たのしい宮永一家 (コップの縁)
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プロローグ

「…………ん?」

 

 夢うつつで座席に寄りかかっていた俺は車内アナウンスに目を覚ました。どれだけぐっすり眠りこけていたとしても、この声が耳に入るだけで一瞬で起きることができるのだから不思議なものだ。これがいわゆるパブロフの犬というやつだろうか。知らんけど。

 

「……そろそろ連絡しとくか」

 

> あと20分くらいで帰る

> おっけー。こっちはごはんの準備にもう少しかかるかも

> 腹減った………飲みに誘われたけど、我ながらよく断れたもんだ

> お祝いなんだから当たり前でしょ! ちゃんと寄り道しないで帰ってきてよね

> 分かってるって

 

 俺の名前は須賀京太郎――いや、今は宮永京太郎か。上京したり結婚したり転職したりと色々あったが、今では故郷の清澄で人並みの生活に落ち着いている。

 車内に人影はまばらであるが、これでも時間帯が早いせいか普段より多く感じる。努めて仕事を早く終わらせた俺は携帯電話を片手に取りつつ、真っ暗の車窓に点々と浮かぶ人明かりをぼんやりと眺めていた。

 

 元々読書なんていう柄ではなかったが、あいつの影響で読むようになって随分経つ。しばらく活字に耽っているうち、短い列車は不釣り合いに長いプラットホームへ速度を落としながら入っていき、ついに動きを止めた。ポケットの定期入れを探りながら立ち上がる乗客も他には居ない。無人の駅舎を出て近くの駐輪場に停めた原付を北へ走らせると、そう経たないうちにとある一軒家が見えてくる。小さいながらも立派な俺の城である。

 

「ただいま」

「おかえりなさーい。お疲れ様、ご飯までちょっと待っててね」

「なら先に風呂に入っちまおうかなぁ。もう入れるのか?」

「随分前に沸かし始めたから大丈夫だと思うよ」

「そうか。ありがとう」

 

 リビングから玄関に通じる廊下の向こうからこちらに覗いていた彼女は、そう言うと再びキッチンへ戻っていった。そういうことならば一刻も早く湯船に浸からない手はない。長野の冬は、東京など比べ物にならないほどに冷えるのだから。

 


 

「ふぅ……食った食った」

「どうだった?」

「ぐうの音も出ないくらいの大満足だ! あの酒もずっと気になってた奴でさ。どうして知ってたんだ?」

「検索履歴に何回も出てたから。飲みたいのかなって思ってネットで注文したの」

「おいおい、まさかパソコンを勝手に覗いたのか!? ………ま、美味かったし良しとするか」

「えへへ」

 

 彼女はエプロンを椅子に掛けると、ソファに腰掛ける俺の隣にぽっかり空いた座面へ収まった。もっとも俺が観ているバラエティ番組には目もくれず、今晩のご馳走をSNSにアップしようとあれこれスタンプを貼り付けているが。

 

「しかし、あんなご馳走作ってて大丈夫だったのかよ。そっちだって忙しいだろうし、今度の日曜に大会あるって言ってなかったっけ」

「あーあれ?大丈夫大丈夫、いつも通り打ってればいいって言われたもん」

 

 こいつの言う『大丈夫』ほど信頼できない言葉もないんだが、口に出したところで災い以外に呼び込むものはない。

 

「そういえば、お姉ちゃんから電話かかってたよ」

「照さんから?」

 

 宮永照――プロ麻雀界最強クラスの雀士で、同時に俺の義理の姉に当たる。こいつ然り照さん然り、宮永家にはきっと麻雀民族の血でも流れているのだろうが、代わりに普通のところでどこか抜けている。彼女が掛けてくる電話が吉報だった試しはなく、怪しい勧誘がかかってきたとかパソコンが壊れたとか、とにかく大抵の場合ロクな用事ではないのだ。

 ただしこの時期となれば話は別で、その用件には大方予想がついた。

 

「それでなんだって?」

「明日の昼過ぎくらいにそっちに着くけど、持っていくお土産は何が良いかって」

「お土産?そりゃいつものアレに決まってるだろ」

 

言わずもがな、アレとは『東京ばな奈』のことである。

 

「うん、私もそう伝えたんだけどさ。そしたらお姉ちゃん、たまには別のものも食べたくないかって執拗に」

「どうせ照さんが自分で食べたいだけだろうさ………って、もうこんな時間か」

 

 リビングの壁に掛けられた時計に目をやると、短針は既にその頂上を過ぎていた。もう少しこの和やかな雰囲気に浸り続けていたかったが、それを我慢した俺は布団にくるまる決心をした。

 

「そろそろ寝ないとな。明日は朝早いんだろう?」

「早いっていうか、いつも通りの時間だよ」

「知らん。俺は明日休みだし」

「ずるーい!」

「ズルいもクソもないだろ。ただでさえ有休溜まってるんだから」

「私も明日はずっと寝ていたいなぁ」

「おいおい、お前は休んじゃダメだろ」

「なんでよー! 私だってたまにはズル休みしても――――」

「そりゃ――――」

「――――?」

「――――!」

 

 結局俺たちが眠りについたのは、それから一時間ほど経った後の事だった。

 


 

「おはよう!もう起きたんだ?」

「あぁ、おはよう……」

「ごめん、私忙しいから朝ご飯は自分でなんとかしてね!」

「そんくらい自分で何とかするさ」

 

 俺が休日――世間的には平日だが――の割には比較的早い時間帯に目を覚ますと、既に着替えを終えた彼女があちらこちらへ騒がしく走り回っていた。起きたばかりの胃袋は朝飯を消化するにはもう少しウォーミングアップの時間が欲しいと訴えかけているし、かといって手伝うようなこともない。何もしないのもむず痒い俺がやはり働かない頭でいくらか考えた結果、たまには玄関で見送りでもしようかと思い立った。

 

「ヤバいヤバい、あと五分でバスが出ちゃう! ……そんなところで何やってるの?」

「いやさ、朝日があったかいなぁと」

「そ、そっか……とにかく、私はもう行かないといけないから」

「早めに帰ってこいよ? 照さんとお前が揃ったら出掛けるからな」

「わかってるってば」

「道草も食うなよ」

「食べないよ!」

「それでいい。行ってらっしゃい」

 

 

 

 

 

 

(メイ)

 

 

「行ってきます、お父さん」




登場人物

・宮永京太郎
 41歳。
 現在は長野県内の電機メーカーで設計開発の職に就いている。旧姓須賀。

・宮永明
 15歳(高校一年生)。宮永京太郎の娘。
 父親と二人で暮らしている。


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宮永一家の日常
再訪


―― 冬

 

 ゆっくりと走る列車から窓の外を眺め、私はこれからのことを考えていた。

 

 立川駅から特急に乗って二時間、そこから滅多に走らない在来線に揺られて更に二時間。車窓からは民家やビニールハウス、それからだだっ広いスーパーとホームセンターがちらほらと見える。それ以外何もない典型的な田舎だけれども、最近では東京の方こそ度が過ぎた都会なのではないかと思うようになってきた。

 

「あっ、あそこの橋が開通してる。ずっと工事中だったのに」

「あの山の左側に架かってる橋のこと? 一昨年の夏くらいにはもう出来てたよ」

「そっかー……ま、何年も来てないしそういうこともあるよね」

「どうして淡はしばらく来てなかったの?」

「んー、特に来る理由もなかったからかな」

 

 人生の中で十年という時間が占める割合は小さくない。例えば友達と大喧嘩をしたとすれば、その時は怒り昂ぶって「この事は一生忘れない!」と思うことすらあるだろう。だが実際には数ヶ月か一年もすればその記憶は薄れていき、じきに思い出すことも不可能になる。もちろん中にはその時間を以てしても忘れがたい出来事はあるわけだが、そうだとしても気持ちを落ち着かせるには十二分である。十年とは私からすれば今までに生きたうちの25%くらいを占めるわけで、それに余りあるほどの長さを持っている。

 あの子も大きくなったし、私はもうここに来なくたって大丈夫だろう。そう思っていたのだ。

 

「ということは今年はあるんだね」

「うん。久々に顔が見たくなっちゃって」

「ふふっ、何それ」

 

『次は 清澄 清澄 お出口は―――』

 

「ほら、そろそろ降りよっ。お土産忘れないでね?」

「………大丈夫」

「その間は絶対忘れてたよねテルー……」

 

 

 降り立った無人駅は背後に雄大な木曽山脈を抱えていた。彼の家までは車ならせいぜい十分くらいだけど、歩けば一時間はかかる距離だ。ただでさえ起伏の多い山里の道である上、それを進む足腰も年々衰えていくのを嫌でも実感している。それでも私はこの風景をとても気に入っていて、タクシーなんか捕まえて早々と通り過ぎるにはあまりにもったいないと感じてしまう。まあ、肝心のタクシーが殆どいないのでどうしようもないという事情もあるのだが。

 それにしても長野の冬は寒い。一般に気温は高度が100m上がるごとに0.6℃降下すると言われている。標高700mほどの清澄であれば東京より4℃くらいは低い計算になるのだが、とてもそういう範疇にはないレベルで寒く感じるのだ。とはいえ周囲の人気の無さが体感に拍車を掛けているのは確かであろうから、実際の気温はそこまで低くはなっていないんじゃないだろうか。

 もっとも、そんな不毛な論理を展開したところでこの寒さが薄らぐわけではない。歩いているうちに温まってくるのを願う方がよほど建設的だ。

 

「うぅ、今年はいつもより冷えるね……」

「まったく、東京育ちはこれだから」

「テルは寒くないの?」

「全然大丈夫。それにこの辺りは雪もあまり降らないし。北信に行くとこの時期でも――」

 

 したり顔で語るテルの顔は赤らんで白い息を吐き、よく見ればカタカタと小さく震えている。やっぱテルだって寒いんじゃん。

 

 

 目的地に着く頃には何だかんだコートの下は汗ばむほどに温まったが、それでも伊那谷に沿って吹く北風に晒された顔は痛いくらいに悴んでいた。山脈に挟まれた平野を田畑が埋め尽くす中にぽつんとできた、わずか十数戸の小さな新興住宅地。もう何度も訪れた場所ではあるが、念の為『宮永』という表札が掲げられているのを確認してからインターフォンを鳴らす。

 

 ぴんぽーん。

 

「………」

「出ないね」

「いないのかな?」

「連絡してあるし、そんなことはないと思うけど……」

「うーん……?」

 

 もう一度鳴らす。無反応。

 数分待ってから再度鳴らす。やはり無反応。

 

「……」

「……」

「……」

「…………あーもう!」

 

 痺れを切らしてボタンを連打するが、その度にインターフォンは同じチャイムの音を小さく響かせるだけである。壊れてるんじゃないの、これ。

 

「ちょっと淡、やめなよ」

「いーじゃん別に! アイツが出ないのが悪いんだから」

「………はぁ」

「早く開けろぉぉぉぉ!!!!」

 

 

「はーい! お待たせしました!」

 

 

 扉を開けて出てきた男は顔こそ明るく装っているものの、声色には隠しきれない苛つきが浮かんでいた。でもこっちだって待たされたしおあいこの筈だ。いや、三対七くらいでコイツの方が悪いよね。

 

「――って、あぁ」

「京ちゃん、久しぶり」

「照さん! お久しぶりです………げっ、淡までいやがる」

「この淡ちゃんが来てやってるのに『げっ』とはなんだ! キョータローのくせに!」

「アラフォーが自分のこと『淡ちゃん』なんて言ってんじゃねーよ」

 

 私、大星淡と宮永京太郎にとって、それは三年ぶりの再会だった。

 

 


 

 久し振りにやって来たこの家の様子は殆ど変わっていない。私たちが今座っている食卓と椅子はここ最近で新調したらしく、テレビなどの配置も多少動かされていたが、総じて以前見た通り小奇麗に整頓されているようだ。

 彼女がマメな性格で本当によかった。学生時代のキョータローは部室こそ率先して綺麗にしていたが、自分の部屋については結構適当な気立てだったはずだ。

 

「鳴らしたらすぐに出てきてよー」

「仕方ないだろ。寝てたんだ」

「怠慢」

「たまの休日なんだから別にいいじゃねーか……おっ、こりゃ美味い。淡も食ってみろよ」

 

 『バターサンド』を一口齧ったキョータローが話を逸らすように声を上げる。元々は東京ばな奈を所望されていたらしいが、結局テルはデパ地下で一時間近く悩んだ挙句にこちらをお土産として選んだのだった。だが一方の当人はと言えばそれに何か相槌を打つこともなく、いかにも妬ましそうにキョータローの顔をまじまじと見つめていた。

 

「俺の顔にゴミでも付いてますか?」

「そういうわけじゃないんだけど……京ちゃんは本当に老けないなって」

「あー、そりゃどうも。特に何かやってるわけじゃないんですけどね」

「テルだって全然若いじゃん」

 

 自分で言うのは憚られるが、私だってまだ色んな人から三十代前半くらいには間違えられる。いやいや、社交辞令じゃなくてマジで……たぶん。不老不死が三大プロ麻雀界ミステリーの一つであるというのはそこそこ有名な噂だ。

 

「不老不死ってのは流石に冗談にしても、実年齢より随分若く見える人はかなりいるな」

「小鍛治さんとか明らかにおかしくない?ひょっとして和了るたびに若さとか吸い取って――むぐっ」

「淡、そのくらいにしておいたほうが良いよ」

「……!」

「というか淡、お前お菓子食べすぎ。あいつの分が無くなるだろうが」

「ちぇーっ」

 

 十五個入が二箱もあるんだから少しくらい良いじゃないかとは思ったけど、私もいい年の大人だしここは素直に引くことにしよう。私に釘を刺すキョータローの目を盗んでテルが五個目をくすねた瞬間を見逃すことはなかったけど。

 その後も話題は絶えることもなくコロコロと変わり、昨日あったという昇進祝いの話やテルが優勝した話など最近の出来事を遷っていく。しかし最終的には私が結婚できないという話に落ち着くのが、この面子で集まった時のお決まりだった。

 

「私が悪いんじゃないもん! そもそも私に見合わない――」

「本当に難儀なやつだな、淡は」

「もう42歳だっけ? 人生諦めが肝心だよ、淡」

「まだ41だよ! 世間じゃ晩婚化がなんとかって言われてるしまだまだ………あれ、でもそういえば来週誕生日だったような」

「アラフォーはアラフォーでも、とっくに四十路に入ってる方だものなぁ」

「キョータローだって同い年じゃん」

「ああ、そういやそうだったか?」

「むぅ」

 

 年齢の話になるとどうしても二人には負ける。キョータローは別にいい。男だし既婚だし、子供もいるし。しかしテルは私と同じ行かず後家仲間にもかかわらず焦る素振りの一つもなく、とうに諦めているか元から興味がない様子なのだ。それが良いんだか悪いんだかはともかくとして、この余裕そうな態度に接すると何ともやるせない気持ちになってしまう。

 

「あーもうむしゃくしゃするなー! 麻雀でも打てば発散できるのになー!」

「そんな事言ったって三麻しか出来ないじゃねーか」

「えー? 別に私はそれでもいいよ」

「俺は気が乗ら――「ねぇねぇテルー、麻雀したいんだけどさー」――人の話を遮るなって」

「ねっ、一緒にサンマやろうよ」

 

「…………」

 

「テル?」

「……えっ? ああ、ごめん………ええっと、私も京ちゃんに賛成かな」

「がーん、麻雀出来ないじゃん」

「残念だったな」

「ぐぬぬ、もう一人いれば……メイはまだ帰ってこないの?」

「そろそろだと思うんだが」

 

 首を横にひねるキョータローの仕草に釣られるまま、私とテルの目線が部屋の壁に掛けられた時計へ向けられた。彼の趣味なのかはたまた彼女の趣味なのか、やけに前衛的で読み取りづらいそれはどうやら昼過ぎくらいを指しているらしい。

 その刹那、そんな私たちの会話をまるで待ちかねていたかのように、遠くで何者かが扉を開ける音がした。つまり――

 

 

「ただいまー!」

 

 

 彼女が帰ってきた。

 

 

 彼女が靴を脱ぐ音が聞こえる。立ち上がって式台を踏みしめる音が聞こえる。一歩二歩と、確かに彼女が近づいてくる音が聞こえる。廊下とリビングを隔てるドアノブが捻られるのを目の当たりにして――何故か身をこわばらせる私の心音が聞こえる。なぜだろうと思考を巡らすも、扉が開かれるまでにその理由が見つかることはなかった。

 

「うぅ、寒かった……」

「おーよしよしメイ、元気?」

 

 大丈夫、ちゃんと会話できてるっぽい。

 

「明、久しぶりだね」

「いらっしゃい、照お姉ちゃん」

「淡さんも来てたんですね。それなら教えてくれればよかったのに」

「あははー、ごめんごめん」

「淡、毎回言ってるけど来る時は連絡してくれよ。色々と用意があるんだからさ」

「別に気にしなくていいのに」

「そういう問題じゃないんだがなぁ……」

「それお土産? 私の分もあるの?」

「もちろん」

 

 そう言って放り投げられた鞄とコートが二次曲線を描きながら危なげもなく無事ソファに着地する。メイは私たちの囲む食卓へ腰を下ろしてから、箱に入った小さな包装の一つに細い腕を伸ばした。

 

「結局違うの買ってきたんだね……あ、美味しい」

「でしょ?」

「なんで照さんが威張るんですか」

「私が選んだから」

「さてと、メイも帰ってきたし半荘打ちますか!」

「却下」

「お父さんだって迎えに行かないといけないのに、そんな時間ないよ」

「なんでよ!面子集まったのに!」

「三麻が嫌だとは言ったけど、別に四麻なら良いなんてこれっぽっちも言ってないぞ」

「がっくし」

「あはは……あっ、そうだ! ねえねえお姉ちゃん」

「なに?」

「先月の雀聖戦おめでとう! ネットで対局見てたけどすごかったね」

「う、うん。ありがと」

「特に準決勝のオーラスなんて……」

 

 矢継ぎ早、目を輝かせて語るセーラー服の少女にテルは完全に気圧されていたが、それでも何処か嬉しげだ。こういう快活で外交的な性格は父親に似たのだろう。だが一方で少しオタクっぽい気質やその外見は母親そのものだ。

 

「メイってさ。やっぱりキョータローと並ぶと本当にサキそっくりだね」

「どういうことですか?」

「昔はこうやってサキがキョータローの隣に座ってたなーって思い出しちゃって」

「……淡、お前何言ってんだ?」

「えっ?」

「咲にそっくりって――――」

 

 

 そう言いかけて彼の動きはぴたりと止まった。まるで、歯車が壊れてしまった機械仕掛けのように。

 

 

「京ちゃん大丈夫?」

「………すみません、目が霞んで。明、目薬ってどこだっけ?」

「目薬なら洗面台の鏡の裏に入ってるよ」

「そうだったそうだった。いやー、最近物覚えが悪くて困ったもんだ」

「しっかりしてよね、お父さん」

「わかってるよ。ちょっと取ってくる」

 

 キョータローが席を立って廊下へと消えていくと、やがて奥からはガサガサという音と共に「あれ、どっちの鏡だったっけ?」などという声が聞こえてきて、メイは大層呆れたような顔をした。

 

「まったくもう……それで、何の話でしたっけ」

「えーっと、メイがサキに似てるよねって」

「そうなんですかね。いまいちピンとこないけど」

 

 間もなくいい加減出発しようかという方向に話は纏まり、壁のハンガーに掛けてあった上着に袖を通す。普段カジュアルに済ませてしまう私は黒のスーツなんて滅多に着ないし、それこそ今日くらいのものだろう。

 玄関から外に出ると、太陽は多少傾いただけで未だ天高くにあった。最近は随分昼が短くなってきたとはいえ日が沈んでしまうまでにはまだ余裕があるはずだ。ようやく出てきたキョータローの右手には車の鍵が握られていた。




登場人物

・大星淡
 41歳。立川ブルーセーラーズ所属のプロ雀士。
 趣味はゲーセン通い。

・宮永照
 43歳。立川ブルーセーラーズ所属のプロ雀士。
 宮永京太郎の義理の姉。
 趣味はドライブ。

・宮永咲
 宮永京太郎の妻で、宮永明の母。


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墓参

 キョータローの運転で走ること三十分。ある家の軒先に立った老人は、こちらに気付くと大きく手を振ってきた。

 

「お義父さん、お待たせしてすいません」

「いやいや、このくらい訳ないさ。淡さんは久しぶりだなあ。最後に会ったのはいつだったっけ」

「カイさん、私が前に来た時は入院してたよね。ってことは五年ぶりくらいじゃないかな」

 

 あの時はどうして入院なんてしていたんだったっけ。確か尿管結石とか何とかと聞いた覚えがあるが、記憶が定かではない。

 

「そんなに経つのか。歳を取ると時間感覚が分からなくなるってのは本当だなぁ」

「お父さん、体調は大丈夫なの?あんまり良くないって聞いてたけど」

「肺の話か? ちょっと前まではだいぶ悪かったけど、吸うのを止めたらさっぱりだ」

「もっと早く禁煙すれば良かったのに」

 

 そんなことを言われる本人以上にばつの悪そうな男がいる。

 

「お義母さんは昨日行かれたんですよね」

「愛はどうも最近また忙しいらしくてな。今朝早くに松本空港まで送っていったから、今頃モスクワ行きの機内だろう。みんなと行けなくて残念がっていたよ」

「…………」

「……さ、そろそろ行こうか」

 

 

 

墓地

 

 

「……お父さん」

「……何だ?」

「ここにお母さんがいるんだよね」

 

 娘が問いかける。もう何度も繰り返してきたことだろうに、何を今更疑問に思うことがあるのだろうか。

 

「ああ、そうだよ」

「……私、もう覚えてないよ。お母さんの顔」

「………仕方ないさ」

 

 父は答えた。

 

 お坊さんがお経を上げるのを正座し続けて待った後、足の痺れも取れないうちに私たちはお寺の横にある墓場へと向かった。誰かが頻繁に掃除をしているのだろうか、他のそれと比べて明らかに綺麗なままに整えられている。しかし構わずキョータローが軍手を両手に嵌めて雑草抜きを始めるのを見て他の人たちもそれに続く。バケツいっぱいの水に雑巾を漬けると、容赦のない冷たさが右手を刺した。

 

「ねぇキョータロー、なんでこんなことするのかな」

「こんなことって?」

「お墓の掃除」

「俺は、墓を綺麗にするってのは入ってる人を綺麗にするようなものだと思ってる。アイツだって綺麗な方が嬉しいだろうさ」

「『嬉しい』とか『悲しい』とか、そういうのって生きてるから感じるんじゃないの」

「んなこと言ったってなあ…………で、なんだ。掃除はイヤか?」

「そういうことじゃないけどさ。私たちがこうしてあの子のことを想っても、一方通行になっちゃってるみたいで虚しくて」

「なんか難しいこと考えてんのな」

 

 少なくとも私がここに来た理由は彼女を弔うことであって、これ以上哲学的な内容について議論するつもりはない。

 御影石を擦りながら辺りを見渡すと、隣の墓はあちらこちらから生えてきたままの枯れ草が伸び、苔や水垢にまみれていた。水鉢には得体のしれない虫の卵やら汚れやらが浮いている。程度の差こそあれど、そういった放置された形相のものはちらほらと見当たった。しばらくして入り口の方から一人の老婆がやってくると、ある墓の前で止まった。

 

 ようやく一段落つき、線香を上げて手を合わせる。五人と一人の寂しい十三回忌だ。

 

 

 テルがそう切り出したのは、一通りの事を終えてそろそろ帰ろうかという雰囲気になった頃だった。

 

「京ちゃん、折り入って話したいことがあるんだけど」

「構いませんよ。帰ってからでいいですか」

「……………」

「ええと………わかりました。淡、明とお義父さんを連れて先に帰ってくれないか」

「テルとキョータローはどうするの?」

「駅まで歩いて電車で帰るから大丈夫。京ちゃんもそれでいい?」

「別に俺は何でも。これ、車の鍵な」

「私はここにいちゃダメな話なの?」

「淡、お願い」

「………なーんてね。淡ちゃんもう大人だから、そーゆーの弁えてますよ」

 

 分かってはいたが、聞かずにはいられなかった。

 

「ほら、帰りにお寿司でも買って帰ろ? キョータローのおごりだよ」

「お給料日前に散財して困るのは私なんだけどな……ま、今日くらいいっか」

 


 

「淡さん」

「ん?どーしたの、メイ」

 

 メイは私のことを少し避けているような気がする。麻雀の相談ならテルの方が的確なアドバイスが出来るし、それ以外のことならキョータローに話せばよい。私は親類でもなければそこまで頻繁に会うわけでもないのだから、彼女にとっては対応に困る部分もあるのだろう。私にとっては親友たちの娘であり、生まれた瞬間からその成長を見守ってきた自分の娘同然の存在でもある。だからそんな現状を物寂しく覚えていたのだけど……

 ともかく、メイが自分から私に話しかけてくるというのはちょっと珍しいことだった。

 

「あの、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」

「あはは、そんな前置きいいよ。何でも言ってごらん?」

「お父さんとお姉ちゃん、やっぱり私のことですか」

「………ま、そりゃそうなるか」

 

 狭い山道の向こうから対向車がやって来た。車体を路傍に寄せて相手が通り過ぎるのを待ちながらバックミラーを覗くと、カイさんの皺が増えた顔はいつの間にか静かな寝息を立てていた。

 

 十二年前――メイが母親を失った直後にはキョータローもずいぶん参った様子で、私とテルは残されたメイを何かと気にかけていた。まだ小学生にもならないメイを助手席に乗せて大阪まで遊びに行ったのは、つい昨日のことにすら感じられる思い出である。

 しかし今私の横に座る少女は幼稚園児ではなく、もう高校一年生なのだ。私が初めて会った時の『彼女』と同じ歳になっていた。

 

「私も全然わからないけど、きっと大した事じゃないと思うよ。お金関係の話か、メイの進学がどーとかこーとかって話じゃないかな?キョータローはその辺いつも適当で全然考えてないからさ。テルが結構そういうこと気にしてて、実はメイが高校に上がる時だってキョータローと――」

 

 嘘だ。テルがそんなことのためにわざわざ墓地なんかで立ち話をしようとするだろうか。やましい話でもなければ、あの二人には落ち着いて話す機会くらい幾らでもあるはずだ。

 余程聞かれたくないことでもあるのか。

 

 

 「お前が咲を見殺しにしたんだ!!!!」

 「違うんです、照さん!俺は……ならどうすれば良かったっていうんですか!」

 「そんなこと知らない!お前が殺した!!お前が咲をッ!お前がッ!お前がぁぁぁぁぁああああッ!!」

 「テル、やめて!!落ち着いてほら……キョータロー、大丈夫?」

 「照さん……俺だって………俺は…………」

 「…………きょうた、ろう」

 

 

――嫌な記憶が思い起こされる。あの日も私たちは皆黒い服を着ていた。

 

 

 口から出任せを吐いたところで私の気は休まらない。でもそんな事をありのままメイに言えるはずもなく、

 

「だから放っといて大丈夫だよ」

「……そうだよね。最近の京ちゃん、疲れてるみたいだったから心配で……」

「――ッ!!!!」

 

 

「メイ………今、なんて言ったの」

 

 

 車が急に止まっても身体は進み続ける。そんな当たり前の物理法則に従って前のめりになった私たちを、ピンと張ったシートベルトが受け止めた。慌ててサイドミラーを覗き込むと、ずっと追い抜きたそうに後ろを走っていたバイクは間一髪で止まってくれたようだった。

 

「ふぅ、びっくりした……淡さん?」

「ううん………なんでもない。ごめんね」

 

 クラクションと怒号が聞こえてくる。窓を開けて謝罪してから、私は再びキョータローの愛車を走らせた。

 

「カイさん大丈夫?起こしちゃったかな」

「…………」

「寝てるみたいですね」

 

 私の知る上で彼を――宮永京太郎のことを『京ちゃん』と呼ぶ人物は四人いる。後部座席でバックレストにもたれ掛かる宮永界、マスターズ出場で今は日本にいない宮永愛、今頃本人と秘密の談合を交わしている最中であろう宮永照。

 そして、彼の妻である宮永咲。

 

 気のせいだとは思えなかった。

 一瞬だけ見せた口調はメイ自身のものとは到底考えられない。それこそ、まるで彼女のような…………

 


 

 今年の夏、私はあのインターハイを解説者として眺めていた。

 

「さあインターハイ決勝戦もいよいよ大将戦!この長き戦いにピリオドを打つ、選ばれし四人の選手たちをご紹介しましょう!!」

「まずは南大阪代表、姫松高校からは三年生――」

 

 まるでプロレス中継のような威勢の良い声がすぐ隣から聞こえてくる。例年ならここ十年近くコンビを組んできたアナウンサー(32)がここには座っているのだが、あろうことか先月彼女は産休に入ってしまった。アイツ、普段から飄々としてるのに気がついたら一丁前に……いや、こんなこと考えるだけでも見苦しい気がしてきた。

 そして代打としてやってきたのがこいつ。一緒に仕事をするには暑苦しすぎるけど、話してみれば結構楽しい男だ。

 

「……そして長野県代表。二年ぶりの出場を果たした名門、清澄高校から登場――期待の超大型新人、宮永明選手だーッ!」

「昨年度インターミドル個人戦第三位!日本で最も強い女子中学生の一人です!!」

「ねぇ、やっぱりもうちょっと静かにできない?」

「あははは、ご冗談を」

「別に冗談じゃないんだけど」

「ところで大星プロ。宮永選手とはお知り合いだとお聞きしましたが本当ですか?」

 

(こういうのって言っても大丈夫なのかな?…………まあいっか)

 

「はい。ご両親と古い付き合いで、彼女とも小さい頃から打ってますけど……」

「相当強いですよ」

 

 メイは昔から麻雀が強かった。サキとキョータローの娘だし、当然といえば当然だ。

 しかしここ数日のメイは明らかに普段の打ち筋からかけ離れていた。彼女の十八番であるはずのチャンタ手が殆どない上、どう考えても不可解な打牌が増えているのだ。その理由を見定めることは解説席に座る私の目的の一つでもあった。

 

 

 南四局

 

晩成136000
清澄89200
姫松73900
白糸台100900

 

北家:宮永(清澄) 11巡目

ドラ:{北}

{③③③⑤⑥⑥⑦⑨⑨⑨北北北} ツモ:{②}

 

「宮永、ここでようやく二筒を引き入れて混一ドラ3の聴牌。ダマでも跳満確定、高目が出れば倍満!残り六巡で間に合うか……あれ?」

 

→打:{北}

 

「北落とし!?これはどういった意味でしょうか」

 

 混一色ドラ3も清一色も六翻。一見ただの損に見えるが、私は既に{北}が一枚場に切れていることに気づいた。

 清澄が優勝するためにはトリプル条件、それも一着への直撃が必要だ。現状の手を三倍満に届かせるには立直を打つしか選択肢はないが、そうすれば筒子染めが見え透いている以上晩成からの出和了りは不可能に等しいだろう。二着の白糸台と四着の姫松はそれでも押してくるだろうけど、そっちから取ったところで役満でも二着にしかならない。

 しかし、一度手繰り寄せた光明を自分の手で塞ぐのは中々難しい。裏が一枚でも乗れば優勝………手を崩せば次の聴牌さえ危ういのだ。出来るとしたら、それは――

 

「あるんでしょう。望み薄の賭けなんかじゃない、絶対的に信頼できる何かが」

 

 『何か』は、確かにあった。

 

 


 

 

白糸台高校

 

 

 二十五年前の夏のことだ。部室でアイスを食べながら涼んでいる私の前に、どさりと音を立てて大量の資料が積み上がった。DVDのケースが三つと気が遠くなるような分厚い紙の束がやはり三つ。目を点にした私に対して菫先輩は、

 

「なにこれ?」

「対戦相手が出場した県予選決勝の録画と牌譜だ。淡のために大将戦だけ抜き出してある」

「えー、ここまでのインハイ全部観てたから大丈夫でしょ」

「まあそう言うな。明日の決勝に向けての準備だよ。淡を信じていないわけじゃないが、念には念を入れなくちゃな」

「センパイが観ればいいじゃないですか。あとで教えてくださいよ」

「自分で観ないと意味ないだろッ!」

 

 結局彼女と肩を並べながら続けざまに二本のビデオに目を通すことになった。奈良県予選に東東京予選、映像を観ては牌譜を読んで検討することを続け――最後に先輩がリモコンを操作してトラックを三本目へ移す。

 

(へぇ……この子なんだ)

 

 

 「ねぇテルー。長野の宮永サキって、テルの妹?」

 「……………………うん。妹だよ」

 

 

「スミレー、あの金髪の子って誰?」

「西家の龍門渕か?やっぱり気になるか」

「あれは天江衣、昨年度のインハイ最多得点選手だ。圧倒的な支配力で他家を寄せ付けない………化物級の打ち手だよ」

「なら、その化物を抑えて全国に来たっていうこの子は魔王かな?」

「照の妹だし、あながち間違いじゃないかもしれん」

「でもテルは妹じゃないって言ってたよ」

 

 一応形だけでも否定しないわけにはいかない。

 

「どう考えてもあんなの嘘に決まってる。過去に何があったかは確かだが……まあ、そこは家庭の問題というやつだ。私たちが首を突っ込んでいい話じゃないさ」

「先輩は大人なんだね」

 

 菫先輩は苦労人だった。尭深と亦野先輩はそうでもないにしても、私やテルが先輩にどれだけ迷惑を掛けていたかを痛感したのは彼女が引退した後だった。それでも出場選手としての練習や調整は勿論のこと、虎姫やその他の麻雀部員、顧問との板挟みに苦悩している一面があることを私は少しだけ知っていた。彼女が自分自身を守るために身につけたのが割り切るということであり、大人のように振る舞うということだったのではないだろうか。もっとも、そこで知らぬ存ぜぬには徹せないのが菫先輩の優しいところなのだけれど。

 閑話休題、その頃には画面に映るサキの手牌は着々と筒子一色に染まっていっていた。ラス親鶴賀は国士一向聴、南家風越はスッタン{⑦}待ち……そして西家の龍門渕がメンタンピンの聴牌。オーラスにして一触即発の場面だ。

 

「淡、そろそろだぞ」

「うわっ、りゅーもんぶちが掴まされた」

「……ねぇ、菫先輩」

「どうした?」

「この子、一筒を切るとき何を考えてたのかな」

「うーむ……清澄と鶴賀の河は筒子が一枚も切れてない。当然警戒はしただろうがなにせ6万点差のトップだからなぁ。自分が三面張を和了りきればその時点で龍門渕の優勝は決定。役満は無いと踏んで押したんじゃないか」

「そーゆーことじゃなくてさ……いや、やっぱなんでもない」

「は?お前何を言って……」

 

『もいっこカン!』

 

(きたっ!)

 

 風花雪月という役がある。あるいは二索槍槓、あるいは一筒撈月というような役もある。『古役』と呼ばれるそれらは廃れて現代に姿を認めることはできないが、私はそこに込められたストーリーが好きだ。{⑤}(五筒)を花びらに見立てるなんてロマンチックじゃないか。最初にこの役を思いついた人は詩人だったか、そうでなくとも相当想像力が豊かだったに違いない。

 森林限界を超えた高い山の上。そこに咲く花は強く、そしてきっと――

 

 

『ツモ』

『清一対々三暗刻三槓子、赤1……』

 

 

北家:宮永(清澄) 16巡目

ドラ:{北188}

{⑤⑥⑥⑥} {裏②②裏} {裏③③裏} {横⑨⑨⑨⑨} 嶺上ツモ:{[⑤]}

 

「嶺上開花」

 

 

 

「き、決まったーッ!全国高校生麻雀大会ここに終結!!のべ3438校の頂点に立ったのは………」

 

「長野県代表、清澄高校だぁぁぁ!!!」

 

 

 

 

 

「しかし宮永選手、オーラスで派手に魅せてくれました」

「奇しくも宮永選手のお母様は嶺上開花の使い手として名声を馳せた故・宮永咲プロ。まるで母親の意志を継ぐのだと言わんばかりの闘牌です!」

「いやはや大星プロ、この大将戦を終えてどのように………あれ、大星プロ?」

「………五筒開花、か」




登場人物

・宮永界
 宮永照、宮永咲の父。

・宮永愛
 宮永照、宮永咲の母。
 シニアプロとしてプロ麻雀界に復帰しており、色々と忙しいらしい。


用語解説

・五筒開花
 古役(古い中国麻雀に由来する役)の一つ。五筒の図柄を花弁に見立て、嶺上開花での和了牌が五筒であった場合に満貫としたもの。(Wikipediaより)


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姉妹

 インターハイ関連の仕事が粗方片付いた八月の中旬、少し遅めの盆休みを取った初日の深夜のことだ。他に人影のないSAでジュースを飲みながら、私は未だに彼へ連絡を入れていなかったことを思い出した。

 

『………もしもし』

「もしもし、京ちゃん?」

『あぁ…………なんだ、照さんか………』

「ひょっとして寝てたかな」

『そりゃあんた、今何時だと思ってるんですか……………』

 

 そんな彼の言葉に近くの屋外時計を見る。なるほど確かに、短針は既に『3』のあたりを通り過ぎた後だった。

 車に乗って一人でどこかに行くのが好きだ。車は私に何も聞かず、何も言わず、ただ私をどこまででも連れて行ってくれる。朝には確かに帰省するつもりで家を出たのだが――少し前に観た昔の大河ドラマのせいだろうか――走っているうち不意に上田城が見たくなったのだ。そういった衝動のままに無計画な行動を繰り返した結果、こんな景色も見えない真夜中に中央道を一人走っているのである。

 

『それで、この真夜中に何か用事でも?』

「これからそっちに帰るから連絡しておこうと思って」

『……は?』

「今は諏訪湖のサービスエリアで休憩中。渋滞もないし、あと一時間半くらいで着くんじゃないかな」

『つまり、冗談抜きにマジでこれからウチに来るってことですか』

「うん。行っても大丈夫?」

 

 京ちゃんが名状しがたい唸り声を上げる。電話越しでもいつもの困った顔がありありと浮かんでくるようだ。

 

『はぁ…………ま、いいですよ』

「いいの?」

『今から来ちゃダメだから引き返せだなんて言えないでしょ。ズルいですよ、照さんは』

「ふふっ、ごめんね」

『照さんが着くまで起きてますから、早めに来てくださいね』

「ありがとう」

 

 ツー、ツー、という電子音が通話の終わりを知らせた。

 夏夜の空気が身体に暑苦しく付き纏うけれど、それでも東京に比べればかなりマシに思えた。軽井沢なんかに行けばもっと快適になるんだろうか。

 

 

 

「ふぁぁぁぁ……おはよー………」

「おはよう。お寝坊さんだね」

「………あれ、私ったら寝ぼけてるのかな」

 

 やっとの思いで辿り着いて一眠りしてまた起きて特にすることもなく庭の草木を眺めていた頃、明は眠そうな目を擦りながらようやく一階へと降りてきた。彼女は京ちゃんが私からの電話を受けた頃には既に布団に入っていて、私がここに居ることを全く知らないようだった。まるで変な物でも見るような目でこちらを一瞥した明に対して京ちゃんが事の顛末を説明する。

 

「お姉ちゃんが真夜中に運転!?だ、大丈夫?事故とか起こさなかった!?」

 

 私の趣味は十分周知されているはずだ。未だに私のことをおっちょこちょいの少女だと思っているのではあるまいし、かといって事故を起こすような運転もしていない。にもかかわらず何故毎回こうして心配されるのだろうかというのは、長いこと心の底でそのままになっているちょっとした疑問なのである。

 

 

 まもなく京ちゃんお手製の昼食――といってもただ素麺が山盛りになっているだけである――が食卓を埋めた。

 

「いただきます」

「「いただきます」」

 

「インハイお疲れ様、明」

「お姉ちゃんこそ解説のお仕事大変だったでしょ」

「私は二回戦までだったしそうでもないよ。むしろ決勝戦まで担当だった淡のほうがよっぽど」

「淡さん、最近来ないね」

「あいつだって色々忙しいんだろ」

 

 彼女が清澄に足を運ばなくなって二年か三年くらいが経つ。常に一緒に行動していた以前と違って淡の仕事を全て把握しているわけではないが、来る暇もないほど多忙を極めているということでもないはずだ。あるいは、何かここへ来にくくなるような事情でも出来たか……果たして彼女がそういった類を気にする性分であっただろうか。

 

「決勝といえば、大将戦は圧巻だったね」

「あの点差のまくりだもんなぁ。まるで藤田さんみたいだったぜ」

「正直自分でも怖いくらいだよ……普段の私だったらあんな打ち方絶対にしないのに。結局運が良かっただけだし、何だか申し訳ないなって思っちゃって」

「運も実力のうちってよく言うもの。プロだってだいたいそんな感じだから大丈夫だよ」

「ホントかよ…」

「京ちゃん、何か言った?」

「いや、何も」

「……まあいいけど」

 

「しかしオーラスは本当に凄かった。まるでドラマのワンシーンを観てるような気分になっちまったよ」

「お父さんも来ればよかったのに」

「だから仕事があるから行けなかったんだって。また今度な」

「いっつもそんなことばっかり!結局見に来てくれたことなんて一回もないじゃん」

「そりゃお前、長野や松本ならまだしも東京まで行けって言われてもなぁ………」

 

 インターミドル時代から毎夏のように明は東京へ行っているのに対して京ちゃんは決してそれを見に行こうとはしない――というか、東京という場所そのものを避けているように見える。私がそのことについて問うと、彼は毎回「ほら、親父がそんなに出しゃばったら子供は恥ずかしいでしょ?」などと言ってお茶を濁す。一方の明本人は満更ではないし、むしろ父親に自分の活躍を見て欲しがっているにもかかわらずだ。もっともそれ以上彼の詭弁を追求するつもりはないし、仕方のない話であるとは思う。

 

 ………ふと、明が箸を右手に持っていることに気がついた。私の記憶にある限り彼女は生来左利きで、特別右手を使わせるような矯正を咲がしていた覚えはない。今更になって京ちゃんがそんなことをさせるはずもないだろう。

 

 

 

 宮永家では人が集まった夜には麻雀を打つのが暗黙の了解である。十年ほど前に淡が持ち込んだ雀卓を三人で囲みながら私はじっと明の手元を観察していた。

 

「東京でも麻雀、帰ってきても麻雀、そのうえ家でも麻雀かぁ」

「そこまで言うなら今日はやめるか?」

「やる」

「明は相変わらず麻雀ジャンキーだな」

「お父さんだって好きでしょ」

「そりゃそうだけど……おっ、久々に悪くない配牌」

「ちょっと、つまんないんだから三味線なんてやめてよ」

「へーへー」

「…………」

 

 何十年もやってきたように慣れた手順で理牌をしながらも私の頭には昼間の疑問が未だに引っかかっていた。あれからも明は右手で物を掴み右手でペンを走らせ、右手でうちわを扇いでいるのである。彼女が右手で牌をツモ切った瞬間に私はとうとう我慢できなくなって、

 

「ねえ、明」

「どうしたの?デザートなら冷蔵庫に入ってるけど、選ぶ権利は着順だからね!」

「そういう話じゃなくて。明って左利きじゃなかったっけ」

「うん」

「それなのにご飯の時は右手で箸を持ってたし、今だって右手で打牌したよね」

「えっ?…………ほんとだ。確かに言われてみればそうかも」

「そういえば、最近右手で何かしてることが多い気がするな。両利きのトレーニングでもしてるのか?」

「ううん、そんなことないけど」

「ならどうして?」

「どうしてって言われても………えーっと…………………」

 

 彼女はしばらく考え込むように黙りこくっていたが、適切な答えが見つからなかったらしく結局は首を横に振った。

 利き手についての話がそれ以上話題に上ることもなく、明と京ちゃんはすぐに興味を失ったようだった。

 

 

―― 一時間半後

 

 

「ツモ。6000オールは6300オール」

「げっ、もう跳満かよ……おい明、なんで10万点持ちなんかにしやがった」

「だってお父さんがすぐ飛んじゃうかと思って」

「この調子で夜が開けなきゃいいがな。お前、明日部活じゃなかったか?」

「うん……というか、もうだいぶ眠くなってきちゃった………」

「さぁ、次行くよ」

 

 こういう日に限ってやけにツキが回っているらしい。次の三倍満以上も難なく組めそうだし、それどころかこの調子で幾らでも連荘できるようにすら感じた。しかし高校生の頃には菫に頼まれて部室で夜通し打ったこともあったとはいえ、最近は『夜更しは肌の大敵』という言葉の重みがますます増していくのである。

 次で和了り止めしよう………深夜一時前を指す時計と、育っていく手牌を見て私はそう思った。

 

 

南三局 四本場

 

東家:宮永(照) 十二巡目

ドラ:{三}

{九111345678999} ツモ:{1}

 

 

 嵌{2}待ち聴牌。この二人からは絶対に出ないだろうけど、あと二巡もあればツモれるだろう。そう確信した私が……

 

 

「…………カン」

 

 

 {九}を切った直後だった。

 

「大明槓?」

 

 如何にも眠たげな明があまりにも弱々しい右手で私の河から牌を取り上げる。そしてそれは流れるように王牌へと伸ばされて――

 

 

「ツモ、嶺上開花」

 

「……………!」

 

 

 

西家:宮永(明) 十二巡目

ドラ:{三北}

{四五②②②④⑤⑥⑥⑥} {九横九九九} 嶺上ツモ:{六}

 

 

「えーっと、400-700かな」

「四本場だから800-1100だな。ほら」

「あ、そうだった………ふぁぁぁぁ、やっとおわったよ…………」

「眠いか?」

「うん……私もう寝るから、デザートは適当に選んじゃって」

「おう。歯磨きくらいしろよ」

「そのくらいわかってるよ。おやすみー」

「あぁ、おやすみ」

 

 明がよろよろと居間を出ていった後には私と京ちゃんの二人だけが残った。全自動麻雀卓の喧しいジャラジャラとした音もせず、どこからか鈴虫の鳴く声が網戸の隙間をすり抜ける。

 京ちゃんは重そうに腰を上げて大きく伸びをした。

 

「ふぅ……あいつはシュークリーム好きだし、俺はどら焼きでも食うか。これからお茶淹れますけど照さんは飲みますか?」

「……………要らない。私ももう寝るから」

「……もう寝るんですか?」

「うん」

「そっすか。おやすみなさい」

「おやすみ」

 


 

「………つまり、何が言いたいんだ」

 

 二人きりの墓場で私はあの日のことを話した。推測など入れずただただ淡々とあの日あったこと、あの日思ったことだけを語った。

 

「明が母親の……咲の真似をしてるってことですか」

「ううん、あれは『咲の真似』なんかじゃない。『咲』そのもの」

「すみません、俺にはあなたの言ってる意味が本当に解らないんです。明は明だ。それ以外の何者でもない」

 

 全身を黒く染めた義理の弟の顔には明らかに苛立ちが浮かび上がっていた。理解できない苛立ちだろうか。理解してしまったが故の苛立ちだろうか。彼は白髪の混じり始めた金髪を掻き毟ってから懐を漁ると、

 

「……火、切らしちまった」

「はい」

「いいんですか?嫌いなのに」

「スッキリするんでしょ。真面目に聞いてもらえないと困る話だから」

「ならお言葉に甘えて………ふぅ」

 

 私は線香用に持ってきていたライターを懐から差し出した。

 「タバコを吸えば目が覚める」という言説には甚だ疑問が残る。ニコチンが欠乏したせいで途切れている集中力が喫煙によって本来のレベルまで回復するだけであって、決して元の能力より集中力が向上するわけではない。しかし少なくとも彼がこうして続きを聞くつもりになってくれたのは紛れもなくその口元から燻る紫煙のお陰だろう。そのためならこの臭いを我慢することくらい安いものだ。

 

「あの日のことは覚えてます。そりゃ確かに嶺上は滅多に和了れないけど、ずっと打ってれば俺だって年に何回かはありますよ。眠かったから何としてでも連荘を止めたくて、聴牌したところに四枚目が出たから運試しくらいの気持ちでカンしてみたら偶然和了れた……それだけの話じゃないんですか」

「違う。それじゃあ急に右利きになったことの説明がつかない。それにあのインターハイ………あのオーラスも『偶然』で片付けるつもり?あなただってあの試合は覚えてるでしょ」

「…………当たり前ですよ。麻雀は運が絡むゲームなんだから」

 

「あの雰囲気は絶対に明のものじゃなかった。咲だ」

 

 第一明のオカルトは么九牌を集めるもののはずだ。まるで王牌を知り尽くし弄ぶような、あんな真似を出来るはずがない。

 

「あれは咲。咲だったんだよ」

「そんなもの全く感じ取れませんでしたけどね」

「それは京ちゃんには――」

「――俺にはオカルトの才能がないから、ですか?」

「……………うん」

「あなたの言う通り俺にオカルトは分からない。でもだからって、そんな事あるはずが……………」

 

 彼は数度天を仰いでから区画の端に腰を下ろし、頭を抱えるとそのまま微動だにしなくなった。私はそれを何も聞かず、何も言わずにただ待っていた。

 反対の方で墓参りをしていた老婆は訝しむようにこちらを見ていたが、しばらくすると立ち去っていった。

 

「………照さん」

「何?」

「もう、帰りましょう」

「わかった」

 

 京ちゃんが煙草をまた吸うようになってどれくらい経つのだろうか。明の誕生と同時に禁煙したはずだったが、あの事故の後に初めて赴いた時にはベランダの灰皿は一杯だった。

 

「………咲、また来るよ」

 

 彼は突然振り向いて墓碑に刻まれた名前を一瞥した。そして再び振り戻って元の道を歩き始め、私はその後を追った。

 

 

 

 アスファルトで塗り固められた山沿いの道を下ると住宅街が見えてくるまでにそう時間はかからなかった。その間、彼は一言も喋らなかった。

 県内でも五本の指に入るこの街は決して大都市ではないし大きな商業施設があるわけでもない。しかし活気がある。二車線の車道を何台も自動車が走り去る。日の暮れと共に人家には明かりが灯り、居酒屋からは笑い声が漏れ出す。向かいの歩道を学生の一団が駅に向かって歩いていくのを認めたとき、私は久しぶりに生きた人間の営みを目にしたような気がした。

 

「さみー………おっ、自販機発見。コーヒーでも買おうかな」

「いいね。私もほしい」

「ブラック飲めないんでしたっけ」

「そんなことない。ブラックだろうがベンタブラックだろうがどんとこい」

「はいはい、ちょっと待っててくださいね」

 

 彼を待ちながら近くの街路樹に背中を預けると、行き交う車の一台に乗る人と目があった――気がした。

 清澄の風景を思い出す。淡と二人で田舎道を歩く間に私たちはたったの一人にも会うことはなかった。隣を何台かの車が通り抜けていったけど、そこには会話や表情、意志の疎通は存在しない。中に誰かが乗っていて車を運転しているはずなのに、生きる人間の存在を認知することはないのだ。

 

「お待たせしました。ブラックとカフェオレ、どっちがいいですか?」

「ブラ…………やっぱりカフェオレで」

「くくくっ、はいどうぞ」

「……別にブラックが飲めないわけじゃない。どちらかといえばカフェオレの方が好きなだけだから」

「分かってますよ」

 

 京ちゃんはどうして清澄に家を建てたのか。何故私の両親の助けも借りることもなく彼の両親と共に住むこともなく、明と二人きりで暮らすことを決めたのか。こうしておちゃらけた様子を見せる彼は初めて知り合った時のままだ。

 

 他愛もない会話を交わしながら地下道を通って駅の南側へ渡ると人通りは更に増えた。

 そういえばこの駅前には思い出のレストランがあるんだった。私が子供の頃、祝い事なんかの折にはお父さんに連れられてわざわざ家族でここまで来たっけ。

 

「ちょっと寄り道してもいいかな」

「いいですよ。何か用事でも?」

「昔よく言ってたお店がこの辺にあるはずなんだけど、まだ残ってるのか見ておきたくて」

 

 駅から直線状に伸びる大通りを歩きながら、あそこで最後に食事したのがいつだったか思い出していた。両親が別居する前だから遅くとも小学校の――いや違う。高校三年の冬だったか、数年ぶりの帰省の折に咲と行ったのだった。流石にもう残っていないだろうな……でも、万が一まだあったらどうしよう。明日の昼あたりにでも食べに来ようか。

 見覚えのあるレンガ調の建物が見えてきた。記憶が正しければこの地方銀行の裏手にその店はあったはずだ。パンプスを履いているもの忘れてだんだんと歩みが早くなり、次第に小走りになっていく。そう、ここの角を曲がれば――

 

「………あ」

「ここですか?」

「……………………ううん、違った」

 

 もう二十年以上も前のことだ。無くなっていても全然不思議ではないし、特段私の人生に影響のある話でもない。私たちは踵を返すとそそくさと駅に向かった。

 

 

 私たちが切符を買ったのと列車がホームに到着したのはちょうど同じタイミングだった。吐き出される乗客の間を縫って車内に入り、誰も居なくなったボックス席の一つに腰を落ち着ける。

 高校の制服を着た女子が数人乗り込んできた頃に列車は少しずつ動き始めた。

 

「そっか、風越ってここが最寄りなんだっけ。ひょっとして麻雀部の子なのかな」

「もしそうなら大騒ぎになりますよ。『トッププロがこんなところにいるぞー!』ってね」

「流石にないよ。私、そんなに知名度ないし」

「照さんは有名人でしょうよ。麻雀に疎い会社の同僚ですら知ってますから、強豪校の部員が知らないわけないでしょ」

「そしたら京ちゃんだって有名人じゃないの」

「いまどき俺を知ってる人なんてどこにもいませんよ」

 

 都会の電車と違って風景がゆっくりと流れていく。曲がりくねった線路だからあまりスピードが出せないのだ。しばらくは住宅街を通っていたが、やがて枯れ木のトンネルが車窓を埋め尽くすようになった。

 

「麻雀、好き?」

「そりゃもちろん。好きでもなきゃこんな人生辿ってないでしょ」

「なら、咲と麻雀ならどっちが好き?」

「…………おかしいですよ。今日の照さん」

「プロを辞めた時だって実業団を辞めた時だって、いつもあなたはそうだった。大好きな麻雀を続けることなんていくらでも出来たのに、ずっと咲から逃げてきたんだ」

「そんなこと……!」

「『そんなこと』ってどんなこと?これからの人生も咲に囚われ続けるつもりなの」

「……自分で全部決めたんだ。咲に囚われてなんかいない」

 

 確かに、彼はそう言った。

 

「咲は死んだし、俺は生きてる。それだけのことですよ」

 

『対向列車待ち合わせのため一時停車いたします』

 

「……なら京ちゃん、一つ提案がある」

「一体なんですか」

「あのさ――」

 

 

「――結婚、しない?」

 

「…………………………はっ?」

 

 沈黙。

 

「……すみません、誰の話ですか。一応言っておきますけど、明を嫁にやるつもりはまだまだありませんよ」

「明じゃない。京ちゃんが」

「俺が?」

「私と」

「照さんと?」

「うん」

「はぁ、そうですか」

 

 虚を衝かれた顔。

 当たり前だ。私が彼の立場でも同じような反応をするに違いない。

 

 前方からやって来た列車がすぐ右隣を通過していくと、ようやく私たちの乗る車両もゆっくりと加速を始めた。次の駅に到着しようという頃になって、京ちゃんはその口から言葉を吐き出した。

 

「本気で言ってるんですか、それ」

「冗談だと思う?」

「その通りならどれだけ嬉しいことか。こんなに悩まなくて済みますから」

「残念だったね」

「どうしてこんなことを」

「結婚生活がどういうものか気になったから。興味が沸いた」

「そんなもの、俺たちの間近でずっと見てたはずでしょう」

「だからだよ。咲の持ってるものが羨ましくなったんだ」

 

 昔からそうだった。

 私は咲にないものを持っていたし、咲は私にないものを持っていた。

 私は咲にあるものを羨ましがったし、咲は私にあるものを羨ましがった。

 

 私たちはそういう姉妹だし、それはずっと変わらない。

 

「それに、明にとっても悪くない話だと思うけど」

「……そんなの咲に顔向けできませんよ。あいつのお姉さんとなんて」

「ふふっ、自分で言ってたくせに。何を今更」

 

 咲はもういないけど、あなたはここにいる。それだけの話だ。

 

『次は 清澄 清澄 お出口は左側です』

 

「……………考えさせてください」

 

 

 昼間に淡と降り立ったのとは反対側のホームに列車は止まった。運転手に切符を二枚渡してから横のボタンを押して扉を開ける。日が完全に落ちた駅舎をいくつかぶらさげられたランプが照らしているが、なんとも心もとない明るさだ。

 

「この時間ならまだバスがありますね。きっと病院帰りのご老人で一杯でしょうけど、どうしますか?」

「バスがいい。歩くのは疲れたから」

「それじゃ、待ちましょうか」

 

 彼はそう笑った。



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夜半

『墓参』の続きからです


 メイとどうにか話せないものかと思っていたが、それも叶わぬままにインターハイは終わりを告げた。対局室を出た瞬間から彼女の周囲を記者が囲み、迎えに来た部員たちと共に控室に帰るまでにも誰も彼もが好き勝手な質問を投げかけながらマイクを向ける……そんな状況が表彰式も終わり清澄高校麻雀部一同が長野へ帰っていくまで続いていたのだ。ともかく、個人戦まで仕事を受け持っていた私にはメイと接触する機会は一度としてなかった。

 そしてその機会が今まさにやって来ている。カイさんは未だに寝たままだし、私たちの会話を邪魔するものは何もない。

 

 ――いや、少し聞くだけならいつだって電話できたんだ。それを今までしなかったのは私の気が進まなかったからで、今日だって別にその話をするつもりは微塵もなかった。ただ聞かざるを得ない状況になってしまっただけだ。

 

「ねぇメイ、ちょっと聞きたいんだけどさ」

「なんですか?」

「メイといえばチャンタじゃない。伸びる時はホンローとか」

「ま、麻雀の話ですか…」

「大丈夫だいじょーぶ、そんな堅苦しい話じゃないから」

 

 チャンタを組もうとすれば必然的に愚形が多くなるので手作りは中々上手くいかないし、聴牌出来たとしても河は中張牌であからさまに染まることになるので出和了りは見込めない。しかし他家がどんなに絞ったとしてもメイは着実に、そして確実に么九牌を集めるのだ。一部の人々が彼女を『牌に愛された子』と評しているのも頷ける話である。

 それを踏まえれば、今年のインハイでは二回戦で純チャンをたった一度和了ったきりだったというのは尚更不可解に思える。

 

「でも夏はそうでもなかったよね。決勝のオーラスなんて最もたる例だけどさ……何かあったの?」

「……実は一時期から么九牌がだんだん来なくなっちゃって、代わりに暗刻がたくさんできるようになったんです」

「まさかオカルトが変わったってこと?」

「わかりません。元の感覚が戻ってくることもあるから――普段通りに打ってチャンタで和了れる日もたまにはあるんです。そういうときはどこに何が埋まっているか見えるし、どの形で待てばいいかもなんとなくわかるんだけど」

「じゃあ暗刻のときは違うんだ」

「そうなんです。何が起こってるのか自分でも全然わからないのに、手だけはどんどん勝手に進んでいっちゃうし………正直、気味が悪いくらいですよ」

「誰かに相談はしたの?」

「先生には話しました。そしたら『あなたくらいの年齢の子にはたまにあることだから、しばらくは様子を見てみましょう』って」

 

 果たしてこれが本当に『たまにあること』なのかという問題はさておくとしても、顧問としてあまり真摯な返答とは言えないのではないだろうか。かといってそんなことをメイに言ったところでどうにもならないし、人まずは適当に聞き流しておくしかない。

 

「なら、サキの試合を見たことはあるのかな」

「片岡プロから貸してもらった昔のタイトル戦のビデオを何度か観てみました」

「ユーキから?キョータローじゃないんだ」

「お父さん、試合の記録は全部捨てちゃったらしいんです。お母さんの分も自分の分も」

「……ふーん」

 

「暗刻が出来やすいのはサキの影響かも。オカルトが遺伝することもあるって話、聞いたことある?」

「あっ、そういえば先生がそんなこと言ってました」

「そっか。なら、あの子の対局を見て勉強するのも悪いことじゃないと思うよ」

 

 本当にそれが遺伝のせいならね。

 

『まもなく目的地周辺です 運転お疲れ様でした』

 

「さてと。少し時間かかるだろうけどここで待ってる?」

 

 再び車内を見渡すと、やはり私の他にはメイとカイさんしか居なかった…………当たり前か。なんでこんなこと考えたんだろう。

 メイが何も言わずに頷くのを見て、私はゆっくりと車を駐めた。

 

 

 

「それにしても不思議だよねー」

「何が?」

「長野には海なんてないのにお寿司屋さんはあるなんてさ」

 

 手に付いた酢と醤油の匂いをウェットティッシュで拭い取りながらそんなことを思う。

 私が入った寿司屋はどうも地元でも有名な老舗だったらしく、五人前の持ち帰りと一緒に渡された領収書を見たときには少し驚いた。最終的にそれはキョータローの手に渡り、「給料日前なのに…」という恨めしそうな台詞を呟くことになったのは言うまでもない。

 

「道路や鉄道が無かったような時代じゃないんだから。寿司屋くらい全国どこにでもあるよ」

「でも確かあそこの店って『慶應ウン年創業』とか書いてなかったか?」

「お姉ちゃん、慶應っていつだったっけ」

「私に聞かないで」

「江戸時代の本当に最後の時期だな。明治になる一個前の元号だ」

 

 昔は駿河湾から富士山の西側を通って甲府に至る街道が非常に栄えており、そこから諏訪を経て伊那の辺りまで生魚が流通していた。そういった経緯もあって内陸の長野でも寿司を食べることが出来たのだ――と、カイさんは物知り顔で語ってみせた。

 

「へぇー、そうだったんだ。おじいちゃんって案外博識なんだね」

「案外って……」

「そういえば、皆は今日は泊まっていくのか?」

「私と淡は流石に泊まりかな。帰ろうにも電車がもう走ってないから」

「お義父さんはどうしますか?」

「うーん、そうだなぁ………」

 

 テレビに映るお笑い芸人に相好を崩しながら答えるカイさんは、しかし不意に視線を外した。そしてキョータローの顔をしばらくまじまじと見つめて何やら思案顔を浮かべてから、

 

「ま、そろそろお暇させてもらうとしようかな」

「わかりました。それなら車を出しますよ」

「悪いね、京ちゃん」

「もう帰っちゃうの?」

「あぁ。正月にはお年玉持ってきてやるから楽しみにしてろよ」

「相変わらず孫には甘いんだね。私たちからは巻き上げてたくせに」

「おいおい、その話は全部返して終わったはずだろ」

「明、お義父さんを送ってくるから三人で適当に風呂なんかは済ませておいてくれ」

「はーい」

 

「京ちゃん、ちょっと………」

「どうしましたか?」

 

 厚手のコートに袖を通すキョータローのところへ、テルが歩み寄って二言三言ほど短く交わす。

 思い返せば自分が子供の時も正月なんかにはそうやって親や親戚が集まってヒソヒソと何かを話していたっけ。きっと出費をどう分担するかといった内容だったんだろうと考えると、今となっては当時の大人たちの苦労も少しは共感できるというものだ。お寿司の代金、私もちょっとくらい渡すか……そう思っているうちに彼はカイさんを連れて玄関の方へ消えていってしまっていた。

 

 さて、メイの部屋で一晩を過ごすこととなった私が二階へと上がると、ドアには『めいのおへや』と書かれた、見覚えのある古びたプレートがぶら下げられていた。

 

「ふふっ。このプレート、まだ付けてたんだ」

「あぁ、これですか。小さい頃からあったから別に何とも思ってなかったけど、ちょっと子供っぽいですかね」

「いーじゃんいーじゃん、めっちゃかわいいよ!」

「そうかな……」

 

 メイの招きに応じて部屋に入った私は両手いっぱいに抱えていた布団を下ろした。無地を基調とした質素な家具が整然と並ぶ中にも可愛らしい小物がいくつか並んでいる。寝起きするだけの場所になりつつある私の殺風景なそれとは違って、いかにも『女の子の部屋』って感じの雰囲気だ。

 

「実はあれってテルが作ったんだよ」

「意外ですね。そういうの苦手そうなのに」

「この家が出来たときに色んな人が新築祝いを持ってきたんだけど、みんな食器とかタオルとかばっかりだったんだよね。それでテルはせっかくだから面白いものをプレゼントするんだーって言って、柄になくホームセンターなんかで材料買ってきてさ」

 

 結局上手く出来なくて他の人に泣きついていたのだが、それは本人の名誉のためにも言わないでおくとしよう。

 

「うーん…家が完成したときってことは十年くらい前ですよね。流石に覚えてないかな」

「メイが大喜びしてるのを見て終始ニヤニヤしてたよ」

「へぇ、お姉ちゃんが顔に出して笑うなんて」

「珍しいよねー」

 

 あの時の写真はどうしたんだっけな。機種変更のときにデータを移そうと探してみたが見つからなかった。テルは消してくれとしきりに訴えてきていたから、ひょっとしたら彼女の言う通りにしたのかもしれない。

 

 一年くらい松本のアパートに住んでいた後、この辺一帯の新築が売りに出されているのを見つけたキョータローが入居したのが確か十一年前の春先だったか。サキが死んだ冬、キョータローは人が変わったようだった。対局は全て休み――そして間もなくプロを辞めて――逃げるように東京から長野へと出ていったのだ。当時の世間は彼を様々に批評し、悲劇の男扱いするものもあれば仕事や育児からの逃避を批判するものもあった。周囲の人々は去っていくキョータローのことを惜しみはすれど、荒んだ彼の姿を見て引き留めようとはしなかった。

 そもそも彼女だって何の理由もなくそんなことをしていたわけではない。当時の私たちはなんとかして明るく振る舞おうと――メイとキョータローを明るくしようと必死だった。だからテルはらしくないこともしていたし、私もメイをあちこち連れて遊びに行ったりしたものだ。

 

 ………やめよう。せっかくのお泊りなんだからもっと楽しい事を考えるべきだ。メイと二人で話してるんだし、こんな陰気な内容じゃなくてもっと女子会っぽい話題とか………あ、そうだ。

 

「メイって恋人とかいるの?」

「きゅ、急になんですか!?」

「女子会といったらコイバナでしょ」

「そんなものかなぁ………っていやいや、別にそんなのいませんよ」

「へー、メイったら可愛いのに意外だな。でも高校生だし、気になる男の子や女の子の一人や二人ぐらいいるんでしょ」

「そういうのもないですって!」

「うそつけー。本当はいるくせに」

「本当だってばー!!」

「『本当』って言った?やっぱりいるんじゃん」

「ちがっ、そういう意味じゃ――」

「ほらほら、恥ずかしがっちゃって――」

 

 そうそう、私がしたかったのはこういう話なのだ。こんなことは白糸台で部活のみんなと行った合宿以来だろうか――もっとも女子校じゃあ浮いた話なんて一つもなかったけど。それでも温室培養な菫先輩の恋愛観は聞いているだけで苦しいくらい笑えたし、思ったより人生経験豊富な亦野先輩の意外な一面を垣間見たりもした。今となっては遠い過去の話だが、私の青春を形作るいい思い出だ。

 

「あーあ、こんなことならテルも来ればよかったのにねー」

「仕方ないですよ。お姉ちゃん、『客間で寝るから大丈夫』って聞かないんだもん」

「静かに寝たいんでしょ。大人だからさ」

「まるで淡さんは大人じゃないみたいな言い方ですね」

「私は永遠の18歳だよっ!」

「…………」

 

 他愛もない会話は日を跨ぐ頃まで続いたが、結局どちらからともなく気がつけば寝てしまっていた。

 


 

 自宅に帰っても一人寂しく寝るくらいしかすることはないのだが、愛が留守にしている以上は俺が帰らなければ家を開けることになってしまう。ま、こんな田舎じゃ泥棒すら来ないけどな。彼と話しながらそんなしょーもない事を考えているうち、気がつけば車は俺の家の前に止まっていた。

 

「ふぅ、着きましたよ」

「………『京太郎君』。ちょっといいか」

「なんですか、界さん」

「少し長くなるんだけどな…」

 

 俺は彼のことをそう呼んだ。特に深い理由があってのことじゃなくて、これはちょっと真面目な話なんだぞってことを伝えたかっただけだ。

 

「君は立派な父親だ。仕事も家のことも両立してるし、明の親だってちゃんとできてると思う」

「あ、ありがとうございます」

「俺は家事なんか咲に殆ど任せきりだったし、何より咲には父親らしいことをしてやれなかった」

「でも、お義母さんと同居してからは色々やってたじゃないですか」

「確かにそりゃそうなんだが…まぁ、そのときにはもう咲も照も社会人として独立してたしな。時既に遅しってやつだ」

 

 そう言いながら口調が自嘲気味になっていることに気がついたが、それも仕方のない話だ。俺は本当にダメな男だった。若い頃の俺が目の前に居たら無理矢理にでも彼の爪を煎じて飲ませてやりたいくらいさ。

 

「明だってそうだ。母親もいなくて大変だろうに、今じゃあんなに立派に育ってくれた……本当にいい子だよ。俺の自慢の孫だ」

 

 そこまで言うと俺は口を噤んで窓の外を見遣った。照れ隠しのようでもあったし、嫌なモノとの対面を前に一瞬躊躇ったようでもあった。自分でもよくわからない。

 

「だから俺がこんなことを言えた義理じゃあないんだが……」

「……?」

「…………娘を守りなさい。父親として、男として。しっかりな」

「あの、お義父さん。それって一体どういう――」

「送ってくれて助かったよ。自分で運転しても良かったんだが、最近は世間でも高齢者運転がどうとか言われてるしなぁ」

 

「それじゃ、また」

 

 ぽかんとした表情の彼と俺の間を、透明な助手席の窓が遮った。



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無題

 その日の深夜、彼の自室にて。

 

 

「あっちぃー。なぁ照、机の上にお茶置いてなかったか」

「これのこと?」

「サンキューな………あー旨い」

 

 須賀くんは残っていた緑茶を一気に飲み干すと、ペットボトルを部屋の隅に置かれたゴミ箱へ投げ込んだ。緑色の筒は直線状に空を切って――外れ。小さく舌打ちをしてから身体はそのままベッドに倒れ込む。床に散乱するゴミがまた一つ増える前に私はボトルを拾い上げた。

 

「明は気付いてるのかな」

「どうだか……知ってて何も言わないだけかもな」

「だとしたら恥ずかしいね」

「『恥ずかしい』で済む問題か?バツが悪いなんてもんじゃねーよ」

 

「須賀くん」

「ん?」

「明のこと、本当はどう思ってるの」

「また夕方の話を蒸し返すつもりか?何度聞かれても考えは変わらないし、そんなオカルトありえないっての。照が過敏になってるだけだろうさ」

「嘘」

「嘘って、何がだよ」

「本当は気付いてるのに見て見ぬふりしてるだけでしょ。私には分かるもの」

「どうしてそんな…………まさかお前、照魔鏡か」

「ふふ、やっぱり」

「覗いたんだな」

「あれは人の本質を見透かすためのものだよ。嘘発見機じゃない」

「真面目に答えてくれよ」

「本当だって。理由なんて特にはないけれど、須賀くんならそんなことじゃないかって思っただけ」

 

 これが白旗を上げる代わりだとでも言いたげに、彼が深く溜息をつく。

 

「………心当たりが無いわけじゃないんだ。ただそれは麻雀じゃなくてさ、もっとこう……歩き方とか料理の味付けとか、ふとしたときの手癖とか。仕草っていうか、とにかくそういうのがそっくりなんだよ。親子だから勝手に似るもんなのかと思ってたし、特に気にしてたことは今までなかったんけどな」

「ふうん、よく見てるんだ」

「……なんだよ。含みのある言い方だな」

「別に……へくしゅん」

 

 今夜は底冷えする。十分ほど前に須賀くんが暖房を切ってしまったせいだろうか、不意に体中を寒気が走っていった。私は持ってきたパーカーを羽織ってから再び立ち上がって、

 

「そろそろ寝ようかな」

「そうですか。おやすみなさい、照さん」

「おやすみ」

「ちゃんと暖かくしてくださいよ」

「京ちゃんもね」

 

 部屋から廊下に出ると、まるで別世界に来てしまったかのような――ついさっき感じたものとは異質の薄ら寒さを感じた。明かりも物音も、人肌の温もりもない丑三つ時の暗闇が私を待っていた。早く布団に入ってしまおう………

 静かに、静かに扉を閉めた。



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微笑

 この歳になると一日中動いていただけで身体が重くなるものだ。昨日など午前中はずっと列車の座席に座りっぱなしだったし、午後も午後であちらこちらに出向いたり歩いたり――まぁ、色々あった。お陰で昨日の夜は布団に横になるだけで気持ちよく眠りに入ることができたし、そのままずっと寝ていたい気分だったのだが………

 

「――――――さん、照さんってば!ほら、起きてくださいよ」

 

 その安眠を妨げたのは京ちゃんだった。そして私はようやく、隣で携帯のアラームがけたたましく鳴り響き続けていることに気がついたのだ。昨晩セットした時刻は朝の八時、そして今は九時半を少し過ぎた頃だろうか。何度もスヌーズが掛かっていたようだ。

 

「まったく、ずっと鳴ってるのに起きないから起こしに来ましたよ」

「…………おはよう。お気遣いどうも」

「何か用事でもあるんですか?」

「うん、ちょっと出掛けないといけなくて」

 

 そこまで言ったところで移動手段がないことを思い出した。今回は電車で帰ってきたから愛車は東京に置いてきてしまったし、歩いていくには余りにも遠すぎる。そもそもそんなことでは約束の時間に間に合うはずもないだろうと打算した私は、やはり目の前の男を頼るほかあるまいという結論に思い至った。

 

「ただ足がないから貸してほしい」

「いいですよ。車の鍵はいつものところに置いてありますからお好きに」

「欲を言えば二輪がいいんだけど」

「バイクですか?でも400ccしかないし」

「免許はある。しばらく乗ってないけど多分大丈夫なはず」

「そういうことなら構わないけど…………一応言っておきますけど、この時期だと相当寒いと思いますよ」

 

 普段から専ら四輪しか乗らないしバイクは所持していないが、二輪には二輪の良さがあることはよく知っているつもりだ。窓の外は雲ひとつ無い日本晴れで、こんな日には風を感じながら走るのも悪くないんじゃないだろうか。少しくらいの寒さは我慢しよう。

 私は持ってきた防寒着がどのくらいあったかを思い返していた。

 

 

 

 校舎へ続く道は鉄門によって固く閉ざされていたが、どうしたものかと一旦バイクから降りて立ち尽くしているうちにこちらに気付いた守衛さんが鍵を開けて中へ案内してくれた。駐車場で携帯を取り出すと、私は連絡帳から一人の女性の名前を探した。ア、カ、サ、タ。田内、高木、高橋、田口………あった。

 

「もしもし」

『あら、遅かったじゃない』

「ごめんなさい。少し実家に用事があったから先にそっちを済ませてきた」

 

 それを聞いた彼女は「ふーん」と興味なさげに言うと、この後どうすればいいのか手短に指示をよこしてきた。まず新校舎の事務所に向かって来客者証を貰ってから旧校舎へ………電話の向こうで誰かに呼ばれているのか、私が最後まで相槌を打ち切らないうちに、ツー、という電子音が数回流れて通話の終了を知らせた。

 『新校舎』とは言ったものの、建てられてから数十年が経過したであろう今では節々に年月の経過を垣間見ることが出来る建物に入る。玄関でスリッパに履き替えた私を出迎えてくれたのは愛想の良い三十代くらいの女性だった。

 

 

「来客者証をいただきたいんですが」

「わかりました……大丈夫ですか?顔色がすごく悪いみたいですけど」

「別に」

 

 冬のツーリングが想像以上に寒かっただけだ。

 

「そ、そうですか……お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

「宮永です」

「ミヤナガさんですね、竹井先生からお話は通ってますよ」

 

 それから受付の女性は脇のファイルを開くとボールペンで何かを書き込みはじめ、最後に私へカードホルダーを渡した。よく見ると名前までご丁寧に印字されている。

 軽くお礼を言って立ち去ろうとすると、不意に彼女は私のことを呼び止めた。

 

「すみません、少しいいですか?」

「なんですか?」

「宮永照さんですよね。プロ雀士の」

「はい、そうですけど」

「やっぱり!どうしよう、困っちゃうなぁ!……ごめんなさい。実は私、宮永プロの大ファンなんです」

「――私の?」

「小さい頃インターハイを観てからずっと応援してて、それで、ええっと…………」

 

「……ありがとう」

 

 ついさっきまで凍えていたはずの身体がもう暑くなってきた。上着の――レザージャケットでも着ていれば様になったのかもしれないが、生憎に着膨れするダウンしか持ち合わせていなかった――のファスナーを下げながら窓ガラスの向こうの女性を少しだけ見つめた。目は口ほどに物を言うという通り、彼女は言葉が纏まらない様子で如何にも申し訳無さそうにしていたが、それでも言わんとすることは嫌というほど伝わってきたのだ。

 それから彼女は微笑んで、

 

「行ってらっしゃいませ」

「……………………あの」

「どうされましたか?」

「旧校舎、どっちに行けばいいですか」

 

 

 

 校門を出て脇の坂道をしばらく歩くと「補修工事」と書かれた大きなボードが見えてきた。そびえ立つ建物の外装は鉄骨の足場に囲まれて見えなかったが、入口から中に入ると内装は以前来た時の姿を未だに残していることがわかった。

 朧気な記憶を頼りに軋む階段を一歩、二歩と踏みしめ、廊下の端にひっそりと佇むとある部屋の前で立ち止まる。部員たちは裏手から聞こえてくる工事の騒音もよそに対局に集中していたが、私の姿を認めると一斉にぴたりと手を止めてこちらを振り向いた。

 

「お邪魔します」

「こ、こんにちは!」「うわっ、本物の宮永プロじゃん」「すげー」

「ほら、よそ見してる暇があったら集中して打ちなさい!」

 

 その数はおよそ二十人くらいだろうか。女子が大半ではあるが、中には男子だけの卓も立っているらしい。そんな中に唯一制服を来ていない女性が一人、部室の端の方で近くの卓を眺めていたが、周囲に叱咤を飛ばすとこちらへとゆっくり歩み寄っていた。

 

「いらっしゃい、インハイぶりかしら」

「それも最初の方に何度かすれ違ったくらいだけれど」

「細かいこと言いっこなしよ。さて、立ち話も何だし場所を変えましょうか」

 

 近くに居た男子生徒を呼び止めてお茶を運ぶよう伝えてから、私を引き連れて隣の部屋へと向かう。

 竹井久――二十六年前に清澄高校麻雀部をインターハイ初出場ながら優勝へ導いた当時の部長で、現在は母校で英語教師を務める傍らこの部活の指導者として活躍している。そんな彼女の名を一躍世間へと知らしめたのは、やはりこの夏のインターハイだった。

 

「汚い部屋でごめん。ささ、座って」

「………」

「どうしたの?」

「懐かしい形の椅子だなって思って」

「なんだか新鮮な感想。でも確かに、普段から学校に関わりがない人はそう思っても不思議じゃないかもね」

 

「遅くなったけど優勝おめでとう。清澄のレジェンドさん」

「懐かしい響きねぇ、それ」

「この前の”WEEKLY 麻雀TODAY”にも載ってたよ。『選手と監督、二度の栄冠を手にした清澄の伝説(レジェンド)』って」

「それのお陰で生徒にはからかわれるし、赤土さんからも未だに冷やかされるし………まったく、恥ずかしいったらありゃしないわ。今度会ったらゆみに苦情入れないと」

「目立つのは好きじゃなかったっけ」

「まさか!透華じゃあるまいし、こう見えても結構あがり症なのよ」

「それでも名前が売れるのは悪いことじゃないから」

「意外。照ってあんまりそういうの好きじゃないと思ってた」

「ちょっとね」

 

 その時、背後の扉を開けて一人の少年がこの準備室へと入ってきた。学ランに雀荘のエプロン、両手には金属製のお盆――そして緑がかった短髪という奇怪な出で立ちの彼はこちらへ向かってくると、

 

「どうぞ。この前焼いたクッキーが残っとったんでよければ」

「あら、ありがと」

「忙しいのにごめんなさい」

「いやいや、慣れてますから大丈夫ですよ」

「まこの英才教育の賜物ねー」

「そっか、染谷さんの息子さんなんだ」

「はい。染谷真嗣(シンジ)っていいます」

 

 喋り口調はからは染谷まこの親類であることが如実に顕れている。果たして大会直前の生徒をこんなことでこき使って職権乱用ではないのだろうか。そんなことを考えているうち、彼は二組のティーカップとお菓子の入ったプレートを机に置くと、頭を下げて足早に廊下へと消え去っていった。礼儀の正しい少年だ。

 久はクッキーをボリボリと音を立てて食べながら何かぼやいていたが、最後にお茶を一啜りしてから遂にこう切り出した。

 

「それで、麻雀界の大物がこんなところまで来てどうしたっての」

「明のことで話がある」

「明のこと?須賀くんじゃなくてどうしてあなたが」

「彼は関係ない。私が勝手に調べてることだから」

 

 久は明らかにこちらを訝しんだが、私はそれを気に留めず続ける。

 

「インターハイ以来、彼女の麻雀の打ち方が明らかにおかしい。あなただって気付いてるはずでしょ」

「あぁ、それのことね……なら心配は要らないわ。あれは私が言ったのよ」

「久が?」

「私が最初に異変に気付いたのは県予選の最終日だったかしら。あの日の明はやけに調子が悪かったから、それで気になってね」

 

 


 

 

―― 六月

 

 二十人も部員がいるのは有難いことである。これだけの人手があれば何をするにも上手く回るし、何より「人が足りなくて試合に出られない」などという心配もする必要がない。そして幸いにも清澄高校麻雀部にはそれだけの人を集める力があった。

 しかしこれだけ人が居ると統率を取るのも大変だ。なにせ箸が転んでもおかしい年頃の子供たちであるから、かなり声を張らないと好き勝手にガヤガヤと喋る彼女たちの耳には届かない。

 

「はーいみんな、県予選お疲れ様。明日は朝八時に部室集合だから今日は帰って早く寝ましょう」

「えー、全然ゆっくり出来ないじゃないですか。日曜くらい休みにしてくれればいいのに」

「あのねぇ、反省会っていうのはすぐにやらないと効果半減なの」

 

 そりゃあ私だって明日くらい休みたいわよ。ただでさえ普段の授業やその準備でてんてこ舞いだというのに、大会の季節にはそれ以上に部活の方が忙しくなるほどなのだ。これだけ学校の知名度向上に貢献しているのだから少しくらい仕事を減らしてくれても良い筈ではないかと思うのだが、その様子は一切ないどころか増える一方で、減るものといえば睡眠時間くらいのものである。生徒から飛んでくるブーイングに私は思わず溜息をついた。もっともそれは心の中でだけで、この大事な時期にネガティブな感情を部内に広めるわけにはいかない。

 それから幾ばかりの連絡事項を伝えると生徒たちは三々五々に帰っていったが、閉会式が終わった後の会場は未だ誰とも知らない人々で溢れかえっていた。あれはきっと鶴賀学園、あっちは今宮女子だろうか……などと考えながら自動販売機でコーヒーとジュースを買って、喧騒の隅にぽつんと取り残されたベンチに腰掛けた。私が呼び止めた明も一緒に。

 

「今日はご苦労様。頭を使った後はちゃんと糖分補給しないとね」

「ありがとうございます」

「コーヒーとジュース、どっちがいい?」

「じゃあジュースで」

「そうだろうと思った」

 

 梅雨に入ったばかりの六月の夜は冷たいものも飲みたくなるが、それでも疲れた身体にはホットコーヒーが一番だ。同じように疲れた顔の明がオレンジジュースを口に含み、また飲み干したのを見届けてから、タイミングを見計らうようにゆっくりと口を開く。

 

「明、決勝は何かあったの?準決勝までは普通に打ってたのに不調ってこともないだろうし」

「それが、急に牌が来なくなったんです」

「牌が?」

「欲しい牌と違うのしかツモれないし、全然思ったとおりに手が進まなくて」

「……………」

 

 これだ。あたかも自分の望んだ牌が来ることは約束されていて、当然の摂理であるかのような表現。強力なオカルトを持った人間――牌に愛された子。彼女たちがそれを失った時、得てしてこういった言い方をする。

 オカルト自体は多くの女性が潜在的に持っているもので、特に麻雀をしていればそれらしき人物を見つけるのは容易い。私にだって『悪待ち』がある。良形三面張を捨てて愚形の辺張にするとツモれたり、地獄短期は字牌より中張牌の方が和了れたり、何年も待ち続けてようやくインハイに出場して、そのまま優勝したり。いざという時に敢えて希望の薄い選択肢を選んだほうが却って成功しやすい……ような気がする。その程度のものだ。たぶんデータを見れば実際その傾向は正しいのだろうが、普通に失敗することも多いから体感的に確信できるほど信頼のおけるものでもない。

 でも麻雀なんてそんなもので、結局最後に残るものは運否天賦である。だからこそ麻雀は面白いのだ。もしこの瞬間にオカルトが消えて無くなったとしても麻雀を嫌いになることは決してないし、私が雀士として為すことも何も変わらないだろう。

 

 なら彼女たちは?オカルトが絶対的なものであればあるほど、牌が見えれば見えるほど、彼女たちにとって麻雀は確定された――囲碁や将棋と同質のものになっていく。そこに偶然性はなくて、オカルトという『力』への依存は過剰なまでに強まっていくのだ。

 そして、明はその拠り所を失っていた。

 

「それにしても困ったわね。今日の打ち筋は支離滅裂だったし、あれじゃあまるで初心者みたいな………ごめん。ちょっと言い過ぎちゃったかも」

「ううん、メチャクチャな打ち方だったのは本当のことですから」

 

 気が立っているのだろうか。県大会を突破し、二ヶ月後に全国大会を控えた今になって。

 

「ねえ。悪いんだけど、この後ってまだ大丈夫?」

「これからですか?でももう遅いし、晩ごはんだってまだ食べてないし」

「私の奢りでいいわよ。時間が気になるなら家まで送っていってあげるわ」

「……お父さんに電話してきてもいいですか」

「もちろん」

 

 

 

「らっしゃーい……って、珍しい客が来よったわ」

 

 カランカランと音を立てて扉が開き、roof-topは私たち二人を招き入れた。中は満席とまではいかずとも盛況で、仕事帰りらしいおっさんたちで卓が幾つも埋まっていた。ノーレート禁煙なのによくもここまで人が集まるものだ。もちろんそこに居たのは私の旧友である染谷まこその人で、

 

「おひさ〜」

「誰かさんのせいでこんな時期なのに寒いのぉ」

「べ、別にそういうつもりで言ったわけじゃないってば!」

「冗談。そんで、こんな夜遅くにどういう風の吹き回しじゃ?」

「ちょっと野暮用でね。顔見知りだけで卓囲みたいんだけど、できるかしら」

「ははーん、訳ありっちゅーことか」

「そゆこと」

「わかった。ちと待っとれ」

 

 理想は優希と和がここに居合わせていることだった。二人とも休日は大抵ここで麻雀を打っているのだが、今夜は姿を見せていないらしい。

 だがまこにはそのアテがあるようで、内線に手を伸ばして慣れた手つきでボタンを押した。

 

「真嗣、今すぐ降りてきんさい」

『んなこと言われても…帰ってきたばかりなんじゃけぇゆっくりさせてーな』

「われ試合もなんもなかったじゃろうが。三分で来い」

『ったく……へーい』

 

「………さて。二人とも、何か飲むか?」

 

 二分も経たないうちに染谷くんは店の奥から姿を現した。先程まで制服を纏っていたその身も今ではポロシャツにジーンズという出で立ちで、雀荘らしいエプロンの紐を後ろ手で括っているところだ。彼は訝しみながら母親に問うた。

 

「母ちゃん、今日はバイトさんで足りよるんと違かったんか?」

「ちぃと別件でな。顔見知りがええんじゃと」

「はぁ………それでこの面子ってわけですか、先生」

「お休みの最中に悪かったわ」

「染谷くん、呼び出しちゃってごめんね」

「それはいいんだけどさ。宮永まで揃って一体何の話なんだよ」

「ええから取り敢えず座りんちさい」

「……?」

 

 正直に言えば明がこの調子では全国なんて到底戦えない。今の麻雀部は私が部長だったあの頃と違う。人数もそこそこ増えた上に二年生や三年生の練度は高く、トップ層ともなればかなりの実力者揃いである。それにも拘わらず一年生の明が大将を任されているのは、彼女が『強い』ということを全員が認めているからだ。

 もしあの頃の咲が調子を崩したとしても私たちが臆することはなかっただろう。咲の力がなければ優勝できなかったのは分かりきったことではあるし、そもそも一人欠けるだけで出場できなくなってしまうような――須賀くんを女装させようかなどというような案すら出るようなチームだった。でも私たちはそれぞれ突出したものを持っていたのだ。

 今の清澄高校麻雀部は頑強で、そしてとても凡庸だ。彼女のオカルトへ依存しているのは彼女自身だけの問題ではなく部員みんなの問題でもあったのだ。不安をチーム内に伝播させないために、何としてでもこの問題は今日中に解決しなければならなかった。

 

「染谷くん、最初に言っておくことがあるわ。今晩見聞きしたことは決して口外しないこと――特に、レギュラーの他の子たちにはね」

「んなこと言ったって、そもそも何のためにこんなことしようってんですか?それが分からないことにはどうにも……」

「麻雀部の為なのよ。あなただって事情が気になるのは分かるけど、顧問命令ってことでここは一つ引いて頂戴」

「………まぁ、そういうことなら」

 

 腑に落ちない表情の少年を差し置いて場決めの通り席に着く。起家の明から順番に染谷くん、まこ、そして私の順だ。ついさっきバイトの子が持ってきてくれたウーロン茶をストローから吸うと、ジメジメとした鬱陶しさが一気に和らいだ気がした。

 

「ルールはどうする?今の大会規定なんて知らんけぇの」

「アリアリ一発赤裏あり。私たちのころから何も変わらないから安心して」

「嶺上開花の責任払いも?」

「もちろん」

「あれに助けられたのはわしらの世代くらいもんじゃろうなぁ」

「言われなくても分かってると思うけど、ちゃんと少しは手加減してよね」

「はいよ」

 

「染谷くんは全力で打ちなさい。きっとそれで丁度いいくらいだから」

「わかりました」

「京太郎んとこの娘、明とかいったか。真嗣より上手いんか?」

「そうねぇ。上手下手で言えばきっと染谷くんだろうけど、強いのは…………」

「…なるほど、そういうタイプか」

 

 『上手い雀士』と『強い雀士』は往々にして一致するが、だからといって必ずそうであるとは限らない。実家が雀荘という環境に置かれた染谷くんは幼い頃から数え切れない程の対局を体験してきた。明だって宮永家の娘だしそれなりに揉まれてはいるだろうけど、それでも対局数で言えば染谷くんとは到底比べ物にならないだろう。多くの場数を踏んだ彼の打ち筋は手練そのもので、高校生が打つような麻雀とは思えない老獪さを既に持っているのだ。

 でも上手いだけじゃ麻雀は勝てない――強い者は上手い者ではなく勝った者だ。経験に裏打ちされた技術や技巧をも超越し、力によって卓上を支配する。それがオカルト。

 

 明は俯き、落ち着かなさそうに何度も指を組み直していた。

 

「明」

「は、はい!」

「一旦は自然に打ってみましょうか。落ち着いて、普段みたいにね」

 

 

 東三局

 

「テンパイじゃ」

「テンパイ」

「テンパイです」

「ノーテン」

 

宮永明18100 - 3000
染谷真嗣15000 + 1000
染谷まこ31000 + 1000
竹井久32900 + 1000 - 1000

 

「これじゃあ罰符もバカにならないよ……」

「しかしおぬし、凄い河じゃのう」

 

 明の河あるのは中盤まで暗刻三つに対子二つ、しかも殆どが使いやすい中頃の牌だ。普通ならば国士を警戒する捨て牌だろう。一方、私が立直を掛けた後はオリたのだろうか一転して安牌が並んでいる。

 

「明、少しだけ手牌を見せてもらえる?」

「いいですけど」

 

西家:宮永明

ドラ:{四}

{七八②③668⑦⑧⑨南南2}

 

 至って普通の二向聴。途中まで狙っていたのはチャンタ三色だろうか……その形跡はあるものの、捨て牌と照らすと手は殆ど進んでいなかったらしい。

 

「ふーん」

「久、もうええか?」

「ごめんなさい。さ、次行きましょ」

 

 

 南三局 一本場

 

宮永明11600
染谷真嗣26700
染谷まこ34200
竹井久26500

 

「ロン」

「うえっ、やっちまった」

 

 ずっと和了りのなかった明の口からその言葉が飛び出したのは、この半荘がもうすぐ終わろうというラス前だった。

 

西家:宮永明 九巡目

ドラ:{南}

{二二二五六七6888⑧⑧⑧} ロン:{7}

 

「1300は1600です」

「高目三暗刻か……不幸中の幸いって奴だな」

「染谷くん。そんなこと言ってないで次から気をつけないと、いざって時に失敗するわよ?」

「そりゃそうかもしれませんけど、流石にこの七索は読めませんって」

「まだまだ経験が足りんだけじゃろうが」

 

 少年がそうボヤきながら牌を卓の中央に流し込む。下からせり出してきた壁牌を四枚ずつ手元に持ってきて、私はここまでの明の打ち方を思い出していた。

 だが今日はそれが違う。東一局以降行った九局のうちで彼女の和了りはつい先程の一回のみだった。それどころか聴牌もままならないらしく、前々局に立直をかけた以外は流局毎に不聴罰符を払うような有様だったのである。もっともそれくらいなら普通にあることで、この半荘がたまたまツイてないだけであると言えなくもない。

 しかしどうも何かが引っかかる。そもそも宮永明という選手が『不調』であると言えるようなことはごく稀で、そうした時ですら多少のブレはあるにしても、彼女の圧倒的実力では実際上ほとんど問題になることはなかった。どの牌が来るのかある程度理解できる彼女は、絶対に聴牌できるというわけではないにしても、大きく裏目るようなことは少なくとも私が知る限りは有り得ない。そんな全くもって常識外にいる打ち手である明がここまでの間――今日の決勝からずっと――和了れないなんてことがあるだろうか。

 第一さっきの和了はチャンタじゃなかったし、それどころか三暗刻崩れの断么など彼女と最も対極に位置する手だ。

 

「………あっ」

「先生、どうかしましたか?」

「えーっと………ツモ。3200オール」

 

東家:竹井久 十三巡目

ドラ:{九}

{八八112233赤⑤⑤東東發} ツモ:{發}

 

「あーあ、負けちゃったぁ」

「明、ひょっとしてもう張ってた?」

「はい」

「見せて頂戴」

 

 彼女が開いた手牌を一瞥して、私はこう提案したのだ。

 

「もう一局だけやってみない?」

「久はトップじゃろうが。というか、そんなに打ちたきゃもう一半荘してもええぞ」

「そんなに長居する気はないんだけどさ。ただもうちょっとだけ確認したいことがあって」

「ははーん、そんなにわしに捲くられたいんか?」

「ふふ、言ってなさい」

 

 

 南四局 一本場

 

 

「どれどれ………」

 

 そう言いながらまこの指が手の内を舐めるように撫で、ニヤリと口角が上がった。張ったか。

 一方の明はオタ風の{西}をポンしている。

 

南家:宮永明 十一巡目

{63④②二③}

{五五六2南}

 

 明らかに異常な捨て牌だ。確かにこの河は国士気配がする超危険信号ではあるが、ここまでの彼女のそれと照らし合わせてもおかしい点はあった――捨て方に秩序を感じるのだ。この半荘の明は何かに翻弄されるかのように麻雀を打っている。現に東場は全く聴牌できていなかったし、彼女にあるまじき軽率な振込もあった。その調子が三局ほど前から少しずつ戻ってきているようだ。

 しかもこの手はチャンタに間違いなく、それは一段目の嵌張や二段目の両面対子落としがツモ切りではなく手出しであったことからも見て取れる。まさか、オカルトが戻ってきたのだろうか。

 

 しかしそれ以上に私は妙な感覚に陥っていた。決して気味の悪いものでもなければ不快でもない。ただ、この感じはずっと昔にどこかで…………

 

「リーチ!」

「ロン」

「げっ、もう張っとったか。いくらじゃ?」

 

北家:宮永明 十一巡目

ドラ:{東}

{一一111999東東} {西西横西} ロン:{一}

 

「えーっと、一本場だから12000は12300ですね」

「はいよ」

「ホンロートイトイか……派手だなぁ。チャンタって意味では宮永らしいのかもしれないけど」

「ねぇ染谷くん、それって褒めてるの?」

「褒めてるよ。一応な」

 

 

<終局>

 

宮永明24900
染谷真嗣23500
染谷まこ20300
竹井久31300

 

 

「最後の跳満、よくあそこまで持っていけたわね」

「実はあの和了は手なりだったんです」

「えっ?それじゃあやっぱりオカルトが戻ってきて……」

「牌は見えてなかったんですけど、何故か対子や刻子がいっぱい入ってきて。それで、気がついたら聴牌してました」

「………ちょっと失礼」

 

 幸いなことに卓上は誰も動かさないままで保たれたままになっている。最後がまこだったから対面の明が次にツモるのは…………これか。壁牌の端を少し崩すと、一枚の{西}が顔を出した。「まさか」と思いながらも、私の指は王牌へと伸びた。

 

{東}

 

「久、何かあったんか」

「…………ううん。なんでもない」

 

 もしもまこが切った一索をロンせずに{西}を加槓すれば、嶺上開花で和了っていたことになる。

 いよいよこのまま帰るわけにはいかなくなってきた。

 

「まこ、前言撤回。もう何半荘か打てる?」

「わしは途中で抜けるかもしれんがな。真嗣は幾らでも使ってくれてええし、なんだったら娘も呼んでくるけぇ」

「ありがとね」

 

「明、次からは対子手を意識して打ってみなさい」

「対子手ですか?」

「そうよ。チャンタのことは一旦忘れるの」

 

 そう、これは明本来のオカルトではない。何か異質のものが働いているのは確かだが、その根源は別のところにあるはずだ。私はそれに心当たりがあった。もしそれが本当であるならば。流れに身を任せさえすればよいのだ。今の彼女ならきっと――

 

 

 

 数時間後、私は再び車の運転席に座っていた。時刻は午前零時を回ったくらいで、当然ながら助手席には彼女の姿がある。

 

「疲れたぁ……なにも閉店まで続けなくてもいいじゃないですか」

「付き合わせちゃって本当にごめんなさいね。でも、その代わり収穫も十分あったわ」

 

 あれ以降の数半荘の中で明の打ち筋はガラリと変わった。普段の役作り中心の麻雀からは一転して、立直や断么以外に役が付かないことが増えたのだ。暗刻がよくできるので平和も減った。そうやって安い和了を重ねつつドラや三暗刻で満貫以上の手を作ることも多いのだが、それも彼女に言わせてみれば「手なり」に過ぎないらしい。

 

「それで、結局私のチャンタが消えちゃったのって何なんですか」

「簡単に言えば遺伝の影響よ。あなたがお母さんから受け継いだオカルトが発現しつつあるってこと」

「遺伝……?」

「大抵の場合、オカルトはその人に関連する形で発現するわ。生まれた環境とか幼い頃の体験とか、あとは生まれながらの素質とか………でも、母親の持つオカルトに近いものを子供が備えていることが稀にあるの。まるで遺伝みたいにね」

 

 身近な所で言えば、龍門渕家はそれが何代にも渡って行われている例だ。天江衣の『海底』と龍門渕透華の『治水』のように、その家系に生まれる女性は押し並べて水に関連するオカルトを持っている。龍門渕には過去にもそういった雀士がいたのだろうし、今後もそういった雀士が生まれるのだろう。

 

「もっとも、どちらか一方なら別に心配はなくてね。問題はたった一人の人間が素質タイプと遺伝タイプ、二つのオカルトを持ち合わせてしまった場合よ」

 

 それが両方とも発現した時に本人がどうなるかは分からず、個人によるとしか言いようがないのだ。こういった例は全くないわけではなく、中高生くらいの女子生徒に度々報告されている。大昔に高麻連――高校麻雀連盟がまとめたそんな内容の調査結果を読んだ覚えがあるが、それ以来新たに進捗があったという話も聞かない。

 二つとも使いこなせるようになるケース、どちらか片方だけが残ってもう片方は消滅してしまうケース、合体して新たな能力になるケース。一体どのような要因が分岐を生むのかは未だ判明していないのだ。

 

「そしてあなたの身には、今まさにそれが起きているの」

「そう、なんですかね」

「お母さんの……咲の麻雀は見たことある?」

「ちゃんと見たことはないですけど、ネットで断片的には」

「なら知ってると思うけど、彼女は嶺上開花の使い手だったわ。王牌を支配し、集めた槓材を使って劇的な和了を魅せるのが咲のオカルト――それがあなたに宿りつつある。暗刻が出来やすいのはその兆候じゃないかしら」

「つまり、これから先はチャンタじゃなくて嶺上を狙えばいいってことですか?」

「だからわからないんだってば。チャンタも嶺上開花も残るのかもしれないし、どっちかだけになっちゃうかもしれない」

 

 もしくは、どちらも消えてしまうかもしれない。

 

「幸い健康に影響があるようなものでもないからね。長い目で経過観察していくしかないわ」

「………わかりました」

 

 そう言って彼女は深く、しかし頼りなさそうに頷いた。

 

「でも、だからといってインハイは待ってはくれない。今現在あなたがチャンタを使えなくて代わりに暗刻が出来やすいのは事実なんだし、取り敢えず使えるものはどんどん使っていきましょう」

「そうですね」

「咲の対局記録を観ると勉強になると思うんだけどねぇ。家に残ってない?」

「それが、お父さんがほとんど捨てちゃったんです」

「なら優希から借りてこようか。公式戦の録画は全部残してたはずだから」

 

 あの優希にも意外とマメなところがあるというのは社会人になってから明らかになったことではあったが、その時はひどく驚いた。

 喋り続けて喉がカラカラだ。赤信号に足止めされ、ちょうどいいと思ってコーヒーを一口含む。予選会場からドリンクホルダーに入ったままのスチール缶はすっかり冷めきっていた。

 

 


 

 

 紅茶が冷め、クッキーがあらかた私たちの胃の中に収まった頃になって、彼女の話はようやく終わりを迎えた。

 

「で、その後の戦績はご周知の通りってわけ。上手くハマってくれて助かったわ」

「それって本当にオカルトの遺伝なのかな。遺伝の場合でも母親と完全に同じ性質になるわけじゃないんでしょ」

「勿論。さっき挙げた龍門渕の例もそうだけど、同系統でも差異は生まれるのが普通じゃないかしら」

「なら不自然すぎるよ。明のそれは咲と一緒だもの」

「そうかしら?咲のオカルトは王牌支配だったけど、明にはそこまでの様子は見られない。まだ『暗刻ができやすい』ってレベルの話で、汎用性も高いからこれからどう発展していくかは分からないわ。チャンタが使える日もあるみたいだし、完全に同じだって断言するにはまだ早いでしょう」

「でも、決勝戦のオーラスは――」

「なら他に何があるって言うの?」

 

 久が私の言葉を遮る。別に不快とか不都合とかそういう感情は見受けられないが、ただやけに深く追求しようとする私を怪しんでいるらしい。

 

「彼女の状況を説明するものなんて、遺伝以外に何もないじゃない」

「それは……………」

 

 久の弁に対して私は返す言葉を持ち合わせていなかった。実際、私が明へ抱いている違和感の原因は私自身にさえ未だに分かっていない。こうして父親や指導者に探って回っているのもそれを知るためであって、あの日の違和感と恐怖だけが私を突き動かしていた。

 

「とにかく参考になった。大会前なのに時間を作ってくれてありがとう」

「もう帰るの?」

「うん。訊きたいことは全部訊けたから」

「へぇ………ところで、これは関係ない話なんだけどさ。最近は学校も厳しくてね。休日に部外者が入れるようにするのも色々と面倒なのよ」

 

 『関係ない話』という割には、やけに嫌味ったらしく言うものだ。

 

「あなたが昨日の夜になって突然来たいなんて言うからわざわざ早起きして開庁ギリギリに出勤して、教頭に頭下げて許可貰って………はぁ」

「………何をすればいい?」

「決まってるじゃない。あなたは麻雀のトッププロで、ここは高校の麻雀部室よ?照に教えてもらいたい部員なんて山ほどいるわ」

「別にいいよ。仕方ないから」

「さっすが〜!」

「実際に卓を囲んで気になった所を指摘する以上のことはできないけど」

「それでいいのよ。じゃあ早速行きましょうか」

 

 カップに残った紅茶を一気に飲み干してから底冷えする廊下へと出ると、私をまんまと言いくるめた悪女が古めかしい木のドアを開いた。瞬間、あれだけざわめいていた室内は再び一斉に静まり返り、二十余人の目線が私達を貫く。

 

「はい、一回ちゅうもーく!さっきチラ見せしちゃったけど改めて紹介するわね。こちら麻雀プロの宮永照さんよ」

「立川ブルーセーラーズの宮永照です。よろしく」

「「「よろしくお願いします!」」」

「今日は宮永プロに指導していただけることになりました。貴重な機会だから全員集中して取り組むこと」

「なんで大会前日なんですかー」「どうせなら別の日にしてくれればよかったのに」

「うっさい!無いよりマシでしょ!………えー、そしたら次は具体的な練習内容について。まずは宮永プロを入れて四人で対局します」

 

 

 

 久の簡単な説明が終わってからは対局の連続だった。次々にやってくる三人の相手を注意深く観察し、その打ち筋から個人の性質を見抜き、問題点を指摘する。観察は私の得意分野だ。そんなことを昼食を挟みながら続けていき、気付けば時計は三時を回った後だった。

 

「正直、私から言えることは殆どないと思うけど……技術的な面は概ね良かったよ。東ラスのリャンカンをチーした後の切り方が気になったくらいで、他は全部及第点。あとは経験さえ積んでいけば読みの精度も上がるはず」

 

「よく頑張ってるね、明」

 

「ふふっ、そうかな」

「オカルトについても竹井先生の方が今の明の状況には詳しいから。私は遺伝とかよくわからないし、今までどおり先生の指導で打ってれば間違いないと思う」

「あれ?その話聞いたんだね」

「さっき竹井先生から。インハイの打ち筋が不自然だと思ってたんだけど、やっと合点がいった」

「へぇ、お姉ちゃんもなんだ」

「私『も』?」

「うん、淡さんも気にしてたらしくて。それで同じような話をしたら納得してくれたみたい」

「………そっか。そしたらこれでおしまい。次の人を呼んできてもらえる?」

「はーい」

 

 次の三人が来るまで少し時間があるだろう。さっき自販機で買ったペットボトルのお茶を口に含み、飲み干してから大きく息を吐いて天井を見上げた。

 

 半荘を通して見た明の打ち筋は終始『普通』の一言に尽きる。技量的にはいつもの彼女だったし、オカルトも原理は分からないなりにそこそこ使いこなしている様子。でも結局その程度で、咲の影が映り込むようなことは一度たりとも無かった。

 ――ひょっとしてあれは本当に私の気のせいだったんじゃないだろうか?京ちゃんにあんなことを言っておきながら、真に咲から縛られているのは私なのだ。だから私だけが、ありもしない咲の亡霊を明の中に見てしまって………そのようにすら思えてしまう。

 それでも私の脳裏にはあの夜の情景が、あの恐怖がこびりついて離れない。私は明が怖いのだ。私の愛しい姪っ子が、私の自慢の姪っ子が、不気味なまでに母親の姿を伺わせる、宮永明という人物が。

 

 あなたの家族失格だ。既にそこには居ない明の姿に、私は心のうちに懺悔した。




登場人物

・竹井久
 43歳。清澄高校麻雀部の顧問を務めるが、本業は英語教師。未婚。
 最近寝ても疲れが取れなくなってきたのが悩み。

・染谷まこ
 42歳。雀荘経営。既婚で二男三女の母。

・染谷真嗣
 16歳(高校一年生)。まこの息子で明の同級生。
 母親やら顧問やら同級生やらにこき使われる、何かと残念な立ち位置の男。


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告白

 目を覚ますと、部屋には昨晩まであった明の姿がどこにもなかった――当たり前か。卓上に置かれたデジタル時計は”12:18”という文字を鮮明に映し出し、カーテンの隙間の向こう高くからは日が差し込む。見れば数人の主婦が集まって井戸端会議に花を咲かせていた。

 洗面台でテキトーに顔を洗って化粧もそこそこに済ませる。空腹で一刻も早くお腹に何かを入れてしまいたかったし、別に今日は気取る相手も居ないのだから。どこからか何かのモーターが動くような機械音が暫く鳴っていた。

 

「おはよー………」

「おはようさん。やっと起きたか、淡」

「何やってんの?」

「見りゃ分かんだろ。髭剃ってんだよ」

「へー、大変だね」

「そりゃ面倒ではあるけどな、慣れれば大変ってほどでもないさ」

 

 確かにその右手には電気シェーバーが握られていて、ソファに座りながら膝に広げた新聞をもう片方の手でめくっていた。居間を見回して他の二人の影を探すが、そんなキョータローと私以外には動くものすら見つからない。

 

「みんなはどうしたの?」

「明は部活で朝早く出ていって、照さんもどこかに行く用事があるんだとさ。何の予定もない暇人は俺とお前だけってわけだ……っていうかお前、まだ着替えてなかったのか」

「えへへ、可愛いでしょ」

「知らねーっての。寝間着のまま部屋の外まで出歩くなよ」

「つれないなー」

 

 そんなやり取りをしているうち、私たちが出会って本当に最初の頃の光景が何故か脳裏をよぎった。例え表面上は気易く接していても、いつからか私とキョータローの間には隔たりができていた。それはキョータローが作ったものだったのかもしれないし、私が作ったものだったのかもしれない。三年前からあるのかもしれないし、十二年前からあるのかもしれないし、二十一年前からあるのかもしれない。とにかくそれが私を守ってくれていた。

 ………いや、私は食事を摂りに来たのだった。それとなくおねだりするとキョータローはぶつくさ言いながらも台所に立ってくれて、私が着替えを済ませて戻ってくる頃にはハムエッグと食パンが食卓に並んでいた。こういう素っ気ないようで甘いところが彼の他人から好かれるところであり、私が彼を気に入っているところでもある。

 そうして気分を良くした私は遅めの朝食――というかもう昼食だ――を口に運びながらこんなことを言って、

 

「ありがとね、キョータロー」

「へぇ。お前がわざわざお礼を言うだなんて珍しいな」

「なによ。人のこと傍若無人みたいに好き勝手言ってくれちゃってさ」

「実際合ってるだろ?」

「…………」

「…おい、何だよその顔」

 

止めときゃよかったと思った。

 

 そういえば、と不意に口から言葉が飛び出した。昨日の昼にあれだけ話しておきながら結局麻雀を打っていないことに気付いたのだ。一度そう思うと身体がムズムズしてきて今すぐにでも一局打ちたいような気分になるのだが、それを見たキョータローが「いつも打ってるんだから休みくらい別にいいだろ」などと言って笑う。

 第一私たちが普段しているのは仕事だ。私が勝つか負けるかにチームの成績が関わってくるのであり、極端な話をすれば今後の食い扶持にも影響を与える。この一打に生活が懸かっていると思えば生半可な気持ちで臨めるものではない。そんな気苦労をすべて忘れて、本当に肩の力を抜いて楽しめるような麻雀だってたまにはしたいのである。

 

「そこまで言うなら雀荘でも行ってくればいいじゃねえか」

「んー、どうしようかな。外出しようとは思ってるんだけど………キョータローはどこにも行かないの?」

「悪いが、俺は今日は一日グータラして過ごすって心に決めてるんだ。たとえお前がどこか連れて行ってほしいだなんて言ったって梃子でも動かないつもりだぜ」

「別にそんなこと言ってないけど」

「あ、そう」

 

 そもそも長野にやって来たのは昨日の十三回忌のためであったが、東京には明日の夜帰る予定だから今日は一日中フリーということになる。庭に繋がる大きなガラス戸に目を向けると、外には雲ひとつない冬晴れの青空が広がっていた――最高のお出かけ日和だ。

 


 

「家?」

「明も大きくなって今の部屋じゃだいぶ手狭になってきたし、そろそろじゃないかって京ちゃんが」

「なるほど………ねねっ、サキはどんな家がいいの?」

「どうかなぁ。白い壁で、広い庭と大きな窓があって、モフモフの犬がいて……とか」

「なんかフツーじゃない?」

「確かにありきたりかもしれないけど、やっぱりそういうのって憧れるもん」

「私だったら忍者屋敷みたいにするよ!あっちこっちに隠し扉とか秘密の通路とか作っちゃうし」

「それはちょっと大変なんじゃないかな………」

 


 

 やっぱりやめよう。別に休日だからといって有意義に過ごす必要はないし、それこそ普段の生活が抜けきっていない証拠だ。ここ最近はずっと試合続きだったし、どうせこんな時間まで寝てしまっていたのだ。こうなったら一日中惰眠を貪ったっていいじゃないか。

 それに、たまにはキョータローとの親睦を深めるのも悪くないとも思った。

 

「ははっ、なんだよそれ」

「それとも私と一緒はイヤ?」

「まさか。嫌なわけないさ」

 

 意外と素直なその態度に私は驚いた。こういう場合は大抵「うるさくて敵わん」だの「真っ平御免だ」だのと素っ気ない返しをしてくるのが普通だから、この返答には意表を突かれたのである。

 

「ま、そういうことなら久々にちょっと付き合えよ」

 

 

 

 こんな状況はいつぶりだろうか。アルミ缶の縁に唇を付けながら私はしばらく記憶を辿ったが、少なくともすぐに思い出せる範疇にはなさそうだ。

 キョータローと二人きりになる機会というのは頻繁にありそうで実は意外と少ない。大学生の頃の私といえば彼といるかモモといるか、あるいはその両方か三択であった。部活動の仲間やゼミなどで知り合った僅かな友人を除けば、それ以外の人とは話した記憶すらあまりないくらいだ。しかしそれも社会人になるまでのことだった。

 もっともプロ雀士になってからもキョータローとの繋がりは残っていたし、会う機会も頻繁にあった。だがそれは同業者であったこと、そして何より私とサキがチームメイトであったことが大きい。それ以来私とキョータローの関係は常に誰かを接点にしたものだった。だから二人きりになる機会は少なかったのだ。

 そして今――

 

「そしたらフナQがいきなり入ってきてさー、『ええからとっとと寝ろ!』って」

「そりゃお前、学生の修学旅行じゃねえんだから。いい年してそんなことしてたら怒鳴り込みに行きたくもなるだろ」

「だってしょうがなくない?瑞原さんがあんなこと言うんだもん」

「………瑞原プロ、やっぱりキツイな」

 

 寝坊、ご飯、そしてお酒。絵に描いたような自堕落な休日である。スローペースで始めたとはいえ机の上には既に空き缶が五本以上転がり、今飲んでいるカクテルも三分の一ほどにまで減っていた。

 ちなみに最近の瑞原プロはもっと落ち着いたキャラへシフトしていて、「このプロキツい」とか言われることも全然なくなっているのであしからず………たぶん。とまあ、そんな軽口を叩くくらいには二人とも酔いが回っていたのだった。

 

「それにしても、こうやって飲んでると大学生に戻ったみたいだね」

「もう二十年くらい前になるのか……懐かしいなぁ。近くのきったない居酒屋で安酒飲みまくって吐いたりしたよな」

「吐いたのはアンタだけでしょ?」

「しらばっくれるなよ。お前だって一回、酔い潰れて俺が背負ってる時にぶち撒けただろ」

「しーらない。覚えてないもん」

「調子のいい奴め」

「そういえば、あの居酒屋なんだけどね」

 

 一年ほど前に所用で大学の近くに行った帰りのことだ。日も暮れた頃、駅へと向かっていた私は偶然にあの居酒屋がまだ残っていることを見つけた。思わず中に入ると、あの頃と変わらない――ただ二十年分だけ年を取った店主があの頃と変わらず麻雀中継を眺めている。テーブル席に座って雑談を交わす大学生やサラリーマンの顔があの頃の常連と一瞬だけ重なった。私たちがよく座っていたカウンター席を三人組の若者が埋めていた。

 そんな話をして、私たちはより一層ノスタルジーに浸るのである。

 

「そうそう、モモが一番奥に座って、その次に私が入って。キョータローはしょっちゅう遅れてくるから一番手前だったよね」

「あの頃は年がら年中お前らとつるんでた気がするぜ」

「キョータローがサキと付き合うようになってからはそうでもなかったけど」

「………そうだったっけか」

 

 彼は言葉を切らすと、机にティッシュを敷いて柿の種を幾らか出した。

 

「元気かな、モモのやつ。あいつとも遂に年賀状でやり取りするだけの仲になっちまった」

「キョータローは薄情だなー。去年会ったときは元気そうだったよ」

「お前とモモは東京に住んでるんだからすぐ会えるかもしれんが、俺はそうもいかんしなぁ」

「確かにそうだけど……むしろ、私はゆみ先輩の方が心配だよ。最近特に忙しいらしいし」

「モモがついてるなら大丈夫だろ」

「それもそっか。モモだしね」

 

 一般論的には子供を産むと人は性格が変わるらしく、出産前は優しかった妻の豹変に驚くというのはよくある話だ。しかしモモは二児の母となった今でもゆみ先輩にぞっこんで、たまに会う私が惚気話を聞かされるほどである。今更不養生させるようなことはないだろう。

 

「子供か……メイのときはどうだったっけ。サキもやっぱり変わったの?」

「そりゃ変わったさ。ガキのころ母さんに叱られてたのと同じ構図っつーか、とにかく厳しい性格にはなった。明につきっきりだったから仕方ないんだけどな」

「アンタは全部テキトーだしね。ほら」

 

 キョータローが座っていたソファ近くの床には男物のパジャマが脱ぎ捨ててあった。私がそれを指差すと、彼は少々恥ずかしそうに頬を掻いた。

 彼は外向きの体裁はよく整えるくせに自分だけのことは大体適当に済ませてしまう男だ。他人にはきめ細やかに気を遣い、部室なんかの掃除や整理は気がつけばキョータローが済ませてしまっているほどだった。にもかかわらず家では洗濯だってロクにしないし、気がつくと何日もご飯すら食べていなかったりする。そういうところが放っておけない――と、思う人もいるんだろう。きっと。

 

「やっぱり不思議だよね。確かに子供の存在は大きいんだろうけど、性格まで変わるほどなのかな」

「俺には一生分からねえよ。出産できるわけじゃないし、咲以外の例を知らないし……でも人間なんて変わるもんだろ?俺から見れば淡だって変わったよ。若い頃は不遜の塊みたいな奴だったのに、今じゃ随分丸くなっちまいやがって」

「それは何十年も生活しながらちょっとずつ起こることであって『出産』なんていうたった一つのイベントとは話が違うでしょ?私だって、もし結婚して子供が出来てたらって考えるとなんだか怖いよ。自分が自分じゃなくなるみたい」

「ふーん……やっぱお前、なんか難しい事考えてんのな」

 

 キョータローがビールに口を付けてグイッと天を仰ぐ。大きく出っ張った喉仏が上下に動き、飲み干された缶の山がまた一つ大きくなった。

 

「淡、お前なんで結婚しなかったんだ」

 

 それを聞くのか。よりにもよってアンタが今、この場で。

 恋人いない歴イコール年齢なわけで、したくてもできなかったわけで、そんなこんなで気がついたらこの年齢になってたわけで………そうやっていつも通り適当にお茶を濁す。

 

「なんでいたことすらないんだよ」

「いい人がいなかったからに決まってるじゃん」

「俺がプロにいた時だって色んな奴から言い寄られてただろ?好みのタイプだってよりどりみどりだったろうに」

「そーいうことじゃないんだよ」

「はあ?じゃあどういうことだよ」

「タイプとか、そんな問題じゃないもん………」

 

 今まで生きてきて一体どれだけの人間と関わったのかなんて想像もつかない。老若男女様々な人がいた。馬が合うと思ったり、魅力的だと思ったりする人との出会いだって何度もあった。でも私はそれらを受け入れることができなくて、過去に縋ったままここまで来てしまったのだ。

 生娘でもあるまいし、別に話してしまってもいいのだ。いっそあの時の自分の胸の内を全て本人に打ち明けて、笑い飛ばしてしまえればどれだけ気が楽になることかとも思う。でも私にはそれができなくて、かといってこれ以上踏み込むこともできない。そんな状況が何十年も続いていた。

 だから、後悔してももう遅い。

 

「こういうこと聞いていいのかわからないけど」

「別に何言われようが怒ったりしないから安心しろよ」

「キョータローが再婚しないのって、サキのことが忘れられないから?サキに申し訳ないとでも思ってるの?」

「随分突っ込んだことを聞いてくるんだな」

 

 少し決まりが悪そうに笑う。

 

「そんなつもりじゃなかったけど、実際はそう思い込みたかっただけでさ。プロだって実業団だって、咲から逃げたかったから辞めた。でも逃げられなかったんだ………結局俺は、自分が可愛いだけなのかもな」

「じゃあ、テルと寝るのも自分を慰めるためなの」

「………知ってたのか」

 

 私は、私の口から発せられたその言葉に驚いた。

 それに気付いた時の気持ちは複雑だった。怒りだけでもなく、悲壮だけでもなく、困惑だけでもなく、疑念だけでもなく、しかしそれを歓迎していなかったのは確かだ。とにかくその秘め事が、決してテルがキョータローを愛していることも、キョータローがテルを愛していることも示してはいないということは分かった。

 彼は私から目線を外らし、ようやく聞こえるような声で小さく呟いた。

 

「最初は成り行きだったんだ。そのまま流されるように惰性で何年も続けてきた。でも俺、求婚されてさ」

「それ、いつの話」

「昨日の夕方だ。最初は冗談かと思ったんだが……余計分からなくなったよ。俺にとって照さんが一体何者なのか」

 

 分からないのは私の方だ。頭は既にパンク寸前で、自分が何を考えているのかも何を言おうとしてるのかも整理がつかない。テルはキョータローが欲しい?だからそんな事をしたんだろうか。

 ずるい。

 

「他のヒトに置き換えてみれば分かるんじゃないの」

「何が言いたいんだ」

「もしもテルじゃなくて私ならどうなの。宮永照じゃなくて、大星淡なら」

 

 もしも私なら抱けるの?もしも私なら結婚できるの?いっそ本当に試してみようか。ほら、ここには誰もいないし邪魔をするものなんて何一つとしてない。きっとこの男は自分の寂しさを埋めたいだけで、女なんてどうでもいいんだ。ならいいじゃないか。テルだって私だって何も違わないんだから。

 それともキョータローは、私のことが嫌いなんだろうか。

 

 

「――淡ッ!!」

 

 

「………私とできないならそれでいいんじゃない。テルはキョータローにとって特別な人ってことだし、結婚でもなんでもすればいいと思う」

 

「もしできるなら、やめておきなよ」

 

 

 

 今まで生きてきて一体どれだけの人間と関わったのかなんて想像もつかない。老若男女様々な人がいた。馬が合うと思ったり、魅力的だと思ったりする人との出会いだって何度もあった。

 

「………酒、抜けちまったな。もう一本開けるか」

「私も飲む」

 

 でも私はそれらを蹴って蹴って蹴りまくって生きてきた。後悔なんていうのは終わったことに使う言葉のはず。私はまだ生きてる。私の人生はまだ終わってないんだ。

 だから、後悔なんてしてない。



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憧憬

『微笑』の続きからです


「ただいま」

 

 時計の針は間もなく七時へと差し掛かろうとしている。夕飯時にもかかわらず私が今いる玄関以外の照明は全て落とされているらしく、それどころか人の気配すら全く感じられなかった。訝しみながら靴を脱いで玄関の横木に上がり、明かりも付けず廊下へと向かう。一歩、二歩、三歩――何も聞こえない闇の中を進む度に、心臓の鼓動が大きくなっていくような気がした。まさか空き巣に入られたのだろうか、京ちゃんと淡はいないのか、私だけで何とかなるだろうか、警察を呼んだほうがいいんだろうか………しかし、リビングの照明に手をかけた途端に、そうした心配は杞憂であることがわかった。

 京ちゃんと淡が机に突っ伏して静かな寝息を立てていたのだ。さらに食卓の半分を累々たる酒の空き缶が占め、つまみらしき菓子類の袋がそこらうち中に散乱していた。

 

「京ちゃん、起きて。ねえ」

「……………」

「……淡、起きてってば」

 

 肩を叩くと、淡はその頭をいかにも重そうにしながらゆっくりと上げた。

 

「あれ、テルー………うぅぅ、いててて」

「これはどういうこと?」

「えーっと……キョータローと二人で飲んでて、それで………!」

 

 アルコールが回って真っ赤になっていた淡の顔から一気に血の気が引く。しばらく土気色になったそれを左右に振ったり何か唸ったりしていたが、ようやく口を開いたと思うと、

 

「あー、飲みすぎて覚えてないです。ハイ」

「…そう。それより京ちゃんを起こさないと」

「き、キョータローは起こさなくていいんじゃないかな」

「なんで?」

「なんでも!」

 

などと張って譲らないのである。何度か探りを入れてみようとしたのだが、この妙に強情な態度は変わらないようだった。まあ、大方は酒の勢いで何か恥ずかしいことでもしてしまったのだろう。淡は昔からアルコールに強い方ではないし。

 それから頭が痛いだなんだと垂れながら、淡は二階へと続く階段をヨロヨロと昇って部屋へと引っ込んでいった。リビングにはどうすれば良いかも分からず呆然とするだけの私が取り残された。

 差し当たっての重要事項は夕食だろうか。昼食を程々に済ませた胃袋は既に空腹を訴えていたが、朝方には昨晩の出費が痛いから今晩は自分が作るのだと言っていた男は目の前でいびきをかきながら眠り続けている。それを横目に残っているもので何とか済ませられないものかと冷蔵庫を漁っていると、少し遠くから鍵が開く音がした。

 

「ただいまー」

「明、おかえり」

「うわっ、何これ」

「淡とずっと飲んでたんだって」

「お父さんったらこんなになるまで飲んで、何処にお酒隠してたんだろ。買い置きすると飲みすぎるからダメだって言ったのに」

「それに晩ごはんの準備も何もできてないみたい。ご飯も炊いてないし」

「うーん、お米切れちゃってるから買ってきてってお父さんに頼んであったんだけどなぁ……仕方ないか。スパゲッティでもいい?」

「私は食べられるなら何でもいいけど」

「ならこれから作るからちょっと待っててね」

「部活で疲れてるでしょ。私がやるよ」

「お姉ちゃんだってお仕事だったじゃない。すぐ出来るから、その辺に座ってテレビでも観てて」

 

 椅子の背に下げてあったエプロンをセーラー服の上から掛けると、明は台所に立って鍋に火をかけ始めた。勧めに従ってソファに座りながら、忙しなく動くその様子をぼんやりと眺める。後ろ姿が咲に重なった。

 お父さんがあの体たらくだったせいか咲の料理スキルは中々のものだった。高校生活最後の冬、帰省したあの時もこうして手料理を振る舞ってくれたのだ。そして今ではあの頃の彼女と同じ背格好の子供が私に夕飯を作ってくれている。だのに一方の私はもう高校生ではないし、寧ろ世間的にはおばさんと呼ばれるような年齢になってしまっていて、それが私を一瞬だけ時が遡ったかのような不思議な感覚に陥れた。

 

 鞄から文庫本を取り出す。栞の挟まったページを開くと、そういった考えも台所の物音も気にならなくなった。

 


 

 

『長野県高等学校麻雀連盟 冬季選手権大会』

 

 翌朝、清澄からハンドルを握ること一時間半、城下町の面影を残す町並みの外れは繁華街の喧騒から少し離れたあたりに会場はあった。ごく薄く積もった雪の上でスタットレスタイヤの動きを停めて車のドアを開けて外に出ると、まだ朝早いというのに観戦に来たらしい老若男女様々な人たちが周囲を埋め尽くしていた。

 大きく看板の立ったホールの中は着ているコートが暑苦しいほどの暖かさである。暖房が強いせいかもしれないし、ここに集まる人々の熱気のせいかもしれない。やっとの思いで辿り着いた観戦室も同じような人の入りで、一番端の方にようやく空席を見つけるのがやっとなくらいだ。

 

 

南一局一本場

 

龍門渕(龍門渕)56900

宮永(清澄)18300

岡田(裾花)6700

滝沢(今宮女子)18100

 

南家:宮永(清澄) 一巡目

ドラ:{②}

{一四七③④⑧⑨15東東南發} ツモ:{1}

 

「おいおい…こりゃまたエラいことになってんな」

「リューモンブチって、あのコロモと同じ?」

「厳密にはその親戚筋って話だけど」

 

 本来であれば積極的に和了りに行きたい局ではあるが、愚形の多い四向聴の明にとってはそれすらもかなり厳しいように思える。

 龍門渕は既に圧倒的な地位を確立していた。二着の明とも遥か38600差、余程の不注意で大物手に放銃しない限りは揺るぎようのない一着である。一般的なリーグ戦であれば他の選手にとってここから一着を狙うのは相当難しいし、二着を確保する方向へ舵を切るのがセオリー通りの打ち方と言えるだろう。しかしこの大会はトーナメントであり、次の試合に駒を進めることができるのは一人だけ。明は残りの数局でこれだけの差を埋めなければならないわけだ。

 

 そんな彼女が不可解な行動を見せたのは十一巡目、捨て牌が三段目に差し掛かる直前だった。

 

『カン』

 

{東東東横東}

 

「大明槓!?どうしてこんなタイミングで……」

 

 淡が思わず悲鳴に近い声を上げた。数巡前にリーチが――しかも断ラスの西家から掛かっている。ただでさえ高打点である疑いが高い以上、無闇に打点を上げかねない明槓は確かに不可解だ。なら嶺上開花狙い?そんなはずはない。そもそも彼女の手牌はまだ二向聴であって未だ聴牌すらしていないのだ。

 王牌の前に座る北家の指がゆっくりと槓ドラをめくり、新たに{2}が顔を出す。

 

『……』

 

東家:龍門渕(龍門渕) 十一巡目

ドラ:{②3}

{四五六七八①③⑤7788中} ツモ:{西}

 

 西家の河は断么模様、至って普通の捨て牌だった。既に二枚切れの{西}が止まるはずもなく………

 

『ロン』

 

西家:岡田(裾花) 十一巡目

ドラ:{②3}

{一一②②⑦⑦⑧⑧3366西} ロン:{西}

 

裏ドラ:{一⑧}

 

『――24000は24300』

『ぐっ………はい』

 

龍門渕(龍門渕)56900 - 24300

宮永(清澄)18300

岡田(裾花)6700 + 24300

滝沢(今宮女子)18100

 

 

南四局

 

龍門渕(龍門渕)19700

宮永(清澄)27900

岡田(裾花)29700

滝沢(今宮女子)22700

 

 

「やっぱりあの三倍満で流れが変わったんだろうな」

「キョータローってオカルトとか信じるんだ。そーゆーの嫌いだと思ってた」

「そりゃ人並みには信じるさ。それ頼りに自分が打つことは絶対にないけどな」

 

 実際に彼女は既に4着まで沈められていた。一方の明はトップの今宮女子とはたったの1800点差。1000の直撃かツモで捲れる条件が出来ている。

 

西家:宮永(清澄) 七巡目

ドラ:{③}

{一一二三三四①②12349} ツモ:{9}

 

→打:{四}

 

 河も二段目に差し掛かったところで一向聴に取れたが、三色がほぼ確定している現状なら{4}を切るのが形的にも点数的にも一番丸いはずだ。あるいは{一}から外すのも良いかもしれないが、ここで{四}切りというのは普通なら考えられない。両面を捨てて純チャン一盃口の嵌張固定。宮永明だからこそできる打牌だ。

 しかし、そう簡単に事が運ぶはずもなかった。

 

南家:龍門渕(龍門渕) 九巡目

ドラ:{③}

{三四五五五⑤⑥⑦⑧345赤5} ツモ:{④}

 

 南家のツモ番で平和赤、高目断么三色の聴牌。三筒ならツモでもロンでも二回戦進出だが、それ以外では僅かに足りない。となれば……

 

『リーチですわ!』

 

→打:{5}

 

「うわっ、ド高目の三筒って全山かよ」

「六筒二枚、九筒三枚……全部で九枚残りか。これは厳しいかもね」

 

 上手くオリることができたとしても南家が自力でツモるのは時間の問題だ。そう考えれば、既に役牌と嵌張を鳴いている親に何とか和了らせて連荘を狙うのが今の明にとっては得策。少なくとも明の視点にはそう映るはずなのだけれど、彼女はそうは思わなかったらしい。

 

西家:宮永(清澄) 九巡目

ドラ:{③}

{一一二三三①②123499} ツモ:{南}

 

→打:{9}

 

「九索!?スジすら通ってねえじゃねーか」

「この南を止めた……やるね、メイ」

 

東家:岡田(裾花) 九巡目

ドラ:{③}

{五五赤五④赤⑤⑥南} {東横東東} {横435}

 

 東・赤赤の南単騎、符ハネして7700。これの直撃を喰らえば一気に逆転して親がトップに浮上し、その時点で試合は終わっていた。

 親の河には高打点の気配は全くしないが、確かに万が一ということはあり得る。しかしそうであったとしてもオリるのであればわざわざ{9}を切る必要はなく、既に他家へ通っている{①②}から落としていけば良いのだ。つまり彼女は和了るつもりなのだ。その上で南を押さずに手元へ残し、九索から回していく選択を取ったのだろう。

 

 明にしては冴えすぎなくらいの場読みだった。

 

『ツモ』

 

西家:宮永明(清澄) 十六巡目

ドラ:{③}

{一一二二三三①②123南南} ツモ:{③}

 

『3000-6000です』

 

 

<終局>

 

龍門渕(龍門渕)16700

宮永(清澄)39900

岡田(裾花)26700

滝沢(今宮女子)16700

 


 

 明による海底直前の跳満ツモが一回戦へ終わりを告げた。どよめいていた人々もやがて落ち着くと次々に席を立ち、その流れに従って私達もおもむろに腰を上げて出口へと向かう。

 

「次の試合は三十分後。二回戦B卓だから……あっちの部屋だな」

「その後の予定は?」

「昼休憩挟んで一時半から三回戦、そこから準決勝決勝と順調にいけば六時に終わる予定です」

「五試合ってことは六十人くらいか。参加者、結構少ないんだね」

「先週あたりに予選があったらしいですよ」

「そうだったんだ」

 

 だが、それ以上に気になるのは淡が静かなことだ。試合が終わってから淡はずっと思案顔を浮かべ、観戦室を出て以来何も言わず私達の少し後を俯きながら歩いていた。京ちゃんはしばらくパンフレットの小さな文字と格闘していたが、そんな彼女の様子に気がついたのか声をかけた。

 

「淡、具合でも悪いのか?」

「ううん、そんなことないんだけど…さっきの試合、やっぱり不思議だったなって思ってさ」

「何がだよ。女子の麻雀がブッ飛んでるのはいつものことだろ」

「そーゆー話じゃなくてメイのこと!南一局だって………」

 

「あら、照じゃない」

 

 そう呼ぶ声――つい最近聞いた声に三人とも思わず顔を上げると、ホワイエの空きスペースで十余名の生徒を引き連れて休憩をとる久の姿があった。見れば、学ランとセーラー服の海の中にはつい先程まで対局室に座っていたはずの明も既にいた。

 

「見に来てくれてたのね。しかもご一同勢揃いで」

「げっ、竹井先輩」

「『げっ』とは随分なご挨拶ねぇ、須賀くん?」

 

 露骨に嫌そうな物言いをする京ちゃんの脇腹を久が小突く。もっとも二人とも本当に嫌そうな素振りはなく、これが彼らなりの旧交の温め方なのだろう。そんな顧問の様子に気づいたらしく、後ろの方で生徒たちがこちらを伺っていた。

 

「ああ、紹介するわね。昨日も来てもらった宮永プロと、こっちは同じチームで活躍されてる大星プロ。それでこっちのチャラい金髪が明のお父さんよ」

「宮永さんのお父さん?」

「ちょ、ちょっと先生!やめてくださいよー!」

 

 顔を真っ赤にする明に周囲からどっと笑いが起こる。それから何人かの生徒がやって来て淡にサインをねだったりしているうちに、一人の女子生徒がおずおずとこちらへ歩いてきた。

 

「あの……すみません。明ちゃんのお父さんって、あの須賀プロですよね」

「今はプロじゃないけど、そういう時期もあったよ。『あの』かどうかは分からないけどな」

「二年生の丸山っていいます。須賀プロに一つどうしても頼みたいことがあって…………その、私と麻雀を打っていただけませんか?」

「えっ、俺と?」

「私、みんなと違ってオカルトとか全然ないんです。だからずっとデジタルで打ってきたんですけど、やっぱり中々結果が出なくて………誰か見本になるような人を探してる時に須賀プロを見つけて、それからずっと憧れてました」

「でも俺が打ってたのなんて、君がまだ小学生にもなってない頃だぜ。今の理論なんかはよく知らねえし、期待してるような助言なんかは出来ないと思う」

「助言なんて要りません。私は須賀プロの麻雀が好きなんです。だからこれは憧れの人と打ってみたいっていう、ただの私のわがままで………ごめんなさい、知り合いでもないのに急にこんな話。迷惑ですよね」

「………roof-topって雀荘あるだろ。今度の日曜は来れるか?」

「……!」

 

 ずっと萎縮していた少女の表情が綻んだ。それからいくらか言葉を交わすと、弾むような足取りで彼女は仲間たちの元に戻っていった。その様子はかなり周囲の注目を集めていたらしく、女子生徒は彼女を取り囲むと代わる代わる口早に何かを問い詰めている。

 一方の京ちゃんは如何にも小難しいことを考えているかのように眉間に皺を寄せているが、口元は全く喜びを隠しきれていない。

 

「言っておくけど、あっちから口説いてきたからって高校生に手なんて出したら犯罪だからね」

「出すわけないでしょうがっ!」

「あら、そうでもないんじゃないの?随分嬉しそうに見えるけど」

「先輩から指導料をいくら貰えるのか期待してるだけですよ」

「いやーん、須賀くんったら私より稼いでるくせにー」

「アンタの給料なんて知らねーよ」

 

 そう軽口を叩く表情はどこか満足げだ。




お久しぶりです。
実生活の方が随分忙しくなってまいりまして、今後は長い休みが取れたタイミングで一気に投下する具合になると思うのでよろしくお願いします。


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決別

「あーあ、結局三位か……惜しかったのになぁ」

「ま、やっぱり勝負は時の運ってことだ」

「そうだけどさー」

「それに一位も二位も強豪校の二年生だっていうしな。あいつはまだ一年生だし、十分健闘したほうだろ」

 

 その後も大会は恙無く進んでいき、満を持して迎えた決勝戦。僅差のトップでオーラスに入ったものの、跳満ツモの親被りを受けてメイは三位まで沈められた。手の届くところまで近づいた優勝をこうも既の所で逃してしまうと、やはり悔しいという気持ちが収まらない。

 十五分後の閉会式のために多くの人が会場のホールへ移動する中でも、私たちは人通りの少なくなったロビーにいた。切符に記された発車時刻を考えれば間もなくここを離れなければならないからだ。ここで別れたら次にキョータローに会えるのはいつになるだろうか。すぐ後には年末年始が控えており、あるいはシーズンオフになれば多少余裕もできるだろう。でもその時に私はここへ戻ってくるとは限らないし、実際今回の来訪だって三年ぶりのものだった。だから残された彼との時間を少しでも楽しみたかったのだ。かつて見慣れていた彼の姿形、これから再び久しく離れるであろう彼との交わりを。

 テルは私たちから少し離れた席に、こちらへ背を向けるようにして座っていた。きっとまた小説でも読んでいるに違いない。

 

「ねえ、今度の麻雀部の同窓会の話。キョータローは行くの?」

「春先くらいのやつか。あれの会場って確か………」

「新宿じゃなかったっけ」

「なら行かねえ」

 

 キョータローの東京嫌いは過去からの忌避とかそういう域を超えて、もはや彼自身がそういうものだと決めつけているように思える。ピーマンを絶対に食べまいと意地になって親に反抗する子供とか、「どうせスマホは難しくて無理だから」とガラケーを使い続ける老人とか、そういった類だ。

 だがキョータローは致命的なまでに押しに弱い。昔から押し問答になってこちらが負けたことなんて殆どないし、強く頼み込めば大抵のことは引き受けてくれた。そういう性分だった。

 

「えー、なんでよ。来ればいいのに」

「仕事だってまだ分からないし、そもそも明を残して俺だけ東京なんか行けんだろ」

「有休取ればいいじゃん。それにメイだってもう高校生だよ」

「しかしなぁ。もしこれが男ならほっときゃいいのかもしれんが」

「いっそメイも連れてくれば?泊まるところがないならウチに来ればいいし」

「無茶言うなって」

「それにモモだってゆみ先輩だって洋榎先輩だって、これを逃したらいつ会えるかわからないよ」

「うぐっ…………確かに、そりゃそうだけど」

「だからキョータローもおいでよ。ね?」

「……………わかったよ。考えとく」

「ほんと!?」

 

 そして今回もその通りになった。

 東京に帰って待っているのは普段と同じ日常でしかない。朝起きて、各地を飛び回り、麻雀を打って、そして疲れ果てて一人泥のように眠る。このたった三日間の安息が終われば明日からはまたその繰り返しだ。この終わらない日常が私を何も変わらない人生の海から上がれないようにしていて、もがくことも出来ないまま毎日を過ごすしかなかった。

 でも今度は違う。希望がある。一日々々を耐え抜いていれば必ずまたキョータローに会える日が来る。それが分かっているだけで、明日を生き抜く希望になる――そんな気がする。旧友をダシに使ってしまい若干気が引けなくもないが、こうして彼と再会の約束を取り付けられたことに比べれば些細な問題だった。それに彼女たちだってキョータローが来ればもっと楽しめるに決まっている。

 だが、そんな気分をぶち壊しにしたのもまたキョータローの言葉だった。

 

「そういえば昼ごろ、竹井先輩と会う寸前に途中まで何か言いかけてなかったか。南パツがどうとか」

「あぁ、あれね。メイとサキのオカルトのことでちょっと気になることがあって」

「オカルト?」

「南一局にあった謎の大明槓、あれってラスの子に和了らせてりゅーもんぶちを削ろうとしたんでしょ」

「満貫手が一気に三倍満に化けたアレか。まさか、偶然だろ」

「偶然じゃないって。そもそもメイは理由もなくカンなんてしないはずだし、あれはドラを乗せるためだったとしか思えない」

「んなアホな話があるかっての。第一、明にはドラが乗るかなんて分からねえだろ」

「だからあれがサキのオカルトなんだって。キョータローだって聞いてるんじゃないの?」

「それは………」

 

 キョータローが目線を脇に逸らす。

 

 少なくとも一昨日の時点では「暗刻が出来るときは牌が見えない」とメイは語っていたが、あれではまるで王牌まで見透かしていたかのようだ。たった一度の副露――それも二向聴からオタ風の大明槓。それだけで試合の流れを変えてみせた。もし本当にサキのオカルトが彼女の中に顕れつつあるというのであれば、確かにこれらに説明をつけることはできるかもしれない。最盛期のサキが同じように、人間とは思えない離れ業を何度もやってのけるところを私だって何度も見てきたのだから。

 だが何かがおかしい。まだ裏に全く別の何かが隠れているような、そんな違和感が………

 

「――淡、時間」

「………え?」

「そろそろ出ないと」

 

 テルはいつの間にか席を立って私のすぐ横にまでやって来ていた。ごく事務的に事実だけを告げる声に振り向くと、しかし彼女の表情からはどこか苛立ちのようなものを感じた。僅かに赤みがかった、しかし奈落のごとく暗い瞳に貫かれるような感覚の中で、私は呆気にとられながら同意する他になかったのだ。

 

 


 

 

 慌ただしく乗り込んだ特急の座席に腰を下ろし、息も気分もようやく落ち着いてきた頃になっても、私たちの間には何とも形容し難い気まずい雰囲気が漂っていた。会話らしい会話といえば切符の座席はどこだとかどんな弁当を買うかとか、そういうことを駅で二つか三つ交わしたくらいに過ぎない。

 窓の外には初めのうちこそ煌々と輝く夜景が広がっていたが、それも次第にまばらになり、今では景色とも呼べない何かが車窓を埋め尽くしている。時折駆け抜けていく小さな灯りを目で追いながら、なんとなくテルのことを考えていた。テルは一体何をどのくらい知っているのだろうか。

 一昨日の夕方、テルがキョータローを呼び止めて墓地で交わした密談。私はてっきり彼女もメイの異変について察知していて、それに関する話をしていたのだと思っていた。

 

 「だから、あれがサキのオカルトなんだって。キョータローだって聞いてるんじゃないの?」

 「それは………」

 

 キョータローが逸した目線の先にはテルがいた。まあ、ここまでは大方の予想通りと言っていいだろう。

 問題はそれに対するテルの捉え方である。少なくともこの三日間に彼女がメイに向ける眼は明らかにおかしかった。まるで怯えているかのような、それ自体を遠ざけるような眼。何か不吉なものを感じさせる眼。少なくとも可愛い姪っ子を見つめるものじゃない。

 それに私の悩みの種はこれだけではなかった。むしろそれ以上に昨日キョータローが漏らした『例のこと』が気になって仕方なくて、詳しく聞いておけば良かったと後悔している。もっとも、キョータローが数十キロ北西の彼方に消え去ってしまった今となっては後の祭りだ。かといって彼女自身に尋ねるほどの度胸もない。

 

 時刻は午後八時半を少し回り、列車が山梨県境に差し掛かった頃のことである。日曜の夜にしては乗客の姿は疎らで、このグリーン車も私とその隣に座るテルのたった二人きり。普段の私たちであればそれをいいことに、他に迷惑がかからないからと少々騒がしいくらいには雑談に花を咲かせていただろう。それを今日はただ押し黙って夕食の駅弁に箸を伸ばすのだ。結局、テルに話しかける決心がようやくついたのは味もよく分からないうちに鶏めしを全部平らげた段になってからだった。

 

「ねえテル、ちょっといいかな」

「何?」

「さっきの話、聞いてたんでしょ」

「うん」

「やっぱりメイのことは元から知ってたんだね」

「うん」

「一昨日の夕方、お墓参りの帰りにキョータローを呼び止めてたのもそれ?」

「うん」

「どこまで話したの」

「だいたい」

「……ねえ、ちゃんと聞いてる?」

 

 私が僅かに語調を強めてそう問うと、生返事を続けていたテルは小さく溜息を吐いた。しつこく聞きすぎて鬱陶しく思われてしまったかと肩が窄む。

 

「淡はそんなに明のことが気になるんだ」

「気になるに決まってるじゃん。何かが起こってからじゃ遅いんだから」

「『何か』なんてないよ。オカルトの遺伝は確かに珍しいかも知れないけど、別におかしいことじゃない」

「それは知ってる。でも…………」

「淡」

 

 その後に続く言葉を遮るようにテルは私の名前を呼んだ。そして手元の文庫本に落とした目線を少しも動かすことなく、確かにそう言い放ったのだ。

 

 

「これ以上、この話に関わろうとしないで」

 

 

 沈黙。

 

 

「……え?」

「淡が明の問題に触れる必要はない」

「ちょ、ちょっと待ってよ!えーっと、その…………どうして?」

「これは宮永家の問題だから。これは私と京ちゃんが一緒に解決することで、あなたには関係ない」

「………つまり、テルは私にこう言いたいの?『お前は部外者だから首を突っ込むな』って」

「乱暴な言い方をすればそういうことになる」

「私たち、今までずっと一緒だったのに……そんなのって………そんなのってないよ!」

「………ごめんなさい。そうだとしてもやっぱりあなたは所詮他人でしかない。よそに家の中を引っ掻き回されるのは迷惑なの」

 

 例えるなら積木の城が子供の手によって容易く壊されるように、あるいは鉄骨の塔が支持を失って瓦礫の山と化すかのように――私の積み上げてきた過去が音を立てて崩れ落ちていた。

 私の半生は宮永家と共にあったと言っても過言ではない。テルとは高校のときからの仲だし、キョータローは大学で四年間を共にした親友だ。プロとして契約したチームでは高校時代から因縁の相手だったサキと仲間になり、八年間も一緒に戦った。サキがこの世を去ってからも私はずっとキョータローやメイの隣に寄り添い、彼らとかけがえのない関係を築いてきた。そのはずだったのだ。

 宮永照は私が作り上げたモノを否定した。他の何者でもない、宮永家の人間である彼女自身が。

 

 もう、どうにでもなれ。

 

「ふーん、そうなんだ………それにしては、カイさんもアイさんも蚊帳の外みたいな口ぶりだったけどね。二人だって家族なのに」

「違う。お父さんとお母さんには心配をかけたくないだけ」

「だいたいさぁ。偉そうに言うけど、そもそもテルって本当にメイの家族なの?遠く離れた東京に住んで、一年に何回か会うだけ。伯母さんと姪っ子なんて家族っていうより親戚でしょ」

「そんなことない。私は明のことを家族だと思ってるし、明だってきっとそう思ってくれてる」

「そもそもキョータローに抱かれたくらいで勘違いしちゃってバッカみたい。結局アイツが欲しいサキで、別にテルを愛してるわけじゃない」

「……違う。彼だっていつも私のことをちゃんと……」

「メイのお母さんもこの世にたった一人、サキしかいないもの。そのサキだって………かわいそうなメイ」

「違う」

「テルだって本当はわかってるんでしょ?だから今更になって結婚なんてしたがってるんだ。出来るわけもないのに必死にあの子の代わりになろうとしてさ。健気だね、テルは」

「違う!」

「でもテルがどんなに頑張ったところでキョータローにとっての家族はメイだけだし、メイにとっての家族はキョータローだけ。それが二人にとっての『宮永家』だよ。残念だけど」

「違うって言ってるでしょ!!」

 

 何が違うものか。キョータローは静かに暮らしたかったんだ。他者を彼の世界から排斥して、娘と二人だけの世界に閉じこもりたかったんだ。彼らにしてみれば、私たちはあくまで勝手なエゴでそこにズカズカと踏み込んでいった『他者』に過ぎない。そのエゴに私たちはそれが彼のためになると勝手に理由付けをして、勝手に信じ込んでいた。

 文庫本はとっくにテルの手を離れて床へと落ちていた。でも何も怖くない。たとえ彼女の顔が見たことのない形相へと変わり、声色は強張り、爪が食い込み血が出るほどにその右手を握りしめていたとしても。

 

「仮にそうだったとして、だからどうしたっていうの。私が家族を、宮永家を守るんだ」

「………」

「淡、お願いだから私の家族を壊さないで」

「そんなことしないよ。私だってみんなが大好きだもん」

「淡が?……ふふっ、あはははははは!」

 

 テルが笑っている。それも、こんなふうに高笑いをするところなんて見たことがあっただろうか。普通であればその奇妙な光景に対して相応のことを思ったのだろうが、今の私にはそんな余裕はどこにもない。ただ、理解できない相手への苛立ちだけがそこにはあった。

 

「冗談言わないでよ……あなたが好きなのは私たちじゃない。京ちゃんでしょ」

「………!」

「彼にいい格好をしたいから明の面倒も甲斐甲斐しく見てる。彼が聞いたらきっと幻滅するね」

「ちがっ、私はそんなつもりじゃ――」

「都合が悪くなると『違う』としか言えなくなる。さっきまでの私と今の淡、何も変わらないよ」

 

 その顔は悪趣味な笑みを浮かべていた。

 これはテルじゃない。別の誰かだ。そう確信しているのに、論う彼女の声や彼女の顔、彼女の背格好ら全ての情報は目の前の女性が他でもない宮永照その人であることを如実に示している。

 

「ずっと横恋慕ばかり引き摺ってないで大人になればよかったのに……馬鹿な娘」

「…………」

「確かに私は咲にはなれないけど、あなただって咲にはなれない。それは絶対的な事実なんだよ」

「……そんなこと知ってる。別にサキにもサキの代わりにもなるつもりなんてないもの」

 

「私は大星淡だから」

 

 そんなこと昔から分かっちゃいた。だのに今まで認められなかった、私は確かに馬鹿だった。

 ああそうだ。私は宮永――須賀京太郎という男のことが好きだ。アイツのことを男として見てるし、私のことを女として見てもらいたい。でも宮永咲の代替品として扱われるなんて絶対に嫌で、『大星淡』として彼に愛してもらいたい。私はそんな馬鹿でわがままな女なのだ。そしてテルは私とは違った。私が須賀京太郎という男に執着しているのに対して、彼女は宮永という家に執着していた。だから自分がサキになって、既に壊れてしまったものを直そうとしてるんだ。そんなこと、もう絶対にできっこないのに。

 懐から出したティッシュペーパーを黙ってテルに渡すと、彼女は右手に滲んだ血を丁寧に拭き取った。血。宮永家の血。何故彼女をこれほどまでに駆り立てるのだろうか。

 

 列車が見慣れた駅へ入っていったのはそれから更に一時間以上が経った後のことだった。キャリーケースを持ってプラットホームに降り立った瞬間、束の間の平穏から氾濫する人の群れへと帰ってきたのを感じる。これぞ東京、これぞ彼の嫌いな街だ。

 改札を出て、たった一つの会話を交わす。

 

「じゃあね。また明日」

「おやすみ」

 

 しばらくして振り向くと、彼女は既に都会の人波に紛れていた。



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大星淡の回想
出会い


 高校時代、上京してきた友人は言っていた。

 

 「東京ってどこもビルばっかりだと思ってたけど、案外そうでもないんだね」

 

 そんなことは当たり前で、都心から離れたこんな郊外まで超高層建築で埋め尽くされては息が詰まって堪らないだろう。緑は程々に多いし空は広い。少し歩けば田畑も広がる。高校生活を麻雀に費やした私がプロ入りを蹴って進学した大学も、そんな閑静な街並みに溶け込んでいた。

 麻雀が嫌いになったとか将来の目標が別にできたとか、断じてそういう理由ではない。ただ、もう少しだけ時間が欲しかっただけなのだ。このまま社会に出て一人前になるには不満足だった。私の人生――私の青春には何かが欠けていて、せめてそれを探し出さなくてはならないような気がしていた。

 


 

 忘れもしない、二十三年前の春のことだ。

 今では建て替えられたと聞くが、当時大学の敷地の北端には半ば打ち捨てられていると勘違いしてしまうようなオンボロの講義棟が建っていた。その人通りのない廊下を右往左往していれば、そのうち「麻雀部」と書かれた安っぽい張り紙が画鋲で留められている一つの扉を見つけることが出来る。私の四年間があった場所だ。

 

 最初そこに行ったとき、本当にこんな貧相な場所が部室なのかと目を疑いたくなった。耳をそばだてても中から何の物音も聞こえてこない。ひょっとしてまだ部員が来ていないのだろうかと訝しみつつノックをすると、意外にも中からは入室を促す低い声が返ってきた。ドアノブに手を伸ばしてみると、果たして私が力を込めるままに抵抗なく右に回転した。

 蝶番を軋ませながらゆっくりと扉が開く。誰も居ないと思っていた室内には天井の白熱電球こそ灯っていなかったが、窓から差し込む夕日によって茜色に照らされていた。

 そして、窓際には一人。外を通る学生たちの往来を無言で眺めるその顔が私の方へ向いたその時、まるでこの男が私のことを待っていたように感じられた。まあ、少し美化しすぎだろうか。

 

「いらっしゃい。君は………」

「私、入部したくて来たんだけど」

「あぁ、そういうことか。だったらそのうち先輩が来ると思うから適当に座っといてくれ」

「座るってどこに?」

「目の前にあるだろ。俺のケツで温まってる方がよければこっちでもいいけどさ」

「遠慮しとく」

 

 勧めに素直に従って雀卓の椅子に座った私は、電気ポットに水を汲む彼の様子を観察していた――が、すぐにやめた。特に面白みもない至って平凡な学生に見えたからだ。新宿あたりを歩いていれば一分に一度くらいのペースで見かけそうな量産型の衣類を身に纏い、どこか聞き覚えのある訛りを話す上京したての田舎者。そんなところだろうか。退屈は猛毒である。

 そんな彼の持ち物のうちたった一つ、私と同じ金髪だけは一際目を引いていた。

 

 急須から慣れた手つきでお茶を入れた湯呑みを私に渡すと、彼はもう一つの湯呑みを持って私の対面に座った。まだ湯気の立つ緑茶をぐいっと飲んで唸り声を上げる様子はどうも年寄り臭さを感じる。

 

「なあ、君って白糸台高校の大星選手だろ?」

「…………そうだけど、だったら何なの」

「別にどうってわけじゃないんだ。ただ気になったから」

「なら聞かないでよ」

 

 またこれか。自分で言うのも烏滸がましいかもしれないが、私は有名になりすぎてしまったらしい。

 三年間インターハイで戦うことができた。それ自体は私の意志だったし、その結果得られた経験には満足している。だが夏になるとテレビが大々的に自分のことを取り上げて――何故か麻雀と関係のない話まで紹介していたり、会ったこともない相手にまで顔が知れ渡っているというのはあまり心地の良いことではない。

 街中を歩いているだけで声を掛けられたことだって数知れない。結局彼らは物珍しさや興味本位で集ってくるだけなのだ。目の前の男もまたそういった有象無象の一人であると思うと、退屈を越して嫌悪感さえ抱きつつあった。

 

「なんだよ。冷たいやつだな」

「だって初対面なのに馴れ馴れしいんだもん。キモい」

「客が来たから歓迎してるだけなのになんつー言い草だ」

「そもそも誰かも知らない相手に優しくする必要なんてないでしょ」

「へーへーさいですかい……ま、そういうことなら自己紹介くらいしとくか」

 

 襟を正し、咳払いし、勿体ぶった彼の言葉に私は驚愕した。

 

「俺は清澄高校出身の須賀京太郎だ。よろしくな」

「うそっ、清澄!?」

 

 清澄高校――東場の片岡優希にデジタル打ちの原村和、そして嶺上使いの宮永咲。私にとっては少なからぬ因縁を持つ相手だ。そんな彼女達と同門であるこの人物、須賀京太郎………

 

「………って誰?」

「おい」

 

 これが、私とキョータローの出会いだった。



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じゃんけんに必勝法なんて存在しない

 六月というのは随分難儀な季節だ。ようやく花粉に怯える時期が終わったかと思えば梅雨の分厚い雲が空に陣取り、それも半ばまで過ぎ去った初夏。一方で最初は不慣れであった新生活に人々が順応し、心理的に余裕ができる時期でもある。私もその一人で、瞳に映るものすべてが物珍しく感じられた非日常も日常へと変貌し、既に退屈すら覚えていた。

 

「むむむむ………」

 

 

南四局

 

大星淡20900

加治木ゆみ35200

須賀京太郎21400

東横桃子22500

 

南家:大星 十三巡目

ドラ:{⑤}

{456④⑤⑤⑤⑥四六} {横南南南} ツモ:{三}

 

 崖っぷちラスから一気に一着も見えるテンパイ、ドラの{⑤}も三枚手の内にあって使い切れる形だ。問題は……

 

北家:須賀 十三巡目

ドラ:{⑤}

{東⑨一西中9}

{8六横⑧赤54}

 

 ……{三}(こいつ)が押せるかどうか。ここで現物の{六}を切ればラス回避は簡単にできそうだが、トップ条件の跳満ツモは消えてしまう。

 一方のキョータローは染め手やチャンタではないだろうし、三巡目の打{一}と既に四枚見えの{4}から123や234の三色というのも考えにくい。やはり本線はまだ見えていない{赤⑤}またぎの{③④⑥⑦}――打点を考えればタンピン系だろう。タンヤオチートイに当たるかもしれないが、逆転の目がなくなること損失に比べれば些細な可能性だ。どちらにせよ{三}を切ることに迷いはない。

 

「ロン!」

「げっ」

「裏は……うへぇ、たまには一枚くらい乗ってくれたっていいのに」

 

北家:須賀 十三巡目

ドラ:{⑤}

裏ドラ:{北}

{三三四四⑥⑦⑧⑨⑨⑨567} ロン:{三}

 

「1600」

「あんた、それ曲げるんだ」

「配牌見て『こりゃ逆転は無理だな』って思ったんだ。だから手なりで打ってそのままリーチした」

「…………ふーん」

「大星、和了は和了だ。ちゃんと払ってやれ」

 

 ゆみ先輩がそう言うから納得はいかないが点棒を払う。お釣りの百点棒を四本手元に戻したところで私の四着は確定した。

 

 新しい麻雀部の活動は高校時代のそれと比べれば遥かに温いものだった。「好きな時に来い」という程度の拘束力しかなく、その上行ったとしても指導や勉強会というような機会が設けられるわけでもない。そもそもインターカレッジは団体戦よりも寧ろ個人戦の方がメインで、部活なんて精々雀士が作る寄り合いくらいの存在だ。つまり組織全体で何かをしようという発想自体がそもそもないのである。あの頃の規律ある雰囲気や目的意識とかけ離れた環境にいくらかの戸惑いや不満を抱えつつも、私は講義が終わる度に足繁く部室へ通っていた。

 そんなこんなで書面上は十数名の部員を擁してはいるものの、実際のところ精力的に参加している人数はそう多くない。部長のゆみ先輩やいつもその脇にくっついているモモ、それから例のキョータロー。やけに長野出身の占める割合が高い。実は固定メンバーはもう一人いるのだが、今日はまだ来ていないようだ。

 

「あーあ、せっかくラス親だったのに何もできずに終わっちゃったっす」

「それ、焼き鳥だった私への当てつけ?」

「だとしたら性格悪すぎっすよ……」

「何だよ淡。あんまりカッカすんなって」

 

 どこか遠くの防災無線から『七つの子』が聞こえてきたのは、私がそれに噛み付こうとしたのと同時だった。アルミサッシが切り取る雨降りの風景は朝起きた時と同じような灰色のままで、時間の移り変わりを読み取ることは到底出来そうにない。こんな空が何週間も続いているのだから誰だって気分くらい滅入るだろう。背後の壁に掛けられた時計に振り向いたキョータローは席を立ち、傍らのリュックサックに手を掛けた。

 同じ面子で何度も卓を囲んでいれば実力差なんてものは嫌でも分かる。端的に言えば私が一番上でキョータローが一番下。しかしこの日に限ってはお約束通りに事は進まず、私は珍しく彼の後塵を拝していた。これがどうにも癪に触った。理由は簡単で、ゆみ先輩が「全局ダブリーではとても練習にならない」と言うのでここ最近はオカルトを使わないようにしているのだ。別にゆみ先輩やモモに負けたことはどうでもよかった。オカルトさえあれば彼女たちを負かすことなんていつでもできるのだから。だがキョータローに、オカルトなんてなくても勝てて当然だと思っていた相手にすら負けたとなれば話は別だ。

 

「それじゃあ俺はそろそろ……」

「待ってよ。まさか勝ち逃げするつもり!?」

「予定があるんだから仕方ないだろ」

「あと一半荘!」

「バカ、んなことしてたら遅れちまうっての」

「いいじゃんそのくらい!ケチー!」

 

 そんな押し問答を何度も繰り返した末にキョータローは折れ、最後に一度だけ東風戦を打てることになった。だがその約束を取り付けたところでこのままでは私が彼を打ち倒すことができないのは明白だ。今日の私はツイてない。こういう日は運任せに何かをやっても絶対に上手くいかないものだ。

 だから運の要素を完全に排除する必要がある。一か八かの賭けなんて馬鹿馬鹿しいことはせずに淡々とやればいい。私にそれができるということは私自身がよく知っている。

 

「ゆみ先輩、いつもの使っちゃダメ?」

「………仕方ないな。この一回だけだぞ」

 


 

 大星淡の麻雀を初めて見た時、どことなく子供っぽいと思った。私のよく知る例では天江衣が最も近いだろうか。その実やっていることはえげつないし残酷とすら形容できるのだが、それを行使する彼女たち自身は無邪気ですらある。

 しかし二ヶ月前の彼女との邂逅は、私の抱いたそういった感覚に妙な違和感を生んだ。目の前にいる少女の右手があの打牌をしている。確かに彼女は一見純真無垢な少女のようではあるが、何となくその裏には影が潜んでいるようにも見えた。ともかく、このままの打ち方では彼女が危ない。

 本人が未だそれを理解していないというのなら今日はいい機会かもしれない。私がその役目に適うかどうかは置いておこう。

 

 

東一局

 

東横桃子25000

大星淡25000

須賀京太郎25000

加治木ゆみ25000

 

北家:加治木 配牌

ドラ:{⑨}

{②③④⑤⑥11789北中中}

 

 配牌一向聴{①④⑦1中}受け、ダブリーが打ててもおかしくない好配牌だ。しかし本来大星の支配が有効なのであればこんな手が入るはずはない。ひょっとして本調子が出ていないのか……私はそう考えた。彼女は最近オカルトを使っていなかった。寒い朝の自動車のように、冷間始動のためにはエンジンが暖まるまでの時間が必要なのだろうか。

 起家のモモがかなりの長考の後に{東}を切り出すと、大星は持ってきた{1}をツモ切って――

 

「リーチッ!」

 

 卓上に戦慄が走る。その第一打は確かに曲げられていた。

 どうやら私の推理は全くもって見当違いだったらしい。大星は既に、少なくとも彼女自身に対してはその支配力を十分に発揮している。

 

「全然分からん。こんなの当たったら事故だろ」

「だが、そんな姿勢のままではいつまで経っても大星に勝てないだろう」

 

 須賀の手牌から出た{西}に大星が反応しないのを確認して、牌山に指を伸ばす。

 

北家:加治木 一巡目

ドラ:{⑨}

{②③④⑤⑥11789北中中} ツモ:{中}

 

 聴牌。私は迷わず{1}を河に捨てた。

 こういう手は大抵良形から埋まる。もっとも仮に三面張から埋まったとしてもこの順目での{1中}待ち聴牌は非常に強力だし、私だってノータイムで{北}を曲げるだろう。十一枚の待ちより先に三枚しかないシャンポンが入ったとなれば尚更だ。だが、私たちが今相手にしているのは()()大星淡であるということを忘れてはいけない。普通の打ち方で勝てるような相手では全くないのだ。

 

「リーチっす」

 

 モモが彼女を追うようにリーチを掛ける。宣言牌の{北}が見えた瞬間、大星の口元は歪んだ。

 あぁ、そうか。これは罠だったんだ。

 

「ロン」

 

南家:大星 二巡目

ドラ:{⑨}

裏ドラ:{8}

{七八九⑨⑨⑨234666北} ロン:{北}

 

「ダブリー一発ドラ3。12000」

「……はい」

「ちょっと待ってくれ。モモ、手牌を見せてくれないか」

 

東家:東横 二巡目

ドラ:{⑨}

{二三四六七赤⑤⑥⑦赤55678}

 

 もはや鶴賀学園の生徒でなくなった後も私は高校麻雀をよく観ていた。しかしそれは母校や後輩たちの勇姿を見届けるためであり、また高校麻雀界の大勢を知るためだ。強力なオカルトを使う雀士は他にもたくさんいたし、大星淡という選手に特別注目していたわけではない。だから見誤っていた。

 彼女のオカルトは確実に、私が知るより遥かに強力になっていた。

 

東四局

 

東横桃子3000

大星淡44800

須賀京太郎17200

加治木ゆみ16000

 

 たかが東風だというのにこうも酷い展開になるとは予想はできても想像はできなかった。ここまで須賀が一度3900を刈り取った以外は全て大星の跳満和了で局が進んでいる。放銃するわけにはいかないが、オリたところで結局は最後の角でツモられてしまうのだから無理はない。

 それにしても三着目のラス親というのは何時ぞやの一局を思い出させる。あの時対面に座っていたのは確か天江だったか。28800点という点差で私がすべきはとにかく連荘することだ………あるいは倍満ツモで一発逆転か。どちらにせよ先輩として少しくらいは意地を見せなければ。

 そう思いながら回したサイコロの出目は3。大星がカンをしてから二巡が勝負だ。

 

「……さて」

 

東家:加治木 一巡目

ドラ:{白}

{二四六①⑤⑨赤556白白發中西}

 

 やはり五向聴、この局も支配は盤石らしい。

 

「連荘できそう?」

「ははっ、中々手厳しいな」

 

 しかしこの配牌はただの五向聴ではない。ドラの{白}対子、赤含みのリャンメントイツ、それにリャンカンが一つとなれば勝機は十分にある。私の人差し指は、一番右の牌にかけられた。

 

「へぇ、やるつもりなんだ……関係ないけど。リーチ」

 

→打:{横⑤}

 

「………なるほど」

 

 須賀の手から打ち出されたのは{赤⑤}。彼からすればこの点差を捲るのは現実的ではないし、このまま二着を維持するのが一番良い選択である。それは分かっているのだが、どうせなら私が鳴けるようになるまで抱えていてほしかったものだ。

 その時、不意に金属が軋む音が対面のさらに向こうから聞こえた。古びた蝶番が悲鳴を上げ、誰かをこの部室に招き入れようとしている。

 

「なんだ、洋榎か」

「ご挨拶やなぁ。うちに会えんくて寂しかったんか?」

「今日の授業はどうして来なかったんだ」

「前からゆみに貸してもらっとるDVDあるやん?昨晩あれ観とったんやけど、結構おもろくて」

「まさか……今までずっと寝てたんじゃないだろうな」

「ぴんぽーん、大正解」

「……はぁ」

「おっ、淡は今日も絶好調みたいやな」

 

 愛宕洋榎、この部室のもう一人の住人だ。

 私が呆れてものも言えないでいると、洋榎は卓をぐるりと周って全員の手牌を見ながら「ほーん」とか「なるほどなぁ」とか、何に納得したのかは分からないがそんな声を出し、最後に須賀の後ろへ椅子を引っ張ってきて腰を下ろした。

 

 そしてその時はやってきた。最後の角に差し掛かるまで残り一巡、恐らく次のツモで大星は暗槓を仕掛けるだろう。モモは私の目をちらりと見ると生牌の{發}を切り出した。

 

「ポン」

 

 モモは最高のパートナーだ。この巡目、このタイミング、そしてこの牌。私の考えを全て分かった上で最も欲しい牌を切ってくれた。二人でフリー雀荘に行けばそこそこの金が稼げるんじゃないだろうか……いや、そんなことは神に誓ってしないが。閑話休題、ともかく大星の槓材はモモに流れた――はずだった。

 

「カン」

 

{裏③③裏}

 

「ざーんねん、嶺上開花ならず」

 

 王牌から持ってきた{②}が一切の淀みなくそのまま河に捨てられるのを見ながら、内心で悪態をつく。結局暗槓を阻止することはできなかったか。

 だがお陰でドラが乗った。發ドラ5聴牌!

 

東家:加治木 十四巡目

ドラ:{白5}

{二三四⑨⑨⑨赤55白白} {發發横發}

 

 大星の待ちは恐らく{369}のスジ。{西}もまだ通っていないが、どちらにせよこの順目では多くて三枚残りくらいか?彼女はそれでもツモるんだろうが、それなら尚更私が掴まされる心配はしなくてもよい。というか、心配している余裕はない。白を持ってくることができれば私の勝ち。例え{5}でも彼女が掴めばやはり私の勝ちだ。

 須賀が無筋の{9}を切る。背後の洋榎が僅かに笑った。

 

北家:須賀 十四巡目

{赤⑤②②2⑤④}

{六2北5六1}

{9}

 

「………!」

 

東家:加治木 十四巡目

ドラ:{白5}

{二三四⑨⑨⑨赤55白白} {發發横發} ツモ:{⑨}

 

 普通であればツモは一回でも増やしたいところだし、ここで「カン」と言うことは容易い。嶺上がつけば{5}でも倍満――いや、そう上手くはいかないか。私は彼女たちとは違う側の人間なのだから。私はこの対局が始まる前に考えていたことを再び思い返していた。この{⑨}を暗槓してしまえば大星の思う壺であるというなら、私がすべきことは一つしかない。彼女にはいい薬になるはずだ。

 

 彼の手牌は、ゆっくりと倒された。

 

{一九①19東南西北白發中中}

 

「ロン。32000です」

 

 

<終局>

 

東横桃子3000

大星淡44800

須賀京太郎49200

加治木ゆみ-16000

 

 

 

「先輩!これどういうこと!?」

「見れば分かるだろう。須賀の国士に差し込んだ」

「なんでそんなことしたのかって話だよ!カンすればよかったじゃん!」

 

 大星が激しい剣幕でまくし立てる。彼女の言う通り、ここでは暗槓時の搶槓は成立しない。そんなことは百も承知だ。

 

「私が暗槓したところで嶺上でツモれるとは思えないからな。それに大星、君なら恐らく次のツモで和了っただろう。だから確実に君を一位から引きずり下ろせる方を選んだんだ」

「そんな……なんでわざわざ」

「インハイやインカレではそういう場面は少ないが、リーグ戦では着順操作が必要になることもある。特にウマやオカがあるルールでは自分の点数が減ったとしてもライバルを蹴落とす方が有利になることも珍しくない。君だって将来はプロを目指しているのであれば、そういった点数計算は出来て当然だ」

 

 この場合は三着から四着に転落しているから、役満を放銃しなかった場合と比べればウマ含めておよそ▲52.0の失点となる。それによって大星から削ることができた順位点はせいぜい40.0と実際はむしろ損をしているのだが、この場ではあえて言わないことにした。

 

「さっきのオーラスだって一巡目に私の西を鳴いて三索を切っておけば四筒五筒の二種七枚だ。あの場面ではポンテンで1000点の和了りを取りに行ったほうがいいことくらい少し考えれば小学生だって分かるはずだが、それすら分からずに打っているようではインハイチャンプの名が聞いて呆れる」

「ぐっ…!」

 

 インターハイの団体戦ルールは特殊だ。順位点もなく五人で点数を引き継ぐという仕組みの中では局収支を最大にすることが最も有効な戦略となる。そういった意味では大星の戦い方は理にかなってはいるが、土俵が変われば戦略も変わって然り。もっともそれは彼女が先程のオーラスでトップだったからだ。もし二着以下で一位との点差が更に開いているのであれば当然――

 

「ゆみ、後輩いびりはそんくらいにしといた方がええんとちゃうか」

「ん?」

「…………」

 

 彼女の目尻には水滴が浮かんでいた。やってしまった。

 

「あーその、なんだ。要は点棒とか他家の聴牌気配とか、場況をもっとよく読んだほうがいい。必ずしもダブリーが最善手とは限らないんだ。だからオカルトに頼りすぎないよう訓練したほうが良いと思って……」

「だって………そんなの分かるわけないもん……今までみんな、私のことすごいって褒めてくれたし……スミレ先輩だって……」

「ちょ、ちょっと待ってくれ!大星、強く言ってしまって済まなかった。少し熱が入ってしまったんだ」

「……もういじめない?」

「別にいじめたわけじゃ――やっぱりなんでもない、もういじめないよ。だから泣かないでくれ、大星」

「淡って呼んで。大星じゃなくて」

「え?……あ、あぁ。淡、少しだけ聞いてほしい」

「……うん」

「いいか淡、今まで頼ってきたものに縋るなと言われて混乱する気持ちは分かる。しかし君が思っている以上にインカレは険しい。寧ろ君のようなタイプの雀士だからこそ厳しいかもしれない」

「うん」

「だから少しずつずつでいいから一緒に頑張っていこう、な?」

「………うん。頑張る」

 

 淡は小さく頷いた。この頃には彼女の目から溢れていた大きな涙も少しずつ収まり、なんとか落ち着きを取り戻したようだった。鼻は垂らしているが。

 見かねた須賀はポケットからティッシュを取り出すと、何枚か淡に渡した。

 

「ひっでぇ顔だな。洗ってこいよ」

「うっさい!」

「元気があって結構なこった」

「私が一緒にトイレまで付いていこうか?」

「ううん、大学100年生だから大丈夫」

「そうか、いってらっしゃい」

「いってきます」

 

「…うち、心配やし一応様子見てくるわ」

「頼んだ」

 

 須賀が立ち上がり、戸棚からお茶っ葉を出す。ケトルに水を汲む音だけが部室に響き渡る。

 

「少し言い過ぎてしまったか、私は」

「大丈夫でしょう。あいつバカだし、帰ってくる頃にはケロッとしてますって」

「だと良いんだが……それにしても、なんだか彼女の以外な一面を見てしまったような気がするよ」

「そうですか?イメージ通りな気もしますけど。良くも悪くも歳不相応に純粋というか、子供っぽいというか」

「小学生がそのまま大学生になったような人っすよね」

「素直に捉えるならな。でも、本当にそうなんだろうかと私は斜に構えていた」

 

 三年間も清澄と鎬を削り続け、一時代を築き上げた高校麻雀界のツートップ。その白糸台高校のエースだった人物だ。彼女ほど麻雀の世界に揉まれていれば否応なしに酸いも甘いも少なからず噛んできただろう。だからこそ淡の本来の性格はもっと達観したところにあって、それを誤魔化すためにわざとおちゃらけてるんじゃないかと思えてしまうのだ。自信屋で不遜な態度もふわふわした雰囲気も、全部猫かぶりではないか、と。

 

「しかし須賀、さっきの泣き顔まで作り顔に見えたか?」

「いや。俺には全く」

「私だってあれこそが淡の本性だと思うし、それに私が彼女に説教じみたことを言った時の態度もそうだった。実際問題として淡はうちで一番強い雀士だ――それこそ洋榎以上の。今回は偶然勝てたが、普段ならこの三人が束になってもトップを阻止するのは難しいだろう。負けん気も強いし、格下からの助言なんて聞く耳を持たないだろうと思っていたよ。寧ろ嫌味混じりに言い返されるかとすらね」

 

 でも今日の淡はそうしなかった。素直に私の言うことに耳を傾け、そして心を動かしてくれたのだ。負けたという事実がそうさせたのか、あるいは私に対する気遣いなのか。これこそ淡の持つ純粋さ、優しさの証拠であるように思えてならない。

 

「加治木先輩、淡のこと気に入ってるんですね」

「確かにそうかもしれない。ああいうのって私たちくらいの年齢になると貴重じゃないか。辛いことがあっても真っ直ぐ歩いてきた人間だよ、淡は」

「そういう人がタイプですか」

「タイプというと少し違うが、見守ってあげたいとは思うさ。どう言えばいいんだろうか……こう、庇護欲を掻き立てられるというか」

「………」

「なんだよモモ、不貞腐れるようなことでもあったのか?」

「別に不貞腐れてなんかないっすよ」

「は?……あぁ、そういうことね」

「もしかして、これも私が悪かったりするのかな」

 


 

「おーっす」

「ただいまー!ジュース買ってきたよ!」

「うちの奢りやけどな」

 

 アルミ缶をいくつか両腕に抱えた私が再び部室の扉を開けた瞬間、三人は目を点にしてお互いの顔を見合わせた。それからいかにも面白おかしそうな口ぶりで、

 

「須賀さんの言う通りだったっすね」

「えっ、なになに?」

「大した話じゃねえよ。それより元気出たか?」

「もう大丈夫!淡ちゃんは100年生だからこのくらいじゃへこたれないよ!」

「良い心がけじゃないか」

 

 どこかからスイッチが切り替わるような音がすると、一番端に立っていたキョータローは部屋の片隅で湯気をあげていた電気ケトルを持ち上げてその中身を急須へと注ぎ始めた。ケトルを戻した彼の腕が今度は急須へ伸び、机の上に置かれた湯呑みの上を何度も忙しなく行き来させる。

 

「どうぞ」

「ありがとう」

「えー、ジュースは?」

「後で飲むから置いとけ」

「ん?……茶葉を変えたのか。いつもより美味しい気がする」

「結構高かったんですよ」

「相変わらず変な趣味やなぁ…あちっ」

「さすが清澄の雑用担当っすね」

「うっさいやい」

「じゃあキョータローったら、ずっと小間使いばっかりやってたんだ」

「んなこたねぇよ!俺だってちゃんと練習してたし、大会だって出てたっつーの……まぁ、鳴かず飛ばずだったのは認めるけど」

 

 そう自嘲気味に声を低く潜めると、決まりの悪そうな顔で湯呑みをぐいっと煽った。

 

「だが、去年は個人で県予選通過までいったそうじゃないか」

「全国では予選で負けちゃいましたけどね」

「よっわーい」

「インハイチャンプ様からすりゃあ雑魚も良い所に決まってるだろ」

「気にせんでもええやろ。そもそも淡と比べたら麻雀歴自体短いやろし、普通こんなもんとちゃう?」

「あぁ。私だって始めたのは高校に入学してからだったから、三年でこれほど成長するのがどれだけ大変かはよく知ってるよ。君は自分の実力にもう少し自信を持ってもいい」

「そう……なんですかね。全く実感が湧きません」

「そもそもこの環境が異常だと思わないか?こんな麻雀で有名というわけでもない私大の部活に女子インハイの最上位選手が二人も居るんだ。大丈夫、本番ではちゃんと結果が出るさ」

 

 ゆみ先輩は不思議な人だ。インカレが個人主義的な風土を持つ以上、大学の麻雀部で先輩が後輩に指導をするというのはあまりない話である。強くなりたければ自分で何とかしろ――実際この三ヶ月でも、洋榎先輩からはちょっとしたアドバイスを受けたことすら指折り数えるくらいのことだった。だがこの人はそうじゃない。後輩に真正面から向き合って、『先輩らしいこと』をしようとしているのだ。彼女の右手が数度、慰めるようにキョータローの肩を叩いた。

 

「本番……来週やなぁ。東京予選」

「ゆみ先輩と洋榎先輩は今年が最後なんだっけ」

「そうなるな。来年は卒研と就活でそれどころではないだろうし、これが私の競技麻雀人生最後の大会だよ。洋榎はきっと平気な顔で本戦準決勝くらいまで上り詰めるんだろうが、私はそうもいかない」

「またまたーご謙遜をー」

「茶化さないでくれ、洋榎」

「加治木先輩はプロにはならないんですか?」

「『なりたいか』と聞かれれば首を縦に振れるんだがな……多分ならないだろう。私は所詮凡人だ。洋榎のように天性の才能があるわけでも、ましてや淡のように牌に愛されているわけでもない。例えそうであっても私なりに戦えるところを見せてやろうと思い、今まで続けてきたつもりだった」

 

 洋榎先輩は近くの椅子に座ってゆみ先輩の方をじっと見つめていた。キョータローは戸惑うように目線を左右させ、モモはただ深く下を向いていた。

 

「凡人が戦える世界じゃないよ、プロは。それくらい分かってるつもりだ」

 

 何も言えなかった。彼女に対して言葉を持ち合わせていなかった私は、すごすごと肩を縮めて湯呑みを手の中で廻した。淹れたてのお茶の温もり以外の全てが私を冷たく突き放す。

 いつの間にか窓の外は暗くなっていて、地面を打ち付ける雨降りの音だけが外の天気を知らせていた。

 

「……ところで、君は用事があるんじゃなかったのか」

「あぁーっ!!」

「もう七時前っすよ……」

「クソッ、あいつに大目玉喰らっちまう」

 

 キョータローは湯呑みにもう一杯お茶をつぐと一気に飲み干した。それからリュックサックを背負うと差してあった傘を手に取り、

 

「わりぃ淡!ジュースは勝手に飲んどいてくれ!」

「う、うん」

「じゃあお先に失礼します!」

 

「行ってしまったな」

「野暮用って何なんだろ」

「さぁ。『あいつ』って言ってたし、友達と遊びにでも行くんじゃないっすか?」

「しかし、最後の対局で随分くたびれたな。これからどうしようか」

「今日はもう良いんじゃないっすか?結構打ったし疲れたっす」

「なら、私たちもそろそろ帰るか」

「うん……そうだね」

「それマジで言うとる?うちさっき来たばっかなんやけど」

「寝坊した洋榎が悪い。明日は朝からちゃんと来てくれよ」

 

 荷物をまとめ、他愛もない話をしながら三人で肩を並べて正門まで歩く。そこにキョータローの声はなかった。



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私とは違う生き物

「………はい」

 

 インターフォンを鳴らすと、弱々しい返事はスピーカーからではなく壁越しに直接聞こえてきた。

 ビニール袋にはスポーツドリンクとジェルシートと果物、それから数食分の食材が一杯に詰まっている。とても両手が使える状態ではないが、だからといってこの部屋の主も身動きが取れるような体調ではないらしい。仕方ないか。一旦荷物を地面に置いてからドアノブをひねろうとして――

 

「いらっしゃい、モモ……うおっ」

 

 身体は今にもこちらへ倒れようとしていた。支えようと腕を持ち上げるが、数キログラムの錘をつけたそれは明らかに間に合いそうにない。結局バランスを崩す寸前でゆみ先輩の脚が彼女自身を支えた。

 

「ヨロヨロじゃないっすか。私が全部やるから先輩は寝てないとダメっすよ」

「しかし………」

「いいから、病人は大人しくしててください」

 

 何かしないと気が済まないらしい先輩を無理やり布団に押し込み、その間に煮物を作りはじめる。鍋に残しておけば後は温めるだけで食べられるはずだ。他にもお米を炊いたり洗濯機を回したりとしているうちに三時間が経ったが、その間のゆみ先輩は眠りに落ちたようでもなく、一言も喋らないままにずっと窓の外を眺めていた。

 

「ご飯出来たっすよ。食欲が出てきたらいつでも。あと、スポーツドリンクも何本か冷蔵庫に」

「何から何まで任せきりで申し訳ないな」

「ゆみ先輩のためっすから」

「……ありがとう」

 

 この部屋は少し冷える。彼女がずっと毛布にくるまっているのは体調だけの問題ではないのだろう。あれだけ長く感じられた夏は、気がつけば既に過去のものになっていた。

 

「インカレの結果をまだ聞いていなかったか。どうだった?」

「愛宕先輩が五位、大星さんは三位入賞っす」

「そうか……ならよかった。今度祝ってやらないと」

「先輩……」

「それに比べて私は二回戦敗退ときた……ははっ、部長の面子も何もない」

「全然そんなことないっすよ。全国数万人いる学生雀士の中でベスト64、絶対誇れないことなんかじゃないっす」

「だとしても私は、やっぱり悔しいんだ」

「……」

「……」

「……今度の土日、久しぶりに長野に帰りませんか?」

 

 紅葉でも見に行こう。戸隠なんかはそろそろ見頃のはずだ。

 

「悪くないな。ついでに蒲原あたりでも誘ってみるか」

「私、バスの方がいいっす」

「わかってるよ」

 


 

「はぁ……」

「どうかしたか?」

「私、何やってるんだろうって思って」

 

 後学期が始まって二日が経ち、部室の鍵は相変わらず開いている。にもかかわらず私とキョータロー以外の誰一人として扉を開ける者はいなかった。17歩にもとうに飽きた。名前も知らない昔の先輩が置いていったマンガを読み耽る私に対してキョータローはレポート用紙から顔も上げずに、

 

「加治木先輩は風邪でモモはその看病、愛宕先輩は法事で大阪に帰省だ。仕方ないだろ」

「そうだけどさー」

「第一誰も来ないことなんて分かってたんだから、授業終わったらとっとと帰っちまえばよかったのに」

「暇なんだもん。あんたこそなんで来たの?」

「それは……まぁ、暇だったから」

「………」

「……不毛だ」

 

 どうせ家に帰っても特別やることがあるわけでもない。厳密に言えば課題とか予習とか部屋の片付けとか、やらなければならないことは山積しているのだが、貴重な午後の余暇をもう少し有意義に使いたいという話だ。

 そもそも私は何故ここにいるのだろう。別に今日の話じゃない。私がこの大学に――この部活に入ったのはどうしてだろう。勉強と麻雀の毎日は、場所こそ変われど本質的にはあの頃とさして代わり映えはしない。

 

「ねぇキョータロー、暇ならどこか遊びに行かない?」

「アテでもあるのか」

「そんなの出かけてから考えればいいじゃん」

「うーん………」

「何よその反応。美少女がデートに誘ってるんだからもっと喜ぶもんでしょ」

「普通『美少女』なんて自分から言うか?残念なやつだな」

 

 実を言えば、自分で言い出したにもかかわらず、この状況に私は緊張していた。私とモモは文系でキョータローは理系。教養科目では同席することも多々あるが、そういう場合はもれなくモモも一緒である。部室に行けばゆみ先輩がいるし、三日に一回は休みだけど洋榎先輩もいる。キョータローと二人きりになる機会なんて春先の一件以来かもしれない。けれど、どうしてそれが私を緊張させているのかは自分でもわからない。

 彼は書類を鞄にしまうと、長い腕を秋物のコートに通した。ナフタレンの臭いがまだ少しだけ残っていた。

 

「そこまで言うならちょっと付き合えよ」

 

 

 

「私、友達とボウリング来るのって初めてかも」

「なんだよ淡、お前そんなに寂しい学校生活ばっかり送ってたのか」

「そういうわけじゃないけど」

 

 小さい頃は子供だけでそういう場所に行くのは両親が良い顔をしなかったし、高校に上がってからは部活の外にそこまで親しい友達があまりできなかった。麻雀部の仲間とはよく遊びに行ったが、やはり身体を動かす方向には活発でなかった。つまり機会がなかっただけだ。つまり私がこの一ゲームでたった三本しかピンを倒せなかったとしても、それは当然の摂理であって仕方のないことである。

 

「逆にキョータローは慣れてるんだね」

「まあな。高校の頃はよくやってた」

「それって部活の友達と?」

「いや、あいつらと部活以外で遊ぶのはむしろ珍しかったな。普段はクラスの野郎連中とつるむことも多くて、そいつらと近所のボウリング場まで行ってたんだ」

「田舎なのにボウリング場なんてあるんだ」

「ウチは田舎は田舎でもまだマシな方なんだよ。スーパーとかホームセンターとか色々あるし」

 

 思い返すと、私は所謂「田舎」に行ったことはないかもしれない。東京に住んでいると大抵の用事は――それこそインターハイだって――都内で済んでしまうし、進学先も選択肢が全て自宅から通える範囲に収まる。遠征で地方に赴くこともなかったわけではないが、それらも必ずそれなりの大都市で開催される。だから、キョータローのような都会に夢を見て上京してくる青年たちの気持ちもいまいち理解できない。

 むしろ未知の存在である田舎に対して私は若干の憧れを抱いていると言ってもいい。同級生たちの故郷話、あるいはテレビ番組の中で語られる田舎はとても魅力的だ。

 

「清澄かぁ。ちょっと行ってみたいな」

「やめとけよ。遊べるところなんか何もないぞ」

「さっきと言ってること違くない?」

「東京と比べたら何もないのと一緒だってことだ。遠い割に大して面白くもない」

「ふーん」

「さてと、もう十分休んだだろ。そろそろ再開しようぜ」

 

 平日だからか周囲に人はまばらだ。キョータローはテーブルの端末を何度か弄ってから大きく伸びをすると、16ポンド球に指をはめた。

 

 

 

「バイト代入ったばかりなのに………これから一ヶ月どうしようかなぁ」

「仕送りしてもらってるんじゃなかったっけ」

「んなもん家賃で全部消える。毎月足が出てるくらいだ」

「そんなに高いの?私、実家暮らしだからイマイチ知らないんだけど」

「まぁ、俺のところはこの辺でも少し高いかな」

 

 あれからカラオケに行ったりゲームセンターに行ったりしているうちに日は傾き、気づけば夕方の五時を過ぎた頃になっていた。人通りの多くなった繁華街の通りを上機嫌な私と涙目の彼が並んで歩く。ちょうど側にある居酒屋の提灯がつき、入り口から漂ってくる匂いが鼻をくすぐった。

 

「そういえば晩ご飯はどうするか決めてなかったね」

「食っていってもいいけど、夕飯にしてはまだ早すぎるな」

「ならそれまで見てみたいお店があるんだけどいい?前から気になってたんだ」

「まだ歩くのかよ……脚が棒になっちまいそうだ」

「一軒だけだからさ」

 

 今度この近辺に新しい服屋ができたというのを洋榎先輩から聞いて、以前から一度行ってみたいと思っていたのだ。場所もそう遠くないし、道端の地図を見ながら辿り着くのに苦労はしなかった。雰囲気もショーウィンドウから覗く限りは私の好みにピッタリ合っている。当たりだ。

 しかしキョータローの顔には明らかに逡巡が見られた。しばらく立ち止まり、それから街路樹の陰まで歩いていくと、俺はここから動かないぞと言わんばかりに腕を組んだ。

 

「どうかしたの?」

「いや、俺なんて女物の服屋にいたら明らかに場違いだろ。外で待ってる」

「別にそんなの誰も気にしないって。せっかく遊びに来たんだから一緒に行こうよ、ほら」

「ちょっと待っ――」

 

「ね、追い出されたりなんてしないでしょ?」

「周囲から冷たい視線を向けられているような気がするんだが」

「たぶんキョータローの自意識過剰だよ」

「……そうですかい。それで、何か目当てのものでもあるのか」

「ううん。なーんにも」

「じゃあなんで来たんだよ」

「こうやって見て回るのが楽しいんじゃん」

 

 目に付いたトップスをハンガーラックから引き抜き、自分の身体に当ててみる。

 

「ほら!これとかよくない?」

「いやぁ、淡にはちょっと過激すぎるだろ」

「そうかなー」

「俺はもっと落ち着いた服の方が良いと思うぞ。これなんかどうだ?」

「………」

「おい、なんだよその反応」

「キョータロー、センスないね」

 

 

 

 男にとって最も興味のないものは、女にとって最も興味のあるものである。そしてその逆も然り。よく聞く話だ。実際彼はずっと心ここに有らずといった様子で、私が何を聞いても空返事しか返してくれなかった。せっかく一緒に遊びに来たのにそういった態度を取られるのは正直面白いものではないが、着いてきてくれただけ良しとするべきか。

 店に入ってから数十分、私はこの店の服全部品定めする気でいた。右を見ても左を見ても私が好きなようなモノしかない。ここは天国だ。もしこの店の商品が別の店の棚にポツンと掛かっているのを見つけたら、それがどれであっても私は買いたいと思うだろう。選び切れないというのも中々悩ましいと思っていたその時、私の脳裏をにわかに駆け巡る何かがあった。『ビビッときた』と言ってもいい。

 目の前に掛けられたワンピース。まるで雪のように白い生地は触ってみると存外厚く、これからの時期にちょうど良さそうだ。まぁ、だからこそここに置かれていたんだろうけど。私の意識はこの一着に釘付けになった。

 

「キョータロー、試着してくるからこれ持ってて!」

「はいはい、テキトーに待ってるから好きにしてくれ」

 

 小さな個室に入るや否や、右手に持ったワンピースを一目散にハンガーから外した。袖を通して姿見に向き直る。大丈夫、変なところは無いはずだ………それでも私は浮足立って、何度も服をずらしたり髪を直したりしてからカーテンを開けた。

 

「おまたせ」

「これは………」

 

 カーテンを開けた先に待っていたのは、なぜか口をあんぐりと開けたキョータローの姿だった。そんな彼にひらりと一周してみせてから聞く。

 

「ねーねーキョータロー、これ似合ってるかな?」

「……あぁ。似合ってる

「今、なんて?」

「……似合ってる。本当にお前に似合ってるよ。何故だかこっちが悔しいくらいにな。ピッタリだ」

「ホント?!」

「さっきからそう言ってるだろ!何度も言わせんなよ」

 

 本当のところ、彼の返事にはほとんど期待していなかった。ここまでの様子を顧みればせいぜい馬子にも衣装とかそういう感想が飛び出てきそうなもので、悪くなさそうな感触なら御の字かな、などと思っていたのだ。

 買おう。きっとこの服は私が着るためにあるに違いない。運命的な出会いの末にキョータローにまで褒められてちょっと舞い上がり、そんな私は腰にぶら下がったタグへ視線を伸ばして………

 

「い、いちまんにせんえん………」

「買えるのか?」

 

 彼の問いに、私は首を力なく振って答えるしかなかった。

 

「おいおい、今いくら持ってんだよ」

「ええと…………7305円……」

「細かっ。しょうがないやつだな、淡は」

「ごめんなさい……」

「ったく、ちょっとここで大人しくしてろ」

 

 そう言って店員さんのところへ赴き少しの間会話を交わすと、キョータローは奥の方へ。店員さんは懐からハサミを取り出しながらこちらへ向かってきて、

 

「失礼します」

 

とだけ言うと、タグを切り取って去っていった。別の店員さんが私の方へやってきて聞いてくる。

 

「このまま着ていかれますか?よろしければお召し物を袋にお入れしますが」

 

 狐につままれたようにぽかんとした私は、しかしレジで財布を取り出すキョータローの姿を見ることで初めてその意味を察した。

 

「……………じゃあ、お願いします」

 

 

 

「……お金、ないんじゃなかったの」

「ああ。この懐事情じゃしばらくはモヤシが俺の主食だな」

「ならどうしてよ」

「こういうときに黙って出してやるのが男の甲斐性ってもんだろ?」

「わけわかんない」

 

 わかわかんない。キョータローにとって私にこんなことをする義理なんてあるはずがないし、こんなことをされたって私にはどうすることもできない。

 

「困ったな……なら、いつも淡には世話になってるからさ。感謝の印ってことで勘弁してくれよ」

「………」

「納得してくれたか?」

「納得してないけど、まあ、いい」

「そうかい」

「………ありがと」

「おうとも」

 

 納得はできないけど、なんとなく理解はできた。きっと男ってそういう生き物なんだな。

 

「……さてと!よーし、それじゃあ張り切ってご飯行こっか!」

「張り切りすぎて汚すなよ。買ったばかりなんだから」

 


 

「ノーテンです」

「ノーテンだ」

「ノーテンっす」

「テンパイ。罰符うまうま〜」

「げっ、俺の欲しい牌が全部止められてる」

「このウチを出し抜こうなんぞ百年早いで」

 

「こんにちはー」

「うぃーっす」

 

 週末が明け、憂鬱な月曜日の昼下がり。意外にも部室には私以外の全員が既に揃っていた。先週から打って変わった今日は強烈な日差しがこの地球を照りつけている。普段なら荷物を置いてから冷蔵庫の麦茶をグイッと飲み干して一息つくところだが、今日の私はそれすら待つことが出来ないほどウズウズして仕方がなかったのだ。

 

「みてみて、この服かわいいでしょ!」

「お前そーゆーフリフリしたの好きやなぁ」

「よく似合ってるじゃないか」

「えへへー、やっぱりそうかな」

「高かっただろう?」

「キョータローに買ってもらったんだー」

「………驚天動地っすね」

「ほー、ガースーがねぇ………」

「………なんすか、愛宕先輩」

「べっつに〜?」

 

 洋榎先輩をじっと睨むが、当の本人はそれも気にしない様子でヘラヘラと笑っていた。結局キョータローも諦めたようだった。

 

「なぁ、お前それ暑くないのか?」

「わかってないなぁ」

「何がだよ」

「オシャレは我慢だよ、キョータロー」

 

 彼は肩を竦めて一言、「さっぱりわからん」とだけ呟くと、また卓上の手牌に目線を落とした。



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Diliges proximum tuum sicut teipsum.

「待たせてすまない………おや、須賀はまた休みか」

 

 部屋中を満遍なく温めてくれるエアコンなんてモノが何十年も前に建てられたこの建物にあるはずもなく、いつかの部員が持ち込んだであろう旧式のストーブが雀卓の脇で必死に熱風を吐き出していた。ゆみ先輩の口が溜息を零したのは、きっとストーブから一番遠い席がぽっかりと空いているのを見たからだろう。

 『また』というのは、ここ最近の彼はずっと部活を休んでいるからだ。以前はほぼ毎日来ていたというのに十一月の中頃から頻度が落ちはじめ、最後に顔を見せたのはもう先週くらい前になる。私が「今日は来るの?」とメールを送れば彼は「悪い、忙しいからパスで」と返す。文面を変えながらずっとそんなことの繰り返し。部室の端に置かれた長机には、彼があそこでレポートを書いていたきり置き忘れていったボールペンが未だに転がっていた。

 

「アイツ、まさかこのまま部活辞めちゃったりするのかな」

「課題が多いからしばらく来づらくなると言っていたじゃないか。誰だってそういう時期くらいあるさ」

「さーて、そりゃどうやろなぁ。しばらく顔出さん間に気まずくなって来いへんようになったりなんてこと幾らでもあるやろうし。それに、誰かさんに毎度タコ負けしとるんが案外効いとるかもしれんで?」

「そんな事言われたって………まさか、私のせいなんてことないよね?」

「待て待て、だからまだ辞めるだなんて一言も言ってないだろう。話が飛躍しすぎだ」

 

 キョータローと会う機会は部活だけではない。学部が違うとはいえ同じ教養科目も取ってるし、学食にもよくいる。しかし最近は他の仲間とも懇意にやっているようで、遠目から見かけるだけか、あるいはすれ違った時にちょっと話すくらいだ。お互い部活の友達くらいしか知り合いのいなかった春先あたりと比べれば彼との接点は大きく減っていた。

 来週にはみんなが私の誕生日パーティーを開いてくれるというのだが、ひょっとしたらキョータローは来ないかもしれない。何となくそんな気がする。

 

「少し息が詰まるな。換気しようか」

 

 先輩が窓を――窓縁に刺されたネジを回して抜く、おばあちゃんの家にあるような古びた鍵のついた窓だ――を開けた。テレビも新聞も今年は暖冬とは言うが十二月の冷気はかなり堪える。ここの部屋が西向きとなればなおのこと、ハンガーに掛けてあった上着へ手を伸びさせるには十分だった。

 

「さて。四人揃ったしそろそろ始めよう」

「なぁゆみ〜、気分転換に他のゲームでもせーへん?さっき戸棚見たら『人生ゲーム』あったんやけど」

「うちは麻雀部だぞ。だいたい、まだ一半荘も打ってないのに何の気分転換なんだ」

「お堅いなぁ………そういえば、この前の予算で買うとったアレってどうなってん?アレやったら文句ないやろ」

「須賀に注文を頼んだから、彼の家に届いてるはずなんだが」

 

 アレというのは恐らく透明牌のことだ。あるマンガに登場した麻雀牌で、各種類四枚のうち三枚が裏から透けるようになっている………らしい。私は読んだことないからよく知らないけど。

 洋榎先輩がキョータローに電話をかけるのをボーッと眺めていたら、モモが急にこんなことを訊いてきた。

 

「淡さん」

「どうしたの?」

「淡さんは、京さんがいなくなったら寂しいっすか?」

「………どうだろ。よくわかんないかも」

 

 もしも彼が部活を辞めたらと想像してみる。きっと私の日常が大きく変わることはないだろう。目無しリーチを平気でするようなへなちょこ男子が一人消えて、部活に来る人数がギリギリになる代わりに対局のレベルは多少上がるはずだ。授業やお昼ご飯の話し相手がモモだけというのは彼女に申し訳ないし、期待できないけど多少は他に友達を作る努力をするべきかもしれない。

 なら、この違和感は何だろう。何かがつっかかったような、そしてそれが胸を締め付けているように感じるのは何故だろう。それが『寂しい』からなのかどうかを判断するのは難しい。既に顔馴染みとなった友人がこの部屋を去るのが惜しいからと言われれば納得できるし、先輩たちが引退した後に待ち受ける麻雀部の惨状を憂慮してかと言われればやはりそんな気もする。

 どちらにしても、いずれ私と彼が単なる顔見知りという程度の関係に落ち着くのは確かだ。

 

「……はいはい。ほんならよろしく〜」

「どうだった?」

「もう届いとるっぽいんやけど、今レポートで手一杯やから来れへんのやと。ちゅーわけで……はいこれ」

 

 洋榎先輩がメモ帳から一番上のページを切り取ろうとして「ありゃ」と小さく漏らすと、不細工にちぎられた紙切れをそのまま渡してきた。殴り書きされているのはどこかの住所のようだ。

 

「それ、須賀の住所。取りに行ってき」

「えー!?なんで私がわざわざキョータローんちまで」

「まぁまぁ、先輩命令やと思って。それにずっとこんな部屋の中おっても気が滅入るやろ?」

「……別にいいですけど。モモ、一緒に行こ?」

「なんで私まで行かなきゃならないっすか」

「男の家に一人で行くなんて嫌だもん」

 

 目線を横に逸して隙間風の吹き込む窓の外へ向ける。こんな寒空の下を使い走りにされる方が余程憂鬱だ。同じことを思ったようだが、モモは仕方ないと言わんばかりに溜息をついた。彼女はよくこうやって承諾の合図をするのだ。

 それを傍から見るゆみ先輩は小さく笑っていた。

 


 

 住所を打ち込めば地図に場所を表示してくれるどころか、カーナビのように経路まで教えてくれるのだから便利な時代になったものだ。モモが持つスマートフォンの案内に従って歩いているとそのありがたみはしみじみと感じられる。私も次の機種変更で再び二つ折り携帯を選ぶことはないだろう。もっとも、今使っている携帯は当分壊れそうにない。

 学生の一人暮らしといえば築ウン十年のあばら屋という古典的なイメージがあったが、実際の彼の住まいはそう悪くもなさそうだった。少なくとも外装は綺麗だし、ちゃんと路地から見えないように外廊下の目隠しもしっかりしている。大学からも駅からもそう遠くない二階建てアパートの上階、奥から二番目が彼の居室だ。

 そういえばキョータローが少し前に借りている部屋の家賃が高いとか話してたっけ。こう言っちゃ悪いかもしれないけど、キョータローがこんな良い場所にわざわざ住んでいるのは意外に感じる。インターホンを押してそんな事を考えていると、一分もせずに鋼鉄のドアが開かれた。

 

「お疲れさん。迷わなかったか?」

「大丈夫っす。検索してルートも分かってたっすから」

「へぇ、スマホ持ってんのか。俺も買い換えようかと思ってるんだけど高いしな……」

 

 そう言いながら彼が渡してきた紙袋を受け取ると、麻雀牌一式が入っていると考えれば当然ではあるが存外重かった。中にはダンボールが入っていて、テープはおろか伝票もそのままになっている。どうやら中身を確認する気すらなかったらしい。

 

「そんじゃお疲れさん。また今度会おうぜ」

「え……う、うん。またね、キョータロー」

「………」

「モモ?どうかしたの?」

 

 モモは何も言わず、じーっと私の顔を見つめている。

 

「はぁ………気が利かないっすね。こういう時はお茶の一杯くらい出すもんっすよ?」

「モモ?」

「き、急に厚かましくなったな……でもやっぱ勘弁してくれ。今忙しいって言っただろ」

「私には言われてないっす」

「そういう問題じゃねーよ」

「ぶーぶー」

「………何だコイツ。そんなにお茶飲みたいのか?

 

 キョータローはかなり長い時間逡巡してから、「片付けるから五分待ってくれ」と言って奥へ引っ込んだ。結局、再びドアが開くまでには十分待つ必要があった。

 

 同級生というのは広い世界の中でも学校という限られた空間でのみ形成される繋がりだ。私たちはある人の持つ一面を環境を通じて見ているだけで、当然そのバックグラウンドには『同級生』ではない別の姿が隠れている。友達の自宅へ初めて遊びに行く時には別に気を張ることなんて無くとも妙に緊張するものだが、あれは自分が知っているようで実は知らない部分に足を踏み入れるからではないかというのが私の持論なのである。

 そんな小難しい文句を並べたのはとにかく何か別のことを考えて気を紛らわせたかったからだ。たった今私が感じている緊張もそんな具合で、とにかくソワソワして仕方がなかった。

 だがそれ以上に訳が分からないのがモモの行動だ。こんな半ば無理やり押し入るような真似をして、一体何がしたいんだろうか。

 

「お茶は何が良い?」

「何があるっすか?」

「普通の玉露とかほうじ茶とかコーヒーとか、紅茶なら今はアールグレイとディンブラが残ってる。コーン茶なんてのもあるぜ」

「……私は何でもいいっすね。淡さんの好きなヤツで」

「えーっと、じゃあほうじ茶お願い」

 

 キョータローがお茶にこだわりを持っていることは今までの経験から何となく分かってはいたが、こうも並々ならぬモノであったとは知らなかった。案外たかみーあたりと話が合うかもしれない。そんな軽口が叩ければよかったのだけれど、実際この時の私は落ち着きなく部屋の中をキョロキョロと見渡していた。

 フローリング敷きはカーペットとテーブル、ベッドやパソコンデスクを置いても圧迫感がないくらいの広さが確保されている。奥まったところにある二つの扉は風呂とトイレだろうか。どこも一見片付いているようだが、ベッドの下からは強引に詰め込まれた衣類が覗いているし、本棚には書類が乱暴に差し込まれていた。普段の様子は推して知るべしといったところだ。

 

「あっちの襖の向こうは何があるの?」

「和室。狭いけど、友達が遊びに来たときなんかは重宝するんだ」

「へー」

「さてと………はいよ。粗茶で悪いな」

 

 湯呑みを二つテーブルに置くと、彼は自分の席に戻ってパソコンに何かを打ち込み始めた。

 部屋の中でもパソコンデスク周りの整頓は本人も諦めたようで、特に机上にはレポート用紙や教科書がディスプレイと同じくらいの高さまで積み上がっているという有様だ。指がキーボードから離れ、山から一冊のノートを引き抜くとそれをパラパラと捲り、なるほど合点が言ったとばかりに頷くと再びキーボードへと戻っていった。

 

「何やってるの?」

「提出物」

「そんなの知ってるってば。どんな課題なの?」

「物理学実験のレポート。これが中々曲者でさ。体裁とか揃えなくちゃあならないし、めっちゃ面倒なんだよ」

「そっか」

「あぁ」

 

 それからしばらく何も起きなかった。キーボードが叩かれる音と、モモがお茶をすする音と、それから外を車が通る音だけが聞こえてくる。あれだけ部屋に上がりたがっていたモモは特に何かアクションを起こすわけでもなく、本棚にある本を眺めているようだ。

 モモはここに来たかったわけじゃない。私を連れてこようとしていたんだ。だから洋榎先輩もあんなことを。

 

「………ねぇ、キョータロー」

「なんだ?」

「部活、辞めたりなんてしないよね……?」

「えっ?」

 

 手が止まる。虚を突かれたキョータローの顔がこちらへ振り返った。

 

「……いや、そんなつもりないけど………どうして急に」

「じゃあなんで来なくなっちゃったの?」

「んなこと言われたって仕方ないだろ。そもそも理系は必修も課題も多いし、俺の学科は毎年この時期特にキツくなるもんなんだって」

「嘘つき。嫌になっちゃったんでしょ」

「何が」

「インカレ」

「…………まさか」

 

 キョータローの夏は、夏が始まる前に終わった。七月最初の土日に開催された東京都予選、その最終日に彼が付けていた位置は全国出場ラインの遥か後方。とてもじゃないが運だけの問題とは言えない有様だ。

 私があの部室のドアを叩いた時、彼は既にそこにいた。はじめからそこにいるのが当然だったのだ。

 

「キョータローはなんで麻雀部に入ったの?高校で三年間散々な結果で、自分には向いてないかもって思わなかったの?いままで勝てないのになんで続けられたの?」

「ちょ、淡さん!いくらなんでもそんな……」

「モモは黙ってて」

「………」

「向いてるとか向いてないとか、俺にはどうでもよかったんだ。特にやりたいこともなかった。中学校の頃はハンドボールやっててさ、結構楽しかったんだ。だから麻雀部かハンドボール部があればそこに入ろうと思ってたんだけど、探してもハンドボール部はなくて。だから麻雀部にした」

「それだけ?」

「あぁ、それだけだ」

「…………ふーん。ならこんな未練がましいことしないで辞めちゃえばいいのに」

「別にどうしようが俺の勝手だろ。部費だってちゃんと払ってる」

「私、アンタみたいのが居るのが一番イヤなの。言っとくけど別に弱いのがイヤなんじゃないよ。そんな惰性で麻雀やってるのが大大大大大っ嫌い」

 

 そういえば高校のときにもそんな娘がいたな。お母さんがプロの雀士で、小中と『習い事』みたいに麻雀を打ってた。白糸台に来たのだってなんとなく。彼女は確かに強かったし友達もたくさんいたけど、私は絶対に仲良くなれないと思った。

 口を開くたびに語勢が思わず強くなっていく私と対照的に、キョータローの言葉には抑揚がなかった。怒ることも、悲しむことも、そのどちらも彼はしていない。

 

「そうかもな。お前の言う通り、とっとと辞めた方が――」

「………」

「何だよ」

「ならどうして今になって来なくなったのよ。今までだってずっと負けてきたのに、なんで今更」

「それは……」

「ただ気分が悪かっただけじゃないんでしょ。悔しかったんじゃないの?負けたくないって思ってたのに負けて、負けて負けて負けて、勝てなかったのが嫌だった」

 

 さっきまで緊張してたのが嘘みたいだ。今はもうそんなこと関係なかった。ここはキョータローの部屋、ここは麻雀部室、教室、食堂、どこでもいい。目の前には意気地なしのキョータローがいて、それ以上でもそれ以下でもない。

 

「『強くなりたい』って思いなよ!なんで逃げようとするの!これから頑張って練習すれば強くなるかもしれないじゃん!清澄がダメでも、私たちの麻雀部は違うかもしれないのに!」

「だってよ、俺は………淡、なら俺はどうすりゃいいんだよ」

「私はまだまだキョータローとあの部屋で麻雀打ちたいよ。強くなりたいキョータローとだったら」

 

 「ごちそうさま」とだけ言って席を立ち、玄関に残していった靴に手を伸ばす。モモは私より一足遅くその後に続いた。

 

「なぁ淡。俺、明日行こうと思う」

「バカ。明日は休みだよ」

「……じゃあ明後日だな」

 


 

「ありがとね、モモ」

「何がっすか?」

「あそこでお茶を出せなんて言い出したの、モモは最初っからああいうつもりだったんでしょ」

「まぁ、そうでもないと本当に何のためにわざわざここまで来たのか分かりませんから。帰ったらちゃんと愛宕先輩に報告しないとダメっすよ」

 

 報告ねぇ。ひょっとして洋榎先輩はこうなることまで見越していたんだろうか。ともかくこうでもなければいずれ彼は本当に来なくなっていたはずで、彼をもう一度部室へ呼び出すことができたのは本当によかった。

 ダンボールはキョータローの家に置いてきた。あんまり大きいと持って帰るのも大変だし、代わりにもう一回り小さな紙袋を用意してもらった。正直信られないのだが、携帯の時計によれば私たちの滞在時間は三十分にも満たないくらいということになる。あんまり遅くなっても先輩たちを待たせるだけだし別にいいんだけど、その僅かな間にも全く昼間然としていた空は少し暗い橙色を帯びつつあった。この時間なら日が沈むまでには大学に――――

 

 

「あれ、淡ちゃん?」

 

 

 ……下階から足音が近づいてきていて、それがこの階の住人のうち誰かが螺旋階段を上がってくる音だろうということには気づいていた。しかし不意の声にその顔を見なければ、まさかそれが彼女のものであろうとは誰が分かっただろうか。

 

「それに東横さんも」

「………サキ?」

 

 そこにいたのは確かに宮永サキだった。インターハイで三年間鎬を削りあったライバル、そして今年度から立川ブルーセーラーズに所属する麻雀プロ。新人王も獲得した今最も注目されている雀士の一人だ。そんな彼女が何故……

 

「なっ……なんでサキがここに?」

「私、ここに住んでるから。一番奥の部屋だよ。二人こそなんでここに?」

「え、えーっと……………その………」

「京さんの家に部活の荷物を取りに行った帰りっすよ」

「部活?京ちゃんが?」

 

 『京ちゃん』。彼女は確かにキョータローのことをそう呼んだ。ひょっとして二人は知り合いってこと?私のバカ、そんなこと少し考えれば分かるだろ。二人とも同じ高校、同じ部活の同期なのだから。それどころか彼らは隣同士の部屋に住んでいる。

 あぁ、なんでだろう。そのことを受け止めるのが怖いのだ。

 

「そうだったんだ。京ちゃんは大学の話なんて全然してくれないから……ふふっ、楽しそうだね」

「二人はどうして隣の部屋に住んでるっすか?」

「えーっと……成り行きかな?私が東京に住むことになったんだけど、一人だとどうすればいいのかわからなくて困ってたの。そしたら京ちゃんもこっちの大学に来ることになったから、ならどうせだし隣にしようって」

 

 しばらくして、モモとサキは最後に二言三言ほど交わして別れた。私はロクに彼女へ挨拶もできず、ただ呆然としてそれを眺めている他になかった。

 

「リンシャンさん、何となく前より明るくなったような気がするっす………強敵登場っすね。淡さん」

「何のこと?」

「ライバルじゃないっすか」

「ライバルって……私とサキは三年前からずっとライバルだし、今更そんなこと」

「京さんのことっすよ」

 

 口角を上げて趣味の悪い笑みを浮かべるモモに私は同意も反論も出来ず、ただ冷や汗を一筋垂らしただけだった。彼女の言わんとすることくらい私にも察しはつく。

 部室でモモに質問を投げかけられた時には知ることのできなかった蟠りの正体を、あれからここに至るまでの間ずっと考えていた。キョータローが麻雀部に入った真意を聞いた私は彼のことを確かに軽蔑したはずだ。白糸台にいた彼女にだって私は「辞めろ」と放ち、そのままケンカ別れして二度と口を利かなかったくらいなのだ。大嫌いという言葉にも間違いはない……はずだった。結局私は彼と麻雀を打ちたいと言ったけど、ひょっとしてアレは麻雀じゃなくたってよかったんじゃないのか。彼と会いたいがために引き止める口実として麻雀を使っただけで、彼との接点が他にあるならばあそこまでのことはしなかった。彼の機嫌を損ねてしまうかもしれないから。そうじゃないのか、大星淡。それがキョータローへの恋心であるということなんていい加減認めてしまえばいい。でも私は……

 ……それに、サキがキョータローの隣に住んでると聞いて何を思った?驚愕じゃない。嫌悪だ。憎悪と言っても近いかもしれない。彼女の持つ特権を妬み、そしてそれが私の役でないことを恨んだ。

 この場所で手に入れようとしていたものはこんなに醜かったのか。私は麻雀に、サキに、キョータローにナイフを向けて、結局は私自身を刺している。

 

「…………さぁ。わかんないや」

 

 今はまだ気付きたくない。だからもうしばらくは知らんぷりを決め込もう。

 


 

 近場に住んでいる他のみんなに比べれば遠方から通学している私はどうしても行き帰りに時間がかかる。流石に午前様は嫌だから早々に切り上げるのであるが、それでも家に着くのは十時を過ぎるくらいになってしまう。既に家族は食事を終え、母親はソファにもたれ掛かって撮りだめしてある韓流ドラマの消化に没頭していた。たまには作りたての夕飯が食べたいものだ。

 

「ねーねー、ママ」

「どうしたの?」

「もしも私が一人暮らししたいって言ったらどうする?」

「ダメ」

「なんで!」

「何のために通学圏内の大学行ってるかわからないじゃない。それに面倒だから近くがいいって言ったのは淡でしょ?」

「うぐっ……確かにそうだけど、事情が変わったの!」

「どういう事情よ。どうせ友達を見て羨ましくなったんじゃないの」

「それは………」

「それともアルバイトする?家賃も食費も全部自分で稼ぐなら自由にしていいわよ」

「ママのケチー!」

「ケチで結構。食べ終わった食器、ちゃんと水に浸けておいてね」

「………はーい」



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0.03%の幸せ

 友人か家族か、あるいは好きな選手が出場する試合の応援のために会場へ赴くというのはよくあることだ。野球やサッカーといったスポーツなら壁の一枚も隔てない空間に相手がいるわけで、少し離れたスタンドからとはいえ声援を送ったり野次を飛ばしたりということもできるだろう。

 しかし麻雀の対局は防音対策の施された密室で行われる。観戦者がする『応援』といえば別室でカメラの映像を観ながらあーだこーだと言い合うくらいのもので、無論その声が彼に届くわけでもない。こんな暑い中外に出なくたって家から配信を見るのと何ら変わらないのだが、それでも私は九月の焼けたアスファルトを踏んだ。

 


 

 あの一件以来、キョータローの麻雀に取り組む姿勢が大きく変わったことは傍から見ていてもすぐにわかった。暇さえあれば戦術書や何切るの問題集に読み耽り、悩ましい牌姿を見つければよくみんなに議論を持ちかけていた。あまりに簡単に感化される様子は頼りなくも思えたが、とにかくその事実を私は喜ばしいことと受け止めた。彼は変わらず部室の住人であり続けたのだ。

 じきに彼は部活での対局だけでは足りないとぼやき、週に一度か二度フリー雀荘に通うようになった。それもオンレートの雀荘を選んで。

 

「フリーに行きたいのはわかるけど、別に賭ける必要なんてなくない?わざわざ八王子まで打ちに行かなくたってノーレートの雀荘なら駅前にもあるじゃん」

「そっちの方がお客さんも強いだろ。稼ぎたいんじゃなくて強くなりたいからやってんだ」

「なるほどねー。それで、どのくらい勝ってるの?」

「………聞くなよ」

 

 以来、学食で彼の注文する昼食は見るからに貧相になった。健全化の煽りで今どきテンピンの店なんて殆ど見ないが、テンゴだって一日負ければ一万円くらいの負債はついても全くおかしい話じゃない。あの様子では相当生活に影響していたのではないかと思う。それでも懲りずに彼は麻雀へ打ち込み、着々と実力をつけていった。

 そして、彼と出会って三度目の春を迎えた。

 

 

「淡、生きてるか?」

「……………………あれ」

「眠いのか?」

「ううん、全然」

「嘘言うなよ」

 

 大学生というのは何故ああも飲み会が好きなのだろうか、この頃には大抵の週末をこのように屯して過ごすのが私たち三人の恒例行事になっていた。しかしその会場は概して大学近くの居酒屋であって、こうして彼の住処に来るのはあの日以来だ。当然男の部屋で酒盛りなどして大丈夫なのかという疑念はあったが、そんな度胸を一ミリも持ち合わせていないことは私もモモも百も承知のことだった。

 彼が渡してきたグラスを飲み干すごとに段々と意識が明瞭になっていく。中に入っているのは茶色い液体だが、さっきまで彼が飲んでいたヤツとは違ってアルコールから立ち上る苦い香りはしない。気づけば私はモノの散乱した床に座り込み、座卓へもたれ掛かっていた。一人で住むには広いこの部屋も三人いれば手狭にすら感じる。うち二人は既に半ば寝そべっているようなものだから尚更だ。彼が持ってきたのだろうか、テーブルの上に置いてあったボトルから注ぎ足して、麦茶をもう一口飲む。

 モモは手近にあったクッションに顔を埋めたまま眠っていた。彼が肩を揺さぶると何やらくぐもったうわ言を口走り、また寝息を立て始めた。

 

「ダメか。こりゃそろそろお開きだな」

「えー?私はもうちょっと飲みたい気分なんですけど」

「んなこと言われても仕方ないだろ。見ての通りモモは潰れちまった。だいたいお前だって、さっきまで船漕いでたじゃねーか」

「別に二人でもいーじゃん」

「それは………何というか、俺が困るんだよ」

「なんで?」

 

 口ごもる彼の顔は赤くなっていた。へぇ、キョータローって案外ウブなところあるんだ。口角を上げわざとからかうように返す。らしくないなんてことわかっちゃいるけども。彼は悪態をつくと、立ち上がってどこかに電話を掛けた。

 長らく麻雀漬けの青春を送ってきた私には男との面識がほとんどなかった。せいぜい共学だった小学校の時くらいだろうか。小学生なんて男も女もジャガイモみたいなもんだけど。それに共学だとしても、子供なんて大抵は男女分かれてグループを作るし、遊びだって別々にするものである。つまり私にとって須賀京太郎は初めて触れた男性に等しいのだ。私がある種の思い込み――少なくとも私は、つい最近までそれをあくまで『思い込み』であると自分に言い聞かせていた――をしていたのは私自身の性格に依る部分も当然あるだろうし、そういった経験の不足に依るところもあるだろう。

 

「誰に電話してたの?」

「加治木先輩だ。ちょうど出張先から帰ってきたところで、今から迎えに来るってさ」

「先輩も大変だなー」

「他人事みたいに言うけどなぁ。俺たちだってあと二年もすればあっという間に先輩と同じ立場だぜ」

「私はどこかのチームに契約してもらうし大丈夫」

「麻雀プロなら麻雀だけやってればいいってわけでもないだろ。サラリーマンだって麻雀プロだって、社会人らしい苦労は沢山あるだろうよ」

「キョータローこそどうするの?」

「俺か?俺は……………」

 

 そこまで言って、キョータローは言葉を止めた。彼もプロになりたがっていることは既に知っていた。本人が直接そう言い張ったことはないが、ずっと見ていればそのくらい解る。どうして口から出す前にその浅はかさに気づけなかったのだろうか。

 

「………さあな。どうなるんだろうか、俺は」

「………その、ごめん。私そんなつもりじゃ」

「謝るなよ」

「私、キョータローは十分上手だと思うよ。だから――」

 

「…………何かが足りないんだ」

 

 キョータローは確実に上手くなった。牌譜を見てもミスと言えるような打牌もなく、部内成績も上がった。男子の中では一番と言っても間違いではないだろう。三月の冬季都大会でも結構良いところまで行った。でも本当に強い選手との間には明らかな隔たりがあったし、彼自身もそれを自覚していたはずだ。

 プロ麻雀界は強い雀士を求めている。上手いだけの人間なんていくらでもいるのだから。彼らは目をつけた子供に高校卒業はおろか在学中から話を持ちかけ、自分たちのチームで囲い込んでいる。そんな青田買い甚だしい中で大卒が――特に男子がプロになるには、飛び抜けた強さを持っていることをインカレで示さなければならないのだ。今の彼は贔屓目に見てもそのレベルには達していない。一昨年の東京予選敗退、そして去年の本戦一回戦負け……高校時代を焼き増ししたような実績に彼が焦燥感を抱いていることは想像に難くなかった。

 そもそも『何か』って何なんだろう?オカルト?欲しがったって手に入るわけでもあるまいに、一体どうしようというのだ。

 

 『凡人が戦える世界じゃないよ、プロは。それくらい分かってるつもりだ』

 

 かつてそう漏らしたゆみ先輩の顔が脳裏に浮かぶ。あの言葉を彼はどう聞いていたのだろうか。

 どうにかして声をかけなきゃと思ったけど、思いつかない。私っていつもそうだ。結局ビールの缶を冷蔵庫から出して、一つキョータローに渡した。

 

「ほら、もういっかい乾杯しよ?」

「……そうだな。乾杯」

「かんぱ〜い」

 

 カツン。アルミのぶつかる安っぽい音が響いた。

 

 他愛もない会話を交わすうち、つい先程までの張り詰めた空気が嘘であるかのように一瞬にして私たちの顔はほころんだ。しかし果たして彼は大して気にしていないのか、ヤケになっているのか、苛立ちを隠しているだけなのか。それは判らなかった。

 流しに立って、モモが食い散らかしたつまみの皿を洗いながら彼は言う。

 

「ま、なるようになるだろ。プロになれれば万々歳。それがダメなら実業団、それがダメなら………」

「雀荘に入り浸ってるおっさんとか?」

「ははっ、それも良いかもな。どうにせよ麻雀は続けるつもりだから安心しろ」

「そんなこと私に言われたって知らないよ。キョータローの将来がどうなろうが関係ないし」

「冷てえなぁ……いつも思ってんだけどさ、俺ってもう少し親切に扱われても良い気がするんだ。お前もモモもすぐ面倒な仕事ばっかり押し付けてきて、俺のこと一体何だと思ってんだよ」

「んー………雑用係?」

「そういうとこだっての!お前らがそんな具合だからお陰で後輩まで真似し始めるし………はぁ」

「いいじゃん。みんなから慕われてる証拠だよ」

「俺はもっとこう、加治木先輩みたいな慕われ方がしたいんだよ」

「あははは、何それ」

「でも雰囲気はわかるだろ?加治木先輩ってやっぱり凛としてて、威厳があるというか、存在感があるというか――」

 

 噂をすれば影。チャイムが鳴ったのを聞くと、キョータローは蛇口から流れる水を止めて玄関へと歩いていった。きっとゆみ先輩だ。時計に目を向けると、いつの間にか電話を掛けてからもう三十分が経っている。

 普段であれば前後不覚になるほど飲んでしまうのだが、このために今日は意識して抑えた。結果的には少し寝てしまったが、まあ妥協点だろう。あとはそこでお腹を出して寝ている酔っぱらいを彼女に預ければ、ここには私と彼二人っきりだ………だからどうしようってわけでもないけど。今のところその先にまで進む決心はないが、如何にせよそれが楽しいものであることには違いない。

 確かにキョータローは一見バカで軽薄で助平のように言われるが、実のところ紳士的で、仮にも見知った仲の女へそう安易に手を出してくるような男ではない。でも万に一つでも、彼に度胸があったらどうなるのだろう。私はそんなことすら考えていた。

 

 「ん、どうしたんだよこんな時間に」

 「夕飯食べそびれちゃって。これからどっかご飯行かない?」

 「悪いけど今日はパス。客が来てるんだ」

 「お客さん?………あっ、淡ちゃん!」

 

 ひょいと顔を覗かせたサキが、こちらに手を振っているのに気づくまでは。

 


 

 思わぬ人物の来訪によって予定が崩れた私はどうすることもできず、サキの様子に唖然としながらお酌に付き合っていた。

 

「ほらほら、淡ちゃんももっと飲もうよ!」

「いや、私はもうそろそろ………いや、いただきます」

「お腹すいた!おーいシェフ、我はタコスを所望するぞー!」

「咲、もうちょっと声のトーンを落としてくれ。あとタコスはない」

「えー、怠慢だよ怠慢!社会じゃそんなこと許されないからね」

「無茶言うなよ。そもそも材料がない」

「なら何でもいいからおつまみ!今日の試合も全然ダメだったし…………あーもうムカつくなぁ。麻雀向いてないかも、私」

 

 サキがそんなこと言って、刺されても知らないよ。心の中でだけそう呟く。私だってついぞあなたには勝てなかったというのに、あなたが麻雀に向いていないというなら果たして誰が向いているというのか。あの頃の記者といえば私と話している時だって何かにつけて「宮永咲」だ。私が個人的にサキや清澄のことをライバル視していたのは確かだし、彼らや世間が私と彼女の劇的な対決を期待していたことも理解できる。でも当時の私は、そのことを聞かれるのが何故か不快だった。それが無いのは今の生活のいいところと言える。

 麻雀は好きだ。でももし私がプロになるとすれば、またそんなことが延々と続くのだろうか…………ひょっとしたら、私では今の彼女のライバルにすらなれないかもしれない。そう思った。

 再びインターホンが鳴り、彼は玄関へと消えていった。

 

「あっ、加治木さーん!お久しぶりでーす」

「お仕事大変だね〜、ゆみせんぱい」

「淡だけでなく宮永まで……これは一体どういう状況なんだ?」

「すみません。まさかこいつらがこんなに飲むなんて」

「そういうことを聞いているんじゃ――いや、何でもない。とにかくモモだけでも回収して帰らせてもらうよ」

 

 部屋の隅で眠るモモにはいつの間にか毛布が掛けられていた。おそらく彼が出してきたのだろう。ゆみ先輩はしばらく身体を揺すったり頬を軽く叩いたりしていたが、どうやっても起きそうにないことを知ると呆れたように溜息をつき、

 

「困ったな。おぶっていくしかないか」

「手伝いましょうか?」

「大丈夫だよ。手荷物も大した量じゃないし一人でもなんとかなる」

「俺が下まで担いでいきますよ」

「では聞こう。私がそれを快く思うかな」

「あぁ、なるほど」

「そういうわけだ。須賀、迷惑を掛けて悪かった」

 

 先輩が荷物を――じゃなかった、モモをおんぶしたままよろよろと歩いていくのをサキと肩を並べてボーッと眺めていた。ゆみ先輩って身長が高い印象だったけど、こうしてみると意外とそうでもないのかも。10cmも違わないモモを背負うと、後ろ姿の殆どは彼女に隠れてしまう。キョータローなら多少は様になるだろうか。

 

「………俺も頭を冷やしてくるか」

「あっ、ベランダで吸ったらまた大家さんに怒られちゃうよ」

「分かってるって」

 

 テーブルの上にあった小さな紙箱とライターを乱暴に掴んだ彼が玄関を開けて去っていく。すりガラスの格子窓にシルエットが一瞬だけ浮かび上がり、すぐに消えていった。小走りの足音も遠ざかり、サキの何も言わずに柿の種をつまみ上げる、その指の動きを私の目が追った。

 

「ねぇねぇ。一つ聞きたいんだけど」

「ん、どうしたの?」

「えっとさ………サキとキョータローって付き合ってるのかな、って思って」

「どうしたの、淡ちゃん?なんでそんなこと」

「何でもない男の人と一緒に東京まで出てきて、しかも隣に住むなんて普通ありえないよ」

「あはは、そうかもね」

「で、どうなの?」

「付き合ってはない………のかな。でも、きっとそうなると思う」

 

 

 『咲、九月の三週目の土日って空いてるか?』

 『えー、そんな先のこと言われてもわかんないよ。少なくとも試合はないと思うけど』

 『その週に大会があるんだ。よければ観に来てくれないか』

 『インカレの話?』

 『あぁ。それでさ、あの……もしも俺がベスト4に入ったら…俺と、その……つ、付き合ってほしい………とか、思ったり

 『……………京ちゃん、そういうことはせめて予選で勝ってから言いなよ』

 

 

「もし四位に入れなかったらどうするの?」

「んー……わかんない。そんな心配してないよ」

「じゃあ、サキは勝てると思ってるんだ。キョータローが」

「うん。今まで京ちゃんが約束を破ったことなんて一度もないから」

「…………サキはキョータローのこと、好き?」

「好きだよ」

「………………そっか」

 

 ぬるくなったピーチカクテルを口に含む。こんなに苦かったっけ。

 

「どうせなら優勝って言っちゃえばいいのに、キョータローもかっこわるいね」

「十分じゃない?京ちゃんが決勝まで行けるだけでもスゴいことだもん」

「……バカだよね。なんで普通に言えないんだろう」

「おバカだよ。でも、そういうものだから」

「そういうものかな」

「うん」

 


 

 それから四五ヶ月を私は宙ぶらりんにされながら生きていた。色彩の衰えた、実感のない日々が淡々と過ぎていくだけ。彼には以前と変わらず接していたつもりだったけれど、モモには何かあったのかと何度か聞かれた。

 

「ううん、何もない」

 

 嘘は言っていない。少なくとも彼との間には。彼と私との間には何もなくて、彼女との間にはあった。

 何もないから何も変わらない。例年と同じように今年もインカレは開催され、私はまたそこそこの地位に収まった。一昨年が三位、去年と今年は変わらず二位。どうせなら一位を取らせてくれればいいのに。彼が男子の部で着々とコマを進めていることや、後輩たちを連れて観戦席に座る私たちの隣にサキがいるのは、彼女たちが変わりつつあるからに過ぎない。

 

 迎えた準決勝、オーラス。南家のキョータローは倍満ツモ条件、二着の北家から打点十分のリーチ。トップのラス親は降りることだけを考えている。

 

南家:須賀 十七順目

ドラ:{1}

{五六六七七八123赤5東東東} ツモ:{4}

 

『リーチ』

 

 一瞬の迷いを見せることも残り四枚の壁牌を顧みることもなく、彼の奈落まで響くような低い声と共に{赤5}が捨て牌に並ぶ。私には意味がさっぱりわからなかった。何故あの場面で{東}を切らなかったのか――いや、その実北家のリーチは七対子の{東}単騎で、だからこの判断は結果的には正しい。それにこれは、彼が数年後振るうことになる武器の片鱗でもあった。

 しかしそういった事実とは関係なしに、私は彼が{東}を切ると思っていた。友人に勝ってほしいという純粋な願いとは別に心のどこかで望むものがあって、それが現実になってほしいと思っていたのだ。その存在に気づき、あの時と同じ罪悪感と痛みが残った。

 

『……ツモ』

 

 ファイナルドローで和了るとつくおまけ――彼が羅紗へ叩きつけた{1}へ全員の目が釘付けにされた。卓上の三人だけじゃない。私もモモも後輩たちも、ここにいる人たちはみんな。サキは一人俯き、少し汗ばんだ両手でスカートを握っていた。これで跳満、でもそれだけじゃダメだ。いや、そのままであってくれ。彼の指が王牌へと伸びるのを止めることは私にはできない。

 

 

{北}

 

 

 歓喜の声を上げて抱きつく彼女に、私はなんと言っただろうか。



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世界一嫌いな男の話

 キョータローが個人第三位という成績で今年度のインカレを終えると、去年まで本戦出場すらままならなかったダークホースの登場は大学麻雀界を大いに沸かせた。特に人々がこぞって口にするのはやはりあの準決勝での倍満ツモ。一部の人は「ただの偶然に決まっている」と言うけれど、私にはとてもそうは思えない。本戦が始まって以降彼が見せた打ち筋は非常に大胆で――当たり牌のビタ止めとか単騎待ちリーチとか、その一部は注目を集めるに十分なものだったにもかかわらず、何故か見るものをハラハラさせない安定感があった。今回の大会で、彼は何かを掴んだようだった。

 その一週間後、私は未だ夏休みの明けない大学へと足を運んでいた。私物を引き上げたいというモモの手伝いをするためだ。寂れた講義棟の入り口では撮影機材を担いだ数人の映画研部員たち――彼らも私たちと同じくこんな僻地に居を構える哀れなサークルの一つである――とすれ違った。中にはよく知った顔もいるようだ。

 

「あっ、淡!おひさ〜」

「サッチーじゃん。おはよー」

「この前の大会テレビで見てたよ!マジヤバかった!!」

「へへ〜ん、それほどでも」

「それに須賀くんも………って、あれ?須賀くんは一緒じゃないんだ」

「たぶん部室じゃないかな。っていうか、別に常に一緒にいるわけじゃないし」

「そう?淡と須賀くんってセットのイメージなんだけど」

 

 そこにモモが入っていないのは、ひょっとして見えていないのだろうか。

 実を言うと私は少々遅刻気味なのだ。別に寝坊ってわけでもなければ、なかなか髪型が決まらずに手間取っていたわけでもない。モモのメッセージに「行く」と返したのは確かに自分だというのに、いざとなると何故か部室に行きたくなくて、自然と歩みが重くなってしまった。

 

「サッチーはこれから撮影?」

「うん、今新しい映画撮ってんだ。来月の学祭で流す予定から観においでよ」

「また観るに堪えないモノじゃなければね」

「言ったなー!!」

 

 外の路地から彼女を呼ぶ声がする。「はーい」と返すと、サッチーはレフ板とクーラーボックスを抱えて駆け出していった。もう二十歳だというのに、彼女はいつまでも中学生の少女のような顔をしていた。

 彼女は今まで演劇や映像系の部活にいたわけでも将来そういった道を志しているわけでもない。ただ今を楽しむために映画研に入ったのだと、少なくとも彼女自身はそう言っていた。彼女の青春があんなにも眩しく感じられるのはなぜだろうか。一団が去っていくのを、その姿が向こうの建物の角に隠れるまで眺めていた。

 しかしどれだけ牛歩で進もうと、高々数十メートルの距離など瞬く間に辿り着いてしまう。思った通りモモとキョータローは既に部室に揃っていて、雀卓に座ったまま雑談に花を咲かせていた。

 

「大会、終わっちゃったっすね」

「そうだなぁ」

「はぁ……いい加減インターンとか考えなきゃ」

「へー、意外だな。俺はてっきり加治木先輩のところに永久就職するもんだとばかり」

「それとこれとは話が別っすよ。今の時代何があるか分からないし、働いた経験があればもしもの時に絶対役に立つっすから」

「そんなもんかい」

「だからこれからは忙しくなるっすよ。ここに来る機会だって暫くは」

「そう寂しいこと言うなって。俺と淡はもう少し居座ることになりそうだし、たまには息抜きしに来いよ」

「京さんは本気でプロ雀士を目指すつもりっすか」

「まぁな」

「男子の部で個人第三位………結構世間でも話題になったし、確かに実績としては悪くない。でもだからって、これから先もずっと上手くいく保証なんて無いっすよ?」

「そんな保証は誰にだって無いさ。俺達に出来るのは、やれるところまでやることだけだ」

 

 さて。彼はそう立ち上がると、ロッカーから古めかしい箒を取り出した。それを見て私やモモも、各々のことを始めた。もっとも元々手伝いが必要なほどの荷物があるわけもないし、きっとモモだって単純に集まる口実が欲しかっただけだろう。私と彼はしばらく埃を掃いたり窓を拭いたり、取り敢えず目につく仕事をしていた。

 ふと思い至って私は雀卓の上面を跳ね上げた。最近コイツの調子が良くないので、そろそろ整備をしなければと話していたのを思い出したのだ。普段これは彼の仕事だったけれど、今日は何故かしたくなって…………ダメだ。全然わからない。

 

 やっとの思いで修理した雀卓を元に戻し電源を入れ直す。中央の赤いボタンを押すのと同時に十七幢の牌山が問題なくせり上がるのを見て、形容し難い達成感を覚えた。その感覚に反して気づけば結構な時間が経っていたらしく、モモと彼はすることの大概を終えていた。私は今日コイツを直しに来たといっても過言ではないだろう。

 果たして私は今までこの卓で何半荘を打っただろうか。1000半荘?2000半荘?部の記録を見れば細かい数字まで判るだろうけど、とにかく数え切れないくらい打った。そしてその大半は彼らが相手だった。

 キョータロー、モモ、そして私。三人で作り上げた青春は一つの終焉を迎えようとしている。確かに私とキョータローはまだ残るし、モモもまた来るかもしれないけど、そんなことは関係ない。それはモモが就活準備のために部活を引退するためだけではなく、むしろ私にとっては『もう一つの理由』の方が余程重要だった。

 

「……さてと。こんなもんっすかね」

「あーあ、せっかくの一張羅なのに汚れちまったぜ」

「どうしてそんな……あぁ、なるほど」

「お察しの通り。実は付き合い始めてからアイツと出掛けるの初めてでさ」

「リンシャンさんも物好きっすねぇ。こんなチャラ男のどこが良いんだか」

「俺ってそんなにチャラいか?」

「金髪だし、実際軽薄な性格してるじゃないっすか」

「失礼な奴だなぁ」

「半分冗談っすよ」

「半分は冗談じゃねーのかよ………」

 

 モモは利いた風な表情を浮かべた。彼の服装が到底掃除しにくるようなものではないことくらい見ればわかる。

 

「それで、どこに行くつもりっすか?」

「具体的には決めてないんだ。都心の方に行くつもりではあるんだけど」

「はぁ!?よく大事な初デートにそんな準備で臨めるっすね」

「ま、マズかったか!?」

「確かに京さんは大学生かもしれないけど、相手はれっきとした社会人っすよ?夕食だってその辺のファミレスってわけにもいかないに決まってるじゃないっすか」

「しかし俺と咲の仲だしなぁ………あんまり堅苦しいのも良くないだろ。それに、初めてなんだからそんなこと言われても困るぜ」

「情けないっすねぇ」

「なら教えてくれよ。モモは普段どうしてるんだ?」

「えーっと………あー、ウチはいつも先輩がセットしてくれるから………」

「よくもまあ偉そうに言えたもんだな、おい」

 

「――っと、もうこんな時間か」

「待ち合わせは?」

「四時に新宿駅で」

「なら早く行ってくるっすよ!遅刻したら市中引き回しの上打首獄門っす」

「なんでお前が………まぁいいけど。じゃ、またな」

 

 小洒落たジャケットの裾を払うと、会釈の代わりと言いたげに右手を軽く上げて彼は部室を後にした。宙に舞う埃が窓から差し込む西日によって映し出され、その隙間を縫ってヒグラシの鳴き声が聞こえてくる。額に浮かんだ汗をハンカチで拭い取ったモモは辟易した様子で言った。

 

「まったく、浮かれちゃって………男ってホントに単純っす」

「………そうだね」

「淡さんらしくないっすね。普段ならもっとおしゃべりなのに」

「黙っちゃ悪い?」

「やっぱりあの人のことっすか」

「別に。キョータローのことそんな目で見たことないし。友達としては一緒にいるのは楽しいけど、付き合うなんて死んでもイヤ。こっちから願い下げ」

「そこまでは言ってないっすよ」

 

 モモは何故か時々、私が心の内に留めておこうと決めたことを開けっ広げに言う。止めてほしい。モモのことを嫌いになってしまいそうだ。数秒の沈黙の間に、視界がその端に彼の姿を捉えた。目を引く長身、美しい金髪。私と同じ金髪。窓の枠はそれ以上彼を認めることを許してはくれない。

 

「……あーもう、しょうがないっすね!」

「な、なに?」

「失恋くらいでそんなにショゲてどうするんすか。男や女の十人や百人くらい、淡さんならすぐにいい人見つかるに決まってるっすよ」

「だからそんなんじゃ――」

「こういう時は気分転換が一番!駅前のゲーセンで豪遊して、その後いつもの居酒屋にでも行けばサッパリ忘れられるっす」

「ちょ、ちょっと待ってってばー!」

 

 普段のモモはこんなに強引な性格だっただろうか、ともかくズンズン進む彼女に腕を引かれるまま私は歩くほかなかった。通りに出て、彼が歩いていった方とは別の方へ歩いた。駅は反対側にあるということはきっと彼女だって分かっているだろうに。

 いつまで夏で、いつから秋なんだろう。少なくともこの照りつける日差しは夏のもので、日焼け止めクリームだけでは防げない熱気が肌をジリジリと焼いている。

 

「淡さん、音ゲーとか好きっすか?」

「うーん……あんまりやったことないかな」

「やってみたら絶対ハマるっすよ!最近のオススメは――」

 

 彼がいなくても、まだ夏は楽しめるだろうか。

 


 

「生中追加で!それからたこわさ一つ」

「モモ、そんなに飲んで大丈夫?」

「ガハハハ!相変わらず桃子ちゃんはうわばみだなぁ!」

「無駄口叩いてないで早く持ってくるっすよ」

「冷てぇや」

「あ、ピーチソーダもお願いしまーす」

「はいよ」

 

 旨くもなければ綺麗でもなく、安いくらいが取り柄であるいつもの居酒屋のカウンター席。駅から離れ、やけに路地からも入り組んだところに店を構えているので客は少ない。こういう穴場感を私は結構気に入っているのだ。テーブル席に座っていた数人連れの客も少し前に出ていき、今では私たちの話し声と喧しいラジオの音が店内に流れていた。

 

「生中とピーチソーダ、それとたこわさお待ち」

「どうもっす」

「そういや一人足りなくねえか?須賀くんはどうしたのよ」

「キョータローなら………」

 

『――最後に麻雀、M1リーグの対局結果をお伝えします。午前中に行われた第二十八節A試合、立川・富山・松山・恵比寿戦を制したのは立川ブルーセーラーズです。前半には宮永が大物手を二度和了りきって素点+30.7のトップ。後半でフロティーラの戒能が盛り返しますが、神原がリードを守りきりました。B試合はつくばが延岡・美作・仙台を下し――』

 

「おっ、やるなぁ宮永」

「おっちゃん、セーラーズファンなの?」

「地元だしな」

 

 スマホで検索すると、試合の内容は既に記事になっている。立川の宮永(咲)選手、南二局にメンチンの倍満ツモ。続く親番では二着目に大明槓からの嶺上開花でダメ押し18000を直撃……相変わらずの暴れっぷりだ。キャスターが読み上げる全国金太郎飴的なニュースは終わり、また下品な自称ミュージシャンが人生相談のハガキを読み上げながら持論を語り始めた。

 

「京さんなら今頃、その宮永プロとデート中っすよ」

「宮永だって?そりゃなんでまた」

「中学からの同級生で、この度無事お付き合いすることになったらしいっす」

「ははあ……しかし『あの』須賀くんがなァ」

 

 おっちゃんの目線がこちらへ向く。

 

「なによ」

「俺はてっきり淡ちゃんとデキてるもんだとばかり」

「そ、そんなわけないじゃん!」

「付き合ってるってのも嘘なんじゃねえの?実は淡ちゃんの気ィ引こうとしてハッタリ掛けてるとか」

「それにしては悪手な気もするっすけど……」

「ま、しばらく待ってみるのも良いんじゃないか。知らんけど」

「……今更そんなこと言ったって知らないっての」ボソッ

 

 それ以降私があまり喋らなくなったのを見ると、モモはおっちゃん相手に雑談を始めた。モモと違ってアルコールに強いわけでもない。どういう内容だったかはいまいち記憶にないが、キョータローと関係ない話だったような気がする。

 

 

「じゃあ私はここで」

「またねー」

 

 居酒屋からすぐ近くのバス停でモモと別れる。彼女と加治木先輩の住まいはそう遠くないので路線バス一本で帰ることが出来るが、都心方面の私はそうもいかない。まず駅に向かい、数回の乗り換えを挟まなければ我が家に辿り着けないのだ。あと二時間もしないうちに日付が変わるが、街は未だに人で溢れかえっていた。

 

 歩きながら一日の出来事を振り返る。久々に入ったゲームセンターではモモに振りまわれ続けた。音楽ゲームの才能は全然なかったがUFOキャッチャーの才能はあったようで、お陰で私の右手にはぬいぐるみで一杯の紙袋がぶら下がっている。居酒屋は相変わらずだったな。お酒は美味しくないし、悪酔いして頭がガンガン痛くなる。店主のおっちゃんはやけに馴れ馴れしい上に下品だけど、案外ああいうのは嫌いじゃない。ただ、キョータローの話を振ってきたのはムカついた。ハッタリだなんて変なこと言わなくたっていいじゃない。そもそもキョータローはそんなことするような性格じゃない。不器用だし、そんな回りくどいことはしない気がする。でも、もしかしたらってこともあるのだろうか。

 

「……私、またキョータローのこと考えてる」

 

 結局、本当に私は彼のことが好きだったんだろうか。好きな人が他の人と付き合うなんて話を聞いたら、普通は「悲しい」とか「つらい」とかそういう感想を持つものだろう。でも私はそうじゃない。別に悲しいとは思わないし、涙の一滴も流れそうな様子はないのだ。今思えば、数ヶ月前の『アレ』も所詮は一時の気の迷いだったのだろう。実際彼に抱いているのは友情であって、誰かを好きになったことがないからそれを恋情だと勘違いしてしまっただけだ。

 

 だからキョータローがサキと恋人になろうがどうしようが、私の関知することではない。私とキョータローは友達で、それが変わるわけではないのだから。

 ………たぶん。きっと。

 

「あーもう!よくわかんなくなってきた!…………キョータローに会ってみたら、ちょっとは整理つくのかな」

 

だから私の足は駅でなく、彼の住むアパートへと向いていたのだろう。

 

 

 二階にあるキョータローの部屋の玄関は――当然その隣にあるサキの部屋と共に、すぐ外の路上から十分はっきり見える。携帯電話の時計は時刻が間もなく夜の十時半を回ることを示していた。キョータローが帰ってくるとしたらそろそろだろうか。でも仮に会えたとして今更何を話せばいいんだろう?とにかくまずはインターホンを鳴らしてみて、それから考えよう。

 

「………人?」

 

 その時だった。鉄柵で囲まれた螺旋階段を昇っていた二つのシルエットが廊下に出ると、キョータローの部屋の前で止まった。逆光のせいでそれが誰かまでは判らない。目を凝らしたって双眼鏡を使ったって、あんなのわかりっこない。

 

 

『今日は………………』

『………………今度………行く………………いてね!』

『分か………………』

『……………でも、楽し………………す』

『………俺も………………………』

『あのさ……………………………………』

『……………………そんな………………………?』

『……だって……寂し………………………』

『………………てとなり………………』

『………………ね………いで………?』

『仕方………………文句言う………』

『………だから、………………………』

『……………………………』

『………………………』

『……………』

 

 

 『影が重なる』。そんな表現知ったのはいつだったろうか、私はそれを比喩の一種だと思っていた。気づけば、両脚は否応なしに駅へと駆けていた。

 

 

「あれ……?」

「どうしたの?」

「いや、今そこに誰かが居たような気がしてさ」

「………まさか。見間違いだよ」

「そうかな」

 


 

「……ただいま」

「あら、おかえりなさい。晩ご飯は用意してないけど平気?」

「モモと飲んできたから大丈夫」

「また東横さんと?一度ご両親に挨拶したほうがいいのかしら」

「子供じゃないんだからそんなことしなくていいってば」

 

 私は彼女を無視してキッチンへとズカズカと歩いた。ティーバッグが入った紙の袋を開けて電気ポットに水を乱暴に注いだ。何かを飲んで落ち着きたい。そうでもなければこの苛立ち、動揺、あるいは痒みのような何かは収まりそうにもなかった。

 

「そういえば淡、一つ話があるの」

「なに」

「あなた、ずっと一人暮らししたいって言ってたわよね」

「…………」

「お父さんと話したんだけどね。あなたももう二十歳だし、そういう経験があってもいいのかな……って思って」

「――ママのバカッ!!!」

「…………………淡?」

 

 もうお茶なんてどうでもいい。また脚が勝手に駆け出して、勢い良く自室のドアを閉める。天井の照明は最近LEDに替えたばかりだが部屋はちっとも明るくはならない。スイッチを入れていないのだから当然だ。右手の紙袋を乱暴に放り投げ、肩に掛けたポーチも同じように――しようとしたが、少し考え直して丁寧に置く。上着とストッキングを床に脱ぎ捨て、ベッドに寝転がって布団を頭まで被った。

 嫌なことがあった後は昔からこうするのが一番だった。何もせずともいつの間にか眠りに落ちていて、朝になればどんな悩みも大した事には思えなくなっている。化粧がそのままだったけど、そんなのは些末事だ。

 もしあの時、もしあの場面で、もしああしていたら未来は違っていた?私の求めていた『好き』が手に入ったと思った。でもそれは穢れていた。こんなはずじゃなかった。私はどうするべきだったのだろう。モモの問いかけにどう答えるべきだったのだろう。全てを認めて、恋のために何でもすると誓うべきだったのか。そうすれば今キョータローの隣にいるのはサキじゃなくてこの大星淡だったのか。私が彼とキスしていたのか。彼の腕に抱かれて眠ることだってできていたのか。私って惨めだ。

 とにかく、全て忘れてしまいたかった。それなのに。

 

 

 

 

私の名前はどこ?「明日からはお前がキャプテンだ。頼んだぞ」頑張るよ「――私、あの子苦手なんだよね」やめて「頑張ってね、淡ちゃん」あなたは私に何をくれるの?「わかるわかる!いっつも偉そうにしちゃってさ」してないよ。これが私「大星淡さんですか?実は、現代麻雀出版の者でして」そう、私が大星淡「あんた何様?って感じ」私ってナニ?「大星くん。今度の試合も期待しているよ」私じゃないくせに「ねえねえ大星さん、一緒にお弁当食べない?」何のために「私たちだって三年間頑張ってきたんだよ!?」なんで無駄なことを「仕方ねーじゃん。ウチらなんかよりずっと強いんだから」あんたが弱いからでもあるでしょ「遊園地?いいよいいよ、今度行こっか」嘘「あんなやつ……!」惨めなのはアンタ。私じゃない 優勝はサキ。あなたの好きな「個人戦準優勝、大星淡殿。あなたは右の通り優秀な成績を――」ホントに優秀だって思ってる?「外見は小奇麗だし、広告塔には丁度良いんだろ」騙された「嫌な大人っすね」嫌。「でも██だからな」私は仕事じゃない」「大星さん凄い!」ホントに?「大星淡?ないない、あんなんルックスだけじゃん」私を見てよ「さすが大星だな」ついたり消えたり、フラフラ「後で校長室まで行くように」なんで私だけ「あいつマジでムカつく」知りもしないくせに「、少し時間いいかな?」触らないで「████████」

 

 

「嫌いだ。お前のこと」

 

 

 

 

 

「…………なんでよ………………なんで、いまさら………」

 

「すきでも……………なんでもないのに…………どうでもいいのに……………………」

 

「…………………………わたしのこと………まもってよ………………」

 

「……きょう、たろう………………」

 

 

 

 

 朝が来た。いつも通りに陽が昇り、いつも通りに降りていくと、階下では母親がいつも通り朝食を用意していた。彼女は何も言わなかった。

 得体の知れないナニかは、未だ私の心にのしかかったまま離れない。

 




一部入れるべきか迷った部分がありましたが、丁度いい具合になったかと思います。


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澱んだみなそこ

 それからのことにあまり面白い話はないので、大まかな流れだけ話しておこうと思う。

 翌年、何の支障もなくインターカレッジは開催された。私の成績はともかくとして、キョータローが個人優勝を修めたのは特筆に値するだろう。昨年の結果は偶然でも何でもなく、彼の実力が本物であることを証明してみせる形となった。

 その後すぐ私と彼のもとにはいくつかのチームからオファーが舞い込み、私たちは卒業後そのままプロ雀士になった。キョータローは北関東の地方都市に本拠地を構えるチームに入った。テルがいるところだ。そして私は……

 

 

「………以上でインタビューは終了となります。大星プロ、本日はありがとうございました」

「ありがとうございました」

 

 仕事とはいえ知り合いがこうも他人行儀な喋り方をしているとむず痒くなってくる。机上に置かれたICレコーダーを取り上げて側面のボタンを強く押し込むと、彼女は背もたれに大きく寄りかかって天を仰いだ。その先にあるのは青空でも太陽でもなく、煌々と光る会議室の蛍光灯くらいのものだ。

 

「ふぅ。お疲れ様、淡」

「でもゆみ先輩が来るなんて知らなかったよ。ビックリしちゃった」

「淡の特集を組むと聞いて、インタビュアーをやらせてもらえるよう編集長に頼んだんだ。久々に後輩と会うのも悪くないと思ってね」

 

 実際、ゆみ先輩と会うのは私の卒業式以来のことだった。プロになって三年目を迎えれば新人と呼ばれることも格段に減り、そんなタイミングで大手紙が私を記事にしようというのは先日ようやく獲得できた初タイトルがやはり影響しているのだろう。ともかく――それこそ高校や大学とはワケの違う――プロ麻雀の層の厚さを嫌というほど実感させられた二年間だったし、プロ雀士という職業の忙しさを思い知った二年間でもあった。

 

「聞けば今日も大変だったそうじゃないか」

「そーなんだよ!GMがインタビューのことすっかり忘れてたらしくてさー。せっかくの芦原だったのに、温泉すら入れないうちに新幹線に放り込まれちゃって」

 

 今日の予定は数週間前から入っていたのだが、手違いにより午前中に地方での対局を割り当てられてしまった。お陰で私は碌に休む暇すら与えられないまま東京へとんぼ返りするハメになったのだ。

 

「あーあ、なんでわざわざ行ったり来たりしなきゃならないんだろ。全部東京でやればいいのにさ」

「こればかりは政治的な理由が絡むからなぁ。町興しのために全国各地に試合会場を設け、そこで対局を行う……実際今のシステムになってからチームもファンも増えた。業界が賑やかになるのは良いことさ」

「移動だけでクタクタだよ………」

「だが、経費で旅行気分を味わえるのは悪くないだろう?」

「それは否定しないけど」

 

 今回はその旅行気分すら味わえなかったわけではあるが、本来は仕事の途中であって空き時間に自由行動を許してもらっているだけなので文句は言えない。サラリーマン程ではないにしても、完全に自由というわけにもいかないのである。

 ゆみ先輩が手土産に持ってきた源氏パイをお茶請けに取材前に給湯室で入れてきたコーヒーを啜る。最近ブラックを飲めるようになったのだと自慢すると、ゆみ先輩は苦笑いした。

 

「ところで、宮永は一緒に帰ってきたんじゃないのか」

「ゆっくり帰ってくるって言ってた。キョータローがゲストで金沢の雀荘にいるから途中で合流するんだってさ」

「ほう」

「同じチームでもサキはカップルで温泉デート、片や私は会議室で夜までお仕事。世の中不公平だよねぇ……とほほ」

「須賀か………そういえば、今度彼らが結婚するという噂があるだろう。あれは本当なのか?」

 

「………えっ?」

 

「淡、お菓子落としたぞ」

 

 

 これから社に戻って編集の仕事だと言って、しばらくして先輩は会議室を出ていった。「ちゃんと帰ってるの?」と聞くと先輩はバツの悪そうな顔をして、わかっているよと小さく答えた。あの調子ではモモの雷が落ちるのも時間の問題だろう。この前会った時だって彼女は不満を漏らしていたのだから。

 それにしても、まさかサキが――

 

「お邪魔しまーす!」

 

 その時、会議室を出ていったゆみ先輩と入れ替わりで茶髪の少女が部屋に入ってきた。今年高校を卒業したばかりの新人で、まだあどけなさが残る快活な子だ。もっとも快活というか、どちらかと言えば暑苦しいというか。私に懐いてくれているのは嬉しい限りだ。

 

「取材ってもう終わったんですか?」

「ついさっきね」

「ホントですか!?お疲れ様です!あっ、そうだ!大星先輩に見せたいものがあって………ほらこれ、つしまえんのタダ券ですよ!しかも二枚!監督が『貰ってきたけど要らないからお前にやる』って。今週末あたり一緒に行きましょうよ!」

「完全に子供扱いされてるなー」

「ん?何か?」

「ううん、なんでもない。でも私ってマイちゃんと歳離れてるし、行っても楽しくないでしょ?高校の友達でも誘って行ってきなよ」

「そんなの全然気にしませんよ!それにたった六歳差ですよ?だからほら、ねっ?」

「うーん………やっぱ私は遠慮しとこうかな」

「えー」

「ごめん、声かけてくれてありがと。他の人とか誘ってみて」

「………はい」

「お疲れ様。また明日ね」

 

 そう彼女に告げて、私も会議室を出た。

 

「ちぇーっ………大星先輩のいけず」

 


 

 二十代も後半に差し掛かり、すこやんを笑っていたあの頃の自分を呪いたくなる三月、昨晩からの猛吹雪も止んで一面が銀世界と化した朝。慣れない雪道の上をざくざくと歩いて正面玄関に入り、受付のお姉さんとの長い問答を終えてやっとの思いで病室に辿り着く。

 

「サキ!」

「あれ、淡ちゃん?どうしてここに………」

「ちょうど松本で昼前からイベントが入ってて。かっ飛ばしてきた!」

 

 フナQの運転だけどね。病衣の上から肩に毛布を掛けたサキは別に何か具合が悪くて入院しているわけではなく、むしろその理由は病気とは全く以て対極にあった。

 キョータローから出産の知らせを貰ったのは一昨日の夕方頃だったろうか。一方で部外者の面会が出来るのは出産後二日目から。一昼夜悶々とした気持ちを押さえつけていたが、結局居ても立ってもいられなくなった私は無理を言って朝早くから車を出してもらったのだ。

 不意に目線をよく見ると、その張本人はその長い躯体を折り曲げてベッドに寄りかかっていた。呑気に眠りこける男を爪先で小突いてやりたい気持ちに駆られたが、ここ数日の彼の苦労を想像してやめた。

 

「京ちゃんったら、心配でここ何日も寝れなかったんだって。産まれたら産まれたで大騒ぎだし……別に京ちゃんが産むわけじゃないのにね」

「キョータローはお子様だから」

「そういうところも可愛いんだけど」

「サキはこんな時までお惚気ですかー。でも残念だけど、今はキョータローなんかより赤ちゃんのほうが断然興味あるな」

「………見たい?」

「うん!!」

 

 横に寝かされていた小さな赤子をサキの細い手が抱きかかえる。この手が普段、魔獣の如く卓上を意のままに操っているなどと誰が想像できようか――まるで大事な宝物を見せる子供のように、その顔は得意げで幸せそうだった。

 

「この子が……」

「触ってみる?」

「う、うん。大丈夫なのかな」

「先生からも言われてるから大丈夫だよ。ほーら、あわいおねえちゃんですよー」

「………!」

 

 吹けば飛んでしまいそうな儚い命だ。私は指を恐る恐る彼女に差し出した。そんな私を見て、彼女はにっこりと笑みを浮かべたのだ。

 いや、それは私の都合の良い思い込みかもしれない。産まれたばかりの赤ちゃんはほとんど視力を持たないらしいし、ましてや私を認識して微笑みかけるなんてありえないのだから…………なんてことは今だからこそ言えることで、当時の私といえば只々言葉を失っていた。どちらにしても、私が彼女の虜になるには十分だった。

 

「ぁ……」

「可愛いでしょ?」

「す、すごい…………」

「ふふっ」

「名前はなんていうの?」

「それはまだ秘密。お七夜だってしてないもん」

「そんなの建前だけじゃないの。ねっ?」

「わがままだなぁ………でもいいよ。おじいちゃんにもまだ言ってないけど、淡ちゃんには教えてあげる」

 

「――メイ。その子は宮永明(ミヤナガメイ)だ」

 

「キョータロー……」

「いい名前だろ。なぁ、淡」

「ちょっと京ちゃん、いいところ持って行かないでよ」

 

 キョータローが床に座り込んだまま微笑む。サキと同じ、幸せそうな顔だ。

 ヨロヨロと起き上がったかと思うと、彼は今度は腰に手を当ててかがみ込んだ。変な所で寝るからだよ、そうサキが笑う。その時、病室の扉がけたたましく開いた。

 

「おーっす咲ちゃん!元気か?」

「病院なんですからもっと静かにしてください」

「あれ、お前らまで来たのか」

「久先輩とまこちゃんも後で来るぞ」

「ごめんなさい。私はもっと落ち着いてから伺った方が良いかと思ったんですが、ゆーきがどうしてもすぐに行きたいからと聞かなくて」

「大丈夫。私もみんなが来てくれて嬉しいから」

「なんだ京太郎、そんなボサボサの格好してだらしない」

「仕方ねーだろ!営業先から飛んできてから二日もそのままなんだから」

 

 サキの胸元から小さな泣き声が聞こえてくる。彼女は大慌てでメイをあやすと、夫に厳しい目線を向けた。

 

「ちょっとお父さん、静かにしてよね」

「す、すまん」

「あの京太郎が『お父さん』って………ぷぷっ、笑えるな」

「窓から放り投げるぞこのチンチクリンが」

 

 天使のようだった。彼女が笑えば皆が笑い、彼女が泣けば皆が泣く――いや、どっちにしても笑ってるか。間違いなく、神に誓って、彼女は祝福されて産まれてきたのだ。

 

「そうだ。おい、優希」

 

 投げつけられたモノをユーキが器用に掴んで持ち上げる。クルクルと回されるたび、金属製のオイルライターは窓から差し込む朝日を受けて白く輝いた。

 

「もし欲しかったらやるよ」

「京太郎、お前禁煙するのか」

「俺はもっと長生きしなきゃならねえと思ってさ。この子のためにも」

 

 父が娘をその大きな腕で抱く。メイはまたぐずり始めた。

 


 

「………気持ち悪い」

「テルー大丈夫?」

「うん、なんとか………うっぷ」

「ちょっ!」

 

 テルがジェットコースターに乗りたいというので隣に座ってみると、意外にも私のほうが楽しんでしまい当の本人はこの有様である。さすが一足先に三十路に突入しただけのことはあるな………そう考えているうち、自分も十二月には三十代であることを思い出してしまった。そう、もう三十歳だ。遊園地に来るなんてどれくらいぶりかな、ふとそんなことを思う。

 もっともこうしてアラサーのお守りをするためにわざわざ遊園地まで来たわけではなく、本来の役目は三人のサポートである。もとい勝手に着いてきただけともいうけど。

 

「ねえねえ、おとーさん、おかーさん」

「ん?どうしたんだ?」

「ふたりとも、なんでずっとおててつないでるの?」

「ふっふっふ………教えてやろうか。それはな、母さんがすぐに迷子になるからだよ」

「もうっ、お父さんったら」

「おかーさん……」

「ははっ、三歳児に憐れみの目で見られてら」

「……………ふんっ」

「いてっ」

 

「ラブラブだねー」

「だね」

「つい最近生まれたばっかりだと思ってた親友の娘が気がつけばこんなに成長して。一方私なんて行かず後家、小鍛冶さんルートまっしぐら………世の中残酷ですなぁ」

「しょっちゅうそういう話してるけど、淡は結婚したいの?」

 

 テルの問いに背筋が凍る。そもそもこの話に深い意味なんてない。女でアラサーで雀士といえばモテないネタだから私も同じようなことをしているだけで、自虐ネタみたいなものだ。

 私が結婚?それってどういうコト?そもそも私は結婚したいのか?一瞬考えるがいまいちパッとしない。私が結婚しているイメージが全く沸かないからだ。よくわかんないけど、別に特別そういった願望があるわけではない気がする。

 

「そっか…………私はちょっと興味あるかもしれない」

「テルーが!?」

 

 テルこそ『結婚』というワードから一番縁遠いタイプの人種だと思っていただけに意外だった。結婚はおろか、休日に他人と会うことすら稀だという彼女がそんなことを言い出すとは。まぁ、これを間近で見てたら無理もないか。

 

「おとーさん!これ!」

「バイキングか………うーん、明にはちょっと早すぎるかもな」

「えー」

「明がもっと大きくなったらまた来ようね」

「母さんみたいに怖がりじゃなければの話だけど」

「一言多いってば」

 

 見守るように並んで歩く二人の前方をメイが一人でぐいぐい進んでゆく。少し前まで首も座っていなかった彼女もいつの間にか掴まり立ちするようになり、ベビーカーを自分で押し始め、気がつけばそのベビーカーすらなくなっていた。そんな牧歌的な光景をみるうち、今日が、明日が、これからの一日々々が何事もなく平和に過ぎゆくのだろうと、私は根拠もなくそんな考えに浸った。

 


 

 キョータローが私から離れていくのを感じたくなかった。キョータローがサキのものになるのが嫌だった。花嫁姿のサキの横で笑うキョータローを、胸が張り裂けそうになりながら眺めていた。大学三年の夏――キョータローのアパートの手前で引き返した夜から、私の心にはしこりが残り続けていた。

 

 でも、メイがそれを変えた。あの微笑みを見た瞬間、暗闇にいた私の五年半など全て馬鹿馬鹿しく思えてしまったのだ。もはや私の願いは彼の隣にいることではなかった。ただ彼と彼女と、そしてあの子を遠くから見守るだけで幸せだった。

 

「もしもし、大星ですけど」

 

「…………事故?」

 

 あの日までは。

 

 

<大星淡の回想> 終



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宮永照の追憶
もう一つの出会い


 『監督室』と刻まれたプレートの取り付けられた扉の向かい側は、廊下を挟んで壁一面がガラス張りになっていた。妹から誕生日祝いに貰った腕時計へ目線を落とすと、二本の針がちょうど綺麗な一直線を形作っている。これがもっと日の長い時期であれば夕焼けに赤く照らされる筑波山が遠方に美しく見えるのだろうが、そんな太陽も恋しい十二月下旬の寒空は明度を失い、とうに夜の帳が下りた風景に代わって映し出される私の顔は心なしかやつれて見えた。

 気心の知れた相手と一緒に一日中麻雀を打ち続けるというだけであれば、座りっぱなしで疲れるというようなことを除けばそこまで苦になるものでもないし、実際そういう生活をかれこれ十年近く続けている。しかし不特定多数の他人――この場合でいえば客を相手にして、そのうえ愛想まで振りまき続けなければならないとなれば話は別だ。これだから、雀荘のゲストなどという仕事にはいつまで経っても慣れない。

 扉を叩くと、はじめに乾いた木の音が、続いて聞き慣れた女性の声が返ってきた。

 

「失礼します」

 

 部屋に入った正面には大きなマホガニーの机が置かれていて、普段監督はそこに座りながら書類やパソコンの画面に忙しく目を通している。ちょうど私のように入室者がやって来るとこちらを一瞥し、それから手前に置かれた応接セットに座るよう促してから勿体ぶるように自分も立ち上がるのであるが、しかしこのとき既に彼女はそちらの椅子へ腰を下ろしていて、直前まで対面に座った金髪の男と何かを話していたようだった。

 仮にその客人が顔も名前も知らない相手であれば話は簡単で、きっと何かしらの契約の話に違いない。ここにはスポンサーの担当者や出演依頼を抱えたテレビ局のスタッフがよく出入りしていて、その仕事が私のところへ飛んでくるというのもしばしばあることだ。一方で彼の人相はそういった属性とは明らかにかけ離れており、年は私と変わらないか少し若いくらいで、リクルートスーツに身を包んだ風貌はさしずめ企業の採用面接にやってきた就活生と言ったところか。そもそもこの男の素性というのも、何故ここに居るのかということさえ除けば大概私の知るところだった。

 

「お疲れ様。わざわざ来てもらっちゃってごめんなさい」

「いえ、どうせこっちに用事があったので」

 

 というのは半分ホントで半分ウソである。用事といっても明日取りに行ったって構わないような些細な忘れ物をしただけで、帰り際、助手席に投げてあった携帯電話がけたたましく着信を知らせるまでは実際そうするつもりでいた。あそこで一言断っていれば今頃には夕食にありつけていたかもしれないな。そんな考えが巡るたびに、そしてガラスに映る自分の疲れ果てた様子を見て一層気を滅入らせていたのだが、ともかくそれらは目の前の青年のために脇へ置かなければならなかった。

 

「紹介するわ。こちら須賀京太郎くん、今度うちのチームに入ることになったから宜しくね」

「は、はじめまして!須賀京太郎っていいます」

「どうも」

「ええっと……なんてお呼びすればいいですか?」

「別に。好きに呼んでもらって構わない」

「そ、そっすか」

「……妹が世話になっている」

「こちらこそ。いつもアイツから話は聞いてて、一度お会いしたいと思ってました」

 

 そんな会話を聞いた監督は僅かに意外そうな表情を浮かべた。彼と咲の関係を知っていたのだろうか、どうやら私たちに面識があると思っていたらしい。

 

「あなた達、来季からコンビ組んでもらうから仲良くしてちょうだいね」

「お、俺がですか!?そんなこと言われても、いきなりそんな……」

「OJTみたいなものよ。須賀くんは新人なんだし、照の相方だからってそんなに気張らなくて結構」

「小鍛治さんはどうするんですか?」

「健夜には適当にあてがっておけば大丈夫でしょう。彼女、誰と組んでも変わらないもの」

「……」

「何か不満があるのなら今のうちにね」

 

 その後二人が事務的なやりとりを交わすしばらくの間、私は棒立ちのまま明後日の方向を眺めていた。西側の壁には大きなショーケースが二つ置かれていて、その片方に一杯まで所狭しと並べられたトロフィーや楯が過去の栄光を物語っている。しかし隣のケースには十年以上前の日付の大きなトロフィーが一つ、それから数年前の小さな楯がいくつか手前の方に置いてあるだけで、それ以外はがらんどうとしてみすぼらしい様子だった。

 彼がやはり緊張した様子で部屋を出て行くと、溜息を吐くのが閉じられた扉越しにかすかに聞こえた。カツカツという革靴の足音が遠のき、完全に消えるのを待って、私は監督の方を窺った。

 

「監督」

「あら、『不満があるなら今のうちに』って言ったはずだけど」

「不満ってわけじゃありません。ただ、男子なら男子選手に付けたほうが良いのでは?」

「彼の打ち方は他の男子と比べてちょっと特殊なのよ。ひょっとしたらオカルトかもしれない……咲ちゃんは何か言ってなかった?」

「いえ…………麻雀については特に」

 

 咲が彼の話題を最初に出したのは私にとって最後のインハイが終わった後、わだかまりが少しずつ解けていき、それと共にぎこちないながら他愛のない会話もできるようになった頃のことだった。確か彼女のチームメイトについて話していた折だったろうか。その時の私といえば咲が男友達を作ったことを少し意外に思ったくらいで印象には残っていなかったし、咲自身も彼のことを特別視していたようには見えなかった。だからそれから何年も経って、彼女が恋人の話を切り出した時には相当に驚かされた覚えがある。

 以来咲は会うたびに惚気話をするようになり、デリカシーがないだとか気が利かないだと不養生だとかと散々な言い様ではあったが、その割には彼女の表情はやけに笑みを含んでいた。それまで大した頓着もしなかった咲が少しずつ高価そうな服を着るようになったのだって、年俸が上がったからというだけの理由ではないのだろう。

 そんな彼女はどうやら私と彼とを引き合わせようとしていたようだ。本人にしてみれば彼氏を姉に紹介するくらいわけなくて、特別深い考えもなかったのかもしれない。他方の私といえば咲の口から語られる須賀京太郎という人間像に興味が全く無かったといえば嘘になるのだろうが、妹の恋人という微妙な関係から想像される気まずさであったり、あるいは男性性自体への忌避感の方が勝っていたがゆえに、誘いがあるたびにのらりくらりとかわしていたのだった。それがまさかこんな形での対面を果たすことになろうとは誰が想像できただろうか。

 

「それで、照魔鏡は使わなかったの?」

「初対面の相手を覗くようなことはしませんよ。第一、監督が直接聞けば済む話なんじゃ」

「当然最初に聞いたんだけど、『こればっかりは監督にも言えません』って。よほど明かすと困るようなタネなのかしら」

 

 自分の能力(オカルト)が仔細までが津々浦々に知れ渡るのを好ましいと思う雀士は多くないだろう。しかし公開対局を何年もこなしていれば他の選手からの研究も相応になされるだろうし、仲間や監督に何も伝えないのはというのは作戦立案上困難な障害となる。手の内がわかっていることと実際に対策できることは別問題であって、だからこそ私だって未だ食い扶持を失わずにやれているのだ。「得体の知れないうちは歯が立たないが、フタを開ければ簡単に」なんてプロは……まあ、まずいない。普通なら。

 

「ともかく、あなたにお願いしたいのはそこをハッキリさせること」

「もしオカルトじゃなかったらどうするつもりですか」

「それならそれで別にいいわよ。実力があるのは確かなんだし、普通に育成選手として頑張ってもらうわ。どちらにしてもあなたに付けたほうが彼も成長するでしょう」

「正直に言って、教えるのはあまり得意じゃありません」

「何も新しいことを教える必要なんてないのよ。あなたは何もせず、ただ須賀くんに打ち方を見せてあげればいい。しかも咲ちゃんと良い仲なんだから、尚更照が適任じゃなくって?」

 

 しばらく押し黙ったが、返す言葉もなく会釈をして廊下に出る。ここで話していたのは三十分くらいだろうか、向かいの一軒家に明かりが灯っていることを除けば、窓枠は部屋に入る前と全く同じ光景を夜から切り取っていた。彼の姿は既に見当たらなかった。ここに上ってきたときと同じように階段を下り、駐車場に停めてあった車の鍵を開ける。運転席の扉を開けようとして、窓ガラスに映る自分の顔が再び目に入った。

 私はこのチームに来て何が変わったのだろうか――ここ数日はそんな事ばかりが頭をよぎる。今年はきっと私の人生における一つのマイルストーンになるだろう。このチームに迎え入れられた春先、新たな人間関係、初めての個人タイトル獲得、エトセトラ……。忙しない一年だったことは確かだ。しかしそれで私はどう変わっただろう? 麻雀プロになってからずっとお世話になった古巣を離れ、両親の別居以来住み続けた家を引き払って新たに居を構え、そこまでしてもやっていることは何一つとして違わない。同じような日々が場所を変えて繰り広げられているだけだ。彼が来たことで、こんな現状に少しは変化が訪れるのだろうか。

 

「…………須賀京太郎、か」

 

 それはまだ、よくわからない。



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