって手を振っていた。

 高校の同級生の河西(かさい)だった。

 同じクラスになったことはないが部活動を通して知り合いだった女子だ。安藤が所属していたソフトテニス部は一応男女は別の部活ということになっていたが、同じテニスコートを使っていたこともあって日々の練習では常に顔を合わせていた。それゆえか、ソフトテニス部員同士でくっつくカップルも多くて。河西を狙っている男子も多かった。実は安藤も高校時代、河西のことが気になっていた一人だ。告白しようかと散々迷った時期もある。しかし友人らが何人も玉砕する姿を見て、あいつらがダメなら俺もダメだろうと諦めた。それに高校入学時から東大を目指していた安藤は、恋愛よりも勉強が優先との自戒もあった。当時は自分の甘酸っぱい思いを無理に封印する、そういった全てが青春という感じがしたが、今振り返ればそう振舞うことで青春を気取りたいだけだったという気もする。その証拠に、卒業してまだ数ヶ月しかたたないのに河西を前にしても何の感情も揺さぶられなかった。

 今あるのは、朝一で尚人の顔が見れなくて残念すぎる、その思いだけだ。

「タケもこの路線使ってたんだ。今まで気づかなかった〜」

 河西があまりにも自然に隣に並ぶ。にこやかな笑顔を浮かべて。高校の時だったらすぐさま勘違いして内心浮かれまくっていただろう。

「タケ、なんか大人っぽくなったね。すっごく落ち着いた感じになってる〜」

 そう言う河西は、メイクのし過ぎかどことなくお水系に見えてしまう。すっぴんで十分可愛かったし、成績も上位で才女の雰囲気だった。それが好意を抱いていた理由でもあるだけに何となく残念だ。

「そういえば、こないだリョー君にも偶然会って。久しぶりにソフト部のみんなに声かけて集まろうよって話になったんだよね。近々ライングループで流そうと思ってたんだけど。週末の予定ってどんな? なんかバイトとかサークルとかやってる? ってか、タケ。どこ大だったっけ? 早稲田? 上智?」

 河西が一方的に喋りまくる。安藤は降車駅に着くまで適当に相槌を打ってやり過ごした。

 

 

 * * *

 

 

 朝八時半。雅紀は助手席に尚人を乗せて余裕を持って家を出る。

「大丈夫、電車で行けるよ」

 という尚人に

「どうせ、俺も仕事で出ないといけないし」

 と半ばゴリ押しして車に乗せた。

 普段の登校では、家から最寄駅まで自転車で七分、電車移動五十分。着いた先の駅が大学の正門直結だから、あとは校舎まで歩くだけ。一時間ちょっとで大学に着く。対して、車移動だと道が空いていれば四十分ほどの行程だが、時間の読める電車と違って車は渋滞に引っかかることもある。朝は電車のほうが確実で早い。それでも車で送ると雅紀が譲らなかったのは、

「車だと、到着するまでゆっくり座ってられるだろう?」

 それが一番の理由だ。

 昨夜は多少のセーブをしたとはいえ、朝の尚人の気怠そうな様子を見るからに、電車で一時間も揺られて立っているのはどう考えても辛いだろう。それにそもそも送ると言い出したのは雅紀なのだから、約束はきっちり果たしたかった。

 と、いろいろ理由づけ(いいわけ)してみたところで、朝から尚人とのドライブデートを楽しみたいだけ、というのが本心だったりする。どうせ雅紀だって仕事で都内へ向かうのだ。多少の遠回りになっても、その道中、隣に尚人がいるのといないのでは雲泥の差。それは朝もう少しゆっくりできるかどうかなんてことよりもはるかに重い。というか、そもそも比べる対象にもならない。

 ということで、雅紀は上機嫌でアクセルを踏み、信号停車時はいつも以上に気を使ってブレーキをかける。尚人の腰に負担がかかるような急停車なんて(もっ)ての(ほか)だ。

「ICレコーダー聴いてていいぞ」

 出発してすぐに雅紀はそう声をかけた。尚人が電車移動中の時間を無駄にできないと車内で語学の勉強をしているのを知っているからだ。英語は得意で今更改めて勉強する必要はなさそうだが、大学では第二外国語なる語学が必修としてあるらしい。いくつかの語学の中から選べる第二外国語の授業で尚人はイタリア語を選択したと言っていた。

「まーちゃんがよくイタリアに行くから。一番興味がある」

 というのが選択の理由らしい。それを聞いたときには、雅紀の相好は崩れ放題だった。尚人が何かを選択する基準に自分がいる。そのことが雅紀の独占欲を満たす。とはいえ、雅紀自身はイタリア語は全く喋れない。イタリアでもスタッフとの会話は全部英語だ。それで困ることはないが、時々現地スタッフがイタリア語でやりとりしている時に何と言っているのか分からなくて。それが気にならないと言えば嘘になる。

(加々美さんもイタリア語ぺらぺらだしなぁ。俺も、ちょっとは勉強したほうがいいかな)

 チラリとそんなことを思いもするが。

(ま、でもナオがあっという間に習得してしまいそうだから。ナオを通訳として連れて行く方が早いかもな)

 想像して、それも悪くないと思う。というか、それを考え出したらそうしたくてたまらなくなって。尚人と一緒の海外生活なんて妄想してみたりする。

 ……––––悪くない。

 雅紀の頭の中で尚人は、空も海も青い地中海を眺めるホテルの部屋で真昼間から裸に剥かれてベッドの上だ。

 朝っぱらから兄にそんな不埒な妄想をされているなど知る(よし)もなく、

「せっかくまーちゃんと一緒にいるから。まーちゃんとお喋りしたい。運転の邪魔じゃなければだけど」

 尚人は相変わらず可愛いことを言う。

 もちろん雅紀に(いな)やはない。

 尚人が、アキラからもらったというメールについて話し始める。尚人が撮影に協力した十周年記念DVD BOXの予約特典の動画が結構な人気だと、その報告を受けたようだ。尚人的にはその報告にほっとした、ということだったが、その特典(オマケ)動画の反響については雅紀もすでに耳にしていた。

 先日の加々美との食事の席で。

「そう言えば尚人君が撮影協力した『ミズガルズ』の十周年記念DVD BOXの特典(オマケ)動画だけどさ。結構な評判らしい」

「へぇ、そうなんですか?」

 その動画については雅紀も見た。尚人宛に動画を収めたDVDが送られてきて、それを見せてもらったのだ。

(メンバー全員マジで浮かれすぎだろ)

(つーか、ナオに近寄り過ぎなんだよ(怒))

 雅紀的にちょっとイラッとする場面が散在していただけに、「結構な評判」と言われても複雑な気分だったが。それでも尚人の視線を追体験していると思えばそれなりに面白かった。それに。

「あ、これ。アキラさんと『ミュージック・エイト』の話をしている場面だ」

「あ、この廊下の移動中。アキラさんがノリノリで歌ってたのがよかったのに。音カットされてる」

「……俺のドラムの音はカットしてくれないんだ」

「へぇ、編集されると、俺の見てた景色がこんなふうになるんだ。おもしろいなぁ」

 尚人が、笑ったり赤面したり感心したり。一人百面相をしながら映像を見ている姿はDVDの中身よりも雅紀的によほど楽しかった。

「でさ。『ミズガルズ』の所属事務所に、期間限定じゃなくて正式にDVD BOXに収録して欲しいって、ファンからの要望が殺到してるみたいで。マネージャーはじめあちらの事務所関係者は頭を抱えてるみたいだぜ」

「まあ、ファンから要望があったからって期間限定にしてた動画を正式収録なんて、簡単にはできないでしょうけど?」

 その辺、雅紀も業界のことを知らないわけではないので事務所関係者のため息が聞こえてきそうだ。

「まあな。スポンサーの意向もあるし。特典(オマケ)特典(オマケ)じゃなくなれば、それはそれで不満を持つ奴が出てきたりもするしな」

 ファンの声というのは聞き過ぎても無視しても駄目で、落とし所を間違うとファンの熱狂が凶器に変わることだってある。距離感の保ち方とイニシアティブというは人気商売では非常に重要だ。

 雅紀は人気と距離感のバランスなんてものに神経を使いたくなくて『MASAKI』としてのプロフィールは名前以外一切明かしていなかったのだが、それが却ってミステリアスさを生んでコアなファンを生み出す要因になってしまったというのは思いもしなかった結果論であり、しかも篠宮家の愛憎劇が不本意ながらも世間に垂れ流しになった時に、それまでのミステリアスさからの反動とでも言うのか、意外すぎる素顔が話題になって『MASAKI』のカリスマ性が一気に押し上げられたのは皮肉としか言いようがない。

 当然、同業者のライバルの中には、

 ––––おそらく全部計算。

 ––––親父も承知のマッチポンプ。

 ––––モデルと全然関係ないところで名前売るやり方マジえげつない。

 などと口さがなく言う者いたが。もちろんそんな連中さっくり無視だ。面と向かって喧嘩を売る度胸も根性もない連中など、相手にする価値もない。

「動画が評判なのは、まあ、いいんだが。コアなファンが集う交流サイトで、撮影者は誰だってのが、かなり話題になってるみたいでさ」

「へぇ」

 ファンってそんなことにまで関心がいくのかと、雅紀は妙に感心する。しかしファンがいくら想像をたくましくしたところで、結局は想像の範疇を超えはしない。なぜなら撮影は身に着ける(ウェアラブル)カメラで行われたのだ。撮影者(尚人)の身体にカメラが着いている以上、カメラに撮影者(尚人)の姿は映らない。––––そのはずだ。

「交流サイトでそんなことが話題になってるって教えてもらって、俺も気になって覗いてみたんだが。––––ファン侮りがたし。って、つくづく思っちまったぜ」

「というと?」

「かなりの核心をついてる。……というか、交流サイトではすでに撮影者は尚人君だって。そう結論づいてる」

「は? なんですか、それは」

 雅紀は意味がわからずに、ひっそりと眉を寄せた。

「ファンってさ、すっげー細かいとこまで見てんだな。FBIも顔負けの捜査力って感じ? ガラスに一瞬映り込んだ姿なんかを見逃さなくってさ。その映像から尚人君だろうって話になったみたいだな。尚人君のことは、『ミズガルズ』の突発ライブの時に、お前の隣にいた子は誰だってネットで話題になってたから、それで記憶してるファンも一定数いるわけだし? メンバーと顔見知りのガチファンで、撮影協力依頼してもおかしくなくて。メンバー全員がカメラ目線でメロメロな感じってところを合わせると、尚人君で間違いないって。そういう結論みたいだ。まあ、もちろん。名前はふんわりぼやかされてて、尚人君の名前がネットに上がってるわけじゃないんだが」

 加々美の話に雅紀の口からはため息しか出なかった。

 尚人と一緒にライブデートを楽しむと決めた時に、尚人の存在が世間にこぼれ落ちても仕方ない、と腹を括りはしたが。まさか、こんな波及の仕方を見せるとは思わなかった。

 ちなみに伊崎が監督を務めたPVの撮影では、雅紀は階段状のセットを延々上り下りさせられた。前回同様起きているのか寝ているのかわからない感じで椅子にふんぞり返っている伊崎からリテイクが掛かるたびに、

(俺はアルピニストじゃねーんだぞ)

 雅紀は心の中でぼやきまくりだった。しかもバックはまたもやグリーン一色で。どんな映像がはめ込まれるのか。完成してみないと雅紀もわからない。

 DVD BOXの発売は9月の予定で。尚人はその日が楽しみだと口にする。表情も目もキラキラさせて。こんなにも尚人の関心を引きつけている『ミズガルズ』に雅紀は本気で嫉妬する。

「そう言えば、加々美さんが今度三人で飯食いに行こうって言ってた」

「三人?」

「加々美さんと、俺とナオの三人」

「え。まーちゃんも一緒? すっごい楽しみ!」

 尚人の声が弾んだ。その一言に雅紀の相好が崩れる。たった今感じていた不愉快など一気に消し飛んで、雅紀は自分のお手軽さにほんの少し呆れた。しかし同時に仕方ないと開き直る自分がいることを自覚する。なぜって、雅紀の中心はいつだって尚人だからだ。

 話が弾んでいる間に大学に着いてしまった。車を横付けしやすい北門で尚人を降ろし楽しい朝のドライブデートはあっという間に終わったのだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) 13

「あれ、ひょっとして津田じゃないか?」

 帰宅で駅へと向かっている道中、信号待ちで足を止めたタイミングで津田は声をかけられた。梅雨明けはまだだが日中の暑さはすっかり夏で。アスファルトの溜め込んだ熱が日没後もまだ残る人混みの中。声のした方に反射的に視線を向け、そこにいた人物を認めて津田は軽く目を見開いた。

「唐木じゃないか! ひさしぶり!」

 大学の同期の唐木だった。

「こんなところで会うなんて。何年ぶりだ?」

 驚きをそのまま口にする。懐かしさから口元が緩んで、自然と笑みがこぼれ落ちた。

「一回同期会やった時以来かな」

 記憶にあるよりも落ち着いた雰囲気の唐木の言葉に津田も記憶をたぐり寄せ、そうだ、そうだったと思い出す。四、五年前のことだ。

「今帰りか?」

「ああ」

「いつもこの駅?」

「いや、今日は出先からの直帰で」

「そうなんだ。じゃあ、ここで会ったのも何かの縁だな。時間あるなら、軽く一杯どうだ?」

 唐木の誘いを快諾し、二人はそのまま近くの居酒屋へ移動した。

 

 

 

「学生時代って、一年がめちゃくちゃ長かったのに、社会人になると年単位での時間の経過があっという間だよな」

 席に通されて出されたお絞りで手を(ぬぐ)い、ひと通り注文が終わったところで津田は呟く。学生時代の思い出は鮮明だが、それが十年以上も前の話だと思えば時間の経過が恐ろしくすらある。

「『ジャネーの法則』ってやつだな」

「何だそれ」

「まんま、年を取るに従って時間の経過が早く感じられる心理現象のことだよ。一年って時間の長さが、五十歳の人間には五十分の一でも、五歳の子供にとっては五分の一だろ? 人生経験によって一年っていう時間の相対的な長さが小さくなることで時間の経過が早く感じるようになるらしい」

「要約すると、年取ったってことか?」

「お互い様だ」

 二人は互いに顔を見合わせて笑うと、出てきたビールで乾杯した。

「ところでお前まだ『リゾルト』に勤めてるのか?」

「ああ、何とかな」

 唐木の質問に津田は小さく肩を(すく)めた。津田の『リゾルト』への熱は、あの当時交流のあった友人たちは皆知っている。何せ津田はことあるごとに『リゾルト』愛を語り、『リゾルト』への就職希望を口にしていた。それは時にうざがられるほどだった。

「よかった。お前のとこ、去年結構大規模な社内改革をしたって噂聞いてさ。お前、大丈夫だったかなって心配してたんだ」

「首切られたんじゃないかって?」

「……まあ。そういうのは、このご時世、どこにでもある話だろう?」

「まあな。実際、上司も同僚も、何人かいなくなったし。……みんな、仕事熱心だったんだけどな」

「そうか。既に終身雇用なんて時代じゃなくなっちゃいるが。積極的な転職と解雇じゃ、全然違うよな」

「そういえば、解雇になるくらいなら自分から辞めるって言って、本当に辞めた奴もいたな。まあ、そいつはもともとベンチャー企業立ち上げる夢があったみたいだけど」

「会社都合ばっかり聞いてられるかって、ある意味意地だな。その気持ち、分からなくもない。––––実は俺も、転職組だしな」

「え、そうなのか?」

「ああ。でも、俺が転職した理由は––––––––––––……。半分くらいは、お前が理由か」

 唐木はそう言ってからりと笑う。

「え? 俺?」

「一回同期会で集まった時にさ。みんな自分の仕事に誇りを持ってる感じで。キラキラして見えてさ。特にお前なんて、ずっと『リゾルト』『リゾルト』煩くて。そのまんま、そこに就職した、いわゆる『勝ち組』だろ?」

「俺って、勝ち組なのか?」

「ああ、希望通り就職できて。仕事が楽しくって仕方ないなんて、リーマンの『勝ち組』だろ。そんな姿見せつけられたら、給料は安定してても何の成長も望めない当時の職場に嫌気がさしてさ。俺のしたかったことって何だったけって、もう一回考え直して。一念発起して、今の会社に入り直したんだ」

「そうだったのか。でも、転職ってそんな簡単にはいかないだろう?」

「もちろん、いろいろリサーチしたし、自己研鑽のための勉強もしたさ。本当に大丈夫かって不安があったのは事実だけど。お前みたいに仕事を楽しんでいる奴らへの憧れが強かったし、何よりまだ身軽な独り身だったしな。家族を養わなきゃってのがあったら、やっぱり安定した給料って簡単には手放せないし」

「若い頃の勢いって大事だったって、今振り返るとつくづく思うことはあるな」

「お前は勢いだけで突っ走ってるところあったしな」

「それだけが取り柄だったんだよ」

 いっそサバサバした気持ちでそう言えるのは、青春時代を共に過ごした大学の同期だからこそだ。

「今の職場には慣れたのか?」

「まあ、ぼちぼちかな。でも、毎日楽しいぜ。周りの同僚みんな意識が高くってさ。自己研鑽とか情報収集とかに貪欲で。同じビルに入ってる会社の有志で社会人サークルまで作っててさ。俺もそこに入れてもらったんだ」

「へぇ。社会人サークルって、何やってんだ?」

「英会話での情報交換」

「ひぇー、お前、そんなことしてんのかよ」

 津田は驚いて唐木を見やる。津田も仕事柄英語が必要な場面はあるが、学生時代に培った片言英語で何とか凌いでいる。大事な商談の席では通訳だのみだ。

「英語力の向上と情報交換を一緒にやってしまおうっていう趣旨の活動で。なおかつ、同じビルに入っている社員同士の顔つなぎの意味合いもあるかな。外資系の会社が多く入ってるビルでさ。外国人スタッフも多いし。俺の勤め先は総合商社なんだけど、海外との取引も多いしさ。英語が喋れないと仕事にならないんだけど、語学って普段から使ってないと鈍るだろう? とっさに言葉が出てこないっていうか」

「ああ、まぁ、そうだな」

 頷きながら、津田は唐木のバイタリティに感服する。津田も自分にもう少し英語力があればと思う場面に時々遭遇しながらも、自分の英語力をもっと鍛えようなんて発想にはならなかった。

「そのサークル活動って、どっかにわざわざ集まるのか?」

「ビル内にある喫茶店で、木曜の仕事終わりに一時間程度、コーヒー飲みながらやるんだ。だから、サークル活動費はコーヒー一杯分だな。それで、英会話の向上と情報交換ができるんだからコスパいいだろう?」

「仕事終わりにコーヒー飲みながら英語で情報交換って。何か、カッコよすぎだろ。海外ドラマかって感じ?」

 津田は呟いて、それからひとつ息をつく。

「唐木がそんなに頑張ってるって聞いたら、時には諦めるってことも大事だよなって誤魔化そうとしてた自分が恥ずかしくなるな」

「お前でもそんなことがあるのか。『リゾルト(会社)』のためなら命張れるって感じだったお前が」

「その思いは今でもあるけど。……どんなに探しても、見つからなくてさぁ。ってかもう、どこ探したら見つかるんだって感じ? いや、そもそもこの世に存在するのかって。そのレベル?」

「なんだ、探し物か? だったら協力しようか? 俺、探し物は結構強いぜ?」

「まじ?」

「ああ。 ––––で、何探してんだ?」

「……… 人」

「人?」

「CM起用の若者」

「CM?」

 キョトンとする唐木に、津田は斎木にしたような話を赤裸々に話す。学生時代の友人。その関係性が酒の勢いも手伝って津田の口を何時もにないほど軽くしていた。

 

 

 * * *

 

 

 ––––一人、心当たりがある。

 酒と懐かしさと自己反省の気持ちからすっかり思いの丈を吐き出した津田に対し、唐木は存外に真面目な顔でそう言った。

 ––––実際に津田が見てどう思うかはわからないけどさ。今津田が言ったイメージにぴったりだなって思う。

 唐木のその一言に、津田の酔いは一気に吹き飛んだ。さすが唐木。探し物に強いと豪語するだけはある。持つべきものはやっぱり友だ。

 ––––さっき言ったサークル活動の場所になってるビル内の喫茶店に、最近入ったアルバイトの学生がいて。その学生がまさに津田のイメージそのものって感じ。飛び抜けたイケメンとかそんなんじゃないんだけど、整った綺麗な顔してて。良家のお坊ちゃんって感じだけど、物腰柔らかくて接客態度抜群に良くて。ある意味普通の学生なんだけど、なんて言えばいいのかな。纏ってる空気感は穏やかなんだけど、なぜか視線が引き寄せられる感じで。しかも、びっくりするぐらい英語がペラペラなんだ。

 最後は正直どうでもいい情報だったが、要約すると、一見普通っぽいのに普通じゃない感じがするのだという。その学生のシフトを知るわけではないが、サークル活動がある木曜は必ずいると唐木は言った。

 その情報をもとに、藁にもすがる思いで津田は早速次の木曜にその喫茶店を訪れた。

 大きなオフィスビルの二階。誰でも利用可能だと聞いてはいたが、エントランスホールから吹き抜けになっている大階段を上がった先にあるその喫茶店を利用するのは少々の勇気がいった。何しろビルに入ってすぐに総合受付があって、綺麗な受付嬢が来訪目的を訪ねるようなビルである。

「二階にある喫茶店を利用したいんですけど?」

 正直に言えば、受付嬢はにっこり笑顔を崩さないまま、正面の吹き抜け階段かエレベーターをご利用くださいと丁寧に案内してくれた。

(唐木って、こんなおしゃれなオフィスビルで働いてるのかよ)

 津田はドキドキしたまま階段を登って二階へ向かう。この階段だってドラマで使われそうな階段だ。

 階段を上り切ると目的の喫茶店はすぐに分かった。『カフェ・スペース・アコード』と書かれた看板が小さなイーゼルに掛けて置いてある。ビル内の喫茶店ながら高級ホテルのラウンジのような雰囲気だった。

「いらっしゃいませ」

 これまた熟練のホテルマンのような品の良いスタッフが津田を出迎える。

「お一人様でいらっしゃいますか?」

 問われて頷く。

「カウンターとテーブル席、どちらがよろしいですか? 今日は天気が良いので、テラス席もおすすめですが?」

「テーブル席で」

「かしこまりました」

 男性はにこやかに答えて、津田を席に案内する。

「お決まりになりましたら、お呼びください」

 そう言ってメニュー表を席に置くと、男性はいったん離れていった。

 津田はメニューを手に取って人がまばらな店内を見回す。津田を席に案内してくれた男性の他は、カウンター内に二人。いずれも唐木が言っていた学生アルバイトではなさそうだ。その他は、今他のテーブルで注文を取っている若めの男性の姿があるが、こちらに背を向けているため顔はよく見えない。

(彼かな)

 津田は、メニューを選んでいるフリをしながら、ちらちらとその男性スタッフに視線を向ける。

 背中だけ見て、只者ではないな……なんて感じは一切ない。

(ホットコーヒーで八百円か。結構いい値段するな)

 それでもホテルラウンジよりはリーズナブルだ。商談でここを使えるメリットは大きだろう。

 メニュー表を見ながら、津田は男性スタッフが注文を取り終えてこちらを向くタイミングを待つ。しかし女性二人連れの客は、メニュー表を指差しながらいちいち何かをスタッフに尋ねていて、ちっとも注文が終わらない。

 じりじりとした気持ちを押さえて津田はその時を待つ。数分が経過してようやく女性客がパタンとメニュー表を閉じた。男性スタッフが手元の伝票にオーダーを書きつけて、メニュー表を下げる。そして一礼して踵を返した。

 その瞬間を津田は息を呑んで迎える。

 男性の顔がはっきりと視界に入った。

 瞬間––––。

(いやぁ……。ぜんっぜん、違う)

 津田は大きなため息を吐き出した。

 キリッとした爽やかイケメンではあるが。津田のイメージではない。

(唐木〜、期待させすぎなんだよぉー)

 ボヤいたって仕方ない、と分かっていても、ドキドキとした期待感と慣れない場所へ乗り込んできた緊張感から張っていた気が一気に緩んで。津田は心の中で叫ばずにはいられなかった。

(まぁ、でも。現実ってこんなもんだよなぁ)

 店員を呼んでホットコーヒーを注文する。注文を取りに来たのは、今までバックヤードにでもいたのか、初めて津田の視界に入る女性スタッフだった。十分ほどの時間を要して同じ女性スタッフがホットコーヒーを運んでくる。プロのバリスタが淹れるコーヒーは味わいは濃くても苦味は少ない。値段以上の満足感が得られる一杯だった。

(ま、美味いコーヒーが飲めただけで良しとするか)

 津田は自分を納得させる。いつも休憩で立ち寄るコーヒーショップも悪くはないが、チェーン店にはない至福の時間がここにはある。少し視野を広くして利用客の様子を眺めれば、紳士淑女の(たしな)みを備えた本物の大人達が(つど)っている感じがした。その雰囲気に津田の背筋も自然と伸びる。

(たまにはこんなところでコーヒー飲むのも悪くないな)

 津田はそれを今日の収穫とした。

 

 

 * * *

 

 

 勤務時間を定時で終えて、唐木はビル二階のカフェ・スペースへと向かった。毎週木曜のサークル活動。唐木にとっては自己研鑽のつもりでいたが、近頃は癒しの時間にもなっている。

 近頃入ったアルバイトの学生。最初に見かけた日がバイト初日だったようで、その日こそは前園にくっついて歩いてるばかりだったが、翌週には木曜会メンバーの担当に就任していたようで、席の案内からオーダー取りまで全て彼が担当だった。メンバーがまだ誰も来ていない時間に行くと、席へ通された後のちょっとした時間に雑談に付き合ってくれて、唐木はそれが楽しくて少し早めに行くようになった。木曜会の活動時間ははっきり決まっているわけではないが、概ね五時半から六時半の一時間程度。だから、五時きっちりの定時で仕事を終えてカフェ・スペースへ行くと、メンバーが揃うまでのわずかな時間に雑談できるチャンスが生まれるのだ。先週は、高校生の時に参加したと言っていた即興英語ディベート大会の話を聞いた。高校生を対象にそんな大会が開かれているなんて知らなくて、唐木は感心しきりだった。なにより、大会で実際に出されたテーマを聞いて「そんな内容を高校生が英語でディベートするのか?」というのが驚きだった。しかも即興で。そんなことできる高校生は帰国子女とか、そういう特殊な背景を持つごくごく一部だろうという先入観があったが、彼と一緒に参加したチームのメンバーは全員海外の留学経験などなく、高校の部活動で英語力を鍛えたのだと言っていた。

 今時の高校生って、それが普通なのか?

 少なくとも唐木が高校生だった二十年近く前は英語をペラペラ話せる同級生なんて周りにはいなかった。一番喋れる奴でも、頭の中で言語を必死に変換しながら喋ってる感じのたどたどしさがあった。それでも、英語で意思疎通ができさえすれば「あいつスゲー」という感じだったのだ。

〔興味があるなら一度観覧されてみてはどうですか。全国大会の決勝リーグは一般客も会場に入れますし、ネットでライブ配信もしますから〕

 そんな情報を教えてくれた。

 ちなみにアルバイトの「篠宮君」は、昨年の優勝チームのメンバーらしい。優勝するにはこれくらいペラペラじゃなきゃだめなんだろうなと納得した。

(さて、今日は何について話を聞こうかな)

 そんなことを思いながらカフェ・スペースへ到着すると、前園がいつもの如くにこやかに出迎えてくれた。

〔いらっしゃいませ。唐木様〕

〔やあ、前園さん。こんにちは〕

 挨拶を交わし、唐木は前園の後ろに近頃定番となっている「篠宮君」の姿がないことに気づく。

〔あれ、今日は篠宮君休み?〕

 問うと前園が笑みを崩さずに頷いた。

〔ええ。そうなんです。大学が試験期間に入りまして。それでお休みです〕

〔ああ、そうなんだ〕

 試験期間、という懐かしい響きに唐木は自分の学生時代を思い出す。日頃の授業は適当に受けていても試験だけはきっちりこなさないとけないのが大学生だ。テストの出来が悪くて「不可」の評価を受ければ単位を落とす。それが必修なら翌年再履修しないといけないし、落とした単位が多くて進級単位を満たさなければ留年となる。大学生にとって定期考査は非常に重要で、ゆえにその間アルバイトのシフトから外れるのもよくある話だ。

〔それは残念〕

 答えてふと思い出す。

(そういえば、今日津田が来るって言ってなかったっけ?)

 しかし店内を見回しても津田の姿はない。

(篠宮君が見つからなくて、帰ったかな)

 タイミングが悪かったなと思う一方で、津田がその気なら何度も足を運ぶだろうとも思う。一度で諦めるかどうかは津田次第だ。それによくよく考えたら、「篠宮君」の意向も確かめもせずに勝手に紹介するような行為は良くなかったかもしれないと津田は反省していた。久々に再会した嬉しさに酒の力が加わって、友人の力になりたいという思いが先行してしまったが、「篠宮君」にとっては迷惑な話かもしれないのだ。それを思えばこれ以上のお節介は無用だろうと、唐木はこの件で津田に連絡するのはやめておいた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) 14

「あれ? 今日、篠宮君休み?」

 それは、唐木がカフェ・スペースに顔を出す少し前のこと。新規の客が津田の近くの席に通された時だった。常連らしい女性客とスタッフの会話が津田の耳に入る。

「そうなんです。大学が試験期間に入りまして」

「そうなんだぁ。篠宮君の顔見て癒されようと思って来たのに。残念すぎる」

 女性客が心底残念そうな声を出す。津田はコーヒーを飲む手を止めて視線をあげるとその女性客をチラリと見やった。

 ––––篠宮君。

 口の中で呟く。この店に来て、すでに何度か耳にした名前だ。

 ––––あれ、篠宮君休み?

 ––––え、篠宮君今日いないの?

 ––––うそー、篠宮君休みなのぉ。

 誰もが残念そうに。彼の顔を見るために立ち寄ったのだと言わんばかりに。

 どうやらいつもなら今日いるはずのアルバイトスタッフの名前らしい。名前を聞きそびれていたが、おそらくは唐木が言っていたアルバイト学生と同一人物。

「でも、試験期間なら仕方ないかぁ。そっちが学生の本分だしねぇ」

「井出様も、すっかり篠宮君のファンですね」

「当たり前よー。あんな子、なかなかいないでしょ? 可愛くって素直で気が利いてて。癒し系なのに、どことなく大人の雰囲気で。 少し話しただけで頭いい子なんだろうなって感じるんだけど、押し付けがましさは全くなくて。最近テレビで見る顔が綺麗なだけの男性アイドルなんて束になってかかっても勝負にならないって感じ。それにね、彼ってどっかミステリアスな感じもしない? 瞳にね不思議な引力があるのよ」

 女性の言葉に津田の耳は自然ダンボになる。

 可愛くて素直で気が利いてて?

 癒し系なのに、大人の雰囲気?

 それでいてミステリアス………

 ––––そんな大学生、本当に存在するのか?

 津田は半信半疑ながらも俄然興味が湧く。

「試験っていつまで?」

「今月いっぱいのようです」

「じゃあ、来週も会えないかー」

(わたくし)はいつでもお待ちしておりますよ」

「仕方ない。しばらくは前園さんで我慢ね」

「篠宮君の代わりにはなりませんが」

「私、前園さんみたいな渋系男子も好きよ」

「ありがとうございます」

 常連の軽口を難なくいなす男性を津田はチラリと見やる。柔和な笑みを浮かべながら接客するその男性の横顔には、その柔和さとは裏腹に「篠宮君」のプライベートナンバーを教えてくれと頼んだところで教えてくれなさそうな厳格さが潜んで見えた。

 

 

 * * *

 

 

 定期考査の二週間を乗り切ると、大学生は約二ヶ月間の夏休みに入る。高校までとは違う、思う存分自由を満喫できる二ヶ月だ。まさに苦しみの先に待っている喜び。金曜の最後のテストが終わると教室内の空気は一気に開放感で満たされた。

「いやーーーーっとおわったぁぁ!」

 いつもクールな鷺原までもが歓声を上げる。尚人は思わずクスリと笑った。が、歓声を上げたくなる気持ちは共感できた。

 初めて受けた大学の定期考査。新入生の面倒を見る「上クラ」と呼ばれる一年上の先輩達から何かとレクチャーを受けてはいたものの。

 ––––テストって、授業内容の理解度を図るためのものじゃないの?

 高校までの「常識」は見事に打ち砕かれた。

 難問奇問の目白押し。

 ある授業のテストは、テキスト、ノート、タブレット、何を持ち込んでもよかった。ならばテストで試されるのは暗記能力ではなく情報活用能力。そんな気持ちで望めば出てきた問題はまさかの。

『授業中教師がした雑談を三つあげ、それに対する感想を述べよ』

 しかもそんな設問をしたのはまさかの雑談好きの教授で。毎回授業の半分は雑談だった。

 ––––本当になんでもいいのか?

 ––––それとも、どの雑談をチョイスするかで評価が分かれるのか?

 大学の定期考査の洗礼を受けた学生達はひたすら迷う。ここでチョイスする「雑談」とそれに対する感想でいかに授業内容に絡ませられるかが必要なのか、と深読みしたりもして。テストの結果は後々の「進路振り分け」に影響するので、「不可」でさえなければいいなんて考えには到底なれず。それでかえってドツボにハマり、テスト後に青ざめた顔をした学生も一人や二人ではなかった。

「篠宮、テストの出来どうだった?」

「うーん、まぁまぁかな。……落としてはないと思いたいけど」

 大学の成績の付け方は、上から優・良・可・不可。ちなみに不可は、単位をもらえない「落単」であることを意味する。それが必修科目であれば来年再履修しなければならない。進級に必要な単位数さえ満たせば一応進級はできても、逃げることが許されないのが必修科目だ。

「話は後で。とりあえずちゃっちゃと移動しようぜ」

 安藤が話に割って入る。このあと、お疲れ様会兼テスト検証会という名の打ち上げが予定されているのだ。クラスのムードメーカー的安藤がひと月程前に提案して決定していた事項で、三十人弱ほどのクラスメイトのほとんどが参加することになっている。

「予約してる店って〇〇駅のそばだっけ?」

「そうそう。電車で移動すれば二十分も掛からないくらいかな」

「3キロくらいだろ? 俺走っていくから」

 クラスメイトの一人がさらりと口にする。

「は? まじ?」

「汗かいたほうがビールうまいだろ」

「あ、じゃあ俺もそうしようかな」

 ちなみにクラスメイトの半分ほどは浪人経験者で、彼らはすでに成人している。同期で年齢入り乱れるのは大学では当たり前。一歳の年齢違いが大きかった高校までとはまるで違う世界だ。

「じゃ、電車移動のやつは一緒いこーぜー」

 安藤の声かけに、皆がゾロゾロと移動を開始した。尚人もその集団にくっついていく。着いた先は鉄板焼き屋で、狭い階段を上がった先の座敷席に鉄板のはまった机が並んでいた。今日は二階席は貸切なのだと言う。

 外食と言ったらファミレスか高級レストランか、という両極端しか知らない尚人にとっては、店の作りから雰囲気から何もかもが新鮮だった。

「席くじ引いてねー」

 いつの間にそんなものを用意していたのか。女子が手荷物から袋を取り出して出入り口に陣取る。

「テキトーに座っちゃダメなのかよ」

「だめだめー。そんなことしたら安藤君と鷺原君が篠宮君の横がっちりキープしちゃうでしょ」

 女子のその一言に何人かが苦笑した。

「確かに」

「私たちだってたまには篠宮君と話したいし。だったらここは公平にくじ引きでしょ?」

 東大の女子学生比率はおおよそ二割。尚人達のクラスも六人しかいない。しかし、少数だからこそ女子の発言力は結構強かったりする。誰もが文句を言わずに大人しくくじを引いて席に着いた。

 

 

 

「では、我がクラス最年長の山本さんに乾杯の音頭をとっていただきたいと思います。山本さん、一言お願いします」

 全員の席に飲み物が配られて、幹事役の安藤が進行を務める。事前に打ち合わせなどしていなかったのか、指名された山本は、

「ええ、俺?」

 驚いた顔をしつつも立ち上がった。山本は四浪して合格した苦労人で、皆からは「兄貴」と慕われている。年齢は違っても入学年が同じなら同期だが、やはり年長者にはガチガチの高校生活しか知らない現役生にはない大人感がある。

「じゃあ、指名されたんで。僭越ながら」

 山本は、ごほんと一回わざとらしく咳払いを挟んだ。

「俺はストレートで大学に進学していれば既に卒業している年齢だ。周りからは何浪もして入る大学にこだわる必要があるのかと何度も言われた。しかし! 俺は合格して初めてわかった。俺は、このクラスに入るために四浪が必要だったんだと!」

「いいぞ兄貴!」

「その通りだ兄貴!」

「俺はこのクラスのみんなと一緒に卒業したい。どうか俺を一緒に卒業させてくれ!」

「大丈夫だ兄貴。このクラスには篠宮がいる!」

「そうだぞ兄貴。俺たちには篠宮がついている!」

 乾杯前からもう酔っ払ってるのかと何人かが呆れ顔をしたが、それでも盛り上がる場に満更でもなさそうだ。急に名前を出された尚人はびっくりするしかなかったが、周りの様子に「こういう集まりって、こういうノリなの?」と静かに受け入れるしかなかった。

「ALESAさえ攻略できたら俺たちに怖いものはない!」

「そうだ! そうだ!」

「篠宮、本当にありがとう! 乾杯!」

「かんぱーい」

 皆が手にしていたグラスを掲げて、近場の人たちとグラスを軽くぶつけあう。尚人もワタワタしながら手にしていた烏龍茶のグラスで乾杯した。直後にお好み焼きの食材が運ばれてくる。ボウルに入った材料を自分で混ぜて目の前の鉄板で焼くスタイルだ。尚人も一つボウルを受け取って丁寧に材料を混ぜ合わせると鉄板の上に丸く広げた。その流れで何気に隣に目をやると、隣に座っていた中里の手元がかなり残念なことになっている。ボウルからはキャベツやコーンといった具材が無残に飛び出し、卵もうまく混ざり切っていない。

「俺、しようか?」

 尚人が少々苦笑しながら言うと、中里は「おねがい」と素直にボウルを渡す。尚人はそれを受け取って材料を丁寧に混ぜ直すとそれも鉄板の上に丸く広げた。

 お好み焼きは祐太が好きで篠宮家では結構定番のメニューだ。土日のお昼によく作る。だから尚人がいつもの調子で、生地をひっくり返して焼けるのを待って、ソースを塗って鰹節や青のりを振って、皆が食べやすいように切り分けまでちゃっちゃとしてしまうと、同じテーブルに着いていたメンバーからなぜか歓声があがった。

「篠宮ってほんっと何でもさらっとこなしちゃうよな」

「まさかお好み焼きまで手際よくやっちゃうとは」

「やだな。ただ混ぜて焼いただけだよ」

 尚人は苦笑する。

「篠宮って一人暮らしだっけ?」

「ううん。実家暮らしだよ」

「家でもよく料理したりすんの?」

「まぁね」

「得意料理とかってある?」

 隣の席の中里が聞いてくる。数少ない女子の一人だ。

「うーん。いろいろ作りはするんだけど。得意と言われると……。唐揚げとハンバーグはよく作るかな」

「え、ハンバーグ作れるの?」

 本気で驚かれて尚人は苦笑する。尚人の家事スキルは必要に迫られて身についたもので、今更「料理ができるなんてすごい」と言われても困ってしまう。

「私一人暮らし始めてから何とか自炊しようって頑張ってたんだけど。料理って結構時間かかるでしょ? 買い物する時間も含めて。テスト期間中なんか特にその時間がもったいないって思っちゃって。ここ二週間はずっとコンビニ弁当とかカップメンとかで済ませちゃってるんだよね」

「家事って慣れないうちは大変だもんね」

 手際が悪くて晩ご飯を作るのに時間がかかったり。必要な食材が頭に入ってなくていざ作り始めたら足りない調味料があったり。掃除も自分の生活リズムに入り込むまでやたら負担に感じたり。随分と前のことだが尚人にもそんな時があった。

「篠宮さ、実家暮らしってことは都内?」

「ううん、都外だよ。通学は電車で片道一時間くらいかな」

「じゃ、毎日往復二時間移動? 時間の無駄じゃね?」

「うーん。電車の中で語学の勉強してるから時間の無駄って気はしてないかな。むしろ毎日二時間時間が確保されてるって感じ?」

「考え方の転換だな。さすが篠宮」

「まあ、でも今は良くてもさ。三年になって専門に分かれたらやっぱ毎日二時間の移動はきついんじゃ? 先輩達の話聞くとさ、とにかく時間が足りないらしいし」

「その辺は、文系と理系とで違う気もするけど。篠宮って文二だろ? やっぱり進路は経済学部狙い?」

「その辺はまだはっきりとは。入学時に学部を決めなくてもいいってことでこの大学にしたのもあるし」

「へぇ。なんか意外。篠宮って人生設計バッチリ決めてそうなのに」

「そんなことないよ。……それに、俺世間知らずで世の中のことほとんどわかってないし」

「それ言われちゃうと、俺だって世の中の何わかってんだって話にはなるけどさ」

「そんな大きな話じゃなくて。俺、高校まで本当に学校と家を往復するだけの生活で。どっかに出かけたりとかも、あんまりしたことなくて」

「ほとんどの高校生がそんなもんじゃない? 都内で遊び慣れてる高校生なんてほんの一部だって」

「ああ、安藤とかな」

「渋谷にある私立校出身だっけ?」

「あれ、なんか俺の噂してる?」

 背面の席にいた安藤が耳ざとく聞きつけて振り返る。ついでにちゃっかり飲み物を持参して尚人の目の前の席に割り込むように入り込んだ。

「お前って休みの日とか何してんの?」

「俺? テスト期間は家で真面目にベンキョーしてたぜ」

「暇な時とかさ。渋谷ぶらついたりするわけ?」

「うーん、まあ。服見に行ったりは渋谷が多いかな。最近は青山もよく行くけど」

「俺、服買いに行くのって怖いんだよな。ただ見てるだけなのに店員に声かけられたりしてさ。何お探しですかー? なんて聞かれても答えようないし」

「ただ見てるだけですって言えばいいじゃん」

「そんなこと言って大丈夫なのかよ」

「店員なんて毎日何百人も相手にしてんだから。見てるだけって言えば、そうですかってなるだろ」

「田舎から出てきた人間には難易度高すぎ」

「あと、試着も勇気いるよな。気になる服見つけて、ちょっと着てみたい気もするけど。全然自分に似合ってなかったら店員に内心笑われそうだし」

「でも、絶対店員はお似合いですよーって言うんだろ?」

「お前らショップ店員のことうがって見過ぎだろ」

「だから店員が声掛けしてくることがないユニクロとか安心して買い物できんだよな」

「田舎にもあって買い慣れてるし?」

「そうそう。妙な安心感」

「同じ価格帯でもっとファッショナブルないい店いっぱいあるのに。なんかもったいないな」

「お前に田舎者の気持ちがわかってたまるか」

「そうだ、そうだぁ」

「でも服で言えばさ。篠宮って結構お洒落度高いよな。今着てるシャツもさ、何気にオーダーシャツだろ? 合わせてるパンツはデザイナーズブランドだし」

「え、そうなのか? それわかる安藤もなんかスゲー」

 急に話題が自分に向けられて尚人は堪能していたお好み焼きを飲み込んだ。

「篠宮はさ。服どこで買ってんの?」

「……実は、兄に選んでもらってて」

「兄? 篠宮って兄貴いたんだ」

「うん」

「へぇ」

「兄がファッションに詳しくて。だから時々お店に連れて行ってくれて」

「そうなんだ。どのあたりの店?」

「……ごめん。東京の地理あんまり詳しくなくて」

 いつも連れ回されるばかりなので、尚人はショップに関することは何も把握していない。それに雅紀が出入りする店はどこもVIP対応で。一般客とは接触しない奥のスペースで接客を受けていた。ゆえに尚人は、一般の店舗スペースがどんな雰囲気なのか知らないままのショップも多い。

「じゃあさ、篠宮も一人で服買いに行ったことはないってことだよな」

「……そうだね」

「じゃあ、俺たちと同じレベルかもよ」

「そうかもね。一人で買いに行ったら、自分にどんなのが似合うのかすっごく悩みそうだし。ドキドキして店員さんに声なんてかけられないかも」

「あ、じゃあさ。今度みんなでショップ巡りしてみない? 俺が手頃なショップ案内してやるし」

「え、マジ。助かる、安藤」

「どう、篠宮?」

「うん。そうだね。……みんなで買い物体験するのも楽しいかも」

「じゃ、決まりな。いつにする?」

 安藤がさっそく皆のスケジュールを聞き出して日程調整を始める。明日からは夏休みで時間はたっぷりあるのが大学生だ。あれよあれよと言う間に週明けすぐの日程が決定した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) 15

 待ち合わせの定番、渋谷ハチ公前。そこに十時と言われて尚人は余裕を持って家を出た。渋谷駅はいつも乗り換えで利用するが構内から出たことがない。巨大な ターミナル駅の中で通り慣れた通路を外れることにドキドキしながら、尚人は待ち合わせの場所を目指した。のだが……

(あれ?)

 人波に揉まれながらも目当ての改札を抜けたはずだった。しかし目の前にあると思っていたあの有名な像がない。それとも目の前と思っていたのは勝手な思い込みだったのか。と、尚人はキョロキョロと辺りを見回しながら歩き出した。

 その時––––

「あの、すみません」

 いきなり声がした。

 条件反射的に尚人は目をやる。声のした方へと。声をかけられたのが自分であるかどうかもわからないままに。

 そこにはライトグレーのサマースーツをスマートに着こなした男がいた。年齢は三十歳ぐらい。尚人と目が合うとにっこりと微笑んだ。

「突然声をかけて申し訳ありません」

 まずは軽く断りを入れ。

「ちょっとお時間よろしいですか?」

 尚人をじっと見つめた。

 道を尋ねたいのかと思った尚人はきょとんと相手を見返して頷く。

「ええ。ちょっとなら、いいですよ?」

 早めに家を出たので待ち合わせの時間にはまだ余裕がある。そんなことを思っている尚人に対し男は慣れた仕草で名刺を差し出した。

「私、こういう者です」

 反射的に受け取って尚人は名刺を見る。

【モデル・タレント養成(株)イグニス・プロダクション スカウト部門 陣内宏史】

(?)

 名刺を渡された意味が分からなくて尚人は小首を傾げる。社会人同士の名刺交換の風習を知らないわけではないが、道端で学生相手に名刺を渡してくる意味が理解できななかった。

 それとも、これから道を訪ねようという前に「自分は怪しいものではないですよ」と暗に伝えたくて名刺を見せたのだろうか?

 そんな疑問を抱きつつ男性を見やると、男性は笑みを深めた。

「突然なんですけど、モデルに興味ありませんか?」

「え?」

 聞き間違いかと耳を疑う。

 それでなければ道ゆく人を巻き込んだドッキリ番組の撮影か。

「独特の雰囲気があって。人混みの中でも目を引いて。歩き方も綺麗で。それで、声をかけずにはいられなかったんですが。興味ないですか? モデル。すごく素質があると思うんですけど」

(あ、何か。懐かしいかも)

 尚人はふとそんなことを思う。子供の頃、家族で連れ立って繁華街を歩けば雅紀や沙也加へのこの手の声かけは馴染みの光景で。最初はそんな声かけに家族で浮かれていてもあまりの多さに途中から辟易というのまでが定番だった。

 ––––やっぱり、まーちゃんすごい。

 誰も彼もを魅了する雅紀を、尚人はただただ尊敬していた。綺麗で優しくて。頭が良くて運動神経も抜群で。ピアノのコンクールでも賞をいっぱいもらって。剣道を始めたら誰よりも強くて。

 スカウトマンが声をかけたくなるのも当然だった。

 しかし––––

「俺、ですか?」

 思わず問い返す。これまで雅紀にくっついて散々スカウトマンに遭遇してきた尚人だが、尚人自身が声かけの対象になったことなど一度もない。

 ––––そっちは弟さん? かわいいね。

 声をかけられたとしてもその程度。そして尚人にとってそれは「当たり前」だった。スカウトマン達は雅紀のような飛び抜けた美貌の持ち主を探しているのであって、自分みたいな平凡な人間を探しているわけではないからだ。ただ、雅紀がそんなスカウトマン達の声かけに興味を示したことは一度だってなかったが。

「お名前、伺ってもいいですか?」

(何かの詐欺ってことはないよね?)

 尚人の中に急に警戒心が湧く。自分が世間知らずと言うのはよくよくわかっている。だから、聞いたことはなくても、スカウトマンを装って何かしらの個人情報を取ろうとする詐欺だってあるのかもしれない。何しろここは何が起きてもおかしくない都会のど真ん中だ。雅紀にも口を酸っぱくして「都会にはいろんな人間がいるんだから。知らない人間にホイホイついて行ったりするな」と言われた。

「やだなぁ。俺だって子供じゃないんだし。さすがに知らない人にはついていかないってば」

 その時は思わず苦笑で返したが。

「道を訪ねるフリをして人気(ひとけ)のない所に誘い込む(やから)だっているんだぞ」

 と言われ。暗に先日のジェイミーとの一件を指していることは明らかで。

「雑居ビルに連れ込まれなくてラッキーだった」

 と言われてしまえば尚人は返す言葉がなかった。

「あの。興味ないです。すみません」

 尚人は慌てて名刺を返そうとしたが、男はやんわりとした笑みを浮かべたまま受け取ってはくれなかった。

「名刺に載せてるQRコード読み込んでもらえば弊社のHPに飛ぶので。一度覗いてみてください。今人気の濱中健太さんも弊社所属の俳優なんですよ」

 そんなこと言われても、尚人は『濱中健太』という俳優を知らない。

「あの。俺、本当に困ります」

 相手を無視して立ち去ることもできなくて。尚人がほとほと困り果てている時だった。

「何してんの? どうかした?」

 聞き覚えのある声がして尚人は振り返る。そこに安藤の姿があった。

「あ」

 安藤、と言おうとして尚人は言葉を飲み込む。素性の怪しい男の前で名前を出すことは憚られた。

「お知り合いですか?」

「友人です」

「どーも。こいつに何か用ですか?」

「モデルに興味ないかと声かけさせて頂いておりました」

「あ、スカウト? 興味あるの?」

 安藤の問いかけに、尚人はぶんぶんと首を横に振る。

「興味ないみたいですよ。じゃ、俺たちこれから用があるんで。失礼します」

 安藤はそう言うと尚人の手を引っ張るようにしてその場を離れる。少々強引な安藤の行動に尚人はドキドキしながらも助かったと言うのが本音だった。

「安藤、ありがとう」

 尚人がため息混じりに呟くと、安藤は尚人が手にしていた名刺を取り上げてくすりと笑った。

「渋谷ってあの手のスカウトマン結構いるし。誰彼声かけてるんだから無視で構わないのに」

「最初、道を訊ねたいのかと思っちゃって」

 やっぱり都会慣れした安藤は自分とは違うとほとほと思う。

「俺も何度か声かけられたことあるし」

「あ、そうなんだ」

 雅紀ほどではもちろんないが。安藤だって結構なイケメンだ。

「でも、そんな誰彼、俺みたいなのにまで声かけて。ああ言う人たちって、そのあとどうするんだろう。誰も彼もが興味ありますって答えたら逆に困るんじゃない?」

「別に声掛けして興味示した人みんなを事務所所属にするわけでも、デビューさせるわけでもないさ。大抵はオーディション受けさせて、落ちたら残念だったねで終わり」

「そうなんだ。––––って、安藤詳しいね」

「高校の時何人か周りにそう言う奴らがいてさ。街中で声かけられたって嬉しそうにしてスカウトマンに連絡返して指定の場所に行ったらオーディション会場だったって。そんな話はマシな方。まずは読者モデルでって言われて。撮影で着た衣装は全部自腹で買取りさせられて。ギャラなしどころか雑誌掲載料って名目のお金とられて。それでも名前売れて人気が出たらプロのモデルになるチャンスもあるとか言われて。それで百万以上の金注ぎ込んだって奴の噂も聞いたことあるし」

(そんな世界なんだ)

 尚人は安藤の話に驚きつつも、以前加々美に「この業界は、はっきり言って海千山千ひしめくところだから。綺麗事だけでは片付かない話も山ほどある」と言われたことを思い出す。それでいけば加々美蓮司というまっとうな人物に見出されてモデルデビューした雅紀はラッキーだったのかもしれない。

 ––––いや、逆か。

 加々美蓮司という人物からの声かけだったから雅紀は興味を示した。きっとそう言うことだろう。加々美のことを信頼できる大人だと確信したのだ。

「まあ、中には何でも人生経験と捉えてスカウトマンの話に乗る奴もいたけどな。自分から飛び込まなきゃ経験できない世界だし。二、三回雑誌に載れば就職選考の時の自己アピールに使えるって。割り切ってたりしてさ」

「何でも人生経験……、かぁ。確かにそうだよね」

「お、何? 話断って後悔してる?」

「そんなことはないけど。……でも、最初から自分には無理とか。興味ないとか。そんなふうに考えてたら、自分を狭めるだけだなってのはちょっと反省した」

「名刺返そうか?」

「それは、いい」

「じゃ、捨てとく」

 安藤はそう言って名刺をポケットに突っ込む。そうして喋りながら歩いているうちに待ち合わせのハチ公前にたどり着いた。

「よう」

「おう」

 福田と坂本の姿がすでにある。

「ごめん。待たせちゃった?」

「駅ビルの反対側からぐるっと回って今着いたとこ」

「田舎者はハチ公前に集合するのも一苦労だぜ」

 二人の言い様に尚人は笑い、連れだって歩き出す。その後は安藤に案内されるままに幾つかのショップを回った。最初は緊張気味だった福田と坂本も皆と連れ立っている安心感からか、しだいに気になる服を手にとって鏡の前で当ててみたり試着してみたりと服選びを楽しめていた。店員との会話にも慣れれば、ショップ店員は流石にファッションに詳しくて、色の組み合わせ方や流行のコーディネイトなど服選びの参考になる話をいろいろ教えてくれる頼りになる存在だとわかった。お昼は適当にファスト・フード店に入る。慣れない尚人がオーダーにマゴついていると「何でもさらっとこなしちゃう篠宮にしちゃあ珍しい」とか「ファスト・フード店初めてとか、ひょっとしていいとこのボンボン?」とか揶揄われてしまった。そして午後からも安藤に案内されるままにウィンドウショッピングの続きを楽しむ。その最中だった。

「あ、ヴァンスだ」

大通りに面した高級感ある店構え。その正面のウィンドウに飾られていた独特な色使いの服には見覚えがあって。尚人は思わず立ち止まる。それに気づいた安藤も一緒に立ち止まった。

「本当だ。直営店がオープンしたとは聞いてたけど。ここだったんだ」

「有名なブランド?」

 福田と坂本も足を止めた。

「結構話題の新興ブランドだよ。もともとはレディースしか扱ってなかったけど。最近メンズ展開も始めて。独特の色使いが特徴なんだ」

 さすが安藤。なかなか詳しい。

「篠宮って、ひょっとしてヴァンス好き?」

「……そう言うわけじゃないけど。名前聞いたことあるなって」

「ちょっと覗いてみる? 俺も見るだけなら見てみたいし」

 安藤の提案に尚人は内心高速で首を縦に振る。店舗内だけで流されているプロモーション・ビデオに雅紀が出演していることは知っている。 できればその貴重な動画を見てみたい。

「でも、高そーじゃねー? 明らかに今まで回ったショップとは敷居が違う感じ」

「見るだけなら高いも安いも関係ないだろ?」

「ま、そりゃそうか」

 その一言に全員が納得し店に入る。店内は今まで回ってきたショップとは規模も雰囲気も全然違うものだった。

「うわー、スッゲー」

 一歩足を踏み入れて坂本が驚いたように呟く。無理もない。広い店内には所狭しとカラフルな服が並べられおり、店中色の洪水。その様はまるで無造作に絵具を出して並べたパレットの上。なのになぜか全体としてまとまりがある不思議。そんな店内の一番目につく所にユアンの巨大パネルが飾られていて客を出迎える。ものすごい存在感だ。

(すごい……)

 尚人はユアンパネルを見上げて感嘆の息を吐く。撮影現場に同行しユアンのモデルとしての顔も実力も知っているつもりだったが。これだけの巨大パネルになっても粗のない美と妖精(フェアリー)感。圧倒的な存在感。それでいて自分の知るユアンだとどこかで思える不思議な親近感。しばらくそのパネルに目を奪われてから、尚人はそろそろと店内を歩き始めた。もちろん捜しているのはプロモーション・ビデオを流す店内モニターだ。

 しばし散策して尚人は巨大液晶モニターを見つけた。それにヴァンスのCMかと思われる映像が流れている。しばらくそれをじっと見ていると、尚人の知らない外国人が何人か映った後、唐突に『MASAKI』が登場した。

 軽快なBGMと共にランウェイを模した長い通路を『MASAKI』が颯爽と歩いていく。煌びやかな照明を一身に浴びて。カメラが正面に来てもキメ顔なんかせず。ただ前だけを見据えて真っ直ぐに歩く。その姿をカメラはただ追っていく。前から、横から、後ろから。あらゆる角度からカメラが『MASAKI』を追う。それはまるで『MASAKI』のランウェイを見つめる観客たちの願望を形にしたかのようなカメラワーク。そして同時に『MASAKI』が着ている『ヴァンス』をあらゆる角度から見せることに成功していた。

 『MASAKI』向きではないだろうと思っていた『ヴァンス』だが、プロモーション・ビデオの中で着ている服は『MASAKI』仕様に仕立ててあるのか、尚人の知る『ヴァンス』よりも若干色は抑えめの大人仕様で、でも『ヴァンス』らしさは失ってなくて。当然かもしれないが、そんな『ヴァンス』を『MASAKI』はきっちり着こなしていた。

(まーちゃん。かっこいいぃ)

 尚人は心の底から呟く。今夜はこの映像を思い出して眠れないかもしれない。その位カッコ良すぎる。これなら「『ヴァンス』は個性を主張したい若者の着るブランド」から一転「おしゃれな大人が着こなすブランド」のイメージに転換するだろう。そういう作りのプロモーション・ビデオだった。

「やっぱ『MASAKI』はカッコ良すぎだよな」

 尚人が喰い気味でモニターを見つめていると、映像が切り替わったところで隣から声がした。どうやら安藤もプロモーション・ビデオを見ていたらしい。

「最初日本で『ヴァンス』が話題になったときは色物感もあったけど。こんだけカッコよく着こなせたら『ヴァンス』もアリって思えるよな」

「着てみたら? 似合うかもよ?」

「や、俺より篠宮の方が似合いそうな気ぃするんだよなぁ。特にこの辺りのグラデーションシャツとベストの組み合わせとか」

 安藤はそう言ってラックから商品を取って尚人にあてる。

「ちょっと試着してくんない?」

「え? いや、あの。………正直、試着しても買えないよ?」

 尚人が小声で返す。値札を見ればシャツ一枚でびっくりする様な値段だ。既製品でこの値段なら、今までもらったあのオートクチュールは一体いくらするのか。考えるだけで怖い。

「着るだけならタダだしさ。いいだろ? ってか、買えないからむしろ試着だけでもしたいって感じ?」

 それでなぜ自分じゃなくて俺? と思っている間に尚人は半ば強引に試着室に押し込まれた。

 仕方ない、と尚人は着替える。友人が薦めるままに自分一人だったら絶対試着しないような物も試着する。それが友人と連れ立って買い物する醍醐味のひとつだったりするのだろう。そう割り切る。それにそもそも尚人はヴァンスが嫌いなわけではない。ただ、自分が着るには派手すぎて、買ったところで着ていく場所がない、と思うだけで。

「着替えたー?」

「んー、一応着たけど……」

 尚人の返事が終わる前に試着室のカーテンがざっと開けられる。

「なんかちょっとダブついてない?」

「サイズ、合ってないのかな?」

 そんな会話を聞きつけたのか、試着室そばでスタンバイしていた店員が笑顔でスッと近寄ってきた。

「ちょっとサイズ見てみますね。鏡の方向いてもらえますか?」

 尚人は言われるままに店員に背を向けて試着室の奥に設置してある鏡を向く。

「肩幅と袖丈もちょっと合ってないですね。おそらくはワンサイズか…、ツーサイズ下でいいと思います。お持ちしますので、しばらくそのままでお待ちください」

 そう言われると尚人は従うしかない。フロアに姿を消した店員は、すぐに幾つかの服を手に戻ってきた。

「こちら試してもらえますか? 多分、サイズ合うと思いますので」

 尚人は言われるままに着替える。確かに先ほどよりも体にぴったりで、ダブつき感は無くなった。

「で、このシャツですと。こっちのベストの方が似合うと思います」

 言われるままに羽織る。ベストを着るだけなのでカーテンを閉めずにそのまま着ていると店員が自然に手を出してきて試着を助け服の収まりを直した。

「ああ、いいですね。ブルーのグラデーションがすごくお似合いです」

「確かに。篠宮、スッゲー似合ってる。ってか、なんか別人みたい。着るもの一つでこんな変わるもんかな」

「今履いていらっしゃる細身のパンツでもいいですけど。こちらも試してみませんか? シャツとの相性がいいと思います」

 ここまで来たら拒める要素が何もない。尚人は言われるままにパンツも試着する。

「あ、少し大きかったですね。ちょっと待っててください!」

 試着室から出てきた尚人の腰回りをすぐさま確認した店員は、この短時間でどんだけ? というような量の服を抱えてきた。

 それからは、もう着せ替え人形だった。やれ、こっちが似合う。こっちも似合う。こっちも着てみて。あっちも試して。言われるがままに四回も五回も着替えて。尚人はほんの少しだけ雅紀の大変さを体験した気がした。

「いやー、こっちのジャケットとこっちのジェケットで、こんだけ雰囲気変わるとか。面白よな」

「ですが、どちらもお似合いです。というか、我が社のブランドをこれだけ着こなせる方、すごく珍しいです」

「まじ、どれも似合ってる。篠宮、ヴァンスのモデルやれんじゃ?」

 安藤の言葉に尚人は苦笑するしかない。

「ちなみに試着室は撮影使用にすることができまして。ここからロールカーテンを引っ張り出して、照明スイッチを入れるとほら。こことここに照明があって、一応下からの間接照明機能も付いているんですよ」

「お、本当だ。結構本格的じゃん」

「今は試着した姿をスマホで撮って帰って、じっくり検討される方が多いので」

「へぇ。まあ、勢いで買えるようなブランドじゃないしな。篠宮、せっかくだから撮って帰ろうぜ」

「え? いや、あの」

 だから、買える値段じゃないって先に言ったよね?

 尚人は店員の手前口にするのを憚りながらも目で訴える。が、そんな尚人の無言の訴えを安藤はあっさり無視した。

「はーい、じゃあ撮るから。ポーズとって」

 安藤が自分のスマホを取り出して構える。尚人はため息一つで諦めて、アシンメトリーのデザインが際立つようあえて中心軸を意識してまっすぐ正面を向いて立った。

「おお、なんかいい感じ」

 ピポン、とスマホが軽い音を立てる。

「ポーズ変えて」

 言われて尚人はサイドラインが綺麗に見えるよう横向きになって若干体を捻る。

「もう一枚」

 安藤が言うので後ろ向きでも撮る。

「ねぇ、もう。いいかな?」

 振り向きざまに視線を向けると、最後の一枚とばかりに目の前でシャッターを切られてしまった。

「いやー、満足。ヴァンス着た篠宮とか貴重すぎ」

「俺も嫌いじゃないけど。でも、正直着て行くとこないよね?」

 店員さんの前で申し訳ないが。それが本音だ。こんな派手派手しい服を着て街中を歩けば人の視線がびしばし刺さって身の置き所がなくなりそうだ。

「初めは色の強さに目がいって派手すぎるかなと思ってもそのうち馴染むんですよ。不思議と。あとは組み合わせ次第ですね。補色が入るとどうしても派手派手しさが出てしまいますけど。同系色でまとめると案外落ち着いた感じになりますし。特に最初に着られたグラデーションシャツなんかは、ベストやジャケットなんかと合わせてもいいですけど、これからのシーズンなら一枚着られて海に出かけられても全然おかしくありませんし」

 さすがショップ店員。最後は購買意欲を刺激するのを忘れない。

「帰ってからじっくり考えますね?」

 尚人は無難にそう返し、着替えて試着していた物を返す。そのタイミングで試着につきっきりだったショップ店員が尚人と安藤に小冊子を渡した。

「よかったらこれどうぞ。このショップだけで配布しているブックレットです」

 尚人は受け取ってパラパラとめくる。中を確認すると尚人の知らない色んなモデルが『ヴァンス』を着て写っていたが、最後のページには何と見開き一ページを使って『MASAKI』が載っていた。店内で流れるプロモーション・ビデオの一コマを切り取ってあるようだ。

「いいんですか?」

 思わず目が輝く。こんなレア物を手にできるなんて。ショップを覗いてみた甲斐がある。

「ご検討されて。ぜひ、また来てくださいね」

 その言葉にちょっぴり心が痛みつつも、尚人はもらったブックレットが折れ曲がったりしないよう慎重に鞄の中に仕舞う。

 その後再開したショップ巡りでTシャツを一枚購入した尚人だったが、このブックレットが今日一番の収穫だったことは間違いなかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) 16

 安藤たちとウィンドウショッピングを楽しんだ翌日。尚人は一年生には縁がない本郷キャンパスへとやって来た。有名な赤門前。時間通りに尚人がそこへ到着すると今日の待ち合わせの相手はすでにいた。

「ごめん、待たせちゃったかな?」

「俺もさっき着いたとこ」

 いつものクールさで鷺原が言う。実は今日ここで高校生即興英語ディベート全国大会が行われるのだ。二人にとって思い出深い大会で、鷺原に「暇なら覗いてみないか?」と誘われたのである。

 去年もそうだったが、大学の出入り口付近には大会をアナウンスするような看板は一切なく、会場となる大講堂の前に小さく会場であることが掲げられているのみ。そのさりげなさを懐かしく思い出しながら中に入ると、入ったすぐの場所に今日行われる決勝リーグの組み合わせ表が張り出されていた。

「やっぱり強いね。鷺原のとこ」

 順当に勝ち上がっている。さすがだ。

「去年のリベンジがあるからな。気合入ってんじゃないか?」

「……といっても、翔南(うち)は地方大会で負けちゃってるけど」

 翔南高校は二人残った一年生の皆川と渡辺がもう一人同級生を引っ張り込んでこの一年頑張ってきたらしいが、県下の強豪校である私立高校に一歩力及ばずだったらしい。時間を見つけて練習のサポートに行っていたという清田からそんな連絡をもらった。

 鷺原と一緒に会場に入り一般観覧者用の席に座る。会場内では次の対戦が間も無く始まるアナウンスをしていた。この大会は、対戦中は競技の妨げにならないよう会場への出入りが禁止されており観客は試合と試合の合間でしか動けない。それでいてスケジュールはタイトなので会場に入ればすぐに次の試合が始まるのだ。

「チーム代表はくじを引いてください」

 懐かしいアナウンスだ。若干緊張気味に見える高校生たちがくじを引いてお題の発表を待つ。

「それでは論題を発表します。論題は『日本は、定年制を廃止すべきである』です。それでは討論開始まで十五分の準備時間を取ります。では、始めてください」

 壇上では賛成反対の席に分かれた高校生たちが話し合いを始める。

(なつかしいなぁ)

 壇上の光景を尚人はしみじみ見つめる。一年前はあの場所で、杉本と清田と三人で、自分たちが必死にお題と向き合っていたのだ。その思い出を壇上の高校生たちに重ねる。当時はそれなりに楽しんでいたつもりだが、それでも必死で。見えていなかった光景もいっぱいあったのだろうと思う。あの時は正直、相手校の生徒と目の前に座る審査員にしか意識が行っていなかったが、客席には「どんなディベートを見せてくれるのだろう」と楽しみにしている人たちだっていっぱいいたはずで。観客に楽しんでもらいたいと言う視点が当時ほんの少しでもあれば、また違ったディベートになっていたかもしれない。……まあ、こういった気持ちの余裕的なものは当然、当事者ではなくなった今だからこそ持てるものではあるが。

(そういえば唐木さんも足を運んでみようかなって言ってたよね)

 アルバイト先の常連客である唐木は、尚人が教えた今日のこの大会に随分興味を示していた。ひょっとしたらすでにこの会場内にいるかもしれない。

 十五分の持ち時間が終了して、賛成側の第一スピーカがディベートを始める。さすが全国大会の決勝リーグまで残るチームだ。英語は流暢で申し分ない。ディベートの切り口もなかなか面白い。壇上で繰り広げられる光景に釘付けになっている尚人は、自分をじっと見つめる男の視線に気づいてはいなかった。

 

 

 * * *

 

 

「時間あるなら一緒に東大キャンパスへ行かないか?」

 唐木からそんな台詞が飛び出した時、津田は正直その意味がわからなかった。「篠宮君」のことで電話をかけ「カフェでバイトしてるってこと以外で何か知っていることがあるなら教えて欲しい」と言う問いかけに対する返答がそれだったからだ。あまりにも突飛すぎて面食らってしまったが、ただ「東大」のワードがひどく引っ掛かった。ファッション・ライターの大崎からも出て来たワードだったからだ。

「東大で何かあるのか?」

「高校生即興英語ディベート全国大会」

 なので返って来た答えたそれだった時、津田はほんの少しだけガクッと来た。

「高校生が即興で英語でディベートする大会があるって知って。どんなものか興味があるんだ」

 英語サークルに加入して研鑽を積んでいる唐木らしい興味対象ではあるが。

(高校生の大会ねぇ……)

 正直興味なかったが、それでも「行くよ」と答えたのは、気になる「篠宮君」に今一番近いのが唐木だからだ。会って言葉を交わせば何かしら収穫があるかもしれない。そんな打算があった。だから当日会場に着くなり

「篠宮君も友人に誘われて今日ここに来ると言っていたから。1日待ち構えとけばどっかで会えるんじゃないか?」

 と言われた時はむしろ拍子抜けしてしまった。唐木は最初から自分に「篠宮君」を会わせるつもりだったのだと。しかし、その一方で。

「見かけたら教えるけど。俺からの紹介だと言うのは伏せて欲しいんだ。バイト先の客が勝手に仲介したってことで話をややこしくしたくないし、気を使わせたくもない。篠宮君がお前のスカウトを受けるにしても断るにしてもな」

 そんなことを言われた。だからバイト先とは関係ないこの場所に誘ったのだろう。津田はようやく理解した。

 会場に入るとずっとそわそわしていた津田だったが、会場への出入りが試合と試合の間のわずかな時間しかないとわかると落ち着いた。じっくり腰を据えて観覧すればなかなか面白くて。ディベートする高校生のその英語力もさることながら、大人顔負けの理論展開にも舌を巻いた。––––正直全部聞き取ることはできなくて半分くらいは想像で埋めたのだが。

(これが高校生かよ……。すげーな)

 そんな素直な感想を休憩時間に唐木に伝えると、

篠宮君(かれ)は昨年の優勝校の出場メンバーらしい」

 と教えてくれた。

 その直後だった。会場への出入りが解禁されて何組かの客が新たに入ってくる。その中に二人連れの若い男性の姿があって。その一人を見やって津田は一瞬息を呑んだ。

(彼だ!)

 直感がそう叫んだ。唐木に確かめるまでもなく明らかで。津田が視線でその若者をじっと追っていると、唐木が何も言うでもなく津田の肩を軽く叩いた。それが返事も同然の合図だった。

「じゃあ、俺はもう帰るから」

「サンキューな、唐木」

「健闘を祈る。……が、断られたらきっぱり諦めろよ」

 それに手を上げるだけで返して、津田は帰る唐木と別れ、二人が座った近くの席に座り直した。

 真剣に壇上を見つめるその横顔を津田はじっと見つめる。凛とした静謐さの中に理知の光が宿り、ずっと見つめていたくなるような穏やかさがある。

 いい。想像以上だ。

(……しかし、何と声かけしたものか)

 会場内ではまず無理だから。外へ出たタイミングだろう。

 ––––会場内で見かけて。

 ––––(わたくし)、こう言うものでして。

 ––––是非、聞いて欲しい話があるんですが。少しお時間をいただけないでしょうか。

 頭の中でリハーサルを繰り返す。仕事上今まで色んな交渉をして来たが、スカウトとなるとまた別だ。CM出演のために誰かをスカウトした経験などなく、しかも失敗は許されない。なんとかして口説き落とさなければならない。……が、相手を攻略するための情報がなさすぎる。

 そもそも「篠宮君」は芸能活動みたいなことに興味を持っているのか。それを許す家庭環境なのか。一度のCM出演の依頼だから芸能スカウトとは違うが。そこに興味があるのかないのかで口説き方が変わるだろう。

 そんなことをぐるぐると考えていたら、ディベートの対戦があっという間に終わっていた。小休憩の時間になって高校生らしい若者が一人、観客席の間を縫ってゆっくり二人に近づいて来る。

「鷺原先輩。来てくださってたんですね。ありがとうございます」

 高校生が「篠宮君」の連れ向かって挨拶している。どうやら高校の後輩のようだ。

「ま、会場校の大学に通ってんだしな」

「うわー、先輩。そのセリフ、俺も来年後輩に言いたいです」

「頑張れよ」

「ありがとうございます。––––ところで、先輩。隣の方って。あの。去年の優勝校の……」

「そう。翔南高校の篠宮だよ」

「わ、やっぱり。握手してもらっていいですか?」

「え、ああ。いいよ」

 高校生が差し出した手を「篠宮君」が握り返すと、高校生が満面の笑みを浮かべた。

「すげーうれしい。何か、パワーもらった感じです。去年のあの最後のスピーチ。衝撃的で。俺たちの間でもずっと話題だったんですよ」

「そうなの?」

「今年は篠宮さんを真似た感じで最終スピーチしてくる学校多いんです。でも、大概失敗してますけど。––––ところで先輩、なんで篠宮さんと一緒なんですか?」

「大学が一緒だった。しかもまさかの同じクラス」

「え、そんなことってあるんですか。すげー」

 そのやりとをそばで聞いていた津田は、ふとあることを思い出す。

 翔南高校といえば有名な県立の進学校で、近年ではカリスマ・モデル『MASAKI』の弟が通っていることで話題になった。その『MASAKI』といえば、極悪非道な父親の巻き起こした騒動で一時期ワイドショーを賑わせまくったことはまだ記憶に新しく、その騒動によって世間にプライベートが丸裸にされた。その際に本名が「篠宮雅紀」であることも世間に周知されている。

 その『MASAKI』の地雷源といえば弟。マスコミが弟に近づく気配を見せただけでその逆鱗に触れて、実際何人か業界から姿を消したとまことしやかな噂を聞く。

 翔南高校出身で現在東大の学生と思われる「篠宮君」は……

(まさか『MASAKI』の弟?)

 ごくり、と津田の喉が鳴る。

 『MASAKI』の弟といえば業界内でスカウト合戦が繰り広げられていたはずだ。あくまで水面下の話ではあるが。しかし、どこかの事務所に所属したなんて噂は耳にしていない。「弟大事」の『MASAKI』が許さないのだろう。モデルやタレントとしてデビューすれば当然、マスコミに対し「顔出しOK」だというメッセージになってしまう。その後また何か篠宮家で騒動が起きれば、『MASAKI』がどんなに「弟に近寄るな」と言ったところでマスコミは耳を貸さない。そういう構造になってしまう。

(その弟をスカウト……)

 怖すぎて『MASAKI』を脳内に浮かべることすら感情が拒否する。

 しかし、しかし、しかしだが……

 津田は心の中で唸り声を上げた。

 それはまだ弟が未成年だったから。現役合格の大学の一年生といえば法的にはまだ未成年だが、それでも未成年の高校生とは大きく立場が違うはずだ。何より自主性が尊重され、これから世界を広げていく年齢である。家族である兄の意見は尊重はされるべきではあるが、全てではない。……そのはずだ。

 しかし––––

(何て声掛けしたらいいんだ!)

 津田は文字通り頭を抱えた。いっそ気づかないままに声をかけた方がよかった。そんな気がする。その方がまだ、勢いだけで行けたのではないかと思う。だが今更、『MASAKI』の弟だから、を理由に諦めたくはない。というか諦めきれない。散々探しまくって来たのだ。イメージにぴったりの人物を。その人物にようやく巡り合えて、今目の前にいる。この千載一遇のチャンスを逃したくはなかった。

(津田章成。人生最大の正念場だぞ!)

 津田は心の中で叱咤激励を繰り返し自分に喝を入れ続ける。

 ディベートはすでに次の試合が開始している。しかし津田の目には一切入ってこない。じりじりとした気持ちを抱えて思考を行ったり来たりさせながら、声かけのタイミングを津田は待ち続けた。

 

 

 * * *

 

 

「あの、すみません!」

 そんな声が聞こえたのは、大会が終了し会場の外へと出てすぐだった。自分への声かけかどうかもわからないままに尚人は振り返る。するとそこに真っ直ぐに自分を見つめる一人の男性の姿があった。年齢は三十代半ばぐらい。ノーネクタイにカジュアルジャケットという軽装で、大会の引率者か、でなければ観覧者かといった感じに見えた。

「ちょっとお時間よろしいですか?」

「俺ですか?」

「そうです」

「何か用ですか?」

 まさか今更去年の優勝インタビューはないだろうと思いつつ。それでも、この場所での声かけとなれば大会関係かと疑わなかった尚人だったが。

「私、こういうものでして」

 出された名刺を反射的に受け取って、尚人は首を傾げた。

【音響機器メーカー 株式会社リゾルト 商品戦略部所属 津田章成】

 出された名刺とこの場所であることの関係性がまったく読めなかった。

「あの……」

「どうしても、聞いて頂きたい話がありまして」

「話って?」

 尚人が口を開く前に鷺原が割って入った。

「折り入ってお願いしたいことがあるのです」

「お願い? どんな?」

「––––誠に勝手ながら、少々丁寧に説明したい話でもありますので、この場ではちょっと。それに、この暑さです。お時間をいただけるのなら、立ち話も何ですから、近くの喫茶店にでも移動しませんか?」

「は? まだ話聞くって言ってもないのに?」

 鷺原の警戒心剥き出しな雰囲気に尚人はほんの少しだけ焦る。急に声をかけられて警戒する気持ちはわかるが、声をかけられただけで刺々しく応対するのもいかがか。それに––––

「ねぇ、鷺原。俺、聞くだけは聞いてみようかなって思う」

 何の話かはまったくわからないが。音響機器メーカーの人が一体自分に何の話があるというのか。尚人はほんの少し興味があった。

「ただ、友人も一緒にいいのならば、ですけど?」

 尚人が問う視線を男に向けると、

「構いません」

 男は迷いなく頷く。

「あと、場所は構内のカフェでいいですか? ちょうど、寄って帰ろうって話してたんで」

「ええ、問題ありません」

 それで三人連れ立って場所を移動する。友人同伴、場所は自ら指定。それは雅紀から注意されていたことを警戒しつつ出会いの機会も大切にするための尚人なりの一線の引きどころ。危険かもしれないと全てを排除したのでは見識を広げるチャンスも同時に失ってしまう。君子危うきに近寄らず、とは言うが、虎穴に入らずんば虎子を得ずもまた真理なのだ。

 尚人的には、こちらの条件を相手が拒否するならそれで交渉決裂。それでいい。その程度の気持ちだったが。相手はこちらの条件を呑んだ。ならば話を聞かないわけにはいかない。

 ちょっとした社会勉強。ちょっとした好奇心。

 そんなつもりでいた尚人は、このあと想像もしていなかった話をこの男から聞くことになるのである。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) 17

 ジャケットの内ポケットに入れている携帯電話が鳴動したのは、高倉の執務室でいつもの如く勝手にコーヒーブレイクしている最中だった。携帯電話を取り出して表示を確認する。登録のない番号に加々美は一瞬迷って、通話ボタンを押した。

「もしもし。加々美です」

『リゾルトの津田と申します』

 かしこまった声がした。営業に慣れた者の声だ。それでほんの少し加々美は身構える。

 面識はない。一体何用だろうか。

 という前に、

(何で俺の番号知ってんだ?)

 それに対する警戒心が働いた。

「音響機器メーカーの?」

 加々美が確認するように問いかけると、声音がわずかにほころんだ。

『はい。そうです。加々美さんにお知り置き頂いていたとは。大変光栄です』

 電話越しにも笑顔が見えて、加々美は思わず苦笑する。

 素直な男だな。

 そんな印象を受けた。

「で? 俺に何の用だ? もし、仕事の話ならマネージャーを通してもらう必要があるが?」

 加々美は業界として当然のことを口にする。そして、そのマネージャーが目の前にいるのだ。面倒くさい話なら、さっさと丸投げするに越したことはない。

 モデルとしては昨今現場から遠のいている加々美だが、未だいろんな企業からCM出演のオファーが舞い込む。ゴシップとは無縁のメンズモデル界の帝王という世間に浸透したイメージは、企業にとってまだまだ魅力的だという証だ。

 しかし、そうした仕事の話は基本会社を通してまずはマネージャーに話をもっていくのが筋。そんなことは常識中の常識なのだが。どこからどう番号を入手するのか。時々裏口から無理に入ろうとする輩がいないわけではない。個人的に話をした方が親密感が増して話が纏まりやすい、とでも思っているのだろうか。もちろんそういう図々しい輩は表に回らせてお断りだ。ついでにそんな奴の番号は永遠に着信拒否設定である。

 しかし、次に耳元にこぼれ落ちて来た言葉は、加々美の想像とは違った。

『篠宮尚人さんの代理人を務めているとお聞きしました。それで、電話した次第です』

「……その話はどこから?」

『本人からです。……すみません。実は、代理人がいるとは知らずに声をかけてしまいまして。それで、篠宮さん本人から、仕事の依頼は加々美さんを通すようにと教えて頂きました』

 加々美は刹那黙る。

 尚人には、直接仕事の依頼をされたり、あるいは道端でスカウトされたりした時は、「自分には代理人がいる」とはっきり言うようにと言い含め、必要ならば相手に渡してもらって構わないと加々美の名刺をどっさり渡してあった。それがまさかすぐに必要になるとは。

 そもそも尚人に自分の名刺を渡していたのは、『加々美蓮司』の名を見れば業界人なら大抵怯む。虫除け程度の効果はあるだろうと思ってのことだ。

 つまり本気ならば怯まず自分に電話をして来る。そういうことだ。

 にしても、こんなにすぐに誰かを引っ掛けて来るとは。その事実に加々美はひとつ息をつく。

(やっぱり尚人君って持ってるよなぁ)

 そういう人を魅きつける力は天賦の才だ。身につけようと思って身につくものではない。愛されキャラ、とも違う。人を魅了する力だ。

「オファー内容は?」

『弊社のCMへの出演です』

 その一言に加々美は表情を引き締めた。

 

 

 * * *

 

 

 『リゾルト』の津田から電話をもらった翌日、加々美は津田と会うことにした。CM出演とは当然世間に顔を売る行為。デビューさせるかどうかも未定の尚人の顔出しについては慎重を期さねばならず、まずは学業優先ということもあって「検討するのも時期尚早」との思いはあったが、津田の熱意に押されて「とにかく聞くだけは聞く」ことになったのだ。

 断るのは話を聞いた後でもできる。

 正直、そんな気分だった。

 都内の某ホテルラウンジ。約束の時間に加々美が顔を出すと、津田は先に来て待っていた。

「今日はお時間を取って頂いて。ありがとうございます」

 緊張してる様子だったが、第一印象は悪くなかった。高倉のようなクールで出来る男という感じではないが、誠実感が滲み出ている。

「早速ですが。企画書を持参しましたので、資料に沿って説明いたします」

 津田はカバンからファイルを取り出すと加々美の前に広げた。

 津田は、今回『リゾルト』が発売予定の商品の説明、それを売り出すためのCMのコンセプト、そのために会社が求めている人材(タレント)のイメージ、それを丁寧に、そして熱心に説明した。

 話を全部聞き終えて、加々美は津田がなぜ尚人に目をつけたのかよくよく理解できたし、『リゾルト』という会社が今回の新商品の売り出しにかなりの熱意を持っていることも伝わった。CMコンセプトも悪くない。尚人のイメージにもハマる。これがもし、今から一気に売り出そうとしているモデルやタレントに来た話なら「うますぎる」しかない話に思えた。

 CMは他の仕事に比べたらギャラがいい。その上、茶の間に対し直接顔が売れる。昨今話題のCMはすぐさまネットでも取り上げられるので、その伝播性といったらすさまじく、一夜にして一気に有名人。も、夢ではないのがCM出演だ。そういったこともあって、企業のCM出演は新人にとってビッグチャンス。出たくても出れないのが現実。ではあるが……

(尚人君がCMかぁ……)

 どうしても懸念がつきまとう。

 顔が売れればどうしても、今までと同じ生活は難しくなる。『MASAKI』との関係性が暴露したりすれば余計に、尚人の周りは騒がしくなるだろう。まだ大学生活は始まったばかりで、学生生活に慣れるのを先決する段階だ。それに、そもそも尚人は有名人になりたいわけではなく、モデルもタレント活動もする気はない。……一応、今のところは。この辺に関しては加々美なりのヴィジョンはあるが、尚人をその気にさせるのに気長に行こうと思っている。

 そういう諸々のことを考えて、尚人にとっても負担にはならないだろうと判断した『ミズガルズ』からのオファーは受けたが、それ以外の仕事はまだ尚人に振っていない状態だ。とにかくうるさい『ヴァンス』も、それで「しばらく待て」を通している。

(いい話じゃあるが。やっぱり時期尚早かな)

 一年後ならまた違ったかもしれないが。

 こう言ったものは全てタイミング。幸運の女神には前髪しかない、とはいうが。本当に幸運の女神であるのかどうかは見極める必要がある。

「悪くはないが、現状厳しいかな」

 加々美はきっぱり口にした。こういった交渉ごとは、即断即決がお互いのため。このタレントが無理なら次。相手もそのつもりで動いている。まあ、だからと言って簡単に引き下がっていても営業にはならない。当然津田も「ああ、そうですか」とは言わなかった。

「厳しいとは、どのあたりがでしょうか?」

「尚人君は現役の大学生で。学業を優先することになってる。それに、演技なんて全くしたことない素人だしな」

「日程でしたらそちらの都合に合わせて調整します。演技的なものをご心配なら、篠宮さんが不慣れであることを考慮して篠宮さんの持つ素材の良さを引き出せるカメラマンを選定します。そもそも最初から、デビューしたての新人の方の起用を考えていましたので、その辺りはこちらとしても想定内です」

「つまり、まだ誰が撮るかは決まってないってことか?」

「はい。とりあえずCMコンセプトを決めて、イメージに合う方を見つけることを優先しましたので。大手広告代理店さんにお願いすれば、その辺り同時進行で全て進めてくださるんでしょうけど。今回は自社主導で全て進めていますので。しかし自社で進めているからこそ、細かな要望も対応可能です。この際ですから、些細なことも要望があれば上げて貰えば善処いたします」

 津田が若干の前のめりになった。

「私は、篠宮さんを見かける前に、各芸能事務所から紹介を受けた三百人ほどの方の写真とデータを確認しました。その中にこれはと思う方を見つけられず、行き詰まっていた時にとある場所で篠宮さんを見かけて。ひと目見るなりビビビッときたんです。こんな言い方、陳腐すぎて逆に嘘臭く思うかもしれませんが。それ以外に表現のしようがないんです。––––今回の商品は、大袈裟ではなく会社の今後がかかっています。ですので、それを売り出すためのCMで妥協したくないんです。我々は今回開発した商品に自信を持っていますが、今は物が良ければ売れるという時代ではありません。我々は過去の失敗でそのことを痛感しました。物を売るためには、よく見せるためのパッケージがとても重要な時代です。CMとは、商品イメージに対するパッケージ。端的かつ的確にイメージを伝えつつ、消費者の心を惹きつける必要があります。もちろん。狙いどおりにイメージを伝播させることが難しいということもよくわかっていますが、しかしだからこそ、妥協することなく自分たちが納得したCMにしたいのです。それに、仮に販売状況が芳しくなくても『あのCMだったから売れなかった』と思うのと、『あのCMでもダメだったなら、そもそも商品開発の方向性が違っていた』と思うのでは会社の今後が変わります。篠宮さんの持つ雰囲気、佇まい、どれをとっても私の抱いていたイメージにぴったりで、私は、どうしても篠宮さんにお願いしたいのです。篠宮さんでなければ納得できるCMにはならない。私はそう思っています。ですので、どうかどうか、この話。受けていただけないでしょうか」

 津田の熱弁に、加々美は心の中だけで苦笑する。

 これは相当、尚人に惚れている。

(ほんっと、もったいねー話じゃあるがなぁ)

 しかしここで相手の熱にほだされて、安易に承諾することはできない。何しろ自分が尚人と結んでいる契約は「尚人がしたいことをサポートする」だ。

「……思いは充分伝わったが」

 そこでふと加々美は思い出す。そういえばこの男は自分より先に尚人に接触しているのだったと。

「ところで、尚人君にはどんな話を?」

「今、話した内容とほぼ同じことを。CMに出演して欲しいということも。篠宮さんでなければ納得のCMにはならないということも」

「で、尚人君の反応というか、返答は?」

「仕事の話なら、代理人である加々美さんを通してくださいと。それ以外の返答は頂いておりません」

 なるほど、と加々美は心の中で呟く。

「俺は、尚人君のやりたいことをサポートするという契約で代理人になっている。尚人君本人の意思を確認してから連絡する。それでいいか?」

「わかりました。良いお返事が頂けることを期待しております」

 津田の熱い視線が、真っ直ぐに加々美に向けられる。

 直球勝負。その姿勢、嫌いではない。が……

 加々美はとりあえず、その日はそれで別れた。

 

 

 * * *

 

 

「で、どうだったんだ?」

 翌日、加々美が高倉の執務室でいつもの如く勝手にコーヒーブレイクしていると、忙しそうにPC画面を睨み付けていた高倉が不意に口を開いた。

「何が?」

「尚人君への仕事の依頼の件だ」

 その一言に加々美はひっそりと眉を寄せる。

「なぜそれを?」

 ひょっとして俺に尾行でもつけてるのか? そんなこと疑う。ありえないが。

「先日そこで電話を受けてただろう? 音響機器メーカーって言ってたから『リゾルト』かと見当をつけてたんだが」

「その通りだが。……って、そんなことまでわかるのか?」

 確かに津田からの電話を受けたのはこの部屋だったが、そんなに内容丸わかりの会話をした覚えはない。というかあの時も、高倉は忙しそうにPCに何かを入力していてこちらにちらりとも視線を向けることはなかったはずだ。

「少し前に『リゾルト』から、CM起用の若手タレントを探しているのでイメージに合うような新人がいれば紹介して欲しいと依頼があってたからな。確か、新商品のイヤホンを売り出すためのCMで、コンセプトイメージとして『フレッシュ感、凛とした雰囲気、控えめだがどことなく普通じゃない感じがする』といった説明がついてたはずだ」

 高倉が直接対応したわけではないはずなのに、よく覚えている。

「聞いた時から尚人君のイメージだなって思ってたんだが。どうだ?」

(……いや、どうだと言われても)

 加々美はあきれ混じりのため息をつく。

「まさにその通りだよ」

 どんだけ鋭い男なんだよ、と思わざるを得ない。

「で、受けるのか?」

「尚人君とまだ話してない」

「話し合う気はあるのか?」

「そりゃあ、もちろん。俺は、尚人君がしたいことをサポートするんだから。決定権はいつだって尚人君にある」

「『ヴァンス』の話はお前のところで止めてるのにか?」

 高倉の口調は淡々としていたが、どこか口撃を受けている気がするのはなぜだろう。

「そりゃあ、『ヴァンス』のモデルの件は、一回正式に断ってるだろう。あっちがしつこく話を振ってくるからって、それをいちいち尚人君の耳に入れてたら、俺が代理人になった意味がないじゃないか」

 高倉が視線だけを加々美に向ける。

「……なんだよ」

 無言の方が怖い。

「いや。––––個人的に、尚人君出演で撮ったCMが見てみたいなって、思ってるだけだ」

(そりゃあ、俺だって思ってるよ)

 加々美はコーヒーを一口飲んで思う。

 特に伊崎に撮らせたら、面白いCMになるんじゃないかという気がする。英語ディベート大会決勝の壇上で見た尚人の姿から想像する、ただそこに居るだけで人目を引きつけるオーラと伊崎が得意とする映像美。そこに音がシンクロする。使用楽曲の選定もこれからだそうだが、音楽からイメージした風景動画を撮って尚人と当てっこクイズを楽しんでいた伊崎だ。音楽と映像もうまく融合させるだろう。

(やば……。断然見たくなってきた)

 加々美は内なる興奮を必死に抑える。

(尚人君がその気になってくれれば、面白いことになりそうだよなぁ)

 加々美は、そう思わずにはいられなかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) 18

 土曜の午前中。尚人が部屋の掃除をしていると携帯電話が鳴った。表示を確認すると『加々美』だった。

「もしもし。尚人です」

『俺だけど。今、電話して大丈夫だった?』

「はい。部屋の掃除してただけなんで。大丈夫ですよ」

『先日、リゾルトの津田と会った』

 それだけで尚人は、加々美がなぜ電話して来たのかを理解した。

『で、この件について話がしたいんだけど』

「わかりました」

『今日の予定は?』

「特には」

『じゃあ、今から迎えに行くから。一緒にランチでも食いながら話そう』

 加々美ほどの人にわざわざ迎えに来てもらうことに恐縮し、場所を指定してもらえれば自分の方から行くと言いたかったが。その前に電話は切れていた。

 自分の手際の悪さに尚人は小さく息をついて通話終了のボタンを押す。そのタイミングでシャワーを浴びに行っていた雅紀が部屋に戻って来た。昨夜遅くに帰って来て、先ほど起きたばかりだ。上半身を晒している雅紀の肉体美が眩しすぎる。

「どうしたんだ、ナオ」

「加々美さんが一緒にランチ食べようって。今から迎えに来るみたい」

「加々美さんが?」

 雅紀のその表情は明らかに「俺がいるのに出かけるのか?」と言っている。

「ごめんね。まーちゃん」

「……加々美さんからの誘いならしかたない。ナオがいないなら、俺もジムに行こうかな」

「昨日も遅かったのに。ゆっくりしとかなくて大丈夫?」

「これから昼間セックスで汗かくつもりだったんだけど。ナオが出かけるんじゃ無理だし」

「…………」

 さらっとそんなこと言われても返答に困る。……というか、そんな予定だったんだ? と尚人は固まるしかない。

 一時間ほどで加々美はやって来た。インターンフォンが鳴って、尚人は急いで玄関を開ける。

「すみません。わざわざ、迎えに来もらって」

「こっちこそ、急で悪かったね。––––って、お前いたのかよ」

 尚人の後ろに雅紀の姿を見つけた加々美がくいっと口角を上げて笑う。

「自分の家なんだから、そりゃ居ますよ。それより加々美さん。ナオ、連れ出すのはいいですけど、ちゃんと夜には返してくださいよ。ナオの晩飯、楽しみにしてるんですから」

「はいはい。ランチ食ったらちゃんと送り届けるから心配するなって。じゃ、尚人君、行こうか」

「はい」

 元気よく返事をしたものの高そうな加々美の車に乗り込むのはいつも緊張する。恐る恐る慎重にドアを開け、荷物をぶつけたりしないよう注意を払って車内に乗り込む。着いた先は創作フレンチを食べさせてくれるという海を望むお洒落なレストランだった。予約を入れていたのか、スタッフのにこやかな出迎えと共に個室に通される。

「早速なんだけど。リゾルトから来たオファーの件だけどね」

「はい」

「まずは尚人君がどういう風に話を聞いているのか確認したいんだけど」

 問われて尚人はあの日の事を思い返す。

「その日は、高校生即興英語ディベート大会の全国大会の日で、大学の友人と一緒に決勝を見に行ってたんです」

「それって、去年尚人君が出場した?」

「そうです。実は大学の友人というのが去年の決勝戦で戦った相手チームの一人で。会場は今年も東大講堂だというし。懐かしさもあって。一緒に見に行ったんです。津田さんに声をかけられたのは、決勝戦が終わって会場から出てすぐでした。名刺を渡されて、聞いて欲しい話があるって言われて。音響機器メーカーの人が何の話かなって、ちょっと気になって。友人同伴で、大学構内のカフェでよければ話を聞きますよって提案したら、それでいいというので。そのままカフェへ移動して。そこで、CMに出演してくれる人を探しているんだって話をされたんです」

「なるほど。それでその時尚人君はどう思った?」

「びっくりしました。……俺が昨年大会の出場者だって知って、その関係で何か話を聞きたいのかなって。そんな想像をしてたんで。まさか、CMに出演して欲しいって話をされるとは思わなくて」

「CMのコンセプトとか、何で尚人君に声をかけたのかとか。そんな話は聞いた?」

「ええ、聞きました。津田さんは、『リゾルト』って会社の名前すら聞いたことがない俺に気を悪くすることなく『リゾルト』がどういう会社なのか、今までどんな物をどんな思いで作ってきたのか。今回開発した新商品がどういう製品なのか。そしてそれを売り出すためのCMがどれほど重要であるのか。そんな話をすごく丁寧にしてくれて。正直、すごく勉強になりました。俺が普段何気なく使っているICレコーダーとかパソコンとか。その向こうにもきっと情熱を傾けて開発した人たちがいて。そうやって形になった商品を世に送り出すために動き回った人たちがいて。世の中に出回ってる商品って、誰かが物を作って、ただ店先に並んでるんじゃないだなって。そんなこと、わかっていたつもりでいたけれど、本当にわかってたのかなって。そんな事を考えるきっかけになりました」

「CM出演の件についてはどう思った?」

「……それについては正直。俺より適任の人がいるんじゃなのかなって気がします。津田さんは、CMコンセプトとイメージにぴったりなんだって言ってたんですけど。俺はタレントでもモデルでもないし。そういうことはプロに任せた方がいいんじゃないかなって。その方が絶対失敗の確率が低いでしょう? 俺は、ずぶの素人ですから」

 尚人が言うと加々美はなぜかただやんわり笑い。

「ひとまず、食事を堪能しよう」

 そう言った。

 目の前にはすでに運ばれていた前菜が並んでいて。尚人は見た目も美しい夏野菜のゼリー寄せを口に運ぶ。

 口当たりの良いゼリー寄せを堪能しながら、加々美がなぜ今日わざわざ自分を呼び出したのか、尚人はその意味を考えていた。津田の話は加々美のところで止めてしまうことだってできたはずだ。

「料理にとって大切なのは、味か見た目か。尚人君はどっちだと思う?」

 唐突に加々美が言う。

 尚人は加々美に視線を向けた。

「料理は見た目が悪いと食欲が湧きません。だけど見た目が良くても味が口に合わなければ食が進みません。食欲をそそるための見た目は大切。それと同じくらい口に合う味付けも大切。ですけど––––、俺は料理に一番大切なのは、愛情だと思います。料理に愛情を感じることができれば、多少の見た目の悪さも、味付けの失敗も、思い出に変わるんじゃないかなって思うんです。……まあ、俺の言う料理は家庭料理の話ですけど」

「なるほどね」

 加々美は頷いて、そして少し表情を変えた。

「けど、愛情を感じるかどうかって、すごくあやふやで、難しいよね。キャッチボールが成立する関係が前提にないといけないと言うか。こっちを見てもいない相手にボールを投げたって絶対キャッチしてもらえないし」

 加々美の言いたいことはよくわかる。裕太が引きこもりを続けていたとき、祐太は尚人が作る弁当を無視し続けていた。食べてもらえないどころか、見向きもされない。そんな弁当を毎日作り続けるのは正直きつかった。しかし、弁当作りをやめるという選択肢はなかった。尚人の中で食は家族の基本だったから、弁当作りをやめるということは家族の絆を断ち切るということと同じ意味を持っていたからだ。一人ずつ家族のピースが欠けて行った篠宮家でこれ以上家族が欠けることは尚人にとっては耐え難いことだった。

 加々美の言葉を借りるならば、あの時の尚人は一方的にボールを投げていた側だ。拾ってもらえないボールも投げ続ければいつか気づいてくれるかもしれない。いつか何か反応を示してくれるかもしれない。そんな思いが尚人にボールを投げ続けさせていた。のだが––––

「ボールを投げられる側からすると、望んでもいないキャッチボールに引き込まれたくないし、一方的に飛んでくるボールは迷惑でしかないよね?」

 独りよがりの愛情は迷惑。そんなふうに聞こえて、尚人の中のどこかがちくりと痛む。だが加々美が尚人を批判しているわけではないのは明らかで。

 ––––あ、そうか……

 尚人はすぐに加々美が言わんとするところに気づく。

 今、ボールを投げられる側にいるのは尚人だ。

 津田は尚人のことを考えてCM出演を依頼してきたわけではない。あくまで自分たちの考えるCMコンセプトに合致する人物として尚人に目をつけた。津田の愛情はあくまで『リゾルト』という会社にあり、会社が売り出そうとしてる商品にある。つまり津田は一方的にキャッチボールに誘ってきた相手であり、ボールを投げるから受け取ってくれと言ってきているに過ぎない。加々美は尚人に、そんなキャッチボールに誘ってきた相手をどう見てる? と暗にそう問うているのだろう。

 迷惑なだけの存在か? と。

 ただなぜ加々美がこんな回りくどい例えで尚人の気持ちを確かめようとしているのかは謎だが。

 ひょっとすると、「CMに出演する気はある?」とストレートに問うたところで「ありません」と返るのがわかっているからだろうか。

(んー、てことは。加々美さん的にはCMに出演して欲しいって思ってるのかな)

 加々美は自分の思いは思いとしてありながら、さりとてそれは一旦横に置く人だ。加々美が尚人の代理人になったのは「尚人が世界を広げるためのサポートをする」ためで、一方尚人は見聞を広げるために加々美の力を借りると決めた。だったら、「やりたい」「やる気はない」そんな単純な答えを加々美に返してはいけない気もする。

 そもそもそんな簡単な答えが聞きただけなら加々美は電話で済ませただろう。

 ––––何でも人生経験と捉えてスカウトマンの話に乗る奴もいたけどな。自分から飛び込まなきゃ経験できない世界だし。

 先日の安藤の言葉がふとよぎる。「自分から飛び込まなきゃ」その言葉が妙に心に残っている。

(けど、CMに出演したからって、俺のなにかプラスになるのかな)

 別に尚人は有名になりたいわけでもタレントデビューしたいわけでもない。世間に顔バレするというデメリットを超えるメリットがなければこのオファーを受ける価値があるとは思えないし、企業理念に賛同し応援する意味で持ってオファーを受けるというほど尚人は『リゾルト』のことを知らない。

(んー。じゃあ、俺が『リゾルト』のことをよく知っていて、前々からファンだったならオファーを喜んだのかな? そもそも顔バレって言っても人の噂も七十五日って言うし。有名人を目指してもなかなか成れないのが普通だし)

 姉の沙也加はすでにモデルとしてデビューしている。そのきっかけとなったオーディションに出場した時は多少ネット上で話題になったようだが。それきりだ。その後は沙也加がどれくらい活躍しているのかもわからないくらいメディアに取り上げられることはない。

 それを考えると、尚人がCMに出演して、それでもし周囲が騒がしくなっても一時的なものに過ぎない。人というのはそれくらい熱しやすく冷めやすい。ひょっとすると顔バレすることによってゴシップ好きのメディアが「これがあの時話題になった篠宮家の次男だよ」などと風聴するかもしれなくて、それで再び周囲が騒つくかもしれないが。その程度の雑音、尚人にとっては今更どうってことはない。

 ––––まあ、鷺原はそもそも俺が『MASAKI』の弟だって知ってるから。今更って感じで受け止めるだろうけど。

 だから、尚人が決断の判断材料にすべきは、副産物的に生じる周囲の雑音ではない。

「俺は、篠宮には是非ともCMに出演してもらいたいね」

 あの日。無理に同席させてしまった鷺原は全ての話を一緒に聞いたのち、尚人と二人きりになったタイミングでそう言った。

「企業のマーケティング戦略には興味がある。あの津田って人は、篠宮が出演してくれさえすれば商品が目標通りに売れるような口ぶりだったけど。本当にそうなのか。結果が見てみたい」

 何となく鷺原らしい意見だった。

「でもそれって、俺以外が出演した場合と比較できないよね?」

「世の中には答えが一つじゃない問題なんて山ほどある。けどさ、それでも自分なりに導き出す最適解ってのはあるわけだ。つまり、あの津田って人が今回導き出した最適解が篠宮ってことだろう? てことは、検討すべきはその導き出した最適解は本当に最適解だったのかってことであって、他の解との比較じゃない」

「なるほど」

〔お金の流れは経済にとって血の巡りと同じです。滞れば病気になり、状況によっては死に直結します。流れ続けることが大切で、それは川の流れのように(あらが)っても意味のないことです〕

「え」

「一年前にそう言ったのはお前だよな?」

 確かに言ったが。それはディベートの話。ディベートは、賛成か反対かなんて自分の意思とは関係がなく、言葉を武器に闘う言論試合(ゲーム)だ。

 だからと言って口から出まかせを言っていたわけでもないが。

「企業活動はまさに血の巡りをよくする行為だろ? CM一本にどのくらいの力があるのか確かめてみたらみたらいいじゃないか。この先経済学部に進むんだったら卒論のネタになるかもしれないし」

 まだ大学に入ったばかりなのに卒論のことを考えている鷺原に尚人はただただびくりした。

 しかし、落ち着いて考えれば、確かにそれは見落とせないメリットだ。

「加々美さん。津田さんが持ちかけたキャッチボールは、俺が加々美さんに投げてくださいって言ったことで、加々美さんに向かって投げられたわけですよね?」

 尚人の言葉に加々美は一瞬だけキョトンとし、そしてどこか悪戯小僧のようににやりと笑った。

「そうだね」

「そのボール、加々美さんはどうしたんです?」

「とりあえずキャッチして、これからどうしようか考えてる」

「そのボールっていつまで加々美さんの手元に置いておけるんですか?」

「あまり長くはないな」

「つまり、少しは時間があるってことですね」

「考える時間が欲しい?」

「考える……というより、調べる時間ですかね」

「調べる?」

「俺は『リゾルト』のことは何も知りません。津田さんは熱心に『リゾルト』のことを話してくれましたが、それは津田さんというフィルターを通した『リゾルト』ですから。俺自身の目を通した『リゾルト』を知りたいんです」

「怪しい企業かもしれないって心配しているなら、その点は問題ないけど? 『リゾルト』は大手メーカーと比べたら一般知名度は劣るけど、そこそこ老舗の優良企業だ」

「そんなことを心配しているんじゃありません。怪しい企業なら加々美さんのところで話がストップするって思ってますし。そうじゃなくて、自分の決断を丁寧にしたいんです。メリット、デメリットきちんと理解した上で答えを出す。そのためには相手のことを何も知らないままというわけにはいきません」

「なるほど。じゃあさ、こういうのはどうだろう。尚人君はさ、高校生の時『アズラエル』で職場体験をしたことがあっただろう」

「はい。あの時はお世話になりました」

「あの時は雅紀が働いている現場の裏方のことを知りたいってのが目的だったよね。学校に提出したレポートも読ませてもらったけど。たった三日間とはいえすごく現場のこと観察してるなって感じたんだ。だから『リゾルト』のことを知りたいって言うなら、あの時みたいに職場体験したらどうかなって思う。ちょうど夏休みなんだし。時間ならあるだろう?」

「え、それが可能なら、すごくいい経験になると思うんですけど。––––そんなことって可能ですか?」

「津田に交渉してみよう。数日職場体験させてもらった上でCM出演を検討するって言って、断られるならそれまでだ」

 それで、どうだろう? そう言いたげな加々美の視線に尚人は頷く。

 その後尚人の職場体験は、とんとん拍子で決まったのだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) 19

 現在、就活前の学生インターンシップは当たり前。『リゾルト』も例外ではなく、毎年学生インターンを受け入れている。尚人の希望した職場体験は、このもともと予定されていた学生インターンシップに参加させてもらう形で実現した。

 参加学生は三十人程。四人から五人の班に分かれての班別活動を中心とする五日間のプログラムで、最終日に自分たちで考えた新商品の発表、それの販促方法などの模擬プレゼンテーションを行わなければならない。

 一日目の午前中は、最初にオリエンテーション。班分けは会社側が事前に行っていて「辞令」という形で発表された。「辞令」を受けて同班になったメンバーは、このインターンシップ期間中は、大学や学年、年齢など関係なく一緒に仕事をする「同僚」だと説明される。自己紹介も「この度〇〇班に配属となった〇〇です。よろしくお願いします」という形で行うようアナウンスされた。

 この仕掛けで、インターンシップ参加者らは「学生」から「新入社員」のような気分になっていく。尚人の「同僚」は、山内、鍋田という男性二人と、橋本という女性一人の合計三人だった。

 オリエンテーションが終わると、「社員研修」という名前の全体説明会に移る。会社概要やこれまで開発してきた商品等の説明があったのち、各部門の社員が登場し、自分たちが日々どんな仕事をしているのか「先輩社員」の生の声を聞かせてくれた。午後からは早速班別に分かれて社内見学。午前中に聞いた話の実務をその目で確かめる時間だ。

 二日目は「外回り」という名前の販売実習を行う。量販店などの店舗に立ち来客者に商品説明等を行う活動だ。このために『リゾルト』が展開する商品の特性などを頭に叩き込んでおかなければならず、そもそも家電に疎い尚人は会社からもらった資料を前日夜遅くまで読み込んだ。メーカーのスタッフが店舗に立つのは販売促進のためであるが、客がどんな商品を求めているのか世の中の動向を確認する目的もある。

 三日目から最終日に行う模擬プレゼンテーションのための準備に入る。班に一人ずつ指導員となる社員がついて学生たちのプレゼンテーション準備をサポートしてくれる。尚人たちの指導員は管理統括部に所属する斎木だった。

「今日からプレゼンの準備に入っていきます。新商品について何かアイデアはありますか?」

 斎木の進行で学生たちがそれぞれのアイデアを出す。過去に発売されたもののリメイク品を提案する者。量販店で見かけた他メーカーの売れ筋商品を『リゾルト』でも販売することを提案する者。既に販売されているもののデザインを乙女仕様などコアな客層向けに変えることを提案する者。いろんな意見が出る。

 そんな中。

「僕はスマートフォンをワイヤレス充電できるブルートゥーススピーカーを提案します」

 鍋田が淡々とながらもどこか熱のこもった口調で提案した。鍋田は『リゾルト』が本命らしく「同僚」の中では誰よりも『リゾルト』や家電に詳しい。

 「ワイヤレス充電」や「ブルートゥーススピーカー」という単語は尚人がこのインターンシップに参加して初めて知った言葉だ。それ以外にも家電に関することは今回初めて知る事が多い尚人だが、知識としては知っても実際どんなものかいまいち分からない。それで販売実習先の店舗で実物を初めて見て、尚人がそれらの機器を興味津々に眺めていたら、鍋田が色々と詳しく教えてくれた。鍋田の説明は取り扱い方だけに終始せず、消費者目線がふんだんに入っていたので、こういったものに興味のある客が商品のどういうところを見ているのかという参考になったし、とても面白かった。ついでにイヤホン選びのコツみたいなのを聞いてみたら、いろんなメーカーのいろんなタイプのイヤホンを引き合いに出して、用途に応じた最適イヤホンの選び方を教えてくれた。

 そんな鍋田が提案する「ブルートゥーススピーカー」は「自分が今本気で欲しい物」なのだという。

「今の若者は音楽をスマートフォンに入れているのが一般的だし、家で音楽を聴く場合もスマートフォンを音源にしている人が多いと思います。しかしスマホはそのままだと音が小さい。だからブルートゥーススピーカーを使う。そんな人は多いと思います。かく言う僕もそのタイプなんですが、しかし地味に手間なんですよね。家に帰って携帯取り出してブルートゥーススピーカーを同期させて音楽を再生させて。携帯は携帯で充電器で充電させないといけない。だから、家に帰った時にスピーカーの上にポンと置いて充電が開始して、それでブルートゥーススピーカーと自動的に同期してすぐに音楽が再生できるなら便利だなって思うんです。スピーカーの上が携帯の定位置になると、出かけるときに「あれ、携帯どこ置いたっけ?」と捜す手間も省けますし。ただ、今の若者はアパート一人暮らしが多くて音漏れには神経質なので、その対策として指向性スピーカーを採用。さらにハイレゾ音源にも対応。ここまで機能が揃っていると、音楽を楽しみたい若者にかなり需要があると思います」

「それいい! そんなのあったら絶対買う」

 橋本が速攻で反応した。

「確かに便利かもな。買うかどうかは、値段次第だけど」

 山内も頷く。

 尚人はスマートフォンを持たないし、音楽を聞く時はCDプレーヤーを使うので欲しいと言う気持ちにはならないが。それでも、最近の若者の動向を考えると需要はあるだろうなと思う。

「最近の若者向けの家電だよね。需要はありそう」

「では、この班の新商品は鍋田君が提案したブルートゥーススピーカーで行きますか?」

 満場一致で決定し、それからはプレゼンのための資料作りに入る。鍋田がざっと書きつけたイメージをもとにディスカッションを繰り返して商品の形を具体化し、そこから会社にあるデータベースを活用して原価計算、販売価格を算出する。

「ここまで機能つけると、結構な値段になるな」

「完全に高額商品。これじゃ、ターゲットにしてる一人暮らしの若者は手が出ないんじゃない?」

 機能を削るか、高額商品として割り切るか。時々斎木のアドバイスも受けながら資料作成を進めていく。

「販促はどうする?」

「一般的にはテレビコマーシャル?」

「今テレビ持ってない若者も多いよ。ニュースもドラマもネットでって人も多いんじゃない?」

「えー、私一人暮らしだけどテレビあるよ。テレビドラマとネット配信専用のドラマじゃ別物だし。パソコン画面じゃどうしても小さいし」

「今の一人暮らしの若者のテレビ所有率を確認しよう」

 プレゼン内容に説得力を持たせるため購買(ターゲット)層のデータは徹底的に調査する。プレゼンを纏めるために必要なデータは大体会社のデータベースに揃っていて、インターネット検索では揃わない詳細なデータを揃えることができた。プレゼンのための資料集めをすることによって、こうしたデータを蓄積するのも企業業務の一環なのだと知る。

 情報を収集して、分析して、検討する。何度も話し合い、意見を出し合い、手分けして作業する。そうして二日かけて何とかプレゼン資料を作り上げ、最終日の午前中に斎木の指導を受けながらプレゼンの練習を行なって、午後から幹部社員も参加する中で各班の発表が行われた。

 大学の授業では味わえない濃密な五日間を過ごし、尚人はそれだけでこのインターンシップに参加した甲斐があったと満足したのだった。

 

 

 * * *

 

 

 夜十時過ぎ、雅紀は仕事を終えて家に帰る。電子錠のドアを開けて玄関に入り、そのまままっすぐ突き当たりの部屋へと向かう。

「ただいま、ナオ」

 ノックもせずに扉を開けて部屋に入る。雅紀が声をかけると、机に向かってパソコンに何やらパチパチとリズム良く打ち込んでいた尚人が手を止めて振り返った。

「おかえり。まーちゃん」

 にっこり笑顔で出迎えられて雅紀は和む。どんなに疲れていてもこの笑顔一つで癒される。

 そのまま歩み寄ってキスをする。帰ってきた時のいつもの挨拶だ。

「何してたんだ?」

 尚人は夏休みに入ったというのに何だか毎日忙しい。友人と出かけたり、いきなり加々美に呼び出されたり。ここ一週間は企業インターンとやらに参加することになったと言って特に忙しそうにしていた。

 企業インターンとは、学生が興味ある企業で就業体験することで、仕事や企業への理解を深め、職場の雰囲気を味わい、より納得のいく就職先選びに繋げるために行うものらしい。なので対象のメインは就職活動を目前に控えた大学の三年生らしいが、今回尚人は一年生ながら加々美を通して参加させてもらえることになったと言っていた。

「インターンシップに参加した感想をレポートにまとめてた」

「学校に提出するのか?」

「ううん。今回参加したインターンシップは加々美さんにお願いして個人的に参加したものだから。学校にレポートを出す必要はないんだけど。加々美さんにはきちんと報告しようって思って。あとでまーちゃんも読んでくれる?」

「もちろん。でもその前に、どんなだったかナオの口から聞きたいかな」

 インターンシップがどんなものかは聞いていたが、具体的にどんなことをしたのかまでは聞いていない。

 雅紀はベットの縁に座って「おいで」と尚人を呼ぶ。それで素直に膝に乗っかる尚人が可愛い。

「今回俺は、音響機器メーカーの『リゾルト』っていう会社のインターンシップに参加させてもらったんだけどね」

 五日間のプログラムについて尚人が話し始める。どんな話を聞いて、どんな物を見たのか。どんな体験をして、どんなことを学んだのか。見学がメインだった高校の職場体験とは違って、より実践的な課題解決型のグループワークだったようで、どんな取り組みをしたのか尚人は事細かに話してくれた。

「俺ね。今回参加したインターンシップがすっごく楽しくって。参加してよかったって思ってる。課題解決に向けて、一緒のグループになったメンバーとたくさん話し合って知恵を出し合って。いろいろ調べて検討して。一生懸命みんなで作り上げていく感じがすごく楽しかった」

 尚人が言う。目をキラキラさせて。

「たった五日で終わっちゃうのがなんか少し寂しくて。いろんな人と、もっといろんな物を作り上げる体験がしたいって。インターンシップが終わった後も、なんか体の奥がもぞもぞしてる感じ」

 尚人がそんなことを言うとは、今回のことはよほど刺激的な体験だったのだろう。

「––––でね。まーちゃん」

 尚人の声音(トーン)が少し変わる。ちょっぴり上目遣いの尚人を抱え直して視線を合わせれば、尚人の黒目がちの瞳がしっとりと静かな色を湛えていた。

「以前まーちゃんのスタンドインに同行させてもらったことがあるでしょう? 俺が見たのはCM撮影現場のほんの一部だったけど。カメラマンだった伊崎さん以外にも、照明さんとかアシスタントさんとか、スタイリストさんとか。CMに出演するタレントさん側のスタッフさんとかもたくさんいて。……あの時の現場を思い出したら、CMもいろんな人が関わって、みんなで作っていくんだろうなって。そう思ったら。きっとそれは、今回のインターンシップで感じたような。楽しい経験かもしれないって」

 雅紀は尚人がなぜ急にそんな話をしだしたのかわからない。わからないが、わからないなりに察する。先日の加々美からの急なランチの誘い。あれはおそらく、単に「うまい物を食べに行こう」ではなかったのだろう。

「実はCMに出演して欲しいって話があって。俺には無理とか、俺以外に適任はいっぱいるんじゃないかとか。そんな思いが先に立って。受けるつもりはなかったんだけど。断るにしてもいろんなことをきちんと理解した上で断るべきだって思って。それで、今回のインターンシップに参加することにもなったんだけど」

「オファーを受けてもいいかなって気になってる?」

 雅紀が問うと、尚人がほんの少し目を伏せた。

「ねぇ。もし俺がしてみたいって言ったら。まーちゃんが困ったことになる?」

「それは、俺が困るって言えば、ナオは自分がどんなにしてみたいって思っててもやめるってこと?」

「俺が一番大切なのはまーちゃんだから。もし、まーちゃんが困ったことになるっていうなら、それは俺が望むことじゃない」

 尚人の言葉に雅紀は微笑む。

 聞くものが聞けば、主体性がないとか依存してるとか。そんなふうに言うかもしれないが。他人の知ったふうな評価に何の意味があるだろう。

 相手を想い、相手を気遣う。想われていることを知り、気遣われていることを感じる。それに慰撫される魂が間違いなくある。そこに深まる絆がある。

「俺はナオが本気でしたいって思うことは応援したい。ナオがしたいことをやってる姿を見たいって思うし」

「まーちゃんが困ったりしない?」

「ナオ。俺を誰だと思ってんだ」

 雅紀が覗き込むように尚人を見つめると、尚人がはにかむように笑った。幼い頃からこの笑顔が好きだ。自分だけのもの。そんな気になる。

 雅紀は尚人を抱き寄せてキスをする。軽く甘い口づけ。啄むように何度も唇を重ね、腰に手を回してぴったりと体をくっつけると、ドキドキとはやる尚人の鼓動が伝わってくる。

「……まーちゃん」

 重ねる唇の隙間から尚人の吐息がこぼれ落ちる。

 甘やかで、柔らかで。なのにどこか涼やかで。ひどく耳触りがいい。

 尚人が可愛くて仕方ない。

 愛おしくてたまらない。

 本当は、誰の目にも触れないように家の中に閉じ込めて。大事に大事に。独り占めしたいのは山々だけど……。

 いろんなことに出会って、自分の世界が広がっていく喜びをストレートに言葉にして伝えてくる尚人のキラキラとした顔を見るたびに、尚人が進んでいくその道を応援したい気持ちも本当で。

 雅紀は重ねて溶け合った唇にゆったりと舌を差し込んだ。歯列を割って上顎をくすぐるようになぞり、口内を執拗に舐めまわして舌を絡ませる。

 尚人の呼吸が荒くなる。熱を帯びて、誘うようにあえぐ。服の裾から手を差し入れて胸の尖りを指の腹で擦ると尚人の体がびくりとふるえた。

「はぁッ…」

 切ない吐息がこぼれる。腰が捩れて、股間の膨らみが雅紀の下腹部に押し付けられる。それを感じて雅紀はうっそりと笑った。

「ナオ。もっと気持ちいいことしたい?」

 耳たぶをべろりと舐めて雅紀が囁くと、尚人がこくりと頷く。

「まーちゃんと一緒に、気持ちよくなりたい」

 尚人の言葉に雅紀の笑みは深まる。

 これから先尚人の世界がどんどん広がって、独り占めできる部分が少なくなってしまっても、こんな尚人を知るのは自分だけ。そう思えば、我慢できる。

「ナオが気持ちいいと、俺も気持ちい。だから、ナオ。いっぱい気持ちよくしてやるからな」

 甘く淫らに雅紀は囁く。

「ナオが好きなだけ珠を揉んでしゃぶってやる。乳首がきりきりに尖って芯ができるまでしゃぶってやるからな。ナオ、好きだろう? 俺に珠を揉まれながら乳首噛んで吸われるのが」

 睦言を囁くだけで尚人の体温が上がる。これからされることを想像して興奮しているのがわかる。無垢さと淫らさを同居させた尚人が濡れた瞳で雅紀を見つめる。

「まーちゃん。して……」

 その一言に、雅紀の下腹部が一気に熱を帯びた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく) エピローグ

「津田さん。お疲れ様です」

 そう声をかけられて津田は振り返る。

 自販機の並ぶ会社の小さな休憩スペース。そこで缶コーヒーを買うために自販機のボタンをちょうど押したところだった。

 ガラン、ガコッと音がして、買った缶コーヒーが取り出し口に転がってくる。

「ああ、斎木君か」

 津田は相手を確かめて微笑むと、自販機にコインを追加した。

「奢るよ。好きなの押して」

「え、いいんですか?」

「先週のインターンシップ。おかげさまで無事終わったから」

「別に。大したことはしてませんけど? でも、まあ。せっかくですので、お言葉に甘えて」

 そう言って斎木は砂糖入りのカフェオレのボタンを押す。

 学生インターンの受け入れは、いまやどの企業も当たり前だ。企業合同で行う就職説明会や就職セミナーなどではどうしても伝わらない職場の雰囲気を(じか)に感じてもらうことは、「入ってみたら思ってたのと違う」というミスマッチが起きる可能性を減らし、入社早々の退職を防ぐことにも繋がり、これから就活を始める学生のみならず雇用する側の企業にとってもメリットがある。『リゾルト』も学生が夏休みに入る八月から九月の恒例行事だ。

 加々美を通して尚人の職場見学の希望申し入れがあった時、津田はすぐに「だったらインターンシップに参加してもらおう」という考えに至った。ただ、インターンシップは総務部が管轄していることもあり勝手に話を進めるわけにはいかず。それで急遽一人追加できるか担当責任者に確認し、もろもろ諸事情考えて、一部社員にのみ追加された学生が「今、CM出演のオファーをかけている学生である」ということを打ち明けた。

 せっかくの機会だから、こちらとしても等身大の『リゾルト』をしっかり感じて欲しい。津田にはそんな思いがあった。だから下手に特別扱いはしない。そう決めた。ただ心配だったのは、インターンシップは基本就活を目前にした三年生の参加がメインで「就業体験」に重きを置いた活動をする。まだ一年生である尚人がその活動についていけるか。三年生が中心のメンバーにうまく溶け込めか。そんな心配があった。そんなところで(つまず)いてインターンシップが楽しめなかったら会社へのイメージも悪くなるのではないか。そんな思いもあった。なので津田は、自分の中で信頼の厚い斎木が尚人の入るグループの指導役になるよう根回しし、あわせて斎木にも尚人の存在を明かした。グループの中で取り残されたりしないように宜しく頼む、と。気をかけて欲しいとお願いしたのだ。

 斎木のおかげでインターンシップは無事に終了した。尚人もうまくグループに溶け込めてインターンシップを有意義に過ごせたようだ。

「いただきます」

 斎木が律儀にそんな言葉を口にしてからカフェオレを飲む。

「なんか却って申し訳ないですね。結局特別なことは何一つしてませんし」

 斎木はそう言うが、斎木がついているということが津田にとって一つ安心材料だったのだ。

「彼、津田さんが心配してたようなことは全くなかったですよ。場の空気読むの上手いし、コミュニケーション能力高いし。知識の吸収にも貪欲で。真面目に何でも取り組む上に、素直で反応が可愛らしいので周りも構いたくなる感じで。私は、どちらかというとグループ活動の中で浮きそうな性格の鍋田君を心配してたんですけど。彼の知識豊富なところとか、家電愛(オタク気質)みたいな部分をうまくグループに溶け込ませていたのが篠宮君だったんです。篠宮君のおかげであのグループはきちんとチームとして機能したと言っても過言じゃないです。プレゼンの出来も素晴らしくて、あのグループが提案したブルートゥーススピーカーは商品化の検討の余地があると、プレゼンを聞いた幹部社員たちも感心してましたし」

 尚人の学生としての能力の高さは、あちこちから噂で聞いた。本気で『リゾルト』に欲しい。そんなことを言っている社員もいるのだという。

 その辺はさすが東大生というところだろうか。

「先方から連絡はあったんですか?」

「いや、まだ」

 それに関しては胃が痛い。一日千秋の思いで連絡を待っている。

「それにしても、津田さんが目をつけたのが、まさか『MASAKI』の弟だなんて。それが一番のびっくりでしたよね」

「え?」

 斎木がさらりと口にした言葉に津田は驚く。『篠宮尚人』が「今、CM出演のオファーをかけている学生である」ことは明かしても、『MASAKI』の弟であることは会社の誰にも言っていない。というか、津田も「そうだろう」と思っているだけで、尚人本人や代理人である加々美に確認したわけではない。オファー内容と、尚人が『MASAKI』の弟であるかどうかは全く関わりのないことだから当然といえば当然だ。

「……斎木君は、そのこと。誰から聞いたんだ?」

「え? 誰って。別に誰からも。顔見て、ああ津田さんが目をつけた学生って『MASAKI』の弟なんだって。そう思っただけで」

(いや、だから。なんで『MASAKI』の弟の顔なんて知ってんだよ)

 頭の中は「?」で一杯だ。『MASAKI』の弟の存在は、一時期メディアで散々騒がれはしたが、一般人の未成年と言うことで常にモザイクがかかっていた。だから津田も尚人を見ただけでは『MASAKI』の弟かどうかなどわからなかったのだ。

「あれ、津田さんに言ってませんでしたっけ? 私、『ミズガルズ』のファンなんです」

「『ミズガルズ』? って、あの『MASAKI』がミュージック・ビデオに出て話題になったロックバンド?」

「そうです。ファンの間では『MASAKI』の弟が『ミズガルズ』のファンだってのは有名な話で。そもそも『MASAKI』が『ミズガルズ』のミュージック・ビデオに出演したのも『ミズガルズ』ファンの弟を喜ばせたかったからっていうのが理由ですし」

「へぇ……」

「去年突発ライブが開催されて見に行ったんですけど。『MASAKI』もライブに来てたんですよ。もちろん招待席に座ってましたけど。その時に『MASAKI』の隣に座っていたのが弟の篠宮君だったんです。会場内は結構そのことで盛り上がってましたし。私もその時に、へぇ、あれが噂の弟なんだなって。『MASAKI』が大事にするのもわかるな、って感じで。結構繁々眺めてましたから。今回すぐに分かりました」

 にこやかな笑顔を浮かべていつもの口調でそう話す斎木に、津田は「そうなんだ」しか返せない。

「津田さんに最初にCMの話を聞いた時、篠宮君のことが頭に浮かんだんですけど。でもさすがに『MASAKI』の弟はダメだろうって思って口にはしなかったのに。津田さんって結構チャレンジャーですよね」

 齋木にそんなことを言われると、何だかぐるっと遠回りして探し物はすぐそばにあったみたいな感じだ。

「で、『MASAKI』の許可はもう取ってあるんですか?」

「––––いや」

「え、じゃあ、これからですか? だったら、篠宮君自身がOKしてくれても話が進むかわからないですね。大学の一年生じゃまだ未成年だし。『MASAKI』って確かあの家庭では保護者的立場ですもんね」

(…………)

 津田の背中を冷や汗が流れる。

 あえて考えないようにしてきた部分だ。脳が考えることを拒否してきたともいえる。ただ、代理人があの加々美蓮司ということは、尚人の事については加々美に一任されてると言うことじゃないのか。その思いもある。というか、そう思いたい。『MASAKI』と直接対面なんて。目が合っただけで心臓が止まりそうだ。

「津田さん。期待してますよ。彼出演のCM、すごく楽しみにしてますから」

 斎木はそう言うと「ご馳走様でした」との言葉を残して休憩室を出ていく。その後ろ姿を津田は何とも言えない吐息と共に見送る。

 胸ポケットに入れてたスマートフォンが『加々美蓮司』と表示して鳴動したのはその直後だった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

菜虫化蝶(なむしちょうとなる) 1

 風呂から上がって、水を飲もうとキッチンに来たところで携帯電話が鳴った。雅紀は食卓に置きっぱなしにしていたスマホを手に取って表示画面を確認する。と、電話の相手は『加門』だった。

(何の用だ?)

 疑問に思いつつ通話ボタンを押す。近頃はめっきり連絡もなくなって雅紀のストレスはそれだけで軽減していたのだが––––。

「はい、雅紀です」

『雅紀ちゃん、今いいかしら』

「はい。大丈夫です」

『あのね。今年の盆の集まりなんだけど』

(?)

 唐突な祖母の台詞に雅紀はひっそりと眉を(ひそ)めた。

(いきなり何の話だ?)

 加門の盆の集まりなど、最後に参加したのがいつだったか、すぐには思い出せないほど昔の話だ。それに、母が生きていた時でさえ毎年参加していたわけではない。盆休みはどうしたって父方の実家である堂森への帰省が優先され、母の実家は後回しの傾向にあったからだ。母が亡くなって以降は当然、一度も参加していない。というか、開催されていたかどうかすら知らない。呼ばれもしなかったし、こちらから連絡することもなかった。そんな余裕はなかった、と言うのが実態だが。

『今年はあの子の七回忌に当たるでしょ。だからみんなで集まって盆の供養をしたらどうかって、そう思ってるの』

(あー、そういうことか)

 一応は納得する。

『沙也加だけじゃなくって。雅紀ちゃんや祐太ちゃんも。子供達全員顔を揃えてお焼香したら、あの子も喜ぶんじゃないかって。そう思っているんだけど。どうかしら』

 どうかしら、……と言われても。

 雅紀は返答に困って黙り込む。

 正直、死んだ人間の死んだ年数なんて数えても意味がない、––––と思う。それが雅紀の本音だ。七回忌だからと、仏壇に線香をあげに行かねばなんて気持ちにはならないし、死んだ人間が喜ぶとか悲しむとか、そもそもそんな発想がおかしいとすら思う。本人の持っていた意思も肉体もこの世から消え去るのが死だ。雅紀はそう思っている。少なくとも母の葬儀で、火葬にされてまだ熱を持ったまま冷め切れない遺骨をひとつひとつ拾い上げて骨壺に納めながら、肉体というズッシリ重い(くびき)から開放されて、これで母は本当に楽になれたのかもしれないと思った、あの感覚だけが雅紀にとっての真実だった。ならば後は、生きた人間が死者の言葉を無理やりに代弁して、こちらの世界に留めさせようとするかの如く行為はエゴではないのか。そうとすら思う。

 しかしそれを口にすれば、電話口で面倒くさいことになるのは分かり切っている。

『雅紀ちゃんが忙しいのはわかっているから、多少はこちらも合わせるつもりよ。盆前後の日で雅紀ちゃんが都合の良い日、いつかしら』

(……参加前提の話かよ)

 雅紀は心の中だけでため息をつく。祖母の考える前後とは、どの程度までを含むのだろうか。盆と言いながら、スケジュールが合わないと言えば合うまでしつこく調整されそうな気もする。

「確認しないことには何とも。それに、それってナオや祐太も参加の話ですよね?」

『もちろんよ。裕太ちゃんも最近は元気になったんでしょう? その姿を仏前に見せれば、あの子の何よりの供養になると思うわ』

 言いたいことは諸々あったが、雅紀はひとまずこの電話を最速で終わらせることに注力する。

「ナオや祐太にも話をして折り返します。それで、いいですか?」

『ええ、そうして頂戴。あ、ちなみに沙也加にはね、盆の期間は仕事も旅行も入れないでってもう言ってあるから大丈夫よ。じゃ、連絡待ってるからね』

 祖母は言いたいことだけ言うとあっさり電話を切る。雅紀はスマホを耳から離して深々とため息をついたのだった。

 

 

 

 面倒な話はさっさと終わらせよう。そう思って雅紀が「話があるからリビングに集まれ」と尚人と祐太に声をかけると、三兄弟はすぐにリビングに顔を揃えた。

 日頃は懐かない猫のような性格の祐太だが、家族に関わることには自分一人蚊帳の外に置かれるのを極端に嫌う。雅紀の声かけに文句も言わずすぐにリビングに降りて来たのは、「家族の話」と察したからだろう。

 尚人が気を利かせて三人分のお茶を入れる。そのお茶が目の前に出されたタイミングで雅紀は話を切り出した。

「今、加門の祖母(ばあ)ちゃんから電話があって。加門の家で盆の集まりをするから俺たちにも参加して欲しいらしい」

「盆の集まり?」

 祐太があからさまに怪訝な顔をする。

「何で今更? それってマジで言ってんの?」

「七回忌だからってのが理由らしい」

「七回忌? 何それ」

「故人を偲ぶ法要の一つだ。法事では七年を一つの区切りにするんだよ」

 雅紀が簡単に説明すると。

「……ふーん」

 頷きはしたが、納得には程遠そうな顔をする。そんな祐太に対し、

「……もう、七年なんだね」

 尚人だけはしんみり呟いた。

 七年と考えれば雅紀も思うところがないわけではない。母との思い出ではなく尚人とのあれやこれやだが。

「で、雅紀にーちゃん的にどうなの? 俺は七年って区切りの意味がわかんないし、盆だからって言われても正直何それって気しかしないし。なにより、祖母ちゃんの相手するのははっきり言って面倒なんだけど」

「みんなで集まることに意味があるんじゃない? ……祖母ちゃんのことは、俺だって気が重いけど」

「まあ、祖母ちゃん的にはナオが言ったみたいに、みんなが集まることに意味があるって思ってるんだろうな。祐太にとっては七年の区切りに意味を感じなくても祖母ちゃん的にはあるってことだろ」

「行かなきゃダメってこと?」

「別に強制はしないさ。行きたくなきゃ行かなくていい。けど。その時は、より面倒なことになる可能性もあるってことは覚悟しとけよ」

「うへっ」

 祐太はその事態を容易に想像できたのか思いきり顔を顰めた。

「……そのくらいだったら俺行く。一回我慢すればいいんだろ」

 ズブリと祐太が言う。その意見に雅紀も大筋では合意だ。下手に断って、その後ちょくちょく電話攻撃を受けて、時間構わず嫌味や泣き言を聞かされるのはボティーブローのように忍耐力を削られる。とにかく顔を見せれば祖母が満足し、それでしばらくまた大人しくしてくれるのなら、一日くらいは我慢してやってもいいかと思う。

「俺たちはいいけど、雅紀兄さんは仕事大丈夫なの?」

 尚人が気遣う視線を雅紀に向ける。そう言う尚人だって近頃は雅紀に負けず劣らず忙しい。

「ナオの方こそ大丈夫なのか?」

「俺は、盆前後は何の予定もないよ。大学だって夏休みに入っているし」

「じゃあ、参加ってことでいいな?」

 雅紀の確認に尚人も裕太も頷く。

 はっきり言って誰も乗り気ではなかったが、こうして何年ぶりかわからない加門家の盆の集まりに兄弟揃って参加することになったのだった。

 

 

 * * *

 

 

「ただいま。お祖父(じい)ちゃん、お祖母(ばあ)ちゃん」

「あら、沙也加。おかえり。すぐお夕飯にするでしょ?」

「うん。荷物置いてくるね」

 夜七時。沙也加は加門の家に帰ると、リビングにいるはずの祖父母に帰宅の挨拶をし、部屋に荷物を置きに行く。中三の時にこの家に来て以来、繰り返されている日常だ。

 自室に荷物を置いて、手を洗ってリビングへ戻れば、祖母が食卓に夕飯を並べている。沙也加は食卓の準備具合を確認すると、箸を並べてご飯をよそう。居候の身である沙也加は、いつだって細やかな気遣いを忘れない。

「いただきます」

 準備が整うと三人揃って夕飯を囲む。その食卓に弾むような会話はない。沙也加が来たばかりの頃は、一人身を寄せることになった沙也加を気遣う祖母と、その祖母の気遣いに応える余裕のあった沙也加との間で多少の談笑はあったが。母が亡くなって、誰もが他人を気遣う余裕がなくなった時に食卓から会話は消えた。その時の静かな食卓がそのまま習慣になって今に至り、代わりに時計がわりのテレビがいつだってどうでもいい騒音を撒き散らしている。それら全てが七年繰り返されている日常の一コマだ。

 今年の春、沙也加は大学三年生になった。三年生といえば就職活動が本格化する年だ。沙也加の周りでも就職セミナーやインターンシップに関する話題が賑わっている。しかし誰も沙也加にはその話は振らない。それは沙也加が、モデルとして活動しているからだ。卒業後はその活動を本格化するのだろう。だから沙也加に就活は関係ない。友人たちはそう思っている。

 大学一年生の冬に大手モデル事務所『アズラエル』と契約しモデルデビューしている沙也加は、一応モデルという職に就いていると言える。––––が、一年半活動してもその収入は学生アルバイトよりは割がいい程度。モデル一本で食べていけるには程遠く、その筋道すら見えない。去年まではそれでも「モデルの仕事が楽しい」で済ますことができたが。三年生ともなると、モデルは学生時代の思い出と諦めてきちんと就職するか、それとも卒業後にモデルとして本腰を入れて頑張るか。沙也加は嫌でもその二者択一を意識しないではいられない時期に来ていた。

 万が一、モデルはすっぱり諦めて就活するとなったら、ぐずぐずはしていられない。就活前のインターンシップに参加しているかどうかが就職選考時の有利不利に繋がるというのは学生の間では常識だ。「そんなことは関係ない」「優秀なら採ってくれる」そんなことを言う人がいることも確かだが、少しでも有利になるのであれば参加していて損はない。それにインターンシップは、その企業がどんな企業なのか実際の現場を知る、学生にとってはメリットの大きい活動で。沙也加も実はいくつかの企業のインターンシップが気になっていた。

 モデルとしての道も残しつつ、インターンシップにも参加してみる。そんなことは可能だろうか。最近の沙也加はその問題で悶々としている。インターンシップ に参加するとなったらマネージャーの唐澤に黙ってと言うわけにはいかないだろうが。唐澤にインターンシップの相談をすれば「モデルとしてやる気がないのか」「卒業と同時に引退するつもりか」そう言う話になりそうで。切り出せないままにいる。

「あ、そうそう沙也加。このあいだ話をしたお盆のことだけどね」

 祖母の言葉に、沙也加は箸を止める。盆の集まりのことは先週食卓の話題に上がっていた。母の七回忌にあたるのをきっかけに加門家の盆の集まりを復活させたい。祖母はそんな思惑を抱いているようだ。はっきりとそう口にしたわけではないが、いつになく弾んだ口調で雅紀や裕太も参加する盆の集まりを催したいと言い出した祖母の言葉の端々に、そんな気持ちが透けて見えていた。

「雅紀ちゃんから連絡があって。八月十五日に三人とも参加できるって」

「……そうなんだ」

 ちょっと意外だった。祖母がどんなにしつこく電話攻撃しても「スケジュールが合わない」を理由に雅紀は来ない気がしていたのだ。

(だって、あの女の盆供養なのよ。そんなことする意味ある?)

 祖母の提案を初めて聞いた時、沙也加は思わず鼻で笑いそうだった。

 息子を性的に虐待し、沙也加に罪の意識をなすりつけて、自分だけさっさと楽になった––––腹立たしいほどに憎い女。沙也加にしてみれば、あの女のためには線香の一本だって供えたくはない。そう思う。しかし……

(お兄ちゃんにとっては違うってこと?)

 そう思うと沙也加の心はざわついた。沙也加を未だ呪縛するあの事実も雅紀にとっては過去の出来事に過ぎないのか。

「お寿司は取ろうと思うけど。それ以外にも準備が必要だから。沙也加も手伝って頂戴ね」

「もちろんよ」

 母のためには何もする気にならないが。祖母のためと思えば気分も違う。ひょっとすると雅紀も同じ気持ちなのかもしれない。

 兎にも角にも。

(お盆にはお兄ちゃんに会える……)

 顔を突き合わせて食卓を囲むことになるのだから、きっと言葉を交わすチャンスも生まれるはず。沙也加が抱えるモデルとしての悩みも相談できるかもしれない。沙也加に今必要なアドバイスができる人間がいるとしたら雅紀しかいないのだ。

(お兄ちゃん……)

 盆に出すご馳走についてあれこれ話し続ける祖母の話に適当に相槌を返す沙也加の胸には期待と不安が入り混じっていた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

菜虫化蝶(なむしちょうとなる) 2

 八月十五日。雅紀の運転する車に同乗し、篠宮家の三兄弟は加門の家にやって来た。かつてこうやって祖父母の家を訪ねた時は、お土産を手にした祐太がいの一番に家の中の駆け込んで祖父母に元気よく手土産を渡し祖父母を懐柔するのが(つね)の光景だったが。今日の祐太はのっそりと車から降りると雅紀や尚人の後ろをただ黙ってついて来る。少々しかめっ面なのは、刺さるような暑さの陽光のせいか。はたまた内心の感情を隠せないでいるのか。

 雅紀が玄関先のインターンフォンを押して到着を告げる。するとすぐに祖父母が揃って顔を出した。

「ご無沙汰してます。今日はお世話になります」

 玄関先できっちり腰を折って挨拶する。その様子に祖父は無言で頷いて目を細め。

「ほらほら、そんな堅苦しい挨拶はいいから。上がってちょうだい」

 祖母は満面の笑みで手招いた。

「祐太ちゃんも。よく来てくれたわね」

「はい、祖母ちゃん。おみやげ」

 祐太が愛想のカケラもなく手土産を祖母に手渡す。家を出る前に尚人に持たされたものだ。

「やっぱり、祐太が渡すのが一番喜ぶんじゃない?」

 尚人のその一言に祐太はブスくれた表情を見せたが、文句は言わなかった。今の篠宮家で尚人に文句を言える者など誰もいない。

「まあ、祐太ちゃん。こんな気を使わなくってもよかったのに。でも、お祖母ちゃん、うれしいわ。ありがとう」

「それ準備したの。ナオちゃんだから」

「まあ、とにかく上がってちょうだい。まずはあの子の仏前に挨拶してほしいわ」

 祖母は裕太の言葉をさりげなくスルーして三人を仏壇のある和室へ通す。慶輔が暴露本を出すという時に加門家を尋ねた雅紀だが、仏間までは通されなかった。だから雅紀もこの部屋に足を踏み入れるのは本当に久しぶりだ。

(そう言えば、こんな部屋だったな)

 そんなことを思いつつ、雅紀は仏壇の前に正座する。尚人と祐太がそれに倣う。そのタイミングでもう一人誰かが部屋に入って来た気配がしたが、仏壇を正面にした雅紀の視界には入らなかった。

 線香を一本取り出して火をつけると、くゆる線香を香炉に立てる。立ち上るひとすじの煙を前に、雅紀は(りん)を軽く叩いて合掌した。

 その胸中にあるのは、死した母への思慕でも、冥福を祈る気持ちでもない。形ばかりは世の常識に合わせて見せることができるだけ。それだけの話だ。雅紀はもう、母について何かを思い悩むことも、振り返って懐かしむこともない。それは決意とか覚悟とか、そんな重い決断を含んだものではなく。自然とそうなっただけのこと。雅紀にとって大切なのは尚人だけだから。それ以外のものはどうでもいいのだ。

 とは言え、それは雅紀の考えで。尚人はまた尚人なりの考えと受け止め方がある。隣で目を閉じて合掌する尚人をちらりと横目で見遣って、雅紀はその真摯な横顔にその胸中を思いやる。

 尚人には、母を思慕する思いもあるだろうし、冥福を祈る気持ちもあるだろう。しかし雅紀との関係や沙也加との出来事。それらすべてを知る者として、単純に(のこ)された子供にはなれなかった尚人の心もまた複雑だったろうと思う。そんな尚人が今何を思うのか。興味はあるが、聞くのもまた怖かったりする。

 静かな室内に涙を堪えた微かな音がした。雅紀がゆっくり視線を向けると部屋の隅にいた祖母が目元の涙を拭っていた。

「本当に良かったこと。仏前に子供たち全員が揃うなんて。あの子もあの世で喜んでいると思うわ」

 その言葉にさらに視線を動かせば、いつの間にいたのか沙也加の姿もあった。

「じゃあ、お食事にしましょうか」

 祖母の言葉に促されてリビングに行くと、いつも使う食卓に別の机を並べて全員が座れるようにしてあった。その机の上には、すでに握り寿司の入った寿司桶が並んでいる。かつての記憶にある盆の宴会風景だ。

「お、来たな」

「由矩伯父さんもいらっしゃってたんですね」

 聞いていなかったので素で驚く。なんとなく子供四人のみ呼び集めたかったのかと思っていたのだ。

「雅紀には何度か会ったが。尚人や祐太には本当に久しぶりだろう? こんな機会なかなかないから、今日は楽しみにしてたんだ」

「ご無沙汰してます。由矩伯父さん」

「尚人か。久しぶりだな」

 尚人を見やって由矩が目を細める。その表情を見るからに、本当に久しぶりの再会を楽しみにしていたのだろう。

「大きくなったな。最後の会ったのは、––––……まだ小学生だったか」

「そうですね」

「いや、それにしても驚いた。随分、大人の雰囲気になったな。えーと……。今、いくつだ?」

「十九です」

「ってことは。ひょっとして、もう大学生か?」

「はい。そうです」

「そうだったか。いや、これは。失念してたな。高校卒業の祝いも、大学合格の祝いもしてやらなくて。すまない」

「その気持ちだけで、充分嬉しいです」

「はい、冷たいお茶を持ってきましたよ。お料理の方もぼちぼち準備できるから、適当に座っててちょうだい」

「あ、俺。なんか手伝いますよ」

「沙也加が手伝ってくれるから大丈夫よ」

「今日のお前たちは客なんだから。座っていればいい」

 由矩もそう言う。それではお言葉に甘えてと、由矩の対面に三人並んで座った。

「尚人は、大学はどこへ通っているんだ? 地元か?」

「都内です」

「てことは、一人暮らしか?」

「いいえ、家から通ってます」

「伯父さん。ナオが家を出て行ったら俺たち飢え死にするしかないですよ」

「最近は祐太も随分料理の腕が上達したから。そんなことにはならないと思うけど」

「お、祐太も料理するようになったのか」

「––––ナオちゃんが帰るの遅い日はね」

「まぁ、祐太ちゃん。お料理ができるようになったの? すごいわね」

 ちょうど料理を運んできた祖母が会話に混ざる。

「今度、お祖母ちゃんにも食べさせて欲しいわ」

「………………」

 が、祐太はそんな祖母をさっくり無視する。

「––––––––祐太」

 尚人が「無視は無し」と言いたげにテーブルの下で裕太の脇を肘で小突くが、祐太は無反応だ。

 先ほど祖母が裕太の言葉をさっくりスルーした仕返しのつもりなのか。ただ、そんな意趣返し祖母には通用しない。

「祐太ちゃんの得意料理は何かしら?」

 笑顔で祖母はしつこく会話を続ける。

「………………」

「話は後にしたらどうだ? 雅紀や祐太も腹が減っているだろう」

 何となく空気を読んだのか、祖父が割って入る。それで祖母は一旦祐太との会話を引っ込めた。

「そうね。あ、沙也加。取り皿も準備してちょうだい」

 女二人が忙しそうに立ち回り、準備が整うと加門家の盆の宴会が始まった。

 

 

 * * *

 

 

 ––––今日はお兄ちゃんが来る。

 沙也加は朝から落ち着かなかった。いや、実を言うと数日前から心がざわついていた。

 雅紀に会いたい気持ちと。会うのが怖い気持ち。

 声を聞きたい気持ちと。かけられる言葉を恐れる気持ち。

 自分をまっすぐに見て欲しい。その視界に入れて欲しい。そう思う一方で、雅紀の視線に怯える自分も自覚する。

 相反する気持ちがせめぎ合って、昨夜はよく眠れなかった。

(色々考えすぎるからダメなのよ)

 沙也加は自分に言い聞かせる。

(何も考えずに自然に振る舞えばいいのよ)

(こっちが変に意識するから、向こうだって構えるんだし)

 雅紀が来るまでは、そんな自分への叱咤激励もある程度効果があったのだが。実際に雅紀が加門の家にやって来て、その姿を目にした途端、そんなまやかし効果はあっさり吹き飛んだ。ぎくしゃくと動きがぎこちなくなって。しかし、そんな姿を尚人や裕太には見られたくなくて。ましてや、自分が雅紀を前に緊張しているなんて、二人には悟られたくなくて。沙也加は必死に平静を装った。

 祖母が固執していた四人揃っての焼香もぎりぎりに和室に入って最後尾でなんとかやり過ごし、それが終わると「手伝い」を称してさっさと台所へ引っ込んだ。宴会の準備が整うと、由矩の横に祖母が座り、さらにその横に沙也加が座る。さいわいにして雅紀とは対角で。沙也加はそのことにわずかながら安堵した。

「やっぱりこうして四人揃うと眼福だよ。お前たちは」

「本当にねぇ。これを機に、毎年集まれるといいわよね」

 宴会が始まると、由矩はビールを開けた。普段は飲まない祖父母もせっかくだからと乾杯に付き合う。車で来たという雅紀は麦茶だった。

「お袋。気持ちはわかるが、そう簡単にはいかないだろう。雅紀が忙しいのはわかっているだろう? 今日だって、随分無理をしたんじゃないのか?」

「雅紀ちゃんが忙しいのはわかってるわよ。でも、盆の一日くらい。何とかなるわよねぇ、雅紀ちゃん」

「今年は調整できましたが、来年の話はなんとも」

「こないだはイタリアの有名なファッションショーにも出たんだろう? 会社の女性たちが、そんな話で盛り上がってたぞ」

(知ってる)

 沙也加は耳だけを会話に参加させて、心の中で呟く。『MASAKI』がミラノ・コレクションに参加した話だ。モデル仲間たちの間でも当然話題になった。日本人でもパリ・コレなどで活躍しているモデルはいるが。そういうモデルはほとんどが海外に拠点を置いていて日本での知名度は低かったり。あるいは、元パリ・コレ・モデルを売りにして日本の芸能界で再デビューすることでようやく日本での知名度が上がったり。それに比べて『MASAKI』は日本の第一線で活躍し、実力も知名度も抜群のカリスマ・モデル。当然、各ファッション紙がこぞってその話題を取り上げていた。

「そう言えば沙也加も、このあいだ何とかって言うショーに出たんだったよな?」

 由矩の話題の矛先が急に沙也加に向く。その言葉に沙也加の頬がピクリと引きつった。

 由矩の言うショーとは、ファッション紙とアパレルショップが提携して仕組んだ販促のためのショーで、デザイナーの新作コレクションを発表するためのファッションショーとは性質が異なる。ランウェイも歩くのもプロのモデルのみと言うわけではなく、若者に人気の読者モデルやタレントなども多く起用される。芸術性を競うのではなく「あのタレントが着ていたのと同じ服が着たい」というファン心理を利用して購買意欲を掻き立てる、そういったことを目的としたショーだからだ。当然、雅紀が参加したミラノ・コレクションとは全然レベルが違う。雅紀のミラノ・コレクション参加に続けて話題にして欲しい話ではなかった。

 というより、そのショーに参加したこと自体、沙也加は由矩には話していない。ということは、祖母経由で耳にしたのだろうか。参加が決まった時は、どんなショーだろうとランウェイを歩ける、その事実に舞い上がって得意げに話したのは確かだが。

「二人とも活躍しててすごいな」

 由矩のその一言に沙也加はうんざりしすぎてため息が漏れそうだった。

「で、尚人は大学ではなんの勉強をしてるんだ?」

 酒が入っているせいか、由矩はいつもより饒舌だ。

 次の話題の矛先になった尚人を沙也加はちらりと一瞥する。

 久しぶりに尚人の顔を見て、沙也加は少々の衝撃を受けていた。以前感じた尚人の変質がより一層際立っていたからだ。

 悪目立ちしない異質感。すんなり視界に入って来て目が離せなくなる。中性的と言うわけでもないのに纏う雰囲気が柔らかくて、爽やかな清涼感にはノーブルなストイックささえ感じられる。何よりしっとりした光を纏う双眸は引き込まれそうな引力があった。

(なんなのよ。この子……)

 千束の家で一緒に暮らしていた時までは、主体性のない大人しい子。尚人に対してはそんなイメージしかなかった。いつもおっとり、ゆっくり。イライラするくらいに動きが鈍くて。運動でも勉強でも目立った所はなくて。ピアノだって弾けなくて。しかし、出来ないがゆえに雅紀が(かば)って可愛がるのだろうと思うと、沙也加は尚人のそのおっとりとした性格が腹立たしくてしょうがなかった。

 雅紀の(あと)をついて歩くしか能のない弟。雅紀のイエスマンでしかない弟。そんなふうに見下してさえいたのに………。その尚人が、まさかの翔南高校に受かったと知ったとき、沙也加は脳天を殴られるほどの衝撃を受けた。沙也加が行きたく行きたくてたまらなかった翔南高校。沙也加は落ちて尚人は受かった。悔しくて悔しくて。とにかく悔しくてたまらなかった。そして同時に、尚人が憎くてしょうがなかった。自分への当て付けで翔南高校を受験したのではないか。そんなふうにすら思った。

 その後はなんとか気持ちを持ち直し、希望する大学に現役で合格して、気分一新、将来に向かって頑張ろうと思っていた矢先。あの男のせいで沙也加の日常はかき乱された。尚人は大事に大事に雅紀に守られていたのに、沙也加のことは誰も守ってくれなかった。

 なんで尚人ばっかり。尚人憎しの感情が再燃した。しかも、英語がペラペラになって将来グローバルな仕事がしたい。それは沙也加の夢だったのに、英語がペラペラになったのは尚人の方だった。それも高校生即興英語ディベート大会で全国優勝するという栄冠付き。その記事を目にした時は、腹立たしさしかなかった。

 いつだって尚人は、沙也加の道に横入りして来て視界を邪魔する。主体性がないからそんなことをするのだ。自分で目標を決められず、ゆえに人の夢を自分の夢にしてしまう。

(……それにしても、やっぱり大学に行ったのね)

 その事実に沙也加は少し安堵する。雅紀のコネを使って労せずモデルデビューするつもりではないのか。そんなことをちらりと疑っていたからだ。

 沙也加は、自分で決意してオーディションを受け、圧迫面接にも耐えて、なんの経験も無かったど素人ながら総合四位を勝ち取った。その実績を評価してもらったからこそ『アズラエル』と契約できたのだ。事務所との契約後は、大学の授業の合間を縫ってレッスンに励み、マネージャーの言う通り企業への挨拶回りもこなしてやっと掴んだモデルへの道。その道だけは尚人に邪魔されたくない。沙也加はその思いが強い。

「まだ一年生なので、授業は教養が中心です。語学と数学と、あとは論文の書き方とかを勉強してます」

「へぇ。大学って、そうだったかな」

(一年生は呑気でいいわよね)

 三年生になった沙也加は専門中心。授業内容は一気に難しくなって、課題レポート一つ出すのにもかなりの量の参考資料に目を通さなければならない。それにモデルの仕事も重なって。三年前期の試験は、落とさないようにするのが精一杯だった。

「で、尚人はどこの大学に通っているんだ」

 祖父が唐突に会話に混ざる。やはり孫の進学先は気になるのだろうか。

「お、そう言えば、どこ大だったか聞いてなかったな。まさか、沙也加と同じ所だったりするのか?」

(それだけは、やめてよね)

 沙也加は心の底から思う。沙也加が通うのは都内でも結構偏差値の高い私立大学だ。翔南高校出身の尚人なら合格圏外というわけはないだろうが、だからと言ってこれ以上同じ選択はされたくない。––––それに本音では、

 ………できれば自分よりランクの低い大学であって欲しい。

 さもしい考えと分かっていても、沙也加はそんなことを思ってしまう。人生に必要なのは最終学歴で、出身高校より出身大学の方が重要だ。その大学で、翔南高校を出たって結局は自分よりランクの低い大学に行った。そうであれば多少は胸がすく。

 そんなことを考えていると。

「あ、いえ。俺が通ってるのは国立大なので」

 尚人がやんわりとそう言った。

「国立? 都内の国立って……」

 由矩がわずかに首を傾げる。

「まさか、東京大学か?」

(はぁ? まさかでしょ?)

 あり得なさすぎる由矩の言葉に沙也加は思わず笑いそうになって。

 国立大は他にもあったはず。そう思いつつも思い出せないでいると。

「はい。そうです」

 尚人が頷いた。

 それには沙也加のみならず、由矩も祖父も言葉を失ったように固まる。

 一瞬の沈黙。

 それからの「本当に?」と言わんばかりの皆の視線。

「……いや、まさか」

 呟いて、由矩は大きく息を吐き出した。

「尚人が勉強できるのは知っていたが。現役で東大に合格するほど優秀だったとは。……なんと言うか。恐れ入ったよ」

 由矩はビールをグイッと煽った。

「じゃあ、尚人の将来はもうなんの心配もないな。東大生なら、官僚でも銀行でも大手企業でも、就職先は選び放題なんだろう?」

 その言葉に尚人はただにっこり微笑む。その笑顔がなんだか勝ち誇って見えて、沙也加は奥歯をギリギリと噛み締めた。

(何よ、何よ。何なのよ!)

 東大? 本当に? 見栄を張るために嘘ついてんじゃないの?

 だって尚人は使い勝手の良いハウスキーパーで。学校と家を往復する以外は主夫業に専念していたはず。塾にも行かずそんな生活で、現役で東大になんて受かるのか。

「雅紀も安心したんじゃないか」

「ナオは俺と違って優秀ですから。そっち方面では最初から心配してませんよ」

「いやー、しかし。加門の血筋から東大生が出るとは。ちょっと、自慢だな」

 由矩がまるで我が事のように浮かれている。その言葉がすごく耳障りで、胸焼けがするほど気持ち悪くて。この場に居たくないほど感情が煮え立って。

 沙也加は、この宴席が一刻も早く終わってくれることだけを祈っていた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

菜虫化蝶(なむしちょうとなる) 3

 世間一般で言われるところの盆休みが終わると、尚人のCM出演に向けての動きが開始した。まずは基礎レッスンということで、歩き方、立ち方を練習し、見せる、見られる、ということへの心構えを加々美に付きっきりで仕込まれた。加々美に連れていかれたレッスン場で午前中はひたすら歩く。最初は自分の全身が映る鏡の前で歩くことにどうしても照れがあった尚人だが、毎日毎日繰り返しているうちに自分の姿を客観視するようになった。そうなれば照れなど起きない。加々美に言われた通りのことができているか、鏡を見て冷静にチェックする。午前中のレッスンが終わると、二人でランチを食べて、午後からは芝居を見に行ったり、美術館を巡ったりする。時には、レッスンとは全く関係ないような娯楽映画を「今話題らしいから付き合って」と言われて見に行くこともあった。芝居を見た感想は、家まで送ってもらう車の中で言い合う。こんな毎日を過ごして、尚人の八月は、あっという間に終わったのだった。

 

 

 * * * 

 

 

「はあぁぁ、毎日が楽しすぎる」

 グァテマラ産コーヒーの、チョコレートのような豊かなコクのある香りを吸い込んで、加々美は吐息と共に呟く。

 『アズラエル』本社ビル、統括マネージャー高倉真理(まさみち)の執務室。加々美は久しぶりにこの部屋に顔を出し、自分で淹れたコーヒー片手に革張りのソファーで(くつろ)いででいた。

「そりゃ、よかったな」

 執務机で書類に目を通していた高倉がどこか冷めた口調で言う。しかし高倉のそんな素っ気無い反応も今の加々美にはノーダメージだ。

 尚人からインターンシップに参加した体験レポートが送られてきたのは、インターンシップが終わった翌々日。加々美から求めたわけでもないのに律儀にレポートを送ってくる、その尚人の生真面目(きまじめ)さに感心しつつも、尚人なら送ってくるだろうと心待ちにしていたのも事実で。インターンシップでどんなことを体験し、何を感じたのか。丁寧かつ簡潔に纏められたそのレポートに加々美はじっくり目を通し、尚人が如何に今回の体験を自分なりに咀嚼し、そしてCM出演への決意を固めるに至ったのか。加々美はその過程を理解した。

 皆で作り上げていく体験。それが楽しい。

 それが尚人のツボだとわかれば、加々美にはいくらでも攻略の手がある。

 一人前の男になりたい。

 雅紀のツボがそこだとわかった時のように。

「秘蔵っ子と楽しそうにしているお前を見たって、俺の耳にも毎日のように入ってくる」

「そりゃ、だって。鉄は熱い内に打て、だろ」

「熱いのはお前の方じゃないのか?」

「否定はしない。だが、問題ない」

「…………」

 高倉の「何言ってんだお前は」と言いたげな冷たい視線も、今の加々美は気にならない。

 なぜなら「とにかく毎日が楽しい!」からだ。

 尚人がCM出演の決意を固めたと知って、加々美はすぐに動いた。レッスン場を確保して、まずは基礎を叩き込む。尚人の歩き方はそもそも綺麗で、そのままランウェイを歩いても十分通用する。しかし、基礎をきちんと学ぶと言うことはとても重要で、素人とプロの違いは、この基礎を知識とスキルの両面できちんと自分のものにしているかどうかにあると言っても過言ではない。これによって、ただ「楽しい」だけでは済まない現場に遭遇しても、確固とした自分を支える土台となるのだ。

 それに無意識で綺麗に歩けても、見せる、見られる、という意識が加わった時に同じことができるとは限らない。自分の目、他人の目。それを意識することも大切な要素。尚人は頭もいいし、勘もいい。加々美の言わんとするところはあっという間に理解して、そして自分のものにしようと努力する貪欲さもきちんとある。これだけのポテンシャルのある新人を育てるのは、加々美にとって喜び以外のなにものでもない。

 しかし、尚人を育てて楽しいのは、それだけではなかった。

 レッスンが終わると一緒にランチを楽しむ。加々美にとって(くつろ)ぎのひと時だ。なにせ尚人はコミュニケーション能力が抜群で、会話するのが楽しい。

 しかしこのランチタイムは、すぐに単なる休憩時間(寛ぎのひと時)ではなくなった。

 それは尚人のひと言がきっかけだった。

「そう言えば加々美さんって。確か、イタリア語が堪能でしたよね?」

「まあ、あちらで仕事することも多いから。日常会話には困らないかな。それがどうかした?」

「実は、大学の第二外国語の授業でイタリア語を取っているんです。毎日、ICレコーダーを聞いてはいるんですけど。授業以外で実践できる場がなくて。よかったら、このランチタイムの時間はイタリア語で話してもいいですか?」

 もちろん加々美に断る理由はない。いや、むしろ面白い。そうして始まったランチタイムのイタリア語による会話。これによってランチタイムの時間はイタリア語講座のような側面を持った。

 わからない単語、わからない言い回し。微妙なニュアンス。そう言ったことを尚人は次々と質問する。尚人のイタリア語は、最初こそ日常会話がギリギリ成立するかどうか程度のレベルだったが、加々美と実践的に会話をすることでメキメキ上達した。その日は知らなかった慣用句も次の日には会話に取り込んでいる。その上達スピードに加々美は舌を巻いた。

(こりゃ、尚人君。相当な語学能力があるな)

 そして同時に、ランチタイムをただのランチタイムにしない、尚人の密かな強かさにも気付いて。

(ちょっと、尚人君を舐めてたな)

 持ち前の素直さと可愛らしさ。そういった尚人の表面的な良さだけに目を奪われていては尚人の本質は見えない。それを「自分は知っている」つもりだったのだが。こう言うところが、さすがは尚人、なのかもしれない。

 ランチの後は、とにかくいろんなものを鑑賞する。芝居を見たり、絵画を見たり、時には映画を見たり。見て自分の中にいろんなものをため込んでいくのだ。見ると言うこともまた自分の基礎(ベース)を作っていく。特に尚人はこの「見る」という体験が圧倒的に不足しているから、加々美はとにかくいろんなところに連れ回す。尚人の勉強のためだが、尚人が驚いたり喜んだり感心したり、その素直な反応を見るだけで加々美は連れ回すのが楽しいし、帰りの車の中でその日の感想を聞くのもまた楽しい。

 とにかく加々美は、毎日が楽しい。それに尽きた。

「で、カメラマンは伊崎で決まりなのか?」

 一人思いにふけってニマニマしている加々美に、高倉が冷静な声をかける。

 加々美はふふんと笑ってコーヒーを口に運んだ。

「もちろん。電話したらソッコー食いついてきた。あいつはもともと尚人君には興味津々だからな」

「販促用のグラビアも伊崎が撮るのか?」

「当たり前だろ。あいつの方から、別の奴が撮るのは許さんって、念押ししてきたくらいだからな」

「『GO−SYO』が撮るテレビコマーシャルでデビューとか。狙っても無理だよな」

 尚人の一番の凄さはそこかもしれない。今のこの状況は加々美が駆けずり回って無理やりに整えたわけではない。一つ話が転がり込んできて、そのタイミングで既に尚人の周りにいくつもの駒が揃っている。加々美はその駒を効率よく使う手筈を整えているに過ぎない。

「狙っても無理、ついでにもう一つ。追加しようと思ってるんだ」

「何を?」

「衣装」

「衣装?」

「CMで着る衣装」

「まさか?」

 いつもポーカーフェイスの高倉の表情がわずかに動く。

 さすがは勘のいい男だ。

「そのまさか」

 加々美はそう言うと自分のスマートフォンを取り出す。その画面に表示したのは雅紀を拝み倒してようやくもらえた秘蔵写真だ。それを高倉に見せると、高倉の表情に驚きが浮かんだ。

「これは……」

「クリスが尚人君の高校の卒業祝いを口実にして送りつけた。尚人君のために(あつら)えたオートクチュール」

「––––そんなことことが? 本当に?」

 にわかには信じがたい。高倉の表情がそう言っている。

 その気持ちはよくわかる。加々美だって雅紀にその話を聞かされた時は耳を疑ったのだから。

 しかし、写真を見て納得した。クリスがどうしてしつこく尚人に固執するのかを。

「クリスはそれだけ本気なんだよ。でだ、この尚人君仕様の貴重なヴァンスをさ、このままタンスの肥やしにしちまうのは、あまりにももったいないだろう? せっかくだからCM衣装として使えないかと思ってさ。まあ、これは尚人君がプレゼントされたものだから、正確に言えば私服で、尚人君がどう扱ってもいいものなんだけど。どうせなら、クリスに盛大に恩を売りつけてやりたいだろう?」

「つまり?」

「ヴァンスからの衣装提供という形にしたい。そうすることで、今回のコラボ企画に関してはヴァンスにも尚人君の肖像使用を認める。『アズラエル』もそのことを了解するって形でクリスに恩を売る。売った恩の使い方は『アズラエル』次第だ。まさにウィンウィンウィンの形だと思わないか」

「––––悪くない」

「『アズラエル』は乗るか?」

「乗った」

「よし。じゃあ、早速クリスに打診しよう」

「……コラボついでに、もう一つコラボしてみるのはどうだ?」

「というと?」

「CMソングの方だ」

 高倉はそう言うと引き出しから一枚のCDを取り出す。

「これは?」

「『ミズガルズ』の新作デモ音源。数日前に瀬名が泣きついてきてな。なんでもこの曲の歌詞が尚人君をイメージして描かれてるらしくて。発売にあたって尚人君をジャケットに使用できないかって、メンバーが口を揃えて言うらしい。一度一緒に仕事したからか、メンバーの中では頼めばなんとかなるんじゃないのかって雰囲気になってるらしくて。で、瀬名が、『MASAKI』にそんなこと頼んだから殺される、でも努力もしないで出来ませんではメンバーが納得しないって。なんだかんだ言って、これを置いて行ったんだが。……まあ、瀬名も瀬名で、俺に泣きつけばなんとなると思ってる節もあるが。兎に角、ジャケット起用よりもCMコラボの方がインパクトとしては大きいだろう?」

「話がどんどんデカくなるな」

 てか、このタイミングで尚人君をイメージした歌詞で新曲作りました?

 そんなことあるのか?

 こればっかりは加々美も疑うびっくりのタイミングだ。

 幸運の女神が尚人に向かって微笑みかけているとしか思えない。

「尻込みしてきたか?」

「まさか。その逆だよ。しっかし、尚人君って本当持ってるよな」

「乗るか?」

「面白い。––––が、こればっかりは俺の一存では決められん。スポンサーの確認がいる。不採用でも文句は言うな」

「構わない。代理人に話はしたって言えば、瀬名だって納得するだろ」

「そのデモ音源、借りていっても?」

「もちろん」

 加々美はCDを受け取る。

(尚人君をイメージした歌詞ねぇ……)

 今回コラボが実現すればMV出演にまで話が飛ぶのではなかろうか。

 加々美はそこまで想像して、––––思わず鳥肌が立った。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

菜虫化蝶(なむしちょうとなる) 4

 九月に入って『ミズガルズ』の十周年記念DVD BOXがついに発売日を迎えた。情報番組はこぞってこのニュースを取り上げ、一時テレビはどこもかしこも『ミズガルズ』の情報であふれた。もちろん『MASAKI』が出演している特典PVにも注目が集まり、一部映像がテレビで解禁されると、DVD BOXはさらなる売り上げを記録した。この世間の盛り上がりに応える形で、『MASAKI』が『ミュージック・エイト』に『ミズガルズ』と一緒に出演すると、この『MASAKI』出演の回は、最近低迷気味と言われて久しいテレビ界にあって、関係者もびっくりの視聴率をたたき出し、『MASAKI』の持つ人気の凄さが改めて浮き彫りになったのだった。

 

 

 

 時同じくして、尚人出演のCMも撮影に向けて本格始動した。企画が細部まで明確になって、関係するスタッフが一同に(かい)する顔合わせ兼打ち合わせが開かれる。そこに尚人も参加した。スケジュールの詰まった多忙なタレントだったら、普通は撮影現場へ直行直帰。こう言った顔合わせに参加することはないとのことだったが、タイミングよく夏休みで時間のある尚人は出来る限り撮影の裏方も参加したいと加々美に頼んでいたのだ。

 広告主である『リゾルト』から津田をはじめとした社員数名。カメラマンを務める伊崎とその撮影スタッフ。衣装を提供する『ヴァンス』のチーフデザイナー、クリストファー・ナイブス。そしてCMソングでコラボが決まった『ミズガルズ』の所属事務所の面々。まずは自己紹介をして互いの顔と名前を確認し、今回の企画の詳細を確認していく。

 尚人は、今回のCMを伊崎が撮ることや、クリスからもらった服を衣装として使うつもりであると言うことは聞いていたが、まさかこの場にクリスが参加するとは知らなかったし、CMソングを『ミズガルズ』が提供することになっていたことも知らなくて、ただただびっくりしていた。

 しかも今回のCMのコラボ企画として、数量限定ながら、『リゾルト』のイヤホンと『ミズガルズ』のCDをセットにして販売する計画があるという。家電量販店のイヤホン売り場に一緒に並べることで、日頃CDショップに行かない人達にもCDを買ってもらおうという狙いがあるという。そのパッケージにも尚人のグラビア写真を使用するということだった。

(イヤホンひとつ売るためのCMだと思ってたけど。こんなにいろんな事が一遍に動くんだ)

 次々と示されていく企画の全容に、尚人はただただ感心していた。インターンシップの模擬プレゼンテーションにはなかった本物の熱気がここにはあって。何もかもが新鮮で勉強になった。

 そして、加々美から「ここからは怒涛のスケジュールだから。覚悟しといてね」と言われていた通り、この日から尚人のスケジュールは一気に過密になった。顔合わせが終わるとすぐその日のうちに衣装合わせがあり、尚人はCMで使う衣装のほか、グラビア撮影で使う予定の衣装も試着した。何とクリスは、イヤホンが五色展開と知って、それぞれの色に合わせた衣装を準備していたのである。尚人が卒業祝いにもらった衣装のデザインを基調(ベース)としながら、五色それぞれデザインも微妙に変えてあった。

 とにかくこの日は言われるままに服を着たり脱いだり。着替えを繰り返し、クリスに「これで最後」の言葉をもらったときには尚人はヘトヘトになっていた。服を着替えるというだけのことがこんなにも体力を使うとは。雅紀が常々モデルは体力勝負と言っていたその意味を尚人は身を持って知る。そしてその日の夜はくたくた過ぎて風呂に入るとすぐに眠りについたのだった。

 衣装の準備が整うと、息つく暇なく撮影に入る。今回のCMは、ロケとスタジオの両方撮りをして編集する予定になっているのでロケ地へと移動する必要がある。雅紀を撮った時はどちらもスタジオだったのでロケと聞いて意外だったが、同時に尚人は楽しみでしょうがなかった。伊崎はそもそもネイチャー・フォトグラファーで。尚人はその写真集をコレクションするほどファンだ。ロケ撮影なら、その本来の顔を見る機会があるかもしれない。それに、伊崎は自然を撮ることについてはプロ中のプロだから。自分が自然の一部になってしまえばあとは伊崎がどうとでも撮ってくれるだろうと、そんな妙な安心感もあった。

 ロケ地までは飛行機移動。ということで、当日朝、空港まで雅紀に送ってもらう。加々美が迎えに行くというのを断って、電車を使って自分で行くつもりで尚人は路線も時刻も事前に準備万端調べていたのだが。

「その日休みだから。空港まで送っていく」

 雅紀があっさりとそう言って、送迎を買って出てくれたのである。

「え、悪いよ。その日は結構早いし。まーちゃん、仕事で疲れてるでしょ?」

 一応尚人はそう言ったのだが。

「ナオが数日帰ってこないって分かってるのに。のんびり寝てる気になんてなれない。俺は、ナオとちょっとでも長く一緒にいたいって思うのに。ナオは違うってこと?」

 そんな言い方をされると。

「………俺だって、まーちゃんと少しでも長く一緒にいたいと思ってるけど」

「じゃあ、何の問題もない」

 問題はそこじゃなくて、せっかくの休みの日に雅紀がゆっくりできないことなのだが。雅紀の好意を無碍にはできなくて。尚人は雅紀の言葉に甘えることにしたのである。

 朝早いこともあって、空港までの道は渋滞もなくスムーズだった。空港に着くと駐車場で車を降りて、それで雅紀はそのまま帰るものと思い込んでいた尚人だったが。

「待ち合わせの場所まで一緒に行く」

 と、雅紀は言い出し空港内まで付いて来てしまった。

「ま、雅紀兄さん。大丈夫なの?」

「何が?」

「あの、ほら。………騒ぎになったりとか」

 帽子とサングラスはしてるが。それでも体型がすでに一般人と違うのだ。絶対バレないとは言えない。そんな心配をしたのだが。

「問題ないだろ。空港なんて、しょっちゅう利用してるし。それこそ有名人もタレントも利用するんだから」

 尚人の心配をよそに雅紀は気にする欠片(カケラ)もない。

(そうなの?)

 そんなもん?

 実は尚人はこれが初飛行機体験で。空港に来ることすら人生初だ。

 空港という場所は、仮に有名人を見かけてもわーきゃーするところではないのだろうか。

(でも、ハリウッドセレブ来日のニュースとかって、空港が大騒ぎになってたりするよね?)

 あれは、事前に来日スケジュールが公表されているからファンが押し寄せるのか?

 ちなみに、尚人にとってこれまでの人生一番の遠出は、高校の修学旅行で行った京都で、あの時の移動は新幹線だった。

 なので空港までは電車で何とか辿り着けても、空港内の待ち合わせ場所にちゃんと行けるのか。尚人は心配だった。何しろ加々美のお迎えを断って電車で行くと宣言した尚人のために、加々美は駅からのルートは詳細に教えてくれたのだが。

(まーちゃんに送ってもらったら、どこで降ろされて、そこからどうやって行ったらいいんだろう)

 と、不安で。ネットで事前にターミナル地図を散々確認して。内心ドキドキしていたのだ。

 だから雅紀が待ち合わせ場所まで一緒に行くと言い出した時は「大丈夫なの?」と心配する気持ちと同じくらいに安心したのも事実だった。

 尚人を先導して歩く雅紀はさすがよく利用すると言うだけあって、空港内を行くその足取りに迷いはない。サクサク歩いていく雅紀の姿に「あれ、ひょっとして?」とチラ見する視線はいくつかあったが、雅紀の言う通り騒ぎにはならなかった。

 待ち合わせの場所には、加々美の他にスタッフも何人か一緒にいた。その人たちが雅紀に気づいて一瞬ギョッとした顔をする。そして次の瞬間誰もが「何も見てません」と言う顔つきでそろそろと視線を逸らすのを見て、尚人は何だか申し訳ない気持ちになった。

「お前。………ついて来たのかよ」

 加々美だけは雅紀を見やって苦笑した。そんな加々美に雅紀はきっちり腰を折る。

「加々美さん。ナオがお世話になります」

「そんなに心配しなくったって大丈夫だよ。別に海外に行くわけじゃあるまいし。国内ロケで予備日入れても三日だぜ」

 加々美が軽く肩を竦めると、雅紀はほんの少し口元を歪めた。

「……別に、心配するくらい自由でしょ。それに、ナオ今回が人生初の飛行機なんですよ」

「ん、ああ。聞いてるよ。それが?」

「……ナオの初体験なのに。加々美さんばっかりずるいじゃないですか」

「は?」

「搭乗初体験は加々美さんに譲るんだから、空港初体験は俺が同行したっていいでしょ?」

「お前なぁ……。ほんっと、尚人君のことになると兄バカ全開だな」

 加々美の呆れ顔にも雅紀はどこ吹く風だ。

 それが何か? 問題でも?

 そんなふうに開き直った雅紀に何か言える者は誰もいない。

 兎にも角にも尚人は無事に加々美に引き渡されて、雅紀は名残惜しそうにしながらも一人帰って行った。

 一方の尚人は、搭乗から離陸まで初体験のこと全てが物珍しくて、機内でもドキドキワクワクして過ごしていたが、国内線の飛行時間などたかが知れている。二時間弱ほどで目的の空港に到着して、預けていた手荷物を受け取って到着ゲートを抜けると、迎えのマイクロバスが既に待機していた。

 スタッフ一同その車に乗り込んでロケ地まで移動する。バスは空港を出てすぐは民家や店舗の並ぶ大きな道を走っていたが、徐々に緑が目立ち始め、気づけば木々の生茂る結構な山道をクネクネと登っていた。その道をしばらく登って行く。と、視界を遮っていた木々がいきなり途切れ一気に視界が開けた。

「うわ! すごい」

 尚人は目に飛び込んできた景色に思わず驚嘆する。

 広い空と、広い大地。そこにススキが穂を風に揺らしてきらきらと輝いていて。日本とは思えない雄大な光景だった。

「いい場所だろ? 伊崎一押しのロケ地なんだ」

「そうなんですね」

 さすがネイチャー・フォトグラファー?

 風光明媚という言葉がぴったりの場所だ。

 車はそれからしばらく走り、宿泊場所として確保されている旅館に到着した。そこで荷物を降ろし、尚人たちは昼食を食べてからロケ場所へと移動する。現地に到着すると既に伊崎たち撮影スタッフの姿があった。彼らは前乗りして準備を進めていたのだ。

「おう、やっと来たな」

「よろしくお願いします。伊崎さん」

「早速カメリハするから。とりあえずあの辺に立ってくれ」

「服はこのままでも?」

 今は単なる私服だ。

「構図の確認するだけだから構わねぇよ」

 言われて尚人は早速指定された場所まで移動する。

「思ったより寒いんですね」

 今の季節、平地はまだまだ残暑が厳しい。なのにここはすでに秋が深まっていた。

「結構標高が高いからな」

 伊崎に指定された場所に立つ。気持ちいいほどに眺めのいい場所だった。

 足元に広がる大地はうねりながらどこまでも広がり、遠くに見える山並みは青く小島のように見える。その広い大地の上に広がる空もまた青く澄んでどこまでも広く。その天と地の間を爽籟(そうらい)が行き交う。

 空は刻一刻と変化する。雲が動き、色が変わる。風に揺れるススキは、さわさわ揺れていたかと思えば、時々ザワっと揺れ、ピタリと動きを止めたかと思えば、またさわさわと揺れる。

 そんな変化が面白くて、尚人は見飽きることなく景色を眺め続ける。

 どのくらいそうして立ち続けていたのかはわからないが、尚人は尚人なりに楽しんでいた。のだが……

 それを見守るスタッフたちは。

「尚人さん、もう二時間立ってますよね?」

「大丈夫なんでしょうか?」

「……伊崎さんも、何かしてるようには見えまえんし」

「ディレクターズチェアに座ったまんまですしね」

「あれって、すでに。ただ二人で景色眺めてるだけ………なんじゃないですか?」

「指示、仰ぎに行きます?」

「いやいやいやいや。伊崎さんから何も言われてないのに。割って入れませんよ」

「––––にしても、微動だにせずによく長時間立ってられますよね。スゴすぎです。尚人さん」

 バックでそんな会話をしていたなんて。尚人は知る(よし)もない。

 夕日が沈むまでたっぷり景色を楽しんで。その日はようやく「終了」となったのだった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

菜虫化蝶(なむしちょうとなる) 5

 九月に入って沙也加の焦りはさらに大きく膨らんでいた。雅紀に相談できるチャンスと思っていた盆の集まりは、尚人が東大に進学していたという衝撃の事実発覚でそれどころではなくなって。終わってみれば、雅紀とは言葉一つ交わすことすらなかった。

 それに冷静に考えれば、尚人や裕太の前でそんな相談できるはずがなかったのだ。

 ––––モデルの道を選んだのはおねーちゃん自身なのに、それで進路に悩むって何だよ。

 ––––そんなに悩むんならさっさとモデルなんてやめればいーじゃん。

 特に祐太には、そんなふうに言われそうで。というか、対面に座った裕太の時々にじっと自分を見るその(こわ)い視線すら腹立たしいほどにイライラして。

 ––––何よ。言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ。

 そう言いたくなる気持ちを沙也加はぐっと(こら)えていたのだ。

 世の中のことがまるで分かっていないお子ちゃま。そう言い続けて来た裕太を前に弱音とも取られかねない言葉を吐くことに沙也加は強い抵抗感があった。

 そして尚人に対しては。

 ––––東大生なら、官僚でも銀行でも大手企業でも、就職先は選び放題なんだろう?

 あの由矩の言葉に対し。

(でも、モデルなら関係ないでしょ)

 反射的にそう思ってしまったのだ。

 モデルは学歴不問。雅紀だって高卒。でも今では第一線で活躍するカリスマ・モデルだ。雅紀がその道を選んだのは消去法的選択肢だったかも知れないが。それでもそこで覚悟を決めて、その道を極める雅紀の生き様は沙也加にとって憧憬(しょうけい)以外の何物でもない。

 雅紀は子供の頃から大人びていて。

 声を荒げる姿なんて見たこともなくて。

 いつも穏やかでおおらかで。

 誰もを魅了する美しさと賢さを備えていて。

 雅紀さえいれば何とかなるのだと。そんな安心感があって。

 だから、父が家を出て行き。母が慣れないパート勤めで体調を崩して寝込むようになっても、雅紀の「大丈夫」のひと言で何でも乗り越えられる気がしていたのだ。

 だからこそ、あの時。雅紀の負担になってはいけないと、加門の家に身を寄せることにも渋々同意した。……なのに。

 あれが最大の誤りだったと、沙也加はずっと後悔している。

 尚人は母の虐待を見て見ぬ振りをして(だんま)りを決め込み、祐太は自分の感情を持て余すだけのお子ちゃまで、家の中で何が起きているのか全く把握していなかった。

 そのせいで雅紀は母の虐待から逃れられなかったのだ。

 あのまま自分があの家にいれば、あんなことは起きなかった。

 あんなことが起きなければ、雅紀との関係がこんなにもねじれてしまうことはなかった。自分がこんなにも深いトラウマを植え付けられることも、胸焼けするような罪悪感を植えつけられることもなかったのだ。

 しかし、どんなに後悔しても時間は巻き戻せない。その事実に沙也加は立ち(すく)むしかない。

 近頃マネージャーからは、バラエティー番組への出演を提案されている。

「どうでしょう、沙也加さん。抵抗があるかも知れませんが、やはり視聴率で言えばどうしたって強いのがバラエティです。顔と名前以外にも、沙也加さん自身のキャラクターを視聴者に知ってもらうと仕事の幅が広がると思うんですが」

 バラエティー番組に出演してもらえる仕事?

 それって何?

 お笑い芸人のいじられ役?

 それとも、くだらないトークにニコニコするだけの雛壇の花?

(何なのよ)

 沙也加は有名人になりたいわけでもタレントになりたいわけでもない。

 雅紀と同じ世界が見たい。

 それが、モデルの世界に飛び込んだ理由。

 なのに……

 バカにしてるの?

 それともモデルとしてはもう芽が出ないって、暗にそう言いたいわけ?

 確かにランウェイを歩いた経験はごくわずか。当然、雅紀と同じステージに立てたことはない。雑誌のグラビアの仕事はそこそこあるが。露出で言えば人気読者(アマチュア)モデルに及ばない。

 ……まあ、読者モデルはタダで使える使い捨てだから、雑誌出版社側のいいように使われているだけだが。

「バラエティー番組に出る気はないです」

 沙也加がそう言うと、マネージャーは一応は頷いたものの。

「じっくり検討して頂いて構いませんよ」

 返された言葉はそれだった。

 そんなやりとりがあった直後だ。『MASAKI』が音楽番組『ミュージック・エイト』に出演し世間の話題となったのは。

 『ミュージック・エイト』は、夜八時放送の人気音楽番組で、ランキングや楽曲紹介だけに留まらず、司会者と出演アーティストが結構長めのトークをするのが特徴だ。なのでトークバラエティの要素があり、それが人気の理由でもある。

 今回『MASAKI』が番組出演したのは、『ミズガルズ』十周年記念DVD BOXの発売に合わせた番宣協力のようなものだったが、滅多にテレビに出ない『MASAKI』が出演するとあって、かなり話題の回となった。ネット上での盛り上がりはものすごくて。

 ––––今夜の『ミュージック・エイト』マジ神回。

 ––––あの『MASAKI』がトークに本格参戦してて驚いた。

 ––––『MASAKI』の美貌は認めても、冷たい感じがしてちょっと苦手だったんだけど。あの番組で見方変わった。

 ––––『MASAKI』トークもいけるとは。本当に意外。

 ––––もはや『ミズガルズ』のメンバーの一人じゃってくらい馴染んでたよね。

 ––––アキラが「今度は『MASAKI』さんにピアノで参加してもらいます」って言ったのを『MASAKI』がガン無視してたのが逆にウケた。

 ––––トーク的にあそこは無視が正解。

 ––––『MASAKI』案外空気読む(笑)

 ––––ああいうやりとりできるって。やっぱ、地頭(じあたま)いいんだろうね。

 番組出演は確実に『MASAKI』のファンの裾野を広げた。だからと言ってモデルの仕事にどう影響するのかまではわからない。そういうことも含めて雅紀と話がしたい。そして、これからどうしたらいいのかアドバイスが欲しい。それが、今の沙也加の切実な願いだった。

 

 

 * * *

 

 

 空港で尚人と別れて、雅紀は後ろ髪引かれつつも駐車場へ戻る。当然その足取りは軽やかとはいかない。尚人のロケ撮影なんて貴重な現場、出来ることなら一緒に行きたい。当然だ。

 しかし……

 ––––そればっかりは無理だよな。

 もちろんわかってる。

 わかってるが。

 ……やっぱ、加々美さんばっかりずるくね?

 しかも今時CM撮影で日帰りロケではなく泊付きだ。その辺は超ド新人の尚人に配慮してのゆったりスケジュールなのだろうが。

 少々の拗ねた気分で雅紀は車のキーを取り出すと運転席に乗り込む。

 携帯電話が鳴ったのはそのタイミングだった。

(何だ?)

 雅紀はスマホを取り出す。

 ひょっとすると尚人かも知れない。

(忘れ物でもしたか?)

 そう思って画面を見ると。表示されていた名前は『加門由矩(かもんよしのり)』だった。

(由矩伯父さん?)

 何用だろうか。

 雅紀は小首を(かし)げて通話モードにした。

「はい。雅紀です」

『あー、雅紀。由矩だ。朝からすまんな。今、大丈夫か』

「ええ。大丈夫ですよ。どうかしました?」

『実は、沙也加のことなんだが』

(沙也加?)

 雅紀は突然飛び出して来た名前に思わず眉を(ひそ)める。なぜ由矩が沙也加のことで電話をしてくるのか。皆目見当がつかない。

 以前、沙也加が留学したいと言い出した時に、祖母から相談されたと言う由矩が雅紀に電話をかけて来たことがあったが。あの時に、由矩にもはっきり伝えたはずだ。沙也加とは疎遠になっていること。自分は千束のことで精一杯で、沙也加のことまで抱え込む気にはなれないこと。沙也加の人生は、沙也加が決めればいいこと。そう言った諸々のことを。

 だから、由矩も分かっているはず。だが……

 盆の集まりに参加したことで、その辺の事情は解消したと思われたのだろうか。

『この間お前たちが帰った後に、沙也加は卒業後どうするつもりなのかって、そう言う話になってな。ほら、尚人は東大生だからその辺の心配はいらないだろうけど。沙也加はそうも言ってられないだろう? それに、もう三年生だしな』

 由矩の言葉に雅紀は思わず苦笑いを漏らす。

 その話を沙也加に振ったのか。しかも尚人を引き合いに出して? 沙也加の引きつった顔が目に浮かぶようだ。

 沙也加は何より尚人と比べられることを嫌う。

 なぜって、沙也加は尚人に成り代わりたいからだ。

 幼い頃から、雅紀が尚人に(かま)っていると割って入ろうとして来たのが沙也加だ。雅紀が尚人を膝に乗っけて絵本を読んでやっていると、「私も!」と言って擦り寄って来ていたし、尚人を公園に連れ出して楽しく砂場で遊んでいると「バドミントンしようよ!」と執拗(しつこ)くねだって来ていた。当時は特大の猫をかぶっていたのでたまには沙也加のわがままにも付き合っていたが。内心では「もう、ナオと楽しんでんのに」と思っていたものだ。

 私のお兄ちゃんなんだから。近寄らないで!

 子供の頃沙也加はよくそう口にしていた。それを聞くたびに

 妹ってだけで、何で沙也加にそんなこと言う権利があるんだよ。

 内心うんざりしていたが。

 しかし、よくよく考えればあの独占欲の強さも笑えない。なぜなら雅紀だって尚人に対しては独占欲の権化だからだ。

 当時はどうでも、今なら。

 俺のナオに近寄るな。

 平気で口にしそうな自覚はある。

 案外似たもの兄妹?

 そう思うとちょっと複雑だ。

『モデルの仕事をしてるって言ってもアルバイトに毛が生えたようなもんだろう?』

 ちょっと思考が逸れている間も由矩の話は続いている。

『だから、卒業すればそれで食っていけるのかって。当然、そう言う話になるわけだ。沙也加は奨学金を上限額いっぱいに借りてて卒業すればその返済が始まるわけだし。そう言う意味においてもきちんとした収入のある就職をしなきゃならんだろう?』

 由矩の言い分は最もだ。沙也加が総額いくらの奨学金を借りてるのかは知らないが。

 それに、聞きかじりの情報だが、奨学金を借りて進学したはいいものの、卒業後返済が出来ず自己破産する若者も多いのだという。

 ただそんな情報も雅紀にしてみれば、借金してまで進学する意味があったのか、と思う程度のことではあるが。

『それにな。大学を卒業したらいい加減、自立してもらわないと困る。祖父(じい)ちゃんと祖母(ばあ)ちゃんは孫可愛さから何も言わないが。はっきり言うとな、いつまでもあの家に居られると思われても困るんだ』

 辛辣で、実直な意見。しかし、雅紀はその意見にも深く同意する。

 祖父母の生活が立ち行かなくなれば、その面倒を見ることになるのは由矩だからだ。由矩にも自分の生活がある。あちらの従兄弟もこれから大学に進学する年齢で。まだまだ子育てに金が掛かる時期だ。そんな時期に経済的に立ち行かなくなった両親の面倒までは見れないと言うのが現実だろう。

 沙也加が大学卒業後も自活できない状況で祖父母宅に居座り続ける。しかも奨学金の返済という借金を負った状態で。というのは何としても避けたい。それが由矩の考えなのだ。ある意味、当然だ。

『ただ、正直、モデルの仕事が今後どのくらい収入の見込みがあるのかって。俺たちではわからん。だから、沙也加に話を振ってもラチがあかんというか。具体的なヴィジョンを誰も持たないというか。今後の見込みも含めて、これからの進路選択をどういうふうに考えたらいいのか、わからない事が多くて。––––まあ、そんな状態だから、沙也加もこちらの心配(言葉)に素直に耳を貸さないと言うか。だから、忙しいところ本当に悪いとは思うんだが。今後の進路を決める話し合いにお前も参加してもらえないかと思うんだが』

 そんなこと言う由矩の言葉の端々に苦渋が滲んでいて。

 ここまで赤裸々な話をされて、知らんぷりもできなくて。

「––––わかりました」

 雅紀はそう答えるしかなかった。

 

 

 * * * 

 

 

 行きと比べて帰りは何とも気の重い道程となった。

 沙也加自身の人生に対しては、

 好きにしろ。

 それしかない。

 モデルを続けるにしろ辞めるにしろ沙也加の自由。沙也加がモデルにしがみ付いて、それで食っていくのに苦労しても、雅紀には関係のない話だからだ。

 しかし、由矩的にはそうも言ってられない。その気持ちはよくわかる。冷たいことを言っているのではない。大学を卒業すればきちんと自立してもらう。当たり前のことを言っているに過ぎない。それに本当なら、大学を出れば今まで世話になった分を返済していくくらいの気概が必要だろう。一度雅紀が祖父母に沙也加の食費くらいは払うと言って本気で怒られたので、おそらくは沙也加からも受け取りはしないだろうが。しかし、その気持ちを持つのと持たないのとでは、大人としての気構えに雲泥の差があると思う。扶養義務のある両親に甘えるのとは違うのだ。まあ、それだって本当は成人するまでの話なのだが。

 尚人は高校を卒業したら就職して自活すると言っていた。そのための準備も着々と進めていた。それを止めたのは雅紀だ。だから尚人の学費の責任は雅紀が持つ。当たり前の話だ。尚人のことだから、就職したら返す、と言い出しそうだが。当然もらうつもりはない。その辺はうまく言いくるめられる自信があるから問題ない。

 それよりも。

 ––––尚人の将来はもうなんの心配もないな。東大生なら、官僚でも銀行でも大手企業でも、就職先は選び放題なんだろう?

 由矩のあの言葉。まさにその通りなのだろうが。

 今回尚人はCM出演を受諾した。それが今後どんな道へと繋がるのか。今のところ想像がつかない。尚人自身はこれを機にモデルデビューとは考えていないようだが、加々美には当然別の思惑があるだろう。それに、尚人から話を聞く限りどうやら今回の企画に『ヴァンス』も絡んできているようで。もともと尚人をモデルに使いたいと熱望しているクリスがどう動くかわからない。

 当然尚人が嫌がるなら全力ガードだが。

 その『ヴァンス』より気がかりなのは。

(……沙也加が今回のこと知ったらナオをやっかみそうだよな)

 不当な八つ当たりを向けないといいが。

 沙也加の就職問題よりもそちらの方がよほど雅紀にとって心配の種だった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

菜虫化蝶(なむしちょうとなる) 6

 ロケ二日目。尚人の起床は朝三時だった。顔を洗ってしゃきっと目を覚まし、軽く朝食を食べると、メイクをして衣装に着替えて現場に向かう。着いた時、辺りはまだ真っ暗だった。星空が綺麗で、尚人は思わず息を飲む。こんなにもたくさんの星が輝く空を見たのは初めてだった。

 しかし、星空の美しさにうっとり見惚れている暇はない。誰もが忙しそうに準備に取りかかり、尚人も照明さんに辺りを照らしてもらって昨日カメリハした場所へ立つ。誰も余計な言葉は発せず、周囲は静かな熱気に包まれていた。

 そうして全て準備が整って。

「尚人。カメラを回すからな」

 伊崎が闇に溶け込むような、それでいてはっきりと耳に聞こえる声で言う。

「あっちから日が昇る。しばらくはそれを何も考えずに見ておけばいい」

「はい」

 尚人は伊崎の指示に頷いて、昨日と同じようにただそこに立つ。

 やがて山の()から空が、ゆっくりと明るくなっていく。

 星が残る群青の空の下、白む地平が鴇色(ときいろ)に染まる。

 暗い闇の中で息を潜めていた大地がぼんやりと照らされて、うねりながらどこまでも広がるその姿を徐々に現していく。

 来光(らいこう)。朝日が()す。

 その光を受けてススキの穂が一斉に黄金(こがね)に光った。

 空は深い青。その空に刷毛(はけ)で引いたかのような雲が広がり薄いピンク色に染まっている。鴇色は(あか)く色を変え、その朱と青の間に紫のグラデーションがかかる。

 ––––すごい……

 尚人は絶句する。

 自然のあるがままの美しさに。

 雄大で。崇高で。荘厳で。

 それでいて、静謐で。

 ただ、そこにある。

 そのことに、尚人の心が震える。

 それは、理屈ではない。

 言葉にできない感情が、尚人の中で揺さぶられた。

 刻一刻と変化していく空の色に吸い込まれて目が離せない。

 空はやがて水色になり、雲は白い小波(さざなみ)になる。

 太陽は大地を照らし、照らされた大地が呼吸を始める。

 一陣(いちじん)の風が吹き抜けた。

 尚人の髪を揺らして、目覚めた大地の匂いが通り過ぎていく。

「カーーーーット!」

 伊崎の声が朝日に響く。

 その声で尚人はようやく、CMの撮影中だったことを思い出したのだった。

 

 

 * * *

 

 

「あ、沙也加。明日だけどね。雅紀ちゃんが来るんですって」

 いつものように祖父母と三人で囲む夕飯。「いただきます」と手を合わせた直後、祖母が唐突にそう言った。

「え?」

(何で?)

 沙也加は箸を持ちかけてそのまま固まる。

 盆の義理をはたして、それでしばらく雅紀が加門の家に来ることはないと思ってたのだが。

「……何しに来るの?」

「沙也加のね、今後の事で話があるんですって」

(なにそれ)

 沙也加は凍りつく。

 ウソ。

 なんで?

 ––––どういうこと?

 雅紀に相談に乗って欲しい。そう思っていたのは確かだが。

「なんで、お兄ちゃんが?」

「やっぱり妹のことは心配なのよ」

 そんなはずない。

 反射的にそう思う。そう思ってしまうくらいには、雅紀にとって自分がどんな存在か沙也加は自覚している。

 雅紀は尚人だけが大切で。

 尚人さえいればそれでいいのだ。

 それにそもそも雅紀がそんな心配をするのなら、盆の時に話が出たはずだ。

 しかし実際、盆の集まりで雅紀が沙也加に声をかけてくることはなかった。それどころか、視線が合うこともなかった。雅紀は祖母の望む通り盆の集まりに顔を出しただけ。食事が済むとゆっくりすることなく尚人と祐太を連れて帰って行った。

 食後の茶菓子を用意していると言う祖母の言葉もやんわり断って。

 まあ、その前に祐太が。

「俺もうお腹いっぱいで、なんも入んないんだけど」

 と言ったのが大きいのだが。

 それで祖母は、手土産とばかりに準備していた茶菓子を裕太に持たせ、残った四人は熱いお茶だけ飲んでひと息ついたのだが。

 その席、由矩がとにかく鬱陶(うっとう)しかった。

「いやー、それにしても尚人には驚いたなぁ」

「翔南高校に合格したって聞いた時も驚いたけど。まさかの東大だもんなぁ」

「将来が楽しみだよなぁ」

 尚人の話なんて聞きたくもなくて、それで片付けを口実に沙也加は台所へ逃げたのだが。

「で、沙也加。お前はどうするんだ? モデルをやってるって言っても、アルバイトみたいなもんだろう? 卒業後はちゃんとした職に就くつもりなんだろうな?」

 わざわざ台所へ顔を出してそんなことを言ってきた。

「モデル一本で食っていけるっていうなら俺も何も言わんが。難しい世界なんだろう? それにお前は、そもそもモデルをするために大学に行ったわけじゃない。そうだろう?」

 年に数度しか顔を合わせない伯父に何でこんな小煩(こうるさ)いことを言われねばならないのか。沙也加は内心ムカムカしていた。

 仮に沙也加がモデルとしてうまくいかなくても、それで由矩に何の関係があると言うのか。そもそも沙也加の生活は由矩に頼っているわけではない。

「まさか大学卒業後も、アルバイトみたいな稼ぎで、このままこの家に居ればいいなんて甘ったれたこと考えてるわけじゃないだろうな」

「由矩」

「ばーちゃん。甘やかすばっかりじゃ、沙也加自身のためにもならないんだ。大学を出たらな、世の中のほとんどの人間はちゃんと自立して生きていくんだ。そもそも、そのための大学進学だろう? 何のために奨学金を借りてまで進学したのか。しっかり考えろよ」

(言われなくてもわかってるわよ!)

 どれだけそう叫びたかったか。喉元まででかかった言葉を沙也加はぐっと飲み込んだ。

 自分が居候(いそうろう)なのは間違い無くて。沙也加はこの家に来てからずっと我慢の連続だ。言いたいことはいっぱいあったが、ひとつ言葉を吐き出せば、次から次に溜め込んでいた思いが吹き出して、それで取り返しのつかない言葉まで飛び出しそうで。それが怖くて沙也加はずっと言葉を飲み込み続けている。

 ––––私の気持ちなんて何一つわからないくせに。

 ––––私が黙っているからそんな偉そうな態度でいられるのよ。

 ––––本当のことを知ったら、呑気に加門の血筋なんて言ってられないんだから!

 しかし、由矩にはそうでも、雅紀に対してはまた違った感情が揺れる。

「盆で皆で集まって。あれで雅紀も思うところがあったんじゃないのか?」

 祖父がぼそりと言った。

「せっかくの機会なんだから。雅紀にいろいろ相談すればいいじゃないか。モデルの件だって、雅紀なら何かアドバイスしてもらえるだろう」

 雅紀に相談に乗って欲しい。そう思っていた。しかし、いざそれが現実のものになろうとすると、沙也加は尻込みする。

 気持ちが萎縮する。

 お兄ちゃんに、相談する?

 面と向かって?

 ちゃんと喋れるだろうか。

 顔を引きつらせずに。

 感情を(たかぶ)らせずに。

 落ち着いて。理性的に。理論的に。

 ……………………………ムリ。

 絶対にムリだ。

 想像するだけでこんなにも心臓がバクバクするのに。

 あの金茶の目で見つめられて冷静でいられるはずがない。

 しかし、自分を名指しして家に来ると言っているのに逃げられるだろうか。明日は何もない。だから家にいる。買い物を手伝って欲しいと言っていた祖母にそう予定を告げていた。

 おそらくは、雅紀から連絡をもらった祖母がそれを雅紀に伝えたのだろう。だから明日来る。––––何の予定もなく、家にいるはずだから。

「………わかった」

 沙也加は覚悟を決めて頷いた。

 

 

 * * *

 

 

 朝の準備を終わらせて、雅紀が家を出ようとした時。電話が鳴った。スマホ画面を確認する。電話の相手は『加門』だった。

「はい。雅紀です」

『あ、雅紀ちゃん。今どこかしら?』

「まだ家です。これからそちらに伺います」

 祖母の問いかけに雅紀は答える。

 ––––今後の進路を決める話し合いにお前も参加してもらえないか。

 由矩にそう懇願されて。それで加門家を訪ねる日が今日なのだ。気が重いが仕方ない。沙也加のためと言うよりも由矩への義理立てだ。

 ただ、由矩がその気でも沙也加が素直に応じるのか。それが疑問だったが、祖母からの電話では「沙也加も了解した」とのことだった。

『……あの。今日のことなんだけどね』

 電話口で祖母が言い淀む。

「どうかしましたか?」

『さっき沙也加にマネージャーさんから電話があったみたいで。それで……』

 何となく先が読めた。

「急に仕事でも入りました?」

『……そうみたいなの。それで沙也加が、どうしても出かけないといけなくなっちゃって』

「わかりました。では、今日の予定はキャンセルと言うことですね」

『ごめんなさいね。雅紀ちゃん。忙しいところ無理言ったのに』

「構いませんよ。新人モデルにはよくあることです」

 誰かが急遽仕事に穴を開けたのかもしれない。その穴埋め枠を狙うのは新人なら当然のことだ。

『本当にごめんなさい。また、電話するわ』

 祖母は申し訳なさそうに何度も謝りの言葉を口にして電話を切る。

 通話が終了して、雅紀はむしろ気が軽くなった。

(今日の予定が空いたな)

 尚人は無事にロケから帰って来て、今日はグラビア撮影で朝からいない。近頃の尚人は、雅紀も顔負けの過密スケジュールだ。こうも忙しいと体調を心配するが、その辺はさすが尚人。高校三年間の自転車通学で培った体力は伊達ではなく、そもそも食事管理も睡眠もバッチリだ。

 雅紀的には、尚人を抱き潰すような激しいセックスができない不満はどうしてもあるが。

(とりあえず、ジムにでも行くか)

 出かけるつもりだったので何となくこのまま家にいる気にもなれなくて。雅紀は車のキーを手に取ると、会員になっているスポーツジムへ車を走らせた。

 

 

 * * *

 

 

 家から少し離れた公園のパーキング。そこに車を止めて沙也加は大きく息を吐いた。

 ––––今日はお兄ちゃんが来る。

 沙也加は朝から心がざわついて落ち着けなかった。

 昨夜散々心を悩ませて。いい機会だと。雅紀にいろいろ相談すればいいのだと。そう自分に言い聞かせていたのだが。

 いざ、当日になって。沙也加はどうしようもなく怖くなってしまった。

 雅紀前に立つことが。

 あの瞳に真っ直ぐ見つめられることが。

 ––––日本で独りが不安なら、いっそ海外にでも行けば?

 あの時みたいに冷たい言葉でバッサリ切って捨てられるかもしれないことが。

 どうしようもなく、………怖い。

 だから、マネージャーから急に電話がかかって来たことにして、沙也加は逃げ出したのだ。

 仕事なら仕方がない。

 祖母も雅紀も、そう言うだろうから。

 しかし、嘘をついた後ろめたさは当然あって。

 ドキドキと心臓がはやって、沙也加の心は落ち着かなかった。

 心が苦しい。

 本当は雅紀に話を聞いて欲しい。

 悩みを全て打ち明けて、優しい言葉で慰めて欲しい。

 真摯な言葉で相談に乗ってもらえれば、厳しい現実だって受け止められる。

 ––––沙也加がモデルとして頑張りたいって言う気持ちもわかるけど。

 ––––モデルの経験があるからこそできる仕事もあるんじゃないか?

 ––––祖父(じい)ちゃんと祖母(ばあ)ちゃんだって自分たちの生活がある。沙也加を追い出したいわけじゃなくても、自活してもらわないと困る現実だってあるだろう?

 そう言われれば、モデルの道を諦めて卒業後に就職することだって、祖父母の家を出てちゃんと一人で生活することだって、前向きになれるのだ。

 あんな、由矩みたいな言い方をされなければ。

 あるいは。

 ––––俺は、沙也加といつか一緒に仕事ができるかもって楽しみにしたのに。諦めてしまうのか?

 ––––大学を卒業したら思い切りモデルの仕事に打ち込めるだろう? そうすれば仕事だってもっと増えるんじゃないか?

 ––––自活する生活の足掛かりは、あいつの保険金があるんだし。

 そう言ってもらえれば、モデル一本で生きていく覚悟を決めることができる。モデルの仕事を「アルバイトみたいなもの」と馬鹿にした由矩の言葉をいつか見返してやると奮起することができる。

 でも、そんなことはありえない。

 雅紀が沙也加に優しい言葉をかけてくれるなんてあり得ない。

 沙也加の苦しい胸の内を感じ取って慰めてくれるなんてあり得ない。

 わかっている。

 だから沙也加は逃げ出すしかなかったのだ。

 そして何より恐れるのが、尚人と比べられること。

 ––––何のために奨学金を借りてまで進学したのか。しっかり考えろ。

 あの時由矩はそう言ったが。そんなことわかり切っている。

 あのままじゃ終われなかった。それに尽きる。

 あんな高校、––––定員割れの二次募集でようやくひっかかったような高校を自分の最終学歴にしたくはなかった。口にするのも恥ずかしい高校を人生について回る最終学歴にしたくなかった。雅紀も高卒だが、雅紀の出身校である瀧芙(そうぶ)高校は武道で有名な学校で文武両道を掲げるブランド高だ。

 それに雅紀は、その高校で剣道インターハイチャンピョンという輝かしい実績もある。それに比べて沙也加には何もない。何の実績もない。それどころか資格試験ひとつ受けなかった。その余裕がなかった。それが実態だが。

 何一つ誇ることができない人生。それが沙也加の高校までの人生。それをどうにかしたくて大学受験に人生のやり直しをかけたのだ。年金生活の祖父母に大学の進学費用なんて頼めないのは最初からわかっていた。だからきちんと奨学金のことを調べて、自分が受けられる上限いっぱいまで借りて、自力で大学へ進んだのだ。

 それなのになぜ、その奨学金を借りていることまで責められるような言い方を由矩にされなければいけないのか。

 私立大学はどうしたって国立大学に比べれば学費が高い。それは否定しない。しかし地方の国立大に進学する選択肢はなかったし。都内の国立は………、はっきり言うと偏差値的に手が出なかった。検討の余地すらなかった。

 沙也加は唇をかみしめる。

 悔しい、悔しい。悔しい。––––また尚人に負けた。

 大学受験に関して言えば、超進学校に通う尚人の方が断然有利だった。授業内容もレベルが高いだろうし、なにより受験に対するノウハウがある。卒業生に有名大学進学者が何人もいれば、そのデータが学校に蓄積されていくのだから。

 翔南に落ちた。あの時から沙也加の人生は負け続きだ。

 第一志望の大学に合格して、そこで気心知れた友人もできて、キャンパスライフをエンジョイして、モデルの仕事も始めて。人生これから。心の底からそう思えた。三年生になって、授業数も増えて、内容も難しくなって。モデルとの両立に苦慮するようになって来ていたが。それが(かえ)って充実感に結びついていた。

 どっちも頑張る。

 きちんと大学を卒業して、モデルも頑張る。

 それでこそ自分に自信が取り戻せる。

 ……そう思っていたのに。

 また、尚人が横からしゃしゃり出て、沙也加の人生をかき乱す。

 沙也加の頑張りも、尚人の東大進学の前に霞む。

 奨学金をもらって自力で大学進学なんて偉い。を、金がないならなんで学費の安い国立大に行かなかったの? に変えてしまう。

 ––––っていうか、本当に東大なわけ?

 いまだにちょっと疑う。

 そんな嘘ついたってしょうがない。だから、つくはずがない。そうは思うのだが。

 ––––もし嘘だったら、盛大に笑ってあげるわ。

 運転席で独り仄暗(ほのぐら)く笑う沙也加の頬を、悔し涙が伝って落ちた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

菜虫化蝶(なむしちょうとなる) 7

 CM出演に関する一連のスケジュールを消化して、尚人の生活がようやく落ち着いた九月下旬。

 その日は久々に三兄弟顔を揃えての夕飯になった。

 それぞれの定位置に座って「いただきます」と手を合わせ、三者三様に食べ始める。

「あー、ナオの晩飯、マジうまい」

 今日の献立のメインは和風ハンバーグ。それにグリルされたポテトとナスが添えられている。(いろど)りのいいサラダは別盛りで。かかっているドレッシングがうまい。オリーブオイルを使った尚人特製のドレッシングらしい。味噌汁の具は、大根、わかめ、エノキ、厚揚げなど。具沢山で、腹も心も満たしてくれるほっとする味付けだ。

「ナオ、おかわり」

「はーい」

 うますぎて食が進む。

「どうぞ、雅紀兄さん」

 ご飯をよそって尚人が持ってくる。ここは甘い感じで「まーちゃん、どうぞ」と言って欲しいところだが。尚人は二人きりでないと「まーちゃん」とは呼ばない。小さな不満はあるが、それはそれで特別感が半端なくて雅紀は気に入っている。特に二人っきりで甘い時間を過ごす時の、快楽に沈んであえぎながら尚人が口にする「まーちゃん」は、腰に来る良さがある。

「ナオって、来週から大学始まるんだよな?」

 茶碗を受け取って、ふと思い出して雅紀は問う。

 確か大学の夏休みは、八月と九月の二ヶ月間だったはずだ。

「うん。そうだよ」

「二ヶ月もあれば一回くらいナオと遠出ができるんじゃないかって思ってたのに。あっという間終わっちゃうな」

「俺的には、すっごく充実してたけど」

 それは、まあ、そうだろう。インターンシップ参加に始まって、加々美との基礎練習の日々。そしてロケにグラビア撮影。それでいて家にいる日は家事と勉強に余念がなくて。尚人が何もせずにまったりと過ごしている姿なんて見たことがない。

 大学前期の成績は九月初旬に公表された。今時の大学は成績もオンラインで確認するようになっていて、IDとパスワードを入力することでネット上で自分の成績が見られるらしい。その画面を印刷したものを尚人は律儀に見せてくれた。学費を出してもらっている以上きちんと報告する義務があると思っているようだ。雅紀的に、尚人がしたいことが存分に楽しめているのなら、それだけで大学に行かせた甲斐がある。成績なんて二の次三の次だ。

 尚人は、「優」が並ぶその成績を誇るでもなく「ホッとした」と言っていた。何でも、二年前期までの成績がその後の「専門」を決める際の「進路振り分け」に影響するのだと言う。

「どの学部に行きたいって、まだはっきり決めてるわけじゃないんだけど。成績が足りなくて行きたいところに行けないってなったら困るから」

 尚人はそう言う。努力して掴み取る経験は確かに大事だが、思わぬ出会いというのにも意味があると思う雅紀なので。

「ま、無理しない程度に頑張れ」

 というのが本音だ。

 一方の祐太はと言うと、相変わらず学校へは行っておらず自学の日々だが、料理のレパートリーも随分増えて尚人の助けになっている。二人で当番日を決めて家事のやりくりをしているようだが、尚人が出かける日は臨機応変祐太が対応しているようだ。

 ––––ナオに甘えんのもいい加減にしろよ。

 そう釘を刺して二年。祐太も随分変わった。

 尚人は祐太の家事分担が増えるのを気にして。

「近頃祐太に甘えっぱなしで。何だか祐太に申し訳なくって」

 本気でそんなことを言っているが、祐太にはツケが山ほど溜まっているのだから、その自覚のある祐太自身は何とも思ってないだろう。雅紀はそう感じている。祐太と言葉を交わして互いの気持ちを確かめ合うなんてことはさらさらする気にもならないが、何と言っても雅紀と祐太は根っこの部分で似たもの兄弟なので。尚人に依存している自分というものをよくよくわかっている。尚人が喜ぶならそれでいい。二人ともその思いが根底にある。

 祐太の将来については、この先学校へ行く気になるのかならないのか。それともこのまま我が家のハウスキーパーに成り切るのか。尚人の邪魔にならないのなら好きにしろと思う雅紀だった。

 

 

 * * *

 

 

 夕飯を終えた風呂上り。

 ちゅ。

 ん…、ちゅ。

 ………くちゅ。

 唇の重なる湿った音が二人きりの室内に響く。

 ちゅ、くちゅ、………ちゅり。

 舌を絡めて。

 口角を変えて。

 唇を重ねるたびに………こぼれ落ちる。卑猥な音。

 その音と、重なる唇の熱に、身体中がゾワゾワと反応する。

 雅紀の手が尚人を優しく、それでいて力強く抱きしめていて。

 その手に身体中をまさぐって欲しくて。背中に添えられるだけでは満足できなくて。………尚人の体が(かつ)える。

 もっと、もっと、もっと。

 尚人の内なる声が聞こえたかのように、雅紀の手が髪を撫で、うなじをまさぐる。

 雅紀の唇が耳たぶを()み、首筋を這う。

 その熱に。

 その刺激に。

 鼓動が跳ねる。

 産毛が逆立つ。

 頭の芯がとろけて、ジワジワと痺れのさざなみが立つように体のどこもかしこも敏感になっていく。

 ………あぁ。

 ()い。

 すごく………()い。

 喉が震え、血が逸る。

 ちゅ。

 ……くちゅ。

 ちゅぷ、くちゅ、ぷちゅ………

 唇を吸われて。舌をからめとられて。上顎も下顎も、雅紀の舌で蹂躙されて。

 気持ち良さに思考が乱れ、快楽に意識が揺れる。

 いや。

 ダメ。

 ––––()ちる。

 尚人は無意識に雅紀にしがみつく。

 すると耳元で雅紀がくすりと笑った。

「キスだけで。イっちゃいそうだな」

 揶揄(からか)われているのだとわかっていても、何も言い返すことができない。どくどくと(はや)る鼓動が収まらなくて、息が詰まった。

「ここも………ヌレヌレ」

 甘く囁きながら、雅紀がパジャマごと股間を握り込む。それでようやく尚人は、自分の股間の湿りに気づいた。

「溜まってた?」

 耳元で囁かれて尚人は素直に頷く。

 CM撮影が始まってからスケジュールが立て込み、雅紀と休みがなかなか合わなかった。忙しさに紛れて溜め込んでいる自覚はなかったが。こうして雅紀と久しぶりに抱き合えば快楽を求める心と体が一気に芽吹く。

「最近、忙しかったからな」

 雅紀が尚人の髪をかき分けて額に軽くキスをする。

「頑張ったご褒美だ。今日は、いっぱい気持ちよくしてやるよ。ナオが溜め込んだミルクを全部搾り取って、明日腰が立たないくらいに何度もイかせてやる」

 優しくベッドに押し倒されて、期待感に尚人の体温が上がる。湿ったパジャマをはぎ取られると、尚人はさらに興奮した。

「まーちゃん。して」

 はやく。

「珠、揉んでしゃぶって」

 自ら足を開いて、雅紀を急かす。まだキスしかされていないのに、乳首がびんびんに立ち上がってキリキリと痛む。その尖り切った乳首を雅紀が親指の腹で押しつぶすと、快楽が体の中を走った。

「はあッ」

 そのまま指でつまみ上げられて背が跳ねる。

「ああぁぁッ!」

 揉まれて。捻られて。引っ張られて。

 ビリビリと電気が走る。

 痛いのに気持ちが良くて。

「もっとして、まーちゃん!」

 あられも無くねだる。

 雅紀が指で摘んだまま舌先で乳首を刺激する。

 左の乳首をくにくにと揉みながら右の乳首を舐め、濡れた左の乳首をヌルヌルと弄りながら右の乳首を吸う。雅紀の手が下腹部に伸びて珠を揉むと、快感はさらに深まった。

 雅紀にされるがまま尚人は身を(ゆだ)ねてあえぐ。

 揉んで吸われて擦られて。頭の芯がスパークする。

 感情が(たか)って、肉茎を(くわ)えられて軽く(しご)かれると尚人はあっさりと吐精した。

 雅紀はそれを至極当たり前に飲み込む。

「んー、ナオのミルク。濃くて甘い」

 尚人が未だ味を知らないそれ。雅紀ばかりが毎回満足げに嚥下(えんか)する。

 雅紀にしゃぶられて自分はこんなにも簡単にイってしまうのに、尚人がどんなにフェラチオを頑張っても雅紀が尚人の口の中に吐精することはない。それが何となく不満で、 ……くやしい。

 ––––一緒に気持ちよくなろう。

 雅紀はそう言うのに。イかされるのはいつだって自分ばかりだ。

「まーちゃん。……俺もする」

 尚人が体を起こしかける。しかし、その体はすぐにベッドの上に押し戻された。そして、開いた股間を閉じることができないように、両肘でブロックした雅紀が今度はゆっくりと舌を這わせる。下から上に、くびれをチロチロとなぞり、ぐるりと舐めまわして、また下へ。

 その刺激で、吐精して一旦落ち着いた快感の証が再び硬く勃ち上がる。

「––––まーちゃんッ」

 裏筋をくすぐるように何度も舐められて双珠がフルフルと震える。

 息が上がって、言葉が続かない。代わりに喘ぎが漏れて、そのまま止まらなくなった。

「ンッあ! まーちゃん。あぁ! いい、そこ。きもちぃ」

 雅紀の舌遣いが激しくなる。舐められて吸われて、先っぽをしつこいくらいにほじられて。

 イきたいのに、今度は簡単にイかせてはくれなかった。

 しつこくしつこく攻められて、腰が捩れる。

 ゾワゾワとした快感が背中を駆け上がる。

 脳髄が痺れて、快感に目が眩む。

 ジンジンして。

 ビリビリして。

 快感に全身の肌が泡立って。

 思考が飛ぶ。

「あぁぁぁあああああ!」

 戒めを解かれたペニスの先端から、二度目の精が吐き出された。その残滓を舐めとって、雅紀がようやく咥えていたものを離した。

「ナオ、何か言った?」

 雅紀の問いかけに息の上がった尚人は言葉が返せない。

 わかっている。わざとこのタイミングなのだ。

 その証拠に雅紀の口元に意地の悪い笑みが浮かんでいる。

「へそも()めて欲しいだったかな?」

 雅紀はそう言うと今度は尚人のへそを舐める。そんなとこ舐められて気持ちがいいなんて雅紀にされるまで知らなかった。尖らせた舌先でへその穴をグリグリと舐められると内臓を直接刺激されるような快感がある。

 そうやって雅紀に身体中舐めまわされて、攻められ続けて。気怠(けだる)い心地よさに、指先までジンジンに痺れて。ぐったりとベッドに沈み込む尚人の汗で張り付いた前髪を雅紀が優しく梳き上げてキスをする。

「ナオ。俺もそろそろ限界なんだけど。()れて、いい?」

 耳たぶを()みながら、雅紀があつい吐息とともに囁く。

 その囁きに尚人は頷くと、もぞりと動いてうつ伏せになり尻を持ち上げた。

 挿れる前にはちゃんと舐めてほぐす。雅紀が決しておざなりにしない行為だ。後蕾をさらけ出してそこを舐められるのは、密口を剥かれて舌で穿られる以上の羞恥があるが、同時に期待感で昂る。

 尚人は知っているからだ。そこを指で(くじ)かれる快感を。舌で(ねぶ)られる愉悦を。雅紀の硬くしなりきったモノをねじ込まれる怖気と、突き上げられて捏ね回される悦楽を。

 雅紀が肉厚な舌で撫でる。露出させた窄まりの周りを、ゆっくりと。後蕾がヒクンと震え、双珠がキュッと吊り上がる。散々吐き出してもう何も出ないと思っていたペニスまでもが熱を帯びる。

 教え込まれた快楽は拒めない。

 知ってしまった快感は無視できない。

 それ以上に、雅紀と繋がる喜びが尚人を支配する。

 雅紀が吊り上がった双珠を食むようにキスをし、谷間の割れ目に沿ってゆったりと舐め上げる。二度、三度。たっぷりとのせた唾液を擦り付けるように。

「ん、んッ………」

 尚人の内腿がヒクヒクと震えた。雅紀は両の親指で肛門を押し広げて露出させると舌先で(しわ)の一本一本を丁寧に舐めていく。

「ンッ……やッ……うううッ……」

 舐められるたびに尚人の喉が鳴る。

 あつい。

 ……アツイ。

 …………熱い。

 羞恥心が焼け爛れて、首筋まで焼けた。

 尖らせた舌先で最奥を穿られるように舐められると、そこがヒクンヒクンと収縮する。見えないから余計に感覚が敏感になる。するとペニスの蜜口までもがジンジンと疼いた。

 舌で何度も舐められてそこが緩んでくるのがわかる。––––と、今度は舌よりも硬いモノ………指が潜り込んできた。

 ぐにぐにと、しなやかな雅紀の指がねじり込まれる。

 思わず息を詰めると。

「大丈夫。怖くない」

 いつの間にか後ろ抱きにされたまま、雅紀の声がした。

「ナオのここ、まだ一本でもきついからな。三本入るまでちゃんとほぐしてやるから」

 最初に呑まされた人差し指がゆっくりと粘膜を擦る。

 その感覚に慣れない頃は身体中が(すく)んだ。それで指を締めつけて更にきつくなると言う悪循環だった。力を抜けと言われても何をどうすればいいのかわからない。そこに指よりも太くて硬いモノを挿入されて突き上げられると思っただけで身体がガチガチに固まった。

 しかし、今は違う。

「痛くないだろう?」

 囁かれて頷く。

 きついが痛くはない。雅紀がグリグリと捻るリズムに鼓動がシンクロする。

「大丈夫」

「痛くない」

「ちゃんとほぐれてる」

 雅紀の囁きは尚人の思考を鈍らせる呪文。

「ナオはここを弄られるのも好きだろう?」

「ほら、気持ちいいだろ? ナオのも、また、膨らんできた」

「もう一本、入れような。そしたら、もっと気持ちよくなる」

 甘くて、優しい––––呪文。

「俺の指、キュンキュンに締めつけてる」

「スゴいな、ナオ。ローションが垂れて、タマもヌレヌレになっている」

「下腹も張ってきただろう?」

 あんなにきつくてもう入らないと思っていたのに、二本じゃ物足りなくなってしまう。三本目の指を入れてもらいたくてうずうずしてくる。

「もう一本、入れて欲しい?」

 雅紀に見透かされたように囁かれて、尚人は頷く。

 三本目が入ってくると、下腹が張った。三本の束で緩急をつけてグリグリと(えぐ)られると粘膜が擦れて、捩れて、その刺激で下腹がズンと重くなった。

「気持ちいい?」

「ン……まーちゃん……いいッ……」

 だが、その刺激にも慣れてくると次第に物足りなさを感じ始める。そこが雅紀で埋め尽くされる圧迫感と、指では届かないところまで深々と突き上げられる感覚を体が知っているからだ。

「まーちゃん、して」

「してるだろう?」

「ちがう。まーちゃんので……して。まーちゃんの、()れて」

 とうとう我慢できずに口走ってしまう。それだけで、吐息が灼けた。

「俺のが、欲しい?」

「欲しい。まーちゃんが欲しい。まーちゃんとしたい」

 先走る欲望が止まらない。

 雅紀が欲しくてたまらない。

「……まーちゃん、挿れて」

 尚人が自ら体を正面にして足を開くと、ペニスの先端をぐりぐりと後蕾に押し付けて、馴染ませて、ゆっくりと、じわじわと、雅紀のそれが割り入ってくる。

「ンッ……」

 圧迫感にひくつく。密着したそこが灼けるように熱い。

「ああ、全部入った」

 雅紀が微笑む。その笑顔がきれいすぎて尚人は見入る。

 雅紀がゆっくりと腰を振る。密着し合うそこの感触を確かめるように丁寧に抽送し、その動きが徐々に激しくなっていく。

 突いて。

 捻って。

 腰を入れて。

 くびれのぎりぎりまで引いて、溜めて突き上げて。

 硬くしなり切ったエラの部分で尚人の一番いいところをグリグリと擦り上げる。

「ンッ……あッ!。……や。––––んぁ、いぃぃぃ〜〜!」

 快感に翻弄されて、(あえ)ぎが止まらない。

 きもちいい。

 きもちよすぎる。

 雅紀が腰を振るたびに球袋がぶつかりパンパンと乾いた音がする。

 雅紀に突き上げられるたびに快感がゾワゾワと背筋を駆け上って、頭の芯まで痺れて、尚人の意識が朦朧とする。

 雅紀が腰を抱え上げる。 

 より深く雅紀が尚人を突き上げる。

 激しく(つつ)かれて、()き上げられて。

 瞼の裏でスパークが走り、灼熱のほとばしりが一気に爆裂した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

菜虫化蝶(なむしちょうとなる) 8

 週末、都内アパートの一室。薄いカーテン越しに差し込む光の眩しさに、微睡(まどろ)むのも限界とばかりに目を覚ました中野は、大きく伸びて起き上がる。

「んんんんーー。………今、何時だ?」

 枕元に転がしていたスマートフォンを手に取って時間を確認する。朝と言うより、もう昼と言っていい時間だ。

「あー、腹減った」

 家になんかあったかなと考えて、中野は寝ぼけ(まなこ)のまま電気ケトルでお湯を沸かす。夏休みに実家に帰省して、近所の激安スーパーで大量買してきたカップ麺がまだいくつか残っていたはずだ。

 棚を確認すると残りが三つ。補充直後は、これだけあれば三ヶ月は持つなと思っていたのだが、ひと月ちょっとでこの有様だ。一応頑張って自炊しているのだが、どうしたって手軽なカップ麺に頼りがちになる。

 夏休み中は結構長めに帰省した。大学そばの一人暮らしは、毎日大学に通うからこそメリットがあるわけで、引きこもるだけなら電気代もバカにならないし、何より(メシ)の問題がある。三食きっちりありつけて、電気代も気にせずエアコンつけ放題の実家はやはり魅力的だった。ただ、中野が長い帰省を決めた一番の理由はほかにあって。自分が夏休み中に地元に帰った方が、自宅住まいの尚人と遊ぶ予定を立てやすいだろうと考えたのだ。

 しかし、実家に帰省して、尚人に電話して。

「俺、しばらくこっちにいるからさ。どっかで都合つけて一緒に遊ばね?」

 そう言うと、尚人の返答はまさかの「ごめんなさい」だった。

「ちょっと、しばらく忙しくて」

「え。しばらくって、どのくらい?」

「うーん。……夏休みいっぱい、かな」

「バイトでもしてんの?」

「えーと。バイトも、してたんだけど、休みをもらうことになっちゃって。……いろいろ、しないといけないことがあるんだけど。夏休み中に終わらせようってことで詰め込んじゃってて」

「––––そうなんだ」

 よくはわからないが、尚人の夏休み中のスケジュールはすでにぎっしり詰まってるってことだけはわかった。

「ごめんね。……時間できたら、電話する。山下の家で鍋パーティーしたの楽しかったし」

「ああ、そうだな。今度は焼肉パーティでもするか」

「そうだね。また、みんなで集まれるといいね」

 電話は至極あっさり切れて。中野は、自分と尚人との間にある距離が遠くなってしまったようで、一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。

(まあ、篠宮が忙しいのは知ってるけどさ)

 尚人の家庭環境がどういうものかはわかっている。高校時代の騒動を通して嫌でも知らされたのだから。両親のいなくなった家庭で、長男の雅紀が大学進学を諦めて働いて金を稼ぎ、次男の尚人が家事全般を引き受けていた。翔南高校は土曜も含めて毎日朝課外があっていたが、尚人は毎日自前の弁当持参で登校し、遅刻も欠席もなくて、成績も常にトップレベルだった。

 あの翔南高校の過密スケジュールで成績を維持しながら毎日家事をこなすのは大変だったはずだ。当時もその大変さをわかっているつもりだったが、尚人の「慣れてるから」のひと言に「そんなもん?」と流していたのも事実。しかし、実際自分が一人暮らしを始めて、大学の授業や課題をこなしながら、自炊したり洗濯したり風呂やトイレの掃除をしたりするのは思っていた以上に大変で。そもそも「慣れる」まで行き着かない現実に、「慣れる」しかなかった尚人の置かれていた環境を改めて思い知らされたような気がした。

 引きこもりだった三男は引きこもりをやめたようだが、尚人の生活は基本高校時代と変わらないはずだ。高校までは自転車で片道五十分だった登校が、電車に変わったぐらいのものだろう。毎日大学に行って、授業を受けて、課題をこなして。合間合間に家事をして。それでも、夏休みには余裕ができるはずだと思っていた。翔南高校では夏休み期間も完全休みは盆を挟んだ一週間のみで毎日夏季課外があっていたが、大学の夏休みはどの大学だっておおよそ二ヶ月もある。その期間に集中講義や特別講座を開く大学もあるが、高校時代の夏季課外ほど過密ではない。

 それなのに、である。

(やっぱ、篠宮だからなぁ。いろいろ将来(さき)を見越してやってんだろうなぁ)

 同じく帰省していた山下とは遊び倒したが、結局尚人とは会えずじまいだった。

 カップ麺にお湯を注いで、中野は小さな食卓へと運ぶ。

 ワンルームの狭い室内には、奥の窓際にベッドを置いて、その手前に食事用の小さなテーブルを置いている。そのテーブルの前に胡座(あぐら)をかいて座ると中野はリモコンを手に取ってテレビをつけた。

 親にねだって買ってもらった中古の小さなテレビだ。今時(いまどき)の学生はネットがあれば充分と、部屋にテレビを置かない者も多いらしいが、食事をしながら気楽に見られるテレビの良さを中野は気に入っている。それに、テレビはとにかく情報を垂れ流しにしているから、世の中の動向をざっくり把握するのに向いているのだ。

 適当にチャンネルボタンを押すと週末昼時らしいゆるい情報番組をやっていた。別段興味を惹かれたわけではないが、そのまま画面を眺める。三分待つ間の時間潰しだ。

 どこかの商店街でタレントがコロッケを注文して受け取っていた。見ると食べたくなって、このあと近くのコンビニに買いに行こうかな、なんて思っていると画面がCMに切り替わる。ちょうどそのタイミングでかけていたタイマーが鳴った。中野は、カップ麺に視線を落とそうとして、––––切り替わったテレビ画面の映像に視線を縫い止められた。

 きれいな朝焼けの大地だった。

 清涼とした空気感さえ伝わってきそうな映像だった。

 そこに誰かが立っている。

 凛としたシルエット。

 カメラがズームアップして、立っている人物を映し出す。

 え?

 その瞬間に驚いて。

 うそ。

 一回我が目を疑って。

 まじ?

「––––って、篠宮?」

 朝焼けの中、静かに立つ若者の横顔を画面は映し続けている。

 え、なに、どういうこと?

 カットが変わって、印象的な双眸が真っ直ぐに向けられる。

 吸い込まれそうなその双眸に息を呑み、驚いている間にCMが終わった。

 自分が見たものが信じられない。まるで白昼夢でも見たかのような、そんな感覚だった。

「篠宮、だったよな?」

 自分がよく知る尚人とは違う。しかし、静かで、それでいて何かしらの思いを内に秘めた、崇高で清高ですらあるその横顔には、見覚えもあって。尚人が、学校生活の中でのふとした瞬間、––––移動教室で廊下の窓から外にふと視線を向けた時とか、人の少ない朝の教室で一人静かに席に着いてテキストに視線を落としていた時とか、––––そんな時に一瞬どきりとするような横顔を見せることがあって。

 尚人が『MASAKI』の弟だと知ってからは、そんな表情も「さすがカリスマの弟」と勝手に心の中で思っていたのだが……。

「ってか、もう一回!」

 中野は何だか急に現実に立ち返って、テレビに向かって叫ぶ。

「もっかい見せろ! 急すぎんだよ! びっくりして、ちゃんと見てなかったじゃないか!」

 何かナレーションも入っていた気がするが驚きすぎて全く覚えていない。何のCMだったのかすらさっぱりだ。

「てか、録画!」

 中野は慌てて『見て録』ボタンを押す。これでこの番組中に同じCMが流れれば録画できるはずだ。

 それからあちこちチャンネルを変えまくって、別チャンネルで同じCMをやってないかチェックしまくる。

 カップ麺の存在は、とうに中野の中から消え去っていた。

 

 

 * * *

 

 

 夜七時。加門家が夕飯時を迎える。三人揃って囲む食卓に会話は少ないが、時計がわりのテレビはいつものごとくどうでもいい騒音を撒き散らしている。

 夏休み期間はあっという間に終わってしまって、大学は後期が始まっていた。三年後期という時期は、大学生活の中で一番忙しい時期だ。専門の授業がびっちり詰まり課題も多い。レポート提出も頻繁(ひんぱん)だが、授業を受けるだけでは及第点のレポートは書けず、大学図書館で必要な文献を借りてきて読み込む必要もある。

 そんな中、同時進行していくのが就職活動だ。

 就職に関する会社説明会は三月から始まり、六月から選考開始となる。企業を知るためのインターンシップは当然これよりも前に参加しておく必要があり、必然、時間の取りやすい三年生の夏休みがメインになる。この期間に大抵の学生が一社から三社のインターンシップに参加して就職の希望先を絞り込んでいく。一方企業側は、インターンシップ参加者の中からやる気のある学生に目星をつけて青田買いをしていく。……らしい。

 沙也加の周りでも「エントリーさえしてくれれば必ず採ると言われた」などと吹聴している者がいる。嘘か本当かは知らない。六月解禁の就職選考より前に内定を出す行為は禁止というのが建前だが、噂を聞く限りそれより前の内々定という行為はごく当たり前に行われているようだ。

 つまりは、インターンシップ不参加はそれだけで就活に遅れをとっているということ。その自覚はありながら、沙也加は結局夏休み中にインターンシップに参加することはなかった。

 モデルとして頑張る決意を固めたから、……ではない。迷っている間に気になっていた企業の参加申し込み枠が埋まってしまっていたのだ。人気の企業インターンは募集が開始されると同時に申し込まないとダメだというのも後から知った。

 ただ、インターンシップは夏休み以降も結構開催されている。大学によってはインターンシップ参加そのものを単位にしているところもあるからだ。そうやって、自分が気になる企業ばかりではなく、いろんな企業を見て回ることで視野を広く持つ機会とする。……らしい。

 しかし沙也加は、気になっている企業以外のインターンシップに参加する気はなかった。時間の無駄だし、不本意な就職をするくらいならモデルとして頑張った方がマシだと思うからだ。

 とはいえ、沙也加の心はずっと揺れている。雅紀に相談したい。雅紀に聞いてほしい。その思いは今でもあるが、結局あれ以降雅紀に相談できるチャンスはなかった。一度のチャンスを自分から逃げ出したのだから、それに関して何も言えないのはわかっている。

 あの日、––––雅紀が沙也加に会いに加門家に来ることになっていた日。急な仕事が入ったことにして逃げ出した沙也加は、外で一人夕飯を済ませ、深夜になって帰宅した。急な仕事と言って出かけたのに、夕飯時に合わせて帰るのは早すぎて不自然だろうと思ったし、正直、祖父母と顔を合わせたくなかった。いろいろ聞かれて嘘を重ねるのが嫌だったからだ。祖父母は夜十時には寝室に入ってしまう。だから、それ以降の時間に帰宅した。それまで時間を潰すのが大変で、街をうろついて知り合いにばったり会うのも怖くて、昼間は図書館、夜はカラオケで過ごした。いつもはあわたださからあっという間にすぎてしまう一日が、とても長く感じた一日だった。

 そして次の日、沙也加は雅紀に電話しようか散々迷ったのだ。

 ––––昨日は、ごめんなさい。

 ––––せっかく時間を作ってくれたのに。急に仕事が入っちゃって。

 直接言葉を交わせば、何かが変わるかもしれない。

 雅紀と自然に話ができるかもしれない。

 しかし、

 ––––昨日は何の仕事だったんだ?

 そんなことを聞かれては、うまくごまかせる気がしなかった。雅紀は沙也加よりよほど業界に詳しくて、適当な話ではすぐに嘘がバレてしまうだろうから。

 それが怖くて結局電話できなかった。

 ほんの少し、雅紀の方から電話があることを期待したが、それもなかった。

 ––––バカね、沙也加。自分がドタキャンしたんでしょ。

 そうは思っても、「日程の再調整」の連絡をくれるかもしれないと、心のどこかで期待していたのだ。

 雅紀が自分のことを気にかけてくれている。それを実感できれば勇気が出る。誰にもうまく相談できない自分の悩みを打ち明けることができる。……そう思ったのだが。

「あら、雅紀ちゃんが出てるわ」

 静かだった食卓に急に祖母の声がした。その声に我に返って、沙也加はテレビ画面に視線を向ける。「雅紀」の名前に反射的に心臓が跳ねた沙也加だったが、画面に映っていたのは、もう何度も見た『ミズガルズ』のPVだった。

 何の番組なのかは全くわからなかったが、MCがにこやかな笑顔で「この続きは、CMの後で」と言ってCMに入る。テレビコマーシャルになど興味のない沙也加は食事を再開しようと箸を持ち直したが、画面が切り替わった途端に飛び込んできた映像の美しさに思わず見入った。

 朝焼けの空。まだ薄暗い大地の上に誰かが立っている。

 シルエットしか見えないが、凛とした静けさがあって、思わず見入る。

 美しい自然を映す画面に、BGMが流れる。

 まるでミュージックビデオの一場面かのごとく映像に、何のCMだろうと思っているとカメラがズームアップして、朝焼けの中に立つ人物の横顔をはっきりと映し出した。

 その瞬間––––。

「えっ?」

 は?

 うそでしょ。

 沙也加はテレビ画面に映し出された人物を凝視して、––––固まる。

 見間違いようがない。

 間違いなく尚人だ。

 なんで?

 ……どうして?

 …………尚が?

 カットが変わって、尚人が正面を向いて、ほんの少し伏せられていた視線がゆっくり持ち上がって真っ直ぐにこちらを見る。

 その双眸に沙也加は息を飲む。

 しっとりした光を纏う双眸は引き込まれそうな引力があって。盆で顔を突き合わせて感じた時よりも明確なオーラがあった。

 何なの。

 どういうこと?

 尚が、……CM?

 思考が混乱して訳がわからない。

 頭がガンガンする。

 耳の奥がキーンとする。

『音で覚醒する。新感覚リゾルトイヤフォン。新発売』

 最後にナレーションが入ってCMは終了したが、茫然とした沙也加の耳には届かなかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

菜虫化蝶(なむしちょうとなる) 9

 沙也加はイラついていた。

 ムカついて、腹立たしくて、頭が煮えて。

 何をやっても集中できない。

 尚人のことなんて、考えたくもないのに考えざるを得なくて。

 あのCMがどうしても頭をちらつく。

 尚人の顔なんて見たくない。……そう思うのに、––––気になる。

 沙也加は葛藤を繰り返した挙げ句、ファッションマガジン『KANON』の今月号の電子書籍版を購入した。今(ちまた)で話題沸騰中の『リゾルト』イヤフォンのCMの特集が掲載されている、と耳にしたからだ。もともと売れている雑誌だが、迷っている間に書店に平積みされていた雑誌はあっという間に姿を消して、電子書籍でしか見られなくなっていた。

 ––––特集ってどんな?

 ––––それって尚が雑誌に掲載されてるってこと?

 『MASAKI』との関係についても言及されていたりするのだろうか。

 尚人がCM出演するに至った経緯なども書いてあるのだろうか。

 そんなことが気になって。それで沙也加は意を決して購入を決めたのだ。

 大学構内のカフェテラス。そこで席を確保してタブレットで雑誌を開く。噂の特集は巻頭特集で、今月号の目玉記事であることは明らかだった。

 CMで印象的な朝焼けの大地にモデルが立っているシーンが見開きで使われていて、次のページから色違いのイヤフォンとそれに合わせた衣装に身を包んだモデルのグラビアが掲載されている。まさかの一色一ページ。その扱いの大きさに沙也加はギシリと奥歯を(きし)らせる。

 イヤフォンを売るための販促グラビアであるはずだが、『ヴァンス』の衣装であることがかなり強調されている。今放送中の『リゾルト』CMが話題なのは、滅多に人を撮らないネイチャー・フォトグラファーの『GO−SYO』が監督を務めた、ということもあるが、それに加えて『ヴァンス』が衣装提供していることも大きい。だから、こうしてファッション誌にも掲載される。そんな理由でもなければ新人モデルでこの扱いはあり得ない。

 尚人と『ヴァンス』。結局のところずっと繋がっていたのだ。と、沙也加は直感する。

 二年前、アズラエル本社ビルの三階で事務所の二大巨頭である加々美と高倉、それに『ヴァンス』のクリスと三人そろって歩いているところを見た。『ヴァンス』と『アズラエル』が専属モデル契約をする直前の出来事で、今振り返れば契約に向けて話し合いが進んでいたのだろうと思う。ただ、一つ不可解だったのが、その場になぜか部外者であるはずの尚人がいたことだ。

 結局、あの場になぜ尚人がいたのかはわからなかった。マネージャーの唐澤やその他親しい事務所スタッフなどにそれとなく話題を振ってみたが、だれも尚人の存在など知りはしなかった。知っていても「学校の課題の職場体験で加々美が引率した高校生」その程度だった。

 しかし、間違いなく尚人は加々美と繋がっていて。それは取りも直さず雅紀と加々美が親密な間だからに他ならない。雅紀というコネがあったからこそ加々美ほどの人物がいち高校生の職場体験の引率を引き受けたのだ。

 そして、おそらくは、そこから尚人と『ヴァンス』が繋がった。

 そう考えると、つまりはなにもかも雅紀のおかげ。雅紀というコネあってのこと。今回のCM出演だって、雑誌にこれほど大きく掲載されているのだって、雅紀の威光あってのことだ。

 ––––そんなのってズルじゃない。

 そう思う。

 そして同時に、

 ––––なんで尚ばっかり。

 それを不満に思う。

 同じ雅紀の弟妹なのに。尚人ばかりがエコヒイキされる。尚人ばかりが優遇される。

 不公平不公平不公平不公平………………………。

 沙也加がモデルとしてデビューして一年半。雅紀の妹ということでやっかみは受けてもそれで仕事がもらえたことはない。雅紀の七光で仕事をするつもりはないので、それはそれで構わないのだが。

 でも。

 だけど。

 やっぱり。

 こんなのは、絶対に……––––許せない。

 沙也加の行きたかった翔南高校に進学し。沙也加よりランクの高い大学にあっさり合格する。就職先なんて選び放題の大学に行きながら、あり得ないほどの高待遇でCMデビューする。

 ––––どうしてよ!

 どうして。

 どうして。

 どうして!

 気づけば沙也加の前には常に尚人の背中がある。––––その屈辱感。

 そして見せつけられる、埋めがたい格差。

 沙也加の中でグツグツと怒りが煮え立つ。

 尚人が憎い。

 憎くて、憎くて、憎くて、どうしようもないほどに憎くて。

 目障りで、うとましくて。

 ––––この世から消えてしまえばいいのに。

 膨らむ怒りに沙也加の頭は弾けてしまいそうだった。

 

 

 * * *

 

 

 モデル事務所最大手『アズラエル』本社ビル。

 統括マネージャー高倉真理の執務室。

 久しぶりにこの部屋を訪れて、加々美は自分で()れたコーヒー片手に革張りのソファーにゆったりと座ってくつろいでいた。

 とにかく、ここしばらく忙しかった。ただ、心身が疲弊するような忙しさではなかった。あちこち駆け回って目まぐるしくはあったが充実していた。今あるのは心地よい充足感だ。

 CMは無事に放送開始を迎え、評判は上々。ネットではすでに『GO−SYO』が撮った、それだけではない盛り上がりを見せている。

 ––––コマーシャルって言うより、まるで映画のワンシーン。

 ––––映像がきれい、もあるけど。ただ立ってるだけの人物に何か物語を感じる。

 ––––人生で初めて、早くCMになれって思ってテレビ見てる。

 ––––最後の瞳のドアップがマジやばい。吸い込まれそう。

 ––––あの瞳ってCG処理してある? あんなきれいな瞳、見たことない。

 ––––引力ある。

 ––––こっちが覚醒しそう。

 ちなみに今月のファッション雑誌『KANON』では、CM放送開始と合わせた特集が組まれている。色違いのイヤフォンとそれに合わせた『ヴァンス』の衣装に身を包んだ尚人の販促グラビアが全て掲載されているのだ。販促グラビアはいわば広告で、本来であれば雑誌誌面とは別枠の掲載になるのだが、今回はその広告そのものが特集の対象になっている。もちろん、加々美とクリスの思惑が一致した結果の、もろもろの大人の事情というやつが働いているのは言うまでもない。つまりは雑誌社とのコラボ企画ということだ。

 ちなみに雑誌の紙面下方に『NAO』というモデル名が小さく掲載されているのだが、ネット検索ワードランキングでは『リゾルトイヤフォンテレビコマーシャル』と並んで『NAO』が急上昇し注目の高さがうかがえる。といっても『NAO』はまだ一切のプロフィールを公表していないので、ネット検索をした所で公式プロフィールの類は一切ヒットしない。検索して出てくるのはネットユーザー達の呟きやCMに対する感想ばかりだが、一度通訳アルバイトをしたときに雑誌『KANON』に通訳者名として『NAO』と載せているので、同じ雑誌に掲載されたこの二つの『NAO』に関係性があるのかないのかと盛り上がっているサイトもあるようだ。何しろどちらも『ヴァンス』がらみであるだけに、一部の人々のたくましい想像力が刺激されるらしい。

「随分と派手に企画したな」

 部屋の主人(あるじ)である高倉が加々美の対面に座って今月号の『KANON』をテーブルの上に置く。尚人の載るグラビアは巻頭特集。着ている衣装が『ヴァンス』であることが前面アピールされている。イヤフォンの販促グラビアというより『ヴァンス』の衣装モデルに見えなくもない誌面構成になっているのはクリスのこだわりだ。

「尚人君いいだろう?」

 雑誌の表紙をめくり、もう何度も見た紙面を見て加々美はニンマリする。どの写真も文句のつけようのない出来栄えだ。

「……これのせいで、『NAO』は『アズラエル』所属のモデルなのかという問い合わせが殺到している」

 『アズラエル』が『ヴァンス』と専属モデル契約をしているというのは広く認知されている事実だからだろう。イヤフォンの販促グラビアながら『ヴァンス』全面押しとあれば『アズラエル』のモデルなのかと受け取られるのはある意味当然かも知れない。

 『リゾルト』とのコラボ企画に関しては尚人の肖像利用を認めるのが今回の契約ではあったが、こんな使い方を提案してくるとは思わなかったというのが正直なところだ。

 まあ、加々美的には何の問題もない、どころか、クリスから相談されたときに思わずニンマリしてしまったが。

「これからどうするつもりだ?」

「どうって?」

「新人を売り込むなら一気呵成が定石だろう?」

 そう言って高倉が一冊のファイルを机に置く。

 目で促されて加々美が中を確認すると、オファーリストだった。

「尚人君がうち所属のモデルだって勘違いしたところからひっきりなしに仕事の依頼が来て。仕方ないから俺が受けてる」

 だったら素直に俺が代理人だって言えばいいじゃないか、と加々美は言いかけて口の端で小さく笑う。それを言わないところが高倉の思惑なのだ。つまりは、尚人が『アズラエル』所属じゃないとはわざわざ言いたくない。尚人が今後『アズラエル』所属になる可能性を期待してのことだろう。

 既成事実を積み上げてなし崩し的に『アズラエル』の関係者にしてしまおうって感じ?

 まあ、こちらもこちらで思惑があるのでお互い様だが。

「尚人君は学業優先だから。大学の後期が始まって、しばらくは仕事なんて入れられないってのが現実だな」

 CM放送が開始してから加々美の携帯にも尚人へのオファーがひっきりなしにかかってくる。

 モデル事務所に所属しているわけではない尚人のプロフィールは現在どこを探しても見つかりはしないのだが、それでCMの広告主である『リゾルト』に問い合わせの電話が殺到し、対応に困った『リゾルト』から加々美に連絡が入り、「俺が代理人を務めていると伝えてもらって構わない」と回答してから加々美に(ちょく)で連絡が入るようになった。

 つまりは、「口コミ」だけで広がっているにもかかわらず、毎日電話が途切れない。

 その事実に加々美も正直驚いている。

 今回のCMが、尚人の良さを最大限引き出すものであったことは認める。……その辺はさすが伊崎、と渋々ながらも認めざるを得ない。性格は難ありまくりだが、伊崎の撮る映像はやはり人の心を揺さぶる。……まあ、その伊崎をタラしまくりだった尚人の天然っぷりには、ロケに同行したスタッフの誰もが驚いていたが。

 高倉の言う通り、これだけデビュー作が話題になれば仕事を詰め込んで一気に売り出すのが定石だが。これまた高倉に言った通り尚人は学業優先なので仕事を詰め込むわけにはいかない。

 それに、尚人はまだモデルになる気はないのだ。

 今回のことはあくまでも「皆で作り上げる体験がしたい」の延長線上にあった決断で。今後モデルとして仕事がしたいと言うことに繋がっているわけではない。なので加々美はこの辺りを丁寧に、ある意味慎重に、進めていく必要があると思っている。

 加々美には加々美なりの思惑とヴィジョンがあるのだ。

「ま、と言うことで、次は冬休みかな」

 加々美はそう言うとにっこりと微笑む。

 それに対し高倉は「胡散臭い笑顔を見せるな」とひっそり眉を顰めたのだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

菜虫化蝶(なむしちょうとなる) エピローグ

 送られてきた見本誌を手に取ってクリスはゆっくりと表紙をめくる。使われる写真は事前にメールで送られてきていて当然チェック済みではあるが、雑誌としての仕上がりはこうして見本誌を見ないことにはわからない。

 ページをめくると印象的な朝焼けの風景が目に飛び込んでくる。

 自然が見せる美しさを最大限生かし、清涼とした空気感さえ伝わってきそうなその一枚に、クリスは思わずため息を漏らす。

「さすが『GO–SYO』だよね」

 この一枚は、ネイチャーフォトグラファーだからこそ撮れる一枚だろう。

 そしてそこに立つ人物のシルエット。その凛とした佇まいが見る者を惹きつけ、ただの朝焼けの風景に物語を生み出している。

 動画も良かったが、写真もいい。

 薄暗い朝焼けの中では衣装の色合いは生きないが、そのぶん独特のシルエットが物語を生み出すのに一役(ひとやく)買っている。そんなふうに見える。そしてCMでは衣装がしっかり見えないからこそ、広告グラビアの価値が強まる。『GO–SYO』がそこまで計算したのかは知らないが、クリスはさらにページをめくって、今度は『ヴァンス』の衣装が全面押しになったグラビア写真を見て微笑んだ。

 全てがイメージ通り。いや、それ以上だ。

 どれもこれも尚人によく似合っているし、尚人の持つ個性が服の良さを引き立てている。

 尚人でなければ着こなせない。のではなく、尚人でなければこの雰囲気は生み出せない。そんな感じだ。

(これでようやく一歩進んだって感じかな)

 尚人と出会ってもうすぐ二年。モデルになって欲しいと希望し続け、今回100パーセントクリスの望む形ではないとは言え、『ヴァンス』の衣装を纏った尚人のグラビアがこうして世間に公表された。

 これはとても大きな一歩だ。

 ゼロから1へ。そこが動きさえすれば、1から2へは案外簡単に動く。クリスの経験上世の中というのはそういうもので、これから先は今までよりももっとスピード感を持って事態が動いていくはずだ。

 もちろん、ただ待つつもりはない。

(まずは、年末恒例のカウントダウン・ランウェイだよね)

 世界中で開催される似たようなイベントの中で、二年前に初めて日本のイベントに参加した。当時は販路を日本に拡大しようとしていた時期であり、同時にユアンが日本のモデル『MASAKI』に興味を持って同じランウェイを歩きたいと珍しく希望を言ったこともあった。そして昨年は、日本での旗艦店オープン直前の話題作りが必要で、それで二年連続で日本のイベントに参加したのだ。

 しかし三年目となる今年は、日本のイベントは日本のモデルに任せてしまって、ユアンは日本以外のイベントへ参加させようかとも検討している。三年連続で日本のイベントに参加するメリットは今のところないし、ユアンのランウェイを熱望する国は世界中にある。

 しかし、

(ナオトくんがユアンと一緒にランウェイを歩くってなったら別だけどね)

 対となる個性の共鳴。それが披露できれば絶対に特別なステージになるはずだ。

 いずれは必ず実現させるつもりだが、それが今年であればなおいい。クリスはそれを狙っている。

 もし、尚人が『アズラエル』のモデルであれば話は早かったが、加々美は尚人の囲い込みに成功しながら『アズラエル』に所属させるわけではなく、自らが代理人になるという予想外の手段を取った。『アズラエル』と専属モデル契約を交わしている『ヴァンス』は、現状日本のショーで『アズラエル』以外のモデルを使うことは出来ない。

 この事実に、クリスは最初こそ「オー、マイガッ!」という気分だったが、今、こうして『アズラエル』のモデルではない尚人が『ヴァンス』の衣装を身に纏って雑誌に掲載された。今回はあくまで『リゾルト』とのコラボ企画内という条件付き扱いだが。例外というのは、一つできれば、既成事実として積み上がる。

 それに加々美が代理人であることは、今となってはむしろ好都合。そう思える。

 なぜなら尚人が『アズラエル』所属だったら、尚人を使うには常に『アズラエル』の意向を気にする必要があるが、『アズラエル』所属でないからこそ『アズラエル』という大手事務所の意向に左右されない契約を尚人と直接結ぶことだってできるのだ。今現在は『アズラエル』との専属モデル契約が邪魔するが、加々美にも一度言ったように海外での活動に限れば問題ないし、それにそもそも、その専属モデル契約ももうすぐ更新の時期を迎える。その時『ヴァンス』側には、更新しないという選択肢だって当然ある。

 まあ、大手とケンカしていいことはないので、その時は穏便に互いの落としどころを見つけていくことになるだろうが、その時のことを考えても、尚人の代理人が加々美というのはかなり大きい。なぜなら加々美は自身が『アズラエル』所属のモデルでありながら、プロデュース業のための個人事務所も構えているという、どっちにも軸足を置いている存在で、ビジネスの才覚もある天性のタラシだからだ。

 原石の磨き方をよくわかっているだろうし、尚人の成長のためには骨を折るだろう。そもそもそのために自ら代理人になったのだろうから。

 だからこちらの提案が尚人の成長になると加々美が判断すれば、話はとんとん拍子に進む。クリスはそう見る。

(さて、どう話を持って行こうか)

 加々美が乗ってくれさえすれば、年末イベントでの尚人の起用は案外すんなり決まってしまう気もする。とはいえ加々美だって曲者(くせもの)で。かつ、尚人に対しては私情も絡んでいるだけに思わぬ「地雷」もあり得る。

 ファッション業界の食えない海千山千相手には、あの手この手策を弄することも多々あるが––––。

(やっぱり、正攻法が一番良さそうだよね)

 クリスは雑誌を閉じると、ネット放送限定の『リゾルト』CMロングバージョンを近頃エンドレスで見続けているユアンにも雑誌を見せてあげようと立ち上がった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 深夜1時。三日ぶりの自宅はすでに(あかり)が消えて真っ暗だったが、それでも電子錠を開けて玄関に入った雅紀の肩からはほっと力が抜けた。

 すっかり慣れてしまった都内のホテル泊。定宿にしているシティホテルは、サービスもスタッフとの距離感も快適で、何不自由ないが、それでもやはり自宅が一番。––––なぜなら、家に帰れば尚人がいる。それに尽きる。

 母が死んですぐの頃は、(あかり)の消えた陰鬱と暗い自宅に帰るのが嫌で嫌でたまらなかったが、今は違う。何時になってもいいから早く家に帰りたい。

 少しでも早く尚人に会いたい。

 尚人の顔が見たい。

 雅紀にとって身も心も真に満たしてくれるのは尚人だけ。

 それなのに三日も会えなくて。心と体が尚人に(かつ)えている。

 急く気持ちを抑え、雅紀は迷いない足取りでゆっくりと薄暗い廊下を真っ直ぐ進む。きっちり十歩。目の前に来たドアノブに手をかけて躊躇(ちゅうちょ)なく戸を押し開く。室内は豆球さえ点いていなくて真っ暗だったが、雅紀は難なくベッドの縁まで歩み寄ってベットサイドのライトを点けた。

 その明かりに、寝息も立てず静かに眠る尚人の寝顔が照らし出される。尚人の眠りは深く、一度寝付けば簡単には起きない。それを知っているから雅紀は遠慮なしだ。

「ナオ、ただいま」

 雅紀は尚人に覆いかぶさるようにまたがって耳元で囁くと、そのまま首筋に顔を埋めて尚人の匂いを思い切り吸い込む。

 安らぎと興奮が交錯する匂いだ。

 そのまま二、三度深呼吸を繰り返してから耳たぶを甘噛みし、優しく髪をなであげておでこにキスをする。

 寝ている尚人はいつもよりも幼く見えて、(いと)おしくてたまらない。

 尚人は大学生になった。

 父が外に女を作って家を出て行って以降、坂道を転げ落ちるように急変した家庭環境の中で、とにかく我慢の思春期を過ごした尚人には、やりたいことを思う存分楽しむ学生らしい時間を過ごして欲しいと思っている。

 尚人が笑っていると嬉しい。

 尚人が今まで知らなかったものに出会って、驚いたり喜んだりしている姿を見るのは楽しい。

 尚人が幸せそうな顔をしていると、雅紀も幸せな気分になる。

 しかし同時に雅紀は、尚人の世界が広がることで、尚人が自分以外の誰かに目移りしたりしないかと常に不安と心配を抱えている。

 兄でありながら同時に尚人の唯一の(おとこ)でありたい雅紀のジレンマだ。

 雅紀は尚人の可愛らしい鼻を()み、唇を重ねる。伝わる熱を楽しむように最初はそっと。(ついば)むように尚人の唇の感触を楽しんで、徐々に口内を侵食する。

 クチュクチュと、静かな室内に卑猥なリップ音が響く。

 寝ていても息苦しさがあるのか、尚人が鼻にかかった(あえ)ぎを漏らす。それがやけに淫らで、雅紀はうっそりと笑った。

 パジャマの裾から手を差し入れて尚人の体を(まさぐ)る。しかしそれだけでは満足できなくて。全身で尚人を感じたくて。雅紀は微塵も遠慮なく尚人のパジャマを剥ぎ取って全裸にすると、自分も服を脱ぎ捨てて布団に潜り込んだ。裸の尚人を抱き寄せて全身で尚人の熱を感じると、欲情と安堵が同時に雅紀を支配した。

 尚人の熱。

 尚人の匂い。

 そして素肌が触れ合う快感。

 股間がわずかに反応して、半勃起した物を軽く尚人に押し付けたが、性欲よりも睡魔がまさって、雅紀はそのまますやすやと寝入ったのだった。

 

 

 * * *

 

 

 朝5時。いつもの時間に目が覚めて、尚人はぴったりと寄り添う温もりに気がついた。

(あ、まーちゃん。帰ってたんだ)

 鼻先が触れ合いそうなその距離に雅紀が静かに眠っている。その寝顔が視界に入った途端、尚人の心臓がトクンと跳ねる。寝顔が綺麗すぎて、朝一から眼福だ。

 雅紀の温もりが心地いい。広い胸に抱かれていると言葉にならない安心感がある。いつもなら目が覚めれば布団の中でぐずぐずなどしない尚人だが雅紀の温もりから離れがたい。

 もう、ちょっとだけ。

 尚人はもそりと動いて雅紀に寄りそう。

 素肌が触れ合う感覚が心地いい。

 ––––って

 …………あれ?

 ひょっとして……。

(俺たち裸?)

 その事実に気付いて尚人はドキリとする。

 やった後にそのまま裸で寝入ってしまうことは度々あるが。昨夜は尚人が寝る時間に雅紀はまだ帰って来てなくて。

 それなのに二人して裸で寝ている––––その理由。

 ––––え、っと。

 もしかして……。

 寝ているところを起こされて最後まで付き合わされたことは何度もあるが。昨夜の記憶を必死に辿っても雅紀とまぐわった記憶は一切ない。

 思わず下半身の感覚まで確認してしまって。ひとり焦って耳の先を真っ赤にした尚人だったが。記憶がないままにやった感じではなかった。

 そりゃ、そうだよ……ね?

 焦ったことが何だか恥ずかしくなって。尚人はもそもそと起き上がってベッドの脇に放り出されていた下着をつけて部屋着を着ると、朝支度のために雅紀を起こさないようにそっと部屋を出たのだった。

 

 

 * * *

 

 

 夢とうつつの狭間のまだぼんやりとした意識の中、雅紀はベッドの上で無意識に温もりを求めて手を伸ばす。しかし掌は冷たいシーツの感触ばかり拾って、怪訝に眉を潜めてまぶたを持ち上げた。

 隣にいるはずの尚人の姿を探す。しかし、昨夜腕に抱いて寝たはずの尚人の姿はどこにもなく、布団にはその温もりの欠片すらない。

 カーテンから漏れる光で部屋がぼんやりと明るくて、今何時かわからないが、尚人の起床時間をとっくに過ぎているのだけは理解した。

 雅紀は小さく落胆の息を吐く。

 尚人の朝は早い。起床は毎朝5時。洗濯に朝ご飯の準備と昼用の弁当作り。ひと通りの家事をこなして学校へ行く。学校へは電車で約一時間。本数がそんなに多いわけではないので、授業に間に合う電車を逃さないように家を出なければならない。尚人の朝は忙しいのだ。

 のそりと起き上がってとりあえず風呂場に向かう。熱いシャワーを浴びてすっきりと目を覚まし、スエットを着てキッチンに向かうと台所に尚人の姿があった。

「あ、まーちゃん。おはよう」

「おはよう、ナオ」

 にっこりと向けられた笑顔に雅紀の表情が思わず緩む。いると思わなかったので喜びもひとしおだ。

「今日、家出るの遅い日だった?」

 雅紀は少々首を傾げながら問う。

 大学の授業は高校までと違って、必ず一限から受けなければいけないわけではない。授業が二限からのときは確か9時前に家を出ればよかったはずだ。

 そんなことを思っていると、

「やだな、まーちゃん。今日は土曜日だよ」

 尚人がくすくすと笑う。その言葉に、ああ、そうだった。と雅紀は心の中で呟く。大学生は土曜は休みなのだ。

「朝ご飯食べるでしょ?」

 尚人の問いかけに頷いて食卓の定位置に着く。尚人がてきぱきと準備して目の前に二人分の朝食が並んだ。

「ナオもまだ食べてないのか?」

「せっかくだからまーちゃんと食べたいなって思って、待ってた」

 尚人が笑う。その笑顔も台詞も可愛すぎて、雅紀の頬が緩んだ。

「いただきます」

 二人で手を合わせて朝食を食べる。尚人にしては珍しい洋風の朝ごはんで、アメリカンクラブハウスサンドとコーヒーだった。

 口いっぱいに頬張ってガツガツ食べる。野菜も肉も卵もたっぷり挟んであってボリュームも栄養も満点だ。

「マジうまい」

 しかも目の前にはニコニコと笑顔を浮かべている尚人がいて。

(はぁ、幸せすぎる)

 心底思う。

 朝食を食べ終えて、後片付けを終えた尚人を部屋に引っ張り込んでキスをする。キスしたくてたまらない。そんな気分だった。

 ベッドの縁に座って、尚人を腕の中に抱いて唇を重ねる。可愛らしい唇を気の済むまで吸い、舌を差し入れて歯列をなぞる。上顎も下顎も、たっぷり舐めて、舌を絡ませあう。

「……まーちゃん。キス、深すぎ」

 唇を離すと、喘ぐように尚人が呟いて。その様が誘っているようにしか見えなくて、雅紀は煽られるままに尚人を抱いた。

 朝っぱらからのセックスは妙に興奮する。

 自然光の中だと尚人の体がより(つや)めいて見えるからだろうか。

 身体中舐めまわして、(いじ)くり回して。尚人の溜め込んだミルクを吐き出させて。雅紀の(たけ)ったモノを尚人の中にねじ入れて、擦り上げて。喘ぎ声の止まらない尚人を見下ろしながら腰を激しく叩きつけて、雅紀は気持ちよく尚人の奥に精を注ぎ込んだ。

 

 

 * * *

 

 

 突然始まった朝の情事。

 雅紀との体の関係が始まった最初の頃は、二重禁忌にプラスして朝と言う時間帯に罪悪感しかなかった尚人だが、今は違う。雅紀と交わりたい、そう思ったその思いが一方通行ではなかったことがうれしい。

 深い深い口づけを交わして。身体中(まさぐ)られて。興奮しきった体に雅紀の硬くしなったものを挿入されると、尚人は頭の天辺までぞわぞわとした快感に沈んだ。

 朝目が覚めて、隣に雅紀が眠っていると気付いた時にぽっと(とも)った欲望の火種。それを自覚しつつもストレートに誘う言葉を持たなくて。雅紀が起きるのを待って朝食を一緒に食べるのが精一杯の誘いで。

 そんな自分の受け身の姿勢に、尚人は毎回へこむ。

 素直に言えばいい、それだけのこと。

 して欲しいことはきちんと言葉にして。雅紀は常々そう言って、言えばきちんとしてくれる。だから、尚人が素直に。

 ––––まーちゃんとしたい。

 そう口にしさえすれば、雅紀はしてくれるのに。

 でもそれだと、自分が言ったから渋々。本当は疲れていてそんな気分じゃないのに、優しさから抱いてくれるんじゃないかと。そんな気にもなってしまうのだ。

 いまだに自信なんてない。

 雅紀を自分だけのものにできるなんて思えない。

 ただ、雅紀の隣は誰にも譲る気はない。

 それだけは固く決めているのだ。

 同時に昇りつめて、果てる。

 雅紀がわずかに上がった息を整える、その姿を見つめる瞬間が尚人は結構好きだ。気持ちよかったのは自分だけじゃない。雅紀もちゃんと気持ちよかったんだと感じるから。

「ナオ。一緒に風呂入ろう」

 繋がっていた部分を引き抜いて雅紀が甘く耳元でささやく。

「風呂の準備してくるから。待ってて。後でちゃんと抱いて連れて行ってやるから」

 尚人が頷くと雅紀はにっこりと微笑む。

 その笑顔の美しさに尚人はただただ見惚れたのだった。

 

 

 * * *

 

 

 ––––自分で歩ける。

 そう主張する尚人を無理に抱いて風呂場へと向かう。

 抱き上げてしまえば尚人が観念したように身を委ねるのを雅紀は知っているからだ。移動する間、きゅっと掴まってくる尚人が可愛い。

 体をきれいに洗ってやって二人で湯船に浸かる。狭い湯船に男二人で入るには、尚人を膝の上に抱え上げて背面座位で入るのが一番いい。尚人が自然と肩口にもたれかかってくる。二人で風呂に入るのに慣れた証拠で雅紀の独占欲を満たす。

「ナオ、今日の予定は?」

 雅紀はそう問いかけつつ尚人のうなじに口付ける。濡れたうなじが(なまめ)かしい。

 クチュッと卑猥な音が浴室に響いて、尚人の体が小さく震えた。

 その反応に雅紀の喉が鳴る。

(あー、もう一回喰っちまおうかな)

 つい、そんなことを思う。

「––––特にはないけど。家の掃除して、近所のドラッグストアに買い出しに行こかなって……、思ってる」

 雅紀が首筋を強く吸う。ついでのおまけに乳首をきゅっと(つま)むと尚人が息を詰まらせて背をのけぞらせる。反応が可愛すぎて、止まらなくなりそうだ。

「用事ないなら、一緒に出かけよう」

「どこに?」

 別にどこでもいいのだが。雅紀は一瞬考え、そういえばそろそろ寒くなり出して尚人に新しいコートを買ってやろうと思っていたことを思い出す。

 尚人とのアパレルショップ巡りは近頃発見した楽しみだ。ショッピングモールや百貨店のような一般人が多数行き交う場所への出入りは混乱しか呼ばないのが見えているのでさすがに遠慮するが、デザイナー直営のショップや個人がやっているセレクトショップなどは、一度に出入りする客が少ないうえ、店側も色々と配慮してくれるので尚人と二人ゆっくり買い物が楽しめる。尚人を着せ替え人形ばりに色々と試着させるのはなかなかに楽しい。

「昼飯食って。それから、服見に行こう。冬服買いたいし」

「うん。わかった」

「じゃあ、もうちょっと浸かってから出るか」

 雅紀はそう言うと、もう一度尚人の首筋にキスをした。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 急に決まった尚人とのランチデート。

 せっかくだから、料理が美味しいのはもちろん、尚人と二人の時間が楽しめて、ちょっぴり甘々なムードになっても人目を気にする必要がない店がいい。

 ––––さて、どこにしようか。

 こんな時の店選びは、楽しさ半分難しさ半分。レストラン情報に(うと)すぎる自分を自覚する。

 実は雅紀は、世間一般がイメージするようなデートをしたことがない。言い寄って来る女性は数多(あまた)いても、彼女と呼べるような特定の誰かがいたことがないのだ。正直欲しいと思わなかった、ということではあるのだが。

 モデルの仕事を始めた頃は、クラブで騒いでそこで知り合った女性をホテルにお持ち帰り、何てことはよくしていたが、そういった女性とは一夜限りのアバンチュールがお約束。当時の雅紀にとっては見たくない現実から目を背けるための手段にすぎず、排泄行為を単なる排泄行為と思わせない程度の配慮はしても、それ以上でもそれ以下でもなかった。さらには、尚人への劣情を自覚してからは、気持ちいいという感覚すら鈍くなって、女性とのそういう行為そのものが面倒になった。

 そんなものだから、世間でカリスマ・モデルなんて持ち上げられて、おしゃれなレストランに精通していると思われているかもしれないが、そんなことはない。それが現実だ。それに加え、加々美との食事は別として、そもそも雅紀はプライベートで外食をすることがほとんどない。なにしろ雅紀にとって一番うまいのは尚人の手料理で、家で飯を食えるならそれに越したことはない。

 そんな考えだから、必然、レストラン情報には疎くなる。

 とはいえ、その手の情報が全く耳に入らないと言うこともなくて。現場スタッフとかモデル仲間との雑談で「あそこの店は美味しい」「あそこは雰囲気がいい」「あの店は個室があってゆっくり楽しめる」などの話題が上がることも多い。大概聞き流しているが、それでも記憶に留めていたいくつかの候補が雅紀の頭に浮かんだ。

 もちろん記憶に留める基準は尚人と一緒に行けそうかどうかだ。

「ナオ、なんか食いたいものある?」

「俺、まーちゃんと一緒ならどこでもいいよ」

 尚人から想定内の返事が返る。尚人の基本は気遣いで、あまり自分の思いや我儘を口にしない。それが可愛いところであり、ほんのちょっぴり不満なところでもある。

「でも、まーちゃん大丈夫なの。俺と二人で外でご飯とか。騒ぎになったりしない?」

「そんなことになりそうにない店にするから大丈夫」

「あ、そうだよね。まーちゃんがファミレスとかってありえないし」

 事実なのだが、尚人にはっきりそう口にされるとなんかだもやもやする。

 俺だって、ファミレス利用したことあるし。的な?

「そういえば、今時のファミレスって注文がタブレット式って知ってる? 俺さ、去年伊崎さんの写真展見に行った時に、みんなで昼飯食べようって入ったファミレスで注文がタブレット式だったのにびっくりして。みんながあまりにも普通にしてるからこれが今時当たり前なんだって思ってびっくりしたのを飲み込んだんだけど。あれ、すごいよね。だって、店員さん待たせちゃ悪いって慌てて注文する必要ないし、店員さんからすれば聞き間違いのオーダーミスすることもないんだし」

 なぜか急に尚人が饒舌になった。

 一年前に飲み込んだ驚きがぶり返したのだろうか。

 ファミレスのテーブルを囲んで友人らと楽しげに料理を注文する尚人の姿が浮かんで、ちょっぴり妬けた。そんなありふれた体験を自分がさせてやることができない、という意味においても。

「せっかくだからフレンチにしようかな」

「ジャケット着ていく必要ある?」

 尚人がドレスコードを気にする。加々美にあちこち連れ回された成果だろう。

「いや、カジュアルフレンチっぽいはずだから、格好はそんなに気にする必要はないはず」

「そう?」

「だからってカジュアルすぎるのもあれだから」

 雅紀は呟いてクローゼットを開ける。もちろん尚人のコーディネートをするためだ。きれいに折り畳まれたシャツの中から雅紀はフロント部分がストライプ柄になっているオーバーサイズのブルー系のシャツを取り出し、それに濃紺の細身のネクタイを合わせる。上に羽織るアウターはダボっとしたニットカーディガン。パンツをセンタープレスのきちっと入った細身のスラックスにすると、ラフさとスマートさがちょうどいい。

「ついでだから髪もセットしよう」

 雅紀はそう言って尚人を洗面台へ連れていく。尚人の髪はさらさらでその手触りが最高だと思っているのであまりワックスでベタベタにはしたくない。こんな時に活躍するのがヘアバーム。艶感と適度なキープ感、両方こなしてくれる優れものだ。ほんの少し毛先を遊ばせて雰囲気を作る。

「まーちゃん、すごいね。ヘアメイクさんみたい。こんなちょっとで、いつもの俺じゃないみたいだよ」

 日頃ワックスをつけ慣れない尚人が感心しきりに呟く。反応が可愛すぎて口元が緩む。雅紀も着替えて出かける準備が整うと二人で車に乗り込んだ。

 目的地に着くまでの一時間弱のドライブが楽しい。助手席に尚人を乗せて、とりとめもない会話を楽しむ。着いた先は海を望むこじんまりとしたレストランだ。

「あ、ここ来たことある」

 到着した途端、尚人が爆弾発言した。反射的にモヤッとした感情が雅紀に湧く。例えるならデート中突然「ここ元彼と来たことある」と言われたそんな感じだ。

「加々美さんに連れて来てもらった時は、やっぱりおしゃれなお店知ってるなあって感心してたんだけど。——ひょっとして、モデルさん御用達のお店とか?」

 真顔で問いかける尚人には悪気など欠片もないのだろうが。

「ナオ。二人でいる時に他の男の話なんてされたくないんだけど」

 つい声が尖る。すると尚人が一瞬驚いた顔をして、しなしなとしょぼくれた。

「——加々美さんでもダメなの?」

 むしろ加々美だからダメなのだ。なぜなら勝てる相手じゃないから。………とは口に出して言いたくないが。

 もちろん、尚人が加々美相手に雅紀が気にするような特別な感情など1ミリだって抱いていないことは承知の上だ。それでも、

「二人っきりの時は、俺のことだけ考えてて欲しい」

 それが本心だ。

「——加々美さんと来た時は緊張しちゃってあんまり料理を楽しめなかったから。まーちゃんと一緒だったらよかったのになって思ってて。だから、今日一緒に来れて嬉しいって、思って。………それも言っちゃダメ?」

 ほんのわずかの上目遣い。尚人以外にされたらあざとすぎて冷めるところだが。しおしおとしおれた後の尚人が、おずおずと伺う様がかわいらしすぎて。下降した気分が一気に上昇する。抱き寄せて額にキスしたいが、さすがに駐車場に止めた車中ではまずい。そのくらいの理性はまだある。

「俺もいつかナオと一緒に行きたいなって思ってたから。来れてよかった」

 雅紀が微笑みかけると尚人がぱっと表情を明るくした。分かり易すぎて、かわいいしかない。

 家を出る前に電話で予約を入れていたので店内に入るとすぐに個室席に通された。暑くも寒くもないちょうどよい気候で、テラスに繋がる窓が開放してあった。テラスの向こうには海が見える。開放感抜群だ。シェフおすすめという『季節のお任せコース』を頼む。フラワーボックスを思わせる季節野菜のテリーヌ、キノコのポタージュと続き、メインは牛ロースのソテーだ。質より量の大食漢なら食べた気がしないと言いそうだが、少食の尚人にはそこそこのボリューム。デザートまで入るかと密かに心配したが、よほど口にあったのかぺろりと平らげた。

「ごちそうさま。すっごくおいしかったね」

 食後のコーヒーを飲み終えて店を後にする。雅紀にとっては家で食う飯が一番だが、こうして尚人が楽しそうにしていると二人で外で食べるのも悪くないと思う。それに、さすがに家庭で作るには難易度の高すぎる料理を楽しむのも外で食べるメリットだ。

 再び車に乗り込んで今度は都内に向かう。行きつけのセレクトショップが今日の目的地だ。近くのパーキングに車を止めて店内に入ると見知った店員が笑顔で出迎えた。

「あ、『MASAKI』さん。いらっしゃい」

 店員の秋元はスタイリストとしても活動するファッションのプロ。テレビ出演者の衣装提案などに携わることが多いらしく、流行に詳しいだけにとどまらず衣装が見る人に与える影響などについてもよく研究している。モデルならば仕事で着る服はその服の良さを最大限引き出すのが役目だが、モデルだからと言ってプライベートまで肩肘張ってばかりもいられない。かといって普段着がダサすぎるというのも仕事上差し障る。それで、着心地とおしゃれ感と印象の良さのバランスの良いところを探そうとすると秋元みたいな店員のアドバイスは非常に役に立つ。ということで、この店は雅紀がかなり気に入っている店のひとつだ。

「お連れ様と一緒なんて珍しいですね」

「弟だよ」

 雅紀が伝えると一瞬秋元の顔に驚きが浮かんで、

「え、弟さん?」

(めっちゃ、かわいい)

 言外の声が聞こえた気がした。

「はじめまして、尚人です」

「秋元です。どうそよろしく」

 尚人がペコリと頭を下げて挨拶すると、秋元がにっこりと営業スマイルで応える。しかしその目が「いい素材見つけた」と言わんばかりにきらりと光ったのを雅紀は見逃さなかった。

「尚人さんは、学生さんですか?」

「あ、はい。大学生です」

「普段学校に行く時も、今みたいなスマートカジュアルが多かったりします?」

「この格好って、スマートカジュアルって言うんですか?」

「うーん、そうだね。スマートカジュアルって、インフォーマルに近いカジュアルスタイルをそう呼んでて。厳密にこれっていう定義があるわけじゃないんですけど。オーバーサイズのカジュアル感のあるシャツに細身のネクタイ。それにセンターラインのしっかり入ったパンツを合わせるとか。甘辛ミックスでかなり上級者のコーディネートなんで。こういう格好がお好きなのかなって」

「あの、今日は兄がコーディネートしてくれて。俺、おしゃれにはあまり詳しくないから。いつもはもっと普通にシャツとパンツです」

「シャツってTシャツ?」

「基本襟付きのシャツです。……Tシャツ着てる学生って多いんですけど。俺はなんとなくTシャツで授業受けるのに抵抗があって」

「へぇ、そうなんだ?」

「……高校までの制服の感覚が抜けないって言うか」

「あー、なるほど。男子高校生の制服って、ブレザーにきっちりネクタイ締めるスタイルが多いですもんねぇ。世の中クールエコスタイルとか言って夏場はネクタイ締めない大人が増えてるのに、高校生には締めさせるみたいな。ね?」

「そうですね。授業を受ける時の身だしなみには結構厳しい高校でした」

「初めは抵抗あるかもですけど、Tシャツでも、上に一枚テーラードジャケット羽織ればスマートカジュアルスタイルになるんですよ。これからの季節だと長袖Tシャツとか薄手のニットトップスにジャケットを合わせるのもいいですね」

 秋元はそう言ってラックからジャケットを取り出して目の前に並べる。

「今年はアースカラーが流行(はやり)なんで。結構、取り入れやすいと思います」

「あ、それ。ひょっとして神岡健斗さん?」

 雅紀が指摘すると、秋元が「さすがですね」と言わんばかりに頷いた。

「そうです。今、人気急上昇中のデザイナーさんです」

「仕事で着た時に、着心地が軽くて、おしゃれで、シワになりにくくて。これから人気出るだろうなって思ってたんですよ」

「まさにそうなんです。家で洗えるってのも人気の要素で。なかなか入荷できないんですけど、今日は新作が入って来たばかりで。これだけアイテムが揃ってるのって珍しいんですよ」

「へぇ」

「『MASAKI』さんも着てみます?」

「ナオが着てるとこみたい」

「了解です」

 秋元が心得たようにアイテムをいくつか手にして尚人をフィッティングルームへ案内する。尚人は「え、俺?」という感じの驚いた表情をしていたが、雅紀と秋元のツーカーの雰囲気に押されて素直に従った。

 それからはもう雅紀と秋元のいい着せ替え人形だった。あれも、これも、と何でも着せてみる。いろんな雰囲気の尚人を見るだけで楽しかったし、秋元の解説つきなのも雅紀的に面白くて勉強になった。どれもこれも似合うので、あれもこれも買ってやりたかったが、尚人が固辞したので上下ワンセットだけで我慢する。もちろん一番のお目当てだったコートもしっかりゲット。ダッフルコートは持っているので今回は普段使いしやすいモッズコートにした。

 せっかく尚人と買い物に来たので雅紀も何点か購入する。試着して尚人に見てもらうたびに「雅紀兄さん似合いすぎ」「かっこよくて目が潰れそう」「なんでも似合いすぎてどれがいいとか選べない」など、これでもかと持ち上げてくるので雅紀の気分もあげあげだった。

 会計を済ますと、

「雅紀兄さん、ありがとう」

 尚人がはにかんだ笑顔で礼を言う。

 抱き寄せてキスをして、耳元で

「脱がす楽しみのためだから」

 なんて睦言を囁いて尚人の反応を楽しみたいが、それはぐっと我慢する。

 雅紀の携帯電話が『加々美蓮司』と表示して鳴動したのはそんなタイミングだった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

錯綜のステージ 1

 ファションマガジン『KANON』。その今月号を手に『ショウ』こと宗方奨(むなかたしょう)は心をざわつかせていた。

 モデル仲間から教えられてチェックした『リゾルト』イヤフォンのテレビコマーシャル。その特集記事が今月号の『KANON』に掲載されているのだが。

 ––––なんで。

 ––––どうして。

 ––––どういうこと?

 先ほどから頭の中をそんな言葉がループしている。

 『ヴァンス』がCMに衣装提供した。そう聞いた。しかし………

 ––––これってイヤフォンのための販促グラビアじゃないの?

 雑誌の特集記事は『ヴァンス』全面押しで。販促グラビアというよりまるで『ヴァンス』の新作発表だ。しかも5色展開のイヤフォンに合わせて衣装も5種類あって。それを一色一ページで掲載するという扱いの大きさ。

 『ヴァンス』の専属モデルとして、『ヴァンス』ならば『ショウ』と言われるようにがんばってきた奨にとっては寝耳に水もいい出来事で、正直ショックだった。

 突然表舞台に現れた『NAO』。正体不明の新人の出現にモデル仲間たちはざわついているが、奨は彼を知っている。会ったことがある、という意味においてだが。それゆえに(かえ)って謎が謎を呼ぶ。

 なぜ彼が………。

 当然、そんな疑問が浮かぶ。

 ただのスタッフ………、ではなかったということか。

 デビュー前教育の一環だった?

 そんなふうにすら疑う。

 奨が『NAO』を初めて見かけたのは、『ヴァンス』のユアンと初めてグラビア撮影に臨んだ日。大晦日のビックイベント、カウントダウン・ランウェイの翌日の正月で。なぜか彼は現場にいて、超絶人見知りと噂されるユアンが自ら歩み寄って声をかけていた。そんな衝撃的な光景が出会いだった。『タカアキ』こと夏目貴明(なつめたかあき)が言うには、彼は学校の体験学習で『アズラエル』にやって来た高校生で、超多忙なはずの加々美を引率者にするというあり得ない待遇を受けていたらしい。その日の正月の撮影現場に加々美はいなかったが、現場責任者の石田にべったりとくっついていて。だから、『アズラエル』側のスタッフなのだろうと、奨は受け止めていた。

 その日は読者モデルの撮影も一緒に行われていたから、そっち関係のスタッフかもしれない、と。さほど疑いもせず。

 しかし……

 その後、『ヴァンス』と『アズラエル』との間で専属モデル契約が締結され、その記念のムック本発売が決まったのだが、そのためのグラビア撮影の現場にも––––彼はいた。

 関係者しか入れないはずの撮影現場に、まるで『ヴァンス』のスタッフの一員であるかのように。あまりにも当たり前に。自然に。ユアンのブースにいて。馴染んでいた。

 貴明は彼のことを「コネを乱用するクソガキ」呼ばわりしてなぜか敵視していたが、ただのクソガキが加々美もクリスも同席するユアン専用のブースにいられるはずはなく、そのことは、その場でマネージャーの的場にも確認した。とはいえ、的場も彼が誰なのかまでは知らなかったようだ。そしてついでのように、「『タカアキ』君は、加々美さんびいきが行き過ぎているところがあるので『タカアキ』君の発言を鵜呑みにするのもどうかと思います」と釘を刺された。「社内外での発言には十分注意するように」と。それには奨も完全に同意で。人は人、自分は自分、と。周りを気にしすぎないよう。人を気にするくらいなら自分を高めようと。そうした努力の方に意識を集中させてきた。その一つが英会話。超絶人見知りと噂のユアンと彼が親しく言葉を交わしていたのは、やはり英語で流暢に会話できることが大きいと思ったからだ。それにこのご時世、仕事の幅を広げていくためには英会話はできて損はない。

 現在モデル界のトップを走る『MASAKI』もネイティブ並みに英語を話す。日本人離れした容貌もあって最初はバイリンガルも当然のハーフだと思っていたが、実際は生まれも育ちも純粋な日本人だった。英語は外国人の会話を耳で聞いて覚えたらしい。

 英語が話せれば、外国人スタッフと直接言葉を交わせる。

 ちょっとした確認事項を直ぐに聞くことができる。

 互いに意思疎通ができれば心理的距離も近くなる。

 撮影現場で親しくなれば次の仕事につながる。

 『MASAKI』は正にそれを実践している。現場で一緒になった時にそう見えた。奨は自学のみで英語が話せるようになるとはとても思えなかったので、英会話教室に通う選択をしたが。

 見た目だけでスカウトされても、見た目だけで仕事は続けられない。モデルとはシビアな世界。キャリアを積むごとにそれを実感する。

 奨と同期の貴明は、最初こそその華やかな風貌と「ガンガン行こうぜ」という勢いのあるキャラが受けて奨より先行していたが、自堕落気味の生活を改められないのと、スポンサーに対する勉強不足などから最近は失速気味で、「モデルとしての賞味期限は切れた」などと陰口を叩かれている。噂話程度だが俳優転向も検討しているらしい。デビューしてまだ三年。それがモデルの現実なのだ。そして毎年「新人」が誕生し、誰かが去って空いた枠を埋めていく。

 『ヴァンス』の専属になれた『ショウ』は、同期より一歩先んじた。専属である以上いろんな仕事はできないが、仕事を掛け持ちして駆けずり回る必要はなく、スケジュールの見通しが立つのでスキルアップの時間も持ちやすい。マネージャーの的場からは「そろそろ『ヴァンス』との契約が更新の時期を迎えますから、次も使ってもらえるよう頑張っていきましょう」と発破をかけられていたが、奨もそのつもりで日々精進していた。

 一つ一つの仕事に集中して。丁寧に。それでいてけっしてマンネリにならないように。表情一つ、雰囲気一つ作るのにも努力を惜しまないで。その手応えは確かに感じていたのだ。

 その矢先の、今回の出来事。

 それに奨は動揺する。

 『ヴァンス』は『アズラエル』と専属モデル契約を結んでおり、現在日本で『ヴァンス』がモデルを必要としたら『アズラエル』のモデルを使わなければならない。その『アズラエル』から推薦されたのが『ショウ』で、『ショウ』は『ヴァンス』合意のもと専属モデルを務めている。だから、雑誌に『ヴァンス』の衣装を着てグラビアを飾るとしたら、そのモデルは自分であるはず。………ではないのか。

 CMだけならまだ納得する。しかし、こうして雑誌に『ヴァンス』全面押しで掲載されれば、まるで彼が『ヴァンス』のモデルであるかのように読者の目には映るだろう。

 『ショウ』を押し除けて、次の『ヴァンス』のモデルは彼なのだ、と。

 それとも、実際そうなのか?

 もしかして、最初からそういう契約だったとか?

 専属モデルは一人とは限らない、というような……。例えば、『ショウ』との契約期間中であっても、新たにモデルを起用して、以降はそのモデルにグラビアを任せることもある、というような。

 もしそれがOKなら、自分は飼い殺しされる可能性だってあるのではないか。

 そんな不安が一気に湧いた。

 『ヴァンス』との契約が終わるまで仕事は制限される。そんな中で『ヴァンス』に仕事をもらえないとなれば、あと数ヶ月のこととは言え、キャリアのことだって、生活のことだって、不安は付きまとう。それにそんなケチがついたモデルを次使ってくれるところがあるのかという不安だって当然出てくる。

(………でも、そんな事態になってるなら、的場さんが何か言ってくるはず。だよね?)

 マネージャーの的場のことは信用している。デビューしてこの方二人三脚で頑張ってきた。同期の『タカアキ』の方が先に売れて、焦る気持ちもないわけではなかった時にも「焦らずじっくりきましょう」「チャンスは必ずきますから」と励ましてくれ、『ヴァンス』の専属が決まったときは、とても喜んでくれた。

(だから、却って言いにくい?)

 ………そんな気も、しなくもなくて。

 こんな気分になるのは、認めたくはなくても、間違いなくこのグラビアがいいからだ。着る者を選ぶと言われる『ヴァンス』をここまで着こなせるのは自分だけ。そんな自尊心があったのに。

 『NAO』のグラビアは、悔しいが––––いい。

 『ヴァンス』を着こなしている、というよりも、独特の雰囲気を醸していて、『NAO』でしか生み出せない世界観を生み出している。それは単に服を着こなすことより重要なこと。多少の経験を積んできたからこそわかる。………わかってしまう。

 『NAO』の特性は、強力な個性だ。

 そしてその個性は、CMでも明確だった。

 人を引き込む瞳の引力。静かで、穏やかで。華やかさはないのに、目が離せない。凛として、気品に満ちて、––––それでいて、なぜかどことなく艶っぽい。

 ネイチャー・フォトグラファーの『GO-SYO』が撮ったのだから自然美は抜群に美しい。CMの最初は、その朝焼けの美しさにまず目が奪われる。しかしカメラが人物にズームアップしていく中で、朝焼けの美しさに決して負けない『NAO』の人目を惹きつける力に視聴者は釘付けになっていく。そして最後はドアップになった『NAO』の双眸に引き込まれるのだ。

 悔しいけど、あのCMはすごくいい。

 普通なら派手目立ちするはずの『ヴァンス』の衣装もなぜかしっとり馴染んで。『ヴァンス』は色だけが特徴のブランドではなく、その形も美しいのだと再認識させられる。––––そんな気すらする。

 そのシルエットの美しさも、あのCMの世界観を下支えしている。そんな観点から見ると、あのCMはイヤフォンのCMながら『ヴァンス』の良さを再認識させるCMでもあるのだ。だからこそ、ファッション雑誌でCM衣装が特集として成立する。

 そこにすっぽりとはまった『NAO』に嫉妬する。

 奨は雑誌を見つめたまま唇をかみしめた。

 

 

 * * *

 

 

「ジェイミー。日本の出版社から荷物が届いてるわよ」

 マネージャーのダニエラからそう声をかけられて、ジェイミー・ウェズレイはわずかに首を傾げた。

「どこの出版社?」

「前に日本に行った時に、取材をオッケーした出版社よ」

「ふーん」

 クラフトバッグに入った荷物を手渡されて受け取る。こうした荷物は当然、ダニエラの検閲済みで、渡しても問題ないと判断されたものだけがジェイミーの手に渡る。––––だが、わざわざ渡すまでもない、と判断されたものが勝手に処分されていることも知っていて。つまりはこうした荷物がダニエラから手渡されること自体が珍しく、ジェイミーは一瞬キョトンとしてしまった。

 差出人を確認すると『Osaki Mizuki』とある。

 心当たりを探して首を捻り、

「あ! ミス・オーサキ」

 ジェイミーは思い出して小さく叫んだ。

 大崎は雑誌の取材を受けたときのインタビュアーだった女性で、個人的な人捜しに協力を申し出てくれた人物でもある。

 ただ、残念ながら、今に至るまで捜し人が見つかったという連絡はない。ジェイミーの捜す『ナオ』に心当たりがありそうだったので、すぐに見つかると期待したのだが。

 一度だけ様子伺いのメールをした。その返信。

【以前仕事の取材で通訳をしてくれたことがあって。それで会ったことはあるんだけど。こっちで準備した通訳ってわけじゃなかったから、どこの誰かってまでは知らないのよ。一応、東京大学まで行ってはみたんだけど。残念ながら、お伝えできるような情報は今のところないの。ごめんなさいね】

 代筆してもらったというメールにはそうあった。

 大崎は英語が喋れないから、気軽に電話で進捗状況を確認できないのがもどかしい。「まだ見つからないのかな」と気にはなっていたが、ジェイミー自身忙しい毎日を過ごす中であっというまに半年が過ぎている。

 そんな中届いた大崎からの荷物。

 ちょっぴりドキドキ、ワクワクしながら中身を確認すると、クラフトバッグから出てきたのは日本の雑誌『KANON』だった。

 この雑誌には一度ジェイミーも掲載されている。その時送られてきた見本紙は、日本初仕事の記念としてジェイミーがもらった。自分が掲載された雑誌をいちいちコレクションする趣味はないが、何となく『ナオ』と繋がるもののような気がして傍に置いておきたかったのだ。

「最新号ってことかな?」

 ジェイミーは表紙を確認しパラリと一枚めくる。そして次の瞬間、声にならないほど驚いた。

「!!!!!!」

 え?

 うそ………

 なに。

 どういうこと?

「ナオ!」

 一度しか会ってないが、すぐにわかった。

 凛とした雰囲気の中にある瞳の引力。それが、道端で出会った時よりも明確で。––––––––ジェイミーは息を飲む。

 モデルだったってこと?

 それとも、あの後スカウトした?

 大崎が? いや、彼女は雑誌記者だから、彼女自らがスカウトに動くはずがない。

 ただ、自ら「ナオ捜し」に協力を申し出たはずの大崎が、今に至るまで何の連絡もしてこなかった理由が何となくわかった気がした。

 『ナオ』が見つからなくても、大崎が『ジェイミー』に連絡を入れるメリットは大きかったはずだ。世界的モデルと個人的に繋がる。そのメリット。ジェイミー自身それを自覚していて、だからこそ大崎が積極的に連絡を入れてこない状況を不思議に思っていた。

 だが………

 『ナオ』が既にどこかの事務所に所属しているモデルだったら? 大崎が勝手に『ジェイミー』と引き合わせることはできない。そういう判断があったのだろうと理解できる。

 雑誌は全て日本語で、何と書いてあるのかわからないが、着ている衣装が『ヴァンス』であることはわかる。『ヴァンス』はここ数年日本市場で規模を拡大することに注力していて、日本最大手モデル事務所『アズラエル』と専属モデル契約をしていることも知っている。そしてその『アズラエル』は、ジェイミーが日本で仕事をする際に代理店契約をしている事務所でもある。

「ダニエラ! この雑誌に載ってる『NAO』ってモデルのこと。何か知ってる?」

 ジェイミーは雑誌をダニエラに見せる。ダニエラは「一体何よ」と言いたげな表情で雑誌を覗き込んでから、軽く肩を竦めた。

「知らないわよ」

「『NAO』って名前に聞き覚えもない?」

「ないわよ」

「『アズラエル』のモデルかどうかって確かめられる?」

「確かめようと思えばできるでしょうけど。………彼が何か気になるわけ?」

「すっごく気になる。ついでに、次の日本での仕事っていつ?」

「ジャパン・コレクションよ」

「それって三月だよね? その前に日本に行きたい」

「はぁ? 突然どうしたのよ」

 ダニエラは、一体全体何なのよ、と言いたげにもう一度肩を(すく)めた。

「確か年末にどうとかって前話してたよね?」

「カウント・ダウン・ランウェイのこと?」

「そう、それ」

「それなら断ったわよ。わざわざ年末年始に仕事しなくてもいいでしょ」

「なんて言って断ったの?」

「スケジュール調整が難しいって」

「じゃあ、調整がついたって返して。日本に行きたい」

「はぁ? 私、年末年始はニースで過ごす予定なんだけど」

「別にダニエラがついてくる必要ないよ」

「一人で日本に行くつもりなの?」

「別に子供じゃないんだから、一人で行けるし。それに、あっちの事務所と代理店(エージェンシー)契約してるんだら、日本のスタッフが何とかしてくれるよ」

 ダニエラが何か叫んだが、ジェイミーは気にすることなく携帯電話を取り出してメールを打つ。相手はもちろん、雑誌の送り主、大崎美月であった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

錯綜のステージ 2

 モデル事務所最大手『アズラエル』統括マネージャー高倉真理の執務室。その部屋の本革張りのソファーに座り、加々美蓮司は長い足を持て余し気味に、自分で淹れたコーヒーの香りを堪能していた。

 近頃のお気に入りはグァテマラ産のコーヒーで、加々美のためだけにストックしてもらっている。

「で、話って何だ?」

 いつもなら気が向いた時に勝手にこの部屋にやってくる加々美だが、今日は珍しくも高倉に呼び出された。世間話程度のことなら電話で済む。わざわざ執務室まで呼び出すのだから、ある程度込み入った話なのだろう。

 ––––『ヴァンス』の件かな。

 そんな想像をする。

 クリスから、年末恒例のカウント・ダウン・ランウェイで尚人が使えないかと相談されたのが数日前のこと。もろもろ検討して折り返すと返事をして、まだ高倉に話していないのだが、耳ざとい高倉のことだから、どこからか嗅ぎつけたのかもしれない。

 ––––まあ、それなら話が早くて済むけどな。

 そんなことを思っていると。

「カウント・ダウン・ランウェイの件なんだが」

 高倉が想像通りのことを口にした。

「それがどうかした?」

 一応素知らぬ顔でそう問い返す。

 高倉と腹の探り合いをする気などさらさらないが、相手の言葉は最後まで聴くものだ。

 一方の高倉は、いつも通りのポーカーフェイスで淡々と言葉を続けた。

「『ジェイミー』が急遽参加できると連絡してきた」

「は?」

 え?

 あ?

 ………そっち?

 いやいやいやいや、十分ビックニュースだが………

 予想外の言葉に一瞬固まって。

 加々美は、落ち着きを取り戻すためにコーヒーを口に運んだ。

「––––そりゃ、良かったじゃないか」

 イベントの目玉として『ジェイミー』を呼べないかと関係スタッフが手を尽くしていたのは知っている。今年の春に『アズラエル』と代理店(エージェンシー)契約を交わして日本での活動も期待されているだけに関係者の期待値の高さも想像がつく。

 しかし、先方からの返事はけんもほろろだったと聞いていた。

 カウント・ダウン・ランウェイは、日本国内で活躍するモデルにとってはかなり重要なイベントでも、グローバルなイベントではない。さすがに世界的に活躍するモデルを呼ぶのは難しいか、と加々美も思っていたのだが。

 一体、どんな心境の変化があった?

 それとも単なるギャラの問題だったのか。

「こっちか?」

 加々美がそっと指で輪を作って高倉に示すと、高倉は首を横に振った。

「スケジュール調整が難しいって理由で断られていたんだが。調整がついたって連絡があった」

(へぇ………)

 『ジェイミー』が参加するとなるとイベントに箔が付くし、盛り上がりもするだろう。嬉しいビックニュースのはずだが。高倉の表情がいまいち冴えないのがどうにも気になる。

「それで、何か気になることでも?」

「条件がついてた」

「条件?」

 軽く首をひねる。

 ギャラ、……ではないと言われたばかりで。

「あ、トリを務めたいと言ってきたとか」

 イベントのトリは、ここ数年ずっと加々美が務める。ステージ・モデルとしては第一線から退いている加々美だが、その年一番旬の女性モデルを加々美がエスコートして締める、それが恒例になっている。一番美味しい役どころだ。––––とはいえ、加々美的にはそれでイベントが盛り上がればいいと考えている程度で、その席にしがみつく気はさらさらない。

(ジェイミーがトリを務めたいってんなら、それでもいいんじゃ?)

 それでイベントが盛り上がるならそれでいい。

 あとはイベント責任者の考え方次第だが。

「ある意味、そっちの方がわかりやすかったかもな」

「はい?」

「尚人君に会えるようセッティングしろと言ってきた」

(はぁッ?)

 加々美は飲みかけのコーヒーを吹き出しそうになって、思わずむせた。

 それって、

 一体、

 ………どういうこと?

「正確には、年末のイベントに出席するために日本に行くから、そのタイミングで雑誌『KANON』でグラビアを飾ったモデルの『NAO』に会わせてくれって」

「………………………………………なんで?」

「さあ?」

 高倉は小さく肩を竦める。

「それって『KANON』を見たってことだよな?」

「まあ、そうだろうな」

 ファッション・マガジン『KANON』は、電子版も出しているが、基本的には日本人を相手にしている雑誌。世界をまたにかけて活躍する『ジェイミー』が日頃からチェックしているとは思えないのだが。

 たまたま目にした?

 それとも、普段から世界各国の主要ファッション誌は目を通しているのか。

 あるいは、日本で活動拠点を作ったのをきっかけに日本を重点的にチェックしているとか?

 それでも、なぜ尚人なのか、その辺がさっぱりわからないが。

 『KANON』に載った尚人のグラビアの良さは加々美も認める。それでも、世界的に活躍するほどのモデルである『ジェイミー』が雑誌グラビアを見ただけの無名モデルに「会いたい」と思うものだろうか。

 その辺は『ジェイミー』の個人的性格による、としか言えないのかもしれないが––––。

 ただし、会いたい理由が友好的なものとは限らない。

 加々美はそう思い、ふとあることに気づく。

(……………………)

 ……ひょっとして。

 …………まさか、だが。

 この業界、ゲイ度が高いのは事実。加々美の友人知人にも、内々ではカミングアウトしている者がいるし、海外で仕事をすればその手の割合がグンと上がることも実感している。ただ、それをことさら吹聴する気はないし、仕事に影響さえしなければどうと思うこともない。あくまでプライベートの話だからだ。慣れない頃はその手の誘いに辟易することもあったが、今はあしらい方も心得ている。

 ………だが。

 もし、

 万が一、

 ジェイミーがそうであって、

 その対象が尚人に向いているのだとしたら…………

(マズ過ぎるだろ)

 主に雅紀方面で。

 尚人にそんな感情を向ける者がいたとしたら雅紀が許すはずがない。

 クリスが最初に尚人に興味を持った時もまずそこを疑っていた雅紀だ。『ジェイミー』が尚人に会いたがっていると知っただけで静かにマジギレしそうな感じがする。

 そして、もし、『ジェイミー』が尚人に会って、以降ちょっかいなど出そうものなら、––––––––––––雅紀は本気で許さないだろう。

 尚人がかつて暴力事件の被害者になった時、加害者だった少年を思い切り殴りつけた雅紀だ。雅紀は尚人を守るためなら、自分の立場などかえりみない。しかも、そのことを記者会見の場で突っ込まれても、謝罪するどころか、正々堂々悪びれもせず、自分の行動原理を主張する。腹の()わり方が半端ない。

《ひとつ間違えば命にもかかわる無残な(なり)で弟がベッドに寝かされているのに、その暴行犯は自分のやったことを猛省することもなく、それどころか、厚顔不遜な態度を隠そうともしない。それを目の当たりにして冷静でいられるほど、私は人間が出来ていませんので。殴ったことが悪いといわれるのであれば、その叱責は甘んじて受けますが。私は、殴ったことを後悔などしていません》

 あれはまさしく雅紀の本音だ。

 仕事では常にポーカーフェイス。喜怒哀楽の感情を滅多に見せることはなく、無駄口もたたかない。それゆえ、雅紀がいるだけで現場の体感温度が下がるとさえ言われる。あの雅紀が怒りを隠さず、しかも殴ったことを謝罪したりもしない。

 相手が世界的に知名度のあるモデルだろうが、雅紀にとっては関係ないだろう。

 尚人が絡めば、雅紀は加々美の言葉だって聞く耳を持たない。それがわかり過ぎるぐらいに加々美は雅紀のことを理解しているつもりだ。

「えーと、ひとつ確認なんだが」

「何だ」

「………『ジェイミー』がゲイってことはないよな?」

 高倉がポーカーフェイスのまま加々美を見やって、銀縁メガネのブリッジをクイっと押しやった。

「そんな噂は聞いたことがないが。………ひょっとして、そっちの心配をしているのか?」

「そりゃあ、だって。世界的に活躍している『ジェイミー』がさ、なんで雑誌で見ただけの尚人君に会いたがるのかなって、不思議だろ」

「だから、プライベートな理由なら納得がいくと?」

「可能性がゼロじゃないだろ」

「––––まあ、ゼロではないな」

「だからさ。万が一にもそんな理由で尚人君に目つけてんなら、当然会わせるわけにはいかいってなるだろ」

 高倉はポーカーフェイスのまま押し黙る。

 加々美は、何とも言えない気分を鎮めるためにコーヒーを口に運んだ。

「裏付けが何もないのに杞憂すぎる気もするが。代理人(エージェント)が二人を合わせるのに反対だっていうなら、スケジュールが合わなかったとでも返しておくか?」

 高倉の言葉に加々美は口の端を歪めた。

「それで済むなら、簡単なんだがな」

「何かあるのか?」

「実は、これから話そうと思ってたんだが。クリスがカント・ダウン・ランウェイで尚人君を使えなかって打診してきてる」

「なるほど」

 高倉は呟く。

「それを俺に話そうと思ってたってことは、お前も乗り気ってことだな」

「尚人君のランウェイを見たいって思うのは当然だろう。お前だってそうじゃないのか」

「興味があるのは否定しない」

「ただ『ヴァンス』はまだ『アズラエル』との専属契約が終わってないから、それで尚人君を使うのはどうかなって思う部分はあるわけだ」

「ゲスト出演にすれば問題ないだろう。尚人君は(さいわい)にしてどこかのモデル事務所に所属してるわけじゃないから他事務所のモデルを使ったってことにはならないし。『KANON』にあれだけ大々的に載せたんだから、『ヴァンス』のモデルとしてゲスト出演しても誰も不思議には思わない」

「調整は可能ってことだな」

「もちろん事前にナイブズ氏と話し合う必要がある。今後の双方の方向性含めて」

「……………………」

 聞く者が聞けば恐ろしいセリフを淡々と吐き出す高倉のその言葉に、加々美は吐き出しかけた言葉を結局は飲み込む。やり手ビジネスマンの高倉に加々美の助言など釈迦に説法というものだろう。

「……でだ。話を戻すと。二人ともカウント・ダウン・ランウェイに出るとしたら、それで会わせないってわけにもいかないだろう? 立場的には向こうのほうが絶対的に上なわけだし。むしろ尚人君の方から挨拶に行くべきってことになる」

「そうなるな」

「あのイベントは俺自身も出演するから、尚人君につきっきりってわけにもいかないし」

 加々美が呟くと高倉がくすりと笑った。

「尚人君は俺たちが思っている以上にしっかりしている。そうじゃなかったか?」

「それは。………まあ、そうだが」

「ユアンとの時だって、自分でちゃんと出来ること出来ないこと伝えていたじゃないか。それでも心配なら先に注意を促しておけばいい。この業界、いろんな思惑を持った人間がいるのは確かだしな」

 高倉の正論に加々美はため息をつくしかなかった。

 尚人が思いっている以上に大人であるのは事実だが、周囲の大人が想像する以上に初心(うぶ)であるのもまた事実なのだ。

 とはいえ、大事に大事に囲い込みすぎては、少し前までの雅紀と変わらない。世界を広げる手助けをする、そう約束して加々美は尚人の代理人になったのだから。

「じゃ『ジェイミー』には了解したと伝える。それでいいな?」

「OK」

 加々美はわずかに肩を(すく)めてそう答えると、カップにわずかに残っていたコーヒーを飲み干した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

錯綜のステージ 3

 おもしろくねぇ

 おもしろくねぇ!

 ちっとも、おもしろくねぇッ!!

 

 近頃貴明は、とにかくイラついていた。

 何もかもが悪い方へ転がっている。そんな気がする。

 去年の今頃は、とっくにカウント・ダウン・ランウェイの出演が決まっていた。しかし今年は「まだ」どころではない。このままでは出演できないのでは? という危機感さえある。というのも、マネージャーが加藤から狭山に変わってからチンケな仕事ばかりさせられているからだ。

 サプライズゲストと言えば聞こえは良くても、ド素人のお遊びのようなファッションショーへの出演だったり、地方タレントしか出演しないようなローカルイベントの参加だったり。そんな近頃の状況に「『タカアキ』も終わったよな」そんな陰口を叩く連中がいるのも知っている。

 大きな仕事さえもらえれば、そんな連中の口なんてすぐさま塞げる自信がある。しかし、その大きな仕事がもらえない。その全てに貴明はイラつく。

 『ジュエリー・テッサ』の件は確かに自分にも多少の落ち度はあったかもしれない。しかし、モデルを好きに振り回すあの女社長をうまくあしらいつつ、自社モデルが仕事をしやすいよう環境を整えるのはマネージャーの仕事であったはず。その点で言えば加藤マネージャーの力量不足は否定できず降格は仕方がないのかもしれないが、本業(モデル)の方で手を抜いたわけでもない自分までもが割りを食った感じがあるのはどうしたって納得がいかない。

 しかも、後任の狭山マネージャーは、どう考えても自分を軽く見ている。『アズラエル』の大型新人としてデビューした自分は、『アズラエル』にとって大切にすべき人材であるはずなのに、取ってくる仕事はありえないものばかり。大型新人と喧伝してデビューさせておきながら、その活動がたった3年で失速するような事態は『アズラエル』にとってもまずい事態のはずなのに!

 加藤マネージャーが力量不足なら、狭山はさらにその上をいく職務怠慢だ。この時期になってもまだカウント・ダウン・ランウェイへの出演が決まらないことがその証左。このイベントがどれほど大事か、日本のモデル業界に身を置く者なら知らないはずがない。しかも近年は『ヴァンス』が参加したりとグローバルなイベントへと成長しつつあり、注目度はますます上がっている。その大事な大事な大事なイベントを調整できないでいるなんて狭山はどうかしている。

 部長の榊は、こんなことになっているのを承知しているのだろうか。

 『ジュエリー・テッサ』の件で頭ごなしに叱責されたときはムカついてしょうがなかったが、あの一件で榊にどれだけの権限があるのかも思い知らされた。だから、自分はあのとき榊に言われた通りどんな仕事も一応はスケジュール通りにこなしている。狭山の持ってくるチンケな仕事も「ペナルティ」なのだと思って甘んじた。しかし、ここまでくると、狭山が持ってくる仕事は「ペナルティ」なのではなく、そんな仕事しか取って来れないのではないかという気がしてくる。

 部長に現状を訴えてみる?

 自ら部長室を訪ねるなんて気は進まないが、現状を変えるためには必要なことなのかもしれない。自分はもう十分に耐えた。(みそぎ)なら終わったはずだ。

 そしてそんな狭山より貴明をイラつかせているのが、正体不明の新人モデル『NAO』の存在。突然CMデビューを飾ったかと思うと今月号の『KANON』では巻頭特集での大々的な扱いだ。

 業界最大手事務所『アズラエル』の期待の大型新人との売り込みでデビューした貴明だって、ここまでセンセーショナルなデビューを飾ったわけではない。

 関係者しか入れないはずの撮影現場にちょろちょろと姿を見せて、あの時からコネゴリのクソガキと思っていたが。

 ——マジ、なんなんだよあいつ。

 あの加々美を引率者代わりにするふてぶてしさと、どんなコネか知らないが『GO-SYO』と『ヴァンス』を引っ張り出して、CMの出来栄えの良さも、雑誌が話題になっているのも、全ては自分の実力だと勘違いしているに違いない世間を舐めたガキ。

 ——現場で会ったら、マジよーしゃしねーからな!

 鼻息荒く息巻いて、貴明は鬱憤のはけ口を探していた。

 

 

 * * *

 

 

 大学後期が始まって、尚人の生活は日常に戻っていた。授業を詰め込めるだけ詰め込んだ尚人の大学生活は前期以上の多忙さだが、大学生らしい充実感があるとも言えた。

 CMの放送が始まってほんの少しだけ周囲がざわついたが、尚人的にはある意味慣れた状況で気にするほどではなかったし、鷺原や安藤をはじめとした友人たちの振る舞いには、大学生ともなればさすがに大人なんだな、と感心もした。

 一方中野からはテンション高めのメールと直接の電話をもらったが、あれはあれで中野らしくて尚人的には嬉しかった。

『あー、やっと電話つながった! 篠宮、CM見たぜ! 最初はいきなりでびっくりしすぎたけど、あのCMちょーよかった。めちゃくちゃよかった。俺の中のベストCM大賞あげるぐらいよかったぜ』

「それは、ありがとう」

『あれ撮ってたから夏休み忙しかったんだ?』

「うん。詳しく話せなくてごめんね?」

『そりゃ、企業秘密ってやつだろ。話せなくて当たり前じゃん。いや、でもほんっとあのCMめちゃくちゃ良くて。録画して繰り返し見てる。俺の周りでもかなり話題でさ。本当は篠宮のこと自慢したいけど、何か人に教えるのももったいない感じがしてさ。俺たちだけが知ってる篠宮をわざわざ他人に教えることないじゃんって感じ? まー、それはいいとして。あのCMのイヤフォンもさ、すぐ買いに行ったんだぜ。今じゃどっこも売り切れてるらしくて、持ってるだけでちょっとした優越感。それに、使いごごちもすっごくいいし。毎日使ってる。正直今まで『リゾルト』って会社知らなかったんだけど、家電量販店でメーカー気にして見ると『リゾルト』の商品って結構多いんだな。今までなんとなく眺めて「あれ、デザインかっこいいよなぁ」って思ってたのが、『リゾルト』だったってことも多くて。なーんか、勝手に親近感湧いてる』

 中野節炸裂だった。

 久々の中野とのお喋りが楽しくてつい長電話になってしまって、雅紀には「一体いつまで喋ってんだ」とちょっと呆れられてしまったが、拗ねた雅紀も「かわいいなぁ」と思っていたら、その後ベッドの上で散々泣かされた。

 雅紀とは相変わらず甘い関係が続いている。大学生になって土曜が休みになって、昼間っからみだらな雰囲気になることも増えた。先週の土曜も、寝る時にはまだ帰ってなかった雅紀が隣に寝ていて。なぜか二人とも裸で。それで何となくそんな気分になってしまって。二人で朝ごはんを食べてから、すぐさま二人でベッドに舞い戻った。

 真っ昼間のセックスは、夜以上の背徳感がある。だから、以前は萎縮する気持ちの方が強くてあまり好きではなかったが、今はその背徳感が興奮に変わる。何より自然光の中の雅紀の裸体は美しすぎて、うっとり眺めている間に快楽の波に飲まれていく感覚がたまらなくよかった。

 その日は、午前中いっぱい二人で甘い時間を過ごして、一緒に風呂に入って体をきれいにしてから、ちょっとおしゃれをしてランチデートに出掛けた。海の見えるレストランでコース料理を堪能し、雅紀行きつけのセレクトショップでショッピングを楽しんだ。

 加々美から電話があったのは、ちょうど買い物が終わったタイミングだ。雅紀の携帯電話に食事の誘いがあって、だから尚人は「二人で話したいことがあるんだな」と思ったのに、なぜか「ナオも一緒に」と言われ。雅紀と一緒に待ち合わせ場所だと言う小料理屋へと向かって。自分はオマケのつもりだったのに、そこで「次の仕事の話」が加々美から飛び出したのである。

「実は尚人君にさ、カウント・ダウン・ランウェイ出演の依頼があってて」

「それって、毎年雅紀兄さんが出演してる?」

 加々美の思わぬセリフに尚人はついきょとんとしてしまった。雅紀が毎年「絶対に外せない仕事」としているから、かなり重要なイベントという認識は尚人にもあった。

「そう。1年の締めくくりのイベントで。多くのモデルが出演するんだけど。クリスが今年は尚人君をモデルに使いたいって言ってきてて」

「それって、あのCM絡みでってことですか?」

「関係してなくはないけど。出演するとなったら着る衣装は全くの別物だろうね」

「ということは、『ヴァンス』のモデルとして出演するってことになるんですか?」

 それはありなの? という単純な疑問が尚人の中に浮かんだ。業界に詳しくない尚人とて『ヴァンス』が『アズラエル』と専属モデル契約をしていることは知っている。『アズラエル』に所属していない尚人が『ヴァンス』のモデルを務めるのは問題にならないのだろうか。

「それについては、ゲスト出演ってことで調整する。実は、これについては既に高倉とは確認済みなんだ」

(——そうなんだ)

 まあ、だからこそこの話題を尚人に振ってきたのだろうが。

「だから後は、尚人君の返事次第なんだ。年末のイベントだから大学の授業には影響しないと思うけど。どうかな?」

「……え、——と」

(それって、当然、ランウェイを歩くってことだよね?)

 経験ないんだけど。

 そこはいいのか? と思ってしまう。

 大きなイベントで、ど素人がランウェイを歩く。なんて、そんなこと。

 業界的に許されるのか。

 いや、そもそもちゃんと歩けるのか。

 『MASAKI』みたいに?

 それは、——絶対無理。

 だから、やるとしても『NAO』としてできることしかできない。

 当然、やるとなったら特訓が必要だろうけど。

 いやいや、その前に、……特訓すればどうにかなるもの?

「難しく考える必要はないよ」

 ぐるぐると混乱する尚人の思考に気づいたのか、加々美がやんわり笑った。

「俺は、尚人君ならできると思ってるからこの話を振ってるんだ。デザイナーのクリスに関しては言うに及ばずだね。だから、後は尚人君のやる気次第って感じかな。まあ、深夜の時間帯にかかってくるから、当然保護者の意向も確認する必要はあるんだけど」

 加々美はそう言って、ちらりと雅紀を見やる。その視線につられて尚人も隣の雅紀を見やった。

「——外堀を埋めてきて、保護者の意向って言われましてもね」

 僅かに眉間にシワが寄っている気がするのは気のせいだろうか。その様子を見るに、雅紀にとっても初耳なのだろう。こういうことは二人の間で了解があって尚人に話が来るというパターンが多かっただけにちょっと意外だ。

「お前も出るイベントだ。保護者同伴で却って安心だろ?」

「ナオにべったりくっついといていいならばですね」

「その辺は俺がちゃんとサポートするから心配するなって」

「加々美さんだって出演者側でしょ?」

「俺の出番はほら、最後の最後のほんのちょっとだし」

「トリってそんな気楽な役どころでしたっけ?」

「そこは、ほら。経験がモノをいう世界だろう?」

(なんとなく、俺が出る前提になってない?)

 二人の会話に尚人は首を傾げつつも、どことなく雅紀の懐柔に必死な加々美と突然の話に拗ねた感じの雅紀のやりとりが新鮮で面白い。普段の二人が、余裕ある大人の男の雰囲気たっぷりであるのを知っているだけ余計に。

(でも、そっか。出演するってなったら、まーちゃんと一緒のステージ立てるってことだよね)

 ふと、そう思って、尚人はドキドキする。

 雅紀のことをより深く知りたいと思うのは尚人の欲求の一つだ。

 『MASAKI』のグラビア撮影の現場は見たことがある。しかし『MASAKI』はステージモデルが活動の中心で、そこを知らずに『MASAKI』の仕事ぶりを知ったことにはならない。と、そう思う。しかし、尚人は今までその機会に恵まれなかったし、当然、擬似体験できるような機会もなかった。知りたくても触れられない世界、そんな感じがしていた。

 だから、もし、今回このオファーを受ければ。雅紀が『MASAKI』として活動してる世界の一端を知ることができる。しかも同じ舞台。それは『MASAKI』と同じ景色が見れるということだ。

 それに……

 ひょっとしたら『MASAKI』のウォーキングを生で拝めるチャンスもあるかもしれない。

 ただし——

 そんな余裕なさそうなくらい

「——緊張感半端なさそー」

 本音が思わず口からこぼれ落ちる。

 その呟きを拾って、加々美の視線が尚人に向いた。

「おや、その発言は、出演前提ってことでいいのかな?」

「えっと、まだ。とても、やるぞっていう決心はつかないんですけど。でも、何百人? 何千人? って人が客席にいるんですよね? そんなに大勢の注目を受けるって考えただけで心臓が飛び出てきそうです」

「そう? 前に英語のディベート大会見せてもらったけど。あの客席の近さで、ずいぶん堂々として見えたけど? あの時も、百人以上は観客がいたんじゃない?」

「あれは、ディベートに必死であまり客席を意識してなかったので。それに、あの時は舞台上に立ってるだけで。歩いてはないですし」

「練習通りに歩ければ問題ない。レッスンをつけた俺が保証する」

 確かにCM撮影の準備のためになぜかかなりウォーキングの練習はしたが。

(練習通りってのが一番難しいんじゃない?)

 尚人が心中呟くと、雅紀の視線が尚人に向いた。

「年末のイベントに限って言えば、客席は案外気にならない」

(そりゃ、まーちゃん程になればそうかもしれないけど)

「というのも、実は舞台上から客席はあんまり見えないんだ」

「え?」

 どういう?

「スポットライトがすごくて、舞台上にいるモデルの視界ってほぼ真っ白なんだ。そして客席側は照明が絞ってるからほとんど見えない。俺は、このライトの向こうに何百何千っていう観客の視線があるんだって意識して歩いてはいるけど、緊張するからあえて考えないってモデルもいるし」

「そうなんだ」

 さすが、経験者は語る。

「ま、それでも会場独特の熱気があるし、ショーは一発勝負でやり直しは効かない。緊張するなという方が無理ってものだろうけど」

 やっぱりそうだよね、と頷く尚人に加々美がやんわり言葉を被せる。

「尚人君、返事は1週間待つ。帰って、雅紀とゆっくり話し合って決めてくれればいい。ただ、俺は尚人君にとっていい経験になるだろうと思ってこの話をもってきた。だから、前向きに検討して欲しい。ステージ出演は、CM撮影ともグラビア撮影とも違った、そこに立った者しか見ることができない世界があるからね。それに、望めば手に入るものではないし、二度目があるとも限らない。そこを分かった上で、巡ってきたチャンスをどうするか。ちゃんと答えを出して欲しい。不安に思うことは些細なこともサポートするからさ」

「わかりました」

 加々美の真摯な台詞は本当にありがたいなと思った尚人だった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

錯綜のステージ 4

 大崎のスマートフォンに『ジェイミー』からメールが届いたのは、国際便で雑誌を送って二週間ほど経ってからのことだ。

【受け取った。今年一番のサプライズプレゼントだよ】

 というメッセージにむしろ驚いたのは、世界的モデル宛の郵便物なんて、それが単なる雑誌であっても、事務所やらマネージャーやらの検閲で弾かれて本人の手には渡らないだろうと思っていたからだ。

 そう思いながらも大崎が『NAO』が載った最新刊の『KANON』を送ったのは、「ナオ」捜しを買って出ながら勝手に途中下車した罪滅ぼし。『ジェイミー』本人の手に渡らなくても

 ——一応、報告したことになるわよね?

 的な、自分の中の罪悪感からの解放にはなるだろうとの思いがあった。

 ——あれ、見たんだ。

 ならば、「ナオ」捜しの経過報告をできずにいた理由も察してくれたはずである。「ナオ」が『NAO』で、だから『NAO』を勝手に『ジェイミー』に会わせることはできなかった大人の諸事情を。『ジェイミー』を軽んじるつもりはさらさらなかったが、何も報告できないままではそうと受け取られても仕方ない。しかしファッション雑誌の記者としては『ジェイミー』の心証が悪くなるのは痛い。それを密かに心配していた。

 だから追伸で

【約束通りナオを見つけてくれてありがとう】

 その一文があったことに、大崎は大いに安堵する。これで次インタビューする機会があった時も気まずいことにはならないはずだ。

 そんなことを考えていた大崎は、このささやかな一件が今後にどう影響するかなど、この時知る(よし)もなかった。

 

 

 * * *

 

 

「正直、断られるかもと思ってた」

 外資系ホテルのカクテル・ラウンジ。カウンターに座ってゆっくりと落ち着いた雰囲気の中オン・ザ・ロックを味わっていた雅紀は、隣に座る加々美がさらりと口にした言葉に視線を向けた。

「加々美さんからの誘いを断った記憶はありませんが?」

「じゃなくて、尚人君の件」

(あー、そっちね)

 心の中で呟いて雅紀は手にしていたグラスをゆっくりひと回しする。丸い氷がグラスに当たって、カランと小さく音を立てた。

 加々美が雅紀と尚人二人揃った会食の席で、『カウント・ダウン・ランウェイ』出演の話を持ち出したのは十日ほど前のことだ。あの時加々美に言われた通り尚人は出演依頼を真剣に受け止めて検討した。そんな尚人の相談に雅紀も本気で向き合った。

「俺は、モデルになるつもりはないよ」

 それが尚人の本音。けれども

「でも、貴重な体験をすることで自分の世界が広がるのが面白いって思うのは本心で」

 だからこそ迷う。

 ——ステージ出演は、CM撮影ともグラビア撮影とも違った、そこに立った者しか見ることができない世界がある。

 加々美が言ったその言葉は真実だと雅紀も思う。

「そこに立った者しか見ることができない世界、なんて言われちゃうと。……じゃあ、このチャンスを無駄にしたら、俺はまーちゃんが見てる世界を知ることは一生できないんだなっても思っちゃうし」

 そのひと言を聞くまでは、なんだかんだ理由をつけて断らせるつもりでいた。

 尚人がランウェイを歩く。素直に見てみたいと思う。そして尚人が何を思うのか。その感想を聞いてみたいと思う。同じ舞台上で尚人にはどんな景色が見えるのか。興味がある。

 しかしステージに立てば当然、何百何千という視線が尚人を見つめる。他人の視線に尚人が晒される。……それに対するどうしようもない嫉妬。

 尚人を好きなだけ見つめる権利は自分だけのもの。その自分だけの領域を侵食される感覚にどうしようもなく気持ちがざらつく。

 ——しかし

 ステージ出演は、雅紀のことをより深く知るためのチャンス。そんなふうに言われてしまうと、素直に嬉しいと思ってしまう。

「ナオは、俺のことを知りたいんだ」

「それは、だって。当たり前でしょ。……まーちゃんは、俺の一番だから」

 なぜかそこで照れる尚人が可愛い。思わずキスをして、キスしたらそれだけでは済まなくなって、その後はベッドに押し倒して散々尚人を堪能して。話し合いはその後に持ち越しとなってしまったのだが。二人でしっかり話し合いをして、せっかくのチャンスなのだから受けようと尚人自身がそう決めた。

 尚人が硬い決意でもって決めたことには雅紀とて口を出すことはできない。

 尚人的には、一生に一度きりの経験、のつもりのようではあるが。

「あれだけ外堀を埋めて来ておきながら。本当ですかね」

「俺は尚人君の意思を尊重する。もし、やらないって言われたらそれ以上深追いするつもりはなかったさ」

「にしても、あのイベントは出たくても出れないモデルが多数いるっていうのに。どうしてこう、——ナオってそうなんですかね」

「お前、今更そこかよ」

「ずっと思ってますよ。どうしてナオなんだろうって」

「それこそ、今更だろ。——尚人君には人を惹きつける力がある。そういうことだよ」

 だから、どうして。人は尚人に惹きつけられてしまうのか。

 無限ループのような問いに雅紀はため息をひとつ落とす。

 自分がその第一人者だ。という自覚は十分にある。何しろ尚人が生まれたその瞬間から、惹きつけられて離れられないのだから。独り占めしたくて、たまらなくて。子供の頃はうまくいっていたのに。尚人が成長するにつれ、尚人の行動範囲が広がるにつれ、尚人の人間関係が増えるにつれ、尚人に惹かれる者が増え、独り占めできなくなっていく。

 なんだかイラついて。

 ムカついて。

 焦る。

 腕の中に大事に大事にしまい込んでいたはずの尚人が、ある日気づけば腕の中からすっかりなくなってしまっているかもしれない。……そんな恐怖。

 それにどこか怯えて。

「ホテルは同じところを取ればいい。尚人君は出番が終わればすぐに送り届ける。さすがに未成年を酒の出る深夜の打ち上げに出すわけにはいかないからな」

「了解です」

 雅紀が答えると、何がおかしいのか加々美が雅紀を見遣りながら艶っぽくふふっと笑った。

 

 

 * * *

 

 

 尚人がカウント・ダウン・ランウェイへの出演を決意した数日後、『アズラエル』本社ビル統括マネージャー高倉真理の執務室で重要な会議が開かれた。議題はもちろん、『ジェイミー』と『NAO』を、どこでどのタイミングで対面させるか問題である。

 尚人がカウントダウン・ランウェイ出演の意思を固め、『ジェイミー』の来日も正式に決定した。となれば本日の議題は避けては通れないというのが高倉と加々美二人共通の認識だ。

 とは言え、

「『ジェイミー』の思惑がわからない以上、じっくりゆっくり交流を温める時間のあるタイミングで会わせたくない」

 代理人加々美の主張はこれだ。高倉は加々美の懸念を疑問視しているが、代理人の意向は尊重するという姿勢である。

「じゃあ、イベント開始本番前の現場入りしたどこかのタイミングにするか?」

「けど、尚人君も初めてのステージで緊張するだろうし。別件で余計な気を使わせたくはない。本番直前に変なちょっかいを出されたくもないし」

 そう思うからタイミングで悩む。

 『ジェイミー』が『NAO』との面通しだけで満足してくれるのならいいが。今回のイベント出演の交換条件にしてくるくらいなのだから、加々美の警戒心だってマックスになる。とはいえ超多忙な世界のトップモデル『ジェイミー』なので、ゆったりスケジュールで来日するわけでもない。時間は有限だ。

「なら、こういうのはどうだ?」

 高倉が提案する。ポーカーフェイスのままの高倉の話を最後まで聞き終えて、加々美は小さく唸った。

「結構なわがままを聞いてやるんだから、あちらさんにもそれなりに働いてもらおうってか?」

「こういうのはウィンウィンが基本だろ?」

「しかし、乗って来るか?」

「乗って来ないならそれでもいい。別にそれでこちらが痛手を被るわけでもないしな。お前にとっても悪い話じゃないだろう?」

 確かに悪くはない。……が。逆にこの話に『ジェイミー』がノリノリで乗ってきた場合、『NAO』への思い入れの深さを表す気がしなくもなくて。——加々美的には何とも複雑な気分だ。

 しかし一方で、今後のことを思えば『ジェイミー』がどういうつもりなのか多少なりとも確信を得ておくのは悪ことじゃない ——とも、そう思え。

「乗るか?」

 高倉の問いかけに加々美は迷いながらも頷いた。

 

 

 * * *

 

 

 久しぶりの東京はあいにくの曇天だったが、空港のVIP専用の特別ゲートを抜け人混みに飲まれることなく迎えの車に乗り込んだジェイミーはご機嫌だった。

 カウントダウンのイベントに出るための来日だが、個人的な目的は別にある。前回の初来日、その時に偶然道端で出会った大学生の「ナオ」。彼と再会する。それを果たすために結構なわがままを通してやって来た。その自覚はある。

 どうして一度会っただけの「ナオ」がこんなにも気になるのか。ジェイミー自身不思議に思うのだが、「会いたい」と思うのだからどうしようもない。もう一度会って、今度はもう少しゆっくり言葉を交わして、「ナオ」のことを知りたい。雑誌掲載を知ってからは、『NAO』は一体何者なのか、その疑問を解消したい欲求も加わった。

 ダニエラを通して『NAO』が『アズラエル』所属のモデルではないということは分かったが、逆に言うとそれだけしか分からなかった。

「じゃあ、なんで『ヴァンス』のモデルしてるの?」

「知らないわよ」

 それ以上のことをダニエラは調べてくれなかった。というか全く興味がなさそうで、自分で調べるのも限界だった。この業界のことは世界中にいるモデル仲間に探りを入れれば舞台裏の話も結構聞き出せるのだが。何しろ『ヴァンス』といえば今まで『ユアン』独り専属で、あとはショーでスポット的にモデルを使うのみ。なのでモデル経由で『ヴァンス』の裏事情が漏れ出てくることはなく、——『アズラエル』と専属モデル契約を交わしているはずの『ヴァンス』になぜ『アズラエル』所属ではない『NAO』が起用されたのか、結局のところ分からずじまい。

 ——「ナオ」に会えさえすれば色々とわかるはず。

 カウント・ダウン・ランウェイに出る代わりに出した条件。『NAO』に会わせて欲しい。『アズラエル』からは「了解した」との返事をもらっている。ただ具体的な日時は「調整中」と保留のままだ。どうやら『NAO』には代理人がついていて、『NAO』と会うためにはその代理人を通さないといけないらしい。

〔本日はこのまま『アズラエル』本社に直行と伺っていますが、それでよろしいですか? お疲れならホテルへお連れしても構わないと指示を受けていますが〕

 ドライバーの男が流暢な英語で尋ねてくる。『アズラエル』のスタッフで桐生という男だ。ジェイミーが日本で仕事をする際にアテンド役になっている男である。

〔事務所直行で構わないよ〕

 移動の機内で十分寝た。ファーストクラスは座席がフルフラットになるのでしっかり体を休めることができる。世界中で仕事をする関係で時差ボケ対策も万全だ。現地に着いたその瞬間から仕事ができる状態に整えておくのは、トッププロとしての当然の心構えである。

〔了解しました〕

 必要最小限の言葉、落ち着いた物腰、丁寧な運転。ジェイミーはこの桐生という男を結構気に入っている。彼が付いていれば日本での活動は問題ない、と確信できるほどに。

 だから——、

〔ダニエラは休暇を楽しんでくれて構わなかったのに〕

 隣に座るダニエラにジェイミーが声をかけると、ダニエラはわずかに肩を竦めた。

〔私はあなたのマネージャーなのよ。あなたが仕事をする場に同行しないわけにはいかないでしょ〕

〔ニースより俺だった?〕

〔当然よ。愚問だわ〕

 ダニエラの回答にジェイミーはくすりと笑った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

錯綜のステージ 5

 『ジェイミー』来日当日。高倉は、空港で出迎えた桐生から「無事合流しました。予定通り本社に向かいます」との連絡を受けて、一階ロビーでその到着を待ち受けた。ほぼ時間通りにジェイミーを乗せた車がエントランスに到着し、高倉はジェイミーを出迎える。

〔やあ、ミスター・タカクラ。わざわざの出迎えありがとう〕

〔すぐに打ち合わせに入りたい〕

〔OK. 問題ない〕

 高倉はジェイミーを伴って3階のモデルフロアへ上がり、そこからエレベーターを乗り換えてさらに上階へと向かう。準備していた応接室にジェイミーとマネージャーのダニエラを通すと、高倉は今回のスケジュールを説明した。

 ひと通りの説明を受けてジェイミーが頷く。

〔ショーのスケジュールは了解した。で、こちらがお願いしていた件はどうなったかな?〕

〔それについては今から時間をとってもらっていいだろうか?〕

〔今? この後すぐってことだね。OK. 何の問題もない。で、場所は?〕

〔少し移動する。場所は、——着いてからのお楽しみ、とでも言っておこうか〕

〔なるほど〕

 ジェイミーがにこりと微笑む。

 こう言った余裕ある態度が加々美と似てるよなと高倉は思う。天性の色男。寡黙な『MASAKI』とはタイプが違う。

 ジェイミーは再び桐生の運転する車に乗り込む。今度はその助手席に高倉も加わった。しばらく車を走らせて目的地に到着する。

〔ここって、確か……〕

〔年末のイベント会場だよ〕

〔だよね〕

 会場については先ほどジェイミーに説明したばかりだ。

〔ここにナオがいるってこと?〕

〔まあ、そういうことだ。ただ、向こうには君を連れて来ることは言ってない。そもそも、君が会いたがっているということもね〕

〔つまり、サプライズってこと?〕

 ジェイミーの声がわずかにほころぶ。どことなく状況を楽しんでいる様子に高倉は内心安堵した。

〔その通り〕

〔OK. いいね。じゃあ、ナオを驚かせに行こう〕

〔できるだけ目立たないようにできるかな?〕

〔OK〕

 ジェイミーが胸ポケットに挿していたサングラスを取り出してかける。正直なところ、サングラスをかけたところで「目立たない」ことには何も貢献していなかったが、高倉はひとつ頷きを返してジェイミーを先導した。

 

 

 

 高倉に案内されてジェイミーは準備が進むイベント会場へと足を踏み入れる。会場内のあちこちで設営スタッフが忙しなく動き回っていたが、それでもステージはほぼ完成していて、出来上がったランウェイの上を歩く人の姿があった。

 おそらく照明設置のためのスタンドイン・スタッフだろう。ただ、次々とランウェイを歩く若者たちの姿は遠目にもど素人というわけではない。

(デビュー間もないモデルを使ってるのかな?)

 ステージに慣れさせるために、若手モデルを本番前のスタンドインで歩かせるというのはあるあるだ。

 それにしても随分と緊張感がある。と、ジェイミーは思う。

(ただのスタンドインじゃない?)

 まるで審査会場かのような緊迫感がある。と思ってがらんとした客席に視線を向けると、ステージ脇に二つの影があった。

 一人は日本モデル界の帝王、 加々美蓮司。前回の来日時に『アルラエル』側関係者と会食した時に面識を持った。そしてもう一人が——

(あれって、確か……)

 間違いない。『ヴァンス』のチーフデザイナー、クリストファー・ナイブスだ。ファッション・ウィークのコレクション会場で何度か見かけたことがある。

 二人が見ている。だからこの緊張感か、とジェイミーは納得する。ひょっとしてイベントで使用するモデルの最終選考も兼ねているのだろうか。

 世界で行われるコレクションでは、使用するモデルは一般的にキャスティング会社が用意し、最終的にデザイナーが決定する。最終決定の仕方はまちまちだが、実際に衣装を着せてランウェイを歩かせ、他のモデルとのバランスなども見ながら集めたモデルをどんどん落としていく。街角で声をかけられて、「パリコレに出てみない?」と言われて現地入りしたら単なる選考会だった、というのは素人からよく聞く不満だが、それでも集めたモデルには現地までの交通費や滞在費を出すのだから、キャスティング会社とて誰も彼もに声をかけるわけではない。ファッションショーは、実際にショーとして披露されるまでにかなりの時間とお金がかかっている。

 そんなことを思っていると桐生が「お呼びしてきます」と言って二人の元へかけ走っていく。しばらく待つと桐生は二人を連れて戻ってきた。どうやらここで会わせるのは最初から「ナオ」だけのつもりではなかったようだ。その意味にジェイミーは密かに思いを巡らせる。

〔やあ、日本へようこそ。再会を楽しみにしていた〕

 歩み寄ってきた加々美が艶っぽく笑って握手を求める。それにジェイミーもにこやかな笑みを返して握手を交わす。

〔ありがとう。私も来日できて嬉しいです〕

 続けてクリスが握手を求めて来る。

〔はじめまして。でもないかな? 『ヴァンス』のクリストファー・ナイブスです。クリスと呼んでください〕

〔あちこちのコレクションで見かけてはいましたが、ご挨拶は初めてですね。ジェイミー・ウェズレイです。私のことはぜひジェイミーと呼んでください〕

 クリスとも握手を交わす。その最中もライウェイをモデルたちが歩き続けている。

〔今は、スタンド・インですか?〕

 ジェイミーがちらりとランウェイに視線を向けて尋ねると、答えたのは加々美だった。

〔そう。練習を兼ねてね。経験の浅いモデルに歩かせているんだ〕

〔なるほど〕

〔尚人君もいるよ〕

〔ナオ?〕

〔そう〕

 あまりに当たり前に加々美が言う。それに違和感を抱きつつも、ジェイミーはステージに視線を向けた。その視線の先、等間隔に並んで歩くスタンドイン・モデルの中にすぐさま『NAO』を見つける。しかし、雑誌の写真を通してさえ明らかだった人目を惹きつける瞳の引力は、全身を覆う硬質な緊張感に包み隠されていて。妙なところに力の入る硬い動きに、ステージ慣れしていないのは丸わかりだった。

〔ナオト君。まだ、ちょっと硬いね〕

〔最初よりは、随分マシにはなったけどな〕

〔初めてだし。そりゃ、緊張するなって方が無理ってものだろうけど〕

〔転ばないか、見てる方がハラハラするな〕

〔わかるよ。僕もユアンの初めてのステージはハラハラしっぱなしだったしね〕

〔へぇ。なんだか意外だな〕

〔ユアンだって、最初のステージは緊張しまくりなのが明らかだったからね。思わず、やめとく? って聞いちゃったくらいだし〕

〔尚人君にも聞くか?〕

〔うーん。それは避けたいなぁ。それに、ナオト君って意外と本番に強そうだし〕

〔確かに、スイッチ入ったら、もうひと化けしそうなんだよな〕

〔それは、わかる〕

 二人の会話にジェイミーは引っかかる。明らかに二人とも「ナオ」のことをよく知っている口ぶり。しかもかなり親しげだ。

 雑誌『KANON』で『NAO』は『ヴァンス』の衣装を着ていた。だから、クリスと面識があるのは理解できる。もしかすると今回のイベントでも『NAO』を使うつもりなのかもしれない。

 だが……

(『ヴァンス』のチーフデザイナーって、モデルとフレンドリーに接するイメージがないんだけどな)

 どちらかといえば、クールなやり手ビジネスマン寄りのデザイナーというイメージ。ビジネス的社交性はあっても、プライベートで親しくなるようなフレンドリーさはない。……とまあ、それは、ジェイミーの個人的なイメージではあるが。

 そんなイメージを抱くのも『ヴァンス』は、『ユアン』一人をメインにしているからだ。世界各地で開催するショーのそれぞれでそれなりにモデルを使いはしても、世界中のショーに連れ回して使うのは『ユアン』一人だけ。しかもその『ユアン』は正真正銘の身内で、モデル側からすると付け入る隙がない。

 ただ、『ヴァンス』は新興ブランドでようやく世界的認知度が高まったところ。レディースのみだったデザイン展開をメンズにも広げ、様々なモデルを起用してブランドの多様な顔を見せるのはこれからだろう。近年日本を足がかりに規模拡大に力を入れているようだから、日本では今後のことも含めてフレンドリーさをビジネス戦略として打ち出しているのかもしれない。

 しかしそう冷静に分析してみたところで、今まで自覚したことがない、言葉にできない感情が胸のあたりでもやっとした。

 例えるなら、偶然道端で見つけた可憐な花にはっとして、そっと愛でる満足感に浸っていたら、目の前で今にも誰かが手折(たお)って持って行きそうな場面に遭遇した——そんな不快感。ただ同時に、その花は自分の物ではないというのは十分すぎるほど自覚があって。だから、そもそも不快に感じる権利が自分にあるのかという自問が不快感の隙間から浮上して。……と、そんな感じか。

 そんな、どうしようもない感情を必死に飲み込んでいる間に『NAO』がターンしてランウェイを戻ってステージ裏に消えていく。「ナオ」との再会が純粋な喜びに満ちたものではなかったことにジェイミーの気分は晴れなかった。

 

 

 * * *

 

 

〔尚人君にサプライズを仕掛けないか?〕

 加々美がそう言っていたずらっぽく笑いかけてきたのは、尚人の姿が完全にステージ裏に消えた直後だった。

〔サプライズ? 例えば?〕

 思わずそう問い返してしまったのは、加々美の笑顔があまりに無邪気だったからだ。悪戯小僧のような表情に、呆れるというより乗せられた。

〔先輩モデルが手本を見せてくれるってことでステージに注目させて、そこに君が登場するんだ〕

〔なるほど。面白そうだ〕

 ジェイミーはほんの少し逡巡してにこりと笑い、加々美の目を見つめ返す。

〔だけど。——そのサプライズ、もう一捻りしてもいいかな〕

〔例えば?〕

〔先輩モデルが手本なんて、フリがありきたりすぎるから。カガミ、あなたが手本を見せるってことにしてよ。あなたが現場にいるのはみんな知ってるし、日本モデル界の帝王と言われるあなたが手本を見せるとなったら、みんな興味津々でステージに釘付けでしょう? 僕は、カガミがステージ裏にはけた後に続けざまに出る。その方がサプライズ感がすごいと思わない?〕

〔なるほど〕

 にやりと加々美が笑う。

〔悪くないプランだ〕

〔でしょ?〕

〔じゃ、さっそく〕

 加々美の視線が高倉に向く。高倉はポーカーフェイスのまま頷いた。

「了解。準備しよう」

 日本語だったが、高倉が了承したのはわかった。そして桐生に何やら耳打ちして二人はスタンドイン・モデル達が消えていった方へ向かって歩き出す。ちょっとした反骨心からの提案だったが、あっという間に動き出すそのフットワークの軽さに密かに感嘆していると、加々美がジェイミーを促した。

〔さ、俺たちはこっちだ。皆と鉢合わせしないルートで舞台裏へ行こう〕

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

錯綜のステージ 6

 ランウェイを歩いて舞台裏に戻り、レッスン講師のアドバイスを受けてまたランウェイを歩く。尚人は今日一日新人モデル達に混じって何度もそれを繰り返しているのだが。

(うーん。まだ全然ちゃんと歩けてる気がしないんだけど)

 密かに焦る。

 やると言った以上はちゃんとやらないと、とは思っているが。想像以上の自分の出来なさぶりにちょっぴりへこむ。そして、その現実を前にクリスが「やっぱりやめとこうか」と言い出すんじゃないかと、そんな心配をしていた。

 始めたことはきちんと最後までやり遂げたいし、雅紀が見ている世界の一端を知る貴重な機会を無駄にしたくない。そう思う気持ちに嘘はないが、——でも、もし今クリスから「今回は見送ろうか」と言う言葉をかけられたとしたら、残念に思いつつもきっとどこかでホッとしてしまう自分がいるに違いない。……という自分の心の弱さにも気づいていて。尚人はそんな自分を自覚してまたへこむ。

 ショーは参加することに意義がある、——わけじゃない。

 観客は完璧を求め、スポンサーは成功を求める。

 演者であるモデルに失敗は許されない。

 よくよく考えたら、恐ろしい世界。

 モデルはただ歩くだけ——なんて思っていたら、見るのとやるのじゃ大違い。

 しかし——

 ステージの恐ろしさを知って尻込みしている場合じゃない。

 中途半端な気持ちは、ランウェイを歩く全てのモデル達に失礼だ。

(やるって決めたんだから、ちゃんとしないと)

 尚人は心の中で自分に喝を入れる。

 もう少しで何かが掴めそうな気もするのだが——。

 そんな時。

「みなさん。急遽ですが、先輩モデルの方がウォーキングの手本を見せてくださることになりました。客席へ移動してください」

 レッスン講師が当然そう言った。そのひと言に周囲が一気にざわめく。

「え、先輩って」

「ひょっとして、 ——加々美さん?」

「え、まさか!」

「だって、ずっと客席にいたし」

「そうだけど。……いや。でも。まさか」

「もし、そうだったらスゴくない?」

「スゴイ、っていうか。ヤバイ」

 皆がざわざわとさざめき合う。

「はい、皆さん。すぐ移動!」

 パン! とレッスン講師が手を叩き、それでみな我に返ったように口を閉ざして移動を始める。

 その流れに尚人もついて行きながら、期待感に胸が膨らんだ。

(本当に加々美さんが手本を見せてくれるのかな?)

 どきどき。

 わくわく。

 何しろ加々美は帝王と呼ばれるほどの実力者で、『MASAKI』の実質的な師匠でもある。今ではステージモデルの第一線を退(しりぞ)いているので、加々美のランウェイを生で拝めるのはとても貴重だ。

 期待と興奮が隠せないといった雰囲気で、皆がランウェイ脇の客席に行儀よく並んで座る。BGMが切り替わり、今まで付いていなかったスポットライトがパッとステージを照らした。

 そこに、加々美蓮司が現れる。

 皆の口から思わず感嘆の声が上がった。

 すごい!

 スゴイ!

 凄い!

 加々美が登場しただけで、客席が興奮に包まれた。

 皆の目の前を帝王加々美蓮司が颯爽と歩いていく。

 その圧倒的な存在感。

 腰の位置がビシッと決まって、ド派手なオーラが垂れ流しだ。

 加々美との付き合いは、もうそこそこになる尚人だから、加々美のことはそれなりに知ったつもりでいた。イケメンという言葉は安っぽすぎて似合わない。それほどの色男。それでも、普段はヤンチャ。とても気さくで優しくて。時に厳しい。子供と大人。素人とプロ。その違いを、いろいろな言葉で、様々な体験を通して、尚人に教えてくれる。その過程でいろんな加々美の顔を見た。

 それなのに——

(こんな加々美さん、知らない)

 初めて見る顔。

 初めて見る姿。

 初めて見るオーラ。

 尚人は文字通り言葉を失った。

 加々美がポージングして、滑らかにターンする。ランウェイを戻る加々美が尚人の前を通過するその瞬間、加々美の視線が客席に向いて、バッチリ尚人と目が合うと、にやりと笑ってウインクをした。

 その瞬間、オーラに色気がたった。

(……すごい)

 表情ひとつで一気に雰囲気を変え、視線ひとつに色香が漂う。

(俺が女の子だったら、今の完全に落ちてるよ)

 尚人は加々美の悩殺テクニックにただただ感心していた。

 

 

 

 今まで無機質だった会場内に興奮という名の熱気が立ち昇るのがわかった。同じ会場でありながら、リハーサルと本番とで全く違う空気感。それを何度も味わったからこそわかる肌感覚。

(さすがカガミだよね)

 舞台裏でスタンバイするジェイミーは密かに感心する。

 美男美女がひしめくモデルの世界でもステージ上の雰囲気を一人でガラリと変えてしまう力を持つ者は稀だ。そういった強力な個性を嫌うデザイナーもいはするが、ジェイミーが目指すのは加々美タイプのモデルである。

 モデルはただのマネキンなんかじゃない。

 ステージ上をそつなく歩ければいいなんて、それじゃつまらない。

 ただの布切れ一枚であっても最先端ファッションに見せることが出来る確かな着こなしのスキル。その上で放つ、観客を魅了するオーラ。登場するだけで会場が沸き立ち、ファッションに興味のない者の視線でさえも縫い止める。

 ジェイミーが目指すモデル像はそこだ。

 舞台裏の隙間から加々美がランウェイを戻って来る姿を確認する。その時、突然加々美が艶っぽい視線を客席に投げた。その予想外の行為にジェイミーは反射的に驚き、思わずその視線の先を追う。

(——ナオ)

 加々美の視線を受け止めて、尚人の表情に恥じらいが浮かぶ。

 それを見た瞬間、なぜだか気持ちがざらついた。

(どういう関係?)

 しかしそれを考える(いとま)などないままにジェイミーの出番がやって来る。

 スポットライトを全身に浴びてジェイミーはステージ上に進む。

(カガミに負けない)

 ほんのお遊びのはずだったのに、ジェイミーは完全にスイッチが入っていた。

 

 

 

 加々美がランウェイを去ってそれで終わり。誰もがそう思ったのに、スポットライトはより一層煌めきを増して、ステージ上の人物を照らし出した。

「え!」

「うそ!」

「まじで!」

 客席がざわつく。戸惑いと、それ以上の興奮に包まれて。

「マジか」

「信じらんねー」

 茫然とした呟きをかき消して、『ジェイミー』がランウェイを闊歩する。

 その姿は圧巻だった。

 フレッシュな熱とカリスマのオーラ。加々美とはまた違った軽やかな色気の中にある気品。そして気概。世界のトッププロとはこういうものか、というのを誰もが感じ取るようなウォーキングだった。

 その姿を舞台裏から覗き見て、加々美は思わず苦笑する。

(おいおいおいおい。本気じゃねーかよ)

 ほんのお遊び。尚人に紹介する前のちょっとしたサプライズ。高倉の言うところのウィンウィン。その程度だったはずなのに『ジェイミー』のスイッチは入りまくったようだ。

 加々美が今まで『ジェイミー』に対して抱いていたイメージは、仕事はきっちりこなしつつも、今時の若者らしい堅苦しさを嫌うヤンチャ気質だったのだが。

(まさかの、雅紀に負けず劣らずの負けず嫌いかよ)

 スタンドインで、これほど本気のウォーキングをして来るとは思わなかった。客席にいる新人モデル(ひよっこ)達も息を飲んで固まっている。「手本」を見せると言われていたはずなのに、「格の違い」を見せつけられて、放心してしまっている者も中にはいるのではなかろうか。

 加々美は思わず客席の尚人の姿を捜す。

 尚人が今どんな表情で『ジェイミー』を見ているのか気になった。

 すぐに尚人を見つけ、その真剣な視線に加々美は浮かべていた苦笑を引っ込める。いま尚人が何を感じ、何を考えているのか。加々美は聞いてみたくてしょうがなかった。

 

 

 

 うそ……

 まじで?

 ステージ上に登場した人物が『ジェイミー』だと気づいて、尚人も周囲と同じように驚く。

 モデルだと知っているからランウェイを歩いていること自体には驚かない。

 ただ

 —-ジェイミー、来日してたんだ。

 全く知らなかったから驚いた。

 ジェイミーとの出会いは今年の春。初来日で道に迷っていたジェイミーに声をかけられたのがきっかけだ。その時は、道を聞かれた外国人。それ以上でもそれ以下でもなかったが、後日ジェイミーが表紙を飾る雑誌を見かけてモデルだと知った。

 知って納得した。道端で声をかけられた時から只者でないオーラただもれのイケメンだったからだ。そしてその後なぜか『KANON』の専属ライター大崎美月を経由して『ジェイミー』が会いたがっていると知らされた。尚人的には『ジェイミー』がわざわざ自分に会いたがる理由も、どうして大崎を経由しているのかも理由がわからなかったし、雅紀と一悶着あったこともあって、大崎からの申し出はその場で断った。その時大崎には「またどこかで偶々会うことがあれば、それはそれで縁があったなと思いますけど」とは言ったものの、実際のところ再会する確率は恐ろしく低いと思っていた。なんと言っても『ジェイミー』は世界のトップモデル。自分みたいな一般人とは違う世界に生きている。そう思っていた。

 それなのに……。まさかこんな形で再会するとは。

 ——いや、これは再会とは言わないかな。

 尚人は心の中で独りつぶやく。単に自分が一方的に見ているだけ。

 それにしても

 —-ジェイミーって世界のトップモデルなんだよね?

 それなのに、気前よく新人モデルに「手本」を見せてくれるなんて。なんとなく、そのことが意外だった。

 ——それともモデルの世界は、こういうのが当たり前……とか?

 そういえば、雅紀も休みの日に頼み込まれてスタンドインを引き受けたことがあった。

 煌びやかなスポットライトの中を『ジェイミー』が颯爽と歩いていく。加々美とは全く違うオーラを纏って。

 道端で声をかけてきた時とは全く違う顔。

 全く違う雰囲気。

 視線が縫い止められて離せない。

 尚人の視線がランウェイを歩く『ジェイミー』の姿を追う。

 先ほどの加々美とはまったく違う色を持ったジェイミーのランウェイ。

 どっちが上か、と言うことではない。それぞれの良さがあり、それぞれの凄さがある。そして、加々美のパフォーマンスは加々美にしかできないし、ジェイミーのパフォーマンスはジェイミーにしかできない。そんな気がした。おそらく尚人が、どちらかを手本に頑張ってみたところで滑稽なだけだろう。

 自分らしさの確立。それが欠かせないのだと知る。

 それでいて、二人に共通しているところ。

 ——二人とも、すごく楽しそうに歩くよね。

 大物二人の「手本」に、尚人は大事な何かを掴めたような気がした。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

錯綜のステージ 7

〔ナオ! 久しぶり〕

〔おひさしぶりだね。ジェイミー〕

〔俺のこと、覚えてる?〕

〔もちろんだよ〕

〔ナオに会いたくて、日本に来ちゃった〕

〔仕事できたんじゃないの?〕

〔仕事の方がついでだよ〕

 目の前で交わされる親しげな挨拶。それに加々美はきょとんとする。

 へ?

 知り合いなの?

 なんで?

 ジェイミーとの約束を果たすため、舞台裏の手ごろな控室で二人を引き合わせたらまさかのこの展開。仲介が必要だと疑っていなかった加々美の頭に疑問符ばかりが浮かぶ。

〔さっきのステージ、ジェイミーが出て来るなんて思いもしなかったからびっくりしちゃった〕

〔そう言えばモデルだって言ってなかったっけ?〕

〔それはねぇ、本屋でジェイミーが表紙を飾ってる雑誌を見かけたから知ってたんだけど〕

〔『KANON』? あれ見たんだ〕

〔見たよ。すっごくかっこよかった〕

〔俺もナオが載ってる雑誌見たよ〕

〔え? そうなの? どこで?〕

〔ミス・オーサキがね、送ってくれたんだ。知ってる? ミス・オーサキ〕

〔『KANON』のライターさんでしょ? 一度大崎さんのインタビューの通訳を務めたことがあって。それで面識はあるよ〕

〔ミス・オーサキもそう言ってた。だからナオを知ってるって。それで雑誌を送ってくれたんだ〕

〔へぇ、そうだったんだ〕

(おいおいおいおい。……なんだか盛り上がってんじゃないか?)

 加々美はにこやかに会話を続ける尚人とジェイミー二人のそばで、口を挟めずに茫然とする。

〔ナオがモデルをしてるって知らなかったから、すっごく驚いた〕

〔えーと、それについては。実はジェイミーと会った後にね。そう言う話をもらって。あれが初めてのグラビアだったんだ〕

〔そうなの? あれ、すっごくよかったし。とても初めてとは思えなかったな。『ヴァンス』って着こなすのが結構難しいブランドなのに。なんて言うか、ナオにしっくりハマってたし〕

〔ジェイミーにそう言ってもらえるとすっごく嬉しい〕

 尚人がにこりと笑う。

 つられるようにジェイミーの表情も緩む。

 そばで見ている加々美は、何とももやもやとした心境だ。

〔でも、なんでナオが『ヴァンス』のモデルしてたの? 『ヴァンス』って日本じゃ『アズラエル』と専属契約してるんでしょ? ナオは『アズラエル』の所属じゃないって聞いたんだけど?〕

〔えーと、それは……〕

 尚人が言い澱み、ちょっと困った顔をしてチラリと加々美に視線を向けた。

 ジェイミーがどんな意図でもってそんな質問をしたのかわからないが、ちょっとした好奇心であっても、尚人にしてみればどう答えたものかと迷ったのだろう。

 そんな尚人の視線に、加々美はようやく自分の出番と意気込んで二人の間に割って入った。

〔その辺の細かなことは契約に関わる部分なんで立ち入りは遠慮してもらいたい〕

 加々美が口を挟むと、ジェイミーの視線が加々美に向いた。その視線はまさに「なんでカガミが割り込んでくるの?」と言いたげだ。一度持った会食の席では終始にこやかな笑顔を浮かべていて、若いのになかなかの如才の無さだと(あるいはマネージャーの教育が行き届いていると)そういう印象だったので、わずかでも不満をのぞかせたその視線が意外だった。でもそこにジェイミーの本心を見た気がして、加々美はいっそ清々しいほどの営業スマイルを浮かべた。

〔紹介が遅れたが、俺は尚人君の代理人を務めている。尚人君は今、俺が持ってる個人事務所の預かりなんだ〕

〔カガミの個人事務所? ナオは、そこのモデルなの?〕

〔うーん。正確にはモデルではないんだけど。大学生になって、色んなことに挑戦してみたいって言う俺の希望を加々美さんがサポートしてくれてて。今回の件もその一環って感じで〕

〔……ふーん〕

 ジェイミーは一瞬何やら思案げな顔をしたが、すぐに表情を変えてにこりと笑った。

〔ま、それはいいや。ねぇ、それより、ナオ。前回は一緒にお茶できなかったから。今回はどうかな?〕

(って、えーーー?! そんなベタなナンパするのかよ!)

 加々美は思わず心の中で叫ぶ。当然、周囲の大人が思っている以上に初心(ウブ)な尚人は相手の言葉の真意なんて読み取れている気配がない。

〔ジェイミー、コーヒー好きだもんね〕

〔あれから「イチゴイチエ」についても勉強したんだ。そのこともナオに話したいし〕

〔そうなんだ〕

 尚人が少し考え込む。

 即答でオーケーを出さなかったことに反射的に安堵して、加々美がうまいこと断りを入れようと口を開きかけたその矢先。

〔——でも、……ちょっと、難しいかな〕

 思いのほかきっぱりとした口調で尚人自身がそう言った。

〔え!、どうして〕

 ジェイミーが驚きの声を上げる。その本気で驚いた顔がほんの少し見ものだった。

〔今日は、このあと衣装合わせがあってね。明日も予定が入ってるし。で、明後日はイベントの本番でしょう? そのあとはお正月だから、家で家族と過ごすし〕

〔正月って——日本では家族と過ごす日なの?〕

〔そうだよ。おせちって言うお正月用の料理を食べたり、神社にお参りに行ったり。イタリアは違うんだ?〕

〔イタリアでは、大勢で集まって皆でワイワイ楽しく過ごすんだよ。大晦日の晩からね。それで日付が変わったら乾杯して花火して。運をもたらすために古い物を窓から投げるといいっていう言い伝えがあって。それで酔っ払って皆が窓からいろんな物を投げたりして〕

〔……それは、翌日すっごいことになってそうだね〕

〔ねぇ、ナオ。イベント後が無理なら、イベント当時のランチを一緒にするのはどう? イベントは夕方からだから、ランチなら少しは時間あるよね? 別に場所はどこだって構わないんだから、この近くでも〕

〔うーん。お誘いはありがたいんだけど。でも、俺、ランウェイ歩くの初めてで。だから、イベント直前にジェイミーとランチを楽しむ気持ちの余裕はないかな〕

〔——そうなの?〕

〔うん。だから、ごめんね。せっかく誘ってくれたんだけど。今も本当は、もうちょっと練習しないとやばいなって、焦ってるくらいで〕

〔………〕

 ジェイミーがあからさまにしょぼくれたのがわかった。世界トップモデルからの誘いをこうもあっさり断れるのは、世界広しと言えども尚人ぐらいじゃないのかと加々美は密かに思ってしまう。

〔……そうだね。初めてのステージなのに、邪魔するようなことしちゃ悪いよね〕

 ジェイミーはそう呟くと、気持ちを持ち直したのかにこりと笑った。

〔今回は、ナオの始めてのショーに立ち会えるってことだけで良しとするよ〕

〔ジェイミーとは比べ物にならないと思うけど。今日よりは、マシなものを見せられるように頑張るよ〕

〔楽しみにしてる〕

「さ、尚人君。話はここまでにして、移動しよっか。ちょっと時間も押してるし」

 加々美がタイミングを見計らって割って入ると、尚人はハッとしたような顔をして加々美を見やった。

「あ、そうですね。クリスさん、待たせてましたね」

「そうそう。じゃ、高倉。あと、よろしく」

 加々美はなんとか無事に切り抜けたと安堵しつつ、尚人をさっとその場から連れ出したのだった。

 

 

 * * *

 

 

「まさか二人が知り合いだったとはな」

 その日の夜、自宅マンションに帰ってきたところで高倉からの電話が鳴って。諸連絡もそこそこに、加々美は今日一番の驚きを口にした。

「なんでも以前道に迷ってるジェイミーに声をかけられて道案内したことがあるって。普通さ、そんなことあるか? ジェイミーが一人で都内をうろうろしてるのもありなのかって思うし。そんな場面にピンポイントで遭遇する尚人君も尚人君って感じだし」

 尚人から聞き出したエピソードを加々美が話せば、くつくつと耳元に笑い声が落ちる。

『むしろ尚人君らしいって感じがするぞ、俺は』

「まあ、そうなんだけどさ」

 大物を無自覚に吊り上げるのは、ある意味尚人の得意技だ。

『何はともあれ、ジェイミーがどうして尚人君を名指ししたのか。その謎が解けてよかったじゃないか』

「まあ、その点については理解したが……」

 加々美は言いながら、昼間のジェイミーの様子を反芻する。

「……ただ、懸念は限りなく黒に近いグレーになったってとこだな」

 ジェイミーの態度は終始、尚人と個人的に繋がりたがっている、そう見えた。それは、初来日でたまたま受けた思いがけない親切に対する思い入れ——以上の感情があるようにどうしても感じてしまう。 

『お前が気にするから、あれから少し調べはしたんだが。同性愛的な傾向は見当たらなかったぞ。これまでスクープされた恋愛遍歴を見るに、肉体的ボリュームのある華やかな女性が好みのようだし』

「巨乳系美女ってことか? そう言えば一時期セクシーさが売りのハリウッド女優とも噂になってたな」

『あれは双方いいお友達だとコメントしていたが。——ま、こう言ったスクープ記事は、どこまで事実なのかわからないってのは世界共通ではあるな』

(つまり噂はあてにならねーってことだろ)

 高倉の言葉に加々美は心の中で呟く。

 要は、巨乳美女好きで同性愛的傾向があるなんて噂はチラリともないからと言って、同性に対して恋愛感情を抱かない保証などないということだ。それに、恋愛感情の有無は横に置いておくとしても、ジェイミーは尚人に興味津々で、面識を持てれば満足くらいの関係で終わりたくない雰囲気がありありだった。

 コミュ障と揶揄されるユアンが尚人にやたら懐いているが、ユアンには感じない危険性をどうしてもジェイミーに感じてしまうのは、尚人に向ける視線の質が違うからだ。ユアンのそれをさらりと表現するなら、ジェイミーのはしっとりとでも言おうか。それも、どことなく——と言った程度のものではあるが。——あからさまでないだけにたちが悪い。そうも思える。

『いずれにせよ。尚人君自身がジェイミーの誘いをキッパリ断ったんだし大丈夫だろう。もう二人がゆっくり対面するような時間もないしな』

「そうだな」

 明後日はイベント当日。尚人には、一度きり——のつもりが、もう一度。そう思えるような体験を味わせたい。そのためのサポートを全力でするつもりだ。

『ああ、そうだ。言い忘れていたが、今日お前が尚人君連れて部屋を出て行ったああと、ジェイミーが尚人君と連絡先の交換し忘れたってひと騒動だった』

(…………)

 言ってるそばからこれじゃないかよ、と加々美は心の中で毒づく。

「ジェイミーのお守りはそっちでしっかりやってくれ。俺は、尚人君のことに集中するから」

『了解』

 明後日は全力ガード必須だな、と思いながら加々美は電話を切った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

錯綜のステージ 8

 大晦日。ついにその日はやって来た。

(あー、とうとう本番だよ)

(今日の夕方にはランウェイ歩くって、ちょっと信じられない)

(本当は全部夢とか、……そんなことないよね)

 朝5時、いつもの時間に目が覚めて。尚人はいつも通り朝食の準備をする。てきぱきと手を動かしながらも、頭の中をぐるぐると占めているのは今日のイベント出演のことだ。

 味噌汁を作りながら、甘めの卵焼きを作る。一緒に作るお弁当はお昼用。それと今日の夜は雅紀も尚人も泊まりだから、 祐太の夜ご飯まで準備する。

「飯ぐらい勝手に食うって」

 祐太はそう言いそうだが。

 近頃は料理のレパートリーも増えて、食事の準備は自分で出来るようになった裕太だ。その気になればちゃんとできる。そんなことは百も承知。しかし一方で、祐太は自分一人となると腹が溜まれば何でもいいとカップ麺で済ませてしまうことも多々あって。それを心配するから尚人は出来る限り食事の準備はしたいと思う。それに、年の最後の大晦日に家に一人なんて、口ではどんなに威勢のいいこと言う祐太だって本当は寂しいと思っているに違いなく。一人で食べる夕飯であっても家族の誰かが作った物を食べることで、ほんの少しでも家族の繋がりを感じて欲しい。それが尚人の思いだ。

 頭の中はぐるぐるとどうしようもないことを考えていたとしても、身に染み付いた習慣で手は勝手に動いていく。朝の家事がひと通り済んだところで雅紀が起きて来て一緒に食卓についた。

 雅紀はイベント前にひと仕事入っていて、朝食を食べたらすぐに家を出る予定だ。年末の雅紀は忙しい。いつものこと。尚人は昼前に家を出て、ホテルで雅紀と落ち合うことになっている。

「ナオと一緒に家出れたら良かったのに」

 朝食の焼き魚を食べながら雅紀が愚痴る。今日のスケジュールが確定してから雅紀がこの愚痴を口にするのはもう何度目かだ。だから尚人は却って笑ってしまう。

 雅紀の予定では、今日はカウント・ダウン・ランウェイ以外の仕事は何も入れず、イベント開始ギリギリまで尚人のそばにいるつもりだったらしい。マネージャーの市川にもそのことは伝えていたらしいのだが、次々と舞い込むオファーをこなすためにはどうしたって年末ギリギリまで飛び回る羽目になるのはカリスマの宿命なのかもしれない。それでなくとも昨年は尚人の大学受験のサポートを理由に仕事をかなり絞っていたので、今年は断れない仕事も多いらしい。

「電車は乗り慣れてるから大丈夫だし。それに、現場まで車でピュッて行っちゃうより歩いた方が気持ちが落ち着くような気がするから。俺は、大丈夫だよ」

 尚人がそう言えば、何やら物言いたげな視線を向けた雅紀だったが、そのまま何も言わずにぱくりと卵焼きを頬張る。

「——うまい」

 ぽろりとこぼれ落ちた呟きに尚人は微笑む。そのひと言が何よりうれしい。

「おかわりいる?」

「いや、食いすぎると却って体がだれるから」

「じゃ、お茶入れようか?」

「もらおうかな」

「熱いのと冷たいの、どっちがいい?」

「熱いの」

 言われて尚人は緑茶を入れる。雅紀はそのお茶を飲み終えると仕事に出かけて行った。

 尚人は家を出るまでいつもどおり過ごす。洗濯物を干して、大学の課題をして。時間になって家を出る。

「裕太ぁ〜。俺、もう出るからね。ご飯は冷蔵庫に入れてるから。ちゃんと食べてね。じゃ、いってきまーす」

 珍しく裕太が玄関先まで見送りに来て。尚人はにこりと笑って家を出た。

 

 

 * * *

 

 

 尚人の「行ってらっしゃい」の言葉に見送られ、篠宮雅紀は都内に向かって車で移動中であった。

 フロントガラス越しに見える空は眩しいほどの快晴。天気予報によると日中はかなり気温が上がって年末とは思えない暖かな一日になるらしい。

(天気が良くてよかったよな)

 自分ではなく、尚人のことだ。尚人は今日の昼前に家を出て、電車で都内へ移動し雅紀と落ち合うことになっている。家から駅まで。駅からホテルまで。悪天候なら移動に難儀する。いくら尚人が「電車は乗り慣れているから大丈夫だよ」と言っても、今日が悪天候なら雅紀の気持ちはもやもやと晴れなかっただろう。

 本当は天候に関係なく朝一緒に家を出て、仕事中尚人をどこかで待たせておくかとも考えなくはなかった。どうせ同じ場所へ向かうのだから、その方が効率的とも思った。

 しかし初ステージ前に、慣れない場所で時間を過ごすのと、家でいつものルーティンをこなして過ごすのと、どちらがいいかと考えればそれは断然後者なわけで。尚人のことを第一に考えて雅紀は自分の思いを自重した。

 午前中の仕事は、ファッション・マガジン『ソランジュ』のインタビューだ。二年前、加々美蓮司がエグゼクティブ・プロデュースを務めた写真集『エレメント』の発売イベントの一環として『ソランジュ』に特集記事が掲載されたが、今日の仕事はそこから派生したようなもの。というのも、その時の対談記事が雑誌に掲載されるとなかなかの反響だったようで、「もっと『MASAKI』を知りたい」「『MASAKI』の言葉が聞きたい」という読者の要望に答える形で、翌年年明けの最新号に『MASAKI』の新年の抱負のようなものを対談形式で掲載する企画が組まれたのだ。その時は何よりも尚人の受験サポートが最優先だったので、最初はそれを理由に断ったのだが、「それが本音ならそれでいい。そのまま掲載する」と言われ、年末時間を作ってインタビューに応じたのである。それがまたまた結構好評だったとかで「弟さんの受験が終わった今年は、また新たな抱負があるんじゃないですか?」「読者の方からの『聞きたい』の要望がすごいんですよ」との熱烈オファーを断りきれず、今年もインタビューに応じることになったのだ。

 

 

 ファッション・マガジン『ソランジュ』の談話室。

「今年もよろしくお願いします」

 すっかり顔なじみ感のある女性ライターが親しげな雰囲気で雅紀を出迎えた。

「昨年の対談では、弟さんの受験サポート最優先というお話でしたが、三月ぐらいから精力的に活動を再開しているようですね」

 女性ライターがこなれた口調で切り出す。プロ意識の高い女性なので、当然この一年の『MASAKI』の活動内容は事細かく調べ上げているはずだ。

 これがミーハーな芸能リポーター風情なら、対談相手のことを何も調べずに場に臨んで

「今年一年、どうでしたかぁ?」

「一番思い出深い仕事ってありますぅ?」

「私〇〇の雑誌に載ってるの見ましたぁ。ちょー、かっこよかったですぅ」

 などなど、どう答えたものか迷う雑な質問やどうでもいい自身の感想をぶつけてくるくらいのことはする。中には女性であることを前面に押し出して、やたらとアプローチをかけてくる記者もいたりして、内心辟易することだってある。

 雅紀が今日のこの仕事を断りきれなかったのは、『ソランジュ』のこの企画が『MASAKI』にとって間違い無くプラスになることに加え、対談相手の女性ライターがきっちり仕事をする雅紀にとってもやりやすい相手であるからだ。一年を締めくくるカウント・ダウン・ランウェイに臨む前に入れる仕事としては、気持ちよく仕事ができてある意味ちょうどいい。

「例年のジャパン・コレクションの出演に加え、今年はミラノ・コレクションにも参加されていますね。海外での仕事が増えているようですが、やはり昨年とは違う心境の変化がありますか?」

「以前からいくつか海外での仕事もしていましたし、仕事を日本国内に絞ろうとしう気持ちは最初からありません。ただ、ずっと軸足は日本にあって、いろんなことのバランスの中で、どのくらいの頻度で海外で仕事ができるかという問題です。昨年は対談でも語ったとおり弟の大学受験のサポートが何より最優先事項だったので、受験が終わるまでは長く家を空けることになる海外の仕事は意図的に絞っていたと、そう言うことです」

「『MASAKI』さんにとってはやはり仕事より家族ということでしょうか?」

「そんな二項対立の話ではありません。家族を養うためには仕事をする必要がありますが、俺は家族の支えがあるからこそ仕事に集中できるんです。それにモデルという仕事は楽しいしやりがいを感じますが、自分のやりがいばかりを優先して、もしそれで家族が何らかの我慢を強いられる事になるなら俺にとっては本末転倒です」

「今年は『ミズガルズ』10周年記念DVD BOXの特典PVへも出演されていましたね。3月の記者発表の時から世間の話題をさらっていましたが、秋の発売時はすごかったですね。特に『MASAKI』さん掲載の販促ポスターが渋谷駅を占拠したあの企画は、各メディア一大事件が発生したかのような取り扱いぶりで。あの騒動『MASAKI』さん的にはいかがだったのでしょう」

「純粋に驚きました」

「と、言いますと?」

「販促ポスターというのは、文字どおり販売を促進するためのものでしょう? 今回の件で言うなら、『ミズガルズ』の10周年記念DVD BOXの売り上げにつながらないといけない。けれどもこのDVD BOXは結構な高額商品で、しかも基本は既に販売された楽曲で構成されているから、数曲新曲やら特典PVやらつけたところで、ファンの中にも買うのを躊躇する人だっていると思うんです。となれば特にファンというわけでもない人達にも買ってもらわないといけない。それで世間の注目を集めるための渋谷駅のあの企画です。『ミズガルズ』のDVD BOXなのに俺前面押しでいいのか? とは思いましたけど、それで世間の話題をさらってDVD BOXの売り上げに繋がったようですので、あれを企画した人の読みってすごいなって。純粋な驚きです」

「確かに『ミズガルズ』の10周年記念DVD BOXなのに『MASAKI』さんの方が目立っている、というのがまた世間の話題になってましたね。ネットではそれに対して肯定的な意見も否定的な意見も様々あったようですが。しかし『ミズガルズ』のPV出演は今回で既に3回目で、『ミズガルズ』ファンの中には『MASAKI』さんは既に『ミズガルズ』の一員、との声もあるようですね?」

「そう言っていただけるのは嬉しいです」

「確か、最初に『ミズガルズ』のPV出演を決めた理由が、弟さんが『ミズガルズ』のファンだったから、でしたよね?」

「そうです。その時オファーがあったいくつかの仕事の中でどれを受けようかとなった時に、弟が『ミズガルズ』のファンだって言うんで。俺がPVに出たら弟が喜ぶかな、と」

「弟さん、喜んでくれました?」

「すごく喜んでくれました。メンバー直筆のサイン入りポスターをもらって帰ったんですが、今でも大事に部屋に飾ってますよ。——弟の部屋に入るたびにメンバーと顔を合わせている感じになって、俺としてはちょっと複雑な心境なんですけど」

「そうなんですね」

 女性ライターがわずかに苦笑する。そんなこんなで対談は終始和やかに進んで、時間通りに無事終了した。

 

 

 * * *

 

 

 大晦日。ジェイミーはいつもどおりの時間に起きてルームサービスで朝食を済ますと、スエットに着替えてホテル内のフィットネスジムへ向かった。ゆっくり丁寧に柔軟して体をほぐし、ランニングマシーンで汗を流す。体が資本の仕事だから、隙間時間はできる限り体づくりに費やすようにしている。それは世界どこへ行っても同じで、だから宿泊先はフィットネスジムのあるホテルであることがジェイミーの譲れない唯一のこだわりだ。

 一時間ほどの運動を終えて、ジムのシャワーで汗を流して一旦部屋に戻る。時計を見ればイベント入りまで時間はまだ十分あった。

(ホテル周辺でも散策しようか)

 ダニエラは『アズラエル』と打ち合わせがあるとかで午前中出かけている。午後には戻ってジェイミーと一緒にイベント会場へ移動する事になっているが、それまでジェイミーは自由だ。

 本当は

〔ホテルから勝手に出ないでよ〕

 とそう言われているが、ホテル周辺をちょっと散策するくらい問題ないはずだ。

 パパラッチに追いかけ回されない、道ゆく人に取り囲まれたりしない、見知らぬ人に突然写真を撮られたりもしない。そんな普通がある日本の街歩きにジェイミーは前回の来日ではまった。ダニエラは「今だけ」「次回は日本でも騒動になる」と言っていたが、ジェイミーは懐疑的だ。なぜなら海外有名人のサイトを覗くと日本での感動体験として、

 ——子供と危険を感じる事なくゆっくり買い物ができるなんて奇跡!

 ——電車乗った。でも、誰も声かけてこない! チラ見すらない! 

 ——カメラ持ったご婦人に声かけられたから一緒に写真撮ってくれと言われるのかと思ったら、シャッター押してくれだった! 道端で撮る側に回るなんて、初体験でむしろ感動!

 ——アメリカでは絶対街歩きなんて出来ないのに、東京では誰も声すらかけてこなかった! あの有名なスクランブル交差点もフードなしサングラスなしでオッケーなんて! すごくない?

 そんな驚きの声で埋め尽くされている。日本人は概ね礼儀正しく、おおらかで親切、他人を尊重して不用意に声をかけたりしない。そんなイメージ。

 それに対して、自国で有名だからって日本でもそうとは限らない、とか。日本人はそもそも外国人に興味がない、とか。日本人は表立って行動しないだけでこっそり写真撮ってネットにあげてる、などなど。ネガティブなコメントもあるが。自国にはない自由と安全が日本にはあるのは間違いない。

 ジェイミーは、ニットの上にコートを羽織って外へ出る。

 年末最終日のせいか通りに人は少ない。道を行き交う車もあまりなく、閉まっている店も多い。ちょっと気になる喫茶店を覗いてみたがそこにも「close」の看板が下がっていた。

(うーん。日本を楽しむなら年末は避けた方がいいみたいだね)

 ひとつ勉強になったと思いながら、ホテルに戻ろうとしていたその時だった。通りの向こうを歩く人物にふと視線が止まった。止まったと言うより縫い止められた。そしてすぐに気づく。

(ナオだ!)

 なんという偶然。なんという奇跡。ジェイミーのテンションが一気に上がった。

 再び道端で出会うなんて、これはもう運命ではないのか。そんな気分にすらなった。

〔ナオ!〕

 人目も憚らずにジェイミーは声を上げる。と言っても、そもそも通りに人影などほとんどないのだが。それでも少し距離がありすぎたのか、尚人はジェイミーの呼びかけに気付く様子なくそのまま歩調を変えず通りを歩いていく。この状況では追いかけて捕まえるしかない。——が、目の前の信号はあいにくの赤。青に変わるのをもどかしく待って、ジェイミーは走って追いかけた。

 後もうちょっと。追いつきそうなその直前。尚人が方向を変えて建物の中へと消えていく。その行き先を確認してジェイミーは一瞬呆然となった。

 なんとそこは、ジェイミーが宿泊しているホテルだったのだ。

(え? 何で?)

 そう思った直後、自分に会いに来たんじゃないかと思い立つ。

 ランチを誘っていたけど断られた。でも、やっぱり気持ちに余裕ができたから、考えが変わった。連絡先を交換してなかったから、宿泊先を誰かに聞いて直接やってきた。——そいうことではないのか。

 というか、そうに違いない!

 ジェイミーは足取り軽やかにホテルロビーに歩を進め尚人の姿を捜す。すぐにソファーの並ぶ一画にその姿を見つけ、声を掛けようとしたのだが——。

 ジェイミーが目にしたのは、ソファーに座る人物に尚人が声をかけているところだった。明らかに待ち合わせをしていた雰囲気で、にっこりと微笑む尚人に相手も尚人を見やって柔らかく笑っていた。

(…………あれは)

 知っている。日本で最も有名と聞いているモデルだ。言葉を交わしたことはないが、今年初めて参加したジャパン・コレクションでは自然と目を引いたし、ミラノ・コレクションでも異彩を放っていた。

 日本のカリスマモデル——『MASAKI』。

 なぜ尚人が彼に親しげに笑いかけているのか。

 初ステージ前にランチを楽しむ余裕はないとジェイミーの誘いは断ったのに、なぜ『MASAKI』とは会っているのか。

 ジェイミーの心はただただざわついた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

錯綜のステージ 9

「雅紀兄さん、お待たせ」

 その声に雅紀はタブレットに落としていた視線を上げた。

 午前中の仕事を終え予約していたホテルに入った雅紀は、尚人から最寄駅に着いたとのメールを受け取ってロビーに降りて待っていたのだ。

「迷わなかったか?」

「うん。ちゃんと事前に調べておいたから」

 抜かりないところは尚人らしい。

 にこにことした笑顔が可愛くて、頭をなでてよしよししてやりたいが、さすがにホテルのロビーではまずかろうと自重する。

「じゃ、部屋に行こうか」

「何階?」

「8階」

 そんな他愛もない会話を交わしながらエレベーターに乗り込んで部屋に向かう。

「それにしても、荷物大きいな」

 泊まりの荷物は先に車で出る雅紀が持って出た。だから尚人は、携帯電話と財布くらい持ってくれば良かったはずなのだが。

「うん。お弁当持ってきたから」

「弁当?」

「お昼一緒に食べようって言ってたでしょ? だから、お弁当いるかなって思って」

 雅紀はぱちくりと瞬いて、小さく苦笑した。

「朝からずいぶん作ってるなぁって思ってたけど。裕太の飯かと思ってた」

「もちろん、裕太の分も作ってきたよ」

 雅紀的にはホテルラウンジで一緒にランチと思っていたが。もちろん、尚人の弁当の方がいいに決まっている。

「わぁ、広い」

 8階に着いて、部屋に入るなり尚人が感嘆の声を上げた。部屋はスーペリアツインで、一度加々美のポケットマネーで泊まらせてもらったジュニアスイートからすれば断然格下グレードだが、それでもそこそこの広さと開放感はある。窓際にソファーとローテーブルがあり、夜景を楽しみながら酒を楽しむにはうってつけのスペースだが、尚人の弁当を広げるのはベッド前の広い空間に置かれた二人がけのダイニングテーブルがちょうどいい。

 尚人は物珍しげにしばらくキョロキョロと部屋を見回してから洗面所に手を洗いに行くと、

「なんかどこもかしこもピカピカで、使うのためらっちゃうね」

 そんな可愛らしいことを言いながら戻って来た。

 雅紀一人泊まるならこんなに良い部屋には泊まらない。いつも利用するのはスタンダードシングルだ。今日は尚人の初ステージなのだから、お祝いの意味もある。

 尚人がテーブルの上に持参した弁当を広げる。唐揚げにベーコンのアスパラ巻きにミートボール。副菜にポテトサラダとほうれん草の白和え。それにブロッコリーとミニトマトが彩りを添えている。おにぎりは食べやすいように一個ずつラップに包んである気の遣いようだ。

「うまそうだな」

「好きなだけ食べてね」

 わざわざ水筒に入れて持って来た温かいほうじ茶を注ぎながら尚人が言う。こんな物まで持って来るなら大荷物になるのも当然だ。

「いただきます」

 遠慮なくいただく。おにぎりの中には昆布の佃煮が入っていた。

「あ、でもまーちゃん。本番前はあまり食べすぎないようにしてるって言ってから、気にせず残して良いからね」

 尚人の弁当を前にして、なかなか難しい忠告だ。が、確かに大事なステージ前。食べ過ぎは厳禁だ。

「俺もお腹半分ぐらいにしとく」

 そう言って尚人がちょこちょことつまんで食事を終わらせる。もともと少食の尚人ではあるが、そのあまりの少なさに雅紀はほんの少しだけ心配になる。

 それで本当に半分なのか? と。

 緊張しすぎて食事も喉を通らない、と言うふうには見えないが。こんなにも食わないのならラウンジで食事をしなくて良かったなと密かに思う。ひょっとすると出された物を残すのは悪いと気を遣って尚人に無理をさせることになったかもしれない。

「結構残っちゃったね。張り切って作りすぎちゃった」

「冷蔵庫に入れときゃいいさ。戻ったら食うから」

「でも、まーちゃん。ステージが終わったら打ち上げがあるんじゃないの?」

 尚人は自分の出番が終わればすぐにホテルに戻ることになっているが、雅紀はそう言うわけにはいかない。本音では尚人の待つホテルに一刻も早く戻りたいのだが、この業界は打ち上げも含めて仕事だ。

「一応、打ち上げ会場にはオードブルが並んじゃいるけど。はっきり言ってあれは喰うためのものじゃなくて、会場のセットの一部みたいなもんなんだよ」

「そうなんだ」

 尚人はなんとも不思議そうな顔をしたが、それ以上突っ込んでくることもなく、残った弁当を綺麗に詰め直して冷蔵庫へ仕舞う。その後歯磨きやら、荷物の整理やらしていると、尚人の携帯電話が鳴った。

「あ、はい。わかりました。すぐに行きます」

 短いやり取りだけですぐに終わる。

「加々美さん?」

 尚人が電話を切ったタイミングで問いかけると、尚人が頷いた。

「うん。ロビーで待ってるって」

 尚人は雅紀よりも早めに会場入りすることになっている。初参加の新人なのだから、それは当たり前。本音では雅紀も付いて行きたいが、(かえ)って尚人の邪魔になる、と自分に言い聞かせて自制した。——それでも

「じゃ、ロビーまで送る」

 その位は許されるだろう。

 尚人を伴ってロビーへ降りると、長い脚を持て余し気味にソファーに座っていた加々美がすぐにこちらを見つけて手を上げた。

「よう」

「ナオがお世話になります」

 歩み寄り、きっちり腰を折って挨拶する。すると加々美が艶っぽく苦笑した。

「相変わらずの過保護だな」

 ロビーまでついて来たことを言っているのだろう。

「加々美さんだって出演者側なのにわざわざ迎えに来ていただいて」

「俺は、最後の最後にほんのちょっと出ればいいだけだからな。それまでは尚人君のサポート優先さ。何たって俺は、尚人君の代理人だから」

 やっていることは代理人というよりマネージャーだが。加々美の配慮に文句があるわけではない。

「じゃ、ナオ。行ってこい」

「うん。行って来ます」

「最後は楽しんだが勝ちだ」

「わかった」

 にこりと笑った尚人の顔を見て、これなら大丈夫そうだと雅紀は安堵した。

 

 

 * * *

 

 

 カウント・ダウン・ランウェイ、イベント会場。開幕時間が近づくにつれ、徐々に会場は人で溢れ、熱気に包まれていく。

 モデルにスタイリストにメイクアップアーティストにアシスタント。いろんな人たちで舞台裏は雑然愴然。そこかしこで今日着る衣装の最終フィッテングが行われ、メイクが施される。

 そんな中、グラビア撮影の経験はあってもステージ初参加の尚人は、本番前の慌ただしさに多少圧倒されつつ加々美に連れられてあちこち挨拶に歩き回っていた。

「『NAO』と申します。初めて参加させていただく新人です。よろしくお願いします」

 少々緊張しながらもきっちりしっかり挨拶する。相手からの反応はまちまちで、にっこり笑顔と握手付きで挨拶を返してくれる人もいれば、ちらりと視線を投げただけで終わる人もいる。本番に向けて余計なことで気を削がれたくない人もいるだろうと思えば、素っ気ない反応もむしろ「申し訳ない」という気持ちになる尚人だったが、事前に加々美から「いろんな人間がいるから、いちいち気にする必要ないからね」と言われていたので、あまり考えないようにする。

 とはいえ挨拶とは別口で、ビシバシと突き刺さる周囲の視線に気付かない尚人ではない。

(新参者だから値踏みされてるだけ?)

(それとも俺って、なんか変なのかな?)

(場違い感ありありで浮きまくってるとか?)

 そんな斜め上の心配をしている尚人は実は気付いていない。

 なぜ自分が(ひそ)かな注目を浴びているのか。

 ——あれがあの話題のCMの子なんだ。

 ——なんだろ、この目が吸い寄せられちゃう感じ。

 ——なんか、見てると癒される子だな。

 しかししかしそれよりも、皆が気になってしょうがないのが、

 ——加々美さんの秘蔵っ子って噂はやっぱり事実?

 話題性抜群のデビューをして、それでいて正体は不明。『NAO』という名前以外のプロフィールの公表がなく、どこの事務所に所属しているのかすらわからない。そんな中「どうやら加々美さんの秘蔵っ子らしい」という出所不明の噂がまことしやかに広がっていて。——それでいて今日、まさに加々美に連れられて挨拶まわりをしている現場を目撃すれば、誰もが注目するのはある意味当然であった。

 とはいえこれまで、加々美が新人モデルを連れ回していたことがないわけじゃない。事務所の後輩の面倒を見るためで、そう言った世話役をやらない加々美ではないのだ。だから、今回新人を連れているからとイコール秘蔵っ子という図式が成り立つのかと言われると、確信までは持てない。だからこそ気になってしまう。……それに。引き回す加々美が見るからにデレデレで。愛玩動物連れ回して「うちの子可愛いでしょ?」みたいな? そんな姿を見せられると、「一体、どういう関係なんだ?」と謎は深まるばかりで。益々人々の注目を集めてしまう。

 そんな中、皆の注目を集めるさらなる事態が発生する。

 なんと、ひそかにコミュ障と噂される超絶人見知りで知られる『ユアン』が『NAO』に自ら歩み寄って声をかけたのだ。

〔ナオ、ここにいた〕

〔あ、ユアン。どうしたの?〕

〔ナオ、さがしてた〕

〔そうなんだ〕

 それからユアンがいつものごとく尚人の頭をもふってから、こくりと首を傾げる。

〔ナオ、なにしてるの?〕

〔みなに、よろしくお願いしますって、挨拶まわりしてるんだよ〕

〔ふーん?〕

 ユアンの「なにそれ?」的な反応に尚人は苦笑する。妖精王子と言われるユアンに挨拶回りさせようなんて誰も考えないのだろう。それに、突然目の前にユアンが現れて、ユアンがいつもする手をちょこんとあげる挨拶を唐突にされたなら、挨拶されたほうはただただ驚いておわりだろう。その光景を想像すると何となくおかしい。

〔まだ、おわらない?〕

〔えーと、どうかな?〕

 尚人は加々美を振り返る。

「まだ、回るところありますか?」

「いや、もう十分」

〔もう、終わりだって〕

〔じゃ、ナオ。あっち行っておしゃべりしよ〕

 ユアンが尚人の手を取って歩き出す。

 その現場に居合わせた人々は、目撃したありえなさすぎる光景に、ただただ唖然としていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

錯綜のステージ 10

「『NAO』と申します。よろしくお願いします」

 きっちりしっかり挨拶をして来た相手を前に宗方奨こと『ショウ』は、ほんのわずか気構えた。

 聞きたいことは山ほどあった。所属事務所のこと、デビューのきっかけのこと、加々美蓮司との関係性。そして『ヴァンス』との繋がり。頭の中では質問したいことがぐるぐる回っていたが、ほぼ初対面のまったく親しくもない相手にそんなことつっこんで聞けるような性格ではなく。

「こちらこそ、よろしく」

 結局は、軽く微笑んで挨拶を返すのが精一杯だった。

 奨の笑顔につられたのか『NAO』もにこりと微笑む。その笑顔が可愛らしくて何となく肩に入っていた力が抜けた。

(悪い子じゃないよね)

 そう思うと、敵愾心を抱くのもおかしく感じて。

「今日はお互い頑張ろうね」

 そう声をかけると『NAO』の笑顔が一層深くなって、真っ直ぐ向けられていた視線の艶が深まった気がした。

「はい。ありがとうございます」

 『NAO』がぺこりと頭を下げる。そのタイミングでアシスタントからメイクの時間だと告げられ、奨は『NAO』と別れてメイクブースへ向かった。

 こう言った大きなイベント会場の舞台裏は、グラビア撮影とは全然違う。モデル専用の控え室なんてないし、メイクブースも所狭しとモデルが詰め込まれ、あちこちでメイクが施されている。

 その雑多な人混みの一画に、奨は『タカアキ』の姿を見つけた。

(結局、参加できたんだ)

 『タカアキ』が、カウント・ダウン・ランウェイの参加が決まらないことをぼやいていたのを奨は知っている。

 同期である『タカアキ』とはそれなりに仲がいい。——というか、邪険にするメリットもないのでそこそこ無難に付き合っている。お互いそれなりに仕事が忙しくてしょっ中つるむような関係ではなかったが、『タカアキ』がジュエリー・テッサの件でやらかして、マネージャーが狭山に交代したあとから時々愚痴聞きの飲みに誘われるようになっていた。

「——マジで、やばいかも」

 カウント・ダウン・ランウェイへの参加が決まらず、今までにない深刻な表情でそう呟いていたのが今月頭だ。内心では「この時期まで決まらないというのは、さすがにもう無理なんじゃ?」とは思ったが、だからと言って同期の凋落を喜ぶほど性格は悪くないつもりだし、本気で落ち込む貴明の姿にはやはり同情した。

「狭山さんのことだから、ギリギリまで言わないでいるとかじゃないの?」

「なんのために?」

「それは、わからないけど。例えば、一つ一つの仕事に集中させるためとか?」

「…………あのヤローなら言いそうだな」

『あのヤロー』とは当然、狭山を指すのだろう。自分のマネージャーの事をそういう言い方をする時点でもう終わっている、とは思いつつ。

「そう思うなら、狭山さんのこと信じて待ったら?」

 そんな慰めを口にしたが、実際のところ奨は狭山のことをよくは知らない。ただ、的場が言うには「かなりできる人」らしく、その狭山を貴明につけたというのは「会社としては背水の陣」で「狭山さんでダメなら諦めるってことだろう」ということらしかったが、貴明の様子を見れば狭山とうまく行っていないのは明らかで、ひょっとしてカウント・ダウン・ランウェイに参加できないことをもって引導でも渡すつもりなのかと奨は密かに思っていた。

(やっぱりそう簡単には見捨てないってことかな)

『タカアキ』を、と言うより、自社モデルを、といったところか。

(参加できて、よかったじゃん)

 素直にそう思う一方で、一抹の不安がよぎる。

 それは、貴明があからさまに『NAO』を敵視しているからだ。一緒に飲みに行った時も話題はほぼ『NAO』に対する不満と怒りだった。『NAO』に直接何かされたわけでもなければ『NAO』に仕事を奪われたわけでもないのに、あれだけ敵視できる貴明に正直ドン引きだったが、よく知らない『NAO』を庇うのもおかしな気がして、適当に相槌を打ってやり過ごしていた。

 しかし貴明にとっては、自分の怒りには正当性があるのだ。

 まず、学校の課題とかで『アズラエル』に入り込んできたこと。『アズラエル』が学生の職場体験を受け入れること自体珍しいことで、何らかの伝かコネがないとほぼ実現不可能らしく、貴明に言わせると、高校生のくせに(おそらくは親の)コネを当たり前に使うのがそもそも許せない。その上、その時に超多忙な加々美を引率者にするという横柄ぶりに加え、それが当然と思っているらしい平然とした態度も不遜。どこのお偉いさんの息子か知らないが、そんな態度を悔い改めさせるのが年配者の務めである、らしい。『ヴァンス』とのムック本撮影現場に潜り込んで来ていた時までは、「何で周りの大人がちゃんと躾ないんだよ」と思っていたが、コネごりを押し通してモデルの世界に足を踏み入れたのなら「この世界の常識」を教えてやるのは先輩である自分の務めでもある、とのことで。「現場であったら、マジよーしゃしねー」らしい。

 具体的にどうする、とは聞いていないが。この業界では目立つ新人が受ける洗礼は数々ある。とは言え、あからさまな新人いじめは自分の身も危うくするので、表沙汰にならない程度にひっそりこっそりやるのが普通だ。それと、本人の仕事に穴が開くのは良くても、ショー自体がダメになるような事は禁止、という謎ルールも聞いたことがある。聞いた話としてはグラビア撮影開始前にトイレに閉じ込めて撮影に参加できなくするのはオッケー(他のモデルが準備できるからと言うのが理由らしい)でも、コレクションショー出演前にトイレに閉じ込めるのはアウト(ショーにはいろんな人間が関わっていて、契約も複雑なため、最悪賠償金の支払いに発展すると言うのが理由らしい)とか。奨的には「どっちもダメだろ」と思うのだが、その理論から言えば、今日のこの日に何かするほど『タカアキ』もバカじゃないはず。一年の締めくくりの、この業界にとって一番大切なイベントだ。ワンステージが来年の仕事に直結する一方で、些細なミスが自分の首を締める。

(『NAO』に何かしてやろうなんて余裕、ないはずだよね?)

 目を閉じて大人しくメイクされている『タカアキ』の横顔を見るに、大事なステージに向けて気持ちを集中させているように見える。

「『ショウ』さん、こちらにお願いします」

 アシスタントのその声に、奨は『タカアキ』から視線を外すと自分のことに集中しようと気持ちを切り替えた。

 

 

 * * *

 

 

  挨拶回りを終えて『ヴァンス』のブースに戻って来た尚人にはユアンとゆっくりお喋りをするような時間はなかった。待ち構えていたスタイリストに衣装に着替えるよう指示され、最終フィッテングを終えてリハーサルに臨む。練習で散々歩いたランウェイだったが、照明も音響も本番仕様になった会場はまだ観客が入っていないとはいえ練習の時とは全然違う空気が充満していた。

 出るタイミングや立ち位置など、しっかり確認しながらリハーサルに臨む。

 こう言ったステージイベント初参加の尚人が意外に驚いたのが、舞台裏に取材カメラマンが入っていた事だ。モデルが衣装に着替えるとそこかしこでパシャパシャと写真を撮っている。カメラを向けられたモデルは特段指示を受けることなく自ら表情を作りポージングする。その以心伝心ぶりに尚人はただただ感心した。

 本番直前ギリギリまでメイクをチェックされ、細かく直される。出番が近づいて舞台裏に並ぶよう指示されるとリラックスモードだったモデルたちもさっと表情を引き締めて一気に緊張感が高まった。

 尚人はゆっくり深呼吸を繰り返し、平常心を保つ。

(いつも通り。いつも通り)

 心の中で自分に言い聞かせる。

 焦らず、落ち着いて。ランウェイの端まで歩いて戻って来ればいいのだ。

 前に並んでいたモデルたちが次々と出ていく。尚人の出番はあっという間にやって来て、尚人はほとんど無に近い感情で表舞台へと飛び出した。

 スポットライトの煌めきが目を刺し、一瞬視界を遮る。会場に充満した熱気が肌をぞくりと刺激したが、それは尚人を萎縮させるよりも高揚感を誘った。体にフィットした衣装がプロテクターのようで、何となく尚人を強気にさせる。今なら自分も、加々美や『ジェイミー』に負けない、自分らしい堂々としたウォーキングができる、とそんな気になった。

 スポットライトを浴びてランウェイを歩く。光の向こうに何百何千という視線があるんだと思ったが、怖くはなかった。見られている自分を俯瞰する。今、皆が見ているのは『篠宮尚人』ではなく『NAO』なのだ。それは自分であって自分でない。その感覚が尚人をより冷静にさせた。

 ステージの端まで来てターンする。練習では苦手にしていたが、今日はなんとも体が軽かった。今来たランウェイを戻る。戻ればおしまい。それがなぜだか名残惜しかった。

 

 * * *

 

 

 尚人の出番を加々美は舞台袖で見守っていた。

 練習通りに歩ければ大丈夫。そうは思っても本番と練習は全然違う。観客の入った会場は興奮と熱気に包まれていて、初参加ではそれに圧倒されたっておかしくはない。緊張すれば体が強張る。体が強張ればいつも通りが難しくなる。

 (ころ)ばなければ御の字。そのくらいの気持ちでいたのだが。

 加々美はすぐに自分の心配が杞憂であったことを知る。

 ステージに登場した『NAO』は加々美もハッとするようなオーラを纏っていた。

 練習の時には見せたことがない明確なオーラ。

 他を圧倒するような激しいものではなく、まるで水のような透明感、清涼感でありながら、視線を縫い止めて離さない。流れるようなウォーキングは、とても初参加とは思えない落ち着きがあって、いつもの尚人からは想像できない貫禄すらあった。

(おい、おい、おい、おい。……マジかよ)

 加々美は心の中で唸り声を上げる。

 本番に強そうだと思ってはいたが。ひょっとすると『MASAKI』よりも天賦の才があるかもしれない。

 観客が『NAO』に惹き込まれていくのがわかる。

(こりゃ、明日から電話が鳴り止まないかもな)

 加々美は密かに覚悟した。

 

 

 * * *

 

 

(くそ、マジなんなんだよ。こいつ——)

 自分の出番を終えてバックステージに戻っていた貴明は、ステージを写すモニター越しに『NAO』が出演していることに気づいて舌打ちした。

 久々の大きなステージは気持ちよかった。溜まりに溜まっていた鬱憤を晴らす勢いでド派手パフォーマンスを見せつけて、盛り上がった観客の熱気に貴明は満足した。

 カウント・ダウン・ランウェイへの出演が決まったと狭山に告げられた時、貴明は狭山からこんなことも言われていた。

「このイベントの重要度は『タカアキ』君もよくわかっていると思います。ワンステージで来年の仕事が決まることもザラです。まだモデルを続けたいと思っているのであれば、自分の力で仕事をつかみ取ってください」

 狭山の言葉はいちいち腹が立つ。しかし、言っている事は確かにその通りで。しかも実力で仕事をもぎ取ったとなれば腹の立つ狭山を今後黙らせることができる。何なら部長の榊に狭山の職務怠慢を訴えてマネージャーを交代させたっていい。そう思えばこそ、貴明は今までにない程のやる気を持ってこのステージに望んだのだ。

 手応えはあった。『タカアキ』はまだまだ賞味期限切れじゃない。誰にも負けないド派手さを武器にモデル界を牽引する存在だと。観客に見せつけ、そして観客も納得したはず。

 今年の打ち上げは気持ちよく盛り上がられる。そんな気分だった。——それなのに。

 『NAO』を目にした途端、そんな高揚した気分は一気に霧散した。

 気持ちよく終われるはずだった年末最後の仕事にケチがついた。そんな感覚に貴明はイラつく。

(だいたい『ヴァンス』のモデルって、ありえねーだろ)

 『ヴァンス』の専属モデルを務めているのは同じ事務所の同期『ショウ』だ。『ヴァンス』と『アズラエル』が交わしている契約の詳しい内容までは知らないが、『ヴァンス』と『アズラエル』が専属モデル契約を交わしているのは知っている。だからCMで『NAO』が『ヴァンス』の衣装を着ていた事自体「有りなのか?」と疑問に思っていたが、それについては、CMの広告主である『リゾルト』と『ヴァンス』との間の特別契約による衣装提供があったかららしい、と呑みの席で『ショウ』に聞いた。いわばその場限り。だからこそ許された特例。それなのに、その特例は雑誌グラビアへも適用され、そして今、このステージにも拡大されたわけだ。

 そんなこと、よっぽどのコネと我を押し通す傲慢(ごうまん)さがない限りありえない。そしてそれは、誰もが身一つで頑張っているモデル全員の努力を(ないがし)ろにする行為としか言いようがない。

 加々美に特別に可愛がられている『MASAKI』も目障りといえば目障りだが、『MASAKI』の実力は貴明も認める。現場で何度も一緒になって、悔しいけれども今のところは自分よりも上だと認めざるをえない。

 『MASAKI』と『NAO』の違いはそこだ。一方は実力があり、一方にはない。実力もないくせに周りにお膳立てされて、今自分と同じステージに立っている。そしておそらくは、それを自分の実力と勘違いしている——世間知らずのガキ。

 思えば思うほど、ふつふつと怒りが湧く。

 そんな事を思っている間にモニターから『NAO』の姿が消える。

 ランウェイを終えたモデルは、舞台裏の狭い通路を抜けて貴明が今いるバックステージへと戻って来る。貴明も先ほど通り抜けてきた通路。——ふと、その現場が頭に浮かんで。

 貴明は口の端に小さく笑いを浮かべると静かに(きびす)を返した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

錯綜のステージ 11

 ランウェイを終えて退場口からステージを降りた尚人は、何故だか一気に気分が高揚した。カッと体が熱を帯びて、鼓動が(はや)る。今になって緊張が追い掛けて来たような感じだった。

 足元は何ともふわふわで覚束(おぼつか)なかったが、狭い通路で立ち止まってしまうと後ろがつかえてしまうから、とりあえず前へと進む。

(俺、ちゃんと歩けてたよね?)

 ランウェイから見た景色は鮮明に覚えている。その感覚も。しかし、すべてが白昼夢だったようなそんな気にもなって。本当にランウェイを歩いて戻って来たのかどうかすら怪しく思えてしまう。夢と(うつつ)狭間(はざま)にいるような——そんな気分。胸の辺りがモゾモゾ、ザワザワと落ち着かなくて。そのくせに、何ともいえない幸福感が全身に充満していた。

 ——ステージ出演は、CM撮影ともグラビア撮影とも違った、そこに立った者しか見ることができない世界がある。

 加々美はそう言った。あれは、こういうことを言っていたのかもしれない。と、尚人は思う。今まで揺さぶられたことのない部分の感情が揺さぶられたような感覚。ドキドキとした鼓動がいつまでも収まらない。

 半ばぼーっとした、そんな状態で通路を歩いていた尚人だったが、通路脇にいた一人の男性にふと焦点が合った。『アズラエル』の『タカアキ』だ。壁にもたれかかるように立っていて、誰かを待っているように見えた。面識はないが、一時期頻繁に『MASAKI』と同じグラビアを飾っていたので知っている。

 ペコリと会釈して前を通り過ぎる。——いや、通り過ぎようとしたその時だった。

 尚人の足に何かが当たった。と、思った次の瞬間、尚人は大きく体制を崩していた。ふわふわした気分だったせいか足に踏ん張りが効かず、(つまず)いた拍子に体がそのまま前へと投げ出される。しかも、最悪なことにその先は三段ぐらいの段落ちの階段になっていて、尚人の体はなすすべなくあっという間に宙を舞った。

「うわっぁ!」

 冷や水を浴びせられたように目が覚めて、思わず叫び声を上げる。

 眼下へと問答無用にダイブするその容赦ない様をスローモーションのようにゆっくり感じながら、瞬時にいろんな事が脳内を巡った。

 これって、結構ヤバイ?

 この高さ、落ちたら絶対痛いよね。

 えっと、

 えっと、

 えーーーっと!

 どうする?

 どうしたらいい?

 大惨事の予感しかない。自分だけのことならまだしも、大事な大事なショーが行われている最中だ。できることなら大事(おおごと)になる事態は避けたい。そう思いはするのだが。

 受け身? 受け身取ったら大丈夫とか?

 って、受け身ってどうするの!

 パニックに陥りそうになりつつ頭をフル稼働させたものの、絶望的なまでに運動音痴だったことを思い出しただけで。どうしてこう自分は大事な場面でドジを踏むのだろうと、自分の間抜けっぷりを猛省しつつ、あとはもう、なるようにしかならないと、そんな諦めの境地に至った尚人だったが。

〔ナオ!〕

 なぜか正面にジェイミーがいて。

「ジェイミー。どいて! ぶつかっちゃう!」

 自分では声に出していたつもりだったが、実際どうだったかはわからない。

 とにかく尚人はなすすべなく、そのまま正面にいたジェイミーに突っ込んだのだった。

 

 

 * * *

 

 

「きゃあぁぁ!」

 バックステージに悲鳴が響く。雑線騒然とした舞台裏では怒号や悲鳴が上がる事はざらで、だからその時高倉は、一旦その悲鳴を聞き流した。

 高倉が今日バックステージに張り付いているのは、もちろん加々美に『ジェイミー』のお守りをまかされたからだ。『ジェイミー』の担当は桐生だが、加々美とああ言ったやりとりをしておいて、担当任せにしてしまえる高倉ではない。といっても出ばりすぎてもいけないので、一応現場に詰めてますよ、的な意味合いのつもりだった。桐生に途中確認したところ「ナオの出番って何番目?」「終わったら打ち上げ出るのかな?」などと軽く質問されたらしいがその程度で、さすがにショーに集中していたとの事だった。

 『ジェイミー』の出演は今年の目玉だ。特別ゲストの扱いで、開幕オープニングの一発目にド派手に登場した。会場のボルテージは一気に上がり、『ジェイミー』が登場した瞬間の観客の歓声の凄さたるや、会場建物が震えるほどだった。

 その辺はさすが『ジェイミー』だ。自分の価値も立ち位置も、求められている役割も、しっかり把握して結果を残す。尚人の出番もイベント前半の第一部だから、それを見守ってホテルに帰してしまえば、とりあえず年内の心配事はおしまいだった。

 尚人の出番直前までは加々美も近くにいたが、

「尚人君の初ステージは生で見たい」

 と言って舞台袖へと向かって行った。高倉だってもちろん同じ気持ちだったが、高倉は高倉の仕事をしにここへ来たわけで、尚人の初ステージはモニター越しで我慢することにした。

 そしてモニター越しに見守って、やはり「生で見たかったな」と思う。ランウェイの先に取り付けられている定点カメラの映像ではどうしたって捉えきれないものがある。

 『NAO』の姿がモニターから消えて、「さて、加々美もそろそろ戻ってくるか?」そう思っていた時だ。高倉の耳が女性の悲鳴を捉えたのは。一旦は聞き流す。しかし、次に聞こえた来た声に高倉は反応した。

「だ、誰か! 救護班! 救護班を呼んで!」

「担架。担架持ってこい!」

 ただ事ではない。そう判断した瞬間、高倉の体は動いていた。声のする方へ走り、そしてそこで見たのは、通路に倒れ込んでいる二人の人物だった。

(ジェイミー!)

 一人が誰がすぐに気づいて、高倉は慌てて駆け寄る。

「何があった?」

 青ざめた表情で呆然と立ち尽くすギャラリーに向かって問いかける。女性モデルは声が出ないのかふるふると首を振るばかりで(らち)が明かず、ギャラリーの中に自社モデルの『ショウ』がいることに気づいて高倉は視線を向けた。

「『ショウ』君。何があった?」

 名指しされて、『ショウ』の体がピクリと震えた。硬直した視線が高倉に向いて、戸惑うように唇が震えた。

「あの……。『NAO』君が」

「『NAO』?」

「『NAO』君が転んだはずみで『ジェイミー』さんとぶつかったみたいで」

 『ショウ』の言葉に、高倉はハッとする。

「尚人君? なのか」

 もう一人倒れている人物はうつ伏せになっているため顔が見えないが、言われて見れば『NAO』仕様の『ヴァンス』を着ている。

「尚人君。大丈夫か?」

 声をかけて肩をそっと揺する。すると小さく唸りながらもそりと動き、無意識なのだろうが自力で起き上がろうとするそぶりを見せた。軽い脳震盪状態なのだろう。反応があったことに少しほっとして、高倉は聞こえているかどうか構わないつもりで尚人に声をかけた。

「無理して動かなくていい」

 そしてようやく到着した救護班に二人を担架で医務室へと運ぶように指示を出す。心配なのはピクリともしない『ジェイミー』だった。

「高倉! 何があった」

 野次馬の騒動を聞きつけたのか、加々美が息を切らして走ってくる。そんな加々美に「ついて来い」と視線だけで合図を出して高倉が救護班と一緒に移動を開始すると、高倉の意図を過たず読み取った加々美は黙って高倉に従ったのだった。

 

 

 * * *

 

 

 今日の雅紀の出演は第二部に予定されていた。前半の第一部と第二部の間には三十分の休憩時間がある。だから雅紀は自分の出番も控えていたが、多少は時間があるからと尚人の初ステージを舞台袖で見守った。

 堂々としたウォーキングに兄として安堵すると同時に、観客が向ける熱視線に牡として苛立つ。

 尚人は今どんな景色を見ているのか。それに純粋に関心がありつつも、自分以外見なくていいと本気で思ってしまう。広い世界など知らなくていい。二人だけの箱庭で、二人だけの世界の中で生きていけばいい。外部の雑音など全てシャットアウトして、自分の腕の中で、自分の声だけ耳にすればいい。

 どうしようもない程の独占欲。それを、抑えるのに苦労する。

 尚人の兄でいたい。

 兄としてかっこつけていたい。

 尚人が自慢に思う兄でいたい。

 それも本当の思い。

 しかし一方で、ただの(おす)として尚人に欲情する。

 尚人を啼かせて、快楽に喘がせて。唯一の男であると意識させたい。

 全てを晒け出させ。体を繋げて。色欲に溺れさせたい。

 尚人の良さなど誰も気づかなくていい。

 自分一人知っていればいいのだ。

 兄として弟の成長を喜ばしく感じながらも、尚人が世界を広げて行って自分の腕の中から飛び出して行ってしまうかもしれない恐怖に怯える。

 尚人のランウェイに見惚れながら独り煩悶していた雅紀だったが、尚人の姿がステージから消えると、とりあえず初ステージが無事に終わったことに安堵した。

 余韻に浸るまもなく雅紀も舞台袖からバックステージに戻る。衣装に着替え、ヘアセットのチェックを受ける。周囲が急にざわついたのはそんな時だった。

「どうした?」

「何があった?」

 スタッフたちがザワザワひそひそ。落ち着かない空気がひたひたと蔓延する。常日頃からちょっとやそっとのことでは動じない、鋼の神経とひっそり言われたりもする雅紀なので、最初はそのザワつきも無視していたのだが。「『ジェイミー』が」やら「加々美さんも」という名前の中に『NAO』と聞こえてきてさすがに気になった。

「何やら騒がしいようですけど。何かあったんですか?」

 顔見知りのスタッフに問いかける。

「どうやら新人モデルの子が転倒したみたいで」

「転倒? ステージで?」

「あ、いや。ステージから()けて、こっちに戻ってくる通路。あそこ最後がちょと段差になってるでしょ? 危ないねって毎年言うんだけど、建物の構造上どうしようもないらしんだよね。そこでつまづいちゃったみたいで。担架で運ばれたっていうから、結構派手に転んだんじゃないかな」

「新人モデルって……」

「あの話題のCMに出てたって注目の『NAO』って子らしいよ」

 さっと血の気が引いて、次の瞬間雅紀は駆け出していた。

 

 

 * * *

 

 

「——一体、何があったんだ?」

 ジェイミーと尚人が運び込まれた医務室で加々美は声を潜めて高倉に問う。

「正直なところ、わからん」

 高倉が銀縁メガネのブリッジを軽く持ち上げて呟く。

 いつもポーカーフェイスの高倉だが、さすがにほんの少し眉間にシワが寄っていた。

「現場にいた『ショウ』が言うには、尚人君が転んだはずみで『ジェイミー』にぶつかったと。——おそらくはそのまま二人とも倒れ込んで、その時に頭をぶつけたんだろう」

「転んだだけで、こんな事になるか?」

「おそらくは、階段の上でつまづいたんじゃないかと。二人が倒れていた場所がちょうどそこだったからな」

「あそこか」

 すぐに場所の見当がついて、加々美は顔をしかめた。

 故意ではない。不遇なアクシデント。しかし、相手は世界で活躍する『ジェイミー』で、本人ならびに所属事務所への対応は必須。そしてその対応は迅速かつ丁寧に行う必要がある。後手に回ると不必要に騒ぎが大きくなるかもしれない。弁護士への依頼も必要だろう。

 加々美が善後策を思案していると、二人の様子を確認していた医療スタッフが顔を出した。

「二人とも頭を強打している可能性があります。すぐに救急車を要請した方がいいです。もし、脳内で出血を起こしていたら一刻を争います」

「了解した」

 高倉は答えると、ためらいなく携帯電話を取り出す。

 イベント会場に救急車を呼ぶのは、関係者側としてはなるべく避けたい。何かあったなというのが丸わかりで、今後絶対に大なり小なりマスコミ対応が必要になるからだ。しかし、医療スタッフの言葉を聞けばそんな悠長な事など言っていられないのは明白だった。

 血相を変えた桐生が医務室へ飛び込んで来たのはその時だ。

 騒動を聞きつけて駆けつけて来たのだろう。『ジェイミー』の所在を確認し、寝台にぐったりと横たわる『ジェイミー』を確認した桐生は顔面蒼白になった。

「すみません! わ、私が、そばに付いていなかった責任です」

 桐生の口からそんな言葉が飛び出したが、桐生はアテンド役であってSPではない。四六時中ついて回る必要はないし、今回の件が桐生の落ち度によるものではないのは明らか。だが、担当モデルに何かあればマネージャーは責任を感じる。桐生もそれに近い感覚なのだろう。

「救急車を呼んだ。桐生、裏口に誘導してくれ」

 高倉は、桐生の謝罪に対して叱責するでも慰めるでもなくそう指示を出す。桐生は頷いてすぐさま飛び出して行った。

 それと入れ替わるように雅紀が飛び込んで来た。

「ナオは? ナオはどこです?」

 加々美の顔を見るなり、雅紀が問いただす。いつも冷静沈着な雅紀のこんな表情を見るのは初めてだった。

「騒ぐな。落ち着け」

 加々美が軽く叱責すると、雅紀が瞬時はっとした顔をして、グッと唇を噛み締める。その様子に軽く息をついて、加々美は雅紀の肩に手を置いた。

「あっちで寝ている。意識は、ぼんやりしているがある」

 そう告げると、雅紀の肩から明らかに力が抜けた。

「様子を見に行っても?」

「ああ、尚人君も安心するだろ」

 加々美が頷くと、雅紀は寝台の置かれた隣の部屋へと消えていく。その背を見送って、加々美は医療スタッフの懸念が杞憂に終わることを祈っていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

波紋の跡 1

『それでは、続いてのニュースです。

 年末恒例、ファッション業界最大のイベントであるカウント・ダウン・ランウェイが昨年も華やかに開催されましたが、このイベントに参加していたイタリア人モデル、ジェイミー・ウェズレイさんが、イベント開催中に怪我を負い救急搬送されていたことがわかりました。

 関係者によりますと、ウェズレイさんは、自身の出演を終えた後、バックステージ通路で転倒。その際、頭部を強打した恐れがあるとのことで、大事をとって救急搬送の要請をしたとのことです。

 ウェズレイさんは、パリやミラノで開催される世界的コレクションに多数参加経験があるほか、ヨーロッパの主要ファッション誌の表紙を務めるなど、世界で活躍するモデルで、昨年初めてジャパン・コレクションにも参加しています。

 ウェズレイさんが帰国する際の空港での様子が届いていますので、ご覧ください』

 

 ニュース画面が切り替わり、空港ロビーが映し出される。

 雑多な人混みの中、見るからにモデル体型のイケメンにカメラがズームアップする。

「ジェイミーさーん! お怪我されたとのことですが、もう大丈夫ですか?」

 記者が規制線から身を乗り出してマイクを向ける。SPらしき黒服がぴったり寄り添っていたジェイミーは、記者の呼びかけにわずかに歩調を緩めて笑顔を見せた。

〔この通りさ。何の問題もない〕

「お怪我された時はどういう状況だったのですか!」

 記者の質問が終わる前に、黒服がジェイミーに何やら耳打ちする。先を促し、このまま通り過ぎそうな気配に記者も食い下がる。

「ジェイミーさん! 日本のファンに一言お願いします」

〔次は、ジャパン・コレクションで会いましょう〕

 片手を上げて爽やかに去って行く。

 その場面でこのニュースは終わった。

 

 

 * * *

 

 

 朝7時。篠宮家。

「ナオ、準備はできたか?」

 雅紀はノックもせずに戸を開けて尚人に声をかける。ベッドの端に浅く腰掛けて着替えをしていた尚人は、その手を止めて視線を上げた。

「あ、まーちゃん。もうちょっと待ってね」

 そう答える尚人の下はまだパジャマだ。着替えに時間がかかるのは捻った足首の痛みがいまだ引かないせいだろう。

「慌てなくていい」

 まだ時間はある。

 ただ、大学と言うところは松葉杖ついてでも行かなきゃいけない所なのか? とは思ってしまうが。

 年末のイベント出演後、初ステージを終えた尚人は、バックステージに戻る通路で(つまず)いて左足首を捻挫した。診断の結果は全治二週間。雅紀はしばらく家で安静にしていればいいと考えていたが、尚人が言うには、大学は特に冬休みという期間はなく、正月三ヶ日が明けると授業が始まると言う。

「なら、しばらく休んだらどうだ?」

 雅紀はそう言ったのだが。

「どれも受けたくて取ってる授業だから休みたくないし。それに、出さなきゃいけない課題レポートもあるし」

 尚人がそう言って譲らない。ならば、ということで雅紀が送迎することになったのだ。

「でも、まーちゃん。本当に大丈夫? 俺送って行くと遠回りになるでしょう?」

 着替えの手を止めた尚人が、そのままちょっと上目遣いで雅紀に問いかける。このくだりは散々したのだが、いまだ往生際悪く口にする尚人に雅紀は小さく息をついた。

「どうせ俺も都内に向かうんだし」

 多少の遠回りは事実だが、尚人を送るのは苦でも何でもない。

「それに、ナオ。足が治るまで電車での登校は認められない。それは、散々言っただろ?」

「………………うん」

 どうしても大学に行きたいと言う尚人に雅紀が出した条件だ。尚人は一回松葉杖生活をしたことがあるから勝手はわかると言い張ったが、雅紀的には松葉杖をついて電車に乗るなど危険しかない。そんな状況は絶対に認められなかったし、

「心配すぎてとても仕事に集中できない」

 と言うのも本心だった。

「ほら、着替え手伝ってやる」

 雅紀はそう言って、パジャマの下に手をかける。尚人を脱がすのはお手の物だ。軽く腰を浮くよう促しするりとはぎ取る。捻った足首に負担をかけないよう慎重に着替えのパンツに足を通す。細身のパンツを履くことが多い尚人だが、今日はサポーターで固めた足を楽に通せるようストレッチのきいた少し太めのパンツだ。ダボっとしたシルエットが、これはこれで尚人に似合う。

「荷物はこれだけか?」

 雅紀は机の横に置かれた鞄を手に取る。持って行く物は寝る前にきちんと揃える。尚人の子供の頃からの習慣だ。

「あ、うん。それとキッチンのお弁当」

 尚人の言葉に、雅紀は鞄を手にキッチに向かうと、食卓に弁当と水筒が詰め込まれたランチバックがちょこんと置いてある。それも一緒に車へと積み込む。

「忘れ物ないな?」

「うん。大丈夫」

 松葉杖をついて立ち上がる尚人をサポートしつつ、車へと誘導する。助手席のドアを開けてエスコートしてやり、シートベルトを締めてやるところまで忘れない。

「よし。じゃ、出発するか」

 サングラスを掛けると雅紀は車を発進させた。

 

 

 

 

 何度か送迎したことのある大学までの道のりは、ナビに頼らずとも頭に入っている。雅紀は正月明けすぐの()いた道路をスムーズに運転しながら、尚人が怪我をしたあの日のことを思い返していた。

 あの日、——カウント・ダウン・ランウェイに出演した尚人が初ステージを終えて、バックステージへと戻る途中、通路で(つまず)いて()けて、担架で運ばれたと聞いた時は本当に肝が冷えた。転倒したと聞いた場所が場所だけに、打ち所が悪ければ軽症では済まないと瞬時に脳裏によぎったからである。

 かつて尚人は、自転車通学の男子高校生ばかりを狙った悪質な暴行事件の被害にあったことがある。その時、突然かかって来た見知らぬ電話。下校中に事故にあって病院に運ばれたと聞かされて。深夜の病院に駆け付けそこで見た、ベッドに力なく横たわる尚人の姿。顔面は血の気が引いて真っ白で、頭部に何重にも巻かれた包帯が目に痛かった。雅紀が到着した時はすでに薬が効いてぐっすり眠っていたが、薬のせいだと説明されても翌朝目を覚ますまで気が気ではなかった。

 あんな経験はもうごめんだ。心底そう思っていた。

 それにあの時の、全身打撲と捻挫という外傷は、他人からしてみれば「不幸中の幸い」「とにかく命に別状がなくてよかった」という程度のものだったかもしれないが、予想外の転倒による頭部への強い衝撃は無意識化に強い恐怖を植え付け、その後尚人はPTSDを発症して何度も苦しめられることになった。

 自分でもコントロール不能で、いつ引き起こるのかわからない発作。落ち着いて来たかと思えば些細なことでぶり返し、平気なフリをしていても確実に尚人を消耗させている。

 ありとあらゆる苦難から尚人を守り、ありとあらゆる苦痛を尚人から遠ざけたいと願っているのに。

 あの悪夢の再来かのような出来事。そして二度目は「不幸中の幸い」では済まないかもしれない、と反射的に思ってしまう恐怖。

 あの日。周囲のざわめきを聞きつけて、医務室へと駆け込んだ雅紀が気が気ではなかったのは、そう言った危惧も抱いていたからだ。

 だから——

「……ま、……ちゃ?」

 雅紀の呼びかけにうっすらと目を開けて、反応があったことにひとまず安堵した。

「ナオ。大丈夫か? どこか痛いところはないか?」

 頭をそっと撫で怪我の具合を確認する。ぱっと見外傷はないが、これだけ意識が朦朧としていると言うことは相当な衝撃を受けたのだろう。内臓の損傷のようなことも心配だったし、近頃治っていた発作の再発も心配だった。

「……心配かけて、ごめんね」

「謝らなくていい。ナオの心配をするのは俺の特権なんだから」

「……俺、ホント……… 〜 〜 〜 ——-。ジェイミーに、も、………あやまらな………きゃ」

 ぐったりと寝台に横たわった尚人が途切れ途切れに呟く。途中うまく聞き取れなかったが、『ジェイミー』の名前を口にしたのはわかった。

 その事実に、雅紀は反射的に眉を寄せた。今この瞬間の、意識が朦朧としている状態にありながら尚人が別の男の名を口にしたと言う事実が、どうにも雅紀の神経をざらつかせた。

 これについては後ほど、尚人が転倒した時にその場に居合わせたジェイミーを巻き込んでしまったからと知ったが、それでも雅紀の心のざらつきは解消されることはなかった。

 いや、むしろ雅紀をより懸念させることになった。

 なぜなら、尚人が罪悪感を抱く理由が正当であればあるほど、尚人の心の中に『ジェイミー』が住み着く理由になってしまうからだ。

 尚人の心の中に自分以外の男が、それが如何なる理由であろうと、住み着くことは許せない。完全なる嫉妬だ。もちろんわかっている。そして雅紀は、その嫉妬をエゴと自省するなんてことはしない。

 尚人は俺のもの。——俺だけのもの。

 身も心も、思考さえも。

 他人が割り込んでくることは許さない。

「ナオ、帰りも迎えに行くから、終わったらちゃんと連絡入れるんだぞ」

「うん。わかった」

「変に気を回して、一人で帰ったりしたら許さないからな」

「……う、うん。ちゃんと連絡するから」

「無理はするな」

「うん。わかってる」

 ホントか? 雅紀はほんの少し疑いつつ、尚人を送り出した。

 

 

 * * *

 

 

 モデル事務所最大手『アズラエル』本社、高倉真理の執務室。いつもはそこはかとない緊張感漂うこの執務室も、正月休み明けのこの日ばかりはしっかり休養した後の穏やかな空気が多少なりとも漂うものなのだが、——今年は違った。

 例年なら艶悪(いろあく)めいたフェロモンをナチュラルに垂れ流しながら軽やかな新年の挨拶と共に顔を出す加々美が、真剣な顔して革張りのソファーに座っている。若干、前のめり気味に見つめているのはモニターで、映し出されているのは年明け今日まで各局で放送されたニュース映像だ。

 もちろん、年末に行われたカウンド・ダウン・ランウェイに関するニュースである。今年は誰が出演しただの、どういう演出だったかなど、一般人が入れないステージをチラ見せする民放番組が例年いくつかあるのだが、加々美が気にしているのはそう言う(たぐい)のニュースではない。舞台裏で起きたあの騒動がどの程度世間漏れしているのか。どの程度世間の関心をさらったのか。それを確認しているのだ。

「思ったほどは取り上げられてないな」

「まあ、正月三が日はどの局も撮り溜めした特番だらけだからな。もともとニュース枠自体が小さい」

 チェックを終えて加々美は小さく息をつく。どちらかと言うと安堵のため息だ。この程度で済んでよかった。そう思った。

 あの騒動の際、加々美は「大変なことが起きた」と内心青ざめ、救急搬送する事態に至ってはとにかく二人の無事を祈りつつ、下手にマスコミ連中に騒がれると厄介だと危惧していたのだが、この様子ならこのままこれで収束しそうだ。

 メディア各局が休みに入る大晦日の出来事だった事もタイミング的には恵まれたし、世界で活躍するモデルとは言えジェイミーの知名度が日本ではまだまだだったことも幸いだったと言える。

 そのジェイミーだが、救急搬送時は意識がなく心配したが、病院に到着する頃には意識を取り戻した。全身打撲の診断だったが幸いにも軽傷で、多少の痣はできたが一晩の経過観察入院で済み、一昨日予定通り帰国した。

 一方の尚人は、(つまず)いた際にどうも足を捻ったようで全治二週間の捻挫という診断で、ジェイミーの助けがなければもっととひどい怪我をしていだだろうことを思えば不幸中の幸いであった。

 二人とも大怪我でなくて良かった。とは加々美の本音だが、ただ、ジェイミーのマネージャーであるダニエラは怒り心頭で、危険箇所への対策を怠った運営側への責任追及とジェイミーが怪我をする直接的原因となった尚人に対し損害賠償請求を辞さない構えを見せている。加々美はその対応に追われている最中で、とりあえず互いに弁護士を入れるというところまでしか話が進んでいない。

 加々美的には「あれは不運な事故であり、故意ではないのだからこちらに非はない」と言いたいわけではないが、相手に言われるままに過大な謝罪や賠償をする事態は避けたいと思っている。責任の範囲を明確にすることが何より尚人のためだと思ってるからだ。

 病院での診察を終えて、意識がはっきりしてきた後の尚人の気落ちのしようと言ったらなかった。ジェイミーを巻き込んでしまった、ジェイミーに怪我をさせてしまった、泣きそうな顔で何度もそれを繰り返し、自分みたいな素人があんな大事なイベントに参加したのがそもそも間違いだったと口にされると、加々美は心のいろんな部分が痛んだ。

 尚人の参加を強く望んだのは自分を含めた周りの大人達。そして加々美は密かに今回一回きりの参加で終わらせたくない、と思っていた。今だってまだ思っている。だが、今回の出来事が尚人の心理状態にかなり影響するのは間違い無く、騒動の決着の付け方を間違えば時間をかけてようやく口説き落とした尚人を失うことになりかねない、という強い懸念が加々美にはあった。

 そんな状況の中で外野の騒動を歓迎しないのは当然のこと。最近の世の中は、聞きかじりの情報で勝手に想像を膨らませて事態を複雑にねじ曲げてしまうということが往々にして起きてしまうから、下手な炎上でこれ以上尚人の心に負荷をかけたくなかった。

 それもあって、ニュースの取り扱いが小さかったことにひとまず安堵したのだ。

 明日明後日になれば、生番組のワイドショーの放送が開始される時期になるが、今回の件はそう言った番組で扱うほどビックなニュースでもなければフレッシュなニュースでもない。それを考えれば、あとは当事者間で冷静に話し合えばそれなりの落とし所で決着するだろう。尚人へのフォローはその後時間をかけてゆっくりすればいい。

 そう思っていたのだが——

 加々美はこの時まだ知らなかったのだ。

 「自分の不注意で(つまず)いた」尚人がそう言うのだから、そうなのだろうと。それを信じて。と言うより、それ以外の事が念頭に浮かぶことがなくて。

 尚人の転倒にはとある疑惑があり、それが波紋を呼ぶことを。

 ゴシップ誌がそれをスクープするのにさほど時間はかからなかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

波紋の跡 2

【『独占スクープ! 錯綜の舞台裏。華やかなファッションの祭典中に救急搬送されていたのはジェイミー一人ではなかった。その意味』

 毎年大晦日に開催される日本ファッションモデル業界恒例イベントであるカウント・ダウン・ランウェイ。日本で活動する旬なモデルが数多く出演する非常に華やかなイベントだ。

 とはいえ、一般人の多くが聞き馴染みがないかもしれない。というのもそのはずで、このイベントは業界関係者及び招待客のみ入場可能なイベント。そうと聞けば身内だけで行う単なる年越しのお祭りのように感じるかもしれないが、日本の事務所に所属するモデルにとって、この日にランウェイを歩けるかどうかで翌年のステータスが決まるとまで噂される重要なイベントなのである。ある関係者は、このワンステージで翌年の仕事の大半が決まるとまで言い切る。

 その重要なイベントの舞台裏で起きたとされるのが、全国ニュースでも放送された世界的モデル『ジェイミー』の救急搬送事件である。『ジェイミー』はイタリア出身のモデルで、世界四大コレクション(BIG4)に多数出演経験があるほか、世界の主要ファッション誌の表紙を何度も飾っている世界をまたにかけて活躍するモデル。その超大物が日本にも進出し、事務所最大手『アズラエル』とエージェンシー契約を交わしてBIG4の次席に位置付けられるジャパン・コレクションに初参加したのが昨春3月のこと。年末のカウント・ダウン・ランウェイへの参加はそれに続くものである。

 『ジェイミー』の出演は今回イベントの目玉でもあり、開幕トップを務め、実際にステージを見た人によると「今までにない程の盛り上がりで、『ジェイミー』が出てきた瞬間、会場全体が観客の歓声で震えた」と言う程盛り上がったと言う。その後、舞台裏通路で『ジェイミー』が転倒。大事(だいじ)をとって救急搬送を要請したと言うのが関係者の説明だ。

 『ジェイミー』の大物ぶりを考えれば過剰対応も納得する。しかし、転倒して救急搬送とは一体どのような転び方だったのか。転倒による救急搬送と聞いて思い出されるのが、数年前、大物男性歌手が自身のディナーショー前に会場となっているホテル入り口の段差で(つまず)き転倒、その際顔面を強打して救急搬送され、ディナーショーが急遽中止となったあの一件だ。その歌手は70代という年齢もあって「高齢者はちょっとの段差で躓く」「一度の転倒が命取り」などという別の論争に発展したが、それと比べると『ジェイミー』はまだ20代前半の若者で、しかも歩くプロとも言えるファッション・モデル。ちょっとやそっとのことでは躓いて転倒は考えにくい。そこで気になるのが「救急搬送されたのは『ジェイミー』一人ではない」という証言だ。

 本誌記者がイベント関係者から入手した情報によると、『ジェイミー』と共に救急搬送されたと言うもう一人のモデルは、印象的なイヤフォンのTVCMで話題となった新人モデルのNではないかという。その新人モデルNがバックステージへ戻る通路途中にある階段手前で転倒。『ジェイミー』はその巻き添えを喰った形で転倒したらしいというのが前出関係者の話だ。

 モデル経験者に話を聞くと、ステージ経験の少ない新人モデルの場合、本番を終えた直後に緊張感から解放され腰砕のように足に力が入らなくなってしまうこともあると言う。今回はそんな新人あるあると段差、それに偶然そこに『ジェイミー』が居合わせてしまったと言う不運の重なりにより生じたことだったのだろうか。

 しかし、ここで気になるのが事故現場をよく知る関係者の話だ。「あそこは確かに狭い通路の終わりで急に段差になっていることもあって危ない場所ではあります。しかしそれは運営側も把握していることで、リハーサルを通して注意喚起してますし、出演経験のあるモデルにとっては注意が必要と認識のある場所です。仮に初出の新人が自身の心理状態によって段差を踏み外すことがってあっても、他人を巻き込むほどに派手に転倒するとは考えられません。なので、今回起きたことは別の要因があるのではないかと思わざるを得ません」

 別の要因とは? そこを追求するとこんな噂が聞こえてきた。

「新人モデルのN君は、あの場所で誰かに足を引っ掛けられたか、後ろから押されたか。そんな噂があるんです。じゃないと、救急要請が必要になるほど派手に転んだりしないんじゃないかなって。新人モデルへの嫌がらせは、結構あるあるなんですけど、普通あれほど大規模なイベントではやらない。ちょっとしたことで賠償責任とか追及されちゃうからってのが理由なんですけど。でも、N君は派手にCMデビューしたでしょ? (ねた)んじゃってる人もいるみたいだし、ステージモデルの中にはCMとかテレビとかで売れてるモデルに厳しい対応する人も結構いるから。N君に対して負の感情持ってるモデルがいても不思議じゃないかな」

 噂はどこまで本当なのか。華やかな業界の影に陰湿な影がちらついてる。】

 

(週刊スクープ 新春特別号記事より)

 

 

 * * *

 

 

「『ショウ』さん、こんにちは。(わたくし)、フリーライターの榎本と申します」

 完全オフの日。自宅マンション近くのコンビニ前で突然声を掛けられて宗方奨は反射的に身構えた。差し出された名刺には手を出さず、ふいっと視線を逸らす。

 相手にしません。その意思表示だ。

「記者さんですか? 取材なら事務所を通してください」

「そうしてもいいなら、そうしますが?」

 意味深な返しをされて奨はひっそりと眉を寄せる。そんな奨の反応に榎本と名乗った男は小さく笑った気がした。

「ご存知ですか? 全国ニュースでも放送されていた、年末のイベントで『ジェイミー』さんが救急搬送されたあの事件。あれ、新人モデルのN君が転倒したのがそもそもの原因って話らしんですけど。そのN君の転倒は、後ろから誰かに突き飛ばされたからって噂があるんですよね」

(はっ?)

 思わず声が出そうになって奨はこらえる。記者対応は無視に限る。相手にしない、と言う意思表示を徹底するため奨はマンションに向かって黙々と歩を進めた。——が、当然男はついて来る。

「そうなると、じゃあ誰がって推理しちゃうのが人ってものでしてね。当然、N君の後ろを歩いていた人、——というより、歩けた人って言うべきなのかな。その人物が一番可能性が高いってことになるんでしょうかね」

(何が言いたいんだ。こいつ)

 奨は視線をまっすぐ前に固定したまま沈黙を貫く。しかし得体の知れない不安に心臓はバクバクしていた。

 あの日、あの時、あの場所で、……目にしたもの。目にした事実。

 一瞬のことで、見間違いかとも思って。……起きた事実のあまりの事に。反射的に口をつぐんだ。

 そのことが多少なりとも罪悪感として奨の胸をきりきり締め付けている。

 しかし……

 真実の告白は本人がすべき。それが当然だ、と。そう自分に言い聞かせてずっと黙ったままでいる。……あるいは、このまま沈静化するなら自分があえて口出しをすることではないと。そう判断して。……いや、本当に見間違いだったって事もないわけでもなくて。そうなれば、不用意な発言は不必要に他人を貶める事になるわけで。……だから、自分からは何も言わない。それが正解。そう結論づけた。

 そこにあるのは自分は部外者。その意識。だが、その中にどうしても残る消化しきれない思いは、いまだ奨の中で燻っている。自分には関係ない。そう思って本当は全てを忘れてしまいたい。……そう思っているのに。

 そんな中で突然接触してきたこの男は、嫌な部分を刺激する。

「あー、そうそう。それと知ってますか? 『ジェイミー』さんのマネージャーがね、今回怪我の直接的原因となったN君に対し損害賠償請求を辞さない構えを見せてるらしいですよ。でも、N君も被害者だったって事になったら、その賠償はそちらにスライドする事になるんでしょうかね」

(……そんな事、俺には関係ないだろ。言うんなら貴明に言えよ)

 そんな言葉が喉元まで出かける。

 しかし貴明は同期だ。仲間を売るような真似はできない。

 とは思いつつも、あの日、あの時、あの瞬間、目にした貴明の顔が脳裏に浮かんだ。

 出番を終えて、バックステージへと戻る通路の脇になぜか立っていた貴明。その貴明の正面で『ショウ』の前を歩いていた『NAO』が躓いた。「あっ!」と驚いて思わず貴明の横顔に視線を向けると、ちらりと流れた貴明の視線とかち合って。その瞬間、貴明は一瞬バツが悪い顔をした——ように見えた。

 そしてボソリと奨に向かって言ったのだ。

「お前を待ってたけど、なんかめんどくせー事になりそうだから。俺行くわ」

 そしてさっと身を(ひるがえ)し、貴明はあっという間にその場を後にした。

 そんな記憶を振り返っている間も榎本と言う男は独り淡々と喋り続けている。

「『ジェイミー』さんに対する損害賠償っていくらぐらいになるんでしょうね。ちょっと気になりますよね。ところで話は変わりますが。『ショウ』さんは『ヴァンス』の専属、もう二年目でしたか? そろそろ契約更新の時期だったりするんですかね? モデルさんも大変ですよね。勝ち取った立場も必ずいつか誰かに奪われるわけですから。特にモデルの旬なんてあっという間なんでしょう? やっぱり、勢いのある新人は正直目障りだったりするんですか? みんな仲良く和気藹々なんて、幻想ですよね?」

「——……」

「あの日、N君が着ていた衣装『ヴァンス』らしいですね。しかも、『ユアン』とツートップかのような揃いの色違いを着ていた。専属でもないのに。——正直、目障りだって思ったんじゃないですか? 自分の立場を危うくする新人の背中が前にあったら、ちょっと押してみたくなる気持ちもわからなくもないですよ?」

「なにを!」

 マンションの入り口はもう目の前に迫っていた。後はあそこに駆け込んでしまえばいい。私有地内に記者は立ち入れない。もし、そこまでついてくるなら不法侵入で捕まえて貰えばいいのだ。

 それなのに。奨は思わず振り返って叫んでいた。

 目の前の男がにやりと笑った。

「人ってのはね、より面白そうな話を信じるものです。それが真実がどうかなんて関係なくね。でも、『ショウ』さんが事実は別にあると言うなら聞きますよ。いつでもご連絡ください」

 男はそう言うと奨の胸ポケットに無理やり名刺を突っ込む。紙切れ一枚。大した重さはないはずなのに、胸の辺りがずんと沈んだ。

 奨は黒い触手がまとわりつくような不快感を引き剥がすように、さっと踵を返してマンション内に駆け込んだのだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

波紋の跡 3

「——スケープゴード」

 完全オフのはずの奨からただならぬ声音(こわね)の電話がかかり、急ぎ自宅マンションへとやって来た的場は、記者が接触してきたという話をひと通り聞き終えて思わずポツリと呟いた。

「……やっぱり、そう言うことですよね?」

 奨の声はどこか震えている。もともと色白だが、今は蒼白という方がぴったりだった。

「まあ、ゴシップ記者ってのはそもそも火のない所にむりやり煙を立たせようとする人種ですから」

 冷静にそう口にしつつも、的場も内心焦りまくっていた。

 カウント・ダウン・ランウェイのあの舞台裏の騒動はもちろん知っている。あの日的場は現場入りしていたわけではないが、『ジェイミー』が『アズラエル』とエージェンシー契約を交わしている以上会社として無関係というわけではなく、なので会社内で流れた世間話程度のことは耳にした。しかし、いち早く現場に駆けつけたのが高倉であったことや、『ジェイミー』担当の桐生が病院にも付き添ったと聞けば、事後対応も抜かりないのだろうと半ば聞き流していた。

 よもや、担当モデルがどっぷり関係してくるなど思ってもいなかったのだ。

 いや、どっぷり関係している……わけではない。関係しているように仕立て上げられようとしている、と言った方が正しい。しかし真実でないのであれば無視しておけばいい、とはとても思えない事態だ。これは自分一人で解決できる問題ではない。すぐさま上へ報告が必要だ。報・連・相は仕事の基本。一人で抱え込まないことが大事。とはいえ、報告するにも現状きちんと把握する必要がある。

「で、奨さん。この際ですので洗いざらいきちんと話してください。保身や誰かを庇って適当な事を伝えられるとこちらが後手に回ってしまうかも知れませんので」

 的場が真剣な眼差しを向けると、奨は一瞬唇を噛み締めて小さく頷いた。

「……わかりました」

「ちなみに、この榎本という男が言ってきた新人モデルのN君の転倒については、週刊誌に疑惑が掲載されているのは把握済みです」

 その辺のメディア対策は会社としてさすがに徹底している。新聞、週刊誌、雑誌、そこに掲載された記事を随時チェックしている部門があり、弊社に関係ありと判断されると関係部署へ即時連絡が行く仕組みになっている。一昔前ならこう言った連絡も本社に帰って紙で確認、なんてタイムラグがどうしたって発生していたが、今は必要な情報はメールやチャットですぐさま関係社員に流れて来る。

「そうなんですね」

「記事には、足を引っ掛けられたか、後ろから押されたか。という書き方がしてあったはずですが、奨さんにはあえて押されたというだけの疑惑をぶつけてきたんだと思います。もし奨さんが明確に否定するなら、じゃあ残る方が理由って書けばいいですしね」

「でも、俺。明確に否定はしませんでした。……記者に対しては無言が正解って思って」

「それでいいですよ。あいつらは何を言っても適当に書くんですから。でも、あの日、『NAO』さん。もう、イニシャルで喋っても埒があかないんで、あえてそう言いますけどね。『NAO』さんの後ろを歩いていたのは間違いなく奨さんなんですよね?」

「そうです」

 出番の並び順がそうだったのだ。普通に考えればステージに出た順番通りに通路を戻って来る。

「で、目の前で『NAO』さんが(つまず)いた。その時、何かに足を引っ掛けたりしたのを見たんですか?」

「貴明がいたんです?」

「貴明? って、弊社の『タカアキ』君?」

「そうです。階段前の通路の終わりの所に立ってて。あんな狭い通路の所に人が立ってたことなんて今までないから。なんであんなとこに? って普通に疑問に思って。……そしたら前を歩く『NAO』君が貴明に軽く会釈して前を通り過ぎようとしたときに『NAO』君が突然つんのめって。階段下にいた『ジェイミー』さんにぶつかるような形で転倒したんです。……あのとき、貴明の足がスッと動いたように見えたんだけど。でも、俺の見間違いかも知れないし。それに、貴明だってわざとじゃなかったかも知れない。……俺を待ってたって言ったんです。でも、『NAO』君が転倒して、なんか面倒くさい事になりそうだからって、すぐその場を立ち去ってしまって」

「……なるほど」

「的場さん。俺……」

「奨さん、この件はこちらで対処します。難しいかも知れませんがこの件は一旦忘れて、奨さんは仕事に集中してください。もし今後記者が接触してきても無言または事務所を通すようにという態度を貫いてください。犯人にでっち上げられそうな言い方をされると反論したくなるかも知れませんが、何か言うだけあちらの思う壺なんですから。いいですね?」

「はい。わかりました」

「他には、言い忘れていることはないですか?」

「……あの。これ、言うべきか。迷うんですけど。……今回、貴明が絶対やってないって思えないのは、貴明は『NAO』君に対してずっと『気に入らない』とか『目障り』って発言を繰り返してて。ちょっと引くくらい『NAO』君に対して敵愾心を抱いてて。そんなこと俺にだけ言ってたのか、俺の他にも言ってたのかは知らないんですけど。……でも、もし俺だけにしか言ってないのだとしたら。俺がちくたって、……何か、貴明にそう思われるのも嫌なんですけど」

 同期であるが故の人間関係の難しさか。的場は()きたくなったため息を(こら)えて飲み込んだ。 

 

 

 * * *

 

 

 その日貴明は久々のグラビア撮影を終えてスタジオを出ると、廊下にマネージャー狭山の姿があった。

 貴明は思わず顔をしかめる。

 今日は調子が良かっただけに仕事終わりに見たい顔ではなかった。

「なんか用すっか?」

 自分のマネージャーに何か用かとはあまりな言いようだが、どうしても狭山に対しては嫌悪感が先に立つ。

「タクシーで帰るんで迎えはいらないって言いましたよね、俺?」

「榊さんより部長室に二人で来るようにって連絡がありましてね。それで待っていたんですよ」

「は? 榊さんが? 何用で?」

「さあ、なんでしょうね」

 本当に知らないのかどうなのか。表情筋の動きの少ない狭山の感情はいつもよくわからない。

(こいつって、マジ、マネージャーとして失格だろ)

 貴明はいつも思う。

 担当モデルがひと仕事終えた直後なのだから、にこやかな笑顔でねぎらうくらいするのがマネージャーではないのか。

「車は地下駐車場に置いてますので。このまますぐ移動できますか?」

(まあ、別に。こいつが笑顔見せたって気持ち悪いだけだけどな)

 そんなことを思いながら「かまわねーけど」と答えてエレベーターに乗り込む。降りた先の割と近い場所にいつもの社用車が止めてあり、貴明は後部座席に乗り込んでようやく一つの可能性に思い至った。

(ひょっとするとマネージャー交代の話かも)

 貴明がそう思うのは、年末に出演したカウント・ダウン・ランウェイでの手応えが良かったからだ。今日のグラビア撮影もあれで本決まりしたようなものである。

 つまり狭山がイベント前に言った「自分の力で仕事を掴み取ってください」を実行したようなものだ。

(いや、その話が出なかったら、こっちからすりゃいいじゃん)

 狭山のこれまでの職務怠慢を訴え、自分の力で仕事を掴み取ったことを評価してもらい、もっと自分にあったマネージャーに変えてくれと堂々と訴えればいい。自分にはそれを主張する権利も資格があるはずだ。

 そう思うと「仕事終わりに部長室なんてダルすぎだろ」と思っていた貴明の気分は一気に上向いた。

 

 

 

『アズラエル』本社ビル、七階。モデル部門本部長室。

 狭山の運転する社用車で到着し二人そろって部屋を尋ねると榊一人と思っていた部屋になぜか加々美の姿があった。

 驚きと喜びに目を見開いて、

「加々美さん!」

 貴明は思わず声を上げる。

「なぜここに? あ、ひょっとして、話があるのって加々美さんなんですか?」

 それならば一体何の話だろう、と考えて。ひょっとすると加々美が自分のために何かプロデュースしてくれる企画でも持ち上がったのだろうか、と思い至る。

 だから部長室で加々美が自分を待っていた。

 そうに違いない!

 そう思うと貴明のテンションはこれでもかというほど上がって、そのまま加々美に歩み寄ろうとしたのだが、腹立たしくも狭山にそれを阻まれた。

「『タカアキ』君」

 おまけに低い声で嗜められて、貴明は反射的に顔をしかめる。

「狭山。お前でも随分てこずっているようだな」

「……力不足で、申し訳ありません」

「まあ、いい。今日はその話ではない。二人とも座りなさい」

 部長の榊が二人を促す。貴明は加々美の隣に座りたかったが、榊の正面に座らされた。

 狭山と貴明、並んで座った二人の前に一冊の週刊誌が置かれる。そして付箋のついたページを榊が開いて見せた。

「狭山はもう確認済みだな?」

「はい」

「『タカアキ』君、君は?」

「いや、週刊誌読まないんで」

 どうせあることないこと適当に、くだらないことしか書いてないのだ。一体何の記事か知らないが、いちいち相手にするだけ時間の無駄というやつだ。

「なら、とりあえず目を通して」

(めんどくせー)

 そう思いはしたが、加々美もいる場所でふてくされた態度は見せられない。

「わかりました」

 素直にそう答え、貴明は週刊誌記事に目を通す。

 見出しには【独占スクープ! 錯綜の舞台裏。華やかなファッションの祭典中に救急搬送されていたのはジェイミー一人ではなかった。その意味】とある。それだけでおおよそ記事の内容は想像できた。

(……ちッ。あれ、記事になってるのかよ)

 しかし貴明に焦りはない。証拠がない。その自信があるからだ。

 あの場所に自分が立っていたのを見た人はいるだろう。だが、それは決定的な証拠にはならない。自分はあくまでも『ショウ』を待っていた。『NAO』はたまたま自分の前で勝手に躓いたにすぎない。そう言い逃れられる。その自信がある。

 ただ、正直に言えば、あそこまでの騒動になるのは想定外だった。

 自分はギリギリまで出演が決まらなくて、そのことに悩んで。今回のワンステージに起死回生をかけて。そうやって必死にやっているのに、ぽっと出てきたどこの馬の骨とも知れないコネごりのクソガキが、当然の顔をして『ヴァンス』を着てステージを歩いている。そのことに頭が煮えて、腹が立ってしょうがなかった。

 だから、ほんのちょっと嫌がらせ、もといこの程度は新人の通過儀礼だろうと、あまり調子に乗るなよと、ちょっと警告のつもりで。あれほど大事(おおごと)になるとは思っていなかったのだ。

 後になって段差前はさすがに不味(まず)かったと思ったが、あの時は全く思いもしなかった。なぜならあの程度の段差は貴明にとっては意識するほどのものではなく、いつも無意識に通過していたから。正直なところ段差前だという意識がすっぽり抜け落ちていた。だから目の前で思いの(ほか)『NAO』の体が宙へ飛んだ時は貴明の方が驚いたくらいである。

 それにまさか『NAO』が『ジェイミー』にそのままぶつかるなんて、それこそ想定外。『ジェイミー』が重体で救急車を呼んだらしいと聞いた時はさすがに背筋が冷えたが、よくよく考えればそこはどう考えても貴明のせいではない。

 その後騒然となった舞台裏で『ジェイミー』の怪我は『NAO』の転倒が原因らしいという噂話は聞こえてきても、その『NAO』が転倒した原因については誰も話題にしなかったし、『タカアキ』の『タ』の字だって上がりはしなかった。

 だから、今となっては貴明自身、本当に『NAO』が勝手に転んだだけなんじゃないのかと思いつつあるし、万が一自分に疑惑の目を向ける者がいても「じゃあ、証拠を見せろよ」と言えるだけの気分になっている。

 記事にも『NAO』の転倒については『誰かに足を引っ掛けられたか、後ろから押されたか』と書いてあるではないか。それはつまりは、はっきりわからないということで、何の決定的証拠もないと言っているのも同然だった。

 それにこうしたゴシップ記事は読者の好奇心を煽るため証拠や証言そんなものは端から無視してより面白そうな話をいくらでも創作するものである。

 そんなことを考えながら記事を読み終えると。

「この記事にある、カウント・ダウン・ランウェイ開催中に起きた騒動については当然『タカアキ』君、君も知っているよね?」

 榊が問いかけた。

 それに貴明は頷く。ここで「知らない」なんてしらばっくれる方が不自然だ。

「誰かが救急車で運ばれたらしいって話なら現場で聞きましたよ。周りがいつになくざわざわしてましたから」

 そうだろうね、そんな顔で榊も頷いた。

「実はこの件で、何人もの出演者に記者が接触してきているようなんだ。それで『タカアキ』君、君のところにも記者が来たりしてないか。確認したくてね」

(なんだ。そんなこと)

 呼ばれた理由がわかって貴明はがっかりした。

 そう言えばあの騒動の最中、医務室に運び込まれた『ジェイミー』に加々美も付き添ってると誰かが言っていた気がする。それでこの場にも加々美が同席しているのだろうか。

「誰も来てないですよ。まあ、来たところで何も喋りませんけどね。無関係だってことすら記者相手には喋るな、が基本ですよね?」

「その通りだ」

 榊が頷く。

「で、次にだが。この件については社内独自に検証を進めている。実際あの時何があって、ああいう事態になったのか。原因究明の必要があってね」

「原因って、この記事に書いてある通り、新人がずっこけたのが原因じゃないんですか? あの程度の段差でずっこけるなんてステージモデルじゃあり得ないって感じですけど。ま、新人だから、きっとウォーキングの基礎がなってなかったんでしょうね」

「あの程度の段差、って。君は現場がどこか知っているのか?」

「それは、この記事読めば誰でもわかりますよ。イベントに出演したことがある人なら。ね、そうですよね、加々美さん」

 貴明は加々美に話を振ったが、先ほどから手にしたカップで静かにコーヒーを飲んでいる加々美から反応はない。榊も狭山も加々美の方をチラリとも見なかった。

「なるほど。それで君は、あの事故が起きた時、どこにいた?」

「どこって。……それは、会場内のどっかですよ。俺は出番終わってたんで、舞台裏結構自由にうろうろしてましたから。どこって言われても。具体的にここにいましたってのは、ちょっと。思い出せないというか」

「なるほど。では、事故現場に居合わせたってことはないってことだね?」

「なんですか、それ」

 貴明のアンテナがピクリと反応した。何とも嫌な気配を榊の言葉の中に感じた。

「確認だ。あの場に誰がいて、誰がいなかったのか。検証とはそういうものだ」

 これは何かの罠なのだろうか。貴明は途端疑心暗鬼になる。

 何と答えるのが正解なのか。

 急に捜査員のような目つきになった榊を前に、貴明は今までにないほど脳をフル稼働させていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

波紋の跡 4

 年明け一発目の講義で松葉杖を付いた尚人の姿に安藤は驚いた。

「どうしたんだ、その足」

 問いかけると年末に自分の不注意で足を捻ったと言う。それで今日は兄に大学まで車で送ってもらったとかで、どうりで電車内で姿を見かけなかったはずだと納得した。

「大丈夫なのか?」

「うん。固めてるおかげか、痛みはそんなにないかな」

 尚人は平然とそう言うが、やはり教室の移動はそれなりに難儀している様子があったので、荷物を持ってやったり、エレベーターでの移動をサポートしてやったり。……したかったのだが、いつも尚人にべったりの鷺原がなんだかんだと邪魔をした。

 なぜ鷺原はああも自分は尚人の特別みたいな感じでいるのだろう。安藤は不満でしょうがない。

 鷺原はいつだってそうなのだ。あのCMデビューの時だって、周りはみんなびっくりしてたのに一人だけ「あの話やっぱり受けたんだな」なんて知った顔だったし、雑誌にデカデカ写真(グラビア)が掲載されていたのだって周囲は騒然として「普段と違いすぎ」「雰囲気ありすぎ」「篠宮なんだけど、何か別人」などなど困惑のコメントを呟いていたのに、鷺原だけ「やっぱ兄弟だな」と不思議な納得の仕方をしていた。

 そういったすべてに安藤はもやもやした気分になってしまう。

 午前中の講義が終わり昼はいつも通り学食へ向かった。本当は尚人と二人でゆっくり昼休憩できたらいいのだが、やっぱり鷺原が当たり前についてくる。兎にも角にも三人で学食へ向かって、足がこんなだから今日はさすがに自前の弁当はないだろう——だから、オーダーやら配膳やらのサポートをしてやろうと思ったのだが、違った。

「今日もちゃんと弁当作って来るなんて。なんか、さすが篠宮だな」

「え、別に。台所に立つのは問題ないし」

「そんなもん?」

 弁当持参がそんなに驚かれるとは思わなかった、といった様子の尚人に安藤は感心すべきか呆れるべきか悩む。

 実家暮らしでは台所に立つのはカップ麺を食べるためにお湯を沸かす時か、ほんのたまに手伝いで食器を洗う時か。家事全般なんでもこなすらしい尚人の生活ぶりを聞いて「少しは自分も」と安藤も思いはするのだが、全然実行には移せていない。

「たまーに足のこと忘れてお醤油取ろうとしてズキーンってきちゃったりもしたけど。概ね大丈夫」

「それって、本当に大丈夫なのか?」

 尚人はしっかりしているようで時々抜けているので安藤はちょっと心配になる。捻挫は甘く見ると癖になる。捻ったところを無意識に庇おうとして別のところを悪くしたりすることもある。完治するまで無理しない、は結構重要なのだ。

「帰りはどうするんだ?」

「えっと。帰りも兄が迎えに来るって」

「そうなんだ。じゃ、そこまで荷物持ちしてやるよ」

「え、悪いし、大丈夫だよ」

「こう言う時はな、ありがとうって言っとくんだよ」

 安藤が生姜焼き定食を口に運びながら言うと尚人は小さく苦笑した。

「……あの、申し出は本当にありがたいんだけど。本当に大丈夫だよ?」

 そんな尚人の様子に何か思ったのか、黙々と丼ものをかき込んでいた鷺原が唐突に割って入った。

「よし、じゃあ。俺もつきあう。迎え待ってる間、イタリア語の練習相手になってくれよ」

「それは構わないけど」

 尚人が小さく首を傾げると鷺原が勝手に頷く。

「じゃあ、決まりな」

 さも当然という顔で話に割って入ってきた上に、何気に尚人が断りにくい状況にさらりと持っていった鷺原に安藤はイラッとした。

 

 

 

 今日最後の講義が終わって尚人が兄に連絡を入れると迎えが来るまで一時間ぐらいかかると言う。ということで、時間になるまで学生ラウンジで時間をつぶそうと言うことになって三人で移動した。

 ラウンジの席を適当に陣取って座り、鷺原と尚人がイタリア語と時々英語混じりで会話する。安藤もちょいちょいそれに混じったが二人ほど外国語が堪能ではない。鷺原の「聞いているうちにだいたい覚える」とかいう嫌味な語学センスには腹が立つが、さらにその上をいく尚人の語学力にはただただ感心しきりだった。

(てかもう、イタリア語ペラペラじゃん?)

 この短期間でどうしてこんなに喋れるようになるのか、安藤には不思議でしょうがない。

 一時間ほど経過して尚人が待ち合わせの門まで移動すると言うので当然ついていく。門が目の前に見えて尚人の携帯電話が鳴った。どうやらメールを着信したらしい。

「もうすぐ着くみたい」

 メールを確認した尚人がそう告げる。

「じゃ、ちょうどよかったな」

 そう言いながら門を出た直後だった。

「こんにちはー。『NAO』さんですよね?」

 馴れ馴れしげに声をかけてきたのは中年に足をかけたぐらいの男性だった。着古した紺のダウンに色あせたジーパン。メガネこそちょっとおしゃれなスクエアだが、それが却って胡散臭さを生んでいた。

「知り合い?」

 安藤が小声で問うと尚人はちょっと小首を傾げて呟く。

「たぶん……知らない人だと思うけど?」

「ちょっと、話を聞きたいんだけど、いいかな?」

「何の話です?」

 答えたのはなぜか鷺原だ。

「答えるかどうかは内容次第ですけど」

「君には聞いてないよ」

 男は軽く微笑んだまま鷺原をバッサリ切り捨て、名刺を取り出す。

「私はこう言う者なんだけどね」

 横から覗き込むと、名前と携帯電話の番号のみが書いてある至ってシンプルな名刺で、安藤はその胡散臭さにそっと眉を寄せた。

(名刺って、社会的所属が書いてあるのが普通じゃ?)

 なぜなら名刺は基本的にはビジネスシーンで必要なものであり、そのため会社名や所属、あるいはどんな職業を担っている人間であるのかを相手に伝えるためのツールだからだ。

 これではまるで一昔前のナンパである。

「出演したカウント・ダウン・ランウェイの感想を聞きたくてね。その足、イベントで怪我したんだよね?」

(は?)

 男の言葉に安藤は驚く。色々と突っ込みどころが満載だったが、一番は男が口にした「出演したカウント・ダウン・ランウェイ」の部分だ。

 ファッションにそこそこ興味のある安藤は、カウント・ダウン・ランウェイがどう言ったイベントであるかそれなりに知っている。ジャパン・コレクションなどと同じ一般非公開のショーだが、デザイナーが新作を発表する場であるコレクション・ショーとは異なりモデル披露の面が強いファッションイベントだ。日本で活動するモデルの夢の舞台とまで言われており、ファッション雑誌のインタビュー記事にもよく新人モデルが「カウント・ダウン・ランウェイに呼んでもらえるように頑張る」とか「カウント・ダウン・ランウェイに出るのが目標」などコメントしており、素人ながら雑誌で人気のモデルでも簡単には出られない舞台なんだな、との認識だった。

(それに、篠宮出てたんだ)

 純粋に驚く。

 でも、同時に納得する。

 CMで見た尚人。

 雑誌のグラビアで見た尚人。

 どちらも静かで穏やかでたおやかでしなやか。独特の雰囲気があって、一度視界に入れてしまうと惹きつけられて魅せられる。視線を捉えて離さない不思議な引力があって、きっとそれはステージでも発揮されたことだろう。

(で、それで怪我って?)

 思わず尚人の足元を見てしまう。自分がドジ踏んで捻った。尚人はそう言っていたはずだが。

 門前に一台の車が横付けしたのはその時だった。運転席から圧倒的なイケメンが颯爽と降りてくる。

(え! 『MASAKI』!)

 反射的に驚く。いや、これは驚かない方がおかしい。

 イケメンもここまでくると言葉を失う。と言うのを安藤は実感する。そして同時に変な非現実感に包まれる。目の前に突然CG? そのくらいのインパクトだった。

「ナオ、遅くなった」

(へ? 何? どういうこと?)

「ううん。今来たところだから」

「こちらは?」

「鷺原と安藤。大学の友達だよ」

「そう。わざわざ付き添ってもらって悪いね」

「いえ」

 答えたのは鷺原で、安藤は驚きのあまり喉の奥が張り付いて声が出なかった。

(——て、何で鷺原。そんなに反応普通なんだよ)

 あまり芸能人とかに興味なさそうだから『MASAKI』のことも知らないのかも。などと思ってしまう。

 いや、それでもこれほどの非現実的イケメンには問答無用で圧倒されるが普通ではないのか。——などと思ってると、『MASAKI』の登場に一番あからさまな反応したのは胡散臭い中年男だった。

「これはこれは。『MASAKI』さん。こんなところでお目にかかれるとは。怪我した弟さんのために、わざわざお迎えですか」

(は?)

「ちょうど『NAO』さんにカウント・ダウン・ランウェイの感想をお聞きしていたところなんですけどね。『MASAKI』さん的にはどうなんでしょ? 『ジェイミー』さん側は訴訟も辞さないって話らしいじゃないですか」

「ナオ、助手席乗って。じゃ、二人とも本当にありがとうね」

「だけど弟さんも実は被害者ってことだったら、やっぱり兄として黙ってられないじゃないですか?」

 最後まで胡散臭い男をガン無視して『MASAKI』は尚人を乗せてあっという間に走り去る。

 本当に、あっという間の出来事だった。

「タイミング失敗したな」

 男はそう呟くと、自身の手に残ったままの名刺をポケットに突っ込んでこちらには一瞥もくれることなく去っていく。

 後には安藤と鷺原、二人が門前の路上に残された。

「じゃ、俺も帰るわ」

 何事もなかったかのように鷺原が言う。

 その軽く上げられた手に安藤は不本意ながらしがみついた。

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待て!」

「なんだよ」

「お前、知ってたのか?」

「何を?」

「いや、篠宮が。あれって」

「あれって何だよ」

「…………『MASAKI』の弟」

「ああ。知ってたけど?」

 それが何? と言う視線がむかつく。……が、苛立ちを抑えてさらに問う。

「なんで?」

「何でって。翔南高校出身の篠宮って言えば、俺たち世代じゃピンとくる奴の方が多んじゃないか?」

「篠宮って翔南高校出身なの?」

「ああ、そうか。俺は高三の時、即興英語ディベートの全国大会の決勝の相手が篠宮のいる翔南高校だったからな。あの時会場に兄貴もいたし。俺の中じゃあの二人が兄弟って当然の認識だったわ。じゃ、俺はこれで」

 鷺原はそう言って道路の向こうへと消えていく。それにプイッと背を向けて

(『MASAKI』のこと兄貴って。……なんだそれ)

 安藤は今日イチ、ムカついていた。

 

 

 * * *

 

 

 尚人を助手席に乗せてアクセルを踏み込んだ雅紀は、少々どころか結構腹を立てていた。

 記者、と(おぼ)しき男が尚人に接触していた、その事実にだ。

 大学の門は一つじゃない。どこから出てくるかは賭けのはずだし、高校までと違って授業終わりが同一ではない。それを考えるとかなり運が良かったのか、それとも構内からつけていたのか。いずれにせよ、尚人をターゲットに大学まで調べ上げて待ち伏せしていたのだから、これからも同じことが二度三度、繰り返される可能性がある。

 昨年までなら「未成年の一般人」であることを盾に牽制できたが、CMデビューした今では使えない。何を言われても無視することはできるだろうが、かけられた言葉に、向けられた悪意に、尚人の心が傷つかないとも限らない。そこまではなくとも、不安に心が揺さぶられる、そんなことだってありえる。

 今だって、男から発せられた『ジェイミー』の名に尚人の心が無反応だったとは思えない。年末イベントのあの事件の後の尚人の様子を思い返せば容易に想像がつく。だが、それをわざわざ確認するのは嫌だったし、雅紀が問いかけることで尚人のあやふやな気持ちが言語化されてしまうことも嫌だった。

 とりあえずマスコミ対策は後でじっくり考えるとして、尚人が今日一日の終わりに考えることが自分だけのことであって欲しい。雅紀はそんなことを考えながら帰宅した。

 

 

「ナオ。ここ座って。体マッサージしてやるから」

 尚人が風呂から上がってくるのを待ち構えていた雅紀は、柔らかく微笑んで手招きする。

「え? まーちゃん、急にどうしたの」

「だって今日は疲れただろ? 昨日まで家で大人しくしてたのに一日中松葉杖ついて動きまわったんだからな。それに、松葉杖使うとどうしたって左右のバランスが悪くなるから、ちゃんと体ほぐしとかないと」

 ほんの少し戸惑いの表情を浮かべる尚人に雅紀は言葉を重ね、促すように座る場所をポンポンと叩く。

「そう? でも、……まーちゃんだって疲れてるのに、なんか悪いよ」

「ナオ」

 素直にうんと頷かない尚人に対し雅紀がほんの少しトーンを落として名を呼ぶ。すると案の定、尚人の視線がわずかに揺れた。

「あの、……じゃあ、お願いしようかな」

 遠慮がちにそう言って雅紀に背を向けて座る。

 雅紀は小さく笑うと、眼前に差し出された尚人のうなじを舐めるように見つめながらほっそりとした肩に手を置いた。

 そして首筋から肩甲骨にかけてゆっくりと指圧する。

「ちょっと左の方が張ってるかな。ほら、ここ。わかる? 左の方がちょっと硬いの」

「う、うん。なんか、そこ押されるとちょっと痛いかも」

 張っている部分を丁寧に揉みほぐす。そうしていると最初こそ緊張気味だった尚人の体から徐々に強張りが抜けていく。

「ナオ、ベッドにうつ伏せになって。背中から腰にかけてもマッサージしてやるから」

 雅紀がそう言うと尚人は言われるがままにベッドにうつ伏せになった。

 雅紀は躊躇いもなく尚人のパジャマをまくりあげ、あらわになった背中をスッと撫でる。

 ピクリと尚人の体が反応した。

 その反応が雅紀を煽る。

「この辺かな?」

 雅紀はそう言いながら、指圧しては撫で、指圧しては撫でを繰り返し、マッサージと称して徐々に臀部まで剥き出しにする。

 雅紀が触れるたびに尚人の体がピクピクと反応し、尚人は抱えた枕に熱い吐息を噛み殺している。

 その様に、雅紀は思わず舌舐めずりした。

「あ、ここ。まだあざが残ってる」

 雅紀はそう呟いて、横腹を舐める。

「んんッ!」

 尚人が鼻にかかった吐息を漏らす。

「あ、ここも」

 くちゅり…、と太腿を吸う。そんなことを繰り返していると尚人の息が徐々にみだらに熱を帯びていく。

 室内の空気さえも色めいて、甘くしっとりとした気配に満ち始める。

「ま、……まーちゃん」

「ん? どうした?」

「そこは……。だ、……ダメ」

「何が? マッサージしてるだけなのに。感じちゃったかな?」

 雅紀は尚人の下腹部に手を伸ばす。硬く立ち上がったそれを軽く握ると尚人の息がさらに上がった。

「怪我してからお預けだったもんな。たまっちゃってた?」

 耳たぶを()みながら雅紀は囁く。少ししごいてやるだけで先走りの蜜がポタポタと溢れ出す。

「どう言えばいいんだった?」

 して欲しいことは言葉にしなければしてやらない。これまで雅紀が散々尚人に刷り込んできたことだ。

「しゃ、……しゃぶって」

 羞恥と興奮が混じった声で尚人が啼く。

「俺の、しゃぶって。お願い。まーちゃん」

「それから?」

「先っぽぐりぐりして、乳首も舐めて噛んで」

「いいぞ。ちゃんとおねだりできたからな。ナオの好きなとこ全部いじくり回して、ぐりぐり揉んで、舐めまわして吸ってやるよ」

 雅紀は甘くささやくと尚人を上向かせて下着を剥ぎ取る。

「ほら、ナオ。足開いて。じゃないと、舐めてやれないぞ?」

 雅紀が促すと尚人が足を開いて全てを曝け出す。

 雅紀はその姿に満足げに微笑んで、たっぷりとそして執拗に尚人の物をしゃぶり尽くしたのだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

波紋の跡 5

 『タカアキ』は『アズラエル』期待の新人としてデビューした。街角でスカウトマンの目に止まった見た目の良さに加え、がんがん行こうぜという勢いのあるキャラクターが受けてスタートはとても順調だった。『アズラエル』という看板あってのこととは言え、デビューしてすぐに老舗宝飾店とのスポンサー契約が決まったし、カウント・ダウン・ランウェイ出演も果たした。このままいけば事務所の新たな『顔』になってくれること間違いなし。そうした期待感に溢れるポテンシャルを持っていた。

 『タカアキ』を加々美二世にする。『アズラエル』としてはそうした思惑があった。人たらしでヤンチャ。ポジティブでワイルド。加々美が第一線を退(しりぞ)いたことでぽっかり空いたその席に『タカアキ』を据え、事務所の看板を背負うモデルに育て上げる。そうした方針があって『タカアキ』には新人としては破格の初期投資がかけられた。もちろんのことながら、その方針決定にはモデル部門本部長である榊も深く関わっている。

 榊は、『タカアキ』が周囲の期待値を勘違いして増長し、それが元であちこちで細々としたクレームを生じさせていることは当然承知していた。しかし社会的に問題となる不祥事を起こしたわけでもない『タカアキ』の言動は業界的に見れば些末なことに過ぎなかった。

 『タカアキ』が事務所の大先輩である加々美にかまって欲しくて積極アピールする姿も最初は皆微笑ましく眺めていたのだし、他事務所の『MASAKI』にライバル心剥き出しな姿勢も現場ではどちらかと言うと好印象だった。

 ただ、どちらもやり過ぎた。これは明らかにマネージャーの失敗だ。新人に自信を持たせるため多少調子に乗せるのは必要だが、勘違いし過ぎないよううまくコントロールするのがマネージャーの仕事。手綱は常に握っておく必要がある。しかし加藤はそれに失敗した。その結果として生じたのが『ジュエリー・テッサ』の一件であると榊は分析している。これ以上の放置は危険。そう感じてマネージャーの交代を決めた。珍しくも加々美から苦言を呈されたように「最悪なことになる前に」経験の浅い加藤からベテランの狭山に変えて緩んだ手綱を引き締め直すことにしたのだ。なにしろ『タカアキ』には破格の初期投資がかかっている。不良債権にしてしまえない会社の事情もあった。

 狙い通り狭山はよくやっている。一時はどうなるかと心配したが、『タカアキ』のモデルへの執着心を利用して再びやる気を起こさせた。まだまだ躾は必要だが、リ・スタート、そうした見通しが立った。

 そうした矢先の今回のこの事態。喜びも束の間。榊は今、非常に厄介な案件に頭を悩ませる。

 カウント・ダウン・ランウェイでの一件がどうにも具合が悪い。

 イベントバックステージで『ジェイミー』が転倒し救急搬送された件については当然ことながらすぐさま報告を受けた。『アズラエル』は『ジェイミー』が日本で活動する際の代理店契約を交わしているので、『ジェイミー』の一件は決して余所事ではない。

 それに『ジェイミー』側——というより、少々過保護気味のマネージャーダニエラが相当な立腹ぶりで、運営側の責任を追及すると息巻いていると聞けば『アズラエル』としては看過できない事態で、当然ながら『アズラエル』を飛び越えて直接イベント運営会社を訴えるなんてことをされるわけにはいかないので間に入ることになった。

 『アズラエル』としてはダニエラの気持ちもわかりはするができるだけ穏便に。そんな考えだった。当然だ。カウント・ダウン・ランウェイは日本のモデル業界においてとても重要なイベントで、万が一にもそこから自社所属のモデルが締め出されるような因果を作るわけにはいかない。業界最大手がそんな目に合うはずもないと思う人もいるかもしれないが、大手と慢心をすれば蟻の穴から堤も崩れるような事態を招きかねない。

 ただ榊の本音を言えば、今回の事態を最初に転倒したという新人モデル『NAO』一人に被せてしまえるのだったら、それが一番手っ取り早いし簡単だったのにという思いがある。そうすれば『アズラエル』側としても運営側としても責任の大半を彼に押し付けて今後の改善案さえ提示すれば格好がつく。『NAO』が弱小事務所所属だったら榊はまず間違いなくそういう方向へ持って行った。

 しかし実際には『NAO』のバックには加々美がいる。ステージモデルとしては第一線を退いたとは言え、まだまだ『アズラエル』の顔であり、モデル界の帝王として一モデルの枠では収まらない影響力を会社に対して持っている加々美に対し正面切って喧嘩を売るような真似は榊とてできない。『ジェイミー』にも『NAO』にも配慮しつつ、うまい着地点を模索しなければならない。

 そんなことで頭を痛めてると、事態は違った様相を呈し始めた。

 『ジェイミー』本人から『NAO』の転倒については第三者の関与が疑われるとの申し出がなされたのだ。そして弁護士を通じた正式文書として、『ジェイミー』が目撃したという『NAO』が転倒した際に『NAO』のすぐ横通路脇に立っていた男の存在の確認と、彼が何の目的でそこにいたのか。また、『ジェイミー』の目には彼が意図的に『NAO』の足を引っ掛けたように見えたその事実に対して調査すると共に、これらに対する『アズラエル』として公式回答するよう求められたのである。

 え? 第三者?

 通路脇に立っていた男?

 わざと足を引っ掛けた?

 どうしてそういう話に?

 と思っていたら、すぐさまゴシップ誌が似たような疑惑を取り上げた。それと前後する形で自社モデルに記者が接触してきたという報告があちこちから上がってきて。慌てて進めた内部調査で浮上した疑惑の人物が『タカアキ』だった。

「で、『タカアキ』君。もう一度聞くが、君が事故現場に居合わせたってことはないんだね?」

 榊が再度問い直す。

「実は君を現場で見たっていう証言もあるんだが」

 榊が言葉を重ねると、貴明は視線を伏せしばらく何やら思案している顔つきだったが、やがてふうっと大きく息を吐き出すと居住まいを正して視線を上げた。

 覚悟を決めた。そんな顔つきに見えた。

「仲間を売るのもどうかなって思ってましたけど。……俺自身が疑われてるんであればそうも言ってられないですよね」

 声を抑えて貴明が言う。その引き締まった表情は今までの雰囲気から一転して。——榊は不覚にも魅せられた。

 さすがモデルなのだ、と。榊は頭の片隅で思う。

 こう言った顔を見せられると、加々美二世と目論んだ経営方針は間違いではなかったと、——皮肉にもこんなタイミングで思ってしまう。

「実はあの場にいました。——『ショウ』を待ってたんです。少しでも早くお礼を言いたくて」

 貴明は少し言葉を溜めて、続けた。

「俺はここずっと、いろんなことがうまくいかなくて。——それは榊さんもご存知でしょう? 頑張ろうって思う気持ちばっかり空回りしてる感じで。カウント・ダウン・ランウェイだってギリギリまで出演が決まらなくて。だから、そんなことをずっと『ショウ』に相談してて。弱音を吐くなんて、あまり好きじゃないんですけど。あいつは同期だから。話しやすくて。だから、無事にイベントに出演できたことや、今まで励ましてもらったお礼とか、そう言ったことを少しでも早く『ショウ』に伝えたくて。バックステージに戻る通路の途中で待ってたんです」

 なるほど、——辻褄は合う。

「あの例の新人モデルは、確かに俺の目の前で(つまず)きました。それについては、はっきりその瞬間を見たわけじゃないんで。多分、としか言いようがないんですけど。『ショウ』が、後ろから押したんだと思います。あの新人モデルが体勢を崩した瞬間『ショウ』と目があって、すごくバツが悪そうな顔をしたんで。だから、俺は何が起きたのか悟って。俺がその場にいないほうがいいんだろうって俺的にそう判断して。——俺は、何も見てないって。そう『ショウ』にアピールするつもりで何も言わずにその場を去ったんです。……今になってみれば、俺は自分のことで一杯いっぱいで、『ショウ』の思いに十分気付いてやれなかったって思うんですけど。あいつだって『ヴァンス』の専属勝ち取って頑張っていたのに、ぽっと出てきた新人に大きい顔されたら気分が良くなかったのなかって。思えばあのCMが流れたあたりから表情がどこか暗かったようにも思うんです。——あいつは同期だから。できればかばってやりたいって思ってたんですけど。……でもそれで俺が疑われるんなら、それはちょっと違うかなって。それでも、あいつに悪いなって思うんで。俺がこんなこと言ったって、……出来れば知られたくないって思うんですけど」

 思いもしなかった貴明の告白に、榊は唸るしかできなかった。

 

 

 * * *

 

 

 室内に重苦しいため息が一つ落ちた。

 狭山と貴明はすでに退室していて、残っているのは榊と加々美の二人だった。ため息の主は榊で、加々美は憮然としたままの榊に特段声をかけることもなくカップの底に残っていたコーヒーを飲み干す。

 そして、そのままゆったり組んでいた足を解いて立ち上がった。

「じゃ、俺もこれで」

 加々美は自ら同席を申し出たわけでもなければ、何かをジャッジするために同席したのでもない。榊に同席を懇願された。だから引き受けた。「オブザーバーでよければ」と言うことで。その役目が終わったのだからこの場に留まる理由はなかったし、何かを言う必要も感じなかった。

「——『タカアキ』君の話、どう思いました?」

 戸に向かって歩き出した加々美の背に榊が言葉を投げかける。

 加々美は歩を止めて心の中だけで苦笑した。

(おい、おい、おい、おい。俺は、オブザーバーじゃなかったのかよ)

 オブザーバーはただの傍観者。同席はするが口出しはしない。成り行きを見守る第三者。榊的には、「『タカアキ』君も、加々美さんの前なら全てを正直に話すと思うんですよ」という思惑があったようで、それが同席を求めてきた理由。加々美的には「さて、どうかな?」と疑問ではあったが、「居てくれればいい」という榊の顔を立てたのだ。

 そもそも加々美は、先ほど『タカアキ』が語ったことが本当なのか嘘なのか興味はない。『ショウ』が全く別の事を言っていると知っているが、『タカアキ』にとってはあれが真実なのかもしれないし、保身のために『ショウ』に罪をなすりつけようとしているのかもしれない。しかしそれは『ショウ』に対しても言えることで、あるいはお互いがそれぞれ事実誤認をしているという可能性だってある。

 しかし、そんなことはどうでもいい。加々美は事実を明らかにして誰かを断罪する立場にないからだ。

 もし、『タカアキ』が嘘をついていたとしても、それならそれで構わない。と思う。この業界は綺麗事だけでは片付かない事が山程あるのだ。時には他人(ライバル)を押し除けてでも仕事を掴むくらいの気概が必要になる。自分の成功のためには何をしたって構わないというような、他人を貶めるやり方を良しとするわけではないが、そういう行為に眉を(ひそ)めはしても断罪するほど自分だって聖人君子なわけでもない。自分の(ごう)を自分で背負うだけの覚悟があるなら好きにしろと思う。

 とまあ、いろいろ理由を並べたところで本音を言えば、『タカアキ』に興味がない。それに尽きる。

「今日の俺はただの置物だから、ノーコメントで」

 加々美はあえて軽やかにそう答えると、部屋を後にしたのだった。

 

 

 * * *

 

 

 マネージャー狭山が運転する車の後部座席。自宅マンションまで送ってもらいながら貴明はどちらかと言えば気分が良かった。

 かなりうまいこと榊の追及から逃れられた。そんな手応えを感じていた。自分でも驚くほどすらすらと言葉が出てきて、——今更ながら驚く。加々美の手前無様な姿は見せられないと腹を括ったのだが、あれが真実だったのではないかと自分自身勘違いしそうだ。

 結果的に奨に全てを(かぶ)せてしまう形になったが、罪悪感は正直ない。おそらく奨はこれから事実確認を受けるだろう。それが榊本人からなのか、榊の意向を受けた別の誰かなのかまでは分からないが。その時奨は否定する。当然だろう。奨は誰にでもいい顔をする優等生だが、流石にスケープゴードにされかかっていると知れば黙ってはいないはずだ。ひょっとすると、自身の無実の証明として貴明の名前を出すかもしれない。しかし、それならそれでいいと思う。互いが互いに「相手がやった」と思っていると証言すれば、決定的な証拠でもない限りどちらかを犯人にすることはできないはずだからだ。そしてそもそも、その決定的な証拠がないから証言集めをしているのだろうと貴明は踏んでいる。最終的には、嫌疑不十分、疑わしきは罰せず、で落ち着くしかないはずだ。

 そこまで考えて、ふと思う。

(あのヤローが俺に足を引っ掛けられたって主張したら?)

「勘違いじゃないですか?」あるいは「俺のせいにしたい理由でもあるんすかね?」そんな返しで切り抜けられるだろうか。

(いや。そもそもそんな主張をしてるんだったら、あの時榊さんが言うはずだ)

「君を現場で見たっていう証言もあるんだが」

 そう問いかけてきたくらいだ。

「相手がね、君に足を引っ掛けられたって言っているんだが?」

 そう言ってきたっておかしくない。だから、あの場でその話が出なかったと言うことは、そんな話は出ていないと言うことだろう。あるいは新人の証言なんて端から重要視されていないかだ。当事者であれば保身でどんな証言をするか分からないし、そもそもこの世界は事務所の規模がものをいう。どこの事務所に所属しているかも分からない新人の証言なんて相手にされないだろう。

 ……と、そこまで考えてふと思う。

「狭山さん。今さらなんすけど、イベントでずっこけたあの新人モデルって、どこの誰なんすか?」

「え……。——『タカアキ』君、知らないんですか?」

 本当に驚いた。そんな気配が口調に滲む。そんな狭山の反応に貴明はなぜだかカチンと来た。

「ええ。『アズラエル(うち)』じゃないってだけは聞いてますけど。どこの誰か知ってなきゃおかしい相手なんすか?」

「いえ。そう言うわけでは。……『タカアキ』君が『NAO』さんのことを随分とライバル視しているようだって噂を聞いていたものですから。てっきり面識があるのかと」

「ライバル? 俺が、あの新人を?」

(コネゴリのクソガキをどうして俺がライバル視しなきゃなんねーんだよ)

 ただただ目障りなだけだ。実力もないくせにコネで『GO-SYO』や『ヴァンス』を引っ張り出して、周りのお膳立てで得られた成功を自分の実力だと思っている勘違いヤローだ。

「彼は、加々美さんが個人的に預かっているモデルですよ」

「はぇ?」

 驚き過ぎて思わず変な声が出た。

「加々美さん自ら口説き落として代理人(エージェント)になったと言う話です。加々美さんはプロデュース業のための個人事務所をお持ちなので、その事務所所属のモデルということもできるんでしょうけど」

「—————————-……」

 途端、胃がズドンと重くなる。同時に、言語化しづらい感情が渦巻いて、視界から景色が飛んだ。

 

 その後の貴明の記憶は非常にあやふやだ。

 はたと我に返った時、貴明は自宅マンションの室内にひとり立ち尽くしていたのだった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

波紋の跡 6

 服飾の新作発表や販促展示会であるファッションショーのうち一週間にわたって開催されるものをファッションウィークと呼ぶ。最も有名なのは、ミラノ・パリ・ニューヨーク・ロンドンの世界四都市で開催されるコレクションショーで、世界四大コレクションとも総称される。

 ただし、コレクションショーは四都市でのみ行われているわけではない。世界中で開催されていて、日本で開催されるジャパンコレクションもその一つ。他にもソウルや香港、マカオなど、アジア発のコレクションショーも多く、ファンションウィーク中、グローバルに活動するモデル達は世界中を飛び回ることになる。

 ジェイミーも日本の年末イベント、カウント・ダウン・ランウェイに出演した後は、一旦イタリアの自宅に帰ってほっとひと息つきはしたものの、すぐさまロンドン、ミラノ、パリとヨーロッパを中心に飛び回る多忙な日々を送っていた。

 日本から待ちに待っていた調査報告書が届いたのは、そんな多忙な日々がひと区切りついた頃だ。

 ジェイミーが、日本の年末イベント、カウント・ダウン・ランウェイへの参加を決めたのは、ナオとの再会を果たすという私的な目的あってのこと。そのためにイベントと『アズラエル』を利用した。もちろん打算はあっても仕事の手を抜くつもりはなく、日本での地盤固めと合わせて一挙両得という感覚だったのだが、そんな思惑がこれほどの騒動へ繋がっていくなど想像できたはずもない。

 どうしてこんなことに?

 ナオは大丈夫なのか? 

 目に見える傷、見えない傷。全て含めて気掛かりで。多忙な日々にあっても、それを考えるたびにジェイミーは胸が痛んだ。

 届いた報告書を開きながら、ジェイミーはあの日のことを振り返る。

 あの日、——カウント・ダウン・ランウェイの出演を無事に終えたジェイミーは、ナオの出番を確認し、ステージが終わって戻ってくるのを待っていた。

 できるだけ早く出迎えたくて、どこで待とうかと考え場所探しするために舞台裏をさりげなく彷徨いていたのだが、その時に通路口の階段上に男が一人立っているのを見た。

 ステージからこちらへ戻ってくる専用通路の終わり。面識のない男でモデルなのかスタッフなのか分からなかったが、出待ちには最適な場所柄で、「彼も誰か待っているのか?」と思いつつ視線を向けたところで、その向こうに戻ってくるナオの姿を見つけた。

 その時ジェイミーは、なんとかうまいことナオを誘い出し、ほんの少しでもいいから二人きりになれる時間を作り出そうと思っていた。すぐホテルに帰るというのなら送って行くのを口実にしてもいい。ナオの周りをチョロチョロしている加々美や『MASAKI』はまだ出番が控えているから邪魔されることはないはずだとの思惑があった。

 しかし……

 通路向こうからやって来たナオが脇に立っていた男の前を通り過ぎようとしたその時、男の足がわずかに動くのをジェイミーは見た。その動作は、無意識的なものではなく、明らかな意図を持ったものであるとジェイミーには見えた。

 つまりは前を通過する者の足を引っ掛けてやろうという、そう言った意図だ。

 ジェイミーが瞬時にそう感じたのは、この世界(業界)ではある意味見慣れた光景だったからである。

 ライバルを蹴落とすため、いろんな嫌がらせをする者は世界中のどこにでもいる。荷物を隠す、汚す、壊す、捨てる。そんな間接的なものから、足を引っ掛ける、突き飛ばす、あるいは閉じ込めるなど直接手を出す者もいるし、誹謗中傷不名誉な噂の捏造等、口撃によって精神的ダメージを与えようとする者もいる。

 ただ、ジェイミーがこれまで見て来て思うのは、そうやって誰かを(おとし)めて得られた立場なんて一時的に過ぎないと言うこと。嫌がらせは決して自分にプラスに働かない。

 だからジェイミーは、ナオの足を引っ掛けようとする男のことなんてどうでも良かった。その行為に立腹することもなかった。それほどに男には関心がなかった。後々こんな騒動になるんならちゃんと顔を見ておけばよかったと思ったほどどうでもよかった。

 ジェイミーの関心は、男の足に(つまず)いて真っ直ぐ自分に向かって降って来たナオに対してだけ向けられた。

 躓いたことに驚いて、今までどこかぼんやりしていた表情に焦りと戸惑いが浮かんで、宙を舞うナオの視線とかち合う。その全てが鮮明に記憶される中で、ジェイミーはカッコよくナオをキャッチして姫のピンチを救ったプリンスの(てい)で、その後のちょっと甘いやりとりまで瞬時に妄想したのだが……。

 上から降って来たナオは思っていた以上に勢いがあって、キャッチはしたもののそのまま体勢を崩してしまったのである。

 その後の記憶はない。気がついた時には病院に運ばれていて、枕元で騒ぎ続けるダニエラに変わって状況説明をしてくれたのが桐生だった。

 それで事の顛末を把握して。そして、その結果。

(……かっこ悪過ぎだろ、俺)

 ジェイミーはただひたすらへこんだ。自分の不甲斐なさが情けなくて、ため息が止め度もなく漏れた。姫のピンチを救うプリンスどころかとんだ道化(ピエロ)もいいところ。しかも転倒して頭を打って意識朦朧病院に運ばれたのが自分だけならまだしも、ナオも守りきれなかったなんて。

 そんな自己嫌悪の中、次の仕事のために日本を離れざるを得なくて——。

 帰国時はそれなりに体のあちこちが痛んだが、日本メディアの前でそんな素振りを少しでも見せるとナオが悪者にされてしまうかも知れない。そんな懸念があって、空港で待ち構えていた日本メディアの前ではにこやかに笑って見せた。

 しかし、ジェイミーのそんな思いとは裏腹に、ダニエラがイベント運営会社どころからナオまで訴えようとしていると後で知ったのだ。知った時にはダニエラと激しい口論になった。ジェイミーは、今の自分の成功の半分はダニエラのおかげと認識している。だから今までダニエラの指示や口うるさい小言に真正面から反抗することはなかった。だが今回だけは、どうしても受け入れられなかったし、許せなかった。とは言えダニエラとしても無罪放免では体面や矜持や事務所の格とか、そういった大人の事情の諸々から受け入れるわけにはいかないというので、折衷案というか二人の折り合いのつくところとして、「第三者介入の疑惑」を持ち出して『アズラエル』からの正式回答を待つとしたのである。

『NAO』も被害者。その事実確認が欲しかったのだが—————-

 届いた報告書の内容を確認し、ジェイミーは思わず顔をしかめた。書面に並ぶ文字の羅列がジェイミーが期待していたものではなかったからだ。

『指摘のあった疑惑の人物の存在は確認できたが、転倒への介入の証拠となる物証や証言は得られず、本人も否定している』

『また、NAOの転倒については指摘のあった人物以外にも疑惑があったが、これも本人否定および証拠がない』

『確証が何もない中、犯人と断定することは名誉毀損に当たることからもできない』

 などなど。さらには。

『なお、転倒した当人が、転倒は自分の不注意が原因であると申し述べていることを付け加える』

 とまである。

 ジェイミーはぎりぎりと奥歯を噛み締めた。巨大な権力の中で結局はナオ一人がスケープゴードにされてしまったのではないか、そんな想いが脳裏をよぎる。良かれと思った自分の思いつきが逆手にとられてしまった感覚にジェイミーは深い深いため息をついた。

「これで納得したでしょ?」

 報告書を持って来たダニエラが軽く肩を竦めてジェイミーを見る。その視線にジェイミーはもう一度ため息をついた。

「あちらの言い分はわかった」

 納得はできないが、これ以上長引かせたところで事態は硬直化するだけだ。それは誰得にもならない。

 この件はこれで終わり。それを明確にする事がナオのためにもなる。——はずだ。と、ジェイミーは無理やりに自分を納得させる。

「じゃあ、あとはこちらでやっておくわ」

 ダニエラはそう口にして、どさりとソファーに身を投げ出したジェイミーにわざわざ歩み寄って来てささやいた。

「前にも言ったけど、これはあなたの価値を落とさないためなのよ」

 ダニエラの言う「あなた」とは、当然いち個人としてのジェイミー・ウェズレイではなく、モデル『ジェイミー』だ。世界四大コレクションの常連で世界の主要ファッション誌の顔を務めるモデルとしての価値だ。イタリア出身の世界トップモデルが「アジアでぞんざいな扱いを受けた」などと吹聴されるわけにはいかないのだ。

 そこにあるのは、誰もはっきりとは口にしないが、アジアを一段下に見る風潮。今や日本のポップカルチャーは世界を席巻しており、日本という不思議な国を理解したいと思う若者は多いが、欧米人の中に根強く残るアジア差別は一筋縄ではいかない、と言うのが実情なのだ。特に重鎮と呼ばれる年配の人々にはそれが染み付いてしまっている感が拭えない。もっと言うなら差別をしている意識すらないのだ。彼らはそれを「当たり前」という感覚でいる。自分と彼らが同じであるはずがないというのが「普通の」受け止め方なのだ。そんな彼らの中には平気でリベラルなんて言葉を口にする者もいるが、それは彼らの考える範疇のリベラルであり、彼らが許容できる範囲の多様性なのだ。

(あー、ダメだ。思考が全部ネガティブになってる)

 頭をぐるぐると回る体制批判にジェイミーは頭を掻き毟る。

 考えてもどうしようもないこと考えてしまう不毛。それには虚脱するしかない。

「………俺の価値ね」

 つぶやいてジェイミーは振り返ってダニエラを見た。

「じゃあ、中途半端な対応では終わらせられないね」

 ダニエラがほんの少し片眉を上げた。その表情は、「ようやくわかった?」と言う気持ちと「急にどうしたの?」という感情が入り混じっているかに見える。

「使えるものはなんでも利用して、俺の価値を最大限上げてもらわないと。突き詰めるところ、ダニエラの目指すところはそこなんでしょ?」

「もちろんよ」

 ジェイミーの問いかけに躊躇(ためらい)いもなくダニエラは頷いた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

波紋の跡 7

 アズラエル本社ビル内。統括マネージャー、高倉真理の執務室。

 いつものように自分で淹れたコーヒー片手に革張りのソファーに腰掛けた加々美は、カップに軽く口をつけながら対面に座る高倉をちらりと見やった。

 日頃は気が向いた時に自らふらりと訪ずれる加々美だが、今日は違う。話があるから来てくれと、高倉から日時指定までされたのだ。

 こういった時は大概、いい話ではない。

(一体、何の話だよ)

 ちょっとドキドキして、——心臓に悪い。なんて思いつつも、大体の予想はつくのだが。

 例の、——カウント・ダウン・ランウェイの舞台裏で起きた出来事に端を発する騒動は、ひと通りの社内調査を終えて報告書がまとまり、ジェイミー側にも提出したと聞いている。もちろん加々美も事前に見せてもらっていて、

(まあ、『アズラエル( うち )』としてはこう言うしかねぇよな)

 と一定の理解を示せる内容に仕上がっていた。

 とはいえそれはあくまで『アズラエル』側の立場に立った見方であって、尚人の代理人でもある加々美にとっては胸中複雑だった。なまじ方々の内情がわかるだけ余計に、とでも言おうか。

 『アズラエル』としての立場もわかる。

 ヨーロッパが活動拠点のジェイミー側の立場も理解する。

 ただ、加々美とって今現在一番重要なのは尚人で。

 そこのバランスに苦慮する。 

 ひとつ幸いな事といえば、この騒動はすでに世間では風化しつつあることだ。良くも悪くも大衆は熱しやすく冷めやすい。常に目新しい話題を求め続ける。現在メディアを賑わせているのは真面目で堅実というイメージで売っていた若手人気俳優の不倫騒動で、SNSでの生々しいやり取りが流出したことで火に油が注がれた状態だ。

 どんなセンセーショナルなゴシップも、投入するガソリンがなければすぐに燃え尽きてカスになる。それで行くとカウント・ダウン・ランウェイの騒動は、続報として提供できるような話題がなかった。というか、ゴシップライター達からすると飯の種となるほどの物が見つからなかったというところか。それもひとえに、事務所の危機管理が徹底したからだ。所属モデルに記者が接触しているようだとの情報をキャッチするや、すぐさま該当しそうなモデルに直接ヒアリングすると共に、マネージャー達にも危機意識を持たせ、モデルと記者が一対一で遭遇しそうなタイミングを徹底的に排除した。これによって些細な一言さえも情報が流出することはなかったのである。

 当然、この動きの裏に統括マネージャーである高倉の存在があることは言うまでもない。

 この高倉のそつのなさ、徹底的な危機管理に比べて、自分は危機意識が欠如していたと加々美は反省している。

 モデル達に記者が接触しているようだとの情報をキャッチしてすぐさま尚人に連絡を入れたのだが、すでに時遅しだったからだ。

 一番の当事者。それを考えたら、記者らがいの一番に接触を図ろうとするのは当然、——なのだが。ダニエラ対応の方に気を取られたとか。不遇な事故だがゴシップライター達が喰い付いて来るような事件じゃないと思っていたとか。気の回らなかった理由は色々あるが、どれも言い訳でしかない。

 加々美は珈琲をひと口飲んで、年明け一発目の尚人との電話を振り返る。

「やあ、尚人くん。改めてだけど、あけましておめでとう」

「改めて」と頭につけたのは、新年の初顔合わせは運び込まれた病院だったからだ。当然新年の挨拶なんて交わせる状況ではなかった。ステージを終えて加々美が駆けつけた時、尚人は興奮状態にあって自責の言葉をくり返していたし、雅紀に付き添われて病院を後にするときも表情は暗かった。

 加々美の知る尚人とは全く違うその様子がショックで、過去の出来事が尚人に与えている影響について雅紀から聞いて知ったつもりになっていた自分が恥ずかしくて、それで気軽に連絡を入れるのを遠慮してしまったと言うこともある。

「足の具合はどう?」

『加々美さん。お気遣い頂いてありがとうございます。松葉杖生活ですけど気を付けておけば痛みもないし、大丈夫ですよ』

 だから返ってきた尚人の声がいつもの尚人らしい落ち着いたまろやかなものだった事に加々美は安堵した。気持ちの昂りもおさまって、平穏な日常が戻ったのだなと。

「それなら良かった。完治するまで安静にね。ただ、そろそろ大学の授業が始まる頃じゃないかと思うんだけど。通学はどうするつもりかな?」

 大事をとって休む選択もあり得るし、通学するにしても雅紀が送迎をかって出るに違いないと想像はしたが、雅紀だって暇じゃない。送迎をしたくてもできないと言う状況はあり得るわけで、その時は自分が、とも思いつつの質問だった。

『大学の授業はもう始まっていて、兄が送迎してくれています』

「そうなんだ」

『そろそろ電車でも大丈夫そうって言ってはいるんですけど。完治するまではダメだって、兄が譲らなくて』

 尚人のその答えに加々美は思わず笑う。雅紀の過保護ぶりが目に浮かぶ。

「その点は、俺も雅紀と同意見だな」

 そう答えつつ、雅紀が送迎しているのならマスコミ対応は大丈夫かなと頭の片隅で考える。大学に通う尚人にマスコミが接触しようとすれば狙われるのは通学途上だ。そこを「マスコミ潰し」と有名な雅紀がべったりくっついているのならこれ以上の安心はない。

 それでも一応注意喚起をと、加々美は続けた。

「雅紀と一緒なら心配ないとは思うけど。実は、年末イベントのことで記者がいろんなモデルに接触しているみたいで」

『そうなんですね』

「ぶっちゃけて言ってしまうと、尚人くんが躓いた理由が単なる不注意じゃないんじゃないかって、そういうゴシップにしたがっている連中がいるって事なんだけど」

『………あれ、そういう事だったんだ』

「あれ?」

 ぼそりとした呟きを拾って加々美が問いかけると、尚人が「実は」とおっとりとした口調で続けた。

『休み明け最初の授業の日に、兄の迎えを大学の門前で待ってたんですけど。その時に記者さんらしき人に声をかけられて。俺の足の怪我のことを聞いてきたんです。イベントで怪我したんだよねって感じで。すぐに兄が到着したんでそれだけだったんですけど。なんで怪我のこと聞きたがるのかなってすごく不思議で。ひょっとして初出場の舞台裏でずっこけるなんて記者さんが話聞きたがるくらいのどじだったのかなって』

(あれ、ひょっとして。尚人くんって結構天然?)

 日頃のあくまで自然体の目配り気配り達人の尚人を知るだけに、加々美は思わず乾いた笑いをもらしてしまう。

「尚人くんならわかると思うけど、ああいう連中は有る事無い事面白おかしく書き立てるものなんだ」

『はい。わかっています』

「だから無視が一番なんだけど。でも、やっぱりマスコミに追い回されると嫌なものだろう? だから、——」

『あ、それで心配して電話くださったんですね』

 こういうところの察しの良さはさすが尚人だ。が、先ほどとのギャップがあるだけに加々美は思わず苦笑した。

「まあ、そうなんだ。でも、ちょっと遅かったみたいだけど」

『大丈夫ですよ。あれから大学周辺でマスコミの方に声かけられることもないですし。兄にも自分が到着するまで門から出るなって言われてますから。それに、以前の騒動の時みたいに自宅前で待ち伏せしてるってこともないですから。ジェイミーには申し訳ないなって思ってますけど、そういう俺の気持ちをマスコミを通して言う必要もないですしね』

(頼もしいけど、こうやって慣れちゃってるのが可哀想な気もするよな)

 そんなことを思いつつ、加々美は

「それでも十分注意してね。何かあったら、些細なことでもいいから連絡してね」

 そう言い聞かせて電話を切った。

 それから雅紀とも飯を食う機会があったのでその時に尚人の様子を聞いたが、以前と変わらない落ち着いた学生生活を送っているとのことだった。

「それで?」

 加々美は手にしたカップをテーブルをに置くと高倉に問いかける。

「今日の呼び出しは何事だ?」

「これが届いた」

 高倉はそう言いながら書類を差し出す。

「なんだこれは?」

「いいから、読め」

 目線でやり取りして、加々美は書類に手を伸ばして開く。全て英語で書いてあったが、その書類が『アズラエル』が提出した報告書に対するジェイミー側からの回答であることはすぐにわかった。

 丁寧に目を通していく。尚人に対する記載もあった。そこはより丁寧に読む。勘違い、読み違い、意味の取り違えなどないように。

 その結果。

「まじかよ」

 出てきた言葉はそれだった。

「俺も、そうきたかと驚きはしたが。悪くないんじゃないか?」

 軽く息を吐き出して、加々美は革張りのソファーに身を沈める。

(そうきたか)

 そうきたか?

 高倉の呟きを反芻し、加々美は眉間を寄せる。

 悪くない。悪くはない、——が。

(真意はなんだ?)

 ダニエラが損害賠償も辞さないと息巻いていたから、てっきり賠償額が記載されているものと思っていたのに。示されたのは金銭以外の解決方法。

 しかもその内容が、加々美が思ってもいなかった内容で。

「これなら金で決着を図った方がよっぽどスッキリしねぇか?」

 真意が見えない。それだけに、そう思ってしまう。

「お前的にはそうかもな。でも、向こうも少々の金銭を要求したってなんのメリットにもならないと、そう判断しだんだろう」

「それは、そうだろうが。……それにしたって」

「前回の、——カウント・ダウン・ランウェイに出演するにあたっての要望があれだったからな。お前が警戒するのもわからなくはない。が、俺はこれ以上ない解決案だと思うが?」

 高倉はそう言って、直接的加害者である尚人との和解案が記載されていた箇所を指差す。

「『ジェイミー』と『NAO』とのツーショットグラビア掲載。これで二人になんのわだかまりもないことを世間に示し、今回の騒動の幕引きとする。大物として余裕あるこの対応を見せることで、新人の『NAO』に金銭を要求するより『ジェイミー』の株は上がる。少なくともこの日本ではな。そしてこの話は『NAO』にとってもメリットだらけの話だろ?」

 尚人ではなく、あえての『NAO』呼び。その意図に気づかない加々美ではない。

 もちろんモデル『NAO』の売り出し方だけでいうなら、こんなに喜ばしい話はない。まさに、災い転じて福となす、だ。

「『アズラエル』としては、この解決案を全面的に支持する。そちらの回答を聞かせてくれ。『NAO』の代理人として」

 ビジネスマンの顔をした高倉の視線が真っ直ぐ加々美を捕らえた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

波紋の跡 エピローグ

 押しに押した撮影がようやく終わり、定宿にしているシティ・ホテルの部屋に入ると、雅紀は荷物を椅子の上に放り投げてすぐさま携帯電話を取り出す。

 コール3回。電話はすぐに繋がった。

『あ、もしもし。まーちゃん。今日も、お疲れさま』

 耳元に直接響くまろやかな声に、雅紀は冗談でもなんでもなく疲れがどこかへ吹き飛んでいくのを自覚する。

「そっちは変わりないか?」

『うん。裕太と一緒に夕飯食べて。大学の課題して。お風呂入って今上がってきたところ。タイミングバッチリだったね』

 嬉しそうな尚人の声に雅紀の頬は緩む。

『まーちゃん。明日は帰ってくる日だよね?』

 二人きりの時にしか口にしない雅紀の愛称を口にする尚人の声がほんのり甘い気がするのは願望だろうか。

「ああ。晩飯には間に合うように帰るつもりだから」

『俺、明日は授業が早く終わる日だから、まーちゃんの好きなものいっぱい作って待ってるね』

「楽しみだな」

 もちろん一番喰いたいのは尚人そのものだ。

 それを我慢せずに口にすれば。

「またもー、まーちゃんってば」

 ちょっと恥じらいつつ。

「いっぱい食べていいよ」

 なんて可愛い答えを返す。

 他愛のないやりとり。それを少し楽しんで。

「それじゃあ、ナオ。おやすみ」

『おやすみ、まーちゃん』

 名残を惜しみつつ電話を切る。

 雅紀はそのままバスルームへ向かうと熱いシャワーを浴びた。

 年明けすぐはちょっとごたついていた篠宮家だが、今ではすっかり日常に戻っている。尚人の足はすっかり完治し、以前と同じように電車で大学へ通い、家に帰れば家事と並行して課題をこなす忙しい毎日。悠太は相変わらずだがそれでも少しずつは前へと進んでいるようで、尚人が言うには「悠太も色々考えてるみたい」らしい。雅紀は雅紀で相変わらず多忙の日々。仕事のスケジュールのためホテル泊になることも多い。

 それがすっかり定着してしまった篠宮家の日常。——なのだが。

 バスルームから出てきた雅紀は、濡れた髪を拭きながらベッドの縁に座り、何気に視線をやった先にあった鞄に目を止めた。椅子の上に無造作に放った鞄の口から雑誌が顔を覗かせている。

 最新号の『KANON』だ。

 仕事上雑誌はよくチェックする。事務所に顔を出した時に置いてあるものを見たり、打ち合わせのタイミングでマネージャーの市川に買って来てもらったり。ただ、コレクションする趣味はないで大抵その場で見て終わり。そのまま市川に捨てておいてくれと頼むことも多い。が、これはわざわざ市川に購入を頼んだ。尚人が載っているからだ。

 雅紀は数秒視線を固まらせたあと、軽く息を吸い込んで腰を浮かせて鞄から雑誌を取り出す。ぱらりとめくる。すると視線の先に現れたのは『NAO』。そして『ジェイミー』だ。

 世界的モデル『ジェイミー』と超新人ながら今大注目モデルと称される『NAO』。この二人のツーショットグラビアが掲載されている今月号の『KANON』はちょっとした話題だ。

 仕事は仕事。プライベートはプライベート。きっちり線分けをして来たのはほからなぬ雅紀自身だが。二人のツーショットグラビアを前にどうしても心がざらつく。

 仕事なんだから。——そう割り切りない思いが、雅紀を落ち着かない気分にさせる。

 紙面の中で二人が見つめ合っている。

 そこに微笑みはなく。静かに合わさる視線。

 使い古されたような構図であるのに。

 あからさまな含みなどないのに、——どこか甘い。

 そう感じる自分がおかしいのか。

 あるいは、一見クールな『ジェイミー』のその視線がどことなく艶っぽいと見えてしまうところに『ジェイミー』の凄さがあるのか。

 それとも、尚人が誰かと視線を合わせることがそもそも許せないのか。

 それでも、どうしても……、

 『ジェイミー』がクールな大人の仮面を被って下心を隠しているように見えてしょうがない。これからじっくりゆっくり時間をかけて、目の前の無垢な少年を自分のものにしてしまおう、とでも言うような。そんな感情を内包して『NAO』を静かに見つめている。そう見えてしまう。

 ただの雑誌のツーショットグラビアのはずなのに。

 雑誌を手に雅紀は、整理のつかない自分の感情を持て余すしかなかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。