気弱狼とお姉さん (囃子米)
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1話:出会いと始まり

 朝、気が引き締まるような、初春の朝。

 まだ息の白さが残り、シャッターを開けようと手を温める。ジャンバーのポケットから鍵を取り出そうとする。

 

「本当に三玖ってば目覚め悪いんだから。遅れたら怒るわよ……」

 

 紫がかった赤毛の女性、中野二乃は、そのようにぶつくさと呟いてシャッターの持ち手部分に手をかける。

 冷たい、鉄の感覚。こんなことなら一旦引き返して手袋を持ってくるべきだったと小さな後悔を抱く。

 そんなところで、その抱いた後悔もどこへやら。建物と建物、その間に出来た小さな隙間、そんなちんけな場所から物音が。その物音に思考は遮断されてしまった。

 猫だろうか、猫ならばホットミルクの一杯や二杯を入れてやろうかと恐る恐る人一人分の隙間を覗き込む。

 

「何よ、猫ちゃん?」

 

「ぇあ……?」

 

「……へっ!?」

 

 そこにいたのは猫ではない。黒色の長い髪から、紺碧の瞳を覗かせる大男だった。ただ、浮浪者、という訳ではなく、若くて、どこかの学校の部活ジャージを着ている。エンブレムとスローガンが書かれているだけでどこのものかはわからない。

 いや、それよりも二乃にはもっと分からないことがあった。

 

「な、なんでこんなところで……」

 

「あぁ……まぁ、ちょっと自分も記憶が混濁してます……はは、ごめんなさい」

 

 青年、と一目でわかるようなはにかみ顔だった。優しそうなタレ目にちょっとだけ釣り上がった眉。鼻は高くて、顎のラインは端正。ハーフとも思しきその男子は頭を恥ずかしそうに掻いている。

 それにしても、どこかで見たことのあるような顔だなと、二乃はその青年を訝しげに眺めた。

 他方、見られてる側はというと、鼻を赤くして、手は悴んでいるのか少し震えている。

 段ボールも何もない、ジャージ一丁でこの初春の夜を越えたのだろう。冷たい路地の上で。

 

「みすぼらしいことこの上ない。君、少し入ってきなさい。スープぐらいは作ってあげる」

 

 二乃はそんな青年を見かねて、人情をかけてしまうような優しさを持っているのだった。

 

「いや、大丈夫です。すぐ、帰りますから。ほら、お金もあるしコンポタか何かを買えば済みますよ」

 

「君ねぇ、そんなガチガチに震えてる手で百円玉見せつけられてもこっちが更に困るの」

 

 二乃の言う通り、青年の手は震えて、その掌の上にある百円玉は今にもこぼれ落ちそうになっている。

 青年も恥ずかしそうにその手を後ろにしまった。

 

「遅いわよ。ほら、素直になんなさい。君見るからに高校生でしょ。あんなとこで寝てた理由も知りたいし。ほら!」

 

 そう言ってからよいしょと掛け声をかけてシャッターを開けた。

 二乃にとって、鉄の擦れる音は1日の始まりを告げる音だ。その始まりがこんな特殊な形になるとは誰が思っただろうか。

『なかの』という店の看板がそれを教えてくれるはずもない。彼女は少し微笑んでその看板から目を離した。

 

「適当に腰掛けて。今空調整えるから。あ、あと手持ち無沙汰なら内側からドアに準備中のプレートかけといて」

 

 青年は言われた通りに手持ち無沙汰。となればやることは一つで、目の前にある簡素な看板を裏返すだけの簡単な作業。

 

「ん、ありがとう。じゃあちゃっちゃと作るからちょっと待っててね」

 

「は、はい。なんか、ありがとうございます……」

 

「いいのよ。その代わり名前と高校教えて。あんなとこで寝てたあなたの話、少し気になるわ」

 

 好奇心といえばそれになる。しかしながら少しの心配もあった。普通、高校生が路上で冷たい夜を過ごすなんてことはありえない。なれば虐待か家出か。ただ、そのどちらにしても見過ごせない事態であることは確かなのである。

 

「名前は、その……」

 

「何? 指名手配でもされてるの?」

 

「いや、その、笑いません……?」

 

 名前を笑うとはどのような了見だろう。と二乃は考える。笑われるような名前といえば最近流行りのキラキラネームだろうか。佐藤ピカチュウなんて名前もあるらしいし、と頭の中で浮かべていた。

 

「…………小町咲良って言います。『咲く』に『良い』って書いてさくらって読みます」

 

 赤くなった顔から告げられた可愛らしい名前。その男性らしい声からするとおよそ意外なその可愛らしい名前。

 あぁなるほど、と二乃は納得し、なんとなくその聞き覚えのある名前に、少しだけ笑った。

 

「なるほどね。女の子っぽい名前ってことでしょ? 要は」

 

「まぁ、はい、そうですね」

 

「いいじゃない。いい名前よ。てっきりキラキラネームかなんかと思ったわ」

 

「そ、そうですか」

 

「そうよ。可愛い名前」

 

 二乃はポタージュを作る手を休めず、器用に話をしている。その手の技巧は鋭く、ただ、その喋る口も休むことはない。

 

「それで、高校は?」

 

「美濃谷高校です……」

 

「あぁ〜、あのバレー強いとこでしょ。妹がスポーツ好きで春高の県予選とかよく見るのよ。いっつも決勝まで行って……」

 

「はい、そこの、バレー部です」

 

「はいはいなるほど。そういえば去年なんかすごかったわよね、あの一年の子。確か……」

 

 確か……と繰り返し呟いて思い出す。そういえば美濃谷の一年エースといえばハーフっぽい子だったなと。

 そうして記憶を手繰るうちに名前が朧げに思い出される。

 

「小町君……小町くんねぇ……」

 

「はい……」

 

 名前を復唱するうち、芋づる式にどんどんと思い出される。そういえばU-18の選抜メンバーで、名門美濃谷のエースで、一年ながらに新聞一面を飾った。

 スポーツ好きの妹、四葉も選手紹介ページをデカデカと開いて解説していたなと思い出す。

 

「え!!? 美濃谷の小町君!!!!!!」

 

「は、はいっ!?」

 

「君! すごい子じゃないの! いや、それこそなんで君みたいな子が路上で……」

 

 その子の凄さを思い出すほどに分からなくなる。

 

「……まぁ、今はちょっと」

 

「あ……そ、そうよね。ごめんね。23にもなってはしゃいじゃって」

 

「いえ、言った方が良いのはわかってるんですけど」

 

「いいわよ。嫌がるならわざわざ言わせるほどでもないし。今日会って初めての人に言いづらいこと言える人なんてそうそういないわ」

 

 そう言ってスープを小皿に少し分けて味見をする。よし、と小声を漏らしてガスを止める。青々と輝いていた火はすぐに消えて、揺らぐ周囲の空気もすぐに元に戻った。

 小綺麗な様子でスープを深皿に注ぎ、上品に咲良の前に据える。

 

「召し上がれ。ジャガイモのポタージュよ。あったかいうちに」

「ありがとうございます……」

 

 空調はもう十分に効いていて、手の震えも粗方治った。その手でスプーンを手に取り、白色に煌めくスープを掬う。暖かいそれを口元へと持っていき、喉に流し込む。

 暖かさが体の芯に染み渡る。

 

「……おいしい……!」

 

 そう呟く咲良を目に、二乃は微笑んだ。自分の夢がまた一つ達成されていく、そんな気がして顔が綻んだ。

 自分の作った料理で誰かが喜んでくれている。心も体も温まってくれている。何より、そのおいしいという一言が、嬉しかったのだ。

 

「そう。何回聞いても良い言葉ね」

 

「えぇ、あ、はい。おいしいですよ。これ」

 

「よかったわ」

 

「長崎から越してきて寒さで悴むなんてあんまり知らなかったから、正直助かりました」

 

 長崎から越してきたということは一人暮らしをしているのだろうか。いずれにせよしっかりした青年だと感心する。

 ただ一つ、浮浪人もどきをしていたことを除けば。とはいえそれも訳ありの様子。

 二乃は頬杖を付いてそんな彼を眺めた。

 

「ごめん二乃、遅れた!」

 

 ある人以外が開くはずのない扉が開いた。ということはある人、中野三玖のご登場だ。

 登場後すぐ、三玖は後退りした。

 それもそうだ。姉の二乃が正直男を連れ込んでいる。何かしらの事件ではないかとも疑う。

 

「どうしたのその子」

 

「店の前で倒れてた」

 

「倒れっ……!? えぇ!?」

 

「そう、なるわよね」

 

 そんな男浮浪者ではないかと言いたくもなる。ただ、美濃谷高校のジャージを見ればその気も失せてしまった。ほかに思いつく節があったからだ。

 

「あ、NNKで見た。インタビューの人」

 

「ど、どうも」

 

「春高バレーで活躍した人……」

 

「……ど、どうも」

 

 気弱そうな青年と元根暗な女性が初対面となればそうなるのは必須とも思われた。仕事とプライベートは違う。オーダーはいくら明るく取れても、いざ知らない人間と話すとなると会話も続かなくなる。

 そこに二乃が助け舟を出した。

 

「はい、そろそろこっちも開店準備。アンタ遅れたんだから厨房整えなさい。私はこの子送ってくる。美濃谷なら、まぁこっから車で30分てとこでしょ」

 

「うん……。そうだね。悪い子では無さそうだし、何より学生なら送ってあげないと……」

 

 二乃の言うことに三玖も賛成といった様子で返事する。自分が遅れた分の仕事に文句を言うつもりもないし、今は未成年の無事が急がれた。

 

「あー……。そうっすよね。名前は分からないけど、ありがとうございます」

 

「中野二乃、で妹の三玖。二人でお店をやってるの。まぁまた機会があったらいらっしゃい。いつでも待ってるわ」

 

「うん、私も……。食べ盛りの子に合うかは分からないけど、色んなもの食べられるから、よかったら」

 

「はい、ありがとうございます」

 

 咲良はペコリと頭を下げてそういった。

 

「まぁそれにしてもでかいわね。うちの車に収まるかしら」

 

「すいません……」

 

「いいのよ。これも何かの縁か何か。私も有名人なら会えて嬉しいわ。じゃあいきましょ。三玖、あと、頼んだわよ」

 

 

 

 

 

 

 

 車の振動に右に左にと微動する。慣れた手つきで車を運転する二乃の横で、咲良は窮屈そうにしていた。

 

「身長、改めて見るとすごいわね。180とかあるのかしら?」

 

「187cmあります……」

 

「ほぼ190じゃない」

 

「バレーの世界ではその3cmが重要だったりするんですよ」

 

「それを春高でぼんぼん点を稼ぎまくってた君が言うんじゃ説得力も失せるわ」

 

「嫌味ではないですけどね……はは」

 

 大通りに出て一旦赤信号に捕まる。朝方、大通りは、歩道の静けさに反して車がそれなりに走っている。

 働く人は今日も1日が始まる。

 

「……これからどうしようって、思ったんすよ」

 

「……うん」

 

 咲良はぽつりと話しだした。自分のことについてだ。二乃もそれを理解して、相槌を打つだけだ。

 

「うちは父さんがイギリス人で、母さんが日本人なんすけど、その父さんは俺が2歳の時に家を出ていきました。だから母さんが女手一つで15年間育ててくれたんすよ」

 

「そう」

 

 戸籍上とはいえ、父親しかいない中野姉妹からすると逆の状況だった。ただ、片親であることの寂しさは分かる。育ててくれるのが母親だから幾分はマシかもしれないが、それでも父親がいればと思ったことは少なくないだろう。

 

「それで、まぁ、そんな立派な母親も、2年前に癌が発覚して……」

 

「…………うん」

 

「俺がプロバレーボーラーになったら年俸もたくさんもらえるだろうし、母さんの病気も治せると思ってた。ここに来たのもこの県にすごい病院があるって聞いたからなんです。だから美濃谷の推薦貰って、長崎からはるばる母さんを連れてきて……」

 

「偉いわね。親孝行じゃない。私があなたと一緒ぐらいの歳は……恋に惚けてたわ」

 

 二乃はあの黒髪の男を思い出す。もう今は自分の妹と結婚してしまって、義弟と呼ぶべきか。その人を愛していたことを思い出す。

 

「惚けてたって言う割には素敵な顔してますよ」

 

「なっ……! 大人をからかうんじゃないの! ……話の続き、聞かせてよ」

 

「そうですね。それで、一年生の春高では見事にチームを準優勝まで導けて、そんな中でエースを張ってたもんだからいろんなプロチームからも話を頂きました。これで母さんを治せるって思ったんです」

 

「そんな矢先に、膝と太腿を壊しました。おかしい話ですよね、母さんを連れて行こうとした病院に運ばれて手術も受けて、結果選手生命はほぼ終わり。一年はバレーをできないと言われました」

 

「高校生にとっての一年。選手としてこれがどれほど大きいか。そんな絶望をしてる毎日、気付けば一年ももう過ぎる。やっと回復の兆しが見えてきた。そんな時に、今度は母さんが死にました」

 

「……なるほどね」

 

「それで、あんなところにフラフラとやってきて」

 

 咲良がその後語るには、お葬式にはきちんと出たようで、その後に練習を見に行こうとした時、ふとその気が失せたという。

 正直、二乃には答えかねた。

 

「まぁ初対面で重い話ね。話したくなくなるのは分かる」

 

「……あはは」

 

 青年は、ただ申し訳なさそうに笑うのみだった。泣きそうな目と、震える喉に気付かれないように必死で笑った。

 

「今は一人暮らし?」

 

「はい。お金もないし、近々長崎に帰る予定です」

 

「……そう」

 

 そんな話をしてると、美濃谷高校の前へと着いたようだった。大きくて、厳かな門はその学校の権威を主張しているかのようだ。そびえたっていると言わんばかりである。

 

「お金に困ってるなら、うちでアルバイトしていきなさいよ。賄いも作ってあげる」

 

 車を停めて、咲良がそのドアの手口に手をかけたところで、二乃がそう言った。

 

「もちろん、あなたがまだバレーボールをここで続けたいならね。ちょうど店も安定してきてバイトも欲しかったところだし、いっぱい働いてくれればその分多めに給料も出す」

 

「それに、長崎に帰ったとて、あなたの寂しさは埋まらないでしょ」

 

 少なくとも、母親のために頑張ってきた彼にとって、その寂しさは大きいはずだ。ぽっかりと心に穴が空いたように感じるかもしれない。

 その感覚を二乃は、三玖は、彼女の姉妹である五つ子は知っている。だから、情けをかけてしまうのかもしれない。

 

「あなたの好きなようにすればいい。初対面のあなたに講釈を垂れるほど私も偉くないもの」

 

「でもね、辛くなったら大人を頼ればいい。恥ずかしいかもしれないけど、それは悪いことではないから」

 

 そういって二乃は彼の頭を撫でた。大きくて撫でにくい。そんな彼を撫でながら、感傷に浸る。

 彼と同じくらいの時分、私は素直になれなかったなと、素直に慣れていたらもっとよかったろうにと、小さな後悔だ。

 

「なかのって、SNSで検索したら場所は出てくると思う。ここから電車と徒歩で20分くらいだし、バイトしたかったらきてくれたら良い」

 

「それじゃあ、いってきなさい。どんな人生もまず一日から。シャキッとして!」

 

 そんな激励を受けて、青年は車を出た。その身長に見合った背中の大きさだった。立派な背中だ。

 二乃はそんな様子を見て、少し安心した。

 

「ありがとうございます。まだ、先のことはわからないけど。とりあえず今日は学校に行って、色々考えます」

 

「そ。頑張んなさい。こんな美人のお姉さんに学校送ってもらえるなんて滅多にないんだから」

 

「そうですね。二乃さん」

 

 そう言って、彼は校舎へと向かっていった。

 手持ち無沙汰になった二乃は帰路へと着く。一人車の中、何か物寂しくなったので音楽をかけた。最近流行りのポップな曲だ。女優の姉が何かの際に出した曲も入っている。

 

「ほんと、似てるのよ。雰囲気というか……」

 

「惚れた男を忘れられずに、違う男の子に面影を重ねてる。ほんと、ダメな女ね」

 

 そう言って一人で笑った。今この場では、誰に共感されることもない、静かに無音と散っていくその声。

 

「フー君……ね。今度また家に突っ込んで行ってやろうかしら」

 

 彼女は微笑むだけであった。

 




だいぶと二乃が丸くなってると思いますが歳を重ねるっていうことはこういうことではないかなと。
それでもツンデレは抜け切ってません。
後々他の姉妹も出てきます。ごゆるりと見守ってくれれば幸いです。


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2話:医者と患者

「えー、咲良。お母さんの件ついては残念という他ない。俺や他のコーチの方もお前の頑張りを知っていたし、これから回復も見えてきたってところなのに、というのが思うところだ」

 

体育館。他の部員がウォーミングアップにパス練習をしている。ボールが何度も放物線を描いているところが目に入る。

キュッキュとシューズの鳴らす音やボールの跳ね返る音。部員の掛け声。そんな音を他所に、咲良は監督と話していた。

 

「お前がスタメンから外れて、やはり今年の春高予選は決勝で敗退。三河学園高校に取られてしまったよ。お前の力抜きではこのチームは全国へ行けない」

 

強豪美濃谷が久しぶりに春高出場権を失った年であった。世間には咲良の怪我が知れ渡っていて、サクラショックと地元紙では呼ばれている。

それほどまでに絶対的な存在であったのだ。

 

「はい。俺も、ここでもう少し続けたいです。というか、色々と考えたいです。これからのこととか」

 

「そうか……。まぁ、お前がそう言ってくれて嬉しい。正直これを機にやめるかも思っていたからな。」

 

咲良の言葉に、少し微笑んでそう答えた。

 

「まぁでも、そのつもりなら我々もお前を治り次第登用したいし、ここで卒業させる気もある。ただ、その、あれだ。………お前、大丈夫なのか」

 

先ほどの嬉し顔とは裏腹に、監督は言いにくい、と言った様子であった。それもそうだ。母親の死に加えて祖父母が長崎にいるために好きだったバレーボールを美濃谷で続け辛い状況にある。精神状態を案ずれば当然だった。

 

「それは、なんとか。一週間前に葬儀も終わりましたし、親権関係も祖父母がなんとかしていくれています。後は衣食住だけの問題です」

 

「そうか。煽るようなことを聞いてすまない。お前が大丈夫というならいいんだがな。といってもうちに寮はないし、一人暮らしを続けるにも学校生活とバイトと部活の両立なんて厳しいだろう。現実的ではないしな」

 

監督は腕を組み替えてそう唸った。監督しても、学校としても、全日本に選ばれたというような才能の持ち主を簡単に手放したくない、というのが本音であろう。しかしながら学校から個人への支援が批判の的になると言うのも事実。

学校の体裁を保ちながら功績をあげるのは、何かと無理があった。

 

「夏のインハイ、そして次回の春高がお前にとっても最後の舞台だ。スポーツで大学へ進むつもりなら尚更体に気をつけなきゃいけない。今のお前ははっきり言うと爆弾持ちだ。そんなやつにバイトもしろなんて鞭打つマネはできない」

 

「はい…。まぁ、そりゃそうですよね。膝もそうですけど、たかが学生、稼げたとしてもその金はしれてる。ってのが現状だと思います。仕送りも祖父母だけでは限度があるでしょうし」

 

「あぁ。まぁでも、幸いこの町の病院は故障した選手の治療でも有名だ。膝を治すことにおいては不安はないだろう。お前の主治医の中野先生に故障選手用の支援みたいなのがないか聞いてみる。後は俺としてもこの学校でもなにかできないか上に掛け合う」

 

「ありがとうございます。なんか色々と」

 

咲良は頭を深々と下げた。選手として完全復活できるかわからない今。正直、何のためにバレーを続けるのか、再考のきっかけにもなるだろう。そんな中で監督は咲良のためにとあれやこれやと考えてくれている。彼からすれば嬉しいことだ。

 

「いいや、それはこちらこそだ。母親が亡くなってさぞ辛いだろうが、よく来てくれた。今日はもう帰るといい…。あ、いや、お前今日病院の診察か?」

 

途中で思い出したかのように監督がそう尋ねた。

 

「あぁ、そういえば。中野先生には俺から聞いておきましょうか?色々と話したいこともありますし」

 

「それは、そうだな。また何か有れば聞かせてくれ。じゃあまた」

 

「はい。ありがとうございました」

 

かつての部活のように軽く監督は頭を下げてからその場を後にした。ちょうどコーチの吹く笛が鳴って、スパイク練習は変わったようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

何歳歳を重ねても慣れないのが病室というものだろう。独特の匂いがするし、そもそも病院というものがあまりいいイメージを持たないこともある。

 

「小町くん。お久しぶり。経過はどうだい。膝の痛みが悪化したり、他の足の部分に痛みがあったりは」

 

「いえ、特には」

 

「そうか。それならば良かった。それと、君には改めて謝らなばならないことがある」

 

母親のことだろう、と咲良は目処をつけた。親子揃って中野先生に診てもらった経緯がある。ただ、謝る、とは言われても、むしろこちら側から感謝するのが筋だろう

 

「いえ。仕方のないことです。母が末期癌だということを隠したがったのは分かりますし、その意思を先生は尊重しただけです」

 

「あぁ…。そう言ってもらえると助かるよ…。不甲斐ないがこれ以上自責するのは無粋というものだろう」

 

「はい。今は前を見て、進まないと何も始まらないので」

 

咲良の態度では毅然としていて、中野先生としても強かだなというのが素直に思ったところだ。何か精神的に前に向けるきっかけでもあったのだろうかと思いを馳せる。

母親を失って悲しみを負う一人の青年に、自分の娘達を重ねたのかもしれない。彼は一人の青年の成長を微笑ましく眺める。

 

「それで、ですね」

 

「何かあるのかい。僕にできるならば何でも聞こう」

 

「あ、その、どこか下宿先とかないですかね…」

 

「ほう。下宿というと、今の部屋はやはり仕送りだけではやっていけないのかい」

 

「…はい。母が直前までいろんなバイトを掛け持ちしてくれてたおかげでギリギリ生活できてたんですけど…。それに、一人で暮らすとなると家事面でも忙しいですし、これから徐々に復帰していくにあたって少し厳しいです」

 

ふむ、と中野マルオは口に手を当てた。真っ黒なその目から感情は読み取れないが、色々と思案してくれていることだけはわかる。

 

「…私の家が空いている。まぁ私の家と言ってもほとんど帰らないのだが。娘が二人住んでいてね。それでも構わないなら…」

 

「せ、先生の家ですか?それは流石に…」

 

「とはいえ、美濃谷でプレーを続けたいのだろう?ならここに居続ける必要がある。とはいえ私は生憎友人が本当に少なくてね。その数少ない知り合いも、スポーツマンを十分に養えるほどの財力を持ち合わせていないのだよ」

 

「結婚している娘もいるがまだ新婚だ。そんなところにお邪魔するのも嫌だろう?」

 

となると消去法的にマルオの家しか無くなる。監督を頼るならともかく、主治医にそれを頼み込んでもいいのかというのが咲良の率直な悩みであった。

けれども監督の家は絶賛育ち盛りの息子が二人。流石にそこへお邪魔するのも申し訳ない。本当に、この地では後ろ盾がないのだなと再確認する。

 

「直接的かつ個人的な経済的支援は世間体からしてもまずい。しかし下宿という形でなら誰が何と言おうと認めざるを得ないだろう?私としてはこれが一番しっくりくる形なんだ」

 

口説かれる、といえば聞こえは悪いがまんまと論を包まれていくのが分かる。何もないところに垂らされた一本の蜘蛛の糸。これに頼らざればほかに道はなかった。

申し訳なさが勝つが、それでも『好き』を続けたい。ようやく決心が固まったようだ。

 

「よろしく、お願いしてもいいですか?」

 

「あぁ。構わないよ。とはいえ君はまだ17歳。未成年だ。祖父母の方ともよくお話をして決めるといい。客観的に見れば甘い飴で釣っているようなものだ」

 

「そんなことはないですよ!」

 

「そうかい。契約が急を要するようであれば今話してもらいたいが、そちらの方は?」

 

「契約に関しては…まだ、解約まで三週間はあります」

 

「ならば来週に診察を入れておくから、その時に改めて聞こう」

 

マルオはデスクに向き直って電子カルテにキーボードを打ち込んだ。足の経過は良好。処方される外服薬も量が少なくなっているのが素人目にも分かる。

キーボードを叩く音が軽く弾む。対照的に咲良は拳を固く握った。

 

「あの、先生はなんでここまで俺に…」

 

「まぁ、憧れというやつだよ。一年前ほどにね、娘達に春高バレーを見に行こうと誘われたんだよ。娘夫婦が東京に引っ越したものだからそのついでにね」

 

「は、はぁ…」

 

「そこで、君のプレーを見たんだ。初めてだったんだよ、スポーツを見て心踊ったのは。学生の頃からずっと勉強をしてきたからね」

 

デスクと向き合ったままのマルオから、それ以上語られることはなかった。咲良は困惑する。

 

「そ、それだけですか?」

 

「あぁ、それだけさ。本当にそれだけなんだよ。それだけで君は人を動かした。誇ってもいいと私は思う。だからこれはほんの感謝気持ちだ」

 

そう語った後、彼は薬局へと持っていく何枚かの紙を彼に渡した。それを受け取って咲良も礼を言って病室を後にした。

本当に、人はわからない。自分のプレーが誰かを突き動かした。それは嬉しいことだ。だがそれにしたってその分の見返りが大きすぎる。咲良としても流石に引き気味にもなってしまう。

 

前から顔見知りの看護師がやってきて、挨拶をしながらすれ違った。

自分が感動を誰かに返すために、医療に従事するのだろうか。

 

自分が何かをしたという意識はあまりないし、何かに突き動かされたこともあまりない。忘れただけかもしれないが、そういう経験に疎い彼にとって、本当に分からなかった。だから、どうこの感謝を伝えればいいのかも、分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「ただいまー」

 

祖父母が長崎へ帰ったのが3日前のことだった。それからは何かに心を費やして、外で夜を過ごす、いわば不純な生活を送っていた。

二乃に出会ったのは昨日で、昨日も結局家には帰らず、公園で寝た。その後に学校へ行ってから病院へ赴いた。

一人で帰りたくなかった。母親との、一年間とはいえど思い出の家に。

 

「そうだよな…」

 

一人ため息をこぼす。ただいまにおかえりと帰ってくるはずがない。この家にはもう自分しかいないのだから。おかえりと笑って迎えてくれる母親はもう遠いところはいってしまったのだから。

不都合なことに、一度遠くへ行ってしまうと、もう二度と元の場所にはもどれないらしい。

 

実を言うと、独りは怖かった。

長崎から母子ともにこっちへやってきて、バレーの仲間はいるが、友人はいない。仲間が一緒にコンビニへと寄り道する間、彼は一人で母親に元気な顔を見せるため帰宅していた。

だから、その母親がいなくなれば必然的に孤独だった。

 

「俺さぁ、やっぱり向こうに帰った方がいいのかなぁ…1人は怖いけん…」

 

「母さんは、搬送された後、一人で死んだのか…?最後、寂しくなかったか?怖くなかったか?」

 

「俺は今、怖いよ。誰もいないこの部屋が怖い」

 

何かをしていないと、心が満たされず、満たされない心を抱き抱えるように、台所の前に蹲った。きつく自分を締め付けておかないと、消えたみたいに感じてしまうから。

 

「…ッさみしい」

 

バレーボールは今は出来ない。ここ二年間はバレーと母親のためだけに生きてきた。見知らぬ土地でひたすらに、ひたむきに努力してきた。

怖いもので人は17年間の内たった2年だけでも、それだけで生きてきたように感じてしまうらしい。

 

一人で孤独を抱えて啜り泣く内に、意識は落ちていった。

 

それに気付いたのは夜更けだった。

制服のまま眠ってしまい、肌寒さに起きてしまったのだった。毛布はかかっていない。かけてくれた人はもういない。そのことに改めて気づいた。

孤独というものをこの家では嫌でも感じてしまうから、外へ出た。月の光と張り詰めた空気は自分の存在を嫌でも意識させられる。自分が自分でいられる。

 

どこへ行こうか。ふらふらと街灯の明かりを縫うように歩いた。暗闇は怖い。孤独は嫌だ。そんな思いからか知らずのうちにコンビニにたどり着いた。

 

「お」

 

「え?」

 

「不良少年め」

 

聞いたことのある声がした。その言葉はきっと自分を指しているのだろう。たしかに深夜に制服で外へと出るのは不良だ。認めるほかない。

 

「こんな時間にどうしたの」

 

優しく問いかける女性は中野二乃であった。

初春とはいえまだまだ寒いのがこの季節の悩みどころ。二乃はコートを着て袋を片手にコンビニを出るところだったようだ。

中からは女性用ファッション誌とよくある歴史の裏話的な雑誌。それとアイスだろうかが二つ。こんな時間にどうしたのとは咲良の台詞でもあった。

 

「あぁ…ちょっと買いもんです。夜中に小腹が空いちゃって」

 

「ふーん。まぁ服装ぐらいは考えたほうがいいわ。TPOの一文字も被らないわね。そんな薄手のセーター一枚じゃまだ寒いでしょ」

 

「は、はは。いやまぁこれ以外の服あんま持ってないし、腹減りすぎて急いで出てきたもんで…」

 

「まぁいいわ。流石にそれじゃ補導されるだろうし、中まではついてってあげる。一つくらいなら食べたいものも買ってあげようかしら」

 

二乃はそんな言い訳にため息をついてからそう言った。バレバレの嘘をついて大人を騙そうとしてもそうはいかないようだ。大方一人でいるのが嫌で出てきたのだろうと察しはついた。

せっかくの顔見知りの青年を放っておくわけにもいかなかった。

 

「流石にそれは悪いですよ」

 

「いいから、こんな寒いから私もちょうどあったかいの食べたかったの。付き合いなさい」

 

「…お言葉に甘えます。ありがとうございます」

 

「それでいいのよ。素直な子は好きよ」

 

二乃はそう言って咲良の背を押した。中には店員が独り。兄弟が迎えに来たとでも思われたのか不審がる様子もなく作業を続けているようだ。

その間、咲良は何を欲しいともなく、手持ち無沙汰になるだけだった。そもそも、財布の中には1000円もない。家にほとんどを置いてきた。

ただ、嘘をついた手前手持ち無沙汰もおかしい話だった。したがって彼は適当な紙パックジュースを手に取った。

 

「決まった?」

 

「まぁ、はい。でもこれくらい自分で払いますよ」

 

「いいの。外で待ってて。すぐ行くわ」

 

言われるがままに外で待つこと数分、二乃は新しい袋を下げてこちらへと歩いてきた。近づいてから、一つ、暖かいものを咲良に手渡した。肉まんだ。

 

「寒かったでしょ?…これは待たせた代」

 

「はぁ…ありがとう、ございます…」

 

「さ、ちょっと歩くわよ」

 

「いや、どこに」

 

「まぁ着いてきたら分かるわよ」

 

そう言って二乃は咲良の先を歩き始めた。咲良もそのまま無視して帰るのはあまりにも薄情なので着いていくことにする。

その間、彼らに会話はなかった。咲良はなんとなく気まずくて星空を見上げて、目線でオリオン座をなぞった。

その内に、どうやら公園へやってきたようだった。

 

 

「立ち話もなんだし、ちょっと寒いけど座ろっか」

 

「…いいですけど」

 

肉まんはこのための布石だったのかと気付く。

とはいえここまで来た以上は座るほかない。そうして座った後に二乃も隣に座り込んできた。寒そうにコートを着直した。

 

「あ、もしかしてコートいる?」

 

「それは流石に。そもそもサイズが小さすぎです」

 

「悪かったわね。小さくて…」

 

「いや、悪気はないです」

 

「それがさらに腹立つわね」

 

「えぇ…」

 

テンポのいい会話が続いた。肉まんを食べて温まりながらしばらくは他愛もない話を続ける。

 

「まぁ、もうそろそろまた体も冷えてきたし、これで最後にするわね」

 

二乃は肩にかかった髪を後ろへとやった。綺麗に梳かされた髪がさらさらとたなびいている。咲良はそんな様子に目を奪われた。

 

「…1人は辛いでしょ?」

 

直後、そんな質問が投げかけられた。

 

「お父さんから話は聞いた。もしかしたら自分の受け持っている患者が選手だけど、母親を亡くしたからこっちに下宿するかもしれないって」

 

「名前は伏せてたけど、多分君でしょ」

 

中野先生と彼女は親子関係にあったのかと咲良はなんとなしに納得した。

ただそれよりも、彼女に見抜かれてしまっていたことが驚きだった。その余りにそうではないと、辛くないと拒否してしまう。

 

「嘘おっしゃい。顔に辛いって書いてあるわ。それとも何?『からい』の読み間違いかしら」

 

「……それで、辛かったらどうなんですか」

 

思わず返答がぶっきらぼうになってしまう。会って間もない他人に、そこまで言われるのに不快感を示す。

 

「夜出歩くのは感心しないわね。それも一人で。スーパーエースの名に傷がつくわ。それに、泣き腫らした目に気付かないわけないでしょ」

 

「そりゃ…まぁ」

 

「正直昨日からちょっと心配だった。この子もしかしたらフラッと消えてしまうんじゃないかと思って。それに今日バイトの面接にも来ないんだもの。ちょっと肩落としたわ」

 

冗談まじりに肩をすくめた。決して暗い雰囲気にしないようにと努めているのがわかる。

 

「まぁバイトのことはすいません。まだ色々状況が状況ですし、昨日の今日ですし」

 

「それはそうね。それにしてもこんな時期に一人でふらふらと。心配が増したわ。お姉さんとっても心配」

 

「はぁ…」

 

「出会って時間はそんなにないけど、出会いはあまりにも衝撃的だったわ。お情けをかけてしまうくらいみすぼらしい格好だったもの」

 

そうして二乃は咲良の両肩に手を置いた。

 

「母親が亡くなってからは一人の部屋で、寂しかったでしょ?だから家に帰れなかったのよね」

 

「とりあえず今日は私の家に来てくれていい。帰りたくないなら帰らなくてもいい。心の整理がつかないのに、無理矢理慣れさせようとしたら心が壊れちゃうもの」

 

「…誰にも頼りたくないのもわかる。ここまで来て頼れないのよね。でもだからこそ、頼らないと。自分じゃどうにも出来ない気持ちを受け入れるには、そばに誰かがいないとだめだから」

 

 

「だから、おいで」

 

 

咲良は、知らずのうちに涙を流した。

二乃はそんな咲良の手を引いて家路に着く。彼はそんな彼女に抵抗せず、着いていくことに決めた。

出会ってまだ一日の他人。そんな他人に救われたのだと思うと情けなかった。であるのに、心は暖かった。本当に、孤独は嫌だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




二乃があまりにもお姉さんすぎますね。でもフータローが結婚した後はこんな感じに誰にも優しくなってるんじゃないかなとも思います。
それにしたって咲良くんどれだけ養われ属性なんだ…。自分で書いてて羨ましい。


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3話:少年と青年

「いつまで独りから逃げてるつもりだよ」

 

 幼い頃の咲良がそう言った。小生意気で歳が上の人間、特に男を軽蔑するようなそんな目線。

 大好きな母親は、父親という男のせいで悲しんでいる。苦心している。だが、そんな男がいなければ自分はいなかった。そんなことを理解し始める歳になってからそのような子供になってしまった。

 

「母さんは死んだ。お前の好きな母さんはもういないんだよ」

 

 咲良の目の前に、幼い咲良が立っている。勿論、夢だということは本人にも分かる。

 眠る時に見る夢というのは、自分の潜在意識や隠れた欲求を露にするという。明晰夢だとか予知夢だとか色々あるが、それらはまだ正確に解明されていない。もしかしたら人間に備わった特殊能力なのかもしれない。

 ただ、今に限っては潜在意識との会話ではあることは確かだ。

 

「独りだよ。お前は。ろくに友達も作ってこなかった。皮肉だよな。好きなことをしてたら色んなものを失ってた」

 

 違う、と反論したい。だが口元は頑なに動かない。それもそうだ、この言葉を発しているのは全て自分のなのだから。潜在意識の中にある自分自身が言っているのだから。

 

 暗い世界から、少し風景がひらけた。坂の多い街、それが長崎だ。そんな街の高くから見下ろした景色は最高に見晴らしがいい。下には入江に船が入ってくるのが見えた。

 

「懐かしいよな。母さんに連れてきてもらったとこだよ。嫌なことがあったら連れてきてもらってた」

 

 また場面が切り替わる。

 

 次は昔の家のリビングに来ていた。母親がテーブルに突っ伏して、心地良さそうに寝ている。いつからだかわからないが、血色がいいことからまだ癌が発覚する前なのだろう。

 

「この時から、もしかしたら体を蝕まれてたのかもな」

 

 また風景が入れ替わる。

 

 今度は、咲良が帰りたくないと思った家だ。二年間母親と暮らした家。本当に、まだ大丈夫だと思っていた。まだ猶予はあった。というのも5年生存率も高かったし、このうちに咲良がプロになれると思っていた。実際にプロからは声がかかり、年俸と少しの借金で母親の手術を進められるはずだった。

 

「でも現実は違う。母さんは死んだ。悠長なことを思っているうちに命の灯火は日に日に弱くなっていった。それに気づかなかった。気づけなかった」

 

「俺は、お前が嫌いだよ。お前は俺が嫌いなのと同じだ」

 

 幼姿の咲良は、今の咲良をまっすぐに指差して睨んだ。

 あぁ、俺は俺のことが嫌いなんだと、自覚させられてしまう。本当は気付きたくなかったけれど。

 そう思ってしまったら、今度こそ自分の存在がなんなのかわからなくなる。

 

 瞬きをして、次の瞬間には火葬場の風景が周りに広がった。棺が焼却炉に入っていく。この世に残した骸すらも焼いてしまう。いよいよ記憶の中でしか留めておけない母親の最期の顔。

 

 待ってくれ、まだ言いたいことがあった。まだ話したいことも、笑い合いたいことも、恩返ししたいことも、いっぱいあった。咲良は手を伸ばしてそこへ走る。

 夢のくせに炎に触れれば熱かった。それ以上は近づけなかった。

 

 背後にいる咲良の幼姿はいつのまにか姿を消していた。

 

 瞬時のことに瞬きをした。そんなはずはないと。何度も何度も目を擦って、次に目を開けると、知らない天井があった。

 

 記憶にもない、高い天井。

 

「……どこだ、ここ」

 

 いつのまにか話せるようになっていて、それが起床だということに気が付くまで少しだけ時間がかかった。

 頭が混乱しているようだ。昨日の記憶がまるで飛んでいて、自分がなぜこんな高級そうな家にいるのかがわからない。という様子で彼は視線を移動させた。

 

 どうやらソファの上で寝ていたようで、自分の上には毛布がかけられている。毛布一枚でも寒くないのは暖房が効いているからだった。

 その毛布を取っ払って、むくりと起き上がる。

 

 ソファの背もたれの部分の向こうを覗いた。すればそこには見覚えのある女性の後ろ姿があり、どうやらキッチンの前に立っているようだった。

 冷や汗をかいた体をもう一度ソファに預けて天井を眺める。

 

「昨日は疲れたみたいね。ソファで待ってもらってたらいつのまにか寝てたんだから」

 

 二乃は咲良の顔を覗き込んでそう言った。どうやら彼女は彼が起きたことに気付いていたらしい。

 それにしても、咲良の視点の定まらなさに二乃は笑った。それもそのはず。ある意味一軒家の豪邸よりもすごいかもしれない。マンションの一室の中に階段があって二階建てのようになっているのだから。

 

「朝ごはん、一応作っておいたけどダメそうならいいわよ。それと、とりあえずお店の方は今日の午前までお休みだけど、午後はどうするの?」

 

「朝ごはんはありがたくいただきます……。それと午後は俺、予定なくて、どうしようかな……と」

 

「そ、暇ならお店の手伝いしてもらおうかしら。一泊分のお代だと思えば、お互い後が楽でしょ。君、あとからお礼とかしてきそうだし」

 

 二乃はそう言う。それが彼女なりの優しさであった。裏を返して言えばしたくしたことなのだから特別なお礼はいらないということだ。すこし遠回りなような気もするが、咲良もその意図をなんとなく察した。

 

「そうですね。その方が俺も楽かもしれないです。皿洗いとか店内清掃ぐらいしかできないですけど……それでもいいなら」

 

「全然それでいいわ。むしろ助かるくらい。清潔は人を呼ぶから、そういうのは結構大事なのよ」

 

 そうして、そんなことを言いながら二乃が朝食を運んできた。その間咲良はやはり不慣れな豪邸に落ち着かず、視線を右往左往させる。そんな時に一枚の写真が目に入った。

 

「これ、中野先生だ……」

 

 写真の端に写る中野マルオ。そして二乃と三玖の他三人、顔が瓜二つな女性が立っている。卒業証書を持っているようだった。

 そしてマルオの反対側の端、これも高校生だろう、青年が写っていた。その横に小さな女の子と金髪の男性が写っている。

 

「ん、あぁそれね。私が高校卒業した時の」

 

「あ……いや、それにしては顔が似てる人多いですね。というか顔だけなら二乃さんとの違いが分からない……」

 

 咲良は見れば見るほど顔の似ている五人を怪訝そうに見た。もしドッペルゲンガーというものなら五人いる時点でこの中の誰かが死んでいる。

 

「あははっ。私達五つ子なのよ。ちょっと前までみんなここに住んでたのよ」

 

「五つ子なんですね……」

 

 

「五つ子……!!!?」

 

 咲良の驚きは遅れてやってきた。ここまで顔が似るなら、世にも珍しい一卵性の五つ子だろうか。まったく事実は小説よりも奇なり、とはよく言ったものだと唖然とする。

 

「よかった、驚いてくれて。逆に驚かなかったらこっちがびっくりしたわ」

 

「いや驚かない人いないでしょ……。だって五つ子ですよ? 三つ子ですら珍しいって言うのに」

 

「まぁそうっちゃそうね。それでね、この写真のこの娘」

 

 二乃はそう言って大きなリボンがトレンドマークの姉妹を指さした。

 中野四葉であった。

 

「妹の四葉。この前、っても一年前か。結婚したのよ」

 

「はぁ……おめでとうございます……? いや、めでたいことですけど……」

 

 だからどうしたのだ、というのが本音であった。二乃の姉妹が結婚をした、そのこと自体は確かに祝われるべきことだろう。しかしながら全然知らない他人の結婚報告をされたとて心の底から喜ぶのは少々難儀というものであり、結婚した本人からしても知らない他人から祝われたとて、となるだろう。

 

「誰だと思う?」

 

「はい?」

 

「こん中の誰かさんと結婚したのよ」

 

「……ロマンチックですねそれ」

 

 咲良は写真の中にいる黒髪の男子生徒を一瞥した。彼は冴えない男子といえばそうと見えるような容姿をしているが、そこに注目したわけではない。

 ある種の納得といえば近しいのだろう。その優しそうな目に何とも言われぬ、あぁ、この人なんだろうなと確信に近い感覚を抱いたのだ。

 

「そうでしょ? 上杉風太郎っていうの、その子」

 

「聞いたこともないです」

 

「6年前の話だからそうなるわよね。でも全国模試一桁、なんて言う化け物よ。卒業すら怪しかった私達からすると、ある意味雲の上のような存在だったかしら」

 

「ひ、一桁……」

 

「まぁそんな彼が私達五つ子の家庭教師になったのよ」

 

 咲良はいつの間にか目の前に置かれていた朝食を食べながらその話を聞いた。話し手の二乃は頬杖をついて微笑みながら語った。

 

「色んなことがあって、好きになって、それでフラれた。初恋、いや、初めての本気の恋にしては中々いい恋だったわ」

 

 そう語る二乃が微笑み続ける姿は美しかった。目を細めてどこか遠くをながめている。

 きっとそれを今でも忘れられないのであろうということを咲良は察した。

 但し、その情動の素晴らしさというものを、生まれてこの方恋をしてこなかった咲良は理解できなかった。

 

「それがこの前の……」

 

「えぇ、惚けてたわ。一応妹からフー君を奪おうと色々頑張ったんだけどね。ダメだったわ」

 

「……そんなに、恋って良いんですか?」

 

「そりゃまぁ、本気で愛する人がいるってのはいいことよ。良くも悪くもその人で心が満たされて人生が楽しくなるもの」

 

 187cmの大きな体躯。故に食べるのが早い彼はもう朝食を終えてしまって、そのままに手を合わせた。ごちそうさまでしたという一言を添えて。

 腹は満たされたが、腑に落ちないことがある。

 恋をすることで心が満たされるとはどういうことだろう。つまりはバレーボールで心が満たされれば、それはバレーボールに恋をしているということだろうか。

 そんな表現はあるだろうが、それは比喩であることを咲良は分かっている。

 親族はともかく、血の繋がらない他人を愛することで満たされる心は、違うのであろうか。

 

「恋をすれば分かるわよ。親が好きとか、バレーが好きとか、そういうんじゃない。好きだけど不安になったり、怖がったり、それでも満たされるの」

 

「はぁ……」

 

「ま、そんな時が来るはずよ。その時はいつでもお姉さんが相談に乗ってあげるわ」

 

 二乃はその決して小さくない胸を前に突き出してそう言った。自信満々といった様子で、あたかも百戦錬磨の恋愛アドバイザーのような雰囲気である。

 

「……二乃彼氏いたことないくせに……」

 

 そんな二乃に辛辣なダメ出しをするのは五つ子三女、今は同じ店を経営している中野三玖であった。

 今起きた、というような様子で部屋から出てきた。寝巻き姿に寝ぼけ目を擦れば誰の目にもそれは明らかである。

 

「うるさいわね! 顔洗ってきなさい!」

 

「昨日待ってたのに帰ってこなかった仕返し。まぁ……事情ありげだからこれで許してあげる」

 

 咲良の方をチラと見てそう言った。何があったか、まで聞かなかったのは彼女なりの配慮であろう。

 

「それは、ごめん。でもアイスちゃんと冷やしてあるし部屋の机の上にも雑誌置いといたわよ」

 

「え? ……後で確認する。ありがとう」

 

 どうやら寝ぼけながら出てきたために気づいてなかったようだ。しかしながらその会話中で意識も覚醒したらしく、目も心なしかはっきりと開いている。

 

「お、お邪魔してます」

 

 姉妹の会話を横に当たり前のようにその場に溶け込んでいるが、咲良はきちんと来客者。二人の会話に適当な間を見つけて挨拶をしておく。流石に寝食を提供してもらってそれもしないなんてことは不義理だと思ったのだ。

 

「……はい。どういたしまして……? でいいのかな。私のことはそんなに気にしなくていい。お父さんからも聞いてるから……」

 

「そ、そうですか。まだ決まったわけじゃないですけど、もしその時はよろしくお願いします」

 

「うん。残ったの私達だけだったし、二乃が大丈夫そうなら良い人だろうから、歓迎するよ」

 

「……咲良君も色々あるから。まぁ出来るなら三玖にも教えてあげて。無理強いはしないけど、一緒に住むんだとしたらお互いのこと知っておいた方がいいはずよ」

 

「そ、それはまぁ、追々、決まり次第、ということで……」

 

 歯切れが悪いながらも咲良はそう返事した。母親の死、幼少期の、霞程度に覚えている父親の話、今の状況。どれも普通他人には深々と話せない事柄であろう。

 咲良は初対面で優しくしてくれた二乃を信頼している。偽善であったとしても、あそこまで初対面の人間に優しく出来る人は多くはない。

 一方三玖はどうであろう。咲良からすればまだどんな人かも分からない。会話すらほとんどしていない。

 それもあってあまり気は進まない。

 

「私は大丈夫。言いたくないことの一つや二つ、人にはあるべきだから。……それでも君がちゃんと話してくれたら嬉しいんだと思う」

 

「まぁ、追々……」

 

「さ、あんたは顔洗ってきなさい。そのあと咲良君ね」

 

 そう言って少し湿気た空気に二乃が割って入った。それに促された三玖は洗面台の方へと向かい、咲良は食べ終えた皿や食器をシンクに持っていった。

 

「俺のこと、咲良でいいですよ」

 

 三玖がリビングからいなくなって、咲良はそう言った。

 元々二乃は一定以上距離が近くなった人に対しては君やさんをつけないタイプの人間だ。彼女としてもそちらの方が楽だった。

 

「そ、じゃあお言葉に甘えて次からそう呼ぶわ。あたしもちょっと馴れ馴れしくしずきないように気をつけてたのよ」

 

「そう……っすか。まぁなんでもいいです」

 

「了解」

 

 そう言って二乃は皿洗いを始めた。それによっていよいよ手持ち無沙汰になった咲良は大きな窓から見える外を眺めた。

 高層マンションであるからかなり遠くの方まで見える。今日の天気は晴れ。山の輪郭もしっかりとしていた。

 

「あ、えっと、その……」

 

 咲良の背後から三玖の声がする。どうやら顔を洗い終えて交代することを伝えにきたようだ。

 

「名前でいいっすよ。洗顔っすよね。ありがとうございます」

 

「う、うん」

 

「ちなみにどこにあるかだけ……」

 

「廊下歩いてたら多分分かる……右手側にあるよ」

 

「わかりました」

 

 そう言って彼は廊下の方へ歩いていった。

 歩いて右手側にある。その通りで、見れば分かった。しかもかなり広い洗面所。鏡が三面もある洗面所は合宿所のホテル以来だった咲良はすこしだけ気分が上がる。

 

「すげぇ……」

 

 ご親切に、三玖はタオルもきちんと棚から出して置いていた。棚を間違えて下着を見られないようにする、というのもあるだろう。

 その意図は露知らず、咲良は前者の親切にだけ感謝していた。

 

 顔を洗う前に、その伸びた前髪を頭の中心よりちょっと後ろに束ねてヘアゴムで括る。ハーフらしい、端正な顔立ちが鏡に映る。

 冷たい水を手で作ったお椀に張り、その顔にかける。顔が冷たさで引き締められ、自然と意識もシャープになる。それを二、三回繰り返して、タオルで顔を拭いた。ふんわりと柔らかいタオルは家のものとは違ったいい匂いがして、落ち着かなかった。

 

「ふぅ……さっぱりした」

 

 そう言って目を開けてヘアゴムを取る。伸びた前髪は垂れ下がり、隙間から紺碧の眼をチラつかせた。

 

「髪くくってるのいいわね」

 

「うわぁ!?」

 

「何よ。そんな驚かなくたっていいじゃない」

 

 完璧に咲良の死角に立っていた。ドアに寄りかかってそう言う二乃だが、彼としては本当に心臓に悪い。まだ拍動を感じられるほどには驚いたようだった。

 

「驚きますよ……そんなところに誰もいないと思ってましたよ」

 

「そんなところって、入口よ」

 

「いやまぁそうですけど……」

 

「それよりこれ」

 

 二乃はそのまま白と赤と緑色が配色されたバレーボールを咲良に手渡した。それを不思議そうに見つめる咲良。無理はない。いくらバレーボール選手だとしても、突然バレーボールを渡されてそのままバレーの練習を家屋内で始めるものがどこにいようか。いきなりそのバレーボールを手に取ってトス練習でもしようものならそれは練習の虫であると同時にただの常識知らずだ。

 

「これをどうしろと」

 

「やるわよ」

 

「はい?」

 

「やるわよ」

 

「……はい?」

 

 咲良の理解が追いつかなかった。二度も同じことを繰り返すこの女性はさながらRPGのモブキャラである。しかもyesの選択肢以外を選ばせないタイプのそれだ。

 どこでそれをしろというのだと目で訴えた。

 

「下にちょっと広場あるから。開店まで3時間もあるし暇潰しもしたいでしょ? 三玖も連れてくから来なさい」

 

 二乃の声色からはすこしぶっきらぼうだが、確かな気遣いを感じる。

 すこしでも楽しいことで前向きになれるようにしてあげたいという気持ちが強かったのだ。

 

「わ、わかりました」

 

 二乃はその言葉を聞いて、運動を厭う三玖を引きずりながら玄関の外へと出た。咲良はそれを苦笑いで眺めてついていく。

 

 

 

 

 

 

 

 芝生が綺麗に整備されて踏み心地の良い地面。休日の朝だからかいつもより近所の子供が多いように二乃には感じられた。

 そんなちびっ子達の多い公園の隅で三人は集まった。視界が悪くならないようにと、咲良は髪をくくっている。

 

「私運動苦手なんだけど……」

 

「まぁしんどかったら休んでくれてていいわよ」

 

「しんどいとか以前にレシーブみたいなのできない……」

 

「そんなの目の前にお手本があるじゃない」

 

 二乃が咲良の方を見ると、三玖もそれにつられて同じ方を見た。

 慣れたかのように思われるが美人二人の視線だ。たじろがない男子高校生などいるはずもなかった。

 

「あ、や、普通に、できますよ……」

 

「ほら、大丈夫よ。曲がりなりにも四葉と同じ遺伝子なんだからちょっとは出来るはず。多分」

 

「その理論なら私は高校の体育の授業で2なんて取らない……」

 

「あ、あはは……。ほら、咲良! いくわよー!」

 

 妹からのジト目から顔を背けて、彼女は咲良にボールを下投げで、山なりに送った。そんな緩やかなボールを咲良は息するように、ストン、とアンダーハンドパス、つまるところのレシーブで三玖へと送る。

 

「わわっ、こ、こう?」

 

 緩やかながらも運動に乏しい三玖は右も左もわからず、見様見真似でボールを返す。

 皿を作るように手を組み、腕を伸ばし、脇を締め、ボールの正面に向かい、そのまま膝を伸ばしてボールを返すのがレシーブの基本だ。ダイビングしながらのレシーブや、ボールの正面に立たないままで返す場合もあるが、初心者に見せるべき例ではない。

 ともかく、前述の基礎を完璧にこなした咲良を見て、不恰好なレシーブになるはずはなかった。

 

 なるはずはなかったのだ。本来なら。

 

「あー……何がダメなんすかねぇ……」

 

 明後日の方向へ飛んでいくボールを眺めながら咲良はそう言った。ほんの数瞬後にはボールは跳ねて転がっていく。小さな子供がそれを拾って、無邪気な笑みで咲良に届けた。彼はそんな子供達相手に屈んでからありがとうと言って微笑んだ。

 そうして三玖に向き直る。

 

「ふふっ……」

 

 二乃が密かに笑い、赤面して横に顔を逸らした三玖がプルプルと震えている。

 

「だから、ダメって言った」

 

「ごめん……大人になって運動神経も良くなってるかとおもったのよ……ふふ……」

 

 少し拗ねたように言う三玖に対して、二乃はそれでも笑わないようにするので必死だ。彼女も三玖とは違う意味で震えている。

 

「まぁ、三玖さん、フォームは運動神経が悪いって言う割には綺麗でしたよ。多分腕を振ってるんだと思います」

 

「ほ、ほんと?」

 

「はい。腕を振らないようにしてみてください。それで膝を伸ばして体全体で送り出す感じです」

 

「わかった……!」

 

 咲良はボールを一度自分の真上へ投げてから今度はオーバーハンドパス、ひいてはトスで緩やかなボールを三玖へ送った。

 

 先程の咲良同様のフォームで構える。今度は顔に自信が出ている。腕を振らない、膝を伸ばすだけだ。考えることは単純で、思考にはそれだけしかない。

 だからこそ、今度は綺麗に返るはずだった。

 

 咲良の手元へ、山なりになって返るはずだったのだ。

 

「……ふふっ」

 

 実際にボールは咲良へと返った。返ったのであるが、返る場所が悪い。

 

「……あ」

 

 咲良の顔面が少し赤くなり、ボールは彼の体の目の前を小さくバウンドしている。

 三玖がレシーブをした瞬間、咲良の顔面に勢いよくボールが飛んでいった証拠だ。それを見た三玖も思わず固まって小さな声をあげることしかできない。二乃に至っては顔を隠して笑っている。

 一瞬だけ時が止まるとは、まさにこのことである。

 

「ご、ごめんね……! 大丈夫? 痛くない?」

 

 三玖がすぐ側に駆け寄って心配をする。その傍ら、未だに二乃は笑いを堪えるのに必死であった。

 

「に、二乃!」

 

 三玖は次女の名前を不安そうに呼んだ。咲良はその間顔を片手で覆った。そうして芝生に座り込んだ。

 

「えっ! だ、大丈夫?」

 

「……ふふっ、あはは」

 

 咲良が座り込んだかと思えば肩を小さく揺らした。その揺れは次第に大きくなり、ついには顔を隠していた手を後方に置いて、顔を上げて笑った。

 

「あはははっ!! いやっ、三玖さん、すっげぇ綺麗にっ! ははっ!」

 

 三玖はぽかんとしてその姿を眺めた。しかしながら二乃はその笑いに釣られてとうとう吹き出してしまった。いよいよ状況を掴めないのは三玖だけになる。

 そんな三玖の肩に二乃は手を置いて、もう片方の手でお腹を押さえた。

 

「あんた、天才よ。それで食べていけるんじゃない? ふふっ。ふふふっ」

 

「え……えぇ……??」

 

 ここまでツボに入る二乃もひさしぶりに見たもので、状況を掴めない上に混乱してしまう。終いにはもう自分も何が何だか分からなくなって二人の笑いに釣られて笑ってしまう。

 

 ボールはぽつりと転がっている。その傍らに小さな子供達が寄ってきて、またも咲良のところは届けてくれたようだ。

 

「お兄ちゃん達、なんで笑ってるの?」

 

 ふと、子供はそう聞いた。

 

「楽しいから。楽しいから、笑ってるんだよ」

 

 咲良はそう答えた。そう答えると、子供達も満足したかのように元の遊び場へと戻っていった。

 

 24歳が二人に17歳が一人、公園の隅で、芝生の上に座り込んで笑っている。不思議な光景で、愉快な景色。

 ただ今はひたすらに楽しかった。少なくとも咲良は、心からそう感じていた。

 

 

 




投稿が少し遅れてしまって申し訳ない。
諸事情、というのも曖昧すぎるので告白しますと、実は私人生初の浪人を経験している最中でして。
勉強の合間に少しずつ書いているので二週間に一回、多ければ週に二回ほどと、かなり不安定なペースでお送りすることになると思いますし、秋ぐらいに差し掛かるとそのペースすら怪しくなると思います。
それでも呼んでくださると言う方は今後ともよろしくお願いいたします。


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