【完結】そのウマ娘、狂犬につき (兼六園)
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速度保持者

(続ける予定は今は)ないです


「ここ、本当にトレセン学園なんだよな?」

 

 そんなこと独りごつ青年──綾瀬(あやせ) (みどり)は、トレセン学園の敷地内の外れにある、古びた旧ウマ娘寮を見上げていた。

 夕焼けのオレンジ色が照らす古い建造物は、なかなかどうして、趣深い雰囲気がある。

 

「……やっぱり、特別雇用枠の応募なんてやるんじゃなかったかな……」

 

 翠はそう言って、重いため息をついた。

 トレセン学園──特に大量のトレーナー候補が毎年一度に流れ込む中央なんかは、先ずネットでの応募によって数を絞られる。そこを乗り越えて、更に面接を行い、ようやくトレーナーになれるか否かを判別するのだ。

 

 翠は最初の応募の段階で落とされてしまったのだが──なんとなくトレセン学園専門の応募サイトをスクロールさせていると、不思議なことに下の方に隠されているリンクを発見した。

 

 そこを踏んで確認したのが、前述した特別雇用枠だったのである。

 

 なぜああしてリンク先を隠していたのかを、翠は数週間前にトレセン学園の理事長・秋川やよいと交わした会話でなんとなく察した。

 

 

「……問題行動を起こすなどをしてトレーナーと契約できなかったウマ娘と、応募の段階で弾かれたトレーナーを組ませる計画、か」

 

 

 ──それは果たして救済措置と言えるのか。翠は内心でそんな事を考えていた。

 

「しかし、案内役とやらはいつになったらやって来るんだ……」

 

 手首に巻かれた腕時計の針は、待ち合わせの時間から既に10分程進んでいる。

 もしや場所を間違えたのかと、そう思い携帯を取り出そうとしたその時。

 

「──すまない、会議が長引いてしまってな。遅れて申し訳ない」

「……ああ、いえ」

 

 ──お気になさらず、と社交辞令を交わして、翠は声の主を視界に捉える。

 

「……シンボリ、ルドルフ……!」

「初めまして、シンボリルドルフだ。ここでは生徒会長の役目を仰せ付かっている」

「……あっ、はい。綾瀬 翠です」

 

 制服を着こなす美少女──無敗の三冠バ、シンボリルドルフが会釈をして、翠もまた挨拶を返す。裏手の更に奥にある寮まで走ってきたのだろう、額にはじっとりと汗が滲んでいた。

 

「では早速確認をさせてもらおう。貴方は特別雇用枠で応募し、事前にどういった目的で雇われるのかを理事長から聞いた。違いないな?」

 

「はい。問題のあるウマ娘と組ませることで、ウマ娘はレースに出る機会を、トレーナーにはトレセン学園で働くチャンスを、それぞれ与えることを目的としている……んですよね」

 

「その通り。良かった、お互いの情報に食い違いや勘違いは無いようだ」

 

 ひとまずホッと胸を撫で下ろすシンボリルドルフ。……が、一転して表情を真剣なモノに切り換える。それから翠に問い掛けた。

 

「だが……不思議なのではないか? 綾瀬トレーナー、貴方はまだ、(くだん)のウマ娘が『どう問題なのか』を聞いていない筈だ」

「ええ。それはこちらで改めて話をするから、その上で件のウマ娘を担当するかどうかを考えてほしいと、秋川理事長に言われています」

 

 翠の言葉に頷いて、シンボリルドルフは古い寮の中に案内する。ギシギシと軋む足場に苦い顔をする翠は、彼女の言葉に静かに驚愕した。

 

「──簡単に言ってしまうとな、この特別雇用枠で担当させるウマ娘は、過去3年間で3度の問題を起こしている。簡単に言えば、暴行だ」

 

「ぼ、暴行……!?」

 

「中等部1年の時、最初の選抜レースで故意に妨害をして件のウマ娘を2着にさせた者がいた。

 あとで映像を見返してようやく気付けた程の巧妙なモノだったが、された本人はわかっていたのだろう。レースが終わった直後、そのウマ娘にあろうことか彼女は躊躇いもなく殴りかかったんだ。妨害した方は奥歯を砕かれていたよ」

 

 あっけらかんとした顔で言われ、翠は背筋をゾッとさせる。シンボリルドルフは地下へと続く階段を降りて行き、彼はその後を追う。

 

「……なぜ地下への階段が?」

「件のウマ娘を拘束する為に増築したそうだ。古い旧ウマ娘寮を装っているのは、誰かが迂闊に近づいたりしないようにとのことらしい」

 

 一拍置いて、彼女は続ける。

 

「その翌年、貴方と同じように特別雇用枠で雇われたトレーナーが、貴方と同じようにこうやって話を聞いて彼女の担当になったのだが、ここでもまた問題が起きた。何をしたと思う」

 

「さあ……まさかそのトレーナーにも殴りかかったわけでは無いでしょう。ウマ娘に殴られたりしたら流石に死にかねませんし」

「──噛み付いたのだよ。模擬レースが終わったあとに、彼女は担当トレーナーに噛み付いて、肩の骨にヒビを入れたんだ」

 

 階段を下りきって、地下に到着するとシンボリルドルフは明かりをつける。地下という言葉から無意識に洞窟的な地面や壁を想定していたが、反してその見た目は病院の廊下のようだった。

 

 良く見れば扉の幾つかに『トイレ』『浴室』と書かれており、長い廊下も相まって、どことなくそういう形の賃貸にも見えてくる。

 そしてその最奥に、病室の中を覗ける大きなガラスが嵌め込まれた壁があった。

 

 そこはまるで、精神病患者が自傷行為に及ばないようにするための白を基調とした部屋。

 

『角』の無い丸みを帯びた部屋の中で、件のウマ娘は──少女は、皮の手錠と鎖で両腕を拘束されたまま座り込んでいた。ガラス越しに映るその部屋は、まるで──否、正しく監獄であった。

 

「──翌年、いや去年の話だな。二人目のトレーナーにも同じように噛み付いて、彼女は鎖骨を骨折させた。理事長と他数名の関係者が話を終わらせたそうだが、二人のトレーナーは……この一件で告訴などをしなかったらしい」

 

「それは……どうして?」

 

「さて、な。私も真偽を確かめたかったが、にべもなく聞き入れてもらえなかった。あくまでも黙秘する姿勢を貫くつもりのようだよ」

 

 シンボリルドルフの話が終わり、翠はガラス越しの少女を見る。どうやらマジックミラーらしきそれは、彼女の視界を遮っているようで、こちら側の会話は届いていないようだった。

 

「……理由はわかりましたが、それにしたってどうして拘束を? あんな皮のベルトで縛ったところで、簡単に引きちぎれる筈ですよ。逃げるのだって簡単じゃあ──」

 

「──だからこそだ、彼女は賢い。ああやって無抵抗でいることが、我々に好意的に見られていることをキチンと理解している。早く表に出るためのアピールをしているんだ」

 

 その言葉に、翠がマジックミラーの向こうで()()()()()()()()()()()少女と、バチリと目を合わせる。横の扉は隙間が殆どないが、それでもウマ娘の聴覚なら声を聞くくらいは出来るだろう。

 

 しかし、少女は、マジックミラー越しの翠が何処に立っているかを正確に把握していた。

 

「……会長、扉の鍵は何処に?」

「ここにあるが、まさか解放するつもりか」

「いえ。ただ、契約するしない以前に、まず話してみないことには何も分からないでしょう」

 

 扉の鍵を懐から取り出すシンボリルドルフからそれをさっと掠め取り、翠は扉に差し込んで捻る。ハンドサインでそこに居ろと暗に伝えると、ぐっと意気込むように扉をスライドさせた。

 

 後ろ手に鍵を閉めると、翠はストンと少女の眼前にあぐらをかいて座る。

 

「……こんにちは。といっても外は夜になる頃だし、こんばんはになるか」

「………………」

 

 無言のまま此方を見る、白い部屋に同化してしまいそうなくらいに病的な少女の白髪(はくはつ)とウマの耳に、ふさふさとした尻尾。

 だが翠には、その色が、()()()()()()()()()()白髪(しらが)に見えていた。

 

「………………」

 

 まるで宝石のような紅い瞳が、翠を見て──それからゆったりとした口調で話し始めた。

 

「あなた、お名前は?」

「──綾瀬 翠」

「へえ、女の子みたい。可愛いわね」

「よく言われる」

 

 少女はまぶたを細めて、コロコロと鈴を転がしたような声色で語る。ジャラジャラと鎖を鳴らして翠に近付くと、十数センチ離れた所で止まり、顔を近づけて鼻をすんすんと鳴らす。

 

「排気ガスと……下ろし立てのスーツのにおい。あとは……ちょっとだけワックス? やっぱり、あなた、次の私のトレーナーなのね」

「……の、予定だ。なるかどうかは、少し話をしてから決めるつもりだよ」

 

 更に顔を近づけようとして、壁に繋がる鎖に止められる。少女はカクンと首を傾げて、ふぅんと呟き妖しい雰囲気で流し目を翠へと向けた。

 

「君は、初めてここで選抜レースに出たとき、妨害したウマ娘を殴ったそうだな」

「そうよ? だって、私から1着を奪ったんだもの。ずるはいけないもの。違う?」

「…………そうだな、ズルは悪いことだ。だが、それで怪我以上の被害を与えていたら、君が居たのはここじゃなくて警察署の牢屋だ」

「──ああ! 殺してたらどうするつもりだったんだ、って聞いているのね?」

 

 明るい口調で、少女は問う。こくりと頷いた翠に、朗らかに笑うと言って返した。

 

「殺すつもりだったのに、邪魔をされたの。私から1着を奪ったのだから、そうされて当然でしょう? 誰だってそうするわよ」

 

 少女漫画の擬音で表すなら、『ぷんぷん』だろう。頬を膨らませて可愛らしく怒った様子の少女だが──翠を見るその紅目は笑っていない。

 

「なら、俺より前のトレーナーに噛み付いたのは何故だ? 何か不満があったのか?」

 

「いいえ? ……ほらっ、レースに勝つと『やったー!』ってなるでしょう? それから胸の奥が『きゅーっ』てなるの。だからつい、勢い余ってやっちゃったの。悪いとは思っているわっ」

 

 鎖を鳴らしながら、ベルトを外されないために手と手を合わせられないながらも、彼女は身振り手振りで感情表現を行う。しかし、どうしても翠は違和感を拭えないでいた。

 

 なぜ、こうも、何かが()()()()()()のか。

 

「……1着を取るのを邪魔された。つまり君は、どうしても1着を取りたい理由があるんだな」

「理由? 理由……りゆー、ねぇ」

 

 うーん、と悩む様子を見せる少女。顎に指を置くと、眉をひそめて困ったように言った。

 

「私は走るのが、1着を取るのが好きなの。だって、ウマ娘ってそういうものでしょう?」

 

 どこか他人事の言葉。されど翠は、彼女の言葉の幾つかに納得が行く。そう、少女の行動には、ちゃんと原因(りゆう)があるのだ。

 妨害行為が無ければ殴り掛からなかったし、噛み付いたのもレースで昂ったから。

 

 ──なんだ、思いの外、この少女は純粋なのではないか。翠はそう考え、うつ向いて深く息を吐くと、おもむろに少女の枷を外した。

 

「……ふぅん?」

「これはきっと、前のトレーナー二人にも言われたことなんだろうが……敢えて言うぞ、俺と一緒にレースに出て、URAで優勝しよう」

「……ええ、ふふっ、そうね」

 

 手首を揉んで調子を確かめていた少女が、ふっと笑い──気付けば翠は天井を仰ぎ見ていた。押し倒されたと理解する前に、視界いっぱいに彼女の白髪が埋まり、カーテンに遮られたように白一色に染まる。そして──

 

「本当に、一字一句、前のトレーナーたちと同じ事を言うのね。マニュアルにでもなっているのかと思ったくらい、同じだったわ」

 

 顔があと数センチで触れるところまで近付き、彼女の尻尾が翠の足を箒ではたくように揺れる。そして少女の鼻が右の頬に当たり、反射的にまぶたを閉じた直後、生暖かく水気を帯びた何か──彼女の舌が頬からまぶた、眉までを移動した。

 

「んぇ~~~っ」

「づ、ぅうぅぅっ!?」

 

 ウマ娘という見目麗しい少女に舐められたという事実を、彼女が前トレーナーに噛み付き怪我をさせたという事実が上塗りする。

 このまま歯を立てられたら、まぶたは愚か鼻すらも喰い千切られるだろう。すぅ、と髪に鼻をうずめて匂いを嗅いでから顔を離して、翠の腹にウマ乗りになると──少女はふわりと笑った。

 

「上へ行きましょう? 私とあなたの、輝かしい未来が待っているわ」

「────」

 

 その笑みにどきりと心拍を高鳴らせたのは、命の危機を覚えたからか、或いは。

 

 

 

 

 

 ──本当にいいのだな? 

 

 シンボリルドルフは、地下から一階に戻ってきたとき、隣を歩く翠にそんなことを聞いた。

 

「そりゃ、まあ。これを蹴ったら俺は中央でトレーナーやれませんからね」

「……どうしてそうまでして中央(トゥインクル・シリーズ)に拘るんだ?」

「意地ですよ、意地。ガキの頃からムキになって『中央ですげーウマ娘を育てるすげートレーナーになってやる!』なんていう、意地」

 

 ──バ鹿みたいでしょ? 

 

「そう、バ鹿なんだよ、俺。特別雇用枠なんか利用して、あんなどっかおかしいウマ娘と契約して──俺もどっかがおかしいのかも」

 

 翠はそう言って、一拍置いて続ける。

 

「ところで俺たちはどこで寝れば良いんですかね? あいつはともかく、トレーナーの寮って特別雇用枠の人も入れるんですか?」

「? ……ここを使えばいいだろう。古い寮に偽装しているだけで、部屋は普通に使えるぞ」

「……マジすか──ん?」

 

 呆れたように廊下を見回す翠が、ふと眼前を歩いていた少女を見やる。耳を澄ますと、少女は小さな声で歌っていた。

 

 

「ラ」

 

 夜の廊下を歩く。

 

「……ラ」

 

 月明かりが照らす床の一部を踏む。

 

「ラッ」

 

 たんっ、たんっ、たんっと。

 

「ラ──」

 

 華麗なステップを披露して、開け放たれたままの扉の前に立ち、少女はくるりと翻す。

 

「ラッ♪」

 

 

 ああ、そうだ。翠は呟いて、月光を浴びる少女へと、おもむろに問い掛けた。

 

「聞き忘れていた。君の、名前は?」

 

 病的なまでの白髪をきらきらと輝かせて、紅い瞳を妖しく光らせ、病衣のような衣服を風にふわりと揺らして、少女は翠を見て──

 

 

 

「……速度保持者(スピードホルダー)。誰よりも早く、速く、疾く走る為だけに私は居る。ふふ、よろしくね?」

 

 ──私だけのトレーナー。

 

 少女は、否──スピードホルダーは、そう言って笑みを浮かべる。3年で3回問題を起こしたウマ娘とは思えない幻想的なその姿に魅了されなかったと言えば、きっと、嘘になるのだろう。

 

 

 

 

 

 ……これは終わりではない。

 終わりの始まりですらない。しかし、あるいは──始まりの終わりかもしれない。




>>>壮大に何も始まらない!!<<<


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愛咬

 腹の上に重石が乗せられているかのような寝苦しさから、翠は意識を覚醒させる。

 まぶたを開け、ぼやけたピントが合うと──眼前に紅色があった。

 

「あら、おはよう。トレーナー」

「…………ぎゃっ!?」

「人の顔を見て『ぎゃっ』は酷いわね」

 

 短く悲鳴を上げて、翠は身をよじって逃げようとする。しかし、ウマ乗りになっている少女──スピードホルダーがそうはさせない。

 

「……隣の部屋で寝てたんじゃないのか。あと鍵はどうやって開けた……?」

 

 股がる彼女は何が楽しいのか左右に体を揺らして悩む素振りを見せると、鍵を出して見せた。

 

「このボロ寮、鍵が統一されてるみたいよ? 私の部屋の鍵で貴方の部屋の扉が開いたもの」

「いや、開けるなよ」

 

 くつくつ、と喉を鳴らしてスピードホルダーはようやく翠の腹の上から降りる。

 

「トレーナー、朝ごはんはまだ?」

「……あー、冷凍庫に入ってるの適当に温めな。昼飯は食堂で良いだろうし」

 

 ──降りろ。という短い言葉に、ようやくベッドを降りた彼女は寝室と居間を隔てる扉を開けて出る。ひょこりと顔を覗かせてると一言。

 

「今日の模擬レース、頑張るわねっ」

「……ああ、頑張れ」

 

 これから待ち受ける痛みに備えるように、翠は無意識に首筋を手のひらで押さえた。

 

 

 

 ──冷凍パスタをプラスチックのフォークで巻き取り、スピードホルダーは口へと運ぶ。目尻を緩め唇をソースで汚す彼女の眼前で、翠はチーズとハムを乗せたトーストをザクザクと噛む。

 

「スピードホルダー、お前は具体的にどれくらい拘束されていたんだ?」

「うーん……結構長いわよ。地下の廊下が長いのも、私の足が衰えないように走る為だし。あっ、でもね、ウイニングライブの練習とかもしてたし、週に一回はご飯がちょっと豪華なのよ?」

「意外と厚待遇だな……」

 

 あくまでも罪人扱いではないという状況に苦笑をこぼし、残りを飲み込んでコーヒーで流し込む。その後はパジャマのワンピースから制服ではなくジャージに着替えるスピードホルダーに、翠が疑問から質問を投げ掛けた。

 

「なあ、教室には行かないのか?」

「地下に居たときに教科書全部読み終わったから、学ぶものは特に無いもの。模擬レースが始まるまでは、私がレース場を独り占めねっ」

 

 ふっ、ふーん。と鼻歌を奏でて、スピードホルダーは容器とフォークを捨てる。

 

「スピードホルダー」

「なぁに?」

「いいか、もしまたレースで問題が起きたりしても、即座に殴りかかるんじゃなくて、まず俺を通すんだぞ。あいつが妨害した! とか、報告してくれるだけで諸々の問題が減るんだから」

「やあねぇ、もうしないわよ。多分」

「多分っつったか今」

 

 オホホホホホ、とわざとらしい高笑いを披露して、彼女はそそくさと寮から出ていった。

 残された翠は、トーストを乗せていた皿を流しに置いて遅れて部屋を出る。

 

 レースが始まるのは午後から。

 それまでに心の準備を終わらせるべく、深いため息が肺の奥から絞り出されていた。

 

 

 

 

 

 ──電光掲示板に映し出される順位を見て、翠は驚愕の目を向ける。スピードホルダー、速度保持者。その名に恥じぬ、2着と6バ身も突き放した圧倒的なゴール。

 

 あの自信が実力に裏付けられた事実であるという事をこれでもかと見せつけられ、スピードホルダーの事を噂で知っていた者、このレースで初めて知る者、理事長室と生徒会室から眺めていた者。その全ての目線を釘付けにしていた。

 

 そして、ウイニングライブの準備にとレース場から離れようとするスピードホルダーを何人かの記者とトレーナー、ウマ娘たちが取り囲むが──翠の目から見ても彼女の様子がおかしかった。

 

「っ、すみません、ちょっと」

 

 人混みを掻き分けてスピードホルダーの隣に立つと、翠は彼女の顔を覗き込む。

 

「──ふーっ、ふぅうぅぅっ……!」

 

 レースでの興奮とは明らかに違う形相。俯き髪で隠れているが故に誰にも見られていないが、それはまるで、極限の()()を我慢している獣。

 

「……スピードホルダーは体調が優れないようです、ライブには間に合わせるので控え室に行かせてください。──そこを退いて!」

 

 後ろから手を回して、肩を抱いて引っ張る。

 焦る声にようやく道を開けた人たちには一瞥もくれず、翠は大慌てでターフとを繋ぐ通路を小走りで掛けて行く。誰もいない控え室に入ると、鍵を掛けた直後に翠はスピードホルダーに押されて壁に押し付けられた。

 

「スピードホルダー、落ち着け」

「ぅ────、ぅぅうぅう──」

 

 唸るような、威嚇をするような、そんな声が混じり、思わず膝を曲げて身長を合わせた翠に顔を近づけ──爛々と輝く紅色と目が合った。

 

 観念したかのように、翠はため息混じりにワイシャツのボタンを外しながら、首筋をはだけさせるとスピードホルダーに言う。

 

「……わかった、良いぞ」

「────」

 

 ──瞬間、首筋から熱が溢れたのではないかと錯覚する程の痛み。

 遅れて鋭いものが突き刺さった異物感に、短く声を上げて体を強張らせた。

 

「ガッ──ぐ、づぅうっ……!!」

 

 今まで味わったことなど当然として一度もない、噛まれたことで発生する熱い痛み。

 ギチギチと、筋肉に到達しているのだろう感覚と痛みから、視界の端で星が散らばる。

 

「ふ──っ! ふぅううっ!!」

「……スピードホルダー……っ」

 

 鼻息を荒くするスピードホルダーに翠は声をかけ続ける。明らかに普通ではない様子と、余計な抵抗をしたら首の肉を噛み千切られかねない状況から、淡々と落ち着かせることしか出来ない。

 

「……大丈夫、大丈夫だ。スピードホルダー、落ち着け……俺は何処にも行かない」

「……ふっ、ふうっ、ふう、ぅうっ」

 

 背中を手のひらでさすり、もう片方の手で汗に濡れた髪を梳すように撫でる。

 数分噛まれ続けた翠は、やがて彼女の鼻息が落ち着き、肩に刺さる異物感が──食い込んだスピードホルダーの歯が抜けるのを感じた。

 

「……っ」

 

 その直後に、噛み傷にピリピリと痺れる痛みが走った。ぴちゃぴちゃと水気を帯びた音から、傷口を舐められていると察する。

 消毒のつもりかはたまた、満足したのか顔を離した彼女が翠を見上げ────

 

「……とれー、なー」

 

 口許にベッタリと塗りたくられた赤に、白い髪と肌。紅い瞳が僅かに揺れて、スピードホルダーは、翠の肩から垂れた血を勿体ないとばかりに目線で追う。そして、気まずそうにとりあえずと微笑む彼女に翠が告げた。

 

「……口ゆすいで、着替えて、ウイニングライブ踊ってこい。俺は肩を消毒してくる」

「──ねえ、トレーナー」

「俺は、お前の担当を辞めない」

「……!」

「それだけは……言っておく」

 

 備え付けのティッシュを数枚取り出して患部に押し当て、着替えさせるべく部屋から出る翠は、背中越しにそう言って扉を閉める。

 その隣の壁に背中を預けて座り込むと、ティッシュに染みた血が溢れてワイシャツを汚す様をまじまじと観察しながら、ポツリと呟く。

 

「……やっぱ、俺もどこかがおかしくなっちまってるんだな。ここまでされて、まだ担当を続けようだなんて……くそ、超いてぇ……」

 

 ──あれではもはや、ウマ娘ではない。吸血鬼だ。内心でそう独りごちる翠の口からは、ずっと、ため息しか出てこなかった。



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消毒

「いっ、づづづ……」

 

 人目を避けてなんとか保健室にたどり着いた翠。彼は片手で肩の歯形から滲む血を押さえながら、ガラリと扉をスライドさせる。

 

「──おや。悪いけれど、保険医なら留守にしているよ……、うん?」

「……君は?」

 

 中に入った翠が最初に見たのは、保健室の先生ではなく、制服を着たウマ娘だった。茶髪に、どこか狂気的な気配を漂わせる眼光。

 そのウマ娘は、翠が押さえる肩を見て、ふぅン……と興味深そうに息を吐く。

 

「どれ、消毒くらいなら私でも出来よう。診てあげるからそこに座りたまえ」

「えっ、あ、ああ……」

 

 あれよあれよと座らされた翠の対面に座るウマ娘は、てきぱきと消毒液とガーゼ、テープやピンセットと消毒綿を取り出す。

 綿に消毒液を染み込ませると、ウマ娘は翠に淡々と告げた。

 

「手を退けてくれ」

「ああ」

「染みるぞぉ」

「おう──あ゛あ゛っ!?」

「はははは」

 

 グリっと押し付けられた綿から染み出した消毒液が、痺れるような、燃えるような痛みを発生させる。笑いながらもしかして素早く血を拭いつつ消毒を済ませるウマ娘に、翠は何も言えない。

 

「ふぅン。この噛み痕、歯形の小ささから察するに……ウマ娘にやられたのかい?」

「っ──そうだ」

「愛されてるじゃないか」

「さあ、どうかな。会って二日目にしてこれだ、愛とは違いそうだが」

 

 くっきりと残る歯形にガーゼを被せてテープで止められ、ワイシャツの前を留める。

 まだ痛む肩からの刺激に眉をひそめる翠だが、取り敢えずはとウマ娘に向き直り言う。

 

「消毒ありがとう。俺は綾瀬、君は?」

「私はアグネスタキオン。それと、トレーナー君。ちょっと着いてきたまえ」

 

 ウマ娘──アグネスタキオンは、そう言いながらベッドに置いていた自前らしい白衣を翻して羽織ると、翠を手招きして部屋を出た。

 

 

 

 

 

 ──トレセン学園の研究室に通された翠は、ウマ娘──アグネスタキオンの向かいに座ると、早速と質問を投げ掛けられた。

 

「きみ、アレだろう。噂のウマ娘……スピードホルダー、だったか。彼女と契約しているんだろう? トレーナーに噛みついて怪我をさせたウマ娘なんて、私が知る限りでもアレくらいだ」

 

「まあ、そんなところだ」

 

「それで? きみは解約するのかい?」

 

「……いや、そのつもりは無い」

 

 恐らく口癖なのだろう、「ふぅン?」というタキオンのため息混じりの声。

 

「マゾヒスト?」

「違うが」

 

 どうだかね、と独りごつタキオンは、ビーカーに直接入れた紅茶をゴトリと翠の眼前に置く。頬をひくつかせて引き気味の彼は、恐る恐る出された紅茶を一口すすった。

 

「して、きみはこれからもスピードホルダーと共にレースを勝ち進むわけだが、最終的な目標は当然URAファイナルズ優勝なのだろう」

 

「そうだな……何が言いたいんだ?」

 

「いいや? ただ、私とてスピードホルダーのことは噂でしか知らないし、その姿を見たのもつい数時間前のレースが初めてだが──」

 

 どぼどぼと角砂糖をこれでもかと紅茶に放り込みながら、片手間で携帯を取り出して、動画サイトのムービーを再生して翠に見せる。

 

「これはスピードホルダーのレースを撮影していた観客のモノだが、はは、凄いな。こうも速いウマ娘は見たことがない。2着と6バ身も引き離しての圧倒的なゴールだ」

 

「ああ。俺には勿体ないくらいだな」

 

「謙遜するなよ、この競走バ──いや、狂犬と付き合えるのはきみくらいさ。そのうえで聞くが……おかしいと思わないかい?」

 

 机に置いた携帯の中で走るスピードホルダーを見下ろして、ムービーの半ばまで巻き戻してもう一度再生する。そこはちょうど、スパートをかける前の場面だった。

 

「ほら見ろ、()()()()()()()()()()()()()のに、スパートで更にもう一段階加速した。まるで足にジェットエンジンでも搭載しているみたいだ」

 

「……それは、スピードホルダーが優秀なウマ娘だから、じゃないのか?」

 

「あのなぁトレーナー君。きみはウマ娘を、なにか凄い力を持つ特殊な生命体か何かだと思っているみたいだけれどね、人体構造は人間とそう変わらないんだよ。せいぜい耳と尻尾が生えていて、少しばかり出力が違うだけ」

 

 紅茶の熱で砂糖が溶けきったそれを一気に半分まで飲み干して、一息ついて続ける。

 

「だがスピードホルダーのこの速さは話が違う。まるで──そう、乗用車にF1カーのエンジンを積んでいるかのような歪さがある」

 

「……つまり?」

 

「彼女の走り方は、肉体の強度を度外視しているなら出せる速さ、ということだ。それに耐えられるだけの頑丈さがあるなら、私の危惧は余計なお世話ということになるのだがねぇ」

 

 残りを呷って、タキオンはビーカーを机に戻す。それから席を立って近くの棚から何かを探す後ろ姿を見せると、戻ってきた彼女は翠に錠剤の入った小瓶を手渡した。

 

「これは……」

「以前調合した、炎症を抑える薬さ。痛み止め成分も入っているが、少しばかり眠気が強くなる副作用があってね。1日1回、寝る1~2時間前にぬるま湯で飲みたまえ」

「……ありがとう。良いのか? ここまでして、タキオンにはなんのメリットが──」

「あるとも」

 

 ニヒルに笑うと、その狂気的な瞳でじぃっと翠を見て、まぶたを細めて言う。

 

「きみがスピードホルダーの担当を続けるのなら、私は彼女のレースを通して速さの果てを見られるかもしれない。あわよくば、さ。存分に利用させてもらうよ、トレーナーくぅん……」

 

 ぐっ、と。小瓶を掴む翠の手を、その上から包むようにして両手で握る。

 

 ──吸血鬼のようなウマ娘に、蛇のようなウマ娘。こんな連中にばかり絡まれるな……と、翠は小瓶を握りながら内心げんなりとしていた。

 

 

 

 

 

 ──夜、ボロ屋風のトレーナー寮に戻った翠は、玄関の扉の隙間から部屋を覗き込む白髪のウマ娘──スピードホルダーを見て眉をひそめる。

 

「……スピードホルダー、話があるなら入ってからしてくれるか。そろそろ痛み止めの薬を飲むから寝たいんだよ」

「ん。あのね、トレーナー……」

 

 のそのそと部屋に入ってくるスピードホルダーは、居間の椅子に座る翠の対面に腰掛ける。指を突き合わせて、もじもじさせると、手元と翠の顔を交互に見てから口を開いた。

 

「……怒ってる?」

「正直に言うと、困惑の方が強い。だがまあ……うん、なんだ。ちょっと個性的なウマ娘が一人や二人居たって、問題ないんじゃないか?」

「そう、かしら」

 

 手元の小瓶から一粒取り出して、口に放り込みコップの水で流し込むと翠は続ける。

 

「俺はトレーナーだぞ? 普通だろうとクセが強かろうと、担当したからには、ウマ娘のことを受けとめてやる義務があるんだ」

 

 どこか捨てられた子犬のような眼差しを向けるスピードホルダーを見て、コップを流しに置くと、翠は手のひらを彼女の耳の間に置くようにしてそっと頭を撫でて言った。

 

「申し訳ないと思っているなら、これからもレースで勝ち続けろ」

「トレーナー……っ」

 

 それと、と続けて、翠は小さく笑う。

 

「どうせ噛むなら、手加減してくれ」

「……ふふ、そうね。今度は痛くしないわっ」

 

 その言葉に、スピードホルダーもまた小さく笑って返した。同じベッドで寝たがる彼女を部屋から放り出した翠が改めてベッドに寝転がると、不意に──研究室での言葉が脳裏を過る。

 

『彼女の走り方は、肉体の強度を度外視しているなら出せる速さ、ということだ』

 

 

 

 ──あれはきっと、タキオンなりの冗談のつもりなのだろう。翠は薄れ行く意識のなか、そう願っていた。ただただ、そう思いたかった。



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外出

「──こんな格好でデートだなんて、トレーナーはセンスが無さすぎるわっ」

「そもそもデートじゃない」

「つーん」

 

 ウマ耳を押さえ込むベースボールキャップに、髪を後ろで一つにまとめてジャージの中に仕舞い込み、更には尻尾を隠すロングスカート。

 オシャレの欠片も無い格好での"お出かけ"に、スピードホルダーは不満を漏らしていた。

 

「仕方ないだろう、今のお前は大人気ウマ娘なんだから。顔なんて出したら囲まれるぞ」

 

 ちらりとベンチに座るサラリーマンを見れば、手にある新聞にはでかでかとスピードホルダーの写真が載っている。コンビニの雑誌にはスピードホルダーの特集があり、街中の広告にはスピードホルダー、スピードホルダー、スピードホルダーと、もはや見飽きた顔が並んでいた。

 

 看板の写真から隣に居る実物を見ると、ルビーのような紅色が翠を見ている。

 

「あら、なぁに?」

「いや。写真の方が美人だと思って」

「首に穴空けるわよ」

 

 むすっとした表情で、がーっと八重歯を見せて威嚇する。それから不満げに、ピンっと指でキャップのつばを弾いた。

 

「……まっ、仕方ないか。

 それじゃあトレーナーには、私が気分を害さないように気を遣ってもらおうかしら」

「もっと分かりやすく」

「はちみー買って?」

 

 そう言いながら、手を合わせて顔の横に持って行き、パチリとウィンクを一つ。

 ふっ、と鼻を鳴らすように笑って、翠はハイハイと雑に返して店に向かった。

 

 

 

 

 

 ──ズゴゴゴゴ、とストローで底の水滴を啜る音を奏でるスピードホルダーは、公園のベンチに翠と横に並んで座り休息していた。

 

「トレーナーは飲まなくて良かったの?」

「普通の人間は蜂蜜を直に飲めないんだよ」

「あらやだ、人生の8割は損してる」

「親戚に酒もタバコもギャンブルもしないって言った時も同じ事を言われたよ」

 

 翠は言い終えながら、空のカップを掠め取って公園端のゴミ箱に向かう。その背中を見ていたスピードホルダーの、キャップの中に押し込められた耳がふと子供の喧騒を捉えた。

 

 そちらに顔を動かせば、数人の子供が木の枝に引っ掛かったボールを見上げている。あらっと小さく呟いて、スピードホルダーは跳ねるようにとんっとんっとステップを踏んで近づいて行く。

 

「──おねーさんに任せなさいっ」

 

 ジャージのポケットに両手を突っ込みながら、彼女は子供に歯を見せるように笑いかける。

 男女入り交じる小学生たちの訝しむ表情が、一転して好奇に輝かせるまで、残り5秒。

 

 

 

「……なにやってんだアイツは」

 

 ゴミ箱にカップを捨てて戻ってきた翠が目にしたのは男子が四人、女子が三人の小学生のグループに混じってサッカーをしているスピードホルダーの姿だった。

 

 ひとっ跳びで木の枝に引っ掛かっていたボールまで跳躍して回収した彼女は、一躍子供たちのヒーローとなったらしい。

 

「スピードホルダーだとバレてないなら……まあ良いか。しかし、眩しいねぇ」

 

 翠は日差しとは別の意味でまぶたを細める。どうやらレースでは最強最速でもサッカーはてんで駄目なようで、あっさりボールを奪われたスピードホルダーは見るからにムキになっていた。

 

 当然だがウマ娘としての力で無理やり勝つという野暮なことはしないように努めているらしく、要するに本気だが、全力ではない。

 

「……そりゃそうか。アイツも妙なウマ娘とはいえ、まだまだ子供だもんな」

 

 ボールを男子組に渡して、今度は女子たちと共に花冠を作ろうとしているスピードホルダーを見て翠はそんなことを口にする。

 いびつな花冠を作って苦い顔をする彼女は、どう見ても普通の学生である。だが──その実態は異様な速さと癖を持つ異常な子供。

 

 レースで勝利する度に噛みつかれ、まるで薬物中毒者の腕に出来る注射痕のように歯形が残っている首筋を無意識に指で触れる。

 

 過去に不正を行ったウマ娘を殴り、自分の前のトレーナー二人に同じように噛みつき、謹慎として地下に監禁されていたウマ娘に──翠の中の好奇心が疼く。そもそもの疑問なのだ、果たしてこの事を両親は知っているのか? 

 

「あら、帽子被ってたら冠被れないわね」

「────あのバ鹿っ」

 

 女の子のうち一人が、綺麗に作れた花冠をスピードホルダーに渡す。

 だが、ベースボールキャップをあっさりと頭から取ったことで、解放されたウマ耳がひょこりと天に向かってピンと伸びた。

 

 ──白髪に紅目、特徴的な人ならざる要素。

 これらが合わさって、子供たちの間には静寂が訪れていた。

 あっと声を発した彼女が、逡巡したのち花冠を受け取ると頭に被せて口を開く。

 

「今日のこと、学校で自慢していいわよ」

 

 そう言いながら作った朗らかな笑みに、男子も女子も、全員が見惚れていた。

 

「このアホ。騒ぎになる前に帰るぞ」

「そうね。まあでも、楽しかったわね」

「そりゃよかった」

 

 皮肉混じりの言葉にスピードホルダーは笑う。それから公園の出口に向かいながら、ジャージの中に仕舞っていた髪を出してヘアゴムを外し、ぶわりと風に舞うその髪を揺らめかせ──振り返って子供たちに声高らかに宣言した。

 

「スピードホルダーの応援、よろしくっ!」

 

 そして、人が集まる前に、二人でその場から逃げるように走るのだった。

 

 

 

 

 

 ──まったく、と言う翠の声を、スピードホルダーは夕焼けが顔を覗かせる住宅街を歩きながら耳にしている。

 

「好き放題やったな。さぞご両親も嬉しいだろうよ、やんちゃに育ってくれたんだから」

「ゴリョーシン? なにそれ」

「──は?」

 

 キョトンとした顔で、あっけらかんと彼女が疑問符を翠へと向ける。しかし、くすくすと笑って、冗談よっと言う。

 

「やあねえ、流石の私でも知ってるわよ、『ご両親』。父親と母親で、子供を産み出す存在。そんな人が()()()()()()()()

「────」

「……あ、これ理事長に口止めされてるんだった。ゴメン今の無し」

 

 突然の盛大な爆弾発言に、翠の耳には聞かなかったことにするかのような耳鳴りがしている。

 それはまるで、「楽しい時間は終わりだよ」と、悪魔が囁いているようで。

 

 ──ジィジィと、セミの鳴き声だけが二人の立つアスファルトに響いていた。



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真実

「──『人の口に戸は立てられない』……いや、違うな。『駄目と言われたことはやりたがる』のが人の(さが)、なのだろう。いっそ口止めさせない方が良かったのかもしれん」

 

 理事長室の机を隔てて高級素材の椅子に腰掛けた少女が、我が物顔で机に寝転がる猫を撫でながら、翠とシンボリルドルフを見て言った。

 

 トレセン学園の低学年に似た年代の、お世辞にも理事長には見えない少女の眼差しは、翠の隣に立つ【皇帝】にすら冷や汗を流させる。

 

「……秋川理事長。スピードホルダーに親が居ないという話を本人から聞いてしまった以上、俺には全てを知る権利があります」

「そうだな。ああそうだ。君には権利がある。

 ──()()()()と、()()()()()()()()だ」

 

 理事長──秋川やよいはそう言って、帽子のつばで遮られた目元から眼光を覗かせた。

 

「知らずにいる……というと」

「人の業、ウマ娘の本能。その何もかもが、スピードホルダーという少女を呪ってしまっている。綾瀬トレーナー、君に覚悟がなければ、この話は無かったことにした方がいいだろう」

「──少なくとも俺は、あいつの担当です。そのうえで言いますが……今さらですよ」

 

 翠は脳裏にスピードホルダーのだらけたアホ面を思い浮かべ、呆れたように笑う。

 隣のシンボリルドルフも分かりきっていた返答に微笑を浮かべて、やよいを見る。

 

「理事長、私にも隠していたということは……よほど()()()話題なのでしょう?」

「……うむ。ここは防音設備も完備で万が一にも盗み聞きされるような事はならない。この話をするならこれ以上なく適当だ」

 

 咳払いを一つに、やよいは先ずと語り出す。

 

「君たちは、『試験管ベビー』という言葉に聞き覚えはあるか?」

「……いわゆる体外受精ですよね」

 

 眉をひそめて、翠が答える。唐突な医療技術の話題に疑問が浮かぶが、やよいは続けた。

 

「……ウマ娘という生物は謎が多い。何故ウマ娘の子供が必ずウマ娘になるとは限らないのか、という疑問については『絶対数が決まっている説』や『必ず人間の数を上回らないようになっている説』などがあるが……」

 

「──つまり?」

 

「──スピードホルダーは、研究者が十数年前に作り出した人造ウマ娘だ。

 この研究は、協力者だったウマ娘の卵子を利用した体外受精を繰り返し、()()()()()()()()()()続いたらしい。私は数年前に彼女を保護施設で引き取り、この事を後から知ったのだが」

 

 やよいの含みがある言葉に、二人はふと疑問を思い浮かべる。スピードホルダーの前に受精した子供は、どうなったのか──

 

 それを聞こうとした二人の目が悲痛に表情を歪めたやよいの、静かに首を振る動きを見て、全てを悟って開きかけた口を閉じる。

 

「今も当時も私は若造だが……研究者の殆どが逮捕、残りが服毒で自害という凄惨な終わりで幕を閉じた中の唯一の被害者に、幸せになってほしかった。だから引き取り、生徒として育てようとしたのだが……まあ、問題もあった」

 

 

 ──やよい曰く、ウマ娘とは『走りたい』という本能があり、意図的に()られたスピードホルダーは、その本能が一際強かったとか。

 

「既にシンボリルドルフ会長から聞いているだろうが、スピードホルダーは妨害を行ったウマ娘に暴行を働き、過去に二人のトレーナーとの契約を破棄している」

 

「ああ……存じております。あいつは普通じゃない。今の話で、合点が行きました」

 

「妨害を行ったウマ娘の方は……残念だが以前から目立つ問題点も重なって退学となったが、トレーナー二人の方には、ぼかしつつも事情を説明して最悪は避けてある。

 ついでに言うと、私は綾瀬トレーナーもすぐに契約を破棄すると思っていたのだ」

 

 そう言われて、翠は無意識に首から肩にかけての噛み痕を触る。

 

「……あの、スピードホルダーは、URAが終わったらどうなるんですか?」

「それは彼女の判断によるだろう。学園に残るか、一人立ちするか、保護施設に戻るか……いや、それ以前の問題か」

「──それは、どういう……」

 

 やよいが口をつぐみ、それから重く息を吐いてから、翠とシンボリルドルフを見た。

 

「研究者の産み出した人造ウマ娘、というだけの話ならそこで終わりだったが、そもそも奴等はなぜこんなにもおぞましい事をした? 

 それはな、ウマ娘の限界を突き詰め、ただただ速い生物を作りたかったからだ」

 

「…………」

 

「ふっ、よくもまあ、あんなことが出来たものだ。なにが『シンザンを超えろ』だ? ああ出来るだろうさ、思い付く限りの人道のことごとくを無視すればな……ッ!!」

 

 憤怒に表情を歪めて、やよいの怒りが溢れ出す。机の上で寝ていた猫が驚き逃げるようにその場から離れ、それから表情を戻す。

 

「綾瀬トレーナー、スピードホルダーは今日は何をしている?」

「あいつは……今度の天皇賞秋と有マ記念に備えて無茶はさせられませんし、今は休ませています。本人もちゃんとわかってるかと」

「そうか……それなら良いんだ」

「理事長、スピードホルダーの体には、なにか問題があるのですか?」

 

 心底ホッとしたようにため息をついたやよいに、シンボリルドルフが問い掛ける。

 

「…………、スピードホルダーは、研究者という人間の業にその生き様を歪められたウマ娘だ。それは性格や人生というだけでなく、体にも問題を抱えているということ。今までは大丈夫そうだったが、万が一がある」

 

 綾瀬トレーナー、そう続けてやよいはスピードホルダーの問題点を告げる。

 

「もしかしたら、スピードホルダーは『速く走る為の人為的な調整』をされた弊害で、体に異常をきたす可能性が高い。次のレースが終わったら、一度病院で検査した方がいいだろう」

 

「……検査、ですか」

 

「うむ。レースを控えさせていたここ数年前まではともかく、今は激しいレースを繰り返している。普通のウマ娘とはそもそもの身体機能……発揮できるスペックが違うスピードホルダーの場合は、その負担が見えないところで蓄積されているのかもしれないからな」

 

 そこまで言われてしまっては、と考えを改める翠。そんな折、ふと窓の外から、けたたましい救急車のサイレンが聞こえてきた。

 

「……なんだ、敷地内で事故か?」

「──む、連絡か。失礼……なにがあった」

 

 デスクに置かれていた固定電話からの着信に、やよいは二人へ一言謝罪してから出る。

 やよいが電話に出た間に窓の外を翠とシンボリルドルフが覗くと、校門近くで止まった救急車に誰かが運び込まれていた。

 

 ざわざわと、翠は胸騒ぎを覚え──その予感は、やよいの怒号という形で的中する。

 

 

「──綾瀬トレーナー! スピードホルダーが模擬レースに出走したあと、喀血して倒れたとのことだ! ──病院にこれから搬送されるらしい、すぐに向かってくれ!」

 

「────え」

 

 ──何故、休んでいた筈、喀血、搬送。キーンと耳鳴りがうるさい頭の中で、単語が浮かんでは消えて、翠はただただ困惑している。

 

「会長、私が許可する。綾瀬トレーナーを連れて病院へ行け! 法定速度は守ること!」

「了解……っ!!」

「──ぬおぉおおおおっ!?」

 

 即座に指示を飛ばしたやよいに言われた通りに、シンボリルドルフは翠を担ぎ上げ、扉を蹴破る勢いで理事長室から飛び出す。

 ドップラー効果で遠退く翠の悲鳴を最後に、やよいは椅子に座ったまま天井を仰いだ。

 

 

 

「……どうして彼女だけがこんなにも苦しまなくてはならない。ただ走ることを良しとするウマ娘は、業を背負って生まれた存在は、幸せになってはいけないのか……?」

 

 その問いに答えてくれる者は居ない。

 仮にいたとしても、やよいが納得の行く答えは返ってこないだろう。

 

 感情を何度も二転三転させるやよいを心配してか、個人で飼っている猫がすり寄ってくる。抱き上げたその背中に顔をうずめて、彼女は小さく、消え入りそうな大きさの嗚咽を漏らした。



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覚悟

『凄い末脚だったな、スピードホルダー』

 

 ──確か、欠席が出た模擬レースに、暇だったからと飛び入り参加して。

 

『よかったら一緒に昼食でもどうだ?』

 

 ──それも終わって芦毛の子と話をしていた。

 

『上位5着までのウマ娘限定で、特上人参ハンバーグが食べられるそうだ。

 私はこれに温泉卵をトッピングするのだが、スピードホルダーは「ごぼっ」どうする──』

 

 ──楽しそうに話している芦毛ちゃんのゼッケンに、口から溢れた血がびちゃっと跳ねて。

 

『…………スピードホルダー?』

 

 ──ズキズキと、肺が、喉が、痛くて。

 

 ──鉄錆と芝と土の匂いだけが、鼻の奥に入り込んで、記憶にあるのはそこまでだった。

 

 

 

 

 

「スピードホルダー!」

「もぐもぐもぐもぐもぐ……あら、トレーナー。思ったより速かったわね」

「………………」

 

 シンボリルドルフのご厚意で一人だけで部屋に訪れた翠が目にしたのは──大盛りのお粥を平らげるスピードホルダーの姿だった。

 

「……元気そうでなによりだ」

「そうでもないわよ~。肺にダメージが入ったから、今も息するだけで気絶しそう」

 

 ──などと言いつつ、横の机にお椀の乗ったトレーを置いて退ける。よく見れば、うっすらと彼女の額に汗が滲んでいた。

 

「あの芦毛ちゃんには悪いことしちゃったわね。まあでも……勝負服に血をぶっかけたわけじゃないからセーフよセーフ。ほら、染み抜きが大変だから下手したら訴えられちゃうじゃない?」

 

「スピードホルダー」

 

「ああそうだ、次のレースの為にトレーニングもしないと。ここで休んだ分たくさん走って遅れを取り戻さないといけないでしょ」

 

「──スピードホルダー」

 

 捲し立てるスピードホルダーに、翠は傍らに座りながら窘めるように声をかける。

 

「自分の体がどうなっているか、そしてどうなるかを、お前はちゃんとわかっている」

「……そうねえ」

「そんなお前に、俺はレースを続けろと言うことは出来「トレーナー」

 

 ──瞬間。ざわ、と、病室の空気が変わる。窓の外で小鳥が逃げるように飛び去り、翠は座ったまま無意識に後退りしようとした。

 

 病衣を着たスピードホルダーのまぶたがカッと開かれ、紅い瞳は爛々と輝き、僅かに開かれた窓から入る風が色の抜け落ちた白髪を揺らす。

 

「危ないからやめろ、とか。お前のことを心配してる、とか。そういうワゴンセールに並んでいそうな安っぽい言葉なんて、私のトレーナーは絶対に言わない」

 

「────」

 

「お願いだから、貴方だけは走るのをやめろなんて言わないで。だって──なんの為に生きているのか分からなくなってしまうから」

 

 

 スピードホルダーは、全てを理解していた。自分がなぜ生まれ、どうやって生きていけばいいかを、きちんと理解していた。

 ただ疾く、早く、速く走って、一番でいなければならないと理解していた。故にこそ、翠は──地獄に落ちる決意をする。

 

「じゃあ、どうせなら、走って死ぬか」

「……トレーナー」

「死に花を咲かせるのも一興。ここでごねて勝手に走られるくらいなら、せめて──目の届くところで死んでくれ、スピードホルダー」

 

 意地でも止めるべき時に、翠は背中を押す選択肢を取る。どうあっても止められないと判断して、それならせめてとこの判断を下した。

 

「──そろそろ面会の時間も終わる。また明日も来るから……じゃあな」

「うん。──あっ、ねえトレーナー」

 

 立ち上がり背を向けた翠に、スピードホルダーはおもむろに声をかける。

 

「貴方は、私が死んだら苦しんでくれる?」

「………………、当たり前だろ」

 

 一瞬、硬直して。それから翠は答えると、扉を開けて出ていった。その背中が見えなくなっても、彼女はずっと、扉を見ていた。

 

 

 

 ──病室の廊下に備え付けられたベンチに重く腰を下ろし、深いため息をつく。

 そんな姿を待機していたシンボリルドルフに見られても、取り繕う余裕は無い。

 

「……大丈夫……と聞くまでもないか。スピードホルダーは、どうだった」

「──いつも通りでしたよ。俺にはもうあいつを止められない。それならいっそ、一緒に地獄に落ちるしか……ケジメをつけられない」

 

 シンボリルドルフが覗き込んだ翠の顔は、悲痛さと無力感に歪み──その瞳から一滴、滴のような涙がぽたりとこぼれ落ちた。

 

「どうして──走るのが好きなだけのお前が、こんな目に遭わないといけないんだ」

「……綾瀬トレーナー」

 

 彼女はただ、翠の肩をさするだけしか出来ない。全てのウマ娘が幸福な世界を作ろうと努力するシンボリルドルフに、『死ぬとわかっていながら、それでも走ることを喜びとするウマ娘』が幸福なのかを、決めることなど出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──残されたスピードホルダーは、扉から窓に視線を動かして、肺の痛みを無視して大きく息を吸うと、小さな声で唱えるように歌う。

 

 

Some superhero(色んなスーパーヒーローや)

 

Some fairlytale bliss(お伽噺のような幸せな日々じゃない)

 

Just something I can turn to(ただただ、頼りになって──)

 

Somebody I can miss(居なくなったら、恋しくなる人)

 

I want something just like this(そんな人が、居てくれるだけでいいの)

 

 

 ゴホゴホと、咳をして、シーツを赤混じりの唾液で濡らしながら、スピードホルダーはそれでもにこりと笑って脳裏に翠の顔を浮かべる。

 

「──『貴方がトレーナーで良かった』と思える人生を歩みたい。だから貴方が、『スピードホルダーが担当で良かった』って笑ってくれるなら、ただ、それだけでいいのに……」

 

 ふふ、意地ね、意地。スピードホルダーは、そう言ってくつくつと笑っていた。




本当の救いは目の前で、
悲劇と同じ姿をしていた。


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終活

 まるで新居のような室内で、綾瀬 翠は辺りを見回していた。僅かによれたベッドのシーツや、稼働している冷蔵庫の音が、辛うじて生活感を演出しているが──私物らしい私物が無い。

 

 ──スピードホルダーの部屋には、最低限の着替えを残して、何もなかった。

 

「…………まるで終活だな」

 

 翠は呟く。殺風景でがらんどうな部屋にはおおよそ暖かさなど無く、彼がシーツの波を正せば、初めて入ってきた時と何ら変わりない殺風景な雰囲気となってしまう。

 

 次がスピードホルダーの()()のレースかもしれないというのに、不思議と──翠の心は、シーツのように平坦で、波打つ様子も無かった。

 

 

 

 

 

 ──なんだかんだ長い付き合いになったな、と内心で独りごちた翠は、研究室の一角を当然のように占領しているウマ娘と顔を合わせる。

 

「──ン。やあ、トレーナー君」

「暫くぶりだな、タキオン」

 

 そっと差し出されたビーカーに入った紅茶を一口啜り、机に置いて傍らの椅子に座る。

 ふと、彼女の手元に新聞紙が広がっているのを発見して、それとなく問いかけた。

 

「なにか気になることでも?」

「うん? ああ、いやなに、いつぞやの記者会見が大変愉快だったものでねぇ……」

「…………これか」

 

 口角を歪めて愉快そうな笑みを作るタキオンから渡された新聞には、記者会見をするスピードホルダーの写真が載せられており──『最速のウマ娘、スピードホルダーが体調不良を隠してレースに出走!?』と書かれていた。

 

「……人の口に戸は立てられない、か」

「まあ、スピードホルダーが倒れるところは何人も見ているからねえ。私もあれから色々とレースを見返してみたが──見たまえ」

 

 開いたノートPCのキーボードを叩くタキオンが、おもむろに画面を見せてくる。

 

「スピードホルダーが倒れる前のレースだが、スパートをかける時の動きをよく見るんだ」

「これは……大きく呼吸している……?」

 

 翠の目に映るスピードホルダーは、ムービーの編集でスロー再生されている。その中で、彼女は大きく、大量に酸素を吸い込んでいた。

 

「──酸素を多量に取り込み血流を早めて心肺機能を高める……聞こえは良いが言ってしまえば自爆技だ。喀血したのを見ればわかるが、血管はもとより肺への負担が大きすぎる」

「……別に箝口令は敷かれてないから話すが、あいつは研究で生まれた人工物だそうだ」

「ふぅン、なるほど……()()()()()()なのか。どうやら自爆技も比喩ではないらしい」

 

 パソコンを閉じるタキオンは、それで──と続けて翠に問いかける。

 

「どうするんだい、次のレースで最悪の場合スピードホルダーは死ぬが」

「わかってる。……わかっては、いる」

「ふぅン、答えは出ているわけだ。死んでほしくないならやめさせればいいじゃないか」

「簡単に言うなよ」

 

 ビーカーの紅茶を口に含んで喉を潤し、それから一息ついて翠はタキオンに返す。

 

「俺はあのウマ娘……いや狂犬の決意に賛同した。俺には、あいつの自殺(レース)に付き合う義務がある」

「それで実際に死なれるのは嫌だろう。本気で心配ならば言えばいい。『レースに出ないでくれ』、『もう走らないでくれ』、とね」

 

 何故か研究室に常備されている瓶詰めの砂糖をドバドバと自分の紅茶に入れながら、タキオンはあっけらかんとそう答える。訝しげに眉を動かす翠は、彼女の手元を見て引きながら口を開く。

 

「言って聞くと思うか?」

「さぁねぇ。そんなの私には関係ないからねえ。ただ、他の誰でもない君の言うことなら聞くんじゃないかな? 何を言うかより、誰が言うか。重要なのはそこさ」

 

 ──もっともらしいことを、と内心で毒づく。

 

「それじゃあ、あいつが死なないことを祈っててくれ。どちらにせよ、俺はあいつがどうなっても、今回でトレーナーを辞めるからな」

「…………なんだって?」

「スピードホルダーの行いを黙認する駄目トレーナーだ、けじめはつけないと。だろ?」

「──書類を偽造して君が私の担当ということにしてるから辞められると困るのだけど」

「────、いや、知るか」

「え──っ」

 

 最後の最後でとんでもない爆弾発言をしたタキオンをよそに、呆れながらも翠は紅茶を飲み干して、研究室をあとにするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ──という数日前の出来事をまどろみながら夢のように思い返していた翠は、首筋に走るピリッとした痛みに意識を覚醒させる。

 

「……ぁが、起きたの?」

「……レース前に噛むな」

 

 控え室の椅子に座る翠の膝の上に向き合うように座る純白のウマ娘──スピードホルダーが、口許をべったりと赤くしながら笑った。

 翠は慣れた動きで懐からガーゼとテープを取り出して首筋の噛み跡に蓋をするように貼り付けて留め、除菌シートを彼女の顔に押し付ける。

 

「うべ」

「拭け。もうレース始まるぞ」

 

 口許の赤色を拭い、綺麗にしてから、翠は彼女を膝から下ろす。立っているスピードホルダーの服装は、白髪が異様に目立つように設計された、漆黒の喪服をベースにした勝負服だった。

 

「なあ、スピードホルダー」

「──なぁに?」

「……レースに出るのはやめないか。俺はやっぱり、お前に死んでほしくない」

 

 翠の言葉にスピードホルダーはキョトンとした顔をし──それから噴き出すように笑って、目尻と口角を緩めながら言った。

 

「ンッフフ、バカね。死ぬかもしれない体はしてるけれど、死ぬつもりはないわよ。私に出来るのは、『全力でレースを走ること』だけ」

 

 不安そうにする翠の手を掴み、手のひらを自分の頬に寄せて、彼女は続ける。

 

「私だって、もっと貴方の隣に居たいもの。だけどね、私が死んでも……自分のせいでこうなったなんて思わないでちょうだい」

 

 するりと手をほどいて、控え室の外に繋がる扉に歩き、一拍置いて更に言った。

 

「この体に生まれたことを後悔したことなんてない。下手したら死ぬ? そんな運命は捩じ伏せるわよ。私が怖いのは肺と体の痛みじゃなくて、死を恐れて走るのを辞めることなんだから」

 

 だから──、そう言ってスピードホルダーは、ルビーのような深紅の瞳を翠に向け、ふにゃりと歯を見せて笑いかけて言葉を紡いだ。

 

「──私がぶっちぎりで勝つところを見ていてちょうだい、トレーナー」

 

「……ああ、わかった」

 

 翠は言葉を返して、その背中を見送った。扉が閉まり、数分置いてその場をあとにした翠が観客席に移動して、ついにというべきか、とうとうというべきか、始まってしまった最後のレース。

 

 そこで、スピードホルダーは風に溶けてしまったかのような流れる走りを見せて────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──全てが終わったあと、少しして、綾瀬 翠は理事長室にてバッジを外していた。




次回、最終回


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再出発

 理事長・秋川やよいの手に、小さな、されど()()のあるバッジが転がっていた。

 

「──これが、君の選択なんだな」

「はい。俺は、トレーナーを辞めます」

 

 スーツを着こんだ青年・綾瀬 翠が、その手に花束を握ってそう言った。

 それから手元の花束を見て、困ったように眉をひそめてやよいに問いかける。

 

「……なんで花束なんですか」

「うん? ああ、仕事を辞めるときは花束を贈呈するものだとどこかで聞いたのでな」

「定年退職じゃないんですが……」

 

 ──その辺の知識は子供ゆえか、と内心で納得し、翠は薄く笑みを浮かべる。

 

「──しかし、本当に辞めてしまうのか?」

「やはり、俺にトレーナーを続ける資格はないでしょう。担当の無茶を止めずに、むしろ後押しした。ある種の自殺幇助が無罪な訳がない」

 

 こればかりは譲れない、そう暗に告げている翠に、やよいは仕方がない奴だとばかりに表情を和らげる。わかった、と口を開いて。

 

「ならば、このバッジは──預かっておく。預かっておくだけだ。いつか必ず、綾瀬トレーナーにはこれを取りに来てほしい」

「……理事長も強情ですね」

「自分から責任を取ろうとするほどに、君はウマ娘が好きということだ。いつかきっと、戻ってきてくれることを期待しているよ」

「────」

 

 やよいの言葉に、翠は目を見開いて、それからぐっとまぶたを強く閉じると、静かに開けてから左手で花束を掴んで右手を差し出す。彼女は左手にバッジを握り、翠の手を右手で握り返した。

 

「……綾瀬トレーナー、ありがとう、スピードホルダーに寄り添ってくれて」

「それが、俺の仕事でしたからね」

 

 最後にもう一度、二人は強く手を握りあって、そうして翠は理事長室を後にした。

 

 

 

 

 

 ──廊下を歩いていると、翠の視界に見覚えのあるウマ娘の背中が見えた。

 

「……どうも」

「──おや、綾瀬トレーナー。……ああ、二人は生徒会室に、私は少し話をする」

 

 話をしていたらしい黒毛のウマ娘二人が翠をちらりとみてから、すぐ近くの部屋に入って行く。翠に歩み寄ってきたウマ娘──シンボリルドルフは、笑みを浮かべて口を開く。

 

「まずは、お疲れ様……かな」

「はい。なんだかんだ、会長にもお世話になってしまいましたね」

「ははっ、生徒会長の仕事だからね。私としては、力になれていたか不安なくらいだが」

「まさか」

 

 ──そんなわけ、と続ける翠にシンボリルドルフもまた返した。

 

「正直なところ、君がスピードホルダーの担当をすることになったときは不安だった。だが、蓋を開けてみれば、君はスピードホルダーに──ウマ娘に寄り添う良き理解者だったんだよ」

 

「初めにも言いましたが、きっと俺もあいつみたいに……どこかしらが()()()()んですよ」

 

「そう卑下するものじゃない。君のお陰で救われたウマ娘が一人居たことは、確かなのだから」

 

 シンボリルドルフは、翠にそう言って、優しく笑いかけて肩を叩く。

 

「……またいつか、綾瀬トレーナーが戻ってくるのを、待っているよ」

「その頃には、シンボリルドルフ会長も理事長になってそうですがね」

「ははは、何年経っても生徒会長だったら、それはそれで怖いだろう?」

 

 ──違いない、と笑い、そろそろかと腕時計を見て翠は会釈をする。

 

「では、もう行きます」

「そうか……所でどこに行くつもりなんだ?」

「ああ、そうですね……」

 

 

 ふと、窓の外を見て──

 

「ひとまず実家に帰ろうかと」

 

 ──翠は、笑みを浮かべてそう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──トレセン学園の駐車場、車の停められている一角の塀に、一人のウマ娘が座っていた。

 ぷらぷらと足を動かし、手持ち無沙汰で暇そうにしながら、純白の髪とそれに連なった耳と尻尾をパタパタと動かしている。

 

 そして花束を手に戻ってきた翠を見つけると、彼女は──スピードホルダーは、塀から飛び降りて駆け寄り頬を膨らませて憤った。

 

「こらっ、ちょっと遅いんじゃない?」

「バッジの返却に手間取ったんだよ」

「どうだかっ」

 

 翠は呆れたようにかぶりを振る。レースを終え、体の不調を辛うじて()()()()に留めることに成功した彼女は、トレーナーを辞める翠の実家への帰省に着いて行くことを決めていたのだ。

 

「一回実家に帰って事情を説明して車を持ってきてバッジを返却して……まったく、ここまで面倒なことになるとは思わなかった」

「自分から余計に面倒なことにしたくせにぃ。……私を切り捨ててトレーナー業を続けることだって出来たんでしょうに、律儀よねえ」

 

 …………うるさい、と照れ隠しのように呟いて、翠が車の後部座席のドアを開けて雑に花束を投げ入「ぶぇっ」れる。

 

「……ん?」

 

 第三者の声が聞こえて、後部座席を確認する。そこには奥に頭を置く形で、こちらに足を向けながら仰向けに寝転がっているウマ娘が居た。

 

「…………なんか居る──っ!?」

「そういえばさっき一人追加で来てたわよ」

「なんで止めなかった……?」

「だって貴方の知り合いみたいだし……」

 

「──人の顔に花束を投げ込むとは、いったいどういう了見だい……?」

 

 のそりと起き上がったウマ娘は、肩の出ている紫の私服を着込む、アグネスタキオンだった。頭に花びらを乗せて、その顔は苛立たしげに口角をひくつかせている。

 

「人の車に勝手に乗り込むとはいったいどういう了見だ? タキオン……」

「……ふん、書類偽造の件がバレて停学処分さ。理事長曰く、『暫く戻ってくるな、()()()()()()を頼ってみろ』だとさ」

「──体よく押し付けられている……」

 

 頭を押さえる翠に、フンと鼻を鳴らして頭の花びらを取りながらタキオンは続ける。

 

「スピードホルダーの()()()()()()役を押し付けられた、という意味では私もその言葉を使わせてもらいたいくらいだけれどねぇ」

「ねえ、貴方たちすっごいナチュラルに私のことマシン扱いしてない?」

 

 ──間違ってないだろ、という翠の慈悲の無い指摘に彼女は「うぐう」と胸を押さえた。

 

「どうせなら盛大に色々と記者会見で暴露してから引退すれば良かったわね」

「理事長の胃が破裂するからやめてやれ」

 

 脳裏に『胃痛!』と書かれた扇子を手にいい笑顔をしているやよいを思い浮かべる翠は、ため息をつきながらタキオンに向き直る。

 

「……まあ、別にツレが一人増えるくらいは構わないけど、それこそタキオンはいいのか? トレセン学園を離れることになるわけだが」

 

「ふぅン、このご時世、なにも顔を突き合わせなくとも話は出来るだろう? 私としては寧ろ、スピードホルダーの体を研究して、よりよいウマ娘の『脚』の進化に利用したいくらいさ」

 

「あの~、そういう会話は本人の居ないところでしてくれない?」

 

 後部座席で外側に体を向けながら脚を組んでいるタキオンは携帯を片手にそう言い、スピードホルダーが色白の肌に青筋を立てる。

 

「はいはい、じゃあ、話はこの辺にして……そろそろ車に乗れ、早めに出ないと帰る頃には夜になってしまうからな」

 

 ──はぁ~い、と渋々スピードホルダーが助手席に、タキオンがそのまま後部座席に。翠が運転席に乗り込み、おもむろにバックドアの方に視線を向け──大量の機材を目にした。

 

「おい」

「なにかな」

「お前は俺の実家を研究室にするつもりか」

「はっはっは、あれでも数を絞った方だよ」

 

 こいつ……と独りごちる翠は一拍置いて重く息を吐きながら車を発進させる。

 道路に出て、暫く走り、それからスピードホルダーがふと問いかけた。

 

「トレーナーの実家ってどんな所?」

 

「俺はもうトレーナーじゃないぞ。まあ、そうだな……まず大前提として空気が綺麗な所だ、お前の肺にも良いだろう。あとは……近場に地方のトレセン学園があるから、リハビリに使わせてもらえるだろう。たぶん、おそらく」

 

「地方のトレセンがあったのに、貴方はどうして中央に来たの?」

 

「……さあねえ。でも、俺は中央に来て良かったと思ってるぞ。少なくとも、お前の担当であったことは──誇りに思ってる」

 

「…………へぇ~~~?」

 

 それとなく視線を翠から外に変えながら、スピードホルダーは顔色を朱に染めて縮こまる。タキオンが後ろで会話を聞いて、呟いた。

 

なぁにをイチャついてるんだか。なあトレーナーくぅん、音楽流しておくれよ~。無音は退屈だ」

「ワガママだな……あー、ラジオで音楽番組でも流すか。なんかやってるだろ」

 

 翠が片手間で適当に合わせた番組から、ちょうどよく音楽が流れ始める。

 それは、どこか哀愁を、どこか懐かしさを想起させるメロディで。三人が不意に見上げた空を思わせる歌詞が、不思議とストンと胸に落ちた。

 

 

 

 ──ああ……この雲一つ無い快晴は、確かに、背伸び程度で届くような空ではない。



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