SEVEN's CODE二次創作夢小説【オレンジの片割れ】第一部 (大野 紫咲)
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第一章
1-1 発端


平和だったセブンスコードに突如頻発する、原因不明の暴動事件の数々。
ユイトはSOATで、イサクとリアを伴って作戦会議を行う。


「今月に入ってもう114件目か……どうなってる……?」

 

 通報のあった箇所を記した、セブンスコード全域を示すマップを薄暗い会議室で眺め、ユイト――橿原(カシハラ)唯人(ユイト)は困惑していた。

 不老不死の存在・アウロラの解析と繁殖を目的として、とある人物が仮想空間であるセブンスコードを〝捕縛〟状態に置き、ログイン中の大勢のユーザーを巻き込んだ、12ヶ月間のマインドジャック事件から、はや数ヶ月。

 このセブンスコードの基盤そのものでもあった少女・アウロラに代わって、彼女の肉体と記憶を「コード」として受け継ぐことになったユイトは、新しいセブンスコードの創設者――大仰な言い方をすれば「神様」として、常時は人前に姿を現わすことなく、このSOATの最上部で部隊の指揮や街の運営に携わっていた。

 

「いやぁ……ついこの間まで、暇すぎるくらい平和だと思ったんだけどなー。

だいたいが、市民の小競り合いとかそういう感じの奴で、行っても大したことはねーんだけどさ。

にしてもこの頻度、どうなっちゃってんの」

「イサク、お前達の方でも何か新しい情報は掴めていないんだったな」

「まぁねぇ……オレたちが鎮圧に行くと、大概はみんな憑き物が落ちたみてーに大人しくなるしさ。

聴取したヤツらも、よく覚えてねーんだとか、訳の分からないことを言いやがるし」

 

 ユイトの同僚でもあり、相棒でもあるイサク――青柳(アオヤギ)一朔(イサク)が、その特徴的な髪型の頭を、入れ墨の入った腕で困り果てたようにぽりぽりかいている。

 会議に参加していたもう一人の女性も、いつもはひだまりのように穏やかな微笑みを浮かべている顔を、困惑の色に染めていた。

 

「街には量産型の植能を所持している方も多くいますし、傷害事件に発展する事例もあるみたいで……いずれにしろ、早めに対処しなくては、危険です」

「今、榊が植能の所持申請制度を整備してるんだっけか?」

「はい。SOATの隊員にしか植能の所持が認められていないことが、人々の不満に繋がるのならば、制限つきで一般人も正式に所持出来るようになればいいのではないかと、橿原さんが仰って」

 

 イサクに呼び掛けられ、健気にうなずいたその女性――(サカキ)莉亜(リア)は、ユイトと同じく捕縛中のセブンスコードを解放するために大きな貢献をもたらした人員の一人だ。今はその関係もあって、SOATの隊員も兼任しながらユイトの右腕的役割を担っている。

 あまりに働き者で、ユイトもイサクも時々心配になるぐらいだが、本人は「こう見えてタフなのが取り柄なので」と昼夜問わず動き回っていた。

 ユイトが、リアを前に小さく眉根を寄せる。

 

「いや、しかし……これだけの数の事件が起きると、リアも新制度の設立以前に、諸々の対処が大変だろ? やはり、少し落ち着くまで、植能所持の件に関してはSOAT隊員のみに制限を掛けた方が」

「いえっ! やらせてくださいっ! 一度宣言したことを撤回してしまうと、SOATの信用問題にも関わります。それに雑事に関しては、仕事をよく分かってらっしゃる片桐(カタギリ)隊長も手伝ってくださいますし……楠瀬(クスノセ)さん達も、SOATに戻って来てくださったので。私の負担は、減っているんですよ」

「そうか……?」

「橿原さんの、作り上げた街ですから。みなさんの居場所を守るためにも、私がお手伝いできることはやりたいんです」

 

 ひたむきな瞳を見ながら、ユイトの目が驚いたように微かに見開かれた。

 

「リア、そこまで、セブンスコードのことを……。わかった。だが、無理はしないでくれ。お前が皆のことをそう思うのと同じように、ボクにとってもリアは、大切な仲間だ」

「ひゃ、ひゃいっ! そんな、ご心配いただいて、ありがとうございますっ……!」

 

 若干赤くなって、慌てたように制服のマントをぱたぱたさせるリアを見ながら、イサクがからかい気味に声を上げる。

 

「お~お~、相変わらずお熱いねぇ、ご両人。ここにオレが居る事忘れてない?」

「青柳さんっ! こっ、これは、そんなんでは……っ!」

「イサク、彼女が困っているだろ。ボクはただ純粋に、彼女を心配して声を掛けただけだ」

「なんでだよ! お前らが真面目すぎてなんっにも進展しねーから、オレが気ぃ遣ってやってんですけど!?」

 

 一時の緊張から解放され、会議室が和やかな雰囲気に包まれたその時。

 バタバタと慌ただしい足音がして、部屋の扉が開く。SOATの制服がぶかぶかに見えるほど、華奢で小柄な――と言っても、身長180cm近いユイトと比べて、という意味だが――人影が覗いた。

 

「カシハラ! E3地区でまた通報! 大通りの近くで、酔っ払いが倒れたまま動かなくなってるってさ!」

「ヨハネか……。ノックぐらいしろ。大事な会議中だったらどうするんだ」

「はぁ? あんたがリアちゃん達と3人で部屋貸し切ってるんだから、隊長のボクが乱入したところで何も問題ないでしょ」

「何も問題ないって、お前な……」

「ふ~ん? それとも何? ボクには聞かせられないような、いかがわしい会話でもしてたってワケ?」

「はぁ……隊長になっても、相変わらず憎まれ口の減らないヤツだな」

「あんたこそ、些末な事に囚われて、全ッ然問題の本質を見ようとしないよね」

「お前がいちいち揚げ足を取るからだろ!」

「あんたがくだらない挑発にいちいち反応してくるからでしょ!」

 

 険しい瞳で食ってかかりながら、エンドレスでユイトと言い争いを続けるのは、褐色肌とショートボブの中性的な女――ヨハネこと(クヌギ)夜翰(ヨハネ)だ。

 その見目麗しさに似合わない口の悪さを誇りながらも、仲間を思う強さと隠れた正義感は人一倍――のはずなのだが、何故かユイトとは、〝捕縛〟で知り合った当初からすこぶる折り合いが悪い。

 もはや名物となったそのやり取りを眺めていたリアが、苦笑して間に入った。

 

「ま、まあまあ……ヨハネさん、通報があったなら、すぐ隊員をそっちに派遣しないといけませんよね」

「リアちゃん! そ、そうだった。こんな事してる場合じゃない……」

「E3地区でしたら、近くの詰所に片桐隊長が今視察で行っているはずです。すぐに連絡して、向かってもらいましょう」

「わかった。念のため、ボクも向かうことにするよ」

「たかが酔っ払いの補導だろ? 一部隊に任せときゃ、わざわざ隊長のお前がこっから出向くことねぇんじゃねーの?」

 

 イサクがそう止めたが、既に会議室の扉を開けながら、ヨハネは軽く首を振る。

 

「状況がよくわからないんだけど、人数が多いみたいだし、最近の事件のこともあるからね。いくら害のなさそうな通報って言っても、油断はできない。何かちょっとでも原因の手がかりになりそうなことがあれば、ボクが調べてくる」

 

 そう言って、颯爽とマントを翻し去って行く後ろ姿を眺めながら、イサクがぽつりと呟いた。

 

「……なんだかんだ言って、あいつが一番、隊長としてアツい奴だと思うんだけどなぁ」

「ボクに突っ掛かるのさえやめてくれれば、いくらでも隊長としての職務に励んで欲しいんだが」

「なんだよ、なんだかんだ言って、お前も結構認めてるんじゃん?」

「一応は〝恩人〟だからな。とはいえ、横にいるだけで疲れるし癪に障る……」

 

 ものすごく嫌そうな口調でユイトが口にした「恩人」は、他でもないヨハネ本人に散々言わされたものだ。事実〝捕縛〟当時、ヨハネは共に困難を乗り越えた影の立役者とでも言うべき存在で、当然彼女の力なしでは今の自分がなかったこともユイトは自覚しているが、それと仲の良さとはまた別の問題である。

 

「まぁ、市井のことは、一時期賭場にも出入りしていたヨハネが一番詳しい……何か、ボクらでも見落としがちなことに気が付くかもしれない。

あいつの報告を待って、出来る限りの対策を取れるように、こっちも動こう」

 

 〝セブンスコードの神様〟とまで銘打たれるようになってしまったユイトは、かつて唯の「カシハラ ユイト」だった頃のようには、おいそれと動けない。

 不老不死の生命体――アウロラの肉体を、データ化してバーチャル空間の基盤としていることは、セブンスコード運営の中でも本当に限られた人員しか知らない、トップシークレットだ。

 そして、アウロラの全てのデータをその身に刻まれているユイトは、まさにこの街の実権と機能そのものと言っていい。

 マインドジャック事件を起こした張本人である、ニレ――アウロラの研究チームで助教を務めていた(ニレ)舞哉(マイヤ)のような人間が再び現れれば、真っ先に狙われる可能性があるユイトを、表舞台には出さずに守り続ける。

 それが、イサクやヨハネを始めとするユイトの仲間達が決めた、密やかなSOATの存在意義だった。

 真剣なユイトの顔から送られる信頼のまなざしを、リアとイサクは頷いたままで受け止めた。



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1-2 幽霊

通報を受けて、現場へ急行したヨハネ。
取り逃がした者達を追うが、彼らはヨハネが到着する前にノックアウトされていて……?


第2節

 

「うわぁ、阿鼻叫喚図……」

 

 現場に到着したボクが、思わず呟いてしまったのも無理はない。

 昼間から、そんなに大人数の酔っ払いがなんでいきなり出没したのかはわからないけど、とにかく聞いていた人数の想定よりはだいぶ多くの人達が、歩道を倒れたまま埋め尽くしていた。

 その大部分が、胆嚢(ゴールブラダー)の植能で真っ白く石化されたまま。

 

(……これ、巻き添えくらった無関係の人間まで混じってるんじゃないだろうね?)

 

 そうは思ったものの、十中八九そんな気しかしない。

 あの女隊長の武器って、ガドリングガンなんだよね。ボクのコルニアは幻覚を使って対象を錯乱できるから、狙いを定めて撃ってくる相手や武器には有効だけど、乱射されるとさすがのボクでも歯が立たない。

 ましてや、一般市民に向けてそんなもん使った日には、後から粛清だとか無差別の暴力だとか叩かれて、フォローが大変に決まってるのにさ。

 

「いくら強いって言ったって、考えものだよ」

 

 SOATの隊長たるもの、周りの手本にもなるつもりで、しっかりと職務を果たして欲しい。

 とも、なかなか大口叩いて言えないんだけどね。一応ボクより年上だし、所属期間もボクより長いしさ。それに……

 そこまで考えた時、屍とも思しき山の上にいた、金髪の女隊長――こと片桐(カタギリ)未蕾(ミライ)が、ボクに向けて振り返った。

 

「ああ、クヌギ……お前が来たのか?」

「ボクがって、他に誰が……ああ、なるほど? カシハラが来ると思ったわけ? あんたならとっくに知ってるだろ、あいつは今、そんなに簡単にはSOATを離れられない」

「わ、わかっている! わかっているが……ちょ、ちょっとくらい期待したっていいじゃない……ぐすっ、もう一週間ぐらい、ユイトに会ってないんだもん……」

 

 なんだこの乙女ちっくな顔は、と思いつつ、毎回泣かれそうになる度にボクは焦る。

 一度は退職したSOATにもう一度帰ってから、どうやらこれがこの隊長の素の顔らしいということはわかったけど、だからってカシハラで感傷的になる度に泣きそうになるのはやめて欲しい。

 ボクからすれば、あんな奴のどこがいいのか全くわからないけど? でも事実、今カシハラはリアちゃんといい感じなわけで、それもあって奴の元カノだったミライさんが情緒不安定なのは、そりゃ納得はするけどさ。だからって、職場に私情を持ち込んじゃダメでしょ。

 ボクらはこのセブンスコードで、正義と仲間を守るSOATなんだから。

 周りでは他の隊員たちが、石になった人達を慎重にがらがらと崩して、道から撤去している。加勢しながら、ボクは彼女に尋ねた。

 

「恋愛って、そんな我を失うほどいいもの?」

「いいかは分かんないけど、あなただっていつか恋すれば分かるわよぅ! この、胸がぎゅーっとなる苦しい感じ……」

「はぁ……別に、詰所から戻ったらいつでも会いに行けばいいでしょ……。それで、状況は?」

「す、すまん、私としたことが、取り乱して……一応、この通りにいた奴らはすべて鎮圧した。凶器を持っている者はいなかったが、どうも皆、自力で立っていることも出来ないほど活気がないというか……通行人にまで抱き着いたり這い寄ったりで、怪我人が出かねん勢いだったものでな。少々荒っぽい手段を取らせてもらった」

「ま、この広範囲を手っ取り早く黙らせるには、あんたのゴールブラダーが確かに適任かもね。原因はなんだったの? ただの酒にしちゃ、あまりにも大人数だし同時多発的だけど」

「今調査しているが、ざっと聞き込んでみた限り、どうやらこの近辺で、我々SOATに対するデモを計画する集会が行われていたようだ。そこで提供されていた酒類が、原因としては考えられるな」

「デモ……」

 

 正義を全うするには、代償がいる。

 というか、正直ボクは、今でも迷ってる。

 半官半民で運営してきたセブンスコードは、裏のトップがカシハラに変わってからというもの、クロカゲを政府直営のカジノに改修したり、一般人の植能保持制度を新設したりと、今までにない改革を進めてきた。

 ただ、それはまだ始まったばかりの道半ばで、それを良くは思わない人も、もしくはボク達のことを誤解したままの人も沢山いる。

 

『治安維持部隊を謳っておきながら、ニレによるマインドジャック事件を止められなかった、無能な集団』

『闇の世界も同然のクロカゲと、裏金やコネで繋がっていた不透明な組織など、たとえ運営だとしても信用できない』

 

 そんな声は、新生セブンスコードの設立当時から、山ほど耳にした。

 それでもボクがここに残ったのは、カシハラやみんなが、どれほど街の人のために本気なのかを、わかって欲しかったからで。

 そう思う一方で、こうやって治安維持に乗り出すのは、ボクみたいな――リアルの世界にも、SOATみたいなまっとうな組織にも居場所がなかったボクみたいな奴の行き場を、奪って踏み潰すことにも繋がるんじゃないかって、そんな気がしてしまう。

 結局ボクは、〝捕縛〟が解除されても、曖昧さに溺れて自分に迷うボクのまま――何にも成長なんか出来てないのかもしれない。

 黙り込んだボクを慰めるみたいに、ミライ隊長は――ボクも隊長だから隊長って付けて呼ぶ必要はないんだけど、「ミライさん」ってどうにも呼びづらいんだよね――肩を叩いて言った。

 

「お前の気持ちも分かるが、今は考え込んでいても仕方がない。それより、さっき部下から気になる報告が入って来た。取り逃がした奴のうち、数名が裏路地に逃げ込んでいったと、近隣を歩いていた民間人から通報が入ったそうだ」

 

 その情報に、ボクは頭の考え事を一旦置いて、気を引き締めた。

 切り替えって大事だよね。まずは、目の前の仕事だ。優先するべきことを優先しないと。

 

「場所は、ここの道? ボクが見て来る」

「頼めるか。私は、ここが落ち着いたら引き続き集会場だった店へ調査活動に行ってくる。そんなに人数は多くないだろうし、あの様子からして植能で暴れても民間人に危害は出ないと思うが、くれぐれも気を付けろよ」

「わかってる」

 

 手短に引継ぎを終えて、ボクは隊の数名を連れながら指定のポイントへ向かった。

 賭場も含めて、セブンスコード内の治安はだいぶ良くなったはずだけど、表通りから少し裏に入った場所には、やはりゴミであったり落書きだったり、外からは見えない無秩序が顔を覗かせる。

 裏といっても、普通にマンションやアパートはある通りで、人の出入りはある。もし誰かに危害を加えているようなら、植能を使っての闘いもやむを得ない。

 そう思って隊員に緊張感を促したけど、ボクの予想に反して、道にいた数名の酔っ払いは力尽きて道路に倒れているだけのようだった。

 

(なんだ……拘束するだけで済みそうだな)

 

 あんまり戦闘がなくても、体がなまってしまいそうだけど。

 そう思って確保に乗り出した時、傍を歩いていた通行人が声を掛けて来た。

 

「やぁ、今日もお勤めご苦労さんだね。オレもさっき通報を入れた一人なんだ」

「あ……ありがとうございます。お怪我はありませんでしたか?」

「いやぁ、こっちは何も。あんたらも迅速な対応でいつも助かってるけど、今回ばかりは先客がいたなぁ。珍しいじゃないか、SOATの隊長さんが遅れを取るなんて」

「先客?」

 

 思わぬ言葉にそう問い返すと、その男性は笑って頷いた。

 

「家に帰る途中だったんだが、私と離れていた娘と妻が、その酔っ払いに絡まれそうになってね。慌てて戻ろうとしたんだが、その前に若い女の子が立ち塞がったんだ。

何やったか知らんが、へこへこしながらその酔っ払い、離れていってね。

私も家族も狐につままれたような気分だったんだが、その女の子も気が付いたら居なくなっちまってて。

けど、すごかったんだよ。私らに絡んでた酔っ払いだけじゃなくて、ふと眺めたら周りにいた奴らみんな、ばったり倒れてるじゃないか。偶然とは思えねぇ」

「その女……気になるな。どんな身なりでした?」

「さぁ、オレもちらっと見ただけだから、とんと印象にねぇけど……」

 

 そう言って、首を傾げられた。まぁ、咄嗟のことなら、覚えてなくても仕方ない。

 とりあえずその女、彼を酔っ払いから守ったんなら、悪い奴ではなさそうだけど。

 でも、セブンスコードの(アバター)には、植能でなければダメージは与えられない。もしかしたら、ミライ隊長のゴールブラダーのダメージを引き摺っていて、運よくこの場で力尽きただけなのかもしれないけど……。

 

(どういう理屈で、ここにいる数人の意識を飛ばしたのか……ちょっと警戒しておく必要はあるよね)

 

 ぱっと見た感じ、確保した人たちに、パンクリアスとかゴールブラダーで見られるような、植能による顕著なダメージの跡がないのも気になる。

 

「わかりました。ありがとうございます」

 

 そう言って、引き上げようとしたその時。何かを思い出したような声を出した男に、一瞬引き止められる。

 

「そういえば! その子、珍しい服を着てたよ。ここらじゃ、リアルの世界でもあんまり目にしないような……ああいうの確か、キモノっていうんだっけか? 私服にするような人は、あんまりいないよねぇ」

 

(着物姿の女……?)

 

 ホラーはあんまり得意じゃないんだけど、幽霊伝説みたいな話だ。

 原因のはっきりしない暴動事件の数々に、それをふらっと現れて解決する着物の女。

 

(……いや、別にビビッてなんかないから!)

 

 誰にともなく言い訳しながら、ボクは来る時より心なし早足になって、その路地を抜け出てしまった。



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1-3 厨房

夜間の賭場としての営業以外は、喫茶・クロカゲとしてその運営を続けるソウル。
そこに訪れた不思議な女客が、今や店の厨房を握っていた。

※喫茶・クロカゲの設定は完全なる公式外の捏造です←


第3節

 

 とんとん、と小気味いい包丁の音が響く。

 ここは、クロカゲの調理場。

 暖簾が掛かってリニューアルされたその場所を、店舗の従業員であるソウルが覗いた。

 

「ソウルくんおかえりー」

「あれ、姐さんもう来てたんだ」

「もうそろそろ晩御飯の支度しなきゃだし、先に今夜の店で出す分も作っちゃおうかなと思ってね」

 

 笑顔でソウルを振り返りながら出迎える、髪の長いリボン姿――ハーフアップにしているが、その下の姿は和装。袖をたすき掛けにした着物と袴の上に、エプロンを身に付けた女性が、まな板の上で茄子を刻んでいるところだ。

 

「ソウルくんは、オージさんのとこ?」

「うん。照明の手伝い。ウルカも、今日のステージは終わったから、着替えてこっちに帰って来るって」

「ハルツィナの子達は居なくなったけど、ウルカちゃん……っていうかコニちゃんは、今やWeiβ(ヴァイス)ちゃん達と並ぶ売れっ子アイドルだねぇ」

「だよなー。一応、帰り道付き添うって言ったんだけど、待たせたら開店準備が遅れるし悪いって聞かなくてさ、ウルカのやつ」

「付き添うって……別に、ヴァイスドームからここって、瞬間移動使えばそんなに離れてないでしょ。何かあった?」

 

 包丁の手を止めて問い掛けた、和服姿の女性――ムラサキに、ソウルこと榎本(エノモト)草流(ソウル)は、眉をひそめてみせる。

 

「なんか、ドーム近くの表通りに、SOATが来てたみたいで騒がしかったんだよ。酔っ払いが大量に出たとか何とかで」

「あ、ひょっとしてさっきネットニュースになってたやつ? ドーム近くったって、E3地区じゃここと逆方向じゃん! ソウルくん過保護すぎ~」

「そうは言ったって、ウルカは可愛いから心配だろー! 姐さんは大丈夫だった?」

「まぁ、それはわかるけどね……。私は平気。来る途中に買い物寄ったら、ちょっと変な人に絡まれたけど、まぁあのへんの通り歩いてたらいつものことだしね」

「……え。まさかあの騒動、姐さんのせい?」

「いやいや、私は近くの道歩いてただけで関係ないし。どっちかっていうと巻き込まれた方だっての」

 

 苦笑して手を振るムラサキに、ソウルはふーんと返事をする。

 

 ムラサキは、ある日ソウルとウルカがクロカゲで留守番をしている間、突然現れた。

 この世界を支配している存在であり、クロカゲのトップでもあったニレが消えてから後、賭場ことクロカゲは今までと同じ娯楽施設でありながらも、やや平穏を取り戻していた。

 SOATがクロカゲを政府認可の娯楽施設とし、最低限の秩序を守るために掛け金の配当制度を作ったり、治安維持に乗り出したせいもある。

 そんなクロカゲのメインホールは、昼営業の間はギャンブルなど影も形もない。「喫茶・クロカゲ」として、主にソウルとウルカが仕切ってきたのだ。

 そして、ある日昼間の営業時間中にふらりと現れ、ソウルとウルカの目の前で料理を一口食べて閉口したムラサキは、こう言った。

 

『ねえ。

 差し出がましいお願いでなければなんだけど、私をここで働かせてくれない?

 私免許も資格もないから手の込んだものはできないけど、何ならお給金要らないし、見た感じここ人手足りてないでしょ?

 料理の方なら、少なくとも手伝えると思うんだけど』

 

と。

 

「それにしても、食材のデータから作るだけで、こんなに味って変わるもんなんだな」

「ただの家庭料理だよ?」

「最初、米とか味噌って言われた時はびっくりしたけどさぁ。リアルの世界じゃ普通だけど、そんなに元から料理してる奴、セブンスコードで見たことねぇもん」

「いや、ここの人達一体どうやって料理してんの……」

 

 暇なのか、傍から覗き込んでくるソウルと話をしながら、ムラサキはちゃっちゃと米を研ぎ、炊飯器に設置してから鍋に湯を沸かし始める。

 一見動きづらそうな和服でも、袖を汚さないよう器用に動き回る様は、かなり慣れているようだ。

 

「でもさぁ、『白飯』って言えば炊きたての飯が出てくる世界なのに、何故か姐さんが米から研いで作ったご飯って、美味いんだよなぁ。味が違うってゆーか」

「ふつーに研いで炊いてるだけだよ? ってか、思いっきり炊飯器使ってるし」

「それでも、ひと手間掛けてる分、他の店とは違うだろ。こっちで料理してる奴の方が珍しいよ。その釜? ってやつも、直ったら使ってみたいよな」

 

 炊飯器やガスコンロは、クロカゲでは長らく調理場の奥で埃を被っていたものなのだが、あったことをこれ幸いとばかりにムラサキは喜んだ。

 賭場を建設する際に飲食店街を買収したのか、それとも昔の調理器具を扱う博物館の跡地でもあったのかは知らないが、煮炊きが出来る竈や暖炉を発見したムラサキは、興味津々で今それのリフォームを頼んでいる。

 格安業者なので、工事はだいぶ後回しにされていて、なかなか進んでいないが。

 

「……その『麻婆茄子の素』って奴も、姐さんがデータから持って来たのか?」

「うん。これ、あると便利なんだよー。……ありゃ、茄子切り過ぎちゃったね。どう見ても山盛りだし……具が被っちゃうけど、お味噌汁も茄子でいいかな?」

「いーんじゃね? まあ、ここに来るのならず者の連中ばっかりだしさ。高級料理を求めるお客さんには、最初っから丁重にお帰り頂いてるし。姐さんの好きなようにしていいと思うよ」

「さすが。……っていうか、姐さんて」

 

 ぷふっ、とムラサキは可笑しそうに笑う。それを見て、ソウルが不思議そうな顔をした。

 

「何がおかしいんだ?」

「いや、だってさぁ。ソウルくんぐらいの年頃の子が、私のこと姐さんて……なんか、極妻にでもなった気分だよ」

「ゴクツマ?」

「ヤクザの奥さんのこと。ソウルくん、組の下っ端の若い子みたい」

「だって、名前長ぇんだもん。俺の頭じゃ覚えらんねー。これ以上短くしようとしたら、ムラっちとかサッキーになっちゃうぜ?」

「そんな長くないでしょー。別に私はそれでもいいけど……でも、姐さんって呼ばれるの、正直気分的には悪くないな」

「だろ? 姐さんは、最初見た時から姐さんって感じなんだよ」

 

 そうくすくすと笑い合う二人のすぐ背後で、暖簾をめくる気配がした。



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1-4 食卓

厨房で会話するソウルとムラサキの元に、帰って来たウルカ。
料理を作り上げ、三人で囲む和やかな食卓が始まる。


第4節

 

「ただいま」

「お、ウルカ! おかえり」

「おかえりなさいー」

 

 得華(ウルカ)――またの名をコニという――が暖簾の隙間から、小柄でショートボブの清楚な黒髪の姿を覗かせていた。

 普段、喫茶クロカゲで接客をするのと同じ、黒を基調にしたゴスロリらしきふわりとしたドレスに着替えている。

 

「いい匂い。もう夕ご飯作ってるの?」

「うん。丁度野菜を炒めてたとこー」

「楽しみだなぁ。あ……ネロの面倒見ててくれてありがとう、ムラサキ」

「ううんー。ネロちゃんは、いつもすごく大人しいから。私が面倒見る間でもないよ。さっきも二階の窓辺でお昼寝してたとこ」

 

 そうムラサキが答えると、呼ばれたようにして、ウルカの足元から、黒猫がにゃあと声を上げる。

 抱き上げて、ぺろりとその頬を舌で舐められたウルカは、くすぐったそうに笑った。

 

「ネロ、お手伝いがあるから、ちょっと待っててね。ムラサキ、このまな板と包丁、まだ使う?」

「んーっと……いや、今日は挽肉使うから肉切らないし、もう出番はないかな」

「洗っといてもいい?」

「うん、ありがと。ウルカちゃん」

 

 目線を合わせるムラサキに、ウルカもにっこり微笑む。

 〝捕縛〟当時は言葉すらままならず人形のようだったウルカも、自我を取り戻した今はすっかり表情豊かな年頃の少女だ。

 ふふん、と張り切って鼻歌を歌いながら、粉末を鍋に入れるムラサキの手元を、ウルカは覗き見た。

 

「味噌汁……って、お出汁から作るんだね、ムラサキは」

「今日みたいに手軽にしたい時は、ほんだしだけどね。売り物にしちゃっていいのかなってレベル……」

「でも、ムラサキの作るご飯、お客さんはみんな美味しいって言って食べてるよ。わたしもソウルも、ムラサキの作るご飯が好き」

「ふふ、ありがと。嬉しい」

 

 洗い物に入るウルカの隣で、今度はフライ返しで湯気を上げる野菜を炒めるムラサキを見ながら、ソウルは不思議そうに首を傾げる。

 

「姐さんって匂いに敏感だけど……なんでそんなにわかるんだ?」

「え、今も分かんない?」

「さすがにこれだけ近かったら分かるけどさ。セブンスコードって、特定の食べ物とか飲み物に組み込まれた物以外、基本無臭だから。あんまり意識したことなくってさ……姐さんに言われて、少しは分かるようになってきた気がすっけど」

 

 ひくひくと、鼻を動かすソウル。

 その前で、ムラサキはフライパンをじゃっと振りながら大歓声を上げた。

 

「わひゃあ、すごい。見てみて、こんな必殺料理人みたいな真似、現実世界じゃ絶対に出来ないよ。中華料理の達人みたい」

「こっちの世界でも、あんまりやってる人いねぇと思うけど……」

「楽しいー! 一度こんな風にやるの夢だったんだよねー!」

 

 ムラサキが揺する大ぶりのフライパンと上がる炎の上で、刻まれた野菜達が空中に円を描きながら舞い上がるように踊る。

 ある程度料理の経験や知識がある者は、データを調理している際も、調理器具の動きや火力に調整を加えることが出来る。

 全てをデータで管理されているセブンスコードでは、当たり前でありさほど珍しくもないことなのだが、こんな小さな事で夢が叶うだなんて変わった奴だな、とソウルは思う。

 中火でしんなりしてくる野菜から立ち上る香りに、うっとり顔のムラサキ。

 ふと思いついて、ソウルは口にした。

 

「姐さん、SOATのリアさんみたいな植能持ってんじゃね?嗅覚(オルファクトリー)ってやつ」

「私には、あの子みたいに思い出を蘇らせたり、記憶を再生したりするような力はないよ。もちろん、匂いを解析するなんてことも出来ないし。ただ感じるだけ」

「ふぅん。じゃあ、リアルの世界の影響かな」

「でも、私は悪い人じゃないよ?」

 

 フライパンから顔を上げ、にこりと笑う。

 悪い人じゃない。

 彼女は度々、そう口にする。

 害意はないという言葉を、本人の額面通りに受け取っていいのかはわからないし、ソウルも初めからムラサキの全てを信頼している訳ではないのだが、今のところちょっと変わり者なだけで、悪さを働くつもりは本当にないように見える。

 少なくとも、ニレやサヤコよりは、ずっと。

 

 そうこうするうちに出来上がった料理を、ウルカとソウルが協力して皿に盛る。がらんとした休業中の店内を独占して、テーブルに食器を並べる賑やかな音が響き始めた。



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1-5 素性

リアルで既婚者であることを明かされ、驚くソウルとウルカを残し、次の仕事の時間だからと去っていくムラサキ。
その謎は、昨今の怪事件と共に深まるばかりだった。


第5節

 

 余った分の料理をタッパーに移しながら、ムラサキは感心したように声を上げた。

 

「はああ……それにしても便利だよねぇ……このさぁ、タッパーに入れてぱかっと開けるだけで、量産出来ちゃうこの仕様?」

「これがあれば、姐さんの料理、他の奴らにも提供出来るからなー。リアルと違って、腐ったり賞味期限あるってこともねぇし。一石二鳥?」

「いいなぁ、リアルにも欲しいわー……」

「だよな。姐さんって結構体弱そうだし、大変だろ? 毎回料理作るってさ」

「……ごめんね。私がもう少し、こんな体じゃなくて丈夫で働けたら……こんな、キミ達のご飯を作るついでに、同じものを全部コピーして売り物にする、みたいな手抜きじゃなく、ちゃんと沢山お客さんの分も作れるんだけど」

「いや! そんなことねぇって!」

「そうだよ。ほんとに、今だけでも十分だと思う」

 

 微笑みながらも暗い顔つきで俯くムラサキを、ソウルとウルカが慌てて慰める。

 

「ほら、姐さんって、こっちの世界に賞味期限とかなくても、マメに料理作るじゃん? おんなじメニューでも、こっち来る時に毎回作り直してくれるし。それがいいっていうか……同じなんだけど、違う味なんだよな。それって分かる味なんだけど、こう、微妙に違うっていうか……あー、クソ! 俺頭悪いからわかんねぇ!」

 

 驚いたような顔で席に着くムラサキの隣で、箸を配るウルカもうんうん頷いている。

 

「賭場の連中も、みんな言ってる。ここの昼のメニュー、なんか懐かしい味がするって……そう、『お母さんの味』? とか言ってたな」

「いやだって家庭料理だもん。家庭料理? と言っていいのかもわからんけどさぁ。毎回冷蔵庫にあるもので適当調理だし、ここでちゃんとした物出せてる自信ない……マジでこんな適当でいいの?」

「それがいーんだよ。みんな好きって言ってるしさ」

「うーん、でも……さすがにさ、外食として出すには味薄い気がするし……夜のメニューはもっとつまみとか味の濃い物にした方がよくない? 私今度考えてくるよ」

「あっ、おつまみっていえばね。私、ちょっと考えたことがあるんだけど」

 

 いただきます、と三人で箸を取りながら、食卓はいつの間にか、新しいメニューの考案会議と化していた。

 正直なところ、ソウルはあまり、クロカゲの昼営業は採算が取れるとは思っていない。

 単純に客が少ないのもあるし、ウルカのアイドルとしての収入と、クロカゲのメインである夜営業の収入がある分、喫茶が閑古鳥でもそれほど問題がなく、最近自分に店を任せてくれるオージにもあまり期待を掛けられていないから、というのが実情だ。

 けれど、ムラサキが店に入ってくれてからというものの、慣れない調理に四苦八苦だったソウルが経営や接客に力を割けるようになり、未だ黒字とは言えないとはいえ、昼部門の業績は回復に転じていた。

 本当に、昼を手伝ってもらえるだけで大助かりなのだ。

 

「ウルカちゃんが言ってたナッツの蜂蜜漬け、美味しそうだねぇ。夜だけじゃなくて、昼のメニューにも出したいくらい」

「一緒にレッスン受けてるアイドルの子達が、差し入れに食べてるのを見たんだ」

「なんか、パンケーキとかに添えても美味そうだよなぁ。あ~、もうちょっと洋風のデザートメニューにも余力割きてぇ~」

 

 そんな会話をしながら、食後の後片付けにテーブルを拭いていたソウルがふと気付く。

 

「あ……そいや、テーブルの醤油差し、一個壊れてんだっけ。後で直して補充しとかないとな」

「わたし、その間にサラダ作っておくよ。そしたら明日ムラサキが作るもの、一品減らせるし」

 

 その流れを聞きながら、二人の顔を順に見回していたムラサキは、心底感嘆したように、惚れ惚れという様子で溜息を零した。

 

「はあ……ウルカちゃんもソウルくんも偉いねえ……。何も言ってないのに、言われる前にこんなに沢山お手伝い出来てさ。うちの旦那に見習わせたいよ」

「このぐらい、きょうだいが居たら普通じゃねえ? ……っていうか、は!? 姐さん結婚してたの!?」

 

 思わず、がたっと音を立てるソウル。ウルカも驚いたように目をぱちぱちさせるので、ムラサキは座って休憩しながら、苦笑して手を振った。

 

「リアルの世界じゃね。しがない専業主婦ですよぅ。だから、本当に料理人ってわけでもプロでも何でもないんだけど」

「そ、そうだったんだ」

「こっちの世界に出入りしてるの、旦那さんは何も言わねぇの……? あんま長く家空けると、色々言われそうだけど」

「旦那は、私がこっちに居て楽しんでたり、こっちでお小遣い稼ぎする分には、特に何も言わないよー。日中、自分が働いてて私のことは放ったらかしにしてる人だからね。むしろ、自分がいない間の娯楽を見つけてくれて喜んでるみたい」

 

 背伸びをして肩を回す、ウルカよりさらに小柄なムラサキの様子を見ながら、納得したようにソウルは頷いた。

 

「……はぁ。なるほどな。だから姐さんって、ログインの時間割とまあまあ限られてるってか、短いのか」

「うん。ごめんね、ずっと居られなくて。あっちの世界にも、一応家事とか炊事ってものはあるからさぁ……」

「いや、それはいんだけど、姐さん一日家事しっ放しじゃね!? むしろ大丈夫!?」

「ふふ、こっちはこっちで、現実とは別の時間が流れてるからいいんだよ。お料理する以外にも、少しのんびり出来るしさ。それに……」

 

 そう口を開きかけた時。携帯の通知音が鳴った。ウルカが洗い場に引っ込んだのを見届けてから、ムラサキがソウルにそっと目配せする。

 

「……そろそろ行かなきゃ」

「もう一つの方の仕事?」

「うん。今日は一人だし、この後すぐ行ってから、リアルに戻るよ」

 

 ゆっくり休憩する間もなく慌ただしく立ち上がるムラサキを、ソウルはホールの壁際に立って見送る。

 

「姐さんのこと、SOATから匿うのはいいんだけど……ここでも給料もらって、それプラス副業だろ。こっちでまで、何でそんなに一生懸命働くんだ? なんか欲しいものでもあんのか?」

「うーん……お金のことは、正直どうでもいいんだけどね。いや、どうでも良くはない、か。ここでキミやウルカちゃんと働いた証としてお金が貰えるのは、単純に自分が頑張った証明や思い出を積み重ねてるみたいで嬉しいし、もう一個の副業も、身入りがいい分達成感はあるしね。強いて言えば……」

 

 エプロンを外し、とんっとブーツの爪先を鳴らしてから、指先を顎に当ててムラサキは考え込む。

 

「……私が現実世界で得られない充実感を得るため、かな。私みたいな奴でも誰かの役に立てるのが嬉しくて、その付加価値として引き換えに何かを得られることが誇らしい。それだけのことだよ」

 

 そう言ってにっこり笑みを残し、ぱたん、と扉を開ける音と同時に、袴の裾を翻しながらムラサキはクロカゲを出て行った。

 その名と同じ紫の袴の残滓を目に焼き付けながら、ソウルが背後にそっと寄って来たウルカに問い掛ける。

 

「……どう思う?」

「私も探ってるけど、今のところ、怪しい感じはしない……」

「うーん……だよなぁ。クロではねぇんだろうけど、姐さんイマイチ掴みどころがないっていうか」

「うん……でも、SOATの内部データを見せてもらったけど、あの人のIDは、私達のそれとは少し違うみたい。IDとして機能するし、偽造でもないんだけど、何故かSOATの利用者リストに本登録されてないんだって」

「えっ、マジ? ていうか、ウルカってSOATとまでコネ持ってんの?」

 

 唖然とした様子のソウルに向かって、ウルカが笑う。

 

「ふふっ。あのね、アイドルやってる子の中で、元SOATの隊員だった子達がいるんだ。その子達に頼んで、ちょっとだけ」

「なんだぁ……オレ、てっきりまた危ねー目に遭ってんじゃないかと心配でさ」

「ありがと。大丈夫だよ。あ……でも、その子達が、もしかしたら今度、私にも協力してもらうことになるかもしれないって」

 

 一度は安堵しかけたソウルは、その言葉にまた顔を曇らせる。

 

「そんなに危ないことじゃないの。ただ……ハルツィナに憑いてた悪魔の気配が分かるのは、私だけだから」

「悪魔? あの審判で出て来た? でも、もう捕縛や審判は終わったし、あいつらもユイト達が倒したんだろ」

「そうなんだけどね。最近また、不可解な事件が起きてるみたい。それが、過去の捕縛とどう関係あるのかはわからないけど……」

 

 日の傾いたクロカゲで、まだ全貌の掴めない昨今の騒動に困惑気味のソウルとウルカは、ただ二人、顔を見合わせたのだった。



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1-6 仕事

ソウル達の店を出て、〝仕事〟へ向かうムラサキ。
彼女のもうひとつの顔とは……?
思いもがけないあの人が登場します。
(※百合展開にご注意ください)(※R18ではないですが、成人向けに相当する施設が出て来ます)


第6節

 

「え~っと、待ち合わせはこのあたりの地点でよかったっけ……?」

 

 セブンスコードの表通り。

 座標で表されている地図を、腕に巻いた端末でチェックして睨みながら、私はモニュメントの前で周囲をきょろきょろ伺った。

 夜の帳が降り始めたセブンスコードは、ピンクの月の光と宵闇色が混ざり合って、捕縛下にあった時の怪しい空間を彷彿とさせるけれど、賑わう街路は当時のパニックの面影もなく、活発な雰囲気を取り戻しているようだ。

 ぴょんぴょん、と意味もなく背の高い人達の間で飛び跳ねながら、待ち人の姿を探してみる。

 まったく、背の低い人間は、こんな場所でも難儀する。

バーチャルの世界なんだから、どうせなら見た目も願望通りにというか、もうちょっと背を高くしてもらったり出るとこ出したりしてもらっても構わないのに、と思えど、きっちりリアルの私を反映しているらしい。

 

 まあ、着物や袴を着ても年中快適なことを思えば、十分贅沢か、と思っているうちに、どうやらそれらしい人を私は発見した。

 

 腰まで伸びた、まっすぐな黒い髪。ぴんと立ったノースリーブの白い襟シャツと、ショートパンツにガーターストッキングが似合う、背の高い女の人。

 ……こっちが辟易してしまうぐらいすごいプロポーションだ。これ、私が呼ばれる意味あったのかな。

 ぶんぶんっと頭を振ってから、私は人影に手を振った。探すまでもなく、このあたりで和服を着ているような奇特な人間は私くらいだから、向こうもすぐに気が付いたらしい。高いヒールの音を響かせてやって来た女性に、私は話し掛ける。

 

「サヤコさん、ですか?」

「ええ。あなたがムラサキ、かしら」

「はい。今日はご指名いただきありがとうございます」

 

 ぺこりと下げた頭を上げ、じっとこちらを見る、アイラインに縁取られた眼光の強い瞳を見据えた。

 

(う~ん……見れば見るほどそっくりだけど……やっぱり本人……?)

 

 私服らしい私服を着ているせいか、私がゲームで見た時よりは随分と角が取れて丸くなっているように見えるけれど、見た目の雰囲気はやっぱり、サヤコさんこと、元SOATにしてニレの忠実な部下だった、椎名鞘子さん。

 でも、サヤコさんって悪魔と同化してユイトに倒されちゃったんじゃなかったかしら? いや、でも、セブンスコードの中で死亡するのはセーフなんだっけ……リアルの世界で目覚めて、無罪放免になったのか、それともまだ昏睡したまま、意識がここを漂ってる……?

 と色んな推測が頭を飛び交うものの、向こうからしたら私はそんなことを知っている筈のない人間なので、心の中だけに収めておくことにして、何でもない様子で私は隣に並んだ。

 

「えっと、今日はデートが60分と、ホテルが初回の方限定の90分+αでよかったですよね。……時間、分散することも出来ますけど、最初にどこかお店入ります?」

「いいえ、いいわ。すぐに行ってちょうだい」

「わかりました。じゃあ、ぼちぼち出発しますか」

 

 とはいえ、見栄を張ってはいるようだけど緊張している様子が、顔面の強張りからなんとなく見て取れる。

 とん、と指先でお店にメールを打った後で、同じように端末を操作して移動先までワープを使おうとするサヤコさんの手を、私は笑顔で握りながら止めた。

 

「?」

「折角だから、ホテルまでちょっと歩きませんか? 移動時間は、別に時間内に含まれないので。私も、サヤコさんのこともっと知りたいし」

「……あなた、変わった人ね」

「よく言われます」

 

 言うまでもなく、過去からセブンスコードへ渡航して来てる時点で、普通ではない。

 けれど、今のところそれは何とか誤魔化せる仕様になってるようなので、私の秘密を知っているのはほんの一部の人間だけだ。

 今はただ、お仕事を完遂するのが目的の、一人のキャストに過ぎない。

 

 存外に女性らしく柔らかいサヤコさんの掌を取りながら、私はネオンの輝く夜の街に向けて歩き出した。

 

 

「今日は、どうして来てくれたんですか?」

 

 私は何度か来たことのあるホテルだが、女と来るのが初めてなのか、部屋を選ぶ段になっても入室しても、その戸惑いを隠せていないサヤコさんにまずは座ってもらって、備え付けの飲み物を淹れながら水を向けてみることにした。

 眠たげな厚みを持った瞼が、不思議そうに瞬かれる。

 

「あなたにとって、それ必要な事?」

「答えたくなかったらいいんです。わかんない、とか、ただ興味があってとか、そういうのでも全然いいんです。ただ、ちょっとの間でも私達の人生が重なり合うわけだから、あなたがどんな事を考えて生きてきたのか、知りたいなって」

「……ふふ。不思議ね。そんなこと教える筋合いはないって言いたいところだけど、なんだかあなたを前にしてると、落ち着くみたい」

「自分はこんなにバインボインなのに、こんなちんちくりんが来てー、とか思いませんでした?」

 

 そう言ってみると、それがサヤコさんの笑いを誘ったらしい。

 小さく肩を揺らしてから、彼女は教えてくれた。

 

「本当は、指名は誰でもよかったのよ。ただ、そう……私を縛るもの全てがなくなったわけじゃないのに、不意に過去や重圧を逃れて……ふらふらと、投げ出してみたくなった。自分でもどうしてこんな事を選んだのか、わからなくなるくらいに」

「そっかぁ。じゃあ、今日はいっぱいリラックスして帰ってもらわないとですね」

 

 疲労の色を滲ませながら腰掛けていたサヤコさんの後ろに回ると、私はベッドに登りながら、その筋張った肩をぐりぐりと揉み解した。

 部屋の鏡に、最初はちょっと戸惑うような顔を映していたサヤコさんだが、次第にその表情が優しく和らいでいく。

 

「上手ね」

「いえ、それほどでも。きっとお疲れだからですよ」

「メインの前に、このままだと寝てしまいそうなのだけど」

「ふふ、今日はベッドに入る前までの時間はカウント外ですから、少しゆっくりしていいですよ。お風呂一緒に入りましょっか」

 

 身も蓋もない言い方をすれば、行為の時間だけが90分に収まってさえいればいいというのが、初回限定の90分コースの使い方なのだ。

 この+αの部分で、お客様の心を掴めるだけ掴む。それでリピーターになってくれる人も、そうでない人もいるけれど、この心づくしで「もう一度この人に会ってもいい」と思ってさえもらえたら、すなわち勝ちだ。

 

 脱衣所は広かったので、着物と袴を脱いで籠に入れるのもやりやすかった。

 髪を結い直してふと隣を見れば、こっちの私にもリアルの私にも持ち得ない、たわわな果実を惜しげもなく晒したサヤコさんの姿が見える。

 手を引いて、泡風呂を溜めた浴槽に彼女を導いてから、先にシャワーで体を洗い流す。交代する時に、ふと私は思いついて言ってみた。

 

「あの……よかったら、私に頭洗わせてもらえませんか!?」

「え?」

「サヤコさんの髪、綺麗だから洗ってみたいなって……い、嫌ならいいんですけど。お化粧とか落ちちゃうし」

「別に、メイク直しの時間さえ取ってくれれば、私は構わないわよ」

 

 白いうなじと背中を晒して固まっていたサヤコさんが、ふ、と小さく笑ったのを承諾の合図と取って、私は目をつぶってもらってから、頭をシャワーでまんべんなく濡らした。

 

「シャンプーって、二度洗いらしいですよ。一度目は軽く髪全体の汚れを洗い流して、二度目で三分ぐらい、頭皮をマッサージするのがいいらしいです」

「痛んだりしないのかしら?」

「私もそう思ったんですけど、シャンプーの量が肝で、頭皮を洗う時に付け過ぎなければ、むしろ頭皮への負担は減るって美容師さんが言ってました」

 

 まあ、直接聞いたわけではなくネット上で得た知識だが、そう言うとサヤコさんは、目をつぶったまま感嘆したような声を上げた。

 手から零れ落ちる泡の付いた黒い髪が、絹糸のように首筋へと伝っていく様が、平安時代のお姫様のようで綺麗だった。

 

「なんだか、いいわね。これ。……久しぶりに、誰かに労わってもらえている感じがする。こんな事いつぶりかしら」

「サヤコさんは、頑張ってますよ。生きてるだけで、頑張ってるんです。えらいです」

「誰の役にも立てなかった私なのに? あの人一人振り向かせられない、それでいて身も心も醜悪な私になんて、何の価値もない」

「どうして? ……あなたは、誇り高く女性らしい美しさの持ち主ですよ。私は大好きです。こんなに綺麗なのに」

 

 泡のついたままの体で、ぎゅうっと後ろから抱き締めると、微かに息を飲む音がする。小さく呟いた声が、浴室に反響した。

 

「……本当に、変わってるわ。あなた。今まで私にそんな風に言ってくれる人……ニレを除いたら、誰一人としていなかった」

「それはちょっと、サヤコさんの周りの人間に人を見る目がなさすぎますね」

 

 軽く頬に口付けておちゃらけながら、丁寧に髪を手で梳いてシャワーで泡を洗い流していく。つぶつぶの泡を完全に排水溝に追いやってしまってから、湯船に入った私たちは、二人一緒に、ただゆったりとお湯に揺蕩っていた。

 もう、あまり言葉は必要ない。つるりとした肌に湯の中で身を寄せていても、サヤコさんは何も言わない。ただ、ほんの少し上気した吐息が、仄かに色づいた頬をしたサヤコさんの唇から、吐き出されてくるだけ。

 後ろから抱き止めるように、腕を回した首筋へ静かに唇を付けたまま、私は囁いた。

 

「……上がりましょうか」



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1-7 交錯

新生セブンスコードに巣食う、新たな悩みの種。
そしてサヤコと別れた後日。
ヨハネが揉め事に巻き込まれている様子を見たムラサキは……?


第7節 交錯

 

 灯りを落としたホテルの部屋は、高層ビルの瞬く星屑みたいな光を残しては、すっかり暗がりに沈んでいた。

 まっさらなシーツの上で、膝立ちのままバスローブを解くと、先に横になっていたサヤコさんが、意外そうに目を見開く。

 

「その入れ墨は、自分でやったの?」

「ええ。まあ。一応、ここでの規則には禁止されていませんので」

 

 体の前側に、うっすらと浮き出て光る花や蝶を、サヤコさんの掌がするりと撫でる。

 

「まるで、光っているみたい」

「セブンスコードって、多少はアクセサリーをいじったりできるから便利ですよね」

「素敵ね。私、こういう模様は好みだわ」

「ふふ、ありがとうございます」

 

 だいたいの人は、これから行うことに気持ちが持って行かれていっぱいいっぱいになってしまうので、純粋にこの入れ墨に興味を持ってくれたお客さんは、久しぶりだ。過去に一人――そして、今は友人でもあるその一人のせいで、これがただの〝入れ墨〟ではないことがわかってしまったのだが、それを他の人に告げる必要はない。

 

「……子宮(ウーム)。お願い」

 

 そっと相手の体を辿りながら、誰にも聞こえないように囁くと、街灯りに白く浮かび上がる部屋の中で、紋が静かに熱を持って輝く気配がする。

 この、どちらかというと私にとっては弊害でしかない植能が、何の役に立つのかは、いまいちよく分からない。

 けれど、これを使って誰かを悦ばせることができるのなら、それに越したことはない。

 ただでさえ、私は現実世界で大して誰の役にも立たない存在――ただ無駄に酸素を消費して生活を繰り返すだけで、金銭も糧も人頼みの、何も生み出せない存在なのだから。

 

 タイマーが鳴り響くまでの時間をきっちり終わらせて、シャワーから上がったあとの体に長襦袢を纏いながら、私は何とはなしに、窓際に腰掛けた。

 防音のはずだが、それでもガラス窓を越えて聞こえてくるほどに、外で人々の怒号と轟音が鳴り響いている。

 シャツのボタンを留めていたサヤコさんが、小さく眉をしかめた。

 

「一体何の騒ぎ?」

「外で、デモを起こしてる連中と治安維持部隊がぶつかってるみたいです。まあ、じきに鎮圧されるとは思いますけど……」

 

 裏通りにあるとはいえ、このあたりのホテル街ならまだ静かだと思ったのに、こんなところまでデモ隊は進出してきてるのか。商売あがったりだ。ここの地区で予約を受ける時には、使うホテルを変えた方がいいかもしれない。後で店にも報告しておこう。

 ミネラルウォーターの水を二人で分け合って、喉の渇きを潤しながら、サヤコさんと何とはなしに、下での騒ぎを眺める。

 

「今のセブンスコードになって、争いごとは減ったと思ったのに、まだ騒ぎを起こそうという輩がいるの?」

「人の意志は、いつだって一枚岩じゃないですから。前みたいに無秩序な世界の方が、都合のいい人達だっていますよ。それに……」

 

 デモは、まだ続いているようだった。

 押し合いへし合いするその末尾の方で、看板を掲げながら拡声器で怒号を上げる人達の声が聞こえる。

 

「オレたちの居場所を奪うなぁあ!」

「あいつらは、正義の名を盾に自分らの都合のいい世界にしようっていう気だ!」

「SOATの連中は、捕縛の時と同じ世界にオレらを閉じ込めるつもりだぞ!」

 

 何とも言えない気持ちで、私は小さく溜め息をつく。

 

「世の中には、必要悪ってものがある。

それを裁くのも、悪であり続けることも、世界には必要なことですから。……私は、ここで見てるだけだけどね」

 

 ぱさり、と着物を羽織り、袴の穿く前の帯を締めてしまえば、いくら発動中で光っていても、体の入れ墨は完全に隠れてしまう。

 ふとホテルに面した街路を覗き込めば、圧し潰されそうな人並みの中で、盾を持ったSOAT隊員たちの矢面に立ち、必死で指揮を執る一人の少年の姿が目に入った。凛とした目鼻立ちに、綺麗にカットされた前髪の下に覗く、華やかさを感じる大きな目。

 まあ、当然向こうは私のことを知らないけれど、ゲームで見慣れた衣装とは異なる隊服姿に、一抹の寂しさを覚えながら、私は微笑む。

 

「私はここで、見てることしか出来ない。ただの傍観者だ。

それでも、君が正義の側につくと言うのなら……この場に留まり続けることが、私の闘いなんだろうな。

何をするでもなく、加担するでもなく。ただ、正義の枠組みから外れてしまう人達の味方でいる為に」

 

 私は臆病者だから。

 独り言をつぶやく私を、サヤコさんが不思議そうな目で追っているのを感じた。

 

「正義も法の準拠も、世界に平安をもたらす為には必要だよ。それこそが、治安維持部隊のお仕事だろうからね。だから、私はそれが間違っているとまでは言わない。

……ただ、その声が届かない人達の側でありたいだけ」

「あなたも、はみ出た人間の側だと言いたいのね」

「春を売って金を稼ぐなんて、SOATとしては黙認したくない仕事でしょうから。私としては、リアルの世界でやるよりもこっちの方が楽なんですけどね」

 

 じんじんと、股下が痛む。服を纏っていても疼く熱と快感をやり過ごすように、私は一度だけ、熱い息を吐き出した。

 疲れはするし、痛みもあるし、多少の副作用はあれども、もしリアルの世界でやってたら、こんなの身が持たない仕事だっただろう。

 

「時には世の中で『悪』と叫ばれることの方が、誰かにとって心地良い揺籃になりうることもあるんですよ。……現実世界で、存在することすら許されない。そんな人達が、こちらの世界でまで居場所を失ってしまったら、彼らは」

 

 サヤコさんが、沈黙で私の言葉に応える。

 「正しい」場所で生きることを許されない人間は、どうしたらよいのだろう。

 どこの世界であろうと、秩序を作ってしまった時点で、そこに当てはまらない人間は必ずいる。

 それを救うなんて大事は決してできないけれど、せめてその人達の上げる声は、聞こえる人間でありたいのだ。

 ガラス窓に指先を当てながら、私は見慣れた褐色肌の少年を見下ろした。

 

「君の向かう行く末次第によっては、もしかして私たちは敵同士にもなり得る存在なのかもしれないね。……ヨハネ」

 

 あの子がどういう面持ちで今隊長という職に当たっているのか。

 結局は、私はそれを知るのが怖いだけなんだと思う。

 ずっと――この世界に出入りする前から、君のことを見つめてきた私にとっては、嫌われるのは悲しすぎるから。

 

「さて、それじゃあ行きましょうか」

 

 ばさり、と何食わぬ顔で紫の袴を翻す。

 まだ、ピロートークならぬアフターのデートのお仕事が残っているのだ。

 いくつかお洒落な喫茶店の候補を上げながら、私はサヤコさんに並んで、寝乱れたシーツの残るホテルの部屋を後にした。

 

 

 こんな感じで、私のお仕事は、率直に言えば、対価を払ってやって来たお客さんを抱くことがメインだ。

 お得意さんや常連さんには、今日はデートで話だけ聞いて欲しいということもあるし、初見の人が様子見でデートコースを利用することもあるけれど、大概の場合はホテルでの時間を所望される。

 まあ、リアルじゃなかなか経験することのないこと――しかも女性間の性行為となるとなおさら――だから、多少ハードルは高いにしても、折角そこを乗り越えるからには経験してみたい、と思う人がいるのは当然だと思う。

 リアルじゃこの業界に携わったことはないし、女性に抱かれた経験なんて、それこそ一度や二度しかない私が、何とか生き残れているのは、ひとえにお客さんがいい人だからということと――もうひとつ、この妙な植能のおかげでもある。

 

(なんなんだろうなあ、これ)

 

 サヤコさんと別れてから、数日後のこと。

 常連のお客様をホテルの前でお見送りして別れてから、私は空調が個々に調整されたセブンスコードの中にいても、抑えきれない身体の火照りを冷ますように、胸元に合わせた着物をぱたぱた仰いでみた。

 こんなことで涼しくなるはずもないのだが。

 隙間から覗き見れば、常は紺色をしている蝶の形の文様が、うっすらと桃色に蛍光色の輝きを放っている。

 

(うう……これ、部屋に帰ったらまた、一人で籠り切りコースかなぁ)

 

 当然ながら、現在のセブンスコードにおける主要植能は、SOATのみ保持が許可されているが、以前クロカゲの周辺に複製や劣化品が出回っていた影響で、今も街中に植能保持者はごろごろいる。

 が、それとは関係なく、私には何故か渡航当初からこの力があって、しかも現在発見されている植能のどれにも当てはまらない。見つかるとどうなるやらわからないので、ソウルくん達に頼んで、SOATの目につかないよう匿ってもらっているのは、それが理由だ。

 そして未発見だからそれ相応のチート能力なのかと思いきや、出来ることと言えば他人を誘惑して戦意を失わせるというデバフ的な効果が出るくらいで、護身用になるかならないかって程度だし……正直、能力を使った時の反動を考えると、弊害の方がデカい。

 

(つーか植能使うと代償に副作用があるとか、私聞いてないんですけど!?)

 

 その一つが、体中が異様にムラムラするというもので、確かに仕事中なら役に立つんだけど、酷い時には家に帰って一日中体を慰めていないと、この火照りが消えないこともあるのだ。

 まぁ、でも……それも、女性客だけ選べる今の方がずっといい。不本意ながら男を相手にすることもあったけど、性別による違いでもあるのか、その時の方が反動はもっと酷かった。思い出したらイライラしてくるぐらい。

 傍から見たら発情期の女みたいでしかないので、誰かに相談するにしても惨めな事この上ないし、もう早く帰りたい、と思いながら、瞬間移動が出来るポイントまで、すたすた路地を歩いていた時だった。

 

「おい、どーしてくれんだよっ。ここはオレたちの住処だったのによぉ!」

「移動にあたる費用と立ち退き料は、十分に払ったと思うけど。そもそも、ボク一人に文句言ったってしょうがないコトだろ。そういう正式な話は、ちゃんと窓口があるからそっちに行って言ってくれないかな」

「なんでぇ、役人風情が生意気な! 貴様らなんか、民間団体のくせして、役にも立たない政府の無能どもの犬でしかねぇくせによぉ!」

 

(……何やら前が揉めてるな)

 

 ぴたり、とブーツの脚を止めてから耳を澄ます。

 いつもなら速やかに回れ右して迂回するけれど、どう聞いても聞き間違いようのない大人びたその声に、心が引っ張られるまま、路地の奥からゴミ箱に隠れてそっと覗き見た。

 数人の大柄なごろつきに囲まれていても、170cmを越える背丈を持つその少年は、背筋を伸ばして堂々としている分、凛としてちっとも存在感が霞んでいなかった。

 私の知るその人――ヨハネは、華奢な体に余る隊服を纏ったままで、誇らしげに腕の腕章を揺らしながらぴしゃりと言い放つ。

 

「民間か公営かは関係ない。ボクたちは、ボクたちの決めた秩序に基づいてこの街を守る……それだけだ」

「けっ。どうせ、裏で省庁に貢ぐための金でも搔き集めてんだろ。表でいい顔するためには、オレらがいくら不利益被っても仕方ありませんってなァ」

「そんな事言っても、ここは元々クロカゲ込みで違法な営業を黙認されてた地区だったんだからね。あんた達にとって意に沿わないこともあるかもしれないけど、全体の治安を向上させるためにも、少しずつ取り組んでいかないと……」

「うるせぇ! 正義面しやがって!」

 

 にわかに場が殺気立つ。さて、救援に入るべきだろうかと、私は躊躇した。

 SOATに見つかりたくないなら、SOATにバレていない植能を保持している私が首をつっこむのは、明らかに愚策だ。

 仮にも隊長であるヨハネさんが、この人数を相手に勝てないということはないだろう。倒すまではいかなくても、逃げ切るくらいは余裕に違いない。

 その一方で、胸の内に湧き上がるのは、もう一つの完全にどうでもいい方の私情だった。

 ――すなわち、ここで「窮地を救う」という、無理矢理にでもヨハネさんとお近づきになれそうなチャンスを、みすみす逃してもいいものだろうかという。

 

(いやっ、でも……。既婚者かつ風俗関係者の女と、ヨハネさんが友人以上に親しくなるルートなんて、どう考えてもありそうにないしな……。

ここは、程よい距離感で推しを見ているのが、今は辛くとも一番幸せに違いない。うん、そうするべき……)

 

 そう言って踵を返しかけたその時。

 

「やっちまえ!」

 

 そう言って目の前で振りかざされる巨大な鉈のようなナイフに、彼が息を飲む様を見たら、もう私の頭を渦巻いていた余計な懸念は、すべて吹っ飛んでしまっていた。



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1-8 闖入

絶体絶命――と言えるほどでもないピンチに乱入してきたのは、その場の殺気にも面子にもまったく不似合いの、能天気な女だった。


第8節 闖入

 

 さすがに、彼らの感情を逆なでし過ぎたかな。

 バカ正直に他人とやり取りすれば、ボクはどうしても気遣いってものが欠けがちになる自覚はあったけど、今もまた、どこかで選択を間違ったらしい。

 振りかざされた刃物の光沢に肝が冷えた。

 乱闘沙汰なんてクロカゲで幾らでもあったし、イカサマがバレて追われた経験も数知れずだったから、今更怖がることなんてない。

 ただ、まさかSOATの制服を着た人間に向かって、堂々と――ここまで何の躊躇もなく民間人から武器を振り上げられることなんてないだろうと、高を括っていなかったかと言われたら、嘘になる。

 

「っ……! おい! 落ち着いて……」

「もうお前達から、話を聞けだの回答を待てだの、先延ばしにされるのにはウンザリなんだよォ!」

 

 後ずさった瞬間、斬、と振り下ろされた刃の起こす風が、肩先を撫でる気配にぞっとする。

 今まで、こういう時は相棒のミカと組んで相手をすることが多かったから、大柄で一撃が重い武器の相手は、粗方ミカに任せていたせいもあって、攻撃に転じるのにほんの僅か遅れが出た。

 

「仕方がないっ……! コルニア! 視覚情報を……」

 

 シールドを展開しようとして、思わず唇を噛む。

 どうしてボクは、守らなきゃいけないはずの奴らに、害意を向けているんだ。

 ボクなりに、やれることはやって、成果は上げたつもりだった。

 ボクたちの活動を認めてくれる人。すれ違う時に、笑顔を向けてくれる人。揶揄しながらも励ましの文句をれる人。そういう人たちの姿を見ながら、どんなに小さな歩みでもムダじゃないと、自分達のやってきたことには意味があると、思えてきたところだった。

 どうして、と、やっぱり、が頭の中を旋回しそうになる。

 どうして、上手くいかないんだろう。やっぱり、無駄なんじゃないのか。

 ボクは、何のためにここへ、立っているんだろう。

 あの日以来捨て去ったと思っていた諦めが、久方ぶりに心に顔を出し掛けた、その時だった。

 

「ちょっっっっっっと待って! ね! 落ち着いて!」

 

 全くの場違いな衣装でそこに現れたのは、一人の女性だった。

 闘いに必死過ぎて、ボクは気付けていなかったらしい。

 どこから滑り込んだのかと思うぐらい滑らかに、縋るようにゴロツキの太い腕とボクの間に入り込んでいた彼女は、無意識に背後へ庇いたくなるほどに小柄だ。

 珍妙な乱入者に、男たちも目を白黒させている。

 

「な、なんだお前。どっから……」

「さっきから全部見てた! ね、とりあえずここで争っても何の利益も生まないでしょ? あなた達はこの場所を潰されたことが不満なんだよね。だったら、このヨハネ隊長が、掛け合ってあなた達の望む場所を取り返してくれるように、冷静に論争した方がいいかなーなんて」

 

 半ばボクに抱き着くようにして庇った彼女は、ずるずると腰が引けていて、どう見ても乱闘騒ぎに慣れているようには見えない。

 ……もしかして、面倒くさい種をひとつ増やしてしまったのではないかと思ったボクは、愛想笑いを浮かべる彼女に内心げんなりと溜め息をついた。

 男たちが、せせら笑いを浮かべる。

 

「はは、嬢ちゃん。悪いコトは言わねぇから譲んな。そこのお高く留まったお役人サマは、痛い目見ねぇとわかんねぇのさ」

「よっく見たら可愛い顔してんじゃねぇか。話し合いなんてくたびれるだけの遊び、オレらにはどーでもいいからさ。そいつなんかほっぽってこっち来いよ。可愛がってやろうぜ」

 

 下世話な男たちの太い腕が、ごきごき音を立てて動く。下卑た笑いを顔に貼り付けたままで。

 

「ぐ……やっぱりそう簡単には上手くいかないか」

 

 そう呟く彼女の唸り声が隣から聞こえる。

 むしろ、この状況でどうして上手くいくと思ったのか教えて欲しい。

 とりあえずどう彼女を連れてこの場から逃げるか、に頭を切り替えて考えていると。

 

「あら、ほんと? うれしい」

 

 けろりとした、よく通る裏声が響く。

 あろうことか、彼女は自ら、ふらりと男たちのリーダーに近づいていったのだ。ボクは息を飲んだ。

 

「おいッ……!」

 

 その時。足を踏み出した彼女が微かに、唇を動かすのが見えた。

 何を言ったのかはわからない。

 訝しむ間に、彼女はリーダー格の男の腕に、すっぽり包まっていた。おぉっと周囲から歓声が上がる。

 

「……それじゃあ、凝り固まった価値観しか頭にない誰かさんよりも、あなたがもっともっと、危険な遊びを教えてくださるかしら?」

「あ、ああ、もちろんだとも……」

 

 幼い顔つきのくせに、艶っぽい声は、たじろぐほどにしっとりと熱を孕んでいた。

 思いもがけない行動に動揺して、男の声と顔が蕩けるのがわかる。

 その太腿に指を這わせた彼女の、妖艶な手つきから――ボクは見た。一瞬そこから触手のように伸びた桃色の光の筋が、周りにいた男たちの足元を取り巻き、消えていくのを。

 

「お、おい! お前だけずりぃぞ! オレにも代われ!」

「何言ってんだ、オレが先だ!」

「ふざけんじゃねぇぞ! 彼女の心は誰にも渡さん!」

 

 目の前で、何が起きているのかわからない。

 瞬時にハーレム状態を形成したその場を呆然と見ていたボクは、慌てて頭を振って働かせた。

 目の前の危険はとりあえず去ったけれど、それでもこのままでは彼女が犠牲になってしまう事には変わりがない。

 そう思って、今やボクには目もくれない奴らの外側から、打開策を考えていたボクと彼女の、目が合った。

 路上にも構わずあぐらをかいて座り込む男の上で、その太い腕に和服のまま抱かれていた彼女は、ボクに向かって目配せすると、指先で静かにちょいちょいと、左の目を示してみる。

 

(左目……?)

 

 ほんの一瞬だったが、そのジェスチャーが示す事実は明確だ。

 彼女は、ボクの植能を知っている。

 こくり、とうなずいてから、ボクは今度こそ広域に、その力を展開した。

 

「コルニア! 視覚情報を〝改竄〟ッ!」

 

 わああっ、と男たちが一斉に浮足立つのが見えた。

 幻覚で複製した〝彼女〟に惹かれ、夢中になっているようだ。

 その隙にその場をするりと抜け出した彼女は、路地の入口側に立っていたボクの方へ走り寄ると、息を切らして言った。

 

「行こう。今のうち。あっ、でも、私には触らないでね。あいつらと同じ目に遭いたくなかったら」

 

 そうボクに奇妙な忠告をした彼女は、多少息が上がっているけど、それ以外は無事なようだ。

 とりあえずは安全な方へ道を戻りながら、ボクは矢継ぎ早に尋ねた。

 

「ねえ、ちょっと待って。さっきのあれ、どうなってるのさ。どういう仕組み? あの指先から出てた光って、媚薬系の電子ドラッグか何か? あんた、ボクとどこかで会ったことあったっけ。なんでボクの植能のことを知ってる? ボク一人のためにあんな体張るような無茶までして、どういうつもりで」

「助けてもらった相手に、お礼もなしで質問攻め? 礼儀知らずなところはユイト相手の時と変わってないね。まぁ、そういうところ、私は好きだけど」

 

 脚は止まらないけど、驚きに思考が止まりそうになった。

 なんでこいつが、ボクとカシハラのやり取りを知ってる? 今の体制になってから、カシハラは滅多なことでは人目につかないようにしてるはずなのに。一体どこで、何を見たんだ?

 

「待って。なんで、あんたはボクとカシハラのことを……」

「おっと。口を滑らせすぎたか。まぁ、余計な手出ししてたらごめんね。ヨハネさんなら勝てると思ったけど、さすがにちょっと人数多くて分が悪いかと思ったから」

「そんな事はいいから……!」

 

 助け出されたことは事実だし、彼女が首を突っ込んだことに云々言うつもりはない。

 それよりももっと気になる事があったけれど、彼女は街路に出るなり、唐突にボクの後ろ側を指さして目を丸くした。

 

「あー!」

「?」

 

 反射的に振り返った途端、ぱんっ、と肩を叩かれる。

 その瞬間、視界が奇妙な色に染まった。

 コルニアを食らった時の幻覚作用とはまた違う、けれどどこか違和感を禁じ得ない……気が付いたらボクは、街路を過行く通行人の、素足や首元を目で追っていたのだった。

 一時の季節柄のイベントを覗いて、年中気温が一定のここでは、露出が多いファッションの人間も勿論多い。ミニスカートから伸びる、覆いのない肌や、剥き出しになった細い首筋。灯り始めたネオンに照らし出される二の腕の、怪しい輝きが、普段以上に妙に艶めかしくて、きめ細かに見えるような……

 

「……って、そうじゃなくてッ!」

 

 一体自分が何をやっていたのか分からないまま、大声を出しながらふと周囲を見渡せば。

 道行く人々の波の中に、当然彼女の姿はなかった。



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1-9 伝説

イサクからの話で、ヨハネは都市内で起きている事件が、奇怪さを増していることを知る。
その一方、ユイトから聞いた都市伝説の話は、驚くべき内容で……?
これらの事象に、例の「彼女」との関係はあるのだろうか。


第9節 伝説

 

「ははっ! それで? 色気を振り撒かれて当てられてるうちに、巻かれちまったってか! こんな顔してても、やっぱ男だなぁ、お前。なんか安心したわ」

「だからッ! そういうヤらしい目で見てたわけじゃないんだってばッ! あくまで視界にそういう作用があっただけで、ボクは邪な気持ちなんて微塵も……!」

「隠さなくていいぜ。オレは別にそれでどうこう思ったりしねぇからさ。巡回中にふらっとなっちまうのも、一男子として健全な反応だ。ウム」

「だから違うってばッ!」

 

 怒鳴り付けるも、隣に座って話を聞いていた同僚のイサク――青柳(アオヤギ)一朔(イサク)は、何故か楽しそうに腹を抱えて笑っている。

 何がおかしいんだよ。

 まったく、男って、なんでこんな年中頭ん中がエロとバカしかない連中ばっかなんだろ。

 あの能力がどういう作用を持つものにしろ、ボクはただ、純粋に女性の肌の――リアルじゃ自分がどうあっても手に入れられない、対となる性別の体を、思う存分磨き上げられるのが羨ましい、と思っただけだ。

 綺麗なものを目で追いたいって思うのは、当然じゃないか。いくらボクが可愛いからって、ボクはそこに胡坐をかいたりはしない。飽かずにファッションやスキンケアの研究を続けようとするのは、当たり前のことだ。

 あの時は、何がまかり間違っても、アレを剥きたいとか脱がせたいとか、そういう欲望に目を惹かれていたわけじゃない。――決して。

 いくら説明しても信じてもらえない感覚に、ボクは思わずため息を吐いた。

 

 今は名前で呼び合ってるけど、イサクがSOATに入隊してきたのは、ボクが一度SOATから脱退した時よりさらに後のことだったから、当然隊での面識はなかった。

 それどころか、「捕縛」の前はボクの殻に入っていたカシハラの奴が、偽のカシハラを倒したせいで、怒り狂ったイサクと不本意にも敵同士になった、迷惑千万極まりない過去もあったっけ。ボク本人は一回も会った事なかったのにさ。

 何はともあれ、真相を知った今ではよき同僚で、仲間になっている。

 けど、それはいいとして、イサクはボクをからかい過ぎるのが玉に瑕なんだよな。

 ユイトが執務室から出て来ない時間が長くなったせいで、構うターゲットがボクに移った、と言ってもいいかもしれない。

 アイツと違ってボクは友達が少ないわけじゃあるまいし、こんなに一生懸命お世話を焼いてくれなくたって、全然構わないんだけど。

 

 憮然としたボクに、イサクは目尻で涙を拭った両手を広げてみせながら宥めてきた。

 

「冗談だって。お前の言ってる感覚は否定しねぇし、お前がそう言うならオレは信じるよ。ただ、隊長になれるほどの強さを誇るお前がそんな風になるなんて、よっぽど強力な幻惑能力の持ち主なんだなと思ってさ」

「ああ……特に発動の気配も感じなかった。見えたのは、あの桃色の光だけ……その後一瞬で、あの男たちが堕ちたように思えた」

「何者なんだろうな、その女。麻薬常習者にしては、お前との受け答えはハッキリしてたみてぇだし……それに、お前の植能やユイトのことを、知ってたんだろ」

 

 イサクの言葉に、ボクは重々しく頷いた。

 どちらかといえば、一番の問題はそこかもしれない。ボクたち表舞台に出る隊員の植能については、現場を目撃する民間人たちに知られていてもおかしくはないけれど、かといってボク達が植能まで使って闘う相手といえば、この間出会ったゴロツキ達のような、社会常識の枠にちょっとやそっとでは収まらない連中ばかりだ。あんまりそのへんの組織とは縁のなさそうな女の子が、SOATの職員が持つ植能に詳しい(ボクのコルニアが、どっちの目かまで明確に知っていたんだから)というのは、納得がいかない。

 とはいえ、ハルツィナヴァイスの子達だって、その多くはクロカゲのベビードール出身だったわけだし、裏社会で働く若い女の子たちもいっぱいいるのは事実だから、一概に変、とは言えないんだけど。

 

「ところで、そっちが調査してた、例の暴動事件の話はどうなった?」

「ん? ああ、あれな……ちょっとばかし、面倒なことになってきたな。最初は水鉄砲やバリケード、悪くて鈍器や棍棒みたいな、物理的手段を用いた暴動ばかりだったんだが……もっとタチの悪いのが出て来てるらしい」

「タチの悪い?」

 

 ボクが眉を顰めると、うなずいたイサクが顔を曇らせる。

 

「目撃者たちによると、奴ら『魔法』を使うんだって言ってる」

「……魔法? そんな、ファンタジーの世界じゃないんだよ、ここは」

 

 思わず呆れて返事をしてしまったけど、イサクは同じように呆れた様子を見せつつ、真面目な口調だった。

 

「んなこと言っても、オレらの使う植能も、武器としては十分ファンタジーじみてるだろーが。ただ俺らの武器とは性質が違うってーか、炎や土、風……いわゆる元素(エレメント)の要素を兼ね揃えてるらしい。現場で、何もねーところから火花や雷、竜巻に攻撃されたって証言があるんだよ」

「そんなの、聞いたこともない。っていうか、そもそもセブンスコードは、人体を模して造られた都市だろ? そんなの、人間の体や臓器に関係ないじゃんか」

「だろ。だから調査班も、揃ってお手上げってわけさ」

 

 連日招集された疲れを顔に滲ませつつ、イサクが肩をすくめながら天を仰いだ。

 当然だね。事件の頻度は減る気配がないし、行ったら行ったで毎回、出くわしたこともない事態に遭遇してるんだから。

 

 ボクに出動命令が下った時は、大概が民間人同士の喧嘩やデモの鎮圧で、まだそんな変な事件に遭遇したことはない。

 一番変だったのは、この間の和服姿の女ぐらいのもの。彼女も、各地の暴動で起こってるっていう不思議な現象と、何か関係があるんだろうか。

 そこまで考えて、ふと頭に何かが閃いた気がした。

 

(炎、土、風、雷……なんかこれ、どこかで聞いたことあるような……)

 

 喉元まで出かかってる気がしたけど、思い出せない。

 歯がゆさに手袋をした手を握ったり開いたりしていると、不意に談話室の外から、呼ばれる声がした。

 

「ヨハネ。丁度よかった。今休憩中か? 話があるんだ」

 

 人が思考してる最中でも遠慮なく話し掛けてくる男――カシハラが、共用パソコンのモニターが並んだ机越しに、こっちに呼び掛けていた。

 仕方なく、イサクの隣のソファから飛び降りると、ボクはそちらに向かう。

 

「まったく。何なのさ。休憩してるって分かってるくせに呼び出すってことは、よっぽど緊急の用事なんだろうな」

「まあ、それなりにな。報告書を見た。お前を助けたという例の女について、処遇を決めたい」

 

 きた。

 反射的にそう思って、ボクは目で扉を促す。

 彼女の件は、まだ上官に当たるカシハラにしか話していない。それがいい決定だろうと悪い決定だろうと、彼女に助けてもらった身であるからには、あまり他の人間に聞かれたくはなかった。

 通路を歩いて空いた個室に入ったカシハラは、傍の椅子に座りながら、部屋に備え付けのコンピュータを立ち上げた。

 

「ボクとお前の間になされたやり取りについて、彼女は具体的な内容を何か少しでも漏らしたか?」

「いや……書いた通りだけど、どういう会話をしてたかとか、何について話してたとか、そういう話は聞かなかったんだ。ただ、こう……雰囲気から、感じたんだよ。あれは、ボクとあんたのやり取りが、かなりぞんざいで荒っぽいっていうか……言いたくはないけど気安いっていうのを、知っている風だった」

「ふむ……。今のところだが、ボクがSOATの外に出て部下と話をしている場面を、一般人が知っているとは考えにくい。となると、『捕縛』の最中にボクとお前が一緒にいるところを目撃した人間か、SOAT内部の人間って線が考えられるだろうな」

「SOATの職員リストは洗い出してみた?」

 

 頷いて、カシハラは画面に名前と顔写真のリストを羅列させる。勝手に画面がスクロールされていくが、電子音を響かせる検索ソフトは、望ましい成果を上げられていないようだった。

 未だに表情の読みにくいその顔の中で、カシハラが微かに眉を動かす。

 

「あの後、お前に言われた街路の監視カメラもチェックしたよ。一通り、映っている彼女とお前の証言に合致する特徴の人間を調べたんだが、SOATの人員には過去の職員も含め、該当者はいなかった。

……それどころか、見てみろ。SOATの職員どころか、本部に登録されているセブンスコードのIDにさえ、合致する奴が見当たらないんだ。

これだけ監視カメラに鮮明に写っていて、身体特徴を捉えられてるにも関わらず、解析不能とは、今の技術じゃまず考えられないことだ」

 

 「NONE」のポップアップと共に、画面に広がる膨大な顧客データ。

 カシハラ一人でやったのではないだろうけど、ここまで調べてくれたことに、ボクは素直に驚いた。普通ここまでする前に、疑問を差し挟むものじゃない? と思いながら、ボクは呆れ半分でその疑問を口にする。

 

「……ボクの証言が嘘だとは、思わなかった?」

「この忙しい時期に、お前がこの手の冗談でボクをたばかるほどバカだとは、さすがに思ってないからな」

 

 まったく。上の立場に立つようになっても、純粋というかお人好しっていうか。

 如何にもバカにした言い方だったけど、そこからは確かな信頼が伝わってくる。

 敢えてそれに感謝を返すなんて野暮なことはせずに、ボクは解析を続ける画面を、薄暗い部屋でじっと見つめた。

 

「まるで、幽霊だな」

「昔を思い出すか?」

「よせよ。幽霊船で幽霊とクルージングなんて、アウロラがいた時だけで十分だ」

 

 あの時の「幽霊」は、カシハラだった。

 アウロラの記憶や思い出で創られたセブンスコードは、実体のない幽霊船で、自我がまっさらの空っぽなカシハラは、そこに感情や経験を入れ込むための幽霊。

 じゃあ、彼女は何者だ?

 変に胸がどくりと高鳴ったその時、カシハラはモニターの青い光に照らし出された横顔で、ふとこちらを見た。

 

「ヨハネ。ボクは榊からの報告で、」

「リアちゃんって呼べよ。もう結構親しい仲だろ」

「未だに慣れないんだ。仕事中は特にな。こっちだって暇で来てるわけじゃないんだぞ、話の腰を折るなよ」

「ハイハイ、それは悪うございました」

「その報告で、セブンスコードに蔓延る都市伝説、ってやつも一応は把握してるんだが」

 

 キーボードを操作しながら、カシハラが画面に何かの詳細ページを表示させる。……何だ?

 

「お前、『密航者』って知ってるか?」

「……密航? 他の国とか領域に、許可なく上陸するとかいう、あの?」

「定義的にはそれで合ってる。つまり、このセブンスコードに、ボク達の許可なしで境界を越えてやってくる人間のこと。それも、日本や外国という枠組みどころじゃない、時空や次元を超えてやってくる人間のことだ」

 

 一体、今日は何度ファンタジーに遭遇すればいいんだろう……。

 同僚から立て続けに有り得なさそうな話を聞かされ、ボクはうんざりしていた。

 

「そんな人間、いたら大騒ぎになるに決まってるだろ」

「だから都市伝説なんだ。あまり非科学的なことを信じたくはないが、各地で起こっている暴動に伴う超常現象といい、あり得ないという理由だけで無視は出来ないだろ。

セブンスコード(ここ)だって、元々は現実にあるアウロラの臓器と、その内臓記憶に基づいて変化してきたってだけで、十分信じられない要素に基づく街だったじゃないか。

何事も、可能性を排除しないに越したことはないと思ってな」

 

 その柔軟な考え方は、かつてのカシハラからは考えられなかったけど、「捕縛」の時に乗り移った色んな仲間との経験を経て、こいつも変わったのかもしれない。

 荒唐無稽とも思える話にも、信じる姿勢を捨てないカシハラに、ボクは呆れながらも好感って奴を捨てきれずにいた。ま、他の理解力がない奴が上司になるよりはマシかな。

 

「とはいえ、榊の能力をもってしてもほとんどがデータ不足だから、まだ分からない事の方が多いんだけどな……」

「それで? ボクは何をすればいい?」

「例の彼女について、『密航者』の線も視野に入れて調査して欲しい。彼女と遭遇したのは、賭場の付近という話だったよな。お前が好きに動けるように、名目上は『特別警備班』として、あの辺の区域に割り当てることにする」

 

 新しい仕事、というわけらしい。

 この任に就いている間に、例の妙な超常現象まがいの事件にも遭遇するかもしれない、と思いながら、ボクは気を引き締めて背筋を伸ばした。

 

「わかった」

「こっちで揃えたデータベースは、全部お前に渡す。榊にも事情を話しておくから、後で管理者権限を解除するキーを貰ってくれ」

「疑いアリってことだね。もし実際に、その密航者って奴だった場合には、どうするのさ?」

「存在が見つからない限り、証明も不可能だから今の時点では何も決めようがないんだが……。まずは、そいつらが何を意図して渡っているか、害意を持っているかいないかを判断した上で、処遇を考えることになるだろう」

 

 つまり、今は何も決まっていないが、見つかり次第どうするか考えるから、捕まえろということだ。

 回りくどい言い方をせずに言えばいいのに、と肩をすくめながら、ボクは部屋を出る。自動扉越しに、ボクは振り返った。

 

「この件は、まだ他の奴らには?」

「ああ。知っている者は少ない方が、余計な混乱を招きにくい。当分は、ボク達の間だけのことにしておいていいだろう」

 

 そもそも、信じてもらえるかどうかも危うい話だしね。

 けれど、その幻に等しい存在を、追うことを許可してくれたカシハラの期待には、不本意だけれど応えないわけにはいかないだろう。

 ボクは早速、該当地区の巡回スケジュールを決めるため、執務室へ向かった。



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1-10 乱闘

クロカゲで起きた、とある乱闘騒ぎの話。
前々から嫌がらせに訪れていたグループが、その正体を名乗りつつも、いくつもの不可解な能力を使い始めて……?


第10節 乱闘

 

 ミラーボールの明かりが鉄色のフロアに反射する、夜のクロカゲ。

 アイドルグループ・ハルツィナヴァイスのプロデューサーでもありながら、ここの総支配人を務めるオージ――柚木(ゆのき)歐児(おうじ)は、忙しい一日の中でも何とか時間を捻出し、久しぶりに店舗の見回りにやって来ていた。

 一応、代理でフロア長を数人立て、その者達に運営は普段任せているが、出来る限り自分の目で現場を見ることも欠かさない。

 

 ニレの支配していた当時から、気のいい兄貴分として何だかんだ周囲に慕われていたオージは、ニレの打倒後にその後を継いで胴元となっても、クロカゲの運営方針が公営体質のSOATと協力体制を結んで変わっても、多くの人間から支持を集めていた。

 多少気障ったらしい全身白のタキシードで歩いても、フロアのあちこちから、構成員・客問わず手を振る人間たちの声が上がる。

 文句を言い、クレームをつけにきたのかと思える客でさえ、オージの奔走ぶりに感心し、最後には肩を組んで歌い出す輩がいるくらいだ。

 規則の整備などで、以前の際限なく放蕩な熱気は減ったけれども、それでもエンターテイメントを求め、付いて来てくれる客たちに、オージは感謝していた。

 

 しかし、いつの世にも、変革を好まない輩はいる。

 オージのいる日に限ってやって来たその客たちは、タチが悪かった。

 早くしろと呼ばわり、飲み物を運んできたウエイターの前でわざとカップを割り、弁償しろと怒鳴り付ける。

 不用意な接触を禁止されているキャストに手を触れ、抱き寄せる。演奏中だろうが、ダンスの披露中だろうが、おかまいなし。

 

(おいおい、ここは公営ギャンブルの店だぞ……そういう(・・・・)店と勘違いしてるんじゃねえだろうな)

 

 さすがにオージは眉を顰める。しかも、迷惑客たちの顔には、見覚えがあった。

 ここ最近、揃って嫌がらせに現れると店から報告を受けていたグループに共通の、同じ青いバンダナを巻いている。

 強張った顔の女性スタッフに、複数で群がる男たちを、槍をちらつかせて追い払いながら、中央のテーブルにどっかと座り脅しでテーブルの掛け金を巻き上げる男の肩へ、オージはぐっと手を掛けた。

 

「……さっきから黙って見ていれば。いい加減にしてもらえませんかね」

「ああ? 以前はここは俺たちの無法地帯だったんだぞ。〝ルール〟がねえのがクロカゲの存在意義だろ。今更俺らが言うことを聞かなきゃいけねえ筋合いあるのかよ」

 

 くすくす、と周囲から巻き起こる、青いバンダナの男たちの嘲笑。

 いつの間にかフロアはしんとしていて、客たちは遠巻きに壁沿いへ離れながら、その様子を見守っていた。

 

「いつまでも、昔のままだと思ってここで暴れてもらったら、困るんですよ。ニレはもういない。あいつのいた時代を望む奴らの、好き勝手にさせるわけには……」

「はっ、ニレだぁ? あいつのことなんざ、どーでもいいんだよ。要は、俺たちが好き勝手にできるか、できねぇか、それだけだ。……できねぇっつーんなら、無理やり出来るように変えてやってもいいぜぇ?」

 

 その瞬間、周囲で一斉に男たちが武器を構える気配がする。

 ネイルズで爪を伸ばす者達、ブラッズで血の棘を手に取る者達。カウンターから叩き割られたボトルがバリンと音を立てるのを合図に、宣戦布告と判断したオージは、既に布陣を張っていたクロカゲの構成員達にも、戦闘許可の合図を出した。

 

「マーロウッ! 敵を穿貫ッ!」

 

 槍型の骨髄(マーロウ)で、己も敵の殲滅にかかるオージ。

 立ち上がったリーダー格の男は、傍の丸テーブルを盾代わりに応戦する。

 周囲の景色さえ歪めるほどの迫力で突き出された槍を――しかし、男は止めた。衝撃の伝わって来ない、豆腐かゼリーの中にでも槍を突っ込んだような感触に、オージが唖然となる。

 オージの槍に砕かれ、粉々に粉砕したテーブルの先――槍に突き刺されたはずの男の掌は、ぷるんとした青く透明な物体に包まれていた。

 とっさに槍を引き抜いた瞬間、青い物体は水風船のようにぱちりと弾けて、男の足元へばしゃばしゃと落ちる。コンクリートへ染みを作っていく水が流れる先には、割れた「WATER」の瓶が転がっていた。

 

「な……今のは……?」

「知ってるか。俺とその仲間たちは、既に神にも等しい力を手に入れた。SOATとつるんでるお前らを御すにゃあ、片手で戦ってもお釣りが出るくらいだ」

「ッ、まさか、最近巷で起こってる、妙な超常現象絡みか? 勘弁してくれよ」

 

 それでも攻撃の手を緩めないオージだが、傍で武器をかち合わせる構成員に混じり、まだ大勢の客が混乱の最中で残っている状況では、あまり派手な大立ち回りを行うわけにもいかない。下手に振るうと、建物やそこにいる人間まで損壊させてしまう。

 あくまで周囲を気遣って槍を振るわないオージに、相手は苛立ちを募らせたようだ。

 

「おいおい、もっと本気でかかってこいよぉ。槍を持って暴れ者相手に有無を言わさず穿貫してきたお前が、今はもう手も足も出ねぇか?」

「……ここで植能を乱発するのは、周りの奴らに被害が及ぶ恐れがある。オレはもう、無益な争いはしたくない。頼むから、」

「ハッ! そんな生温ぃことだから、いざって時に客すらろくに守ることもできねぇ、金をふんだくるだけふんだくられる甘っちょろい組織になり下がるんだよォ、ここはよォ!」

 

 はっとオージが目を見開いて振り返れば、フロアの一角から女性達の悲鳴が上がった。

 舞台に出ていた女優達やホールスタッフ、客たちが一斉に、植能で作り上げられた檻の中へと閉じ込められていた。

 

「おいっ、どういうことだ!? ブラッズは……量産型植能は、鉄分を模した物理的攻撃に使われるだけのはず……」

「オレらを、これまで賭場にいた頭のぬるい連中と同じにすんなよ。既にそっちから引き抜いた人間だって大勢こっちに鞍替えしてんだ、奴らの知恵も借りて前以上の技術を作り上げんのは当たり前だ。もう、低級植能とは言わせねぇ」

 

 連中はいつの間にか、女性達だけを選んで誘導し、捕まえやすい位置に固めていたらしい。

 頑丈な鉄格子は、びくともしない。

 有刺鉄線のように電流を張り巡らせてあるらしく、助けに入ったクロカゲの構成員が、痺れに呻きながらその場に崩れていた。

 男たちは、がっはっはと豪快に馬鹿にした笑い声を上げた。

 

「凌辱も強姦も気に留めなかったおめぇらが人命救助とは、いいザマだなぁ! 今のお前たちはなんだ? ギャンブルのメインと言えば政府から配られるくじに馬券にカジノ台のいくつかのゲームだけ、ダーツもルーレットもスロットルも全部禁止じゃねぇか!  ただの犬に成り下がったお前らに、何ができる!?」

 

 人質を取られた以上、うかつには動けない。

 おそらくは鬱憤晴らしと金が目当てだろうと踏んでいたオージは、己の見込みの甘さを食いながらも、間一髪で男の拳を避けた。

 

「うんざりなんだよ。床の掃かれた、煙草も痰の香りもしねぇカジノ台なんて、こっちから願い下げだ」

 

 振り回された短刀が、オージの頬に切り傷を作る。唇から滴る血を舐めた男が、不意に頬を緩め、オージの鳩尾をナイフの柄で突いた。

 ドスの聞いた低い声が、一瞬暗くなった視界で囁く。

 

「お前らはお上の言うこと聞いて綺麗に生きてますってフリをして、いくらでも俺らのことを忘れりゃあいい。だが、俺らみたいな存在が、てめぇらの掌返しによってこの街から掃討出来ると思うなよ。

――これは、警告と報復だ。このセブンスコードに真に義賊として立ち上がる闇組織、アオカゲからのな」

 

 その組織を、オージは聞いたことがある。痛みをこらえ、ぐっと唇を歪めて、男の顔を睨み付けた。

 

(クロカゲになり代わる存在として台頭してきた組織、青色曲馬団(アオカゲ)……噂は本当だったのか?)

 

 その時だ。

 

「ねえ。女性を捕まえるんだったら、こんな無骨な檻の中じゃなくて、もうちょっと気遣いっていうか、せめて居心地よくしないと女に嫌われるよって、あなたの部下に言ってくれない?」

 

 腰のあたりから響いた言葉に、男は飛び上がって振り返った。

 紫袴に桃色の着物という、見慣れない装いをした女が、ちょこんと立っている。

 構わずに女――ムラサキは、あ、と声を上げながら顎に手をあてて首を捻った。

 

「それとも、こういうのは上司に頼むべきなのかな。上が方針を変えてくれないと、組織の常識なんて変わりようもないもんね」

「お、お前……! いつの間にあそこから!」

「大方風俗営業向けの商品にでもするつもりだったのかもしれないけど、そういう目的で女を捕まえる人が、耐性あるとも思えないんだなぁ。可愛くお願いしたら、みーんな出してくれちゃった」

 

 口から泡を吹きかねない男の前で、にこりと微笑んで首を傾げるムラサキ。

 植能で懐柔された仲間の男に、自ら牢を開けさせたムラサキの背後から、ぞろぞろと出て来た女たちが、裏方のスタッフに保護されていた。

 騒ぎを聞いて応援に飛んできたウルカやソウルも、誘導に加わっている。

 

「そっ! そんなバカな! おいお前! 何やってる! せっかくの上玉をフイにする気か!? もういい、そのへんの女とこいつだけでも捕まえろ! 早くしろ!」

 

 ぽやん、としていた仲間の男の植能が解けたらしい。

 はっと我に返ると、頭にバンダナを巻いた男は、逃げていく女性たちの群れからはぐれた数名と、その傍にいたウルカを狙おうとした。

 離れた場所で、他の男と応戦に入っていたソウルが、苛立たし気な声を上げる。

 

「ッ! くっそ、てめぇ!」

「おっと、動くなよ小坊主! そこからガス弾を撃てば、あの女どももろとも、煙に巻かれておさらばしてやるからな」

 

 じゃっ、と相対していた男がソウルにトンファーを向ける。

 奪えるものは意地でも奪ってやるという往生際の悪さに、ひとつ溜め息をついたムラサキは、すぐ後ろに破壊されず残っていたテーブルの面へ行儀悪く座ると、バンダナ姿の男へ手を振った。

 

「おにーさーん! ねえ、もうちょっと遊ぼうよ。私と」

「この女狐が! 何の術で惑わせやがったか知らねえが、今度はそうはいかねえからな!」

「ふぅん……? でもさすがのあなたも、リーダーの命には逆らえないよね?」

「あぁ!? さっきから何わけのわからんことを言ってやがる!」

「おい、この女の相手は俺がする! お前はさっさと商品を連れて、ずらか……れ……!?!?!?」

 

 リーダー格の男の声は、最後まで続かなかった。

 ムラサキが薄汚れたシャツの胸倉を引っ掴み、近づいた男の顔に、猛烈な口づけを施したからだ。

 

「~~~~っ!?!?!?」

 

 驚いたウルカも、ソウルも――その場にいた男の仲間たちまでもが、あまりの光景に唖然とし、固まっていた。

 が、しかしその意図を理解したウルカは、小声で客たちに、今のうち、と合図すると裏口から避難させる。

 他の者達は、スポットライトを跳ね返すねっとりとした舌の光沢に、ごくりと唾を飲むばかりだ。

 (まぐ)わらせた唇から、糸を引いて離れたムラサキは、ふっ、と不敵な笑みを浮かべて男を見上げる。瞬いた黒い瞳が、きらりと煌いた。

 

「出てって。ここにいる仲間引き連れて。今すぐ」

 

 どこか上気した頬で、定まらない視線を宙に向けていたリーダー各の男は、ふらふらと出口に向かって合図する。

 

「……おい、おめえら。帰るぞ」

「ええっ!? けど! なんでっすか!?」

「しっかりしてくだせぇ、ボス!」

 

 仕事を道半ばで投げ出してしまうよりも、ボスの体が心配になったのだろう。男たちは名残惜しい視線でクロカゲの面々を睨みながらも、おとなしく踵を返すボスを小走りで追って消えていく。

 ふー、と溜め息をついて目を閉じるムラサキの元へ、すぐにオージとソウルがすっ飛んできた。

 

「おいッ、大丈夫か!?」

「へーき、乱暴はされてないから……うえぇぇぇえっ、男の唾液ってやっぱ気持ち悪い」

 

 吐きそうになりながら顔を顰めるムラサキに、ほっとしつつ水を渡すソウル。

 傍のバケツに黙々とうがいした水を吐き出すムラサキを見て、オージは安心した様子を見せながらも呆れ顔だ。

 

「ったく! いくらあんたの肝っ玉が太いからって、まさかあんな真似するとは! 上手く気ぃ逸らせたからいいものの、一歩間違ってたらどうなってたかわかんなかったぞ!」

「でも、こういう青臭い無鉄砲な作戦って、嫌いじゃないでしょ。オージさん」

「あのなあ。上に立つもんにもなると、守るべきものもしがらみも増えて……って、オレあんたと会った事あったか?」

「会った事なくても、支配人の顔と名前ぐらい知ってますよ」

 

 少し疲れた笑みで顔を上げたムラサキは、ソウルに目配せをすると、すたすた出口へ向かう。

 

「それじゃあ……私はこのへんで」

「あっ! おい、名前ぐらい……! ここまでしてもらったんだ、謝礼は出さねえと」

「いいのいいの。私が勝手に首突っ込んだせいでああせざるを得なくなったんだから、自己責任だし……それより、女の子たちのケアをよろしくお願いします」

 

 そう言って、半壊した両開きのドアを潜り抜けたムラサキの背を、ぽかんとした表情で見送るオージの呟く声が、隣に立つソウルには聞こえた。

 

「いや、お前も女だろ……?」

 

 は~っ、と溜め息をついて頭を抱えるソウルに、オージが不思議そうに問い掛ける。

 

「アオカゲの奴らが使う得体の知れない力も気になったが……なんだったんだろうなぁ、彼女。お前、知り合いか?」

「いや、その……前、昼営業をバイトの子に手伝ってもらってるって言ったじゃないすか。その子っすよ」

「へぇ? あれが……えっ、あの差し入れ用の弁当に入ってた、超上手いおかずを作ってた奴か!?」

 

 もっと挨拶しとくんだった、と残念そうな顔を見せるオージの傍で、ソウルは店の中を片付けようと、横転した机を持ち上げた。

 オージは気付いていなかったようだが、あの一瞬、ソウルは目に留めていた。ムラサキが男へ口付けるその前に、腰に伸ばした手から、ポーチの中の何かを掴んで――

 

(あれは……チョコレート、か?)

 

 胸倉を掴む直前の動作で、仲間との会話に気を取られていた男にも知られぬまま、ムラサキは口に含んだチョコレートを、キスと同時に男の口へとねじ込んだ。男の様子がおかしくなったのは、果たしてキスで錯乱しただけなのだろうか、とソウルは考える。

 

(あのチョコレートに、なんか秘密が……?)

 

 しかし、その場で考えてもそれ以上分かるはずもなく、せめて明日の昼営業で一部エリアだけでも使えるようにと、ソウルはその後黙々と片付けに集中したのだった。

 

 

「はあ、やれやれ、びっくりした……」

 

 やむを得ない事態だったとはいえ、また植能を発動させてしまった。

 まさか、久しぶりに夜のクロカゲで遊んでみるかと行った先であんな目に遭うとは、思っていなかった。 

 帰り道、げんなりとしながら暗い道を歩くムラサキは、少し火照った頬を冷まそうと、人気の多い道を少し逸れた場所で風を浴びつつ、瞬間移動用の端末を起動させる。と、その時。

 

「ぽっ」

 

 何かが耳元で破裂したような音を聞くと同時に、白っぽいものとすれ違ったような気がして、ムラサキは振り返った。

 

「……???」

 

 もちろん、そこには何もいない。表通りの賑やかな喧噪が見えるだけだ。自然と戯れられるエリアの整備にSOATが力を入れているおかげで、このあたりは川辺の涼しい風が吹いてくる。

 

(……ぽ? ってなんだ? 鳩?)

 

 とっさに浮かんだのは平和の象徴だが、鶏がコケコッコーと鳴いているように聞こえないのと同じで、鳩も実際の鳴き声はあんまり半濁音には聞こえない。どちらかといえば、もっと人工的に人間が唇を窄めて出しているような、そんな……

 

「……まあ、いいか。これ以上面倒そうな奴らに見つからないうちに、さっさとログアウトしよ」

 

 なんとなく薄気味の悪さを覚えたムラサキは、この世界の自宅兼アパートへとワープする。

 その姿を、川辺の橋のたもとから、じっと見つめる銀髪の少年の姿があった。

 

「ふうん……? あの子、か……」

「……」

「しくじった男は、始末しちゃっていいよ。自己顕示欲ばっか強くて、ボクらのことまでバラしそうだから、あの紋を剥奪したらそのうち足切りしようと思ってたんだよね。キミの出番は、あの子を避けて狙おうか」

 

 川面から吹く風が、だぼついたオレンジのジャケットと、それを着た小柄な少年のさらついた襟足を撫でる。

 その銀髪と同じくらい、白くまっさらな燐光を放つ裾が、彼の傍で翻った。

 

「ぽぽぽっ」



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1-11 独立

ある日の、仕事を終えたムラサキの話。
少し前から抱いていた希望を、ムラサキは思い切って雇い主に打ち明ける。


第11節 独立

 

「すごいわねぇ。今月もまた一番よ、ムラサキ」

「ありがと、ママ」

 

 平凡なビル街の一角に作られた、こぢんまりとした事務室。

 その日仕事を終えて、風俗店の事務所に戻ってすぐ、そう言って出迎えてくれたオーナーであるママに、私は曖昧な笑みを向ける。

 

「折角だから、休憩がてら何か飲んでいく?」

「いいの?」

「丁度新作が出来たところだったのよぉ。ムラサキにも試して欲しくってね」

 

 野太い声をしたママが、筋肉の盛り上がる丸太みたいに太い手で、レモンをカットし、シェイカーを振る。見た目のごつさからは、信じられないほど繊細な動きだ。

 ママは……何て定義されるのか知らないけど、女装をしてる男の人。オカマって呼ばれることが多いだろうけど、ママの心の性を知らないから、実際はそれも合ってないのかもしれない。とりあえず、筋骨隆々な強さと美しさを持つ、憧れの人だ。

 自身の恋愛対象は男性でありながらも、思うところがあってレズ風俗――今は女性間風俗という呼び名も出て来つつあるけど――を経営しているらしい。

 

 ママは事務所での風俗経営者としての仕事と、個人がもつバーのお仕事を掛け持ちしている。

 ママが持つお店は、クロカゲに近い裏通りにあって、ここより狭くゴミゴミとしているけれど、地価が安かったらしいここの事務所は、白を基調としたオフィスらしい洗練されたデザインだ。白いカウンターキッチンの内側で、器用に果物の皮を剥くママから目を離して、私は壁に掛かった出欠札を見た。

 

 私の他に、数名の子の名前が、派遣中・待機中などの各列に掛かっている。

 私の札――コン、と書かれたプレートは、もう今日の仕事が終わったので、引っ繰り返して休業中の意を示してあった。

 コン、というのは風俗業での源氏名みたいなものだ。

 私の持っている袴が、紫色の他にもう一色、紺色だからコン。

 最初は本人を特定されないようこっちを名乗ろうと思っていたんだけど、なんだかんだでママもみんなも私をムラサキと呼ぶので、名前を名乗り分けるのは性に合わなくて、こっちを使うようになってしまった。

 まあ、セブンスコードで着物を普段着にしている人間なんて私くらいのものだから、紺だろうが紫だろうが悪目立ちはするし、過去から来ている以上、身バレも顔バレも知ったこっちゃないというところだが。

 むしろ、ある程度の素性が知れていた方が、相手には安心感を与えられるみたいだ。

 

「すっごーい!綺麗ね」

「ふふっ。どう? 冬だからって閉じこもってばかりじゃ、気分も下がっちゃうでしょ。ちょっとトロピカルなフルーツも入れて、淡めの色にしてみたわ」

 

 ママの作ったカクテルは、仄かに色づいて泡の浮いたミルキーな白が、かまくらの壁に反射して灯る雪明りみたいで、とても綺麗だった。

 表面に浮かんでいる泡は、銀色の雪のようなものをグラスに降らしている。

 

「あ、そうか。こっちは今冬か……」

「何ボケたこと言ってるのよ。確かにセブンスコードの中じゃ季節感ないけど、外で流れてる時間は一緒でしょ」

 

 あんまり気にしたことなかったけど、私は過去の世界からログインしているので、真夏にログインしてもこっちは冬、ということだって往々にしてあるのだ。

 けれどそれには触れずに、私は極上の舌触りをもたらしてくれるカクテルをストローで味わいながら、ふと思い出して顔をあげた。

 

「あ、ママ。あのね、私の成績、他の人には……」

「わかってるわよ。うちじゃ、競走目当ての子以外には、売上と名前は公表しないことになってるの。変わってるわねぇ、業績トップなのに、それを人に知られたくないなんて」

「だって、嫉妬とか恨みとか、面倒くさいもん」

「ま、それもそうね。それも世の中を賢く渡る方法だわ」

 

 素直な笑顔でママが笑う。

 ママが人の業績を他人に誇らしげにひけらかすような人じゃなくて、助かった。

 私としては、ママだけが私の成果を知っていて褒めてくれれば、それで十分だ。

 水滴のついたグラスを持ち、カウンターを立って応接室のソファに深く腰を沈めながら、私は溜め息をつく。

 

「それに……私なんか、トップ取っていいような人間じゃないと思うんだけどな、本当は。今でも何かの間違いって思いたいくらい」

「あら。お客さん達には概ね好評なのよ、ムラサキは。細かい気配りが行き届いてて、一緒にいると居心地がいいんだって、みんな言ってくれるわ」

「それは、嬉しいけど……私、他のキャストさんみたいに、自分を磨くような努力なんてしてないし、自分を演出しようというよりは、自分がありたい自分のままでいるから来たい人は付いて来てねってスタンスだし……現実じゃ、多分こうも上手くいかないっていうか」

「だとしても、これも貴女の実力ってことよ。誇りに思って頂戴な」

 

 口紅を塗って微笑むママに褒められると、嬉しいけれど、その反面こんなに喜んでもいいのかな、と戸惑う。

 努力に見合わずに、与えられる勲章。

 調子に乗って足を滑らせるのは、いつもの私の悪いクセ。

 あんな思いを経験するのは、もう現実だけで十分だ。こっちでは堅実に生きたい。

 

(平常心、平常心……)

 

 もう、誰かと比べて上に立とうとか下にいるとか、そう思うのはやめるんだ。

 少なくとも、この世界や「この業界」には私が比べたい相手も、見下したい相手もいない。

 誰と競うこともなく、ただお客様を見据えて一対一で、やるべきことに全力を掛けられる自分がいる。

 そう思ったら、前々から抱いていた欲求が、むくむくと頭をもたげてきた。

 

「あの……ママ」

「あら。なぁに?」

「相談があるんだけど……」

「前言ってた、お店の独立の件のこと?」

 

 驚いて目を見開くと、ママはお見通しだというようにばちっとウィンクしてみせた。付け睫毛で風が起きそうだ。

 セブンスコードでも、蝶の羽ばたきっていうのは起こりうるのだろうか。

 

「なんでわかったの?」

「これでも、長年この場所で店を構えてやってきたんですもの。いいわねぇ、若いって」

 

 そう言うとママは、ドレッサーの前で肘をつきながら真剣な顔になる。

 

「でも、正直言って大変よ。うちは事務員も雇ってるけど、個人営業になったら、ホームページの更新から予約の管理まで、全部一人でやらなきゃいけないんだから。もちろん金回りのこともね」

「やっぱり。それはそうですよね」

 

 思わず溜息が出る。

 しがらみから自由になれば、その分責任も増える。

 この店もスタッフも嫌いではないけれど、商売、ということに関して言えば、やっぱり何から何まで一人でやった方が気が楽だ、という気持ちの方が強かった。

 仕事も自分一人が把握していれば済むし、誰にも説明しなくていいし、自分の方が早く出来る仕事なのにと同僚に気を揉んだり、反対に自分が苦手な仕事で同僚に迷惑を掛けるのではと気を遣わなくてもいい。

 

 正直、一人になって経営が上手くいかなくなったところで、リアルの私は夫のおかげで身入りも堅実だから、何一つ困ることはない。

 それでも、出来ることなら採算が取れる程度には軌道に乗ればいいなと思う。

 それに、こんな道楽にも見える私の仕事と将来の道筋のことを、ママはいつも真剣に心配してくれているのだ。

 

「……」

「難しい顔しないで。貴女がやってみたいと思うことなら、やってみなさいな」

「でも……」

「ここはセブンスコード、でしょ。現実では叶えられない、貴女の夢や希望が叶えられる街よ。少しくらいそんな世界に縋っても、アタシいいと思うわ」

 

 そんな言葉に背を押されて、私は頭を下げる。

 こうして、私は自分が勤めていた派遣型の風俗を退店して、自分で店を構えることになった。

 店を構えると言っても、出張型の個人経営なので、拠点はNT地区にある鄙びた自宅のマンションだけだ。

 SOATの詰所からも、裏通りからも、そしてクロカゲからもそこそこ離れているせいか、人通りが少なく割と閑静で綺麗な場所だった。

 嫉妬の柱、と昔呼ばれていた場所の跡地が、ぼんやりと遠くに見渡せる。捕縛を思い出させる忌々しい場所として敬遠されがちなのもあって、人がいないのかもしれないけど、結構な穴場だと思う。

 

「……やってみるしか、ないよな」

 

 廊下から手すり越しに身を乗り出せば、どこからか吹いた風が頬を撫でていく。

 セブンスコードの中では、閑散とした場所までは空調のプログラムが行き届いていないのか、たまに寒暖の差が起きたり、こんな風に風が吹いたりもして、恒常性を望む人達には不評のようだけれど、私はこの場所が割と好きだ。

 現実ではどんなに無理なことでも、ここではリアルの私に関係なく、やってみたり行動したりしてみようかな、と思える。

 そう、この間ヨハネさんに出くわしてしまった時や、クロカゲでクソ客を追い払った時みたいに。

(……ヒーロー気取り、か)

 誰の目も気にせずにいられるから、私、自分に酔っているんだな。

 そう思って自嘲に頬を緩めながら、まずはホームページの立ち上げからやってみるか、と思いつつ、私は燃えるような夕焼けに染め上がるセブンスコードの空を見つめた。



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1-12 嫌疑

ムラサキの使った謎のチョコレート。
その正体を訝しむソウル達の元に、聞き込み調査中のヨハネが訪れる。
何とかムラサキの存在を隠そうと思った二人は……?


第12節 嫌疑

 

 アオカゲを名乗る人間たちから予期せぬ襲撃を受けて、程なく。

 落ち着きを取り戻した喫茶・クロカゲの営業時間が終わり、心ここにあらずといった様子で、手元の皿を拭き続けるソウルに、ウルカが気遣わしげに尋ねた。

 

「ソウル、もしかして、この間のムラサキのこと考えてる……?」

 

 はっとして、顔を上げるソウル。

 自らの心配事を、見て分かるほど顔に出してしまったことにバツの悪い思いをしつつ、ソウルはツンと立った銀髪を彩る髪留めを直しながら、素直にうなずいた。

 

「ああ、うん……。あん時、ウルカは避難してていなかったから見てねえかもしんないけど、姐さん、あの男に口移しでなんかやってるように見えてさ……

助けてもらったんだから、別に気にする必要もねえけど、なんだったのかなーって……」

 

 驚くかと思いきや、ウルカはしばらく無言で何かを考えていた。

 しばらくして立ち上がると、階上の自室に行き、何かを取って戻ってくる。その手には、ウルカがよく使っているポーチが握られていた。

 不思議そうなソウルの前で、その中から小さな巾着包みを取り出し、紐を緩めるウルカ。中身を覗き込んだソウルが、驚きの声を上げる。

 

「これっ……! チョコレート! まさか、姐さんのと同じ!?」

「うん。多分、そう。前に、ムラサキにもらったことあるの。私じゃなくて、他の女の子たちも。

ソウルは確か、あの時いなかったよね。前に、泥酔したお客が店に入って来て、ベビードールの子達が無理矢理暴力を振るわれそうになったことがあったって、話したでしょ? その時も、ムラサキは助けてくれたんだ。……あんな風に」

 

 少しその切なげな目を伏せたのは、不本意な接吻を実際に目の当たりにしていたからかもしれない。

 指でつまむと溶けそうなので、巾着ごしに、その何の変哲もない四角いチョコレートをソウルはしげしげと眺めた。

 

「なんなんだ、これ? ウルカは、食ったことあんの?」

「ううん。自分で食べちゃダメだって言われた。もちろん、お客さんとか友達にもあげちゃダメって。……すごい強力な、媚薬入りなんだって。私やベビードールの子達が、たまに強引な客がいて困ってるんだって話をしたら、そういう状況でも相手を追い払えるようにって、護身用にくれたの」

「や、媚薬はマズくね? 奴ら、逆効果じゃん」

「でも、毒物を盛ったら、ベビードールの子達が罪に問われちゃうでしょ。これ、体から力が抜けちゃったり、頭がぼんやりして……そう、酔っぱらったのと似た状態になるんだって言ってた。もちろん量は調節できるけど、使った人間に興味が向かなくなるぐらい、強いんだって。だけど、毒や電子ドラッグとは違って、殻に痕跡が残らないみたい」

 

 一応調べたけど、命に関わるような物質は入ってなかったよ、と言われ、胸を撫で下ろしながらも、ソウルは尋ねる。 

 

「まあ……実際あの男も、ぼーっとして店から出てっただけだもんな……。にしても、セブンスコードって生身の体と違ってデータの世界だから、薬の調合って結構難しいんだろ。姐さんは一体どうやってこんなものを」

「さあ……それは教えてくれなかったの。『原材料秘密だから! 絶対に、こいつは口からゲロ吐かせても構わないって思うぐらいのクソ相手の時だけ使ってね、自分に向けて使っちゃ絶対にダメだからね!』って」

 

 その言い方に、思わず噴き出すソウル。

 いくらムラサキの口真似とはいえ、ウルカの口から出る言葉とは思えず、その汚い語彙にしばらく笑いが止まらなくなったが、ふと真顔になって、フロアのテーブルの上を拭きながら言った。

 

「それにしても、ますます姐さんって謎な存在になったよなー」

「うん。私達のこと、気に掛けてくれるのは嬉しいけど、ムラサキ自身のこととか、どうしてセブンスコードに来たのかとか、何も知らない……。それなのに、話してると時々、すごく不思議な気分になるんだ。まるで、ずっと前から知ってる人と、一緒に話してるような……」

「あ、それオレもわかる。なんだろなぁ、初めて会ったって気がしなかったんだよな、姐さんは」

 

 こういう裏の世界でいると、どんな相手であれ嫌でも警戒せざるを得ないというのに、ムラサキはどんなに謎めいた人物であれ、不思議とそういう気持ちを抱かせないのだ。

 そう思って二人が首を傾げていたところへ――「準備中」の札を下げた扉が開かれて、かららんとドアベルが鳴った。見慣れたSOATの制服姿の人物が、勢いよくフロアを歩み寄って来る。

 

「おいっ、『着物姿の淫魔』が出入りしてるって噂の店は、ここか!?」

「なんなんスかもう~、ヨハネ隊長。入って来るなり……こっちはもう営業終了してるんですけど。ちょっと落ち着いて水でも飲んだらどうっすか」

「いいだろ、聞き込み調査の仕事なんだから。……で、何か知らないか。最近、和服姿の妙な女が、このへんをうろついてるらしいって噂。実はボクも会ったことある。店の客に、そういう奴がいないか教えて欲しい」

 

 よほど気合が入っているらしいと見えた。

 水の入ったコップを渡すウルカにお礼を言い、ぶはあっと一気に飲み干したヨハネを前にして、ソウルはちょっとだけウルカと相談するように目配せをする。

 

「あ~~……すんません、オレら、昼営業のスタッフがメインなんで、あんまり夜の賭場のことは知んなくて」

「てことは、それらしい奴の姿を、昼に見たことはないんだな?」

「ええ、まあ」

 

 たしかに、「客として」見たことはない。ムラサキは、喫茶・クロカゲの従業員として働いているのだから。嘘はついてない。

 心の中で言い訳して頷くソウルの前で、ヨハネはただでさえ彫りの深い顔に、刻まれて取れなくなるんじゃないかと言うぐらい深い皺を寄せている。

 

「通報がある前に収束したらしいんだけど、何日か前の夜に、ここで乱闘騒ぎがあったって聞いたんだ。何人かの男が、クロカゲを襲撃して女を拉致ろうとしたとかで……そん時の客から、和服姿の女がリーダー格の男を骨抜きにしたとかって……」

「あ、あ~~……なんか、そんな風に言ってる奴いたっすね。オレ誘導と防御に必死で、全然見てなかったんすけど」

「あの時、大半のお客さんは避難しちゃってたし、たとえ和服姿の女性がいたとしても、勘違いじゃないかな……? あの時はコスプレOKのイベントにしてたから、普段と違う格好の人、いっぱいいたしっ……!」

「そうか……まあ、普通あり得ないよな。小柄な女が一人で、なんて。いや、ボクだって信じたくないんだけど……前に見ちゃったっていうか……」

 

 援護したウルカの証言もあり、ヨハネはあっさりと信じたらしいが、相変わらずテーブルに座ったままで頭を抱えている。

 このままにしておくと、しらばっくれ続けたとしても何か気付くかもしれない、と危ぶんだソウルは、無理矢理話題を変える事にした。

 

「そ、そ~いえばあの襲ってきた奴ら、アオカゲとかっていうらしいっすよ。クロカゲの後に出来た新しい勢力とかで……」

「アオカゲ……?」

「なんか、オージさんとリーダーっぽい男が会話してた時に、そう言ってました。なんか、お前らへの不満を俺らが代わりに晴らすー、みたいな感じで……難しくて、オレにはよく分かんなかったっすけど。迷惑な話ですよね」

「前と違ってギャンブルの縛りが厳しくなったから、うちに不満を持っていたみたい。でも、それだけじゃなさそうだったけど……」

 

 ソウルとウルカの話を聞き、手袋を顎の下に当てながら、ふむ、と頷くヨハネ。

 

「なるほど……。そいつら、調べてみる必要があるな」

「あ、そうそう! そいやオージさんが、戦闘した時に男が妙な能力使ったっつってました! なんか植能じゃなくて、とにかく変な……オレの位置からよく見えなかったんすけど!」

「何だって? てことは、もしかしてこれは、イサクが言ってたエレメントのことと関係が……。オージか。わかった、そっちを当たってみるよ。ありがとう」

 

 独り言を言うように呟いてから礼を言うと、隊服を翻して、ヨハネは風のように去って行った。

 「みんな! ヴァイスドームにこれから急行だ!」という威勢のいい声が表から聞こえてくるのを耳にして、ソウルはどっと疲れたまま、安心の溜め息を吐く。さすがのウルカも、ほっとした表情だ。

 さっきまで頭を抱えていたヨハネと反対に、今度はソウルが机につっぷした。

 

「あ~あ~、姐さん目立つことやり過ぎなんだよぉ……! 一応アオカゲの話を出してヨハネさんの気ぃ逸らすことには成功したけど、このまんまじゃ姐さんがアオカゲ絡みで事件を起こしてるって疑われかねねぇじゃん」

「捜査の結果によっては、そうなるかも……。でも、あの場でムラサキが助けてくれたってことを証言したら、今度はうちで庇ってあげられなくなっちゃうし」

 

 どうしようもないことながら、疑いが向かないことを祈るしか、二人には出来なかった。心配そうな顔をしていたウルカだが、ヨハネが出て行った扉を見つめ、背筋を伸ばしながら、毅然として呟く。

 

「ムラサキは、うちの女の子たちを守ってくれたよ、何回も。今度は、私達が守ってあげなきゃ」

 

 その言葉には、ソウルも同意しながら、隣で力強く頷いたのだった。



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1-13 発見

イサク達の発見により、事件はとある進展を見せる。
被疑者として捕らえられた者たちに現れたという、謎の紋様とは一体……?
そして、それを見て重大な事実に気付いたヨハネは、とある場所へと走り出す。


第13節 発見

 

 あの後訪ねようとしたのだが、結局オージは捕まらないまま、ボクは巡視を終えて仲間と共にSOATへ帰投していた。

 人手不足とかで、マネージャー業も兼任しているオージは、次のヴァイスのライブに向けて、今はスポンサー達との交渉に難儀しているらしい。リアルの体を持たない分、関係者との信頼を築くのに尽力してくれているのだと、久しぶりに会ったメンバー達が言っていた。

 ていうか、マネージャーっていえば、「捕縛」の時にボクと四苦八苦して奔走した、小杉の奴はどこ行ったんだ。自分で「クヌギさんがPなら、ワタシはさしずめマネージャーといったところですね」とか言っていたけれど。まさか、アイドルを使った社会実験は終了したから、とか言って、オージに仕事だけ押し付けて消えたんじゃないだろうね。あいつならやりかねない。

 ……何にせよ、大変だよなぁ、Pって。

 と、かつて彼女らのプロデューサーだったボクが、まるで他人事のようにそう思いながら、机で資料の整理をしていたところへ、緊急のアラートが響き渡る。

 出動要請ではなく、会議室への招集だった。

 

 既に上級職員を始めとする隊員たちが揃っていて、カシハラが目で合図するなり、イサクがスライドへパソコン画面を表示させながら、口を開いた。今回みんなを集めたのは、彼だったみたいだ。

 

「聞いてくれ! 街を騒がせている例の事件について、被疑者たちにある共通項があることがわかった!」

 

 どよっと、にわかに会議室がざわめく。

 捕まえた事件の被疑者たちは、皆一様に「記憶がない」とか「操られていたようだった」と証言する者ばかりで、留置しても暴れ出すことはなく、憑き物が落ちたかのように大人しかった、という調書ばかりで、一定期間後に釈放せざるを得ない現状に、SOAT内外からも賛否の声が集まっていたから、期待が高まるのも無理はない。

 ボクも、手袋の手を思わずきつく握り締めながら、スライドの表示される画面を見上げた。

 

「これだ。体の一部……特に背中が多かったんだが、事件直後の被疑者たちの体に、奇妙な紋様が浮かび上がっている」

 

 並んだ写真を、隊員たちが食い入るように見つめる。

 うっすらとはしているが、痣のような何か……色も形もさまざまなそれが、肌の上に現れていた。背中、手首、脚など。どうやら種類があるようで、類似度別に対比された表を、ボク達は眺めていた。

 一人の隊員が、はいっと威勢よく手を上げた。

 

「これらの跡は、最近撮影されたものですよね。今までの……事件発生当初には、確認できなかったんでしょうか」

「ああ。オレらが注目し始めてから分かったことなんだが、どうもこの跡、発生からごく短時間で消えちまうらしい。

あまりに消えるスピードが速い上に、まさか捕まえた奴らを、衣服を引っ剥がして身体検査するわけにもいかなかったからな。つい最近まで、明らかにならなかった」

「それを、青柳隊員が気付かれたので?」

「たまたま捕まえた中に、上半身の服装が薄いやつがいたんだよ。最初は入れ墨かと思ったんだが、なんか光ってやがるし、時間が経ったらなくなってるしで、妙に思って聞いたら、そいつも入れ墨なんか入れた覚えはねえって言う。

そいで、次からは捕まえた直後の奴らに、任意で身体検査をさせてもらった。この写真は、そいつらに撮らせてもらったものだ」

「女性の被疑者については、私とミライ隊長が担当してます」

 

 質問が出る前に、リアちゃんが立ち上がって答えるのが聞こえた。

 一応、素肌を撮らせてもらう調査だから、配慮はしているみたいだ。

 頷いて、カシハラが集まって全員に促した。

 

「おそらくだが、一般人にこの紋様が発現することによって、無意識に何かしらの現象を操ったり、それらを暴走させたりしている可能性が高い。

これらに、何か心当たりがある者はいないか? もしくは、これを見て気付くことがあれば教えて欲しい。何でもいい」

 

 再び場がざわめく。

 規則性が分からない以上、紋様の出る場所や大きさはランダムで、あまり何かを分析出来そうにはなかったけれど、まずは普通に見て何に似ているかを、ボクは考えることにした。

 色。形。それらを合わせた時のイメージ。

 イサクから話だけ聞いた時より、実際に目の前で、起こった現象を図案にしたものを見ると、より頭に浮かび上がってくるものがあるような気がする。

 なんとなくの先入観でしかなかったけれど、ボクが口にした言葉は、他の大多数の隊員たちが連想したことと、同じだったらしい。

 

「強いて言うなら……その赤い色のは炎、黄色が雷で……青は竜巻、オレンジっぽいのが岩……に見えるような」

「やはりな。やはりそれらの要素の象徴、ということなのか」

 

 ボクの答えに、カシハラが顎を引いて頷いていた。

 口に出しながら、ボクはついこの間イサクと会話していた時に頭に過った「どこかで見たことある」感覚が、どんどん強まっていくのを感じる。

 ボクはこれを最近すぐ近くで――しかも、「捕縛」の時にしょっちゅう見ていたような――

 

(なんだ……? この……今は四種類しかないけど、自然界の元素を象ったみたいな何か……と、赤・橙・黄・青……これじゃまるで、虹の七色……七いろ……7?)

 

 その数字が。

 強烈な爆撃みたいに、ボクの頭に轟音を鳴り響かせ、イメージを呼び起こす。

 思い出した!!!!!

 

 バンッ、と席を立って、駆け出そうとするボクの後ろから、慌てたようなカシハラの声が追い掛けてくる。

 居ても経ってもいられない気持ちになりながら、ボクは振り返って会議室の面々越しに叫んだ。

 

「おい、ヨハネ!? どうした!? どこへ行くんだ!」

「今すぐ、隊長たちを全員ヴァイスドームに集めて! コニとろこ、はるか達も一緒に!」

 

 

 

 ハルツィナドーム改め、ヴァイスドームのバックヤード。

 ここは、普段はライブホールでありながら、裏方には設備を兼ね揃えた、いざという時の研究施設と化している。

 

「コニ、わかるか?」

「……ううん、解析不能」

 

 護衛も込みで他のメンバーに付き添われてやって来たユイトの問い掛けに、元ハルツィナメンバーの一人、コニは首を振って答える。

 コンピュータに表示された波形を前に、コニは尚も首を傾げた。

 

「確かに、捕縛の時に私たちに憑いてた悪魔と似た気配を感じる……でも、完全には同じじゃない。能力の残滓が小さすぎてよく分からないけど。

それに、私たちに憑いていた悪魔はあなたが退けた……もう力も存在も残っていないはず」

「そうだよな……」

 

 少女時代のウルカから、大人の姿に戻ったコニは、モニターに過去の仲間たちの姿を映しながら、その歌声と、ユイトらに頼まれて解析していた例の紋様を、波形に変換して照らし合わせた。

 かつて、その歌声と存在で、捕縛時に世界を熱狂と混乱に陥れていたアイドルグループ・ハルツィナ。

 七人のメンバーのうち、コニを覗く六人全員は既に故人であり、ニレが計画を遂行するべく、アウロラの記憶を使って思い出の中から再現させた、幻の人格に過ぎなかった。

 それぞれのメンバーには、七つの大罪に値する「悪魔」を宿らせて「審判」の執行者とさせる。そして、「審判」を通してユイトにアウロラの記憶――友情の獲得と喪失を追体験させ、〝もう一人のアウロラ〟を作り出し、不老不死の存在を無限に複製させる、というのがニレの計画だったのだ。

 その時、各ハルツィナに憑いた悪魔――各大罪の悪魔たちが操る力こそ、火・土・雷・木・水・風・氷の力だった。各地で起こっている謎の事件に伴う超常現象と、同じように。

 

 コニの様子を見守っていたヨハネが、腕を組みながら傍の屋台骨に寄り掛かった。

 

「てことは、やっぱりあの時の審判や悪魔とは、関係がなかったのか……?」

「でも、事件の時に起こった火花や雷みたいな現象と、犯人の体に見つかってる紋様から考えて、無関係とはやっぱり思えないよ。もう少し、私達で詳しく解析してみる」

 

 そう言って、コニが振り返った先には、二人の少女たちがいる。

 コニと同じく、アイドル風の衣装を纏った二人。柔らかな銀色のツインテールを揺らして、微笑んだ少女は、ろここと湖東(ことう)絽子(ろこ)。斜めに前髪で左目を隠した、紺色のショートヘアで力強く親指を立てた少女が、はるかこと御手洗(みたらい)(はるか)

 二人は、現在ハルツィナに代わって人気沸騰中のアイドルグループ・ハルツィナWeiβ(ヴァイス)のメンバーであるが、有能な元SOATの隊員で、杉浦やヨハネの部下でもあった少女たちだ。

 こうして不可解な事件が起きた際は、ヨハネが個人的に声を掛けて、相談したり手伝ってもらったりしていた。

 

「悪いね。ろことはるかにまで手伝わせて」

「ぜ、全然ですっ。アイドルであれSOATのお仕事であれ、セブンスコードを救うのが、私達の使命ですからっ……!」

「せっかくクヌギさん達の取り戻した世界に、危険が迫ってるかもしれないなんて聞いて、放っておけませんよ」

「そんな大げさな。まだ危険って決まったわけじゃないんだし……」

 

 ヨハネが苦笑いするも、慎重派のはるかは、はや真剣な顔でキーボードを叩きまくっている。大げさと言いつつ、ヨハネも看過は出来ないといった様子で、ユイトに問い掛けた。

 

「何だろう。植能とはまた別のモノっぽいよね」

「ああ。ひとまずは、イサクの言っていた呼称を借りて、元素(エレメント)と呼ぶことにするか」

 

 共通認識を確認しながら、ユイトは集まった面々に話を進めた。

 

「イサク達調査班のおかげで今我々に発見されているものを、それらの特性から仮に火紋、雷紋、風紋、土紋とすると……ヨハネの仮説が正しければ、あと三つ、あると思って警戒に当たるべきだな」

「ええ。木紋、水紋、氷紋の出現も、いずれどこかであると思います」

「防ぐ手段がない手前、我々が鎮圧にあたる他あるまい」

 

 傍で話を聞いていたリアとミライが、機材の前に陣取りながらうなずく。

 ユイトは仲間たちを見回して、役割を割り振った。

 

「リアとミライは、お前達二人で、新たに出現すると思われる三つの紋に関わる現象がないか、引き続きパトロールで調査に当たってくれ。

ボクとイサク、ミカとヨハネで、火・雷・風・土についての紋様と、それによって引き起こされる現象の解析を進める。

事例は、起こってすぐの段階でしか分析できないことも多い。わずかな兆候も見逃さずにかかってくれ」

「了解ッ!」

 

 全員が揃った声を上げ、リーダーである体調を中心に各自の分担を決めつつ、他の隊員とともに散っていく。

 その様子を見守りながら、ユイトはヨハネの肩を叩いて囁いた。

 

「ヨハネ。例の彼女も……もしかすると、紋様の持ち主である可能性が高い」

「わかってる。早めに身柄が確保できるよう努めるから。……ほんと、IDがあるくせにログイン記録が残らない『幽霊』って、骨が折れるよね」

 

 そう舌打ちで返事をしながらも、ヨハネはいささかの気の重さが、胸にのしかかることを認めざるを得なかった。



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1-14 媚薬

ちょっと時間は遡り、閑話休題的な小話です。
ムラサキの持つ謎チョコレートの原料について、書いてあります。
ムラサキ以外の、名前を持つオリキャラが初登場する回です!


第14節 媚薬

 

 これは、ムラサキがママの風俗店を退店する、少し前の話である。

 

「うげぇ……最悪……。うー……やっぱり男って相性が悪いのかな……」

 

 アパートの一室。火照る体で、ベッドの上に蹲ったムラサキは、布団を抱き枕代わりにしながら呻り声を上げた。

 体が熱い。どうしようもなく。

 少し体と身に纏った布が擦れただけで、じんじんと疼きを感じる。

 口移しでの媚薬投与は、極力最終手段なのだが、どうせなら相手に絡まれて面倒になった時に、それで適度に手なずけて犯させてしまった方が早い、という考えが、ムラサキの頭の中にあった。どうせこっちの世界で妊娠はしないし。

 怯えたクロカゲの子達が無理矢理男に襲われるのを黙って見ているよりは、自分が代わりになった方がずっといい。

 そう思って、その日ムラサキは、街で柄の悪い男らに絡まれていたベビードールの子達から、纏めてそいつらを引き剥がし、個室で相手をしたのだけれど、複数人の相手はやっぱりキツかったらしい。

 

 男性との性行為について、変に慣れている割に性的興奮以外の要素を感じにくい自分は、見知らぬ男に道具代わりにされたところで心に大した傷を負うとは思っていないのだが、あいつらから精気を取った後の、この紋の暴走具合は何とかならないものだろうか。

 ムラサキの意志に関係なく、この淫紋は相手から精気を吸い取ってしまう。

 どんな性別の誰と行為に及んだところで、ある程度植能が荒ぶってしまうことには変わりないものの、なんというか、女性を相手にした時の穏やかで波のような、深く水底に沈んでいくような、苦しいけれどどこか心落ち着く感覚と違って、男性相手の時はひりひりダラダラと、冷房のない真夏のような鬱陶しさを感じる。

 同じ副作用でも、不快感は男性客の時の方が圧倒的に上だ。だから、ムラサキは女性だけを相手にする商売をしているのだ。

 

(折角こっちに来たのに、今日は仕事もできず寝たきりか……リアルで熱出した時とたいして変わんねえじゃん……)

 

 一旦ログアウトしたとしても、その不調は継続して続くこともある。

 せめて予約が入っていなかったことを幸運に思おう――としたところで、ムラサキの携帯が着信音を鳴り響かせた。

 この世界で、自分の私用の携帯に掛けて来る人間は、ごく僅かしか心当たりがない。

 肉体的理由と精神的理由、その両方から腕を持ち上げるのを億劫に思いながら、なんとかサイドテーブルに手を伸ばしたムラサキは、蛙の潰れたような声を出して応答した。

 画面がぴかぴかと、薄暗い部屋で光る。

 

「はい……」

『うっわー、ひどい声。え、大丈夫? 二日酔い?』

「やっぱり……。予約の時はママの店を通してって、前から言ってるじゃん……」

『まあまあ。あたしとサキの仲でしょ~? そっちの店だって、常連客とのやり取りに関してはそんなに口煩い規則ないし皆ゆるゆるなんだからぁ、目くじら立てる事ないじゃんっ? 別に減るもんじゃないんだしぃ~』

 

 いや、減るんだが。

 と、真顔で思いつつも、そう言い返す気力もないムラサキの耳元で、電話の主が何かに勘付いたように声のトーンを上げた。

 

『待ったっ! ね、今もしかしてすっごい調子悪い? ひょっとして植能使った後!?』

「……」

 

 黙り込んでしまったことを、ムラサキは後悔した。

 どう答えるか考えるような間こそ、こいつにヒントを与えてしまうようなもんだというのに。

 電話の主は、目の前にそのたまらない嬉々とした表情がくっきりと浮かぶほど歓喜の声を上げると、思いっきりこう叫んだ。

 

『決まりねっ! あたし今からそっち行くから! だいじょぶだいじょぶ、報酬はいつもと同じ倍払うしっ! ムラサキはそこから一歩も動かないでいいからね! 大人しく、服でも脱いでマグロになっておいてくれたまへ! そいじゃ!』

 

 当然、返事を聞くこともなく、叩きつけるように電話が切れる。

 はあ、と盛大に溜め息をついて、携帯を手から転がり落しながら、ムラサキはベッドの上へ脱力した。

 どうせ、逃げようと思ってもこの体じゃ逃げられないし、逃げ切れる気もしない。

 どこへ隠れようと鍵を閉めようと、人間の体調不良を喜ぶあの頭のおかしいマッドサイエンティストは、ピッキングでもハッキングでも何でもして、ムラサキを見つけ出してしまうのだ。

 

 

「さてさて! じゃーサキ! 今日こそ愛液の現物をっ」

「まてまてまてまて」

 

 鍵を掛けておいたはずの玄関を難なく開け放ち、挨拶もなしに一足飛びでベッドの傍へ飛んできた赤縁メガネの女が、試験管片手に足の間を開こうとするのを、ムラサキは辛うじて押さえつけて止める。

 

「愛液ならもうコピーで渡したやつがあるでしょ!? っていうか、あんたが私の植能を研究したいって言うから協力してやってんでしょうが! いつから体液コレクターになったの! もうそれストーカーより重傷だよ!?」

「んええ……研究だよう。だって、サキの体から出た分泌物を分析しないと、それが植能とどう関係してどういう機能を持ってるかもわからないじゃん。それに暴走直後の方が、やっぱいいデータが取れるっていうか、フェロモンも濃厚だしいい匂いがして……んふっ……ぐふぇふぇ、最高。襲いたくなってきちゃった」

「わかった。わかったから落ち着いてくれ」

 

 涎を垂らしかねない変態コレクターを、とりあえずこれ以上植能の力に当てないようにと、ムラサキはなんとか宥めて遠ざける。

 先ほどまでの怠さが、心臓の鼓動と共にいささか遠ざかったのを感じたムラサキは、本当に危機感を覚えた時って人間案外動けるものなんだな……と遠い目で思いつつ、とりあえず手持無沙汰に淹れたインスタントコーヒーを、目の前の女性へ――ミソラへと渡した。

 すんすん、と香りを嗅ぎながら、ミソラはうっとりとした顔を上げる。

 

「あ~~、徹夜明けのコーヒー、やっぱり最高」

「それノンカフェだけどね。今回は何徹してるの?」

「ん~、覚えてないけど、もう三日ぐらいログアウトしてないんじゃないかなぁ」

「やっぱこいつ狂ってるわ……」

 

 気安い口を叩きながら、ムラサキはローテーブルの向かいに座り、彼女に渡すべきものを渡すべく鞄を探る。

 手のひらサイズの試験管のような、細長いガラスの瓶に、ハートの蓋がついたもの。

 どこからともなく、ぽたん、ぽたんと瓶の中には雫が落ちて来る。とろみのついた透明な液体が溜まっていて、満タンに近くなったそれを、ムラサキはミソラに手渡した。

 薄手のタンクトップとショートパンツからはみ出そうなほどグラマラスなボディをしたミソラは、このこぢんまりしたムラサキのアパートに居るだけで、とんでもない存在感と圧迫感がある。このちゃらけた見た目からは考えられないが、彼女の職業は研究者だった。邪魔そうな胸にも構わず机に肘を突き、瓶を振りながら、下から覗くようにミソラは観察した。

 

「ん、確かに。なんだぁ、こんなに溜まってるなら早く言ってくれればよかったのに。替えの瓶ないでしょ?」

「最近色々あって結構ペースが速いから、あんまりソラに作らせるのも悪いかと思って……」

「そんなこと、気にしないでいいよ。サキはあたしの知的好奇心を満たしてくれる、きちょーな試験品(サンプル)なんだからねっ? それに、サキが作らせてくれる劇薬チョコレートのおかげで、徹夜で研究の時でも目が冴えてギンギンなんだからっ」

「まあ、こっちだって、ソラが護身用にってそれをチョコの形に加工してくれるおかげで助かってるんだけどさ……でも、常人でそれ食って無事な人間、今のところソラだけだよ……?」

「もう、常備食だよ~。二、三個でやめとこっと思うんだけどさ、ついつい手が伸びちゃって。気が付いたら一晩で全部なくなってたりするんだよね」

「それはおかしい」

 

 おかしいが、ミソラを常人の基準で計ることが間違いだったかもしれない、という今更すぎる気付きに、ムラサキは溜め息をついた。

 

 ミソラとムラサキの出逢いは、ムラサキがセブンスコードに渡航し、女性間風俗の仕事を始めてほどない頃に遡る。

 未だ植能の力に半信半疑だったムラサキだが、多くの客が入れ墨としてムラサキの紋を受け流す中で、当時客としてやって来たミソラだけが、その発動と効能に並々ならぬ興味を示し、研究させて欲しいと申し出てきたのだ。

 ミソラ、というHNを知っているだけで、それが本名なのかも、フルネームが何なのかも知らない。

 にも関わらず、マッドサイエンティストを名乗るミソラは、ムラサキがこの世界で唯一過去からやって来たことを明かした相手であり、共にこの紋の究明を手伝ってくれている、顧客兼悪友だった。

 

「サキと寝て、植能の発動時だけじゃなくて、体から発する成分にも何かしら効果があるんじゃないかなって思ったけど、やっぱり正解だったね。ラブジュースが催淫剤なんて、架空の話だと思ってたのにさー。そりゃ、これ舐めれば舐めるほど相手が興奮するわけだよ」

「それを集めて固めて薬にしようなんて考えるの、さすがミソラだよね……」

「だってぇ、サキの植能は武器に変わるわけじゃないんだし、何かしら使えるものは多い方がいいっしょ? これの変化見てたら、サキの体調の変化とかも分かるし。生理痛とか痛みは相変わらず?」

 

 手で瓶を転がすミソラの問いに、ムラサキは憂鬱げに頷いた。

 

「うん。やっぱり、私にはあるみたい。こっちの世界は、植能で攻撃されたとしても痛覚はないとかいう話だったのにさ~。

指切ったりした時も勿論痛いし、食べ過ぎれば胃もたれするし、頭痛も筋肉痛も生理痛もあるんだよ!? っていうか、生理なんかこっちにログインしてる人には起こらないでしょ、普通! ミソラに教えてもらわなきゃ、いい薬局もこっちで見つけられなかったしさ、もう散々」

「ふぬぅ……やっぱり、それは過去からこっちにログインしてる影響なのかもねぇ。こっちの人間に適用されるパッチが、多分時間渡航者には効かないってことなんでしょ。生理はもしかしたら、植能の代償なんかもしれないけど……。

時空を超える、なんてブッ飛んだこと起こってる時点で、変なことのひとつやふたつあったって、別に不思議じゃないけどさ~。気の毒だよね」

 

 セブンスコードの人達は、この世界で痛覚を知らない分、痛みや苦痛には敏感だ。

 ミソラも同じ類だったようで、素直に同情の目を向けるものの、すぐに爛々とその瞳を輝かせる。

 

「ねっ、じゃあさ、やっぱり原液から作った方がもっとやっばい薬作れると思わない!? どんな暴力男も、これでイチコロだって」

「いや別に私は媚薬欲しさに愛液提供してるわけじゃないから! これ以上強力なの作ってどーすんの!?」

「確かにこの瓶は、あんたの愛液を分泌に応じて自動コピーできる仕組みになってるけど、それでもコピーは所詮劣化コピーだもん~。体から直接出た奴の方が、色もドロドロも絶対すごいし、変質前の成分で分析できるよぉ。ほらぁ、自然界の力を残した消毒も何もしてない水の方が、安全性には欠けるけど霊力が強いみたいな話、オカルトでも言うでしょー? だからぁ」

「私をオカルトと一緒にすんな! てか一応人の口に入るもんだからせめて衛生面だけ確保してくれっていう、私の最低限の譲歩でコピーの採取になったと思うんですけどぉ!?」

「固い事言わずぅ。サキが過去から持って来たいって言った、食材とか調味料とかだって、ぜーんぶあたしが研究の対価として作ってあげたでしょー? 『麻婆茄子の素』とか、あれ地味にデータ化大変だったんだから」

「その節は大変お世話になりましたけど、それとこれとは別!」

 

 元の世界ではプログラミングなどさっぱりなムラサキのために、セブンスコードで必要な物資をデータ変換して提供するのを手伝ってくれたのも、ミソラだった。

 故に、それを持ち出されると断りにくいものはあるが、いやなものはいやだ。こいつにこれ以上何か提供すると、本気でヤバいものを生み出しかねない。

 じりじりと迫るミソラに、もみくちゃにされながらカーペットの上で抵抗するムラサキ。

 宇宙飛行士が尿を濾過して飲用水にするのと同じく、ミソラが作った特殊なガラス瓶にたまるムラサキの愛液からは、本体からの複製の過程で、細菌や有害物質(に相当するデータ)が取り除かれている。飲みたがる人間はいないだろうが、飲んだところで欲情する以外の害はない。

 作ったチョコレートが悪党に食わせること前提で、万が一にもウルカや少女たちに口にしないよう念を押していたのは、これが原因だった。

 

「い、いくら綺麗とはいえ、私の体から出たもん飲ませるとか、気持ち悪過ぎるわよ! それでさえ抵抗あんのに、原液とか!」

「ムラサキはやさしいなぁ。ど~せ飲ませることになるのは人の心がない奴ばっかなんだから、気にしなきゃいいのに」

「気にしますけど!? 髪の毛とか血液とか混入するヤンデレ娘のチョコレートか!? 何プレイだそんなん殺されるわ!」

「だいじょーぶだいじょーぶ、屍になっちゃったら、向こうはムラサキを殺せないからさ☆」

「やめてよ私バーチャルの世界だとしても前科とか作りたくない!」

 

 そういう訳で、絶対に嫌だとぎゃあぎゃあ暴れていたムラサキにのしかかったまま、呆れたように髪を振ったミソラは、タンクトップの上に羽織っていたシャツを脱ぎ落とした。

 

「もう~。わかったわかった。残念だけど、あたしの舌で味わうだけで満足しといてあげるから。抱かせて? キツいんでしょ」

 

 大柄で豊満な肉体を持つミソラに、汗だくの体を抱えあげられてぽいっとベッドの上に投げられる。

 白い体を躍らせてその上にのしかかってきたミソラは、ぺろりと舌で唇を舐め上げ、妖艶な笑みを浮かべた。

 

 そうだった。ミソラは客なんだった。

 客だけれど、ムラサキにとっても役に立つ相手。どうせこの溜まりに溜まった欲情は、発散することでしか鎮めることが出来ないのだから。

 ミソラが相手の時は、ムラサキは常に抱かれる側で、がっつかれるあまり消耗も激しいのだけど、今日に限っては助かるかもしれない。

 喉元を登ってくる唇を受け止めながら、ムラサキが呟く。

 

「ん……ていうかさあ、こんなヤバい研究、資金無尽蔵で出来るって、ミソラって実は相当偉い機関の人でしょ? どこ所属なの?」

「ん? ふふー。ちょっと言えないとこ」

「あんたが言うとシャレに聞こえない……」

「はいはい、もうこっから先は難しい話はナシだよ。今はあんたの『お仕事』に集中しなさい」

「はぁ…………。もう」

 

 掌が、服の隙間を潜り、這ってくる。

 ムラサキは、暴れ回る熱を消してくれることを祈りながら、諦めてベッドに四肢を投げ出した。



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1-15 急事

なんとか鉢合わせないよう努めていたムラサキだったが、ある日街中を巡回中のヨハネについに見つかってしまう。
そこへ、緊急事態を告げる端末のアラートが鳴り響き……?

思いもがけない「あの人」(うちのオリキャラ)が名前だけ登場します。


第15節 急事

 

「……っつーわけで、一応シラは切っといたんだけど」

「うわちゃあ。やっぱそうか~。そりゃ怪しまれるよなぁ……」

 

 後日。ソウル達から、ヨハネがクロカゲへ調査にやって来た経緯を聞いたムラサキは、喫茶・クロカゲのテーブルで頭を抱えた。

 かくなる上は、ソウルとウルカに黙っておくわけにもいかず、ムラサキは正直に、自らのもう一つの仕事と、植能のことを打ち明ける。

 驚くべき話に、二人はただただ目を丸くするばかりだった。

 

「ごめんね、黙ってて」

「や、それはいーんだけどさ。オレ、こう見えても一応クロカゲ側の人間だし、身を守るのに植能を自分のモノにしときたいっつー気持ちはわかるから。

そうじゃなきゃ、姐さんを庇ったりしねぇよ」

「街中の人達も含めたら、違法に所持してるけど黙認されてる人って、沢山いるしね……。でも、ムラサキのそれは、私は初めて見たよ」

 

 さすがに二人を相手に使う訳にもいかないので、子宮(ウーム)の魅了の力については口頭の説明だけになってしまったが、既に何度かその力を見聞きしたソウルとウルカにとっては、それでも十分信用に値するものだったらしい。

 納得したようにうなずく二人を見て、ムラサキは手元のジュースの氷をつつきながら、ぼんやりと遠い目になる。時々変えている髪型は、今日はハーフアップではなくポニーテールになっていた。

 

「ちょっと派手に事件起こし過ぎたかなぁ。いやでも、私起こした方じゃなくて、巻き込まれそうになったのを回避しようとした側なんだけど」

「姐さん、お人好しだからな~。裏通りで絡まれてる子を助けようとして、ちょいちょい力使ってごろつきを追い払ったりしてたの、あれも姐さんだろ」

「こんなに噂になるなんて思ってなかったんだよ~~~~!」

「まあ、着物姿で、未だ未発見の植能の使い手で、しかもこの店でめちゃめちゃ美味い料理の提供者? ……目立つ要素しかねぇなー」

「反論の余地もございません……」

 

 がっくりとうなだれる様子を見せてから、けれどムラサキは、すぐに頭を上げると、ぶんぶんっとその顔を振った。

 

「でも、大丈夫。二人には迷惑掛けないようにするからさ。私、このお店辞めるし」

「え?」

「足取りが追えなくなれば、もしソウルくんとウルカちゃんが知ってることを全部喋ったとしても、SOATもそれ以上どうしようもないでしょ?」

 

 にっこり笑うムラサキに、目を丸くするソウル。

 ウルカが、わたわたと慌てて手を振った。

 

「だ、だめだよ、そんなの。ムラサキはその後どうするの?」

「だいじょーぶ! 私、今度から風俗店の方もやめて、独立営業することになったから。そっちさえ辞めちゃえば、誰も私の居場所なんてわからないし。簡単には捕まらないよ」

「けど、SOATって案外腹黒いぞ? この世界のあんたの住所くらいは、官僚特権であんたの店から聞き出すかもしんねぇし、プライバシーもクソもあるもんかって感じだ」

「大・丈・夫っ。もしそうなっても、こっちの世界の人に、私は絶対どうこうできない。最後の砦がちゃんとあるからさ」

 

 ぶいっ、とブイサインを作ってみせるムラサキに、ソウルとウルカはそれ以上何も言えなかった。

 ムラサキが、リアルどころか、時空を跨いで過去の異世界からセブンスコードにやって来ていることは、さすがにこの二人にも言っていない。別にこの二人相手に秘密にする必要もないのだが、正直に話したところで信じてもらえるかは怪しい、というところもあった。

 いくら厳粛なSOATや規則であろうと、たとえこの世界の法律であろうと、異世界人には適用できまい、と踏んでいたが故の自信で、なんとかこの二人をムラサキは安心させようと試みる。

 

「あんまり深くは突っ込まねえけど……無茶すんなよ。こっち、アオカゲみたいな怪しい組織も、最近ちょいちょい出て来てるからさ」

「うん、ほんとに……どこにも頼れないって思ったら、絶対に戻ってきてね。私たちで、何とかしてみるから」

 

 最後まで心配の色を隠さない二人と、その心遣いに感謝をいっぱいにしながら、ムラサキは軽く手を振って、喫茶・クロカゲを後にした。 

 だがしかし、運命の悪戯というものは残酷で、時に本人たちの願った方とは真逆へ物事を捻じ曲げてしまうらしい。

 ある日のこと、ソウルとウルカ(そして、恐らくは彼らに根回しされていたオージ)の口裏合わせの努力にも関わらず、ムラサキはばったりと、街中で巡回中のヨハネとミカに出くわしてしまったのである。

 

 

「ていうか、なんでミカまで『特別警備班』とやらに入ってんだよ。ボク一人で十分だって」

「ヤダ、つれないこと言わないの。アタシがいた方が、ヨハネだって面倒ごとに出くわした時に楽でしょ~お?」

「いや、戦闘に加わってくれるのはありがたいけどさ……そんなドンパチやるような騒ぎ、こんな人気の多い街中でそうそう起きないから。ゴツいミカを連れてたら、かえって悪目立ちじゃないか」

 

 ぶちぶち文句を言いつつも、いざという時に防御一辺倒に偏りがちなヨハネにとって、刀剣を振り回せるミカがいるのは助かるので、追い払いはしない。

 オネェの大男と華奢な美青年、というアンバランスなコンビで並びながら、ミカはウィンドウショッピングする人達で賑わうファッション街を、見渡しながらSOATの制服姿で歩いている。

 

「でも、ヨハネが探してるその女の子も、変わった格好してるのよねぇ?」

「ああ。一度見たら忘れられなさそうなもんだけど……あの和服って、やっぱり時空を超えてこっちに来た影響なのかな。ミカは、カシハラが言ってた時間渡航者の話、信じるか?」

「そうねぇ。いたら面白いわ、って感じじゃない? だって着物や和服が普段着なんて、アタシのママとかおばあちゃんより世代前の人なのよ!? 前に、明治っていう時代の和服と袴見せてもらったことあるわ。もう、すんごいかわいいのよ~。あんなプリーツとブーツで、アタシも花の女学生になってみたい♡ なんて。もしその子が大昔から来てたら、アタシにもその格好教えてもらえるのかしら」

「いや、どうだろうね……。にわかには信じがたいけど。そもそもそんな時代、パソコンもインターネットもないだろ。なんでこっちに渡って来て、平然と生活できてるのか気になるよ」

 

 徐々に人波が増えてきて、ヨハネは一旦ミカと別れ、雑貨店のあるあたりを見回ることにした。

 カチューシャにヘアゴム、帽子など、アクセサリーの店が、街頭にマネキンやボードを広げながら並んでいる。

 前に出逢った女の、頭のリボンが妙に印象に残っていたヨハネは、自分もその目を楽しませつつ、商品の間を見て回った。最近は被害も減ってきたが、こういう場は万引きも多い。

 

(あいつも……こういうの、付けたりするのかな)

 

 もしかしたら買いに来ることもあるかもしれない、というダメもとで、ここをパトロールの場に選んでいたのだ。

 ふと、朧げに女の顔を思い浮かべては、考える。

 和装だし、ちりめん模様のパーツが付いたヘアアクセや、簪も似合いそうだ……と考えてから、ヨハネはぶんぶんっと頭を振った。

 

(こ、これは、あくまであの格好に似合いそうなコーディネートってだけで! まるで彼女に贈り物したいみたいじゃないか。容疑者相手に何やってるんだボクは)

 

 そんなヨハネの必死の執念が奇跡を呼んだのか、ふと目の端に、見覚えのある紫色が映った気がした。

 捜して捜して、幾度となく似た色やひらひらを勘違いして振り返っては、落胆を繰り返した、あの紫色が。

 

「待っ……!」

 

 思わず、扉の外側に立つ客を飛び退かせたのにも構わずに、店の外へ出る。

 今日はセールでもやっているらしく、相変わらずの人ごみだが、行き交う革靴やヒールの合間に、するりと袴の裾の端が見えた。

 一度視界に捉えてしまえば、さすがに全身が見えなくても、あの特徴的な衣装は見逃さない。

 右へ、左へとゆらゆら動く、腰から下の袴から絶対に目を離さないようにしながら、ヨハネは彼女を追い続けた。やがて、ファッションビルが並んだスクランブル交差点の手前へ差し掛かり、彼女が道を渡ってしまう、と思ったヨハネは焦った。

 目の前にはまだ数多の人達が、押し合いへし合いしながら歩いていて、これを飛び越えながら今すぐ彼女の元へ駆けつける事など出来そうにない。ええい、と苛立つ一心で、埋もれてしまいそうなほど小さい頭のてっぺんに咲いた花飾りに呼び掛けるように、ヨハネは思い切って首を伸ばし、後方から声を張り上げた。

 

「おおい、そこの女!」

「……? 私のこと?」

 

 幸いなことに、背広姿の男の背に遮られながら、不思議そうに立ち止まった彼女が、あたりを見回す気配がした。

 間違いない。聞き覚えのある声だ。

 高鳴る胸の内には無自覚なままで、そちらの方へ人波を泳ぎながら、ヨハネが叫ぶ。

 

「他に誰がいる!」

「いや、だってナンパするなら、私より可愛い顔した子がごまんと転がってるのに、なんで私かなって」

「ナンパって……誰がナンパだ! おい、止まれ! そこを動くなよ!」

 

 突如現れたSOATの隊員に、不思議そうに通行人が道を空けるが、横断歩道の手前で立ち止まっていた彼女は、声を掛けられた時点でヨハネのことを分かっていたのか、慌てることもなく、ちょっとだけ驚いた目を見開いて、そこに立っていた。

 わざわざ荷物を持ち歩きたがらないセブンスコードの住人には珍しく、猫柄の黒い手提げ鞄を、両手で持っている。

 

「あんた、あの……」

「えーと……またお会いできて光栄です、ヨハネ隊長?」

 

 躊躇いつつ声を掛けようとするヨハネに、同じく困った顔で首を傾げる彼女。今日は薔薇の花飾りで、頭の毛をハーフアップに纏めている。

 少し呼吸を整えて、ようやくいつもの調子を取り戻したヨハネが、勢いよく喋り出した。

 

「ずっと探してたんだよ! とりあえず、SOATまで事情聴取に来てもらおうか」

「いやちょっと待って、私なんかした!? この間助けたのなんかマズかった!?」

「あれはあれで感謝してるけど、あんたが使った変な能力の方が問題なんだよ! 例の紋様の事件との関係性が分かんない以上、あんたを捕まえざるを得ない。あんたは……」

 

 そこまで話して、名前すら知らずに「あんた」を連発していた事に気付いたヨハネは、一瞬だけバツの悪そうな顔になって、言葉を飲み込む。

 

「……ボクの事は知ってるんだよね。えっと、名前」

「あ。私、ムラサキ。大野(オオノ)紫咲(ムラサキ)。よろしくね」

 

 案外あっさりと名乗ったムラサキの無邪気な笑顔に釣られ、思わず差し出された手を握り返す。

 その途端、ムラサキが姿を消す直前に感じた、あのふわりとした感覚と、淡い匂いを感じた。ぶわっと、顔に血がのぼって熱くなる。

 

「……って、前回と同じ手は食わないからねッ! 言ったそばからボクの事を惑わしてんじゃないよっ!」

「あ、いや、ごめんごめん……私、植能のコントロール効かなくってさ。うれしくなっちゃうと、つい」

「……? な、何それ……ボクに捕まりかけてるのに嬉しいの……? っていうか植能って何さ、こんな作用のある主要植能なんて、SOAT内でも聞いたことないんだけど! やっぱこいつ怪しい!」

 

 逃がしたくはないが触りたくもないヨハネと、そんなヨハネを見てテンパりつつも面白そうな顔になっているムラサキの元へ、もう一人の人物が合流しながら声を掛けた。

 

「あ、いたいたヨハネ~! もう、どこまで行っちゃったかと思ったわよ。……あら? その子ってもしかして……」

 

 たったか走って来て、不思議そうに首を捻った大男はミカだ。その姿を呆然と見上げ、口元に手を当てながらムラサキが目を輝かせた。

 

「わ、うそ……ミカちゃん……? どうしよ、かっこいい、強そう……本物初めて見た……」

「……ねぇヨハネ、本当にこの子であってるの? こ~んなにかわいくていい子が、アンタの追っ掛けてる被疑者ってわけ?」

「ミカも! ほだされてんじゃないよッ! ていうか可愛いは関係ないだろ! ほらミカ! 手錠!」

「えぇ~~……なんか可哀そうよぉ、用心し過ぎじゃなぁい? こんないたいけな女のコに。ヨハネみたいな邪でケバ~い子ならともかく」

「ボ・ク・を、引き合いに出すなッ! どーいう意味だよッ!」

 

 ぎゃあぎゃあと半狂乱で喚くヨハネに肩を竦め、一応は手錠をかしゃんと嵌めるミカ。

 大人しく抵抗もしなかったので、意外そうに瞬きをしながら、ムラサキの顔を見た。

 

「あらアンタ、暴れないのねぇ。ヨハネから、結構な手練れだって聞いてたけど?」

「いや、捕まりたくはないけど、ここまでして来られたらさすがにね……。リバー持ってるミカちゃんの前で、無駄な抵抗する勇気はないし」

 

 諦念を浮かべながらため息をつくムラサキだが、ミカは己の知名度に喜んだようだ。

 

「あら~♡ ヨハネのことだけじゃなくて、アタシのこともいっぱい知ってくれてるのね♡ ……ん? なんか今、すれ違った人からいい香りが……やだイケメンっ! ちょっと待って、このあたりイケメンパラダイスじゃないのぉ! なんでアタシったら、今まで気付かなかったのかしら!」

「うわぁ……オカマの人に効くのかどうかは知らなかったけど、ちゃんと効くんだね」

「わっ、まさかさっき手錠掛けたせいで……! おいミカ、不用意に近づくなっ、こいつ変な技使うんだから!」  

 

 しっしっ、と犬を追い払うようにミカを遠ざけてから、ヨハネは不機嫌そうにムラサキを睨む。

 

「えっと……オオノさん、でいいんだっけ?」

「やだもう、硬いなぁ。普通にムラサキって呼び捨てでいいよ〜。ヴァイスちゃん達のことは、最初っから全員名前で呼んでたくせに」

「なっ……! なんでそのことを……!?」

「そりゃもう、知ってるよ。ヨハネさんのことなら、なんだって」

 

 得意げに胸を反らすムラサキに、あら、と驚いた顔をするミカの横で、ヨハネは更なる驚愕の表情だ。

 捕縛の時、ハルツィナヴァイスのメンバー達と、ハルツィナを破ってセブンスコードの主導権を奪い返そうと奮闘していたことは、内密にしか知られていないはずで、それを知っているとなると、やはり只者ではないに違いない、と警戒の色を露わにするヨハネ。

 

「ま、まさか、あんた……」

 

 ヨハネの目が、何かに思い当たったように、一瞬差した陽光を浴びて光る。

 期待にきらきらっと目を輝かせたムラサキの前で、ヨハネは呆然としたまま、言葉を紡いだ。

 

「じゅ、重度の、ストーカー……」

「おいっっっ! ちょっとっっ! さっきまで時間渡航者云々の話しといて、なんでその結論になるかな!? ここは普通、せめてタイムトラベラーって結論になるでしょ!?」

「あ、そうか……ていうか、なんで密航者が何かってことまで知ってんだよ!? やっぱストーカーじゃないかっ!」

「いや、さっきミカちゃんと立ち話してるの聞いただけだし、あんな大声で話してたら誰だって気付くでしょ。もうちょっと機密事項に気を付けた方がいいよ……? ていうか、『密航者』って呼ばれてるんだね、私たちみたいな人って」

「私『たち』?」

 

 複数形にヨハネが引っ掛かって問い直すと、ムラサキは意味深長に微笑んでみせる。

 

「多分、私だけじゃないんでしょ? ヨハネはもう一人、なんかこいつ同じ時代の人間にしては妙だな、って子に会ったことがあるんじゃない? ヨハネによく似た、色白ボブカットの女の子」

「……」

 

 言葉に詰まったのは、そんな奴会ってたらとっくに調べてる、と言い返そうとして、不意に記憶がそれを遮ったからだ。

 明らかに示唆してはいなかったが――確かに、会ったことがある。「捕縛」の後からめっきり見かけなくなったので、完全に忘れていた。

 その前は賭場でバカ騒ぎして夜まで飲んだり、服を交換して街に繰り出したり、しょっちゅう遊んでいたのに。

 皮肉気な笑みを浮かべた、けれど自分より遥かに年上の割にはやたら幼く見える、その顔を思い浮かべつつ、ヨハネは唇を開く。

 

「まさかあんた、アイリの知り合い……?」

「んふ。知り合いっていうか、並々ならぬ関係……? んふふ」

 

 思いもがけない新たな関連性に頭を巡らせるヨハネへ、ムラサキは下から見上げるように尋ねた。

 

「それで? 本当に私を捕まえるの?」

「だから、さっきからそう言ってるだろ」

「あぁ……うーん……ヨハネさんに会えたのは嬉しいけど、捕まったら捕まったでちょっと困っちゃうっていうか……」

「ほら、やっぱり! なんか後ろ暗いところがあるからだろ! もう大人しく逮捕されろ!」

 

 再び勢いを取り戻すヨハネに、唇を尖らせるムラサキ。

 

「だって未発見の植能があるって分かったら、絶対私のことモルモットみたいにするでしょ!?」

「ふん。どういう経緯か知らないけど、ボクはまだ植能のことも密航者のことも、半信半疑だからね。あんたが巧妙な嘘つきって方に賭ける。いくらボクが可愛いからって、こんな……ううっ、ストーカー容疑が決まったら、SOATで徹底的にあんたの化けの皮を剥がしてやる!」

「いやなんか私の容疑変わってない!? それはいいの!?」

「うるさい! 絶対身ぐるみ剥いで証拠調べてやるから覚悟しなよ!」

「やだやめて、お嫁に行けない体にされちゃう! もう行ってるけど!」

「バカ言ってんじゃな……はァ!? あんた既婚者なの!? ダメだ、もう情報多くて頭痛くなってきた……」

「お二人とも。仲良く漫才やってるところ悪いけど、出動要請よ」

 

 ぎゃんぎゃん喧嘩をしているところへ、珍しく真面目なミカの声が響き、ムラサキとヨハネはそちらを振り返った。

 ミカの手に巻き付けられた小型端末が光り、異常事態を知らせている。

 同様に手元の端末がアラートを鳴らしていることに、ようやく気付いたヨハネは、物凄く気まずそうにごほんと一つ咳払いをしてから、ぴっと端末のボタンを押した。

 

「あー……こちら、NZ区特別警護班班長」

『こちらFZ区巡回班! 巨大な青い女が、街中に現れて危害を加えている模様!近隣の巡回班及び詰所隊員が戦闘中!

至急戦闘と緊急避難に加勢されたし! 繰り返す! 巨大な青い女が……っ、があぁっ』

 

 不穏な叫びを残し、ぶつり、と無線が切れる。

 思わず不安げな様子で首を傾げるムラサキの隣で、ミカとヨハネは顔を見合わせる。

 

「あたしらも、すぐに行った方が良さそうね」

「ああ、そうだな。一旦SOATに戻りたいところだけど……事態は一刻を争うみたいだし」

 

 ちらり、とこちらを眺めるヨハネの視線に、ムラサキは嫌な予感が汗となって背筋を下っていくのを感じた。

 

「あの……もしかして変なこと考えてない? 私なら、ここに置いてってもらって全然大丈夫なので……」

「バカ。そんなことしたら逃げるに決まってるだろ。あんたは連れて行く。絶対に傍を離れるなよ」

「ムラサキちゃんっ、このまま三人で飛ぶから、しっかり捕まっててねぇっ」

 

 端末同士を合わせて、大人数用のワープホールを使うヨハネ達。

 

「なんでこうなるのおぉぉぉ!」

 

 ムラサキの断末魔の叫びは、空中に消えるワープホールの奥へと吸い込まれた。



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1-16 八尺

ちょっと長めです。
現場に到着した、ヨハネ達一行。
現れた「青い女」について、何故か知っているらしい素振りを見せるムラサキ。
逃げ惑う中で、なんとか撃退法を見つけ出すものの……?


第15節 八尺

 

「ねえ、いくらなんでも、もうちょっとやり方あると思わない?」

 

 先ほどとは打って変わり、憮然とした表情でヨハネの隣を走るムラサキ。

 混乱の影響で通信障害が起きているらしく、FZ地区の近くまでしか瞬間移動は使うことが出来ず、そこから先は徒歩で移動するしなかなったのだが、しかし。

 

 出動することを第一目的として、相手のペースなど気に掛ける余裕もなく走るヨハネに、引き摺られるようにしながら街中を移動するムラサキがぶうたれている理由は、その右手の手錠だ。

 SOATが被疑者や犯人を確保する時に使う、淡い燐光を放つ電子錠。

 その片側に拘束されたムラサキの右手首は、反対側の輪で括られたヨハネの左手首に繋がれていた。

 ぢゃりんっ、と短い鎖に繋がれた手錠が鋭い音を立てる。

 

「ねえちょっと! 痛いってばッ! もうちょっとゆっくり歩いてよっ、いくら戦闘用に改造されてるとはいえ、この袴走りにくいんだから!」

「さっさとしないと犯人が逃げるだろ! だいたいあんた、さっきから何回ボクの足踏んでんだよッ! 仕事の邪魔しないでもらえるかな!?」

「はあぁ!? あんたが勝手に連れて来たのに仕事の邪魔もクソもあるか! イヤなら置いてけ! ばーかばーか、ヨハネのばーか!」

「なっ……あっそう! だったら今すぐここに放り出していってあげるよッ! その低能な返ししか思いつけない頭で、どこまで生き残れるか見ものだね!」

「むきぃぃぃぃ! いいもんっ、自分の身くらい自分で守れますよぉーだ! てゆーか、だったら早く離しなさいよ!」

「ああ離してやるよ、SOATに連れ帰ってあんたの嫌疑が晴れてかr……ぎゃああああ! コイツブーツの踵で踏みやがった! もう絶対許さないから!」

「ヨハネが思いっきり引っ張るからでしょ! わざとじゃないもん!」

「あんた達、元気ねぇ……」

 

 まったく馬が合わずに、ぎゃあぎゃあ押し合いへし合いしながら進むヨハネとムラサキを、呆れたように見守るミカがその隣に続き、通報のあった大通りに飛び出すと、スクラップの残骸が広がる道路に、SOATの隊員が倒れていた。

 駆け寄ったヨハネに合わせて、ムラサキもしゃがみ込む形になる。

 

「おいっ! 何があった!?」

「あ、あっちに……化け物の群れは、となりの地区にまで、浸食を……青い、女が……」

 

 そこで意識を失った隊員が、地面にぐったりと倒れ伏す。

 

「青い女……さっきから聞いてるこれは、いったい何のことだ……?」

「リーダー格の奴がいるのかもしれないわね。アタシ達は現場に急ぎましょ」

「まだ走るのぉ~???」

 

 既にへとへとなムラサキが、ヨハネ達の後に続く。途中で見かねたミカが何度かおぶってくれようとしたのだが、同じ手錠に繋がれたヨハネが断固拒否したので、いやでも走るしかない。

 そして、何かを破壊する音や爆音の続く市街地に出たムラサキ達は、衝撃の光景に呆然と立ち尽くした。

 

 ヨハネ達に通報があったFZ地区やそこに隣接するいくつかの地区は、色欲の柱のすぐ隣にある街だ。

 象限の端にある海の方へ近づくにつれ、高いビルは姿を消していくものの、このあたりはまだオフィスビルや商業向けの建物、宿泊施設なども多く、都会の様相を呈している。

 その街の中を――ブロック塀や標識を優に超える背の高さの怪物が、青いゼリーのような体を揺らし、二足歩行で歩いていた。それらが何体も、街中を占拠しているのだ。

 

「ヤダ、ちょっとなんなのこのキモい奴!」

 

 ミカが代表して声を上げるが、周りの人間達は驚く間も余裕もなく、逃げ惑っているようだ。

 某作品の言葉を借りて言うなら、ダイダラボッチの縮小版。

 もうちょっと可愛く言うならば、巨大化したクリオネに足が生えたやつ、と言うこともできる。

 ぷるんっ、と水と個体の中間のような、妙に潤い豊かな体を揺らし、好き勝手にガラスや壁にぶつかって、破壊の限りを尽くす青い怪物は、すべて二本足で――おまけに、全員が白いスカートを纏い麦わら帽子をかぶっている。

 こんな巨大な人影に被せるスカートなんてどうやって作ったのかという疑問がムラサキ達の脳内を闊歩するが、実際目の前で着ているのだから、考えたって仕方がない。

 顔も手足もろくに判別できない、ただ水っぽい体内で細胞間物質が蠢いているだけのように見える怪物にも関わらず、青い「女」と呼ばれているのは、この服装のせいなのだろう。

 

「何なんだこれ……ほんとに、なんなんだよ……」

 

 くるくると優雅なスカートで回りながら、軟体生物じみた柔らかさで、ビルの壁に這い上った青い女が、ビルの客たちを脅かしている。もう一体は、ぐにゅぐにゅの体で看板に巻き付きながら、それをへし折っていた。物凄い力だ。

 それまで、闘うにしても人間相手、どれほど人間離れしているにしても悪魔の「審判」を受けている最中の人間達や、小腸(インスティン)の怪物くらいしか相手にしたことがなかったヨハネにとって、完全に人知を超えている状況だった。

 そんな中、ムラサキの反応だけは、二人と少し違っていた。

 

「なんだこれ……? 八尺様(はっしゃくさま)……?」

 

 二人の隣に立ちながら、ぽかん、として上を見上げるムラサキの言葉に気付き、ヨハネが問い返す。

 

「ハッシャクサマ? て何?」

「知らない? 有名な都市伝説。すんごくでっかい……ええと、一尺は昔の単位で30cmくらいだから、八尺で240cm身長があるって言われてる、女の化け物だよ。

だいたいが麦わら帽子に白いワンピースっていう服装で、お話に出て来ること多いみたい。少なくとも、頭に何か被り物してるのは確からしいよ」

「そいつは、何者なの……?」

「さあ。何者だかわかんないから、都市伝説なんだと思うけど」

 

 思いもがけない情報源に、ヨハネが目を丸くしながらも、手を引っ張って物陰に隠れつつ問い掛けた。

 とりあえずは、怪物の視界から逸れた場所で、作戦を考えるつもりだ。

 

「たしかに……240cmくらい、あるように見えるかも。言われたら、あの頭から出てる青いぴろぴろが髪の毛っぽい」

「人間サイズのアバターじゃ考えられない大きさねえ……何かのバグでなきゃ、起こりっこないと思うんだけど」

「こっちの世界は知らないけど……とりあえず、私の知ってる八尺様は、とりあえずバカでかくって女の人で、あと、鳴き声。……あんな感じの」

 

 ひそひそと、気付かれないように三人が話す。

 ふと会話が途切れて耳を澄ませると、破裂音のような「ぽぽぽっ」という声を出しながら、大股の八尺様が往来を我が物顔で歩いていく。

 ヨハネの横にくっつく形で、塀の傍をのっぺりと歩く八尺様を隠れて見上げながら、ムラサキが言った。場違いなほど青く晴れて広がった空に、長身の八尺様の白いワンピースと帽子の色が眩しい。

 

「でも、強いて言うならその……お化け? なんじゃない? 八尺様って、気に入った相手を憑り殺しちゃうらしいよ」

「意味不明なんだけど……なんで気に入ってるのに殺しちゃうのさ?」

「ほら、ウイルスだって生きるために寄生した結果宿主殺しちゃうっていうし……」

「ていうか、お化けって何さ。ここセブンスコードだよ? そんな怪談じみたことなんて、起こるわけが……」

 

 そう言い掛けたヨハネを、何事も疑ってかからないことはない、と話していたユイトの台詞が、脳内で押し止める。

 一度頭を振ると、ヨハネはミカとムラサキを見た。

 

「まぁ、いい。仮にオオノさ……いや、もういいや、ムラサキが今言った通りの化け物に似てるとして、奴が何者かに関わらず、とりあえず何とかして集めなきゃ。ボク達だけで倒すには、数が多すぎる」

「一か所に呼び寄せてから、まとめて倒すってことね。アタシに任せて頂戴。でもヨハネ、集めた後にどうやって攻撃するかは考えてるの?」

「それは今から考える……。武器として何が通るかは分からないし、それも試しながら、どこか広い場所にあいつらを集めよう。最悪、集めた場所に鉄条網で封鎖を施せば、混乱を収めることはできる」

「了解。じゃ、アタシはさっき行った奴の後ろから、一太刀浴びせてみるわねん。あのブヨブヨ、この刀で切れるかしらぁ」

 

 その手に刀剣(リバー)を出現させながら、ミカが試し振りするように腕を振るう。

 その時、訝しみながらムラサキが言った。

 

「ねえ。この先の道、行き止まりだったのに戻って来ないなんておかしくなぁい?」

「奴ら、歩いてった先の壁でも壊して暴れてんのかしら」

「そうかもしれないけど……なんか妙に静かだし」

「そうだよね……あれだけ煩かったのに、鳴き声も足音も急に聞こえなくなって、」

 

 ぬとり。

 足元に液体が落ちて来て、三人は宙を見上げる。

 そして思わず、小さく悲鳴を上げながら身を引いた。

 6、7体の八尺様が、べたべたっ、と路地のビル壁に貼り付きながら、3人のことを見下ろしていた。

 赤い細胞核のようなものと、プランクトンのような物質がくるくると踊る頭を向け、目がなくても見ていると分かるほどの纏わりつくような視線を浴びせながら。

 

「ぽぽっ」「ぽぽぽっ」「ぽぽ、ぽっ」

「「ぎゃああああああああああっ!?」」

 

 悲鳴を上げながら、反射的に身を翻す。

 三人をどう食べるか、と相談しているような様子で身を寄せていた八尺様達は、べたん、と高いビルの壁面から下へ飛び降りてきた。

 一瞬だけ後ろを振り返ったムラサキの視界に、ばしゃん、と地面に落ちて砕け散った八尺様の体が、液体から宇宙人が構成されるようにしてたちまち元通りになるのが映った。

 

「ぽぽぽっ」

(そういえば私、前に賭場の帰り、この声聞いたような……じゃあ、あの川の傍にいたのって、やっぱり八尺様?)

 

 腕を手錠ごと引っ張られて疾走しつつ、ムラサキはぼんやりと物思いに耽る。

 

「でも、八尺様がこんな風にスケスケしてるなんて、聞いたことないなあ」

「わかったからッ! そこまで知ってるなら、あんたその、八尺様の倒し方知らないの!? 弱点とか!」

「それは知らない。だって倒したって話聞いた事ないよ。部屋の隅に盛り塩すれば、入って来られないようには出来るらしいけど、そっから後はもう、八尺様に追い付かれないように全力で安全な場所まで逃げるしか」

「あーもう! この役立たず!」

「人の知識に頼るだけ頼っといて役立たず言う!? 悪うございましたね役立たずで!」

 

 その図体とは思えないほどの恐るべきスピードで、カエルかペンギンのような足を使い、べたん、べたんっと足音を立てながら八尺様が迫って来る。

 慌てたムラサキが、繋がれた手首の痛みも忘れながら叫んだ。

 

「人間の足じゃさすがにあの歩幅に勝つの無理だよ! バイクか車に乗んないと追い付かれる!」

「バカ言ってんじゃないよッ! セブンスコードにそんなものあるはずないだろ!? みんな瞬間移動ばっか使ってんのに!」

「じゃー今すぐこの手錠外して!」

「はぁア!? この緊急時に……」

「緊急時だから言ってんのッ! なんとかなるかもしれない可能性に掛けるのと、このままぺちゃんこに二人揃って捻り潰されるのと、どっちがいいの!!」

「ああもうッ、わかったよ……ッ!」

 

 ぎゃあぎゃあムラサキに叫ばれて迷った末、さすがのヨハネも、しぶしぶ鍵を取り出してなんとかロックを解除する。

 ヨハネの手首から離れて、ざんっと足を踏ん張りながらその場に振り返ったムラサキは、開いた指先を目元に当てながら声高らかに叫んだ。

 

子宮(ウーム)! 対象を魅了ッ!!!」

 

 植能の発動と同時に、如実にマゼンタの輝きを帯びる瞳。

 すぐ目前まで、触手のような手を伸ばしてきていた八尺様の群れの動きが、ぴたりと止まる。

 かと思うと、酒に酔ったかのように、或いは興奮しているかのように、体をくねくねさせながら人間離れした動きで踊り始めた。まるで人型イソギンチャクだ。地面に倒れ伏したまま、ミミズのように暴れている者もいる。

 発動させたムラサキが、思わず顔を顰めた。

 

「うえ、気持ち悪い……使わない時の方がまだマシだったかも……」

「……! ミカ! 今!」

「言われなくても! 肝臓(リバー)! 猛毒を放散ッ!」 

 

 ヨハネの合図で、その体に猛毒を纏った刃を斬り付けたミカは、未知の感覚を味わいながら驚愕で目を見開く。

 

「こいつ……全然効かない……ッ!?」

「な、ウソだろ……!?」

 

 リバーは、ヨハネが知る中で最も一撃の威力が強い武器だ。

 その広い刀身が、ぶにょんとした青い身体に食い込んだかと思いきや、勢いよく跳ね返される様を見て、ヨハネも拳銃を取り出した。

 

「こうなったら……」

 

 ユイトの植能・膵臓(パンクリアス)をモデルに作られた拳銃を、SOATの隊員は保持している。勿論本人の植能に比べて威力は劣るが、護身用や威嚇用としては十分役に立つ。

 その銃口を躊躇いなく向け、だんっ、だんっと発砲しても、その瞬間だけ八尺様の体は跳ね上がるが、芋虫のような動きは止まりそうもない。

 

 しかし、ミカの刀身に纏っていた毒は効いてきたようで、八尺様の体が気持ち悪い濁った紫に染まったかと思うと、真っ黒な煙を上げてしわしわになり始めた。

 ナメクジのように縮んだ八尺様達は、その形態をもはや失くし、通りには汚水のような液体だけがどろどろと広がっている。しんとなった通りで、ミカが言った。

 

「なんとかなった……のかしら?」

「多分ね。危なかった……」

 

 そう言いながら、ムラサキの手と己の手を、またちゃっかり手錠で拘束するヨハネ。

 ムラサキが抗議の声を上げる。

 

「ちょっとおおおおお!? なんで!?!?」

「今のでミカの猛毒が効くってことは分かったから。次はボクらで何とかする。連れて行きたくても、あんたに触れたらまた植能にやられるかもしれないだろ」

「そうじゃなくてもうちょっと何かこうさああああああ」

「あの動きと、液体じみた性質……まさかこれは、『水』のエレメントか? だとしたら、犯人の背中には紋があるはず……」

 

 ぶーぶー言うムラサキを完全に無視しながら、顎に手を当てて考え始めるヨハネ。

 その時、何かに気が付いたミカが、大声で叫んだ。

 

「ちょっと! あの化け物の中に、何か入っていたみたい!」

 

 汚れた水を跨ぐようにして近づいたミカは、どろどろとしたゼリーの残り滓のようなものに塗れた物体を慎重につついていたが、驚きに目を見開いた。

 

「ねえ! これ人よ! あっちにもこっちにも倒れてる! 多分、あのゼリーみたいな奴が本体で、乗っ取られてたのよ!」

 

 ミカに助け起こされた男が、呻き声を上げる。気を失っているだけのようだ。

 他にも、水溜まりの中で溺れそうになっていた人達が、次々と地面に現れ始めた。

 

「! ミカ! ちょっとそいつの服、背中の方だけ捲ってみてくれ!」

「やああああ! ちょっとヨハネさん、私を連れたまま水溜まりの中入んないで! 袴の裾汚れるってば! ひいいいヘドロみたい気持ち悪いいいいい」

 

 悲鳴を上げるムラサキを引き摺りながらやってきたヨハネが、男の背中を覗く。

 素肌の上に浮かび上がっていた、藍色の水を象った紋が、じゅうっと焼けるような音を立てて煙となり、宙へ消えた。

 

「やっぱり……」

「これ、写真撮った方がいいわね。アタシ、他の被害者を調べてくるわ!」

「頼む。……これで全部、か? 到着した時は、まだいたように見えたけど」

「結構数いたわね。もしかしたら、隣の地区に逃げ込んだ奴がいるかも……」

 

 そう言いながらミカが、倒れた他の人間達の救護活動に当たろうとした時。

 べたん、べたん、と新たな足音が道に響いた。

 

「こいつら、どこから……!」

「どんどん寄って来てるみたいね。でも、こっちから出向く手間が省けただけ、ラッキーだわッ!」

 

 闘志を宿したミカが、刀を手に立ち上がる。

 ところが、新たに表れた八尺様の群れは、ヨハネ達と適当な距離を保ったまま、動こうとしない。襲ってくることはなく、広場のような場所で、互いに手を繋ぎぐるぐると回り始めたのだ。

 

「あいつら、何してるの……?」

「ぽぽっ」「ぽぽっ、ぽぽっ」「ぽぽぽぽっ」

 

 ぽかんとするミカ達の前で、踊るように回転の速度を上げる八尺様達。

 その姿が洗濯機の水のように、輪郭を失くし溶けて見えなくなり、膨れ上がったと思った瞬間、ビルの合間には、先ほどの何倍にも増して巨大な女が、ワンピースと麦わら帽子姿で鎮座していた。

 ひょろながい背が、そのへんのビルと同じくらいの高さなのだ。

 一歩で車の一台や家の一軒も跨げてしまう、そんな怪獣映画さながらの規模に、ヨハネ達は呆然と声を上げた。

 

「これ、もしかして、合体したのか……!?」

「八……いや、これじゃ八十尺様だよ……24メートルはあるんじゃない……?」

「やだ、もう! さすがにこんなドでかいの、アタシの刃でも通らないわよぉ!」

 

 ミカが地団駄を踏む。

 ずがん、と巨大な膝が歩こうとしてコンクリートの壁に刺さり、よろめきながらも、巨大八尺様はこちらに近づいてきた。

 距離を縮められる前に、と思いながらミカとヨハネがとりあえずは拳銃で応戦するものの、動きが鈍る程度で相変わらず大した効果はない。

 ゆらり、とこんにゃくのように揺れた八尺様の頭部を、ヨハネが狙う。しかし、ムラサキと手を繋がれた状態の片手撃ちでは命中率が悪く、撃ち放った弾丸の一つが逸れて帽子の縁に命中し、麦藁帽ごと吹き飛ばした。触手のような青い髪の毛が垂れ下がった顔が、露わになる。

 

「あ……」

 

 思わず息を飲みながら、ムラサキはその様子を観察していた。

 大きな帽子が飛ばされてしまった八尺様は、一瞬狼狽したような動きを見せた。

 しかし、その直後、今までにない速さで、差し出すように伸ばされた右手が、巨人が人間を掴もうとするかのごとく、ムラサキ達に迫った。

 

「危なっ……!」

 

 思わず、ヨハネを庇いながら前に出たムラサキは、空いた左腕を広げて、その青い手を受け止めようとした。

 ゼリーのような腕が、ムラサキ達を体ごと二人とも包み込む。ざぶん、と水に飛び込んだような音がして、青い水の中で息が出来ないまま、ムラサキはごぼりと水泡を吐き出した。

 巨大な手の中で旋回し、上も左も右も下も、平衡感覚が分からぬまま、ぐるぐると水中を漂う。洗濯ものになった気持ちで眩暈を味わっていたその時、微かな声が、ムラサキの頭の中へ響いた。

 

『――かえして』

(……え?)

 

 その時。ばしゃん、と水が弾ける音と同時に、ムラサキとヨハネは地面に投げ出される。

 ごほごほせき込む横で、ミカが刀剣を握りながら、怒りの形相で八尺様を睨みつけていた。

 

「てめェ、あんまり調子に乗って好き勝手やってんじゃねェぞォ!」

「ぽぽ、ぽ……」

 

 くらくらする頭で、ずぶ濡れのまま身を起こしたムラサキとヨハネが見れば、八尺様の右手首から下が、ばっさり切り落されていた。ムラサキ達が巻き込まれていた部位ごと、ミカが切除したらしい。

 

 地面に落ちたまま、膿んだように腐った色をしていく右手と、切り落とされた断面がそのまま真っ青な色をしている右の手首。

 そこから血のように滴り落ちる青い液体が、コンクリートに水溜まりを作っている。その青い水びたしの地面を見ていたムラサキは、ふと気が付いてヨハネの肩を思いっきり叩いた。

 

「ヨハネさん! ちょっと! あれ!」

 

 我に返ったヨハネも、しまったという表情を浮かべる。

 さっきの水流に飲まれて、服の中に入れておいた手錠の鍵が、落ちてしまっていたのだ。

 慌てて拾いに行こうと、ばしゃりと音を立てながら、我先に水溜まりを立ち上がる二人。

 そのタイミングで、そのまましばらくじっとしていた八尺様が、急に動きを見せた。再びミカに襲われることに恐れをなしたのか、しゅるしゅると縮んで、その巨大な体を液状化させ始めたのだ。

 

「あッ、こら逃げんのかてめェ!」

 

 キレたミカの漢気溢れる怒声にも構わず、しゅうしゅうと蒸発するような音を立てながら、八尺様が一か所に集まり、消えていく。

 周囲の倒された八尺様のなれの果てや、今しがた零れた水までをも巻き込んで。ぽちゃん、と音を立てて鍵を吸い込んだ水も、海の潮が引くように八尺様の本体へ集まっていく。

 

「「ああーーーーーー!!!!!!」」

「ぽぽぽっ」

 

 二人揃って絶叫したムラサキとヨハネの目の前で、しゅう、と音を立てた八尺様が消えた。

 慌てて地面に這いつくばるも、さっきまで路上を埋め尽くしていた水は、もう跡形もない。

 途方に暮れたまま、ムラサキとヨハネはその場に立ち尽くした。

 ――互いの右手と左手を、がっちり手錠に拘束されたまま。



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1-17 潜入

手錠が外れないため、止むを得ず一緒に行動することになったヨハネとムラサキ。
飛ばされた八尺様の帽子をミカが回収する一方、二人はパソコンから手錠の解除キーを入手するべく、SOATの寮に入ろうとするが……?


第17節 潜入

 

「リバーッ!」

 

 勢いよく声を掛けたミカが、その剛腕で剣を振り下ろす。

 がきんっ! と金属同士がぶつかる音がして、跳ね返された刃をさすりながら、眉根を下げたミカは困ったようにヨハネを見た。

 

「ヨハネぇ、やっぱりこれ無理よぉ。どんな凶悪犯でも逃げられないようにって、最高難易度のセキュリティと強度を使ってロックしてある手錠なのよ? アタシのリバーごときで太刀打ち出来るわけないじゃないのぉ」

「そこを! なんとか! さっきは八尺様の手首ごと切り落としたぐらいの凄い刀だろ!?」

「さっきのミカちゃん、格好良かったねぇ。ほんと、たまにこう、凄い漢気を覗かせるところがたまらなくイイっていうか」

「あらムラサキちゃん、分かってるじゃないの♡ でもあんなとこ見られちゃって、アタシちょっと恥ずかしいわぁ~」

 

 手錠の間の鎖をぶらんと揺らしながら、のほほんと会話するムラサキと、それを受けて照れたようにテンションが上がるミカを見たヨハネが、鎖の反対側で繋がれた己の手首を前に、がっくりと頭を垂れる。

 

 約一時間ほど前。

 八尺様と仮称を定めた化け物が街中を徘徊する直前に、ムラサキを確保したヨハネは、彼女が逃げないよう手錠で互いの手首を繋いだまま行動を共にしていたのだが、あろうことか、ダメージを与えた八尺様に、落とした手錠の鍵ごと逃亡されてしまったのだった。

 おかげ様で、二人は手を繋ぐとまではいかずとも、程近い距離のまま、離れられずにいる。

 

「ね~ヨハネ、結局ムラサキちゃんを捕まえるって目的は達成したんだから、それでいーじゃないの。このまんまSOATに連れ帰っちゃえば、事足りるじゃない?」

「バカッ、こんな体で本部に戻ってみろ! どー考えても他の隊員たちの笑い物になるだろうがッ!」

「変なところ気にするっていうか、真面目ねぇあんた……」

 

 もう何度か刀を当ててみるものの、やはり全く効果がない。

 火花を散らす鋼鉄の鎖を目の前で見ていたムラサキは、ふと思い立って、遠慮がちにミカに問い掛けた。

 

「あの~~……この世界ってさ、トイレ行きたくなったりしない?」

「ああ、それはね、心配しなくて大丈夫よぉ。一応、見慣れた景観を作るって目的で、トイレ自体は建物の構造に自動で組み込まれてるけど、アタシ達は手とか顔洗う以外に使わないし、普通のアバターは催したりしないから☆」

 

 その答えを聞いたムラサキが、ほっとして胸を撫で下ろす。

 

「そっか、よかったぁ……ヨハネさんと連れションする事になるかと思って、割と本気で心配しちゃった。あ、でも、リアルの世界の私が尿意爆発してたら、それはそれでヤバいのか……」

「だっ……! だ、誰が連れションだよっ!」

「だって、どっちかしたくなっちゃったら、そうするしかないでしょ? まぁでも、ヨハネさん女の子だし、一緒のトイレに入れるのはまだ不幸中の幸いかなと」

「全ッ然幸いでも何でもないっ! っていうか、女の子が連れションとか尿意爆発とか、下品な言葉連発するんじゃないよ!」

「え……そっか。女の子として見てくれるんだ。ふふ、ありがと。うれしい」

 

 予想に反して、はにかんだ嬉しそうな笑みを浮かべられたヨハネは、毒気を抜かれる。

 手錠を見下ろしたムラサキは、気を取り直して提案した。

 

「まあまあ、常識的に考えて、さすがにマスターキーとかあるんじゃないの?」

「一応SOATに戻ればある……けど、さすがに中を歩けば人目につくしな。最悪、寮にあるボクのパソコンからアクセス出来れば、解除キーを手に入れられるかも」

「ん? ああ、そうか。もう隠れ家は引っ越して、寮暮らしなんだね」

「クロカゲにいた時に使ってたあそこのこと? アレは、まあ一応契約は切ってないから、使ってないけど自宅としては残って……って、だからあんたが何でそんなこと知ってんだよ!?!?」

「だからさ、ヨハネさんが自分で正解出してたじゃん。私は、過去の世界から来たの。ずっと君達のことを見てた。

……さっきミカちゃんと時間渡航者のことを話してたから、もしかしたら今ならちょっと信用してもらえるかな、て思って近づいたんだけど」

 

 少し悲し気な微笑みを見て、ヨハネは、さっき彼女に声を掛けた時のことを思い出した。

 隠れるには十分な人混みで、逃げようと思えば、ムラサキはヨハネを巻いて逃げ切れるはずだった。

 それをわざわざ、ヨハネの呼び掛けた声に返事をして立ち止まってくれたのは、向こうから話す機会を持とうと思ってくれたからなのか、ということに、今更ながら気付く。

 

「……。まぁ、その話は後でゆっくり聞くとして、とりあえず今はあんたのことを信じるってことにしとくよ。

つまり、あんたはたまたまこっちに来た旅行者ってだけで、あの紋を使った奴らの起こす、一連の事件と関係はないんだね?」

「あの、さっきの男の人にあった水みたいな模様のこと? うん、知らない。初めて見た」

 

 戸惑うように口を開いたムラサキの頭には、自分の体の紋様のことがある。

 けれど、報じられている火・風・雷・土などの紋様や、今見たばかりの水紋とは、明らかに異なっている。

 それを説明するには、今は時間が足りないと判断したムラサキは、とりあえずヨハネ達のために出来ることをしようと顔を上げた。

 

「ねえ、もし私があの八尺様をどうにかしたら、私は事件を起こしてる側じゃないし、あなた達に敵対もしないって、信じてもらえるでしょ?」

「え? そりゃあ、そうだけど……」

「じゃあ、さっさと私達で、八尺様捕まえないとね」

「捕まえるって、どうやって?」

 

 驚いたヨハネに向かって、ムラサキは小さくウインク。

 

「八尺様の、落とし物を使うのよ」

 

 

 その帽子は、ヨハネが各隊員に通達する間でもなく、あっさりと見つかった。

 あまりに大きな帽子が突然飛んできたので、その場所でも大騒ぎになっていたらしい。

 付近にあった公園からそれが見つかった、という報を受け、ミカがその帽子を引き取りに向かっていた。

 

「あらま、ちょっとした机ぐらいあるじゃないの。抱えたら前が見えなくなっちゃうわ~。でも、麦わらで出来てる分、随分と軽いわね」

 

 丁度公園のパトロールに回っていた隊員が、ミカに敬礼しながら答える。

 

「お役に立てて光栄ですっ。あの街に現れた化け物を、楠瀬(クスノセ)隊長と同じく第一線で倒した(クヌギ)隊長がこの作戦を考えられたということで、本官は感動しきりでありますっ」

「こっちこそ、アナタたちが早めに動いてくれたおかげで助かったわ」

「それでその……作戦指示を出された櫟隊長は、どちらに……?」

「あ~、今はちょっとね。準備中なのよ、色々とやることがあって」

 

 明らかに言葉を濁したミカだが、納得した隊員は感心したような表情を顔に浮かべて去って行く。

 改めて巨大な帽子を抱え直したミカが、溜息をついた。

 

「まったく、あのコは。まだ捕獲命令が出てる被疑者を寮に連れ込むなんて、悪いコになっちゃったんだから、んもぅ。……でも、ヨハネってちょっと悪いコの顔をしてる時の方が、なんとなく生き生きしててカワイイわよね? な~んて!」

 

 そう口に出しながら、ミカは改めて、手錠を外しに寮へ戻ったヨハネとムラサキの身を案じながら、セブンスコードの大通りに程近いDG地区の方の空を眺めたのだった。

 

 

 八尺様との戦闘があった地区と、丁度線対称の場所に当たる地区。

 かつて、SOATの「CQ地区担当詰所」と言われていた場所は、今はSOATの本部として機能している。

 そしてその本部に隣接する地区――DQ地区に、ヨハネ達の住むSOATの寮はあった。

 

「こっち……今のうちに」

 

 寮と言えども、いつでも出動や出勤に備えられるよう、内部はコンピューター設備や施設が充実していて、ちょっとした詰所や支社のようにも見える。

 興味深そうに、ムラサキが黒を基調としたその屋内を眺めた。

 

「へえ~~……こんな風になってるんだあ……」

「見た事なかったのか?」

「だって、私が見たのSOATの寮室の中だけだもん」

「うわ、ますますストーカー……」

「だから、違うってばっ! そこしか映してくれなかったんだから、しょうがないでしょ!? 私だって、もっと隅々見て回れるもんならじっくりガン見して……」

「バカッ、声が大き……っ、誰か来る!」

 

 曲がり角に身を隠そうとしたヨハネは、ぼやぼやしているムラサキの手を、手錠で引き摺るのではなく思わず引っ掴んで、その傍に引き寄せた。

 むぐっと声を上げるムラサキの口を、片手で塞ぎながら壁に押し付ける。

 

「……!」

「じっとして」

 

 壁に背をつけたまま佇むムラサキは、至近距離でヨハネに囁かれ、こくこくと頷いた。

 

角膜(コルニア)。視覚情報を改竄」

 

 左目が輝いて植能が発動し、ムラサキの体を透明人間のように覆い隠す。

 直後、足音がして現れたのは、ヨハネより小柄な女性職員だった。

 

「あっ、ヨハネさん! お仕事お疲れ様です!」

「やぁ、リアちゃん! リアちゃんは、今は休み?」

「いえ、寮で少し、この間の事件のデータを整理しようかと……一応、休憩時間なんですけどね」

 

 勤勉な姿勢を露わにしながらも、照れたような表情で俯く女性職員は、(サカキ)莉亜(リア)――ヨハネ達の同僚で、「捕縛」解除のために奔走した仲間の一人だ。

 

「休みはちゃんと取った方がいいよ? リアちゃん働き者だし、あんまり根詰めると体にも良くないからさ」

「ですね。……あれ?」

 

 そう言って不思議そうに首を傾げたリアが、ヨハネの傍に顔を近付けて、くんくんと鼻を動かす。

 

「不思議です……ヨハネさん、今一人ですよね? なんだか、誰か傍にいるみたいな、甘いお花の香りが……」

「わあああああ! リアちゃんっ、ボクも実は部屋でちょっと仕事しようかなって思ってたところなんだよね! 悪いけど先行くよ!」

「え? あっ、は、はいっ! この後また、作戦のために外に行かれるのですよねっ!? ヨハネさんこそ無理なさらず、お気をつけて……!」

 

 少し驚いた顔をしながらも、リアは廊下の真ん中に立ち尽くして、ぽかんとヨハネの背を見送った。

 まさかそのヨハネが、手錠に繋がれたムラサキの手を握ったままで引きずりながら、寮の奥へ歩いていくとは知りもしないで。



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1-18 時差

なんとかリアの目をかいくぐり、寮の自室に辿り着いたヨハネとムラサキ。
そこでヨハネは、過去から来たムラサキとの時空の差を表すという、不思議な懐中時計を目にする。

ようやく、ちょっとずつラブコメっぽい雰囲気になってきましたね。


第18節 時差

 

「危なかったぁ……! リアちゃんの植能が嗅覚(オルファクトリー)だってこと、すっかり忘れてた……!」

 

 息せききって自室の前へ辿り着いたヨハネが、周囲に人がいないことを確認してようやく一息つく。

 頑張って声を出さないように付いて来ていたムラサキも、息継ぎをする人のようにぷはぁっと呼気を吐き出しながら言った。

 

「あ、あれがリアちゃんかあ……ううう、やっぱり可愛い! めーちゃくちゃ可愛い! あ~~リアちゃんこそ可愛くっていい匂いする気がする、癒しだよぉ……」

「感動してるところ悪いけど、あんたがリアちゃんに対面するってなると、それ訳アリでSOATに来てる時ってなるからね? ……とりあえず、中に入るよ」

 

 ピッ、とカードキーでロックを解除して、ヨハネがスライド式の扉を開ける。

 中にはベッドや机、クローゼットなど、ひととおりの家具が揃っていた。

 

「おお~~! ここがヨハネさんの部屋……って、別に中の構造は他の隊員さんと特に変わらないか」

「基本的に個室のデザインは一律だからね。改造はある程度認められてるけど、あんまり大掛かりなリノベってなると、許可とか敷金とかめんどくさいし」

「綺麗に片付いてるんだね。えらいえらい」

「別に……そこまできっちり片付いてるって訳でもないよ。ただあまり汚いと、モチベーションが下がるってだけ」

 

 目を輝かせて中を見回していたムラサキは、律儀にその傍で眺めるのを待っていてくれたヨハネから、遠慮がちに目を逸らして言う。

 

「あの……もうそろそろ、手離して大丈夫だよ?」

「!!!」

 

 そう言うと、ヨハネは手錠があるにも関わらず握ってしまっていたムラサキの手を、思わずばっと離した。

 反射的に離された右手を、手袋越しのヨハネの体温を惜しむように左手で握り締めたムラサキは、恥ずかしそうに笑みを浮かべる。

 

「別に、私はずっと握っててもらっても構わないんだけど……ヨハネさんが、恥ずかしいかなって」

「恥ずかしいも何も、繋ぎっぱなしじゃ作業できないでしょ……っ」

「ふふ、そだね」

 

 何で繋いでいたのかには、深く突っ込まない。

 仄かに赤くなった顔をぱたぱた仰いでからパソコンの前に座るヨハネの隣へ、ムラサキも同じ椅子に割り込む形で強引に腰を下ろした。

 

「……ちょっと。なんであんたがこっちに座るの。ここボクのデスクなんだけど。立ってればいいじゃん」

「そんな意地悪言わないでよ。ヨハネさんお尻小さいんだから余裕でしょ? 私だって立ちっぱなしの走りっぱなしで疲れたんだから」

「なっ……、図々しいっ……! だいたいこれ、本部に直接繋がってるパソコンだから機密だらけなんだけど!?」

「だいじょーぶだいじょーぶ、こんなん私が見てもさっぱりだもん」

 

 マウスを右手で操作するヨハネの左半分の座面に、はみ出ながら無理やりくっついて座るムラサキを、ヨハネは嫌そうに見やっていたものの、最早反論する方が疲れるだろうと諦め、その場に居ることを許した。どのみち、離れようと思っても離れられない。

 まるでそうするのが当然、と言わんばかりに、ヨハネの隣にもこの部屋にも溶け込んでいるムラサキを見て、呆れながら彼は思う。

 

(なんか、気付いたらいつもこいつにペースを持ってかれてるような気がするんだけど……。これも植能のせい?)

「ほら、早くパスワード入れて」

「はいはい、わかってるよ」

 

 狭苦しい一人用の椅子を分け合いながら座った二人は、共に画面をのぞき込む。

 

「えっと、解除コード……これだ。あ、」

 

 何かのデータをダウンロードしていたヨハネは、ぱかっと口を開けると、がっくりうなだれた。

 

「どうしたの?」

「忘れてた……この手錠新品だから、まだ登録番号を申請してないんだ。最初にあの鍵の登録番号をデータ登録して、それから初めて、鍵のコピーが出来るんだけど」

「……えーと、つまり今ここにある手錠だけでは、どうにもならないってこと?」

「そゆこと。ミスった……完全な無駄足だ」

 

 あー、と頭を抱えるヨハネの手錠を、ムラサキがつんつんと引っ張る。ここだと座り心地悪いからベッドに座れということらしい。

 さすがのヨハネも、今度はそれに逆らわなかった。ぼふん、と背中からふかふかの布団にひっくり返って、目元を覆う。

 

「ふふふ」

「何笑ってんだよ」

「んーん、あんなに有能なヨハネさんでも、こんな事あるんだなぁって思って」

「ボクは別に有能なんかじゃない……あんたが何を見たかは知らないけど、結局ニレのバックアップも破壊できなかったし、捕縛も解除できなかった」

「それでも、えらいよ。何にもしないでただじっと隠れてることだって出来たのに、いっぱい頭使って考えて、メモ帳びっしり埋めるぐらいに書き込んで。あんな訳分からない捕縛の仕組みを、よく一人で解き明かしたな~って。合理的じゃないコトは嫌いって言いながら、本当に一生懸命なんだから。……やさしいね、ヨハネさんは」

 

 降りかかった声に思わずヨハネが目を開けると、すぐ傍に寝転がったムラサキが、体を横に向けながら優しい眼差しでこちらを見ていた。

 今更ながら、二人でベッドに並んで寝ていた事に気が付いたヨハネが、顔に血を上らせながら慌てて起き上がる。

 

「うわわわわあ!!!」

「ぢょっっっ痛い痛い痛い! 急に起き上がんないで!」

「バ、バカ! ボクのベッドなのに何勝手に寝てんだよ!?」

「ヨハネさんが寝っ転がったから? いいねえ、これ。ふかふかで。もうちょっと寝ててもいい?」

「ダメ!!! 作戦の続きを考えるんだろ! っていうか、そうじゃなくてもダメっ! 1秒寝たら1ゴールド取るから!」

「やだもう、いけずぅ」

 

 そんな軽口を叩き合いながらも、ベッドの上に置き直ったムラサキは、真面目な顔になった。

 

「あの八尺様の水に飲まれた時、ヨハネさんは何も聞こえなかったんだよね」

「ああ……けど、あんたは『かえして』って声を聞いたんだな?」

「テレパシーみたいな感じだったけどね。ミカちゃんが倒したミニ八尺様の中には、紋で操られた人達が入ってたわけでしょ? ……だったらボス的な八尺様の中にも、誰かがいるんじゃないかと思って。その人が、あの時ヨハネさんが飛ばした帽子を取り返したいと思って、発した言葉だと思ったんだけど」

 

 狼狽したような慌てたような八尺様の動きと、直後にヨハネとムラサキを襲った八尺様の言葉。

 帽子が飛ばされたことへの怒りから出た行動ではないか、というのがムラサキの推論だった。

 

「てことは、操られてる人間の意識も、多少は暴走中の怪物に介入してるってことか?」

「わからない……半分くらい無意識なのかもしれないし、何かのきっかけで目覚めるみたいにして、突然戻ることもあるのかもしれないよね。

……もしくは、あの八尺様自体が、宿主にされてる人間の強い感情で動いてる、とか」

 

 ムラサキの言葉に、こぢんまりした部屋がしんと静まり返る。

 脚を組んだまま、制服姿で顎先に手を当てたヨハネが呟いた。

 

「水……コニが司っていた柱はたしか、『色欲』か」

「それと直接関係あるのかどうかは分からないけど? なんかそんなに、エロエロな感じの八尺様には見えなかったし。まあ、あの触手使えば、一部の人が好きそうなプレイは出来そうっちゃ出来そうだったよね」

「あんた、幼い顔して割とエグいこと口にするよね、さっきから……」

「だって、実年齢はとっくに成人してますからー?」

 

 そう言って足をばたつかせたムラサキは、ふと思い出したように、懐から何かを取り出した。

 じゃらり、と首元から繋がる鎖を揺らして、引き抜かれたその手の上には、ウサギと鍵の模様が施された蓋の、懐中時計が乗っている。

 ぱかり、と開けられた蓋の下から、何の変哲もない文字盤が姿を現わした。

 

「……時計? 時間が合ってないみたいだけど」

「ああ、うん。この世界の時間とは、ちょっと違うからね。この長針が一周すると、本体の私がいる過去の世界では、一時間経つことになるの。ざっくりだけど、長針を見れば私がこの世界にログインしてきてどのくらい経つか、短針を見れば向こうの世界で何時間過ぎてるか、分かるってわけ」

「あんたは過去から来てるから、こっちの時空の流れと、向こうの時空の流れが、違うってこと……?」

「そういうことみたい。毎回、その進み方も違うみたいなんだけどね~。今日は……うん、比較的ゆっくりだな。出来れば、短針が『4』を指す頃くらいまでには帰りたいとこだけど」

 

 時空の流れの差を表す特殊な懐中時計は、ムラサキの友人であるミソラ製で、うっかり長時間滞在して向こうの体を疲弊させないためにもあった方が便利だろう、と作ってもらったものだった。

 秒針が進めども進めども、なかなか長針の動かない不思議な時計を見ながら、ヨハネは計算した。

 

「作戦は夜の予定だから……多分、さすがにそこまではかからないと思う。今はもう夕方だし」

「うん。なんとか本日中にケリがつきそうだなって思ったから、私も協力したの」

「あの怪物、本当に帽子におびき寄せられて来るかな?」

「絶対に来るよ。……なんていうか、これは理屈があるわけじゃなくて、ただの勘だけど」

 

 そう言って俯くムラサキに、ヨハネは眉根を寄せる。

 色づいていく外の夕焼けを映し出した、ホログラフィの窓を見ながら、ムラサキは呟いた。

 

「なんとなくだけど……すごく悲しい味がしたの。あの水に飲まれた時……どこかで知ってる味って思ってね。

最初は、海で水を飲んじゃった時に似てるなって思ったけど、多分そうじゃない。

あれ、きっと涙の味なんだよ」



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1-19 迎撃

夜のスケートリンクで行われる、八尺様捕獲作戦。
果たして、上手くいくのだろうか……?


第19節 迎撃

 

 その日の夜。

 八尺様が暴れた閑散とした街に集められた、ヨハネ率いる部隊以下隊員たちは、作戦行動に備えるべく、己の隊服に備え付けた武器を確認しているところだった。

 

「みんなぁ~~! 毒ガス弾は行き渡ったかしら! 足りないと思うコは、まだあるから十分に持っておくのよ! 唯一の有効な攻撃手段なんだからねん!」

 

 白い氷が張られたフィールドの真ん中には、冬景色に全く不似合いな、大きな麦わら帽子。

 その周辺を囲むように座席が作られたスタジアムで、弾薬補充班、攻撃班、報告班、救護班などに分かれた隊員たちが、せわしなく動いている。

 ここは、街中に損壊せずに残っていた、スケートリンクだ。

 

「楠瀬隊長ッ! こちら、遠隔攻撃用のマシンガンと、近接攻撃用の手榴弾の補充が終わりましたッ! 一斉砲撃、いつでも可能です!」

「ありがと、心強いわね。猛毒の方は大丈夫? あたしのリバーもあるし、SOATには再生型のリバーもまだあるから、製造班にもじゃんじゃん回してちょうだいっ」

「はいッ、十分であります! ……ところで、櫟隊長はまだ……?」

「あ、ああ……さ、最後の作戦指揮の打ち合わせって言ってたわ。始まる頃には戻ってくるわよ」

「さすが櫟隊長! 頼りになるであります!」

 

 そう言った隊員は元気に持ち場へ駆けていくが、ミカは溜め息をつく。

 その櫟隊長――皆の前へ姿を現わせない原因を抱えたヨハネは、スケートリンクの下、観客席から離れた出入口で、ムラサキと共にそっと様子を窺っていた。

 

「けど、あんたもよく思いつくね。スケートリンクを戦闘場にするなんて」

「八尺様って、水のエレメントから出来てるっぽいんでしょ? だったら、水は凍るから、寒い場所なら動きが鈍るんじゃないかと思って。けど、セブンスコードの中じゃ、食品貯蔵用の冷蔵室は必要ないからあんまりないし、そういう場所でも戦うには狭すぎるでしょ。

街中で一番寒くて広そうでおびき出しやすそうなところを探したら、このスケート場だったってわけ」

「なるほど……」

 

 ヨハネは素直に感心しているようだったが、ムラサキはスパイクを履いて整列した隊員たちの列を見ながら、心配げにヨハネの腕をつつく。

 

「ねえ、ヨハネさん、ほんとに出てかなくていいの……? いくら真打ち登場~ってなっても、隊がピンチになってからやっと出て来ましたじゃ、信用も評価も失墜すると思うよ。しかも女連れで」

「そう思うんなら、あんたがこの手錠をなんとかしろよッ!」

「いやムリ。ミカちゃんの剣でも壊れないもの、どうにかなるはずないじゃん。やっぱりあの鍵取り返さないと……」

「だからっ、それを取り返すための戦闘なんだろ!」

 

 さっきからずっと、この調子で押し問答だ。

 ヨハネは何がなんでも、ムラサキと手錠で繋がれた状態を他人に見られたくないらしいが、かといって戦いに参加する以上は人に見られるに決まっているし、これでは埒が明かない。

 隊員たちは、隊長であるヨハネの登場を心待ちにしているようだし、自分のせいでSOAT内のヨハネの地位が下がることは避けたい。

 そう思って、ムラサキは盛大な溜め息をついた。

 

「ええいっ、もう面倒くさいなぁ。今出ようと後で出ようと、女連れで状況悪いには変わりないでしょうが! ほれっ!」

「うわ、ちょっ……!」

 

 どかんっ、とムラサキがヨハネの背を押す。

 つんのめったヨハネが慌てて隠れようとするが、もう遅い。

 集合していたSOATの隊員たちが、ぽかんとヨハネとムラサキの方を見ていた。

 姿を見せていなかった隊長が、仲良く手を繋いだ(ように見える)格好で見慣れない服装の女と並んでいるので、当然ながらザワザワとざわめきが走る。

 

「櫟隊長、その方は……?」

「あ~~……えっと、これは……」

 

 自分の背中を押したムラサキにいっそ説明させたいぐらいだったが、彼女は隣で口笛を吹きながら素知らぬ顔をしている。

 その様子をギッと睨みつつも、仕方なくヨハネは口を開いた。

 

「彼女は、この事件の『協力者』だ! 共に例の怪物を目撃したため、今回の件が片付くまで同行してもらうことになった! 今回の作戦の発案者も彼女なんだ。こう見えて、かなり戦闘には精通している。共にボクと前線へ出る手筈になっているから、できる者は援護を頼む!」

 

 思わぬ発言に驚きの声が上がったが、隊長であるヨハネがそう言う以上、疑う余地もなく、小隊の面々は拍手を送る。

 

「あと、この件は出来る限り内密にしておいてくれ! 討伐にはどうしても彼女の力が必要だが、民間人の協力者をSOATが使った事実は、表向きは内密にしておきたい。作戦が失敗しても、一般人である彼女の双肩に責が掛からないよう、報道機関への情報提供も最小限にしたいんだ。頼んだぞ!」

「イエスッ、サー!」

 

 ヨハネの隊は、普段のヨハネの行動や人柄もあってか、よほど部下からの信頼を得ているらしい。

 そう言って小声で敬礼した隊員たちが、散らばっていく。

 ふう、と力んだ肩を降ろしたヨハネに向かって、ムラサキがようやく口を開いた。

 

「すごいや。大演説だったね」

「あんたなぁ……! 誰のせいでこうなったと思ってるんだよッ……!」

「でも、結果的にはみんなの士気も上がったし、よかったでしょ? 変に隠し立てするよりは、ある程度嘘を交えて本当のこと打ち明けといた方がいいよ」

「隠し事だらけのあんたがそれ言う……?」

「よしっ! 私達もがんばろー!」

 

 ヨハネの言うことを無視して、ムラサキが手錠の掛かった手をぐいっと上げる。

 つられて無理矢理その手を上げたヨハネは、げんなりと溜め息を吐いた。

 

 

 スポットライトが当たり、きらきらと光を反射したスケートリンクが、しんと静まり返る。

 花飾りのついた麦わら帽子が、まるで美術館の芸術品か何かのように、白いフィールドに鎮座している。氷から蒸発した水蒸気が、微かに白い煙を立ち上らせる。そこだけ見ると、非常に幻想的な風景だ。

 

 息をつめて暗い座席に身を潜ませながら、本当に来るのかと半信半疑でヨハネが待ち受けていたその時。

 ぎゅるん、と渦を巻く青い何かが、突如フィールドの真上に出現した。

 

(きた……!)

「ぽぽぽっ」

 

 耳奥で、泡が勢いよく弾けるような音。

 一斉に武器を構える音と、ピリピリした緊張感が場を支配する。

 ずしん、という音を立てながら、昼間と同じように白いスカートを纏った八十尺の八尺様が、その場に姿を現わした。

 

「攻撃、はじめ!」

 

 各隊の合図で、帽子を拾い上げようとした八尺様を、SOATの隊員たちが一斉に攻撃し始めた。

 拾うのを邪魔されていると思ったのか、八尺様の身の捩り方も、振り返り方も、昼間とは比べ物にならないくらい速い。透明な腕を振り回し、弾力のあるそれに叩きつけられた隊員たちが、座席や氷の上へ弾丸のように飛ばされては、爆音と共にめり込んで動かなくなる。

 

「伸びる腕に気を付けろ! 上を狙えば、足元からの攻撃への防御がおろそかになる! 無理に頭部を狙わず、遠方からっ……!」

 

 自身もその腕を、縄跳びのように飛び上がって避けながら、ヨハネが間一髪のところで叫ぶ。足元や頭上を掠めていく触手をなんとか避けられているのは、一緒に繋がれたムラサキが、息を合わせてなんとか動いているからだ。

 

「化け物め、これでも食らえ!」

 

 意気込んだ隊員の一人が、冷却装置の冷気を放出する。大砲の口から吹雪が飛び出すようにして、その冷気が八尺様の手足を包み、つららのように凍らせた。

 

「ぽぽ、ぽ……」

「やったか!?」

 

 歓喜の声を上げる隊員たち。

 しかし、激しく身を捩って動く八尺様には、一時の足止めなど造作もないことだったらしい。ばきん、と派手な音を立てて凍った部位を折ると、折り取った部位から液体のようなものを流出させた八尺様は、すぐにその身を復活させてしまう。

 戦果を挙げた隊員は、虚しくもスタジアムの縁まで放り投げられてしまった。

 

 ヨハネの後方から襲い来る鋭い槍のような触手を、背中合わせになったムラサキが、植能を込めた手を翳して躱す。反面、ムラサキの背後から巨大な脚が迫る時には、ヨハネが庇いながらステップを踏むことで、なんとか踏みつぶされるのを回避していた。

 

「ありがと、助かった……!」

「こいつら、埒が明かない! 一体何本腕あるのさ!?」

「腕じゃないよ、この細いのは多分髪の毛……ああもう、何でもいいや。ねーヨハネさん、あっちの方にある表彰台用のステージに、なんとか八尺様の視線向けられない!? デカい分、方向転換させたらすぐにはそっち向けないでしょ。ガラ空きの背中をみんなで叩いてもらおうよ」

「攻撃は集中させた方がいいしな……けど、どうやって囮になる?」

 

 そう言うヨハネと、スケート場の反対側に滑っていった八尺様の帽子を見比べたムラサキは、一つ頷いて口にした。

 

「ヨハネなら、それだけで十分囮になるんじゃない?」

「ハァ?」

「街中で戦った時も、あいつら勝手に集まってきたでしょ。八尺様って、気に入った男の人を憑り殺すって言われてるから、見目麗しいヨハネがいたら、それだけで多分」

「いや、人の事なんだと思って……ていうか、ボクは男じゃ、」

「基本的には男を狙うらしいけど、稀に女を狙う八尺様もいるって聞いたことある! だいじょーぶ!」

「大丈夫じゃないッ! どっちでも関係ないじゃんか! おい、聞いてる!?」

 

 ぎゃあぎゃあ喚くヨハネを、手錠をぐいっと振って攻撃から避けさせつつ、ムラサキは冷却装置の大砲と共に、観客席の方へ避難していたSOAT隊員の方へ、輝く瞳と左手を翳した。

 

「ウーム! 対象を魅了!」

 

 するするっ、と伸びた桃色の光が、リンクの端にいる隊員たちを取り巻いて、ムラサキへと虜にさせる。

 そんな彼らに向かって、ムラサキはひらひらと手を振った。

 

「ねー、ちょっと! そこの君たち、あの帽子に向かって一発ぶちかましてくれない? 空気砲でいいからさ! ステージの方まで進むように!」

「りょっ、了解しましたぁ! ただいまぁ!」

 

 ムラサキにメロメロ状態の隊員たちは、あっという間に作業に取り掛かる。ぼん、と撃たれた大砲の空気圧に押され、帽子がものすごい勢いで、八尺様の股の方に向かって滑って来た。

 ちょっとしたスノーモービルのようだ。ただし、圧倒的にデカいが。

 コーヒーカップのように滑って来た帽子の縁に当たって、何人かの隊員が巻き込まれながら吹き飛ばされていた。

 

「きたきた! 乗るよー!」

「ちょっと待ってムラサキ何考えてる!?」

 

 丁度その時、八尺様の腕がぶんっと真横から振り下ろされる怪獣の尻尾のように迫ってきた。

 ヨハネの腕を引っ張りながら、ヨハネもろともその腕に飛び乗ったムラサキは、暴れる八尺様の勢いにまかせて、ぼうんと滑って来た帽子の真上に飛び乗った。

 

「わひゃあ! 大成功!」

 

 バウンドさせた二人を乗せた帽子が、そのまま八尺様の股の間を潜り抜けて、しゅーっと正面ステージの方に向けて滑っていく。狙いのものを目にしたからなのか、果たしてヨハネの見た目に惹かれたからなのかは分からないが、八尺様は明らかに狙いを変えて、帽子の後を追うようにふらふらと歩き始めた。

 その隙を逃さずに、ヨハネが振り返りながら無線で通達する。

 

「全隊員、八尺の背後を狙え! ボク達で惹き付ける!」

 

 わーっと掛け声が掛かったかと思うと、広い背中に向かってSOATの隊員たちが一斉攻撃を仕掛けた。

 白いワンピースに焼け焦げが出来、破れても、八尺様は意に介する余裕がない。

 

「おらおらおらァ! 今度こそ、アタシの刃の威力、思い知らせてやろうじゃないのッ! リバー! 猛毒を放散ッッッ!」

 

 単騎で斬り込むミカを筆頭に、隊員たちも士気を取り戻し、手榴弾やマシンガンで総攻撃を食らわせる。猛毒を食らった体の後ろ半分が、ずぶずぶと溶けるように崩れ始めていた。

 冷却装置からの冷凍光線も、今度は八尺様が避けなかったおかげで、確かな効果を発揮している。歩を進めていた八尺様の足が、ついにリンクへと氷柱のごとく完全に貼り付いて動かなくなり、隊員たちから物凄い歓声が上がった。

 

(いける……!)

「ぽぽぽぽぽぽぽぽぽ」

 

 ヨハネがそう思った時、後ろ半身を失った八尺様が崩れ落ち、青色の光を帯びた謎の物体が、宇宙人のようにその場へ姿を現わした。



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1-20 水子

思いもがけない、八尺様の正体とは。
八尺様事件、ついに一応の解決です。
「かえして」というセリフの一言により思ったより激重の展開になってしまい、作者自身が一番びっくりしました。
(ここまでプロットで考えてなかった)


第20節 水子

 

「な……なんだ……?」

 

 帽子が止まり、面食らうヨハネ達の数メートル先で、青く発光する人影は佇んでいた。凍って折れた脚が瓦礫のように折り重なり、腐敗した八尺様の名残がどろどろと広がる向こう側からも、隊員たちが様子を窺うようにこちらを見ている。

 ぼすんっ、と不意にタイヤがパンクするような音がして、ヨハネ達の乗っていた帽子が、急に縮み出した。

 

「わわっ、おい、どうした……!」

 

 思わずヨハネが声を上げるが、乗り物ほどあった麦わら帽子はぷしゅうと縮んで、普通の大きさになる。どうやら、八尺様の力が弱体化したことにより、帽子もそれに合わせたまともな大きさに戻ったらしい。

 そんな中、ムラサキだけは血眼であるものを探していた。氷上にとびちった水の中から、きらりと光る物体を探し出すと、ぐいぐいヨハネを引っ張る。

 

「あった! ヨハネさん、鍵! ほら、鍵だよ!」

「お、おい近づくな! 八尺がすぐ傍に……!」

 

 自ら近づく形になったムラサキは、青い人影の足元の水からそれを拾い上げると、ようやく手錠のロックを解除する。かしゃんと音がして、二人の手首が自由になった。

 

「「やったあ……!」」

 

 見ていた隊員たちは、ヨハネ達がペアで息を合わせながら攻撃に当たっているのだと信じて疑わなかったようだが、当事者達にとってはこの上ない解放感だ。

 思わず二人で掌を打ち合わせてから、ようやく間近にいた八尺様に注意が向く。

 もう、身長は八尺もなかった。一般的な、女性らしいシルエットを象った平均的な大きさだ。この状態では、たとえ攻撃したくとも、攻撃する術などないだろう。

 けれどもヨハネは、自由になった両手で油断なく銃を構える。

 

「待って、ヨハネさん」

 

 その姿を一旦制してから、ムラサキは青い人影に立って向かい合った。

 

「……」

 

 もう鳴き声を発しない八尺様は、静かだった。ただ悲しげのあるオーラを纏って、淡い光を氷に反射させている。

 

「――かえして」

「!!!」

 

 聞き覚えのある声が、今度はヨハネの耳にも届いた。

 頷いたムラサキは、潰れて放置されていた麦わら帽子を持って来ると、その形を整えて女の影に手渡そうとする。

 

「おい、ムラサキ……」

「大丈夫、動けなくすればいいんだよね」

(このくらいの大きさだったら、今なら私の植能が効くかも……)

 

 得体の知れない存在へ近づいていくムラサキを、思わずヨハネは止めるが、立ち尽くす青い影に近づいたムラサキは、例の催淫剤入りチョコレートを一粒掴むと、それを口に含んで植能を発動させながら、女の手首らしき部分を掴んで、ぐっと背伸びをした。

 

「ちょっとごめんね」

 

 傍から見たSOATの隊員たちがあんぐりと口を開けるのも無理ないぐらい、異様な光景だっただろう。

 袴姿の女が、触るのも憚られる青いゼリーのような不気味な怪物に、下からちゅっと口付けている。

 どこが口かも分からないまま、適当に唇の先で割入るようにして舌を滑り込ませたムラサキは、やっぱりどこかで感じたことのある味だ、と思った。

 

(……しょっぱい)

 

 そう、強いて言うなら、リアルで舐めた時の愛液や、汗の味にも似ている。なんとなくうっすらとしょっぱくて、刺激的で、あんまり美味しくはない。

 その時、ムラサキの脳内に、何か映像の断片のようなものが流れ込んで来た。

 

『だいじょーぶだって、デキたら堕ろせばいいから』

 

『はあ!? 誰が金出してやるっつったよ! てめーで何とかしろ!』

 

『リアルで幻滅させてきたのはお前だろ。もうお前とオレは、赤の他人なんだよ!』

 

(……? 何……?)

「む、ムラサキ! もういいって……!」

 

 不気味なのか扇情的なのか分からない光景に耐えかねたヨハネが、ムラサキを八尺様から引き剥がすまで、彼女と八尺様が繋がったような奇妙な感覚は続いていた。水っぽい両腕に抱かれたムラサキは、いつの間にか八尺様に取り込まれそうになっていたのだ。

 ヨハネの背に庇われ、ぼんやりと氷の上に尻餅をついたムラサキの前で、八尺様はその身をぼうっと光らせながら、地面に落ちた麦わら帽子を被る。

 白く輝くようにも見える帽子を被りながら、ゆっくりとスカートを翻しながら振り返った八尺様は、またもや声を発した。

 

「――かえして」

「お、おい、なんか、帽子じゃないみたいだぞ……?」

「え、うそ、これ以上何すればいいの……?」

 

 苦心した作戦が徒労に終わり、互いに抱き合うような格好になりながら呆然とするヨハネとムラサキだったが、八尺様はそちらには注意を向けずに、完全に氷が割れまくったフィールド上の、SOAT隊員たちの方へぐるりと顔を向ける。

 彼らが、息を飲む気配が伝わってきた。

 

「あ、ああ! ひ、ひぃぃいっ!!!」

 

 隊員たちの中、ひとりの男が前線からふらふらよろめくと、瓦礫の欠片に躓いてずでんと後ろにひっくり返る。零れ落ちそうなほど目を見開いて、逃げようにも恐怖で震え上がり、それ以上動けない様子だ。

 一体何が起きたのかと、ヨハネとムラサキも立ち上がって八尺様の前へと回り込む。その二人も、思わず驚愕に息を飲んだ。

 

 八尺様の様相が、変わっていた。まるで氷に彫刻を施したように、あるいは画家がデッサンをするように、茫洋としていたワンピースの服装にも、その手足や爪、表情にも細かい皺が刻まれ、輪郭を帯び……

 気が付いた時には、一人の若く美しい少女が、背筋を伸ばしてそこに立っていた。高校生か、大学生くらいだろうか。

 その顔を見て、男は驚いていたらしいのだ。

 他の隊員たちが、八尺様の変化よりもその反応を不思議がる前で、隊員の男は氷の前に躍り出て、頭を地面にぶつけそうな勢いで深く土下座をする。

 

「ひ、ひい、すまなかった、すまなかった……! オレが悪かったんだ、許してくれ!」

 

 必死の命乞いにも見える行動に、ヨハネとムラサキもぽかんとする。

 けれど、ムラサキはさっき見た映像の一片を思い出していた。

 

(この男、もしかして……)

 

 氷の上を滑るように、裸足で一歩足を踏み出した八尺様――いや、少女は、初めて人間らしい文章の連なりを口にして、喋り始めた。

 

「あなたと私は、このセブンスコードで出逢って恋人になったよね。

君に似合うよって言って、私にこのワンピースと麦わら帽子を買ってくれた。初めての好きな人ができて、私とてもうれしかった……」

「あ、ああ……」

「リアルでも結ばれようって、あなたは言ってくれた。

でも、しばらくしたらあなたは会いに来てくれなくなって……リアルでの連絡も取れなくなったから、私、ずっとずっと、このセブンスコードで待ってたよ。

だって、リアルの私の体には、もう私たちの赤ちゃんが宿ってたから……」

「ひ、ひぃ……」

 

 会話は成立しないが、がくがくと震える男の前で、少女は穏やかな微笑みさえ浮かべながら話し続ける。

 その証言に、ムラサキ達は息を詰めて耳を傾け続けた。

 

「あなたに会ったのは、堕胎費用を迫るためじゃない……あの子を出産するための、お金が欲しかったの。もうそれ以上、あなたを困らせるつもりはなかった。関係を持つつもりもなかった。

あなたとの間に何があったとしても、私は一人で産んでこの子を育てようって、そう思ってたから。色々悩んだけれど、あなたがどんな人でも、私はお腹の子に愛情を感じていたもの」

「う、うう……」

「……でも、少ない財産を奪われることを恐れたあなたは、私を駅の階段から突き落とした。

リアルで意識最小状態になった私は、今でも目覚めることが出来ないまま、このセブンスコードを彷徨ってる……

誰も助けてくれないから、こっちで身売りをして稼いで、路地裏の暮らしを抜け出せずに……」

 

 驚きと動揺が、傍で話を聞いている隊員たちに広がっていく。

 今ここにいる全員が、男の働いた悪事の証人と化していた。

 

「……どうやら、捕まえるべき相手が違うようねぇ」

 

 ミカが、その巨体でのっしと立ち上がる。

 びくっと体を強張らせた男は、最後の悪あがきとばかりに逃げ出そうとするが、氷で滑った拍子に、まるで少女の不思議な力に引き寄せられるようにして、すぐ傍へ滑り込んで来た。

 

「あ、あ……」

「誰も手を出さないで。この男は私が殺す」

 

 冷徹な瞳が青い輝きを帯び、ワンピースから伸びた手足がイソギンチャクのような幾重に枝分かれする軟体と化した。

 その中心に埋まった少女の顔が、能面の如き表情で男に告げた。

 

「私を犯して捨てたことは、悲しいけど許すわ。私を階段から突き落としてリアルから殺してしまったことも……許す。あなたが好きだったもの。

ねえ、でも、私の命なんかいくらでもあげるから。

あなたの命なんていくらでも奪ってあげるから。

代わりに、あの子をかえしてよ。

ねえ――私の赤ちゃんを、かえして」

 

 その白い頬を、一筋涙が流れた瞬間、触手が濁流のように男に襲い掛かった。

 

「ウアアアアァーーーーッッッ!」

 

 ぎちぎちと四肢を触手で固められ、捻り上げられた男の体から、筋繊維がぶちぶち千切れる音がする。断末魔の悲鳴が上がり、隊員たちはその後の悲惨な光景を恐れて思わず目を背けたが、そこへ介入してきたミカが、一太刀で触手を切り落とした。

 

「リバーッ! 猛毒を放散ッ!」

 

 ぼとぼとっ、と青い触手の先が氷の上へと落ち、魚のようにびちびちとのたうった。

 解放された男が、ぜえぜえ息をつきながら身を痙攣させ、意識を失う。

 その剣を威嚇代わりに翳したままで、ミカは少女に語り掛けた。

 

「やめなさい。これ以上やると死んじゃうわ」

「……」

「アナタの怒りや悲しみはわかるわ。ごめんね、アタシ達がアンタみたいな存在に、ちゃんと気付いてあげられなくて。

けど、何をしたって、失ったモノはもう戻って来ないのよ。どんなに辛くても哀しくても、こんなヤツのためにアナタが罪を犯すことない。コイツはちゃんと、法によって裁かれるべきなのよ。

大丈夫。アンタが望む復讐は、社会がちゃんと果たしてくれる。だから、アンタがそれ以上、他人の血で自分を汚さないで。

そうしないと、アンタの赤ちゃんも悲しむわ」

 

 染み入らせるように語るミカの言葉を聞いていた少女の触手が、だんだんと激しい動きを止め、しゅるしゅると元に戻り、そして体を包んでいた青い光が消える。

 

「私……」

 

 そこまで呟いた途端。完全に元の人型に戻った少女は、涙に濡れた頬のまま、意識を失って崩れ落ちた。氷に打ち付けそうになった体を、傍に居たミカが支える。

 

「頑張ったわね。もう大丈夫よ」

 

 その言葉を皮切りに、取り巻いていたSOATの隊員たちは、はっとしたように動き出した。氷の上で倒れている男を拘束し、運んで連れて行く。

 他の面々も、すぐに負傷した隊員や損壊したスケート場の修復のために動き出し、しんとしていた世界は一気に光と音を取り戻した。

 思わぬ事件の幕切れに呆然としていたヨハネ達だったが、すぐに立ち直ったヨハネは、我に返ったように駆け寄る。

 

「そういえば、彼女の紋様は!?」

「もう人間に戻ってるし、確認できるかもしれないわね。けど、アタシが引っぺがすのはさすがに……」

「じゃ、私が見てもいい?」

 

 名乗り出たムラサキが、彼女の背中を観察すると、一際濃くはっきりとした、藍色の紋様が見て取れる。借りたカメラでそれを撮影すると、しゅうっと音を立てて、水紋は宙へと消えた。

 

「……消えちゃった」

「危ないところだったわね。消えるまでの時間って、コイツらの強さには関係ないのかしら」

「分からない……けど、今までのよりデカくて複雑だよね。すぐにカシハラに転送しよう。ミカは他の隊長達と連絡を……」

 

 そう喋っていたヨハネは、そろそろとその場を抜け出そうとしていたムラサキに気が付く。

 抜き足差し足でスケート場の出口から出ようとしていたところを、腕をひっつかんで引き止めるヨハネ。

 

「やーーーーん! ちょっとお家に帰ってシャワーぐらい浴びさせてよ!」

「あんた、他の隊員にも顔割れてんだぞ! このまんま帰せるわけないだろ! あれだけ事件に首突っ込んどいて!」

「でも、私達が解決したんだから、私が疑われることはないでしょ!? ね、お願いだからぁ!」

「そうだけどっ、あんたの植能の件とか色々……!」

 

 まくしたてるヨハネを見上げたムラサキは、人気のない裏口で静かに語り掛ける。

 

「ねえ、ヨハネさん。今回の事件は……SOATに腐った奴がいた事はたまたまだけど、ああいう何の保護もケアも受けられない子が、治安の悪い場所で放置されて彷徨ってた事が、そもそもの原因といえば原因じゃん。

――無理だよ。そっち側にいるヨハネさんのこと、私は好きだけど、信用していいのかどうかわからない」

「ッ――」

 

 その言葉に衝撃を受けたヨハネの手が、一瞬強張る。

 その隙をついたムラサキがにこりと微笑みながら、拘束された手首を小さく揺らした。

 

「離してくれる?」

「……っ」

 

 悔し気に唇を噛んだまま、下ろしたヨハネの手の力が緩む。

 指の間からするんと手を抜いたムラサキが、風のように去って行くのを背後から見守っていたミカは、あらあらと溜め息をついた。

 

「ボク、は……」

 

 以前から考えていた、自分は何のためにSOATをやっているのか、という疑問がヨハネの心を渦巻く。

 四六時中、傍にムラサキの温もりを感じていた左手を見つめ、握り締めながら、ヨハネはがっくりと溜め息をつきながら、独り言を零した。

 

「はあ……。これ、絶対カシハラに叱られるなあ……」



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1-21 新設

八尺様事件の解決からほどなく。
ムラサキの件で除隊を覚悟したヨハネだが、ユイトからの提案は思わぬもので……?

ずっと一章ではちょっとわかりづらい気がするので、一応まだ第一部の中ではあるのですが、次から二章に変えようかと思います!
シリーズ名を「第一部」とか「第一シリーズ」に変えればいいもんな!(アニメか)


第21節 新設

 

 セブンスコードの運営機能と、治安維持全般を担っているSOAT内に、未成年の少女へ心身の傷を負わせ、八尺様事件の切欠を起こした男が所属していたことは、セブンスコードとリアルの社会、両方での大スキャンダルとなった。

 今後のためにも、出来た傷から膿は早いうちに出すべきと判断したユイト達の判断で、適切な謝罪や保障は行われたものの、社会に走った動揺は大きく、SOATへの風当たりもそれから暫くは強かった。

 

 最高機密であるユイトが目に見える表舞台に出るわけにはいかないとしても、代わりに会見へ出た幹部や、問題対応に当たってくれた隊員たちを彼は労い、裏方ではギリギリまで処理や仕事に追われていたため、疲弊の色を滲ませてSOAT本部を駆け回っていた彼がようやくヨハネを呼び出したのは、騒動からひと段落ついた頃だった。

 

(よくて減給と停職、悪くて除隊か……)

 

 各々事後対応で忙しかったせいで、ムラサキの件については報告書を出したっきりになっている。直接顔を合わせて細部や認識の擦り合わせを出来るのはありがたい機会だが、それ以前に、要警戒対象とされていた人間をこっそり寮に上げ、戦闘に参加させたあげく取り逃がした自分は、まだSOATに居ることを許されるのだろうか。

 せわしなく黒い隊服姿の隊員たちとすれ違いながら廊下を抜けて、ヨハネは執務室に歩を進めつつ溜め息を零した。

 

「……はい」

 

 返事のあった扉を開けば、ユイトが丁度電子書類を前に机に向かっていたところで、その傍へ二人分のお茶を用意していたリアが、入れ違いにぺこっとお辞儀をして帰っていくところだった。

 顔を上げたユイトが、途方に暮れたような笑みを浮かべる。

 

「ああ、お前か。来たか」

「……うん」

「まあ、座れ。ここ一週間は、お互いろくに休めてないだろう」

「あんたと意見が合うのは癪だけど、同感だね……まさか、あんたと面付き合わせて、一緒に茶を啜る日が来るなんて」

 

 誠に癪だと思うが、もう今はそうする気力しかない。

 しみじみと染み入るリア特製のお茶を二人で有難く味わいながら、ヨハネが口を開いた。

 

「なんかこれ、ボクら若い人間の挙動じゃなくない?」

「どうせこれからのボクには、寿命なんて関係なくなるんだ。振る舞いが年上らしいか、年下らしいかなんて、長い目で見れば些末なことだろ」

「それはそうだけど……。まあ、責任ある立場って、楽しいことばかりじゃないからね」

 

 二人でほっ、と溜め息をついた後、ユイトが改めて本題に入る。

 

「お前が報告書に書いてたことには、あれで相違ないか?」

「ない。……むしろ、あんたが今までボクを泳がせてたのが不思議なくらいだよ」

「お前とミカの助力がなければ解決できなかったことは確かだ。それに、お前ほどの隊長がいなければ、あの男が抜けた後の隊員たちの士気を維持するのも難しかっただろうしな」

 

 思いもがけない称賛と労いに、ヨハネは内心目を丸くしながらも、ちょっと肩をすくめてみせる。

 

「いやに褒めるな。餞の言葉にでもするつもり? 別に、クビにしたいんだったらオブラートに包んでくれなくってもいいよ」

「されたいのか?」

「誰だって、進んで職を失いたいヤツはいないだろ。……けど、ボクの場合は、ここを辞めても前にいた賭場の世界へ戻るだけだ。安心とまではいかないけど、首を切られる他の隊員ほど絶望感はない。……そうだな、馴染んだ生活に戻るのも、悪くはないかもしれない」

 

 強いて言うなら、コルニアを持ち逃げすることは、前と違って今のSOATでは難しいことだろう。

 だとしたら、自分が向かう行く末も、あの頃よく見ていたベビードール達と同じようなところだろうか。

 侮蔑とまではいかなくとも、さすがにそこまでは――と思っていた世界に、自分が堕ちる。けれど、そうなって初めて見える世界も、あるのかもしれない。自分がSOATである頃にはファインダー越しに見えずにいた、何かが。

 ふと、暗い自嘲の笑みを浮かべるヨハネの前で、ユイトが頭を抱えた。

 

「本来なら、お前のやったことは除隊処分にしたいくらいなんだがな……」

「うう……」

「だが、お前が寮にあの女を連れ込んだあたりから、黙認していたボクが言えたことでもない」

「はぁ!? 知ってたワケ!?」

 

 思いもがけない方向に話が転がり始めたらしい。

 完全に予想外の方から刺された情報に、ヨハネが声を裏返らせた。そんなヨハネに、ユイトは淡々と説明する。

 

「リアが怪しんで報告してくれたんで、部屋の中とその後の行動も監視させてもらった」

「いや隊員の部屋の中に監視カメラ仕掛けるとか悪趣味にもほどがあるでしょ!? あんた毎回そんな手段使ってんの!?」

「別にカメラを使ったわけじゃない。そんな非人道的かつ非常識な手段で全隊員を監視してるわけないだろ。忘れたのか? これでもボクはセブンスコードの『神』と名指される存在なんだ。極端に言えば、誰がどこで何をしようと、筒抜けにさせる程度の『手段』は、本気になれば講じられる。……著しく力を消費する禁じ手だから、やらないけどな」

「それを、一隊員の覗きをする為に使ったってワケ……」

 

 げんなりするヨハネを、文句を言うなというようにユイトは軽く睨む。

 

「言いたくはないが、もしお前がSOATの謀反者だった場合には、こっちとしてもプライバシーの条項など構っていられなくなるからな。

まあ、結果として榊の奴は、何か違う方面で誤解をしているようだったが……」

「うわああああああもう無理だ……社会的に生きていけない……死にたい」

 

 今度は、ヨハネが頭を抱える方だった。ある意味それは、除隊されるより酷い出来事のような気がする。

 悪夢を見ているような気分になりながら、ヨハネは机上のお茶を零しそうな勢いで叫んだ。

 

「ていうか、そこまでバレてるなら、作戦の前にもう声掛けてくれたってよかっただろ!? こっちだってコソコソ隠れる必要なかったのに、なんでわざわざ……!」

「榊が言っていたんだ。お前はコルニアで隠せたつもりだったらしいが、寮で先のない手錠がお前の手首に見えたと。それで隣に誰かがいたらしいと言うんだから、その……こっちとしても判断に困るだろう。

お前が容疑者を無許可で寮に連れ帰ったのか、それともその……何か……つまり、そういう性癖を持つ人間と……だとしたら、一般人の寮への立ち入りが禁じられていない以上、個人の事情に口を出すわけには」

「あああああああわかった! わかったからそれ以上言うなッ、頼むから! ボクが覚えのないことでどんどん汚されていくような気がする!!!」

 

 SOATの裏切り者かと思った相手には覗きすら辞さないくせに、変なところで真面目さを隠さず困惑するユイトに、ヨハネが絶叫する。

 たまに思い出すが、ユイトはこれでもヨハネより年下なのだ。

 座っているだけなのにぜーぜー息を切らすヨハネを、なぜか楽しそうに見やって笑い声すら上げたユイトは、こんな風に言った。

 

「とにかく、彼女……大野と言ったか。彼女が拒否しているのは、SOATに出頭して植能の調べを受けることなんだろう?

こちらとしては、例の事件の容疑者の線からは外れたし、事件解決に協力してもらった恩もある。謎めいた部分もあるとはいえ、害をなす存在と決めつけたのは、こちらの早計だったかもしれない」

 

 はたと顔を上げるヨハネに頷くと、ユイトは目の前の画面に、企画書と条項のようなものを立ち上げさせる。

 

「ヨハネの調査のおかげで、表向きにはなっていないものの、こちらも時間渡航者専門の部署を立ち上げることに成功した。

彼女の証言が正しければ、他にも何名か存在が確認されているようだからな。都市伝説だった奴らの裏付けが、ようやく取れたよ」

「時間渡航者の部門……何をするための?」

「有り体にいえば保護、かな。この世界に詳しくない存在である彼らには、生活上のサポートがいるだろうという上の判断だ」

「IDをそこに登録させるの?」

「普通に生活している以上、渡航者がIDを持たずにいるとは考えにくい。こっちの世界の魂に匹敵するものだし、これがないと物の購入も施設の利用もできないはずだからな。

ってことは、彼らのIDは、SOATを通さずに自動発行されているってことだ。

どういう仕組みかは分からないが、そのIDを今からでもSOATに紐づけすれば、行動やログインの記録を残すことは出来る」

「……監視するってこと?」

 

 ごくりと唾を飲んだヨハネが問い掛けると、ユイトは一度溜め息をついてから、ゆっくりと頭を振った。

 

「表向きは穏やかな言い回しに甘んじても、まあつまり、そういうことだな」

 

 ムラサキに逮捕の可能性やSOATからの危害が及ばないことを喜ぶべきなのか、新たな懸念事項とするべきなのか、難しい顔で黙り込んだヨハネに、ユイトは微笑み掛ける。

 

「安心しろ。運営関係者も、あまり事を荒立てることは望んでいない。時空改変のような実害のある干渉に及ぶ奴らが現れず、人数が膨れ上がらない限りは、内密にこちらで管理しようと思う」

 

 マウスをクリックしながら、その書類を一通りコピーしたユイトは、データをヨハネの端末に送信しながら、立ち上がった彼を見上げる。

 

「どうせだから、お前の任を変えることにするよ。捕獲ではなく、彼女を説得した上で、SOATに任意同行させてくれ。

彼女にはIDの件だけではなく、植能の件もある。

いくら本人が嫌がっていても、最終的にはこっちで一度検査を受けて欲しいんだ。一般人に植能が突然発現する例は、珍しいからな。今は問題なくとも、後々その植能が危害を及ぼす可能性もあるかもしれない」

 

 それに関しては、正直ヨハネも同意見ではあった。

 ユイト達には報告済だが、子宮(ウーム)という植能は、その植能自体も能力の効果も、今報告されている例の中では聞いたことがない。

 実際に目にしたヨハネからすると、少なくとも並の量産型植能以上の威力を持っているように見える。低威力ゆえに黙認されている(ネイルズ)血液(ブラッズ)ならまだしも、主要植能以上の効果を持つものは、訓練を受けていない一般人では扱いが難しいだろう。可能であれば、SOATで植能だけを剥奪・管理してしまった方が、彼女にとっても一番安全かもしれないのだ。

 

「今はよくても、こっちの世界で広く知れ渡ってしまえば、彼女を狙う人間が出て来るとも考えられる……?」

「だろうな」

 

 それらの事情を呑み込んで、黙り込みながら顎を引いたヨハネの様子を承諾の合図と見て取ったユイトは、空の湯呑を手に立ち上がる。

 

「こっちには、研究機関と職員も揃っている。ニレやアウロラの一件があってから、旧役員やポストも一新して、人道面にも定期的に監査を入れつつ気を配っている。

手荒な真似は決してしないし、安全に検査を受けられると、彼女にも説明してくれないか」

「はぁ? ヤダよ面倒くさい。カシハラが自分で言えばいいだろ」

「ボクから説明したら、ボクがお前とのやり取りを全部聞いたことまで、彼女の耳に入ってしまうじゃないか。それはいいのか?」

「う……脅迫だろ、それ……」

 

 思わぬところで墓穴を掘ってしまったヨハネに、ユイトが苦笑する。

 

「それに、どういうわけか彼女はお前には気を許しているだろう? 心を開くには、お前の存在が多分役に立つ」

「は、はあぁ? どこが?」

「お前、自覚がないのか?」

「気を許してるって……どこがだよ。こっちが折角親切で動いてやってんのに、人のことからかってばかりだし、ペースはめちゃくちゃだし、勝手にボクのお株は持って行くしさ。どうせ面白がってるだけでしょ、アレ」

「ボクが言うのも何だが……お前、多分そういうところだぞ」

 

 ますます訳が分からないという様子で、部屋を出てブツブツ言いながら隣を歩くヨハネを、ユイトは含み笑いで見やっていた。

 

(ボクが……できること、か)

 

 消えかけていた心の希望に、火が灯る。

 ムラサキと出逢い、あの八尺様に憑かれた少女を見た時から、ずっと思っていたこと。

 一つの決意を胸に、ヨハネはそれを仲間に打ち明けようと、心に抱えたままで前を向いた。

 

 

ザザザザザ……

「『あれ』は泳がしておくままにしておくか。ふぅん」

 

 暗いビルの片隅のような場所。

 明滅する画面を見つめていた少年は、独り言のように呟いた。耳元のヘッドフォンを見る限り、どこかを盗聴でもしていたのだろうか?

 監視カメラの映像をザッピングし、彼は紫袴の長い髪の女性を映し出す。

 

「今すぐ捕まえる気がないってコトは、ボクにも取り返すチャンスがあるってコトかな?

けど、あの時に続いて、今回も……一体、何者だ……?」

 

 白い光に照らし出された、無表情の横顔が呟く。

 彼は、橋のたもとで八尺様とムラサキを覗いていた、あの少年だった。



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第二章
2-1 悪寒


朝の街を、喫茶店へ向かおうとするムラサキ。
その身に、ふと視線を感じて……?


第1節 悪寒

 

「うう~~っ……いい朝」

 

 セブンスコードにログインして、数時間後。

 私は伸びをしながら、日の上り始めた空を眺め、ベランダに続く窓のカーテンを開け放った。

 ログインした時の私の世界の時間と、セブンスコードの時間がズレてしまっている事は大いにあるので、たまにこっちの世界での真夜中に着いてしまうこともある。飛行機に乗って海外旅行に向かった時の、時差みたいだ。まあ、そんな遠い国に行ったことは、まだないのだけれど。

 

 折角こっちに来ておいて何なのだが、早く着きすぎてしまった時は、することもないので昼寝のつもりで仮眠を取っている。

 セブンスコードの中にも睡眠という概念はあるみたいで、ログアウトしようと思わなければ、こっちで眠って起きても、まだ普通にブンスコ世界の中にはいる。夢から醒めても夢の中にいるみたいで最初は不思議だったのだが、もう結構慣れてしまった。

 真夜中に仕事を取ることもあったけど、幾ら植能があるとはいえ、あまり遅い時間はガラの悪い人間も多く、ちょっとこっちとしても対応に苦慮することが多いので、フリーになってからは安全な時間帯の仕事のみに控えていた。絡まれても対処が出来る、ということと、わざわざ対処したいかどうか、ということは別問題なのだ。

 

(うーん、どうしよう。午前中に一件、午後に一件だったから、午前の仕事が終わってから一回ログアウトしようかな? 空いた時間に小説とか書いてもいいし。夕方の仕事が遅くなりそうなら、あっちの世界の夕飯作っておいた方がいいし……。

むしろ作っておいて、仕事終わりにママのバーに寄ることにしようかな。うん、そうしよう)

 

 あの八尺様の件がどうなったかは分からないのだが、まだ喫茶・クロカゲへの復帰は見合わせている。

 一応、人の少ない時間や営業時間外を狙って、こっそりウルカちゃんやソウルくんには会いに行っているのだけれど、衣装がこの感じだし、人目につくとどこでどうSOATから咎められるかわからない。落ち着いたら、またバイトに入れたらいいと思うのだが。

 それに比べてママの店なら、バーの営業店舗と風俗の事務所はまったく別の場所になるから、SOATに足がつく可能性も少ないはず。

 心配なら必要最低限以外の誰とも会わないのが安全とはいえ、さすがにそれは寂しいし。

 

(ふむぅ……ニュース見てるけど、SOATも肩身が狭そうだねぇ)

 

 あのエレメントの件云々はともかく、こっちの世界において公的機関にも等しい権力を有してるとこの人間が、年若い女の子を犯すだけ犯して殺していた、というのは聞こえも悪いだろう。

 どこの世界にもそういう奴はいるだろうから、別にSOATが悪いわけではないと思うのだけど、一旦こういうことがあると、組織の体制とか品位を疑われてしまう。いいネタを得たとばかりに、反対派のデモも活性化を極めていると聞いていた。

 

(あの子、大丈夫かなぁ……)

 

 ヨハネさんにはちょっとキツい事を言って別れてしまったとはいえ、心配になったまま音量を下げたテレビ画面を見つめた。

 SOATの隊長を務めている彼にも、隊員の不祥事には責任の一端が生じるのかもしれないけど、正直こんな問題、未成年の子の双肩にのしかかっていいレベルじゃない。

 ていうか、そもそもあの組織、若い子が幹部に多すぎだ。ゲームやった時から思ってたけど。

 「少年少女に未来は託された」って、フィクションなら聞こえがいいけど、現実でやったらただのブラック企業だぞ。

 

(いや、私が知らんだけで、他にもおるんかな……ちゃんとした大人……)

 

 SOATの人事はどうなってるんだ……というモヤモヤを抱きつつ、私はモーニングにでも行こうかと、アパートで身支度を整えた。

 この世界も、一応外の世界の時間に合わせて日が昇ったり落ちたりするし、24時間という概念はあるらしい。捕縛の時はずっと空が暗くて夜みたいだったらしいけど、今はリアルの世界と見分けがつかないほど、すっきりした空気と青空、眩しい太陽が広がっている。

 セブンスコードでは空腹や痛み、喉の渇きなどは基本感じないらしいので、飲食店といえば娯楽のためにあるのだけど、なぜか私はこっちで過ごしていてもお腹が空く。し、向こうの現実と同じで、満腹になると気持ち悪くて食べられなくなる。

 大体の人はよほど急用などでなければ食べ物を「残す」という必要がないみたいなので、わざわざそうするということは、「不味いから口に合わない・それ以上食べられない」という風に取られることもあるらしい。なので、あんまり店の人に嫌な思いをさせないように、食べきれない分は持ち帰るか、最初から量を控えめに提供してくれる店を選ぶ。

 

 前に行った事あるカフェを選ぶかな、と思って廊下へ出たら、朝もやの中で不意に鳴き声がして、黄色っぽい何かが突っ込むように飛んできた。

 

「ぴゅーい。ぴちゅぴちゅぴちゅ」

「わっ。また来てくれたの?」

 

 思わずのけぞった私の腕に止まりながら、一羽の鳥がばさばさとその羽根を翻し、もふもふの頭を擦り付けては興奮したように鳴き声を上げる。

 ぼっさぼさに逆立った頭上の毛がとさかみたい。ひよこと同じ真っ黄色の鳥だ。お腹が白くて、目の周りと羽根の縁に黒いギザギザ模様がある。警戒色そのまんまな鳥だが、なんていう種類なのかは知らない。こんな目立つ色をした野鳥は、リアルでも見たことがない。

 

「ほらほら、落ち着いて」

「ぴぃ」

 

 いつの頃からかこの階の廊下に姿を見せるようになったのだが、たまたま欄干に止まっているところへ餌をやってみたら懐かれてしまったようで、今じゃこっちでも対人交流を自粛している私の、数少ない貴重な喋り相手だ。

 頭を人差し指で撫でると、気持ちよさそうに目を細めている。

 スズメよりはちょっと大きい気がするが、鳩とか烏ってほどでもない……キツツキぐらいかな。キツツキ見た事ないけど。

 

「そういやキイロイトリってあっちの世界でも見た事あるけど、あれは熊の友達っていうかキャラクターだし。お前はなんなんだろうねえ……。紫に黄色じゃ目立つ気もするけど、一緒に行く?」

「ちゅーいっ」

 

 サンドイッチをテラス席とかで食べれば、パン屑をあげるには丁度いいかもしれない。嬉しそうに鳴いたので、肩に乗っけたまま散歩にいくことにした。

 鳥を肩に乗せて散歩……リアルじゃとても叶いそうにない夢だ。魚類以外にペットらしいペットを飼ったことがない私には嬉しい。セブンスコードにいるなら、多分飢えたり死んだりもしないだろうし……。

 天気のいい空の下を、表へ続く通りに出ようとした時、ふと変な寒気が私を襲った。

 

「ぢゅい゛い゛い゛い゛っ」

 

 鳥が今までにない物凄い声を上げて、ドラム缶の積み重なった物陰に突っ込んで行くのが見えた。嫌悪するかのような鳴き声をけんけん上げられ、嘴と爪先で撃退されて、罵倒を浴びせながら何人かが物陰を去って行く気配がした。

 あたりを旋回しながら、鳥が私の肩に戻って来る。

 

「ぴっ」

「守ってくれたの……?」

「ぴっぴっ」

 

 得意げに鳴いては羽根をはばたかせるこの子に付き添われて、そっと物音がした場所の壁に近づいた私は、ああ、と納得の声を上げた。汚い落書きが、壊れかけたブロック塀にスプレーでデカデカと書かれていた。

 

『売女』『治安を穢す女狐はセブンスコードを出て行け』『百合豚』『ブスのくせに気持ち悪いレズ女』『→⚠⚠⚠注意⚠⚠⚠襲われます』

 

「はぁ……また引っ越さなきゃダメかなぁ……」

 

 思わずため息が出る。嫌がらせの手段自体は低俗で気に留める価値もないものだが、ここに落書きがあるということは、こっちでの住所がバレたと見て間違いない。

 まったく、こんな時代になったというのに、暇な奴はどこにでもいるものだ。せめて放っておいてくれたらいいものを、なんで自分たちが正義面してなきゃ気が済まないんだろう。

 

「うーん……あの部屋けっこう気に入ってるんだけど」

 

 かと言って、どこぞの誰とも知らない奴らに、部屋に押しかけて来られるのも困る。

 瞬間移動を使って大通りに出てからも、私は気が付けば何かが追い掛けて来るような不安に駆られて、何度も背後を振り向いた。

 

(なんかこのところ……気持ち悪いっていうか、妙な気配を感じるんだよなぁ……。

あの紋が暴走しちゃってるせい……?

でも、ミソラに見てもらった時はフェロモンは正常値の範囲内だったし、なんか思ったより個人出張の仕事が増えちゃったから、休むわけにもいかないし……

自分で何とか防衛するしかないか……)

 

 別に洋服に変えたっていいのだが、この和服をこっちでの殻にしているのは、紋を隠すためという目的もあるので、おいそれと変えられない。

 都会に住んでいる女性はこんな気分なのかな、と思う。

 女であるというだけで、好きな服を着ることも、夜道を歩くことも許されず、警戒しなくてもいいはずの事に神経を尖らせて。人気のない道を歩くなという教えを刷り込まれた自分が、未だに散歩へ外に出て歩く時さえ、付いて来る人間はいないかと時々振り返らなければならない癖を、嫌でも思い出す。

 

(……不審者とか、包丁を持った奴じゃないといいんだけど)

 

 危ない目に遭ったことは幸いにしてないが、高校の時に背後の人物を不審に思い距離を空けながらまいて帰ったら、その人物が同じ時間に下校していた小学生達を追い回していたという不審者情報が後で回って来て、鳥肌が立ったことはある。大学時代に実家へ帰省した帰り、電車で隣に座った男や道端で会った男性に、しつこく連絡先を聞かれたりとか。

 そういうの、どれだけモテたかという指標にする人もいるみたいだけど、素性も何も分からない人間に後で電話したいからとか言われても、気味が悪いし恐ろしいだけだ。ナンパされて羨ましいとか、そういう次元の話ではない。

 

「ちゅい?」

「ああ……うん。大丈夫大丈夫。ありがとね。行こ」

 

 気遣うように鳴いてくれたこの子には、私の見た目もそれに対する僻みややっかみも関係ない。

 それに少しだけ救われたような気持ちになりながら、私は朝の街へ繰り出した。



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2-2 見解

仕事終わりに、ママのバーに立ち寄ったムラサキ。
彼女はそこで、意外すぎる相手と再会を果たす。


第2節 見解

 

 その日の夜。

 仕事を終えたムラサキは、馴染みのママの店に行き、お気に入りのドリンクをつまみと一緒にひっかけていた。

 骨格のがっしりしたママが、今日はタキシード姿に身を包んで、シェイカーを振りながらカウンターの中を動き回っている。

 

「それにしても、個人営業が順調みたいでよかったわ~」

「ママが、いいお客さん紹介してくれたおかげだよ。色々大変なこともあるけど、あんまり店にいた時と変わらない感覚でお仕事できてるし、それにまあ、正直なこと言うと、稼ぎがまんま自分の懐に落ちてくるのも、ありがたいしね……。

ママに紹介料払った方がいいんじゃないかってぐらい」

「ここに来て、元気な顔見せてくれるだけで十分よ。けど、あんま飲み過ぎないようにね。あんたアルコール弱いんだから」

「だいじょーぶ、ママが作るカクテル、ノンアルのも美味しいし。むしろごめんね、アルコールばっか飲めなくて……」

「ココは大人が夜を楽しむ場所だから、なんだっていーの。ムラサキはいちいち気にし過ぎよ」

 

 一人飲みが多いカウンター席は今日は空いているようで、奥の角にあるテーブルが数組の客で賑わい、あとは間隔を置いて数名の単身客が、キャンドルの灯るテーブルで、静かに物思いに耽っている。

 氷が砕かれて割れる音。棚に並んだ酒の瓶がぶつかり合う音。マドラーでグラスをかき混ぜる音。ミキサーの音。決められた正確な手順をなぞるように、どんなに忙しくても危なげなく動いていくママの立てる音色を、じっと目をつぶったまま聞くのが、ムラサキは好きだった。

 訳アリの人間も多くやってくるこのバーは、とにかく居心地がいい。ママはやさしいし、やって来るお客も、会話好きなら話に加わるし、そうでなければ適度な距離で放っておいてもらえる。

 透明なグラスと綺麗なカクテルの奏でる音色に耳を澄ませながら、カウンターに腰掛けたムラサキがじっと頬を緩ませていると、不意にドアベルの音色が響いた。

 新しい客が入って来たらしい。

 

「あら、いらっしゃい。お客さん、はじめて?」

「そう……だね。えっと、度数が弱いやつ、頼める……?」

「アルコールには弱い方かしら? はい、よかったらこれ。メニューあるわよ」

(……うん?)

 

 なんとなくその声に聞き覚えがあるような気がして、ムラサキは目を開ける。

 手渡されたメニューを開こうとした隣の人間と目が合って――双方瞳が真ん丸になった。

 

「っえ、んえええええええええ!?」

「あっ、あんた、なんでこんなとこに……!?」

 

 向こうも本気で驚いたようで、ムラサキからすれば馴染みのある方の格好――制服姿ではなく、赤いクチュールに身を包んだヨハネが、メニューを手に唖然とこっちを見ていた。カウンターのスツールに腰掛けた姿勢で惜しげもなく晒される長い手足と、黒いブラを纏った開いた胸元が、露出面積など欠片もないSOATの制服姿に比べればあまりに綺麗で、目をちかちかさせながらムラサキが辛うじて口を開く。

 

「そ、それはこっちのセリフ……! え、あ、う……まっ、ママ! お会計! 私帰る!」

「あらあら、どうしたのよそんなに慌てて」

「まっ……ちょっと待って! おい待てって!」

 

 SOATに捕まる可能性を思い浮かべたのか、赤くなった次に青くなって逃げ出そうとするムラサキの腕を、カウンターから降りかけたヨハネがはっしと掴んだ。

 

「待ってよ。お願い。このカッコでうろついてるのは、あんたを捕まえるためじゃないんだ」

「……え?」

「会えたら、話がしたいと思ってた。……ボクを、信じてくれない?」

 

 大きな瞳にひたむきに見据えられながら、振り返ったムラサキが動きを止める。

 じっと、頭ひとつぶん高い位置にあるその顔を見上げながら、ムラサキがおずおずと言った。

 

「……本当に、捕まえない?」

「うん。この格好でいる間は、あんたのことは捕まえないし、強引にSOATに連れて行くこともしない。……約束する」

「……」

 

 手を掴まれたままで彼を見つめていたムラサキは、さっきより席一つ分詰めると、ヨハネの隣に黙ってすとんと腰を下ろす。ほっとした様子でスツールに戻ったヨハネが言った。

 

「マスター。ボクにジンジャーフィズを。あと、彼女の次のカクテルはボクの奢りで」

「えっ」

「ふふっ、そんな堅苦しい呼び方じゃなくていいわよぉ、ママで。了解。ちょっと待っててね。ムラサキは次何にする?」

「えっ……あっ、えっ、んと、じゃあ同じやつ……!」

 

 何かを感じ取ったママは、ふふふと穏やかに笑いを一つだけ浮かべ、カウンターで作業に入る。

 驚いているムラサキに、気にしなくていいという風に手を振ってから、ヨハネはミネラルウォーターを一口飲む。

 

「今まで追い回しちゃった分のお詫び……と、この間八尺様のこと手伝ってもらったお礼。まあ、これじゃ安すぎると思うけれど」

「いやそんなん、私がやりたくてやったんだから気にしなくていいけどさ……て、いうか、ヨハネさん大丈夫だったの?」

「色々あったけど首の皮一枚繋がった。今はまだ、こっちで特別警備の任に当たってる」

 

 厳密にいえばムラサキに関わる任も兼ねているが、それは仄めかさずに、ヨハネは作られて来た飲み物を口に運びながら、話し始めた。

 ムラサキもその隣で、しゅわしゅわと泡を弾けさせる黄金色のグラスへ口を付ける。

 

「あれから、色々考えたんだけどさ。あんたに言われたこと……本当は、前からボク自身も思ってたことだった。SOATは、制度や体裁を前面に押し出すあまり、都合の悪いものを無視し過ぎたんじゃないかって。

確かに、カシハラがトップになって前よりは良くなったよ? それでも、全部は救えないだろうからって……ボクは目を背けようとしてた。改革には犠牲が付き物だから仕方ない、少しくらい頑張ったところで意味はないって言い聞かせてさ。

……でも、それじゃダメだったんだ。救えないだろうって思う者を救うことこそが、ボクのSOATとしての務めだったのに」

 

 ぎゅ、と手袋の手を握り締める。

 カウンターで、ポニーテールの房を揺らして前を向いたムラサキは、隣で語るヨハネの言葉に、じっと耳を傾けていた。

 半分くらいグラスを減らしてから、ヨハネが口にする。

 

「前からボクはこの地区の担当班長だったんだけど、この間SOATでみんなに提案してみたんだ。こっちの巡回パトロールに、私服で回る時間も設けさせてくれって」

「……私服警官みたいな?」

「まあそんな感じ。やってみたら賭場の周りの人間は、やっぱりSOATの制服姿よりも、こっちの姿の方が話し掛けてきてくれる。

SOATって知られるだけで作られてしまう壁が、知らないうちに取り去られてるのを感じた。オージがいつまで経っても人に好かれてるのが、なんとなくわかったよ」

「そうなんだ! ……そっか。街に住んでる人と、距離感が縮まるのはいいよね。近くで見ると、遠くからは見えなかったことも沢山見えるでしょ」

「本当にそう思う。巡回の時だけじゃ見れなかった、『綺麗』じゃない方の姿っていうか……色んな人が本音でぶつかってくる。全員の望みを解決することはできないってのは、わかってるんだけど、それでもちょっと楽しいかな。色んな見方があるって気付いて、びっくりするんだ」

「別にそれでいいよ。お役所の人の仕事は、人の願いを何でも叶えてあげることじゃないんだから」

 

 そう言うムラサキと会話が弾み、何杯かグラスを空にしてから、ヨハネがふと零した言葉を、彼女は耳に留めた。

 

「……それで、あんたに会えるのをずっと待ってた。また会えたら、あの時は出来なかった話を、色々聞けたらいいなって思ったんだ。この世界であんたが見てきたことも、あんた自身の世界のことも」

「ヨハネ……」

 

 まっすぐに見つめられたムラサキの瞳に、キャンドルの炎が揺れた。

 隣り合った席、キラキラ光を反射するカクテルのグラス越しに、二人の視線がぶつかる。

 

(……これ、お酒のせい?)

 

 鳴り出した心臓の鼓動が、自然と速くなる。

 ママがレコードに落とした針から流れ出す、サックスとジャズバンドのBGMが、その場の雰囲気を柔らかく穏やかにしていた。

 オレンジの光に照らされるヨハネの顔が、いつもよりずっと優しい。

 優しい灯りが灯る暗がりのテーブルで、ムラサキがそっと微笑む。

 

「私服警備のこと、勇気出して、SOATの人たちに言ったんだね」

「ボクが思ってたより、ずっと簡単だった。反対するヤツもいたけど、見えづらいトコに目を向けたいと思ってたのは、隊長たちも他のヤツらも、みんな同じだったみたいで……何かしたいって思いながら、手をこまねいてるばっかりだったって、言ってたから。

少しずつでも、やろうって思って声出すのは、意味あったんだなって思った」

「すごいよ。私なんて、こうすればいいのにーって文句だけはいっちょ前に言いっぱなしで、何もしない人間なんだから。

……この世界の人のことを、そこまで考えてるんだね。すごいね」

 

 そんな打ち明け話に感謝するように、ムラサキは淡い紫色の満ちたカクテルグラスを、ちんとヨハネのグラスにぶつけてから、ふと例の事件に思いを馳せて、考えたことを口にした。  

 

「あの、八尺様のことね。多分だけど、あの男に堕胎させられた女性って、あの人だけじゃなかったんじゃないかなぁ」

「え?」

 

 ヨハネが、意外そうに目を丸くする。つまみのオリーブを口に運んで、ムラサキが爪楊枝を指先で振り回した。

 

「水と堕胎って聞いて思いつくのは、水子の霊でしょ。あの子はたまたま男に階段から突き落とされて、流産したし意識不明になっちゃったってパターンだったろうけど、なんか……SOATに入隊してそこそこ羽振りがよかったはずの男が、そこまで金銭的に困窮してたのって、もしかして他の女にも堕胎費用を迫られてたからじゃないかって」

「……なるほど。胸糞悪い話だけど、そういう線もあり得るのか」

「ほら、ニュースで出てたけど、取り調べではあの子以外にも、レイプの被害に遭った女性がいたって話でしょ。店で女遊びするような金があるのに、堕ろすにしよ産ませるにしよ、あの子にだけ金が出せないっていうの、何か腑に落ちないなって……学生だからって見くびってたのかもしれないけどさ」

 

 そこまで吐き捨てるように言い切って溜め息をついてから、ムラサキはたんっとおかわりした長いグラスをテーブルに置く。

 

「あの八尺様……の形をした水紋? は、あの女の子に憑りついたのかもしれないけど、あの子が喋っていた言葉は、あの子だけの気持ちじゃないような気がしたんだ。

あの子のお腹にいた子や、実際に被害に遭った子、他の罪なく殺された子、そういう子達がまるで、みんな彼女の力添えをしてたみたいな……」

「水子の幽霊や他の被害者たちが、彼女を通して制裁を下したっていうのか? そんなバカな……」

「いやいや、あくまで私の思い付きだよ!? そんな、生まれてもない子のIDなんてこの世にあるはずもないんだし。でも、もしかしたら……ね? と思って。私、そういうこと考えるの好きな人だから」

 

 いかにも怪談らしい推理に息を吐きながら、ヨハネが青じそのカクテルの入ったグラスを揺らす。

 馬鹿げている……と思いながらも、あの時現場で見た数々の光景を思うと、あながち否定も出来なかった。巨大化する前の「八尺様」は、一人ではなく沢山いたのだ。その一つ一つが意志を持って動いていたと、そんな風に思えなくもない。

 最後に集まって巨大化したのも、霊魂っぽいといえば霊魂っぽく思える所以だ。

 ちびりちびりとウイスキーを運ぶムラサキの隣で、ヨハネが目を細めた。

 

「でも、もしそうなんだったら……少しでも供養になってるといいな。事件の被害者はもちろんだけど、今、リアルの世界で生きられない人や、性被害に遭った人が掛ける相談ダイアルとも連携取ってて、出来るだけセブンスコードに逃げて来る子達の取り零しがないようなシステムを、作ろうとしてる。

すぐには無理だろうけどね。もうあんな事は起きないといいなって思う」

「うわ、すごい。めちゃくちゃ進展したじゃん。さすが仕事のできる女」

「別に、起きちゃったコトは取り返しなんてつかないし、ボクが罪滅ぼしに出来そうなことが、そのぐらいしかなかったってだけだよ」

 

 称賛にも控えめにそう返しながら、照れたように赤らんだ顔へ面映ゆい表情を浮かべていたヨハネは、ふと気が付いて言う。

 

「……ところでさ、これ、さっきから全然酔わないような気がするんだけど。本当にアルコール入ってる?」

「あら、未成年の子にアルコールはダメよ。ここがセブンスコードである以上、追い返しはしないけど、誕生日を越したらまた出直してらっしゃい☆」

「……っで、え、ママっ、気付いて……!?」

 

 会話に乱入してきたママは、身をのけぞらせるヨハネに向かって、ウインクしながら小さく指を振った。

 

「ふふ、長く生きて来た人間の年の功を見くびらないで頂戴。最初から、ちゃんと全部ノンアルコールで出してたわよ。SOATの隊長サン」

「う……おみそれしました……」

「あははっ、ヨハネがママ相手にしおらしくなってる……っ」

「あんたは笑い過ぎ……っていうか、ちょいちょい名前呼び捨てするよねッ!? 別にいいけど、あんた幾つさ」

「ヨハネより年上に見える? 年下に見える?」

 

 カウンターに肘をついてじーっと見つめるムラサキの赤い頬を、ヨハネが見つめ返す。

 

「……下」

「ぶはっ。即答かぁ。だってさ、ママ」

「ムラサキじゃ仕方ないわねぇ。いいじゃないの、若く見られるってことで」

「んで? ホントは幾つなの」

「おしえなーいっ。内緒!」

「はあぁ!? 酔っ払い過ぎでしょあんた! ほら、いい加減店出るよ!」

 

 また来てちょうだいねぇ、と見送るママを扉の向こうに残し、二人はセブンスコードの街中に出た。まだまだ眠らない夜のネオンが瞬き、送風機からの風が人いきれや街の匂いを運んでくる。

 季節感を出すためにシステムで再現されたイミテーションの雪が、ちらちらと頭上から降ってきていた。

 

「時間は? まだ大丈夫なの?」

「うん……そろそろ、いい感じかな。ヨハネさんもまた、見回りのお仕事戻る?」

「ああ、いや、仕事はもう上がってるから。この後は寮に戻るかな」

「そっか」

 

 風景だけは真冬なのに不思議と寒くはない街中で、肩を並べてどちらからともなく、歩道橋の上で足を止める。眼下に広がる眩い灯りと、サーキットエリアを走る車たちの群れを眺めながら、ムラサキが呟いた。

 

「……ありがと。会えて、うれしかった」

「そ、そっか」

 

 まだ、帰りたくないな。

 沈黙が支配しても、どちらからともなく、そんな雰囲気が二人の間に漂う。

 ためらいがちに睫毛を伏せたムラサキが、白い息を吐いて問い掛けた。

 

「……ね、あのさ」

「何?」

「ダメもとで聞いてみるんだけど……。

こ、今夜って、ヨハネの部屋、泊めてもらえたり、しない?」



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2-3 半身

ムラサキの話を聞き、心配から彼女を家まで送ることにしたヨハネ。
その途中、正体不明な敵に追い掛けられて……?


第3節 半身

 

「はああああああああ!?」

 

 当然ながら、車の騒音にも負けないほどの大絶叫が、歩道橋の上に響き渡る。

 慌てて両手を広げながら、ごまかすようにムラサキが宥めた。

 

「ど、どっちでもいい……っていうか、寮がムリなら自宅の方でもいいんだけど!」

「どっちにしろムリだよ! てかあんたさっき、時間がどうとかって……」

「ああ、いや、帰らなきゃいけないのはホントなんだけど……い、言ったでしょ、ダメもとだって!」

 

 開き直って言い返すムラサキに、ヨハネもキレながら怒鳴り散らしていた。

 

「ダメって分かってるなら聞いてくるなよ! ダメに決まってるだろ!!!」

「だっ、だよねー! いや、ううん、いいのいいの! ほら、ログアウトの時って私自宅か個人の家のアドレスデータから帰るようになってるから、ちょっとお邪魔してワープホール代わりに使えたらいいなって思っただけで! うん、どっか公共のワープステーションでも借りて帰るよ! ね、大丈夫大丈夫」

 

 その後の誤魔化すような言い訳を聞き咎めたヨハネは、怒りの表情を引っ込めると、今度は怪訝そうに眉を寄せてムラサキを見つめた。

 

「……何。家に帰りたくない理由でもあるの」

「いや、その……家がイヤっていうよりは、帰り道がちょっと……というか」

 

 なんとなく、離れるのが名残惜しい時の話のネタには、丁度いいかもしれない。

 酒が入って心が解けていたのも手伝って、ムラサキはヨハネに、壁の落書きにはじまる嫌がらせや、最近自分が街中を歩いている間に時折味わう例の感覚のことを口にした。

 聞き終わったヨハネが、ますます眉を顰める。

 

「最近誰かに見張られてるような気がする? ……なんでそれ早く言わないんだよ」

「いや、だって、私の気のせいかもしれないし……。この間だって八尺様のことで大変なことがあったばかりだから、私のせいでまたヨハネに何か迷惑掛けたくないなって……」

「バカ、民間人の警護だってSOATの仕事だろ。……それで? 実際に姿を見たことは?」

「ううん、私はない……。なんか……声が聞こえるような気がするから、人なのかなってのは思うんだけど」

「そりゃそうだろ」

 

 呆れたように言いながらも、現状手がかりがほぼ何もないということを知ったヨハネは、腕を組んだまま頷いた。

 

「わかった。今日は送ってく。あんたの家まで一緒に帰ろう」

「……え」

 

 思わぬ申し出にぽかんとしたムラサキを、不思議そうに見つめ返したヨハネは、言い訳するようにあわあわと手を動かした。

 

「い、言っとくけど、あんたを一人で帰すのが心配ってだけだからね! 道中なんかあったら仕事が増えてこっちの貴重な休みが潰れるしっ、別に上がり込もうとか思ってないからっ! 誤解するなよ!」

 

 わあわあと喋り続けるヨハネに、ムラサキは楽しそうに噴き出してからその申し出に頷く。何であれ、一緒にいられる時間が少しでも伸びることは、ムラサキには嬉しかった。

 

 

「なんか最近さあ、このあたりって電波の調子悪いよね」

「あんたの住んでる地区は、元々電波障害受けやすい場所だろ?」

「それはそうなんだけどさ。多少ちょっと繋がりにくいのと、ワープできる場所が少ないくらいで、私には不都合なかったから、むしろその程度の不便で家賃が安くて静かな場所っていうなら、こっちとしては願ったりだったんだけど。

……にしても、最近このあたり、ほとんど歩いて移動した方が瞬間移動よりも速いぐらいっていうか……。

おっかしいなあ、もうアパートのエントランスまで、接続されてもいい頃なのに」

 

 ストーカーを避けるならば、場所から場所への瞬間移動が使えた方が圧倒的に便利ではあるのだが、ここを歩くことが多いというムラサキのために、ヨハネが念のため、帰宅経路を一緒に歩いて周囲を確認することになった。

 時刻は深夜に近いものの、眠らない街であるセブンスコードにとっては、この地域も例外ではないらしく、大きな交差点やデパートのある通りを離れてからも、街灯は枝程の高い位置に瞬き、夜道を照らしている。

 ヨハネの足元のパンプスと、ムラサキのブーツ、二人分の足音が、店じまいを始める飲食店の並ぶ路上にこつこつと響いた。

 

「もしかして、このへんの街灯もSOATが整備したりとかしてたの?」

「暗い場所は治安が悪いっていうから、最低限のインフラはと思ってね。まあこのへん、大通りのあたりに比べたら人口が少ないから、事件らしい事件の報告も聞いてないんだけど、その壁の落書きっていうのは何か気になるな」

 

 確かに、一番人気がないといえば、最後にアパートへ向かう前の少し入り組んだ道くらいだ。このあたりはまっすぐな街路が続いているし、深夜のカラオケ帰りの学生集団や、犬の散歩をしながら走っている人もいる。

 ムラサキがよく来る喫茶店も、ここと同じ通りにある。ムラサキ自身から見ても、見通しが良くそこまで治安が悪い場所には思えないので、ますます自分の勘違いではないかという思いで首を捻るが、ヨハネは傍を離れようとしなかった。

 隣を歩いて話をしながらも、警戒するように、鋭い目を周囲に時々巡らせている。

 

「ごめんね。あ、ありがと……」

「何も起こらないに、越したことはないから。どんなに明るいところでも、犯罪って起きる時は起きるし。それに……」

 

 不意に、ヨハネが黙り込む。

 脚を止めたその横顔を、ムラサキが不思議がって覗き込むと。

 ヨハネの青みがかった瞳が、街灯の下でちらりと輝いて、隣のムラサキを見下ろす。

 不意にその手を引っ張って、ヨハネは閉店したカフェの軒先から突き出すビニール屋根の下へ、身を潜ませた。段を上がってすぐのところに、入口がある。

 とんっ、と入口の扉に背を押し付けられる形になりながら、ムラサキが動転してヨハネのことを見つめた。

 

「……よ、よはねっ?」

「それに、言っただろ。あんたと話してみたかったんだって。……実際に話してみたら、もう少し独り占めしたくなったんだって言ったら、あんたは怒る?」

「っ、ま、ままま、何言ってるの……っ?」

 

 逃げ場がない。上から見下ろすように、両腕を扉について囲われたムラサキに逃げ場はなかったし、逃げようとも思えなかった。

 体温が近い。褐色の肌と、整った高い鼻と、実際に見ると想像よりずっと綺麗で、覗けばいつまでも見ていたくなるようなヨハネの瞳が、すぐ目の前にある。

 こっちがこれほどドキドキしているというのに、近くで表情を焼き付けるように見つめられて、ぶわっとムラサキの顔が熱くなる。

 目を白黒させながら、なんとか言葉を絞り出しつつ、ムラサキは落ち着きなく身じろぎして視線を動かそうとした。

 

「きゅ、急にどうしたの。わ、私もしかして、間違えて植能使った? ごめん、だったら謝るからっ、あんまヨハネの意に沿わない状態で、こういうことしない方が、っ……」

「いいから、少し黙って」

 

 指先で顎を掴まれ、鼻が触れそうなほど顔が近付けられて、今度こそ身動きできなくなる。

 互いの呼吸の音が、耳元で聞こえそうだ。

 

(あ、あの、まさか、これ……)

 

 いくら屋根があって少しは暗がりにいるとはいえ、まだ路上には人の姿がある。

 あまりに大胆な行動に翻弄され、口先では拒絶の言葉を言いながらも、酒の余韻に酩酊するような気持ちで、思わずムラサキは目を閉じた。

 ……瞼の裏に、仄かな街灯りの気配が透ける。遠くからさざ波のように押し寄せる人々の談笑と、自分の心臓の鼓動以外、何も聞こえない。

 

「ま、まってヨハネ、だめ……っ」

「……今は恋人のフリしてて」

 

 その声のトーンが、甘いものとは程遠かったことに気付いたムラサキは、閉じかけた瞳を見開いて一気に意識を覚醒させる。

 顔を近づけたままで、ヨハネが視線を走らせ、囁いた。

 

「……追って来てる。恐らく二人」

「っ、うそでしょ」

 

 ざぁっと、全身に鳥肌が立つ。いちゃつく恋人のフリをして、一気に血の気が引いたムラサキを両腕の中に囲い込みながら、ヨハネは耳元に唇を寄せて先端を食む。

 

「あんた足は?」

「も、もう全然大丈夫。元々そんな酔ってないし」

「コルニアで攪乱するから、合図で一気に走って。いい?」

 

 唇が耳の先に触れたまま指示されて、ムラサキは震えながら腕の中で頷いた。

 彼女を庇って傍に立たせた状態で、ヨハネがコルニアの障壁を作る。

 

「……コルニア。視覚情報を改竄!」

 

 二人が走り出したことで、敵も逃げられると判断したのか、何かががさがさっと茂みを飛び出し、一気に追って来る気配がする。朝追われていた時の不気味な寒気を、ムラサキは思い出していた。

 息を切らす二人の足音に合わせながら、ぺたぺたと這うような音が途切れずについて来る。

 

「ッ、あいつら速いっ……! それに、コルニアで陽動掛けてるはずなのにまっすぐこっちに向かって来る……!? いったい何で……」

 

 壁のように作られたコルニアの障壁を、迷いなく突き破って来る敵の反応に、ヨハネが焦りを見せた。

 火花のように光が散るバリアの向こう側で、恨みがましさを満載にしたような不満げで――それでいて、完全に人間とは思えない呻り声が響き渡った。

 

「アアアアアアアアア」

 

 ぞわぞわっ、と全身が粟立つような咆哮に、ヨハネとムラサキの足が思わず止まる。建物を震わせるほどの叫びだというのに、いつの間にか通行人が人っ子一人いなくなっていた事も併せて、不気味だった。空が、セブンスコードにあるまじき赤黒い色に染まっている。

 

「な、何……?」

 

 おそるおそる、首を捻って振り返った二人は、見た。

 破壊されたコルニアの障壁と、上がる煙の最中から現れた、這いつくばるような肉の塊……それが、腕立て伏せをするように両腕を曲げながら地面についた、髪の長い二人の女だということが、辛うじてわかる。

 しかし――下半身がない。

 本来、脚のあるべき部分からは、尻尾のようにだらりと腸の切れ端を垂らし、断絶された上半身を引き摺りながら、腕の力だけでこちらに寄ってくるのだ。

 にたりと裂けた血の色の唇から、言葉が発せられた。

 

「足が欲しいぃ」「足を返せえぇ」

「「ぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?!?!?!?!?!?!?!?」」

 

 次の瞬間、病的な白さを持つ血で汚れた二対の腕が、内臓を引き摺りながらガサガサ全力疾走を始める。

 あまりの恐ろしさで叫んだヨハネとムラサキは、泡を食って走りながらも何とか正気を保って会話を試みた。

 

「なっ、何だよアイツ!? なんであんな恐ろしいスピードで走れんだよッ!?」

「何って化け物でしょ!? あれテケテケじゃんテケテケ! とにかく走って! あいつら失くした下半身を探してるんだよっ、捕まったら両脚ちょん切られる!!!」

 

 半泣きになりながら破れそうな喉で叫んだムラサキが、端末を見てますます泣きそうになる。

 

「やだ、位置情報がおかしい……どうなってるのこれ……私たちどっちに逃げてるの???」

「多分、あいつらがいるところだけ、こっちの世界のデータ空間にバグが起きてる……一旦離れよう。正確な座標が分かれば、表に戻れるはずだよ」

 

 パニックを起こしそうなムラサキの汗ばんだ手を握り直して、自分もじっとり汗に濡れた手で端末をスクロールさせたヨハネは、文字化けを起こし始めたその地図から、辛うじてまともに表記された公園に駆け込むと、ジャングルジムの上へムラサキを引っ張り上げる。

 

「こ、こんなところに逃げて大丈夫なの?」

「あいつら、地面にいただろ。それにあの体だったら、地面以外の場所には触れられない。地面を媒介にしてこのあたりのデータを改変してるんだとしたら、もしかしたら……」

 

 身を寄せ合う二人を囲む公園の外から、「足はどこだぁ」という声がひっきりなしに上がる。しかし、おかしかった空の色はだんだんと元通りになり、通りの人たちの声が徐々に戻り始めた。それと引き換えに、女の声と気配はぴたりと止んで遠ざかる。

 すっかり涙を浮かべたムラサキが、少し呼吸を落ち着かせて口を開いた。

 

「……。じ、地面から離れていれば、あいつらの干渉を避けられる、ってこと?」

「そうみたいだ。表に繋がった場所にボク達がいて、その間に空間の位相が元に戻ったから、あいつらはボクらの事を見失ったんだと思う。

けど、いつまでもここにいる訳にはいかないし、また周りがおかしくならないうちに、早く行こう。……目的が何にしろ、好き勝手電脳空間をいじって化け物じみたプログラムをセブンスコードへ送り込めるなんて、並の奴の力じゃない。今は逃げた方がいいな」

 

 こくん、と頷いて、この場を離れるために動き出したヨハネについて行きながら、ムラサキは思い出したように叫ぶ。

 

「ま、まって! そういえば家、家あっちっ……!」

「このまま先に行っても、ワープの使用可能エリアからは遠ざかるばっかりでしょ。引き返した方が早い」

 

 一番近い場所……と手首の端末を見ながら、ヨハネがムラサキの手を千切れそうなほどに曳いてひた走る。

 隣の区画への境界線を越えた瞬間、ぴこん、とワープ可能エリアの到達を告げる通知が、ヨハネの端末から響いた。二人が希望に満ちた目で叫びを上げる。

 と、その時だ。

 

「足を返せぇ」「足をよこせぇ」

 

 はっと振り返れば、遥か遠くのビルが落とす影に出来た暗闇に、這いつくばった赤黒いテケテケの、赤い目が光っている。最後の力を出し切るつもりだったのか、まるで彼らは弓を引き絞られて飛び出す矢のような勢いで、カーリングの玉よろしく地面を疾走してきた。

 うねうねと動く針金のような長い髪と、目にも止まらぬ速さで動く両腕が、ムカデかクモの足を彷彿とさせるようでものすごく気持ちが悪い。

 蒼白になって身を縮ませたムラサキは、もうなりふり構わずヨハネに抱き着くと泣き叫んだ。

 

「よ、よはね! よはねよはねよはねよはね! お願い早く! 私の端末のバッテリーも貸すから、もうどこでもいいから早くどっかワープしてぇ! お願い!!!」

「わ、わかってるってっ! あんたに抱き着かれてるから上手く操作できない……っ、ああもう、わかったからっ!」

 

 焦りを滲ませつつ、瞬時に目的地を設定したヨハネ達の姿が、光の溢れる街灯から掻き消える。

 彼らが消えた後で、テケテケの群れも、誰の目に触れることすらなくセブンスコードの夜闇へ消えていった。



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2-4 自宅

なんとか謎の敵から逃げおおせて、ヨハネの家にそのまま押しかけることになったムラサキ。
世間話も交えつつ、自分の知っている都市伝説の情報を提供する。


第4節 自宅

 

 次の瞬間、ヨハネにがっちりしがみ付いた格好で、ムラサキは微かな賑わいが聞こえる、セブンスコードの闇の中に佇んでいた。

 おそるおそる周囲を窺えば、黒っぽい建物の影が並んでいる。先ほどとは種類が違う、少し下品な笑いが飛び交う感じの賑わいが、表から聞こえてきた。

 

「ここは……?」

「ごめん。結局ボクの家に連れてきた。地点登録してるリストでココが一番上に出て来るから……」

「あ、ああ、まぁそりゃそうだよね。カーナビとかも、『自宅へ帰る』っていう経路が一番先に出て来るし……」

 

 一生懸命まともな会話をしようと思いつつも、完全に肝が潰れてしまったムラサキの怯えは、すぐ傍で触れ合っているヨハネには隠しようもない。

 瞬間移動を挟んでまで追って来るような気配はなかったが、震える手を引いたヨハネが階段を上がり、ビルの三階にある部屋の前まで連れて行き、オートで灯る玄関先の暖かい電灯を浴びるまで、ひとごこちはつけなかった。

 がちゃり、とドアを閉めて施錠した途端、モダンなデザインのこぢんまりした玄関にようやく安堵感が広がり、二人は改めて、顔を見合わせながらほーっと溜め息を吐く。

 

「こ、ここまで来れば、さすがに大丈夫、だと思うけど」

「だよねぇ。よかった、ありがと……助かった……」

 

 繋いだ手すら離せないままで、ムラサキが安堵の涙を浮かべつつ笑った。

 当初の予定からは大幅に変わったものの、さすがにあんな状況を経験した後ではヨハネもムラサキを突き放す気にはなれず、戸惑いながらも、カタカタと震えている肩を包むように、そうっと両腕を回す。

 

「大丈夫……?」

「う、うん……ごめん、ヨハネが折角、色々考えて守ろうとしてくれてたのに……私、何もできなかった……っ」

 

 俯いたムラサキは、差し伸べられたヨハネの両腕の中へ顔を埋め、無我夢中でしがみ付いた。

 寒い場所でもないのに、ヨハネが触れた着物の下の腕には、ぶつぶつと鳥肌が立っているのが分かる。受け止めていたヨハネは、ふと思いついて、温めるように両腕で体をぎゅっと抱き締めた。ムラサキはほんの少し驚いたように一瞬だけ身を強張らせたが、その優しさに甘えるように身を委ねているうち、徐々に呼吸が静かになっていった。

 広い掌が、着物の背を撫でる。

 

「少し、落ち着いた?」

「うん……ほんと、ごめんね。何から何まで、迷惑掛けっぱなしで」

「別に、迷惑掛けられるのは今にはじまったことじゃないし。少しくらい増えたって、どうってことないでしょ。それにあれは……無理もないよ」

 

 前回の八尺様も、不気味といえば不気味だったが、今回の恐怖はそれとは桁違いだった。

 明らかに、敵意と害意を持って襲い掛かってきたのだから。

 ヨハネだって、隣にいるムラサキを何とかして守らなければという意識が先だって頭をフル回転出来たものの、もし一人きりであの状況に放り込まれていたら、冷静に対処できていた自信がない。

 震えは収まったものの、ぴったりくっついた体は離そうとしないままで、ムラサキが顔を上げる。

 

「ってことは、あのカフェの物陰に連れ込んだ時点で、ヨハネにはわかってたってこと……?」

「何が追って来てるのかまでは、さすがに知らなかったけどね。あの通りに差し掛かった後くらいから、数メートル空けて付いて来る妙な気配がいたから、念のためにと思って」

「全然わかんなかったよそんなん……すごいや……探偵映画みたいじゃん」

「一応、これでも伊達にSOATやってませんから」

 

 ひょい、と肩を竦めたヨハネに感心したような目を向けながら、ムラサキはふと体を離し、思い出したように赤くなった。

 

「で、でもさぁ、びっくりしたぁ……突然人の耳噛むんだもん……っ」

「だ、だってっ、その方が、あんたの酔い醒めると思ったからッ……!」

「と、とっくに醒めてるよっ! てかあそこまで顔近づけられて、醒めないわけないでしょ!? あんなっ……」

 

 キスされそうな距離まで、近づいておいて。

 そう言い掛けながら、ぶわっと顔に戻って来た熱を覆い隠すように、ムラサキは両頬を挟む。気まずそうに互いに目を逸らしながら、玄関先のクローゼットの前で崩れ落ちているムラサキと、その隣に立っているヨハネ。

 

「……寒い」

「とりあえず、入ろうか。お茶ぐらい出すよ」

 

 なしくずしに押しかけた形にはなってしまったが、入る許可は貰えたので、改めて丁寧に脱いだブーツを並べ、ムラサキはヨハネの自宅に足を踏み入れる。捕縛の時は「隠れ家」と呼ばれていた場所だ。

 

「中、普通の家みたいになってる……」

「前はクロカゲの寝室同然のボロさだったけど、さすがに纏まった金が入ったからね。一応、マンションのモデルルームを参考にして、リノベーションしてみた」

 

 得意げに顎を反らすヨハネに促され、ソファに座りながらお茶が出て来るのを待つ。全体的にダークブラウン調の家具で統一された、少し角ばった印象のある部屋になっていて、きちんと整理されたテレビラックやデスクや本棚の合間にも、鮮やかな色の時計やクッション、壁掛けのアートパネルや観葉植物があったりと、持ち主のハイセンスさが目立つ。

 黒っぽい部屋なのに、差し挟まれる色の効果で暗い部屋という感じはしなかった。

 

「はい、これ」

「ありがと。うーん、お洒落なお部屋。家フェチの血がガンガン騒いじゃう」

「家フェチとかあんの……?」

 

 コーヒーメーカーで淹れたコーヒーを手渡すと、ふぅふぅ冷ましながらムラサキが安らいだ表情を浮かべた。

 床に座るか少し躊躇ったヨハネは、これも今更かと思いながら、思い切ってムラサキの隣に腰を下ろした。

 

「私が勝手に言ってるだけだけどね。ヨハネさんまだ未成年ろ? よくこんなにお洒落なデザインっていうか、間取りできるね」

「い、一応、実家を独立して出たら、こんな家欲しいなって思いながら、調べたり3Dソフトで作ったりとか、してたこと、あって……」

「へぇ」

「リアルの方の家は、普通に手狭な四畳半だよ? ママはもっと広い部屋に住めばって言ったけど、でも、自分の稼ぎでなんとかなるとこに、したかったから……」

「ヨハネさんて都会の方に住んでる人でしょ? そういうとこお家賃も高いのに、自活できるなんてすごいじゃん」

 

 少し恥ずかしいと思いながらの告白にも、ムラサキは馬鹿にすることなく、ひたすら感心したように飽かずリビングを眺めている。

 そういえば、ムラサキはどこに住んでいるのだろう、学校には通っていたのだろうか、とヨハネはふと気になった。

 二人で何度も命からがらの目を潜り抜けてきたというのに、そんなことさえ知らない。

 

「……」

「どうしたの?」

「あっ、いや。なんでも。さっきのアイツら、何だったのかって考えてた」

 

 ムラサキを見つめていたことを知られたくなくて、無理矢理話題を逸らすと、彼女はうーんと呻りながらコーヒーを啜る。

 

「私が知ってる日本の都市伝説にそっくりだったんだけど、てことはまた、八尺様と同じでエレメントに操られてる系案件なのかなぁ」

「そういえば、あんたさっき逃げる時にそんなこと言ってたね……えっと、テケテケ?」

「そう。テケテケ。元になってるって言われる話は各地にあって、でも一番多いのは、何らかの列車事故で電車に轢かれちゃった女の子が、上半身だけ生きてるのにそのまま救急隊に見捨てられちゃったから、今でも遺体の下半身を探してるとか、苦しみながら死んだ恨みで夜中に生きてる人間の下半身を奪いに来るとか、そういう感じかな。

でも、あくまで都市伝説なんだよ? そもそも、走って来る電車に轢かれた場合は肉が飛び散るのが普通で、綺麗に真っ二つになるような轢かれ方ってしないらしいし、そんな粉砕状態で意識が残ってるってこともあり得ないらしいから」

「……やけに詳しいな。けど、それで何であんたが追い掛けられるんだよ。踏切で誰か轢き殺したことでもあるわけ?」

「んーなわけあるか!!! 恐ろしいこと言うな!!!!!」

 

 怖いから調べたんだとぶーぶー言いながら、今度はムラサキの方から質問する。

 

「あの時、空間の位相がどうたら言ってたけど、セブンスコードにも裏空間みたいなやつはあるの?」

「ほら、建築物を建てる時に、最初に足場を組んで、そこに人が昇ったり機材をぶら下げたりして、作業するでしょ。あんな感じのイメージかな。あくまで目につかない、メンテナンスエリアって感じの扱い。

けど大概、都市計画の時にフォーマットされてるはずなんだけど」

「うひょお。セブンスコードの裏世界も都市伝説だぁ……」

「手を入れないデータっていうのは、大概劣化して人の記憶から忘れ去られていくものなんだよ。だから、どこにも属しないしさっきみたいに文字化けが起こったりする。向こうのデータが、こっちの機材では読み取れない風に、だんだん変質してくんだ。

ここらへんだと、地下鉄(チューブ)とかがそれに近いけど」

「廃線になったっていう、あの? 確かその駅が、『捕縛』の時七本の柱にされたんだよね」

 

 ムラサキの言葉に頷いたヨハネが、コーヒーの水面を見つめながら、難しい顔になった。

 

「あんたの家って、確か嫉妬の柱の近くにあるんだったよね? そのことと、電波障害と、テケテケの出現は、何か関係があるのかもしれない」

「あいつらを作って操る特殊電波を、誰かが意図的に流してる……とか?」

「それも考えられるかも。だとしたら、あんたが狙われたのはたまたまで、もしかしたら無差別に一般人に攻撃を仕掛けてるって可能性も、考えられなくはないけど……そんな通報は、今のところないし」

「いや、こんなん襲われても通報できっこなくない? 誰にも信じてもらえるはずがないと思っちゃうよ、普通」

「う……そ、それもそうか」

「それに、私達もだけど、襲われた場所は電波が届かなかったんでしょ。もしヨハネみたいに首尾よく脱出出来なかったんだとしたら、あの空間に取り残されたままあいつらに襲われて、そのまま……」

「わーーっっ! タンマタンマ!」

 

 思わず背筋がぞーっとして、ムラサキの言葉を途中で遮るヨハネ。

 それにしても、敵はわざわざ、他人の入り込まない異空間にヨハネとムラサキを追い込んでまで、攻撃しようとしてきたのだ。

 周りに気付かれるような騒ぎを起こしたくなかったのだとしても、あまりにも狡猾で、用意周到に思えた。

 

「……とりあえず私達二人とも、当分寝る時に布団の中へ足を入れておいた方がいいかもね」

「っ、ちょっ、やめろよ! 怖くなるだろ!?」

「いや、だって、この話聞いた人のところにテケテケが来るって言うし」

「じゃあなんで話したんだよッ!?」

「事件の手がかりなんだから、状況的に話さざるを得ないでしょうが!」

 

 すっかり縮み上がったヨハネの肩をぽんぽん叩いて安心させようとしながら、ムラサキがカップを手に立ち上がる。

 

「これ、向こうでいい?」

「あ、いいよ。適当に置いといて……」

「ヨハネの分も洗っとく。折角淹れてもらったしね」

 

 意外と律儀なところを見せるムラサキが台所に立つ背を見ながら、ヨハネはふと力を抜いて、ソファに横になりながら体を沈めた。

 疲れた。

 今日は色々と、想定外な事が起こり過ぎだ。

 

「あ、いいなぁー。寝てる」

「あんたの分の場所はないからね」

「物凄く詰めたら並んで寝れるじゃん」

「だっ、誰がこんな狭い場所で……!」

「わかってるわかってる、冗談だって」

 

 笑いながら戻って来たムラサキが、フロアライトを回り込むと、すとんとソファの傍に腰を下ろして顎を座面に乗せる。

 その様子が何となく、主人の傍へ顎を乗せて寝そべる犬を彷彿とさせて、ヨハネは可笑しくなった。

 そんな気持ちは露とも知らないままで、眠そうな目をしたムラサキが呟く。

 

「てーことは、落書きしたのも、あいつらの仕業だったのかなぁ……」

「アイツらなのか、アイツらが操ってた人間の仕業なのかは分からないけど。けど地面に這いつくばってるのに、壁に文字なんて書けるか?」

「あんな恐ろしい奴らなら何だって出来そうな気もするけど……でも、それもそうか」

 

 ペンを持って一生懸命届かぬ壁に落書きをしようとするテケテケを想像すると、なかなかにシュールな光景である。

 仰向けになったまま、ヨハネが呟いた。

 

「ストーカーなら、こっちが彼氏のフリすれば引いてくかと思ったんだけど、全然効果なかったのはそういう訳か」

「ストーカーどころか人間じゃなかったしね……。ていうか彼『氏』?」

「あっ、わっ! ちがっ、ごめん、なんでもない!」

 

 本来の性別と現在の外観を全く考慮しないままで、思わず口を滑らせてしまったことに焦りながらヨハネが謝罪を口にするが、ムラサキは別にその違和感を気に留めたわけではなかったらしい。

 

「ふふ、別に女の子同士でも『彼氏』って名乗る人はいるんだから、それでもいいのに」

「えっ。あっ、『彼氏』を名乗ったことに対するツッコミ自体はナシなの……?」

「別に私は、彼氏ができても彼女ができても構わないけど?」

「『彼女』……??? いや、よくないでしょ。あんた結婚してるんだからさ」

 

 目の前の彼女の性別と、飛び交う単語に混乱しながらもヨハネがたしなめると、ムラサキは腕の上に頭を乗せながら微笑んでみせる。

 

「一応、いいって言われてるんだよ? 本気で好きになったなら、外で恋人作るのは。さすがに離婚はできないから、それでもいいって相手の人が言えばだけど」

「ええー……」

「それに、うちの人も知ってるけど、私、バイセクシュアルなんだよね。男の人も女の人も、両方好きになる人間なの。だから、それ自覚してからはもう恋人やら結婚は無理だろなって思ってたんだけど……なぜかそれでもいいって言う変わり者と結婚して、今に至る、と」

「そ、そうなんだ……?」

 

 さらりと為された重大なカミングアウトに、ヨハネは目を白黒させる。

 一方でさして気にしていないように手を振ってから、ムラサキは目を閉じた。

 

「まあ、でも、このへんの込み入った話は、また時間のある時にでもゆっくりね」

 

 今夜は、もう互いにいっぱいいっぱいだ。

 寄り掛かってもなお座り心地の良さが分かるソファの面に突っ伏しながら、ムラサキは心の中だけで呟く。

 

(そっかぁ……。じゃ、あの時言ってくれたことは、私をその気にさせてくれるための演技なんだよね、うん……)

 

 そのことをほんの少し残念に思いながらも、ヨハネの腕に寄り添いながらソファにうつ伏せているうち、ムラサキは心地よさに本格的にうつらうつらし始めた。

 

「……なんか、傍にいたら、ねむくなっちゃう。かえりたくないな」

「バカ。あんまり長時間ログインすると、あんたの体に障るよ。今日はもう帰んな」

 

 子供をなだめるように頭を撫でられて、ムラサキが唇を尖らせる。

 ヨハネは、自分の手がごく自然に彼女の頭へと伸びたことに、自分で驚いていた。

 それ以上駄々をこねることはせず、床から立ち上がりかけたムラサキの唇が、無防備に寝転んだままだったヨハネの頬に、ちゅっと触れる。

 

「ありがと、今日は楽しかったよ。一緒に寝れなかったのだけが残念」

「ばっ……! 別に今度来たって、添い寝なんかしてやんないからね!」

「来るのはいいんだ?」

「~~~~っ!」

 

 キスされたところへ思わず反射的に触れながら、釣り上げた眉でヨハネが睨み返す。

 その初心な反応から味わう余韻を振り払うように、ムラサキはさっと、ワープの移動空間が立ち昇る光の輪へ足を踏み入れた。



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2-5 移転

ヨハネの勧めで、今のアパートから一時的にシェルターへと引っ越すことを決めたムラサキ。
その話をした帰り、二人は公園で、不思議な出来事に遭遇するが……。


第5節 移転

 

「引っ越し……?」

「そう。あの後思ったんだけど、一時的にでも、あんたは別のところに移動した方がいいんじゃないかって」

 

 あれからヨハネの報告により、嫉妬の柱周辺の地域は入念な捜査が入ることになったのだが、今のところ不審物や、裏空間への綻びなどは見つかっていない。

 表面上は普段通りの日常が流れる中で、連絡先を交換したムラサキをある日カフェに呼び出したヨハネは、目の前のカプチーノを啜りながらそう言った。

 向かいにいるムラサキが、きらんと目を輝かせる。

 

「ヨハネさんの家は?」

「さも名案みたいに言うな。却下だ却下」

「ぴえん」

「そんな顔してもダメ!」

「いーじゃん! 普段は寮に住んでんだからお家ぐらい貸してくれても! ケチ!」

「はぁ!? 人を心配してやってんのにケチとか言われる筋合いないんだけど!?」

 

 明るい昼間の光に溢れたテラス席からは、セブンスコードの大通りが見える。

 ヨハネの職場であるSOATの本部からも、ほど近い店だ。

 呆れたように、ヨハネが言葉を続ける。

 

「そもそもあんたに入居してもらうシェルター、ボクの家より遥かにSOATに近いんだよ。寮のすぐ隣の地区にある。あそこなら通信状況もいいし、あんたにもし何かあっても、すぐに駆け付けられるだろ」

「えっ……そんな近いんだ……?」

 

 あまりの近さに、もしや今度は監視下に置くつもりなのではと警戒の色を強めそうなムラサキであったが、その反応を見越していたかのように、ヨハネは説明した。

 

「この間の八尺様事件の時みたいな、被害者の女性に暮らしてもらうための、専門のシェルターがある。

実際は、リアルではもう事件の加害者や家族から離れて、落ち着いて一人で暮らせるようになったって人がログインしてることが多いかな。生活の補助や就職支援、心のケアを一番に目的にしてるって感じだ」

「そっか。リアルで離れた場所にそれぞれ保護されてたり暮らしたりしてる人達でも、ネットでそういう場所に集まれれば、交流もできるもんね」

「そういうこと」

 

 感心したように頷いたムラサキが、目の前でミルクコーヒーのカップに入ったスプーンをかき混ぜた。

 

「ふーん、おもしろいねぇ。いや、内容的に面白がっちゃいけないんだろうけど、アイディアが、っていうか」

「前から細々と運営自体はやってたんだけど、SOATもそこまで力は入れてなかったから。この機会にと思って」

「そんな場所に、私が入って大丈夫なの?」

「今回の調査が落ち着くまで一時的にって感じだろうし、あんたさえイヤじゃなければ。各自の部屋は個室になってるから、やろうと思えば全く顔を合わせずに生活はできるよ」

 

 それを聞いて、ムラサキが笑いながら小さく首を振る。

 

「折角入居するんだし、最低限のお付き合いぐらいはするよ。私に何ができるかわかんないけど、その人達の力になれることがあれば、私も嬉しいし、手伝いたい」

「変わり者だなぁと思うけど、あんたならそう言ってくれると思った。

あっちには寮のスタッフもいるし、手伝ってあげてくんないかな。最近また人が増えて、ちょっと家事が大変だって言ってたから」

「こっちの世界も家事とかあるんだ……まあ、私も水道捻ったり洗濯機回したりとかはしたけど」

「機械やプログラムで手間がなくなる部分は多いから、あんたからしたらちょっと不慣れかもね。けど、出来るだけリアルに近い作業をした方が、脳の活性化にも好影響だって言うし、あのシェルターは結構アナログな作りにしてあるよ」

 

 そういうわけで、合意が取れたムラサキ一名分の入居手続きをその場で行ったヨハネは、手持ちのパッドをさらさらとスクロールしながら、確認するように問い掛けた。

 

「えっと、費用はこっち持ちだし……あ、そうだ、荷物。持ってきたい物とかある?」

「そうだねぇ……一時的にだったら、この着物さえあれば正直なんとかなるかなって……特に拘りとかはないから。あ、強いて言えば」

 

 ムラサキが、何かを思いついたようにそう言った時。

 ふと、表の通りで何か騒ぎが起きているのが聞こえた。

 

「……? 何だろう」

「ごめん、ボクちょっと見て来る」

「私も行くよ」

 

 街の治安の維持がヨハネの仕事なので、たとえプライベート中であっても、何かあれば急行に値するが、無関係のムラサキもそれに付いて行くことにする。

 人だかりの中を行くと、公園の入り口で騒ぎの中心になっているのは、人……ではなく、鳥の群れだった。

 くるっくーと鳴きながら、街中でよく見る土鳩たちが何かを囲んでいる。心なしか、何かを心配しているような鳴き声だ。

 

「な、なんだろう……? 何かを守ってるのかな……?」

「鳩の中心に何かいるな……ちょっと、ごめんよ」

 

 わざわざそう鳩に声を掛けながら、よいしょとその長い制服の脚で跨いでいく姿を見て、シュールだけどなんか可愛いなぁと思いながら後に続くムラサキ。

 その群れの中心に横たわる、何か黄色っぽい塊に近づこうとした瞬間、ぱりぱりっ、と電光が空気を切り裂いて、ビームのような眩い光を放った。鳩たちが驚きながら一斉に飛び立つ。

 

「ヨハネ、今の……!」

 

 はっと顔を見合わせた二人は、互いに頷き合ってから慌てて駆け寄った。

 鳩の群れに紛れていなくなってしまったのか、電光を発した何者かはその場から消え去っていたが、地面に小さく焼け焦げのような跡が残っていた。

 その場を手袋の指で撫でながら、ヨハネが呟く。

 

「今のは、雷のエレメントの力……? あんたも、見たよね」

「うん。そうかもね。でも、どうして鳩がそんなの取り囲んでたんだろ……? それにこの跡、すごくちっちゃい」

「……もしかしてだけど、エレメントは人間にだけじゃなくて、動物にも憑りつくのかも。その動物が手負いの状態か何かでここにいたから、鳩が仲間と勘違いして寄ってきたのかもしれない」

「てことは、まだ近くにいる?」

「その可能性はあるね。ボクはこのまんま、周囲を探しに行く。さっきのシェルターの座標を送るから、あんたは直接向かって。見送りに行けなくて悪いけど」

 

 端末を使って送られてきたデータを見ながら、ムラサキが顔を上げる。

 

「ああ、ありがと。えっと……あのアパートには荷物とか取りに戻らない方がいいって話だったんだよね」

「うん。またアイツに巻き込まれたらヤバい事になるだろうし、しばらくは近づかない方がいいだろうね。それだけじゃなくて、ボクがいない時の一人の外出も、出来るだけしないで欲しいけど……」

「あはは、そんなに毎回私とデートがしたかったの?」

「でっ……!!! ……ち、ちが……っ、もういい! 人が折角親切心から護衛してやってんのに!」

 

 真っ赤になって怒り出すヨハネに、ムラサキはますます楽しそうに肩を震わせた後、謝りながらも優しい笑みを浮かべた。

 

「ごめんごめん。もちろん、分かってるよ。私を守ろうとして言ってくれてるんだよね。ありがとう」

「わ、わかってるんならいいけど……」

「そういやこの間言ってた、テケテケに襲われた人が行方不明者になってんじゃないかって仮説、どうなってるの?」

 

 危機意識の再確認のためにムラサキは問い掛けたのだが、木漏れ日の影が揺れる下で、複雑そうな表情になったヨハネからは、案外深刻な答えが返って来た。

 

「……。管理局に問い合わせたら、数日前から、セブンスコードの入出場の人数が合わなくなってきてる。まだアイツらの仕業って断定はできないけど、もしそうだったら結構マズいことになるね。当然、リアルの世界でも意識は戻んないだろうし」

「うおお、ガチでヤバいやつじゃんそれ……」

「だから、ホントに気を付けてよね。あんたが一人でフラフラ出歩いてる間に、テケテケに遭遇して襲われたとかなったら、シャレにならないんだから」

 

 真面目な顔をしてこくこく頷くムラサキに、まっすぐシェルターへ行けと念を押してから、ヨハネは公園の中を調べに行ったようだった。

 座標を確認し、電波の届く場所へ戻ろうとしたムラサキは、ふと傍の茂みから、さっき散っていったはずの鳩の鳴き声が聞こえてきたことに気付く。

 

(……。まっすぐ行けって言われたけど、ちょっとだけなら……)

 

 自分も、出来ることなら何か捜査の進展に協力したい。もし例のエレメントに関するものを見つけたら、すぐにヨハネを呼べばいい。

 そう思って、何か見つからないかと茂みを覗いたムラサキは、思わずはっとして目を見開いた。

 数羽の鳩が放電する物体を取り囲んで、つついたり羽根で扇いだりしている。

 その度に、何か黄色いネット状のバリアらしき球体が、中にある核らしきモノを守って展開し、鳩たちを退け、時に弾き返してしまっている。

 鳩たちの中で、一際丸々として威厳に満ちたリーダーらしき鳩が、助けを求めるようにムラサキを振り向いて鳴いた。

 一方ムラサキは、その光景を目にしながらも、鳩が攻撃を仕掛けているエレメントの中に囚われている存在を見て、心臓が潰れそうになった。

 

「あの子……!!!」

 

 それは、いつもアパートの近くでムラサキの喋り相手になってくれる、黄色い鳥だった。

 白目を剥きながら、全身が痺れたように痙攣し、羽根をバタバタさせて苦しそうにもがいている。

 反射的にエレメントの光が四方八方に散る中へ突っ込んでいくと、ムラサキはエレメントのネットに囚われた鳥を触ろうとした。

 

「うっ……! い゛っ、い゛だだだだ」

 

 やはり雷のエレメントなのか、その電撃はすさまじく、触れた手から腕の感覚がなくなりそうな程にびりびりと痺れる。

 全身の力が抜けて芝生の上に座り込みながらも、その鳥を球体ネットごと離すまいと、ムラサキは着物の腕へ抱き締めた。

 鳥が、痙攣しながら狂ったように鳴いている。

 

「びびびびび」

「お願い、どうしちゃったの、しっかりして……!」

 

 歯を食いしばってネットを破ろうとするムラサキを手伝うように、鳩たちが嘴で攻撃を与える。襲い来る鞭のような電撃に撃たれながらも、電気の網目を引っ張ったり、つついたり。必死の攻防が続くうち、光の間にほつれが出来て来た。

 

「も、もうちょっとで破れそう……効くか分からないけど、イチかバチか……っ、ウーム!」

 

 魅了でどうこうなるとは思えず、攻撃的な気持ちになりながらもとりあえず植能の力を込めたのだが、それがダメ押しになったと見え、ばちぃんという一際大きな衝撃と、皮膚が鞭で引っぱたかれたような痛みを残しながら、ネットが破れ去った。

 ムラサキの袴の上に、もはや焼け焦げで元の黄色が分からないほど茶色く染まった鳥が、ころりと気を失って転がる。

 

「あ、ああ……!」

 

 ぽろぽろ泣きながら、必死の思いでその体を擦るムラサキ。

 鳩たちも心配そうに顔を寄せてくうくうと鳴く中で、鳥はうっすらと瞳を開いて、意識を取り戻した。

 

「ぴぴ……ぴい」

「あ、よかったぁ……! 気がついたぁ……!」

 

 火傷と焦げ跡だらけになりながら、安心して包み込むように抱いたムラサキの手の中で、一際大きく零れた涙を浴びた鳥が、すりすりと身を擦り寄せる。

 火傷の怪我は酷いが、どうやら意識は正常のようだ。

 それを見ていた鳩たちは、丸い鳩の号令でどこからともなく数を増やして集まってくると、今度はぎゅうぎゅうにムラサキと鳥をおしくらまんじゅうにし始めた。

 

「わ、わっ、みんなどうしたの」

 

 目を真ん丸くするムラサキを、構わずもふもふの羽毛で埋め尽くす鳩たち。

 

「……???」

 

 訳が分からないまま、気持ちいいのでただその感触をしばらく楽しんでいたムラサキだが、再び号令で鳩たちが去っていった時に、何気なく己の腕と黄色い鳥を見下ろしたムラサキは、あっと驚きの声を上げた。

 

「すっ、すごい! 傷、なくなってる……!」

 

 エレメントの力でダメージを受けた皮膚が、つるりと綺麗な輝きを取り戻している。

 ムラサキは得意げに胸を張る鳩の前で、しげしげと腕を日に翳して眺めてしまった。

 黄色い鳥も、もとのふわふわした羽毛と元気を取り戻していて、ぴっぴっと元気に鳴きながら、鳩と追いかけっこをして遊んでいる。

 

「鳩……は平和の象徴だから、その力で癒しのパワーがある、とか……?」

 

 謎の現象に首を傾げながらも、ムラサキは助けてくれた鳩たちにお礼を言いつつ、この鳥をどうするか考えていた。

 

(ヨハネ……に言おうと思ってたけど、まさかこの子が関係あるとは……。

でも、さっきのエレメントはもう消えちゃったみたいだし、あれで全部? でももしこの子がまだエレメントに憑りつかれてるんだとしたら、SOATに殺されちゃうかも……)

 

 よく見ると、怪我を完全には癒しきれなかったようで、びっこを引きながら鳩の後を追い掛けている。その怪我の手当も含めて、転居先に連れて行こうとムラサキは心に決めた。

 

(怪我が治る間くらい、待ったっていいよね。それまでにまた何か変なことが起こったら、ヨハネに相談しよう)

 

 鳥獣飼育の許可がシェルターで出るようにと祈りながら、ムラサキは最後まで鳩たちに手を振って、ワープでその公園を後にしたのだった。

 

 

 

 それからの日々は、比較的慌ただしかった。

 外出時は付き添うと言ったものの、ヨハネは自分の仕事が忙しく、会えたのは一度、パトロールついでにシェルターへ様子を見に行って、玄関ですれ違った時くらいだ。

 彼女の身の心配と、会えたことへの安心を押し隠すようにして、ヨハネは口実を探した。

 

「あ、あのさあ! 本当に一人で大丈夫? 別に、たまになら家遊びに来てくれても構わないし、ボクも暇つぶしに付き合ってあげてもいいけど!」

 

 あらぬ方向に目を逸らしながら呼び掛けるヨハネに、驚いて振り返ったムラサキは、笑って手を振った。

 

「ありがと。でも、ヨハネには助けてもらってばっかだし、これ以上面倒は掛けないよ。忙しい時に押しかけられても迷惑でしょ?

そっちが落ち着いた頃に、また連絡するから、飲みに行こ。約束だよ」

 

 照れたような笑みを残して去って行く彼女に、まさかあんなことが起こるとは。

 この時のヨハネは、想像する余地もなかった。

 知っていたらどれ程、呼び止めて彼女を行かせまいとしただろう。

 知っていたらどれ程、恥じらいも照れも捨てて、家に来いと言い張っただろう。

 けれど、起こってしまった後では、全てが遅すぎる。

 

 SOATに一本の無線が駆け抜けたのは、それから程なくした頃だった。

 

「通達! EQ地区のシェルターが、何者かに襲撃された模様! 負傷者多数! 至急現場へ向かうように!」

 

 ぞわりと肌が粟立つような気配がした。

 何かが、悪意を持って彼女を狙ったと感じられる予感がした。

 そして、成し得る限りの速さで現場に駆け付けたヨハネの目に飛び込んで来た光景は、想像を絶していた。

 

 乾いた砂埃が、風に乗って頬へ吹き付ける。

 無残に散らばる、衣類や家具と思わしきものの切れ端。

 破壊されつくした家屋。破壊の上の破壊、レンガの一片さえ残さぬという徹底加減すら感じる、瓦礫と土の山。

 

 原型など跡形もない、シェルターだった(・・・)ものの跡地で、ヨハネは一人、立ち尽くした。



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2-6 佇立

崩壊したシェルターの跡地で救助活動を行う隊員達と、立ち尽くすヨハネ。
ムラサキは見つからないまま、捜査会議は思わぬ方向性に……?


第6節 佇立

 

「どうして……」

 

 せわしなく担架を持って号令を掛け合う人達の声が行き来する。

 SOATの捜索員たちが、土と瓦礫の山から、埋もれた人達を助け出している。自分もその中に加わって、一分一秒でも早く救助に加わるべきなのに、ボクは痺れたようにその場を動けずにいた。

 数刻前まで、コンクリートの土台があったその場所。建物の基礎部分から、壁から、全てが徹底的に破壊され尽くして、まるで嵐が通り過ぎた、もしくは大地震があったかのように、めちゃくちゃだ。

 現実でも、こんなに酷い光景を見たことはない。戦争が起こっている世界とか、大災害が起きた地域とか。テレビ画面の中で目にしていながら、ぼんやりと遠い場所のことのように、考えていた景色が目の前にあった。

 

「櫟隊長、大丈夫ですか」

「あ、ああ……」

「ご無理をなさらないでください。幸いにして、重傷レベルの怪我人は少ないようですから。大方の救助活動はもうそろそろ終わりましたし、救護班によれば、回復用のカプセルに搬入すれば皆数時間のうちに意識を取り戻すだろうとのことです」

 

 安心させるように声を掛けてくれたのは、年上でありながらボクを対等に扱ってくれている隊員の男だった。父親くらいも年の離れたその男性に、ボクはなんとか頭を振ってみせる。

 

「ダメだ。ボクだけここで何もせずに見てるなんて」

「あなたは、十分よくやってくださった。後方から全体を眺め、適切な人数を把握し派遣するのも、隊長であるあなたのお仕事ですよ。

……それに、あなたはまだお若い。この眺めはあまりにも酷すぎる」

 

 そう言われて初めて、自分の頬に涙が伝っていることに気付く。

 思わず俯いたボクの肩に、ゴツいグローブの大柄な手が触れた。

 

「先に戻ります。あなたの隊もSOATも、これぐらいの事ではへこたれませんよ。

皆の知恵を合わせて、我々の出来ることを探りましょう」

「……すまない」

 

 肩を叩いてくれた頼もしい手に応えて、ボクは拳で涙を拭いながら顔を上げた。

 何をやってるんだ。こんなところで呆然として泣いてる場合じゃない。

 現状を把握しようと、ボクは仮設テントへ戻る前に敷地内を一通り回った。一体何の武器を使ったら、ここまでつぶさに分解できるのだろうと考える。場所によっては、盛り土や砂になっている部分すらある。

 

(まさか……これも、エレメントの……?)

 

 ここまでの破壊活動が行われているというのに、通報してきた人たちもSOATも、こんな惨状になるまで気付かなかったというのも妙な話だ。SOATの本部の近くに建物を作ったというのに、これでは完全に無意味じゃないかと思いながら、唇を噛む。その時だった。

 

(……!?)

 

 見覚えのあるようなものが見えて、ボクは足元の砂に足を取られながら駆け寄った。さらさらとした砂地獄のような場所でそれを拾い上げ、汚れを手で払う。

 ピンク色のリボンがついた髪留めを見て、ボクは立ち尽くした。

 

(ムラサキの、髪留め……!? なんで、こんなところに)

 

 慌てて近くを掘り返したけれど、既に捜索は終わっているのだから、このあたりに人の気配があることはあり得ない。

 見つかった人の中から、ムラサキがいたという報告はまだ聞いていないはず。テントに引き返しても、気を失った人たちの中にやはり彼女の姿はない。

 何人かは意識を取り戻していたが、ひどい錯乱状態にあって、話を聞くことが出来るようになるまでは、まだしばらく時間が掛かりそうだった。ただでさえ、現実で辛い目に遭って避難してきているのに、これは無理もないと思う。よほど恐ろしい目に遭ったのだろう。

 その中を見回っている時。不意に、制服の袖を引っ張られる感触で、ボクは足を止めた。

 平坦な瞳をした少女が、すぐ傍に立っていた。土に汚れた服のまま、頭に回復用の包帯を巻いている。ボクが視線を向けると、怯えたように視線を少し下げた。けれど、掴んだ手を離そうとはしない。

 

(この少女……)

 

 どこかで見た事ある、と記憶を探ったら、前にシェルターの玄関ですれ違った時に、ムラサキの傍で見たような気がする。このくらいの年の子は、あの中にまだ少なかったはずだから、事務手続きをした時にもなんとなく覚えていた。

 名前は確か、ヒバリといったっけ。

 そこへ、若手の世話係の隊員が慌ててすっ飛んできた。

 

「あっ、すっ、すみません。ほら、安静にしてなきゃ。隊長様をあんまり煩わせては」

「いや、大丈夫。ちょっと待って。彼女、何かボクに伝えたいことがあるみたいだ」

 

 隊員を制して持ち場に戻ってもらってから、テントの端の静かな場所で、少女の隣に腰を下ろす。

 

「どうしたのかな。あの場で起きたことを、何かキミは知ってる?」

「……ともだち」

「え?」

「あなた、むっちゃん、ともだち。わたし、しゃしん、みた」

 

 長い睫毛を瞬いて、静かに紡がれた言葉に、ボクは瞠目した。

 むっちゃん……多分、ムラサキのことだ!

 肩を揺さぶりたくなる気持ちを抑えて、ボクは少女を覗き込んだ。

 

「ムラサキのことを、何か知ってるのか!?」

「……いっしょ、いた。ずっと、いっしょだった」

「それで、その後は……?」

「わからない。いなく、なっちゃった」

 

 泣きそうな表情を少女が浮かべた。

 元々表情が乏しい子ではあるようだけど、それでもぐっと結んだ唇と瞳から、涙を堪えているのがわかる。

 今はこれ以上何かを聞き出すのも酷かもしれない、と思いながら、とりあえず傍にいる救護担当に後を引き継ごう、と思ったら、彼女はボクを必死で見上げて言った。

 

「むっちゃん、わたし、まもって、くれた。

わたしたち……まもって、くれたの。

おねがい……さがして」

 

 短い言葉だったけれど、それで十分だった。

 きっとまた会いに来る、と彼女に約束して、ボクはSOATへ向けてシェルターを後にした。

 

 

 

 あれから数日。

 依然として、ムラサキを含む数名の女性達の行方は知れなかった。

 奇妙なのは、あの建物の倒壊具合に比して、瓦礫や土から救出されたシェルターの女性達が、皆無事であったこと。

 そして後からヨハネが見舞いと調査を兼ねて出向いたところ、皆事件発生当時の記憶は曖昧だったものの、話のできる者全員が「ムラサキに助けられた」と口にしていた。

 

「目撃情報も、今のところ見つかっていないそうですね」

「あの倒壊前の状態を見た人間は、通報してきた中にもいないようだ。皆、気が付いたらああだったと言っていた。故に、犯人の姿も……」

「シェルターの女性達は何と?」

「何者かによって催眠状態だった可能性が高く、記憶がある者は、薄汚れた壁や露出した地面の感触などを覚えているそうだ。……だが、そのような場所はあのシェルター内に元々存在しない。故意的に発生させられたシェルターの裏空間に、被害者たちは閉じ込められていた可能性が高い」

 

 ざわざわと、質疑の回答を受けて隊員たちが会議室でざわめく。

 そのうちの一人が、ヨハネに向かって質問した。

 

「その現場で生活していた女性の一人は、例の水のエレメントの事件の際も近くにいたとか」

「ああ。協力者として戦闘に当たってもらっていた」

「並々ならぬ力の持ち主と見受けられますが……彼女が、一連の事件の主犯とは考えられないでしょうか?」

「なっ……! 彼女はまだ、行方不明なんだぞ!?」

 

 確認できる限り、シェルターの誰もがムラサキを犯人扱いしていない事は、報告済みだった。

 それにも関わらず発せられた疑問に、場が一時騒然となる。

 

「もしかしたら、逃走してそのまま行方をくらましているのかも」

「被害者達が催眠状態であるなら、彼女に対して誤った認識を植え付けられている可能性もあります」

「確かに、毎回この人がいる場所で事件は起こっているしなぁ」

「ていうか、結局何者なんだ? 植能保持者なのか?」

 

 予想外の展開に、書記官のリアは手を止めて目を丸くしていたが、ミライは難しい顔だ。

 必然的に、その場に揃った全員が、総指揮官を務めるユイトを頼らざるを得なくなる。

 だんだんと静かになった会場で、視線を集めたことを感じ取ったユイトは、やるせない表情になりながら溜め息をつき、マイクを取り上げた。

 

「確かに、何らかの関連性があるとする考え方は、特段不自然なものではないだろう。

……このままだと、彼女には監視対象ではなく、容疑者として確保命令を出さざるを得なくなる」

 

 その言葉に、思わず跳ね上がるように椅子から立ち上がったヨハネが、ついにユイトに詰め寄った。

 腕先でユイトの胸倉を掴み、大声で詰る憤怒の形相を見て、傍にいた隊員たちが動揺にどよめく。

 

「ッ、おい! まさか、ムラサキのこと疑ってんのか!?」

「ボクだって、そうしたくはない。だが、エレメントに憑かれた者達の痕跡がなく、状況証拠であのリボンがあるとなると……」

「そんな……っ、ボクや彼女に助けてもらった人らの話も聞かずに、よくそんな事が言えたねッ!」

「お前こそ、彼女一人のことになると頭に血が上り過ぎだ! 冷静な判断で、客観的に真実を見据えて来たお前はどうした!? 情に流され過ぎじゃないのか!?」

 

 ユイトに睨み返され、ヨハネは胸倉をつかんでいた手をはっと緩める。

 そのヨハネを見下ろすような形で、ユイトは落ち着いて口を開いた。

 

「お前は、今までに何度も彼女と接触して来たかもしれない。その距離でしか見られない側面というのも、勿論あっただろう。

だが、ボクも含めて、ここにいる面々はまだ一度も彼女と対面したことがないんだ。

現場の状況だけ見て、あれをやってのけたのが彼女ではないかと、恐れる隊員がいることも理解できるな?」

「……」

「彼女を疑いたくない気持ちはわかる。けれど、物事を一方的な側面からだけ見るのは危険だ。

誰もが納得できるような証拠を集め、その結果として彼女が無実になればそれでいい。そのために全力を尽くすのが、SOATとしてのお前の務めだろう」

 

 静かに語り掛けられ、ヨハネは留飲を下げながら深く息を吐く。

 自分がムラサキに肩入れし過ぎることは、確かに否定できない。それほどまでに強く、彼女に捕まって欲しくないと、悪人であって欲しくはないと、願っていた。

 あの、善人ぶることすら難しいだろうと思えるほどの笑顔を、信じていたかった。

 大人しく引き下がったヨハネを見て、上官同士の争いを懸念していた隊員たちから、ほっと安堵の声が上がる。

 

「……現地に、エレメントの調査班を出すよう依頼してくる」

「ああ。ヴァイスドームで研究を進めておいてもらったおかげで、そろそろ現場に残った力の残滓から、その場で使われたエレメントを割り出す事も可能だそうだ」

 

 朗報とも言えるユイトの言葉にも、返事をせずにくるりと背を向けたヨハネは、扉を出る直前、ぽつりと呟いた。

 

「……カシハラ」

「ん?」

「……。ごめん」

「気にするな。仲間の目が曇ったり迷ったりした時に、それを補い正しい道に軌道修正してこその仲間だろう。ボクらは一人じゃない。誰だって、間違いを犯すことはある。それを相互に指摘し合えるように、ボクらは一緒にいるんだ」

 

 自信なさげに振り返ったヨハネに向かって、ふっと笑みを浮かべたユイトが、グローブの拳を突き出す。

 

「一人はみんなのために、みんなは一人のために。――セーブ・ザ・バディ、だろ」

 

 よく言うヨハネの口癖を持ち出したユイトに、ヨハネはようやく笑い、そしてごつっと自らの拳を突き合わせた。

 

「うん。そうだった。まさかあんたに励まされるなんてね」

「お前の救いたい相手が、救えるといいな」

 

 微笑んだユイトの激励に背を押されながら、ヨハネは今度こそ班員の調達に向けて待機室へと駆け出す。

 その瞳に、先ほどまでの迷いや落ち込みはなかった。

 

(全部、ボクがはっきりさせればいい。

絶対に、彼女なんかじゃない。彼女があんな風に人を傷付けることなんて、本意でするはずない。

彼女を無実にするための証拠を、必死になって集めればいい。今はそれに集中する。

――セーブ・ザ・バディ! セーブ・ザ・ムラサキ!)

 

 心の中でだけ、大声で自分に向かってエールを上げたヨハネは、決意に満ちた顔つきでますます駆け足の速度を速めたのだった。



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2-7 暗転

聞き込みの結果、ヨハネは思わぬ場所からムラサキの住所を入手する。
そのアパートへ向かうと、なんと彼女は部屋の中にいて……?


第7節 暗転

 

 何がなんでも、ムラサキを見つけ出すことが先決だ。

 そう判断したボクは、まずは喫茶・クロカゲに向かうことにした。当然ながらムラサキの端末には何度も電話したが繋がらないので、こうなった上は彼女を知っていそうな人たちを、片っ端から当たるしかない。

 ムラサキと知り合った後、やっぱり彼女はクロカゲに出入りしていたらしい事を仄めかしていたので、ウルカやソウルなら――彼女を庇うくらい親密な彼らなら、何か知っているんじゃないかと思ったけど、残念なことに彼らも、ムラサキ本人の個人情報に関わることは、何も知らないらしかった。

 

「もうここへは随分と来てない。オレらも心配してるところでさぁ」

「……嘘じゃないんだよな?」

「こんな緊急事態に、嘘なんかつかねぇよ」

「もうヨハネにバレちゃってるなら、私達がムラサキのこと、隠す必要ないもんね。あっ、でも……」

 

 何かを言い掛けたウルカが、ふと口を噤むのが分かった。

 藁にも縋るような気持ちで、ボクは顔を上げる。

 

「頼む。何でもいい、小さなことでも。何か気になることがあるなら、教えてくれ」

「うん、でも……これは、私達が言ってもいいのかな」

 

 ウルカに見上げられたソウルも、何かに思い当たったらしく、顔を曇らせる。

 その二人に向かって、ボクは潔く頭を下げた。

 

「ムラサキになら、後でボクが全部謝るから。彼女に繋がることなら、どんなことだって知りたい」

「……。まぁ、姐さん本人が見つからないことには、どうしようもねえもんな」

「そうだね。ムラサキが無事なのを確認出来るのが、まずは最優先だもの。あのね……」

 

 そう言ってウルカ達が教えてくれた情報は、驚くべきものだった。

 彼女はあの植能を使って、女性向けの風俗を生業としていたのだという。

 そしてその以前の所属先は、前にボクとムラサキが出逢ったあのバーの、ママの元だった。

 

「前に辞めるって言ってたし、その後で引っ越したりしてたら、住所聞いても意味がないかも……。

でも、そこのお店のオーナーなら、ムラサキの住んでる場所、もしかしたら知ってるんじゃないかな」

 

 以前、家が嫉妬の柱の近くというのは聞いたけど、彼女を送り届ける前にテケテケに阻まれてしまって、結局彼女の自宅の住所は聞けずじまいだ。

 そこに行けば、最悪居なくても、何か手がかりくらいは掴めるかもしれない。

 頼みはここのママだけ、というつもりで店を訪れたボクを、空いた店内でママは優しく出迎えてくれた。

 

「あら、いらっしゃい。今日は随分と真剣な面持ちね」

 

 ボクの表情から、何かを察したのだろう。

 にこやかな対応は崩さないままに、さりげなく表の扉へ「CLOSE」の札を掛けるのを、ボクは見た。

 この人も、こうやってここで生き残ってきたのだろう。

 その気の回り方に感謝をしつつも、どう切り出すべきかボクは迷った。

 マティーニ――風のノンアルコールカクテルを頼んで、楊枝に刺さったオリーブを弄ぶ。

 

「最近、ムラサキってここに来てる?」

「そうねぇ。ちょっと前に、あんたや友達と飲みに来てたけど、ここ一、二週間はとんと見かけないわ」

(二週間前……ムラサキがシェルターに引っ越した時か。そりゃそうだよな。ボクが出入りするなって言ったんだし)

 

 ここでも期待した以上の情報は得られそうにない。ということは、何とかしてママからムラサキの住んでる場所を聞き出さないといけない。

 果たして職務上の個人情報を、そうやすやすと漏らしてくれるだろうか。

 最悪植能の行使も辞さないつもりで、ボクは仄暗い店内を見回しながら、話題を探した。

 

「最後に会った時に、……っていうか、ここに来た時に、何か気になることとか言ってた?」

「何も? いつもするような、当たり障りない話ばかりよ。なんか最近、鳥が友達になった~とか何とか」

「鳥……?」

「あの子、あんだけ人当たりいいのに、妙~に人間に心開かないとこあるわよねぇ。こんだけ賑やかな街に住んでて、鳥にしか本音を話せないあの子の姿が、目に浮かぶようだわ。でも、それがあの子らしいっていうか。

だからアタシ嬉しかったのよ。あんたがムラサキの友達になってくれて。ホントにあの子、嬉しそうだった」

 

 バチバチにマスカラを塗った瞳で瞬くママは、多分事件のことは全部ニュースで見ているのだろう。

 何とも言えない気持ちで黙ったボクに、なんと向こうから、びっくりするような提案を投げかけてきた。

 

「ムラサキの個人情報、欲しい?」

「っ、え」

 

 齧りかけのオリーブを、思わずぽちゃんとカクテルグラスに落とす。

 呆れたように肩をすくめたママは、カウンター内の作業を止めて、ボクの向かい側に座った。

 

「ホントはこんな事、アタシのポリシーに賭けて絶対にしないのよ。けどあんた、あの子を探してるんでしょ。SOATの隊長サン」

「……ボクが、あんたがムラサキのいた風俗店のオーナーだと知ってここに来たことも、わかって……?」

「大方そんなところでしょうと思ったわよ。あの子のここでの人間関係は狭いわ。風俗の客と個人情報のやり取りは滅多なことがないとしないし、あの子のコトを深く知ってるのは、クロカゲのかわい子ちゃん達を覗いたら、アタシとお得意様くらいよ」

「……ほんとは、邪道かなって分かってるんだ。でも、もうずっと手がかりがないから、心配で」

 

 現場で見つかったリボンを、ぎゅっと握り締める。

 そんなボクの前で、ママが微笑む気配がした。

 

「あんた、SOATの隊長にしとくには勿体ないぐらい、マジメでいい子なのねぇ」

「は、はぁ? なんで……」

「いーいわよ。あの子の顔見てたら、あんたにどれだけ気を許してるかなんてすぐ分かるの。あんたの真面目さと真摯さに免じて、あの子を採用した時の住所、教えてあげるわ。ただし行って空振りだったとしても、アタシを恨まないでよ」

 

 ぽかんとするボクの目の前で、メモ用紙に書いたデータをボクに渡してくれる。

 忘れないようにそれを慌てて端末にインストールしてから、ボクは慌ててスツールを立ち上がった。

 

「ありがとう!」

 

 からん、とドアベルが鳴って外に一歩を踏み出し掛けた時。

 ふと薄暗い店内の奥から、よく響く声が獣の如く、けれど静かに届いた。

 

「……もしそれ使ってムラサキに酷いことしたら、アタシが許さないからね」

 

 カウンターの奥の、筋骨隆々なママの目が、キャンドルに照らされて迫力ある光を帯びている気がした。

 足を止めたボクは、ふうと一つ深呼吸してから、ママに向き直る。

 

「SOATの名に掛けて、ボクがムラサキを見つけ出し、守ってみせる。あんたの期待に恥じないように。

……それに、あんただってあまり大きな事は言えないはずだ。

黙認されているだけで、あんたが昔、SOATから再生型リバーを持ち出していることは、ボクは把握している。

……あんたも、元SOATだったんだよね」

 

 一気に口走った言葉に面喰ったママは、ふいに殺気立った緊張感を解いて笑い出した。

 腰巻エプロン姿で笑う豪快な姿は、ただの女装をした気のいいバーの主人だ。

 

「やだぁ、もう。全部お見通しだったってワケぇ?」

「これだけ只者じゃない雰囲気出されたら、こっちとしても下調べぐらいしますよ……」

「ふふ、小さい隊長さんだからって、アタシが舐めすぎちゃったわね。改めてその有能さに感服するわ」

「これボクの偏見かもしれないけど、ミカといいトチハラさんといい、SOATってオカマ率けっこう高いの?」

「アタシはオカマじゃないから、その辺の事情はよく知らないわ。もしかして仲間内でコネとか出来てるのかもしんないけど。

ミカが有能な隊員なのは知ってたわよ? けど、なんていうか、アタシとはまた領域が違う種類の人間だからね。

喋ってみたことは、あんまなかったのよ」

 

 昔を懐かしむようなママを見て、この人達にも色々複雑な事情があるんだなと思う。

 まあ、ボクも人のこと言えないけど。

 

「じゃ、これで」

「ムラサキのこと、くれぐれもよろしく頼んだわよ」

 

 今度こそ歩き出したボクの背を、ママが見送る声がした。

 

 

「えっと……この路地の先のアパートか」

 

 ところどころ道が入り組んでいて、意外と歩きにくい。

 遠くに見える嫉妬の柱を目印にしようにも、丁度ビルとビルの影が邪魔をして、地図がないと初めてでは行きにくい場所にそのアパートはあった。取り壊されたりしていたらどうしようと思ったけれど、幸いにも建物自体は存在していた。あとは、中にムラサキさえいてくれれば。

 路地から顔を出すようにして、よいしょと最後のドラム缶の山を乗り越えたボクは、さっきまで見えていなかったものを前に唖然とした。

 

「こ、れは……」

 

 噂に聞いていた、ムラサキのアパートの前の壁の落書き。

 罵詈雑言の種類は彼女にちらと聞いて胸が痛んだけれど、こころなしか、それよりももっと種類も数も増えている気がした。

 壁中をペンキで塗りたくったのではないかというくらい、アパートの前まで垂れたインクや文字が続いて、玄関のガラスに傷が付いている。

 

『⚠⚠⚠呪い⚠⚠⚠』

『操り人形ます』『二本足の獣を呼び出し』『土男』

『女性を生贄に爆弾犯』『コントロールの幻惑』『魔女見習い』『更地に出て行け』

 

「……」

 

 支離滅裂な文言が多いながら、ところどころ事件の内容に関わるワードが出て来るところが引っ掛かる。

 土。更地。爆弾。吹き飛ばされた現場の風景が、そんな風に見えなくもない。

 二本足の獣。これは多分テケテケのことだろう。

 操りや魔女、呪いといった、洗脳やコントロールを彷彿とさせる語。

 

(まさか捜査会議の内容が、どこかから漏れてる……?)

 

 考えられないことだった。SOATの本部は、最上級のセキュリティで保護されているのだから。

 けれど、何か嫌な感じを引き起こす文字だった。血のような色といい、他に混じり合う原色に近い色の気持ち悪さといい。

 それが壁に落書きされているという事実も含めて、あまりいい予兆には思えない。

 思わず写真を撮ってSOATに送ってから、ボクは早足で半壊のエントランスをくぐった。

 エレベーターは動いているようだけれど、こんな場所に住人はまだ住んでいるのだろうか。ここまでくると、もはや見つからない方が安心かもしれないと思いながら、教えてもらった部屋まで廊下を走る。

 と、その時、ぴいちいと高い声を上げながら、何かが中庭を飛んでくる気配がした。

 

「鳥……?」

 

 野生の中では目立ちそうな、黄色に黒の縁取りの鳥。ボクを案内するように先を飛んだかと思うと、一つの部屋の前で地面にちょこんと着地する。

 

「ここ……?」

 

 その挙動を不思議に思っていると、鳥は手すりから飛び上がって、再びどこかへ行ってしまった。

 あまり気に留めている時間もないので、ボクはインターホンを押す。

 エントランスのは壊れていたので、無理矢理セキュリティを解除して入ってきてしまった。

 

「ムラサキ? いる?」

「……」

 

 沈黙が続いたインターホンに、不意にざざっとノイズが入ったような音がして、ボクは飛び上がった。

 

「ム、ムラサキ?」

「……はい?」

「びっくりした!!! いるの!? いるなら返事しろよ!?」

 

 面食らいつつも、ボクはほっとしてインターホンのマイクに詰め寄る。自宅に戻ってるなんて事あるだろうかと思ったけど、まさか本当にここにいたなんて!

 気怠げな声が、おっくうそうに続く。

 

「……ひょっとして、ママ?」

「そうだよ。あんたに住所聞き損ねたせいで、散々苦労させられたんだから。いいからちょっと顔を……」

「……入らない方がいい」

「はぁあ!?!?!?!?!?」

 

 ここまで来させといて、ボクはもう心配というより怒り心頭になっていた。

 こんな気味の悪い落書きだらけのアパートにたった一人、しかも容疑者として捕まるかもしれない状態のムラサキを、やっと見つけたのに放っておくわけにはいかない。

 襲撃のことだって、何があったか詳しく聞かなきゃいけないし。彼女の疑いを晴らすには、何がなんでもSOATに連れて行かなくては。

 

「ねえ。あんた、このままだと立場的にマズいことになるんだよ。SOATがイヤなのは分かるけどさ、もうそんなこと言ってる場合じゃ……」

「わかってるよ。けど……マズい事になら、もうなってるの。だから……ごめん……何言ってるか分かんないと思うけど、帰って……お願い……」

 

 ぷつん、と通信が切られる。

 一体、何が起こったっていうんだ。そして、そんなか細い声で帰れと言われて従うほど、生憎ボクは素直じゃない。

 意を決して扉に手を掛けると、予想に反してそこは施錠されていなかった。

 回すタイプのドアノブを捻り、そっと手前に引っ張る。

 

「ムラサキ……?」

 

 その途端。

 隙間からぶわりと這い出て、瞬く間に足先から全身を包み込む濃く甘い気配に、眩暈がした。

 彼女の、植能の気配。けれど、いつもよりずっと強い。

 有無を言わさず、意識が奈落の底へ引っ張り落される。

 

「な……っ」

 

 コルニアを発動する暇さえなかった。何が起こっているのかも分からないうちに完全に足をすくわれ、崩れ落ちながら倒れ伏すボクの目に、まだ見た事のない彼女の家の玄関先が、微かに映った気がした。



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2-8 激昂

ムラサキの家の前で、気を失ったヨハネ。
目が覚めた先にいた彼女が無事だったことに安堵するも、どこか様子がおかしくて……?


第8節 激昂

 

 次にヨハネの意識が浮上して、呆れ顔のムラサキと目が合った時。

 彼は、見覚えのないベッドに横たわっていた。

 

「ここ……あんたの部屋……?」

「そうだよ。だから、無理矢理入るのやめた方がいいよって、言ったのに」

 

 ばさりと羽音がして、枕辺に黄色くふわふわのものが見える。

 ふとヨハネが寝返りを打てば、もぞもぞと体に首を埋めた黄色い鳥が、敷いてあるタオルの上で眠りについたところだった。

 

「こいつ……さっき、アパートの外で……」

「ああ、うん。私の友達なの。玄関の反対側の窓から、入ってくるんだ。ケガしてる間だけ保護してたんだけど、ここが気に入ったみたいで」

 

 普段と違う紺色の袴を着たムラサキが、湯気の立ったカップを渡しながら、そう言ってくる。

 顔色は随分と悪いが、特に怪我の跡は見えず、ヨハネの想像とは違って案外ぴんぴんしている様子だ。

 説明を求めるように、ゆっくりと身を起こして口を開きかけるヨハネに向かって、きまり悪そうに目を逸らしたムラサキは言った。

 

「ごめん……ちょっと仕事の後で気が立ってた。

言ったじゃん、私は植能のコントロールが効かないんだって。特に性的に興奮した後は、一時的な暴走状態になってウームのフェロモン効果も強まるの。あんなの近距離で当たったら一発だよ」

「あ……」

 

 つまり、自分は押し掛けた挙句、ムラサキの出す植能の効果にやられて、玄関先で倒れ、あまつさえ具合の悪いムラサキに看病までさせていたらしい。

 

「ッ、ごめん……」

「謝らなくてもいいけど。被害者は完全にヨハネだし……」

 

 ふう、と溜め息を吐きながら、念の為を思ってか、少し離れた場所にカップを持ったムラサキが座る。毛足の長いカーペットへぺたんと腰を下ろしながら、ココアを冷ますムラサキの様子は、随分と憔悴しきっていた。

 

「あんた、事件の後から、ずっとここに……? 仕事って、もしかしてここで」

「……ママに聞いてここに来たってことは、全部知って来たんだよね。

うん、そう。最近ログインしてもずっと調子が悪いから……でも受けてる分の予約だけは、なんとかこなそうと思って。外での待ち合わせじゃなくて、ここにしてもらってたの」

「なんで……っ、なんでもっと早くっ、ボクに言ってくれれば!」

「ヨハネに仕事のこと、バレたくなかったから……。植能を使って春を売ってるような人間、軽蔑、されるかもと思って。

……でも、来てくれたんだね」

 

 囁くように答えた顔が、弱々しく微笑む。

 その顔が、単なる仕事の疲れだけには思えないように見えて、ヨハネは思わず唾を飲んだ。

 

「具合……悪いの?」

「うん。今はだいぶ落ち着いたんだけど、あの事件の後から、どんどん酷くなってる……っていうか」

「っ、そうだ! 事件! あのシェルターで何があったのさ!? 誰も何も、覚えてないって……!」

 

 そう叫んだヨハネは、反射的に頭を抑えたムラサキを見て、思わず口を噤む。

 

「うまく……ごめん、思い出せないの……。思い出しそうになると、頭が……ぐるぐるして……肝心なところだけ、思い出せなくさせられてる、みたいに……」

「そ、そっか。だったら、無理しなくていい……」

「あそこ、襲ったの、何のエレメントだったか、分かった……?」

「え? あ、い、いや、まだ調査中で……」

「……多分、土、だと思う。あのテケテケがいた……シェルターの人を、なんとか守ろうとしたんだけど。無我夢中で、私、部分的にしか思い出せなくて」

「まだ数名行方不明者が出てるけど、見つかった人は全員無事だ。みんなあんたに助けられたって言ってた。あのヒバリっていう少女が、あんたのことを一番最初に教えてくれたんだ」

「……! ヒバリちゃん、無事なんだぁ……! よかった……」

 

 今日一番の安堵の表情が、彼女の顔に喜びと共に浮かんだ。

 けれどすぐに、苦痛に満ちた表情で傾きそうになる体を、ヨハネは支えようとしてムラサキに制された。

 

「ま、って。大丈夫だから。また、当たったら大変な目に遭っちゃう」

「けど、あんたの植能はなんで……? 今まで、植能が持ち主の手を離れて暴れるっていうのは、『捕縛』の審判の時ぐらいしか見たことない」

「……これは、もしかしたら植能のせいじゃないのかもしれない、けど」

 

 躊躇いがちに息を震わせて、上気した頬でヨハネを見上げたムラサキは、潤んだ瞳で何かを訴えようとしていた。

 

「……ヨハネ。私の秘密、見る気ある……?」

「へ……?」

「ずっと、植能のこと、知りたがってたでしょ。

今なら、説明できるかもしれないから……」

 

 思わぬ呼び掛けに、丸く開いた青い目を瞬かせたヨハネは面食らったようだったが、勢いに押されながら反射的に頷く。

 

「……ちょっと、待ってて。先に、着物解除するから」

「あ、ああ……。っていうか、洋服も着たんだ。あんた」

 

 単純に着替えるのかと思い、そう呟いたヨハネに、ムラサキは怠そうに立ち上がりながら答えた。

 

「当たり前でしょ。ずっと着物だけなんて、さすがに炊事も家での時間も、息苦しくて仕方ないよ。あれデータに変換しても割と肩凝るからね」

「まあ……それだけ重ね着してたらそれはそうだね。どうぞ。ご随意に」

 

 そう言いつつ戸惑うヨハネを置き去りに、袴の紐を解きにかかるムラサキ。帯の飾りに引っ掛けて固定されていた紐を解くと、スカート状の袴がすとんと落ちて、着物が現れる。

 

「そんな仕組みになってたんだ」

「和服、着たことない?」

「モチーフとしては見たことあるけど、原型で着てる人は見るのも初めてだね」

 

 この世界のスキンや衣装は、自動で全身切り替えられるシステムと、手動で変換するシステムがある。娯楽で風呂やプールにでも入らない限りは、そもそも衣装を脱ぐ必要もないので、全自動にしている者が大半だが、彼女は一枚ずつ手動で着込んでいるらしい。

 

「それ。自分で着付けてるの?」

「一応ね。時間ない時はさすがに自動だよ? ただ、出来る時には自分で組み込んどかないと、自動装着にしておいても、なんとなく、着心地が悪いというかさ」

「まあ、それは何となくわかる気がする」

「ヨハネさんも、いっぱい衣装持ってるもんね。賭場での衣装とSOATの隊服しか、私はこの目で見たことないけど」

「……それだけ知ってたら十分じゃない?」

 

 ドン引きするヨハネにそう苦笑しながら、腰紐を解いてするすると外側の着物を脱いだムラサキが、それを長いハンガーに掛ける。

 竿の長いハンガーを珍し気に見上げながら、ヨハネは呟いた。

 

「あんたの容疑、施設の損壊とか傷害とかじゃなくて、やっぱりボクへのストーカー罪じゃないだろうな」

「当たらずとも遠からず、かもね? 過去にいた時は、ずっと見てたもん。ヨハネさんばっかり」

「うっわ……最低。いくらボクが魅力的だからって、そこまでする奴いる?」

 

 そして、少しずつ二人の会話に日常の温度を取り戻しながら、ムラサキが白い長襦袢の紐に手を掛け、解きかけたところで――ヨハネは漸くはたと気が付いたように顔を上げる。

 

「……っていうかっ、あんたなんでボクの前で平然と脱いでるのッ!?」

「……へ? ダメだった?」

「ダメ……っていうか、だって、その、さ!」

「いや、女同士だからそんなに気にしないかなと」

「そそそ、そうだけどっ、ま、まあ別に? ボクだってアイドルのプロデューサーしてたぐらいだから、衣装替えくらい手伝ったことも採寸もしたことあるけどさぁ! だからってそんn……わわわわわ!」

 

 言っている間に、ばさりと胸元が露になって裾が翻る。

 威勢の良い脱ぎっぷりに、何故か慌ててそっぽを向くヨハネ。

 

(え、ちょ、ちょっと待って……なんでボク今、ムラサキの裸を見そうになってるんだっけ……???)

 

 顔まで赤くなってくるヨハネの様に、ムラサキは訝しげに首を傾げる。

 

「そーんなに恥ずかしがらなくたっていいじゃん……自分だっておっぱいぐらい付いてるでしょ」

「バ、バカ言わないでよっ、ボクは自分の体をまじまじと見たことなんて……っていうか、あんたが恥じらいなさすぎなんだよッ!」

「水着同然の露出度の衣装着てた人に、恥じらえとか言われてもな」

「! いっ、いい加減にしないと、ストーカーに露出狂も追加で訴えるからね!? うわぁっ、痴女! こっち向かないでったら!」

「そっちが脱いでいいって言ったんでしょうが……」

「着替えていいって言ったんだよッ! 裸をボクに見せていいなんて一言も言ってない! さては襲う気!? 襲う気なんだろ!? うわ、ホイホイ家になんか来るんじゃなかった!」

 

 ぎゃあぎゃあと煩いヨハネに、もはや言葉を掛けるのも面倒になったのか、呆れた顔をしながら、ムラサキが残された肌襦袢に手を掛けたまま振り返る。

 

「あのさ……」

「ぎゃーーーーーーッ!?」

 

 思わず失神寸前のガチな悲鳴を上げてうずくまったヨハネの前で、静かに息を吸う音が聞こえ――

 最後の布が落ちる音はしないままに、ムラサキが着物を着込む気配がした。

 

「あ……?」

 

 おそるおそる、顔面を覆っていた指先からヨハネが覗く。

 袴までは着ずに、着物だけを着直して床の上に座り直したムラサキは、侮蔑の視線を――もっと言うと、何かに傷付いたような目をしたまま、ヨハネを睨んでから乱暴な足捌きで台所へ向かっていく。

 がちゃんと、荒々しくカップを置く音がした。

 

「へ……あ、あの……」

「……そんなに汚いかな。私の裸って」

 

 何か思い違いをさせたような気がして、ヨハネが慌てたまま、おずおずと口を開く。

 

「あ、あのさ。そういう、意味じゃ……」

「叫び声上げるほど、目にも耐えないぐらい醜いモンなのかな。まぁ、そりゃしょうがないよね。そんな誰もが羨むほど綺麗でスタイルのいい体してたら、一風俗嬢の裸なんか、吐き気がするほど気持ち悪くて穢らわしいモンですわな」

「ちょ、ちょっと待って!」

「帰って」

 

 押し殺した声。着物の背中から、ハリネズミのように凄まじい怒りが膨れ上がるのがわかった。

 これも、植能の効果なのだろうか。

 さっきまで人を誘惑するような蠱惑的で気怠い空気が流れていたのが嘘のように、ヒリヒリと、全身を刺すような鋭いオーラを感じる。

 

「ッ……! 待ってよ! ボクはあんたのために……っ」

「いいから帰ってッ! 少しでも信じていいかもって、期待して損したッ!」

 

 漂っていた怒りが、爆発した。驚くヨハネに構わず、乱暴にその腕を引っ掴んだムラサキが、玄関まで体を引き摺っていく。温厚で優しい彼女からは、信じられない力だった。

 放り投げるように、玄関扉の外へ華奢なヨハネを突き飛ばしたムラサキが、彼を見下したままで怒鳴り声を上げる。

 

「何が……何が『真実を見通す瞳』よ!

ヒトが打ち明けようとした一番大事な真実から目を背けといて、何が『クヌギ ヨハネのいいところは、真実から目を逸らさないところ』なわけ!?

あんたなんか、正義感の皮を被ったその辺の化け物と同じじゃない。

結局は、あたしみたいな人間のことなんか、どうしようっていう気もないくせに。

別にそれでもいいよ。それでもいい、けど……! 自分の正義を全うするために、仕事するフリで人の心を踏み躙るぐらいなら、そんな二つ名名乗らなきゃいいじゃないッ!」

 

 一気にそう捲くし立てたムラサキは、呆然とするヨハネから涙のボロボロ落ちる瞳を逸らさずに、思いっきり息を吸い込んで叫んだ。

 

「もう二度と来んな!」

 

 ばんっ、と目の前で荒々しく扉が閉まる。

 間抜けにぼさっと廊下に座り込んだままで、ヨハネはしばらく、物言わぬ扉を眺めていたが。

 

「は……はあァ!? なんでボクがそんな事言われなきゃいけないわけ……ッ」

 

 一泊遅れて、理不尽な怒りが込み上がって来る。

 確かに、「綺麗」だとか「可愛い」とかは飽き飽きだった。

 けれど、リアルでもセブンスコードでも、すれ違った誰もが見目麗しさを褒めそやすこの見た目を持っていて、「化け物」扱いされたのは、正真正銘今が初めてだ。

 

「何なのさあの言い方ッ!? あんな礼儀知らずの奴の担当、これ以上はこっちから願い下げだよッ!」

 

 誰にともなく返事をしながら、立ち上がったヨハネがすたすたと玄関ホールを抜けていく。

 

(二つ名って……だいたい、なんであいつが知ってんだよッ? ボクが心の中だけで勝手に決めたことを、まるで読んだみたいにして……気持ち悪っ)

 

 いくら過去からやって来ているとはいえ、自分が心の中で口にした一言一句まで知っているものだろうか、普通。

 もしや、ムラサキは過去を知っているだけではなくて、当時の人間の心を読む能力でもあるのだろうか、とヨハネは訝しがる。それにしても、心の中身まで読まれているというのは、いささか居心地が悪いが。

 

(勘弁してよね……)

 

 結局一人でSOATに戻ったヨハネは、勢いのままユイトの元へ報告に向かう。

 怒り心頭のヨハネに少々面食らいながらも、ユイトはそれを落ち着いて聞いていた。

 

「……だってさ! それで、あのバカは部屋から出て来ようとしないんだけど!」

「彼女が出たがらない理由はボクにもよく分からない……けど、恐らく植能の暴走を懸念してのことなんだろう?

それから、彼女は例のシェルターの件は、土のエレメントの仕業じゃないかと言ってたんだな」

「ああ。そういえば、調査班の方はどうなった? 結果は出たのか?」

「彼女の言葉通りだ。現場から見つかった残滓は、土のエレメントの物だった」

 

 ヨハネが息を飲む。

 これが、吉と出るか凶と出るか。彼女が操っていたからこそ、正しい証言が出来たと取られかねないのではないかと、ヨハネは苦い顔になるが、それを安心させるように、ユイトが先に口を開いた。

 

「今、一番大きい土紋と思われる破片が出て、再現作業を行っているらしい。つまり、前回の八尺様のような、紋に憑依された人間は見つからなかったものの、紋自体は完全に破壊されていたんだ。

それから、これはコニの情報だが、破壊された紋に、未確認の植能の気配が付着していたと。

……もし彼女が植能を使ってそれを壊したのだとしたら、女性達の証言通り、大野がシェルターを救ってくれたことになる」

「! っ、じゃあ……!」

 

 明るい顔を上げるヨハネと、今回ばかりは思わずユイトも顔を綻ばせながら頷き合った。

 

「彼女の疑いは晴れるだろう。となると、後は彼女の体に出ている、その不調というのが気に掛かるところだが」

「結局原因不明なんだよね……あああ、もう、だからSOATに来いって言ってるのに」

 

 頭を掻き毟りそうになりながらも、頭の奥からはムラサキの傷付いた瞳が離れないまま、ヨハネは小さく舌打ちをした。



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2-9 怪文

ムラサキのことをイサクと相談中のヨハネの前で、突如テレビに流れる謎のテロップ。
周囲の異変を警戒しつつも、SOATの面々は各地へ奔走していく。


第9節 怪文

 

「はぁ……それで飛び出してきたってわけね」

「飛び出して来たんじゃない。あっちから追い出されたんだ」

「女の体にビビって逃げてきたんなら、似たようなもんだろ」

「ビビってなんかねぇよ。目の目で突然人が脱ぎ始めたら、当然の反応でしょ」

 

 翌日。

 SOATの休憩室で、イサクに昨日の出来事を相談してみたヨハネは、イサク手製のコーヒーを片手に、横目で彼を睨み上げた。

 ずっと調査に行っていたので、出所するのは久しぶりらしい。イサクは持って来ていた書類を脇に置き、コーヒーを啜りながら遠い目になる。

 

「でもさぁ、その反応はオレもちょっとどうかと思うぜ」

「はぁ? 女の子の裸見て、任務中のラッキースケベだって興奮して喜べって言うの? そっちの方がどうかと思うけど」

「誰がそんな変態っぽい反応しろっつったよ。犯罪だろ」

 

 呆れたように返しながら、イサクがヨハネを見た。

 

「お前の性別はともかく、殻は女の子だろ? 『女同士だから』ってことは、彼女はお前を信頼して、体を見せようって気になったんじゃねぇの?」

「……何のために?」

「……そりゃあ、オレには分からねえけど」

「分かったようなコト言ってるくせに、やっぱ半人前じゃないか」

「くぅ、先輩面晒してんじゃねえよっ。ちょっとオレより先に入ったからって! いい気になりやがって、このこの!」

「ちょっと、重いんだけど!」

 

 肩を組んでくるイサクを、うっとうしそうに見上げるヨハネ。

 その時、端末が鳴り響いて、表示された意外な名前にヨハネは目を見開いた。

 

「……クソガキ……? もしもし?」

『ヨハネさん、今テレビ見た?』

「は? テレビ?」

『なんか、妙なモンがクロカゲのテレビに映ってる。そっちでも映るかわかんねぇから、念のため今録画してるんだけど』

 

 端末から聞こえたソウルの声に、顔を見合わせたヨハネとイサクは、休憩室に並んだモニターに映る、各局のテレビを点ける。

 流れて来るのは、いつもと同じニュースやバラエティなどの各種番組……ではなかった。すべての局が、砂嵐とカラーバーを表示している。ざーざーと不愉快な音が、どのスピーカーからも聞こえていた。

 

「な、なんだこりゃあ……?」

 

 あっけに取られたイサクがぽかんと口を開ける前で、ぶつっ、とレコードが途切れるような音がしたかと思うと、今度は砂嵐の代わりに、暗い色合いのゴミ処理場のような背景と、不気味極まりない音楽が流れ始める。

 聞く人間を不安にさせるような、どこかぞっとする歪んだ不協和音が、高く低く、背筋を撫でていく。

 

「お、おい、なんだよ、これ……」

 

 イサクばかりでなく、傍を通りがかった隊員達全員が、呆然と足を止めるのも無理はなかった。

 スクロールする画面には、映画のエンドロールのように、ただ一人の人間の名前だけがびっしりと並んで、延々と表示され続けていたのだ。

 

「カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト

カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト

カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト

カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト

カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト」

 

 駆けつけてきた隊員達で、昼間の休憩室と廊下がいっぱいになる。

 白いフォントで繰り返し横並びになる、ユイトの名前。

 それらが不気味な音と共に画面を流れ去ったかと思うと、動けない聴衆たちの前で、抑揚のない誰とも知れぬアナウンスが突如流れた後、画面はぶつっと切れた。

 

『明日の犠牲者は、この方です。おやすみなさい』

 

 一旦暗転し、何事もなかったかのようにジャックされていた局の番組が流れ始める。

 けれど、映像の強烈さが残した不気味さと不愉快さは拭い去りようもなく、隊員たちは今目にしていたものを思い返しながら、ある者は震え、ある者は体を抱いて顔を見合わせながら、不安げな面持ちを隠せないでいた。

 

「ただの……電波ジャック……? イタズラか?」

 

 真っ先に思い浮かんだ説を口にするも、どう考えてもただのイタズラとは思えないヨハネが、眉根に皺を寄せる。

 現実味を欠く何かが、次々とこの都市で起こっている。けれどもそれらは全部、エレメントが引き起こす大きな事件と、最終的には関わりのあることだった。

 

「今の映像の件について、各局に問い合わせしてみてくれないか」

「はっ、わかりました! ……し、しかし隊長、実は今朝からネット機器の具合がおかしくて……」

「何だって?」

「SOAT内も時々通信が途切れる他、外部に繋がるケーブルに何か問題が発生しているようです。公共設備班が、現在民間の業者と提携して解決に当たってるんですが、そことの連絡にも支障が出ているため、作業を進めようにも現状を把握しようにも、なかなか……」

 

 ヨハネの号令で少しずつ隊員達が動き出していくものの、どうにも彼らが戸惑ったように二の足を踏んでいるのは、それが原因だったらしい。

 隣で聞いていたイサクが、納得したようにうなずく。

 

「ああ、なるほどな。どうにも今日は報告書とか依頼してたメールの上がりが遅いと思ってたら、それが原因だったか」

 

 何の他意もない言葉。しかし、一人の隊員がイサクに向かって突如噛み付いた。

 

「なんなんだよてめぇ、口先だけ偉そうに! 自分がカシハラ指揮官の右腕だからって、どーせオレらの事なんかって見下しながら嘲笑ってんだろ!?」

「!? お、おい、どうしたんだよ突然……!?」

「役立たずって言うなら言えよ。頼まれた仕事一つ出来ないオレに、あんたの立場までのし上がる機会なんか、一生巡って来ねえんだからよ……!」

「おい、隊長に向かって何て口聞いてんだ! やめろって!」

 

 周りの隊員達が、慌てて羽交い絞めにして止めに入る。力では叶わず、恨みがましそうな目をした男の隊員は、他の隊員達に引きずられて廊下の外へ消えていった。

 ぽかんとした目で、イサクがそれを見送る。

 

「……なんだったんだ」

「すみません隊長。あいつ、滅多なことじゃ怒らない優しいヤツで……いつもはこんな事、言わないはずなんですが」

「オレも話したことあるから、何となく人柄は知ってるぜ。まぁ、朝から慣れないトラブルへの対処の連続じゃ、ストレス溜まってても無理はねぇよな。気にしないでいいって言っといてくれよ」

 

 掴みかかられたシャツの胸元を直しながらイサクが言ったが、恐縮する隊員の前で、ヨハネは顎に手を当てながら沈思黙考していた。

 

「……ヨハネ? どした?」

「なあ、そこのあんた。さっきの彼と似たような小競り合い、今日はSOATで他に起きていなかったか?」

「はっ? ……言われて見れば、いつもよりは多少多く目撃するような気がしますね。それもこれも、電波障害で皆ピリピリしているせいだと思ったのですが」

 

 首を傾げつつ、今気が付いたというような隊員の答えを受けて、ヨハネはイサクに向き直る。

 

「イサク。念の為だけど、SOATの防護シャッターを下ろして、隊員と職員をみんな地下に避難させてくれないか」

「はぁあ!? お前までどうしたんだよ!? まさかあんな悪趣味な合成映像に、マジで怖じ気づいたってのか!? どこの誰だか知らねーけど、ユイトの名前まで使いやがって……!」

 

 ギリッ、と歯を食いしばるイサクに、ヨハネが頭を振った。

 

「一般人に、カシハラの名前は知られていないはずだ。橿原(カシハラ)唯人(ユイト)の肉体と入れ替わったアウロラは、療養を取ってもうこっちにはログインしていないんだから。

わからないけど、その名前をわざわざ出してくるということは、カシハラがセブンスコードの根幹だということに、気付いている犯人の可能性がある……」

「お、おい、マジかよ、それ」

「もちろん、ただの嫌がらせか同姓同名の別人かもしれないけどね。だからあんたには、避難指示を出した後はカシハラの身の安全を確認して欲しい」

「おうっ! 言われなくても駆けつけてやるぜ!」

 

 勢いよく返事をしたイサクは、不思議そうにヨハネを見下ろした。

 

「んにしても、そこまで大げさにする必要あんのか? 通信が阻害されてるっていっても、こっちには最高級のセキュリティとファイアウォールが揃ってんだぜ。避難するってんなら、せいぜいユイトだけを安全な場所に移せばいいんじゃ」

「……ボクもそう思ったけど、なんかこの電波障害、ただの現象じゃない気がするんだ。前にテケテケが出た時も、同じことが起こってた。混乱の前触れか、もしくは何か……人の情緒に作用する働きが、あるのかも」

「え、ええ? んなバカな……さっきのあいつの事言ってんのか? たまたま虫の居所が悪かっただけだって、周りの奴らも言ってたじゃねぇか」

 

 イサクはヨハネのことを心配性気味に思っているようだが、ヨハネは納得しない表情を浮かべている。その顔をじっと見つめ、イサクは力強く請け負った。

 

「わかったよ。一応、できる奴らは避難させてみる。ただ、全員は地下シェルターに入らねえし、本部のシステムに残って動かさなきゃいけない奴らもいるから、順次交代制になるぜ」

「十分だ」

「お前はどうする?」

「ボクはソウルのとこに行って、あいつが録画したっていう映像を確認してくるよ。この通信状況じゃ、動画がこっちに送信されてくるのに何分かかるか分からない。他の奴らも、ワープが使えないんじゃ現場への急行や合流が出来ずに困ってるだろ」

「車を使うのか?」

「自動運転車は動かないだろうね。システムが電波干渉を受けてたら、事故る可能性もあるし……手動運転で送迎や観光をやってる、民間のサービス業者に頼んでみよう。

電話も公共交通もこっちで触ったことない隊員達だけじゃ、今頃四苦八苦してるはずだから、ボクが教えてやんないと」

「おっけ! 気を付けて行けよ!」

 

 二人揃ってコーヒーの紙カップを投げ捨てると、別々の方向に走り出す。

 ヨハネが階を下りると、案の定公共設備班だけでなく、当直で出動に当たるはずの班たちまでが、大混乱を起こしていた。

 

「隊長! オレたちどうやって現場まで行けばいいんすか!? 朝からもう何件も通報があるのに、拾い切れてないんですっ……!」

「マニュアルの再起動を試しても、官用車が動かないんっス! 久しぶりに開けたらバッテリー上がってるし、修理を頼もうにも業者にも繋がんなくて……!」

「あーあ、こういう時はいいよなぁ、ネット接続が繋がらなくても使える地図アプリを持ってる奴はよぉ。ついこの間まで、会議で時代遅れ扱いされてたくせに」

「今はそれは関係ないだろ!? オレたちが喧嘩してどうするんだ!」

 

 出動用の車庫を兼ねた裏出入口にたむろする隊員達の喧噪を前に、ヨハネが思わず大声を張り上げる。

 

「みんないい加減にしろッ! 一旦落ち着いて! 全員静かにしな!」

 

 凛と通る、一本の糸のような澄んだ声音に、全員が一瞬言葉を忘れていた。

 背筋を伸ばして真ん中に進み出たヨハネは、てきぱきと指示を飛ばす。

 

「A班は通信室に行って、トランシーバーと黒電話の準備。ここのジャックから地下ケーブルに繋げば、固定回線を引いてる事業所には電話が繋がるはず。

みんな、端末の電波状況が悪い時は、無線を使って。古い時代に使われてたチャンネルだから、これなら妨害の影響を受けないかもしれない」

「ラ、ラジャー!」

「B班は、今すぐ図書室に行って。旧市街地のタウンページと地図をコピーしたら、全員に配って。多少変わってるけど、大枠は同じだからないよりはマシなはずだ。移転したとこもあるけど、電信機器関連の業者もそこに載ってるはず。諦めないで一軒ずつ当たるんだよ。古くから名の知れてるところは今も営業を続けてることが多いから、事情を話して力を貸してもらって」

「了解ですっ、隊長!」

 

 何からすべきか分からず焦りだけが募っていた隊員たちは、ヨハネの言葉で道すじが明らかになったようで、士気を取り戻して一気に動き始める。

 元々自主性を重んじられている隊員達なので、一度動き始めた後は早かった。次々に、やるべき仕事を見つけて各所へ散っていく。

 

「C班とD班は、今調達出来てる分のモーターカーで今すぐ出る。自転車でもバイクでも、使えそうなモンは全部搔き集めて。通報はどっちの地区に集中してるの?」

「はい、座標の第一象限と第二象限あたりが特に多く、ほかの地区もそれなりに……」

「SOATから出向くには逆方向か……。他に、通報したくても出来てない人がいる可能性もあるね。じゃあ、班構成は……」

 

 人数の割り振りをヨハネが丁度行おうとした時、半分開いたガレージの外から、聞き慣れない獣のいななきが聞こえ、ヨハネを始めとする隊員達は一斉に振り返った。

 

「すまない、開けてくれないか!」

 

 大慌てで隊員の一人が飛び出してシャッターを開ければ、そこに立っていたのは、騎士然とした様子で馬の上に跨り、騎馬隊を編成するSOATのベテラン隊員達だった。

 ぱからっぱからっという音と共に、土埃を舞い上げて入って来た四本足の獣が溢れ、広いガレージはあっという間に厩舎と化す。

 唖然とする若手隊員の中から、一番先頭にいた鞍の上の人物を見上げたヨハネは、驚きのあまり大声で叫んでいた。

 

「ミライ隊長!?!?!?」

「交通網と通信網が、どこもダウンしていると聞いてな。私の詰所から牧場が近いので、事情を話して貸してもらってきたところだ」

「や、で、でも、なんで馬なんか……?」

「ああ……これか? 私事だが、リアルにいる間に乗馬を習っていたことがあってな。他にも我が隊に何人か同士がいたおかげで、とりあえず連れて来られるだけ引っ張って来られたのだ。

機械に頼らない陸路の移動手段といえば、獣だ。ひと昔前の代物といえ、こいつらであれば、電波も何も関係なかろう?」

 

 しゃんと背筋を伸ばして鞍に座るミライの姿勢は安定感があり、両脚でしっかりと馬の胴体を挟みつつも、その帽子の下の表情は、照れたように笑っていた。

 ひきつり笑いしか出来ないほどに度肝を抜かれたヨハネの前で、ミライが馬の向きを変え、ぴっと隊服の腕を振るう。

 

「ここにいる班の半数は私に付いて来い! 乗れない者は、馬車も借りて来たからそちらに乗り込め! 一刻も早く、この混乱に乗じて強盗や強姦を行おうなどという不埒な輩を、我々の手で殲滅するッ!」

「オォーーッ!!!!」

 

 概念としては知っていても実際の馬を見たことがある者は少なかったのか、物珍しさも手伝って、これだけでまた士気が高まったらしい。

 各々、道具や武器を手に騎馬隊の編成へ向かっていくのを、ヨハネは見送った。

 

(へえ……? なかなかやるじゃん、ミライさん)

 

 ミライはSOAT本部には戻らず、三基点にある詰所と、さらに僻地にある出張所を順に巡回する業務を行っている。

 ユイトと離され、民間人同士の紛争の仲裁や見回りなど、こまごました雑事が多い現職を嫌っているのかと思いきや、そうでもないらしい。

 そんなヨハネの心を読んだように、去り際振り返ったミライが、白馬の上から不敵に笑った。

 

「民間人を守るのが、我々SOATの務めだ。各地には、見回り時に顔を合わせる知り合いも多くいる。彼らの生活を脅かすものは、私も許さない」

「ここまでして、あんたがセブンスコードのために駆け回ってくれるとはね。ちょっとだけ見直した。頑張ってよ、隊長サン」

「はぁ……正直、白馬に乗るのは私じゃなくて王子様がふさわしいと思うんだけど……」

「鬼神みたいなあんたに恐れをなさない王子がいたら、こっちだって見てみたいもんだ。ほら、バカなこと言ってないで早く行って」

 

 冗談だという風に手を振ったミライが、颯爽と馬を歩かせる。

 その後に釣られ、外へ出て空を見上げたヨハネは、唖然とした。

 分厚い灰色の雲が天井を覆い、太陽がどこにも見えない。不穏な淀んだ空気が、都市の中に溜まっている感じがした。ゴロゴロと雷の音が、近くや遠くから聞こえて来る。

 

「こ、これ……?」

「ああ。道中ずっとこんな感じだ。天候システムにも設備班が今行っているらしいが、原因不明だと聞いている」

 

 そのミライの言葉の途中にも、被せるようにしてすさまじい雷鳴が響き渡り、稲光が眩くガレージの内側を照らす。怯えたように、何人かの隊員が悲鳴と共に身をすくめた。

 

「セブンスコードの中で、こんなに天気が荒れるなんて……」

「……嵐になるかもしれんな」

 

 ぴしりと手綱を打ち、尻と尾をいからせながら小走りで駆け始める馬を、ミライは乗りこなして隊の後を追って行った。



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2-10 暗所

謎の空間に蠢く、首謀者の影。
一方、クロカゲへ辿り着いたヨハネは、アオカゲの一派と乱闘するソウル達を助けた後、彼らと共に謎の映像を解析する。


第10節 暗所

 

「いや、すばらしい成果だね」

「これはどういうことだ……?」

 

 現状より少し前。ムラサキのいた、女性用シェルター襲撃事件の日のこと。

 とある廃ビルの一角に構築した裏空間で、咎める男の声など聞こえてもいないかのように、少年がうっとりと市街地の映像を覗き込む。

 粉々に爆散された建物。テケテケに襲われた女性達。

 まるで意志でも持っているかのように、少年の周囲に浮いた球体型モニターへ、次々とライブカメラが映る。

 押し殺した声で尋ねていた男は、ついに顔を上げて、自分より何倍も小柄な子供である少年を、怒鳴りつけた。

 

「どういうことだと聞いている!! 我々アオカゲは、配電施設を制圧し、電波の拡張器を工面して各地に設置しろとお前に言われたから、言うことに従っただけだ!

それがなぜ、こんな無関係の人々を巻き込む事態になっている……!?」

 

 理解力のない子供を前にしたような視線を向けて、少年はうんざりと溜め息をひとつ吐くと、冷たい色をその目に宿した。

 モニターの明かりを反射して、薄暗い空間でその瞳だけが銀色に輝いて見える。

 

「今、君が自分で言ったじゃないか。無関係だ、とね。

このシェルターで起こっている〝事故〟は、土のエレメントのもの。

ボクが君達に頼んだのは、通信妨害装置を作り上げ、雷のエレメントを使って例の怪電波を抽出・増幅して、周辺地域に流すこと。

抗議活動に必要な分の資金は、ボクの支払いから手に入れただろう。

一体、何が君達の利を害するというんだい?」

「ふざけるな……っ! どうせお前が何かろくでもないプログラムを差し向けて、俺らの提供した技術を利用し、施設を襲わせたんだろう!?

俺たちが、金を手に入れればそれで満足するような、そんな組織だと思っているのか!

あんたが俺らをバックアップしてくれると聞いたから、仲間を裏切ってまでこっち側に付いているんだぞ!

それをあんたは……っ!」

 

 ひゅっ、と空を指が切る音がして、次の瞬間、男は顎先から地面へと、無理矢理ひれ伏させられていた。

 コンクリートに擦りつけた顔に血が滲む。指を触れず、その体を操り人形のように操った少年は、再び指の一振りで、その男を壁の反対側まで放り出した。

 叩きつけられた反動で、男の頭の青いバンダナが揺れる。

 

「ぐ……っ」

「図が高いよ、お前。自分と自分の家族がなんで生きてられるのか、忘れたわけじゃないだろうね?

潰そうと思えばいつだって潰せるんだ。君も、家族も、仲間も全て。

所詮君たちは、ボクの捨て駒にすぎないんだから」

 

 血の滲んだ唇を、男は噛み締める。

 口答えしようにも、圧力を掛けられていて喋ることすら出来ない。

 みし、と微かに肩口の骨が軋む音を聞きながら、銀髪の少年が美しい顔でゆっくりと微笑んだ。

 

「イタい? ボクの作ったこの空間で味わう痛みは、カクベツだろうね。

何せ、ボクはハルツィナの他に痛みを司る事の出来る、唯一の存在だったんだから。

表の世界で、生温いSOATだの何だのに感化してしまったお前達に灸を据えるには、丁度いいよ」

「ニレ……貴様……」

「その名で呼ばれるのは、何だかな。ボクはニレのバックアップから蘇った存在に過ぎない」

 

 癪に障ったようにふっと笑いながらも、ニレと呼ばれた少年は指先から力を抜き、背後の壁に外の空間へ通じる窓を描いて作り上げると、混乱に騒ぐ往来を覗いた。

 男がげほげほと、咳き込みながら起き上がる。

 救急車が到着し、徐々にシェルターへ駆け付けてくる隊員達を眺めながら、ニレは独り言のように口にする。

 

「行動理念も、思考形態も引き継ぎながら、けれどボクという存在の中心は、この頭脳の中の人工知能(システム)にある。

……言ってみれば、バックアップである人格と、奴の開発した最新鋭の人工知能との融合体さ。

ボクはあいつとは違う。あいつのやり損なった最高の実験を、ボクは今度こそボクの意志で、完璧な形で執り行うんだ。

この、セブンスコードという箱庭でね」

 

 ぞくぞくするような笑みを浮かべながら、白い頬を仄かに朱に染めて、長いジャケットを翻しながら、ニレは振り返った。

 いつもと同じように、狐のごとく無邪気な目を細めて。

 

「……次は、どうする気で?」

「うん、そうだね。あの(・・)オモチャは壊れちゃったみたいだし、もう別にいいよ。

例の計画を、予定通り進めてくれ」

「……? しかし、奴らを再強化して、あの女を奪う手筈では」

「そのつもりだったんだけどね。……気が変わった。あの駒は、ボクが想像する以上に使えそうだ。

久しぶりにこんなにワクワクしたよ。何かを苛んでばかりのボクが、焦らされる楽しみを味わうなんて」

 

 そう言ってニレがアップにしたモニターの先には――降り始めた雨の中、路地裏に倒れ伏すムラサキの姿がある。

 悶絶する彼女を見て尚、彼の顔は恍惚に歪んだ。

 

「さあ、君はどこまで耐えられるかな。

……最後まで生き残った暁には、ボクが最高のご褒美をあげよう。永遠という名のご褒美を。

早く、すべて(・・・)を集めてボクのところにおいで。

……君を手に入れるその日が、本当に楽しみだ」

 

 背後でその独白を耳にしながら、男は抵抗することも出来ぬまま、膝をついてニレの傍に仕えていた。

 逆らえば、殺される。自分が殺されるだけならまだしも、自分の大切な者達までもが、すべて奪われる。

 

「……シキ。電波拡張器の増産を。君達の望む混乱に世界を陥れるための考えが、僕にはある。

その後で、SOATを弾劾しようと反乱を起こそうと、君達の好きにすればいい」

「はっ」

 

 シキと呼ばれた屈強な男は、血の垂れる頭で黙って立ち上がり、その場を後にした。

 

 

 

 所変わって、こちらはクロカゲ。

 構成員に店舗の警備を任せたソウルとウルカは、フェンスとゴミ箱の間に身を顰め、通りの様子を窺っていた。

 

「……やっぱり、いるよな」

「うん。あの青いバンダナ、間違いないね」

 

 真剣な瞳で、ウルカが視線を送る先には、複数の男の影。

 以前クロカゲを襲撃して来た者達と同じ、体の一部に青いバンダナを巻いているという特徴を持つ、アオカゲの一味だった。

 路地に、何やらコードが繋がった機械のような物を設置しようとしている。

 このあたりは、急に理性を失った者達の暴動が増え、道が封鎖されたばかりだった。

 

「……怪しいよな」

「あやしい」

 

 ソウルの問いかけに、間髪入れず同意するウルカ。

 しゃがんだウルカの後ろから肩に手を置き、重なるように顔を出して覗いていたソウルは、一歩前に出る。

 

「オレ、ちょっと行ってくるわ」

「一人で大丈夫? 私も一緒に」

「へーき! ウルカは危ないからここに残ってろ。あいつらが何かしてきたら、すぐにクロカゲに助けを呼びに行ってくれ」

 

 ウルカが頷いたのを見て、ソウルは抜き足差し足で相手に近づいていく。

 暗がりで耳をそば立てると、会話が途切れ途切れに聞こえて来た。

 

「シキ様は、ここに三台用意するようにと……」

「足りるのか? 有効範囲は……」

「OSからJW……嫉妬の柱から三区画分は、これで何とか……」

(奴ら、この装置を使って一体何をする気だ……?)

 

 ぱっと見は、大型のアンテナかスピーカーのように見える。

 あれこれ考えているより動いた方が早い、と結論づけたソウルは、物陰から飛び出し、声を張り上げた。

 

「おい! そこの怪しいヤツら! ここはクロカゲの領分だぜ。何やってる!」

 

 まさか封鎖された地区で、こんな風に声を掛けられるとは思っていなかったのだろう。

 びくぅっ、と肩を跳ね上げた下っ端らしき男らは、ソウルを前にして一気に陣を組むと騒ぎ立て始めた。

 

「こいつ! クロカゲの青二才……!」

「テメェには関係ない! ちょっとでもこっちの秘密を握っちまったからには、生きて帰すわけにゃあいかねえな!」

「へえ? そっちが暴力的な手段に訴えるってんなら、こっちも応戦しないワケにはいかないよな! 大腸(コロン)!」

 

 ソウルが肩口に、巨大なガス砲を顕現させる。

 焦ったアオカゲの下っ端たちが、植能を発動させた。

 

「ネイルズ! 切り裂け!」

「ブラッズ! あいつに血の棘を……!」

「的の定まらない場所で、物騒なモン振り回すと危ないぜ! コロン! ガス弾を射出!」

 

 ソウルが得意げに大型の弾を打ち上げると、ぶわりと蛍光色のスモッグが周囲に広がる。

 完全に視界を奪われる中で、ウルカの呼んで来た応援部隊たちが、敵たちを制圧した。

 

「おとなしくしろ!」

「くっそぅ……! お前ら、オレらの邪魔をしといて、タダで済むと思うなよ!」

「このヤロォ……! せめて報いを受けやがれッ!」

 

 次々に縄を掛けられる中、衝動的にナイフを振り上げた一人の男の手が、ソウルに迫る。

 ウルカが思わず息を飲んだその時だった。

 

「コルニア! 視覚情報を改竄!」

「ぐあぁ! 目が!」

 

 塀の上から、すたっとヨハネが舞い降りる。このエリアに近づくのに怪しまれないよう、SOATの制服は脱いでいつものクチュールを纏っていた。

 窮地を救われたソウルが、目を輝かせる。

 

「ヨハネさん……!」

「戦闘に首突っ込む気なら、最後まで油断しない。背を向けた瞬間に急所を取られてるようじゃ、自業自得だよ」

「ご、ごめん……」

「一体これは何の騒ぎ? 録画があるって言うから来てみたら。ただでさえこっちはてんてこ舞いだってのに、余計に事態をややこしくしてるんじゃないだろうね」

「ヨハネっ、ソウルは関係のありそうな人達を見つけて、協力しようとしてただけだから……!」

 

 キツく睨んだヨハネとソウルの間に慌てて割って入るウルカを見て、ヨハネは深く溜め息をつく。

 

「……分かってる。ウルカが言うならそうなんだろ。とにかく、あんたらにケガがないんだったらよかったよ」

「ウルカが言うならって、どういうことだよー!」

「それより、こいつらは? 前に言ってた……アオカゲ、だっけ? ボクも直接対峙するのは初めてだな」

 

 縛り上げられた男らにヨハネがヒールの音を立てて向き直ると、彼らはびくっとしながらも、めいいっぱい目を吊り上げて虚勢を張ろうとした。

 

「お、お前らなんかに、何一つ情報は漏らすもんか!」

「そうだっ、せいぜいオレらが何をする気なのか当てられずに、足掻くがいい!」

「へーえ? やっぱり騒動の中心はあんたらってコトだね。何かをするのに加担してる自覚はある、ってコトだ」

「こ、答えないからな! 何も!」

 

 植能での拷問も辞さないつもりのヨハネであったが、そんな彼の裾をウルカはつんっと引っ張ると、持ってきたポーチをそっと開いて、中の物を見せた。

 ああ、という顔になったヨハネが、にたぁりと口元に悪い笑みを浮かべた。

 思わずたじろぐアオカゲの男たち。

 

「……な、なんだよ」

「お前ら、腹が減ってるんじゃないか? おやつの時間だぞ」

 

 ヨハネが手袋の指先に挟んで、優雅にハート型のチョコを振ってみせる。

 その後、強制的に口中へムラサキお手製の媚薬チョコを突っ込まれた下っ端たちが、洗いざらい情報を吐かされたことは言う間でもない。

 ぴくぴくと痙攣して路上に転がる男たちを後に、ソウルが空恐ろしいものでも見たような顔をして、引き上げてきた。

 

「姐さんのチョコえっぐ……マジでエグいわー、あれ……

オレ間違っても絶対に食いたくない……」

「口に入れなかったら大丈夫だよ。……とはいえ、あんまり有効な情報は聞き出せなかったね、ヨハネ」

「ああ。けど他に仲間がいることは分かったから……その位置は、あいつらが持ってた端末にハッキング掛けた方が早いな。おそらく、セブンスコード全域に例の怪電波を流せるポイントがあるはず」

「じゃあ、私がやってみる。にながハッキング強いし、あの子ならすぐ通信装置を復旧できるはずだから。ハルツィナヴァイスの他の子達にも声を掛けて、怪しい奴らを取り押さえられるようにしてみるね。七人いれば、街中を探すのも早いよ」

「ありがと、ウルカ。協力感謝するよ。けど、あんた達は無理をするな。ろことはるか以外は武器を扱えないんだから、手分けするなら各自必ずSOATの隊員についてもらって。ボクからも連絡する」

 

 てきぱきと連携を組み、トランシーバーを使って付近の隊員達と連絡を取り合うヨハネとウルカを見て、未だ男たちの晒した恥辱のショックから立ち直れていないソウルが、げんなりと問い掛けた。

 

「ていうか、なんで二人ともあれ見て平気なワケ? 特にウルカ」

「女の子の方が、こういう事態には強いのよ。身を守らなきゃいけないんだから、いざという時に、こんなことくらいで怖じ気づいていられない。ね、ヨハネ」

「そうだよな。こっちが欲しいのは、下ネタじゃなくて情報なんだ。あいつらの汚物以下の下半身を見せられたところで、こっちが動じてやる義理なんか1ミリもないね」

「ええ~……そういうもん???」

 

 きっぱりと口を揃えて答えるウルカとヨハネに、冷や汗顔で首を傾げるソウル。

 敵に同情する気は一切ないが、男としてはなかなか堪えるものがあるらしかった。

 残党の処理を残りのSOAT隊員らに任せ、クロカゲに向かいながらヨハネが口を開く。

 

「余計な邪魔が入って遅れちまった。例の録画は? 保存してあるのか?」

「ああ。しっかし、これを取りにわざわざ本部からここまでって、よっぽどSOATも混乱してるんだな」

「今電波も流せない状態のテレビ局に押しかけるよりは、こっちの方が遥かに早いと思ってね」

 

 改めて映像を解析に掛けるつもりで、データを他の隊員に託したヨハネは、がら空きのクロカゲ店内の椅子に陣取った。

 SOATへ戻って見るよりは、ここで見て気付ける点は洗い出した方が早いと思ったからだ。

 できるだけ大型のスクリーンを用意してから、ソウルもやって来る。外からはゴロゴロと雷が鳴り響き、電気を消しただけで室内は十分に暗い。

 

「どうせ通信網はまだ復旧しないんだ。ここで何か手がかりを……」

 

 ヨハネがそう呟いた時だ。ぶつんっ、と音がしたかと思うと、録画したファイルに繋がるはずだったスクリーンは、勝手にテレビ放送のカラーバーと砂嵐を映し出す。

 再び流れ始める、不気味なBGM。

 

「! 入力切替ができない……!? おいヨハネさん、断片的にしか繋がんねぇけど、なんか今ネットで騒ぎになってるみたいだぞ。今度は街中でこれが流れてるって」

「はぁ!? マジかよ、ここまで来たボク、完全に無駄足じゃん……」

 

 ざざっと荒れながら流れるゴミ処理場の不気味さよりも、自らの徒労が先だってがっくりと首垂れたヨハネだが、気を取り直して、先ほど流れたのと全く同じ映像を、ソウルと一緒につぶさにチェックする。

 

「けどコレ、ほんとユイトさんの名前ばっかりだよなぁ……なんで同じ名前ばっか? 誰かがめっちゃユイトさんを狙ってるってこと?」

「クソガキらしい単純な発想だけど、割とそうなのかもね。イサクが上手くやってくれてるといいけど……」

 

 朝の時と違い、今回は映像が終わらずリピート再生されているようだ。 

 音を絞って不気味な文字列のロールを流し続ける画面を見つめていると、仲間たちへの連絡を終えて戻ってきたウルカが、ふと映像を見上げて言った。

 

「……ねえ。これ、ところどころ、小さく文字が入ってない?」

「えっ?」

 

 パソコンをモニターに繋げ、遠隔操作で映像の一部を切り取ったウルカが、その部分を拡大する。

 たしかにうっすらと、蛍光色っぽい文字の輪郭が浮き出ていた。

 ヨハネが驚きの表情を浮かべる。

 

「大きい画面で見るまで、まるで分からなかった……よく気付いたな」

「私も、最初見た時は気付かなかった。こんな不気味な動画を、わざわざ拡大して見ようと思う人なんて、いないもんね。

……何かの暗号かな」

「これを見た人にだけ、分かるようになってんのかも? オレらで解いてみようぜ」

 

 三人寄れば文殊の知恵、と言わんばかりに、ヨハネ、ウルカ、ソウルの三人がテーブルを囲んで頭を寄せ集める。

 一人が映像をストップさせ、一人が読み上げ、一人が書き留める分担で、三人は組み込まれた暗号文を解析し始めたのだった。



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2-11 解読

ヨハネと喧嘩別れして落ち込むムラサキの元でも、例の怪映像が流れる。
怯えながらも、思わぬお助けアイテムの力を借りて、映像に紛れた暗号の解読に成功したムラサキは……?


第11節 解読

 

(はあ……どうしてヨハネにあんなこと言っちゃったんだろ……私のバカ……)

 

 あれから数日。

 ログインはしてきたものの、外はなんだか雲行きが怪しいし、通信障害の影響で外出自粛令が敷かれているとか何とかで出れないし、仕方ないから部屋でうだうだ過ごす日々を送っている。

 しかもあいかわらず、こっちにログインしてくると体が重くて怠くて、体調は微妙。せいぜい微熱がある時程度の怠さだけど、こんな時に人と会う予定とか仕事がなくてよかったと思う。

 ……けど、ここでただ布団にくるまっているのも、現実でも家事しか出来ない役立たずの脛齧りなのに、こっちでも同じだと思えてなんだか気が滅入る。

 

(……あの子、大丈夫かなぁ)

 

 寝返りを打って枕元の籠を見るけれど、あの黄色い鳥はまだ戻って来ない。

 部屋の窓を開けっぱなしにしているので、隙間から自由に出入りしてもらえるようになっているのだけど、治りたての翼でどこかに出掛けて行ったきり、帰ってきていないようだ。外は暗雲が立ち込め、稲光が建物の間を縫って時折走り抜ける不穏な天気が続いているから、どこかで雷にでも撃たれているのではないかと心配になってしまう。

 

(……探しに行ってみようかな?)

 

 けれど、もしあの子の方から飛び立つことを選んだのだとしたら、これは余計なお節介以外の何物でもないだろう、と思うと、枕に顔を埋めたまま動く気がなくなってしまう。

 それに、エントランスのあの恐ろしい落書きの群れを見て、身が竦んだ。

 正直、家から出るのが怖い。

 私がこっちに帰って来てからますますひどくなった……ということは、やっぱり何かが、私を見ている。あの(・・)シェルターの一件で、なんとか退治出来たのではないかと思ったけど、まだ倒しきれてない残党がいる……か、それとは全く関係ない別の勢力がいたらしい。

 

 停電してしまった部屋で、自分の肩を抱く。

 ヨハネがこの部屋に訪ねてきた時には、まだ多少錯乱状態にあったと思うけれど、あの後何回か悪夢にうなされて、やっとはっきりと思い出したことがある。

 ……けれど、かといってこれを、どうあの子に伝えればいい?

 ヨハネには仕事だと嘘をついたけれど、あのシェルター襲撃事件の後、仕事は取っていない。あの時に植能を発動した反動だけで、しばらくベッドの上から動けなかったのだ。

 そこに来て、私のことを知りたいとか助けたいとか言うくせに、ぎゃーぎゃー騒ぎ立てるものだから、つい腹が立ってしまった。……失態だ。自分が辛いからって、しかもそれを年下の子に甘えてぶつけるとか、最低すぎる。

 でも、具合が悪いのを押しても、ついついこっちへログインしてしまうのは、やっぱり同じ世界にヨハネがいる――と思ってしまうからに他ならない。ただいたところで、何が出来るわけでも、力になれるわけでも、変わるわけでもないのだけれど。ただ、同じ世界にいられるという幸せと安心感だけで、十分私が存在する理由には値する。

 そのくらい、好きなのだ。あの子のことが。

 会いたい。声が聴きたい。

 そう思っていたら。

 

「へ?」

 

 音もなく、にわかに部屋の中が明るくなった。

 電気……ではなく、壁際に設置した薄型テレビがついたからのようだ。ベッドの壁まで届くモニターの明かりが、眩い色を投げかけている。

 

「なんだ、テレビか……」

 

 ほっと納得しかけて自分にかぶりを振る。いや、なんだではない。リモコンに触ってもないのに勝手にテレビがつくっておかしくないか???

 しかもこんな薄暗い部屋で、停電もしててネットも繋がらないはずなのに、テレビだけつくとか、これホラー映画だと絶対に中から何か出て来たり変な映像が映ったりするパターンだが???

 と思いながら、こわごわ私は布団の影から様子をうかがう。

 映っているのは、よく放送休止後に流れているカラーバー。こういう場面でみるとそこはかとなく不気味だ。

 ……既に嫌な予感しかない。

 今はまだ真夜中じゃないし、ワンチャンただの故障であってくれ……と願う私の期待も虚しく、切り替わった画面にはセピア色のゴミ処理場らしき場面と、不気味な音楽が流れ始めた。

 

「ひいっ」

 

 もうこの時点で発狂しながら目を背けてしまいたかったけど、テレビに突然映るゴミ処理場と不気味な音楽という要素には、聞き覚えがある。

 片目だけ辛うじて布団の横から覗かせていたら、案の定びっしりと並んだ白い名前が、エンドロールのように下から上をぞろぞろ這い上っていく。

 

「カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト

カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト

カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト

カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト

カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト

カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト

カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト カシハラ ユイト」

 

(やだあああああああもう!!!!! NNN臨時放送かいっ!!!)

 

 恐怖と混乱が振り切れるあまり、怒りが勝ってしまって思わず枕をテレビに投げつけそうになった。

 NNN臨時放送というのは、有名な都市伝説のひとつ。

 深夜、放送休止の時間帯にテレビを見ていると、突然カラーバーがゴミ処理場の背景と不気味な音楽の映像に切り替わり、無作為に読み上げられる色んな人の名前が次々テロップ表示される。そして最後に「明日の犠牲者はこの方々です。おやすみなさい」というナレーションと共に締めくくられるという、死亡予告じみた謎の現象のことだ。

 もっとも、この都市伝説は作り話という説が強いらしく、面白がった界隈の人間が、実際に不気味な映像を作ってニコ動とかに上げていることが多い。

 見た事ないけど、そういう奴だと最後のナレーションの後に、いきなり顔面蒼白で瞼のない口裂け殺人鬼の顔が、画面にいきなりバンッと……

 

(いやああぁぁぁぁぁぁあああ!)

 

 想像しただけで怖くなってしまい、私は思いっきり布団に潜りこんだ。

 もう、文章からそれを考えるだけで充分ホラーを味わえる人間に、実際のホラー現象を体験させてどうしようっていうんだ、セブンスコードは。

 怖くてまったく動けないが、布団から壁の輝きを見るに、まだテレビは動き続けているみたいだ。振り返ってじっと見ているのも怖いけど、かといって目を離した隙に、今度は貞子とか出てきたらたまったもんじゃない。

 

「んぐぅ……」

 

 もう最悪強制ログアウトも辞さないつもりでいると、今度はテレビとは違う、別の真っ白な輝きが部屋を照らし始めたことに気が付いた。

 おそるおそる視線を向ければ、ベッドの脚側にある机の抽斗が、ぽうっと白い光を帯びて光っているではないか。

 

「も、もう、なんなの……」

 

 助けを呼ぼうにも、相変わらず電波は通じないし、部屋には不気味なテレビと不気味に光る机だけ。外には落書きだらけの壁と不審者。もう泣きたい。

 怪奇現象てんこもりの部屋で、半べそをかきながらテレビに背を向け、何か異常が起こらないかとチラ見しつつ、おそるおそる机に近寄る。

 これで抽斗開けた瞬間、中から白い手が出て来て引きずり込まれるとかされたらぶっころしてやる、と誰にともなく思いながら、床に座った状態でずるずる這い寄り、下からそろっと抽斗を開けてみた。

 ……溢れる光が強くなっただけで、特に何かが襲って来る気配はない。

 警戒しながらも、ようやく立ち上がって中をのぞき、私はあっと声を上げた。

 

「これ……」

 

 中で光に包まれていたのは、紺色の皮で包まれた手帳と、丸い手鏡だった。

 ところでこの抽斗何入れたっけと思っていたのだが、すっかり忘れていた。

 

「愛理にもらった手帳と鏡だ……。特に役には立たないだろうけど、お守り代わりにでもどっかしまっとけばって言われたんだった。

でも、なんでこれが光ってるの?」

 

 両手に持ち上げて、私は首を傾げる。よく見ると、発光している本体は手鏡のようで、手帳もそれに釣られるように皮が淡い光を放っていた。

 背後では相変わらず不気味な放送が続いているものの、エンドレスで流されているせいで、少しずつ恐怖が薄れて来た。この鏡が、励ますように明るく光ってくれているおかげもある。電灯さながらで、暗かった部屋もこの周りだけ昼間みたいだ。

 と、不意にその鏡から光の筋が伸びたかと思うと、部屋のテレビへまっすぐつながった。驚いた拍子に、私は手帳を取り落してしまう。

 

「っと、わっ!」

 

 机に落ちた手帳が、ぱらぱらっと捲れて真っ二つに開いた瞬間。

 そこに扇型の画面がぶおんっと広がったかと思うと、テレビに流れているテキストがそのまんま表示され始めた。さすがに背景や音楽までは真似されていないが、文字列だけで十分不気味だ。

 

「な、何……? この手帳、手帳じゃなくて超ハイテクのパソコンみたいな奴なの?」

 

 セブンスコード内での予想外の働きにビビりつつ身構えるが、愛理がくれたものが何か悪さをするとも思えない。

 突然白い顔が現れないことを祈りつつ、勇気を出してその画面を見つめているうち、あることに気が付いた。

 

「なんか……文字混じってない……?」

 

 「カシハラ ユイト」の「カ」と「シ」の間に「12」という数字が見える。

 その下段の文字の隙間は9、その後は4……といった具合に、ランダムに数字が紛れ込まされているのだ。

 

(もしかして、この『カシハラ ユイト』はめちゃめちゃフェイクで、こっちが本当に伝えたい情報だったりするの?)

 

 ひとつ、落ち着いて深呼吸をする。

 この騒動を引き起こしている奴が人間か人外かは知らないが、何か犯人に繋がることがわかるかもしれない。

 解けるか解けないかはともかく、ここでじっとしているよりはマシだと決めた私は、机に座って、画面をスクロールしながらペンを手に取り始めた。

 愛理の手帳に書くのは勿体ないので、別の紙に見つけた数字を書き写していく。

 文字列は、こんな風になった。

 

「19 16 11() 32 12 11() 15 8 9() 9 8 8() 11 16 8 21 10() 19 8 16 9() 17 16 21 14 9() 11 16 21 14 8() 19 22 28 9()

 

(……なんのこっちゃ)

 

 某大家族映画で、数学オリンピック代表になりそこねた某天才少年が解いてたみたいな奴だったらもう完全にお手上げだぞ、と思いながらノートを睨むが、どうもそれよりはだいぶ簡単な類の気がする。

 数字が沢山出て来る割には、使われている数字の種類に偏りがあるようだし、「・」がついた文字に至っては「8」「9」「10」「11」の4種類しかない。

 

(文字を数字に置き換えたやつかな?)

 

 一番簡単なやつで思いつくのは、アルファベットをその順番の数字に置き換える換時式の暗号だが、アルファベットは26文字しかない。この文字列の中にある最大の数字は、28だ。

 

(でも、26には近い感じだよね……。シーザー式で動かしてある、とか?)

 

 シーザー式というのは、そのアルファベットを同じ数ずつだけ横にずらして作る暗号のこと。たとえば元の文が「ABC」ならば、三文字ずつずらして「DEF」もしくは「XYZ」になる。

 この数字も、前か後ろにずらした後にアルファベットに変換すれば、何か文章になるのかもしれない。全部、それなりに大きな数字だから引き算しても正の数になるし。

 問題は、その「何文字分ズレているか」が分からないところにあるのだが。

 

(アルファベットは26文字しかないから、ずらし方のパターンって言うて25通りしかないんだよね。総当たり的に求めることもできるけど……)

 

 セキュリティ面ではガバガバのそれも、この量を手書きで全部試せと言われたら、さすがに日が暮れてしまいそうだ。

 んー、と呻った私は、何か手がかりになりそうなものがないかと、もう一度画面を見つめる。映像が一周するまでのログが、手帳型のスクリーンには表示されていた。

 

(……ん?)

 

 ただ無意味な羅列だと思っていた文字を、ぼんやりと見つめていた私は、その数を数えてみる。

 「カシハラユイト」は7文字の名前。それが、一行につき7個。

 それが7行集まってひと段落になり、更にそれが7段分再生されたところで動画が一周終わる。

 偶然にしては、かなり作為的なような。

 

(セブンスコード……7、か)

 

 安直ではあるけれどやってみよう、と思いながら、まずはさっきの文字列から7を引いて、新たに数字の列を作り直した。

 

「12 9 4() 25 5 4() 8 1 2() 2 1 1() 4 9 1 14 3() 12 1 9 2() 10 9 14 7 1() 4 9 14 7 1() 12 15 21 2()

 

(やった! アルファベットに収まる数になったぞ! あとはこれを英字に置き換えて……)

 

 1=A、2=B……の法則に従って文字化すると、浮かび上がったのはこんな文章だった。

 

「lidyedhanbbaadianclaibjingatacdingaloub」

 

「……いや、全然読めんし」

 

 やっぱりこんな簡単な方法で解けるわけないか、と投げやりな気持ちでペンを投げ出したら、ぴかぴか、と鏡がまたたき、手帳に浮かび上がった数字の一部が光り始めた。

 

(ん……? そういえば、この「・」が付いた数字のこと、すっかり無視してたな)

 

 さっきは「8」「9」「10」「11」だったが、7つ戻した今は「1」「2」「3」「4」だ。どう見ても、何か法則性があるような感じがする。

 

(4種類の何か……なんだろう。そもそもこの数字、どうすればいいのかな)

 

 何か目印のために傍点がついているような気がするが……もしかして、この数字だけアルファベットに変換せずに、そのまま読めという事だったりするだろうか?

 試しに傍点の数字を今度はそのままにして、さっきの文字をもう一度読み返す。

 

「li4ye4han2ba1dian3lai2jing1ta3ding1lou2」

 

「……あ」

 

 その瞬間、恐怖も何も忘れて、私はぽかんと口を開けてしまった。

 大半の人は、これを見てもまだ意味不明な文字の並びにしか見えないだろう。しかし、私には見覚えがある。

 

(こ、これ、中国語?)

 

 信じられない気持ちでアルファベットを見つめた。1から4は、中国語で言うアクセント・声調を表すための数字。第一声から第四声までのアクセントと、アルファベット表記の発音を一組にして、その漢字の読み方を表す表記法があるのだ。

 

「こ、こんなん、学習者じゃないと絶対ちんぷんかんぷんやん……」

 

 暗号作成者の意図が読めず、不親切すぎる設計に思わず呆れてしまった。普通そこは英語とか使うだろう。いや、英語だとすぐ読まれるからかもしれないけど。

 何故私が分かるかと言うと、一応大学で専攻だったからである。専攻と呼ぶにはかなり中途半端なところで終わってしまったので、今んところ何の役にも立っていないが。

 

 とりあえず、そうとくれば話は別だということで、私は部屋の隅に置いてあった箱から、電子辞書を取り出した。バッテリーはまだあるみたいだ。

 「ネット環境あるのに、こんなとこに辞書なんか持ち込んでどうすんの」とミソラに散々呆れられながらも、ゴールドを積んでこっちの世界に変換してもらった愛用の電子辞書だが、作っといて助かった。

 

(う~ん、ここから推測できる単語は、『ba1dian3』=八点と『lai2』来、『ding1lou2』=頂楼くらいだな……。八時にどこかの屋上に来いって言ってんのか?)

 

 しかしそれ以外が意味不明なので、最初の単語をまずはじっと見つめる。「li4ye4han2」という単語は辞書を見ても載ってないし、けれど「8時に」という文要素の前に置いてあるところからして、主語だと思う。

 主語に当たる単語で、それらしい名詞が見つからないとなると……

 

(だいたいそういう時って固有名詞なんだよね……。え、えっ、ちょっとまって)

 

 ぼーっと見ていた私は、慌てて辞書を繰る。ye4(イエ)という読み方の漢字でぱっと思いつくのは「夜」だ。その前後に漢字が来る三文字の名前……胸がざわざわとして、逸る気持ちで手書きパッドに漢字を入力した。

 

(私この漢字の読み方知らないんだよ。でも多分……やっぱり)

 

 浮かび上がってきた漢字を見て、背筋が冷たくなる。

 「櫟夜翰」……「li4ye4han2」(リー・イエ・ハン)はクヌギ ヨハネの中国語読みだ。

 

(じゃあこれ、ユイトを狙ってるように見せかけて、ヨハネさん宛てのメッセージってこと……!?)

 

 とりあえず、残りの部分の解読を急ぐ。「八点来jing1ta3頂楼」……八時に屋上へ来いと言っているのは分かるが、「どこの」に当たる部分の単語が分からない。

 屋上ってことは、それなりに高い建物のはずだ。だとすると、「ta3」(ター)という読みから推測される単語は、「塔」が妥当な気がする。

 

(東京タワーは東京塔だし、エッフェル塔も埃菲尔鉄塔だもんね……)

 

 ネットに接続されないままマップを立ち上げ、街中の建物を探す。「塔」をタワーと翻訳すれば……jing1(ジン)はそれを修飾する単語じゃないだろうか。

 かくなる上は、と「jing1」という発音の漢字を電子辞書で見てみるものの、意味が合いそうなものは特にない。

 

(意味関係ないとすると、音訳で『ジ・タワー』とか……なんかマンションの名前みたいになったな)

 

 一文字だと逆に推測が難しい。唸りながらマップと辞書の画面を交互に睨んでいた私の目に、ふと「中英辞典」の項目が映った。

 

(いや、まさかねえ)

 

 最近は、中国語の読みからでも英単語が調べられるのだから、本当に電子辞書って進歩したものだ。「jing1」と入力して、出て来たものをぺらぺら眺めてみる。

 lush、waterweeds、chaste tree……いくつか関係のなさそうな単語が出て来た後に、唯一セブンスコード内にある建物が出て来て、私は飛び上がった。

 

「茎:stem (of a plant)」

「これだ!!!」

 

 端末に地図を表示させ、拡大する。ES地区、セブンスコード大通りの近く。「ステムタワー」というのがある。たしか、本編でも終盤らへんにちらっと出て来たような。

 集めた情報を総合すると、あの不気味な映像からのメッセージは、こんな風に読めた。

 

「櫟夜翰,八点来茎塔頂楼」(櫟夜翰、八時にステムタワーの屋上に来い)

 

「八時……って、あと十五分しかないじゃん!?」

 

 もし夜の八時だったら、もう間もなく時間だ。

 ヨハネは、この事を知っているんだろうか?

 通信手段は遮断されているし、ワープのない今、十五分でこの地区からステムタワーまで駆け付けるのも不可能に近い。そもそも、行ってどうしようというんだ、私は。

 

(……でも、もしヨハネがこの挑発に敢えて乗ってたとしたら)

 

 どう考えても罠でしかないが、それを分かっていて行っていようとそうでなかろうと、きっと危険な目に遭う。

 もしものことがあったらと思ったら、あんな風に後味の悪い喧嘩別れをした後で、ヨハネのことを放っておいたことを私は一生後悔するだろう。

 

「絶対やだ! ヨハネを助けに行く!」

 

 もう、怖いとか何とか言っていられない。ぱん、と鳴らした柏手ひとつで着物と袴を纏うと、私は一気にアパートの外へ飛び出した。



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2-12 暗雲

暗号に気付きムラサキの元へ向かおうとするヨハネと、入れ違いにステムタワーへ向かおうとするムラサキ。
車を使って移動しようと試みるムラサキに助け舟を出したのは、思わぬ人物で……!?


第12節 暗雲

 

「……おい、マジかよ……狙われてるのって、もしかしてヨハネさん……?」

 

 暗室のような暗さの、喫茶・クロカゲ。

 愕然とした様子で、暗号の解析結果を眺めたソウルが呟いた。

 暗号の解き方自体は早々に分かったのだが、出て来た文字列の解読に時間がかかり、ウルカが手あたり次第、各言語システムに該当する部分がないか照会するという手法をとって、ようやくこれが中国語の文章らしいということが分かったのだった。

 眉根に皺を寄せて腕を組むヨハネの隣で、ウルカが地図を見ながら小さく顎を引く。

 

「……罠かな」

「だろうね。ボクは今から、一人でステムタワーの方へ行ってみる」

「だっ、ダメだよ! そんな、何が待ってるか分からないのに……!」

「でも、多分それが敵の狙いだろ。カシハラはSOATから出すわけにはいかない。もし大勢でタワーに押し掛けて、その結果SOATが手薄になってるところを襲われでもしたら、それこそ奴らの思うツボだ。ボク一人で行けば、被害は最小限に抑えられる。

……大丈夫だよ。そんな簡単に負けたりはしない」

 

 不安そうなウルカに、安心させるようにしてヨハネはにかっと笑ってみせる。

 決意を固めたらしいヨハネを見たソウルは、最初からそうするだろうと分かっていたかのように、クラカゲの倉庫で準備していた武器の袋を持って来た。

 

「これ、オレの植能で作ったガス弾が入ってる。攻撃力はそんなないけど、目くらまし程度にはなると思うぜ。

……って、ヨハネさんの植能だったら、こんなのいらないかぁ」

「いや。広範囲の相手となると、結構力も消耗するからね。ありがとう、ソウル。恩に着るよ」

 

 袋を受け取って微笑んだヨハネは、身を翻してクロカゲの出入り口に駆け寄り、ふと思い出したように足を止める。

 

「……そういえばこの映像って、今生放送なんだっけ?」

「あ? うん、オレらが見てたのは全部そうだぜ。今も流れてると思うけど」

「ま、待って。これ普通に民間の一般回線のテレビだよね?」

「? うん、普通にセブンスコードの地上波で流れてるテレビだよ……?」

 

 戸惑いながら答えるソウル達を目に、唖然と目を見開いたヨハネは、痛そうに片手で頭を支える。

 

「忘れてた……ステムタワーより先に、ムラサキん()だ!」

「姐さんとこ? なんで?」

「考えてもみろ。もしあいつが家でこれを見てて、万が一にも暗号を解こうもんなら、あのバカ絶対タワーに向かうに決まってる! 変な気起こす前に止めないと……!」

 

 しかし、ここから向かうには、ステムタワーもNT地区のムラサキのアパートも、それなりに距離がある。

 ヨハネが慌てていると、丁度クロカゲに入って来た腰まである長い紫髪の少女が、彼を見てぱあっと顔を輝かせた。

 

「ヨハネ~! 久しぶりだね!」

「にな!? なんでここに!?」

 

 ハルツィナヴァイスの《節制》の美徳担当、高瀬(たかせ)爾名(にな)が、掌を振っていつものにこにこ顔でそこにいた。

 驚くヨハネに構わず、になはヨハネの後ろにいるウルカにも手を振る。

 

「ウルカに連絡もらってぇ、電波干渉があっても使えるワープ装置を作ってたんだっ。奴ら大方の周波数領域を占領してるみたいだけどー、抜け道ってのは、どこにでもあるんだよねぇ。

だからそこを通って、とりあえず一人分、ぶーんっと移動できる端末を作ってみたのでしたぁ!」

「さ、さすが、天才ハッカー……」

 

 当時の作戦自体は結局失敗に終わったのだが、「捕縛」の時、ハルツィナのライブ中にドームをハッキングし、一度はニレのバックアップ破壊に成功した少女が、このになである。

 感心するやら呆れるやらといった様子のヨハネに、になはコンパスのような形の小型端末を、その手を掴んでぎゅっと押し付けた。

 

「はいこれ! ヨハネに貸したげるー!」

「えぇっ!? でもこれ、あんたのじゃ」

「お困りでしょー? こういう時こそもちつもたれつって言うしー、になはヨハネの仲間じゃんっ」

「私達はここで、残りの電波装置を破壊する方法を考えてみるよ。早くムラサキのところに行ってあげて」

「今姐さんのとこに行けるの、ヨハネさんだけなんだからさ!」

 

 になに合わせて、ウルカ達も頷いてくれる。

 仲間たちに支えてもらいながら、ヨハネもその力強い表情に不敵な笑みを返してみせた。

 

「……わかった。ありがとう。あんたらも、気を付けて!」

 

 ワープ装置の光が、ヨハネの体を包む。こうして彼は、クロカゲを後にし例のアパートに向かったのだった。

 

 

 

 考えなしにアパートを飛び出してしまったけど、どうやってステムタワーに向かおう。

 そう思いながらエントランスに降り立った私の前に、地面に空いた赤黒い穴からぼこっぼこっと浮かぶようにして、両腕で這いつくばる怪物が現れた。

 

「足をかえせぇ」「足をよこせぇ」

(忘れてた……こいつらがいたんだった)

 

 きゅっと唇を噛み締めながら、その顔を見る。

 完全に操られているようだけど……髪の長いテケテケは、間違いなくあのシェルターの女性達だ。

 ヨハネに、私の他にまだ何人か行方不明者が出てるとアパートで聞いた時から、もしかしてと思った。だって、テケテケは失くした自分の両脚を探している怪物。それに襲われたら、普通に考えて今度はテケテケに足を切り落とされたその人が、新しくテケテケになるんじゃないかと思ったけど、やっぱりそうだった。

 

「他にも操られてる人がいる……まずはこの人達をなんとかしなきゃ」

 

 這い寄るテケテケの後ろから、ゾンビのように路地裏を通って湧いてくる人達が、虚ろな目をしている。これも、テケテケの土のエレメントによる効果なのかもしれない。

 

「何もしたくねぇよォ……」「動きたくねぇよォ……」

「何でも持ってる奴妬ましぃ……」「ずりぃ……よこせぇ……幸せをよこせぇ」

 

 ぶつぶつと呟きながら迫って来る人達は、手に手にペンキの塗られたブラシやスプレーを携えていて、やっぱりこの人達が犯人だったんだなぁと思う。

 本心からか、それともエレメントに感情を増幅させられてしまった結果かは知らないが、テケテケ同様に意図せず街を破壊させられてしまっている。

 べしゃ、べしゃと彼らの投げる泥団子の塊が、足元へと落ちた。

 

「シェルターの時は結構暴力的な手段を取ったけど、中身が普通の人なら、あんまり傷付けない方がいいよね。

だとしたらやっぱり、使うしかない……。ウーム!」

 

 どっ、と玄関前の広場に上がった土の柱の間を縫うようにして、足を踏ん張り、植能を届かせる。

 危うく着物の袖を裂かれそうになったが、背後にいて泥団子や土を投げようとしていた人達の動きが、明らかに鈍った。

 一人、また一人と、眠ったようにばったり倒れ伏していく。

 

(よし、そのまんま昏倒してくれれば……)

 

 どちらにしろ、あそこを塞がれていたら表通りに続く路地に出れない。

 しかし、その驚異的な速さで植能のオーラをぶっ千切ったテケテケが、一人私の眼前まで迫っていた。

 もう一人が背後に回り、うへへへへと笑いながら、カチカチと白い歯を鳴らして私を挟み撃ちにする。

 

(しまっ……!)

 

 とっさに防御に回ろうとしたけど、間に合わない。

 片方から攻撃を受けるのを覚悟で、目をつぶった時だった。

 

「ギャーーーーーーーッッ!」

 

 凄まじい声が上がって、思わず目を開けた。

 バサバサという翼の音と共に、地面に影が映る。見上げれば、鷲や鷹よりも遥かに大きな鳥が、テケテケの目を鉤爪で潰しているところだった。

 思わぬ光景に唖然としたが、腰を抜かして座り込んでいる間にも、後ろからもう一人のテケテケが掴み掛かってくる。私を引っ掻いては振り上げられる腕をなんとか防いでいると、今度は飛んできた鳥がその背中に、鋭い鉤爪を突き立てる。

 

「びいいいい、びいいいい」

「ギャーーッ、ギャーーーーーーッ」

 

 苦しみ悶えるテケテケの後ろから、しゅうっとオレンジ色の煙が上がった。

 完全に息絶えたテケテケの中から現れた女性の姿が、元の人間らしい形に戻っていく。

 ほっとするのもつかの間、二人を襲った鳥は、ばちばちと雷撃の音と嘶きを上げながら、高く高くビルの上空へ舞い上がっていってしまった。

 

「きえぇぇぇぇえん」

「あっ、待って!!!」

 

 他の倒れている人達にも構わず、その体を大急ぎで跨いで路地を抜ける。

 上を見上げながら、必死になって走った。体の大きさは全然違うけど、あの黄色と黒の色合いと模様に、見覚えがある。

 

(あの子、もしかして……)

 

 稲光を頼りに表の通りへ出て空を見上げると、ぽつりぽつりと降り出した雨の中、傍の木や車に次々と雷を落とし、逃げ惑う人々の真上で高いビルに止まった大きな鳥は、ぶわりとその体を膨らませて閃光を放ちながら、よろめくように再びそこを飛び降りた。

 長い滑走路のような通りを低空で滑空すると、翼から放たれた電撃が、光の玉となって花火のように目の前で弾ける。

 暴風に思わず腕で顔を覆ってから見上げると、鳥は強く吹き始めた追い風に乗って、遥か彼方に見えるステムタワーの方角へと引き寄せられるように飛び始めた。

 

「! ダメだよ、あっちに行っちゃあ……!」

 

 なんだか嫌な予感がする。ヨハネだけじゃなくて、あの子まで危険な目に遭ってしまう。

 ざあざあと顔に雨粒を受けながら、どこかに移動手段はないかと探した。さすがにあそこまでは、私の足で走って追い付けるはずがない。

 一か八か。傍に路駐をしていた車の男性に、私は外から声を掛けた。

 

「あの、すみません! この車貸してもらえませんか!?」

「はぁ!? 何言ってんだてめぇ!」

「ちょっとでいいんです! 後で必ず、お返ししますからっ……!」

 

 自分でも、無茶を承知でお願いしていることは分かっている。

 間が悪いことに、そこへ男性の彼女らしき人が通りから帰って来ると、私に目を吊り上げた。

 

「ちょっと! 私のカレに何やってんの!?」

「あ、えっと、これは……」

「泥棒猫! 私がいちばんダーリンのこと好きなんだから!」

「はぁ? お前はただのセフレだよ。一度俺を捨てて出てった身で何言ってんだ!」

「ひ、ひどい! そんな事言うなんて……全部この女のせいね、許せない……!」

「なんでそうなるんだよ! オイなんなんだお前! オレの便利な女に変なこと吹き込みやがってよぉ!」

 

 彼氏彼女かと思えば、意外と複雑な関係性だったようで目を丸くしたが、今感心すべきはそこではない。

 車から出て来た男と、私に掴み掛ろうとする女に挟まれて、かなり状況は劣勢だ。

 

(っていうか、二人とも翳してる理屈がかなり滅茶苦茶な気がするんですけど!?)

「あ、あの、落ち着いて……!」

「落ち着いていられるもんですかっ! こうなったらあたしのとっておきをお見舞いしてやる! ネイルズ!」

 

 女の方は植能持ちだったらしい。

 後ずさった拍子に男の胸板へ押し付けられ、振り上げられた尖った長い爪に身を竦めた時だった。

 

「見苦しい真似はやめたらどう?」

「……!」

 

 振り上げた腕を押さえられ、ぴくりとも動かせないことに驚きながら、女が振り返る。

 派手な付け爪をした手の動きを邪魔しているのは、手首に巻き付いた細い鞭……彼女にも負けないほどグラマラスな体躯を雨に晒して、闇から出て来たように現れた女性が、眉を一本動かしただけで無表情にそこへ立っていた。

 

「サヤコさん!?」

「あんた、この女の知り合い!? 邪魔したらあんたもただじゃおかない……っ」

「他人に言いがかりを付けて絡む暇があったら、身の安全を第一に考えることね。もうここへも嵐がやって来るわよ。あの男を連れてさっさと逃げなさい」

「はぁ!? あいつはこんな時にヘタる奴じゃ……っ、ちょっと!?」

 

 サヤコさんにムチで路上へ投げ捨てられた女が、車の傍に蹲る男を見て顔色を変える。

 振り向けば、私の背後にいたと思っていた男が、目を閉じて座り込んでいる。慌てて女が濡れ鼠になりながらも揺さぶるが、どうやら眠っているだけのようだった。

 

「こいつら、あたしのダーリンに妙な真似して……!」

「私達が何をやったっていうの? 証拠も何もないのに、どうやって証明するのかしら。訴えに出ても不利になるのはあなたの方じゃない?」

「っ……」

 

 悔しそうに私とサヤコさんを睨み上げた女は、それでも自分が運転できない車に戻るよりマシだと思ったのか、建物の中へ男を引き摺って避難していく。見かけによらぬ剛腕だ。

 

「……雷が落ちる時って、実は車の中も安全な場所なんだけどなぁ」

「あら。いけなかった? あなたはあの二人を、追い出したがっているように見えたのだけど」

「う、正直そうだったから助かる……けど、ごめんね。サヤコさんまで嫌なところに巻き込んで」

「いいのよ。私はもうどこにも属しない女。気まぐれにあなたを見掛けたから、手を貸しただけだわ。あなたとの床は結構よかったし」

 

 表情からは読めないけど、意外にも気に入られていたらしい。

 その言葉に笑い掛けながら、私は既にびしょびしょになった手でドアノブを握ろうとし、唖然と目を見開く。

 

「あ、しまった。鍵……」

「はい。これでしょ」

 

 当然のように、サヤコさんの掌から車の鍵が出て来る。

 滑るように渡されたそれを手に、どうしてと驚いていたら、サヤコさんは濡れてもなおいい女に見える顔で肩をすくめながら、額を雨に晒した。

 

「さっきあいつが連れられて行く時に、ポケットからスリ取っといたわ」

「サ、サヤコさん強すぎる……」

「おそらくは、あの怪電波の仕業じゃないのかしら? このあたりの人達、注意力が散漫ったらないわ。おかげで、ありとあらゆる物を拝借するのに、私は結構便利だったけれど」

「……サヤコさん、もしかしてあんまり人に顔向けできない方法で食い繋いでる?」

「人の乗り物を勝手に奪おうとしてるあなたに言われたくはないわよ。あなたには関係ないことでしょ」

 

 確かにその通りだ、と苦笑してから、私はキーを差し込んだ。

 リアルの世界でもスタートボタン式の車が増えてしまったので、キーシリンダーを回すのは随分と久しぶりのことだ。

 ちらりと見れば、幸いなことにギアもハンドルもペダルも、私が住んでる時代のそれと大差ない。……マニュアルだけど。

 

「あなた、マニュアル運転できるの?」

「一応、これでも免許はマニュアルで取ってるんだよ? ……教習所以外、ほぼオートマでしか運転したことないけど」

 

 ウィンドウから覗き込むサヤコさんにうなずいて、私はクラッチを踏みながらエンジンを掛ける。

 ……うん、よし。ここまでは覚えてる。あとは、クラッチを踏みっぱなしでアクセルを踏んで、一速から少しずつ繋げばスピードが出せるはず。今は人通りも車通りもない分、事故る可能性は低い。ステムタワーまでまっすぐな道を選んで通れれば、なんとか……!

 

「ありがとサヤコさんっ! じゃあこれで……!」

 

 颯爽と言いながらブレーキをアクセルに踏み替え、油断して急にクラッチペダルを離した途端。

 ゆるゆる進み始めた車からぼんっ、と音がして、エンストした車が止まる。

 

「……」

「……見てらんないわね。ちょっと貸しなさいよ」

 

 シートをびしょ濡れにするのも構わず私と席を代わったサヤコさんは、その形いい手で黒革のハンドルを握ると、ペダルを踏んで滑らかに発進し出した。シートベルトをするのも忘れたまま、私はぽかんとその姿を眺めてしまう。長い爪で箱から煙草を取り出し、それに火を点けながら片手運転する様があまりにも余裕で、まるで元からこの車の持ち主だったかのようにぴったりきた。ていうか、格好良すぎる。

 

「サ、サヤコさんマニュアル運転できたんだ……?」

「貧乏で、中古のマニュアルしかリアルでは買えなかったわ。けど、所詮中古の軽だろうがスポーツカーだろうが、運転の仕組み自体は同じなんだから、私みたいな人間に乗り回されるなんて、この車も皮肉なものね」

「そんなことないよっ! マニュアル運転できる人って、超かっこいい……! しかも経済的な理由なんて、自立してて超いいじゃんっ!」

 

 髪から雫を滴らせながら、両腕を引いて意気込む私を見たサヤコさんは、驚いた後に可笑しそうな顔をしてくすっと笑った。

 

「相変わらず変な人ね、あなた。それで? どこへ向かえばいいの?」

「あっ、そうだったっ。ステムタワー向かって!」

 

 風はますます強く吹き荒れ、台風の時のように街路樹がしなり、窓ガラスに雨が叩きつける光景は恐ろしいものだったが、サヤコさんの運転は安定していて、ワイパーを最高速にしながら危なげなく街を走っていく。ギアチェンジも滑らかで、マニュアルなのにオートマに乗っているのと大差ないくらいの乗り心地だ。私の運転ではこうはいかなかっただろう。

 

 おかげで20分と掛からずにステムタワーに到着すると、私は車から降りながら、暗雲の垂れ込めるその頂上を見上げた。

 ぴかっ、ぴかっと激しい光が瞬いている。あそこにあの子がいる。そんな気がする。

 

「もうとっくに八時を過ぎちゃった……ヨハネは大丈夫かな……」

「八時に、何かあるの?」

「ちょっとねー、敵さんとの待ち合わせ、みたいな」

「……そこへ丸腰で飛び込んで行くなんて、あなたはホント馬鹿だわ」

「丸腰じゃないよ。私にはこれ(・・)があるもん」

 

 背中を向けて、見えない着物の下を指さす私を、サヤコさんは佇んだままじっと見つめている。

 長い髪が、煽られて風に散っていた。

 

「それに、私は一人じゃないよ! サヤコさんがいてくれたおかげで、ここまで来られた。

本当にありがとね。何もお礼できないけど、帰ったらまた、どっか二人で遊びに行こ!」

 

 そう言ってサヤコさんに手を振ってから、私はタワーの入口に駆け出す。

 自動ドアが開いたから、中は通電しているはずだ。エレベーターが動きますようにと祈りながら、私は暗がりのタワー内部へと入って行った。



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2-13 屋上

ムラサキがいない事を知ったヨハネは、タワーへと急ぐ。
一方、一足先にタワーへ到着したムラサキは、植能を使って一人で巨大な鳥に対峙しようとするが……!?


第13節 屋上

 

 になのワープ装置は有能だった。

 普段とほぼ大差ない転送速度で、エントランスの前に到着したボクは、落書きに汚れた壁の前に築き上げられた死屍累々に、呆然として立ち尽くす。

 

「これは……!?」

 

 慌てて駆け寄るが、全員気を失っているだけで、命に別状はなさそうだ。

 倒れ伏している者の中には、例のシェルター事件以降、行方不明になっている人の姿もいた。

 コンクリートが砕かれた地面が、突貫工事でもしたようにボコボコになり、ほじくり返された土がそのへんに溢れ返っている。

 

(やっぱり、土のエレメントか……? そうだ、ムラサキ!)

 

 ここまでの惨状の中で、彼女は無事だろうか。

 無線で呼び掛けた隊員たちにエントランス前の人々を任せることにして、ボクは彼女の部屋へと向かう。息を切らせて階段を上ったが、叩いた扉の先の部屋は静まり返っていた。

 

「ムラサキ! いる!?」

 

 焦って思わずドアノブを握ったら、かちゃりと音がしてドアが開いたので面食らう。

 

(開いてる……? 停電でセキュリティロックが機能してないのか?)

 

 事態が事態なので勝手に上がり込むと、真っ暗な部屋の中に彼女の姿はない。けれど、テレビ画面にあの文字列が流れているのを見て、ボクは思わず苦い顔になった。

 

(やっぱり……!)

 

 ふと周りを見渡すと、机の上にぼんやりと輝きを放っているものがある。

 鏡と……これは手帳? 開いてみると中身は真っ白だったが、その傍に雑に書き散らかしてあるノートとペンを見て、心臓が止まりそうになった。

 ぱらぱらと捲ったら、ボクらがさっきクロカゲでやったのと、大体似たような思考プロセスが手書きでメモしてある。彼女が暗号を解いてしまったことは明白だ。その後、何をしようとしたのかも。

 

「あんの、バカ……!」

 

 思わず、拳をテーブルに叩きつける。

 ボクがここに来てるのに、先に一人で行ってどうすんだ。しかも、あのエントランスの惨状。外へ出たんだとしたら、あいつらを倒したのもムラサキに違いない。植能を使えば使うほど、調子が悪くなるとか言ってたのに。

 苛立ちもマックスになりながら、もう一度転移装置を立ち上げようとした時、コンパス型のそれがぴかぴか光った。

 

『ヨハネ~~? 聞こえてる~~?』

「にな! どうした!?」

『あ、よかった! あのねぇ、街で電波発生装置を操ってたあやし~奴らを、確保したよん! ろことはるかが主体でやっつけてくれたって! いっちょあがりぃ!』

「は、はや……。あ、てことは、電波の復旧もそろそろ……!?」

『それがねぇ。なんか、今タワーの上で大型の積乱雲が発生してるみたい。真っ黒な雲が渦巻いてて、すごい事になってんの、こっからも見えるよ~!』

「マジで……!?」

 

 慌てて部屋から飛び出して見れば、ただでさえ暗い空の遥か向こうに、もっと真っ黒の蚊の大群のような雲の集まりが見えた。

 台風か竜巻でも起きているのかと思うような光景に、心臓が早鐘を打つ。雷がその裂け目から飛び出しては、四方八方に白い筋をまき散らしている。

 

『あっこから出てる雷の影響で、今度は街全体が電波狂ってるみたいなんだよん……。だから、復旧はもーちょい先かも』

 

 そう言うになの声も、ざーざーという雑音で聞き取りにくい。

 その端末を縋るように握って、ボクは呼び掛けた。

 

「にな! あそこまでこの転移装置は使えるのか!?」

『うう、電磁波の干渉が強烈すぎて、タワーの上まではムズいかも……多分近くまではいける! でも急いで! この装置が使ってるゲートも、不安定になってきてるみたいだし! それ言いたくて電話したんだ!』

「了解! ありがと!」

 

 短く礼を言って通信を切ったボクは、すぐさま装置を握り締める。

 せめて少しでもムラサキの近くに飛ぶようにと、祈ることぐらいしかできない。

 けど、もしセブンスコードに神様がいるんなら。

 もし思いが叶う街だって言うんなら、この願いを叶えて欲しい。今こそ、その力が必要だろう。

 そう思ったボクの体を、強くなった光通信の閃光が包んだ。

 

 

 

 

 サヤコさんと別れてから踏み込んだタワーの中は薄暗くて、人気がなかった。

 外出自粛令が敷かれているんだから、そりゃそうかと思う。ていうか、こんな天気の日に来ても、展望階から何も見えるわけないし。

 そう思ってエレベーターホールへ向かおうとしたら、突然声を掛けられて飛び上がった。

 

「おい! ここで何をしている!」

「ひゃっ」

 

 見ると、清掃員というか警備員というか、とにかく係員っぽい制服と帽子に身を包んだ、見た目の若いおじさんみたいな人が、気難し気な顔でこっちへ歩いてきたところだった。

 

「まったく、何でこんなところへ来たんだ。すぐに帰れ」

「え、えとすみません……実は私、これからこの上に用があって……」

「何を言ってる。ここはお前のいるべきところじゃない! 早くしないと、戻れなくなるぞ!」

(ですよねー!)

 

 ますます険しい顔で怒鳴るおじさん。こんな天気の日にのこのこやって来て、タワーの頂上に上ろうって言うんだから、そりゃ止めもするだろう。

 

(ビルの警備の人かな? こ、こんな状況なのに仕事をしてるのか……なんて律儀な人……!)

 

 なんと一人でここに居残っていたらしい。

 暗いホールの物陰には特に気配がないし、他に相手もいなさそうだ……よし、それなら。

 早く帰れと怒鳴り続けるおじさんに、ちょっと申し訳なく思いながらも、私は背後に回した手で人差し指を一本立てながら、こっそり呟いた。

 

「ウーム。……対象を魅了」

 

 するするっ、と糸のようなピンクの光が伸びて、おじさんの足元を取り巻いていく。

 これで私にメロメロになったおじさんは、喜んで道を開けてくれるはず……と思ったら。

 おじさんは、いきなり立ったまま居眠りするようにしてがくんっとつんのめると、膝から崩れ落ちた。思わぬ反応に、植能を仕掛けた事も忘れて、普通に駆け寄ってしまう。

 

「だっ、大丈夫ですかっ!?」

「ぐぅ……私は、異世界人の安全を……むにゃ……」

 

 どうやら、眠っているだけらしい。少しほっとしながらも、おじさんを引き摺って近くの柱に寄り掛からせてから、私は改めて額の汗を拭い、エレベーターのボタンを押した。

 ノンストップで降りて来たエレベーターの扉が開いて、真四角の光がぽっかりと空間に穴を空ける。

 銀色で統一されたタワーのエレベーターは、温もりがなく無機質でなんとなく落ち着かない。

 

(……怖いな)

 

 エレベーターで怖い夢を結構見たことがあるので、オフィス調のエレベーターって結構苦手だ。

 最上階のボタンを押して、動き始めた箱の中で回数表示を睨み上げながら、気を紛らわせようと考え事をすることにした。そう、たとえばさっきの警備の人とか……

 

(しかし、いくら仕事だからって、たった一人でいるってやっぱりおかしくない?)

 

 たまたま残されてしまったのだろうかとか、もしや上が相当のブラック企業なのかとか考えたけど、ふとゆっくり思い返せば、ああいうおじさんの話も、ネットで見たことがあった。

 前、異世界に行く方法を興味本位で調べていた時に、本当に異世界へ来てしまった人間を追い返そうとする、時空の管理人らしきおじさんがいるという噂を見たのだ。

 主人公の前に現れて、「もうここへは来てはいけない」とか、「早く自分の世界に帰らないと戻れなくなる」とか、もっともらしい事を言って追い返すらしい。そのおじさん自体は、どこへ所属していて何者なのか、全くの謎らしいのだけど。つまり、いわゆる都市伝説。

 

(……まさか、さっきのおじさんもそれだった?)

 

 なんでこんな所でと思ったが、よく考えたら私は「私がいる」世界の2021年から、「ヨハネ達がいる」世界の2054年へと飛んでるわけだから、時間空間ともに別世界の人間ではあるわけで、確かにおじさん側からしたら「異世界から来た」人間だ。あれが何を象徴した都市伝説であれ、私のことは取り締まる対象と見なされたのかも。

 ただ、警告を与えるだけで害はなさそうだったし、それ以上にもっと気になることもあった。

 

(あの人も、さっきの車の持ち主だった男の人も……どうして、急に寝ちゃったんだろう)

 

 壁に寄り掛かったまま、掌を見つめる。車の男性は、女性に詰め寄られた時私が背後から接触していたし、さっきのおじさんには意図的に力を使った。てことは、どっちも私の植能が及ぶ範囲内にあったということになる。

 ただ、ウームには催淫効果はあるけれど、当たると眠くなるなんて力は、今までなかったはずだ。

 ふと襟ぐりを開いて熱を持つ左胸を覗き見れば、その上に羽ばたくように動く蝶の紋が広がっていた。時折脈打つように、濃い紫色の光を放っている。

 

(……植能が、変質してきている)

 

 深く息を吐く。

 シェルターの時から思っていたけれど、最初は相手を魅了するだけだったこの植能が、使えば使うほど、別の何かに変わっているような気がする。あの(・・)時だって、現れた効果は今までと明らかに違っていた。この相手を眠らせる力も、新たに目覚めたこの植能の効果だというのだろうか。一体、私の植能は、この体の紋は、これからどうなっていくのだろう……。

 

「っ、!」

 

 そう思っていながら寄り掛かっていた私は、エレベーターの振動する音で驚いて目が覚めた。

 知らないうちに視界がゆっくり狭く暗くなっていた。がくん、と頭を振ってから漸く、自分が立ったまま寝かけていたことに気付く。

 

(やっば、これ自分にも効くの……? こんな時に勘弁してくれぇ)

 

 体の怠さと疲れも相まって、余計に寝そうになっていたらしい。雨で着物は重いし、冷たいせいで寒いし、早く布団に帰って寝たいと思いながらも、最上階に着いたエレベーターの扉をくぐる。

 ガラス張りの展望塔の外は、雨嵐の天候になっていた。空を覆う程大きな鳥の影が、時折雲から透けて見える。ぴかっと光る雷が、暗いフロアに私の影を落とした。

 

(もっと上に行ける場所は……)

 

 四角い形状の展望フロアをぐるっと一周すると、非常階段の入口を見つけた。関係者以外立ち入り禁止の札が掛かっている、上に向かう方の階段を上ると、間もなく「R」の表示がある鉄の扉が現れる。

 

(さてと……)

 

 何が出て来るか。相応の風雨に打たれることを覚悟しながら、そろりと扉を押したが……予想に反して、さっきまで見えていたはずの大雨は降って来なかった。

 

「え?」

 

 びゅう、と屋上の風が吹き付ける。

 コンクリートの床を踏み締めて見上げると、上空は時折網目のようにして雷の線が飛び交っているものの、真上はほぼ星空。どうやらここは、台風の目のような場所らしい。タワーをぐるっと囲むようにして、周囲には分厚い雲の壁が張り巡らされている。

 そして、ぐるぐる流れる雲を裂くように。電気を帯びた黄色い巨大鳥が、突如真上から姿を現わした。

 

「きぇええええええ!」

「っ……!」

 

 甲高い鳴き声に思わず目をつぶる。

 周囲の雲さえ蹴散らしそうなほどのすさまじい風を起こしながら、黄色く輝く翼を広げて屋上のど真ん中に着地した鳥は、警戒するようにケンケンとこちらに鳴いている。

 時折放電する電磁波の中で、苦しそうに首をもたげる鳥に向かって、私は歩み寄った。

 

「落ち着いて!私だよ。しっかり……」

「ぎぇえええええ!」

 

 けれど、どうやら私の姿は見えていないらしい。

 ギラリと光る目玉でこちらを見た鳥は、突如飛び立って雲の向こう側で正確に旋回すると、嘴をドリルのように尖らせて突っ込んで来た。

 

「うっ、わわわわわ!」

 

 慌てて逃げるも、背後で鉄骨が弾けて飛び散る、ものすごい音がする。

 辛うじて脇に飛び退き倒れ伏したが、さっきまでいた入り口部分が、鳥の広げた硬い翼に打たれてぐしゃぐしゃに崩れていた。

 

「おいおいおい……」

 

 一体、ちっぽけな人間一人でこれをどうやって何とかしろというのか。呟きと一緒に変な冷や汗が出た。

 鉤爪を下に急降下しようとする鳥を、なんとか倉庫の影に隠れてやり過ごす。攻撃どころか、これじゃうかつに動いただけで粉々にされてしまいそうだ。しかも、私はあることに気が付いた。周りに今破壊された場所以外、戦闘の痕がほとんど見られないところを考えるに、どうやらヨハネはここへ来ていないらしい。

 

(……もしかして、私ものすごい早とちりした?)

 

 八時はとっくに過ぎているのに。けど、賢いヨハネのことだ。もしかしたら、こんなバカな罠に引っ掛かるかとか言いながら、冷静にSOATで作戦会議でもしているのかもしれない。ていうか、そっちの可能性の方が絶対高い。

 

(あ~~ん、私のバカ~~~~!)

 

 けれど、ここまで来たらこの子を見捨てて帰るわけにもいかない。

 熱を発する体を抱いて、どうにか私でも動きを止められそうな方法を考える。

 

(あまり広い場所に長時間出ると、あの子は真上から足で掴もうとしてくる……。

てことは、周りを飛んでるあの子が旋回して戻って来る前に、何とか準備して植能を当てられれば……!)

 

 問題は、木よりもデカいあのサイズの鳥に、植能の力が効くかどうかだが。

 そこは、広い面積に当てて効くことに期待するしかない。少しでも鈍ってくれれば、少なくとも暴れるのをやめさせたり、正気に戻させることは出来るかもしれない。

 びゅっ、と目の前を鳥が横切って雲の彼方へ高く舞い上がった瞬間に、私は物陰から飛び出した。

 

子宮(ウーム)……!」

 

 両腕を突き出し、出せ得る限りの力を凝縮して、テニスコートのように屋上の端から端まで、フェロモンの壁を生成する。

 目を閉じて集中しながら、できるだけ広範囲に行き渡るように。真ん中に立たないと、綺麗に両端へ植能の力を送れないのだ。丁度ゴム飛びの縄のようにしてそれが出来上がったところに、追い風に乗ってあの子が突っ込んで来た。

 

(お願い、止まって……!)

「びいいい!」

「ひゃああああ!」

 

 羽毛に覆われたお腹が、頭の上すれすれだ。ぶっちぎっていく翼の両端に、風に千切れるピンクの桜みたいな光がちらちら見える。

 強風に背後へよろめいた瞬間、隙間から入って来た風に一瞬で袴が煽られた。そのまま踏ん張り切れず、パラシュートのようになった和服に舞い上げられて、私はぐるぐる回転しながら、ふわっと背後へ吹っ飛んでいた。

 

(……え? 空?)

 

 目の前に、雲が覆う空。脚側に屋上があって……つまり、私は屋上の柵を越えてタワーの外側へ放り投げられながら、重力加速度に従って落ちようとしているのだった。ごろごろという音と共に、ふと雨の雫を額に感じた。

 

(……あーあ。ここまでかぁ)

 

 危機的状況のはずなのに、不思議と静かな気持ちだった。残念だったけど、私はやり切った。背中の力がふっと抜けて、雷鳴も、街に叩きつけられてここまで鳴り響いて来る雨音も、風の音も、全て静かに耳から遠ざかっていく。

 死ぬのって痛いのかな、と考えた。普通に過ごしていても痛みやら不調やら起こる殻が、さすがにこの高さから落ちて無事なはずはないだろう。悲惨な最期を迎えるに違いない。それにジェットコースターであれ何であれ、私は浮遊感てものが苦手なのだ。死ぬ間際まであれが続くのはやだなあ、と走馬燈じみたことを思いながら、目を閉じた時だった。

 

「……っ、ぅう!」

 

 微かな唸り声と共に腕に衝撃が伝わって、私は目を開けた。

 嵐の風が、音が、冷たさが、一気に速度を増して感覚に蘇る。

 落ちていたはずの私の体は、ビルの絶壁に、振り子のようにしてぶらんと揺れ下がっていた。真上から引っ張るように、右手を誰かが掴んでいて――見上げた先に、ビルの壁に掛けた脚と、ワイヤー銃を撃った片腕で自分を支えながら、私を繋ぎ止めるヨハネの顔があった。

 

「っ、ヨハネさ……!?」

「今、助けるから! 絶対に、離すな……っ」

 

 屋上の辺縁部は、すさまじい天気だった。風がびゅうびゅう吹き、屋上の縁に撃ち込んだ先端から、ヨハネの持つ銃身まで繋がるワイヤーも、すごい勢いでたわんでいる。なぜか制服じゃなく、賭場の時の姿をしたヨハネのクチュールが、派手な色の鯉のぼりみたいに荒れて――両目を開けるのも難しいほどの雨が叩きつける中、髪を貼り付かせながらも、その青い瞳だけは必死の形相でこっちを睨んでいた。

 

(……ヨハネさん)

 

 その時。雨に濡れたヨハネの手袋が、隙間に入った水で滑って脱げ始めた。

 

「!」

 

 指先側から私に掴まれて脱げ落ちていくその反対側を、辛うじてヨハネが捕まえる。滑りやすい手袋の表面を素手で鷲掴みながら、剥き出しになった褐色の細い腕が震えた。冷雨の中、一瞬苦し気に息を吐いて歪んだその顔に、たまらず首を振って叫ぶ。

 

「もういい! もういいよヨハネさん! あなたまで落ちる前に、早くっ……」

「バカ!!! あんた一人守れなくて、何がSOATの隊長だっ!!! ボクをここまで巻き込んどいて、あんたが勝手に手を離すなんて絶対に許さないからね! 死んでも離すな! 離したら後でブッ殺してやる……っ!」

 

 嵐の中でも不思議なほどよく通る、鼓膜の破れそうな大声で怒鳴られて、思わず腕の痛みも息の苦しさも、忘れそうになりながらはっと目を見開いた。

 ……滅茶苦茶支離滅裂なことを言ってるのに。その言い草に、有無を言わさない力強さに、ひどく安心して泣きそうになる私がいた。

 見上げた鼻の筋を伝って、雨が落ちて来る。ヨハネさんは腕に力を込め、二人分の体重を支えながらも、ゆっくりと着実に、屋上に撃ったワイヤーを引き上げ始めた。少しずつ、滑車に巻き上げられるようにして、体が上に近づいていく。

 

「……っぐ、はぁ!」

 

 縁まで辿り着いて、私を投げ出すように引っ張ったヨハネさんと、勢いのまま二人で乾いたコンクリートに倒れ込んだ。再びびしゃびしゃになった体に、生きた心地のしなかったさっきの恐怖が、ようやく蘇る。けれど腹ばいになったままで、そこから動く気力すらしばらくは起きなかった。

 

「はぁ……はぁ……だい、じょうぶ……?」

「う、うん……ごめん、私、あの……」

 

 あんな細身の体で、落ちる寸前の私を助けて引っ張り上げるなんて。そういえば、ヨハネさんの素手って、初めて見た。

 どうお礼を言えばいいのか、何から謝ったらいいのかも分からないまま、私が身を起こして座り込んだその時だった。

 

「ぴょろろろろろ」

 

 高く鳴きながら、上空を鳥の影が滑空していく。

 今初めて気が付いたというように、立ち上がったヨハネさんが庇うように私に背を向け、愕然としたのがわかった。



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2-14 巨鳥

やっとのことでヨハネと合流したムラサキ。
息つく暇なく、二人に巨大化した鳥が襲い掛かる……!


第14節 巨鳥

 

 ぱちぱちと白く見える光をはじかせながら、鳥が光った目で上空からこちらを見やる。

 見上げていたヨハネさんが、小さく呟いたのが聞こえた。

 

「装置を破壊しても、間に合わなかったか……ったく、こんなにデカくなりやがって」

「そう、ち……?」

「アオカゲの奴らが、街中で雷のエレメントを利用した怪電波を流してたんだよ。多分この鳥は、野生の状態でその電波の力を受けて肥大した」

「街の人達が、暴走してたのも、もしか、して……?」

 

 眩暈のする頭でふらふら立ち上がり、並び立つ私の肩を抱いて支えながら、ヨハネさんが頷く。

 

「あんたは無理をするな。……その通りだよ、SOATの地上階で働いてた中にも、あの放送が流れた頃から、諍いを起こしたり暴走したり、電波の影響を受けた奴がいたみたいだ」

「え。ヨハネさんは、大丈夫なの……?」

「ボクは平気。他の奴らも、今は地下に避難してるから無事だと思う」

 

 よほど私が酷い顔をしていたのか、ヨハネさんはそう言ってから、安心させるように微笑んで、頭に手を置いてくれた。……わっ。撫でられてる?

 少し驚いていたら、遠くへ飛び去っていたあの鳥が、鳴きながら風を引き連れて戻って来る気配がした。黒雲の中で、雷がバリバリ光っている。

 

「こいつも、元は無害な野鳥だったんだろうけど……エレメントの力が強すぎて、我を忘れてるね。電気の生成と放電を繰り返しながら、大きくなってるんだ」

 

 真昼のように眩しい夜空を見上げながら、ぎゅっと口を結んでいたヨハネさんは、おもむろに腰の飾りへ手を突っ込んだかと思うと、私を制してゆっくりと後ろへ下がった。

 

「ここにある高エネルギー体が消滅しない限り、街全体の電波障害は解消しない。やっぱり、どうにかして倒すしか……」

 

 狙いを定めて、空に向かって銃口を構える。はっとした私は、その腕を反射的にぎゅっと掴んで縋っていた。

 

「ヨハネ! ダメ!」

「わっ! おい! 何すんだ……!」

 

 考えるよりも先に体が勝手に動く。驚いて振り払おうとするヨハネの前に、両腕を広げて立ち塞がりながら、風に着物の先を煽られつつも、私は必死になって叫ぶ。

 

「お願い、撃っちゃダメ! あの子、私の友達なの! 殺さないで……!」

 

 ごうごう風の鳴る音が耳をつんざく中、しばらくの間、銃を手にしたヨハネと見つめ合う。

 私の我儘だということは分かっている。でも、殺さないで欲しい。

 必死の思いで彼の目を見つめ続けていたら、はぁ、と溜め息をひとつ吐いたヨハネは、肩の力を抜いて銃を降ろし、腰の先にあったクチュールを邪魔っけに脇へ追いやった。

 

「殺そうと思って撃ったところで、あの大きさにこの弾丸じゃ、傷一つ負わせられないだろうよ」

「そ、そか。それは、そうだよね……。でも、どのみち効かないなら、やっぱり撃ちたくない……なんとかしなくちゃ。私とヨハネさんがいたら、きっとなんとか……」

 

 口に出して自分に言い聞かせながら、私は周囲に使えるものはないかと視線を巡らせる。

 ヨハネさんは、私が無意識に彼の口癖を使ったことに驚いていたみたいだけど、この時の私はそんな表情の変化に気付く余裕もなく、ふと腰の下の大きな袋に視線を止めて、ヨハネさんに尋ねてみた。

 

「それ、何?」

「ああ、これ? さっきソウルの奴にもらったんだ。あいつの植能で作ったガス弾なんだって」

「……これが?」

 

 袋をぽいと投げられたので、その中にぎっしり入っていたピンクのキューブ状の物体を指で摘まみ上げ、しげしげと眺めてしまう。

 どう見てもガス弾っぽくは見えないけど……と思った途端、それは目の前でぼんっと弾けて、顔面よりも大きい巨大なブロックに変わる。度肝を抜かれ、避ける動作と後ずさる動作を同時にしようとするあまり、その場に躍り上がってしまった私の足元へ、ピンクと黒のブロックはどかっと落ちて来た。

 

「わっ、わぁ! 何!? 何!?」

「あのクソガキ……間違えてやんの……」

 

 頭を抱えたヨハネさんが、私の持っていた袋に手を突っ込んだかと思うと、じゃらっとキューブを掴んで掌で弄んだ。

 

「これ、防御用のブロックだよ。SOATに支給されるけど、街中でも工事現場を覆ったりとか、立ち入り禁止区画を作ったりするのに使うことがある。

ま、クロカゲの奴らはよからぬ用途に使ってるみたいだけど? 改良すれば、弾込めも出来るんだ。

……けど、こんなもん渡してきてどうすんだよ、クソガキの奴! 幾ら並べたって、あんな鳥の前じゃ飛ばされてひとたまりもないし! なんにも使い道が……」

 

 ぶちぶちと文句を言うヨハネさんの前で、私はもう一度そのブロックを眺め、声を上げながら空を滑空する鳥を見つめた。ブロックの大きさは、丁度上に人が飛び乗れるくらい。暗い空から視線を往復させ、私は考える。

 

「……ねえ。ヨハネさん、それ弾に込められるってさっき言った?」

「え? ああ、一応銃身に込めて、撃った先に展開するようにはできるけど……」

 

 それなら。私は頷いて、不思議そうな彼の顔をまっすぐ見た。

 

「じゃあ、私の合図に合わせて、これ空に撃ってくれない? こう下から上に階段状になるように、だだだっと」

「はあぁ!? んなことしてどうすんだよ!? っていうか、なんであんたがボクに指示してるわけ!? あんたはこれ以上……」

「いいから、急いで準備して。それから、次にあの子がこっちに突っ込んできたら、この屋上の右半分に障害物が見えるようにして、コルニアを使って欲しい。あの子が避けようとして翼を傾けて、こっち側に旋回してくるように」

 

 文句を垂れつつも、ピンクの弾を次々込めていたヨハネが、私をはっとして見る。

 さすがというか、私のしようとしていたことが分かったみたいだった。

 

「……あんた、まさか」

「上手くいくかどうかは分からない……でも、やるだけやってみないとね。やらずに最初から諦めるなんて、ヨハネさんらしくないし」

 

 どのみち、もう体は最初からへろへろだ。アドレナリンが出過ぎて、逆に楽しくなってきた。

 にっと笑い掛けると、迷いながらこちらを見ていたヨハネは、溜息をついてから、決意を固めたように小さく頷いてくれた。

 

「わかった。けど、タイミングはどうする?」

「あ。うう~ん……端末の通話機能は使えないんだっけ」

「ここじゃ電波に阻害されてタイムラグが出まくりだ。無線は来るまでに全部隊員に渡しちゃったし……」

 

 一緒に並んで腕を組んでから、私はふと自分の端末の中をスクロールしていて思いついた。

 

「ね。この端末って、最高でどのくらいまでボリューム上げられる?」

「ボリューム? そりゃ上限さえ解除すれば幾らでも出るけど、何するんだよ」

「これで音楽鳴らして鳥さんの気を惹くから、それに合わせて撃って! そしたらいちいち声掛け合わなくても、私はそれ聞いて動けるし」

 

 これ知ってる? と〝Halcyon〟を表示させると、ヨハネさんは目を真ん丸くする。

 

「知ってる……けど、なんであんたがそれを」

「じゃあいけるね! 準備して! 前奏が終わったら出るから!」

 

 倉庫の影にヨハネさんを待機させて、囮になるように私はフロアへ躍り出た。

 バイオリンの音色を端末で響かせながら、暗い雲を見渡し風の中で私は佇む。向かい風が服の裾を孕ませ髪をなびかせる音を聞き、目を閉じて深呼吸しながら、遠くからだんだん近づいてくる鳥の気配を待ち侘びた。

 大好きな音楽と一緒に戦えるなんて、ぞくぞくしちゃう。

 ヨハネはもちろん知らないだろうけど、私は何度も、この曲でヨハネと一緒に手を組んで闘ってきたのだから。

 着陸する飛行機のように、翼が風を切るごうごうという音と、巨大な影が近付いてくる。……くる!

 

「っ、思ったより速いな!」

 

 一回目は様子見。銃をかまえたヨハネさんが、鳥の背中に向けて撃てそうな角度を見極める。悔しそうな声が呟く間に、体をくるりと引っ繰り返しながらターンした鳥は速度を上げたかと思うと、屋上の手前で猛烈に翼をはためかせ始めた。

 

「! やばい、風起こしだ!」

「一回防衛用に撃ってみる! あんたはそこを動くな!」

 

 その声をかき消す勢いで、よじれるようにして風が吹き寄せ、タイルが飛んだ。

 音楽があるおかげなのか、それともヨハネ自身に無意識に共闘の記憶が刷り込まれているのか。目の前も見えないほどの暴風と砂埃だったけど、不思議なほど、動くタイミングと止まるタイミングは互いに図ることができた。

 だんだんだん、と音が響いて、私の両脇に次々積み重なるブロックが、風を防いでくれる。私にぶつかる代わりに、それを物ともせずに蹴散らしながら、鳥が大声で鳴いて屋上すれすれを通り過ぎた。

 

「あ、ありがと、助かった……」

「次! コルニアで進路を妨害するから! あんたは左側に!」

「了解っ!」

 

 現れたブロックを踏んで、左の上空へ。さっきと同じように身を翻して突っ込んできた鳥の前へ、ヨハネさんは右手を翳しながら躍り出た。

 

「コルニア! 視覚情報を改竄ッ!」

 

 彼を囲むように、屋上の半分を覆う大きさの、サイコロ型の歪んだバリアが現れる。

 思惑通り、それを障害物と錯覚した鳥が、斜めに体を傾けて滑って来る。そのふわりとした羽毛を掴むように、一瞬のタイミングを音の盛り上がりから掴んで、私はブロックから飛び降りた。

 

「いけぇっ!」

 

 白いものに近づいたかと思った次の瞬間、ばふっ、という感触。そこが体のどこかも分かる前に、体が千切られそうなほど猛烈なスピードで引っ張られる。速い。速いし怖い! 周りの景色がびゅんびゅんと矢になって何も見えない。目すら開けられず、手に鳥の体毛を鷲掴んでいるのが精いっぱいだ。

 

「ぎゅえええっ」

 

 鳥が一声鳴いた。かと思うと、その体全体が発光して、爆音のごとく音楽が響き渡る。驚きながら、私はようやくうつ伏せのまま目を開いた。

 

(もしかして、私の端末に反応してる……?)

 

 左手首がぱちぱちとショートして、明らかに壊れている感触がするが、私の端末を暴走させた電流は鳥の中を巡って、信号を大幅に増幅させながら放出しているらしい。その音楽に応えるようにして、ちかっ、ちかっと下で瞬く光がある。

 

(あれ、ヨハネさんのコルニア……?)

『下で何とか罠を張ってみるから、今はとりあえずそいつに食らいついて! 振り落とされないようにしがみついときなよ!』

 

 何も聞こえたわけではないけれど、そう言われたように思った。

 

(よし、分かった……)

 

 次のサビまでの間に、ヨハネさんが何かするに違いない。そう思って鳥の首元に必死でしがみ付いていると、屋上に近づいた途端、ぴしぴしぴしっと星座のように青いラインが、鳥の腹あたりで弾けた。

 

「!?」

「ボクもそっちに行く! 動きを誘導して!」

 

 辛うじてそう聞こえる。銃弾の先にコルニアを発動しているらしい。光を攻撃と錯覚して驚いた鳥が、大きく飛び出るカーブを描いて嘶いた隙に、私は手を伸ばした。

 

「ヨハネさん、こっち!」

 

 屋上に近づいた拍子に、伸ばした腕が私の手に触れる。速すぎて一瞬の間には何も見えなかったけれど、私の腕を掴んで屋上を離れ去ったヨハネさんは、この豪速の中にありながらも、腹の方の羽毛にしがみ付いて上によじ登って来た。

 

「よかった!」

「そっちも!」

 

 隣で肩を並べると、二人も乗せてしまったことが不本意なのか、首をもたげた鳥が不機嫌そうに鳴く。けれど、その光は心なしかさっきよりも弱々しい。

 

「なんか、弱ってきてる……?」

「あんた、この鳥に何か植能使った?」

「あ! ごめん、全然考えてなかった!」

 

 今にも千切られそうな風に耐えるのが精いっぱいで、何も考える余裕なんてなかった。これじゃあ一体何のために乗ったのか、と恥ずかしくなりながら俯いたが、隣で体勢を整えて座り直したヨハネさんは、辺りを見回しながら叫ぶ。

 

「こいつ、高度を下げ始めてる! タワーより下を飛んでるんだ。今まで、あんたは無意識でも使ってることあっただろ。何か効いてるんじゃないか?」

 

 そう言われて見上げれば、確かに黒かった雲が遠ざかり、街の屋根が低くなってきた。上の私達を振り払おうと旋回しながらも、時々疲れたように羽根を広げて風に乗っては、また思い出したように羽ばたいて上昇するのを繰り返している。

 とはいえ、油断は出来ない。エネルギーが足りないと思ったのか、鳥は黒雲の塊を見つけると、勢いをつけてジェットコースターのように真上の雷めがけて急上昇していく。ほぼ90度の角度で、雲のトンネルが視界を過ぎ去った。

 

「わっ、眩しい!」

「手ぇ離すなよ! 電気蓄えたらまた速度が上がる!」

 

 ふわっ、と鳥が雲を飛び越えて上空に舞ったかと思ったら。

 大きく鳴り始めた音楽と同時に、また玉を弾くようにして動きが急峻になる。矢のように翼を畳んで突っ込んでいく中で、ヨハネさんが勢いを弱めようと、進路へブロック銃を撃っているのが見えた。

 

「くっそお、止まれ……!」

 

 間の悪い事に、私達が掴んでいる羽毛までもが、バチバチと放電しはじめた。頼みの綱である両腕が、静電気に当てられているかのようにぴりぴり痺れる。もう全身で、歯で噛み付きさえして振り落とされないようにしているのが精いっぱいだ。

 

「お願い、子宮(ウーム)! 対象を……」

 

 何か少しでも力になりたくて、焼けそうなほど熱を持った紋に力を集中させる。考えろ。多分、魅了じゃ効かない。魅了じゃなく、何か傷付けずに、この鳥をなんとかする方法……私が、考えなくちゃ。なんとか、この植能を使って。

 

「……ウーム! 対象を〝催眠〟!」

 

 かあっと、左胸の上が熱くなる。

 とたん、薄紫色の粉が舞って鳥の体を包み込みながら、タンポポの綿毛のようにぼうっと光り始めた。それに合わせて鳥ががくがくと痙攣し、巨体が徐々に縮み始める。

 

「! エレメントの力を失ってる……!?」

「ムラサキ! そろそろ着地の場所を探さないとマズい! このまんまだとどっかに墜落する!」

 

 しまった。乗る事ばっかり考えてて、降りる事は何も考えてなかった!

 ぴしぴしと、鱗が剥がれるようにして雷撃が鳥の側面を打つ。その間から必死で顔を覗かせ、私は街中の広い場所を探した。

 最後の抵抗をするように鳥がのたうち、おまけに小さくもなってきているので、まるでロデオに乗っているかのような乗り心地だ。

 

「山! 森林公園は!?」

「こっからだと遠すぎて多分もたないよ! かといって平原はボクらの真後ろだし、こっちの方向に飛び続けるとしたら……」

 

 言われなくても、建物がだんだん少なくなり、見えて来た景色を見て察した。ゲームの中でも、見覚えのあるセーフハウスと桟橋。湖だ。

 びゅんっと、鳥がその上を旋回する。ヨハネさんが声を張り上げた。

 

「ムラサキ! 合図で全力で植能使って! こいつがここを離れる前に、なんとしてでも着水させないと街に突っ込んでしまう! できる!?」

「お安い、御用っ……!」

 

 もはや体が浮いて、首にしがみついたまま半分飛んでいるような状態だ。湖畔に浮いていた雲から落ちる雷に合わせ、鳥がジグザグに飛行を始める。

 

「こっから出してたまるか……っ! コルニア! 視覚情報を改竄!」

 

 ずどんっ! とブロック銃を湖の岸辺へ撃ち込んだヨハネさんは、そこを起点に花火の幻覚を打ち上げた。火花を見て驚いた鳥が方向を変えると、飛んで行った反対の岸辺にまたブロックを撃ち、同じことを繰り返す。矢のように方向転換をしまくった鳥に引きずられながら、私達は竜巻のようにくるくると、湖へ高度を下げていく。

 

「今!」

「ウーム! 対象を催眠!」

 

 抱き着いた鳥に、もう一度一気に力を注いだ。視界がピンクの光に染まるか染まらないかといううち、完全に意識を失った鳥はひるるると墜落して、私達もろとも鏡のような湖面に頭から突っ込んで行く。

 音楽のフィナーレで、思いっきりばしゃあんと派手な水飛沫が上がった。



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2-15 湖畔

2章の最終話。
湖に墜落したムラサキ達は、その後湖畔のセーフハウスへ避難する。
目が覚めたヨハネに、ムラサキは衝撃の打ち明け話を……?


第15節 湖岸

 

「うぐっ、げほっ、ごほっ……!」

 

 水に叩き付けられた衝撃で、一時的に体がごぼごぼと深い底に沈み込んだ。

 水をかきながら、重い和服に引き摺られないように必死で手を動かし、どうにか顔を水面に出す。

 一応私は泳げる人間なのだが、着衣水泳の経験はないので、さすがに焦った。

 咳き込んで水を吐き出し、真っ暗な周囲に呼び掛ける。

 

「ヨハネさ〜ん!?」

 

 近くでばしゃばしゃと、不規則に水をかく音が聞こえた。姿が見えなくても、そこにいるのが分かる。

 

「うぶっ、ここ……! ボク泳げな……っ、がはぁっ」

「うわわっ、大丈夫!? ほら、行くから肩つかまって……!」

 

 なんと、我らがSOAT隊長は足のつかない湖で溺れかけていた。

 慌ててそっちに急行するけど、いくら私が泳げて浮力があるとはいえ、人一人の体重を掛けられると一気に負担が増える。ただ立ち泳ぎをしているだけでも、とにかくこの和服が手足に絡みついて邪魔で仕方がない。

 

(ええい、こうなったら……!)

 

 ものすごい勿体ないけど、命には代えられない。

 意を決すると、暗がりなのをいいことに、私は水中で、身に纏った着物と袴を全て脱ぎ捨てた。素っ裸でヨハネさんを担いで息継ぎをさせていると、すぐ近くに、水中からぼうっと発光する何かが浮かび上がってくるのが見えた。

 

「あれは……!」

 

 ヨハネさんを浮いていた丸太に掴まらせ、ばしゃばしゃと泳いで行って、浮いてきた青い光の源を掬い上げる。

 ぷかぷかと仰向けで浮いていたのは、すっかり元のサイズに戻ったあの鳥だった。掌で掬い上げると、その体がだらんと垂れ下がる。

 

「し、しっかり! しっかりして……!」

 

 まだエレメントの残滓が残っていたのか、弱々しい光があったおかげで発見が早く済んで助かった。

 泣きそうになりながら丸太へ連れて帰り、仰向けのままお腹を人差し指で押すと、ぷーっと水を吹いた鳥が、弱々しく声を上げる。

 

「ぴい……ぴい」

「よ、よかった……! 生きてる、生きてるね! 死んじゃダメだよ! 今助けてあげるからね!」

 

 冬場なので、落ちた瞬間は凍り付くような冷たさを想像してぞっとしたのだが、幸いなことにスケート場の需要は街中だけで足りていたらしく、この湖は平時と同じ快適な水温を維持していた。

 あんまり水泳が出来る体調とは言えないが、これなら岸まで引っ張って泳ぐくらいは出来るかもしれない。ラッキーだ。

 

「ヨハネさん、ヨハネさん。仰向けになれる? 多分、一番体力消耗しないし楽な浮き方だから」

「う……胸の上になんか乗ってる……?」

「ごめん、一緒に引っ張るから鳥さんとちょっと我慢してて……」

 

 仰向けに浮いたヨハネさんの胸元に鳥を乗せ、その肩を私が押したり引っ張ったりする形で、岸に向かっていく。

 バシャバシャとバタ脚で勢いをつけていたら、朦朧としていたヨハネさんが呟いた。

 

「ごめん、助けてもらっ……ボク、あんたに触ってると……なんか、眠く……」

「あああっしまったっ!?  お願いヨハネさんもーちょっとだけ頑張って! せめて水は飲まない程度に起きてて!?」

 

 水の外から見ても分かる程度に、ぼんやりと私の紋が紫と桃色の光を発している。さっき鳥に使った以前から、もうとっくに淫がキャパオーバーして植能が暴走しているのは明白だった。

 幸いなことにすぐ足のつくところには着いたが、寝そうになるヨハネさんをなんとか叩き起こすのに必死で、一息つけるのはまだまだ先になりそうだった。

 

 

 

「う……ここ、は……?」

 

 ぱちぱちと、暖炉が爆ぜる懐かしい音で目が覚めた。

 ここは、湖畔のセーフハウスの一階? そういえば、あの湖に落ちた後気を失って……

 まだ夜明け前らしい。あたりを見回すと、薄暗かった周囲に目が慣れて、だんたんと周りの状況が見えてきた。

 ボクは暖炉の近くのソファに寝かされていた。服はすっかり渇き、ボクの近くではエレメントの力を失った小鳥が、ふわふわの毛を暖炉の火に照らされながら気持ちよさそうに蹲っている。なんか顔がくすぐったいと思ったらこいつか。

 

「ムラサキ……?」

 

 身を起こし、一緒にいたはずの彼女の名を呼ぶと、近くのドアの蝶番が軋むのが分かった。

 隙間から、オレンジの明かりが漏れてくる。どうやら、隣の部屋にいるようだ。

 

「ムラサキ? そっちにいるの?」

「あっ。ヨハネさん。目が覚めた?」

 

 普通に返事はしてくれるが、何故かドアは開かない。

 不思議に思いながらそっちに近づくと、木製の白い扉越しに、隙間を開けたままでか細い声が聞こえて来た。

 

「ごめん、その……泳ぐのに邪魔で、湖にいた時に服全部脱いじゃった。だから、そっちには……」

「っ、あ……そうか……ごめん、ボクらのために」

「いっ、いいの! こっちの部屋にも暖炉あるんだ。私はあったかいし、気にしないで」

 

 慌てたように、扉の向こうの影が動く。

 さすがに裸を覗き見る訳にはいかないけど、彼女の具合が気に掛かった。

 

「ごめん。あんたを守るって言ったのに、結局無理させて……。

大丈夫なの? この間から確か、ずっと植能の反動で、具合が悪いって……」

「あ、うん、あれはその、落ち着いて……っていうか。あの時に比べれば、今はまだ全然マシっていうか……けど、さすがに疲れちゃったな」

 

 ふぅっと声の力が抜けると、とさりと扉の奥で座り込む音が聞こえて、ボクは焦った。

 

「お、おい……!」

「あんまり、私に近寄らない方がいいよ。……落ち着くまでは、迷惑掛けちゃうと思うから」

 

 扉を隔てていても、尚眩暈がしてくるような、甘い香りが漂っていた。

 体が熱くなるような、奥底の敏感な場所が、ぞわりと撫でられるような――

 

「ッ、」

 

 思わず一歩後ずさると、分かっていたというように、部屋の中から自嘲するような笑い声が聞こえた。

 

「そう。それでいい。……私は元々、SOATのお堅いお役人さんが、目を掛けていいような人間じゃない」

「でもキミは、色んなボクを知ってるんでしょ。だったら、SOATの顔だけがボクの――(クヌギ) 夜翰(ヨハネ)の顔じゃないことも、知ってるはずだ。……あんたが見てたのは、ボクの派手な衣装だけだったの?」

 

 これは、かまかけ。

 もし心の中を読めるならば、ボクしか知りえないことを、彼女は知っているはず。

 と同時に、理解して欲しいという願いが、ボクの内には芽生えていた。

 好奇心に動かされているわけでも、見殺しにしたいわけでもない。自分がムラサキの味方でいたいのだということを、たとえ不器用でも遠回しでも、伝えるために。

 ぱちぱちと燃える薪をBGMに、ふっと笑い声が聞こえる。

 

「そんなわけないじゃん。知ってるよ。ヨハネさんが本当は、自分を巻き込む全ての人を、何とか救おうとせずにいられないほど、お人好しで優しい人だってことも。損な役回りを受けても、誰かを守るために一生懸命走り回ってくれる人だってことも。それを偽善にしないために、他人にわざと冷たい態度を取ってるんだってことも。

……あんたがいいコなことぐらい、全部、知ってるんだから」

「さすがに、それはちょっと買い被りすぎじゃない? ボクは……」

 

 涙混じりの声に即答されて、ボクは戸惑う。

 言葉を探しているボクの前で、座り込んだままの彼女の白い肌が、微かに隙間から覗いた。

 

「……ごめん。これでも、本当はちょっと反省したんだよ。ヨハネさんは、リアルの自分の体のこと、好きじゃないんだよね?」

「!」

 

 はっとしたボクの反応が見えているわけじゃないだろうけど、湖畔に寄せる水音すら聞こえないほど静かな部屋で、ムラサキはわかっているというように、姿を見せないまま話し続ける。

 座り込んだまま膝でも抱えているのか、より声が小さくくぐもって聞こえて、ボクは反射的に扉の外側へ背中合わせで座りながら、話の続きに耳を傾けていた。

 

「それは知ってたのに、こっちでは女の子だから、なんて私が勝手に決めつけてさ。結構デリケートな問題なのに、すぐ裸なんか見せようとしたこと、後悔してる」

「いや……いい。そのことなら、もう気にしないでいいから」

「……私の植能のことを、調べたかったんでしょ? ヨハネが知りたいことは、この体を見せないと、どうしても説明できなかったの。だから……露出狂みたいな真似するつもりじゃ、なかったんだけど。そう見えてもしょうがないよねぇ。

あは、私って、信頼されてるって思ったら、すぐ距離感間違うからさぁ。バカなんだよ、基本的に」

 

 無理したような笑い声を聞いていられずに、被せるようにボクは口を開いた。

 

「ボクの方こそ、悪かったって思ってる。イサクに言われたんだ。あんたは、ボクのことを信頼したから、本当は人に見せられない部分を、ボクにだけ晒そうとしてくれたんじゃないかって。……この場合、大事なのは打ち明け話の方だった。あんたの気持ちとか、孤独だったあんたが勇気を出してくれたことに比べたら、裸がどうなんて、騒ぐことじゃなかったのに」

 

 ぼんやりと明け始めた空が、穏やかな光を窓の外から投げかける中で、沈黙が流れる。岸辺の波止場に、ボートが波と一緒に打ち寄せて、櫂の触れる音がする。

 何も言わなくなってしまったムラサキに焦れて、ボクは彼女の命を繋ぎ止めたグローブの掌を、強く握り締めた。

 

「傷付けたんなら、ゴメン。でもほんとに……っ、ボクが他人の裸を見るの慣れてなくて、苦手なだけなんだよ。女だったら、なおさら。

……あんたは知ってるのかもしれないけど、現実の自分には、見た目へのコンプレックスがあるから。余計にカラダっていう容れ物には、頓着するのかもしれない。自分のことも、他人のことも、傷付けたくない」

「……ヨハネさんて、こんなに素直にごめんなんて言う性格だったっけ」

「ッ、うるさいなぁ。これでもだいぶ、普段とキャラ変えてんだよ」

 

 少し笑いを交えた思いがけない言葉が返ってきたもんだから、ムキになって振り返ったその時に、さっきまで感じていた強い香りが消えていることに、ボクは気が付いた。

 

「少し、落ち着いた?」

「……ん。多分、もう、大丈夫」

 

 鼻を啜り上げる音がしてから、ムラサキがこっちを向くのが気配で分かった。

 

「もう、遅いかもしれないけど……。今からでも、あんたの話を聞いていい?」

「! うん…………うん」

 

 わずかに息を飲む気配がして、頷いた彼女の泣き出す声が聞こえる。

 

「お、おい、泣くことないだろ!?」

「だって、……安心したんだもん。あんなことして、もうヨハネに嫌われてたらどうしようって。私既婚者のくせに、こっちじゃまともって言われる職に就いてないし、なんか変な植能で迷惑掛けてばっかだし、私のこと知ったら、嫌いだって言うんじゃないかって、友達やめるって言うんじゃないかって……っ、ずっと怖かった……っ」

「あ、あのなあ……そんなことぐらいで……クロカゲでもっとヤバい奴らぐらい幾らでも見てるよ。だ、だいたい、ボクが友達でなくなったって、あんたみたいな奴には別に関係ないだろ? ソウルとかウルカとか、よっぽどあんたの言う『役人』じゃなくて、ウマの合いそうな奴がいるじゃんか」

 

 ああ、もう、この扉……すごくジャマ。今すぐ開けて傍に歩み寄りたいのに、服がないってだけでセクハラ扱いされそうで、イライラする。

 うっかり爪を口にやって噛んだボクに向かって、小さく笑ったムラサキの声が言う。

 

「関係あるよ。……だって、私はヨハネのこと好きだもん」

「……っえ」

 

 今度こそ、動揺で何を言ったらいいか分からなくなった。

 ……植能のせい? いや、関係ないはず。だってウームを発動させるのはあいつの方だし、それが当たったボクじゃなくてあいつが言うってことは……えっと、どういうこと?

 そもそも、これってどういう「好き」なんだろう。

 あいつは結婚してて、でもボクのことを友達だと思ってて、だけど多分、ボクが男だってことを本当は知ってて……でもあいつは女の子のことも好きで、だからつまり……

 

 頭がぐるぐるしていたら、ボクの考えを遮るように、くしゅん、と小さくくしゃみの音が聞こえて我に返った。

 

「! やっぱりあんた風邪引きかけてるじゃないか! ちょっと待って、このセーフハウスの二階の部屋に、まだ使ってない服が残ってるかも。ボクちょっと見て来るから……」

「あっ。あのあの、ヨハネさん。行く前に……今、見る覚悟ある? 私の体の紋」

「紋?」

 

 思わず目を見開くと、少し隙間を開いた扉の向こうに、ムラサキの裸が覗く。

 

「この間見て欲しかったのは、これなの。これが、私の植能の力の源。……子宮(ウーム)の発動の度、光ったり広がったりして、所有者の体を蝕んでる紋様」

 

 覚悟を決めた瞳を見て、もう騒いだり逃げ出したりは出来なかった。

 ごくりと唾を飲んでから、ボクは立ち上がる。ゆっくりと扉を手前に開くと、向こう側に一糸纏わぬ姿のムラサキがいて――その色香に、とかではなく、ボクは純粋に驚いて息を飲んだ。

 

「なんだ……これ。こんなの、見たことない」

「私は、淫紋って呼んでる」

 

 ムラサキが左目を光らせて発動すると、紫色の痣のような胸元の蝶や、脇腹の花、下腹部のハート柄の紋が、うっすらと光る。他にも腕の真ん中や足元には、植物のような薄桃色の柄が浮かび上がって見えるし、後ろを向けばその背中や腰には、彼女のイメージに不釣り合いな、髑髏の天秤と蛇が背負われている。

 まるで、全身入れ墨を施したかのような様相に、ボクは目を眇めた。

 

「これが……全部、植能のせい?」

「植能ありきなのか、淫紋ありきなのか……とりあえず、私がこの世界に来た時からずっとこうだった。

なんか、私が植能を使えば使うほど、広がっちゃうみたいなんだ、これ。使い過ぎると、体も怠くなるし、紋のある場所が締め付けられたり痛くなったりもするの。

最初はもう少し小さかったんだよ。お腹のこれとか参っちゃうよね〜。もう、ほぼまんま『子宮です』って感じじゃない?」

「……確かに、言われてみれば、そう見える、かも」

 

 苦手な裸体を前に、怖じ気づいていることを気取られないようにしながら、なるべく紋だけを目にするようにして、必死に観察する。

 

「本当は、股っていうか太腿の内側にまであるんだ。でも、そこはさすがに見なくてもいいから」

「股の内側って……そんなとこ、脚広げないと見えないじゃないか。なんでそんなとこに……」

「さあー。なんかその方がいやらしいからじゃない? どう考えても、私の植能に起因する模様っぽいし。子宮の上にもあるんだからさ」

 

 部屋の中にあったベッドのシーツを取ると、ムラサキは目のやり場に困らないよう、それを体に羽織ってくれた。ぽすんっ、と軽い着地の音を立てながらベッドに腰を下ろす。

 

「だから、これが私が着物着てる理由。別に長袖のシャツとかズボンでもいいんだけど。ほら、この肘のやつ、半袖ではギリギリ隠れない大きさでしょ。毎回長袖だけ選んで着替えるのも面倒だし、それならもういっそ、最初からお洒落なのがいいかと思って」

 

 そう言いながら、腕を伸ばしてみせるムラサキにボクは一旦納得しかけたけれど、すぐに気が付いて首を傾げた。

 

「でも、着物を着てても肘や腕が見えることはあるよね? ボク、全然気付かなかったんだけど」

「それも一つ、理由かな。私の着物の繊維データに、肌を隠す特殊なプログラムが組み込んであるの。何故か、スキンのデータでは上書きしても消すことができないんだよね、この淫紋。だから、日常生活してる分には、そんなに目立たないと思うよ」

 

 そんな気苦労までしていたのか、とボクは驚いた。

 ムラサキが着ていた着物は、見ていた限りではごく一般的なそれに見えたけど、そこまでの仕様があるのなら特注品だろう。もしくは、市販品を改造してもらったのかもしれない。

 

「なんかゴメン、そんな大事なもの脱ぎ捨てさせて……」

「あ、いいのいいの! 一応古着で原材料は高いヤツじゃないし……そういうの改造してくれる子がいて、頼めばまたやってくれるからさ」

 

 気にするな、というように慌てて手を振ってくれたムラサキの体温が近い。

 腰掛けたベッドで隣に肩を並べながら、ムラサキが喋り続ける。

 

「ただ、布で覆える範囲にしか効かないから、限りがあって……袖で包まれてる両腕はいいんだけど、脚は対象外みたいなんだよね。そもそも袴の時は、上の着物も丈短くしてることが多いし、スカートみたいに両脚まとめて纏ってる分、効果も弱まるみたい」

「なるほど? まあ、和服で下が二股に分かれてるっていうと、指貫とか作務衣とか、それぐらいの物だからな」

「よく知ってたね? 草履じゃなくてブーツを使ってるのは、単に動きやすいっていうのもあるけど、この紋のせいもあるの。足袋だと透けるかもしれないけど、ブーツなら隠せるし」

 

 ムラサキは背中からクッション代わりの羽毛枕に寄り掛かって、天井を見上げていた。

 その緩んだ胸元に目がいかないよう、慌てて目線を逸らしながら、脚に巻き付いた蔦をボクは眺める。どちらの脚も、両膝にぐるぐると蔦が絡まっていて……右足首の方にだけ、それが伸びているようだ。

 

「さっき見えた限り、濃淡にも随分差があるよね。胸とかのに比べて、その足のは随分薄いし……」

「発動中も、浮き出てるところとそうじゃないところがあるんだよね。このピンクと紫の奴って、模様に何か差があるのかな。私には何もわからないんだけどさ。分からないことだらけ」

「なんで、それさっさとSOATに言わなかったんだ」

「この自称ド淫乱の象徴みたいな植能のことを、どうやったら他人に言い触らす気になるのよ。ましてや公的機関に登録しろなんて、晒し者でしかないじゃん!? これ、闘いじゃ何の役にも立たないのに!」

 

 ぷう、と子供じみた顔で頬を膨らまされた。

 ……いや、それはちょっと卑下し過ぎじゃないかな。ボクが言うのも何だけど。

 でも、確かに彼女の言い分も分かるので、ボクは黙っておいた。

 

「あんたの植能の効果と、この紋のモチーフ……何か関係があるんだろうか」

「今回のことではっきりわかったけど、光ってる淫紋の位置によって……子宮(ウーム)の効果がちょっとずつ変質してるみたい。昨晩はここ。胸元の蝶だった」

「……各々の紋に、違う効果が付与されてるってこと?」

「かもしれない。けど、今んところどれが何なのか、さっぱりなんだよね。昨日の〝催眠〟は、たまたま上手くいってよかったけど……」

 

 私が傍にいたらヨハネも鳥さんも起きないかもしれないから、部屋を隔離してたのもある、とムラサキは説明しながら首を捻った。

 

「かつてのユイトみたいに、一人の人間が大量の植能を保持できる例もあったけど、一応これは植能としては一つだろうしね。……七つ以上揃うとどうなったかは、ヨハネも覚えてるでしょ?」

 

 今更だけど、髪を下ろした彼女を見るのは初めてかもしれない。裸にシーツを羽織って下ろした髪って、もうそれだけでとんでもなくしどけない状態だけど、話の深刻さのあまりそっちはあまり気にならないまま、ボクはその台詞に反応する。

 

「……ってことは、もしかしてその淫紋は、七つ以上発動すると」

「どうなるかは、わかんないんだけどねー? っていうかそもそも、こんな模様身体に七個も光らせて歩きたくないし。歩く痴女だから襲ってくださいって言ってるみたいなもんじゃん」

「それは言い過ぎでしょ、いくら何でも」

 

 貢献度の割に自虐が過ぎると軽く睨んだら、愛想笑いで誤魔化された。

 小さく溜息を零してから、ボクは躊躇いがちに口にする。

 

「……これ、何とかする方法はないの?」

「だからこその、風俗業なんだけどね?」

「?」

 

 話が読めずに眉を顰めると、ムラサキは手を広げた。

 

「男の人から精力を貰うと酷くなるんだけど、不思議なことに女の人から精力貰った時だけは、淫紋の暴走がちょっと抑えられるみたいなんだよね。

だから私は、すこーし他の人が気持ち良くなるお手伝いの報酬として、お金もだけど、精力も頂いてたの。意図的にっていうか、子宮(ウーム)が勝手にやってくれてたんだと思うけど。まあ、貰えるのに十分なほど精力が湧くぐらい、相手を気持ち良くするのが私の仕事だし」

 

 ということは、男から精力を貰った経験も、一応はあるということになる。

 ウルカに聞いたチョコレートの件と、そこから推察される事を想像して内心は気が気じゃなかったけど、なんとかそこには突っ込まずに、ボクはふと思いついたことを尋ねてみることにした。

 

「それだって所詮は対処療法だろ。っていうか、そんな面倒なことしなくても、そもそもそいつは、殻に寄生してる原因不明のバグみたいなもんって風には考えられない? アバターごと削除して、別の殻に乗り換えればいいんじゃ」

「それが出来るんなら、とっくにやってるよ」

 

 今度は、ムラサキが溜め息をつく番だったらしい。

 日が昇り始めた窓辺から、外の湖を覗きながら、ムラサキが遠い目になって話し始める。

 

「この淫紋は、使用者に取り憑く悪魔や、感情を増幅させる審判やエレメント、普通の植能とは多分違う。……私自身の『存在』に、深く根を張っているものなんだ」

「……存在に根を張るっていうのは? IDのバックアップさえあれば、殻の乗り換えは可能だろ」

「文字通り、この体から強引に淫紋を剥奪すれば、私はセブンスコードから消滅する」

 

 淡々と答える彼女の声のトーンは、へらへらと喋っていた時のそれとは、違っていた。

 一瞬で掛ける言葉を失ったボクに、ムラサキは逆光の中で、安心させるようににこりと一度微笑んでみせる。

 

「消えるのは体だけじゃないんだ。ちょっとした友人が、興味本位で調べてくれてたんだけどね。

私がこの世界で経験した記憶や経験全部に、この淫紋の配列がデータ化されて組み込まれてるんだって。これを破壊すれば、私のここでの思い出も全部失われる」

「っ、そんな……ッ!?」

「それはちょっと寂しいから嫌だな。こんな私だけど、一応それなりに、この世界に愛着があるし。それに……」

 

 衝撃の真実を知らされ、愕然としたボクの前で、ムラサキはタオルの端を胸元で握ったまま俯いた。

 

「……それに?」

「私はずっと、『捕縛』の時のヨハネさんのことを見てたから。知らないかもしれないけど、一緒に、傍で闘ってきたから。君にも、愛着があるんだよ。もちろん、みんなにも」

 

 まっすぐな黒い瞳が、ボクを見る。朝日に輝くその瞳が、微かに桜桃色に染まっていた。

 そのはにかんだみたいな微笑みと同じくらい、優しい目。

 「一緒に闘ってきた」っていうのは、どういうことなんだろう。

 彼女の言葉にも、その体と植能にも、謎が多すぎる。けれど、少なくとも彼女はボクにとっての敵ではないと、感情のどこか深い部分が、理屈じゃない場所が、ボクにそう告げていた。

 それどころか、なんだかずっと、懐かしくて――ずっとボクを見守ってくれていた誰かのことに、やっと今気付いたような。そんな不思議な気持ちになる。

 

(……対処療法、か)

 

 けど、一時的にでも、何とかなるのだとしたら。謎めいたそのあんたの体の紋が、こうしてあんたが無茶する度、あんたを苦しめるのだとしたら。

 ボクは知らないうちに、一歩彼女に近づいて、眩しい窓辺の光の中でその肩に触れていた。

 

「それ、ボクが……」

「?」

「……ボクが、あんたの相手をすれば、その……役に立てる、のか?」

 

 中身はどうあれ、殻が女性なんだとしたら。その体の紋は、ボクをどう裁くんだろう。

 言葉の意味を理解したムラサキが、その瞳を見開いて、小さく息を飲んだその時だった。

 

「ヨ~ハネぇ~っ! 迎えに来たよぉ……ってひょおおおおおおおお!?!?!?!?」

 

 信じられないくらい間の悪い珍客が、唐突にドアを開けて素っ頓狂な声を上げながらその場にブレーキを掛けた。

 頭痛がする頭で振り返りながらボクは怒鳴る。

 

「あのねぇ、にな……! 部屋に入る前にノックぐらい……」

「よっ、よっよっよヨハネが人妻を脱がせて押し倒そうと……!?!? こっ、これは見逃せませんなぁ! スクープスクープ、大事件だぁ!」

「これのどこがそう見えるんだよッ!? バカみたいな事言ってる暇があったら、さっさと二階で着替えの一つや二つ……っ」

「うわあああああ大変だぁ大変だたいへんだ! ヴァイスのみんなにも報告しなきゃ!」

「おい、しなくていい! 人の話を聞けーッ!」

 

 大騒ぎしながらも、ドタドタという足音が上に上って行ったので、着替えは取りに行ってくれた

らしい。頭を抱えるボクの後ろで、ぽかんと一部始終を見ていたムラサキは、くっくっくと肩を揺らしておかしそうに笑い始めた。

 

「あれがになちゃんかあ、ふふっ、元気な子。ごめん、なんかとんでもない誤解されちゃったみたい」

「あんた、ヴァイスのメンバーのことも知って……?」

「あ、うん。『捕縛』の裏で奮闘してくれてた子達だよね。勿論会ったことはないんだけどさ」

 

 そうこうしている間に、嵐のように戻って来たになが、ワンピースを突き出した。

 

「はーい! ムラサキ、これー! ちょ~っと大きいけど、着たらサイズは合うと思うからっ!」

「ありがと、になちゃん」

「えへへ、どういたしましてぇ! ヨハネはまだここにいたのー? 乙女の着替えを覗くなんてぇ、早々に退散しないと、変態さんだって思われちゃうよ?」

「うるッさいなっ、別に興味本位でいたわけじゃないんだよッ!」

 

 最後まで笑いの止まらないムラサキに見送られながら、一旦部屋を出るなり、になが興味津々な様子でついてきた。やれやれ、こっちへの説明も骨が折れそうだ。

 

「迎えは有難いけど、もうちょっと静かに来てよね……」

「ヨハネが持ってた通信機の履歴を辿ったら、最後にこのあたりで途絶えてたから慌ててすっ飛んで来たんだよー? あのデカい鳥もいなくなっちゃったし、一見落着だね!

それは置いといてぇ、ねーねーぶっちゃけどーいう関係なの? あのムラサキとヨハネってー!」

「……警護対象と警備員」

「またまたぁっ。そういうのって、愛を育むための『口実』って奴なんじゃないのかいっ? んにしても、あたしの裸で鼻血出してぶっ倒れてたヨハネが、既婚者ゲットしてくるなんて~、どんな心境の変化か気になりますなぁ。たとえ障害の多い恋でも、になは応援してるからねっ」

「だから、そういうんじゃないって言ってるだろッ!」

 

 ……ダメだ。事実を言ってるはずなのに全然通じない。

 久しぶりのになのハイテンションさにげんなりしていたボクは、ぴちちちと鳴く声で我に返った。

 そういえば、あの鳥が目を覚ましたみたいだ。カーテンの前で翻ったシルエットが、逆光になって視界に映る。こっちの肩にぱたぱたと飛んできて止まる姿に、ボクはほっとしつつも呆れて話し掛けた。

 

「ったく。別にお前が悪くないのは知ってるけどさぁ、お前のせいでボクもムラサキも割と大変な目に…… ……? っっっ!?!?!?」

 

 普通に話し掛けようとして、ぴぃぴぃ鳴く鳥の違和感に気付いたボクは、思わず大声でムラサキを呼んでしまった。

 

「サキ! ねえムラサキ! ちょっと来て!」

 

 ん? とになは隣で首を傾げている。

 紋の入った脚が目立つ、膝上丈の袖が膨らんだワンピースに着替え終わったムラサキは、扉の向こうから顔を出した。ボクがシェルターで拾った髪留めを返したから、頭はいつものハーフアップに結い上げている。

 

「何? どしたのどしたの、大声出して」

 

 思った以上にその洋装が似合っていてぽかんとしたボクの元に、裸足のムラサキがフローリングを踏んでたったとやって来る。

 そして、ボクの肩に止まったそいつを見て、わああ、と驚きと喜びに目を輝かせた。

 

「色! 色が、変わってる……!」

「そうなんだ。こいつが黄色かったのは、雷のエレメントに影響を受けてたせいみたいだね」

 

 白いお腹と黒い模様はそのままだったが、朝日の中で少しぼろぼろになった翼をぴっと掲げてみせる件の鳥は――その羽毛が真っ青に変わっていた。

 

「湖に落ちた時に、この子が青く光ってたのは、元の色が青かったからなんだ……! あはは、よかった!」

 

 こっちに手を差し伸べたムラサキの方へ、鳥はぴょんぴょん飛んで腕から乗り移ると、ふわふわの顔をムラサキの頬にすり付ける。

 

「あっ! そーだ! ごめんっ、あたし靴持ってくんの忘れてたー! ムラサキ、ちょっと待っててー!」

 

 思い出したように再び上の階のクローゼットに駆けていくになを見送って、ボクらはリビングの窓を開けた。外側に開いた格子窓から吹き込んだ爽やかな風が、白いカーテンを揺らす。

 

「さ、お行き」

 

 少し寂しそうな顔をしたムラサキが腕を差し伸べると、首を傾げた青い鳥は、光の中でばさりと翼をはためかせてから、風に向かって力強く羽ばたいていく。

 ……が、湖の岸辺を旋回したかと思うと、すぐに窓辺に戻って来てしまった。

 

「だ、だめだよ。こっちは自然界じゃないんだから。どこでも好きなところへ行っていいんだよ」

「ぴぃ?」

 

 もう一度腕に上らせて飛ばせてみるものの、何度やっても同じ。

 鳥はボクらのところへ戻って来て、黒い粒のような目で、不思議そうにボクらを見上げている。

 

「……あんたのことが気に入ったみたいだな。もうそのまま飼えば?」

「え、ええ? でも、私が飼ってると、また植能にやられちゃうかもしんないし……大体野鳥とか勝手に飼って大丈夫なの?」

「それも承知の上で、こいつは戻って来るんじゃないの? あんたの植能でやられて元に戻ったんだから、十分わかってるよ、そんな事。それにこっちの世界の動物は、命ってより単なるデータって扱われ方をしてるから、うるさく言う奴はいないと思う。たしかに、ちょっとここらじゃ見ない鳥だけどね。何ならボクが許可は出すよ」

 

 驚いたように目を丸くするムラサキの肩で、鳥もそれがいいというようにぴぃぴぃ鳴く。

 潤んだ瞳を向け、その頭を指先で撫でながら、ムラサキが聞いた。

 

「私が、怖くないの? 私の植能のせいで、怖い目に遭ったのに」

「ぴぃ♪」

「……一緒に、いてくれるの?」

「ぴーっ!」

 

 ぽろぽろ涙を零すムラサキに、額から頭をぶつけに行く青い鳥。なんだかその眺めは、幸せの青い鳥みたいで、見ていて悪くはなかった。

 なんとかこっちも片が付いたなと思いながら、ボクは胸に温めていたもう一個の提案を口にした。

 

「ムラサキ。SOATに行こう」

 

 はっと見開いた瞳から、雫が落ちる。

 その目をまっすぐに見つめて、ボクは告げた。

 

「カシハラが、あんたの植能を調べたがってる。あんたが警戒するのももっともだけど、うちの職員と研究員が、あんたに怖い思いをさせることはないから。

それに、もし研究に協力してくれたら、あんたの紋が持つ詳しい効果や、暴走を抑える方法も分かってくると思う。そうすれば、そいつを傷付けない役にも立つと思うんだ」

 

 少し狡い言い方だったかもしれないけど、ムラサキはそれを聞いて、考え込むようにじっと俯いた。

 

「……お堅い役所人間が、バーチャル風俗を続けたいっていう一身上の都合で紋を背負ってる私の話を、傾聴してくれるとでも?」

「それでもボクは、仲間を信じる。『捕縛』でボクらはみんな、誰かを失う痛みやそれぞれの抱える苦しさを知った。

ボクの仲間に、あんたの在り方を嘲笑う奴なんかいない」

 

 今なら、確信を持ってそう言えるから。

 SOATにいる仲間一人ひとりの、誇りに満ちた顔つきを思い浮かべている間に、ムラサキとの間には長い沈黙が流れた。ボク自身、信じることの難しさを知っているから、たとえどんな返事があっても、強制することはできない。

 

「……」

「……信用、出来ないよね」

「わかった。いいよ」

「!」

 

 ついに頷いてくれた彼女の顔を、ボクは思わず穴の空くほど見つめてしまった。

 穏やかな日差しが雲の隙間から差し込んでくるのを浴びながら、ムラサキは照れたように笑う。

 

「まあ、ぶっちゃけ100%の信用はできてないけど、ヨハネのことは信じてるから」

「……ありがとう」

 

 彼女の信頼に、応えたいと思った。

 また一歩、新たな方角に進むこの曲がり角が、いいものか悪いものかはわからないけれど。けれど、きっといい方に進めてみせると思いながら、ボクはになに手渡された靴へと履き替える、彼女の手を引いた。

 

「ねぇ、ヨハネさんさぁ」

「うん?」

「さっき私のこと、サキって呼んだ?」

 

 ワープの光が体を包み始めた時。離れないようにと手を繋いだままの彼女が、こっそりと呼び掛ける。

 鳥の色が変わっていたことへの興奮で、ついそう呼んだことをすっかり忘れていた。

 

「あ、い、いやなら別に、忘れて……」

「んーん、イヤじゃない。嬉しかったの。ヨハネさんになら、これからもそう呼んで欲しい」

 

 ぎゅ、と温かさを取り戻した手が強く握り返してくる。

 微笑んで見上げてくる顔を見返せないままで、ボクは返事の代わりに黙って彼女を引き寄せた。



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第三章
3-1 命名


SOAT訪問前にヨハネと待ち合わせをしたムラサキは、共にいたヒバリに青い鳥の名付け親になってもらうことにする。
その後、ヒバリを迎えにリアが現れて……


第一節 命名

 

 巨鳥、Halcyonとの対決を終えて一週間ほど経った後のこと。

 ようやく、心身ともに回復の日を見た私は、今日SOATへ向かう前に、ヨハネとの待ち合わせ場所であるカフェへ向かっていた。

 私だけでなく、私達が保護した青い鳥も元気を取り戻し、今や私の肩に止まってぴっぴと元気よく囀っている。ちょっとうるさいぐらいだ。道行く人達が興味深そうに振り返るのが面白い。

 私が元居たアパートはといえば、例のテケテケにめちゃくちゃにされた壁やエントランスが修復に入ったので、療養を取る間滞在したのは、再建されたシェルターだった。

 そして、シェルターといえば、今日はこの子も一緒である。

 

「ムラサキ、からだ、いたい、なくなった?」

「うん。大丈夫よ~。ヒバリちゃんが一生懸命看病してくれたおかげ。心配掛けてごめんね」

「ヒバリ、しんぱい、だいじょうぶ。こんど、むっちゃん、いない、ならない、ように、手、つなぐ」

 

 私よりももっと小柄な子供なのに、しっかりと頼もしい光をその目に宿している。

 ヒバリちゃんは、真面目な顔で私の手を隣できゅっと握って歩いていた。もう絶対に離さないというように。

 その様子を、青い鳥が肩から覗き込んで、不思議そうに首を傾げている。

 

「とりさん。みはって、ないとだめ。むっちゃん、すぐ、ひとり、むりする。だめ。

わかった?」

「ぴ!」

 

 ヒバリちゃんは、鳥にまで先手を打つつもりらしい。

 しかも鳥は会話をしているつもりのようで、本当にわかったという様子で鳴くので、おかしくて思わず笑ってしまった。

 

(いやいやでも、ヒバリちゃんを心配させるのは、笑いごとじゃなく良くないもんね。

ヨハネとかSOATの人達のおかげで、この植能のことが色々分かるといいけど)

 

 リアルは冬だが、セブンスコードでは冬景色が楽しめる日とそうではない日を作っているので、今日は常緑樹が街路に影を作りながら、さわさわと風に揺れている。

 散歩するには丁度いい日和だなぁと思いながら、手を引いたまま待ち合わせ場所まで歩くと、私はテラスのビニール屋根の下の席で、ヒバリちゃんを先に座らせた。

 一週間前、ワープで再建後のシェルターに現れるなり、ヒバリちゃんは今にも泣きそうな唇をぎゅっと結んだ顔で駆けてきて、

『むっちゃんの、ばか。いなく、なっちゃった、かと、おもった』

 とお腹に抱き着くなり、顔も上げようとしなかった。

 自分がここまで一人の子に深く想われていたということを知るだに驚いたし、同時に彼女のためにも、この植能を調べたりコントロールしたりする術をSOATで得るのは必要な事だろうと、私は決意も新たに、今日この場に臨んだのだった。

 

(……ていっても、面談は午後からだからそっちが口実で、本当はみんなとカフェデートしたかったんだけどね)

 

 内心舌を出しつつ、メニューをヒバリちゃんと並んで見ていたところへ、黒い隊服に身を包んだヨハネが、颯爽と外を回って歩いてきた。腕には黄色の腕章が誇らしげに揺れている。

 

「よかった。二人とも、元気そうだね」

「うん。おかげさまでね」

「おかげ、さまで」

「お。ヒバリもよく喋るようになったな」

 

 わしゃ、とグローブの手で頭を撫でられると、ヒバリちゃんは照れたように小さく笑みを浮かべた。

 あんまり表情の変化がなかった子だけど、私には目を見ているとその気持ちがよく分かるし、こうして私やヨハネの傍にいる時はリラックスできるのか、笑った顔を目にすることもある。

 心の傷を負ってセブンスコードに来たであろう彼女にも、いい変化が訪れているようで、私は微笑ましくその様子を見守った。すると青い鳥が、存在感をアピールするようにヨハネの肩口へ飛ぶと、つんつんその毛を引っ張り始める。

 

「いて。おいおい、いい度胸だなぁ。お前、元の姿に戻ってますます威勢良くなったんじゃないのか?」

「ぴーい!」

「ヨハネ、あそんで、ほしい。いってる」

「え。そんなの分かるのか」

「なんと、なく。むっちゃん、ねてた、とき、ヒバリ、おせわ、してた」

「雲雀ちゃんは、はじめて私がシェルターに来た時から、この子と仲良くしてくれてたもんねー」

 

 にこ、と笑い掛けると、ヒバリちゃんは運ばれてきたミックスジュースを前にしながら、こくりと頷く。

 その横から鳥がグラスに嘴を突っ込もうとするので、ヒバリちゃんは慌てて押し退けた。

 

「だめだよ。また、きいろく、なっちゃう」

「あははっ、ジュースが黄色くても、黄色になったりはしないよ。それに、まあリアルじゃ問題だろうけど、セブンスコードで人間の飲食物を与えても、動物には影響ないから。飲ませてやっても大丈夫だよ」

 

 そう説明しながらヨハネが自らのコーヒーカップを取り上げるのを見て、じゃあヒバリちゃんルールだと、コーヒーを飲んだら黒くなるのかしらと考えていたところへ、つんっと袖を引っ張られた。

 

「ムラサキ」

「ん? なぁに?」

「とりさん、なまえ、ない?」

 

 ぱちぱちと瞬きする平坦な瞳を見ながら、私はケーキのフォークを置いて考える。

 そういえば、考えたことなかった。鳥とか黄色い鳥とか青い鳥とか、便宜上そう呼んでばかりだったけど、まさか飼うとは思っていなかったので、本気で命名しようとしたことがなかったのだ。

 ジュースを飲んだ嘴を満足そうにぱちぱち鳴らす鳥を見ながら、私は考える。それにしても、鳥にミックスジュースって現実だったら動物愛護団体から苦情が来そうな光景だ。

 

「飼うんだったら、そろそろお名前付けてあげてもいいかなぁ」

「その方がいいよ、データバンクに登録しとけば、迷子になった時も探せるし」

「じゃあ、ヨハネはなんかいい案ある?」

「へ、は? ボク? なんでさ」

「いや、だって一緒に捕まえたっていうか、元に戻したんだし。ヨハネだって親みたいなもんでしょ」

「て言われてもな……ボクに、その辺のセンス自信ないし……

親代わりっていえば、ヒバリの方がよっぽどそれらしいだろ」

 

 私達に視線を注がれて、膝の上で丸くなった青い毛玉を撫でていたヒバリちゃんは、不思議そうにゆっくりと首を傾けた。

 薄青色の胸毛が、呼吸する度にふわふわと揺れている。話題の中心になっているのが分かっているのかいないのか、鳥はどことなく期待に染まった目で、ヒバリちゃんのことを見上げていた。

 

「ね、ヒバリちゃん。もしよかったら、ヒバリちゃんが名前を付けてみてくれないかな」

「わたし? が、この子、に?」

「うん。だって、私にとってもその子にとっても、ヒバリちゃんは命の恩人だもの。できたら一緒に飼えたらいいなって」

 

 この鳥は賢いから、私のアパートとヒバリちゃんのシェルターを交互にねぐらにするぐらいは、器用にやってのけるだろう。

 そう言う私をぽやんと見上げたヒバリちゃんは、薄い色素が混じった柔らかな茶色っぽい毛を揺らして、不思議そうに首を傾げる。

 

「ヒバリ、なにも、してない、よ?」

「そんなことないよー! ヒバリちゃんは傍にいてくれるだけで、元気が出るし勇気百倍になるんだもん」

 

 同調するように、鳥がぴっぴっと膝から楽し気に鳴いた。

 微かに優しい笑みを口元へ浮かべながら、風に短い髪を流して、人差し指で羽根を撫でていたヒバリちゃんは、不意にその鳥をテーブルの上に置くと、私達のことを交互に見上げた。

 

「じゃあ、ね」

「うん」

「ことり、が、いいと、おもう」

 

 意外な答えにちょっと目を丸くすると、隣にいるヨハネもぽかんとしたようだった。

 

「小鳥? って、元が鳥なのにそんなアホな……」

「ヨハネ、ヒバリちゃんがいいならいいじゃん。ちなみに何でことりがいいの?」

「この子、が、まるく、なると、ころがって、ことりって、おとが、しそう、だから」

 

 確かに、エレメントの力を失ってからというもの、この青い鳥は雀ほどに縮んで手のひらサイズになった。置物だったらころんと転がりそうな雰囲気を醸し出しているので、その比喩はぴったりだし可愛く思えた。

 気に入ったように、鳥もちょんと掌に乗ったり下りたりしながら、ぴよぴよ鳴いている。

 

「それと、ね。みて、よはね」

「ん?」

 

 ヨハネに注意を促したヒバリちゃんは、右手で親指と人差し指を伸ばし――鉄砲の形を作ると、それを青い鳥に向けて撃ってみたのだった。

 

「ばーん」

「ぴよっ」

 

 野生の鳥もびっくりの演技で、一声鳴いてこてんっとテーブルに転がる青い鳥。見事な引っ繰り返り方だ。

 滅多に笑い声を出さないヒバリちゃんが、それを見て楽しそうに肩を揺らした。

 

「ふ、ふ。うふふ」

「……なかなか残虐な遊びを教えるじゃないか」

「でもね、これ、この子が一番最初にやり始めたのよ?」

 

 一緒に笑っていいのかどうか、何とも複雑な笑みを形作るヨハネに私が補足すると、彼は驚いたような顔でこっちを振り返った。

 

「シェルターでお料理をしてて、ヒバリちゃんが泣いちゃった時かな。たしか、火傷をしたんだよね。

私がおろおろしてたら、この子が突然、『ぴよっ』って鳴きながらテーブルにぱたーん、て倒れ出して。

可笑しくなって、え、なになに? て聞いたら、私の指をつっついて、それで撃てって言うの。

もう、意図を理解するのにしばらくかかっちゃったよ。本当に人間みたいなんだから」

 

 話しながらその時の事を思い出したら、私も笑いが込み上げて来た。

 あの時は丁度、台所の隣にあるリビングルームのテレビで、某県民の撃たれた時のリアクションみたいなのを特集していて。

 それを見て、この子は真似したいと思ったらしい。

 案の定、ヒバリちゃんには大ウケで、それ以来この子お得意の一発芸なのだ。

 私達の話を聞いたら、釣られてヨハネまで笑い出した。

 

「あ~あ、笑った。そういうことか」

「ことりっ、て、たおれ、てるように、みえる、でしょ」

「うん、見える見える」

 

 という訳で、カフェでの飲み物がなくなるまでの間に、無事青い鳥の名前は〝ことり〟に決まったのだった。

 得意げに胸を張って肩に乗っていることりを見て、ヨハネが言う。

 

「なんか、研究所の奴らが見たら、あんただけじゃなくてこっちの鳥にも食いつきそうだな……」

「あ、エレメントを宿したことのある珍しい鳥だからってこと?」

「そうじゃなくて。どっからどう見ても、人間の言葉を解してるようにしか見えないから」

「ぴ?」

 

 ヨハネが話しているのが分かったのか、ことりがそちらに不思議そうな顔を向ける。

 

「ことりは、賢い鳥さんだもんねー」

「まあ、餌食にならなきゃいいんだけど……」

「え、そんなやばいとこに連れてかれるの、私」

「いやまぁ……あんたの担当になるであろう研究員、人は悪くないヤツなんだけど、ちょっと度を越して研究熱心というか……とにかく不思議なモノって聞くとなんでもかんでも放っておかなくてさ」

「ははぁ……でもその気質、研究者には大事かもねぇ」

「大丈夫、ボクが見てるところで変なことはさせないから。リアちゃんにも様子を見に行ってもらうし。とりあえず、今日は話を聞くのがメインになるだろうから、あんた一人でいいよ」

 

 そこまで話した時、テラス席の外から、ヨハネと同じ隊服姿のかわいい女の子が、こちらに手を振っているのが見えた。

 

「ヨハネさん! オオノさん!」

「ん。噂をすればだ」

 

 私たちは席を立って店の外に出る。

 さすがにヒバリちゃんをSOATの中にまでは連れて行けないので、シェルターへの帰りの送り届けは、リアちゃんこと(サカキ)莉亜(リア)ちゃんが担当することになっていた。ここまで、ヒバリちゃんを迎えに来てくれたのだ。

 

「お待たせしました!」

「全然待ってないよ。時間ぴったり。さすがだねリアちゃん」

「えへ……そういえば、そちらの方々とは初めまして、になるのですよね」

 

 左右の色が違う瞳で、リアちゃんが私とヒバリちゃんに向き直る。

 ヒバリちゃんはちょっと緊張気味な様子で、私の腕に掴まったまま後ろに隠れていた。

 

「大丈夫よ、ヒバリちゃん。この人すっごく優秀な、SOATの隊長さんだから。

……いや、もしかして今は、隊長以上にめちゃくちゃ偉いのかな?」

「名目上は色々と付いていますけど、この街を守る私にとっては、それは取るに足らないことです。

隊長も、本当はちょっと恥ずかしいですけど……親しみをもってそう呼んでくださるのは、うれしいですね」

 

 相変わらず、人好きのする笑顔というか、見ている者の気持ちがまったりする不思議なオーラを、リアちゃんは纏っていると思う。ゲームの中でも見てたけど、実際に対面するとより癒される。

 私も釣られて笑顔になりながら、頭を下げた。

 

「改めて、はじめまして。大野(オオノ)紫咲(ムラサキ)です。

えっと、私のことはヨハネさんから色々聞いてるかもしれないけど、そういうわけなので、リアちゃんのことも一応知ってはいて……ていうか、実はこっそり寮に入った時に、一方的に見ちゃったんだけど……!」

「はい、存じています。えへへ、実は私も同じです。オオノさんがこっそり寮に連れられて来るところを、ヨハネさんのお部屋の前まで尾行した時に、見てしまいまして……。でも、きちんとお顔を見て会うのは、今が初めてですもんね」

 

 コルニアで上手く擬態させたつもりだったけど、やっぱりバレていたらしい。

 お互いがお互いに探り合っているという、何とも居心地の悪い初対面を思い出した私が苦笑いになっていると、ヒバリちゃんが私の体の傍から、こちらをじぃっと覗いていた。

 

「あ、この子がヒバリちゃんです。いつも仲良くしてもらってて」

「シェルターで過ごしておられる方ですね。最近は保護者つきで外出許可も出たと聞いてたので、よかったです!

ヒバリさん、はじめまして。榊莉亜と申します」

「……ヒバリ、です」

 

 小さくなって答えるヒバリちゃんに、リアちゃんは目線を合わせてくれる。

 

「ヒバリちゃん、リアちゃんがシェルターまで送ってくれるよ」

「はいっ。オオノさんはこれからSOATに御用があるので、ヒバリさんは私と一緒に帰りましょうか」

「……は、はいっ」

 

 かしこまって返事をするヒバリちゃんを見て、リアちゃんは安心させるように笑顔になった。

 

「そんなに緊張しないでください。まだ時間はありますから、ヒバリさんが他にも寄りたい場所があったら、そこに行ってから帰りましょう?」

「はいっ。……あ、あの、ムラサキ、は、だいじょう、ぶ?」

「心配いりません。ヨハネさんが、きっといいようにしてくださいますから」

 

 隣に立つヨハネはというと、喫茶店にいた時もコーヒーカップを持ちながら上の空だったところを見るに、緊張はしているんだろうなと思ったが、私はヨハネにすべてを預けて信じてここまで来たも同然なので、リアちゃんと同意見だ。

 頷いて笑い掛けてから、私は掌にことりを乗せて、ヒバリちゃんに差し出した。

 

「はい。早速なんだけど、私は行ってくるから、ヒバリちゃんにことりを預かっといてもらえないかな」

「わかった。ヒバリ、おへや、つれていく」

「ありがとね。ことり、ヒバリちゃんとこでいい子にするんだよ」

「ぴぃ」

 

 お行儀よく両足を揃え、頭を振りながら返事をしたことりは、ぴょんぴょん跳んでヒバリちゃんの腕から肩に上っていった。

 ほっぺたに頭をくっつけることりに、くすぐったそうにしながら、ヒバリちゃんが笑みを浮かべる。リアちゃんも思わずといった様子で顔を綻ばせた。

 

「わぁ、かわいい鳥さんですねぇ」

「この子、ことり。むっちゃん、と、ヒバリの、ともだち」

「ぴーよ」

 

 羽根をばさばさしてご挨拶することりを見て、リアちゃんは驚いたようにまた笑顔になる。

 本部へ続く街路に出て、反対方向へ行くヒバリちゃん達を見送りながら、ヨハネも安心したように頷いた。

 

「リアちゃん、ごめん。あとは頼んだ」

「お任せくださいっ。さぁ、行きましょう」

 

 差し出してくれたリアちゃんの掌を、ヒバリちゃんがおそるおそる握っているのを見て、私も安心する。

 今はちょっと緊張しているみたいだけど、ことりもいればきっと仲良くなれるだろう、と思いながら、その背を見送った。

 

「さあ、ボク達も行こうか」

「うう、ダンジョンのラスボス攻略に行く前の気分……」

「そんなに緊張するなよ。少なくとも、あんたから見れば顔見知りに会うことになるんだろ?」

「そうかもしれないですけどもおおおおお!」

 

 全然無関係の人間として見ているのと、当事者として行くのとじゃ違い過ぎるのだ。

 けれど、私が愛した人達ならきっと大丈夫だろう、何とかなると内心は思いながら、私は道の先に佇むSOAT本部のオフィスを見上げた。

 

 

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3-2 訪問

ついにSOATの本部でユイトと対峙したムラサキ。
取り調べの末、ユイトが下した決断は……?


第2節 訪問

 

 それから。

 ムラサキはヨハネに連れられ、今はSOATの本部としての地位を確立した、元ルートCQ地区担当詰所の門をくぐる事となった。

 中にいるのは多くが隊服姿の隊員達なので、皆何事かという顔で、袴姿のムラサキを驚き顔で振り返っている。しかし、全くの赤の他人を見ているというほどにはその反応は強くなく、むしろ皆こそこそと、噂しあっているかのような雰囲気だった。

 

「……ひょっとして、私って結構有名人?」

「まあ、あんたは八尺様の前から色々やらかしてるからね……。あんたと一緒に、闘ったことのある奴もいるはずだよ」

 

 そういえば、八尺様事件の時に勝手に植能を掛けて動かしてしまった若者たちの顔を、オフィスルームの中に見かけたような気がしたムラサキは、彼らが慌てて目を逸らすのを見て、苦笑顔で傍を通り過ぎる。

 エレベーターで階を移動して、テレビ画面や自販機の並ぶ、休憩所らしきエリアに出た。天井から降って来る四角の電灯の光を、興味深げにムラサキが見上げる。

 

「ここ、もしかしてイサクくんがユイトさんと一緒にコーヒー飲んでた場所?」

「今じゃボクもたまに飲むけど」

「ふぇ~……オフィスって感じだぁ。つくづくデザインが、近未来的って感じで格好いいよね。実際にこの目に出来るとか、感動……」

「あんたの世界でこういうの、聖地巡礼って言うんだっけ? ったく、浮かれるのはいいけど、本来の目的忘れないでよ」

 

 観光に来たような様子のムラサキに、呆れたように言ったヨハネが、傍に興味本位でうろつきに来ていた隊員たちをしっしと追い払う。

 

「今はイサクは見回りに出てるはず。さっきカシハラに連絡したから、もう少し待ってて。多分、あっちの手が空いた時に上の部屋へ呼ばれるはずだから、あんたを連れて……」

「その必要はない。ボクが自分で彼女を案内する」

 

 少なくともムラサキにとっては聞き慣れた声が聞こえて、彼女は座っていたベンチから顔を上げた。

 SOATの黒い隊服――ではなく、それを色違いにしたかのような、他の誰とも異なる真っ白の隊服を着た人物が、部下を引き連れて目の前へ歩いてきたところだった。

 ヨハネが目を細める。ムラサキと共に立ち上がって廊下へ出た時、彼は隣に並びながらも、自分より身長の低いムラサキの方へ背を屈めると、耳元にそっと囁いた。

 

「あんたが『知ってる』って言ってた奴には全員、ボクが前もって話してあるから、あんたは何も心配しなくて大丈夫。答えたくないと思った質問には、答えなくていい。

自然体で、正直に話して」

「う、うん。わかった」

 

 なんとか頷いて背筋を伸ばすムラサキの前へ歩いてきた少年が、ゆっくりと立ち止まる。

 ヨハネとほとんど変わらない年に見えるその少年の面持ちを前に、ムラサキは緊張しながらも、どこか感慨深そうな表情になる。

 

「……そっか。『捕縛』が終わった後って、ユイトさんこの格好なんだもんな」

「ああ。普段は仰々しいからこの正装はしないんだが、貴女の反応を見ようと思ってな。

やはりヨハネの言っていたことは本当らしい。これを見て驚かないということは、『知っている』んだろう?」

「私が本当に過去のことを知っているかどうか確かめるために、わざわざこの服装を?」

「試すような真似をして申し訳ない。改めて、ボクが橿原(カシハラ)唯人(ユイト)だ。よろしく」

 

 少年らしい見た目をしていても、あの「捕縛」下で様々なことを経験してきた故か、ユイトは十分落ち着いたままで、にこやかに笑みを浮かべた。

 ムラサキも、少し緊張を緩めながら、差し出された白いグローブを握り返す。

 

「はじめまして。大野紫咲です。オオノでもムラサキでも、好きに呼んでもらえれば」

「貴女にとっては、ボクははじめましてではないと聞いているが?」

「うん、そう。画面の中では見てた……ヨハネさんの奪われてたコルニアと同じで、ほぼずっとユイトの視点から物語を見てて。何て言ったらいいのか……

ごめんなさい! 気安く呼び捨てにして!」

「構わない。何を見ていても、ボクが貴女にとって若造である事には変わりないだろう。

ヨハネ、ありがとう。彼女と少し話をしてくるから、先に研究所の面々へ話をつけておいてくれ」

 

 ユイトがそう言ってムラサキを従えながら歩き出すと、ヨハネは黙って引き下がりはしたものの、背後から物言いたげな視線を、いつものキツい目つきで浴びせていた。

 

「そんなに睨まなくても、乱暴はしない」

「……ッはぁ!? 別にあんた達のこと睨んでなんか……ってかそんなの当たり前でしょ!

もしボクが帰ってくるまでにムラサキを困らせるような事があったら、ボクがあんたを指揮官の座から引きずり降ろしてやるからね」

 

 そう怒鳴ってエレベーターホールへさっさと消えていくヨハネに、ユイトが苦笑する。

 

「ボクもヨハネと短いとは言えない付き合いのはずなんだが、あいつは完全に、貴女のことを優先するつもりでいるらしい」

「! すっ、すみません~! なんか上官にとんでもないご無礼を……」

「気にするな。あいつはいつもああなんだ」

 

 そう言って廊下の先を歩きながら、ユイトが隣のムラサキを見下ろした。

 

「貴女はもう随分、あの気難しいヨハネに好かれてるみたいだな」

「そっ、そうかなあ……? 確かにあの、ゲームの中では私ずっとパートナーにしてて、一番大事にしてたけど……あっそのっ、ゲームっていうのは、あくまで私から見たこの世界の話で! 決してユイトさん達の存在を軽んじるわけじゃっ」

「落ち着いて。少しゆっくり話せる場所まで、まずは移動しよう。面談用の部屋を用意してある」

 

 SOATの本部は、見た目以上に中身が広かった。一棟ではなく、いくつもの棟が集まっているように感じられる。元はここは小さな詰所だったので、仕事場が足りるよう、空間のデータを拡張したのだとユイトが説明した。

 移動の途中、いくつかの執務室や部屋を通ったが、その中にはムラサキが見たことのある留置所もあった。

 縦に鉄格子の嵌まった、檻のような収監スペース。SOATのネオンが輝く薄暗い小部屋の両脇には、帽子を被った隊員達が配置され、通路の警備や面談の監視などの仕事に当たっている。

 

「へーーっ……これがヨハネさんが留置されてた留置所……へーーっ……」

 

 何度もそのシーンを見たムラサキが、思わず感心したように声を漏らしてしまったので、ユイトも足を止めながら驚いた。

 

「そんなことまで知っているんだな」

「まあ、でもあの時ここにぶち込まれてたの、全部ヨハネさんじゃなくて偽物だったみたいだけどね?」

「っ……本当に、何でも知ってるんだな」

 

 驚きを通り越して、ユイトが畏怖するような目になるのを感じたムラサキが、苦笑する。

 その点も含めて、個室に通されたムラサキは、出されたお茶を前にしながら改めてゆっくりと話すことにした。

 ムラサキの世界にある、「セブンスコード」というアプリの存在。

 そこで紡ぎ出される「捕縛」時の世界と、主人公であるユイトの視点から見た闘いの日々。ただし、全てを網羅していたわけではなく、「捕縛」が解除された後の世界に関しても、ムラサキ自身にとってはほとんど情報がないこと。

 驚きを隠せずに、ユイトはその色違いの瞳を見開いて、しばらく話に聞き入っていた。

 

「まあ、時空を乱しに来た戦犯と思われても仕方ないかもしれないけど……私は本当に見てただけ。私が体験してる現実……あなた達にとっての過去に当たるのかな。その流れ自体を、変える事は出来なかったし操作する事も出来なかった。

私に出来るのは、みんなの戦闘のお手伝い」

「干渉ではなく、あくまでゲームの操作、というのを通してボク達に力を与えていたと……?」

「道筋は決まってたから、多分そういう扱いになるのかな。

2021年にはちゃんと2021年の時の流れがあって、この世界で推移してる出来事が、私の世界での時間の流れに従って、ピックアップされて映し出されただけなの。それこそ、ドラマみたいにして」

 

 ムラサキと一緒に頭を働かせていたユイトは、机を挟んで座りながら、腕を組んで微かに眉根を寄せる。

 

「ということは、貴女は単純に見ると、過去から未来の世界へ来ているだけにも見えるが……」

「実際にそうなのかは、分かんない。私の世界の2021年を生きていても、2054年になった時に、必ずこのセブンスコードが出来てる保証も……もっと言えば、アウロラが見つかってる事だって、あり得るかどうかわからないよね」

「それなら貴女は、時間だけではなく、世界と世界の間を跨いで移動してきていることになる。どちらにしろ、次元間移動には変わりないな」

 

 ヨハネの後押しがあったからか、抵抗なく信じてはもらえそうなので、ムラサキはほっと息をついて、湯気の立ったお茶を啜る。

 調書を取っていたユイトが、一息ついたところで顔を上げた。

 

「他にボクらについて知っている人間は、そちらの世界にどのくらいいる?」

「わからない……2021年ではユーザーって呼ばれてるけど、世界各地に散らばっていて、単純にダウンロード数だけを見たら相当いると思う」

「なるほどな。こちらで機密扱いにしている事も、貴女たちの世界の人間には筒抜けということか」

「ただ、その中で今でも定期的にログインしてる人間はどのくらいいるのか知らないし、本当にあの中の世界へ転移出来る人なんて、リアルでは私の他に聞いたこともないよ」

 

 他にも、この世界におけるムラサキの仕事や植能、シェルターでの出来事に関して幾つか質問をした後、ユイトは少し待つようにと伝えて一旦部屋を出る。

 外には、念のために録音を行っていた部下の隊員が控えていた。信頼を置いている上級隊員の一人で、ユイトの事務的な仕事を手伝っている者だ。

 

「どうします? 橿原指揮官」

「まず、彼女の職業だ。

売春は確かに、この街では罪に問われることだが……彼女のいた店は一応、営業法上の許可を申請していたようだし、何より同性同士の売春に関する規定がここにはない」

 

 リアルの世界でも、未だ扱い方が微妙な問題ではある。

 ヨハネ達の調査のおかげで、そのあたりを闇雲に締め付けるのも良くはないと判断していたユイトは、ひとつ溜め息をついてから、現行の規制が新しくなるまでは黙認の姿勢を取ることにした。

 

「次に気になるのは、彼女に他のユーザーにはない不調が見られるところだな」

「痛みを伴う……となると、ログイン時の神経接続から上手くいっていない可能性もあると思いますが」

「だとしても、違う時代にいるのだとしたら、こちらからリアルで技術員を派遣するわけにもいかない。しかもその時間軸が、この世界から地続きになっている保証もないしな」

 

 このへんに関しては、技術部門や研究所の人間に成果を期待するしかない。

 植能の件に関しても纏めて依頼することにして、その上で彼女をどう扱うかの最終判断は、やはりユイトに任されることになる。

 深く息を吐いて、珍しく弱った表情を浮かべながら、彼は無機質な通路の電灯を仰いだ。その横で、隊員は伝令を行うべく、メモを取っている。

 

「こっちが出来ることを支援しながら、全面的に滞在を認める形になりますかね?」

「ここではない世界と時代から来た人間に適用する法律が、このセブンスコードにない以上、現状ではどうすることもできないだろう。参ったな……」

 

 かといって野放しにするのも、何か問題が起こった時に、ムラサキのためにもSOATのためにもならない気がする。

 一つ案を決めてから、ユイトは隊員にヨハネを呼びに行かせ、ムラサキのいた部屋に戻る。

 

「待たせて済まない。これからヨハネと話をして、彼に貴女を迎えに行かせるから、先に談話室で待っていてもらえないか?」

「あ、さっきの部屋だね? えっと~~……」

「この階にも同じものがある。そっちに案内させるよ」

 

 女性隊員に案内役を頼んだ後、先ほどの事務官に呼ばれたヨハネがユイトの元へやって来る。

 先ほどまでムラサキのいた部屋へヨハネを招いてから、ユイトはこう口火を切った。

 

「ヨハネ。お前に、密航者の件に関する特別任務と権限を与えたいんだ。

しばらくの間、彼女の……ムラサキの護衛に付いてもらえないだろうか」

「それが、カシハラの結論ってこと?」

 

 大体思っていたところに落ち着いた、と言わんばかりにヨハネが顎を引くと、ユイトもそれに頷いてみせた。

 

「見たところ、今までの騒動も正当防衛以外で問題を起こしたことはなさそうだし……監視、と言っては彼女も居心地が悪いだろうから、これからはログインの際にこちらへの通知を義務付けることだけ、頼んでおく。あとはお前が、必要に応じて様子を見に行けばいい」

「ふうん。あんた、随分と丸くなったね」

「彼女から、色々と賭場や裏界隈のことを聞いたよ。ボクたちの目が届いていない箇所の事情や、世論なんかも知っていて、随分と参考になった。そういう情報源という意味でも、自由に動いて協力をしてもらった方が、助かるんだ」

「わかったよ。カシハラにしては、妥当な判断だね」

 

 そう言って了承の意を示すヨハネに、ユイトは思わず小さく噴き出した。

 

「……ヨハネ。お前、温情措置で本当は結構安心してるだろ?」

 

 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした後。ヨハネは、微かに赤くなって早口になった。

 

「はぁ? 別に。危険だって判断すれば、強制退出や出禁も有りうるでしょ。ココの治安を守るのが、ボクらSOATの役目なんだから。いくら特別だからって、たかだか民間人の一人になんて構ってられないね」

「そう言いながら、万が一ボクが反対した時のことを考えてリアやミライにまで根回ししてたの、知ってるからな」

「っ! お、同じ女性の方が、心を開くってこともあるかもしれないだろ!」

「ふっ。お前もここでは女性のくせに、何を言って……わかったよ。そういうことにしておこう」

 

 まだむくれて言い足りなさそうなヨハネではあったが、そのままお開きになりそうな雰囲気を察して、ユイトのことを引き止める。

 

「カシハラ、あのさ。もう一個、頼みがあるんだけど」

「何だ?」

「彼女の植能のこと……風俗の仕事以外じゃ、当然危険が及んだ時に発動させるだろうけど、その場にボクがいた方が安心だしデータも色々取れると思う。

……見回りの仕事、ボクと一緒に組ませてくれない?」

「完全な一般人の彼女にか?」

 

 驚いたようにユイトが目を見開くが、ヨハネはじとっとそんな彼を睨む。

 

「次元を超えてやって来てる時点で、『完全な一般人』とはお世辞にも言えないでしょ」

「それもそうだな……。彼女を守ることは、SOATやセブンスコードの秘密を守ることにもなる」

「それにムラサキ、リアルで仕事に就いてないことを気にしてる、みたいなことを前言ってたんだ。別にこっちでの風俗だって立派な仕事だと思うけど、もしSOATの仕事が自信を取り戻すきっかけになるなら、手伝えたらいいなって」

 

 どことなくユイトの目が優しそうに滲んだのを察して、ヨハネがきまり悪そうに弁解する。

 

「べ、別にムラサキの為とか、特別扱いしたいとかそういうわけじゃないから。

あんまりこっちの悪い評判とか書かれても、ボク達が困るし……そ、それに、彼女が暇つぶしで来てるんだったら、こっちだって仕事を手伝ってもらえれば、一石二鳥っていうか?」

「そうだな。経緯はどうあれ、植能を持ったからには、戦闘慣れしておいた方が身を守れる確率は高くなる。

彼女だって、既にエレメントとの戦闘に加わったのは一度や二度じゃないんだ。お前が彼女の身を守ってくれるなら、こっちとしては安心して任せられるよ」

 

 実質ヨハネに一任する形で、ユイトがその場で許可証にサインをする。

 それを端末でデータ送信しながら、ユイトがふっと含み笑いを零した。

 

「ただし、部下本人の人付き合いに関しては、ボクは一切関与しないからな」

「はあ? 何の話……」

「気を配るのはいいが、既婚者に入れ込み過ぎるなよと言っている」

「!?!?!?!?!? だっ、誰が……! そもそもムラサキんちは特殊な家庭環境で、別にそういうのは相手から了承得てるって前に……っていうか何でボクがそんな事説明してるんだよッ!?!? あんたには何も関係ないだろ!?!?!?」

「いや、そっちが勝手に話し出したんだろ……ボクに怒られても困る」

 

 そうぎゃあぎゃあ言いながら、廊下で隊員達の奇異の視線を集めつつも、二人は別々の方面へ向けて的確に指示を飛ばしていた。

 形式上は臨時の職員としてSOATに所属させるムラサキの準備を整えるべく、事務員たちが走り回る。

 一通りの手続きを終えた後で、ようやく彼は説明と研究所への移動へ向かうべく、休憩所のムラサキのところへ合流しに行ったのだった。



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3-3 歓談

緊張から解放され、SOATの休憩スペースでほっと一息つくムラサキ。
その姿を見つけたミライやリアに誘われ、三人は女子トークを……?


第3節

 

(き、緊張、したあぁ……!)

 

 女性隊員に待つように言われ、自動販売機の前のスペースへ腰を掛けてから、ムラサキは大きく息を吸って吐き、胸を撫で下ろした。

 いくら一方的に顔見知りとはいえ、ユイトはセブンスコードの運命を担う存在といっても差し支えないわけで、そんな人間に自分は果たして不穏分子と見なされるかどうかと、内心はかなり緊張していた。

 実際に会ってみると、しっかりしていながらも、元々の性格も相まってかなり温厚な印象は受けたが。こんな立場でなければ、ヨハネのように年下の子扱いしてすっかり可愛がってしまいそうな気持ちもある。

 

(って、ヨハネさんも隊長だから偉い人なんだけどね……)

 

 それにしてもこの接しやすさは何なのだろう、と思いながら、早く廊下の奥からヨハネの姿が見えないかと、ムラサキが待ち遠しく首を伸ばしていると。

 

「貴殿が、櫟に植能持ちと言われていた大野という者か?」

 

 凛とした女性の声に、休憩室のテーブルから声を掛けられた。

 ふと顔を上げてそこを見ると、左右色違いの目をした金髪の若い女性が、丁度コーヒーを手に携えて座っているところだ。隊服の上から見ても明らかなほどスタイルがよい美女に、ムラサキは見覚えがあった。

 

「あなたは……ええと、ミライさん?」

「いかにも。片桐(カタギリ)未蕾(ミライ)だ。密航者として、我々のことはよく知っているそうだな」

「え、ええその、えっと……プロフィールとか手記も、読んだりしたので……。ていうか、ミライさんは、セブンスコード復活直後に隊長を辞められたんじゃありませんでしたっけ」

「そのつもりだったんだが……何かと人手不足で呼び戻されてな。まあ、しかし、私の任務は今は辺境部の出張所管理や見回りに近い。街中の隊長職とは、また少し違う業務だ」

 

 そう言ってすぅっと綺麗な目を細めてみせる。

 

(うう、何か警戒されているような……?)

 

 自分のことを何でも知っている人間が、突然目の前に現れてぺらぺら喋り始めたら、確かにそれはストーカーみたいで気味が悪いだろう。

 すわ何か鋭い言葉でも投げかけられるか、と内心ドキドキしながらムラサキが身構えていると、目の前の席に座るように、と促したミライは、背の低いムラサキのつむじをちらっちらっと見ながら、尋ねてきた。

 

「そういえば、その……ユイトはどうだった?」

(あ……そういえば、ミライさんってユイトの元恋人だったっけ)

 

 愛情の重さ故に、「捕縛」の時は嫉妬の審判に掛かって、なかなか悲惨な末路を遂げたのを知っているが、それは表に出さずに、ムラサキは答えた。

 

「んっと、普通に元気そうでしたよ。取り調べの時も丁寧に接してくださったし……あっ、あの白い服、珍しいですよね。私はずっと、隊服姿ばっかり目にしていたので」

「ええっ! い、いいなあ……ユイト、私達の前じゃ今は全然アレ着てくれないのに……あなたばっかりズルい……っ」

「あああ、でもでも! 単に私が時空を超える前に、どの程度の知識を持ってるか確かめるためだって言ってましたし! ミライさんが頼んだら、ユイトさんはいくらでも着てくれるのでは……?」

「……ふう。すまない。取り乱したな。いいんだ、もう私は彼の恋人じゃない。まずは、不安のあまり相手を縛り尽くしたりせぬような大人になって……それからもう一度、自らの心に問い直そうかと思っている」

 

 苦笑したミライさんから、思わぬ複雑な心境を聞かされてしまって、私は目を丸くした。

 彼女は決して、あきらめたわけではないのだろう。

 けれど、相手がどの領域で、どんな風に刺激や影響を与えてくれているのか、自分はそれをどの程度必要とし、どうすれば互いに搾取せずに共に生きていけるかと、模索して自分を見つめ直すのは、とてもいい傾向に思えた。

 しんどい作業であるだけに、余計に彼女を尊敬してしまう。

 

「……強いですね、ミライさんは」

「なに、人に誇示できるほどのものではない。貴殿こそ……名前はムラサキと言ったか?」

「は、はいっ。よかったらそう呼んでくださいっ」

「ムラサキこそ、不具合のある植能を持ちながら、それを使ってエレメントの被害を鎮圧するなど、なかなかやるではないか。今は研究所への移動待ちか?」

「はい、ヨハネさんの迎えを待ってて」

 

 丁度彼女も休憩中だったようで、私に飲み物を奢ってくれたミライさんは、完全に女同士の会話のノリになりながら、向かい合った私に質問してきた。

 

「具体的にはどんな体調不良が?」

「こっちの世界の人には、一時的な怪我や火傷だったり、ストマクみたいな植能でのダメージを受ける以外、痛みが生じないって聞いてるんですけど、私は普通に、使い過ぎるとお腹とか体とか痛くて……倦怠感もあるし。

ていうか、子宮に関する能力なんで、生理もあるんですよね。酷いと一日動けなくって」

 

 そこまで言ってから、難しい顔のミライを見て、ムラサキはふと話さなくてもよい事を話しすぎてしまっただろうかと思った。

 植能の副作用と言いつつ、実際は薬で誤魔化したり気合を入れて動けばなんとかなるものばかりで、特段病気や不調のようには扱われないのでは、と思ったのだ。

 もっと冷凍ビームみたいな視線を浴びせられたり、甘えるなと一括されるかと思ったが、ミライは神妙に頷いただけだった。

 

「そうか……大変だったな」

(あれれ? 「生理痛ぐらいで甘えるな」とか言われるかと思ったけど……)

 

 勝手にスパルタなイメージをミライに抱いていたムラサキは、半分ほっとし、半分は同じ女性ということで共感を覚えてもらえることに感銘を受けつつ、ココアの湯気を吹いて口を開く。

 

「ミライさんはバリバリお仕事出来るから、もっと厳しいこと言うかと思ってました」

「それこそ、この世界がセブンスコードだからこそ出来ることだ。リアルの世界では、私もそこそこ悩まされた。ましてや動けないほど酷い奴となると、同情を禁じ得ないな」

「え……2050年代になっても、生理痛ってまだ撲滅されてないんですか? 信じらんねぇ……」

「月経困難症を改善するピルの類は随分と進歩したんだがな……。未だリアルでは完全に取り除くことも出来ないとは。医療に関する全研究の総力を上げて、生理痛の根絶に当たって欲しいものだ」

 

 うんうん、と激しく頷き合いながら二人が喋っているところへ、もう一人女性の声が掛かる。

 

「お二人とも、お茶はいかがですか? 新しい茶葉が手に入ったんです」

 

 急須と茶碗をお盆に乗せて運んできたのは、リアだった。

 肩手を上げたミライが隣の椅子を引き、リアはミライとムラサキの丁度真ん中ににこにこと座る。

 

「リアちゃん、ヒバリちゃんのお見送りお疲れ様。大丈夫だった?」

「はい、道中特に問題は起こりませんでした! ヒバリさんもことりさんも、とってもいい子で。私の方がなんだか癒されてしまいました」

「わかる……でも、ありがとうね」

「ほう、榊はもうこんなにムラサキと仲良くなっているのか」

「まだそんなにお話は……でも、私ったらもうすっかり、オオノさんと友達気分になってしまいまして。オオノさんからは、居心地のいい匂いがするんです」

 

 照れたように話すリアから思わぬ評価を受け、ムラサキははにかんだ笑顔になる。

 

「ありがと。この植能持ってて、そんな風に言われたの初めてだからうれしい……あの、ムラサキって呼んでいいよ、リアちゃん。そんなに堅苦しくならなくても」

「敬語は癖なので、つい。でも、それでしたらムラサキさんと呼ばせていただきますね」

「だったら、お前こそ私に敬語を使わず話せ。だいたい、私の方が年下だろう」

「うぐ、そうなんだけど、ミライさんめっちゃ格好いいししっかりしてるから、こっちもつい……わ、わかった、善処しますっ」

 

 リアもミライも、内心はムラサキに興味津々だったらしい。

 珍獣のような扱いを受けながらも、こうやって自分に興味を持ち、なおかつ好意的に接してくれる味方の存在はありがたい、とムラサキは嬉しい気持ちになった。ヨハネやミカも一応女子に数えていい気はするが、彼ら以外の女子とゆっくり話す機会も、そういえば久しぶりだ。

 テーブルを囲みながら、話は弾んだ。

 ムラサキの植能の話題になり、ミライは身を乗り出しながら、思い切ったように口火を切り出した。

 

「その……魅了の能力、ということはだな、その……おっ、お前の能力は、たとえば意中の人間を誘惑したり、などということは……!」

「隊長! ムラサキさんは困ってるんですから、興味本位で尋ねては失礼ですよ!」

「だっ、大丈夫大丈夫!」

 

 慌ててリアちゃんに手を振ってから、赤くなって聞くのも必死という様子のミライさんを、微笑ましげな目になって見つめ返してしまう。

 

(本当に、ユイトのこと好きなんだなぁ)

 

 ああは言っても、どんなに格好よくても、やっぱり乙女な部分を消しきれないミライさんが可愛い、とムラサキは思う。

 一番素朴で率直な気持ちが溢れてくる、そんなどぎまぎとしたミライの表情を見ながら、ムラサキは二人に答えた。

 

「自分が意中の相手でも、そうでなくても、無関係にこの力は効くと思います。

自分に心を向けさせることもできるし……相手が『好きだ』と思う対象に、強烈に惚れさせる作用を催すこともできます。簡単に言うと、いいなぁって思ってるものに惹かれちゃう、みたいな。

ただどちらにしろ、一時的なものなので、解決にはなりませんけどね」

「そ、そうか……惚れ薬みたいなもの、だな」

「でも、一時的な効果しかなかったとしても、そういうのってなんだか憧れちゃいます……よね」

 

 小さく言ったリアに合わせて、俯く三人。

 きっと今目の前の二人は、同じ相手のことを考えているのだろうな、とムラサキはった。

 結局は自分でどうにかするしかないのだけれど、そんな力があるのなら縋ってみたい、と思うほどには、好きな相手がいるということだ。

 

「いいねぇ、恋してるって」

 

 思わず口に出すと、リアはわたわたと手を顔の前で振る。

 

「わっ、わたしはっ! 別にそんなんでは……っ!」

「お前こそ、意中の相手はいないのか?」

「へっ? 私ですか? 私は……」

 

 言われてムラサキの頭にすっと思い浮かぶ、一人の顔。

 リアルにいる夫ではなくて、今恋にときめく相手と言われて、思いつくのは――

 

「あはは、やだなあ。いませんよ、そんな人」

 

 なんて。いないことにしてしまった方が、きっと幸福だろう、とムラサキは無理に笑顔を作る。

 

(何の行き着く先もない私から想いを向けられても、きっとあの子は困るだろうから)

 

 本当は、わかっている。

 自分の気持ちも、それが叶うことは現実的にはきっとあり得ないだろう、ということも。

 ただ、叶わないと言われても常識外れと言われても、それをどこかで諦めたくない気持ちが、心にあった。相手の「普通の」幸せを願うことが、相手の人生にとって一番だ、といくら頭で分かっていようと、それと心を殺せるかどうかは、全くの別問題なのだ。

 そんな身勝手な気持ちを隠し切れず、切ない笑みのまま目を伏せたムラサキを見て、リアとミライは顔を見合わせた。

 

 と、そのタイミングで、ムラサキの胸を占めていた人物が、ぱたぱたと足音を急がせてやって来る。

 

「ごめん、お待たせ! ムラサキ、色々許可が出たから、これ持って研究所に行こう!」

「ヨハネ!」

 

 ぱっ、と瞬時に憂鬱も哀しみも影を潜めたムラサキの表情が、明るく輝く。

 時間押してるから、と挨拶も早々に急き立てられ、ぺこりと頭を下げて二人に手を振ってから、ヨハネの後をぴょこぴょこついて歩くポニーテールの頭を見ながら、肘をついたミライが呟いた。

 

「……ムラサキって、私達より大人の割には、分かりやすいよね」

「ええ……いい意味で、距離を感じませんよね」

 

 一言も名前を漏らしていないのに、一発で好きな相手がこちらから察せてしまう、ムラサキの素直さと表情の動きを前にして、ミライとリアは肩を並べ小さく笑い合った。



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3-4 驚嘆

SOAT私有の研究所へ、今後の研究方針の打ち合わせも兼ねて向かうヨハネ達。
それを迎えたのは、意外な人物で……?


第4節 驚嘆

 

「悪いね、遅くなって」

「ううん、むしろごめんね、私のために。さっき手続きって言ってたけど、なんかあったの?」

 

 早歩きで行くヨハネの隣を歩きながら見上げると、彼は少しペースを落としながらムラサキの顔をちらりと見た。

 

「本当は、あんたの了承取ってから動けばいいんだけど、人がいるうちにやれる事はやっときたかったから……。

あんたにさ、出来ればボクと組んで、SOATの仕事を手伝って欲しい」

「SOATの?」

「この間の件でもわかったけど、理由はともかく、エレメントの暴走を図ってる勢力が、あんたを狙って接触したがってる可能性は高い。

そこから守るために、まずはあんたの仮所属をSOATにしときたいんだ。

研究所に出入りするにもその方がやりやすいだろうし、ボクらも何かあればすぐ動ける。身分証だけでもいずれはそうするつもりだったんだけど」

 

 つまり、SOATとしてムラサキを正式に仲間に迎え入れるということになる。

 街中でばったり隊員達と会った時に、協力したいにも関わらずどちらが敵だの捕まえる側と捕まる側だの、考えるのが面倒だったことを思うと、その方が得策のような気がして、ムラサキもあっさり頷いた。

 

「なるほどね。SOATになっちゃえば、私がみんなに追っかけられる理由もなくなるもんね」

「まあ、あんたは密航者っていう特異的な事情の持ち主だし、あくまでそれは身分上の話だから、こっちの隊員に課すような重責を負わせることはないし、安心して」

「非常勤とかバイトみたいな感じってこと?」

「そんなとこ。まあ、ここまではボク達が勝手に決めたことだし、実際の労働に従事するかどうかは、あんたが判断してくれていいけれど……」

「やる。私手伝う。その方がヨハネの助けになるんならそうしたいし、みんながここまでして、私のこと考えてくれたんだもん。力になりたい」

 

 間髪入れず答えたムラサキに、ヨハネの目が柔らかく微笑んだ。

 ふと垣間見せるこんな優しい表情を目にする度、ムラサキはどうしたらいいかわからなくなるほど、心臓が高鳴るのを感じている。

 

「わかった。ありがとう。

てなると、あとは研究所への出入りの仕方と挨拶かな」

 

 作ったIDカードを渡されて、それがムラサキの端末にインストールされたのを見届けると、ヨハネは地下階にある、ネオンで照らされたような黒い渡り廊下の前で、透明な自動扉を見上げた。

 

「こっからが研究所のフロア。

表から入るときはSOATの正面玄関の裏手が入口になってるけど、一般人が間違えて入って来ないようにわかりにくくなってるんだ。

急ぎの用事がなきゃ、あんたはこっちから入って来ればいいよ」

「こんなの、あったんだね」

「あんたも知ってたんじゃなかったっけ。杉浦(スギウラ)のことを知ってたでしょ」

「まあ、ユイトさんがオージさんの殻に入ったまま倒れて、一回運ばれてきたのは知ってるけど……それでも、見たのはちょっとだけだからね」

「まあ、こっち側の棟にも研究室はあるんだけど、本格的な機材が揃ってるのは研究所の方って感じかな。

施設的にはSOATの物だけど、外部機関とも提携して協力してるんだ」

 

 話すより見た方が早い、と言わんばかりに、入り口のIDチェックを経てヨハネに連れられながらムラサキが中へ入ると、すれ違う職員の白衣率が一段と上がった。

 隊服姿の者もいるが、一段と私服やスーツ姿の職員が多い。これが外部の機関が入ってきている影響かな、とムラサキは思った。

 

「ザ・研究所って感じだね〜。みんな眼鏡似合うし、インテリで頭良さそう……」

「こっちの世界だと、矯正視力は殻で調整できるから、眼鏡は伊達が多いけどね……。

ある意味ステータス、みたいに思ってるのかな。確かにちょっと、眼鏡といいそれ以外といい、変わり者は多いような。

あんたがこれから会うヤツも、多分……」

 

 壁に所狭しとコンピュータが埋まり、何に使うのかも分からないような光を放つ実験器具が沢山置いてある、研究室のような部屋を覗きながら、ヨハネがそう言った時だった。

 

「あっ! もう来てた! やあやあ、ヨハっち〜〜!」

(ヨハっち……?)

 

 生真面目そうな足音が響く研究所には、おおよそ不似合いな能天気な声が遠くから呼び掛けてきた。

 大きな模造紙やら、積み上げた段ボールを前が見えないくらいに抱えてやって来たその人は、声からして女性のようだ。白衣の下から、ストッキングに包まれた細い足が覗いている。

 はて、どこかで聞いたことあるような……とムラサキが思っていると、その人物はよっこらしょと資料の箱を床に起き、無造作に紙やら器具やらが飛び出すその合間から、ぷはあっと顔を出した。

 

「ようこそ、我らが叡智の結晶、SOAT研究所へ、なんちて! ヨハっちに至りましては、今日もご機嫌うるわしゅう!

そしてあたし達、やっとふっつ〜にこっち(・・・)の世界で会えますなぁ! サ・キ・ちゃんっ♪」

「ああ〜〜〜〜っ!!!!」

 

 それまで、どんなに驚いてもなんとかそれを心の中だけに留めていたムラサキだったが、ついに周りが振り返るのも構わず大声を出してしまった。

 白に近いパープルグレーのツンツンした長髪スタイル。トレードマークとも言える、真っ赤な縁あり眼鏡。

 白衣を羽織ってはいるが、その下のケバケバしたタイトスカートの柄と、研究員とは思えないほど露出の高い胸元は、ここで会うより前から見知ったものだった。

 主には、風俗のお客として。

 

「ミ、ミソラ……?」

「あいっ。ふふ、ここでムラサキの担当に携われて嬉しいよぉ〜。これで合法的に、ランデブー出来ちゃう感じ? あんな事もこんな事も、し放題だねっ」

「おい、ボクは『何をやってもいい』とまでは言ってないぞ」

 

 そうたしなめつつ、二人の関係性を気にするようにちらちら様子を伺うヨハネを置いてきぼりにして、ムラサキは驚きに面食らったままだ。

 ミソラを指さしたまま、あんぐりと開いた口が塞がらない。

 

「うっそ! ミソラってSOATの人間だったの!? 嘘でしょ!?」

「言ったでしょ~ん、結構エラいところに勤めてるって」

「そ、そりゃ金も研究技術も充実してるはずだ……まさか国家機関所属なんて……」

「知り合い?」

 

 若干蚊帳の外にされたヨハネの表情がむすっとし始めたので、ムラサキは慌てながらそのマントの袖を引っ張った。

 

「ほら、あの、前に私の紋のことを調べてくれたり、この着物を用意してくれた友達がいるって言ったじゃん。その人が、ほれ、」

「ああ……。なんだ、ミソラも、知ってたなら教えといてくれればいいのに」

「だってぇ、あたしがあんまり口出し過ぎると、またSOATは身内贔屓の人事が〜とかって叩かれるでしょ〜?

それに、来れるならちゃんと実力で来たかったんだよん。その体、あたしがちゃんと見て治せるようにしたげるからね。

ここにいれば、あたしも堂々とフルで権力使えるようになるからっ」

 

 そう言って、こちらを覗き込みながらパンパンと肩を叩くミソラを見上げ、ムラサキは若干涙目になった。

 

「ソラ……ありがとう」

「ま~あ、あたしSOATっていうか、厳密に言うと諮問機関の人間なんだけどねん?

研究の人手を貸したり技術協力する代わりに、施設を提供してもらってるんだよん。

SOATだけに任しとくと、また前みたいな事件が起きかねないっていうんでさぁ。あたしは研究所に雇われてる、違う機関の人間~ってことで。

だから別に、サキが言うほどすごい事じゃないんだよぅ。虎の威を借る狐って感じぃ」

「それでもびっくりだわ!!!!!

だって、そんなところの人間が連日の風俗通いっ……もごぐふぅ」

 

 すんでのところでムラサキの口を塞いだミソラが、目を白黒させる彼女を羽交い絞めしながら、にっこりとヨハネを見る。

 

「て~ことで、この子の植能の調査に関しては、あたしに任せてもらってもいーい?」

「あ、ああ……もちろんいいけど……」

「あ~よかった! 友達同士の方が、色々と喋りやすいこともあるよねぇ? そうだよねっ、サキっ!」

「う、うぐ……くるしい、はなして……」

 

 ぽかんと見つめるヨハネの前からムラサキをずるずる引き摺ると、ミソラは大きめの機材の横に隠れながら声を潜める。

 

「も~、びっくりした。あんな潔癖症な隊長のところで、いきなり風俗通いのことなんかバラさないでよぉ。上に何て言われるか、わかったものじゃないじゃない」

「ごめんごめん、あんまり驚いたから、つい……ていうか、それはミソラが悪いでしょ」

 

 ようやく口から手を離され、呆れながらムラサキがミソラを見上げる。

 白衣で大柄な彼女に後ろから抱き締められていると、パンダの親子のようだとムラサキは思った。

 

「あ〜〜……でも、隊長うちらの研究内容とか、これから普通に聞くよねぇ。どうやって誤魔化そう」

「もう正直に話すしかないんじゃ……」

「いや〜ん! あたし給料下げられたくな〜い〜!」

「んなこと言ってもムリ……んんんわかったから叫びながら抱き締めるのやめてぇ! ぐるじいから!」

 

 もはや隠れる意味もないくらい大騒ぎの二人の元へ、呆れながらヨハネがやってくるまで二人の攻防は続いたが、結局のところこれからの研究方針を決めるにあたり、二人が知り合った経緯も含めてすべてを話してしまうしかないのだった。



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3-5 研究

ミソラに案内され、研究所の中で検査と解析結果の説明を受けるムラサキ達。
そこから分かった、ムラサキの植能に関する真実とは……?


第5節 研究

 

「……事情はわかった。実際ミソラが協力してくれたおかげで、ムラサキはこれまでこっちの世界でやって来れたんだろうし、今回は不問に付すけど、あんたなぁ……」

 

 ようやく落ち着いて、透明なカプセルのような解析装置の中へ寝転がりながらデータを採取されているムラサキを前に、もの言いたげな呆れた目で、ヨハネがミソラを見やっていた。

 

「えっへっへ。大人には、息抜きってもんも必要でしてぇ。

まあまあいーじゃん、あたしがいたから、ムラサキの紋に気付けたっしょ? それに知り合ってた時からちょいちょいデータは採取してたから、基礎的な分析は終わってるしね」

「そりゃ確かに助かるけどさ」

 

 ぴこぴこと、ミソラがよく分からない難しそうなコンピューターのキーボードを触っている。

 画面に数値やグラフが浮かび、それらを見上げながらも、大きな操作盤の前に座ったミソラは両手を動かした。

 

「前も言ったとーり、この紋をデータ変換した時の信号配列が、サキの体の構成や神経のシステムに入り込んじゃってるんだよね。

強引に剥奪しようとすると、殻ごと損壊しちゃう可能性があるから、下手にいじれないんだよぉ。

違う世界から来てる人って、IDもなんか特殊だし」

「ってことは、やっぱりムラサキの体に残したままで、何とか手を講じるしかないのか……」

「それに関しては、サキも言ってたっしょ? 人から貰う精力が、抑える力になってるって。

サキの体の不調はね、淫紋が植能を発動させた時に体内のエネルギーが枯渇しちゃって、外部に動力源を欲してる時に起こるんだけど、それを人から精力って形で補給してるから、収まるんだよね」

「でも、確か女性が相手の時だけだって……」

「ん~……。詳しくは分からないけど、そういうのは、人の好みとか恋愛対象っていうのも、関係してくるのかも。特に性的な云々ってのに関しては、サキは男性に対してあまりいいイメージを抱いてない……とかかな。

科学的に分析するのが難しいから、わかんないけどね。本人の心が影響してんだと思う」

 

 ムラサキがカプセルの中にいて聞こえ辛いのをいいことに、ミソラはそう小声で教えてくれた。

 

(……てことは、ボクが何とかしようと思っても、サキにとっては逆に上手くいかなかったりするんだろうか)

 

 隊服の胸元に、ヨハネが手を当てる。

 この服の下の殻は女だけれど、リアルの性別だったり、心の在り方ということになると、不確定な部分もあるわけで。

 そう思って複雑な面持ちになっているヨハネの元へ、蓋の開いたカプセルの中から出て来たムラサキが戻ってきた。上下ともに、レントゲンを撮る前に着るような検査用の服を着ている。

 

「ねぇ、まだなんかやるのお……?」

「はいっ! 次は唾液の中の植能の分泌値とホルモンの関係を調べるからっ! ここ座ってこれ噛んでー」

「歯医者か!」

 

 ぐるぐると色んな機械をたらい回しにされ、へとへとになりながらも、ムラサキは大人しく台座の上に顎を乗せると、差し出されたプラスチックの棒を噛んで、椅子ごと回転する装置で機械に晒されている。おそらくはこれにも多少、ミソラの探求心を満たしてやろうという良心があるのだろう、とヨハネは思った。

 

(せめて、後でケーキかアイスでも奢ってやろう……)

 

 さすがのヨハネも同情心からそう思い始めた段階で、分析を完成させたミソラが、ぺらっとした紙にレポートを印刷すると、その内容をヨハネとムラサキにも分かるように、天井から降りて来た大型のモニターに映した。

 元の袴姿に着替え、ヨハネの隣の椅子に座ったムラサキも、ぽかんとそれを見上げる。

 

「……わあ。なんか人間ドックみたい」

「こんなにすぐ出るのか。早いな」

「まぁ、検査薬と反応させて分析するのに、時間が掛かる項目もあるけどねん?

でも、これでサキの体にある紋が、個別に違う能力を持ってるってことと、エレメントの力を吸収してるってことはわかったなりぃ」

 

 驚き顔でヨハネ達が振り返ると、ミソラは頷いて、レーザーポインターで画面の一部を指し示した。

 ムラサキが大慌てで食いつく。

 

「紋ごとに違う力を……? えっ、てことはこれ、植能の力が変質してきてるってわけじゃなかったの!?!?」

「そそ。植能によっても、ミライ隊長のゴールブラダーが結晶化と石化、リアっちの嗅覚が解析と再生を持ってるみたいに、一個の植能で二つ以上、力が宿ることってあるでしょーん?

サキの場合は、それが極端に多いってぐらいに思っといてくれりゃいいよん。

ざっと数えたところ、似た奴を同系統に分類しても、七つはその体にくっついてるみたいだからねぇ」

 

 想像以上の多さに付いて行けず、ムラサキが目を白黒させる。

 少し眉根を寄せてミソラがキーボードを叩くと、机上に体と淫紋の分布図を示したホログラフィが浮かび上がった。

 

「七種類の模様。でも、どれがどういう力を発動してるのか、サキ本人には自覚がないってことでおーけい?」

「う、うん、全然……『魅了』と、この間の『催眠』以外は。それだって、ピンチに偶然できたってだけで、コントロールしてた訳じゃ」

「さっきの検査で、意図的に植能発動してもらったっしょ? あの時の淫紋の発光状態と反応を見るにぃ、多分、発動中の能力に対応した場所が光ってるのね。魅了だったら雫の模様、催眠だったら蝶の模様~、て具合に」

「え? でも、関係ない場所が光ってることもあるよ……?」

「うん。サキの植能は、ホルモンによって全身に効果が及んでるから、発動してる場所は一番目立つように光るけど、それ以外も引きずられて動いてるってことはあるね。

……それか、恐らくは未発見の能力を、まだ無自覚のうちに発動してるか。多分、今までも高確率でそーだったはずだよ。その場合はそもそも自覚してないんだから、コントロールのしようもないよねっ。だから暴走を招きやすいんだよぉ。知らないうちに、エネルギーを浪費して燃費を悪くしちゃってる車みたいな感じかな」

 

 眼鏡の奥の瞳を光らせるミソラに、ムラサキがごくりと唾を飲む。

 話を聞いていたヨハネが、ミソラを見て問い掛けた。

 

「残りの紋の力が何なのかは、こっちの調査で突き止められないのか?」

「ううー、そこはねぇ、植能だから。ほら、あたしらの植能って、どの臓器か分からないと命じられないわけでしょ?

それと多分一緒なんだよ。だから多分サキが見つけないと、残りの能力は確定付けられないんだなぁ……もちろん、調べてはみるけどさー」

「じゃあ、私がどうにか見当付けて、使えるようにしていかないとコントロール出来ないってことか……」

「そゆことになるよね……。あ、あともう一個、気になる関係性のデータが見つかってね」

 

 眉を下げつつ、次、エレメントとの関連性ね、と話題を変えながら、ミソラが別の資料を画面に掲示していく。

 

「念のために、エレメントの成分を抽出する探知機も、使ってみたんだぁ。

そしたら、子宮の上の雫からは、水のエレメント。胸の上の蝶からは、雷のエレメント。それから、これはシェルターでの例の騒ぎがあったからだと思うけど、背中の髑髏の天秤からは、土のエレメントの反応があるんだよん」

「!?」

 

 再び、ヨハネとムラサキは驚きに顔を見合わせて、口々に言い募った。

 

「でっ、でも! 私、植能は使えるけどエレメント使いってわけじゃないよ!? 今までそれっぽいの、一度も……」

「そうだよ。確かに事件の首謀者とは対峙してたけど、サキの身に何かそんな変な事が起こったことって……」

「うん。多分、サキの力としては使えるわけじゃないと思う。ただ、紋の内側に反応があるんだ。封印されてる、っていうのかな……。

この、淫紋っていうブラックボックスの中に入ってんのは、多分サキが倒した、大型のエレメント関連事件の主犯……いわば〝ボス〟格の奴が持ってた、エレメントの力だと思うんだよねぇ」

 

 完全に蓋が閉じられちゃってるから、中身までははっきり分からないけど、と言いながら、ミソラがテーブルにホログラフィで映した紋のモチーフを、こんこんと拳で叩く。その模様を目にしながら、ヨハネはじっと考え込んだ。

 

「なんで、ムラサキの体の紋が、植能とは無関係のエレメントを……?」

「それは分かんない。けど、少なくとも今挙げた、雫と蝶の淫紋は、エレメントを吸収したことで安定して、ムラサキの体に定着してる。

その証拠に、多分この二つの紋の力は、サキはもう意図して使うことができるはずだよ?」

「ええっ?」

 

 ムラサキの声が裏返りそうになった。てっきり、火事場の馬鹿力的なものだと思っていたので、半信半疑でミソラの顔をまじまじと見てしまう。

 

「で、でも、あの時は私の意図に関係なく、私の周りにいた人とか触られた人はみんな寝ちゃって……」

「多分、それはまだ半覚醒状態だったから! ほら、試しにちょっとこの子でやってみてよ」

 

 ミソラが、小さなケージに入った実験用のマウスを持って来る。

 バーチャルの世界にもマウスはいるのか……と若干可哀想な顔になりながらも、眠らせるだけならと、ムラサキはその籠にそっと手を翳した。

 

「ウーム。対象を催眠」

 

 ぱあっと、その掌から金の粉のようなものが数瞬散る。

 すると、鼻をひくつかせてケージの中を歩いていた白いマウスは、その赤い目を閉じかけてうつらうつらし始め、藁の上にこてんっと横になりながら、寝息を立ててしまった。

 完全に眠っているが、それを近くで見ていたミソラにもヨハネにも、眠り出す気配はない。ムラサキが狐につままれたような顔で二人を見比べる。

 

「……あ、あれ? ちゃんとできた……」

「ほらぁ! でしょお! んにしても凄いねぇ、初めて目の前で見ちゃったよーっ。ビデオ回しとけばよかったぁ」

「コントロールが効けば、こんな風に対象や強さも調整できるようになるんだね。これなら安心して見てられる」

 

 感心したように、微笑んでその様を見守っていたヨハネは、ふと気が付いて言った。

 

「そういえば、さっき背中からは土のエレメントの反応があるって言ってなかった? そっちはどうなのさ」

「それがねえ、何故か天秤の紋は、雫や蝶に比べて、エレメントの反応量が半分しかないんだにゃ。

ってーことは、多分まだ覚醒が途中までしか済んでない……って考えられるんだけど、サキは何か心当たりある?」

「土のエレメント……に遭遇した時のことだよね。ん……多分、八尺様や雷鳥を倒した時と、差異はなかったと思う。木端微塵に、っていうか……エレメントの源自体がなくなるまでは、倒したと思うから。それ、私の体の中にあったんだね」

 

 胸元に手を当てたムラサキが、複雑な表情になる。

 そういえば、SOATに上がった報告書では、事件後崩壊したシェルターの跡地からは、結局エレメントの憑依していた犯人は見つからなかったと、ヨハネは聞いていた。ムラサキの曇った顔から、何かがあるとヨハネは察したが、今は何も聞かずにミソラに先を促す。

 

「てことは、もし他のエレメントの力を見つけて、ムラサキの体の紋を全部『覚醒』できれば、今より暴走も抑えられて、ムラサキ本人への負担も減っていくってこと?」

「その可能性は高いだろうねぇ。エレメントがどーいう働きをしてこうなってんのか具体的には分かんないけど、とにかくつっよい奴を倒したら、サキの紋が覚醒するってのは分かったんだし。

多分、紋が必要なエネルギー源を、エレメントっていう超特大級の力で補ってる感じなんじゃなあい?」

「だとすると、やっぱり任務に連れ回した方が、早く全ての紋の『覚醒』を終えられるってことか」

 

 しかし、それには危険も伴う。

 ヨハネは真面目な顔になると、椅子から立ち上がって、改めてムラサキに手を差し出した。

 慌ててその前に起立したムラサキが、すらりと背の高いヨハネの精悍な顔つきを、まばたきして見上げる。

 

「さっきも言ったけど、改めて、あんたを仕事上のパートナーに迎えたい。

ボクのコルニアはシールド系の能力だし、正直攻撃力が強い相手と当たったら分が悪いのはわかってる。

けど、あんたの事は必ず守るし、仲間とも協力して絶対に傷付けさせないようにするから。

ボクを信じて、付いて来てくれる?」

「う、うん、もちろん……! むしろ、私は初心者なのに、バックアップまでこんなにしてもらって、しかも私の淫紋のために助けてもらってばっかりで。こちらこそ、本当にいいのかな。私で」

「あんたにしか出来ない事がある。あんたの力や発想力は、戦闘時にすごい補助になるんだ。

こっちとしても、エレメントの調査と対応には行き詰ってる。これからも、転機を切り開くのに協力してよ」

 

 その淡い青の瞳には、今までの戦闘で蓄積された、ムラサキへの確かな信頼が宿っている。

 躊躇った様子でいたムラサキは、その信頼を感じ取ると、嬉しそうに小さく頷いて、差し出された手を握った。

 それでようやく安心したのか、ぎゅっと力強くグローブ越しに手を握り返しながら、ヨハネが見たこともないほど無邪気な顔で笑う。

 

「改めてよろしく、ムラサキ!」

「うん。こっちこそ、改めてこれからもよろしくね。ヨハネさん」

「おおおおお! カップリング成立ですな!」

「おいやめろ、そのお見合い番組みたいなコメント……仕事の話だからね、仕事の」

 

 呆れたようなヨハネの視線が刺さるのも気にせず、ミソラは嬉しそうだ。

 まとめた検査のデータを端末に転送しながら、説明をしてくれる。

 

「とりあえず、現状で覚醒状態なのは、雫紋と蝶紋。それから半覚醒で天秤紋。

それから、きわめて覚醒が薄くて今はうっすらとしか跡が見えないけど、蛇紋、蔦紋、花紋があるねぇ」

「あれ? あとひとつは?」

「あ、忘れてた。サキの内股に、陰陽の形の紋があるんだけど、これはもう覚醒済だにゃ」

「え!? そんな事ある!? だって、私が経験したのは、雷と、土と、水の、ええと……」

「もう面倒くさいから、格好良く『試練』って呼んじゃおーよ。多分だけど、陰陽紋は試練なしで覚醒してる。

あたしの推測なんだけど、陰陽紋は『代償』としての紋だねっ。エレメントの力は感じないけど、雫や蝶と一緒で、定着して青紫色にはなってるみたいだし」

「代償……?」

 

 ヨハネが首を傾げると、ミソラは手首の端末にデジタル時計のような画面を立ち上げてから、ぴこぴこと弄る。

 

「ほら、サキが植能使うと具合悪くなるって言ってたでしょ。生理とか怠さみたいな副作用が出るって。

多分、こいつが原因なんだにゃ。陰陽紋だけは、他の紋と違ってぜーんぜん植能自体の反応が現れなかったのよ。てことはね、推測だけど、存在それそのものに意味があるの。

これがある限り、子宮(ウーム)を使った反動は起きるんだけど、逆にこれがないと子宮(ウーム)は使えない、って奴ねー」

「うわ、めんどくさ……」

「まぁ、リアルの世界じゃ女の体には当然起こるんだけど、何もセブンスコードで律儀にそこ反映しなくても、って感じだよねぇ……」

 

 憂鬱そうな糸目になったミソラが、ムラサキに同意した。

 

「けど、残りの『試練』て4つでしょ? その途中で、陰陽紋がエレメントの力を吸収することがあれば、何か変わったりするかもねん」

「変わらない可能性もあるってことだね……」

「うーん、ぶっちゃけ今までの検査の値見る限り、この紋だけ極端に変動への受容性が低そうだから、何も起こんない可能性の方が高いんだけどねぇ。はは……」

 

 期待を持たせるような事は言わずに正直に告げたまま、ミソラが笑う。

 その時ヨハネの端末が鳴り、通話を受けたヨハネは少し離れた場所で話をしてから、ムラサキ達を振り返った。

 

「ごめん。ちょっと仲間が仕事で呼んでるから行って来る。帰りは送るから、あんたはここで待ってて」

「え、そんな、悪いよ」

「平気。今日夜番だから、ボクもそろそろログアウトの時間だし。ミソラ、暇だったらサキにSOATのマニュアル見せたげて」

「あいあいさー!」

 

 元気よく返事をしたミソラに見送られ、ヨハネが研究所の連絡通路を出て行く。

 ミソラの隣に立ってその後ろ姿を見つめながら、ムラサキは溜め息をつくと、恨みがましい目で隣を見上げた。

 

「……もう。ソラ」

「んー? なに?」

「ヨハネに、黙ってることあるでしょ。……ほんとは、知ってるよね。覚醒や試練なんてなくても、何とかする方法」

「ありゃ。もう話したんじゃないの?」

「私から言えるわけないでしょ!」

 

 ほんのり頬を染めたままムラサキが睨み返すが、ミソラは白衣の裾を翻しながらそ知らぬ顔だ。

 

「んー、まあ、何とかなるっていうか、アレ(・・)も言ってみればぁ対処療法のうちだけど?

でも、ヨハっちとならイケると思うんでしょ? 言ってみればいいのに」

「まだそこまでは……っていうか。うう、ソラは研究者なんだから、ソラが言った方が説得力あるじゃん」

「ダメだよぉ、それじゃ。これはー、サキが言うからー、意味があることなんだよ?

どのみち自分も相手も、強制されたんじゃ使えない方法なんだからっ」

「そうなんだけどぉ……」

 

 まだ、話すには時が至っていないような気がする。

 

(パートナーには、なるって言ってくれたけど……)

 

 ミソラの計算によって理論上は成り立つというだけで、試したことのない方法だし、正直これは〝仕事上の〟パートナーとしては埒外もいいところの対処方法なのだ。

 自分はいいとしても、ヨハネがいいと言うかどうか。

 やっぱりもう暫くは黙っておこう、と決意したムラサキの腕を取りながら、ミソラが案内する。

 

「さてっ、あたしも仕事に戻ろうかな。こっちの丸机と椅子は、共用だから自由に使って―。自販機とコーヒーサーバーあっちにあるし!

今電子マニュアルのデータ送信しといたから、暇だったら読んどいていいよっ」

「うわ、10時間ゲームやっても疲れなさそうなぐらいゴツい椅子だ……ありがと。

あ、ねえ、そういえばさ」

 

 立ち去ろうとしたミソラに、ムラサキは何気なく気になっていたことをことをふと問い掛けた。

 

「ミソラって、結局本名もミソラで合ってるの?」

「ん? おおおぅ、リアルの世界じゃフルネームで名乗るのが文化だもんねぇ。

そそ。改めましてっ、高瀬(タカセ)美空(ミソラ)だよっ。よろしくちゃん」

 

 ミカの真似をして、おどけて言いながら舌を出したミソラを見て、ムラサキは目をぱしぱし瞬いた。

 

「高瀬、美空……?」

「うん。だよだよん。どーかした?」

「……ねえ、もしかしてと思うんだけど、ハルツィナヴァイスの高瀬爾名(にな)ちゃんって、ミソラの知り合い?」

「ああ! になはねぇ、あたしのはとこに当たるんだよねぇ」

 

 たはー、と笑いながら、ミソラが頭に手を当てる。

 その一言で、何となく繋がりそうで繋がらなかったパズルのピースが綺麗にくっついた気がした。

 

「はとこ! 遠! 微妙に遠い!!! でも、そのぶっ飛んだ思考回路どーりで見覚えあると思った!!!!!」

「あっはっは、そんなに似てるぅ?」

「いや、その……独特の言い回しというか、雰囲気っていうかさぁ……」

 

 になの方は天性の才能を持つスーパーハッカーだが、天才脳っぽいところも、どこか似ている気がする。高瀬家の血筋には、そういう人間が多いんだろうか。

 ムラサキは大笑いしながら去って行ったミソラを見送りながら、世間は狭いなぁと思いつつ、マニュアルの1ページ目を開いたのだった。



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3-6 看病

二人が組んでからSOATの仕事は順調……と思われたが、ある日ムラサキが体調を崩して、仕事を休んでしまう。
心配したヨハネが見舞いに訪れると……?


第6節 看病

 

 こうして、ムラサキとヨハネが二人三脚で任務に当たることになってから、約一ヶ月。

 今のところ目立って大きな事件はないものの、見回りや事務周りの仕事を振られながら、ムラサキも少しずつSOATやSOATの面々に馴染んできていた。

 心配していた風俗店のママには、姿を消していた間のことを散々叱られながらも事情を話し、個人経営でムラサキが担当していたお客を何割か受け持ってもらって、今は無理なく両立できる範囲で二つの仕事を続行している。

 とはいえ、いつ緊急時の通報が入るか分からないので、優先となるのはSOATの方だ。

 元々リアルの世界では、公務員の職場で働いていた機会が多かったムラサキにとっては、正直なところかなり有難い職場環境ではあった。

 マニュアル的というか、大体の人間の反応や要求が読めるので、とても仕事がしやすかったのだ。

 ヨハネも見回りで体力的に無理のある仕事は振らないし、それ以外の時間は本部の執務室で、頼まれた資料作成業務や補助を行いながら、かなりのんびりしていられる。

 それなのにお給金までゴールドでもらっていいのだろうか……と思いつつも、ムラサキがSOATに所属して最初の日々は、順調に過ぎていった。

 

 しかし、どんなに順調に見えても、パートナーを信頼していても、言いづらい悩みというのは知らないうちに生じているものだ。

 その日、ムラサキはSOATの仕事を休み、人知れずヨハネの激昂を買っていたのであった。

 

「な~、いい加減に機嫌直せって。お前に当たられる部下が可哀想だろうが」

「別に仕事の指示はいつも通りしてるけど!? それとも何!? SOATの廊下を足音荒げて歩くのさえ我慢しろっていうのかなぁ、イサク先生は!」

「いや、ただでさえ眉間に皺寄ってんのに、その顔で歩いてたらすげぇ怖ぇから、お前……若い奴らが泣いちまうだろ」

 

 隣で今日一日、ヨハネと周囲の隊員の緩衝材役を買って出ていたイサクは、こいつでも仲間に取り繕えないくらい機嫌を損ねることもあるのか、と半ば意外に、半ば素顔を嬉しくも思いながら、呆れた目を向けている。

 もちろん、ムラサキ本人からSOATに欠席連絡自体は滞りなくあったので、別に無断欠勤というわけでもないし、彼女が誰かに迷惑を掛けたということもない。

 にも関わらずヨハネが怒っているのには、別の理由があった。

 

「まさかとは思うけど、こんだけ働いたぐらいで倒れるなんて、彼女のこと役立たずだとか思ってんのか?

体が弱いのは、お前自身も十分承知の上だろーが。自分から抜擢したくせに」

「違う! ボクが怒ってんのはそんな事じゃなくて!!!

あいつを一応パートナーなんだって認めてやったくせに、未だに一人でうじうじと抱え込んでるのが気に入らないんだよッ!

体調崩してるっぽいくせに、何で一番にボクに連絡が来ないのさ!? 直属の上司で相棒だよ!?」

 

 思わぬ反応が、ぎっと目を吊り上げたヨハネから返ってくる。

 化粧を施さなくとも十分美しいその眼を目にして、一瞬ぽかんとしたイサクは、肩を震わせて笑い出した。

 

「相……っ、はは、お前相当気に入ってんだな、ムラサキのこと」

「別に、ただボクが現状把握してないってのがイラつくだけ。なんでこんなにイライラするのか知らないけどさ」

「人はそれを、恋をすると呼ぶ」

 

 朗々と言った瞬間、振り上げた拳で殴られそうになるのをぴょいと避けながら、イサクは爪を噛み始めかねないヨハネを、両手を広げて宥めた。

 

「まあまあ。んなこと言っても、例の植能絡みの話なら、女性職員相手の方が休むって言いやすいってことも、あるかもしんないだろ。

彼女はお前の性別のこと、知ってるわけだし」

「そりゃ、男と女で体の作りは違うのかもしんないけど。言っても仕方ない事で困らせないようにするために、あいつが気遣ってんのかもしれないけど」

 

 それでも、ぶすくれた表情は変わらない。自分と彼女の間に「遠慮」という状況があるという、もうそのこと自体、ヨハネは腹立たしくてたまらないのであった。

 そんな話をしながら歩いていたところへ、別任務から帰って来たミカが合流する。

 

「あらあら。アナタ達、もう今日の任務おしまい? だったらこの後、アタシにちょっと付き合って……」

「行かない」

「即答することないじゃないのよッ! んもうっ、つれないっ! もうヨハネなんて誘ったげないんだからッ」

「気にすんなよ、ミカ。あいつ、今ムラサキのことしか頭にないだけだから」

「あら、そうなの? そういえば今日お休みだったわねぇ、大丈夫かしら」

 

 ごつい顔に手を当てて、ミカがおっとりと首を傾げる。

 ロッカールームに入り、黙々と帰り支度を始めるヨハネは、無視を決め込んだらしい。

 ショルダーバッグを背負ったその背に、イサクが苦笑しながら話し掛ける。

 

「そんなに気になるなら、見舞いに行ってやれよ。彼女、もう例のアパートに戻ってんだろ。

具合が悪い時なら、手早く食べれるモンのひとつやふたつ、持って来て貰えると助かるもんだぜ」

「……わかってる」

 

 背を向けたままぶっきらぼうに答えて、ヨハネはすたすたと昇降口に歩き出してしまった。

 

「……なんだかんだであの子、ムラサキちゃんのこと大事にしてるのねぇ」

 

 深く頷くイサクの傍で、ミカがその気持ちを代弁するかのように口にしたのだった。

 

 

 

 

 それから、午後休を取ったヨハネは、既に来慣れたムラサキのアパートを訪れていた。

 エントランスに足を踏み入れようとすると、アパートを回り込んで飛んでくる鳥の羽音がして、そのままぱさりとヨハネの肩に止まる。

 

「ことり。迎えに来てくれたのか」

「ぴぃ」

 

 人差し指で頭を撫でると、青い山翡翠(ハルシオン)――ことりは、嬉しそうにヨハネの褐色の指へ、すりすりと小さな頭を擦り寄せる。今のヨハネは私服なのでグローブも付けておらず、素手の指にことりは存分に顎を撫でられ、甘えていた。

 賢い上に好奇心旺盛な鳥で、ムラサキの部屋にいる間は来客の気配を察するのか、誰かが来る時に窓辺から飛び立って、こうしてアパートの外までわざわざ顔を見に来るのが習慣付いている。

 オートロックの解除用のキーまで咥えて持って来るので、大したものだった。

 

「お前のご主人は元気か?」

「ぴぅ」

 

 ぶーっと白い胸毛を膨らませたかと思うと、ことりがふるふると震えながら、だんたんと身をすぼめてしょげていった。

 

(……よく分かんないけど、あんまり元気じゃないってことかな)

 

 さすがに鳥の言葉は解せないので、行った方が早いと判断して、ヨハネがエレベーターに乗る。

 普通の客の場合は、部屋のある階に着いて案内を終えると、ことりは自力で飛んで玄関と反対側の窓から部屋に帰っていくのだが、ヨハネにはすっかり懐いているので、肩に乗ったまま下りようとしない。

 そのまま玄関から入ろうと、ヨハネはインターホンを押す。

 が、チャイムを押せど応答がない。

 

「ほーーーーう……? 仕事を休んだ上に、心配で見舞いに来てやったボクを無視とは、いい度胸だねぇ」

「ぴっ」

 

 思わず引き攣った顔で笑みを形作ったヨハネの隣で、その殺気を察知したことりがびくっと体を強張らせる。

 その時、ヨハネの端末が振動した。

 

「……ムラサキ?」

 

 家の前にいるのになんで、と怪訝な顔つきになりながら、ヨハネは電話に出た。

 

「もしもし?」

『あ……ヨハネさん?』

「サキ? 今、あんたの部屋の前にいるんだけど。どこにいるの?」

『家ん中。こっから遠隔操作で開けるから、入って。インターホンまで動けないんだ』

 

 力なさげな声が言う。電子音と共に扉が開錠される音が響いて、ヨハネがおっかなびっくりドアノブを握る。

 

「おじゃましまーす……」

 

 一応そう声を掛けてから、玄関の靴をひょいと跨いで、薄暗い中を覗く。廊下の両脇に台所や風呂場が設置された、手狭なLDK。洗濯ものが散らかり、生活感の溢れる廊下を抜けて角を曲がると、左の壁際ベッドがこんもり盛り上がっているのが見えた。

 随分と憔悴しきった死んだ目が、布団の下から覗く。ごそりと起き上がろうとしてムラサキが呻き声を上げたので、ヨハネは慌てて押し止めた。

 

「いい。いいって、動かないで! そこにいて」

「ごめん……SOATの任務は、私が直々に頼まれたお仕事なのにね」

「ボク一人で何とかなったから、大丈夫だよ。それより……」

 

 心なしか、顔色も白い。ヨハネはムラサキの体を布団に横たえたまま、額に手を当てて体温を測ってから、手首の脈を取った。

 ぱさぱさとヨハネから飛び降りたことりは、悪い物を追い出すように、ムラサキのお腹に乗ってその場で布団をつついている。

 

「ぴっ、ぴっ」

「こら、ことり。布が破けるだろ。お前の綺麗な羽根が羽毛と混じっても知らないぞ。

……顔色悪いな。バイタルサインも、あんま正常とは言えないね」

「何それ、そんなお医者みたいなことできんの……?」

 

 疲れと痛みにぐったりしながらも、ムラサキは思わず小さく噴き出した。

 

「一応、SOATだからね。ログインする時に、何もアラート鳴らなかったの?」

「それは、よくわかんない……。こっちの世界の人と、おんなじ仕組みでログインしてるのかもよく知らないし」

「それもそうか。ったく、無理に来るくらいなら、ログアウトして休んでればよかったのに」

「だって、ヨハネのこと、お仕事中一人にしちゃうから」

「あんたがくたばってたら、一人だって二人だって同じだよ」

 

 呆れたように言いながら、そのまま浅黒い手で額を撫でると、ムラサキはちょっと驚いたように瞳を見開いてから、柔らかく目を閉じた。

 

「多分、ここからログアウトしても、リアルの世界の私が具合悪いってわけじゃないと思うな」

「そうなの?」

「こっちの周期と、あっちの周期は違うからね」

「……?」

 

 ずるずると身を起こし、クッションに背を横たえたムラサキは、青い顔のまま力なく苦笑する。

 

「大方、仮病だとでも思った?」

「いや、あんたに限ってそれは思ってないけど……痛いのはどこ? お腹?」

「そうだねぇ……子宮のあたり。まぁ、生理痛だから。これ」

 

 とんだ災難だー、と言いながら布団で伸びるムラサキを、ヨハネは呆然とした目で見つめている。

 

「あ、ごめん。びっくりした?」

「え、いや、知ってるけど……その」

「寝込むほど酷いとは思わなかった、でしょ?」

「う、その……なんか、ごめん」

「いいよ、謝らないで。自分の身に起こらなきゃ、あんまり想像できないよね」

 

 小さく笑って、ムラサキがパジャマの手を振る。

 その様を見て、ヨハネがおずおずと聞いた。

 

「生理痛ってあの……それじゃ、もちろん血も出てるってこと?」

「さすがに直接はお見せ出来ないけど、そゆこと」

「……そ、そうなんだ」

 

 ヨハネでも、さすがに概念くらいは知っている。けれど、こちらの世界の殻が女性でも、それを経験したことはないし、ましてや動けないほど酷い痛みに襲われるなどということもない。

 それ以上返す言葉もなく、沈黙するヨハネに、再び布団の中へ戻りながらムラサキは微笑んでみせる。ことりがその頭の横へ蹲ると、毛玉のように丸くなった。

 

「ごめん、本当にどうしようもない時だけ休むつもりだったんだけど、なんか大ごとにしちゃったね。まぁ、そういうわけだから、あんまり心配しないで帰ってくれていいよ。寝てれば良くなるし」

「いや、これ放っておいて帰れって言われても、逆に困るんだけど……」

 

 ベッドの上に横座りしながら、ためらいがちにヨハネが頭に手を降ろす。なんとなく行き場をなくしてそうした掌に、ムラサキはちょっと驚いたような顔をしながらも、おとなしく撫でられ続けていた。

 この際、腹を割って話すいい機会だと思ったので、ヨハネは彼女の頭に触れながら、眠くなさそうなのを確認して話し掛ける。

 

「生理ってことは、これ毎月なるんだよね? もうこっちに来て何ヶ月か経ってるでしょ? ひょっとして、先月の任務の時も」

「まぁ、お仕事に被ってはなかったけど、それなりに重かったかな。一日か二日は」

「なんでそれ早く言わないんだよ……」

「いやその、さすがに言っても、ここまでの重症とは信じられないかと思って」

「あんたの身の回りに関しては、既に信じらんないような事の方が多く起こってんですケド!?

とにかく、ここから先のシフトはあんたの周期に合わせて変えられるようにする。いいね?」

 

 隊長権限なので、いいも悪いもない。ムラサキがおとなしく頷くと、ヨハネはやっと安心したように小さく笑みを浮かべた。

 

「けど、こっちで植能以外の要因で具合を悪くする人なんて、滅多に見ないから……

つくづく何でこうなるのか、あんたが気の毒になる」

「陰陽紋は、代償の役割……なんだっけ。

あんまり規則性を厳密に測ったことはないけど、植能を使い過ぎた翌月は生理ひどかったりするんだよね、確かに。そもそも、使った直後も腹痛かったりするしさ。

まぁ、生まれつき体がそこまで強くないってのもあるから、100%植能のせいだと言うこともできないんだけどね。私が密航者だからなのか……」

 

 喉が渇いたと言われてヨハネが水を持ってくる間、起き上がって額に手をかざしてから、あ、と何かに気付いたように声を出したムラサキは、ばったりと背中から倒れ込んでベッドに戻る。

 

「あ~、やっちゃった。買うの忘れてた」

「何を?」

「痛み止め……。もうそろそろ切れるから、買い足しとこうと思ったのに。ていうか、こんなに早く来るとか聞いてないし」

「薬も飲まずに、一人で部屋に籠って呻ってたわけ……?」

 

 少しだけ怒りのバロメーターを笑顔で跳ね上げるヨハネを見て、ムラサキが慌てて言い訳する。

 

「だってしょうがないじゃん、動けないぐらい痛いんだから、買い物はおろか洗濯機に物入れる気力もなかったよ。血のついたシーツとかパジャマとか洗濯したかったのに」

「しょうがなくはないだろ。こういう時ぐらい、相棒を頼れよ」

 

 苛立たし気に小さく舌打ちするヨハネを、ムラサキがぽかんと下から見上げた。

 

「あい……ぼう?」

「何。ボクはそのつもりだけど。言っとくけどね、このボクを片割れにしといて、あんたが元気ないとか、辛い時に一人で抱え込んでるとか、許さないから。

サキは、SOAT隊長の相棒なんだよ? ボクを引き立たせてくれるぐらい元気でいてくれないと、他の隊員に示しがつかないでしょ」

 

 説教がましく指を突きつけるヨハネに、ムラサキは横になって膝を抱えたまま笑った。

 

「ちょっと。何で笑うの」

「ふふ、あはは。そっか、そっか。うん、いや。私が相棒になっていいんだ、って嬉しかったんだ」

「……え、そこから?」

「だって、ヨハネはすごい子だから。すごい子な上に、いい子だから。だって隊長さんでしょ」

「そりゃ、そうだけど……だからって今更距離感じなくてもいいでしょ、あれだけ馴れ馴れしくしといてさ。

一応、あんたの方が年上なんだし? 見えないけど」

「別に、仕事に年上も年下も関係ないでしょ。ただ、私自身のことでヨハネを顎で使うのが、気が引けるだけ。

でも、頼っていいんなら甘えちゃおうかな」

 

 その言葉を待っていたというように、ヨハネは得意げに立ち上がった。

 

「何? 痛み止め? 買ってくるよ。さっき言った通り、あんまりこっちの世界の奴は薬を頼らないから、効果のほどは期待できないけど。他には?」

「えっと、そだな。じゃあ……」

「洗濯機、入れとく?」

「……それは、さすがに申し訳ない気がするんだが」

 

 カーペットに放り出したままのパジャマ類と廊下の奥を、ムラサキが申し訳なさそうに視線で往復させるが、ヨハネは頑として引かない。

 

「女同士だからって最初に言ったの、あんただろ。別に、こっちの世界のだって入れて電源点けるだけなんだしさ。

食べるものも何かあった方がいい……よな。なんとなく、そうした方が気分よくなる気がするし」

「ヨハネさんって、料理作れるの?」

「簡単なのだけだけど。お粥でいい?」

「お粥うう! 上出来すぎるよ、助かる……。

あとさ、そっちの押し入れから、カイロ取ってくれる?」

 

 腰にカイロを貼ってもらい、ほう、と一息ついたムラサキに、鞄を持って身支度を整えながらヨハネは背を向けた。

 

「それじゃ、後で何か必要なもの思いついたら、電話して」

「必要なもの……」

「? まだなんかある?」

 

 疑問符を浮かべて振り返ったヨハネの顔と澄んだ瞳を、暫くの間じっと見つめる。

 今更ながら、Tシャツに七分丈のカーゴパンツという、ラフな私服がムラサキにはとても新鮮に映った。

 

「……ううん。だいじょうぶ」

「そ。じゃあ、行って来る」

 

 静かに玄関扉が閉まる音が響いた後で、布団にくるまって身を縮めながら、ムラサキは枕に顔を埋めた。

 

「……『ヨハネが居てくれたら、もう何も要らない』なんてね。さすがに、台詞が乙女過ぎるよね」

 

 でも、本当にそうなんだけれど。

 傍にいて話してくれるだけで、鈍く内臓を這い摺るようだった痛みが、少しだけ遠ざかったような気がする。

 額に当てられた手の温もりを思い出しながら、ムラサキはことりに寄り添って、しばし微睡んだ。



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3-7 土男

ヨハネが帰宅しないうちに一度目が覚め、「土の試練」の出来事を思い出すムラサキ。
未だヨハネが知らない、謎のシェルター崩壊事件の真相とは……?


第7節 土男

 

 ふと、ムラサキは目を覚ました。耳元ですぅすぅと、ことりの寝息が聞こえる。

 どれくらい経ったのだろう。まだセブンスコードの中にはいるようだが、ヨハネが帰って来た気配はない。

 不思議に思って携帯を見れば、どうやら買い出しの途中でミカやリア達に掴まり、心配した彼女らに見舞い品を色々買わされてしまったらしい。

 リアちゃんおすすめのたい焼き屋でテイクアウトしたらすぐ帰るから、という文面と写真を見て、思わずくすりと笑ってから、ムラサキは布団で横になった。

 

(みんな、やさしいなあ……)

 

 本当に、自分が受けるには勿体ないくらいの贅沢だ。

 ちらりと懐中時計の蓋から中身を覗けば、まだリミットまでは時間がある。

 ヨハネが帰ってきた時には、あのシェルターでの出来事――いわゆる「土の試練」の話を、することができるかもしれない。

 思いもがけず心の準備をするための時間を得て、ムラサキは知らず知らず、先日の取調室での、ユイトとのやり取りを思い出していた。

 

『貴女の植能は、魅惑と魅了の……特殊なフェロモンで他人の伝達神経や精神に作用する、武器としては顕現しない型なんだったな』

『そうね。こういうのって、何系って言うのか知らないけど』

『ログを見たんだが、あのシェルターでの事件に貴女も関わっていたんだろう? 多くの女性が、記憶はおぼろげながら、守ってもらったと証言している。武器を持たない貴女が、どうやってあの場にいた全員を倒した?』

『それは……』

 

 本当は、覚えていた。

 あの異空間化したシェルターの中では、何が現実だったのかも分からないほど、時の流れも対峙したものも、めちゃくちゃに思えて――それでも、夢の内容をはっきりと話せる日があるのと同じように、ムラサキは覚えていたのだ。

 それを拒否したのは、ひとえに恐怖心と、それから――

 

『……ごめん。それは、あまり言いたくない』

『……すまない。嫌な記憶を思い出させたな』

『いやっ! それはいいの! 犯人を倒せたんなら、何よりだし……それに、あの時の異空間を解除できたおかげで、テケテケにされてた人達を助けるのにも役立ったんでしょ。さすがに怖かったから、SOATがその人達を元に戻してくれて、良かったなって思ってるよ。これでやっと安心して眠れる』

 

 ユイトは申し訳なさそうな顔をしただけで、それ以上無理に聞こうとはしなかったけれど、詳しい情報は欲しいはずだ。それにおそらく、ヨハネにもそう発破を掛けているはず。

 布団の中でまどろんでいるうち、ムラサキはあの日の記憶を再生した夢の中へと、引きずり込まれていったのだった。

 

《約一ヶ月半前》

 

 ヨハネに言われた女性用のシェルターに引っ越して、一週間が経った。

 引っ越したと言っても、結局忠告通り、あのアパートには出入りしていないし、荷物を何か持って来たわけじゃない。単身で突然やって来ても何も不都合がないくらい、個室は綺麗で設備が整っていた。

 もちろん、女性以外を保護するシェルターもあるにはあるが、現状SOATが把握している中で、暴行や虐待等の被害者数は圧倒的に女性が多いらしい。こんなところは現代と変わらないのだなと嫌な思いになりつつも、それをすぐにでも手厚く保護する施設が整っていることには、少し安心の念も抱く。

 

「ムラサキちゃん、そんなくるくる一生懸命働かなくていいのよ? お客さんなんだから、ゆっくりしててくれれば……」

「いいんです。動いてないと落ち着かないし。それにこっちで家事とかしてた方が、一緒に作業する人とも仲良くなれて楽しいから」

「ありがとう。私も嬉しいし、助かるわ」

 

 そう言いながら、一緒に乾燥機からシーツを出していた年配の女性が微笑んだ。

 籠を持ってリネン室の外に出れば、他にも何人かいた若い女の子たちが、遠慮がちに会釈を返してくれる。

 ここの人達は事件に遭って心の傷を負った人ばかりなので、無気力だったり過度の緊張状態だったりする相手もいるけれど、それも無理はない。

 こんな風に私と仲良くなってくれる人達もいたので、たまにそういう人たちの中に入りながら、分担しているシェルター内の家事のお手伝いをしたり、年下の子に勉強を教えたりしながら、私は過ごしていた。

 外と出入りが出来ないと暇かなぁと思ったけれど、風俗の仕事が出来なくても、これはこれで楽しい。

 特に、学校に通えていない子達は、私の拙い教え方でも勉強が面白いみたいで一生懸命聞いてくれるので、私も嬉しかった。

 

(SOATに捕まって面倒なことになりたくないっていうのもあるけど、この職業のこと、ヨハネにバレちゃったら軽蔑されないかなっていうのも、あるんだよ……。

そんなこと思う子じゃないって、わかっては、いるけど)

 

 思わずため息をついて、ふと端末に立ち上げたヨハネの写真を見つめた。

 ヨハネが監視のために私に張り付いていることも、本当は私を任意同行させたがっていることも、分かってはいる。

 けれど、そんな職業柄の彼の葛藤を忘れてしまうぐらい、一緒にいるのが楽しくて、本当の自分を見せるのに躊躇してしまう。

 体に染みついた、この紋のこと。人の妻でありながらも、これを使って望む人にひと時の快感と充足を与える仕事をしていること。

 もしそれらを、穢れているかのように扱われたら――この世界に来るずっと前から、ヨハネのことを気に入っていた身としては、こんなに近くなってしまった今、心に傷を負うのは避けられない。

 そんなエゴに満ちた理由で、人間関係を勘定して距離を取らなければならない自分に嫌気が差しながら、着物の胸元をぎゅっと掴んだ時だった。

 

「おねえちゃん。おてつだい、おわり?」

「あ。うん、今終わったよー。どした? わかんないところある?」

 

 答えながら振り向くと、短い髪の女の子がノートを抱えて傍に立っていた。

 表情の変化が少ないこの感じは、かつてのウルカちゃんとも少し似ている。

 

「さんすうのしゅくだい、おしえて」

「う……算数かぁ……が、がんばる」

 

 理系科目は大の苦手なのだが、小学生くらいまでの算数なら、まだ何とかなるかも……と思いながら強張った笑みを見せた私を、背丈の低い痩せた女の子が不思議そうに見上げてから、こくん、と頷いた。

 最近よく私にくっついて来る、この女の子の名前は雲雀(ヒバリ)ちゃんという。

 両親が亡くなってから身寄りをなくし、リアルの世界でも施設に保護を受けている間、コミュニケーションや心のケアを目的として、時々ログインしているらしい。

 私が写真をじっと見ているのを、声を掛ける前から眺めていたのだろう。手元の端末を覗き込んだヒバリちゃんが、小さく口を開いた。

 

「……このひと、だれ?」

「この人は……んー……私の、友達」

「……むっちゃんの、ともだち。だいじなひと?」

 

 物静かな子であまり喋らなかったのだけど、最近はこんな風に言葉が増えてきた。よく気が付くと私や年上の人達の傍にいて、他の人達にも可愛がられている。

 鋭い指摘に思わず目を見開きながら、私はちょっと笑った。

 

「ん……うーん、そうかな。隠し撮りするなよって怒られちゃったけど、私はね、この人の顔見ると元気が出るから。やっぱり、だいじなひとかな」

 

 なかなか写真なんて撮らせてくれないヨハネは、ぎゃーぎゃー怒られながら撮ったその横顔を、こんなに大事にされているなんて想像もしないだろう。

 本人に向かっては面と言えないことでも、ヒバリちゃん相手には素直に打ち明けてしまう。安全な環境で、ちょっとでも彼女の心が癒えることを願いながら、私は小さな手を曳いて微笑んだ。

 もっとも、ヒバリちゃんに癒されているのは私の方かもしれないんだけど。

 

「宿題、リビングでやろっか」

「うん」

 

 そう言いながら、並んだ個室の一つを通り過ぎた時だ。

 

「……ウ……メツ……」

「ん?」

 

 何か、物音か呻きのようなものを聞いたような気がして、足を止める。

 けれど、小さな音と違和感は、すぐに消えた。ドア越しだし、私の聞き間違いか何かだろうか。

 同じように止まったヒバリちゃんが、不思議そうにぼーっと私を見上げる。

 

「どうしたの……?」

「あ、ううん。なんでもない。変な音が聞こえたと思ったけど、私の勘違いだったみたい。そもそも、生活音なんていくらでも聞こえるしね、ここ」

 

 悪い予感を振り払うようにして、私はまた手を繋いで歩き出した。

 この間、あんなことがあったばかりだから、神経が過剰になっているのだ、と。

 結果として、その予感は正しかったのだ。

 もし私が、この違和感を気に留めずに注意していれば。ザザッと砂嵐のように荒れたドアの下から、微かににじり出る這いつくばった人影を、見ることができたかもしれないのに。

 

 

 その日の夕食の時間。

 バイキング形式の食堂で、集まった女性たちの物静かなお喋りを眺めながら、私も隣に座ったヒバリちゃんと食事を摂っていた。

 野菜のスープをちまちまと啜るヒバリちゃんが、人参を綺麗に残しているのを見て、思わず苦笑してしまう。

 

「人参嫌い?」

「こっちで、たべなくても……へいきだもん……」

「そうだけど。でも、こっちで食べられたら、リアルでも食べれるようになるかもしれないよ。ね?」

「……」

「ほら。私の星型の人参と交換してあげるから」

 

 スプーンで自分の皿から差し出すと、ヒバリちゃんは分かりやすく目を輝かせた。

 

「これ、むっちゃんが、きった?」

「そうだよー。これくり抜くの意外と大変なんだから。食べてくれたら、おねえちゃんうれしいなー」

「たべる」

「よし、えらいぞ」

 

 星型人参の製造過程をきっちり見ていたらしいヒバリちゃんは、ぱくっとスプーンに乗せた人参を口に運ぶ。そんな様子を見守っていた、いつも通りの、微笑ましい夕飯の時間――のはずだった。

 

 突然悲鳴が上がって、私とヒバリちゃんの体が硬直した。

 耳を澄ますと、上の階から凄まじいバタバタという音が聞こえ、ふたたびしーんと静まり返る。不安に駆られたその場の女性たちが、ざわざわと顔を見合わせた。

 

「お、落ち着いて……皆さんは、ここを動かないで。私が、見て来ますから」

 

 ただでさえ恐ろしい目に遭って来た人達に、これ以上怖い目に遭わせるわけにはいかない。

 誰かが騒いでいただけならいいのだが、侵入者だったら、私が通報なり戦闘なりしなければならないかもしれない。大丈夫、今までだって大体の奴は相手にしてきたのだと思いながら、一つ深呼吸をして、私は食堂のドアを開けた。

 

「ヒバリも、いく」

「だ、だめだよ。ヒバリちゃんは危ないからここに残って」

「ヒバリ、ゆうき、だす。だいじょうぶ」

「……」

 

 少し迷ったけれど、この決意に満ちた静かな目を見る限り、絶対に言うことを聞いてもらえないような気がした。無理にここに置いて行って、後から私を一人で追って来られるよりは、連れて行った方が安全かもしれない。

 絶対に傍から離れないように、と目で合図してから、そろそろと廊下に進み出る。

 

「でんき、ちかちか、してるね」

「うん。ちょっとおかしいね……みんな無事だといいんだけど」

 

 まるでホラーハウスか廃病院だ。

 腕を掴んで寄り添うように歩くヒバリちゃんを連れ、慎重に歩きながら、周囲の音に耳を澄ませる。

 空調も止まってしまったようで、周囲は静寂とひっそりした闇に包まれていた。

 

(配電システムがやられてるのかな……? このシェルターの電力と動力源を先に断つなんて、悪戯に混乱を引き起こす愉快犯というよりは、計画的にも思えるけど……)

 

 ミステリー系の漫画だと、犯人がよく最初に取ってくる手段だ。

 これで終わるとは思えず、次に何が起こるかと身構えていたその時。べたべたべたっ、と聞き覚えのある足音が壁から聞こえたような気がして、背筋がびっと固くなった。

 

「お、おねえちゃん?」

 

 とっさに、動きがあった方向に端末の懐中電灯を向ける。

 光の当たった先には、黒いシミのある壁が浮かび上がるだけで、何もない。

 

(……黒い染み?)

「ね、ねえ、こんな汚れ、この場所にあったっけ……?」

「ううん。このろうか、きれいだったよ」

 

 マズい。知らないうちに、どんどん敵の手に落ちている気がする。圧倒的にマズい。

 

(もしかしなくても、テケテケの仕業だこれ……。どうしよう、地面を媒介にして空間を改変してるなら、もしもの時は上の階に逃げてもらえば安心だと思ったけど、こんなところまで侵食が進んでるの……?)

 

 そもそも、物音がしたのが上の階ならば、上から攻めてきている可能性も高い。

 もしそうならば、私達にはこれ以上逃げ場がない。

 

「……上がるしか、ないよね」

 

 だいたいのホラーゲームの鉄則は、上に進む、だ。

 物音のした階に辿り着くと、壁の黒ずみが酷くなった廊下と、そこから続く視聴覚室の中が阿鼻叫喚図だった。

 力尽きたように倒れる人、怯えたように頭を丸めて叫ぶ人、ぶつぶつと意味不明な言葉を呟く人――その中で、残った若い女の子が、内臓を引き摺る腕立ての化け物と対峙している。

 

「テン……ソウ……あし……めめめめめめめ」

「あ……ああ……」

「っ危な……!」

 

 ここからでは走っても間に合わない。とっさに植能で誘惑すると、ずるりと身を反転させながら、テケテケがにたぁりとこちらを向く。

 

「見ぃつけた。あし。あしあしあししししししししししししし」

「ごめん、こっちに来るかも……ヒバリちゃんはそこの部屋に隠れてて」

 

 彼女を隠すや否や、廊下の壁に跳ね返るようにしてテケテケが這ってくる。ゴキブリ並みの速さだ。

 

「こっの……!」

 

 手近なところにあった、破られた扉の下の消火器を持つと、植能の力を込めて、ガンッとテケテケの頭にお見舞いした。本来はこういう使い方をするものではないが、消火剤を噴出したところで効くとは思えないし、鈍器として使った方がまだいい気がする。丸腰よりマシだ。

 

「うおっ……!」

 

 身を翻し、袴を踏まれた隙にとっさにその口へ消火器の先を突っ込む。

 ポンプの底で顔面を潰されているのに、あり得ないほどデカい口を顎を外しながら開けたかと思うと、テケテケはがちがち鳴る歯で鉄製の消火器に噛み付いた。

 ぶしゅう、と喰い込んだ歯の下からガスが漏れる。かっぴらいた目が気持ち悪い。まるでゾンビ映画だ。

 睨み合った末、そのまんま消火器を持ってコンクリの残骸に向けてぶん回すと、釣られたテケテケは自らコンクリート片に突っ込んで動かなくなった。

 その隙にヒバリちゃんを引っ張り出し、私はテケテケがUターンするより前に一足飛びで女の子の元へ走った。

 

「大丈夫!?」

「あ……あ、あいつ……他の人達も、どんどんおかしく、なって……」

「落ち着いて。とりあえず、外の世界に繋がってる脱出口を探そ。あっちの奥に非常階段があったから、それで下の人たちと……」

 

 そう言った時、後ろでゴトゴトと音がした。

 腕だけで這い上がったテケテケが、笑いながらこっちに狙いを定めている。

 

「テン……メメメメメメ……つ……」

「よく喋る上に動く奴だなぁ……」

 

 見た目はほぼ一緒だが、今までのテケテケとどっか違うのか? と思いつつ、身構える。

 それにしても、この言葉の羅列、何か頭に引っかかるのだが……。

 ぼんやり考えている暇はないので、さっきの消火器で物理的攻撃が通じたことを逆手に取りながら、私は傍に転がっていた鉄製のドアを、盾代わりに移動させようとした。やろうとしたことを察して、ヒバリちゃんがとててっと駆けてくる。

 

「ヒバリ、てつだう」

「足、挟まれないように気を付けてね」

 

 腰の立たない女の子の代わりに勇敢さを見せたヒバリちゃんと、なんとか凹んだドアを押して前に立たせてみたら、わざわざそれを待っていたかのように腕を踏み鳴らしていたテケテケが、こっちに疾走してきた。

 

「くそぉ、なんやこいつ、その程度どうってことないですよみたいな面しやがってぇ……

どんなゲロ難易度のクソゲーでも、これよりはマシだっつの!!!」

 

 思わずものすごい悪態を吐いてしまったが、無理もないと思って欲しい。

 救援は皆無、こっちはろくな力を持たない女子二人と今にも失神しそうな子が一人、対抗できる武器はなし。どんなホラゲーでも、もうちょっと対抗手段くらい残してくれるもんじゃないだろうか。

 せめて清めの蝋燭とか安全エリアとかさ。

 と思っても仕方がないので、ドダダダダッという音を聞きながら、せいぜい植能の力を盾代わりの扉に展開させ、衝撃に備える。先にヒバリちゃんに非常ドアを開けに行かせて、ここでテケテケがつっかえてる間に逃げられればいい。

 ……しかし、予想していた衝撃は、いつまで経っても訪れなかった。

 きょとん、と顔を見合わせ、ヒバリちゃんと恐る恐る表を覗くと――テケテケの姿は影も形もなく消えていた。

 周りの人達も、パニックで狂乱しているものの、襲われている雰囲気ではない。

 

「な、なんだか知らんけど、助かった……?」

 

 少しばかり胸を撫で下ろして、後ろで庇っていた女の子を振り返る。

 相変わらず蒼白な様子で震えていて、気分は悪そうだ。

 

「とりあえず、あいつはどっか行ったみたい。大丈夫だった……?」

 

 ぺたんと座り込んだまま、ふうふうと息をついて俯いた女の子の肩に、そっと手を触れた瞬間。

 髪に隠れた顔が、ぎょろりと飛び出そうな目玉を回して、こちらを見た。

 折れそうな角度で気持ち悪い捻り方をした首と頭が、ぎゅるんとこちらを向き、人間のそれとは思えない言葉の羅列を吐き出す。

 

「はいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれた」

「ひ、っ、」

 

 思わず、肩に掛けた手を反射的に外して突き放し、後ずさってしまう。

 

(ち、ちがう!!! こいつ、テケテケじゃない! テケテケなんかじゃないっ……!)

 

 自分を襲ってきたものの正体に気付いた瞬間、背筋がぞっと寒くなった。

 どうして、あの廊下とさっきの声で気付かなかったんだろう。

 「テン・ソウ・メツ」なんて鳴き声で思い浮かぶ都市伝説は、ひとつしかない。

 しかもこいつは、――ヤマノケは、女性にだけ憑りつく化け物だ。

 たとえ相手が一体だとしても、女性だけの集合住宅にこいつが解き放たれるのはあまりに危険で分が悪すぎる。

 

「みんな! 早く逃げっ……」

 

 周りを振り返った瞬間、異質な、妙な気配を感じた。

 空気が生温い。さっきまで悲鳴を上げて怯えていた女の子達が、四肢をだらりとさせてぴくりとも動かない。

 

「っ……まさか」

 

 ケタケタと笑った全く同じ顔達が、一斉にこっちを向く前に、辛うじて背後に蹲っていたヒバリちゃんを庇った。

 

「テン・ソウ・メツ……テン・ソウ・メツ……」

「はいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれた」

「う、わっ!!!」

 

 わんわん反響する鳴き声の大合唱の中、何かの思念がぐにゃりと入り込む気配がする。

 辛うじてそれを振り払うように、背後に植能の力を全開にさせて手を翳し、もう片方の手を目の前の非常口へと必死で伸ばした。

 

「ウーム! 対象を魅了ッ……!」

 

 一瞬だけ遠ざかった喚き声が、背後で閉じた扉の向こうでがなり立てる。

 ガタガタ言う扉を防ぐ術もなく、涙の溢れる左目を耐えきれずに閉じたまま、よろめいた足を辛うじて一歩踏み出し、その場を遠ざかった。

 とっさに植能のフェロモンをバリア代わりに出来ていなければ、危うかった。

 あいつらの顔をまともに見ながら攻撃を浴びただけで、認知をぐちゃぐちゃにかき乱されて、眩暈がするような。私が私でなくなるような。

 ヒバリちゃんも同じだったようで、私に小さな手でしがみついたまま、啜り泣いている。

 

「うう……むっちゃん、こわいよう……」

「行こう……はやく、ここを出て、SOATに助けを」

 

 動けないヒバリちゃんを負ぶって、私は電気の消えた建物内を歩いた。

 私も泣きたいぐらいだけど、こんな小さな子を残して私が泣いてる場合じゃない。

 体が、ひどく重い。さっきあの一瞬に食らっただけなのに、怠さと眠気で崩れ落ちそうになる。

 非常口の向こうの階段は外のはずなのに、どんよりとした赤黒い雲が続くだけで、外らしい景色はどこにもない。端末が正常にネットに繋がる気配も、まだなかった。時々文字化けする歪んだ画面が表示されるだけだ。

 

(あの時と……同じだ……やっぱり、瞬間移動(ワープ)が使えない……)

 

 もしかしたら、このシェルター自体が、あのヤマノケの力で丸ごと異空間化してしまっているのかもしれなかった。

 ヤマノケがテケテケを操っていたのか、そもそもあれ自体がテケテケの振りをしたヤマノケだったのかは分からないが、どちらにしろ外界と連絡が取れない今は、私一人の力であれを撃退するしかない。

 

(ヨハネ……。どうしよう)

 

 繋がらないと分かっていても、手の中に番号を表示させたままで端末を握り締めてしまう。

 数が、多すぎる。ヤマノケが憑依するタイプの怪異なら、今ここにいる女性達全員が、操られて敵になってしまっているということになる。しかもその人達を、なりふり構わず攻撃するわけにもいかない。

 そんな、絶望的な考えに気を取られてしまっていたせいだろう。不意に角からぬっと現れた、胴についた気持ち悪い男の顔にびくついたその瞬間に、ほんの僅かだけ、背負ったヒバリちゃんと背中との間に、距離が空いてしまった。

 

「ウーム!」

 

 とっさに植能を発動するも、地面が私とヒバリちゃんを引き離す壁を作るかのように、ボコボコと隆起する。

 次々と立ち上がる土の柱と砂埃が、まるでベルトコンベアのように私を端まで追いやった。辛うじて土くれから頭を出したけれど、生きているのが不思議なレベルだ。

 ミミズのように這いつくばって、泥に塗れた着物と袴を引っ張り出した時、すぐ目の前に歩いてくる、ケタケタ笑いが目に入った。

 

「し、しまった……!」

 

 それは、Tシャツを頭から被ったみたいな格好の化け物。二本足で人型なのに首がなく、ずんぐり太い胴体の胸元に、丸くて白い男の顔がついていた。私の知っている、都市伝説・ヤマノケのビジュアル。

 けれど、全体的に黄土色がかっているのと、表面が岩のテクスチャよろしくガサガサしていることから、こいつが土のエレメントの創造物だ、ということを私は知る。

 とっさに自分の身だけは守ったけれど、私が吹っ飛ばされている間に、ヒバリちゃんがヤマノケに捕まっていた。人間のものとも思えない、土気色の太い腕に捕まって、ヒバリちゃんが苦しそうにもがいている。

 次いで、周りを護衛するようにして、ゾンビのように操り人形の体を動かしたシェルターの女性達が、動物のようにうろうろと私達を囲む。テケテケさながら、這いつくばったままこっちへやって来る人もいる。

 

「うがあああああ」

「お願い、正気に戻って……!」

 

 私にのし掛かり、涎を飛ばしながらがちがちと歯を鳴らす女性達を、なんとか植能の力で押し返す。

 押し返された女性の指が、ばらばらっと先端から土や石のように味気なく崩れていくのを見て、私の方が正気を失いそうになった。

 ひび割れた頬。年齢に関わらず、ガサガサして折れそうな腕。ボロッと膝から下が崩れ落ちた脚。

 ついに、この人達にまで、ヤマノケの力が浸食を始めたのだ。

 

(手遅れになったら、みんな元に戻れなくなるのかもしれない――)

 

 真っ暗になりそうな頭の中で、まだ干渉を受けずに、涙目を浮かべて私に助けを求めるヒバリちゃんの瞳だけが、私に唯一希望を与えた。

 まだ、諦められない。諦めるわけにいかない。

 

「……子宮(ウーム)。対象を――」

 

 この時、私は何と言ったのだろう。きぃんと耳鳴りがして、一瞬周りのおぞましい音も風景も、何もかもがわからなくなる。

 次の瞬間、不意に暴れるように男が叫んだ。

 

「お、おい、何やってんだ……どうなってんだよォ!」

「……?」

 

 男の胴体で、土の腕から生える、尖らせた岩のようなナイフが、カタカタと揺れていた。片腕でヒバリちゃんを羽交い締めにしたままの男の鼻先に、ナイフを突き付けているのは……他でもない、男自身の(・・・・)左腕だ。

 何故だろう。極限状態の中で、何故か私は反射的にわかってしまった。

 燃え上がるこの体の淫紋を――この植能を、今どう使うべきなのか。

 自分の手が、自分を刺そうとしている。想定外の状況を受けて、男の形をしたヤマノケは、少なからず動揺している様子だった。

 

「お願い……その子を離して。私だって、あまりこんなことしたくない。けど、私たちを逃がしてくれる気も、離す気もないなら、私にはこうするしか」

「ふざけんなよォオっ、このアマ! 貴様ッ、淫乱な売女のくせに!

売女……ソウ、もう何モ……したくナイ……一生金と女ダケ……暮らし、タイ……

てめえなんかの植能でこっちの殻に傷が付くはずもねぇだろうが、この股開くしか脳のないゴミムシが!」

 

 ロボットのように、唐突に話す声のピッチや速度を変えながら、尚強がってみせる男。薄汚れた体を、恐怖がバレないようめいいっぱい冷めた平坦な瞳で見つめながら、男の言動を観察する。

 

「や、やれるもんならやってみろよォ! こちとらな、右手さえ空いてりゃ犯す事なんざ朝飯前だからよォ! お、おれは……おおおおおれは……一生……女ダケ……食っテ暮ラス……他のモノ、全部イラナイ」

 

 その姿がザザッとブレて、体の一部が、時折隆起した土の塊になる。

 やっぱり。喋ってる内容が支離滅裂だし、体も正常な人間のそれじゃない。

 途中で意識がとろんとしたように、目を濁らせて涎を落としながら喋る男の声に、どう聞いても人間とは思えない声が混じっている。

 ヤマノケは女にしか憑りつかない、という都市伝説を私は思い出す。

 

(ってことは、こいつは女の子達に入り込む前の、誰かが「エレメント」に憑かれて出来た、ヤマノケの原型……? 全ての元凶はこいつってこと?)

 

 ふと考え事で私の力が緩んだ瞬間に、男はナイフを自分に向けていた手とヒバリちゃんを、同時に下ろした。植能の力が切れたらしい。同時に、凄まじい倦怠感に襲われた私は、腕で体を支えていられずにその場に倒れ込んだ。

 

「おねえちゃん!」

 

 掠れた声で悲鳴を上げたヒバリちゃんが、私を助け起こそうと駆け寄ってくる。

 

(さっきのは、一体……? あれを、もう一回出来れば……)

 

 けれど、何がどうしてああなったのか、私自身にも分からないのだ。

 じんじんと痛む頭の左半分を押さえていると、緩んだ腕からヒバリちゃんを取り落していたことに気付いたらしきヤマノケが、暴れるように地面へひっくり返る。

 

「あああああ゛! めん! ど! くせ! おれが動かなくても、なんとかしろおぉぉぉぉ」

 

 固いコンクリートにはあるまじき、液体のような動きを見せた地面が隆起する。

 その波に乗るようにして、さっきまで大人しかった女性たちが、蜘蛛の群れのように集まって来る。

 その体は、もうぼろぼろなのに。土になった半身が折れて、立ち上がれない人もいるのに。

 本体である男は、命令するだけで何もしようとはしない。

 怒りで、思わず拳が震えた。

 

「なんなの……なんなの、本当に。

一体何が目的なの。みんなをこんなにして、どれだけ苦しめれば気が済むの。

あたしに用があるの!? だったら、あたしだけ殺せばいい! さっさとあたしだけ捕まえて、八つ裂きにでも何にでもすればいいじゃんッ!!!!!

なのに、なんでこんな……ッ! 関係のない人を狙うんだよ!」

 

 まともに言葉が通じる相手じゃないということは分かっているのに、叫びを抑えることができなかった。

 まったく動じていない風にして、両手で持ったナイフを構えたヤマノケ男が、ケタケタにやにやと笑う。

 

「何がそんなにおかしいんだよっ……!」

 

 怒りで、左目が燃える。

 ごおっ、と振り払った着物の袖から流れ出た植能の力が、ピンクの波のように迸り出て、周囲に立つ女性達を包み込んだ。

 どうやらそれで、効いてはくれたらしい。ぽやん、とした後で気を失ったように倒れた女性達の体が、多少殻の損傷を残しながらも、元通りの人間らしい体に戻っていく。

 

「お、おねえちゃん、すごい……」

 

 隣で呆然としたように見上げるヒバリちゃんにも、構っている暇はなかった。

 また憑依されたらおしまいだ。それまでにこいつを何とかしなくては。

 

「アアアアアアアアア!」

 

 キレた男は、人形を作って使役することは諦めたらしい。再び地面を隆起させると、舌のような造形のそれで、ヒバリちゃんを巻き取って手元に連れて行く。

 

「ヒバリちゃん!」

「お前のせいだ、全部お前ノ! 報復にその体に傷でも付けてやろうか、そうすればおれノもんだってわかるだろーに、なぁ!」

「バカ、やめて……!」

 

 咄嗟に動こうとしたものの、駆け寄る直前で、私の体は地面から生えてきた土の十字架へ磔にされる。

 ごほっ、と咳き込んだ隙に、ヤマノケはヒバリちゃんを突き放すように四つん這いにさせ、両手にギラリと輝く鉈ほどもあるナイフを振り上げた。

 そして。

 

「きゃああああああ!」

「っ……!」

 

 その瞬間、思わず見ていられずに目をつぶった。

 ごめん。ヒバリちゃん。動けなくて、ごめん。

 けれどその直後、私が恐れていたような、断末魔の悲鳴は降って来なかった。

 

「……?」

「ぐ……が……」

 

 震えてながら押さえていた頭から手を退けて、不思議そうに見上げたヒバリちゃんが、驚きにこれ以上ないほど目を見開いていた。

 もちろん、離れて見ていたはずの私も、愕然とした。

 ――ヒバリちゃんに向けられていたはずのナイフが、男の脳天に突き刺さっていることに。

 

「あ……」

 

 彼が両腕を捻り、自分自身で、歪な体の正面から貫通させたナイフ。

 男は何が起こっているか分かっていないような顔に、最期まで薄ら笑いを浮かべながら、白目を剥いている。

 ぼこっ、と血のような泥を流しながら、殻を崩壊させつつ倒れていくヤマノケ。それを見て、正気を保てなかったヒバリちゃんが、ついに意識を失った。

 

「…………」

「あ……っ、う、うそ、でしょ、」

 

 動こうとして、崩れ落ちた十字架へその場にどちゃりと放り出され、膝をつきながら、私は思わず手を伸ばす。

 けれど、ヤマノケ――男はまるで乾いた土が崩れるようにして、サラサラと頭のてっぺんからその姿を消した。砂埃が、吹き付けた風に舞い上がる。

 いつもならば、紋が消えて人間が残るはずなのに――人間ごと、その殻ごと、この世界から消えてしまった。

 愕然とした頭が、真っ白になる。

 

(う、うそ、私、……こ、ころし、ちゃったの……?)

 

 1ミリも手を触れていないとはいえ、自分のやった事が信じられなかった。

 今まで、「魅了」の力で他人が自分にとって都合良く動くよう、唆したことはあった。私のためなら何でもする、という気持ちになった相手が、自分の意志で動いて、それが「他人を操っている」ように見えることもあった。

 ……けれど、これは?

 化け物とはいえ、私は相手を、相手の意志を無視して無理矢理動かした。「助かりたい」「雲雀ちゃんを刺させたくない」という、己の欲望で。

 こんなことが――この子宮(ウーム)の植能で、出来てしまうなんて。

 

 力尽きたように呆然と四つん這いになっているうち、熱かった左の瞳から熱が引いていく。

 テケテケたちの形もなく、あとは気を失って倒れ伏した女性たちの上へ、まるで遺体を埋める時にスコップで土を被せたみたいにして、その残骸が広がるばかりだ。

 

「…………」

 

 遠くから聞こえてくる、サイレンの音。ぱらぱらという現実じみた音が、周囲を打つ。

 雨だ。雨が、降って来た。

 この子だけはと、ヒバリちゃんだけは背負ってなんとか建物の外へ出て振り返れば、さっきまで恐ろしい土の巣窟のようだった空間は影も形もなく――代わりに、無残に破壊された建物の断片と、地面からショベルで大量に掘り起こされたかのような土の山ばかりが残っている。

 ここなら安全だろう、という物陰にヒバリちゃんを寝かせ、降りしきる豪雨に背を激しく打たれながら、私はとにかく呆然としたまま、重い着物を引き摺って立ち上がった。

 

「ごめんなさい……」

 

 天候を操作できるセブンスコードで、雨なんて滅多に降らないのに。その煙のような水飛沫に紛れるようにしながら、1メートル先も見えない路地を必死で歩いていた私は、袴の裾を踏んづけてどちゃりと水溜まりへ倒れ込んだ。

 その体を、焼け付くような痛みと発情の快感が襲う。

 

「…………ッ…………! うぅ……!」

 

 脚の間を伝う水は、雨なのか、それとも別のものなのか。

 情けなさに打たれながらも、一番最初に思ったのは、ここから少しでも離れなきゃ、ということだった。

 サイレンの音がしたってことは、多分異空間化が解除されて、通報した誰かによってSOATがこっちに駆け付けようとしている。

 どうして、あそこが襲撃されたのかは分からない。

 でももし、あいつらが私を狙っているのだとしたら、これ以上被害を広めるわけにはいかない。出来るだけ、人目につかないところへ。

 最悪私が潰されようと殺されようと、誰にも迷惑が掛からなければ。

 

「はあっ……はぁ……」

 

 心臓が熱い。媚薬の働きをする植能が、血液に乗って全身を巡る。

 自分の植能が暴走しているせいなのか、怠惰に関わるエレメントの攻撃を受けたせいなのか、もう全然分からないけれど、とにかく怠い。

 這うようにして進んだけれど、コンクリートの地面についた膝が痛いだけで、平衡感覚もおかしくて、もう1ミリ進んだのかどうかさえ分からなかった。

 ……せめて現場に残された子達が、私のせいで襲われたとか、私を同居させてくれたおかげで狙われたとか、そんな風に思われて責められないといいな。

 そう、半分保身的なことを思ったけれど、既に現場から離れて人通りの少ない地区に逃げ仰せた私を、見つける者はいなかった。

 泥水の中で一人のたうち回る私の、はだけた着物の下で、降り注ぐ雨を蒸発させるほどの熱を持ちながら、蔦のように繁殖し広がった紋たちが暴れているのがわかった。喉を締め、足元を掴み。二度と消えない傷のように、ギリギリと肌を引き裂きながら、焼けていく。

 

「助…………けて……?」

 

 自分で持つと決めたものを、誰かに助けて、なんて言う筋合いはないのに。

 叩きつける雨の音を背景に、意識が遠くなる。

 廃ビルに付いた鉄の非常階段が、打楽器のように雨音を反響する。

 この雨の中を、わざわざ屋外へ出るセブンスコードの住人はいない。

 こんな様を誰にも見られず、晴れる頃には、意識を取り戻して歩いて一人で帰れるだろう――

 そのことに安堵を覚え、背中を丸めながらも、どこか哀しい気持ちを言葉にせずにはいられなかった。

 たとえ自己憐憫だとしても、どうせ自分しか、聞いている人はいないのだから。

 

(――役立たず)

 

 もっと、今すぐ立ち上がって走れるほどの、体力があったなら。

 もっと、中途半端に人の関心を惹かず、見くびられもしない姿であったなら。

 もっと、何かを直接的に攻撃出来る、かっこいい力が持てたなら。

 けれどこの体も、見た目も、植能も、生まれた時から決まっていた。

 「最初からそうだった」以外に、理由なんてない。

 だったらこの悔しさは、憤りは、どこへ向かえばいい。

 ヒーローになんかとてもなれやしない。

 善な心も、善な道具もありやしない。

 どの世界も上には上がいて、上位互換以外には誰も見向きもしない。

 だったら、この命は、どこへ――

 何も特別ではない私は、どこへ――



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3-8 決心

ムラサキから悪夢の内容と原因を聞き出し、改めて彼女の苦しみを減らしたいと願うヨハネ。
そんな彼は、ついにある決心を……?


第8節 決心

 

「……サキ。ムラサキってば!」

「ぴぃーぁ」

 

 ばさばさと、鳥が扇ぐように羽根を羽ばたかせる音で目が覚めた。

 けたたましい声で鳴きながら、ことりが一回り大きく見えるほどに体を膨らませ、すごい勢いで青と白の羽根を目の前でばたつかせている。

 その横にはヨハネがいて、自分の体を揺すって起こしてくれていたのだと、ムラサキは気が付いた。

 ムラサキを苦しめた悪夢へ敵意を剥き出しにするかのように、未だことりは全身の毛を逆立てて怒っている。

 

「ほら、ことり。もう大丈夫だ」

「うるるるる」

 

 未だ低い鳴き声で呻っていることりの背を、ヨハネが掌で撫でて宥めようとしていた。一人と一匹を前に、慌ててムラサキは体を起こす。

 酷い夢だったが、体の具合は幾分か楽になったようだ。

 

「あ……お、おかえり。やだ、帰って来てたんだったら声掛けてくれればいいのに」

「声掛けろったって、寝てたのはあんただろ……どうしたんだよ。魘されてたぞ」

 

 あくまで何でもないように振舞うムラサキの額の汗を、ヨハネが指先で拭う。

 掌の周りを気遣わし気にちょんちょん跳ねることりの毛羽立った体を、ムラサキは笑ってそっと撫でた。

 

「ごめんね、ことりも。心配してくれたんだね、ありがとう」

「ぴるるる」

「うん、大丈夫大丈夫。おかげで、ちゃんと目が覚めたから」

 

 それでも心配なのか、ことりはムラサキの腕の方に止まったまま、傍を離れようとしなかった。ぼんっ、と体を変化させて風船くらいに大きくなると、丸々とした体でそのままムラサキに抱き枕のように抱かれている。

 それはヨハネも同じで、お使いはとっくに終わったものの、ムラサキの右隣りへ寄り添うように腰を下ろしたまま動かない。

 両脇からあったかい存在に挟まれて、不意に気持ちが緩んだムラサキは、ぼすんっと隣のヨハネに寄り掛かった。

 

「〜〜っ、ごめん! やっぱりちょっとだけ胸貸して!」

「! っ、いや、いいけど……本当にどうしたのさ」

 

 無理に笑おうとしながら肩を震わせるムラサキを慌てて支えたヨハネが、困惑気味だった瞳を微かに見開いた。

 

「……サキ? 泣いてるの?」

「……」

 

 こんな時どうしたらいいのか、SOATのマニュアルにも書いてない。

 他人を慰めるのが苦手なヨハネにとっては、相手が女性だということも含めて、甚だしく対応に困る状況だ。

 

(でも……なんでだろう。どうして欲しいのか、わかった気がする)

 

 ことりを抱えて黙ったままのムラサキの背中へ、躊躇いがちに手を伸ばしたヨハネは、思い切ってその腕を回しながらぎゅっと抱き締めた。

 

「……大丈夫?」

「っ、う……」

 

 顔を埋めながら、耐えきれずにムラサキの瞳から涙が零れた。羽毛が濡れるのも厭わずに、ことりは抱き締めたムラサキの腕の中でじっとしながら、くぅくぅと鳴き声を立てる。

 長い睫毛に乗った雫を、息を飲んで見つめるヨハネの前で、顔を離したムラサキが俯きがちに口を開いた。

 

「じ、事件の……夢を見てた。あのシェルターが崩壊した日に……私が、まだあのシェルターにいた時に……起こった、あの」

 

 この震え方に見覚えがある、とヨハネは思った。

 初めて彼女と飲んだ日、帰り道にテケテケに襲われた彼女を匿った、あの時と同じ。

 ボールのように丸くなっていたことりの毛を、ふわふわと梳かしながら、ムラサキが座り直して涙を払う。

 

「だ、だいじょうぶ……ごめんね、突然泣いたりして! でも、泣けたらスッキリするから……」

「……サキ。もしかしてあの時のこと、何か思い出した?」

「……」

「話はあの時助かった全員から聞いたし、大変だったんだろうなとは、思ってるよ。けどあんたの怯え方は、尋常じゃないでしょ。今までどんな化け物を前にしても最後は物怖じしなかった、あんたらしくもない」

 

 ムラサキ的には、常に怯えて状況に対応するのが精いっぱいだと思っていたので、思わぬ過大評価だと思ったが、ヨハネは少し哀しそうに微笑んでから、ムラサキの頭をそっと撫でる。

 子供のように撫でられて、ムラサキは安心しながら思わず目を閉じた。甘えるように肩口にくっついても、今のヨハネは何も言わない。そのくらい、ムラサキが精神的に参っているのを、察してくれていた。

 

「『泣いたら大丈夫になる』っていうの、なんかちょっとズルいよ。

『大丈夫』にしてるのはそっちじゃん。

あんたのことだから、どうせ泣くべき時は泣いて、それ以外の時は泣いたり悲しんだりしないように、きっちりケジメ付けるべきだとか思ってるんだろ」

「……」

 

 いい年した大人だから、と思ったのだが、いけなかっただろうかとムラサキは考えつつ、間近にあるヨハネの瞳を見つめ返した。

 こんなに近くにいるのに、ただただ呼吸まで寄り添っているかのような心地よさがあるだけで、不思議と恥ずかしさは感じない。

 広い掌に、ムラサキの艶やかな黒髪が柔らかく絡む。

 

「別にボクの前でくらい、理由なく泣いてもいい。無理に悲しいコトを終わらせようって、思わなくていい。

い、一応、だってほら……その……相棒(パートナー)、なんだし」

 

 その言葉に思わず息を止めて顔を見上げたムラサキが、気を緩めてくしゃっと笑った瞬間、またぼろぼろと涙が零れ落ちた。

 

「ふ、ふふっ。そう、だね」

「ほら。話してよ。わかったんなら」

 

 先を促されて、ベッドに並んで座ったまま、ムラサキはあの日起こったことを覚えている限り話した。

 途中でなぜか辛そうな顔をされてしまうのが、見ていてムラサキにもしんどかったが、情報を共有しておくことは大事だ。

 傍にことりが居て癒してくれたのもあり、何とかゆっくりと話を終えたムラサキが、小さくなったことりのふわふわの頭を撫でながら呟いた。

 

「あの後で、……ことりが傍で鳴いてる音で目が覚めて……あの子と一緒に、アパートの部屋に帰ったの。もう、どうせ襲われても闘えないと思ってたし、他に行く場所、思いつかなくて」

 

 よく考えれば、一緒にシェルターに避難していたことりが無事だったのも、幸運でしかない。

 掌に乗せて、その体に頬ずりしたムラサキに、ことりは嘴でキスをしながら嬉しそうに応える。

 慰めの言葉よりも、何か一つでもムラサキを安心させるような要素があった方がいい、と考えたヨハネは、今までの話から分かることを整理しながら、顎に手を当てて頭をフル回転させた。

 

「今までは、エレメントが何かの形で人間に憑りついて暴走させるってパターンが多かったけど、あんたが倒したその男は、多分違う。

現場から何も見つからなかったってことは、IDも正規の殻も存在しなかったってこと……おそらくあいつがヤマノケ自身。エレメントが化け物に姿を変えたものだ」

「人間……じゃ、ないってこと……?」

 

 それは少し意外な結論で、ムラサキは小さく目を見開く。

 いつの間にか外は暗くなっていて、スタンドの明かりを捻り光を強めてから、ヨハネが傍に戻ってくる。

 

「サキが心配してたことは分かった。早めに気付いてあげられなくて、ごめん。

けど安心して。もし殺人や失踪事件だったら、セブンスコード内の入場と退場の人数が合わなくなるんだから、とっくに大騒ぎになってる。そっちは、雷鳥の時のテケテケを倒した後に救出された人達を含めたら、ちゃんと解決してるんだよ。

あんたがSOATに初めて顔を出した時だって、カシハラは何も言ってなかったろ。ホントにあんたがヤバい奴なら、あのカシハラが黙ってるハズない」

「……信頼してるんだ、ユイトのこと」

「言いたくないけど、〝神様〟らしいからね? セブンスコードの。やたらとそういう勘が働くんだ」

 

 犬みたいな奴、とふんと鼻を鳴らしながら皺を寄せるヨハネを見て、ムラサキは漸く小さく笑った。

 

「そもそも、相手が生身の人間だったとしても、サキのそれは正当防衛でちゃんと認められると思うけどね……」

「で、でも……」

 

 人間じゃなかったからと言って、安心していいものだろうか。

 そんなムラサキの気持ちを察するようにして、ヨハネは目を見ながら小さく頷いた。

 

「分かるよ。殻が崩壊してくのは、見てて気分のいいものじゃない。

ボク達だって、『捕縛』の時は別として、相手を倒す時に致命傷を負わせることは、今じゃ滅多にないからね。

……でも、あんたは人殺しなんかじゃないよ。あんたがやらなければ、あんたも、その場にいたその他大勢の人も、危なかった。

あんたは、自分とみんなの身を、守ったんだ」

 

 一般人には、あまりに酷な仕事だっただろう。

 自分が見ていない間にそんな目に晒してしまったことを、唇を噛んで悔やみながら、ヨハネがムラサキの体を正面から抱き締める。

 

「それでも納得できないなら、ボクが一緒に背負ってあげる。

この力で……市民に身勝手に裁きを下すのは、ボクも、SOATも同じだ。

ボクが帰属する場所に、あんたは全てをなすりつけていいんだよ。元はといえば、ボクらが早く駆け付けられなかったせいなんだから」

 

 そんなことない、とムラサキは慌てて首を振るけれど、一番に欲しい言葉をくれるヨハネの優しさが嬉しかった。

 細身のようでいて、意外と逞しい部分もあるヨハネの体に寄り添いながら、ムラサキは目を細める。

 

「ありがと。こんなこと言うのもあれだけど……すごく楽になった。

……なんか、運命共同体みたいだね。私達」

「とっくにそうなっててもおかしくないけどね。ていうか、もっと本当の意味で運命共同体になってもいいんだけど」

 

 ムラサキの腕を掴みながら、正面からヨハネが顔を見据える。

 オレンジ色の灯りがくっきりとその目鼻立ちに陰影を落としていて、真摯な瞳に今更のように心臓がどきどきとした。

 

「えっと……それは、どういう意味で……?」

「セブンスコードは、アウロラの臓器や体細胞の遺伝子をコード化して、植能にしている。

あんたの子宮(ウーム)も、もし同じ理屈なら、破壊は出来なくても何かしらの方法で〝譲渡〟は出来るんじゃない?」

 

 遅かれ早かれ、聡明なヨハネがそれに気付かないはずはないと、ムラサキは思っていた。

 こくりと小さく唾を飲み、ミソラが理論上は可能だと言ったそれを、ムラサキは繰り返して口にしながら彼を見上げる。

 

「譲……渡?」

「その植能……少しでもボクが引き受けられれば、ムラサキは楽になるんじゃないかって」

 

 本気、なのだろうか。

 ひとまず認識を擦り合わせようと思い、ムラサキは脳内から自分の知っている知識を引っ張り出しながら、指先を頭に当てた。

 

「ええっと……植能のデータを、何か媒体に移し替えたり、通信を使ってデータで殼に転送するっていう、あれだよね」

「そう。SOATで植能を貸与する時も、コンタクトレンズに入れて渡されたし、カシハラからコルニアを取り返す時も、データをボクの殼に移し替えることには成功した。今度も、多分……」

「譲渡……譲渡かぁ」

 

 真剣な瞳のヨハネを見て、ここまで来て言い逃れは出来ない、とムラサキは思った。

 不思議そうにやり取りを聞いていることりを撫で、ひとつ深呼吸をすると、顔を上げてヨハネの瞳を見据える。

 

「……やったことないけど、一部にしろ全部にしろ、多分人に受け渡すことは可能だと思う。ってミソラが言ってた」

「本当か!? ってか、なんでそれもっと早く言わないんだよ!?」

「……譲渡したところで、力や負担が分散するだけっていうか、完全にはなくならないの。それにこの淫紋は、私自身とも繋がってるから。

私がこの能力を使った代償として痛みを伴う場合は、それがヨハネにも伝わるし、元々痛みなんか不必要なセブンスコードで、君自身も理不尽に痛みを味わうことになるんだよ? それはいいの?」

 

 痛いのはイヤだ、と常日頃から言っているヨハネが、それに怯まないはずは無く。

 不安を隠し切れないまま、正直に黙り込むヨハネを見て、ムラサキは優しげに微笑んでその手でヨハネの頬に触れた。

 

「あーあ、無理しちゃって。気持ちだけで十分嬉しいってのに」

「……べ、別にいい」

 

 しかし、そっぽを向きながら続いた言葉に、ムラサキは驚いたように目を丸くする。

 

「いや、別にいいって、そんな軽々しく。今までの私の様子見たでしょ。痛いよ?」

「構わないよ。元々ボクだって女の体だし」

「いやだって……それ一応アバターの話でしょ?」

 

 現実世界のヨハネの性別はもちろん知っているが、知ったところでどうだっていい。

 ヨハネの性別はヨハネだ、というのがムラサキの暴論である。この顔と体が、自分の好みであることには間違いなかったが。

 けれど、多少恥ずかしそうな様子を見せながらも、ヨハネの決心は揺るがないようだった。大きな掌が、ムラサキの手を握る。

 

「ここに来る前から、心の準備は出来てる。……少しでも、あんたの苦しみを減らせるなら、ボクは受け入れる」

「な、何でそこまでしてくれるの?」

「なんでって……」

 

 そんなの言わなきゃ分からないのか、とでもいうような目を向けられて、ムラサキは一瞬混乱しかけた。

 

(こ、これは、〝仕事上の〟パートナーだからなの? それとも……)

 

 確かに、ムラサキの体が楽になればヨハネ達の足を引っ張ることも減るのだから、仕事の上でも役に立つとは言えるだろうが、その分ヨハネの不調が増えるだろうし、彼にとってはデメリットしかない。

 それを進んで受け入れてくれるという、ヨハネの「パートナー」という言葉には、本当にビジネスの範囲内の意味しか、含まれていないのだろうか。

 何かを期待してしまいそうで、ぐるぐると頭が回っているところに顔を近づけられて、ムラサキはますます慌てた。

 

「わかったんなら、さっさと」

「あーー! ちょ、ちょっと待って。もうひとつ問題が」

「まだ何かあるの? 折角人が痛みを折半してやるって言ってんだから、大人しく受けとけばいいんだよ」

「ていうか、こっちの方が一番の問題かも……」

 

 何故か困ったように、顔を手に当てながら他所を向くムラサキの頬が、心なしか赤い。

 

「……?」

「さっき、植能の譲渡には方法が色々あるって話したよね」

「ああ、言ったね」

「ミソラが調べてくれたとこによれば、植能を司ってる淫紋のコード化と移行自体は可能なんだけど、それを出入力するシステムの部位に問題が」

「出入力……?」

「要は、取り出したり送信したりする時に、特定の手順を踏まないといけないってこと」

「なんだ、それだけの事だろ。どうすればいいんだよ」

 

 得意げに軽く言ってのけるヨハネの前で、盛大に溜息をつくムラサキのつむじを、尚も不思議そうにヨハネは見下ろしながら首を傾げている。

 

「?」

「……はあ。あのね、特定の身体部位を介在しないと、情報が送受信出来ないようになってるの。少なくとも、絶対にそこを経由しないとコードを取り出せすらしないみたいで、故に機械じゃ私からの植能の移譲はできない」

「……えっと、どこだって?」

「ここ」

 

 つんっ、とムラサキの人差し指が唇をつついた瞬間、すべてを理解したヨハネの葵色の瞳が見開かれる。

 

「それ、って」

「そゆこと。……ヨハネ。私とキスできる?」



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3-9 誓約

紋の譲渡と、その衝撃の方法。
互いに狼狽する二人だが、その距離はだんだんと縮まって……。

どうでもいいんですが、二人がなんとなくいい雰囲気の時って、横で見てることりちゃんはどうしてるんでしょう。
すごく気になります。


第9節 誓約

 

 当然のことながら、漫画のように綺麗に固まったヨハネは、面白いぐらいその顔を真っ赤にさせて口走った。動揺のあまり、声が半分くらい裏返っている。

 

「え……は、はぁ!? ちょ、ちょっと待ってそれボクに……ぼっ、ボクに、あんたにちゅーしろって、そう言ってる!?」

「ちゅー……可愛いなそれ……うん、まあ、そういうことなんだけど」

 

 思わぬところでムラサキがツボを突かれた一方、ヨハネはベッドに倒れ伏して身悶えしている。

 普通植能の譲渡と言えば、額だったり掌だったりを介してデータを送受信すれば即終了なので、その反応も無理はない。

 一応言ってみただけなのだが、ムラサキは諦めの溜め息を吐いて、ヨハネが買ってきたお惣菜をレンチンし始めた。買い出し中仲間に引き止められた時点で作るのは諦めたのか、お粥も出来合いのものを買ってあったが、十分美味しそうだ。

 湯気の立ったそれを、絨毯の上に設置したローテーブルに乗せながら、床に座ってムラサキがヨハネを招く。

 

「はあ……無理だよねぇ、やっぱり。純情真っ盛りの高校生にキスなんて……っていうか、年齢差のことを考えても私が既婚者ってことを考えても、問題があり過ぎるわ。児ポ法とか引っ掛かるんちゃう? 無理無理犯罪者になっちまう。

っていうわけで、やっぱりこの話はなかったことに……」

「まてまてまて待てッ!」

 

 勝手に早口でセルフツッコミしながら話を畳もうとするムラサキを、必死で止めながらベッドから振り向くヨハネ。

 

「え……? いや、そもそも何でだよ、どういうこと……? 唇の皮膚接触で、データの送受信が行われるってことか?」

「唇、もしくは粘膜に該当する部位。プラス、本人と相手が同意する意志が必要。だってさ。

そこを介して契約を行えば、あとはその人に触れる度に、自動でデータのインストールが相手に行われるし、相互の負担も軽減できるって話。多分、覚醒した紋のデータも、契約すれば順次そうやって相手に移るだろうって。

ミソラが構築した理論上は、そうなってるらしいよ。もっとも、誰とも試したことはないんだけど」

 

 それは安堵した方がいいのかどうなのか、という複雑な表情になりながら、ヨハネが向かい側にやって来る。

 火傷しないように、匙に移して冷ましたお粥を、ことりは器用につついていた。

 渋面を作りながらも、ヨハネも自分の分のお粥を啜る。

 

「いくらなんでも他に方法が……」

「私もそう思ったんだけど、これしか無し。これに関しては、ミソラが風俗のお客だった時代から結構いじくり回してて、唇からデータが抽出出来るってことまでは分かったの。ただ、そこに触れてるのが相手の体以外だった場合――たとえば検出器とかね――は、植能を抽出出来てもただの劣化版コピーになるだけで、私の中から淫紋も力もなくならない。

要は、相手の生身の肉体も経由しなければダメってことみたい。

皮膚とか粘膜の穴から直接データが移る事でしか、譲渡が出来ない植能だからだろう、ってミソラは言ってたけど」

「……まるで性病だな」

「言い方クソ酷すぎるから選んで欲しいけど、まあその通りだね」

「あっ……ごめん。一番に連想するのが、それだっただけで。別に他意はなかったんだ」

 

 素直に謝るヨハネに、目をぱちくりさせてから笑って首を振ったムラサキは、思いついたように匙を置くと腕を組んだ。

 

「ああ、他の方法ってことなら、なくもないか」

「えっ」

「つまるところ皮膚とか粘膜同士の接触が必要ってことは、キスが一般倫理に照らし合わせると一番精神的抵抗が低そうな方法ってだけで、キス以外にも一応やり方はあるわけでしょ。色々と」

「……」

「もっとエグい方法になるけど、言った方がいい?」

「……いや、いい。期待したボクがバカだった」

 

 げんなりとヨハネが答える。

 精力を与えることで暴走が収まるとは聞いていたので、最悪そっち方面の覚悟もヨハネはしていたが、キスで済むならキスでいいような気がしてきた。

 一緒に湯気を吹き、卵の入ったお粥を口に運んでいると、汗が噴き出してくる。さっきから頭を使う会話をしっぱなしだったので、ようやく一息つきながらも、ヨハネは呆れたように問い掛けた。

 

「それで今まで、よく客にその紋様が移らなかったね」

「言ったでしょ、相互の意思が要るって。一方的にあげようとか貰おうとかじゃ無理なんだよ。 まあ、一応お客さんには全部『刺青です』で通してるし、そもそもこんなの欲しがる人間いるわけないしね。私もあげようなんて思わないけどさ」

「なんかあんたの植能って、譲渡方法だったり精神的要因だったり、色々と複雑だよね」

「私自身もそういう面倒くさい人間だから、ある意味ぴったりかもしれないけど、こっちの世界の人にとっちゃたまったもんじゃないかもね」

 

 苦笑しながら、ムラサキが匙を口に運ぶ。

 食べ終わって食器やごみを片付けながら、随分と元気を回復したムラサキのパジャマ姿に安堵しつつ、ヨハネはその長い髪を見つめていた。

 

「……そういえば、今日は下ろしてるんだ」

「え? ああ、あはは、今日はみっともないとこ見せすぎだよね。リアルでも伸ばしてるんだけど、手入れしておくと、防御力が上がるみたい。戦闘の時も、髪型変えたりすると色々違った補助効果があるみたいで、重宝してるんだ」

「別に、下ろしてても綺麗だと思うけどな。ボクはさすがに髪までは伸ばせないし、羨ましい」

 

 するっと自然にヨハネが褒めたので、ムラサキは頬を赤くしたが、櫛を持って梳かしながらヨハネの前にぺたりと座ると、肩越しに振り返った。

 

「触る?」

「……いいの?」

「別に、セクハラで訴えたりしないよ。さっきは散々胸貸してもらったし。

こんなのでお礼になるなら、いくらでもどうぞ」

 

 笑いながら身を委ねたムラサキの後ろに座ると、ヨハネは褐色の指先でするりとその長い黒髪に触れる。

 自分の長さの二倍か三倍は優にありそうな髪が、滝のようにさらりと零れ落ちて、いくら指先に絡めて遊んでいても、ヨハネは飽きなかった。

 もつれることなく、指の間を流れていく感触を楽しみながら、微笑みすらその口に浮かんでいる。

 

「……楽しいな。これ」

「ふふ、ヨハネさんなら、練習すれば髪結ぶのも上手そうだよね」

「三つ編みとか? ボクやったことないよ」

「どんだけでも練習していいよ。ヨハネさんならいくらでも弄らせたげる」

 

 そういえば、初めて彼女に手錠を掛けたあのあたりの店に、つげ櫛を扱う店もあったと、ヨハネはふと思い出した。

 ゴールドが溜まったら、オイルか何かと一緒に買ってもいいかもしれない、と当たり前のように考えていた自分に、ヨハネは驚く。

 思えば、たったこれだけの期間しか経っていないのに、共に居るのが自然で、会えば何か一緒に食べに行ったり、出掛けたり、似合う物があれば贈りたいと思ったり。仕事仲間だとかは関係なく、特段気負わずにそう考える自分がいる。

 

(別に、リアちゃんやイサクにもたまに贈り物とか奢りぐらいするし、ミカの好みだって把握ぐらいしてるけど)

 

 それとは、何が違うのだろう。小柄な頭を撫でながら、ヨハネは考えた。

 

(……サキはどうなのかな)

 

 口にはしないものの、ムラサキといる時間はそれなりに楽しい。

 だからこそ、力になってもいいと考えるのも、ヨハネにとっては自然なことだったのだが、それをどう確かめればいいのか。

 するすると指を通しながら、ヨハネは考え考え問い掛ける。その横顔を、ベッドサイドランプの優しい灯りが照らしていた。

 

「あんたはさ……あんたこそ、その、イヤじゃないの。ボクと、そういう……」

「……ちゅーすること?」

「か、からかうなよ。真面目に言ってんのに」

「ごめんごめん、あんまり可愛かったから。……私は、イヤじゃないよ。ヨハネさんの心情を思うと、申し訳ないけど。

嫌じゃないどころか、その……望んでる、まであるけど。私は、ヨハネさんとなら……」

 

 俯いた彼女の声がだんだん小さくなっていって、聞き取ろうとヨハネが身を屈めると、顔の横の長い黒髪に隠れながら、ムラサキは真っ赤になっていた。

 

「あんた、何て顔してるのさ」

「ち、違う! これはイヤだからじゃなくて! 自分の言ったことが、恥ずかしくて……もう」

 

 髪を両手に持って髪の毛の中に隠れた、妖怪みたいになってしまう。

 そんなことしても顔は見え見えなんだけど、と呆れた顔になりながら、ヨハネはふと目元を緩めた。

 

「ボク達、もしかして同じこと考えてる?」

「え?」

「ボクだって、ボクが構わなくてもあんたが受け入れられないって思ったら、それ以上ボクからムリに押すわけにいかないだろ」

「そ、そんなわけないでしょ! 私こそっ、自分がこんな特殊な理由で付き合わせるなんてさぁ、非常に都合がいいというか、浮ついてるみたいで……」

「浮ついてるのは別にいいんじゃないの? あんたが得をするって話なんだから」

「い、いいのそれ?」

「だいたい、あんたがボクの事大好きすぎるのなんて、最初から知ってるし?」

「なっ……そっちこそからかわないでよ! 大体、ヨハネは全然私の好きの意味わかって……っもう!」

 

 久しぶりにマウントを取れたので、ヨハネは目を細めて得意げに唇を緩ませながらも、嬉しそうだ。

 子供のように膨れっ面をして両腕を振り回していたムラサキは、ふと我に返ってけらけらと笑い出す。

 その向かいにいたヨハネも、つられて楽し気に笑った。

 

「ふふっ……あーあ、バカみたい」

 

 笑い過ぎた呼吸を整えながら、ベッドに寄り掛かって笑うムラサキを見つめるヨハネの目に、ほんの少し切ない色が宿った。

 これは植能のせいだとか、単純に馬が合うからってノリで流されたら痛い目を見るとか、頭の中では色々なことを言う自分がいる。

 けれど、もう止まりたくない。

 そのせいで、あくまで仕事の一環なんだと、後になって自分に言い訳をする羽目になっても。目の前の光を、失いたくない。なぜか、強くそう思った。

 

「……はーあ」

「えっ。わ、私何かまた気分を害すること言った!?」

「違う。どうせ、ミソラに報告する羽目になるんだと思ったら、何か癪で」

「?」

 

 ふっと、ムラサキの方へ身を屈めた拍子に、壁の影も動く。

 きょとんと素で不思議そうに顔を上げた、ムラサキの無防備な唇に、ヨハネの唇が触れていた。

 

「……っ」

 

 頭が、真っ白になった。不意打ちすぎて、匂いも味も、呼吸も感じられないくらい。

 片手で引き寄せるように触れられた右の耳に、ムラサキは電流が走りそうになる。

 ほんの一瞬触れただけだったけれど、顔を離すと既にヨハネの身に変化があった。

 

「これ……」

「あっ!? ヨハネの脚にも蔦模様できてる!?!?」

 

 しゅるりと、足元で何かが動いた。ごく薄いものだが、右足の見える位置にムラサキと同じ紋様が転写されている。

 そのあたりの事を深く考えていなかったムラサキは、キスの衝撃のままパニックでわたわたと手を振った。

 

「ど、どうしよう!?!? ごめんっ、これ普通に隠すの難しいのに……!」

「大丈夫、普段は隊服で見えないし。こればっかりは、あの露出が極度に少ない隊服に感謝だな」

「う、で、でもさあ、クチュールとか……」

「あれだって、お世辞にも大人しい格好とは言えないんだから、変に浮いたりはしないでしょ。あんただって入れ墨で通してるんだし」

 

 ボクも入れたことにしようかな、と体を一通り見まわしてから、ふと気付く。

 

「……なんか、薄いよね」

「そりゃ、まあ……一回じゃ、無理だろうから」

「何回すればいいの?」

「わかんない……暴走が起きたり、紋が定着したタイミングで都度、とか……?」

 

 かくなる上は、後でもう一度ミソラに詳しく話を聞くしかなさそうだ。

 しかし、これでもう、定期的にヨハネとキスをしなければならないことは、確定したと見える。

 吹っ切れたような顔で、ヨハネが微笑んだ。

 

「あんたとの約束が、もう一個増えたね」

「約束?」

「あんたを傷付けさせない、必ず守るっていうのと、もうひとつ。

……あんたの持つ痛みは、ボクも一緒に抱えていく」

 

 ぴっぴっ、と嬉しそうにベッドの上でことりが鳴く前で、ムラサキは赤くなったままヨハネの顔を見られずに、両肩をばしばし叩く。

 

「っ……馬鹿。なんでそんな面倒くさいこと、自分から足突っ込むかな。私、ただでさえ変な人間なのに」

「それも知ってる。自分が巻き込まれた時には、諦めて付き合う主義なの、こっちは。

あんたが巻き込んできたんでしょ。責任は取ってよね」

「ど、どうやって」

「パートナーなんだから、勝手に一人で苦しまないで。ボクを見て対等に話して。自分の望みを隠さないで、助けが欲しい時は助けてって言って。ボクは言われないと分からない方だから。

……わかった? 申し訳なさそうにするよりは、せめて元気に過ごしといてくれないかな。もう腹は括ったんだ。乗りかかった船には最後まで乗り続けるタチなんでね」

 

 何度も噛んで含めるようにそう言われて、ムラサキも観念したように頷いた。その瞳が、微かに潤む。

 本当に分かっているのかと、ずいと鼻が触れるほど近付いたヨハネが、きらりと輝くベッドサイドの灯りの下で、瞳を瞬かせたまま静かに囁く。

 

「……誓う?」

「……はい」

 

 掠れた声で、目を閉じる。触れるまでがもどかしくて、まるで誓いの儀式みたいだ。

 もう一度、今度は自分から望んで差し出した唇には、さっきよりも甘い味がした。



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3-10 手当

一部第三章最終話です!
ムラサキと植能を共有したことにより、今度は自分が体調不良で倒れてしまうヨハネ。
そんな彼にムラサキは……?


第10節 手当

 

「んで? 今度はヨハっちが、生理痛でぶっ倒れていると……」

 

 それから、数日後のこと。

 ムラサキ達から経緯(いきさつ)を聞いた研究所のミソラの元へ、痛みで倒れたヨハネが本部の方から運ばれてきたので、医務室で休ませながら、ミソラは苦笑した。

 その手で調合した新型の痛み止めを、試験管の中で揺らしている。

 ぐったりとベッドで横たわったヨハネが、何故か研究機材が室内に併設されているという異様な眺めの医務室で、蛍光色の光ともうもうとした煙を上げる試験管をうつろに見上げた。

 

「なんかすごい色だけど、効くのそれ本当に……」

「ばっちりばっちり。も~徹夜明けの頭痛で悩まされた同期が、眠剤と併用しても全く眠くならずに疲れと痛みだけ取れて、バリバリ翌朝論文の提出に間に合ったぐらい、ばっちりな代物だから!」

「いやそれ痛み止め関係なくない? 逆に心配なんだけど。人間が飲んでいい奴じゃないだろ絶対」

 

 戦々恐々としたヨハネが、これを飲まされる恐怖自体に痛み止めの効果があるんじゃないかと思いながら、ベッド際の壁に後ずさって薬を拒否していると、医務室の電子ロックが解除されて人影が駆け込んで来た。

 

「ヨハネさんっ、大丈夫!?」

「ぴるる」

「お、来た来た。鳥ちゃんも一緒かぁ」

「も~、ミソラ、今度はことりを実験台にしないでよ?」

「わかってるわかってるぅ。今日は変なことしないからっ。うふふ、でも羽根の一枚や二枚、分析器に掛けてみたいよなぁ」

「ぴっ」

 

 前回、研究所への訪問時にミソラに散々体中をいじくり回されたことりは、白衣姿の彼女に若干警戒気味である。

 が、それでもムラサキにくっついて来たのは、ヨハネが心配だったかららしい。

 ぱさぱさと枕元に飛んでいくと、その頭や腰のあたりをつんつんとつついている。

 試験管を置いてその様を見ていたミソラが、感心したように声を上げた。

 

「賢いんだねぇ、やっぱり。痛みの部位がわかるんだ」

「ねぇ、生理痛ってお腹が痛いんじゃないの……? なんで頭痛が……なんか気持ち悪いし……」

「あ~、それは……人によって、ほんとに色んな不調があるんだよね。お腹が痛くなるとは限らなくて、胸が張って痛いとか、微熱とかもあるし。あとは物凄い食欲出るとか、もしくはその逆も……」

 

 

 地獄の底から這い出るような声が布団から聞こえてくるのに答えながら、ムラサキは心配そうにヨハネの傍へしゃがみこむ。

 

「薬飲んでないの?」

「来た時はそこまで酷くなかったから……いけると思って……」

「ったく、私に薬飲めって見舞いに来た人が、何やってんだか……ほら、市販薬。おにぎりとかスープ買って来たから、飲む前に何かちょっと食べて。どうせミソラの薬は飲んでないんでしょ」

「もー! 何気にちょっと二人とも失礼じゃないかい!? これでもリアルじゃ認可が下りてる市販薬の開発とかも担当してんだからね!?」

「誰も死んでないよね……?」

「あたしが! 作ってるのは! 毒薬じゃなくて薬だっつーの!」

「毒薬にはならなくても劇薬程度には……冗談だってば」

 

 ぷんすこと怒っていたミソラだが、ふとベッドに腰掛けてヨハネにコップの水を渡しながら背を支えるムラサキを見て、にやにやとした笑みを浮かべた。

 

「ね~、そんな事しなくっても、薬以上にバッチリ効く方法、あたしが教えてあげよっか?」

「えっ、そんなんあるの!?」

「あるある。しかもサキとヨハっちにしか効かないやつ」

「何それ、どうすればいいの?」

「そのスープを、サキがあ~んってやるの! そうすれば、ヨハっちの不調なんか一発で治っちゃうって」

 

 思わず真顔になって、手元に取り出した蓋つきのカップと匙に視線を落としたムラサキは、ベッドに座ったまま低い声を出す。

 

「……いい加減にしないと怒るよ?」

「わっ、ほんとなんだってばっ! ただのあ~んじゃダメで、熱~い奴じゃないと多分ムリなの、この方法!」

 

 ばたばたと慌てながら、ミソラが白衣の袖を振った。ポケットに差し過ぎたペンがじゃらじゃらと落ちそうなぐらい揺れている。

 怪訝そうに半信半疑の目で首を傾げていたムラサキだが、どちらにしろ寄り掛かったヨハネが腕一本も動かせないほどしんどそうに見えるので、ムラサキは湯気を立てるカップの中のスープを一口匙に掬った。

 自分が食べる時と同じように、適度に冷めるようふうふうと息を吹きかけ、最後にちょっと唇の端で温度を確かめてから、匙を持った手を差し出す。

 

「はい、ヨハネさん」

「……。あんたって人は、本当に」

 

 すっ、と目を逸らしたヨハネの頬が、熱のせいではなく心なし赤いように見えて、ムラサキは不思議そうに暫し考えてから、あっと声を上げた。

 

「ごっ、ごめん! もしかして間接キスとかそういうの嫌な人……」

「い、いい! 別にイヤじゃないから、食べる!」

 

 やけくそのように言ってから、鳥の雛のようにぱくっと匙に食いつく。その様子を、ヨハネとムラサキの間に止まりながら、ことりは不思議そうに交互に見比べていた。小さく笑ったムラサキが肩を揺らす。

 

「もしかして、大人なのになんで餌付けしてるんだろうとか思ってるのかな、この子」

「かもしれない……なんか恥ず……」

 

 そうは言いながらもムラサキの厚意を跳ね除けることはせず、せっせと匙を口に運ぶムラサキに合わせて、開き直ってスープを完食したヨハネは、ふう、と息をついてから空のカップを眺め、ふと気付いたように顔を上げた。

 

「……あれ? さっき薬って飲んだんだっけ?」

「ううん。まだだよ。よもやそんな事も覚えていないほど朦朧としてたとは、可哀そうに……」

「なんか……飲み終わったら、本当に楽になったんだけど」

「え!?」

 

 そんな馬鹿な、と言いたげな顔でムラサキが慌てて隣を振り返る。

 少し首を傾げながら、ヨハネは重たげな瞼を開いた。

 

「お腹は、まだ微妙だけど……頭がズキズキするのが、なくなったような」

「なんでだろう……あったまる物を食べたからかな……?」

 

 でもセブンスコードでそれは関係あるのか、とムラサキが不思議に思っていると、傍にやって来たミソラが解説してくれた。

 

「もうヨハっちとムラサキは、植能の譲渡に関して『契約』をしちゃったわけでしょ?」

「うん。持ち主が私だからか、子宮(ウーム)の力自体は、今は私にしか使えないみたいだけど……」

「そいでも、サキの植能の発動源である紋は、二人の体にある。つまり二人は一蓮托生~! なわけだ!

だからね、ヨハっちがサキの負担を軽減してあげられるみたいに、サキもヨハっちのことは癒すことができるんだよん」

「! そっか、冷ます時にスプーンに口を付けて温度を確かめるから……だから『熱いものの時』って言ったわけね」

 

 品のない言い方をすると、多少なりとも唾液が入るわけで、それを介して粘膜同士の接触ということにカウントされるのだろう。

 多少恥ずかしい思いはしたが、それでヨハネが楽になるのは何よりだと思いながら、ムラサキは照れ笑いで顔を上げる。

 

「他には、何かないの? その、要は契約の時やったみたいにキスとか……」

「それも効くとは思うけどぉ、もう互いの契約相手は互いだけって体で分かってんだから、多少服を挟んだ普通の身体接触でも効果あるよ?

普通に手を繋いだり~、体に触ったり~。これから先は二人で居るのが、どんどん居心地よくなるんじゃないかなっ。

お互いに、離れられなくなったりして~?

理由なく触れ合ってるのが気持ち良かったり、安心したり。それもその紋と植能を共有してる効果だねっ」

 

 それを聞いて、つん、と背後で不愉快そうにヨハネがそっぽを向くので、やや慌てるムラサキ。

 

(そ、そりゃイヤだよね。自分の意志と反してそんな、心に作用するようなこと……。

私はその、触れ合えて嬉しいって思うけど、それは私がヨハネを好きだからで)

 

 内心しゅんとして下を向くムラサキに気付かないまま、ミソラは早口で説明を続けていた。 

 

「まあ、でも一番は粘膜同士の接触が、一番強力だし手っ取り早いんだけど? 情報の伝達も、回復もね。

いわゆる濃厚接触ってやつ? きゃーーーーっ」

「もう、ミソラったら……」

「だあって、ちょっと羨ましいんだもん! 夢あるでしょー? 好きな人と植能通して通じ合っちゃうなんてさぁ。ロマンチックじゃない?

感情が直接作用するなんて、研究対象としてもめっちゃめちゃ興味深いから、ついテンションあがっちゃって」

 

 てへ、と舌を出してみるミソラにぐいぐいと背を押されて、ベッドから遠ざかりながら、ムラサキは微笑み掛ける。

 

「でもちょっと意外。ミソラにも、そういうの羨ましいって思う気持ちあるんだ?」

「まーあね? だってあたしには、多分一生分からない気持ちだからさ。くっつき合って幸せそうにしてる人ら見てるだけで、うれしー気持ちになるんだよね。ま、ヨハっちに言っても絶対認めないし怒られるだろうけど」

 

 薄々刺々しい雰囲気を察したからわざわざこちらに連れて来たのか、とまたもや苦笑しながら、ムラサキはせめて飲み物のお代わりを持って行ってあげようと、湯沸かしでお湯を沸かした。

 

「そいにしても、甲斐甲斐しいねえ、サキは。言うて、植能の副作用って割り切ってしまえば、ヨハっちにもくっつきたくなる事は気にしなくていいよって言えるでしょ?

別に最低限の付き合いだけして、心の底から心配したり面倒見たりする必要なんて、ほんとはないのに」

「……うん。そうなんだろうし、本当はその方が後から楽なんだろうと思うけど」

 

 セブンスコード住人には不要な気遣いと知りながら、わざわざカフェインが出ない、橙色のドライフルーツが混ざったお茶をポットの中へ入れて、お湯を注ぐ。

 その手つきを見ながら、眼鏡の奥のミソラの目がきらりと光った。

 

「ほ・ほ・ほぅ? 本気ですな」

「……わかっちゃう?」

「その愛おし~い目と林檎みたいなほっぺ見りゃあねん! うふ、サキってほんとかわいーね」

 

 軽く抱き着いて、ほっぺにキスをしてくるミソラを受け止めながら、向こうの世界に残してきた幸と、このちぐはぐな感じが似ているとムラサキは思う。

 湯気の香りを嗅ぎながら、赤い色がゆらゆら抽出されるポットを軽く揺らし、ムラサキは問い掛けた。

 

「こんなの私のエゴっていうか……ヨハネも言ってたみたいに、私得でしかないって、分かってはいるんだけどね。

だって、子宮(ウーム)の譲渡に一番必要なのは、送る・受け取るっていう相互の意思でしょ。けどそれが、恋愛感情である必要はないんだから、別にヨハネが私のことどう思ってようと、譲渡の儀式は作動するわけで」

「ん? 違うよ?」

 

 きょとん、とミソラが首を傾げる。背の高いミソラの長いふわふわした髪を見つめて、ムラサキはぽかんとなった。

 

「えっ。まっ、前にミソラがそう言って……」

「まぁ、確かに植能の共有に関する了承は、大前提として必要なんだけどさっ。

それに加えて、相手に関する何かしらの強い情……世間一般で言われる、恋情とか愛情とか執着に該当するもの? 特に受け手にはそういうのがないと、成立し得ないだろうって結果だったよ、あたしのデータ分析だと。

あれ? 言ってなかった?」

「言ってない! てか、何それ!? はじめて聞いたけど!?」

「ごめんごめん、研究者のおつむって、研究以外のこところっと忘れちゃうからさ~」

 

 ヨハネのいない時でよかった、と仕切られたカーテンの向こう側を窺いながら、ムラサキがぱたぱた熱くなった顔を扇ぐ。とんでもない爆弾情報だった。

 ゆっくり深呼吸しながら、一生懸命頭を働かせる。

 

「え……んん……?ちょっと待って、じゃあ、私とヨハネさんは……?」

「まー、だからさ? 割り切れとか言ったけど、お遊び半分の生半可な気持ちじゃそもそも作動しなかったはずなんだよねっ。受け渡しの儀式ってさ」

「……」

「それが調べたかったから、研究所に来てやって欲しかったんだけどぉ。サキとヨハっちってば、先にちゃっかり契約の儀式済ませちゃってんだもん。いつの間にか終わってたから、実際はどーだったのかもうわかんないよねー」

 

 ぶーぶーとミソラが口を尖らせる。

 調べることが出来たとして、感情という見えないものをいったいどうやってデータ化して分析するのかなど気になる事は山ほどあったが、今のムラサキはたったひとつの事で、頭がいっぱいだった。

 

(じ、じゃあ、あの時のヨハネさん、って……?)

 

 パートナーだと呼んでくれた言葉が耳に蘇る。

 ヨハネ本人には、果たして自覚があるのかどうかわからない。けれど、どういう形にしろ、自分のことを強く想ってくれていたのは確かだ。

 衝撃の事実を自分にだけ知らせたことを恨みがましく思いながら、ムラサキが両手にカップを抱えて立ち上がる。そんなムラサキに意味深にちゃらちゃら笑い返しながら、ミソラが電車ごっこのように再び背を押して、薬を飲み終えたヨハネの元に叫びながら戻って来た。

 

「は~い! サキちゃん特製、元気の出るハーブティーでーす!」

「まさかこれもあ~んして飲めとか言わないよな」

「だっ、大丈夫! 今回は私口付けてないから……あ、で、でも、汁物続くの嫌だった?」

「別にそんなことはないよ。ガツガツ固形物って気分でもないし。あんたが淹れたんならもらう」

 

 ミソラのより効きそうだ、とようやく見せてくれた屈託ない笑顔に、ムラサキの胸がまたどきんと鳴った。まともにヨハネの顔を見られず、俯いてしまう。

 

「……」

「? どうした?」

「サキちゃんは今、恋する乙女なのだ~」

「はぁ? ミソラはまた意味の分からない事を……あっちでサキを困らせてたんじゃないだろうね」

「おぉう、自分がしんどいはずなのに人の心配とは、逞しいっ。

まーまー、あたしはしばらく用事があるし、外に出てるからさっ。どーぞ好きなだけイチャついて回復に努めてくれたまへー。鍵も閉めてくし、思う存分添い寝でも何でもしてくれて構わないからっ、早く元気になってね~!」

「ばっ、誰が……! てか、医務室の鍵閉めたら医務室の意味ないだろ!?」

 

 ヨハネの叫びも虚しく、ミソラは大きな体を毬のように揺らして、楽し気に部屋を出て行ってしまった。静かになった部屋に、湯気の立ったカップと、ムラサキ達二人が取り残される。

 清潔感のある仕切りカーテンの内側で、ヨハネが呆れて目を細めた。

 

「行っちゃったし……ったく、騒がしい上に失礼な奴」

「あはは……ごめんね」

「? なんであんたが謝るのさ」

「だってミソラが、さっき言ってたでしょ。傍にいるほど居心地が良くなって離れられなくなるって……。

あの時、なんかちょっと嫌そうな顔してたから、ヨハネさん。

もしかしたら、心に添わない作用が出ることが、迷惑だったり不愉快だったりするのかなって」

「別に迷惑とかは思ってないけど?」

 

 不思議そうに頭を傾けられて、まっすぐで綺麗なボブを見ながら、ムラサキが目を丸くする。

 

「え……?」

「言ったでしょ、もう腹は括ってるって。……それに、ボクが怒ってたのは別にそこじゃなくて。

……あいつが、……とか言うから」

「?」

 

 ぼそぼそと声が小さくなったヨハネに、ムラサキが内緒話のように顔を近づけると、微かに赤らんだ頬で目を吊り上げたヨハネが、あらぬ方を向いて呟いた。

 

「あいつが、植能のせいとか、言うから! ボクがあんた自身に対して思ってることは、植能云々なんかと関係ない。惑わされてたから、あんな事を引き受けたワケじゃない。

ボクは、植能の効果なんかなくても、ちゃんとあんたと触れ合うことを……」

 

 もしょもしょと口を動かすだけでその先は言葉にならなかったが、ムラサキにはそれで十分だった。

 あたたかい気持ちがいっぱいになって胸に手を当てると、その感情に惹かれたようにことりが嬉しそうにやって来て、ベッドに座り込んだムラサキの袴の膝で丸くなった。

 慌ててかぶりを振ってから、ヨハネが布団に戻る。

 

「ご、ごめん。体調悪いからなんか変なこと言ったかもしれない。忘れて」

「ううん……。ねえ、お腹、隊服の上から触ってもいい? ミソラが言ってたことがほんとなら、手当したらちょっとは楽になるかも」

「言う通りにするのは癪だけど、仕方ないね」

 

 仕方ない、と言いつつ、その表情がそわそわしている。

 ムラサキは軽く微笑んで、ふと布団の隙間から手を入れると、ヨハネの下腹部にそっと当てた。

 じわりとぬくもりが広がるに従って、ヨハネが目を閉じる。

 

「あったかい……あんたの手、あったかいんだね」

「冬は冷え性でやばいんだけどね。でも、あったかい場所にいる時は、割と……」

「……不思議だ。なんか安心して、眠くなってくる。さっきまであんなに痛みでどうしようもなかったのに」

 

 布団から出した手で、ヨハネがきゅ、とさりげなくムラサキの着物の袖を握る。

 それが甘えているようで可愛くて、けれども口には出さないまま、ムラサキはヨハネのグローブを外すと、片方の手を腹部に触れたまま、もう片方の手で褐色の手を握った。

 

「そうだ! 膝枕してあげるよ。接触面積増えた方が、具合良くなるでしょ?」

「ひっ……! い、いい! そこまでしなくても……っ」

「だいじょぶだよ、こっちの世界ならそれなりに長く正座できるかもしんないし。それに、添い寝よりはいいでしょ?」

「うぐ……それ交換条件に出すの卑怯だから……」

 

 ころん、と転がって、ヨハネがムラサキの膝に頭を横たえると、ことりもふかふかのお腹でのしかかりながら、ヨハネの体を温め始めた。

 指先に触れる羽毛が気持ち良く、自分まで眠ってしまいそうな心地で、ムラサキはヨハネの手を握ったり、額を撫でたりしながら、優しく目を細める。

 

「あんた、寒くない?」

「大丈夫、ヨハネさんとことりが乗ってるからあったかい。……やさしいね。いつも、私の心配ばっかしてくれて」

「あんたがあんまり弱っちいからでしょ。危なっかしくて見てらんないだけだよ」

 

 憎まれ口を叩きながら、甘えるように寝返りを打ったヨハネは、膝から離れようとしない。

 その背や肩、色んな部分に手を触れながら、ムラサキが言った。

 

「今日のはお店のスープにしちゃったから、今度、ヨハネさんの家に行ってスープ作ろうか」

「そん時までに治ってる気もするけどね……」

「そしたら、ただ美味しいごはんが食べれるだけじゃん。好きなだけ『あーん』もできるし」

「具合が悪くないのにやる必要ないでしょ。……ま、あんたの料理の腕を見物するいい機会かもね」

 

 にべもなく言いながらも、緩んでいるその口元から感情が計れるようで、ムラサキはまた心が温かくなるのを感じる。そんな些細なことが、たまらなく嬉しい。

 いつか、あの部屋で――前に訪れたヨハネの自宅で、美味しいご飯を囲んであったまってから、同じソファかベッドでぴったりくっついたまま、寝られたらいい。

 それが、たとえ必要のないことだとしても、植能なんか何も関係なかったとしても。同じ気持ちでいてくれるなら、寄り添っているだけできっと幸せなことだろうから。

 

 そんな大それたことを夢見ながら、ムラサキは静かで温かい部屋で、ヨハネの体に手を当て続けていた。



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第一部 エピローグ

ブンスコ二次創作、第一部のエピローグです。
一ヶ月以上あまりの連載にお付き合いくださいまして、ありがとうございました!
そしてついに、一部が終了してもタイトル思いつきませんでした!すみません!←

二部は、秋~冬にかけてまたまったりペースで掲載できたらなと思います。
一応ざっくりとは考えてあるのですが、まだまだ未知数なところも多い脚本ですので、資料も収集しつつ、ヨハネさん達とまた楽しみながら書いていきたいです。


「ふうん……SOATの監視下に入ったか」

 

 監視モニターに、ムラサキ達の姿が映っている。

 その他、街中の監視カメラの映像も。

 (ニレ)舞哉(マイヤ)とかつて呼ばれていた存在から生まれた人工知能は、煌びやかなセブンスコードに潜む暗闇の中へ、宙に浮いて漂いながら、その動向を監視していた。

 どんなに復興し、表向きは誰もが夢を叶えられる光溢れた世界に見えても、ふと見渡せばそこら中に闇は転がっている。

 世間や家族から見放された人間。

 馬車馬のようにこき使われ、生きる希望も何も見出だせない人間。

 情に依存し、一度誰かに裏切られたら立ち直れない人間。

 表の者達が見て見ぬフリをするだけで、自分には無縁と思いながら日々を生きているだけで、足元をすくうような常闇は、どこにだってすぐ傍に存在するのだ。かつてのオリジナルだった自分の、子供時代のように。

 そんな彼らに手を差し伸べ、意のままに操るのは容易いことだった。行き場なく追い詰められた人間は、目の前に差し伸べられた手を神のものだと、いとも簡単に誤解するものだ。

 

 けれど、ニレはそんな世界に粛清をしたい訳ではない。

 ただただ、そんな右往左往する人間達が、利用するのに好都合だと思うだけに過ぎない。

 人の心はかくも脆く、だからこそ莫大な思いもよらぬ力を生み出す価値が時にあると、ニレは考える。

 

(オリジナルのボクは、くだらない情を貶めているように見えて、結局のところ、自分自身が承認欲求や自己顕示欲、誰かの愛を希求する欲求に振り回され続けた。

浅はかだよ。ボクならもっと上手くやれる。感情を演算のシステムに落とし込み、神の創造物として操れる、このボクならね)

 

 右手を動かすと、その空間に浮かんだ青色の設計図が、立体を伴って現れた。まるで恐怖を展示した博物館だ。

 八尺様、雷鳥、テケテケとヤマノケ……そのそれぞれに×を順に指で描いて付けたニレは、「DATE UNCOLLECTED」と表示された培養槽の間をふわりと移動すると、ぼやけたように輝く水色の光の波間で、満足そうに笑みを漏らした。

 

「怪異のストックはまだまだいっぱいある……あの役立たずの部下共がエレメントを収集して来れば、このオモチャ達も動かせるようになるはず」

 

 エレメントという、不可思議にして有用な存在。

 各柱を拠点に放出されている、ハルツィナ達の残留思念たるそれは、かつての彼女たちの強い嘆きの影響を受け、バーチャル世界で人間の情動と強い親和性を持つ。

 人に憑りつき、その感情を増幅させ、植物のようにますます育っていくのだ。

 そしてそれを上手く利用すれば、人間を媒介にして化け物の生成も可能であると分かった。人間だけではなく、他の生物に宿るということも。

 そして先日は、ついに人を介さない、「感情」と「エレメント」だけの製造物を作ることにも成功した。

 

「まさか、あのヤマノケすら倒すなんてね。結構、ボクの自信作だったんだけどな。

嗚呼……まったく、面白くなってきた。

当初の想定とは違うけれど、実に面白いよ」

 

 洞穴の反響のように、笑い声が響く。

 常闇のごとき裏空間は、一歩間違えれば廃棄されるデータ群や時空の裂け目に放り出され、二度と帰って来れなくなるような危険な場所だが、ニレはそこを自分の領土のように渡り歩いた。

 表のバーチャル空間とは縮尺も違うので、どれだけ歩いても目的地が見えて来ないこともあれば、一歩動くだけで表で何座標分も距離を稼げることもある。

 川を跨ぐようなたったの一足飛びで、セブンスコードを端から端まで移動したニレは、ある地区で見回り中のヨハネとムラサキを見つけた。

 

 どうやら、小型のエレメントを宿した人間達の、暴走事件らしい。

 ヨハネと植能を分け合ったことで、いつも以上に精を出して戦闘に参加するムラサキ。

 その姿を、こっそり空間の裂け目から垣間見ながら、ニレは愛おし気に目を細める。

 

「せいぜい、その体を破壊されないように頑張ってね。

キミは、選ばれた主人公。エレメントの集積体をその身に宿し、弊害とも拮抗しながら生き残れる、ただ一人の人類(サンプル)……ボクの実験の要なんだ」

 

 どこからも見えないその場所で安穏に身を横たえ、ニレは人知れず、そうっと口元を歪めて微笑んだ。

 

「……あと4つ」

 

ブンスコ二次創作 第一部 完  to be continued...?



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