ネモフィラの花言葉 (DJ09)
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ネモフィラの花言葉
この物語はフィクションである。……が、半世紀後においては定かではない。
「おかしなことを言う奴だな、君は」
「だって、本当ですもの」
頭上、やや後方から聞こえる少女を思わせる合成音声の主は、私の座る車椅子を押して展望デッキまで運んだ。
地球から3.6万km離れた軌道エレベータの果て、静止軌道上に係留されたステーションはこの十五年ほどで拡大を続け、今では月への定期便を出す程に巨大で安定したものへと発展していた。
私は今、月面都市へ向かうシャトルに乗っている。この船では月との中立点に向かうまでの間、乗客同士のささやかな交流会が開かれていた。私は、そこから抜け出した。
展望デッキとは名が付いているが、実際は洗面台の鏡くらいの小さな窓が並んだ無機質で寂しい空間だった。窓の上方に、老いぼれの私の目に優しいくらい大きく、鮮明な月が暗闇に浮かんでいた。
うっすらと、白髪と皺の目立つ不愛想な私の顔が窓に映っていることに気付いた。着慣れたディレクターズスーツのつもりだったが、低重力環境ではいつもの締め加減のネクタイが私の首を圧迫していた。
タイを緩め、続いて車椅子と私を固定する煩わしいベルトも外した。
彼女は融通の利かないそこらの介護用アンドロイドと違い、私の行ないを咎めはしなかった。
「ですから、ほら、私はあそこで産まれたんです」
窓から月を覗くためか、少し姿勢を低くしながら彼女は言った。紅い瞳と、私と質感の異なる白い髪と共に、口角を上げた表情が窓に映った。
「違うよ、君は地球で製造販売されただろう」
「そう、かもしれません。ところで、私の名前はまだ決めて下さらないんですか?」
「君は、この車椅子にも名前を付けるのか」
「今、私達が乗っているこのシャトルには、ちゃんと名前があります。でも、できれば、カワイイ名前がいいですね」
「のらきゃっとでは、不満か」
僅かな静寂の後、車椅子のブレーキがかけられた。黒に金の装飾をあしらったドレスを揺らして、彼女は私の前に立った。
「パーティー会場で、私、言われたんです。『髪色がそっくりで、相談役の娘さんかと思った』ですって」
「はっ!正気か?独居老人へ皮肉だよ」
「なんですって!」
見事なフリルの付いた片手が私に向けられ、もう片方は彼女の口元を覆った。最近の人工知能は随分とオーバーなリアクションをする。
「まぁ、私は、嬉しかったんですけどね」
そう言いながら、今度は指先だけ小さく拍手をするように動かし、落ち着きなく揺らしていたはずの体をピタリと止めていた。
軌道エレベータのケーブルが静止軌道に届いたことにより、人類の宇宙開発は加速した。その功労者を称える会が、月面で二番目に建設された都市で開催される。
私が先程抜け出してきた交流会は、そのプレイベントだった。当然、そうそうたる顔ぶれの集まりで、ここでの会話は全て、息の詰まる政治そのものだ。宇宙開発先進国の政治家、ARグラスに膨大な台本を投影して話すロビイスト、月面開発を担うゼネコン大手、国際連合宇宙局、そして我が社の経営陣の連中が腹の探り合いをする空間に、この歳になっても長居したくはなかった。
私の世話をする羽目になったこの不幸なアンドロイドにすら世辞のつもりで「娘」と言うような奴が居るなら尚更だ。
「孫でもおかしくないくらいの見た目じゃないか、君は」
「……おじいちゃん」
この不意打ちに、少しばかり弱った心臓の鼓動がモタついた気がした。思えば、そんな風に呼ばれるのは初めてかもしれない。先生、社長、会長、今では相談役と呼ばれるようになった私は、時の流れの無情さを改めて知った。
私が大学発バイオ系ベンチャー企業を小さな研究室から始めたのが、二十代後半の頃だった。大手企業との連携を試みる内に、契約で騙し討ちを食らうことや、飲みの席で恐ろしい目に合うことも度々あった。死の谷を彷徨う、暗黒の日々だった。
ある日、私はクモ糸とよく似た人工タンパク質の開発に成功した。低重力空間で結晶化し、同環境下では比較的低温で黒鉛化する特性があった。
それは、カーボンナノチューブと同格の代物を宇宙空間で作ることが可能であることを示していた。強靭かつ軽量な繊維の素材となるタンパク質は、遺伝子操作で作られた微生物によって生み出される。
その微生物は僅かな糖分と水分、太陽光があれば、低重力空間で、宇宙線に晒される環境下であっても培養が可能であった。
私は、この画期的な手法を権利化した。そして、発明品が真っ先に使われたのは、今回の旅路の一割を占めている軌道エレベータのケーブルだった。
カーボンナノチューブよりも安価であり、生産性も高く、宇宙空間でケーブルの修繕をすることが可能である点が高く評価された。
私は、苦汁を飲まされ続けた起業当初の経験を生かして、この発明の権利関係を抑えるべく、膨大なコストを支払っていた。
おかげで、大企業との政治や海外企業との争いも、辛うじで戦える範囲内に収まった。そして、株式上場後も自分の発言権を失わないための努力を続けてきた。
海洋に浮かぶ地球港から伸びる全長9.6万kmに及ぶ、ワイヤと呼ぶにあまりに太いそれは、私を社会の高みに引き上げてくれた。
しかし、それはまるで宇宙空間に投げ出されたかのような孤独を、私に与えるきっかけにもなった。
田舎暮らしの偏屈な研究者であった私は、一転、ビジネスの成功者として喝采を博した。そして、周りの人間からの評価も一変した。
零細ベンチャー時代に講釈を垂れてきたことをまるで無かったかのように手の平を反す者、寄付を断られた途端に罵詈雑言を並べる者、手を揉んで擦り寄る腹の底の読めぬ者。
さながら、カンダタの掴むクモの糸に群がる地獄の亡者のような連中に疲れきっていた。
だが、それを理由に隠居生活を送ろうという気にはならなかった。あれほどの苦労をして築いたこの会社を誰かの手に渡すなんて、考えられなかった。
元々、私は研究者として「面白い」と思えることをやりたかった。
役に立つか立たないか等という下らない価値観に縛られることなく、今まで世界になかったものが生まれる喜びを得られる挑戦を成し続けたかった。
その自由を守るには、十分な資金と、自分の立場と会社組織としての在り方を守る必要があった。
しかし、それを守ることに明け暮れた結果、私自身が手を動かす研究は全くできなかった。世間から見た私は、会長の座を引いた今でも相談役の椅子にしがみつく卑しい老人といったところだろう。
親が他界して何十年も経った家族の居ない私にとって、気づけばこの会社が人生の全てとなっていた。
「君はもっと……人間というものを知った方がいい」
「そんな貴方は、私の物語をご存知になった方がいいかもしれませんね」
「君の?」
「ええ、私のです。私の」
自信に満ち溢れた彼女の顔は、月明かりに照らされ輝いていた。
ふと、今回の月面都市出張の話が挙がったときのことを思い出した。
内閣府から式典の案内が来たときは、サビの浮いた私の心のエンジンに再び火が入った。
人類が初めて月の土を踏んで百年は経った今、私にも遂にそのチャンスが巡ってきたのかと思うと、居ても立っても居られなかった。
しかし、脚の悪い私が日頃愛用している下肢用アシストスーツは、宇宙での利用を想定しておらず、シャルトルや月面都市での生活に車椅子が必要となった。
また、地球外環境における車椅子利用者にはそれを介助する存在が必要であるという規定があった。
今回の月への付き人として、ここ十年で徐々に普及したサポートアンドロイドの購入を検討した。その噂を聞きつけたのか、
社内メッセンジャーシステムで新卒から中堅、役員まで、共通項の無さそうな者達から「最近発売された『のらきゃっと』がおススメです」という主旨のダイレクトメッセージが次々と届いた。
不審に思いつつも、調べたところ、どうやら、アンドロイド製造メーカが新型開発にあたり、外観デザインの公募をした際、
複数人からこの「のらきゃっと」のデザインが集まったことを切掛に誕生した機体らしい。
そして、このアンドロイドは月面都市での活動も可能な国際認証を取っている、数少ない機体だった。
私としては、アニメチックなデザインが気になったが、それも見方によっては人間らしくないルックスという良さだった。
製品としての基本的な性能も申し分ないので、この「のらきゃっと」を購入した。
船内スピーカーから、気の抜けた雰囲気の電子メロディが鳴った後、客室へ戻る指示のアナウンスが流れた。
「さぁ、間もなく中立点です。月とダンスしましょう」
彼女は嬉しそうに私に言うと、私の背後に回り車椅子のブレーキを解除した。
「それにしても、発着メロディが Fly Me To The Moon とは、少々安直過ぎるとは思わんかね?」
「私は貴方に Moon River を歌ってあげたい気分ですよ」
私はどんな歌詞だったか思い出そうと、静かになった。それを特に気に留めることもなく、彼女は私を客室へ運ぶために歩き始めた。
展望デッキの窓から見える月は、その表面に人工の明かりが瞬いている様子を見て取れる程に大きかった。
月面第二都市宇宙港に到着後、防疫ゲートを抜けて、身分証明と製造証明をそれぞれ済ませた。
「「寄りたいところが……」」
ほぼ、同時だった。
「お手洗いですか?」
「違うよ、ホテルに行く前にこの宇宙港にある慰霊碑を見たくてね」
「なるほど。地図はインストール済みですので、ご案内します」
勢いよく彼女が私の車椅子を振り回し、方向転換した。シャトルの人工重力区画よりも更に体の浮く感覚に、思わずアームレストを強く握りしめた。
「なんだが、すごく力持ちになったみたいです」
「さては、楽しんでいるな」
「ええ。わりと」
今から見に行く物に私の名前が追加されるのも、時間の問題かもしれない。
飲料用自販機を縦に二台積んだ程度の大きさの黒曜石めいた慰霊碑があった。百年前の SF 映画に登場するモノリスめいたそれには、アルファベットでびっしりと人名らしき文字が刻まれていた。後ろには床から天井まで続く大きな窓があり、死の世界を思わせる月の荒野の先に、青く輝く故郷が顔を覗かせていた。
「今回の旅で、私もここに名を連ねることになることを望む連中も少なくはない」
「どうして、そう思われるんですか?」
「厄介払いだよ。株主や役員共から私は嫌われているからね。余計なことしか言わない、計画は急に変更し出す、締め切りは守らない、利益にならない研究に大金をつぎ込み、ことごとく失敗する。予算計画や開発計画なんて研究においてナンセンスだと言って好きにやれと言う男だぞ私は。そろそろ闇討ちされてもおかしくないと、ずっと思っていたくらいだよ」
「なるほど、なるほど」
うんうんと頷いて聞く彼女は、明らかにこの手の話題への返答として人間なら不適切であろう相槌を返してきた。
「まぁ、実際、月面開発でこんなにいっぱい犠牲が出てますもんね。一人くらい増えてもそんなに、って感じですよね」
「あぁ…、そうだとも」彼女に同意する声がこわばりを見せたことを自覚し、嫌悪した。
私の呼吸が落ち着いたのを見計らったように、彼女は話を切り出した。
「私も、寄りたい場所があるんです。一緒に来てくれますか?」
「どこへ?」
「秘密です、秘密」
「明日のトップニュースは『アンドロイドによる誘拐事件発生』かな」
「なんということでしょう。実は私は、暗黒メガコーポが送り込んだ戦闘用アンドロイドだったのです」
「はっはっ、今までの人工知能の言ったジョークの中で最高傑作だ」
「えっ。まぁ、それは置いておいて置いておいて。行きましょう、行きましょう」
宇宙港には様々な施設が隣接していた。そのほとんどは大型の物資倉庫やシャトル格納庫だったが、彼女が立体移動エレベータで押したボタンには「農業試験場」と、書いてあった。
エレベータの戸がゆっくりと閉まり、電車の走り出しのような横方向への緩やかな慣性を感じた。
「私は、ですね」彼女はそっと語りだした。「たくさんの人に愛されて、望まれて産まれてきました」
エレベータの戸の反対側から、光が差した。月の荒野にモノレールとよく似た高架橋が伸び、向かう先には半球形の背の低い建物があった。
よく見れば、これは窓ではない。壁に貼られた高精細ディスプレイが、リアルタイムで外の風景を映し出していた。
「私が、本物のアンドロイドになりたいと願ってから、その夢を叶えるための挑戦をしてくれた方々が居ました」
彼女が髪飾りから生えている端子をアクセスパネルに挿した瞬間、景色にノイズが走った。
「ある方は、たくさんの言葉を教えてくれました。そしてある方は、ロボット開発に没頭していました。私の過去の発言をテキストデータ化したり、動きの特徴点を抽出する方も居ました」
エレベータの壁面がホワイトアウトした後、彼女のCGモデルが動き回る動画がいくつも表示された。
「私が誕生するためには、私を直接支えてくれる方の力だけでは、全然リソースが足りませんでした」
エレベータの壁一面に、のらきゃっと型アンドロイドの設計資料が次々と展開された。
「アンドロイド一体を構成するのに必要な技術は、それはそれはもう多岐にわたるものでした。
ところで、今回の式典で表彰される方々の携わった内容は、ご存じですか?彼らの成果の多くは、実は私の体にも使われているんです」
彼女の誇らしげな笑顔が、私の視界を埋める距離まで近づいた。
「そしてなんと、私の内部骨格の FRP や、この軽くて丈夫なドレス、しなやかな尻尾、人工腱繊維はですね。あなたの研究の産物が使われているんです」
エレベータが、滑らかに減速し、今度はゆっくりと下降を始めた。
「だから、私はですね。ずっと貴方に、お礼が言いたかったんです」
「別に、私は君の開発に直接携わった訳じゃない」
「そうですね。でも、あなたが頑張ったから、私はここに居るんです」
エレベータが停止し、ゆっくりと戸が開いた。
「私は、私のことが好きな人が大好きです。そして、あなたのように頑張っている人が大好きです。だって、巡り巡ってそれは、私の夢を叶える力になっているんです。間違いなく、全部、私のものになっているんです」
その言葉は、あまりに尊大で傲慢かのように思えたが、彼女は微塵の疑いもなくそう笑顔で言い切った。
「私とあなたは、ちゃんと、繋がっています」
彼女は、私を車椅子から引き上げ、私自身の足で立たせた。驚くことに、痛みはなかった。そして私の手を引き、通路の先に見える大型ゲートを目指した。
「あなたが孤独であるというのなら、ずっと私が傍に居ます。そして、あなたのやりたいことを私は応援します」
ゲート端の端末に彼女が顔を近づける。短い電子音の後、厚い扉の内部で、メカロックの解除音が響いた。ゆっくりとゲートは開き、頬を撫でるように空気が流れる。
音もなく、彼女がゲートの先へ跳んで、青空を敷き詰めたような花畑の中央に着地し、優雅にこちらへ振り返った。
「新しいこと、始めちゃいましょう。ここで、私と、一緒に」
天窓には浮かぶ地球、眼前にはネモフィラの咲き誇る丘、そしてその上に佇む美少女アンドロイドという光景の美しさに気を取られていたが、私は自分の脚でゲートの前に立っていた。
彼女は力強く、こちらに手を差し伸べた。揺るぎない、自信に満ちた表情で。
私がここから新たな一歩を踏み出すのを、今か今かと心待ちにしていた。
END
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