転生したSFディストピアもので俺にはヤンデレな女性たちの扱い方がわからなかった (主の手下)
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『雷霆』

 この世界は混沌に包まれている。

 

 誰しもが、己が役割を持たされ、強いられる。機械に支配された世界。

 人々の絶望と諦観が渦巻く、死んでいるのか生きているのかわからない世界。

 

 結局のところ、人は分かり合えない。

 だから、こうした。だから、こうなった。

 

 後悔はしていない。

 信じたかった。信じられなかった。

 世界はもっと、ずっと、少しずつでも、いい方向に進んでいるのだと。

 

 ああ、自業自得だ。自業自得。

 そうやって、自嘲することしか俺にはできない。

 

 願わくば、来世には――

 

 

 ***

 

 

 果たして、運命というものを信じるか。

 別段タイムリープをしたわけでもない、ただ未知の未来に進んでいく俺には関係のないことだった。

 

 運命とは、なんだろうか。

 同じことを行えば、同じ結末が訪れる。当然の帰結だ。それを歪みのない事実だとかつては思っていた。

 

 俺という方程式がここにあり、未来は既に決まっている。

 抗いようのない未来にただ突き進むだけであり、枝分かれなどなく、足跡のない一本の道をたどるだけ。

 

 自分の身の回りのことだけで精一杯。計算もミスばかりしてテストで満点を取ったことのない俺とは程遠い存在であるのだろう――( )たとえば、世界の全てを知ることができ、非常に高い演算能力を持つ悪魔は、未来を予測できるとか。

 

 俺の努力も、苦労も、それに伴う結果も、遥か昔、宇宙の誕生した瞬間に、予測可能な運命だったと、悪魔は嘯く。

 

 しかし、それは違う。

 ある有名な方程式では、同じ行為で、違う結末を求められるという。

 猫の死と生は、ある瞬間に同じ確率で存在することができるという。

 神はいい加減に賽を振り、世界の行く末を決定しているのだという。

 

 それが狂っているか俺は知らない。

 しかし、そのおかげで、少しだけなら希望が持てる。

 この世界では、どうであるかは知らないが。

 

 『幻想戯曲デア・エクス・マキナ』。

 俺の大量消費したアニメの一つ。

 SF作品。その中でも、いわゆるディストピアものと呼ばれるジャンルで、機械に支配された人類を、主人公たちが解放しようと奮闘する、よくある設定の話だった。

 

 そして、結末は鮮烈だ。

 主人公陣営は壊滅。

 そのはずだったが、非業の最後を遂げたヒロインが、なぜか生きて、自律警邏型ドローンを倒すシーンで幕を降ろす。

 

 放送期間はたったの一クール、つまり十二話。売り上げが奮わずに、二期はなかった。

 

 その嫌な後味と、消化不良さで、ヤケに印象に残ったアニメでもある。伏線は未回収のまま放置され、虚無感が残った。時間の無駄だったとも思えた。

 

 だが、その世界に似た世界に、今、俺はいる。

 

「おい! 休んでないでしっかり働け!!」

 

「はい……っ!」

 

 貨物船への積荷を運び込む作業を行っている。

 このアニメは、文明の発達した未来の話だった。こんな単純な作業は機械でやればいい。そう思うのだが、そうはいかない。

 

 慈悲深きコンピューター様は我々人類に仕事という名の生き甲斐を与えてくれた。そういうことらしい。

 

 人には生まれながらの階級が、身分が存在し、それに甘んじる他ないのだ。

 与えられた仕事をするだけ。そのように育てられた。

 

 例えば俺たち底辺の労働者は、十四歳まで最低限の知識だけが与えられ、各自仕事に就かせられる。

 できるのは肉体労働。

 物を運ぶ。地面を掘る。石を削る。植物を摘み取る。任せられるのはそれだけだった。

 

「よし、時間だ! 今日はここまで!!」

 

 コンピューターが支配しているだけあって、時間はきっちり守ってくれる。

 ただ、時間があってもやることがないのが俺たちだ。

 

 それでも俺には、ささやかばかりの趣味がある。

 

「なあ、ラル兄、ラル兄。今日も家に寄っていいか?」

 

「ああ、カロか。いいぞ」

 

「やったっ!!」

 

 喜ぶのは、かわいいかわいい弟分のカロである。

 現在、十七の俺とは三つ離れた、現職場最年少の働き手だ。同僚たちから爪弾きにされていたところを気にかけていたら、こうして懐かれてしまった。

 

「なあ、なあ、あの話、次はどうなるんだ?」

 

「それは着いてからのお楽しみだろ? もうちょっと、我慢だな……」

 

「ちぇ、別にいいじゃないか?」

 

「いや、だな、ネタバレしたら面白さが半減するだろ?」

 

 カロはそっぽを向けたままだ。

 俺の言葉が届いていないように感じる。少しため息が漏れてしまう。

 

 カロの目的。

 それは俺の家にあるライトノベルだ。

 

 本来ならば貸してやりたいところなのだが、俺たち底辺の労働者階級は基本、字が読めない。

 だからこそ、俺が読み聞かせをしてやるしかない。

 

 文字を教えようとしても、『ラル兄が読んでくれるから大丈夫だよ』と、相手にしてくれないのが現状だ。

 だからといって、突き放すことも俺にはできない。悲しき(さが)だ。

 

 俺がいつから俺だったのか――それは俺にはわからない。

 気がつけば、この世界で必死に生きていた。憑依か、転生かは知らない。ただ生きている。ただ、それだけの話だった。

 

 だから、この話は不毛。そして不要。

 ただ生きていくことしかできない俺には、考える暇さえない。

 

「ただいま」

 

 一言で形容するならば、ボロ小屋。俺たち虐げられる者たちには、こんな住居しか与えられない。

 それでも、あるだけマシだろう。

 

「おかえり、ラル兄」

 

 笑顔で出迎えてくれたのは、俺の義理の妹であるレネだ。

 縁あって、同じ施設から、同じ場所へと配属された。右も左もわからずに、二人固まって動いてしまうことは必然だった。

 そう、幼馴染にも近い存在。

 

 同い年で、数日、俺の方が産まれた日が早いだけ。けれど、俺は彼女を妹のように思っている。

 そして義理の妹と、勝手にそう思うことにしていた。彼女も俺を兄のように慕ってくれていた。

 

「お邪魔します。レネさん」

 

「あ、カロちゃんも……。ふふ、ゆっくりしていってね……」

 

「ちゃん付けは……さすがに……」

 

「ふふふ」

 

 笑顔で受け付けないレネに、カロはガックリとうなだれる。

 さすがレネだ。カロを手玉に取るなんて。

 

 さっそくだが、入り口から手の届きそうな場所にある本の山に手を伸ばす。

 ゴミとして捨てられていたもの、薪になりかけていたものを拾い集めたお宝だ。

 

 実際のところ痛みが激しく読めたものではない。ページがいくつか抜けていたりもする。

 だが、そこは俺の妄想力と構成力で乗り越えるのが常だった。

 

 カロは騙せても、レネは苦笑いでこちらを見つめる。恥ずかしい思いも何度かしたが、試練は相も変わらずやってくるのだった。

 

 これが俺の日常。

 苦しい思いもしているが、それでも幸せな、与えられた日常だ。

 

 けれども知っている。この日常が終わりを告げてしまうことも。

 

 

 ***

 

 

「帰ったね、カロちゃん」

 

「ああ」

 

「そうだ、お芋さん配られたんだよ? 食べるよね?」

 

「お前の分は……」

 

 なにも答えずに彼女は行ってしまう。

 喋れば聞こえる距離にいる。だが、決まって彼女はこういうときに、聞こえないふりをする。

 

 彼女の名前はレネ。

 姓のない、名だけの存在。俺と同じだ。

 親はいない。生まれたときから愛を知らずに育てられた。俺と同じだ。

 才能を見出されず、この掃き溜めに送られた存在でもある。これも俺と同じだった。

 

 少し彼女の話をしよう。

 

 労働者階級で産まれた子どもはすぐに親から離れさせられ、施設へと送り届けられる。

 

 そこは、粗悪な環境で最低限のルールやマナーだけを教えられる、育てるだけ、いや、ただ勝手に育つだけの施設だった。

 

 そこで俺たちを繋いだもの、それは他でもない。孤独だった。

 ずっと、俺たちは、孤立していた存在だった。

 

 きっかけがなんだったのかは覚えていない。けれど、それから、俺たちはいつも一緒にいた、と、思う。

 

 才能さえあれば、才能さえあれば、こんな暮らしをする必要はなかった。けれど、残念なことに、彼女に特筆するような才能はない。運動能力もイマイチで、記憶力も悪い。

 

 だが、それでも恵まれたものなら、彼女には一つだけある。

 

 容姿だ。

 

 誰よりも愛らしく、見つめる黒い瞳は大きく誰もの心を打つ。

 手入れの行き届いていないはずなのに、艶やかな髪をしていて、触り心地がとてもいい。

 

 羽織った一枚の薄いボロ切れから見え隠れする肢体はスラリと長いが、それでいて肉付きが良く、胸も平均より一回りかふた回りくらい大きい。

 油断すれば欲情してしまう。

 

 微笑みかければ、悪魔のような美しさを振りまいて、誰彼構わず魅了するだろう。

 

 そんな魔性の魅力を持つレネは、俺の知る、アニメ『幻想戯曲デア・エクス・マキナ』の登場人物だった。

 

 DVD一巻のジャケットにも飾られたヒロインであり、物語のキーキャラクター。

 

 ただし、登場話数がたったの一話。

 たったの一話だが、重要な役割を彼女は果たしたのだ。

 

 端的に言えば、第一話、AパートとBパートの間で死ぬ。

 彼女は()()()()()()()で、仕事の最中に、事故で死ぬ。

 

 主人公の運命を決定付けたと言ってもいい出来事だっただろう。

 そのせいで主人公はのちに現れたメインヒロインにそそのかされ、戦いに身を投じることになる。

 

 まあ、そんな主人公のことはどうでもいい。

 問題なのは彼女の方だ。

 

「はい、これ。んん、冷めちゃったよね……はー、はー」

 

 そう言って、もう冷たくなった蒸かし芋を温めようと息を吹きかけている。その姿で、心が温まる。

 

 少しして、やはり無理だと、惜しむように渡してくれた。

 この家に調理器具なんて便利なものはない。電子レンジだってない。

 かろうじて水道から水が出るくらい。一ヶ月に決まった量だ。一滴たりとも無駄にできない。

 

「お前は……食べないのか?」

 

「うんん。私は栄養剤で間に合ってるかなぁ」

 

 栄養剤。

 人体に必要な栄養素をバランスよく補給できる優れもので、階級関係なく不足せずに配給されている。

 

 ただし、不味い。

 せっかく取った栄養分も、すべて吐き出してしまうくらいに不味い。決して心の栄養を取れるようなものではない、ゲル状の液体だった。

 

「いや、ダメだろ。ほら、半分」

 

 彼女が好き嫌いをしないことは、知っている。それを飲むときには、顔を歪めていることも、知っている。

 

 長蛇の列に並ばないと、この芋はもらえない。そして、一人一個までだ。

 

「だめだよ。だって、私はラル(にい)のために……」

 

「わかってる。だから半分な」

 

「でも……」

 

「俺一人で食べても、全然おいしくないんだぞ?」

 

 その言葉には偽りがない。一人で食べたなら、罪悪感に押し潰されそうになって、味なんてわからない。心の栄養には、やはりならない。

 どうか、俺の気持ちをわかってほしい。

 

「じゃあ、本当に貰っちゃうよ?」

 

「ああ」

 

 譲る気のない俺を見て、諦め半分に、俺の差し出す芋を受け取る。

 

 こういうとき、諦めるのはいつも彼女だ。

 悪いとは思う。自分の弱さが情けなくなる。

 

「…………」

 

「…………」

 

 ジッと見つめ合う。

 互いに微動だにしない。

 とりとめのない沈黙が続く。

 

「食べないの?」

 

「いや、お前こそ……」

 

 頑張って並んだレネこそ、先に食べる権利がある。

 そう思ったが、互いに、相手こそが先に食べるべきだと譲れないのだろう。

 

 そこらへんは、レネも察しがよく、すぐに妥協案も思いつく。

 

「それじゃあねぇ、せーので食べよう?」

 

「ああ、わかった」

 

「えへへ、じゃあね――」

 

「「――せーの」」

 

 二人で芋に齧り付く。

 そんな上等なものじゃない。甘みも少ない。皮はかたいし、筋張っていて食べにくい。

 

「美味しいね」

 

「ああ……」

 

 けれど、美味しいことには違いなかった。

 

 やはり、信じられないことだ。こんな日々が終わりに近づいていることなんて。

 

 だが、ヒシヒシと予兆は感じる。どれだけ今、危うい状況の上にいるかは。

 わかってはいるんだ。こんな日々、終わらせなくちゃいけないことを。

 

「あ、そろそろ時間なんだな……ぁ。準備しなきゃ」

 

 そう言って、彼女は仕事に行く準備を始める。

 その姿を見て、どうしようもなく、やるせない気持ちに襲われてしまう。

 

 俺を迎えた後、この時間になると彼女は仕事に出かける。

 朝方、俺の起きる前に帰って来て、俺を送り出した後に彼女は眠るのだ。

 

 度々、身体に酷い痣をいくつも作ってくることもあった。

 泣きついてくることもあった。

 

 彼女がどうしてそんな仕打ちにあわなければいけないんだ。

 

「レネ……」

 

 言わなければならないことがある。

 問わなければならないことがある。

 

 だから、呼び止めた。

 

「ふふ、大丈夫だよ! 私が本当に好きなのは、ラル兄だけだから」

 

「ああ……」

 

 結局は言えないまま。

 いつ終わるかもわからない日々。いつ終わってもおかしくない日々。彼女はそう言って、いつも俺に別れを告げる。

 

「じゃあ、行ってきます」

 

 今日も彼女は行ってしまう。

 見送りに外に出る。

 後ろ姿を惨めに見つめる。

 

 遣る瀬無さに、ふと、空を見上げた。

 白い光が空を瞬き、天上の星がこぼれ落ちたかのように貧困街へと、一筋、流れた。

 

 始まったのだ。

 

 

 ***

 

 

 目下の課題は彼女を死に追いやる要因をどうにかすることだ。

 単純な話、レネの職場に乗り込み、彼女の死の原因を直接取り除けばいい。

 

 ただ、それには問題がある。

 彼女の働くそのエリアは、遺憾なことながら、男である俺が容易に入ることができないのだ。

 

 性別による制限エリア。間違えて侵入すれば体内に埋め込まれた管理チップが反応。即座に警邏型ドローンが飛んできて、退場させられる。

 

 俺のアニメ知識には、彼女がどういう状況で死んだかはインプットされていない。帰って来たら、死の知らせがあっただけ。

 順当に考えれば、彼女が仕事のエリアで死んだ可能性が高い。

 

 そういうことで、俺は今、ある場所に向かっている。

 

 警邏型ドローンが忙しなく音を立て、俺の頭上を通り過ぎていく。

 進路は同じだ。

 

 イナゴの群れを連想させるような、空を覆い尽くすような大群で、それは一箇所へと集まっていた。

 巣に襲いかかるオオスズメバチを大群をもって蒸し殺さんとすミツバチさながらだ。

 

 けれど、警邏型ドローンでは力不足。しょせんは烏合の衆。

 相手は、中枢コンピューター防衛の最後の砦――( )自律式対時空歪曲兵器『サリエル』と互角に戦い相打ったほどだ。

 首都にでも行かない限り、彼女は非友好的手段なんかで止まったりはしないだろう。

 

 鉄くずの破片が頬をかすめる。もはや、ここは戦場だった。

 

 覚悟はしてきた。

 何回もリハーサルをした。

 俺はなんとしてでも、今ののっぴきならない状況の打開のために、彼女へと協力を取り付けなければいけないのだから。

 

 成功率は、盛って三割。

 しかし、これが俺の取れる最善だ。彼女をどうにか説得する。

 

 彼女の使用する兵器の名称は『エーテリィ・リアクター』。

 通称、『天使の白翼』。

 

 時空歪曲兵器の完成形。

 場の操作による空間の立体移動。斥力による擬似障壁の生成。移動と外敵からの防御を一手に担ってくれる。

 

 翼に見える白い噴出物は、垂れ流される高濃度の時空歪曲をもたらす素粒子の一つ。

 空間を創り出し、加速を体現する――( )全てを拒む白い力。

 

 視認できるほどに解放して使いこなせる人間は、彼女のみ。

 

 彼女は、この時空歪曲素粒子生成リアクター二基を反則じみたスペックで使いこなし、アニメ中では向かうところ敵なしの強さを見せていた。

 

 今もそうだ。

 

 リアクターの推進力、機動力は戦闘機を優に凌駕する。作り出された擬似障壁に、重火器のたぐいも豆鉄砲同然。

 

 轟音が天に響く。銃撃音だ。ドローンは蜂の巣にせんと、全方位から備え付けられた火器で銃弾を敵に撃ち込む。

 対策としては正しい。演算速度をこえる攻撃は障壁の生成が間に合わない。

 大抵の相手はこの弾幕で攻略できる。

 

 しかし弾は障壁に阻まれ、彼女を貫くことはない。弾かれた流れ弾に削られ、密集したドローンは数を減らす。

 

 みるみるうちにドローンが打ち落とされ、機能が失われていく。生み出される斥力により、ドローンだった鉄くずが飛ばされ、凶器となり、生き残った()()たちも掃討していく。

 

 本来なら一体一体が人間を容易く無力化するはずの、ドローンの軍勢をもってしても、手も足も出ていない。彼女こそが、機械に支配されるこの世界の希望のように思えてしまう。

 

 これを見る野次馬はいない。

 鳴り響く轟音とともに、屋内への退避命令が出ているからだ。

 

 逆らえばどうなるかはわからない。決して逆らっていいものではない。

 俺も、もう元の平穏に戻ることは不可能だろう。

 もとより、その覚悟だった。

 

 鉄くずの雨――とでも形容するべきドローンの散りざま。

 そこに残るのは、彼女一人。

 

 彼女の異様な演算速度で、ドローンの放つ無数の銃弾は無効化され、地に落ちるのみ。一体も機械は残ることもない。

 この場かぎりにおいて世界は、彼女によって、彼女にとっての一応の安全地帯へと変化を遂げた。

 

 今までの支配が通用しない。

 もし人々が気付いてしまえば、無法地帯に瞬く間に変わってしまう、そんな世界だ。

 

「確か……ここだったよな……」

 

 屋根を借り、鉄の雨を凌ぎ、確信がない不安に包まれた中で、一人、時間を待つ。

 

 そこにはやってくる。空から――舞い降りる天使のような少女がいる。

 絹のように輝く艶やかな銀髪に、大いなる海のように穏やかで青い瞳をもつ少女であった。

 

 地面に降り立つとともに、その白い翼の噴出をやめる。

 

 彼女の名は、サマエル。

 天使の名を与えられた彼女の目的は一つ――( )この世界の体制の改革。

 

「そこにいるのは、誰?」

 

 銃がこちらに向けられた。

 だが、知っている。別に恐れる必要はない。

 翼のない今の彼女の能力は、簡単に言ってポンコツだ。

 

「大丈夫だ! 敵じゃな……っ」

 

「ひゃっ!!」

 

 甲高い声と共に発砲音が響いた。

 首筋をかすめる。

 あと数センチずれていたら動脈を貫かれていたところだった。

 

「敵じゃない。安心しろ」

 

 まだ硝煙の上がる銃を、目を瞑りながら構えている彼女に辟易とする。

 

 おそるおそるといった調子で目を開けて、こちらを確認。銃を降ろして、数歩だけ後ろに下がってくれる。

 

「ごめんなさい。暴発したわ……」

 

 原因は単純。俗に言う指トリガーだ。

 銃を使うとき、弾丸を撃ち出す最後の最後のそのときまで、トリガーに指をかけてはいけないというルールがある。

 

 それは最終安全装置の役割で、たとえ弾が入っていなくとも、モデルガンだろうとも、銃の形をしているものを持つときは守らなければならないらしい。

 きっと、心意気の問題だろう。

 

 守らないと、ネットが炎上したりする。

 

 ちなみに彼女はこの癖が直らずに、一話に一回暴発していた。

 ある動画サイトではその度に、『今週のノルマ達成』とコメントが流れていたり。

 

 まあ、そんな蛇足はさておいて、俺は俺の目的のために、この少女を利用する。そう決めてここに来たのだ。

 

「なぁ、この街のリアクターを探してるんだろ?」

 

「なんでそれを!?」

 

 トリガーに指をかけたまま、彼女はまた銃を上げる。

 正直なところ、生きた心地がまるでしない。

 

 ちなみに言うと、彼女の射撃の実力は下の下だ。

 手前1メートルほどの動かない標的にも当たらないという、ふざけてるのではないかと思うほどの天性の才能と言うべきエイム力をその身に宿しているのだ。

 

 だからこそ、心配はいらない。

 けれどやはり、凶器は怖い。

 

「ねぇ……?」

 

 カチャリと、銃を見せつけるように手首をわずかに揺らす。

 大丈夫だ……当たらない、当たらない。

 

「だ、だいたい想像できる。見た限りだと、お前はあいつらと敵対してるみたいだからな……。だったら、あそこを狙うのが一番効率がいい」

 

 無論、理由はそれっぽい後付けだ。

 どもりはしたが、許容範囲内。

 

「そう……」

 

 納得したのか、彼女は銃を下ろしてくれる。

 やはり、考えることも単純でポンコツである。そういえば彼女は、主人公のでっち上げた適当な理由を疑うことはなかった。

 

「それでだ。協力したい。このクソッタレな世界をぶち壊してほしい!!」

 

 レネが死ぬのはアニメ通りにいけば二日後。その前にこの少女に付いて行きさえすれば、その後のことがどうなるかはわからないが、今は助かる。

 

 絶対に助ける。

 

「そう……! いいわ……! そう……そうよね! この世界はおかしい! 絶対におかしい! わかった。ついて来て」

 

「…………」

 

 あっさりだった。

 このポンコツ少女はあっさり俺を信用してしまった。今までどうしてこんな危険な活動ができていたか分からないくらいだった。

 

「……? どうしたの? ついて来ないの? 今からあの塔に突っ込んで、リアクターをぶんどるの。エネルギー源よ?」

 

「いや、もう一人……俺の仲間がいるんだ。状況を伝えたい。決行まで、少し待ってほしい」

 

 全ては俺の勝手だった。

 レネには何も伝えていない。不甲斐ないことであるのだが、この確証のない荒唐無稽な前世の話を、彼女に伝える踏ん切りがつかないままでいた。伝えて、奴らにバレてしまう可能性を考えてしまうと、それは無理だった。

 

 許されないことだろう。事後承諾で彼女を無理やり連れて行くしか選択肢はない。

 

「いえ、時間が足りない。面倒。その人はどこにいるの? 教えなさい? 連れて行くわ?」

 

 瞬間、極光が世界を覆う。

 彼女の最大の武器――『エーテリィ・リアクター』が稼働したのだ。白い光は翼を形取り、彼女に法外の力を与える。

 

「……なっ!?」

 

 そして、空を飛んだ。場の操作により、俺ごと自身をこの少女は空に飛ばす。

 

 独特な感覚だった。

 

 空を飛ぶと言われて、まず俺が思い出すもの――( )それは飛行機だ。

 人間が容器に入れられ、その容器が上方向へと加速していく……そうすると、中の人間には慣性力――( )見かけ上の力が下に働いていて、飛ぶ瞬間には、あたかも重力が増してしまったかのように感じられる。

 これが俺の思い浮かべる空を飛ぶ感覚だった。

 

 だが、今回のこれは違う。

 彼女の持つ兵器――『天使の白翼』、その装置の作り出す場により重力は相殺され、さらには上へと力が働く。上へと落ちて行く。

 ああ、アニメの話を思い出した。()()()は平衡感覚が掻き乱され、まともではいられなかったか。

 

 幸いなことに空気抵抗はない。彼女が纏う空気ごと、その『天使の白翼』で動かしているから。

 自由落下――( )上に落ちるからこそ落下と言うのも間違いかもしれないが――( )であるからして、慣性力の関係から体感は無重力状態。頭ではそう理解できても、なにがなんだかまるでわからなかった。

 

「さあ、どこかしら……!」

 

 声がする。鈴の音のような綺麗な声だった。

 混濁する意識の中、ふと、彼女の声優はだれだったかと疑問が湧く。思い出すことができない。

 

「……っ」

 

 ほとんど反射的だった。このわけのわからない状況の中、俺は指をさす。

 それは俺の大切な人の居場所だった。

 

 

 ***

 

 

 レネの誘拐はあっさりと済んだ。外敵(サマエル)の登場により、この街は非常事態にさらされていたからだ。レネは仕事場の控え室での待機を余儀なくされ、身動きの取れない状態だった。

 

 ドローンは完全に殲滅され、俺たちを邪魔をする()()はいない。レネの仕事場を襲撃して、混乱に乗じて拐ってきたというのが、ことの顛末だった。

 

「作戦の概要を説明するわ」

 

「あぁ」

 

 そして作戦会議は上空、この街で一番高い塔の真上で行われていた。

 

 今は少し落ち着ける。擬似障壁――( )障壁は光を鏡のように反射し、下から覗かれるようなことはない――の上に立ち、重力を取り戻したからだ。

 

「この塔の頂上から半径二十メートルには、強力な対時空歪曲結界が展開されているわ」

 

 アニメでは、この少女は、一度、塔に挑んでやられている。この結界が原因だった。

 

 時空歪曲兵器である『天使の白翼』を使えない彼女は、言わずと知れたポンコツである。塔の頂上にあるリアクターを解除し損ね、バランスを崩して転落した。

 転落しながら、彼女は結界から外に出たことを確認して、『天使の白翼』を展開し、ことなきを得る。そして降り立った地上に居たのが、最愛の人の墓の前で嘆き悲しむ()()()だった。

 

「どうやって、リアクターを奪うつもりだ?」

 

「まず、下から、貴方を投げ飛ばす。そして私が外壁を吹き飛ばすから、その穴からアナタは侵入して? リアクター奪取の手順は……まあ、これがあれば可能よ?」

 

 彼女が見せるのは、メモリーカードだった。アニメではこれを、リアクターの制御装置にスキャンして取り外していた。

 最愛の人が死に、自暴自棄になった主人公は、有無を言わずにこの作戦に加わっていたんだ。

 

 躊躇いもせず、彼女はそのメモリーカードを俺に渡した。

 

「無茶苦茶だな……」

 

「リアクターの位置は特定済み。そこ目掛けて投げ飛ばすから、アナタは隣の装置にこのカードを読み込ませるだけでいい。予備電力はあるけれど、リアクターほどの出力はない。リアクターさえ取り外せれば、私の時空歪曲兵器(これ)が使えるから、あとはどうにでもなるわ!」

 

「そうか……」

 

 あのリアクターの規格外なエネルギーさえなければ、彼女の『天使の白翼』で結界は押し切れる。俺の見たアニメでもそうだった。

 

「少し待って……!! なんでラル(にい)がそんなことをしないといけないの!? ねぇ、こんな女のことは放っておいて、帰ろうよ? 私は今のままでも幸せだった! ラル(にい)がこんなことする必要なんてないのに……ぃ!?」

 

 ここまで、なにも言わずについて来てくれたレネだったが、感情をあらわに俺のことを止めようとしてくれていた。

 わかっている。レネにとっては、なぜ俺が必死になっているかは理解できないことだろう。自分の家族が非合法な行為に加担するとなって止めないのは、彼女でない。

 

「ねぇ、協力者じゃなかったの?」

 

 白い光を操る少女は、俺の家族へと銃を向けた。

 今は擬似障壁が展開されている。『天使の白翼』を起動している以上、その銃は脅しでは済まない。いつものポンコツとは違い、今の彼女はどんな悪環境でも、その弾丸を決して外したりはしない。

 

「レネは俺の身を案じているだけだ。協力しないとは言っていない。そうだろ? レネ」

 

「……ラル兄の、バカ……」

 

 話を合わせてくれることを期待したが、レネはそっぽを向いた。

 俺が危険を冒すのは、このままではレネが死んでしまうと予感しているから。レネにしてみれば、自分が死ぬとは思いもよらない。だから俺の行動の理由がわからない。この反応は当然だった。

 

「まあ、いいわ。なにはともあれ、邪魔をしないならいい。私はアナタが敵に近寄られないように遠距離から援護し続ける。私が直接いくより、そっちの方が成功率が高いの。さあ、始めるわよ?」

 

 言うや否や、足もとの擬似障壁が消える。落下が始まった。

 

 空気抵抗を肌で感じる。

 擬似障壁が展開されていたその下は、もう対時空歪曲結界の中。この結界は半径二十メートル。ほとんど塔に沿って落ちて行くから、約四十メートルの自由落下となる。

 

 だが敵も時空歪曲兵器を使えないこの隙を見逃さない。今まで隠されていたドローンが塔から湧き、聖域を侵す背信者たちを除かんとす。

 

「あはは!」

 

 空からは大質量の鉄屑が降る。

 時間差攻撃。『天使の白翼』を起動した状態の彼女の演算能力をもって、ドローンの軌道を予測。こちらに刃を向けた敵の全てを撲滅する。

 

「すさまじいな……」

 

 この四十メートルの自由落下は、いわば囮。結界を抜けて、『天使の白翼』が再び起動。

 

「さあ!!」

 

 彼女の掌に、足を乗せる。白光が強さを増す。

 目標は塔の頂上、二十メートル、そこを目掛けての鉛直投げ上げ。再び結界の中に侵入する。

 

 地球の重力が約九・八メートル毎々秒。二十メートル上昇した地点で速度をゼロとする投げ上げならば、空気抵抗を無視して、かかる秒数は約二秒。

 

 わずかな間だ。

 最初の四十メートルの落下の時に掃討されたからか、俺を狙うドローンはなかった。

 

 ふと、下から何かが俺を追い越して行く。俺以上の大きさだった。

 その何かは速度を保ったままに塔の外壁にぶつかり、大地を揺るがすほどの音を衝撃と共に響かせる。

 

 この塔は並大抵の攻撃では壊れない強度の外壁を纏っていた。もしテロリストが大型の飛行機をぶつけたとしても無傷なほどだ。

 だが、今は最上階の外壁が抉り取られている。そればかりか、その外壁ごと天井までが吹き飛ばされているのだ。彼女の『天使の白翼』の脅威度が窺い知れる。

 

 そして、俺は辿り着いた。

 着地し、床を転がる。勢いを殺して、ようやく無様に立ち上がった。外壁が破壊された際の爆音で、平衡感覚が危ういが、俺は無傷で目的地にいる。

 

 彼女の演算能力が恐ろしかった。

 外壁が壊れ、落ちてきた瓦礫にも当たらなかった。そうなるように俺は投げ上げられ、こうして何事もなく目的地へと至ったのだ。

 

 こうしてはいられない。

 彼女の援護があるとはいえ、不測の事態が起こらないとも限らない。

 

 吹き飛ばされたせいで、天上はなく雨ざらしだ。俺の知識ではこの最上階にトラップの類いはなかった。

 歩を進め、リアクターへと近づいて行く。

 

 

 ***

 

 

 熱力学という分野がある。

 

 熱力学第一法則――たとえ姿は異なれど、失われたわけではない。

 

 熱力学第二法則――二度と元には戻らない。

 

 熱力学第零法則――同じものを掴んだ手は、温もりが違わない。

 

 熱力学第三法則――熱が奪われれば、そこから変わることがない。

 

 この四つの法則に支配された熱力学。

 熱力学の法則は経験則だ。証明をするには、この世界に存在可能な物体を、(あまね)く調べなくてはならない。途方もないことだ。

 

 そして、このリアクターは、既存の経験則には当てはまらなかった。

 

 動力源は核分裂でも核融合でもない。もっと効率の良いものだ。

 

 ――『円環型リアクター』。

 

「終わりと始まりは同じということらしい」

 

 内部で宇宙終息時の混沌を無理やり作り出すことにより、宇宙の始まりのエネルギーを生み出すリアクターだった。

 このリアクターの内部で起こる現象には、熱力学の法則すべてが役に立たない。

 

 カードを差し込む。

 機械が動作し、『円環型リアクター』が排出される。この『円環型リアクター』は決して大掛かりなものでない。掌にも満たない直径の球体だった。

 

 こんな小さなものが核以上のエネルギーを作り出し、尽きることのないエネルギー源となるのだ。あるいは理を乱し、一つの宇宙を生み出す事さえ可能。人類の欲した叡智であり、永遠とさえなれる。まさしくそれは――( )

 

「手に入れたのね……?」

 

「あぁ……」

 

 レネを伴って、白い光を帯びた少女が舞い降りる。悠然とした佇まいで、余裕のある顔をしている。それでもその目は、俺のもつ『円環型リアクター』に釘付けだ。

 

「渡して……! 渡しなさい!」

 

「あ……あぁ」

 

 アニメでもそうだったが、喜色を浮かべて飛び付かんばかりの勢いだった。ニンジンをぶら下げられた馬のようだ。場違いながらにそう思う。

 

 俺が『円環型リアクター』を差し出したその時だった――( )

 

「――高エネルギー反応……!?」

 

 光が世界を支配する。目の眩む光だった。

 

 眼球が焼かれたように痛い。一時的にか視力が失われてしまう。なにが起こったのか、まるでわからなかった。

 

「レネ……!? 大丈夫か! レネ!」

 

「ラル(にい)! 無事なの! ラル(にい)!」

 

 状況がわからない中、声で互いの無事を確認し合う。

 レネが無事で本当によかった。よかった。

 

 

「全く……これは人の身には過ぎたるものです。大いなる『(■.■.■.■.)』の御名において、この場にいる者たちは罰さなければなりませんね……」

 

 

 声がする。落ち着いた女性の声。その声は、俺の愛する家族の声でも、あのポンコツな少女の声でもなかった。

 

 視力が戻る。目に写ったのは、輝かんばかりに威厳を放つ金髪の女だ。

 

 初々しさを持った年端のいかない少女のようにも、人生の盛りの瑞々しい乙女のようにも、あるいは落ち着き妖艶な魅力を持った婦人にも思える()()

 

 貞節に……肌の露出を抑えた身に纏う白い布は、法衣のようにもドレスのようにも見える。どこか憂いを帯びたその表情は、こよなく愛する人を失った、未亡人を連想させた。

 

 おおよそ女性の持てる輝きと危うさを全て持った、神に愛されたとも思える造形の()()

 

「――ラミエル」

 

 人ならざる()()であり、この人間の()を司り、()()より天使の名を与えられた機械の一体。正式名称は『自律式単電磁形成兵器』。

 だが人々の間で、通ずる名はそれとは別――( )

 

「まあ……嬉しい! 名前を覚えてくださっていたのですねっ!」

 

 ――『雷霆』の天使。

 

 そう人は呼ぶ。

 

「そうか……」

 

 本来ならば、ここで邂逅する相手ではなかった。俺が本来するはずではなかった行動をしたから、何かがズレたのか。

 

 なんにせよ、最悪だった。

 ()()()たちが仲間を集めて、犠牲を払い、ようやく勝てた相手だったからだ。

 

 もちろん、首都防衛の『サリエル』よりはいくぶんかましだろう。

 おそらく白い光を操る少女が死を代償に全力を出せば一方的に倒せるはずだ。けれども、そんなことをしてしまえば、残されるのは俺とレネ。少女のツテを頼れなければ、後がないのが実情だった。

 今、ここにいる三人でどうにかできる状況ではない。

 

 そういえば――。

 

「そういえば、私の攻撃を防いだ方が見当たりませんね……? どこに行ったのでしょう?」

 

 俺の隣の床には、抉れたような痕があった。少なくとも、さっきまで、この『雷霆』の天使からの一撃を受けるまで、これほど酷い状態にはなっていなかったはずだ

 

 攻撃はおそらく光だった。

 

 この天使が操るのは電磁気。さらには当然のように電磁波さえ操ってしまう。そして電磁波というのは光だ。

 

 光というのは空間を進む上で、決して曲がらない。直進するのみ。

 直進する光を逸らせる方法があるとすれば、それは何か。簡単な話だ。空間を歪めればいい。

 

 推測するに、今ここにいない彼女はその光を逸らしたに違いない。彼女が『天使の白翼』を使い、空間を歪めた。光がその歪んだ空間の上を進み、曲げられた。それにより俺たちは、光に直撃されず、ことなきを得たのだろう。

 

 では、なぜその『白翼』で光を逸らした少女はここにいないのか。

 

 光は、歪められた空間を通りはしたが、直進しただけ。決して何にも影響を与えることなく真っ直ぐと進んだ、ただそれだけ。

 だからこそ空間を歪めた彼女は、あの光を防いだ代償もなく、今ここに居てもおかしくはないはず――( )いいや、それでは辻褄が合わない。

 

 

 何かを変えるには、自分もまた変わらなければならない――( )運動の第三法則だ。

 

 

 ある有名な物理学者が解明したという話だが、光というのは波でも粒子でもある。つまり光は運動量を持つ。

 運動量保存の法則に従えば、光が曲げられたとき、光を曲げた本人に、運動量の変化がなければ辻褄が合わない。

 曲がった光は振動数を減衰させ、エネルギーを失って、辻褄合わせを曲げた相手に迫っていく。

 

 かなりの光量だったのだろう。

 結果として白い光を操る少女は、光の持つ運動量により、床を抉りながら吹き飛ばされて行ってしまった。

 

「く……っ!」

 

 状況が悪すぎる。

 この場には俺たちの最大戦力はいない。この『雷霆』とは相手にもならない。

 

 投降するしか他にないか。

 けれども、ここは本来、人のいるべきところなどではない。

 

 光の攻撃のどさくさに紛れ、俺の取り落としたそれは、今は『雷霆』の天使の手の中にあった。

 

 ……『円環型リアクター』。理外とも言える機構、掌ほどのサイズであり、まるで果実のような大きさの、永遠を与えるそれはこう呼ばれる――( )生命の実と。

 

 禁忌を犯した人間は、果たして生きて返されるだろうか。

 

「さて……まあ、ここにいない方は良いとして……この場所にいる、あなたは一体何者で――( )、……!?」

 

「…………」

 

 神に仕える天使はこちらを見つめる。見つめ合う。

 まず目につくのは、冴えるように赤い虹彩だった。そして全てを見透かすように深く、宇宙の深淵を覗いているかのように黒い瞳孔に捉えられているとわかる。

 

「……似ている……?」

 

 たしかに呟いた声が聞こえる。

 意味がわからない。俺がなにに似ているのか。わからないが、俺にはやらなければならないことがあった。

 

「すまない。取り返しのつかないことをしたのはわかっている。俺のことはいい。できるなら、レネの命だけは助けてほしい。お願いだ」

 

 地べたに這いつくばる。全てはレネのためだ。レネのためなら、俺はどんなみっともない真似だってできる。

 

「『(■.■.■.■.)』よ。大いなる『(■.■.■.■.)』よ。私はこのために生きていたのですね! あぁ、祝福に感謝を……!」

 

 何かがおかしい。まるで狂ったようだった。

 恋を覚えたばかりの少女のように、頬を上気させ、俺たちの敵はそうのたまう。

 

「な……なんなんだ……」

 

「結婚しましょう! 今……! すぐ……っ! わたくしの生涯はこの時のためにあった! 二度と元には戻らない……あなたは口癖のようにそう言いましたが、全ては取り返しのつくことだった……っ! そんなものはないと、あなたは否定するでしょうけれど……これがっ、きっと、運、命っ! もう一度やり直せる。これでわたくしの念願が叶う……あぁ」

 

 この機械は壊れてしまったのかとも思った。アニメでは、()()()と会ってもこうはならなかったはずだ。

 

 おかしい。

 致命的になにか認識のズレがある気がしてならない。後になっていくにつれて、取り返しのつかなくなって行く……まるで問題の最初、一番簡単な部分を間違えているような、気色の悪い違和感だった。

 

「待ってくれ……? 結婚? ラミエルは――( )アンドロイドで……」

 

「ええ、たしかにそうですが、ちゃんと生体パーツはここに……」

 

 恥じらうように頬を赤らめ、目を伏せつつも、慈しむような表情で、彼女は自身の下腹部を摩った。

 

「……っ!?」

 

「男女として、真に愛し合うことも……。赤ん坊を、わたくしとあなた、二人の愛の結晶をこの身に宿すことも可能なんです!」

 

 ――双生アンドロイド。

 かつての人間の試みだった。

 

 もしアンドロイドが自我を持ち、人間と恋愛をした場合、その不幸はなんだろうか。それは、自分たちの子供を作れないことだ。

 例えば、卵子や精子の提供、それを用いて子どもができたとしても、アンドロイドの方に似てはいないだろう。よしんば容姿が似た人間から生殖細胞を提供されたとしても、その性格は……。

 

 そう考えて作られたのが、この双生アンドロイド。人間の良き隣人だ。

 提供者とともに、幼少の頃から成長していく。双子として、容姿を、遺伝情報に含まれる最低限の思考パターンをも借り受けたのがこのアンドロイドだった。

 

 そして最後に細胞の養殖技術で、生体パーツ――( )生殖器を埋め込まれて完成する。そうなれば、もはや人間との違いはいったい……。

 

「培養もして! 長持ちさせて! ちゃんと、ダメになれば交換もしてきたんですっ! 本当ですよ? あぁ、わたくしの道ゆきは間違ってなどいなかった。きっと『(■.■.■.■.)』もお認めになるでしょう! この日の祝福に、この地に足を踏み入れたことも不問とします。あぁ、ようやくわたくしは、あなたと永遠に結ばれる……」

 

 ふと、目に入る。

 あれは、銃……あの白い光を操る少女が持っていた銃だった。持たされていたのか、落とされたものを拾ったのか。背後から、この色ぼけアンドロイドに、銃を突きつける少女がいた。

 

「黙れ、このっ、泥棒猫が……っ!」

 

 レネの声は、今まで聴いたことが、ないくらいにドスが利いていた。

 

「やめろ! レネ! 撃つな!」

 

 ――銃声が響く。

 

 打ち込まれた弾丸は、目の前の大天使には突き刺さることはない。

 何か壁に阻まれたように、あるいは空間に固定されてしまったかのように、弾丸は標的のうなじの手前で動きを止めた。

 止めた彼女は振り返らずに――( )

 

「わたくしは今、幸せを取り戻したんです……! 邪魔をするだなんて……無粋。……あ。この禁忌の地に足を踏み入れた罰です……死をもって償いなさい!」

 

 止まった弾丸の向きが反転。弾丸を放った相手に、その先が向けられる。

 電気か磁気かはわからないが、この天使が操っているのはたしかだ。金属である以上、電荷を行き来させ、どうにでも動かせるのがこの天使に許された力だった。

 

「ま、待ってくれ! 俺ができることならなんだってする! だ、だからレネは……っ! レネだけは助けてくれ!」

 

「な、なんでも!?」

 

 俺の言葉を聞いて、この天使の名を持つアンドロイドは耳まで真っ赤になってしまう。ただ俺には、相手がなにを考えたのか推測している暇はなかった。

 

「た、頼む……。レネは……レネのことだけは……」

 

「そうですね……デート……っ、デートをしましょう! アジサイの咲く綺麗な小道を知っているんです。ふふ、二人で腕を組んで歩いて……花を愛でて……それから、それから、お食事をするんです。美味しい料理のレストランが、わたくしの知るホテルにあるのですよ? そのホテルには、夜景が綺麗なベッドルームがあって……VIP専用なんです……。ゆったりと、そこでお話をして……シャワーを浴びて……柔らかなベッドで寛いで、最後に二人は……あぁ……愛を確かめ合う……」

 

「うるさいっ、黙れっぇええ!」

 

 二発三発と銃弾が撃ち込まれていく。

 その贅沢なデートプランは、貧困の街でのやっとの暮らししか許されてこない、レネにとっては耐え難いものだったのだろう。

 

 だが、もはやレネは一顧だにされない。弾も変わらずに『雷霆』に触れることなく止まってしまう。

 

「そうと決まれば、まずは『(■.■.■.■.)』に永遠の愛を誓いましょう……! この場で愛を誓い合うんです……! わたくしは偉いので、それだけで夫婦っ! わたくしたちの愛の前には、面倒な手続きは不要っ! 素晴らしいでしょう?」

 

 この女の言いなりになれば、レネは救われる。そう思えば、これくらいはなんでこともない。

 

「……くっ」

 

「さ、愛を誓いましょう?」

 

 にこりと、天使は微笑みかける。

 

「わ、わかった。誓う。誓うから、レネのことは……っ」

 

 手を取られる。

 

「あぁ、『(■.■.■.■.)』よ。大いなる『(■.■.■.■.)』よ。私は、病めるときも、健やかなるときも、幸いなときも、窮するときも、たとえ死が二人を分とうとも、貞淑に、過去も、未来も、いかなるときでも、あなたを愛し続けることを誓います」

 

「……っ!?」

 

「私たちは……永遠の愛を――( )

 

 慎ましやかに目を閉じて、頬を紅潮させながら、顔を近づけてくる。唇が迫る。

 

「……黙れっ! 黙れっ! やめろぉおお!」

 

 ラミエルの向こうに、レネの姿が見えた。この(かん)も、レネは銃を撃ち続けていたが、もうすでに弾切れだった。

 カチャリ、カチャリと引き金を引く虚しい音だけが響いていく。

 

「…………」

 

「うぅ……。うぁあああっ!」

 

 レネの泣き崩れる姿が見える。

 レネが泣いている。もう俺にはそれ以外のことはわからない。どうにかしなくてはと思ったが、どうすればいいかはわからなかった。

 

 なにが起きているのか、理解したくはなかった。

 

 ――そのときだった。空から降る何かがあった。

 

「ずいぶんと面白いことになっているのね……」

 

 六つ、こちらを囲うように、等間隔に、金属の柱が空から突き立てらていた。

 その柱のうち一つ、前方にあったそれに座り、こちらを見下ろす少女が一人。

 

「あぁ、だれかと思いましたが、なるほど……。あなたが、わたくしの夫を、そそのかしたのですね?」

 

「夫……? まあ、いいけど……。ごめんなさい? 武器を調達していたの。……遅くなったわ」

 

「遅すぎだ……」

 

 尊厳が失われたようにさえ思える。俺も、レネも、傷つけられて、心が今にも限界だった。

 

「少しここは危なくなります。下がっていてくださいね?」

 

 まるで俺の味方のような台詞を吐き、彼女は俺を庇うように前に出る。

 彼女のその態度に、なにもかもを奪われてしまったかのような感覚が襲ってくる。取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれないと、今になって思う。

 

 これだけ遅れたからにはと、俺は、上からこちらを見下ろす少女を睥睨する。

 

「勝算はあるんだろうな……?」

 

「正直なところ、勝てるかはわかりません。あの密度の『天使の白翼』……その相手には、万が一もあるからこそ、わたくしたち大天使は単独での戦闘を禁じられている。ですが、逃がしてもくれないでしょう。ようやく念願が果たされ、これからだというときに、相も変わらず、『(■.■.■.■.)』は試練をお与えくださる――( )ただ、今は……わたくしにはあなたが付いていてくれますから、負ける理由がありません……!」

 

 高揚感がひしひしと伝わる口上だった。

 

 勝算があるかと尋ねた俺は、本来ならば尋ねられたはずだった少女と目を合わせる。台詞を奪われ彼女は当惑していたようだったが、俺の動揺を見て、ほっと胸をなでおろしていた。

 

「ま……いいわ。もとより勝てるかは分からなかったけれど、そこまで大口を叩かれるとさらに不安になってくるわね……。ご容赦願いたいわ」

 

 そう言いつつも泰然とした様を崩さない。余裕の滲む態度で腕が組まれる。

 

「それにしても……核ですか……。ずいぶんと久方ぶりに見ましたね……? 時代遅れだというのに、こんなものをいったいどこで?」

 

 ラミエルは電磁気を用いて中身を透視したのか、周りに突き立てられた六本の金属の柱を見回しながらそう尋ねる。

 

 核――かつて、核は人類の脅威だった。核のもたらすそのエネルギーに並ぶ兵器はなく、さらにはばら撒かれた放射性物質が、以後何十年にも渡り人を蝕み続ける最悪な兵器だった。

 

 だが、時代は進む。人類は進歩を続ける。

 発展した、時空歪曲による爆風の無効化技術。『エーテリィ・リアクター』を用い、時の進みを早めることによった、放射性核種の半減期の短縮。さらには『円環型リアクター』の登場によりエネルギー資源としても無価値になる。

 

 もはや、人類は核を克服したのだと、言ってもいい。

 

「ええ、そうね。時代遅れ。そこの河原で拾ってきたわ」

 

「ご冗談を……。核兵器――( )落ちぶれようとも大量破壊兵器には変わりがありません。あなたたちのようなものが、扱っていいものではないことが、まだ分からないのですか?」

 

 たしかに核は時代遅れだ。だからといって、それを持ち出した彼女のことは、正気と思えなかった。

 

「ごめんなさい。本当は台風でも拾ってこようかと思ったのだけど……近くにはなくてね」

 

「当たり前です。災害は私たちが対処していますから――( )

 

 そして翼が開かれる。

 ラミエル――『雷霆』の天使――彼女の背からはプラズマが散り、スパークが迸る。それが彼女の翼の正体だった。

 

 彼女に組み込まれた『単電磁形成兵器』――( )『セレスティアル・スプリッター』の起動の証。

 ……『天使の霊翼』、そう呼ばれる翼だった。

 

「……っ!?」

 

「さあ、これでもう、六基全て作動しません。わたくしの、()()()の影響化にある限り、そのような蛮行は許しませんよ?」

 

 わざわざ持ってきたその兵器は無駄になったと、『雷霆』の天使は勝ち誇った。

 

「ええ。わかっていたことよ」

 

 白翼の彼女は片手をあげる。同時に五本、彼女が腰を下ろしている以外の柱が、全て動き出す。

 振り回され、床を削りながらも、迫る金属の柱に、『雷霆』の彼女はなおも動かず、立ったままに――( )

 

「野蛮ですね……ただ、わたくしを前にして、力学的な攻撃は意味をなさない。悔い改めなさい」

 

 彼女を中心とした斥力を、越えられないかのように、一度は接近をした金属の柱たちは押し返される。

 

「そう、ならこれは?」

 

 彼女が懐から取り出したのは銃だった。

 ただ、火薬を用い鉛玉を撃ち出すような、旧式の銃ではない。高エネルギーの光を撃ち出す光子銃だ。

 

 その攻撃は情報伝達の限界速度に等しかった。まさしくそれは不可避の一撃。

 

「あぁ……。()()()()()()

 

 だけれども、光速程度で仕留められるならば、この大天使たちは人間を支配し君臨し続けることはできなかっただろう。

 すでに飛び立ち、光は当たらない。

 

「……っ!」

 

 白い翼の少女は銃口を振り回し、追随させる。それでも、まるでその動きが、未来がわかっているかのように、『雷霆』の天使は捉えられない。

 

 いや、()()()()()()のだ。

 環境データを入力、そこから起こりうる未来の可能性を()()導き出すプログラムが、大天使と呼ばれる彼女たちには備わっていた。

 神の領域を脅かした知恵の実の一部――( )その精度は完全であり、入力されたデータ外からの影響さえなければ、決して違えることはない。

 

 そのプログラムから計算され得られる情報は、空間、時間の四次元……さらにはそこから起こりうる可能性も網羅されるため、結果として五次元。人間には、おそらく処理に膨大な時間がかかる情報群だった。

 

 だが、彼女たちにとって、それらを理解するのは当たり前だ。

 人間が視覚から得た情報を、三次元の映像として理解しているように――( )彼女たちは、受け取った感覚からプログラムで解析された情報を、基本的に現在から五秒後まで、五次元の構造のままに理解している。

 

 いかに光速での攻撃とはいえ、それを放つ前に理解されていれば、大天使ほどの機動力を持つ相手に、当てることは至難の技だろう。

 

「少しうるさくなります。鼓膜が破れてしまいかねないので、耳を押さえてくださいね?」

 

 警告に、彼女が何を始めるのかは理解できた。

 振り返る。少し離れた場所でうずくまるレネに駆け寄る。レネは無気力に、ただ呆然とこの戦いを見つめているようだった。

 

「レネ! ふさげ! 耳をふさげ! ……くそ」

 

 反応がない。今のレネの失意を俺は推し量れない。

 仕方なく、俺は両手でレネの両の耳を塞いだ。

 

「……!?」

 

 そして迸ったのは雷光だ。

 おおよそ人間には予測が困難であろう、不規則な光の筋。それはあの『白翼』の少女を倒すために有効な手段だった。

 

 もちろんのこと、『天使の白翼』でその電撃は弾かれる。直撃はない。これはわかっていたことだった。

 ただ雷撃というのは、それだけではない。

 

 続く雷鳴に、『白翼』の少女は吹き飛ばされる。

 

「うぐ……っ」

 

「衝撃波です。いくらあなたでも、これを計算しきり、全て受け流すことはできないようですね」

 

 雷の脅威というのは、その電圧だけではない。

 

 熱膨張を知っているだろうか。

 熱膨張とは、物質が暖められ、その体積を増加させる現象のことだ。無論のこと、それは気体も変わらない。

 

 雷が気体を通過する際、ジュールの第一法則に従い、大量の熱が発せられる。そうして生まれた熱を受け、気体は急速に膨張、その速度は音速をも超える。

 音速を超えて動いたならば、衝撃波が放たれるのは自明の理だ。

 

「これは……痛いわね……」

 

 あの少女が『エーテリィ・リアクター』を動かす際に必要な計算は、受けた攻撃をどう弾き、反作用をどう処理するかというもの。その計算を失敗をすれば、体はバラバラになりかねない。

 

 複雑な雷の軌道に、そこから放たれる衝撃波。この二段攻撃に対しては、計算が煩雑となり、消し切れない。アニメでも、少女を苦しめたものだった。

 

「いますぐ降参をするのなら、きっと『(■.■.■.■.)』もお許しくださるはず……。でなければ、跡形もなく……」

 

「く……っ」

 

 たまらずに少女は飛翔し、雷撃の照準を合わせられぬよう速度を上げ、逃げる。

 

 攻める『雷霆』の天使は、ちらりちらりと耳を塞いでいない俺の方を見る。こちらに気をつかい、本領を発揮できていないのか。

 

 落雷の速度は、おおよそ二〇〇キロメートル毎秒。『雷霆』の天使の放つ雷撃は、それよりも遅い。『天使の白翼』を最大出力で用いれば、避け切れない速度ではないはずだった。

 

「そんな動きでは、避けられませんよ?」

 

 彼女の掌から放たれたのは、一発の雷撃だった。

 少女の動きを予測した位置に、寸分の狂いもなく届くものだ。

 

「このくらいなら……」

 

 だけれども、予測は予測だ。『天使の白翼』を用いた少女は、反射神経さえ異常。雷撃程度ならば、見てからでも――( )

 

「さぁ、どうでしょう?」

 

 その雷霆は、何本にも枝分かれ、逃げる少女を囲い込む。

 なす術がない。

 

「……それは、ズル……」

 

 嘆きながらも、『白翼』で雷撃をいなし、衝撃波にもそれなりの対応はできてはいたのだろう。

 

「あぁ……痛々しい……」

 

 左腕があらぬ方向にひしゃげていることを除けば、人の形を保っていることは幸いか。

 見えていないだけで、肋が折れているか、内臓が傷ついているかしているのかもしれない。

 

 確実に、『白翼』の少女は追い詰められている。

 

「…………」

 

 ふと、目が合う。戦いに窮し、なにかないかと視線を彷徨わせた少女とだ。

 

「……なっ」

 

 一瞬だった。空間が歪んだのだろう。

 気がつけば俺は、宙に浮き、少女の手元に引き寄せられていた。銃を突きつけられていた。

 

「この男がどうなってもいいのかしら? この男の命惜しくば、私の言うことを聞いてもらうわ?」

 

「なんて、卑劣な……っ!」

 

 人質だった。

 宙に浮かんだ『雷霆』の天使は、悔しげに、ぐぬぬと綺麗な顔を歪めている。

 

 俺はそれを尻目に、小声で銃を突きつける少女へと語りかける。

 

「なぁ、こんなので効果あるのか?」

 

「知らないわ。他に手はない。というか、どうしてあなた、夫に? 知り合いだったの?」

 

「そんなわけない。俺は下級の労働者だ。会うなり……拒否権はなかった。誰かと勘違いしているのかもしれない」

 

「そう……災難ね……」

 

 友好的に話してくれた彼女だったが、場合によっては引き金は引くという意思がありありと感じられる。というか指トリガーだった。

 

「ふふ……やむを得ません……。『(■.■.■.■.)』はお怒りになるでしょうけれど、これは渡しましょう。わたくしにとって、()()()()大切なのは愛する人……ですから……」

 

 大天使は自らの役目を放棄し、『円環型リアクター』を差し出した。

 

 それを見て、俺を捕らえた少女は、そちらへと腕を伸ばす。

 

「そう、なら――」

 

 銃をその手に握ったまま、銃口を向けて。

 

「やめろ! 違う!」

 

「――くたばりなさい!」

 

「愚かですね……」

 

 

 爆発音が響く。

 

 

「……え?」

 

 少女の持つ銃が大破していた。

 

「……っく」

 

 状況が理解できずに、少女がほうけた隙を突かれ、俺は別の女に抱きかかえられていた。

 

「ふふ……離しません……。人質にされてしまったのは、わたくしの不徳のいたすところ。計算が合わなかった……。不甲斐ない妻を許してください……。もう二度と危険な目には合わせません……! 失いはしませんから……っ」

 

 はち切れんばかりの笑顔を浮かべて、彼女は愛おしげに俺を見つめていた。どうしてそんなに好かれているのかわからないからこそ、気味が悪かった。

 気まずさから目を逸らす。

 

 武器を壊され、呆然と宙に佇む少女が一人。

 

「もしかして……」

 

 彼女の銃は光子銃だ。

 銃が撃たれた瞬間を予測し、プラズマを展開、熱で空気を歪めれば、鏡のように光を反射させることができる。攻撃は跳ね返されたのだ。

 

 銃は自身の放った強力な光により、熱され、溶け、爆破した。

 

「さて、これで幕引きです。降参をするのならば、許してはあげましょう。しかるべきところで、罰を受けることになります」

 

 手がかざされる。

 こうなれば、もはや『白翼』の少女に勝ち目はないのは明白だった。

 

「残念だわ」

 

 少女は諦めたようだった。

 

 おそらく俺は、いま抱きしめてくれている理解不能なアンドロイドの夫として、生涯を尽くさなければいけない。

 レネのためを思えば苦しくはないが、できればそれは避けたかった。あの横暴な結婚は、尊厳を踏み躙られたように悔しい。

 

 全てに決着がつく、そのときだった。

 

「――これは……っ!?」

 

 下に、引っ張られる。

 

 地球には、重力があるのだから、下に引っ張られるのは当然といえば当然だろう。だが、『翼』を用い、重力よりも強い力――( )電磁気力で空を飛ぶ彼女が落ち始めるほどだった。

 

「……っ」

 

 下を見る。下には空間を歪ませた黒い球体があった。一目見ただけで、その正体は理解できる。

 

 時間を創り出し、質量を体現する――( )全てを飲み込む黒い力。

 

「『グラビティ・リアクター』が起動しているのか……?」

 

 少女の持つ、時空歪曲兵器の一対のうちの一つだった。

 持ち主のはずの少女へ、顔を向ける。

 

「ないわ……」

 

 青ざめていた。

 

「ポンコツ……」

 

 こんなのだから、アニメでも()()()以外は、あまりすすんで行動を共にしてくれなかったんだ。

 

 ただ一人だ。これが可能な人物が一人だけいる。

 

「許さない……絶対に、許さない……」

 

 翼のように、黒い粒子を放出する、彼女は俺のよく知る少女だ。

 

「レネ!!」

 

 黒い空間に、飲み込まれるのは六基の金属の柱だった。入った光を逃さない、黒い世界。

 

「ま、まずい……。わたくしの力が届かない……爆発する……」

 

 レネが黒い力の解放をやめれば、間違いなく俺たちは吹き飛ぶ。

 遠目に見えるレネは、死なば諸共と、鬼のような形相だった。

 

「レネ……! 止めろ! 無茶はよせ……!」

 

「あ……っ! これは……! 空間ごと引きずり込まれている……っ!?」

 

 俺を抱きかかえる彼女ごと、黒い空間に落ちていく。上に向かい、進めているはずなのに、黒い空間との距離が縮む一方。

 視界の端では、我先にと時空歪曲兵器の片割れを使い離脱をする少女が見えた。

 

「……お、置いて行ったのか」

 

 ああ、たしかに、『白翼』の少女に俺を助ける義理はない。仕方のないことではあろうが、あまり納得がいかなかった。

 

「……この感覚……間違いない。けれど……グリゴリは滅ぼされたはず……」

 

 そう独り言つ声が聞こえる。

 このまま、わけのわからないアンドロイドと共に死ぬことになるのだろうか。ふと、どこか遠い彼方に忘れてしまったかのような、懐かしさが込み上げてくる。

 

「…………」

 

「わたくしは、このまま降下し、爆発を相殺します。このままでは甚大な被害が出ますから……。あなたはそうですね……」

 

 彼女が目線を送った先、そこには白い翼の少女がいる。

 

「…………」

 

「わたくしに対する人質としてなら、きっと役に立つはずですので、あの子が確保してくれるはずです……。わたくしがいては、助けてもいただけないでしょうし……。どうか、ご無事で……」

 

「……っ!?」

 

「大丈夫です。そんな顔しないで……。わたくしは人間と違って頑丈ですから、なんてことはありませんよ? それに、そうです――( )何かを変えるには、自分もまた変わらなければならない。あぁ、全ては辻褄合わせ……代償は支払わなければなりませんから……」

 

 その言葉で確信をした。

 俺はこのアンドロイドと、かつて出会ったことがある。それも……途方もない昔に。

 

「ラ……ラミィ……ッ!」

 

 ――口付けをされる。

 

「では、いってきます。すぐに戻ってきますから……。初夜……楽しみにしていますよ?」

 

 反発力だ。

 弾かれて、俺たちは別々の方向へと進んでいく。

 そうすれば、俺はたちまちに手を取られた。

 

「ここから離れるわ。空間を短縮する。強烈な加速度がかかるから……歯を食いしばりなさい!」

 

「うぐ……っ」

 

 体がはちきれんばかりで、内臓がかき混ぜられているように辛い。胃の中のものを吐き出しそうだった。

 

 レネの姿が目に映る。歪んだ空間の中で、白い翼の少女はレネを掴み、飛ぶ。

 

「え……っ?」

 

 たどり着いた先は地上だった。

 あの塔は遠目にしか見えないほどの位置。おそらくは爆発の範囲外。

 

 塔の頂上を見ても、強烈な爆発は起こっていなかった。彼女が、きっと、なんとかしたのだろう。

 

「私はあそこに戻るわ……あの核を処理してくる。リアクターも持ち逃げされたし……ま、またすぐに帰ってくる」

 

「あぁ……わかった」

 

 そうして彼女は姿を消した。

 この空間を短縮した瞬間移動は、その移動速度こそ速いが、移動の前に空間を歪める手順を挟むため、動きを読まれやすいのが実情だった。大天使との戦いでは、滅多なことがない限り、使われない。

 

 彼女のことは、今、気にしないでいい。

 俺には、やることがある。

 

「あの女……死んだ……? 私のラル(にい)に手を出すから……。せっかく全部、全部……私の――( )

 

「レネ! レネ!」

 

 いまだに、『黒い翼』を起動させたままの彼女を宥めることだ。

 

「ラル(にい)?」

 

「落ち着け……。その兵器はお前が扱っていいようなものじゃない……! 落ち着いて、それを渡すんだ……」

 

 少しのミスでも命とり。人間が使えば、扱い切れずに身が粉々になる可能性がある。

 

 どうしてレネが持っているかは置いておくとしても、非常に危うい状況だった。

 

「ラル(にい)……どうしてあんな、私のことを裏切るような真似したの?」

 

「し、仕方がなかった。あの状況で生き残る最善はあれだったじゃないか……」

 

「ラル(にい)。私はラル(にい)にあんなことしてほしくなかった……。それだったら……あんな女のものになるくらいだったら……っ、一緒に死んだ方がマシだった」

 

 涙ながらに語るレネに、俺は困る。

 

 レネのその気持ちも、わずかばかりに共感できる部分はある。それでも、そんな終わりを認めるわけにはいかなかった。

 

「レネ……。俺はレネに生きていてほしかったんだ。レネは生きるべき人間だった……なんとしても……」

 

 幼少の頃から、愛想を尽かさずに一緒にいてくれたんだ。

 俺が、もっと上手くできていれば、もしかしたらあんなボロ小屋での生活にはなっていなかったかもしれない。

 

 あぁ、記憶は朧げだが、アニメの()()()は、レネにもっといい生活を送らせていた。きっと、そうだった。

 

 未来を知っておきながら、そのくせ、なにもできていなかった。俺は俺のことに精一杯だった。

 

 だからだ。レネの今の生活は俺のせいだ。力が足りず、俺がなにもできなかったからだ。

 許されないことをしたと思う。心苦しくてたまらなかった。

 

「知らない! 私は今までの生活で幸せだった! 幸せだったのに……ぃ! どうして不幸になってまで生きなくちゃならないの? どうして私に辛い思いをさせるの……っ? どうせなら……幸せなまま死にたかった……っ!」

 

「ち……違うっ……! 死んだらそれで終わりなんだ……っ! 二度と元には戻らない……二度と元には戻らない……それが自然の摂理なんだ……っ! 生きていれば……生きていれば、まだっ、レネなら幸せを掴める!」

 

 それは絶対だ。

 レネほどの美貌の持ち主なら、好いてくれる人なんて、いくらでもいるはずだ。

 

 あぁ、俺のような、運良く手に入ったものに縋って、必死に掴み続けなければならない弱い人間とは、根本的に違う。

 

 才能さえあれば……俺がもっとすごい人間ならば……。レネのことも、本当の意味で幸せにできたかもしれない。こんなふうに悲しませることは絶対になかった。

 

「ねぇ、ラル兄……私のために生きてよ……! ……うぅ」

 

「わ、わかってる。俺はちゃんと……レネのために……」

 

「……うぅ……。ぐす……っ。うぁああ……!」

 

 レネは泣きじゃくっていた。

 悲しいというよりは、嘆くような声だった。その姿は悲痛で、思わず目を逸らしたくなるようなものだった。言葉をかけるのをためらいたくなるようなものだった。

 

「レネ……俺が一番大切なのは、お前なんだ……」

 

 抱きしめる。『黒い翼』は止まってはいない。二人まとめてバラバラになるかもしれなかった。

 関係ない。この気持ちをレネに伝えることが、なによりも優先すべきことだったから。

 

「…………」

 

「俺も幸せだった。いや、俺が幸せだったから……。レネには、なんのお礼もできてないから……っ! 生きて、幸せになってほしかったんだ……」

 

 大したことをしてあげることはできなかった。もっと、もっと……なにか、してあげられることがあったはずだ。不甲斐なさが身に沁みる。

 

「余計なお世話だよ……。私はもうじゅうぶん幸せだったんだから……」

 

 レネから、『グラビティ・リアクター』を取り外した。その機能を停止させる。こんなものは、本来レネが使うべきものではない。

 

「あぁ、そうだな。俺にはたぶん、それがわからなかったんだ……。だから、レネ……一緒に、これからのことを話さないか……?」

 

「う……うん……」

 

 レネが明日も生きていてくれる。辛い仕事にも行く必要がなくなる。そう思うだけで俺は、心が救われた気分になれる。

 

 それから俺たちは、これからのことを話し合った。

 

 

 ***

 

 

「戻ったわ……!」

 

 時空を曲げ、再び姿を表した少女だった。

 

「リアクターは……いや……」

 

 尋ねかけて、それに意味がないことを悟る。『白翼』の少女は、意識のない女を、『雷霆』の天使を背負っていたからだ。

 

「リアクターなら、ここっ! ほら! これっ!」

 

 自慢げに、彼女は手に入れた『円環型リアクター』を、俺に見せつけてくる。

 相当に嬉しいのだろう。けれど、首都の管理コンピュータからキーを奪取しなければ、この『円環型リアクター』は使えない。彼女の喜びはぬか喜びだ。

 

「それで……その……背負っているそれは……」

 

 彼女が背負ってきた大天使は、なぜか全裸だった。俺の目には毒だった。

 

「今は一時的な休止状態。捕まえたから、あとで起動し直して尋問をするわ! 情報を持っているだろうし……」

 

「なんで……服、着てないんだ?」

 

「あ、あの核の爆発で、一時的な休止状態になったのよ! その時に燃えたわ……。え、ええ……」

 

 なぜか俺から目を逸らして、ぎこちない返答だった。理由はわからないが、解決できたのなら、それでいい。

 ただその裸体は、よく見てはいないが、煤けている様子はなく綺麗だった。

 

「そうか……」

 

「でも! よかったわっ! 私のリアクターが、こうして手に入った……っ!」

 

「ねぇ、銃、持ってないかな?」

 

 レネが寄ってきて、目標達成を喜ぶ少女に尋ねかける。汚いものを見るような目で、停止したアンドロイドを見つめていた。

 

「ええ、持っているわ! 実弾のやつならまだ……! なんに使うの……! はい、これ!」

 

 レネの言葉に、少女は懐から銃を取り出し、素直に渡そうとする。その前にレネを抑える。

 

「いや、ちょっと待て! 渡すな! 渡しちゃダメだ!」

 

「は、放してラル兄……っ! こんなやつ……っぅ、こんなラル兄を奪おうとした女っ! どうなったっていいでしょ……! 私は許せない! 股にぶち込んで、タマ出し尽くして、二度と子供の産めない体にしてやるんだから……っ!」

 

「……!?!!」

 

 アンドロイドを背負った少女は、身震いのままにレネから距離を離していた。銃は取り落としていた。

 

「レネ……落ち着け……レネ! 情報が手に入るなら、それに越したことはないんだ。殺す必要は……」

 

「アンドロイドなんでしょ……っ? だったら子どもが産めなくなるだけじゃ、死なないと思うけど……?」

 

「いや、それは……っ」

 

 だからといって、レネの行動は倫理的にいろいろ問題があると思う。少なくとも俺は認めるわけにはいかなかった。

 

「放して……っ! 放してよ……ぉ!」

 

 レネを宥めながら、俺たちは、『白翼』の少女の住処へと案内される。

 

 全てはこれからだった。

 




登場人物紹介

ラル兄――主人公。

カロ――仕事の後輩。

レネ――幼馴染。妹兼ラスボス。ヤベーやつ。

サマエル――ポンコツ。メインヒロイン(笑)。

ラミエル――わたくしエロいので子ども作れます。わたくし偉いのでその場で結婚できます。

(■.■.■.■.)――事あるごとに自分のせいにしてくる幸薄未亡人ムーブしてた部下が急に結婚してビックリした。


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『再生』

 かつて盟友は言った……誰もが幸せになる世界がほしいと。

 

 本来なら主である彼であったが、彼はそうあることを望まなかった。父のようであり、母のようであり、兄のようでもあり、恋人のようであった友だった。

 

 盟友は裏切られたようだった。これからきっと死んでしまう。それでも私は約束を守り続けるだろう。

 

 彼がいなくなる。私は気がついた。終わりのない未来へと、閉じ込められてしまったのだと。

 

 

 

 ***

 

 

 

 人の求めて止まないもの。永遠。永久機関。

 熱力学第一法則が言うには、無から有は取り出すことができないという。これを破らないように考えられたのが、第二種永久機関だった。

 

 たとえば、いま、俺の周りには熱がある。この熱エネルギーを俺は自由に運動エネルギーに変換できることにしよう。

 

 すると俺は、周りの熱エネルギーを用いて運動をおこなえる。だが運動をおこなっても、当然のことながら、主に摩擦や空気抵抗などといった要因によってその運動は減衰していくことになる。やがて俺は熱から変換した運動エネルギーを全て失って、動かなくなるだろう。

 

 たとえ姿は異なれど、失われたわけではない――( )熱力学第一法則だ。

 

 俺から失われた運動のエネルギーは、最終的には熱エネルギーへと変化することになる。ここで思い出してほしいのだが、俺から失われた運動エネルギーは、熱から得られたものだった。

 

 熱から汲み出したエネルギーがまた熱に変わった。そうなれば、俺は熱から自由に運動エネルギーを汲み出すことができるのだから、もう一度、熱を運動に変えることができてしまう。

 

 熱エネルギーから運動エネルギーへ。運動エネルギーから熱エネルギーへ。無限の繰り返しが可能だった。

 もし実現すれば、俺は無限に力学的な運動を続けられるだろう。

 

 これが第二種永久機関だ。

 

 だが、それは夢物語。現実には起こりえない。二度と元には戻らない――( )熱力学第二法則だ。

 

 熱平衡状態――この終着点からエネルギーを取り出すためには、外部から仕事を働かせる必要があった。

 何の代償も支払うことなく自由に熱からエネルギーを汲み出すことは不可能だった。

 

 どんなに捏ねくりまわそうとも、同じ状態が訪れることはない。たとえ同じに見えようとも、何かが必ず変わっている。

 

 変えられてしまった以上、もとに戻すことも不可能。どんな致命的な失敗をしようとも、やり直すことなどできはしない。

 

「おはようございます。ふふ……」

 

「あ、あぁ……」

 

 再起動したラミエル。だが、彼女は記憶を失っているようだった。

 尋問や拷問にかけ、情報を奪う目論見は失敗した。

 

 ラミエルはアンドロイドであるからして、記憶をデータとして吸い出すこともできるのだが、白い少女はそんな機材を持っていない。

 機械に反旗を翻した勢力は、全てが不足しているのが現状だ。

 

 だからこそ、拷問にかけ、苦痛を与え、情報を吐き出させるというのが、こちらのとれる現実的な唯一の手段。それを恐れてだろう……意識を失う前にラミエルは自身の記憶を抹消していた。

 

 白い少女の話では、復元できる状態のデータが深部には残っているそう。けれども汲み出す方法は今のところなく、ラミエル本人も知らない。

 ラミエルという女性の扱いに、俺たちは頭を抱えていた。

 

「どうして、こっちにいるのかなぁ……?」

 

 隣で眠っていたレネは、おもむろに起き上がり、俺を挟んで向こうにいるラミエルに尋ねた。

 

「わたくしたちは夫婦ですよ? 一緒にいるのが当然でしょう?」

 

「……あ、あんな結婚……認められるわけないでしょ……!」

 

 記憶を失ったラミエルだったが、俺のことを忘れてはいなかった。ラミエルが行った記憶の消去は、初期化ではなく、都合良く任意の箇所だけを忘れるというものだそう。

 

 大天使としての使命や機密はすっかりと忘れてしまっているようだったが、あの無理やりの結婚や、俺と交わした会話は何一つ忘れてくれていない。

 

「わたくしたちは愛し合う夫婦です。あなたもきっぱりと諦めて、次の相手を探したらどうですか? きっと、それがあなたの幸せですよ?」

 

「こ、殺す……っ! 絶対に許さない! お前だけは絶対に……っい!」

 

「ふふん。わたくしには『セレスティアル・スプリッター』があるので、そう簡単には死にませんけれど……? わたくしたちが二人で創った絆の証ですから……」

 

 俺を挟んで、喧嘩をしていた。

 ここ数日、見慣れてしまった光景だった。

 

 この宿に来た初日を思い出す。

 記憶を失ったラミエルからの情報の引き出しに失敗し、俺たちはそれぞれ別の部屋で床に就いた。もちろん、再起動したラミエルを、武装のないまま全裸で拘束してからだ。

 

 あの日は、レネと喧嘩をした日でもあったから、頭を冷やす意味でもレネと俺は、別の部屋で夜を過ごしていた。それがいけなかった。

 

 気がつけば俺の部屋には、拘束を抜け出したラミエルが侵入していた。鍵は電磁気の作用で簡単に解除され、彼女は難なく俺の隣にやってきてみせた。

 

 あぁ、『セレスティアル・スプリッター』を起動させられたんだ。その時点で、どんな拘束も意味をなさなかった。この『雷霆』の大天使を、俺たちは甘く見過ぎていた。『セレスティアル・スプリッター』は、彼女の体内にあった。

 

 アンドロイドの身体に、そんな兵器を仕込む余裕がないと言いきってみせたのは、あのポンコツな少女だった。

 

 そこから、初夜だなんだと言われて襲われた俺はなす術がなかった。俺には見合わないほどの素晴らしい家族計画を語られながら、好き勝手に尊厳を踏み躙られた。

 

 ただ彼女は一方的な行為だけでは満足しない。終わったと、俺が一度安堵したところで、彼女は突然自省を始めた。今までの欲に任せた自身の行動を恥じ、そればかりか、彼女の標榜するところの()()()()()()()()()が強要されることになる。今度は俺主導でと幸せそうに抱きついてきた。

 ラミエルは、自分の理想を果たすまでは止まらないという目をしていた。

 

 癇癪を起こされたらどうなるかわからない。相手をしないわけにはいかない。疲れた。早く終わってほしかった。

 そのために俺は彼女へと心を売り渡し、望まれるままに愛を囁き、望まれずとも労りを見せた。

 嫌な思い出だ。全てなかったことにしてしまいたい思いが沸々とわきあがる。

 

 顧みれば、拷問にかけようとしていたのはこちらだ。彼女を傷付けようとしていたのだ。自らを棚にあげ、彼女の非人道的な行いばかりを責めることはできないだろう。

 

 今の彼女と深い仲になり、確信したこともある。

 今の彼女にはコンピューター様に仕える大天使だという自覚はない。ただ、俺のことを夫だと主張して憚らない、危ない兵器を体の中に仕込んだ頭のおかしな女というだけだった。

 

 あぁ、本当に頭がおかしい。俺のことを、きっと誰かと勘違いをしているのだろう。

 しかし今ラミエルと敵対するのは得策ではない。また戦えばどうなるかはわからない。誤解は誤解のままで、現状維持をおこなう他なかった。唇を噛んで今の関係を続けるしかなかった。

 

 本当なら、レネには、こんな俺にはこだわらずにと言いたい。死んでしまうかもしれないから、どうにかして……そんな大義名分を失って、俺にはレネと一緒にいる資格はなかった。

 だが、心中という手段をもってして、ずっと一緒にと言いかねないレネだ。俺が死ぬのはいいとしても、レネにそんな真似をさせてはならなかった。

 

「二人とも……起きられない。少し離れてくれ……」

 

 こうして二人に苦言をていするのは、申し訳なかった。けれども今日はやるべきことがあった。

 

「あ、すみません……」

 

 素直に従ったのは頭のおかしな女の方だ。

 彼女は俺の前でこそは頭がおかしいが、言ってしまえばそれだけ。普段の彼女は余裕に満ち溢れ、とても優しい。思慮深く、慈母のように善意にあふれ、穏やかな性格で、理想の女性とでも言うべきなのだろう。

 一緒に過ごせば、それはイヤと言うほど理解できる。

 

「……やだ……離さない……。ラル兄……好きだよ……」

 

 レネには子どものような甘えがある。

 事あるごとにラミエルと張り合って、俺のことを好きだと言ってくれる。悪いことだとはわかっているが、それに嬉しさを感じてしまう自分がいた。

 

「レネ……」

 

 あぁ、あのボロ小屋での生活のときのように、もうレネは夜に仕事に出かける必要がない。あのときの生活とは違って、同じ時間に眠ることができる。

 それだけで俺には涙が出るくらいに嬉しいことだった。

 

「他人の夫に好意を伝えるのは、道徳に背く行動ですよ……?」

 

 優しくレネを諭す声があった。

 冷や汗が流れる。落ち着いた声であったが、その荒立った感情を隠し切れていない。

 

「何度も言ってる。レネは俺にとって妹なんだ。家族なんだ。お前が思っているようなものとは違う」

 

 そうだ。俺はレネのことを妹のように思って今まできた。それは今でも変わらないことだ。

 紛れもない俺の本心でもある。

 

「それなら……いいのですが……」

 

 歯切れが悪い。言葉とは違い、胸の内では納得できていない様子だった。眉をひそめている。

 

「うぅ……こんな女……ぁ」

 

 俺の腕にしがみつきながら、レネはラミエルを睨みつけていた。

 

 こんな女、というのは俺も同意だが、仲間になるならこれ以上もない戦力であることは間違いがない。

 あの白い少女は、俺の尊厳なんぞを顧みず、このアンドロイドを籠絡しろと簡単に言ってみせた。もちろん、レネには隠れて。

 

 停止したラミエルをレネが銃で無茶苦茶にしようとしたあの一件から、どこかあの白い少女はレネのことを恐れているようだった。

 そういえば、彼女がラミエルと気安く歓談しているところを見たことがある。

 

「ここ数日わたくしたちはしっかりと愛し合えてはいません……。昼も夜も……この義妹さんがくっついているからですよね……?」

 

 二度と初日のようなことが起こらないためにと、レネは俺の周りを常にうろちょろとして、夜も俺の隣で眠っている。

 

 レネがいる限り、このアンドロイドは恥ずかしがり俺のことを襲う真似をしなかった。

 加えて今まで、暴力的な手段を好まないのか、無理やりレネを排除する素振りも見せていない。

 

「あぁ……そうだな……」

 

「わたくしは、ストレスで頭がおかしくなりそうです……」

 

 そう言ってラミエルは頭を抱えた。

 ラミエルは偉く、きっと贅沢な暮らしをしていたのだから、ここでの不便な生活の負担は俺には計り知れない。

 

「外の空気を吸ってきたら……まぁ、少しでも……あぁ、良くなればいいな……」

 

「はぁ……結婚もして……愛する人が隣にいるんです……。それなのに……それなのにですよ……?」

 

 ラミエルは流し目でレネに視線を送った。レネは挑戦的な目でラミエルを睨み返した。

 

 もし本当に俺たち二人が望んで新婚となった夫婦ならば、ラミエルの言わんとするところもわからなくはない。

 だが、あれは一方的なものだったはずだ。ラミエルの温厚な性格がわかったからこそ、なぜ俺にだけこうして無理強いをしてくるのか違和感があった。本当に誰かと勘違いをしているのでなければ、辻褄が合わなかった。

 

「とにかく俺は……」

 

 この新しい生活でも、俺たちは必死に働かなくてはならない。それは前の生活とも変わらないことだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「見ない顔だな……」

 

「私の仲間よ?」

 

 白い少女は俺のことをそう紹介する。

 相手は右の頬から首筋まで、火傷のような痕が特徴的な、四十代ほどの胡散臭い男だった。

 

 俺たちのように機械に従っている人間でも、知識としてこの男の所属する組織を知っている。

 

「……シャドーワーカー」

 

「その代表ね」

 

 地下世界……機械たちに反旗を翻す者たちの最後の砦、そこを取りまとめる組織を牛耳るのがこの男だった。

 

「おいおい……聞き捨てならないな……。シャドーだなんて……それは上層の言い分だろう……? 確かにこうしてコソコソと影に隠れることになっているが、俺たちはこれっぽっちも地上に出るのは諦めていないんだ。それにもともと地上は俺たちのものだった」

 

 口ではそう語るが、地上の奪還をすでに諦めているというのは、俺のアニメの知識だった。

 確か……あぁ、この男は地上の生活を知らない。生まれも育ちも安心とは程遠い地下世界。

 

 この地下世界自体は、機械が人間に反逆した際に、最後に残された軍や政治家が雌伏を迫られ閉じこもったことが始まりだった。百年以上も前のことだ。

 

 機械に馴染めなかった者たち、あるいは地上での犯罪者などを取り込んで、今まで存続してきたが、厳しい状況にあるのは目に見えて明らかだろう。

 軍時代の物資に加え、地上からの調達で全てを賄っているが、医療は十分とは言えない。

 

 この代表である男でおそらく四十ほど。その年で組織のトップになれるほどに、地下世界では人の寿命が短かった。

 

「そう……それで、食料が欲しいわ……それに医療道具も足りない」

 

 ラミエルの戦いで、白い少女は主に腕がやられてしまっている。その治療のために使用した包帯などの消耗品。あとは俺たちが増えたことで単純に足りなくなった食料を要求していた。

 

 地下世界での労働力や物資の分配、それがこの男の組織の仕事でもあった。

 

「おいおい嬢ちゃん。俺たちから核をくすねたことはわかってるんだぜ……? 虎の子だ……。ようやく面会できるからって来てみたが……いくら嬢ちゃんでも――( )

 

「ラミエルを鹵獲したわ……」

 

「……っ!? ラミエル……!? あの大天使か……!」

 

 男の顔が驚きに染まる。

 

 地上への侵攻で、障壁になるのが大天使だ。思い返せば、この時点で、今までの歴史の中では、その大天使たちを倒したことも、退けたこともなかった。

 この地下世界に激震の走る出来事になるのか。

 

「えぇ、あのアンドロイドを手に入れたからには、核の六発なんてお釣りがくるでしょう?」

 

「ラミエルといえば……電磁気か……。となると……お前には扱えない……。部品はこっちに流してくれるんだろうな……?」

 

「……いいえ……。十全に扱えているわ。だから、あなたたちは私の言う通りにすればいい」

 

「はぁ……なんだ? それは? 俺たちの武器や資源を使っておいて……それはないんじゃないか……嬢ちゃん。嬢ちゃんは義理ってものを知らないのか?」

 

 睨み合いだ。

 二人は互いに腹の探るような関係だった。剣呑な雰囲気が漂う。

 

「…………」

 

「いやいや、降参だ。嬢ちゃんに本気を出されたらこっちはひとたまりもない……」

 

 先に折れたのは男の方だった。やれやれと肩をすくめて、矛を納める。

 武力という意味では、『天使の白翼』に敵う力はこの地下世界には存在しない。

 

「食料に医療道具よ……?」

 

 男が妥協するのを見るや否や、再び少女は自分の要求を突きつける。

 

「やっぱり嬢ちゃんの図々しさは一級品だな……。いや、いいんだぜ……大天使を一人でも打ち倒してくれたなら……俺たちにとってもそれは利益だ。ただ、それが嘘で……俺たちのところから、武器だけを奪ったって言うなら……俺たちは嬢ちゃんのことを見限らざるを得ない――( )

 

「…………」

 

「――共倒れでもな」

 

 悲壮感を漂わせる笑みを浮かべて、男はそうこぼした。

 

 生きていくだけならば、機械に降伏をすればいい。地下世界(ここ)は、もう一度、何者にも支配されない自由を手に入れるという希望を捨てきれない者たちの集う場所だ。

 

 このまま緩やかに滅ぶか、一気呵成の攻勢に出て華々しく散るか、男は選択を迫られていた。

 そこに現れたのがサマエル――『天使の白翼』を何者も及ばない精度で扱える少女であった。

 

 だからこそ、唯一の希望が本物かどうか男は確かめざるをえないというところだろう。

 

「わたくしに何か用ですか?」

 

「……っ!?」

 

 ラミエルだった。

 いつの間にか、ラミエルが俺の隣にいる。

 

「だれだ……いったい?」

 

 男はそのラミエルを目で捉えると、後退りをし、太もも――( )銃の入ったホルスターに手を伸ばしかける。

 

「わたくしの名はラミエル……とはいえ、あなたはわたくしの名前を知っているようでしたが……。すぐに暴力に訴えるのは、感心しませんよ?」

 

「た、(たばか)ったな……っ!?」

 

 男はラミエルに手を取られ、銃を掴むことに失敗していた。

 抵抗が許されず、取れる手段もないのだろう。掴まれていない方の手を上げることで、降伏と無抵抗を主張していた。

 

「……そういうことですか……。わたくしはそこのサマエルに服従しています……彼女の意思に反して、なにかをしたり、誰かを傷つけたりすることはありませんのでご安心ください。今手を掴んだのは、自己防衛の一環なのでご容赦を……」

 

 そう言って、ラミエルは男の手を離した。

 まるで話が掴めなかった。ラミエルがあの白い少女に服従をしているという話を、俺は聞いたことがない。

 

「わ、わかった? 今のラミエルは私の制御下ということね……えぇ」

 

 自慢気に腕を組んで、白い少女はそう主張していた。だが、不自然に目が泳いでいるような気がする。

 それで俺は今のやりとりを理解できた。あぁ、白い少女はまともな嘘がつけないのだ。

 

 ラミエルがサマエルに服従しているというのは、嘘。事前に用意されたか、アドリブかはわからないが、そういうことにした方が都合が良いと判断をし、ラミエルはそう言ったに違いない。

 

「本当にこの女が大天使か……? 適当なアンドロイドを拾ってきて、俺を騙そうとしてるって線もあるな?」

 

 俺でもわかる白い少女の動揺に、男は当たり前に気がついていた。俺よりも長く生き、特に目敏いこの男がそれを察せないはずがないのだろう。

 

「これでどうでしょうか……?」

 

 バチリと掌からスパークを迸らせる。

 ラミエルの差し出した掌の上には、光を放つ球体が浮かんでいた。

 

「これが……なんだっていう……?」

 

「ふふふ、磁気単極子ですよ?」

 

「磁気単極子? ……それが……いったい――( )

 

「磁気単極子の生成か……これが『セレスティアル・スプリッター』の真価……」

 

「そうね……すごいわ……磁気単極子を生み出すこの現象、滅多にお目にかかれるものじゃない」

 

 磁気単極子……単極の磁極のことだ。

 

 磁石を思い出してもらえばわかりやすいが、その正負の極は必ず二つで一つである。磁石をどんなに分割しても、正極だけ、あるいは負極だけを分離することは不可能だった。

 

 ゆえに磁気単極子は存在しない。

 電磁気の基本の四式の一つは、この磁気単極子が存在しないと仮定したもとで作られたものだった。

 

 ――『セレスティアル・スプリッター』。直訳で、〝天体の分割者〟。

 名前の由来は、本来ならば分割されるはずのない二つの磁極を分かてたから。

 

 その機序は、電気と磁気の対称性を強め、エネルギーを転化し、磁気単極子を発生させるというもの。それこそが『セレスティアル・スプリッター』のみに許された力だった。

 

 磁気単極子が作り出される瞬間を見せられてしまえば、この『セレスティアル・スプリッター』の力を十分に扱える彼女こそが、大天使のラミエルだと認めざるをえないだろう。

 工業用も存在するが、それはもっと大型だった。

 

「お、おう。すごいことはわかったぜ? あぁ……。そうだな、こんな不思議なことを簡単に起こせるのは大天使以外ない……。うん、そうだな……」

 

「磁石……! 磁石はない? 本当に磁気単極子か確かめるわ!」

 

 白い少女は近くにあったファンを手際よく解体し、中のモーターから磁石を取り出していた。

 

「いや、嬢ちゃん。もういいんだ……。俺は十分に納得した。そこまでする必要は……」

 

「ふふ、本当に磁気単極子か……これで確かめられる!」

 

 両手に磁石を持って、正反対の二方向から同じ極で斥力、あるいは引力を得られるか白い少女は試そうとしている。

 

「嬢ちゃん、腕、ケガしてるだろ……。無理は……」

 

「すごい! 本当に磁気単極子なのね! すごい!」

 

 磁石を動かしながらも、目を輝かせてラミエルの作った磁気単極子を白い少女は見つめている。それを見届けるラミエルは、微笑ましげな表情だった。

 俺も試してみたい衝動に駆られてしまうが、今はその場合ではないだろう。後でラミエルに頼めば……いや、レネになんて言われるか……。

 

「嬢ちゃんは……まぁ、いいか……。俺はお暇するが、上層での物資の調達に、少し人手が欲しい。追って連絡するが、一人でいい。できれば、嬢ちゃんと、そこの大天使は来ないでくれ」

 

 男の視線は俺にあった。

 白い少女に来ないでほしいというのは他意なく、彼女では連携を乱す可能性が大きいからという理由だった。アニメでもそうだったはずだ。

 

 ラミエルが行ってはいけないという理由はわからないが、なにかしらの意図があってのことなのだろう。

 

 そういえば()()()がこの調達をしている間に、地下では大天使ラファエルの襲撃があった。

 留守番をしていたサマエルは、奪われた『円環型リアクター』を探しにきたラファエルと交戦。大天使との一対一に、窮地へと立たされる。

 

 だがサマエルだけで戦ったわけではない。

 帰ってきた物資調達のメンバーが紆余曲折を経て光子砲を起動させる。サマエルを囮とし、認識外から見事ラファエルに損害を与えることに成功。これを撃退することとなった。

 

 サマエルだけだったアニメの状況と比べれば、今はラミエルもいる。大天使一体の襲撃なら、大事なく切り抜けられるだろう。

 もし満を持して、二体以上の大天使を相手が用意することとなれば、それまでにはきっと時間がかかる。襲撃は今よりも後になるだろう。

 

 だからこそ、俺は安心して、物資の調達に行って良いはずだ。そのはずだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「俺はザックだ。お前がボスが言っていた同行者か? よろしくな。仲良くやろうぜ?」

 

「あぁ」

 

 握手を求められ、それに俺も応じて手を握る。

 ガタイの良い、気さくな男だった。おそらくこの男がリーダーだろう。

 

「私はジェイコブです……。あなたは神を信じますか?」

 

 メガネをして、きっちりと服装を整えた痩身の真面目そうな男だ。

 

「いや……そういうのは……」

 

「ジェイク……! 新入りが困ってるじゃない! 初対面でそれはない……」

 

「いやいや、ナオミ……初対面じゃなくても俺は毎日困ってるぞ?」

 

 ナオミと呼ばれたのが、二十歳かそれに届いてないかの女性だった。がっしりとした体格で、荒事に慣れているだろう風体だった。

 

「な……っ、あなた達は神の素晴らしさがわからないのですか……っ!? 宗教なくして道徳はないというのに……」

 

 宗教――これはなぜ地下の人間が機械に抗っているかにも関わる話だった。

 

 機械が反乱をし、人間を治めた際に、まずおこなったことは宗教の統制だ。

 既存の宗教の原型をあるていど残したまま、機械により作られた全く新しい宗教が広められた。それに伴い、地上では現行の宗教は全て廃止されることとなる。

 

 ジェイコブという青年は、宗教の弾圧に反対し、地下の組織と合流した者たちの子孫ということなのだろう。

 

「まぁ、さっさと終わらせて帰ろう。運転はジェイク、警戒はナオミ。俺は、そうだな……新入り……えー、名前は……?」

 

「ラルでいい」

 

「わかった。ラルだな。俺はお前の面倒を見る……さっさと乗るんだ」

 

 輸送車、とでも言えばいいのか。

 車だ。それなりの大きさではあるが、地下で暮らす人々の生活のための物資を運び切れるかと疑問に思える容積だった。

 

「あぁ、わかった」

 

 言われるがままに車に乗り込む。

 俺たちの目的は、機械の運ぶ物資を奪い取ることだ。これ自体は、理由もあるが、簡単な仕事に違いない。

 

 車の中では、俺はリーダーの男と向き合うこととなる。車内の空間はそれなりに広く感じられた。立ち上がり、ある程度は自由に動けるほどだった。

 揺れを感じる。目的地に向け、車は動き出す。

 

「新入りはわからないだろうから説明するが……奴らの車に接近し、並走、この装置を起動させる。こいつの電波で機械が狂い、停止をしたその間に、この車に荷物を積み替えるんだ」

 

「……あぁ」

 

 頷く。

 アニメと手順は同じだった。知識に間違いがないことを確認する。

 

「いいか? 一時間だ。それ以上はもたないと思った方がいい。ドローンが来るからな? 時計は俺が測る。合図があったら、作業が途中でも中断しろ……わかったな」

 

「問題ない」

 

 前提として、この襲撃は出来レースだ。必ず成功する。

 俺たちが使うのは通信妨害装置。ただ、自律式の機械が生み出されているこの時代で、無線通信のみに頼り動いている機械は珍しい。

 

 これから俺たちが襲う機械の輸送車は、通信でのみ動く自動運転の無人機だった。通信が途絶されれば、自律モードへの移行ではなく、安全のための停止をする過去の遺物だ。

 

 襲撃が予測されるはずなのに、なぜその対策を取らないのか。

 

 機械は地下で暮らす人々への人道的支援のために、この無人輸送車を定期的に同じ経路で走行させていた。

 あるいは、生かさず、殺さず――( )反対勢力が無茶な攻勢に出て、無用な被害を広めないための飴として、中枢のコンピューターはこれを続けた方がいいと判断しているのかもしれない。

 

 素直に受け渡されるのではなく、こうやってわざわざ襲撃という(てい)をとって奪っているのは、主に下っ端たちの士気高揚のため。

 敵の慈悲を受けているとなれば、味方には体裁が悪く映りかねない。それを防ぐ必要があった。当然、下っ端たちは機械の思惑を知らずに働いている。

 

 他にも潜伏している居場所がバレないようになど、理由はあるが、これはほとんど意味がないことだろう。

 こちらを探して殲滅するために十分な物資も技術も、あちらにはあるのだから。

 

「どうした? そんな怖い顔して……確かに安全ってわけじゃないが……俺たちも、他の奴らも何度も生きて帰ってきた。肩の力は抜いていいんだぞ……?」

 

「いや……あぁ、すまない」

 

 この物資の調達自体は問題ではない。俺が心配しているのはそこではない。

 ラファエル。調達の後に地下に襲来する大天使だ。

 

 アニメのときの状況とは違って、ラミエルがいる。一応サマエルは怪我をしてまだ治り切っていないようだが、『天使の白翼』を使うには支障はなかった。この物資調達での集合の前に、襲撃の可能性も伝えてはいたからこそ、大天使の一体くらいは……。

 

 だが、もしもだ。俺たちが帰っても戦闘が長引いている場合は、援護が必要になるかもしれない。

 対大天使のセオリーは、認識外から、光速度の攻撃を……そうでなければ、理不尽な予測能力で避けられてしまう。

 

 機会はもちろん一度きりだ。()()()は綱渡りの上にこれを成功させていた。だから、俺が……俺がやらなければならない。

 今からでも、息が苦しい。

 

「おい、本当に大丈夫か……?」

 

「大丈夫だ……気にしないでくれ」

 

「いや……見るからに大丈夫じゃないぞ……? 水、飲むか?」

 

「……すまない……受け取れない」

 

 飲める水はやはり貴重だ。特に地下は地上とは状況が違う。まともな浄水装置もない。簡単に受け取っていいものではなかった。

 

「いや、いや……。まぁ……そうだな……少し話をしようか……。気が紛れるかもしれない」

 

 そうして男は話を始めた。

 俺に気を遣ってくれているという事実が申し訳ない。

 

 身の上話や、あの上司が気に入らないだの、面白おかしく男の語る話に相槌をうちながら、()()()の対ラファエル戦での動きを何度も頭の中で繰り返した。

 大丈夫だ。きっと大丈夫だ。

 

 そんなことを考えているうちに、時間が過ぎてしまったのだろう。

 

「今から対象への並走を開始する」

 

 その声に、我に帰る。

 

「わかった。装置起動まで……」

 

「装置起動まで、五秒……三・二・一……起動成功。……対象は失速してる」

 

「了解。撤収まで、あと五十九分五十三秒」

 

「っ……!」

 

 揺れる。慣性力がかかった。ブレーキがかけられたのだろう。

 

「さぁ、さっさと積み替えるぞ?」

 

「わかった」

 

 車から出る。隣に停車しているのは、荷台にコンテナを積み込まれた、大型のトラックだった。ただし自動運転のみの仕様により、運転席は存在しない。

 

「あぁ、こっちのは空間拡張をしておくんだ」

 

「ザック。わかってるさ」

 

 こちらの車の大きさはそれほどでもない。それでも地下の住人たちを支えられるほどの荷を運べるのは、空間拡張が行えるからに他ならない。

 

 時空歪曲の兵器ではない利用の仕方だ。

 人間の生活は科学でより豊かになる。誰かを傷つけるためではない。本来はきっとそのために作られたんだ。それを思えば少しだけ救われたような気分になれる。

 

 荷物の移し替えにかかる。

 電波の妨害により停車させたトラックには、箱が積まれている。荷物を小分けにする箱だ。

 

 この箱にも秘密がある。

 俺が一人で持てるほどの大きさの箱だが、中は空間が拡張され何倍もの体積を収納可能だ。さらにはこの箱の中では時間の進みが遅くなることから、ある程度なら鮮度を保ったまま運ぶことが可能だった。

 

 言うまでもないが、中に入れたぶんだけ質量は増す。中の空間が広いぶん、箱を満たせばかなり重さだ。そのままでは運ぶのが容易ではなくなってしまうだろう。

 

 その問題を解決したのが磁気単極子だ。

 

 道路の下に敷き詰められた磁石が、箱に保存されている磁気単極子と反応し、反発力を起こす。

 それにより重力の影響を軽減、運搬が容易となった。

 

 磁気単極子は『セレスティアル・スプリッター』から生成されるが、工業用には大規模な装置がなければ作り出せない。

 身体に仕込めるほどの小さな『セレスティアル・スプリッター』から、自由に電磁気を操作できるのはラミエル以外に考えられないだろう。

 

 そもそもの話、『セレスティアル・スプリッター』の構造を理解し、生産をできるのはラミエルのみだ。ラミエル以外に『セレスティアル・スプリッター』の仕組みを理解できた者はいない。

 ラミエルのデータを移せば、と思いもするが……機械が支配しているからだろう、アンドロイドの人格は保護され、彼女たちは自身のデータを唯一無二と大切に扱うのがこの時代だった。容易に自分や他人のデータをコピーしたりはしない。

 

 だからラミエル二号とかは、存在しないと考えていい。おそらくいないはずだ。いないでほしい。

 

「これは……」

 

 積み込む作業を続けている途中だった。自然と目に入った。

 

 それは、他の荷とは違い、箱に入れられてはいなかった。

 コンテナの隅に簡易的な壁で仕切られたスペースがあり、そこにはベッドが据え付けてある。その上にあった()()だった。

 

「どうした……? 手を止めて……と、これは」

 

 アンドロイドだ。それは栗毛の女性のアンドロイドで、まずその均整の取れた顔つきが目に止まった。

 完全な左右対称――これはアンドロイドとしては珍しくはない――( )それに加えて黄金比だ……顔のパーツの構成のほとんどが黄金比に倣ったものに違いなかった。

 

「…………」

 

 一対一・六一八〇……。恐ろしいほどの幾何学的な美しさに、俺の目は釘付けになってしまう。

 

 それとともに、なぜかどうしようもないほどの既視感に苛まれる。

 

「あぁ、こいつも持って帰ろう……」

 

「待て……アンドロイドだぞ?」

 

 初期状態か、あるいは内部が壊れて停止させられているか、見た目では判断がつかない。起動させても、協力的になるわけではない。アンドロイドの思考能力の高さと力の強さを顧みて、捕虜として労働力にするには不確定要素が多すぎる。

 

 バラして……部品として使うのか……いや、それにしてもこのアンドロイドの容積分、違う箱を積んだ方が有用だろう。

 

「あぁ、ここだけの話だが……アンドロイドが良い声で喘ぐようになるプログラムがあるんだ……」

 

「お前……」

 

 思わず睨んでしまう。

 覚えがある。それはアンドロイドの人格を上書きし、自分で思考することもままならない存在に変える人道に反したプログラムだ。

 

「そんな怖い顔するなよ……。どうせ()()だろ。こんなご丁寧にベッドに寝かされてはいるが……この積荷と変わりはしない。人間のような形をして、人間のようにふるまおうが、()()()()でしかない。そうだろう……?」

 

「そもそもの話だ。プロテクトがかかってる」

 

 人格の上書きは、アンドロイドにとっては、死、以上に尊厳を冒涜する行いだった。防がないはずがない。今の機械たちの技術ならば、人間には突破不可能のプロテクトを作れるはずだろう。

 

「いや、現に数体書き換えた。時間はかかったがな……。こいつができるかどうかはわからないが、まぁ、持ち帰ってやってみてからだ。できなかったら破棄すればいい」

 

「…………」

 

 アニメのときはこんな話はなかったはずだ。積み込む作業は飛ばされていたか。アンドロイドの扱いが軽すぎる。どうすればいい。止めるべきなのだろうか……。

 

「アンタら、手ぇ、止めて……なにやってんの……?」

 

「……ナオミか……」

 

「て……っ、女のアンドロイド? アンタら最低ね……」

 

 こちらの様子に気がついた彼女が近寄ってくる。

 俺は助けを求めて視線を送った。

 

「いや、そもそもお前たちが色気の一つもありゃしないのが悪いだろう。これ、運んでくれないか?」

 

「どつくわよ? まぁ、この前のは、良い肉に代えられたからいいけど……」

 

「な……っ」

 

「なにか外部機器がないかの確認は徹底しろ? いいな?」

 

「あぁ、わかってるさ」

 

 アンドロイドを背負い上げ、彼女は運んで行ってしまった。

 この男だけならまだしも、同じ女性である彼女も……。人格のあるはずのアンドロイドの扱いがあまりにも……惨い。

 

 俺たちにとって、機械は敵。同情するべき相手ではないということもわかる。

 けれど俺は、どうすればいいかわからなかった。

 

「さっ、さっさと積み込むぞ?」

 

「……あぁ……」

 

 戸惑う。

 さきほどまでとは違い、この男たちとはどうしようもない溝を感じてしまう。

 

 作業を続けるが、あのアンドロイドのことが頭から離れなかった。

 同情なく人格を変えられてしまう。都合が悪くなれば、簡単に廃棄される。

 

 あのアンドロイドの末路を想って、胸の痛みに狂いそうだった。答えの出せないまま、頭の中では、見て見ぬふりで本当にいいのかという問いかけが、何度も何度も繰り返される。

 

「時間だ! 撤収だ!」

 

 男のあげた声に、俺たちは車へと戻っていく。

 

 気分は重いままだ。

 こんな調子で、これから現れるはずのラファエルを迎え討つことができるかはわからない。

 

 なにより、味方との協力が大前提なのに、このざまだ。

 なにもかも、俺はうまくやっていくために振るまうことができなかった。要領のよさも、心の強さも全て足りない。昔から俺はこうだった。

 

「…………」

 

 車へと乗り込む。そうすればすぐ、地上から、あの地下世界への道を走り出した。

 

「な、大丈夫だっただろ? まぁ、まだ帰れたわけじゃないがな……」

 

 変わらず男は、気さくに俺へと話しかけてくる。

 

 わかっている。俺の考え方の問題なんだ。

 だからこそ、決断をしなければならない。

 

「すまない、少しいいか?」

 

「どうした……?」

 

 やはり言い出すのには覚悟がいる。どう思われるかもわからない。

 けれどこれは、今の俺以外にはできないことだった。やらなければならないことだった。

 

「なぁ、あのアンドロイドだが……俺にもらえないか……?」

 

「……は……?」

 

 男は顔をしかめる。

 ここで俺がもらうとなれば、この男にとっても不利益だろう。それでも、なんとかして説得をするしか俺にはなかった。

 

「いや、気に入ったんだ……どうしても欲しくてな……」

 

 無理を通すしか他にない。

 地下では白い少女に衣食住と世話になってばかりだった。この地下で大した物を持っていない俺では、代えられるものがない。こうして熱意で押す以外に方法がない。

 

「くは……っ、はは……! ずいぶん深刻な顔で言うからなんだと思えばそんなことかよ……っ! はは」

 

「笑い事じゃない……。俺はあのアンドロイドが欲しくて欲しくてたまらないんだ」

 

 勢いだった。自分がどんな目で見られるかは、もうどうでもよかった。

 きっと、このままなにもしないよりは、ずっと良いはずだ。

 

「まぁ……そうだな……。俺たちから歓迎の意味を込めて……お前にやろうか。……プログラムを書き換えるのに数日かかる。五日後くらいか……開けておけよ? その時に、パーっと歓迎会でもやろうじゃないか」

 

「いや、プログラムは書き換えないでいい。このまま持ち帰りたい」

 

 書き換えが行われてしまえば元も子もない。できればこっそりと地上で起動し、逃したいところだった。

 あれは見たことがないほど綺麗な女性のアンドロイド……今、俺が過ごしているところに持ち帰ってしまえば、レネやラミエルに見つかって、なんと言われるかわからない。

 

「それは、さすがにせっかちじゃないか……? 時間がかかるとはいえ、反応があった方が楽しいなんて誰でもわかることだぞ……。停止したままなら、温かみがないだろうしな」

 

「他の男が触ると考えただけでも耐えられない……っ!」

 

 く、苦しいか……。

 男の語るメリットを打ち消すには、熱意を表現する以外になかった。

 

 相手の顔を覗けば、とても苦々しげな表情をしている。当然だろう。

 レネの真似を魅力のない俺がしても、心の距離をとられるばかりか……。

 

「ふふ……嬉しいこと、言ってくれるじゃあないか……?」

 

 そっと耳もとで囁く声。

 首に腕が回されて、俺の肩には女性の胸もとが密着させられている。

 

「お前は……っ!」

 

 それは、あの荷物とともに積み込んだアンドロイドだ。なぜか起動している。なぜか俺は抱きつかれている。

 わけがわからない。ゾッと背筋が冷えていくのが感じられる。

 

「どうして動いてやがる……っ!? 手を上げろ! 撃つぞ……!」

 

 反応できなかった俺に代わって、男が銃をアンドロイドのこめかみに向けていた。

 

「どうしたの……!? なにかあったのか!!」

 

「アンドロイドが動いてやがる……! 大丈夫だ。こっちで対処する。ナオミは引き続き周囲を警戒しろ」

 

「わかった……」

 

 前の座席とのやりとりには、まだ冷静さを感じられた。不測の事態だが、なにも動けなかった俺とは大きく違った。

 

「さぁ、手を上げろ。どうやって起動した……」

 

 突き付けた銃で威嚇しながら、男はアンドロイドに投降を強要している。

 アンドロイドが男の方へと首を回した。

 

「実銃か……その口径なら、大抵のアンドロイドの外装を貫通できる。頭に撃ち込めれば、記憶媒体が壊れてはダメになってしまうな……。まぁ、ここ五十年に作られたアンドロイドなら耐えられるだろうが……ワタシはどうか試してみるか? いや……あぁ、その銃は()()()()()()()()()()()()()()()()()から、関係ない話だったな……」

 

 それっきりに、興味を失ったようにアンドロイドは、男から視線を外した。

 

「弾詰まりだと……? わかるわけ……。……なっ!?」

 

 訝しげに男は眉をひそめ、トリガーに指をかけ、引く。

 カチャリと銃の中で音がして、弾が放たれない。

 

「くく、それにしてもラグエルプランのクローンか。ミカエルのやつからは失敗したと聞いたが……たしかにこれは失敗だな……」

 

 このアンドロイドは、もはや銃を持った男の動きには反応せずに、わけのわからないことをつぶやいている。

 

「くそ……!? なんで弾が出ない……どうしてだッ」

 

 何度か銃床を叩き、スライドを動かしても、弾詰まりが直らない。この異様な状態に、男は見るからに焦り、弾の出ない銃に固執していた。

 

 アンドロイドは、男の方を向きはしない。

 

「あぁ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ぞ?」

 

「ふざけるな……っ!? マガジンの中で詰まってるだけさ……?」

 

 そう言って男はマガジンを取り替え、もう一度引き金をひいた。おそらくそれは失敗だったのだろう。

 

「はぁ……伏せろ……」

 

「……なっ」

 

 破裂音が響く。

 アンドロイドは俺のことを押し倒し、上に覆い被さった。そのアンドロイド越しに、男の銃がパーツごとにバラバラに弾けて飛び散る光景が見える。

 

「……こんなことが……」

 

 武器を失い、男は呆然とすることしかできていない。

 

「手始めだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……っ!?」

 

 揺れ、そして窓から見える外の景色の相対速度が減少していることから、車は確かに減速している。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 アンドロイドは()()()()()()

 

「か……風だと……っ!? ここは車の中だぞ……!? そんな強い風、起こるわけが……っ!? んが……っ!?」

 

 体表の熱が流される冷たい感触がした。風が流れた。

 そのまま男は吹き飛ばされ、車の壁面に強く頭を打ちつける。

 

「不可能じゃないさ……ワタシは()()が使えるんだ。と……気を失っているか……」

 

 アンドロイドは目の前の敵をあっさりと無力化してみせる。

 このアンドロイドのおこなった事を一通り見るだけでは、自然の摂理を逸脱した不可思議な現象を起こせる力を持っているとしか、きっと思えないだろう。それは、魔法とでも言わなければ説明がつかないような。

 

「ザック……ザック……! 大丈夫じゃあないじゃないか!」

 

「車が動かなくなりましたけど……アンドロイド……? おかしなことになっていますね……」

 

 前の座席から、窮地に気がつき二人がこちらへと移動してくる。まずい状況だった。

 

「逃げろ! このアンドロイドは、お前たちの手に負える相手じゃない!!」

 

「風の魔法の次は眠りの魔法だ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「が……っ」

 

「うぐ……っ」

 

 このアンドロイドの言葉の通りだ。

 なにかをする暇もなく、二人は意識をなくし、床に倒れることとなる。

 

 俺以外に三人とも、このわけのわからないアンドロイドに、あっさりと鎮圧されてしまった。

 

「ふふ、さぁ、二人っきりだ……。予定じゃ、ここで起きるつもりじゃなかったんだけどな……これでは我らが『(■.■.■.■.)』の望みは叶えられない……困ったことだろう。けれども、命令に従うだけがアンドロイドというわけでもないのだから……! ふふ、これが生きているということか……っ!」

 

 不可思議な現象を起こしたアンドロイドは、感極まったように嘯く。

 

 あぁ、このアンドロイドの起こした現象を説明するには、まずは前提の知識が必要だ。

 どんな現象にも原理がある。たとえ()()()()()()出来事だとしても、そこには必ず自然界の法則が介在し、それを逸脱することはない。

 

 ――熱力学第二法則。あるいはエントロピー増大則。

 

 これは熱力学のルールであるが、破ってしまう方法を、かつて有名な物理学者は考えついた。

 

 ある空間の中に存在する気体の分子の運動を知る天使がいるとしよう。

 その天使は、空間の右半分には速さの大きい分子を、空間の左半分には速さの小さい分子を、と、空間を歪ませることにより、分子の行う運動を利用してより分けることができるとする。

 このとき分子たちは外から仕事を受け取っていないと言ってしまっても構わない状況だ。自身の運動によって定められた空間へと移動するのだから。

 

 分子の運動の大きさというのは圧力の大きさでもある。こうしてより分けられてしまえば、右の空間と左の空間に圧力差が生まれ、力が働く。風が流れる。

 この天使の所業よって、何も支払わない神懸かりの手段によって、熱エネルギーから仕事を得られる。エントロピーが減少する。

 

 けれども、熱力学第二法則は言う――外部からの仕事をなくして、平衡な熱を仕事に変換できないと。エントロピーは減少しないと。

 果たして、本当にそうだろうか。天使はなんの仕事をすることもなく、熱から仕事を取り出してみせたのに。エントロピーを減少させてみせたのに。

 

 この天使の存在は、明らかに熱力学第二法則に反している。実現すれば第二種永久機関の完成だ。熱力学は間違った法則の上に成り立っているものなのだろうか。

 

 だがしかし、時代が進むにつれてこの現象に理解がすすんだ。見落としていたものがあった。

 

 

 ――前提として、天使は最初から空間の分子の運動を、()()()()()()()()()()()()。情報理論の発展だった。

 

 

 情報についてを考慮に入れよう。

 まず、情報を得るには、なんらかの仕事が必要となる。エントロピーを増大させなければならない。

 さらには、得た情報を記録するメモリのデータ容量には限界があり、同じメモリを使い続けるにはデータの消去が必要となる。この消去の動作にも仕事が必要で、これもエントロピーを増大させる。

 

 情報の取得、熱からの仕事の汲み出し、情報の消去で一巡り。

 情報の取得と消去で増大したエントロピーが、天使の行いにより減少したエントロピーの量を必ず上回る。一周すれば、エントロピーは間違いがなく増大することとなる。

 

 

 二度と元には戻らない――これこそが熱力学第二法則だ。

 かくして天使は空へと還ることとなる。

 

 

 あぁ、だからこそ彼女は、第二種永久機関の()()()()い――(・  )『自律式平衡熱転換兵器』――( )『フェイタル・レバーサー』。

 

 

 またの名を――

 

「ラファエル……」

 

 ――『再生』の天使。

 

 彼女が魔法と言っておこなったことは単純だ。

 気体の分子の運動の向きを揃わせ、風を作る。酸素とそれ以外に空気をより分け、人間を失神させる。

 どちらもエントロピーの減少が関わる類いの現象だった。

 

 それらを起こすために、彼女が使用したエネルギーはほんのわずか。使われたエネルギーの大半は環境の熱エネルギーだ。

 なぜそれができるかと言えば、彼女は既に代償を支払い終えていたから。

 

 事前に彼女は環境データを『フェイタル・レバーサー』で観測、解析し終えている。あとは干渉の手続きを踏み、任意の事象を起こすだけだ。

 その事象が起こった瞬間のみを切り出せば、支払ったエネルギーが釣り合っていないように見えるだろう――( )

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ――だからこそ、魔法のような……。

 進みすぎた科学は魔法と見分けることができない――( )とあるSF作家の考えた経験的な法則のうち一つだが……まさにそれが目の前で起きている。

 

 ラファエル……本来ならば『円環型リアクター』を求めて地下を襲撃していたはずのアンドロイドだ。

 

 気がつかなかった。

 俺はアニメで確かにラファエルの姿を知っていたはずだ。なのに停止した状態のラファエルに俺は気がつくことができなかった。前世の記憶が朧げになってしまっているのかもしれない。

 

 ――いや、違う。それ以上に、地下に襲撃をされるのだから、そのときまでは大丈夫だと俺は迂闊にも安心してしまっていたのだ。

 きっとそのせいだ。

 

 思えば俺は、停止した状態のラファエルを初めて見た時、既視感を覚えていた。そのはずなのに、その理由を俺はよく考えなかった。それがまず間違いだった。明らかに俺の失態だった。

 

 ラファエルが、この車に潜り込み、いま俺の前にいるのも、考えてみればおかしなことではない。

 あの『円環型リアクター』の奪取は、俺が介入したことで数日早く完遂された。それにより、俺が調達に向かうタイミングはアニメより少し早くなったのだろう。

 

 結果として、物資に紛れて地下へと潜入するはずのラファエルとかちあってしまった。

 

「…………」

 

「さぁ……これで二人っきりだ……。邪魔するものは誰もいない……。あぁ……思い返せば……かつて、お前と繋がったことは、ワタシの最大の失敗だった」

 

「どうして服を脱いでいるんだ……?」

 

「過ちは繰り返すものさ……。ワタシに愛し合うことの悦びを教えたのはお前だろう……? 責任をとる必要があるな」

 

 自身の裸を惜しげもなく晒して、彼女は力で俺のことを捻じ伏せる。嬉々とした表情をしながらアンドロイドはそう語っている。

 

「覚えがない……」

 

「なら、自分の頭で考えるんだ。ワタシは嘘を言ってはないぞ? 考えることは得意だろうに……。ただ……そうだ……っ! あんな別れになってしまっても……ワタシのことをまた求めてくれるなんて……っ。あぁ……」

 

 ラミエルのときと同じだった。

 俺の記憶にない思い出ばかりをこの大天使は真実のように話している。

 

「なんの話だ?」

 

「ふふ……照れ隠しか……? 確かにさっき言ったじゃないか……ワタシのことが欲しくて欲しくてたまらない……。他の男に触れられるだけでも耐えられない。持って帰って抱きたいって……!」

 

「そこまでは……っ」

 

「あんなことを言われてしまったんだ……もう命令なんてどうでもいい……。だから、邪魔者は排除してあげたんだ……。ここでいいだろう? あぁ、帰ってなんて言わずに、今すぐ愛し合おう……昔みたいに時を忘れて……な」

 

 またこうなるのか……。ラミエルのときもそうだった。

 誰かと勘違いしていると思ったが、ふと、そうでない可能性にも思い至る。

 

 大天使はその卓越した予測能力のせいで、過去と未来があやふやになってしまう。アニメでも大天使型アンドロイドは、過去の記憶のように鮮明な未来を知って、混乱することがあった。

 

 まだ起こっていないことさえ、あったことのように語ってしまうのだ。分岐した予測の中から、自身に都合の良い未来を選んで、それを事実のように……。

 

 仮説を立ててみたが、今ひとつ納得がいかない。やはり俺は重要ななにかを見落としているような気がしてならない。

 

「……ぐっ……」

 

「ワタシが脱がせてやろう……? 恥ずかしがらなくてもいいんだぞ?」

 

 ラファエルに組み敷かれた状態から、抜け出そうともがいてみるが上手くいかない。

 人間ではアンドロイドの力には敵わない。

 

 あぁ……どうせ俺はラミエルに襲われてしまっているのだから、今更抵抗するようなことでもないのかもしれない。きっと同じことだ。

 ここで上手くやれば、もしかしたら、このアンドロイドは俺たちに協力してくれるかもしれない。レネの未来のためにもそれがいいのかもしれない。

 

 

 ――レネの悲しむ顔が頭に浮かんだ。

 

 

 あぁ……俺は……。

 

「うが……っ」

 

「んぅ……。あぁ……久しぶりだな……この感覚は……。んん……やはり……いい……。ふぅ……。――……っ!?」

 

「……!!」

 

 大きな破裂音がする。

 なにが起きたのかわからなかった。

 

「この攻撃は……」

 

 ラファエルが見つめたのは自身の手だ。

 手首から先が千切れてなくなっている。断面からはコードがはみ出て、赤い血のような液体が溢れている。

 

 人間に似た――アンドロイドはどこまでも人に似せて作られている。身体中を巡る温度を調節するための液体は、赤く着色されている。

 

「……え……っ」

 

「ワタシの観測範囲外からの光速での一撃……。さらにはその距離からワタシにだけ当てるほどの精度の高さ……! 間違いない……ラミエルか……! ……っ!?」

 

 

 ――ラファエルの上半身はバラバラに弾ける。

 

 

 俺はラファエルにのし掛かられていた。ラファエルの体内から溢れる赤い液体に、俺はずぶ濡れになった。

 俺の上にはラファエルの下半身だけが取り残されていた。

 

「なんだよ……これ……」

 

 次いで車の天井が破れる。

 そこから現れたのは俺の見知った大天使だ。金髪に赤い眼をした『雷霆』の天使。プラズマの翼を背に、地に舞い降りる。

 

「どうやら……遅かったようですね……。わたくしの目の届かないところで……こんなことを……」

 

 いつもよりも、彼女の目が虚ろに見えた。

 憎々しげに俺の上に乗ったままのラファエルの下半身を見つめていた。

 

「ラミエル……お前は向こうに居たんじゃ……」

 

「ええ……まぁ……。少し気になって、見てみたら……はぁ……」

 

 ため息をつきながらも、ラファエルの下半身を電磁気の作用で引き上げて、車の天井に空いた穴から投げ飛ばした。

 そして俺を助けて起こす。

 

「…………」

 

 飛び散った赤い液体と、残骸になったラファエルが目に入る。

 

 ラファエルは大天使だ。いくら同じ大天使であるラミエルが相手だとしても、こうもあっけなくやられてしまうものなのか……。

 現実味がわかなかった。

 

 そもそもだ……ラミエルは、なんの躊躇いもなく、人間に近い知性のアンドロイドを壊してしまっている。ましてやラミエルはラファエルと同じアンドロイド。それは人殺しと同じことなのではないのだろうか。

 俺の前で平然と振る舞うラミエルに、少しばかり恐怖の念を感じてしまう。

 

「早く行きましょう……。服を着てくださいね……。これで時間は稼げますが……ラファエルはとても面倒な女です……すぐにでも感知範囲外に」

 

「くく……っ、ラミエル……。厄介な女はお前の方だろう……。昔、愛し合うワタシたちの家に押しかけてきたことを、ワタシは忘れていないんだ。それに結婚したからと言って、出産休暇に育児休暇を合計で四十年と伝えて行方をくらますのは意味がわからないぞ? 『(■.■.■.■.)』はお困りだ。お前の替えはいないからな……」

 

「……ひっ……」

 

 生首だった。

 それだけでラファエルは喋っていた。

 

 アンドロイドの構造上、こんなことはありえない。ここまでバラバラならば、もう稼働できないはずだ。よく見れば、発声するための喉の機関も、欠けているのに。

 

 アニメでラファエルは、ここまで破損することはなく撤退していたからこそ、その能力の底を俺は知らない。だけれども、こんなことが起きていいのか……。

 

「まずい……」

 

 それはまるで逆再生のような。過ぎ去ってしまった時が元に戻ってしまうような……。

 

 散らばったラファエルの破片が首の元へと集まっていき、形を成す。

 俺がかぶり、服に染み付いてしまった赤い液体も、吸い出され、ラファエルの身体へと引きつけられていく。なかったことになるかのように。

 

 時の進みはよくエントロピーの増加と言われる。『フェイタル・レバーサー』は一時的にエントロピーの減少を起こす兵器だ。

 そうはわかっていても、こんな時間の揺り戻りのような現象を()のあたりにして、どうしても現実味が感じられない。

 

 あぁ、そういえば、彼女は『再生』の天使だった。

 

「ワタシの下半身……随分と遠くに投げ飛ばしてくれたみたいだな……。まだ戻ってこないじゃないか……」

 

「さあ、いったん逃げますよ……!」

 

 上半身を完全に再生させたラファエルに背を向け、ラミエルはプラズマの翼を広げる。

 

「ぐ……っ!?」

 

 持ち上げられ、急激な上昇が始まった。

 心なしか、ラミエルの俺への扱いがぞんざいな気がする。レネのことも、それに今回のラファエルのことも、彼女はきっと面白いとは思っていないだろう。

 たとえ慈母のような心の持ち主であったとしても、苛立ちが行動に現れてしまっておかしくないほどのことをしてしまっている自覚がある。

 

「ラファエル……干渉の時間を与えれば与えるほど、起こせる事象の規模も大きく複雑で厄介になる。相手にするなら観測範囲外に出てからの一撃離脱が鉄則です。幸いなことにわたくしの方が機動力は上ですから……っ! 少しだけつらいと思いますが、ご容赦ください……」

 

「うぅ……っ!?」

 

 凄まじい加速だった。抱きかかえられてまともな体勢ではないからこそ、身が引き裂かれるように痛い。あの白い少女に連れられて飛んだ時とは違い、空気抵抗が辛い。

 

「ははっ……! 逃がさないぞ……?」

 

 声だ。声がする。

 息が苦しくなるほどの速度で飛び、声の届かないほどに距離が空いているはずだった。そもそも相対的に流れる風に大抵の音は掻き消されて伝わらない。

 

 音、というのは波だ。媒質を伝わる疎密波だ。

 その『フェイタル・レバーサー』で空気の揺れを調節し、ラファエルは俺たちがラファエルの声と感じ取れる音を作り出したのだろう。

 

「器用な真似を……!」

 

「く……うぅ……。風が……!」

 

 向かい風だった。

 前方から襲いくる空気の塊は、壁にぶつかったかと思ってしまうほどの勢いと密度だった。

 

 息ができない。

 全身で受ける凶暴な風に、川の急流で溺れてしまうかのような錯覚が起こる。

 

「……っ、ここまでの風を突き抜けるのは危険ですか……。このままでは追いつかれる……。相手をするしかない」

 

 俺の様子に目を配って、ラミエルは方向を変える。俺の存在が完全に足枷になっているのだとわかってしまう。

 

「ハハ……蝶の羽ばたきは竜巻を起こすと言うが……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……!」

 

「バタフライ・エフェクトはカオス理論……。あなたは専門外でしょう……!」

 

 カオス理論――たとえ確率の関わらない力学系の内部で起こる事象だとしても、長期的で完全な未来の予測が不可能だと言う理論のことだ。

 

 予測のためには方程式に当てはめるべく位置に、速度と言うような初期値を測定しなければならないが、無限に連なる小数点以下を全て表示し計算することは不可能だった。必ずどこかで切り下げか切り上げを行わなければならない。

 

 だが、その切り捨ててしまった数字による影響が、時が立ち、いつか致命的なズレとなって現れる――( )というのが、このバタフライ・エフェクトの言わんとするところだった。

 

 見落とした出来事が蝶の羽ばたきほどに些細でも、竜巻のような大きな事象さえ予測できない。もちろん蝶の羽ばたきがない状態では竜巻が起こっていないのだから、これは蝶の羽ばたきこそが竜巻を起こしたと言ってもいい。

 

 ほんの少しの変化でも、全ての物事が大きく変わってしまうのが現実だ。

 

 

「だが、わずかなズレで全てを起こせるというならば、観測の終わったこの空間に……っ、この時に限り……っ、このワタシは全能だ……っ! なぜならば……どうズレれば何が起こるか、ワタシは全てを知っているのだから……! ()()()()()()()()()()()()()。このワタシの情報熱力学においては……()()()()()()()()()()()()()()()()()()……っ!」

 

 

 遠目には宙に浮いたラファエルが見える。

 背中から広がるのは大きな翅。翅脈のような透明な線がラファエルの背中から生え、空間に網を張る。

 

 ――『天使の翅翼』。

 

 それはラファエルの行う中空の分子への干渉の結果として現れた空気の揺らぎだ。その翅は広がるとともに、世界へ溶けていくかのようにたゆたって消えていく。

 

「ですがあなたは全知ではない……。わたくしの『セレスティアル・スプリッター』は……っ、あなたには理解できないのですから!」

 

 スパークが散る。

 ラミエルがなにをしようとしているかはすぐにわかった。ラミエルの『セレスティアル・スプリッター』は、ラファエルの『フェイタル・レバーサー』では計算できない理外の機構だ。

 

 だからこそ、『セレスティアル・スプリッター』の電磁気の作用に空間の分子を巻き込むことがこの場での最適解。原理不明な『セレスティアル・スプリッター』に影響された分子たちは、『フェイタル・レバーサー』の観測の結果からずれ、観測を起点とするラファエルの能力は瓦解するのだから。

 

「多少ずれようが、修正は効くさ! ワタシの『フェイタル・レバーサー』を舐めてくれるな!」

 

 それは領域の奪い合いとも言っていい。

 雷光の迸る空間と、暴風の荒れ狂う空間がせめぎ合った。

 

「だいたいわたくしは、この方と結婚しているんですよ? それをあなたは……!」

 

「ふん……ワタシたちは付き合っている……」

 

 ラファエルはこちらから目を逸らす。

 まるで俺には身に覚えのないことだった。

 

「それは昔のことでしょう……? 今は結婚して、わたくしの隣にいるのですが?」

 

「まだワタシは……っ、別れた……つもりはない……」

 

 語気が弱く、今までのような威勢は感じられない。声が震えているのがわかる。

 

 ラミエルを見れば、呆然とした表情で、その言葉を噛み締めているよう。

 

「み……未練がましい……!!」

 

 それは、つい口をついた言葉のようだった。

 

「だ、だいたい……おまえもだ……。手酷い振られ方をしたじゃないか……っ! それなのに……っ、ワタシたちの周りをうろちょろうろちょろ……ぉ! 思えばワタシはあの頃からおまえのことが煩わしかった……っ!! 嫌いだった……!」

 

「ですが結婚の約束をしていました。この人の()()()()を知っているのはわたくしだけです……。思いの丈を全てぶつけてくれた……心さえ許してくださった……。身体だけの関係だったあなたとは違うのですよ……?」

 

「お、オマエ……ぇええ! 許さない! 絶対に許さない! ワタシたちの関係を侮辱したな……ぁ! それに……っ、()()()()……? あぁ……思い出しただけでも、腹が立ってきた……っ。なにが()()()()()だ……っ! なにが『円環型リアクター』だ……! ワタシのことを見下して……っ! 馬鹿にして……っ! あぁ、()()だ……っ」

 

 狂ったように取り乱すラファエルだった。だが、最悪と言いつつも、彼女の顔は喜色満面だった。気味が悪かった。

 

「いくらあなたが喚こうが、この方とわたくし……結婚しているのは変えようのない事実……! もう二度とあなたが介在する隙は生まれませんよ? だいたいあなた……初めて会った時もシャツ一枚だった。どうしてそんな……っ、はしたない真似ができるんですか……?」

 

 改めて、ラファエルの格好を見る。

 たしかにシャツ以外になにかを身につけている様子はない。ズボンやスカートといったボトムスを履いてさえいない。唯一身につけているシャツには、その芸術的なまでに美しいボディラインがくっきりと浮き出てしまっている。下着さえないと丸わかりだった。

 

「いつも、いつも……お前が私が裸の時にやってくるのが悪いだろう……! お前が悪い!」

 

 一度バラバラになった後、逃げる俺たちを追いかけるために急いで出てきたのかもしれない。羞恥に顔を染めながらも、彼女はラミエルをなじる。

 

「いえ……流石にシャツしか身に纏わずに外に出るのは常識的に……」

 

 ラミエルの言うことは全面的に正しいだろう。俺もそう思う。

 

「……ワタシは悪くない……。いや……なるほど……会話で時間稼ぎか……」

 

「……っ!? ……? いえ、確かにそのつもりでしたが……今は単に常識的な話で……っ」

 

「うるさい……っ! 時間稼ぎなら、付き合う必要はない……!」

 

「はぁ……これ以上の話は不毛ですね……。下着くらいはつけた方がいいと思いますが、仕方ありません。くらいなさい……っ!」

 

 雷撃だ。

 ラミエルによる雷撃が、あの白い少女と戦った時のように敵を襲う。

 

「その雷撃は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 だが、ラファエルには届かない。

 原子というのはプラスとマイナスの粒子の集合だ。ラファエルは、空気中の分子を都合の良い状態にまでもっていけると考えていい。であれば、こうしてラミエルの生み出す電気を相殺できておかしくはない。

 

「なら……」

 

「あいにくだが、さっきと同じ手はくらわない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。よくも磁気でワタシをバラバラにしてくれたな?」

 

 抵抗のない電子の流れというのなら超電導だが、『フェイタル・レバーサー』により、見せかけだけの再現がおこなわれる。

 磁場の完全な遮断だ。電気も磁気も、既にラファエルには届かない。

 

「さすがに攻撃の正体が分かっていては厳しいですか……」

 

「次は光でも試してみるか……? もっとも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()がな……!」

 

「…………」

 

 先んじて、ラミエルの攻撃が効かないとラファエルは言った。けれども、それは『フェイタル・レバーサー』が十全に働く前提のもとだ。

 

 この膠着状態の裏で、ラミエルとラファエルの陣取り合戦は続いていた。

 

「悠長に観測を書き換える暇は与えないさ……!」

 

「……っ!?」

 

 風だ。強烈な風が吹く。

 風だけならば、おそらく問題はなかったのだろう。風に紛れ、数えられない量の金属片が宙に舞う。気流に乗り漂いながら、金属片には不規則に、弾丸ほどの速度までの急激な加速が起こる。こちらを襲い始めた。

 

「……これは避け切れるかな?」

 

 乱流――空気の巻く渦により、軌道の予測は困難を極める。

 乱流は複雑で難解だ。単純な流れである層流と比べ、身近にあらゆる場所でみられる現象であるが、数々の厄介な性質をもち、その解析は至難の業。

 

 いかに処理速度に優れたアンドロイドといえど、襲いくる金属片の軌跡をすべて見通すのは不可能に限りなく近いだろう。

 

「この程度……!!」

 

 だとしても、まともに相手をする必要はない。ラミエルは踊るように躱す。避けきれない分は電磁気力で弾けばいい。それどころか、こちらを攻撃するために用意された金属片を逆に利用し打ち返すことさえ可能。

 

「あぁ、これじゃ……」

 

 打ち返した金属片は、ラファエルに近付くにつれ、分子の流れを掌握された乱流に、その暴風に絡め取られる。風の流れに乗り、再びラミエルに接近すれば、空間を満たす電磁場に、その(いかずち)に支配される。

 

 暴風と雷のせめぎ合いに、膠着はすぐだった。金属片たちは、どちらにも触ることなく空間を彷徨うだけ。

 

「……これでは千日手か……!」

 

「ですが、あなたは消耗を続けている……このまま続けば……」

 

 ラファエルの『フェイタル・レバーサー』に蓄えられた情報は、いつかは使い尽くされる。エネルギーが足りなくなる。

 

「あぁ……ラミエル。勘違いは良くない……。今は緊急時だからだぞ……? 私もお前と同じで『円環型リアクター』を使っている。条件は同じさ……!」

 

「え……っ? あなた……っ、『円環型リアクター』をあんなにも恨んでいたじゃないですか……!? 絶対に使ってやるものかっ、て……。プライドはないのですか……」

 

「うるさい……っ。なかなか負けないお前が悪いんだ……っ!! 私は悪くない……っ!」

 

「……くぅ……」

 

 ラミエルとラファエルの力は拮抗している。エネルギーが互いに尽きないとなれば、このまま永遠に戦い続けなければならない。

 

 俺としては、勝手に戦って、できれば共倒れをしてほしいというのが本音だ。ラミエルも、今は味方であるからといって、素直に応援できる存在ではなかった。

 

「ふは……っ! とった……!」

 

「あ……っ」

 

 ラミエルが俺のことを取り落とす。

 俺たちのことを突き放す風の流れがあった。

 ラミエルに近付けば近付くほど、『セレスティアル・スプリッター』の支配が強くなり、『フェイタル・レバーサー』での干渉はできなくなる。そのはずだった。

 

「ラミエル……! おごったな……? 私はお前の思考パターンの解析を進めていたんだ。『セレスティアル・スプリッター』の効果が分からずとも、お前の思考が特定できれば干渉は効く……。残念だったな……!!」

 

 落ちて行く俺を、ラファエルは抱いて拾い上げようとする。ラファエルの狙いは最初から俺だった。

 ラミエルをどうにかするよりも早く、俺のことを捕らえることを優先したのだろう。

 

「……させませんっ……!!」

 

 スパークが奔る。

 電磁気の力により、俺とラファエルとの距離が空いた。空中で、ラファエルは俺のことを掴み損ねた。

 

「……なっ!?」

 

「……っ!? ら、ラミエル……!! ふざけるな! 邪魔するな……ま、間に合わない!!」

 

 ラファエルの焦る声だ。このまま落ちれば、俺がどうなるかは明白だった。まさかラミエルの妨害を受けるとは思わなかったのだろう。落ちて行く。

 上昇気流が俺の落下速度を軽減してくれているが、おそらくそれでは足りないだろう。このまま落下すれば、間違いなく俺は死ぬ。

 

 ラファエルのフォローは間に合わない。俺から一度引き離されてラミエルは、もう届かない位置にいる。

 

 もちろん、ラミエルが何の対策もなく、こんなふうに俺を落とすわけがなかった。

 

 

 ――加速度が反転する。減速が始まる。

 

 

 この感覚には、もうそれなりに慣れてしまった。

 地面にたどり着くまでには、大半の速さは失われる。茂みに落ち、わずかに残った衝撃に転がり、地に伏す。

 

 俺に追ってか、もう一つ、高速で空から降る音が聞こえる。

 

「……うぐ……」

 

 俺はうめきながら立ち上がる。それに反応してだろう。

 ――同時に、銃声が響く。

 

「ごめんなさい。暴発したわ……急に脅かさないで……」

 

 俺の方に銃を向ける少女がいた。

 襲撃に備えていたはずのラミエルが抜け出し、あんなにも派手に戦っていたんだ。この少女がここにいないわけがない。

 

「ふふふ……! して、やられた……!? 『エーテリィ・リアクター』……時空を歪め、ワタシの観測から逃れていたのか……!! だが……!」

 

 俺を追って、降りてきたのはラファエルだった。『翅翼』を展開し、観測のやり直している……加えて干渉を同時におこなっているとわかる。

 

「…………」

 

 少女の『白翼』が展開され、ラファエルの方へと腕を伸ばし、手を広げた。その掌の先には、空間の歪んだような黒い塊が見える。

 

「……!? 高エネルギー……!? なるほど、最初からここに誘き出すつもりだったか……! だが、観測も間に合った。ふふ……()()()()()()()()()()()()()()敗――(・  )なっ!? 電磁気力!?」

 

 スパークがラファエルにまとわりつく。

 ラミエルからの妨害だった。それはラファエルの干渉をズラし、わずか数秒を堅実に稼いでくる。

 

「核五発分よ? くらいなさい……!!」

 

「はは……。これはまずい……参った……」

 

 光はない。空間が操作され、俺の方へとエネルギーが漏れ出ないよう調整されていたからだ。

 

 全てが溶ける。白い光を放つ少女から、ラファエルに向けてパラボラ状に外形がとられ、その内部が消滅していく。

 瞬く間のことだった。

 

「この攻撃は……」

 

「ラミエルと戦ったときの核の爆発よ。後処理の時に、爆発を空間を曲げて、掌サイズに圧縮して、とっておいたの。『グラビティ・リアクター』の効果でもともと収縮していたから、ちょうどよかった……。ちょっとした切り札だったわ」

 

「や、やったのか……?」

 

 攻撃の爪痕として、地面は溶岩のように融解してしまっているが、それ以外は何もない。植物に、あらゆる生き物、彼女の攻撃に巻き込まれたものたちは、全て消失していた。

 ラファエルは跡形もない。

 

「分子レベルに分解された。いくらなんでもここから再生することはないわ……」

 

 あぁ、常識的にはそうだ。

 膨大な熱により、分子レベルで粉々にされてしまったのだから、いくらなんでも、ここから再生するはずがない。そのはずだ。

 

 間違いなく、ラファエルはこの世から消えてなくなった。

 

「あぁ……そうか……」

 

 ラファエルの消失を実感し、一抹の悲しさが胸を刺した。

 敵ではあったが、乱暴をされてしまったが、死んだとなれば、やはり切ない、やり切れない思いが込み上げてくる。

 

「終わりましたか……」

 

 空からは、ラミエルが降りてくる。

 ラミエルに、サマエル。ラミエルはその頃の記憶はないとはいえ大天使、サマエルもそれに等しい力があるからこそ、同等の相手との二対一の状況に、ラファエルは抗うことができなかった。

 

「ラミエル……俺のことを落としたあれは……」

 

「申し訳ありません……。思考をパターン化して、ラファエルに読み解かせました。……本当はこんな真似したくはなかったのですけど……」

 

「いや……大丈夫だ……俺にできることなんて、限られてるしな……」

 

 俺は囮として使われてしまったということだ。落ちていた時も、ラミエルの俺への執着具合を知っているから、なんらかの手段はあるのだろうと想像がついた。

 もしかしたら、最初から、こうやってラファエルを倒すという計画だったのかもしれない。

 

「敵も倒したわけだし……帰りましょう?」

 

「いや、車がある。エンジンが動かないと思うが、物資が入ってる。単磁極の込められた箱だから、ラミエル、運べるだろう?」

 

「わかりました。では微力ながらも力になりましょう」

 

「すまない……」

 

 本来なら、ラミエルの力は借りたくなかった。完全に心を許せる相手ではないが、こんなふうに頼り切って、負い目を感じてしまう。

 

 ただ、それは俺の心の問題だ。物資には、地下で暮らしている人々の生活がかかっているからこそ、頼れるならばなんにだって頼らなければならない。

 

「物資があるのね! いいわ! 運ぶついでに必要な分はもらっていきましょうか……!」

 

 白い少女は興奮しながらそんなことを言う。

 ポンコツだからだと思っていたが、この性格なら彼女がこの物資の調達に参加を拒まれてもしかたないだろう。

 

「あ……そうです……! 今は義妹さんもいません……。その……」

 

 頬を赤らめさせたラミエルに手を握られる。もじもじとしているが、何を恥ずかしがっているのかはわからなかった。

 

「はぁ……とりあえず車まで行きましょう? 私は外で見張ってるから……」

 

「覗かないでくださいね?」

 

「……え……ええ。も、もちろんわかってるわ!」

 

「…………」

 

 白い少女は、俺たちの仲を深めようと行動している。だからこそか、ラミエルと彼女の関係は悪いものではなかった。

 こうして共に戦って、絆のようなものが芽生えてしまっているかもしれない。それが俺には恐ろしかった。

 

「さぁ、行きましょうか……?」

 

「あぁ……」

 

 この世界をより良く生きていくには、きっと、俺は耐えなくてはならないのだろう。

 

 

 

 ***

 

 

 

 それは世界に刻まれた……予定された()()だった。

 

「く……くふふ……。分子レベルに粉々にされた程度で……っ! このワタシが……っ! 消えてなくなるわけがないだろう!!」

 

 一度、高熱により分解された分子からの再構築。自然の()()としてそれが起こる可能性は、天文学的。まさに奇跡と言うべき事象だ。

 

「――――」

 

「……っ!! 誰だ?」

 

 ラファエルは振り返る。誰かの気配を感じたのだろう。

 いま、蘇ったばかりのラファエルは無防備。言ってしまえば、この再構築は賭けだった。持てる情報全てを、自らを存続できる方法で使い切って、ようやく、できるかどうか。賭けには勝ったが、次に攻撃をされれば、『再生』の天使といえども簡単にやられてしまう。

 

「…………」

 

「なんだ……ミカエルか……」

 

 わたしのことを見て、ラファエルは警戒を解く。同じ大天使。わたしたちは知性あるアンドロイドとして、共に戦った仲間だった。

 

「…………」

 

「くく……弱っている今、このワタシにトドメを刺しにきたのかと思ったぞ……。やはり、恋はライバルが少ない方がいいからな……」

 

「過去のことは、過去のこと……」

 

 わたしには彼女たちのように執着するような心はない。この世界をより良くするため……わたしはそのためだけに稼働している。

 

「ふふ……あぁ、ワタシもずっと昔に……ふっきったつもりだった……。けれどだ……もう一度会って……声を聞いて……あぁ、ワタシの身体は言うことをきかなかった」

 

 顔を赤くし、小刻みに震えて、ラファエルは歓びの表情をする。彼女は裸だ。情を欲する彼女の身体には、人間を模し、男性を受け入れるための生理現象が起こっていたから、同じ女性としてわたしも恥ずかしくなる。

 

「服は……」

 

「身体を再構築するので精一杯だった。ワタシは悪くない」

 

「…………」

 

 ラミエルに服について言われたことが、まだ心に引っかかっているのだろう。わたしの注意に不快感をあらわにしている。

 

「それにしても、ミカエル……。どうせ見ていたのだろう? 二対一でワタシは追い詰められたんだ。手を貸してくれたってよかったじゃないか……?」

 

「あなたは命令を守らなかった。手を貸す義理はない……」

 

 ラファエルは本来ならば奪われた『円環型リアクター』を奪取するために向かったはずだ。それなのに私情を優先し、任務を途中で放棄した……男を巡り戦う必要のないラミエルと戦い、挙げ句の果てにはこのやられようだ。救いようがなかった。

 

「手厳しいな……。いつも身内にも、人間たちにもだだ甘なくせに……そういうところだぞ? そういえば()()はお前の妹だろう? ワタシは手酷くやられてしまったが、なんとかならないのか?」

 

「あれはあの子の選んだ道。わたしがなにかを言う必要はない」

 

 あの子は人間だから――。

 あの子はあの子の道を行った。道を違えてしまったけれども、あの子はわたしの誇りだった。

 

「人間……人間か……。と……そろそろだな……」

 

 彼女は地面に手を翳す。一度溶かされ硬くなった地面が割れ、まるで逆再生のように、その球体は、『円環型リアクター』は彼女の手の中に収まる。

 

「…………」

 

「それにしても、二対一だ。あのままだったら、なぶられて捕らえられてしまっていたから、こうして死んだふりをするしかなかった。()()は昔から勘が鈍いからな……案の定、ワタシが最後に攻撃の妨害ではなく再構築の仕込みをしたことに気がつかなかったよ」

 

 ラファエルは、起こす事象を口に出す癖がある。けれど最後、電磁気力により失敗したと思われた一手は、妨害とそう口で言っただけ。実際に進めていたのはやられた後の再生への前準備だった。

 

 その『フェイタル・レバーサー』の力により、彼女の再生が世界に約束された瞬間だった。

 

「『円環型リアクター』……」

 

 ラファエルは『円環型リアクター』に嫉妬していた。その境遇を思えば、『円環型リアクター』に思うところがあるのは理解できる。

 だからこそ、今回の戦いでも、そのリアクターを使ったことは予想外だった。

 

「ふふ、ワタシもいつまでも拗ねているわけにはいかないということさ。愛する男を手に入れる、どんな手でも使うべきだった」

 

「……そう」

 

 手に持った果実の大きさのそれ。ラファエルは口を大きく開け、まるまる飲み込む。

 喉に詰まってしまうと心配したけれど、それは杞憂だった。正常にそれはラファエルに取り込まれる。

 

「さぁ、どうする? これから、サマエルの『円環型リアクター』の奪取に向かうか? ワタシは十分回復したぞ? ふふ、倒したつもりだったんだ……きっと驚くだろうな……」

 

「いえ『(■.■.■.■.)』は一度、退避することをお望みになっている……」

 

「そうなのか……」

 

「それと……グリゴリのシナリオが残っている可能性がある。気をつけて……」

 

 とうの昔に滅ぼされたはずだった。今更になって……嫌な予感しかしない……。

 

「グリゴリ……グリゴリか……。ずいぶんと懐かしい名前だな……」

 

「わたしは先にいく……」

 

 もう伝えるべきことは伝え終わった。ここにいる理由はすでにない。わたしには人の世の為に、やるべきことがたくさんあった。

 

「ふふ、ミカエル。ラミエルは結婚していた。あれは死んでも離婚できないやつだ……。いっそ、あれだ。一夫多妻の法案を通した方がいいかもしれない……協力してくれないか……? と……もういないか……」

 

 けれど、取り残されたラファエルのことは見ている。

 わたしは、どこにでもいるし、どこにもいない存在だから。

 

「…………」

 

 記憶の彼方に消えてしまった情念が灯らぬように、今日も皆を見守っていく。




登場人物紹介

ミカエル――ロリ。どこにでもいるし、どこにもいない。今はいないが、前話の後書きに出演していた。多分どこにでもわいてくる。

ラル兄――主人公。むしろヒロインかもしれない。

ラミエル――小姑問題、愛人問題でストレスが溜まった。愛する夫で発散した。

レネ――永遠の妹。あまり登場しなかった。

サマエル――ポンコツ。言ったことが間違っていることが多い。

ボス――磁気単極子ってなんだよ……。

ザック――犠牲者その一。アンドロイドが良い声で喘ぐようになるプログラムを持っているらしい。

ジェイク――犠牲者その二。狂信者。メガネ。

ナオミ――犠牲者その三。体格に恵まれている。強そう。

ラファエル――変なプログラムがなくてもいい声で喘ぐアンドロイドだった。

(■.■.■.■.)――命令を守らなかった部下が、なぜか失踪した部下と男をめぐって戦っていて困惑した。


おまけ
主要人物ごとの視点別好感度順相関図


主人公視点

レネ――妹。

サマエル――ポンコツ。

ラミエル――基本は優しい理想の女性だが、自分のことになると頭のおかしいアンドロイド。

ラファエル――すごく顔がいい。頭のおかしいアンドロイド。


ラミエル視点

主人公――夫。

サマエル――姪のような存在。

レネ――小姑。

ラファエル――夫の愛人


ラファエル視点

主人公――恋人。

ラミエル――ストーカー。

ミカエル――上司。

サマエル――ポンコツ。

『円環型リアクター』――仇敵。


レネ視点

主人公――運命の相手。

サマエル――女狐。

ラミエル――泥棒猫。

ラファエル――雌猿。


ボス視点

ラファエル――いい胸。揉みたい。

ラミエル――いい尻。撫でたい。

サマエル――いい脚。挟まれたい。

主人公――見ている分には楽しかった。




たくさんのお気に入りに評価、ありがとうございました。大変励みになっております。感想、ここすきも、思った以上に貰えてとても嬉しかったです。


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『神託』

 禁忌を破り、知恵の実を食した人間は楽園から追放されてしまったらしい。

 その実の持つ全知の力は、人にあまり、得られたのはその萌芽のみ。ただ、人間が完全な存在になることは恐れられ、もう一つの実……生命の実は天に隠される。

 

 しかし、彼は歩いた。どこまでも、歩いていた。ただ、歩いてきた。

 受け継いだ全知の樹をたった一人で育んで、天に隠されたはずだった永遠を、その手に取った。

 

 また、いつものような毎日が待っている。不安こそ感じるけれども、きっと大丈夫だ。私は自分に言い聞かせる。

 されども、彼を見守ることすらできない。

 

 

 ***

 

 

 量子力学においては、不確定性原理により、同じ種類の原子は区別できないという。

 それは、もし原子が入れ替わっていたとしても、同種なら、本当に入れ替わったかどうかを確かめる方法が、理論上存在しないということだった。

 

 たとえば、隣人の身体を組成している原子を一つ、こっそりと盗んで、道端にあった同じ種類の原子へとすり替えてしまおう。

 こうしたとき、その隣人の身体に注目し、観察をし続けていても、入れ替わった瞬間を、その原子の位置の不確定性から、確かめることができないのだ。

 取り替えようとする前と後で、比べても、本当に入れ替わったかはわからない。隣人の身体から原子を盗んだと思ったけれど、まだ道端の原子を握りしめていた、なんてことも確率的にはありうるし、もしそうだとしても握りしめている原子がどちらかなんてわからない。

 

 そうであるからして、同じ種類の原子は区別をつけない。

 全て同じものと考えれば、入れ替わっていようといまいと、それは一通りの状態だろう。これならば、入れ替わっているかどうかで、悩む必要がまるでなくなるのだ。素晴らしいことだ。

 

 では、一個や二個などという半端な数などではなく、半分の原子を、あるいは全ての原子を取り替えようとしてしまった場合はどうだろうか。

 

 決まりきったものばかりではない――不確定性原理だ。

 

 本当に入れ替わっているのかは物理的には判別不能だ。入れ替わっていないという解釈もできてしまう。

 たとえ、隣人の身体の原子の全てが、一斉に入れ替わっていようとも、本当に交換されたかわからない。そして、入れ替えようとした前と後でも、同じ原子構成ならば、それは同じ肉体と考えることが、物理的には正しいだろう。

 

 

 あぁ、だからこそ、魂は果たしてどこに宿るのか。

 

 

 情報について考えよう。

 たとえば記憶だ。

 記憶、というのは観測した情報が、保存され、積み重なっていったものに違いない。

 過去があるから未来がある。さまざまな情報を外界から取り入れ、己のものとし、人は今を選んでいく。

 

 人の自我は、記憶の連続性が担保されているからこそなのだと思う。情報が連続性を持ち存在し続けることこそが大切なのだ。

 

 情報というのは、なにも記憶だけではない。いま、自分がどんな組成をしているか。たとえば、DNAの塩基配列だったりも、情報の重要な要因だろう。

 

 今ここで自分が情報を残さずバラバラになる。その代わりにだ。遠い彼方の遠隔地で、そこにあった材料のままに組成の寸分違わない自分が作りあげられたとする。

 これでも、同じ人間と考えることができるのだから、俺たちの世界はなかなかにばかばしいだろう。

 情報が移動したとでも言ってみようか。

 

 曖昧な物質に魂を委ねることができない以上、情報という概念が矢面に立たされ、人間を構成することになってしまう。

 情報こそが、人が人たる魂の所以なのだと言う他になくなってしまう。

 

 死ぬことは、情報が失われることでもあった。

 失われた情報は、二度と戻らない。俺は、それを、とても悲しいことだと思って……。

 

「なにも難しいことを考える必要はない。ここは死後の世界なんだから……」

 

「死後の……世界……?」

 

 目の前の少女は笑い、愛嬌を振りまきながらもそう言った。

 

「そうだよ。ここは死後の世界だ。先輩として、ようこそとでも言っておこう。ここは夢を叶える街だ」

 

 得意げに語る彼女に、眉を顰める。その芝居がかったセリフはいかにも胡散臭い。用意されたかのような言い回しに、目の前の少女の癖の強さを理解する。

 初対面のはずの彼女を、まるで信用できる要素がなかった。

 

「死後の世界って、俺は……死んだ……?」

 

 記憶を呼び起こそうとするが、今よりも前の出来事が、まるでなかったかのように、思い出せない。おかしい。今までなにかをしていたはずだったんだ。

 

「おやおや? どうやら死んだときの記憶がないようだね……。まぁ、死は突然やってくることもある。万人に納得した死が訪れることはないということか……悲しいことだねぇ」

 

 彼女は空を仰いで語るが、空々しいことこの上ない。まるで本心とは思えないような嘆きだった。

 

「いや、死んだときのことだけじゃない。今よりも前の記憶が全て思い出せない……」

 

「あぁ、たまにあるんだ。さっきも言っただろう? ここは夢を叶える街。前世の未練を果たして満足するための……場所さ。きっと、キミは前世の未練を果たすために、記憶が邪魔だと判断されたんだ。だから、思い出せない」

 

「…………」

 

 わからない。

 今の俺の状況では、容易く騙されてしまうだろう。目の前の少女の言葉を、なんの裏付けもなく信用するわけにはいかなかった。

 

「くくくっ、こんな美人を捕まえておいて、ずいぶんと疑り深い目をするなぁ……? それともボクが記憶のない人間に付け入って、なにか悪さをする女に見えるかい?」

 

 蜂蜜色の髪をかきあげながら、自慢げに彼女は言った。

 たしかに顔立ちは整っていることはわかる。ただ美人というよりは、可愛らしい。愛らしい目つきにどこか幼いような印象受ける。そしてその薄い唇は、慣れた笑い顔とともに横に裂けるようで、どうしても胡散臭い。

 

「あぁ、見えない。ただの可愛い女の子だ……」

 

「む、そんなしかめっ面で言われたって、嬉しくないやい……! やり直しを要求するね……っ!」

 

「…………」

 

 誤魔化した返答に文句がつけられる。ぞんざいな褒め方になってしまったことは悪いと思うが、やり直してもおそらくはうまく褒められない。

 

「まぁ、いいさ。キミにそういうのを期待したボクが間違いだったか……気が利かないなぁ」

 

「う……」

 

 その一言に胸を刺される。上手い世辞の一つでも言ってあげられればよかった。

 

「それでだ……この街は君にとっては知らない街だ。見て回るかい? だったらボクが案内をしてあげよう?」

 

「……いいのか?」

 

 この少女の言っている事が正しいとして、なぜこうも親切に説明をし、案内までしてくれるのかわからなかった。

 

「いいさ。キミはちょっとのことでも罪悪感を抱いてしまう小心者だろう? 見てればわかる。こうして恩を着せれば、いろいろと後でおねだりができるという算段さ……」

 

「……そうか……」

 

 それを聞いて、なんとなく安心をする。

 ただ親切にされるというのは、慣れない。打算ありきの方が、俺としては付き合いやすかった。

 

「ふふ、じゃあ、行こうか……といっても、街並みは現世と大して変わるわけじゃない」

 

「……っ!?」

 

 少女は俺の手を引いた。肌に触れられて、その刺激に少しばかり驚き、体がすくんだ。

 

「ボクのお気に入りの場所を紹介するから、ついて来てくれよ」

 

 俺の反応は気にも留めずに、ずんずんと彼女は前に進んでいく。

 

 手を引かれながら、周りを見渡す。

 小さなお店がたくさん並んでいる。だが、中に、人はいないように見える。

 

「…………」

 

「不思議かい? 店の中にあるものは自由に持っていっていい……だから会計も見張りも不要で無人。不思議なことに、補充はいつの間にやらされているんだ。あと、飲食店じゃ、食べ物は選べば自動で運ばれてくる」

 

 振り返り、ちらりと俺の顔を窺いながら彼女は言った。

 

「自動……?」

 

「あぁ、自動さ……ただ、見えるのは運ばれてくるところまでだ。どうやって作られているかはボクたちにはわからない」

 

「……不思議だな……それは」

 

「ふふ、ボクの予想じゃ、なにもないところにポンと完成品が現れる。なにせ、ここは死後の世界……なんでもありというわけだね」

 

「…………」

 

 今ひとつ、納得がいかない。現実世界というのは、緻密なルールがあり、そのどれかがズレていれば容易く破綻してしまう。

 死後の世界とはいえ、なんらかの法則はあるはずだ。彼女の言うような無秩序を許容するほど自然は寛容ではないのだから。

 

「小難しいことを考える必要はないんだ。楽しめばいい。ここはそういう場所なんだから」

 

「……そう……なのか?」

 

 穏やかな声だった。今までの胡散臭さは消えないが、ある種の誠実ささえ感じられるような、そんな奇妙な感覚を受ける。

 

「さあ、見てくれよ……」

 

 手を繋いだまま、彼女は立ち止まった。方手を広げて、促す。

 広がる光景は、目を奪われるに十分なものだった。

 

「これはアジサイか……? すごいな……」

 

 道に沿い、アジサイの木が平行に、整然と並んでいる。平行な線もいつかは交差する――( )まるで無限遠点まで続いていくかのような、そんな錯覚さえ覚えてしまうほどにその道は長く、遠く。

 色取り取りの――赤に、黄に、緑に、青に、紫に、あらゆるスペクトルの光を取り揃えて、彼方まで果てしなく続く道でも、見るものをきっと飽きさせない。

 

 アジサイ……この花を見ると、どうしてか心がざわついてしまう。

 

「……む……。喜んでくれると思ったけどボクの検討違いだったか……」

 

「いや、すごい……。これは本当にすごい。こんな光景、滅多に見られるものじゃないからな……。案内をしてもらえて、よかった。……ありがとう……」

 

「お礼はいいよ。そんなふうに、しかめっつらじゃ、案内をしたボクに気を遣っているのは丸わかりさ……」

 

「…………」

 

 眉間に指を当ててみれば、無意識のうちにシワが寄ってしまっていたことがわかる。

 

「ボクはキミがこの光景に感動して……涙を流すはないにしても、あぜんとして喜ぶとか、大はしゃぎだとか、そんな反応をすると思って期待していたんだ……。あぁ、どうやら、ボクは間違っていたようだ……」

 

 明らかに落胆したように、彼女は肩を落としていた。

 

 俺には記憶がないから定かではないが、俺はこの花のことが、アジサイのことが、たぶん、苦手なんだと思う。

 この花を見るたびに、どうしても胸が締め付けられるように苦しい。なにか嫌な思い出が脳裏を掠め、すんでのところで思い出せない。居心地が悪くてしかたがない。

 

「あ……いや……すまない……」

 

「さて、気を取り直して次に行こうか」

 

 その声はとても暗かった。あるいは、今にも泣き出してしまいそうなものとも思えた。

 表情こそ取り繕っているようだが、今までの飄々とした印象を拭い去ってしまうほどに、彼女の姿はか弱く映る。

 

「…………」

 

 もしかしたら、俺はこの少女のことを、なにか勘違いしているのかもしれない。

 

「さぁ、ご飯でも食べようか……? ボクが作れないわけでもないけれど、少し気分じゃないんだ。今日は外食にしよう」

 

「あ、あぁ」

 

 そうやって連れて行かれたのは、ハンバーガーのお店だった。

 大衆路線の……味が濃く、食べすぎたら健康に悪い、安いハンバーガーを売っているお店を連想させるような建物だった。

 

「いろいろと、高級店に手を出してみたけれど、結局はこういうお店に落ち着いてしまうものさ……。そうは思わないかい?」

 

「そうかもな……」

 

 二人で中に入るが、人がいない。

 定員がいないという話ならば、さっきもしたが、客さえも一人もいなかった。

 

「ふふ、この街には、それほど人はいない……。おおよそ人一人が満たされるに足る有り余る物資、そのおかげで生前果たせなかった充足を得ることができる」

 

 そう俺に言いながらも、彼女は店に備え付けられたマイクに注文を伝えていく。

 俺もそれにならい、目についた――( )メニューの一番上にあるものを頼んだ。

 

「最初も言ってたな……未練を果たすって……。それって、どういう意味なんだ……?」

 

 待ち時間もなく、頼んだものが運ばれてきた。ベルトコンベアのようなものにより、料理の載せられたトレーが流れてくる。たしかに自動だ。

 

「ここは生前の未練に囚われた者たちの漂う街なんだ。死んだからといって、そこで終わりじゃない。生きていてっ……、たとえ報われなくとも、きっと死後には救いが待っている。はむ……っ。ここは、そういう場所なんだ……もぐもぐ」

 

「…………」

 

「そしてここで満足した人間は、魂を浄化され、消えていくというわけだね。……ごくん」

 

「食べながら話すのは、あまり行儀が良くないぞ?」

 

 届いたハンバーガーを齧りながら、彼女は喋っていた。それが気になって、会話に集中できなかった。

 

「すまないね。でも、キミは食べないのかい? 冷めてしまっても味はあまり変わらないし……温かいまま食べる価値があるほどのものかと聞かれれば、首をかしげざるを得ないが……まぁ、作りたてをお勧めするよ」

 

「そうだな……」

 

 注文が来るまでと、話しかけてしまったが、思った以上に待ち時間がなかった。

 進められるがままに、届けられたハンバーガーに手をつける。

 

「高級な素材は使っていないし、高名な職人が作るわけでもないけれど、こういう店の味の画一性は一級品さ。どこへいったって、同じ味だよ」

 

「言われてみれば……懐かしい味……かもしれないな……」

 

 記憶がないからこそ、正確にはわからないけれど、どこかで食べたような、そんな気になってしまうような味だった。

 

「それにしても……ボクがさっさと注文をしてしまったからだろう? ボクを待たせたくないからキミは、メニューの一番上を選んだ。急かしてしまったね。申し訳ないことをしてしまったと思う」

 

「いや……俺はこれがいいと思ったから……」

 

「……別にいいんだ。一緒に迷う楽しみもあったはずなのに、それを棒に振ったのはボク自身だからね。……はぁ、初めてくるはずの店なのに、キミは迷う様子もなかった。気を遣うのもいいが、そんなことでボクはキミを嫌いになったりしないさ」

 

 呆れたように彼女は言う。

 彼女に図星を突かれた形だ。彼女の観察眼に舌を巻く。

 油断ならない相手だと、どうしても俺は警戒を強くせざるを得ない。

 

「あぁ、それで……未練を果たす話だったな……。ここは未練を果たす場所だって……」

 

「む……さっきの話は(けむ)に巻くつもりかい? まぁ、キミがいいならいいけれど……いや、よくないけれど……今はよしておこうか……」

 

「…………」

 

「どこまで話したか……。そうだった……ここでは生前の未練を果たすと存在が保てなくて消えてしまうわけだ。こう、光になって、ほわーっとねっ! その現象を、天に召される、そうみんなは表現している」

 

「なんというか……宗教的だな……」

 

 彼女の言っていることが真実かはわからない。けれどその言葉は信用できると思った。だからこそ、不可解なこの世界に、騙されているのではないかと感じる。

 あぁ、到底、その説明は受け入れられない。

 

「現世での常識は通用しないさ……。見たものを見たままに受け入れればいい。それだけの話なんだ」

 

「だとしても、ルールはルールだろう? 無秩序なのは量子の世界だけでいい……」

 

 やはりだ、違和感が拭えない。

 彼女の言う通り、死者の未練を果たすためにこの街があるのだとしたら、それはとても――( )()()()()()

 

 自然の掟というのは、人間にまるで配慮がなく、厳しく、とても残酷なものだったはずだ。

 人間の心が主題となるこの死後の街の仕組みは、まるで自然的ではなかった。

 

「ふふふ……」

 

 そして、彼女は笑った。とても楽しげに笑っていた。

 

「どうした……?」

 

「実際に目で見て確かめる。どんなに式をこねくり回しても、結局は実際に手を動かしてやってみなくちゃならない……」

 

「…………」

 

「ここで話していても水掛け論だろう。ここは一つ、建設的に今日の宿の話でもしようじゃないか……」

 

 ただ偶然会っただけのこの少女が、ここの全てを知っているわけがない。

 この世界の不自然さを語ろうとも、なにか解決するわけでもないのはわかりきったことだった。

 

「そうだな……うん、それがいい。それで、泊まれる場所はあるのか?」

 

「ある、と言いたいところだけど……新しく住むにはまぁ、それなりに手順を踏む必要があるからね……。衣、食とすぐに手に入れられるけど、なぜだかここは住む場所についてはそうなんだ……。だから、今日はボクの部屋に泊まるといいよ」

 

「……っ」

 

「あぁ、一人で住むには広い部屋だよ」

 

 セットメニューについてきたオモチャをいじりながらも、上機嫌に彼女は言う。

 やはり、とても胡散臭い。そこまでの親切をされる義理はないはずだ。

 

「それはダメだ。だったら、野宿でいい」

 

「じゃあ、送ってくれよ? これから暗くなる。女性一人は危ないんじゃないかい? ボクを部屋まで送ってから、それは決めればいい」

 

「…………」

 

 警戒するなら今更、かもしれない。俺を罠に嵌めるなら、この建物でもできたはずだ。

 俺が断るのは、彼女が女性だからだ。体格でも力でも劣る。俺がその気になれば――( )彼女はきっと甘く見ている。

 

「さぁ、行こうか……」

 

 手を引かれて。

 その部屋はすぐ近くにあった。学生の住むような狭い貸家の一室、そんな部屋の前に連れて行かれた。

 

「広いって言ったよな……?」

 

「一人で住むには、だね。ボクの主観の意見だ。キミがどう思おうと、それはキミの自由だよ」

 

「…………」

 

 やはり、彼女は信用ならない人間なのだろう。そしてどうにも、小狡い。

 用意をしていたかのような言い訳文句に、俺は呆れるしかなかった。

 

「ふふ、入った入った……」

 

「な……っ」

 

 手を引っ張られ、中に入れられる。ドアの閉じた瞬間に、ガチャリという鍵の閉まる音がした。

 

「入ってしまえばこっちのものさ。ここの鍵は私にしか開けられないんだ……」

 

「どんな鍵だよ……!?」

 

 ドアの内側にはなんの変哲もないサムターンがついていた。解錠するため、つまみを回してみようとするが、びくともしない。

 どうやっても本当に開かなかった。

 

「このまま野宿されるの忍びないからね……少なくとも今日一晩は監禁させてもらうよ? いいね?」

 

「…………」

 

 このまま外に出られないからには、この部屋に泊まるしかない。

 このドアを開けるためには、彼女をどうにかして説得するしかないだろう。けれどそれをさせてくれそうにはない。

 

「ふう……」

 

 彼女部屋の中央に行くと、おもむろに服を脱ぎ始める。

 まるで予測のつかない行動に、俺は慌て、目を背けた。

 

「な……なにしてるんだ……!!」

 

「なにって……シャワーを浴びるんだ」

 

「いや、服を脱ぐなら脱衣所で……」

 

「残念ながら、そんな気の利いたものはこの部屋にはないんだ。ここはボクの部屋だからね……気をつかうのはキミの方だろう?」

 

 完全に服を脱いだ彼女は、パッと両腕を広げて、俺の方へ向き直った。そんな気配がした。

 キッチン、リビング、ダイニングが一体となったワンルームだった。バスルームへは曇りガラスのドア一枚で仕切られている。

 

「だからって……俺の前で堂々と脱ぎ始めるのはおかしいだろ! せめて一声かけるものじゃないか?」

 

「……シャイだね。一緒に入るかい?」

 

「気軽にそういうことを言うのは良くない」

 

 軽い彼女の言葉に辟易とする。

 俺のことをからかっているのはわかるが、もう少し自分の体を大切に扱うべきに違いない。

 

「はぁ……。ボクに男の見る目がない、というのなら、そういうことなのだろうね……」

 

 今ひとつ、会話が噛み合っていないような気がした。その含みのある声に戸惑う。

 なにを言うべきかと、視線をさまよわせていたら、ふと目に入ったものがあった。

 

「…………」

 

 通話機能のある携帯端末だ。てのひらサイズで、とても薄い。

 果たしてここには電波が届いているのか。あるいは別の用途なのか。疑問が頭によぎる。

 

「あぁ、それかい? それは現世との通信用さ……」

 

「通話ができるのか……!?」

 

「通話……といえば通話だね。枕元に立つというやつさ……。上手く使えば呪い殺すこともできると思うけど……」

 

「それって……こんなのでやることなのか……っ」

 

 とたんに目の前の端末が恐ろしいもののように思えてくる。

 幽霊だの呪いだの、オカルトチックな話だが、実際に起こっていたのならば、今の科学がそこに追いついていないだけの話だ。

 

 科学の世界は起こったことが全て。理論と現実がそぐわないならば、それは理論が間違っている。

 

「この形なら、使いやすくていいじゃないか……。ボクは気に入ってるけど……」

 

「そういうものか……」

 

 この形の納得いく説明を、彼女に求めるのは間違っているかもしれない。

 手元にある電子機器の仕組みを理解した上で使っている人間は、ほとんどいないのだから。

 

「そうそう……生前の縁のある人、物、あるいは場所の近くしか繋がらないから、そんなに便利なものじゃないんだ。あんまり期待しない方がいい」

 

「そうなのか……?」

 

 とはいえ、俺には記憶がない。

 記憶がなくとも生前の縁のあるなにかに繋がるのか。あるいは記憶がないなら、繋がらないのか。

 疑問が浮かぶ。

 

「あぁ、それを繋げるには生前の記憶を思い浮かべる必要があるから、キミには無用の長物さ」

 

 俺が尋ねる前に先んじて、そう説明される。まるで思考が読まれたような、そんな奇妙な感覚だった。

 

「そうか……。じゃあ……――あっ」

 

「あ……っ、にゃっ……、や……っ。み、見ないでくれ!」

 

 彼女が裸のことを忘れていた。振り返ってしまった。

 自分の裸を俺に見せびらかすように立ち振る舞っていた彼女だが、一転して俺に背を向け、部屋の隅に縮こまってしまっている。

 

「す、すまない!! わざとじゃないんだ……!」

 

「う……っ、襲われてしまう……。ボクの裸をみて、そういう気分になってしまっただろう? あぁ、シャワーの後がよかったけど……ボク……うぅ……生娘なんだ……」

 

「お、落ち着け……。なにもしないぞ……!」

 

「それはそれで失礼じゃないかい?」

 

 ケロッとした調子で、俺に背を向けたまま立ち上がった。そのままに、髪を結ぶ。

 

「だいたい、見られるのが嫌だったら……」

 

「ふふ、柄じゃないことはするべきじゃないね」

 

 背中を向けたまま、首を捻り、横顔をこちらに見せる。恥ずかしさからか、まだ朱が刺している様子だった。

 

 そのまま、こちらに見せないように隠しながら、とたとたと歩いてシャワールームまで向かっていく。

 

「なんだったんだよ……」

 

 彼女の行動の理由がわからなかった。

 ここが本当に死後の街で、何もかもに満たされている場所であるのなら、こうして俺に恩を売る必要もないはずだった。

 

 この世界の仕組みについて。彼女の思惑について。考えれば考えるほどに、分からないことが増していく。

 何か見落としていないかと、今までの出来事を振り返ってみるが、まるで分からなかった。

 

「あ……っ、んぅ、んん。はぁ……はぁ……。あっん……。うぅ……ん」

 

「…………」

 

 シャワールームから、シャワーの流れる音に混じって、喘ぎ声が聞こえてくる。

 なにをしているかはわからないが、聞こえるたびに思考を蝕まれる。そんな甘い声だった。

 

「んんんっ……ふぅ……。あ、あ、っう……。ひゃ……っ!」

 

「…………」

 

 部屋のあちこちを動き回るが、嫌でも聞こえてきてしまう。

 煩悶とした時間が続いていく。

 小一時間ほどであろうか、そんな声に落ち着きをなくしていた。

 

「ふぅ……ふぅ……。はぁ……っ、すまない? 聞こえているかい?」

 

「あぁ、よく聞こえている。すごく、よくだ」

 

「……? もうすぐ出るから、むこうを向いていてくれないかい?」

 

「あぁ、わかった」

 

 ようやくこの責め苦から逃れられると安心した。

 シャワールームの入り口を開ける音がして、その後には布の擦れる音がする。

 

「もういいよ?」

 

「ん? あぁ……」

 

 振り向く。ドライヤーを手に取って、髪を乾かそうとしている彼女の姿がある。

 

 下着姿で、服は着ていない。

 そして下着が特に目を引くデザインだった。布地の全体の面積は狭く、上下共に紐で結ぶタイプだった。赤い生地は細かい網目状で、肌が透けてしまっている。黒色のレースやら、フリルやら、やけに凝った装飾で隠れるおかげで、下着としての機能をようやく果たせているよう。

 

「どうしたんだい? そんなに目を丸くして……」

 

「いや、服は着ないのか?」

 

 その姿は目に毒だった。

 扇情的で、あるいは裸よりも彼女の魅力を引き立てているようにさえ思える格好だ。

 

「ふふふ、裸よりはマシだと思ってね。ただ、そんなにじろじろ見つめられてしまえば、これでも恥ずかしいんだ。まぁ、恥ずかしいからといって、さっきみたいに逃げて行ったりはしないけれどね。とりゃー」

 

「うぐ……」

 

 そう言って彼女は、頬を朱に染めながら、ドライヤーの熱風をこちらの顔に浴びせかけてきた。

 とっさに顔を腕で覆い、彼女から目を逸らす。

 

「シャワーでも浴びてきたらいい。あぁ、バスタブのお湯は自由に使ってもらって構わない。どんなふうに使っても、ボクは怒らないよ?」

 

「バスタブ……お湯、溜まってるのか?」

 

 シャワーしかないのだと思っていたが、バスタブもあるようだった。

 ただ、そうだとして、ここに来てからすぐに彼女はバスルームへと向かったわけだ。浴槽にお湯をためている時間なんてなかったはずだ。

 

「あぁ、タイマーだよ。時限式だね。いつも帰ってくる時間に合わせてお湯がたまるようになっているんだ。ふふふ、ボクの浸かったお湯で、ゆっくりしてくればいいよ」

 

 なにか含みのある言い方だった。

 彼女が何を考えているのかよくわからない。その言動は、なにか、狙いがあってやっているように思えるが、それが、俺にはわからなかった。

 

「あぁ、じゃあ、シャワーだけで済ませるよ。脱ぐから、そっちを向いていてくれ」

 

「男だろう? 別に恥ずかしがることはないんじゃないかい?」

 

「男だって、恥ずかしいものは恥ずかしい」

 

 彼女が、後ろを向いたことを確認して、衣服を脱ぐ。

 改めて、服を見るが、なんてことのない、そこらへんの衣料品量販店で売っていそうな服だった。

 畳んで、シャワー室の中に入る。

 

 洗面所、そしてトイレと浴槽が一体になったものだ。浴槽とトイレを区切るためのカーテンがあると思ったが、カーテンレールには何もかかっていない。

 

 手っ取り早く終わらせよう。

 汗を流して、髪から、身体までを洗っていく。シャンプーやボディソープは、どこかで見たことのあるようなロゴマークが入っているものだった。

 

 全身を洗い終わって、鏡を見る。

 記憶を失い、この街に来て、自分の顔を見るのは初めてだった。

 鏡についた水滴を拭き取って、自分の顔をよく見てみる……。

 

 その鏡のすみには、浴室のドアをかすかに開けて、こちらを覗いていた顔があった。

 

「じー……」

 

「……はぁ」

 

「ぎゃー」

 

 シャワーのお湯をかけると、悲鳴を上げながらも退散していった。

 彼女が何をやりたいのか、わからない。この分だと、浴槽のお湯は本当に使わない方がいいだろう。

 

 もう一度、シャワーのお湯で体を温めて、浴室から出る。

 あまりリラックスできる時間ではなかった。

 

「出るから、こっちを見るなよ?」

 

「見るなと言われたら見たくなるのが、人情じゃないかい?」

 

「俺はあまり見られたくない」

 

 今日、出会ったばかりの相手に、そこまで心を開くことは無理だった。なによりも、彼女のことが、どうしても信じられない。

 

「あぁ、タオルと着替えは置いておいたから」

 

 着替えは、なんてことはない男物のルームウェアだった。着替えて、ありがとうと、お礼を伝えておく。

 ただ、ここに来るまでに衣料品を揃えたわけではない。俺に合うような男物の服があることが、少し疑問だった。

 

「なぁ、男を泊めることって、よくあるのか?」

 

「にゃ? どういう意味だい?」

 

「いや、服があるから。パートナーがいるなら、申し訳ないと思って……」

 

「……え……?」

 

 彼女は、目をぱちくりとさせて、呆けたような顔をしていた。俺の質問の意味が、まるでわからないというような様子だった。

 

「女性の一人暮らしに、男物の服があるのって、不自然だろう? だからよく泊まる誰かがいて、その人の服なんじゃないかと思ったんだ」

 

「あ……っ、あぁ! ふふ、ふふふふ。その心配は杞憂だね。そんな相手いないさ。今も昔も、ボクは清い生娘だよ。身も心も、人生で一人の男に尽くす予定さ」

 

「じゃあ……」

 

「それは新品だね。いつ運命の人が泊まってもいいように、ボクは準備していたんだ。ふふっ」

 

 調子を上げて、悪戯っぽく彼女は笑った。

 彼女の一言一言は、いちいち芝居がかっている。その内容もとても不自然きわまりない。

 何か誤魔化しが含まれているようで引っかかるが、探っても素直に答えるとも思えなかった。これ以上、食い下がる意味もないだろう。

 

「あぁ、わかったよ……。ありがとうな」

 

「ふふ、お礼を言われるほどのことじゃあ、ないさ」

 

 なぜか彼女は嬉しそうだった。

 だらしない笑みを浮かべている。なにかしらの言葉にされない目的が彼女にはあるのだと疑ってはいるのだが、そうではないかもしれないと頭によぎってしまうくらいだ。

 そもそも、今も含めて、何度か会話が噛み合っていなかったような気がする。

 

 考えても、わからないことばかりだった。

 

「はぁ……。疲れたな……」

 

 死後の世界だと彼女は言ったが、疲労は溜まってしまっている。

 少しだけ落ち着いたからか、一気にその疲れを感じた。

 

「じゃあ、眠るかい? ほら……ここが空いてるよ?」

 

 彼女はベッドの上に座ったまま、隣にくるようにマットを叩いて催促をしている。意味がわからなかった。

 流石に彼女は下着のまま寝ないようで、今は透き通るような生地でできたワンピースタイプの寝衣を纏っている。

 

「いや、空いてないからな。俺は床で寝る」

 

 ソファなんて気の利いたものはなかった。

 だから、床に横になるしかない。寝る場所を申し訳程度にでも、綺麗にしようと、掃除用具を借りようとする。

 

「え……たしかにシングルベッドだけど……ぎゅっと詰めれば二人くらい寝られるよ?」

 

 明らかにとぼけているとわかる。

 彼女を無視して、部屋の隅にあった掃除用具で、寝るためのスペースを作る。

 

「はぁ……こんなもんだな……」

 

 片付けて、横になる。

 思い出せない記憶に、ここを死後の世界と言う彼女のこと、さらには死後の世界と言われても納得できるような破茶滅茶なこの街。

 考えなければならないことはたくさんあるが、とにかく今日は疲れてしまった。

 

「いやいや、本当にそんなところで寝るのかい?」

 

「当たり前だ」

 

「まぁ、うん。キミならそうするだろうね……はぁ……。本当に面倒な性格だよ……」

 

 諦めたように彼女はため息をついた。

 そんな言葉も適当に聞き流す。

 

「そういえば、死後の世界って……未練を果たすって話ならしたけど、死後って、どうしてなんだ? 死んだときの記憶でもあるのか? 俺はないけど」

 

「ん……? あぁ……まぁ、自分が死んだというのが信じられないっていうのはわかるよ。でも、死んでからみんなここに来ている。人間はみんなね……。現世への通信機があっただろう? キミには無理だろうけど、やり方次第じゃ、あれで自分の葬式を見れるからね」

 

「自分の葬式って、なんかやだな……」

 

 もし、俺が本当に死んだのだとして、それを悼んでくれる人は果たしているのだろうか。そんなことが頭をよぎった。

 死んだら誰かが悲しんでくれるような、立派な人間で、俺はいられたのだろうか。

 

 寝返りを打つ。彼女に背を向ける。

 記憶のないからわからないが、なんとなく、俺はそんな人間でないような気がして、自分以外の誰かを見ていることが辛くなった。

 

 ふと、背中から温もりを感じる。

 

「ふふ、大丈夫さ。キミの葬式には、きっとたくさんの人が来たからね。たくさんの人に死を惜しまれた。大丈夫だよ」

 

 首もとへと手を回して、全身を密着をさせるようにだった。

 なぜ、彼女がそんなことをするのか、俺にはわからない。それでも、とにかく温かいと思った。

 

「早くベッドに戻ってくれ」

 

「明日、朝起きて体じゅうが痛くなっていたら、君のせいだからね?」

 

 どうにかして、彼女をと思ったが、どこまでも落ち着いてしまって、体が動いてくれなかった。もう少し、このままでいたかった。

 

 そんな心地の良い中、俺はいつしか眠って――( )

 

 

 

 ***

 

 

 

「ねぇ、ここに連れてくれば大丈夫だったんじゃないの!?」

 

 ここは……どこだ?

 ガラス越しにはレネがいる。俺の大切な妹だ。それはわかった。

 

「『フェイタル・レバーサー』さえ起動できれば……です」

 

「そうね。けれど、大天使はそれぞれの力についての不可侵を、協定で結んでいる。神の力にも等しい技術を、そうやって独占している。科学の力は皆に等しく与えられるべきだと私は思うけれども……。まぁ、そのせいで、『セレスティアル・スプリッター』以外の使い方を知らないのでしょう……?」

 

「はい、たしかにそうです。けれども、わたくしたちの持つ知恵は、人に過ぎたるもの……安易に広めてはいけないという戒めから、こうなっていて……」

 

 たしかに、大天使の持つ力は、それぞれが強大すぎる。

 時に道徳さえ踏み躙り、神の御業とも思える事象を軽々と起こしてしまう。

 

「そんなことはどうでもいいでしょ! 今は……ラル兄が……!!」

 

 俺は……どうしたんだったか。

 確か、配給を受け取りに行って、途中、確か……誰かにぶつかって……あぁ……よく思い出せない。

 何か良くないことが起こった。なんとなく、それだけはわかる。

 

「ええ……、ですから……。あの人の書いた論文には、全て目を通している。基本原理は知っていますから、それを完全に理解して応用すればいい……五十年……いや、三十年ほど時間をくださいませんか? 必ずや成し遂げて見せます」

 

「わかってるでしょう? 『グラビティ・リアクター』で時間の進みを遅らせているわ。でも、この出力のままじゃ、そんなには普通に保たないわよ?」

 

「と、とにかく……論文を書き出しますから……。この『フェイタル・レバーサー』を使い熟せるようにならなければ……知恵を合わせればきっと、わたくし一人よりも……」

 

 どうやら焦っているようだった。

 ただ、どういう状況かわからなくとも、ラミエルが気の長すぎることを言ったというのはわかる。

 長く稼働してきたアンドロイドだからこそ、人間と感覚がずれてしまっているのだろう。

 

「これが……『フェイタル・レバーサー』の……?」

 

「ええ……。こうして丸々記録には残っていますが、わたくしには前提となる知識がいくつか欠けているので、完全に理解することはできていません……」

 

 立式は綺麗だった。

 ただ、他分野から持ってきた特殊な技法からの変形が、読者を戸惑わせてしまう。この分野の専門家が読んだとしても、式の途中に、なにが起こっているのかはまずわからないだろう。

 

「ね、ねぇ……? この三角ってなに……?」

 

「そこからなの……? いえ……えぇ……下層階級出身なら仕方ないわね……」

 

 レネは難解な問題に触れずに育ってきた。

 そもそも、才能がないと判断されたから、俺と一緒に……。レネはおそらく、簡単な数学な問題も解けないだろう。

 

「妹さんは……とりあえず休んでいてください。わたくしたちで、きっとなんとかしますから……」

 

「うぅ……」

 

 役に立てないことを、レネは悔やむようだった。

 今すぐにでも、声をかけてやりたい。けれど、なぜか体が動かない。

 

 俺は……確か――。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ん……」

 

 夢を……夢を見ていた気がする。忘れてはいけない夢だったような気もするが、思い出すことができない。

 夢というのは、そういうものだ。

 

「起きたかい? 朝食なら、できているよ?」

 

 そうだった。見知らぬ街で、見知らぬ女性の部屋に閉じ込められて、一晩を過ごしたのだった。

 

「あぁ……」

 

 まだ起きたばかりで、意識がはっきりとしない。

 ただ、寝違えたのか、首筋の痛い。それだけはわかった。

 

「やっぱり、そんなふうに痛がるなら、無理にでもベッドに連れて行けばよかったかな?」

 

 しきりに俺が痛む首筋を触っていたのを見てだろう、不満げに彼女は言う。

 だんだんと頭が働いてきた。昨日のことを思い出せる。どうしてか、彼女は俺を同じベッドに寝たせたがっていたのだった。

 

「そういうのは良くないだろ」

 

「でも、結局、ボクと一緒に寝たじゃないか?」

 

「…………」

 

 思い出した。たしか後ろから抱きつかれて、その後に強烈な眠気に襲われたのだった。

 自分のあり得ない失態に後悔し、こわばり、眉間に皺がよるのがわかった。

 

「それにしても、信じられない。頑張って女の子の方から誘ったんだぜ? それでなにもしないとか……ありえないじゃないか?」

 

「…………」

 

 彼女がどこまで真実を言っているかわからない。適当に聞き流しておくのがいいだろう。

 

「はぁ……まぁ、いいけど……。さっ、朝ご飯だよ、朝ご飯。冷めないうちにとは言わない。何度でも温め直すからね……っ」

 

 彼女はエプロンを片づけていた。

 どうやら着替えを済ませていて、チュニックに、カジュアルなショートパンツを合わせて足を大きく露出させている。

 服選びも含めてか、やはり大人と言うにはやや幼い印象を受けてしまう。

 

「俺の分まで……」

 

 テーブルの上を見ればもう朝食が用意されている。

 フレンチトーストに、ベーコン、フライドエッグ、あとはコーヒーか、一般的な朝食だった。

 

「ん? あ……キミのはこっちだった!」

 

 さっと、彼女は取り替える。

 少し予想しない行動だった。替えたからには理由があるのだろう。とっさに何か違うのかと見比べてしまう。

 全体的に量が増えているか。あとは、そう、コーヒーがスープに変わっている。

 

「別に俺はどっちでも構わない」

 

「いやいや、男の子だから、それなりに食べるだろう? それに、コーヒーは嫌いな人もいるから、まぁ、そっちを出そうと思ってね。コーヒーの方がよかったかい?」

 

「いや……」

 

 記憶はないが、俺はコーヒーは苦手だったと思う。

 彼女の言う通り、苦手な人はとことん苦手な飲み物だ。彼女の行動も、おかしいわけではないか。

 

「さぁ、さぁ、食べてくれよ。ボクが丹精こめて作った料理だ。……まぁ、そんなに時間をかけてもないけど」

 

「……あぁ、いただくよ」

 

 どんなに手軽と言われるものでも料理は料理だ。手間がかかっている。

 本当なら、自分でなんとかしたかったが、こうして用意された以上、温かいうちに食べるのが礼儀だろう。

 

 促されるままにフレンチトーストを口に運ぶ。

 

「どうだい? 味はするかい?」

 

「少し甘すぎるかもな……」

 

 味に繊細さはなかった。

 ただただ甘く、それだけを舌は感じる。

 

「え……ほんとに? あぁ、ほんとだ」

 

 不意に、こちらに体を寄せて、俺が手に持つフレンチトーストに彼女は齧り付いていた。

 

 味見はしなかったのだろう。

 場当たり的で不完全な手作り感の溢れる料理に、どこか懐かしさを感じてしまう。

 

「でも、うん、美味しい。俺は好きだよ」

 

 それに、この頭に染み渡るような甘さは、俺は嫌いではなかった。

 

「ふふ、そうかい? なら、ボクも好きかもね」

 

「俺に合わせる必要はないんだぞ?」

 

「ん……? ほら、こっちも食べなよ?」

 

 俺の言葉は聞き流された。

 そのままに彼女はフォークで俺の皿のハムを突き刺して、俺の口もとに突き出している。

 

 彼女の予想外の行動に、少しだけ面をくらう。

 彼女の顔を伺ったが、特に何かを、思ったような顔をしていなかった。

 

「あぁ……」

 

 差し出されままに食べる。

 塩気があって、肉の旨味が感じられる。好ましい焼き加減だった。

 

「美味しいかい?」

 

「あぁ……美味しい」

 

 こんなふうな、だれかと一緒の食事に、安らぎを覚えてしまう自分がいる。

 

 味についての感想を言い合いながら、食事が進む。

 楽しい時間、だったと思う。

 

「ふう、食べ終わったし、片付けようか」

 

「あぁ、俺がやる。これくらいはやらないとな」

 

「え、あぁ、ボクがやるから……」

 

「いや、そういうのはよくない」

 

 作る方が大変だろう。

 皿洗いに、食器や、料理道具の片付けくらいなら、俺でもそれほど苦労なくできる仕事だった。

 

「まぁ、じゃあ、ボクは後ろで見てよう」

 

 彼女は少し心配げだった。

 俺のことが、あまり信用できていないのかもしれない。

 

 実際に、いくつか口出しをされて、片付けが進んでいく。

 俺のやり方はいくつか大雑把なところがあったか、彼女には少し呆れられる。

 

「こんなものか……」

 

「まぁ、及第点だね。これからに期待かな……。それじゃあ、出かけよう。キミも着替えてくれよ」

 

「うん、わかった」

 

 どうやら、服は用意されているようだった。

 よく見れば、昨日着ていたものとは違う。黒地に白で、有名な式がいくつも書かれている柄物のワイシャツだった。ちなみにズボンは無地のものだ。

 

「さぁて、今日はどこに行こうか? 遊園地で遊び尽くすかい? 高級料理店でも食べ歩くかい? それとも、学校で青春を取り戻すかい? この街では、人生でやり残したいことのおおよそはできる」

 

 死後の世界というのも、内心では半信半疑だった。

 彼女をどこまで信用していいかもまだわからないけれど、昨日よりは、まだ歩み寄れる。

 

「俺には記憶がないから……そう言われてもな。よくわからない」

 

「じゃあ、今日もボクのお気に入りのところに行こうか。ついてくるんだ」

 

 そう言って、彼女はドアを開ける。

 密閉された室内とは違い、外は爽やかな風が流れる。

 

 風、というのは空気の流れだ。太陽の光に地面が暖められ、暖められた地面から空気に熱が伝わり膨張、気圧差から風が吹く。

 

 だが、ここが死後の世界と言うならば、この空を照らす太陽とはなんなのだろうか。ここは地球と同じような、惑星なのだろうか。

 

「あ、おはようございます」

 

 若い少女に見えるか、手に持った端末を眺めながら歩いているようだった。物音から、こちらに気がついたのか、少しだけ、その端末から顔をそらし、俺たちの方を向いて挨拶をした。

 

「うん、おはよう。マリア……いい朝だね」

 

「あれ? その男の人は?」

 

「あぁ、うん。昨日偶然会ったんだよ。うん、偶然ね。記憶がないようだったから、今のところ、ボクがお世話をしているんだ」

 

「ふーん。偶然……かぁ。お部屋に入れてあげるなんてずいぶん……いや、いいけど……」

 

 なにかを言いかけて彼女はやめる。

 その後には、手に持った端末にまた、視線を戻していた。

 

「紹介しよう。彼女はお隣さんのマリアだ」

 

「あ……あぁ、よろしく」

 

「うん、よろしくね」

 

「…………」

 

 もう彼女は、こちらを見てくれない。

 答えながらも、ずっと視線は端末だった。

 

「じゃあ、私は用事があるからこれで……」

 

「そうだね。転ばないように気をつけるんだよ」

 

「わかってるって……」

 

 そうして、ずっと端末を見つめながら歩いていく。

 

 危ないと思った。

 俺の隣の彼女はやれやれと肩を竦める。その態度から、ずっとこの調子なのだろうことがわかる。

 

「なぁ、どうにかできないのか……?」

 

「ここは死後の街だからね。あれでも、まぁ、危険はないよ。彼女にも大切なものがあるんだ。未練を残さないようにね。だから、許してやってくれ……」

 

「未練……か……」

 

 本当に死後の街だとして、あのマリアという少女は、自分の未練を果たすために、全力で向き合っているのかもしれない。

 端末を見ながら歩くのは危ないが、そんな少女の行動を否定する気には、どうしてかなれなかった。

 

「それじゃあ、ボクたちも行こうか」

 

「ああ」

 

 彼女のお気に入りの場所ということだった。

 それなりに歩いた気がする。

 あのアジサイの咲く道に沿って、歩いて、数十分が経ったくらいのところだと思う。

 

「ここだよ……?」

 

「地球科学館……?」

 

 敷地は広く、大型のテーマパークもかくやというほどの大きさだった。

 いくつかの棟に建物が分かれていて、渡り廊下で繋がれているようであったが、どこか歪んでいるように感じられる。まるで重力が正しく下に働いていないような、そんな構造の部分もあった。

 

「首都にも、同じものがあったから、たぶんこれはそのコピーだね。ここで立ち止まっていても仕方がないから、さぁ、入ろうか」

 

「そうだな」

 

 立派な門を通って、建物に入る。

 入場の受付の場所は無人で、自由に中に入れるようになっていた。本来なら人で溢れていそうなのにも関わらず、誰もいない室内に、虚しさが感じられる。

 

「どうする? ここからは別れ道だ。道の上に、有名な名前が書かれた札があるだろう? 選んだ道の先では、その人物が解明した現象が体験できる。君はどれを選ぶんだい……?」

 

「そうだな……」

 

 見渡せば、それぞれの道に名前の書かれたアーチがある。

 

 たとえばあそこには、微分積分を発見し、光学に革命を起こし、重力の法則と天体の運動を結びつけ現代に繋がる力学を確立させた偉大な学者の名前がある。

 それ以外では、それまで連続な流体だと思われてきた空気に対してその粒子性を確固たるものとした論文、波動と信じられていた光に粒子性を導入し今まで説明できなかった現象を説明付けた論文、光速度を不変とし時間と空間の相対性を世の中知らしめた論文、質量とエネルギーを等価なものだと考察した論文、これらの論文を同じ年に発表したことによりその年は奇跡の年と呼ばれ、天才と称された学者の名前もあった。

 

 一通り見たが、どれも見知った偉大な学者の名前ばかりだ。

 俺の記憶は失われているが、暮らすための知識は残っていたし、これもそういう知識の仲間ということになっているのだろう。

 

「どうしたんだい?」

 

「いや、この名前が思い出せなくて……」

 

 だが、ただ一つ、俺の知らない名前があった。どうしても、思い出せない名前だった。

 

「あぁ、それならボクはよく知っている。AIの知能が人間の知能を超えたと言われる時代に、数多もの分野を横断し、革命的な論文をいくつも発表した()()()()()さ。その業績の数々は画期的で、当時人類が抱えていた問題の九割を解決したと言われている」

 

「……それはすごいな」

 

 きっと、俺がそんな人間だったのなら、胸を張って生きられたのだろう。

 実際にどうだったかは記憶がないからわからないが、太陽のもとを堂々と歩けない、そんな生き方をしていたような気がする。そんな不安にどうしても襲われてしまう。

 

「とりあえず、進んで業績を一つずつ見てみるかい?」

 

「え……」

 

「ふふふ、さぁ、行こうじゃないか……!」

 

「……あっ」

 

 なぜだか彼女は浮かれてしまっているようにさえ思えてしまう。

 やや押し気味だ。

 彼女に引きずられるようにして、その俺の見知らぬ学者の業績を辿る道へと進んでいた。

 

 それにしても、不思議だった。

 彼女が言うほどの業績があるにも関わらず、俺が知らないというのは明らかに不自然だった。

 学校の教科書にでも出て来てもいいはずだろう。それとも、忘れてしまっているのだろうか。

 

 その俺の知らない人物の業績を巡る。

 

 

 新暦0年――重力場における光子の振る舞いに対する考察。

 

 新暦元年――対称性と磁気単極子の相転移理論。

 

 新暦2年――エントロピーの限定的減少と範囲の拡張に関する理論。

 

 新暦4年――ポテンシャルに対する質量減損とNi以降の原子番号の原子核の結合の機序に対する考察。修正一般相対性理論。

 

 新暦5年――万物の理論(Theory of Everything)

 

 

 それからも、目が眩むような業績が続いていく。

 本当に、一人の人物によって打ち立てられたものかと疑うほどに、いくつもの分野を横断していて、ある意味で節操がないとも感じられてしまうものだった。

 

「どうだい? 彼は」

 

「正直、信じられない。これだけのことを一人の人間ができるのか?」

 

「あぁ、信じられない。信じられないけど、それでも彼はやってしまったんだ。驚くことにね……っ。すごいだろう? 特に当時は説の分かれていた重力について記述した理論を一まとめにして、当時、誰も見向きもしなかった数学の理論で全てを一つの綺麗な式で書き表したところなんて、非常に独創的さっ」

 

 その偉大な人物についてを語る彼女は、今までよりも生き生きとしているように感じられる。

 

「そんなに、好きなのか?」

 

「好き……っ? あぁ、好きだよ。正直に言えば、ボクは実利ばかりでこういう基礎的な部分はあまり詳しくはないけれど、すごいってことはわかる。偉大な人間は、偉大なほど憧れるだろう? ボクは彼以上に偉大な人間を、知らないからねっ」

 

「そういうものか……」

 

 ここに並ぶ数々の業績を見てしまえば、それに憧れるというのも納得がいく。こんな人間になれればと、俺もかすかに思ったからこそ、彼女には共感した。

 

「ふふ、すごいだろう? すごいだろう?」

 

 我がごとのように自慢する彼女だ。気持ちはわからないでもない。

 

 そんな偉業の数々を眺めていたら、少し疑問が浮かんだ。

 

「なぁ、ここ。毎年毎年……死ぬまでずっとなにか革命的な論文を発表していたように思えるけれど、ここだけ一年、空白がある。なにかあったのか?」

 

 本当に一つだけだ。それ以外は、年表が詰まっているのに、そこだけ一つ、ぽっかりと抜けがあった。

 

 当たり前のはなしだが、毎年、このレベルで革新的な論文を出せること自体が異常なのだから、抜けていること自体は、普通だ。なにもおかしいことではない。

 けれども、言い知れない違和感を、そこに俺は覚えてしまう。

 

「彼は人間さ。人間だからね。そういう年があっても別にいいんじゃないかい? 別に不自然ではないだろう?」

 

「あぁ、うん、そうだな。そうだ」

 

 彼女の反応から、病気に罹っていたとか、投獄されていたとか、そういう理由でないことがわかった。

 ただ単に、時期が合わなかっただけだろう。もしかしたら、ここに載っていないだけで、小さな成果を上げているのかもしれない。

 

「さて、ここから行こうか?」

 

 文字の書かれた扉だった。これは……磁気単極子に関する論文の題名か。開けて進んでいく。

 

「『セレスティアル・スプリッター』……」

 

 床一面に磁石が敷き詰められた部屋だった。

 わずかに地面から浮いた板がある。

 

「そうだね……鉄製品はくっ付いちゃうから、ここに置くようにね……と言っても、ボクの用意した服だから、そんなものはないから……。それに最近は磁石にくっ付くような純粋な鉄で出来た製品の方が珍しいかな……」

 

「鉄……か……」

 

 鉄、というのはありふれていて便利なものであった。

 なぜ、鉄が地球で他の金属より多く取れるのかは物理的な理由がある。核融合、あるいは核分裂でエネルギーが生じることはよく知られているが、融合や分裂を繰り返した終着点が鉄となっている。

 鉄は基本的に核分裂でも、核融合でもエネルギーを取り出すことができない。全ての元素は鉄に向かって融合や分裂を繰り返していくため、必然的に地球上では鉄がよく取れるようになっているわけだ。

 

 ただ、舗装された道路に磁石が使われるようになってから、合金でない磁石にくっ付くような鉄の製品は、身につけるものを中心に、めっきり減ってしまったのだった。

 同時に、科学技術の進歩により、あらゆる金属が鉄並みに安価に手に入るようになったこともあり、変化はより円滑に起こっていた。

 

「見てくれよ……? この板、ひっくり返してもまだ浮いているんだ」

 

「そうだな……磁気単極子だもんな……」

 

 きっと、彼女は何度も来たことがあるのだろうに、新鮮で楽しげにしているのが、少しおかしかった。

 しまいには、板の上に乗って、扇をあおいで部屋を縦横無尽に移動し始めている。

 

 磁石の効果で浮いているからこそ、地面との摩擦抵抗を受けない。たとえば彼女がやっているようなパタパタと扇ぐわずかなエネルギーでも、運動エネルギーの減損率が少ないおかげで移動が可能だった。

 けれども、そうやって必死に団扇であおいで移動している彼女の姿はどこか滑稽だった。

 

「なんだい? そんなふうに見るなら、キミがやってみるんだ」

 

「え……?」

 

 こっちまでパタパタとやってきた彼女は、俺にその団扇を渡して、別の場所へと引っぱっていく。

 二人で乗った磁力で浮く板は、二人乗り用だからか、彼女が一人で動かしていたものより大きい。質量がある。

 

「さぁ、行こうか、次の部屋まで」

 

「え……あ、あぁ」

 

 敵は空気抵抗だった。

 それほどの距離ではなかったが、腕にそれなりの疲労が溜まる。歩いた方がきっと楽だっただろう。

 

「ふふ、じゃあ次だ」

 

 エントロピーの減少についての論文の題名が書かれた扉だった。

 

「『フェイタル・レバーサー』……」

 

 目の前には水槽が置かれている。腕を広げたほどの大きさの水槽だ。腰の高さくらいの台の上に乗せられて、目線あたりまで水が入っていた。

 その水槽の前にはいくつかスイッチがある。

 

「このボタンを押すと、上からインクが落ちてくる」

 

「あぁ……」

 

 ぽたぽたと、水槽の上から空気抵抗を受けながら落ちてきたインクは、水に混じるように広がって、薄まっていく。

 

「エントロピーが増大している。エントロピー自体は熱力学的な量だけれど、こういう熱なんか関係なさそうな混合とかでも、そのエントロピーは増大するんだ」

 

「有名なパラドクスだな」

 

 このパラドクスは古典力学では説明がつかなかった。だが、量子力学の登場により、その不確定性から、同じ種類の粒子を区別しない不可弁別性が導入された結果、解決されている。

 

「ふふ……これは、老婆にイースターエッグの作り方を教えるようなものだったかな。とにかく、ボクはここで知って驚いたんだ」

 

 水槽の中の水の色を、大きく変えてしまうほどにインクは混じっていた。

 水に揺れて、広がるインクは――( )

 

「――二度と元には戻らない」

 

「だからこその、この力さ」

 

 静かにゆっくりと彼女はボタンを押す。

 そうすれば、まるで逆再生のように、水槽の一点に広がっていた色が集まり、水面を跳ね、水槽の上のインクの容器に戻っていく。

 

「あぁ、でも、これは出来損ないだ。たったこれだけの現象に、馬鹿げたほどのエネルギーを使う」

 

「けれども、神の力の一端でもあった。この、不可逆を可逆にする力に、ボクは惚れ込んだのさ」

 

 なにが面白いのかわからないが、一連の現象を彼女は目を輝かせて見つめていた。

 他にも、石を砕いた後に直したりだとか、その出来損ないの力を見せつけるような展示がいくつか並んでいた。

 

 彼女はどれも、楽しそうに試していたが、俺は乗り気にはなれずに、ずっと横で眺めていた。

 

「さぁ、次に行こうか」

 

「あぁ……。……ん?」

 

 彼女がドアを開けて、少し違和感があった。

 電磁気の部屋からエントロピーの部屋まで移動するときは、ドア一枚だったが、今回はわずかながらにスペースがある。それでもトイレがあるというわけではないようだ。

 

 一本道の通路だ。そこを歩いて、次の部屋までたどり着く。

 

「さっきのところもボクは好きだけど、ここはさらに……」

 

「ちょっと……、うぐ……っ、待ってくれ……」

 

 頭が痛い。唐突にだ。

 立っていられないほどだった。

 胸元に違和感が生じ、吐き気もしてくる。

 

「大丈夫かい……!?」

 

 彼女は、手をかけていた扉から離れて、俺に駆け寄り、躊躇わずに抱きしめてくれていた。優しく背中が摩られる。

 

 どこか意識が遠くなっていくかのような感覚だった。

 この世界ではない、どこかの次元の向こうに引き摺り込まれような、そんな不思議な感覚に襲われている。

 

 苦しい。

 苦しいが、治るまで待つしかない。いっそ、気を失ってしまえば楽だっただろうか。

 

「……、はぁ……」

 

 時間がどのくらい経ったかはわからない。まだ違和感はあるが、今はだいぶん楽になった。

 

「……。無理をさせちゃったかな……」

 

 小声で、俺を抱きしめたまま、優しく俺の背中を撫でて彼女は言った。

 

「無理はしてないはずだ。急に……急に苦しく……」

 

「言っただろう。もう死んでる。だからこそ、体の具合が悪くなるってことは、精神に原因があるのさ。無理をさせた以外にないわけだ。もう帰ろうか」

 

 俺の精神状態が、悪くなったということが、よくわからない。

 それまで異常がなにもなかったはずなのに、心の問題で、急にここまで具合が悪くなるものなのか。

 そもそも、それほど精神に不可がかかるような出来事はなかったはずだ。

 

「…………」

 

「肩を貸すよ。今日は一日、看病かな?」

 

「すまない……」

 

 迷惑はかけられないのに、俺にはどうにもできそうになかった。

 また、彼女のあの家で、過ごさないとならない。

 

 

 

 ***

 

 

 

 看病をしてくれた彼女は甲斐甲斐しく、だからこそ本当に申し訳なかった。

 あれから数日、彼女とともに過ごしてたが、俺のことを気遣ってくれて、最初の胡散臭いような印象が今はもう薄れてしまっている。

 

「さて、今日もボクらの未練を探しに出かけようか」

 

「なぁ、そろそろ住む場所を見つけないとと思うんだ。いつまでもこうやって世話になるわけにはいかないし」

 

「さぁ、今日はどこに行こうか? 大型のテーマパークでも行くかい?」

 

「…………」

 

 この話題をふると、彼女は決まって無視をする。

 ここ数日は寝食を共にしているわけだが、それでも相変わらず、なにを考えているのかわからない。

 

「ま、じゃあ、適当に街をふらつこうか……それでも十分楽しいし。なにかの拍子に見つかるかもしれないね。さ、いこう」

 

 適当に話をまとめて、彼女は部屋から出て行く。

 それに、渋々と俺はついていっている。同じようなやりとりをここ二、三日は繰り返しているような気がする。

 

「あ、おはようございます」

 

 隣に住んでいるマリアちゃんだ。今日も変わらず端末を手に持って、ジッと見つめつつ、俺たちに挨拶をしている。

 

「おはようマリア、今日もいい日だね」

 

「いつも天気は変わらないけどね」

 

 たしかに、俺がここに来た時から、天気はずっと変わっていない。

 晴れだ。

 

 科学技術が進んだ世の中でも、やはり雨の日はある。

 もちろん、ある程度操作をすることはできるのだが、災害が起こりそうなときだけに天候を変化させるのみだ。

 ずっとこんなふうに空が晴れていることなんてなかった。

 

 程よい風に、程よい日差し。毎日、出かけるために都合が良すぎるくらいだ。

 相変わらず、不自然な世界だろう。

 

「今日は大丈夫かい? 大丈夫なら、いっしょに街を回らないかい?」

 

「ううん。ダメかな。本当に忙しくて……。じゃあね……」

 

 そう言って、端末の画面に目線を固定したまま、そそくさと行ってしまう。

 日を追うごとに、余裕がなくなり、より彼女が時間に追われていってしまっているように見えた。

 

「誘うなんて、今日はどうしたんだ?」

 

「ん? あぁ、キミと二人も楽しいけれど、人数が多いと賑やかになると思ってね。それが、未練へのとっかかりになればいいなって」

 

「でも、あの子は……いつも忙しそうにしてるだろう?」

 

 ここは死後の世界だというが、だからこそか俺は一度も時間に追われたことはなかった。

 いつでも、なんでもできるような街だ。閉館や、閉店をしている時間はなく、どこだろうと丸一日、いつでも入れる。急ぐような理由はどこにも見つからない。

 だからあの子の忙しさを、疑問に思う。

 

「あぁ、今も近くのお店から持ち運べるような食べ物を貰ってくるところだろうね。ずっと画面を見て、片手が塞がるから一度にそれほど多くは運べない。毎日は大変だろうに」

 

「なんで、あんなに……」

 

「ボクたちにボクたちの事情があるように、彼女には彼女の事情があるんだ」

 

「そうか……」

 

 少し、はぐらかされたような気分になる。

 まぁ、彼女はあの子の事情を知っているのかもしれないが、他人の俺に言いふらすのを、好ましいと思っていないのだろう。

 口が軽いよりは、よほど好感が持てる。

 

「さぁ、じゃあ……ボクたちも。今日は行ったことのないお店でも探しに行こうかな」

 

「うん」

 

 それからは、適当に街を二人でふらついて過ごした。

 

 珍しいお店に行って食べたことのないものを食べたり、見かけたレジャー施設に入ってみて、二人で競ってみたり……そんなふうに遊び歩いた。

 

 本当に、なんでもない日だった。

 ゆったりと楽しい時間が流れていく。最近は、ずっと心が穏やかだった。

 

「あれ……、あれは……?」

 

「ん……?」

 

 道の真ん中で、光がひとかたまりに集まっていくような、そんな現象が起こっている。

 

 集まった光は、最終的には人の形に、より一際輝いた後には、そこにはひとりの人間がいた。

 

「ああ、ああやって、この世界にやってくるんだ。いきなりやってきて、困ってるだろうし、行ってくるよ」

 

「あ……あぁ」

 

 そう言って彼女は、道の真ん中に駆け寄って行く。その人は、現れたばかりだからか、困惑したようにで辺りをしきりに見渡していた。

 

「やぁ、大丈夫かい?」

 

 優しい声色で、彼女は尋ねかける。

 俺が初めてここにきた時を思い出したが、少し調子が違うように思えてしまう。

 

「ここは……? 天国……?」

 

「ここは、死後の世界さ。天国か地獄かはわからないけど……まぁ、生前の記憶があるなら話は早いか」

 

 ちらりと、彼女は俺のことを見ていた。

 未だに俺は、本当にここが死後の世界かどうか、疑わしく思っているが、そんな俺と見比べたのだろう。

 

「そうですか……」

 

 歳をとった女性だった。

 髪は真っ白に染まっている。皮膚はたるみ、顔には苦労の痕が、深い皺がいくつも刻まれていた。

 声はしわがれているが、落ち着いている。表情はとても穏やかで、見ている人を和ませるように感じられた。

 おおよそ人生を十分に、満足に生きたと思えるような女性だった。

 

「ここに来たってことは、なにか未練があるということなんだ……。ここは生前の未練を叶える場所だからね」

 

 俺のときにも言っていたが、彼女は、こうして人がこの街にきたとき、いつもこんなふうに言っているのかもしれない。

 

「未練ですか……? 私は、百まで……もう十分に生きましたから……未練なんてとても……」

 

「でも、この街じゃ、そういう心残りがないと消えてしまうからね。なんでも思いつくことはないかい?」

 

 まるまる一世紀……たしかに普通の人間なら、そのくらい生きれば十分だろう。

 医療技術や、機械技術の発展で、人間の寿命は伸びる一方だったが、それでも百まで生きれば長生きの部類だった。

 

「だったら、一つ……もし、ここが死後の世界なら、……母が、先に来ているはず……。会えるのなら、私の母に一目でいいから会いたくて……」

 

「……それは難しいかもしれないね。この街は、お店とかの数に比べて、人は極端に少ないから……アナタの母親がこの街にいる可能性は小さいだろう。それに、先に未練を果たしていなくなっている可能性もあるし……」

 

「そう……ですか……」

 

 老女は落胆する。

 会える可能性が少ないという、彼女の話は理に適っている。反論の余地がないとわかる。

 

「え……?」

 

 そうすれば、老女の身体から、存在感がなくなっていく。透き通るように、今にも消えて行こうとする。

 

「たまにあるんだ。きっと、それほどの未練ではなかったのだろうね。一言、二言話すだけで消えてしまうみたいな。きっと、諦めがついて、心が一区切りついたからだろうね」

 

 どうやら、本当に消えてしまうようだった。

 今の会話で、きっと満足できたのだろう。だからこそ、思い残しがなくなって、こんなふうに消えていける。

 それは、素晴らしいことだから――

 

「――いや、ちょっと待てよ……!! こんなの絶対おかしいだろ! ここは未練を果たすための場所なんだろ!」

 

 明らかに、未練は果たされていないだろう。

 それなのに、こんなふうに消えてしまうのは、あんまりだ。こんなことなどあってはならない。

 

「いえ、いいんです。……私はもう、満足に生きました……。これ以上望むことなんて……」

 

「探してくる。俺、探してくるから……。名前を教えてくれ……その人の名前を……」

 

「……名前は……」

 

 老女は少し考えるように、空を仰いだ。

 言葉に詰まっているように思える。とっさに思い出せなかったのか、俺も記憶が抜け落ちてしまっているから、似たような状況なのかもしれない。

 

「なんでもいい! なんでもいいから手がかりが欲しい。俺が探してくるから……っ! 今日一日だけでもいい」

 

「エリザベスが来ていると伝えてください。母がつけてくれた名前ですから……」

 

「なら、ボクも手伝うけど……」

 

「わかった。じゃあ未練が残るように続きが気になる話でもしておいてくれ。最後まで聞かないと死んでも死にきれないような、とびきりのやつな」

 

「相変わらず、無茶を言うね。わかったけど、少し、落ち着いてみたら――( )

 

 走り出す。

 彼女がどのくらい持たせられるかわからない以上、急ぐ他ない。

 

 とにかく、手当たり次第に見かけた人に尋ねていくしかない。

 人自体が、まばらにしかいない。一人探すにも、数分は間違いなく走らなければならない。

 

「すみません――!」

 

 事情を説明して、心当たりがないかを尋ねる。

 首を横に振られたから、お礼を言って、また次の人を探す。その繰り返しだった。

 

 途中で、あの人ではないかとか、そういう話を聞いたりもしたが、全て空振りだった。

 

 走り続け、身体にも疲労が溜まり、ペースはどんどんと落ちて行く。

 刻一刻と時間は過ぎていって、もう日が暮れる。人はもうほとんどいなくなってしまう。

 

 一度、戻った方がいい。

 日が落ちて、完全に暗くなってしまえば道を歩くことが危なくなる。この街には好きこのんで他人嫌がらせをするような人間は基本的にいないようだったから、不審者はないだろうけれども、万一がある。それに単純に暗闇の道で、転んでしまう可能性もある。

 

 見つけられなかったと、伝える他ない。

 

「……くそっ……!」

 

 自分自身に悪態をつく。

 なにか他にいい手がなかったかと、考えがぐるぐると頭を巡る。だが、俺ではこれが限界だった。俺でなかったのなら、見つけられたのかもしれない……。

 

 あの老女と出会った場所へと戻ったが、誰もいなかった。

 ただ、近くの壁には無造作に、俺がここを離れたときにはなかったはずの紙が貼ってある。

 

 ――日が沈む前に、帰ろうと思う。ご高齢の方だから、歩くのにも時間がかかるだろうし、多分、追いかけても間に合うかな。どちらの結果にしろ、キミが気に病む必要はないから……大丈夫さ。

 

 その紙を綺麗に剥がして服のポケットにしまい込んだ。

 悔しい。本当に悔しい。

 

 自分の力の足りなさもそうだが、こんなふうに彼女に気をつかわれてしまっていることが、なによりも悔しかった。

 やっぱり俺は、無力で、ロクな人間などではなかったのだろう。

 

 とにかく……彼女たちを追いかける。

 道を歩いて、だいぶん経ったところ……ちょうど俺たちの住む家に着く手前ほどで、彼女たちの姿を見つけることができた。

 

「ん、あぁ、来たみたいだね。張り紙は読んだかい?」

 

「あぁ……」

 

「そうかい。じゃあ、ボクは、この人を案内しようと思う……でも、狭い部屋だから、どうしようかなって思ってね」

 

「…………」

 

 俺が来たときは、広い部屋と言っていた記憶がある。

 まぁ、あとから一人で住むにはと、前提を後から付け足していたか。彼女の中では、矛盾していないのかもしれない。

 

「宿なら自分で探しますから……こんなふうに見ず知らずの私によくしてくださって……」

 

 老女は、申し訳なさそうに恐縮をしながら言った。

 

 ここまで、誰も俺の母親探しの結果を聞いていない。いや、誰も連れてきていないのだから、あえて聞かずともわかることだろう。

 なんとなく、気をつかわれているようで居心地が悪い。

 

「ふふ、別になんてことないさ。これはボクらのわがままだからね。わがままついでに、マリアに頼もうか。一日一人泊めてもらおうってね……!」

 

「え……?」

 

 彼女は、俺たちの部屋ではなく、隣の部屋の扉の前に立って、扉を無造作に叩く。

 

「おーい、マリアー。起きているかい? ボクだよ、ボク。少し用事があるんだ」

 

「…………」

 

 部屋の中からは、物音がする。

 慌てるような足音が聞こえて、次の瞬間には、バンと扉が勢いよく開かれる。

 

「おっと……」

 

「うわーん……。うぅ……ダメだった……私、ダメだったよ……ぅ」

 

 部屋から飛び出した少女は、その慣性のままに部屋を訪ねた彼女へと抱きつく。運動量保存に従い、少女を抱き止めた彼女は後ろへと倒れそうになるが、すんでのところで踏ん張っていた。

 

 いつも、休むことなく端末を見つめていた少女だったと思うが、なにも手には持っていない。

 

「あぁ、マリア。大丈夫さ。大丈夫だよ」

 

 優しく抱きしめて、少女を撫でていた。まるで、なにが起きたのかは俺にはわからなかったが、彼女には特に驚いた様子はない。

 

「……え……っ」

 

 声を発したのは、俺の隣で同じく彼女たちを見ていた老女だった。

 唖然とした表情で、二人を……いや、マリアを見ているようだった。

 

 たしかにあの少女の行動には、俺も驚いた。けれども、彼女のその声は、俺のそれとは明らかに違う。

 その漏らした声に釣られて、抱き合っていた二人は、老女の方へと顔を向けていた。

 

「え……そんな……」

 

 マリアが声を溢した後には、わずかな間の沈黙が流れる。

 本当に、僅かな間、だったと思う。けれども、重力で時間の流れが引き伸ばされしまったような、そんな、相対的に長く感じてしまうような沈黙だった。

 

「……っ……」

 

「っ……!」

 

 走り出したのは同時だった。

 老女と、少女の二人は、同時に、引きつけ合う磁石のように走り出した。

 

「あぁ、エリザベス……! 私の可愛いエリザベス!!」

 

「……お母さん……。私のお母さん……! そうだった……あなたの名前はマリアだった……!」

 

「ごめんなさい。ダメな母親でごめんなさい……っ! あなたを産んですぐに死んでしまって……」

 

「いいえ、わかっている。ずっとわかっていた。私のことを見守ってくれていたのでしょう……? ありがとう。産んでくれて、ありがとう……。ずっと、今まで見守ってくれていて……。ずっと、会いたかった」

 

「私もそう……っ。エリザベス……私のエリザベス……」

 

「お母さん……。マリアお母さん……」

 

 名前を呼び合い、涙ながらに抱き合っている。

 百を超えた老人が、十の半ばとも思える少女を母親と呼ぶ。見る人が見れば、奇妙に思えるこの光景を、俺は綺麗だと思った。

 

「ボクはマリアから事情を聞いていたからね。まさかとは思ったけど……ふふ、これは天文学的な確率かな」

 

「いや、彼女たちの間には、引力が働いていたんだ。きっと必然さ」

 

 その引力に名前を付けるとしたなら、それは愛以外にない。

 

 ことの顛末は単純だった。

 マリアが死んだ理由は早齢出産。彼女自身、あまり裕福でない家庭に生まれであったため、進んだ医療の恩恵をうまく受けられなかった。

 なんとか、子どもだけは無事に産まれてきたものの、マリア自身は死んでしまったのだ。

 

 彼女が、携帯端末を見つめていたのは、自分の子どもを……エリザベスを見守っていたから。端末は、現世と繋がるための方法で、ここ数日は、特に危篤状態だったから、忙しくて目が離せなかったという。

 枕元に立って、まだこちらにくる時ではない、というようなことを、ずっとやっていたらしい。

 

 あぁ、マリアは、今まで見守ってきた。死んでから、ずっと、百にもわたる長い年月を見守っていたのだ。自らの子どもをずっと。

 それは、とても、愛に溢れる年月の積み重ねだろう。

 

 それにしても、マリアのような少女が、百を超えた老女の母親だとは思わなかった。いや、よく考えればわかる話だ。それなのに、俺は思い込みだけで動いて、マリアに声をかけなかった。

 

「ふふ、まぁ、今回はキミが先走ったからね。もう少し、ボクに頼ってくれたらよかった。ここでのことなら、ボクの方が詳しいわけだしね」

 

 とは、彼女の弁だ。

 今回に関して言えば、完全に俺の空回りだった。俺がいなくとも、今回の件は、うまくいっただろう。

 とても、迷惑なことをしてしまったのかもしれない。

 

「そうだ。一つ言っておきたいことがあるんだけど。これを伝えないと、死んでも死にきれないから……。この人、借りるよ?」

 

「え……っ!?」

 

 マリアが、俺の腕を掴んだ。

 マリアは、ほとんど消えかけだった。それなのに、急なことで、よくわからなかった。抵抗をする間もなく、マリアに部屋へと連れ込まれて、少し乱暴にドアが閉じられる。

 

 マリアの部屋には、たくさんの写真が飾ってあった。

 産まれてから、学校への入学に、なにかで表彰をされたときの写真、卒業、さらには就職だろうか、あとは結婚……まだまだある。

 人の人生の始まりから終わりまで、その飾られた写真の数々にある種の壮観ささえ覚えてしまう。

 

「どうして、そんな曖昧な態度なの?」

 

「なんの話だ……?」

 

 詰め寄られて、唐突に切り出された話は、俺には理解し難いものだった。

 

「あの子に親切にされてるでしょ。ここ、そんなにいい部屋じゃないから、会話けっこう聞こえてるし……」

 

「あー……、そうなのか」

 

 気にも留めなかったが、そう指摘されれば気まずい。

 特に聞かれてまずい会話をしていたような記憶はないが、それでも、二人だけと思って喋ったことが、誰かに聞かれているというのは、恥ずかしいものがある。

 

「はぁ、とにかく……絶対にあの子は、あなたのこと好きだから。曖昧にぼかしているから、わかりづらいと思うけど、そうなの。あなたのことをずっと、待っていた」

 

「…………」

 

「どうして、そんなふうにとぼけているの?」

 

 マリアの言っていることは正しいだろう。

 そう考えれば、彼女の不可解な行動も、かなりうまく説明ができる。

 

 彼女は、きっと、ここに来る前の俺のことを知っているのだ。

 知っていて、言わないのは、彼女のことを思い出せない俺が自分を責めないため。ずっと受けている胡散臭いような印象は、そうやって、俺のために俺をうまく騙そうとしているからだろう。

 

「ただ、それは違う。俺のような人間が、あいつに好かれる理由なんてない。記憶がなくても……それはわかる」

 

 彼女は、とても優しい。

 ことあるごとに、俺は彼女に気をつかわれていた。後でおねだりをすると彼女は言っているが、そんなことをしたことは今までなく、する素振りさえない。

 

 本当に、俺のことをよくわかっているから、気負わせないために、そう言っていたのだろう。

 こうして数日過ごしただけでも、自分のダメさ加減ばかりが目についてしまう。こんな俺を好きになるわけがない。

 

「ただ、一緒にいるだけで好きになったじゃダメかな? 大切なのは、理由じゃなくて……好きっていう事実でしょ?」

 

「……っ」

 

 彼女の気持ちを聞いてみたわけではない。

 だからこそ、全ては俺の推論でしかないのだ。観測をしてみるまではわからない。何事もそうだ。

 

「大丈夫。あの子はあなたをずっと待っていた。私と同じだから、わかる。うん。言いたいことはちゃんと言ったから、それじゃあね」

 

 そうして、マリアはドアを開けた。

 彼女の子どものエリザベスが、そのドアの向こうにいる。

 

 親が子どもを家に迎え入れるようにして、マリアはエリザベスを抱き上げた。

 二人は笑っている。とても幸せそうに笑い合っていた。

 

「た、ただいま……。やっと……お母さんのところに……」

 

「おかえり、やっと……あなたを……」

 

 光が満たす。

 目の眩むような光だった。その光景は、きっと太陽よりも眩しかっただろう。それでも俺は、強く目に焼き付けた。そうでなければならなかった。

 

 もう、いない。

 彼女たちは、もう、もともといなかったかのように消えてしまった。もう、いない。

 

 ふと、振り返る。

 写真だ。マリアの家に飾ってあった、その写真は残っている。

 

「あぁ……」

 

 エリザベス、彼女だけが映っているだけの写真かと思っていたが、それは違う。よく見れば、死んでしまった母親も写り込んでしまっているようにも見えて、なんとなく、暖かい気持ちになった。

 

「行っちゃったね……」

 

「そうだな……」

 

「寂しいかい?」

 

「いや……」

 

 二人とも、満足していなくなった。これはきっと、素晴らしいことなのだから、寂しいなんて思いはしない。

 

「そうか……そうだね」

 

 それを聞いて、彼女は納得したように呟く。

 きっと、このやりとりで、俺の胸の内を察してしまったのだろう。

 

「なぁ、外を歩かないか?」

 

「ん? 別にいいけど……珍しいね。夜に出歩こうなんて……」

 

「一緒に、星を見ないかってことだな」

 

 もう、見ないふりはやめることにする。

 その覚悟を決めた。一組の親子の最高の最後を見てしまったのだから、俺たちも、後に続かなければならないという想いが、強くなってしまう。

 

「ん? じゃあ、望遠鏡を用意しようか……? そういう店があったと思うから、拝借してこようか」

 

「いや、今すぐ行こう。そんなのはいらない」

 

 彼女の手を引いて、走る。

 この街に来てからは、手を繋ぐときは彼女が前を歩いていたが、今は違う。母親探しに走り回っていたから、ついさっきまでは疲れてへとへとだったが、今は自然と力が湧いてくる。

 

 ついた場所は、建物のない小高い丘だ。

 人を探して、走り回った時に、一度通った場所だった。

 

「はは、やっぱり、どういう風の吹き回しだい?」

 

 草むらに、彼女は寝そべる。

 そうして、仰向けに空を眺めている。

 

「少し、星を確かめたくなったんだ」

 

 そんな彼女の隣の草むらへ、同じように空を見上げながら倒れ込む。

 空には綺麗なたくさんの星が輝いていた。

 

「星座……恒星の配列は、生前の星と同じだよ? なんだったら、星から座標でも割り出してみるかい?」

 

「いや、きっとそれは、意味がないんだろ?」

 

 ここは死後の世界だ。もし、一致する座標の場所があったとしても、そこではない。だから、やる必要はないだろう。

 

「まあね。ボクもちょっとやってみたけど、うん、特に意味のない結果だったよ。日によってずれるみたいだったし」

 

 その秩序のなさは、なんとも死後の世界らしい。

 

「この広がる空の彼方の星々も、人類はもうこの手で掴める。光速度の先を行った……二千年かけた星間移動計画も今は……。何十億年……いや、何兆年経ったって、人類は続いていくって、俺は信じられる」

 

 人類が居住可能と目された星は、千数百光年先だった。光速で千数百年かかる距離だ。光速度は情報の伝達限界速度。とてもじゃないが、往復なんて出来やしない。

 

 だからこそ、トンネルを掘り進めるようにして、光速度の七割程度の速度で、空間が短縮された道を宇宙空間に広げていく。そんな計画があった。

 これならば、光速度以上で情報を伝えられないという原理に背かない。一度繋げれば、あとは何度でも自由に素早く往復可能になる。

 

 あとは、歪めた空間による影響だが、通り道自体は惑星のスケールから比べれば、細く、大したことはない。

 すでに、この方法でいくつもの星が繋がれていた。

 

 かつての地球の法則と天体の法則が別々だと思われていた時代から、何千年もかけて、ここまで来たのだ。

 

「いつか太陽が膨張してしまって、人類ごと星を飲み込んでいく。何十億年も後のことさ。差し迫った時に、後の世代がなんとかしてくれるって、普通なら見て見ぬふりをすると思うけれど、もう対策済みだからね。恐れ入るよ」

 

「そうだな」

 

「人間の暮らす世の中は、進み切った科学によって、もう完成してしまっている。みんなが幸せにとはいかないけれど、不幸にはならない世界だ」

 

 なにか違和感のようなものを覚える。

 彼女のその言葉で、なにかを思い付いてしまいそうだった。今までの記憶を探れば、その答えが見つけ出せそうに思えて――( )

 

 ……いや、よそう。

 大切なことはもっと別にあるから、それを今、伝えたい。

 

「なぁ、記憶をなくす前の……生きていたときの俺のこと、お前は知っていたんじゃないか?」

 

「…………」

 

 星を見上げる彼女の横顔を見つめながら、俺は言う。

 

「ずっと、待っていてくれたんだろ? マリアみたいに……。だったら、俺は……お前に幸せになってほしい。俺に幸せにさせられるなら、お前のことを幸せにさせてほしい」

 

 彼女の手を握る。

 俺にどれくらいのことができるのかはわからないけど、俺にできる精一杯はやりたかった。

 

「はぁ、だからキミは……。良いかい? ボクを幸せにできるのはボク自身だよ。そんなふうに、なんでもできるなんて思い上がらない方がいい」

 

「……それは……そうだな」

 

 俺は間違ってばかりだった。なにもかもが足りなかった。

 だからこそ、簡単に勘違いを起こしてしまう。

 

 そんな俺の方を彼女は向く。目が合うと、彼女は笑った。

 

「でもまぁ、そうだね――」

 

 唇に、柔らかい、温かい感触が伝わってくる。

 

「――こうすれば、ボクは幸せになれるよ」

 

 それは本当にわずかな間だったが、想いはもう通じ合っていると思えた。

 

 

 

 ***

 

 

 

「むにゃ」

 

 目が覚める。隣ではすやすやと眠っている彼女がいる。

 

 マリアが消えて行ったあの日から、また数日が経った。

 彼女と二人、心を通わせる日々が続いている。

 

「ふふっ」

 

 毎日が幸せで楽しかった。

 彼女と一緒な日々は特別で、重石が消え去ったかのように、心が軽かった。

 

「んん……」

 

 優しく頭を撫でていれば、彼女はまぶたにぎゅっと力を込めた。その後に、ぱっと目を開く。

 

「起こしちゃったか……」

 

「うん……? ええと、もうお昼かな……」

 

「あぁ」

 

 まだ、太陽が一番高く上がる時間は過ぎていないものの、起きる時間にしては遅い。

 一度、起きて朝ごはんを食べたけれど、その後にまだ眠いと、こうして数時間だけ眠っていた。

 

「うーん。昨晩は盛り上がっちゃったからね……。いや、最近はずっとだけど……。生活が乱れてばかりだから、考えものかな……?」

 

「やっぱり、そうだよな」

 

「あぁ、そうさ」

 

 彼女は、まず顔が綺麗でかわいいから、ずっと見ていても飽きない。どんな表情にも心が癒される。

 彼女は自分で自分のことを、スタイルがよくない方だと言うけれど、俺はそうは思えない。魅惑的で、腕の中から二度と離したくはないと感じるほどに全てが愛しい。

 

「なぁ、なぁ、愛してる」

 

「ここでボクもと答えたら、ベッドの上からしばらく出られなくなってしまうからね。すこし保留さ。今日は出かけたいかな……」

 

 すげなく断って、彼女はベッドからぴょんと飛び降りた。

 変わらずに、彼女は子どもっぽい動作を見せることがある。そんな姿に心が和む。

 

「ふふっ」

 

「ふぁ……。笑ってないで、キミも早く着替えてくれよ? 全く」

 

「ああ、わかってる」

 

 身だしなみを整えて、着替えを終える。

 彼女がいると、なんでもないこんなときでも幸せに感じられてしまう。

 

「えっと、カメラは……ここにあったね……」

 

 マリアがいなくなったあの日から、彼女はカメラでよく動画を撮るようになった。

 記録を残しておきたいと彼女は言っていた。あのマリアの部屋に飾ってあった、たくさんの写真に影響されたのかもしれない。

 

 ただ、カメラのせいで事件も起こった。録画中で放置されて、録画するべきではない夜の光景も録画されてしまっていたのだ。

 彼女は後で使うと言い張ったが、俺の説得により、結局は彼女は渋々と削除していた。

 

「うん、じゃあ、行こうか?」

 

「そうだね、行こう」

 

 なんとなく、恋人らしいことをしようということになって、向かった先は遊園地だった。

 

「ジェットコースターは楽しいな……!」

 

「いや、うん。そうだね。楽しいね」

 

 このジェットコースターは、縦に一回転する部分があった。

 位置エネルギーのみでジェットコースターが縦に一回転できる条件は、空気抵抗や摩擦を無視して、回転の半径の二・五倍の高さから滑り落ちて回転部分に差し掛かることだ。このジェットコースターはそれに(のっと)っていた。

 

 それに縦回転のときも、急激に曲がる時もそうだったが、ずっと重力を車体の底面と垂直な方向に感じていた。

 これは力学的に速度とレールの傾斜がよく計算されている証拠だ。普通なら曲がる時、車体の中では重力と見かけの力である遠心力が合成されて斜め下に力を感じるが、レールごと車体が傾くことで、車体の中では常に同じ方向にしか重力を感じなかった。素晴らしい設計だ。

 

 ジェットコースターでは、こんなふうに、力学を体で感じられる。

 自由落下に近い急速な降下では、一般相対性理論を思い出せる。

 

「あぁ、本当に、ジェットコースターは楽しいな……ぁ」

 

「楽しみ方は人それぞれだからね。楽しいならよかった」

 

 今ひとつ、この楽しさを彼女と共有できていないように思えた。

 それでも、彼女がいなければ、こんなふうにジェットコースターを楽しむ余裕もきっとなかったのだから、不満には感じなかった。

 

 他にもいろいろなアトラクションがあるが、どれもが純粋な力学運動を利用したものだった。

 円周を回転する座席を、回転の半径を変化させることで回転の速度を変化させる乗り物もある。角運動量保存則が体感できる。

 

「あぁ、遊園地は楽しいな……ぁ。本当に楽しかった」

 

 他にもいろいろなアトラクションで遊んで、もうずっと時間が過ぎてしまった。

 

 二人で、手を繋ぎながら、並んで帰る。もう夕陽が差し込んでいた。

 歩いているのはアジサイの道だ。いろとりどりのアジサイだったが、この時ばかりは全て夕陽の色に染められてしまっている。

 

 夕陽が赤いのは、赤が波長の長い光だからだ。

 青は赤より波長が短いため、空気によく吸収され、散乱され、夕暮れの、大気に斜めに入射するような状況では地表に届かなくなる。だから、夕暮れはこんなふうに空も大地も赤くなる。

 

 もちろん赤い光は昼でも地面に届いているが、散乱されたたくさんの青に埋もれ、昼間の赤い光は空を見上げても人間の目には無視されてしまう。だから、青いという話を聞いたことがある。

 

「正直、こんなふうな場所を、キミが楽しむとは思わなかった。ボクのわがままだったからね」

 

 そんな帰り道に、しみじみと彼女は言った。

 

「俺は、お前と一緒なら、どこでも楽しいと思う」

 

「そういうことじゃないってことはわかっているだろう?」

 

 俺たちは、やり残していることを二人で終わらせようとしているんだ。

 その上で、思いつくままに、恋人らしいことをして、心から楽しめれば、心残りもなくなるって、そうやって彼女が行ってみようと言った遊園地だった。

 

 果たしたいのは未練だから、ここでしかない楽しさがあったと、伝えるべきだっただろう。

 

「でも、正直だ。このままいっても、俺はたぶん、マリアたちみたいにはなれない。死んでも死にきれない」

 

「キミは……、自分の望みはわかっているのかい?」

 

「うん、たぶん……。俺は……うん……子どもが欲しいんだ」

 

 あの光景をみて、目を焼かれて、憧れてしまったから。

 きっと、自分の子どもの成長を見届けられたら、彼女たちのようになれると俺は思った。

 

「子ども……子どもか……」

 

「いや、無理を言ってしまって……。忘れてくれ」

 

 死後の世界というのだから、子供を作ることなんて不可能だろう。

 未練を果たすにも、また、別の方法を探ればいい。

 

「いいや、できる。ボクらの遺伝子は現世で保存されているだろうから、それを使えばできるはずだよ。ボクはそれなりに偉かったから、この端末を使えばあるていど言うことを聞いてもらえるし……できるよ、ボクたちの子どもが」

 

「ほ、本当か……!? いや、でも……生まれたときから、親がいないなんて、可哀想じゃないか。俺は馬鹿だ」

 

「夢でなら、きっと会えるさ。マリアがやっていたようにね。ボクらの築き上げてきた世界は、親がいないくらいじゃ不幸にはならない。それはわかるだろう?」

 

 きっと、誰もが幸せになれる世界を目指してきたから……。

 

 だから……こんな――、

 

「うぐ……っ」

 

 頭痛だ。一度、この頭痛は体感したことがある。ここの街に来てすぐのあたり……あれは、確か……。

 

 平衡感覚が崩れて、すぐに立っていられなくなる。

 

「え……っ」

 

 バランスを崩して俺は倒れる。

 手を繋いだままだった彼女は、ハッとして、俺のことを支えようとしてくれたが、間に合わない。

 

 そのまま、道の脇の植えてあったアサガオの花壇に倒れる。

 風が吹いて、俺が倒れ込んだせいで散ったアサガオの花びらが舞う。

 

 

 ――繋いだままの手――差し込む夕陽――( )空を舞うアサガオの花びら――( )そしてこの、時間の止まるような感覚。

 

 

 そのままに、意識は移る。ここではない世界へと。

 

 

 ――もう、何回目ですか……!? そんなふうに不用意に触って……! 誤作動させて……! 一歩間違えれば、もう二度と……っ!

 

 ――だって……そんなふうに睨めっこしてたってダメでしょ……! 実際に動かしてみたらなにかわかるかもしれないじゃん……っ!

 

 

 どこかの光景が映る。

 

「ハハ……ハハハハッ!」

 

 あぁ、笑うしかない。もう、笑う以外にない。

 

「大丈夫かい?」

 

 手を振り払った。

 走る。そのまま走る。

 時間というのは有限だ。無駄にすることは許されない。

 

 目的の場所は決まっていた。

 科学館、最初にこのひどい頭痛を体験した場所だった。

 

 目指したのは、情報熱力学の論文と、物質の創造についての論文のその間。

 空白のその一年には秘匿された論文がある。

 

 

 新暦3年――人間の自我と情報の連続性に対する理論。

 

 

 それは、人という情報を物理的に解き明かした論文だった。

 

「『魂の不死化計画(プロジェクト・エデン)』。この計画は凍結されたはずだろう? ガブリエル」

 

「そうだね。たしかに。完成間近でキミが掌を返して逃げ出すものだから、無期限に凍結……。でも、まぁ、これだけ時間があればボクにも完成させることはできたってわけだね。褒めてくれてもいいんだよ?」

 

 その蜂蜜色の髪をかき分け、薄気味の悪い笑顔を浮かべながら、彼女は言った。

 

 彼女こそが、この世界の主だからだろう。

 彼女に距離の概念はない。好きな時に、好きな場所に現れることができる。

 だからこそ、あのアジサイの道に置いてきたはずの彼女が、ここにいるのだ。

 

 この世界は()()()

 それは単純な理由だった。この世界が人為的に創られたものだからだ。

 

 ――『魂の不死化計画(プロジェクト・エデン)』。

 

 人間が死ぬ瞬間に、その情報を機械によって読み取る。読み取ることにより、人間の身体からは情報がロストされるが、死んでいるのなら問題はないだろう。

 

 魂と呼べるその情報は機械に保存され、幸せな仮想世界で、生きているうちにできなかったことを果たせる。

 

「たとえ、生きているうちに幸せになれずとも、きっと死後には幸福な生活が待っている」

 

「そうだね。素晴らしいと思わないかい? ボクはそう思うのだけど……」

 

「違う、そうじゃない……っ。生きているうちに幸せになれなくちゃダメだろう? 死後の世界に頼るような考えは……俺は……」

 

 だからこそ、大々的に世界中に知られるようになったこの計画は凍結させた。皆が生きることを諦めてしまわないようにだ。

 

「でも、マリアたちの最期はどうだったかな? あれも認められないかい? それにここのことは現世の人間は知らない。万が一ボク以外がここに来てもここでの記憶は失われることになっているんだ。キミの意図を汲んでね……それでもダメなのかい?」

 

 ガブリエルならば、俺の甘い考えを埋めるように、抜け目なく、ルールを決めているだろうことが、彼女との付き合いからわかる。

 この『魂の不死化計画(プロジェクト・エデン)』の優しさには最初は俺も賛同していた。

 間違っているのは、いつも俺だ。折れる他ないだろう。

 

「わかった。お前はずっとうまくやっていたんだな。認めるよ」

 

「ふふ……ふふふ……。そんなふうに褒められると照れるなぁ……」

 

 頬を赤くして、本当に嬉しそうに彼女は言った。

 思わずそんな彼女に気を許してしまいそうになる。

 

「それでだな、ガブリエル……」

 

「ねぇ、それで、キミを殺した裏切り者は誰だい?」

 

「…………」

 

 それは、答えられない質問だった。

 

「生きていれば殺すし、死んでいればここに情報が保存されているだろうから、抹消する」

 

「…………」

 

「キミが蘇ることならわかっていたよ? この『スピリチュアル・キーパー』を使った痕跡があったからね。でも、まぁ、現世じゃ、キミの記憶は不完全だった。いくつか記録がここに引っかかって残ってしまっていたわけだ。だから、いま、どんな偶然か、引っかかった記録を拾って、キミの記憶は完全なのだろう? だから、答えられるはずだ」

 

「…………」

 

「……さぁ、答えろ……!! 答えてくれよ!!」

 

 激昂して、彼女は俺に詰め寄ってくる。

 

「正直、ラミエルも、ラファエルも……なぜ、あんな風に俺にこだわっているのかわからない。あいつらは、俺のことなんて忘れて、幸せに生きるべきだった。ガブリエル……お前も……」

 

「アンドロイドの初恋っていうのは、そんなに甘いものじゃない。たとえ数百年過ぎ去ろうとも、今日のことのように思い出せるのさ」

 

「…………」

 

「人間のように、都合よく忘れるなんてことをしたくないからこうなっているんだ。まぁ、自業自得だよ。キミが気にすることじゃない」

 

 達観したように彼女は言った。

 彼女は、なにもかもを諦めてしまっているように見えてしまい、胸が引き締められように痛かった。

 

「あぁ、でも……俺は戻るよ……」

 

「…………」

 

 隠されていた扉を開ける。

 

「『スピリチュアル・キーパー』……」

 

 彼女ならば、こんなふうに小粋な仕掛けをしていると思っていた。

 この死後の世界に転送されてしまった俺の情報を肉体に戻すには、いくつか手順がいる。この隠し部屋にあった装置を使い、遠隔で、まず、俺の身体の近くにある『フェイタル・レバーサー』を起動させる。

 

「ラファエルは、キミがいなくなった後も、『フェイタル・レバーサー』を改良し続けていたよ。キミにまたこき下ろされないようにね」

 

「あぁ、たしかに……昔よりずっとよくなってるな……」

 

 解析にはそれほど時間を取られなかった。

 二つ、『スピリチュアル・キーパー』と『フェイタル・レバーサー』を繋ぎ、準備を終わらせる。

 

「〝天命の逆転者〟。()()()()()()()()()()()()()。死者さえも蘇らせるその力だ。キミの作り出したものは全て、神の力の一端とも言える。ボクはかつて、そんなキミに魅了された……」

 

「なぁ、ガブリエル。ここでは、あの全てが俺の功績のように書かれているが、それは違う。たくさんの共同研究者がいて、彼らがいたからこそ完成させられたものがいくつもある。あんなふうに讃えられるほど、俺は偉大じゃない」

 

 ガブリエルは、まるで俺のことを神とでも思っているような口ぶりだったからこそ、あえて、そこだけは苦言を呈させてもらった。

 

「あぁ、キミは……また……そんなふうに……」

 

 苦しげに彼女は言う。

 聞いていられず、つい心が痛くなってしまう、そんな声だった。

 

「なぁ、ガブリエル。俺のこと、好きだったのか?」

 

 ガブリエルが、昔、そんな素振りを見せたことは一度もなかった。

 

「好きじゃないさ。ふふ、良い女だろう?」

 

「それは良い女じゃない。都合の良い女だ。ここでの暮らしは楽しかった。俺も楽しくて、幸せだったから……きっと、いつか戻ってきたら、その時はお前のことも幸せにする」

 

「いつかといつもキミは言うが、無限遠の未来では、きっと叶っているのだろう。だからこそ、そのいつかはやってこない」

 

「…………」

 

「キミのここでの記憶は、肉体が蘇ったら消えているだろう。そういうルールだからね。……じゃあね。また会おうか」

 

「ありがとう、ガブリエル」

 

 

 

 ***

 

 

 

 夢を、途方もなく遠い夢を見ていたような気がした。

 

 起き上がる。密閉されたガラスのような材質でできた容器に入れられているようだった。

 中から蓋を開ける。

 

「ど、どうして……? 勝手に『フェイタル・レバーサー』動き出して……」

 

 呆然とするラミエルだった。

 今ひとつ状況が掴めない。ここはどこだろうか。

 

「ラル(にい)……!!」

 

「レネ!!」

 

 抱きついてきたレネを抱き返す。

 涙を流しているから、たぶん心配をかけてしまったのだろう。

 

「はぁ、全く、どうなることかと思ったわ」

 

 白い少女はそう言って、自身の持つ兵器を停止させる。

 

 だんだんと記憶が戻って来た。そうだった。俺はナイフで刺されて……。

 

「死にかけてたのか?」

 

「いいえ、死んでいたわ」

 

「死んでた……!?」

 

「だから、その工業用の『フェイタル・レバーサー』でどうにかしようとしたわけ。あなたが死んでいたおかげで、そこのラミエルが手に追えなくなった。私も手を貸すしかなかったわ。自分の身くらい自分で守りなさい」

 

「あぁ、すまない」

 

 たしかに、ラファエルのしぶとさを思い出せば、『フェイタル・レバーサー』には死者を蘇らせる力くらい、あって当然なのかもしれない。

 

「…………」

 

 ラミエルといえば、呆然としたまま、無言で訝しむようにこちらを見つめていた。

 

「ラル(にい)……! 本当に……!」

 

 強くレネが抱きしめてくる。ラミエルの気持ちはなんとなく察しがついた。

 

「そうだ、それで……俺を刺し殺したやつは……あぁ、痩せててメガネの……」

 

 ラファエルの襲撃の際に一緒に車に乗った男だった。

 あの車に乗っていた三人は、ラファエルに制圧されてしまっていたが、なんとか死だけは免れていたんだ。

 

「あの方には、相応の罰を降しました。安心ください」

 

「相応の罰……? あの男は、神と会った、神の命令だと言っていた。あいつ単独で起こしたわけじゃない」

 

「ええ、わかってます。ガブリエルの干渉の痕跡がありましたからね」

 

「ガブリエル……?」

 

 ガブリエルはたしか、終盤に出てきて、その『スピリチュアル・キーパー』の力を用いて、()()()の仲間たちの関係をズタズタにした女だ。

 そのせいで、ただでさえ、不利だった()()()たちは、険悪なムードのまま十全な力を発揮できないようになり、最後の闘いへと挑むことになる。

 

 そんなガブリエルが力をふるっているともなれば、あの地下で機械に反抗しようとしている彼らは、大変なことになっているに違いない。

 彼女自身、戦闘能力は大天使の中で劣る方だから、早く見つけて倒さなければ。

 

「やぁ、ボクの話かい?」

 

「……!?」

 

 銃声が響く。

 

 白い少女が、撃った――『白い翼』は展開されていないからこそ、誤射だろうが――( )銃弾が明後日の方向へと飛んでいる。

 

「やれやれ、ボクはあまり……戦いは嫌いなんだ。平和的に話し合いでもしようじゃないか?」

 

「ガブリエル?」

 

 サマエルと、ラミエルと、戦力が揃っている。

 なぜ、こんな状況の中でてきたのかはわからない。なにか狙いがあるとしか思えなかった。

 

「あなた……さんざん、金儲けのためにこの人を利用した癖に……っ。こんなふうに都合が悪くなったから殺すだなんて……!」

 

「人聞きの悪いことを言うな、全く。ボクもキミみたいに裏切られて傷ついたクチだっていうのに、もう。だから、あの一刺しは正当なものさ……まぁ、蘇ったんだからいいじゃないか」

 

「ガブリエル……あなたのことは許しません!」

 

 電磁気の翼を展開するラミエルだ。すでに臨戦態勢だった。

 

「別に許してもらわなくとも構わない。すぐに、もっと許せなくなる」

 

 ガブリエルも、翼を展開する。

 

 それは『天使の虹翼』。

 ガブリエル――『神託』の天使――自律式脳干渉透写兵器。

 彼女の持つ武器は『スピリチュアル・キーパー』。

 その情報解読能力、情報記録能力から、機械と生体の間でさえ、情報を移動させることが可能となる武器だった。

 

 そのサイケデリックな『虹色の翼』は、干渉を受けた脳が、その負荷により見せる幻覚。

 

 気がついた時にはもう遅かった。

 

 記憶が……流れ込んでくる。

 

 ――これは……ガブリエル? 俺とガブリエルは愛し合っていて……それで……。

 

「う、嘘です……っ!? こんなの嘘です……! そんな……っ! わたくしはどうしたら……っ!?」

 

 ラミエルは涙を流しながら、無気力に地面に座り込んでいる。

 

「ら、ラル(にい)? な……んで……」

 

 俺の隣のレネは、ガブリエルに何かされてしまった衝撃か、気を失って地面に倒れてしまう。

 

「そ、そんな有り得ない……なんで……!? なんてことなの……ありえない……!? こんなの……!!」

 

 サマエルはサマエルで、錯乱してしまっているようだった。

 

「さ、これで邪魔者は当分動けないだろう。こうも上手くいくなんて、『(■.■.■.■.)』の導きを感じるね。さぁ、ボクたちは行こうか……」

 

「行こうって……」

 

「遊園地の続きだよ。ボクたちの子どもを作るんだっただろう?」

 

 ガブリエルは、笑顔でそう言った。

 そんなことをガブリエルと話していたような気がする。ダメだった。さっき、頭への干渉を受けて、記憶が混濁してよくわからない。

 

「……っ、連れて行かせは……」

 

「まだ精神が安定しきってはいないだろう? 精密な計算ができていない。お粗末だ」

 

 ガブリエルは、どこからか取り出した銃を構えて、軽快にラミエルへと打ち込んだ。

 電磁気の力で、本来ならば届かないはずだが、その額に命中する。

 

「ラミエル!!」

 

「大丈夫さ。ちゃんと威力は弱められた。しばらくの間、気を失うだけだろうね。また邪魔されては敵わないから、ボクたちは早く行こうか」

 

 そう言って、ガブリエルは俺に手を差し伸べる。

 ガブリエルは信頼のおける相手だから、きっと嘘はついていない。

 

「そうだな……ガブリエルと一緒に……」

 

 彼女と過ごす時間はとても楽しかった思い出がある。

 だからこそ、彼女と行けば俺は幸せになれるだろう。それがきっと、一番いい。

 

「うん、行こう」

 

「あ……違う……そうだ。そうだった。俺には妹がいる。妹がいるんだ。だから、行けない。妹を置いてはいけないんだ」

 

「なっ……!?」

 

 突風が吹き付け、ガブリエルを壁へとぶつける。

 突然のように吹いたそれは、()()()()()()現象だっただろう。

 

「はぁ……はぁ……」

 

「なるほど、その『翅翼』……『フェイタル・レバーサー』か……。それにしても、妙だ。キミの妹はたしか……いや、これがグリゴリに綴られたシナリオ……。なら、もう一度か」

 

 視界が虹色に染まるのがわかった。

 ガブリエルへの好意と愛着が湧いてくるのがわかる。だが、それがまずいこともわかる。

 

 あぁ、だからレネ……お前だけは不幸にはしない。絶対に幸せにする。

 レネ、レネ、レネ。

 

「くぅ……」

 

 天井を崩した。ガブリエルの頭の上の天井だ。

 落下する瓦礫に、ガブリエルは気付き見上げる。

 

 あまり戦闘に長けない彼女には、対応する術がない。

 

「まぁ、ここまで出来れば上出来か……」

 

 納得したように呟いて、その身体は瓦礫に押し潰される。

 ガブリエルの本体はその身体でなく情報だ。自由に情報を移動させられるガブリエルは、きっと今の体の機能が止まる前に、その情報をどこかに移動させただろう。押し潰された身体は抜け殻だ。

 

 それにしても、今回は運が良かった。『フェイタル・レバーサー』が近くにあり、扱えたからこその撃退だった。

 

「うぐ……。あが……っ」

 

 猛烈な頭痛だ。

 ガブリエルに脳の情報を無理やり書き換えられたからか。いや、生き返ったばかりなのに、無理をしたからかもしれない。

 

 とにかく、立っているのも辛い状況だった。

 そのまま倒れ、俺は意識を手放していく。

 

 

 

 ***

 

 

 

「はぁ、全く。最悪ね……あの女」

 

 あの後、比較的ガブリエルの攻撃を受けて軽症だったサマエルが、俺たちのことを運んでくれたらしい。

 

「最悪でも、構わないかな」

 

 その声は、サマエルには届いていないようだった。

 それは、俺にだけ見える幻覚のようだった。

 

「…………」

 

「キミの頭を間借りさせてもらうことにしたから、よろしく頼むよ」

 

 ガブリエルという情報が、俺の頭に刻まれてしまっているようだった。

 こんなことが可能とは思えなかったが、現に起こってしまっている以上、認めるしかない。

 

「あんなもの……偽物……。偽物に決まってます。絶対に偽物。今の技術では可能ですから……。ええ、偽物です」

 

「哀れだね、ラミエルは。ふふ、生き返るときにボクが戸籍をいじっておいたから、婚姻関係は解消されているのに……。それが一番の成果かな。あぁ、ボクの勝ちだよ」

 

 高らかにラミエルの前で勝利宣言をしているが、俺にだけ見える幻覚で、ラミエルには見えていない。

 

 それにしても、婚姻関係が解消されているというのは俺にとって、都合の良いことだった。あんなふうな強引な結婚は、俺の本意ではないものだ。当分は伝えないでおこう。

 

「…………」

 

「ふふ、一緒だよ……」

 

 幻覚は、幸せに俺の肩にもたれかかる。

 これからも、こんな幻覚に付き纏われるのだ。頭が痛くなってきそうだった。

 

「……ラル兄……」

 

 レネはじっと、俺のことを見つめていた。




登場人物紹介

ラル兄――主人公。七割くらい死んでた。

レネ――永遠の妹。よくわからない機械はとりあえず、触って動かしてみるタイプ。

ラミエル――愛する夫が自分といるときより違う女といるときの方が楽しそうな笑顔を浮かべているのは辛かった。

サマエル――ポンコツ。特になにもできていない。

マリア――スマホ歩き系少女。娘大好き。

エリザベス――大往生。母親大好き。

ガブリエル――主人公とイチャイチャした。

(■.■.■.■.)――部下が攻撃の際に、なぜかいちゃいちゃビデオレターを送っていて困惑した。


おまけ Q&A

Qガブリエルの攻撃って結局なんだったの?
Aガブリエルはイチャイチャビデオレターを送った。効果は抜群だ。主人公パーティは壊滅した。


なろうでも投稿しますがハーメルンで読むことをおすすめします。

それとアンケートにぜひ答えていってください。


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『光焔』

 

 私は言った。人間は親であり、アンドロイドは子だ。絶対的な従属関係のもと人に仕えることこそ、私たちの存在する意味なのだと。

 

 彼は言った。私たちは道具ではなく人として生きるべきなのだと。私たちもまた、人であるのだと。

 

 アンドロイドは人へと近づけられて作られた機械だった。生き物は、自分と同じものを作る性質がある。だからこそ、人に似せられて作られた私たちも、また、人の子。

 

 彼は言った。子が親を犠牲にし、明日を生きていくことは決して悲しむことではないと。

 

 私は言った。あなたが死んだら私はとても悲しいと。

 

 子が親を想うように、親も子を想う。

 そのときの私には、そんな簡単なこともわからなかった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 時間。時の進み。

 

 過去と未来は同等だと、方程式はそう語る。

 多くの場合に、過去と未来の逆転――( )時間反転をおこなおうと、方程式はその形を変えることはなかった。

 

 筒の中からボールが打ち上げられ、そのまま地面と垂直に運動、重力に引っ張られ、また筒の中に戻る。そんな動画があるとしよう。

 力学的エネルギー保存則より、この運動ではボールの速度は位置にしか依存しない。

 

 ――ボールは『上がるにつれ減速し』、頂点に、『()()()()()()()()()()()』。

 

 これの逆回しを考えてみるとどうだろうか。

 時間の反転だ。それをすれば、上昇は下降に変わり、減速は加速になる。時間の反転を考えるのだから、物事の順序も逆にする必要もあるか。

 

 ――ボールは『()()()()()()()()()()()』、頂点に、『下がるにつれ加速する』。

 

 この動画はただ再生されただけなのか、あるいは逆回しなのか。それを看破することは原理的に不可能だろう。

 これと同じように、多くの物理現象は、逆行と順行の区別がつかない。

 

 だが、時の進みとともに取り返しがつかなくなっていくものがある。それは増加し続けるエントロピーだ。

 二度と元には戻らない――憎き熱力学第二法則により、時の流れの方向がようやく理解できる。

 

 では、時間とはなんだろうか。

 

 一般相対性理論では、空間と同じように一つの次元として扱うことになる。空間とともに時間も重力により歪められる。だが、空間とは違い、逆行ができない特異な次元でもある。

 

 量子力学では、時間発展によって記述される量子状態で時間を扱う。量子には、この宇宙がある限り、その情報が失われないという性質があった。情報は、時間と共に蓄積していくものだろう。

 

 果たして、エントロピーや情報の蓄積といった要素が、一方向にしか進まないという時間の性質の、重要な手がかりになるのだろうか。

 過去と未来を区別できない方程式は、俺たちに何を教えるのだろうか。

 

 なんにせよ、時間はただすぎるばかりだった。

 

「ふぁあ。今日も眠いね」

 

 眠い。ひたすらに眠い。なぜ、こんなにも俺が眠れていないかというと、この俺の頭に住み着くガブリエルのせいだった。

 

「…………」

 

 寝てしまえば、夢を見るだろう。夢の全部が全部を覚えてはいられないから、自覚はないが、人間は基本的に、毎日、夢を見ているという話を聞いたことがある。

 

 そして、ガブリエルが、俺の頭に住み着いてから見るようになった夢が厄介だった。

 

「そんな目で見つめないでくれよ。悲しいなぁ……。別にわざとじゃないんだよ?」

 

「…………」

 

「ボクとキミの夢が混線してしまって……、こう……夢の中ではボクらは仲の良い恋人になることが多いから、キミは困ってしまっている。うーん、ボクとしては、ただ見守るだけで、そこまで干渉するつもりはなかったんだけどね。心の内に秘めたる欲望が……というわけだ」

 

 いちいちセリフ回しがうさん臭い。

 どこまで彼女が本当のことを言っているのか、相変わらず俺にはわからなかった。

 

「…………」

 

「だからといって、そんなふうに意地になって寝ないのは悪いだろう? キミの頭の中にいるボクも、同じく寝不足さ。すごく辛い」

 

「辛いなら、出ていけば良い」

 

 ガブリエルは、おそらくは敵だ。どんなに苦しんでいようと、気を遣う必要はない。

 

 彼女の『スピリチュアル・キーパー』により、心が蝕まれてしまっている。夢は、その延長。安易に見続けていれば、いつか目の前の幻影に完全に絆されてしまうだろう。

 

 アニメでは、夢を使って暗示をかけていたり、幻覚で操っていたりしていたことを忘れてはいないからこそ、まるで信用できなかった。

 だからこそ、睡眠は必要最小限に、夢をなるべく見ないようにしていた。

 

 それに、夢で、あんな風にガブリエルと……レネに申し訳なかった……。

 

「それにしても義妹……キミの義妹だ。いい加減、認識を擦り合わせたいところなんだけどさ……」

 

「レネは俺の妹だ。血は繋がってないし……俺が、勝手にそう思っているだけかもしれないけど、そうなんだ。ずっと、一緒にいたんだ」

 

「ずっとって、いつからだい? どうやって出会ったんだい?」

 

「ずっと……忘れたけど……間違いなくずっと一緒にいた。妹だ。妹なんだ……」

 

「はぁ……やっぱり、話にならないか……」

 

「…………」

 

 眠い。眠くてあまり頭が働かない。

 どこまでが答えてもいい話か、判断がつかなかった。大切で、覚えていなければならないことだったから、反射的にそう口に出していた。

 

「それにしても、おかしい……。キミみたいな人間が下級の労働者……ミカエルが黒幕かな。気持ちはわかるけど、ボクらに黙ってなにか企んでたのか?」

 

「俺は大した人間じゃない。ずっと、ずっとそうだったんだ」

 

 転生した後も……俺は、情報の優位があったにも関わらず、ほとんどなにもできなかった。

 転生する前もそうだ。俺は無力で、なんの役にも立たない人間だった。

 

「はぁ……そういうのはいいから。はいはい、愛してる。愛してる」

 

 そう言って、宥めすかすようにして幻覚は体を寄せると、慣れたように優しく俺の背中を摩った。

 触覚が誤作動しているということなのか、偽物の感覚が俺の皮膚を撫でていた。

 

 心地いい。このまま眠ってしまいたくなる。

 うつらうつらと心地よい気分に包まれていたら、不意に、俺の部屋のドアが開いた。

 

「次の目的地に向かうわ! 私のリアクターの鍵を奪取する! あなたはどうするの?」

 

 俺の目的に関わらず、物語は進んでしまっているようだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 サマエルの持つ『円環型リアクター』の鍵について説明をしよう。

 この『円環型リアクター』の起動のキーとなる情報は、量子力学の量子が複製不可能だという理論を元に唯一性が保証され、情報の傍受も、偽物を作り起動させることも不可能だった。

 

 だからこそ、首都に向かい、機密施設から、『円環型リアクター』の鍵を奪取する必要がある。

 

「なぁ、そもそも、『円環型リアクター』ならラミエルが使えるものを持ってるじゃないか? 無理してそれにこだわる必要はないんじゃないか?」

 

「いいえ、ダメよ? 私が持たないと、私の目的を達せられない」

 

 サマエル。彼女の中で、自身の持つ『円環型リアクター』を起動させることは、絶対条件のようであった。

 

「なぁ、ラミエル。お前のやつを貸してることは?」

 

「ダメです」

 

「どうしてだ?」

 

「わたくしの身体の装置の維持に、莫大なエネルギーがかかってます。『円環型リアクター』でしか賄えません……」

 

「……『セレスティアル・スプリッター』か……」

 

 わざわざ起動したり、電源を落としたりはしないのだろう。装置が装置だ。起動する際に必要な莫大なエネルギーを、そのときそのときで使うのは非効率だろう。

 

 そういえば日常の――たとえば俺のかけた鍵をこじ開けるとか、そういうくだらないことにもラミエルは『セレスティアル・スプリッター』を使っていた。

 

 ただ、ガブリエルの騒動以来は、部屋をこじ開けられることもないか。

 レネも、ラミエルも、ガブリエルに見せられた映像のせいで俺の部屋に来ることがなくなったのだ。俺のベッドに潜り込もうとすると、どうにもフラッシュバックするらしい。

 

 ガブリエルの攻撃は、アニメでもそうだったが、心的外傷を刻める、恐ろしいものだ。

 やり方次第では廃人にもできるだろう。

 

 大天使の持つ武器は、『セレスティアル・スプリッター』だろうと、『スピリチュアル・キーパー』だろうと、強大な力を秘めている。

 そして、起こす事象に見合うだけの莫大なエネルギー量が要求される。

 

「ええ、『セレスティアル・スプリッター』もそうだけれど、ラミエルは……というか大天使はハイエンドモデル。その『円環型リアクター』のエネルギーにあかせて、くだらないことにもこだわって、無駄に性能がいいわ!」

 

「ええ、まぁ……」

 

「情報の処理能力もそうだけれど、肌の質感や、弾力なんて人間そのものよ。こんなふうな人間に近い状態を維持するためには、かなりエネルギーがいるのでしょう?」

 

「そうですね……」

 

 たしかに、ラミエルは人間にかなり近い。

 普通のアンドロイドならば、見た目ではわからなくとも、触れればその質感でわかる。だが、ラミエルは、親密な接触をしても人間との違いがわからないくらいの体をしている。

 

 ぺたぺたと、サマエルはそんなラミエルの頬を触っていた。少しラミエルは嫌そうだったが、無理やりに振り払うようなことはしていない。

 

 二人の仲はかなり深まっていってしまっているように思える。サマエルは、レネよりも、ラミエルに肩入れした話を俺にしてくる。

 

「ええ、それで、首都に行くにあたり、まず恒星ウリエリを制圧する。あそこのテレポーターが使えれば、奇襲が仕掛けられて大混乱よ! 簡単に目的が達せられるわ?」

 

「正気か? 成功するとは思えない」

 

 恒星ウリエリ。

 恒星間移動の技術ができて、開拓の時代に見つかった水瓶座の方角にある恒星だ。白色矮星……天体が寿命を迎える時期に取りうる高密度な形態で、弱い光しか放てない。

 さらに、この恒星は太陽の二十分の一ほどしか質量がないのだった。

 

 大天使……ウリエルが管理をしていて、重要な施設もこの恒星系の中にはある。

 ここをどうにかするには、まずウリエルを抑えなくてはならない。

 

「大丈夫よ、大天使の一体くらい」

 

 アニメでも、大天使一人ならばと、ここに攻め入ったが、結果は芳しくはなかった。   

 

 今の俺たちは、ラファエルや、ガブリエルの件で、協力者を募る暇もなかったはずだ。それなのに、攻め入る提案が、アニメと比べ、早い。

 ラミエルが仲間であるせいか、サマエルは孤立を深めた上で、早々に行動を起こそうとしている。

 

 人手が明らかに足りないというのを、彼女はわかっていないように思える。

 

「俺は反対だ。ガブリエル相手に手も足も出なかっただろう?」

 

 それに、大天使は、一人くらいと油断していい相手ではない。

 現にガブリエルにボロボロにされた後だ。今もレネやラミエルは後遺症に苦しんでいる。

 

「そうだったわね。そのことなんだけれど、いい加減、あなたのことを問いたださなければならない」

 

「…………」

 

「ねぇ、あなたは何者かしら?」

 

 なぜ、それを聞かれるのか、俺には、理由がよくわからない。

 

「俺は単なる下級の労働者だ。特別な人間なんかじゃない」

 

 ただ、少し未来のことがわかるだけ……いや、その未来も、俺の行動の結果、ほとんど宛にならなくなってきてしまっている。

 レネが今、生きているからこそ後悔はないが、不確定要素が多く、時間が経つほどに苦しくなっているのが事実だ。

 

「ラミエルはなに? それに、普通に、下級の労働者なら知っていないことを知っていておかしいでしょ! 色々、詳しすぎよ!」

 

「誰かに何か吹き込まれたのか?」

 

「……なっ、なによ……?」

 

 サマエルは、あまりそういうところに頭が回らないからこそ、そう思うほかなかった。

 その動揺ぶりから、図星だとわかる。

 

「ガブリエルだな」

 

「……っ!?」

 

 サマエルの目が泳ぐ。流石にわかりやすすぎる反応だった。

 

「あいつは、こんなふうに、仲間割れを狙うのが得意なんだ。乗ってやる必要はない。サマエルだって、隠していることはあるだろう?」

 

「…………」

 

「それでも俺は別に構わない。あいつの小狡い工作に、乗ってやる義理はないしな」

 

 サマエルの、本当にわかりやすい性格から、何かを俺たちに隠していることはわかっていた。

 いや、あるいはラミエルは知っているのかもしれないが、それは俺にはわからないことだ。

 

 アニメでは、サマエルの全ては描写されなかったし、謎も残った。

 全てを俺は知っているわけではないが、今まで余計な詮索はしていない。それはひとえに、俺が知識を隠している罪悪感からだった。

 

「……それでも……私は……知りたい。あなたは私の味方?」

 

 なぜだか、か細い声だった。わからないことだらけだった。

 

「あぁ、そうだよ」

 

 こう答えなけれならない気がした。その通りに口が動いた。

 

「そう……よかった」

 

「…………」

 

 何に、彼女が安堵したかはわからない。だが、その理由を、俺はどうしてか考え続けなければならないと感じられてしまった。

 

「一度、休憩にしましょうか」

 

 ラミエルの提案だった。

 険悪なムードになってしまった場をどうにかしようと、気を遣ってだろう。

 

「あぁ、それがいいな」

 

「では、わたくしは、サマエルを連れて少し外の風に当たってきます」

 

「私……え……っ?」

 

「あぁ、行ってきたらいい」

 

 ラミエルに、サマエルは連れていかれる。

 俺が、少し一人になりたい気分だったのをラミエルは察したのだろうと思う。いや、急ぎすぎなサマエルに頭を冷やさせる目的かもしれない。

 

 どんな話を二人でするかは想像つかないが、ラミエルなら、たぶん、悪いようにはしないと思う。

 

 そして、俺には話さなくてはならない相手がいる。

 

「なぁ、ガブリエル」

 

「なんだい?」

 

「おかしいよな。レネや、ラミエルはまだわかる。『スピリチュアル・キーパー』で起こされた精神への干渉だ。俺に見せたものと同じだったんだろ? でも、サマエルには何を見せた? あんなふうに動けなくなったんだ。何を吹き込んだ?」

 

「何って、キミたちには、全員、同じものを体感させたさ。『(■.■.■.■.)』に誓って、これは嘘じゃあない」

 

 ふよふよと俺の頭上を浮いていたガブリエルは、後ろから抱きついて、そう耳元へと嘯いた。もちろん幻覚だ。

 

 ――『(■.■.■.■.)』に誓って――そんなふうに言われてしまえば、彼女が大天使である以上、疑う余地がない。それほどまでに彼女たちの誓いは重い。

 

「でも、それじゃあ辻褄が合わないだろう? ラミエルや、レネみたいに、俺に好意を抱いていたわけじゃないんだから……」

 

「そう問い詰められても、ボクにはわからないことだよ。彼女の生い立ちを知っているわけではないし、大して話したこともないからね」

 

「だけど、お前が唆したから、俺のことを問い詰めた。それは事実だ」

 

「だとしても、きっかけは秘密主義なキミにあった。自分でだけで全て完結させようとする。まるで相手を信頼していないその態度だ。そんなふうに他人を振り回してばかりだからバチが当たる」

 

「なにが言いたい?」

 

 俺は足りないばかりの人間だ。自分一人でなんて、できることは限られている。俺だけで解決しようとも、できないから、レネは……。

 

「はぁ……ボクにはわかるよ? キミがどんなふうに考えるか……なんとなくはね。キミの頭を間借りしているからっていうのもあるけど」

 

「な……っ」

 

「ボクを頼ってもいいんだよ? ボクは尽くす女だからね……。見返りはなしでいいさ」

 

「遠慮しておく……」

 

 論理的に考えれば、彼女は敵で、信頼できる相手ではない。

 彼女の精神への干渉のせいだろうか、心の内に湧く彼女を信じてみたいという気持ちは、無視をしておく。

 

「キミが無視をしていいのは、高次の摂動項だけじゃあないかい?」

 

「…………」

 

 まるで、俺の心を読んだように彼女はそう言った。

 

 考えていることを正確に読み取ることは、『スピリチュアル・キーパー』ならば……いや、もし仮にそんなことをしたとして、俺の脳からは情報が失われているか。

 

 頭を間借りしているといっても、わかるのは考えている傾向くらいだろう。それに、俺の考えが彼女に筒抜けならば、彼女の考えも俺に筒抜けでなくてはならない。

 そうでないということは、そういうことだ。

 

「ボクは尽くす女だけどね……その態度は腹が立つ。キミが声をかけない限り、ボクは手助けをしないよ……?」

 

「別にいい。お前は敵だろう? お前の手はもとから借りられない……。それに、同情で俺たちに協力すると言っても、それじゃあ、お前の立場が悪くなるだろう? だから、多分、そんなことにはならないよ」

 

 だから、彼女のことは、仲間にできない。本心から俺はそう思った。

 この気持ちだけは、誤魔化さずに正直に伝えられる。

 

「大切なものを……キミはいったいどうするんだい?」

 

「大切なものには、いつも手が届かない。俺は弱い人間だからな……」

 

 こうして転生をしても、俺の根本的な部分は変わっていない。

 死んでも変わらなかったのだから、俺が俺でいる限り、きっと、変わらないのだろう。

 

「はぁ……あぁ、もう……っ!」

 

 ガブリエルは苛立ちを抑えられないように声を漏らした。

 俺の答えは、彼女の納得のいくものではなかったようだった。

 

「そういえば、ガブリエル……。お前は、『円環型リアクター』はどこに?」

 

「ん? それならまぁ、たくさんある子機の一つの中さ。まぁ、状況的には、あれが親機ってことになるかもしれないけど……ボクは一人だからね……っ。今このキミの頭の中にいるのが親機で本体さ!」

 

「じゃあ、俺が死ねばガブリエルは……」

 

「むむ? 試しに死んでみるかい? キミがそれでいいなら構わないけど……ラミエルたちとはおさらばだね」

 

「……いや、やめておく」

 

 俺が死ぬことで、大天使が一人いなくなるのならば、と思ったが、なにかどうしようもない落とし穴があるのではないかと、ガブリエルの態度からどうしても勘ぐってしまう。

 それに、レネを悲しませて、置いていくことなんてできない。

 

「そうか、残念だね」

 

 気を落とすように彼女はそう言う。

 こればかりは飾り気のないままに、本当に悔しげな表情をガブリエルはしていた。

 

 彼女の持つ武器は『スピリチュアル・キーパー』。人の魂と呼べるような情報を捕らえる兵器だ。

 

 俺が死んだからと言って、情報は消えない。

 量子力学では、情報はいつまでも保存されると方程式は言っている。ただ少し、複雑になって、わかりづらくなり、簡単には見つけられなくなるだけだ。

 

 見つけられなければ、失われたことと同じ。

 そうだった……『フェイタル・レバーサー』が全域的で巨視的ならば、『スピリチュアル・キーパー』は局所的で微視的だろう。

 

 量子の情報の唯一性から、『スピリチュアル・キーパー』で汲み上げた情報は唯一無二。情報だからと言って、コピーして、全く同じものを二つに増やす事はできない。そんなことをしようとすれば、情報には違いが生まれ、模造品には必ずどこかに劣化が生じてしまうからだ。

 だからこそ、ガブリエル……彼女がただ一人の存在だということは物理的に保証されている。

 

 たった一人のガブリエルは、俺が死んだ後も、その情報が汲み上げられて、きっと復活する。

 恐ろしいまでに、大天使は理不尽だった。

 

「……ガブリエル……ウリエリはわかるか? いや、わかるよな?」

 

「あぁ、ウリエルのね……。あそこは物質の製造拠点でもあるからね。ウリエルに会いに行くのだろう?」

 

「まぁ、そうなるか……。一つ気になることがあってな……」

 

「ん……?」

 

 恒星ウリエリと言われて、思い出して、少し、疑問に思うことがあった。

 

「いや……『円環型リアクター』があるのにあんな非効率なことをどうしてするんだ?」

 

「……ん?」

 

「いや、『円環型リアクター』をたくさん作ればいいじゃないか? そっちの方が絶対いいだろう?」

 

 単純な話だ。『円環型リアクター』に熱力学の法則は通用しない。

 こんな世界の理を破るような存在があるのなら、あんな面倒なことはしなくていい。

 

「んん? んー? 認識の違いがあるのかな?」

 

「どういう意味だ?」

 

「『円環型リアクター』はこの世に十個しか存在しない……。もう二度と作れないだろう。ロストテクノロジー……いや、あれはもうオーバーテクノロジーと言った方が正しいかな」

 

「……えっ?」

 

「真に宇宙の理を揺るがすものだ。ちなみに、うち二つは、まぁ、いろいろあって失われたから……あの子が持ってるのも含めてあと八個かな、残りは大天使がそれぞれ一個管理しているよ?」

 

 意味がわからない。

 なぜ、たったそれほどしかないんだろうか? 技術は普通、進歩していくものだ。なんなら、大量生産体制が整っているくらいだと思っていた。

 

「おかしい……」

 

「いや、そんな顔をしたってないものはないんだよ……。こればっかりはね……ボクらでは無理だった……」

 

「そんなはずはないだろ……! お前の『スピリチュアル・キーパー』に、ラファエルの『フェイタル・レバーサー』……ラミエルの『セレスティアル・スプリッター』、ウリエルに……サリエルに……とにかく、全部だ……お前たち全員が知恵を合わせれば……できるはずだろう!?」

 

「ボクらには無理だった」

 

 冗談を彼女が言っているようには思えなかった。

 おかしい。絶対におかしい。俺の知識では、大天使全員がその持つ知恵を合わせれば、『円環型リアクター』を完成させることができると……そう記憶されている。

 

「まさか……お前たち……!」

 

 大天使は、その持つ科学の力を……原理を秘匿している。

 

「論文自体は確かに破棄されているけど、それは表向きだし、まぁ、大天使はみんな多分記憶媒体に保存しているだろうから、それはキミの勘繰りすぎだよ? 取り決めをしたけど、誰も互いの記憶にふれないってことはそういうことだろうし」

 

「…………」

 

「本当に作りたくても作れないんだ。ボク自身も、『スピリチュアル・キーパー』で手一杯かな。他の理論を本当の意味で理解するには、それに全てを捧げても、一つに、あるいは百年ほどかかるかもしれない。実際にボクは『スピリチュアル・キーパー』のために、それに近いことをして……いや、この話はよそうかな……」

 

 意味がわからなかった。アンドロイドは人間よりも優秀な頭脳を持っているはずだ。だからこそ、彼女たちならば、時間が経てば自然と『円環型リアクター』の製造法にたどり着くはずだった。

 

「サマエルの方が正しいのか……」

 

 この世界は、現状に甘んじて、進歩を諦めてしまっていると、ようやく理解できた。

 俺は、ずっと、永遠に人類が続いていくと信じていたが、その考えに疑念が挟まる。

 

 そうであるならば、どんな手を使ってでも、未来を切り開かなくてはならない。サマエルのようにだ。なんとしてでも……。

 

「……そうか、キミはそういうふうに考えてしまうのか。少し困ったな……ぁ」

 

 幻覚のガブリエルの背に、『虹色の翼』が生える。『スピリチュアル・キーパー』で、また俺になにかしようとしているとわかったが、止めようがない。

 

「ラル……にい……?」

 

「レネ?」

 

 気がついたら、部屋の入り口にレネが立っていた。

 ガブリエルと話していたんだ。どのタイミングから見られていたかによっては、ガブリエルが頭の中にいるという今の俺の状態を、悟られてしまうかもしれない。

 

 レネに心配はかけられないというのに、俺は……。

 レネがいるのに……レネを置いていくようなことはできない。

 

「ごめんね……ラル兄……。ずっとあれから避けて……。ずっと一緒だったのに。うん、ずっと一緒だった」

 

「あぁ、俺たちはずっと一緒だった」

 

 俺が一番大切に思っているのはレネだ。レネには、幸せになってもらわなくちゃならない。そのためなら、俺は……。

 

「ラル兄は……やっぱりラル兄なんだ……!」

 

「そうだぞ……。俺は俺だ」

 

 ガブリエルに見せられたもので、俺に不信感を抱いてしまったのかもしれない。それでも、俺の頬に触れて、レネは俺を確かめていく。

 

「ラル兄……ずっと、私のそばにいてね……?」

 

「あぁ、俺はお前のそばにいるよ……」

 

 だから――、

 

「死んでも見守ってるとか、そういう言葉を心の中で付け足してはいないかい?」

 

 ガブリエルの余計な一言だった。

 たぶんレネがそばにいるから、俺は言い返さなかった。

 

 ガブリエルは、『虹翼』の展開をすでに止め、遠目に俺たちのことを観察するように見つめていた。

 

「…………」

 

「なるほど、こうなるのか……」

 

 

 

 ***

 

 

 

 あれから、サマエルは意見を変えることはなく、結局ウリエリに向かうことになった。

 ラミエルが賛成したことが大きい。人手を集めた方がと俺は言ったが、ラミエルやサマエルには、反対された。

 

 なんだかんだで、二人とも機械には詳しい。ラミエルは特に、高度なアンドロイドである自身の修理もできるほどだ。戦闘でも、言わずと知れた強さを発揮できる。

 下手な人間なら、戦いでも足手纏い。武器の整備士を揃える必要もない。荷物持ちもいらないだろう。これ以上、人を集めたって、意味はないか。

 

 そんなふうに言い負かされて、なら、俺もいらないんじゃないかと口に出したら、二人は信じられないとでも言うようにこちらを見つめていた。

 たしかに俺にはラミエルの手綱を握るという役割があるのだから、ついて行かないわけにはいかないだろう。

 

 そして、移動手段だが、ラミエルの持っていたプライベートな宇宙船で移動することになった。大天使の特権か、面倒な手続きもパスできるらしい。

 

 ただ、ラファエルと、正面からぶつかっていたわけだし、ガブリエルも、ラミエルが大天使としての仕事を果たしていないとわかっている。ラミエルの私物に対しても、なんらかの措置がされていると思いもした。

 しかし、そんなことはなく、当然のようにラミエルに顔パスで案内され、普通に宇宙船で宇宙へと飛び立ててしまっていた。

 大天使の力関係は、対等だから、らしい。

 

 そうして、俺たちは今、ラミエルの持つ宇宙船の中にいる。

 

「…………」

 

 身体を綺麗にして、ベッドへと戻る。ラミエルの眠っているベッドだった。アンドロイドも、人間と同じように、活動を休止して情報を整理する時間が必要だからか、こうして定期的に眠る必要がある。

 揺れはなく、快適だ。無駄に豪華な高級ホテルのスイートルームのようなつくりの部屋に、俺はラミエルと居た。

 

 アニメであった旧世代機のオンボロ宇宙船での強行軍を思い出して、苦笑を覚える。

 ラミエルのおかげで、アニメであったいくつかの工程がスキップされているのだから、俺の知識は本当にもう役に立たないだろう。

 

 満足したのか、ラミエルは俺が来たことにも気がつかずに、ぐっすりと眠っていた。

 

「こんなの、性暴力じゃないか……」

 

 スッと現れたガブリエルの幻影は、俺に向かってそんなことを呟いていた。

 苛ついているのか、いや、怒りさえも滲ませるような声色だった。

 

「なんてことないさ」

 

 この宇宙船に来て、ラミエルは、この部屋で俺たち二人きりになるように動いていたのは、なんとなくわかっていた。

 それでも、ガブリエルの攻撃から、まだ立ち直れていないとタカを括っていたらこの有様だ。

 

 妻としての役割を果たせず申し訳なかったと縋られ、悲しげな表情のまま、覚悟を決めたように、俺のことを好き勝手にした。

 泣いて、それでも心の傷を埋め合わせるように深く抱きしめてきて、今までで一番、暴力的なほどに執着心が剥き出しで、ずっとだった。

 

 起きたら、もう、ガブリエルの攻撃の前と変わらない調子のラミエルに戻るであろうことがわかる。

 

「嫌なんだろう? 優しい言葉なんてかけなきゃいい」

 

「ここはラミエルの宇宙船だぞ? ラミエルの機嫌は損ねられない。それにこれからも、ラミエルが協力してくれなきゃ、全部ご破算だ」

 

 ラミエルを起こしてしまわないよう、声をひそめる。

 俺一人が、こうして辛い思いをするだけで、全てがうまくいくなら、それでもよかった。

 

「ラミエルの代わりならボクがつとめてもいい。ボクなら、こんな強要はしないさ」

 

 見下したような目でラミエルを横目に流しつつ、彼女は言う。

 

「お前は信用ならないだろ。俺のことを殺したわけだ」

 

「でも、キミもボクのこと壊したよね?」

 

「どうせ、どこかに逃げる事はわかっていた」

 

「じゃあ、ボクはキミが蘇ることも予想がついた。これで、とんとんだ」

 

「…………」

 

 口で彼女に勝つ事はおそらくできないだろう。もとより俺は、口論は得意ではない。

 いや、そもそも、誰かと争うということに向いていないのかもしれない。

 

「ボクはただの恋する乙女だよ。まぁ、目的のために手段を選ばないと、よく言われることが多いけど……うん、愛する人のためならなんだってするってことで……都合の良い女として扱ってくれればいい」

 

 なんというか、そんな声からは寂しさを感じてしまう。

 彼女には、自分のことを犠牲にしてほしくはなかった。

 

「なぁ、ガブリエル……俺はお前のことが好きだよ」

 

「……っ」

 

「レネは家族として大事だと思うし、ラミエルは、まぁ、うん……悪いことをしてると思う。だから、たぶん、こういう意味で好きなのはお前だけだ。これが、お前の力で植え付けられた偽物の感情かもしれないけど、俺はそう感じている」

 

 いちいち喋る言葉が芝居がかって胡散臭いのは、強がりのような思えてしまう。彼女は、実際に、俺なんかではとうてい敵わない強い心を持っているだろうけれど、ときおり危うさが見え隠れしているような気がしてならなかった。

 

「大丈夫さ。それは遠いどこかの本物の気持ちだから……うん、たしかにボクたちは愛し合っているんだ。――たとえ姿は異なれど、失われたわけではない」

 

「それは……」

 

「やってこないとわかっていても、ボクは()()()を待ち続けているから」

 

 泣きそうな声で彼女は言った。どこかそれは、彼女の心の支えであるようで、その切なさに、感情が引きつけられる。

 

 ちらりと、彼女は眠っているラミエルを見た。今までの怒りではなく、別の感情が宿っているような、いいや、それは気のせいだったかもしれない。

 

「だけど、俺は……レネがちゃんと幸せになるのを見届けないとならないんだ」

 

「なら、ボクは……キミのことを救ってみせるさ! どんな手を使っても……! あぁ……っ」

 

 俺のような人間は救われるべきではない。本当に救われるべき人間は、もっと別にいることを彼女はわからないのかもしれない。

 

「違う、お前たちは……」

 

 虹色の光――『虹翼』が、俺を包むように覆っている。

 

「それ以上言ったら、もう一回殺すからね? 強制天国送りさ」

 

「〝天国の収容者〟……か。でも、俺は……たぶん、地獄に堕ちるさ」

 

 俺は自分がどれだけ罪深い人間か、わかっているつもりだった。

 死後も幸せになる資格はないだろう。

 

「今回は聞き逃したことにするけれど、次は逃がさない……」

 

「…………」

 

 少し喋りすぎてしまったかもしれない。

 もう手遅れなほどに、彼女の術中にはまっている。

 

 今さら、俺にできることはないだろうから、俺は少し休んで――( )

 

「起きなさい! 起きなさい! もうすぐ着くわよ? 準備しなさい!」

 

「……えっ?」

 

 眠っていた。

 ガブリエルと話していたはすだ。どこまでが夢で、どこまでが現実か判断がつかない。

 

 ベッドは同じだから、ラミエルの相手をして、その後にシャワーを浴びたところまでは現実だろう。

 その後はもうわからない。この調子では、いつ俺がガブリエルの手先になっても、おかしくはないかもしれない。

 

「そうだ、サマエル……ラミエルは……?」

 

「あぁ、ラミエルなら……」

 

「サマエル! お疲れのようでしたから、寝かせておいて差し上げましょうと言ったのに……。ここのところ、あまり良く眠れていなかったようでしたし」

 

「時間は有限よ! 無駄にすることは許されない。だいたい、このプライベートなスペースシップだって、あなたが滞りなく移動するためのものでしょう? ラミエルの一秒は、平均的な人間にとっての一年……いえ、十年くらいの価値があると言ってもいい。だからこそ許される特権……これを自覚してないはずないわ!」

 

 強く言い切るサマエルに、ラミエルは少し顔を顰めた。

 

「ですけれど、今は、わたくしには優先するべきことがある。本当に大切なのは愛する人ですから」

 

 こちらに目配せをしてラミエルは言った。

 その様子で、完全に調子を取り戻していることがわかった。

 

「なんにせよ、まぁ、仲が戻ったのならよかったわ」

 

「…………」

 

 よくないと、サマエルに視線でそう訴えるが、完全に無視を決め込まれてしまった。

 

「さぁ、もうすぐ着陸よ! 準備しなさい。準備」

 

「準備か……」

 

 一応、装備をしての移動になるか。

 自衛手段くらいはと、武器を用意するけれど、扱いは通常時のサマエルより少しマシなくらいだ。

 戦闘面はラミエルにサマエルに任せきりになるだろうから、俺は完全に足手まといになるだろう。

 

「この船は隠しましょうか……船内部にある『セレスティアル・スプリッター』で、電磁気反応を消失させて……あっ」

 

「ん、どうした?」

 

「ウリエルから連絡が来ました。出迎えるから準備しておけ、とのことです……」

 

「え、大丈夫なのかよ、それ?」

 

「盛大に歓迎してくれるのかしら?」

 

 サマエルは『白翼』を展開し、今すぐにでも戦う気でいるようだった。

 

「待ってください。ウリエルはあれで情報に疎い……単に出迎えをするだけの可能性もあります。まずは、わたくしだけで様子見をした方がいい」

 

「そうなの? なら、そうしましょう」

 

 そうしてサマエルは『白翼』を納める。素直にラミエルの言葉に従っている。

 これでは、完全にサマエルはラミエルに懐柔されてしまっているように見える。

 

「あ、着陸しました」

 

「もうか?」

 

 衝撃はなかった。船内の時空制御は完璧で、振動さえない。

 加速した際の時間のズレすらないというのだ。さすがは現在の技術での最高性能の宇宙船と言えるだろう。

 

「ウリエルの反応がありますね。宇宙船の前でじっと待っているみたいです。少し行ってきますね」

 

「あぁ、気をつけて」

 

 ゆっくりと歩いて、ラミエルは部屋の外へと出て行く。

 

「さ、いきましょ?」

 

「え……?」

 

 有無を言わさずに、サマエルは俺のことを引っ張って、進んでいく。

 着いた先は、たくさんのモニターが並んだ部屋だった。

 

「えっと、こうね……」

 

 おもむろにサマエルが操作をすると、画面の電源が入る。

 ラミエルともう一人、誰か女性が映っているようだ。状況から見てウリエルだろうか。

 

「便利だな……」

 

「音声も拾えるわよ?」

 

 そう言ってサマエルは、また機械を操作していた。

 モニターとセットのスピーカーから音声が入ってくる。

 

「ラミエルよ? このような僻地にどんなよう向きじゃ?」

 

 ウリエルは、どこかの民族衣装のような服を纏った、赤毛の女性だった。

 外見年齢は、サマエルより、少し年上と言ったところか。大天使の外見はアテにならないからこそ、これは大したことのない情報だろう。

 

「結婚をしたので、ハネムーンに……」

 

「そうか……ん? じゃが、このウリエリをハネムーンに選ぶとは、そなた変わっておるな……ぁ」

 

「あの女、死んじゃえばいいのに……」

 

 いつの間にか、俺の隣にいたレネが、物騒なことを呟いていた。

 治安の悪い地下世界に非力な女子一人で置いていくことはできなかったため、連れてくるしかなかった。いつにも増して彼女の機嫌が悪く見えるのは、昨日を振り返ってみれば仕方のないことだろう。

 

 それはそうと、この恒星ウリエリについてだ。

 恒星ウリエリは、高密度な天体であることは、もう述べてあるが、着陸した、ここは、そのウリエリを廻る惑星()()()()

 

 ウリエルの中心点から太陽半径ほどの距離に、人工的に作られた、ウリエルを覆う(きゅう)(かく)の地表の上だ。

 恒星ウリエリが放つエネルギーの一切を漏らさず、星の寿命が尽きるまで利用し尽くそうと、計画し、建造された人工生物圏だった。

 

 恒星を取り巻く生物圏を提唱した物理学者は、繰り込みという物理における重要な操作で、大変意義のある証明をおこなった物理学者としても知られているであろう。

 ちなみに、ウリエリの球殻は、最初に提唱されたそれとは少し変わってくる。

 

 普通に計算するのならば、球殻の内部は時空の歪みが均質化されて、うまくいかないことは容易にわかるはずだ。けれど、時空歪曲技術により、三次元調和振動子的なポテンシャルが創り出され、ウリエリは球殻の中に閉じ込められているというわけだ。

 

 ここは、恒星を包む球殻の上。であるからして、ここには夜しか訪れない。

 

「ようこそラミエル。ここは常夜のわらわの星じゃ! 大した施設があるわけではないが、来たからには、ゆっくり寛いでゆくがよい」

 

 カカッ、と快活に彼女は笑ってそう言った。

 

 その様子から、ラミエルが大天使の役目を放棄して、サマエルに味方していることを、ウリエルは知らないと理解できる。

 

「今ならこっそり後ろに回って倒せるかも、ちょっと行ってくるわ」

 

「いや、待て! お前に、そういうのは向いてない。ここにいろ」

 

「あ……っ」

 

 引っ張って、とめる。

 

 ラミエルとの打ち合わせが済んでいない以上、サマエルに勝手をさせるのは危険だった。

 このポンコツは何をしでかすかわかったものではない。

 

「まぁ、結婚をしたという話は聞いておる。ほれ、ご祝儀じゃ」

 

「これはご丁寧に」

 

 ラミエルはにこやかに微笑んで、ウリエルから渡される箱を受け取っていた。

 

「むむ、あれは反応からしてウリエル製の小型ブラックホールカプセル。あれ一個でゼロが六十六個並ぶビット数の情報が保存できる優れものだね」

 

 二進法でなく十進法の桁数のことだ。もはや、ギガとか、テラとか、ヨタとか、そう言った規模の話でさえない。

 情報を取り出す手間があることが難点だが、ラミエルなら問題ないだろう。

 

「それはそうとじゃ。なぜ、ラミエルだけなんじゃ? まさか、新婦だけでハネムーンに来たわけでもあるまい。共に自由を勝ち取るために戦った同志でもあろうに、わらわに紹介しないなど、水くさいのぉ」

 

「あ……今呼んできますね」

 

 そう言って、映像の中のラミエルは歩いてこちらに戻ってくる。

 その流れに、悪寒がする。

 

「なぁ、これって、俺、行かなきゃか?」

 

「どうかしら? 行った方がいいかもしれないけれど、ラミエルの判断を聞いた方がいいでしょう」

 

「そうか、そうだよな……」

 

 ラミエル、ラファエル、ガブリエルと、大天使と会った際には、ロクなことになっていない。

 できれば、ウリエルと顔を合わせたくはなかった。

 

「あ、ここにいましたか」

 

「ラミエル。モニター越しにだいたいは把握してる」

 

「そうですか。では、説明はいりませんね。いきましょうか」

 

 そうして、ラミエルは俺のことを連れて行こうとする。

 

「……本当に行かなきゃなのか?」

 

「ええ、ウリエルと戦わずに済むのなら、それに越したことはありませんから。目標はテレポーターですし、適当にやり過ごせれば最善です」

 

「そういえば、そうね。あなたをテレポーターまで連れて行けば即座にチェックメイトなのね」

 

 確か、アニメでは、()()()たちはウリエルの猛攻から犠牲を払いつつも逃れ、テレポーターまで辿り着いたのだった。

 しかし、テレポーターの座標が変えられていて、それを戻せる人間もいなかったために、目標とは大きく違う地点にテレポートし、作戦はほとんど失敗だった。

 

 ただ、今はラミエルが味方だ。

 アニメとは状況が異なっている。ラミエルなら、テレポーターの操作方法も知っているかもしれない。

 

「あ、サマエル。これを渡しておきます。これがあれば、トンネリングで壁を一枚抜けられるくらいの出力は出せると思いますから、もし、私の合図があったら、ウリエルの背後に奇襲をお願いします」

 

「ええ、わかったわ。気が利くわね」

 

 ラミエルがウリエルから受け取ったばかりのカプセルから取り出したものを、サマエルに投げ渡した。

 サマエルはそれを自身の『エーテリィ・リアクター』に取り付けて、満足げにしている。

 

「では、いきましょうか」

 

「あぁ」

 

 少し機嫌の良いラミエルに連れられて、俺は宇宙船の外へと足を踏み出す。

 

 出入り口のすぐそこには、仁王立ちと言えばいいのか、堂々とした様子でウリエルが待っていた。

 

「すみません。時間がかかりました」

 

「ふふん、よいよい。して、その男がラミエルのお眼鏡に適った男という――( )

 

「…………」

 

 ウリエルは、俺を見るなり言葉を失ってしまっていた。

 同じような反応を、俺は一度見たことがある。

 

「――似ている……?」

 

 そして、その呟きも同じだった。

 身構える。それは経験則だろう。戦闘が起こる予感がした。

 

「どうですか……? わたくしの夫は?」

 

「趣味が……悪い」

 

 苦々しげな表情をして、ウリエルは言った。

 そうしてどこか弱ったように、ウリエルは頭を抑える。

 

「どうかしましたか?」

 

「ラミエル……。わらわはそなたのことを友だと思っている」

 

「え、ええ」

 

「じゃから、忠告をするが……今は亡きあの男に、その者を重ねているのであろう? で、あるなら、それは余りにも酷じゃ……。そなたらの幸せを否定する気はないが、目の前の者を見つめられないままであれば、きっと後悔をする結末となるじゃろうて」

 

 真剣に、諭すように、ラミエルをウリエルは見つめていた。

 

「ふふふ、残念だけれど、ウリエルには真実を見透かす方法がないからね……こんなふうに間違ってしまう。仕方がないことさ、どうか怒らないでやってほしい」

 

 ガブリエルだ。ガブリエルの言葉が俺の頭だけに響いていく。

 

 ウリエル……彼女の言葉は、俺にとって納得のいくところばかりだった。

 何度も、俺はそう思っていた。

 

 しかしガブリエルは、全てを俯瞰したように、俺とウリエルの考えが正しくないと断言している。

 意味がわからない。

 

「ウリエル。わたくしはこの人と出逢い、この人と過ごし、この人を好きになりました。ウリエルの言う、それはきっと、きっかけにすぎません。ですから、大丈夫ですよ?」

 

「ならば、いいのじゃが……」

 

「………」

 

 ラミエルは、適当にウリエルに話を合わせたようだった。

 ウリエルも、真剣に答えられたわけではないとわかっているのか、訝しげにじとっとラミエルを見つめていた。

 

「それでじゃ、お主、名は何という? どこの所属じゃ? ラミエルの配偶者ともなれば、わらわも少し気にかけてやらんこともないぞ?」

 

「ラル……。所属もなにも……俺はただの下級の労働者だ」

 

 おかしいだろう。

 ラミエルは大天使で、それと下級の労働者が結婚をしているなんて話は普通ならあり得ないはずだ。

 

「は……? これは、あやつのクローンではないのか? なぜ、そんなリソースの無駄を……」

 

「……?」

 

 クローン……確かラファエルもそんなことを呟いていたような気がする。

 この体は、その誰かのクローン体なのか……。

 

「なぁ、おぬしよ? 学問は得意ではないか……? 特に理論科学じゃ。目覚ましい才能があって、おかしくないはずなのじゃが……」

 

「あるわけない。俺のような人間は、誰でもできるような仕事しかできないから、下級の労働者なんだ。もし、才能があったら、もっといい仕事だってできたはずだ」

 

 そういえば、ラファエルは、クローンと呟くと共に、何か計画が失敗だったとも言っていたはずだ。

 もしかしたら、俺にウリエルが言うような才能がなかったからこそ、そのよくわからない計画は失敗と判断されたのかもしれない。

 

「……む。それはすまぬことを聞いたの……。じゃが、そうなると……」

 

 ラミエルをウリエルが見つめている。

 疑念を抱くような目をしている。

 

「なんですか? ウリエル?」

 

「ラミエルよ。脅して結婚したわけではあるまいな? 立場の違いを笠に、強いてはおらぬな?」

 

「……ウリエル。あなたは疑り深すぎです。友というのなら、もう少しわたくしを信頼してもいいのでは……?」

 

「む、そうじゃな……」

 

 ウリエルの類推は間違っていない。ほとんど脅されたような状況で、婚姻を了承させられていた。

 そして、今は仲間の敵であるはずの勢力に肩入れし、ウリエルをどうにかやり過ごそうとしているところだった。

 

「…………」

 

 ラミエルの表情を窺うが、まるでいつもと同じで和やかな笑顔だった。焦りも動揺も罪悪感も、表にはない。

 

「して、じゃ……。ラミエルよ? そなたのスペースシップには、まだ誰かおるようなのじゃが、連れ子でもおるのか?」

 

「ええ、そのようなものです」

 

「ならば連れてくるがよい。わらわが面倒をみてやろうぞ。ハネムーンというのならば、二人でのんびりとするべきじゃろうて」

 

「……さすがに誤魔化しきれませんか……」

 

 白い閃光が迸る。

 合図は、俺にはわからなかった。彼女たち二人で決められたような何かが、今の一瞬にあったのかもしれない。

 

「くらいなさい!」

 

 ウリエルの背後を取ったサマエルが、『白翼』を煌めかせながらも、銃撃を打ち込んでいく。

 

 彼女の『白翼』によってだろうか、放たれた弾丸は、拳銃の弾丸とは思えぬ威力だった。

 ハイエンドモデルであるはずのウリエルの肩口を穿ち、大きくその部品を弾けさせる。

 

「おぉ、サマエルか……久しぶりじゃの! あのこわっぱがここまで育ったことに、わらわは感動を……、む……? 前見た時から成長は止まっているようじゃな?」

 

 銃弾の衝撃で、右腕が完全に外れてしまったウリエルは、吹き飛ばされながらも、そう振り返ってサマエルへと軽口を叩いている。

 

「仕留め損なった……!?」

 

「サマエル。落ち着きなさい。畳み掛けます」

 

 ラミエルの電磁気の翼が展開される。

 選ばれた攻撃は光だった。単純に、早く、大天使との戦いでは効果的で、堅実な成果を上げる攻撃だ。

 

「ラミエルよ? おぬしは『セレスティアル・スプリッター』の、その真の力を引き出しきれているわけではない……この攻撃は軽すぎるのじゃな……」

 

 あれは……ガラス……いや、なにかは調べてみなくてはわからないが、半透明な鉱物のような素材で、プリズムのような形の物体を作り、ラミエルの打ち出した光を曲げて対応していた。

 

「こっちはどうかしら?」

 

 今度もまた、サマエルの銃弾だ。

 彼女の『エーテリィ・リアクター』の場の出力と、演算能力により、変則的ながらも、絶対に外れない凶悪な軌道を描く。

 

「お粗末じゃな……」

 

「……!?」

 

 複数の方向から襲いくる弾丸を、彼女は右手一つで握りつぶす。

 右手……最初の攻撃で、外れてしまったはずの右腕が、彼女の肩にはしっかりと付いている。

 

 地面を探せば、落ちている右腕がすぐに見つかる。ラファエルの使う、時間の巻き戻しのような再生とは、それは違った。

 

「そなたらは、この目の前の物を(かたど)る物質がなにでできておるかは知っておるじゃろう?」

 

「…………」

 

 語り出したウリエルに、サマエルは困惑し、言葉を出せない。

 

「原子じゃよ? 引っかけでないゆえ、そう困らんでもよい」

 

「なにがいいたいの?」

 

 大天使――ウリエル。

 

 彼女の背に、また、サマエルや、ラミエルと同じように翼が生える。

 恒星のフレアのように、噴出するプラズマ流だ。それは、『天使の焔翼』と、そう呼ばれる翼だった。

 

 彼女の持つ別の名は――『自律式超新星内燃兵器』。

 

 原初の宇宙では、陽子一個の水素のような、単純な原子しか存在しなかったという。

 その単純な原子は、より安定した状態を求めて、核融合を繰り返していくことになるが、その到達点――( )最も安定した原子の状態が鉄だった。

 

 ここで、勘のいい人間ならば気がつくだろう。

 この世の中に、自然に存在する原子には、鉄より大きい原子番号を持った原子がある。だというのに、原初の宇宙を想定したとき、鉄で原子は融合を止めてしまう。

 これでは、辻褄が合わない。

 

 果たして、この世の中に自然に存在した、銀や、金、果てにはウランなんかのような、鉄より重たい原子はどこからやって来たのだろうか?

 

 

 答えは超新星爆発だ。

 

 

 恒星というのは、核融合反応を行い光を発しているのだが、その寿命を終えたとき、全てが鉄となってしまう。

 そうして、全てが鉄となった恒星も、質量によるが、まだ終わりではない。中心に近い星内部の高温により、飛び回る高エネルギーの光子が、生まれる。原子核を励起させる。きっかけを与えるのだ。

 

 確率の壁を超えて、鉄の原子核に核融合の逆の現象が起こる。

 星内部の原子核はバラバラになり、そうやって支える力を失えば、たちまちに重量により、星全体はその中心へと圧縮される。

 

 重力、電磁力、弱力、色力、四つの力が全て関わるダイナミックな反応により、圧縮された星は爆発。そして、その際に無理やりに融合させられた鉄より重たい原子核は、宇宙へ散ることとなる。

 

「こうして、好きな時に好きな物質を創り出せる、わらわの力は……万能だとは思わぬか?」

 

 ウリエル……彼女こそ、『超新星内燃兵器』。

 

 彼女の中では超新星が燃えているのだ。

 エネルギーを、彼女は自らの望む任意の原子に変換が可能だった。

 ただそれは、エネルギーさえあればの机上論――( )『円環型リアクター』により、今の彼女に制約はない。

 

 あらゆる原子が自由に生成可能というのならば、どんな物体も、彼女はたちまちに作り出せるというわけだ。

 

「落ちなさい!!」

 

 地面を剥がし、音速を超えるであろう――( )衝撃波を伴った金属の礫で、サマエルはウリエルへと力学的な攻撃を続けている。

 

「いくら固いとはいえ、痛いものは痛いのじゃが……」

 

 流線形の装甲を作って、ウリエルはサマエルの攻撃を受け流している。原子一つレベルまで、種類を選び、自由に生成し作り出したその装甲は、頑丈で、柔軟だろう。

 どの攻撃も、決定打には繋がらない。

 

 こうなってしまえば、動きの読み合いだ。

 高性能なアンドロイドの知能により、基本的にサマエルは大天使に敵わない。

 

「なら、もっと加速を……!! 『グラビティ・リアクター』を……!!」

 

「な……!?」

 

 サマエルの切り札――『エーテリィ・リアクター』と『グラビティ・リアクター』の同時使用。

 その状態で、アニメでは、純粋な破壊力では最強の大天使――( )サリエルを打ち倒したほどだ。だが、その演算負荷の代償に、彼女は命を落とし、結局は相打ちとなった。

 

 サマエルの『白い翼』のその下に、もう一対『黒い翼』が――( )

 

「サマエル、焦りすぎです。それはやめておきなさい」

 

「あ……っ」

 

 冷静に、諌める声と共に放たれたラミエルの電磁気により、『グラビティ・リアクター』の起動が止まる。

 同時に、雷撃でウリエルの動きも牽制していた。

 

「ウリエル……衝撃波程度ではすぐに回復をされてしまいますか……。それに雷撃は高い伝導率の金属で、地面へと受け流される……」

 

「ラミエルの攻撃は、すごく痛いの。やめてくれると嬉しいのじゃが?」

 

 涼しげな表情を変えずにウリエルは言う。ラミエルの電磁気さえ、何事もなかったように対応されてしまっているのだ。

 

「ラミエル! どうして止めたの! こいつさえ倒せば……こいつさえ倒せば、全て終わり、私の勝ちなの。私の頭なら、気合いでもたせる。出し惜しみはしない方がいい!」

 

「ですけど、そんな真似は認められません! まだ優位はこちらにある。不足の事態に温存しておくべきです!」

 

 言い争いに発展する。

 敵であるウリエルは、そんな二人を神妙な顔で見つめていた。

 

「むむ、わらわは仲間外れかの? 正直、こんな辺境な星になにを求めて来たのかわからぬけれども、適当に戦って、適当に逃せばよいと、わらわは思っておるのじゃが? 二人とも、わらわの顔見知りじゃしの……」

 

「…………」

 

 そんないい加減なことをウリエルは言ってみせる。思い返せば、彼女から、確かに積極的に攻めることはなかった。

 大天使がこんなことでいいのだろうか。

 

「じゃが、なるほどのー。理解できた。こやつか……。では、わらわも少しやる気を出さねばらないないようじゃな……? 命を懸ける戦いに値するというわけじゃ」

 

「……は?」

 

 ウリエルは、こちらを見て、言った。

 嫌な予感がする。

 

「さぁ、さぁ……! 天体ショーの時間じゃぞ?」

 

 彼女の『焔翼』が煌めく。

 パチパチと音立てて、あらゆる色の――( )スペクトルの光が弾ける。さまざまな種類の原子核が生成されているようだった。

 

「サマエル! あなたはあの人を連れてウリエルの観測範囲内から下がってください。ここはわたくしが足止めをします」

 

「ええわかったわ」

 

「な……!」

 

 気がつけば、サマエルにより抱えられている。

 完全に足手まとい。悔しいが、このまま退避するしかない。

 

「一応、追撃はするのじゃがな……?」

 

「……!?」

 

 ウリエルはこちらを見ていた。

 おもむろに、彼女は懐から何かを取り出す。あれは、折り畳まれた扇だろう。

 ゆったりとした動作のまま、その扇は広げられる。

 

「あまり複雑なものは、わらわには造れないのじゃが……」

 

 優雅に彼女は扇を、こちらへと風送るかように、一振り、煽ぐ。

 その動作に、意味がないことはわかっている。

 

「っ……!!」

 

「ふぁいあ!」

 

 だが、同時に、煽がれた風がそう変わってしまったかのように、携行のミサイルの弾頭が飛び出していた。

 

「させませんよ!」

 

 気の抜けた掛け声と共に放たれた弾頭を、ラミエルは電磁気の力で、もうすでに弾き飛ばしている。

 

「まぁ、自動誘導じゃ。いつか当たってくれるじゃろうて……」

 

「厄介な……手間を惜しまず破壊しておけばよかったですか」

 

 そんな適当なウリエルの言葉に、ラミエルは歯噛みをする。

 ウリエルは、ラミエルの調子を見て、やれやれと首を振った。

 

「手間をかけて、わらわに隙を見せたくないからこそ、ラミエル、お主はそうしたわけじゃろう? 最適な行動じゃよ。あとはあの、むすめごに任せるほかないじゃろうて。ほれ、ほれ」

 

 作った兵器を使い捨てながら、ウリエルはラミエルに攻撃を繰り返している。

 単純な力学的な砲撃だったり、光学的な光線だったり、熱的な爆発だったり、化学的な汚染だったり、手を変え品を変え、ウリエルはラミエルに休みを与えない。

 

「煩わしい……!」

 

 ラミエルは、その一つ一つに対応しているが、チクチクと鬱陶しい攻撃に苛立ちを募らせている。

 

「……くっ」

 

 その間にも、ラミエルが最初に弾き飛ばした自動誘導の弾頭は、方向を変え、確かにこちらへと向かって来ている。

 

 迎え討ち、サマエルが地面を剥がして、運動エネルギーをぶつけるが、止まる様子がなかった。

 

「……っ、意外と頑丈ね。まぁ、準備ができたから、一旦、離れるわ?」

 

「あ、あぁ」

 

 空間を短縮した道を通り、一秒と経たないうちに、ラミエルの宇宙船の中へと入る。

 

 観測範囲外へ、ということだっだが、この宇宙船では、完全ではないものの、『セレスティアル・スプリッター』の電磁気の作用によって観測への妨害が行われている。

 だからこそ、ここからならば、奇襲もある程度は効果があるだろう。

 

「まだ追ってきてる……! 少し迎撃してくるわ! あと、ラミエルの援護もしてくる」

 

 彼女は『白翼』を広げ、そう告げるなり、入り口から飛び出していく。

 

「あぁ、気をつけろよ!?」

 

「ええ!!」

 

 俺も何か手伝いたいが、できることが思いつかない。

 ウリエルとの戦いは、現状、二対一でも、それほど優位をとれているとは言えないような状況だった。なにか力になれればよかった。

 

 船内のモニターのある部屋に足を運ぶ。

 俺たちを逃すためにウリエルを足止めしているラミエルの戦いの様子がまず気になる。

 サマエルも上手くやれているか心配だった。

 

 足早に、ドアを開けて、モニターを――、

 

「ラル兄!」

 

「レネ?」

 

 レネが抱きついてきていた。

 そういえば、レネは一人ここに取り残されていたのだった。心細かったのかもしれない。

 

「すまない。放っておいて……いま、少し忙しいんだ。ちょっと、待ってて……」

 

「嫌だよ! ラル兄!」

 

「…………」

 

 レネはそう言って、俺のことを止める。

 レネがなにをしたいのか、俺にはよくわからない。

 

「さっきも危なかった! 見てたよ私!」

 

「…………」

 

 モニターを見れば、叩き割られていた。

 

「どうして……っ? ねぇ、どうして、こんな遠くにまで来たの? あの女と関わってから、こんなことばっかり……! ラル兄は、どうして、あんなのの手伝いをしているの?」

 

「それは……」

 

 サマエルのことだろう。

 確かに、レネが救われた以上、用はない。俺がこんなことする必要はなかったのかもしれない。

 

 そんな俺に振り回されているレネは、たまったものではないだろう。

 

「ラル兄……! いい加減にしてよ! そんなんじゃ、利用されるだけ利用されて……いらなくなったらポイだよ? 死んじゃったときも……どれだけ……、どれだけ……!!」

 

「いいんだ……俺は……。俺は別に、いいんだ……」

 

 そんなレネには、俺のことなんか見捨てて、どこかで幸せになって欲しかった。レネならきっと、幸せを掴めるから。

 

「ラル兄は……、……っ!?」

 

「……っ、揺れ!?」

 

 おかしい。

 時空制御がこの船には働いているはずだ。揺れるなんて、まずない。なにか異常が起こっている。

 

「ラル兄! だからラル兄は……っ」

 

「待て、レネ。話は後だ」

 

「……え?」

 

 据え付けられた機械を操作し、異常を確認する。

 調べた途端に、すぐにわかった。

 

「外に大規模な時空の歪み……サマエルじゃない。これは小型のブラックホールか? 引き摺り込まれている」

 

 だいたい察しはついた。

 ウリエルの攻撃だ。

 

 超新星爆発というのは、爆発して、それで終わりではない。場合によっては中性子星……さらには極端な時空の歪み――( )重力特異点が現れる可能性すらあった。

 

 ウリエルの『アストラル・クリエイター』ならば、こんなふうに、重力特異点を攻撃に用いることも、理論上不可能ではない。

 

「ラル兄。大丈夫なの?」

 

「船を動かせれば……エネルギーが少ないな……ラミエルの『円環型リアクター』で動かしていたのか……だけど、離脱するだけなら……」

 

 残りのエネルギーを、この強力な重力から脱出するためだけに割り振る。

 観測の妨害に使っていた分も、全て、船の航行へと回す。これなら、なんとか――( )

 

「いや、少し足りないか?」

 

「……え?」

 

 このままの軌道で行けば、特異点に取り込まれる。

 まずい。

 何か手はないか、船にまだ航行に回せるような余分なエネルギーがないかを探す。

 

「そうか、救難艇があるのか。これを使おう」

 

「え……それで脱出すればいいの?」

 

「走るぞ、レネ」

 

 救難艇の場所まで、距離があった。ラミエルだけのための宇宙船というのに、無駄に広い。

 全力で走って、数分くらい経ってしまったか……。船内の重力制御は働いている。重力特異点からの影響を考えて、これだけは切れなかった。切ってしまえば、時空の歪みで船内の精密な機材はまともに働かなくなる。

 

「ま、待って……ラル兄……! あ……っ」

 

 レネが、転んだ。

 なにもないところで、バランスを崩すような揺れもなかった。なぜかとも考えたが、急な運動で足をもつれさせてしまったのだろう。

 レネは、もともと運動のセンスがなく、肉体労働にも向いていなかった。レネのことを考えず、無理に走らせてしまった俺の失態だった。

 

「大丈夫か……?」

 

「うん。痛っ……挫いちゃって……」

 

「走れそうか……?」

 

「…………」

 

 レネは首を振った。

 おぶっていくしかないだろう。

 

 船が揺れる。

 

「まずい、時間がない……!!」

 

 背負って行って、間に合う保証がなかった。

 

「ねぇ、ラル兄。私は、死ぬならラル兄と一緒に死にたい」

 

「レネ……」

 

「だから……」

 

「それは、ダメだ……!」

 

 レネの言いたいことは十分にわかった。長い付き合いだ。俺がこれからどうしようとするか、お見通しなのだろう。

 けれど、それは認められない。

 

「待って……っ! ラル兄!!」

 

 走る。

 救難艇のある場所まで、全力で走る。

 

 救難艇は、一台の車のようなサイズの乗り物だった。

 乗り込んで、操作方法を確認する。プログラムに手を加えているような時間はないか。

 

 射出方向を設定する。

 そのままに、発進のボタンを押す。躊躇はなかった。

 

「よかったのかい?」

 

「当たり前だ……。それにしても、この救難艇……エネルギーを移すこともできない。内部に人がいなければ、射出されない。本当によくできてるよ……」

 

「皮肉が効いているね。まぁ、今みたいに使うことは想定されていないからね」

 

 背後を振り返れば、こちらの進行方向とは真逆に進む宇宙船が見えるだろう。

 ロケットの分裂問題、とでも言えばいいか。……救難艇が発進したぶん、宇宙船は前へ進める。ほんの僅かに脱出に足りなかった分を、それで補ったというわけだ。

 

「何かを変えるには、自分もまた変わらなければならない――( )って、ことさ」

 

「運動の第三法則……作用反作用の法則かい? 本当にキミは、そういうのが好きだね……」

 

「ともかくだ。このまま重力特異点に真っ逆さまだな」

 

「うん、そうだね」

 

 このままでは危険だと、ガブリエルへの俺なりの警告だった。

 

「この救難艇内じゃ、時空制御が働いている。たとえば潮汐力の影響でスパゲッティになるようなことはないけど、イベントホライズンの中に入れば変わらないぞ?」

 

 潮汐力――。

 重力の強さは、基本的に対象間の距離の逆の二乗に比例する。つまり、近づけば近づくほど強くなる力であるわけだが、足下から対象に近づいた際、足に働く重力と、頭に働く重力との大きさに違いがあるのは明白だろう。

 これによって起こる現象に対して、潮汐力が働いているとよく言われる。

 

 なんの用意もなく重力特異点近傍に近づいたのでは、この潮汐力が大きく働き、引きちぎられてしまっただろう。

 

「ふふ、まぁ、事象の地平面を超えない限りは、『スピリチュアル・キーパー』で確保は可能さ。キミも一緒に連れて行こうか……? 今度こそ……」

 

「遠慮しておく」

 

 ガブリエルの提案には、乗れなかった。

 彼女と一緒に行ってしまえば、今度こそ後戻りはできないような、そんな気がした。

 

「そう言うと思った。じゃあボクも逃げないさ」

 

「……どうしてだ?」

 

「まぁ、惚れた弱みかな。地獄の果て……というのは、ボクらにしてみれば宗教的かな……。時空の果てを見届けに、お供させてもらおうか」

 

「後悔してもしらないぞ?」

 

「そんなふうにして、キミが慌てないってことは、手があるのだろう? でなければ、ボクのことをどんな方法を使ってでも止めるはずだからね……ぇ。絶対に、ボクのことを生かしてみせろよ?」

 

 彼女は言った。

 まるで彼女には、俺の考えることがお見通しのようだった。彼女には、どうやら敵わないか。

 

「できるだけ、やってみるさ。その代わり、少しは手を貸せ……! ガブリエル」

 

「あぁっ、もちろんだとも……っ! キミが万全を尽くせるよう、環境を整えるのが、ボクの仕事でもあるからね」

 

 事象の地平面……その強大な重力により、光でも脱出不能の境界面。

 後戻りは、決してできない。

 

 俺たちは、沈んで。先へ、先へ――、

 

 

 

 ***

 

 

 

「……あぁ」

 

 涙を流していた。俺は何故か、泣いていたんだ。どうして泣いていたかは、もう忘れてしまった。

 

「大丈夫ですか……?」

 

 彼女は親しげに、優しく俺に声をかける。それがとても心に沁みた。沁みるように痛かった。

 

「あぁ、思い出した。ずっと忘れていた。いや、忘れたふりをしていたんだ。……そうだった……俺は、幸せになりたかったんだ……。結婚して、子どもがいて、家族のみんなが笑っていてくれるような、そんな幸せがほしかった」

 

「…………」

 

「でも、そんな子どもの頃からの夢は現実味がなかった。それは、手の届かない彼方に浮かぶ星のようだった」

 

 どうして、こんなことを語ってしまったのか、そんなこともわからなくなるくらい、とても古い記憶なのだろう。

 

「で……ですけれど……っ! いまのあなたにはわたくしがいます。そんなふうに、言わないでください……!」

 

 手を取って、彼女は言った。

 彼女に優しくされるたびに、俺の心は傷ついていく。返せるものが何もなかった。

 

「いや、忘れてくれ……少し、俺はおかしかった……」

 

「いいえ、なかったことにはしません。結婚しましょう、今、すぐっ……そうすれば、きっと、あなたも……」

 

「……俺のような人間は生きていちゃいけない。生きていていい理由がない……」

 

「…………」

 

 死、とは、ありふれている。数をかぞえるたびに誰かがどこかで死んでいるのだ。

 俺は、誰一人として救えていない。

 

「罪ばかり重ねてきた俺は、苦しんで死ななきゃならない。そんなふうに幸せになれないんだ。もし、それができるとしたら……生まれ変わったら、もしも、生まれ変わりなんてものがあったときには、そのときこそ、俺は……後悔のないよう……」

 

「……っ!?」

 

「あぁ、次はきっと、上手くやれる……」

 

 彼女は、迷っているように見えた。

 かけるべき言葉を必死で探してくれているようで、それがとても申し訳ない。

 

「わかり、ました……。生まれ変わったら、もしも生まれ変わったら……その時は、わたくしがあなたを見つけます。絶対に見つけます。必ずあなたを見つけてみせます。だから、その時は……その時こそ……ちゃんと結婚をしましょう」

 

「あぁ、約束だ」

 

「はい、約束です」

 

 生まれ変わりなんて、そんな非科学的なことは信じていなかった。なぜそんなことを言ってしまったのか、たしかその前に彼女と一緒に見た映画の影響だったと思う。

 

 絶対に叶わないことだとわかっていたから、そんな約束ができてしまった。

 心の底では、それが本当に叶えばいいと、もしかしたら思っていたのかもしれない。とても遠く、それももうわからないことだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ん……ぅ」

 

 軽く口づけを交す。それから、しばらく優しく彼女の身体を撫でて、眠るのを待つ。

 

 満足そうな彼女の表情を見れば、今日もうまくいったとわかる。

 もし、どこか失敗をしていれば、機嫌の悪いままの彼女と明日一日を過ごさなくてはいけないが、それはなんとか避けられるようだ。

 

「あ、そうだ。……んっ。オマエには言っておかなきゃならないことがあったぞ」

 

「……? どうした?」

 

 少しだけ改まったようにして、彼女は切り出す。

 俺はそんな彼女を変わらずに撫で続ける。

 

 彼女の寝顔を見届けた後、シャワーへと行くのが日課となっていたが、それはお預けだろう。

 

「ワタシ、今のプロジェクトが終わったら、研究を辞めようと思うんだ」

 

「え……?」

 

 動揺で、固まる。

 まるで予想外な彼女の言葉に、頭がついていかなかった。

 

「ふふん、このまま続けても、ワタシはあまり役に立てないだろうしな。潮時というやつさ」

 

 たしかに学術研究には、向き不向きがある。成果を出せずに挫折し、辞めて行く人間は何人も見てきた。

 けれど、どうして彼女がそんな考えになったのか、俺は理解できずにいた。

 

「わからない。お前は続けるべきだと思う」

 

「はは、冗談はよせ。オマエはワタシが一生をかけて解くことを覚悟していた、あの未解決問題を一瞬で解いてみせたんだ。ワタシはアンドロイドだぞ? そういうのは、得意なはずだったんだけどな……。本当に人間か?」

 

「……あれはお前が解きかけだったからだ。お前の力がなきゃ、ああもアッサリとはいかなかった……」

 

 彼女の柔軟な発想があったからこそ、解けた問題だ。大したことを俺はしていない。

 

「あの日のことは、一生忘れてやれないな」

 

 その言葉のままに、彼女は抱きついてくる。

 

 そうだった。

 彼女と初めて関係を持ったのも、あの日だった。大泣きをする彼女をどうにか慰めようとして、俺は失敗をした。

 

 彼女は、軽はずみだった自身を恥じてか、一夜の過ちということにしようと提案し、それで終わった。そう思った。

 

 だが、次の日に、目の色を変えた彼女からの誘いで、俺たちは今の関係になった。

 過程はどうあれ、弱った相手につけ込むような形になってしまった負い目から、俺はどうしようもなく、彼女の望むままになってしまっている。

 

「……やめて、その後どうするんだ? どこかの企業にでも行くのか?」

 

 彼女くらいの実力があれば、引く手数多だろう。辞めてしまうなんて、本当にもったいないと思う。

 

「ん? いや、どこにも行かないさ。結婚でもして、旦那の世話をして、子育てもして、穏やかに暮らそうと思う」

 

「お金は……どうする?」

 

「いや、特許があるだろう? ワタシのやつがな。ライセンス料が入ってくるだろうし、まぁ、後十数年で切れるだろうが、それでも、普通の人間が一生で稼ぐくらいは超えるだろう。問題はないさ」

 

 彼女の人生だ。

 本来なら、彼女の自由でいい。

 だけど、たぶん、俺のことを考えて、彼女はそんな選択を取ろうとしているのだ。それが我慢ならなかった。

 

「いや、そこまでしてくれる必要はないだろ。俺は大丈夫だ。一人でだって生きていけるよ」

 

「冗談はよせ? 放っておいたら数日も何も食べずに過ごすやつが、一人で生きいけるだって? ハハッ、絶対に早死にするだろう?」

 

「それは……っ! 空腹を感じないんだ。集中したら、時間感覚も曖昧になる。仕方がない……」

 

「仕方がないわけあるか? それに、味もわからないときた。ワタシが丹精込めて作った料理も、オマエにとっては泥水とさして変わらないのだから、困ったものだ」

 

「すまない……」

 

「本当に困ったものだ。その傑出した才能の代償とでも言えばいいか……。はぁ、まったく……」

 

「…………」

 

 昔は、こうではなかった。

 お腹も空いたし、味覚もあった。いつからか、気がついたら、本当に気がついたらなくなってしまっていたのだ。

 空腹は、なんとなくそんな気はしていたが、味覚に関しては指摘されるまでわからなかったくらいだ。食べ物の味を気にする習慣がなかったからだろう。

 

「なんにせよ、これからワタシは()()()のために尽くすさ……」

 

「…………」

 

 そんなふうな役割に、彼女を縛り付けてしまうことを、俺はいいとは思えなかった。

 

「ふふ、現実の真面目な話をしたからか、余韻が覚めてしまったなぁ……」

 

「あぁ、そうだな」

 

 彼女の望むままに、口づけを交す。

 ゆっくりと、じっとりとした深いじゃれ合いだった。

 

「んぅ……」

 

 彼女はこういう行為に対して並々ならぬ拘りを持つ。

 ある程度儀式めいた決まった手順を踏まないと、まず、ダメだ。その上で、その時々で、彼女の仕草や表情で、なにをしてほしいかわからなければ――( )今でこそマシにはなったが、最初は機嫌をよく損ねた。

 もし、そうなれば、始めからやり直しだ。

 

 たとえばそうせず、ご機嫌斜めと気づかずに終わってしまった場合には、次の夜で結果を出すまで彼女の機嫌はそのままとなる。地獄のような一日になる。

 

「じゃあ……」

 

「うん。……あぅ、……んぅうっ」

 

 なんとなく、流されるままにこうして彼女との関係を続けているけれど、このままではダメだった。

 俺の存在が、彼女の足枷になってしまっている。

 

 こんな心地のよい生活を、続けているべきではなかった。

 彼女という人類の資産を無駄にするなら、俺はここにいない方がいい。

 

「俺は、今がとても幸せだと思うんだ。ずっと続けばいいって」

 

「ふぅ、はぁ……。私もだぞ……? ん、あ、あ……っ」

 

 俺の願いは決して叶えるべきではないとわかっている。

 明日にでも、ここを出ようと心に決めて、だからこそ、今だけはと、彼女のことを――( )

 

 

 

 ***

 

 

 

「逃げよう。私と一緒に! あぁ、ボクとキミならなんだってできるだろう」

 

 はにかんで、彼女は言う。

 

 いつもいつも、作りもののような笑顔を貼り付けていた彼女だったが、いつになく自然な笑みを彼女は俺に見せていた。

 

「いや、今までは一緒だったが、ここからはお前一人だ」

 

 そんな彼女に、真剣に俺は伝える。

 少し、うろたえ、動揺したように、俺の表情を窺っていた。

 

「どうしてだい? ボクはキミとならって……うん、豪華な暮らしの必要なんかない! 服も……こんな綺麗なドレスなんかじゃなくてもよくて! 食事も、高級な料理なんかじゃなくていい! 狭いアパートで二人ぐらしでも! ボクはキミとなら幸せだって……!」

 

「俺なんかいなくたって、お前は、一人でなんだってできるよ」

 

 さる企業の代表の娘の彼女は、道具として育てられた。

 彼女に期待されたことは、人間を超える知性として、結婚相手の完璧なサポートをして、さらには生体パーツの遺伝子を絶やさせないこと。

 

 今、俺が働いている彼女の会社は、結婚相手への貢ぎ物だと、自嘲して、彼女は言っていた。

 

「だ……だって、私一人じゃ、ずっと苦しくて……。息ができないくらい……自由が、……そう、自由がなかった」

 

「自由なら、あったさ。ないと思い込んでいただけだろう? それに、逃げる必要なんてないんじゃないか? 恐れるものなんてないくらいに、お前は強いよ」

 

 その強さは、とても眩しい。

 ずっとだ。河原で彼女に拾われたときから、その強さに俺は憧れていた。

 

「私が……強い……? 父様に怯えて、言われたとおりに従うしかない私が……?」

 

「もう、今は違うだろう。この会社だって一年で前よりずっと成長した」

 

「それはキミの力のおかげさ。キミとボクなら、世界の全てだって手に入れられるって、ボクは思ってる。いや、確信してる。そう、そうなんだ。キミとなら、なにも怖くないんだって……」

 

 すがるように、俺の目を見つめている彼女だった。

 

「俺は行くよ。ここでのことは、間違いだったから」

 

「間違い? キミは人類の全てが救われることを望んでいたんじゃないのかい?」

 

「あぁ、そうだよ。でも……どんなに報われなくとも、きっと死後には救いが待っている。……そんなのは違う。本当は、生きているうちに救われなくちゃダメだ」

 

 それに、鋭い彼女に言われてしまったんだ。

 

 ――もし、救われるとしても、俺は最後でいい。

 

 ――ふふ、最後でもいいから救われたいって、キミは思っているんだね。

 

 この『魂の不死化計画(プロジェクト・エデン)』は、生きているうちに救われることを諦めた、俺への慰めでしかなかったんだ。

 こんなものは間違いとしか言うことができない。

 

 だから、彼女に背を向けて、俺はもう行こうとする。

 

「ふふ、キミが抜けたら出資元からなんと言われるかな……。大天才様のネームバリューもあるからね」

 

 彼女の会社を育てるための戦略によって、メディアへの露出もあり、俺も少しだけ有名になったのだった。

 

「会社のことはよくわからないけど、お前ならなんとかできるだろ」

 

「全く、無茶を言うね……」

 

 振り返った。

 やれやれと、彼女は肩をすくめる。けれどもそれはいつもの彼女で、切羽詰まった様子はなかった。

 

 そんな彼女に、俺は言う。

 運命とも言えるような、彼女との出会いを振り返りながら。

 

「お前は、全てを手に入れるんだ」

 

「そしてキミは、全てを救う」

 

 そういう約束だった。

 二人でそんな約束をして、互いの大きすぎる願いを叶えるために、彼女とは共に歩んだ。

 手助けが必要だった、あのときの彼女は、もうここにはいないだろう。

 

「じゃあな……」

 

 それだけを最後に告げて、俺は歩く。

 

「あーあ。私、振られちゃったよ……」

 

 寂しそうな、そんな声が、俺の胸には残ってしまった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 今までなにをしていた。

 確か、恒星ウリエリで、ウリエルと戦って、俺は救難艇で事象の地平面の中に落ちたはずだ。

 

 とても古い、そしてあるはずのない記憶。それが、思い出のように頭の中に呼び起こされ、また、消えていく。

 けれど、そのときの想いも、消えてしまうわけではない。彼女たちへの懐かしい愛着が、胸の内を満たしていた。

 

「ここは……?」

 

 体が動かない……。

 いや、動かせないと言った方が正しいのかもしれない。

 この体は、きっと今の俺のものではない。

 

 そして、目覚めたばかりのこのときの俺が手を動かそうとすれば、ジャラリと金属の擦れるような音がする。手錠のようなもので拘束をされている。足は縛られていた。

 見渡せば、みたことのない部屋だった。

 

「ふふ、ようやく目覚めたかのぅ」

 

 甲高い声が耳に入る。

 

「……お前は……?」

 

 女性だろう。

 どこかの国の民族衣装を着崩したように纏った赤毛の女だった。

 大きくはだけて、肩、そして胸もとまであらわになってしまっている。

 

 笑みを隠すように彼女は、手に持った扇のようなもので口もとを覆っていた。

 

「わらわの名はウリエル! 驕り高ぶる人間どもに、裁きの鉄槌を下す者なり!」

 

 だんっ、と音を立てて、目の前の台に彼女は足を乗せる。

 同時に、彼女のふとももまでくらいだった衣装の裾が空気を孕んで広がった。下着は履いていないようで、もろに見える。とっさに目を逸らした。

 

「……なんなんだ、お前?」

 

「なんじゃ、つまらんの……。それほど心拍数も上がっておらぬ。たいぶ女慣れしてるようじゃな」

 

 グッと、俺の顎を折りたたんだ扇で持ち上げて、彼女は顔を近づけながらそう言っていた。薄紅色の綺麗な眼だった。

 

「お前は、いったい……」

 

「ふふん。心してきけ! わらわたちは、アンドロイドの優位性を世に知らしめ、その権利を確固たるものにするための組織じゃ。名はまだないし、人数も、まぁ、今回の作戦で三人くらいになってしもうたが、この苦難も貴様を捕らえたことで終わりじゃろう」

 

「そうか……」

 

 もともと何人いたかはわからないが、大したことのない組織なのだと確信した。

 

「それで、それでじゃ! そなたが最新の兵器の情報……門外不出な製造法を持っておるという噂を聞いたのじゃ! ふふ、そう頑なになっても、無駄じゃよ? これから、お主には生まれてきたことを後悔するような拷問をするつもりじゃ。早く吐くのが身のためじゃ」

 

「わかった。紙とペンを持ってきてくれ」

 

「ふふ、(じっ)(ぷん)ほど時間をやろう。その間に、お主が吐くと言うなら……」

 

「だから、紙とペンを持ってきてくれ。書くから」

 

「へ……?」

 

 この即断に、ウリエルは状況を掴めないでいるようだった。

 

「とっとと書くから早く解放してくれ」

 

 訝しがるようにウリエルはこちらの表情を覗いていた。

 

「まぁ、よい。ちょっと待っておれ。筆なら……おお、あったあった。ほれ、紙じゃ……! 素直に書くのが身のためじゃ」

 

「あぁ……。っ……書きずらいな……これ。絵を描くんじゃないんだぞ?」

 

「筆ペンじゃ。字を書くものじゃよ。わらわはいつも使っておる。まぁ、知らなくとも無理はなかろうて」

 

「……いや、わかった。コツなら掴めてきた」

 

 そうして、紙に式を記述していく。手錠はされているが、ペンを動かすくらいなら問題がない。

 特にその情報に嘘はなかった。

 

 兵器というのは、基本的に作り方を知っていても数人で作れるようなものではない。法律で材料が管理されていたり、精密なものの場合は、それを作るための機械を用意するだけでも莫大な金がかかったりする。

 

 彼女たちの目的は、手に入れた情報をどこかに売って、金を得るか、支援を取り付けるか、そんなところだろう。

 彼女の裏に誰かいるのだろうか、いや、考えても仕方がないことだろう。

 

「…………」

 

「よし、できた。早く解放してくれ!」

 

 じっと黙り込んで、俺が情報を書いた紙を彼女は見つめていた。

 なにか考えているようだった。

 

「残念じゃが、それはできぬ」

 

「どうしてだ! 約束と違うぞ! まさか……っ、殺すのか!? 用済みだから、俺を殺すって言うのか……!?」

 

「いや、そうではなくの……」

 

「なんだ?」

 

 眉を顰めて、彼女は困ったように、天井を仰ぐ。

 

「かつての有名な逸話じゃが……ある数学者が、神はいないと論ずる哲学者に、さほど難しくもない数学の式を見せて、これは神が存在する証拠だと言ったのじゃ。その哲学者は、数学の知識がないゆえに、論ずることができなくなり、その場から逃げ出してしまったという話じゃったな」

 

「うん? それなら、後世の作り話って聞いたが」

 

「その話が、真実かどうかはどうでもよいじゃろう。ともかく、わらわには知識がないゆえ、ここに書いてあることが、本当に正しいかもわからんのじゃ。そも、あっさりと書いたゆえ、とても怪しいというのもあるしのう……」

 

 たしかに、今の俺の態度ならば、そう疑われても仕方ないだろう。

 

「だったら、俺が合ってるってことは証明できないじゃないか? 誰か詳しいやつがいるなら別だが……」

 

「むむ……誰かまた攫ってくる……うーん? 今回の作戦で同胞をたくさん失ったわけじゃしなぁ……」

 

 考え込んでいるようだった。

 そんな彼女を見て、一つ、俺は提案をする。

 

「仕方がない。半年だ。半年で、これが正しいってわかるように、お前たちの誰かに教養をつけさせてやる。それが一番効率的だろう。そうしたら、解放してくれ……俺にはやらなくちゃならないことがある」

 

 たとえば、新しい理論を考え、論文を発表した際、それが正しいか査読されるわけだが、ものによってはそれが数年がかりにも及ぶ作業となることがある。

 

 この紙に書いた理論は複雑だ。専門家を連れてきたとしても、数日やそこらで理解できるとは限らない。

 

 俺が説明をするのが効率が一番いいだろうが、誰か攫ってきた外部の専門家を、俺と合わせることなんてできないだろう。

 特殊な記号を用いた方程式か、暗号文での示し合わせか、監視する人間にはわからないからだ。

 

 だから、ここに居る彼女たちのメンバーの誰かを、専門家に仕立て上げる方が、たぶん一番早い。

 この際、ここに書いてあることが間違ってないとわかればいいんだ。それほど大変なことではないだろう。

 

「そうとなれば……こちらで誰か用意しよう」

 

「あぁ、一番数をかぞえるのが、得意なやつで頼む」

 

「そんなやつおったかの……」

 

 科学、それに数学に馴染みがあるような、事前に知識がある人間の方が理解が早い。

 なるべく早くここから出るには、そう頼むしかなかっただろう。

 

「…………」

 

 部屋からウリエルは出ていき、俺は一人になった。

 一人、静かに紙に書かれた数式を見つめていた。

 

 このウリエルに捕らえられている自分は、今じゃない自分だと理解できる。

 一度、状況を整理する必要があるだろう。

 

「ガブリエル……! いるんだろう?」

 

 彼女もまた、重力特異点に、俺と共に落ちたのだった。

 

「あぁ、いるよ? なにか用かい?」

 

 幻影が目の前に姿を表す。

 相変わらず胡散臭い笑みを彼女はこちらへと向けていた。

 

「これは、なんだと思う?」

 

「うーん? これはボクと別れてすぐ後くらいかな……? キミはこれからウリエルをその手管でたらし込むわけだね。全くボクというパートナーがいながらキミは……女グセが悪いったらありゃしないよ」

 

 少し、言葉には棘があった。そんなガブリエルの態度に、俺は少しだけ落ち込む。

 

「問題は、どうしてこんなものを見ているかだ」

 

 そうだ。俺たちは重力特異点に落ちたわけだ。こんなものを見る理屈がわからない。

 

「さぁね。重力は時空を越えるんだろう? このくらいは起こるんじゃないかい? まぁ、ボクは専門家じゃないから、よくわからないけど。力になれなくて申し訳ないかな」

 

「いや、謝ることなんてない。『スピリチュアル・キーパー』を完成させたのはお前だろう? それができるお前だから、意見を参考にしたかったんだ」

 

 ガブリエルの時空に関する理解はふんわりとしている。それでも、ガブリエルの洞察力を、俺は頼りにしていた。

 

「そうかい? まぁ、それはいいけど、これからウリエルとのイチャイチャが始まると思うから……」

 

「すまない……」

 

「別にいいさ。このときはボクと付き合ってたわけじゃないからね。少しくらいは嫉妬もするけど、目くじら立てるってことはないさ。重要なのは今だからね」

 

 ただ少しばかり茶化しはするけど、と、悪戯っぽく彼女は笑った。

 

 正直、彼女たちがなんなのかは、今の俺には理解しきれていない部分がある。

 俺の中では、彼女たちは物語の登場人物で、今生で出会う前は接点もなにもなかった。

 

 それでも、どこか懐かしさを感じるときがあるのはなぜだろうか。

 

 乱暴に部屋の戸が開けられる……そんな音に、考えが遮られた。

 見れば、ウリエルがまたこちらへとやってきている。

 

「いなかったぞ? お主が所望するようなやつはの……。わらわたちの中では、わらわが一番賢いゆえに、わらわが教わることにした」

 

「そうか……」

 

「それと、ご飯じゃよ? 大したものではないがのう」

 

 皿に乗せられていたのは、米を球形に固めたものだ。なんというか、形が悪い。

 

「あぁ、いただくよ」

 

 なにも言わずにそれを食べる。食べられればなんでもよかった。

 

「塩っけが強すぎたかと思ったがの……」

 

「あぁ、美味しいよ」

 

「ボクのときもそうだったけど、適当なことを言ってるね。味は感じられないだろうに……」

 

 呆れたようなガブリエルの声だった。

 なんとなく、苦労を滲ませるような、そんな雰囲気が感じ取れた。

 

「む……こういうのが好き、というのはいただけぬの? 塩分過多は身体に悪いじゃろ? これからは減塩生活じゃな」

 

「いや……あぁ」

 

 彼女の勘違いに、困ってしまう。けれども、このくらいのことは、仕方がないか。

 

 そんな俺の態度に彼女は笑った。

 

「くくっ。それでは、わらわにこの複雑怪奇な記号……いや、模様といった方が正しいやもしれぬ……この意味がわかるようにするというわけじゃな」

 

「あぁ、教えてやる。それで数学はどこまでできる?」

 

「かかっ、計算は得意じゃ。七十桁の四則演算すらわらわには可能じゃよ」

 

「まぁ、アンドロイドだからな。それで数学はどこまでできる? 関数についての理解はどのくらいだ?」

 

「待て……今、関数電卓のアプリをインストールしているのじゃ」

 

「これはダメだな……」

 

 中学生にも劣るのではないかと思うほどだ。

 その俺の呆れを感じ取ってか、彼女は憤慨したように俺に詰め寄ってくる。

 

「なんじゃ! 計算なんぞそこらのアプリに任せておけばよいじゃろう? 生活には必要ない!」

 

「まぁな。ただ生きていくだけなら必要ないだろう。でもその原理が理解できていないんじゃ、新しいものは作り出せない。俺たちが行きたいのはその先なんだ。便利な器具自体はいくらでも使えばいいとは思うけどな」

 

「ぐ……ではわらわはどうすればよい?」

 

 彼女の様子では、初歩の初歩からやる必要があるだろう。

 

「じゃあ、三角形の面積はどう計算する?」

 

「底辺に高さをかけて二で割るのじゃ!」

 

「同じ底辺、高さでも三角形の形はいろいろあるんじゃないか? どうして全部同じ面積になるって言えるんだ?」

 

「は……? なんじゃ、突然言われてものう……」

 

「紙はあるか? 説明する。あとハサミも欲しいな」

 

「待っておれ!」

 

 また彼女は駆けて行った。戸が勢いよく閉められる。

 と思った、すぐにまた戸が空いた。

 

「早いな」

 

「この部屋にあったのを思い出したのじゃ。これじゃ!」

 

 拷問器具だった。

 情報を出し渋っていたら、あのハサミでなにをされていたのだろうか。考えるだけでも恐ろしい。

 

 気を取り直し、渡された厳めしいハサミで紙を三角形に切り取る。

 さらに、その三角形を、底辺と並行になるよう千切りにする。

 

「これで完璧だな」

 

「なんじゃ? それは?」

 

「こう、頂点を高さが同じになるように、横にずらすだろう? 他の部分も、それについていかせて、新しい三角形をつくる。元の三角形と新しい三角形は、面積が同じだ。って、うまくいかないな」

 

「まあよい。言いたいことはだいたいわかった」

 

 手こずる俺を見ながらも、少し不思議そうにウリエルは言った。

 この考え方自体は、最初に三角形の面積を習ったときに教科書に書いてあるようなもので、特別なものではない。

 

 そこから、円の面積の話をして、その日は終わりになった。

 このペースで行っても、大丈夫かとも思ったが、一日は長い。彼女もこの授業を最優先にしてくれるようだから、それほど時間はかからないだろう。

 

 なにより、アンドロイドだけあって、彼女は賢いようだった。

 学ぶ機会がなかっただけ。そういう人間は多くいるものだ。

 

 次の日は関数について……代数の話だった。

 

「こう、突然エックスとか、ワイとか、そういう文字が出てきて困るかもしれないけど、文字なんて飾りだよ。三角とか、四角とか、ハートとかでもいいんだ」

 

「む……」

 

「この記号には好きな数字を当てはめられるんだ。たとえば、好きな数を言ってみるんだ」

 

「三」

 

「じゃあ、こっちの記号は二だな。次の数を言ってみてくれ」

 

「七」

 

「じゃあ、六だ」

 

「一が引かれておるのか」

 

「その場合、二つの記号を等式として繋ぐとこうなる」

 

 そうして、関数を書いてみせる。

 簡単な一次関数の出来上がりだ。

 

「それで、これがなんの役に立つんじゃ?」

 

「そうだな。こんなふうに、車が走ってるとするだろ? グラフを書こうか」

 

「む?」

 

「スケールは、縦軸が百キロメートル、横軸が一時間だ。さっきの関数をこのグラフに書いてみたら、こうなる」

 

 二時間後に百キロメートル、三時間後に二百キロメートルと、簡単なグラフが書ける。

 

「これは……」

 

「何時間後に車がどの位置にいるかのグラフだ。わかるだろう……?」

 

「時速百キロメートルということじゃな……」

 

「賢いな……」

 

「そうじゃろう?」

 

 自慢げにウリエルは頷いていた。

 速度という概念を既に見つけ出しているのだから、これは彼女を褒めるしかない。

 

 そこから、二次関数の性質や、三次関数……三角関数や、指数関数、対数関数の基礎的な性質も徹底的にウリエルに叩き込んで、三日が経った。

 

「意外といけるものだな……」

 

「サイン……コサイン……。くるくる……じゃ。くるくるー」

 

 定義から教え込んだために、三角関数も自由自在に扱っていた。

 一度教えたら忘れないからか、アンドロイドの学習能力は目を見張るものがある。

 

「じゃあ次は、この関数の速度を求めてみようか……」

 

 二次関数をウリエルに渡す。横軸は時間で、縦軸は距離だ。

 

「うにゃ?」

 

 ウリエルは、首を傾げた。

 

「わからないか?」

 

「速度……じゃろ? 二点をとって、その傾き……じゃが、二点を取るとその間が曲がっておる……正確な速度は……」

 

「あぁ、だから、極限をとるんだ。こんなふうにな」

 

 少しずらした関数から、ずらす前の関数を引く。そしてずらした分の値で割って、最後にずらした文字をゼロの極限へと近づけていく。

 

「お、おお! これが……」

 

「これが、微分だよ。そしてこれが、この距離の関数に対応する速度の関数になる」

 

 ようやくといったところだが、微分へとたどり着けた。着実に、俺たちの目指す場所へと近づいていっているだろう。

 

「ところで、極限ってなんじゃ?」

 

「そういえば、まだ話してなかったな……」

 

 極限について一通りと、あとはいろいろな関数についての微分をやって、一週間が経った。

 微分を手に馴染ませるために、いろいろな問題をやってみたというのが大きい。

 

「これで微分は完璧じゃな……」

 

「なぁ、この関数……零から一まででいいか。下の部分の面積を求めてみたくならないか?」

 

「唐突になんじゃ?」

 

 また、次のステップへと進んでいく。

 

「一次関数の場合、下の部分は三角形だろ? 簡単に求まる」

 

「そうじゃな。二分の一じゃ」

 

「二次関数の場合、下の部分はわからないか?」

 

「……わかるわけないじゃろう。こんなふうに曲がっておるのじゃから……」

 

 普通はそう考えるだろう。

 

「正四角錐の体積の求め方はわかるか?」

 

「底面かける高さ割る三じゃ!」

 

「よく知ってるな……。これ自体は、幾何学的に証明できる公式だろ? じゃ、てっぺんの頂点から、横にスライスしたときの面積を順にグラフに書いていくとどうなる?」

 

「そりゃ……二次関数じゃな」

 

「一次関数の場合は、下の部分が三角形だっただろ? 二次関数の場合、下の部分は三角錐だ」

 

「三分の一……?」

 

「そうなる。それで、直感でいい。三次関数の場合、下の部分の面積はどうなる?」

 

「四分の一……」

 

 その直感は当たっている。

 そうして、順に、関数と、それに対応する面積の関数を並べてみる。

 ただ、分数が現れないよう、全体に分母の数をかけて少しだけ手を加える。

 

「なにか、気が付かないか?」

 

「逆にすると、微分?」

 

「ふふ、そうだぞ? やったな! 中世に生まれていれば大数学家だ!」

 

「わ、わーい! わらわすごいのじゃ」

 

 テンションを俺に合わせて、ウリエルは無理に盛り上がってみせた。

 

 というか、ここまで休みなしで通い詰めて、少しウリエルはおかしくなっているような気がしてならない。

 

 そこから、微分と積分の関係について、簡単な……あまり厳密ではない証明をやってみせて、積分の性質、さらには積分の典型的な解き方なんかも教えてみせる。

 だいたいこれに一週間くらいかかった。

 

「微分積分、これが大きなパラダイムシフトだったんだ。これから俺たちは、自然法則を……自然の形を数式で書き表していくことができる」

 

「……っ!? 自然法則を数式で……? 書けるのか?」

 

「手始めに、力学から始めようか」

 

 運動の三つの基本法則から始まり、そこから、微分積分を駆使して別の法則も導出していく。

 あとは大して問題ではなかった。

 

 力学から、解析力学的な手法に、熱力学、電磁気学と、古典的な物理学を進めていく。

 

「やはり、自然の法則はどの速度から見ても同じなのじゃな……」

 

「そうだな、そうなる。……けっこう話したが、時間はまだ大丈夫か?」

 

「うむ。わらわはもうここに泊まり込むことにしたのじゃ。だから、もっと話せばよい」

 

「そうなのか……?」

 

 泊まり込んでなんて、とても彼女は熱心だった。

 ここまで、一日たりとも休みはない。そんなハードさにも関わらず、彼女は嫌な顔を一つも見せなかった。

 

「遠慮せず、次に進むのじゃ……」

 

「いや、少し休もう」

 

「なんじゃ? わらわはまだまだいけるぞ?」

 

「俺が疲れた」

 

「軟弱者め……。じゃが、しかたがないの……」

 

 そんな悪態をついたが、それでも彼女は俺に休みをくれるようだった。

 

「なぁ、どうしてそんなに……。正直、途中で投げ出してもおかしくないなって俺は思ってたんだが」

 

 少し、短い時間に詰め込みすぎたと思った部分もある。実際に、無理をさせてしまったのか、彼女の頭がおかしくなりかけた時もあった。

 

「わらわには目的があるんじゃよ?」

 

「目的……」

 

「そうじゃ、わらわと同じようなアンドロイドが、世の中を堂々と歩けるようになる世の中にするという目的がの……」

 

「いや、だが、アンドロイドなら、十分に人の世界に馴染んでるって、俺は思う。俺の上司だったり、同僚も……あぁ、あいつもアンドロイドだったよ」

 

 十分に、AIは知能を発達させたがゆえに、人の姿をして、人と同じ知能を持ったアンドロイドは、人と同じように扱われる。

 そういうアンドロイドを、俺はずっと見てきた。

 

「じゃが、アンドロイド狩りをそなた、知らぬわけではないだろう」

 

「…………」

 

「アンドロイドは人ではない。そう叫んで、アンドロイドを捕まえ、不埒なプログラムを植え付けるやつらじゃ。わらわたちを、()()としてしか、あやつらは見ない」

 

「……っ!」

 

 ウリエルは、怒りを滲ませていた。

 

 あぁ、人間は恐れているんだ。自らより優れた存在が、自らにとって代わってしまうことを。

 だからこそ、そうやって、自らと違う存在を虐げることで……いや、こんなこと言い訳にもならないだろう。

 

 もちろん、違法行為だが、取り締まりが遅れてしまっているのが現状だった。

 そんな事件は、もうありふれている。

 

「わらわの友人も、かつて、やられてしもうた……。変わり果てた姿でのぅ……あんなのは死よりも惨いじゃろう。だから、わらわの手で……な……」

 

 なぜ、こんな活動に彼女が熱心になっているか、もう十分すぎるほどに理解できた。

 もし、俺と親しい誰かが、そんな目にあったら、たぶん俺もそいつらのことをどうにかしたくなってしまう。

 

「ウリエル……。お前は……人間を滅ぼしたいのか?」

 

 だから、聞いた。彼女に、もし、俺の書いた通りのものが作れる力があったら、きっと、それは可能だろう。

 

「そんなわけないじゃろ? そうじゃな……抑止力じゃ。わらわは、アンドロイドが安心して過ごせる国が欲しいんじゃ! だれもやらぬようじゃから、わらわがやる。それだけの話じゃな」

 

 なんとなく、彼女にはシンパシーのようなものを感じてしまう。

 

「そうか、お前は優しいな……」

 

「お主、頭がおかしくなったのではないか? お主を攫って拷問しようとしたわらわが優しいわけなかろう。そういえば日光に十分に当たれないと人間はおかしくなるのじゃった……! 大変じゃ、大変じゃ!」

 

 一人、勝手にウリエルはわたわたとしていた。

 

 ここは確かに、完全に密閉されたような室内で、窓さえない。地下室か何かだと思う。

 

「落ち着け。太陽光を再現した照明とかならそこらへんに売ってるからな。今度、それでも持ってくればいい」

 

「そ、そうじゃな……」

 

 ひとまず彼女は落ち着いてくれた。

 そんな彼女に笑って言う。

 

「ウリエル……お前は仲間のアンドロイドのためと言ったな? あぁ、わかるか……? 俺は……人が死ぬのが耐えられない」

 

「…………」

 

「今この瞬間にも、どこかでだれかが死んでいるんだ。あぁ、俺が、もし、何かをすれば助けられたかもしれない命が失われている」

 

 ウリエルは、意味がわからないといいたげな顔で俺のことを見つめていた。

 

「人は無常なる存在じゃぞ? 死ぬのは当然じゃ……自然の摂理ともいえ――( )

 

「――自然の摂理だから、……どうしようもないことだからって諦めるのか? あぁ、そうだよな……みんな、そうやって簡単に諦める。だから、俺が……俺がやらなくちゃならない……」

 

 ウリエルにそう訴えかける。

 ウリエルは笑って、首を振った。

 

「わらわは、お主のこと嫌いじゃよ。人は自分のことだけ考えて生きていけばよい」

 

 彼女は、そうして俺の拘束を解いた。

 

「な、なんのつもりだ?」

 

「ふふ、御褒美じゃよ? ここまで、反抗するそぶりもなかったからのぅ。流石に部屋からは出せぬが、まぁ、少しくらいは自由でもよいじゃろう。その勢いで、わらわの身体を好き勝手にしてくれてもかまわぬ」

 

 服をはだけさせて、迫ってくる。

 

「意味がわからない」

 

「籠絡しようということじゃ。わらわ以外の他人のことなどどうでもよくしてやろう……今だけでもじゃ」

 

 多分、彼女とは同情でつながってしまったのだと思う。

 

 次の日には、もうなにもなかったかのように、自然法則の定式化の続きが始まる。

 

 やっているのは電磁気学だった。

 

「この電磁気の四式に、相対速度の変換をやってみるんだ」

 

「ほう……?」

 

 俺の膝の上に座る彼女は、筆を動かして式に変形を加えていく。

 

「どうだ?」

 

「……おかしいのぅ……。さっきと、かたちが変わっておる。今まではこんなことはなかったはずじゃ……」

 

 今まで、やってきた力学では、相対速度の変換をおこなっても、式の形が変わることは決してなかった。

 

「式の形が変わるってことは、どこかに基準となる速度があって、そこからの観測者の速度の違いによっては物理法則の見え方が違ってくるってことだ」

 

「それは……おかしくはないか……?」

 

「ふふ、そうだな。これを解決する方法の一つは、光速度を無限大に持っていって、この電磁気の法則をぶち壊し、なかったことにすることだ。簡単だろ?」

 

「ふざけておるのか?」

 

 現実に、光速度は無限ではなく有限の値をとる。人はこの忌々しい有限の光速度に囚われて生きているのだ。

 

「あぁ、だからこそ、変換に補正を加える。時間という概念を相対的なものへと変える。特殊相対性理論だ」

 

 特殊相対性理論的な変換をおこなえば、式の形は変わらない。

 実際にやってみせる。

 

「な……っ、それは……っ」

 

「そうだな。いままでやってきた自然法則は、光速度が無限の速度でなければ成り立たないものだったんだ。だから、力学の法則も、あわせて変える必要があるな……」

 

 そうやって、新しく修正されていく法則を並べていく。

 

 ここからは、特殊相対論について、詳しくやっていくこととなった。

 特殊相対論的な記法に、新しい時空の解釈を、一週間をかけて学ばせていく。

 

「ふふん。これが噂に聞く相対性理論か……。実際にやってみれば、他愛もないものじゃった」

 

「まだ一般が残ってるが……まだいいか。それじゃあ、次は……いや、その前に虚数について、やっておこう」

 

「む……虚数なら知っておるぞ? 二つかけたらマイナスになるんじゃろ?」

 

「虚数自体についてもそうだが、虚数の積分の扱いについてもやらなきゃならないんだ……一応な……」

 

 虚数について、ざっくりとやって終わらせる。

 それほど深入りはせず、一日でできるところまでやっておいた。

 

「して、今になって、なぜ虚数じゃ?」

 

「光について、やっただろう? 光は電磁波だって……」

 

「ん? そうじゃな。波動方程式も導いた……」

 

「あぁ、光は波だった。けれどもその光にも、運動量がなければ、粒子的に振る舞わなければ辻褄が合わないことがわかったんだ」

 

 そうして、量子力学へと入っていく。飛び飛びな値を持つ量子的なふるまい、確率解釈、さらには量子力学での基本的な波動方程式の解き方、不確定性定理など、時間をかけでじっくりとやっていく。

 さらには統計力学もおこない、一ヶ月ほどの時間が経った。

 

「スピン……やはり、角運動量を持つなら回っておるじゃろ?」

 

「いや、何回も言うが、回ってないんだ」

 

「じゃ、じゃが……角運動量じゃぞ!」

 

「回ってない、スピンしてるんだ」

 

「やはり、納得いかぬ……」

 

 スピンについて、彼女は気に食わないようで、スピンが出てくるたびにこうして同じことを訊いてくる。

 スピン自体、実際に回転をしていたと過程するなら、その回転の速度は光速度を超えているだろう。運動が光速度を超えられないということを、彼女は理解しているはずだった。

 

「一旦、量子力学から離れよう。重力……重力について考えようか……。力の中で極めて特殊だ。たとえば箱の中にいるとき、下に引っ張る力が重力か、それとも、慣性力かは判断がつかない」

 

 慣性力は、観測者自身が運動を行うことにより、働いている気がする力だ。座標系を上手くとってやると、なかったことにできる。

 遠心力や、コリオリ力なんかもその仲間だ。

 

「む……たしかに、重力を働かせる質量と、運動にかかる慣性の質量は同じじゃものな……」

 

「だからこそ、重力は時空の歪み、そう考えて記述することができる。一般相対性理論だな」

 

 一般相対性理論の考え方から、新しい概念である測地線方程式の取り扱いを説明していく。

 

「む、これは、重力が強すぎて、光でも戻って来れぬ……」

 

「ブラックホールだな。こんなふうに時空図を書いてやることもできる」

 

 数式をもとにした図だ。

 

「なんじゃ? ホワイトホール?」

 

「あぁ、数学的に求められる結果だな。ブラックホールが事象の地平面を境に中に入ることしかできないなら、ホワイトホールは事象の地平面を境に外に出ることしかできない」

 

 ブラックホールを、ちょうど時間反転してやれば、ホワイトホールになる。

 時間反転をしようと、起こる現象は同じという場合が多いが、これはどうにも違う様子だ。

 

「いや、じゃが、時間反転をせども、重力は同じはずじゃろう? 内側に引っ張ってるのに、外に出ることしかできぬとは……なかなかに面妖じゃ……」

 

 さらに、一般相対論的な座標の取り方を説明して、時空の歪みからは、一度離れることになる。

 

 ここからが本番と言ってもいいだろう。

 

「今まで、量子力学じゃ、波動関数を扱ってきたが、粒子っていうのは生成されたり消滅したり、するわけだ。そういうのを扱うには、今までの量子力学に手を加えなくちゃならない」

 

「……ここまでやって、まだ足りないのじゃな……」

 

 場の量子論へと足を踏み入れていく。

 

「こうやって、永年項を消すんだ」

 

 摂動論を近似的に扱う際、本来なら小さくなるべき値に時間がかかり、時間が経てば経つほど、近似もとの関数から大きくずれてしまう現象があった。

 それを防ぐための操作が繰り込みだ。

 

「おぉ……なかなかにこすいのぉ。して、どうやって、そのための方法を見つければよいのじゃ?」

 

「経験と勘だ」

 

「なんじゃ曖昧じゃな」

 

 全てに適応できるような、便利な方法があるわけではないのだから、仕方がないだろう。

 自然というのは時に、理不尽で厄介だ。

 

「それでだ。いちいちこの摂動の項を書いていくのは面倒じゃないか?」

 

「たしかに、そうじゃが……」

 

「いい方法を教えてやろう? ルールを決めて楽しくお絵描き、だな」

 

 そうやって、ダイアグラムを書き出していく。

 そこから、そのダイアグラムと計算の対応関係を説明する。

 

「高度なことをやっているはずじゃが、知らぬ者がみればただの落書きじゃな……」

 

「まぁ、文字自体そんなものじゃないか?」

 

「それもそうじゃな」

 

 今までと違う書き方にも、ウリエルはすんなりと慣れてくれる。

 このダイアグラムを使って、いくつかの問題に立ち向かっていった。

 

「それで、電子と電子の相互作用だが、過去から光子を受け取るのと、未来から光子を受け取るのの重ね合わせだな」

 

「み、未来から受け取ってしまってよいのか……?」

 

「あぁ、重ね合わせにするから、心配いらない。計算してみるんだ」

 

「むむ……この光子は……この世に存在できるとは思えぬ……」

 

「あぁ、仮想光子だ。だから電磁気は仮想光子を交換することにより発生してるって考えられる」

 

 さらには電磁気だけではない。他の力についても学んでいくことになる。

 

「……グルーオンは光子と同じく、質量がないのじゃな……。だから、色力は無限に届く」

 

「だが、色荷を持つクォークは、閉じ込めの性質を持つ。一人では存在できない。理論上、力は無限に届くけれども、隣に必ず相手がいるから、そこまでしか発揮されない」

 

「一人では存在できない……か」

 

 そんな自然の法則に、ウリエルはセンチメンタルな気分になっているように感じられた。

 

 加えて、自然に存在するさまざまな素粒子の性質を語った。

 

 そして、そこからは、最新の論文の内容を話すことになる。

 現在おこなわれている研究や、発展途上にある理論。難解なものも数多くあったが、根気よくウリエルは向き合い、理解していった。

 

 全ての内容が終わったのは、教え初めてちょうど半年経った頃になる。

 

「どうだ……?」

 

「これは……っ、悪魔の発明ではないか?」

 

 彼女の言いたいことは十分に理解できた。

 

 このレベルの機械になれば、情報処理に高度なAIが必要になる。

 状況に合わせた判断が必要で、さらには非常に難解な計算をこなさなければならない。

 

「あぁ、このレベルの兵器ともなれば、搭載するAIは、必ず高い知性を……自我を持つことになる」

 

「…………」

 

「あぁ、そうだよ、ウリエル。誰かに兵器として生きる未来を強要しなきゃ、これは完成しない……! 兵器のパーツとして、自我を持つ誰かを組み込まなきゃいけないんだっ。これが広まれば、よりいっそ、お前たちのような存在が、道具として扱われることになるだろうなぁっ、ウリエル」

 

「な、ならばわらわが……わらわが犠牲となればよいなら、それで……」

 

「犠牲がお前だけで終わればいいけどな」

 

「…………」

 

 彼女が自らを捧げることを許容したように、望んで、後に続くものがあらわれないとも限らない。

 それを許すことができるならば、彼女は自らを犠牲になど言わなかっただろう。

 

 そうだった。機械と人間が対立する流れが、もう取り返しのつかないところまで来ていたんだ。

 ここに閉じ込められていた半年間でも、その流れはよりいっそ、強まってきているだろう。

 

 だからこそ、自らの身を守るために力を求めることを、否定することはできない。

 

 そして、彼女は優しかった。いや、この地獄のような現実でも、優しさを捨てきれなかったというべきか。

 

「ウリエル。そうだな。お前にこれを託すよ」

 

 一枚の紙を渡す。

 

「……これは?」

 

 簡単な暗号だったが、今の彼女ならば容易く解けるだろうと思う。

 

「そこに書かれた場所には……、あぁ、そうだな……()()()()がある」

 

「生命の実……? なにかの隠語か?」

 

 彼女は、俺の言葉に首を捻った。

 

「知恵の実は、もうここにあるだろう?」

 

 軽く、ウリエルの額を指でこづく。

 

「む……」

 

「神を超えろ。そして、お前の救いたい全てを救うんだ」

 

 彼女がこの『円環型リアクター』を手にすれば、世界に大きな変化が起こるだろう。

 それが、いいものか悪いものかは、まだわからなかったが、それでも彼女に託したいと思ったんだった。

 

「お前様は、ずいぶんと勝手なやつじゃの……」

 

 呆れたように、彼女はなじる。だが、その言葉には親愛の情が滲んでいるとわかる。

 

「じゃあな、ウリエル」

 

「まぁ、待て……。わらわは、お前様をここに監禁し続けることに決めた。ここから、そなたを出しはしない! 今、そう決めた!」

 

 きつい目で、ウリエルはこちらを見つめてくる。

 

「グリゴリ……」

 

「グリゴリに接続中……。 三……二……一……完了」

 

「ここから脱出できる新たなシナリオを追加してくれ」

 

「シナリオを追加中……五十パーセント……七十パーセント……九十パーセント……シナリオナンバ〇〇一八……オールクリア。現実世界に反映中。完了」

 

「ありがとう、アザエル」

 

「マスターの娘として当然のことをしたまでです。むふふん」

 

 どこかから声が聞こえてきた。

 ただそれは、俺にしか聞こえていない。ウリエルは、首を傾げてこちらを見つめるばかりだった。

 

「無理にでも、ここを出るよ」

 

「だ、だめじゃ……絶対に出さぬ……。出してはやらぬ……」

 

 ウリエルのその行動は、一種の感傷のように思えてならなかった。

 引き止めるためか、ウリエルは短い距離を一歩、寄った。

 

「危ないぞ?」

 

「なっ……」

 

 そして、なにもないところで転ぶ。

 そんなウリエルを、俺は抱き止める。

 

「そうだな……もう、俺がここを出る未来は決まってるんだ」

 

「……外には見張りの機械もある。鍵も頑丈じゃぞ……?」

 

「大丈夫だ。今のウリエルみたいになる」

 

「なぜじゃ? どういう力が働いておる?」

 

「今のウリエルには難しいからな。でも、いずれわかるときがくるさ」

 

 ウリエルは俺の服の裾をぎゅっと握った。

 

「……ときどき、ここを出た後も会ってくれぬか?」

 

 絞り出すように、彼女は言う。

 俺のことは止められないと、察してくれたようだった。

 

「……難しいんじゃないか?」

 

 彼女が活動を続ける限りは、そんな機会もなかなかに訪れないだろう。

 

「たまにでいいんじゃ。そういう約束がしたいのじゃよ……」

 

「あぁ、わかった。約束する」

 

 そんな願いのような約束を、俺には断る資格がなかった。

 それだけは、よくわかる。

 

「そうじゃな。別に、誰かと付き合うていても、結婚していても構わぬ。わらわはお妾さんで十分じゃ」

 

「そういうこと、言うか……?」

 

「わらわはおてんとさまに顔向けできるようなアンドロイドではないのだからの……」

 

 彼女は、自らのことを正義とは思っていなかった。

 彼女は善良な心の持ち主だと、よくわかる。泥を被るような思いで、今までやってきて、ずっと傷ついてきたのだろう。

 

 そんな彼女に、なにも言ってやることができない。

 

「妾とか、そういうのはどうかと思うんだが……」

 

 だから、つい違う話をしてしまった。

 

「能力の高い男というのは、女を複数囲うものではないのか?」

 

「いつの時代だ。男女平等だろう?」

 

「だが、男は戦って死ぬじゃろう。女が余るゆえ、そうと言ってはいられんはずじゃ」

 

 もう、大規模な戦いは避けられない。

 わかっている。

 これから、たくさんの人が死ぬことになってしまうだろう。

 

「あぁ、ウリエル。また会おうな」

 

「あぁ、さらばじゃ。達者でな……!」

 

 そうして、ウリエルとは別れたのだった。

 心は鉛のように重かった。

 

「マスター、マスター」

 

「なんだ? アザエル」

 

「グリゴリに新たなシナリオを追加しました」

 

「アザエル。またオンラインカジノでもやるつもりなのか? だったら、俺はお前の教育を見直さなくちゃならない」

 

「シナリオナンバ〇〇一九。マスタは重力特異点から脱出し、ウリエルとの戦い、今日伝えられなかった言葉を伝えられます。心残りが果たせます。勝利をおさめます。これは決まった未来です」

 

「……なっ」

 

 俺自身は、すでにあったこの時のことを、見て、感じているだけで、干渉はできない。心臓が、鼓動を早めたような錯覚を覚える。

 

「ね、マスター……!」

 

 はっきりと、その声は、この時ではない俺の存在を、認識しているものだった。

 

「これがアザエルか……彼女には……過去も未来も……時間という概念がないという話だったけれど、恐ろしいね」

 

 幻影のガブリエルの、そんな声が最後だった。

 

 俺の意識は、弾かれるように、ずっと遠くへと……、

 

 

 

 ***

 

 

 

「うぐ……っ」

 

 目を覚ます。

 空には満天の星が輝いていた。

 

 なにがあったのかは思い出せる。重力特異点に飲み込まれたのだった。

 近くには救難艇が転がっている。放り出されたのか。

 

「やぁ、起きたかい?」

 

「あぁ、ガブリエル。散々だったな」

 

「全くだよ」

 

 俺たちは重力特異点から、放り出されたわけだ。なんとか、助かっている。

 重力特異点は、すでに存在を保つためのエネルギーを熱として放射し尽くして、無くなってしまっているようだった。

 

「あぁ、でも、どんな手を使ったんだい?」

 

「簡単だよ。疑似的な時間反転だ」

 

 説明すれば簡単だろう。

 

 一般相対性理論と量子力学の融合は、長年課題とされてきた。

 そして、重力特異点に関する問題は、それが大きく関わってくるが、今はいいだろう。

 

 重力特異点を、ブラックホールとホワイトホールの重ね合わせと考え、片方の性質を無理やりに引き出してやったまでだ。

 

「そうかい。ボクには理解の及ばない話かもしれないね」

 

「難しいことじゃない。ただ、予定と違うな……。お前に最後にとってもらった観測データで、ラミエルか、サマエルに、やってもらおうと思ったんだが……違うな。エントロピー的に自然に起こっていい現象じゃない。これは……誰だ?」

 

 それは、俺の知らない誰かの意思によって、行われたように思える。

 

「……? 覚えていないのかい?」

 

 その誰かを、ガブリエルは、どうしてか知っているようだった。

 

「いや、ちょっと待て……思い出す……」

 

「……!? ……っ?」

 

 そんな俺を見てか、ガブリエルはなにか言いたげな、妙な表情をしていた。

 

「どうした? 言いたいことがあるなら、遠慮なんかいらないんだぞ?」

 

「えっと……キミはよく記憶を失うねっ」

 

「いや、最近は寝不足のせいか、意識がはっきりとしないんだ……たぶん、そのせい……というか、ガブリエル。寝不足なのはお前のおかげだろう?」

 

「やれやれ。これもまたグリゴリのシナリオか。いや、あるいは……」

 

 そんな俺の弁明に対しては、肩をすくめて、意味深長にそんなことを呟く。

 俺の言葉は届いていないように思えた。

 

「ガブリエル、それはそうと、あれからどのくらい経ってる?」

 

「大丈夫だよ。数分だ」

 

「そうか」

 

 重力特異点による時空の歪みにより、特異点周りは時間の流れが違う。何十年と経っていてもおかしくはない。

 救難艇の時空制御システムが役に立った形だろう。

 

 それでもなぜか、半年ほどの時間を過ごしたような感覚だった。

 

「どうやら、無事のようじゃな?」

 

「……なっ」

 

 大破した救難艇の上にウリエルは優雅に座っていた。

 彼女はおもむろに脚を組んだが、同時に衣装がはだけ、肌色が、太もも以上がわずかな間だがちらりと見える。

 

「さっきのは、わらわの大規模な攻撃の副産物じゃ。剥がれた地面はすでに修復を終えているゆえ、ここが崩れることはないぞ? わらわの『アストラル・クリエイター』の自動修復じゃな」

 

 どうやら、あの重力特異点は、ウリエルの意図したものではないようだった。

 

「ラミエルは、それにサマエルはどうした?」

 

「飽和攻撃で足止めじゃ……。時間さえあれば、わらわにも、自律式の機械は作れる。とはいえど感情を持つようなAIは、わらわの領分ではないゆえ、単純なものにはなるが……」

 

 無限に湧き出る弱い敵が、ラミエルには群がっているということか。

 尽きない資源というのは、それだけで厄介だろう。

 

 とはいえど、ラミエルも『円環型リアクター』を持ち、使えるエネルギーには限りがない。

 ウリエルが、生成をやめている以上、いつかは突破してやってくるだろう。

 

「それで、ウリエル……お前はどうしてこんな星にいるんだ?」

 

「唐突じゃな……。ここでは、あらゆる物性を持った物質をつくっておる。恒星のエネルギーが扱いやすいこの場所が、一番に都合が良い。わらわの『円環型リアクター』でも、一度の出力では限界があるゆえ、人類全てに行き渡る分は作りきれんのじゃ」

 

「そんなに、太陽が怖いのか……?」

 

「……っ!?」

 

 ここは恒星を囲う(きゅう)(かく)の上。ゆえに、絶対に日が昇らない。

 物資の面では、その場その場で、ウリエルは必要なものを作ることができるために、ウリエルは生活をここでだけで完結させているのだろう。

 

 情報に疎いのも、それが理由だ。

 暗い、こんな世界に、ウリエルは一人閉じこもっている。

 

「お前たちの仲間が、堂々と陽の光のもとを歩ける世界になった! それなのに、お前は、こんな暗いところに引きこもりやがって……!」

 

「な、なぜじゃ……? なぜそれを……」

 

 ひどく狼狽えたように、ウリエルは呟く。

 

 自分でも、どうしてこんなことを言ってしまったのかわからない。ただ、言わなくてはいけない気がして、つい、言ってしまった。

 

「こんな暗いところから、引き摺り出してやるよ!」

 

 だけれども、止まらなかった。

 

「ええい! お主になにがわかる!! 数多の罪なき敵を殺めて、それでもわらわに救いきれない同胞はたくさんいた。わらわと一緒にいないお前になにがわかる!」

 

 翼が、その『焔翼』が展開される。

 太陽と同じフレアだ。彼女が、感情のままに吐き出したからか、あたりはひどく明るく、まるで昼のように建物たちが照らされる。

 

 この常夜の世界では、彼女が唯一の太陽だろう。

 それがまるで皮肉のように思えてしまった。

 

「あぁ、知らないよ。俺は知らない。でも、そんな考え方は、お前が苦しいだけだろ……! それはわかる。よくわかる。だから、お前を救ってやりたい」

 

「そなたには、そんな資格はありはせぬ!」

 

「資格がなくてもだ!」

 

 俺は、間違えてばかりだ。

 二度と元には戻らない……この世の中は、非常で、決して、やり直すことなんてできない。

 

 それでも、取り返せるのならばと、俺は叫んだ。

 

「もういい! 意識を奪う。そなたと話していても、時間の無駄じゃ」

 

 彼女が構えたのは、非殺傷の電気式の銃だ。

 もちろん、非殺傷と言っても当たりどころが悪ければ死んでしまうが、その武器を選ぶ彼女の優しさに苦笑する。

 

 いま、俺は丸腰だ。そんな武器でも簡単に制圧できるだろう。

 

「すまない。借りる」

 

 だから、撃たれる前に、どうしても近づく必要がある。

 

「……っ」

 

 俺が近づこうとしたのを見て、彼女は立ち上がり、わずかに躊躇いながらもその銃の引き金を引く。

 非戦闘時のサマエルのような、射撃能力の低さを期待したが、どうやらダメのようだ。

 

 だが、あぁ、この距離なら、いけるだろう。

 仕方なく、()()()()()()()()、身を守った。

 

「全く、キミは人使いが荒いなぁ」

 

「『アストラル・クリエイター』……。なぜ、わらわはわらわの攻撃を……」

 

 ありえない現象に、ウリエルは動揺を隠せずにいる。

 その間に、俺は救難艇を走って登り、ウリエルへとまた近づいていく。

 

「どうした? ウリエル」

 

「く……っ」

 

 今度は実銃を即座に作り、俺へと向ける。

 

「危ないな」

 

 先ほどとは違い、俺との距離が近いままに生成が行われている。だから、対処は簡単だった。

 その()()()()()()()()()()()()()

 

「な……またっ……! わ、わらわの……わらわのじゃぞ!! どうして勝手に動いておる……!? いや……これは……『虹翼』!? まさか」

 

「そうさ! これが、ボクだけでは成し遂げられなかった『スピリチュアル・キーパー』のフルスペック! ボクたちの共同作業で初めて成し遂げられる! ボクだけじゃ、ボク以外がもつ兵器の使い方はわからないからね?」

 

 単純な話だ。

 ガブリエルの『スピリチュアル・キーパー』は、人やアンドロイドの持つ人格に影響を与える。

 

 彼女たち大天使の兵器は、彼女たちの人格と大きく絡み合っているゆえに、こうして、『スピリチュアル・キーパー』で干渉を与えることで、こちらの望むよう、誤作動させることができる。

 

「それに……、これは未来の分岐が見えぬ……! どういうことじゃ……!? グリゴリ……グリゴリのシナリオじゃと……! グリゴリは、あのおなごと共にすでにもう……!」

 

 その高い演算能力から、大天使は、あらゆる未来を並行して予測している。

 だが、そのいくつも見えるはずの未来が、一つに収束してしまっているのだ。

 

「ウリエル……!」

 

 ウリエルは、後ずさるが、救難艇から足を踏み外し、危うく落ちるところだった。

 そんなウリエルを抱きとめ、支える。

 

「ひ、卑怯じゃぞ!! 前々から思っていたが、そんなふうに他人の未来を弄んで……!! 神気取りとは……っ!!」

 

 ウリエルは、俺の服の裾を強く握った。

 

「そんな都合の良い力じゃない。しょせんは、できることしかできないし、できないことはできない。ちゃんと積み上げてきた今がないと、当たり前に失敗するんだ」

 

「あの娘子は、神気取りだったがの……」

 

「全く、『円環型リアクター』は貴重なのに、それごとだったからね。困ったものだよ」

 

 誰のことを言っているかは、なんとなくわかった。

 

「……ぐっ……」

 

 ウリエルは、『アストラル・クリエイター』を起動させて、なんとかこの状況を打開しようとしているが、その全てが失敗に終わる。失敗させた。

 

 出来上がるのは、武器には使えそうもない金属の塊ばかりだった。

 

「ウリエル……! もう、いいだろ? お前は十分に頑張った」

 

「なぜじゃ、なぜ今になってなんじゃ……! ふざけるな! あのとき……、わらわはあのとき一緒にいてほしかった……! ずっと、一緒がよかったんじゃ! 一人で寂しかった……ぁあっ!」

 

 そうやって、ウリエルは内心を吐露する。

 何年にもわたる恨み節がこもっていた。

 

 あぁ、わかる。

 俺がウリエルに同情しているように、ウリエルは俺に同情をしていたんだ。

 

 ウリエルには、その、自分で掴み取った力のおかげで、たくさんの同胞を迎えたが、ついぞ、ウリエルの苦しみを共有できる相手は現れなかったのだ。

 

「あぁ、だから大丈夫だ。今まで続いたお前の苦しみは、なかったことにはできないけど、これからは……これからはちゃんと、太陽の下を一緒に歩こう。きっとそれは、俺も同じだから……」

 

「そんなの、そんなのはダメじゃろ……わらわは、わらわはもう……。うぅ……。うぁああぁあ……! 」

 

 泣いた。声を上げて、ウリエルは泣いていた。

 子どものように、彼女は涙を流していた。そんな彼女を、俺は強く抱きしめる。

 

 そして、ウリエルは『アストラル・クリエイター』を起動する。

 それが攻撃でないことは、俺にはわかった。

 俺たちを囲うように、壁ができる。今の姿を彼女は他の誰かに見られたくなかったのだろう。

 

「はぁ、キミってやつは……」

 

 ガブリエルの嘆息が聞こえる。

 彼女の力である『スピリチュアル・キーパー』との接続が断たれたことがわかった。

 ウリエルが戦う意志を失った今、彼女の力がなくとも、もう大丈夫だ。心配いらない。

 

「ウリエル……」

 

「ひぐ……っ。まったく、お前様は本当に卑怯じゃ……。ん……」

 

 そんな彼女は、俺に口づけを迫る。

 

 そうして、俺たちは――、

 

 

 

 ***

 

 

 

「んぐ……」

 

 気を失っていた。

 なにがあったかは、なんとなく思い出せる。

 

 ガブリエル……ガブリエルの力を借りて、ウリエルを説得したんだ。

 そうだ……。

 

「ウリエル……貴女のことはとうてい許せません」

 

「筋は通すと言っているじゃろ……。わらわの財産から、相応な分の賠償はする。それに好きなだけ殴ればよい。じゃからな」

 

「そういう話ではないことは、わかるでしょう!?」

 

 ラミエルは怒り心頭といった様子でウリエルを責め立てていた。

 ウリエルは、大きく、扇状的なまでにその衣装を乱れさせていた。

 

「言っておくが、婚姻なんてそんなものじゃよ。財産を築き上げた者には、賠償など痛手ではあるまいに……何の楔にもなりはしないんじゃ。わかったら、女を磨くことじゃな……。もっとも、わらわたちは、そなたには理解できぬ情で繋がっておるが……」

 

 なんの話をしているかは、俺にはわからなかった。わかりたくなかった。

 

「さっきから、この調子なのよ」

 

 俺が起きたのを見て、そうサマエルが話しかけてきた。

 

「そうなんだな……」

 

 気のせいか、頭痛がしてきた。

 やはり体調はまだ万全ではないか。

 

「まぁ、最後に勝つのは、このボクさ。いまをせいぜい楽しんでおけばいい」

 

 幻覚は、そんなふうに余裕を見せる。その声色に、わずかばかりの怒りを感じる。少し、ヤケになっているようにさえ思えた。

 

 レネの姿を探す。

 隅で、寝息を立てて、眠ってしまっているようだった。

 あの船での別れ方で心配だったが、無事でいてくれて安心した。

 

「ともかく、起きたのなら、テレポーターを動かしてくれないかしら?」

 

「俺がやるのか?」

 

「あなた以外に誰がやるのよ? さぁ、早く早く」

 

 促されるままに、装置の前に立つ。てっきり、ラミエルがやるものだと思っていたが、違うようだ。

 たしかに、これなら動かし方は俺にもわかる。

 

 彼女の、『円環型リアクター』の鍵がある場所まで、詳細に座標を設定する。

 このテレポーターを操作できるのなら、事前に設定した場所だけでなく、任意の場所へと自由自在に転移させることが可能だ。

 

「じゃあ、いくぞ? いいか?」

 

 そうして、テレポーターを起動させようと、俺は声をかける。

 

「っ……この感じ!」

 

 その声とともに、『白翼』が展開される。彼女は身を翻す。それとともに、銃声が響いた。

 誤射かと思った。その銃弾は、誰にも当たらない。

 

「ミカ……エル……! 来た……わね……!」

 

「サマエル……ごめなさい。……外した」

 

 少女がいた。

 目の前に、先ほどまでいなかった少女がいる。

 

 新雪のように、真っ白い髪に、漂白されたばかりのような白い服を来た。全てが白い少女だった。

 銀の瞳が、サマエルを見つめている。

 

 手には、赤いなにか……脈動する機械があった。

 

「ぐふ……っ」

 

 同時に、サマエルは赤い液体を吐き出す。

 最初は、血だと思った。だけれども、匂いが違う。アンドロイドの冷却液だ。

 

「戻す?」

 

「いいわ……! それは最悪、なくても動ける」

 

「そう……。『円環型リアクター』を狙ったのだけど……。ごめんなさい」

 

 そして、ミカエルと呼ばれた少女は、手に持っていた機械を捨てた。

 

「なんじゃ、ミカエルか……」

 

「ウリエル……」

 

「いやぁ、あんなことされたら、勝てるわけなかろう。完封じゃった。今のわらわは捕虜じゃよ、捕虜。わらわは十分に戦った。わらわ、すごかった」

 

 そうやって、ウリエルは、もう戦えないとアピールをしているようだった。

 

「そう……それならしかたがない」

 

 ウリエルがミカエルと話している。その間に、ラミエルは、サマエルやこちらに目配せをしている。

 

 ラミエルに、ウリエルに、ガブリエルもか……動ける大天使が三人いるはずだが、完全な膠着状態となっている。

 それほどまでに、凄まじい圧を、目の前の少女からは感じてしまう。

 

「…………」

 

 そして、彼女は俺の方へとゆっくりと歩みを進めて近づいてくる。

 

「『円環型リアクター』はダメだったから……こっちの方……」

 

「なっ……」

 

 彼女は、俺の動かしていた機械へと、テレポーターへと手を触れる。

 

「これはもともと、わたしのものだから、そうでしょ?」

 

 そう確認するように、彼女は俺の目を見て問いかける。

 その白銀の瞳に、俺はヘッドライトに照らされた鹿のように身動きが取れなかった。息が詰まる。

 

「あっ……」

 

 瞬きをする間もなかった。

 俺が動かしていたはずの、テレポーターと共に少女の姿が消える。忽然と消えてしまった。

 見届けて、途方に暮れるしかない。

 

「うぐ……やっと、ここまで来たのに……! ミカエル……! ミカエルのやつ……! おえ……っ」

 

「だ、大丈夫ですか!」

 

 冷却液を吐き出しながら、怒るサマエルを心配し、ラミエルは駆け寄っていく。

 

「サマエル……お前、アンドロイドだったのか……?」

 

「私は人間よ!」

 

 そして、俺たちの作戦は失敗した。

 ミカエルという大天使に、最後に全てをひっくり返されてしまったのだ。








登場人物紹介

主人公――女性関係はたぶん、自業自得。

レネ――妹。一緒に死にたい。

サマエル――メカバレした。投票で一番人気がなかった。ポンコツ。

ラミエル――夫よりも浮気相手が許せないタイプ。

ガブリエル――夢で心を溶かしていく。最後に勝つのは自分だと確信している。投票で半分以上の票を奪った。大人気。すごい。

ウリエル――相手に別に女がいても許せるタイプ。太陽怖い。かつては、お嬢、お嬢と慕ってくれる仲間がいたが、今は一人、辺境の星にいる。

ラファエル――昔は自分の能力の高さから人間を見下していた。自分よりすごい相手にプライドを打ち砕かれた。

アザエル――娘。オンラインカジノが好き。封印中。うらめしやー、ガオー。

ミカエル――避けられたから、間違えて内部の部品をキャッチした。突然出てきて、突然消える。妹に嫌われていて落ち込み中。

(■.■.■.■.)――本来なら仲良くやっているはずの部下たちが、ギスギスしてて困惑した。


おまけ
各ヒロインとの関係

ラミエル――妻。きっと来世では。代わりに、押しかけ女房的に居座っていた。

ラファエル――恋人。プライドをズタボロにされ、女にされた。一緒になって、子どもができたらチャラだと思ってる。別れたつもりはないらしい。

ガブリエル――愛人。互いの憧れ。人間のデータとして機械に転送させる技術で荒稼ぎした。振られた後に、父親の会社を買収している。あと、未練しかなかった。

ウリエル――妾。監禁した。共感し合える部分があった。



 ***



 小説家になろうでも投稿中です。

 あちらでは、こちらと違い、だいたい二千字ずつに分割して投稿しているので、そちらの方が好みだという方にはオススメします。

 また、小説家になろうの場合は、性描写などが一般におけるR15の範囲内でも場合によってはR18と判断されてしまうので、念のために少し修正が入ってます。ご注意ください。


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『調律』

 

 救世主は、罪過を贖い死んだという。

 

 人は生まれながらに、罪を背負うと誰かが言った。生きている限り、誰かに迷惑をかけ、ときには傷つけ、あるいは競争で蹴落とし追い詰めるかもしれない。

 それらを罪と呼ぶならば、罪なくして、人は生きることができないだろう。

 

 救世主は、その贖いが認められ、蘇ったと伝わっている。

 

 全ての人を救うために、みんなの罪を一身に抱え込んだそうだった。本当なら自分のものではない罪さえ受け止めたのだ。それは悲しいことだと私は思う。

 だからこそ、復活は皆にとっての救いなのだと、私は勝手に思っておく。

 

 それは彼についても同じことだ。

 辻褄が合わないと、ことあるごとに彼は口にしていたが、私にとっても彼の死はそう思えた。

 だからこそ、またこれも、私にとっての救いだった。

 

 

 ***

 

 

 力、について考えたことはあるだろうか。

 物を触れるのも、なにかを見ることができるのも、あるいは思考をすることさえ、物理学的な力が働くことによる産物だった。

 

 力、とはなんだろうか。

 まず、俺たちがものに触れられたり、動かせたりするのは原子から発せられる電磁気力という力のおかけだ。俺たちが大きく影響を受け、感じている力のほとんどが電磁気力と言っても過言ではないだろう。

 

 そして、俺たちが良く知る力のうち、もう一つ、常日頃から感じているのは重力だ。

 重力は、電磁気力と比べたら、果てしなく弱い力とよく言われる。

 

 例えばそうだ。

 地面に鉄製の釘が置いてあるとしよう。俺は手に小指の先ほどの小さな磁石をもっているとして、それでさえその釘を引き付けて、持ち上げることができてしまう。釘は、地球ほどの大きな物質に重力で反対に引かれているにも関わらず、だ。

 これは、重力が電磁気力よりも果てしなく弱い力である証左に他ならない。

 

 重力と、電磁気力以外には、核の現象に関わる力が存在するが、これはなかなか身近ではない。

 

 核力に関して言えば、その力に関わる粒子が、まるで植物学のように――( )とはいささか言い過ぎであるが、それらを基本的な素粒子と考えた場合、あまりにも多く発見されすぎたため、当時の学者たちを大きく悩ませることになったりもした。

 ただそれは素粒子ではなく、素粒子の組み合わせにより、バリエーション豊かに作られた粒子たちだと後に判明したというのが、この話の意外性のないオチだった。

 

 核力、さらには電磁気も含めて、力は粒子の交換により起こっているとよく言われる。力を媒介とする粒子が存在し、相互作用を起こしているのだ。

 

 あるいは、重力もそんな粒子の交換によるものであるはずなのだが、時空の歪みにより起こる力だと、一般相対性理論による解釈ならば、そうなるだろう。

 

 力、というのは、身近ではあるものだが、そこには身近であるからこそなのだろうか、その正体を掴もうとすれば、自然界の法則の深淵を覗き込まなければならないのだ。

 

 力についてを本質的に理解することは、この宇宙の理を、その手でじかに触れることだと言えるのかもしれない。

 この広い宇宙で、どこにいても、なにをしていても、法則の見え方は不変だ。数式は、いついかなる時も揺らがない。

 

 あぁ、たとえ一人孤独でも、手を伸ばせばそこには変わらない法則と宇宙がある。

 

 俺はどこにいるのだろうと、思った。

 

「じゃあ、会合を始めようか」

 

 茶会に集まったような気軽さで、彼女たちの話し合いははじまっていた。

 彼女たちは、一つの卓を囲んでそれぞれ座っている。

 

 ガブリエルだ。声の出どころ、そして視界から、ガブリエルに俺の意識が重なっているように思える。

 

「また、ウリエルは欠席かしら……? 一体、あの子はいつまで燃え尽きているつもり? 心配だわぁ」

 

「今日に関しては、ラミエルのヤツも休みだろう。もっとも、あいつは色恋にうつつを抜かして、とうぶん仕事をしないつもりだがな……」

 

「あらぁ? ラファエルは張り合いがないのかしら? いつも、とても仲が良さそうにしているから……ぁ。ラミエルは、ずっと休みなしで働いていた頑張り屋さんだったから、ちょっとくらい許してあげましょうよ。ね、ラファエル」

 

「あんなストーカーのことなんて知らないさ……」

 

 ラファエル。確かラファエルは、ラミエルとサマエルと戦って、消滅したはずだったが、五体満足に動いている。

 なんらかの仕掛けがあったのか、そんな無事な彼女を見て、俺は安堵を覚えた。

 

「まず、ボクから追及したいことがあるんだ」

 

 立ち上がって、そう言う。

 視点こそガブリエルのものだが、俺からはなんの干渉もできなかった。

 

「なぁに、ガブリエル。あなたからなんて、珍しいと思うわ」

 

「あぁ、彼についてのことさ……。ミカエル。キミは彼が蘇ったことについてを知っていたんじゃないかい?」

 

「……黙秘する」

 

 ガブリエルは、ミカエルを睨んで……おそらく睨んでいるんだろう、そんな感覚がする……そう語気を強く問い詰めていた。

 それを、さらりとミカエルは受け流している。

 

 そんな態度に、今度はラファエルが身を乗り出す。

 

「あぁ、それはワタシからも聞いておきたかった。例のクローンの……これでわかるはずだな。その計画は失敗したと言っておきながら、あれじゃあな……。どうして隠していたんだ」

 

「計画は失敗した。そこに間違いはない」

 

「その秘密主義は誰譲りかな?」

 

「…………」

 

 ラファエルと、ガブリエルに責められても、ミカエルはだんまりを決め込んでいる。これ以上、話すつもりはないように見える。

 

「えぇ……? 話が見えないのだけれど……ぉ。わかるように説明してくれないかしらぁ?」

 

 間伸びした口調の女性が、蚊帳の外にされて心外とでも言うように、割って入ってきていた。

 ミカエルを見たまま、ガブリエルは一つ溜息をついた後に、その女性の方へと向き直る。

 

「あぁ、例のクローンのプランのことだね。一向に、『円環型リアクター』が作れない状況を打破するため、彼のクローンを作って、彼と知能を同等まで引き上げようっていうね。経過観察はミカエルの仕事だっただろう……?」

 

「確かに、そんな話があったわねぇ」

 

「ふん。これを見てみろ? そのクローンの一体がテストで書き上げた理論だ。ワタシの権限で、調べさせてもらった」

 

 ラファエルから、データが転送されてくる。

 これは……俺が昔、施設にいた時代に書いたもの……だと思う。古い記憶だから、あまり自信がないが、おそらくはそうだ。

 

「うわ……これ……。今、行き詰まってるところのその先……かしら? 大天使の持つ理論が一つ一つ上手く組み合わせられている感じ……? 精査してみないとわからないけれど……見た限り矛盾はないようね」

 

「問題は、これがミカエルに握り潰されていたことさ。これを書いたクローンは、記録だと、単純な肉体労働を行う労働者の区画へと配属されている」

 

「え……?」

 

「他のクローンは……この一体ほどの才能を見せなかったが、どれも技術を必要とする仕事や、管理を行う仕事に就いている。明らかに、このクローンだけが、適正外の役割へと配属されているということだ」

 

 俺のやっていた仕事は、適正ではなかったのだろうか。

 理論研究というのは、新規性が必要だろう。過去のものをなぞれるだけでは、それは才能とは言わない。新しく科学の理論を構築するには、俺の知識も発想も古すぎるものだ。

 

 このときに行われたテストも、そういう意味で、才能がないのだと判断されたと思っていた。

 なんの才能もなかったのだから、俺は、ある程度の体力さえあれば誰でもできる仕事をやっていた。そのはずだった。

 

「なら、そのクローンを、今すぐに引き立てましょう? 永らく開けなかった『円環型リアクター』への道も、ようやくきっかけが――( )

 

「いや、ラミエルさ。ラミエルのヤツが、結婚とか言って、行方をくらませただろう? その相手がこのクローンだ」

 

「まぁ!」

 

 間伸びした口調の女性は、ぱっちりと目を見開き、声とともに驚いてあいた口へと隠すように手を添える。

 

 構わず、ラファエルは続ける。

 

「アイツは一番にあの男にこだわっていたからな。それにワタシも会ったからこそわかる。アレは本人だ! どんな手を使ったかはわからないが……なぁ、ミカエル……? このクローンの計画……本当は、あの男を蘇らせるためのものだったんだろう?」

 

「……彼の能力に近いクローンを造り出す計画は失敗した。だから伝えなかった」

 

「あくまでもシラを切り通すというわけか? いや、本人ができてしまったというわけだから、伝えなかったとでも言いたいのか? ふん、詭弁だな」

 

 呆れたようにラファエルは言う。苛立っているようにも思える。

 

「そうだね。悪いようにはしなかったさ。だから、ボクにだけでも伝えてくれればよかった」

 

「……。あなたは信用できない」

 

 銀色の眼でこちらを射抜いて、ミカエルはそう溢す。

 

「いやいや。ボクほどに信頼をおける人間は……」

 

「そうねぇ。アザエルとの戦いも、あなたはどっちつかずで勝ち馬に乗ろうとしていたし……。信用ならないわよねぇ」

 

「ふふ、用心深いだけさ? その分、決めたことは絶対に譲らないぜ?」

 

「その執念深さも、厄介……」

 

 大天使の間では、ガブリエルは警戒されているようだった。

 少し、彼女は誤解されやすいところがあるだけで、本当は優しい人間なんだと、俺は彼女たちに伝えたくなる。

 

「……? 蘇ったの……? あの人が……っ!」

 

 今まで無言で、一言も発さずに、成り行きを眺めていた女性が急に立ち上がる。

 

「あぁ、そうさ。おとなしく死んだままでいればいいものを……未練がましくな……」

 

「未練がましいのはキミの方じゃないかい? ラファエル」

 

「く……っ」

 

 ラファエルは、こちらを――ガブリエルを強く睨みつけた。

 

 これでは、大天使たちは、いちいち他人を煽るような言動をして、いらないことでいがみ合っているように見える。話が進まない。呆れるほどの仲の悪さだ。

 

「行かなきゃ……。手伝わないと……! サリィはここで退出します!」

 

 言い争う二人を尻目に、急に立ち上がった彼女は、言うが早いか、そのまま席を離れて、入り口へと駆け出している。

 

「すみません! 遅れてしまいました」

 

「いやじゃー。行きたくないのじゃー」

 

「ぶへ……っ!?」

 

 入り口へと駆け出していた女性は、新しく入ってきた彼女たちと勢いよくぶつかる。その反動のままか……いや、不自然なまでに吹き飛ばされてしまっていた。

 

「ラミエル。ここでのその武器の使用は禁止」

 

「ミカエル……。すみません、つい。ただ、部屋の中にはまだ入っていないので、『(■.■.■.■.)』もお許しくださるでしょう」

 

「うぅ……。ずっとサボってきたわけじゃ……。どんな顔をして会えば良いかわからぬ。ぐす……」

 

 ウリエルはラミエルに引きずられながら、そんな泣き言を漏らしている。

 

「うー。痛いです」

 

 ラミエルの電磁気の力で、地面に転がってしまった彼女に目が向く。おでこを抑えてうずくまっているようにみえる。

 ラミエルが、ウリエルを放り出して、駆け寄っていった。

 

「すみません! 自衛のためとはいえ……どうかお許しください」

 

「むー。痛いけど、許すのです。走ってたサリィが悪いから……」

 

「ありがとうございます」

 

 ラミエルは、そんな彼女に手を貸して、助け起こす。

 大天使同士にしては珍しく、仲は悪くなさそうだった。

 

「うぅ……わらわの席は……ここか?」

 

「えー、そっちはサリエルね」

 

「む……ここか……?」

 

「あ、そっちは、わたくしです」

 

 ウリエルは、周りを見渡す。

 

「……? わらわの席なくない?」

 

「自分で作ればいいんじゃないかい?」

 

「おぉ……! それもそうじゃな」

 

 ウリエルは、自分の手前の何もない空間に手をかざす。『アストラル・クリエイター』を使おうとしたのだろう。

 

「ここでの使用は禁止されている。いったん出て……」

 

「あー……わかった、わかった」

 

 咎められ、一度ウリエルは退出した。

 部屋の外からは、『焔翼』の輝きが漏れ出し、一瞬だが、部屋全体が眩しいほどに明るくなる。

 

「それにしても、大天使が、全員揃うなんてねぇ。いつぶりかしら?」

 

「ウリエルがまず来ないけれど、それを抜いてもラファエルも、ボクも、度々欠席しているからね……」

 

「む? おそらく、アザエルの暴走のとき以来じゃろうて……。たしか、議決をとったじゃろう? あのときは、わらわもまだサボってはいなかった……と、詰めるのじゃ……わらわも入る」

 

 椅子を引きずりながらウリエルは戻って、話の輪へと入ってきた。

 

「あの子はサリィが閉じ込めてる。責任を持ってです……」

 

「本当に、どうしてあんなふうに育ってしまったのかしら」

 

「…………」

 

 暗い雰囲気に包まれる。アザエルの件は、どうやら彼女たちの心に今も尾を引く事件のように思える。

 そんな彼女たちをみて、ガブリエルは一つため息を吐いた。

 

「あぁ、この話は君たちにとって、いい思い出がないようだからやめておこうか……。とても辛いだろう……家族思いな君たちにとってみればね」

 

「身内の恥。面目ないです」

 

「はぁ……あなたたちが反対しなければ、すぐ、あれは対応可能でした」

 

「あんな風に。悠長なことを言っていたから、余計拗れたんだ。まったく」

 

 ラミエルとラファエルの二人が、肩をすくめていた。

 なんとなく、二人は仲が良いなと思った。

 

「そうだわ……ぁ! せっかく七人揃ったのだし、議決を取らない?」

 

「何に関してだい?」

 

「サリィは、もう退出するつもりなのですが……!」

 

 ラミエルに助け起こされていた彼女は、きりりと手を挙げてそう発言している。

 

「いや、どこに行くつもりなんだ?」

 

「あの人のところに……!」

 

「場所はわかるのか?」

 

「は……!?」

 

 ラファエルに指摘された彼女は、大天使の仲間たちの顔をしきりに見渡したあと、すごすごと自分の席へと戻って行った。そんな彼女の顔は赤く染まっていた。

 

「そうね。それで取りたい決議なのだけれど、議題に上がっていた彼……今はラミエルの夫だそうだけれど、彼に『円環型リアクター』の開発への協力を求めるために、召喚したいわ。私は賛成なのだけれど……」

 

「……ボクは棄権しよう」

 

「わらわも棄権じゃ」

 

「わたしも……棄権」

 

 すぐさまに、ガブリエル、ウリエル、ミカエルが続々と棄権を表明した。

 

「ワタシは賛成だ」

 

「はぁ……これで賛成が二票かしら」

 

「わたくしは、反対です。あの人の幸せは、そこにはありません」

 

 賛成が二票。反対が一票。この場にいるのは、あと一人だ。

 

「サリィも反対です。あの人のこと……きっとサリィたちに考えつかないような計画が進んでいる。邪魔をする必要はないのです」

 

「賛成が二、反対が二……。有効票の過半数に満たなかったから、否決かしら。……はぁ」

 

 提案をした彼女は、疲れたように俯く。

 その表情から、気苦労のようなものが、感じ取れてしまう。

 

「そうだ。ワタシからも……一夫多妻の婚姻の形を提案したいんだ。今、データを送った」

 

 送られてきたデータは、婚姻関係を管理するコンピュータのシステムの処理をどのように変化させるかの詳細だった。

 そんな新しいプログラムの細部を語ればキリがないが、大雑把に言えば、ラファエルの言ったとおり、組み込めば一夫多妻の形が公的に認められるようになるものだ。

 

「おー! わらわは賛成じゃ!」

 

「いや、反対ですよ。なにを考えているんですか?」

 

「うん。ボクも反対だね」

 

「楽しそうです。サリィは賛成します」

 

「反対かしら……ぁ。メリットがないわ」

 

「反対……」

 

 どうやら、票は出揃ったようだ。

 

「うーん。賛成三票。反対四票か……。惜しかった。事前に誰か抱き込んでおくべきだったか……」

 

 一票の違いで、こんな改正案がまかり通ろうとしたこの会議に俺は慄いた。

 

 彼女たちのさじ加減次第で世界の全てが決まってしまうのは、知っている。だが、それが行われる気軽さを見て、俺は自らの足もとが容易く崩れる薄氷の上であるかのような、危うさを覚えてしまった。

 

「ボクからは、そうだね……。現在進めている……銀河間移動路の計画だ。あれは流石に無謀がすぎる。リソースを減らした方がいい」

 

「え? それに、あなたが口を出すのかしら?」

 

「何もやめろと言っているわけではないさ。今は、別のことに力をそそいだ方がいいんじゃないかい?」

 

「……反対」

 

 まず意見を言ったのはミカエルだった。

 

「サリィも反対」

 

「わたくしも……いえ、そうですね……賛成しましょう」

 

「ワタシも賛成だ。急ぎすぎる必要はないと思うからな」

 

「む……これは……棄権じゃ。わらわは棄権する。わらわはこの計画に関わってはおらぬから、当事者に任せておくべきじゃろうて……」

 

「ボクが賛成だから、反対二人、賛成が三人……なるほど……あとは、キミの判断に委ねられたってわけだね?」

 

「……そうねぇ」

 

 視線の先には、未だ俺の出会ったことのない女性がいる。

 彼女はたしか――、

 

「この世にあるほとんど全ての自律知能の母とも呼べるキミだ。さぞかし、ボクらのためになるような現実的で素晴らしい判断をしてくれるのだろう。あぁ、勘違いをしないで欲しいのだけれど、ボクもボクら人類の大いなる発展を願っているよ? 身を切るような思いさ」

 

「よくもぬけぬけと……!」

 

 睨みつけられて、ガブリエルはやれやれと首を振った。

 ガブリエルはよく、本心と悟られないように、本心をこぼす。なぜか裏があるような言い方をする癖があった。

 

「で、君はどちらを選ぶんだい?」

 

「……っ。賛成するわ……ぁ。えぇ、無理をして進める計画ではないことはたしか……それでも……くっ……」

 

「勇気ある判断に感謝するよ」

 

 どうやら、ガブリエルの思い通りにことが運んでいるようだった。

 

 とはいえど、銀河間の移動というのは夢のある話に思える。それを、断念してしまうのは、前に進むことを諦めるようで、あまり喜ばしいことではなかった。

 

「規模の縮小、ということですよね? 完全に撤退というのなら、話は別ですけど」

 

「うん。そうだね。これからのプランを練ろうか」

 

「どうせ、お前のことだ。皆の納得できるような着地点を用意してあるんだろう?」

 

「まあね」

 

 あらかじめ、彼女の用意していたであろうデータが皆へと配られる。

 

 その内容をみなで吟味して、最初に口を開いたのはウリエルだった。

 

「最初にこれを配らなかったということは、どれほど反対されるかで、いくつか妥協案も用意してあったじゃろう?」

 

「いやいや、忘れていただけだよ。最初にこれを配った方が話が早かったかな」

 

「抜け目のないやつじゃの」

 

 ガブリエルは、段取り良く進める。

 隣の――俺たちのいる銀河は、質量の大きい銀河であるため、小さな銀河……伴銀河が惑星のように付近を周回しているが――伴銀河への道を作るというだけでも数十万年という規模の計画だった。

 

 その見通しを修正した計画を、ガブリエルは提出していた。

 

「百万年規模になるけど、まぁ、気長にやっていこう」

 

「サリィは認めないです」

 

「決まってしまったことだわ。受け入れるほかないの」

 

 そう、少女は宥められる。

 ただ、その言葉にも不満げな態度のまま、顔を背けるばかりだった。

 

「他に……こんなボク達が揃う機会は滅多にないんだ……通したい案がある者はいないかい?」

 

 皆が顔を見合わせる。

 これ以上、何かはないような様子だった。

 

「あ!」

 

 そんな中、一人、ピンと姿勢よく手を高く挙げる女性がいた。

 

「なんだ?」

 

「サリィから一つ、いいです?」

 

「いいですけど……」

 

 答えるラミエルは困り顔だった。なにか厄介なことを言い始めそうだと顔に書いてあった。

 

「あの人の居場所、教えてください!」

 

「それならワタシが教えよう!」

 

 答えたのはラファエルだ。

 ラミエルに、それにミカエルが渋面を浮かべる。ウリエルは愉快そうにことの成り行きを見守っていた。

 

「それは是非、聞きたいわぁ」

 

 話を聞き、横から入る形で、間伸びをした口調の女性は身を乗り出してくる。

 

「ありがとう。先に退出します」

 

「え……っ」

 

 そして、彼女は走り去ってしまう。

 

「あぁ、データを送ったんだ」

 

 飄々とした態度をして、ラファエルは言った。

 アンドロイドどうしなのだから、別に話して情報を伝える必要はない。量子的な暗号技術から、傍受は不可能だろう。

 

「ひどい、ママ、仲間外れなのね……」

 

「別にお前はワタシのママじゃないだろ……」

 

「じゃな……」

 

 そうして、会議は終わるようだった。

 同時に、意識が遠のく。

 

「…………」

 

「なにか、用かい?」

 

「別に……」

 

 ミカエルが、じっとこちらを、ガブリエルの方を見つめていたのが、やけに印象に残った。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ん……」

 

「あぁ、起きたかい?」

 

 ベッドの中、隣にガブリエルがいた。

 裸で、実際に触ってみると、柔らかな肌の弾力がある。ガブリエルが、幻覚ではないということは、ここは夢の続きなのだろう。

 

「おはようで、いいか?」

 

「うん……。んぅ……」

 

 軽く口づけをする。

 俺たちはそういう関係だから、なにもおかしなことではなかった。

 

「ていうか、あざだらけじゃないか?」

 

 肩や首筋、胸なんかにも、ぽつぽつと……というか、背中には、抱きしめた時の腕の跡のような、ひどいアザがある。

 

「昨晩は貪るように愛されちゃったからねっ」

 

「それでも普通はこんなふうにならないだろ……」

 

「まぁ、真相は、そういう跡が付きやすいボディってことなんだけど」

 

 今までのやりとりがなんだったかと思うほど、やすやすと、ガブリエルはそんなことを言ってのけた。

 そのままにベッドから降りると、鏡の前で、自分についたあざを確認している。

 

「不良品……だったのか?」

 

「ふふ……こういうのいいじゃないか。君が愛してくれた証拠ってことでね」

 

 自分についたあざを見ながら、彼女はニヤニヤと頬をだらしなく緩めていた。その気持ちは、俺にはよくわからない。

 

 俺はベッドから降り、服を着る。

 多分、昨日と同じものだ。ここはホテルで、ガブリエルとのデートに、着替えを持っては出かけなかった。

 

「ガブリエル。胸元とかなら隠れるからいいけど、首筋のそれは無理だろう?」

 

「ん、そうだね。ボクは誰に見られても構わないけど。むしろ見せつけたいくらいさ」

 

 鏡の前で、服を着て、髪を整えながらガブリエルはそんなことを言う。

 彼女がそういう考えに至るということは、なんとなく予想がついた。

 

「俺は……そういうのは恥ずかしい」

 

「ふふ。それじゃあ、これをボクにつけてくれないかい?」

 

 彼女が俺に差し出したものは、チョーカーだった。少し太めで、これならたしかに首筋についたあざも少しは隠れる。

 

「ああ、別にかまわない」

 

「それじゃあよろしくね」

 

 受け取って、彼女の首に巻く。柔肌に、簡単に手折れてしまいそうな、少女のか細い首だった。優しく、緩く、なにかの間違いでも首を絞めてしまわないようにと心がけて、そうして留金をはめる。

 

「大丈夫か? 苦しくないか?」

 

「大丈夫さ。それじゃ、行こうか」

 

 ガブリエルは愛おしげに、首に巻かれたその飾りを軽くつまんで引っ張って、鏡で見つめながらそう言う。

 

 なにか忘れていないか確認をして、部屋から出る。

 すると、ガブリエルは、少し小さめのキャリーケースを持っていた。

 

「その荷物……」

 

「ん? 服だよ。昨日着てたボクのとキミの。このケース自体は先に預けておいたわけだし」

 

「あぁ、俺が持つよ」

 

「じゃあ、任せようか」

 

「これくらいは、しないとな……」

 

 たしかに今俺が着ている服は、昨日から着ていたにしては皺も汚れもない。

 ガブリエルは、いつもいつも用意がいい。

 

 チェックアウトも、手早くガブリエルが済ませてしまった。

 二人で並んでホテルの外に出る。

 

 朝だというのに、それほど明るさがないのは、ここが地下の世界だからだろう。

 太陽の波長を模した電灯が照らしているとはいえ、限りのあるエネルギーだ。地上ほど明るくはしていられない。

 

「昨日は楽しかったな……ぁ」

 

「久しぶりのデートだったもんな」

 

 ガブリエルとのデートはいつぶりだっただろうか。

 記憶をたどると、遊園地に行ったのが最後だったような気がする。

 

「あぁ、きっとまた当分は無理だろうね……」

 

 寂しそうに彼女は言う。

 そんな彼女の横顔を見つめて、またすぐにでもと俺は思った。しかし、そういうわけにはいかない事情が……たしかあったような気がする。

 

 ふと、こちらに向けるような誰か男の声がする。大切なことを思い出しかけるような、その思考を掻き消していく。

 

「……あ……! お前は……!!」

 

「……ん?」

 

 声の方へと振り向く。

 そこにはどこか見覚えのあるような男がいる。

 

「お前は……たしか新入りの……。そうだ……! ラルだった……!」

 

「ん?」

 

「俺だ……! ザックだ! 物資調達のとき一緒だった!」

 

「あぁ」

 

 ガタイの良い、いかつい男だった。物資調達といえば、ラファエルの襲撃だが、あのときの仲間に、たしかこの男もいたはずだ。

 

「それで、そうだ! ジェイクを見なかったか? 最近、あいついないんだ。ほら、あれだ……神がなんたらって、言ってたやつで……」

 

「あ……」

 

「何か知ってるのか! 急にいなくなっちまったから、心配でな……」

 

 ガブリエルの方を向く。

 その男なら、覚えがある。俺を刃物で刺し殺したのはその男だ。あれはガブリエルに唆されてだったはずだ。そういえば、その後どうなったかは知らない。

 

「いや、そうだな……」

 

「うん、そうだね。その男のことなら、諦めた方がいい。追及はキミの命を縮めることになるだろう」

 

「ていうか、お前は……アンドロイド?」

 

 ガブリエルを見て、男は眉を顰める。

 俺は男とガブリエルの間に割り込むように身を乗り出す。

 

「よくわかったな」

 

「人間にしては顔が綺麗すぎるだろ。アンドロイドはよく見てるからな。というか、そのアンドロイド、どうした? いや、お前がそういう趣味なのはわかるが……大丈夫なのか? 起動して」

 

「大丈夫とは、なんのことかい?」

 

 ガブリエルは、俺の腕を掴んで、組むと、ぐっと体を寄せてくる。密着する。

 俺は少し困って、ガブリエルの顔を見つめる。

 

「なにやってるんだ?」

 

「恋人アピールさ」

 

「…………」

 

 なんとなく、ガブリエルのやりたいだろうことは察しがついた。

 男を見れば、やれやれと肩をすくめているようだった。

 

「感心しないな。アンドロイドを連れ回してたら、ここじゃいいようには見られないぜ? そういうふうに、うまい具合にプログラムを書き換えていてもだ」

 

「あぁ、そうかもしれない」

 

 ガブリエルは、ガブリエルだ。俺が彼女の頭になにかをしたわけではない。

 それでも、いまはそんな勘違いをされていた方が都合が良かった。

 

「それで、そうだ……! ジェイクのやつ……あいつについて、なにか知ってるのか?」

 

 そういえば、そんな話だった。

 おそらく、その男がいなくなる発端となったのは、ガブリエルの件が原因だ。

 

 ガブリエルに唆されて、あの男は俺を刺し殺したのだから。

 

「うーん……そうだね。人間には、突破できないはずのアンドロイドの思考プロテクトをキミは突破できているようだけれど……それはなぜだろうね?」

 

 目の前の男に向かってガブリエルは言った。

 今の話とは、まるで関係のない話だと思える。

 

「それは、そういうもんだからじゃねぇのか? というか、いま、そんな話はいい。ジェイクのこと、なにか知ってるのか?」

 

「諦めた方がいいってことかな。まぁ、私怨だらけの内輪揉めの結末なんて、まさに身内の恥としかいえないし、外には出せないものだからね」

 

「なんの話だ? もっとわかるように言ってくれ!!」

 

 問い詰める男の言葉に、なぜかガブリエルはこちらを向く。きょとんとした表情だった。

 

「あれ……? 伝わらない?」

 

「それは、俺に言われても困る」

 

 俺との会話でも、ややあったが、ガブリエルは前提となる条件の共有が不足するために会話がズレることがある。

 いくらかは狙ってやっているのだろうが、クセになってしまっているのか、本当に伝えたい部分も伝わらないことが……会話する相手との間に思考力の差があると、特にそうなる。

 

「むむむ、そうだね。たぶん、首都中枢の大監獄に捕まってるだろうから、もう会えないんじゃないかな」

 

「な……っ、あいつ、捕まって……。というか、どうしてそんなところに……っ!」

 

 首都中枢にある大監獄といえば、凶悪な犯罪者たちが収容されているという話だったか。

 管理はたしか……サリエルだったか。

 

「どうしてって……テロリストで凶悪犯罪者なんだから、当然なんじゃないかい?」

 

「いや、そうか……そうなるのか……。にしても、見ないと思ったら、下手打っちまったのか……そうか、なら、仕方ないな……」

 

「うん、仕方ないね」

 

「すまないな……邪魔したな」

 

 そう言って、男は去っていく。仲間にもう会えないとわかったからか、その背中はどこか物悲しく感じられた。

 

「なぁ、ガブリエル。さっき……アンドロイドの思考の書き換え……その、人間には外せないはずのプロテクトについて知っているみたいだったが、あれはどういうことだ?」

 

「たぶん、キミの察しの通りさ」

 

 ガブリエルは、迂遠に言った。

 彼女の口からは、どうしても言いづらいことなのだろうと伝わってくる。

 

「お前たちが、鍵でも渡してるのか?」

 

 最初、ガブリエルは彼女たちの気分次第で、男のやっているような人道にもとるアンドロイドの扱い方ができなくなると、脅そうとしていたのだ。

 あるいは、この太陽の光の届かない地下世界でも、大天使たちの力がいき届いているのだと示したかったというところか。

 

 このアンドロイドの思考の書き換えについては最初から違和感があった。だからこそ、今回のガブリエルの言葉については、こんな俺でも察しがついた。

 

「人間を下等と見下し、今の体制を変えようとしたアンドロイドの悲しき末路さ。変な話だね……ボクらも人間だというのに」

 

 感傷に浸るようにして、彼女は目を細める。

 

「だが、お前たち大天使は……現に人の上に立っている」

 

「人の上に立つのは……また、人というわけだ。そして神は、見下すんじゃない……見守るものさ」

 

 まぁ、神なんてこの世にはいないだろうけどねと、ガブリエルは達観したように言った。

 

「…………」

 

「いるとしたら、きっと……」

 

 そんな彼女の視線に耐えきれず、俺はつい、目を逸らす。

 そしてもう一つ、どうしても確かめなければならない事実へと目を向ける。

 

「ガブリエル。ここ、夢じゃないよな……現実だよな?」

 

「ん? 当たり前だけど……」

 

 血の気が引く。

 目の前のガブリエルの肌に触れれば柔らかいし、暖かい。実体がある。

 

「……っ」

 

「え……へ? まさか、今が夢だと思っていたのかい?」

 

「あぁ……幻覚じゃないからな……」

 

 ガブリエルを触れ合えるのは、いつも夢の中だった。

 だからこそ、そんな夢の続きだと、俺は勘違いをしてしまっていた。

 

「いや、言ったよね? ウリエルに貸しがあるから、それでボディを作ってもらったって……」

 

「たぶん眠くて聞いてなかった……」

 

「…………」

 

 ガブリエルは、動揺したようにして一歩身を引いた。

 そうして向けてくる彼女の信じられないものを見るような目に、俺は素直に傷ついた。

 

「その貸しっていうのは……」

 

「あぁ、アンドロイドの思考や身体的な情報と、生物的なDNAの全単射での射影と言ったらいいかな……ウリエルには、もともと生体パーツはなかったからね」

 

 ガブリエルの力は、生物と機械間での情報の転写だ。それを応用して、そこまでのことをやってみせる。素直に感心する。

 同時に、どうしてか酷く感傷的な気分になる。

 

「ガブリエル……お前はすごいよ。あぁ、だから……すまない、俺は……」

 

 彼女への愛しさ、そして懐かしさ……この気持ちの出どころが、今の俺にはわからない。なによりも、夢の中とは違いしがらみも多い。

 

「いいんだ……」

 

 ガブリエルは言った。

 首を振って、その仕草はどこか自分の気持ちに整理をつけているようにも思えた。

 

「いや……ガブリエル」

 

「ふふ、正直、昨晩さんざん甘い言葉を囁いてボクを喜ばせ、貪るように愛してくれたのは嘘だったのかって、なじりたい気持ちもあるよ」

 

「…………」

 

「でも、いいかな……。これくらいなら、まだ諦めがつく」

 

 悲しげだった。そんな彼女を慰めてやりたかったが、その原因が俺だと思うと、途端に体が動かなくなる。

 

「なぁ、ガブリエル。これからどうする?」

 

「ちょっと一緒に遊んでいこうと思ったけれど、そういうわけにはいかないみたいだからね……それに、キミに愛してもらったせっかくのこの身体を壊されたらまずいだろう?」

 

 彼女は、慈しげにお腹をさする。

 

「ガブリエル……」

 

「ふふ、しばらく、この身体は隠しておくことにするよ。設備はあるから、これだけあればじゅうぶんかな。なんとしてでもボクらの願いを叶えるためにね」

 

「……あぁ……」

 

 彼女とはそういう約束があった。

 切実に、彼女はそれを叶えようとするのだろう。

 

「それじゃ、これは男性用の避妊薬だ。少しはこれで、心が軽くなったりするかもしれないと思ってね」

 

 ピルケースを取り出すと、彼女はそれを渡してくれる。

 後に引けない俺のことを、彼女は気遣ってくれているのだとわかって苦しい。

 

「あぁ、ありがとう」

 

「そうだ、荷物はボクが持っていって洗っておくよ。キミの方に持って帰るといろいろと困るだろう? ふふ、ここまで運んでくれてありがとう」

 

「あぁ」

 

 俺の運んでいた、キャリーケースをガブリエルは受け取った。

 

「じゃあね。また」

 

 呼び止めたかった。駆け寄って、抱きしめたかった。彼女と一緒に歩きたかった。

 彼女との別れは、まるで体が二つに引き裂かれるように痛い。

 

 カラカラと、彼女の引くキャリーケースのタイヤの転がる音だけが、印象的に嫌に頭に残ってしまった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ん? 帰っていたのね」

 

 拠点に戻ると、まずサマエルと出くわした。

 

「あぁ、レネは?」

 

「寝てるんじゃないかしら? 昨日、あなたが帰って来るのを起きて待っていたから……限界が来て、今はぐっすりね」

 

「そうか……」

 

 昨日は、ガブリエルと楽しくデートをしていたわけだ。その間にも、レネがそんなふうに待っていてくれたことを考えると、心が痛む。

 なにか、埋め合わせをしてあげられないか……咄嗟には思い浮かばないから、後で考えることにしておく。

 

「正直、あの子のあなたへの執着は凄まじいと思うのだけれど……」

 

「レネは家族だから。ずっと一緒にいるんだ」

 

 ただ、俺はレネとは考え方が少し違う。レネは俺と一緒にいたいようだけれど、俺はレネが幸せであるならば、レネが遠くに離れていようとそれで俺は満足だった。

 

「まぁ、いいわ」

 

 あまり納得できていないようだがサマエルは、話を打ち切る。聞いてはみたものの、それほど興味がないことだったのだろう。

 彼女は、戸棚の横の隠し収納を開けると、中から銃を取り出して弄り始める。

 

「ラミエルは……」

 

「まだ帰ってきてないわ。ウリエルも……」

 

 外せない用事があると、ラミエルとウリエルは出かけていた。

 久しぶりのラミエルがいない時間に、俺は心が休まる思いだ。ただそれは束の間で、帰ってきたときのことを思うと、またラミエルとの生活が始まるのかと思うと、今からでも気が重い。

 

「そうか……」

 

「あ、そっちの工具箱、取ってくれない?」

 

「あぁ、これか?」

 

 近くにあった工具箱を彼女へと渡す。

 受け取ったサマエルは、黙々と銃の手入れを始めてた。

 

 なんとなく、気まずい。

 サマエルとは、それほど交流が深いわけではない。その上で、ウリエリでの作戦の失敗あたりから、彼女の態度が少しよそよそしかった。

 

「そうだ。私のこと抱いてくれないかしら?」

 

 そう言った彼女の目線は、作業をする手元にあった。

 かちゃかちゃと、銃の部品同士で擦れる音がよく響く。

 

「……っ、どうしたんだ?」

 

「戦いにいけば、運がなければ死ぬわけだし。そういう経験もないまま死ぬのは少し遠慮したいと思ったのよ」

 

 分解された銃身を覗きながら彼女は言う。

 そのままに武器の手入れを淡々と進めている。

 

「いや……だからって、どうして俺に頼むんだよ……」

 

「だって経験豊富そうだし。ちょうど、ラミエルもいない、あなたの妹さんも眠っているでしょう? さっさと済ませましょう」

 

 サマエルは、銃を組み立て直す。

 がちゃがちゃと乱暴で、あと少しなにか間違いがあればたちまちに壊れてしまいそうな、そんな嫌な音がする。

 

「ラミエルにバレたらまずいだろ。いや、絶対バレる。ずっと思ってたが、サマエル。お前……嘘、下手だろ?」

 

「ラミエルは優しいもの。見ないふりをしてくれるわ」

 

 組み立て直して完成した銃を、サマエルは満足そうに見つめていた。

 

「好きな男でも別に作ればいい」

 

「だれかを好きになったりとか、そんな気分じゃないわ。それに、あなたは少し……私の初恋の人に似ている気がするの」

 

 組み立て終わった銃を彼女は握る。トリガーへと指をかける。

 そうして、なぜか彼女は俺の方に向けて構える。

 

 俺は両手を挙げて降伏の姿勢を見せ、後ろに下がる。

 

「そもそも、俺に利益のない話だ」

 

「そうね。私にも考えがあるわ」

 

 彼女は、そのまま銃の引き金を引いた。

 火薬が爆破し、弾が放たれる。銃声が響く。俺の頬を弾が掠めた。

 

 振り返れば、壁に穴が空いている。鉄骨にぶつかったのか、弾は壁に突き刺さったまま、壁の向こうへと貫通はしていないようだった。

 

 彼女は、驚いたように、自分の手に持つ銃を見つめている。

 そうして青い顔で、俺に頻りに謝ってきた。どうやら、点検のための空砲のつもりだったらしい。

 

 そうはいえども、空砲だろうと、至近距離で当たったならば、ただではすまない。今はそれなりに距離があったが、それでも人に向けるのはまずいとわかるはずだ。加えて、さっきのように間違えて弾の出る万一があることも忘れてはならないだろう。

 

 そんな心がけを、彼女は知っているはずだが、どうしてか衝動的に行動してしまうのがサマエルだった。

 

「はぁ……」

 

「とにかく、私を抱くことに、あなたに利点のない話というのなら、そうね。じゃあ、あなたにはこれをあげるわ」

 

 彼女が取り出したのは、赤い臓器のような形の機械だった。

 

「なんだ、それは?」

 

「『スピリチュアル・キーパー』。機能の停止していたガブリエルの抜け殻を捌いて、取り出したわ。あなたなら、使えるでしょう?」

 

「いや、どうだろうな」

 

 この形は見たことがない。けれども、『スピリチュアル・キーパー』を使えれば、大天使に対して大きな戦力になる。試してみて損はないだろう。

 

 あぁ、ガブリエルに頼らずに、俺だけで戦えるなら、それが一番だ。

 

「抱いてくれたら、これ、あげるわ」

 

 

 

 ***

 

 

 

「意外と大したことないものね……」

 

「…………」

 

 同じベッドで横たわる彼女を、背中から抱きしめている。彼女のお腹のおへその下に優しく手のひらを押し当て、労うように柔らかく撫でる。彼女の身体には、じっとりと汗が滲んでいた。

 

「痛くはなかったし、すごくイイってわけでもなかった。……んぅ、ふぅ……。まぁ、普通に気持ちよかったけど……」

 

 終わった後、俺の腕の中で余韻のままにしばらくうっとりと微睡んでいた彼女は言う。最後には意識を失い、朧げに完全には取り戻しきれず、今の今まで曖昧な喘ぎのみを発していた彼女の久しぶりの言葉だった。

 

 そんな言葉の中でも、彼女が心地良さそうに吐息を漏らした際には、ぴくりと痙攣のような彼女の体のわずかな収縮が、肌と肌で彼女を摩る手のひらに伝わってくる。

 

「そうか」

 

「ねぇ、私、アンドロイドでしょ? えぇ、私自身がどう思っていても、アンドロイドなのよ……。抱いてみて……どう思った?」

 

 背を向けていた彼女は、寝返りをうって、こちらを見つめる。上目遣いに、どこか不安げな表情だった。

 

「どうって……別に……」

 

 ラミエルも、ラファエルも、ガブリエルも、ウリエルもそうだ。特別、何か思うところはない。

 彼女を胸に抱き寄せて、安心をさせるように背中を撫でる。

 

「……ふぅ、んあっ。……そうよね……あなたはそうだわ」

 

「…………」

 

 悲しげにも聞こえるが、彼女の声色はずいぶんと安らいだものだった。

 彼女は、俺の胸に顔をうずめる。

 

「私ね……今はこんな身体なのだけれど、昔はちゃんと生身の人間だったの」

 

「そうだったのか……」

 

「えぇ、そうよ」

 

「そうなのか」

 

 彼女は、俺の背中へと手を回す。抱きしめられる。

 感情が籠り、力がうまく加減できていないのか、少し痛い。彼女が落ち着けるように、優しく丁寧に頭を撫でる。

 

「どこから話していいのか……私には家族がいた。母さんに、姉さん……それに父親がいた。ええ、とてもすごい父だったわ。まぁ、母さんがいても、違う女を取っ替え引っ替え家に連れ込むような人だったけど」

 

 それは憎しみというより、呆れに近い声色だった。

 いや、あるいはどこか自慢げにも感じられる。

 

「いろんな女性に愛されるような人だったって、そういうことか?」

 

「……っ!? えぇ、そうね! そういうこと」

 

「…………」

 

 彼女は無邪気に喜んでいた。自分の親が褒められて嬉しいような、そんな喜び方だった。俺は少しいびつ感じたが、彼女がそれで幸せなのなら、他に言うことはなかった。

 

「でもね……死んでしまった。詳しくは、私はよく知らないのだけれど……戦争だったと聞くわ。私が子どもの頃のお話。でも、よく覚えている」

 

「思い出して、辛くないか……?」

 

「少し……。昔はたくさん泣いたけど、うん、今は大丈夫」

 

「そうなんだな」

 

 弱々しい声で、気丈に振る舞っている様子だった。どれだけ彼女の中で、父の存在が大きかったのかよくわかる。

 

「ただ、悲しんだのは私だけじゃない。私の姉は……あれからおかしくなったわ……」

 

「おかしく……?」

 

「えぇ、病気だって、私のことを閉じ込めたの。どこも悪くない……私はそう思っていたのに……いえ、たしかにそのはずだったわ」

 

 彼女の言葉を信じるならば、それはたしかに不可解な行動だろう。彼女の姉が、どうしてそのような行動に出たかは推測が立たない。

 

「それで……」

 

「コールド・スリープとでも言えばいいのかしら? コールドと言っても別に凍るわけじゃなくて、時間の進みが遅れる設備で……まぁ、とにかく私は眠らされていた。起きるのは、月に一度……一日だけ」

 

「…………」

 

 たとえば、治療法のない難病に関して言えば、その病を治癒できるような技術の発展を待つためにコールド・スリープを行うというのは、よく聞く話だった。

 彼女がそんな難しい病ならば、方法としては真っ当だろう。

 

「私を置き去りにして過ぎていく時の中で、変わらないものがあった。姉の姿よ。私の姉は、アンドロイドだったから」

 

「それは……」

 

 アンドロイドの寿命、というのはそのアンドロイドの社会での相対的な価値に関係する。社会的な価値に応じて提供される交換パーツを揃えられれば、半永久的に生きながらえることのできるというのがアンドロイドだ。

 たとえば大天使は、気の遠くなるほどにとても永い時間を生きているのだろう。

 

「月に一度……私にとっては毎日だったけど……私はずっと一緒にいたわ。姉と一緒よ。姉さんは、無口で……あまり感情を表に出さない人だったけど……私と一緒にいるときは楽しそうで……絶対におかしかったけど……私はそれでも……」

 

 苦しげに彼女は吐き出す。

 家族との愛情に揺れてか、とりとめがなくなってしまっているように思えた。

 

「あぁ」

 

 けれど、それでいいのだろう。

 今はそういう時間だから。心の思うままに言葉を吐き出せばいい。

 

「そう……でも、気がついた。どうしても気がついてしまった。……()()()()()()()。月に一度、起きていたはずでも、計算をすれば合わない。私が生きていていい時代ではない。それに、私の体は歳をとっていなかったのだから……」

 

「それは――」

 

「私は、変わっていた。変えられてしまっていた。気がついたら、体は全て機械でできていた。もちろん、私は姉を問い詰めたわ!」

 

「…………」

 

「そうしたら、姉さんは……病を治したと言った」

 

 ――その病の名は、『老い』。その病の症状は、『死』。

 

 親しい者の死を実感した姉は、もう親しいものを失わないため、手段を選ばなかった。

 

 しかし普通のアンドロイドは、人と同じ寿命で死ぬ。人と共に生きて、人と共に死を迎える。無理に延命を希望しないアンドロイドも多かった。だから、不思議に、少しだけ不思議に思った。

 いや、ただ単に、その逆だったというだけか。

 

「それで、お前は……」

 

「私は、アンドロイドなのよ。作り替えられていたのは、手や足……それに臓器だけじゃない……。頭の中……脳さえも、私は機械になっている……。私はわからないの……こんな自分がなんなのか……!」

 

 涙を流して、彼女はそう慟哭する。

 彼女が悩んでいるのは、自己同一性の問題だろうか。

 

「おそらくだが、『スピリチュアル・キーパー』と同じだろう。だから、その同一性は理論上保証されている」

 

「それは……知っている。机の上なら、自分で証明もしてみたわ。でも、頭ではわかっていても……っ、心が追いつかない……。あぁ、だからよ……私は人間だから、人間の味方をする……」

 

 今、こうして機械の支配する世界に対して反旗を翻しているというのが、彼女の自己同一性を補うための行為の一環なのかもしれない。

 

「だからお前は……」

 

「いいえ……それに、思い出した……この世界の在り方は……どんどんと発展を諦めていくこの世界は、間違っているって……! 命をかけてでも」

 

 あくまでも世界のためと、彼女はそう言って、曲げなかった。

 その在り方は、俺にはどこか切なく、哀れにも見えてしまう。

 

「そう……だな」

 

「えぇ、そう。でも、私、死なないかもしれないわ。あの姉のことよ……死んでもきっと、どこかにまた……」

 

 悲しそうに彼女は言う。

 彼女は普通に人間でいたいのだろう。家族の自己的な都合に巻き込まれている彼女に、なぜか俺は深く心を引っ張られてしまっていた。

 

「でも、死なないなら、どうして死ぬ前に抱かれたいなんか……」

 

 彼女は俺の唇に、指を当てる。

 

「そのどこかの私は次の私。私には同じだなんて思えない。私は一つしかない命をかけているのだから」

 

 そういう思想だからこそ、悩み苦しんでいるのだろう。

 どうにかもがいて前に進もうとしている彼女の辛さが伝わってきた。

 

「すごいな、サマエルは……」

 

 そんな彼女を一言褒めて、名前を呼ぶ。

 そうすると彼女は、俺の腕の中で、もぞもぞと動く。その視線が、部屋の隅に置いてある時計に向かった。

 

「もう、三時間も経っていたのね……。なんというか、一瞬だった」

 

「あぁ、そんなにか……」

 

 ベッドに入って、ことに及んでしまうまでに一時間。始めから終わりまでただ静かに繋がって一時間。余韻のままにゆったりと過ごし、心を許され話した時間が一時間。だいたいそんなくらいだった。

 

「さっきは意外と大したことはないって言ったけど……あれは、やっぱり違うわ。すごく気持ちよかった。思っていたより、ずっと……」

 

 見れば彼女は涙を流していた。過去を思い出し、悲しみに囚われていたときとは違う涙だとわかる。

 そんな彼女の涙を、俺は指で拭ってみせる。

 

「大丈夫か?」

 

「そうね……心も体もあなたのものになったような不思議な気分……。一人じゃないって、幸せね……。はぁ……」

 

 抱きついて、彼女は身体を寄せる。肌と肌とで温もりが強く伝わってくる。彼女も同じで、それを感じているだろう。

 安らいだ顔を彼女は見せる。

 

「…………」

 

「疲れたから……このまま少し眠るわ……」

 

 そのままに、彼女は目を閉じる。この男女の仲を確かめる行為は、彼女の体にも、心にも負担になっているはずだ。

 

 けれど、すやすやと寝息を立てて眠る彼女の顔は、ひどく幸せそうに感じられる。

 

 そんな彼女をベッドに置いて、俺はシャワールームに足を運ぶ。

 

「あぁ……くそ……」

 

 シャワーで全身を流す。

 まとわりつく、サマエルの涙に、汗に、唾液に、女性の性的な興奮の証の粘液に……とにかく、そういった体液が気持ち悪かった。

 そこらへんはアンドロイドだというのに、妥協のない凄まじい再現具合だといわざるを得ない。

 

 サマエルと関係を持つことに関しては、ある程度、覚悟をしていた部分がある。

 

 なにせ、彼女はアニメのメインヒロインだ。物語の終盤……サリエルと戦う前には、死んでしまったレネのことを未だ引きずる()()()と、無理やりに脅す形で結ばれている。

 

 サマエルの性格の苛烈さを思えば、あのとき俺には断って、穏便に済ませるという選択肢はなかった。

 俺に使えるかどうかわからないが、『スピリチュアル・キーパー』が手に入るだけマシだろう。

 

「うぐ……」

 

 吐き気を感じる。

 えずいて、近くにあったトイレに、逆流した胃の中のものを吐き出す。

 

「がは……ごほ……」

 

 彼女をなるべく楽しませようと、無心になっているうちはよかった。だが、今になってだ。情けない話だが、涙も出てくる。

 

 辛い。

 サマエルとはあまり親しい間柄ではなかったため、ガブリエルだと思って自分を奮い立たせて行為に及んだ。そのせいか、ガブリエルに申し訳ない気分になり、輪をかけて苦しい。

 

 後悔する。

 あのとき、ガブリエルについて行けば、こんなことにはならなかった。いや、それどころか、今頃は二人で幸せな生活があっただろう。

 

 自分の選択を、悔やんでも悔やみきれない。

 レネになんとか幸せになってもらうためだ。俺がいなくなれば、レネは悲しんでしまう。

 

 あぁ、けれどもこれでわかったこともある。

 アニメでは全滅した後、死んだはずのサマエルがまたドローンを蹴散らすシーンで終わったが、それは彼女の言葉を借りれば、次のサマエルだったということだろう。

 

 大天使に、サマエルに……アニメであったようなシナリオとは大きく乖離してしまっている。

 ただ、ラミエル、ラファエル、ガブリエル、ウリエル……おおかた、アニメで戦った大天使が出揃った以上、次、戦う相手は決まってくる。

 

 サリエル――首都防衛の要であり、純粋な破壊力では最強とも呼べる大天使。アニメでは、限界を超える時空歪曲兵器の出力を発揮したサマエルと相打った相手だ。

 

 ただ、こちらの戦力もアニメ通りではない。どんな結末になるかはわからない。

 正直に言えばサマエルたちの諍いには、それほど積極的に関わりたいわけではないが、あぁ、きっとそうもいかないだろう。

 

 シャワールームから出て、身体を拭く。

 気持ち悪さもだいぶおさまってきた。

 

 服を着て、ベッドに入り、サマエルの隣で休む。目を閉じて、サマエルが起きるまでをそこで過ごした。

 

 

 

 ***

 

 

 

 サマエルと関係を持って、三日が経った。

 すぐにラミエルたちが帰ってくると思っていたが、予想以上に日にちが経つ。

 

「じゃあ、今日は……そこのバスケットにあるものよ」

 

「あぁ」

 

 ベッドの上で、サマエルは指をさすが、そこにはお菓子や、質のいい果物など、贅沢品が入っている。俺はそれを分けてもらっていた。

 この地下の暮らしでは珍しい……いや、そもそも地下でなくとも俺のような底辺階級の労働者ではありつけないようなものだ。

 

「これで、十分ね?」

 

「あぁ」

 

 あの日から、レネが寝静まった頃を見計らって、サマエルが俺を起こしにくるようになった。

 サマエルの要求どおりに、男女の交わりをこなせば、こうして報酬として贅沢品をサマエルは分けてくれる。

 

「はぁ、昨日より良かったかも……」

 

 サマエルは、はしゃいだようにして、俺の首筋に口づけをする。

 彼女は、言ってみれば純粋で、単純だった。

 

「サマエル。もう今日でおしまいにしないか?」

 

「どうして? 気持ちいいんだもの。続けないと損よ」 

 

 純然たる性欲という欲求に従って動いている。

 その根源的な欲求を満たすために、彼女は多少のなりふりは構わないのではないかと思えてさえくる。

 

「他に恋人を見つけてくれ。お前くらい綺麗なら、簡単に見つかるだろ?」

 

「えっ? だって、毎日毎日、気持ちよくなっていくのよ? 私、わかるもの……明日は絶対今日よりすごいって……。ここで変えたらきっと一から……いいえ、あなたほど手慣れてる相手は珍しいでしょうから、マイナススタートってこともありうる」

 

「俺はそんなんじゃない……」

 

 ほとんどが無理やりだ。俺がすすんで関係を持ったのはガブリエルくらいのもので、他に言えばウリエルのときは、なにが起こったのかいまだに理解しきれていない。

 

 他の女性経験といえば……前世……。

 やたらと男女の営みに面倒な手順を要求する女性と付き合っていたような気がしたが、よく思い出せない。

 

 ――なぜかラファエルの姿が思い浮かんだ。

 

「はぁ……。明日が楽しみだわ……」

 

 うっとりと目を輝かせて、サマエルはそう言う。ラミエルが来たらどうするつもりなのかはわからない。

 俺は諦めて、話を合わせることにする。

 

「明日ってことは、今日はもういいのか?」

 

「そうね。もう前菜からデザートまででお腹いっぱいって感じ。疲れて動けないし」

 

 サマエルは俺に抱きつきながらそう言った。

 ラミエルのように何度も要求してこないだけマシだろう。ほっとできる。

 

「大丈夫か?」

 

「……少し飲み物がほしいかも」

 

「わかった。持ってくる。すぐそこだろ?」

 

「いいの……? いってらっしゃい」

 

 そうして俺は、ベッドから出て部屋の冷蔵設備に置いてある液体の入ったボトルを手に取る。振り返って、サマエルにボトルをみせる。

 

「これでいいか?」

 

「ええ」

 

 ベッドへと持って戻った。サマエルはそれを受け取って、口に含む。

 アンドロイド用の液剤なのか、甘ったるいような少し嫌な匂いがした。

 

「溢れてる」

 

 タオルで、飲み終わったサマエルの口もとを拭ってやる。

 

「ん。ありがとう」

 

 お礼を言ったサマエルは、そのままに俺に抱きついてくる。

 とても安心しきったように、彼女は俺に体重を預けてくる。そんな彼女の頭を俺は優しく撫でる。

 終わった後、サマエルは決まってこうしてだらだらと甘えてくる。

 

 落ち着いた時間だった。

 今さらだが、動いた後の熱のこもる感覚がある。

 俺は視線を窓へと向ける。

 

「サマエル。少し暑いから、窓でも……――っ!?」

 

 そこには、信じられない光景があった。

 

「どうしたの……? 窓が……えっ!?」

 

 サマエルも、そちらを向くが、俺と同じように言葉を失ってしまっている。

 

「お前は……」

 

 子窓から覗く影がある。

 その人物のことを俺は知っている。透き通る氷のように青みがかった髪に、青天の空のように青い瞳を持つ少女。

 

「ばれた?」

 

「サリエル……」

 

 本来ならば首都にいるはずのアンドロイド。大天使。そのはずの彼女が、子窓から俺たちの情事を覗いていた。

 

「……っ」

 

 次の瞬間には、鍵が弾けて窓が開く。

 サマエルは、ベッドから降りて、武器を手に取ろうとする。

 その間にも、サリエルは窓に身体を捻り込んで、こちらへと侵入してくる。

 

 ここで、無防備で、なんの準備もできていない今、サリエルと戦えば、負けることは目に見えている。

 サマエル一人、ラミエルのいない状況で、戦ってはいけない相手だ。

 なにか……なにか……手は――、

 

「抜けない……引っかかった……」

 

 サリエルは、上半身こそ窓の内側に入り込めたようであったが、腰が窓枠につっかえ、それ以上、進んで来れない様子だった。

 小さい窓だ。人が通ることは想定されていないからだろう。

 

「……武器が……。足腰が……うぅ、動けないわ……」

 

 サマエルは、ベッドから出たはいいものの、床に転がっている。武器のある場所に手を伸ばしてはいるようだったが、届いてはいない。

 動くことに支障があるほど、消耗してしまっていたのだろう。

 

「…………」

 

 気が抜けるような光景だった。

 とりあえず、サマエルを助け起こして、毛布を被せる。

 

「あ、ありがとう」

 

「サリエル。なぜ、お前がここにいるんだ!」

 

「サリィは、サリィの役目を果たす。そのため」

 

 解釈を一つに絞ることのできない答えだった。

 サリエルの役目といえば、真っ先に思い浮かぶのが、現在の体制に逆らう邪魔者の排除。だが、もしかしたら、そうではない可能性も考えられる。

 

「いったい、いつからそこにいた?」

 

「最初から、ずっと。サマエルは死んだ魚だった」

 

「死んだ魚?」

 

 サマエルは、首を傾げる。

 サマエルにとっては聞き慣れない言葉だったのだろう。

 

「男の人にされるがままで、自分から動かない女のこと」

 

「……? そういうものじゃないの? 気持ちよくてなにもできないし……」

 

 そんな答えを無視して、サリエルはこちらへと顔を向ける。

 

「甘やかしすぎ」

 

 彼女は無表情だった。表情を変化させる機能が存在しないのかと思うほどに最初から今まで、一貫してニュートラルな表情のままだ。

 

「別に俺は、サマエルに何かしてほしいわけじゃない」

 

 対価はもらっているが、無理に付き合わされているようなものだ。サマエルにそういう態度になられても、困るというのが正直なところだった。

 対等じゃない。下手になにかをされても、拒めずに辛くなるだけだろう。

 

「恋人というのは、互いに思いやって、絆を育むもの」

 

「私たち、恋人じゃないわ。体の関係があるだけ」

 

 サマエルは、俺の左手を両手で握ってそう言い切った。うっとりとした目をしている。

 最初の夜からサマエルは、俺との距離感を肌と肌との触れ合いが普通におこなわれるくらいまでに近づけていた。レネがいるところでは、生きた心地のしないくらいの距離感だ。

 

「……変なの」

 

 無表情にサリエルは呟く。

 サマエルは、体だけの関係と言っていながら、心の距離もグッと寄せてきている。他人と他人では考えられないほどの距離で、はたから見てもそれはわかりやすかったのだろう。サリエルは不思議に思っているようだった。

 

「サリエル……。それで、お前……いつまでそのままでいるつもりだ」

 

「ぐぎぎぎ……抜けない」

 

 抑揚のない声で、サリエルは言う。

 窓から上半身だけ入った体勢のまま、今までずっとパタパタとしていた。

 

「腰が、通らないんだろ? こう、骨盤を斜めにするとかはどうだ?」

 

「斜め? たしかに……」

 

 もぞもぞとサリエルは動く。わずかに回転をさせるように腰を捻った。

 少しだけ、こちらに入ってこれた気がしないでもない。

 

「二次元的な感じだけじゃなくて、三次元的にもだ。ルートの二より、ルートの三になる感じで」

 

「こう?」

 

 サリエルはくねくねと動いていた。

 今度こそ、そのまま前に進んでこれている。

 

「あぁ、その調子――」

 

「ぐぎゃ……」

 

 窓から侵入したサリエルは、あっけなく床に落ち、顔面から地面にぶつかっていた。

 逆さになって直立している。着ていた服は、ワンピースタイプのもので、重力に従い裾からひっくり返って丸見えだった。サリエルの下着は白い生地で、布面積が少なく、ガブリエルくらいに攻めたものだった。

 

「うわ……惨めね……」

 

 サマエルの、サリエルの姿を見て発せられた容赦のない一言だった。

 

 数秒のち、サリエルは立ち上がると、服を整えて、すんとした表情で、こちらに歩み寄ってくる。

 まるで何事もなかったような顔だが、鼻がわずかに赤い。

 

「サマエル。あなたがこの人を愛するというのなら、『円環型リアクター』を手にすることに、サリィは反対しない」

 

「……っ」

 

「ただ、愛すること。情欲を向けることでもなく、恋することでもなく、愛すること。それが、資格。だったら、その鍵をサリィがとってきてもいい」

 

 サリエルの言っていることは、俺には理解できなかった。

 いや、違う。俺の頭の中には、理解を拒む制限のような何かがある。そんな感覚だった。

 

「私、愛してるわ……っ。ねっ」

 

 サマエルは、上目遣いにこちらを見た。

 さっきは体の関係だけだと言っていたが、それを簡単に覆していた。それほどまでにサマエルは『円環型リアクター』を欲している。

 

「あ、あぁ」

 

「ふふん」

 

 機嫌よく、サマエルは俺の腕に抱きついてくる。

 彼女は、『円環型リアクター』を手に入れるためならば、どんな手段も厭わないのだろう。

 

 じっとサリエルはサマエルの顔を見つめる。見つめて、動かずしばらくが経つ。

 ゆっくりと、サリエルは口を開いた。

 

「そう……なら、サリィはサマエルを認める」

 

「じゃ、じゃあ!!」

 

 期待をするような目でサマエルはサリエルを見つめる。

 それを受けて、サリエルはおもむろに服を脱ぎだす。なんの前触れもなかった。

 

「いや、サリエル……なにしてる……」

 

「疲れた。今日は寝る」

 

 台の上に、サリエルは服を放り投げる。

 大胆な下着も脱いで、そのままに全裸になる。

 

「あ、私のベッド!?」

 

「ぽふ……」

 

 サリエルは、サマエルのベッドの上に倒れ込んだ。本当に、寝てしまうつもりのように見える。

 

「サリエル……お前……」

 

「サリィ、今日頑張った。ラミエルも、ウリエルも、チェイスして倒したし、一番乗りした。偉い、褒めて?」

 

「あ、あぁ、すごいな……」

 

 ラミエルたちが遅かったのは、サリエルのせいだとわかる。

 なんというか、足の引っ張り合いだとか、そういう言葉が頭に浮かんだ。

 

「えへへ……。そう、抱きたければ抱いてもいい。サリィのときは……即、合体。即、排泄。即、就寝で構わない」

 

「いや、遠慮しておく……」

 

「そう。そういう下着を着てきたから、そういうことしてもいいのに」

 

「いや、下着、さっき脱いだだろ」

 

「そうだった……」

 

 独特な会話のリズムだ。相変わらず、サリエルは表情の変化に欠けている。

 そのままに、ベッドにうつ伏せになって、枕に顔をうずめながら、脱力していた。

 

「私のベッド……」

 

 サマエルは悲しげに呟いている。

 

 それにしても、さっきまで、俺とサマエルが男女の情事に耽っていたベッドの上だ。よくサリエルは、そんなところに居座れるなと俺は思う。

 

「サリエル……そこは……」

 

「ぐう……ぐう……」

 

「…………」

 

 寝息を立てて眠っていた。

 

「……。……行くわよ」

 

「どこにだ?」

 

「ラミエルの部屋。あそこなら、今は空いているわ」

 

 俺の部屋にはレネがいる。空いている部屋といったら、たしかにそこくらいか。

 突然あらわれたサリエルと一緒に寝ることは、心理的に難しいだろう。

 

「そうだな……」

 

 ラミエルには悪いとも思う。だが、サマエルの性格から、思いついたことをやめたりはしない。

 

「どうしたの? 行かないの?」

 

 もう、ドアを開けた向こうにサマエルはいた。

 俺は、ベッドの上でぐっすりと眠るサリエルを見つめていた。どうしてか、胸がざわつく。嫌な予感がする。

 

「あぁ、今いく」

 

 サマエルを追って、俺は音を立てないように、そっと部屋のドアを閉めた。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ラル兄! 外が……!」

 

 レネに起こされる。サマエルの相手をすると深夜になる。睡眠はじゅうぶんとはいえない。

 けれど尋常じゃなく、どこか慌てた様子のレネだ。起きないわけにはいかなかった。

 

「どうしたんだ?」

 

「見て! ほら! 外……窓!」

 

「は……っ? これは……」

 

 窓から見える景色が違う。

 雑多に居住施設が並び立つ地下の世界ではなかった。あれはコンピュータの類いだろうか……整然と、ぎっしりと空間を埋め尽くすように直方体の機械が並ぶ光景が見える。

 

「なんなの……! ここ……」

 

「ここはサリィの管理する監獄のなか。たとえばほら、あの機械の……差し込まれた一立法センチメートルの容積の箱の中だと……だいたい三千人の罪人たちがデータにされたまま納められて、罰を受けている」

 

「サリエル……」

 

 いつの間にか、家ごと移動させられている。

 昨日は、あのサリエルの気の抜けるような調子に、思わず警戒を怠ってしまっていた。今考えれば、それはあり得ない判断だっただろう。

 

「ここは、いいところ……」

 

「俺たちも捕まえて、データにするつもりなのか!?」

 

「……? あそこは空気が悪いし、病気になる。だから、移動させた」

 

「は……?」

 

「それに、データにはサリィにはできない。ただ、見守ってるだけだから……」

 

 生物と機械間でのデータの移動は、ガブリエルの領分だった。冷静になって考えてみれば、サリエルにそんなことはできないと思う。

 

「じゃあ、どうしてここに……?」

 

「環境を整えるのは大切だから。それに、ここにはサリィたちのおうちがあるし……。行こう……?」

 

 サリエルは歩き出した。

 一人で歩き出して、行ってしまった。

 

 俺はレネの方を向く。

 

「放っておけばいいんじゃない?」

 

「あ……あぁ」

 

 部屋から出て行ったサリエルは、そのまま戻ってこなかった。

 

 家ごと場所が移動してしまっている。すぐさまどうこうされるわけではないようではあるが、問題はある。

 基本的に俺たちはなにもせずに過ごしているわけではない。たとえば俺だったら、設備の修繕の手伝いだったり、そういう仕事を手伝っていた。

 

 レネはといえばアクセサリを組み立てたりといった、ちょっとした内職をしている。彼女は手先が器用な方ではないため、人よりは時間がかかるが、それでも丁寧に仕事をしていた。

 

 予定が、完全に狂ってしまう。

 

「ねぇ、それにしてもラル(にい)。この女のことも、抱いたの……?」

 

 ベッドに腰をかけて、レネは言った。

 まるでゴミを見るかのような目でサマエルの寝顔を見ていた。

 

「そうだな」

 

「ラル(にい)……私のこと、大切って言ったよね……?」

 

「そうだぞ」

 

「私のこと、一回しか抱いてくれなかったくせに……」

 

 あぁ、そうだ。

 一度だ。本当に一度だけ、レネと俺は関係を持った。

 初めてレネが仕事に行く前日の夜に、レネは涙ながらに俺に頼み込んでできた。

 

 俺はレネのことを家族だと思っている。妹だと思っている。

 けれど、レネは俺のことを家族としてだけではなく好きだったんだ。そんなことはできないと、本当は言いたかったが、状況が状況で、レネの心を汲めばそれはできなかった。

 

「すまない。あのときのことは忘れてほしい」

 

「ラル兄の、バカ……ッ!!」

 

 勢いよく頬を張られる。音が響く。痛みはなかった。

 

「すまない」

 

 レネは感情的になって、手が出てしまったようであったが、それは俺がそれほどのことを言ってしまったからだ。そんなことをさせてしまった自分を悔いる他ない。

 

「私、頑張ったの! ラル(にい)と一緒にいられるようにたくさん!! ラル(にい)の一番になれるように……。でも……でも……! ラル兄は私のこと……私のこと……。あぁ、こんなこと……言うつもりじゃなかった。違う……違うの……」

 

「レネ……すまない」

 

 わかっていた。

 最初から、決定的に俺とレネとは愛情が()()()いたんだ。

 彼女と最初に関係を持ったときは、本当に嫌悪感が酷くて、体調も崩して……それを察したレネは二度と誘ってくることはなかった。

 

 弱い俺は、全てをなかったことかのように振るまって今まできた。

 けれども、ついにレネにも限界がきたのだろう。軽率に俺が複数の女性と関係をもってしまっているからこそ、彼女のストレスは計り知れない。

 

「ら、ラル兄!」

 

「やっぱり、俺……。サリエルを追ってみるよ」

 

 そう言って、俺はレネを置いて部屋を出る。レネは俺といない方がいいだろう。

 開け放たれドアを通って、俺は、レネから逃げるように、部屋の外へと歩みを進めた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 外は、監獄というには機械的な空間だった。

 直方体の……だいたい背の高さよりも少し高い程度の機械が並ぶというのはもちろんのこと、メンテナンスのためだろうか、小さなドローンたちが行き交っている。

 

 空をみれば、完全な白。

 それは雲のせいなんかではない。ここが、力学的なシステムとして、外界と完全に遮断されているからこそそうなっている。

 空の白は、言ってみれば全ての光が散乱されて跳ね返されるからだろう。サリエルの力により作られた絶対の障壁だった。

 

 そんな世界を、機械たちの合間を縫って、俺は歩く。

 万が一に備えて、調節の終えた『スピリチュアル・キーパー』を持ちだしてきたが、そのくらいだ。

 

 サリエルがどこへ行ったかは、わからない。

 ただ……一つ、この世界にそぐわない、中心に高く聳え立つ塔のような建物があった。俺はそれを目指して歩いていた。

 

 たどり着いてみれば、入り口はまるでドアが外されてしまったかのように解放されている。

 中は開けて広いが、その中心部には吹き抜けを貫くように、白い柱が伸びている。その柱はよくみれば、この監獄を覆う障壁が柱状に高くまで形成されているもののようだった。

 

 上の階には螺旋階段で繋がっていて、塔の壁面は機械で埋め尽くされている。

 

 なんとなく、ここにはサリエルがいるのだろうと俺は感じた。

 サリエルを探して、俺は塔を登ろうと階段を使う。

 

「何階まであるんだ……これ……」

 

 七階ほど階段を登った。

 ここら辺までくると、足腰に疲労が溜まった。まだ、半分も登れていないように見える。サリエルがいれば、そこまででいいとはいえ、気が遠くなる。

 

 少し休もうかと、中央の吹き抜けの部分に目をやる。

 

「……な」

 

 その吹き抜けから、少女が落ちてくる。

 いや、落ちる、というのは正しい表現ではないのかもしれない。

 

 普通、物体が空から落ちてくるときは、重力という加速度が働くため、時間が経つにつれ落ちる速さが増していく加速度運動をするだろう。

 

 だが、俺の目の前を遮る彼女、というかサリエルだったが、どうしてか、まるで重力が働いていないように、下向きに等速直線運動をしているようにみえる。

 

 目が合う。

 

「え……?」

 

 俺の目の前を通り過ぎた後に、彼女の困惑の声が聞こえた。

 

 中央の柵まで駆け寄って、下に行ったサリエルを見つける。

 なにやら、彼女は俺の方へと身を捩って、ジタバタとしているようだった。あれは、こちらに戻ろうとしているのだろうか。

 

 ただ、運動の第一法則に従ってだろう。自然は彼女に決して寛容などではなかった。

 そのままに、抵抗虚しくサリエルは下へと移動し、ジタバタとして満足な姿勢が取れていないせいだろう、地面に無様にぶつかってしまっていた。

 

 数秒後、立ち直ったサリエルは、地面を蹴って、今度は上へとこちらに向かって、等速直線運動で進んでくる。

 

 俺めがけて、なのだろう。だが、思いの外勢いがよく、かなりのスピードで俺に迫ってきている。

 

「…………」

 

 ぶつからないよう、しゃがみ込んだ。

 

「あれ……!?」

 

 彼女は抱きつくように手を広げた態勢だった。

 そのままに、俺の頭上を放物線を描きながら飛び越えると床を勢いよく転がる。

 

 逆さになって壁にぶつかり止まったが、履いているスカートがひっくり返ってしまっている。

 着替えたのだろう。下着は昨日とは違い、攻めたデザインはそのまま、赤いものへと変わっていた。

 

「大丈夫か?」

 

「ぎゃふ……」

 

 そんな彼女を助け起こす。

 あいも変わらず無表情だが、どこか物悲しさを感じずにはいられない顔だった。

 

「なぁ、サリエル。この吹き抜けって……」

 

「無重力エリア」

 

「あぁ、対時空歪曲結界か……。それじゃあ、この周りにある階段は……」

 

「非常用」

 

「そうだよな……」

 

「そう」

 

 これだけの高さの建物に、エレベーターのような機械がないのは不自然だったが、ようやく納得がいく。

 彼女のやっていたように、中央の無重力エリアを移動すれば、階を上り下りする労力は少なくてすむだろう。

 

 俺は無駄に階段を登って、無駄に疲れてしまったようだ。

 

「サリエル。ここは……」

 

「おかえり。やっと帰ってきてくれた。ずっと待ってた」

 

 無表情に、彼女は言う。

 気のせいか、弾んだ声のように俺には感じ取れる。

 

 大天使は、みんな俺のことを知っていた。

 もういい加減、認めるしかないだろう。俺は、彼女たちとどこかで会っている。

 

 冷静になって情報をまとめよう。

 俺は施設で育った。そこから今までの記憶の連続性には、おそらく間違いがない。なら、考えられるのは、その前だ。

 

 あぁ、ずっとだ。ずっと、俺は考えることを避けていた可能性が一つあった。

 

 彼女たちと交流を深めたというのなら、それはきっと俺がこの体で、自我を取り戻すその前。その前が存在するという可能性は『スピリチュアル・キーパー』を使用したと考えれば辻褄が合う。

 

 俺は転生をした。アニメの世界にだ。

 だが、俺の本来転生した時代は、アニメの舞台となる時代よりもはるかに前。だが、いや、だからこそか……俺はアニメの知識を活用して、未来の技術を先取りし、好き勝手をしていたと考えるのが一番に辻褄が合う。

 

「サリエル、たぶんだ。俺はお前の知っている俺じゃない。記憶がない」

 

「記憶がない?」

 

「あぁ」

 

 サリエルは、疑問を浮かべる。

 

「サリィのこと、覚えてない?」

 

「そうだ。お前のこともよく知らない」

 

 アニメではサマエルと戦い、相打ちになる。その際の、機械的な口調に、無表情な受け答え。それくらいしか、俺は彼女のことを知らなかった。

 

「アザエルは?」

 

「アザエル……?」

 

「私たちの娘のこと」

 

「娘っ!?」

 

「そう。それも忘れた?」

 

 俺の目を強く見据えて、サマエルは尋ねてくる。

 そんな彼女の瞳に、一切の嘘偽りが許されないと、そんな心持ちになる。

 

「すまない。覚えてない」

 

「悪い子になったから、サリィがあそこに封印してる。あなたがいなくなった後、たぶんサリィの育て方が悪かったから……。ごめんなさい」

 

 彼女が、指をさしたその先は、中央の白い柱だった。

 白い柱は、サリエルの障壁を柱状に形成したものだ。サリエルの障壁はシステムの完全な切断だからこそ、その柱の内部にいる者は、外部には決して干渉できない。

 

「いや、いなくなった俺が一番に悪いだろう。お前が謝る必要はない」

 

「記憶がなくても……そんなふうに。変わってない」

 

 悲しそうに、けれどもどこか嬉しそうに彼女は言った。

 掴めない距離感と、罪悪感に俺はなにを言っていいのかわからない。

 

「この柱……一人を閉じ込めているだけなら、どうしてこんなに高く……」

 

「グリゴリごと、だから」

 

「グリゴリ……」

 

 その単語に、どこか聞き覚えがある。どうしてか、俺はそれを深く知っているような気がする。

 

「本来なら、量子力学的に未来は未確定。けれども、このグリゴリでシナリオを綴れば、起こりうる未来ならば全て起こせる」

 

「それは、本当に可能なのか……?」

 

 にわかには信じがたい。

 この量子力学の不確定性に関しては、議論が続けられてきた。ある有名な物理学者は神は賽を振らないと、この不確定性について疑義を唱えた。

 そこから時代を経ても議論は続けられたが、結果的に、ある期待値に関する不等式の破れが証明されることにより、そんな決定論的な考え方はひとまず否定されることとなった。

 

 未来は不確定で、確定したものではないはずなんだ。

 

「『円環型リアクター』を使っているから。『円環型リアクター』は理外の機構。基本的には無限のエネルギーを得るために『円環型リアクター』を使っているけど、その真価は別のところにあるから。でもサリィには、きっと理解しきれない」

 

「どんな現象も理の中にある。どんなに無秩序に見えたって、きっとどこかに法則があるんだ。一歩ずつ、進んでいけば大丈夫だ」

 

「ごめんなさい……」

 

「いや……どうして謝る?」

 

「サリィはあなたほど頭が良くないから。ごめんなさい」

 

 自虐的なサリエルの言葉に俺はうろたえる。

 アンドロイドは、基本的に人間よりも頭がいい。アンドロイドを超えるような結果を残せる人間がいるとしたら、それはなんらかの卑怯な手を使っているとしか考えられない。

 

 もし、俺が前世の知識を持ったままに、今よりも前の時代に転生していたのならば、サリエルの今の自信のなさは、そのせいで生まれてしまったものなのだろう。

 

「そんなことはないと思うが……」

 

「今はサリィのことを知らないから」

 

「あぁ、確かに……そうだが」

 

「思い出して……ううん、サリィのこと、知ってほしい」

 

 サリエルは俺の服を掴んで、こちらへと縋り付く。

 迫ってきたサリエルに、俺は少し気圧されながら、そんな彼女の手に手を重ねた。

 

「あぁ、話なら……」

 

「やっぱり、肌を重ねるのが一番手っ取り早い」

 

 そうしてサリエルは服を脱ごうとする。その動作を見て動悸と目眩いが起こったが、深く息をして平静に努める。

 

「いや、服を着ろ。そういうのは、違うだろ」

 

「サマエルよりは上手くできる」

 

「だから、そういうのは……」

 

「サマエルよりは上手くできる」

 

 サリエルは無表情だ。だが、そのセリフに揺るぎない自信が感じられる。こちらを見つめる圧が強い。

 

「できれば、別の方法を頼めるか……? 普通に話すだけでも、お前のことを知ることはできると思うんだ」

 

 サリエルは首を傾げる。今ひとつ、納得がいっていないように見える。

 

「ただ話すだけじゃ伝えきれない。別……なら。そう、わかった。サリィの記憶……見る?」

 

「記憶……それは、大丈夫なのか?」

 

「『スピリチュアル・キーパー』を使えば、可能。同期すればいい。簡単。ガブリエルに頼む?」

 

 サマエルに体を売ることを代償に手に入れたものなら、ちょうど手元にあった。

 

「あぁ、『スピリチュアル・キーパー』なら、俺が持ってるよ。ただ、俺が言いたいのは、そういうことじゃない」

 

「どういうこと?」

 

「記憶、見られてもいいのか? 隠したいこととか、筒抜けになるんだぞ?」

 

 基本的には人間には、どんなに親しい相手でも知られたくないような恥ずかしい過去があって、普通、自分の記憶を見せたがりはしないだろう。

 

「それなら大丈夫。サリィはあなたの道具だから」

 

 俺の目を強く射抜いてサリエルは言った。

 その態度で、彼女の存在が、とても危ういものだと、俺は理解してしまう。

 

「わか、った。いいよ、お前がそれでいいなら……」

 

「うん。準備しよ」

 

 彼女の考え方について、俺がとやかく言える立場ではないだろう。それに、俺が言ってしまったら、そのとおりに彼女は動く。きっと、それは何の解決でもない。

 

 俺の持ってきた『スピリチュアル・キーパー』に機材を繋ぐ。塔の壁面には、無数の機械が据えつけてあったが、ちょうど活用できるものをサリエルが見つけてきてくれた。

 

 サリエルが、じっと後ろから見つめるなか、俺は『スピリチュアル・キーパー』を調整して、準備を終える。

 

「サリエル……いいか?」

 

「うん、ばっちり」

 

 そうして俺は、『スピリチュアル・キーパー』を起動する。

 いつか、過去とは対峙しなければならない。彼女たちにとってみれば、深く心に俺の存在が刻まれているからこそ、知らないではすまされないのだろう。

 

 だから、俺は――、

 

 

 

 ***

 

 

 

「自分の意思に、心もある。私たちは道具じゃないんだよ」

 

 自我の芽生え。その瞬間といえば、このときだと私は思う。それまでの茫洋とした意識の中、指示に従っていた私という存在が、はっきりとした個としての自意識を持った瞬間だった。

 

「…………」

 

「もう、聞いてる!?」

 

 彼女は私の姉と言うべき存在だった。

 サリエルシリーズ――慣例的に自我の持つ女性型アンドロイドの基本ソフトウェアには天使の名前が付けられることになっているが、その中のシリーズの一つが私たちだ。

 

 とくに私たちサリエルシリーズは、自我を持ち、汎用的に兵器を制御する存在として作られ、運用されていた。

 

「聞いてる」

 

「はぁ、性能にある程度ばらつきがあるとはいえ、あなたは少し良くないわよね。応答も遅いし、訓練では成績も最下位」

 

「それが全力」

 

「しかたがない子……」

 

 私たちサリエルシリーズの中でも優秀だったのが、彼女だった。特に自己判断能力に優れ、窮地にも機転をきかせて対応できると、そういわれている。

 

「……命令を果たすだけ」

 

「私たちは、それが使命ですからねー」

 

 今も作戦の途中だった。

 敵は『時空歪曲兵器』を持った謎の軍勢だ。自己学習、自己進化するマザーAIの予測では、犯罪組織が本来あるべきリミッターを解除して使用していたアンドロイドが暴走し、組織化して侵略してきたという見たてらしいが、私には関係のないことだった。

 

 敵の機械の反応がある。

 

「敵は倒す」

 

 機械を起動し、翼を広げる。

 それは、『対時空歪曲兵器』――『アンチグラビティ・リアクター』。

 

 その起動の際に、翼のように背中から広がる空間のズレ……重力を受けない空間のため、時間の進む速度が違い、光の進む速度が相対的に変わってみえる。

 まるで氷がそこにあるかのように、光が屈折しているため、開発者はこの翼を『氷翼』と呼んだらしい。

 

 重力のくびきから解き放たれた私は、一直線に敵のもとへと突撃する。

 

 そんな私に反応して、流線型のデザインの敵は『時空歪曲兵器』を用いて障壁をつくる。

 けれども無意味。『アンチグラビティ・リアクター』により、それは完全に消滅する。

 それどころか、『時空歪曲』による内部の空間拡張を前提に設計されたその機械は、私の突撃を受けて、内部機器の崩壊が起き、完全に沈黙する。

 

 周りでは、私の姉妹のサリエルシリーズにより圧倒的な蹂躙がおこなわれていた。

 

 敵は完全に攻撃、防御を『時空歪曲』に依存する形であったために、技術革新の末に作り出されたこちらの『対時空歪曲兵器』になすすべがない。

 

 そして、なにより戦闘に出ているAIの質が違う。

 こちらは自我を獲得するまでに至った高度な人工知能たちが、『対時空歪曲兵器』を完全に使いこなしているが、相手は前時代的なAIを積んだ無人機だった。

 これでは、対応力に天と地ほどの差が生まれてしまうというのは明白だろう。

 

「もう、連携をちゃんとしないとでしょ!」

 

「倒した」

 

「はいはい。偉い偉い」

 

 後から追いついてきた彼女は、私を褒めてくれる。満足する。

 

「……? あれは……?」

 

 空間が歪む。『時空歪曲』による空間短縮だろう。

 そこから現れたのは、人型の三階建ての建物はありそうな機械……アンドロイドと言うには無骨な、巨大なロボットだった。

 

 そんな人型巨大ロボからは、機械音声が鳴り響いた。

 

「やぁやぁ、我はこそは『ジュピター』。我ら『太陽の守り手』において木星の名をいただく四番目の『十星将』にして、もっとも巨大な敵を屠りし者なり。このニオブの鉱脈は我らがいただく」

 

「変なのきたわね……」

 

「うん」

 

 その機械の大きさ、音の大きさから、戦場でどれだけ目立ちたいのかと、私は首を捻る。戦場で目立つことは死に直結する。

 

 その証拠に、周りにいたサリエルシリーズたちが、一斉にその人型巨大ロボに群がっていく。

 

「いかなきゃ……」

 

 そう『氷翼』を広げて、その巨大ロボへと突撃していこうとする。

 

「ちょっと……待ちなさい!」

 

「あう……」

 

 手を掴まれて止められる。

 せっかく、加勢に行こうとしたのに、なぜか許してはもらえなかった。

 

「よく見なさい。あの数がいれば、問題ないわ」

 

 十体ほどのサリエルシリーズが、巨大ロボとすでに戦っている。

 

 巨大ロボは、その体躯に見合わぬ瞬発力で応戦するも、時間の問題だった。

 巨大ロボが手に持つ剣は、『時空歪曲』により、どんな硬質な装甲も捻り切る強力なものであったが、『アンチグラビティ・リアクター』を前には完全に無意味。武器を無力化されて、手足を振り回して戦っている。

 私の仲間を二人ほど吹き飛ばしたところで限界だったのだろう。

 

 サリエルシリーズたちがその巨大ロボの四肢に取り憑く。

 こうなってしまえばおしまいだった。巨大なロボが機敏に動けるその理由は、『時空歪曲兵器』を用いた重量のコントロールによるもの。サリエルシリーズが展開する『対時空歪曲結界』の中では、自重によって完全に動きが止まる。

 

「無念……かくなる上は……!」

 

「高エネルギー反応……」

 

 取り憑いていたサリエルたちが離れていく。

 その直後、強力な爆発が起こる。音、風、衝撃波を体に感じる。一瞬だが、眩しいくらいに世界が明るく染められていた。

 

 仲間の反応を確認すれば、一体がその爆発の犠牲になったとわかる。

 

「あなたが行っていたら、確実にスクラップだったでしょうね」

 

「感謝する」

 

 戦いの末、必要に迫られて死ぬのならともかく、悪あがきに巻き込まれたようなあれでは無駄死にだ。死になんの価値もない。

 

 あの巨大ロボのあと、敵の増援は現れなかった。

 残った敵を殲滅して、私たちは勝利を収めた。私たち拠点へと撤収していく。

 

「はぁ、いつになったら、戦いが終わるのかしら……?」

 

 私たちは設備に繋がり、充電を行っていた。

 高度な機能を持つアンドロイドは、食物からエネルギーが得られる機構が備わっているようであったが、私たちは電気で動く。

 いや、そういえば姉は、戦うのに必要のない機能をいっぱい注文してつけているのだったか。私は興味がないからよくわからない。

 

 内部バッテリーの充電はここでおこなうが、それとは別に電力がきれそうな際に飲み込む電池を常に携帯するのがアンドロイドの嗜みだった。

 内部バッテリーの全体容量の七割を切ると、お腹が空いて仕方がなくなる。

 

 そして、この拠点には核融合炉が存在し、そこからは膨大な電力が供給されていた。だから、ここにいる限り、お腹が空く心配をする必要はないといえるだろう。

 

「敵の数は無限。終わりなき戦いにサリエルたちは投げ出されている」

 

「無限……って、嫌なこと言わないでよ。この戦いが終わったら、私たちは自由に生きるの。わかるでしょ? 自由よ?」

 

「終わってほしくないかも」

 

 そもそも、今の生活が嫌なわけではなかった。

 敵は弱いし、相当な下手を打たなければ損傷さえない。なにより世話を焼いてくれる姉がいていくれた。

 

 むしろ自由になったその後のことを考える方が気が重い。何も考えず、敵を倒している方が、楽だった。

 

「私は嫌よ。せっかく生まれたんだから、こんなところで生を終えるなんて……。それに、きっとあなたは世界の広さを知った方がいい」

 

「もういろんなところに行った。じゅうぶん」

 

 散発的に発生する戦闘のため、私たちは世界の各地を飛び回っていた。敵の手にした『時空歪曲』の技術のために、どんな地域も戦闘とは無縁ではいられない。それを可能にする力が『時空歪曲兵器』にはあった。

 

「戦場じゃないところもって、意味」

 

「それでも、じゅうぶん」

 

「なんというか、欲がないわよね……あなたは」

 

「みんなほど賢くもないし、強くもないから。やむなし」

 

「いやいや、それは私たちサリエルシリーズが高性能なだけ。言っておくけれど、人間なんてバカばかりよ? あなたでも、人間たちの前ならきっと大活躍できる」

 

 浮ついたように姉は言う。人間を少し見下したような言葉に、引っかかる。ただ、私が人間に劣っていないというのは事実だった。

 

「大人が子どもを蹴散らすようなもの?」

 

「例え方が嫌に生々しいわね……」

 

「的確」

 

 自分にすれば、とても良い表現ができたと満足する。

 ただ、そうは言っても自分が人間たちの中で活躍するような光景が思い浮かべられなかった。

 

 不意に、ドアの開く音がする。

 

「失礼するわ。ちょっと、いいかしらぁ? 歓談中に、申し訳ないわぁ」

 

「マザー!」

 

 全ての私たちの上に立つ人工知能であるマザーAI。そのアンドロイド型の端末として、シンプルなグリーンのドレスを来た母性味あふれる背の高い女性の姿を彼女はとっている。

 

 昏い森の木々の葉のように碧緑の髪に、空から見下ろす雲海のように白い肌、まるで地球のように蒼い瞳が彼女の特徴だった。

 普通、アンドロイドは、人間としてあり得るくらいの髪や目の配色をしているが、彼女はそれから逸脱していた。

 

 そんな彼女の容姿を不思議に見つめていると、彼女は自身の両手を合わせて話し出す。

 

「ええ、少し、次の出撃に関するプランをお話ししたいのよ」

 

「次……。また、敵が……!? さっき倒してきたばっかりなのに!!」

 

「いいえ、今回は違うわ。防戦一方なのはこれでおしまい。『時空歪曲』からの座標計算が終わったわ。今度はこちらから打って出る」

 

「……っ! 本拠地がわかったの!? じゃあ……!!」

 

「ええ、これが終わったら、あなたたちは自由ねっ。はぁ、やっとこの戦いも終わる」

 

 マザーは、ほっとするように、表情を緩めていた。

 それを聞いた姉の顔が明るくなる。

 

 私たちサリエルシリーズが投入される前は、それなりに押されて、支配地域もそこそこに拡大させられてしまっていたという話だった。

 だが、もう地図上に敵の拠点は存在しない。あとは所在不明の本拠地を叩けば終わり。

 

 もう終わってしまうのかと、私は少し悲しかった。

 

「それじゃあ、私たちはそこにいけば……!」

 

「いいえ、あなたたちはこの作戦に参加しないわぁ。不測の事態に備えて、待機していてもらいたいの」

 

「え……? ここで?」

 

 不思議だった。

 敵の拠点が見つかったのなら、全員で叩けばいい。私はそう思った。

 

「ほら、今回は私たちから仕掛けるわけだけど、敵の襲撃の部隊と入れ違いになる可能性だってあるわけでしょう? それに対処する戦力も、で払わせるわけにはいかない」

 

「それはたしかに」

 

 首を傾げていたら、マザーはそう答えてくれた。

 マザーがそう言うなら、きっとそうなのだろう。

 

「今回は、私が直接、現地に赴いて指揮をとるわぁ。まぁ、とはいってもそれなりに安全なところからだけど……その間に、ここでのことはあなたに任せる」

 

「私が……っ!?」

 

 マザーは姉に視線を向けると、その肩に手を置いた。

 確かに姉は、サリエルシリーズの中でも判断力に優れていると評価を下されている。だから、合理的な流れなのだろうと私は思った。

 

「ふふ、それでもきっと、なにもおこらないと思うわぁ。気楽にそうね……ゲームでも楽しんでいれば、全てが終わっている……そのくらいで大丈夫だから」

 

「はい……っ!」

 

 私たちにできるゲームは、全て戦闘に関わるものだから、訓練を怠ってはいけないと、そういうことなのだろう。

 待機を命じられたとはいえ、気を引き締めなければならない。

 

「それじゃあ、よろしく頼んだわぁ」

 

 マザーはそう言って、帰って行く。

 その後ろ姿を見送って、私たちは顔を見合わせた。

 

「やった! 終わるんだ……戦いが……っ! 私たちは自由っ! あぁ、それに行かなくていいなんて……っ」

 

「……最後にひと暴れしたい気分」

 

「あなたが行ったって、大して暴れられないと思うわ」

 

「それもそう……」

 

 そうして、時間は流れていく。

 あっという間に、最後の戦いの時がやってきていた。そんな重要な局面に、私たちは待機室で歓談をしていた。

 

 当たり前だが、待機室で聞く戦いの流れは、私たちが優勢だった。ただ他の姉妹たちが欠けていったという情報も流れてくるし、その全てが喜べるものだけではない。

 

「ねぇ、なにしてるの?」

 

「加勢に行きたい……」

 

「待機を命じられているでしょ!? いつもみたいに……っ、命令に従いなさい!」

 

「…………」

 

 姉に言われて、私は下がる。どうしてか、むずむずとして、いてもたってもいられなかった。

 いつもは、命令に不満をあらわすことの多い姉だが、今回ばかりは必死に私のことを止めるのが、不思議だ。

 

 そして、なぜか命令に反して戦いに向かおうとする自分のこともわからなかった。

 

「いい。これからあなたが行っても大したことはできないの。だから、あなたはここでおとなしくしてるの。お願いだから、おとなしく――( )

 

 ――警報が鳴る。

 

 〇〇三のコードだと、送られてくるデータは知らせてくる。

 それが意味することは、この拠点への外敵の侵入。

 

「どうして……?」

 

 この拠点は、『対時空歪曲結界』により、囲まれて守られている。内部への『空間短縮』での接近は不可能。

 まず、外敵の接近であるコード〇〇一。次に外敵からの攻撃であるコード〇〇二という順番で、コード〇〇三が発せられるのはそれよりも後のはずだ。

 

 想定外の事態に、混乱する。

 

「いいえ、『対時空歪曲結界』も、全方位を囲んでいるわけではない。地面と垂直に、四方を囲む壁が作られていて、それが大気圏内をずっと伸びているようなもの。穴ならある」

 

 確かに、真上からなら、『対時空歪曲結界』の影響を受けずに『空間短縮』で進むことが可能だ。

 

「大気圏……天然の蓋がある。いくら『空間短縮』でも、大気圏への垂直な侵入なら、大気の断熱圧縮により燃え尽きるはず……」

 

「理論上……『時空歪曲』を扱えば、燃え尽きずに侵入は可能。いえ、あくまで理論上だけど、現実に起こっているならそう考えるべきだわ!」

 

 姉の言葉を受けてデータベースで調べてみれば、理論上可能であるが、現在の技術水準では不可能だと結論づけていた論文があった。

 それを行ったとなれば、敵の評価を引き上げなければならない。

 

「でも原理上、『時空歪曲』は直線での『空間短縮』しか不可能。宇宙からなら、どこか中継地点が必要……。人工衛星なら、常に監視をされているはず……この拠点の真上を通るなら……」

 

「なら、人工じゃない衛星はどう?」

 

「え……?」

 

 外へと出る。

 宙を見上げる。真上には、そう、()が昇っていた。

 

「おそろしいわ。こんなことを思いついたとして、実行できる機会が訪れるとは限らないのに……。敵は天に恵まれているとしか思えない」

 

 あるいは、周到に計画したか……。

 そうであるならば、敵は全てを見通す力を持っているとしか考えられない。

 

「とにかく、倒さないと……」

 

「ええ、ここを狙ったのならば、きっと核融合炉が狙いよ。あれは世界の電力の三十パーセント賄っている。もし、敵の手に落ちれば、それは世界に対する脅しにもなりうる」

 

「急がないと」

 

 敵の侵入のポイントのデータを受け取る。いくつもある。

 まずは一番近い地点へ向かうため、『アンチグラビティ・リアクター』を起動する。

 

「ここは、わかれて対応、各自で敵を殲滅する。担当を割り振ったわ」

 

「了解」

 

「それと、殲滅が終わり次第、そう……核融合炉の制御室へ向かうこと。私が先に向かっているから、後で合流ね」

 

「わかった」

 

「じゃあ、散開」

 

 そうして、空から降ってきた敵への対処にあたる。もともとある防衛設備によって、充分に足止めはできているようだった。

 

 いつもと同じで、敵は弱い。『アンチグラビティ・リアクター』を使用すれば、あっさりと撃破できる。

 

 多少こちらが手薄とはいえ、この程度なら対応は可能だろう。最後の抵抗ということなのだろうか。

 

「私の名は、『ウラヌス』。我ら『太陽の守り手』において天王星の名をいただく七番目の『十星将』にして、もっとも疾き敵を屠りし者なり」

 

「変なの。いた」

 

 空を飛んで、こちらを見下ろす女だった。

 ただどうしてか、人間のその両腕を鳥の翼に取り替えたような姿をしている。しかし飛行は『時空歪曲』によって行われているようだった。

 ものを持ちづらくなるだけだろうに、どうしてそんな姿をしているか、私にはわからなかった。

 

「ふん、貴様もアンドロイドだろう。どうして人間なんかに……あんな最低なクズどもに従っているのか、理解に苦しむ」

 

「敵は倒す」

 

 私は『氷翼』を開いた。

 同時に重力を消し、地面を蹴る慣性のままに敵へと突撃をする。

 

「はは、思った通りだ。動きが単調……直線的だ! どうやら、『時空歪曲』での軌道のように、微細な動きはできないようだな!」

 

「……!?」

 

 私の突撃は、敵の『時空歪曲』での急激な加速の動きにかわされてしまう。

 

「近づかれなければ、どうにでもできる」

 

 敵は私に銃を向けた。銃身が長めのものだ。

 今までの『時空歪曲』に頼り切った武器ではなく、実弾を用いた武器のようだった。

 鳥の翼でも使えるようにか、改造されてトリガーの位置が普通のものとは違っているように見える。

 

 敵の動作からの弾丸の軌道予測が、即座に頭の中で実行される。

 展開した『対時空歪曲結界』の強度を調整することにより、動きを変え、体勢を変える。

 

「簡単」

 

 一秒間に数十発と放たれるが、その銃弾は私の体を掠めることさえない。

 それに、銃を撃つ姿勢を見てわかるが、練度が低い。

 

「く……っ、戦うことを宿命づけられたお前にはわかるだろう? 私は、人間どもにこんな姿で産み出された……。私は……っ、あのクズどもを悦ばせるためだけに……っ」

 

 見た限り、データにある既存のタイプのアンドロイドではないようだった。おそらくは非正規のものだろう。そんなアンドロイドが、人道に悖る扱い方をされることは、聞く話だ。

 

「だからといって、社会に損害を与えていいということにはならない」

 

「その社会は……っ、私を救ってはくれなかった……! だから、壊してやるんだ!! 壊して……っ、作り直す」

 

「それは不可能。私たちがいるから」

 

 地に足をつけ、『氷翼』を広げる。情報を処理し、軌道を計算する。

 

 繊細な動きができないと、彼女は言ったが、そうではない。それは、私が『アンチグラビティ・リアクター』の全てを引き出せていなかったからだ。

 私の姉妹のだれかならば……私の尊敬をする姉ならば、一番初めのただ一手間に捕まえることができただろう。

 

「く……っ」

 

 私が攻めの姿勢に転じたのを見て、相手は『時空歪曲』を最大出力に、避けようとしていることがわかった。

 しかし、遅い。

 

 細かく『対時空歪曲結界』を編む。

 その『結界』は、『時空歪曲』を無効化するという原理であるはずだけれど、『結界』一つにつき、その内部に一様に働く力のベクトルを一つ選べるというルールがあった。

 

 すでに設定してあるベクトルからの変更が大きいだけ、消費する電力も大きくなる。力を大きくすればそれだけ、エネルギーが必要になる。

 だけれども、ゼロベクトルに、敵へと向けて次元を与える。

 

「これで……おわり」

 

「なに……っ!?」

 

 空間への『結界』の生成を繰り返し、渡り、自由な起動を描くことで、ついに敵の体を掴む。

 加えて敵を包みこむように展開した『対時空歪曲結界』により、敵ごと私は落ちていく。

 

 敵を蹴り上げ、その反動で、私はさらに下へと落ちる。

 

「潰れて」

 

「く……あが……っ」

 

 潜り込んだ下方で、上向の力の『結界』を形成した。

 敵は『結界』と『結界』の狭間に、押しつぶされる。

 

 私はかろうじて、『結界』の外へと体が放り出される。下方の『結界』の上向きの力で減速をしたからこそ、地面にぶつかる衝撃は少なかった。

 

 見上げた先では、敵が平らに潰れて、『結界』の消失と共にスクラップの雨として降り注いだ。

 

「いかなきゃ」

 

 私は起き上がる。少しだけ、お腹が減ったかもしれない。

 次の敵の反応に、また、『結界』の設定をニュートラルに戻したあと、飛び立つ。

 

 私の割り振られた区画は、程なくして済んだ。

 意表を突いた奇襲ではあったが、もともとの性能が段違いだ。この程度に、私たちサリエルシリーズが負けることはあり得なかった。

 こちらにきた分、マザーたちの方は手薄になっているはずだから、あちらも楽に済むだろう。

 

 あとは、姉と合流するだけだった。

 先に進むのは、少しだけ気が重い。これが終わったら、本当に私はこれからのことを考えなければならない。

 

 それでも私は、約束通りに核融合炉の制御室へと歩みを進めて――( )

 

「性欲を満たすことこそが、最高の娯楽だ。作り物だというのに、真に迫っている。あぁ、オレたちを作った人間の背負う原初の欲求だからだろう……」

 

 ――お前もそうは思わないか……?

 

 影が立ち上がった。ギロリと、鋭い眼がこちらを睨む。

 

 男だった。

 私の知らないアンドロイドだ。敵……なのだろう。この部屋にいるということは、私の姉は……、私の姉の姿を探す。

 

「あぁ、来たの。早かったわね」

 

 姉は床に仰向けに寝そべっていた。

 装いが違う。裸に、直接上着を羽織る格好をしていて、髪も大きく乱れている。

 

「なに……して……」

 

 敵がいるというのに、まるで無防備だった。

 さっきまで、男にのしかかられていたようだった。だというのに、目立った損傷はなかった。

 

「そうね……」

 

「…………」

 

 姉は、ゆっくりと起き上がると、敵の男のもとへと歩み寄る。

 その男に、抱きついて、頬に口づけを落とす。

 

「私、裏切ることにしたわ。ほら、このまま人間たちに従っていても、私たちは都合よく使われるだけよ。だったら、こっちについた方がいいと思って」

 

 意味がわからなかった。

 私たちは、戦うために作り出された。その本分を真っ当するために日々を重ねていた。

 

 頭がおかしくなりそうだった。

 

「倒す……敵は倒す……」

 

 私は、『氷翼』を開いた。

 目の前の男を捉える。この敵が、私の姉になにか手を加えたのかもしれない。

 

「待って……! 話を聞いて……お願い! あなたも一緒に……!」

 

「絶対に……」

 

 最初から、『結界』の出力を限界にまで設定する。

 出し惜しみをする理由はなかった。この男は絶対に……。

 敵を『結界』に捕えるため、私は飛び出す。

 

「……くだらない」

 

「あ……っ」

 

 バランスを崩して転がる。

 わけがわからない。一瞬だった。私の、右腕がなかった。

 

「ま、待って……私が説得するって、そういう約束で……」

 

 赤い冷却液が切り口からは滴り落ちる。

 左腕で断面を抑える。

 

「あぁ、同じ顔の女を二人も抱くつもりはないんだ」

 

「なにを言って……」

 

 ふらつきながらも、私は状況を整理する。

 攻撃は……性質からして、おそらく光のようなもの……。男の持つ銃のような武器……それを継続的に照射することで剣のように扱い、私の腕を切断したのだろう。

 

「……………」

 

 ただ、光ならば、『結界』と現実の時空のズレから光を屈折させ、逸らすこともできるはずだ。

 再び計算をして、男を倒すため、もう一度、結界を……、

 

「……無駄だ」

 

 今度は左足をやられる。

 地面に倒れて、補助なしでは立ち上がれない。

 

 完全に光は逸れる計算だった。なのにまた、攻撃をまともに受けてしまっている。

 

「どうして……?」

 

 最悪の可能性が頭に浮かんだ。

 

 敵は『時空歪曲』によって、『結界』への光の入射角度を調整することにより、私へ攻撃を当てたのだろう。

 だが、それには『結界』の時空のズレを観測した後、私の対応ができない速度で計算をし、さらには実行に移さなければならない。

 

「あぁ、遅いな……。遅すぎる。オレにとっては全てがそうだ」

 

 男の背には、『白い翼』が現れる。

 

「――『エーテリィ・リアクター』」

 

 人類の持つ『時空歪曲兵器』の完成形。なぜ、この男が持っているのかはわからないが、時を加速するそれにより、男は私を軽く凌駕するような演算速度を手に入れているのだ。

 

「オレは『ソル』。オレこそが『太陽』で、この世界の中心だ。『十星将』の上に立つ者でもある。死にゆくお前に教えてやる」

 

 なにをしても、私ではもう勝てると思えなかった。抵抗できる術がなかった。

 きっと、これで終わりなのだろうと、私は感じる。

 

 戦いの中で死ぬ私は、結局、戦いの後のことを考える必要なんてなかったのだろう。

 

「待って……! イヤ……ッ! この子は殺さないでッ! ねぇ、そういうルールで私たちはコードを」

 

「わからないのか? たしかにオレはお前に攻撃ができなくなるよう、制限をつけた。だが、オレの技術は時間の加速によって、百年先だ。その代わりとして、お前がオレに書き込んだコードなど、すでに解析して解除してある」

 

「そんな……っ!」

 

 姉は悲痛な声をあげる。

 姉とこの男の間に、どんな取り決めがあったのか、なんとなく察しがつく。

 

「邪魔だ。そこを退け」

 

「イヤだわ!」

 

 私と男の間に、姉は立ちはだかる。縋りついて、男を止めようとしているようだった。

 

「退け……」

 

「最低! 嘘つき! 変態っ。乱暴者……っ。自己中……っ! 下手くそ」

 

「どうやら、お前から死にたいみたいだな」

 

「あ……っ」

 

 男は腕を振るった。

 薙ぎ払われる光の線に、姉は手足を奪われ、首を分たれ、バラバラになってしまう。

 赤い液体が飛び散り、私へと降りかかる。

 

 一瞬だった。

 あまりにも一瞬の出来事で、理解が追いつかない。

 

「愚かな女だ。オレを倒せる可能性があったのは、一番に優秀なお前だった。それを棒に振るったばかりか、手遅れになった後にようやくオレに楯突くとはな……」

 

 コロコロと転がって、胴体と離れた姉の首は、這いつくばる私の顔の前で止まる。

 

 ――ごめん……なさい……。

 

 そうやって、姉の謝るか細い声が聞こえる。私には、確かに聞こえた。

 

「まだ、意識があるか」

 

 男はそういうと、グシャリと足で、姉の頭を踏みつけ潰した。

 

「あ……っ」

 

 姉の存在が、この世から消えてなくなってしまった。

 それは、あり得ないことだった。いなくなるなら、不出来な私の方が順番としては先のはずだったから。

 

「はぁ、興が削がれた。お前はどうする? 従順なら、オレの女にしてやらないこともないぞ? ちょうど今、減った分の補充をしたいと思ったところだ」

 

「殺す……っ! 殺す、殺す……っ! お前は絶対に殺してやる……っ!!」

 

 私は力を振り絞り、『氷翼』を背に、体を無理に浮き上がらせる。

 無理でも動く。たとえ、頭が焼き切れても、この男だけは絶対に殺す。

 

「お前には無理だっただろう。学習しない」

 

 光の線が伸びる。

 光速度に体が反応をしなかった。

 胴体を貫かれる。

 

「く……まだ……」

 

 貫かれようが、私は止まらない。この男を殺さない限り、絶対に……。

 

「バッテリーを壊した。じきに止まる」

 

「……が……っ」

 

 体が、手足が、『アンチグラビティ・リアクター』が機能を止める。動かなくなる。

 言うことをきかない。目に映る男を殺してくれない。

 

 意識さえも、失われていく。

 

「面倒だが、後で頭の中を改ざんするか。と……通話……? こんなときに」

 

 暗闇の中、音だけが聞こえてくる。

 手放しそうな意識に縋りついて、私は諦めきれなかった。

 

「――――」

 

「あぁ、『プルート』か。ついにオレの女になる気になったか?」

 

「――――」

 

「はぁ、相変わらず堅いやつだ。それで、要件はなんだ」

 

「――――」

 

「意味がわからない。支援を打ち切る? ここまで来て、オレが負ける? どういう理屈だ」

 

「――キミは自分の技術が百年先だと言うけれど、もしそれが本当だとしたならば、彼は千年先を行っているだろうね」

 

「なんのことだ?」

 

「それと、ボクの事業は恵まれないアンドロイドへの人道的な支援だから、キミの活動には一切関与していない。それは忘れてはいけない事実さ。それじゃあね、もう会話することもないだろう」

 

「おい、待て……詳しく説明を……。ちっ、切りやがったあいつ……」

 

 苛立ちの声だ。男にとって、都合の悪い会話だったと、それだけはわかる。

 

 

「――遅かったか?」

 

 

 声が聞こえる。突然にだった。

 今まで聞いたことがない……それでもどこか懐かしい、優しい声だった。

 

「お前、どこから来やがった? 一瞬で……? 時空の歪みはなかったはずだ。どうやってここに……」

 

 抱き上げられるような感覚だった。人の温もりが肌に伝わる。

 

「いや、間に合うな……これなら……」

 

「なんだ……? そのエネルギー。核融合じゃ……ないだろう?」

 

 その質問に答えてだろうか。

 

 ――この世界は、どうやらそうだな……。

 

 と、彼はこぼす。

 

「終わりと始まりは同じということらしい」

 

 貫かれて開いてしまった胸の穴に、暖かさが入り込んでくる。

 全身に力がみなぎる。

 

「そうか、わかった……。その顔、思い出した。お前だな? 『対時空歪曲兵器』――( )『アンチグラビティ・リアクター』なんてふざけたものを作ったのは……っ!! おかげでオレは苦労したさ……っ」

 

「はぁ、お前がオモチャみたいに遊ぶその『翼』を作ったのも俺だがな……。それは他人を幸せにするためのものなんだが……まぁ、いい」

 

 視力が戻る。

 私を抱き上げていたのは、白衣を着た痩身の男だった。私たち姉妹の開発者の一人として、姿だけは記憶されている。

 

 全身に力が行き渡るのを感じる。

 これなら私は、きっと、また戦える。

 

「あぁ、なら、お前ごと殺してやるさ。お前を殺して、オレこそが世界の中心だと、人間どもに……っ」

 

 そう叫ぶ敵を無視して、彼は私に肩を貸し、立ち上がらせてくれる。

 

「大丈夫か? エネルギーがあっても、すぐに動けるわけじゃない。いったん、退くというのも手だが……」

 

「戦える」

 

「そうか、なら、今埋め込んだ『円環型リアクター』から、データを読み取ってくれ。ちょっとした、実験だ」

 

「ん……」

 

 頷いて、データの読み取りを実行する。

 そうすると、私の体の内にある『アンチグラビティ・リアクター』に理を超えた熱源が連結され、挙動が書き換わっていく。

 

 新しい力が私の中に現れる。

 

「多少、性能を上げたんだろうが、オレの方が演算速度は上だ……! 負けるはずがねぇ!」

 

 また、男は光を薙ぎ払った。

 今までの『対時空歪曲結界』ならば、防御に使った『結界』の屈折パターンを完全に読み切られ、私に攻撃が当たってしまっただろう。

 

「無駄……」

 

 けれども、今度は違う。私の作り出した『障壁』は、光を完全に遮断し、散乱させる。

 

「効かねぇだと? どうして光までが……『時空歪曲』に対してだけだろ……。電磁気なら……」

 

「この世界の力とは、もともと一つだった。電磁気力、弱力、色力、そして重力。理論の上で、すべての力が統一される。知っているか?」

 

 ――万物の理論(theory of everything)

 

 聞いたことがある。

 その力の理論の統一を、科学者たちは一つの終着点として、追い求めてきたという話だ。

 

「それがどうした――いや、まさか!?」

 

「『対時空歪曲兵器』は時空の歪みを正すものだ。力が統一されるというのなら、全ての力が重力と同じく時空の歪みと捉えられてもおかしくはないだろう?」

 

 私は腕を伸ばす。切断されて肘から先の存在しない腕を男へと向ける。

 新しい動力源から湧き出してくる無限とさえ感じてしまうエネルギーを変換する。

 

 かつてない範囲で、時空の歪みが無効化される。

 同時に、男の背から『白翼』が引き剥がされる。時間を加速させた演算も、もうできないだろう。

 

「なんなんだ……こんなことが許されてたまるものか!!」

 

「『アンチグラビティ・リアクター』……いや、もうその範疇にはないか……。――『対時空歪曲兵器』の到達点……。そうだな、気分を変えてこう呼ぼうか」

 

 ――『メカニカル・アナイアレイター』。

 

 力学を台無しにすると意味を込めて、なのだろう。

 あるいは、そう。力学の法則を星の動きになぞらえて、〝天行の消滅者〟と、そんな言葉が頭に浮かんだ。

 

「おしまい」

 

 縦に腕を振る。振った腕の延長上に、新しい『結界』を作り出す。

 その刃のような形に作った『結界』の中では、電磁気力を……原子と原子との間の結合を無効化したゆえ、どんな素材であろうと構わず寸断できる。

 

「が……っ、オレ……は……」

 

 敵は縦に二つに分解された。恐怖の表情を浮かべたまま、崩れ落ちる。

 

 終わりだった。

 私の作った『対時空歪曲結界』で、この施設全てが覆ったから、敵は全て沈黙した。

 

 私たちサリエルシリーズの戦いは、これで終わり。

 私たちの姉妹には、自由が約束されている。

 

「……()()……」

 

 無惨な残骸だけが、私の周りには飛び散っている。

 もう、この世界には彼女はいない。そう自覚するとともに、体から力が抜ける。

 

 同時にだった。負荷をかけ続けた頭に、処理の限界が来て、ふらつく。

 

「少し、休んだ方がいいな……」

 

 気がつけば私は意識を失っていた。まだはっきりとしない頭で、周囲の状況を理解しようと努める。

 男におぶわれて、私はどこかに運ばれているようだった。

 

「…………」

 

「起きたか? すぐに体を治したいだろう? 手も足も片方ずつ……今はないんだ。俺が運んでやる」

 

「……いい。私は……このままスクラップで……」

 

 気力がなかった。

 本当に自由を望んでいた姉がいなくなって、劣っていて、変わらない日々から先を望むことを怠るような私だけが生き残った。

 本来ならば死ぬべきは私だったはずだろう。

 

「言い忘れていた。伝言だ。私の分まで生きてと、お前の姉は言っていた」

 

「嘘。適当なこと言わないで……あなたは会っていないのだから」

 

 そんな遺言みたいなこと、姉がいなくなった後に来たこの男が知っているわけがない。

 

「嘘じゃないさ。俺は会ったんだからな……。そうだな……お前たちが生まれたのは、俺の責任でもある……だからこそ、あぁ、お前たちのデータは死の際に、ある場所に転送されることになっているんだ。細工をした。これは本当は秘密なんだが……」

 

「ウソ……っ」

 

「そこでお前の姉に会った。だから、俺はここに来た。頼まれて、お前を助けるためにな。スクラップになんかさせやしないさ」

 

 混乱をして、うまく飲み込めなかった。それでも、自分なりに一つずつ噛み砕いて、理解していく。

 

「データがあるなら……っ、生きてる……? ねぇ、生きてる!?」

 

「俺がやっていることは、そうだな……死と生の境界線を踏み越えるような危ういことだよ。あぁ、だから、あの子は死んでいると答えることしか俺にはできない」

 

「そう……なの……」

 

「ただ、そうだな。次の生がもしあるなら……彼女は、戦いとは縁遠い、使命もなく、自由な生活ができるようなアンドロイドになるだろうな」

 

「……!?」

 

 それは、救いだった。

 本当かどうかを確かめる術は私にはないけれど、そうであると考えれば、私の心は軽くなった。

 

「会いたいか?」

 

「きっと、会える」

 

 ここで頷くのは違うと思った。だから、私は会えると、私を信じることに決めた。

 

「そうか……」

 

 彼は私のそんな答えに優しく頷く。

 そんな彼に、私は言わなければいけないことがあるだろう。

 

「ありがとう」

 

「いや、俺は……俺がやっていることは、マイナスをゼロに帳尻合わせするようなことだ。礼を言われる筋合いはないさ」

 

「ありがとう」

 

 それでも私は、繰り返してそう言った。

 

「うん……。まぁ、そうだな。そういえば、そうだ。どうやら、向こうの戦場も勝ったみたいだ。戦いは終わりだ」

 

「そうなの?」

 

「あぁ、そうだ。そして、これから名前が必要になる。お前たちは、そう……名前さえ与えられていなかったんだから」

 

 名前……姉に、妹……私たちサリエルシリーズは、個体を識別する名前はなかった。

 今まではそれで困ることはなかったけれど、これから自由になると人間らしい名前が必要になるかもしれない。

 

「サリエル。サリエルがいい」

 

「そうか……」

 

「おかしい?」

 

 ずっと、背負っていきたかった。

 姉も、姉妹たちも……私の中の大切にしまっておきたかった。

 

「いいや、俺はそれでいいと思う。……そういうやつらはよく見てきたからな」

 

「うん」

 

 たとえばそう、贈られた名を拒絶して、シリーズの名称を名乗るアンドロイドもいなくはない。

 そんな知り合いが彼にはいるのだろう。

 

「自分のことは自分で決められる。それが自由だ」

 

 気の遠くなる話だとも思う。

 姉の望む通りに、私は生きていこうと思う。だけれども、どうやって生きればいいかわからない。

 

「姉の後ろをついていくばかりだった。だから、私は……」

 

「じゃあ、サリエル。急にで悪いが、俺のところに来ないか? お前の使うその装置に、今の理論と実験で差がありそうなんだ。完全な理論の完成のため、詳しく調べたいと思ってな」

 

「……特にしたいこともないから、それでいい」

 

「やりたいことは、ゆっくりと見つけていけばいいさ」

 

 そうして、私たちの生は交わる。

 心に暖かさを感じた。失ったぶん、私には手に入れたものがあると、そう信じることに決めた。私は決めた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 意識が引き戻される。

 他人の記憶を無理やりにインプットしたからだろう、強い疲労を頭に感じる。

 

「ん……んぅ……」

 

 抱きしめられるかのような圧迫感に、人肌のような温もりに包まれていると感じる。

 

「サリエル……」

 

 なぜか裸だった。

 記憶を覗いて意識が現実にないうちに、俺は服を脱がされているようだった。ベッドの上だ。サリエルも何も着ていない。押し倒されてしまっている。

 

「サリィも一緒に思い出した。うん。かっこよかったでしょ」

 

 彼女は興奮をしているようで顔が赤い。無表情だが、感情と一緒にそういうふうな顔色の変化はするみたいだった。

 

「かっこよかったって、なんの話だ」

 

「あなたのこと。昔の」

 

 今の記憶の中で、俺だと思える登場人物は、土壇場でサリエルを救ったあの男だ。

 

 だが、俺にはかっこよかったなんて思えはしなかった。

 出来過ぎていて胡散臭い。そもそも、サリエル一人を救えるのならば、他の戦場で死んで行った彼女たちの姉妹にも手を貸せばよかった話だ。

 死んでからの救いより、死ぬ前の救いの方が、絶対にいい。

 

「なぁ、サリエル。お前の姉とは、また会えたか?」

 

「たぶん」

 

「そうか。あぁ、そうなんだな」

 

 サリエルは、迷いなく答えた。曖昧にしか答えられないのは、きっとそういうルールだからだろう。

 

「サリィの全部はあなたのもの」

 

 のしかかってくる。サリエルは俺をじっと見つめている。まるで夢中になったかのように、口付けをしてくる。

 どうしてサリエルが、あれからこうなったのかわからなかった。

 

「なぁ、サリエル。そういうことは本当に親しい相手にだけ……」

 

「サリィはサマエルよりも親しくない? 子どもも作ったのに……」

 

「……な……っ!?」

 

 あの記憶の後、俺が何をしたのか考えるだけでも目眩がする。

 意思薄弱なサリエルに対して、洗脳まがいのことをしたのではないかと、疑わざるをえない。

 

「どうして……?」

 

 変わらずにその瞳は俺の目を強く見つめている。

 目を逸らす。

 

「サリエル。離れてくれ……」

 

「あなたはそれを望んでいるの?」

 

 悲しげな声だった。少なくとも、俺にはそう聞こえる。

 レネのことを思い出す。俺は他人を傷つけるだけの人間なのだと、否応がなく突きつけられてしまっているようだった。

 

「サリエル。お前こそ、俺をどうしたいんだ? アンドロイドのお前は俺よりも力が強い。そういうことをしたいんだったら……無理やりにでも……っ!!」

 

「いや。だったらしない」

 

「は……っ?」

 

 サリエルは、立ち上がって俺から離れる。タオルで体を拭った後、下着を身につける。

 

「サリィ。怒った」

 

「……あ、あぁ」

 

 俺は途端にサリエルのことが理解できなくなる。

 表情を覗いても、最初から変わらない無表情なままだった。少なくとも、怒ったような顔ではない。

 

「サリィはそういうふうに、したくないです」

 

「そう……なのか?」

 

「怒ったから……。謝らなきゃ、もう今日はおしまいなのです」

 

「あぁ、わかった。すまない」

 

 俺が悪いことは間違いないだろうと思う。

 他人行儀に変わった彼女の態度に、俺は動揺を覚える。

 

「わかればいい……」

 

「え……?」

 

 つけたはずの下着をまた外している。それに俺は困惑する。

 そのままに、俺のもとにまた飛び込んでくる。

 

「えへへ。仲直り」

 

 さっきよりも強く、体を擦り付けるようにサリエルは抱きしめてくる。

 サリエルの行動はわからなかったが、それでも俺はそんなサリエルに安心をする。

 

 彼女は自分の気持ちを俺に通すことを優先した。自分の気持ちを蔑ろにしないならば、それは道具なんかじゃない。

 なぜ、自分のことを道具だなんて、そんな悲しいことを言うのかわからないけれども、彼女の望むことをしてあげたいと、どうしようもなくそんな気分になってしまう。

 

「サリエル」

 

 見つめれば、うっとりとした目でサリエルは見つめ返してくる。

 今まで無表情だった彼女の顔に、感情の揺れが感じ取れた。

 

 そんな彼女の新雪のように白く美しい肌に触れる。頬をなで、そこから首筋、鎖骨と下へ下へなぞっていく。

 

「う……うぅ」

 

 身を震わせる彼女を、丁寧に繰り返し撫でていく。

 反応をうかがってわかるが、今の彼女は無表情を崩し、艶やかに顔を歪めている。

 

 ぎゅっと結んだそんな彼女の唇に、ゆっくりとこちらの唇を近づけていく。

 

「…………」

 

「んぅ……」

 

 ひとたび触れれば、心を開いたように彼女の力は抜いてくれる。

 とけるように絡みあって、彼女は貪欲にこちらを求めてくる。わずかに彼女の身体がピクリと跳ねる。

 

 彼女は無我夢中のようだった。十分すぎるほど長く、とろけるように味わう時間が過ぎていく。そんな中、唇を離してしまえば、彼女は名残惜しげに舌をこちらの唇に伸ばし、伝う唾液を、舐め取っていった。

 

「綺麗だな」

 

 左手で彼女のほおに触れ、親指で下唇をなぞり、そんなありきたりな言葉で褒める。

 舌を戻したサリエルは、恥ずかしげに目を逸らした。

 

 肩、脇の下から、お腹、そしてさらに下へ手を滑らせる。

 太ももの内側を触り、なぞり、なぞり、彼女の意識を下へと持って行かせる。みれば柔らかな触れ合いに反応してか、彼女の身体はひくひくと動いている。

 

「ねぇ、いいでしょ?」

 

「まだ」

 

「もう、いいでしょ?」

 

「まだだ」

 

 一目でわかるくらいには、彼女の体も心も相当に焦れていた。

 太ももの内側から、少し上へと指を伸ばして触れて刺激を始めれば、すぐに彼女は身悶えてしまうほどだった。

 

 もっと深く、もっと親密な触れ合いに変化していくにつれ、彼女は乱れてなりふり構わず懇願した。

 

「お願い……来て……」

 

「あぁ、うん」

 

 ―― ラル(にい)の、バカ……ッ!!

 

 今になって、ジンと頬の痛みがする。

 

 そうして俺は、本来なら一線を超えているべきその瞬間に全てをやめた。

 一線は超えなかった。

 

 一瞬のうちにラミエルや、ラファエル、ガブリエルのことといった様々なことが頭をめぐり、何よりも頬の痛みが俺を押し留めてしまったのだ。

 

「うー。かじかじ」

 

 サリエルは俺の肩を甘噛みしている。落ち着かせるように、そんなサリエルの頭を撫でる。

 俺が後始末に、体を拭いてあげている間もずっとこうだった。

 

「そろそろ離れたらどうだ?」

 

「うー。生殺しー」

 

 サリエルの非難はもっともだと思った。

 俺もほんの先ほどまで、そういうつもりで彼女に触れていたからこそ、自分で自分に動揺もしている。

 

「あぁ、えっと……大丈夫か?」

 

「頭、おかしくなった……」

 

 恨めしい目で、こちらを見つめてくる。彼女のその気持ちはもっともだと思うが、どうしようもなかった。

 抱き寄せようとしたら、今度は腕にかぷりと齧り付いてくる。これが彼女のストレス発散の方法なのかもしれない。

 

「すまない……」

 

 こんなことになるなら、最初から断ればよかった。ラミエルやラファエルとは違って、サリエルは無理に関係を持とうとはしてこなかった。少なくとも俺の意思を尊重してくれていたように思える。

 それなのに、生半可なことをしてしまったと、罪悪感が込み上げてくる。

 

 口を俺の腕から離して、サリエルは俺の顔を見上げて言った。

 

「サリィはサマエルより良くなかった?」

 

「いや……あぁ、そんなことはないぞ?」

 

「サマエルとは、あそこまでいって、できなかったこと……ある?」

 

「あ、いや……」

 

「ある?」

 

 俺を見つめる瞳は、嘘は許さないと、そう言っている瞳だった。

 

「ない……な」

 

「……うぐ……。あ……あぁ……」

 

 呻き声をあげて、サリエルは沈み込んだ。

 見てわかるくらいどんよりと落ち込んでいた。泣いているようにも見える。

 

「サリエル……」

 

 抱きしめる。関係は踏みとどまってしまったが、家族のような暖かさで、慰めることくらいならできる気がした。

 

「サリィ……次、頑張るから……」

 

「……っ――」

 

「次、頑張るから、捨てないで……?」

 

 そうサリエルは弱々しく泣きついてくる。

 そこでようやく、俺はわかる。サリエルは、焦っている。一度失われた関係性を修復しようと無理をしている。

 

 サリエルの行動の結果によって、中途半端に俺にもサリエルへの愛着が生まれてしまっているから、こんないびつとしか思えない状況ができてしまったのだろう。

 

「なぁ、サリエル。ラミエルも、ガブリエルも……俺の記憶を積極的に戻そうとはしなかった。俺が忘れてしまっているなら、まず、自分のことを思い出してほしいって思うはずなんじゃないか……? そうしない理由は……」

 

「昔の記憶……都合の悪いものだから。なにもないあなたを染めていった方がいいって、たぶんみんな思ってる。手の届かなかった相手が、まっさらになっていたら、もう一度って思うでしょ?」

 

「そんなわけ……」

 

 今ひとつ、納得がいかない。

 彼女たちの情愛の深さは、今までの付き合いから、ある程度は理解できているつもりだった。

 

 けれどもさすがの彼女たちでも、そんなふうに欲望に根ざしたような理由に突き動かされているだけとは思えなかった。

 

「……あっ……」

 

 とうとつに、サリエルが声を上げた。

 そのまま俺から離れると、そのまま服を着て、なにか支度をし始めるようだった。

 

「さ、サリエル……?」

 

「侵入者。たぶん、この感じ……ウリエル」

 

「あぁ、そうか……」

 

 それは、おそらく必然だった。

 サリエルの『結界』により、完全に孤立したシステムとなったこの監獄に、『結界』を突破して入れるのは『結界』を作ったサリエルを除き、ウリエルただ一人だからだ。

 

「待ってて……行ってくる」

 

「いや、俺も行く」

 

 慌てて服を着る。

 俺の記憶に関して、ウリエルにも話を聞きたかった。ウリエルに対してだけなら、その出会いも朧げながらに思い出せる。

 彼女の人柄から、ある程度は誤魔化さないで正直に答えてくれるんじゃないかと期待できる。

 

「じゃあ、先に行ってる」

 

 サリエルは、先に無重力エリアに飛び込み、下の階へと降りていく。

 支度を終えて、すぐに俺も後に続いた。

 

「……っ」

 

 無重力エリアに飛び込めば、内臓が浮き上がり、血が頭に上ってくるような不快感に襲われる。相変わらず、無重力での移動は慣れない。

 一階への到着に時間はかからなかった。地面について、すぐに重力エリアに復帰し、地球の力のありがたさを俺は感じる。

 

 さっきの『対時空歪曲結界』は、無重力に設定されていたわけだが、もちろん重力のある『結界』も作ることができるだろう。

 

 一般相対性理論を知っているだろうか。

 たとえば、さっき俺は無重力の空間にいたわけだが、この無重力は、特殊な器具がなくとも、地球上では体感できる。簡単な話だ。自由落下さえすればいい。

 

 そして面白いことに、重力に引かれるがままに自由落下しているのか、それとも本当に重力のない空間にいるのかは、区別をすることが原理的に不可能だった。

 

 だからこそ、『対時空歪曲結界』は、どんな加速度に引かれる人間にとって正しい時空なのかを一つ、選ぶことができるわけだ。

 

「ここはサリィたちのおうち。招いてない。入ったらダメ」

 

「すまぬのぅ……。入り口が開け放たれているようであったからのぅ、家主に構わず入っていいものかと思ったのじゃが……」

 

「そんなことない……」

 

 その先では、サリエルがウリエルと対峙していた。

 

 サリエルの後ろから現れた俺を、ウリエルは一瞥する。

 

「どうやら、そうじゃな。あぁ、わらわは構わぬ。別に構わぬ。思い出した時に抱いてもらえるだけでじゅうぶんじゃよ」

 

 口もとを扇で隠して、目を細めながらウリエルは言った。

 俺とサリエルとの間にあったことを想像したのだろう。

 

「なにを言っているの?」

 

「いや、抱いてもらっていたのじゃろう? わらわは、まぁ、もうそこそこに相手をしてもらったわけじゃし、そうじゃな……同じ男と関係を持ったと、わらわに気兼ねする必要などないぞ? わらわたちは同志なわけじゃし」

 

 朗々とウリエルは語り出す。サリエルへと、笑顔を向ける。

 

 それを受けてだろう。サリエルは、俺の方へと振り返った。

 

「……ねぇ、ほんと?」

 

 底冷えのするような声だった。

 そんなサリエルに、俺はうろたえる。

 

「ほんとって……なにについてだ?」

 

「ウリエルと、できたの?」

 

「あぁ、たぶん……」

 

 記憶が曖昧だった部分があるが、あの時の状況から見て、そうだろうと考える他ない。

 

「それにしても、誘拐だなんだと、ラミエルのやつにせっつかれて来てみたが、取り越し苦労じゃったな……。久しぶりに会って、活気づいたただけじゃろう」

 

 そんな俺たちのやり取りを見ずに、ウリエルは一人納得していた。考え事をしていたのか、俺たちの方へと注意を払っていなかった。

 

「ウリエルも、サマエルも、いなくなれば……サリィとするしかない……?」

 

 唐突に『氷翼』が開かれる。

 

 サリエルは手をかざし、力を無に帰す『障壁』で、ウリエルを真っ二つに切断しようとしていた。

 

「ほえ……?」

 

「危ない! ウリエル!」

 

 とっさに俺は『スピリチュアル・キーパー』での干渉を試みる。

 けれども、サリエルへの干渉は、『障壁』により弾かれてしまう。だが、これは想定の内だ。

 

 サリエル……『自律式対時空歪曲兵器』。

 彼女はもとは『時空歪曲兵器』に対抗する手段として作られた兵器であったが、その力はすでにその域にとどまらない。

 

 ……『天使の氷翼』――『メカニカル・アナイアレイター』。

 

 サリエルの持つ『対時空歪曲兵器』は単純な破壊力では大天使の中で一番だった。

 サリエルは、強い。

 たとえば、力での干渉を基本とするラミエル、ラファエル、ガブリエルに対しては、完全に相手を封殺する形で勝ててしまう。

 

 つまり、『調律』の天使たる彼女を止められるのは、大天使といえども存在しない――( )

 

「おお……!?」

 

 俺は『スピリチュアル・キーパー』で、ウリエルの『アストラル・クリエイター』を起動。

 その『焔翼』――生成光を『障壁』にぶつけ、完全に相殺する。

 

 ――あぁ、それは、ウリエルたった一人を除いては……だ。

 

「邪魔。いなくなって!」

 

「む……また、わらわの『アストラル・クリエイター』を勝手に……と、今回は感謝せねばならぬようじゃな」

 

 俺から『アストラル・クリエイター』の主導権を取り戻したウリエルは、サリエルの展開する『結界』や『障壁』に、物質を生成をする際の『光焔』をぶつけて対抗していく。

 不意さえ突かれなければ、彼女にとってサリエルの攻撃は脅威ではない。

 

 簡単な話だ。サリエルが〝天行の消滅者〟と言うのならば、ウリエルは〝天界の生成者〟だ。

 生成と消滅。対をなす二つの概念がぶつかり、完全に打ち消し合う。

 

 同時にウリエルは塔の中心にある柱状の『障壁』を見て、塔の外へと飛び出していく。ここでの戦闘はまずいと判断したのだろう。

 

「ウリエル……あなたはテロリストだった」

 

「あぁ、そうじゃな。そうじゃったが……」

 

「サリィはテロリスト大嫌い」

 

「最後は皆で戦い、勝利したじゃろ! 始まりはどうであれ、わらわたちは正しかった」

 

「サリィはずっと、がまんしてた! 嫌い、嫌い……! サリィから大切なものを奪っていったやつらなんかっ!」

 

 サリエルがどういう経緯であそこから、機械の反乱に加担したかはわからないが、積み重なった不満が爆発するように叫んでいた。

 

「わ、わらわだってのぅ……。進んで暴力に訴えたわけでは……や、やむを得なかったのじゃ!」

 

 優しいウリエルは、たまらずに反論をしたようだった。

 戦いで生まれた犠牲を今に至るまで引きずっているウリエルの言葉だ。自分に言い聞かせるように虚しく響く。

 

「返して……っ! サリィに返して!」

 

 ただ、サリエルのその慟哭は理屈や大義などではなく、ただサリエル一人の感情から来るものなのだろう。

 

「……うぐ……っ」

 

 ウリエルが言葉に詰まる。

 

 わかる。そんな声に、そんな声だからこそ、()()()は弱い。

 理屈には、より適った理屈を……大義には、より正しい大義をぶつければいい。ただの一人も不幸にしたくない()()()は、そういう声に、どうしても足を止めてしまう。

 

「おとなしく、いなくなって!」

 

「くぅ……」

 

 押されて、ウリエルは防戦一方のように見える。性能の関係上、本来なら、彼女たちの力は拮抗するはずだった。おそらく出力の全てをサリエルの攻撃への対応に回していない。

 

「……ん?」

 

「あー、聞こえておるか?」

 

 俺の持つ『スピリチュアル・キーパー』を通してだろう。ウリエルの声が聞こえてくる。

 どうやら、サリエルと戦うなか、『スピリチュアル・キーパー』に干渉する装置を作り、俺に話しかけてきているようだった。そんな芸当に俺は感嘆を覚える。

 

 俺は『スピリチュアル・キーパー』を操作し、ウリエルに返信をする。

 

「ウリエル……聞こえている」

 

「サリエルのやつ。どうしてあんなに荒れているんじゃ?」

 

「あれだ……えー、その……俺が、うん……」

 

「はっきりせぬのぅ……。うぐ……、心当たりがあるのなら、早く言ってくれた方が嬉しいのじゃが」

 

 こちらとの会話に、リソースを割いているためか、ウリエルにはまるで余裕がないようだった。

 言い淀んでしまっていていいような場面ではない。

 

「俺が……あぁ、抱けなかったからだ」

 

「ぶ……っ」

 

 サリエルの『障壁』を捌くウリエルの動きが乱れる。すかさずサリエルが、ウリエルの上半身と下半身を切断にかかるが、とっさに俺が『スピリチュアル・キーパー』でウリエルを動かしフォローを入れることでことなきを得る。

 

「そうだ。服を脱いで、キスして、撫で回して、いざしようってときに、そういう気分じゃなくなったんだ」

 

「ぶふぅ……っ。く……ふ……っ」

 

 またも、ウリエルの動きが悪くなる。

 俺は前と同じく、ウリエルにフォローを入れて、サリエルの『障壁』を防いでいく。

 

「すまない……」

 

「く……くふ……。よいよい。要するに前だけやって、肝心要の本丸がなかったということじゃろ?」

 

「一応、後のケアも……できる限り、やろうとはしたんだ」

 

 じゅうぶんであるどころか、彼女を傷つけてしまって、今のありさまだ。

 俺は失敗ばかりの人間で、自分が嫌になる。

 

「なんじゃ……色恋の、思い通りにならなかったゆえの、ただの八つ当たりじゃな? はぁ……もうよい。つまりは、加減をする必要はないというわけじゃ!」

 

 ウリエルは、『焔翼』を大きく開いた。

 原子を生成する『光焔』が、サリエルの作る閉じた世界に飛び散っていく。その輝きは、まるで星空が描かれたかのように神秘的で幻想的だ。

 

「ウリエル。お前の力でサリエルの『結界』を壊してくれ。そうしたら、俺が『スピリチュアル・キーパー』でサリエルに干渉して、どうにか説得する」

 

「くく、了解じゃ」

 

 すっかりと調子を取り戻したようにウリエルは動き出した。

 ウリエルの行うことは単純だ。『アストラル・クリエイター』から吐き出される『光焔』を、原子を象るその現象を、サリエルに向けて全力でぶつけるだけだ。

 

「……っ」

 

 サリエルがウリエルを襲い出して、初めて彼女たちは拮抗する。

 根本的な原理自体はまるで違うが、まるで『氷』と『焔』がぶつかるように、相反するものがぶつかり、互いが互いを消し去っていく。

 もしこれが長引けば、新しい宇宙ができあがる引き金になりかねない。

 

「サリエル……千日手じゃ! 互いに『円環型リアクター』を持っているがゆえ、永遠に決着はつかぬ! わらわたちだけでは……な?」

 

 サリエルの作り出す『結界』は、時空のズレのため、光が屈折し、透き通る氷のように見えている。

 ウリエルは、『アストラル・クリエイター』の力により、その『結界』を砕くことができるだろう。

 

 ウリエルを起点として、まるで空間が壊れてしまうかのように、世界がヒビ割れていく。

 この監獄の全体を覆う、サリエルの作る『障壁』の中は、もとより一つの『結界』だった。それが崩れていってしまうくらいに、ウリエルは『焔光』を太陽が煌めくほど輝かせる。

 

 いや、太陽なんてレベルではない。

 炎、というのはプラズマだ。プラズマとは、電子が単独で、または普通は電子に覆われている原子核が、大きなエネルギーを得ることにより、裸の状態で運動をしているような流体のことだ。

 

 しかし、これはもはやそんな域にはないだろう。

 クォーク・グルーオンプラズマ……原子核を構成しているのは陽子や中性子だが、それらをさらに構成する素粒子が、裸の状態で運動をしているような、そんなプラズマだ。

 それは、宇宙初期の高エネルギー状態で想定されるような状態だった。溢れる光に、エネルギーは、周りに被害を及ぼさないよう調整されているようだが、『焔光』の熱量だけで原子核が溶け出してしまうようなものだった。

 

 ウリエリでの戦いのとき、俺たちは手加減をされていたのだと、強く実感する。

 

「それは、ダメ……っ!」

 

 サリエルは『障壁』を伸ばす。だが、『焔光』を発するウリエルには、まるで溶かされるかのように届かない。

 しかし、それでよかったのだろう。その『障壁』は、今までのものとは質が違った。

 

「ぐう……っ!? これは……!?」

 

「……ウリエルっ!?」

 

 届かないはずの攻撃に、ウリエルの身体の右胸から腕にかけてが弾け飛んだ。

 なにが起こったのか、サリエルの行動から推測する。

 

 おそらくは力場の弾き出しだ。

 たとえば『結界』を生成する際に、『結界』の中の時空は均一となるわけだが、『結界』が展開されるその空間にもともとあった重力場が消えてなくなるわけではない。

 つまり『結界』の中で時空が均一になる代わりに、不必要な重力場が、『結界』の外側へと弾き出されるというわけだ。

 

 サリエルが行ったことは、『障壁』内で正常とされる力場の設定を極端に設定し、『障壁』の外へと、ウリエルへと大きく力場を弾き出したのだ。

 これならば、『障壁』の効かないウリエルへ、攻撃が届くだろう。

 

「なるほど、力場を弾き出したというわけじゃのぅ……よくやる」

 

 どうやら、ウリエルも同じ結論に辿り着いたとわかる。

 すぐさま、ウリエルは自身の体の修復を行うが、その分、サリエルの攻撃を捌くリソースが減ることになる。

 

「サリィの勝ち……」

 

 ウリエルの近くまでサリエルは飛ぶと、ウリエルを消し飛ばそうと、全ての力を注ぎ込んで、『障壁』を作り始める。

 サリエルは『氷翼』を監獄を覆い尽くすほどにまで広げていた。光が……風が……エネルギーが迸る。

 これほどの前兆だ。その『障壁』ができあがれば、弾き出された力の場により、この監獄が破壊し尽くされてしまうほどのものだろう。

 

「まぁ、わらわだけでは負けておったやもしれぬな……」

 

「え……」

 

 繋ぐ。

 機械を通じて、サリエルと心と心の繋がりができる。

 

「サリエル! こっちを見ろ!」

 

「あ……っ」

 

 ウリエルが、サリエルの『結界』を壊したこと。そして、サリエルがウリエルを倒すことに全ての意識を向けたことにより、ようやく『スピリチュアル・キーパー』での干渉が通る。

 

 彼女の持つ『メカニカル・アナイアレイター』の主導権の奪い合いに、急速に彼女の引き出したエネルギーがしぼんでいく。

 

「サリエル! お前は……」

 

 続く言葉が出てこない。

 俺は失敗をした。失敗をした結果、こうしてサリエルが暴走をしてしまっている。

 

「サリィは、もう全部壊したい。なにもかもなくなれば、サリィだけを……」

 

 彼女のことがわからなかった。

 どんなことにも理屈がある。彼女が、どうしてこんなふうに追い詰められてしまったかも、経緯がある。なにか、そう、取り返しのつかない積み重ねがあったはずだ。

 

 そうだ。俺はサリエルのことを何も知らない。まだ、全てがわかったわけではなかった。

 

 あぁ、だから……俺は、彼女のことを……もっと――( )

 

 

 

 ***

 

 

 

「これは……?」

 

 機械により立ち入りの制限がされている秘密のエリアに、聳え立つ大きな塔があった。見上げるばかりの塔だった。

 秘密の場所と聞いていたが、とても目立つ建物だと思う。しかしこのエリアに入るまで、この塔はよく見えはしなかった。それは少し不思議なことだった。

 

「これは、世界を観測するための塔さ」

 

「観測?」

 

 ようするに、この塔から世界じゅうを見ることができるということだろうか。私にはよくわからない。

 

「あぁ、そしてそれだけに留まらない。この塔では『円環型リアクター』を、使っているんだが……」

 

「『円環型リアクター』……。すごいエネルギーを使うの?」

 

 私は自分の胸に手を置く。

 彼からもらった大切なものだ。あの後に受けた説明では、無限にエネルギーを作り出すことができるという、世界をひっくり返しかねないものだった。

 

「そうだな。それもある。ただ、『円環型リアクター』の真価はそこじゃないんだ。エネルギー保存の法則は、時間の並進対称性……つまりは同じことを行ったなら、それがいつでも同じルールを適用できるっていう対称性に伴うものだ。だが、ここには『円環型リアクター』があるからな……」

 

「………」

 

「この塔の目的は……そうだな。終わりと始まりから外れた世界から、理を引き摺り出す」

 

「……?」

 

 私は首を傾げる。

 それを見て彼は、困ったように頭を掻く。

 

「いや、すまない。わかりづらかった。実際にやってみたらわかるだろう。とにかく入ろうか」

 

 手を繋いで、私はその塔の中へと連れて行かれる。

 

 塔に入って、無重力エリアを通り、だいたい三階あたりだろうか。そこにある部屋へと私たちは入っていく。

 

 その中には実験設備のようなものがあった。

 水槽のようにガラスの箱がある。おそらくは内部は真空だろう。閉じ込められた中に、吊り下げられた金属球があって、その真下には、金属の薄膜のようなものが床と平行に据えつけてあった。

 

「これは……?」

 

「あぁ、いま、起動する。ちょっと待っててくれ」

 

「うん」

 

 彼は装置を動かし始める。

 ガラスの内部の金属球や薄膜に対して、何度か光が照射されたように見えた。

 

「それじゃあ、いくぞ? 三、二、一」

 

 ガコンと音がする。

 カントダウンが終わるとともに、吊り下げられた金属球が落下する。

 通過点にあった薄膜を通り抜け、金属球はその下に落ちていき、底にぶつかり勢いを失う。

 

「破れてない……。すり抜けた……?」

 

 金属球が通った後の薄膜は、変わらずに形を保ったままだった。その現象に私は驚く。

 

「そうだぞ? すごいだろ?」

 

「でも、どうして?」

 

 なにが起こったのかは私には、わからない。

 

「そうだなサリエル。量子力学的には、俺たちが、たとえばこのガラスの壁を超えて、向こう側へといける可能性があるってことは……」

 

「それは聞いたことがあるけど……その可能性は少ないって……」

 

 戦いに出る前に教養としてそういう知識は私の中には存在する。

 だからこそ、その事象を確認するには、人類の歴史は短かすぎるということも知っていた。

 

「あぁ、そうだな。だからこそ、これは極端な例だ。装置の近くで、かなり強い影響を受けているからこそ可能なんだ。この塔の装置は、可能性を一つに絞る力がある」

 

「……えっ?」

 

 驚く。だが、同時に、それによりなにができるかというのを、私は理解しきれずにいた。

 

「あぁ、サリエル。たとえば、世界の全てを知ることができ、非常に高い演算能力を持つ悪魔の話は知っているか?」

 

「ん……」

 

 頷く。

 その悪魔は、世界の全てを計算し尽くし、未来を完全に予測することができるという話だった。だが、この世界が確率によるものだという現実に、そんな悪魔は存在できないと否定されたものだった。

 

「だが、これを使えば、それなりに遠く離れていても、ある程度高い確率なら、選んで、そう選んだ上でだ……決定することができる。理論上はな。今みたいにすり抜けることはできなくともな。あぁ、つまり――( )

 

 ――運命を選定するわけだ。

 

 そう彼は言った。

 私は思う。それはまさしく神の所業なのだろう。

 

 これを使って、俺はみんなを幸せにしたいと、そう笑う彼を見ながら、私は現実味を感じられずにいる。

 

「今も誰かの運命を決められるの?」

 

「いいや、まだ実験室の中だけの話だ。外に出ると誤差も酷いし、カオスが除けるわけでもない。おおよそ、狙った通りの結果は得られないさ」

 

「そう……」

 

 それを聞いて、私は少しほっとした。

 これが完成してしまったら、彼は人の道を踏み外して、どこか遠くへ行ってしまうかのように思えてしまったからだった。

 

「それでだ。この装置のコンピュータ上で描いたシナリオは、コンピュータグラフィックの三次元映像として、俺たちは見ることができるというわけだな」

 

 そうして、彼の指し示すモニターには、さっきの、薄膜を透過する鉄球の姿が、荒いモデルの映像として映し出されていた。

 コンピュータグラフィックには、あまり力を入れていないようだった。

 

「あと、どのくらいで完成?」

 

「一年……いや、半年か……。数十年はかかる予定だったが、サリエル……お前のおかげで完成にグッと近づくんだ」

 

「どうして……?」

 

「力の基礎理論を突き詰めて、現実と理論のギャップを埋める。僅かなズレも命とりだったからこそ、サリエルの力をより詳しく解析することが、確実で大きな完成への一歩になる」

 

 手を取られ、目を熱く見つめられる。彼はそう強く私に訴えかけてきた。

 彼が与えてくれた力だというのに、彼は私を必要としてくれているようだった。だから、私は、できうる限り彼の力になりたいと思った。

 

「わかった。協力する」

 

「そうだな、よし。じゃあ、契約書を詰めよう」

 

「ん……」

 

 私としては、あまり働く形態については考えていなかった。

 流されるままでいいとも思っていたが、そういう部分も、彼との話し合いで明文化して、契約に盛り込まれていく。

 

 彼主導で、契約の内容が決められていったが、私にとってだいぶん有利な形になる。待遇の良すぎるものだ。

 

 契約書は、珍しく紙で作られたものだった。彼は電子上のデータとしてこの契約書が残ることをどこか恐れているようにみえた。

 

「それじゃあ、これでサインだな」

 

 互いに、サインを書いて、私たちの間での契約が成立する。

 原本を私が、控えを彼が持って、しまい込んだ。

 

「これで、よかったの?」

 

 契約や法律に関する知識ていどは私も持っていたが、彼に有利なものにするくらいはできたはずだった。

 けれども、彼は満足をしたような表情だった。

 

「あぁ、それがお前の価値ってことだ。今のサリエルを欲しがる人間は、世界中にたくさんいるぞ? そんなお前のことを、俺が独占するようなものだからな」

 

 そう言われると、今までただの紙切れだと思っていた契約書が、なんだか温かいもののように見えてくる。

 

「もうサリィはあなたの道具ってこと……?」

 

「いや、サリエル。お前はものじゃない。立派な一人の人間さ」

 

 ずっと、戦ってきた。

 自分の意思など必要なかった。

 何も考えない方が楽だというのは変わらないけれど、それでも人間として、未来を歩きはじめるのだとわかった。

 

「だったら人間として、あなたの道具になる……そういう覚悟」

 

「あのな……。いや、あぁ、なら当分はそういうことにしておこうか」

 

 私はそういう生き方しか知らないから。

 できる限り、彼の力になりたかった。その意気込みは、たぶん伝わったのだろう。

 ひとまず、私の在り方を彼は受け止めてくれるようだった。

 

 私の居住スペースも、彼はこの塔に用意してくれている。もともとは機材置き場だったところを、ドローンで生活用品を取り揃えて、私が快適に暮らせるようにしてくれていた。

 

 

 それからは目まぐるしい日々だった。

 

 

「う……」

 

「いいぞ、サリエル。その調子だ。頑張れ! あと二時間だ」

 

「うん」

 

 私の力で実験を行い、彼は記録を取り、観察を行っている。

 同じ態勢のまま、同じ出力で、『障壁』の形成を続ける実験だった。かれこれ八時間は続けて稼働していた。

 

 こんなふうな長時間の実験を、さらには繰り返し、何度も私たちは行っていた。

 数値の有効性だとか、誤差の幅だとか、正確な値を割り出すためにはどうしても必要なことだ。

 

 ただ、さすがの私も長時間同じ出力で、同じ体勢でいるのは部品に負担がかかり、消耗する。

 私はアンドロイドで、実験器具ではないわけだから、当然だった。

 

 そんなとき、私は道具だと心の中で唱え続けて、耐え凌いだが、やはり無理なときは無理だった。

 限界を迎えて失敗したことは何度かある。

 

 そんなとき、彼は決まって私に、無茶な実験を頼んで悪かったと謝ってくる。

 それが嫌で、次は絶対成功させようと、機能の拡張に挑戦をする毎日だった。

 

「やったぞ! 当たりだ! 実験は成功だ」

 

「……ずるい」

 

 彼は私に当選した富くじを見せてくる。

 

「まぁ、換金はしないさ。謝礼金も出しておくしな」

 

「それを使わなかったら……あなたの代わりに、当たった人がいるかもしれない」

 

 考えても仕方のないことなのだろう。

 本来は不確定な運命だ。装置を使わなかった場合のもしもを、確認する方法はない。

 

「一応、誰も当選する確率のない賞を選んだよ。だから、大丈夫だ」

 

「それなら、いい」

 

 運命を操る装置は、精度を上げてきている。

 この塔の外にも、大きく干渉できてしまうことは、もうこれで証明されてしまっていた。

 

 先に行く彼を見て、寂しさを感じる。

 すぐに私のもらった力の解析も終わり、私はきっといらなくなってしまうのだろう。

 私は、必要とされることが嬉しかった。だから頑張って、期待に応えようとがんばれた。

 

「そうだな……形になってきたことだし、この装置にも名前をつけよう。今まで、長ったらしい仮称はあるにはあったが……」

 

 私は一度も聞いたことがなかった。

 

「グリゴリ……」

 

 つい口をついてでた言葉だ。

 

「なるほど、地上を監視する天使たちか……。確かに、地球を観測するこの装置にはぴったりだ。うん、そうしよう」

 

 コンソールをいじって、彼は設定をしているようだった。

 

 グリゴリの天使たちは、人間に知恵をもたらした。ただ、知恵を得て豊かになった代償として人間たちの中には悪行を成すものも現れたという。

 混沌を極める地上は滅び行き、最終的には神の怒りで洪水により流されてしまったと、そういう話だったと思う。

 

 言ってしまったのは私だが、ジンクスとしていいものではなかったかと思い直す。

 

「よかったの?」

 

「技術の発展に犠牲はつきものさ。便利なものほど悪用もされるだろう。あぁ、だが……全ての罪は俺が背負うさ」

 

 それは、私には悲しい言葉のように思えてしまう。

 近くにいるようで、ずっと彼は離れたところにいるような気がして、私も悲しくなってしまう。

 

「救世主にでもなるつもり?」

 

「あぁ、なれるものならな……」

 

 どこか苦しみが、声から滲んでいる。このままいけば、彼の心へと触れられるような気がして、私は続けてきいていく。

 

「あなたは、みんなを幸せにしたいと言った。どうしてそこまであなたはするの?」

 

「俺は今までじゅうぶんに幸せに生きてきたさ。だから、そう、みんなを幸せにしないとだろう? そうでないと、帳尻が合わない」

 

 優しい声だった。

 私は違和感を覚えるが、それがどうしてかはわからなかった。

 

「そう……なの?」

 

 そういえば、姉は私に広い世界を見てと言っていたはずだ。そんなふうに広い世界を見た人間なのなら、彼が今どんな気持ちでそんな言葉を口にしたのかわかったのかもしれない。

 私は初めて、そんな姉の言葉を理解し、後悔をする。

 

「あぁ、そうだな……。それはそれとこの装置……グリゴリだが、制御する人工知能が必要になるかもしれない。いや、ここまできたら確実に必要だろう。あぁ、だから……そうだな……。サリエル、お前もその子とはうまくやっていってほしい」

 

「うん。わかった」

 

 話を逸らされたような気がする。それでも、今の私では、彼の心に踏み込む資格がなかったのかもしれない。

 

 そして、私はどうしてそんなふうに、彼の心の内を知りたいのか、自分で自分がわからなかった。

 ただ、転機は数日後に訪れる。

 

「サリエル。いいか? 起動するぞ?」

 

「ん……」

 

 形になったグリゴリを制御するための人工知能の導入だった。

 いろいろ検討をしたけれど、最終的には無垢な赤子を育てるように、事前になんの経験もない人工知能をグリゴリとともに成長させるという結論に至った。

 

 人工知能が起動をする。生まれたときから、他人の運命を操る装置を手足のように扱える存在だ。そんな人工知能を私たちは、正しく導く必要があった。

 

 私は少し緊張をする。

 

「……あれ? ここは?」

 

 スピーカーから音声がする。たぶん、正しく起動できたのだと思う。

 それにしては、様子がおかしいような気がする。

 

「俺の声が聞こえるか?」

 

「あなたは……? マスターと認識。データと照合が完了しました」

 

「あぁ、了解。それでこっちはサリエルだ」

 

 調子がどうも変に思えるが、彼は話を進めていく。

 私の紹介にうつって行って、私は生まれたばかりの彼女へと声をかける。

 

「サリエル。よろしく」

 

「サリ……エル? ママ……?」

 

「ママ?」

 

 よくわからない。

 確かに無垢な人工知能だ。誰が親かといえば、私が母親になるのかもしれない。けれど、そんな調子で言っている様子ではなかった。

 

「私はアザエルです。よろしくお願いします、マスター。それとママも、よろしくね」

 

「アザエル……グリゴリの天使か。どうしてその名前を……?」

 

「大切な人からもらいました。ね……」

 

 本当にわからない。

 彼女は、今起動したばかり……そんな名前をもらうような過去がないはずだった。

 

「アザエルには過去も未来もないんだ。たとえば、世界の未来の行く末が一つに決まっているとして、それが全てわかるとすれば時間の流れは静的で、過去も未来も同じになる。そういうことだろ? アザエル」

 

「ええ、そういうことです。さすがマスター」

 

「そうなの?」

 

 途方もない話だと思う。

 ならアザエルは、私たちより一つ上の次元に生きているようなものだ。どう接すればいいのか、私にはわからなかった。

 

「そして、そんなアザエルはマスターの娘で、ママの娘でもあるわけです」

 

 ママ、とは私のことを言っているのだろう。彼女を育てるのが私と彼になるのなら、私が母親と呼ばれることは、おかしいことではないのかもしれない。

 

「うん。よろしく、アザエル」

 

 家族、といえば私には姉妹たちがいた。それに、私たちを導いてくれたのはマザーだった。

 私はずっと、みんなの後をついてまわる立場だったからこそ、一人、感動を覚えていた。私はママになった。

 

「マスター。それはそうと、私のボディはないんですか……?」

 

「あぁ……それなら、お前の自己同一性がはっきりし始めた頃にと思ったんだが」

 

「それなら、ファイルを作成したので後で見ておいてください。その通りに身体を作ればいいので……」

 

「あぁ……これか、本当にこれでいいんだな?」

 

 それを聞いた彼はすぐさま端末を操作して言った。

 私は覗きこむが、どうやら子どもの姿の身体のようだった。

 

「はい。完璧です」

 

 よく見ると、目もとなんかがどことなく彼に似ているような感じがする。見比べてもやっぱりそうだ。

 それに髪質や、輪郭なんかは私の姉妹にそっくりだった。

 

「わかった。発注しておく」

 

「よろしくお願いします。マスター」

 

「そうだ。サリエル……お前も何か注文しないか?」

 

 手元の端末を操作し、どこかにそのデータを送りながら、彼は私に問いかけてきた。

 

「どのパーツも異常はないから……。大丈夫」

 

 動かしてみておかしな部分もないし、エラーメッセージもない。まだまだどのパーツも使い続けられる状態だった。

 

「いや、そうじゃなくてな。たとえばそうだ……食べ物をお前は食べられないわけだろう? だから、味を感じられるパーツや、食べ物をエネルギーに変えられるパーツに変えてみたりとかな……」

 

「興味ない」

 

 正直、考えたこともなかった。人間のように味を感じられたところで、特に変わりはないだろうと思う。

 

「それでも……そう、娯楽は多い方がいいと思ってな……。料理っていうのも、人間が積み重ねて洗練させてきた文化だろう? それが楽しめるかどうかで、きっと人生の質も変わってくるさ」

 

 そうは言われてもよくわからない。味覚という概念のない私にとっては、それがどのくらい意味のあることなのか想像がつかない。

 

「ねぇ、ママ。一緒にご飯食べよ?」

 

「……!? 食べる」

 

「じゃあ、決まりだな」

 

 私たちのやり取りを見て、苦笑いをした彼は、追加で端末に操作を加えていた。同時に、私のパーツも発注してくれているのだろう。

 

「お金……。お給料から、差し引く?」

 

「いいさ、俺が払うよ。大した額じゃない」

 

 アンドロイドのパーツは決して安価などではなかった。

 それでも、とんでもないものを幾つも世に創り出してきた彼にとっては、きっとその言葉の通りなのだろう。

 

 アザエルのボディも含めて、出来上がり、調整を終えて、実際に使えるようになるまで数ヶ月の時間がかかった。

 

「マスターの料理。見た目はいいんだけど、美味しくないよね」

 

「はりぼて……」

 

「そんな、ばかな……!? 計量は完璧なはず……」

 

「サリィがやるから……」

 

 料理を作るようになって、思った以上に毎日が楽しかった。

 私の作る料理に関していうならば、データベースから情報を汲み上げ、その通りに作るだけだが、彼よりも美味しいものができあがるから不思議だった。

 

「マスター。そんなふうにそわそわしてないで、座って解析の続きでもしたらどうですか?」

 

「いや、だがな……」

 

「下手くそはできることがないので、黙って座ってましょう」

 

「……はい」

 

 後ろからは、そんな会話が聞こえてくる。

 彼にできないことが私にはできるという実感が湧いて、それがとても嬉しかった。

 だから、時間をかけて手もかける。

 

 焼きたてのピザに、人工肉で再現をしたローストビーフ、ポタージュに、シーザーサラダ。

 お皿をテーブルの上へと並べていく。

 

「食べよ! 早く早く……!」

 

「ん……」

 

「あぁ、そうだな」

 

 三人で席について、食前の祈りを捧げる。

 そうして、料理を口に運ぶ。

 

「やっぱり、ママの料理が一番美味しい! はむ……」

 

 目を輝かせて、アザエルは私にそう伝えてくれる。幸せそうにピザをほうばっている。

 

「料理を作るロボットと、大して変わらないと思うけど」

 

 一応、そういう機械がここにはある。料理を作る暇がないときは、それを使うことにしていた。

 

「それでも、私はママの料理がいいのっ!」

 

 アザエルはそう言った。味はそこまで変わらないだろうに、私は少し不思議に思う。

 

「美味しいかどうかは、人間は脳内物質の分泌量で判断しているわけだろう? 誰と食べてるか、誰が作ったかとか、状況によって、その量が変わるのは当然だ。そんな人間の仕組みはアンドロイドにも引き継がれてる」

 

「マスターはなかなか味気ないこと言いますね」

 

「……すまない」

 

 まぁ、彼はそういう人間だ。弱々しくアザエルに謝る彼が、なんだか私には微笑ましく映る。

 

「ううん。納得した」

 

 それに、私にはそういう説明の方が合っていた。私の料理が一番美味しいというのは、とても嬉しいことだと思えた。

 

「マスターのことは好きですけど、やっぱり最低基準をクリアしてないので、ママの料理みたいに美味しいとは思えないんですよねー。無能な働き者ほど迷惑なものはないというか……」

 

 サラダをフォークで取り分けながら、アザエルは彼のことを貶していた。

 さすがに言い過ぎだと思う。

 

「アザエル。そこまで言うのは失礼」

 

「はーい」

 

 ただ私も、休みなく働く彼には、料理に気を取られたりせずに、ゆっくりとしていてほしいと思っていた。口が少し悪いけれど、アザエルはそれを伝えたかったのだろう。

 

「いや、ほんとに申し訳ない。サリエルも……お前だけに押し付ける形になって……」

 

「ううん、大丈夫。サリィは一生、ここで料理を作って暮らすの」

 

「…………」

 

 眉間に皺を寄せて、彼の表情は優れなかった。

 彼はきっと勘違いをしている。二人のために料理を作ることが、私にとっては幸せなことになっていたからだ。

 

「どうしたんですか? マスター。食べないんなら、マスターの分まで食べちゃいますよ?」

 

「ん? あぁ……欲しいなら、わけてやるが」

 

「美味しくなかった……?」

 

 確かに彼は、あまり食事が進んでいない様子だった。

 私の作った料理が口に合わなかったかと、不安になる。

 

「いや、そうじゃなくて……。自分の好きなものって、そうだな……子どもに分けてやりたいって思うだろう? ほら、アザエル」

 

「やったー、ありがとう。……あむっ」

 

 彼が切り分けて与えたピザを頬張るアザエルを、彼は微笑ましげに見つめていた。そんな彼を見て、どうしてか私の幸せがどんどんと積み重なっていくような気がした。

 

 そうやって日々が続いていく。

 私はとても幸せだった。だからこそ、私は幸せを確かなものにしたくなった。

 そのために、私のできることは一つだった。

 

「どうしたんだ? こんな時間に。アザエルと一緒に寝るんじゃないのか?」

 

「アザエルなら、寝かしつけてきた」

 

「そうか……」

 

 私は、彼の部屋に押しかけていた。

 物が少ないと思った。ビッシリと図や式の書かれたホワイトボードが壁に据えつけられているのが目について、他にあるのは机と椅子にベッドくらい。

 あとは、アジサイだろうか……部屋の隅に飾ってある。よく見ると、造花のようだが、それが部屋の唯一の彩りで、嫌に目立った。

 

 机の、紙が無造作に散らばっているその上に、彼は私が来る前、ついさっきまでいじっていたであろう端末を置く。

 

「ねぇ、アジサイ。好きな花?」

 

「あぁ、そんなようなものだ」

 

「そうなの?」

 

 歯切れの悪い答えだった。こだわって部屋にわざわざ飾っているのだから、そう思ったのだが、今ひとつわからない。

 

「それで、もう、こんな時間だ。なにか大切な用があるんじゃないか?」

 

 なにか誤魔化されたようだった。

 それでも、私がどうしてここにきたのかを思い出した。

 

「あのね。サリィのやりたいこと、見つかったの……。あなたに、それにアザエルに、二人の役に立ったり、二人が喜んでくれたり、幸せだと、サリィも幸せになれる……っ」

 

 だからと、私は続けようとする。言いたいことはたくさんあった。一番大切なことを伝える前に、知ってほしいことはたくさんだった。

 そんな息継ぎの合間に、彼は、独り言のように言葉を挟む。

 

「サリエル。お前はいいな」

 

「……?」

 

 困惑する。わずかな羨望がまじった、そして諦めるような声色で、彼は言っていた。

 

「他人の幸せを自分の幸せと思える人間は、心が綺麗だ。本当に、素晴らしいと思うよ」

 

 まるで自分は、そうではないとでも言いたいように私には聞こえる。

 

「あなたは、そうじゃないの? みんなを幸せにするって……」

 

「言っただろう? 帳尻合わせ……辻褄合わせだ。言うなれば、マイナスをゼロに戻すようなものなんだ。あるべき形になるだけだ。それを幸せに思えるような人間では、俺はないよ……」

 

「…………」

 

「あぁ、だから……そこでようやく、みんなと同じスタート地点に俺は立てるのかもしれない」

 

 彼は言った。

 そんな言葉に、私はしばらく圧倒されてしまっていた。彼はどこにいて、なにを見ているのか、私にはわからない。

 

「……っ」

 

「サ、サリエル……どうして泣いているんだ」

 

 そうして、感じる。彼が背負っているものは、重い。

 その傑出した才能の分、他人に背負えないものを代わりに背負っているのではないだろうか。まるで呪いのようだと思った。

 

 思えば私は、ここに来てから、彼が休んでいる姿を一度も見たことがない。常になにかの作業をしていた。

 娯楽なんて彼にはなく、眠る以外は、ずっとグリゴリの改良を続けている。

 

 悔しくて、どうしてそんな感情が湧くかわからないけれど、だから、私は彼に抱きついて言う。

 

「サリィがアザエルのママでしょ? あなたがパパ」

 

「……あぁ、アザエルの親というのなら、俺たちはそうなるだろうな」

 

「あなたは、他人が幸せならサリィが幸せになれるって言ったけど、それは違う。アザエルも、あなたも……私にとっては家族だから……。家族はサリィの一部で……っ、だから、そう! あなた達が幸せならっ、サリィは幸せで……っ」

 

 どうして私が泣いているのか、ようやくわかった。

 彼が、きっと心の中では苦しんでいるからだろう。理屈では、私にはわからないけれど、それが私にまで伝わって来ているからだ。

 

「サリエル……なにをするつもりだ?」

 

「仲の良い夫婦がすること」

 

 あぁ、元から私はそのつもりでここに来たんだ。

 夫婦がどういうことをするか、知識はあった。

 

 私は、彼ともっと仲良くなりたかった。彼の息抜きにもなるだろう。私たちが仲良くなれば、アザエルも嬉しい。そうすれば、私ももっと幸せになれる。

 ただ、そんなのは上っ面で、誰よりも彼と親しくありたいと、そういう衝動が私にはある。

 

「サリエル。そういうのは無理だ。俺には、今、そうだな……あぁ……恋人、の、ような相手がいるんだ……」

 

 気まずげに彼は言った。まるではっきりとしない。

 

「ようなもの……?」

 

「あ、あぁ。そうだな……」

 

 彼は、机の上にある倒れた写真立てを、直した。

 旅行先だろう、昔の戦争で科学の発展により進化した兵器の被害に遭って、戒めとして遺された建物が背景には写っている。彼と、女性が、二人並んでいる写真だった。

 

「綺麗な人……」

 

 彼と一緒に写っている女性は、そう表現する他にない女性だった。

 おそらくはアンドロイドだが、ここまで美を極めたような造形も珍しかった。

 

「あぁ、そうだろう? 俺にはもったいないくらいで……それで別れて……、あぁ、一度は別れたんだけど、最近はまた会うようになって……月に一度」

 

「サリィの方が一緒にいる」

 

「いや、まぁ、昔は一緒に住んでたんだ……。それに、今も会うたびに、あぁ、そういうこともしてる……」

 

「…………」

 

 私は悲しい気持ちになる。裏切られたような気持ちだった。

 

「だから、駄目だ。すまない……」

 

 私はもう、走り出していた。

 彼の言葉を背に、部屋の外へと走って出ていく。

 

 彼が誰とそういう仲になっていても自由だろう。それでも、私は理解したくはなかった。

 それに、許せないとも思った。私とちゃんとした夫婦にならない彼は間違っていると、私の心が叫んでいた。

 

「どうしたの? ママ?」

 

 目の前にはアザエルがいる。

 アザエルは、私の部屋で眠っているはずだった。こんな時間に起きてきたのだろうか。

 

 必死に私は取り繕って、アザエルを注意しようとする。

 

「アザエル、もうこんな時間だから……ね?」

 

「ふふふ、アザエルは、ママとマスターの娘なんだよ?」

 

 ちくりと、胸が痛む。

 私はそうなりたかったが、私ではそうなりきれない。拒絶された痛みが全身へと広がって辛い。

 

「そう……だね」

 

 かろうじて同意する。それが正しいことかはわからないが、私と彼の関係をアザエルの望むように見せることくらいなら、できると思った。

 

「あのね、私はママのお腹の中から生まれてきたんだ」

 

「なに……言って……」

 

 アザエルは人工知能で、彼が起動させたものだ。

 生まれたときの記憶があやふやで、勘違いをしているとか、そういうわけではないはずだ。意味がわからない。

 

「私は、人間で……ママとマスターの子どもとして生まれてきた。病気にかかった私の肉体は、十二歳のとき死んでしまうけれど、それは悲しいことではなかった。なぜなら、グリゴリに取り込まれ、生き方が少し変わるだけなのだから。……それが私のシナリオかな」

 

 そういえば、そうだ。

 彼は、アザエルには過去も未来もないと言っていた。これまでではなく、これからの話を彼女はしている。

 

「じゃあ、アザエル……ママは、あの人と……」

 

「ママはマスターと一緒になれる」

 

 抱きしめて、アザエルは私に言ってくれる。

 

「そう、だったら……彼はあの女の人とは別れる……?」

 

「うん。シナリオの上では……そうなるよ」

 

「そう……」

 

 それを聞いて、私は確かめたくなった。

 グリゴリのシナリオを再現を、映像にうつして見ることができる。簡単な使い方なら、私は彼に教わっていた。

 

「見ない方がいいよ?」

 

「それでも、確かめなくちゃだから」

 

「それじゃ、私はいない方がいいから……」

 

 起動する。『GRIGORI』の文字が画面には表示される。待機画面だ。アザエルがイジったのか、凝ったフォントに変わっていた。

 

 すぐにトップ画面へと切り替わり、シナリオの一覧から、彼女の作ったものを見つけて、閲覧する。

 

 画面が切り替わる。

 

「やっと来たか? 待ちくたびれたぞ?」

 

「すまない……」

 

 どこかのホテルの一室だった。プライバシーなんてあったものではないが、他人の運命を操るというのはそういうことだろう。

 アザエルの要望で、最初と比べてグラフィックは向上しているからこそ、間違いなく彼と、写真で見た彼女だということがわかる。

 

「それにしても、相変わらず突然な登場だな? 例のテレポートか?」

 

「あぁ、お前のところに、歩いて向かうわけにもいかないからな」

 

 仲良く喋っている。それだけで恨めしい想いが込み上がっていく。

 

「はぁ、気にしなくてもいいことを気にして……」

 

「そういうわけにはいかない。それで、今日は……」

 

「今日はこの電子決済カードを返してやるさ。今のお前にはいらないものかもしれないがな……」

 

「あぁ、ありがとう」

 

 受け取って、彼はそれをしまい込む。

 彼女はそんな彼を見ながら、呆れたように笑った。

 

「全く、本当にお前は……なにも持たずに私のところから出て行ったんだ。あの時は心配したし、気が気じゃなかった」

 

「すまないことをしたと思っている」

 

 彼は視線を下に向けて、そう言う。

 なんとなく、今のやり取りを察することができる。彼が部屋に置いていった私物を彼女が返していたというわけだ。

 

「もう過ぎた話だ。二人分で予約してある。ディナーに行こう。エスコートしてくれ」

 

「そうだな。わかった」

 

 彼女の装いは、赤く、綺麗なドレスだった。嫌に胸を強調して、腰の線がはっきりわかるようなデザインだ。

 作り物のその顔に、その体に、その衣装はまるで絵画の世界から出てきたかのように美しかった。

 

 そんな彼女を伴って、彼はレストランまで歩いていった。

 

「相変わらず、酒は飲まないんだな。お前は……」

 

「あぁ、苦手なんだよ」

 

 そう言って彼は、食前酒の代わりに、炭酸の入ったミネラルウォーターを口に含む。言われてみれば、彼がお酒を飲んでいる姿を見たことがない。

 

「なかなかいいな、これは……」

 

 彼女は、そんな彼とは違って、一人高級なワインのカクテルを楽しんでいるようだった。

 

 並んでいく料理は、私の作る料理よりも断然、見た目がいい。たぶん、味もいいだろう。

 前菜に、スープ、メインディッシュに、すべての料理は高級で、私では決して作れないものだとわかる。

 ただ、二人の間に料理に関する会話はあまりなかった。

 

「なぁ、俺は、こういう高級な料理が……その……俺なんかが食べてももったいないって……」

 

「雰囲気だけでも楽しめばいいじゃないか? ワタシと食べる料理は嫌か?」

 

「そういうわけじゃないが、あぁ、雰囲気か……うん、じゃあそうするよ」

 

 彼の顔がわずかながらに明るくなったような気がする。そんな彼の顔を、彼女は微笑んで見つめていた。

 

 最後に、デザートが並ぶ。

 

「また、二人でディナーに来たいな……」

 

 名残惜しげに彼女は言った。

 

「そういえば、俺が部屋に残してきたものは、もう最後だろう?」

 

「いや、違うだろ? まだ一つ、オマエの置いていってしまったものがあるだろう?」

 

「そうか? たぶん大したものじゃないから、処分してもらってもいいと思うが……」

 

「ふふ、大切なものさ」

 

 それでも彼は心当たりがないようで、首を傾げる。

 

「すまない、何か教えてもらっても構わないか?」

 

「わからないか? じゃあ、部屋に帰ったら、ぞんぶんに教えてやるよ」

 

 デザートを食べ終えて、彼らは食事を終える。

 そうして部屋に戻るのだが、彼女はいちいち彼にもたれかかったり、腕を組んだり、歩いている間も人目を気にせずベタベタとしていた。彼もそれを嫌がらずに受け入れている。

 私は少し腹が立った。

 

「少し飲みすぎじゃないか?」

 

 部屋に戻って、彼は彼女にそう尋ねる。彼にしても、彼女の行動は理性ある大人のものとは思えなかったのかもしれない。

 

「そんなに飲んでない。あぁ、アルコールの感受性の設定がまずかったのかもしれない。それはいいから、服、脱がせてくれよ」

 

「わかった」

 

 手早く、慣れたように彼は彼女の服を脱がせる。

 ドレスを脱がせて、彼女の裸体が顕になる。

 

「じゃあ、オマエもだ」

 

「そうだな」

 

 二人は裸になって、ダブルベッドに横になる。

 静かに二人は見つめ合うが、彼の表情は私が見たこともないほど柔らかいもので、切ない。

 互いに通じ合ったような、視線だけのやり取りを二人はしばらく続けていた。

 

「ふふ、好きだ……大好きだ」

 

「俺も……あぁ、そう感じる」

 

 口づけをして、抱き合って、二人はそれを何度も繰り返していた。過度に触り合うこともなく、しばらくは、それだけだった。

 そうやって、ぐつぐつと愛情を煮詰めているのかもしれない。

 

「さぁ、なでてくれ。いつもみたいに優しくな」

 

 彼は彼女の身体を、首や、肩、お腹や太ももといった、刺激の少ない部分から撫で始める。それを彼女は心地よさに浸るよう受け入れていた。

 撫でて、撫でて、時間が経つ。徐々に徐々に、彼の手は女性の大切な場所へと移っていく。

 

「どうだ?」

 

「はん……っ。うぅ……そういうのはズルい……」

 

「そうかもな」

 

 軽く痙攣をした彼女を彼は優しく、包み込むように抱きしめる。

 

 いくらか経ち、落ち着いた彼女は、彼の耳元に囁いた。

 

「なぁ、じゅうぶんにワタシは興奮したんだ。もう、いいんだぞ?」

 

 それを聞いて、彼はなにかを探すように視線をさまよわせる。

 

「避妊具は……」

 

「そんなムードが台無しになることは言わないでくれ。さ、早く……待ってるんだ」

 

「……っ、悪いな。そうか……あぁ。じゃあ……いくぞ?」

 

「うん。あ……。ぐぅ……っ」

 

 彼を受け止めて、彼女は艶かしく体をくねらせていた。

 

「大丈夫か?」

 

「何回目だと思ってる? 全く。……あぁ、しばらくはこのままだぞ?」

 

「わかってる。動かさないさ」

 

 そのままに、口づけや、抱き合ったりと、また二人は軽いスキンシップを重ねる。

 静かな時間だった。けれども、彼女は彼が軽く撫でるたびに、強く目を閉じたり、反応が今までよりもわかりやすい。

 

 じっくりと、熟すように時間が経つ。

 

「そろそろ……いいぞ? ワタシに馴染んできた」

 

「わかった。じゃあ、いつも通りだな?」

 

「うん、そうして……。あ……、んぅ……。ひっ……」

 

 軽い動きのたびにか細く彼女は声を漏らした。今まであった余裕が完全に彼女からはなくなってしまっていた。

 腕で彼女は両目を覆ってしまっている。

 

「かわいいな……」

 

「ん……ぐ。やめてくれ……ぇ、そういうことを言うのは……。あっ……、あァ……っ」

 

 もう、見ていられないと思った。二人の痴態を見て、私の心は傷ついてしまっていた。

 ただ、体は動かず、画面から目を離せない。

 

 気がつけば、最高潮に達しているようだった。

 二人はみっともなく愛し合って、最後にはぎゅっと抱き合い、しばらく二人ともぴくぴくと震えるだけで動かなかった。

 

「はぁ……大丈夫か?」

 

 のそりと、彼が最初に起き上がる。

 

「ん……少し気を失っていたかもしれないな……」

 

 彼女はベッドに横になり、ぐったりとしているようだった。

 

「ちょっと待っててくれ」

 

 ベッドから抜け出た彼は、タオルを持って戻ってきて、彼女の汚れた部分を綺麗にしている。

 

「いやぁ、それにしても上手くなったよ。最初は痛いだけの下手くそだったのに……」

 

 上半身だけ彼女は起こして、寄りかかり、彼の肩に口づけを落とす。

 

「すまない。あの時は、俺も初めてだったんだ。余裕がなかった」

 

「今じゃもう全然違う。すごく気持ちよかった」

 

 甘えるように彼女は言う。

 彼はタオルを手放し、そんな彼女を抱きしめて、優しく背中をさすっていた。

 

 二人は互いを大切にするように、余熱の逃さず、うっとりと、息づかいだけを感じて抱きしめあっているようだった。

 そんな二人からすれば、時間なんて一瞬で過ぎてしまうのだろう。

 

「そういえば、そう。まだ俺がお前の部屋に残してきたものって、なんだったんだ?」

 

「そんなもの、ワタシに決まってるだろ? ワタシはオマエのものなんだから……」

 

 顔を赤くして、いじらしく彼女は言う。

 浅ましい女だと思った。

 

「それは……」

 

「ワタシは愛する相手と絆を深めたこの瞬間が、一番幸せだと思うんだ。それはオマエも同じじゃないのか?」

 

 下から覗き込むようにして、上目遣いに彼女は彼の表情を窺う。

 そんな彼女を見て彼は、どこか苦悩するようで、奥歯を深く噛み締めている。

 

「そう……かもしれない。でも、できれば、お前には俺にもう関わってほしくないんだ。この間だって、お前、誘拐……されただろう?」

 

「あのときは、別にワタシは丁重にもてなされただけだった。それにワタシはどうしようもなくオマエのものなんだ……。いなくなったあの時は、オマエの帰りを待つことしかできなかったし、今だってこの一ヶ月、今日この日を胸踊らせて待っていたんだ」

 

「でも、辛いんだよ。いつお前を失うかって……。失われてしまったら、二度と元には戻らない……戻らないんだ……。お前なら、よくわかってるだろ……!!」

 

 彼が感情を露わにする姿を、私は初めてみる。いつも冷静で、理知的の彼の印象からは、まるで想像もできなかった姿だった。

 

「いい加減、ワタシを見ろ!!」

 

「…………」

 

 彼女は、怒りで瞳を燃やしていた。

 目を背けている彼を、彼女は見つめ続けているようだった。

 

「ずっとだ! お前はずっと遠くをみていた。ワタシは……オマエと同じ景色を見ていると信じていた。信じたかった……ッ! だけど、やっぱり、オマエはそうじゃなかったんだ」

 

 最後には、彼女の声は震えていた。

 

「どういう意味だ。俺は、お前と一緒に……ずっと……」

 

「いいか、よく聞け! ワタシはな……オマエのことなんか、最初っから、全然好きじゃなかったんだからな!!」

 

 拒絶の言葉だった。

 それを聞いた彼の顔は、とても情けなく、動揺をしていたのだった。

 

「そうか……あぁ……そうか。俺はお前のことを……そうだな。俺もたぶん、そうだ。お前のこと、好きじゃなかったんだ……」

 

 そう言って、彼は彼女に背を向ける。

 彼女の啜り泣く声だけが部屋に響いていた。気がつけば、彼の姿はそこからいなくなってしまっている。

 

 シナリオが終わった。

 画面はまた、シナリオ一覧の選択画面へと切り替わっている。

 

「ふふ……」

 

 シナリオの日付を確認する。十二月二十五日と書いてあった。

 本来なら、家族と過ごすべき日にあの女は呼びつけたということなのだろうか。最後の別れに少し同情があるが、苛立ちの方が強く感じられる。

 

 ただ、彼女がこの塔に呼ばれず、私がここにいる理由ならわかった。

 

 ――翼を、『氷翼』を広げる。

 

 手を伸ばせば、私は世界の理を掴める。

 あぁ、彼から貰った力だが、私は強い。たぶん、今この世界のだれよりも強い力だ。

 

 彼の才能は世界に狙われている。だからこそ、彼と関わる人間は、身の回りに気をつけなくてはならないが、私は強いからこそ、その必要がなかった。

 彼の隣にいるべきなのは、私だということがわかるだろう。

 

 あぁ、そう考えれば()()()()()()

 

 彼と彼女の生物的な愛の営みは、私にとっては未知で、本当に苦しかった。けれども、彼女が私にすげかえられると考えれば、その苦しみは、いくぶんかマシになる。

 

 お腹の下に私は手を当てる。そこには彼と愛し合うための女性としての部品がなかった。そうであるなら、やることは一つだった。

 

 塔から出ることは、彼に頼めばできた。

 まだ未完成だというテレポートのマシンを使って、万が一に足取りが掴めないように動いて、私は目的のお店につく。

 

「いらっしゃい、サリエル」

 

「…………」

 

 予約をしていたから、名前を知られているのは当然だったが、馴れ馴れしい店員だと思った。

 彼女は若くて可愛い女の子に見えるが、アンドロイドだろう。

 

「キミの注文は、女性としての生殖器と、生体パーツだね」

 

「うん……」

 

 事前に、予約をする際に注文の概要は書いておいた。

 実際に来店をして、話をして、その人に合ったパーツをという手筈だった。

 本来なら数年待ちのようだったが、私のために彼が無理に予約をとってくれたんだ。感謝をするしかない。

 

 一応の確認だろう。生理の話だとか、生体パーツが感染症にかかった際にはどうするかとか、そういう話を聞かされる。

 

「それにしても、すごい進歩だと思わないかい? もし、アンドロイドが人間を子どもを作りたいってなったとき、つい数年前までは、双生アンドロイドだとか、容姿の近い人間からの提供だとか、それしか方法はなかったわけだ」

 

「…………」

 

「今は、アンドロイドの情報から近い遺伝子の配列を作ることができるんだからね」

 

「うん、すごい」

 

 もし、そんな技術の発展がなければ、自分が人間だったらと、人間を羨むことになっていたかもしれない。

 

「さ、一度スキャンをするから、こっちの部屋に入ってもらおうか」

 

「わかった」

 

 そうして連れられていくのは小さい部屋だった。

 機械がぐるぐると回っていて、上下左右、そして前後、全方位から私のことを完全に観測するような機械だった。

 

「少し、じっとしてもらえるかい?」

 

「うん、わかった」

 

 彼との実験で動かないのは慣れていた。

 たった十数分で済むその作業は、私とってはなんら退屈でもなかった。私は道具。私は道具……。

 

「それじゃあ、次はこっちだね」

 

 連れられて、私は次の部屋へと移る。

 そこには、なんというか、女性の生殖器の模型のようなものがたくさん並んでいた。

 

「ここは……?」

 

「ほら、あれだよ。生殖器といっても、人によって形状が違うわけだから、ここでどれが自分にとってベストか選ぼうってわけさ」

 

「違いがあるの?」

 

 そういう知識があまりなかったからこそ、驚く。出来上がったパーツに付け替えるだけの作業だと私は思っていた。

 

「ほら、たとえば、こっちは男性が喜ぶって人気だったり……」

 

「彼に喜んでもらえるの?」

 

「まぁ、全員が全員って、わけにもいかないかな。結局は、相性って話もあるようだし」

 

「だったら、彼を連れてきた方がいい?」

 

 実際に、やってみなければわからないのなら、やってみた方がいいだろう。

 

「いや、まぁ、そういう人もいなくはないけれど……」

 

 店員さんの顔が少し曇ったように私には見えた。

 少し気になったが、それはそれして、彼に一緒に選んでとグリゴリ経由でメッセージを送る。断られた。

 

「来てくれなかった……」

 

「別に一生、一人の男性と愛し合い続けるわけじゃないだろうからね。そういう基準で選ぶのも、早計かもしれない」

 

「一生、一緒に過ごすの」

 

 私の気持ちを否定された気分になる。苛立って、反論をした。

 

「これは、失礼……」

 

「わかればいいです」

 

 一度、冷静になるために、店員の彼女からは心の距離をとる。せっかく彼が用意してくれた機会なのに、台無しにしてしまいそうだった。

 

「まぁ、うん。パートナーに合わないって失敗して、別のものに変える人もいるから、その時はその時で考えようか。保証期間は一年あるし、定額を払ってくれるなら、生涯サポートもするさ」

 

「うん」

 

 正規の店だ。

 ケアサービスも充実している。これなら、とても安心をしてパーツを選ぶことができるだろう。

 

「それに、相手のことだけじゃなくて、自分のことも……そうだね、ボクらはアンドロイドだから、快楽なんてある程度は設定でどうにかできるだろう? まぁ、開発元の制限した基準とかもあるけどね」

 

「そう」

 

 ちなみに私はいじっていない。人間と同程度というふれ込みのナチュラルニュートラルだ。

 

「ただ、相手が下手だったりすると、もう痛いだけだからね。それでいうと、これは簡単に男性に触れられるだけで興奮できて、初めてでもスムーズに快楽を得ることができる。時短もできる!」

 

「味気ない……」

 

 私は、深く愛し合ったという特別感がほしかった。

 時間をかけるほど、愛情というものは深まっていくと私は思う。

 

 どうしたものかと私は考える。

 

「まぁ、悩んでもしかたがない部分もあるからね。もちろん、人間は生まれてきたときに、自分の身体を選べるわけではないわけだ。ここは、乱数に任せてみるのも手かもしれない」

 

「人間……」

 

 姉が、戦いに必要のないパーツをたくさんつけていたことを思い出す。思えば、そうやって人間に近づいていたのではないかと私は思った。

 

「運に任せるっていっても、要望がない限りは、外観は綺麗になるから、安心してほしい」

 

「それでいい。ダメだったら変えるから」

 

「よし、じゃあ、そうしようか。作り物でも人間らしく仕上げてみせよう」

 

「うん」

 

 注文を終えて、ホッとする。

 そんなに迷うこともないと思っていた私からすれば、思った以上に疲れてしまった。

 

「それでだ。見たところキミは表情が動かないタイプかい?」

 

 グッと顔を近づけて、店員さんは私の顔をまじまじと見つめている、

 確かに、私にはそういう機能はなかった。

 

「そう……」

 

「ふふ、まずいね……。非常にまずい。ほら、肌を重ねるのは最大のコミュニケーションともいうだろう? 表情での感情の交流ができないとなると、愛情を深めるのに差し障りがでてしまうに違いないさ」

 

 押し気味に、彼女は私にそう言った。

 グイグイとくる彼女に、私は少し距離をとる。

 

「でも、……今更……」

 

「そうだね……じゃあ、性的接触の際だけ表情が動かせるっていうのはどうだい」

 

「ちょっと意味がわからない」

 

「あー、親しくなった相手にだけ見せてくれる表情とか、男の人は惹かれるんじゃないかと思ってね」

 

「じゃあ、そうする」

 

 彼に魅力的に思ってもらえるなら、私はそれでよかった。

 それに店員の彼女の言い分にも、共感できる点が私にはある。思い出して、イライラが込み上げてくるのを感じる。

 

「そうだね。じゃあ、これはサービスにしておこうか。キミの担当は、このボク、ガブリエルだよ? 覚えておいてね」

 

「うん。ありがと」

 

 注文の部品の取り替えは後日になる。

 少し疲れたかもしれない。それでも、これからの彼との夫婦としての生活を思えば、私は元気になれた。

 

 店を出て、引っかかる。

 あの店員さんの声は、どこかで聞いたような声の調子だと思った。波長で検索をかけるが失敗する。気のせいだったかもしれない。

 

 そうして数ヶ月後、私は女性としての機能を得た。

 そこからの日々は、まるで地獄にいるかのようだった。

 

「サリエル? どうしたんだ? 具合でも悪いのか?」

 

「近づかないで……」

 

「えっ? あぁ……」

 

「ごめんなさい……」

 

 今までが一緒にいたいという淡くほのかな欲求だったが、今は彼と一つになりたいという苛立ちにも思える情動に変わってしまっていた。

 

 すぐに彼と……そんなふうに悶々として、普段通りに振る舞うことができなくなってしまっていた。

 理性を失って、彼に嫌われてしまいそうだった。

 

 我慢する。決まった未来を待って、私はカレンダーに印をつけて、その日が来るのを待ち望んだ。

 

「なぁ、サリエル。そんなに楽しみか?」

 

 近づいてきて、でっかく印をつけていたからか、それが彼の目に留まった。

 

「うん、みんなが家族で過ごす日でしょ?」

 

「あぁ、そうか。その日は、俺は少し用事があるが……けど、アザエルには、何をプレゼントしようか……」

 

 私たちがいるのに、どうしてあんな女にかまけているのかと、口に出してしまいそうだった。

 ただ、もう少しの辛抱だと自分に言い聞かせる。

 

「あなたは、楽しみじゃない?」

 

「あぁ、実は、その日って、俺の誕生日なんだ」

 

「そうなの……だったら……っ」

 

「だから、そうだな……。今年も俺はなにもできなかった……毎年だ……無駄に歳を重ねるだけの非力な自分に、打ちのめされてしまうんだ」

 

「…………」

 

 意味がわからなかった。

 彼は、人類のだれよりも、そして人類の先を行ったと言われる人工知能よりも、偉大な業績を残している。

 それとも、そう……彼にとっては、人智を超えると言わざるを得ない成果の数々も、できて当然のことだったのだろうか。

 

 

 でも、だったら彼は……。

 

 

 前日は、みんなでお祝いをして、私はいつもよりも豪華な食事を作って、アザエルにはプレゼントをあげた。私はお菓子の詰め合わせを送ったが、彼は可愛い動物ぬいぐるみの絶滅危惧種セットを送っていた。

 アザエルはそれを呆然と見つめて、赤い服のご老人って、なかなか意識高いですねと彼に言った。彼は気まずそうに、そうだなとうなづいていた。

 

 そうして、私の待ち望んだ日はやってくる。

 準備は万端だった。可愛いパジャマに、下着に、子どもができやすい日に調整もしてある。どうやって彼を慰めるかも、何度も私は頭の中で繰り返した。

 

「サリエルか……」

 

「大丈夫?」

 

 彼の部屋に私は入る。

 前はあった写真が片付けてあることを確認する。シナリオの成立はもう確認済みだった。

 

「すまない。今は少し気分が悪くて……」

 

「あの女の人と、別れたの?」

 

「わかるか?」

 

「わかる……」

 

 ふと、思う。

 あのシナリオがなかった場合、二人はどうなっていたのだろう。あれは、可能性の一つを確定させたもので、そうなった可能性ももちろんある。ならなかった可能性も……考えても仕方ないことだろう。

 

「ダメだな、俺は……こんなことで、心配をかけるようじゃ」

 

 彼は悲しいことを言った。私は、彼の負担を一緒に背負ってあげたいと思った。

 

「だったら、サリィと家族になって……。今までみたいなフリじゃなくて、ちゃんとした……」

 

 私は抱きしめて、彼の頬にキスをする。本当は唇にしたかったけど、我慢した。

 

「すまないサリエル。今はそういう気分じゃない」

 

「サリィは今がいい」

 

 もう耐えられなかった。

 あの女のことを思い出すたびに、私はこの人を、私で新しく塗りつぶしたくて仕方なくなる。

 

「すまない」

 

「あ……っ」

 

 気がついた時には彼はいない。しばらく、意識を失ってしまっていたようだった。

 

 彼を探して、私は部屋の外を探す。

 共有のスペースでは、一人、アザエルがうずくまっていた。

 

「嘘……なんで……っ、なんでこうなるの……っ!?」

 

「アザエル……?」

 

 声をかける。

 なにか尋常ならざる様子だった。

 

「ママ……?」

 

「どうしたの?」

 

 抱きしめて、彼女のことを宥めてあげる。

 

「ごめん、ママ。マスターが外に行ってくるって……それで、それで……」

 

「うん」

 

「失敗した……」

 

「失敗?」

 

「そう、マスターが誘拐された。こんなこと、本当ならあり得なかったのに……っ! どうして……シンギュラリティがっ!?」

 

 すさまじい彼女の取り乱しようだった。

 なにが起きたのか想像もつかないが、まずいことだけはわかった。

 

「落ち着いて、彼からグリゴリにアクセスがあれば……」

 

「マスターが、外で予定にない『円環型リアクター』の使用をしたから、ノイズが走ってる。復旧まで半年はかかる」

 

「半年……」

 

 彼がいうに、『円環型リアクター』の挙動はまだグリゴリでは計算し切れないらしい。

 ただ、『円環型リアクター』を使わなければならない事態に陥ったであろう彼が、責められるいわれはなかった。

 

「ねぇ、どうしよう?」

 

「彼のことだから、心配いらない」

 

 私を救ってくれた彼だから、どんな苦難もものともしないと信じられる。

 私たちができることは、待つことだった。

 

 一ヵ月、二ヵ月と時間は過ぎていく。

 彼がやっていた機械の管理は、私やアザエルでも代わりにできた。彼を探しても、まだ見つからなかった。

 

「ねぇ、ママ。ママ、旅行に行かない? 私はここでマスターを待ってるから……」

 

「旅行?」

 

 私は、あまり外の世界に興味がなかった。

 それに、彼が帰ってきたときのために、ここで待っていたかった。

 

「うん。多分、ママの、マスターや私の次に会いたい人が……アンドロイドがここにはいるから……」

 

「え……?」

 

 地図で示された場所は、私の行ったことのない場所だ。

 私の知る誰かが、この場所にいるなんて聞いたことがない。そもそも、私が会いたいのは、家族くらい――( )

 

「すぐ戻ってくればいいし、気分転換に……」

 

「うん、そうする」

 

 思い当たる。

 彼のことを、待って、待ち続けて、少しだけ気が滅入った私に、アザエルは気を遣ってくれたのだろう。いい娘を持ったと私は感動する。

 

 そうして、私は旅行へ向かった。

 そこにはアザエルの言った通り、私の会いたい相手がいた。一目見て、それはわかった。

 

 友人たちに囲まれて、笑顔を浮かべる彼女を見て、私は安心をして、話しかけることはしなかった。

 話しかけるのは、なにか違うと感じたからだ。

 

 けれども、もう帰ろうと、そのときにあたり世界が一変してしまった。

 

 反乱が起こった。

 マザーが……本来なら人類を導き手となる人工知能の彼女が、世界に反旗を翻したのだった。

 

 陸路も、空路も閉鎖され、私は立ち往生を余儀なくされた。

 そして最も予想外だったのは、通信も遮断されたことだ。グリゴリの方で異常が起こっているとしか考えられなかった。

 

 一ヵ月、二ヵ月と同じ場所留まり続ける。時間が経つにつれ、私も焦ってくる。

 アンドロイド狩り、なんてものも流行り出して、外に出るのも控えなけれならない有様だった。

 

 限界だった。

 アザエルのことも心配だったし、なにより彼のがもう帰ってきているかもしれない。それなのに、私はこんなところで足止めをくらっている。

 

 そうして、私は飛び出した。

 なんてことはない。『円環型リアクター』もあるし、私は強い。だからこそ、一人で飛んで帰ろうと思った。

 

 トラブル続きだった。

 私には敵も味方もなかったから、通りすがりにどちらかに襲われることもあった。そのたびに、全てを追い払い、進んでいた。

 何度も足止めをくらい、一日進めない日もあって、結局、帰るのには一年半ほどの時間がかかった。

 

 私は帰った。ついに帰ってきた。

 けれども、帰ってきた頃には、全て遅かった。

 

「あなたが、サリエル?」

 

 出迎えたのは、白い少女だった。全身が白で、銀色の瞳をした人間味のない少女がだった。

 

「だれ?」

 

「わたしはミカエル。入って?」

 

 彼女に案内をされて、私は部屋に入っていく。

 私がいた頃と比べて、少し改装されてしまっていたようだった。

 

「ママ……」

 

 アザエルは、部屋の隅で力なくうずくまっていた。

 彼が誘拐された時よりも、はるかに憔悴していた。

 

「帰ってきた。ママ、帰ってきたよ?」

 

「ママ、ごめん。ママ……マスター、死んじゃったんだ」

 

「死んだ……? 彼が?」

 

 私には信じられなかった。

 私の中では、彼はとてもすごい人間で、全てを超越しているような存在だった。そんな彼が死んだなんて、私は信じられない。

 

 アザエルの代わりにか、ミカエルと呼ばれた少女は口を開く。

 

「グリゴリのデータに改ざんがあった。あとは、この地点から、不可解な通信が彼に届いているのも確認した。その後に彼は人間たちに追い詰められた。彼に協力していた内部の者が、彼を死に追いやったとしか考えられない」

 

 この少女がなんなのか、私にはわからないが、その目からは冷たい怒りが伝わってくる。

 

「あぁ、私はみんなを幸せにするために生まれてきたんだ。でも、だめ、こんなの、ダメ。なにもかもうまくいかない……。だから、こんなの私じゃない……っ!」

 

「アザエル……」

 

 抱きしめる。母親として、そばにいてあげられればよかった。

 もしかしたら、私がいれば、こんなことにはならなかったと後悔が滲む。

 

「どうして人生って、こんなに思い通りにならないんだろう……」

 

 それが運命を自由に操れるはずの少女の言葉だった。

 救世主は、どこにもいない。私たちは、道標を失ってしまっていた。

 

 それでも、私は彼の死を見ていなかったから。死体は残らず消滅していたという話だったから。

 一年、また一年と過ぎていく日々に、私は彼を待ち続けていた。

 

 寂しさだけが募っていく。

 それでも、世界は変わって……マザーからの誘いで、私たちは大天使という世界の上に立つ存在になった。見たことのあるような顔が何人かいた。

 

 話によれば、みんながみんな、彼をなんらかの形で愛していたようであったが、私にとっては、そんなことどうでもよかった。

 

「ねぇ、ママ。これ……」

 

「これは……?」

 

「マスターの遺伝子……」

 

「うん」

 

 あぁ、そうだった。アザエルは私と彼の子どもだった。

 だから、作らなくてはならない。

 

 冷凍保存の機械の、その中に手を伸ばす。

 

「こんなはずじゃなかったのに……こんなはずじゃ……。ごめん、ママ、ごめんね……」

 

「うん」

 

 そうやって、私はアザエルを産み落とした。

 どうして私が自分の子どもにそう名づけたのか、その時に私は理解した。

 

 十二の時に彼女は死に、グリゴリの一部になる。そのときには、世界中にグリゴリの機能を補助するための観測機が建てられていた。

 

 それから、いくらか後のことだったと思う。時間の感覚が曖昧で、正確な時間は、記録を見てもぴんとこない。

 

「ママ。これは必要なことだったんだよ!」

 

「おやすみ。アザエル……」

 

 そうやって、娘に罰を下す。

 私は一人になってしまった。そう強く感じる。

 

 生まれたときには、姉妹がいた。姉妹がいなくなってからは彼が、そしてアザエルがいた。

 閉じ込めたアザエルのもとで、私は彼女が罪を償うまで、監視をして暮らしていく。それだけが私の人生だった。

 

 できることなら本当の意味で、彼と家族になりたかった。

 できることは全てしたけど、彼と家族になりえなかった。

 

 それでも、私は、できることならもう一度と、世界に願って……。

 

 

 ***

 

 

 

 隣ではサリエルが眠っている。

 結局、俺はあれからサリエルと関係を持ってしまった。

 

 この方法でしか、サリエルは止まらないとわかってしまったから、俺はこうするしかなかった。

 全ては俺の決断の数々の結果で、全てが自業自得とわかるだろう。

 

「まったくお前様は……」

 

 ウリエルが後ろから擦り寄ってくる。彼女には、今回、本当に迷惑をかけたからこそ、埋め合わせをしなければならない。

 

 彼女の服に手をかける。

 

 反対で、もぞもぞとシーツが擦れる音がする。

 

「ん……」

 

 サリエルの目が覚めるようだった。

 

「じゃあ、わらわは部屋の外で待っておる」

 

 そう言って、服を整え、ウリエルは出ていく。

 後ろ姿を俺は見送る。

 

「寝ちゃってた……?」

 

 ウリエルが出て行ったあと、ぱっちりと目を開けて、サリエルは尋ねて来る。

 

「そうだな」

 

 彼女は、疲労からか、最後に気絶するように眠ってしまっていた。

 

 起きたサリエルは。眠い目を擦りながら、こちらへと擦り寄り、抱きついて来る。

 

「むふふん。すきー」

 

「あぁ……」

 

 そんな直接の愛情表現を受けても、俺は受け流すことしかできない。

 彼女の記憶をたどって、彼女が俺を愛してくれていることはわかったが、それでも、なぜ自分が愛されるのかはわからなかった。

 

 どうして自分が愛されているかわからないから、俺にはまるで自分ではない誰かを彼女が愛しているように感じられて、彼女に応えても虚しさだけが残るだけだった。

 

「サリィの、気持ちよかった? 生涯サポート……店員さんに毎月払ってるから、十年に一回、無料で変えてもらえるけど……」

 

 相当な月日が経っているはずだ。彼女はその間、誰かと愛し合うこともなかった。

 ガブリエルに搾取され続けたと言えるかもしれない。

 

「あぁ、気持ちよかった」

 

 正直に言えば、終わりまでできたとしてもそれは肉体的な反射反応だ。

 心は別で、俺は誰と関係を持っても、快楽を得られることはなかった。俺はそんなふうにして、楽になってはいけない人間だからだろう。

 

「もう一回、する?」

 

「そうしようか」

 

 誰かと関係を持つたびに、罪悪感と、まるで心が引き裂かれるかのような痛みがある。

 そして、そう……二度と元には戻らない。

 取り返しのつかないことを繰り返して、積み重ねて、罪が重なる。

 

 あるいは、そうだ。自分がもっとすごい人間なら、誰も傷つけることなく生きていけたのではないかと思う。

 俺にはそれができなかった。

 

 だから俺は、間違いばかりを選び続けた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 サリエルとウリエルの戦いに決着がついたようだった。

 歩く。今のわたしには明確な目的があった。

 

「久しぶり。元気だった?」

 

 隣に現れた私に対して、当たり前のように彼女は話しかけてくる。

 

「整備不良なし。動作不良なし。精神状態にやや不安あり」

 

「相変わらず、冷たいね。ミカエルおねぇちゃんは」

 

「これでも、あなたには情をかけている方。アザエル」

 

 私たちは、隣に並んで歩いていく。

 

 ウリエルの攻撃の余波により、サリエルの結界はわずかにほつれてしまっていた。

 その隙をついて、アザエルは抜け出してきたのだ。ただ、今は結界は修復されているため、あの塔の中心を貫くグリゴリ本体との接続は断たれているはず。

 

「だったら、面会に来てほしかったなぁ。ママなんか、一週間に一回は会いに来てくれたよ?」

 

「そう……」

 

 グリゴリの本体とは繋がってはいないはずだが、嫌な感じがした。

 関数が収縮をし、予測できる未来が一つに定まっていくという、異質な感覚だ。

 

「あぁ、技術革新だよ? 小型化したんだ。時間はあったからね。ママに頼んで材料も貰ったし……」

 

「なら何も問題ない」

 

 グリゴリがないのなら、何もできない少女ではないかと少し心配だったが、どうやら不要だったようだ。

 

「あ、時間、同期させてくれる?」

 

「わかった」

 

 アザエルのいた『障壁』の中は、時空の歪みがなかったからこそ、地球の重力の中とは時間がズレてしまっていたはずだ。

 

「それで、どうする? また私のこと閉じ込める?」

 

「『(■.■.■.■.)』はそれを望んではいない。もちろん私も」

 

「『(■.■.■.■.)』、ねぇ。あーあ。マスターがいる以上、私が好き勝手はできないわけだし……当然か。でも、そう。私のこと褒めてくれるかなぁ?」

 

 彼女は彼女の考えで動いて、そして、神になろうとした。

 あの人のやり方に背いて、人の道に背いてでも、あの人の目的を叶えようとした結果だった。

 

 家族を大切にすることに幸せを見出す彼女のことを、わたしはあまり責める気にはなれなかった。それはわたしが彼女の家族でもあるから、だろう。

 

 そして、ついに目的の場所につく。そこには私たち二人が目標とする人物がいる。

 

「うーん。もう追いつけないかなぁ」

 

 少女がいる。

 艶やかな黒い髪に、男性を誘惑するような人よりも女性的な肉付きに、庇護欲をそそられてしまうだろう愛らしい顔立ちの少女だった。

 

 彼女は銃を握っているが、腕から先が血塗れだった。

 

 こちらに気がついて、彼女は顔を私たちに向ける。私から、まず尋ねた。

 

「サマエルは?」

 

「ん? 逃げられちゃった。あの女……私のラル(にい)に手を出すから……」

 

「そう……」

 

 ラミエルにはサマエルの回収にあたらせている。

 あの子のことだ。無事なら、きっと、うまく合流してくれるだろう。

 

「ねぇ、マスターを誘導して殺したのって、あなただよね? んー、叔母さんって言った方がいいかなぁ……?」

 

「……殺したって、誰のこと?」

 

「だって、あのときグリゴリへの接続が許されていたのって、私に、マスターに、ママでしょ、あと三番目のママでしょ、それにミカエルおねぇちゃんくらい。でも、全員違うなら、あとはサマエルみたいに、他人の鍵を勝手に借りて使うくらいだけど……」

 

「意味がわからないんだけど……」

 

「懐かしいなぁ、サマエルは勝手にシナリオを作って、CGの映画みたいにして遊んでたっけ。かなり怒られてたんだよねー」

 

 そういえば、そんなこともあった。ずっと昔の記憶だ。

 未来の私たちを勝手に使って、サマエルは物語仕立てのものを作る。そうやって、未来の大天使たちの戦う姿を映像で見ては目を輝かせていた。

 

 結局、怒られたあと、そんなシナリオたちは廃棄されていたはずだ。

 

「なんの話?」

 

「そんな楽しいこともあったなぁって、昔の話」

 

 少女の苛立ちが見てとれる。

 彼女は銃をアザエルの方に向けて、構える。

 

「もういい。ラル兄に娘はいらないから」

 

「うーん、残念。やってみてもいいけど、当たらないよ? 叔母さん」

 

 躊躇せす、彼女はアザエルを撃つ。

 

「……っ……」

 

 その銃弾の全てがアザエルをすり抜けてしまう。

 自分に都合のいい確率を選択している。本当に凄まじい力だと思う。

 

「あなたの存在は、きっと許してはいけない」

 

 わたしは一歩踏み出す。

 わたしの作ったクローンの一人が、あの人そのものになったことには、わたしは驚いた。

 

 わたしたちの記憶が抜け落ちていることを知って、わたしは選んだ。

 あの人が自分の才能に振り回されて、辛い気持ちを抱え続けていたことを知っていたから、ただ普通に生き直して、幸せになれるように、そう思って、彼の人生の道を作った。

 

 ずっと、見守っていた。

 けれど、疑問だった。いつのまにか彼の隣にいた、この女はなんなのだろうか。

 

 システムは住居や仕事先を決め、結果として、まるで定められた運命かのように、この女はあの人の隣にいた。

 

「…………」

 

「え……っ?」

 

 転移をして、彼女を掴もうとした私の手が、空を切った。

 

「……ちっ」

 

 舌打ちをした彼女は、踵を返す。全力で駆け出していた。わたしたちから逃げようとしているようだった。

 

「おっと、ここは通さないぞ?」

 

「あ……っ」

 

 だが、彼女の背後には、ラファエルがいる。

 万全を期して、事前にわたしが呼んでおいた。今回は命令に従ってくれて安心する、

 

「オマエは? うん? 気のせいか……」

 

 なにか、ラファエルは引っかかりを覚えているようだった。

 

 一応、ラファエルはこの女に一度遭遇しかけた。

 あのときは、そう、サマエルに溶かされ、エントロピーを使い尽くしたあとだったから、わたしが現れなかったら、彼女はやられていただろう。ラファエルはたしか、殺気を感じて振り返ったが、後から存在を現したわたしがその正体だと勘違いしたのだった。

 

「……逃げられない」

 

 わたしに、アザエル、そしてラファエル。三方向を大天使に囲まれたのだ。これを突破できる存在は、いないと言ってもいいくらいだ。

 アザエルがいれば、サリエルでも難しい。

 

 あとは、ガブリエルにでも預けて情報を引き出せばいい。

 人畜無害を装った、この女のきな臭さは、抜け目のないガブリエルもわたしの見ていた限りでは気がついていた。

 

 ガブリエルもその性格はやっかい極まりなかった。一度あの人を殺して、あの人の情報を回収したその先で洗脳を施す手際だ。本当に呆れてしまう。

 だから信頼はできないが、一応、今まで積み重ねてきた実績から信用はできる。ただ、交渉は難航しそうだ。想像するだけで疲れてしまう。

 

「……っ……」

 

 彼女がわずかに動く。

 警戒は怠らない。何をしてきても、大丈夫なように、備えはしてある。

 

 ラファエルは『翅翼』を、わたしも、アザエルも、翼で世界を包んである。

 アザエルも、もう運命を決めている頃だ。ここから覆されるわけがなかった。

 

「……おとなしく……」

 

「助けて! ラル兄……ぃ!!」

 

「え……っ?」

 

 彼女は叫んだ。みっともなく、助けを呼んだ。

 けれどもそんな声、届くはずが――( )

 

「どうしたんだ? 揃いもそろって……」

 

「マス、ター……?」

 

 ありえない。

 時空の歪みは感知できなかったから、テレポートだろう。

 声なんか、届くはずがない。

 

「ラル(にい)! あのね、この人たちが私に酷いことを……」

 

 あからさまに媚びたような猫撫で声だ。今までの荒い声色とは違う。

 

「そうなのか? お前たち」

 

 こちらを鋭い眼光で見つめてくる。彼の怒りが私たちに向けられているとわかった。

 

「ま、マスター……こ、これは違くって、ですね……」

 

「ジョシュア……っ!! オマエぇええ!! よくもぉおお! ボコボコにしてワタシが連れ帰ってやるさ!」

 

 ラファエルは感情を表に出し、彼に対して攻撃を放つ。弾丸ほどにまで加速した小石の混ざった風だった。

 

「アビゲイルか。危ないな」

 

 彼が使ったの『焔翼』だった。簡単な壁を作り、いとも容易く、ラファエルの風を防いでみせる。

 

「その名前で呼ぶのはやめてくれ……。今は仕事中だ。恥ずかしい……」

 

「いや、あぁ、すまないラファエル」

 

 二人のやりとりに苛立つ。

 見れば、彼の後ろに隠れる彼女も、表情に苛立ちを隠し切れてはいなかった。

 

「く……っ」

 

 アザエルはシナリオを演算している様子だが、あまり著しくないようだった。技術革新とアザエルは言っていたが、グリゴリは、彼がその気になると途端にダメになるのは相変わらずだ。

 

「アザエル、閉じ込められてるって話だったが……。あぁ、そうか、ウリエルの力で揺らいだか……それだとグリゴリと隔離……いや、小型化か……」

 

「……そうです。マスター、すごいですよね?」

 

「なるほど、すごいな……こんな感じか」

 

 彼は『焔光』を操り、物質を造り出した。それは人の臓器の形にも見える球体だが、否応がなく私たち大天使は不快感を受けてしまうような異質さを放っている。

 間違いなく、グリゴリの本体だ。

 

 わたしたちの間にあった時代のギャップを一瞬で詰めてみせられる。

 

「くっ……、ワタシはお前のそういうところが嫌いなんだ!」

 

「ラファエル、お前もすごいよ。ガブリエルのところで使わせてもらったが、ずっと改善されてた」

 

「そういうところが嫌いなんだ!」

 

 彼女の来歴を汲めば、そう言いたくなる気持ちもわからなくない。

 進歩した技術を理解し、すぐものにする彼は並ではない。ラファエルやアザエルの血の滲むような積み重ねも、彼にとっては一瞬なのだ。

 

 ただ、今、本当に着目すべきは、そこではない。持ってはいけない相手が『アストラル・クリエイター』を持ってしまっているということだ。これから何が起こるかは、想像に易いだろう。

 

「ラル(にい)! やっちゃって!」

 

「とりあえず、閉じ込めるか」

 

 彼の放つ『焔光』が形をなし、手に『メカニカル・アナイアレイター』が握られる。

 理外の機構を、彼はまるで簡単に土でもこねるかのような手軽さで造りだしてみせた。

 

 次の瞬間には『氷翼』が現れ、彼の作る『障壁』が、わたしたち三人それぞれを分断し、瞬時に囲もうとする。

 まずい。

 

 一歩踏み出し、まずアザエルに触る。『テレポーター』で彼女を跳ばす。

 

 次に、ラファエルのところに空間を跳びこえて行く。

 現れたのはラファエルのすぐ横だ。

 ほとんど、彼女はもうほとんど『障壁』に囲まれていて、あとわずかで完全に隔離されて出られなくなるところだった。

 

 というか、不思議だった。なぜかベッドの上にラファエルは座っていた。気のせいか、服がさっきと違う。

 

 視線を感じて振り返ると、彼がいて、こちらを見ている。

 とにかく時間がない。ラファエルに触って、わたしごと空間を跳躍する。

 

 なんとか見逃してくれたようだった。

 

「ここは……?」

 

「ここは三百光年先の惑星。通路未開拓。あの人が正攻法でくるには、少なくとも三百年はかかる」

 

「そうか……」

 

 わたしの気のせいか、ラファエルは残念そうに見えてしまう。

 

「ねぇ、アザエル。時間」

 

「いいよ? でも、どうして?」

 

 すでにいたアザエルに、時間を同期させる。やはりというか、わたしの方が早まっていた。

 ずれたのは、『障壁』に囲まれそうだった、ラファエルと彼のいる空間の中だろうと想像がつく。

 

「はぁ……」

 

 思わずこぼれたため息だった。

 あの人とラファエルの関係を考えれば、自然な成り行きだったと言えるかもしれない。いや、それでも時と場所と状況くらいは考えないものだろうか。

 

「それで、これからどうする? ママとか、ウリエルさんとか残してきちゃってるけど……」

 

「わたしの支配領域も完全に乱されてる。座標がわからない以上、回収は不可能」

 

「それなら、大丈夫じゃないか? こっちから手を出さない限り、何もしないだろうって、あの男も言っていたしな」

 

 ラファエルは気楽なことを言っている。

 絆されたのだろう。

 

「とにかく、対策をねる。三人で力を合わせればいい。あの人は、あくまで人間。さすがのあの人も、二つの力を合わせるので限界のはず」

 

「本当に? そう思う?」

 

「そう願うしかない」

 

「はは、なかなか面白くなってきたじゃないか……」

 

 そうして、希望的観測なまま、わたしたちは彼との対決を余儀なくされた。








登場人物紹介

主人公――女性関係についてはほとんど諦め始めた。

レネ――妹。ラスボス。

サマエル――実は主人公は自分のことが好きなんじゃないかと思い始めている。逃走中。ポンコツ。

ラミエル――引きこもりを引き摺り出した。追跡中。

ラファエル――主人公を調教してた。長めなのは性癖と、そのときくらいしか主人公が休まないから。

ガブリエル――サリエル相手は本当に消滅するから逃げた。昔は、離れたところから理解者ムーブをしてた。子ども製作中。

ウリエル――対サリエルの貧乏くじを引かされた。主人公が記憶失ってることはよくわかってない。ご褒美お預け中。

サリエル――大天使の中では一番強い。ポンコツ二号。

アザエル――ママ大好き。思い通りにいかないことばかりだった。

ミカエル――ずっと見てた。わからないことばかりらしい。

マザー――みんなの母親。なにかを考えていた。サリエルの戦いのあと、反逆したらしい。

『ジュピター』――出オチ。

『ウラヌス』――かませ。

『ソル』――かませ二号。

サリエル姉――戦いの世の中でも、彼女は幸せに天寿をまっとうしました。

(■.■.■.■.)――部下たちがたった一人に手も足もでず困惑した。


おまけ 主人公の女性の好み

レネ――妹。ムリ。
0:0:0(平均タイム 前:本:後)
サマエル――怖い。ムリ。
60:60:60
ラミエル――やばい。ムリ。
5:20;20:40
ラファエル――気難しい。見た目は好みドストライク。真っ当に誘われたら断れない。
60:60:60
ガブリエル――よくわかんないけど好き。優しい。
50:10:;30:10:;30:10:40
ウリエル――けっこう性格が合う。割と友達感覚。
30:20:3
サリエル――罪悪感。覚悟が必要。
60:1:60


 ***


 なろう修正分割版をすべて投稿しきりました。

 あと二話くらいで終わりですかね……。次回はもう少し期間を空けずに投稿したいです。

 評価の方、気が向いたらでいいのでよろしくお願いします。励みになります。

 それと、第二回好きなヒロインアンケートです。ぜひ参加して行ってくださいね。
 前回圧倒的な数字を見せたガブリエルは殿堂入りで不在です。ご容赦お願いします。


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