report:超光速の粒子とその行方 (Patch)
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report:試薬による負荷の可視化と不可視の可能性
アグネスタキオンはウマ娘に可能性を見出し、日本ウマ娘トレーニングセンター学園に在籍し、可能性を追い求める研究を行なっている。
「……服を着てください。」
呆れたような、戸惑ったようなそんな感情が読めない声が私のラボに響く。
「君かぁ、珍しいこともあるもんだねぇ、わざわざこちらに出向いてくれるとは。」
「お友達が、あなたのラボに行きたがったので……。」
お友達、とは言うがここには私と彼女しか居ない。
「また、君のお友達か。君のそのお友達という者に是非ともお会いしたいものだよ。虚言にしてはお友達の行動に法則性があり、真実にしては実態が無い。妄想や防衛規制ではなさそうだし、さながらひとりのウマ娘がいるみたいじゃあないか。やはり脳を__」
「……服を着てください。」
眉間にシワを寄せ、眉と目が近づく。こうなると彼女は強情だ。普段はおとなしく、コーヒーの香りと活字を友とするような存在だが、やや傍若無人なところがある。私が折れるしかないのだ。
「女の体はそんなに嫌いかい?」
「…………」
椅子にかけてあった白衣を手に取り、羽織る。ごわついた肌触りがなんとも不快だ。
「コーヒーでもどうだい?君が来たときのために淹れておいたんだ。」
「…結構です。じゃあ、私はこれで。」
彼女が茶封筒を手渡してきた。それをポイと机に投げる。
「おいおいもう行くのか?気にならないのか?私が裸だった理由とか」
「…どうせろくな理由ではありませんので。」
彼女がくるりと回れ右をする。滑車が音を鳴らし引き戸が閉じられる。
コーヒーの泡が弾ける音がした。
外からは溌剌とした掛け声が響く。
おそらくではあるが、彼女の言うお友達ももうここには居ないのだろう。
「やれやれ」
コーヒーの香りだけがこの部屋に残された。彼女の香りだ。黒く艶のあるその水面は、彼女の髪のようであり、彼女のレース中の姿を思わせる。ゆったりとしながらも誰も寄せ付けない、目が覚めるような末脚を見せる。側から見ればこそ素晴らしいが、共に走ればその強さに恐怖することもあった。彼女こそ逸材であり、私の研究には必要不可欠な因子であった。
であったのだが、
「やれやれ」
もう一度ひとりごちてみる。ラボ、研究と大それたことをのたまってはいるが、私はこの日本ウマ娘トレーニングセンター学園、通称トレセン学園に籍を置くひとりの生徒でしかない。この学園は私たち「ウマ娘」を国民的エンターテイメントである「トゥインクルシリーズ」というレースの選手として教育・指導する施設である。この学園に籍を置く以上、走らねばならない。
仄暗く光るつまさきが、それを許さないことは理解していた。
「彼女のことは好きなんだが……どうしたら私を好きになってもらえるかねぇ……」
すっかり冷めてしまったコーヒーを啜る。
やはり、コーヒーは嫌いだ。
マンハッタンカフェ、かわいいですよね
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report:蛍雪の功は蛍のように
彼女と親しくなりたいので、普段飲まないコーヒーまで用意したのだが、返答はそっけないものだった。
ひとりラボに残された私は、自分の研究成果を見つめ直すことにした。
私たちウマ娘とヒトでは運動性能に大きな差がある。前提として、私たち哺乳類をはじめとする多くの生物は筋細胞を繊維状に束ねて筋肉とし、これを収縮させることで運動している。筋力はこの筋肉の断面積に比例して大きくなる。
しかしながら、ヒトとウマ娘を比較した場合この前提は意味を為さない。筋肉の断面積はヒトと変わらなくとも、ウマ娘達の運動性能はヒトの遥か上をゆく。一般的に”筋肉“と呼ばれ、身体の運動を担う随意筋のみならず、消化器官の蠕動や心臓の拍動など内臓の運動全般を担う不随意筋も例外ではない。
学園内のカフェテリアでは大量の食料を尋常ではない速さで平らげるウマ娘の存在がよく見られるが、それもこのウマ娘の体であるからこそ可能なのだ。
運動能力ではウマ娘は圧倒的な力を誇るが、ピークを迎えてしまえば最後、あとは衰退の一途を辿る。このピークは私たち中高生のうちに訪れることがほとんどである。
ウマ娘はこの短い期間を自分の命の限り走り抜ける。だからこそ彼らは、彼らとそう大差ない体で何倍もの速さで駆け抜けるウマ娘たちの姿と可能性に夢を見る。
そしてウマ娘は、新たなる夢と可能性を継承し後世へとバトンを託す。
「あなたの夢、私の夢は叶うのか」
トゥインクルシリーズ 宝塚記念の常套句である。
このレースは一年の上半期を締めくくる、最も格式の高いGⅠレースであるとともに、人気投票によって出走するウマ娘を決める特別なレースだ。故にグランプリとも呼ばれる。
私もこの体に夢を見た。しかしながら、その夢は叶いそうにない。自ら試作した試薬によって、つまさきが光っている。ここに、重大な筋負荷がかかっているという証である。
しばらく見つめていたら、光るつまさきがぼやけて滲んだ。ゆらゆらと揺れながら黄緑色に光るそれは、まるでホタルのようで美しい。なんだ、私にも殊勝なところが残っていたんだな、とひとりで嘲ってみせた。笑う者は1人も居ない。
日が傾き、夕日が窓から差し込む。安らかで暖かでありながら一日の終わりを感じさせる光は、私の仄暗く光るつまさきと対照的でありながらも、どこか似ている。外からはまだ溌剌とした掛け声が聞こえていた。
つまさきの働きはウマ娘の運動能力において重要な役割を担う。芝の敷かれたターフの上でも、柔らかい砂が盛られたダートであってもそれは変わらない。
ウマ娘の脚力はヒトのそれを遥かに凌駕する。ヒトが陸上競技で用いるようなスパイクでは耐久性が低く意味を為さない。そのため、専用の靴のつまさきにアーチ状の金具を取り付け、これを着用してレースに挑む。この金具はウシをはじめとした有蹄類の蹄に似ていることから「蹄鉄」と呼ばれている。
この蹄鉄部を、芝の上では地面に突き刺すように蹴り、砂の上では砂を握るようにして掻くことで推進力を得る。
私はそれができなくなってしまうのだ。自ら作った試薬によって、それが証明された。私はただ理由もなく裸になる女ではないのだ。
夜の帳がすっかりと降りて、溌剌とした掛け声は聞こえなくなっていた。
また、つまさきの光がぼやけて滲む。あぁ、ダメだと思ったが、今回は抑えられなかった。
私は大声を上げて泣いた。私も、夢見る少女だったんだなとひとりで嘲ってみた。これには少し笑えた。
説明多くてごめんね
タキオンかわいいよね
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report:屈折と反射を見つめる目
だが自らの研究により選手生命が永くはないことを知る
思い切り泣いた、嘲ってもみせた
でも、走り抜けなければならない
トゥインクルシリーズには「足を使い果たす」という慣用句がある。
この現象はトゥインクルシリーズのレースの性質に起因するレースにおける致命的なミスである。
現在のレースでは最大18人のウマ娘が同時に出走する。勝敗は至極簡単であり、誰が先にゴールラインを切るかである。タイムアタックではない。そのためレースの最中ウマ娘はさまざまな駆け引きを行うことになる。この駆け引きこそが勝利を掴むために重要なのだ。いかに素晴らしい逃げをうっても、直線で差し切られては意味がない。いかに素晴らしい末脚があろうと、逃げるウマ娘を捕らえきれなければ意味がない。この駆け引きの中で、焦り取り乱したウマ娘は自らの走りが出来なくなる。そしてレース終盤、皆がラストスパートをかける中、前へ出れずにずるずると後退していく。
これが「足を使い果たす」という現象である。
ウマ娘として、私はすでに足を使い果たしてしまっていたのだろう。夢にあてられ、はるか先を逃げるそれについて行こうと、一生懸命に駆けていた。だがそれも足を使い果たした私にはもう追いかけることすらかなわない。ずっとずっと遠い手を伸ばしても届かないところ、影も姿も見えない遥か彼方へと消えていった。
あの試薬の一件から、他のウマ娘の背中を追うことはできないという自覚もあった。
「退学勧告ねぇ……」
コーヒーの香りとともに持ち込まれた茶封筒の中身である。走れない、走らないというウマ娘はこのトゥインクルシリーズに不要なのだ。
学園ではトゥインクルシリーズ出走に向けてトレーナーを雇い、チームを組んだり、個別で指導したり、とさまざまなサポートを行なっている。トレーナーによるスカウトを受けたこともあったが、研究を阻害されることは避けたいと思い断り続けていた。それも良くなかった。トゥインクルシリーズへの参加意思が無いとお上の目には映ったらしい。
このまま学園に在籍することになれば、走ることは免れない。ウマ娘の足の故障は命に関わることもある。そして研究に充てられる時間は大幅に減るだろう。
「ふぅ……」
諦めはついていた。ウマ娘の可能性の先にたどり着くのは私でなくとも良かった。そもそも私は学園の鼻つまみ者なのだ、誰にも迷惑をかけずに去り、研究が続けられればそれで良い。
冷めたコーヒーが青白い月明かりを反射する。
そろそろ服を着よう。裸に白衣を羽織るだけでは肌寒い5月の夜。
つまさきを見ても、もうすでに光ってはいない。
コーヒーを飲み干す。ひどい味だ。
滑車が耳障りな音を立てて引き戸が開く。金色の目がふたつ、こちらを見つめていた。
「…門限、過ぎてますよ。寮長さんがあなたのことを探してます。」
「おや、また君かぁ。どうやら私は好かれてしまったようだ。」
「……」
精一杯おどけてみせる。慰めるかのような静かな沈黙がここにあった。
やはりコーヒーは嫌いだ。
研究者こそコーヒー飲んでそうなのに子ども舌のタキオンかわいいよね。
最近私も紅茶とコーヒーが止まりません
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日記
その中身は退学勧告の書類であった
自身の身の振り方を考えていたアグネスタキオン
すっかり夜が更け肌寒くなってきた頃
またマンハッタンカフェが現れた
その日に書かれた日記
今日はあの人のラボに行きました。
私が行きたかったわけではなく、なりゆきで行くことになってしまいました。
先生から封筒を渡されて、あの人に渡すように言われたのもありますが、友達が行きたがったのでついていくことにしました。正直行きたくなかったです。
カフェテリアであの人の陰口を耳にしました。
いつも授業に居ないくせに、テストはいい成績だからズルをしている。とか、
学園に入学できたのは名家の娘だからだ、とか
本当は足が遅いからみんなの前で走れないんだ、とか
怪しい研究をしているのは、バレないようにドーピングするためだ、とか
それを聞いた友達はすごく怒っているようでした。
友達はいつもはやさしいいい子なのですが、怒るととても怖いのです。暴れ始めると手がつけられないのです。
私はあの人がそんなズルをする人じゃないのを知っています。
でも、弁明することもできず、私は怒った友達をなだめながらただ見ていることしかできませんでした。
それが何よりも嫌で、悔しいと思いました。
だから、あの人と顔を合わせるのが嫌でした。
友達は、怒りが収まるとあの人のラボに行きたがりました。
ひとりでラボに行くのは嫌だったので、友達についていくことにしました。
友達は足が速いので、置いていかれてしまわないように走りましたが、やっぱり追いつけませんでした。トレーニングをもっと頑張りたいです。
ラボに着くと、あの人は服を脱いで鏡を見つめていました。
綺麗だな、と思いました。
ウマ娘は容姿端麗である。とよく言われますが、私はあまり綺麗ではないし、おばけと間違われることもあるので羨ましいです。
あの人はつまらない冗談しか言いませんが、私と話すときは赤い目が嬉しそうにきらきらと光ります。
だから、噂にあるような悪い人ではないです。
寮に戻ると、栗東寮の寮長さんから連絡が来ました。
どうやらあの人が部屋にいないそうなのです。
あの人はカフェテリアで聞いたような悪い噂がながれる人です。誰も自主的に探そうとはしていないのでしょう。
私は美浦寮なのですが、あの人の行方を誰も知らないからと、探すのを手伝うことになりました。
結局のところあの人はラボにいました。
扉を開けると白衣を羽織ったあの人がゆっくりとこちらを振り向きました。
あの人はつまらない冗談しか言いませんが、私と話すときは赤い目が嬉しそうにきらきらと光ります。
でもこのときは違いました。海に沈む夕焼けのようにゆらゆらと、水面のように揺れて光っていました。
とても綺麗でした。
でも私はまた、ただ見ていることしかできませんでした。
日記で1000文字って長くない?
読みづらかったら飛ばしていいよ!
マンハッタンカフェを「あまり綺麗じゃない」とか言ったやつ、うまぴょいしてやるからな
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report:大質量、それによる歪み
自分の身の振り方を考えているうちに夜は更けていた
彼女が飲まなかったコーヒーを飲み干したが
やはり好きにはなれなかった
彼女がそこに立っていた。
私を見つめるふたつの小さな月が、少しだけ左右に揺れた。きっと私は相当にひどい顔をしていたんだろう。ごまかそうとしても、彼女はそういうことが分かってしまう。だから彼女はこうして黙っている。それが彼女の優しさの形なのだ。
「…まだ服を着ていないのですか。」
「研究がちょうど佳境でねぇ、汗ばんでしまったから着るのが億劫だったんだよ。」
体についた水滴は汗などではない。おそらく彼女もそれは理解しているのだろう。
「なぁ、着るのが面倒だから、君が着せてくれないか?」
「……」
彼女の手が私の制服に伸びる。彼女は優しいのだ。
「冗談だよ、さすがに私にも恥じらいというものくらいあるさ。」
「…あなたのそういうところ、嫌いです。」
彼女が少しだけ笑ったような気がした。私は微笑み返すことができただろうか。
制服というものは合理性に欠く。所属をあらわすという意味では有用であるかもしれない。だがそれでは制服の形式や材質を他校と異なるものにする必要がある。洗濯をするには型くずれや色落ちなどさまざまな配慮が必要であるうえに、1着が非常に高価である。運動をするには適さないし、これを着用して就寝するなどもってのほかだ。生地も硬く重いものが多い。その日は特に重く不快であった。
校舎の外に出ると、昼間の賑わいが嘘のように鎮まり、学園は眠っていた。優しい月明かりが静かに照らしている。
夜だというのに、彼女は制服を着ていた。風が吹くと彼女の制服からはかすかに汗とコーヒーの香りがした。彼女の香りだ。
「走ってきたのかい?」
口を開いてすぐ無粋なことをした、と後悔した。10秒ほどの気が遠くなるような長い時間を経てから、はい。とだけ返事があった。
「なぁ、少しだけ歩かないか?」
空の月には雲がかかり、風が彼女の髪を揺らした。
「やはりすこしだけ汗ばんでしまってね、涼みたいんだが君もどうだろうか?」
彼女がこちらを見る。金色の目が月明かりを反射している。
「なに、君が私を探すハメになったのも、君が走るハメになったのも、元をたどれば全て私のせいだ、君はそちらの寮長に怒られたりなんかしないさ。もちろん私は寮長に怒られるだろうが、もう門限なんてとうの昔に過ぎているんだ。少しくらい遅れたって大丈夫だろう?」
どれだけの時間が経っただろうか、私にはわからない。私には返事を待つことと、寮へと一歩二歩、遅々とした歩みを進めることしかできない。
三歩目を踏み出そうというときに、はい。とだけ返事があった。
30分という瞬きをするような時間でしかないが、私は彼女と夜の学園を歩いた。
アグネスタキオンが1話からずっと服を着ていないのですが、下着姿なのか全裸なのかはご想像にお任せします。
私はどちらも好きです。
マンハッタンカフェの汗は絶対にいいにおいがします。
マンハッタンカフェはいつもコーヒーの香りを身にまとっていますが、カフェインジャンキーではありません。一気に飲むとお腹がいたくなるため、ゆっくり飲むせいで常にコーヒーを飲んでいるように見えるだけです。
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report:公転と自転、惑星と君
もう既に門限は過ぎており、私を迎えに来たようだった。
帰路につく途中、少し散歩をしないかと言ってみた。
とても短い間であったが、充実した時間だった。
翌朝の私はひどい顔をしている。という仮説は想像以上の成果となって鏡に写る。
目を激しく擦ったからかまぶたの粘膜が腫れており、角膜がいつも以上に充血している。髪はいつも通りであるが顔はくっきりとシーツの皺を転写しており、よだれの跡というおまけまでついている。
こういうときは紅茶をいただきたい。茶葉から煮出したものがいい。暖かければ暖かいほど溶解度が上がる。角砂糖はいくらあっても良いものだが、ミルクとレモンは結構だ。温度が下がってしまう。
カフェテリアに行くのは億劫だが、ラボに行く気にはなれなかった。きっとコーヒーのニオイが充満している。
嗅覚というものは厄介だ。なんとかと言った小説で紅茶にマドレーヌを浸したら、その香りで少年時代を思い出す。なんてものがあった。
あながち間違いではない。嗅覚の受容体は嗅細胞、嗅球を介して大脳周辺縁系に繋がっているという。感情を司る扁桃体や記憶を司る海馬などの周辺に位置すると言われており、嗅覚と記憶にまつわる臨床実験は数多く行われている。
言えることがあるとすれば、紅茶にマドレーヌを浸したくはない。思い出したい記憶などないのだ。そして、バターの浮いた紅茶は飲みたくない。マドレーヌよりもスコーンの気分だ。ジャムをたっぷりと盛りたい。ジャムならば、紅茶に浮かべても支障はない。
カフェテリアは学園内でも特に賑わう人気のスペースだ。『食堂』とは異なり、広々としているが内装は小綺麗にまとまっている。名前の響きも幾分かマシだ。
空き時間には暇を持て余したウマ娘が集まる。トランプなどのカードゲームに興じたり、チーム会議を行う姿も見られる。カフェと名がある通り、バイキング形式ではあるが食事も可能だ。特徴的なのは、これらが全て無料で利用できるところだろう。目の前で芦毛のウマ娘が山のような唐揚げを頬張っていることから、学園予算の大部分がここの維持・運営にかけられていることが伺える。
カフェと名がある通り、ここにコーヒーサーバーがあることもまた必然だった。紅茶はティーバッグしか置かれていないのに対して、黒いコイツはカラフルなドリンクサーバーの真ん中に我が物顔で陣取っている。
紅茶を得るためにはコイツから湯を奪取せねばならない。鹿の糞を炒って濁った泥水を出すしか能がないコイツを操作してお湯を頂戴しなければならないことと、ボタンをひとつ押すだけのことを嫌がる自分に気づいたことがまた屈辱的であった。コーヒーサーバーの放つニオイは精神的に負担であるとして、紅茶サーバー設置の嘆願書を生徒会に提出しよう。
余計なものは置いてあるくせに、私のお気に入りのいちごジャムは品切れになっていた。ラズベリージャムでは酸味が強い、マーマレードは苦くて食べられない。ブルーベリージャムは色が好みではない。クロテッドクリームとかいうバターもどきは味がしないし甘くない。
スコーンをそのまま食べるわけにはいかないので、仕方なくフィナンシェという菓子を手に取った。
ティーバッグの中で茶葉が広がると、えも言われぬかぐわしい赤い液体が抽出される。歴史上を生きた先人たちがこれを追い求めて航路を切り開くのも頷ける。見た目も美しい。薬効もあり、何より美味である。
口に含むと、目の覚めるような甘みと春風のような香りが脳を走り抜けた。煮出したものでないことを除けば、この茶は有史以来の極上のものだろう。
「ん〜〜〜!」
血液に乗って糖分という幸福の栄養素が満たされる。多幸感に少しだけ声が漏れたが、恥をかかずに済んだ。前の机に座っていた芦毛のウマ娘は6回目のおかわりをもらいに席を立っている。
角砂糖を3つカップに放り投げ、紅茶を口に含む。わたしも淑女のひとりであるから、音を立ててすするようなことはしない。火傷した。
フィナンシェをかじると、また角砂糖を3つ放り込み、紅茶を口に含む。フィナンシェはあともう二つほど取りに行こう。
幸福のルーティンの裏で機械の動く音がした。すぐに水を注ぐ音がして、少し遅れて彼女に似た香りがした。振り向いてみたが、彼女はどこにも居ない。ほんの少しだけ、ラボに戻りたいと思った。あそこはおそらく彼女の香りで満たされている。
手元に視線を落とすと、私のカップには赤い紅茶が注がれている。水面には丸い電灯が金色に映る。
赤い紅茶は夕焼けのようで、金色の電灯は満月のようだ。夕焼けのなかに時間を間違えた金色の満月が浮かんでいる。可笑しい。このままでは満月が太陽を追い越してしまう。
カフェテリアにはコーヒーがある。満月は夕焼けの中に浮かばないし太陽より速く沈まない。これは必然だろう。
月に雲がかかり、風が彼女の髪を揺らすのであれば、少しだけ彼女を独占したいと思うのも必然ではないだろうか。
紅茶にフィナンシェを沈めてみる。正直なところ、マドレーヌとフィナンシェにどのような違いがあるのかわからない。ふたつとも甘い洋菓子であるということは先ほど知った。
カップを覗き込む。フィナンシェのバターが溶けてカップに浮かぶ。底に沈んだ砂糖が舞い上がり、金色の月に白く雲がかかる。
昨日の風景を思い出し、カップに写る私が笑う。そのとき、跳ねた私の髪が揺れた。
百合じゃない設定なのにどんどん百合百合してきた…
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report:光速度の絶対
気分を変えるために紅茶を飲んだ。
昨日のことを少しだけ思い出してみた。
「やはり学園に残る気はないのか。」
早朝のカフェテリアに学園の生徒会長が直々にお出ましである。
前の机に座っていた芦毛のウマ娘は12回目のおかわりでようやく満足したらしく、すでに立ち去っていた。
ゆっくりカップを置くと、白磁同士がぶつかる音がした。紅茶はもうない。溶け残った砂糖だけがカップの底に残っている。
この学園は全国津々浦々から生徒が集まり、凄まじい競争倍率を誇る国内随一のウマ娘学園である。しかしながら、華々しい輝きを放ってはいるものの実情としては残酷なもので、トゥインクルシリーズへの出走が在籍の絶対条件である。自由な校風と文武両道が謳われてはいるが、怪我、故障、精神的疾病、家庭内の事情などで競争能力を喪失した状態での在籍は基本的に認められない。猶予こそあれ、成績不振者であれば退学処分は免れない。
子供の戯れのような学術試験の成績によって猶予を頂いてはいたが、私はそれを全て使い切ったということだ。
「トレーナーのスカウトにもウンザリしていてね、実験材料にもならない哺乳類に用は無いよ。学園内で大きな問題を起こしたつもりもない。せいぜい門限を破ったくらいか、私はここを出て研究に没頭できる。学園は私より優秀な生徒を編入させられる。これはまさに__」
「僥倖、などと寂しいことは言わないでくれよ。」
強い語気とは裏腹に、耳が垂れ目尻が下がる。
現在の生徒会長は「トゥインクルシリーズに絶対は無いが、このウマ娘には絶対がある。」とまで言われる。史上初の無敗でクラシック3冠を制覇し、春秋シニアクラス3冠を含めて7冠を達成した生ける伝説だ。この栄誉を手にしても研鑽を積む姿は、生徒の正しき道程を照らす光そのもの。全ての生徒の代表にふさわしい。
絶対という不変の存在が私には眩しく、目障りでしかなかった。
「私と一度走ってくれないか。」
去り際に一言言われた。絶対の速度を誇る会長である。生易しい走りが許されるものではない。勝てるものではないとは思うが、彼女は絶対に勝てる勝負はしないし、絶対に勝てない勝負はない。
「いい返事を期待しているよ。」
しょうがない、考えておこうと返すと、会長の頬が緩む。
会長の親切を身をもって実感する。空き教室を勝手に借用しているのが許されているのも、一度も走らずに学園に在籍できていたことも、おそらく何か手回しがあったのだろう。学園の光は私のような日陰者にも平等に手を差し伸べる。そして誰しもが輝けるという可能性を信じている。
ローファーが床とぶつかり快音を鳴らす。少しずつ遠ざかるそれはぴかぴかに磨き上げられていた。私のものはつま先に大きな擦り傷があり、砂を被ってくすんでいた。
ティーカップの砂糖を匙ですくって舐める。タンニンが沈んでいるようで少しだけ苦い。
レース場面が書けなくて展開が伸びに伸びている
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report:私の中の不安定元素
退学の意思を伝えた。
生徒会長から、一緒に走らないかと誘われた。当たり障りのない答えを返すと彼女は嬉しそうな顔をして去っていった。
食事というものは非常に面倒である。一刻を争うという場面に白い皿の上に置かれた肉をナイフとフォークでお行儀良くつついてちまちま食べる、なんてことは馬鹿げている。我々には文明の利器があるのだ。いや、文明の利器など無くとも我々には高度に発達した手がある。それを使えばいい。
ミキサーの電源を止め、中身を飲み干す。サラダチキンというものを入れてみたが失敗だった。サラダでチキンという矛盾した名前を面白がったのがいけない。臆病者サラダという名前に腹を抱えるほど笑った。
サラダというのだから植物であるのかと私らしくない間違いをした。よく見ればわかることだが、それは鶏の筋繊維であることに気づかなかった。塩水で茹でられているのだろうか、野菜の苦味を消すことは慣れたが、サラダチキンを入れてしまったことで甘みの中に塩味が混ざる。次は甘味料を増やそう。
ラボは未だ彼女の香りで満たされていて、猫の絵が描かれたマグが転がっていた。中には茶色のシミとコーヒー豆の粉末がへばりついていた。
授業中というものは退屈の極みだ。私のラボを訪ねるものがいない。もっとも、来るといえば彼女くらいなのだが。
おおかた私のデータはとり尽くしてしまった。私の足の故障が避けられないものとなった以上、私の体を被験体にするのも建設的ではないだろう。
彼女にでも頼み込んでみるべきだろうか。おそらく無理だろう。何せ純粋な善意で提供したコーヒーでさえ拒否される。怪しい色をした試作品など服用してくれるわけがない。わざわざ買ったコーヒー豆も、猫の絵が描かれたマグも、かなり値が張ったコーヒーミルも無用の長物と成り果てている。机の上にあるそれは、昨日も使ったはずではあるのだがうっすらと埃が被っているように見える。隣には新品の靴が置いてあった。
終業の鐘が鳴ると、私はいつもコーヒーを淹れる。椅子に腰をかけてしばらく、笛付きのやかんが元気に鳴る。それと同じくして彼女の香りが漂ってくる。
「おやぁ?来ると思ってたよ、ちょうどコーヒーを淹れたところだ。飲んでいってくれたまえ。」
いつも通り、ラボの扉が開く。
いつも通り、彼女が扉の前に立っている。
「…退学…するんですか?」
冷たいものが内臓を走る感覚が分かる。これが肝が冷えるということだろうか。先人の残した比喩や慣用句に舌を巻く思いだ。
「おぉ!君は私の退学を惜しんで泣いてくれるというのか!なんとも美しい青春物語だ!」
私は心にもないことを言って、虚勢を張っていた。何故なのかはわからない。この心理的運動は研究対象にするべきか、考察の余地がある。
「…いいえ。」
彼女の眉間にシワが寄り、目と眉が近くなる。彼女の強情になるときのアレとは少し違う。眼光が鋭くなり、頬が紅潮した。体温と脈拍数も上昇しているようだ。
「…あなたのような才能を失うのが惜しいと思ったんです。」
嬉しいことを言ってくれる。彼女はいつだって優しく正直だ。しかしながらこの脚では彼女の優しさに報いることができない。だからこそ私はこうして彼女の好物を作って待っているのだが、ひとときも口にしてくれたことはなかった。
「……今朝、生徒会長と話をしてね、一度だけ走ることになったんだ。その後にまたいろいろと決まるらしい。」
何かはわからなかったが、弁明をしなければならないという使命感があった。嘘はついていない、彼女は聡い女性だからだ。だが私は取り返しのつかない約束をしてしまった。
「…そう、ですか。」
彼女の顔が穏やかになる。いつも通りの強情な彼女だ。
「そうだ、コーヒー!今日は飲んで行ってくれないか!?変なものは混ぜちゃいないさ。」
「…結構です。」
彼女の眉間にまたシワが寄る、しかしながら先ほどのものとは違う。眉尻が下がっている。困ったような悲しいような顔で、目が泳ぐ。
一生ぶんの沈黙を味わった気がした。ならば私は第二の生を歩んでいるのだろうか、止め処ない無駄な思考を終わらせたのは彼女の言葉だった。
「…あなたのコーヒー、不味いんです。…………普通、挽いた豆を直接カップに入れたりしません。」
「なんだって!?!?」
なんて失礼なヤツだ。椅子から立ち上がる。
机が揺れて、少しだけ泥水がこぼれた。
このあとめちゃくちゃコーヒー淹れる練習した。
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嘆願書
彼女には退学勧告という処分が下っている。
生徒会で会長職を務める私としては、誰もが輝けるトゥインクルシリーズの運営をしていきたい。
私はアグネスタキオンに対する処分に異議を申し立てる。
(文章中に出てくる資料や画像はありません)
嘆願書及び退学届
嘆願
日本ウマ娘トレーニングセンター学園所属生徒アグネスタキオン氏に対する処分取り消しを求めます。
嘆願に至る経緯関係
かねてから学園と生徒会によってアグネスタキオン氏の処分が議論されていたが、先日学園側から退学勧告という処分が下った。
理事長の秋川やよい氏及び理事長補佐の駿川たづな氏による全力のサポートがあったにも関わらず、教育・トレーナー・保護者の3部署の反発を覆すことは出来なかった。
経営・財務部はアグネスタキオン氏がトゥインクルシリーズの発展に寄与するのであれば、という条件のもと協力を得ることができた。
生徒会としては、以前から行われてきた競争能力・競争意思に欠く生徒に対する処分に懐疑的であった。
主文
学園からアグネスタキオン氏に下された処分は明らかに不当であるため、処分の取り消しを求めます。
議論の根幹となったアグネスタキオン氏の問題行動は「教室の無断借用・私物化」、「競争意思の欠如」、「授業への参加拒否及び生活態度の悪化」の3点である。
教室の無断借用・私物化はアグネスタキオン氏の処分を求める3部署による批判である。しかし、アグネスタキオン氏が無断借用しているとされる教室はアグネスタキオン氏の同期であるマンハッタンカフェ氏によって生徒会と財務部に借用届が提出されており、マンハッタンカフェ氏の利用実態も確認されているため、無断借用・私物化という批判は明確な誤りである。(資料①借用届 申請者:マンハッタンカフェ)
競争意思の欠如という批判はトレーナー部による批判である。
これはアグネスタキオン氏の意思に反した侮辱的行為であり、生徒会は遺憾の意を表明する。
アグネスタキオン氏が行う研究には競争能力の向上を図るものが多く含まれている。未だ未解明である部分の多いウマ娘の肉体を解明する画期的な仮説(資料②仮説 『ウマ娘のもつ痕跡器官とホモ・サピエンスとの相違点』 アグネスタキオン)はトゥインクルシリーズ運営において有益であり、これを失うことは学園の損失に等しい。
アグネスタキオン氏が個人で設計を行う蹄鉄(画像①鉄鋲を利用しない金属圧着蹄鉄)は、臨床段階にこそ到達していないものの、生徒の怪我や故障を無くしたいというアグネスタキオン氏の意思が現れているため、競争意思が欠如しているとは言いがたい。競争の門戸を広げ、トゥインクルシリーズの発展を切に願う情熱の現れである。
また、アグネスタキオン氏が借用している教室内でトレーニングをしている姿も確認されている。(画像②服を脱ぎ、筋繊維の動きを鏡で確認するアグネスタキオン氏)
授業への参加拒否及び生活態度の悪化という批判は教育部と保護者による批判である。
本学園は中等教育を行う教育機関であるが選択単位制を採用している。
この制度は時期ごとに開催されるレースへの出走を促進するものであり、規定の学力を満たし、単位認定試験を通過することができれば本来授業へ参加する必要は無い。(資料③日本ウマ娘トレーニングセンター学園 学生規定3章2項 単位認定)
しかしながら授業への出席を成績評価に繋げるという行為が教育部に横行しており、学力が正当に評価されていない。この行為は本学園の目的であるウマ娘の能力育成・向上とトゥインクルシリーズの振興に対する障壁となりうるため、再三の改善要請がなされていた。
風紀の乱れや学級崩壊等も問題であると指摘があったが、風紀委員長のバンブーメモリー氏の報告書(資料④風紀委員会 風紀違反報告書)、学級委員長のサクラバクシンオー氏の報告書(資料⑤学級委員会議 月間学級運営計画)にもアグネスタキオン氏が授業参加を拒否する前後に大きな変化は無い。アグネスタキオン氏の生活態度自体も善良であり、学生規定違反はつい先日に起きた門限を過ぎた外出の一件のみである。
学園の財源は実態としてトゥインクルシリーズ運営及びスポンサー契約が6割以上を占める。これはひとえに生徒たちの努力があって成り立つものである。
しかしながら、アグネスタキオン氏をはじめとする優秀で模範的な生徒に対する対応は極めて杜撰であり、健全であるとは言いがたい。
以上の理由から、日本ウマ娘トレーニングセンター学園所属生徒アグネスタキオン氏の処分に異議を申し立てます。
処分取り消しが行われない場合、学園を辞することをここに表明します。
日本ウマ娘トレーニングセンター学園 生徒会
会長 シンボリルドルフ
副会長 エアグルーヴ
ナリタブライアン
優秀で模範的な生徒(大嘘)
アニメでライスシャワーが学校に行かずにひとりで練習できてたのは、トレセン学園が選択単位制だったからだと思う。
ライスはいいこなので勉強ができるのだ。
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report:媒質中の光速度C‘を超える粒子
退学の意思があることを伝えると、彼女は険しい顔をした。どんな感情でそんな顔をしたのかはよくわからない。
気づけば思ってもいないことを言って、取り返しのつかない約束をしていた。
私を嫌う生徒が大勢いることは知っていた。だからと言って、無様に選手生命を終わらせる瞬間を見たいというのは、どうにもいただけない。下品が過ぎる。
気がつけば周りには大勢のギャラリーが集まり、観覧席には学園のお偉方が座っていた。揃いも揃って私が恥をかくところを見たいらしい。学園を去るに足る理由がまたひとつ増えた。
私はアグネスという家柄に産まれた。規模は小さいがそれなりの名門であり、家には執事がいた。メジロやナリタ、メイショウなど、ウマ娘はレース出走名に屋号を含める者が多い。私にもアグネスという屋号があるがアグネスの名前を持つ生徒は私以外にも存在する。
幼い頃はアグネスの最高傑作ともてはやされた。私には才能があった。素質があった。実力もあった。だが、丈夫な体は持ち合わせていなかった。
お前はアグネスという名に収まらないほどの大きな活躍をするのだと、皆が期待していた。私はそんなものに興味はなかった。
私にあったのは、探求したいという欲望だけ。理由を知らずに結果を追い求めるのは幼い頃から忌避感があった。そのせいでたくさんのひとを振り回してきた自覚がある。
どうしてじいやの耳は変な位置についていて、なぜそんなにもくしゃくしゃのかと聞いて困らせた。じいやのしっぽが無いのを不思議に思い、カーテンを引き裂いてじいやのためにしっぽを作ったこともあった。脚が速くなる薬と言って、砂糖を大量に入れたにんじんジュースを作り、シャツのボタンが飛ぶまで飲ませた。結局じいやの脚は速くならなかった。ウマ娘とヒトの違いを知ったとき、荼毘に付されたじいやを観察して、知らない人に殴られた。じいやのしっぽはその時に燃えてなくなった。だが、因果を明らかにせねば気が済まないという気持ちは未だに燻ったままである。
「芝2000、右回りでいいか?」
「お任せするよ、存分に私をいたぶってくれたまえ。」
私はターフの上で、取り返しのつかない約束の精算をするハメになったのだ。
今の時期は日照時間が増え、夏に向けて次第に暖かくなる。馬場状態は良。適度に芝が伸びており、クッション性と反発力がある。最終コーナー出口から直線にかけて内側が荒れていることを除けば、かなりの高速馬場である。当レース出走者は2名。内枠は私だ。駆け引きは不可能。私の脚が壊れかけであることを加味すると、脚を溜めることはできない。コーナーで速度を上げて遠心力を維持したまま外目に脱出し、直線で良い馬場を踏まなければ勝ち目は無い。
ぎゃあぎゃあと騒ぐ声が耳障りだ。空は快晴。人をバカにするかのような青空で、お天道さまが私を見下ろしている。
一瞬の静寂。焼きそばを売るウマ娘の声、ゲート解放。
完全に出遅れた。集中力を欠いた。風を切る音が隣でするのとほぼ同時に、目の前を光が駆けてゆく。
蹴り上げられて舞う芝から春の香りがする。脚を動かせば景色は後ろへ消え去ってゆく。先をゆく背中はまだ遠い。
最初のコーナー、外目から内ラチをめがけて体をよじる。腕がラチに当たって火傷する。火傷くらい紅茶で慣れっこだ。そのまま加速して2つ目のコーナーも抜けた。向こう正面の直線に出る。少しだけ背中が大きくなった気がした。
ぎゃあぎゃあ騒ぎ立てるうるさいギャラリーが少しだけ遠くなる。気分が良い。アイツらのハナを明かしてやろう、まだ脚は残っている。あともう少しだけなら加速できるだろう。
ウマ娘の最高到達速度は時速約70km程度であると言われている。目の前の背中はおそらくそれと同等の速度だ。
これから、この前を駆ける栄光の背中を追って多くのウマ娘が駆けてゆくのだろう。後世にまで語り継がれる伝説として、ウマ娘のゆく道程を照らす希望の光と成らんとして、目の前の彼女は今を駆けている。
顔に砂がかかる。口の中に泥と鉄の味がする。苦しい。だがそれがどうしたと栄光の背中が笑う。
光の速さは絶対である。目の前の背中は絶対である。きっと今はそうなのだろう。
特殊相対性理論において、超光速で移動する粒子の存在は否定されていない。
ならば、光の速さは絶対ではない。目の前の背中も絶対ではない。私はその絶対の速さを超える可能性が見たい。
3つ目のコーナーに入る。芝につまさきを深く突き刺し、蹴る。もっと速く。遠心力だ、そのまま蹴る、もっと速くだ。
直線か、もうわからない。
もうすぐそこに、触れられるほど近くに絶対はあった。可能性は私の足に満ちている。
日が傾いて西の空はほんのりと色づいていた。うるさかったギャラリーどもは鎮まり返っている。
「疲れた、心底そう思う」
世辞だろう。結局、絶対の速さを超えることは出来なかった。だが、ギャラリーどものハナを明かすことはできた。良しとしよう。
「あの!」
静寂を破ったのは聞き慣れない声だった。目にたっぷりの涙を溜めた女がこちらを見ている。
面倒なことになった。
これならもっと長く走っているべきだった。まだ少しだけ脚が残っていた。
ゴルシちゃん焼きそば売るの自重して。
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report:チェレンコフ光は因果律を超えるか
この模擬レースでトゥインクルシリーズの選手生命が終わる。
ギャラリーに囲まれながら、昔日の出来事を思い出す。
レースでは出遅れた、内ラチに体を擦り付けても走った。
向正面の直線で、ギャラリーのハナを明かしてやろうとペースを上げた。3つ目、4つ目のコーナーを抜けて肉薄する。あと少しで捉えられる。だが絶対の速さにはたどりつけなかった。
面倒なことになった。私につきまとうトレーナーができてしまった。やはり気分で言葉を発するのは良くない。
模擬レースの後、しばらくの静寂のあと拍手が起きた。勝者に対する祝福なのだろう。私のものではない。
拍手の中、絶対の王者は下を向いていた。王者は王者らしく胸を張ればいい、勝利に酔いしれるべきだ。しかしそれを良しとしない何かが彼女にはあった。私には惨めさしかなかった。
あのとき声をかけてきた女はトレーナーだった。新人のようだが名のあるトレーナーの一族であるらしい。表紙の光沢がなくなったノートをにぎりしめて私を何度も追いかけてくる。
その女が今、私のラボにいる。招いたわけではない。元気な挨拶とともにラボの扉が開いたときの私の心境は諦めに近い。だがこの気持ちはトレーナーにお返しする。泥水でも飲んで帰ってもらおう。
私のコーヒーの淹れ方は間違っていた。粉に湯を注げばコーヒーになるものだとおもっていたが、アレはインスタントコーヒーというものらしい。液体のコーヒーを乾燥させることで粉末にする。こうすることで手軽にコーヒーを味わえる代物だ。完全に溶けるので、カップに粉がへばりつくことはない。
「コーヒーでもどうかな」
「頂きたいです!わざわざすみません!」
素直なお礼に肩透かしをくらう。
コーヒーの淹れ方は様々ある。紙や布のコーヒーフィルター、サイフォン、フレンチプレス、水出し、煮出しなどなど。
私の泥水はどうやらギリシャコーヒーといったものに似ているらしい。コーヒー粉末を煮出すかカップの中に入れて湯を注ぐ。そして粉が沈殿するまで待ってから上澄みだけを飲むという。
私は泥水を作るとき、かき混ぜればいいものだとおもっていた。しかしそれでは粉が水中を泳いでしまうし、泡の上にコーヒーの粉が乗る。飲むときには砂利のようなコーヒー粉末が口の中でパレードをする。まあ、目の前のトレーナーにはそのパレードに加えて、私の試薬の実験台になってもらおう。
「ゔぶッ!」
そうだ、そういう反応を待っていた。
「おやぁ?どうかしたのかい?何か変なものでも入っていたのかい?もてなしの品をそう扱われるのは心外だなあ。」
実際変なものは入っている。
「すみません…トルココーヒーだったんですね…普通のコーヒーだと思ってそのまま飲んじゃいました…えへへ。」
へらへら笑うな!私はお前を追い出したいんだぞ!あとなんなんだトルココーヒーって!私は彼女にギリシャコーヒーって聞いたぞ!なんで名前がふたつもあるんだ!
そう言いたい気持ちをぐっと抑える。気分で言葉を発するのは良くない。気分で言葉を発したから模擬レースにでてしまったし、このトレーナーにつきまとわれるハメになったのだ。
「そうだ!トレーナー契約の件なんですけど、どうでしょう?トレーナー契約をしていただければ、こういうサポートが可能ですよ!これは一日の練習メニューの例ですね」
ノートを渡される。水に濡れたようで紙がヨレてインクが滲んでいる。表紙には足跡がつき、破れた箇所がセロハンテープで補修されていた。
「また汚いなあ、ほかのノートはなかったのかい?」
「すみません……模擬レースのあとにプラン立てたんですけど……ノート落としちゃって……必死に探したんですけど……こんなことになっちゃって……」
最初のページには蛇がのたうちまわったような字がある。途中途中、寝てしまったのかなめくじが這ったような書き損じがある。最後のページにも書き損じがあった。これは雨に濡れたのだろう。読めなくなった部分には、紙が貼られて書き直されている。
「すみません……やっぱりダメでしょうか……?」
なんでそうすぐに謝るんだ。腹立たしいことこの上ない。お前は何か私に迷惑をかけたのか、いや実際には迷惑を被っているが、これはこの女の職務なんだ、お前は私をスカウトすることに後ろめたいことでもあるのか。
我慢の限界である。言ってやろう。もうどうでもいい。そもそも学園から退学になる予定の身だ。今更スカウトなんかするな。
ふと目を見遣ると、トレーナーは黄緑色に発光していた。泥水に混ぜた試薬が反応したのだろう。私の足など比ではない。全身が黄緑色に発光していた。
私は契約書にサインをした。目の前の腹立たしい女に可能性を賭けてみることにしたのだ。
1話でフィルタードリップのコーヒーが出てきたな
あれは幻だ。(編集済み)
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report:点と線を繋ぐふたつの裂け目
トレーナー契約を迫ってくるのだ。
ラボにそのトレーナーが現れた。帰ってもらいたいから。試薬を混ぜた不味いコーヒーを出した。
薄汚いボロボロのノートとトレーナーの姿に全力が現れていた。
私はその姿に可能性を賭けてみることにした。
召し上がれ、と出されたからと言ってそのまま口にするのはいかがなものか。私の出したものを疑いもなく口にする姿は実験動物のそれを彷彿とさせる。なんとも腹立たしい女だ。面白くない。
その女は今、グラウンドの観覧席に座っている。水色の髪をしているから嫌でも目立つ。まだ効果が持続しているようだ。
戯れに水薬を渡したら、あの女はそれをニコニコ笑いながら飲み干した。奴の行動は全くの知性を感じさせない。端的に言えばバカだ。だから何度も体が発光することになるし、髪の色が変わるのだ。遠巻きにウマ娘がヒソヒソと噂しているのが見える。側から見ればその姿は奇人・変人の類だ。その予想は正鵠を射ている。奴は奇人で変人だ。
奇人が観覧席に座っているのを私はラボから見ている。のぞきの趣味は無いのだが、これだけのために双眼鏡を買った。要らなくなったら同室のウマ娘に譲ろう。ヤツはのぞきが趣味だ。
あの女は毎日私のもとを訪れては練習メニュー表を渡してくる。私がラボにいなければ机に置いていく。私がラボにいれば、直接手渡して泥水を啜って帰っていく。もちろん今日も来た。だから髪が水色に変色している。
こうしてあの女と練習することを放棄しているわけだが、あの女は毎日グラウンドに出ている。昨日は暇を持て余して芝の手入れをしていた。おとといは教官の真似事をしていた。腹立たしい。私の専属トレーナーであれば私に向き合うべきだ。私の相手をしろ。暇だ。
別にあの女と練習をしたくないわけではない。普段は全くの知性を感じさせないくせに、練習メニューだけは緻密に考え抜かれている。模擬レースの序盤で私がつまさきを保護して走っていたのを見抜いているのか、フォームの調整項目、特にテンポ走にラダーなどストライドの拡大と体へ負荷を軽減を狙うものが基本となっている。トレーナーとしての才能の片鱗がこれでもかと乗った紙を見せつけて行くのだ。あの女の指導に興味が湧かないわけがない。奇人がどこまでやれるのか見てみたいとさえ思う。
しかしながらあの女には知性を所持していない。バカなのだ。もし今ここで私がジャージを着てグラウンドに出ていけば、ヤツのことだから犬のように駆けずり回って宙返りをして喜ぶだろう。もしかしたら空を飛ぶかもしれない。制服でグラウンドに出ても同じことをするかもしれない。あの女は知性を所持していないからな。
だから観覧席に座っていて貰わなければならない。ヤツは休むことを知らないのだ。黄緑色に発光するのは結構である。ホタルのようで綺麗だ。だがホタルのように短命では困る。
ヤツも女であった。艶のあるみどり髪をしていれば、今日も芝の手入れや教官の真似事をしていただろう。だがそれは笑顔で水薬を飲んだために不可能になった。明日もまた飲ませよう。心痛しではあるが、致し方なしである。生徒会長が喜びそうなセリフだ。副会長はやる気が下がるのだろう。
日が落ちてくる。まだあの女は観覧席に座って私を待っている。グラウンドにいたウマ娘たちはたんだんと引き上げていく。女の髪はもう水色ではない。十分に休息はできただろう。
気まぐれにジャージに着替えた。アイシングスプレーを持って外に出る。先ほど仕上がったものだ。
全ては気まぐれなのだ、あの女のためではない。
あの女が私に向かって駆けてくる。宙返りしたり空を飛んだりはしなかったが、やはり知性が備わっていないようだ。
辺りは暗く、月が出てくる。しかしホタルの光はもう無い。明かりに照らされて緑に芝が輝いているだけだ。その上を私が走る。
嬉しそうにぴょんぴょん跳ねる女を尻目に、やはり私は、気分で動くのはやめようと思った。
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report:燃焼・食道を駆けるプラズマ
頭が悪いくせにいつも全力で、自分の身を顧みない。
私はトレーニングを放棄した。楽をしたいわけじゃない。楽をするべきなのはトレーナーなのだ。
それでもトレーナーは私を待っていた、だから気まぐれに外に出た。
すると、トレーナーが駆けてきてぴょんぴょん飛び跳ねて喜んだ。
私は緑色に輝く芝の上を走った。
食事というものは非常に面倒である。この話は以前もした気がする。誰に話したんだったか。
まあいい、とにかく食事というものは非常に面倒なのだ。体を動かすためにはエネルギーが必要であるが、食材によって含まれるエネルギー量が異なる。エネルギーは多すぎても少なすぎてもいけない。
エネルギー少なければ体を動かすことが出来なくなってしまう。エネルギーの枯渇は直ちに死に関わる深刻な状態ともなりうる。
エネルギーが多すぎれば体重が増加する。体重増加はエネルギーの枯渇に比べればやや緩慢な変化ではあるが、体質の変化はさまざまな健康被害をもたらす。
ウマ娘にとってはどちらも恐ろしい。2000mという距離を2分程度で駆ける私たちはエネルギーの枯渇は深刻な問題であると同時に、体重という無駄なウェイトはただひたすらに不要である。
食事で課題となるのはエネルギーだけではない。私たちの体では作られない栄養素を補給するという意味合いもある。筋肉の健全な育成にはアミノ酸類が必要不可欠であるし、ビタミンと言われる化学物質は体内で製造されないものも多い。血液をはじめとする体液にはナトリウムや鉄といったミネラルも求められる。食事とはとかく考えることが多い。
G3やG2など、G1レースへの挑戦権がかかった重賞レース前になると、カフェテリアの利用者が減少する。もちろん理由はレースに向けた食事制限だ。私はいちごジャムが食べられる。良いことだ。
スイーツを我慢し耳の下がったウマ娘の横で、いちごジャムを山のように盛ったスコーンをいただく。なんと愉快なことか。あとフィナンシェもいただこう、気に入った。
普段から美食などに現を抜かすのがいけない。私はラボで作成する栄養素を補完するスムージーによって栄養補給をし、紅茶とスコーンを娯楽食としている。あとフィナンシェも。
私の作成するスムージーは、箸やスプーンを使わないために非常に効率の良い食事となる。喉の奥に押し込むのみで満腹になり、腹持ちも良い。一日に必要な糖質を除くエネルギーを全て摂取でき、体は健康そのものである。糖質は角砂糖を別途食べたいので抑えめなのだ。
トレーナーが私と食事を摂りたいと言ったために、ラボでスムージーを作成している。少しくらいはトレーナー君の意思を汲もうじゃないか。トレーナーとウマ娘のコミュニケーションは大切だ。今の状態では良好な関係性とは言いがたい。
トレーナー君は少々残念な頭を所持しているため、食事などに気を配ってはいないだろう。倒れられては困るのだ。少々値は張ったが滋養強壮に良い材料を入れておいた。ささやかな恩返しくらいしてもいいだろう。
どんな顔をするだろうか、ただ気まぐれでアイシングスプレーを持って外に出ただけでぴょんぴょん飛び跳ねて喜んでいたかわいいヤツだ。もしかしたら感動でむせび泣くかもしれない。ティッシュも用意しておこう。あぁ、そうだスムージーの効果を見るために試薬も混ぜてみよう。
カフェテリアに行くと、トレーナーが縮こまって座っていた。脚はぴったりと閉じ、手は膝の上に置かれて両肩が上がっている。
こちらを見つけると笑顔で手を振ってきた。脇が閉まっていて振る速度がとても速い。
「やあトレーナーくん、昼食のお誘い感謝するよ。」
「すみません、突然お誘いしてしまって…でもありがとうございます!」
「ああそうだ、トレーナーくんのためにこんなものを用意したんだ。」
「!?」
スムージーを取り出すと、とても驚いた顔をした。それはそうだろう、トレーナーに出したことがあるのは、まずいコーヒーと試薬、あとは髪を水色に変える水薬だけだ。突然の優しさは心に衝撃的に映るものなのだからね。
「それはなんですか…?」
「スムージーさ!私が愛飲しているものに少しだけ滋養に良いものをいれたんだ。トレーナーくんはいつも働いているだろう?疲れていると思ってさ、作ってみたんだよ!」
「じゃあいただきます!!あの、今度は私にもお弁当作らせてくださいね…?」
スムージーを少し見つめてから、トレーナーは一気に飲み込んだ。
顔が紅潮して、目に涙がたまってゆく。鼻息が荒くなり、体全体を震わせる。
やはりティッシュを用意しておいてよかった。本来は一気飲みなんてできる代物ではないが、よほど嬉しかったのだろう。私としても良い贈り物ができた。これでトレーナーが黄緑色に光らなければ完璧で__
「うおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!」
雄叫びが聞こえた、目の前のトレーナーが虹色に発光している。空を駆ける勢いでカフェテリアから飛び出して行った。
私は初めて実験に失敗したのだった。
結果としては大満足。久しぶりに腹を抱えて笑った。
このあと2人には厳重注意の処分が下った。
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report:衝突・発光
トレーナーの健康ためにスムージーを作った。
どうやら体を震わせて泣くほど嬉しかったようだ
飲み干すと、虹色に輝いてどこかへ走り去った。
最近彼女がラボを訪れない日が続いている。何かあったのだろうか。
まったくもって想像つかないことではあろうが、実のところ彼女と話すことは私の楽しみのひとつとなっていた。
彼女には研究の一端を担ってほしいというという目的を達成するためには、友好関係を築く必要がある。以前「仲良くなった覚えはありません」と言われた。私はかなしい。
終業の鐘が鳴ると、こうして湯を沸かす。いつ彼女が来てもいいようにポットにコーヒーを淹れておくのだ。トレーナーは七色に光ってどこかに行ってしまったので今日はオフだ。
コーヒーを淹れるのも、だいぶ上手くなった自信がある。泥水ではない。味は苦くて、香りはコーヒーだ。私はどちらも飲みたくない。苦いのはキライだ。
苦味というのはいわゆる「毒の味」である。本来は口の中に食物以外の異物が入った場合に嫌悪感を感じさせ、吐き出すためのいわば防御作用のための味覚だ。
しかし植物は食いちぎられんとする我が身を守るためにこの味覚を逆手に取った。苦味のある物質を体内で生産するようになったのだ。「たべられないよ」と動物に思わせ、生存確率を向上させるのだ。
それに対して甘味というものは苦味とは全くの逆と言っても良い。味覚としての甘味はおもに糖や脂質に反応する。これらは体内でエネルギーとなる。これらをより多く摂取するために動物は味覚を獲得した。
どうしてわざわざ「たべられないよ」と味覚によって示されているにもかかわらず、苦いものを口にするのか。苦いものを「大人の味」とするならば私は子供でいい、甘いものがいちばんおいしいのだ。
扉が開いた。虹色に光っていないのでトレーナーではない。
妙な格好だ。彼女がジャージを着て立っている。
「おぉ!久しぶりだね!私が恋しくなったかい?」
「……トレーナーさん、いらっしゃらないんですか?」
「居ないよ、だから私も見ての通りオフさ。」
「……じゃあ、私はこれで。」
「おいおいおい!待ってくれよ!コーヒーを淹れて君を待っていたんだぞ!飲んで行ってくれないか!私は苦いのキライなんだよ。」
今日のコーヒーはネルドリップだ。フィルタードリップと言うとペーパーフィルターが手軽で一般的だが、ネルドリップは綿の布を使用する。雑味がなくなって美味しくなる!とのことだか苦味は抜けないようだ。
マグを差し出してみる。彼女はそれを一瞥して手に取った。
「……1杯だけ、いただきます。」
おいおいそれだとポットの中身は全部私が飲まなきゃならないのか?冗談じゃないぞ。
声が喉元まで出かけるが、それを抑える。私も成長しているのだ。言わなくても良いことは分かっている。また永遠のような沈黙を味わうのは御免だ。
色素に乏しい薄い唇がマグに触れる。薄桃色のそれは私の視線をひきつけて止まない。
不味くはないだろうか、豆はもう少し炒ったほうがよかったか、ミルの回転が悪かった、刃を研ぐか買い換えたほうが良いだろうか、香りは立っているだろうか、冷めてはいないだろうか、火傷はしていないか。マグに汚れは付着していなかったか、猫の柄のマグはやはりカジュアル過ぎたか。
ただあるのは、彼女が私の出したコーヒーを口にしたという事実である。そして、30秒という永遠に近い時間が流れても、2口目を口にしていない。
ここで「口に合わなかったか」と聞いてはいけない。彼女は正直かつ優しいから、きっと答えられずに黙ってしまう。だから別の話をしよう。きっとそれで良いはずだ。
「最近の調子はどうだい?そろそろチームに所属しても良い頃だろう?私は専属トレーナーとなったが、君はどうなるかな?」
「……私にも、専属トレーナーが着きました。」
「なんだって…?」
ウマ娘をレースに参加させる上でトレーナー制度は非常に重要である。トレーナー制度は大きく3つに大別される。
まずひとつはチーム制、これはひとりのトレーナーに対して少人数のウマ娘が師事する体制である。トレーナーによるスカウトやウマ娘の希望によってチームが形成される。強力なチームとなると、独自に入団試験を行うものもある。ウマ娘同士の切磋琢磨を促進するため、チームに所属することで頭角を現すウマ娘も多い。
ふたつめは専属トレーナー制、これはチームに所属することが難しいウマ娘に行われる措置である。気性難であるとか、嫌われているとか、要するに私のことだ。
あるいは類い稀なる才能を持ち合わせていると確認されたとき、承認を得て専属トレーナー制を行うことがある。
専属トレーナー制はコストがかかるため、極一部のみに限られる。
最後に教官制、これは教官と言われる人物のもとで大人数で行われる制度である。おもに入学直後のジュニアクラスが対象となる。
教官はトレーナーに準ずる指導者であるが、大人数を指導するために適切な指導がされているとは言い難い。そのためチーム所属の踏み台のようなものだ。クラシッククラスに進級してもチームに所属できない生徒は学園から姿を消すことが多い。シニアクラスになってしまうとチームに所属していないものは皆無だ。
彼女はこれと言った問題行動をしているわけではない。確かに理解できないことを言うこともあるが、そのようなウマ娘はいくらでも居る。
やはり彼女は私の研究に不可欠な因子である。確信した。全身の毛が逆立ち、血圧が上がるのが分かる。
「……負けません。」
目と眉が近づいた、いつもの傍若無人な顔になる。
その通りだ。勝つためには誰も寄せつけてはならない。前に立つ者も、並び立つ者も許してはならない。蹴落としてでも、泥を被ろうともその先を征く唯一でなければならない。
「ああ、期待しているよ。」
「……コーヒー、美味しかったです。」
いつの間にかコーヒーは無くなっていた。彼女は去り際にコーヒーにミルクを入れると良いと言った。甘くなるらしい。
後からミルクを入れてはいけない、温度が下がる。砂糖が溶けなくなってしまう。
沸かしたミルクでコーヒーを作る。今度はギリシャコーヒーだ。泥水ではない。もう泥水は十分に啜ってきた。
角砂糖を3つマグに放り込んでコーヒーを口に含む。私も淑女であるから、音を立てて啜ったりはしない。火傷もしない。
煮えたぎるような熱さも、今の私と彼女の前では冷水に等しい。
優しい味と彼女の香りがした。
なんかタキオン童貞っぽいよね…
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始末書
明日は担当のアグネスタキオンさんとの昼食です。
少し幼くて気難しいところはありますが、きっといいこだと思います。
いたずらを企んでいる時は耳がぴこぴこ動いて可愛らしく、いたずらにひっかかるととても喜んでくれるので、ついつい乗ってしまいます。
タキオンさんは走る意欲が無いと言われますがそんなことはありません!研究に熱心な姿は走りたいという気持ちの現れです!
明日は少しでも仲良くなれたらいいなあ…
某トレーナーの日記
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日本ウマ娘トレーニングセンター学園 理事長
秋川 やよい 様
日本ウマ娘トレーニングセンター学園 理事長補佐
駿川 たづな 様
カフェテリアにおける発光現象及び芝の損失にかかる始末書
私は◯月×日の正午ごろ、学園内のカフェテリアで虹色に発光しながら生徒練習用グラウンドに飛び出し、2400mを走行したのち、芝を食べていた事実を認め深く反省致します。
事の直前には、担当ウマ娘であるアグネスタキオンさんと昼食を取る予定でありましたが、前後の記憶がございません。しかしながら、これは私個人の不注意と意識の低下による失態であるので、原因究明とともに深く反省し、心を入れ替える所存であります。
芝の状態はウマ娘たちの怪我や故障に直結する重要な資材です。その認識を欠如していたため、芝を10メートル食べるなどという奇行に走ってしまいました。
虹色に発光したことに関しては、原因究明を進めていきます。虹色に発光したことで、多くのウマ娘に精神的なショックを与えてしまったこと、警備部の業務に影響を及ぼしたことなど、深く反省しております。
トレーナーという職務上、ウマ娘に模範的な姿を見せるべきでありながら、このような失態に至ってしまい、所定の処分を受けることもやむを得ないでしょう。
学園及び生徒に多大なるご迷惑をおかけしたことを、改めて深くお詫び申し上げます。
今後はこのようなことがないよう心を入れ替え、芝を食べず、発光しないよう細心の注意を払い、トレーナーとしての職務を全うすることを誓約する証として本書を提出致します。
まことに申し訳ありませんでした。
トレーナー部 アグネスタキオン専属トレーナー
桐生院 碧
トレーナーさんはオリキャラです
桐生院葵トレーナーを出したかったのですが、ハッピーミークとの間を裂きたくなかったので、桐生院家の若手を勝手に作りました。
容姿や性格は桐生院葵トレーナーで想像してもらえると助かります。
きりゅミーは尊い。ミーきりゅも尊い。
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report:到達する因果、その道筋は遥か
久しぶりに彼女がラボに現れたので、コーヒーを出した。
今回はコーヒーを受け取ってもらえた。
彼女の才能はやはり素晴らしいもので、専属トレーナーがついていることを会話の中で知った。
負けないと言う彼女、そして私にも熱いものが滾っていた。
トゥインクルシリーズには俗にシーズンと呼ばれるものがある。正式なものではない。
シーズンと言われる所以は1年間に行われるレース出走者のクラス分けに起因する。
トゥインクルシリーズにはクラスというものがある。
クラスは学年によって分けられる。若いほうからジュニア・クラシック・シニアとなっている。私は現在ジュニアクラスだ。
シーズンについてだが、これがややこしい。
1年間のうち1月から6月までに行われるレースはクラシッククラスのみ出走可能なレースとシニアクラスのレースが多い。
それ以降の下半期はジュニアクラスのみ出走可能なレースと、クラシッククラスとシニアクラス混合で行われるレースが多い。
上半期はクラシックとシニアがそれぞれ分かれて世代ごとに真剣勝負し、下半期は若きホープのジュニアたちが夢を追い、その横で真の強者を決める激しい戦いが行われる。
よくわからなければ、ジュニアクラスは下半期のレースにしか出れない。と思ってもらっていい。
ジュニアクラスは下半期しかレースに出れないから、と言って手を抜くことは許されない。トレーナーへのアピールを行わなければチームに所属できず、出走すらままならない。
私は断じて手など抜いていない。私の脚が壊れようとも、可能性の先を見るために研究をしていたのだ。どうやら一定の効果があったようで、少し頭部に不安は残るが、優秀な専属トレーナーまでついた。まさに僥倖。これを活かさぬほど私は愚か者ではない。
私はこれから行う2つの研究プランを立てた。
まずはプランA、私の脚を補強し、自らの手でウマ娘の肉体に秘められた可能性を研究すること。
そしてプランB、私の脚が壊れた場合などに、他のウマ娘を指導することで、可能性の先に到達したウマ娘を作り出すこと。
幸い、私の肉体に可能性の片鱗を見つけることができた。あの模擬レースを思い出して欲しい。
私は焼きそばを売るウマ娘の声に気を取られ、完全に出遅れた。2人のみのマッチレースでは駆け引きなどできない。致命的なミスだ。
相手は絶対の強さを既にレースで発揮している生徒会長。追いつくことなど不可能なはずだった。
しかしながら、私はその背中に迫ることができた。あわや勝利というところまで肉薄した。この結果を無視することはできない。
あの後にトレーナーと出会った。トレーナーは目に涙をためて鼻水を出しながら狂った目で「あなたの持つ可能性を見たい」とか言ってきたんだったか。よく覚えていないが、おそらくそこですでに心惹かれていたんだろう。ただ、涙を出さずに鼻水を出すのはどうなのだろう。涙も出していた方が良かったのではないだろうか。
何にせよデータが足りない。あの結果が何か原因となるものがあるはずだ。メイクデビューが待ち遠しい。そこが私の検証実験の舞台となるのだ。
今回は展開があまり動かないですね。
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report:熱量は人を動かす愛情足り得るか
ひとつは私自らの体で可能性を探求する。
もうひとつは可能性の先に行くウマ娘を私が作り出す。
模擬レースの結果からウマ娘の体の可能性の片鱗を見た。
私のメイクデビューがひとつの検証実験の場になる。待ち遠しい。
トレーナー君の努力は時にして目に余る。私は確かにモルモットのように実験材料にはしてはいるが、ぞんざいな扱いはしていない。かわいいモルモットであり助手でトレーナーなのだ、愛着も湧こう。
だがこいつはいらぬところで努力をし、自らの体をぞんざいに扱うのだ。
専属トレーナーであるのだから、私の世話だけしていればいい。肩を揉んでほしいし、ラボの掃除をしてほしい。研究の手を休める訳にはいかないので食事を食べさせて欲しい。ピーマンは抜いておくこと。ティータイムには甘い紅茶を作っておいて欲しいし、飲む時にはフーフーして少しだけ冷まして欲しい。スコーンといちごジャムもあるといい。フィナンシェを作ることは難しそうなので、無ければ無いでも結構だ。
先日、私のモルモットは虹色に光ってどこかへ行った。許しがたい背信行為だ。だが私の助手であるという矜恃は失っていなかったのか、私の昼食を作ると言い出した。
私はかわいいモルモットの善意を無碍にするほど不粋な女ではない。喜んで受け取ることにしたのだ。
したのだが、
食事というものは面倒だ。非常に面倒だ。
まず私は箸が嫌いだ。我が国では一般的な食器ではあるが、他国から見ればそれはとても奇怪に写る。片手で2本の棒を保持するのだ。1本は親指の付け根と薬指で動かぬようにしっかりと持ち、もう1本は親指と人差し指と中指の側面でつまみ、ワニの顎のように上下させる。この動作で切る、押さえる、つまむ、掬うといった様々な動作を行う。
切るのであればナイフ、押さえるのであればフォーク、掬うのであればスプーンを用いれば良い。つまむことに至っては非合理的だ。小さいものはスプーンで掬えば良い。大きなものはフォークで刺せば良いのだ。また、箸に至っては先端が細く鋭利になっているにも関わらず、不可解なことに刺すことが禁じられている。よくお母さんに怒られたものだ。
弁当箱を開けると色とりどりのおかずが入っていた。いざ食べようとすると、プチトマトの活きが良い。何度も跳ねるのだ。私の箸遣いは完璧であるが、プチトマトが言うことを聞かない。米が箸の間から落ちる。粘りがあるとは言えそもそも微細な種子を2本の棒でまとめてつまむのが間違いなのだ。ウィンナーに至っては脂で滑るので結局刺した。お母さんは見てないから大丈夫だ。ピーマンが入っている。これは許されない。別容器にフルーツポンチが入っていた。仕方ない、箸で食べるのは些か億劫だがピーマンの件は不問にしよう。
愛情を感じる弁当であった。味も良く、栄養素に偏りもほとんど無い。ただもう少しフルーツポンチは多くてもよかった。
知性を持ち合わせていないとか、頭部に不安がのこるとか、そう感じていたのは誤りであったかもしれない。申し訳なく思う。だが改善の余地があるのは確かだ。これに関しては誠意を持って今日のミーティングで報告することにしよう。
「トレーナー君、お弁当をありがとう。」
トレーナーの顔に大輪の華が咲く。可愛らしいが単純なヤツだ。
「わざわざすみません…どうでしたか…?」
すぐに表情が曇る。発言をするたびに謝罪をするくせは治っていないらしい。数秒前のように笑っていてくれ、改善点の指摘がしづらいだろう。
「うーん、言いづらいのだが私は研究の合間に食事を摂っていてね、箸を使うのは億劫なんだよ。片手で持てるメニューに変更するか、食器を変更してほしい、タンパク質やビタミンなどをバランス良く含んでおり、そこは評価できるが、糖質はもう少し多くても良いんじゃないかな、君は優秀なトレーナーであるから、明日も期待しているよ。」
「はい!報告ありがとうございます!」
単純なヤツだ。褒め言葉を聞いてまた笑顔になっている。これで食事環境は改善されるだろう。
翌日のお弁当はおにぎりと少しのおかずだった。ピーマンは入っているくせにフルーツポンチは無い。食器はスプーンとフォークに変更されていた。意思疎通ができていない。これは大きな問題だ。やはりヤツには知性が備わっていないのだ。
ヤツのトレーナー室に駆け込む。
「トレーナー君!全くもって改善されてないじゃないか!しかもフルーツポンチが無い!スプーンとフォークだって持ち替えるのは面倒だ!両手に持ったら次はおにぎりが持てないぞ!」
「えっ……でも……。」
困惑した顔をするな。お前が悪いんだぞ。私は怒っているんだ。
「なんだいその目は、君が食べさせてくれるとでも言うのか?君には私に対する愛情はないのか!」
本日の昼食はトレーナー室で摂ることになった。
「おにぎりー、おにぎりが遅いぞー、はやくー」
「はい、どうぞ」
スプーンとフォークを両手に持つと、口におにぎりが運ばれてくる。これが私の求めていた最も効率の良い食事である。味はいつも以上に格別で、トレーナーも何故か笑っている。これからもトレーナー室で昼食を摂ることにしよう。
アグネスタキオンさんはあたまがいいのでごはんをたべるときにも最高効率をみちびき出したのだ!すごいぞ!
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report:影すら見えぬ彼方は何光年先か
私の世話だけしていればいいのだ。
トレーナーは私の弁当を作ると言い出したので任せてみることにした。
愛情の感じる弁当ではあったが箸を使うことやフルーツポンチが少ないことなど改善点があった。
それを伝えると、翌日はおにぎりが出てきた。フルーツポンチは無くなった。これはいけないと私はトレーナー室に飛び込んだ。
議論を重ねた末に最も効率の良い食事法にたどり着いたので良しとしよう。
メイクデビューの日程が12月に決まった。遅いスタートではあるが調整不足で初戦を飾るよりは良い。夏の盛りは既に過ぎ、ジュニアクラスはピリピリとした雰囲気に包まれている。
既にメイクデビューを果たしたウマ娘も多い。勝負という過酷な世界ではいかに仲が良かろうと蹴落として行かねばならない。18人のウマ娘のうち、栄光のセンターに輝くのは1人のみ。他はすべて敗者となる。敗者は勝者の隙を虎視眈々と狙い、勝者はいつ後ろから差されるかわからない恐怖に怯える。絶対に負けない、絶対に勝つ、お前より速い、私は速い、そういったおぞましい執念をひた隠しにしながら学園生活をおくるのだ。人一倍の実力と精神力がなければ生き残ることはできない。
12月を超えるともうすぐにクラシック3冠戦線が目の前にある。メイクデビューを果たしたのち、レースで成績を残さねば出られない伝統的な3つのレースである。
皐月賞、日本ダービー、菊花賞このレースを制したものは未来永劫語り継がれる伝説となる。
それぞれのクラシックレースにはトライアルレースと言われるものがある。トライアルレースを勝つことで、レースへの優先出走権獲得も可能だ。
12月には重賞もある。重賞とは年度ごとに恒例として行われる大規模なレースである。「毎年毎年重ねて行う賞レース」であるから重賞と言われる。重賞に勝ち、勝負感覚を養うことでトライアルレースを有利に進めようというウマ娘も多い。
クラシックレースにはクラシッククラスしか出走できない。一生に一度、すべてのウマ娘は全身全霊をかけて栄誉に臨むのだ。
メイクデビューは芝2000そして2週後に重賞のラジオたんぱ杯ジュニアステークス、これも芝2000。その後はトレーニングを行い、皐月賞トライアルである弥生賞、芝2000に挑む。激しい闘いになる。負けは許されない。だが、相手は強者であればいい。データが必要なのだ。あのときの私は絶対の速さにたどり着ける可能性があった。だからこそ、生徒会長、そして彼女のような強者との激しい勝負がしたい。
このローテーションを考案したのはトレーナーだ。芝2000という皐月賞を意識したものとなっている。対照実験として見ても良い結果が得られるだろう。勝てばそれがそのままデータとなる。やはり私のモルモットは優秀だ。
同じようなローテーションを組むウマ娘も多いだろう。だが皐月賞を意識できるウマ娘はもちろん、これからを担うべき逸材揃いだ。
全身が熱を帯びるのを感じる。
私を超えるものが居るのか、私が絶対の速度の先に届くのか。可能性はどのウマ娘にあるのか。興味が尽きない。だからこそ私は走ることを諦められない。ウマ娘の足に眠る可能性の果て、この肉体で到達する限界の果ては、まだ影すら見えぬ程遥か彼方にあるのだから
展開よ、俺に構わず動いてくれ。
レースよりも、心理描写よりも、何よりも練習してる風景が1番難しい。
展開進まないし、地味だし、絵も無いからね。
つらい。
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report:月は姿を変え青く光る
皐月賞に向けたローテーションは同世代の強者が集まる。
私は絶対と呼ばれた生徒会長を追うことで、可能性を感じることができた。
強者と戦える、それは可能性を追うことである。
負けるわけにはいけない。
和芝は秋から冬にかけて枯れる。そのためダートに近いレース展開となりパワーが必要となる。
これは過去のことである。現在では洋芝と和芝が混合して使用されるため、冬であっても芝が枯れることはない。だがそれはトゥインクルシリーズに大きな変化をもたらした。冬季レースの高速化である。
夏季レースではスタミナが重要となる。暑さは体温の上昇を早めスタミナを想像以上の速さで奪う。逆に冬季はどうだろうか。寒冷な気候は体温の上昇を抑え、スタミナの温存が可能だ。そのため、スピード、瞬発力ともに発揮しやすい環境となる。
冬季は雪の心配もあるが、寒さとは裏腹にレースは苛烈を極める。スピードにモノを言わせて逃げるウマ娘を追わなければならないからハイペースになりがちなのだ。
そのため、考え抜かれたペース配分が重要となる。差し、追い込みの末脚、逃げのスタミナ、そして自分の走り、すべて発揮しやすい状態となる。冬は体重も落としやすい。デッドウェイトを減らしつつ完璧に仕上がった体は鋼の如し。だからこそ冬のトゥインクルシリーズは加熱する。
芝の上を1回、また1回と駆ける。
ペースを意識する。最初の坂はピッチを整える、コーナーを抜け、ラストスパートの上がりにまで息を入れる。冷たい空気が肺に満たされる。苦痛だ。
私は足を補強せねばならない。いくらスパートが速くとも、足が砕けてしまえば終わりだ。
スパート、コーナーを抜ける、群れを割いて飛び出す。私には栄光の背中のイメージが見える。生徒会長の背中だ。あの模擬レースではあと少しのところで捉えきれなかった。それが今でも私も目に焼きついている。この背中すら超えられないようでは可能性など見えはしない。
ストライドを広げろ、足を芝に突き刺せ、蹴れ、言うことを聞くんだ、私の体!後ろから来る、差される!中山・仁川なら坂がある。まだ足りない、まだ足りない!
追いつけない。そう思った。タイムも模擬レースより大幅に遅れ、見えていた背中はぐんぐんと差を広げていった。
誰かがずっと私を見ている。お前は私に勝てない。そう言う何者かが居るようで不快だ。苛立ちに芝を蹴っても、加速はしない。
トレーナーは私をじっと見る。タイムを取る。私に呆れただろうか、あの走りはきっとまぐれだったと失望しただろうか。
「すみません……何かありましたか……?」
「いいや……、何も、……無いさ………。」
だから苛立っている。不思議そうに見る目が余計に腹立たしい。私が走るのがそんなに珍しいか。喋らせるな、呼吸をさせろ。
「休みますか…?」
「そう、……する、……よ……。」
呼吸をさせろ。
グラウンドに寝転がる。芝は冷たく、土の匂いがする。アイシングスプレーが欲しい。そう思うと目の前にスプレー缶が現れた。
「君か……。」
目の前には彼女が立っていた。私をずっと見ていたようだ。少し身長が伸びたのか、以前とは表情が違って見える。
「ずいぶん私を見ていたようだね、愛の告白なら屋上へ行こうか。」
「……」
走っているときに感じた視線は彼女のものだ。あの気迫はきっと彼女の自信だ。彼女は私より強い。きっとそうだ。
「……走り方。」
痛いところを突かれる。彼女は聡いから分かるのだろう。私の状態も、私の悔しさも。
「……あの子は、あなたより速いです。」
彼女は見えない友達を追うために学園に入学した。あの子というのはその友達のことだ。
「……走り方、……参考になりました。」
それだけ言って彼女は立ち去った。
「あの…!走り方って」
「いいや、なんともないさ、ストライド走法の練習してただろう?それのことさ。じゃあ、これで上がりにしよう。」
嫌な種を撒かれてしまった。デビューまであと2週間、ここでレースを棒に振るわけにはいかない。
夕焼けの中に芝が金色に光る。東の空には青白い三日月が太陽を追い越さんと迫っていた。
お気に入りが減ってつらい。
もうちょいがんばりたい。
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report:小さな一歩、神話への飛躍
私はあの模擬レースのイメージを掴めないでいた。
苛立ちを感じるところを彼女に見られていた。
私の走り方が変わったことに気づいたらしい。
それをトレーナーにも聞かれてしまった。
私はこのチャンスを棒に振るわけにはいかない。
「響けファンファーレー、届けゴールまでー」
口ずさむと少しは心が落ち着く。トゥインクルシリーズでは勝者による歌と踊りのパフォーマンスが行われる。ウィニングライブという。
ファンの応援を力に変え、精一杯走り切った勝者がファンへのお返しをするのだ。どうしてレース後にライブなんかやるんだ?と懐疑的な目を向ける者も多いが、応援したウマ娘が汗と涙をキラリと光らせるステージを見て心打たれる者も多い。
メイクデビューで勝利すれば、もちろんウィニングライブのセンターとなる。レース前にイメージするのはレースの展開ではない、ライブだ。私は今日のウィニングライブでセンターに立つ。それだけだ。
トレーナー君の作ったお弁当の味がしない。私のトレーナーは現在出走前の手続きを行なっているため席を外している。フルーツポンチが甘くないのだ。砂糖を入れ忘れたのか?そうではない、私は緊張しているのだ。
コースは阪神芝2000、スタート直後の急な上り、第3コーナーから緩やかに下り、最終直線でまた急な上り。
「響けファンファーレー…届けゴー…」
扉が開く。
「おい!トレーナー君!ノックくらいしたまえ!!集中しているんだぞ!」
「あぅ…すみません…」
ただでさえ心臓が止まりそうなのに驚かせるヤツが居るか。ましてやライブ曲を口ずさんでいるとこなど見られたら死んでしまう。
「緊張とかするんですね、いつも実験とかしてるから緊張なんてしないものかと思いました!」
「緊張もするさ、今日は待ちに待った検証実験だからねぇ」
そうだ、これは私が望んだ勝負だ。さらなる強者とぶつかったときに研究は進歩する。心の奥に灯がともるように体が暖かくなる。
「でも、いつも通りでよかったです。お弁当食べちゃいましょうか」
おにぎりをぐいっと差し出してくる。かじりつくとあさりのしぐれ煮であった。甘みと出汁が効いてて良い。味がする。
「現在私たちは3番人気です。1番人気はライジングエンペラーさんで2番人気がワイアードフィデリティさんですね。」
「戦略としてはどうだい?ライジングエンペラーは後方からの差し、ワイアードフィデリティは逃げ・先行と記憶していたが、君ならどう走る?言ってみたまえ。」
ライジングエンペラーはやや大柄、ストライド走法と持ち前のパワーでロングスパートを狙うウマ娘だ。
ワイアードフィデリティは先行脚質。すでに出走経験があり、前走2着。勝負感を経験しているのは大きな強みである。
「そうですね…。」
ワイアードフィデリティが作るレースのペースを見ながら、少し前に場所を取る。3コーナー4コーナー中間でスパート、直線で並んで差し切る。
コースの特色としてスタート直後に坂があるため序盤のスピードは出にくい。3コーナーから始まる緩やかな下りがあり、直線ゴール前で一気に斜面を登る。斜面の連続するコースレイアウトはスタミナを大きく削るうえにスパートを鈍らせる。後方から来るよりも逃げ切られるほうが怖いのだ。
意見は完全に一致した。あとは走るのみ。
「あの…!すみません…!」
言葉を発するたびに謝る癖は抜けていない。謝るのは私のほうだ。トレーナーの努力には未だ何も報いていないのだから。
「頑張ってくださいね…!」
こんなにも近くに私が勝つ可能性を信じている存在がある。だから私は私として可能性を追うだけだ。
タキオンのキャラ崩壊してないか不安
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Revolution
私は生まれながらにして期待されてきた。
ファンのため、チームのため、トレーナーのため
そして私のために走る。
私は頂点に登る。絶対と言われた皇帝さえ蹴落として見せる。
私の名前はそういう意味だ。
三枠3番、悪くはない。10人のウマ娘が前を見据える。
静寂が怖い。この緊張感はこれから何度も経験する。恐れてはいけない、慣れてもいけない。神経を尖らせ、じっと耐える。
ゲート解放。
少し出遅れた。スタートの直後、坂を越えてすぐコーナーがある。ここは特には問題ではない。心を落ち着ける。大丈夫だ。
前を走るのはやっぱりワイアードフィデリティ。勝負を一度経験したものは、こういう緊張に強くなる。落ち着け、私。落ち着け。追いつけないのではないか、違う、私なら追いつけるんだ。追いついてみせる。
呼吸を整えろ、今は最後尾だっていい。私には誰も追いつけない末脚がある。最後に1番であればいい。
コーナーでは少し下がる。コーナーでは外を走れば走るほど距離が伸びる。体力を温存して、直線で仕掛けるんだ。
速度も抑える、遠心力は脚に余計な負担をかける。第3コーナー前の直線までは楽に走るんだ。
前にいる栗毛のウマ娘が邪魔だ。私のほんの少し右前に居る。それではコーナーで内側に入り辛い。体力をロスしてしまう。
「くっ………」
走り辛い、苦しい、これ以上ペースを落とせば前に出れない。でもこのままでは私の体力が…!レースが怖い!どうすればいいかわからない!もうやめてしまいたい!
第二コーナーだ、これを抜けて集団に追いつく。トレーナーと何度も繰り返した練習だ。
エンジンをかけろ、もっとストライドを広げて、飛ぶように走るんだ。この前にいる栗毛のウマ娘を交わせばいい。そうしたら、中段につけられる。3コーナーから4コーナーの中間で先頭のワイアードフィデリティに追いつける!行こう、今だ!!
力を込めて大地を押し上げる。私の武器はパワーだ!パワーなら負けたりしない!私は1番人気なんだ!負けたりしない!
縦長に展開する馬群を一気に駆け上がる。第二コーナーを抜ければゴール前の直線までは緩やかに下る。
4コーナーの遠心力を打ち消すだけのパワーだってある。いける。レースの展開も読める。完璧な勝利が描ける。勝てるんだ!
突然、目の前の栗毛のウマ娘が加速した。
「くっそォォ!!!」
読まれている。完全なマークだ。私を疲弊させようとしている。さっきのコーナーもマークしていたんだ。
だが、私が勝つ。栗毛の細い脚ではコーナーで遠心力を抑えられない。勝負だ、この栗毛を完全に叩きのめしてやる。追ってやる。4コーナーで勝負が決まる。
3コーナーだ、ウマ娘の群れがグッと押し込められる。群れを押し退けて私は前へ出る。栗毛はまだ前に居た。
ここで前に出られなければ、直線と坂で群れに飲まれる。もう大外でもいい、スパートをかける。脚は地響きを起こしながら地面を抉り、私が加速する。
4コーナー、ここが勝負とばかりに後ろのウマ娘が追ってくる。目の前の栗毛は、ずるずると外へ流れ、視界から消えた。
栗毛は脱落した。だが油断はできない。集中しろ、耳を澄ませろ。後ろには7人の足音、息が乱れていることがわかる。
前には1人、ワイアードフィデリティが逃げる。ヤツのピッチも乱れている。これを差し切れば勝てる。私の勝ちだ。
足音が1人足りない。
大外、私の前から泥が飛んでくる。
何故、そこに居るんだ。何故、走れるんだ。視界から消えたはずの栗毛がまだ前に居る。
栗毛は芝を脚で刺し、蹴り上げた。目の前で1着が交代した。ピッチを上げて、坂でもなお加速する。
栗毛は不敵な笑みをうかべている。奴は私をマークなどしていなかった。見てすらいなかったのだ。そう確信した。栗毛のウマ娘の赤い目は、逃げるウマ娘も、ゴールすらも見ていない。その先にある何かに勝たんとして、追っている。
必死に地面を蹴る。だが、私は前へと進めない。勝負を挑んだことで、私の命運は尽きていた。
前を走る足音がひとつ、ふたつと増え、そこで私のレースは終わった。
あの走りはどこかで見た覚えがある。このレースはメイクデビューだから、学内の模擬レースで見たんだろう。
ひとつだけ、心当たりがあった。
あいつだ、ジュニアクラスでありながら、絶対の名を持つシンボリルドルフに追いついた、あいつ___
目の眩むような思いだった。私はその名前をきっと忘れない。
あの栗毛は、アグネスタキオン だ。
最新話にしおりがついてると
「頑張らなきゃ!」って気持ちになる
本当にありがたいです。
書いてて興奮しちゃったからいろいろ間違ってるところがあるかも
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report:こだまする歓声
戦略も決まった。
トレーナーが私の勝利を信じている
私は私として可能性を追うだけだ。
まだ届かない。私の絶対のイメージは遥か先を走っている。
どうしても追いつけないのか、直線を抜けて歓声が聞こえた。
苦しいレースだった。どうやら私はレースに勝ったらしい。だが喜ぶ気にはなれない。まだ研究の余地がある。
靴はちぎれた芝と泥に塗れている。全身に汗をかき服が貼りつく。気分が悪い。手入れも面倒だ、トレーナー君にやらせよう。すぐに着替えたい。下着を忘れたことに気づく。トレーナー君に買ってきてもらおう。それくらい許してくれるだろう、だって勝ったんだから。
ライブまではまだ時間がある。全力疾走の後にライブをやるとは正気の沙汰には思えないが、トゥインクルシリーズとはこういうものだ、諦めよう。
地下バ道はコンクリートで固められており、蹄鉄の音が響く。コツ、コツと反響する音と12月の風が加熱したレースを冷ます。涼しい。
控室に戻ると、暑苦しいやつが抱きついてきた。
「ん゛お゛お゛ぉ゛〜〜う゛ぁ゛ぁ゛あ゛〜〜〜」
抱きしめられた部分から汗が滲み出し、体を伝って流れる。極めて不快だ。勝利の抱擁がここまで不快なことがあるのかと驚く。
「やめたまえトレーナー君!まだデビューだぞ!泣くな!あと抱きつくな!私は汗をかいているんだぞ!」
私も年頃の女だ、匂いだって気になる。引き剥がそうとしても必死に抵抗する。なんだコイツ。
「だぁ゛っでぇ〜だってぇ〜……」
顔から出すことが可能と思われる液体全てが噴出している。およそ他人に見せられる顔ではない。曲がりなりにも教育者であるから尚更だ。泣くのはいいが鼻水は拭け。
「私の走りはどうだった?」
「わかんないよぉぉ゛ぉ゛〜〜凄かったよぉ゛ぉ゛〜〜」
やはりコイツには知性が備わっていない。トレーナーかどうかも怪しい。トレーナーを替えてもらおうか、だが被験体を失うのは惜しい、美味しいお弁当も食べられなくなる。どうしたものか。
いい加減離れたまえ、と言うと、はいと返事をして小さくしぼんだ。
「そうだトレーナー君、ライブまでまだ時間があるだろう?下着を忘れてしまってね、ちょっと買ってきてもらいたいんだが頼めるかい?」
トレーナーの表情が一気に明るくなる。はい!と大きく返事をしてすぐに飛び出して行った。財布を持って行っただろうか、心配だ。
控室は想像以上に静かであった。遠くから歓声が聞こえ、少し揺れる。それがまた静寂を浮き彫りにしている。
服を脱ぎ、試薬を飲む。体はどこも光らない。これでいい。椅子に座り、体を休めるとゆっくりとした心臓の鼓動がわかる。
ドアノブが回転する音がした。ノックは無い。
「トレーナー君…?」
振り返ると、金色の目の彼女が立っていた。
前話、「Revolution」ではライジングエンペラーさんの視点で話が進んでいます。
実際の新馬戦をモデルに構成したので(違うところはありますが)
実際のレースを見ていただけるとより楽しめると思います。
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report:いつかの私、今の私
汗と泥に塗れて、今すぐにも着替えたい。
トレーナーは喜び、泣き、私に抱きついてきた。
引き剥がして、下着を買いに行かせた。
私だけの控室はやけに静かで、レース場の歓声がそれを引き立たせる。
体を調べても異常はない。少し休もう。
すると、ノックも無しにドアノブが回る音がした。
振り返ると彼女が立っていた。
「……服を着てください。」
呆れたような、戸惑ったようなそんな感情が読めない声が控室に響く。
「君かぁ、珍しいこともあるもんだねぇ、わざわざ府中から仁川にまで出向いて私を応援してくれるとは、長旅ご苦労様。」
「……。」
学園は東京都府中市にある。兵庫県宝塚市にまで散歩で来れるような距離ではない。目的はもちろん、私の出ていたレースだろう。
「…服を__」
「見ての通りレースは終わってしまってね、汗がひどい。生憎下着も無いから君に着せてもらうこともできないんだ。」
いつかのやりとりがここでリフレインする。あのときとは違い、涙など流してはいない。ひとり泣いてたヤツがいるけど、あいつはもうどうでもいい。
「……ふふっ。」
彼女が笑う。君はいつもの顔よりも笑っていたほうが美しい。安らぎと優しさと強さが彼女にはある。いつかの私はそれに助けられた。
「……優勝、おめでとうございます。」
称賛の言葉は素直に受け取る。これは最低限の礼儀だろう。いかに悔しい思いをしても、いかに自分の納得がいかない勝利だろうとそうだ。彼女の優しさに間違いはない。だが少しだけ、棘が刺さったようなそんな思いがした。
「あぁ、ありがとう」
声に出すと不思議と心が安らぐ。思いや言霊、感情という非科学的要素は時に不可解な結果を生む。
「せっかくの客人だ、茶くらい出さねばな。君が来るとは思っていなかったからコーヒーは無いんだが、紅茶がある。いかがかな?」
「…いただきますね。」
水筒から紙のカップに紅茶を注ぐ。華やかな香りはレース後の昂った心を落ち着ける。私は角砂糖を3個、彼女はストレートで紅茶を口にした。
会話はない。ただ紅茶をいただく。彼女が私を見て少しだけ微笑む、それだけ。なによりも充実していて、なによりも安らぐ永遠のようで一瞬の時間であった。
紅茶を飲み干す。砂糖は溶け残っていない。
「……良い走りでした__」
去り際に彼女はそう呟いた。
「__ただ、私は負けません。」
いつか私は彼女と共に勝負する時が来るのだろう。彼女は強い。だからこそ、私を蹴落とさんとしてここに来たのだ。
彼女が私をどう思っているかは正確にはわからない。だが私は同期として、友人として、同じターフを駆けるものとして、彼女の勝利を砕いてみせよう。
私はもう背中を追わない。背中を追うのは私以外のウマ娘が代わりにやってくれる。私は可能性だけを追う。
彼女のデビュー戦は1月。
私の次のローテーションは12月末のラジオたんぱ杯ジュニアステークス。これは、ジュニアクラスの王者を決める戦いである。
クラシックの春には彼女と戦える。
私はジュニアクラス王者として彼女に敗北を贈ろう。
前後の展開変えるかも。
変えるとき一応この文章残しておくけど、まだ未定です
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report:停滞という前進
いつかどこかで行ったやりとりがリフレインする。
彼女は1月にデビューを控えている。
彼女は私のかけがえのない友人である。
私の次のレースは12月末のラジオたんぱ杯ジュニアステークス
ジュニア王者を決めるこの戦いに勝つ
そして春のクラシックでは、ジュニア王者として彼女に敗北を贈ろう
勝負とは、そういうものだ。
「ラジオたんぱ杯ジュニアステークス、きびしくなりそうですね…」
「ああ、私も同感だ。」
「ピッチ走法の練習増やしますか…?」
普段は小動物のようだが、やはり一流のトレーナー一族の者である。私の走りを見て、的確なレースの分析を行うことができている。侮れない。
「クラシック3冠路線をすすむならば、当然菊花賞も視野に入れているんだろう?ならばステイヤーに対抗できるようトレーニングも積むべきだ、違うかな?」
ピッチ走法は脚の回転数を上げて速度を得る走法である。ストライド走法に比べて急加速が可能で斜面やコーナーなどに強い。しかしながら脚を速く動かすということは体力の低下につながる上、最高速ではストライド走法に劣る。
ストライド走法は脚の歩幅を大きく取り、飛ぶように走る走法である。体力の消費を抑え、ピッチ走法よりも最高速が速い。しかしそのぶん瞬発力に欠け、コーナーや坂で失速しやすい。
ピッチ走法とストライド走法はローギアとトップギアのようなものだ。短距離を得意とするスプリンターはピッチ走法を得意とする者が多く、長距離を得意とするステイヤーはストライド走法を得意とする者が多い。
私は直線の坂でピッチを上げた。トレーナーはそれを見たんだろう。脚をつく回数が増えることで、末足に磨きがかかる。次のレースも阪神の芝2000、コースも知っている。確かに勝てる可能性は上がる。
だが、次のレースではそのような小細工が通用する相手ではない。
「やっぱり、クラーモントとジャングルポケット…ですか…?」
「ご名答、やはり君は優秀なトレーナーだなあ!」
クラーモントは帰国子女のウマ娘だ。私がメイクデビューで戦ったライジングエンペラーとは比較にならないほど広いストライドを持つ。ライジングエンペラーがスポーツカーならば、クラーモントはダンプカーである。恵まれた体格から放つ一回の蹴りは想像以上のパワーとスピードをもたらす。その走りはまさに加速力のあるトップギア、反則だ。一瞬でも余裕を与えれば全てを轢き潰される。ステイヤーとしての適性もあり、リードを許せばそこで勝負が決まる。
ジャングルポケットはダービーの可能性さえ有ると言われる有力ウマ娘だ。9月に札幌で行われたメイクデビューで地獄のような死闘を演じた。ハイスピードで最終コーナーまで流れるレース、先頭の逃げ馬を後方から差した。粘る相手を最後にスタミナでねじ伏せ、クビ差で勝って見せた。
我が学園の生徒は一勝も出来ずに姿を消す生徒がほとんどである。既に何人もの生徒が学園を去った。だが、ジャングルポケットのデビュー戦に出場したウマ娘全員が未だ学園に在籍し、勝ち星を挙げている。
あのレースに出場したウマ娘は全員がたぐい稀なる実力者であったが、末脚の切れ味とその粘り強さにかなう者は同期の中にいなかった。ジャングルポケットが強すぎたのだ。
スピードとパワーの両立。先行するクラーモントを差し切り、追い込みをかけるジャングルポケットから逃げる。
可能性から絶対のイメージを作る。私にはそれができる。
おそらく、金色の目をした彼女もそうなのだろう。彼女の見えない友達もそういった類なのだ。だから私は彼女に惹かれるのかもしれない。
「時間も無い、練習を大幅に変えることはできない。相手は強い」
ならば君はどうするか、とトレーナーに問うてみる。
「本番に備えて待ちましょう。我慢の時です。いつも通りのトレーニングで、体調を整えて、全力で挑むんです。当日にレースを読めば勝てます。」
フルーツポンチ、たくさん作りますからね、と余計な言葉まで続いた。トレーナーは勝利を確信している。
「同感だ。」
小さくではあるが、聞こえるように呟いた。
祝・日間総合ルーキーランキング27位
祝・日間2次創作ルーキーランキング21位
皆さまのおかげです。ありがとうございます。
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report:幻惑
次のレースも阪神芝2000、こちらが有利なはずだった。
クラーモント、ジャングルポケット
次のレースに出てくる2人はそのような小細工が通用する相手ではない。
トレーナーは私の勝利を確信している。
ただ私はそれを信じて辛抱の時間を過ごすだけだ。
街は、この次世代を担う3人の衝突に沸いていた。
観客はこのレースに熱狂し、私たちはこのレース場で生き残りをかけた戦いに飛び込まねばならない。
地獄の門が大きく口を開けて待つ、その表現がふさわしい。
すると、パイナップルが口の中に飛び込んでくる。
「違う違う!私は白いもちもちが食べたいんだ!」
「白玉ですね、はいあーん」
「あーん」
このやりとりはもう何度目か。ただ、レース場では2回目である。いつもの食事、いつもの他愛のない会話が、喉の詰まるような緊張を和らげる。
「み、水をくれ!!」
白玉は喉に詰まった。
1番人気は圧倒的な票数でクラーモント、ストライドの広さが余裕と見えたか。事実として懐の深い走りである。緩やかな下りが続く阪神芝2000ではその走りを生かして体力の温存と加速が可能だ。一度勢いに乗ったダンプカーはもう止められない。
私は2番人気に甘んじている。前走同じコースを走り、3バ身半つけて勝利したにもかかわらず2番人気である。
3番人気はジャングルポケット、票数は私とほとんど差が無い。前走から3ヶ月の空白があるため、調整不足は考えられない。粘り強さも差し足もさらに磨き上げられているだろう。おそらく皐月賞でも対戦することになる。勝てずとも相手のデータを取らねばならない。
私らしくない、「勝てずとも」とはなんだ。私のかわいいモルモットは私の勝利を信じている。また泣かせてやればいい。私に勝つと言った彼女も、次のレースで敗北をプレゼントしなければならない。
長く息を吐き出す。少しだけ左足が震えている。
レース場が揺れる。メインレースはまだかと騒ぐ声がする。歓声と悲鳴と喜びと悲しみと悔しさと怒りと、全てが混じってここに渦巻く。
押し潰される。あの絶対の生徒会長と走ったときでさえ、こんな恐怖は抱かなかった。あのとき私は意地汚く走ったんだったか。今思えばなんとも醜い理由で走っていたために羞恥心が掻き立てられる。
震える左足を押さえつけると、私の頬に白玉が押しつけられた。
「トレーナー君!見てわからないか!!私は集中しているんだ!!白いもちもちはもう結構だ!!」
「えっ!?もう食べないんですか…?」
「腹立たしい!レース前なんだぞ!君は少しくらい緊張感を持ったらどうなんだ!」
「このフルーツポンチ…どうしよう…」
トレーナーは小さくしょぼくれる。一斗缶ほどのタッパーにこれでもかとフルーツポンチが詰められているのだ。確かに「フルーツポンチをたくさん作る」と言っていた。有言実行は素晴らしいことである。だが問題はそこではない。
「フルーツポンチの心配をするな!私の心配をしたまえよ!」
「大丈夫ですよ。」
トレーナーの声色が変わる。幼子をあやすかのような優しい温もりのある声だ。
「今、いつも通りのタキオンさんに戻りました。だから、大丈夫です。」
腹立たしいが、私のトレーナーは優秀であった。心の内を読まれたようで少しだけ不機嫌になる。だかそれは言わずに置こう。
私はいつも通り、芝の上を駆ける。それで勝てる。
レースが終われば、いつも通り研究をして、いつも通りトレーナーのお弁当を食べよう。
ただ、あの量のフルーツポンチを毎日出されるのは嫌だなあと思いながら、本バ場入場を迎えた。
リラックスってだいじ。
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Conquest
クラシックの登竜門であり、次世代の強者が集う
1番人気は圧倒的な票数でクラーモント
私は2番人気に甘んじた。
そして私にほぼ同率で3番人気のジャングルポケットが続く。
プレッシャーに圧される。こんなことはこれまで無かった。
トレーナーはそれを理解していた。
いつも通り走る。そして勝ちを取る
私はターフへと降りた。
金属の擦れる音。不快な音が鳴り、地獄の窯が開く。
ゲート開放。
我先に、我先にとウマ娘たちが駆ける。阪神芝2000は先行有利。目の前に人の盾ができる。好位を取らなければ地獄の窯の中。地獄から這い上がらんとして、皆が蜘蛛の糸に群がるのだ。
ハイペースで坂に突入する。馬群はここで一気に凝縮される。潰し合いという言葉でさえ生ぬるい。体はぶつかり合い、ずるずると後退する者が出る。泥が飛び跳ね、ちぎれた芝が目に刺さる。レースとは時に運が支配するものだ。
コーナー、ここでは群れが引き延ばされる。コーナーの外側に行けばそれだけ長い距離を走ることになる。前に出る、後ろに下がることで体力を温存し、仕掛けるときを待つのだ。
中段、クラーモントとジャングルポケットが並走、そのすぐ後ろに私がつける。
おかしい、イメージが見えない。この2人をかわして前に出る方法がわからない。
第1コーナーを抜ける。このレースは何かがおかしい。
「ッ…!!!」
右後方から何かが迫る。後方集団が私を交わそうとしている。気づけば、クラーモントとジャングルポケットとは1馬身半もの差がついていた。コーナーの内側に入れない。絡まり合う糸のように思考が乱れる。わからない。
私のイメージは彼女の「お友だち」ではない。あの栄光の背中、生徒会長の絶対の速さをも超えるというイメージによって作り出される幻影である。そのイメージが湧かないということは、勝てる可能性が無いということではないか。
恐ろしい想像が脳裏をよぎる。だが、脚を止めることはできない。たとえその先に千の針が待ち構えていようとも、レースから降りることはできない。脚を止めればすぐ釜の中に沈む。どちらも地獄であることに変わりはない。同じなのだ。
いつも通り、1歩2歩と駆ける。2人に置き去りにされるのは避けたい。そうなれば、レースは2人のものになってしまう。後方から様子を伺い、マークする。
ついていく。1歩2歩といつものように。1歩2歩と我慢の時を過ごす。
違和感がある。
第2コーナーに入る。内側には入れない。
違和感とは何か。クラーモントが私を前に出させまいと私をマークしているのだろうか、違うだろう。ジャングルポケットが先行していることだろうか、それも違う。
いつものように、1歩、2歩。先行するウマ娘たちに蹴り上げられた芝が私の肌に刺さる。
クラーモントの背中が近づく、おかしい。
私は特にペースあげていない。クラーモントのストライドが短いのだ。スタミナが切れたのか、そんなはずがない。彼女はステイヤーだ。まだ1000mも走っていない。
コーナーを抜けて直線、違和感が確信に変わる。
このレース、異様なまでに遅い。
スタートから直線、コーナー入口までは確実にハイペースであった。
原因はこのクラーモントである。1番人気の彼女を先行させてはならないと、皆が先を急いだ。マークしていたのだ。
そして、クラーモントはそれを読み切った。中段に位置取り前へ出ないように見せかける。そこから少しずつストライドを短くすることで、レース全体のペースを下げたのだ。
ペースの変化は体力を奪う。彼女のロングスパートについていくのであれば相当なスタミナとパワーを要求される。加速を許せばもう追いつけない。自らの利点、そして1番人気であることを巧みに利用しているのだ。おそらく第3コーナー前から始まる緩やかな坂のどこかで仕掛けるつもりだろう。全てのウマ娘を疲弊させ、押し潰して勝利を掴む。それがクラーモントには可能だ。
ジャングルポケットはどうだろうか。彼女の脚質は差しだ。後方に位置取ることでスタミナを温存し、最終直線で抜き去るのを得意としている。だが現在クラーモントと並んで先行位置につけている。それほどまでにペースが遅いのだ。クラーモントの策略を、ジャングルポケットがまた読んでいた。
私が持つ可能性のイメージはこの遥か前方を走っている。この2人を見ていては当然見ることなどできない。
地獄から抜ける蜘蛛の糸は既に手元にある。絡まった思考は一本の道筋となった。ならば、その道を私らしく走ればいい。
クラーモントがレースを征服し、ジャングルポケットがそれを逆手に取っている。だが、レースは2人のものではない。このレースは私のものだ。私のレースがここから始まる。
ちょうど3コーナー入口にさしかかる。決意とともに芝を蹴った。
クラーモントも動く。揺れる。圧倒的な加速。
ひと蹴りで地面が、レースが、競バ場が、歓声と悲鳴で揺れ始めていた。その揺れが私の心を強く揺さぶる。
4コーナー、大外を一気に駆け上がる。
ジャングルポケットが動く。鋭い末脚が命を刈り取る鎌のように鈍く光り、私を追う。
逃げてみせる。私はここで終わらない。私の脚には終わりが見えている。だが今ではない。可能性の先へ至るまで私は終われない。
直線で抜け出す。前には誰もいない。皆が私の後を追う。
あと少し。力を込めろ、加速しろ、蹴れ、跳べ、走れ。
もっと先へ、もう少し、あと少し、可能性へ手を伸ばせば届く!
少しだけ触れた、そんなような気がした。
気がつけば、レースは終わっていた。
レースの表現難しい…
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report:地下にとどく光
スタート前の直線、クラーモントを先行させまいと誰もが前を目指して駆ける。
中段にクラーモントとジャングルポケットが並ぶ。その後ろに私。
前へ出るイメージが湧かない、何かがおかしい。違和感があった。
いつもの走り、いつものペースで走るしかない。
すると、クラーモントの背中が近づく。
このレースはペースが遅い。1番人気のクラーモントがペースを支配していた。絶対のイメージはその遥か先にあった。
それを追い、私は駆けた。
直線では誰も追いつけない、私はレースに勝利した。
誰もが未来に夢を見る。たとえ何もしていなくとも、何かの進展を期待し「こうなったらいいな」と思うものだ。
思い描く未来に自らを近づけるために人々は努力する。何もしていないよりは何か努力をしていたほうがいい。思い描く未来を達成するには効率的だ。
だが、努力をすること自体が不可能なときはどうだろうか。何もできない。何も得られない。何も形にならないという現実と、自分の思い描く未来という幻影との乖離に苦しむ。このままではいけないという焦りが身を焼くような苦しみを生む。
レースまで2週間と少し。私はこの苦しみに焼かれ続けた。
よく人は「努力が足りない」と言う。だがそれ誤りだ。努力ができる状態にある時点で全てに恵まれている。
停滞することしかできないという現実、ウマ娘がもつ可能性の先へ至るという夢想。耐えるしかない。だが勝たねばならない。このジレンマは私の目を曇らせるには十分の要素だった。
勝てないのではないかとさえ思った。絶対の強さを持つ生徒会長との勝負の中で磨かれた可能性のイメージが、勝負の中で見えなくなった。
だが、その曇りを拭い去ったのは他でもない私のトレーナーだった。図ってか図らずかはわからない。いや、きっと全て分かっていたのだろう。トレーナーの「いつも通り」という言葉に助けられたのだ。いつも通り走っていたからこそ、クラーモントが作るペースの異常に気付いたのだ。心の内を読まれたようで、やはり少しだけ腹立たしい。だが、今回はトレーナー君に手柄を持たせてやろう。他人の手柄を横取りするのは下衆というものだ。私はそこまで落ちぶれてはいない。
レース場は未だ熱狂している。興奮冷めやらぬ中、風が優しく体を撫でる。火照った体を冷ますにはちょうど良いそれは誰もを平等に私達を包む。勝者への祝福のようで、敗者への慰めでもあった。
地下バ道の中は薄暗く冷たい。ここは以前も通った。
控室に戻れば、以前のように私のかわいいモルモットが鼻水を垂らしながら泣いているだろう。頭の悪いこと、トレーナーであるか疑わしくなるようなことを言って、また私を困惑させるのだろう。
今回こそは異常な量になってしまっているが、また以前のように美味しいお弁当、もといフルーツポンチをいただくとしよう。あとフルーツポンチの量はいつも通りの量に戻してもらおう。
いつも怒ってばかりだが、今回こそトレーナーに感謝の言葉を送ろう。
少しだけ足取りが軽くなる。黄緑色に光る通路誘導灯が足下を照らしていた。
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report: 9.461e+15の進展
ウマ娘の脚に宿る可能性を追うだけだった私も、彼女やトレーナーのような、様々な出会いがあった。
メイクデビューもした。重賞も制覇した。クラシックへの挑戦も決めた。
もう年は明ける。私はどこまで走れるだろうか。
環境を操作し、住み良い空間へと変える。人間はそうして開拓を繰り返し、快適な居住環境を手に入れてきた。
特に気温は重要な課題であった。焚き火から始まり、火鉢、囲炉裏、暖炉、ストーブなど、モノを燃焼させることで暖をとる手法が伝統的に行われてきた。時代は進み電気という叡智が歴史の表舞台に立つと、気温を自在に上げ下げするエアコンディショナーという機器まで現れた。
端的に要点をまとめるならば、暖房は良い。ということだ。
私は今、ラボで電熱線式のこたつに入っている。私が持ち込んだものではない。トレーナーのものだ。
こたつという暖房器具は大きな欠陥がある。一般的なこたつであれば熱源を布団で覆い、その布団の中に足を入れて暖を取る。だがそれでは室温自体はほぼ上がらない。布団の中に入れた体の一部のみが暖まってしまうのだ。
しかしながら、こたつには不思議な魅力がある。出られないのだ。体は冷えた空気に晒されているが、下半身は暖かい。冬の寒さを感じながらも体を暖める。矛盾した2つが両立し、冬という季節の魅力が浮き彫りになる。
雪が芝とダートの上に積もる。今は冬季休暇である。こんな日は外を走ることも、試験管を振ることも休みにしてもいいだろう。
「おしるこができましたよー」
トレーナーが2つのお碗をお盆に載せて運ぶ。おしることはあずきを甘く煮た餡に餅や白玉を入れた簡素ではあるが伝統的な甘味である。私はこれまで食べたことが無かった。
栄養価としてはエネルギーのうちほとんどが糖質である。以前の私であれば、ブドウ糖のタブレットで済ませていたことだろう。
「はい、あーん。」
「いや、今日は自分で食べることにするよ」
今日は何もしないから、忙しくなんかないんだ。そう言うとトレーナーが少しだけ笑った。
「おいしいですね。」
「あぁ、同感だよ。」
体の中から暖まる。これはおしるこを飲んだからではない。ひとりでおしるこを飲んでも、ひとりでこたつに入っても、心までは暖まらないからだ。
「トレーナー君、どうして今日はこたつなんか持ってきたんだい?」
トレーナーは大きなこたつを担いでラボにまでやって来たのだ。ヒトの女性にとっては大変重いものであることは想像に難くない。私も驚かないわけではないし、そもそもの意図がわからなかった。
「うーん…」
しばらく唸る。数分経って、一緒にこたつに入りたかったからですね!と返ってきた。
いつも通りの彼女らしい答えだ。だからこそ私はいつもとは違うことを言ってみたくなった。全ては気の迷いだ。
「なあ、トレーナー君。」
「なんでしょう?」
こちらを振り向く。その顔もいつも通りで、小動物のようで可愛らしい。
「いつもありがとう。」
この「いつも」はどれだけ続くだろうか。トレーナーは照れているのかすこしだけ顔を背けて嬉しそうに笑っている。いつも通りの笑顔がそこにあるのだ。
だからこそ私は、左脚が痛むことはまだ言えずにいた。
展開変えるかも
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report:不変の速度、不変の日常
雪が降る。
いつしかトレーナーや彼女がそば居ることが日常になっていた。
私はこの日常をどれだけ過ごせるだろうか。
「そうですね…筋肉にも骨にも何ら異常はありません。」
「すみません…ありがとうございました。」
成長期ですからね、レースの疲れもあるでしょう。と医師が続ける。トレーナーの心配は杞憂に終わったようだ。
雪が溶け、弥生賞に向けた練習が始まる。弥生賞はクラシック初戦の皐月賞のトライアルレースである。勝利することができれば皐月賞への優先出走権が手に入るため、同世代に居る珠玉のウマ娘たちがここに集うのだ。
その練習中トレーナーは私の歩様の変化を発見し、こうして病院に担ぎ込まれたのだ。トレーナーのウマ娘を見る力は慧眼と言っても差し支えないだろう。
医師の診断は私にとってもありがたい。私はまだ走れると言うことが専門家の手によって証明されたのだ。
弥生賞にはあの彼女、マンハッタンカフェが出る。彼女はメイクデビューこそ負けてしまったものの、2戦目では強さを見せつける勝利をした。私とメイクデビューで競ったライジングエンペラーも出場する。
マンハッタンカフェ、ライジングエンペラーともにステイヤーとしての適正があり、両者ともに長いストライドを持つ。クラシック3冠路線は中距離と長距離のコース。ステイヤー適正が十二分に発揮されればどちらもが勝つ可能性がある。
皐月賞、弥生賞ともに中山芝2000。距離はこれまでのレースと同じだがスタート後の直線が阪神芝2000と比べると80mほど長い。また、スタンド前直線から第1コーナーまでが急坂となっており、スタート後とゴール前の2回この坂を超えなければならない。
スタート後の2ハロン(1ハロン≒200m、おおよそ400m)は比較的緩やかな坂となっている。ここで激しい先行争いが行われる。
坂を登り切るとすぐ第2コーナーがある。急坂はゆっくり登りゆっくり降るのが定石である。坂の登りでパワーを要求されるのは当然であるが、降りでは一度ついてしまった勢いを殺しながら走る。勢いがつき過ぎて仕舞えば大外に振られてそのぶん体力を消費する。無理に勢いを殺せば脚に負荷がかかり、想像以上のスタミナとパワーを消費してしまう。スタート後2ハロンを超えると先行争いが落ち着くのではない。勝つために体力を温存する、誰も位置を変えられないのだ。
降りの後は平坦なコースが続く。向こう正面の直線、第3コーナー、第4コーナーと来てから、ゴール前の急坂が待ち構える。
位置を変えられないというフラストレーションがここで爆発する。先行するウマ娘たちは後方でじっくりと脚を溜めたウマ娘たちから逃げる。その先では急坂がそびえ立つため、大きく捲る走りがハマりやすいのだ。
「1番速いウマ娘が勝つ」皐月賞にはそんな格言がある。
スピードだけではない。スタミナ、パワーそしてコース取りや仕掛け時を図る頭脳、追い上げるウマ娘たちに負けないという根性。そして頑健な肉体であることが求められる。「速さ」には体の成長の速さまで含まれているのだ。私にはこれが足りない。
「今日は軽く筋力トレーニングと柔軟を行なって、明日は様子を見て坂路とダートを走りましょうか。」
「あぁ、そうしよう。」
強い体を作る。私が絶対の速度を超えるためには成し遂げなければならない課題だった。
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report:坂の上の月
速さとはスピードだけではない。体の成長を含めた仕上がりの速さも含まれる。
そのトライアルレースである弥生賞で彼女と対戦する
過酷な坂のあるコース、中山。
平坦なコーナーから続く最終直線は短く、そこにも坂がある。
体を補強し頑健なものにするためのトレーニングが始まった。
斜面では歩幅を小さく、平地では歩幅を広く。これを意識して走る。歩幅を小さく取ることで登りであれば速度の維持を容易にし、降りであれば速度の増加を抑えやすくする。走る時に発生する1歩の衝撃を小さくし、足への負荷も抑える。
「フッ、フッ、フッ…」
テンポよく、速度を下げずに、だが脚を出す回数は増やす。
雪溶け水が染み込んだ芝はよく滑る。1歩1歩を確実に踏み込まなければ、走ることはおろか、転倒し前に進むことすらままならない。滑らぬようにしっかりと足を突き刺し、蹴る。
「フゥッ…!!」
速度を上げる。速度が上がれば上がるほど、足の接地時間は短くなる。染み出した水の上を靴が滑り、止まれない・加速できないと言った現象が起きる危険性が上がるため、しっかりと足が芝を噛む感覚を体に叩き込むのだ。
馬場状態が悪くなればなるほど、踏み込む力と加速にかかる力が要求される。現在の雪解け水が染み込んだ馬場はまさにトレーニングにうってつけであった。
マンハッタンカフェは趣味として登山を行なっている。意外にもアウトドアな趣味があるのだ。
登山とレースの性質は大きく異なる。レース場には芝が敷かれているが登山道にはもちろん芝は敷かれていない。悪路に対する足首の柔軟性は彼女のほうが上だろう。パワーも鍛えられているはずだ。中山の登りと降りではおそらく勝ち目は薄い。
だが私にも利点はある。向こう正面から第4コーナーまで続く平坦なコースと、私の走り方だ。
私の走り方は足の先、母指球からつま先を芝に突き刺すように走る。靴に取り付けられた蹄鉄をしっかりと芝に噛ませることができれば、登りでは加速しやすくなり、降りではスピードを抑えやすくなる。道悪の場合は滑りにくくもなるのだ。平坦なコースでは私の瞬発力が活きる。第3コーナーから第4コーナーまでの中間は比較的カーブが緩い。ここで彼女との距離を離すことができれば、最終直線では幾分か余裕ができる。そこに賭けるしかない。
坂路を3本走り、少しだけ息を入れる。次はダートを走るのだ。
ダートの良馬場はサラサラとしたクッション砂が踏み込む力を分散させる。素早く走るには圧倒的なパワーを持ってクッション砂を踏み抜き、砂の下にある地面を踏む必要がある。
だが今日のダートは雪解け水をたっぷりと吸って不良馬場となっていた。
稍重や重馬場であれば砂の間に水が入るため、路面が引き締まる。良馬場と比べて走りやすくなるのだ。
不良馬場となると話は変わる。水を吸って踏み抜くのが困難な上に足元が崩れて滑る。足に泥が重りとなってまとわりつく。
「走るの、やめておきましょうか…?」
「いや、私がどれだけ適応できるのかデータを取ろうじゃないか。」
春先は日本を覆う気圧配置が大きく変わる。このような道悪で戦わなければならないことだってあり得るのだ。そう説明すると、トレーナーは静かにうなづいた。
彼女は強い。どんな状況であっても負けられない。
その後も雨と雪が降る日が続いた。
レース当日にも雨は降り、芝状態は近年稀にみる不良馬場となった。
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report:雲間から見える光
泥水を啜ろうとも、速さを追い求める
誰が相手だろうと下してみせる
たとえそれが友人であったとしても
芝の上に立つだけでも泥水が染み出してくる。激しい戦いになることは選手もトレーナーも観客でさえも理解している。
第11レース弥生賞。既に何人ものウマ娘がこの芝の上を駆けた後である。至る所に水たまりができ馬場状態は劣悪を極める。馬場状態はぐちゃぐちゃになった芝では誰もが能力を発揮しづらい。いかなる強者であっても足元を掬われる可能性がある。
それでもなお私は1番人気であった。2番人気のライジングエンペラーと大きな票数差がついている。
マンハッタンカフェは5番人気。体重の大幅減が人気に影響したのだろう。体重の大幅減は筋肉の減少が起きている可能性があるのだ。
ターフの上でウマ娘たちが準備運動をしている。もちろんその中に見慣れた顔もあった。
「やあ、カフェ」
「………」
彼女が私を一瞥する。金色の目は月の光を思わせる。
やはり痩せたようで少しだけ表情に棘がある。クラシック3冠の初戦、皐月賞への出場がかかった重要なレースであるため、出場する選手皆に特別な思いがある。だが、私と彼女にはそれ以上の何かがあるのは確実である。彼女の顔つきはその現れだろうか。
彼女の胸の内はわからない。レースへの不安があるのか、私には負けたくないという強い意志があるのか、それとも共に競い合わねばならないことを呪うのか、あるいはそれを喜ぶのか。
レース場の喧騒も、準備運動をするウマ娘たちも、すぐそばにあり手を伸ばせば触れられるというのに、どこか遠いところにある。私には彼女と競い合うということがとても大きく感じられた。
「いいレースにしよう。」
長い沈黙のあとに微かに、はいと聞こえた。
彼女は私が泣いていた夜を知っている。彼女は優しい。だがこのレースで手を抜くほど甘ったれた存在ではない。
沈黙は決意を固めるには十分な時間であった。
決して勝利は譲らない。誰であろうとも、たとえ彼女であっても。私の追い求める可能性は勝利の遥か先にある。
勝ちを譲れないという気持ちは誰でも同じである。だからこそレースは面白い。
ゲート入りが開始される。
私の中で何かが熱を帯びる。いつも以上の昂りがある。これはレポートに残すべき事項だろう。
雨はすでに止んでいる。雲の合間から光が差し込む。
たとえ可能性の先へ至る道がこのような悪路でも、脚が砕けて泥水の中に伏したとしても、私はそれを追い求めることはやめられないだろう。
この差し込む光よりも速く駆けたい。おとぎ話のような空想を抱かせるほど美しい光景が広がっている。
さあ、実験開始といこうか。
ゲートが今、解放された。
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Skyscraper
不良馬場のとき、内枠は不利となる。短い距離を走ろうとするウマ娘たちが何度も芝を踏み、脚が沈み込むほどにまで荒らされてしまう。
私は外枠からのスタートとなった。荒らされていない芝の上を走れることは大きなアドバンテージになる。
さあ、行きましょうとあの子が言った気がした。次の瞬間にゲートが開く。あの子は誰よりも速い。そして私に走り方を教えてくれる。その後ろをずっとついて行けばきっと勝てる。
しっかりと脚の感覚を確かめながら蹴る。荒れた馬場は私が得意とする場面でもある。みんながパワーを使い果たしてスタミナが尽きたところを後ろから差し切ってゴールすればいい。
先行争いは先に行かせる。そのまま潰れるからだ。2ハロン超えるとすぐに急坂があるので、そこでスタミナを使ってしまえばいい。
坂路が来た。ストライドを長く取りすぎてはいけない。小刻みに蹴ってもいけない。ゆったりと力を抜き、無理せずに走る。
縦長の展開、仕掛けどころが難しくなるが、平坦な道に出た時には前のウマ娘たちは消耗し切っている。
逃げ先行には辛い場面でしょう。ぬかるんだ地面で加速出来ず、ただ徒らにスタミナを消費させる坂路。差し追い込みに狙われるプレッシャー。このあとの降りでスピードを上げて突き離したい、耳元で悪魔がそう囁く。皆がそれに乗ってしまえば私が勝つ。
坂路の降りでは誰もがスピードを上げざるを得ない。無理をしてペースを上げれば筋肉疲労が増加する。だがしっかり踏みしめなければ不良馬場で滑る。私は大股で重力に任せてゆったり飛ぶ。脚への疲労は最小限に、そしてスピードは無理なく上げる。前を走るあの子の影がグッと近づく。
前のウマ娘たちは大きく泥を跳ねさせながら走っている。蹴る力だけが強く、推進力になっていない。
少しだけ笑みが溢れる。前のウマ娘達の背中がどんどん近くなる。これは良いレースになる。既にそう確信できた。
まだ抑える。誰もが最終の坂に向けて脚を残したいと思っているはずだ。
第3コーナー入口にかかる。
「っ……!?」
大きな水柱が目の前で上がった。泥水が跳ねて口の中に入る。どこかで啜ったコーヒーのようにザラザラとして不快なそれは、あの人の存在を思い出させた。
あの人を前に行かせてはならない。私の何かがそう警告する。
大きな音を立てて駆ける姿に周りも気づいた。1番人気のアグネスタキオンが突っ込んでくるのだ。誰も前に行かせるわけがない。
私のほうが強い。だが、あの人は誰よりも速かった。
あの人は加速していく。前の2人を抜き去り、先頭まで踊り出る。
「どうして……」
あの子の姿と重なる。だがすぐに追い抜いて行った。1バ身、2バ身としだいに遠ざかる。
脚は残していたはずだった。それなのに加速しない。
日の光に輝く栗毛を、またしても
ただ見ていることしか出来なかった。
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report:勝負の陰陽
優先出走権が手に入るのは3着まで
マンハッタンカフェは4着であった
不良馬場で後続に5バ身差をつけての勝利。完勝だった。レース前の熱を帯びたあの感覚が原因だろうか、私自身としても想像以上の結果である。だが、私に残ったものは何か表現のしようがない不快感と、僅かな喜びだけであった。
靴の中に泥水が溜まり、脚が重い。踏みしめるたびに足から水が染み出してくる気持ち悪さとその不快感はよく似ている。歩みを進めなければならないというのに、それが嫌になる。
負けないという気持ちは誰もが同じだ。彼女が私に負けないと言ったことを笑うつもりは毛頭無い。
クラシックには夢がある。ウマ娘が、人々が、「勝ちたい」「こうありたい」といった願望がクラシックを夢の舞台たらしめる。
弥生賞はその踏み台である。踏み外せば皐月賞への道が絶たれる。
彼女は本気で勝とうとしただろう。私はどうだったか。その先の可能性の眩しさに目が眩み、勝利と敗北という勝負に起こりうる至極当然の結果を見ないでいたのではないか。
勝利という結果を私が知らないでいた。多くのウマ娘の夢を壊したという現実が重く私に刺さる。
たかがレースだろう。
そんなはずはない。ひとつひとつのレースに青春も人生も全てを賭けて臨んだ者がいるはずだ。クラシックのトライアルレースであればなおさらだ。
たくさんの夢の死骸たちの上に立つ。そして夢あればこそ他者の夢を殺すことになる。膝をついて泣くものも、じっとうずくまり何もできないものも、「しょうがない」と涙を浮かべながらへらへら笑うものもいた。
彼女はそのどれでもない。私をただずっと見ている。
「カフェ…」
「次は負けません…絶対に…」
私の言葉が遮られる。どんな気持ちでその言葉を絞り出したのか私にはわからない。これは誰であっても理解はできない。
辛さ、苦しさを「分かる」というのは傲慢なのだ。だから彼女は私が泣いていたときも何も言わずに見ていたのだろう。
彼女の表情が次第に崩れていく。目には涙が浮かび、薄桃色の唇が鬱血する。いつかの傍若無人な彼女はどこにもいない。ただ等身大でその悔しさを噛み締める少女が居るだけだ。
泣かないでくれ。君を泣かせてしまっては、私は勝負という重みに耐えられそうにない。
「皐月賞では勝ってください」
「あぁ」
「また私と勝負してください」
「あぁ」
ぽつり、ぽつりと彼女が必死に紡いだ言葉が出る。
「さっきのレースであの子と姿が重なった…それがなによりも悔しいっ……!」
彼女は走り去ってしまった。
自らの目標を超える者が現れたときの絶望は私の想像の遥か上なのだろう。
彼女はこれからずっと強くなる。確信はないがそう思った。
これで良かったのだ。
彼女に敗北を贈ったことも、これで良かったのだ。
強いからこそ、勝負を期待される。
強いからこそ、また挑む者が現れる。
彼女の期待に沿うような強者になろう。
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report:欠けているもの
皐月賞まであとひと月。弥生賞のあと休養もかねてオフとなったが、現在私はトレーナー室で資料とにらめっこ中である。
「しかしどういうことなのかねぇ?トレーナー君」
「やはりクラシックへの気合いの入り方は違う、ってことですかね?」
私の前走、弥生賞は中山芝2000である。皐月賞も中山芝2000、同じコースを走る。
中山の特徴はやはりスタンド前から第1コーナーまで続く急坂だ。この坂を越えて最終直線にも坂がある。先行争いで好位を追走し、最後まで脚を残した者が勝つ。コースが同じ以上、弥生賞も皐月賞も同じであるはずだ。
だが、弥生賞と皐月賞では大きな差があった。GⅡとGⅠであること、クラシック3冠の初戦であることなどレースの格としての差はもちろんある。だが、レースの内容も大きく違うのだ。弥生賞と比べた場合、皐月賞のタイムは圧倒的に速い。2秒から3秒もの差がつくことが珍しくないのだ。
トゥインクルシリーズでは一般的に1バ身差は2.4メートルと換算される。レースの距離や内容によって変動するが、1バ身のタイム差は遅いレースであっても0.2秒ほどである。これをもとに単純計算をおこなうと1秒差で12m。だいたい5バ身差がつく。
私は弥生賞で2着のライジングエンペラーに5バ身差をつけて勝利した。生憎の不良馬場ではあったがあの差がおおよそ1秒差なのだ。それよりも速いペースで走らなければいけない。
皐月賞の私と弥生賞の私がいると考えよう。
弥生賞の私より皐月賞の私が2秒速く走るのであれば、皐月賞の私は弥生賞の私に対して24m差≒10バ身差をつけて走らなければならない。余談ではあるが10バ身差は掲示板で『大差』と表示される。
過去の自分から2秒速くなる。その速度の差は最終直線で生まれたりはしない。レースの駆け引きと自分の能力によって生み出される。
私はクラーモントが行う幻惑的なペースに打ち勝つことができた。ハイペースで流れるであろう皐月賞でも、惑わされることなく自分のレースを走れるだろう。
私は不良馬場となった弥生賞でもなんとか走り切り、勝利することができた。道悪でも勝てるということは私の自信になった。
「トレーナー君、私に足りないものはなんだろうか。」
これまで私は負けていない。だからこそ難しい質問だろう。だが、思いの外すぐに返答は返ってきた。
「道徳心…ですかね。」
このトレーナー、言うようになった。
「そういうのではなくてだね、勝利に必要そうな要素だよ。この際精神的なフワッとしたものでもいい。愛とか夢とか勇気とか」
しばらく考える。ひと月後には皐月賞が待っている。その間に探すようでは遅すぎる。
トレーナーがゆっくりと口を開く。
「圧倒的な速さ…誰もまだ走ったことがないような、絶対の速さ…とか……」
そこから出てきたものは奇しくも私が追い求めていたものだった。
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report:なつかしい香り
皐月賞は4月に行われる。だが卯月賞ではない。
季節はすっかりと春一色になり、新入生たちが入学して来るころになった。荒れた天候も梅雨までは無いだろう。寒さでやられて茶色の部分もあった芝がすっかりと生えそろい、ターフは緑一面の良馬場となる。
思えば去年度は激動の1年でもあった。自分の脚を呪って泣き、退学勧告までされた私であるが、生徒会長のシンボリルドルフと走り、トレーナーとも出会い、メイクデビューまで果たした。重賞も2つ勝利した。
これから夏に向けて芝が伸びだす。暖かくなったからか、皆が芝の上を元気に駆ける。最終コーナーあたりは皆がスパートをかけるために内側だけ少し荒れている。
私が模擬レースを行ったのもちょうどこのような日だったか。それを見たトレーナーが鼻水を垂らしてスカウトしてきたのだ。
少しだけ感傷に浸る。脚を止めるとトレーナーが、どうかしたのかと訊いてくる。
「なにもないよ、疲労によって脚の動きが鈍いみたいだ。」
「なら、少しだけおやつにしましょうか。」
おやつはやはりフルーツポンチだった。手軽に作れる上に、甘くて美味しい。シロップに浸かった白玉はあらゆる果実の甘みを吸収しており、これがとても美味しい。熱々の紅茶もある。
「おまけと言ってはなんですが…」
そう言って差し出された小さな紙の箱にはマドレーヌが入っていた。
「どうしてこれを?」
「洋菓子店に寄ってみたら美味しそうで。紅茶にも合いますし。」
マドレーヌならケーキと違ってお皿もフォークも要りませんからね、と続いた。
ひと口食べてから、マドレーヌを紅茶に浸してみる。いつか嗅いだ香りに似ている。あのときはフィナンシェだった。
「なにをしてるんですか?」
不思議そうにトレーナーが見つめる。それもそうだろう、とてもではないが上品とは言えない食べ方だ。手が塞がることすら嫌う私が、わざわざマドレーヌを濡らして、垂れる紅茶を気にするというのも奇異に見えたのかもしれない。
「以前読んだなんとかという小説で、紅茶にマドレーヌを浸す場面があってね、真似してみたんだよ。」
ふーん、と鼻をならすと、トレーナーも私を真似ていた。
暖かい風が芝の香りを乗せて頬を撫でる。今日はぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるギャラリーは居ない。穏やかでゆったりとした何もない日だ。
私がここまで走ることができたのも、あの模擬レースのおかげだろう。生徒会長の擁護がなければ、私は早々に退学となっていたはずだ。金色の目をした彼女がいなければ、模擬レースを走ることもなかった。そしてトレーナーとも出会えなかった。
「さあ、皐月賞は激戦になる。もう1回データを取ろう。」
「はい!」
休憩も早々に切り上げ、もう一度走ることにした。
モチベが下がりつつあるから褒めて
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report:飾り立てて
ラボで紅茶をいただく昼下がり。いつもならばトレーナーのお弁当に舌鼓を打つところではあるが、トレーナーがここに居ろというので待つことにしたのだ。
ドアの外からドタバタと足音が聞こえる。学園の規則では廊下は歩いてはいけない。ウマ娘ならばウマ娘らしく走れということだ。だがこの足音は歩幅が非常に短い。ステイヤーのものではないことは明らかだ。スプリンターのものでもない。スプリンターであれば足音が近づいてくるスピードが遅すぎるうえ、バタバタと不格好な音などさせない。おそらくヒトのものだろう。誰であるかの大体の察しはつく。
扉が勢いよく開くと、やはりトレーナーがそこに居た。鼻息は荒く、小脇に巨大なスケッチブックと巻尺を抱えている。何というか、目を輝かせ自信たっぷりで何かに期待しているかのような、言うなれば「小動物がご褒美を期待しているとき」のような顔をしている。こういった顔は何だったか、「ドヤ面」と言うんだったか。詳しいことは流行に目敏いというダイタクヘリオスかマルゼンスキーに訊いてみよう。
「タキオンさん!勝負服ですよ!」
普段であれば体操服や学園が用意する衣装を着てレースに出るが、トゥインクルシリーズのGⅠ出走時には特殊な衣装を着ることになる。それが勝負服だ。色とりどり、個性のある勝負服に身を包んだウマ娘が走るレースは壮観である。その華々しさとは裏腹に泥に塗れても歩みを止めず、ただ先を目指して駆ける死闘はまさに最上級のレースだろう。
トレーナーの目は少し充血して隈ができている。スケッチブックを抱えていることから、デザインを自ら考えていたのだろう。巻尺は私の体を採寸するためのものだ。
「勝負服、ねぇ…」
勝負服は晴れ着である。その姿が大々的に取り上げられるため、ウマ娘の普段のイメージから連想されるものがふさわしい。
服を脱ぎ、鏡の前に立つ。トレーナーがラボに居てくれと言ったのは姿見があるからだろう。自分の姿を見たほうが勝負服のイメージも湧きやすい。
するり、するりと巻尺が体に巻かれる。金具が少し冷たい。
採寸は思ったよりも早く終わった。白衣を羽織って椅子に腰掛けると、トレーナーがスケッチブックを開いて見せてきた。
「こういうのはどうでしょう?」
紺を基調としたブレザーが描かれている。肩章と飾緒がついており、かのシンボリルドルフを連想させる。タイを締めた姿はまさに正装に近い。
デザインとしてはまとまっているが、生地が重くなりそうだ。なにより私は堅苦しいのが嫌いだ。もう少しゆったりとしたものが良い。
「次は?」
「ではこれを。」
赤銅色のドレス。スチームパンク風で黒いフリルスカートが内から覗く。私の髪の色から連想したのだろう。ハットまである。好みのデザインではあるが、私がこれを着て走るというイメージが湧かない。蒸気機関車に乗るのであればまだイメージが湧く。
「うーん…次。」
「はい…」
桜色のアイドル然としたスカートスタイル。こういったスタイルはウマ娘からも人気が高い。多くのウマ娘が似たようなデザインを採用しているから、無難なデザインではある。だが私のイメージには沿わないだろう。
「次。」
「はい……」
デコラスタイル。これは無い。だがトレーナーがわざわざ描くということは有り…なのか…?
しばらく考えたがどれもパッとしないものばかりだった。私らしいものとはなんだ…私らしいものとは……
「白衣…とか…?」
気づかぬうちに口に出していたらしい。トレーナーがその言葉に反応した。
「白衣ねぇ…正気なのかい?トレーナー君。」
だらんと垂れ下がった裾は足に絡まることがある。手元より長い袖はただただ邪魔だ。それを勝負服にするなど正気であるとは思えない。
「らしさ、って言ったら白衣ですよ!」
鉛筆がスケッチブックの上をさらりさらりと滑る。さながら白い大海原を泳ぐようで、生き生きとした自由な動きであった。あっという間にデザインは描きあがり、意気揚々と見せつけられる。
白い白衣の腰に試験管がぶら下げられている。肩には臙脂色のレザーで作られた肩当てがあり、水色2本のラインが入る。長い裾には動き易いようにジッパーがつけられ、固めの骨が入る。
白衣の下はベージュのニットと黒いシャツ。下半身はミニスカートに黒のタイツ。そしてヒールのある白いローファーに似せたレース靴。
「ふぅん……、やるじゃないか、トレーナー君。」
走り辛そうではある。だが何故だろうか、この服を着たいという意思と、この服ならば勝てるという何か不思議な魅力があった。
「どうでしょう?自信作ですよ!」
目の前の小動物が自慢気に笑っていた。
結局このデザインを申請することにした。なんと言えばいいのだろうか、喜ばしい気持ちもあるが、少しだけトレーナーの顔が腹立たしい。
「あだっ!?」
デコピンをしたら気分が晴れた。
ナウいヤングの言葉を教えてほしい?
オッケー♪問題ナッシ〜ング⭐︎なんでもござれ〜!
「ドヤ面」……?
うーん………?
めんごめんご〜
ちょっち用事思い出したから〜バイちゃー
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report:いつか見た光
芝の上を駆ける。足を芝に突き刺して大きく蹴る。もう一度、もう一度。
速度は未だ足りない。自分の可能性をイメージする。私の脚には可能性が満ちている。絶対の速さのその先へ行くために、脚へと力を込めて大きく蹴り、もう一度芝を蹴る。
2秒縮める、その先に私の求める速さがある。未だ遠いその道を支える者がいる。そこへ至るまで競い合う者がいる。これがなんと恵まれたことだろうか。
日が傾き、橙色の光で満ちる。気温は少しずつ下がり、風が冷たくなる。汗をかいたあとには少し辛い。いつか見た夕暮れもこんな色と冷たい風を纏っていた。
「今日のメニューは全行程終了ですね!お疲れ様ですっ!」
息が上がる。どうにも今日は疲れてしまったようだ。
「ふぅ……データとしてはどうだい?」
「そうですね…、タイムとしては良くなっていますが、坂路の伸びがイマイチですね。」
これまでの3レース、私は最終コーナー手前で中段から飛び出すスパートによって勝っている。だが皐月賞では訳が違う。序盤からハイペースで流れることは必至だ。末脚だけで勝とうとするならば、相当な実力差がなければいけない。それこそ無敗で3冠を制すような圧倒的な実力が必要だ。
「蹴りが弱くなったんですかね?」
いつもより芝の抉れが小さい。無理な力が抜けてタイムが伸びているなら良い兆候である。だが、中山の最終直線は短いうえに急坂だ。スパートでは脚を溜めた後続に負けないだけのパワーが求められる。
「ふーむ……、どうだろうねぇ、そこは蹴る力のデータを取らない限りはわからないよ。」
皐月賞はすぐそばまで迫っていた。フォームの改善は間に合わない。筋力トレーニングをしても効果は見込めないだろう。
「じゃあ私はこれで失礼するよ。ラボに行かなきゃならないんでね。」
「わかりました、お疲れさまです!」
嫌な予感がした。自分の体を今一度調べるべきだと何かが告げる。
私は1年間、ここまで走ることができた。ラジオたんぱ杯では試薬の反応も出なかった。フォームだって大きく変えた。体の筋肉量も柔軟性もあのころよりは格段に上がっている。確かに脚部不安はあったが、それは乗り越えたはずなのだ。
試薬を飲めばいい。それで全てが分かる。蹴りが弱いのは練習が続いたことによるただの筋肉疲労で、私の体に異常は無い。きっとそうだ、現にタイムは伸びた。痛みすら無いのだから、何もあるはずがない。
堂々巡りする思考を抱えながら、薬品を混ぜる。ラボの窓からは夕日差し込んでいた。安らかで暖かでありながら何かの終わりを感じさせる光は、私の影法師を作り出す。
試薬が出来上がるころには、辺りはすっかり夜の帳に包まれていた。服を脱ぎ、鏡の前に立つ。出来上がったそれを一気に飲み干す。ひどい味がした。
ほら、何も起こらないじゃないか。そう思ったとき、ラボの扉が開いた。
「タキオンさん…?」
雲ひとつない青空のような美しい目が私を見つめる。他でもない、私のトレーナーだ。
「門限過ぎてますよ!寮長さんがタキオンさんのことをさがしてます!」
いつか聞いたようなセリフだ。
「あっ……」
何かに気づいたような、そんな声がした。
「その薬、トレーナー契約のときに私が飲まされたヤツですよね。」
「こうして見ると、ホタルみたいで綺麗ですね。」
いつか見たような光が、私のつま先に灯っている。
目の前がぼやけて滲む。黄緑色の光がゆらゆらと揺れた。だが、ここでは堪えなければならない。
「なぁ、トレーナー君。」
「なんですか?」
不思議そうに私を見つめる目は純粋で眩しい。この目は金色の彼女の目とは違う。
私は嘘をついたりはしない。金色の月に雲がかかるのは美しくあるが、青空が曇ることなど私は望まない。
「皐月賞、絶対に勝ってみせるよ。」
だから私はもう一度、取り返しのつかない約束をした。
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トレーナー日誌
皐月賞を前にして、より一層気合いがはいっているようです。彼女はいつも雲を掴むかのような気難しさがありますが、やはり一流のウマ娘になるべくしてなる存在だと思います。
最近は食欲が旺盛で、もっとお弁当を食べたいとわがままを言うようになりました。体が引き締まったぶん、エネルギー消費も大きくなったのでしょう。
苦いものが苦手のようなので、野菜を食べさせることには苦労しています。そのぶんフルーツなどで補ってはいるのですが、これを気に入ってしまったみたいで、フルーツポンチが無いと目に見えてやる気が下がってしまいます。
今日の練習メニューはラダーともも上げ、スキップなどの基礎練習と坂路のピッチ走とスパート練習を行い、仕上げに芝2000を2回走りました。
専属トレーナーであることや、タキオンさんの評判などから、並走トレーニングをすることができないのは悔やまれますが、どんどんタイムを向上させていっています。走っている時の表情はレースのときのように見えない何かを追っているかのようで、ゴール板よりも先を見据えているのが印象的でした。私としてはゴール板が近づいて力が抜けてしまうよりは良いと思います。
ただタイムは伸びているものの、どこか本調子のようには見えないことが気がかりです。精神的なプレッシャーもあるのでしょうか?
特に今日は珍しく、練習後に門限を過ぎてラボに篭っていたようでした。普段のおかしな行動はたしかにちょっと問題ではありますが、どれも学園規則には抵触しないものばかりです。学園規則を破ってしまうほど何かに追い詰められていなければいいのですが…
トレーナーとして身体能力の向上や技術の指導も重要ですが、メンタルケアにも力を入れていきたいです。トレーナーとしての至らなさを感じました。
タキオンさんはラボで薬のようなものを作っていたようです。どうやらそれは私がトレーナー契約のときに飲まされてしまった薬のようで、タキオンさんのつまさきが黄緑色に光っていました。
ドーピングを「白ける行為」と呼んで激しく嫌っていること、またクラシック制覇には十分すぎる実力を持っていることなどから、不正などではないと思います。
寮まで送り届けましたが、結局のところあの薬の効能はまだわかっていません。
もしかしたらただのいたずら用の薬という可能性もあるでしょう。
アグネスタキオンさんは皐月賞にとどまらず、日本ダービーや菊花賞などを勝利する可能性があると私は考えています。
今はただ無事に皐月賞を迎えられることを祈るばかりです。
アグネスタキオン 専属トレーナー
桐生院 碧
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report:青空に浮かぶ太陽
「フーッ…。」
呼吸を整える。準備は十分すぎるほどした。あとは走るのみ。足のことは今考えてはいけない。
「いつになく真剣ですね。」
隣ではトレーナーが笑う。1年でこのトレーナーも冗談を言うようになった。
白玉を刺したフォークが私の頬の前に差し出される。
「失礼だな、私は常に一定の真剣さは持ちあわせているよ。」
ひとくちでぱくりと口の中に納める。いつも通りの、フルーツの甘味をたくさん吸った美味しい白玉だ。
「そうですね、勝ってくださるんですもんね。」
いじらしく笑うそれは、無邪気で純粋な信じる心の現れだろう。約束をした以上、それはどのような形であれ果たすつもりである。
勝利、敗北、あるいは__
「タキオンさん!」
混沌とした思考から、大きな声で引き戻される。
「勝負服!そろそろ着ましょうよ!」
皐月賞はGⅠレース。勝負服を着用して挑まなければならない。勝負服は先日届いたが、まだ着たことがなかった。
「ふぅン…そうだね、では手伝ってくれるかな。」
「はい!」
自分の教え子の晴れ姿を見たくない者はいないだろう。トレーナーは満面笑みで白衣に試験管をくくり付けている。
この勝負服は小物が多く裾が長い。着るまでに少しだけ手間取ることは明らかである。だが、トレーナーはもう一度着ることになってもまた満面の笑みで白衣に試験管をくくり付けることだろう。何回でも何回でも。
何回目でこの笑顔が消えるだろうか、何回目で面倒だとボヤくだろうか。私はこの服をあと何回着れるだろうか。
タイツを履く。シャツを着る。スカートを履く。ゆったりとタイを巻く。ニットを着る。ひとつひとつが私の走りたいという気持ちを加速させる。この勝負服は、私を1番良く知っているトレーナーが描いた思いの形である。それに応えるために、何度でも何度でもこの勝負服を着てみせよう。そしてこの勝負服でウィナーズサークルに立とう。
レース靴に履き替えるころ、ようやく白衣にすべての小物が取り付けられた。
「走り辛いとか不具合は無いですか?」
そんなことはない。袖が長く垂れ下がる。白衣の裾は膝下まである。だからなんだというのだ。この思いを身に纏って走ること以上に素晴らしいことは無い。
「いや、最高の気分だよ。」
嘘偽りのない気持ち。心の中に晴れわたる青空が広がるような心地よさがあり、脚が軽い。今日は空をも駆けて行けそうだ。月だって、太陽だって超えられる。
いつか私は走れなくなるときが来る。だがそれは今日ではない。何度だって立ち上がって、何度だって勝負服を着てみせる。
「なあ、トレーナー君頼みがあるんだが」
なんでしょう?、と見つめる目。私の心と同じ晴れ渡った青空の色。
「フルーツポンチ、もう少し頂けないか?」
「はい、どうぞ。」
微笑みながらトレーナーはフォークを差し出す。パイナップルは甘酸っぱい。桜桃は香りが良い。さくらんぼは可愛らしい。白玉はそのすべてを持ち合わせている。
白玉を口の中で転がしながら、2人でパドックへ進む。
食べられなくなるのが少しだけ名残り惜しい。
「勝ってくるよ。」
白玉を飲み込んでから、聞こえるように呟いた。
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tachyon
ファンファーレが鳴り響くとゲート入りが開始される。速く無ければ戦えない。強くなければ超えられない。思いに応えなければ勝つ資格はない。
巷ではジャングルポケットと私の2強対決と騒がれている。バカバカしいものだ、勝負は常に流動的に動く、最強などという者は存在しない。勝った者が強いというだけだ。誰しもが覇者足る資格を持つ。誰しもが敗者になりうる。ゴールラインを切るその瞬間を観測するまでは、全てが重ね合わせの状態なのだ。
箱を開けてみなければわからない。それは実験もレースも一緒だ。
私は少しだけ覚悟の時間が欲しい。目を瞑り深呼吸をする。係員が私の肩を叩く。その手に導かれるままにゲートに入った。
18人目のウマ娘がゲートに入り、3秒。窮屈な箱が開かれた。
数人が出遅れる。その中にジャングルポケットが居た。
好位につけたい。そんな心の声が聞こえる先行争い。全員が坂を全力で登る。ぐっと群れが内側に圧され、足音と砂煙がすべてを覆う。最初から恐ろしいほどのハイペースである。本当の速さが試される。それがクラシック初戦、皐月賞。
小刻みに芝を蹴る。小さく跳ねるように、しかしながら速度は上げてゆく。このハイペースに飲まれず、そして最後の坂で脚を残すために、出来るだけ前方で好位を追走する状態でありたい。
先行争いは坂のてっぺんまで続く。坂を越えれば下りに傾斜を持つコーナーがある。群れは縦に引き延ばされ、ここでポジションが決定する。私は前から5番目、良い位置につけた。
それでも勢いは止まらない。コーナーで離された後方集団のウマ娘たちがじりじりと詰めてくるのがわかる。焦ってはいけない。誰も動かないはずだ、最終コーナーまでに無理な動きをすれば脚を使い果たしてしまう。ただ離されたものが追いついただけであるのだが、私の心が背中から潰される。
向正面の直線に入ると観客の声が遠くなる。少しだけ走りやすい。私のトレーナーは今どのあたりで見ているだろうか。トレーナーの思いに応えてみせよう。脚はまだ残っている。
最速のイメージは出来上がった。3コーナー前のここから仕掛ける。
芝につまさきを突き刺し、大きく蹴り上げる。だが、何か空を切るようなそんな感触があった。もう一度蹴る。もう一度。だがそれも、ただただ空回りしている。内臓の裏を何か冷たいものが走る感触があった。脚が動かないのだ。
気づけば群れが一段と固まり、全員がスパートの体制に入っている。蹴り上げられた砂が顔にかかり、口の中に泥と鉄の味が広がる。何度も口にしたはずだが、こんな味だっただろうか。とても苦しい。だが、それがどうしたと去りゆく背中たちが笑う。
負けたくない。
私の勝つ可能性が完全に否定されたわけではない。ただつまさきを突き刺しても思ったように加速しないというだけだ。
ならば、どんな走り方であっても前に進めば良い。
遠心力に振られながら直線に出た。大外からスパートをかける。大外ならば、芝の状態が良い。まさに僥倖だ。
芝を蹴る。もっと、もっと速く。勝利は誰にも渡さない。誰も前には行かせない。フォームが崩れようとも、脚が痛もうとも構わない。
「はははっ!!!」
踏み出せば、鋭い痛みとともに私の体が弾む。視界は置き去りになり、景色は遥か後方に流されてゆく。それが可笑しくて思わず笑いが込み上げてきた。
観衆達も、このレースを走るウマ娘にも、私の心の昂りを伝えたい。この心の昂りは私の脚が生み出している。
ああ、わかるだろうか?可能性だ!この脚には可能性が満ちている!!私の脚の限界の果ては!!私の到達しうる限界速度は!!この脚に宿っている!!
もっと速く!もっと速く!
すぐ後ろにはジャングルポケット、そしてもう1人ビッグバンフレアが居る。
最速のイメージも、栄光の背中のイメージも、もう見えない、何もわからない。
だが、見えなくとも、分からなくともいい。可能性は私の脚にあった。その喜びに身を任せ、私は夢中で駆け抜けた。
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introduction : My body
レースが始まるたびに、私はトレーナーという職業を呪う。ターフを駆ける彼女たちに、いったいどれほど私の持っているものを与えられるのだろうか。
与えるというのもおこがましいかもしれない。トレーナーができることといえば、練習メニューを作り、練習を見る。それくらいしかない。ゲートに入る孤独、レースへの恐怖、勝利へのプレッシャー、それらを分かちあうことすら難しい。
ターフを駆けるものにしかわからないものがある。トレーナーはそれを垣間見ることすら叶わない。
お弁当を作っても、一緒に遊んでも、いたずらをされて笑っても、それはレースの外のこと。レースの外のことに一生懸命になったとしても、レースの時にはただ手を合わせて祈ることしかできない。
トゥインクルシリーズはエンターテイメントである。私はそれを否定するつもりはない。トゥインクルシリーズをたかがレース、たかがかけっこごとき、と言う人も少なくはない。だがそのレースに青春も運命も全てを賭けて走るウマ娘がいる。だからこそトゥインクルシリーズは太陽のように輝き、人々の心を動かし、ウマ娘たちの夢となってその夢への道を照らす。
私がウマ娘ならばどれほど良かったことか。走り方のレクチャーも、フォームの指導も、トレーニングのメニューも、コースの特徴も、お弁当の作り方も、担当ウマ娘との触れ合いかたも、すべては座学によって積み重なったものにしか過ぎない。担当ウマ娘が走る姿を見てもなお感動の片隅に「あそこはこうするべきだった」「ここではこれをしてはいけない」と、知識として湧き出る言葉があった。
少しだけ、私の担当ウマ娘がわずかにゲート入りを嫌う姿が見えたとき、私もあの場所に立てたなら、と悔しく思った。
私の担当ウマ娘はたぐい稀なる才能を持っては居たが、デビュー前はレースへの意欲が低いと見做されていた。しかし今誉れ高いクラシック三冠路線の初戦、皐月賞を走る。
ゲートが解放されて、ウマ娘たちが走り出す。それだけで私はトレーナーになってよかったとさえ思う。担当ウマ娘は速いペースでも難なく乗れている。好位につけ、譲らない。
彼女は確かに速い。だが勝利までは望まない。怪我無く無事に走り切ってほしい。ただそれだけを願って強く手を握りしめる。
3-4コーナー中間で一気に展開が動く。大外に進路を取り、飲まれないように一気にスパートをかけた。
何かがおかしい。歩様には練習時の鋭い末脚がない。いつもならばスパイクのように深くつまさきを芝に突き刺す走りをする。だが今はかかとから着地し、脚を滑らせてしまって芝を強く蹴れていない。上体は上がり、ただ気力のみで走っている。
そのままぐんぐんと加速する。もうやめてほしい。体に異常が出ているのは明らかだった。このままでは走れなくなってしまう。それでも、それでもと私の意思に反してウマ娘は必死に駆ける。汗が飛び散り光る。砂を被って泥だらけになっても構わず、ただただ力を込めて、自らを燃やし尽くして輝かんとするかのように走っている。
わからない、なぜそうなってまで走ろうとするのか、私もターフを駆ければその理由がわかるのだろうか。ただ自分の身を呪うことしかできない。
私はその姿から一瞬たりとも目が離せなかった。
「トレーナー君…」
地下バ道で私を呼ぶ声がした。息も絶え絶えなそれは、私の担当ウマ娘のものだった。
「私は……勝ってみせたよ……」
「褒めては………くれないのかい………?」
「タキオンさん!!」
倒れかかるウマ娘を抱きかかえる。
左脚を引きずり、歩くことすらままならない。
「泣かなくったっていいじゃないか……キミは皐月賞トレーナーなんだぞ……?」
何も言えない。ただ私は唇を噛んで必死に嗚咽を噛み殺すことしかできない。
「実は、秘密にしてたことがあってね、それを話さなくちゃならないみたいなんだ…」
「聞いてくれるかい…?」
呼吸が落ち着き、ゆっくりと話し始めるその姿を通路誘導灯だけがぼんやりと照らしていた。
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report:黄昏時の瞬きは因果を超える
「トレーナー君、遅かったじゃないか。」
ラボの扉が開く。私のトレーナーともうひとつ見慣れた顔があった。
「カフェ…?」
何も言わずただ静かにこちらを見ている。同情や憐みといった感情もなく、いつも通りの他人を寄せ付けない雰囲気を纏った姿である。それに対して私のトレーナーと言うと小動物のように挙動不審でキョロキョロを辺りを見回して、私の顔を見て笑顔になり、私の車椅子を見て悲しんだりと表情がよく変わる。
トレーナーは終業後に毎日私のラボを訪れる。私はもう走れないというのに未だにトレーナーとして私の面倒を見ようとするのだ。私としては車椅子を自分で動かすのは億劫であるし、美味しいお弁当が食べられるのは願ってもない嬉しいことではあるのだが、退学を余儀なくされた生徒の面倒を見るよりも、トレーナーとしてチームを編成したり、私と出会った当初のように教官の真似事でもしていたほうが生産的ではないだろうか。
「お茶でも淹れようか、レモンとミルクは?ああ、キミはコーヒーだったね。さぁ、かけたまえよ。」
2人は無言で椅子に座る。気を使っているのだろう、だがその沈黙は私の心を窒息させる。ボコボコという水の音は私の息が漏れる音ではない。ただ水が沸騰しているだけだ。
紅茶とコーヒーを差し出しても、しばらくその水面を眺めているだけで、口をつけようともしない。紅茶の淹れかたはもちろん、コーヒーの淹れかたも少しは勉強したつもりである。自分のカップに紅茶を注ぎ、角砂糖を3つ放り込んで飲んでみる。やけに渋味が強い。また3つ、また3つと放り込んでも渋味は消えなかった。
いつかの彼女と共に居るときの沈黙は、心が安らぐものであった。しかし今は違う。トレーナーが一緒にいるせいではないだろう。全ての原因は私自身にある。あのとき勝つために走ったことに後悔が無いわけではない。ただ、レース中に壊れた脚を労ろうとも、走れなくなるという結果は変わらない。ただあのレースで敗北していただけだろう。私の脚が壊れるということは以前から決まっていた覆ることのない因果なのだ。彼女とはもう一度勝負をすると約束した。だがその約束だけは守れそうにない。
「……また、私と走ってください。」
優しく、力強い声がした。
「見て分からないか?私はもう__」
「私は、ターフで待っています。あのときよりも強くなって。」
そう言い残すと彼女はラボから去った。
「カフェさん、ラボの前にずっと立っていたんですよ。」
彼女が立ち去ったあとにトレーナーが呟いた。
「ライバル、なんですよね?」
「さぁ?話をしようとすれば避けられることもあるし、今日のように自分から近寄ってくることもある。彼女のことはわからないよ。」
知り合いと言うには遠過ぎる。親友と言うには違和感がある。そして、私はもうライバルとはなり得ない。
「じゃあ、お友達…ですかね?」
なんとも安直で幼稚な考えだ。だがその純粋さがトレーナーの良さでもある。
「キミが言うなら、そうかもしれないな。」
トレーナーは何も返してはくれなかった。
窓の外からは溌剌としたかけ声が聞こえている。私には眩し過ぎる光景に少しだけ目を背けた。
夕日を眺めると心が落ち着く。安らかで暖かでありながら沈みゆく運命にある太陽は、きっと私自身のことなのだろう。
私の勝利を信じてそばに居てくれたトレーナー、そしてカフェをはじめとした共にターフを駆けたウマ娘たち。彼女たちの綺羅星のような輝きを眺めながらゆっくりと太陽は沈む。これほどまでに幸せなことはない。
山あいに太陽が沈むとき、少しだけ黄緑色の光が瞬いた。
「タキオンさん、あれって……?」
どうやらトレーナーにも見えたらしい。
「緑閃光、グリーンフラッシュ現象とも言われるものだろう。こんなところで見えることなんてありえないはずなのだが……」
「じゃあ、きっと良いことありますよ。」
「そろそろ帰りましょうか。」
そう言うとトレーナーは車椅子を押した。
前回前々回がひどい文章だったのでいろいろ変えました。
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まだ陽のあたらないつぼみ
一生懸命走る。わたしはそれが得意だった。でも、一緒に走ってるみんなも同じはずだ。みんな勝ちたいから、みんな速くなりたいから、だから一生懸命走ってるんだ。たとえ今走ってるような模擬レースだって、みんな手は抜かない。だからわたしはこうして前に出られない。
結果は5着。最下位だった。それでもみんなはわたしをバカにしたり、いじめたりはしない。どうすれば速くなれるのか、どういうトレーニングをすればいいのか一緒に考えてくれる。優しく親切にしてくれるのはとても嬉しいのだけれどすごく申し訳ない気持ちになる。
「おい、ウララ。」
わたしの名前を呼ぶ声がした。聴き慣れた声の持ち主はすぐそばに居る。
「なあに?シャカールちゃん?」
「良い走りだったぞ。」
シャカールちゃんは私の先輩でいつも親切に走り方を教えてくれる。すごく速いウマ娘のひとりで、ダービーはほんの少しの差で2着になってしまったけれど皐月賞と菊花賞を勝っている。エアシャカール先輩って呼ばなきゃいけないのかもしれないけど、シャカールちゃんが「シャカールでいい」と言ったのでシャカールちゃんと呼んでいる。
「今週末、またレースに出るんだろ、トレーナーはなんて言ったんだ。」
「あのね、きゅうりいんさんは疲れるかもしれないからおやすみにしようって行ったの。だけどウララは__」
「じゃあなんで休んでないんだ!」
「ひっ……」
シャカールちゃんは見た目はちょっとこわいけど、これまでこんな風に怒鳴ることは一度も無かった。
「悪い……言い過ぎた……」
シャカールちゃんは何も悪くない。悪いのはトレーナーさんの言いつけを守らなかったわたしなのに、シャカールちゃんは謝った。
「なんで走っていたんだ」
今度は優しく落ち着いた声で訊いてきた。
「あのね、みんなウララに走りかたを教えてくれるの。みんなすっごく速いし、すっごく頭もよくて、どんどん速くなれる気がするんだけど…」
どこも痛くなんかないのに、なぜか涙がでてしまう。
「あのね、思っちゃうんだ……ウララは1回も勝てないんじゃないかって……ウララは、トレセン学園に……居ちゃいけないんじゃないか……って……」
本当ならば、トレセン学園はわたしみたいなウマ娘が居ていい場所なんかじゃないことは薄々わかっている。みんな速くて追いつくことさえできない。わたしのかけっこのずっと先でみんなはレースをしている。
「ウララね…もっと速くなりたいの、もっと速くなって、レースに勝って、みんなにありがとうって、言いたいの……」
「そうか…」
わたしが泣き止むまでシャカールちゃんはそばにいてくれた。
「なあ、ウララ。」
泣き止んで呼吸が落ち着くと呼びかけてきた。
「会わせたいヤツが居るんだ。」
そう言うとシャカールちゃんは私の手を引いた。
もうちっとだけ続くんじゃ
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日が登るとき草木は朝露に輝く
シャカールちゃんと手を繋いで、空き教室の前に来た。この教室は普段使われていない棟にある。おばけが出るとか、変な光を見たとか、友達が言っていたので少しこわい。
「おい、居るか?」
そんなことはおかまいなしで、シャカールちゃんが教室のドアを開けた。
中には茶色の髪、綺麗な栗毛をしたウマ娘がひとりで立っていた。少しだけ髪がぼさぼさで、服を脱いでいた。みたことがない人なので、たぶんシニアクラスの先輩なんだろう。もしかしたら先生なのかもしれない。
「やあ君かぁ!シャカール君!数字の信奉者がここに何の用だい?また実験台になりに来てくれたのかい?ちょうどよかったまずこれを__」
「またかようるせえなぁ!とりあえず服着ろよ。」
「えー面倒だなあ、君が着せてくれよぉー」
「やだね。」
「えー」
しぶしぶと服を着ている。すこし変なひとだけれど、シャカールちゃんが楽しそうに話をしているので悪いひとではなさそう。
「おい、ウララ。こいつが出す飲み物は絶対飲むんじゃねえぞ。」
シャカールちゃんがこっそりと耳打ちをしてくる。
「なんで飲んじゃダメなの?」
「バカ!声がでかい。こいつの出す飲み物を飲んだら最後、体が虹色に光る。」
すこしだけ面白そうだなと思った。
「さて、服を着たがこれで満足かい?ところで、キミの隣にいる珍しい髪色の子は見ない顔だが、いったいどうしたんだい?」
「あー、いろいろ訳ありでな。こいつレース前だってのにトレーナーの言いつけを破って他の連中と模擬レースしてやがったんだ。」
それを聞くと、変なひとはふぅンと鼻を鳴らした。
「で、どうしてそんなことをしていたんだい?」
「悪いがそれはコイツ本人から聞いてくれ。そんで昔話でも聞かせてやってくれよ。」
シャカールちゃんは回れ右をして扉を開ける。
「シャカールちゃん行っちゃうの?」
「外で待っててやる。」
そう言ってこの部屋には変なひととわたしのふたりぼっちになった。
「立っているのもなんだ、そこにかけたまえ。お茶でもいかがかな?コーヒーもある。ミルクかレモンどちらがいいかな」
「いいです。シャカールちゃんがコイツの出す飲み物は飲んじゃダメって」
「おいおい、すごい言い様だなぁ。私は初対面の人間に薬を盛ったりするような下衆ではないよ。」
「初対面じゃなかったらするんだ…」
「ハッハッハ!これは一本取られたね。」
一応ね、と言いながら紅茶が目の前に差し出された。暖かくてとてもいい香りをしている。変なひとの髪の色にも似ていると思った。
「では本題に入ろうか。」
変なひとはそう言うと私の目の前に座った。わたしの顔を見ながらニコニコと笑っている。
「レース前は休養することが大事なのは理解しているね?どうしてトレーナーの言いつけを破って友達と模擬レースなんかしていたんだい?」
「あの、わたしもっと速くなりたくて…」
「どうしてだい?トレーナーとの練習では速くなれないとおもったのかい?トレーナーの名前はなんて言うんだ?あとキミの名前も聞いていなかったね。」
「えっと、わたしはハルウララです。トレーナーさんはきゅうりいんさんです。」
「きゅうりいん?桐生院ではなくて?」
「そのひとです。」
トレーナーの名前を伝えると変なひとはまたふぅンと鼻を鳴らした。
「君のトレーナーは優秀な人間だ。私たちウマ娘の活躍を信じて身を粉にして働いているんだ。その言いつけを破るというのは、トレーナーへの裏切り行為に他ならない。わかるね?」
少しだけ口調が強くなる。わたしのしたことがとてもひどいことなんだとその時になってようやく気づいた。
「ごめんなさい…」
「それはトレーナー君に言うべきだ。私に言ってもしょうがないだろう?」
その通りだと思った。トレーナーにはちゃんと謝ろう。わたしのしたことは間違っていて、変なひとの言うことが全部正しいから何も言えなくて黙ってしまう。
「ほら、紅茶が冷めてしまうぞ、飲みたまえ。ミルクはいれるかい?」
「はい…」
ミルクと砂糖をたっぷりと入れた紅茶はとても優しい味がした。飲んでも別に虹色に光ったりはしなかった。
「だが、キミにものっぴきならない事情があったんだろう?」
優しく笑いかけながら変なひとが訊ねてくる。でも、よくわからない言葉があった。
「のっぴき…?」
「引き下がれないこと、譲れないことだよ。」
話すのは少し嫌だった。またよくわからないのに涙がでるのは恥ずかしいから。でも、シャカールちゃんはあのことを変なひとに聞いて欲しかったんだと思う。シャカールちゃんのことは裏切れないので、ちゃんと話すことにした。
「ウララね、まだ1回もレースに勝てたことないの…みんな、すっごく速くて、すっごく頭もよくて、いろいろ教えてくれるの。でもね、ウララはダメなこだから、教えてもらったことをすぐに忘れちゃうし、言われても全然できなくて…それなのに、トレーナーさんもみんなも一生懸命おしえてくれて……全然勝てないのに……それがすっごく悔しくて、悔しくて……」
また、涙が出て来ちゃう。わたしの気持ちは「悔しい」ということにようやく気づいた。
「だから…1回でも勝って、みんなにありがとうって言いたいの…応援してくれたみんなのおかげで速くなれたよって…でもウララは負けてばっかりだから…」
変なひとは腕を組んで難しい表情をしている。
「ウララね、思っちゃうんだ、本当はトレセン学園に居ちゃいけないんじゃないかって。みんなみたいに、レースで勝つなんて…無理だもん……」
変なひとがゆっくりと口を開く。
「可能性って、知っているかい?」
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太陽が照らす道筋
「可能性って、知っているかい?」
わたしにはなんのことだかわからなかった。
「少しだけ、昔話をしようか。長くなるけどいいかな?」
「おう、そのために来たんだからな。」
ドアの外から、シャカールちゃんの声がした。
「そうだな…もう1杯紅茶を淹れようか。茶菓子にフィナンシェもある。シャカール君も一緒にどうだい?」
カロリー計算が面倒だからいい、とドアの外から聞こえた。シャカールちゃんらしい理由だ。
「キミが入学する少し前、可能性を追った大バカ者が居たんだ。」
ゆっくりと、何か懐かしいものを見るかのような目で、目の前の変なひとは話し始めた。
「ウマ娘が出せる限界の速度は知っているかい?」
「えーっと……」
「おおよそではあるが時速70kmくらいだと言われている。それを超えると脚への負担が大きくなり、故障が出てしまうんだ。でも、その大バカ者はその速度を超えようとしていた。」
ウマ娘の怪我の大きさはわたしも知っている。1度怪我しただけでもう一生走れなくなってしまったり、脚の怪我が原因で死んでしまったりすると聞いた。だからわたしのトレーナーさんも怪我だけはさせないようにいろいろと勉強しているんだ、と言っていた。
「もともとその大バカ者には脚部不安があったんだ。にもかかわらず、その限界の速度を超える可能性を追い求めて走っていた。あの頃はどうかしていたと思うよ。」
「悪口は良くないよ!!速くなることはとっても大事なことだよ!!その子だっていっぱい走りたいはずだし、何かその、えっと……のっぺりならない理由があったんだよ!!それなのにバカバカ言うなんてひどいよ!!!」
何かずっと悪口を言われている嫌なきぶんになった。わたしは速くなりたい。その子も速くなりたかった。理由はたぶん違うけれど、どちらも大事な理由があるから走っている。
「そうだな、バカは言い過ぎた。申し訳ないことをしたよ。」
「ウララじゃなくて、その子にごめんなさいしてよ。」
「あぁ、そうするよ。キミは優しいんだな」
お詫びの品だ、と言ってフィナンシェをもうひとつくれた。
「少しだけ、紅茶に浸してみるといい。私のおすすめの食べ方だよ。」
言われた通りにして食べるとミルクと紅茶、そしてバターの香りが華やかに広がり、何か温かい気持ちになった。
話の続きをしてもいいかな?と訊ねられる。あまり悪口を言わないでほしいと伝えると、変なひとは難しい顔をしながらあと3回だけバカと言わせてくれと言った。そのぶんその子に謝るらしいし、たぶん大丈夫なんだろう。
「そのウマ娘はレースは速かったんだ。マンハッタンカフェやジャングルポケット、クラーモント、あとはビッグバンフレアやライジングエンペラーなどと同期でね、全てに土をつけたことがある」
マンハッタンカフェさんは菊花賞ウマ娘、ジャングルポケットさんはダービーウマ娘、クラーモントさんはNHKマイルカップを勝っていて、ビッグバンフレアさんとライジングエンペラーさんは重賞を何個も制覇しているすごい先輩たちだ。
「だが、戦績はたったの4戦。故障してトゥインクルシリーズ引退を余儀なくされてしまったんだ。」
わたしは勝てないけれど、走ることは大好きだ。トレセン学園には走ることが大好きなウマ娘たちが集まるから、その子ももっと走りたかったはず。こんなにも悲しいことはない。
「少し前までトレセン学園は殺伐としていてね、競争能力を喪失すれば即退学が普通だった。勝てないウマ娘も退学を促されて沢山辞めていった。だが、それも変わったようだ。」
外は少し暗くなってきて、おひさまはもう沈みかけている。夕焼けが変なひとの顔にかかる。髪はボサボサだけど、よく見たらびっくりするくらい綺麗な人だった。
「可能性に魅せられたウマ娘の走りを見て、その走りに魅せられた大バカ者がたくさん居たんだ。たくさんの大バカ者たちはありもしない復帰の可能性を夢見た。生徒会のシンボリルドルフ会長、あれも大バカ者のひとりだった。」
シンボリルドルフ会長は学園最強と言われるウマ娘の先輩だ。そんな先輩が復帰を願うなんて、その子はとてもすごいウマ娘だったんだろう。わたしとはぜんぜん違う。
「そして学園は改革され、私やキミのようなウマ娘も居られるようになった。名ウマ娘は速さやレースの強さだけではないと、学園上層部が判断したんだろうね。」
わたしの顔を見て、少しだけ笑う。小さな花のような穏やかな微笑みにわたしも少し嬉しくなる。
「なあ、ウララ君。その子と君は一緒だとは思わないか?」
「?……よくわからないや………。」
その子は生徒会長にも認められて、世代の1・2を争うウマ娘。でもわたしは一回も勝ててないダメダメなウマ娘。どこにも一緒なところなんてない。わたしはみんなみたいにふさふさした芝の上を走ると足が滑っちゃう。砂の上ならなんとか追いつくことができるけど、それでもみんなはすごく速い。長い距離は休憩を入れないと走れないし、短い距離ではみんなが速すぎて置いていかれちゃう。勝つことなんてわたしには到底できない。だから、一緒なんてことはないと思った。
「全ては可能性さ!可能性に満ちているんだよ!」
「たくさんの大バカ者たちは、芥子粒ほどの小さな『可能性』に賭けたんだよ。復帰という有り得ない『可能性』に賭けたんだ!そして君には勝利という『可能性』を信じるトレーナーが、シャカール君が、友人がたくさん居るじゃあないか!」
変なひとは興奮ぎみに立ち上がって大きな声で叫んだ。やっぱりこのひとは変なひとだ。
「そして、そのウマ娘は、ようやく次のレースが決まった。」
「で、でもトゥインクルシリーズは引退したって言ってたよね?」
「そうさ、出るのは『夢の第11レース』だからね。トゥインクルシリーズではないんだよ。」
夢の第11レース。それはトゥインクルシリーズで優秀な成績を収めたウマ娘が次の活躍の場として選ぶレースプログラム、ドリームトロフィーリーグの別名。ドリームトロフィーリーグに移籍してしまうと、トゥインクルシリーズには出走できない。とてもすごいことではあるけれど4戦を勝利しただけのウマ娘が出場するのは異例中の異例というのはわたしにも分かった。
「すごい!すごいよ!!」
「可能性を信じたものたちに応えた結果だよ。君の可能性を信じるものたちはたくさん居るだろう?それに応えるのが、ウララ君の役目じゃないかな?」
「そうだね!わたし、頑張るよ!みんなが信じてくれるなら、きっと大丈夫だよね!」
「あぁ、そうさ。あと、トレーナー君はキミが思うよりずっと優秀だからね、ちゃんと言うことは聞くんだよ。」
これは餞別さ、と言いながらもう一杯紅茶を淹れてくれた。とても暖かくて、飲んだら目の前がぱぁっと明るくなった気がした。
「ありがとう!変なお姉さん!」
「変なって……、あぁ、まだ名乗っていなかったね。」
栗毛のお姉さんがゆっくりと口を開いた。少しだけ気恥ずかしいみたいだった。
「私の名前はアグネスタキオン、超光速の粒子。気軽にタキオンと呼んでくれたまえ。」
夕焼けの中で聞いた名前を、たぶんわたしは一生忘れない。可能性を信じて走った、そのウマ娘の名前を。
「シャカールちゃんおまたせー!」
「おう…っておい体光ってるぞ!!だから飲むなってあれほど!!」
「大丈夫だよ。」
「ん…?」
「タキオンさんは悪いひとじゃないから。大丈夫だよ。」
「あー…まあ、そうだな違いねぇ」
目の前が明るくなったのは、気のせいじゃなかった。でもおひさまみたいにポカポカして、あったかいからたぶん悪いことじゃないと思う。
「ウララさん!眩しくて寝れませんわ!!キングを寝不足にするおつもり!?」
キングちゃんには怒られた
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超光速の粒子とその行方
テレビをつけると、年末の大一番のレースがやっていた。トゥインクルシリーズはもう私には関係の無い出来事になってしまった。幸い脚の調子は良く、走ることに支障は無い。それだけでも奇跡のような出来事なのだが、欲は限りを知らない。叶わぬことであることは理解しているのだが、それでも私はトゥインクルシリーズを走りたいと思ってしまう。
青春とは春風のように暖かく、そして一瞬にして通り過ぎる。その真っ只中でただ枯れ落ちるだけの私をまた芽吹かせたのは他でもない私の可能性を信じた大バカ者達だった。
私のせいで、トゥインクルシリーズ、そしてトレセン学園は大きく変わった。
かつてから学園に存在した実力至上主義、レース至上主義は改められ、さまざまなウマ娘達が在籍することになった。その一例として挙げられるのが、かつてこのラボを訪れたハルウララだろう。
あの後、ハルウララは高知のローカルシリーズに出走し、振興に大きく関わった。1着は遠いものだったが、傾いた財政を立て直すという偉業を成し遂げてみせた。
ハルウララはこの年末のレースに出ている。中山芝2500m、彼女が苦手とする長距離レースだ。人気は最低の18番人気。勝つことは難しい。大変苦しい辛いレースになるだろう。だが、可能性が無いわけではない。記念出走などではない、彼女は本気で勝ちに行っている。
私は未だに可能性を信じてしまっている。その点では大バカ者であることに変わりはない。
たとえ大きく出遅れても、たとえ馬群から離れた最後方にとり残されても脚を止めない限り、可能性はその脚に満ちている。私がそうだったように、彼女も脚を止めることは決してない。絶対に勝てる勝負は無く、絶対に勝てない勝負も無いのだ。ただその足で可能性を追う。それだけだ。
かつて、わずか4度の戦いで神話になった者がいた。異次元から現れ、瞬く間に駆け、表舞台から姿を消した。ライバル達を絶望させ、見るものの目を眩ませる走りは、『超光速の粒子』と呼ばれていた。
だが、それは違う。ライバル達はその『超光速の粒子』を追い越さんとして駆けた。絶望などしていない。あり得たかもしれない「希望」となって未だここにある。異次元のものなどではない。勝利の可能性は自らの体に宿っているのだから。
レースは最終コーナーまで差し掛かった。
『中山の直線は短いぞ!!誰が抜け出すか!!!!』
実況のアナウンサーが叫ぶ。観客の歓声が、悲鳴が、どよめきが聞こえる。最後方から鬼気迫る追い込みをかける小さな影があった。遠心力に振られながらも大外につけ一気に駆け上がる。
私はその様子を見ながら紅茶を淹れる。温度は高ければ高いほうがいい。冬の加熱したレースにぴったりだ。茶菓子にはマドレーヌがある。
少しだけ、思い出したいことがあった。
『ありえないことが起きた!!!!!勝ったのは___』
見覚えのある顔が映る。涙を流しながらウマ娘と抱擁を交わしていた。その涙は皐月賞のころとは違う涙であった。
ドアをノックする音がした。私はどうぞ、と声をかける。いつしか私はラボを訪れた者に昔話をするのが日課となってしまった。
ひとりのウマ娘が立っていた。長い髪をふたつに縛り、ティアラのような髪飾りをしている。
「はじめて見る子だね。キミ、名前は?」
「はい!私の名前はダイワスカーレットです!1番を取りたくてトレセン学園に入学しました!」
彼女の髪は綺麗な栗毛をしている。
紅茶のような、夕焼けのようなその色は、どこか他人のような気がしなかった。
おしまい
完結です。
長々とした物語でしたが、お読みいただきありがとうございました。
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