式波さんちのダンナさん (しゅとるむ)
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1(本編)

 ヴンダーというお船に私は乗っています。お船なのに空を飛べるすごいお船なのです。えへん。

 そして世界と人類を守るために戦っているのです。えっへん。

 どうして知ってるのかって、艦長の葛城ミサトさんがそう言っていました。世界とか人類とかはよく分からないけれど…

 私は良い子なので、ミサト艦長のお話はいつもちゃんと聞いています。

 

 ある時、お船の中に、透明のお部屋が作られました。何人もの人が一生懸命に作ったお部屋です。外から中の様子が見える面白いお部屋です。その部屋が作られてる途中に、式波たいいがやってきました。たいいは、カッコいい軍人のお姉ちゃんです。お姫様みたいな長い金髪、いつもキリリと口を引き結び、赤い服を着て、片方の目には海賊の船長さんのようなアイパッチをしています。

 

 私はたいいが笑った顔を見たことがありませんでした。でも、その日の式波たいいは違いました。なんだか、笑顔になるのを我慢してるような、ドキドキワクワクを隠してるような表情でした。サンタさんが来るのをいい子にしながら待ってるような感じ。

 だから、式波たいいと呼ぶのは、変な感じがして、私は式波さんと呼ぶことにしました。

 

 それからしばらくして、透明のお部屋に、ベッドに寝せられたままの男の子が運び込まれてきました。式波さんと同じくらいの年の男の子です。

 お兄ちゃんは戸惑っているようでした。じっと天井を見つめています。何日かすると、ベッドから降りれるようになって、男の子は部屋の外の周囲を見つめています。何だか寂しそうで、哀しそうな顔をしていました。

 

 それからまた何日かすると、式波さんが、透明のお部屋に来ました。男の子と何か口げんかをしているようでした。それから、すごい勢いで部屋を出て行ってしまいました。

 

「けんかはいけないよ」

 

 式波さんが見えなくなると、私は思わずそう言っていました。男の子がびっくりして、私の方に振り向き、目を丸くしました。

 

 お船の中で、姿を見せると、ほかの人たちもみんなこんな顔でびっくりするのです。

 だから、私はたまにしか姿を見せません。

 

 でも、けんかはやめて欲しかったから。

 

「君は…‥どうしてここにいるの?」

「ずっとここに住んでるの」

「住んでって。ここは戦艦の中だよ。君みたいな小さな女の子が?」

 

 男の子は不思議に思ったようでしたが、それ以上は聞いてきません。私からも質問をすることにしました。

 

「あのお姉ちゃん……式波さんは恋人なの?」

 

 恋人というのは、お部屋で二人きりでお話ししたり、時々けんかしたりするものだと、大人の人たちのお話で聞いたことがあります。

 

 男の子は首を横に振りました。

 

「違うよ。そんなんじゃ……。アスカは僕に怒ってるんだ」

「何か悪いことをしたの?」

「何もしなかったから、怒ってるって言ってた」

 

 何もしなかったから怒られるなんて私はびっくりしました。それなら私なんて毎日怒られてしまいます。お船の上に寝そべって、お空を見ながら、一日中、何もしないのは、ぽかぽかして楽しいのに。

 

 それでも、式波さんは毎日、男の子の部屋に来るようになりました。さいしょは少しずつ、だんだん長くお部屋に居るようになりました。私は式波さんが見えない時だけ、男の子とお話しするようになりました。

 

「式波さん、毎日お部屋に来てくれるようになったね」

「うん、最初は怒ってるだけかと思った。でも、心配してくれているみたい」

「わかるの?」

「うん、微妙な口調や表情でね」

 

 ビミョーというのはほんのちょっといつもと違うことなんだって。恋人でもないのに、そんな事がわかるなんてスゴいと思いました。

 

「ずっと一緒にいれたらいいのにね」

「アスカにはお仕事があるんだよ。この船を守る大事な仕事なんだ。僕には何も出来る事がないから、アスカを待つしかない」

 

 確かに、式波さんが透明のお部屋にいるときに呼び出しの「ほうそう」が入り、慌てて出て行く事が何度もありました。最近は怒ってばかりでもなく、あの、クリスマス前のサンタさんを待つような表情でいる時も増えたのに。私だったら、サンタさんの前にお仕事だなんていやだなあ……。

 でも、式波さんはとっても真面目なので、ちゃんとお仕事をサボらずに出掛けていきます。

 

「アスカは偉いんだ。とても強くて……優しい」

 

 いつも、男の子はそう言っています。

私は男の子と式波さんの「かんけえ」が気になって、メガネをかけたお姉ちゃんにききにいきました。お船の中で、私を見ても、一人だけびっくりしなかった女の子です。

 

「それでね、いつもお部屋でお話ししてて、それからお仕事になると、そのお姉ちゃんが出掛けていくの」

 

 私は式波さんの名前は出しません。ぷらいばしいの問題があるからです。メガネの女の子は言いました。メガネがキラリと光ります。

 

「大人になったら、男の子と女の子は同じお部屋で暮らすようになるんだよ。そしてどちらかがお外で仕事をして戻ってくる。だから、その男の子は女の子のダンナさんだね」

 

 話はかしこいお姉ちゃんに聞いてみるものです。簡単に二人の「かんけえ」が分かってしまいました。あの男の子は式波さんのダンナさんだったのです。

 

「あ。でも、その子たちが恥ずかしがるかもしれないから、今の話はしないほうがいいよ」

 

 こころえた!と私はうなずきました。このお姉ちゃんが前にそういう言い方をしていたからです。ちよっとカッコいいよね?

 

 それから、式波さんのダンナさんの部屋に戻ると、式波さんは居なくて、式波さんのダンナさんの顔がなんだか暗くなっていました。

 

「きもちでも悪いの?」

「……最終決戦が近いんだ」

「さいしゅうけっせん?」

「悪いやつらとの戦いだよ。たくさんの人が、けがをしたり、亡くなったりするかも知れない」

「ダン……お兄ちゃんも戦うの?」

 

 ダンナさんは首を横に振りました。

 

「僕ではなく、アスカが戦うんだ。本当は逆でなくちゃいけないのに」

「毎日お仕事に行くのは、ふつうは男の子の方だから?」

「え?」

「式波さんちは、女の子の方がお仕事に行くおうちなんだと思ってた。だからそうなんじゃない?」

「……ありがとう。そうか、ここはアスカのおうちなのか。君にはそう見えるんだね」

 

 見えるも何もそうなんです。ダンナさんには私のような小さな子どもでも分かることがわからないみたい。ふしぎだな。

 

 それからしばらくは皆がそわそわ、バタバタとし始め、式波さんもあまりダンナさんの所に姿を見せなくなりました。

 

 でも、さいしゅうけっせんの前の日、夜遅くに式波さんはやってきました。いつもの赤い服ではなく、白い服を着て。

 

「最後だから、後悔はしたくない」

 

 そう言って式波さんはダンナさんに近づくとキスをしました。それから二人は服を脱いで裸になりました。もう、子供が見てはいけないと思ったので、私は姿を隠しました。

 

 

 艦長の葛城ミサトさんの声がお船の中に流れています。

 

「残念ながら、南極決戦は我々の敗北に終わりました。もはや、我々人類に人類補完計画に抗するすべはありません。尊い命を数多失っておきながらの、この結果、全ての責任は私の作戦指揮にあります。慚愧に耐えません」

 

 お船のあちこちですすり泣く声が聞こえます。みんな腕に青いバンダナをしていて、バンダナを握りしめたまま、床に座り込んで泣く人も居ます。

 

「……しかし、我々の希望が完全に潰えた訳ではありません。我々は抛擲していた種苗と、地球の各村の生存者を回収ののち、11光年先のRoss 128bという可住型惑星を目指す事になります」

 

 ミサト艦長の横で、赤木リツ子博士が「地球の衛星軌道上を離れた人類に、遠隔で人類補完計画発動の情報が瞬時で伝わる筈がない。もし伝わるなら、量子テレポーテーション以上の物理的情報の伝達であり、あらゆる物理法則に反するわ…」とブツブツ言っています。むずかしいお話はわからなかったけど、どうやら、地球を離れれば、みんなは助かるみたい。

 

「本船は、第四世代型超光速恒星間航行用超弩級万能宇宙戦艦ヱクセリヲンの準同型艦として建造されたものであり、主機損傷ののちも、最大で光速の30%での航行が可能です……我々人類は新たな地球を目指すことになります」

 

 その後、三十分ほどして、透明なお部屋の前にミサト艦長が現れました。ダンナさんは真剣な顔をして、ミサトさんを待っています。自分の首の所に付けているオシャレな「ちょーかー」に手を当てて、ダンナさんはミサトさんの持つ小さな機械を見つめています。

 

「アスカは無事なんですか?」

「ええ、彼女は無事よ。だけど、アナタにはけじめを付けてもらわないといけない」

「……本当に良かった。それだけ聞けば満足です。覚悟は出来てます。僕はニアサーの、父はフォースの責任がある。僕ら親子は人類への大罪人ですから」

 

 そこに式波さんが駆け込んで来ました。

ミサトさんの前に立つと、ダンナさんを守るようにその前に立ち、ゆっくりと首を横に振ります。

 

「アスカ……良かった。本当に生きていたんだ、良かった……」

 

 式波さんは一瞬だけ、ダンナさんの顔を見て、ミサトさんと話を続けます。

 

「今更、血の贄は必要ないでしょ。人類はもう十分、血を流し過ぎた」

「それだけじゃない。シンジ君を処分すれば、これから一人の人類の命を救うことが出来る」

「は。冷たい方程式を気取ってる場合?……こいつ、もう一週間も食事をしてないのよ」

 

 そして、お部屋の中のトイレに向かって顎をしゃくります。

 

「配給食料は勿体ないけど、全部捨てさせてた。作戦終了まで隠しておきたかったから」

「……そう、シンジ君はアナタと同じになったのね、アスカ」

「すみません、ミサトさん」

 

 ミサト艦長が機械を操作すると、ダンナさんの首のちょーかーが外れました。

 

「人類でなくなったアナタに、私たちが掣肘する権利は何もない。自由にしなさい。地球の覇権を争ったヒトとシト、私たちはアナタたちと刺し違えるように遂に敗れたけれど、最後の矜持を以て、アナタたちを遇します」

 

 ミサト艦長はなんだかホッとしてるようでした。

 

「僕はアスカといっしょに行きます」

 

 それから、式波さんとダンナさんはきつく、きつく身体を抱きしめ合いました。

 

 私はその時に初めてわかったの。今、ダンナさんは本当に式波さんのダンナさんになったんだって。

 

 

 

 

 それから、式波さんとダンナさんは透明のお部屋でずっと過ごすようになりました。お話しをしているときでも、していないで背中合わせにそれぞれの好きなことをしている時でも、とても幸せそうでした。二人は透明のお部屋に素敵な花柄のカーテンを付けて、夜寝るときは、カーテンを閉めるようになりました。透明のお部屋は二人のお部屋になったのです。

 

 私は式波さんがほとんどずっとそばに居るので、ダンナさんとはずっとお話しできませんでした。

 

 それからしばらくたってからのことです。式波さんが長い時間、お部屋を外す事がありました。私はダンナさんとお話ししました。お久しぶりの挨拶をすませた後、私は聞きます。

 

「式波さんは?」

「ブリーフィングなんだ。僕とアスカの新しい仕事が決まったんだ」

 

 ダンナさんはとても嬉しそうでした。

 

「Ross 128bはハビタブルゾーンの中にあるけど、何もしなくても直ぐに人類の生存に適する環境にあるというのは楽観的見通しで、とても可能性が低いらしい……要するにそのままでは住めないんだ」

「それじゃ、みんなこまっちゃうね……」

「うん、だから僕とアスカの出番なんだ。僕らはもう年を取らないし、食料がなくても生きていける。放射線や熱や冷気にも耐えられる。だってヒト型のシトみたいなものだからね」

「それが二人のお仕事に役に立つの?」

「うん、二人で最初にRoss 128bに降り立つ。一世代では無理でも、何世代かかければ、軌道上のヴンダーのひとたちを呼び寄せられる環境は必ず作れる。僕とアスカには時間が幾らでもあるし、人手がたりなければ、一時的に生殖機能を復活させてもいい」

と、いってダンナさんは少し照れ笑いをしました。

 

「それって赤ちゃんを作れるのね!」

「うん、ミサトさんも反対はしなかったよ」

「でも、式波さんとダンナさんは星にみんなが呼べるようになったらどうするの?」

 

 初めて、私はその人をダンナさんと呼びましたたが、その人はちょっとだけ驚いて、笑っていました。とっくに自分でもそのつもりだったのでしょう。

 

「ヒトとシトは一緒には住めない。もう世界が違うんだ。だからその後は─ヒトの世界の行く末を見届けたら─僕らは別の世界に行く。宇宙でも星でも僕らはどこでも住めるから」

「寂しくない?」

「うん。ずっと、アスカが一緒だからね。家族も殖える。僕らは宇宙の終わりまで、壊れない。それはもう人間の世界とは違うんだ。永遠だけど、でも、孤独じゃない。ずっと二人だから」

「良かった」

 

 めでたしめでたしの絵本を読み終わった時のように、私はほっこりしました。

 

「綾波も、ありがとうね……ずっと僕らを見守ってくれて」

「あやなみ?」

「君の名前だよ。僕のずっとずっと大切な人だった。でも、僕にはもっと大切な人が出来たんだ」

 

 私はとてもポカポカしました。自分の名前を思い出せて、ずっと待っていたセリフを聞けたんです。

 

「だから、そろそろお別れかな。ありがとう、母さん」

「式波さん……ううん、アスカちゃんとずっと仲良くね」

 

 シンジ……式波さんのダンナさんの名前が、とても大切な人の名前だったと思い出して、私は泣きました。

 

 それから、私はシンジにもアスカちゃんにも会っていません。

 

 だから、この後の話は、何千年も何万年も経って、風の噂で聞いた話。

 

 

 

 

 

 

 人類の母星《ヴンダー》の創世神話には一定のパターンが見られる。即ち、一対の男神と女神が人類が棲めるようにこの星の環境を形作ったというものである。

 

 彼らは超人格的な創造主というより、かなり人格的なある種の神人として描かれている。時には、使徒とか、天使(Angel)と呼ばれることもあった。金剛不壊(こんごうふえ)の肉体を持つ神人だ。

 

 そして、男神が大きな失敗をし、旧世界を滅ぼし、その配偶者たる女神が登場して、男神を時に叱りつけ、尻を蹴り上げて(滑稽めかした神話で男神が狂言回しになるのは一つの定型である)、世界に調和を取り戻すという話が非常に沢山見られる。

 

 これは男性原理と女性原理の相克だとか、古代の女系制の反映だとか様々に言われる事もあるが、筆者としてはもっと素朴に、古代の聖王とその配偶との歴史的エピソードの反映と見ることも可能ではないかと考えている。あまりにも、その人間性や関係性が実に迫っているからだ。

 

 例えばこんなエピソードがある。

 

 ある時、村人が男神に、誓願をし、太陽の恵みを乞うた。男神は願いに応え、太陽を寄越したが、そのまま放置していて、酷い日照りになった。村人は女神を呼び出し、女神は洪水を呼んで男神にお灸を据えた。村人は、男神が妻たる女神に叱られ、尻に敷かれる様を見て、散々に笑った……

 

 これなどは、おそらくは力のある古代の王と、それをしばしば窘めていた賢い王妃の歴史的実話が反映されたものと見ることが可能であろう。

 

 そして、筆者は、次のエピソードがとても好きなのだ。

 

 ある時、男神と女神は地上が人類に満ち、安らかに収まったのを見て、旅立ちを決意した。二度と戻らない旅路である。男神と女神はその血族である眷属たちを全員引き連れ、夜空に高く飛び立った。

 

 紫の輝線と赤の輝線が惑星を一巡りし、夜空を駆けた。その瞬きが地上の人々にこう告げた。

 

─サ・ヨ・ナ・ラ

 

 地上の人々は皆、これに感応した。これまでの彼らの慈愛に感謝し、男神と女神と彼らの子孫の神々たちの長い深淵への旅路の末が安らかならんことを祈った。幾億光年の星辰の彼方で、永遠に滅びない二つの魂が堅く堅く結ばれたままでいることを願って、長い長い祈りを一晩中、捧げた。

 

 その祈りが通じない筈があるだろうか?



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外伝episode 0 結婚

 それは、恒星間航行船となった戦艦ヴンダーの船内での事だ。ネルフによる人類補完計画の阻止に失敗した人類は、地球を棄て、新天地である系外惑星、地球から11光年先にあるRoss 128bを目指し、船は虚空を往く。最大船速である光速の30パーセントに到達すると、特殊相対性理論に基づき、船内時間は外界の時間より5%ほど縮む計算だが、大きな影響ではなかった。とりわけ、もはや年を取らないアスカとシンジにとっては。

 

 ある日、アスカは、第三村からの避難者の住む居住区画を訪れた。あらかじめ聞いていた区画を最短距離でめざす。

 

 だんだんと赤ん坊の泣き声が近付いてくる。

 

「─ヒカリ」

 

 アスカの目の前の視界に、懐かしい旧友が、十四年成長した姿で飛び込んできた。

 

「アスカ……アスカなの」

 

 赤ん坊を抱えたその女性の顔が、驚き、そして明るい笑顔に変わっていく。

 

「無事だとは聞いていたけど。また会えるなんて……。良かった。怪我もないのね……本当に良かった」

「ヒカリは背が伸びたわね。それに、とっても幸せそう」

「そうね、うん、ほんとうに幸せよ、ありがとう」

「その子が、ヒカリと鈴原の子供なの?」

「うん、ツバメよ」

「抱いてみてもいい?」

「ええ」

 

 にっこりと頷いて、ヒカリはそっとアスカに子供を手渡す。

 

「女の子よね」

「うん…」

「これ、鈴原似なの?ヒカリなの?」

 

 お猿さんのような顔の赤ん坊の顔は、アスカにはどちら似なのか、判然としなかった。

 

「うーん、まだ分からないかな。それに赤ちゃんの顔ってこれからすごく変わるのよ」

「へー……」

「変化してるの。成長してるのね」

 

 その言葉は、変化も成長もしない身体となったアスカの胸にチクリと痛い。果たして、シトの身体で産む子供はどうなるのだろうか。

 

「赤ちゃんって、抱っこするのがちょっと怖いな」

「初めはそうよね。でもすぐ慣れるものよ」

「ヒカリは凄いな。ちゃんとお母さんしてる」

「アスカだって、きっと─」

 

 そこで、十四の少女の姿のままのアスカに、ヒカリは思わず口をつぐむ。彼女がふつうに母親になれるのか、ヒカリには分からなかった。

 

「気を遣わなくても大丈夫。アタシとシンジの間でも子供は作れるのよ。ヒトとは違うかも知れないけど、家族は作れる」

「そう、そうなの。それは良かった……」

 

 ヒカリはほっとして、それから微笑む。風の噂で、二人のことは伝え聞いていたが、アスカの口からそれを聞かされ、喜びもひとしおだった。

 

「碇クンとのこと、本当に良かったわね。おめでとう」

「ありがとう、ヒカリ」

「私は、アスカと碇クンも必ず結ばれるって信じてから……本当によかった」

「アタシの気持ち、ヒカリも知ってたの?」

 

 アスカは、その事に少し驚きを見せる。

 

「女の子なら分かるわよ」

「……それもそうか」

「アスカはすごく素直だから……碇クンの作ったお弁当をとても大切そうに食べていた。そんな女の子の気持ちが分からない男子って本当に不思議よね」

「全くよ。身の程知らずの贅沢者もいいところ」

 

 そう言って、ヒカリとアスカは吹き出すように顔を見合わせて笑った。

 

「アイツ、色々どんくさいから、尻叩いてるけどね。時間がたっぷりあるから、ちったぁマシな男になるよう教育してみるつもり」

「アスカ、幸せそう。初めて見たかも。そんな優しい顔」

「そうかしら?」

「やっと普通の女の子に戻れた感じ。今がいちばん素敵よ。そして愉しい時だと思うわ。頑張ってね」

「うん、がんばってみる」

 

 アスカはヒカリに対する時、とても素直だった。

しかし、すぐに腕の中のツバメに視線を落とす。赤子はご機嫌なのか、母の親友に向かってダーダーと笑いかける。

 

「でも子供を作るかどうかはまだ決めてない。やっぱり怖いし」

「そう」

「アタシもシンジも親になる覚悟はまだないんだ。特にシンジはまだ中身も十四歳だしね」

「碇クンは、あの頃のまま、なんだね」

「うん。だから、今はまだアイツがアタシの子供みたいなものなんだ。そのうち、十四の年齢差なんて誤差になるだろうけど─アタシたちには時間が幾らでもあるから」

「はやく、二人の時間が追いつくといいわね」

 

 そう言って、ヒカリはまた微笑んだ。

 

 

「ただいま」

「あ、お帰りアスカ、どこ行ってたの?」

「ヒカリのところ。無事だったって話は確か前にしたわね」

「洞木さん?元気そうだった?なんだか懐かしいなぁ」

「まーね。アンタも会ってきたら、鈴原とか相田とか。ヒカリたちと同じ区画にいるみたいよ。確か、仲良かったでしょ?」

 

 ミサトにDSSチョーカーを外されて以降、シンジの監禁と禁足は解かれている筈だが、シンジはどこにも行こうとはしなかった。ずっとこのカーテンだけ付けた、透明の部屋の中に居る。

 

「……僕はいいや。今更会わせる顔もないし」

 

 シンジはまだニアサーへの自責から完全に立ち直ってはいない。友人が生き残ったという話は嬉しいが、その家族はどうだろう。とても顔を見て、話せる自信がなかった。

 

「……会えば喜ぶと思うけどな」

「みんな、二十八歳なんでしょ?気後れするよ……僕だけが成長してないんだし。アスカは会ったの?」

「アタシが会ったのは、ヒカリとその赤ちゃんだけ。男連中はアンタに任せるわよ」

 

 我関せずといった調子でアスカは肩を竦める。もとより、シンジを通しての間接的な付き合いだけの男子たちには特段の懐かしさもない。なるべくヒト─とりわけ昔の知り合いには会いたくないというのがアスカの本音だ。だからシンジの気持ちも分かる。

 

「赤ちゃん?それってトウジの……」

 

 アスカを見上げて物問いたげなシンジに、軽く頷く。

 

「ツバメって言うんだって。女の子だった」

「へぇ、委員長とトウジに子供かぁ。びっくりししちゃうな……」

「アンタにとってはほんの数ヶ月前に別れたばかりなんだものね」

「うん……みんな大人になってるんだな」

 

 シンジは感慨深そうに呟いた。そんなシンジがアスカには少しだけ寂しげに見える。

 

「その……アンタにはアタシがいるから。いつまでも、一緒だから。べつにもう大人にならなくてもいい」

「うん、そうだね……ありがとう」

 

 アスカは床に座り、シンジと手を繋いだ。

 

「だから、これからの事をふたりで考えていくべきね。もうアタシたち同士しか頼れないんだから」

「これからの事……」

「ヴンダーに乗せてもらってはいるけど、アタシたちはもうヒトじゃない。彼らの故郷を滅ぼしたシトに限りなく近い生命体になった。人類にとっては潜在的な敵性生命体ね」

「そんな……僕らは元々人類じゃないか」

アタシたちはね(、、、、、、、)

 

(アタシたちの子供たちが生まれたら、それは元々人類ではないのよ。それを皆がどう思うのか……どう考えるのか)

 

 アスカは一人、憂いを強くする。

 

「え?」

「……とにかく、ヒトとシトは本質的に相容れない、地球という星の覇権を賭けて争った種属なんだから……それが現実よ。でも、アタシたちはここに居る。居心地悪い居候身分だけど、それを続けさせてもらうには、アタシたちはヴンダーの人間たちの役に立つ仕事を見つけなければならない。エヴァはもうないんだから」

 

 アスカの弐号機も、マリの八号機も、ヤマト作戦で大破、作戦区域に遺棄されていた。二人はエントリープラグ射出によりパイロットだけ脱出に成功したのだ。そして、初号機も、ヴンダーの動力源である主機にされてしまっている。

 

「……役に立つ仕事……」

「ま、それはおいおい考えるとして。一応、アタシにも腹案が無くはないし。取り合えずは、いずれアタシたちも仕事をしなくちゃねってこと。頭の片隅に入れておいて」

「うん……」

 

 シンジは頷いた。アスカはそれから少し緊張を緩めて、咳払いする。少しだけ頬が朱色に染まる。

 

「それと、籍の話」

「籍?」

「正式に結婚するって話」

「ええっ、だって、僕はまだ十四歳だよ!」

「生年月日から数えれば、アタシと同じで二十八でしょ」

「そう言われれば、そうか……」

「アタシはちゃんとした関係にしたいの。だらだら曖昧な関係のまま、あんたと肌を重ねたりはしたくない」

「……うん」

 

 まだ、シンジとアスカは三回ほどしかそういう行為をしていなかった。アスカが関係を進めるのに慎重なのをシンジは理解して、無理に求めたりもしていない。

 

「もちろん、もうとっくに役所も戸籍もない、そもそも人間でもない。でもヴンダーは乗員管理システムを拡張して、移住惑星での住民管理の為のシステムを準備中なの。そこにアタシたちのデータも入れることは可能だって」

「うーん……それってどんな意味があるんだろう」

「別に大して意味はないわ。単に男女の結合の社会的承認ってだけ。このヴンダー内を社会とすればね」

「……結婚式とか、するの?」

「出来ないし、したいとも思わない。さっきも言ったようにアタシたちは人類にとっての潜在的な敵性生命体だもの」

「僕のことを恨んでるクルーや避難者も多いだろうね……」

「アンタのせいじゃない、と言ってあげたいけど、残念ながらそうは思ってくれないでしょうね。だから式とかはなし。そもそも、そういうのアタシ、嫌いだしね」

と、アスカはクールに割り切って見せる。

 

「そう、なんだ……」

「……ま、そういう訳だから、あんたに異存がなければ、籍を入れて終わり。めでたくアタシたちは夫婦ってことよ」

「……異存なんてあるわけないよ」

「こないだ結ばれたばかりなのに、結婚なんて早いとか……思わない?」

「ううん、早い方がいいよ。僕はもうアスカと離れたくないから」

「だったら、これも片付いたわね。担当のマヤに言っておくわ」

アスカは、安堵の表情をうかべた。

 

「最後の話は……」

とアスカはそこで、言葉を切り、しばらく言いよどむ。

 

「あの、アンタも……その……子供が欲しかったりする?」

「え……い、いきなりそんな事言われても。それってアスカと……って事だよね」

「当たり前でしょ、他の誰と作るつもりなのよ」

「ご、ごめん。いきなりでビックリしたから……」

「そういう事はもう何回かしたでしょ……」

 

 アスカは頬を染めて、俯く。

 

「うん……」

「リツコに相談したら、シトでも生殖細胞を賦活化すれば、後は普通に子供は作れるんだって。だから、夫婦になるんだし、いずれ……」

「でも、僕はまだ中学生だし……アスカは子育ての自信、あるの?」

「そんなもの……あるわけないでしょ」

「だったら、急がなくてもいいんじゃないかな」

「一応、アタシの中身は二十八歳なのよ。年取らないから、別に年限がある訳じゃないけど」

「……うん」

「って急に言われても困るわよね。まあ考えておいて。子育ての本でも船にないかしら」

「あ、マリさんが艦内データベースに、地球からごっそりコピーしてきた電子書籍や映画やらの書庫があるって言ってたよ」

「あんた、アイツに逢うのは大概にしなさいよ」

 

 一度どうしても、姫のワンコ君に会わせろと言って聞かないから、シンジに紹介した事がある。それからどうも、度々シンジの様子を見に来ている気配があった。

 

「向こうから来てくれるんだ。アスカのいない時に限ってだけど」

「アイツめ……」

 

 意地悪っぽく笑うマリの姿が、アスカの脳裏に浮かんだ。

 

「マリさんも、僕らと同じシトなんでしょ?」

「……そうらしいわね」

「だから、シトの身体の事とか教えてくれるんだ」

「な、な、なんどぅえすってぇ!アンタ、まさかアイツに貞操を奪われたの、奪われちゃったのかぁ!」

「て、ていそう?いや、よく分からないけど、色々話をしてもらってるんだよ」

 

 中学生のシンジには言葉の意味がよく分からないようだが、アスカは、ひとまず安堵する。

 

「は、話……本当にそれだけ?」

「う、うん」

「エッチな事とかしてない?」

「するわけないだろ!」

「……良かった。あのね、シンジ。あの女がヘンなモーション掛けてきたら絶対逃げるのよ」

「わ、分かったよ」

「後ね……アタシの純潔(はじめて)を奪っておいて、他の女に浮気したら、絶対コロスわよ」

「そ、そんな事しないよ」

 

 

 それから、アスカは頻繁に出掛け、忙しく立ち働いている様子だった。特に「新しい仕事」については、喧々囂々の議論があるらしい。シンジは留守番ばかりで、その日もそうだったが、ある日、彼も呼び出される事になった。ブリッジからの指示で、会議室に行くよう指示されたのだ。学生服姿でシンジは部屋を出た。

 

(なんだろう。アスカでなくて僕を呼び出すなんて)

 

 もう戦闘はない。エヴァもない。だから剣呑な話ではないと思うのだが、シンジはこの一年あまりの経験で、呼び出される事にあまり良い記憶がない。余りにも、多くの出会いや別れがあった一年だった。そして、彼の外の世界ではいつの間にか十四年が経過し、地球が滅び、こうして生き残りの人類で恒星間移民の旅路に就いている。

 

 出会い……そう。葛城ミサト、綾波レイ、そして、彼にとって最も大切な出会い、式波・アスカ・ラングレー。中には、もう会えない人もいる。もう一度会いたかった人もいる。だが、そうした未練を地球に残して、奇跡の名前を冠する船は宇宙を翔ける。

 

(なんだか、夢みたいな話しだ。エヴァが全てを変えて、僕は今ここにいる)

 

 そう思うとある種の恐れも生じて、しかし、それでも、気力を振り絞って、シンジは歩みを進める。

 

「この部屋か……」

 

 シンジがドアの前に足をふみだすと、自動扉が微かな音をたてて、開く。

 

 文金高島田のかつらを被り、さらにその上に角隠しを被った和装の少女が多くの人々の間に立っている。眼帯の少女の姿は一瞬でシンジの目を惹きつけた。アスカだ。

 

「これって……」

「アタシは式なんて要らないって言ったのよ。でもヒカリたちがきちんとした方がいいと言って。かつらや着物も貸してくれた」

 

 部屋に入ってきたシンジを見つけると、アスカは少し言い訳がましく説明する。

 

 洞木ヒカリとおぼしい女性が、アスカの傍らで花嫁の介添え人のように和服を着て立ち、シンジに微笑みかけた。

 

「かつらはともかく白無垢はサイズが合わなくて。色打掛の代わりに、私の中学時代の着物を着てもらったの。……素敵でしょ、アスカ」

 

 ヒカリが一歩後ろに下がり、赤い花柄の着物を来て、アスカは気恥ずかしそうに立っている。

 

「うん、アスカ……綺麗だ」

「日本人のシンジに嫁ぐから、この方が良いって、思ったんだ」

「ありがとう、僕の所にお嫁に来てくれて」

 

 アスカは頬を染めて、黙って頷いた。

 

「碇クン、おめでとう」

「洞木さん……ありがとう」

 

 そして、精悍な顔つきとなった青年が二人近付いてきて、がっしりとした手でめいめい、シンジの肩を叩く。

 

「おめでとうさん、シンジ。……良かったな。」

「めでたいなぁ、碇。本当に素敵な嫁さんだな」

 

 トウジ、ケンスケ、懐かしい旧友たちが、十四年成長した顔でシンジを出迎える。

 

「トウジ、ケンスケ……二人とも元気そうで…!」

「お前もな」

「こうしてまた再会できるとはな」

 

 永遠の少年とかつての少年たちは口々に再会と無事を祝した。青年二人の屈託のない笑顔を見ると、シンジが感じていたうしろめたさや気後れはあっという間にほどけていく。近況を尋ねると、トウジは医者を、ケンスケは何でも屋というトラブルシューター的な仕事をやっているという。

 

「お医者さんか……凄いな」

「ほんの真似事や。ほんでも需要はいくらでもある。ワシは移住先に着くまで、本格的な医学の勉強をやり直す積もりや。時間はたっぷりあるさかいな」

「……やっぱりトウジは凄いな」

「お互い頑張らんとな。綺麗な嫁さんを養わんといかんからな」

「うん」

「張り合いはあるで。娘が生まれたから、ワシももっと頑張らんと、と思うてる」

「あ、そういえば……ごめん、お祝いが遅れて。おめでとう、トウジ」

「ありがとさん、今日は預けてきてるが、今度嫁さん(しきなみ)も連れて、娘の顔を見にきてな。可愛いで、なにせワシとヒカリの娘や」

「うん、本当に可愛いんだろうな」

 二人の顔を足して2で割る想像に、シンジも自然に笑みがこぼれる。

 

「ケンスケはこれからどうするの」

「難しいところだな。地球を離れて、この船上では俺のサバイバルスキルも活用しにくい。まあ、電機関係の勉強は続けて見る積もりだ。後は、これは笑うかも知れないが」

「何、教えてよ」

「俺はドキュメンタリーを撮ってみたいと思っている」

「ドキュメンタリー……」

「地球と人類の滅びと再生の記録さ。幸い、ここには第一級の当事者が揃っている。新天地での人類にとっても、有益な資料になるはずだ」

「ケンスケも凄いな」

「……トウジも俺も、本当に凄いのはお前たちだと思ってる。俺たちが生きてるのは碇たちのおかげさ」

「でも僕は、世界を救えなかった」

「たかだか中学生だぜ?それに運命を託した時点で、世界は彼らに文句を言う資格を喪っている。それに勝敗は兵家の常さ」

「ありがとう、ケンスケ」

「というわけで、いずれ、碇たちにも取材させて貰いたいな」

「うん、その時には喜んで」

 ケンスケも大人の男として成長著しいとシンジは羨ましく思う。

 

「一度会っとるんかいな?ワシの妹のサクラや」

 

 トウジに紹介され、ドレスで正装をした二十歳前後の女性が、頭を下げる。

「ご無沙汰してます、碇さん。鈴原サクラ少尉です。この度は……おめでとうございます」

「あ、ありがとうございます」

 

 関西弁風のイントネーションの標準語で、サクラは丁寧にお祝いを述べる。

 

「式波大尉とご結婚なされるとは、碇さんも隅に置けませんね。ヴィレでは難攻不落の式波大尉と言われてたんですよ」

「え?難攻不落って、誰かアスカに交際でも申し込んだんですか」

と、その情報にはシンジも内心穏やかではない。

 

「いえ、そもそも話しかけても殆ど会話をしてくれないんですよ、とりわけ男性には。命令の伝達や必要最小限の情報のやり取りはしてくれますけどね、後はずっとゲームしてるし。だから彼女とまともに話しが出来て、交際して、結婚までこぎ着けた碇さんは、どんな女たらしなのかなって、興味が湧いたぐらいです」

「そうだったんですね……て、僕は、ただの中学生ですよ!女たらしだなんて」

 

 シンジはとんでもない誤解に抗議する。サクラは笑って冗談ですと話を畳む。アスカの周囲とのコミュニケーションの状況に、シンジは中学の時と同じだな、と思う。シンジと二人きりの時のアスカはとても明るい少女だが、見知らぬ第三者への警戒感が強く、シンジ以上にコミュニケーション能力が低下してしまうのだった。

 

(僕は、アスカを明るくしていけるんだろうか)

 

 だが、それは今や懐疑や不安ではなく決意に変えていくべきだ、とシンジは改めて思う。

 

「さ、シンジ君も主役なんだから、アスカと一緒に真ん中に」

 

 促す女性の声の方を見ると、声の主は伊吹マヤだった。そして青葉シゲル、日向マコトといった昔のネルフの面々もドレスやスーツ姿でそこに顔を見せていた。そして、部屋の片隅のパーティションの裏で、マヤの手渡した紋付羽織袴に着替えさせられた。

 

 いくらか大き過ぎる紋付きに着替え終わって、アスカの待つ部屋の真ん中に出ると、「おめでとう」と口々に拍手を受け、シンジとアスカは皆からの祝福を受ける。

 

「みんな……みなさん……」

 

 そして、眼鏡の学生服の少女が、二人に歩み寄る。真希波・マリ・イラストリアスだ。

 

「姫、わんこ君、おめでとう。ようやくこの"時点"に辿り着いたんだね。感慨深いにゃ……ま、これからもナカマとしてよろしく」

 

と言うのは、同じ不老のシトとしての連帯感の表明だろうか。それとも旧エヴァンゲリオンパイロットという意味でのナカマなのだろうか?アスカは、

「別にシンジはよろしくしなくていい、てかアタシのいない所で二人が会うの禁止!」 

と返す。

 マリは「ちぇー」と口を尖らせる。

 

 そして、バイザー姿の艦長と副長のリツコもその場には居た。

 

一別(いちべつ)以来ね。碇シンジ君」

とリツコは頷いた。

「有志でごくごく内輪の式を催させてもらうことにしたの。急遽準備をしたから、サブライズパーティみたいになってごめんなさい」

 リツコによれば、ヒカリがブリッジクルーの旧ネルフメンバーに連絡を取り、彼女を中心に大急ぎで話しを進めたのだという。持つべきものは親友ね!とアスカはしみじみ言った。

 

 そして、ミサトはバイザーを外して、一歩シンジに歩み寄る。

 

「……シンジ君」 

 

 その表情はシンジが驚くほど優しく、かつてシンジが知っていたミサトのものだった。

 

「今までつらく当たって……いいえ、つらい思いばかりさせてごめんなさい。でも、私は、アスカとシンジ君、あなたたちと一緒に暮らしたあの日以来、今日のこの日の光景を見られるのを夢見て来たのかも知れない」

 

 そこにはシンジの知らない十四年間を重ねた万感の想いが込められていた。

 

「アスカ、おめでとう……とっても綺麗だわ。怒るときは怒っていいけど、でも、シンジ君に優しくしてあげてね。そして、シンジ君。これからもしっかりね。アスカをいつでも支えてあげて頂戴」 

 

 アスカとシンジはミサトの言葉に黙って頷くと、お互いに向き直った。

 

「シンジ。アタシ、式が嫌いだって言ったの、嘘をついてた。端から諦めてたから、そんなもの嫌いだし要らないって思おうとしてたの。アンタを諦めようとしてた時と同じよ。でも諦めなくて良かった」

 

 アスカが手を差し出し、シンジはその手を握る。

 

「アスカ……僕はまだ十四歳の中学生だし、こうやってみんなが助けてくれないと、アスカに対して何もしてあげられない。……でも、それを卑下するのは止めようと思うんだ。アスカが選んでくれたのが僕だから。アスカに僕だけしかあげられない幸せをあげられると信じて、頑張るつもりだよ」

「それでいい。アンタにしては上出来よ」

 

 そして二人は手を繋いだまま、正面に向き直った。

 

「本日は、私たちの為に……ありがとうございます」

 

 初めての共同作業として、二人で一緒に頭を下げた。

 

 

 あれから二百数十年の月日が流れた。

 あの式の席上に居た人物は、旧エヴァパイロットの3人を除いてもう誰もいない。しかし、目を瞑れば、昨日のことのようにシンジには彼らの顔が思い浮かぶ。

 

 本当に素敵な人たちだった─僕の大好きな人たちだった。

 

 彼らはもう居ないが、彼らの子孫はまだ続いてる筈だ。それが自分たちシトとは異なるヒトとしての永遠、なのだろう。刹那を繋ぎ続けて紡ぐ永遠。それはちょっとだけ羨ましく眩しい、シンジたちにはもう手の届かないものだ。

 

 そして、生き残りのうちの2人が住まう、惑星ヴンダーの山上の部屋で、シンジは本物の永遠を生きるパートナーに向かって言った。

 

「なんか昔はさ、アスカのほうがしっかりしてたよね」

「ん、何のこと?」

 

 ぷかりぷかりと宙に浮かびながら、娘のナガナミに借りた漫画を読んでいた白プラグスーツ姿のアスカは、洗濯物にアイロン掛けをしていたシンジと目を合わせる。シンジは先ほどまで少し仕事の手を止めて、物思いにふけっていたようだ。

 

「いや、船の方のヴンダーで一緒になりたての頃とか。頭が良くて、格好良かったし、結構リードしてくれてた気がする」

「だって、うちは姉さん女房だから。二十八と十四だから一回り以上違う」

「そう言われれば。もうそんな感じもしないけど」

「見た目が変わらないから、そう思うのよ。アンタは今でもお子ちゃまでしょ」

「そうかなぁ?アスカだって、時々子供っぽいじゃないか、エッチの時とか」

 

 その言葉にアスカはすっと、目を細めると、手の中の漫画を寝台に放って、空中からシンジの上に飛びかかった。

 

「エッチっつーのは、大人にしか出来ないのよっ!」

 

 そう言いながら、アスカは笑っている。平常心と書かれたTシャツを着たシンジの身体をあちこちくすぐり始める。

 

「ちょ、ちょっと、くすぐったいよ」

「ほら、十四歳年上のアタシを『お姉ちゃん』と呼びなさい!」

「い、いやだよ。恥ずかしい……」

「だーめ。呼ぶまでくすぐるのやめない」

「も、もうしょうがないなぁ。……アスカお姉ちゃん、これでいい?」

「もっと上目遣いで」

「アスカお姉ちゃん……」

「うーん、良いわね。今夜のプレイはその方向で行くか……」

「アスカは、もう……そんなのばっかりだね」

 

とシンジはやや呆れ顔である。

 

「……シンジ」

「何?」

 

 しんと静まり返る夜の自室で、アスカは、真剣な顔になって、宙に浮かぶのを止め、床に降り立った。

 

「アタシ、シンジとじゃなきゃ貰えない幸せをちゃんと貰ってるよ。他の人だったら絶対貰えなかった幸せ」

「うん……」

「アタシ、シンジと一緒だと自分がそのまま出せるんだ。取り繕わない自分、というのかな」

 アスカの表情はすこし真剣だ。

「ふざけたり、怒ったり、小ばかにしたり、罵ったり、冗談を言ったり、エッチな事をしたり、甘えたり……シンジとだったら、自分が一番自由で居られる気がする。ありのままというのかな」

「それは僕が怒らないから?」

 ううんとアスカは、首を横に振る。

「アンタ結構怒ってるジャン。そうじゃなくてね─」

 アスカは、自分の中から言葉を探すように目をしばし瞑る。そして、ゆっくりと目を開いてから、続きを言った。

「怒っても。アスカだから─しょうがないなぁってどこかで思ってるでしょ。それがアタシにはすぐ分かる。そういう所かな」

「あはは、僕の諦めの良さかも知れないね、それ」

「割と良い話をしてるんだから、そこはもうちょっと格好、つ・け・ろ」

とアスカは、シンジの頬をつねる。

「でもま─アンタは良い……わよ。当時のアタシが一番欲しかったものだから、満足してる。幸せ、だよ。妥協や逃避しなくて本当に良かった」

「ありがとう、僕にとってはアスカの幸せが一番の幸せだよ。アスカが笑ってると一番嬉しい」

「じゃあ、アタシたちは宇宙で一番幸せなカップルね、きっと」

「今日はアスカともっとお話ししたいな。朝までずっと話さない?」

 シトになった二人に、睡眠は要らない。それは最初哀しいことに思えたが、悪いことばかりではない。そう、何事も悪いことばかりではない。

 シンジは残りの洗濯物を手早く畳んで片付けるとアスカに言った。アスカもシンジの横に座り直して、二人は手を繋ぐ。

「いいわよ、─まるで、ビフォア・サンライズね」

「それは?」

「アタシが前に観た映画でね─」



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外伝1話 アスカとシンジの大家族

「はぁ、ヒマねぇ……」

 

 白いプラグスーツ姿のアスカが、寝そべりながら、空中にプカプカと浮かんでいる。

 

 人類補完計画発動から、Ross 128bに人類が到着するまで43年、アスカとシンジが惑星改造に着手してから156年、遂に人類が生息するのに問題ない環境が完成し、軌道上のヴンダーから、惑星"ヴンダー"への移住が開始されて、34年。

 時に、新世紀233年のことである。

 

「ヒマなら掃除とか、手伝ってよ……」

「やだ」

「ハァ……」

 

 即答するアスカに、シンジは溜め息をついた。自分たちヒトの形をしたシトは、歳を取らない。新陳代謝もほぼなく(但し、何故か髪だけは伸びる)摂食も飲酒も出来ないし、眠くもならない。だから、アスカの何もする事がなく退屈だ、という気持ちも分からないでもない。だが、周囲の環境が勝手に綺麗になるわけでは勿論なく、埃やゴミは溜まる。服も汗や垢が出ないから人間の時ほどではないが、もちろん汚れる。シンジにとっては今、掃除と洗濯だけが有意義な日々の仕事であった。

 

 空中に浮かんでいるアスカは、もう眼帯をしていない。かつて使徒をそこに封印していたのだが、自分自身が、シトになってしまっては最早意味がなかった。

 

アスカは掃除をするシンジのお尻をそっと撫でる。

 

「ひゃっ!」

「ま、セックスの愉しみだけは残されているのが救いか」

「……アスカ。その無計画性が、今の状況だと思うんだけど」

 

と、冷たい目をしたシンジが周囲を見るようアスカに、促す。四方に壁がなく山頂の眺望が見事な大広間には、大小様々の男児女児が散らばって、めいめい静かに遊んでいる。

 

「アスカ、今、僕たちの子供が何人か、覚えてる?」

「え、そ、それはもちろん……二十一?いや、二十二?あ、違うな……そうそう、二十三よ!」

 

部屋の中には十数人が居たが、外で遊んでいる子供も居るだろう。

 

「全然覚えてないじゃないか。……二十六人だよ」

「だって……覚えられないわよ、もう」

 

 どうやら人間だった頃と、妊娠確率はそう変わらないらしく、ヒマにあかせて、日がな一日セックスをしていたりすると、どんどん妊娠してしまうようだった。孕んだ後は人間同様、十月十日を経て、生まれてくるが、妊娠、出産の痛みや苦しみはなかった。結果、ポコポコと子供が増えてしまっている。

 

 シンジは、壁に貼った「きちんとしよう、家族計画」という手製のポスターを指差した。大きいその見出しの他に、「ちゃんとつけよう、避妊具。いきなり襲わないでね」「エッチばかりでなく夫婦の会話も大切に」「つけないですると、赤ちゃんが出来ます!」とか書いてある。ほぼ全部が、シンジからアスカへの(殆どまともに取り合ってもらえていない)切ない要求だ。

 

「何度も言うけど、ちゃんと読んでね。避妊具を里の人たちに奉納してもらうのは恥ずかしいんだから。そうまでして貰ったものは、ちゃんと使ってもらわないと困る」

「う゛う゛う………だって、つけない方が気持ちいいんだモン……」

「アスカっ」

 

 真っ赤になって言い訳にもならない抗弁をするアスカを、シンジは軽く叱った。

 

(子供が出来るような事ばかり求めておいて、結局世話はこちらに回す、アスカは少し無責任だよ……)

 

 アスカも最初のうちは物珍しさもあってか、生まれた子供の世話を甲斐甲斐しくしていた。しかし、授乳が必要な訳でも、排泄を行う訳でもない。殆ど泣き喚くことさえなかった。目を離しても死ぬ事は一切ない。そうと分かると、なんとなくバカらしくなり、以後はシンジに任せっきりにしている。そのシンジも時々、子供と一緒に遊んでやったり、お話をしてやるぐらいで、手の掛からない事は人間の子供の比ではなかった。

 

 アスカは思う。

 

(結局は群体生物であるヒトとの違いなのかしらね……個別に閉じていて、他者を必要としない)

 

 一つ不思議なのは、子供の成長である。新陳代謝がない以上、成長という概念もない筈だが、日々大きくなっていくのは事実であった。どうやら、周囲の概念を取り込むたびに、大きくなっていき、ある程度になるとそこで若々しい姿のまま、固定化されるらしい。

 

(ある種の情報生命体なのかもしれないわ)

 

とまで考えても、我が子の事ながら、どこか醒めていて、アスカにそれ以上の関心はなかった。すでにアスカの家族観の有り様も、ヒトだった頃から微妙に変容している。

 

 話を切り替えようと、アスカは子供たちを見回した。

 

「にしても、最初に生まれたときは正八面体だの、目玉焼きみたいなのが生まれたらどうしようかと心配したわ」

「あはは……アスカは本気で心配してたね」

「笑い事じゃないっつーの」

 

 幸いなことに、子供たちは皆、アスカやシンジと同様にヒトの形をしており、アスカに似ている子や、シンジに似ている子、両方に似ている子や、そうでもない子まで、様々だった。その点は人間と同じだ。

 

「そりゃ……自分とアンタとの子供だから、可愛いは可愛いんだけど」

「だったら名前ぐらいはちゃんと付けてあげても」

「名付けは任せてるでしょ」

「僕が付けたのは、全く覚えてくれないからなあ」

 

 まだ、シンジの掃除は終わりそうもないし、お小言も続きそうなので、アスカは顔をしかめて、空に浮かぶのを止めて、部屋を出る。玄関でプラグスーツの足につっかけを履いて、外に出る。振り返って改めて見ると、がらんとしているが、巨大な家だった。いくらシトでもこんな家を建てられるわけもなく、里の人間たちが神様の住まいとして汗水垂らして建ててくれたものだった。いわば、神殿だ。この星を人間が棲める世界にしてくれた御礼という訳だ。

 

 しばらく山道を歩く。人里離れた山の高みに、神々は住まう。人間がなかなか来れないからだ。その方がアスカにも心地良かった。人間たちを見れば、自分たちがヒトだった事を思い出してしまう。永遠より刹那を生きる彼らをきっと羨ましいと思ってしまう。だから、人間にはあまり会いたくはない。

 

 崖の縁に腰掛ける外見、十四、五の少年を見て、ギクリとなったのはそのせいだったかも知れない。むろん、ヒトではなかった。アスカによく似た、白皙の美少年といっていい。

 

「誰……だっけ?」

「……あなたの十一男ですよ。酷いな、お母さん」

「あ、そうそう。んー……トーイチローだったっけ?ジュウイチロウだったっけ?」

「もう適当だな……お父さんにしか関心無いんですか」

「まあ有り体に言えば……シンジ以外の男にはさほど……」

「ネグレクトすれすれの事を言いながら、父親との事で子供にノロケないで下さい」

「ネグレクトなんて言葉、よく知ってるわね」

 

 実際の関係は母親と息子でも、端から見れば、同じ年格好の美少女と美少年の組み合わせに見える。

 

 ─そういえば、この子は、ヒトの世界が好きで、里にもしょっちゅう行っているらしかった。そこでヒトの世界の言葉を覚えてくるのかも知れない。

 

「ま、あんたたちには手が掛からないからね。シンジは手が掛かるのよ。だから可愛いの」

「……お母さんは、お父さんのどこが好きなんですか?」

「んんん?ど、どこって急に言われても……」

「正直、別に顔だってパッとしませんよね。お母さんはかなりの美人だと思いますが。それなのに一緒になって二百年以上も経つのに、未だにイチャイチャしている。子供たちは皆、結構、不思議に思っています。……もっとも、子供たちの殆どは美人のお母さんより、パッとしないお父さん派ですが」

「あなた、考え方がかなりヒト寄りじゃない?アタシたちに顔の美醜なんて関係ないと思うけど」

「心とか、魂の形とかですか?シトだって、そんなもの分かりませんよ。他人の気持ちなんか……」

「ハハァン。あんた恋でもしてるのね」

 

 少年はその鎌掛けに、ピクリと顔を引きつらせた。図星のようだった。

 

「お母さんに遠慮なく、相談してみてもいいのよ?トーイチロー君」

「結構です。お母さんにまともな恋愛能力があるとは思えません。捕まえてるのがあのお父さんですから。それから僕はトーイチローじゃありません」

 

 むむむ、と名前を思い出そうとするアスカを尻目に、少年は立ち上がった。

 

「自分の事は自分でします。もう子供じゃありません。僕は十四ですから。確か、お父さんとお母さんが出会った歳ですよね?」

「あ、そうなんだ。じゃあ、参考まで、お母さんとシンジとの馴れ初めを教えてあげよっか♪」

「男子としては、母親のそういうの、あんまり聞きたくないんで、思い出話はお父さんとだけしてください」

「ああ、お母さんをお父さん(シンジ)に取られたような気がするから嫌なのね。……残念ね、最初からお母さんがお父さんのものだから、あんたたちが生まれてきたのよ」

「もういいです」

 

 少しだけ頬を紅潮させると、少年はスタスタと足を早めて、山道を下っていく。

 

「へんなやつ」

 

 アスカは腕を組んで、口をへの字にしたまま、少年の後ろ姿を見送る。

 

(好きな子って、里の子しかいないよね。ヒトの女の子を好きになってしまったの?)

 

 ヒトとシトは違う。人と神との交わりは哀しい結末を迎えるだけだ。

……そんなのアンタが傷付くだけなのに。

 

 アスカは、そこで初めて、自分の事のように、わが胸がチクリと痛むのを感じた。



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外伝2話 シトとヒトの狭間で

 アスカは、里に下っていく少年を見送ると、すぐに家に向かってきびすを返した。

 

 家に戻ると、シンジは部屋の掃除が終わったのか、学生服のシャツの上にPUYO PUYOと書かれたエプロンを着けて、庭で掃き掃除をしている。 

 耐久性が数百年レベルと尋常でないプラグスーツを別として、服の大半は里からの奉納に頼っている。服については、エプロンは家事を取り仕切るシンジの希望だろうが、そういったもの以外はアスカが要望を出していた。

 シンジの学生服は、アスカ曰わく「シンジはやっぱりこれでないと」だそうで、着るとアスカが喜ぶ。「アタシのシンジだ」と。

 

「あ、お帰り。早かったね」

 

 さっきの少年との話が、頭に残っているからか、アスカは、顔を近づけて、シンジをじっと見つめた。

 

(確かに顔は中の上……ぐらいかな。女顔だと思うけど)

 

「な、なにかな?」

 

 過去に、アスカに顔をまじまじと見つめられた後、そのまま寝室に引きずり込まれた事がある(哀れな)シンジは警戒心を露わにした。

 

「だ、ダメだよ。掃除してるんだから。えっちなのはダメだって」

「……はあ?何言ってるんだか」

「ち、違うの?」

 

 アスカは、山頂の神殿の庭から、山の中腹を見下ろして、大きな溜め息をつく。

 

「あのさ……アタシ、気になる男の子がいるんだ」

「……い、いきなり何。変な冗談はやめてよ……アスカ」

「冗談じゃないわ……そいつの事を考えると、胸がきゅんと締め付けられる……ような気もする」

 

 アスカの表情は真剣だった。胸元に手を当てて、目を瞑っている。実際にアスカの中には名状しがたい感情がわだかまっていた。

 

「……そんな……」

「十一人めの男の子なんだけど、名前は何だったっけ?」

「へ?」

「だから、気になる男の子よ。もったいぶってないで名前を教えなさい」

 

 シンジはようやく意味を理解して、答える。

 

「あ、ああ……何だ、そういう意味か。ミチツキだよ」

 

 男の子は上から、アキヅキ、テルヅキ、スズツキ、ハツヅキ、ニイヅキ、ワカツキ、シモツキ、ハルツキ、ヨイヅキ、ナツヅキ、ミチツキ、ハナヅキの十二人。

 

 女の子は、上から、ユウグモ、マキグモ、カザグモ、ナガナミ、タカナミ、オオナミ、キヨナミ、タマナミ、スズナミ、フジナミ、ハヤナミ、ハマナミ、オキナミ、キシナミの十四人だとシンジはすらすらと諳んじて見せる。

 

「なるほど、ありがとう。ちゃんと覚えてるのね。えらいえらい」

「当たり前でしょ。自分の子供なんだから、アスカもちゃんと名前を覚えてね」

「まあ、気が向いたらね」

 

 そして、アスカはニヤリと笑ってみせる。

 

「で……何が、そういう意味か……なのよ? 不安そうな顔したと思ったら、今度は気の抜けたようなマヌケ面しちゃって」

「う……いや、だってアスカがいきなり気になる男の子とかいうから」

「恋女房のアタシに、好きな男でも出来たのかと思ったのかしら?」

 

 射抜くようなアスカの蒼い瞳が、獲物のシンジをいたぶろうとねめつけている。こうやって、お互いの心を揺さぶり続ける他愛のないやりとりがなければ、二百年以上もの間、夫婦でい続けることは難しいだろう。お互いの心が静かに固定してしまえば、その時こそが、二人が本当のシトになる時かも知れない。

 

「アスカが紛らわしい言い方、わざわざするからだろ……」

 

 シンジは誤解だと分かったのに、少ししょんぼりしている。

 

「いるよ。好きな男の子なら。ずっと前からね」

「え……」

 

 アスカは、人差し指をシンジの胸にちょんと当てて、もじもじと指を回す。

 

「でも、そのお話なら、ちょくせつ夜にしたいな」

「……うん」

 

 頬を紅色に染めるアスカの熱っぽい息遣いに、今晩もそういう展開になるのかな、とシンジは思った。

 

 

「……といっても、今日のアタシは忙しいのよ。これから出掛けてくる」

「いつもゴロゴロしてるのに、珍しいね。さっき聞いたミチツキ関係?」

「ん……まあね」

「暗くなるまでには帰りなよ」

「うん、ダンナさまとの夜の約束もあるからね」

「はは、そだね……」

 

 シンジに背中を見送られ、アスカは、山道を下り始める。途中から、見えないATフィールドをサーフィンの波乗り板のようにしてその上に乗り、滑空するように、山の斜面を滑り降りていく。

 

 やがて麓の里が見えてきた。

 

 里の入り口付近を流れる小川の岸にミチツキと、里の少女と思しきヒトの少女が腰掛けて談笑しているのが、アスカのヒトを超えた視覚に感知される。

 

 アスカはATフィールドを消失させ、地面に降り立った。

 

(ふーん、あの子が、アタシの息子の相手なの……)

 

 アスカは少し既視感を感じる。

 

(あれ、あの子、少しアタシに似ている?)

 

 ミチツキと親しげに会話を交わす里の少女は、腰の辺りまで長い髪を伸ばしていた。その髪や肌の色素は薄く、頬にはそばかすが浮いている。アスカと同じようにヨーロッパ系の血を引いているのかも知れなかった。

 

 やがて、二人はじゃれあい、互いに小川の水を掛け合って遊び始めた。初春の水の冷たさに、少女は黄色い声を上げて歓び、相手に水をかけて反撃する。ミチツキも同じ様に、声をあげて、顔をしかめたり、楽しそうにさらなる反撃に転じたりしていた。

 

(シトの五官で、小川の水を掛けられたって、別に冷たく感じる筈がない)

 

 それなのに、少年はあたかも自分も少女と同じ様に小川の水を冷たく感じているような演技をしているのが、アスカにはすぐに分かった。

 

(ああいう気の使い方、誰かに似てる)

 

 もちろん、誰に似ているかは言うまでもない。アスカがそこまで心の内を知っている少年など、彼女の人生において、たった一人しか居ない。

 

(シト同士なら、そういう気の遣い方も分かってあげられる。人間だった時と同じ様に振る舞い、何も変わってないようなフリをする。……その、相手の優しい気持ちも。でも、その子にはアンタの気持ちが届いてるの、ミチツキ……)

 

 それから、アスカは、木陰や物陰に隠れながら、二人を観察した。頭からダンボール箱を被って、中に隠れたりもした。そんなアスカの背中に村の主婦が声を掛ける。

 

「あのぉ……山の大女神さまですよね、ここで一体……」

 

 シンジたちは麓のヒトたちに、山の神さま、とりわけ、アスカは女神の中でも一番格が高い大女神さまと呼ばれているようだった。

 

「しっ……アンタ、この村の人?」

「ええ、村の主婦ですが」

「あの子たち、付き合ってるの?どこまで進んでるの?」

「……いや、見たとおりの微笑ましい仲だと思いますが……」

「キスは?……キスはしてないの?」

「してないのでは……まだ付き合い始めみたいですし」

「ちっ、グズグズ何やってるのよ」

 

 アスカは爪を噛み、舌打ちをする。本当は、二人の関係が進んでいない事にホッとして良いはずだが、奥手の少年の行動に思わず苛立ちを感じた。それは女の本能かも知れないし、少年にその父親を重ねた故の苛立ちだったのかも知れない。

 

 さらに二人をそっと追うと、二人は場所を移り、少女は花畑で花を摘み、花の冠を作っている。少年は少女に請われて、彼女の頭にその冠を捧げようとした。その時、少女が顔を歪める。少女の手が蜂に刺されて腫れ上がっていた。

 

(あっ)

 

とアスカも思わず、声を上げそうになって、すんでのところで言葉を抑え込んだ。

 

 一方、少年は何が起こったのか分からず、戸惑うばかりだ。生まれた時からシトである少年は痛みという概念を知らない。蜂のような小さな虫が、ヒトに強烈な苦しみを与える事も理解できていなかった。

 

 突然苦痛に呻き、涙を流す少女を何も気遣えず、痛みに共感も出来ない棒立ちの少年に、少女は遂に怒りだし、立ち去ってしまう。アスカは、それを苦々しい思いで眺めている。

 

(ミチツキ……アンタが悪い訳じゃない。人間はそれだけ脆い存在なの。アタシたちとは違うのよ)

 

 アスカは、数旬の逡巡の後、咲き乱れる春の花の野に歩み寄り、手を挙げて声を掛ける。

 

「……よっ、色男の碇ミチツキくん」

 

 白いプラグスーツ姿の少女の登場に、少年は不審そうに眉根をしかめた。

 

「母さん……僕の名前、覚えたのか」

「ふん、まあね……で、あの子が、アンタの気になる子なわけ?」

「……別に」

「なかなか、いい雰囲気だったじゃないの。でもね。里の子と恋愛沙汰はやめた方がいいと思うな。お母さんは」

「……母さんには関係ないだろ」

 

 里に下りたせいか、丁寧だった口調が年相応にぞんざいになっている。それもアスカには何故だか気に入らない。

 

「"お"母さん、でしょ?いつも、おうちではそう呼んでくれてるんでしょ?里に来たからって何を格好付けてるんだか」

「……話にならない。僕はあいつを追いかけなきゃ」

「ダメよ」

 

 アスカがしっかりと、去ろうとした息子の手首を掴んでいる。

 

「行っちゃダメ。あんたはこのまま、お母さんと一緒に帰るのよ」

「な、なんでですか」

「なんででもよ。アンタはうちでお母さんたちと一緒に生きるの。もうここには来ないと、約束しなさい」

 

 余りにも理不尽な命令だった。昨日まで子供の名前も覚えていないほど、放任だった。気まぐれのように母親を名乗り、一体何がしたいのか。

 

「恋愛をするなってこと?」

「そうよ。そんな事をしなくてもいい。アタシたちはヒトではなく、シトなんだから」

「じ、自分は生涯の伴侶を得ているくせに、勝手な事を言うなよっ!母さんには父さんがいる、それなのに僕には恋をするなって……何なんだよそれ!」

 

 母親に対する少年の口調が完全に崩れ、剥き出しの感情が露わになった。

 

「……あの子、ちょっとアタシに似てるわよね」

「……」

「それ、本当に恋なのかしらね。単に母親に甘えたいだけ、代わりを求めてるだけじゃないの?甘えたいだけなら……いいよ。今まで放置してた分、アタシが甘えさせてあげる。もちろん、それ以上のことは無理だけどね」

「ち、ちがう……母さんの代わりとかじゃない。僕は本当にあいつのことが」

 

 仮に、そうだったとしても、とアスカは言葉を継ぐ。

 

「シトは星が滅びても、宇宙の終わりまで生きていける。星々の深淵にたった独りでもね。そういう進化を遂げた生命体なの。だから恋なんて要らない。愛なんて消えてなくなる。アタシとシンジの仲は、単に……ヒトだった頃の未練だよ」

 

 そこまで言ってのけると、アスカは、自分自身のセリフに傷付けられたような顔をして立ち尽くしている。

 

(そうか、単なる未練だったのか)

 

 アスカは憮然として、やがて、茫然としていた。

 

「……父さん」

 

とミチツキがアスカの後ろに向かって声を掛けた。

 そこに居たのは、いつの間にか現れたシンジだった。朝と同じく学生服姿だ。シンジは軽くミチツキに頷くと、アスカの腕を掴んだ。

 

「アスカ……ちょっと来て」

「な、なによっ。は、離しなさいよっ……アタシはあの子にまだ話が……」

「いいから……」

 

 有無を言わさぬ拘束で、シンジはアスカを引きずって行く。やがて、アスカの抵抗が弱まったので拘束を外すと、手を繋ぎながら、ミチツキが少女と居たのと、同じ小川のほとりにたどり着く。

 

「ちょっと座ろうか」

「……なんなのよ」

 

 ふぅとシンジは少しだけ、間を取るように嘆息する。

 

「アスカが里に出てくるなんて珍しいよね。ミチツキが気になったんだね」

「別に。アンタこそ何でこんな所に居るのよ」

「アスカはミチツキが気になった。僕はそんなアスカが気になった。……だっていつものアスカと何だか違うんだもの」

 

 ぷいとアスカはそっぽを向く。なぜか自分の先刻までの行動が後ろめたい気がして、夫の顔が見れないでいる。

 シンジはゆっくりと周囲の風景を見回している。

 

「……たまにはこういう長閑(のどか)な所に遊びに来るのもいいよね。今度、家族みんなでピクニックにでも行こうか」

「何も食べられないのに、そんなもん何が楽しいのよ」

「そうかな……僕はアスカや子供たちと一緒なら、こうやって座ってるだけでも楽しいけど」

 

 アスカはそこで思いつき、シンジに向かっていきなり小川の水を掬って掛ける。

 

「な、なにするんだよ……いきなり」

 

 予想のとおり、顔をしかめて冷たそうな表情をした。

 

(ほら、やっぱり、あの子と同じだ)

 

 ヒトだった頃と同じように振る舞い、ヒトでなくなってしまったアスカを傷つけないようにする気遣いだ。

 

「シンジは優しいね」

「……」

 

 シンジもわざわざ何がとは聞き返さなかった。代わりに、アスカに向かっておもむろに切り出す。

 

「アスカは、子供たちが人間と交流するのに反対なの?」

「……どうせ、アタシたちは仮住まい。いつかはこの星を出て、人間のいない世界に行くのよ。無意味な事は止めた方がいい」

「そうだけど、でも無意味ってこともないような。僕がアスカに再会したとき、僕はまだ人間だったじゃない?」

 

 ヴンダーで外見は十四のまま、中身が二十八歳のアスカに再会したときの事だ。

 

「だからアンタとは極力接触しようとしなかったのよ。触れられたら、自分が人間でないとバレてしまう。食事も睡眠も取らない化け物だと……シンジにだけは知られたくなかったから」

「じゃあ、アスカは僕がシトにならず、ヒトのままだったら、一緒にはならなかったの。それが理由で別れろって言われたら素直に従ったの」

 

 仮定の質問は無意味だろう。百のハッピーエンドがあれば、その裏には、千の選択肢や、万の悲劇や別離があるかも知れない。アスカは全ての世界でシンジと結ばれると言い切れるほどの、そこまでの運命への確信は持てない。

 

「そんなのわかんない。そうしたかも知れない。だってそんなの、シンジが可哀想だもの……」

「……そう」

「シンジがアタシの方に振り向いてくれなくて、アタシとシンジの種属が違ってしまったなら、別れたかも知れない。そんなの仮定の話だから分からないよ」

 

 アスカはそんな世界の自分を思って、その孤独と寂寥に泣きそうになった。シンジにもその寂しさは共有されたようだ。

 

「……なんだか、それも寂しいね。でも僕らは今、こうして一緒にいる。で、アスカはそんな風に別れたかもしれない、別の僕とアスカに重ねて、ミチツキの事を考えるんだ?」

「だってあの子は、アタシとシンジが、二人でこしらえた子供なんだよ。まだたった十四なのに。あの頃の一番苦しんだアタシたちと同じ歳なのに」

 

 けっきょくは、それだけの事からアスカは、こんなに入れ込んでいるのかも知れない。どうしようもなく、十四歳の息子をあの時の自分とシンジに重ねてしまうから。そして、あの子はシンジのように優しい心を持っている。恐らくは傷つきやすい心も……。

 

「あの子が傷付いて、哀しんだらどうしよう。あの子が村のヒトたちに化け物だとか、そんな風に思われて排斥されたら……そう思ったら、みすみす黙って見ていられない。それに今は上手く行ったとしても、絶対に別れが来る……それはヒトの寿命だったり、アタシたちの旅立ちだったりするかも知れない」

 

 少なくとも、あの山のてっぺんにまで人が分け入るほどに、ヒトがかつての繁栄を取り戻したならば、アスカたちは、この星を旅立つ事になるのだろう。それが三十年後なのか、百年後なのか、千年後なのかは知らないが、無限の寿命からすれば、あっという間の刹那であるのは間違いなかった。

 

「僕のアスカの可愛い顔をよく見せて」

「……なによいきなり……」

 

 シンジがアスカのおとがいを軽く触り、白い顔を覗き込んでくる。

 

「アスカのお目目はやっぱりたれ目だね」

「うるさい……ひとが気にしてる事を言うな」

 

 成長してからは美少女と呼ばれる事に慣れていったアスカだが、子供の頃は鏡の中の自分の顔が、その目尻の下がり方から、どこかタヌキのように見えて嫌だった。

 

「本当はたれ目のアスカは、いつも強気だけど、どこか気弱なんだよね。それに心が優しいから、自分以外の事をつい心配してしまう」

「そんなの関係ない……あたしは冷静に、最悪のパターンを考えてるだけ」

 

 うつむくアスカの手に、シンジはそっと自分の手を添えた。

 

「アスカがお母さんらしいことをしようとしてくれてるの、嬉しいよ。でも、あんな風に子供の関係に干渉するのは違うと思うんだ。お母さんはじっと遠くから見守っていて、子供が失敗したときに慰めてあげればいいと思う。僕はそう思うんだけど、どうかな、アスカ」

 

 アスカは、横を向いた。シンジの言っていることが正しいかは分からない。でも、自分とシンジの関係を単なるヒトとしての未練だと結論してしまった自分の考えよりも、今はすがりたい考え方に思えた。どこで自分は間違えたのだろう?

 

「……余計なことして悪かったわね」

「違うよ。ぜんぜん余計な事なんかじゃない。アスカは張り切って、少しだけ頑張り過ぎちゃっただけだよ。子供の為に頑張ってくれてありがとう」

 

 頭を下げて礼を言う夫の姿をその中に映したアスカの青い瞳がいつの間にか潤んでいる。明後日の方向の頑張りでも、シンジはちゃんと彼女の気持ちを理解してくれていた。思えば、シンジほど、報われない頑張りを繰り返した少年は居なかった筈だ。そしてそんなシンジが、頑張りの後に、他人の時折の優しさに救われ、あるいはどんなにか他人の優しさに救われたかったか。アスカは、それを想った。

 

「シンジ……」

「うん?」

「抱っこして……シンジ」

「いいよ」

 

 シンジの両手がそっとアスカの背中に回る。新陳代謝がほぼ皆無のシトに、体温は殆ど無いはずだが、シト同士で抱き合えば、日常的領域の感覚には鈍くとも宇宙的領域の温度には鋭敏な五官故か、ヒトだった頃と少しも変わらないお互いの温もりや心音が感じられる。それは初めて知ったとき以来、いつも安堵させてくれる嬉しい誤算だ。

 

 十四で成長の止まったアスカとシンジの背格好はいつまでたっても男女差がほとんどなく同じだ。二人の背丈も目線の高さも永遠に変わらない。ずっと中学生のように同じ大きさ同士で抱き合っていられる。

 

「今日のアスカは甘えんぼさんだね」

「うん……。あのね……このまま、シンジとエッチしたい……」

 

 優しいシンジが欲しくてたまらなくなった。それは単なる性欲ではなく、大好きな人と一つになりたいという願いだ。

 

 今すぐ、シンジに甘えたかった。シンジに優しくされたかった。シンジに可愛がられたかった。シンジに気持ちよくされたかった。シンジに愛されたかった。シンジを愛してあげたかった。シンジと一つになりたかった。

 

 だが、まだ太陽は高い。二人の時間は無限にある。永遠を生きる二人にとって、刹那はどこまでも刹那だ。

 

「それはまた、今晩ね」

「ううう゛~……」

 

 お預けを食らってアスカはむずがるが、シンジはアスカの金髪を優しく梳くように撫でてやった。そっと髪の毛にキスをして、そっと妻に向かって囁いた。

 

「ミチツキにも優しくしてやってね、アスカ」

 

 

「お疲れサン」

 

 夕刻、いつもの白いプラグスーツ姿の母が腕を組んで、村の入り口からすぐには見えない奥まった場所で待っていた。

 

「母さん……」

「お母さん、でしょ?」

 

 少年の暗い表情を見れば村での顛末は分かる。少女の家を訪れたが、和解は上手く行かなかったのだろう。だから、あの子は居ないんだから、ちゃんとうちでの呼び方で呼びなさいとアスカは、言外の意味を込めるが、少年を再び傷付ける形では、少女の話題はすまいと内心決意する。

 

「……迎えに来てくれたの?」

「そうよ、優しいお母さんでしょ。さっ、おうちに帰ろ?」

 

 アスカは、少年に手を差し出す。少年は少しだけ逡巡したが、素直に母と手を繋いだ。

 

「実は……同い年の男の子と手を繋いだのは、あなたのお父さん以外では初めてよ」

「……同い年……ですか」

「身体が成長しなければ、もう精神は老成しないのよ。だからアタシは永遠に十四歳。アンタと丁度同い年♪」

 

 アスカはそう言って、繋いだ手を嬉しそうに、ぶんぶん振り回す。

 

「お母さんはいつもバカみたいに前向きですね」

「バカというのがちょっと気になるわね。その呼び方はお父さん(バカシンジ)の方に相応しいと思うけど。でもまぁ、お父さんと一緒になった後は、シトになってた事もあって、いろんな問題や悩みから解放されたわね」

 

 アスカは、昔の流行歌か何かを鼻歌でハミングしている。私を月に連れてって、という曲よと母は説明する。少年から見ても、母の機嫌は良さそうだった。

 

「月ではない、父さんに連れて行かれた先で、叱られたりしなかったの?」

「ん?そんなの、全然よ。……シンジには抱っこしてもらった」

「はぁ?抱っこ……ですか?」

 

 少年の怪訝そうな、いかがわしいものを見る視線に気付いて、アスカは慌てて補足する。

 

「だ、抱っこって、別にいやらしい事はしてないわよ。清く正しい中学生交際」

 

 だって、アタシとシンジは永遠の中学生だから、とアスカは機嫌良さげに、うそぶく。

 

「どうせ、エッチなことをねだったけど、父さんに拒否されたんでしょ……」

「……ち、違うわよ」

 

アスカは図星を突かれて瞬間どもるが、すぐに真面目な顔になって言った。

 

「お母さん、お父さん(シンジ)に叱られた訳じゃないけど、たしょう反省はした」

「え?」

「シトだから孤独でいいとは思えなくなった、ってこと」

「……」

「シンジの抱っこが温かくて嬉しかったんだ。ずっとそうしてたいと思ったぐらい。だからアンタもお母さんの言うとおりにはもうしなくていい。あの子でも、あの子でなくても、いい相手を探してもいい」

 

と、先ほどとは正反対の事を言う。

 

「でも母さんのいうとおり、僕らはシトで、あの子たちはヒトだ。違う生き物なんだ」

「……それはそうね」 

 

 先刻のアスカの言葉は、彼に少なからぬ打撃を与えていたらしい。

 

「……どうして、母さんと父さんはヒトのまま、結ばれてくれなかったの。そうしたら、僕もこんな思いをしなくて済んだんだ。こんなの単なる愚痴で、甘えだって分かってるけど……」

 

 少年はいつの間にか地面に涙を落としていた。汗は出ないのに、涙はヒトと同じように出る。お前の眷属は未だ中途半端に人間なのだと残酷に、アスカたちに告げているようだ。

 

「別に甘えていいわよ、だってアタシはアンタのお母さんなんだからね」

 

 そう言って、アスカは、道の脇に少年を引き込む。少年はされるがままだった。自分と同じ背丈の少年を胸に引き寄せ、背中に両手を回してやる。

 

「アタシがシンジにしてもらったように、アタシも

アンタを抱っこしてあげるね」

「お母さん……」

 

 そこで初めて、少年の二人称がお母さんに戻った。アスカの首元を我が子の涙が濡らす。

 

「お母さん、お母さん……」

 

 滂沱の涙が、溢れ出すと、もう簡単には止まらなかった。だから、アスカは、静かに語りながら、少年の髪を撫でてやる。

 

「アタシとシンジがヒトのまま結ばれる結末か……あの時は、色々遅すぎて……そんな結末があり得たとは思えないけど、もしアタシたちがヒトのままだったら、あんたは十一男なんだから、絶対生まれてないわよ。生まれたの、二十何番目でしょ。ヒトの女は一人でそんなに子供は産めないの」

「……お母さん」

「シトになって良かったなって思うときがたまにあるけど、アンタが生まれてきたのもその一つよ。これは本当」

「……名前も覚えてなかったくせに」

「名前はシンジが覚えてくれてる。アタシたちは永遠に一緒なんだから、いつでも傍にいるアイツに聞けばいいのよ」

「ずるいよお母さん……。そんなの独りだけ幸せ過ぎるじゃないか」

「独りだけじゃなく、二人だけよ。でも……ごめん」

 

 それから二人はずっと抱き合って、少年の涙が止まるのを静かに待った。

 

「そろそろ、帰ろっか」

「うん……」

 

 いつの間にか日は完全に没し、手を繋ぎながら無言で歩みを進めると、程なくして灯りの点る家に着いた。二人は山道でも夜道でもペースが落ちないから、ヒトから見たら、異常な健脚に見えただろう。

 

「なんなら、今夜はお母さんが一緒に寝てあげようか?」

 

 アスカは自分なりに、息子の傷心を慰めてやりたい気分だった。背中を優しく叩いてやれば、孤独な夜でもよく寝付くのではないか。どこかにしまい込んだままの子育て書でも急いで探してみるか。

 

 だが、少年は首を横に振った。

 

「お父さんに嫉妬されるのはごめんだよ」

「それなら、三人で川の字とか。シンジは部屋の隅に追いやって、抱っこして寝てあげる」

「シトだから嫌われるならともかく、マザコンで嫌われるのはイヤだよ」

 

 アスカは目ざとく、その言葉の含意に気付いた。

 

「ほほぅ。じゃあまだあの子のこと、諦めてないんだ。ちょっと見直した。さすがはアタシとシンジの子供だわ」

「うん。簡単には引き下がらないよ。また里に行ってみるつもり……それじゃあ、お休み、お母さん」

 

 少年はしっかりとした足取りで、子供たちの寝室がある離れに向かって去っていった。

 

 アスカは、晴れ晴れとした気持ちになる。

 

(うん、好きだという気持ちは、未練なんかじゃないよね)

 

 そして、アスカはシンジの事を想った。

 

(でも、今日はまだ一つ、闘いが残っている……)

 

 和風の引き戸をガラガラと引いて、アスカは、家に入る。

 

「お帰り、アスカ。……ミチツキと一緒だった?」

「……」

 

 玄関でつっかけを脱いでいると、エプロン姿のシンジが出迎える。

 

 アスカは、シンジを一瞬だけ見て目を伏せ、無言で上がり(かまち)に足を掛ける。

 

「ん……なんか怒ってる?」

「怒ってないわよ」

「でも、ただいまも言わないし」

「昼間のこと」

 

 と、初めてシンジを見て、睨みつける。

 

「え?……ああ、アスカ、すごく可愛かったね。女の子って感じで。いつもああだといいのに……」

「ああっ、やっぱり、コイツ忘れてないっ……」

「忘れるわけないでしょ、今日の昼間の話を」

「アタシも三回も反芻した。……で、その都度、『抱っこして』とか、乙女みたいな自分に、あの中学生みたいなやり取りに、恥ずかしくて死にそうになった」

 

 アスカの目の縁に少し涙の粒が浮かんでいる。

 

「……恥ずかしい……?」

 

 シンジにはアスカの言うことがよくわからないようだった。

 

「あの場面で、しおらしくエッチをねだって、しかもあっさり拒否られてて、死にそうに恥ずかしいっ……ああ、それならいっそ、あのまま、シンジを押し倒しておけばよかった」

 

 耳まで赤くしてアスカは廊下に這いつくばって悶絶している。

 

「そんな……里のあんな人目に付くところでそんな事したら、それこそ伝説か神話になるよ。僕もそんな情けない被害者役として神話に残りたくない……」

「それでも、あの場で、おあずけされるよりはマシよっ。しかもそれを記憶してるのが……」

「そうだよ、アスカと僕だけなんだから安心して……」

「ううっ……その世界で唯一アタシが好きな相手に記憶されてるのがイヤなのよぉ……」

 

とアスカは泣き崩れる。シンジは妻の反応に戸惑うばかりだ。

 

「あの、僕は一体どうすれば……」

「そう、それよ……アンタが今すぐ記憶を喪うか、それが無理なら、アンタにも同じくらい恥ずかしい秘密が出来ればいいのよ」

「はっ」

 

 勘よく察して逃げようとしたシンジの襟首を一瞬早く掴んで、頬を上気させたアスカは寝室へと向かっていく。

 

「は、離してよっ。まだ家事(すること)が残って……」

「ふんっ。久しぶりの朝までコース、行くわよ。シンジの分際で生意気にも、このアスカ様におあずけを食らわせるなんて……。傷付けられたプライドは十倍にして返してやるわ。二人だけの、アンタの恥ずかしい秘密も沢山作ってね。覚悟しなさい」

「ちょ、ちょっと……だ、誰か助けて……」

 

 シンジの受難は続く……。



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外伝3話 旧世紀エヴァンゲリオン

 真夜中、開け放たれた寝室の窓から屋根の上に向けられたアスカの声が、山上に鳴り響く。

 

「こぉらぁ、逃げるな、シンジ!」

「も、もういいよ。もう終わらせて、普通に寝ようよ」

アタシたち(シト)が寝れるわけないでしょ!」

 

 けっきょくその夜、アスカは自分の素直な欲望やら気恥ずかしさやらから、シンジをベッドで責め立てたが、シンジが遂に逃げ出した、全裸のまま、屋根の上に飛んで逃亡を図ったのだ。

 

 理論上、ヒトの形を取るシトであるシンジたちは、S2機関搭載のエヴァと同じで無限のスタミナを持つ。一方、当然のことながら、性愛にはメンタル─とりわけ男性側のそれは重要だ。シンジは五回目の賢者の時間(タイム・オブ・マギ)にギブアップしたのだ。

 

「愛のない、身体だけの繋がりはイヤだ!」

「愛ならここにたっぷりあるわよ!なかんずく、それを示すのは回数よ!新しい体位やプレイへの果敢な挑戦の姿勢よ!」

「避妊具だってなくなったじゃないか!それにもう、アスカの前で恥をかきたくない!ベッドでのヘンな秘密を握られたくもない!」

「……ちっ、ヘタレのガキシンジめ」

 

 アスカは、舌打ちをする。

 

「可愛がってやるって言ってるのに、男だからとか、妙な見栄ばかり張っちゃって……アタシの前で、今さらカッコつけてんじゃないわよ、ばか」

 

と小さな声で呟いた。

 

 

 アスカの声の大半は、子供たちの部屋にも届いていた。シトである彼らは睡眠を取ることはないから、夜は単にめいめいの部屋で静かにしているようにと躾られている時間に過ぎない。

 寝床は全員に用意されているが、横になっている者は少ないし、ゴロゴロしている者も一名を除いて、まぶたを閉じていない。その一名はヒトのように寝る(振りをする)のが趣味だという変わり者なのだ。

 だからアスカの声も誰の安眠妨害にもならないが、眉をしかめる者はなくもなかった。

 

「……またやってる。あのエロザル……」

 

と、こめかみに青筋を浮かべながら、机に向かうのは、アスカとシンジの四女に当たるナガナミという少女である。ひっつめ髪に、赤いフレームの眼鏡をかけた十七八の外見をした少女で、漫画の原稿のコマ割りの作業をしているらしかった。

 

「ナガナミちゃんのママンへの毒舌は段々辛辣になるねぇ」

 

 と、同室の、とてもよく似た顔の、同じく十七八の外見をした、しかしこちらはギャル系の格好をした少女が苦笑した。ナガナミの双子の妹に当たる五女のタカナミだった。

 

「だってお父さんが可哀想だと思わないの、タカナミは。あんなのセクハラ……ううん、家庭内性暴力だよ」

「いやまぁ、ママンとパパンにとっては、あれもコミュニケーションの一つの形だと思うけど」

「タカナミはあの淫乱非常識女に甘すぎ。子供の名前もまともに覚えてないとか有り得ないッ……」

 

 ギリギリと奥歯を噛みしめると、手に持つペンにまで思わず力がこもる。

 

「それでも、ウチらのママンじゃない。ウチはママンの事、好きだけどな」

「アタシはあんなのがお母さんだとは認めてない」

「でも、事実だからなぁ」

事実(リアル)がなんだってのよ……アタシはこのペンで描く幻想(イマジナリー)で、その現実をぶち殺すッ!」

「……出たねー、ナガナミちゃんお得意のそげぶ。……まんまパクりだけど」

 

 タカナミは、ナガナミほどの漫画やアニメ好きではないが、双子の姉に付き合いで見ているうちに詳しくなってしまっていた。ちなみにオタク的コンテンツの供給元は主に里からの奉納だが、ナガナミが自分で麓の町々に収集に行くことも多い。ナガナミには同人誌の売上げで、この一家には珍しく現金収入があったし、ヒトたちのオタク仲間のネットワークもあった。

 

「同人作家なんだから、パクり上等よ!現実なんかクソ食らえってーの!」

 

(その、向こう気の強さは、ママンそっくりだと思うんだけどなぁ)

 

 タカナミは双子の姉の顔を眺めながら、心の中で密かにそう思うのだった。

 

 

 翌朝一番に、ナガナミは、両親の寝室を訪れた。

 

 アスカにはゆうべの苦情の一つも言ってやり、可哀想な父に慰めの言葉の一つも掛けてやろうと思ったのだ。後ろから、タカナミがニコニコしながら付いて来る。悪い性格ではないが、どうもこの妹は物見高すぎる習性があった。トラブルを期待している節があるのだ。

 

「二人に話があるんだけど!」

 

 ノックもせず、ナガナミがガラッと両親の部屋の引き戸を開けると、目の前に全裸のアスカが仁王立ちで立っていた。

 中学生の少女の体つきではあるが、それなりに膨らむべき所は膨らみ、若草の翳りも生え揃っているのを、ナガナミは見るともなしに見てしまう。全裸であってもいやらしさよりも、透明感のある清楚さが印象的で、喩えるなら、それは白い妖精のようだった。

 

「……な、な、なんで裸なのよ」

「裸で寝てたから」

 

 突然の肌色襲来に目を白黒させて狼狽するナガナミに、アスカは全く動じていない。

 

「は、は、裸で寝る必要は、ないでしょ!」

「あるわよ。……お子ちゃまね」

 

 はんと鼻で笑って、アスカは部屋に入ってきた少女を物珍しそうに見やる。少女の方がアスカより年嵩に見えるが、勿論、母親はアスカの方であった。裸で寝る必要はある、という言葉に少女は一瞬言葉を失い、それから慌てて

 

「と、と、とにかく服を着て!!」

 

と言った。

 

 すぐに少女が真っ赤になって俯いたので、アスカは、怪訝な顔をしながらも、近くの椅子に掛けておいたプラグスーツを着る。ボタンを押すと、あっという間に身体の線にフィットする。今日のプラグスーツは、白のが洗濯中だったので、昔着ていた赤いプラグスーツだ。

 

「ほら着たわよ……えっと」

「……ナガナミ、四女の。どうせ名前、覚えてないんでしょ」

 

 目を伏せながら不貞腐れた口調で答えるナガナミがゆっくりと視線を上げると、赤いプラグスーツ姿の母親の姿が目に入った。ナガナミの胸を不意の衝撃が走る。

 

「しょ、しょ、しょ……」

「しょ??」

「初期バージョンの……弐号機用プラグスーツ!」

「ま、そうだけど?」

「な、な、なぜこんなウルトラレアアイテムがっ!」

「ん?いつものプラグスーツをシンジが洗濯しちゃったから着てるだけよ。本当、アイツは時々考えなしね」

 

 スーツに掴みかからんばかりの少女の熱い視線の意味を計りかねて、アスカは、腕を組み、少女の姿を値踏みする。

 

「んで、ナガナミ。アタシとシンジに何か用なの?」

 

 アスカは、今から名前を記憶に叩き込むように頭を整理しながら、娘に問い掛ける。

 

「そ、そうだった。……お父さんはどこなの?」

 

 今はプラグスーツよりも、父シンジの事だ、とナガナミは思い直す。しかし、部屋のどこにもシンジの姿は見えない。彼の学生服やシャツ、白いブリーフが床に几帳面に畳んで置いてあった。

 

(ぶ、ブリーフなの!?まさか、こいつ(アスカ)の趣味…)

 

 しかし、それは今はどうでもいい。服だけがあって父は居ない。一体、どういうことなのか。不吉な予感が脳裏をよぎる。

 

「だから、何の用なのよ。今いないから、代わりに聞いてあげるわよ」

「アタシは、どこに居るのと聞いてるの。別にアナタに用事を言う必要はないでしょ」

 

 アスカは、その攻撃的な答えに憮然として、無言で人差し指を天井に向ける。

 

「屋根?」

「そうよ。勝手に探せばいい」

「まさか夜中からずっと上にいるの?」

 

 アスカは黙って頷く。

 

「どうして降りてこないのよ?まさかお父さんに何かしたんじゃ……」

「服や下着が寝室にあるまま夜が明けたから、単にスッポンポンなのを恥ずかしがって降りてこないだけよ。また暗くなったら降りてくるでしょ」

「……どぉぉして、そういう事をするのよ!」

 

 ナガナミの眦がみるみる吊り上がる。

 

「シンジが勝手に逃げ出したのよ。アタシは知らないわよ」

「アナタがお父さんを毎晩イジメるから、逃げ出すんでしょ!」

「別にアタシがシンジをどうしようと勝手でしょ。あんたたちに関係ない」

 

 とりわけ両親の寝室の中での事に、子供があれこれ口を差し挟むのは間違っている、というのがアスカの信念だった。

 

「なんでお父さんは、こんな色魔(しきま)と一緒になったのよ……」

「色魔?」

 

 聞き捨てならない台詞に、アスカの眉もピクリと動く。 

 

「そうよ。アナタは、お父さんの身体と優しさを、腕力や誘惑で、いいように搾取している。いかれた色情狂じゃないのッ」

「……ちょっと、自分の母親になんて事を言うのよ」

 

 ナガナミという少女のあからさまな敵意が理解できず、アスカは、いささか持て余し気味だった。

 

「はっ、母親らしいことなんか何もしてくれたことないくせに。毎日毎日、お父さんに纏わりついて、甘えたり、セックスをねだったりしてるだけじゃない!うちには年頃の娘がたくさんいるのにいい加減、恥ずかしいとは思わないのっ」

「年頃ですって?アンタ、今いったい何歳なのよ」

「に……211歳……だけど……」

「立派な、ババァじゃん」

 

 アスカは、小馬鹿にするような顔で娘を見る。

 

「し、信じられない!母親が娘を捕まえてババァ呼ばわり!?だったら、お母さんは大お婆ちゃんでしょ!」

 

 と頑なまでにアスカを母親と認めないでいたナガナミの口から、お母さんという言葉が突いて出る。

 

「アタシは14歳だっつーの」

「うそつき!大体お父さんに再会した時点で28歳のババァだったでしょ!14も年下の男の子を手込めにした、サイテーの色魔でしょ!」

 

 その言葉に、さすがにアスカも思わず手が出た。シトのATフィールドがシトのATフィールドを中和し、鈍い音と共に少女の頬に赤い手形を形づくる。

 

「な、殴ったわね……」

 

 ショックを受けたのか、その頬にナガナミの透明の涙が伝う。

 

「いくらなんでも、言い過ぎでしょ。シンジを手込めになんかしてないわよ、アタシだけでなくお父さんへの侮辱でしょ。取り消しなさいよ」

「取り消すもんか……今だって、お父さんに、毎晩無理やり変なことをしてる。大嫌いよ。アナタなんか敷浪アスカ様じゃない。ニセモノだ!」

「しきなみあすか?……いや、それアタシだし。一体全体、何を言ってるのよ」

 

 ナガナミはきっとアスカを睨むと、涙を振り絞りながら、家の外へと駆け出して行った。

 

「ふぅ。ナガナミちゃんも、ママンも、相変わらずだねぇ」

「あんたは確か……五女のタカナミだっけ?」

 

 タカナミはギャル風の外見だが、気さくな明るい少女で気兼ねなく母親のアスカに話しかけてくるので、名前と顔は何となく覚えていた。

 

「そそ。ナガナミちゃんの双子の妹。その節は生んでくださって、どーもどーも。母上さま」 

 

と、こちらは至って軽いノリである。

 

「あのナガナミの剣幕はどういうこと?いい年して、シンちゃん好き好き系のファザコンなの?」

「シンちゃん好き好き系って……」

 

 アスカの碇シンジに関する語彙は時々、一般的センスを超越する。

 

「何よ、文句でもあるの。シンちゃんはシンちゃんでしょ」

「まあ……ウチら娘たちは概ねそのシンちゃん好き好き系だとは思うけど、それに一番当てはまるのはどうみてもママンの普段の行動では……それに、ナガナミちゃんは、ファザコンというよりも、むしろ……」

 

と、タカナミは、アスカを指さす。

 

「ん?……アタシ?」

「そうそう。ナガナミちゃんは一応、ママン大好きっ子なんすよ。ま、ちょっと説明が難しいんだけど」

「そういえば、アタシに様づけしてたわね」

「あ、それはちょっと違うんだな。敷浪・アスカ・ラングレー様……ママンをモデルにしたキャラクターなの」

 

と、タカナミは、表紙に赤いプラグスーツ姿の少女のイラストを描いた単行本を差し出す。

 

「マンガ?……《旧世紀エヴァンゲリオン》、ナニコレ?」

 

 アスカは、表紙のタイトルを読み上げる。確かにタカナミが言ったように、表紙には自分をモデルにしたような笑顔の美少女のイラストが描いてある。

 

「ママンがヒロインの大人気SF漫画だよ。あの子が大ファンなの」

「……なんでそんなものが存在するのよ」

「いや、だって……旧世界たる惑星地球での人類滅亡の危機から、新天地ヴンダーでの再生の物語。血湧き肉踊るSFアクション感動巨編。映画でも小説でもマンガでも人類に一番人気のジャンルに決まってるっしょ」

「………驚いたわね。全く知らなかった」

 

 自分がいつの間にか、映画や漫画のヒロインになっている経験など、そうそうあることではない。

 

「で、あの子はママンをモデルにしたその作品のヒロインが大好きなのよね。もちろん、パパンをモデルにした伊狩シンジ君もね。あの子はその二人のカップリングが好きなのよ。まあ、ファン用語だとLASって言うんだけどね」

「えるえーえす?」

「ラスとも読むけどね。Lovelove Asuka Shinjiの略なんだって」

「うう゛……何そのこっぱずかしいコトバは……アタシとシンジがラブラブ……そりゃ確かにラブラブだけど……」

 

 アスカは耳まで熱くなるのを感じた。世の中には自分とシンジのラブシーンに注目するファンがいるのだと自覚すると、まるで衆人環視の中、シンジとデートやエッチをしているような気分になってしまう。

 

「こっぱずかしいって……シンちゃん好き好き系とか言ってる人がそれを言いますか」

 

とタカナミは笑う。

 

「……てか、なんで勝手にアタシとシンジをモデルにして、カップリングとか言ってるのよ。完全な肖像権の侵害じゃないのっ!」

 

 アスカが照れを隠すように、ひとしきり声を張り上げると、タカナミは肩をすくめた。

 

「シトに人権はないらしいよぉ。もちろん印税収入も……」

「ハァ……」

 

 アスカは、ため息をつく。この調子だと、自分をモデルにした美少女フィギュアなどが平然と売られていても、不思議ではない。まあ、シンジとの仲を公開羞恥に晒されている状況に比べれば、最早どうでもいい事だが。

 

「しかし、ナガナミがアタシをモデルにしたキャラのファンなら、何でまたあんなにアタシへの当たりが強いのよ。色魔とか散々な言われようじゃない」

「だって、マンガ版の敷浪アスカ様─あ、名前の漢字とかが変えてあるんだけどね─は、賢くて、美しくて、清楚で、未来の夫となる運命の少年、伊狩シンジに一途な理想的ヒロインなんだもの。ママンとはちょっと違うかな」

 

 ついでに言うと気高いドイツ貴族の出身で、それでいちいち、様と付けるのがファンの慣例らしい。謎の設定が生えているようだ。

 

「はぁ?アタシも、賢くて、美しくて、清楚で、シンジに一途でしょ?」

「敷浪アスカ様は、ママンみたいに日常的にエロい事しないのよ。シンジ君にセクハラもしない。いじめたり、からかったりもしない」

「……そいつ、何のためにシンジにつるんでるの?楽しみの半分以上を捨ててるじゃん」

「……やっぱりママンだねぇ。あ、ウチはママンのそういう所が好きだよ」

 

 そういって、タカナミは、漫画の途中のページを開いて、母に見せる。

 

「ほら、ここなんか、ママンとパパンのラブシーンだよ」

 

『戻ったら、大人のキスをしよう、アスカ』

『うん……シンジクン。私、ずっと待ってる』

 

 そういって、目をキラキラさせながら、見つめ合う二人が紙面には描かれている。往年の少女漫画系の作品のようだ。

 

「こんな歯の浮いたような台詞、シンジが自分から言うわけないじゃん。てか、その場でしなさいよ、キスぐらい。待ってて死んだらどうする」

 

 漫画のページをパラパラとめくって、その先も読みながらアスカは、文句を付けて眉を顰めているが、ページを繰る手はなかなか止まらなかった。読みながら、頬が上気していくのをアスカは感じた。なんと言っても、自分とシンジのラブシーンが満載の漫画である。

 

「と、とりあえずこれは没収するわ。子供が読んでるものにいかがわしいものがないか、母親としてチェックが必要だから」

 

 コホンと咳払いをして、アスカは、漫画を自分の本棚にしまう。

 

「どうぞどうぞ、お納めください、お代官様。ナガナミちゃんによると布教用の予備らしいからね」

 

 没収についての見え見えのアスカの言い訳に口許を緩め、タカナミは悪乗りする。それから少し真剣な表情になって言った。

 

「ま、そんなこんなで、あの子は、漫画の中の理想の清楚でお淑やかでお貴族様なママンと、現実の奔放でパパンとエッチしまくりのママンとのギャップに苦しんでいるこじらせ系オタクちゃんなのよ」

「こじらせ系オタク……ねぇ」

「でもママンのキャラクターにはファンとしてすごく拘りがあるから、さっきのオールヌードとか、そのプラグスーツとか、ナガナミちゃんには刺激強くて、たまらなかったんだと思うわ」

 

 先ほどのナガナミの反応に、それである程度納得が行ったが、アスカの心境も複雑だ。

 

「って、本人ガン無視で、身体や服装だけ好かれてもね……」

「まあ、それがオタクのオタクたる所以というか……あ、ママンはオタクとかダメだった?バカにしちゃう?」

「別に、何を好きだろうとそいつの勝手でしょ。てか、自分の子供をそんな事でバカにする親がいる訳ないでしょ」

「そうだよねぇ。ナガナミちゃんもこういうママンの台詞を聞けば、少しは気持ちが動くと思うんだけどなぁ。ま、ママンも少しはナガナミちゃんのこと、気にかけてあげて」

 

 アスカはずっと、子供たちと距離を置いてきた。それは、シトとヒトの親子関係が余りにも異なるから、というのもあったが、両親のいないアスカにとって、正直、子供たちとの距離感を測りかねたというのも大きかった。

 

「嫌われてるのなら、別にそれでいい」

「ママンは別に嫌われてる訳じゃないよ?ナガナミちゃんにも、他の子たちにも」

「……自分が子供たちに好かれるような事を何もしてないのはよく分かってるわよ」

 

(うーん、みんな、ママンにもっと甘えたくて、寂しがってるだけなんだけどな……)

 

 タカナミは、首を捻って、自分より数歳幼く見える我が母親にそっと視線を落とした。

 

「そうだ、ママン。ナガナミちゃんの描いてる同人誌、ぜひ読んで見てよ。多分、ナガナミちゃんがどんな風にママンとパパンの事を思ってるのか、分かるはずだよ」

 

 そして、その思い付きの素晴らしさに満面の笑みを浮かべるのだった。



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外伝4話 アドゥレセンス黙示録

「そもそも同人誌って何?」

「正確な定義は知らないけど、個人やサークルで作った趣味の本……って感じかな?《旧世紀エヴァ》の同人誌をナガナミちゃんは描いてるんだ」

と首を傾げるアスカにタカナミは簡単な説明をしたあと、

「んじゃ、なんとかナガナミちゃんの同人誌、調達してくるから、ママンは少し待っててね」

と、一旦は引っ込んだ。

 

「別に無理しなくてもいいのよ!」

 

 背中に向かって掛けたアスカの声にヒラヒラと手を振って、タカナミは去っていく。

 

 小一時間後、アスカたちの寝室に戻ってきたタカナミがこっそりアスカに寄越した本は、ごく薄い冊子だった。40ページほどの本であろうか。

 

「ずいぶん薄い本ね」

「だから、そのものずばり薄い本って言うこともあるらしいよ。ま、それはエッチな同人誌の隠語でもあるようだけど」

 

 その言葉にアスカは警戒心を表情に浮かべる。

 

「こ、これもエッチだったりするの……?」

「ナガナミちゃんは健全本しか描いてないよ」

「……《黙示録のアドゥレセンス》」

 

と、アスカが、読み上げたのがタイトルだった。

 

「黙示録の思春期……か」

 

 アスカは少し表情を和らげて、表紙を見つめる。そこには赤い海の浜辺に、プラグスーツ姿の少年と少女が横たわっている遠景が、繊細なタッチで描かれていた。

 

「絵、本当にうまいのね」

「ナガナミちゃんが席を外すまで、時間がかかってねー。読んだら速攻返さなきゃ」

「それは、アタシから返しておく」

「えー、大丈夫かな。ナガナミちゃん、切れるんじゃ……」

 

 アスカはもうタカナミを無視して、夫婦のダブルベッドに腰掛け、自分のむすめ謹製の同人誌を読み始める。

 

 ─最終決戦、ネルフ本部は同じ人類の裏切りのような攻撃を受け、アスカの弐号機は奮闘むなしく白い量産型エヴァンゲリオンに凌辱されるようにして破壊される。人類補完計画は遂に発動し、最後には赤い海の波打ち寄せる浜辺でアスカとシンジの二人が横たわる。シンジはアスカを恐れるように首を絞めるが、けっきょく殺しきれない。その後、二人は男と女として交わり、傷つけあいながらも、二人だけで新世界のアダムとイヴとして生きていく…

 

 そんなストーリーだった。アスカの知っている歴史とは全く違う。ヴンダーも出て来ないし、アスカの名字も式波ではなく、漫画公式の敷浪アスカ様ですらなく、恐らくはナガナミがオリジナルで考えた「惣流」という姓に変えてある。だから、これはアタシではないアタシとシンジの物語だ。そう、アスカは思った。そして、ナガナミに間違いなく備わっている物語作りの才能を理解した。

 

(新世界のアダムとイヴ、まるでシンジとアタシね)

 

 同人誌の作者であるナガナミにとっては、父と母をモデルにした話ということになる。ナガナミはそこにどんな想いを込めたのか。

 

 たった二人だけで過ごす終末期の赤い地球で、ナガナミの創造した─想像した父と母は、小さな人生の歓びを一つ一つ見つけ出していく。

 

 道端に咲く生き残った草花を二人で住まうことにした小さなコテージの庭に移し替えたこと、道で野良猫を拾って飼い始めたこと、廃墟と化したデパートで二人の新しい服を選んだこと、記念日にレストランで食事をする真似事をしてみたこと、そして、アスカの妊娠。

 アスカはやがて、シンジとの子供である双子の女の子たちを生むことになる。

 

 その名前はナガナミとタカナミ。

 

 物語は双子を抱きながら、優しく労り合うように見つめ合うアスカとシンジの笑顔で終わる。

 

 それがナガナミの描きたかったストーリーだった。ナガナミの見たかった父と母と自分たちのストーリーだった。

 

 ◆

 

「読んだわよ、《旧世紀エヴァンゲリオン》とやらいう漫画」

 

 アスカはいきなりナガナミの部屋に入ると、机に座るナガナミの背後で、彼女のベッドに腰掛ける。同室の妹、タカナミは留守のようだ。

 

 《旧世紀エヴァンゲリオン》のラストシーンは、人類補完計画を阻止したシンジの無事帰還を待つ敷浪アスカが祈り、願いながら、星空を見上げるシーンである。二人の再会は直接的には描かれていないが、必ず再会するだろう、と誰の目にも思わせるエピローグなのだ。

 人類補完計画の阻止に成功することなど、物語の終盤はアスカたちの承知している史実と食い違う。地球を捨てて、新天地惑星ヴンダーに旅立つ人々は、その阻止成功の事実を知る前に旅立った事になっている。これは地球の人類が滅びたという事実を直視することを巧妙に避けた読者への優しい配慮なのだろう。

 

「……あんな風に綺麗な恋愛をシンジと出来たら素敵だったろうね」

「そう、《旧世紀エヴァ》を読んだの。タカナミのお節介か……年中発情期のアナタにはどうせ敷浪様のような純愛は無理でしょ」

 

 ふんっと横を向くナガナミは母アスカに対してにべもない。

 

「確かにそうね。だって、アタシ、シンジとエッチ無しだと間が持たない時があるから」

「……は?話題がない……とか、そういうこと?」

「ううん。話題とかじゃなくって。だって、シンジとお話するのは時々、……今でもドキドキして恥ずかしいから。エッチなら最初に誘う勇気だけだもの」

 

 頬をほんのり上気させたアスカはベッドの上で、スリッパをつっかけた足をブラブラさせている。ナガナミは椅子を回転させ、母に向き直る。

 

「……ふ、普通に考えて、エッチの方が恥ずかしいでしょ。てか親が娘にする話?」

「ごめん。確かにおかしいよね。……でも、エッチはただそれだけのことだから。求めて、騒いで、場を引っ掻き回して、繋がってそれで終わり。もちろん結ばれたっていう満足感はあるけど、心がどうかはなかなか分からない」

 

 アスカは両手を組み合わせて、そこに目を落とし、二つの手が結びあわされる所を見つめている。

 

「アタシにとってはエッチの方が簡単なんだ、だってそれは元々シンジとしかしないものだから、シンジにそれを求めるのは当たり前……でしょ? だからヒトだったときに、アイツにお弁当を作らせてた時のように、アタシが求めるだけで、アイツは応じる。何回も…ってねだると流石にゆうべみたいに逃げられる事はあるけどね」

 

とアスカは笑う。

 

「……エッチと違って、やっぱり好きだよって言うのは少しだけ怖い。相手の気持ちは見えないから。僕も好きだよ、って返してくれるのは分かってるけど、やりとり自体がちょっと怖いんだ」

「……別に、お父さんはアナタの事、普通に大好きでしょ。見てれば分かる。心配しすぎだ…」

「だといいんだけどね」

 

と言って、アスカは組んだ腕を上に上げて、んーんと伸びをする。ナガナミはずっと気になっていたことを訊ねる。

 

「お、おか……お母さんだって、お父さんの事が好き、なんでしょ。その……身体目当てとかじゃなくて」

「……うん。身体だけじゃなくて、その先のアイツの心がほしい……」

 

 アスカは頬を紅潮させて、素直に頷く。でも、それが難しいんだ、どうしていいのか分からない、だって、シンジとしか恋をしたことがないから─

 

「ああ─お話の中のアタシみたいに、エッチ抜きでいつでもシンジに好きだよって素直に言えたら良いのになぁ……」

 

 天井を見上げて何かを堪えるような表情だったアスカの両頬につつと、透明な水が流れる。

 

(え、泣いてるの……)

 

「シンジが恋しいよぅ……十四年間も会えなかったんだよ。いま、毎日毎晩会ってても、足りないよ。漫画を読んであの時の事を思い出して……。あの時の事を思い出してしまうと、今でも切ない……シンジがいなかった時のアタシをシンジは知らないんだもの……その想い出の中ではアタシはいつまでも独りきり……」

 

 普段とは打って変わって心細げなアスカに、ナガナミはなぜか反撥した。

 

「だったらこんな所で管巻いていないで、今すぐ会いに行きなさいよっ!」

「今は里に出掛けてる。それに」

 

と、その時だけ、ナガナミを見て、寂しげに笑った。

 

「いまシンジに会ったら余計に恥ずかしくて喋れなくなるよ」

 

 紅潮した頬にまで涙の伝う両の目を細める母の顔は、明らかに恋する乙女の顔だった。アスカの恋は成就している。しかしその切ない恋はまだ続いているのだ。

 

(かわいい……敷浪アスカ様とはぜんぜん違うけど、絶対にかわいい……) 

 

 ガタッとナガナミが椅子から立ち上がって、アスカに近づく。目を瞑って、それ以上の涙を堪えている十四歳の母、アスカはとても綺麗だった。唇が少し腫れぼったく、その薄桃色が、何かを誘っているようだった。

 

「あの、おかあ……ママ、き、き、キスしてもいい?」

 

 薄目を開けて、アスカはナガナミを見、その気持ちを何か察したのか、首を横に振った。

 

「んん……ダメ……シンジに怒られる」

「あ、あ、アタシは女だし、娘なんだからノーカンでしょ、お父さんも怒らないよ!アタシが慰めてあげる!」

 

 必死になって食い下がる。

 

(あ、アタシは何をしようとしてるんだ……相手は自分の実の母親、しかも日頃あんなに嫌っていた、お父さんをイジメる淫乱な母親なのに)

 

「……唇はシンジだけのものなの……今までシンジしか知らない場所……。だから……ほっぺかおでこなら……いいよ」

「じゃ、お、おでこで……」

「ん。いいよ」

 

 アスカが、そっとおでこを差しだし、ナガナミはそっとそこにキスをした。

 

(うわぁ……本物のアスカ……ちゃん……お母さんだけど、アタシ、キスしちゃった……)

 

 ナガナミの顔が、熱く上気している。

 

 

 ナガナミはそわそわしている。母と後ろめたい関係を結んだという程のことでもあるまいが、何か、いけない秘密が出来たような感じもしていた。

 と、同時に生まれて初めて、アスカに対して、母と娘の、同性としての連帯を感じていた。だから、アスカについ言ってしまう。

 

「せっかく結ばれたんだから、もっとお父さんに優しくしてあげればいい……」

「アタシ、シンジに優しく、してないかな」

「なんだか無理してるように見える時もあるわ……。空元気というのとも違うけど。心が欲しいなら、別にそんなにエッチエッチと言わなくてもいいと思うんだけど」

 

と、忠告するナガナミの表情と声はいつもの母に対するときより、少しだけ優しかった。

 

「まあ、アタシがエッチが好きなのは本当だよ、シトの快楽ってそれぐらいしかないしね。でもね、シンジにちゃんとアタシはアナタのことをいつでも求めてるんだよ、って知ってほしいの」

 

─アイツはいつだって自信がないのだから。

 

「もう、アイツを不安にしたり、寂しくさせたりしたくない。シンジが寂しくなくなるなら、子供だって沢山産んであげたい。だから、そのためなら、少しぐらいしつこくしてイヤがられてもいいんだ」

 

 アスカは達観したように言い切った。

 

「それでお父さんにキラわれても?」

「キラわれるのはしんどいかな。だから毎日が大変だよ。喧嘩も結構するからね。シンジを毎晩求めてあげたい。でも、その事でシンジに傷付いて欲しくはない。自分の価値はそういう事だけなんだ、とかね。そう思ってるけど、上手く出来てないのかも知れないね」

「お母さん……」

 

 なるほど、母アスカはかなり不器用な人なのだ。純愛を前面に出すと気恥ずかしい。だから、身体の事ばかりを言い立てる。身体だけでは心の保証にはならないと分かっていても、それでもなお、ルーティンとしての夫婦関係に切ない絆と希望を求めている。

 

(お父さんに誤解されなければ、いいんだけど……)

 

 自分は少なくとも少し誤解をしていた。でも、これだけ長く夫婦として続いてるのだから、父は違うのかも知れない。

 

「そうだ、勝手に借りてしまったけど、これ」

とアスカは背中に隠していたナガナミの同人誌を差し出す。

 

「これ……アタシの本。お母さん……読んだの?」

「うん……いい話だった」

 

 ナガナミが怒り出すかとアスカは思ったが、ナガナミは少し恥ずかしそうに俯いた。

 

「でも、変な話でしょ─これだけはいつも描いてる漫画の設定とは違うの。赤い海の浜辺だなんて……でもなぜかその光景が思い浮かんだの。そして、いつまでもアタシの頭から離れない」

「本当にあった話みたいだったよ。最後は心が温かくなった。ナガナミは漫画の才能があるんだね」

「才能なんて、そんなの……」

 

(あるわけがない。それでもこのジャンルにしがみついているのは……)

 

 そう思うと、心の中をまるで読まれたかのように、アスカが、その事を聞いてきた。

 

「ナガナミは、その……なんでLASという─そういうジャンルがあるんだってね─アタシとシンジの物語を書くの?自分の両親の事だから?」

「もちろん、それもある……幼い頃から、うちは放任で、それはべつにアタシたちシトには違和感のない事だったけど、漫画なんかでヒトの世界を知ったら、少し寂しくなった。特にお母さんとお父さんのお話を知ってから、余計に寂しくなった」

「もっと構ってあげればよかったわね」

 

と、アスカはナガナミの小さかった頃の姿を思い浮かべようとする。二百年以上前の事だから、既に記憶はおぼろげだ。それでも、小さかったナガナミはアスカにもシンジにも似て、可愛かった事だろう。もっと構ってあげればとは、ナガナミへの慰めの前に、アスカの小さな悔恨でもある。

 

「ううん、というよりアタシたち以上に寂しかったのは、お父さんとお母さんだよ。二人ともこんなに結ばれるべき想いを抱えた存在なのに、ずっと遠回りして。なんて哀しくて寂しいんだろう、と思ったわ。二人が結ばれない結末の話だって沢山あるの。アタシはそれがイヤだった。解釈は自由だけど、二人の娘として生まれた自分という存在を否定されるようで。そして、結ばれない世界の二人があまりにも可哀想過ぎると思って」

「ナガナミ……」

 

 ナガナミにとっては、そんな世界のありようが不思議だった。アスカとシンジ、母と父、たった二人の少女と少年を幸せにするのに、こうも迂遠な道を歩まなければならない世界とは一体何なのか。そして子供の頃から、ようやく結ばれた母と父を見ていたが、それはフィクションの世界の恋人たちとは少し違っていた。それが─そんな両親のありようが─ナガナミを不安にした。だから、父と母の物語を読んでいるだけでは満足できなくなった。ナガナミが漫画を描き始めたのはそれがきっかけだ。

 

「あのね、お母さんが世界で一番よく知ってると思うけど、エヴァンゲリオンの物語を読む人、観る人たちは、みんなお父さんが大好きになるよ。エヴァンゲリオンの物語に出てくる人たちもそう。みんな碇シンジを知ったら、大好きになる。アタシもお父さんが大好き。お母さんもそうだよね?繊細で、臆病で、自虐的で、でも優しくて、可愛らしくて。真面目で、几帳面で、頑張り屋さんで、友達思いで、最後には自分の幸せなんか差し置いて、皆を救っちゃう。全然報われないのに、皆を救う。皆から好かれる資格なんかないと思ってるのに。でも、シンジ君自身が思ってるのとは全然違って、皆が彼を好きになる。そういう人だよね、碇シンジ……アタシのお父さんで、式波アスカのダンナさんは。だから、アタシは物語の中で、大好きなお父さん(碇シンジ)を救いたいんだ。そして、お父さんを好きなお母さん(式波アスカ)も救いたい。そうすることでけっきょくは、LASの物語を書くアタシたち自身も救われたいんだ」

 

 ナガナミはいつの間にか顔を覆って泣いていた。アスカは立ち上がると、そっと椅子に座ったままのナガナミの頭を自分の胸に引き寄せた。

 

「ううう……お母さん、お母さん……」

「ありがとう、ナガナミ……もうアンタの名前、忘れないからね。素敵なアタシとシンジの物語をありがとう。アンタはアタシとシンジの素晴らしい娘だわ」

 

 

「あのさぁ、シンジ」

「え、何?」

 

 その夜だった。シーツにくるまれながら、裸と裸でアスカとシンジはひしと身を寄せ合う。

 

「アタシって、エッチ過ぎるのかな」

「い、いきなり、直球だね、どうしたの」

 

 話の脈絡が見えず、シンジは戸惑いを隠せなかった。

 

「いいから、正直に答えて」

「エッチだとは思う……でも過ぎる、なんてことはないんじゃないかな。夫婦なんだし」

「でもゆうべだってアタシから逃げ出してるくせに。子供だって二十六人もいるのよ」

 

 僕らはシトだからね─もう二百年以上夫婦続けてるし、とシンジは頭をかく。

 

「そりゃ応えられない時もあるよ、……それは、ごめん。でも子供のこととかは─正直、アスカにももう少し真剣に考えて欲しいけど─結局は二人の責任だしね」

「シンちゃんらしい優等生的回答ですこと。アタシが無理やりシンジを襲って、子供が出来ちゃった時もあったじゃん。ああいうの、トラウマにならなかった?」

「……正直、最初はちょっと腹が立ったよ、僕のこと尊重してないんじゃないかって。だって、僕の目の前で僕の下半身と浮気してるようなものじゃない?」

 

と、シンジのこの批判は辛辣だった。

 

「う、浮気……その言い方はちょっと酷くない……?」

「あ、いや、それは言い過ぎだったかな……あくまで、ものの喩えだからね」

「あのね、アタシはシンちゃん一筋なんだから。それは分かってね」

「うん……それは分かってるんだけど……」

 

 シンジにはしかし、アスカの言葉に対しても、今一自信が持てないでいる。

 

「そして、シンちゃんに上半身も下半身もないの。どっちと仲良くしてもいいの。どっちと仲良くしたいかはアタシが決めればいいんで、いちいちアンタが文句を言う筋合いじゃないの、分かった?バカシンジ」

「……僕は当人なのに、なんだかとても納得がいかないんだけど……」

「それにどっちとも同時に仲良くするという方法もあるのよ」

 

 そう言うと、アスカはちゅっとシンジにキスをする。

 

「これで、上半身の許可はオッケーでしょ?残るは……」

 

と、アスカはそこで、にやりと笑う。

 

「ええっと……」

 

 アスカが、シーツの下で、自分の足をシンジの足に絡めてきた。

 

「捕まえた」

「アスカ……」

「安心して。アタシはアンタを弄んだりはしない。こういう風に事を運ぶのは……」

 

 じっと蒼い瞳で見つめ、アスカは抱きしめた夫に向かって言った。

 

「言葉でも身体でも、アタシは碇シンジが大好きなんだ。世界で一番好き。胸を張ってそう言いたいの」

 

─これが、ナガナミへのアタシの答えだよ。

 

 

「あれから、ナガナミはどうしてる?最近見かけない事が多いけど」

 

 一週間ほどたった頃、アスカはタカナミに話し掛けた。

 

「ずっと部屋に籠もって漫画を描いてるよ。新しいインスピレーションが湧いたみたいで。これからは、漫画の敷浪アスカ様ではなく、本物の式波・アスカ・ラングレーを描きたいんだって」

「どうした風の吹き回しなのかしら」

 

 言いながら、アスカが笑ってるのを見て、タカナミもにっこり微笑む。

 

「ナガナミの反抗期は終わったんだよ、ママンのお蔭でね。幼年期の終わりだね」

「211歳とはね。……ずいぶん、粘ったものね」

「粘っただけの事はあったんじゃない?」

 

 そう言って、タカナミはナガナミの部屋の方をいつまでも優しい顔で見つめていた。

 



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外伝EX1 アスカとシンジの艶笑譚 前編

若干の性行為描写がありますので、苦手な方は回避推奨です。


 これは三年前、シンジとアスカが絶賛夫婦喧嘩中だった時の話である。

 

(やっぱりアスカに似ているな……)

 

 というのがいつ見てもシンジの脳裏に浮かぶその子の印象だ。金髪に近い髪の色や薄い肌の色、少年というよりは少女といってもいい柔和な顔付き、アスカと同じくやや垂れ目な目許。まだ三歳の少年は、パッと顔を明るくすると、見つけた両親の居るところを目指して、短い足を動かして、てけてけと歩いてくる。

 

「あら、ハナちゃんだわ」

 

 アスカもそれを見つけて、ニッコリと笑顔になる。二人の末っ子に当たる少年は、シンジとアスカの十二男、ハナヅキといった。老いることも死すこともないヒト型のシトとなった二人が、二百年以上の歳月の間に二十人以上も儲けた子供の名前を覚えるのが大変苦手なアスカであったが、流石に産んだばかり─シトの時間感覚ではついこの間─の末っ子の名前は覚えていた。

 

 彼はシンジたちを見かけると、いつも人なつっこい笑顔を浮かべ、

 

「父ちゃま……母ちゃま」

と近寄ろうとするが、多くの場合、シンジは目を逸らしてしまう。

 

「あー……ほら、お母さんに……」

 

などと見かけたアスカにバトンタッチして逃げることも度々だった。子煩悩なシンジにしては珍しい。仕方なくアスカも

 

「ほーら、ママでちゅよ、ハナちゃん」

 

と言って、子供に抱っこや頬ずりなどをしてやるから、この子に関しては二人の子供に対する接し方が逆転していた。

 

 今日もそうやって近付いてきたので、アスカはひとしきり、抱っこをしてやった後、うしろからやってきた上の子たちにハナヅキを託した。

 

「バイバーイ、ハナちゃん♪」

「バイバーイ」

 

 シンジはボーッとしてそれを見送っている。

 

「……ったく、アンタ、まだあの子(ハナちゃん)が苦手なの」

「だって、あの子は僕のじゃなくて、アスカだけの子供だから」

 

とシンジは拗ねるように俯いて言った。アスカは、シンジの肩に手を回す。今日のアスカはシンジと同じくなぜか第壱中の制服姿だった。制服姿の写真は残ってるので、アスカも気に入っているのか、それを参考にして里で縫製、奉納してもらったものだ。

 

「まーだそんな事言ってる。まるでアタシが浮気したみたいなヘンな言い方しないでよ……人聞きの悪い。アンタとの子供に決まってるじゃん。子供に罪は無いわよ」

と、アスカはシンジの頬を指でつつく。

 

「理屈ではそうだけど納得出来てない」

「シンちゃん、よっぽどあの子が出来た時のことが悔しかったのね」

 

 むろんアスカが断言したように浮気をして出来た子供などではない。れっきとしたシンジとの子供だが、シンジが同意して作った子供ではなかった。

 

「僕はずっと、もう子供は要らないって言ってたよ」

「でも、現に出来ちゃったんだからしょうがないじゃん」

「僕はずっと抵抗した」

「それなら、どうして赤ちゃんができたのかな?うふふ。……シンジ君もよっくわかってるはずだけど」

 

 アスカはニヤニヤと笑ってシンジを見る。

 

「そ、それはアスカが無理矢理……」

「あらぁ、それって威張って言うことなのかしらね?アンタ、一応男なんでしょ?」

 

 そしてシンジの耳元で小声になって、

 

「その証拠に、付くもの、付いてるんだしね。……それで、女に力づくでヤられる方がどうかしてんのよ」

「そんな言い方、ひどいじゃないか……」

 

 ふふんとアスカは鼻で笑う。といっても、シトに男女での顕著な膂力の差はないのであるが。しかしその、彼女にしてみれば他愛のないからかいと笑いにシンジは傷付いていた。

 

 シンジが避妊を要求しても、アスカは応じず、ほとんど毎日のようにシンジと強引に関係を結んだ。その結果、出来たのがハナちゃんことハナヅキだった。だからシンジには二人で作った子供という意識が薄いし、被害意識も強い。それからというもの、アスカとシンジの仲はどうもギクシャクしている。

 

「とにかく、出来ちゃったという事実を率直に受け止めなさいよ。……作るつもりのなかった子供なんて世の中には幾らでもあるんだから」

「それは避妊に失敗したとかそういう場合でしょ……アスカは僕の意見や意志を無視して、子作りしてるんだよ?僕の身体を一方的に利用して。そして、今でも毎晩そうしてる……」

 

 現在進行形で、アスカが自分独自の家族計画を勝手に推し進めていることが、このところのシンジの鬱屈の原因だった。まるで、アスカに夜の玩具にされているようで悔しかった。

 

「……それがアンタが不貞腐れ続けている理由?いい加減、機嫌直しなさい、ねっ?夜の仲良し(セックス)のアレコレは昼に持ち越さない─それがアタシたち夫婦の円満の秘訣でしょ」

 と、アスカは夫婦の間で通用する甘やかな隠語で性交を表現し、手を差し伸べるが、シンジはその手を反射的にはねのける。アスカは、はねのけられた手を信じられないものを見るように見つめている。

 

「……あのねぇ、シンちゃん。それはないんじゃないの。それが愛しい妻に対する態度?」

「……だって」

 

と、シンジは明らかに拗ねている。

 

(本当にこいつ、ガキね……ま、十四も年下だからしゃあないか)

 

 アスカは気を取り直し、俯くシンジの背中に両手を回して、ぽんぽんと背中を叩いてやる。一回り以上、年上の姉さん女房として、包容力を見せてやる時だと思った。

 もっとも端から見ていると、二人とも制服姿であることも相まって、中学生の初々しい男女カップルが抱き合ってるようにしか見えない。

 

「少しは落ち着きなさいっての。夜の生活について不満があるなら、ちゃんと夜になったら聞くから。何も昼間に喧嘩しなくってもいいでしょうに」

「夜に聞くって、どういう風に……?」

 

 シンジは上目遣いで、僅かな希望を込めてアスカを見る。

 

「そりゃもちろん、お布団の中で。ゆっくりじっくりアンタのアタシへの恨み辛み話を聞いてあげるわよ」

「そ、それじゃ、いつもの通りじゃないか。どうせそうやって優しくする振りして、すぐに仲良し(セックス)に持ち込んで、うやむやにするんだろっ」

 

 シンジにはそういう状況で、アスカに抵抗し続ける自信が全くない。アスカと結婚してからというもの、自分が夜の誘惑やら快楽にまるで抵抗力がないことを知って、自己嫌悪に陥ること、度々なのだ。

 

(そんな事になったら、いつもみたいに流されるに決まってるよ……僕はもうイヤだ)

 

「だってアンタ、そんなに昂奮して、世界で一番愛するはずのアタシに敵意と不信感をむき出しにしてるのよ。そんなの、ちゃんと仲良し(セックス)してからの方がいいって。ね、いい子だからそうしなさいって。きっと神経が高ぶってるのよ。仲良し(セックス)すれば、薄れたアタシへの愛情もまた芽生えてくる筈だから」

「……」

 

 とアスカは説得するが、シンジはアスカに抱きしめられたまま、無言でかぶりを左右に振った。

 

「はぁ、またいじけちゃってるのね。どうしたらいいんだろ、こういうの。毎晩の仲良し(セックス)のノルマをもっと増やすべきかしらね」

「な、どうしてそうなるんだよ!」

「こ、こら暴れるな」

「い、いやだ」

 

 駄々っ子のようにアスカをふりほどこうとするシンジを押さえ込みながら、アスカはさらにきつく抱きしめる。

 

「アンタがそうやってイヤイヤ子作りしてるから、夫婦仲に亀裂が走るのよ、もっとアタシの子作りに協力しなさい。受け身でいいから!」

「う、受け身なのがイヤなんだっ」

「もう一々五月蠅いわねえ」

 

アスカはシンジを抱きしめたまま口を吸った。

 

「……や、やめ……」

「うるさいっ、もっとキスしてやるっ」

 

 アスカは小鳥が餌をついばむように、何度も何度もシンジの唇を吹いたてる。

 

「今後も、あんまり、うるさいとキスをしまくるわよ」

 

 シンジはへなへなになり、力が抜けて座り込んだ。顔が真っ赤になっている。

 

「アスカ……」

「思い知った?あんまりアタシを舐めるんじゃないわよ」

「ごめん……なさい……」

「ごめんで済めば警察は要らないわよ」

 

 体を離し、ふんとアスカはそっぽを向き、夫の唾液に濡れた口元をハンカチで拭う。

 

「……でも僕は不安なんだ」

「何が?」

「たぶんこんなこと聞けば、またアスカに怒られるだろうけど……アスカにとって、僕は子作りや快楽のための道具なのかなって……」

「はあ?……ふんっ、アンタがそう思うのなら、そうなんでしょうよ」

 

 アスカは、遂に冷淡にシンジを突き放す。その蒼い瞳にはなおも、アタシを信じられないの?という想いが籠もるが、俯くだけのシンジはその瞳を見ることはない。シンジはうずくまって、下を向いた。

 

「どうしてちゃんと否定してくれないんだよ……」

「いい加減にしなさいよ。アンタあたしの夫でしょ。バカなんじゃないの」

 

 いつも自信を持って妻に向き合っていないから、こういう下らない不安を持つことになるのだ。アスカは爪を噛んで、それから、舌打ちをする。それが、シンジには決定的な拒絶のように聞こえて、先にアスカへの拒絶の言葉を吐き出してしまう。相手から拒絶するよりも、自分が拒絶した方が、まだしも傷付かないように錯覚出来るから。

 

「……アスカなんか嫌いだ」

「あー、そうですかそうですか。でも夜の義務は夫としてキチンと履行して貰うからね」

 

と、アスカは、シンジの手首を掴み腕を引っ張り上げて再び立たせると、無理やりシンジの顔を上げさせ、蒼い瞳で睨み付ける。

 

「そんなの……アスカがシたいなら……いつもみたいに無理やりすればいいでしょっ」

 

 涙混じりの声で、シンジは反論した。

 

「じゃ、遠慮なく。今晩もそうさせてもらうわ。また夜に寝室で会いましょ」

 

 冷たくそれだけ言って去ろうとするが、ふいに方向転換し、つっと近づいたアスカはシンジの頬にキスをする。

 

「待ってるからね……王子様」

「……」

 

 アスカはそっとシンジを抱きしめると、その後は無言で去っていった。

 シンジは地面を見つめて俯いたままだった。

 

 

(アイツ、何か勘違いしてるんじゃないの)

 

 アスカは山道をそぞろ歩きながら、考えている。 

 確かに自分はいつも些か強引にシンジと寝ているのかも知れない。家族計画についての夫との相談も不十分だったのかも知れない。男のプライドを傷つけるような歪な夫婦関係の結び方をしているのかも知れない。でも、シンジの事を変わりなく好きなのだ。シンジにはそれが何故分からないのだろうか。

 

 それにちっぽけな男のプライドで、ハナヅキを忌避するのも間違っている。経緯はどうあれ、自分の息子ではないか。

 

(でも……ちょっと、やり過ぎたのかな) 

 

 二人の夫婦喧嘩はこじれだすと長い。今回の喧嘩はかれこれ三、四年ほどこんな感じでいる気がする。シトのタイムスケールと考えれば、そんなものかなという感じもするが。

 

(ううん、シンジから謝ってくるならともかく、別に仲直りなんか出来なくてもいい。だって毎晩のように身体と身体は繋がれてるんだから。シンジだって、アタシの身体に溺れてるうちに、不安もなくなって、機嫌は良くなる……はず。そうやって可愛がってやれば、けっきょくは仲直りするのと同じ事よ)

 

 しかし、なぜかアスカの気持ちは収まらず、道端の小石を蹴飛ばすと、石は崖の壁面にぶつかって、コロコロとそばに転がった。

 

 

 シンジも夫婦の寝室─アスカとシンジの自室はそれしかない─の片隅に座り込み、考えている。

 

(何が王子様だよ……僕の言うことなんか聞いてもくれないくせに)

 

 そして、アスカにキスされた唇、片頬にそっと手を当てる。

 

(どうして喧嘩をしてるのに、キスなんかするんだろう。何考えてるんだよ)

 

 アスカがそうした理由がよく分からず、でもその王子様という呼び掛けの優しい響きがいつまでも耳に残っている。

 

(アスカがまた新しい子供を欲しがっているのは知っていたけど)

 

 確か男女の数の差が気になるとか、ラグビーチームがどうのこうのとか、他にも色々と言ってたっけ。シンジにはバカバカしい話に聞こえたが、それをちゃんと聞いてやらなかったのが悪かったのだろうか。

 

(でも子供を際限なく殖やすわけにはいかないよ)

 

 シトである自分たちには食料が要らないとはいえ、衣と住にはコストがかかる。大部分を里の民の奉納で賄っているとはいえ、それはヒトにとっての負担だ。土木工事や運送、配達などで、シトとしての力を貸しているが、与える量より貰っている量が多いのは事実で、それがシンジには気掛かりだった。与えるより奪う方が大きくなれば、ヒトとの軋轢は加速し、やがてこの星を出て行く日もそれだけ早まる。シンジにはまだ、ヒトの側で暮らし、ヒトと共に生きることへの未練があった。

 

(もっと里での仕事、増やさなくちゃいけないな。それに家の増築ぐらいは自分で出来るようにならないと)

 

「そうすれば……アスカの望みも叶えられる……?」

 

 だけど、夜の生活で、アスカに主導権を握られ続けているのは嫌だった。

 アスカがシンジに対して、一方的に想いをぶつけて成し遂げるという夫婦生活は─末子の子作りをアスカが一方的に始めた頃からだから、もう四年ほどそうなのではないか。

 

(こんなの、男らしくないよ……でも、アスカが男らしくさせてくれないんだ)

 

 ゆうべもそうだった。

 

 アスカがシンジの首筋を甘噛みながら言った。

 

「ね、今晩も繋がろうよ、シンジ」

「……あ、あのいいけど……ゴ、ゴムは付けてよ」

「もう無くなった。というか、キライなのよね、シンちゃんとの接触感が薄れるし……」

「だったら今晩は止めてよっ!明日、里で貰ってくるから」

「知らんぷい」

 

 アスカは全裸になって、勝手にシンジの布団の中に潜り込み、足元から徐々に頭に向かってせり上がってくる。シンジもパジャマを少しずつ脱がされ、彼の身体に擦れる柔らかな女体の丸みや凹凸に陶然となる。

 

「お願いだから、やめてっ……子供がデキたらどうするんだよっ」

「まるでシンジの方が、女の子みたい。可愛いね」

 

 シンジの服を脱がす衣擦れの音、抵抗する身じろぎ、しかし抵抗を封じる為の耳元への巧妙なる愛の囁き。

 

「シンジ、シンジ……。こんなにも愛してるのに、アタシと繋がってくれないの?とっても気持ちがいい事なのに……」

「ううっ……」

「シンジがしてくれないなら、いつものようにアタシからしちゃうよ……シンジがどうしてもイヤだったら、終わるまで目でも瞑ってるか、天井の滲みでも眺めてて……どうせすぐ終わるんだから、ね?」

 

 どうせすぐ終わるという言葉に、軽侮と揶揄を感じつつ、シンジは目を瞑る。どうしてもイヤなわけではないのだが、情けない自分を見たくない、という気持ちが先に立ち、目を瞑ってしまうのだ。

 そうして、シンジは、アスカの白い指に導かれ、源泉の入り口にあてがわれ、繋げられる。屈辱的な事に、律動さえも妻であるアスカが支配する。

 事が終わると、アスカにいいようにされた自己嫌悪でシンジは泣きたくなる。すると、何かを察したのか、シンジの上にかぶさっているアスカが頭を撫でてくれる。それで、少しシンジの心は落ち着く。でもこんなの変だと思うと、胸がざわざわしてたまらなくなる。アスカに抱きついてしがみつく。涙をこらえる。

 

「気持ちよく、なかった?」

 

 耳元で囁くアスカの声は思いのほか優しい。だからシンジは素直に横に首を振る。 

 

「気持ちは……よかった……よ」

 

 そしてその自分の台詞に情けなくなって、そのまま泣き出してしまう。

 

「ほら泣かないの、シンジ。どうしたの?」

「だって、だって、こんなの……」

「ん、こんなのって?」

「せ、せめてっ……避妊はしてよっ」

 

 涙混じりの抗議にアスカはシンジの耳たぶを噛んで、拒絶を告げる。

 

「だーめ。はむ……はむっ。シンちゃんの子供、まだ作るの。だから……二回戦、始めるわよ」

 

 もうシンジの拒絶は弱々しい。抵抗しても無駄ならアスカの好きにすればいい、と思ってしまう。そして、抵抗の如何に関わらず男の機能は反応する。アスカとの結合を遂げさせてしまう。別にそれが全然嫌ではないことが、シンジには口惜しかった。



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外伝EX2 アスカとシンジの艶笑譚 後編

今回ガッツリ、18禁描写があるので、ご注意ください。


 夜がやってきた。

 

「ただいま」

 

 アスカはシンジに声をかけると、夫と共有の寝室で、中学の制服を脱いでハンガーに吊すと、部屋着のタンクトップと短パンに着替える。

 

 部屋の片隅に体育座りで俯くシンジは無言だ。着替えの途中で下着になったアスカにも目を向けなかった。その両頬にアスカは白い手を当てる。

 

「た、だ、い、ま」

 

 閉じたシンジの心に一つ一つ楔を打ち込むようかアスカの帰宅の言葉だ。

 

「お、おかえり……」

「最愛の妻が帰ってきたんだから、抱っこしてチューぐらいしたらどうなの?」

「……え、で、でも、僕らは喧嘩してるから」

 

 アスカはそんな事は関係ないとばかりに静かに首を左右に振る。

 

「んじゃアンタ、一生喧嘩を続けるつもりで、一生アタシを無視するつもりなの?シトの一生は気が遠くなるほど長いのよ?……だから」

 

 アスカは胸に手を当てて、もう一度シンジに要求する。

 

「今すぐしなさい、抱っことチューを」

「う、うん……」

 

 シンジはアスカの剣幕に押され、妻を抱きしめた。確かに、これから千年、万年とアスカと喧嘩をするわけには行かない。

 

 といっても、シンジにはいまだに踏み込む自信がない。宝石のような蒼い瞳に見つめられると、二百年以上夫婦を続けていても、いつも不安になる。本当にアスカにそういう事をしてもいいんだろうか、こんなに綺麗なのに。僕なんかが花を手折るような事をしていいのだろうか……と。

 

「あの、いいのかな……」

「夫が妻にキスの許可なんて取らないの」

「うん……」

 

 アスカがそっと目を閉じたので、勇気を出してシンジはそっと妻の唇に自分の唇をかぶせる。あまり上手ではないキスだ。アスカはパッと目を見開く。

 

「へたくそ。全然気持ちよくならない。十四歳のキスね」

「ううっ」

「いつもエッチな事を怖がっておざなりなキスをしてるから百年経っても二百年経っても上手くならないのよ。アタシがお手本見せてあげる。ほら。目をつぶって」

「う……ん」

 

 今度は、アスカからシンジに唇をかぶせる。一回だけではなく、かぶせては離れ、かぶせては離れ……を繰り返していく。

 

「……ん……くちゅ」

「う……ううっ」

 

 やがて、アスカは、シンジの唇を舌で割り広げ、舌をくじり入れていく。

 

「ひた……はらめて……」(舌……絡めて……)

「うう……う……ん……ほお?」(うう……う……ん……こう?)

「んちゅ……れろ……れろ」

「……ひんじ……ひんじぃ」(……シンジ……シンジぃ)

「んむ……んく……んちゅ」

「あふか……あふかぁ……」(アスカ……アスカぁ……)

 

 蛇のように舌を相手の口腔内で蠢かせ、あちこちを舐める。舌と舌でユニゾンダンスを踊る。相手の唾液を啜り、舌先で相手を責め立てる。こんな淫靡なこと、シンジとしか、アスカとしか、出来ないよね……と思えば思うほど、互いの行為に熱が入り、一層のめり込んでいくのだ。

 

 お互いの唾液をたっぷり交換するキスが終わると、アスカは上気した顔で言った。

 

「やっぱり気持ちいいよね、舌を絡めるキス……」

「うん……すごかった……」

「よしよし。これが二十八歳のキスだからね」

 

 アスカは、シンジを抱きしめて、背中をぽんぽんと叩いてやる。

 

 アスカは二人が結ばれた時のそれぞれの精神年齢を強調する。その時にはもう二人はシトになっていて、肉体的年齢には意味がなくなっていた。二人の肉体はもう永遠に十四歳で、宇宙が滅びるときまで変わらない。それは少し哀しいかも知れないけど、二人が変わらずにずっと一緒に居られるのだから嬉しい事でもあった。

 

「今日はずっと家で独りだったの?元気にしてた?」

 

 シンジを抱きしめたまま、アスカは耳元で優しく夫に訊ねる。

 

 アスカの機嫌は直っているが、シンジはずっと落ち込んだままだ。フレンチ・キスの一つで、気分が戻るわけでもないようだった。

 

「うん……いちおう」

 

 シンジもアスカもシトなので、体調不良という概念は存在しない。ただ、メンタルの問題は常にあって、シンジは返答ほどには元気とは言えそうにない状態だった。

 

「寂しそうな顔ねえ。とっととお風呂に入って、仲良し(セックス)する?」

「いやだよ、そんなの。……仲良しどころか、どんどん仲が悪くなる原因じゃないか」

「そうかしらねぇ?アタシはそんな風に思ったことはないんだけど……」

 

 アスカは首を捻る。

 

仲良し(セックス)をした後は、相手とひとつになれて幸せな気分になるじゃない?シンジは違うの?」

「……前はそうだったけど」

 

 今はそうでもない、アスカに夜の主導権を握られ、とことん惨めになるだけだ、とシンジは落ち込む。

 

「うーん、ダンナさまはやっぱりアタシの身体に飽きちゃったのかな」

「あ、飽きてなんかいないよ……ただ寂しいんだ」

「毎晩、一緒に寝てるのに?」

「だって、アスカが話を聞いてくれないから」

 

 まさか、毎晩アスカに犯され、弄ばれてるから、とは言えない。そんなに屈辱的な説明は出来ない。だから「話を聞いてくれない」というのは、シンジなりの精一杯のプライドに支えられた抗議の表現だった。

 

「……あのね考えたんだけど、シンジ。休戦協定を結びましょう」

「休戦協定?」

「夜はたっぷり仲良し(セックス)、昼もたっぷり仲良しってことよ。もう喧嘩はなし」

「でも……それじゃ今までと……」

 

 全く同じじゃないか……とシンジはうなだれる。アスカはシンジから体を離し、立ち上がって言った。

 

「アンタはアタシとの夜が不満って言ってるけど、具体的には何なのよ」

「その……ちゃんと避妊をしてくれないこととか……」

「だからアタシはまだまだシンジの子供を作りたいの!絶賛子作り中なら、避妊なんてしないわよ」

 

 ─といっても、アスカは生まれた子にはあまり関心がないんじゃないか。珍しくハナちゃんは可愛がってるけどさ。

 それに現実的な問題だって沢山ある。シトに食事や睡眠は不要でも、裸で野宿する訳にはいかないからだ。それでは神様どころかケダモノと同じになってしまう。

 

「そんな事言われたって……子供がぽんぽんと出来たら服とか部屋とか色々困るよ?……アスカは何も考えてないんだろうけど。僕はその辺もちゃんと伝えて来たんだけど」

「それを何とかするのが、夫であるアンタの甲斐性じゃないの」

 

 腰に手を当てて、アスカはシンジを見下ろす。

 

「……それは、そうかもしれないけどさ。でも僕もアルバイトみたいに里の仕事を手伝ってるだけだし」

「あっそうか。アンタ考えてみたら無職なんだ!良かったね、シトで。普通だったら離婚事案だ」

 

 アスカはニヤニヤと笑って、シンジの耳元で囁くのだ。

 

「シンちゃんは無職フリーターでもアタシの旦那さん。良かったね。プーでもアタシに嫌われなくて良かったね」

 

 その言いように、さすがにシンジもムッとする。

 

「それを言うなら、アスカなんて毎日ゴロゴロしてるだけじゃないか、家事も全然しないし」

「アタシの唯一の仕事は、ずっとアンタのそばに居てあげることだよ?」

「う……まあ、それだけでも嬉しいけど」

 

 シンジはまた俯いてしまう。もしヴンダーに乗り組んだ後、アスカと和解できなくて、結局離れ離れになってしまっていたら、どんなにか今頃、寂しかったろう。……でも仕事は何かしようよ、アスカ。

 

「てか、そもそもシトじゃなくて、人間のままだったら無職で離婚とかの前に、もうとっくに死んでるよ……あれから二百年以上経ってるんだから」

 

 ミサトたちヴィレの面々もとっくに鬼籍に入っており、アスカとシンジの家族以外の知り合いは、同じエヴァパイロットであるマリ以外にはもう残っていない。

 

「そう言われれば。シトになって幸せなのかしらねえ。シンちゃんと夫婦を延々続けられて……」

「まあそうだけど、この数年は喧嘩ばかりで悲しいよ……」

「子作りはほぼ毎晩のようにしっかりヤッてるのにねえ。どうしてうまく行かないんだろうね。やれやれ……」

「だから、子作りなんて僕同意してないし、毎晩のだって殆どアスカが無理やり……」

 

 シンジは恨めしそうにアスカを見る。アスカは、それを華麗にスルーして、こほんと空咳をする。

 

「でも、避妊と言ったって、そもそも避妊具の数だって、全く足りないじゃない。里から貰える数が明らかに少ないのよ。週に二、三個じゃないの。それで足りるって思える?アンタ、毎晩少なくとも三回はするって、ちゃんと里の人に伝えてるの?」

「そ、そんな事、伝えられる訳がないじゃないか!」

「……恥ずかしいから言えないの?」

「恥ずかしいのもあるし、アスカと僕だけの秘密だから、他の人には言いたくない。そんな、頻度とか毎晩何回するかなんて、アスカと僕だけの内緒の話だよ。僕はそういうの、大切な事だと思ってるんだ」

 

 まあ、シンジにしてみれば、妻であるアスカの性的な部分を極力、人に知られたくないのだろう。そういう点では、シンジもかなりの妬きもち焼きで頑固だと言える。

 

「……気持ちは分かるけど。でも言わないと足りないままだよ?地球に居たときみたいに、ドラッグストアで気軽に買うわけには行かないんだからさ。アタシはできればナマでしたいから、別に足りなくても構わないけど」

「だからナマは駄目なんだって……」

「でも、絶対気持ちいいじゃん……シンジだってゴムつけない方が気持ちいいくせに。夫婦生活の事なんて共犯関係なんだから、全部アタシのせいにしないで欲しい、本当にイヤなら勃たないでしょ」

「……そんな一方的な……もういいよ……アスカのばか」

 

 アスカはシンジに一々言い返したりはしなかった。相手は所詮、十四も年下の子供なのだから。そして身体の成長が止まれば、魂はそうそう老成できない、そういうものらしかった。

 

「そうやって、いつまでもいじけてないで、昼間、シンジもお出掛けすれば良かったのに。お外に出ると気分も明るくなるよ?」

 

と諭すアスカは晴れやかだ。僕がいなくても愉しいんだと思うとシンジは余計に落ち込む。

 

「アスカは昼、僕を置いて行ったんじゃないか!どうせ……アスカは、夜にだけ僕が居ればいいんでしょ、僕のことなんか下半身にしか用がないんだっ!」

「またそれ?ずっーと拗ねてるけど、何の意味があるのそれ」

「じゃあアスカは、昼、独りで何してたの?僕が居なくてもそんなに楽しそうなんだから、僕なんか要らないよね?」

 

 アスカは泣き出しそうな顔をしているシンジをじっと見ていたが、やがて少しだけ拗ねた口調でそっぽを向いていった。

 

「デートの下見」

「え……」

「シンジと明日、デートしようと思ってさ。あちこち山の中を見て回ってた。いい景色も結構見つかったよ。だから明日は丸一日デートね」

「……アスカ」

 

 そして、シンジのほっぺたを引っ張ると、

 

「シンちゃん、そろそろ喧嘩はやめよ?子作りの事とか、またちゃんと話し合おう、ね?」

「で、でもどうせ、またアスカが無理やり、エッチをするんでしょ……」

 

 シンジはその事を思うと、やっぱり落ち込んでしまうのだ。自分が、男として扱われていない、軽んじられている感じがしてしまう。ゆうべだって、「どうせすぐに終わるんだから、目を瞑ってるか天井の染みでも数えてなさい」といったアスカの支配的な言い方に涙が溢れそうになってしまった。僕じゃ長持ちしないと決めてかかって小馬鹿にしてる感じだし、僕はアスカとのエッチを苦行みたいに我慢したいわけじゃないのに。アスカと愛し合いたいだけなのに。あんまりだよ、そんな言い方……。

 

 しかし、アスカは煩悶するシンジにあっけらかんと告げるのだった。

 

「別にシンジが上になりたいならそうすればいいじゃん」

「……え?」

「無理やりされる風味のプレイが気に入ったのかと思ってたから、しばらくそうしてただけよ。子作り云々とは別の話」

「ええっ」

「でも、結構好きなんでしょ、ああいうの。ベッドでの反応見てれば分かるよ」

「うう……やめてよぅ!」

 

 シンジは羞恥心に顔を赤らめ、頭を抱えてしまう。

 

「だから、レパートリーから完全排除みたいな断言はしないでおいた方がいいわよ。後で残念に思うだろうから」

「残念だなんて、そんなこと……」

 

 しかし、シンジが下を向いてモジモジしている所をみると、どうやら図星であったらしい。シンジはアスカに組み敷かれて、男らしくないセックスをする事に後ろめたさを感じつつも、その事に快楽を感じていたのだ─

 

「シンジは上になりたい?それともアタシが上になって、シンジが下になりたい?恥ずかしがらなくていいんだよ。夫婦だけの秘密だからね。シンジがしたいほうでしてあげる」

「それは……」

「たまには素直になりなよ、シンジ。今晩の夜のメニューはどうしたい?」

 

 シンジは耳まで赤くして、俯いて、ぼそりと言った。

 

「……僕が下でも、いい……アスカがそれでバカにしたりしないなら、だけど」

「うん、分かったよ。また、アタシが上になってシてあげるね。もちろん、そんなんで、バカになんかするわけない。安心してアタシにリードされればいいよ。なにせアタシは十四も姉さん女房なんだから」

「あ、アスカ……」

「さ。let's go to bedよ♡」

 

 

「本当に、こんなアスカに任せるみたいに、エッチ……していいの……かな……ちっとも男らしくないし……」

 

 ベッドの上、アスカがシンジの身体の上にまたがり、顔を見合わせて、対面騎乗位で繋がろうとする体勢だ。シンジはずっといだき続けている、受け身のセックスへの罪悪感から解放されていない。

 

「元々、男らしさなんて、あんたに欠片も期待してないわよっ……っと、アタシのパンツを脱いで……と……シンジのパンツも脱がせるわね♪ あ、ゴムはもうないから今週、避妊は諦めてね」

「うん……しょうがない……ね」

 

 シンジは視線を反らし、目を伏せた。アスカは、シンジの下着を脱がせながら、言った。

 

「赤ちゃんは、授かり物だからさっ……」

 

 プルンと剥き出しにしたシンジのものに、白い指を添えて、アスカはそれに上下動で芯を与えていく。

 

「アタシもそこまでがっついて、赤ちゃん作ってるつもりはないんだ♡」

 

 アスカの手の動きにより、シンジのものにある程度、芯が通り始めて硬くなると、アスカはその上に自分の女の部分を押し付け、擦り始める。その前後動がシンジをより硬くするだけでなく、アスカ自身を交合に向けた準備として、次第に潤ませていく。

 

「ただ、ゴムも足りないしっ、ンンッ♡」

 

 アスカの陰核が、シンジの身体に擦れると、アスカの唇の間から艶めかしい吐息が漏れる。

 

「ナマでヤる♡のも、すごく気持ちいいから……アタシもシンジの身体で遊ぶときは、子作り覚悟でヤッてるってこと!」

「……僕の身体で遊ぶ、ってそんな言い方……」

 

 少ししゅんとしてしまうシンジの頬に、アスカは手をやって撫でてやる。

 

「蓮っ葉な言い方よねっ……だけどっ……夫のあんたとしか遊ばないんだからっ、許してよっ。こういうのも燃えるでしょっ♡」

「うん……でも、あの……『どうせ早く終わる』とかそういう言い方は……やめて……っ。地味に傷つくよっ……情けなくて……泣きたくなるよっ……アスカに対しても……早くてごめんって……申し訳ない……気持ちになるよっ」

 

 涙をこらえながら、シンジの息もだんだんと荒くなってくる。

 

「ああ……あンンッ……ゴメンね。シンジが、夜の行為自体を少し嫌がってるというか、怖がってる感じだったから……ちょっとの我慢だよ、痛くないからね、すぐ終わるから♡、みたいなノリで言ってしまっただけ……なのよ。別にシンジが早漏とか♡……そういう揶揄じゃなかったの……」

 

 と答えを聞いてみれば、シンジのいじけていた理由の一つが杞憂だったと分かり、彼はちょっとホッとする。

 

「でもそれじゃ……アスカから見た僕は、まるで注射を撃たれるのを怖がってる子供みたいじゃ……ないか」

「はん。なにを……言ってるんだか、アァン。注射を撃たれるのはあんたでなくて、アタシでしょうが……♡」

「えっ……」

「いくわよっ、旦那さまっ。お注射貰うからねッ♡ それで今晩も、一つになるからねッ♡ アタシたち二人の愛を確かめるんだからねッ♡」

 

 もうすっかり硬くなったシンジの肉の注射器が、アスカの指による導きで、遂に彼女の肉の鞘にズプリズプリ……と飲み込まれていく。

 

「ううっ……うっ……ああっ、僕のが締め付けられて……溶けてなくなっちゃいそう……」

 

 温かなアスカの空隙の中に彼女自身によって優しく導かれ、埋められた自分自身が、みちみちと締め付けられて、シンジは気を抜くとあっと言う間に自失してしまいそうになる。でも、簡単にイってしまえない。また情けない姿を晒したくない、アスカには少しでも自分をマシな男だと思ってもらいたいのだ。

 

 しかし、そんなシンジの必死な我慢をよそに、アスカのヒップが、前後にグラインドし始める。そして、やがてそれは円運動に移行し、次に上下に、パンッ、パンッと乾いた音を立てて、シンジの腹に打ち付けられるようになる。

 

「ああっ、いいっ。いいよっ♡ シンジのロンギヌスの槍……気持ちいいよっ♡ こんな事、初めから……気持ちよかった訳じゃない、シンジがオボコだったアタシを二百年掛けて開発したんだからねっ♡……エッチなオンナにした責任、取ってよね♡」

 

 口の端っこから涎を垂らしながら、アスカが快美感に喘ぐ。薄桃色の快楽の雲霞の中に漂いながら、彼女は自らの男の名前を舌足らずに叫ぶ。

 

「アハッ♡、シンジっ……シンジぃ、シンジのおち×ちんっ♡」

「ううっ……ごめん、責任はとるからっ、あんまり揺さぶらないでっ……すぐ漏らしちゃいそうだからっ……」

「シンジっ、これからもシンジ受け身で子作りしよっ、隕石大当たりで赤ちゃん出来ちゃう、子作りインパクトよっ♡」

 

 もうシンジにはそれ以上保たなかった。

 

「アスカっ……もう出ちゃうよっ……!」

「全部、中にぶちまけなさいよッ!アタシに二人の愛の証を頂戴ッ♡」

 

 アアアアッ!!イクッ!!

 

 こうして、アスカの中に放出が終わると、アスカは一挙にくずおれ、シンジの胸の中にしなだれかかる。シンジは脱力しつつも、アスカのからだをゆっくりと両手で抱き留めるのだった。

 

「……バカシンジ」

「アスカ……」

「アタシ、シンジ……の事が可愛くて堪らない。アタシを愛してくれてありがとう。シンジにはもう少し優しくするね。でも、シンジにはアタシの愛を信じて欲しい。あんたを夜の玩具になんかしていない。アタシは不器用かも知れないけど、シンジの妻だよ。結婚式の日に誓った想いは何も変わってない。二百年ぽっちで変わるはずがない」

「ごめん、ごめんよ……アスカに駄々ばかりこねて……一方通行に想わせて、寂しい想いをさせてごめんよ……」

 

 シンジはそう言って、腕の中のアスカの長い金髪を梳くように撫でつけるのだった。

 

 

 翌朝、アスカとシンジはまた壱中の制服姿で庭に立っていた。沢山の子供たちが、朝の訪れと共に庭に出てきて遊び始める。秩序だった幼稚園や小学校という雰囲気だ。

 

「父ちゃま、父ちゃま……」

 

 末っ子のハナヅキがシンジに向かって笑顔でトタトタと近付いてくる。

 

「ハナちゃん……」

 

 シンジが恐る恐る、ハナヅキを抱き上げると、キャッキャッという笑いが起こる。シンジも安心した顔で、息子を見つめた。

 

 アスカはニッコリした。

 

「ほら、アンタとハナヅキ、目鼻立ちがそっくりだわ」

「……うん」

「ちゃんとパパしてくれないとね」

 

 アスカは、シンジの腕の中のハナヅキを見て、父親であるシンジとの組み合わせに、目を細める。

 

「僕がハナヅキから逃げてたの、アスカに対して劣等感があったからなんだ」

「知ってるわよ。男として自信が持てなかったんだよね。この子が、アタシとシンジの愛で生まれた子なのか。それとも、単なるアタシに押し付けられた欲望の結果なのか。シンジはいつだって自信がないから」

「まあ……そうなんだろう……ね」

 

 シンジが気恥ずかしそうに俯いた。

 

「ふふ、バカみたい」

「え?」

「アンタとアタシが毎晩していることに愛が入ってない訳がないじゃない。やっぱりバカシンジはバカシンジね」

「……アスカと僕、まだちゃんと愛があるかな」

「あるに決まってる。アタシたちは無限の寿命を持つシトなんだから、二百年なんてまだまだ新婚ホヤホヤよ。十万年後に倦怠期になったらまた考えようよ」

 

 ゆうべも、またアスカに抱かれた。激しい交わりだった……でも、別にシンジが下になっていても、それほどコンプレックスを刺激されたりはしなかった。アスカが言うように愛があり……愛されているという実感があったからかも知れない。身体だけを玩具にされているというのが、誤解だと分かったからだろう。

 

「十万年か……先は長いなあ」

「その頃には一万人ぐらいは、アタシたちの子供がいるかもネ」

「アスカ……やっぱり、真剣に家族計画を考えようよ」

 

 シンジは狼狽えた顔で訴えた。一万人は流石にマズいよ……!

 

「いいけど、今はだめよ」

「……えっ、いつだったらいいのさ」

「そんなもの、決まってる」

 

 含羞に頬を染めながら、アスカはシンジに向かって振り向いた。

 

「家族計画を考えるのは、夜にお布団の中で、だよ♡」

 

 アスカはシンジの鼻をちょんとつついてから、ふわりと空中に浮かび上がった。

 

「アスカ……」

 

 シンジは、壱中の制服姿で空中に大きく手を広げたアスカを眩しそうに見上げる。

 

 浮かんでいるアスカが背中に背負う空は絶好のデート日和とばかりに晴れ上がっている。惑星ヴンダーの空の片隅に、今は衛星となっているAAAヴンダーが太陽の光を反射して、キラリと輝いた。



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外伝5話 アスカとシンジの眠り姫 前編

 新世紀43年。すなわち人類補完計画発動から43年。人類はその虎口を逃れ、新天地の太陽系外惑星Ross128bへと移住の旅を続けていたが、この年、遂に、目的の系外惑星へと到着した。

 

 移住船たる恒星間航行船AAAヴンダーの船室の一つ……家族用に割り当てられた一室で、小さく声が上がった。

 

「そろそろ、起きようか……」

「そうねぇ……」

 

 不老不眠のシトであるシンジとアスカは、どうせ寝ていないし、そもそも眠くもならないが、時計を見ると朝の7時なので、もぞもぞと寝床から起き始める。

 

「シンジ、あたしのパンツが行方不明。捜して」

「えっ、どこに脱いだの」

「たぶん、シーツの中だと思うけど」

「ああ、そっかぁ……どの辺だろ」

「見つけたら、あんたにあげる」

「い、いや、要らないよ」

「ひとりエッチのおかずとかにすればいいじゃん」

「しないよ。したくなったら、アスカとするし」

「ま、それもそうか」

 

などと騒いでいると、カーテンで仕切っただけの部屋の一画から、小さな七、八歳ほどの少女顔を出した。

 

「とと、かか、ユウグモ起きた」

 

 とととは、もちろん、父親であるシンジ。

 かかとは、もちろん、母親であるアスカを指す。

 

 アスカとシンジの長女。今のところ、二人の間に生まれた一粒種だ。名前は名乗ったとおり、ユウグモという。人類補完計画の発動年からカウントする新世紀35年生まれ、八歳。

 

「あ、あら、起きたの、ユウちゃん……ほら、シンジ早くあたしのパンツパンツ」

「えっと……どこだろう、ないよアスカ」

「ったく使えないわねっ!グズノロマ!」

「お、怒るなよっ、自分が脱ぎ散らかしたんだろ!」

 

 そこにユウグモがとてとて近付いてくる。手にはお気に入りの赤いハンドパペットを抱えて。これは母親のアスカ譲りのもので、もうあたしには要らないからと、ユウグモにあげたのだった。

 

「ユウグモ、起きたけど、全然眠くなかった。寝るの意味いつも分からない」

「ああ、そうだよね。うん、お父さんとお母さんも眠くないよ。でも人間はみんな夜に寝るんだ。だから、僕たちも合わせて静かにしていようね」

「あ、パンツあったあった」

「もうさっきからうるさいな……アスカは……」

 

 シンジは眉を顰める。最近のアスカはそれが地だったのか、ちょっとがさつで、いささかえっちになりつつある。

 

「ねぇ、とと、かか」

「ん?なんだい、ユウグモ」

「カツラギミサト。逢いたい」

「え?ミサトに?ミサトおばあちゃんに逢いたいの、ユウちゃん。でもすぐに会えるかな、ミサトは一応この船で一番えらい人なのよ?」

 

 それに最近は体調が思わしくなく、床に伏せている時間も多いと聞いていた。無理もない、ミサトは確か今年で85歳になる。ただの85歳ではない、激闘続きの軍人として生きてのその年齢だ。

 

「今日、逢わないと絶対ダメ。明日じゃ間に合わない」

「ねえ、シンジこれって」

「……うん、また何か予知したのかも知れない」

 

 前にも度々そういう事はあった。ユウグモが何か騒いで急がせると、その時に相手に事件があったりして、未然に防げる事もあった。

 

「とりあえず、ブリッジクルー経由で連絡してみるわ」

 

 

 すっかり白髪になった髪をアップにまとめ、寝間着のままベッドから身を起こして、ミサトは微笑んだ。枯れ木のように痩せている。血色も悪い。しかし眼だけは輝いていて、最期の最期まで生きる力を振り絞るようだった。彼女の生き様がこの老境にも表れているようだった。

 

「久しぶりねえ。二人とも変わらない……わね」

 

 見た目が十四のまま変わらない二人を見るたびに、ミサトは羨ましいような、申し訳ないような気分になる。ただ、二人が揃って一緒にいて、明るく愉しげなのは救いだった。

 

「ミサトさんもお元気そうで何よりです」

「はは、もうすっかりしょぼくれたおばあちゃんよ」

「まぁ確かにあたしたちよりは老けてるけど、それは最初からじゃない。おばあちゃんってよりはおばちゃんよ」

 

 アスカは彼女らしい回りくどいひねくれた言い方で、ミサトを励ました。

 

「ありがとう、アスカ。ユウグモちゃん、久しぶりだね、元気してた?ミサトばあばだよ?……大きくなったわね」

 

 アスカが腕に抱っこしている長女のユウグモ(彼女もまたハンドパペットを抱っこしている)にミサトは顔を近づけて声を掛ける。

 前に会ったのは一年前ぐらいだったか。シトも幼い頃は人間同様に成長し、個体差があるが、ある年代で成長が止まる。ユウグモはまだ成長していた。

 

「うん、ユウグモ元気してた。でも人間みたいに夜寝れないの。ゆうべもずっと、とと、と、かかのお話しするの聞いてた。途中から、二人ともなんか苦しそうな声も上げてた」

「ちょっ!バカ!何を言ってるのよ!」

 

 アスカは顔を真っ赤にした。カーテンの薄布では防げない艶めかしい行為の声は、睡眠を取ることのない娘には筒抜けだったのだ。

 ミサトもそれとなく察して、フォローする。

 

「ま、まあ、仲が良さそうなのは良いことよ。あれから、四十年以上が経ってるんだものねえ。あなたたちなら、まだ新婚サン気分ね」

「子供はあれこれ悩んでしまって、少し遅くなったんですけど」

 

と、シンジは答える。

 

 どうもシトになってからはタイムスケールが狂ってしまい、無限の時間に対して、十年二十年は僅かな期間という気がしてしまうのだ。グズグズしていた訳ではないが、子供を作る決断をしたのは、ようやく十年ほど前。地球を出発してから三十年以上が経過していた。

 

 ミサトは船長室の天井、宇宙船の船殻に直接はめ込まれた、対放射線加工を施した鉛ガラス越しに、外の風景を見る。夜闇の孤独な深淵を圧するように巨大な岩石惑星が迫っている。

 

「もし世界に時間の経過を示す手がかりが何もなくなったとしても、子供たちの成長を見れば、我々は時間の経過を知ることが出来る」

 

 葛城ミサトがそう言ったとき、脳裏に浮かべているのは、もちろん、己の一人息子であり、恋人加持の忘れ形見である加持リョウジだろう。彼ももう六十に近い年齢の筈だ。

 

「四十三年の月日を掛けて、我々はようやく目的地に到着した。生きている間に、こうして肉眼でRoss128bが見れて良かったわ。残念なのは、やはりテラフォーミング無しではあの星には住めないということ」

「それは、約束どおり僕とアスカで引き受けますから」

「また、あなたたちにつらい想いをさせる日々が始まるわね」

 

 二人は重機として再建造された、F型エヴァに乗って、数ヶ月後には、惑星環境改造のために、惑星に降下する事になっている。今はその最終準備作業中だ。

 

「やーね、ミサト。あたしたちは見た目はそうは見えないだろうけど、もう大人よ。子供だっている。大人が人生に苦労するのは当たり前だわ。子供たちの未来のためでもあるんだから」

 

 アスカはあの星で、ヒトの子らと自分たちシトの子らが同じテーブルに肩を並べる日を夢見ている。マーティン・ルーサー・キングJr.牧師の語った夢─かつての奴隷主の子孫と、奴隷の子孫が共に兄弟愛のテーブルを囲む─は、アスカたちにとっても夢だった。もっともシトである自分たちには食卓を囲むことは出来ないけれど。

 

「あたしとシンジは、ユウグモをあの星の大地に立たせてやりたいの」

「必ず来るであろうその日を直接、この目で見れないのだけが残念ね……」

 

 ミサトはもう自分には時間がない事を知っている。

 すると、アスカの腕の中から身体を乗り出し近づけてきたユウグモがミサトの指をそっと握った。そして、静かに目を瞑って、何かを暗闇の中に見通すように眉を顰めた。

 再び目を見開くと、静かに託宣を告げるように言った。

 

「……ユウグモ、知ってる。ミサトの子供の孫孫孫……ずっと後の子供が、あの星に降り立つのを」

「あ、あのミサトさん……ユウグモには不思議な能力があって、予知夢みたいなのが見れるみたいなんです。シトの力なのか。本当に全部当たるのかどうかは分からないけど」

 

 シンジが突然の娘の行動を補足、釈明するように言った。

 

「そう。それじゃリョウジの子孫が……あたしと加持の命の流れはちゃんと続くのね」

 

 ミサトはあっさり、ユウグモの能力と言葉を信じたようだった。

 

「……リョウジとは全然会ってないわけ?」

 

 アスカが尋ねた。

 シンジとアスカはとある出来事で、艦内でミサトの息子リョウジと知り合い、友人になっていた。もちろん、ミサトと実は親子であるという関係を彼に告げるようなことはしていない。リョウジは今でも艦長のミサトが自分の母親だとは知らない筈だった。

 

「ずっと会わずに済ませるつもりだった。でもこの間、一度だけ会ったの。もちろん、親とは名乗らずによ」

「そうなんですか……」

「そして、今日この後、もう一度会う予定になっているの。そろそろ最期かも知れないしね。やっぱりそう思ったら未練が残るのよ」

「そんな!まだまだ元気じゃ……」

「ううん、いいのよ、最近は病気もしたし、年齢以上に老いてる気がする。宇宙放射線の影響かもね、なんちゃって」

「そんな……ミサトさんは心労も大きかったから」

 

 船内での叛乱騒動も数回あり、ミサトは卓越した指導力でそれを阻止していた。アスカやシンジも、その金剛不壊の身体を生かして、ミサトの護衛を務めたことがあった。

 

「でも私はリョウジに会えなくても、シンジ君とアスカにはしょっちゅう会えていたから救われていたわよ。今さらだけど、あなたたちのこと、自分の本当の子供みたいに感じている部分もあった。もちろん、親という程の事は何もしてあげられない、それどころか過酷な運命を背負わせてしまっただけだったけど」

 

 その言葉にアスカは首を振って、否定する。

 

「ミサトと三人で暮らした日々、今でも思い出すわ。あたしとシンジが家庭を持ってから、あの時はミサトはどんな風にしてたかなって思い出しながら、試行錯誤することもある。ね、シンジ?」

 

「うん、僕らにはあれが初めての人間らしい家族の形だったから。僕らにはちゃんとした親がいなくて、ミサトさんが初めて家族の温かさを教えてくれた。赤の他人の僕らにそこまでする必要もなかったのに、僕らを自分の子供のように育ててくれた」

 

「その子供たち二人が、もう赤の他人ではなくなって子供まで連れて、会いに来てくれる。それも一番会いたい、人生のおそらく最期の頃合いにね……私の人生は、もう十分に報われているわ」

 

「ミサトさん……」

「ミサト……」

 

 シンジとアスカはミサトを前にして泣きたくても泣けなかった。だって、泣いてしまったら、ミサトが人生の終焉を迎えようとしているのを認めてしまうことになるような気がして。それが─ミサトの命数が限られていること、人は誰でも死ぬという人のことわりが─悔しかった。シトは真空崩壊以外で死ぬことはない。永遠ならざる人生を歩むヒトを羨ましく思うこともあったが、こうして人生の終焉間際に立ち会い、悲しみをこらえていると、ヒトの知り合いたちをみんな同じシトに引き入れてしまいたくなるのだった。

 

 でも、それはシンジとアスカが勝手に押し付ける幸せだ。人間の生は限られているから、美しい。やり遂げて安らぎの眠りに就くことが出来る。シンジとアスカにそのような意味での安らぎはなかった。

 

 ミサトはもう一度、天窓を見上げた。

 

「ねぇ、シンジ君。あの星に、名前を付けてくれないかしら。あの星は人類の新天地になる星だわ……素敵な名前を付けて、私はそれを知っておいて……逝きたい……」

「それなら、名前はもう決まってる気がします。ね、アスカ?」

「ああ、当然……アレよね?」

「え?アスカ、シンジ君?」

 

 きょとんとしたミサトは交互に二人を見つめるが、アスカとシンジは声を揃えて綺麗なドイツ語の発音で言った。シンジはアスカに教えてもらって、今ではドイツ語もかなり流暢になっている。

 

「「Wunder!」」

 

 そして、シンジは静かに説明を続ける。

 

「テラフォーミングしなくちゃいけないとはいえ、人類がまたもう一つの新天地を見つけられるなんて奇跡ですよ。そしてヴィレの主要メンバーや僕らの友達がみんな揃って欠けることなく、新天地にたどり着いた、こんなに嬉しいことはない。だからこれは奇跡なんです」

 

「ヴンダーか。AAAヴンダーから惑星ヴンダーへ。いいわね。これ、明日、あなたたちの発案ということで発表してもいいかしら」

 

「それはダメよ、ミサト」

 

「うんダメだよね、アスカ」

 

 シンジとアスカは顔を見合わせて微笑む。なんなら、アスカの両手がユウグモの抱っこで塞がっていなければ、手のひらと手のひらをすぐパチンと打ち合わせそうな勢いだった。シンジが二人の考えを代表してミサトに伝える。

 

「あの星は、もうあなたたち、人類のものなんです。テラフォーミングは手伝いますけど、僕らシトのものじゃない。だから名付けるのはミサトさんでなくちゃいけない、分かりますよね?……あなたたち人類こそ、あの星を継ぐもの(Inherit the Stars)なんだ」

 

 人類をあなたたちと二人称でよばなくてはいけないことは寂しくつらいことだ。かつては自分もアスカもその一員だったのだから。でも、僕らはまだ人類の手助けが出来る。生き続けて、彼らへの償いが出来る。

 

「……確かにその通りね。これは負うた子に教えられたわ。じゃ、遠慮なくあなたたちのアイデア、無断拝借させてもらう」

 

 惑星ヴンダーの名前は明日、艦長葛城ミサト。僅かに生き残った全人類の代表者たる彼女の名前で、彼女の発案として発表されるだろう。シトであるシンジやアスカの名前は、歴史の教科書には残らない。人類にはシトとの戦いの勝利者として自らを誇る必要がある。シトはゆっくりと歴史と伝説と神話の中に消えていけばいい。それでいいと思う。

 

「シンジ君、アスカ。あなたたち、本当に大人になったわね」

 

「うちの旦那さま、素敵でしょ?十四年の隔たりで、ガキだとか言って見捨てなくて本当に良かった。もちろん、シンジなんだから、あたしが付いてなくちゃ、まだまだ頼りはないけれどね」

 

「アスカには毎日助けられてるよ」

 

 ミサトが二人を眺めて目を細める。自分にも加持とのこんな生活があり得た、そう思うと、古傷が少し傷む。その寂しい目に、シンジは少し躊躇いながら、声を掛けた。

 

「あの、ミサトさん……ニアサーのこと、今さらですがすみませんでした。加持さんのこと、ずっと申し訳なくて……でも何を言っても、償いにもならず、余りにも軽い気がして、ずっと言えませんでした」

 

「うん、正直言えば、ニアサーで家族や恋人を失った、残されたものはみんなシンジ君には多かれ少なかれ恨み節はあると思う。でも、シンジ君があれを予見できた訳ではないし、結局は誰かが苦しんでしまうものだったのよ……加持はそこで己の信念に殉じた、私はそれを今でも誇りに思っている。アスカとシンジ君だって、ちゃんと犠牲は払っていて、ヒトをやめざるを得なくなった。私たちの世界は本当に残酷ね」

 

「こいつ、結婚後も、いっつも悩んでてさ。第三村の区画に土下座に行ったりしたこともあったの」

 

「そう……」

 

 ミサトはその光景を想像して痛ましさを感じる。

 

「でも、鈴原や相田に止められてさ。頭を下げるなら、お前を生かしておいて良かったと思えるぐらい、みんなの役に立て、そして式波と幸せになるんや、って。それから、シンジは二人の助手をやったり、リョウジと知り合って意気投合したり、あたしも紹介してもらって、みんなで仕事したり、楽しかったわ」

 

「うん……みんなとはもう年齢が隔っていて、最初は馴染めるか心配だったけど、やっぱり同級生だな、って」

 

 重機としてのエヴァというアイデアも、そんな元級友たちとの交流で発案されたものだった。シンジがテラフォーミングの話をし、皆で隘路や困難のポイントを抽出し、解決策として衆知を集めたのがこのエヴァだった。

 

「エヴァを土木作業に使うというのは、軍事的に素人でないと出て来なかったかも知れない。元軍人のあたしには思いつかなかった。シンジとシンジの友達たちがいなければ、解決出来なかった。職業軍人は往々にして、素人に遅れを取る事があるものよね」

 

 そう語るアスカには、もう背伸びした自負心や他者を見下す見せかけの自尊心は無かった。シンジや旧友たちを対等の人間として、時には自分を負かし、あるいは助けてくれる存在として認めている。

 

 友達と共同してアイデアを練り上げることが出来たシンジ。友達の能力を素直に認める事が出来るようになったアスカ。四十三年の月日は、二人の見た目はそのままに、二人の中身を大人に変えていた。

 

「アスカ、シンジ君。私は今、本当に嬉しいわ。わかる?どうして嬉しいのか」

 

 ミサトは一生懸命、涙をこらえている。

 

「エヴァに乗せて、あなたたちを苦しめてごめんなさい。あなたたちの人生をもしかしたら滅茶苦茶にしたんじゃないかと悔いていた。人類存続のために犠牲が必要だとしても、あなたたちは加持のような、大人じゃなかった。そんなことを強いていい筈が無かった」

 

「ミサトさん……」

 

「ミサトは気にしすぎよ、あたしもシンジも適当に楽しくやってる」

 

「だとしても、あなたたちがちゃんとした大人になってなかったら、私は悔やんでも悔やみきれなかった。でも、今私は安堵してる。二人はちゃんと大人になった。本当に良かったと思っている。ありがとう、そして、おめでとう」

 

「ミサト。なぜ泣く。人間だから、どこか痛いのか?」

 

 アスカの腕の中のユウグモが言った。

 痛いという概念はシトにとっては永遠の謎だ。痛覚がないからだ。習い覚えたばかりのよく分からない概念をユウグモは口にしてみる。

 

「……そうね、心が痛いのかも知れない。昔、私はあなたのお父さんお母さんにひどいことをしたから……だから今、痛くて泣くのかも」

 

 しかし、アスカとシンジが否定するまでもなく、ユウグモは首を左右に振った。

 

「ミサト、そんなことしない。いつも、ユウグモに会うとき、遊んでくれるおばあちゃん。前は本当のおばあちゃんだと思ってた。おばあちゃんは、とととかか、にそんな事しない」

 

 その言葉に堪えきれず、ミサトはわっと泣き出してしまう。ユウグモに抱きついて、頭を撫でる。

 

「ユウグモちゃん、ユウグモ……ありがとう、ありがとう……」

「ミサト、目からしょっぱいの。涙。シトでも涙は出るよ。ユウグモたち、痛いのないから、嬉しいとき、涙出る。ミサトも嬉しいのか?」

「もちろん!もちろん、嬉しいの。こんなに可愛い孫が出来て。私の人生は幸せだった。必死に生きてきて良かった……!」

 

 シンジもアスカもそれを見ながら、それまでずっと我慢してきた涙で遂に、視界を曇らせている。

 

 

「やっぱり、ミサトさんは……」

「ユウグモの予言が、明日じゃ間に合わないというのなら、そうかもしれないわね……」

 

 もちろん、二人は心配して、医官のサクラ(今ではトップクラスの地位を占めている)に事情を説明して、不寝番の看病を頼んでいる。

 

 しかし、運命というのは、そういう事では変えられないもののようだった。

 

 葛城ミサトの容態が急変したのはその夜のことだった。



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外伝6話 アスカとシンジの眠り姫 後編

 アスカとシンジの二人が呼び出され、娘のユウグモを連れて船長室に駆けつけた時には、すでに寝台に横たわるミサトの顔の上には、白い布が被せられていた。

 

「……ミサトさん」

「ミサト」

 

 二人は茫然として立ちすくむ。葛城ミサトは二人にとって初めて出来た家族だった。血を分けていなくても、彼女はシンジとアスカを家族として、人間らしく扱ってくれた。碇ゲンドウなどは最後までシンジをそう扱わなかったのに。

 

「どうしてよ……ミサト、昨日は元気だったじゃない!……なんでなのよっ」

 

 アスカの拳が部屋の壁を打ち付ける。シトの拳には何の痛みも感じない。ヴンダー艦上で十四年振りに救出したシンジに再会して、ガラスの隔離壁を殴ったときと同じだ。その感じない痛みは、消え去る訳ではなく、心の痛みに変換されている。それが、シトであるアスカたちが唯一感じる痛みだから。心の痛みがある以上は、彼らはヒトではなくとも人間だった。

 

 ユウグモの予知能力で、ミサトの最悪の可能性は認識していた。しかし、それでもまさかそんな事にはなるまい……と信じたい気持ちだったし、いざその死に直面するとアスカは動揺を隠せなかった。肉親のいない式波・アスカ・ラングレーにとって、ミサトの死は、初めての近しいものの死と言えた。

 

 そして、アスカは恐ろしい可能性に思い至る。

 

「まさか、昨日あたしたち家族が押し掛けたから、その負担で……」

 

 隅に居た医官の鈴原サクラ──名字は変わっていた気がするが──が、椅子から立ち上がった。彼女も今や六十五歳、髪はすっかり白くなっている。艦内ではなかなかの名医として知られていた。

 

「そないな事、関係ありません。大往生でしたわ。そんなに苦しんだ訳でもなかった……それが救いです」

 

 サクラには医師として無数の死に立ち会ってきた人間独特の平坦な感情と諦観があった。

 

「でも、だって昨日の今日でっ……どうしてよ……」

「本当はこういうの家族にしか伝えてはいけないんですが、お二人は艦長のご家族と同じ──でしたから……聞きたい事があればお答えします」

「……何の病気だったの」

「病気とちがいます。……寿命、ですわ。これまで己の使命──人類への責務を果たさんと気力だけで踏みとどまってきた命の蝋燭がついに燃え尽きた。だから皆さんが昨日訪ねてとか関係ありません。むしろ生きている間に会えてよかったんです」

「……だけどっ」

 

 それがアスカには単なる慰めに思えて、素直に頷くことは出来ない。

 

「さぞやお力落としかとは思います。でも哀しくても嘆かんであげてください。みんな順繰りですわ。艦長の世代の次は、ヴンダーでブリッジオペレーターだった皆さんの世代、次はうちのお兄ちゃんたち、そしてうちら……そうやって、子供たちに席を空け、道を譲るんです」

「でも、あたしたちは……」

 

 アスカはすっかり肩を落としている。アスカたちはその世代間の席の譲り合いとはもう一切関係ない位置にいる。アスカとシンジはもう命に限りのあるヒトではないのだから。

 

「ありがとうございます、看取ってくださって……サクラさん、ミサトさんは何か言ってましたか」

 

 今までずっと押し黙りミサトを哀しい目で見つめていたシンジが──ユウグモと手を繋いだまま──サクラに顔を向けた。トウジの妹であるサクラの方が当然、年下なのだが、シンジには初対面の時から彼女が年上に見えている。だから「さん付け」が自然だった。

 

「いや……遺書のたぐいは法務部に前から預けてたらしいですし、意識も混濁してて、今際の際に私ごときに何かを言うことはなかったですわ……ただ、最期には加持、リョウジと……」

「……そうですか」

 

 加持リョウジ。それはミサトの元恋人の名前であると同時に彼女が加持との間に()した彼の忘れ形見の名前でもある。ミサトは息子リョウジにその亡父の名前を付け、自分は母親と名乗ることもなく、遠くから見守るだけだった。新しい恋人を作るでもなく、時折、激務の合間にそっと机の中に忍ばせていた二葉の写真を眺めるだけだった。

 

 だけれども、いや、だからこそ──その最期にはやはり彼女の心にあったのは恋人である加持、息子であるリョウジ、その何れかの存在、いや恐らくはその両方の存在だったのに違いない。

 

 ミサトと加持とその息子、あり得たかも知れない三人家族のささやかな幸せを奪ってしまったのはシンジの起こしたニアサードインパクトだった。

 

 それはシンジに尽きせぬ後悔を反復させる。ミサトたちだけではない。戦艦ヴンダーに乗り込んで、人類補完計画の顎から逃れられたのは人類の内、ほんの一握りだ。ヤマト作戦の失敗はシンジのせいではないとしても、人類がここまで僅かな、いつ滅んでもおかしくない、脆弱でか弱い種になってしまったのはシンジの責任が大きい。

 

 だから、シンジは必ずや人類の新天地たるRoss128b──船長室の天井の鉛ガラス越しに迫る巨大な岩石惑星──のテラフォーミングを成功させなければならないと思っている。それにはアスカの手助けと重機に改造した特殊装備のエヴァが必要だ。シンジは何百年かかってもやり遂げる覚悟だ。

 

 シンジの改めての心中の決意に、ユウグモの不思議そうな呼び掛けが混じり込む。はっとして、声を上げているユウグモに視線を向けると、少女は白い布を顔に被せられた老女の身体を見つめている。

 

「ミサト……なのか? どうした? 寝てる、か?」

 

 その無邪気というよりは、純粋に不可思議に思っているだけの問いかけに、少女の父も母も何も言葉を与えてやれない。

 

「その子は、ユウグモちゃんでしたね……私が取り上げたのだった」

「その節はありがとうございました……サクラさん」

 

 前例のないシトの出産。未知に対する心配で、アスカもシンジも不安でいっぱいだった。サクラはその時に、出産は出産だと泰然自若としていた。その動じなさに二人は救われたのだ。

 

 サクラは看取った人間、取り上げた人間、全てを覚えている。その名前と顔を全て覚えている。それが生と死に立ち会う医者としての仕事の一つだと思っていた。

 

 握っていた父親の手を離し、ユウグモはミサトにトタトタと近づいた。しばらくじっと眺めていたが、やがてシンジたちが制止する暇もなく、ミサトの身体に取り付いて、揺さぶり始めた。

 

「ユウグモ来た。なぁミサト。起きて一緒に遊ぼう」

「……ゆ、ユウグモ……」

 

 そうやってしばらく彼女の亡骸を揺さぶっているが、勿論ミサトからの反応はない。ユウグモは不思議そうに小首を捻った。シンジとアスカの方を振り向いて、困惑した顔を見せた。

 

「……なぁ、とと、かか。どうしてミサトは起きない? ヒトが寝ても、しばらくしたら起きるのに」

「ユウグモ……ミサトさんはもう起きないんだ……」

「どうしてなのだ?」

「それは、ミサトさんは亡くなってしまったから……もう死んでしまったから」

「死ぬ?」

「生き物の命が途絶えること、もう生き物ではなくなること、よ。話すことも、目を開けることも、考えることもない」

 

 アスカが補足すると、ユウグモの顔が初めて曇った。

 

「……死ぬ……もしかして、ととやかかも死ぬのか。ユウグモも死ぬのか」

 

 初めて不安そうな顔になったユウグモの肩に、アスカは手を置く。

 

「とともかかもユウちゃんも死なないわ……あたしたちはヒトじゃないから、老いることも死ぬこともない」

「本当に?」

「本当よ……」

 

 アスカはそう言って、不安を宥めるようにそっとユウグモを抱きしめた。

 空咳をして、サクラが再び立ち上がった。

 

「……お花を摘みに行って来ますわ。しばらく誰も来んと思います。ゆっくりお別れをしてください」

 

 明らかに気を遣って、サクラは席を立ち、シンジたちにそっと頭を下げた。それは彼女が毎週のように尽くしている遺族への礼だった。

 

 遺族たちには様々な想いがある。後悔や不和がその場で噴き出す事もある。それは元から蓄積されていたもので、人の死はそのトリガーとなるだけだ。サクラは様々な場面に立ち会ってきたから、なんとなくその家族の行く末が見えてしまう。

 

 でも、サクラが船長室の自動ドアをくぐるとき、彼女の口許は少し緩んでいた。

 

 式波さんのうちは大丈夫ですわ──

 

 声に出さないが、サクラの経験は彼女にそう伝えている。根拠は分からないが、それは確信だった。

 

 サクラが去ると、シンジは静かに促した。

 

「……アスカ、ユウグモ。ミサトさんにちゃんとお別れしないと」

 

 でも、アスカの瞳は濡れている。理不尽に対する、何処にも持って行きようのない怒りがそこにはある。

 

「シンジ、シンジはこんなの──平気なの?」

「平気なわけないじゃないか。ミサトさんが亡くなって哀しいよ」

「そうじゃない! その事じゃない! あたしたち、これからみんなを見送るんだよ。ずっとずっと、あたしたちの側が見送るんだ。あたしたちが見送られる事は永遠にない。そんなの寂しくて……たまらないよ……」

 

 みんなに取り残される。知っている人はみんなアスカの前から去っていく。また孤独になる。せっかくエヴァに乗って、死ぬ思いをして戦って生き残り、色んな人と出会えたのに。そういう出逢いを通じて、ようやく自分は只のクローン──エヴァを動かすための生体部品ではなく、人間になれたと思ったのに。

 

「しょうがないよ、僕らはシトなんだから。もうヒトではないんだから。……アスカは後悔してるの?」

「……後悔? 当たり前でしょ! 毎日後悔してるわよ。今、ヒトに戻れるなら一も二もなく戻りたい。眠れないし、食べられない。永遠に生き続けなくちゃいけない、そんな化け物みたいな人生、イヤだよ……」

「化け物なんかじゃないよ」

 

 シンジはゆっくりとかぶりを振った。

 

「ヒトだろうと、シトだろうと、アスカはアスカだ。同じアスカだよ。僕の大好きなアスカだよ」

 

 シンジはアスカの肩を抱き、ユウグモを抱き寄せた。二人の体温が同じシトであるシンジにはちゃんと感じられる。

 

「……シンジ」

「確かに僕らはやがて星々さえも滅んだ、暗黒の深淵の中で、孤独になるんだろう。でも、独りになってしまうわけじゃないよ」

 

 シトは不老不壊(ふろうふえ)の存在で、シトと同質の存在であるエヴァンゲリオン以外の手では滅ぼされる事はない。

 

 ──厳密には、宇宙に満たされる真空が、そのエネルギー状態が真に最低エネルギー状態ではない「偽の真空」である場合、量子力学におけるトンネル効果によって「真の真空」へと相転移する「真空崩壊」が起こる可能性がある。

 

 この「真空崩壊」はシトも含めた全てを滅ぼすものだが、それが起こる確率が宇宙の寿命に比して十分に低いものであるのかは、自然界の四つの力である電磁気力、弱い力、強い力、重力を統一的に記述するTheory of Everything──万物理論で解き明かされるまでは詳らかではない。

 

 しかし、それは何れにしても宇宙的タイムスパンの話である──そして、宇宙の寿命の終わりを事象の地平面の彼方で静かに待つにせよ、光速度で拡がり迫り来ると言われている真空崩壊に滅ぼされる運命から待避し、最期まで抗うにせよ、アスカもシンジも決して独りではないのだ──朽ちない身体で結ばれた二人だから、とこしえに共にいる事が約束されている。

 

「アスカの隣にはいつだって僕がいる。ユウグモだって、……これから生まれる子供たちだってきっといる。それでもアスカは寂しい?」

 

 アスカは無言だ。家族の存在では埋めきれない悔しさがあるのだろうか。

 

「エヴァの呪縛って、僕らがシトになってしまう事で、確かに呪いなんだけど、でも、僕はアスカとずっと一緒にいたいと願ってしまった。呪縛されたままでもいいよ。宇宙が滅びるまでアスカと一緒にいたいんだ。千年だって一万年だって一緒にいれるんだ。エヴァの呪縛も悪い事ばかりじゃないよ」

 

 要はものの見方だ。永遠に生きることを孤独と見るか。でも永遠に生きる者が、一人でないのなら。死が二人を分かつことがないのであれば、それは寂しさとは永遠に無縁になれるのかも知れない。

 

「シンジと一緒なら寂しくはない……でもね、あたし。正直に言うよ。……もう一度だけ、シンジのお弁当が食べたかった! あんたの作ってくれたご飯が食べたかったよぅ……」

 

 そう言うと、アスカはミサトの死でもどうにか堪えて、流さなかった涙を流し始めた。ポロポロと零れ落ちる涙の滴は、アスカの後悔と未練だ。

 

 きっと、二人はヒトのままで結ばれる事だって可能だった筈だ。シンジにもっと勇気があって、アスカがもっと早くに素直になれていれば。一生、シンジの作る手料理を食べて暮らしていける世界だってあり得た筈だ。

 

 だが世界は──アスカとシンジは──、もはやそうではない。

 

「ゴメンね……アスカ。きっと次の宇宙では、次に巡り会える世界では、アスカのために、たくさんご飯を作るから」

「そんな世界、百万年経っても来ないじゃないか。あたしたち、死ねないんだから。来世にだってもう行けないんだよ……」

 

 シンジには何も声をかけてあげられない。アスカは悲嘆の海に沈んでいる。このまま浮かび上がっては来れないかと思うほどだ。自分の言葉の無力さに、シンジは立ち尽くすしかない。

 

 しかし、アスカが着る──出掛けに慌てて引っ張り出してきた、黒というよりも実は濃紺色のスカートの裾を引っ張る少女がいる。ユウグモだ。ユウグモはアスカの顔を見上げるようにして言う。

 

「……かか。泣かないで。ユウグモ、かかとずっと一緒。ととも一緒。ユウグモ、ご飯なんか食べたことない、でもシアワセ。みんながユウグモに優しくしてくれるからシアワセ」

 

 きっとシアワセってそういうことだ。誰かがその人のシアワセを願ってくれる、そういう人がいることがもうそれだけで、シアワセなんだ。

 

 アスカは少しだけ救われた。

 

 己が娘に救われた。ユウグモのシアワセをアスカとシンジが願っているように、ユウグモも「とと」と「かか」のシアワセを願ってくれている。みんなが笑顔の世界を望んでいる。

 

 自分が作り出した生命に救われる。自分だけでは救われない事でも、シンジとあたしが作り出した「いのち」に救われる。なんだか不思議なことだ。だって、それは自分は自分以上のものを生み出せるってことなのだから。

 

「でも、ユウグモ、ご飯はどうでもいいけど、眠るってことは興味がある」

「え? 寝ることに?」

 

 アスカは目を丸くする。

 

「うん。ヒトはみんな寝る。きょう、ミサトが寝たまま、帰ってこないというのも知った。ユウグモは寂しい……」

 

 シンジはユウグモの頭に手をやって、そっとその頭を撫でてやる。

 

「帰ってこないんじゃないよ。ミサトさんは永遠になったんだ。僕らシトとは違うやり方で、ヒトは永遠になる。その人のもういない所で、その人の事を思い出す。その人の話をみんなでする……そうするとその人はまたそこに現れる。そうしたらいつだって、僕らの所に帰ってきてくれる」

「……とと。ミサトの話をまたしてくれるか?」

「もちろんだよ……その時には悲しい顔をするのではなく、笑って話をしてあげたい。だって、ミサトさんにも笑顔で帰ってきて欲しいから……でもごめん、ユウグモ……それには、今すぐは無理だ……僕はまだ、笑ってミサトさんの事を思い出せない」

 

 シンジはそれから天井を見上げた。父親が泣いている姿を子供には見られたくない。大切な人を失って泣くことを、情けないとは思わないけど、それでも父親は母親とは違うのだから。

 

 上擦る声でそのまま天井を見つめ、シンジは娘に説明する。

 

「……ヒトはね、眠るとき夢を見るんだ。僕と『かか』──アスカは、まだヒトだった時に、お互いの事を時々夢に見ていた。そんな事を昔、アスカと話したことがある。夢はもう一つの世界で、現実には叶えられない事でも叶えられる。寂しくて相手に逢えない時でも夢の中でなら逢える。現実じゃなくても素晴らしい事がある。素敵なものがある」

 

 誰の言葉だったかシンジには思い出せなかったが、なぜだか記憶の片隅に鮮明に在る言葉を思い出した。その或る人は言った。都合のいい創り事で現実の復讐をするな、と。虚構に逃げて、真実をごまかすな、と。そんなものは夢じゃない。ただの、現実の埋め合わせだ、とも言っていた。あれは一体、誰だったのだろう──

 

 でも、その人はきっと夢の持つ力を知らない、孤独で寂しい人なのだ。きっと、自分自身の事をいつまで経っても好きになれないで、他人を幸せに出来るとも信じられない。アスカと結ばれる前のシンジのような人なのだ。

 

 虚構のもたらす勇気と楽しさを知っている筈なのに、それが好きなことを胸を張って肯定出来ない。堂々と出来ずに、後ろめたさを感じてしまっている。その虚構が──夢が──があるだけで、人々は未来に立ち向かえるのに。物事の明るい側面と、裏切られる事を恐れるよりも信じるに足る存在が人間なのだということをひたすらに信じて生きていけるのに。

 

 パンドラの箱に最後に残ったのは、未だ叶わない非現実。またの名を人はこう呼んだ。希望と──。

 

 だから今シンジは、ユウグモに向かって堂々と夢の事を語る。かくある世界ではなく、かくあれかしの世界のことを。葛城ミサトという素晴らしい人間が、今漂っているに違いない世界のことを。死後の世界なんて虚構だと軽侮するのは簡単だが、それを想像できるのは人間だけの持つ力なのだ。人間の優しさなのだ。そして、ヒトだけでなくシトもまた、人間なのだから。

 

「──ミサトさんは今、永遠の眠りに付いている。もう何でも願い事が叶う世界にいるんだと思う。僕がまだ眠れたら良かったのにと今だけは思うよ。だって夢の中ならもう一度ミサトさんに逢えるかも知れないから。そうしたら、ちゃんと今度こそ、今までありがとうって言いたい。どうして昨日そう言わなかったのかな。明日も逢えるなんてそんな保証は無かったのに」

「シンジ……泣きたいなら我慢せずに泣いてもいいよ、あたしの胸で」

 

 アスカがシンジの背中にそっと腕を回す。シンジのつらさが手に取るように分かった。それは、アスカが今感じている喪失感を更に強くしたものに違いない。()さぬ仲であってもミサトとシンジには、どこか本物の母子のような気持ちの通い合いがあったように思えるのだ。

 

「……アスカ、ありがとう。……ミサトさんは母さんじゃないけど、僕は今、母さんを失ったような気持ちになってるんだと思う。シトになってもヒトだった頃と同じように涙が流せる──大切な人を亡くした事をちゃんと哀しめる人間であり続けられているのは嬉しいよ。嬉しくて、だけど、哀しいよ。だって本当はミサトさんの事で、涙なんか流したくはないんだから……」

 

 でも亡くなったヒトはもう帰ってこない。ヒトではなくなったシンジたちにも元に戻る術はない。世界の変化は不可逆的で、後悔も、悔悟もそこには沢山ある。だけれども、何度もループしてやり直せる世界よりも、この一回切りの世界こそが愛おしいと、お互いの体温を感じ取りながらシンジとアスカは思うのだ。

 

「ミサトさん、さようなら」

 

 名残惜しさに後ろ髪を引かれるままに、ずいぶんと長い間を船長室で過ごした後に、シンジはかつての保護者に声を掛けた。

 

 葛城ミサトは精一杯、自分の責務を果たした。人類に対して彼女の父の代から背負ってきた贖罪をようやく果たして、彼女は今、安らかに眠りにつく。逃げることのない人生だった。碇シンジはその人生の見事さに頭を下げる。──僕にはそんな事、全く出来なかったよ。逃げてばかりなのが僕だった。でも、ようやく僕はもう逃げるのをやめたんだ。アスカや子供からは二度と逃げることはない。それだけはミサトさんに約束するよ。

 

 この後、彼女の逝去は艦内の人々に大々的に知らされ、大きな嘆きと慟哭の声と共に、宇宙で亡くなった旅人の例に漏れず、機密カプセルに入れられて宇宙空間に葬られる事になるだろう。そうしたら、微生物によって腐敗させられる事もなく、亡くなった今の姿のまま、永遠に宇宙を漂う事になる。

 

「ミサト、先に行って待ってなさいよ」

 

 アスカたちはテラフォーミングの仕事を終えて、いつかは頭上の惑星──人類の新天地を旅立つ事になる。まだかなり先の未来ではあるが、あの惑星はシンジやアスカたちシトのものではなく、ヒトのものだ。だからいつかは旅立たなくてはいけない。ヒトが再びかつての繁栄を取り戻し、あの星だけでなく銀河の星々が彼らの子孫で満ちることになれば、やがて、シトの生きる世界は星々の彼方の虚空と深淵になる。

 

 だから──彼女は背筋を伸ばし、指先を揃えて、先に旅立つ先輩であるミサトに軍人式に綺麗に敬礼をした。式波・アスカ・ラングレー戦時特務少佐から、葛城ミサト大佐へ最後の手向けだった。

 

「バイバイ、ミサトばぁば」

 

 そして最後にユウグモが、小首を傾げながら頷いた。まだミサトから返事が返ってくるかも知れない、そんな事を思ったのだろう。両親に促されて、部屋を立ち去るまで、ユウグモはしばらくミサトを見つめて佇んでいた。

 

 

 船長室を出ると、本来多忙な艦長に対して列なす陳情者への便宜の為、待合いスペース的に設置された通路脇のベンチ──そこに腰掛け俯いていた男がゆっくり顔を上げて、シンジたちを見た。

 

「……シンジ君。アスカ姐さん」

 

 (びん)に白いものが混じった五十代後半の優男だ。きちんと会うのは久しぶりだったが、狭い船内の事、時々顔を見かける事もあったから、二人とも誰だかすぐ分かった。

 

「……リョウジ君」

「加持リョウジ……」

 

 二人がそれぞれに声を掛けると、疲れたような顔をして男は「うん」と頷いた。二人と加持リョウジ──ミサトと加持の息子──は親しい友人だった。さばさばとした明るく爽やかな少年で、出会うやいなやシンジはすぐに打ち解けた。アスカは人見知りなので、シンジほどではなかったが、それでも数回顔を合わせるうちに、普通に話せるようになっていた。姐さん姐さんと尊敬を前面に出して慕われるような態度には少し辟易していたけれども。──しかし、それもこれも、今から四十年以上も昔の話だ。

 

「……ミサトさんに……会いに来たの?」

 

 シンジは分かりきっている事を訊ねた。その分かりきっている事実の確認が話を進めてくれる筈だった。リョウジの憔悴ぶりから、彼がミサトの訃報を聞いて駆けつけたのは明らかだった。

 

「ああ。昨日も呼び出されて会いに来たばかりだったんだけどね。まさかお迎えが今日だとは。少なくとも口調は元気そうだったんだけどな──」

 

 だから、リョウジは何も懸念する事なく、今日の仕事はEVA──エヴァンゲリオンの事ではなく、Extravehicular activity、宇宙船での船外活動のことだ──を入れていた。リョウジはヴンダーのアストロノーツになっていて、もはやベテランと言って差し支えないが、今日は、日々微細なデブリの衝突に見舞われて損傷する宇宙船の外壁の点検・修理作業に従事していた。根気と集中力と注意力を要する、ヴンダーに乗り組む人々全員の安全に関わる重要な仕事だ。

 

 船外活動でリョウジらが身に付ける宇宙服は作業の都合上あまり加圧出来ない。宇宙服が膨らんでしまうと行うべき微細な作業に支障を来すからだ。それで〇.三気圧程度に減圧しているが、作業を急いで中断してもエアロックで再加圧してから船内に戻らなくてはならない。

 

 それで、ミサトの訃報を聞いても、アスカとシンジより駆けつけるのが遅くなったのだろう。いくら元同居人で被保護者の二人でも、彼らよりリョウジに真っ先にその知らせは行った筈だから。

 

 でも、リョウジはミサトが実の母親であることを未だ知らない筈だ。突然、自分が二日に亘って呼び出されたことをどう思っているのだろう。

 

「リョウジ君……」

「葛城ミサト艦長は、俺のことを何故か、目にかけてくれていたみたいだ。前にも一度だけ、出し抜けに呼び出されて、取って付けたような理由で仕事の報告をさせられる事があったよ。まあ、俺も今では搭乗員の一部門の責任者だから、それをおかしいとは言えない──でも違和感は残った」

 

 アスカはその言い方に、はっとして顔をあげた。リョウジの顔をまじまじと見つめると、リョウジは寂しさの上に、私情を吐露する事への一滴の含羞を滲ませた顔で続けた。

 

「──どうして、最期まで名乗ってはくれなかったんだろうな」

 

 考えてみれば、艦内にはブリッジクルーの高雄コウジのように父親の方の加持リョウジの知り合いは多い。ヴィレが加持らに誘引されたネルフの造反組を母体として組織されているからだ。

 

 そこから息子の方の加持が、自分と同名の物故者の存在を知って、その恋人だった葛城ミサト──己の母親にたどり着くのは、人の噂話などが希少な娯楽である閉鎖環境において、特段難しい話である筈はなかった。

 

「加持……」

 

 アスカは力なく下げていた腕の先の二つの拳をぐっと握り締める。やるせない感情を持て余して、しかし加持リョウジに対しては何も掛ける言葉を持たなかった。

 

 一方、シンジは優しい顔をして言った。

 

「大切なことは言わなくても伝わるから」

 

 ミサトはきっと、自分には今更母親であると名乗る資格はないと思ったのだろう。今まで隠し通して、母親らしいことは何もしてやれなかった、だから今際の際にそんな事を言って、息子を惑わし、哀しませ、己一人の安心と満足感を得ることを自分に対して許せなかったのだ。

 

 それはよく分かる。ミサトの気持ちも分かるけれど、それでも名乗ってほしかったというリョウジの気持ちもシンジには分かる。シンジは大人になり、ちゃんと他人の気持ちが分かるようになっていた。だから、大人になっているシンジはミサトとリョウジの感情に必要以上に踏み込む事はしない。代わりに別の事を言った。

 

「君が生まれる前の事だけど──それも考えてみれば、たった半年ほどの間の事だったのだけれど──僕らがミサトさんを取ってしまっていて、ごめん」

「シンジ君……」

 

 とシンジがリョウジに向かって言うのはミサトとシンジとアスカ、三人だけの同居生活のことだ。本物の家族が欲しくて、でもみんなそれを手に入れる事が出来なくて、寂しかった三人の刹那の家族ごっこだった。でもその事をシンジもアスカも忘れることは出来ない。あれは大切で温かい時間だった。

 

「僕とアスカはミサトさんに可愛がってもらっていた。本物の愛情を貰っていた。でも、それは本当は君が貰うべきものだった。だから今、僕はリョウジ君にそれを返さなくちゃいけないと思った──僕らに注がれた親のようなミサトさんの思いやりは、きっとミサトさんが本当はリョウジ君に注ぎたかったものだ。僕らは君の代わりに過ぎなかったんだ。それを覚えていてほしい」

 

 ──だから君は本当は母親、ミサトさんにちゃんと愛されていた、そんな言葉を続けるのは蛇足だろうからシンジはそう言わなかった。でもきっとリョウジには伝わったのだろう。だって、リョウジが両の目から頬に熱いものを伝わせているのが見えたから。

 

「……あたしたち、三人ともミサトの子供だったんだよ。だから今日、三人ともお母さんを亡くしたんだね」

 

 アスカも涙声になっている。

 

「姐さん、シンジ君……」

 

 リョウジが近付いてきて、大人の男の背の高さから身を屈めた。シンジとアスカの首に両腕を回して、二人をしっかりと抱き寄せた。まるで父親みたいだなと何時までも少年と少女の姿のままの二人は、年下のおじさんに向かってそう思った。温かい。優しくて、とても温かかった。ミサトによく似た、不快ではない体臭が仄かに息子である彼の体躯から薫った。

 

「シンジ君とアスカ姐さんが、僕の兄さん姉さんみたいな存在で良かったよ。今、こうしてそれを確認し、名乗りあえたのも母さんのお陰だ。亡くなった母さんが僕らを結び付けてくれている──」

 

 これがヒトの力だ。ヒトはシトと違って永遠には生きられない。でも、死後にも強い力を及ぼす事が出来る。そうしてヒトは誰かの中で永遠になる。リョウジも結婚して、多産が奨励されている船内社会の期待に応えて子供が何人も居ると聞いていた。葛城ミサトと加持リョウジの血は、そうして未来に向かって引き継がれる。

 

 数千年後、彼の子孫にそうとは知らずにすれ違う自分たちを想像して、アスカは微笑んだ。ヒトの永遠とシトの永遠が僅かに交わる未来に──シトとしての生を悔やんできたアスカが──未来に初めて希望を持った瞬間だった。

 

「三人だけで抱っこ! ユウグモも入れるのだ!」

「そ、そうだったね」

 

 シンジが慌てて、三人の輪に、ユウグモを入れる。四人で円陣を組んだようになって、リョウジが当惑しながらも幼女に向かって笑顔を作って見せる。

 

「なんだか、面白い組み合わせだね」

「ミサトさんの事が大好きだった四人の組み合わせだよ──リョウジ君のお母さん──葛城ミサトさんは本当に素敵な人だった」

「女同士、もっとミサトと話をすれば良かった。お互いに女だから時には反撥したりもしたけれど、でもきっとあたしが母親になった今ならば、話せることは多かった筈なんだ……なぜか時間は無限にあるような気がしていた。自分たちがシトだからそんな風に勘違いして──」

「それは俺も同じで──姐さんだけの後悔じゃないよ。世の中の娘や息子はみんなそんな風に親の死に後悔していくんだろうから」

「ユウグモは、ミサトともっと遊びたかった!」

 

 そのユウグモの言葉に、三人は肯いて、静かに笑い泣きをする。

 

 本当に──もっと葛城ミサトと話をしたかった。

 

 いつまでも。いつまでも。

 

 ずっと葛城ミサトと一緒にいたかった。

 

 

 今日も、ユウグモは「とと」と「かか」に「おやすみなさい」とぴょこんと頭を下げて、母から譲られたお気に入りのハンドパペットを抱えて、小さなベッドで眠りに付く。実際には眠れなくても、彼女は毎晩その儀式を欠かさない。それはまるで、自分はヒトなのだ──ミサトたちと同じ人間なのだ、と訴えるかのようだ。

 

「おやすみ、ユウグモ」

「おやすみ、ユウちゃん」

 

 それが、シンジとアスカにはたまらなく愛おしく、また切ない。親として何もしてあげられないけれど、せめてユウグモの「寝顔」が安らかであるようにと毎晩のように祈るしかない。

 

 そしてそんな両親の想いをよそに、ユウグモは毎夜の就寝の儀式に心を弾ませる。なぜなら、そうすれば──もしもヒトと同じように眠ることが出来たのならば──葛城ミサトばぁばに夢の中で逢えるのではないか、また仲良く遊んでもらえるのではないか。そう思えるからだ。ユウグモはそんな儚い夢を抱いて、そっと睫毛を伏せるのだ。これまでに一度も眠くなった事も、眠った事もないのだけれど。

 

 だけど、ユウグモの就寝に込める想いを、この世界の誰にも──虚しい夢だと笑う資格はない。無意味な虚構で、真実を誤魔化す、現実の埋め合わせだと糾弾することは出来ない。

 

 ──少女ユウグモは葛城ミサトの夢を見るか?

 

 それは誰にも分からない。でも、夢は見ようと思うだけで、もう尊いのではないか?

 

 今宵こそはと、少女は目を瞑る。

 

 ユウグモの瞼の裏には、白髪の葛城ミサト艦長の優しい笑みがありありと浮かぶ。

 

 ユウグモはヒトのように眠りたい。

 ユウグモは葛城ミサトに夢で逢いたい。

 ユウグモはもう一つの世界を信じている。

 それは現実とは異なる、優しい夢と虚構の世界。

 

 ──これは式波・アスカ・ラングレーと碇シンジの長女ユウグモが、眠り姫と呼ばれるようになるまでのお話。



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