ふ・れ・ん・ど・い・な・い・っ! (ボルケシェッツェ)
しおりを挟む

vertigo

5/15 改稿、修正作業


 この世は退屈───全く是。世界はつまらない。

 

 

 

 

 

 

 義弟(おとうと)の汗は塩辛くて、酸いというよりは苦かった。長い接吻を終えて物寂しさを覚えた口に、彼のにわかに日焼けした肌を含む度、わたしは母の乳房に吸い付く稚児のような無心に返った。

 

 自分に甘噛みの癖があることは、義弟と行為を重ねていくうちに知った。

 最初は今よりもプラトニックなセックスだったはずなのに、いつの間にか彼との行為には熱に浮かされたような愛撫が付きものになっていて、それを始めたのは彼ではなくわたしの方だった。彼とわたしの間では、いつも彼の方が受け身だった。けれどもわたしはあんまり踏み込んだ行為を───あたかも想い人同士であるような───しないように意識していたから、ふと快楽の余韻から解放されたとき、舌の上を流れる独特の苦みに戸惑った。

 

 行為の最中はなるべく強く食まないように気を付けているけれど、達するときだけは加減が効かなくなる。激しい抽挿の終わり際、わたしの体が彼の上で波打って力むと、その拍子にか細い犬歯が彼の肌に食い込んで、楕円の形に歯型を作る。

 

 あふれる唾液には時々突き刺すような血の味が混じった。わたしが食いついている間、彼の肌は濡れそぼって粟立ち続ける。それが果てた快楽によるものなのか、わたしの突き立てる痛みによるものなのかを聞いたことはない。だが、わたしが首筋から口を離したときに見せる、得も言われぬ恍惚に歪んだ柳眉を眺めていると、とてつもない征服感に満たされる。それが心地よくて、わたしは彼の肌に顔を埋めるのがやめられないでいる。

 

 わたしが彼を傷つけてしまうのと反対に、義弟は行為が終わると必ずわたしを抱き留めた。

 迸る快感の波がゆっくりと引いていくのを感じながら、脱力してしなだれかかるわたしの背に片手を回し、そっと頭を撫でる。そのあやすような手付きが、マーキングを済ませたわたしを労っているみたいに思えて少し恥ずかしかった。

 

 でも拒みはしない。

 わたしが享受するのはあくまで彼のやり場のない慈しみだとは知っていれど、瑞々しい大きな掌は素直に気持ちが良かった。暫く為されるがままにしていると眠気を催してきて、両親が帰ってくるまではしばしば義弟の腕の中で過ごした。

 

 恋慕では、ない。情愛の類でもない。

 強いて言うなら、憂さ晴らし。それがわたしたちの関係に相応しい言葉だった。なにも崇高なものでもなければ、褒められた繋がりでもない。どちらかといえば、連れ子同士の(しとね)には背徳が潜んでいた。

 わたしたちは禁忌を犯すことに酔っていた。

 そういう年頃と、短い文字列に押し込めてしまうのは簡単だ。義理の姉弟でのセックスも、口先に紫煙をくもらせることも、酒精を味わうことも、気まぐれに授業をサボるのも、他人とは違うと信じて孤独を噛み締めるのも。

 

 そういう、胸の奥に燻る野火の如き感情を、強大な社会へのちっぽけな叛逆なのだと決め付けて言葉に飾りがちなのは、わたしだけじゃない。それらをセピア色に染め上げて、そこにあった匂いや手触りを忘れてしまった大人たちも同じ。

 過ぎ去ってしまった時間をあらゆる寂寞と紐付けては、ショーケースにしまい込んで、あどけない子供には高値で売りつけようとする、そんな笑い話にしてしまうのはいとも容易い。

 

 わたしはそれを醜いと思う。だって人間はそれ程小綺麗な生き物ではないし、ましてや哀れな怪物でもないのだ。等身大の生き方、とか宣うエッセイ作家もきらいだ。人間は所詮主観でしか生きられない。自分を客観視できる人間というのは、思い上がり過ぎて目が内向きになった人々の傲慢の顕れ。少なくとも今のわたしは、そう信じて疑わない。

 

 だからわたしは、心の底に溜まった泥濘を掻き出す儀式に、あまりに情緒的な名前をつけることは望まない。なのでそう、この感情にせめて名付けるとすれば、それは依存であるべきだ。

 わたしは、義弟に依存していた。

 

義姉(ねえ)さん」

 

 彼がわたしをそう呼ぶようになったのは初めて肌を重ねた夜からだった。それまでは互いを呼ぶことさえなかったし、下の名前すらあやふやだった。今はシンジ(真嗣)という名を知っているし、彼もわたしがアヤカ(朱夏)だと分かっている。わざわざ名指しで呼ぶ機会は滅多にないが、彼の名を発するときに取るべき舌の形は、彼を表すクオリアにしかと刻まれていた。

 

 前頭葉に拡がる波紋。彼の匂い、彼の味、ぬくもり、手触り、形、声、眼差し、そして名前。わたしが知り得る彼の全て。そこにわたしが介在している時間が、今一番の幸福だった。わたしの歯形が、唾液が、痛みが、ずっと彼の首筋に刻まれていればいいのに。彼を食むたび、そう切に願う。

 愛じゃない。愛着だ。

 

「お昼にしようよ。もう、一時半だ。流石に腹が減ったろ・・・・・・」

 

 意識が旋回する。

 行為が終わって、部屋は気だるい吐息に満ちていた。新たに刻み付けた窪みの感触を味わっていたわたしを制すると、彼は耳元で囁いた。しなやかな顎の向こうの淡褐色の瞳を見上げる。彼は逃げるように目を逸して、わたしの乱れた髪を耳に掛けて調える。

 

 胸に張り付いて微睡むわたしをひっぺがしたいのだろう。世間に喘ぎ声が届かない程度に開けられた窓からそよぐ風は爽やかだったが、五月の陽射しは意外に容赦がない。互いが触れている箇所からじっとりと汗ばんできている。

 

「あなたが何か、作ってくれるの?」

「さあ、そうだな。焼き飯くらいならできると思うけど。どう?」

「なんでも。文句は言わないわ・・・・・・」

 

 言い終わらないうちに義弟はシャワーを浴びに立ち上がり、わたしは湿気に重くなったベッドの上に取り残された。去っていく体温の代わりにシーツを抱き締めると、義弟と陽だまりの香りがした。なんとなく、両者の匂いは似ている気がする。わたしと同じで、日の下よりは雨垂れする石の隙間が似合うような人間性をしている割におかしな話だが。

 

 頭上では、そよ風と戯れるカーテンが揺蕩い、光の筋を侵している。純白のレースがあしらわれた生地は彼の趣味とは思えなかったが、母親の選んだものだろうか。

 義母の控えめなセンスは嫌いじゃない。白地のシンプルさと、ワンポイントの装飾を好む所は実母と通うものがあるが、拗らせた少女趣味を滲ませていたあれに比べれば随分と趣味がいい。

 派手な紋様の入った食器に絨毯、果てはドレス。何から何まで色素が薄く、一点だけに色がある。何もかもがひらひらと薄っぺらで、希薄で、それなのに必要以上に重たくて、歪なベクトルを有したエネルギーを持て余している。わたしの実母はそういう女だった。

 

 ただ。所々塗装が剥げ、木目が覗いていた安楽椅子───。

 そこに座っているときの母だけは、なんの忌憚も抱かずに見つめることができた。幼いわたしを胎に抱いて微笑む母は正しくわたしの中の母性の象徴だった。淡い日光の束に、ワンピースとドレープカーテンと、母の座る安楽椅子。手の中には刺繍されかけたハンカチーフや、解された毛糸があって、皆一様に穏やかなリズムで揺れていた。

 

 それ以外の母は、なるべく思い出したくない。さながらわたしのものを奪い取ったみたいにひけらかされる激情の記憶が、他の思い出まで塗りつぶしてしまいそうになるから。妻として母として死に腐って尚もあの女は、わたしの心を影で覆い尽くすことを厭わない。

 美しい母を、女として憧憬すら湧き上がるくらいのあの日々の姿を思い浮かべる度、それを否定するように穢れに溢れた金切り声がどこからか聞こえてくる。寛闊に満ち溢れた母の微笑とは相反する、ヒステリィに陥った表情が、あの風景に重なって浮かんでくる。

 

 わたしが無性に誰かにぶつかってみたくなるのは、そのせいだ。あの女がまだどこかでのうのうと生きていて、しかもまともな母親面なんてしていようものなら。そう思うとどす黒い憤りに支配されて、どうにもいかなくなる。そして過ちを犯す。溜め込んだ活力を最悪の方向に放とうとするのは、悍しいことこの上ないがあの女譲りで、それもまた性欲という同様の形で発散しているのだ。

 

 あの女の最も忌避すべき穢れを自分自身で取り込んでいるのだと思うと、胸を掻きむしって破り、この身を流れる血液を流し抜きたい衝動に駆られる。

 

 わたしは母が憎い。それよりも己が憎い。憎くて憎くて仕方がない。死にそうなくらいに。

 

 これまでどうにかして母の影を踏まないように生きてきた。人を飾れば身の程を見失う。母親のように。だから自分を誇らないようにした。陽だまりから逃げてきた。人を手の内に入れれば尊厳を見失う。母親のように。だから枠を嫌った。人を縛る規則も偏見も通例も見下した。価値観に唾を吐いて己を縛った。世界を縛った。自らを哀れめば箍を失う。あの女のように。だから。

 

 だけど───慰めは棄てられなかった。義弟との関係が、躰から流れ出ていった劣情がなによりの証左だった。母の影を踏まぬ為に努力すればする程に、現実は思惑とは乖離していった。わたしは母親に近づいていった。

 

 そうだ。わたしは哀れだ。わたしは自意識過剰だ。わたしはエゴイストだ。

 本当は、わたしが誰よりも愛しているのは自分自身だ。捻れ歪んだ自己愛がなければ、眼前に広がる世界の残酷さに耐えられそうもない。非力で脆弱で。他人を蔑まなければ物事も語れない。悪辣な人格。

 たとえば虐待されて育った親は、自らの子を虐待する。そんな与太話をちらほらと耳にする。わたしはそうは思わない。反面教師は必ず実ると信じている。しかし、人は親の背を見て育つ。そうして蓄えられたミームは、必ず子が親になったときに噴出する。いくら表面を偽ろうと本質はミームに引きずられていく。心のどこかではそっちの方に信憑性を感じていた。

 

 判らない。わたしはどこに行けばいいのか。どうすれば今より、過去より良くなるのか。漠然と救われたいとは思うが、救われ方は知らない。なにが救いなのかも判らない。ただひたすら、雷鳴り渡る暗雲の狭間を彷徨っている。当てずっぽうの方角に太陽を探して、失速しないように浅く機首を上げて。

 既に空間識失調(vertigo)に陥っているとは気が付かないで。翼の両端で二重の螺旋を描きながら、急速に堕落していく。

 

「義姉さん」

 

 重くなった瞼を上げる。光を背負って、影の中に義弟が立っていた。

 

「お先。シャワー浴びてきなよ」

 

 高校指定のトレーナーを下に履き、しとどに水が伝う黒髪をタオルで拭う。乱暴にかき回された水滴がわたしの頬に落ちてきて、反対に現とかくり世を行き来していた意識が浮上する。カーテンが靡き、風は踊り、日光が揺らぐ。鼻先に乾いた太陽の香りがした。

 まだ、大丈夫だ。目を擦り、脳裏にこびりついた衝突のイメージを描き消した。わたしはここにいるんだから。

 

「ねぇ」

 

 喉を揺らす。ひどく掠れた声が出た。義弟はこういうとき応えない。言葉を発さずに、小首を傾げて目で続きを促す。一八〇センチ近くある男がするには少し間抜けな仕草だが、静謐で小動物じみた雰囲気の彼には思いの外似合った動作だった。わたしはそのリスみたいな眼差しに思わず頬が緩む。

 

「あの曲、わたしのスマホにも焼いてくれない?」

「えぁ、『曲』って?」

「あなたが去年のイヴの夜に聴いてた曲。いい曲だったから、もっと聴いてみたくて」

「ああ、U2ね」

 

 こくりと頷くと、義弟は自身のスマホを手に取って弄り始めた。

 ドライヤーのかかっていない頭髪からは未だ水滴が滴っていて、首にかけたハンドタオルに度々吸い込まれていく。その影にちらりと覗く首筋はほんのりと赤くなっていて、果たしてそれが単に湯気に紅潮しているだけなのか、それともわたしの刻んだ証によるものなのか、微かに想像を掻き立てる。湿気に撫でつけた髪は好戦的な圧を醸し出していて、本人の気質さえなければ中々得難い色男になるだろうに。

 

 これも彼と寝るようになってから知ったことだけれど、不精というか、惜しむらくは気力がそこまで至らないところか。恐らく自覚はあるのだろうけど、身嗜みに関しては無難の域を出るつもりはないらしい。世に言う男前というのとは異なるかも知れないが、醜男からはかなり遠い容姿にあるように思える。だからどう、という話ではないが、寝る相手の小指の事情にもささやかな興味はあるものだ。何れにせよ、まあ、わたしの預かり知る事柄ではない。

 

 そんな見定めの視線も意に介さず、わたしのお願いに対して義弟は小さく喉を鳴らして、あっさりと快諾を寄越した。

 

「いいよ。義姉さんiOSだったよね? 一曲と言わず、まるまる共有しとく。PCからならMP3にも変換できるから、まぁ、好きにしてくれ」

「ええ、ありがとう」

 

 上体を起こして礼を伝えると、彼は少々照れたように頭を掻いて、扉の脇に逸れた。先程まで泥濘たる情慾を吐き出しあっていた人間とは思えないくらい、距離の透けた表情を作って。それはわたしの望む通りの関係性で。

 

「支度、しとくから。シャワー浴びてきたら」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Newyear's Day

5/15 改稿、修正作業


 

 ざわざわ、ぴたぴた。雨音の騒がしさって、人の喧騒に似ている。

 直に晒されていなければ耳の心地良いアンビエントでしかないのだけれど、それがわたしの躰に降りかかるとき、感じるのは冷たさと煩わしさ、そして後に残る肌寒さだ。

 

『だからねぇ、私はいっつも思うんだけど、こういう人たちって実は結構暇なんじゃないかなって。だってこんだけ政治資金を使い込むほどその、機会があったわけでしょ? それをほらさ、秘書の人だって・・・・・・』

『新たに中日本で急速に発達しつつある低気圧の影響で、近畿地方から関東周辺にかけて、急な大雨に見舞われています。雨は多くの地域で明日朝方まで続く見通しで、地盤の弱い地域に関しては土砂崩れなどの災害への警戒が・・・・・・』

 

 ザッピングされる三八インチテレビの呟きをコーラスにして、降り注ぐ雨が窓を流れていく様を眺める。雨戸に叩きつけられた雨粒の嘆きは普段より強烈であり、同時に吹き付ける風の呻き声がガラスをすり抜けて居間に響く。外は随分荒れているようだった。が、湯水滲みたこの身にはそんな騒々しさも無縁だった。

 

 シャワーを浴びて食卓に着くと、既に湯気立った焼き飯が二皿、麦茶の入ったコップ二つと共に並べられていて、義弟はいつもどおりの所在なさげな顔付きでわたしを待っていた。わたしはそそくさと席に着いた。木製の椅子を引くとき、左手首の内側にあるバーコード状の傷が疼いた。

 

 なにも考えずにいただきます、と手を合わせた。白磁のレンゲで無作法に盛り付けられたそれを掬い、口へと運ぶ。義弟の作った昼食は炒飯というよりは、喫茶店で出されるピラフみたいな代物だった。でもそこそこ食の捗る一品だった。

 自炊する姿はあまり見ないが、思いの外料理のセンスは悪くないのかも知れない。シンプルな腕やレパートリーに関しては母の手ほどきをある程度受けていたわたしが優っているだろう。男飯というやつは分からない。そも、わたしには炊事に対する意欲がまるでない。

 

 人前に出すことには慣れていないのか、どこか不安げにこちらを伺ってきた義弟に美味い、と伝えてやると、多少安堵した様子で自らもレンゲを持つ手を進めた。欲をいえばもう少し濃い味の方が好みなのだが、敢えて口に出す程の不満でもない。後一言二言感想を述べようとしたものの、それ以外の感想が思い浮かばなかった。こういうとき自らの語彙のなさに嫌気が差す。妙な形で停滞した空気を誤魔化すのに、表面上食事に障らないくらいのアルカイックスマイルを浮かべ、黙々と昼餉を食べ進めた。

 

 二人してピラフもどきをたいらげ、食パンに付いていた懸賞で当たった深皿をシンクに片付けた後も、わたしは義弟の味覚を褒めるための言葉を二三考えていたのだが、数瞬わたしの手首に目をやった後、シニカルな視線で液晶を睨めつけ始めた本人を前にして、結局なにも言わない選択肢を取った。

 

 朧げな沈黙がその場を支配する。肉体関係と、洋楽と、他愛もない家庭の連絡事項を除いてしまえば、わたしたちの間には取り付く島もない。傍から見れば、世間話もままならないような二人がどうして淫姦におよぶ間柄になれたのか疑問を呈することだろうが、それはわたしとて同様で、あるいは彼もそう。

 

 はっきりした発端を挙げるのなら、誘惑、といえるかも分からない誘いからだ。彼がわたしの精一杯の色香に惑わされてくれたのか、それとも最初から彼なりの慈悲でしかなかったのか。とにかくあの夜は衝動的で、刹那的で、希死念慮のようなあやふやさに突き動かされていた。わたしは気紛れと僥倖が織り混ざった気持ちで快楽に身を投じた。

 

 そう、去年のクリスマス・イヴの日だ。

 

 あの日も、ゼミの友人の頼みでコンパの穴埋めに駆り出されていた。というのも、彼女らにとってわたしは取り回しの良い人間らしい。それもそうだろう。大した主張もなく、仕切りを妨げることもなく。本気になって相手方にがっつくこともなければ、ささやかな相槌を打つだけのマシンに徹することができる。いつも殿方側の都合を付けてくる調子のいい男に言わせれば、わたしはお淑やかな令嬢なんぞに見えるらしく、密やかに目当てにされている程度には見目も映えるとか。

 

 かの言葉が本当ならば、狙っているというそいつは大した節穴ぶりだが、彼らに頻繁に呼び出されることは事実で、日に日に辟易が肩の上で凝り固まっていくのを感じていた。一度固まり始めた疲れは早々に洗い流すか、それとも自重に砕け散るのを待つしかない。わたしは後者の方が先にやってくる予感を抱いていた。

 やがて完全に硬化し、肥大化した疲労は脊髄から不可視の手を伸ばして、軽薄な連中にお誂向きの笑みを作ろうとするわたしの首を絞める。そうすると媚び切った称賛の台詞も、莞爾な微笑みも喉元で止まってしまって、次に酸欠が頭に昇ってくる。さすればもう、手詰まりだ。

 

 気分が悪くなった、悪いけど帰ると簡潔に吐き捨てて、適当に算出した勘定分の金を押し付けて店を出た。引き留める声を振り切るとき、恐らく爛々としていた相貌を上手く隠せたかどうか分からない。たとえ露見していたところで悔いもしないが。その後の誘いが暇を詰めるほどではなくなったのは思わぬメリットだった。

 

 外装だけは気の利いた大衆居酒屋のドアベルを鳴らし道端に出ると、おりしも冷たい夜空に粉雪がちらつき始めていた。外気に晒された途端に白む吐息。霧散する熱に当てられた雪の一片がマフラーに染み込んで消える。その様を目の当たりにしてやっと、わたしは季節が冬に移り変わったことを認識した。後一週間も経てば、この年も背後に流れていくのだ。そんなことも忘れたままわたしは怠惰の日々を貪っていた。

 

 あざといジングルをBGMにして滔々と行き交う人の流れに背筋がゾッとする。

 ほとんど直感的に覚った。わたしが居るべき場所はここじゃない。それがどこかなんてどうでもよかった。名状しがたい焦燥が心に薪を焚べていて、わたしは淡々と、弱々しい熱気を原動力にして歩みを進めた。

 

 とにかく躰に力を入れていたかった。聖夜の甘ったれた空気に呑まれた瞬間から、一度立ち止まれば膝から崩れ落ちてしまうような、一抹の薄弱がわたしの根幹に根付きつつあって、わたしはひたすら次の足を踏み出すイメージを連続させ続けた。毅然と、荘厳に。踵から地に足をつける。リズムにのせて反対の脚を上げる。その繰り返し。この上なく素朴で純粋な作業を飽きもなくこなして、わたしは無意識の導きのままに仄暗い路地を行く。

 

 そのうちに鈍りきった関節が悲鳴を上げてきたが、胸には所以の知れぬ快哉が溢れ出していた。たぶん無聊から逃げ出してこれた嬉しさとか、開放感だった。この世があらゆる退屈を詰め込んだ箱庭なら、わたしは木枠から飛び出してしまったビー玉で、激しく打ち付けながら木目を滑っていく。今はその最中。壁にぶち当たるまでの幕間だ。

 

 雑踏をくぐり抜け。

 街灯を通り越し。

 きらびやかなイルミネーションを横目にしつつ。

 

 そうしてわたしの足が止まった場所が、忌々しい我が家の玄関前だったのが解せなかった。なんでここに帰って来たのか自分でも分からなかったが、それが余計に自分自身への怪訝と落胆を強めていた。

 

 (うち)は嫌いだ。昔も今も変わらない。前者はあの女がいたから。後者は、知らない人間たちと共に暮らす家だから。気後れするとまではいわないが、なんとなくドアノブに手をかけることを躊躇ってしまう。わたしにとっての自宅とはそういうもので、真に聖域と認められるのは自室の扉の内側だけだった。

 

 自分の部屋に引き篭もっている間は確かに自由だ。家庭内とはいえそこには法があって、続いて暗黙の了解が存在している。くだらない規則とか慣習とか、家族ごっこの重圧からは解放されるだろう。でも積もり積もった徒然を慰めるには、六畳間は狭すぎる。しかし一歩外に出れば、最早安息の地ではない。

 学内の忙しさ、社会の理不尽さ、そして吹き付ける雨風を凌げても、重ねた仮面を外せるほどの気安さはそこにはなくて、母や父や、最近では義弟の座る卓を前にすると息が詰まりそうになった。

 

 家族嫌いなわけじゃない。尊敬なる表現が正しいのか決めかねるが、父は善良で気の置けない人格者だし、あらゆる面でわたしを育てた良き父親だと思っている。深いところまでは知り得ていない継母のことも、さっぱりした性格で悪い人間ではないと感じるし、義弟も無愛想だが何かと律儀な少年だった。彼ら個々人に確執や嫌悪感はなかったし、家族という急造の肩書がついてもむしろ好感の持てる人々だった。

 

 ただ、それとこれとは別の問題で。わたしたちは同居人ではなくて、「成りたて」の家族だった。少なくとも父と義母はそういう風に四人の人間の集まりを認識していた。彼らには大人としての配慮はあるし、押し付けがましくもない。向こうも手探りであることはひしひしと伝わってくる。だからこそ、その半端な家族ごっこに付き合うのが億劫だった。父も義母も義弟もわたしも、悪い意味で模範的な人間であろうとし過ぎる。空気が読め過ぎるのだ。

 

 それらのやりづらさやぎこちなさはきっと健全なもので───ともすれば根本に捻れを妊んでいるわたしには眩しすぎたし、詰まるところ毒だった。

 人が人同士として真っ向から存在しようとする、その言葉や形にはならない強制力のようなものが、わたしには到底受容できなかった。それはもう心底気持ちが悪かった。父や義母の含みある───言ってしまえばなんでもかんでもそういう感じに見えるのだ───優しい微笑みを向けられる毎に、悍しい寄生虫が全身を這いずり回って蝕んでいるみたいな気色悪さに駆られた。

 

 そういう点では、義弟には最初からシンパシーというか、憐憫故の好意をある程度持っていたように思う。それは連れ子同士だったからという理由も大きいが、なにより親の再婚で一番に気苦労を背負っているのは恐らく、高校一年生という多感な時期にある彼だろうからだ。

 

 わたしだっていきなり父親が再婚すると言ってきたときには色々と考えたし、今とて散々に家庭に対して不満や難儀さを覚えている。とはいえ年を越せばすぐ傍に成人式が控えている身としては、彼ほど世界に閉塞を感じたり、些細な感情の揺れ動きに寂寞や幸福を見出したりするわけじゃない。

 

 わたしは大学が近いからというだけで未だ実家に居座っているが、その生活圏の主導は高校までの学生生活に比べれば外部にあるといえる。つまるところアルバイトをして、ささやかながら散財をして現実から逃避することができる。ちょっとは世界の見え方を誤魔化していられるわけだ。

 義弟にはまだそれができない。そりゃ、一日遊びに出て満喫するくらいの資金や、少し遠出して友人の家に泊まってくる程度の自由は手にしている。けど、本気で世界から逃げ惑えるような寛容には恵まれていなかった。誰だってそうではある。わたし然り、彼のクラスメイトや後輩や先輩もそう。持て余すほどの身軽さを行使できる人は、この地球に一握りだけだ。その下にある、五十歩百歩のサティスファクションの差を、わたしたちは毀誉褒貶混じえて競い合っている。

 

 だから、母親と寝床を共にして父親面をする見知らぬ男や、陰気で性悪なその娘と顔を合わせなくても済むという自由は、彼が手にできるちっぽけな権利には含まれていないのだ。この生活が始まったとき、わたしはそう思い込んで彼を哀れんでいた。家と学校の板挟みになって苦悩する凡庸な少年の、ドラマじみた青春生活の一端を見ていくものと期待していた。

 

 けれど、そうはならなかった。

 彼はわたしが思っていたよりもずっと大人だった。ある意味ではあの家に住む誰よりも大人びているやもしれない。

 そう、臆病と吝嗇。そういう由来に流されて物事を割り切ることが得意になってしまった、そういう人間であった。つまり、彼は大人びた子供だった。

 

 座卓における彼のにべもない態度は、家族の繋がりの薄さを閑却し得ない二人に対しては懸念を呼び起こしたし、わたしには二人の醸し出すぬかるんだ意志を断ち切る新風として吹き込んだ。

 押し付けられた団欒に際し、彼は決して、義父のことも母親のことも拒絶しなかった。ただどこ吹く風という風に笑って、なにも聞いていない真似をしていただけだった。

 

 そのとき、わたしは彼の目に宿った昏い衝動を見た。腐りかけの果物のような甘く饐えた香りを感じ取った。虚無から溢れた倒錯した願望がそこに潜んでいるのが手に取るが如く伝わってきた。わたしはその瞬間から、彼への感興を自覚したのだ。

 

 勘違いではない。半ば確信じみた予感だった。義弟にはわたしと似たものが埋もれている。正確には似て非なるもので、同族意識とは違う。近いところに貼り付いた雨粒が、大きくなろうとして手を伸ばし合うように。わたしの心肝に渦巻く泥が、彼の中に溜まった膿を求めて蠢くのが分かった。

 

 考えている内に己が何を思ったかだんだん分かってきた。

 要するに、そういうことなのだろう。

 もしかしたら。義弟なら、わたしの奥底にまで手を伸ばすことが適うかもしれない。そんな期待を持って、わたしはここに立っているんだろう。たとえ返ってくる反応が理解や許容でなくてもいい。否定、拒絶。そこにあるのが痛みや屈辱の類であっても関係がない。むしろ自傷を求めてさえいると思った。今はひたすら、わたしの穢れを認めてくれるなにかを欲している───。

 

 微熱の籠もった息を一つ、吐いた。それからわたしは悴む手で冷え切った鍵を摘み、滑りの悪い鍵穴を解きほぐした。よくよく見ると、ドアノブの表面に薄っすらと霜が張っている。どうりで触覚が乏しいと思った。冗談抜きで凍り付きそうな指先を無理やり動かして、玄関口を開け放つ。平時よりは幾分戸惑いのない仕草で。

 

 次に、家に入ってまず、わたしは土間に並ぶ靴を確かめた。義弟のものはともかくとして、父と義母の靴は脱ぎ捨てられていないはずだった。予定通りであれば、彼らは今頃少し高価なレストランで酒を呑んでいるか、もしくは───恐らくこちらの方が可能性が高く、そしてあまり想像したくはなかった。どうでもいいことなのに、言葉通りに当てはめるだけでも吐き気がする───何処ぞのホテルで「休憩」でも取っていることだろう。

 実際、その憶測に違わず、タイルの上には父の革靴も義母のハイヒールも見当たらなかった。その代わりに、味気ない白味の一対の学生用運動靴がしおらしげに佇んでいた。

 

 そう、それは好都合だ。

 雑にパンプスを履き捨てて、ずかずかと廊下に上がり込む。まるで他人の家みたいな言い草だが、実のところこの家にはまだ馴染みが薄かった。

 この家に落ち着いたのは両親が再婚して同棲が決まったときで、元々は義母と義弟とその亡くなった父親が暮らしていた。わたしと父とあの女が住んでいた持ち家は、こっちに越してくるときに売りに出した。引き払うときには若干の名残惜しさはあったが、よもや不満などはない。それどころか、どこの馬の骨とも知れない間男と実母が行為に及んでいた場所に住み続けるなんて気色悪くて仕方がなかったから、移住には大賛同だった。

 

 だというのに、家主のいない今、床板を踏みしめる度に()()()()ことをしている感じが胸に募る。夜這いに来たわけでもないというに。不安混じりの切なさが、自己の矛盾を明白に映し出していた。はしたない、わたしと母は違うのだ、と自らに言い聞かせる。無論、これまで義弟にあからさまに低俗な視線を送ったりしたことはないし、性的な対象として見るつもりもない。わたしの欲求は性的不満からなるものではないのだから、ここであの女と自身を重ねるのは不適当なのだ。

 

 なんだか納得がいかず、もやもやとした不快さ。わたしは照明が点いたままのリビングに入り、コートとマフラーを取り払ってソファの背もたれに掛けた。彼の気配はなかった。居間は外よりも濃密な静寂に包まれていて、クリスマスの活気など微塵も感じさせない。

 

 唯一、テーブルに放置されている、まだ底の湿ったグラスだけが、彼の残り香を漂わせていた。シンクに残ったプラスチック容器とパッケージから見るに、彼の夕食は買い置きの冷凍パスタで賄われたのだろう。イヴの晩餐にしては随分と物寂しい話だ。が、独りであればわたしもそうする。

 

 ひどく喉が乾いた気がしたので、わたしは父のセラーからウィスキーを拝借した。流石に高そうな瓶は避けて、常備してあるジャック・ダニエルをロックグラスに注ぐ。琥珀色になみなみと揺れるそれをストレートのまま呷ると、アルコールの香りが脳髄を焼いた。同時に高まった体温に大きく身震いする。

 ふと目の端を窓の向こうに向けたとき、わたしは義弟の後ろ姿を見つけた。

 

 ぞわり、と。胸の奥に鳥肌が立ち上がる。

 

 どうしてって、その背中があまりにも哀れだったから。小さくくすんで見えたから。

 

 わたしは口に含んだウィスキーを嚥下することも忘れて、じっと彼の竦められた背筋に見とれていた。

 実母の不貞を思い出した不快感とか家の中の空気に対する嫌悪感は、一瞬にしていずこかに吹き飛んでいってしまった。須臾の思案と衝撃の余韻に浸る間、わたしは幾重の仮面をも突き抜けて純粋に還っていた。手の中のロックグラスが体温で温もってしまっても構わなかった。

 芳醇な酒精の雑味を舌の上に広げたまま、突然心に湧き上がってきた不可思議な情動の名前を見出すために必死になっていた。

 

 これはなんだろう。

 感動に打ち震えるような、猛毒を喰らって痙攣するような。

 人体に根付いている心という器官の肉を、腹の底からミキサーの刃で搔き回すみたいな疾走感と、摺り潰されていく神経が感じ取った鈍痛。さながらその二つを強引に和えて煮立てた、そんな風な感情がわたしを内からじわじわと蝕んでいた。

 

 はっと我に返り、やっとの思いでウィスキーを喉に流し込んでも、この舌筆に尽くし難い感情の正体は定まらなかった。その答を得るよりも早く、わたしは窓の方へ歩き出していた。妙な力の入った右手にはまだ中身が揺らめくグラスがあった。

 

 義弟が感づいて振り向かないように、気配を消して歩みを寄せる。別にわたしが帰ってきたことを気取られたってなんの問題もないのだけれど、どうしてか漠然と彼に悟られてはいけないと思った。悪戯心というやつだろうか。そんな自問自答はあれど、所以も知れず滾り迸るこの感情を前にしては取るに足らない些事にすぎない。

 

 ガラス窓の棧に手を掛けて息を呑んだ。今更緊張に苛まれている。たかが義理の弟との対面に張り詰めたものを感じている。それでも四肢は留まる様子になく、胸中の脈動は激しさを伴いつつも、その先を求めて止まない。

 わたしはゆっくりと窓を開けた。義弟の(かんばせ)を覗き込む為に。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

sunday bloody

5/16 改稿、修正作業


───耳を、疑った。

 

───全てが抜け落ちていくようだった。

 

『事情もクソもねぇよっ! ドロスの知り合いの先輩たちが囲ってるアソビのガキとヤらせてやるって言われて、アイツも連れてこさせられてんだよっ。そしたらアイツ、ビビってマトモじゃねぇとか言い出して』

 

『挙げ句ガキに本気になって連れ出そうとしやがって! ガキも散々使われて悦んでた癖に花畑になりやがって、俺ら面子どころじゃねぇ、下手すりゃまとめてトバされるとこだったんだぞッ! こっちだって荒れてんだよ』

 

『大体、テメェにキレられる筋合いはねぇよ。あの腐れ頭がハブらなきゃあ、今頃俺らと一緒にキョドってただろうからな』

 

『お前も大概笑える奴だよ。大した付き合いもない癖に、本人のいないところで友達アピールか? 身内に寒い奴らを二人も抱えるなんて、ハナから願い下げだってぇの』

 

『ま、クサ霧が消えてくれて良かったよ。汚ぇ穴ぁ孕まされたゴミごと抱えて消えてくれたんだからなぁ、こっちもゴミ処理の手間が省けて万々歳ってやつだ』

 

『やっぱ、ヤク中の商売女の穴から出てきただけあって、頭ん中ガチでお花畑が広がってんだなぁ。あんなんとつるんでたと思うと、キモくて仕方ねぇよ』

 

『クソッ、お前のせいでボタン千切れちまったじゃねぇか』

 

───こつん、と額に何かが当たる。学校指定の校章が刻まれたボタンが、尻餅をついたおれの腹の上に落ちてくる。

 

 目の周りが真っ白になる。

 気が付いたとき、おれは腕を振り抜いていた。

 

 そのとき初めて、おれは本気でヒトを殴った。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 前に目にしたときより少しだけ湿気ってしまっているそれを咥えて、ライターに火を灯す。実はライターを使うのはこれが初めてで、キッチンから拝借した百均ライターの手触りをよく確かめながらフリントを削った。

 

 よく乾いた空気の中では、ふかしてやるまでもなく早々に火が灯った。おれは鼻先に点いたほんのちっぽけな熱を確かめながら、火元と同じく湿気た紫煙を体内に流し入れた。

 茅ヶ崎真嗣、十六歳。煙草は初めてだった。

 

 朝霧の寄越したマイルドセブン(マイセン)───いや、知らないうちにメビウスなんてチープな名前に名を変えていたそれは、おれの未熟な喉に狭苦しさを感じるのか、咽頭の奥から肥大化するようにして呼気を堰き止めた。おれは未知の重圧に一瞬うっと詰まって、なんとか唾を飲み込んだ。なる程お約束。どうせならタールの少ない初心者向けのヤツをくれれば良かったのに、と咽返りそうになるのを必死にこらえながら思う。

 

 こうしてガーゼの下の痛みに酔いながら粉雪などを目で追っている時点で相当自己倒錯的とは思う。あまつさえゲホゲホとわざとらしい咳まで零そうものならついぞフィクショナリティのヴェールを破れなくなりそうで、おれは平静を装ってフィルターから口を離して煙を吐いた。

 口と鼻の両方から漏れ出た紫煙は無様な形で大気に流されていき、吐息の白さに交わって溶けていく。出ていった空気を鼻の穴を広げて吸込めば、傷口が冷気に晒されて悶た。つくづく後を引く痛みだった。

 

 頬のかさぶたを掻きむしる。知らず知らずに苛立ち。拳に貼られた湿布が捲れる度に顎に力が入る。

 鼻柱と下顎の右側、左の眼窩に腕と脛、それから肋などに諸々。(あおぐろ)く変色した殴打の応酬は今までで最も新しい証で。今までで最も激しい傷痕になるであろうというのは明らかだった。しかし勲章と称するに値するほどその由来は高尚ではなく、今はただひたすらジクジクと未練がましく疼く。

 

 気を鎮めようとかれこれすれど、謹慎を言い渡された五日前からずっとこんな調子だった。

 逆立った気はなにもせずともやがて障られて燻り始めるのに、精神そのものは決して超えることのできない大きな壁に隔たれていて、さっぱり涼やかに凪いでいる。脳幹と心胆がどこかで切り離されてしまったらしい感覚。

 

 言うまでもなくクールではなく、とはいえ憤りの炎はとうに萎んでしまっている。するとドライ、というのが言い得て妙なのか。大方燃え上がらせるものは嘗め尽くしてしまった後の静けさがそこにはあるのだ。その周辺、倒壊した瓦礫を押し退けた下の断熱材なんかの中に、辛うじて生き延びているか弱い残り火。丁度人差し指と中指の間に挟んだ紙巻きに潜む火のようだ。日の下を忌むべき感情がまだ、収まりがついていない。

 

 もろとも消し去ってしまえれば楽なんだが───足元のコンクリートに吸い代が有り余る煙草を押し付けた。勿体ないとは思わなかったから、たぶんおれには合わないのだろう。くしゃくしゃになったパッケージに三本くらい残っているけれど、それも口にする気はしない。煙草そのものが気に入らないのかタールの含有量の問題なのかは他の種類も吸ってみないと分からないが、次吸うとすればスーパーライトくらいかな、と思う。ピアニッシモとか。

 経済的にも健康においても吸わない方が有益なのは判りきった話なのだが、古ぼけた憧憬は中々消えないものだと感じる。親父もお袋もヘビースモーカーだったから。

 

 そういえばお袋がめっきり吸わなくなったのはいつからだっただろう。少なくとも親父が死ぬよりは前で、親父は死ぬ間際まで日に日に吸い殻の量を増やし続けていた気がする。

 幼き日のおれはそれぞれの灰皿に積み重ねた煙草の数でその日の機嫌を推し図ろうと試みたりもしたけれど、結局表層に出る顔色とライターが灯る回数に因果関係は見い出せなかった。むしろおれが顔色を伺うような素振りを見せる度に二人は粘ついた優しさをくれて、おれは気持ちが悪くなった。

 

 おれは酒も煙草も好きだ。それは旨いからじゃなく、両親が旨そうに嗜んでいたのを眺めて育ってきたからだ。だから酒の肴になるようなツマミの類も好物だし、酔った頭に鋭く効くような映画や音楽も好きだ。玩具も、漫画も小説も、ボードゲームなんかも、全ては暖色の照明にまとわりつく副流煙とアルコールの熱に浮かされた空気に相応しいかどうか、それが好みの根幹にあった。

 親父がグラスを傾けて、氷が鳴らす玲瓏の音色。お袋がジッポの火を起ち上げて紙巻きの先を焼く匂い。名状しがたい安堵と未知への興奮が彩る世界は日々のささやかな幸福の象徴であり、そしておれにはまだ触れ得ざる場所。そのもどかしささえ漠然とした将来への不安を忘れさせてくれて、おれは得難い居心地に浸るのが好きだった。

 

 だから親父が死んで食卓からヤニ臭さが失われたとき、おれは世界に抱いていた幻想の空虚さを知った。世界は思っていたより冷たいし、湿っぽくもない。おれにはこんなにも満ち溢れているように感じられた趣味や娯楽は細々と、そして理解者を得ることはとてつもなく尊い幸運なのだと知った。おれの酩酊混じりの教鞭によって培われた浅知恵は、大多数に憚りなく伝わるものじゃないことを覚った。

 

 それ以前におれは自分自身の空っぽさに愕然とするのを避けられなかった。

 当然といえば当然の話。

 己の中の情熱や我欲の炎を顧みたとき、それらはおこがましいほどに小さく弱く、火種にすら成り得ない虚弱さ。おれはおれ自身の領域を持たない乞食のような存在だったと気が付いた。おれは侘しくも、他人の幸福の価値に縋り、それを自我の幸福と錯覚していた餓鬼だった。

 なんたって、それはおれの趣味に適っていようが、おれが情熱を注いだ趣味じゃあない。そこにおれの愛着はない。人が育んだ興味を、親父やお袋が青春を賭した嗜好を、愛を、乗っ取ったつもりでいたに過ぎなかった。好きに籠める感情とその対価、代償。おれはそれをなんにも払ってこなかった。すべからくおれは愛を持たなかった。

 

 自らに空いた虚空を理解した刹那、おれの内から熱狂は喪われ、意欲は塞ぎきった。否、それは元々持たなかったものだった。

 おれには探求の欲も根付かなかった。それまで娯楽は自動的に与えられる要素だったのだ。お溢れを享受しているのみだった人間が、能動的に熱意を誂えるのは存外に難しく、そしておれはどこまでも冷え切っていた。当時は単に親父が死んだからだと考えるようにしていたけれど、内心では全て諦めていた。

 そう、おれには何もない。

 肉親の死にショックを受けるよりも本質的に無気力である。それ故この穴は埋まることはないだろう。穴どころではない、外面ばかり膨らんだ心の空白は、満たされるには膨大過ぎるのだ。

 

 どれだけ悪足掻きを重ねようと狂しき飢餓と渇望は収まらない。足と手が赴く範囲でありとあらゆる快楽の種を摘み取っても、おれの胸にはいつだって拭うことができない虚しさがこびりついていて、振り上げた拳を降ろす場所も見当たらない。

 

 おれの孤独は必然的なものだった。友と共有するものなどなく、共に笑う程度の愛想もなく。おれは既に意味をなさないと知った慰めに立ち返っては、満たされきらない苦痛にぽつねんと悶々とする外なかった。

 

 それでも。それでいて、ああ、あいつと過ごした時間には、核心に迫る快哉があった筈なのに。

 

 だからおれは怒っているし、悲しんでもいる。失った友人への同情や陥れた奴らへの憤慨より、なによりもおれの安寧と癒しが奪われたことに。そして唯一の友人を失くしても、自分の痛みにしか目が向かない薄情な己に。腹の底から憤っているし、悲壮に駆られている。どこまでも救いようがない現実に目を逸らしたまま。

 おれはまた、親父が溜め込んだCDのデータをスマホに焼いて、耳の中で暴れるサウンドに集中する。そうして全てを忘れようと試みる。

 

 なんだ、親父が死んだときもそうしていたっけ。それだけじゃない、お袋が義父と再婚したときも、ペットのウーパールーパーが死んだときも、階段で転げて腕を折ったときも同じようにイヤホンを着けるなりスピーカーの前に居座るなりしていた。

 チビだった頃はスマホは持っていなかったから、テレビ台に増設されたデッキスペースを私物化して好き勝手曲を聴くのがストレス発散だったんだ。親父やお袋に新しい曲や古いヒット曲を教えてもらうのも楽しかったけれど、それ以上におれは既知のアルバムを何度も聴き返す方が好きだった気がする。

 あのアウトロが終わったら、確か次はこのイントロ。そこにある普遍性が世間の激流からおれを守ってくれたのだ。

 

 果たして、忘れようとするばかりか、同じフレーズを耳に入れるたびに忘却を望んだ記憶が次々と浮かんでくるようになってしまったのはなんの冗談だろう。こればかりは幼さ故の過ちと認めるしかない。特に、Kornの楽曲を聴いていると思い出す。

 

 血飛沫が飛び散った新快速のフロントガラスと、警官たちが冷ややかに進める事情聴取の言葉。

 真っ白な顔で立ち尽くす幼い少年と、額をタイルに押し付けて咽び泣く若い母親、隣の父親。

 置き去りにされた吸い殻だらけの灰皿。夕陽を凝視して微動だにしなくなったお袋の背中。

 ほとんど空っぽで焼かれていた棺桶。やけに快活な笑みの遺影。

 喪服に向かってお袋がごちたおれの知らない誰かの名前───おれはそれが誰か知っていた気もするのに、今は陽炎の如くあやふやに揺らいでいる。いつかの記憶。

 

 おれは、ただ、ずっと今が続けばいいのにと、いつだって願ってきた。だがそれが一度だって叶ったことはない。穏やかで退屈で、真綿で締め殺すみたいにゆっくりと意識が遠のくような、満たされない繰り返しの毎日がおれは嫌いじゃなかった。

 でもそれは平然とぶち壊されていき、最終的にはまたもとに戻るのだ。現状維持さえしていればいい、今があるだけでいい、と。世界はそんな愚かささえも見過ごしてはくれない。刻一刻と状況が変われば変わるだけおれは孤独を噛み締める。

 

 顔を上げて寒空に手を伸ばすと、先程より大きくなった雪の粒が手の甲に乗った。明日も降雪する可能性が高いと気象予報士が告げていたから、ホワイトクリスマス・イヴに、ホワイトクリスマスだ。いや、降り積もっていないとホワイトクリスマスとは言わないのだったか。なにやら英語教諭が嘯いていた気もするがはっきりしない。

 

 どうでもいい。なにもかも。ぷつりと糸が切れたように手を放り出し、冬空の冷徹さを黙って味わう。ない頭を無駄に動かしすぎたんだ。そうだブランデーが飲みたい。アルコールの熱は特別だ。なににも変え難い酩酊感はきっとおれの寂寥を薄めてくれるだろう。永久なんて贅沢は言わないから、せめて今しばらくはぼんやりと生きていたい。ひたむきに、ものぐさを貪って、ひそやかに消え入るように在りたかった。

 儚く闇夜に舞う一片の雪の如く。

 

 微睡みに身を委ねて、瞼を降ろす。視界には暗闇が押し寄せてきて、米神の辺りで追憶の泡が瞬いていた。プレイリストは猥雑にシャッフルされている。スキャット、ホイッスル、ファルセット。脳髄を解すメロディは選り取り見取り。しかしそれらは十把一絡げに括られて消費されていく。誰もいないスタジオと壊れかけのシーケンサ、おれはオーディエンス。

 

 おれは目を見開いた。誰かがステージの上に立っている。

 

 ふいにきぃ、と引き違い窓のパッキンが呻き声を上げた。包んだ指の中にはまだ吸い殻が残っていた。親にバレたら面倒になるのは間違いないというのに、おれは不思議と驚きも慌てもしない。けれど瞬時に現実に引き戻され、おれは顎を跳ね上げて肩越しに下手人を見やった。

 そしてはっと息を呑む。そこに立っていたのはお袋でも義父でもなく、であれば自ずと回答は出て、しかしながら意識の埒外に居るその人は、つまり予想だにしなかった人物で。

 

 しなやかに長く、艷やかな黒髪は、聖夜の月光を浴びて妖しい蒼色に輝いている。大きいのに何処か鋭い瞳は同様の色彩を帯びていて、読み難い意図を宿しておれを見下ろしていた。手に持った六角のグラスと琥珀の液体がおれにはない、大人びた余裕を醸し出していたから、おれは思わず圧倒されそうになる。

 

 来訪者は───バカみたいな独りきりの宴に───義姉(あね)だった。

 

 いつの間に帰宅したのか、赤みがかった頬や鼻先から察するにそう前のことではなさそうだった。全く気が付かなかったのはイヤホンを着けていたせいだろうか。この頃は気圧変動のせいか、誰かが玄関を開けると家のどこかしらが軋むのだ。外に居ても判るときは判るのに。

 おれは少しひりつく外気に魅入られすぎたのかもしれない。雪山じゃないが、今眠ると寝起きが悲惨な具合になるのは考えるまでもない。酔ってもない癖に。

 

「意外ね」義姉は後ろ手に窓を締めて唐突に口を開いた。

 

 依然としてぽかんと彼女を見上げていたら、義姉はスカートを手で抑えながらコンクリートに腰を降ろした。あまりに自然でさり気ない動作で呆気に取られていたが、おれの隣に彼女は座った。その感覚というか距離感は今までの生活になかったものだった。

 

 おれは素直に近い、と思った。

 

「あなたのこと優等生らしい、と思ってたけど」

 

 義姉はグラスを両手で包み、腹の前で水面が揺らぐ様を俯いて眺め、ひとりでに呟きを零すように言った。普段より近くにある彼女の横顔に気まずい気分になる。そんなおれの胸中を知るか知れずか、彼女は見定めの意を含んだ流し目を向けた。

 

「今は不良生徒そのものって感じ」

 

 兆しなく不敵に歪む唇にどきりとする。どこか違和感を催す笑み。知らない貌だった。よくよく考えずとも彼女についておれが知っていることの方が少ないが、それでも家の中で見せる控えめな仕草からはなにもかもがかけ離れていて、おれは動揺を抑えられない。

 

「別に」

 

 内心を誤魔化すように無理やり震わせた声は掠れ、言葉を詰まらせる。

 

「別にいい子ぶってるつもりはないですけど」

「そうなの?」

 

 くすり。

 彼女は長い髪をかき上げる。それがなんだか挑発的な仕草に見えた。少々穿ちすぎているかもしれないが、少なくとも義姉はおれに興味があるふうに、おれの目には映った。胸を張って重心を背後にずらし、腕を上げて脇を晒す。肩の力が抜けているというわけだ。おれに気を許して、あるいは緩めているということである。人間警戒心があるときは、胸の側面を惜しげもなく晒したりはしない。心理学の本か何かで読んだことがある気がする。心理学的な話がよく出てくる小説とかだったかもしれないが。

 

 とにかく、これまでほとんど関わりを持ってこなかった、それこそ飯のときに顔を突き合わせることがあるだけの同居人程度の意識しか抱いてこなかった義姉が、何故か突発的に、降って湧いてきたらしい感興に流されているようなのは推察できた。

 過ぎた期待は、向けて欲しくないものだが。義理の姉弟で会話を交える所以が必要かと問われれば、おれとて首を傾げるしかない。

 

「こんなところで黄昏れてたのね」

「・・・・・・まぁ」

「痛むの?」

「少し」

 

 義姉に言われて無意識のうちに鼻柱に当てたガーゼを撫でていた。

 怪我をした当日は滲む血と血漿で汚れ、変色してカピカピになっていた患部も、もう見ていられないほどの有様ではなくなっている。それでも傷口は傷口であり、未だ瘡蓋になりきっていない箇所があるくらいだから、やつらにどれだけこっぴどく痛めつけられたか分かりやすい。

 ホントに、なにをやっているんだろうか、おれは。

 頭を冷やした日数が延びるだけ、あのときあれだけの憤りに支配され突き動かされていた自らが別の生き物みたいに思えてくる。あながちそれは間違いでもないのかもしれない。時々の立場とスタンスが異なれば、人の在り方は似ても似つかぬものに変貌を遂げる。優等生のおれと不良のおれのように。

 

「どんな感じ?」

 

 おれは瞳を見つめ返した。言葉の意図が掴めなかったからだ。義姉は一旦酒───たぶんウィスキーだろう───を口に含んで、唇を湿らせた。セーターの襟首から覗く、白皙の喉元が上下する様子が異常に艶かしく映った。

 

「人を殴るときは、どんな感覚がするの」

 

 濡れ羽色の虹彩が手の甲を撫でていく。なぞられた跡がゾクゾクと粟立つ。

 

「怒りに身を任せるとき、どんな気持ちになった」

「・・・・・・どうしてそんなこと聞くんです」

「興味よ。ただ単純に、責めとか、蔑むとか、そういう意味合いはない。答えたくないならそれでもいいわ。これは純粋な興味本位からの質問」

 

 随分不躾な話題をふるものだと思った。それほど不快に感じるわけではないが、喧嘩して傷心している相手に対して投げかける問いではないと思う。

 おれは形作られつつあった義姉の人柄のイメージに更新の必要性を覚え、それはそれとして返すべき答を考えた。

 

 感覚。

 怒りを爆発させる感覚。拳を肉に叩きつける感覚。

 難しい問題だった。自分でさえ良く分かっていない当時の感覚を思い出して、もしくは想像して言葉にして他人に伝えるなんて、至難の業だ。試しに回想してみても、やはり適当な表現は見つからない。あのときおれは文字通り激情に呑まれていた。沸立った感情の渦に魂を覆われて、心と躰が切り離される。鮮烈な痛みに精神を内包する外殻が遮断されて、衝動が生み出していた筈の爆発力は知らぬ間に防衛本能とないまぜになり、おれは腕を振るうマシーンに作り変えられる。その名状のし難さ。

 

 強いていうならば、あのときのおれは。

 

「研ぎ澄まされていた」

「へぇ」

「必死だったから。一度手を出したら、止まらなくなりますから。殴られたら痛い。殴っても痛い。こっちは一人で、むこうは三人。だったらこっちは、精一杯痛くされないように躰を動かすしかないじゃないですか」

「気持ちよくはなかった?」

「そんな余裕ありませんでしたよ。やっちまった、って感覚の方が大きかったです。元々特別に嫌っている相手ってわけでもなかったし・・・・・・拳を振り切ったとき浮かんできたのは、どっちかというと後悔ですね。きっちり報復も喰らいましたし」

「そうなんだ」

 

 義姉はどこか予想と違う返答をされたふうな声音を出した。

 

「殴り合いの喧嘩って、もっと開放的なものだと思ってたけど、違うのね」

「蟠りがなくなるような、河原の決闘みたいなのじゃ分かりませんけど・・・・・・」

 

 おれは苦笑を浮かべてそれ以降の言葉をぼやかした。これ以上追及してくれるなという意思表示のつもりだった。願いを汲み取ってくれたのか、義姉は黙ってまたグラスを傾けた。

 

 暫しの間沈黙が続いた。さっきまで気にならなかった寒気が神経に一気になだれ込んできて、堪らずぶるりと躰を震わせる。

 隣に目をやると、義姉も腕で躰を抱いて白い息を吐き出していた。独りではなくなったからだろうか。おれたちは熱狂に包まれているはずの街の静寂に耳を澄ませて月夜を見上げた。

 なにがクリスマスだ。熱に浮かされた人々の雰囲気に当てられるたび薄ら寒さを覚えた。まるでおれだけが吹き溜まりに取り残されたみたいな気分になるからだ。

 彼女もそうなのだろうか。花の女子大学生が聖夜に一人、夜も更けないうちに家に帰ってくるなんて、なんとも健全な話じゃないか。

 

「帰り、早かったんですね」

 

 思い切って声に出してみた。今度はおれの番だ。吸い殻をパッケージごと握って脚の間に抱えた。湿布のふちが紙パックと擦れて悲鳴を上げる。耳障りだ。

 

「コンパとかだったんですか」

「ええ」

 

 肯定を表す母音の連続はため息を多分に纏っていて、彼女の辟易具合が直截実体化したようだった。合コンの空気なんぞは触れたこともないが、そこにある粘着質な感触は容易く想像がつく。段々と雁字搦めになって窮屈に喘ぐ自分が想像の余地にいる。その上、改めて確かめた義姉の造形は上質だ。きっとおれには理解できない気苦労がその肢体に絡みついているに違いない。

 

「つまらなかったから、途中で抜け出してきたわ。元から興味がなかったし」

 

 案の定、義姉は逆立った気を仄めかして隣の家の外壁を睨んでいた。

 

「こんな夜にまで肩を凝らせたくはないでしょう。連中をまともに相手にするには、お酒が足りなさ過ぎるのよ」

「大変ですね」

「ほんと。でも、あなたも人のことは言えないんじゃない?」

 

 まただ。彼女の嘲りが隠れていそうな矯笑を向けられると深い違和に苛まれる。目の前の認識に歪みが生じるというか、現実と妄想のラインが侵されてしまう。どこまでがありのままの義姉の微笑みで、どこまでがおれが脳内で勝手に与えたエフェクトなのか判断が鈍る。果たして義姉はここまで瞳孔に澱を秘めた人だっただろうか。前髪と眼鏡が落としていた翳りは確かに重々しかったが、屈折した闇は面影もなく隠れ潜めていた。

 

 あ、そうか。今日はコンタクトなんだ。

 鳴り止まなかった違和感の一つの正体が分かった。だいぶぼーっとしていたから気が付かなかったが、自らの間抜けのほどに呆れる。

 おれはあらゆるリアクションを兼ねて肩を竦めた。自嘲にも似た鼻息が気の抜けた音を鳴らす。何気なく義姉を見た。義姉も目を鋭く細めておれを見ていた。おれは肝を冷やす。まずった、今の態度は気に障ったかもしれない。お袋と二人暮しだった頃に言われたのを思い出す。あんたの笑い方はたまにヒトを小馬鹿にしているようで気になる。

 

「ねぇ」

 

 義姉は中途半端に手を挙げて、おれの頭を指した。

 

「それ、なに聴いてるの?」

「え? あ、えーっと・・・・・・」

 

 正しくは耳だった。おれは内心ほっと安堵の息をついてイヤホンに手をやる。雑然と奏でられ続けていた音楽は知らないうちに鳴りを潜めていた。おそらくは義姉がやって来たとき、振り返った拍子にジャックが引っ張られて接触不良を起こしたのだろう。型落ちのiPhoneに付属していたlightningケーブル式のイヤホンは、どうも基部の造りが脆弱らしく、作業しながら音楽を再生しているとしばしばスピーカーに切り替わった。

 

 地べたに放り出したスマホの液晶にはシャッフルされたプレイリストが表示されていて、統一感のないタイトルが途方もなく列んでいる。Nirvanaの次はBeastie Boys、その次はAC/DC、Ke$haにYES、そしてU2。おれはAC/DCと悩んでからU2の方を再生した。冬に聴くならそっちの曲があっていそうだと思ったからだ。

 

 おれは外したイヤホンを服の裾で拭ってから義姉に差し出した。彼女はそんな様を微笑んで眺めていた。それから差し出した両手の右側を制して押し戻し、片側だけを左耳に嵌めた。意味を理解して呆然とするおれにからかいの滲む目で促す。つけ直せと。

 動揺をあからさまにするのも気恥ずかしかったので、おれは困惑もそのままにいそいそとイヤホンを耳に持っていった。

 

〈──────〉

 

 耳に飛び込んできたのは聞き慣れたイントロ。リズミカルなブラッシングに透明感のあるバッキング。なんとなくグルーヴィーなロック。スペイン語混じりのリリックをまともに聴き取れたことはないけれど、翻訳ブログに載っていた和訳を読んだ限りでは中々ユーモアにあふれているようだ。このバンドの中では一番好きな一曲。

 

 おれは隣を盗み見る。義姉は静かにサウンドに聴き入っていた。なんだか遠い目で夜空の上の方を探っていた。

 月とか星が飾られた天幕の裏側を見透かすみたいな眼つきで、たとえば世界を定刻通りに動かしている歯車の形を確かめているような表情で、初めてまともに言葉を交わした義理の弟とイヤホンを共有していた。変な人だと思った。

 

「洋楽なんだ。いい曲ね」

 

 ヴァーティゴっていう曲です。U2、アイルランドのバンドの。お気に入りなんです。半分以上親父の趣味だったんですけどね。おれは頭に浮かんできた文章をそのまま出力していったが、どこまでが正確に声となって空気を震わせたかは分からなかった。そんな事実はどうでもよかった。真面目にメロディを聴き入れている彼女に、おれのなんの価値もない自分語りなんかで茶々を入れてしまいたくなかった。耽美な横顔をおれに向けるくらいなら、宵闇の深淵に真っ直ぐに瞳を向けていて欲しかった。

 

 おれたちは口を噤んだ。果てしない静寂がモノラルの歌声を際立たせる間、一言も漏らさなかった。いつの間にか体中の痛みは去っていた。その代わりに胸の渇きが一際強くなっておれに圧を与えていた。これじゃ足りない。満足できない。分かち合うことに意義はない。潤いを。新鮮な潤いが必要なのだ。

 

「わたしね、独りが好きなの」

 

 ギターの余韻がプツリと音を立てて潰えたとき、彼女は唐突に白状した。

 

「独りでいると安心するの。ああ、世界はこうだったって、あるべきものがあるべき場所にあるんだって感覚が落ち着くの。誰かがいないと生きていけないけど、誰もいない場所で独りでいる時間が一番生きてるって感じるのよ」

 

 義姉は音楽を聴き始めたときから変わらない姿勢のまま喋っていた。瞼の開いた角度も、瞳孔の向きも、指先の位置も変わっていなかった。顎とピンクのリップの唇と浅い喉仏だけを動かして声を発していた。おれは彼女の言葉がなんとなく分かった。義姉はここにはいない。独りきりで生を謳歌しているのだろう。

 意味は判る。共感さえする。羨ましくもなく、憐れとも思わない。おれも同じ気分になる瞬間がいくつもある。群れからはぐれて逃げ惑うシマウマの仔を俯瞰するように、自分の矮小さや無力さを賞翫する。そこに心地良さを感じるのは、おかしいことではないと思う。

 

「あなたは、孤独が好き?」

 

 おれは少し考えた。それから右耳のイヤホンに手をやって、それを外した。

 

「いえ、好きじゃありません。でも、嫌いでもない。好き嫌いとか思ったことないです。けど」

 

 そこで、初めて義姉の顔が真正面からこちらを向いた。おれを視ていた。

 

「独りでいるときだけは、おれはおれを見ていられます。醜くとも、自分という存在を認めることができる」

「・・・・・・・・・・・・そう」

 

 おれがそう言うと、彼女は俄に淋しげな頷きを返して俯いた。

 

 口を閉ざすと、舌の上がムズムズする。

 おれはもっと深刻に言葉を選ぶ必要があったかと後悔した。おれは義姉になにを言うべきだったか。嘘偽りなく本音を示して良かったのか。彼女の求める答を探すべきだったか。しかし全ては義姉が進める話なのだというのは分かりきっていたから、あとから悩むのは全く無為な行いなんだろう。彼女の言った通り、義姉の世界は常に彼女独りの領域なのだろうから。

 

「あなた、ずっと外にいて寒くないの?」

「そうですね、流石にそろそろ」

 

 やはりおれが考えるまでもなく、顔を上げた義姉は不敵な表情に戻っていた。そのことにほっとし、そしてどうでもいいな、と思う。奇妙な会話はここで終わりだ。今日中だか、もしくは日付が変わって目が覚めると両親がいて、義姉とはまた戸籍上繋がりがあるだけの他人の関係に成り下がる。それでいい、それがいい。趨勢はいつだって変わらないほうがマシだ。

 指摘された通り、肌の感覚がおかしくなりつつあったので、おれは義姉からイヤホンとケーブルを受け取るとしめやかに腰を上げた。眼前を降りていく雪の量も増えている。明日の雪化粧が期待できる勢いだ。

 

「ねぇ」

 

 窓の棧に手をかけたところで、義姉に呼び止められる。今度はなにを言われるのかなどに思考を割かず、おれはやおらと彼女に向き直った。

 

 刹那、背筋に鳥肌が立った。

 

「中で、もう少し話しましょう?」

 

 凍えて鈍くなっているはずの嗅覚に、重たい甘い匂いが飛び込んできたのは錯覚だったのだろうか。おれはタールが喉にへばりついたときと同様に息を詰まらせ、目眩に近い没入感に脳を揺さぶられる。ぐるぐると廻りだす。おれは白くならなくなった吐息をしまうのも忘れて、喉元まで言葉が出かかった口をあんぐりと開けていた。

 

 傾げられた頭に連動して垂れ下がる黒髪につられて視線が動く───衝撃。

 

 おれの脳髄の中で、どこかズレていた義姉の目許と歪んだ口許が一つの貌として合致する。暗い目、遠慮、引け目、苛立ち、愛想笑い、苦笑、葛藤、悲観。黒縁の眼鏡と長い前髪に切り刻まれて分断されていた彼女の表情を象るパーツが集合し、変形し、それらを突き抜けて新たなる相貌へと昇華される。

 

 それが──────その変貌が──────これだというのか。

 

 この、笑みが。

 淑やかに獲物を待ちわびる食虫植物の如き妖艶さが。

 これが、おれの知らない、おれになにかを望む義姉の秘めるもの。

 

「ねぇ?」

 

 おれは泡を食うみたいな喘ぎを覚られないように発露させて、調律された空間を描き乱す衝動を抑え込んだ。おれの孤独を蝕むなにかに耐えようと試みた。耳朶に残るエッジのギターソロが不協和音を発し始める。

 

「わたしたち、結構似ている気がするわ」

 

 ふいに思い出した。おれたちの意思に関係なく、夜は思ったよりも長いんだって。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

pride

 夢を見る。

 溺れる夢。水の中で踊る夢。足掻く夢。

 逃れられないのは知っている。鼻を、口を、気道を、苦しみが埋め尽くす。

 水だ。

 人は水がないと生きてはいけないらしい。当然だ。ぼくたちは喉が渇く。喉が乾けば水を飲む。おしっこが出て、汗をかく。そしてまた水を飲む。

 でも、いまは苦しい。苦しくて仕方がない、死んでしまいそうだ。

 ぼくは水で満たされていた。口の中、鼻の中、目の中、耳の中、頭の中、血管の中、お腹の中、肺の中・・・・・・。逃げ場なんかないくらい、内側も外側も水で溢れかえってる。

 人は水がないと生きられない。でも、水は苦しい。

 ぼくは苦しいものにいっぱいいっぱいだった。

 ああ、なんだ。

 別にいつもと変わらない。

 夢を見る。

 

 

 ◇

 

 

 

 ぬめりついた自然由来のノイズが、こびりついた穢れを洗い流してくれる。

 幼い頃のわたしは雨音に出処不明の信仰を抱いていた。天から降る水は蛇口から流れ出る水より当然偉いはずだ、と盲信してやまなかった。水溜りより、河川より、大海より、雨雲から勢いよく地面に飛び出していく小さな雨粒の方が尊いのだ。自分の目線より上から来るから。上にあるものこそが偉いもので、頭の高さは序列を表している。

 それは、篠突く雨の冷たさを知らなかったから。

 そのときはまだただの子供らしい勘違いに過ぎなかったけれど、物心がつき、この世の法則が分かってくるにつれそれはぼんやりとした自然信仰へと形を変えた。空の青は貴い。海の蒼は誇らしい。芝の緑は優しい。血の赤は畏ろしい。砂地の黃は眩しい。有機物は素晴らしい。なんでそう思うんだろう、たぶん地球産の生物に備わる本能的な意思なんだとわたしは勝手に解釈している。自分の肚の中で生まれた生き物たちが気紛れに宇宙へ旅立って行ってしまったりしまわぬように。ガイアの愛が、わたしたち弱っちい生命を優しく縛り付けているのかも。

 その母の腕を取り払って重力の枷から逃れようとする人類は、やっぱり神々への叛逆者なのだろうか。太古より生き続ける巨木よりは、太古に朽ち果てた古代遺跡と聞く方が浪漫に疼く。空を支配する怪鳥よりは、宇宙を漂う異星人の宇宙船を目にする方が心が躍る。自然は愛すべきものだ。でも、天然の楽園にわたしの姿はない。唯一を信ずる者には常に異端の姿が焼き付いていて、わたしは背徳の誘いに屈したわけだ。

 背信者の檻は矛盾の快楽に満たされている。たとえばコンドーム。いつから快楽は代償なしに抜き取られるようになってしまったんだろうか。禁じられた遊び。忌避したはずの行為。昼前に過ごした義弟とのまぐわいを思い返した。わたしは耳朶を打ち付けて覚醒を促す雨音に純真の残滓を感じつつも、安物のヘッドホンから流れる音色に意識を感ける。

 おとなしい。いつも跳ねっ返りに感じるベッドが、今は流動する汚泥のように消極的だった。

 耳元も、壁の向こうも騒がしさにあふれているのに、意識はこの上なく静まり返っていて、わたしはベッドの中に引きずり込まれていくような錯覚に陥った。やがて暗闇が訪れた視界を見限り、狂気を催すほどの深閑の最中、わたしは虚無に触れる。わたしが視界の影に溜まった霞に溺れるかの如き日常を脱却しないかぎりは、いつだって深淵はそばにあって、ふとした瞬間には見つめ合っている。それは悪性の体質であると同時に、暇潰しでもあった。

 現実でのわたしは今、虚ろな目で自室の天井を見上げていることだろう。手首を切って緩やかに失血死していくみたいに。あるいは本当に、動脈を縦に裂いて死にかけているのか。純白のベッドを自分の色で染め上げながら、わたしは地獄への奈落(Highway to hell)を堕ちていっているのかもしれない。

 あの夜も───そうだった。

 霧がかった脳内に、荒い吐息を出し入れして。どうしてこうなったのだと自身に問いかけるけど、望むような応えは導き出されなかった。あのときのわたしは混乱していたのだ。今でこそわたしと義弟の仲に忌憚を抱くことはないが、あの夜はまだその性質が実母と間男に近いものと見誤っていた。

 義弟が拙い動きでコンドームを外したときはこう思った。ただ、わたしは負けた。雑な誘惑に勝てなかった。いや勝たなかった。どこかでそれを期待していた。最初からシナリオを立てていた。自ら堕ちることを選んだんだ。だから無様な誘惑を彼に仕掛けた。そして彼はそれを拒まなかった。それだけだ、と。

 次に処女を散らした頃を思い出した。後頭部でカビ始めた脳細胞に収められたフィルムが廻り始める。

 義弟との関係の中では間違っても天井のシミを数えるなんて失敬な真似はしなかった。一度それをしたことがあるけれど、癇癪を起こした相手に頬を打たれて痣を作る羽目になった。高校時代の、バスケ部の先輩だったが、縁を切る切っ掛けになったのはむしろ幸運だった。少し顔が良くて運動神経のいい、どこにでもいる自意識の高い男だったが、精々わたしをステータスか血の通った穴程度にしか考えていなかっただろう。仮に逢瀬の際に度々囁かれた背筋が薄寒くなるような言葉が本心からのものだったとしても、あれが熱を上げていたのはわたしではなく、わたしに愛を捧げる自分の姿に違いない。

 どうしてわたしはあの男と付き合ったのか疑問だけど、それは当時から甚だ分からなかった気がする。きっとあの頃から憂さ晴らしが必要だったんだ。まだ、わたしの人生には母が手をついていた時期だったから。自分だけに与えられたはずの人生だと確信するための楔がわたしには必要だった。本気で倒錯できるものを求めた。手に入ったものは、形だけの恋愛だった。

 わたしはあの一件で理解することができた。執念深く、こよなく人を愛することは自分には不可能だと。本質的には名前も忘れてしまったあの先輩と同じなのだ。わたしが人愛せたとしても、その愛情が行き着く先は己の中にある自己顕示欲にすり替えられる。つまりはフィルターだ。わたしがわたしを愛するためのモニタになってもらうしかない。そう考えると気持ち悪さにこめかみの裏が痒くなった。

 だから、もうやめた。虚空から慈しみは湧かないし、受け取るのも虫唾が走る。義弟との間には契約だけあれば十分だ。

 セックスフレンド。

 それがわたしたちに相応しい関係性の呼び名だ。とても洗練されていて、不必要に不安や不信とかに葛藤しなくてもいい、フェアな間柄。そこではわたしは彼が望むように動いて、彼もわたしが望むように動く。いわばビジネスライクであり、多少の気遣いと線引きが出来ていれば揺るぎなく成立する。ある種の大人らしいやり方。小賢しいとも思う。

 

『ヘンですよ』

 

 二度目のセックスで彼は言った。

 

『どうしておれなんだか。いや、拒んでるんじゃなくて、気になったんですよ。義姉さんのやり方に相応しい相手は他にもっといるんでしょ。おれはどの辺が都合が良かったのかな、って』

 

 その問にわたしは「わたしとあなたが似ていたから」だと返した。すると彼は喉に小骨が刺さったふうな顔をして『あんま似てる気はしないけど』とごちた。彼の訴えたいことは分かる。それでもわたしはそれ以外の返答を持ち合わせていなかった。わたしがひとりでに感じたシンパシーを除けば、彼の言うとおりわたしが彼を選ぶ確固たる理由がないからだ。

 その上、似ている気がしないというのも偽ではなかった。真ではないけれど、わたしと義弟は根本から似通っているわけではなくて、逆に根本的には全く相容れない質ですらあると思う。たとえばわたしは孤独を望んで酔っているが、彼はそうじゃない。彼は自分なりの割り切り方を覚えただけだ。仮に誰かとつるむことに面倒くささを感じたりすることはあっても、それは一般的な人付き合いの範疇に収まる。わたしにように受け流せない苦痛に苛まれることはないだろう。単純に、孤独に見舞われたら最大限楽なやり方で乗り切る。そんな受け止め方を遂行しているに過ぎない。そしてわたしはそのやり方が好きだった。

 両親への反応から分かっていたことだが、義弟は、わたしなんかよりよっぽどリアリスティックだ。

 ただ、しみったれた現実への理想が高過ぎるだけ。この世界のどうしようもなさを諦めきれていないだけだ。健全なんだ。彼が話す言葉の端々や貪欲な眼差しに宿る青臭さは、世間一般的な男子高校生のそれとなんら変わりがなかった。

 思わず目を逸らしたくなる類の光だ。

 

『義姉さん』

 

 好きな音楽について語る彼の軽やかな声音。何故かわたしには痛々しいものに聞こえた。語りが早まって少し滑舌が鈍くなる彼の横顔を目に入れると胸が疼いた。イヴの自宅で窓越しに彼の背中を目にしたときと同様の蠢動だった。わたしは未だその正体を掴めていない。

 乾いた目を閉じて寝返りを打った。ヘッドホンが清閑を保とうとするシーツから押し出されていく。あーあ、と思いながらもわたしは未知の音色の奔流に飽きてきていた。義弟が片手間に寄越したデータは、しかしその実膨大な量で、なにをダウンロードしてもあっけらかんとしていたスマホのストレージに悲鳴を上げさせている。聴いても聴いても滂沱の果ては見えそうにない。

 

「ねえさん・・・・・・ね」

 

 刺激の飽和してしまった穴の入り口よりも、耳の奥で何度も渦巻く呼び声をそのまま反芻した。当然、慣れない発音に唇が着いてこなかった。

 

「好きか?」

 

 ぼやけた視界を埋めるように手を伸ばす。指の先には雨粒が張り付いた窓があった。点線が線になったり、線が線に絡め取られて点線になったり。透け色のキャンパスは目まぐるしく様相を変えている。

 絶え絶えの呟きは誰にもぶつからず放物線を描いて床に落ちた。散らかった衣服の上に立った言の葉は考えるだろう。本来己が至るべき顔は一体どれだったろうか。そこに寝転がる女か、床下のリビングにいる男か。それとも全くべつの某か。

 解はわたしも知り得ない。考えるに値する式の形にすらなっていない。

 

「バカか」

 

 わたしは仰向けに体制を取った。

 答など知るものか。そんなものはどうでもいい。気持ち良ければいい、退屈を凌げればいいと思考を放棄したのは他ならぬわたしなのだ。そうまでして結局始点に立ち返ってどうする。かき出そうとした汚泥が回路を蝕んでいくだけだ。そしてまたショートして、わたしは無知蒙昧を顧みることなく快楽を(むさぼ)る獣に成り下がる。

 ならば、知悉なぞ最初から必要ない。わたしが知っているのは、精々部屋を侵す影の蒼さぐらいなものでいい。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ひどく匂う。引っ掛けた薄手のジャケットの襟元を緩めた。

 短く点灯したウインカーがジャカジャカと音を鳴らす。おれは少しパワーウィンドウを下げて、水気に膨れあがった外気に鼻先を突っ込んだ。雨水が染み込んだアスファルトの匂いが脳漿いっぱいに広がった。

 無臭化と謳っていた消臭剤は清涼感のきつい、それなのに甘ったるい香りを部屋中に振りまいて、シャワーを浴びた後念の為衣服の上からミストを被ってきたおれにも同じように纏わりついた。おかげで安物の香水よりも感に障る臭気を全身から吹き上げている。他ならぬおれから。

 過剰に匂いを気にかけるだけ逆に怪しまれるかと思って、敏感過ぎたかと後悔していたところにこの香りが重なって、もとよりネジ止の緩い機嫌が徐々に傾いてくる。冬、手が出て以降、おれは少し怒りっぽくなったのかもしれない。

 

「買い物を手伝えって話だったろ───」おれは語気の端を硬く響かせながら問うた。「どこに停めるつもりさ」

 

 返ってきたのは一昔前のホンダAT車特有の、キントンキントン、というバックの警告音で、次に「見ればわかるっしょ」と抑揚がない言葉が飛んできた。おれはピラー越しに仄暗い路地に続くブロック塀と、眼下目の粗いアスファルトを睨めつけた。細い道に面した駐車場の看板には、最近出来た喫茶店の名前と駐車規約が刻まれている。一度も顔を出したことがない店だった。

 

「なんでまた」

「いいから、黙って付き合いな。アイスくらいなら奢ってやるからさ」

 

 有無を言わせない物言い。おれは喉を震わせるのをやめて、昼下がりから溜め込んだ気怠い疲れと眠気を息に絡めて放った。安っぽいシートに身を委ねてから三回目の嘆息だった。あからさまな吐息を聞いたって、お袋は頑なに意を介さなかった。

 昼食を義姉と共にして、彼女が部屋に戻った後、微睡みからの誘いをテレビから流れるどこの誰とも知れないコメンテーターの語りと雨樋の囁きに耳を澄ませて振り払っていたところに、お袋から着信があったのが約一五分前のこと。コールセンターの退勤ついでに買い出しに行くから、米袋と二十四缶入りビールケースを運ぶのを手伝えと、これまた一方的な呼び出しに従って家を出た。

 それが肝心の近所のスーパーを通り過ぎても轍は勢いを弱めず、では距離があるものの規模で優るリバーシティに用があるのかと思えば、そちらの方面にも走らせず。怪訝をしたためていれば、止まったのはごくこじんまりとした個人経営の喫茶店の前。おれはその背景を察することができないまま現在に至る。

 サイドブレーキが引き上がると同時、エンジンの鼓動が潰えた。首筋にのしかかる凝りがどっと重みをまして、たまらず肩を竦めたおれを尻目にお袋は軽を降りた。五月雨に続く雨雲が見えていないかのように店の戸に向かって歩くお袋を目で追うだけともいかず、おれも喧しい降雨の下に降り立った。手に滑るドアを閉めると、見送るかの如く中古のライフが目許を瞬かせた。いやに隙がないのがいけ好かない。

 そそくさと屋根の下に逃げ込もうと足早に入り口へと向かう最中、店の景観に目をやる。いまどきの小洒落た店には珍しく、来客と先客を互いに開け透けにしてしまうような廉直なガラス造りは避けられていて、白壁と木目の足場が印象に残った。嫌いではない。

 からんと気の抜けた音がして、おれは慌てて扉を潜った。

 珈琲の匂い。真っ先に飛び込んできた香りに当てられて、強張っていた躰の力が抜けていく感じがした。いい香りだ。消臭スプレーの代わりに目一杯肺に詰めたくなる。木目調の塗装がされたドアが閉まると、来客を知らせるベルが鳴った。いらっしゃいませ、という初老らしき男性店員の声が奥の方から聞こえてきて、おれはジャケットに染み込みつつある雨粒をハンカチで拭いながら店内の様子を伺った。

 店の中は、無機質な外観とはうってかわって艶のある木々の模様と、大小様々な観葉植物の緑に彩られた自然的な色調に調えられていた。モダンレトロとでも言うべきか。脚長の椅子と一段せり上がったカウンターに、珈琲の湯気を引き消すシーリングファンとか。目を引くものは一昔前の喫茶店という感じで、いまどきのカフェ、とは言い難い。しかし真新しいステンレスで組まれた線の細いラックやエアプランツの佇まいには古臭さは感じない。眺めていると不思議と落ち着くようで、どこか落ち着かない内装だった。

 ケースレスの壁掛け時計が指すのは午後三時。土曜の昼過ぎと、それなりに賑わいそうな店内には二、三組の客がいる程度であり、あまり盛況な店ではないらしい。カウンターから顔を出しているマスターらしい制服の男性も、会釈をしながらも心なしのんびりとマグカップを磨いていた。

 一息つく。お袋の方はすぐに空いた席に座るかと思えば、知り合いの顔でも探すふうにキョロキョロと視線を這わせていた。

 

「萩芳さん」

 

 待ち合わせの相手でもいんのか。そう口に出そうとしたところで、壁際のテーブル席から声が上がる。どうやら目当てはその人だったようで、お袋はほぐれた笑みを浮かべて歩み寄った。萩芳の呼び名を聞くのは久しぶりだけど、数年前まではおれもその苗字を名乗っていた。要するに、親父が死ぬまでは。だから相手は古い知り合いなのだろう。

 にしては、声が若かったような──────。おれはやおらとお袋の足跡をたどり、席についていた先客の顔を見て強烈な既視感に見舞われた。

 

「お久しぶりです、萩芳さん」

「めぐみちゃん。いやほんと、お久しぶりです」

 

 思わず立ち止まる。おれの姿を見つけ、少しの間目を瞬かせてから、席から立ち上がって軽くお辞儀をする相手。お袋のことを萩芳さんと呼び、お袋にめぐみちゃんと呼ばれた女性におれは見覚えがあった。

 どこで───そう、教師だ。おれが通う高校の教諭の一人が、こんな顔立ちをしている。長い髪にワンピース。おっとりとした眼付きは朗らかな笑みに調和し、どことなく母性的なテクスチャが貼り付いて見える。おれの学年ではない。でも、クラスメイトが時々噂に、というか委員会の顧問がこの人で・・・・・・。名前、なんだったか。咄嗟にでてこない自分に普段の学校での無気力ぶりを改めて思い知らされる。全然優等生なんかじゃない。今じゃ立派な不良生徒だもの。

 

「どう、驚いたか?」

「あはは・・・・・・こんにちは、茅ヶ崎くん」

「・・・・・・佐倉、先生」

 

 口が答えを出す方が早かった。佐倉、なんとか先生。そのなんとかには恐らくお袋の言うめぐみちゃんが代入されるんだろう。佐倉めぐみ。そうだ、めぐねえ。三年の保健委員がそんな愛称で呼んでいた気がする。

 何故。放任主義の母親が高校の教師などと待ち合わせをするのか。皆目見当のつけようもないが、少なくともおれの授業態度に対する説教が始まったりはしなさそうだ。両者の異様に柔らかい声音からもそれは窺える。私的な関係だ。

 どうぞどうぞ、まあまあ。着席を促す佐倉先生に従って席につく。ニスの照りが眩しいテーブルを間近にすると一層挽き点てられたコーヒー豆の気配が強くなった。雨の日を思うとカップから漂う湯気が恋しくなる。ジャケットに纏わりつく湿気が背もたれとおれを密着させた。

 タイミングを見計らった白髪のウェイターが視界の端から歩み出てきて、メニューを広げる。しなやかな物腰の人だった。店自体は年季が浅くとも、マスターも給仕も仕草の一つ一つに培ってきた経験の分厚さを垣間見せている。あるいはプロっぽさを着込んでいる。

 

「わたし、本日のオススメコーヒーで」

「あー、じゃああたしは日替わりセットで。Bの方でお願いします」

 

 あんたは、と催促するお袋の視線に晒されて、少し悩んでからおれはオリジナルブレンドを、とメニューを指しながら注文した。ウェイターは鷹揚に頷き、少々お待ちください、と含羞の欠片もない笑みを浮かべて立ち去っていった。スラリと伸びた背筋がその人の矜持を示しているみたいに思えた。ホワイトのカラーが鋭く立っている。おれじゃああはならない。そんな確信があった。

 手が届かないといえば、斜め前に座る彼女もそうだ。クラスメイトが時折話しているのを聞くことがある。三年の現国の先生がかわいい。スタイルがいい。性格が理想的。金持ちの婚約者がいるってさ。バカみたいな話だ。けど、おれみたいなのとは世界の見え方が違うんだろうと、帰りがけの生徒と談笑している彼女の眼を見て思ったことがある。人並みの幸福を満遍なく享受する人間というのは、たぶんああいう人を言うんだろう、と。

 おれが不幸せかと言われれば、全然そんなことはないけれど。そうじゃなくてなんというか、幸せって難しいなって話。つまるところ至極どうでもいい。

 

「アイス。頼まんくてよかったんけ?」

「あぁ、気分じゃないんで」

 

 眼前の人物を直視する気にもならず、おれは明後日の方向に眼差しをやりながらお袋の茶化した問い掛けを躱す。シーリングファンに吊るされた鳥のモチーフが緩やかに回転していた。ここで羨ましいなんて考えるほどおれは素直じゃない。

 

「ふふ、そんなに硬くならなくていいんですよ? 学校のお話をしに来たわけじゃないですから」

「そいやあんた、木曜遅刻していったらしいな。怒るで?」

「もう、お母様ってば・・・・・・」

「やーね、むず痒い。昔みたいにおばさんでいいんよ」

 

 ホントにおばさんだしね。饒舌に言葉を繰り出すお袋の姿は名実ともに近所のおばさんの肩書きに違わない。外行きの澄ました顔ではない素の容貌は近頃のおれでも中々お目にかかっていないのに、佐倉先生は臆面もなく笑いかけているところから、二人の付き合いはおれの想像よりも深い可能性が出てくる。その割におれの頭蓋のどこにも彼女の名や姿形は見当たらなくて、おれは当惑を深めた。ただ単に忘れているだけなのか、そもそも全くもって関わりがない縁に含まれる人なのか。忘却の線ならば、あまり堂々とした顔をしていられないんでないかという懸念があった。

 

「やー、しっかし何年ぶりぃ? 最後に会ったのがまだむこうに越す前だったし」

「うーん、だいたい十一? や、十二年ぶりくらいですかねぇ」

「だーっ、そっかあ。こいつまだ小学校にも行ってなかったしねぇ」

 

 緩く握られた拳の先がおれの二の腕に突き刺さる。おれは抵抗せずに椅子の上で傾く。噛み殺した苦笑が微かに耳に届いた。

 

「あんた、さっきからだんまりね。まさか忘れたとかいうんじゃねーよな」

「え、いや」

「覚えてなくておかしくないですよ。幼稚園の頃のことなんてこの歳にもなれば朧げになりますもの」

 

 ばつが悪い、という表情を作っていると当の佐倉先生が助け舟を出してくれた。顔を上げれば学内で見掛ける快活な微笑みがおれに向けられていた。やはり目を眇めたくなる。おれには一生かけても作れないし、仕組みを理解できない笑い方だ。

 

「ほら、あんたがまだ五才くらいだったかな。こっちに住んでたときにお隣に住んでたでしょ、めぐねえちゃん、めぐねえちゃん、って。よくお世話になったんだから」

「その・・・・・・お世話になりました」

「いやいや、あはは・・・・・・」

 

 お袋の簡潔な説明を受けても、二人の顔を順番に見つめてみても、おれの脳裏には何も浮かばないし、幼少期の記憶自体、ただ真っ更な荒野が広がっているような有様だった。

 他に口にするべき単語も思い浮かばず、おれは完全にお袋の後ろを着いて回るカルガモの仔になることを決めた。薄っすらと目を開けたまま軽く頭を下げる。佐倉先生は照れたように頬を掻いていた。おれも頬の瘡蓋を描き毟りたい。いまはもう実在しないその傷痕をモノクロの仮想空域の中で刳り穿つ。そこから脳みそにまで指を突っ込んで、頼りない大脳皮質を傷だらけにしてやりたかった。

 

「もう、高校生なんですもんね。あんなに小さかった子が・・・・・・」

 

 そう言う佐倉先生は遠い目で、まるで双眼鏡の向こう側を覗き込むみたいに、おれ越しに不可視の情景を映していた。おれは見透かされているようでゾッとする。文字通りおれの知らないおれを彼女は見ているのだ。ふと隣を見やれば、お袋は至近距離にピントを合わせていた。記憶と現実の相違点を周到に確かめるかの如き双眸で佐倉先生の肢体を舐め回していた。おばさんってより、おっさんの眼付きだなとおれは思った。

 

「そういうめぐみちゃんもねー。あの頃はまだちんちくりんだったのに、立派な美人さんになっちゃって、まあ」

「美人だなんて、そんな」

 

 胸の前で手を振って凌ごうとする佐倉先生の声を遮って、再び現れたウェイターが和やかな空気を一時的に裁断する。彼女の前には縦長のマグカップとフレッシュとスプーン、それから五百円玉ほどのサイズのチョコクッキーが載った小皿が並べられていく。その様を佐倉先生は右往左往させていた掌を併せて、垂涎といった体で見守っていた。あざとい人だが、若手のモデルが食レポで披露する、ザラメじみた大雑把さはなくて、上白糖のような気品のあるあざとさだと感じた。過大評価気味かもしれないが。

 ウェイターの、極彩色の血管が目立つ白い腕は反対側へと伸び、お袋には末広がりのマグカップとワッフルにナイフとフォーク、おれにはシンプルにカップのみの受け皿と、ひょっとするとサービスな気もするクッキーの小皿が配られて、ウェイターは恭しいお辞儀を残して去っていった。

 おれは受け皿に手をやって、立ち昇る湯気に鼻先を触れた。どちらかというとパウダリックな感じのする酸味が混じった香りは、きっと浅煎りの豆が所以になっている。珈琲は苦い方が好きだが、こういうのも悪くない。そもそも、カップ麺の食い過ぎで麻痺した舌ではそこまで味は分からない。

 そっと口をつける。舌先の熱と刺激。これは旨い。恐らく。鼻腔の内に燻るフルーティーな感触が嗅覚を満足させる。肚に流れ込み、そのまま体内の熱量へと変換されていく液体が、沁み込んだ湿気を取り払ってくれる気配が心地よかった。

 卓を囲む人間たちへと意識を戻せば、彼女らもそれぞれに誂えられた珈琲を味わって、熱い息を吐き出したり、カップの縁から垂れる滴を観察したりしていた。須臾の沈黙が場を支配する。躊躇いと思案の色が顔色に滲んでいた。

 おれは白壁に喰い込んだ小窓から外の様子を窺いながらなんとなく義姉のことを考えた。今頃自分のベッドで惰眠に絡め取られているんじゃないだろうか。彼女の寝顔が瞼の裏に描かれる。普段超然とした振る舞いをとることもある彼女だけど、無防備な素顔は意外とあどけなかったりする。如何に卑猥な行為を終えた後でも、ああいう踏み込んだ姿を見せられると気恥ずかしくなってしまう辺りに不意に自分の初心さを思い知らされるのだ。そんな純情さが今は忌々しい。

 うん、面白くないな。

 

「あの」

 

 無言の膜を破ったのは佐倉先生だった。

 

「お家での真嗣くんの様子とかって、聞かせて貰ってもいいですか?」

「んんー?」

 

 彼女が許可を取ろうとしたのはおれだったんだろうけど、お袋が口を開くときにおれの意図を汲もうとするはずもない。さりげなく下の名前で呼ばれたことに意味の分からない感慨を抱いてしまっているおれを他所にお袋は口火を切る。

 

「基本ぼーっとしてんね。たまにプチ反抗期に入ったり。あたしとしては勉学に勤しむ気配をも少し匂わせてくれれば好きにしてくれていんだけどね」

「はー、プチ反抗期ですか?」

「そ。プチ」

「プチって、なんか可愛らしい感じですね」

「そうそう、昔から可愛らしい止まりなんさ、こいつは」

 

 この手のプライバシー侵害にはもはや手慣れたもので、好き勝手言ってくれて、とすら思わない。この辺が可愛らしいというんだろうな、と自覚はあるものの別段どうしたいわけでもないので性分なんだろう。

 だからこそ、と前置きしてお袋は「暴力沙汰だって聞いたときはやっとやんちゃ見せたか、って思ったけど」

 佐倉先生にも心当たりはあったらしく、目を細めて言葉なく頷いた。おれは興味がないふりをして二口目を口に運んだ。さっきより苦味が強まった気がする。

 

「ま、これだかんね」

「はは・・・・・・まあ、元気そうで安心しました」

 

 意味有りげな流し目を恣意的に意識の外に放り出して珈琲を賞翫する。おれはこの空間に対する自身の必要性について疑問を深め始めていた。お袋はおれを辱めたくてこの場に連れてきたのだろうか。あり得るとも。おれは店の天井の隅に据え付けられたスピーカーから流れる有線に神経を集中させることにした。Earth,Wind&Fireの曲が流れていた。タイトルは知らない曲だった。

 

「学校だと結構眠そうにしてるなぁ、と思ってたんですけど。夜更しするの?」

「え、と。嗜む程度に」

「嘘こけ」

 

 唐突に向かってきた矛先に咄嗟に外面を取り繕う。

 

「結構夜更けまでガチャガチャ聞こえてんぞ。遅刻までして何やってんだ、あんた」

「結構・・・・・・? そんなに音が立つようなことはやってないつもりだけど、おれ」

「じゃあなにやってんの」

「なにって」

 

 ガチャガチャ? おれは首を傾げた。イヤホン同士がぶつかる音が下の寝室にまで伝播するとは到底思えない。

 確かに我が家の壁はさして厚くはないが、響くといえば精々激しく床板を踏みしめる音とかその程度で、おれが深夜にベッドから降り立つのはCDをデスクトップPCのドライヴに挿入するときくらいなものだ。お袋はおれの仕業だと断定しているようだけれど、お袋は義父と同じ寝室で寝ていて二階にはもう一人自室を持っている人間がいる。それすなわち義姉だ。

 物音の主が義姉だと仮定して、彼女はなにをやっているんだろう。気になる。

 

「音楽聴いてるくらいなもんですよ。たぶん、やなりでも住み着いてんじゃないか」

「どうせスリップノットとかで感極まってヘドバンしてんだろ」

「冗談。親父じゃあるまいし」

「残念ながらあの人はスローテンポにしか乗れんかったぞ。ヘルニア気味だったし」

「まじか」

 

 それは知らなかったな。けれどなるほど、おれにヘドバンのやり方は教えてくれても、親父自身がやっている場面を目にしたことはない。人生の中で、父親がヘヴィメタに合わせて狂気的に首を振る光景を目の当たりにする子供がそもそも、かなり稀だろうが。

 

「音楽かー、わたしも高校生のときはよく聞いてましたよぉ。スメタナとか、ベルリオーズとか」

「すみません、門外漢ですね」

「あたしは好きですよ。幻想交響曲第五章、サバトの曲だったっけな」

「いいですよねぇ、感情の起伏が大きいっていうか、ちょっぴり生々しい感じが」

「感想が渋いねェ」

「えへへ、実は、あんまり詳しいわけじゃないんですけどね。クラッシックが趣味っていうと、そこはかとなく頭が良さそうに見えないかなー、なんて。不純な動機でCDを買ってました」

「みんなそんなもんだと思うけどねー。あたしもいろんなとこ齧ってきたけど、これが好きだからなんでも聞いてくれ、とは到底言えないや。そんなんでも思わぬとこで役に立つんだからまあ、人生ってやつは」

「おー、ですねぇ」

 

 しみじみといったふうに首を振るお袋に、緩慢な同意を重ねる佐倉先生。どうしても上澄みだけの戯れに思えて、おれは本格的にこの場所から逃げ出したくなってきた。トイレに行く振りをして、出てくるときには別人になっているなんてどうだろう。茶色のコートに靴底の厚いローファーを履いて。あの重苦しいドアを開けたら、さぁどこを目指そう。アイスクリームパーラーなんてどうだ。とっておきのサングラスで・・・・・・。何気に義姉はああいう曲が好みかもしれない。もちろん根拠なんかない。

 飲みやすい程度に温くなってきた珈琲を啜る。

 

「おい、退屈ですって顔やめい」

「別にそんなことは」

「あっ、あ、ごめんなさい! 本題に入らないと、ですね。ええ・・・・・・」

 

 隠しきれない徒然とお袋の一言に急かされた佐倉先生は慌てて言葉を紡いだ。

 本題。それがどういったものなのかはやはり想像がつかないが、この場を設けたのは佐倉先生の方なのかもしれない。しかしながら彼女が次に出すべき話題を言い淀んでいるように見えるのはおれの勘違いではないはずだ。

 先程まで咲いていた柔和な微笑は鳴りを潜め、僅かばかりの緊張が小さな顔面を強張らせている。佐倉先生はマグカップを包む手のひらに躊躇いの類を匂わせて微かに揺れた水面に俯いていた。それから何度か深めに息を吸う。やっと面を上げると彼女は呆気に取られているお袋と数瞬眼を合わせてから、隣の椅子に置いた小柄な鞄からコンドームのパッケージほどの小袋を取り出した。

 一拍おいて深呼吸。

 

「今日お呼びさせていただいたのは、実はこれをお渡ししたかったからです」

「はい?」

 

 小袋をテーブルの天板に擦り付けて、茶色い封筒紙の表面を摩耗させながらお袋に向かって差し出す。それをお袋は気の抜けた声を出して受け取った。手に取ったそれの封を上にしながらお袋が「開けていい?」と聞く前から、佐倉先生は首を縦に振っていた。彼女の放つ真剣な眼付きが張り詰めた空気を店内に徐々に張り巡らせている。そんな錯覚を覚えた。

 お袋は若干気圧されつつ封を切る。自然とおれの視線もお袋の手元に引き寄せられた。一体何が出てくるんだ。たった五センチ四方の封筒に収まるもので、若き高校教師をそこまで萎縮させるなにか。

 トラテープに群がる野次馬根性で見届けるおれの視線の先で、お袋の指が袋の中身を摘み取り、心なし慎重に引き抜く。

 中身は───ヘアピンのようだった。

 百円均一で大量に売っているような普遍的なキャッチ部分に、色褪せてところどころ表面の剥がれたモチーフはデフォルメされた黒猫のシルエットに見える。特別珍しそうにも見えない、ただの飾り気のないヘアピン。ダイヤ片でも出てくるんじゃないかと期待していたおれは、意味もなく落胆した気分になる。

 果たしてこれをお袋に渡した意味は。そう思ってお袋の顔色を伺ったおれは硬直する。

 あからさまな動揺が顔の筋肉の上で踊っていた。四十路過ぎの、厚化粧でなんとか誤魔化しが効いているけれど、熟れではない老いをひしひしと認知し始めている、多くのシミが潜む顔が歪な形で静止していた。おれはそれをまるで、銃後に居たはずの人間が上陸してきた敵国の兵士を目の当たりにしたときの面持ちだと思った。幾重にも渡るプロパガンダと偏向報道と、ささやかな逃避で覆い隠してきた現実が姿を顕せば、人はああいう反応をする。鏡の前に立って、殴られた跡を撫でるおれがそうだった。

 室温が一気に下がる。

 

「大学を出て、巡ヶ丘で一人暮らしを始めるための荷物整理をしていたときに・・・・・・出てきたんです。本当は、もっと早くにお渡しできれば良かったんですが、その・・・・・・どう連絡しようかと思っているうちに、ズルズルとなってしまって・・・・・・」

 

 佐倉先生の人相に宿る明朗快活さが端から搔き消えていた。ぼそぼそと消え入りそうな声音で語った佐倉先生は、罪悪感に苛まれたのか途中から口籠って声を途切れさせる。目を伏せて、禁忌に触れて罰を受けるのを待つ子供じみた態度で。

 

「ああ、いや、うん。そっか・・・・・・」

「すみません」

「とんでもないな」

 

 ヘアピンを握り締めて笑う。初めてお袋の笑顔が下手くそだと思った瞬間だった。

 

「ありがとう。・・・・・・でも、ずっと持ってくれてても良かったのに」

「・・・・・・それは」

「ごめん。冗談」

 

 今度はお袋が謝る番だった。佐倉先生は終始なにか言いたげにしているけど、さっきまでとは逆にお袋がチラつかせる淀んだ哀しみが口に出すのを妨げていた。それから立ち上がっていた背筋の力を抜いて、やるせなさを含ませて黙り込んでしまった。

 待てよ、おい。内心で吐き出した一言をすぐにでも現実で空気の振動にしたかった。

 おれにはさっぱりわけが分からない。なんだかわからないうちに呼び出されて、喫茶店に連れてこられて、ほとんど喋ったこともない高校の先生に馴れ馴れしい知り合い面で話しかけられて。あげく、まるで()()()()()()()()()()()()()()()、そいつを当然のように悼んでいるような場面で、一人蚊帳の外だぞ。腹が立つというか、不条理じゃないか。

 

「なぁ、それ、誰のなんだ?」

 

 意を決して聞いてみる───刹那。

 佐倉先生が信じられないものを視界に入れたように目を見開いてこちらを見ていて。反対におれが驚かされることになった。かくも理解不能。彼女の瞳に写ったおれは、店の照明が反射していて容姿を判別できない。彼女の脳が認識しているおれの虚像を、全くもって象ることができない。

 おれは焦った。とんでもないことを口走ったんじゃないかと顎の動きを思い返してみても、そこにはありきたりな疑問しか詰まっていない。おれが知らない過去を問うてみただけのこと。憤りも、呆れも、哀れみも引き起こすに能う要素など微塵も含まない。それなのに、なんだこの凍りつきそうな不安は。

 助けを求めてお袋を振り返る。でも、おれの望むものはそこには存在し得なかった。

 瞳孔は、深淵だった。じわじわと入り口を広げていく。お袋は一切の感情が隠された暗い眼差しでおれの輪郭をなぞった。怖じ気に当てられそうだった。実の母親の一瞥で。お袋は諦観か、軽蔑みたいな色を仄めかせて唇を引き伸ばした。厚化粧の奥が得体の知れない非実在に作り変えられていく。

 デジャヴュが奔った。まただ。おれの知らない。おれの知ってる貌。

 

「うーん、あたしの、だよ。ずっと昔に持ってた、思い出のヘアピンだ」

 

 嘘だ。おれは口を噤んだ。

 口を噤んで、温い珈琲に手を付けた。酸っぱくなってきた珈琲は、喉の色々なところに引っかかって流れていった。耳元が静かだ。だれもなにも喋らない。Earth,Wind&FireのBGMだけが淡々と響いている。

 

「そ、うか。知らなかったな」

 

 

 

 

 

 

 




こっから不定期更新になります。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

With or Without

 どんつっつー。どんつっつー。

 

 ぼくは陽陽とリズムを口ずさみながら朝霜を踏み鳴らした。ニット帽の耳当てから垂れ下がる毛鞠がぼんぼんと頬を叩く。

 

 どんつっつー。どんつっつー。

 

 母さんが織ってくれた毛糸の手袋がすっぽ抜けんばかりに腕を振って、無邪気に白銀の朝焼けの中を駆け回る。耳を切る冷気が痛い。でも、それ以上に薄っすらと汗ばむくらいはしゃいでいたい。

 

 どんつっつー。どんつっつー。

 

 はやくはやく。

 ぼくは誰かの手を引く。荒い息遣い、その狭間に楽しげな笑い声。ぼくも素直に口角を上げて、ズボンの裾を濡らしながら跳ねて回る。眠気や疲れを忘れてただ自由を謳歌する。

 

 どんつっつー。どんつっつー。

 

 あっ、と後ろから悲鳴がして、誰かの足ともつれる。

 グシャっとダイヴ。

 ぎゅっと瞑った目を開けると、開けた空に透明なヴェールがはためいていた。冬の、どこか造り物みたいに現実感のない空の青みが、遠い向こう側からぼくを見下ろしていた。

 一瞬ぼくは呆気に取られて、それからお腹がはちきれんばかりの大笑いを斑模様の曇り空にぶちまけた。つられておんなじような声がもう一つ重なる。

 

 どんつっつー、どんつっつー。

 

 ふいに降りかかる体温。視界の端に垂れ下がる長い髪がかじかんだ鼻先を弄んでいた。くすぐったくてぼくは身動ぎする。

 光が揺らめいて、影が一つになる。

 

【寒くないの?】

 

 ぼくの目の前にねえさんの顔があった。

 

 どんつっつー、どんつ。

 

 どうして? とぼくは聞いた。

 

【独りだから、よ】

 

 ねえさんがぼくの頬をつつく。きれいな細い指先が乾いた肌にひずみを作った。

 

【ここには誰もいないわ】

 

 ねえさんが言う。ぼくはお腹の上に被さっていたぬくもりが消え去っていることに気がついた。

 途端に途方もない寂寥感が襲いかかってきた。

 そこにあったもの。なかったもの。降り積もっていく処女雪の下から手を伸ばしては霧となってフェードしていく。ぼくはそれを無力に眺めている。

 

 じゃかじゃかじゃんじゃっちゃっちゃー、ちゃらちゃらちゃんじゃっじゃっじゃー。

 

 だれ、とぼくは聞いた。

 彼女はここにはいない。いてはいけないものなのだから。

 

【さぁ? でも】

 

 ねえさんがぼくの手をとる。慈しむように優しく、両手でそっと包み込んで。

 

【ねえさんと呼ぶのはあなただけ】

 

 ぼくは冷たい眼に見惚れた。

 

【『ねえさん』は、わたしだけ】

 

 超常的な雪解け。

 ぼくは溺れていく。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 瞼を上げる。おれはそのまま数回瞬きを繰り返して、血の気の引いた手のひらで顔を覆った。指と指の間から覗く世界はひび割れているが、寝起きの前頭葉は全て一つに繋がっているのだと確信している。そうやって、おれは自身が夢から目覚めていることを確かめた。

 ガキの頃から口呼吸する癖が抜けなくて、朝起きると高確率で口腔内がカピカピになっていて喉が痛い。おれは冷え固まった唾を飲み込んで額にやっていた手を当てずっぽうに振り下ろす。狙いは外れず、手探りで液晶の適当な場所を叩くと響いていたサウンドが鳴り止んだ。

 公園へあと少し。冬から変えていない今の目覚まし。そろそろ別の曲にしようかと思っているけれど、妥当なものが見つからない。あんまり煩い曲にするのは躊躇われる。寝覚めはいいのだが、目覚ましを設定した時刻の数時間前から何度も目が覚めるようになってしまって苛々するのだ。実際、しばらくはFrantic(メタリカ)のイントロを聴きたくなくなった。

 それはそれとして、ベッドから上体を起こして二度寝への欲求を断つ。春は曙というやつ───とはいえ、自室の嵌め込み式の小窓から射し込む朝日など程度の知れたもので、寝ぼけ眼で四季折々の機微に感じ入ったりすることはない───誘惑を振り切って褥の魔性から逃げ出した。

 くしゃくしゃに打ち捨てられた夏季制服(丸めて捨てたティッシュみたいだ)を身に纏い、ズボンを上げてベルトを締める。ここまででとりあえず起床後に部屋で行うルーティンを終えて、おれは他の部屋に比べて軽々しいドアを開けて下の階へ降りていく。

 廊下から居間に出る途中で洗面台の前に立ち、誰かが使った形跡のある蛇口を捻った。厚さが不揃いなフェットチーネみたいな蛇口から冷たい水が流れ出す。水道局が栓を閉めない限り、それが不変の法則。聞く人が聞けば怒りそうな浅慮だけど、インフラとライフラインが当たり前に調えられた日常に浸かりきったおれたちにとってはそれが常識なのだ。

 両手を差し出して透明な帯の中に突っ込む。生命の水。どこからともなく顕れて、おれの手から溢れ落ちていく水。おれはすくい上げたそれを顔面目掛けて叩きつけた。流水。体表の神経と体温に混ざり合って判らなくなる。どこまでがおれで、どこからが水なのか。土気色の腕を滴って排水口に流れ込んでいった。

 咄嗟にリフレインが咲う。

 昨日もそんな夢を視ていた気がする。水、気泡、息苦しさ、紺碧の光芒。そして義姉(あね)。どちらも溺れる夢でしょう、って。なにげなく思い浮かんだ言葉に鳥肌が立つ。気色が悪い。

 おれは剃刀を手に取った。クリームは付けない。義父が持ち帰ってきたビジネスホテルのアメニティだ。プラスチックの間からちっぽけなギザ刃が不安げに覗いている。よもや皮膚を削ぎ落とすことなど能わない。義姉のとは違って。

 一度だけ見たことがある。濡れ羽色に艶めく前髪をかきあげて、胸の前で抑えたバスタオル、その人差し指と中指に挟んだそれを。浅い下心もなければ、近頃交わすピロートークのような安易な気安さもない、全くの不意の遭遇で得た数カットの記憶。彼女の持つ剃刀はつまらない冗談なんか許容しない鋭さと静謐を兼ね備えていて、おれはあまりにも妖艶な佇まいに目を逸らしてしまったほどだ。

 アンバーに混じる鮮血──────蛇腹の傷は渦を巻いて下水に還る残り湯の中で目覚めた。その様子を彼女は虚無を映した瞳で愛でている。たわわな唇を薄く曲げて。

 イカれてる、と思った。おれも彼女も。なにも特別じゃないけど、凡庸なりのイカれ方をしている。理解できるからこそ触れ得ない領域に手を染める。世界のどこにでもいる人種。いわゆるクラスに一人はいるやつ。だからこそ嫌になる。

 皺だらけのイカ臭いティッシュに身を包んで、これが正装なのだと言い訳しておれは家を出た。

 朝飯を食い終えたとき、お袋がいやに優しい眼をしていて、おれは足早に居間を後にした。義姉の剃刀に触れたかった。

 

 結局昨日一日留まり続けた雨足のせいで、アスファルトが緑色に濡れていた。並木道を埋める桜の落ち葉を轍が踏むたびハンドルの感覚が曖昧になる。まるで死人の上を走っているような感覚だった。おれは腐った皮膚にタイヤを持っていかれないよう気をつけてペダルを漕ぐ。

 高校は家からそう遠くなく、かといって近いともいえない距離にあって、おれは毎日煤けた色の自転車に跨って校門を目指す。この愛車は最近のシティサイクルと比べて少し重いものの、安定性に富んだ乗り心地は悪くなく、朝霧が冗談で付けたシルバー号という名前も気に入っている。元ネタはシャーロック・ホームズ(白銀号事件)の方じゃなくて、スティーヴン・キングのItから取ったものだ。

 安直なネーミングセンスから察する通り、朝霧はヤンキーじみた柄に似合わずホラー映画が好きだった。あいつはオタクくせぇから、と言っておれ以外の前では公言しようとしなかったけれど、やつの映画評の豊富さは高校生にしては行き過ぎていて、おれは朝霧のことを影でホラーフリークと呼んでいた。実際そう呼ぶとやつは肘で脇腹を小突いてきたのだが、その実満更でもなさそうな笑みを浮かべていたのをおれは覚えている。

 教室や、柏木たち───おれをボコボコにしたやつら───とつるんでいるときは話題は無差別だったが、二人きりになると大抵その話をした。

 基本的に、関心を向ける映画自体にはこだわりがなかった。ショッピング・モールの広告欄とか、映画館の前を通りかかったりすると、ケースの中のポスターを指差しては「やっぱあの俳優はイカしてる」とか、「あの女優はモデルあがりだけどなかなか悪くない」とか、「このシリーズは新作が発表されるたびにファンに自殺者を出してる」とか、適当なことを言い合った。そうこうしているうちにあいつは「近頃の邦画はダメだな」と宣い、二言目には決まって「キューブリックが一番だ」

 朝霧はホラーマニアだったが、映画全体のカテゴリではスタンリー・キューブリック作品を崇拝していた節がある。完全主義者と呼ばれた彼がフィルムに刻んだ風刺、狂気、非人間性。それらの奥の奥に、鈍感なおれでは見い出せないなにかを探り当てたあいつは、キューブリックの作風に情緒的な憧憬を抱いていた。

 おれがシャイニングとフルメタル・ジャケットしか観たことがないと言うと、朝霧は熱烈に時計じかけのオレンジを推した。それはもう、気炎を吹き上げる勢いだった。

 

「オレ、結構映画を観てきたけど、アレを超える一作にはまだ出逢ってない。もうアレ以上の名作には一生出逢えないかもしれねぇ。それぐらい、なんつーか、とにかく、観ろ」

 

 本気で真剣にものを語る朝霧の顔を拝んだのは、そのときが初めてだったかもしれない。

 おれが知る朝霧は、素行に違わず軽薄で、口が悪く、配慮が足りず、頭もそんなに良くない、へらへらした粗暴さの方が前に来る問題児気味の男だったのに。お気に入りの魅力を雄弁する瞬間のあいつは、人間性の芯がピンと屹立しているように見えた。限りなく素顔に近い朝霧新斗がそこに居て、おれは立ち会うことをやつに許されていた。

 だからだろう。だれかに勧められた映画をだれとでもなく観てみようと思ったのも、それが初めてだった。あからさまに語彙力が足りない、どれだけ無様な弁舌であっても、おれの心は確かに突き動かされたのだ。あいつの言葉で、あいつの眼で。

 それなのに、あいつは感想を聞かずに行ってしまったな。

 レンタルショップに立ち寄った晩、おれはスタッフロールを観終えて、真っ先にスマホを手に取った。そして液晶から漏れ出るブルーライトを浴びながら必死に考えた。なんて伝えればいいのだろう。この名状しがたい物語にどんな文言をぶつければいいのだろう。いいたいことはあるのだけれど、適切な単語が思い浮かばないジレンマ。それでもおれは無性に朝霧に感想を伝えたくて、拙い手付きでフリック入力を繰り返した。そうしてやっとの思いで解き放ったSMSは、未だ返信がない。

 朝霧の席が教室から消えたのはその翌日のことだった。虫の報せなどあるはずもなく、大多数の人が預かり知らぬうちにやつはひっそりと陰に呑み込まれていた。さらに一日経てばしめやかに噂は広まって。耳を澄ますまでもなくいたるところで囁かれていた。年下の女の子を妊娠させて夜逃げした、と。

 不自然に欠けた学習机の行列を視界に入れたクラスメイトたちの、蔑みと嘲りをないまぜにした生温い瞳が脳裏に焼き付いて離れない。彼らには怒りも失望も湧かないが、怯えだけは感じる。あれはおれの姿だ。普段何気なく生きて、知らない間におれもああいうふうな眼をしているのだと考えると、胸の奥を無数の針で突かれるような感覚に苛まれた。

 でも今ならその点は安心していいと思う。登校するとあの瞳を向けられているのはおれの机だ。

 歩道に突き出た桜の木の枝を身を屈めて避けつつ、頭を上げた勢いで天を見上げた。しとどに降り注いだ反動か、快晴の青空には雲一つなかった。梅雨入りもしていないというのにからりと冴え渡るグラデーションに猛暑の片鱗を視る。今年の夏もきっと暑いだろう。日陰者の角膜に鮮やかなプリズムが容赦なく突き刺さる。

 埃くさいガレージを出て十分もすれば、駅前のロータリーを臨む十字路に差し掛かった。ここまで来れば家の周りではまばらだった人通りも増えてきて、同じ高校の制服を着た生徒の姿も少なくなくない。他にも、サラリーマンに大学生、学ランの中学生からランドセルを背負った児童、ママチャリの前後に幼児を据えた主婦。ありきたりすぎて現実味を感じないほどの光景がおれの目の前に瀰漫する。毎朝本当の意味での意識の覚醒は、いつもここから始まるのだ。

 巡ヶ丘駅は外界と寝ぼけた頭との接続点であるとともに、私立巡ヶ丘高等学校との距離が至近になりつつあることの指標でもある。通行人と信号の多さにペダルを緩めなければならないが、あと五分と少しもあれば校門に辿り着ける。おれは左腕に巻いたアナログの盤面を盗み見た。今朝は不必要に早く家を出たぶん、平時よりも余裕を持って呼鈴を聞くことができそうだった。

 車道の向かいにコンビニで待ち合わせをする同級生、信号待ちの最中そいつに手を振るその友人らしき後ろ姿に、なんとなくこの駅前の歩道を歩く人々の面々に見知った目鼻立ちが───朝霧がいるんじゃないかと見渡してしまう。されど、校章入りの半袖を纏った群れにはもちろん、私服や仕事着の一団にも当然探している気配はなくて、おれはおれを嗤う。

 いい加減、理解したほうがいい。朝霧と己の関係は、たぶん今おれが思っているよりも浅かった。お互いに都合のいい虚像を押し付けあっていただけだって───柏木たちとなにも変わりやしないということを。

 友達アピール。

 突き立てられた刃には鋭い返しと鱶の歯にも似た鋸が潜み、それらは癇癪が柏木の頬を殴りつけるのに合わせて心の表面をぐずぐずに切り裂いていった。それだけでは飽き足らず、刃先に塗られていた遅効性の毒が、じわじわと中枢神経に効いてくる感覚が、足を行き場のない陰鬱に運んでいく。鈍さと鋭さが螺旋状の痛みを繰り返し出力する一方で、おれは泡立った傷口に憐憫を注ぎ、卓抜した芳醇に酔う。

 孤独は甘いものだと、彼女は教えてくれた。おれは彼女の吐き出す世迷言の全てを鵜呑みにするわけではないが、彼女の持つ剃刀に写る歪んだ実像から眼を背けることはできなかった。刀身の煌めきは虚言を伴わない代わりに、おれ自身を一方的に喋らせる。これまで有耶無耶にしてきた、或いは思ってもみなかった感情を植え付けては、溢れ出した痛みを啜る。彼女自身が剃刀みたいな女なんだ。

 責任転嫁というなら、自らの繊細さを呪うことだ。救いようのない惰弱を忘れるには魔性に魅入られる外に術はない。

 溺れろ。

 そしてそのまま死んでしまえばいい。

 唐突な自殺願望に囚われるのは珍しいことじゃない。おれは左折してくる車両に轢き殺される妄想をしながら青色信号の横断歩道に躍り出ようとした。

 そのとき、遠くでだれかの名前を呼ぶ声がした気がした。

 ひどく不明瞭な幻聴が。

 低く影が、残像になって視神経を迸った。

 おいおい、まるで死神の鎌の一閃だ。

 おれは処理能力のキャパシティを超過して頼りにならない視界に見切りを付けて脊髄反射に運命を委ねた。考えたってしょうがない。呆然と硬直する意識を置き去りにした躰が咄嗟にハンドルを切り、フルブレーキを掛けながら靴の裏で地面を削る。

 景色がマーブルに引き伸ばされる。三半規管が正常な電気信号でシナプス染め上げて、おれは傾斜していく世界がバグに侵されているわけではないと認知する。

 おれは盛大につんのめって、シルバー号を引き倒して、挙げ句手のひらを地面にひきずって──────やっと、状況を理解した。

 脇の下でまん丸い眼を見開いている少女。彼女は焦点が合わない瞳孔を凄まじい速度で這わせてようやく、おれと見つめ合う。そう不安げにしなくていい。おんなじだ。おれもそうだから。コンマいくらか頭の回転が速かっただけだ。まだ、声は出ないけど。

 そうして須臾の間、世界が止まっていた。

 ほんの数瞬だけ。目撃者たちはシュレディンガーの猫を追う。いるはずのないねこを幻視する。黒ずんだタイヤ痕を拉げた頭部にペイントしたネコの幻を、皆一様に。

 それって、なんだか可笑しくて、愉快だ。と、おれは笑ってしまう。

 それからギアは律動を取り戻し始めた。バラバラに弾けた世界がもとの形に戻っていく。おれは手を戻して尻餅をついた。

 群衆のざわめきに混じって「るーちゃんっ」という声が段々近付いてくる。さっきおれが錯覚だと思ったのはこの呼び声だったんだろう。母親が静止を無視して飛び出していった子供を心配して呼び止めようとしていた・・・・・・と考えていたものの、曲がり角の向こうから現れたのは巡ヶ丘高校の制服を着た女生徒で、おれは少し意外に思う。

 少女の姉らしき先輩(紅いリボンは三年生だ、ったと思う)は茶髪のロングヘアが張り付いた血相を青褪めさせて座り込んだままの少女に駆け寄った。手には黄色い制帽が握り締められていて、つばが白くなった指先に推し潰されている。

 おれは立ち上がって寝転がったシルバー号を起たせた。信号待ちだった親切なサラリーマンが手を貸してくれて、すんません、と会釈して応えると、彼はおれの手のひらを凝視していた。少女を避けた表紙に礫に擦られたみたいで、赤黒い血が流れ出ていた。確かに、ちょっと痛いと思った。

 

「あのっ」女生徒がおれを見上げていた。豊満な胸の中に囚えられた少女も。

 

「本当にごめんなさい、急に飛び出してしまって・・・・・・」

「ああ、いや、こちらこそ不注意でしたので」

 

 おれは拳を軽く握って傷口の具合を見定めつつ、別におれに非はないよなあ、なんて自分でも疑問を抱きながら思ってもいない言葉を口にした。割とスピードは下げていたし、そもそも少女が突っ走って行こうとした先は赤信号だったのだから。

 今しがた背後を通り過ぎていった大型トラックを眼の端に捉えて、こんな小柄な子があのバンパーにぶつかっていればどうなっていたか、想像してしまう。肋骨は粉微塵、細腕や脚はあらぬ方向を向き、胴は破裂して捻れているやもしれない。可愛らしい顔立ちには、もはや面影だって残っていないだろう。

 それでも、親父よりはマシだ。親父はマックの一番安いハンバーガーのパティくらいの大きさにまでスライスされて、線路の七メートル先にまで飛び散っていたというから。だからあの駅のホームのどこかには、探せばまだ親父がこびりついているかもしれないのだ。

 ああ、なんだ親父、そんなところにいたのか。

 

「あの、怪我は・・・・・・?」

 

 おれと似たような幻想を描いていたのか、先程よりもむしろ血の気を引かせて真っ白になっている姉が聞いてきた。

 

「いや、べつに大丈夫です」

「え? でも」彼女の視線の先には皺の間を伝って溢れた血の跡があった。おれは気づかないふりをして「その子は大丈夫でしたか、膝擦ったりとか」

「は、はい!」

 

 おれが少女の容態を覗きこもうとすると、姉が少女にこちらを向かせ、肩に手を置いて囁く。なにをさせようとするのか察しがつかないほど、おれは鈍くない。でもおれは、できれば見えないところでやって欲しいと思った。見当違いな話だろうけど、人間性が確立しない年齢の子供になにをされようと、正直本心がそこにあるように感じられない。

 謝罪というのは、基本的にする者の為にある儀礼だとおれは思っている。少女の為にもおれは彼女の弱々しい声音を聞き届け、それを許さねばならない。でも苦手なのだ、あの底なし沼のごとき模様のない瞳を向けられるのが。はっきり言おう、おれは子供嫌いだって。

 

「ぅ、その、ごめんなさい

「ああ、いいよ、気にしなくて」

 

 おれは吐き捨てるみたいな言い方になってしまったのを慌てて最大限柔らかく見えそうな表情で取り繕い、誤魔化した。たぶんこの少女はちゃんと内心で自省しているのだろうなと、上目遣いに眼を合わせたあと俯いた少女の素振りから解っても、一刻もここから去ってしまいたいという気持ちに変わりはなかった。親父の死に際に対する勝手なイメージがナイーヴにさせているのかもしれない。

 

「行きますね」

「え? あ、待って!」姉が立ち上がって呼び止めて来たけれど、おれは無視してシルバー号に跨り直した。「傷の手当てだけでもっ」

「急いでたので」

 

 失礼します、とはペダルを漕ぎ出してから放った言葉だ。

 おれは自身でも釈然としないものを胸のうちに感じたが、徐々に色を失っていく相貌を見られたくはなかった。お天道様の下で晒してはならない澱みが躰中の穴から漏れてきてしまいそうな予感がおれを疾走へと駆り立てた。

 このままどこに自転車を走らせればいいのか、迷った。もとより学校という選択肢の他にはないが、さすればあの女生徒と出くわす恐れがある。それのなにがいけないのか分かりやしないけど。心の片隅に気まずさを生み出す理由が息を潜めているのは確かだった。

 ハンドルは通学路に沿って左右する。おれはグリップのゴムが汚れた傷口を弄ぶたびにこれでいいのかと不安に見舞われる。

 ああ、独りになりたいな。

 白塗りの壁に焼き付いた影の中に、義姉の影を感じ取った。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。