漫物語 (楓麟)
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がらんブル
其の壹


二次ファン、ツイ、ピクシヴでの皆様の評価感想ご指摘本当に励みになりました。それでは、よろしくお願いします


001

 青柳訝藍(あおやぎがらん)はいたって普通の高校生だった。

 普通に元気で、普通に友達がいて、普通の生活を送っていた。

 ただ、ここでいう普通(、、)とは、人並みに元気で、人並みに友達がいるという意味で、そして、普通でないもの(、、、、、、、)と一切関わらない生活を送っていたという意味であり、彼女自身が平凡な人間であるという意味ではない。

 むしろ、良い人間である。素晴らしい人格の持ち主と言い切ってしまっていい。

 成績もよく、運動神経もよく、真面目でクラスの人気者、その上見た目も可愛らしい、といった感じの同級生だった。一年のころ、俺は彼女と同じクラスだったが、どうしたらこんないい人間ができるのだろうと疑問に思っていたほどだ。

 何より笑顔が取り柄の女子だった。心から笑う人というのは彼女の笑顔を見れば納得するだろう。少なくとも、一年前までは。

 

 一年前といえば、俺には思い出ともいえない、かといって忘れることは決してできない嘘のような現実を思い出し、多少の親しみを感じるといえば感じるのだが。

 親しみなんて。好意なんて、会った後に抱いたものだ――それも、俺の偏見で。この悪い癖は一向に改善される気配がない。全く、浅ましいにもほどがある。ちょっと似通ったところがあるというだけで、好意を抱いてしまう。俺の小ささ、さもしさといったらないだろう。

 まあ、彼女に対して間違った感情を抱いていた当時の俺は、彼女にはそこまで興味は無かったし、関わろうと思ってもいなかった。

 いや、むしろ関わってきたのは彼女の方からなのだから。

 

 今年になって、つまりは冬休み明け、学校が始まってから、彼女は大きく変わっていた。一言で言えば、厚かましくなった。

 面張牛皮。

 何にでも首を突っ込みたがり、自分からトラブルに巻き込まれる。

 ほんの三日前、こんなことがあった。

 青柳のクラスメイトが飼っていたカナリアが死んだ。勿論、飼い主はそれを埋葬しようとしたのだが、青柳がそれを引き取りたいと言って聞かなかった。ついには口論になり、今回は渋々青柳が折れる形となった。

 そう、彼女は一度首を突っ込めば、最後まで突っ込んでしまう。そうしてしまいには自滅するか、また新しいことに突っ込むかだ。

 彼女が関わりたがるのは、誰かの死に関することだ。この間も、誰かのペットが死んだ時無理矢理引き取ったとか、事故で死んだ野良猫をどこかに持っていくのを見たというような、気味の悪い噂がある。去年同じクラスだった時は決してそんな奴じゃなかったのに。

 クラスが変わって、全く見かけることもなくなった青柳だけれど――噂からすると、今の彼女はもう以前俺が知っている彼女ではない、豹変してしまっているのだと思う。

 人が変わるのは、当たり前のことだ。

 それでも。

 これはあまりにも唐突過ぎないか。

 それに、冗談にならない。

 ただのイメチェンとは違う。

 ベクトルが違いすぎるのだ。

 普通、何もなしに突然こうも人は変わるものなのだろうか。

 否。

 少なくとも彼女には、理由があった。

 簡単な。至極、簡単な。

 

 青柳が変わってしまったのは、正確には去年の一月。

 彼女の兄が死んだ月だ。



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其の貳

002

粟国(あぐに)くん、ちょっといいかな」

 

 放課後、俺が一人になったのをまるで見計らったかのように、青柳訝藍が俺のクラスにやって来た。

 今日は日直だったから、必然的に俺が教室の鍵閉め等をする為に最後まで残ることになるのだが、まさかそれも見越してなのか。

 

「何だ、長話だったら帰るぞ」

 あいつがへそを曲げる。

 早く帰りたい。

 

「まあ、粟国くん次第だよ。何、粟国くん、部活とかやってんの?」

「いや。入ってない」

 あいつが腹を立てる。

 

「あ、じゃあバイトとか」

「まさか。忙しいだけだ」

 別に俺の学校は禁止というわけではないが、そんなことしたらあいつが何をするか分からない。

 

「忙しいって、具体的には?」

 ……。

 色恋沙汰。

 とか言えるかよ。

 

「プライバシーに関わるから、これ以上は無理」

「えー聞きたいなー、なになに、何で忙しいの?」

「お前さあ、そんな話をしに来たんじゃないだろ。さっさと本題に入れよ」

 窓の鍵が閉まっているか確かめながら言う。

 はいはい、ごめんなさいと彼女は窓際の席の一つを選んで腰掛けた。

 

 ふん。

 見た目は昔と何ら変わってない……な。

 ショートで少々癖のある髪にヘアピンをして。二月だから、上着のブレザーを着て。学校指定のリボンをしている。学年によってこれは色が違って、二年は青色だ。制服も……改造はしてない。ややスカートが短いだけ。

 別にグレた訳でもないのか。

 じゃあ、今までに聞いた噂は。

 まあ、噂は噂――か。

 

「粟国くん、ご両親は」

 座るなり、彼女は訊いてきた。

 こいつ、何で。

 

「死んだよ」

「それで、今は一人暮らし――なんだよね」

「まあ、」

 半分正解。

 正確には、もう一人いる。いや、もう一人というか……まあ、もう一人いる。

 でもこいつ、よく知ってるよな。誰から聞いたんだか。

 

「ずいぶんあっさりしてるね」

「ん」

「いや、ご両親のこと」

「昔のことだしな。慣れるさ――」

 そう言いながら青柳を見た途端、俺は口を閉じた。

 声とは裏腹に、彼女はうつろな目をして俺を見ている。

 空ろ。

 虚ろ。

 その空虚に、押し潰されそうで。

 

「慣れる?」

「……」

 ぎし、と椅子が軋んだ。

 立ち上がるのか、と思ったが彼女はただ窓を見る為に体を傾けただけだった。いや、正確には窓の外だが。

 ただ、見ていた。

 

「私のお兄ちゃんも、つい最近死んじゃって」

 最近……それは聞いていた。本人からではないけれど。

 それを節目に、お前は変わったよな。

 良い変わり方かは分からないが。

 

「はは、粟国くんって話しやすいね。初めて話してる気がしないや」

 と。

 ちょっと暗くなった空気を仕切りなおすかのように、彼女は明るく笑ってこちらを向いた。

 外を見ていた時とは随分と表情が違う。

 明るく、元気で、快活で、そしてまた虚無だ。

 ただ、笑っている。そんな感じ。

 魂が抜けかけているような。

 

「そうか、そういや前のクラスでも、話したりはしなかったもんな」

 でも見てはいたさ。

 クラスで目立っていたお前を。

 今の目立つ、とは大分違う意味で。

 普通の意味で。

 よく授業で発言して、クラスをまとめ、しっかりしていた。

 俺みたいに一日の半分をぼさっと過ごしてなどいない。

 

「うーん、粟国くん、いっつも同じ子とばっか話してたよねー。えーと確か――」

「そうやってまた脱線していくだろ。脇道逸れるな」

「あー」

 はは、とまた彼女は笑った。からっぽの笑顔で。

 顔を逸らすのに勇気がいる。

 お前は、昔はそんな風な笑顔ではなかった。

 

「はは、私って変かなあ、粟国くん――私、幽霊とかそういうの信じる派なんだけどさ」

 オカルト系ってことか。

 そうは見えなかったけどなあ。

 噂を聞けば、納得するっちゃあするけど。

 黒板に書いてあった日直の名前を消しながら、俺は話を訊いていた。ついでに汚かったから端から消すことにした。

 粟国くんはどうなの? と相手は問う。

 

「霊とか……か。うん、どっちつかずだな。いると思う時もあるし、いないと思う時もある」

「何それ、意味分かんないよ」

 どうしてそんな考え方するんだろう、と首を傾げる青柳。

 分からないだろうな。でも実際そうなんだぜ、常にいるとは限らない――。

 

「でもまあ、五十パーは信じてるってことだよね」

「そうは言ってない」

 少なくとも信じてる、と言え。

 いやなんか訂正も恥ずかしいぞ……。

 

「ああ、分かった」

 手を合わせる青柳。

 

「いると思う人にはいて、いないと思う人にはいないってやつ?」

「違う!」

 何だその幼稚な考え方!

 意味合いも全然違ってるぞ。

 あいつらは、いらんときに現れて、求めるときには姿を隠すようなやつらなんだ。

 あーなんだ、違うのかあ、という声を背中に受けながら。

 彼女は再び切り出した。

 

「じゃあさ」

 何気なく、という風を装っているのがバレバレだ。

 

粟国くんは(、、、、、)今でもご両親が(、、、、、、、)側にいると思ってる(、、、、、、、、、)?」

「何で」

 俺は笑っていた。黒板消しを落としそうになる。

 

「思わないよ。死んでるんだ。側にいるなんてのはこっちの―――」

「死んでも、霊として、いるかもでしょ?」

「……何が言いたいんだ? 守護霊のことか?」

「うーん、そうじゃなくって」

 と、再び外をちらと見る。

 まるで、そこに(、、、)何かがいるかのように(、、、、、、、、、、)

 

「私は、お兄ちゃんが側にいると思ってる。ううん、いるんだよ」

「…………」

「でも、会う為には対価が要るんだ」

「……何だ」

「死んだひとの魂」

 俺は黒板消しを取り落とした。

 振り返ると、そこには微笑した彼女がいた。

 死んでいる笑顔と、生きている無表情。

 

「だから粟国くん、もしよかったらご両親の――」

「馬鹿言うな」

 自然と、声は震えていた。色々と危ないことばっか言ってるぞ、こいつ。

 

「お前の兄さんがいるいないはともかくとして、他人を巻き込むのはよせ」

「……っ」

「じゃあ本当みたいだな。人のペットの死体を引き取ったりとか……そういうこと、してたんだな」

「でもっ……だ、だって」

 青柳は弾けるように立ち上がる。

 ぼろぼろと、涙が零れていた。

 

「もう私はっ、誓いを立ててしまった(、、、、、、、、、、)の……もう、()められない、止めたら、お兄ちゃんが、魂を喰われ、」

 すっ、と小さく息を吸う。

 がらんどうの教室に、声が、響いた。

 

赤い雄牛(、、、、)に、食べられちゃうんだよ」



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其の参

003

 日が暮れ、辺りはすっかり暗くなっていた。俺の気分も、かなり沈んでいる。

 急いで帰り道を走っていると(俺は自転車通学ではない)、ふいにどこからか歌声が聞こえてきた。

 歌、というかハミングというか、とにかく口ずさんでいるメロディーだけが俺の耳に届く。思わずぴたりと足を止め、どこからするのか周囲を見回した。

 

「やめろ、恥ずかしいだろ」

 そう言うと、歌は止み、代わりにくすくすと笑い声が聞こえてきて、電柱の影から彼女は姿を現した。

 

「えー? いい歌だと思うけどねん」

「……俺が創った歌だ、広めんな」

「でももう着うたフルでゲットできるよね?」

「嘘言うな」

 たく、つーか俺はまだデビューしてないし。

 そもそもバンドすら組めてなかった。

 ジョークにしては黒すぎないか。

 

 両手を後ろに回して、にこにこしながら彼女は近付いてくる。結わずにそのままの長い黒髪が、流れるようで。

 そして、海の香りがした。

 佐弐優補(さじゆうほ)

 才色兼備。

 背は女子にしては高く、俺と同じくらいだ。ちなみに俺は百七十.二センチ(この〇.二センチが大事)。

 

「で、何でこんな所にいんだよ」

「しょーじを待ってました」

「ああ……遅くなって、悪かったな」

 そのしょーじと伸ばすのはやめてくれないだろうか。気が抜ける。

 障子みてえ。正しくは、頌史。

 

「心配させて、悪かっ――!?」

 目にも止まらぬ速さで彼女は俺の腕にしがみついてきた。がばっと。腕が折れるかと思うほどの力で。

 周囲の視線が刺さる。

 

「まったく、五時までに帰るって約束したのに!」

「いやいや、どこぞの箱入り娘じゃねーとそんな門限はねーよ」

「しょーじは箱入り娘でしょ?」

「いつ俺が女子になったよ」

「だってしょーじはオレの彼女じゃん」

「急に一人称を変えるな! 混乱するだろうが!」

「え? しょーじが?」

 ……俺はもう慣れたが、俺以外にも混乱する人がいるだろうがという話だ。

 

「大体そうなったらお前のポジションは彼氏になるじゃん」

「最初からそのつもりでお付き合いを―――」

「嘘つけ!」

 相手が言い終わる前に突っ込み切った。

 

「でも否定はしないんだね」

「あ?」

「いや、私が、しょーじは彼女じゃんって言ったことに対して、否定しなかったよね」

「違う!」

 今頃否定。

 いや、隙が無かっただけだ!

 というか突っ込みどころがありすぎて困るんだよ。

 

「そんなんだから芸人として生きていけないんだよ」

「いや、ならねーし」

 諭すように言われてもな。

 

「……大体、俺が目指してんのはミュージシャンであってコメディアンじゃねーし」

 アーティストにボケも突っ込みも必要ない。

 ……必要なのかな。

 

「そうやって横文字がカッコいいって思い込んで多用しない」

「悪かったなカッコつけて!」

 思わぬところに指摘が!

 帰路を二人で歩く。優補が俺の腕にもたれかかっているので歩きづらい。

 

「あー、私スゴい発見したー」

 間延びした声で、挙手する優補。もちろん空いたほうの手だ。

 

「ミュージシャンをショージジャンと言い換えれば、なんだか棒読みしてるみたいだよー」

「横文字が一瞬で気落ちした!?」

「ショージジャンを目指すのって、やっぱショージジャン?」

「読みにくい上意味が分からなくなった……」

「ショーガナイジャン」

「開き直りやがった」

「でもまあ、しょーじのいい所は、そうやって夢を隠したりしないで宣言できるとこだけどねー」

 そうして彼女は俺の歌の一節を口ずさむ。

 やっぱり、聴いてると恥ずかしいな……。

 それにしても、優補はとても歌が上手い。

 まあ、彼女は上手くなくてはいけないのだけれど。

 上手くなくては彼女はいけなかったのだけれど。

 ふんふーん、としばらく間奏まで歌ったあと、彼女は訊いてきた。

 

「で、今日は何で遅くなったん?」

「ああ、まあ色々と……日直だったしさ」

「ふーん」

「……。ごめん嘘」

「よかった、誤魔化し続けるのかと思った」

 そうそう、こいつに嘘なんて通用しない。

 どうせバレるのだし。

 バレたら怒るとかそんなレベルじゃない。

 津波が起こる。これはマジだ。

 どんなに些細でも嘘はつくべきではない。

 これは一年前学んだことだ。

 人外である、彼女から。

 

「実はさ、」

「いーよ、言わなくても。どうせ洸雅(こうが)くんと馬鹿話してたんでしょ?」

「違えよ」

「ああ、じゃあ瞳ちゃんとおしゃべりしてたんだ」

「んな訳ねーだろ」

 矢部原(やべわら)とも皆紅(みなぐれない)とも、最近は控えめに接するようにしてる。

 浮気だとかそんなのじゃなくて、これは深刻な問題なのだ。

 俺や優補に関わった人間が、果たして無事でいられるのか。

 『怪異』に関わらないと断言はできない。

 

「嘘じゃないみたいだね」

「だから今から話すっての。

 ……ほら、去年俺と同じクラスだった、青柳って憶えてるか」

「あおやぎ――ああ、訝藍ちゃんね。うん、憶えてる」

 クラスでリーダー的存在ってやつだったよね。と続けた。

 彼女は俺のクラスメイトは全て把握している。何故か、なんて言うまでもないことだ。

 

「彼女は、私達のこと(、、、、、)を知ってるの?」

 ……私達、か。

 

「何なのかは知らないと思う。いることに、気付いてるというかな」

「それで」

「それで、去年の一月から、あいつは怪異に」

「……」

「赤い、雄牛なんだってさ」

 優補は静かに俺から離れる。

 しばらく彼女は無言だった。

 俺は慌てて言う。

 

「お前の所為なんかじゃないって。これは純粋で純粋なケースだよ。

 ほら、何だ、必要とされたときに存在するってやつだ」

「その怪異は、どんな怪異なの?」

 佐弐はそれ(、、)ではあるがそれ(、、)に詳しい訳ではない。

 よく知らないのは俺も同様だ。

 全く、あの『完璧な彼女』の言う通りだ――怪異に遭ったとき、いつでも私みたいな人がそばにいることなんて、普通は無いことなんだよ――今回、青柳は自分の力で解決しなければならない立場にあるといえる。

 だが、それで彼女がとった行動は。

 非人道的だ。

 それを知っている俺としては、黙って見ていることは難しかった。

 

「それでしょーじはどうしたいわけ?」

 先程の質問に答えてもいないのに。

 ちょっと突き放す感じに相手は訊いてくる。

 俺は答えた。

 

 彼女を助けたい、と。



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其の肆

004

 

「もっと詳しく訊かせて」

 優補の言葉に、俺は頷いた。

 

 アパートの二階。二〇二号室。

 アパートとは言っても、鉄筋コンクリート造の集合住宅である――俺の住む地域では、こういうのもマンションでなくアパートと呼ぶのだ。

 基準は何だったか、確か米軍と何か関係があった気がするが――まあ、俺にとってマンションとは超高層ビルなイメージがある。

 とにかく。

 そこが、俺の家だ。

 2LDK、冷房完備、クローゼットが三つもあり、小さいがバルコニー付という学生にしては贅沢な所だ。

 大家さんも優しくて、特別に学生割引がされて家賃は……まあ、それでも学生で普通払える額ではない。これも優補がバイトを頑張ってくれているお陰だ。

 お気付きかもしれないが、というか改まって言うことでもないのだが、俺と彼女は交際している。同棲している。

 おのろけかと周りから叩かれること覚悟の上だ。

 だがこれは責任だ。

 俺が償うべきことで、彼女を生かしてやるために俺ができる唯一の方法だ。

 ……まあもちろん、彼女のことは好きだけど。

 白い扉を開け、玄関で靴を脱ぎ、直進……すると寝室になってしまうので左折。

 十二畳のリビング。荷物を下ろして腰を下ろす。

 

「訝藍ちゃんは、しょーじが怪異を知ってることは知らないで、話してきたってことだよね?」

「ああ、そうなるな」

 偶然。にしては出来過ぎなのだが。

 いや、これも『彼女』が言っていたよな。一度怪異に関わると、惹かれやすくなるとか。

 そんなことを言われたって、覚悟なんてできるわけがないし、どうしようもないのが事実だ。

 

「その牛の話をして」

 彼女の言葉に俺は再び頷き、口を開いた。

 以下、放課後の回想シーン。

 

 

 

「……ごめんね。突然、意味の分かんないこと言って」

「いや……」

 驚いた。

 青柳は、怪異に関わってしまっているのだ。

 それなら。

 これほどに変わってしまっても納得できる。

 

「なあ、その牛って……何なんだ?」

「し、知らない」

 あまりにも平然としていたからだろう、相手は珍しいものを見るかのような目つきになった。

 涙も止まっている。

 まあ、俺は怪異のことを知っているし、パニックやらヒステリーやらになられたところで、それも優補のおかげで慣れている。

 

「ただ、去年の冬休みに……出遭(であ)った、というか」

「それが何なのか、お前分かるのか」

「え? えっ……と、妖怪の一種かな、なんて思ったんだけど。何ていうか、『生き物でない』感じだったし――牛っていう見た目をしてたけど、真っ赤だったし」

 しゃくりあげながらそう答えた。

 牛。

 ウシ目ウシ科の哺乳類。

 そして赤い、雄牛の怪異、か。

 ねえ、と彼女は首を傾げる。

 

「どうしてそんなことを――粟国くん、何か知ってるの?」

「別に」

 急いで教室の外を見て、戸を閉める。誰かが来たら困るので、鍵もかけた。

 そして彼女の前に立つ。

 

「え、な、何? か、監禁?」

「この流れで、どうやったらそんな発想が出るか知りたいよ」

 脳味噌の構造はどうなってんだ。

 

「怪異」

 と俺は言った。

 

「そういう魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類を、怪異っていう――らしい。俺も詳しくは知らないけど」

 一息ついて。

 やっぱり言うしかないか。

 

「俺も、その怪異に関わった人間の一人だからさ」

「カイイ……」

「お前が関わった牛とやらがどういう怪異かは分からない。でも、特徴とか言ってくれれば、何か分かるかもしれない。今までみたいに馬鹿な真似しなくて済む」

 もちろん嘘だ。

 怪異に対して詳細を述べられたところで、対処法なんて俺に浮かぶわけがない。

 希望は、佐弐優補だが、彼女もどうだか。

 

「そういえば……誓った、とか言ってたな」

「うん……私はその牛の怪異に、誓いを立てたの」

 目を擦り、俺を見上げる。

 

「お兄ちゃんを現世に留める間、その対価として生き物の魂を集めること」

「ああ、牛に食べられるとか言ってたけど、それは魂なんだな」

「う、ん。そうだよ」

 あまりにも的確な答えだったらしく、青柳はさらに驚いていた。

 

「お兄ちゃんの魂が、牛に食べられるっていう意味――牛は、定期的に魂をねだるの。それで捧げなかったその時には、お兄ちゃんの魂が食べられて、輪廻から外されてしまう」

「よく分からないけど、何だ、あの世に帰れずに牛に消されるって感じか」

 相手は頷く。

 

「あの牛は、多分この世とあの世を渡る――その、怪異、なんだと思う。魂を運ぶ、そんな怪異」

「魂を、」

「だって――私がお兄ちゃんを呼び戻す為に、私は魂を半分捧げた(、、、、、、、、、)。それと交換に、牛はお兄ちゃんを連れてきてくれた」

 待て。

 魂を半分、だって?

 それじゃあ、今のお前は。

 

「どうして――そこまでするんだよ。お前、そんな状態で大丈夫なのか?」

 相手は答えなかった。

 顔を伏せ、目を合わせようとしない。

 なら、踏み込むまい。

 一線は引いておくべき。

 

「で、お前はどう思うんだよ」

「……え?」

「え? じゃねえよ。さっき泣いてまで訴えたじゃん。牛に喰われるとかって。お前、今の自分をどう思ってるんだ。

 問題は、お前が何をどうしたいかなんだから」

「やめたい」

 やめたい、そう連呼して。

 反芻(はんすう)して。

 

「もう死体を探し回るのは嫌だ、牛に会うのは嫌だ、お兄ちゃんに会えないのは嫌だ、お兄ちゃんが帰れないのは嫌だ」

「……」

「お兄ちゃんを帰すのにも、魂が必要なの。大きな対価が。でも、集められなかったら、お兄ちゃんは――」

「でもそういう風にしたのは、お前が牛に誓ったのが原因だろ」

「……何で、」

 見れば青柳は下を向いたまま震えていた。

 

「どうしてそんな風に言えるの? そもそも、おかしいよ――私は粟国くんのご両親が亡くなったことを知ったから勇気を持ってこうして会いに来ただけのに……その粟国くんが偶然私と同じように怪異に関わってるなんて」

「キツい言い方に聞こえたかもな」

 うーん、ほとんど受け売りだからな……それに俺みたいに失敗してほしくないし、正直俺自身が切羽詰ってるみたいだ。

 青柳が冬休みが明けてから、色んなことに首を突っ込んでいるのは、その大きな対価を探しているからだろう。

 焦っているからなのだろう。

 

「だから……そんなことが言えるほどの怪異と、粟国くんは関わったってことだよね」

 やはり、頭がいいだけある、理解が及ぶのが早い。

 

「じゃあ粟国くんは、どんな怪異に関わったの? 私のと似たようなもの?」

「いいや」

 俺はゆっくりと首を横に振った。

 

「俺が出遭った怪異は、俺の望みを叶えようとしたし、俺を恨んでもいたさ。それは、俺が用も無いのにあいつと関わって、あいつの人生を滅茶苦茶にしたからだ」

 自分に言い聞かせるようにそう言った。

 

「……どうなったの」

「ちょっと、変わっただけさ。それ以外は、何も変わっちゃいない」

「……意味分かんない」

「分かんないだろうな」

 分かってもらおうとも思わない。

 これはあまりにも馬鹿馬鹿しい話だから。

 そして、信じられない話だから。

 青柳はといえば、もう、と頬を膨らませていた。

 茶化されてると思ったのかもしれない。

 確かに、俺が言うべきことじゃないかもな。

 これはあの不吉なおっさんが言いそうな台詞だろう。

 あるいは、完全無欠なあの人が。

 あの人も、なかなか怖いからなあ……。

 

「まあ、これも何かの縁だろ。生憎俺は頑固でね。事情を知ったからには、できるだけのことをしようと思う」

「はは、粟国くんカッコいいね。頑固なのも私と少し、似てるかな」

 いや、お前のは厚かましいって言うんだ。

 

「私も粟国くん風に言うなら、生憎私も、事情を知られたからには、最後まで付き合ってもらおうと思う」

 そして彼女は、ありがとうと言ってきた。

 俺は、まだ早いぞ、と答えた。

 

「……そうだ」

 青柳が席を離れ、教室の扉へ向かう。

 そして振り返って笑った。

 

「私、図書室に行ってみる」

「図書室? 今?」

 うん、と相手は頷いた。

 

「粟国くんの話を聞いて、怪異のこととかちゃんと調べるべきだな……って思ったの。それで、今から図書室」

「開いてるのかな……」

「開いてるよ。あと三十分くらいしたらアウトだったけどね」

 うーん、優等生だなあ。

 図書室に足を運んだことなんてないんだが。

 でも牛の怪異、ってマイナーなイメージがあるな……いや、俺の知識がなさ過ぎるだけか。

 それでも、俺の怪異よりはマイナーだろう。

 

「じゃあね、粟国くん、また明日報告するよ」

「ああ」

 再び静かになった教室で、俺は再び黒板を消し始めた。

 

 

 

「……相変わらず几帳面だねえ、しょーじは」

「いや、そんな感想は必要ない」

 一通り話し終わって、優補はうんうんと頷いている。

 

「しょーじは正しいよ。あの後訝藍ちゃんについて行って一緒に調べなかったのがね」

「そうか?」

「こういうのは、できるだけ、自分の力で解決するべきだよ」

 答えを導き出すのは、結局自分自身なんだし。と彼女は言う。

 

「私達は、助けるとはいっても手を貸すだけみたいなもんだから」

 確かに、俺たちは人を助けることなんてできない。

 本当の意味で助かるには、自分自身でなんとかする以外にないのだ。

 

「なあ優補、俺的によく分かんない事があるんだが」

「何故生きてるかなんて、そうそう分かるものじゃないんだよ」

「いや、今俺はそんな深刻なことに疑問を抱いてねえよ!」

「あー……ここで口説いてくれるとか、そーいうのはないわけだ」

「う」

 そこまで頭は回らないのだった。

 

「俺が今生きているのは、」

「もう遅いばーか」

 冷たく突き放して、それで何? と訊いてくる。

 

「別に彼女は何とも思ってない風だったから問いたださなかったんだけど。青柳は魂を捧げる為に悪戦苦闘してる――だからって何で死体を集めるなんてしてんだ? 死体は魂なんて無い、蛻《もぬけ》の殻じゃねえか」

「んー。しょーじは蛻の殻どころか間抜けの殻だね」

 間抜けですらないのか、俺は。

 まあ、気付いただけ凄いよ、と。

 自分の髪をくるくる巻きながら、優補は、おそらく持論であるだろうが、答えた。

 

「残りかす、かな」

「かす?」

「魂が抜けた体でも、抜けたばかりなら少しだけ生気っていうか、魂の欠片みたいなのが引っかかってるんだよ。知らない?」

「いや、知らないけど……」

「とにかく、そんな場合もあるってこと。あるいは、成仏できてなかったり、死にたてほやほやなら、魂が完全に残ってるかもね」

 嫌な言い方だ……。

 気分が悪くなる。

 本人に訊かなくてよかった。

 

「魂というよりは、魄《たましい》って感じかな。肉体に属し、体朽ちるまでそれを支える気のことだけど」

「よく分からないけど……じゃあ俺の両親が成仏してねえとでも思ったのかな」

「焦ってたんでしょ、だから嗅ぎ回ったりしてるんだよ。それとも」

 表情は穏やかだったが、優補は言うのだった。

 

「しょーじを捧げようとしたか」

「……んな訳ねえだろ」

「そーお? 案外そうだったりするかもよん。だから誰もいない時を選んだとか考えられるし、もししょーじが怪異を知らなかったらぱくり、だったかも」

「疑えばいくらでも疑えるけど……俺はそうは思わねえな」

「ま、それはそれでいいけど」

 興味なさそうにそう言って、優補はそれからだんまりだった。

 俺は姿勢を崩して優補、というよりは独り言のように言った。

 

「いやしかし俺としては、どうして一年以上も経って怪異について調べなかったんだっていうのも疑問に思うけどな」

「愚問だよ」

「え?」

「何でもないさー」

「……」

 優補は立ち上がり、伸びをしながら同室の台所へ向かった。夕食を作るらしい。

 

「今日はシチューの予定だったんだけど、ビーフシチューにする?」

「なんかとんだブラックジョークだよな……」

「じゃあ黒鮫でも入れる?」

「それはブラックシャークだろ!」

 面白くないわ。

 黒鮫どころか興ざめだ。

 優補はといえば、さっすが横文字のプロだとか言いながら冷蔵庫から野菜を取り出していた。

 俺も手伝えるんだが、料理を邪魔されると怒るからな……(邪魔する気がなくても、だ)。

 

「にしても青柳のやつ、大丈夫かな」

 優補はまな板と包丁を取り出していた。

 

「そもそも学校の図書室に怪異の文献なんてあんましないと思うんだよな。俺が思うに、牛の怪異といえばあれしか思い浮かばねえ。ほら、半人半牛の」

「分かった、ミノタロスね」

「……なんか仮面ライダーに出てくる敵キャラっぽい名前だぞ」

 ミノタウロスだ。だが優補は頬を膨らませて俺の突っ込みに指摘した。指摘してきやがった。

 

「イマジンは敵なんかじゃないよー、主人公と最後まで戦ういいひとたちだよー」

 いや、電王とか興味ないから。ほんとごめんだけど。

 くらいまっくす~♪ と歌いだす優補。能天気め。

 

「ミノタウロスってギリシア神話の半人半牛だったよねー」

「ああ、だから牛の怪異って思ってさ」

「ラビリンス!」

 優補が叫ぶ。だが特に意味はなかったようで、そのまま彼女は続けた。

 

「うーん、でもミノタウロスって赤いかもだけど現世と来世を渡る怪異、じゃないよ」

「あ、そうだっけか」

「それにあれは魂どころか人間もろ食べちゃうしねー。あー怖い」

 お前もあんまり人のこと言えないからな。

 人というか、化け物というか。

 

「じゃあ俺には何も思い浮かばねえや。牛の怪異なんて」

 優補は鍋に火をつけ、野菜を切り始めていた。

 

「そうだ、なあ優補、お前も明日久しぶりに青柳に会って――」

 みるか、と言い切らないうちに、彼女は飛んできていた。

 正確には、青柳の「あお」も言い切らないうちに。

 包丁を構えたままで。

 

「お、おい――!」

「さっきから思ったんだけどー」

 ゆるゆるとした口調で包丁を頭上にかざす少女。

 ついていた野菜が落ちてくる。

 

「どうしてそうやって青柳って親しげに呼ぶの?」

「……っ」

 いや、お前は全員を下の名前で呼んでんじゃん!

 どちらかといえばお前の方が親しげに聞こえるよ!

 

「興ざめはいいけれど、恋ざめは赦さないんだからね」

「……んなつもりはねえよ」

「ふーん」

 台所へ戻っていく。口の端を歪めているところからして、マジで怒ったわけではなさそうだ。

 

「いい年の女子が包丁振り回すなよ、俺じゃなかったら通報してるぜ」

「通報される前に刺してます」

「物騒なこと言うなや!」

「さっきから私、『次にしょーじが青柳と言ったら刺す』ってずっと考えてたんだよね」

「マジでおっかねえ」

 計画まで練っていやがった。

 本気かよ。

 あと、落とした野菜を放置するな。玉ねぎとかもあったせいで微妙に目が痛いぞ。

 全く。

 拾い集めて捨てる。勿体ない。

 

「――で。どうだ? 明日にでも青柳、さんに会うか?」

「どうしてそうやってさん付けにするの? 堅苦しいよ」

「お前が言ったからだろうが!」

「しょーじらしくもない」

「俺も自分で言いながら思ったよ!」

「別に私は今後一切呼び捨てにするな、とは言ってないよ?」

「言ってはなくても態度で示しただろ!」

「いや、あれは単に、面白いかなーと思って」

「将来歴史に名を残す殺人鬼みてーな台詞を言うな」

「気分は乗らないけど、会っておこうかなー」

「……ああ? そうか」

 話がようやく戻ったのな。

 

「だって、関わった怪異のことはもちろんだけど、訝藍ちゃんのこと、何も分からないんだもん」

 ああ。

 そうだ。そうなのだ。

 彼女が牛に誓ってから人が変わったという点は納得できた。

 だが、どういった経緯で、というのは全くもって何も分かっていない。

 あの笑顔。

 もう見れないのだろうか。

 何があって、彼女はああなってしまったのだろうか。

 魂を半分、捧げた青柳は。

 どうして、そこまでして兄を呼び戻したかったのか。



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其の伍

005

 

 さて、次の日。

 俺達にとっては思わぬ転機、というか奇跡というか。

 とにかくことが起きた。

 俺の通う私立虚栗(みなしぐり)高校は、土曜でも授業がある。

 いつものように朝早くに起きて、いつものように優補と家を出た。

 時刻は七時。

 ゆっくり歩いても余裕で着くくらい。

 

「じゃあ、いつ訝藍ちゃんに会えるか訊いといてね」

「ああ、あいつ親は夜遅くまで仕事とか言ってたな……だからまあ、放課後ならいつでもいいんじゃないか」

「……何でそんなことまで知ってるわけ?」

「疑り深いなあ、おい」

 信用してくれよ。

 

「私が知らないことを何でしょーじが知ってんのよー!」

「キレるポイントが分かんねえ!」

 そりゃあお前は頭いいけれども。

 俺よりも頭いいけれども!

 

「しょーじの分からず屋!」

「このタイミングで使われると悪意しか感じないぞ!」

 何でも分からない人みたいな。

 

「昨日、青柳から聞いただけだしさ」

「ほんっと、訝藍ちゃんが怪異なんかに関わっていなかったら嫉妬のあまり呪ってたかもね」

「物騒なことを……」

 それに怪異なんかって。

 

「今回は祟るだけで赦してあげるけど」

「祟んな」

 余計酷いじゃねえか。

 大体お前のそこらへんの発言は洒落にならないんだって。

 疑り深いとか嫉妬深いとかそんな言葉じゃ形容できないな。

 怖い、怖い。

 

「楽しんでいるところ、お邪魔して申し訳ないのだけれど」

 と。

 後方から、女性の声がした。

 振り返ると、

 うわ。

 すごい美人さんだ。

 のろけになるかもだけど、優補とタメ張る。

 でも相手は優補よりも、遥かに大人って感じだ。

 短い綺麗な黒髪に、丈の長い黒スカートに長袖の薄着。胸にペンダントを付けてという落ち着いた服装だが、とても魅力的――って、こんな言い方してたらマジで優補が怒るかも。

 

「私の連れを知らないかしら。さっきまで一緒にいたのだけれど」

「連れ――ですか」

 優補がちらりとこちらを見てきた。

 

「あの、その連れってどんな人ですか」

 俺は尋ねる。もしかしたら見たかもだし。ここでいいえ、知りませんと丁寧に断るという選択肢もあるにはあるのだけれど。

 気が進まない。

 女の人は指を唇に当てて、そうね、と呟いた。

 ナチュラルに綺麗な動きをするなあ……。

 

「ちびだけど可愛くて格好いい、私の彼氏なの」

「……」

 のろけやがった。

 連れって、男だったか……残念ではないが。

 

「すみません。見てないです」

「あらそう。彼のことを知らないなんて、現代では生きていけないわよ」

 女性がそう言い終わるか終わらないかという時に、足音と声が聞こえてきた。

 

「いたいた、何やってんだよ」

 息を切らしながら現れたのは、――きっとこの人が彼氏なのだろう、女性に比べればパーカーにジーンズという簡潔な服装で、また少々子供っぽい、それでもやはり年上の男だった。高そうなジャケットを抱えている。

 

「またお前やってたのか」

「私は何もしてないわ。ただ、(こよみ)を探していただけよ」

「探していたとかこつけて僕の自慢話を周りにしてるだけじゃねえか!」

 現れるなり突っ込み始めたこの男。

 目の前に俺達がいるのにまるでお構いなしか。

 俺はそんなことできねえなあ。

 

「全く――ひたぎが迷惑かけた、悪いな」

 相手……確か、こよみ、とか呼ばれていたが……男性は俺達二人を見て(見上げて)謝った。

 恥ずかしげもなく初対面の人の前でも下の名前呼びだった。

 ひたぎ、ねえ。

 何だか変わった二人だ。

 観光客っぽい。

 

「い、いえ……」

 そう俺が言っている間にも、男性は彼女にジャケットを渡していた。彼女だったらしい。

 

「沖縄って思ったよりも暖かいのね。冬でも上着なんか必要ないくらい」

 あ、やっぱり観光客だ。

 ひたぎ、と呼ばれた女性は俺を見る。

 

「あなた、地元の生徒さんよね」

「あ、そうです」

「じゃあ名字も珍しいのかしら」

「ああ、はあ――粟国といいます。地名性です」

 これ、県外の人からよく言われるんだよなあ……。

 相手はうんうんと頷いていた。

 

「沖縄の地名ね。知ってるわ――私は戦場(せんじょう)(はら)ひたぎ。お忙しいところ、邪魔してごめんなさいね」

 戦場ヶ原。

 バリッバリの地名姓だった。

 本州だとよくある姓なのか?

 

「そして、こっちの可愛い子が阿良々木(あららぎ)暦くん」

「だからそうやってのろけるんじゃない、ひたぎ」

 顔を赤らめて言う阿良々木さん、だった。

 素直なんだろうなあ。

 

「で、お隣の子は彼女さん?」

 ストレートに尋ねてくる戦場ヶ原さんだった。……次は、俺が赤くなる番だった。

 

「おはよーございます。佐弐優補です。しょーじの彼氏です」

「彼女だって言ってるだろ」

 あ。

 人前で突っ込んじゃった。

 そしてそれに対して、そうなの、と普通に返してくる戦場ヶ原さんもどうかと思います……。

 

「私達、観光、というか旅行に来たの。去年は大学入学祝いで北海道だったのだけれど、だったら沖縄も行ってみたいわ、と私が無理を言ってね――」

 随分と親しげに話しかけてくる。

 

「あれ。大学って、まだ冬休みなんですか?」

 優補が尋ねる。

 こいつそんな所によくすぐ気が付くよな。

 それに頷く阿良々木さん。

 

「ああ、大学って結構休み長いんだよ。特に僕達のとこはな。だから平日の人が少ない日を選んできたわけ」

「ということは、阿良々木さんも戦場ヶ原さんも同じ大学に通ってらっしゃるんですね」

「そうだよ。……なあ、言いにくいんだが阿良々木さんってのはちょっとやめてくれないかな、粟国」

「はい?」

 なんかいきなり名前を呼ばれて驚いた。

 二人ともフレンドリーだな。

 何だか……初対面な気がしない。

 

「さん付けされると、生意気な小学生を思い出してさ」

「……」

 よく分からない思考回路をお持ちのようだった。そして隣で戦場ヶ原さんが、

 

「私もさん付けはやめてほしいわね。さま付けでないと」

 と言うのだった……。

 いやいやいや。

 阿良々木さ……阿良々木も、やれやれ、と首を振っているところからして、いつもこんな調子なのだろう。

 ふいに、彼は下を向いた。何かに反応するかのように。

 俺も下を見たが、そこにはもちろん、何も無かった。

 足元から生じる影以外は、何も無かった。 

 

「――っ!」

 隣で優補が一瞬震えた。

 どうした、と目で合図を送ったが、ただ地面を凝視するだけだった。

 影を見ているのか?

 対して阿良々木がゆっくり顔を上げる。

 

「粟国。お前――」

「……ふむ。この匂いには憶えがあるぞ」

 すぐ近くで舌足らずな声が聞こえ、気が付けば目の前に金髪の少女が立っていた。

 

「わ――!?」

「驚くな、人間よ。儂はうぬに危害を加えるつもりなどない」

 誰だ!?

 何だこの古風な口調!

 というかまずどっから現れた、この美少女!

 頭が混乱しているにもかかわらず、金髪少女は優補を見上げた。

 

「久しいのう。うぬとは何年振りじゃろうか」

 かかっ、と笑う。

 え? ――え?

 久しぶり、だと?

 横を見ると、目を瞬かせた彼女がいた。

 唇がわなわな震えている。

 

「お、御姉さま」

 えええ!?

 御姉さまだと?

 どっからどう見てもこの金髪は年下だろうが――

 ていうかどういう関係?

 まさか。

 

「お、おい。優補。何なんだ、この子――」

「この子だなんて、恥を知れよ」

 うわ。

 優補がお怒りだ。

 キレると口調も変わるから、もう怖いったらありゃしない。

 

「この方は、怪異の王、伝説の吸血鬼だよ、しょーじ……」

 吸血鬼?

 吸血鬼ってあの、血を吸う鬼――怪異の?

 

「そうよ」

 何かを理解したのか、戦場ヶ原さま……戦場ヶ原さんが言う。

 

「彼女は五百歳の吸血鬼で、そして暦くんはその眷属(けんぞく)。忠実な(しもべ)だった(、、、)わ。そして私は、その彼女。ただの、彼女よ」

「ただのじゃないよ、ひたぎ。……大切な、彼女だ」

「あら」

 ……またのろけられても困るのだが。

 本当に、困るのだが……。

 

「挨拶が遅れたのう、人間よ。儂の名は忍野忍(おしのしのぶ)という。しかとその胸に焼きつけよ」

「はあ……」

 えっへん、と胸を張る少女を目を点にして見つめる俺。

 日本の名前だ……。

 日本の吸血鬼なのか? いや、金髪の日本人なんていないはずだ。

 うわー、肌白いな、こいつ……じゃないこの鬼……。

 ちゃんと食事してんのか?

 食事……吸血を。

 怪異の王が、こんな姿だということが信じられなかった。

 続いて、再び戦場ヶ原さんが問う。

 

「こうして彼女があなた達の前に姿を現したってことは……あなた達も、何かそれ(、、)に関わっているのかしらね」

「……」

 何という偶然。

 ただのカップルじゃない、というかトリオじゃない。

 彼らも……怪異を知っている。 

 

「いいえ。でも、関わってはいました。もう、俺達は解決したことです」

 もう曖昧な言い方も駄目だろう。

 そろそろ潮時か。

 彼女の正体。

 佐弐優補。

 見た目は俺と同じ高校二年生だが。

 年齢は、四百歳ほど。

 そして、怪異だ。

 

「俺が関わったのは、この隣にいる彼女――彼女は、人魚なんです」

 するまでもないことだが、ここでちょっと昔の話。

 昔といっても一年前の十二月だ。

 青柳が牛に関わる一ヵ月前に。

 俺は、人外の存在、上位の存在を知った。

 綺麗な歌声を持つ人魚だった。

 とても美しい半魚人だった。

 彼女に、恋をしてしまっていた。

 そんな彼女に俺は恨まれ、挙句の果てには泣き付かれた。

 まあ、俺が悪いのだが。

 全ては、俺からだったのだから。

 人魚に戻れなくなった彼女。

 そんな彼女を俺にできるただ一つの方法で、助けた。

 助けることができた、のだろうか。

 そうであってほしい。

 今の彼女が、今に満足していてほしい。

 勝手だけれど、俺は、そう思うのだ。

 おや。

 ちょっと待てよ。吸血鬼?

 ということは、彼が彼女の言っていた――

 僕達を助けてくれた彼女が言っていた――

 

「そう。人魚」

 戦場ヶ原さんは首を傾げながら、優補を見ていた。

 人間とは何ら変わりない見た目の彼女を。

 一方で優補は感動の再会、というやつだろう、吸血鬼少女とお話中だった。

 

「御姉さま、お変わりないようで何よりです!」

「うむ。見た目はお互い随分と変わってしまっておるが、まあうぬにも色々あったのじゃろうよ、トラストメロ――」

「いいえ、御姉さま。今の私は、佐弐と言うのです。しょーじが、付けてくれた名前です」

「ふむ。若僧にしては、なかなか危険なことをするのう」

 少女に若僧と言われて正直突っ込みたくなるのだが、だが彼女は五百歳だと思い出して(とど)まる。

 昔話に花を咲かせる少女二人だった。

 シュールすぎる……。

 

「人魚、には見えないわよねえ」

「そうだな……でも、忍が出てくるくらいだから、本当なんだよな」

 この二人もこの二人で、すげー落ち着いてるよな。

 吸血鬼と人魚じゃあ、格が違うのか。 

 ましてや、怪異の王と関わったのだから、少しのことでは動揺などしないのか。

 

「えーと、優補?」

「――それで、御姉さまの今のお名前は、忍野忍といいましたよね」

「そうじゃ。刃の下に、心有り。儂らしい名であろう。今では気に入っておるぞ」

「おしのしのぶ……二重の意味で、三重の意味を持つ、ですね! 私と似ていますっ」

「いや、うぬ……佐弐優補の場合は儂のよりも少々重い……二重三重どころか、永遠、連鎖。永久の補佐という感じがするがのう」

 名で縛る。そう忍は言った(いや、申し訳ないのだが彼女をさん付けにするのに抵抗があったり)。

 

「御姉さま、重々承知しております。私はその名の通りの存在なのですから」

「そうか、ならばよいのじゃが」

「なあ、優補」

「あ、え? しょーじ?」

 まるで初めてこの場に俺がいることに気付いたみたいな顔をするなよ。

 

「いや、何というかもう俺遅刻しそうだから、学校行くぞ」

「あー」

 そういえばそんなのもあったねー、みたいな顔をするなよ。

 

「私、もうちょっとみんなとおしゃべりするから」

「そうか、じゃあ行ってくるからな」

 ちなみにちなみに。

 優補は、高校には通っていない。

 正確には、最近までは通っていた。

 だが、通う必要がなくなった今――彼女はバイトに明け暮れる日々だ。

 本当に、助かる。

 そして俺は阿良々木、そして戦場ヶ原さん、忍にお辞儀をする。

 

「それじゃあ、しばらく彼女を頼みます」

「ちょっと待て、粟国」

 走ろうとした時、相手は言った。

 

「僕達、明日まではここにいるからさ――」

 戦場ヶ原さんと忍を見ながら彼は言う。

 

「僕も色々、お前と話がしたい」

「……俺でよければ」

 

 俺は人魚に出遭い。

 阿良々木は吸血鬼に出遭い。

 そして青柳は牛に出遭った。

 それでも俺はもう優補とのいざこざは終わったし、阿良々木も見ている限りでは吸血鬼、忍と上手くやっているようだ。

 だから、あくまでも今重点を置くべきは青柳だ。

 俺は十分ほどで、学校に辿り着いた。

 

「……あ」

 校門で、青柳とバッタリ出くわした。

 相手は毎日この時間帯に来ているのかもしれない。

 俺が登校する時に、そういえば彼女を見かけたことはなかったし。

 

「……おはよう、粟国くん」

「ああ、おはよう」

 あれ?

 何だか声が沈んでないか?

 そう訊くと、相手は首をぶんぶん横に振った。

 

「そんなことないよ。ただ、疲れただけ」

「ふうん……」

「あれから図書館で調べて、多分、だけど分かったよ」

 そう言って、青柳は少し笑った。

 遅刻ギリギリの生徒達で靴箱はごった返していて、そこで俺は青柳と別れてしまった。

 あいつちっこいからな……人ごみに紛れて、すぐに見えなくなってしまった。

 まあ、時間も時間だし、あとで話は訊けるだろう。

 そんな軽い考えでいたのだが、結局。

 その日、学校で青柳に会うことはなかった。

 彼女は、授業中に倒れたのだという。

 



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其の陸

006

 

 保健室に行ったが、もう遅かった。

 放課後、土曜日なので半ドン。

 正午と早い時刻。

 いつまで経っても青柳が来る気配はなく、こちらから彼女のクラスに行ったが彼女はいなかった。

 そしたら青柳のクラスの人から、彼女が三時間目、今日最後の授業で倒れたのだということを訊いた。

 

「ただ疲れただけって……嘘つきやがったな、あいつ」

 無理してたんじゃん。

 保健室の先生から彼女の住所は訊いた。

 渡す宿題があった、とか嘘をついて教えてもらった。

 その辺、この学校は甘い。

 どうやら青柳は熱でも風邪でも貧血でもない、ただの過労だということで早退させられたらしい。

 親は仕事。

 だから徒歩で帰ったそうだ。

 いやしかし、彼女の家は学校からさほど離れていない。

 むしろ近すぎる。

 歩いて三分ほどだ。

 家から学校より、校門から教室までの方が距離が遠くないか? と思うくらい(これは、俺の学校が広いという意味でもある)。

 青柳の家は、普通の家だった。

 ここでいう普通の家とは、沖縄の伝統的かつ独特なあの家ではなく、都会で見られる家のことだ。ただまあ、台風対策で造りは多少違うかもしれないし、表札にシーサーが描かれているのは沖縄らしいが。

 チャイムを鳴らそうとして、思い(とど)まる。

 危ない危ない。まずはあいつに電話だ。

 携帯を取り出して、コールする。

 優補は、すぐに出てくれた。息が弾んでいる。

 

「しょーじ!? 学校終わった!? 今どこなん!?」

「うるせえ……学校は終わったよ、それでな、」

「今私、沖縄しょーかいちゅー。阿良々木さん御一行に」

「ああ!?」

「おすすめスポットというか、いいトコのお土産屋さんとかね。あ、あとおいしーお店とか!」

「じゃあ、今みんなでぶらぶらしてんだな」

「うん、しょーじも早くおいでよー」

 いいのかなー。

 沖縄旅行っていっても、あれデートみたいなもんじゃないのか?

 あ、いや忍がいたか。

 それでも、何だか申し訳ない。

 迷惑かけてないだろうか。

 というかまず優補は扱いが難しいのだ。

 触ると火傷するし、無視すると寂しくて死んでしまう、みたいな感じ。

 人魚で火傷という例えも可笑しいが。

 

「ごめん、俺忙しい」

「はあ!!?」

 大きな声だ。周りにご迷惑をおかけしていないだろうか。

 

「何がどうして忙しいの? 今日は何も用事がないことくらい私は知ってるよー」

「いや、青柳が今日倒れてさ。今そいつの家に行って――」

「待て! 待て待て待て! 何? しょーじいつの間に訝藍ちゃんとそんなに仲良くなっちゃってんの!?」

「仲良くねーよ」

「そいつ呼ばわりなんて、赦せない」

「またよく分からねーとこにキレるなあ!」

「それで家に招き招かれる関係ですか」

「いや、あいつ倒れたって言ったろ!」

「あいつ呼ばわりですか」

「じゃあ何て呼べばいいんだよ!」

「名前忘れたけど、まあ大した奴じゃない、同じ学年だったと思われる人」

「曖昧すぎる上に俺の学校の生徒ほとんどが一応当てはまる!」

 余計お前怒るだろ。

 誰か分からないじゃん、って。

 

「じゃーもうなんでもいいよ、下の名前以外ならなんでもいいさー」

「……」

 いや、それが普通だと思うんだけどな。嫉妬深いキャラになりきるのも大概にしてほしい。

 

「でも彼女でもないのに家に行くってのは、ねえ」

「……隠してないから別にいいだろ」

「おおっぴらに浮気宣言する輩もいます」

「いるか!」

「それに、もしかしたら訝藍ちゃんは倒れた振りしてしょーじを誘ってるのかもよ?」

「なんつー巧妙な!」

「それに親は仕事だし、二人っきりだし」

「……疑り深すぎだろ」

「海より深し」

「計り知れないな」

「やっぱり心配だから、私も行こうかな、いや行く!」

「――優補」

 相手を落ち着かせようとわざと間を置いて言った。

 

「お前は来なくてもいい。今観光案内してるんじゃなかったのか。それなのに、皆を置いて俺のところへ来るって言うのかよ。そんな自分勝手な奴は、嫌いだ」

「…………」

「俺はただ、青柳が心配だからあいつの家に行くだけだ。それ以外の理由なんてない」

「しょーじ……」

「イチャリバチョーデーって、あるだろ? 会った時から家族同然なんだよ。家族が倒れてる時に無視なんてできるかよ」

「そーやってそういう時ばっか格好いいコトバつかって」

「悪かったな、格好つけてて」

「いーよ、しょーじ。疑ってごめんなさい。しょーじが電話してきたのって、誤解を生まない為だったんだよね」

「……」 

「訝藍ちゃんのこと、私の代わりに色々訊いてきてよね」

「分かってる」

「私はあなたを信用してます。私も家族の一人として、しょーじを待ってるから」

「ああ、ありがとう」

 そう言ってくれると素直に嬉しいよ。

 

「じゃあな――」

「あ、ちょっと待って」

 彼女の息遣い。

 少し荒い。

 

「私はそんなお人好しなしょーじのことがあふっ!」

 恥ずかしいことこの上ない台詞を、最後の最後に噛んで言ってのけた。

 いや、言ってのけてないが。

 

「俺も――」

「もしもし粟国?」

 電話の向こうからは男の声がした。

 携帯を取り落としそうになる。

 

「だあっ!? あ、あららら、さんっ!?」

「噛むな! それにさん付けはよせって言ってるだろ!」

「いや、どうして急に電話に――」

 あ、今まで優補の隣には阿良々木達がいたんだった!

 やべー。

 途中からすっかり忘れてた……。

 訊かれてる。

 絶対全部訊かれてる。

 今更真っ赤になる。

 

「気になったことがあってさ、ちょっと代わってもらった」

「いや……阿良々木、空気読めないのか……」

 あ。タメ口になってた。

 

「そういやKYは暦の略語とか訊いたな」

「そうなんですか!?」

「ちなみにひたぎも空気読めない。KY仲間だな」

「戦場ヶ原さんに謝った方が……」

 と俺が言い切らないうちに、鈍い音と阿良々木のうめき声が聞こえてきた。

 もう彼女は怒りの鉄拳を放っていた。

 案外、分かりやすい人だ。

 そして面白い。

 いやしかしあの人の拳はあんな音がするのか……。

 

 

「それはともかくとして、さっき佐弐さんから話は訊いた。同じ学校で、怪異に関わった子がいるんだろう?」

「……優補が話した?」

「忍に、だけどな。正確には。

 その怪異、忍が知ってるよ」

「え?」

「色々あってさ、忍は一応怪異のこと詳しいんだよ」

「……教えてくれますか」

「教えない。助けるだけさ」

 笑いながら彼は言う。

 ふざけて言っているのかもしれない。

 

「助けるって……でも、阿良々木は何も関係ないじゃ――」

「関係ないけど、関わらないなんてこと、僕にはできないな。お前だってそうだろ、粟国。お前だって直接的にはその子とは何の関係もない」

「同じ学校です」

「そう。ただの、同じ学校の生徒だ。でもそれ以外は何も関係ない、だろ?」

「だからって……放っておけるわけ、ない」

「そうだろ。僕も、同じだ」

 あ。そうか。

 同じだ。

 結局俺と彼の言っていることは同じなのか。

 僕達、結構似てるのかもな――そう阿良々木は呟いて。

 

「だから粟国、僕はお前を助ける、お前が助けようとしているその子も、助けることになるが」

「い、いいんですか」

「言ったろ。関わらないなんてこと、僕にはできない」

「……お人好し」

「お前のことか?」

 とぼけた声が返ってきて、俺は思わず吹き出してしまった。

 阿良々木暦。

 いい人なんだな。

 

 

 チャイムを鳴らしても何も反応が無かったので、恐る恐る玄関を開けた。

「青柳? ……誰かいますか」

「……粟国、くん……?」

 がら、と玄関のすぐ隣の部屋の戸が開いて、青柳が顔を出した。 

 真っ青だった。 

 

「お、おい……お前、大丈夫か!?」

「え? うん。平気だよ」

「平気って、その顔で何言ってんだ。何か我慢してんじゃないだろうな」

「……冴えてるね、粟国くんは。冴えすぎだよ」

「違う。無理してるのが丸分かりなだけだ」

「ああ、私の演技が下手なのか」

 演技してたのか。

 何だか信用されてない気がしてならないな。

 青柳は制服姿のままで、寝ていたらしい(開けっ放しの戸の向こうは寝室だと見て取れた)。

 それでも無理して起き上がり、俺を家に入れてくれた。

 とりあえず食卓のテーブルに移動して、向き合う形で俺達は腰掛けた。

 

「大丈夫なんだよな」

「うん、今はもう大丈夫」

 彼女がこうも真っ青なのは、体調不良とかではもちろんない。怪異減少だから、身体は異常はないはずだ。

 青柳はそこで何故か横を見て、そしてこちらに向き直って笑う。

 

「どうしたの、粟国くん。私に何か、用でもあったっけ?」

「いや……お前言ってただろ。あの怪異について、何か分かったって」

「……」

 青柳は硬直したように動かなくなった。 

 笑顔を貼り付けたまま。

 

「調べたんだろう?」

「うん。調べたよ……」

 頷く青柳。

 だが、言葉が続かない。

 

「どんな怪異だ、言ってみろよ」

「……」

 ちらりとよそ見して、ついに黙り込んでしまった。

 俺はやっぱり、と唇の裏を噛んだ。

 

「……お茶出すね」

「誤魔化すな」

「喉渇くでしょ」

「別に」

 そう言うと、青柳は困ったようにそっぽを向いた。

 

「怖いよ、粟国くん」

「悪かった、別にキツい言い方するつもりはなかったんだ」

「こういう時は遠慮なんてするべきじゃないのに……お茶、()れるよ?」

「俺はいらない」

 注意深く相手を観察しながら、俺は言う。

 

お前と兄さんの分(、、、、、、、、)だけでいい」

 すると、青柳は弾けるように椅子から立ち上がり、じっと俺を見据えた。

 

「……見えるの」

「見えねえよ」

「じゃあ、何で」

「いやそれとなく」

「……嘘」

「お前の目線で分かるんだよ」

「……」

 ずっと思っていたのだが、こいつは会話をする時によく目を逸らす。

 それは、兄の方を見ているのだ。

 何をしているのか、そんなことまでは分からないが。

 青柳はゆっくり座りなおす。

 

「怖いよ、粟国くん」

「……」

「何でも、分かっちゃうんだから」

「見えないとは言ったけど、感じるんだ。俺だって、関わった人間だから」

「……怖くないの?」

「は? 俺自身が?」

「まさかまさか。その、幽霊とか、怪異とか」

「怖いよ」

 素直に答えた。怖くあるべきなのが、そいつらなのだから。

 

「でも、私はそういうの見えるとか言うし、隣にはお兄ちゃんがいるんだよ。気味が悪いと思わないの?」

「はっ」

 思わず笑う。

 青柳が眉をぴくりと動かしたから、慌てて謝る。

 

「何者か分かっているなら、怖がる必要はないさ」

「でも……」

「言ったろ。そういうものを、俺はいると思う時もあるし、いないと思う時もある。今はいると思ってるさ」

 嘘だった。

 俺は何も信じてはいなかった。兄がいるというのも、青柳の態度から推測しただけで、実際にいるとは微塵も思っちゃいない。

 相手に話を合わせること。

 それは俺の本心を隠すことでもある。

 俺は、青柳と話を合わせるために、本心を隠して嘘をついた。俺のよくないところだった。

 お前なら立派な詐欺師になれるだろう――なんて、誰に言われた台詞だったか。

 それで、訊きたい事があるんだが、と俺は椅子を少し手前に引いた。

 

「お前は兄さんの魂をこちらに留めた、だろ?」

「……うん」

「そのこと、兄さんはどう思ってるんだよ。そこにいるなら(、、、、、、、)――答えてくれるだろ」

 青柳はちらりと隣を見る。彼女の左側にいるのだろう、俺から見て右を、彼女は向いていた。

 じっと右を向いて、兄を見て。

 やはり、少し不気味だった。

 俺には見えないものが、彼女には見えている。

 本当にいるかいないかはともかくとして。

 

「いつも同じことだよ」

 彼女はしばらくして、言った。

 

「自分が生きているか死んでいるか分からない、どのような存在であるのか分からない、なぜここにいるのか分からない、どこへ行けばいいのか分からない」

「……兄さんはそう思ってるんだぞ。お前はそれでいいとは思うのか」

「思うわけないよ……だから、帰したいと思ってる。でも、その為には――」

「――誰かの魂が要る」

 俺も、兄がいるらしい所を見つめた。

 無論、何も見えないし、何も聞こえない。

 それでも、感じる。

 何かの気配。

 青柳訝藍ではない、人の気配を。

 これは、昨日教室でも、微かだが感じていた。

 

「他に、方法は知らないのか。魂を捧げずとも、兄さんを帰せる方法」

「知らない」

「俺は今は何とも言えないな。お前が、その怪異について詳しく言ってくれないと」

「……」

 青柳は一瞬、迷ったように見えた。

 言うべきかどうかを。

 彼女は兄を横目に見ながら(これはあくまで俺の想像なのだが)、小さな声で言った。

 

「マジムンって、いるじゃん」

「マジムン……小さい頃絵本で読んだことがある。道具に取り憑く妖怪だよな」

「そうそう。マジムンは、悪霊とも言われるらしいけど。ここら辺では、結構知られてるよね。

 マジムンて、色々化けることができるみたいだよ。主に、女の人、家鴨、それに牛」

「牛、か」

 俺は先程まで阿良々木と電話でしていた会話を、思い出していた。

 

「――じゃあ、その怪異について教えてください。関わった彼女自身も、それについて昨日色々調べたって言ってましたけど、それでも意見が一致するかの確認で役に立つ」

「そうか、分かった」

 阿良々木は、正式な怪異の名前を、口にした。

 

「その子が関わった、赤い雄牛の怪異。それは、現世と来世を渡る怪異だ。つまり、その中間に位置する存在。言うなれば、陸と海の狭間に立つ怪異。岩頭牛(がんとううし)っていう名前で、知られてるぜ」

 



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其の漆

007

 

「岩頭牛?」

 数十分前の俺と同じ反応を、青柳は示してくれた。

 

「でも、それってマジムンとは違わない?」

「それは名前だけだろう。ちゃんと俺の説明を訊いてたのかよ」

「ううん」

「堂々と言うな」

 全く。

 説明し直しだ。

 

「岩頭牛は、人の前には、主に牛の姿をとって現れる。人にも、道具にも化けることができる。ほら、マジムンと共通してるだろ? 名前は違えど、同じものだよ」

「マジムンは、こっちで知られてるだけで一般的にはそう呼ぶのかな」

「そうかもな」

「それに、粟国くんの話からすると、それは牛マジムンって感じだね」

「そうだな……」

 いやでもマジムンってここでも結構マイナー妖怪だぜ?

 絵本がお祖母ちゃんの家にあったから俺も知ってるわけで。

 俺も青柳が言うまで気付かなかった。

 これは、沖縄の怪異だ。

 

「粟国くん、あれ見てた? 『琉神マブヤー』」

「ああ、なんかあったな、それ……」

 戦隊もの。

 沖縄限定ヒーロー。

 ニライカナイからやってきた、魂の戦士――だったか。

 

「あれの敵の軍団の名前、『悪の軍団マジムン』だったよね」

「いや、知らないけどさ……」

「あれは、悪い魂の総称であって、牛ではなかったなー」

 ……。

 ごめん、知らなくて。

 

「それにしても、粟国くんも調べていてくれたんだ」

「言っただろ。できるだけのことはするって」

 だがこれは阿良々木の受け売りだ。

 俺は……何も、していない。

 

「何だかとっても心強いよ」

「…………」

「これなら、信用してもいいかも」

「やっぱ今まで信用してなかったのか」

「だって普通そうじゃん。あまりにも偶然だったし、信じられないよ」

「まあ、俺も今朝はびびったよ……吸血鬼なんて」

「ん? 何のこと?」

「何でもない。それよりもさ、青柳――」

「ん?」

「その量はなくないか!?」

 今は午後一時。

 いつもなら家で昼食の時間だ。

 折角来てくれたんだから、好きなの一緒に食べようよ、と。

 青柳は買い溜めしていたと思われるパンやらカップ麺やらをテーブルに積み上げていた。

 体に悪いだろ……。

 風邪ではないとはいえ、栄養のバランスがよろしくない。

 長い間一人暮らしをしていた所為か、そこら辺気になって仕方ない。

 しかもこいつは。

 

「ええ? 普通じゃない?」

「お前の一日の摂取量はどんだけだよ……」

 テーブルの上に、お湯が注がれた即席ラーメンと、スパゲッティが二つずつ。

 皿の上には、菓子パン含む様々なパンが盛られ山積み。

 それ一人で全部食べるのかよ……。

 

「今日は気分が悪いから、こんなもん」

「見てるこっちの気分が悪い!」

「もー、酷いなあ、粟国くんは」

「……お前結構スタイルいいのにな」

 まさかこんな裏面が。

 ドン引きだ。

 

「私太らない体質だから」

「羨ましすぎるな!」

「それに背も伸びないし」

 うーん、不思議少女だ。

 中身が色んな意味で。

 タイマーが鳴り、青柳はお湯を捨てて早速食事に取り掛かっていた。

 一方俺はパン一つ。

 青柳は口が空になる度に話しかけてくる。

 

「何でメロンパンなの?」

「いや、久しぶりに食べるなーと思って選んだんだけど」

 ここはパン屋か、って思うほど種類が豊富だったが。

 

「違う違う、どうしてメロンパンって言うんだろうね」

「そんな根本からかよ……見た目がメロンっぽいからじゃねーの」

「……。は?」

「何だそのジト目!」

「そんな理由で? メロン味でもないのに何でメロンパンなんだろ。ネーミングセンスを疑うよ」

「いや俺に訊かないで!」

 これは優補が! 優補が言っていたことなんで!

 

「知ってた? 昔メロンパンはサンライズって呼ばれてたんだよ」

「かっけえ!」

 メロンパンは太陽だったのか……。

 しばらく食事。

 黙々と。

 俺がパンを食べ終わった時、青柳は二つ目のカップ麺に取り掛かっていた。

 麺伸びないのかな。

 

「よくそんなこと知ってるよな。やっぱ頭いいよ」

「物知りと頭がいいは違うよ」

「む」

 それが分からないということは俺はそれほど馬鹿だということになる。

 

「お前なら知ってると思うけど、うちの学校って成績でクラス分かれてるよな」

「うん、いい人から一組、一番下は七組まで」

「お前なら知ってると思うけど、俺は五組なんだよ」

「何さっきから枕詞みたいに……で? それが?」

「いや、一年の時は俺達同じ四組だったじゃん。だけど今俺は五組、お前は二組だ」

「……だから? 私が頭いいとか言いたいの?」

「……そういうことだ」

「まさか」

 青柳は笑った。

 乾いた笑顔。

 

「私が頭いいわけないじゃない。頭がいいと成績がいいは違うんだよ」

「そうなのか……?」

「それに、私が頭がいいんじゃなくて、みんなの成績が下がっただけだよ」

「酷い言いようだな」

「頭いいといえば、あの子がいたじゃん。ほら、粟国くんといっつも話してた子」

「ああ、ゆう……佐弐のことな」

「そうそう、佐弐さん。あの子一組だったけど、いっつも粟国くんとこに来てたよね」

「そうだったな」

 懐かしい。

 一年前までは優補も高校に通っていた。

 

「つーかお前食べるのも早いのな」

「え? 普通だよ」

「お前の普通の基準が普通じゃない」

 麺が伸びる前に食べきれるな、こりゃ。

 勿論パンを食べることも忘れてません。

 

「お前はあれだな、めだかで言う不知火半袖だな」

 謎な子。

 ぽきゅぽきゅはしてないけどおチビさんだし。

 そして胃袋にブラックホール装備。

 ラーメンをドリンクだと思ってんじゃね?

 

「しらぬい? 半袖? 私今長袖だよ」

 流石にめだかボックスは知らないようだった。

 まあ、ジャンプだし読んでいない女子もいるだろう。

 

「って、話逸らさないでよ。佐弐さんの話の途中でしょ」

「あーそうだったな」

「あれ、何だか顔赤いよ?」

「は。んなわけねーよ」

 思わず手を顔に当てるが、何ともない。

 騙しやがった。

 青柳は済ました顔で、最後のカップ麺の蓋をピリピリと開けていた。

 

「はっはーん。なるほどね」

「何がなるほどねだ。小学生のノリかお前は」

「粟国くんこそ。小学生並みに純粋なのねー」

「なっ……!」

 何その我が子を見つめるお母さんみたいな目!

 言っておくがなあ!

 ラーメンの(しずく)が頬についてる奴にそんな目で見られたくないぞ!

 

「それでそれで? 彼女とはどんな関係で?」

「ノリが中学生になってきた……」

「海苔? ラーメンにまだ入ってるけど。いる?」

「いらねえよ! そしてどうして食べ物の方に行くんだよ、お前の思考回路はどうなってんだ!」

「海苔が中学生って、どんな海苔よ」

「こっちが知りたいわ」

「もー、粟国くんたらノリ良すぎ」

「そっち! 俺が言ってたのはそっちです!」

 ……って何だこの馬鹿な会話。

 

「思い出した。その佐弐が、お前に会いたがってたよ」

「へー? 佐弐さんが? 何で?」

「まあ、話をしたら、色々とな」

「ふうん……じゃあ、今度会ったら詳しく聞かせてもらおっと」

「思わぬ機会を与えてしまった!」

 何やってんだ俺!

 自殺行為だった。

 

「まあ私には大方予想がつくけどね。多分あんなことやこんなことを」

「やめろ。優補とは何もやましい事はしてねえ」

「優補。優補ねえ」

「……」

 口が滑りすぎだ、俺。

 自殺も同じだった。

 

「粟国くん、仏頂面だけど案外可愛いんだね」

「ダブルパンチ……」

 どっちも言われたくない言葉だった。

 もうHP減りまくりだ。

 

「今度話は佐弐さんに聞くとして、っと。お口直し」

 空になった容器と、山積みのパンが乗っていた皿を片付けて戻ってきた彼女は、ポテチの袋を持ってきていた。

 

「まだ食べるのかよ!」

「当たり前じゃん」

「お前の胃袋はマジでブラックホールか!?」

「嫌だなあ、四次元ポケットだよ」

「異次元空間があることは否定しない!?」

「粟国くんも一緒食べよ」

「その台詞がもう怖くなってきた……」

 何時間付き合わされるか分からない。

 

「お前そんなに食べたら牛になるぜ」

「それは嫌だけど、でもそれは食べた後寝たらでしょう。私は食べる前に寝たから大丈夫」

 上手くすり抜けられた気がする。

 茶化して言ったんだけど。

 

「どっからそんなに湧いて出るんだ食べ物が……お前んち、金持ち?」

「違うよ、知り合いが某食品会社に勤めてて。主にパンとかお菓子のだけど」

「へー、なるほどな。それでお試し品とか貰ってる感じか」

「うーん、そうだけど、……むしろ頼み込んで貰ってる。賞味期限切れのやつ」

「はひっ!?」

「いやいや大丈夫、粟国くんのは大丈夫なやつだよ」

「そういう問題じゃなくってだな……」

「さっきのパン、二日過ぎてるだけだし」

「謝罪を求める!」

 俺はそういうの気にしないけど、人様に出すもんじゃねえよ!

 

「ご、ごめん……。いやでも、他のはほとんど一週間切れてたし」

「あー、お前の中ではまともな部類だったのか……」

 貰った俺も悪いっちゃあ悪いんだけどさ。

 常識ってものを(わきま)えてくれ。

 俺はちらと青柳の隣を見る。

 ふいに、思った事があった。

 

「そういえばさ、お前の兄さんって物静かな人なのか?」

「違うよ? 急にどうしたの」

「いや、隣で笑ってたりするのかなーって」

「……笑わない、かな」

「そうなのか? ちょっと気になってさ。隣にいるとか言ってるけど、全く話す素振りを見せないから……」

「ああ……」

 すると青柳の表情が戻ってきた(、、、、、)

 笑顔は消え、代わりに生気が感じられる。

 

「お兄ちゃんは、物静かな人じゃないよ。でもね、今は、違うの」

「……」

「ここにいるとはいっても、死んでしまった人だから……話はできても、彼から話してくることはないの――話が噛み合わない時だってあるし」

 生ける(しかばね)

 とは多少意味合いが違うだろうが。

 それでも、色んな寓話で使われる話だ。

 友人だったか恋人だったか、とにかく死人を再び現世へ連れてきた人がいた。それでもそれはやはり死んだ人間だから、どこか違う気がしてならなくなる。そしてしまいには後を追って死人となってしまう物語が、よくある。

 青柳も、死んではいないが、魂を捧げてしまった。

 半分も。

 その所為だろう、彼女が死んだように笑うのは。

 魂が抜けている。

 

「なあ青柳、話してはくれないか。どうして兄さんをここに連れ戻した。兄さんは、どうして亡くなったんだ」

「…………」

 菓子の袋に伸ばしかけたその手を、俺が止めた。

 

「お前だけが話すっていうのがフェアじゃないってんなら、俺から話す」

「……?」

「俺の両親は死んだ。俺がまだ小学生の頃だったよ」

「え……」

 そんなに前から、と言いかけて彼女は言葉を濁した。

 

「俺はお祖母ちゃんの家に引き取られた。だけど、中学生になって」

 意識しないようにしてるつもりだったが、やはり思い出してしまう。

 涙が――込み上げてきていた。

 

「お祖母ちゃんも死んだ」

「そんな……」

「どっちも、事故だった。船が沈んだんだ。最初は入学祝い、次は高校合格のお祝いで、船旅に行く予定だったんだ。だけど、」

 泣くな。

 涙を流すな。

 目は潤んで何もかもが歪んでいたが、俺は涙を零すまいと必死だった。

 

「有り得るか? どっちも船が沈むんだぞ? タイタニックでもあるまいし、みんなが海に飛び込んで、そして、俺以外――みんな、」

「粟国くん!」

 青柳が止めた。

 俺を止めた。

 

「ごめんなさい! 粟国くん、辛いこと言わせちゃって――」

「あお、やぎ……」

「慣れる、とか前言ってたじゃん、でもやっぱり、慣れるなんてことはないんだよね」

「…………」

「私よりも、ずっと辛かったんだよね」

「…………」

 そんなことはない、と思う。

 お前の方が俺よりも辛い思いをしたかもしれない。

 そうでなければ、魂を捧げるなんて真似はできない。

 死体を集めるなんて真似はできない。

 

「私も、ちゃんと話すから。何があったか、話すから」

 そうして。

 なるほど青柳の話は、確かに気軽に口を割れないほどに、重いものだった。

 俺なんかとは全然違う苦しみを味わっていた。

 比べるようなものではそもそもないにせよ。

 彼女にとって、辛くて悲壮な出来事だった。

 




文献によると、牛マジムンは正確には赤ではなく黒いのだそうです。いやしかし、今回赤い雄牛にしたのには理由があるのです……


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其の捌

008

 

「去年私のお兄ちゃんは、教師になったばかりだった」

 青柳が語りだした。

 

 中学校の教師だったそうだ。それまでは、大学生の間は、家庭教師もしていたらしい。

 どうしてそこまで、と俺が訊くまでもなく、彼女は答えていた。

 

「お母さんを、見ていられなかったから」

 数年前。

 青柳は都会町に住んでいた。

 青柳の母親は、父親と同じ一流企業に勤めていた。

 ところが企業買収により会社の方針が一変した。

 何でもこの不景気を乗り越える為、とか。

 定員削減の為に社員切りが行われ、青柳の母親もその対象になった。

 リストラされなかった父親は、それでも、過労で亡くなった。

 仕事がなくなって、母親は兄妹を連れて祖父母の家に越してきたのは、五年前のことだ。

 祖父母は自営業を営んでいて、青柳の母もそこで働いていた。だがそれは一年も持たなかった――

 

「おじいも、おばあも、死んじゃった」

 残ったのは、家族三人。

 今住んでいる借家にも、いつまで住めるか分からない。

 母親は、フリーターとなった。

 仕事ができるだけましだと、場所を転々としながら朝早くから夜遅くまで、働いているそうだ。

 今まで。そして今も。

 ここで、同情をするのは間違いだと思う。

 俺としては、怒りのほうが大きかった。

 どうして、こんなことに。

 

「お兄ちゃんは、そんなお母さんが、見ていられなくって」

 あくせく働く母親を、見るに耐えられず。

 当時大学三年生だった彼は家庭教師を始め、それだけでなく教育職員免許を取った。

 一生懸命勉強をして。

 元々、人に物を教えるのが上手い人だったそうだ。

 だから、それを活かして、安定した職に就いて稼ごうとした。

 母親を、救おうとした。

 妹を、救おうとした。

 家族を、救おうとした。

 だがそんな兄の強い意志は、一瞬で打ち砕かれた。

 交通事故。

 バイクの無免許運転。

 暴走させたそれを乗り回していたのは、高校生だった。

 それに、兄は轢かれて、死んだのだそうだ。

 顔の原型は分からないほどぐしゃぐしゃで。

 唯一身に付けていた財布の中に入っていた、写真がなければ分からなかったそうだ。

 家族写真がなければ。

 兄は家族のことをいつも思っていた。

 家族のために、必死だった。

 だが自分はどうなんだろう――青柳は、そう思うようになった。

 そしてそれに追い討ちをかけるかのように。

 

「……そんな」

 虐待。

 身も心もぼろぼろになった母親が快楽を求めて娘の虐待を始めた、そうだ。

 一時期は麻薬に手を伸ばしかけたらしいが、青柳が気付いてやめさせた。

 正しい判断だったのだろうか、いやこの時点では正しい判断だったのだろう。

 青柳も兄と同じで、母親の苦しむ姿を見たくはなかったのだから。

 だがそれが引き金となったと言っても過言ではない。

 心の拠り所を、薬から娘へ。

 精神的快楽から暴力による快楽へと。

 いつでも、暴力を振るうようになったわけではないと、青柳は言う。

 たまに、仕事か何かできついことがあった時だけだ、と。

 だがそれは何の釈明にもなっていない。

 言い訳にしか聞こえない。

 心配御無用、と言っているようにしか思えない。

 お前は、それでも、虐待を受けているんだろう?

 それだけは否定できないだろうが。

 それに、青柳の「たまに」が俺の想像している「たまに」と同じとは言い切れない。

 基準が違うのだから。

 暴力を振るうとき、いつも青柳は言われるという。

 ――兄はいつも勉強をしていた

 兄はいつも私達の為に働いていた

 兄はいつも私を気遣ってくれた

 兄はいつも、兄はいつも、兄はいつも――

 そしてそれは悲痛な叫びへと変わり、泣き声へと変わり、そこでエスカレートするのだ、という。

 だが青柳は耐えた。

 母親の溜まったストレスが、少しでも解消されるのなら、と。

 母親の道具となることを決意した。

 それが今の自分にできることだと。

 兄が教師になったように。

 それが、家族を救う手段なのだと思って。

 青柳は勉強に励んだ。

 いつもより元気に明るい生徒でいようと心がけ、常に笑うようにした。

 だがそれは空の笑顔で。

 がらんどう。

 母親のことは知られたくなかった。

 今でも生々しく残っている、背中の傷を見られたくなかった。

 非難がましい目で見られたくなかったし、哀れみの目で見られたくなかった。

 突き放されるのが怖く、母親が捕まるのが恐ろしかった。

 どんな関係になろうが――家族であることには変わりがないのだから。

 相手が自分のことをどう思っていようと。

 母親は母親なのだ。

 だが青柳が表で快活にふるまおうとすればするほど。

 裏ではストレスが溜まっていった。

 笑い方を忘れた。

 いつもどんな風に人と接していたのか分からなくなった。

 異常な食欲が芽生えて。

 それは青柳の心の叫びなのに。

 SOSを、発していたのに。

 彼女は、変わるしかなかったのだ。

 変わらざるを得なかった。

 そしてまた彼女は悔やんでもいた。

 自分にできることは、これくらいなのだと――

 その時。

 

「私は、赤い雄牛に出遭った」

 兄が死んだ冬休みに。

 母親が娘を心の拠り所としたように、娘は怪異を心の拠り所とした。

 誰にも相談ができず。

 一人で全てを抱えてきた彼女が、得体の知れぬ妖怪を頼ったのも無理はない話だ。

 兄を連れ戻す為に、魂を半分捧げるのを厭わなかったのも。

 誓いを立てたことも。

 彼女にとっては、何ということもなかったのだろう。

 もう既に、魂はなくなっていたも同然なのだから。

 初め、青柳が兄を連れ戻したのは、母親を喜ばせたかったからだという。

 だがどうやら母親には兄の姿は見えなかったらしい。

 当初の目的がなくなって、それから青柳は毎日兄と話すようになった。

 幽霊と話す代わりに、クラスの子とは誰とも会話しなくなった。

 だが青柳は気にならなかった。

 気になる事がどういうことか分からなかった。

 側には兄がいる、それだけでよかった。

 たとえそれが、生きていた当時の兄と違ったものでも。

 話しかけてこない存在でも。

 青柳は虐待に耐える事が少し楽になって、気持ちもちょっぴり楽になったという。

 勉強の面でも。

 努力が報われたのか、青柳は二年生になって上位クラスに上がったし、同時に母親の虐待も収まっていた。

 普通の高校生だった、なんて――思い込みも甚だしい。

 彼女の、文字通り血も滲むような努力を、俺は今の今まで知りもしなかったのだ。

 勿論そうなるようにまた彼女は努力していたのだが。

 青柳はもっと、もっと――成績を上げようと頑張った。

 母親が一瞬見せた、あの笑顔をもう一度見たいと。

 だが兄を現世に留め続ける為には、他の魂が必要だった。

 青柳は必死だった。

 少しでも誰かが死んだという噂を耳にすれば、飛んでいった。

 道端で動物が死んでいれば、迷わず牛に捧げた。

 兄が側にいてくれなければ。

 いつか、自分が壊れてしまうような気がしていた。

 だから、今まで怪異について詳しく調べなかったのは、きっとそんな余裕がなかったからだろう。

 そして、このままでいいと思っていたからだろう。

 兄を帰すにはまた大きな対価がいる。

 自分の半分の魂と同じ、またはそれ以上の価値のものを。

 そんなことをするくらいなら、定期的に動物の魂を捧げるほうがいい、そんなことを思っていたからだろう。

 だから俺は、必要とされていなかったと言える。

 ずけずけと入り込んで、厚かましいのはどっちなんだか。

 必要とされたのは牛であり、また、俺の家族の魂だ。

 これからも青柳は魂を集めるのだろう。

 そして、母親のストレス発散の道具となるのだろう。

 いつまでも、兄とい続けるのだろう。

 

「……そんなのは、駄目だ」

 話が一通り終わり、菓子袋が空になったとき、俺はそう言っていた。

 青柳は笑いながら俺を見た。

 

「お前はそれでいいかもしれないけど、兄さんはどうすんだよ。さっきお前言ってたじゃねえか。兄さんが帰れないのは嫌だ――」

 と言いかけて。

 同時に俺は思い出した。

 ――お兄ちゃんに会えないのは嫌だ、お兄ちゃんが帰れないのは嫌だ――

 

「……どっちなんだよ」

「え?」

「言ってることが矛盾してるよ、お前。もう死体を探し回るのは嫌、牛に会うのは嫌と言っても、兄さんを留めるにも帰すにもそうしなくちゃいけない。やめたいって言ってるけど、お前実際は帰したくないんじゃないのか?」

 青柳は答えなかった。

 肯定もしなければ、否定もしない。

 

「余計なお世話かもだけど、言っとくぞ。お前がやってることは、逃げだ」

「…………」

「それじゃあ母親の為にもならないし、自分の為にも良くない」

「じゃあ、私はどうすればよかったのよ」

「……」

「お母さんに、やめてって言うの? 先生や友達に相談すればよかったの?」

「それは――」

粟国くんだって(、、、、、、、)私の立場だったら(、、、、、、、、)、」

 そこで彼女は言葉を切り、目をそむけた。

 俺が、お前の立場だったら。

 

 

「しょーじ、おかえりー」

 帰ってきたときには、もう三時になるところだった。

 随分と時間が経っていたようだ。

 優補が、玄関の鍵を開けて微笑みながら迎えてくれた。

 俺は何だかほっとして、靴を脱いで上がる。

 玄関の小さな棚の上の、口を開けたシーサーが目に入って目尻がさらに下がる。

 優補は、飲み物何がいい? と尋ねながらどたどたと台所へ向かった。

 冷たい紅茶がいい、と言いかけて、先客に気付く。

 阿良々木御一行。

 人数分どこで揃えたやら、座布団に皆鎮座してしまってまあ、我が家のようにくつろいでいた。

 

「お、粟国帰ったのか」

「いや……何してんすか」

「言ったじゃん、色々話がしたいって。明日僕達帰るしさ」

「佐弐さんのお陰で、予定も早く終わったし。安くて可愛いシーサーも買えたし。暦くんそっくり」

「僕は安くて可愛い男なのか」

「そんなことは言ってないでしょう。文脈だけで判断しないで頂戴」

 また始まった……。

 一応、俺の家なんですけど。

 

「これで、あとは夜を待つだけ――ね」

 意味ありげに言う戦場ヶ原さん。

 一方で呆れ顔の忍だった。

 頬を膨らませているのがやけに可愛いのだが。

 五百歳なのに……あれ?

 

「そういえば、忍……さんは、」

 言いにくい……。

 だが、彼女にぎろりと睨まれて身がすくんだ。

 座ろうとしても、体がしばらく動かなかった。

 腕に抱いているシーサーのぬいぐるみとのギャップが凄まじい。

 

「元々からそのような姿なんですか?」

「……ふん」

 益々むくれちゃって。

 

「儂を誰だと心得る。怪異殺しとまで呼ばれた、怪異の王じゃぞ。その姿が元からこのようなぺったんこなロリ少女なわけがなかろうが」

「……」

 自虐ネタ……ではなさそうだ。

 でも自分のことをぺったんことかロリとか言うなよ……。

 忍はそれから何も言わなかった。代わりに、阿良々木が続ける。

 

「忍は今、縛られてるんだ」

「縛る?」

「そう。名前で縛り、僕の影に縛ってある。力も制限されて、吸血行為はできない。唯一、僕の血だけが彼女の食料なんだ」

「どうして……そんなことに」

「償いだよ」

 阿良々木は言った。

 そして、あとは何も言わなかった。

 そう言われているにも関わらず、彼女は胸を張った。

 

「まあ、儂の真の姿はぱないがの。一度見たら決して忘れられんぞ」

 決して、決してそんなつもりではないだろうが、その胸部を主張しているような気がしてならない……。

 真っ白のすけすけのドレスを着ているし。

 貴族の子みたいな豪華さ。

 いやでもやはりぬいぐるみが……。

 威厳たっぷりの態度と飽和していい感じだ。

 

「粟国、僕も佐弐さんのことを色々訊いたけど、」

 話したのか、優補。

 優補はといえば、台所で忙しそうだった。

 聞こえてはいるのだろうが。

 

「どう見ても足は魚じゃないよな、とかそんな話をしたんだが」

 ああ、なるほどね。

 気になる人は気になるだろう。

 特に話すことでもないが。

 

「怪異と一緒に暮らしているからといって、その周りの人間が怪異に関わりやすくなるなんてことはないと思うんだよ」

 これは優補も訊いていなかったことなのだろう、コップいっぱいの紅茶を俺に渡しに飛んできた。

 

「そうなんですかっ、暦くんっ」

 もう下の名前呼びだった。

 やれやれ、でも仕方ないか。

 彼女の方が年上なのだし。

 それにそこらへんはちょっと俺と感覚がズレているというか。

 阿良々木は慣れた様子で頷く。

 彼も何も思ってないのか……。

 

「怪異に関わりやすくなったのは自分自身で、周りには影響はあまり起こらないものだよ……忍は、怪異の王だから相当影響があった」

「ということは……」

 変に気を回す必要はない、のか。

 胡坐をかいていた阿良々木は、この話は終わりだとばかりに膝をぱんと叩いた。

 

「そんなことよりも、牛の怪異だよ、粟国――名前は、青柳訝藍とかいったよな」

「は、はい――」

 優補を横目に見ながら俺は返事をした。

 ふむ、と隣で唸る戦場ヶ原さん。

 

「訝藍、ね――伽藍とは漢字が違うわね――確か、訝には、迎えるとかいった意味があったわね。それに、青柳の『青』に、訝藍の『藍』。それに相対するように、出遭ったのは真っ赤な怪異」

「――?」

「半魚の人間よ、怪異や、またそれに行き遭った者の名前は、大事なのじゃよ――深く関わり、結びつくのには理由があるのじゃ。境遇、とかそれ以前に、の」

 それはまた初耳だった。

 訝藍という名前は確かに珍しいなあ、とは思っていたけれども。

 戦場ヶ原さんいわく、訝には迎えるの他に、訝《いぶか》る、驚くといった意味があった。

 怪訝という言葉があるように。

 そして、訝藍自体の意味。

 本人がいないので正しいかは分かりかねるが、訝藍には、また戦場ヶ原さんいわく、伽藍。

 寺だ。

 静かな、場所。

 平穏。

 または、がらん。

 空虚なさま。

 これもまた、静か。

 伽藍堂。

 がらんどう。

 そんな彼女を守護するかのような、神のような、存在。

 壊れてしまいそうだった彼女を、護っているような存在。

 赤い雄牛。

 マジムン。

 岩頭牛。

 そして、兄の魂。

 なるほどこうして考えてみると、色々とつじつまが合う気がする。

 

「あ―――――!」

 突然優補が叫んで挙手をした。

 うるせえよ……。

 忍がびくっとしてたじゃん……。

 忍の睨みつける。

 効果は今ひとつのようだった。

 

「御姉さま、私は凄い発見をしてしまいましたー!」

「相変わらずうるさいのう、うぬは……。いやしかし、昔に比べれば随分と大人しくなったか、の。かつて儂はうぬから、姉御と呼ばれておったからな――」

 ……。

 そういえば、この二人、いや正確には二体、一体どこで知り合ったんだろう……。

 優補が御姉さまって呼んでるのは、実際に血が繋がってるわけじゃないけど、関わりが深いのは分かる。

 

 

「して、なんじゃ。言ってみよ」

「はいっ」

 何だか興奮しているようだ。

 

「御姉さまは、マジムンがこの辺りでどんな妖怪と捉えられているかご存知ですかっ」

「いや、そこまでは儂は知らんの」

 阿良々木も、戦場ヶ原さんも、首を横に振る。

 

「昔、沖縄では(がん)という、棺桶を運ぶ道具が葬儀の際に使われました。その龕は、真っ赤なんだとか」

「赤……」

「その龕に、霊が宿ったものの総称をマジムンと言って、さらにそれが牛の姿をとる場合は牛マジムンと呼ぶんです」

「なんだかややこしいな」

 と阿良々木。

 確かに。

 

「それがうぬの凄い発見、かの? 真っ赤な牛の後付け、ということかの?」

「そうですが、まだ続きがあります。まだここからです、御姉さま」

 優補は、ここでわざと間を置いた。

 

「つまり、岩頭牛もマジムンも同じ、そして龕も牛も同じということです。ここで、思い出して欲しいのが、岩頭牛という名前です。『がんとううし』、『がんとーうし』、『がんとおうし』、龕と雄牛」

「……凝った洒落じゃの」

 こじゃれとる、かかっ、と忍は笑った。

 優補だから気付いたことだな、これ……。

 よく語尾を伸ばしてるから。

 

「しかし面白い。佐弐優補よ、今日は特別に儂の頭を撫でることを許してやろう」

「え、あ、いいんですかっ!?」

「うむ。うぬは仲間であり、儂らは姉妹のような者じゃ。近う寄れ」

 ……は?

 意味が全く分からなかったのだが。

 頭を撫でるって……。

 しかし優補が歓喜の声を上げて忍に襲い掛からんばかりに飛びついたのには驚いた。

 目キラキラさせてる。

 俺にも見せたことないうっとりした顔してる。

 そして、もう慈しむように忍の頭を撫でている。

 えええ……。

 阿良々木を見ても、何てことはない、と言った顔でそれを見ていたし、戦場ヶ原さんも同じだった。

 

「でも、初めて見るわね……」

「あ、あの戦場ヶ原さん。これ、一体どういうことですか?」

「服従の儀式よ」

「ぎしき……?」

「暦くんから訊いてはいたわ。吸血鬼同士が、その主従関係の証として頭を撫でるというのがあるそうよ――最も、その上があるらしいけれど。勿論、佐弐さんは吸血鬼ではないけれど、さっき本人が言っていたように、姉妹のようなものなら、この儀式は成立するのでしょう――」

「は、はあ……」

 よく分からなかったが、優補にとってこれは大変名誉なことらしかったし、忍は自慢げに胸を張っていた。

 怪異にも色々あるようだ。

 王様に触れても良いと言われて舞い上がる部下のようなものだろう。

 いや、王様がタッチングをしても良いと言うような機会が、一体いつあるのかと言うのは置いといてだ。

 

「……あ」

 優補が小さな声でそう言ったのが聞こえた。

 気付けば、彼女は、俺の目の前にいて、そして、

 

「はぐっ!!」

 ハグされた。

 おいおいおいおいおいおいおい。 

 ちょっ、いや、初対面同然の三人の前で何を――

 

「しょーじ、むくれないで欲しいにゅ!」

「にゅ、にゅって――!」

 いや俺むくれてないぜ?

 残念ながら仏頂面なだけだ。

 首が、絞まる。

 喋るなと言いたいのか!?

 

「暦くん、語尾がにゅの子がいたわよ。私も昔やろうとしたことがあったわね」

「いや、ひたぎには似合わないよ」

「全く、うぬらのろけも大概にせい。近頃ようやっと我があるじ様ののろけが収まったばかりと言うに、今度はうぬらかよ」

「いえ、あ、あのっ――」

「ひたぎも昔に比べれば、随分と大人しくなったよな」

「あら。それは久しぶりに激しい私が見たいということ?」

「違えよ!」

「恋盛りの若僧はこれじゃから困る」

「私はしょーじだけだよー、怒らないで、ね?」

「ゆ、優補――」

 駄目だ。

 腕ががっちり固定されてる。

 そもそも優補も若僧などでは決してないと思うのだが。

 

「取り込み中のところ申し訳ないが、粟国」

 返事ができないので片手をひらひらと振った。

 

「その青柳には、ちゃんと怪異のことを話したんだよな?」

 腕の力が緩む。

 即座に引き剥がす。

 ロック解除。

 

「はあ、そうです、……すみません」

「別に。気にしてないよ」

 気にしないのもどうかと思う。

 優補は満足したようで、再び俺の隣に座った。

 腕を肩に回さないで……。

 

「彼女はどうだって? 解決法を一人で見つけてたりしたか? じゃなければ、手段はあるけど――」

「いえ」

 喉をさすりながら俺は言う。

 対抗するように戦場ヶ原さんも彼氏に腕を回さないで……。

 忍が呆れ顔だ。

 

「彼女は、このままでいいって思ってるみたいで――詳しくは話せませんが、彼女にはいわゆる、深い事情があって。それで牛が兄の魂を連れ戻してきたけど、そのままでいいと――」

「待て」

 忍が制した。

 

「牛が、魂を連れてきたじゃと?」

「え? はい、そう言ってました」

「ふむ、うぬ、それは何かの間違いではないかの」

「……え?」

 ぬいぐるみに力を込め、忍は歯を剥き出して笑った。

 八重歯があらわになる。

 

「半魚の人間よ。岩頭牛は、現世と来世の間に位置する怪異じゃ。死んだ者の魂をむさぼり喰う、それ以外の何でもない。岩頭牛には、魂を連れてくるなどといった真似はできぬ。マジムンも然り、じゃろう。

 岩頭牛が生きた人間に関わる理由はただ一つ。対象者の死を誘い、魂を根こそぎ喰う、それだけじゃよ」

 



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其の玖 ㊤

009

 

 忍の言うことに間違いがないのだとしたら。

 否、五百歳の吸血鬼に間違いなどないと考えるべきだが。

 青柳は、勘違いをしている、あるいは何か嘘をついていることになる。

 そういえば――阿良々木も、あの時牛が魂を運ぶ怪異、などとは一言も言っていなかった。

 牛の怪異の文献なんて少ないだろうから、何か取り違えてしまったのだと思うのが妥当だろう。

 それから俺は、阿良々木達と話し合いをした。

 結果、青柳の危険性を本人に伝えるべきだ、そしてできるだけ早く対処しなければならない、ということが決定した。

 阿良々木達を知らない青柳には、彼らが直接話すよりも俺が伝えるほうがよいのだとか。

 信頼関係、とか言っていた。

 嬉しいことに、阿良々木には対処法があるという。

 教えてはもらえなかったけれど。

 彼が言うには、最後の手段なんだとか。

 よく分からなかったが、俺としてはこうも頼りっぱなしなのは申し訳がない。

 何というか、青柳と阿良々木のパイプ役みたいな感じが拭えないのだ。

 

「もしもし、青柳です」

 一分程コールして、ようやく出てくれた。

 もう夜遅いからな……。

 入手したての携帯番号。

 隣で優補という名の監視官付きで、通話。

 勿論、阿良々木達には帰るべきホテルがある為、今頃そこで夕食だろう。

 忍は阿良々木の影に潜む事ができるそうで、普段人前には姿を現さないそうだ。

 ホテルも二人分で予約してるんだろうな……。

 

「え? 粟国くん? ……どうしたの」

「いや、なあ、青柳。実は、お前の怪異で分かった事があって」

「……。言ったでしょ、私は別にこのままで構わないの。お兄ちゃんが側にいてくれるのなら、私は、」

「それが、違うんだよ。えーとだな――」

 どうする。

 ここで忍の言っていたことを正直に話すか。

 いや、混乱させるだけだろう。

 とりあえずは、身の危険を。

 

「その怪異が、どうしてお前に付きまとって――憑きまとっているかって言うとだな、お前の魂を食べるのが目当てだかららしい」

「――えっ」

「今はそうでないにせよ、いずれ牛はお前を食べる」

「食べられる前に、私が食べればいいじゃない」

「馬鹿かお前……」

 怪異に関わった本人がよく言えるもんだ。

 

「でも、お兄ちゃんと別れるのは、嫌かもね」

「お前……」

 自分が死ぬかもしれないって時に。

 

「分かった。俺、後でお前ん()、行くわ」

「え?」

 しかし青柳の言葉は、俺には聞き取る事ができなかった――優補が、駆けつけてきたのだ。

 

「はあっ!? ちょっと何それ――」

「粟国くん? 今の、誰?」

「あ、いや、これは――」

「もしもし!」

 あ。携帯盗られた。

 

「わたくし、佐弐優補ですけれどもっ」

 何と言っているかは分からないが、青柳の戸惑った声が漏れる。

 

「私のしょーじに手は――」

「ほら、優補も会いたがってるし――!」

 携帯を奪いとり、話す、というより怒鳴った。

 

「ああ、みんなで夜御飯とか、いいねー」

「う……!」

 また飯かよ。

 優補はといえば、

 

「むーっ」

 なんて、むくれていた。

 

「粟国くん、私、そういえば言ったもんね――粟国くんに事情を知られたからには、最後まで付き合ってもらう。そう言ったからには、付き合ってもらわないと、ってね」

「そんな――助けると言われたから助けてもらう、みたいな言い方よせよ……お前は、牛に食べられて、殺されて、いいのかよ?」

「分かんない」

 青柳は、そう言うのだった。

 

「まだ、分かんないよ……」

 そしてしばらくの沈黙の次に聞こえてきたのは、彼女の悲鳴だった。

 ゴトッ、という大きな音がした。

 呼びかけても反応がない。

 携帯を取り落としたのだと推測する。

 

「おい、青柳――!?」

「あ、ああ、ぁ、粟国くん――」

 どうしようどうしようどうしよう――!

 そんな声が、聞こえる。

 

「何だ、何が――」

「お兄ちゃんが、また(、、)いなくなった(、、、、、、)――」

「いなくなった……?」

「牛が、また、求めてる……」

「どういうことだよ、ちゃんと説明してくれ、青柳!」

 動揺されてもこちらは何も分からない。

 苛々が(つの)る。

 

「牛がお兄ちゃんを、隠しちゃったんだよ……それはいつも、牛が魂をねだる時で……だから、私は」

「青柳!」

 俺は必死で呼びかけた。

 このままじゃ、駄目だ。

 こいつはいつまでも――怪異に頼りっぱなしで。

 いずれ、殺されてしまうのに。

 怪異と仲良くすることはよくない。

 俺が言えることでもないけれど。

 

「今から、そっちに行くから――親、仕事遅いんだよな?」

「う、うん……今日は、帰ってこないよ――ちょっと遠出してるから」

 なら余計に都合がいい、と俺は安堵した。

 もしかしたら、今日区切りが着くかもしれない――いや、着けるなら今日しかない。

 いつ青柳の魂が全て食べられてしまうか分かったものではない――早くに、処置は必要だ。

 そしてそれを本人にも分かってもらわなくてはならない。

 

 

 簡単にことを優補に説明して、俺は青柳の家へ向かった――優補は、バイトの後ですぐに行くと言っていた。

 サボってでも来るのかと心配したが。

 そこら辺は弁えているのかもしれなかった。

 

 夜はなるべく外をうろうろしたくない。

 特に一人では嫌だった。

 心なし、心細くなる。

 だから、青柳の家が見えてきた時は、心底嬉しかったものだ。

 この後――何が起こるのか分からないことが分かっていても。

 青柳は、出迎えてはくれなかったが、落ち着いていた。

 

「……よう」

「粟国くん、本当に来た」

「当たり前だろ」

「全然。普通そんなことする人いないよ。わざわざ来てくれるなんて……私、今日酷いこと言ったのに」

「酷くはねえよ。お前の本音だろ」

「……優しいなあ、もう」

 そこで彼女は思い出したのだろう、佐弐さんは? と尋ねてきた。

 

「あいつも来るみたいだぜ」

「女の子一人で夜道歩かせちゃ駄目だよ……」

「あー、あいつは大丈夫だよ……」

 よくナンパとかされて危ない目に遭ってるがな。

 皆あいつを侮ったら駄目だ。

 色んな意味で、優補に関わった者は大変な目に遭う。

 怪異最強、人魚最強。

 

「どうしてそんなに……もし、粟国くんのお陰で牛とさよならできたとしても、私、何もお返しできるものなんてないよ?」

「んなもんいらねえよ。そんなんで俺はお前に会ってるんじゃないんだぜ」

「……なんぱに聞こえる」

「全然違えよ」

「もー、粟国くんは無駄に格好いいんだから」

「……」

 俺は部屋を見渡した。

 食卓には、何もない。

 食べ物は一切載っていなかった。

 夕食を食べていないようだ。

 

「青柳、やっぱり今日牛を還そう。元いるべきところに。ずっとお前に憑きまとってるなんてこと、あっていい訳が無い」

「また……私はもういいんだって。それに、お兄ちゃんとは別れたくない、怖い。これが、逃げだってことは分かってるよ。でも、やっぱり……嫌だよ」

「我が侭な奴だな」

「っ……だから、粟国くんだって私の立場だったらそんな風には――」

「知らねえよ」

 さっき答えれなかったことを、答える。

 青柳は怯んだようだった。

 

「お前の立場で考えようとしたけど、俺はそんな器用な真似できねえ。だから人の立場になったらなんて、考えるのはやめた。お前はお前で、俺は俺なんだ」

「何よ、何よそれ――」

「ただ、俺が牛に関わったとしても、きっとお前みたいには思わない。それだけは言える」

「それは、当たり前じゃない」

「そうか? まあ、そうだろうな……」

 なあ、青柳。

 俺は再び呼びかける。

 

「このままでいいとは、思ってないって言ったよな? ずっと怪異に甘えてなんかいちゃ駄目だ。兄さんに頼ってちゃ駄目だ。俺は――嫌だぞ、お前が死ぬなんてのは……今から、ちゃんとお願いして、半分捧げた魂を返してもらおう。兄さんも、帰ってもらおう」

「できるわけないじゃん、そんなの」

「やってもないのに諦めんのかよ」

「……だって」

「俺も頼む。一緒に頼んでやる。牛に、遭う」

「…………」

「どうやったら遭える、どこにいるんだ」

「……本気?」

「本気だ」

「…………」

「思ったけど、暗示的だよな――今月って、二月じゃん」

「う、うん?」

 急に話が変わって付いていけないのだろう、首を傾げる青柳だった。

 

「これ、さっき優補から訊いたんだけど。俺も忘れてたよ。二月には、古くからの風習で、島クサラシってのがあったよな」

「……あ」

 多分、多くの方がご存じないと思うので、説明させていただこう。

 俺にも自信はないが。

 沖縄で、二月中に行われる行事、というかお(まじな)いというか、不気味な風習がある。

 島クサラシ。

 別名、看過牛(かんかうし)

 家畜を殺し、その肉を煮て、植物の葉などに浸して、家の入り口の柱に塗る。

 一般的には家畜は豚を指すが、原点は名前からも分かる通り、牛だったという。

 それらの行為は、厄除けになり、疫病神も避けるという。

 さらに二月の吉日はお彼岸――である。

 二月は、暗示に暗示が掛かった――月と言える。

 話をしたところ、青柳も、この伝統を知っていた。

 流石、と言うべきか。

 

「一種の悪疫払いだと思えばいいんじゃないか。悪疫っつっても、病気とかそういうのじゃないけど……牛で牛を祓うのも可笑しいがな」 

「すごい上手いこと言ってるけど。佐弐さんにも話したんだね……」

「あ、悪い」

「いいよいいよ、もう大体お二人の関係は分かったから」

 いや、多分色々間違ってると思う……。

 よし、分かった、と彼女は頷いた。

 

「駄目もとで、お願いしてみる。お兄ちゃんも、帰ってもらうよ。そうしてキレイサッパリ、かは知らないけどさ」

 やはり、オカルトな話が彼女を少し動かしたらしい。

 そんなもんで変わるのかと俺は半信半疑だったのだが。

 流石優補だ。

 そういう系が好きな人っていうのは、大抵が、というかほとんどがそれを信じてたりするもんだよー、なんて。

 民間伝承、都市伝説のそのものが言うと面白い。

 というわけで、俺達は。

 外の物置の前に来ていた。

 真夜中。 

 丑三つ時。

 丑満つ時。

 普通、妖怪が出現する時刻は夕方や明け方だと言うが。

 だが、それとこれは話が違う。

 これは怪異だ。

 最も活性化する時間帯であり。

 怪異はどこにでもいる。

 ここにもいるし、どこにでも、いるもの。

 必要としていれば、どこにでも現れる。

 物置にだって。

 ここに、この中に、牛は現れるのだという。

 初めて出遭ったのも、この中だったらしい。

 青柳が、涙を堪え切れずに家を飛び出し、親がいる間閉じこもっていた事が良くあったという。

 悩んで悩んだ末に――出遭った。

 そうして、捧げものをすれば、牛は兄を連れてきてくれるのだとか。

 だが今夜は勿論、違う。

 捧げた魂を返してもらい、牛には還ってもらうのだ。

 いい? と片手に懐中電灯を持った青柳が、目で合図をしてくる。

 俺は頷いた。

 優補がまだだけれど、別に大丈夫だろう。

 がらら……とゆっくり戸を開ける。 

 鼻を突く、(にお)い。

 藁のような臭いが、嫌でも牛を連想させる。

 整理されている上、広い物置だった。人間三人、大の字になって寝転がれるくらい。

 だがその広いスペースを、占領しているものがいた。

 大きな体に、角を持ち。

 明かりに照らされて、赤々としている、それでも実体の感じられない、牛の姿が、見えた。

 視えた。

 俺にも。

 一歩、青柳は踏み出した。

 慣れている。

 牛の真正面に、立つ。

 普通の雄牛の、高さ横幅共に牛のひとまわりもふたまわりもある。

 不機嫌そうに前の蹄を鳴らしている。

 青柳はちょっと懐中電灯を斜め下に傾けた。

 

「今日は、お願いに来ました。がん、岩頭牛、さん」

 牛も、一歩進み出た。

 だん、とその大きな足から音が出てもおかしくないのに、音は、無かった。

 怪異だ。

 間違いなく、怪異。

 あともう一歩、前に出ればぶつかるのではないかというほど、青柳と牛の距離は狭まっていた。

 だが、青柳は後退しない。

 後ろに下がる事ができないのだ。

 後戻りは、できない。

 

「お願いです」

 はっきりと、青柳は言う。

 

「どうか、私の魂を返して下さい。お兄ちゃんを、あちらの世界に帰してあげて下さい。あなたも、どうか還って下さい」

 頭を下げた。

 ぎりぎりのところで、牛には触れていない。

 もし生き物だったなら、その鼻面から、荒い鼻息が漏れていただろう。

 

「魂は、もう、あげられません」

 すると、はらり、と青柳の髪が舞った。

 牛は呼吸などしていないのに。

 そうして、気付いた時には、青柳が飛ばされ俺にぶつかっていた。

 反動で、思わず尻餅をついてしまう。

 牛が、頭突きしたのだ。

 闘牛の如く。

 小柄な上、青柳は驚くほど軽かった。

 魂が欠けているということを知っていると、より意識してしまう。

 岩頭牛は、取引不成立だ、とばかりに頭を上げ、聞こえはしないが啼いていた。

 

「あおや、――!」

 無事か確認する暇もなかった。

 牛が大きな角をこちらに向けて、突進してきたからだ。

 急いで青柳の背を掴み、立ち上がらせて横に力強く押した。

 懐中電灯は彼女の手を離れ、明かりこそ消えなかったものの、地面に落ちる。

 思った通り、青柳は横に吹っ飛び、そして牛の角が俺を捕らえた。

 小さな頭に反比例して、大きすぎる角の片方に。

 象牙の二倍ほどの太さの角。

 放り投げられる。

 激痛。

 角が、体を貫通しているわけでもないのに。

 ただ、一瞬触れただけで。

 腹が、酷く痛い。

 

「ぐ、ああ……」

 勢いよく床に叩きつけられて、その上腹の痛みは引かず、俺は呻くことしかできなかった。

 がらがらとした音が、肺から漏れる。

 身動きが、とれなくなってしまう。

 何だ、この、感覚は。

 牛は俺の方にやってきた。

 その巨大な蹄が、高く、上げられて。

 後足立ちした。

 俺は、腹に力を込め、痛みを堪えながら回転した。

 間一髪。

 物置の外に転がり出る事ができた。

 地に伏せながらも、すぐに確認する。

 先程まで俺がいた所には、大きな窪みができていた。

 牛は、外に出ようとしていた。

 めきめき、と鉄の壁が凹む。

 このまま出てきたらまずい。

 俺は、地面に這いつくばったまま、叫んだ。

 

「お願いだ! どうか、どうか返してくれ――還して、帰ってくれ」

 



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其の玖 ㊦

「お願いだ! どうか、どうか返してくれ――還して、帰ってくれ」

 だが岩頭牛は中から出ようと奮闘するだけだった。

 聞こえていないのかもしれない。

 頭に血が上って――

 もしかしたら、石頭ならぬ岩頭から名前は来ているのかもしれなかった。

 そんな……、やはり、対価交換は必要ってことか。

 それ以外は受け付けない、ということか。

 駄目だ、まさかいきなり攻撃してくるとは思わなかったから、他の対策を何も講じてない!

 阿良々木が言っていた、最後の手段とやらだって……。

 その時、目の前を、影が横切った。

 暗い中さらに黒い何かが、俺の横を通り過ぎた。

 何かと認識する前に。

 背後、というよりは真上から、声がしたのだった。

 

「うぬも、我があるじ様といい勝負じゃの――どちらが阿呆かという点に置いては」

 知っている口調。

 だが、何だか違う感じの声だった。

 ちょっと大人びたような……。

 頭だけ捻って、声の主を見ると、俺は驚愕してしまった。

 それはもう、びっくり仰天だった。

 声の主は、金髪金眼の少女だったが。

 見た目、俺より少し年下――十四、五歳ほどであった。

 輝くようなその髪が、いや、輝いているその髪のお陰で暗くてもその髪の色まで分かるというのも驚きだった。

 年齢を除けば、彼女は忍野忍だ、と断言できるのだが、この少女は。

 まるで、一気に成長したかのような彼女は。

 

「何をじろじろ見ておるのじゃ――儂の見てくれが気になるのかの?」

「い、いえ……」

 確かに服装も大人っぽいデザインになっている。

 シックなドレス。

 片手を腰に当てて、立ち振る舞いも様になっている。

 綺麗だった。

 

「あの、あなたは忍さん、なんですよね?」

「何を言うかと思えば……今はそのようなことを気にする時ではなかろうに」

 ほれ、見よ、と忍は物置を指差す。

 牛の頭を両手で掴み、押し戻そうとしている人の姿があった。

 こちらは、後姿からも分かる。

 阿良々木だった。

 牛は懸命に前に進もうとしているが、阿良々木がそれを止めている。

 馬鹿な……怪異相手に、互角だと?

 

「あれでも儂の眷属だった者じゃぞ。そんじょそこらのマイナー怪異と渡り合って、負けることなどないわ」

「きゅ、吸血、鬼……」

 恐ろしい。

 俺だって人魚に関わったけど、それとは比べ物にならない程、恐怖を憶える。

 そんなものが、こうして存在しているのだ。

 

「これが、我があるじ様の言うた最後の手段なのじゃよ、半魚の人間よ――力で捻じ伏せ、降参させる手――まあ、我があるじ様は、正直そのような類の解決法をこよなく嫌うのじゃがな……」

 腕を組み、じっと阿良々木を見ている忍。

 それはまるで。

 縛られた主従関係というよりも。

 絆で結ばれた親友同士のような。

 我が子を見守る母親のような。

 そんな印象を、俺は受けた。

 そして……本当に、頭が下がる。  

 自己犠牲。

 赤の他人に対して、体を張って助けようとしている阿良々木の姿に、俺は、何も言えない。

 呆れた、とも思ったが。

 やはり、いい人なのだ。

 

「しかし、牛の怪異でも、牛鬼ではなくて良かったのう、そうは思わんか」

「ぎゅう、き……?」

「おやうぬ、知らんのか。やれやれ困った奴がまたここに一人いるようじゃ――と。じゃが噂をすれば影がさす、という言葉があったの……説明はするまい」

「おおおおおぉぉぉっ!」

 太い声がした。

 阿良々木が、牛の角を握り締めていた。

 大きく反った、一対の角。

 持ち上げて、叩きつける。

 有り得ない。

 常識外れ。

 桁違い。

 並々外れた鬼の力で、牛を、ノックアウトさせた。

 だが。

 

「ぐ、くぅっ……」

 がくり、と膝をつく阿良々木。 

 両手をキョンシーにでも憑かれたかのようにぶらりと前に突き出していた。

 転がっている懐中電灯の明かりで、俺は彼に何があったのか気付く。

 両手が、酷く(ただ)れていた。

 青紫色に変色している。

 角に触れただけで。

 忍は、唸った。

 痛そうな顔をしている。

 阿良々木の手を見たからだろうか。

 

「岩頭牛は、悪霊、龕の精じゃ。疫病神の一種かも知れん。きっとあの角は、生気を吸い取るのじゃろう。それが長引けば、魂もろとも吸われてしまう」

 とんでもないことをさらりと言わなかったか?

 それに、そんなことを知っていて、阿良々木には何も教えなかったな……。

 ただ傍観しているだけだ。

 阿良々木は、立ち上がり両手で自分の顔を軽くはたいていた。

 ぱちぱち、と。

 て、あれ?

 手が……治っている?

 

「忍、食べて(、、、)くれ」

 何ともないように言う阿良々木。

 こちらを振り返る。

 その口から覗く、人間にしては心持ち長く鋭い八重歯。

 ああ、そうか。

 吸血鬼。

 回復能力があるのか。

 怪力の持ち主で。

 その上、長寿だ。

 最強じゃないか。

 でも、ニンニクや十字架が駄目だったっけ。

 ……いや、今時そんな吸血鬼っているだろうか。

 無敵なイメージがある。

 忍が俺の元を離れ、阿良々木の方へ歩を進めたその時。

 牛が、身動きをした。

 もう、意識が戻ったらしい。

 人外ゆえに、人間の常識で考えては駄目なようだ。

 そして(、、、)、それだけではなかった《、、、、、、、、、、》。

 

「な――?」

 牛の姿が、変わり始めたのだ。

 縮むように、溶けるように、その巨体は消えていき、代わりに別の姿が視えてきた。

 人の形。

 人間に、化けたのだ。

 化け物。

 

「……ぁ」

 奥で、小さな声が聞こえた。

 青柳だ。

 中にずっといたものの、巻き込まれてはいないようだ。

 彼女は、人となった牛を、凝視する。

 新品のスーツを着た青年。

 背は高いが、どことなく、彼女に似ていた。

 青柳の兄。

 目にかかる髪を払いのけ、青柳を見下ろしている。

 阿良々木は、青柳の顔を見て、忍を制した。

 忍は不機嫌そうな顔をしたが、従った。

 そして彼は――牛は、口を開いた。

 

「やめろ。邪魔をするな、吸血鬼」

「お前……どうして」

 思わず、俺は尋ねていた。

 牛は、静かに瞬きをする。

 

「私は人の姿をとらねば会話ができない」

「そうじゃなくて――」

 

「お、兄ちゃん……?」

 牛は、再び青柳を見る。

 

「いつも、今まで、側にいたのは……お兄ちゃんなの?」

「分からいでか。おうとも、私だ。兄は、私――私は、兄に化けていた、ただそれだけだ」

「そんな――」

「愚かな」

 牛はここで、少し笑ったように見えた。

 

「私は、岩頭牛だ。人の魂を行き来させる力など、持ち合わせてなどいない。私にできるのは、こうして化けること、そして食事することだけだ」

 今まで、青柳は騙されていたようだ。

 青柳は誓った。

 魂を捧げる誓い。

 自分まで犠牲を払って。

 だが、牛としては、彼女の望みなど初めから叶えられないものだったのだ。

 相手側にだけ、利益があった。

 兄は最初から、ここ(、、)にはいなかったのだ。

 詐欺も同然だ。

 変化の能力を活用して、青柳を騙していた。

 岩頭牛、マジムンのある話がある。

 ある男が美女に出会い、恋に落ちた。

 夜な夜な彼女が待つ松の木の下に通い、毎晩話をしていた。

 ところがその男の友人が美女を一目見ようと男に付いて行ったが、彼の目に映ったのは松の木と、その下で舌を突き出した妖怪の姿だったという。

 友人は男に説得した。

 次会うときには、美女を短刀で刺すようにと。

 それに従った男が、女を刺して、明け方に見たものは。

 短刀の刺さった、龕の破片だったという。

 何故牛が美女に化けていたのかは、周知のこと。

 人間の気を引いて、魂を喰う為だ。

 青柳も、それと同じで――

 いや。

 

「……ゃ、やっぱり」

 と、俯いて彼女は言うのだった。

 

「やっぱり、お兄ちゃんじゃなかったんだよね。薄々だけど、気付いてた……」

 牛は、何を思ったか黙り込む。

 気付いていた――だって?

 でも、お前は言っていたじゃないか――ずっと、訴えていたじゃないか。

 兄を帰したくない、とか。

 別れるのは嫌だ、とか。 

 青柳は、俺を見て、申し訳なさそうな顔をする。

 

「お兄ちゃんの姿が消える時って、それは岩頭牛さんがお腹が空いてた時……入れ替わるように、いつも現れていたから、まさかとは思っていたけれど」

「…………」

「私、信じられなくて。信じたくなくて。唯一、頼れたお兄ちゃんが、本物じゃないなんて。現実に引き戻されたくなくて。ずっと、ずるずる引きずったままで」

 オカルト好きならば、率先して調べるものだろうと俺は思っていた。

 だがそうはしなかった理由は。

 今まで牛について調べなかったわけは。

 真実を知るのが怖かったから。

 牛が、魂を運ばないこと。

 化ける事ができる、なんて。

 知ってしまえば――彼女は、(すが)るものをなくし、壊れていたかもしれない。

 実際、今日だって、青柳は倒れてしまったのだ――牛について調べたその翌日に。

 真実を知った為に。

 愚問。

 

「……でも、それじゃおかしいじゃないか。今まで俺には姿が見えなかったぞ――教室でだって、青柳の家でだって、隣には兄がいた、お前がいたのに」

「認識しようと思った者に、私の姿は映る」

 牛は答えた。

 怪異の時間。

 人の姿で言われると、また先程の牛と同じものなのか分からなくなる。

 

「……馬鹿」

 ふいに、阿良々木の声がした。

 服に付いた土埃を払いながら、彼は言う。 

 

「怪異に頼る前に、周りを見るってことはできなかったのかよ――頼るべきは、まず、人間だろ。誰でもいい、心の内を打ち明ける人は、いなかったのかよ」

「……」

 青柳は驚いたような顔をして、そして、

 

「……あなた、誰?」

「今そこ重要じゃねえだろ! 格好いいこと言ってんだから締めさせろよ――」

 彼も彼で突っ込みをする状況ではないと思う。

 咳払いを一つ。

 

「通りすがりの、吸血鬼だよ」

 通りすがりって。

 あれ、そういえばこの二人――一人と一体、どうやって青柳の家を知ったんだ?

 

「吸血鬼、」

「とにかく。頼るときは、僕達みたいなのでもいい、人間に(、、、)、頼ってくれ。粟国だって好きでお前に付き合ってんだ。助けたいから、な。信じて、頼ってくれ――信頼されたいから僕達はここにいる」

「信頼……」

「人間とは、解せぬものだな――そう思わないか、怪異の王よ」

「口を慎め、下劣な牛が。ぐうたらそこいらに転がっとる魂を喰うてきたごろつきが、儂にまるで同等の様に話しかけるなど、身を弁えよ。消されたいのか、愚か者めが」

「いやいや。怪異の王と恐れられた貴女が、そのように人間に憑き従っているのを見ていると――」

「何様のつもりじゃ!」

 牙をむき出し、今にも襲い掛かりそうな勢いだった。

 

「やめろ、忍! 後でだ」

「むう……」

 この畜生が、と嘲るが、一旦退()く忍だった。

 岩頭牛は、落ち着いたものだった。

 いや、牛だけに少しとろいのかもしれない。

 

「消されては困る、最も私ではなく、この女がだ」

「……!」

 牛は、青柳の肩に手を乗せる。

 にやり、と笑って。

 

「私が消えれば、お前はどうなる? 私は見ていたぞ、お前が狂乱する姿を――兄がいないと、寂しいだろう? また、母親の暴力に耐える日々が続くだけだ――どうだ、ここは残りの魂を私に捧げてはくれないか。もう苦しまなくても良くなる、兄の元へすぐに逝けるぞ」

 甘い言葉。

 囁き掛ける。

 青柳は、目を見開いて、手は震えていた。

 

「どうだ。捧げてはみないか。捧げろ。捧げろ。捧げろ捧げろ渡せ渡せ渡せ渡せ渡せ渡せ」

 青柳は目を閉じる。

 彼女の口が、開く。

 

「私は、」

 拳を握り締め。

 震える声で、だがはっきりと。

 

「嫌です。もう、あなたを頼らない」

 青柳は、地面に押し倒された。

 大きな両手が、青柳の首を絞める。

 締めに、絞める。 

 兄が、妹を。

 容赦なかった。

 きりきり、と音がするほど。

 

「忍!」

 阿良々木が叫び、動いた。

 忍も、すかさず駆け寄ろうとする。

 それでも青柳の顔からは血の気が引いていた。

 吸い取られる。

 吸い尽くされる。

 その時。

 ぴたり、と牛の動きが止まった。

 指の力が緩んだのか、青柳はひどく咳き込んでいる。

 そして、止まったのは阿良々木と忍、そして俺も同じだった。

 動く事ができない。

 体が、動くことを忘れてしまった。

 ただ、耳を傾けることしかできない。

 美しい、歌声に、魅了されることしか。

 歌声は大きくなる。

 歌詞はない。

 ただ、ゆっくりと流れるその旋律は、美しいとしか形容しようがない。

 声の主が近付いてくる。

 優補、と俺は思った。

 声は出せない。

 俺の中の怪異も(、、、、、、、)、歌に反応する。

 混ざり、解けていく感覚。

 心地よい。

 海の香り。

 佐弐優補が、ゆっくりと俺達の方へ歩いてくるところだった。

 これが、優補に残された数少ない能力の一つだ。

 人魚として。

 怪異しての、力。

 歌で、人を癒す。

 心の奥まで届く歌声は。

 精神までもコントロールさせる。

 自然と、落ち着いてくるのが分かる。

 優補は、俺を見て、綺麗に笑った。

 戦場ヶ原さんと一緒だった。

 手を、繋いでいる。

 これは、仲がいいとかその前に、彼女の歌の力の所為だ。

 彼女の側にいれば、誰もが(とりこ)になる。

 今まで何人の人間が犠牲(、、)になったことか。

 そして勿論、戦う気など――起こるわけがない。

 優補は、続いて、忍に礼をして、阿良々木を見て、そして青柳と牛を見た。

 歌いながら、歌い続けながら、そっと手を離し、牛に近付く。

 牛は、顔を優補に向けることしかできないようだった。

 優補は、手を差し出した。

 牛の顔の真ん前に。

 歌が、止む。

 余韻が残る中、彼女は言った。

 

「返してあげて」

 すると。

 がくり、と青柳は意識を失った。

 優補が満足げな表情を浮かべていることから、魂は青柳に返されただと判断できる。

 魂、と言うよりは魄――牛が青柳から奪ったのは一種のエネルギーだろう。

 そして、この優補の歌。

 一種の、催眠術のようなものだ。

 彼女の歌は人を操る事ができる。

 陥れることは勿論、殺すことだって――可能なのだ。

 怪異は、世界と繋がっている。

 故に、優補も、世界の一部。

 海を、風を、自然をも虜にする。 

 

()ぐにでも起き上がる」

 牛はゆっくりと言った。

 そうして物置から出て、こちらに向かって歩いてくる。

 俺は気のせいだと思っていた――

 その時、優補と忍が素早く、目配せをしたことに。

 

「御姉さま!」

 優補の鋭い声が空気を豹変させた。

 俺が止めに入ろうとした時には。

 もう(、、)遅かった(、、、、)

 忍は、岩頭牛の首筋に噛み付いていた。

 がぶり、と。

 鋭い牙を付き立てて。

 そしてそのまま――吸血、という表現で正しいのだか疑問だが――そのまま、吸う。

 これで、先程阿良々木が言っていた言葉が理解できた。

 これは、食事だ。

 吸血鬼の、食事なのだろう。

 

「優補、突然、どうして――」

「どうしたの、しょーじ。私が、赦すとでも思ったの? あのまま、放っておくとでも思ったの?」

「いや、でも」

 俺は岩頭牛を見やる。

 牛は、抵抗しない。

 そのような暇もなかったが、する気もない。

 覚悟を決めていたかのようだった。

 もしかしたら――今日、急に青柳の前から兄としての姿を消したのも。

 魂を求めたのも。

 この為かも――しれなかった。

 

「エナジードレイン」

 ぼそり、と阿良々木が呟いた。

 何ですかそれ、と俺が訊くと、代わりに優補が答えた。

 

「体力、精力を根こそぎ吸い尽くす、それがエナジードレイン。御姉さまにとっては食事であって食事でない、これは怪異が怪異に対して行っているだけ――王が、罰を与えているだけ」

「罰を、」

「嘘ついた悪い子は、怪異の王のお叱りを受けるんだよ」

 微笑む優補を、俺はまじまじと見つめる。

 人間の見た目だが、人間味がない。

 たまに見せる、怪異の顔だった。

 そういや、なんだか牛も牛で忍を甘く見てたしな――彼女、結構怒ってたみたいだし。

 怪異には怪異の事情があるのだ。

 口出しはするまい。

 吸血鬼のそれをエナジードレインと言うのなら。

 牛のそれも呼んでいいのだろう。

 魄――いわゆる精力、気を吸い取るのだから。

 

 牛は、力なく倒れた。

 目を閉じ、消えようとしている。 

 存在もろとも、消えかかっている。

 

「岩頭牛さん」

 遠くで、声がした。

 青柳が、うつ伏せの格好のまま、牛を見ていた。

 まだ起き上がることはできないようだった。

 

「今までありがとう、ございました」

 

 兄を帰したくない、と言ったのは、牛だと知っていたから。

 別れたくない、と言ったのは、現実を突きつけられるのが怖かったから。

 青柳は、もしかしたら最初から、兄など戻ってこないと分かっていたのかもしれない。

 彼女の声に反応したのか、牛は、少しだけ目を開けた。

 

「やはり、……解せぬ」

 そして兄の姿で、少し、笑った。

 岩頭牛は、また溶けるようになくなった。

 忍が顔を上げた時、彼女の足元には、真っ赤な古びた棺、龕があった。

 昔は豪華で立派だったのだろう。

 特に目が行ったのは、飾りで付いている一対の金の鳥の像だ。

 きっとこれが、牛の角だったのだろう。

 物に宿り、化ける怪異。

 

「清々したわ」

 ふう、と溜め息をついて満足げに言う忍。

 私もです、と飛んで跳ねる優補だった。

 一方。

 ずっと後ろにいた戦場ヶ原さんは、待ちきれないという風に阿良々木の元に駆け寄って、

 

「!!?」

 キス。をした。

 阿良々木は初め、驚いて目を見開いたものの、しばらくすると二人、目を閉じていた。

 俺は、取り残された青柳を起こしに行く。

 彼女は、じっと龕を見つめていた。

 

「ごめんね、粟国くん」

「もうおせーよ今更……」

 全部終わったことだ。

 

「驚いた……粟国くんが駆けつけてきたのもびっくりだったけど、まさか吸血鬼さんがいるなんてね」

「ああ、後で礼言っとけよ」

 今はお取り込み中だが。

 うん、と相手は頷いた。

 

「ねえ、」

「うん?」

「私、もしかしたらだけど、また何かあったら、頼っちゃっても、いい?」

「なんだ、そんな事かよ――当たり前だ、つーかまた怪異に頼ったりしたら、俺怒るぞ」

「はは――」

 と、彼女は笑う。

 ……あれ?

 

「私も忘れないでよね! しょーじだけじゃ頼りないし!」

「叫ぶな! ご近所に迷惑だろうが、今何時か分かってんのか!?」

「いや、粟国くんもうるさいよ……」

 おっといけない。

 

「久しぶり、佐弐さん、元気? ……って訊くまでもないけど」

「ちょ―――元気だよん! おっひさー、伽藍ちゃん」

 転がったままだった懐中電灯を拾って、手遊びしながら言う。

 

「うん? 私のこと、憶えてたんだ」

「伽藍ちゃんだって、私のこと憶えてるじゃん」

「いや、佐弐さんは目立ってたし――」

 うん。

 凄くこいつは目立ってた。

 優補は途端に呆れ顔になって(眩しいので表情が良く分かる)、青柳に言った。

 

「伽藍ちゃんは友達じゃん、忘れるわけないよ、憶えてて当たり前だよ」

「……」

 彼女は言葉を失ったようだった。

 しばらくして、彼女が口にした言葉は、 

 

「あーもう、お腹空いた」

 だった。

 そういえば夜食べてなかったな、こいつ……。

 まあ、俺も優補もなんだけど。

 でも青柳の食欲異常は、そうすぐには治らないだろう。

 俺は、はぐらかすように彼女に言ってやった。

 

「どうだ。焼肉パーティーでもするか」

 それを訊いて、青柳はくすりと笑ったのだった。

 再び。

 昔のように。

 いつものように。

 心から、笑ったように見えた。



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其の拾

010

 

 後日談というよりは、裏話。

 それから、軽く俺達三人は軽く夕食を食べた(もちろん焼肉ではないし、青柳の量は軽く、ではなかった)。

 夕食というのかは分からないが。

 楽しい、食事だった。

 阿良々木達は、今日早くに帰るらしく(日付は当然ながら変わっていた)、ホテルに戻って行った。

 仲良く掛け合いをしながら、帰って行った。

 その前に、忍と優補の別れの挨拶が長々と続き、さらに阿良々木と忍が物置の奥で何やらこそこそとして、戻ってきたときには忍はまた八歳の幼女の姿になっていただの、色々とあったのだが。

 

「暦くん。女の子を一人ホテルに置き去りは良くないわ」

「それは、お前を巻き込みたくなかったからだよ――待っててくれって、言っただろうが」

「嫌よ。もし万一暦に何かあったらと思うと、射ても絶ってもいられなくなったのよ」

「居ても立ってもだろうが!」

「とにかく、心配したんだから」

「ああ……悪かったよ」

「だから、今夜は私に優しくしなさい」

「……了解」

 去り際に、彼は携帯番号とメルアドを教えてくれた。

 シリアスとギャグとのろけの切り替えが早すぎて恐ろしい。

 

「何かあったら、助けになる。ぼちぼち連絡くれよ」

「はあ……」

「お前だったら、僕の跡を継げそうだな――」

「は?」

「いいえ暦。突っ込みはあなたの方が上よ」

「褒められてもあんまし嬉しくないな!」

「え?」

 何だかよくわからない。

 もっと肩の力抜いてこうぜ、と軽く肩を叩かれた。

 うーん……。

 

「全く、とんだ旅行だったぜ」

 優しくていい人なんだろうけど。

 あ、そういえば。

 

「羽川さんって知ってますか?」

「羽川? 羽川翼か? 知ってるのか?」

 阿良々木は今までに見たことのない仰天顔だった。

 

「流石羽川……日本国民ならば誰もが知っているというのかっ……」

「いえ暦くん。きっと世界中の人類が彼女のことを知っているのよ」

 いや……それはないだろう。

 

「俺と優補を、助けてくれた人です。羽川さんが、そういえば話してたなあって――吸血鬼のこと。優しくて、いい人のこと」

「羽川が、沖縄に来てたのか!?」

「え、はい、去年の春に」

「ちっくしょおおおおおお!」

 え。

 ええ。

 嘆きまくる阿良々木。

 ちょ、これは駄目だろ、戦場ヶ原さんも何か突っ込まないのか!?

 

「あの……」

「いや、そうか……あいつ、世界各地を旅しながらそんなことしてたんだな」

 大学に行けそうなほど頭がいい人だったのに、世界遺産を廻っている羽川さん。

 彼女に出会えて、俺はとても幸運だったといえる。

 そして、勿論今回もだ。

 

「暦くん、羽川さま……羽川さんには、いつだって会えるわよ」

「そう、だな、何でも知ってるからな、あいつ」

「何でもは知らないわよ――私は、暦くんのことだけだけど……」

「おい、半魚の人間」

 のろける二人にうんざり気味の忍が、俺の制服の袖を引っ張った。

 

「何ですか?」

「うぬ、これからも彼女を――我が妹を――佐弐優補を、頼むぞ」

「ああ……任せて下さい」

 すると忍はにかっと笑って、阿良々木を追いかけて行き、やがて影に潜って見えなくなった。

 阿良々木達が、青柳の家が分かったのは。

 昨晩、優補が阿良々木に電話を掛けたのだ。

 それから彼女はバイトを早々に切り上げて、普通にサボタージュして、こちらに向かったというわけだ。

 優補ならやりかねん。

 まあそれはさて置き、優補は初めから、牛のことについては大体予想が付いていたらしい。

 怪異そのものなのだし。

 察しはいい。

 退治。

 それが、優補のスタイル。

 彼女の掲げる思想。

 悪い子には、お仕置きを。

 見逃しはしない――俺が止めれば、何とかなる時もあるけど。

 それでも、今の彼女が唯一できるのは歌うこと。

 それでは、俺達にもしもの事があったら、どうしようもできないし、牛を退治することもできない。

 だから、彼女は助けを求めた。

 優補がいなければ、あの後どうなっていたか分からない。

 だが、優補がいなかったら、岩頭牛は餌食にはならなかったかもしれないのだった。

 それはそれ、これはこれ。

 もう終わったこと。

 故に、今がある。

 俺がこうして怪異の物語を、とりとめない物語を語ることを決意したのも、阿良々木達に出会ったからなのだし。

 青柳も、全ての過去を水に流すことはできずとも。

 これからは、ちゃんと前を向いていくのだろう。

 そして、変わっていくのだろう。

 ――今でもご両親が(、、、、、、、)側にいると思ってる(、、、、、、、、、)? 

 死んでも、霊として、いるかもでしょ?――

 そういった存在を、信じることで。

 そう信じて、自らを保っていた青柳。

 制御していた青柳。

 伽藍堂のように何も無い心で。

 それでも、がらんどう、平穏を求めて。

 そして、今に至ったのだ。

 からっぽになった心を、ゆっくりでいい――牛の歩みで構わない。

 少しずつ、埋めていってくれるのなら。

 その中に、俺達が居るのなら。

 母親からの虐待が絶えなくても。

 身体の傷が癒えなくても。

 心の傷が消えなくても。

 いつものように、心から笑顔で笑ってくれるのなら。

 俺は、それでいい、そうであってほしいと思う。



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【そぞろなるままに 其の壹】

ここでちょっと休憩です。


『がらんクラブ』

 

001

 

「青柳さんって、私と似ているっていう設定らしいのだけれど、一体全体どこが似ているのかしらね」

「いやいやいきなりメタネタですか戦場ヶ原さん……私のポジションは突っ込みではないのに突っ込んじゃったじゃないですか」

「そういうあなたも自分のキャラ付けについて暴露しちゃってるじゃない」

「あ……」

 

002

 

「それにしても、突っ込みって重要だと思うのよ」

「どういうことですか、戦場ヶ原さん」

「だって、暦や、粟国くんがいなかったら、私達永遠にぐだぐだの話を続けるだけじゃない。ブレーキがないのよ」

「ではやっぱり私が突っ込みを勤めます!」

「そう。頼もしいわ。OBである私としてはとてもいい後輩を持てたものだと、誇らしくもあるわ」

「私も戦場ヶ原さんみたいな先輩ができて光栄です」

「いえ、あの……OBと言ったところに突っ込みが欲しかったのだけれど」

「あ……OG、ですね」

「やっぱり私達じゃぐだぐだね」

 

003

 

「原点に戻るけど、私達の似ているところってどこなのかしら」

「うーん、初めに登場するヒロインポジションですかね」

「意外と真面目な答えね」

「不真面目な答えってどんなですか……」

「私は生まれつき深窓の令嬢なのだけれど」

「生まれつき!? 凄っ!」

「青柳さんは、何かそういうあだ名みたいなのはないの?」

「うーん、小さい頃、青と藍でブルブルって呼ばれてましたね」

「……なんだか女の子につける名前ではないわね」

「深窓の令嬢というのも、あんまりいい意味ではないと思いますけど」

 

004

 

「蟹と掛けまして、牛と解きます」

「おや。青柳さん、そういうの好きなの? その心は」

「どちらも美味」

「まあ、確かにね」

「あれ? 何かがっかりしてません?」

「別に」

 

005

 

「青柳さん、最近ハマっていることは何? 私は勿論暦を困らせることだけど」

「とんだ彼女がいるもんですね……そうですね、ハマってること……食べること?」

「他の答えが欲しいものね」

「えっと、じゃあ、読書とか」

「読書。私も好きよ。でも暦の方が、」

「のろけないで下さい」

「あら、意外と厳しいのね。読書が好きなの、じゃあ好きな作家さんとかいるのかしら」

「えっと、夢野久作さんとか、素晴らしいと思います」

「あら。見事にカブったわね」

「同じ九州出身ということも手伝って、最近読み漁ってるんですよー」

「やっぱりドグラ・マグラ?」

「あれはもう、分厚さにときめいて息が止まるかと思いましたねー。でも、一番は瓶詰地獄だったりします」

「ああ、あれも好きよ。何だ、意外と趣味が合うんじゃない、私達。今度ゆっくり語り合いましょう」

「どうして本編で絡みが無かったんだろう……」

「作者に抗議ね。で、今回のギャラはいくら?」

「そんなものありません!」

 

 

『しょうじマイマイ』

 

001

 

「あれ。何かツインテイルで大きなリュックをしょったいかにも観光客って子がいるぞ、迷子かもしれね。おい、どうした、道にでも迷ったか?」

「話しかけないでください。あなたのことが嫌いです」

「……分かった」

「はい?」

「悪かったな、邪魔して。じゃあな」

「ちょっと待ってください! ごめんなさいでした、悪い癖が抜けないのです、あなたのことは好きです!」

「変な癖だなおい……初対面にいきなり嫌いだの好きだの、変わった子だぜ、おい」

 

002

 

「お前、名前は何て言うの?」

「わたしは、 八九寺(はちくじ) 真宵(まよい)です。わたしは、八九寺真宵といいます」

「俺は粟国頌史っていうんだ」

「障子ですか」

「頌史だ」

「何だか薄っぺらそうな名前ですね」

「語感だけで考えないでくれ……」

 

003

 

「それで、八九寺はどうしてこんな所を一人でうろうろしてんだ?」

「さあ。迷子なんじゃないですか」

「さも当たり前そうに言うなよ」

「路頭に迷ってる粟国さんに言われたくないです」

「俺そんなに困ってるように見えるか?」

「ええ。具体的に申しますと、頌史という名前がいつまで経っても定着されず、平仮名での印象が強まってしまったのを嘆いている風に見えます」

「ピンポイントで図星だが、お前は一体何を知っているんだ!?」

 

004

 

「ところでアグーさん」

「俺は小型で黒い毛の、沖縄在来種の豚じゃねえよ」

「おお、なかなか突っ込みがお上手ですね」

「小学生に試された……」

「おや。小学生だとわたしはまだ言っていませんよ? まさか粟国さん、真正のロリコンですか」

「いや、リュックにクラス番号が書いてあるじゃねえか」

「失敬な、わたしは見た目は子供でも嗜好は大人ですよ?」

「なんかやらしいな!」

「粟国さんこそ、先程わたしがあなたのことは好きです、と言ったとき内心喜んでたのでしょう?」

「嬉しくないと言ったら嘘だな」

「粟国さん、いやらしいです」

「いや、今のは別にいやらしくはねえだろ!?」

「どうです、今から大人トークでもしちゃいますか」

「小学生とそんなトークしたくねえよ……」

「なるほど。しかし否定はしないんですね」

「あ?」

「いえ、ロリコンですかという私の質問に対しては、否定しませんでしたよね」

「違う! ていうか何か前もしたぞこんな会話!」

 

005

 

「それで何を言いかけてたんだ?」

「粟国さんは、阿良々木さんの跡を継ぐにふさわしい方ですと、そう言いたかったのですよ」

「ああ、あいつの知り合いなの?」

「知り合いなんて言葉では語りつくせませんが」

「じゃあ今日は阿良々木と一緒に来たりしたのか?」

「いえ、よく分かりませんが」

「何で自分のことなのによく分からないんだよ……」

「本編には絡むに絡めませんから、無理矢理こういう形で登場させられたのですよ」

「何言ってんだお前!?」

「粟国さん。ここはそんな厳しい場じゃありませんよ。肩の力を抜いて、もっとメタメタして構いませんから」

「マジで何なんだこの小学生!」

「まあ、何故わたしが沖縄にいるのかなんて、どうして地球が回っているのかというのと同じくらい、どうでもいい話なのです」

「スケールはでかいんだな」

「謎なままでいいんじゃないですか? 無理に理由付けるより、面白いですし」

「迷子になってるのに面白いなんて言うんじゃねえよ……」

「それでも本編には出てみたかったです」

「……相談してみるよ」

 

 

【次回予告】

 

 りゅーぅ。

 ということでどもー、佐弐優補ちゃんですようー。今回というか、毎回次回予告担当になったんでよろしくなー。じゃあ早速始めてゴー!

 

 しょーじがいつの間にかまた怪異に絡んじゃったみたいで、ほんとどうしようもないねえ。それも今回は厄介でお節介で……まあアブナイやつなんだよ。それにその怪異と一緒にいるあの子もまたアブナイ子でさー。おっとここらへんでやめといた方がいいかもね。じゃあ次回、

 

『さちねハウンド』

 

 お楽しみにい。

 今見ているものが、儚い妄想でないとは限らない!

 

 




がらんブル、いかがでしたでしょうか。沖縄の怪異は皆さんフレンドリーでお茶目なので、怖く禍々しいのはマイナーですね。マイナーで勝手なキャラ設定の、マジムンのお話でした。


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さちねハウンド
其の壹


001

 喜屋武(きゃん)幸音(さちね)との出会いは、俺にとってまさしく偶然の産物であり、決して必然ではなかったと言えた。

 だが、そうだとしても、今までどうして彼に対して何の疑問も抱かなかったのだろうというのが、疑問だった。

 彼の中に少なからず存在している怪異。

 それに、何も気付かなかったなんて。

 喜屋武は、同じ学校の中学三年生――虚栗高校は、中高一貫の生徒も通っているのだ。

 幸音、という名前ではあるが男子。

 中高一貫という響きからどんな印象を受けるかは人それぞれだが、俺の高校の中学生は(表現が可笑しい)、ほとんど全員が、例外なく頭がいいらしい。

 喜屋武も勿論、俺なんぞに比べてとても頭がいいのだろう。

 彼は、まだ幼さが残る顔で、そして大人しくていい子そうな顔立ちをしている。

 同じ学校ということもあって、俺と彼はよく廊下ですれ違うことがあった――移動教室の際に、いつも前の時間に喜屋武のクラスが授業を受けていたからだ。

 青柳とは違って、異なるクラス、学年であっても、よく会う、よく目にする生徒だった。

 この間、その青柳の一件が解決して何日か経った日のことだった。

 多分、例の移動教室のときだろう。

 すれ違いざまに、彼は俺にぶつかってきた。

 いや、故意にぶつかったわけではない。

 上級生が来た為、ちょっと出遅れた彼は単に急いだだけなのだと思う。

 誤って、ぶつかった。

 青柳よりはちょっと高いが、やはり俺よりは低い身長だった為、肩の辺りにやっと頭が届くほどだった。

 くしゃくしゃの黒髪が目に入ったと思った途端。

 ぼすん、と。

 彼の小さな頭が俺の肩に当たる。

 無論、俺も相手も、大ダメージを受けたなんてことはない。

 何てことはない。

 ただ、彼の筆箱やらノートやらが宙を舞い、床にばら撒かれただけの事だ。

 だが勿論、俺は申し訳ないと思っていたのでそれらを拾う為にしゃがみこむ。

 

「大丈夫か――」

 ところが、相手は言うのだった。

 二人、しゃがんでいるので周りの生徒には聞こえない。

 彼も、それが分かって言ったのだろう。

 俯いたまま、散らばった筆記具を拾い集めながら。 

 それでも耳元で、ぼそり。と。

 

「オレに関わらない方がいいすよ――噛み殺されたいんすか」

 敵意。

 戦意。

 敵愾(てきがい)

 全部剥き出しになって、俺に向けられたような気がした。

 これ以上干渉したら、冗談ではなく、本当の本当に、噛み殺されそうだった。

 いや、誰に?

 何に?

 最もそれは、喜屋武の口から漏れた言葉ではあったが、その感情は、喜屋武から滲み出るものではなかった。

 この気配。

 獣の気配。

 物の怪。

 怪物。

 怪異。

 だがそれを確認する(いとま)も、証拠もなかった。

 ただ、相手の制服に刺繍された名前を確認するだけしか、その時の俺にはできなかった。

 喜屋武。

 喜屋武幸音。

 それが、彼の名前だった。

 今まで目にした事がないわけではない、むしろこうして移動教室の際にいつもすれ違っている生徒。

 なのに――なのに。

 それなのに、何も感じなかったというのは変だ――気持ち悪いほど、何も気付いていなかった。

 故意に(、、、)注意を引かせないように(、、、、、、、、、、、)していたかのような。

 そして今日も。

 今度は彼の方からやってきて、そして――

 



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其の貮

002

 

「ええっ!? あ、粟国くん?」

 金切り声がして驚いて顔を上げれば、目の前に驚愕した様子の青柳がいた。

 今日は、二月十一日の日曜日。

 祝日である建国記念日の前日だ。

 午後五時頃。

 学校もない。 

 俺と青柳が、一体どこで出くわしたかと言えば、それは、家の近くの商店街。

 の、外れ。

 人通りは多いが、ほとんどの店のシャッターが閉められている、むしろ閉店してしまっている、そんな通路の一つで。

 俺は、折りたたみ式の椅子に腰掛けていた。

 

「なんだ、青柳じゃん」

 青柳の私服姿。

 初めて見た。

 というか今まで外で会ったこと、なかったんじゃ?

 きっと寒がりなのだろう、どこぞのブランドのコートを着て、足のラインを強調させているかのようなぴったりとしたジーンズで、そしてどこぞのブランドで(多分厚底であろう)ブーツを履いて、どこぞのブランド品の小振りのバッグを持っていた。

 俺は今座っているので、ちゃんと目を上げて彼女を見る。

 見る。

 すっげえ、化粧してる……。

 すっげえ、綺麗なんですけど……。

 あれ、何だろう、最初見たときは別に何とも思わなかったのに、意識して見ると美人さん。

 いや、優補は化粧なんてしないから、こう、何だろう、今時の高校生像を見ているようで、何だか新鮮だった。

 化粧って。

 あいつは元より化けてるようなもんなのだが。

 それに、べっぴんさんな優補にそもそも誰も適わないのだ。

 と、のろけてしまったが。

 それにしても、優補には及ばないにしても、化粧すれば、人ってこんなに変わるんだなあ……。

 目元とか。

 唇とか。

 何だかなかなか魅力的ではないですか!?

 

「……あれ? 粟国くん、何ゆえそんなにガン見?」

「……。いや、いいセンスしてんなーと思ってよ」

 殴られた。

 バッグが振り落とされる。

 

「……。いや、悪かった。ナンセンスだよ」

「粟国くん、ギャグに関してはノーセンスだね」

 うん。

 分かってる。

 センスレスだ。

 

「でも、先程の台詞は、きっと空耳だよね。なんか一気に、中年ぽい人の空気を醸し出してたからね」

 中年ぽいと言われた。

 マジへこむ。 

 

「ただでさえ、こんな所にいて。ホームレスみたいだよ」

「やめろ。全ての中年の人をホームレスにするな」

「そんなこと言ってないよ、行間ばっかし読んじゃ駄目」

「行間って……」

「でも、行間を読むって言っても、新聞の行間読んで、何かが得られるのかな?」

「いや、行間を読むって、そういう意味じゃねえぞ……」

「そうなの? 毎朝新聞読んでたけど、行間読みで」

「何が得られるんだ!?」

「もっと世界を知りたくて」

「そこだけピックアップすれば何だか主人公と共に冒険に着いていくヒロイン的な台詞に思えるぞ!」

「だから私は旅に出たい」

「乗るな」

「泥棒さん、私を、どうか連れてってください」

「クラリスだったのかっ!」

「実際、ルパン三世に盗まれてみたいよ。こう、城の天辺に監禁されてて、それでも優雅に助けに現れる人」

「彼は優雅ではないと思うぞ……」

「ところで粟国くん、それは盗品なの?」

「は?」

「そこに並べてあるの、戦利品?」

「……。青柳、お前、見て分からないのか?」

「んー、掘り出し物市?」

 いやいや、どこが。

 

「いわゆる、弾き語り」

 路上ライブ。

 ……一人で。

 ちょっと前までは歌ってたんだけど、今は休憩中。

 何つーか、言い訳がましいのは承知で、ちゃんとバンドも頑張ってる。

 まずは勧誘から!

 

「んー、どういうこと?」

 どうやら青柳、まだ分からないらしい。

 

「粟国くんが、シンガーというレッテルを貼られて、商品として陳列されてるの?」

「どうしてそうなるんだ!?」

 だとしたら教えてくれ。

 俺は果たしてハウマッチ!

 

「え? デスマッチ?」

「どうしてギターで死闘を繰り広げなくちゃなんねえんだよ」

「あ、ミスマッチだったね」

「上手いこと言った!?」

 いや、言えてないな。

 ここらへんはノリだ。

 ノリノリなのだ。

 のるかそるかのギャグの掛け合いなのだ。

 

「ていうか、お前、そもそもどうして金切り声なんて上げたんだよ……」

 何やってるか分かんなかったんなら。

 

「いや、おっさんだと思ったけど、よく見たら粟国くんだったから……」

「また中年の話か!」

 やめて!

 引き摺るから!

 ずるずるするから!

 

「もしかして、中の人おじさん?」

「何だよ中の人って!」

 憤慨だ!

 

「で、じゃあこれはギターだとして、」

「いや、ギターだし」

 れっきとしたエレキギターだ。

 

「じゃあこの大きい箱は? 集金箱かと思った」

「箱……」

 アンプな。

 

「え? 何? あっぷっぷ?」

「笑うと負けじゃない」

 つか笑えねえ。

 

「アナログモデリングギターアンプヘッド――まあ、ここで音調節したりするんだよ、ほら、ギターとこの線で繋いでるだろ? いわゆるスピーカーだな」

「ふうん」

 さほど興味はなさそうだ。

 続いて青柳は、俺の足元に散らばったものを指す。

 

「じゃあこのつぶつぶは何?」

「つぶつぶ……」

 どこからどうきてそうなった。

 いっぱいあるからか。

 って、どうしてこう、ギター入門講座みたいなことになってんだ?

 頌史くんと訝藍ちゃんのはじめてのエレキ――うわ、思った以上に痛い。

 

「ピックだ。弦をはじく奴」

 プレクトラム。

 義甲。

 

「ピック!!?」

 急に叫ぶ青柳。

 何だかたじろいでいて、逆に俺が焦る。

 

「おい、何なんだよ」

「ピックって、あれだよね? ピック病」

「はあ?」

 演奏大好きな人なのだろうか。

 なんか中毒みたいな。

 

「認知症だよ……アルツハイマーと違って、原因不明の病気。記憶力低下や、人格異常になっちゃうんだよ」

「このピックを知らないでそっちを知ってるのは凄いけどな」

「何言ってるの、有名だよ。それに、これの怖いトコは、病識がないってやつで。周りの人も、何も気付かないみたいだよ。相手の話を訊かずに喋り続けるとか、人格が変わったり、奇怪な行動をとったり。そんなのだけじゃ、誰も分からないよね」

「そう、か」

 何だろう。

 思い当たる奴がいないわけでもない、とかそんな風に思ってしまうのはどうしてだろう。

 

「怒りっぽくなったり、軽犯罪を繰り返したりとか、そういう症状もあるんだって」

「……」

 いや、思い当たる奴はいねえな。優補ちゃんはそんなんじゃないのだ。

 

「……でも、そうなんだ、ピック病の権化って、これだったんだ」

「お前の発想は面白いが、そんなことは断じてない」

 あってたまるか。

 そもそもピック病は、ピック博士が発見者だから付けられたのであって、これとは全く関係ない。

 つーか何でこんなにピックの話してんだ、俺達。

 取り上げすぎだろ。

 ピックアップしてんのか。

 

「あれ? 何かとても寒気がするんだけど」

「風邪じゃないのか?」

「大丈夫、それは心配ないよ。このコートの中、ニンニク入ってるから」

「臭っ!」

 殴られた。

 いや、女子の前で酷いことを言ってしまったものだ。

 って、俺が悪いの!?

 ところで、と青柳はまた目線を戻す。

 話を戻す気はないようだ。

 そもそも、戻すも何も、戻るとしてもどこまで戻るんだろう。

 

「いっぱいあるけど、これ全部使うわけ?」

「んなわけねーだろ」

 どんな奏者だよ、それ。

 まさしく爪じゃん。

 

「いや、ちょっといいやつを探しててさ……ほら、これ見ろよ」

 言って、今まで手に持っていたものを青柳に見せた。

 愛用のピック。

 他のと違って、金属製。

 かれこれ――六年間のお付き合い。

 まあ、ずっと使ってるわけじゃない。

 一緒に居て、六年間。

 

「あれ? これだけおにぎり型じゃないね」

「おにぎり言うな」

「丸まってるね」

「そうだろ? ずっと使ってると、丸みを帯びてくるんだよ。ちょっと使いづらくなってきててさ、それからずっと、持ち歩いてるだけになってんだ。他のは、今までに買ったやつ。だけどしっくりこなくってな――」

「……ふ」

 あ?

 今、笑ったか?

 

「ううん、ごめん。いや、粟国くん、何だか楽しそうだなーって、思ってさ」

「……」

「こうして、ギターを弾いて」

「…………」

「佐弐さんっていう、彼女もいて」

「………………」

「青春って感じで――幸せじゃん」

 青柳訝藍。

 牛に誓った少女。

 おせっかい。

 面張牛皮。

 そして困ったことに、牛飲馬食をする癖がある。

 彼女の関わったそれとの問題は、解決はしたものの。

 果たして、それ以外は――と問われれば、それは、分からない。

 彼女は彼女で、今まで、とても辛い思いをしてきた――今も、しているのかもしれない。

 だから、青柳から見て俺は、とても幸せそうに、見えるのだろう。

 俺は、そうは思わないが。

 と。

 そんな傍から見ればなんだこの生意気な、と罵倒されるであろう台詞を言ってはしまったが、実際。

 俺だって、幸せなど掴めていない。

 むしろ必死なのだ。

 欲しくて欲しくて、たまらない。

 青柳に比べれば、それは幸せだと思う者がいるかもしれないけれど。

 そもそも比べるものではないが。

 

「ねえ粟国くん、今暇?」

「ああ、休憩中だし」

「じゃあ、お邪魔します」

 と、彼女はアンプの上に腰掛けた。

 

「って! 駄目だ駄目! どこ座ってんだ!」

「だって椅子なかったし」

「だからってアンプの上に乗んなや!」

「集金箱じゃないならいいかなーって」

「よくねーよ」

「大体さ、どうしてこれにはビニールシートが敷かれてるわけ? 人間様の方が大事じゃない」

「汚したくねーんだよ」

「潔癖症」

 ぼそり、と呟いて青柳は渋々地べたに腰を下ろす。

 ばさ、と何か巨大なものを隣に置く。

 買い物袋だった。

 中は、見なくても分かる。

 きっと食料だ。

 一日かそこらでなくなる、ある意味哀れである意味幸運な食べ物たちだ。

 さっきからその物体に気付いてはいたけれど、彼女の格好にそれはあまりに似合わず、存在すら脳内で消していた。

 

「でもこれ、綺麗だよね、ピックって」

「またそれかい!」

 そろそろ飽きる人達も出てくるって!

 ん、飽きる人達?

 わけの分からんことを口走ってしまった。

 

「色んな色や模様があるじゃん」

 言葉で遊んでないか。

 意識のし過ぎか。

 

「苺みたいだよね」

「さっき粒々といったのはそれゆえか!」

 なるほどね!

 種に見立てたか!

 流石訝藍さん!

 食べ物のことなら負けない。

 

「うーん、苺が食べたくなってきたな」

「ピックを見てそんなことを連想するのはお前だけだな」

「確か、買っておいたんだよね」

 これは買い物の帰りなのか。

 がさごそ袋を漁る青柳。

 その際中身が(あら)わになるのだが、これがまた壮絶な絵だ。

 一番下は、固いもの(主にパック詰めされたもの、卵や豆腐やら)で、苺もそこの層にあった。

 そしてその上が、お菓子類。

 一番上が、例によってパンだった。

 あと、長い物体(葱とか)が突き出していたり、ニンニクや生姜が転がってたり、見ていたいものではなかった。

 全て、ではないだろうが、これらは頂いたものなのだろう。

 痛んだものや。

 賞味期限切れの品。

 それは、青柳の家庭の事情だが。

 そもそも青柳の過食症も、家庭の事情なのだが。

 

「粟国くんも、一緒食べよ」

「……いいのか」

「うん、これは大丈夫なやつだし」

「これはって……じゃあ、お言葉に甘えて」

 俺だけ椅子に座ってるのも悪かったので、二人でジベタリアン。

 気が進まなかっが。

 そして苺を手に取り、頬張る。

 俺は口下手なので、甘酸っぱい、としか言えないが。

 高レベルな感想を期待されては困る。

 

「おいしー。苺って、やっぱり今が旬だからか、美味しいよね」

「はい……?」

「苺。十二月からが、旬だよね」

「おい……」

「うん?」

「お前、とてつもねえ勘違いしてるぞ」

「どゆこと?」

 マジか。

 マジで言ってんのか。

 

「苺の旬は、五月だ」

「あはははは」

 笑われた。

 っておい。

 本当だよ。

 

「クリスマスの時の苺は、じゃあなんなのよ」

「あれはビニールハウスで育ててんだよ……」

 昔習わなかったか。

 そもそも一年中苺は売っているのだから、そこで何らかの疑問を覚えてもいいはずだ。

「そ、そうなんだ」

 しかし傷ついた風の青柳だった。

 別に、食べ物に詳しいわけではないらしい。

 

「気にすんなって。過ちを犯していたことより、今過ちを正せたことを喜ぼうぜ。俺だってあったさ、馬鹿な勘違いが」

「それ、私は馬鹿な勘違いをしたって暗に言ってるよね」

「そうじゃなくて」

 マイナスな青柳だった。

 女座りでなよなよしている……。

 

「中学生の頃知ったんだがな、一期一会を苺一回って思ってたんだぜ。一回、って読み方まで間違えてたんだぜ」

「……。馬鹿?」

「そうだな! 俺は馬鹿だよ!」

 百人一首を百人一首(ひとくび)と読んでいた俺は、馬鹿です。

 正真正銘の、馬鹿です。

 とんだ暴露話だった。

 

「俺が音楽活動してんのも、成績が良くないからだよ」

「ひねくれないでよ、そんなことないってば」

「いや、本当にだから俺はギターやってんだけどな」

 嘘だ。

 そんなわけない。

 音楽が、好きなのだ。

 歌を聴くこと。

 歌うことも、大好きだ。

 だから、自分でそれを創ってみたくなった。

 同じような仲間と、それを弾いてみたかった。

 なんて、言えなかった。

 青柳は、もうそれ以上言っては来なかった。

 俺は正面に座る彼女を見る。

 

「……お前、楽器に弱そうだよなあ」

「何? 急に突然いきなしどうしたの」

「いや、お前何にも知らないだろ?」

「そっ、そんなことないよ。私は楽器大好きだし、楽器も私の事が大好きなんだよ」

「そりゃ重畳だ。だったらギターもお前のことを好きなんじゃないか?」

「も、勿論っ」

 無茶ぶる青柳だった。

 こいつ本当に自滅型だな。

 何にでも首突っ込むなよ。

 

「じゃあ、ほら、持ってみ」

 手渡す。

 とうの昔に苺を平らげていた青柳は、「え、あっ、う」とか言いながらそれを受け取る。

 重そうだった。

 俺は手を差し出す。

 

「はい、返却」

「え、何でっ!?」

「お前には無理だった」

「まだ分からない!」

「ムキになんなよ……俺には分かる。その()はお前をギタリストと認めていない、故にお前に弾かれるつもりはない」

「この娘……って、女の子!?」

 しまった。

 何だか変なことを口走ってしまった。

 ので、開き直る。

 

「長年一緒に居るからな。もう俺はこいつを家族の一員と認めている」

「そこまで……」

 まあ、私全然ギター分からないし、と返してくる青柳。

 無意識に、俺は受け取ったそれの表面を軽く撫でてしまう。

 宝物に等しかった。

 家族がいなくなっても、ずっと側にいてくれた、大事な物だ。

 かけがえのない存在。

 

「あのね、粟国くん」

 ちょっと言いにくそうに、つっかえながら。

 

「私、謝らなくちゃいけないことがあって」

「ん? 謝る? 迷惑なら十分掛けられてるけど、別にどうってことはないぜ――」

「勿論、それについてももう感謝し切れないくらいなんだけど、そうじゃなくて。

 私、粟国くんに話しかけたじゃない、教室で、二人っきりで。あの時ね、本当は、私粟国くんを巻き込む気だった」

「……?」

「牛に、捧げるつもりでいた」

「……」

 優補、マジ凄え。

 当たっていやがる。

 

「本当に、どうしてそんなこと考えたんだろ――今思えば、自分が怖くなる」

「お前も切羽詰ってたんだよ。俺はそれでも気にしない。むしろ、打ち明けてくれて嬉しい」

「……優しすぎ」

「もう終わったことだし」

 終わったことにいちいち突っ込んでいても仕方が無い。

 青柳は、俯いてしまった。

 泣き出すのかと思ったが、彼女は静かに穏やかに笑っていた。

 安心したのかもしれない。

 ありがとう、と青柳は言って。

 

「そういえば、佐弐さんとはどれくらいのお付き合い?」

「いきなり話題を変えたな」

 かけがえのない存在。

 それは。

 優補も。

 

「何年くらい? 百年?」

「あー、来月で一年」

「ほほー、なかなかですなー」

「何キャラだよそれ……。まあ、あいつと知り合ったのはもっと前のことで、小学生の一年だったな」

「そんな前から……道理で、仲がいいわけだよ。――あ」

 そうだそうだ、と何かを思い出したような顔をして。

 近付いてくる青柳。

 近い。

 呼吸の音まで聞こえる。

 一牛鳴地。

 

「えっとさ」

 戸惑いながら、彼女は囁いた。

 

佐弐さんは(、、、、、)何なの(、、、)?」

 初めから、これを聞きたかったのかもしれないな、と俺は思った。

 もちろん、謝るというのも目的ではあっただろうが。

 こないだの出来事で、青柳も何かに気付いたのかもしれなかった。

 何なの、か。

 

「彼女」

「知ってるよ」

 む。

 今のは結構恥ずかしいんだぜ。

 

「誤魔化しても無駄なんだからね。私の霊感がビンビンきてるんだから」

「霊感、ね……」

「佐弐さん、歌が上手いんだね、とは思ったけど……あれは、人間の声じゃないよ」

「面白いことを言うな」

「だって、どれだけ高音域を出してたと思ってるの? あんなのヴィタスも引っくり返るよ」

「ヴィタスは男だ」

「女性でも出せない声といってもいいね。佐弐さん、彼女、何者?」

「恋人って言ったら」

「どんな恋人よ――彼女、実は男なんでしょう?」

「何てこと言いやがるんだ!?」

 優補が殺す前に俺がやっちゃう勢いだったよ!

 とまあこれは言い過ぎにせよ、青柳も女子なんだから、そういうの言われていいとは思わないだろうに。

 

「お湯をかければたちまちに、」

「らんまじゃねえよ!」

 そもそも男じゃない!

 そして女でもない……。

 正確には怪異には性別などないのだ。

 

「そう、お湯――そう、佐弐さんは――水のにおいがする。って変かなあ……」

 あながち霊感というのは嘘ではないらしい。

 ねえ、と青柳はさらに身を乗り出した。

 一ミリでも動いたら耳に唇が触れるのではないかと言うほどの距離。

 全く、隠し事ができちゃったじゃねーか。

 

「彼女、人間じゃない(、、、、、、)んでしょ――ねえ、教えてよ」

 やっぱり気付いてたか。

 本人にも言わなくちゃいけないな。

 人魚の歌を訊いたのだから、仕方ないことか。

 

「あれが、俺の関わった怪異だよ。人魚だ」

「人魚。……ええぇぇぇぇ!?」

 どゆことどゆこと!?

 連呼して座ったまま上下に跳ねる。

 

「でもでもそれはおかしくない? 人魚は足が魚なんだよ!」

「あーまあ、そこら辺はややこしくてさ……何だ、漫画とかでたまにある設定――人間に姿を変えれる人魚っているじゃん。ああいうのだと思ってくれていいよ」

 全然違うが。

 人間になりたくてなったわけではない。

 それに、自由に姿は変えられない。

 人魚の姿に、帰れない。

 

「うーん、そっかあ……そんなこともあるもんだね……吸血鬼さんに会ったり、人魚のクラスメイトがいたり、凄い経験しちゃってるなあ」

「お前も気をつけろよな」

「?」

「いや、一度怪異に関わると、巻き込まれやすくなっちゃうから。意識しなきゃ、大丈夫だと思うが」

「そっか」

 頷く青柳。

 

「私も、関わった人間だもんね」

「ああ」

 続けて、お前の家はどんな感じだ、と訊きたかったが、やめた。

 気にならないわけがないが。

 そうそう変わることもないだろう。

 何もできないうちは、根掘り葉掘り聞くべきではない――悔しい限りだが。

 

「でも、佐弐さんにはお礼言っとかないと。通りすがりの吸血鬼さん達には、あんまり言えなかったし」

「あれくらい何でもないよ。ただ、その吸血鬼コンビには俺からしっかり礼は言っといた」

「そっか……。でも、感謝してるんだよね――」

 何てことはないって、言われても、ね。と彼女は言う。

 そうだ、と青柳は目をギターにやる。

 

「粟国くん、何か弾いてよ」

「は?」

「曲。感謝の気持ちを込めて、私はお礼として、あなたの歌を聴いてあげます」

「逆だろ、普通……」

 感謝を込めて、歌います。

 聴いてください。

 いや、歌わねーし。

 人からせがまれると、一気にやる気が無くなるのだ。

 こまった性質である。

 これじゃあアンコールとかに答えられねえ。

 誰も見ていない所で、ぽつんと一人弾いていたい。

 その癖、聴いてもらいたい。

 たまに、足を止める人が居るだけで嬉しい。

 だが、拍手は欲しくない。

 ひねくれてるのかも……。

 

「さっきまで歌ってたんでしょ?」

「そりゃそーだ」

「じゃあ今から弾いて歌ってよ」

「やだ」

「もー、何でよ」

「頼まれると弾きたくなくなる」

「けち」

「けちだよ」

 優補だったら、喜んで歌うがな。

 それに楽器も完璧に。

 あいつはオールラウンダー。

 ピアノだろうがギターだろうがベースもドラムもどこぞの国の名前も分からない民族楽器も何でもお手の物だ。

 優補は、バンド結成したらボーカルやると張り切っていたが、魅了の歌はやめるように言っておいてある。

 彼女の歌で、全国の皆様が虜になってしまっては大変だ。

 

「どうしても聴きたいっつーんだったら、今度は俺に話しかけずに遠くから見てるんだな」

「すごい上からだ……」

 でもでも、よく分かったよ、と。

 青柳は嫌な笑みを浮かべた。

 

「粟国くん、とってもシャイなんだね」

「く……!」

「だからさっきまで、(かつら)とグラサンをしてたんだよね?」

「それは違う」

 学校の先生に見つかったらヤバいかもだからってことで、明るいうちは……あれ、これなんか恥ずくね?

 あ、なかなかこれは……羞恥を感じるぞ。

 もしかして中年って呼ばれた理由ってコレ?

 

「あれ? どうして頬が染まってるの」

「染まってない」

「もうそれ鬘と同じ色だよ……流石にピンクはないと思うなあ」

「そんな色の被れるか!」

「それは嘘としても、粟国くんの羞恥の念はともかくとしても、粟国くんの醜態は周知で衆知のことなんだよ?」

「……」

 こいつはこいつで上手いのか。

 ていうか醜態って言われた。

 

「醜態を大衆に晒しているというのか」

「それは面白いけど上手くはないね――ああ、そうか。これ、照れ隠しなんだ」

「違え!」

 間違いない、みたいに頷いてんじゃねえ!

 

「分かった、分かったよ。そうやって誤魔化そうとしているんだね、つまんないこと言ってるのも、だからなんだね」

「ストレートにつまんないとか言うな!」

 傷ついていくから!

 なんだか色々と嫌になってくるから!

 

「へえ――面白そうすね(、、、、、、)――」

 これまでの会話とは噛み合わない内容の台詞が聞こえてきた。

 生意気な声。

 それでも、自然に。

 今までその場に居たかのような気軽さで。

 彼は、割り込んできた。

 地面に座る俺達を見下ろして。

 その少年は、子供っぽく笑った。

 (わら)った。

 低めの身長。

 体つきは細いほう。

 くしゃくしゃの黒髪。

 ちょっとつんと尖った鼻。

 見覚えがあった――ということは、思い出すまでに時間を要した、ということなのだが。

 あの、敵意。

 ――俺に関わらない方がいいすよ――

 喜屋武幸音だ。

 何故、思い出すのに時間が必要だった。

 あんな台詞を吐いた奴なのに。

 

「盛り上がってるとこ、お邪魔しちゃっていいすか? オレから関わる(、、、、、、、)って言ってんだから、別に構いませんよね(、、、、、、、、、)――」




ハウンド編は短めのつもりが、まさかのギャグパートでこんなことになるとは……


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其の参

003

 

 そう言うなり、彼は近付いてきた。

 休日だというのに制服姿だった。

 少年らしい笑顔を浮かべて、俺のギターを指差した。

 

「これ、あんたの?」

「ああ、そうだ」

 いい子そうな顔なのに、なんか生意気だなこいつ……。 

 それでも中身が外見を裏切っているわけではないな。

 続いて喜屋武(きゃん)は青柳を指差す。

 

「これ、あんたの?」

「お前ふざけてんのか」

「仲よさそうに話してたじゃないすか」

「それとこれとは違う」

 一方青柳はきょとんとしていた。

 人から指差されても何も言わない。彼女の顔には、ただ、「だれ? この子」という疑問が書いてあるだけである。

 

「人をこれとか言ってんじゃねえよ、そもそもよ……」

「ああ、ノリで言ってしまいましたね。さーせんでした」

 言葉だけだなこいつ……。

 もっと心込めて言えや。

 

「それは置いといて、あんたオレの事知ってるんすか?」

「あ?」

 知ってるかって……知ってるだろ。

 こないだ会ったばかりだろうが。

 まだあの日の方がマシに思えた。

 

「当たり前だろ……喜屋武幸音だろ。おら、フルネームまで把握されてんだから、気をつけろよ。いつ殺されるか分かんないぜ」

「デスノネタすか。でもオレ偽名かもしんないすよ?」

「お前の名前を確認する為にわざわざ死神の目を授けられるまでも無い。すぐに本名割り出してやる」

「うざいっすねー」

「お前がな」

 うーん、話は面白いが生意気な口調の所為で台無しだ。

 むかついてしかこない。

 相手は、そこでふうと溜め息をついた。

 

「……オレをまだ憶えてやがる」

 空耳、ではなさそうだが、確かにそう言っていた。

 戦慄。

 まただ。

 あの時も感じた、敵意。

 この今にも襲われそうな、緊迫感――

 

「あんた、名前は」

 その言葉は、青柳に向けられていた。

 年上に対してあんたはないんじゃないのか。

 今時の子ってこんなもんなのか?

 流石に青柳もむっとしたようで、刺々しい口調で、それでも答えた。

 

「私は青柳訝藍」

「変なの」

「……」

 こいつ……。

 青柳は、もー、粟国くんこいつ何? みたいなキツい目線をこちらに送ってくる。

 俺だって知りたいわ。

 

「青柳……か。でも、あんたはオレに(、、、、、、、)関わる必要はない(、、、、、、、、)

 その時。

 感じた。

 これは本物だ。

 確信した。

 確かに、何かが風の如く通り過ぎてゆくのを。

 ガチリ、と音がする。

 牙を鳴らす音に似ていた。

 すると、青柳は弾けたように立ち上がり、そして、

 

「ごめん、粟国くん。私、帰る」

 そう言ったかと思うと、荷物を持って、走って行ってしまった。

 喜屋武の方を見向きもしなかった。

 わけも分からずにいると、喜屋武が可愛らしい笑い声を上げていた。

 

「あいつには効いたのか。ま、そうだよな――」

「おい、お前――」

「ねえ、粟国先輩(、、)

 勢いよくその場に座って、椅子に腰掛ける俺を見上げるその表情は、無邪気な子供のものだった。

 あれ? 俺の名前知ってるのか。

 今日は俺制服じゃないし……いつからだろう。

 

「それ、エレキじゃないっすか! ちょっと弾いてもいいすか?」

「ああ?」

 口調は変わっていないものの、態度が少し変わった。

 何だ、この無垢な子供……と思わせるような。

 

「いや、いきなり何なんだよ。そもそもお前ギターなんて――」

 ガチリ。

 耳元で音がして、俺は飛び上がりそうになった。

 怖い。

 身が凍るようだった。

 何だ?

 俺はどうしてこいつにエレキを貸してやらないんだ?

 少しくらいいいだろう。

 全く、何を悩む必要があったろう。

 

「あざーす」

 ニコニコと満面の笑みで、そっとエレキを受け取る喜屋武。

 ここだけ見れば、とても愛らしい男の子だ。

 

「ふーん、随分と使い込んでるんすね。でもちゃんと手入れしてる」

「え? 分かるのか?」

「分かりますよ。手垢も目立たないし、しょっちゅうメンテしてるみたいすね」

 ……すげー。

 引っくり返したりしながら、吟味している。

 

「先輩、ピックはあります?」

「あるさ。いやまずその前に先輩って何だ」

「なんすかなんすかー、照れて隠してる? よーするに照れ隠し? 先輩っていうのは、音楽の先輩すよ」 

 何ともなさそうに言う喜屋武。いささかウザい。俺も当時こんなんだったのだろうか……。

 彼はにこにこしながら、少し弾いて音を確認している。

 慣れた手つきだ。

 ギターの方も満足しているみたいで、いや、そうじゃなくて。

 

「弾いていいすか?」

「……慣れてるみたいだからな、駄目じゃないけど、ちょっとだけだぞ」

 鋭い音がして。

 もう既に彼は弾き始めていた。

 いやこれプロじゃねえの!?

 なんだこのイントロからのテクニック!

 小さい指を素早く動かして――ってうるせえ!

 

「駄目だ、ここでそんなでかい音出すな!」

 いつの間に調節しやがったこいつ。

 アンプに飛びついて音を一気に落として叫んだ。

 懲りることなくそのまま弾き続けようとするから、俺はヘッドホンを投げつける。

 それは、勿論故意に当てるつもりで投げたのではなく、注意を引くためだ。

 だが、それが喜屋武の肩に当たりそうになった途端。

 ヘッドホンが、粉砕した。

 ……。

 安物の方を投げてよかった。

 って、粉砕かよ。 

 砕け散ったのかよ。

 当たってもないのに砕けたのかよ。

 これは……間違いないな(、、、、、、)

 流石にヘッドホンがばらばらになったのに気付かないわけがなく、喜屋武は弾くのをやめた。

 この騒ぎで多くの人の目が俺達を――あれ?

 誰も、見ていない?

 

「あれ、ヘッドホンあるんなら言って下さいよ。壊れる前に」

「安心しろ、まだあるよ、高価なのがな」

 弾きたくなるのも経験者なら無理も無いが、時と場所を考えて欲しい。

 それに怒られるのはきっとこいつじゃなくて俺な気がする。

 ……俺は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

 気持ち悪いほど、落ち着きをを保とうとしていた。

 

「じゃあ弾いちゃっていいすか」

「もう存分にぞんざいに弾いちゃってると思うがな」

 ヘッドホンをして、目を輝かせながらギターを構える彼を眺めながら俺は言った。

 そして、彼は再び弾き始めた。

 力強く、激しく、可憐に。

 ぎゃんぎゃんと。

 はっきりとは聞こえないものの、振動で曲を感じた。

 すげえええ……。

 圧倒される。

 意に反して、見蕩れてしまう。

 五分以上は経っただろう、一曲弾き終えた喜屋武はヘッドホンを引っこ抜き、汗を拭った。

 

「あースッキリしたす」

「それはそれはよかったな」

「でもオレは、先輩みたく弾きながら歌うのはムリっすね」

「練習すれば誰でも――って」

 聴いてたのか?

 相手は頷く。

 

「目立ってましたからね。ずっとオレは見てましたけど」

 ブチ、と電源もきらずにコードを引っこ抜く喜屋武。

 うぜー。

 容赦なくうぜー。

 調子が悪くなったらどうしてくれる。

 座られるわ乱暴な扱いされるわ。

 今日はとんだバッドデーだよな、アンプにとって。

 

「今更なんだけど、喜屋武」

「なんすか」

「お前すげー上手いよな」

「は、なんすかなんすかー気持ち悪い。そんなおべっかはやめてくださいよ」

「おべっかって……」

 また古い言葉を使うな……つうか、おべっかって目上の人に対して、へつらうのに使うものであって。

 

「それに、オレとしてはギターよりもベース派なんす」

「はぁ……」

 それは、面白いな。

 何かこだわりがあるのかもしれない。

 興味が沸かないでもない。

 

「サッカーよりも野球が好き、みたいな感じすね」

「ベースとベースボールをかけてるのか知らないが、その喩えは意味不明だぞ」

 ははあ、なんだバレちゃうのかと笑う喜屋武。

 いや、俺を馬鹿にしてんのか。

 してるんだな。

 それでも中学生の語彙というだけあって、無理矢理感や空振り感は否めない。

 喜屋武はそのまま俺と同じように腰を下ろした。まだ話すつもりらしい。

 

「粟国先輩はいつからやってるんすか?」

「ギターはかれこれ六年だな」

「すげ」

 言うまでも無いことだが、お前の方が相当へらへらしてへつらってるみたいだからな。

 誰に対してもこうなのだろうか。

 全く最近の若者は。

 喜屋武はすん、と鼻から息を吐いた。

 

「あれ、先輩なにか食べましたか?」

「は? いや、別に……あ」

 言いかけて、思い出す。さっき青柳と苺を食べた。馬鹿の極みともいえる会話をしながら。

 

「まあ、食べたよ」

「やっぱりね。オレ絶妙に鼻いいんすよ。このスルメは果物すね」

「すげえ言い間違いだな、スルメじゃなくてスメルだろうが。どうして海生軟体動物である烏賊(イカ)が果物に分類されんだよ」

「細かいこと気にしたらバケるっすよ」

 それはハゲるの間違いだと思うが、これこそ照れ隠しだと思うので黙っておいた。

 

「で、何食べたんすか」

「ん、苺だよ苺」

 何だろう、妙に苺というのが恥ずかしいと感じてしまったので、二度繰り返してしまった。

 大事なことでもないのに。

 すると喜屋武は突然得意げな顔をした。当たっていたことが嬉しかったのだろうか。

 

「先輩、面白いこと言いましょうか」

「何だよ、随分と面白いこと言うじゃねーか」

「んまあ、先輩の顔ほどじゃありませんけどねー」

「……」

 軽く返された。

 別にこれといった反応を示して欲しかったというわけではなかったが。

 

「粟国先輩、イングリッシュって何語ですか」

「え? そりゃ英語だろ」

「じゃあジャパニーズは」

「日本語……何が言いたいんだよ、お前」

「それじゃあ」

 間髪入れずに続ける辺り、ほんと強情だ。さっきからずっと思ってたけど。

 

「ストロベリーは」

 したり顔……いや、どや顔でキメたつもりでいる彼を、軽くはたいた。

 知らねえよ。

 苺は苺だよ。お前何よりも上手くねえよ。

 

「て」

 喜屋武は頭をさする。一瞬、俺を睨んだが、すぐにそっぽを向いた。

 その時、背筋がぞくっとしたのだが……気のせいか。

 

「つーか苺って。可愛すぎるだろおい」

 ……素にならないで。

 いままでのノリはなかなかうざかったけど、もうお前のキャラはあれで確定してるんだよ。

 しかし、俺の心の声が聞こえないのか、彼はぶつぶつと呟き続けるのだった。

 

「さっきのも気付いた素振りを見せていたし。道理で、……いや、それでもやっぱり分からねえ」

 ぼそりと吐き捨てるような声がしたかと思うと、相手の顔は怒りで歪んでいた。

 

「どうしてすか」

 それは質問というより、尋問であり、喚問(かんもん)だった。

 俺をぎろりと睨む。

 

「どうして憶えてやがんだよ、え? 粟国頌史さんよ――オレの犬が、いつあんたを殺すか、わかんねえぜ?」

 犬?

 今、犬って言ったか?

 

「脅しなんかじゃねえ、あんた、死ぬぜ」

 ガチリ――今度はもっと近くで聞こえた。

 その上、何かが耳に触れたような気がした。 

 震えずにはいられない。

 喜屋武は俺に対してではなく、誰に対してでもなく、狂ったように、壊れたように、呟く。

 呪いの呪文のようであった。

 

「みんな、オレのことなんて忘れてくりゃいいのに。忘れ続けてくれよ。関わってくんな。偽りを信じ続けていりゃ、それでいいんだ、オレのことなんて」

 そして、ここで俺の意識は途絶える。



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其の肆

時系列は、阿良々木くんが大学一年生ということで忠実に2008年です。あんまり最近の話題とか取り入れないように心がけます……。


004

 

 誰かに揺さぶられているのに気付いて、俺は目を開けた。

 俺は、閉まった店のシャッターに寄りかかるようにして、眠っていたようだった。

 顔を上げて相手を見る。

 

「大丈夫ですか? 粟国くん」

 その声の主は、皆紅(みなぐれない)瞳だった。

 温和丁寧。

 紅顔可憐。

 同じ高校で、一組。

 そして俺の友人の一人。

 

「ああ、平気平気。ちょっと疲れてたのかな、何で俺――」

 皆紅は、ほっとした顔になって、言う。

 

「それでも粟国くん、熟睡でしたよ。それに、それは(、、、)、どうかと思いますね」

「……?」

 言っている意味が分からず、きょとんとしてしまったが、ふと右肩が重いことに今更ながら気付いて、横を見ると青柳の小さな頭があった。

 え――!?

 驚きたじろぐ、しかし起こさないように無言で騒ぐ俺を見て、皆紅はふふ、と笑う。

 

「ふふ、佐弐さんには秘密にしといてあげますよ」

「いや、ちが――」

 混乱している。いつの間に俺は寝てしまっていて、そしてどうして隣に青柳がいる? 青柳とは、さっき別れたはずで――あれ? そもそもどういったやりとりをしたんだっけ。 

 何だか……頭が痛い。

 皆紅は人差し指をぴんと立てて口にあて、「しー」と俺に微笑んだ。

 

「寝ている子を起こしちゃ駄目です」

「いや、そんなつもりはないけど……って、お前は俺を起こしたじゃん」

「それは、粟国くんは男の子ですから」

 男女肩を並べて寝ているのは、見るに耐えられませんでしたし――と彼女は言う。

 この歳で男の子と呼ばれるのはくすぐったいというか何というか、まあ恥ずかしかったが。

 うー、ん?

 全く身に覚えは無いんだよなあ……いくら潔白を主張しても、優補には無駄だろうな。

 バレたら……ヤバい。

 

「ていうか、お前、今日祝日なのに何で制服なんだよ」

 ――と、癖で思わず聞いてしまった。

 またこいつも制服か。

 

「学校で勉強してましたよ。休みとはいえ、部活等で学校自体は開いてますし、それに祝日だろうと制服で過ごすのがふさわしいと校則にありましたよ、確か学生手帳の――」

「ああ、そうだったな、わり」

 これほどまでに真面目で立派な人間を、俺は同じ年齢ではお前しか知らねえよ。

 ん?

 またこいつ「も」制服?

 助詞がおかしくないか?

 ああ、またこういつも、の間違いか……な?

 俺は相変わらず国語が苦手だ。文型なのに。

 

「それで、粟国くんは今日も一人ライブですか」

「ライブって言えんのかな、これ」

「ライブっていうのは、生演奏のことですから、間違いではないかと」

「そうか……」

 そういやそうだっけ。分からん。

 

「誰にでも分からないことはありますからね」

「ああ、当たり前だな」

「粟国くんは英語で面白い間違いをしてましたよね。確かあれは、ジーニアスをイージアスと勘違いした上に、」

「それは言わなくていい」

 俺は英語が好きなのだが、勿論、というか、皆紅には敵わねえな。

 イージアスがイージーの最上級だと思うような奴だ、英文法が全く分かってない上に単語もうろ覚えだ。

 

「もうすぐ試験だし、弾き過ぎは駄目ですよ」

「ああ、分かってる」

 そういやテストか。

 二週間後だっけ? ……正直やばい。

 もしかしたら、休みだから弾いているというより休みだから弾かざるをえないというか、無理に弾いているというか……現実逃避なのかもしれなかった。

 

「そういうお前は? 勉強終わって、帰るとこ?」

「いえいえ、今日はバイトの日」

「ふうん、頑張ってんな」

「大変ですけど、やり甲斐は十二分にありますよ。それに、明日は私も息抜きをしますし。苦ではないのです」

「息抜き?」

 はい、と頷く。

 長い、一つ結びの髪が揺れる。

 丁寧過ぎるその口調は、最初は慣れなかったけど、今では違和感無く、むしろこの口調でないと不自然に思うほどだ。

 

「ちょっと遠いですが、がじゅまるの木があって。それを見にいくんです」

「見に、」

「見ているだけでとても癒されますよ。時が経つのも忘れます。私は月に一回は行くようにしてますね」

「木、か……」

 俺としては木のある森よりは水のある海派なんだよな。これは人によるんだろうが。

 

「それでは、そろそろバイトの時間なので」

「うん、じゃあな」

 皆紅が人込みに紛れて見えなくなったのとほぼ同時、青柳が目を擦りながら、お目覚めのようだった。

 

「あ、あれ? 私……?」

「いーかげん頭をどけてもらいてえな」

「ええっ!? あ、粟国くん!?」

 さっきも似たような台詞、聞いたぞ。

 あたふたして立ち上がる。おもしれーな、こいつの反応見てると。

 って、きっと皆紅も俺をそんな目で見てたんだろうな……。

 

「な、どうして私粟国くんの肩に頭乗っけて寝てたんだろ……私、忘れ物をとりにきたはずなのに」

「忘れ物?」

「うん、その鞄」

 見ると、ああ、俺の足元に彼女のバッグらしきものがあった。買い物袋だけ持って行きやがったな、こいつ。

 

「寝てたのは粟国くんのはずなのに」

「……ああ、俺そんなに前から寝てたの?」

 うん、と相手は頷く。

 記憶にはないのだが、青柳の言うことには俺は熟睡だったらしい。

 いつからだろう。

 

「うーん、何か思い出しそうなんだけど、えーと……」

 ここは黙っていた方がよさそうだと分かっていたので、何も言わずにいた。

 

「ダメ。何を思い出したいのか思い出せないよ……(><)」

「……」

 今、会話表現の際に絶対に、ぜっったいに使用してはならない物質が見えたような、いや聞こえたような、感じたような気がしなくもなかったのだが、普通のおしゃべり中にそんな思い違いもないだろうと、とりあえず無視することにした。

 縦書きだと最早何だか分からない。

 しかしまあ、彼女の言うとおり、何かを忘れているという自覚は俺にもあるのだ。だがそれが何かすら忘れていて、非常に気持ちが悪い。

 

「青柳、俺も寝た覚えはまったくないんだけど、というかそもそも、お前といつどうやって別れたっけ?」

「うん? ああ、そうか、忘れ物を取りに来たってことは、私達一度別れたって、ことだよね……」

 今更、気付いたように言う青柳。

 眉根に少し皺《しわ》を寄せて――

 

「あ痛ッ」

 ふいに青柳は自分の頭を押さえた。よろける青柳を俺は急いで立ち上がって受け止めた。

 弱々しい細い身体だった。

 どうしてこんな体つきで今まで立っていられたのだろうか……と真面目に考えてしまうくらい。

 

「うぅ……ごめん、粟国く――」

「りゅ」

 突然。

 不思議な単語が聞こえた気がして、気が付けば。

 目を見開いた彼女の姿があった。

 彼女と言うのは、三人称の彼女ではなく、恋人のことだ。

 佐弐優補。

 才色兼備だが、人格破綻者。

 ピック病の話を出すまでもない。

 彼女の個性は、個性が無いことだ。

 一人称がころころ変わる。

 私、あたし、僕、オレ、うち、わっち……目まぐるしいどころか聞き苦しい。それには何か基準があるのか、気分で変えているのか、全く分からない。

 まあ、怪異ゆえなのだが。

 怪異は周りの影響を受けやすい、その特性、性質、性格は周りの人間によって形成される。

 というわけで、今回の彼女は。

 

「儂のしょーじに何すんじゃあ!」

 忍の影響に決まっているが、そんな感じで、俺達に、いや詰まるところ青柳に突進していった。

 元気だなあ、こいつ。

 髪を乱して猛烈に突き進んでいくさまは、あたかも牛のようだった。

 りゅー! と一風変わった叫び声を上げながらというのは、どの生物にもないものだと思うが。

 まあでも、普通彼女でもないのに肩に手を置いてたら、誰でも疑っちゃうよな。

 

「降臨きゅぴ~ん!」

 手をグーの形にして青柳を狙うが、何とか俺がその手首を掴んだ。

 だが反対の手が伸びる。

 

「大陸カチ割るドリーム彗星! クレイジーコメット! さらにぃ~! トゥインクルスター! まだまだぁ~! ミックスマスター! もいっちょぉ~! ぷりんせす・おぶ・まーめいど!」

 いや、言っても分かるのかこれ!?

 しかも振りが長い!

 テイルズに毒された人魚がここにいた。

 まあ、そんな長々と呪文詠唱をしている間に、俺は優補の両手をがっちり捕らえて、動きを封じてしまったのだが。

 一方で開いた口が塞がらない様子の青柳は、俺が弾いている時に座っていた椅子に避難していた。

 

「何で攻撃が効かないかな――!」

「利いてないんだよそもそも……」

「うるさい!」

 暴れるのをやっとやめて(実に大人気ない姿だったが)、手を掴まれたまま青柳を見る優補。

 

「くうう、生意気な……儂の恋路の邪魔をするは、そこの泥棒猫!」

「落ち着け、優補」

「これが落ち着いていられるか! 何やってんのしょーじ、意味分かんない――」

「意味分かんないのはお前だよ――あのな、青柳が頭痛で……痛っ!」

 蹴られた。

 優補の膝が、俺の(へそ)にピンポイントで命中する。

 ……なんか今日、色んな人に暴力振るわれてません? 言葉の暴力とか。

 

「離して放してよー! レラシオ!」

 今度は魔法魔術学校で習うであろう呪文を詠唱しつつ彼女は暴れる。

 

「ちょっと待て! 何で俺が悪者みたいになってんだ!?」

 人目が! みんなの視線が!

 

「俺は別に何も――青柳が倒れかけたのを支えただけだって、な? 青柳」

「え? うんまあ」

「何で曖昧に返事するんだ!? って痛ェっ」

 優補に蹴られたわけではない、頭痛だ。

 頭がカチ割れるような痛み。

 途端に優補は俺の両手を振り切って(つまりはちょっと力を入れれば逃げられたわけで)、今度は俺の肩に手を置いた。

 青柳の顔を見ないように必死だった。

 

「しょーじ、しょーじ?」

「だ、大丈夫だから――」

「待って」

 ぱっ、と俺の額に片手を当てる。

 これは怪異なりの、人魚なりの意思疎通だ。

 意思疎通というよりも、記憶共有。

 優補は俺から、青柳から、周りの人から、空気から、過去を知ることが可能だ。

 彼女の持つ歌の力の応用だが。 

 

「穴がある」

「あ、穴?」

 うん、と頷いて優補は手を離した。

 

「しょーじと訝藍ちゃんの記憶に、穴があったよ。でも、この周囲の空気からね……その埋め合わせをしてみたら、二人とも記憶が飛ばされてる事が分かった」

 あーあ、と彼女は俺を見た。呆れ顔だ。

 

「関わっちゃったみたい、それも性質(タチ)の悪い忠犬にさ」

「……?」

「怪異だよ」

 きっぱり言って、再び溜め息。

 ……。

 …………思い出した。

 思い出させられた、と言った方が正しいか。

 そうか、あいつだ。喜屋武幸音だ。

 あいつに、俺は会ったんだった。そして、確か、青柳の様子が変になって――彼にギターを弾かして――気を失ってしまったんだっけ。

 そして同時に恐怖も蘇る。

 あの、ガチリというリズミカルともいえる音。

 全てが吹っ飛んでしまいそうな、そんな音だ。思い出してしまっただけで身震いする。

 それじゃあ、彼は。

 

「じゃあ、喜屋武はその狗の怪異に憑かれているのか」

「さあ、それはまだ儂にはわからんねー」

 その一人称やめてくれ。

 いくら忍が好きでもお前には似合わない。まだオレとかのがマシだ。

 

「だって儂に分かるのは、その怪異の表面だけで、中身は分かんないんだもん」

 怪異とはいえ、それ自体を詳しく知っているわけではない、か。

 俺だって全ての人間を把握しているわけじゃないし。

 当たり前だろう。

 

「……」

「それで、しょーじはどうしたいわけ?」

 優補と、青柳の目がこちらを向く。俺は、口を開いた。

 

「関わるよ。もしも彼が危ないようだったら、助けたい」

「ふーん」

 相変わらず突き放すような物言いで、優補はそこで俯いた。

 

「――でも、記憶に穴を空けるその子の居場所、知っている人がいるか、って話なんだけどね……」



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其の伍

005

 

 俺は優補にできるだけ詳しく話して聞かせた。途中、青柳も話に参加して、無事に記憶は繋がった。

 俺が気を失っていた間は、こんな感じだ。

 

 青柳は自分が買い物袋を持って商店街を出ているのに気付いた。気付いた、ということはそれまでどこを歩いているのか自分でもちゃんと分かっていなかった、ということだが。そして、自分のお気に入りの鞄をどこかに置き忘れてきてしまったことも。

 そこで彼女は振り返る――俺と会ったことを思い出し、引き返した。その時俺は気を失っていたそうで、起こさない方が無難だろうと、彼女はそのまま立ち去ろうとした。だがその時背後から何かの気配を感じたそうだ。

 殺気に等しい。

 

「まだいたんすか」

「……!」

 振り返り、その顔を確認する――前に既に、彼女もまた気を失ったのだ。そして俺は皆紅に起こされたというわけなのだが。

 俺たちがこうも早く記憶を取り戻せたのは、優補のおかげもあるが、怪異に関わったことがあるからだ。

 しかし、分からない。

 喜屋武は何故、俺達にそんなことをするのだろう、恐怖を植え付け、はたまた殺気まで発しているのだろう。

 まるで狂犬のように。

 

 

 優補は、一年前の情報ではあるが、皆栗の性別学年問わず生徒を全て把握している。理由は簡単に言うと、浮気性の確認。俺はしないって言っているのに、警戒心バリバリで、俺がいつどこの誰と地球が何周回ったときに接しているのかを知りたがった。それゆえの行動だ。

 ……人間だったら恐ろしすぎるが。

 そんな彼女には勿論知り合いが大勢いて、中高一貫性にも同じように顔見知りがいるのだが、そのネットワークをフル活用しても喜屋武の家は全く把握できなかった。それどころか、一人一人にメールや電話をしてみても、彼のことを詳しく知っているものすら、誰もいなかったのである。

 情報が掴めないまま、というのは気持ちのよいものではないだろうが、それでも青柳には帰ってもらった。

 口論はしたが。

 

「なんで? 私だって協力するよ、粟国くん」

「やめろ。自分から突っ込んでんじゃねえよ。さっき俺が言ったばっかだろうが――」

「その『俺』も、自ら突っ込もうとしてるじゃない。どうして私は駄目なの? 粟国くんに助けてもらったんだもん、できることならなんだってしたいんだよ」

 音楽を聴くとか、そんなんじゃなくてさ。と青柳は言う。

 嬉しい言葉だったが。

 それと気持ちだけ、頂いておくよ。

 だから、俺は冷たく突き放す。

 先程の優補のように。

 

「俺は好きで首を突っ込むけど、お前はそうしていい人じゃない。お前は人間なんだし、怪異に関わって無事だとは限らない」

「……何言ってるの? 人間って……粟国くんだって無事とは限らないじゃない」

「いや……人間とは違うよ」

「……? ……?」

 困った風な顔をする彼女に、そこで優補が口を開いた。

 

「しょーじには儂がいるからさ。儂と彼で一心同体みたいなもん、だから半分怪異みたいなもんなのさー。もう夜になっちゃうし、よい子はおうちに帰らないと、お化けが出ちゃうよ。可愛い子は狙われやすいしね」

 青柳は納得いかないようだった。それでも、口下手な俺とは対照的に、口上手な優補が説得した。こいつは、気が抜けるような物言いではあるが人を丸め込むのが得意だ。

 色んな意味で。

 

 

「私だってさー、しょーじの悪趣味には途方に暮れてるんだけどね」

 青柳が渋々帰ってしまった後に、彼女は言ってきた。

 一人称が正常になった。

 

「悪趣味か……悪かったな、途方に暮れさせて」

「うん、もうとほほんって感じ」

「どんな感じだよ」

 のほほんとしてそうだな、それ。

 

「でもしょーじ、怪異に関わらせたくない人に自分が人外みたいなこと言わない」

 ぽか、と軽く叩かれる。

 

「あー、そうか……」

 話せる人もいないからさ。

 俺は自分の首飾りを、見つめながら呟いた。

 眩しいほど白い、ピックほどの大きさの欠片に紐が通してある、一見すればただの安っぽいアクセサリーだが。

 これが、今の俺の象徴と言えば、そうだった。

 そうか、優補は俺がこれ以上言わないように……ああ言ってくれたのか。

 ロクに活動もできなくて名残惜しさもあり、最後に一曲、弾いて今日はひとまず帰ることにした。

 優補がそれを勧めたこともあって。

 ただ、歌は歌わない。考えることで頭が一杯だ。

 落ち着く為に、曲を奏でる。

 だが思考は止まらない。

 その狗というのは、記憶喪失にさせる怪異か何かなのだろうか。

 喜屋武は、何がしたくて――

 

「……しょーじ」

 そっと、隣で座っていた優補が囁いた。

 弾きながら俺は顔を上げる。

 人ごみの中に、まるで逆らうかのように、いやそこに元からいて当たり前のように、喜屋武が立っていたのだ。

 じっと、動かず、俺を見つめている。

 睨んでいる。

 俺の目線に気付いて彼は歩を進めた。一歩、また一歩、じりじりと近付いて、再び、いや三たび、俺の前に現れた。

 やはり。

 手を止めて顔を上げる。

 

「よう、……喜屋武」

 今の彼に、一番言うべきではないであろう台詞をチョイスして言ってやった。

 案の定相手はお怒りだった。

 オレのことを、まだ憶えてやがる――そんな声が、聞こえてきそうだった。

 そう、彼は確認しに来たに違いないのだから。

 

「何で憶えてんだよ」

「俺もお前に聞きたいね。何で忘れさせたんだよ」

「……うぜぇ」

 その声と同時に、いやそれよりも早く、俺の耳元を何かが(かす)めた――ギリギリ、かわせた。ただ、軽く皮膚が破け、血が飛んだ。

 だが誰も、俺と喜屋武と優補以外の誰も、それを見ていない。

 

「なんで――」

 喜屋武の鋭い目を、俺は平然と見つめ返した。

 椅子に座り、見上げたまま。

 

「その前に、その犬を黙らせろ。いくら俺でも、不死身じゃないし敵わない」

「何なんだよ、お前――今までオレを忘れなかった奴はいないのに」

「俺は、人間だけど、半分違うから」

「ああ?」

 意味分かんねえよ、と相手は言う。それと共に感じる、殺気。

 狗の、殺気。

 

「ん」

 と俺は、ズボンを膝上まで引き上げた――優補の舌打ちと共に、脚が(あら)わになる。

 

「……マジかよ」

「それで、お前のは何なんだ? そのハチ公、どうしてお前の側にいる?」

こいつ(、、、)はオレの親友だよ」

 ズボンの裾を下ろした後も、喜屋武は俺の脚を見ていた。

 人間離れした、その脚を。

 俺が取り込んでしまった、怪異の一部。

 優補から奪った人魚の一部だ。

 

「親友」

「俺の側にいてくれる、俺の望みどおりのことをしてくれる、大切な」

 喜屋武はそう言って。

 唇を、強く噛んだ。

 

 

 

 優補が大勢の知り合いにメールを送信している間、俺は何もしていなかったわけではない。

 正直気が進まなかったが、何も分からないまま彼に会うというのも愚かしいことなので、とりあえずあいつに電話だ。

 阿良々木暦。

 青柳は俺が助けてくれた、とは言っているが、実際ことを解決したのは、彼らに等しい。

 アドレス帳から選び、掛ける。

 すぐに、声がした。

 

「もしもし」

「あ、もしもし、あらら――」

「私と暦くんの邪魔をするなんて、何様なわけ? 万死に値するわ」

 切られた。

 ……。

 切られた……。

 

「どしたの?」

 隣で優補が携帯画面を見つめながら問う。

 いや、なかなかショックだった……。

 

「戦場ヶ原さんが出て……用件も言ってないのに切られた……」

「あー、せん嬢がねえ」

 せん嬢。

 優補が勝手につけたあだ名で、既に定着してしまっている。

 本人の承諾も得ている(メル友だ)。

 何だか物騒な感じが消えて、イントネーション的にも可愛くない? とのこと。

 優補がひとを下の名前で呼ばないのも珍しい。

 いや、でも俺も彼女をさん付けでないと未だに呼べないのと、何か通ずるものがあるのだろう。

 よく分からないが。

 

「もっかい掛けてみれば? 今のはギャグだったかもだし」

「万死って発言はギャグでは出ねーだろ……」

「万死一生を出づって言うじゃん」

「命を投げ出して電話しろってか」

 でも今のじゃ歯切れが悪すぎる。

 勇気を振り絞ってもう一回!

 

「何。殺すわよ」

 いきなり殺すって言われた。 

 もうこれは本気だろ!

 というか何で毎回戦場ヶ原さんが出るんだよ!

 でもヘコんでいる暇はない。俺は切られる前にと早口で言った。

 

「粟国ですっ、戦場ヶ原さん! お久しぶりです!」

「……え? ああ、粟国くん。なあんだ。あら、御免なさい。わざとじゃないの、本当よ」

「…………」

 嘘だー。

 

「いえ、先程立て続けにセールスマンから何故か電話が掛かってね」

「携帯に……」

「笑うセールスマンよ」

喪黒福造(もぐろふくぞう)!?」

 彼に万死とか死んでも言えねえよ!

 

「ホーッホッホッホ」

「怖すぎる!」

 アニメ版とかもう半端なかったんだけど。

 語りとかね!

 

「……そもそも、どうして戦場ヶ原さんが出るんですか」

「ああ、今暦くんはおトイレなのよ。ああちなみに、私と彼は同棲中」

 何の恥ずかしげもなくさらりと言った。

 

「そんなことはないわ。邪魔をするなと言ったのも本当のこと言うのが恥ずかしかっただけだからなの」

「そうなんですか……」

「恥も恥らう十九歳の私が言うことではないと思ってね」

「花も恥らうだ!」

 恥ずかしい間違いを……思わず突っ込んじゃったよ。

 タメになっちゃうのも仕方ない。

 

「で。粟国くんは何の用?」

「あー、実は、相談があって……」

「ああ、」

 それだけで、戦場ヶ原さんは察したようだった。

 うんうんと頷いているのが、目に見えるようだ。

 

「ちょっと待っていて頂戴。お取り込み中だろうと関係ないわ、すぐに暦くんを連れて来るから」

「やめてやめてやめて下さい!」

「冗談よ」

 冗談にならない……。

 と、何やら電話の向こうで騒々しい音がして、気が付けば阿良々木に代わっていた。

 

「もしもし? ひたぎが迷惑かけた」

「いえ……」

 ちょっとぐったりしただけです。

 というか初めて会ったときもそう言ってたな……口癖になっているのだろうか。

 

「お前とはあの沖縄五日間旅行以来だな、元気してたか?」

「俺も優補も相変わらずで」

「で、もう大体分かるけど……どうした?」

「それが、なんと言うか」

 非常に言いにくい。特徴もまだよくつかめていないものなのに、阿良々木はその僅かな資料から、それを言伝で戦場ヶ原さんと忍に伝えた。しばらくして、怪異の名前が出た。

 

巴狗(ともえいぬ)だな、多分」

「ともえいぬ」

 俺はそれを復唱し、優補はそれにぴくりと反応した。

 

「犬の怪異ってのは結構少ないんだ。猫が多いのと対照的にな。だって犬は、人間に忠実で、仲がよくて、裏切ることがないイメージだろ。人間を騙すとか、自分勝手で、裏切ることもある猫とは違ってな」

「まあ……」

「それでも、忍が言うには、犬の怪異はその忠実、誠実を権化にしたようなものが多いんだそうだ」

 犬ね……狛犬とか、かな?

 でもこっちではシーサーだよな。

 

「そう、それ。狛犬」

「え?」

「巴犬は、狛犬の一種だ――対象にどこまでも忠実で、守護し、敵には牙を剥く。粟国が言っていた、牙の音――それから判断した。記憶を消す、というのはたくさんいるんだが、本人が犬と言ってたなら、当てはまるのはそれくらいだ……まあ、中には犬神なんて凶暴で狂暴なのもいるみたいだけれど、それは置いておいて。忠犬、何でも望みどおりにしてくれるのは、巴狗しか当てはまらない」

「でも……俺には、効かなかった」

「それは、お前が人間でない部分も持ち合わせているからだよ。巴狗は、人間に憑き、人間にしか危害を及ぼさない。いや、違うな……怪異を知らないものにしか、危害を及ぼさない、かな。だから、怪異には限りなく無力だ。普通、一人の人間がたくさんの怪異と相対することはない。巴狗は戦闘する犬じゃない」

 いいか、とそこで阿良々木は声を潜めた。

 

「大事なのは、この犬が憑く人間は、決まっていることだ」

「……それは?」

「家がない人間だよ」

 

 

 

 喜屋武は、巴狗という怪異が、いつの間にか当たり前のように自分に憑いていることに気付いたと言う。

 いつだったかは憶えていない。中学生になる前には、もう犬と共にいたらしい。

 これまでにその存在が他人にばれたことはなかった。

 ということはつまり、大して周りには影響が及ばないと言うことである。

 その気にならなければ、だが。

 

「喜屋武。お前どうしてあんなことしたんだよ」

「ああせざるを得なかったんすよ」

 俺は地面に腰掛け、喜屋武は椅子に座っていた。

 ってあれ?

 何でこいつが御偉いさんみたいになってんだ。

 ちなみに優補は壁に寄りかかるようにして立っている。

  

「オレのことは、記憶から消されるべきなんす」

「……」

 俺が言葉に詰まっていると、相手は溜め息交じりに立ち上がった。

 

「で、先輩は何がしたいんすか。わざわざ足見せつけて、『あなたには何か憑いてるんですか? 僕もだよ』って、オトモダチの輪を作ろうとでもしてんすか?」

「お前言うことのひとつひとつがうざいな……」

「癖なんす」

「どんな癖だ」

「知ってますか? うざいっていうのは、有才って書くんすよ。才が有る、つまり物知りってことなんすよ」

「うぜえー!」

 言ってみただけだ。

 ていうかそれ、お前だって、俺のことうざいって連呼してたじゃん。

 やったぜ、俺も才が有るうざい奴だ。

 

「で、どうなんすか」

「ああ? いや、お前が怪異について知ってはいるようだったけど、害をなす怪異だったらいけないなと思って――」

「優しくも救いの手を差し伸べた人ってわけっすね。かっくいー」

「……その様子だと、全く持って必要なさそうだな」

「当たり前すよ。大体あんたは何様なんすか。なんかできるとでも思ってるんすか」

 たかが、魚に。

 嫌味たっぷりにそう言ったのが勿論優補に聞こえたようで、彼女は眉を少し上げた。魚と言う言葉に傷ついたのかもしれない。

 喜屋武はそのまま歩き出した。

 

「おい、どこ行くんだよ」

「どこも」

 そっけなく答える。

 答えるだけよかった。

 

「オレには居場所がない。先輩達とは違って」

「……」

「あ、勘違いしないで下さいよ。別にオレ、野良みてーに路地裏ゴミ漁って生活してるわけでは、ないんすから」

 振り返りもせず、彼は言う。

 それは……本当のことだろうな。でも、阿良々木は家がない人間って……。

 

「もうオレは諦めたす。先輩はオレのことを忘れない上に犬も効かないみてーだし。本当のことも言ったし」

「……お前、どこに住んでんだ」

 だが彼はそれには答えず、ゆっくり歩を進めるだけだった。

 敵意は失っているものの、これ以上関わるなとでも言いたげだった。

 

「―――」

 その時、突然、優補が歌いだした。ゆっくりとした曲を、俺と彼女で創った歌を、アカペラで。

 喜屋武は足を止めたが、まだ背を向けたままだった。

 

 優補が歌うと、老若男女問わず多くの人が惹かれて集まってくるのだが、今日は誰一人寄っては来なかった。

 喜屋武を除いて。

 彼は振り返り、首を傾げて優補を見ていた。

 

「姉ちゃん……あんた、何なんすか」

「んー、ただのうたのおねえさんだよ」

 ……。

 子供達が歌に聴き入って一緒に歌うどころじゃなくなりそうだな。

 この歌は、彼に何を思わせたのだろう。

 何を思い起こさせたのだろう。

 今までとは酷く対照的に、気が抜けてしまっている風の喜屋武だった。

 

「幸音くん、今から、どっか行くとこでもあるの?」

「……ない」

 先程と同じ質問に、先程とは違う答えを、喜屋武は返した。

 ない、と。

 行くところは、行く場所はない、と。

 

「じゃ、私がつくったげりゅ」

 りゅってさ……わざと噛んだよなー。

 まあ、こいつの口癖がこれなのにはちゃんとした理由があるにはあるのだが。

 

「うちにおいで」

 優補は微笑んだ。



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其の陸

006

 

 人に恐怖を植え付ける、はたまた記憶まで消してしまう、モノは粉砕させるわ、魅惑の歌すら周囲に浸透しないようにするわ、主人に仕えるという点に置いて巴狗に勝るものはなし、と言った感じだった。

 そう、ヘッドホンが噛み砕かれたとき、優補が歌ったとき、気持ちの悪いくらい周りが反応を示さなかったのは、犬の力に他ならない。

 

「で、その俺の犬の名前ってなんでしたっけ」

「巴狗だ」

「そうそう、そんなんだ――なんだか、いかにも凶暴な犬って感じすね――先輩、MWとか読んでます?」

「ムウ? 手塚治虫の? 聞いたことはあるけど」

「あれに出てくる雌犬は(ともえ)って名前だったんすよね」

「ふぅん……」

 またニッチな漫画を持ち出すな。

 俺は武将の妻の方しか出てこなかったっての。

 俺達三人は、あの二階建てアパートに向かっていた。

 ちゃんと楽器も道具も片付けて、粉々のヘッドホンも拾ってだ。

 積もる話は、盗み聞きされたいものではない。たとえ、忠犬がついているとはいえ、聞かれてよいものではない。

 

「手塚先生が、『鉄腕アトム』だとか『ジャングル大帝レオ』だとか、そんな可愛らしいヒーローモノしか描いてないと思ったら大間違いなんすからね」

「まあ……そりゃ青年誌向けとかも描くだろうよ……」

「個人的には未完に終わった『火の鳥―大地編―』とか『ネオ・ファウスト』とか気になって仕方がないんすよ」

「随分古い上に大人な漫画を好むんだな、お前……」

 デスノだって少年漫画とはいえ、結構濃ゆいし。優補とかゲラゲラ笑いながら読んでたな。

 ちなみに今彼女がハマっているのは『バカボンド』。

 

「MWってあれっしょ? ちょっとボーイズラブ的な要素も入っちゃってる」

 と、優補が言う。

 ていうか読んだの!?

 

「あー、姉ちゃんそこだけ取り上げたら折角の話が台無しすよ……というか、BL好きの人が読んでも面白くはないと思います」

 こいつら何話してんだ。

 

「あんなドロドロした漫画は素晴らしいと思うよー、でも絵も凄いの。写真かと思ったし」

「大人にはなりたくないっすね」

「あと核廃絶はホントに思った」

「ですね」

 薄く盛り上がるな。

 俺にも分かる話をしてくれ。

 

「で、巴狗は、凶暴にもなれば大人しくもなる、そうなんすね?」

「ああ」

 あくまで主人に従う。

 絶対服従だ。

 こうして帰ってるときも、何だか周りの人が()けて通ってくれているような気がする。巨大なシェパードのような犬が、唸りながら俺達の周りをぐるぐる走っているのが頭に浮かんだ。

 って。

 犬は狛犬なんだって。

 

「狛犬って、神社に対になってるとかいうアレすね。守り神みたいな。シーサーとは違うんすか」

 それは俺もさっき阿良々木に訊いたよ。

「仲間でも、別モンだ。シーサーはな、攻撃する生き物じゃない。敵にだって噛み付かずに取り込んで調和させる。平和を好む奴なんだ。一方狛犬は、敵には牙を剥く。容赦なく襲い掛かる、だそうだ。これが主な違いだな」

「ふうん……まあオレにはそっちの方がいいすね。攻撃型の方が」

「怪異をゲームのモンスターみたいに分類してんじゃねえ――と。おら、あれが俺達の(うち)だ」

 彼は敏感に反応した。

「『俺達(、、)』? 今、俺達の家って言いました?」

 とりあえず無視して鍵を取り出す。優補も空気を読んで黙っていた。

 

「なんすかなんすかー、どう見ても兄弟とかじゃなさげだし、まさか同棲っすか」

 俺達がいつまで経っても喋らないので(いや、優補は別に話すことには躊躇いがないのだが)、喜屋武はますます確信を深めたようだった。

 いいさ。

 別にバレること承知の上でのご招待なんだから。

 喜屋武は子供っぽい笑みを浮かべたまま、リビングに腰を下ろした。俺も重い荷物を下ろして、優補は飲み物の準備に取り掛かる。喜屋武はもとから手ぶらだった。荷物持ってやろうとか思わないんだろうか。全部俺一人で運んだし……いやまあ、行きも一人で全部運んだけどさ。

 

「てゆうか先輩、二人だけでこんな豪華なとこに住んでんすか。有り得ないすよ」

「今ここが存在しているなら有り得てるよ」

「おならの理屈、よーするに屁理屈すね」

「うるせえ」

 そういうことを口にすんな。おっさんかてめえ。

 羨まし。

 ぼそりと相手は呟いてから。 

 再びにやにやしだすのだった。

 

「いやあ、先輩ってなかなかなんすねえ」

「何がだ、同棲のことかよ」

 シツっこいな。

 

「いえ……まあそれもなんすけど」

 喜屋武は急に声を潜め、囁いてきた。優補に聞こえるとまずいのだろうか、ちらりと彼女が忙しいのを確認して、言う。

 

「だって彼女超ベッピンさんじゃないすか。声だってきれーだし」

「ああ……?」

 暗に人魚ってことを言いたいのか。

 

「きっと足とかだって透き通るように綺麗なんしょうね」

「……」

「何回二人で夜を明かしたんすか?」

「黙りやがれ!」

 何を知ってる中学三年さんよ!

 とまあ、年頃の男子はそれくらい知ってるのか。

 全く思春期真っ盛りじゃねえか。

 

「いや、でも先輩二人きりならあんなことこんなことなんでもできますよ?」

「それはそうだがしていいことと悪いことがあんだよ!」

「あんな美声のねーちゃんが叫んだり髪を乱したりすんのとか興味紳士っしょ?」

「そいつは紳士じゃない。変態と言うんだ」

 興味津々なのはお前くらいだ。

 いや、まあ、……多分。

 はー、とつまらなそうに溜め息をつき、喜屋武は伸びをする。

 わざとらしい奴だ。

 

「なーんだ、童貞野郎なんすか」

「年下に言われて傷つくことこの上ない台詞だな」

「はいはい、どうぞご自由に傷ついちゃって下さいよ。先輩がダメ男なのはよく知ってます」

「会って間もない奴が何したり顔してんだ!?」

「マダオでした?」

「その訂正はいらん」

「そーそー、しょーじはマダオなんだよ」

 飲み物を卓袱(ちゃぶ)台に置きながらのんびり優補が参戦してきた。

 オーダーはもう聞いていて、俺と優補はコーヒーで、喜屋武はココアだった。どれもホットで。ここらへんで子供と大人の違いが表れるんだよな(と強がってみる)!

 

「夜トイレに行けないし、朝は私があーんしてあげないとご飯食べられないんだよ」

「そんなマダオじゃねえよ!」

 断じて!

 なんてデマを!

 しかも相手がどんな奴か分かってて言ってるから怖い。

 でもこれだと、少なくとも俺はまるでダメな男と認めたことになるな……日本語ってやだな。

 苦いコーヒーを(すす)りながら嘆く俺。

 

「――で。喜屋武。怪異の話だけど」

「先輩。その前にその怪異について、どうしてそんなに知ってるんすか? そのねーちゃんがそういう類だから?」

 随分ストレートに訊いてきやがった。

 

「いや、それもないことはないけど。なんつーか、こないだ知り合いができてさ。そういうのに詳しい」

「……はあ」

「そいつが、色々教えてくれたんだよ。お前のその犬について」

「で、そいつはなんか言ってたんすか? 世界を滅ぼすとか、人に攻撃するとか、物騒なこと言ってたんすか?」

「いや……」

 急に声を荒げる喜屋武をまじまじと見る。

 

「なら、もう関わらないでください(、、、、、、、、、、)よ」

 まただ。

 また彼は、敵意をむき出して……立ち上がり、息を荒げて帰ろう

とする。

「幸音くん!」

 すかさず、というか、優補が呼び止める。しかし彼女が指さしたのは、喜屋武ではなく、飲み物だった。

 

「まだ、飲み終わってないじゃない。駄目、最後まで飲まないなんて」

「んなことどうだって――」

 穿き捨てるように言いかけた彼は、一瞬そこで優補の顔を見て、怯んだ。

 真っ直ぐな目に、言葉を忘れたようだった。

 二人が見詰め合うこと数秒。やっと、喜屋武は目を逸らして、座り込んでしまった。顔を伏せていて、表情は分からない。

 俺が名前を呼ぼうとしたその直前に、相手は口を開いた。

 

「すみません」

 謝罪の言葉だった。

 最初に漏れたのは、謝罪だった。

 

「すみません、二人とも……オレは、」

 言葉を紡ぐように、本当に小さな子供のように、彼は言った。顔は伏せたままだ。

 

「……幸音くん」

 そっと、優補が後押しする。喜屋武は言われずとも、心の内を打ち明けようとしていた。そうした方が、そうするべきなのだと、彼は最初から分かってはいた。ここに来た時点で、そうなることは彼にも分かっていたのだ。必要なのは覚悟だけで、催促は必要なかった。

「オレには、か、帰る場所が、ない」

 喜屋武が、震える。

 

 

「帰る場所がないって、でもお前、家がないわけじゃないって――」

「家はあります。でもないんです」

「……」

「オレ、孤児院にいるんです」

 ぎり、と音がした。

 歯を食いしばる音。

 何かに耐えるように、何かを堪えるように。

 

「で、でもオレはあんなとこにいるのが嫌で。嫌で嫌で嫌で。出て行きたくて。でもできなくて。ずっと願って。そしたら、いつからか、犬が、側に居て」

 震えが、少しだけ、治まった。

 

「オレの願うことは、何だってしてくれた。何でもできた。だから、オレは、あそこを飛び出した」

「出てったのか……?」

「というよりは、何と言うか、あそこの連中にはオレが出て行ったとかそれ以前に、オレがそこにいなかったんだって思わせた。今だって、オレが出てったことすら知らない……と思う」

 だって、とここで喜屋武は顔を上げて、俺を見た。喜屋武の目は、不安気だった。それもそのはず。

 

先輩は(、、、)、犬が効かなかった」

「ああ、そうだけど、でも」

「他にも効かない奴がいるのか? そうだったら、オレが今まで嘘偽りを植えつけていた事が知れてしまったら、オレは? オレはどうなるんすか? オレは、オレはただ忘れたかっただけなのに。偽りを信じ続けてもらいたかったのに」

 高い声で、訴える。

 独り語りを。

 言葉を紡ぐ喜屋武を見つめながら、俺はやっと、理解した。

 家がない、人間。

 行くべき場所がない人間。

 まさしくそれは、巴犬に憑く対象だったが、それは。

 その怪異と対象者は、酷く似ているのだと――

 

「家がない人間って、どういうことだ?」

 俺が阿良々木にした質問だった。

 相手はそれには答えず、しばらく黙っていたが、突然こんなことを言い出した。

喪家(そうか)の狗って、知ってるか?」

「は?」

 そうか?

 

「喪中の家の狗って書くんだけど。史記に載ってるな。あれが、巴狗の元だな」

「はあ……」

「そのまんまの意味で、それ以上の意味だ。喪家の『喪』は『喪失する』、『()』じゃない。つまり喪家は、家を喪失するってこと。だから喪家の狗は別の言い方で、やどなし犬とも言う。飼い主に見捨てられた犬、宿無しになった者をさす。そして、巴犬も同じ。そ

して、憑かれた人間も同じ」

 ……なるほど。

 それで、巴犬は自分と同じ境遇にある人間に憑くというわけか。

 でも、家がないって……?

 

「……詳しいんだな」

「あ? あ、これ受け売りだから。ひたぎと忍の豆知識だよ」

 そうそう、こうして彼と話をしたのは久しぶりだが、何度かメールでやり取りはしていた。自分で言うのもなんだが、幾分か俺達は親しくなっていた。

 

「そうだった、あとは名前の由来か。ええっと、巴は模様だろ? え? 何だって?」

「……」

 人に聞いてるのがバレバレだった。

 

「尻尾の形、か。ふうん、柴犬みたいな尾なんだな。巴狗。かっこつけて書くと『ともゑゐぬ』ってとこか。別の漢字で当てると、友へ、狗ととって狗が親友であるととれるし、あとは、友へ去ぬ、共へ去ぬ――要するに一緒に死ぬってことだ。似たもの同士の怪異と人間、ふたりは同じ苦しみを体験した。家がない、居る場所がない、行くべき場所がない……そうして一度は死すら望む……。粟国。巴狗は、害を及ぼす怪異じゃない。ただ、対象にどこまでも忠実で、守護し、敵には牙を剥くだけ。友人と共に居るだけ。いつまでも居て、いつかは死ぬ。それも一緒に。ただそれだけで、でも、そういうことだ」

「じゃあ……ずっと居ても、大丈夫な怪異なのか」

「その喜屋武って()が世界を我が物にしたいとかそんなことを願う奴じゃなけりゃ、なんも起こらないさ」

「……すみません、えっと、喜屋武は男です」

「え? そうなのか? 幸音って言うからつい……なんだ、裏切りやがって」

 えーと……何を?

 

「その喜屋武って子が、突拍子もないこと考える奴か? 犬の力を使って好き放題やらかしてるか?」

「うーん……」

 判断できない。俺の記憶を消したけど、それだけって言えばそれだけのことだし。別にそんな風には見えなかったけどな。

 自信ないけど。

 

「ま、本人の意思に委ねな。少なくとも何かが憑いてることくらいは本人も知ってるんだし、とっくにことは解決してんのかも」

「……分かった。友達の輪を広げるとします」

「ん? なんだそれ、いいともか?」

「古……」

 みんなで輪するのか。

 

「粟国。分かってるかもだけど言っとく。

 もし喜屋武がそのままでいいって言ったとしたら、そのままにしてやれよ。僕もお前も、同じように怪異を身に宿した人間だからこそ、放置することも選択肢の一つだ」

「あ、それで思い出した」

 ちょっと訊きたい事があったんだった。

 今訊くタイミングではないだろうが。

 

「戦場ヶ原さんって、彼氏が吸血鬼って知ってるのか?」

「え? ああ、というか、彼女と話すようになった初日から、もうバラしちゃったんだけどな」

「ええ……」

 それを、彼女も知っていながら、交際しているっていうのかよ。

 なんて言うか……相当戦場ヶ原さんも化物じみてるな。

 普通そんな彼氏と付き合わねえだろ。

 いや。

 俺も、優補が人魚だと――怪異を怪異と――知っていながら、同棲しているんだ。まあ、俺はとっくに、化物……人間以下の、化物だが。

 

「旦那様は吸血鬼、みたいな?」

「うーん……?」

 ボケ?

 微妙な線だ。

 

「んま、僕が言いたかったのは――僕たちは怪異に身を宿した人間だけど、だからこそ、人のことなんて言えねえよな、ってことだ」

 お前だって人魚と交際してんだからよ――と、彼は言う。

 

「でも、」

 と俺は続ける。

 

「そのままでいいとは、思ってはいない――阿良々木も、そうだろ?」

 相手も、答えた。

 

「ああ、そうだな」

「だから、」

 だから。自分の思うことを、正直に言った。

 

「俺が、あいつと犬が一緒に居るのがいけないって引き剥がしたとしても、阿良々木は何も言わないよな?」

 しばらく沈黙があり、やがて呆れたような笑い声が聞こえてきた。

 

「お前は、本当に僕に似ているな――ずけずけ他人に関わって、いいことなんてないぜ?」

「別に、いいことがなくても、俺は構わない」

 見返りなんて求めない。

 俺は、何も、求めない。

 ただ、何としてでも、怪異に関わった人は助けたいのだ。

 自分と同じような目に遭う人を、助けずにはいられない。

 同じ道を辿ってほしくない。

 



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其の漆

007

 

「どこから話したらいいか。最近のことから、話すのが楽かな、オレにとっては。

「オレが地獄から逃れようと施設を出たのは、一年前。

「中学二年生の頃すね。

「オレは脱走した。やっと。

「とうとう、かな。

「もっと早く気付けばよかった。犬の力のハンパなさに。みんなに、

オレが施設に元々いなかったんだと暗示をかけることができるなんて――

「実際、上手くいったと思うんすよ。

「まあ、今日の先輩を見て、どうなんだかって気もするんすけど。

「え? 怪異を知る者には効果がない? 怪異ってのは、犬とかのことっすよね。

「……なるほど。でも、それを知った上でも、あの地獄には怪異を知っている人がいたかもしれないんでしょ。

「まあ、まあまあ。紆余曲折を経て。

「オレは、出会った。

「もったいぶって言わせてください、ここだけは。

「先輩なら、分かるはずですよ。

「だって、オレの初めての楽器だったんすから。

「ベース。

「オレを変えるきっかけのひとつ。

姉さんの(、、、、)

姉さんの(、、、、)ものだったんだ(、、、、、、、)

「うん。オレには兄弟はいません。

「一人っ子のはずです。もしかしたら何人か子どもがいたかもしれないすけどね、あの二人には。

「でも、血が繋がっていない、赤の他人であるオレを、弟のように、子どものように育ててくれたひとを、姉と呼んで何が悪いんですか。

「赤の他人。そう、オレたちはそうだった。でも、最後までオレたちは家族だったんすよ。

「オレの、最初で最後の家族。

「話を戻しますね。

「這いまくる体、よーするに這う這うの体で、文無しのオレは疲労と空腹である家に転がり込んだ。

「信じられないすよね。

「オレも三日三晩飲まず食わずで歩き続けておかしくなってたんでしょう。

「もっとだったかな。あそこから一刻も早く逃れたかったから。

「もちろん、繁華街には食べ物だって売っている。自販機には飲み物だってある。でも先輩、だからって、犬がついているからって、盗んだり機械ぶっ壊したりしていいはずはないすよね。

「ヘッドホンを壊した? まあ、あれは、オレも怒り心頭だったから。

「その話はあとでさせてくだい。オレも最近ちょっとおかしいんすよ。一年前ほどじゃないと思うけど。

「それで、ほんと無意識なんすけど、オレは一軒の家にふらふら侵入した。

「食べ物はともかく、とにかく寝たかった。

「生憎雨も降っていたし――オレはぐしょ濡れで、戸が開けっ放しだった家に当たり前みたいにお邪魔した。

「オレは玄関マットの上で文字通り死んだように眠った覚えがあるんすけど……目が覚めたら、オレは布団の上に寝ていた。寝かされていた。

「わけが分からないまま、とりあえず体を起こすと、オレからちょっと離れたところに、女の人がいた。

「そこは狭い畳の部屋だった。オレが迷い込んだ家は、他よりも相当小さかったみたいで。

「女の人は、座ってギターを弾いていた。

「そのアコギの音は、今でも覚えてる。

「オレは警戒することも忘れ――犬がいることも忘れ――ただ、聞き惚れていた。

「あのひとは、オレが目を覚ましたことに気付くと、にっこりと笑ったんだ。

「おはよう、って。

「そう言ってくれた。

「赤の他人に。勝手に入ってきた、泥棒みたいな真似したオレに。

「それは生まれて初めて貰った言葉だった。

「すごく、嬉しかった。

「オレは思わず、あのひとのことを、

「姉さんって。

「呼んでしまったんだ。

「あのひとは優しかった。オレが姉さんと呼ぶと、むしろ嬉しそうな顔をするんだ。

「綺麗で、格好よくて、強くて。

「姉さんは目が見えない。

「今までずっとひとりで暮らしてきて、寂しかったと。オレに言ってた。

「オレは、二人で助け合って暮らしたいと、そう願った。

「もちろん、初めは色々あった。オレは人を警戒してしまうし、人が怖かった。それがいくら優しい姉さんでも、恐怖に耐えられないことがあった。

「たくさん怒鳴ってしまった。迷惑をかけた。

「姉さん、佐弐ねーちゃんにちょっと似てるかも。

「さっきみたいに、オレは何度も出て行こうとしたことがある。自分のことを分かってくれる人がいないとか、そんな風に勝手にキレて。

「あのひとはいつもオレを呼び止めてくれた。

「そういえば、初めて会ったときも、こう言ってくれたっけ。

「『幸音くん、今から、どっか行くとこでもあるの?』って。

「『うちにおいで』って。

「そう。そうだったよ、それから幾度となく出て行こうとしたけど、その度にあのひとはそう言って、オレを呼び止めてくれたんだ。

「落ち着いた後は、二人でココアを飲む。心の底から温まるんすよ。

「オレは、夜が怖かった。

「眠れない日もあったし、眠れた日に見る夢は怖かった。

「そんな時も、あのひとは傍に居てココアを淹れてくれる。弱くて小さいオレに、一人じゃないよって言ってくれた。

「ずっとオレを家に置いてくれた。お陰で、オレもだんだん、普通

ってこういうのかな、と思える程度には普通の人間になれたと思う。

「あのひとも、オレが安定してきたと分かったのか、ベースをくれた。ほんと嬉しかったなあ。

「これで一緒に弾けるんだ、と思って、めっちゃ練習したんすよ。

「学校にも通えるようになった。まあクラスメイトはオレが長い間旅行に行ってたと思ってるんすけど。誰も、オレが施設にいたことなんて知らなかったし、赤の他人の家に居候していることも知らなかった。

「そう、住所だって前のまんまだったし――先生も知らなかった。

「それでいいんだよ。

「あんな平和ボケした世界の住人は知らなくても。

「あれは三ヶ月前だったか。ある日、学校から帰ってきたオレは、家がないことに気付いた。

「いや、あまりにも唐突過ぎて、オレにも分からなかったんすけどね。

「どうも、火事があったらしい。

「あのひとの隣の家だろうか、火元の消し忘れか何かで、ガスが漏れて、大火事。

「辺り一体が、火の海だった。悪夢だった。

「オレはあの時何を思ったか、何も憶えていない。

「ただ、火の音も、周りの人の声も、何も聞こえなかった。

「変な耳鳴りがして。オレはそのまま家へ向かった。

「名前を呼んだけど、返事はない。でも、オレは見たんだ。見てしまったんすよ。

「燃えていく、姉さんを。もう助からない、灰になっていく姉さんを。

「油の臭い。

「肉が焼ける臭い。

「姉さんの匂い。

「家の匂い。

「全部ごっちゃになって、オレの鼻をついた。

「何で助からなかったんだ。目が見えなくても、すぐに逃げ切れたはずなんすよ。

「でも、そうはならなかった。

「あのひとは、オレの大好きな、あのひとの次に大好きなベースを守るために、ただそれだけのために、死んでいったんだ。

「周りの人が言っていた。一旦外に出たのに、また中へ戻ってしまったって。

「馬鹿じゃねえの、そう思った。

「そんなもんどーだっていいじゃんか。オレは姉さんの方が大事なんだよ。

「なのになんで。

「なんで、ベースは無事で(、、、、、、、)、姉さんが死ぬんだよ。

「それから――オレの中で眠っていた、もう二度と呼び出すまいと思っていた犬が、目覚めてしまった。

「抑え切れなかった。

「オレは、家もろとも壊して、崩して、死のうと思った。

「でも、無理だったんすよ。家は崩れたけど、オレは無事だった。死ねなかった。

「それは、犬がオレを殺すことだけはできなかったからかもしれないけど、オレには、姉さんがオレに生きろと言っているみたいで、嫌だった。

「何もかもどうでもよくなった。

「オレは、全部失った。

「それからは何でもしましたよ。生きるためなら盗みだってなんだってした。

「でも結局、あの地獄にオレは帰らざるをえなかったんすけど。

「何もなかったみたいに、平然と、オレを迎えてくれた。オレが、昔自分でかけた暗示を解いたから。

「誰も、オレが逃走したことなんて知らなかった。

「今までのことが嘘みたいだった。でも、ベースが、オレに真実を教えてくれていた。

「結局、オレは捨てなかったんすよ。壊そうとも思ったけど、ていうか家を崩した時に壊れてておかしくなかったんすけど、無傷だった。

「内心、オレは手放したくなかったんでしょう。

「ベースを失えば、あの時のことも忘れてしまう。それだけは嫌だった。

「唯一オレが幸せだった時間だったから。

「それから特に何もなかったすよ。今日に至るまで、何も変わっちゃいない。

「ただ、オレは地獄に帰ってきてから、また人と接するのが怖くなっていた。

「それは、かつてあそこであった吐き気のすることの所為でもあるけれど。

「どうせみんな死ぬんだろう、そう思うと、人と関わりを持つのすら面倒だった。

「誰も関わって欲しくない。

「オレに干渉して欲しくない。

「このまま、何もせずに死んでいきたいのに、犬がいる以上それもできない。

「何も食べなくても、オレ、死ねなかったんすよ。

「だから逆に――オレのことをみんな忘れてしまえばいいと思った。それなら、犬も実行してくれるだろうって。

「犬の力は凄かった。

「誰もオレを必要としない。オレから関わったときだけ、オレの存在を認める。オレが関わらなければ、誰も近づいてこない。

「教師ですらオレを忘れている。健康診断でさえ、オレは参加しなくてもバレなかったくらいだ。

「だから、何を言っても許された。

「何をしても許された。

「寝たいときに寝て。怒りたい時に怒って。それでも誰も、気付かない。

「それでよかった。

「それでのんべんだらりとした生活を送っていたけど、ついこないだ。先輩とぶつかったオレは、偉そうな口叩きましたよね。あれも、どうせ忘れられるからってあんなこと言ったんすよ。でも、そうはならなかった。

「オレを憶えている奴がいる。

「それだけで腹が立った。

「だから先輩にあんな口きいて、物をぶち壊したりできたんすよ。

「オレの世界には、オレだけで十分だったんだ。

「誰も関わってくんな。偽りを信じ続けてくれさえいれば、それでいい。

「自分がどんなにわけの分からないことを言ってるかくらい分かってますよ。

「でも――もうオレは疲れたんすよ。

「人と関わることに。

「犬とずっと一緒にいるしかないんなら、生きていくしかないんなら。

「あとはどうだってよかった。

「え? 犬はいつからいたかって?

「その話は、あんまりしたくないっつーか、オレ自身にもよくわからないんすよね。

「……。

「じゃあじゃあ、今更隠したって仕方がないし、勢いに乗せて全部ぶっちゃけちゃいます。

「あそこで――何があったかを。



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其の捌


お気に入りと評価、ありがとうございます。


008

 

 俺は人魚に出遭い、阿良々木は吸血鬼に出遭い、青柳は牛に出遭い、そして喜屋武は犬に巡り遭った。

 俺は高校一年の冬に怪異としての彼女と出遭ったし、その一ヵ月後の冬休みに青柳は牛と関わったが、喜屋武の場合はもっと前、四年ほど前から犬と共生していた。最も、本人が認識したのがそこからというだけで、本当はもっと昔からいたのかもしれないが。俺の親は他界し、青柳も右に同じだが(彼女は父親を亡くしている)、彼の両親は、恐らくどちらも健在だと言う。ただ、彼の抱える歪みは、青柳の抱えるそれよりもずっと醜いものかもしれなかった。彼女の悩みは家庭によって生じるのだが、喜屋武は家庭がないことによって生じる歪みだった。

 

「オレは、小学生の頃に捨てられました」

 平然と喜屋武は言った。

 随分と慣れてしまったように。

 このことに関しては何も思っていないように。

 

「捨てられたっつうか、(もてあそ)ばれて、不用品をポイする感じのノリ? そう、ノリで捨てたんすよね」

 そんな馬鹿な、とは思う。俺は信じられずに相手を見つめる。

 青柳とは違って、空っぽの笑みは生じていない、ただの無表情だが、それでも彼女と同じものを感じずにはいられなかった。

 そこはどうでもいいという風に、彼はさっさと話を進める。

 

「道端に捨ててくれりゃよかったのに。あの二人、ご丁寧に施設に預けたんすよ。地獄の孤児院にね」

 喜屋武は思い出したくないという風に、顔をしかめた。

 

「部屋は狭い、ケアはたるい、食事も少ないし寝心地も悪い。学校に行って友達できてもうちがないことがバレたらいけない。帰りはいつも一人でしたよ」

「…………」

 俺は静かにコーヒーを口に運んだが、どうも味が薄いようだった。

 

「だから、かな。オレが虚栗(みなしぐり)に通うことにしたのは。奨学金制度もあったし、私立だったら家が遠いって理由で友達を引き寄せずに済むし」

 彼も冷えたココアを飲む。

 

「あそこが本当に地獄なのは、部屋のことでもスタッフのことでも食べ物のことでもない。暴力すよ」

「……暴力」

 そ、と喜屋武は頷いた。

 

「同じく親に捨てられた高校生男子、同じ孤児院に入所している彼のご趣味は、暴力だった。それは殴る蹴るの方もすけど、そっちじゃない、性的な意味でも」

 喜屋武は一瞬口をつぐんだが、溢れ出す感情に押されるように、一気に話し出した。

 その高校生は一日に一人、幼い入所者を呼んで、風呂場や自分の部屋で、及んだのだそうだ。性別関係なく、嫌がるのもお構いなしに。

 ただでさえ傷ついている子供たちの心を、破壊した。

 壊滅させた。

 撲滅させた。

 誰も、何も言わない。知っているのは、幼い被害者たちと、これから被害に遭う者たちだけ。

 何も言わないというよりは、どうすればいいか皆分からなかったのだ。

 ひとり、またひとりと児童は壊れてゆく。

 そして、当時小学五年だった喜屋武も、狙われた。

 呼び出しを食らう。

 誰もいない部屋に連れ込まれ、そして。

 

「ワイセツな行為? って言うんすかね。初体験が男っつーのも何だかな、でも、未遂に終わりましたよ」

 彼は、叫んだ。助けを求めた。

 誰も来ない。

 無駄だった。

 口を押さえられた。

 誰も来ない。

 手を伸ばした。

 人は来ない。

 ――ガチリ。

 全てを救う音がした。

 気がつけば、喜屋武は血に濡れた男子を、見下ろしていた、そうだ。

 どうして、どうやってこうなったかはともかく、喜屋武には何が起こったか分かってはいた。自分が望んだことなのだから。

 自分に宿った怪異を、それが力を発揮した瞬間理解した。

 巴狗。

 共に生きる唯一の友。

 喜屋武は、男子生徒が気絶している間に血を拭き取り、誰にも見つからないように彼の部屋に寝かせた。

 事実、誰にも見つからなかったが、それは怪異の力であって偶然でも何でもない。ただ、怪異が喜屋武の願いに応えただけだった。

 

「それから――どうなったんだ」

「どうも」

 喜屋武は短く答える。答えにはなっていなかったが。

 

「どうもなりませんよ……勿論。あそこは地獄であり続けた。暴力が消えてもそれは一時的なもんで、また次があるのは当たり前のこと」

「次がある……って」

「みんなストレスを抱えてる。でも発散の仕方が分からない。だから、間違ったやり方でみんな」

 暴力を。

 他人を巻き込む、解消法。

 

「でもそれは、オレも同じなんすよね」

「…………」

「子どもがバタフライナイフ持って最強ぶってるみたいに、オレは怪異がいるってことで最強ぶってた」

 なんだ。

 気付いている(、、、、、、)んじゃないか。

 俺はてっきり、喜屋武は自分が何をしているのか自覚していないものだと思っていたのだが……それは思い違いだったようだ。

 彼は、自分のしでかしたこと、今していることに気付いていた。

 よく理解していた。

 だからこそ。

 

「あの地獄の連鎖は止まらない。オレは、暴力を振るう奴を止めている。制裁、とでも言うかのように。周りに害を及ぼすのを食い止めるかのように。でも、実際はそうじゃないんすよ。そんなのはただの偽善で――偽りだ。オレも、みんなと同じで、間違ったやり方でストレスを発散しているだけなんだ」

 口調が、恐らく本当の彼のものへと変わっていく。

 間違いなく、本音だった。

 

「危害を加える奴を、犬でいじめているのには変わりない。ぶっちゃけ、あの牙の音は心地いいし、すかっとする。一番害を及ぼしているのは他でもない、このオレだってのに、自分を殺すことも、止めることすらできないなんて」

 制御できない時があった。と彼は言う。

 彼が怒れば、犬も怒る。

 無意識のうちに喜屋武が人を憎んでも、犬は一番の理解者で、それを汲み取って報復をする。

 実際、あの時。

 俺が喜屋武を挑発した時。

 俺にあそこまでする気はなかったそうだが、喜屋武が怒りで我を失っているにも関わらず、犬は俺に攻撃したらしい。

 喜屋武は周りに自分の世界を強いた。

 それに背くものには、罰を与えた。

 ガチリ、と。

 彼にとっての幸せな音。

 歯車が噛み合ったかのような、しっくりとくる、それでいて恐ろしい音で、他を威嚇する。制圧する。

 そんな恐怖政治、独裁政治を続けてきて――自然と、気付いたのだろう。

 悟ったのだろう。

 

「オレは――オレが(、、、)化物なんだって(、、、、、、、)

 

 

「周りはオレがしたことに気付いていないだろう。怯えていることにさえ気付かされないでいるだろう。オレという化物が存在していること自体、忘れさせられているんだから」

 今までいろんなことをしてきた、と喜屋武は告白する。

 盗みもしたし、暴力も振るった。

 それは地獄を巡り続ける他の子どもたちと、何ら、変わりない。

 それを理解していたからこそ、彼は、怖かったのだ。

 誰よりも、恐れていたのだ。

 誰かが自分のしてきたことに気付いたら。

 全てを思い出してしまったら。

 偽りを塗り替えられ、真実を知らされてしまったら。

 自分は――どうなってしまうのだろう。

 そしてそれだけではなく、そんな力をいつの間にか手に入れていた自分に、それを当たり前のように受け入れ行使している自分自身も、怖かったのだ。

 自分は、普通ではないと。

 

「――怖い」

 そう言葉を漏らした。

 

「怖い、怖いよ。どうしよう、どうしようどうしようどうしよう!

 今までしてきたこと、償えるならなんだってする! 許してほしいなんて思わない、でも、だから、どうかみんな気付かないで、忘れていて知らないで! オレがしてきたことは、みんながされてきたことは、っ」

 そこで唐突に口をつぐむ。

 見れば、――いや。

 俺は何も見ていない。

 ……男というのは、人前では泣いたりしないし、そもそも滅多なことがない限りはそんな女々しいことはしない。

 子どもの頃は別として、ある時を境に、家族や友人の前で泣かなくなるし、一人でだって泣かない――誰も見ていないのなら、涙なんて乾いてしまえば泣いていないことになるのだ。

 人前で泣くなんてこと、格好が悪いどころの話じゃない。

 そう。

 男は泣いたりしない。

 ただ、目の前で震えている喜屋武を見ていると、あーまだ冬だし寒いんだろうなー、と思ってしまって、でも暖房はないしどうしたものか、仕方がない、気は進まないけど、と。

 彼をそっと抱きしめてやった。

 何故だか震えが一層激しくなってしまったのだが、男に抱かれて気持ち悪くなったからかもしれない。拒絶反応を示されたのかもしれない。

 だけど俺は放してやらなかった。

 今までの仕返しも含めて、ちょっと喜屋武をいじめているだけである。

 

「……喜屋武。お前、全部分かってたんだな」

 自分がしてきたこと。

 どんなに悪いことをしてきたか、ちゃんと知った上で、怖かったんだな。

 

「俺はお前を恨んだりしてないし、怒ってもねーよ。このことを、口外しようと思うなんて存外だ」

 甘やかしだ。

 良いことではない、決して。

 本当は恨んでも仕方がないことをしただろう、怒ってしかるべきだろう。でも、そうしないのはやはり、俺が弱いからだ。

 今まで犯してきた罪は、確かに軽いものではない。

 隠蔽していいものではないだろう。

 でも、それを今彼に責めるのは、酷だ。

 そう思ってしまうのはやっぱり俺が甘いからなのだが、せめて少しだけでも。

 猶予というものを与えてはやれないものか。

 ただこいつは、ちょっとないものねだりをしている子どもなんだから。

 

「でもな、お前のしてきたことはいけないことなんだ。人によっては、お前を許さないと言う奴がいるだろう」

「っ」

 びくっ、と喜屋武の体がはねる。こういう時に言ってやらないと、彼は何も変われないだろうから。

 今だけは、と俺は辛辣な言葉を口にした。

 

「いつかはバレる。お前の過去は忘れられてもなくならないけど、お前のことを忘れ続けられる奴なんかいない。いつかは思い出すだろう。ずっと、偽りを植えつけられてきたことを知るだろう」

「うう、ぁ」

「姉さんが知ったら、何て言うんだろうな」

「……ひ」

 しゃくりあげるのを堪えながら、それでも漏れる声を隠すことはできなかった。

 いじめ過ぎるのも性に合わないし、そろそろ限界かもしれないと思ったので、俺は言った。

 

「俺は姉さんの代わりにはなれないし、どんな人だったかも分からないけど、それでもお前に、うちにおいでって言ってくれるんじゃないのか? お前が何をしたところで、姉さんはお前にとって大事な家族で――あそこは、お前の家だったんだから」

「う、ぅ、うう」

「お前は化物なんかじゃねえよ。ちょっとベースが上手い、生意気なガキだ」

 俺はお前の家族にはなれないし、家になることもできない。

 慰めるのだって下手だし、怒ることもできなかった。

 ただ、傍にいてやることができるだけ。

 怪異なんて曖昧なものが付き添っていても、寂しいだけだろう。俺でよかったら、代わりになってやるよ。

 そういう意味を込めて、言ったつもりだった。

 

「まだまだ小さいのに心配しすぎなんだよ、――ばか」

 さすがに腹が立ったのだろう、俺の背に喜屋武の細腕が巻きついてきて、痛いほどしがみついてきた。

 文句の一つでも言い返せばいいのに、どうやら衝動に耐えられなかったようで。

 喜屋武は、わんわんと泣いた。

 全く、誤魔化しようがないじゃねーか。

 隣にいた優補はそっと立ち上がって――勿論慰めたりはしない。彼女はそういう行為を何よりも嫌う――キッチンへと向かった。

 恐らくは、ココアを用意するのだろう。



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其の玖

生きてます。矛盾を防ぐため続きは物語シリーズが完結してからにしようと思っているのですが、なかなか終わりませんね!


 後日談というよりは、裏話。

 その後、喜屋武は疲れて眠ってしまった――泣き疲れ、飲み物を飲んで、落ち着いたのか、気付いたらこっくりしていた。

 寝室は一部屋しかないし、ベッドは俺と優補の分しかないが、俺のベッドに運んで寝かせた。

 何故か優補が機嫌が悪そうな顔だったが。

 ……?

 あ、まさか浮気にカウントしてんじゃねえだろうな! しあぐねてるんじゃねえだろうな!

 違うぞ、大体そう考えるのはおかしいだろう……。

 リビングに二人きり。

 だが優補はつーんとしていて、話しかけづらい。

 

「ちょ、ちょっと阿良々木に電話を」

 口に出して、横目で優補を見ながら電話する。

 

「何股かければ気が済むわけ?」

「違えよ! そこまで気にしてたら俺は全ての友達と絶交を真剣に考えなくちゃならなくなる!」

 まじで。

 しかも喜屋武も阿良々木も男だし。

 

「もしもし、粟国?」

 そうして。

 一応、報告をしようと――俺は喜屋武の怪異をどうこうはできなかったということ、彼が自分の家がないと思い続けている限り、あの犬はいなくなったりしないからということなど――ただの報告をしようと思っていたのだが。

 そう、巴狗――奴は、喜屋武が「自分には家がない」と思っていた時から現われていたのだから――相当昔から、彼と共にいただろうから。

「自分には家がある」と思えたあの輝かしい過去……姉と過ごしたあの時間だけは、犬はいなかったのだろう。だが、家がある、そう思える機会が今の喜屋武には訪れると思えないし。

 とか、そういう色々を話そうと思っていたのだけれど。

 

「あのさ、粟国……ちょっとお前には早いというか、分かってもらわなくてもいい話をしようと思うんだけど……」

 と、煮え切らない態度で、電話越しに相手は言ってきたのだ。

 まだ俺が何も言っていないのに。

 

「僕はさっき、巴狗は家を失った犬、やどなし犬って言ったろう。あれ、訂正する」

「は……?」

「いや、間違いだったんだよ。あのあと、ひたぎが色々調べてたらしいんだけれど、巴狗は家を失った犬とは言えても、やどなし犬とは言えないんだよ」

「どういう意味だ?」

「いや、『史記』に載ってる喪家の犬、あれ辞書で引いてもらったら分かるんだけど、確かにやどなしの犬とは書いてある。でもそれは誤訳だと思うんだよ。僕も言ったように、巴狗は喪中の犬じゃなくて、家を喪失した犬だ。でもそれは家がないってわけじゃない。家を失っただけで、また取り戻せる――怪異が憑いていようと、いまいと」

「…………」

 なるほど、確かにその理屈は間違ってはいない。

 あいつだって、家はあります、でもないんです――失ったんですって、言ってたもんな。

 犬は、家を取り戻せる。

 となると、やっぱりつきものを落とすみたいに、しつこく構わなくてもいいんじゃないのか……。

 俺が思ったことを、これまでの出来事を含めて話すと、相手は曖昧に「そうだな」と言うのだった。

 

「何だよ、阿良々木らしくない。まだ何か言いたいことがあるのか? その、分かってもらわなくてもいい話ってやつか」

「いや、本当はこういうの、まだ僕自身納得してないところがあってさ」

「…………?」

 分かった分かった、話すよ、と阿良々木はようやくいつもの調子に戻って、言った。

 

「巴狗は、元ネタが喪家の狗で、出所は『史記』っていう狛犬だが、そもそもその史記ってのが、偽史なんだよな(、、、、、、、)

「偽史って……嘘の歴史ってことか」

「そう。孔子先生だっていたかどうか定かじゃないし、史記は最近では嘘入り混じる、どころか嘘だらけの史書って言われだしてる。

 ということはどうだろう、巴狗ってのも存在しちゃあいけない(、、、、、、、、、、)怪異なんじゃないか?」

 そう言われても、俺は混乱するばかりだった。

 だって、ほら、その。

 

「でも……確かにいるんだろ。ことは起こってるんだから。俺だって感じたし、獣の、人ならざる何かの、気配を。喜屋武自身も犬って散々(さんざん)言ってたし、優補だって――」

「だから」

 阿良々木は語調を強めた。

 

それも全部(、、、、、)僕たちの思い込みじゃあないのか(、、、、、、、、、、、、、、、)って話だよ」

 本当に意味が分からなくなったので、俺はとりあえず黙って彼の話を聞くことにした。

 

「怪異は、そこにあって欲しいと思う人がいることでこそ、存在する――嘘の怪異、偽者の怪異だって、信じる者がいれば現われるだろう。どちらにしろ、思い込みなんだから。(はた)から見れば、僕達は変人奇人なんだから。

 喜屋武は自分の持った力を、犬だと思った。だから犬の怪異なんだ。お前も、喜屋武が自分に憑いているのは犬だと言われるまで、そうとは断定できなかっただろう。思い込みが周りまで巻き込んだんだ。佐弐さんも、犬と判断したのは彼女がそういう類(、、、、、)に敏感だからだ。人の思い込みを感じる、だからこそ彼女は人魚たりえるんだし」

「……じゃあ」

 思わず口を挟んでしまう。別に優補を否定されたと思ったわけじゃあない。

 だって優補はどうしようもなく怪異で。

 喜屋武が『思い込んでいる』という犬を、犬と認識してしまったのは、仕方のないことだから。

 

「あいつの力は、何だって言うんだ。別の怪異が憑いてたって言うのかよ……そんなオチ、面白くもなんとも――」

「いや、そうじゃないよ粟国。考え方から変えなくちゃいけない。そうだな、今の喜屋武の力は、僕達じゃない、普通の人たちから見たら、どう見える?」

「それは……病気? とか、なんだ、超能力とか……」

 胡散臭いが。

 まあ怪異もそうか。

 でも怪異を知らない人は、そう思うかもしれない……いや、思うしかないだろう。

 

「そうだな、その通りだよ。普通の人からすれば、僕たちの方が間違っていて、嘘つきで、頭のおかしい、思い込みをしている奴なんだから。いや、思い込んでいるのはみんなそうか――みんな自分が正しいって思うもんな――まあとにかく。そう、超能力だ」

 人々は喜屋武の身やその周りで起こったことを、そう呼ぶって?

 人ならざる力。

 喜屋武も、自分を化物(、、)だって言って――

 いや、そんなことがあるか?

 今更そんなことが考えられるか? 怪異という存在を知ってしまったというのに?

 確かに、超能力、なんてのは人ならざる力だけれど、俺が感じた気配というのは、喜屋武自身のそれだったと言うのか。

 元々怪異はいなくて、あいつはただの、超能力者だとか――

 

「超能力という胡散臭い呼称が嫌なら、病気でもいい。実際、彼には制御できない所があったと言うし」

 病気。

 病。

 それこそ、ピック病のように、喚き散らし、怒りに任せて?

 そして、自分がそうだと思いたくなくて、()なるものがいると思い込んでいると?

 喜屋武を取り巻く異常な環境が――常人にはない力を、与えた。

 

「大体、死にたいと願って、死ねなかったというのがおかしい――忠犬は、全て聞き入れてくれるはずだ。たとえそれが主人の死でも。共に生き、共に死んでくれるはずなんだ。どうしても死ねなかった、なんて。そんなの、あいつが生きたかったから(、、、、、、、、、、、、)なんだよ。普通の世界で、生きたかっただけなんだ」

 死ぬことができなかったのは生きたかったから。

 家を崩してもベースが燃えずに残っていたのも大切なものだったから。

 ずっと側にいてくれた、大事な、かけがえのない存在。 

 姉の思い出だったから。

 俺がずっと黙っているので、阿良々木は、やっぱり早かったよな、ごめん、と謝ってきた。

 だが俺にとっては、早いとか遅いとか。

 そういう問題じゃなかった。

 そんなの、認められるか。

 そんなの、認めてしまったら――俺は、優補を否定することになる。

 お前の傍にだって、忍野忍がいるだろうに――!

 

「いいんだ。僕だって認めきれてないことだし……ただそういう考えも知ってもらいたくて。

 話を戻すけど、偽史も正史も紙一重だ。ひたぎ曰くだけど。過去のことは信じてしまって何が悪い? 嘘でも本当でも、信じてしまうのが僕たち人間(、、、、、)だろう」

 でも、忘れないでくれ――と。

 忘れられるはずもないのに、そうしてくれる犬もいないのに、そもそも犬の存在もないのに、彼は。

 

「怪異に関わってるからって、意味不明なもんを全てそれと決め付けるな、早とちりすんなってことだ」

 そんなことを言って、会話を終えるのだった。

 

 

 

 それから、すっきりしない気持ちで、俺は眠ることもできず、ただリビングに座っていた。

 優補にはどう話したものか。

 隠し事が嫌いとはいってもまあ、あいつは何も言わなくても分かってるんだろうけど。

 今回は本当に、何もできなかった。何もできなかったし、何も分からなかった。何も解決していないし、何の進展もなかった。

 

「でも、幸音くんの心の支えにはなったはずだよ」

 いつの間にか隣にきて座っていた優補が言う。

 

「何も頼れなくて、曖昧な妄想(、、)に浸っていたあの子の隣に、しょーじは今、寄り添っているんだよ」

 お前まで言うのかよ、優補。

 それはおまえ自身を否定する言葉だぞ――!

 

「うん」

 彼女は頷く。

 

「私も、しょーじの妄想じゃない」

 その台詞は。

 言葉こそ違ったが、あの頃冬に、人魚と出遭った時に、聞いた台詞と意味は同じだった。

 

「幸音くんのことは大丈夫だよ。悪い子にはおしおきを――私のモットーだけど、それも悪い子じゃないなら必要なし。

 しょーじが傍にいるだけでも、あの子は強くなれる。揺らがない心を、保つことができる」

「俺は、」

 口に出したいことではなかったけれど、

 

「お前がここにいるって、生きているって、信じたいんだ」

 今、どうしても言わなければ。

 彼女がいなくなってしまう気がした。

 首に掛けた、欠片を握り締めて。

 ガキみたいに、俺は言うのだった。

 

「ここにいてくれ」

「うん」

 彼女は――優補は。

 頷いて俺を抱きしめてくれたのだった。

 海の香り。

 潮の香り。

 

 喜屋武幸音との出会いは必然ではなかったけれど、こうして、俺こそが前を向かなければならない真実に気付くことは、必然だったろう。

 気持ち悪いほど彼に何の疑問も抱かなかったのは。

 彼の力云々だけでなく、俺自身が、彼から目を背けていたからだろう。

 今回の一件は。

 喜屋武に、と言うよりも、俺にとって変わるべき何かを突きつけられた気がする、そんな出来事だった。

 

「しょーじが望むなら、いてあげる――私を信じ続けてくれる限り、私はここにいるよ」

 存在自体がないものだという。

 怪異。

 存在自体があってはならない、嘘で、偽者だらけの怪異(それ)

 けれど、その想いだけは嘘でなければいいと、そう願った。



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