「Umar Eats」の配達員から、トレセン学園にスカウトされたウマ娘の話 (ayks)
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第1部 編入学編
プロローグ


我慢できませんでした。書きます


それは4月に入って間もない、とある平日のことだった。

 

「――――遅い」

 

ミント味のタブレットを奥歯で噛み潰しながら、スマホの画面を確認する。

機種変更して間もないそれは、既に14時を過ぎたことを教えてくれた。

清涼感を感じる口内とは裏腹に、胸中はもやもやとした感情が渦巻いている。

 

「たかが昼飯の配達に何時間かけてんだ……ったく」

 

本当に久しぶりに取れた終日完全オフだというのに、せっかくの休みを台無しにされた心地だ。

普段は絶対に出ないような悪態がしきりに口を突いて出る。

 

日頃の激務から離れて、今日は一日本当に「何もしない」と決めていたのだ。

好きな時に起きて、好きな時に寝る。掃除や洗濯も今日はしない。

仕事の電話にも当然出ない。尤も、本来自分が今日やるべきことは、「同僚」に全て任せてきている。

 

なぜなら、今日がオフだから、だ。

もちろん飯も作らない。部屋着を脱がない。髭も剃らない。好きなものを頼んで好きな時に食べる。

 

いつも頑張ってる自分へのささやかなご褒美として、怠惰の極みを謳歌しよう。

そう思っていたはずなのに――

 

「――――もう我慢ならん!」

 

ベッドに投げ出していた体を起こし、注文先の電話番号が表示されているボタンをタップする。

今日は可能な限り重力にも逆らわないつもりだったのに。この労力をどうしてくれる。

繰り返されるコール音。幸い、数コールですぐに繋がった。

 

『お電話ありがとうございます。一発逆転寿司 ○×町店です』

 

「あ、もしもし?すみません2時間前に注文したんだのにまだ届いてないんですが」

 

自分でもちょっとびっくりするくらいトゲトゲしい声が出た。おかげでちょっと冷静になる。

すみませんすみませんとしきりに謝る店員に名前と注文内容を簡単に伝え、状況を確認してもらう。

 

『大変申し訳ありません……実は注文と違う物を配達員に持たせてしまったことに後から気付きまして……

 

慌てて戻ってきてもらったのですが、今度はその配達員のウマ娘が自動車と接触事故を起こしてしまいまして……』

 

――マジか。

 

『今代わりのウマ娘を手配しておりますので、今しばらくお待ちいただければ……』

 

一文節ごとに「申し訳ありません」と言うスタッフさんの話に、はい、はいと力なく返事をして電話を切った。スマホをベッドに投げ、自分もマットレスに体をぼふんと預ける。

 

「これが12位の力か……」

 

確かに、兆候はなんとなくあった。

起きてトイレに行こうとした所に、角で小指を強打し。

朝から飲もうと買っておいたビールは、冷蔵庫に入れ忘れ。

そして――何時間待っても頼んだ昼飯が来ない。

 

いつもなら絶対に見られない時間帯のニュース番組でやっていた星座占い。今日はなんと最下位だった。

普段なら鼻で笑うような些事。だがここまでツイてないと、今度からもう少し意識した方がいいだろうか、なんて思ってしまうのを誰が責められようか。

 

どうして、よりによって。

最高の休日になるはずだったのに、至る所から水を差されっぱなしだ。

明日になれば、また朝から晩まで身を粉にして働かなければならないというのに。

 

しかし、起きてしまったものは仕方ないのだ。

 

切り替えていこう。不幸とは往々にして起こるもの。店も、配達員も、運転手も誰も悪くない。

ウマ娘と車の接触事故なんて、日常茶飯事な故に新聞の記事にすらならない時代だ。

八つ当たりのようになってしまった店員に心の中で謝罪を述べ、事故ってしまったウマ娘の無事を祈った。

 

むしろ自分がついてないことで、他の誰かが幸せになりますように――なんて。

 

「……さて、今どのあたりかな」

 

寝転がりながら、再びスマホの画面を触り、バックパックの形をしたアイコンのアプリを立ち上げる。

 

最近のデリバリーサービスは、配達員がどのあたりにいるのか、あとどのくらいで着くのかがアプリからすぐに分かるようになっている。

時代も変わったものだ。

 

「――お?」

 

画面に表示された地図。その上にピンのようなマーカーが効果音と共に現れた。

それが家に向かってゆっくりと移動――しなかった。

 

否――()()()()()()、動かなかった。

 

「――え?」

 

マップの上に現れた点。

それが尋常じゃないスピードで動いている。

 

「――おいおい。アプリまでバグっちまったのか。

今日はとことんツイてないな」

 

その点は澱みない速度で進行を続け、ここ――自宅へと向かっている。

画面の下にある「あと○○分程度で到着します!」の数字が冗談のような速度で小さくなる。

 

ウマ娘の平均時速は、50~60kmと言われている。

だがそれは、あくまで「競争バ」としての適性を持つものの話。

レースに出ていないウマ娘も含めた全員の平均値となると、それらの7割ほどに落ち着く。

 

だが、この速さはもはや――

 

 

『ピンポーン』

 

「――は?」

 

唐突に呼び鈴が鳴り、ふと我に返る。

画面に表示されたマーカーは、自宅の位置と重なっていた。

恐る恐る、インターホンの「通話ボタンを押す」

 

 

『ウーマーイーツです!えらい遅うなってホンマすんません!』

 

「は、はい」

 

関西訛りのある少女の声。

反射的にエントランスのオートロックを解除する。

 

乗用車を遥かに超える速度でやってきた少女は、十中八九まず間違いなくウマ娘だろう。

しかし――"いくらなんでも速過ぎる"

 

注文した店とココまでの距離と、到着した時の時間。

アプリに表示されるタイムラグ等も考えても、その平均時速は――

 

「ちわーっす!ウーマーイーツですー!」

 

そんなことを考えていると、玄関の向こうから声がした。

 

「はーい今行きますー」

 

ぺたぺたと裸足のまま玄関に向かい、扉を開ける。

 

 

「遅なりましてホンマすんませんでした!」

 

そこにいたのは、珍しい「芦毛」。

白銀色の髪を垂らし、頭を下げる小柄な少女――らしきものが立っていた。

 

頭の上にあるふたつの耳。

尾てい骨から延びる尻尾。

 

それらが、年相応の"人間の"少女とは決定的に違うことを如実に表している。

 

 

「ウマ娘」

 

人間と大差ない体躯にも関わらず、人智を超えた超人的な走行能力を有した生き物。

人類の良き隣人として生を受け、今日まで共に歩んできた存在である。

 

動きやすそうなジャージ姿に身を包んだ芦毛の少女は、頭を下げたままじっとして動かない。

その耳は垂れ、手は少し震えていた。

 

お店の人に「大変お怒り」とか吹き込まれたのだろうか。

近年では店員やスタッフに対し、横柄な態度を取る客も少なくないと聞く。

 

それに、随分と若い。まだ"年端も行かぬ"という形容も十分に当てはまる年齢だろう。学園の生徒と大差ない――いや、むしろ同年代なのではなかろうか。

こちらに向けたままじっと動かない旋毛に、どこか重そうな事情を感じ取る。

 

「それはもう大丈夫です。えっと、車とぶつかった娘は……?」

 

「す、少し擦りむいた程度で、大事にはならへんかったようです……

運転手も無事やと」

 

大遅延に対して怒鳴られるとか考えていたのだろうか。少し戸惑いながら答えてくれた。

 

「それはよかった。ご苦労様です。急かしてしまったようですみません」

 

「ホンマすんません……お店のテンチョーも申し訳ない言うてました……

こちら品モンです。お代はカードで既にいただいとりますんで」

 

背負っていた大きなバックパックからビニールの包みを取り出し、手渡される。

違和感を感じる、ずっしりとした手応え。

 

中身を改めると、自分が頼んでいた量よりも明らかに多い。

「握りと天ぷらのセット」だったはずだが、茶わん蒸しやら唐揚げやら、身に覚えのないものまで色々と入っている。

 

 

「あの、こんなに頼んでないんですが……また間違えてません?」

 

「あ、いえ!それはテンチョーからのお詫びだそうです。迷惑かけたからって……」

 

「そうなんですか……」

 

不機嫌そうな電話のせいで、いらん気を遣わせてしまったらしい。

男とはいえ、流石にここまで沢山は食べられない。

 

その時、ふわりと香る油と寿司酢に反応したのか、目の前のウマ娘のお腹がくるると可愛らしく鳴った。

 

「~~っ!」

 

バッとお腹を押さえ、赤面する彼女。

 

「――っ、すんません!

ほな、ウチはコレで……」

 

「あっ、ちょっと!」

 

その場から逃げるようにエレベーターに向かう彼女を慌てて呼び止め、ビニールの中から自分が頼んだものだけを取り出す。

 

その残りを彼女に手渡した。

 

「え……?」

 

「流石にこんなには食べられないので、残りは『特急料金のチップ』ということで、キミに」

 

「え、でも遅れたのは……」

 

「遅くなったのは事故のせいであって、キミのせいでも何でもない。

それにお腹すいてるんでしょ?」

 

戸惑う芦毛のウマ娘。さらに追い打ちをかけるようにお腹が鳴って、少女はさらに顔を紅く染める。

 

「……ほんなら、頂いても?実は今日まだ何も食べてなくて……」

 

「勿論」

 

若干気まずそうなはにかんだ笑みを浮かべて、ビニールを受け取る少女。

 

「ありがとうございます!またお願いします!」

 

こちらを何度も振り返りながらお辞儀を繰り返す少女を手を振って見送った。

 

「"何も食べてない"、か……」

 

悪くもないのに実直に頭を下げ、必死に働く少女の姿は、どこか応援してあげたくなるような気持ちを掻き立てられる。

苦学生だろうか。現行の法律では、未就学のウマ娘に関して労働は禁止されていない。それにしたって若いし、この時間に働いているのはどう考えても何かおかしい。

まぁ、自分には何もしてやれないけどなと自嘲気味な笑みが浮かぶ。

ああして素直でいい子の対応は、こちらとしても気分が良い。是非とも頑張ってほしいものだ。

 

自室に戻り、タッパーの蓋に醤油を垂らしながら、ふと思い出した。

 

「そういや、本当にアプリのバグじゃなかったとして――

 

あの速度で結構な距離を走ってきたはずなのに、

 

息ひとつ乱れてなかったな」

 

 

本当にあの速度で走行していたのであれば――

並のウマ娘とは一線を画す心肺機能を有していることになる。

 

それは紛れもなく、「配達員」ではく「競争ウマ娘」としての素質。

 

もしかしたら、また近いうちに会えるかもな。なんて――

 

脂の乗ったカンパチの握りに舌鼓を打ちながら、そんなことをぼんやりと考えていた。

 

 

 

 

そして――

 

これが後に「白い稲妻」と称えられるウマ娘と、そのトレーナーとなる男の出会いであった。



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ピンと来た

日本ウマ娘トレーニングセンター学園――通称「トレセン学園」。

 

国民的エンターテインメントレース「トゥインクルシリーズ」に出走するウマ娘達を、"学園"の文字通り育成する施設。

 

「ウマ娘に必要な全てが揃っている」とまで言われ、「トゥインクルシリーズ」を運営している機関である「URA」――簡訳すると「ウマ娘レース協会」――によって管理されている。

 

全国各地に似たような施設あれど、「中央」と呼ばれるものはここだけであり、設備や機器、所属トレーナーの質、在籍するウマ娘のレベルに至るまで全てにおいて「地方(ローカル)」とは一線を画している。

 

日本にいる全てのウマ娘にとっての憧れであり目標。

同時に、時代と次代を担う鬼達が犇めき合い、鎬を削る伏魔殿と化している魔境。

 

輝かしい成績を収め、レジェンドとして名を連ねるウマ娘がいるその裏で、箸にも棒にもかからず、ひっそりと夢を終えるウマ娘も星の数ほど存在する。

 

栄光と挫折

名声と虚無

 

それら全てが、ここに凝縮されている。

 

 

そんな場所に、彼の姿はあった。

 

「バテてきてんぞーもっと脚を上げろー!

疲れてるから上手く走れないんじゃない。上手く走らないから疲れるんだー!」

 

トレセン学園 第4芝練習場

 

ターフには些か不釣り合いなスーツを着て、疾駆するウマ娘に檄を飛ばす。

 

手にはタブレットとストップウォッチ。その瞳は真剣に、駆ける少女の姿を捉えている。

 

「残り600M!フォームを乱すな!歩幅を狭めるな!脚の回転を無駄に速めるとそれだけ体力を消耗する!」

 

「はっ、はい!」

 

走行中のウマ娘はその声を聞いて体勢を立て直すと、ゴールを目指して最後の力を振り絞り、目印へと飛び込んだ。

 

「よし!さっきよりもいいタイムだ。今の走り方を忘れるな!レース中は常に自分のフォームを意識しろ」

 

「はい教官!ありがとうございます!」

 

「とりあえずクールダウンで流した後、落ち着き次第坂路ダッシュな。水分補給を忘れるなよ」

 

「はい!」

 

そう指示を出し、ストップウォッチに表示されたタイムをタブレットに入力する。

さっきの娘は彼に師事して半年ほどになるが、目に見えてタイムが良くなってきている。

そろそろデビュー戦に向けて本格的にトレーナーを探してもいい時期かもしれない。「トレーナー候補のリストアップが必要」とタイムの隣に所感と合わせて打ち込んだ。

 

「よーし次!位置につけー!」

 

「はーい教官!」

 

スタート位置で屈伸をするウマ娘に手を振って合図をする。

 

ホイッスルを吹くと同時に、スイッチをかちりと押す。

 

 

「おつかれ大原クン。今日も気合入ってるねぇ」

 

ふと、スーツの背から彼を呼ぶ声がかかる。

振り返ると、同じくスーツに身を包んだ男が笑って手を挙げていた。

 

「お疲れ様です、先輩。いつも通りですよ。

今日も視察ですか?どれもみんな手塩にかけてる娘たちなんで、勝手な引き抜きはやめてくださいね」

 

「またまた、そんなことしないっての!今日はね」

 

「今日は?」

 

いやいや冗談だよと、先輩と呼ばれたトレーナーは苦笑いを浮かべる。

 

「いや、今から第二で新入生の選抜レースがあるんだ。

良かったら一緒に行かないかと思って」

 

「あぁ……もうそんな時期なんですね」

 

「ひょっとしたら、大原クンの眼鏡に適うウマ娘もいるかもしれないよ?」

 

「いえ……将来有望な娘がいたら、先輩達で導いてあげてください。

自分は今まで通り、『教官』としてこの娘たちの指導をします」

 

「まぁまぁそう言わず。今年は豊作だぞー。特にあの――」

 

「え、ちょっと――」

 

やんわりと断りを入れたにもかかわらず、腕を掴んで引っ張っていく先輩。

半ば連行されるように引きずられていく彼は慌てて、トレーニングをするウマ娘達に残りは各自で行うように伝えた。

 

 

大原久(おおはらひさし)――トレセン学園所属 ウマ娘指導員

 

彼は()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

トレセン学園に所属するウマ娘には、ほぼ例外なく「指導者」が付く。

特定のウマ娘に専属――または少人数のウマ娘で組織される「チーム」を率いる、トレーナーライセンスを有した人物。

 

それを、一般的には「トレーナー」と呼称する。

 

彼は「教官」――まだチームにも属さず、担当トレーナーも付いていないウマ娘の指導を、十数人の規模で行っている立ち位置の人間である。

 

その性質上、個々の能力や傾向に合わせたトレーニングを行うというより、筋トレや体力作りなどの基礎的な能力訓練がほとんどだ。

 

 

その中で、実力が付いてきたウマ娘が出てきた場合は、脚質やバ場適性に合わせたより適切な指導を行えるトレーナーを斡旋し、引継ぎを行う。

 

 

選抜レースで声がかからなかったウマ娘達が、チームに入るまでの繋ぎ役――

平たく言えば、教官の仕事はその一言に尽きる。

 

故に、教官が選抜レースを見に行ってもメリットは非常に薄い。

 

 

「でも大原クン、好きで教官やってるわけじゃないんでしょ?

もしかしたら『この娘だッ!』っていうウマ娘が居ないとも限らないじゃん」

 

「そんなことありませんよ。教官も楽しいですし、やりがいも感じてます。

取りこぼしてしまった原石を少しだけ磨いて、先輩方のように優秀なトレーナー達に責任を持ってお渡しするのが自分の仕事です」

 

「大原クンに紹介してもらう娘達、どれも分析がしっかりしてて指導しやすいのなんのって。とっても助かってるよ」

 

いえいえと謙遜する彼。

そんな彼を見る先輩の目が、少しだけ真剣な光を帯びる。

 

「でもさ――それって裏を返せば『まだ自分が直接指導に値するウマ娘に出会えてない』っていう捉え方もできるよね?」

 

「――いえ、そんなつもりは――」

 

あ、怒ってるとかじゃないんだと、先輩は慌てて謝罪する。

 

「教官という立場を悪し様に言うつもりはないんだ。

ただ、大原クンほどの選別眼を持っているトレーナーが教官というのは、同僚としてはどうにも歯痒くてね」

 

「そんな……先輩に高く買っていただけているだけで満足です。

 

それに、そんな選別眼を本当に持っているとするなら尚更、教官としてその腕を揮うべきだと思いませんか?」

 

そんな彼の言葉に、先輩はぐぬぬと考え込んでしまう。

一応筋は通っており、褒めた手前なかなか反論が思いつかない。

 

「ま、まぁ、もし今後ピンと来るウマ娘が現れたら、ぜひ相談してくれ。

俺は教官としての大原クンとではなく、同じ専属のウマ娘を抱えるトレーナー――ライバルとして、いつか君と肩を並べたい」

 

「……ありがとうございます」

 

 

もし今後、そんなウマ娘が――自分が「教官」としてでなく、その娘の全てを支える「トレーナー」として隣に立ちたいと思えるウマ娘が現れたら――

 

教官としてのやりがい。

トレーナーとしての欲。

 

自分の天秤は、果たしてどちらへと傾くのだろうか。

 

 

□ ■ □ ■

 

 

その日の夜

 

本日の業務を終えた彼はひとり、家路についていた。

トレセン学園の大きな校門をくぐり、歩を進めながら先輩に言われたことを頭の中で反芻する。

 

あの後、結局先輩に手を引かれるがまま、第二練習場で選抜レースを見ることになった。

年4回行われる風物詩――言葉を選ばずに言うと年度最初のイベント――ということもあり、会場は大いに盛り上がった。

 

有望株にいち早く唾をつけようと意気込むトレーナー、将来のライバルを見定めに来た在校ウマ娘達。

その熱く鋭い視線が一斉にターフへと注がれていた。

 

何組かに分けられた新入生達が走る度に、湧き上がるどよめきと歓声。

 

「おい!見てみろよ!あの4番のパワフルな走り!えっと、名前は――」

 

確かに、今年の新人は粒揃いだった。既に有力チームから声をかけられているウマ娘が何人もいた。

例年に比べて多いのは間違いないだろう。

こうしちゃいられんと、隣の先輩トレーナーも観客席からターフへと一目散に走っていった。

 

 

しかし、誰もが興奮を隠しきれない中、彼はどこか冷めた目で会場を眺めていた。

 

「『ピンと来るウマ娘』かぁ……」

 

確かに、今年は全体的にレベルが高いように感じた。まだ本格的なトレーニングを始める前にも関わらず、フォームも綺麗で力強く脚を回す娘達が多い。これは来年再来年のクラシック戦線も大いに盛り上がるだろう。

 

だが、()()()()だった。何か違うのだ。

これまで選抜レースは幾度となく見てきた。教官として配属され、2年も経った頃には理事長から直々に「トレーナーとして担当の面倒を見ても問題ない」と言われていた。

にもかかわらずここまで心が動かないのは、ただ単純に「強い」「速い」というものを自分が欲していないからだ。ということは何となくわかる。

 

おそらく、今回は「来なかった」のだと思う。

否――よくよく考えてみれば、これまでのトレーナー人生、今まで一度たりともそんな感覚にはなったことがないのかもしれない。

 

 

最寄りの駅へと向かいながら、昔読んだ雑誌の見出しを思いだした。

 

『重賞を勝つウマ娘――特にGIレースを複数制覇するような実力を持ったウマ娘のトレーナーには、ある共通する特徴がある。

 

「その走りを一目見たときから、この娘となら勝てると思った」という直感である』

 

一見オカルトのような荒唐無稽な話だが、三冠や七冠クラスの成績を収めたウマ娘達のトレーナーは、ニュアンスは違えどほぼ同義なコメントを残している。

 

 

自分にもそんな運命的な出会いが――言葉にすると気恥ずかしいが――走りに魅入らされるようなウマ娘と……

 

 

「……あれ?」

 

いつもの乗車率100%を優に超えている電車の中。おしくらまんじゅうを勝ち抜きどうにか窓際に自身の居場所を確保し、一息ついた彼の視界の端。

 

不夜を体現するかのような、煌々と輝く建物の灯り。

その中に、鈍く光る()()

その瞬間――頭をノイズが走ったかのように感じた、強烈な既視感。

 

(あれは……?)

 

妙な胸騒ぎを覚えながら、顔を扉の窓へとぐっと近付けて目を凝らす。

 

「――あ」

 

思わず声が出た。周りの乗客が、何事かとこちらに目を向ける。

 

内側に保温加工がされた、「Umar Eats」のロゴが書かれた大きなバックパック。

それを背負う、小柄な少女。

頭頂には、一対の耳。

腰から伸びる、長い尻尾。

 

その毛色は――芦毛。

 

 

瞬きすれば見失いそうな距離と小ささ。でも間違いない。

先日のオフの日に昼飯を届けてくれた関西訛りのウマ娘が、夜の府中を電車と並走するように疾駆していた。

 

朝から晩まで本当に身を粉にして働いているようだ。午後の姿を直接見たわけでもないのに、彼はそれを信じて疑わなかった。

 

(頑張れ――)

 

心の中でそう応援しつつ、段々小さくなる姿を見送り――

 

 

小さくなる姿を――

 

 

小さく、()()()()

 

 

「――え?」

 

思わず声が出た。周りの乗客が、何事かとこちらに目を向ける。

 

電車の速度は各駅停車や快速等で異なるが、今乗っている京王線は平均すると時速37km程度だと言われている。

 

その速度を維持したまま走る電車は、既に2キロは走っているだろう。

にもかかわらず、豆粒のような彼女の影は男の乗っている車両を今にも追い抜いて行きそうだ。

 

(本当に、アプリのバグじゃ、なかったのか……?)

 

この速度でこの距離を息も入れず走り続けることは、レースに出るために本格的なトレーニングを積んだ学園のウマ娘でも数か月はかかる。

 

あの、迅速に家まで現われた驚異的なアベレージ。

あれがもし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――

 

 

「――っ!」

 

次の瞬間、身体は勝手に動いていた。

 

『ご乗車ありがとうございました――』

 

自宅の最寄りよりも遥かに手前の駅。ゆっくりと開く扉がもどかしい。

弾かれるように飛び出し、駆ける。

 

「お客さん!走って降車は危ないですよ!」

 

「すみません!」

 

駅員の怒声を背中に聞きながら改札を通り、駅構外へと転がり出る。

 

近くにいたタクシーを捕まえて、叫んだ。

 

「はいこんばんは。お客さん、どちらまで――」

 

「今すぐあっちにいってください!」

 

「どっち!?」

 

戸惑う運転手を意に介さず、生まれて初めて感じる感情の昂ぶりに震えていた。

 

早く。早く。

早く追いかけなければ見失ってしまう。

 

先輩、ありがとうございます。

あの娘の走りをみてわかりました。

 

これが、「ピンと来る」ってことなんですね。

 

タイヤがキュキュッと音を立てて方向転換。強めに踏んだアクセルの音が、彼の耳朶を強く打った。

 

夜の街を、彼を乗せた黄色い車が進んでいく。

 

次第に遠くなる、白い残像を追って。

 



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「走ること」とは――

とてもたくさんのお気に入り登録、本当にありがとうございます。
評価もたくさんいただき、2話目にして赤帯がつきました。

とても励みになります。
連休に入り、時間も確保できると思うので頑張って書きます。
よろしくお願いします。

※タイトルとあらすじ、タグを少し変更いたしました


ウマ娘にとって、「走ること」とは何だろうか?

その答えを表すには、非常に簡潔な言葉で十分だ。

 

――至福。

 

 

それは性格や個性といった「個々の違い」を超えた"種"としての在り方。

本能――それ即ち魂の(かたち)

 

卵から孵った雛が、最初に見たものを親だと思うように

海で大きくなった鮭が、生まれた川に戻るように

 

遺伝子にそう刻み込まれているのだ。

理由は説明できない。「そうである」としか言いようがない。

とある学者の研究によって「()()()()()()()()()()に自分達と同じ名前を持つ存在が居て、次元を超えて繋がっていることが影響している」なんて仮説も提唱されている。

ウチは勿論、信じてないが。

 

「走る」という機能に特化し、誰よりも速さを求め、自らをより高みへと昇華させる。

ウチら――ウマ娘とはそういう生き物だ。

 

中には「走ることが得意ではない」と考えているウマ娘や、身体的な理由で「走ることができない」ウマ娘も存在する。

 

しかしその中に、「走ることが嫌いだ」と思っているウマ娘は一人として居ないと断言できる。

本人の運動能力や身体的特徴と、種族としての嗜好は全く別の話なのだ。

 

つまり――ウマ娘(ウチら)は皆総じて「走ること」が大好きだ。

 

思い切りターフを駆け抜けたい。

誰よりも早く、ゴールに辿り着きたい。

レースに出て、自分の強さを証明したい。

 

 

しかし――神様は残酷だ。

世界は、ウチら全員に等しく「素質」は与えても、「機会」は与えてくれなかった。

 

未来の「トゥインクルシリーズ」の走者を育成する「トレセン学園」には、全国から選りすぐられた優秀なウマ娘しか入ることができない。

レースを行うのに最も適した年齢――ジュニア期からシニア期の総人口数に対し、"中央"で出走できる割合はほんの一握りだけ。

 

レースに出られる出られないの話ではない。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()ウマ娘も大勢居る。

 

こうして身体の半分近くもある大きなバックパックを背負い、日夜食べ物を配達しているウチもまた、"機会"をもらえなかったウマ娘のひとりだ。

 

 

ウチが物心ついた時から、我が家は貧しかった。

流石にその日の食い扶持にまで窮することはなかったが、常にギリギリの切り詰めた生活を送っていた。

 

身体の弱い母。たくさんの弟妹(きょうだい)

みんなを助け、養っていくためには、自分の進学は諦めなければならなかった。

 

府中(ちゅうおう)は当然として、地方(ローカル)の「トレセン学園」に入学するのにも、決して安くない費用がかかる。

病弱で業種を選ばなければならなかった母や、まだまだ甘えたがりのチビ達の面倒を見ながら家計を支え、さらに学業やトレーニングまで両立させることは到底無理な話だった。

 

(おかあちゃん)は「子供がそんなことを心配しなくても良い」と、どうにかしてでもウチをどこかの学園に通わせてくれようとした。

仕事を増やし、"丈夫"とはほど遠い身体に鞭を入れ、夜遅くまで身を粉にして働いてくれた。

 

弟妹(チビ)たちも「タマねぇの負担になりたくない!」と、家事や手伝いを積極的にしてくれるようになった。わがままを言って泣くこともぐっと少なくなった。

ウチも、地元の人達の仕事を手伝ってわずかばかりのバイト代を稼ぎながら、空いている時間で必死に勉強とトレーニングに打ち込んだ。

 

 

そうして家族団結し、ようやく地方のトレセン学園に入学できるだけの支度金が貯まった矢先――

 

 

母が入院した。

 

 

過労による衰弱、元々抱えていた持病の悪化。

許容量(キャパシティ)を遥かに超えた労働は、鉋の刃で削るように少しずつ、母の健康を蝕んでいた。

一時は集中治療室(ICU)に入るほど衰弱しており、隠れて相当無理をしていたようだと、後から医者に言われて知った。

 

「ごめんな……ホンマにごめんな、タマ……」

 

ベッドの上で泣き崩れる母の手を握りながら、ウチはただ茫然としていた。

真っ白な病床から漂う消毒液の匂いが、母の腕に繋がれた点滴液が落ちる音が、ただ無性に(むな)しかった。

 

こんな状況で入学なんてできるはずもなく――

貯めた金額のほとんどを入院費に充て、残されたわずかばかりのお金を元手に、ウチは本格的に働き口を探さなければならなくなった。

 

ウマ娘としての素養が遺憾なく発揮できる場所で、ワリの良い仕事を探した。

そこで見つけたのが、都内で流行っているフードデリバリーサービス――「Umar Eats」の配達員の求人だった。

 

文字通り、()()()()()()()()()

「やればやるだけ収入が増える」という誘い文句に惹かれ、応募した。

 

 

母やチビ達の反対を押し切って単身で上京して、もうすぐ半年ほどが経つ。

 

 

端末に表示される注文情報を頼りに、店舗に行き商品を受け取り、地図を元に自宅や施設へと送り届ける――概要を説明するだけなら簡単な仕事だ。

"総件数を配達員の頭数で分担する"のではなく、()()()()()()()()()

一緒に働いている配達員は、同僚というよりライバルと呼んだ方がしっくり来る。

 

誰よりも走り、誰よりも多くの件数をこなし、誰よりも沢山稼ぐ。

我ながら頑張っているおかげで、それなりに良い収入をもらえていると自負できる。

先月は「エリア別月間最優秀配達員」だっけか?長い名前の賞を取ったらしく、偉い人に表彰された。

 

もらった給料は、自分が最低限使う分以外は全て母とチビ達に送っている。

母とチビ達の喜ぶ顔が、今のウチのモチベーションだ。

 

当然、辛いことも沢山ある。

理不尽なことで怒られることや、危うく人や車にぶつかりそうになることもある。

 

でも中には優しい人もいて、ウチのような年齢のウマ娘が働いていることで何かを察して色々と便宜を図ってくれたり、労いの言葉をかけてくれる人もいる。

 

先日事故で大遅延を起こして代わりに謝りに行ったところの(あん)ちゃんは、こんなに食べられないからと頼んだものを少し分けてくれた。

 

 

走ることは楽しい。

人や車の間を縫って思い切り駆けている時は、自分の境遇や辛いことを忘れられる。

 

 

元からトレセン学園に入学を志望していたこともあり、自分の脚には自信があった。

井の中のなんとやら――と言われてしまったらそれまでだが、地元にいるウマ娘達に負けたことは一度たりともなかったからだ。

 

 

『タマはホンマに速いなぁ!間違いなく将来はトゥインクルシリーズを走るスターウマ娘になるで!』

 

『あたりまえや!じーわんレースに出て、いっちゃくになって、しょうきんたくさんもらうんや!

そんでそのお金で、おかあちゃんにらくさしたるさかい、たのしみにしといてや!』

 

小さい頃、無邪気にそんな話を母としていた景色がフラッシュバックする。

思えば、"レースに出たい"と思うようになったきっかけも、"母が喜んでくれるから"という至極単純なものだった。

 

全てのウマ娘がターフを走れるわけではない。

頭ではわかっていた。

 

それでも――

ウチがバックパックを背負って走っている時に、時折すれ違う()()姿()()()()()――

彼女達が視界に飛び込んでくる度に、胸が小さく締め付けられる。

 

あの娘達は持っていて

自分は失った

 

 

そう――これは仕方のないこと。

自分に言い聞かせて、ウチ(わたし)は今日も府中を走る。

 

 

涙を流す(こころ)に、気付かないフリをして――

 

 

 

■ □ ■ □

 

 

 

夜のピークタイムを終えて事務所に戻り、バックパックを置いてロッカーを閉める。

今日の成果はまずまずと言ったところか。

 

明日に備えて早めに帰ろう。

でもその前にスーパーに寄って、おつとめ品も覗いておきたい。

もうすぐチビたちのひとりが誕生日なのだ。何か贈るためにも、食費もできる限り切り詰めておきたい。

 

「おつかれさま!いやー今日もありがとうね!

このまま行けば、今月もタマちゃんがエリアトップ間違いなしだよ!」

 

家計のやりくりについてあれこれ考えていると、デスクでパソコンとにらめっこしていた事務方のおっちゃんが上機嫌で話しかけてきた。

 

「流石配達部隊のエース!これからもよろしく頼むよ!」

 

おう!任せたってや!とそれっぽく返事をして、事務所を後にしようとすると――

 

 

「チッ、またあの小娘か。ちょっと速いからって調子乗って」

 

「人の縄張りまで平気で入り込んで、何様のつもり?」

 

「ちょっとは遠慮する気遣いもないのかしら。これだから田舎者の灰色ウサギは――」

 

部屋の隅で、別の配達員達がウチへの恨みつらみをこそこそと話している。

 

人間のおっちゃんには聞こえないくらいの音量だが、ウマ娘のウチには問題なく聞き取れる。

それもわかってて、わざと聞こえるように言っているんだから余計にタチが悪い。

 

気に入らないのだ。年下のウマ娘が自分よりも稼いでいることが。

最初は少し傷ついたりもしたが、もう慣れたものだ。

 

――頑張ったモンがぎょうさん稼いで何が悪い!自分らもウチよか速く走ればええだけやろ!

 

相手に詰め寄ってそう怒鳴りつけてやりたくなる気持ちをグッと抑えて、乱暴に事務所の扉を閉めた。

 

 

「はぁ――」

 

ドアにもたれかかりながら、小さくため息が漏れた。

思い出すのは、制服姿で蜂蜜ドリンクを片手に笑いながら道を歩くウマ娘達の姿。

 

こうして必死に働いているのにイヤミを言われている裏で、同年代の娘達は遊び、学び、走り、

トレーナーや友人と一緒に学生生活を謳歌しているのだろう。

 

嫉妬や羨望、様々な感情がグチャグチャになって、思わず目尻に涙が浮かぶ。

 

「……帰ろう」

 

深く考えるのはやめよう。これ以上くよくよしていたら腐ってしまいそうだ。

服の袖でそれを乱暴に拭い、家の方角へと足を向ける。

 

 

「――あの!」

 

 

突然、後ろから声をかけられた。

振り返ると、そこにはひとりの男性が立っている。

 

「あ、こないだの……」

 

パリっとしたスーツを身に着け、髪も髭も綺麗に整えられているが、

先日配達に行き、お昼を分けてくれたあのあんちゃんだった。

 

「突然声をかけてすまない。

さっき帰り道の駅の近くでたまたま姿を見かけて、キミの仕事っぷりをずっと観察させてもらっていた。

 

――あ、ストーカーとかじゃない!そんなに構えないでくれ!そのスマホはしまってくれ!」

 

「何の用や……ですか?」

 

話が見えない。ずっと()けて来たのか?何のために?

110番を押しかけたスマホをポケットにしまい、相手の言い分を待つ。

 

慌てた様子で目の前の男はジャケットの裏ポケットから名刺入れを取り出し、中身を差し出した。

 

『日本ウマ娘トレーニングセンター学園 学園所属トレーナー 教官 大原 久』

 

 

「単刀直入に言おう――

 

キミを、スカウトしに来たんだ」

 

 

通り過ぎた車のハイビームが男の姿を照らし、襟元がキラリと光る。

 

そこには、"URA"のロゴを象ったピンバッジが留められていた。




ウマ娘って結構な人数いると思うのですが、
学園に入れる人数は限られているわけじゃないですか?

トレセン学園に入れないウマ娘達や、小学校までの過ごし方など、まだまだ分からないことが沢山あります。

公式さん、設定の供給待ってます……


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ウチの名前は

日間ランキングに載ることができました。

これも、お気に入りや評価、感想で応援してくださっている皆さんのおかげです。
本当にありがとうございます。

これからも面白いと思っていいただけるよう頑張って書いていきますので、今後もお付き合いいただけますと幸いです。




トレセン学園――某所。

 

いつにもない強張った表情で、彼は扉の前で深呼吸をしていた。

 

こんなに緊張するのはいつぶりだろうか。

全力疾走の直後かと錯覚するほどに心臓は早鐘を打ち、固く握られた拳の内側は汗でじっとりと湿っている。

 

これからする話は、今後の自分の運命を間違い無く大きく変える。

人によっては"無謀だ"と諫めてくる者もいるだろう。

 

僅かばかりの逡巡――目を瞑り、ひとつ長い息を吐く。

(ハラ)は決まった。扉をノックし、中にいる人物に向けて声をかける。

 

「秋川理事長、大原です。

少々お時間よろしいでしょうか」

 

 

『無論ッ!入りたまえ』

 

「失礼します」

 

大きな音が出ないよう静かに扉を閉め、部屋の中央に佇む()()に向き直る。

 

「わざわざお時間をいただきありがとうございます。

たづなさん、この間は急に連絡してしまって申し訳ありません」

 

「いえいえ。夜に突然電話がかかってきたのは驚きましたが、他でもない大原さんの頼みですから」

 

「些事ッ!キミがわざわざたづなを介してアポまで取って来たのだ。

余程の積もる話と見受けたっ」

 

「一大事」と書かれた空色の扇子を広げて、まぁ座りたまえ!と彼に着席を促す。

 

トレセン学園理事長――秋川やよい。

鍔広帽子に猫を乗せた、謎の居住まいをした()()

 

世辞やおべっかでそう言っているのではない。事実そうとしか思えないほど、彼女の顔立ちはあどけない。

実際のところ相当若いらしい――と、前に先輩が噂していた。

こんな成りでも(れっき)とした彼の上司であり、「理事長」の肩書の通り、学園の舵を取っているのが彼女である。

 

学園の運営――それはつまり"URA"の関係者であるということは自明であり、"中央"において多大な影響力を持っていることは想像に難くない。

「トゥインクル・シリーズ」の更なる発展のため、日夜国内を飛び回っており、彼のようなトレーナー(しょくいん)でも学園施設内で見かける機会は滅多にない。

年齢と共に非常に謎の多い人物でもある。

 

「それで――今回はどのようなご用向きで?」

 

そう彼に問いかけたのは理事長ではなく、その隣にいる女性。

緑を基調にした事務服に身を包み、翡翠色の瞳を優しげに細めているのが、"理事長秘書"である「駿川(はやかわ)たづな」

 

忙しい理事長に代わって基本的に学園に常駐し、彼女の名代として様々な業務に携わっている。

基本的に理事長に対する訴願は、まず秘書であるたづなに話を通すのが通例だ。

 

ふかふかのソファに座って二人を前にした彼は、躊躇いながらも本題を切り出す。

 

 

「今日お時間をいただいたのは――

 

 

とある一人のウマ娘を、私の『特編』枠でトレセン学園に入れていただくお願いをするためです」

 

 

「まぁ――」

 

「なんとっ!?」

 

理事長と秘書の瞳が驚きで見開かれる。

 

 

「驚愕ッ!確かに制度として存在してはいるが、まさか本当に行使するトレーナーが出てくるとはっ」

 

「本気……なのですか?」

 

彼は真剣な表情のまま頷いて、小脇に抱えていた資料を机に広げた。

身辺調査の結果や過去に行った能力測定の結果等、データが細かく印字された数枚の紙。

理事長がその内の一枚を恐る恐る手に取る。

 

左上には、憮然とした表情の()()()()()()が写っていた。

 

「あの走りを一目見た時、"稲妻"に打たれたかのような衝撃を受けました。

 

 

彼女が『良い』と言ってくれるのであれば、私は全てを捧げる覚悟です」

 

理事長の隣で、たづなが息を呑む。

 

 

「質問。……大原よ。キミは中央(ここ)に来てどれくらいだ?」

 

手元の資料と彼の顔とを交互に見ながら、理事長が尋ねる。

 

「今年で4年目になります」

 

「キミには今までずっと、教官として指導にあたってもらっていたな。

その間、『トレーナーへの転属はいつでも許可する』と伝えていたはずだ。

 

どうして今なのだ?」

 

「彼女の走りに"ピンと来た"からです」

 

「ほう――では今まで頑なに担当ウマ娘を取らなかったのは、それこそ"ピンと来なかったから"ということか?」

 

「今となっては、そういうことになります」

 

「なるほど――」

 

パチンと扇子をたたみ、資料を机に戻す。

彼の顔をしばらくじっと見つめ、おもむろに椅子から立ち上がった。

 

「憂慮ッ!話は分かった。また明日、同じ時間にここに来るように!

 

今日一日ゆっくり考えた上で、キミの決心が変わらないのであれば認めようではないかッ!」

 

「理事長!?本気ですか!?」

 

慌てた表情で、たづなが口を挟んだ。

 

「私は反対です!大体"あんな"制度、URAの制定時からある古い条文が形骸化したものじゃないですか!

誰も鵜呑みになんてしていませんし、過去に一度だって使われた記録はありません!」

 

彼女の普段の穏やかで丁寧な所作から一変、およそ聞いたこともない強い言葉を使って否定する。

 

「大原さんも少し落ち着いてください!何も『特編』なんて――

あなたの将来が決まってしまうんですよ!?()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――」

 

「――たづな」

 

必死な秘書の言葉を、扇子を突き付けて遮った。

 

「忠告ッ!これはもともと、ウチで働くトレーナーに与えられた福利厚生のひとつ。

賛成も反対も何も、我々に許可を仰ぐ必要すらないのだっ!

 

 

――大原よ。キミは非常に優秀だ。

教官としての、"ウマ娘の素質を見極める選別眼"を私は大変評価している。

 

そんなキミが見込んだウマ娘だ。遅かれ早かれ、()()()()()()()()()()()()()()()()()

その時ではダメなのか?」

 

「はい」

 

「即答ッ!?

それほどまで決意は固いのかっ!?」

 

「大原さん……」

 

困惑する二人。しかし、彼の気持ちは揺るがなかった。

 

「彼女の脚は今が全盛期。ここを逃す手はないんです」

 

「ほう……それだけか?」

 

「――はい。このタイミングでないと駄目なんです。

これは完全に私のエゴです」

 

理事長の吸い込まれそうな濃青色(コバルトブルー)の瞳が、本心を探るようにじっと彼の目を捉えている。

暫く見つめ合った後――ふっと視線を切って微笑んだ。

 

「嗟嘆っ!キミの言い分は良く分かった。

"理事長"として、その決断には敬意を表する。

 

だが、たづなの言う通り――"私個人"の意見としても、喜んで首を縦に振れるものではない。

じっくり考えた上で、明日答えを聞かせて欲しい」

 

わかりましたと頷くと、「陳謝ッ!長く引き留めてしまってすまなかったっ!」と謝られた。

 

机の上の資料を纏め、ではまた明日と挨拶をし、理事長室を後にした。

 

ふぅ、と息をひとつ吐き、扉にもたれかかる。

 

「――これでいい」

 

誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。

後はあの娘の気持ちひとつ。

 

()()()()()()()()()()、彼女を最強のウマ娘に育て上げる。

そのためには、自分も背負わなければならない。

 

伝えてしまった後の方が、気持ちがずっと楽になった。

手汗はとうの昔に引き、心拍もいつも通りのリズムを刻んでいる。

 

「これで、いいんだ」

 

理事長室の扉が閉まる直前にちらりと見えた、たづなの悲しそうな顔が嫌に目に焼き付いた。

 

 

 

□ ■ □ ■

 

 

 

1週間前の夜――

 

 

「キミを、スカウトしに来たんだ」

 

名刺を差し出しながら彼は、訝しむ彼女に向けて言った。

 

「――は?

なん……なんて?」

 

顔を合わせてまだ2回目の男から、トレセン学園への勧誘を受ける。

埒外の発言に、ウマ娘の思考は完全に止ま(バグ)る。

 

状況をよく呑み込めてない彼女に対して、

あ、このバッジも偽物じゃないよと断った上で――

 

「――キミの仕事(はしり)をずっと見ていた。

 

止まっている状態からの加速力

ある程度の速度を長時間維持し続けるスタミナ

人や車との接触を回避するバランス感覚や体幹の強さ

 

どれも光るものがある、素晴らしい素質だ。

 

そして何よりも目を引くのが――

 

長距離を走行した後なのに、息が全く乱れない()()()()()()()

 

「え?あ、あの……」

 

素性も良く分からない男に、急に自分の走りについて解説されて益々訳がわからなくなる芦毛の少女。

若干引いている彼女の温度感を知ってか知らずか、彼は更に早口でまくし立てる。

 

「キミの走りは本当に素晴らしい。

 

あんな時間に働いているということは、恐らくトレセンには通ってないのだろう?

ぜひ、その才能をウチで――俺に磨かせて欲しい!」

 

大胆な勧誘はトレーナーの特権だと、昔誰かが言っていた――気がする。

 

名刺を構えてじっと動かない男。

あまりに突然の出来事にフリーズするウマ娘。

 

それらが面と向かっている光景を、奇異の目で見つめる通行人。

目を丸くする少女の前で、彼は微動だにせず返答を待った。

 

 

「――ぷっ」

 

沈黙に耐え切れず、彼女は思わず吹き出した。

 

「あはははは!なんやねんこの空気!

あんちゃんがトレーナー?ウチがレースに?もうワケわからん!

 

夢なんか?どうせ夢やろ!絶対そうや!ちょっとほっぺた引っ張ってみ?」

 

みょーん

 

「あいたたたた!なにさらすねん!」

 

理不尽。

 

少女は少し赤くなった頬を撫で、犬歯を覗かせて笑う。

 

「なるほどな。たまたま再会したウチの走りに見惚れて、わざわざタクシー捕まえてまで追いかけてきたっちゅーことか。

ウチのことをスカウトするなんて、あんちゃん見る目あるなぁ!」

 

「そうだ。駅で見かけてから2時間くらいか?ずっと後ろを追走してた。

おかげでメーターが見たことない金額になってたぞ」

 

「いやそれウチ関係あらへんよ」

 

五桁の領収書をぴらぴらさせながら、肩をすくめる彼に冷静に突っ込む芦毛のウマ娘。

 

「わざわざご苦労なこっちゃな。

んで――さっきの話、本気(マジ)なんやな?」

 

「勿論。マジもマジ。大マジだ」

 

ホンマかー?とでも言いたげな表情で、その子はもらった名刺をしげしげと眺めている。

 

「『都会には言葉巧みにウマ娘を騙して、悪事に手を染めさせる悪い人がいる』って聞いたことあるで」

 

「……URAに電話して俺の名前でトレーナー照会してもらっても構わんぞ」

 

まだ半信半疑といった感じだ。

暫く名刺と彼の顔を交互にジト目で睨み、まぁええかと渡されたそれをポケットに仕舞った。

 

「……まぁ、何にせよ道端でする話やないなぁ。場所変えよか」

 

「……そうだな」

 

「あ、先にスーパー寄ってええか?

ウチ今月節約せなあかんねん。一緒にタイムセール品探したってや」

 

「それは、別に構わんが――」

 

「なら決まりや!全部無くなってまう前に行くで!」

 

半額弁当の争奪戦やー!と息巻く彼女を呼び止め、右手を差し出す。

 

「改めて、俺はトレーナーの大原だ。

キミの名前は?」

 

「ウチか?ウチの名前は――

 

――タマモクロス。

 

よろしくな、あんちゃん」

 

傍から見れば、大人と子供のような体格差。

握り返してきた小さな手は、自分よりもずっと力強かった。




評価、感想お待ちしています。


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運命共同体

コンテンツと関係者へのリスペクトを忘れずに、タマモクロスの魅力を引き出せるようこれからも頑張ります。

余談ですが、理事長のセリフの熟語を考えるのが一番難しいです……(泣


突然だが――

 

トレセン学園に務めるトレーナーは、総じて"中央"の名に恥じぬ優秀な人材ばかりである。

 

就労に必要な最低限の学歴は当然として、医学やスポーツ科学、マネジメントに関する知識等、ウマ娘(アスリート)を育成・管理するために修めなければならない知識は膨大だ。

 

その上で、司法試験に匹敵する狭き門――トレーナーライセンス選考をくぐり抜け、ようやくターフの傍らに立つことを許される。

 

彼らの襟元で輝く「トレーナーバッジ」には、国民的エンターテインメントを陰で支える者としての重責と栄誉、誇りが乗っているのだ。

 

当然、求められる成果が大きいのに対し、支払われる対価――報酬も相応に大きくなる。

ほぼ余談だが、先代理事長の方針で中央のトレーナーの給与体系は、一般的なプロのスポーツ選手同様に"年俸制"が取られている。

地方(ローカル)はその限りではないが、国内の給与水準から見てもかなりの高収入――俗に言う"高給取り"だ。

 

トレーナー個人に与えられた裁量も破格で、サブトレーナー――上長を仰ぐような立場でない限り、担当ウマ娘の育成方針は原則全て自由に決めることができる。

更に国内最高水準の施設の利用権限に加え、今日に至るまでに蓄積され続けてきた、過去行われた全レースの詳細なデータ閲覧権限。

 

そして何よりも、担当するウマ娘が基本的に()()()()

 

レースで活躍を目指すウマ娘にとって最高の環境であると同時に、

トレーナーにとってもその手腕を(ふる)うのにこれ以上適した場所は、少なくとも国内には存在しない。

 

故に、皆必死で担当を勝たせようと努力する。

 

重賞勝利バのトレーナーという肩書きを手に入れるため。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

大きな(けんり)には、大きな責任が伴う。

その言葉が事実として肩にのしかかるのは、何も映画の世界だけではない。

 

この「トレセン学園」という"至上の職場"を手放さないようにするために、誰もが死ぬ気で結果を出そうと足掻いてる。

 

 

――それらを踏まえた上で、()()()()()()について触れる。

 

 

通称『特編』――正式名称を「ウマ娘特別指名編入学制度」と言う。

 

適用条件は「URAが発行する『中央トレーナーライセンス』を取得しており、

且つ現在もトレセン学園に所属している」こと。

 

内容はシンプル――

 

 

中央のトレーナーとしてのキャリアの中で()()()()()()()

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という権利。

 

この制度によって入学した場合、そのウマ娘はジュニア(クラス)からシニア(クラス)までの学費が()()()()されると同時に、返済不要の奨学金が毎月一定金額支給される。

指名したトレーナーは専属となり、今後はそのウマ娘()()を担当する。

 

 

そして――そのウマ娘が一定期間内で結果を残せなかった場合、()()()()()()()()()()()()()。過去の戦績も全て抹消される――

 

 

『トレーナーたる者、健やかなる時も病める時も、何時如何なる時もウマ娘と苦楽を共にせよ』というURA制定時にあった格言と、「全てのウマ娘にチャンスを」という先代理事長の意向。

 

それらを関係者が歪な形で受け止め、就業規則の余った場所に書き添えた、究極の鬼札(ジョーカー)

 

 

その存在は、中央に居るトレーナーの誰もが知るところ。

だが駿川たづなが言った通り、()()を使ったトレーナーの記録は、URAの長い歴史を紐解いても今だ嘗てひとりとして存在しない。

 

なぜ、トレーナーが"チーム"という単位で複数のウマ娘を担当するのか。

答えは単純――

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だからだ。

 

トレセン学園の生徒は全校で2000人を超える。

その中で、レースの勝利を頂くことができるのはほんの一握り。

 

いくら強いウマ娘でも、勝負は時の運。伏兵に足元を掬われた例など掃いて捨てるほど存在する。

統計学的にも、何人かを育てて、その中から芽が出ればいいというのが定石だ。

 

勝者と敗者のバランスは、太陽とその日陰ではない。

劇場とスポットライト――ごく一部のウマ娘にしか、光は当たらないのだ。

 

 

試行回数を増やす昨今のトレーナーの在り方とは完全に逆行する――運命共同体としての悪魔の契約。

 

 

もはや一種の都市伝説――トレーナー同士の酒の席で冗談として出てくるような代物だ。

 

 

「やはり何度読み返しても承服できかねます!私、今からでも大原さんに考え直してもらいに――」

 

「制止ッ!たづな、お前はあの男の目を見なかったのか?

思いつきやその場のノリであんなことを言う男だと思うのか?」

 

「……いえ、そんなことは――申し訳ありません」

 

 

彼が理事長室から出て行った後。

たづなと秋川理事長は、お互い異なる意味を持った厳しい顔で話していた。

 

「ですがこれは、トレーナーの都合で誘致する場合のお話ですよね?

理事長の名前で出す学園からの正式なオファーであれば、トレーナー個人がここまでの責任を負う必要なんてありませんのに……」

 

「うむ、その通りだ。

大原ほどのトレーナーが見初めたウマ娘だ。"ルドルフ"や"マルゼンスキー"が粉をかけるのも時間の問題だったろう。

だが――学園も無限に受け入れられる訳ではないのだ」

 

就業規則の該当箇所を指でなぞり、それでも納得できないといった様子のたづな。それを横目に理事長は深い溜息をついた。

 

「……悔恨。これも私の力不足だ。

『全てのウマ娘に等しく、輝ける機会を与えたい』などとのたまっておいてこの様だ。すまない……」

 

全国に居るまだ見ぬ"原石"を探すことも、トレセン学園の重要な仕事のひとつ。

人物のリストアップや現地での勧誘に関しては、生徒会長である"シンボリルドルフ"に一任している。

 

しかし、彼女達を受け入れる枠にも()()()()()

 

URAとてひとつの組織。いくら秋川やよいが"理事長"と言えど、理事会での決議無しに予算は動かせない。

人数や時期に関しては厳密に決められているのだ。

 

彼女は学園のトップに立つ人物。だがその理想を実現するには、余りにも若過ぎる。

たかだか一職員のためにルールを曲げたり、私財を投じたりすることはできない。

彼を応援したい気持ちとどうすることもできない歯痒さに、扇子を握る手にギリっと力が籠る。

 

「推測ッ!ウチからの勧誘を待てない程、何か逼迫した事情があるのだろう。

本人は彼女の脚を理由にしていたが、どうにもそれだけではないように見える」

 

「えぇ、何か急がなければならない理由があるのでしょうか……?」

 

「我々もそれを見極めなければならないようだな。たづな、頼めるか?」

 

「はい、お任せください!」

 

 

足早に理事長室を出ていくたづなの背を見ながら、自分には大きすぎる椅子に深く座り直し、理事長は再び大きなため息をついた。

 

『生きとし生ける全てのウマ娘達が、レースで輝ける機会を与える』

 

その宿願が叶うのは、まだまだ先の話になりそうだ。

 

 

 

■ □ ■ □

 

 

 

「――今、何て……?」

 

予想外の返答に、彼は箸を取り落とした。

 

「なんや聞いとらんかったんか?

色々考えたんやけど、答えは『ノー』や。気持ちは有難いけどな」

 

街灯で仄かに照らされた、誰もいない小さな夜の公園。

彼と芦毛の少女――タマモクロスは並んでベンチに座り、スーパーで手に入れた半額弁当(戦利品)をつついていた。

 

「どう……なんで……」

 

多めにもらっといて正解やったなーと、隣で茫然とする男に予備の割り箸を渡しながら、彼女は困ったように笑う。

 

快諾されるとは思っていなかったが、勧誘に対する答えはまさかの「否」。

今度は彼の方がフリーズする番だった。

 

「身内の恥を晒すようで癪やけど――ウチんち貧乏やねん。

父ちゃんはおらんし、母ちゃんは身体悪くして入院しとるし、弟妹(チビ)たちだっておる。

 

ウチが働かんと、みんな露頭に迷ってまう」

 

弁当をつつく手を止めてぽつりぽつりと、タマモクロスは自らの身の上を語りだした。

 

自分のために、母や家族が頑張ってくれたこと。

そのせいで、母が倒れてしまったこと。

予後もあまり良いとは言い難いこと。

 

彼は何も言わず、彼女の独白を静かに聞いていた。

 

「もっと稼いで、今よりも良い病院に入れてあげたいねん。

チビたちにも楽させてやりたいし――」

 

「だから、トレセンには行けないと……?」

 

「せや。わざわざ付いて来てもろた手前申し訳ないんやけど……」

 

頭上で二つの耳が力なく垂れる。

 

 

「なるほど。

 

 

――それだけか?」

 

「なっ――()()()()、やと――?」

 

 

さも些事であるかのような男の口ぶりに、彼女は激昂して立ち上がる。

 

 

「アンタ、ウチがどんな――今までどんな気持ちで働いてきたか知っとるんか!?

 

同い年のウマ娘達がトレーニングして、ダンスの練習して、はちみーやらタピオカやら片手に遊んどる中、ウチは必死に働いとる!

 

結果を出すために一生懸命やのに、同僚にイヤミ言われながら働く気持ちがわかるんか!?

 

いつまで持つかわからん母ちゃんの身体を、地元に置いてきたまま一人で過ごす気持ちがわかるんか!?

 

色んなモンを諦めて、母ちゃんやチビ達を養わなあかん気持ちがわかるんか!?」

 

 

大きな青い瞳に涙を浮かべ、男の胸倉を掴み上げる。

食べかけの弁当が、彼の手を離れて地面に落ちた。

 

 

「――っ、すまない……」

 

 

「――っ、スマン!」

 

苦しそうに謝罪を口にするトレーナー。

怒りで一瞬彼我の力の差を忘れた彼女が、慌てて彼を降ろす。

 

「っげほ……キミの気持ちや家族のことを省みず、軽率だった。本当に申し訳ない」

 

「まぁ……ウチもカッとなってしもたわ。堪忍な」

 

せき込みながら謝る彼。それに対し、自分の非も詫びるタマモクロス。

 

 

「でも、ウチの気は変わらんで。トレセンには行かん。

誘ってくれてホンマ嬉しかった。弁当もありがとうな。ごっそさん。

 

明日も早いし、もう帰るわ」

 

「――待った!」

 

これ以上何か起きる前に帰ろう。

踵を返した彼女の背にトレーナーが言葉をかける。

 

この期に及んでなんやと、少し苛立ちを覚えて振り返る。

 

「――まだキミの気持ちを聞いてない」

 

「……あのなぁ、さっき言うたやろ?

アンタの誘いには乗らん。三度目はないで」

 

「それはキミの本心じゃないだろう?

 

"こうしなきゃいけない"じゃない。

"どうしたいか"を教えてくれ」

 

それを聞き、少女は耳を後ろに向けて嘲るように笑う。

 

「はっ!それを言って何になるんや?

アンタが代わりに払ってくれるんか?できもせん癖に――」

 

 

「いいから答えろッ!

レースに出たいのか、出たくないのか!?」

 

男の大声に、びくりと肩を震わせる。

 

「金のことは一旦忘れろ!

()()()()()()()()()()?」

 

 

「――いやろ」

 

 

「――出たくないワケ、ないやろ――っ!」

 

小さな身体を震わせて、大粒の涙を零して――

 

 

「出たいに決まっとるやろッ!!

 

ガキの頃から夢見てたんや!中央のレースに出て、大勢の観客を前に、誰よりも速くゴールするウチの姿を!

 

誰よりも多く1着を取って!ぎょうさん賞金もろて!母ちゃんやチビたちに好きなもの何でも買うてやって!

 

そんで、そんで――」

 

 

今まで誰にも言えなかった()()()()

勝気な仮面(かお)の裏に深く深く押し込めていた本心が、涙と共に溢れ出す。

 

 

「――ありがとう。打ち明けてくれて」

 

しゃくり上げる少女にハンカチを手渡しながら、トレーナーはある覚悟を決める。

 

 

既に終わった今年度の入学式。

公式戦未出場――まるまる白紙の過去の戦績。

容体が芳しくなく、ともすれば明日もわからぬ母親。

養わなければならない家族。

 

 

そんなドン詰まりな状況から、()()()()()()()()()()

 

 

「心配ない。全部俺にまかせろ。

一週間後、返事を聞きに行く。

 

その時に改めて、キミの返事を聞かせてくれ」

 

 

不思議と迷いはなかった。

 

――この娘のために、自分の『特編』を行使しよう。

 

 




「説明しすぎ、話のテンポが悪い」と感じる方がいたら申し訳ありません。


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よろしくお願いします

お気に入りが3000件を超えました。

創作活動をしている中でここまで反響をいただけたことは初めてで、
戸惑う反面大変嬉しく思っています。
これも拙作に目を留めていただき、読んでくださるみなさんのおかげです。
本当にありがとうございます。

また、前回の更新で設定に関するご意見や考察をたくさんいただきました。
返信にて回答はさせていただいております。

今後とも読んでいただける作品にできるよう頑張ります。


P.S.本文書いてる間にお気に入り3400件超えました……感無量です。本当にありがとうございます。564度見しました


類稀な競争バとしての素質を持った芦毛のウマ娘――タマモクロス。

 

夜の公園で彼女の想いを聞き、夢を叶えると約束してから数日後。

 

学園での業務を半日で切り上げ、彼はとある場所へと足を運んでいた。

 

「では、こちらにお名前を書いてください。準備ができたらご案内しますので、お掛けになってお待ちください」

 

「どうも」

 

不愛想な受付と極めて事務的なやり取りをして、部屋の中心に並べられた椅子のひとつに腰かける。

 

暖かな日差しが差し込む待合室。

建物は少し古い印象を受けるが、床にはホコリひとつ落ちておらず手入れが行き届いている。

 

窓辺で船を漕ぐ、車椅子のお年寄り。

モニターから流れるアニメに釘付けの子供。

物珍しげに自分を遠目から眺める職員達。

 

この空間だけ、時間がゆっくり進んでいるかのような錯覚を覚えた。

 

「大原さん、お待たせしました。

エレベーターで4階まで上がって、右手の一番奥の部屋になります」

 

「どうも」

 

何の気無しに手に取っていた朝刊を棚に戻し、無表情な受付に礼を言って立ち上がった。

 

白くて綺麗な冷たい壁。

消毒用アルコールの匂い。

 

そういえば、身体も丈夫で家族も元気な自分とはあまり縁がない場所だなと、エレベーターの重力を感じつつ今更ながら思った。

 

病室へと歩を進める足は、無意識に重くなっている。

これから会う人物にどんな言葉で伝えたら、自分の想いが伝わるだろうか。

 

門部屋の前に立ち、一呼吸置いて、足を踏み入れる。

 

「失礼します。トレセン学園より参りました、トレーナーの大原です」

 

「どうぞー!こちらです!」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()

驚きをできるだけ顔に出さないよう表情筋に力を入れ、奥の方へと向かった。

 

プライバシーを確保するための長いカーテンとベッドが数台。

それぞれ、隣にテレビモニターと小さな棚が置かれた殺風景な部屋。

 

 

そんな無機質な空間に彩を添えるような満面の笑みで、その女性はベッドに腰かけていた。

 

 

「突然お邪魔して申し訳ありません。あの、ご迷惑じゃなかったでしょうか……?」

 

「迷惑なもんですか!久しぶりに若い男と話せるっちゅーんでめっちゃ楽しみにしてたんですよ!」

 

とりあえず座って!と、既に用意しておいてくれたらしいパイプ椅子をぽんぽんと叩く。

 

彼は名刺を渡し、改めて謝辞を述べて腰を下ろす。

 

「それとこれは見舞いの品です。つまらないものですが……」

 

「あらまぁ!これはタマから聞きはったん?」

 

「あ、いえ。ベタで恐縮ですが、見舞いにはメロンかなと……」

 

「たまたま、っちゅーことですね。でもほんまおおきに!

はしたない話ですけど(ウチ)、コレが大好物なんです。てっきりタマから聞いたんかと……」

 

後で切り分けましょうと、近くを巡回していた職員にナイフを借してくれるようお願いする。

 

「にしても、"中央"のトレーナーさんがウチの子をねぇ……

こないだ電話が来た時は、夢ちゃうかと思ってほっぺた引っ張りましたよ!」

 

ニセモンちゃいますやろね?などと冗談を言いながら、渡された名刺をしげしげと眺める。

やはり親子で反応は似るらしい。

 

今日の訪問に先立って、予め病院にはアポイントの連絡を入れておいた。

娘の将来に関わる話だ。流石に前もってお伺いを立てておくのが筋だろう。

 

余談だが、病院の所在の特定はトレセン学園の力を借りた。

流石URA直下の組織。ウマ娘の事となればこれ以上に心強いものはない。

 

「その、大原さん?は、娘とはどちらで?」

 

「実は、まだ2回ほどしか顔を合わせてなくて……」

 

「まぁ!それでスカウトしはったん!?ほんで?」

 

「最初に会ったのは――」

 

身を乗り出して聞き入る彼女に、これまであったことを自分の思いと交えて話した。

 

自分がオフの日に、事故を起こしたウマ娘の代わりに自宅まで配達に来てくれたこと。

偶然再会し、その走りに一目で心を奪われたこと。

家族を想うあまり、一度はスカウトを断られたこと。

叶うのであれば、レースに出て親孝行がしたいと語っていたこと。

 

聞けば、タマモクロスは時折電話こそ寄越すものの、出稼ぎで家を出てから一度も地元に帰っていないらしい。

母親は目を輝かせてそれは嬉しそうに、男のする娘の話に耳を傾けていた。

 

「タマがそんなことまで……嬉しい反面親としては恥ずかしいわぁ……」

 

「いえ、私が無理に家庭の事情を聞いてしまったんです。誹りなら私に」

 

「いいえ。ウチの娘はああ見えて、不用意に身内のことをひけらかすような娘ちゃいます。

恐らく、大原サンに何か特別なものを感じたからこそ、そこまでお話ししたんやと思います」

 

「そう言っていただけると幸いです」

 

笑いながらも真面目な声音できっぱりと言い切る彼女。

間違いなく本心だろう。

 

――だが彼はやり取りの中で、何か引っかかるものを感じていた。

 

 

その違和感が確信に変わったのは、持ってきてもらった果物ナイフでメロンを切りながら、入学後の待遇について説明していた時のことだった。

 

費用に関しては学園から奨学金が出るので心配しなくてもいいこと、タマモクロスには寮の部屋が与えられ、施設内で生活すること等を淡々と話した。

勿論、()()()()()()()()()()()()()()()だ。

 

その間、彼女はメロンをゆっくりと咀嚼しながらふんふんと頷いていた。

 

「――そないな良い条件で入れてもらえるなんて、ホンマに感謝してもしきれません。

ウチは"この通り"で、あの子やチビ達にはぎょうさん苦労させてまったから……」

 

「奨学金に関しては彼女の現在の収入をベースに、入院費やご家族の生活費等も含めて決定する予定です。

決してご迷惑をおかけすることはありませんのでご安心ください」

 

そう言葉を交わしながら彼の目は、気丈に振る舞うこの女性の体調を、会話の裏で正確に分析していた。

 

『……薄く化粧をしている。普通なら、来客を迎えるためのマナーと捉えるものだが――いや、その意味も当然あるだろうが。

本当の目的は、()()()()()()()()()

 

少し体温も上がってきている。恐らく、見えない部分で徐々に発汗してる。

 

呼吸も深くゆっくり。これも、()()()()()()()()()()()()()意図的に行っている。』

 

 

"そう見えない"ように取り繕っているだけで――おそらく、()()()()()()

(タマモクロス)から聞いていたよりも遥かに――

 

 

そして、彼は察した。

 

――彼女が娘の勝利を見届けられるかどうかは、かなり際どいラインであると。

 

 

タマモクロスが逸材であることは揺るぎない事実だが、「配達」と「レース」では当然訳が違う。

ギアの上げ方、疲れにくいフォーム、他の出走バとの駆け引き。

"一着を取るための走り"というものは、一朝一夕で身に付くものではない。

 

ギリギリ仕上がるかどうか、かなり心許ない時間しか残されていないように感じた。

 

今現在、タマモクロスの母親が彼を相手にしていることは、"愛想よくもてなす"といった類のものではない。

"粗相が無いように、細心の注意を払う"という「警戒」だ。

 

この人は、娘が進学できなかったことを自分のせいだと思っている。

そこに舞い込んできた、"中央のトレーナーからのスカウト"。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 

自分はこんなに元気だ。何も心配ない。

だから、安心して娘を連れて行ってください。

 

そう暗に言っているようで――

 

 

「――っ、違うんです」

 

「?」

 

 

そんな顔をさせるために、俺はここに来たんじゃない。

貴女の夢も、一緒に背負いに来たんだ。

 

 

「申し訳ありません。今から余りにも不躾な質問をします。気分を害されるかもしれません。

ですが、正直に答えてください――

 

 

――()()()()()()()()()()?」

 

 

「――」

 

貼り付けていた笑顔に罅が入る。

 

「……ウチの娘が何か――」

 

「『あまり良くない』とだけ伺っていました。しかし、直接お会いして確信しました。

 

私もトレーナーの端くれとして、医療の知識は多少なりとも弁えています。現に相当無理をなさっている」

 

「……」

 

「娘さんは、このことは?」

 

彼女は力なく首を横に振る。取り繕ったような笑顔は消え、額には僅かに汗が滲む。

 

「――言わないおつもりですか?」

 

「余計な心配をかけたないんです……」

 

くしゃりと、母親の顔が歪む。

 

「ウチが、あの子の将来を奪ってしもたんです。ウチの身体が弱いばっかりに、あの子に我慢ばかりさせてきて……

これ以上、あの子に迷惑かけたないんです。」

 

声が震える。

 

「あの子は優しい子です。

 

 

ウチが()()()()()()()なんて知ったら、お誘いを蹴って今まで以上に無茶して働くに決まってます――」

 

目尻から、一筋の雫となって静かに流れる。

 

「もうこれ以上、ウチのせいであの子の夢を奪いたないんです!

 

一度ならず二度までも、親のせいで子供が不幸になることなんて――」

 

積年の思いが、無念が、次から次へと滂沱となって溢れ出した。

手で顔を覆い、さめざめと泣き始める。

 

彼女は悔いているのだ。

自分が娘の夢を摘んでしまったのだと。

 

そして、まだ数えるほどしか言葉を交わしていない彼にもわかった。

 

――タマモクロスがこのことを知れば、あの日語ってくれた夢も一瞬で()()()()()()()()()だろうと。

 

 

もう困らせたくないと、親として失望させたくないと。

肩を震わせて泣く姿まで、あの娘にそっくりだった。

 

 

「顔を、上げてください」

 

だから、自分が言葉にしなければならない。

それが間違った考えであるということを。

 

少なくとも、あの娘はそんなことは微塵も考えていないという確信があった。

 

 

「見ていてください。

私が――俺が、彼女を誰よりも輝くウマ娘にしてみせます。

 

 

勝って、勝って、誰も見たことがないような偉大な記録を打ち立てて――

 

『今度こそ夢を叶えられたね』と、

『私がタマモクロスの母親でよかった』と、

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、立派なウマ娘に育てます。

 

 

俺の人生を"賭して"、貴女とタマモクロスの夢を叶えます。

 

 

だから、貴女も諦めないでください。

 

必ず、娘の1着をお見せします。

絶対に、勝たせてみせます。

 

だから、その日まではどうか――」

 

"あの日"と同じように、そっとハンカチを手渡す。

 

「娘さんのことはお任せいただいてもよろしいでしょうか?

私が()()()()()()お預かりいたします」

 

涙を拭った彼女は、笑って答えた。

仮初ではない、()()()()()()()()()——

 

「――っいえ、むしろこちらからお願いしたいくらいです。

不束者ですが、気立てだけはええ娘なので、あんじょうよろしくお願いします」

 

 

 

□ ■ □ ■

 

 

 

そのさらに数日後――

 

 

"教官"と"配達員"は、あの公園で対峙していた。

 

「今日も遅くまでお疲れ様。

まずはちゃんと来てくれたことに感謝する」

 

「おう、今日もがっぽり稼がせてもろたで!

 

それと――なんや、こないだは女々しいトコロ見せてもうたな……スマン。

これ、返すで」

 

「お、おぉ。すっかり忘れてた」

 

「なんや、言わんかったらウチのモンになっとったんかい」

 

綺麗に折りたたまれたハンカチを受け取る。こういう律儀なところも好感が持てる。

 

「……にしても、この間ちゃんと場所伝え損ねたのによく分かったな」

 

「アンタと会う場所ゆーたらココ以外あらへんやろ」

 

何を今更と言った表情で、彼女は薄く笑って肩をすくめる。

それもそうかと、彼もまた笑みを零した。

 

 

「……さて」

 

男は少しだけ真面目な表情を作った。

 

 

「少し前、キミのお母さんに会ってきた」

 

「みたいやな。こないだ電話したら言うとったわ」

 

「そうか――キミもちゃんと話したんだな」

 

「そらそうや!大事な話やさかいな。

 

――んで、どやった?母ちゃん元気しとった?」

 

「――あぁ、元気だったよ。タマによろしくと言っていた」

 

「なんやその玉虫色の返事……まぁええわ。

あとメロンのお礼言っといてくれって。母ちゃんメロン好きなん知ってたんか?」

 

「いや、見舞いにはメロンだろ」

 

「何やその"中元には菓子、歳暮にはハム"みたいなテンプレ感」

 

「別に何でもいいんだが……まぁ、喜んでもらえて何よりだ」

 

 

母親の体調については、結局「娘にはまだ言わないでくれ」と頼まれた。

自分からちゃんと伝えるべきではと主張したのだが、どうしてもとあっては無下にもできない。

 

今は、彼女の決断を曇らせるようなことは教えるべきではない。

嘘をついているような後ろめたさを感じるが、心の奥底にグッと押し込める。

 

 

「――キミのこれから進む道について説明してきた。娘を頼みますと言われて来たよ。

金の心配もしなくていい」

 

「外堀から埋めようなんざ、ホンマ狡い手使うなぁ!まぁ、その手段を選ばんカンジは嫌いやないけどな」

 

お互いに口の端を吊り上げて、攻撃的な笑みを浮かべる。

 

 

「じゃぁ、改めて聞かせてくれ――

 

 

()()()()()()()()?」

 

 

「ハッ!そんなん、もう決まっとる。」

 

犬歯をむき出しにして、芦毛の獣が吼える。

 

「ウチは――もう()()()()

自分の夢を叶えることを、もう迷わへん。

 

 

トレセン学園に入って、しこたま鍛えて、レースに出る。

 

出まくって、他の三下を薙ぎ倒して、使えきれんほどの賞金を手に入れる。

 

 

ウチが()()であることを証明して、母ちゃんやチビ達に恩を返す。

 

これがウチの夢――いや、これからのロードマップや!」

 

その答えを聞いた男が満足そうに頷き、吼え返す。

 

「その夢、俺が叶えよう!

 

()()()()()()()()()()()()()()

 

タマモクロス――必ずお前を、最強のウマ娘にしてみせる!」

 

「あぁ、頼むで!()()()()()!」

 

あの時と同じように、二人は固い握手を交わした。

 

 

こうして、ここに悪魔の契約は成った。

その後、ターフには大嵐が吹き荒れることになる。

 

 

眩暈がするほどの、白く輝く稲光を携えて。




関西弁難しいです。
当方九州の民なので、方言がすぐごっちゃになります。

大学とかでありがちですよね。
いろんな県から来た人とたくさん仲良くなっていくうちに、
段々と方言がキメラ化していく現象。


感想・評価もお待ちしています。
必ず目を通していますが、お返事は遅くなることがあるかもしれませんごめんなさい……


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冬の大三角 前編

※タイトルを本家っぽく少しだけ変更しました

長くなりそうなので前後編にしました。

お気に入りが4000件超えました。
感無量です。本当にありがとうございます。

感想も必ずお返事しますので少しお待ちください。




タマモクロスの意志を確認した翌日――

 

「確認ッ!では、キミの気持ちは変わらないと?」

 

「はい。彼女――タマモクロスを、私の『特編』枠で入学させます。

無理を言って恐縮ですが、どうぞよろしくお願いします」

 

彼の姿は再び理事長室にあった。

 

水墨で「茨道」と漢らしい書体で書かれた扇子を広げ、隣に秘書を侍らせる秋川やよい。

その幼い容姿らしからぬ神妙な面持ちで、男の目をじっと見つめている。

 

「警告……大原よ、当然わかっていると思うが、これは今後のキミの身の振りを大きく変える。

"良くも悪くも"、今まで通りの指導員としてはいられない。そこは理解しているか?」

 

「勿論です。何の実績もないウマ娘を今すぐ、破格の待遇で迎えてくださるんです。

それに専属にまでしていただけるとなると、こちらが差し出せるものなら如何様にも」

 

何を言われても無駄だと言わんばかりの姿勢に、思わず自分の右側に直立しているたづなと顔を見合わせ、苦笑いを浮かべる。

わかってはいたことだが、トレーナーという人間はつくづく変な所で思い切りがいい。

この手の人種は、一度決めてしまったことはどんなことがあっても曲げないだろう。

 

そして昨日と決定的に違う点。

 

こちらに伺いを立てるのではなく、()()()()()と断言した。

もはやこうなっては、彼の意志は梃子でも動かないだろう。

 

扇子を畳み、その先端をビシリとトレーナーへと向けた。

 

「承知ッ!ウマ娘の発展に携わる者として、キミの決断に敬意をッ!

私個人として応援はできないが、キミとタマモクロスの健闘と勝利を祈っている!

 

 

――ではたづな、改めて説明を」

 

「かしこまりました」

 

たづながスッと動き、手にしていた書類を彼に見せる。

 

「『ウマ娘特別指名編入学制度』はその名の通り、トレセン学園外部からトレーナーが指定したウマ娘を無条件に誘致できる権利です。

 

"ウマ娘"ということ以外は、過去の実績 素行 出自 一切不問です。

 

対象となったウマ娘は無条件での編入学に加え、ジュニアクラスからシニアクラスまでの3年間の学費が全て免除されます。

また必要であれば、現在の収入から算出した返済不要の奨学金が支給されます。

 

また指名したトレーナーは、今後そのウマ娘のみを3年間担当することになります。シニアクラス以降の専属契約更新に関しては、

その時にウマ娘とトレーナーによる協議の上で自由に決めていただいて構いません。

 

そして、入学から"半年間毎"に、通常とは別の特別査定が設けられます。そのウマ娘がレースで実績を残せなかった場合、指名したトレーナーのライセンスを剥奪。

 

過去に行われた全ての公式戦の実績は白紙となります。

 

――ここまでよろしいでしょうか?」

 

「存じております」

 

流暢に説明するたづなに、彼は首肯で続きを促す。

 

「では、説明に同意したということで、こちらの書類に捺印と署名を。

 

……差し出がましいのですが――本当によろしいのですか?」

 

「ありがとうございます。ですがもう決めたことですので。

 

あの日――彼女の走りに心奪われてから、私の運命は彼女と共にあります」

 

そう喋りながらすらすらと自分の名前を書き、「大原」と鏡反転した文字が彫られた印鑑をぐりぐりと紙に押し付ける。

 

これで、不退転の覚悟で指導に臨まなければいけない。

不思議と不安や後悔といった感情は微塵も湧かなかった。

 

「――では、こちらはお預かりします」

 

それを苦い顔で受け取るたづな。

言いたいことは色々とあるのだろう。それを口に出さないのも、彼女のひとつの優しさなのだということは理解できる。

 

「以上で、手続きは完了です」

 

「随分と簡単でしたね。思わず拍子抜けしました。

 

それで、彼女――タマモクロスはいつから学園に連れてくれば?」

 

「即時ッ!無論、()()()()()()()だ。

 

大原よ、時間は有限だ。有意義に使いたまえ」

 

流石は『特編』と言うべきか。

本来教育機関が新しく生徒を受け入れるというのは、字面以上に準備がかかるものだ。

その辺りの煩雑な"過程"をすっ飛ばして簡単に"結果"として出してもらえるあたり、ベットし(賭け)ている物の重大さを改めて認識する。

 

そして、それを告げた秋川やよいの顔――

感情が一切籠っておらず、冷たい視線が彼を貫いている。

 

「トレセン学園の理事長」としてではなく、「URAの役員」として、の(かお)

その決断が、ウマ娘のより良い未来を創るのかどうか――

彼自身ではなく、これからの顛末を見定めるような遠い目をしていた。

 

「今すぐというのは、ちょっと難しいですね…明日から来るように調整します」

 

「大原さん、頑張ってくださいね。

明日は私がタマモクロスさんに学園の案内と合わせて色々とご説明いたしますので……」

 

「助かります、たづなさん。

理事長も、ありがとうございます。

 

見ていてください。タマモクロスは、私のバッジを賭けるに足るウマ娘であることをご覧に入れます。」

 

「不要ッ!これはキミが決めることだ。最初にも言ったが、我々が口を挟んだり、礼を言われるようなことではない。

 

話は以上だ。

今後キミとタマモクロスが、トゥインクルシリーズの更なる発展に貢献してくれることを期待するッ!」

 

バッと扇子を広げ、"理事長"が笑って退席を促す。

彼は二人に一礼すると、ソファを立った。

 

 

「――失念!ひとつ伝え損ねていたことがある!」

 

「……何でしょうか?」

 

部屋から出ようとしていた所で不意に呼び止められ、その場で振り返る。

 

「いや、大したことではないのだが、キミにひとつ決めて欲しいことがあるのだ」

 

「決めてほしいこと、ですか?」

 

「うむ。それは――」

 

 

 

■ □ ■ □

 

 

 

「えっ、辞める!?」

 

「はい、今まで世話んなりました」

 

都内「Umar Eats」中央エリアの事務所。

 

少女の突然の宣言に、事務長――つまりエリアチーフは口元まで運んだドーナツを取り落とした。

 

「そ、それはまた突然だね……差支えなければ理由を聞いてもいいかい?」

 

「ウチ、進学できるようにしてもろたんです。

なんで、今日で辞めさせてもらいます」

 

そう言って頭を下げる小柄な芦毛のウマ娘。

普段であればそうかそうか良かったねと笑顔で見送る所だが、退職するのが()()()となると話は別だ。

 

この事務所が始まって以来の稼ぎ頭――エリア全体の注文件数の実に2割弱を"単身"でこなしたこともある彼女が去るとなると、どれだけの配達実績が減るかは想像に難くない。

タマモクロスほどの配達員の穴がすぐに埋まることは考えにくい。

万が一エリア内での注文が処理しきれなかった場合、他エリアからの配達員がこちらに流れてくることになる。

最悪自エリアの縮小――自分のインセンティブの低下なんてことも十分に考えられる。

 

そもそも、「Umar Eats」での勤務は出退勤をする必要がない雇用形態だ。

自宅から好きなタイミングで出て、好きな時間働いて、好きな時に帰る。

本来、辞めることも端末から打ち込めばそれで終わるような手続きだ。

そんな中タマモクロスがわざわざ事務所に来ているのは、端末の持ち出し料とバックパックの購入に費用をかけたくないからである。

 

「せ、せめて土日だけとかでも難しいかい?それか、お小遣いが足りない時とかでもいいから……

ほら、今後は友達との付き合いとかも増えるだろうし、何かと要り様だと思うし――」

 

深く理由は聞いていないが、彼女は働く理由を「家族のため」と言っていた。

そこまで切り詰めて働いていた彼女からの、突然の退職宣言。

 

金銭的な問題は解決したのだろうと考えるのは、まぁ妥当だと言える。

学生になるからには、遊ぶ金も欲しいだろう。そう邪推して何とか引き留めようとするが――

 

「――何言うてはるんですか?」

 

コバルトブルーの綺麗な瞳がスッと細くなり、男は背中にうすら寒いものを感じる。

 

「そないなハンパな気持ちで入学したら、ウチは()()()に顔向けでけへんのです。

トレーニングと学業に専念させてもらうんで、配達員は今日限りで終わりにさせてもらいます」

 

「トレーニングって……それってつまり――」

 

「えぇ。"トレセン学園"です」

 

男の後ろでこっそりと聞き耳をたてていた他の配達員達がにわかに色めき立つ。

それはつまり、今後彼女は「中央」のターフを走るための生活を始めることを意味している。

 

ウマ娘でも選ばれた者にしか門戸を開かない場所に、タマモクロスは足を踏み入れる資格がある。

そう判断されたのだ。

 

そして、芦毛を揶揄して「灰色ウサギ」と呼んでいた連中は気付いてしまう。

彼女もまた「持っている」側で、自分達はそうではなかった事に。

 

「という事なんで。次はレース場で会いましょ!」

 

空いた口が塞がらない男性に再度頭を下げ、タマモクロスは後ろの配達員の方へ向かった。

 

「な、何よ……」

 

20センチ以上も背の低い相手から見上げられ、たじろく配達員達。その耳は力なく垂れ下がっている。

 

「良かったですね、目障りなウサギが()らんなって。これで注文横取りされなくなりまっせ!

 

9()2()7()()――ウチの最高月間配達件数、どうぞご自由に塗り替えはってください」

 

そう言い残し、タマモクロスは歯噛みする配達員の悔しそうな顔を背に事務所を後にした。

 

 

「あー清々した!ごっつ気分ええわー」

 

 

苦虫を嚙むようなあの顔を思い出し、彼女はスマートフォンを取り出す。

夕方の府中、暗転した画面にご機嫌な自分の顔が映る。

 

地平線に溶けようとしている太陽を横目に画面を操作し、受話器を耳に当てた。

 

 

『大原だ』

 

「はんや!ワンコールも経ってないで!待っとったんか?」

 

『いつでも出られるように近くに置いていたからな。それで、準備のほうはどうだ?』

 

「どうだも何も、さっき事務所に辞める言うてきたばっかでなんも進んでへんよ!

突然"明日から来い"なんて言われても困るっちゅーねん!」

 

『それは申し訳ないと思ってる。なら、少し遅らせようか?いつならいい?』

 

「冗談!1秒でも早くトレーニング始めて、1着獲らなあかんねん。

何なら今からでもかまへんで?」

 

『家の片づけや入寮の準備もある。今日のところは辞めておこう』

 

息巻く彼女を宥めるような口調のトレーナーの声。

電話口で苦笑する彼の顔が容易に想像できた。

 

『あぁ――ただ少し話しておきたいことがあってな。こっちに来られないか?』

 

「なんや、電話で話せへんようなことか?

ええで、30――いや、20分で着く」

 

『大したことじゃないんだけどな。

ありがとう。そしたら、校門の前で待ってる』

 

「わーった。ほな後でな」

 

そう言って電話を切ると、彼女は走りだした。

 

 

その足取りは、半年以上も配達員として府中を駆けた時のそれよりも遥かに軽やかだった。

 

走る。ただ無心で走る。

そうして風を感じること少し。

 

"何度も見たことだけはある"建物の入り口に到着した。

 

 

「お疲れ。予想よりもずっと早かったな」

 

「この辺りは散々走っとったさかい、最短のルートくらい頭に叩き込んどるわ」

 

「道理でな」

 

こっそりと図っていたタイムを見て、彼は満足気に小さく頷く。

事務所の住所は事前に調べていて把握済。最短距離を進んできたと仮定して距離を概算しても、

トレーニングを受けたことのないウマ娘が出したタイムとしては驚異的だ。

 

そして案の定、彼女の息は全く乱れていない。

 

これでまだ()()()()()()()という事実に、ぞわりと全身が総毛立つ。

 

 

「まぁ、歩きながら話そう。正式な入学は明日からだが、見せたいものもあるしな。」

 

「入ってもええんか!?」

 

「勿論。

 

今日からココが、()()()()()()だ」

 

 

トレセン学園――ずっと焦がれていた「中央」の学び舎。

 

その敷地を、トレーナーと一緒に跨ぐ。

彼女はこの一歩を、生涯忘れることはないだろう。




クリーク欲しさにガチャを回してしまいました。

天井しました(白目)


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冬の大三角 後編

今回は短めです。


タマモクロスはトレーナーに連れられるがまま、トレセン学園内部を歩いていく。

 

「あそこが校舎で、奥に見えるのがトレーニング施設。練習場はここをまっすぐ行った先にある。

まぁ、このあたりは明日たづなさんが詳しく案内してくれるから」

 

「たづなはん?」

 

「理事長秘書だよ。とても優しくていい人だから心配しなくてもいい。

それでここが――」

 

建物を指差しつつ簡単に説明するトレーナーの話を聞きながら、目を見開いて首の可動域の限界に挑戦するように辺りを見回すタマモクロス。

微笑ましく思いつつも、話半分といった様子に苦笑いがこみ上げる。

 

 

「……東京に来た時もそんな感じだったんだろうな」

 

「だっ、誰がおのぼりさんやて!?」

 

「言ってない言ってない」

 

ずっと遠くから眺めているだけだったトレセン学園が、明日から自分の通う場所。

せわしなく動く耳と尻尾から、興奮を隠しきれていないことが見て取れる。

 

「あ、寮は正門を出てすぐの場所にある。これが、明日必要な最低限の持ち物リストだ」

 

「おう、準備ええな。えーっとなになに……

歯ブラシにタオル、替えの下着に寝巻、ジャージ、充電器、その他……

 

――修学旅行のしおりか!?」

 

「今の家を引き払う準備も加味して、最低限の荷物を持ち込んでくれればいい。

必要なら業者も手配できるが、どうだ?」

 

「そこまでせんでもええ!

もともと身ひとつで来たようなもんや。2、3往復もすれば全部終わるやろ」

 

聞けば、持ち出せなさそうな家電や家財などはメル○リで全部売り払ってしまったとのこと。

その辺りは強かというか、知恵が回るというか。

 

引っ越しの問題に関しては、思うよりも早く片付きそうだ。

あとしなければならないことは何だろうか。考えながら敷地の奥へと向かう。

 

 

「あっ、教官!お疲れ様でーす!」

 

「おうお疲れ様。脚はもう大丈夫なのか?」

 

 

「おーい教官!ちょっと聞いてよ~」

 

「なんだどうした?こないだの友達の彼氏がどうとか言ってたアレか?」

 

 

「あの……教官、ちょっとお話が……」

 

「あ、新しいトレーナーのことだろ?後で聞くからちょっと待っててくれるか?」

 

 

隣を歩いている間、トレーナーは沢山のウマ娘から声を掛けられていた。

みんなが彼を呼ぶのは、タマモクロスには聞きなれない単語。

 

 

「……教官?」

 

駆けていくウマ娘に手を振って見送るトレーナーに、それは何だと疑問をぶつけてみる。

 

「あぁ、俺今まで担当してるウマ娘が居なくてな。

沢山の娘達を同時に指導してたんだよ。」

 

「なるほどな。せやから"教官"っちゅーわけか」

 

「でもお前が来てくれたおかげで、俺も晴れて本当の意味で"トレーナー"だ。

ひとりだけを見るのは初めてだから力が入るな」

 

「ウチが初めてなんか!?それは責任重大やな。

せいぜい頑張らせてもらうわ」

 

「……あぁ、()()な」

 

「?」

 

「いや、何でもない。

 

――さて、着いたぞ」

 

タマモクロスの眼前に広がったのは、ターフを模した広いグラウンド。

 

あるものは、並走でタイムを計り。

あるものは、ラダーで足を鍛え。

あるものは、隅で身体を解し。

あるものは、カメラを覗いてフォームを確認し。

あるものは、時計を片手に檄を飛ばす。

 

西日が芝生を赤橙色に燃やし、影は思い思いの形を成して長く伸びる。

 

土と草、それと汗。

彼女が想像していた、青春の匂いがした。

 

ここから始まるのだ。

彼女と母、そして彼の夢。

 

「……どうだ?」

 

「アカン、さぶいぼ立ってきた。

今すぐにでも混ぜてもろてええか?」

 

「待て待て。俺も色々と考えてることがある。

明日までお預けだ」

 

「なんや、いけずやなぁ」

 

彼は少しだけ笑い、グラウンドに目を落とす。

それに倣うように、彼女もまた隣で同じくトレーニングをしばらくの間眺めていた。

 

 

「……なぁ、トレーナー」

 

「何だ?」

 

「ウチをココに呼んでくれて、ホンマありがとう」

 

タマモクロスからの唐突な言葉に、思わず彼女の顔を見る。

 

「でもな、気になることがあんねん」

 

男の瞳をじっと見つめて、小さな声で続ける。

 

「学費も払わんと、奨学金まで出る。

そないな良い条件で入れてもろた手前、言うたらアカンのはわかっとるけど――

 

なんか、()()()()()()()?」

 

「――」

 

開きそうになる瞳を、強靭な意志の力で捻じ伏せる。

少し首を傾げ、それで?と続きを促す。

 

「ほら、トレセンに入るのって、地方でもそこそこ大変やんか?

公式戦に出走したこともないウチが"中央"にタダで入れるっちゅーんは、アンタがなんか無茶したんちゃうかなとおもてな」

 

「そんなことないぞ。トレセン学園(うち)は将来有望なウマ娘を日々欲してるからな。

タマモクロスが学園に入ったら"トゥインクルシリーズ"にどんな良い影響があるのか、俺のプレゼンが刺さったんだろうさ。

 

実際、転入や編入はそんなに珍しくもないしな」

 

嘘だ。

彼女は何かを悟った。

 

根拠はない。ただ何となく、本当にただの直感。

 

嘘――いや、何かを隠している。

 

それは恐らくウチには必要のないもので、そこだけをすっぽりと抜いてそれ以外の事実を伝えている。

彼が言わなくてもいいことと判断したのであれば、それは()()()()()()()()()()()()()のだろう。

 

なら、彼から話してくれるまで待つべきだろう。

そうなった時は()()()()()()()()ということを知らないまま、芦毛の少女は嬉しそうな顔を作る。

 

「そっか……ほな口だけにならんようにせんとな!

 

ウチ、死ぬほど気張ってトレーニングするさかい、宜しく頼むで」

 

「望むところだ。そっちが泣いても絶対に辞めないからな」

 

「上等や!絶対先に音ぇ上げさせたる!

 

――あとずっと気になっとったけど、キミだのお前だの他人行儀過ぎるで。

タマでええよ」

 

「わかった――()()

 

「おう!」

 

二人の間を、一陣の風が通り抜ける。

それは一足早い初夏の風のように、微かに熱気を孕んでいた。

 

「あ、そうだ俺達の()()なんだが――」

 

「ウチらの、なまえ?」

 

 

理事長室から退出する間際に、秋川やよいから頼まれた"お願い"。

それは――

 

「俺達の"チーム名"なんだが――」

 

曰く、出走登録の際は必ずチーム名を記載しなければならないらしい。

トレーナーと担当ウマ娘の二人(ペア)のみでも、その体裁を保つために考えておけとのお達しであった。

 

 

「なんつーか、ややこしいなぁ」

 

「まぁ、そういう決まりだからな。これは仕方ない」

 

「んで、もう決まっとるんか?」

 

「あぁ、一応な」

 

変にもったいぶらず、彼はその答えを口にした。

 

 

――『プロキオン』。

 

シリウス、ベテルギウスと"冬の大三角"を形成する星。

 

南東に輝く、()()の星。

 

彼女の産毛が再度粟立つ。

 

「タマの芦毛に、ぴったりだと思ってね」

 

「なかなかええセンスしとるやん!

『チーム・プロキオン』か――

 

やったる、ウチはやったるでぇ!」

 

胸の奥から漲るやる気を言葉に載せ、吼えるタマモクロス。

 

暮れの府中、鳴り物入りで新たなチームが誕生した瞬間だった。

 

 

「……ちなみに、他に意味あったりするんか?」

 

「『犬に先立つ』」

 

「なるほどなーって犬!?だっさ!自分色だけで決めたやろ!?

しかも"先立つ"の方なんや!犬じゃないんや!

 

名前"タマ"なのにワンワンってか!?やかましいねん!」

 

「言ってない言ってない」

 

 

 

 

 




ちなみに天井ですが、
サービス開始のリセマラ以外ガチャ回してなかったので課金はせずに回しました。

石が3万を切ってしまったので、また貯め直しです。


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第2部 メイクデビュー編
始動


遅くなって申し訳ありません。

感想も、追って返してきます。
お気に入り5000件本当にありがとうございます。

あと、ささやかですが後書きにお知らせがあります。


"チーム・プロキオン"発足から翌日の朝――

 

トレセン学園に所属している全てのトレーナーに、1通のメールが送られていた。

 

差出人は管理局――つまり、駿川たづな(理事長室)から。

季節の挨拶から始まり、最近のトゥインクルシリーズを取り巻く環境に対するURAの見解や展望。トレセンの今月の行事予定、その他注意事項もろもろ。

 

定期的に配信される、何の変哲もない報告書だった。

最後の一文を除いて。

 

まるでわざと目立たないよう、取って付けたように書き添えられた"人事異動"に関する報告。

そこには、教官1名が本日より、ウマ娘の専属トレーナーとして勤務することを示していた。

 

トレセン広しと言えど、そこは学園という閉鎖的空間。

このメールが送られてくる前から、トレーナーの間でひそかに流れていたある噂。

 

もしかしたら――

 

自分の担当の朝練もそこそこに、『本人』に確かめるべくスマホでメッセージを入れた。

 

 

10分後――返事に書かれていた場所に赴くと、そこはトレーナーやウマ娘が誰でも利用できる談話室。

中を覗くと、始業前ということもあり生徒の姿はない。あるのはトレーナーの影がふたつ。

 

()()()()がタブレットを片手に他のトレーナーと話し合っていた。

 

「――以上が、私が見ていた娘達の簡単な紹介になります。

詳しいパーソナルデータについては、サーバーの共有フォルダにまとめてアップしてますので後で確認しておいてください」

 

「あ、それに関しては既に確認しています。大原さんは本当に細かい所まで観察してますね。

あそこまで詳細なデータ、もう何十人かのチームのトレーナーって言っても過言じゃないですよね?」

 

「それは流石に過言ですよ。ただ良く見ているだけです。」

 

行われていたのは紛れもなく、"引継ぎ"に関する会話。

 

「大原クン」

 

「あ、先輩。おはようございます。

あと数分で終わりますので、少し待っててもらえませんか?」

 

呼びかけに振り返った彼は、至って普通。いつも通りに見えた。

 

「――では、こんなかんじでお願いします。困ったことがあったらいつでも聞いてください」

 

「助かります。しっかりアテさせてもらいますよ。ではまた」

 

彼と話していたトレーナーが立ち去ったのを見て、改めて声をかける。

 

「……今のは?」

 

「さっきの教官に今見ている娘達をお願いすることになったので、簡単ではありますが引継ぎ作業を」

 

「そうか……噂は本当だったんだな」

 

「噂?なんのことです?」

 

本当に知らないのか、はたまたすっとぼけているのか。

 

「今朝のメールだよ」

 

「あぁ、アレですか。

そうですね。専属になったので、教官は今日で終わりです。

 

いや、厳密に言えば昨日からですかね」

 

想像よりもずっとあっさりとした反応にやや面食らう。

 

「それにしてもかなり急だったからさ。

ほら、俺もこの間キミにあんなこと言っちゃった手前ね。

 

けしかけてしまったのかと心配でさ」

 

暗に、何か事情があるのか?という意図をちゃんと汲み取り、彼は笑顔で首を横に振る。

 

「大丈夫ですよ。むしろきっかけをくださって感謝してますよ」

 

あぁそう言えばと、彼はおもむろにタブレットを操作し始める。

 

「先輩が来てくださって丁度よかった。私が担当している内の何人かが結構いい感じに力がついてきたので、そろそろチームに斡旋したいんですよね。

先輩のチーム、確かダートが走れる娘探してましたよね?あれまだ有効ですか?」

 

「あ、あぁ。新入生の内の何人かは入ってくれたんだが、まだまだ経験に乏しくてね」

 

「それはよかった。重いバ場は少し苦手なのですが、結構パワーのある娘がひとりいまして。

ぜひ先輩のチームで使って欲しいなと思っていたんですよね。

お願いできますか?」

 

「願ってもない。でもいいのかい?」

 

「良いも何も、もう私の担当ではありませんから。

詳細は彼女と直接お願いします」

 

後はメールしておきますと。タブレットを暗転させる。

 

それにしてもと、顎に手を当てて唸る。

 

「本当に思い切ったねぇ。3年の間ずっと頑なにチームはおろか、サブトレーナーにすらならなかったキミが"専属"だなんて」

 

「えぇ、自分でも驚いています。

ですがあの走りを見た時に受けた衝撃といったら言葉にできません。

ああいう感覚が"ピンと来る"という事なんだなって、先輩が仰っていた意味がようやくわかりました」

 

「そこまで言うなら俄然期待できるな。それで、あの誰にも靡かなかった大原久を見事に落としたウマ娘は一体誰なんだい?」

 

「タマモクロスっていう小柄な芦毛のウマ娘です」

 

タマモクロス……と、その名前を口の中で転がす。

自分の記憶では、新入生の中でそのような名前や特徴の娘は確か――

 

「うーん……聞き覚えがないな」

 

彼が目をかけるほどのウマ娘であれば、逸材であることは疑いようもない。

だが、選抜レースに出走していた中で、よく走った娘にそんな名前は確かいなかったはずだ。

 

無論教官という仕事がそもそも、トレーナーが見落としていた才能を拾うことに特化しているため、自分が全くマークしていなかった娘であるという可能性もあるが。

 

「だと思いますよ。

 

 

()()()()()()()()()()()()()

 

「――え?」

 

その言葉が理解できず、思考が止まる。

脳がその意味を弾き出すのを遮るように、ではまた後でと彼は談話室から出て行った。

 

 

確かに、変な所はいくつかあった。

 

入学式直後の異動

知らないウマ娘

急に取得した半休

 

()()()()()()――』

 

噂はあった。

同僚全員が漏れなく爆笑し、絶対にないと断言した噂。

 

 

「っ、大原クン!?」

 

弾かれるように駆けだした。

急いで後を追いかけて、部室に戻ろうとしていた彼の肩を掴む。

 

「どうしたんですか?廊下は静かに走らないと生徒会に怒られますよ」

 

「俺は人間だからいいの!

そんなことより、さっき言ったことってまさか――」

 

「大丈夫ですよ先輩。そんな()()()()()()()()()()()()()()()()()()

ちゃんと理事長には話通してありますから、心配しないでください」

 

紛らわしい言い方をしてすみませんねと、謝罪の言葉を口にして微笑む。

 

「先輩、いつか仰ってましたよね。"ライバルとして、私と肩を並べたい"って。

 

思っていたよりもずっと早かったですが、これからはトレーナー同士、レースの結果で語り合いましょう。

どうぞよろしくお願いします」

 

「お、大原クン……?」

 

人が好さそうな、僅かに吊り上がった口元。

だがその目の奥に、煮詰められたように濃密な闘志が揺らめいているのを幻視した。

 

「キミは、一体――」

 

自分は、思い違いをしていたのかもしれない。

彼の、大原久という男の本質を。

 

教官にしがみついているのは、一種の保身だと思っていた。

トレーナーと比べて身の入りは少ないが、査定にレースの結果が加味されないからだ。

 

違う。

彼は方便で言っていたのではなく、

 

()()()()()()()()()()()()()()()()と本気で考えていたことに気付いてしまった。

 

これからのトゥインクルシリーズは、荒れる。

この瞬間、確信した。

 

 

 

■ □ ■ □

 

 

 

「う"ぇぇぇ……」

 

午後になって、ややげっそりしたタマモが部室に現れた。

 

「なんだ、どうかしたのか?」

 

「えらい疲れてもうた……

こないにウマ娘がぎょうさんおるとこ来たことあらへんし……」

 

「そうか。でもこればかりは慣れてもらうしかないな。

最初は辛いだろうが、どうにか頑張ってくれ」

 

「あ"~気持ち悪っ……にしてもえらい埃っぽいなココ。ちゃんと掃除したんか?」

 

「簡単にはな。近々ちゃんとするから、それまでは我慢してくれ」

 

二人で使う分には十分だが、チームの部室と呼ぶには少し狭い部屋。

壁に沿うように置かれた本棚の隣に据えられているトレーナーデスクの正面。畳まれてたパイプ椅子を引っ張りだして、彼女は大きく息をつきながらドカっと座り込む。

 

人酔い?ウマ娘酔いとでも言えばいいのだろうか。初めての環境でストレスが溜まってしまったらしい。

豪胆な性格だと思っていただけに少し意外だった。

体躯の通り、精神線も細いのかもしれない。今後の練習環境については一考の余地ありと、タッチペンでタブレットに走り書く。

 

「何か困ったことはあったか?たづなさんはどうだった?」

 

「まだ何とも言えへんな。

ただまぁ、郷に入ってはなんとやら。すぐに慣れたるわ。

 

たづなはんは、まぁええ人やったな。

ただ、なんか引っ掛かるっちゅーかなんちゅーか――まぁええわ」

 

「?」

 

「何もあらへん。忘れてええ」

 

一瞬考え込むような素振りを見せるが、この子が忘れろというなら忘れてもいいのだろう。

 

「クラスはどうだった?

ここまで多くの同年代のウマ娘と初めてだろう?何か感じることはあったか?」

 

「それも昨日の今日じゃ何も言えへんな。

ただ、ウチを見る目がみんな獲物を見る時のソレやったな。

ウチら獅子や虎ちゃうやろっちゅーねん。肉は食べるけどな」

 

トレーナーが投げ渡したボトルに口を付けつつ、冗談めかして感想を述べる。

かなり気疲れしているように見えるが、その目は皆と同じように獰猛な光を帯びていた。

 

「特に、()()()()()()調()()()()()()()()()()()と、()()()()()()()()()()()

アイツらからは、熱入った視線向けられとった気ィするな」

 

「あぁ、彼女達か……」

 

挙げた特徴を持つウマ娘は、大原も当然思い当たる節がある。

 

地方(ローカル)からの殴り込み、『破天荒』――イナリワン。

 

「尾花栗毛」と称される類稀なる美貌、『世紀に一人の美少女』――ゴールドシチー。

 

どちらも将来が大いに期待されている有力者だ。

強者は、強者の匂いを感じ取る――トレーナー間でよく言われている噂。

事前に知りえない状況でその二人を指したということは、噂もあながち間違いではないのかもしれない。

ウマ娘同士、何か感じるものがあるのだろうか。

 

「タマの感じた通り、同期の中ではかなり上位の方に入るポテンシャルを持ってる。

イナリワンは昨年から既に地方でデビューしてて、今年から"中央"に移籍してきた実力者。

 

ゴールドシチーも、あの綺麗な見た目に反してかなり貪欲に走る。

 

いずれ、お前ともやり合う時が来るだろうさ」

 

「それはごっつ楽しみやな。

ほなおしゃべりはこのへんにして、さっさと始めようやトレーナー」

 

ふんすと息巻くタマモクロス。

気合十分と言った様子に、彼は満足そうに頷く。

 

「わかった。それじゃ、記念すべき初トレーニングを開始する。

我らがチームの旗揚げだ。はい拍手」

 

パチパチと、かなり寂しい音が部室の中に反響する。

 

「……まず最初に言っておくが、お前のトレーニングは相当厳しいものになる」

 

「……なんか、締まらんなぁ……妙に威厳出そうとしとるあたり」

 

何か言ってくる芦毛のチビは無視して話を進める。

 

「具体的には――1()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

付いてこられるか?」

 

本来、デビュー戦は早くて3ヶ月――普通は半年ほどの期間を空けて出走する。

それほど時間がかかるようなトレーニングを、たった一月でやると宣言した。

 

「当たり前や!ウチが何のためにここに来たと思うとる!?

1ヶ月でも2ヶ月でも休まず走ったるわ!」

 

「いや、それは流石にオーバーワークだからダメ」

 

ヒトがやる気出しとんのにイチイチ水差すなや!とキレるチビを更に無視して、続ける。

 

「まぁ、いくらお前が泣いても辞めるつもりはないし、オーバーワークはダメと言ったが、立てている計画から逆算するとあまり時間は残って無くてな。

壊れるギリギリのラインで鍛え上げるからな」

 

タブレットを操作しながら、今後の予定について簡単に触れる。

 

「後で詳しく調べるが……俺の見立てでは、お前の心肺機能は既にほぼ完成されている」

 

画面を見せながらそう指摘するトレーナーを、真剣な目で見つめて頷くタマモクロス。

 

長時間の走行によって鍛え上げられた"それ"は、厳しいトレーニングにも耐えることができる立派な下地。

普通トレーニングというものは、それに耐えることができる身体作りを行いつつ、徐々に負荷を大きくしていくのが一般的だ。

そのプロセスを大きく短縮できるだけの十分なスタミナを備えているタマモクロスは、それだけで他のウマ娘に比べて大きなアドバンテージを有している。

あとは実践的なトレーニングを積むだけ。

 

「タマ、お前も当然理解しているとは思うが、レースは配達とは全くの別ものだ。

競い方の方向性が違うというか、全員が同じ土俵で戦うから当たり前の話ではあるんだが……

あえて言うなれば、『できるだけ長距離を走って、他の配達員と数を競う』のではなく、『全員が同じお届け先を目指し、誰が先に到着できるか』という勝負になる。

 

この違いが分かるか?」

 

「ん?他のヤツよりも速く走って着けばええだけやん。

なんかちゃうんか?」

 

「あー……まぁ、それもある意味正解だな。

それができるなら簡単だけど、その方法が一番シンプルで一番難しいんだ。

 

もし、相手が自分よりも短いルートを知っていたら?

進路を妨害されて、気持ち良く走れなかったらどうする?」

 

「それは……うーん……」

 

考えたこともなかったというような彼女の反応に、彼は正解を示す。

 

「そのためには、ペース配分、ポジションの確保やレース運びなど、"他者との駆け引き"を身に付けなきゃいけない。

今までは自分との戦いだったと思うが、これからは競争相手と一緒に走ることになる。わかりやすいだろ?

 

そいつらを出し抜くための策――お前が使いそうな言葉で言えば、"小細工"ってヤツになるのかな?それを身に付けるための時間を多めに取っていくようにする」

 

そないなこと言わへん!メーヨキソンや!と喚く芦毛を悉く無視し、結論を伝える。

 

「まぁ、長々と喋ってきたが、当面の方針は

『体力が落ちないようにしつつ、レースに勝つための走りを身体に叩き込んでいく』ってかんじだな。

 

何度も言うが、泣き言は一切聞かないからな」

 

「くどいでトレーナー!ウチは吐いた唾は呑まへん!

反吐が出るまで走ったるわ!何でも来いや!」

 

「言ったな?言質取ったからな。

あと女の子が反吐とか使うのはどうかと思うぞ」

 

そう言うと、タマモクロスの前――机の上にドンと何かを置く。

 

「なんやコレ

 

……本?」

 

「そう。過去に偉大な結果を残したウマ娘の著書や、レース理論に関する学術書。過去のレース記録をまとめたものだ」

 

「ほーん。流石は中央のトレーナー、勉強熱心やな」

 

 

「何言ってんだ?

お前が読むんだよ」

 

 

「――え?」

 

 

机を挟んで向かい側に座っているトレーナーの顔が見えないほど、うず高く積み重ねられた"英知の結晶"。

 

 

「ウチ、コレ、読む?」

 

 

「あぁ、読む。今から」

 

 

「ウチ、読む、なぜ?」

 

 

「お前、これ、読む。

俺、それ、解説」

 

 

「ウチ!?読む!?なぜ!?」

 

「IQ減りすぎだろ!いいか、スポーツは学問だ。()()()()()()()()()()()

アスリートとしての身体の作り方、レース理論、マインド。

 

最低限の知識は身に付けろ」

 

 

「最……()()……?

 

これが……?」

 

もはや自分の身長(140cm)よりも高そうな英知タワーを前に、さっきまで絶好調だった自分のやる気達が急に帰り支度を始めた。

 

 

「知識の蓄積はトレーナーの領分だろと指摘する人もいるが、俺はそうは思わん。

 

何事も、まずは形からだ。さあ始めるぞ」

 

「ちょっ、ちょっとタンマ!

 

トレーニングは!?グラウンド走ったり、ジムで身体鍛えたりは!?」

 

 

「勿論それも並行してやるぞ。だがまずはこっちだ。

せめて専門用語や基礎理論くらいは覚えないとな。

 

トレーニング中に一々解説してられないからな」

 

 

「べ、勉強は嫌やぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 

吐いた唾(フラグ)を速攻で回収し、タマモクロスの死ぬほど情けない叫びが部室に響き渡った。

 




ささやかですが宣伝です。

ハーメルンで『十五夜にプロポーズでも』と言う作品を投稿していらっしゃる『ちゃん丸』氏主催の、『ウマ娘プリティーダービー~短編企画集~』に声をかけていただき、短編を寄稿させていただきました。

5月22日から始まっており、毎日21時に1話ずつ、計9つの作品が投稿されます。
参加者の中には、ウマ娘カテゴリ内でお気に入り4桁戦士とかもいらっしゃるので、もしかしたら皆さんのお気に入りの方が書いた作品も今後出てくるかもしれません。

私のは5/28(金)に更新されます。
皆さんはタマモクロスが好きで拙作を読んでいただいているだけで、私はそれに乗っかっているだけ、というのは重々承知です。
それでも、良かったらお読みいただけるととっても嬉しいです。

今後も更新頑張りますので、応援よろしくお願いします。


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ココロとカラダ

お気に入りが5500件を突破いたしました。
定例報告のようになっていますが、件数が増えるたびにニコニコしています。
これもいつも応援してくださっている皆さんのおかげです。

本当にありがとうございます。

疑問や質問も含めて、感想もお待ちしています。
返せてない方は本当にごめんなさい!

どこかで時間作りますので許してください。


『ウマ娘とは、古くは文明の起こりから、人間と生活を共にしていた生き物である。

運搬から始まり、農耕、軍用、競技等、人々の営みに密接に関わってきた。

同じ言語を介し、共に笑い、泣き。

人類の歩んできた歴史に、彼女達の存在を欠かすことはできない。

ここでは、上記のような多様な使命に従事していたウマ娘の中でも、"競争バ"としての適性が高い個体について考察する。

 

ウマ娘は姿形こそ人間と大差ないが、その在り方や精神は、人間よりも"動物"のそれに近い性質を有している。

筋繊維は成人男性の数倍もの密度を有し、油圧式重機を彷彿とさせる膂力は物理法則を凌駕しているのではと錯覚する。

古来からの良き隣人であると同時に、人類とは違う(ことわり)で成り立っている、ある意味で最も遠い存在だとも言える。

 

彼女たちを、より動物的だと論じた根拠は複数ある。

先述した埒外の筋力は言わずもがな、議論の中心となるのはその"精神の在り方"である。

 

身体の個体差はあれど、ウマ娘として生を受けた以上必ず持っているものがある。

他者よりも速く。

他者よりも強く。

「勝負事」に対して異様に執着する、()()()()()()()

 

これが、ヒトとは決定的に違う差異である。

 

少し話は逸れるが、彼女達の身体構造は「誰よりも先に目的地(ゴール)へ辿り着く」という、種の望みを叶える為だけに形作られたと言っても過言ではない。

知的生命体としてほぼ完成され、種族単位での共通した精神的特徴を持たない人類とは似て非なる存在。

 

速く走れる脚があるから闘争を始めたのではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()姿()()()()()()()()

その(おこ)りだけを見れば、ただひとつの目的のために進化を遂げた、原始的(プリミティブ)な――地球上に現存する、人間以外の生物の性質が色濃く表れていると言える。

有史以来、人類以外で初めて言語で意思疎通が図れる唯一の文化的種族であると同時に、種としての本能に忠実な動物的側面を併せ持った極めて稀有な生物でもある。

 

長々と身体的な特徴について触れてきたが、彼女達が持つ生物的ポテンシャルを十全に発揮するためには、その精神状態(ステータス)――トレーナーが使う用語で言うところの「やる気」――が大きなウェイトを占めている。

 

極端な例を挙げると、身体に異常をきたしていても、やる気でそれを補いレースで勝利した記録が残っている。

そして、その逆もまた然り――

万全なコンディションだろうと歴戦の猛者だろうと、精神(やる気)が不安定だと掲示板を外す、といった事例は枚挙に暇がない。

 

人類のアスリートでさえ平常心を保つため、ルーティーン等を重要視しているのだ。

"種の使命"に生きている競争バにとってメンタルのコントロールとは、身体作りと同じく最も慎重に行うべき事柄である。

 

ウマ娘は基本的に感受性が非常に豊かであり、善良で健全な精神を持つ個体が大多数を占めている。

そしてヒトと同等の知能を持ちながら、ヒトを遥かに凌駕する筋力を備えている。

にもかかわらず人類が彼女達に淘汰されなかったのは、(ひとえ)にウマ娘が善人だったから――という仮説があるのは有名な話だ。

 

故に、競争バの指導にあたるトレーナーは、担当のメンタルケアを慎重に行わなければならない。

感情の振れ幅が人類のそれよりも遥かに大きい彼女達であるからこそ、やる気のコンディションはパフォーマンスに大きく作用する。

 

具体的には、大きな動揺をもたらすような言動及び挙動は極力控えるべきである――』

 

 

「言えるわけが、ないんだよなぁ……」

 

 

ひとり読んでいた著書を閉じて、小さく独りごちる。

 

彼を除いて誰もいない、チーム・プロキオンの部室と化した埃っぽい部屋。

日はすっかり落ち、聞こえるのは風が木々を揺らす音と、遠くに聞こえる救急車のサイレンのみ。

この時間に敷地内に居る人間は、彼のように残業をしている者か警備員くらいだろう。

今の時代にはあまり似つかわしくない古い蛍光灯が、青白い光を部室に落としている。

 

レース本番で実力を遺憾なく発揮するために「平常心の維持が大事」というのは、有名を通り越してもはや当たり前の話。

心の起伏が激しいウマ娘は、人間よりもそのコントロールが難しいとされている。

ほんの少し琴線に触れるような出来事でいとも容易くやる気が下がり、コンディションにも多大な影響が及ぶ。

トレーナーにはそういった"気難しい"彼女たちのメンタルをケアすることも、暗に仕事の一環として捉えられている。

 

思い出すのは、泣きながら笑っていた彼女の母親の顔。

思い出すのは、苦い顔をしていた理事長とその秘書の顔。

 

そのどちらも、レースでの活躍を目指す彼女にとってはこれ以上ないほどの雑音(ノイズ)――邪魔こそすれ、彼女の成長に良い働きをするとは思えない。

 

『なんか――虫が良すぎんか?』

 

グラウンドを見下ろすあの日の夕暮れで、何かを察したタマモクロスからの質問。あれは完全に予想外で、思わず反応を示してしまうところだった。

母と自分、どちらの事に関しても、彼女に一切悟らせるわけにはいかない。

 

 

「……トレーナーって、思っていた以上に難しいんだな」

 

誰に聞かせるわけでもなく、小さく呟いた。

 

根を詰めなければならないスケジュールに加えて、精神面で特大の爆弾を抱えている彼女のマネジメントは、本当に慎重に取り組まなければならない。

これがベテランのトレーナーであれば、まだ過去の経験から培ったノウハウでどうにかできるかもしれない。

 

だが彼は、生まれて初めて担当ウマ娘を持った身。

チュートリアルを飛ばして、いきなりコンティニュー不可の超高難易度ゲームに放り込まれたに等しい。

 

更にその立場上、誰にも攻略法を相談できないというオマケ付き。

 

 

「これは気合入れないとな」

 

 

だが、決めたのだ。

例えそれがどんなに険しい道だろうが、必ず彼女と踏破してみせると。

 

()()()()()()()()というのはそういうことなのだ。

 

冷蔵庫に常備してある、鋭利な爪痕が刻まれたようなパッケージの缶を取り出し、プルタブを開けて中身を煽る。

意図的に強めにされた炭酸が、疲れで鈍くなっていた彼の脳を再度刺激した。

 

自らを鼓舞するように両頬を叩き、読みかけの本を再度広げる。

 

 

"今日も"、プロキオンの部室の灯りは消えることはなかった。

 

 

 

□ ■ □ ■

 

 

 

一方その頃――

 

時を同じくした学園の某所。

秘書が寄越した報告書を手に、低い声で唸る少女の姿があった。

 

 

「――納得。なるほど、母親の容体が」

 

「えぇ。衰弱が著しく、今も予断を許さない状態だそうです。

本来なら面会も謝絶で、生命維持に必要な機材を繋いだ方がいいと」

 

「……彼女は、"このこと"は?」

 

「あまり良くないことは知っているとのことでしたが、詳しくは……

と言うのも母親自身が、タマモクロスさんには言うなと病院を口留めしているそうで……」

 

「……例の『やる気』理論か、はたまた――」

 

それが競走バに対する知識からくるものなのか、母の矜持からなのか、理事長とその秘書に確かめる術はない。

ただ、その"伝えない"ということが、娘に対する深い想いから来ることだけは理解できた。

 

「――憂慮。初めての専属にしては余りにも荷が重いな」

 

「えぇ。ですが、恐らく大原さんも全て知った上で決断されたと思います」

 

『深刻』と書かれた扇子を揺らし、苦々しく呟く理事長。

そんな上司の様子を見ながら、たづなは翡翠色の目を優し気に細める。

 

その脳裏には、覚悟を決めた彼の男らしい表情と、先日学園内を案内した明るく振る舞う葦毛のウマ娘の姿が浮かんでいた。

 

「タマモクロスさん、大原さんの言う通りとってもいい娘でしたよ。

色々と辛いこともあるでしょうに、それを表に一切出さなかったんですから。

 

こっそりトレーニングも覗いてきました。まだまだ粗削りですが、少し磨けば眩く光る極上の原石です。

大原さんの観察眼には本当に驚かされます。あんな逸材が、こんなすぐ近くに眠っていたなんて……」

 

「笑止ッ!私は大原のトレーナーとしての素質を微塵も疑っておらんッ!

 

だからこそ、なおのこと腹が立つのだ。

私にもっと力があれば、あんな決断を彼に迫らせることもなかったのだ……」

 

握り締めた扇子から、ミシリと嫌な音が鳴る。

 

 

『特編』の存在は、トレセン学園に在籍するウマ娘に対して秘匿することが義務付けられてる。

それは()()()()()()()()()()()()例外ではない。

明文化されない理由は簡単だが、その経緯はかなり根が深い。

 

なぜ、伏せておくのか。

理由は単純――開示することに一切のメリットがないからだ。

 

ウマ娘は善良な生き物だ。種として劣っているはずの人類を虐げることなく、今日まで仲睦まじく歴史を築いてきた。

思いやりに溢れているが故に、人の悪意に――詐欺等の犯罪に――自覚なく巻き込まれてしまうことだってある。

 

それが、ウマ娘という生き物である。そんな彼女たちが――

 

自分のトレーナーが、自分の将来に人生(バッジ)を賭けていると知ったらどうなるだろうか。

同じレースに出走するウマ娘のトレーナーが、次で負けたら学園を去ると知ったらどうなるだろうか。

 

そんなことを知ってしまったら、レースに手心を加えてしまう可能性だってある。

 

――トレーナー生命が掛かっているため、他のトレーナーに対して"手をついた"。

 

国を挙げて行っている事業に、そんなアヤがつくことは絶対に許されない。

トゥインクルシリーズというものは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

では、なぜそこまで厳しい制約を課さねばならないのか。

これも理由は非常にシンプル――

 

URAの中にも、ウマ娘に対して()()()()()()()()()()()()()()()がいるからだ。

 

 

全てのウマ娘に可能性を与えたい先代理事長。

予算の都合で、無尽蔵には受け入れさせたくないURA役員。

 

 

互いに譲らない両者が長きに渡り平行線を辿った議論の末に導き出されたのが、"行使するハードルが限りなく高いワイルドカード"という、些か苦しい折衷案だった。

矜持、食い扶持、今まで積み重ねてきたものを人質にすれば、(いたずら)に行使するトレーナーは現れないだろうと、最初から使われることはほとんど想定されていない。

 

 

じゃあスカウトマンを外部から雇用すればいいのでは、という意見もあった。トレーナー一個人が、そこまでのリスクを負う必要はあるのかと。

しかし結局は、その責任の所在が変わるだけで何の解決にもなっていない。

誰の名前で連れてこようが、"採算"が見合わなかった場合、誰かしらが腹を切ることになる事実は変わらない。

 

そもそもの話として、スカウトマンになる素養を身に付けるにはトレーナーとしての知識が不可欠だ。

素人が地方に行ってレースを観たところで、何を見たらいいのかわからないのであれば意味がない。

だがそんな知識があるならば、全国各地をドサ周る薄給仕事よりも、府中で名誉や名声のために担当ウマ娘のトレーナーとして働きたいと思うのは自然だと言える。

 

そして何よりも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()にも関わらず、何故こちらがわざわざ金を出して探さなければならない?

役員の大半はそう考えている。

 

現に生徒会と理事長室が協力して行っている外部へのスカウト活動は、その費用のほとんどが秋川やよいからの私費――ポケットマネーから捻出されている。

 

全ての人間が、ウマ娘に対して無償の愛を注ぎたいと願っているわけではないのだ。

今の組織の中で、ウマ娘の行く末を心から案じているのはほんの一握り。

レースに携わる全ての事柄を、数字でしか考えられない"興業"としか認識していない連中に、彼女達は嫌気が差している。

 

"秋川やよい"と"駿川たづな"が今の組織の在り方を好きになれないのも、そういった考えが見え隠れするからだ。

 

これが、『特編』が生まれた経緯とその背景。

"ウマ娘"が知らない、"人間"の汚い部分が詰め込まれた契約。

 

尤も、学園の運営に深く関わっている生徒会長(ルドルフ)その右腕(マルゼンスキー)は知っているかもしれない。

だがいずれも人格者であるため、吹聴して回るようなことはしないだろう。

"知ってしまったこと"に対するリスクをしっかりと理解できるだけの分別がある。

 

 

タマモクロスのようなウマ娘は、全国――世界規模で見てもさほど珍しくない。

お金がない。身内の具合が悪い。面倒を見なければならない人がいる。

 

 

()()()()()()()()()()で、彼女達の夢が奪われるような今の現状が、秋川やよいには許せなかった。

 

 

「無論、当事者にとっては大きな問題であるだろうがな。

それを"些事"と言ってのけるだけの、ウマ娘にとって、より懐の広い世の中にしていきたい。

 

理事長としての私の願いはそれだけだ」

 

「……私も同じ気持ちです。そのために、ここに居るんですから」

 

 

「感謝――いつもありがとうございます、駿()()()()

 

「いいのよ()()()()()()。私とあなたの仲ですもの」

 

 

理事長と秘書は、互いに顔を見合わせて小さく笑った。

 

 

「奮起ッ!このまま連中の言いなりというのも面白くない。

 

()()()、我々ができる限りの範囲で、チーム・プロキオンには便宜を図るように。

彼らに何か困ったことがあれば、手を差し伸べてやって欲しい」

 

「かしこまりました、()()()

 

学園を預かる貴女の名代として、精一杯サポートさせていただきます」

 

彼らにとってはもう後に引けない背水の陣だが、これは今の体制を変える大きなチャンスでもある。

地方での実績もないウマ娘が中央で結果を残したとなると、URAも閉口したままではいられないはずだ。

 

 

深々と頭を下げる秘書。それを横目に、窓に映る月に視線を向ける少女。

帽子の上に居る猫が、彼女を気遣うように「にゃあ」と小さく鳴いた。

 

 

だがいくら支援したところで、トレーナー(大原)ウマ娘(タマモクロス)が結果を出さなければ意味がない。

頭の固い連中の考えを変えるには、その硬度を超える輝かしい結果でぶん殴るしかない。

 

 

「頼むぞ――」

 

 

こうして、それぞれの思惑は動き出す。

来る、メイクデビュー戦に向けて。

 




ささやかですが、前回に引き続き宣伝です。

ハーメルンで『十五夜にプロポーズでも』と言う作品を投稿していらっしゃる『ちゃん丸』氏主催の、『ウマ娘プリティーダービー~短編企画集~』に声をかけていただき、短編を寄稿させていただきました。

5月22日から始まっており、毎日21時に1話ずつ、計9つの作品が投稿されます。
参加者の中には、ウマ娘カテゴリ内でお気に入り4桁戦士とかもいらっしゃるので、もしかしたら皆さんも追っている方が書いた作品もあるかもしれません。

私のは5/28(金)に更新されています。
皆さんはタマモクロスが好きで拙作を読んでいただいているだけで、私はそれに乗っかっているだけ、というのは重々承知です。
それでも、良かったらお読みいただけるととっても嬉しいです。

忖度無しに全作品面白いので、よかったらご覧になってください。


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学ぶ意味、そして初戦

※タマモクロスのデビュー戦が5月というのは私の完全なガバです。本当に申し訳ありません




5月中旬

阪神レース場

芝2000m 出走者11名 バ場状態――良

 

新バ戦――通称「メイクデビュー戦」

 

 

()()()()()()()タマモクロスは、肩で息をしながら呆然と掲示板を眺めていた。

 

5着まで表示される掲示板。

デジタル数字で映し出された着順に、彼女のゼッケンに書かれた番号はない。

 

「はっ、はっ――」

 

遠のきそうになる意識を、応援席から向けられる一際強い視線が辛うじて繋ぎ止めている。

苦しい。肺が潰れそうだ。

 

結果を伝える実況も。

それなりに大きな歓声も。

 

何もかも聞こえない。聞きたくない。

 

生温い風が汗を伝う頬を撫で、赤と青の鉢巻(ストライプ)が力なく揺れる。

芦毛とターフに良く映えるそれが、今はたまらなく滑稽に見えた。

 

悔しがることもなく。

泣くこともなく。

自分の身に何が起きたのかわからないといった様子で。

 

結果に一喜一憂する他の出走者10人とは違い、微動だにせず立ちすくむウマ娘。

その様子を遠目に見ながら、彼女のトレーナーもまた渋面で奥歯を力いっぱい噛み締めていた

 

通常のトレーニング期間の半分にも満たない時間での急拵え。そもそもが無茶なスケジュールではあった。

彼女には「勝ってこい」と、激励の言葉をかけた。

だが当然、楽勝で1着になれるなんて希望的観測は微塵も抱いていなかった。

しかし、嘗めてかかっているわけでもなかった。

彼女が本来持ち合わせてるポテンシャルを引き出せば、十分に勝ちの目はあると踏んで送り出した。

 

――だが、

 

「ここまで、とはな……」

 

スタンドの最前列、手すりに置いた両の拳を強く握り締める。

爪が掌に食い込み、じわりと血が滲む。

 

そんな事を意に介さず、彼の心は後悔の渦中にあった。

何がダメだったのか?やはり時期尚早だったのか?自分の指示に不足が?

いくら考えても結果は見えてこない。それでも、彼は思案を止めない。()()()()()()()()()()

 

 

1()1()()()()7()()

一ヶ月もの間、二人三脚で歩んできた先の残酷な結果がそこにあった。

 

 

「これが、レース――

 

これが本物の、勝負」

 

 

初めてのレースで彼女達が舐めたものは、

勝利の美酒ではなく、苦い辛酸だった。

 

 

 

■ □ ■ □

 

 

 

メイクデビュー戦の2週間前――

今日も今日とて、タマモクロスとトレーナーはプロキオンの部室にいた。

 

 

「――なぁトレーナー」

 

「……なんだ。手が止まってるぞ」

 

「ちゃうねん。かれこれずっとこないなオベンキョーしてきとるけど、ホンマに意味あるんかコレ?

 

ウチ走るのは多少自信あんねんけど、そないに(おつむ)がええワケやあらへんし……」

 

まだ先が尖ったままの鉛筆を握り、パイプ椅子に腰かけたまま退屈そうに足を揺らす。

年頃の少年少女というのはどうにも勉学に打ち込むのが苦手だそうだが、この娘もご多分に漏れずあまり好きではないらしい。

知識の蓄積ほど面白いものはないのだがなと首を傾げるばかりだが、そう言えば自分も学生の頃は机に向かうよりも身体を動かす方が好きだったなと思い出す。

 

集中力というのは、本来持って1時間が限界だと論文で読んだ。

そのためタマモクロスには、勉強とトレーニングを60分毎に切り替えて集中力を維持させる、というメニューを組んでいる。

 

机に向かい彼のノウハウを叩き込まれ、気分転換を兼ねて身体を動かす。

一夜漬けもかくやという程の、限界詰め込み式学習のガス抜きという意味合いもある。

 

「知識の重要性は、前にも教えたはずだが」

 

「せやけども!こないなコトしてる間に、他はみっちり走り込んどると思うと……」

 

どうやら勉強をしたくない口実ではなく、トレーニングが少ないことに対して焦りを覚えているのだろう。

気持ちがわからないわけではない。デビュー戦を目前に控えているのにも関わらず、トレーニングの半分の時間を座学に費やしているという状況は内心穏やかではいられないというのも理解できる。

仮に彼女が何の鍛錬も積んでいないウマ娘だったら、タマモクロスが言う通りに遮二無二に走らせたはずだ。

 

だが「Umar Eats」で半年間鍛えた彼女の健脚は本物だ。

トレーニングを始めたての頃に行った身体能力測定によって、彼の見立て通り優れた脚を有していることは分かっている。

そのため長所を伸ばすのではなく、足りない部分を補うような時間の使い方をしても問題ないと判断した。

 

不安そうな担当ウマ娘に、トレーナーはある質問を投げかける。

 

 

「――タマ、"正しいトレーニング"とは何だと思う?」

 

まーたややこい質問……と一瞬苦い顔をするが、鉛筆の尻を顎に当てて考える。

空を泳ぐ目線と連動するように、ぴこぴこと耳が動く。

 

 

「う~ん……わからん!

とにかくシャカリキにやって、体力を付ける!って言いたいトコロやけど、アンタのことやから(ちゃ)うんやろ?」

 

コーサン!と両手を挙げた降伏宣言。

それを見ても彼は特段がっかりした様子はない。

 

「まぁ確かに、それもまたひとつの答えではあるな。当たらずも遠からず、ってかんじか?

 

 

正解はな――()()

 

 

「……は?」

 

「厳密には、『ウマ娘による』というのが正しいかな」

 

「おい、流石に怒るで」

 

まぁ最後まで聞けと、立ち上がりかけた芦毛を手で制す。

 

「トレーニングに正解はない。それは不変の事実だ。

だってそうだろ?正解があるなら、みんなその"正しい"トレーニングをすればいい。そうすりゃ、タイムだって伸びるし結果も出るはずだ。

でも、そうはなってない。ウマ娘は一人ひとり適性距離も脚質も違うからな。

 

『ウマ娘』という種族の単位で、全てにおいて画一化できる有効なトレーニングは存在しない。今のところはな」

 

勿論、効果的なものはいくつかあるけどなと補足する。

 

「んー……要は、ウチにはウチに合ったトレーニングがあるけど、それがヨソのウマ娘にも効くとは限らんっちゅー話やろ?」

 

「よくわかってるじゃないか」

 

「茶化すなや!大体そんなん――」

 

 

()()()()()()――そう言いたいんだろ?」

 

時計を見て今の時刻を確認しながら、トレーナーは席を立ちホワイトボードの前まで移動する。

まだ少しだけなら講義の余裕もある。

 

 

「さっきも言ったように、トレーニングの"方法"に正解はない。

だが、トレーニングの"目的"にはハッキリとした解答がある」

 

教師よろしく、ボードに文字を書きながら言葉を紡ぐ。

 

「トレーニングをする目的は、大きく分けて二つ――

 

 

『地力の向上』と『再現性』だ」

 

「サイ=ゲンセイ……?」

 

誰だソイツは。

 

 

「……地力を上げるってのは本当にその通りの意味だ。

走り込みで速度をつける。水泳でスタミナをつける。ウェイトリフティングで筋力をつける。といった具合にな。

身体を鍛えること自体は、それはもうメチャクチャに大事なことだ。ぶっつけでフルマラソンを走るなんて不可能だろ?それと同じ理屈だ。一々言わなくてもわかってるよな。

 

そしてそれと同じくらい大事なのが、トレーニングでできたことを如何に本番で上手くできるか――()()()()()()()

 

講師の話を聞くこの場で唯一の生徒は、腕を組みながらまだ頭に疑問符を浮かべている。

 

「『練習でできないことは本番では絶対にできない』ってよく聞くだろ?要はアレの真逆だ。

 

一番の理想は、トレーニングで最高のパフォーマンスを出して、本番でソレを真似するだけ」

 

ふんふんと頷くタマモクロス。ようやく意図が伝わり始めている。

 

「そして、"再現"するためには"仕組みを理解すること"が大切だ。"理由"とも言い換えられる」

 

例をボードへと書き連ねていく。

 

「上り坂ではストライドを小さく取った方がいい"理由"

 

重いバ場では踏み込みにもっと意識を割く"理由"

 

ハイペースなレースでも掛からずに自分の速度を維持する"理由"

 

成り立ちが分かれば、それは立派な『知識』として蓄積される。理屈がちゃんとわかっていれば――」

 

「ホンバンでも練習通り走れる!」

 

ようやく主旨を理解したらしいタマモクロスが目を輝かせて叫んだ。

その様子を見たトレーナーが満足そうに頷く。

 

 

「そう。()()()()()()()()

 

自分で仕組みを理解していないことは再現のしようがない。

そして、本番で十全なパフォーマンスを発揮するためのメンタルのコントロール。

 

彼が座学を通じて、担当のウマ娘に伝えたい一番のポイントはそこだった。

 

「これでわかったろ?トレーニングの時間を削ってまで、知識をつけさせていた"理由"」

 

「……せやな。わかったトコロであんま乗り気はせぇへんけど、少なからずやる気は出たわ」

 

だが納得はいったらしい。

 

「"やらされる練習"ではあまり意味がない。自分で意義を見出して、初めて良いトレーニングになるんだ。

あらゆる物事には大抵理由がある。これからも気になることは何でも聞いてくれ」

 

「わーった」

 

彼女が深く頷いたところで、スマホのアラームが鳴る。

丁度60分。今からの1時間はトレーニングだ。

 

「さぁ、お待ちかねの坂路トレーニングの時間だぞ」

 

「げぇ!よりによって坂路やて!?あれごっつキツいんよなぁ……

まぁ、やるんやけどな」

 

大きく伸びをしながら立ち上がった。

彼もタブレットを片手に一緒に部室を出て、鍵をかける。

 

トレーニング自体は、とても順調に思える。

あとは経験不足をどう埋めていくかだ。

 

デビュー戦は、すぐそこまで迫っている。

 

 

 

□ ■ □ ■

 

 

 

そして本番当日――

 

彼らはデビュー戦が開催される阪神レース場――兵庫県宝塚市にいた。

 

 

「う"ぇぇ……」

 

「肝が細すぎるな」

 

タマモクロスの出走30分前――

地下バ道へと繋がっている、ウマ娘とそのトレーナー、関係者が利用できる控室。

その中でトレーナーは、顔が真っ青な自分の担当ウマ娘の背中をさすっていた。

 

彼女が歴代の名立たる名バ達と比較しても遜色ない素質を秘めていることは、彼自身も信じている。

しかしその一方で、明確な問題点も()()()、ひと月のトレーニングを通じて浮き彫りになっていた。

 

ひとつは、彼女のメンタルが想像以上に繊細(デリケート)だったこと。

自らが望んだこととはいえ、過酷な労働環境に加えて急激な生活の変化は、もともと図太いとは言い難いタマモクロスの心に大きな負荷をかけてしまっている。

彼はそれを見越して、座学にアスリートのメンタルコントロールに関する講義も取り入れてはいた。

だが一ヶ月という期間は、少女を"走者"にするには余りにも短すぎた。

 

阪神レース場は関西ということもあり、府中からはそこそこの距離がある。

レースは午後からの出走ではあるが、彼女のデビュー戦ということもあって、トレーナーはタマモクロスの前日入りを選択した。

地方の雰囲気に慣れ、ゆっくり1日過ごすことで少しでも緊張を緩和できればと考えてのことであったが、どうやら良い采配とは言えなかったようだ。

緊張から来る吐き気に苦しそうにうめく彼女を見て、彼は慎重に言葉を選ぶ。

 

 

「……大丈夫か?何度も言っているが、今日は、無茶はしなくても良い。というよりするな。

レースの雰囲気や……リアルな駆け引きを学ぶだけでも十分だ」

 

だが、背中をさするトレーナーの手を払いのけ、タマモクロスはキッと厳しい視線を向ける。

その手は、震えていた。

 

「――っ、アンタがソレを言ってどないすんねん!

こんなん、勝てへんかった理由(いいわけ)にしちゃ下の下やろ。

ウチはやったる。こんなとこでしゃがんでられへんのやっ! 黙って見とかんかい!」

 

苦しそうな顔を浮かべつつ、辛辣な言葉を吐く芦毛の少女。その小柄な体躯はレースを目前にして、更に一回り小さく見えた。

 

 

問題点の二つ目――彼女は()()()()()()()

 

ウマ娘は代謝が極めて良い――燃費が悪いとも言い換えられるのだが。

トレーニングによって消費したエネルギーを食事によって補うのは人間と一緒。

だが、その摂取量は成人男性の数倍――ともすれば十倍近くにまで及ぶ。

 

良く動き、良く食べる。健啖家であるということは、それだけで優れたウマ娘の素質を備えているとも言える。

 

だがタマモクロスの食べる量は、大原とさほど変わらない。

動いている量に対し、明らかに取り入れるエネルギーが少ないのだ。

それは環境の変化によるストレスか、もともとの体質によるものか、編入学当初よりも確実に痩せていた。

過剰とも言える座学の時間も、実は彼女の胃のキャパシティを考慮してのことだ。

これ以上に身体を動かすと、レース中のスタミナを維持することができないと判断したからだ。

 

課題は無限、だが時間は有限。

 

トレーニングに模擬レースが組めなかったことも大きな痛手だった。

季節は5月。クラシック戦線が最盛期を向かえている今の時期は、どのチームも血眼になって調整を進めている。

それと完全に被ってしまったタマモクロスのデビューは、課題であった実践経験の蓄積に大きな不安を残すものとなった。

 

 

だが、彼の担当は勝つ気でいる。

青い顔の自分を鼓舞して、闘争心は未だ燃えたままだ。

そんなウマ娘の気持ちに応えずして、何がトレーナーだろうか。

 

 

「……そうだよな。戦う前からそんな事は考えるべきじゃないよな。すまない」

 

「せやで!ウチのトレーナーなら、気の利いた激励のひとつやふたつかけるモンや。

それをまた、辛気臭い心配なんぞしくさってからに……」

 

メンタルをケアすべき相手に逆に心配される始末。これでは面目丸つぶれだなと自嘲気味に笑った。

 

「――ならそれっぽく、発破をかけよう」

 

そういって彼は、下げていた袋からあるものを取り出す。

 

「結果だの何だの、余計な事はもう言わん。

 

――勝て、タマモクロス。

 

"これ"は俺と、お前の家族からだ」

 

「これは――」

 

彼女の両手に載せられたもの。

上下を赤と青で塗り分けられた、大きな玉飾りが付いた赤いイヤーキャップと、同じ配色が施されたストライプの鉢巻。

 

それと、見慣れた文字で書かれた、(かあちゃん)弟妹(チビたち)からの励ましのメッセージ。

 

「その飾りは、お前のお母さんが昔使っていたものを譲っていただいて、新しく作り直したんだ」

 

久しぶりに触れた家族の温かさに、思わず目頭が熱くなる。

 

「……」

 

「赤と青ってのは、俺のアイデアだ。頭は冷静、心は熱く(cool head and warm heart)ってな。

お前の芦毛と、(ターフ)にも(ダート)にも映える色。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……なんやねんそれ……

 

こんな時に……ヒキョーや……」

 

渡されたものをギュッと抱き締め、綺麗な青い瞳から涙が零れる。

 

 

「緊張もしてるだろう。家族のことも心配だろう。

 

でも、行ってこい、タマ。

 

逆境を乗り越えた時、ウマ娘は更に強く、速くなれる。

お前は一人じゃない」

 

 

「――っ、あぁ、わかった!

 

家族に、何よりもアンタに、ウチが1着をプレゼントしたる!」

 

涙を拭い、彼女は贈られた"それ"を身に着ける。

 

 

「よし、そろそろ行こうか!

 

……良く似合ってるぞ」

 

「当たり前や!

……ホンマにありがとう、トレーナー」

 

「礼なら、勝ってから改めて聞かせてくれ」

 

控室を出て、長い地下バ動を歩く。

 

彼女の手の震えは、収まっていた。

 

 

 

 

だが、彼らはまだ知らない。

想いや絆が、レースの結果とは何の関係もない事に。

 

あと数刻も経たぬ内に、ウマ娘とそのトレーナーは、勝負の厳しさをこれでもかと思い知ることになった。



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足りないものは

今更ではございますが、いつも誤字報告本当にありがとうございます。


今回の更新に際し、本作のあらすじに少し追記をしております。


誘導されるままゲートに入った時、タマモクロスの心は限界まで張りつめていた。

 

指先の感覚がない。息ができない。汗が止まらない。

身体が際限なく酸素を欲し、溺れたかのように口を開ける。

 

空気が上手く取り込めない。まるで呼吸の仕方をわすれてしまったかのよう。

握った手に力が入らない。入っているのかさえわからない。まるで自分の手足じゃないかのよう。

 

ターフに降り立った途端に、一度は治まった緊張が再び彼女の心を苛んでいた。

聞こえるのは今にも破裂しそうな自分の心音と、遮蔽版の向こうに居る10人の息遣い。

 

 

まだか。

 

 

頬を伝って落ちる汗が、嫌に不快に感じる。

 

 

まだか。

 

 

張り裂けそうになる心臓が、今もなお激しく自己主張する。

 

 

まだか。

 

 

ゲートが開くこの数秒が、永遠に引き延ばされているように感じる。

 

(……あれ?ウチ、何でこないな狭いトコに……?)

 

自失した意識が、ここに立つ意味さえも忘却させた。

 

 

 

刹那――

 

ガシャンと派手な音と共に、戦いの火蓋が切って落とされる。

 

 

意識は完全にトんでいた。

思わず駆け出したのは、ゲートが開いた音に身体が反応したからだ。

それが、結果的にはそれなりに良いスタートとなった。

 

(――っ、せや、何を惚けとるんや!レースやぞ!

魂口から出さんと、気張らんかいタマモクロス!)

 

緊張のあまり呆けていた頭に喝を入れ、回転を始めた脚に力を込める。

そのまま徐々に加速し、他の走者に先んじてハナに立った。

 

先頭を征くアドバンテージとして、邪魔されることなく悠々とコースの中央付近から内目にコースを取って進んで行く。

 

だがそれを見た他の出走者が負けじと進出を始める。

彼女の更に内側からひとり、逃すものかと言わんばかりに並んできた。

 

(――っ、このっ――!)

 

落ち着いて考えれば、序盤のちょっとした駆け引き――ハナを切る小さな芦毛の出方を窺うための、挨拶代わりのちょっかい。

だが既に冷静さを欠いていたタマモクロスは、その安い挑発にまんまと乗ってしまう。確保したポジションを譲るものかと、後先考えずに脚を使って競り合う。

 

術中に嵌って完全に掛かり気味のタマモクロスと、並走するウマ娘の後を追うように、後続も付かず離れずの距離をキープしたまま追走する。

2バ身半差にひとり、その半バ身差でもうひとり。更に1バ身半差でふたりが虎視眈々と機を窺いながら走っている。

ここまでが先頭集団。残りの5人は、スパートで千切られない距離を見極めながらゆったりとしたペースで追いかける。

 

ムキになってオーバーペースで進むタマモクロスは、レース前に受けたトレーナーからの指示を完全に失念していた。

 

『周りを良く見ること。

無理なペースでは走らず、自分のタイミングで仕掛けること。

作戦はどれでも構わないが、ハナだけは切らないようにすること』

 

ものの見事にそれらを全て無視した彼女は、とにかく必死だった。

誰の背中も見るわけにはいかないと、形振り構わずにエンジンを噴かす。

この日のために身に付けた理屈や理論など、思い返す余裕すら無くがむしゃらに駆けている。

 

やや縦長となった集団は、そのままの順位を維持しつつ第1コーナーを抜けて向正面へと入る。

単独先頭に立っているのは変わらずタマモクロスで、2バ身半のリードを保ったまま疾駆している。先ほどまで彼女とやり合っていたウマ娘は、無理な競り合いを避けて2番手へと後退した。

 

1バ身差で3番手、半バ身差で4番手。更にその半バ身半差で5番手がやや抑えながらも気迫を込めた表情で追走。突出した開きは出ないまま、お互いに腹を探り合うレースが続いている。

 

向正面の中間を越えた辺りで、ハナを進むタマモクロスのリードは1バ身半まで縮まってきていた。

背中越しに感じる睨みつけるような視線。冷や水を浴びせられるような心地。

そこで初めて、彼女は自分自身が無茶な走り方をしていたことを自覚する。

 

(っ、やってもうた!あれだけトレーナーに口酸っぱく言われとったんに――っ!)

 

まだ3分の1も残っているにもかかわらず、スパートの一歩手前のギアで走り続けた脚は早くも悲鳴を上げつつある。疲労や息苦しさとは別種の怖気が、肚の内側から湧き上がる。

雑念を振り払うように額の汗を手の甲で乱暴に拭い、重くなってきた脚に鞭を入れる。

 

ラップタイムを見てみても、彼女はやや速いペースでレースを引っ張っている。気合を入れ直して走るタマモクロスのリードは一時的に2バ身差に広がっていたが、第3コーナーで序盤彼女と競り合っていたウマ娘が再び上がってきた。ジリジリと差を詰めるように加速し、1バ身差まで迫ってきている。

 

残り600m。2番手と1バ身半差の3番手は早めの展開に後退加減で、これを4番手が外から躱して一気呵成に差を詰めにかかる。その後ろは2バ身差で、5番手が飛ばしながら猛然と追い上げの態勢。

 

誰もが歯を食いしばって、前を向く。

必死に脚を回す。身体を前へと傾けて進む。

 

 

タマモクロスだけではない。

今日は、この11人にとってのデビュー戦でもあるのだ。

勝利を渇望しているのは、彼女以外の10人全員も同じ。

抱える想いは違えど、ターフの上ではそんなものは関係ない。

何も彼女だけが特別ではないのだ。

 

 

火花散らす集団が、第4コーナーに差し掛かる。内側を懸命に走り、先頭を未だにキープしているタマモクロスに外から3/4バ身差に迫ってくる影があった。その1バ身差で3番手が先頭の芦毛を射程圏内に捉える。スタート直後にタマモクロスと競り合ったウマ娘は、スタミナ管理を誤ったのか余力なさそうに1バ身半後ろの4番手に後退している。

先頭から5バ身ほど離れている後方グループも、着かず離れずといった距離をキープしながら足を溜めている。

応援席から見える光景だけを見れば、タマモクロスは軽快に逃げを打っているように思える。

しかし序盤の無理な叩き合いに付き合った結果、大きく体力を消耗してしまっている。ここから粘り腰を見せる余力は残っているのだろうか。

 

そして第4コーナーを抜けて直線に向くと、後ろに居る全員の雰囲気が変わった。

チリチリと身を焦がすような敵意から、冷たく貫かれるような殺意へと。

 

ドンとくぐもった破裂音と共に、いくつもの気配が自分を獲りに来る感覚――

 

(気張れ!何としてもここで踏ん張るんや!)

 

迫りくる複数の影に追い立てられるように、脱兎の如く駆ける。

しかし、理性を欠いた暴走によって、彼女は既にガス欠だった。

 

 

「――お先に」

 

「じゃあね!」

 

 

「なっ――!?」

 

 

最終盤の競り合いで、タマモクロスはあっけないほど粘れなかった。

残り300mの地点で、あっという間に後方に控えていた2人に抜き去られてしまう。

 

(嫌や――こんな――)

 

思わず、その背中に手を伸ばす。

 

ダメや。その場所はウチのモンや。

そんな言葉が脳裏を過ぎる。

 

でも、自分の身体は言う事を聞いてくれない。

どんどんと小さくなる後ろ姿。

頭から伸びる赤と青の帯を大きく靡かせて、必死に追いすがる。

 

(勝たなアカンのに――1着にならな、アカンのに……っ)

 

残り1ハロンでは、3番手に後退したタマモクロスは既に2バ身半遅れてしまっていた。スタミナが切れたことによってフォームを維持できず、取り返しがつかない程の完全な失速状態となった。

 

更に残り150m地点、1バ身半後ろの4番手が盛り返してきた。序盤でフッかけてきた、例のウマ娘だ。

今度は並ばれることもなく躱され、タマモクロスは4番手と更に後退。

完全に止まってしまった彼女を追い打つように、更に2人に抜かれる。

 

「――」

 

言葉にならない叫び。

もういい。早く終わってくれ。

再び真っ白になる頭。ただ何も考えず、力の入らない脚で前に進む。

 

そうしてゴール板の前を駆け抜けた時、既に6()()()()走者が彼女の前で脚を止めていた。

 

 

 

□ ■ □ ■

 

 

 

11人中の7着。

後ろから数えた方が早い、誰が見てもわかる惨敗だった。

 

 

1着になったウマ娘は、堅実な先行策を見事に完遂し、最後は2バ身半突き抜けての完勝だった。

涙を浮かべて喜ぶ勝者と、その周りで健闘を称え合う入着者達。

 

それをやや遠くから眺め、悔しそうに拳を握る掲示板を外した者達。

 

 

タマモクロスはそのどれにも属さず、上を見上げて呆然と立ち止まっていた。

 

「……」

 

時間にすれば、たった2分と少々の出来事。

本当に終わったのか?

混乱する頭が、この状況を理解することを拒んでいる。

滂沱のように落ちる汗を拭おうともせず、じっと掲示板を見つめている。

 

 

「――マ」

 

 

こんなに必死に走ったのに、なぜ自分(ウチ)の番号が載っていないのか。

 

 

「――い、――マ!」

 

 

夢か?きっとそうだ。

このひと月、死に物狂いでやってきたんだ。こんな結果になるはずがない。

 

 

「――おい!タマ!しっかりしろ!」

 

「――っ!?」

 

 

身体を揺さぶられ、意識がどこかから戻ってくる。

 

 

「トレーナー……」

 

 

「っ、無事か!?怪我は?どこか痛むトコロは!?」

 

 

両肩を掴み、今までになく真剣な表情で彼女に問いかける。

 

……なんでこないに必死なんや?

あぁ、そういやウチをトレセンに誘ってくれた時もこないなカオしとったなと、心の中で微笑みながら首を横に振る。

 

 

「トレーナー……レースは?」

 

大原は一瞬驚いたような顔になったが、すぐにしかめっ面を浮かべた。

 

「……タマ、レースは終わったんだ」

 

 

「……え?」

 

 

「お前はよくやった。最後までよく頑張ったな」

 

 

何を言ってるんだろうか。

 

 

「全力で走ると、脳内物質の過剰分泌や酸素の欠乏とかで頭がハイになって、一時的に記憶が飛んだりすることがあるらしい。

今のお前はソレだ。控室で汗を拭って、水分をしっかり取ってから俺のところに来るように」

 

 

トレーナーが何か小難しいことを言っている。よく分からない。

レースはどうなったのか?終わったのか?今からなのか?

 

……なぁ、アンタはなんでそないな悲しそうなカオをしとるんや?

 

 

「……タマ。

()()()()()()、俺達は」

 

 

肩から手を放し、じゃあまた後でなと離れていく。

言葉の意味が理解できず、二の句が継げなかった。

 

 

快晴だった空を、南風が連れて来た雲が半分ほど覆い隠した。

大きな影が、自分の脚元まで伸びてくる。

 

 

タマモクロスが現実を受け入れられるようになるまでに、もう少しだけ時間がかかった。

 

 

 

■ □ ■ □

 

 

 

 

「……済まなかった」

 

「……」

 

 

阪神レース場からタクシーで新神戸駅へと移動し、そこから新幹線で都内へと戻る復路。

それまでずっと黙っていたトレーナーが、唐突にぽつりとそう零した。

 

 

まばらに人が座っているがらんとした新幹線の中。

向かい合うような形で腰かけていた大原は、目の前のウマ娘へと深く頭を下げた。

 

 

「……なんでアンタが謝っとんねん。

詫び入れるんは、何も考えんと暴走したウチの方やろ」

 

 

肘掛けに頬杖を突きながら、バツが悪そうに窓の方を向いている。

彼女の目元は、何かを擦ったような赤い跡がうっすらと残っていた。

 

 

「……いや、初めてのレースに加えて、模擬レースも出来てない明らかな実践形式の練習不足。食欲の不振から来る体重の減り。

慣れない環境で受けるストレス。

俺がもっと管理できていれば全て解決できた問題だ。

 

今日タマが勝てなかったのは、俺の責任だ。本当に申し訳ない」

 

 

「……やめてくれや……別にアタマ下げさせたいワケやないねん……」

 

 

手でも付きそうな自分のトレーナーの様子に、嫌悪の色を浮かべた。

頭を上げた大原に、タマモクロスは今日の感想を述べる。

 

「……気付いたら終わっとった。

ゲートに入って、開いて、気が付いたら終わっとった。

 

未だに夢でも見とったんちゃうかって。

でも、ソレがアカンかった。

 

アンタが言った『頭は冷静』にってヤツ。いっこも守らんかった。

緊張で頭ン中真っ白になってもうて、気が付いたらほぼ全力で飛ばしとった。

 

ウチがビビりやったさかい、こないなしょーもないレースしてもうた。

 

アンタだけの責任やない。ウチかて同罪や」

 

ホンマにスマンかったと、彼がやったそれと同じように頭を下げる。

 

「……」

 

「……」

 

しばらくの間、沈黙が流れた。

 

大原は駅の売店で買ったコーヒーを、タマモクロスは彼に渡されたスポーツドリンクを静かに飲む。

 

高速で流れていく景色を横目に、お互いに何を話すべきか考えあぐねていた。

 

 

「……なぁ、トレーナー」

 

「なんだ」

 

 

すっかり意気消沈してしまった様子の彼女に、できるだけ優しい声音で返事をする。

 

 

「ウチ、次は勝てるかな」

 

 

「――任せておけ」

 

 

勝てるとも負けるとも言わず、彼はそう答えた。

結果こそ振るわなかったが、本物のレースを経験したという事実は何よりの財産となる。

 

それに今日の彼女の走りには、良い発見も沢山あった。

明日からはそれを研究しつつ、()()()()()を試す算段を既に彼はつけている。

 

 

「俺が必ず、お前を1着にしてみせる」

 

 

自分にも言い聞かせるように、呟く。

それを聞いていたタマモクロスが、スンと鼻を小さく鳴らした。

 

 

『レースに絶対は無い』

 

 

その言葉が、彼の胸に大きく圧し掛かっていた。

 

 




この場をお借りして、突然のお願いにも関わらず参照を快諾してくださった「CROSS&C.B.」管理者 びんたま様に改めてお礼申し上げます。

本当にありがとうございます。
これからも、タマモクロス号の軌跡を広める一助となるべく更新に励んで参ります。


あと私もtwitterしてますので、良かったら覗いてやってください。
大したことは呟いておりませんが、更新や進捗などを報告しようと思っております。

ID:@ayaka_nizi


参考サイト様:http://ovi.la.coocan.jp/index.htm
※多分にネタバレを含むため、閲覧は自己責任でお願いいたします


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試行錯誤 前編

今回長くなりそうな上にキリが悪かったので再び前後編に分けました。

いつも感想や評価ありがとうございます
これからも更新頑張ります

後書きにお知らせがあります


「次は(ダート)で行こうか」

 

あの忌まわしいメイクデビュー戦から数日後。

学園内のトレーニングジムでバーベルスクワットを行っている自分の担当に、大原はそう提案した。

 

「……別に、ウチは、何でも、かまへんけど――っ!」

 

汗を流し、下半身に加わる負荷に抗いながら、途切れ途切れに答える小さな芦毛。

 

クロムのメッキ加工が施された、100キロ近い鋼鉄の塊。それを担ぎながらゆっくりと腰を降ろし、床と太腿が並行になる地点で止める。

再び時間をかけて身体を持ち上げ、深く息を吐く。

 

そうしてそれを繰り返すこと15回。既に"これ"を4セット終えているタマモクロスにとって、今日の筋力トレーニングが終わりであることを暗に示していた。

 

スクワットだけに限らず、ウマ娘が筋力トレーニングを行う上で肝となるのは、この"ゆっくり"という部分に尽きる。

速いものに比べて、回数も少なくて済むので結果的に短時間で終わる。反動を使わないため、効果的に狙った部位に負荷をかけられる。怪我をしにくくなる等、スロートレーニングのメリットは非常に大きい。

特に最後が一番重要だ。ただでさえレース中に怪我で身体を痛めることが多い中、ターフに立つこともなく選手生命が絶たれることなど絶対に避けねばならない。

 

自分(トレーナー)の目の届く範囲以外で、トレーニングは決して行わないこと。

編入学の際に二人で決めたルールのひとつ。

大原以上に成果を急ぐタマモクロスであったが、不満げにしつつもそれには粛々と従っていた。

 

ただでさえ、デビュー直後とは思えないほどの過酷な出走ローテーションを組んでいるのだ。

限られたスケジュールの中とはいえ、安全マージンくらい取ってもバチは当たらないだろう。

 

「『行こう』言うとるけど、それもう決定事項なんやろ?」

 

「……そうだな。言葉のアヤだ」

 

「まぁウチはアンタの指示に従うだけやさかい、何も文句はあらへんけどな――っと」

 

大の大人が地面から少し浮かせるのにも骨を折りそうな重量のバーベルを、こともなさげにスタンドに戻す。やや乱暴に置いた所為か、金属同士が擦れる大きな甲高い音がジムの中に響いた。

何事かと、周りのウマ娘がこちらを向く。「道具はもっと慎重に扱え」というトレーナーの小言を無視し、首にかけていたタオルで顔や手足の汗を拭う。そのまま手渡されたシェイカーボトルに口をつけた。

 

運動直後からの30分間――筋繊維が傷付き、身体がエネルギーを欲している飢餓状態――医学的な呼称では「アナボリック・ウィンドウ」

一般的に言えば「ゴールデンタイム」と言われる時間。タンパク質を摂取するのに最も適しているとされているタイミングである。

 

「……味はともかく、もーちょいキンキンやと嬉しいんやけどな」

 

「あんまり冷たい飲み物は、トレーニング後に飲むものとしては適してない。身体を内側から急激に冷やすことになる」

 

ぐうの音も出ない正論が返ってきて、へいへいそーですかと適当に返事をしておくことにする。

彼女がやや眉間に皺を寄せながら飲んでいるそれは、牛乳に溶かしたプロテイン。

URAのスポンサーにもなっている製薬会社が作っており、ヒトではなくウマ娘用に調合されている特別製だ。

 

健啖家が多いウマ娘は、少しでも食事量を見誤ったりするとすぐに栄養素の過剰摂取を起こし、「太り気味」になってしまう。

そのため飲むプロテインも、カゼインや大豆といった腹持ちが良いタンパク質であることがほとんどだ。

 

大原は相変わらず小食なタマモクロスのために、吸収速度に優れた乳清(ホエイ)を主成分としたプロテインを選んだ。

これなら食事量にあまり影響せず、効率的にタンパク質等の栄養素を摂ることができると考えている。

 

ちなみにこのプロテイン、普段は売店で取扱っていない上に値段も些か張るのだが、たづなさん(えらいひと)にお願いしたらすぐに用意してくれた。

領収書を切れば経費でちゃんと落とせる。なんとも名状しがたい気分だが、こういう時ばかりは『特編』が持つ力に素直に感謝した。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「……ほんで? 次のレースってのは?」

 

空になったシェイカーボトルを彼に返し、手の甲で口元を拭った。

それにしてもプロテインというのは、どうしてこう喉が渇くのだろうか。そんなことを思っていたら、今度はペットボトルのミネラルウォーターが差し出された。

 

自分の気持ちを察し、いち早く動いてくれたことへの嬉しさ半分、なんでわかるんやという釈然としない気持ち半分。

憮然とした表情でそれを受け取る。

 

「とりあえず、部室に戻った後で話そう。汗はちゃんと拭いたか?」

 

「あぁ……ってかウチかてガキちゃうんやから、そないに子供扱いせんといてや」

 

「む、それは済まない。思慮に欠けていたな……思えば最初に公園でお前の身の上を聞いていた時も、俺の軽率な発言のせいで気分を――」

 

「あーもう、そういうのをやめーやって言いよんねんて!

ちょっと言うてみただけで、本気で何もすなとは言うてへん!」

 

何やら怒らせてしまったようだ。どうにも、年頃の少女というのは扱いが難しい。

流石に親子とまではいかないが、一回りほど年が離れている相手。性別も環境も違うのだから、当然考え方も違っている。

 

ぷいとそっぽを向いてしまった相棒を追いかけるように、部室へと歩を進める。

小さな白い頭で揺れる赤と青のストライプ。自分が贈ったそれを視界の端でとらえながら、もっと言動には気を付けていかねばと決意を新たにした。

 

最も危惧するべきは、彼女の「やる気」が下がること――

怪我と合わせて絶対に避けなければいけないトラブルだ。

 

 

鍵を開け、プロキオンの部室へと戻ってきた。

大原はデスクに、タマモクロスは向かいの場所にパイプ椅子を広げて座る。もはや定位置と言ってもいいだろう。

ちなみに埃っぽかった部屋の中は、タマモクロスが終日オフだったメイクデビュー戦の翌日に、半日を費やした大掃除でピカピカになっている。

 

「……ほんで、次のレースは?」

 

さっきと全く同じ質問。どうやら怒りは収まってくれたらしい。

重い口調とは裏腹に、耳と尻尾はそわそわしている。

 

初戦の惨敗から来る、レースに対する恐怖。

ウマ娘の欲求から来る、レースに対する渇望。

 

理性と本能、それらがせめぎ合っているのが大原もわかった。

 

だが、時間は待ってくれない。

だから、真冬の日照時間のような刹那の時で、結果を示すしかない。

 

 

「今月末、阪神レース場。

ダート1800m」

 

「……なんや。もうすぐやないかい」

 

トレーナーから告げられた日は、本番までもう二週間を切っていた。

想像以上に目と鼻の先であったことに驚きの声を上げつつ、先日の敗北を思い出して徐々に顔が苦くなる。

 

だがそんな担当の気持ちを知ってか知らずか、淡々と続けた。

 

「そうだ、もうすぐだ。

 

だが最初に言ったはずだ。かなり無茶なスケジュールになると。

1着取るんだろ?"お母さん"に、自分がセンターのウイニングライブ見せるんだろ?

 

約束、忘れてないよな?」

 

「――っ!当たり前やろ!一々言わんでもわかっとるわアホ!

 

それでかまへん!」

 

挑発的な物言いに、彼女の眦が吊り上がる。

ここまで食ってかかれる度胸が戻ったのなら、本番も大丈夫だろう。

 

 

()()()()()を使った事に、彼は人知れず胸を痛めた。

 

 

「……いつ()るかはあんま重要やない。せやろ?」

 

「そうだ。なぜ次は砂なのか、その"理由"を説明する」

 

持っていたタブレットを横向きにし、トレセン学園のサーバーにアクセス。

その中から、ひとつの動画フォルダを選択し、再生ボタンをタップした。

 

「……また観なあかんの?」

 

「あまり観たくないかもしれないが我慢してくれ」

 

 

今流しているのは、つい先日行われた彼女のデビュー戦だった。

スタートから爆走し、直線で力尽きる自分の姿に思わず顔が歪む。

 

初出走から2日後――完全オフを挟んだトレーニングで、二人は「反省会」と称したビデオの鑑賞会を行っていた。

逐一停止しては解説を入れ、時には巻き戻り、何度も何度も繰り返し視聴しながら、ダメだったところと良かったところを話し合った。

 

「過ぎたレースを今更どうこう考えても仕方がない。課題は明確になったから、次はそれを潰せばいい。

 

今回は、タマの良かった部分について改めて考察する」

 

椅子から立ち上がると、ホワイトボードの前へと動いた。

部室では、基本的に椅子とボードの前を往復するのが彼の基本ムーブである。

 

前回の敗因は明らかだ。初めてのレースによるプレッシャーと、他の出走者の挑発に乗ってしまったことで完全に掛かってしまい、後半の脚を全く残さずに暴走してしまったこと。

実戦経験の圧倒的不足、緊張から来る視野狭窄、ガス欠によって完全に乱れたフォーム。

一応、全てにきちんとした解答があるだけまだマシだ。

 

「本来、あんな無茶な走りをしていたら、上り3ハロンを待たずして半分の1000m地点で潰れていてもおかしくなかった。

それを最終直線――残り300m地点まで、ハナをキープし続けていたのは本当にすごかったぞ。

見立て通りスタミナもあるし、何より好位を維持し続けようとする根性も流石だった」

 

「……負けたら何の意味もあらへんけどな」

 

「まぁそう言うな。あの『皇帝』シンボリルドルフだって、シリーズ内で3回は土がついてるんだ。

レースに絶対はない。良い意味でも、悪い意味でもな」

 

自嘲気味にぼやくタマモクロスを嗜めるように言葉を紡ぐ。

 

「だから芝よりもパワーが大事で、叩き合いに持ち込みやすいダートも試してみたらいいんじゃないかと思ってな」

 

話は単純だ。バ場適性や脚質適性等、分からないことが多いから色々試しながらやってみよう というだけ。

本来はトレーニングで見極めていくものだが、時間が無いから実践でやっていく というだけ。

 

 

そこそこの速度で長い距離を走れるのは彼女の明確な強みだが、()()()()においては他と比べて明らかに後塵を拝している。

スピード勝負に持ち込まれた場合、分が悪いのはこちら側だ。

 

「少しでも有利な土俵で戦うって魂胆やな」

 

「そういうことだ」

 

リベンジを誓うチーム・プロキオンは、お互いの顔を見合わせてニヤリと笑う。

 

「知っての通りあまり時間はないが、レース当日までは走り込みはそこそこにして、水泳や筋力トレーニングを中心に行っていく。

 

今まで以上にしごいていくからそのつもりでな」

 

「ばっち来いやでトレーナー!負けっぱなしは性に合わんさかい、ここらでいっちょ気合入れ直さんとな!」

 

右手で作った握り拳を左の掌にパチンと打ち、気合十分と言った様子。完全に吹っ切れたというわけではなさそうだが、闘志の火が再び点いたようだ。

 

 

「では早速始めよう。今からのトレーニングはパワーをつけるために――」

 

「またジムでやるんか!?」

 

 

「――『ウマ娘の骨格と筋繊維のバランスが齎す運動エネルギー伝達効率について』

 

まずこの論文について解説する」

 

 

「だから勉強は嫌やぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 

本物のレースを経験しても、相変わらず机に向かうのは苦手なタマモクロスであった。




少し宣伝になりますが、
先日私が参加した「ウマ娘プリティーダービー~企画短編集~」ですが、

このような形式のウマ娘の短編アンソロジー企画を、私主催で現在検討しています。

6月に参加募集
7月中が執筆期間
8月から公開

というようなスケジュールで考えています。

・書いてみたいネタはあるけど、連載にするにはちょっと違う
・創作に興味あるけど、なかなか踏み出せずにいる
・自分の作品について、批評感想が欲しい

このような方がいらっしゃいましたらぜひ参加をご検討いただけると嬉しいです。
詳しいレギュレーションに関しては現在設定中のため、出来次第私のTwitterで告知いたします

ID:@ayaka_nizi

※ウマ娘公式から出ている二次創作に関するガイドラインが今後改訂され、本企画に抵触する内容があった場合は白紙となりますのでご了承ください

※追記:参加受付は締め切りました。8/1から順次投下予定のため、是非ご期待ください


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試行錯誤 後編

感想でご指摘いただき、今までの前書きを一部修正いたしました。
規約への理解が十分に及ばず申し訳ありませんでした。
お教えくださった方、ありがとうございました。


そうして迎えたレース当日――

 

阪神レース場は厚い雲に覆われ、暗澹とした帳をダートに降ろしていた。

さっきまで降っていた雨と、5月末のすっかり暑くなった気温が相俟って、高温多湿の非常に不愉快な気候。

 

このじっとりと纏わりつく嫌な空気が天気のせいだけであってほしいと、大原は思う。

 

濡れた地面と、手を伸ばせば届きそうなほど近い曇天。

縁起の悪い想像を頭から追い出し、隣の三脚に取り付けてあるカメラの確認をする。

こんな時、見届けることしかできないトレーナーという立場が実にもどかしい。

 

発表されたバ場状態は「重」。

昨日までの天気予報とは異なった空模様に、大原は渋面を作らざるを得なかった。

 

「芝」と「砂」は、ほぼ真逆の性質を持つ。

 

水を吸った砂は固くなり、踏み込みに割かれる力が軽減される。

即ち、良バ場状態の芝のレース場と性質は近いものになる。

 

前回のレースと似たような条件。更に今回は距離が200mも短い。

それらが何を意味するのか。

 

――純粋なスピード勝負に持ち込まれやすい。

 

不利を避けたはずが、前よりも分が悪いレースになるかもしれない。

だがこればかりは仕方ない。人智の及ばない要素は、運がなかったと割り切るしかない。

仮に確率を自由に操れる術があるのなら、魂ですら喜んで差し出すだろう。

 

出来ることを、出来る限りやる。

毎回、人事は尽くしている。

あとはこれまで二人でやってきたことを信じて、天からの沙汰を待つだけだ。

 

掌に滲んだ汗を、ハンカチで拭う。

奇しくも、彼女に貸したものと同じだった。

香りのすっかり抜けたそれをポケットに戻し、遠くに見える自分の担当に目を向ける。

 

誘導員の指示に従い、ゲートに収まる小さな芦毛。

砂をぽすぽすと蹴ってしきりにバ場状態を確かめていたりと、落ち着かない様子が見て取れる。

だが、前回のような心ここに在らず、といったことはなさそうだ。

 

今回、タマモクロスは2番人気に推されている。

前のレースで、ラストスパートまでの好走が評価されてのことだ。

あの勝負根性が最後まで続けば……と期待されていることの表れだろう。

7枠8番での出走。この距離での外枠はコーナーにほぼ直線で切り込むことができ、一般的には有利だとされている。

 

 

レースに絶対はない。気まぐれな勝利の女神は、今回誰に微笑むのか。

 

 

最後の一人がゲートに収まり、空気が一気に張り詰める。

息を呑む観客。気を高める出走者。

深呼吸さえも躊躇する静寂。

 

 

出走者10名

阪神レース場 右回りダート1800m

重バ場で行われる未勝利戦――

 

 

 

派手な音と共にゲートが開き、10人が一斉に飛び出した。

 

 

 

タマモクロスはゲートの解放音に驚いて身体を少し持ち上げてしまうが、致命的な出遅れはせず、まずまずと言ったスタート。

そのままじわじわと加速し、集団の前方に陣取った。

 

「――よしっ」

 

好位に取り付いた自分の担当ウマ娘に、トレーナーもグッと拳を握る。

前回の暴走を大いに反省し、今回プロキオンが立てた作戦は「先行策で前方に位置取り、脚を溜めてスパートで千切る」というもの。

 

将棋で言うところの振り飛車。所謂()()()()

 

スタミナ管理さえ誤らなければ、自力勝負に持ち込めると踏んでの指示である。

 

良いスタートダッシュを切った4番が先頭に立ち、そのすぐ後ろ、3/4バ身差で外側を追走する7番が2番手。

その更に3/4バ身差の外、3番手にタマモクロスは居た。

 

(よし、ココまではトレーナーの指示通り。後は前に出過ぎんように抑えながら――)

 

思い切り走らせろと叫ぶ本能(こころ)を宥め、行き過ぎないように抑えながら駆けている。

レースは他者との戦いであるが、自分との葛藤とも向き合わなければならない。

無意識に段々と逸りそうになる脚を、意思の力で抑え込まなければならないからだ。

心の内に眠る、獰猛な野性。それを御して初めて、勝利へと一歩近づく。

 

彼女のすぐ隣――内側には対抗意識バリバリで1番が走っている。クビほどの誤差でタマモクロスが先行しているが、ほぼ並走と言っても差支えない。

先頭から、後方から2番目を走る2番までで4バ身差の、一団が固まっているレース展開となった。

 

全員がバ場の手ごたえを確かめているような慎重なペースのまま、第1コーナーを駆け抜けていく。

ここでもタマモクロスは3番手と4番手を行ったり来たりしており、前回のように行き過ぎずに脚を溜めている。

 

(ここまでは良い。だが気がかりなのは、他がどこまで余力を残しているかどうか――)

 

担当の好走をかじりつくように眺めながら、大原はスタンドの手摺りを力いっぱい握り締める。

どれだけ策を弄しても、最終的にレースの趨勢を決するのは単純なスピード・パワー勝負であることが多い。

フィジカルに優れないウマ娘の場合は、そう言った叩き合いに持ち込まれるのを避けるために、ペースをわざと乱す、プレッシャーをかけて焦らせる、といったレースメイキングで有利な状況を作る。

ともすれば自分が沈みかねない危険な駆け引きすら、リスクを厭わずに行ったりする者もいる。

 

そうでもしなければ、基礎スペックで後れを取っている相手とは勝負にすらならないからだ。

 

タマモクロスの場合、レースの展開に合わせた作戦――アドリブの効いたレースメイクをすることは難しい。

つい先日までレースに出たことのないウマ娘にとって、状況に合わせた正しい選択肢を選ぶことはまだまだハードルが高いようだ。

だから、出来ることを出来る限りやる。

 

 

「トレーナーは神に祈るべからず」という格言がある。

 

自分の担当を、今までの研鑽を信じ、己が自信へと昇華させよ。

祈るべきは偶像ではなく、培った成果と其処に至る過程である。

そんな意味が込められている。

 

故に、大原は祈らない。

ダートを疾駆する小さな芦毛と、自らが課しているトレーニングを信じるのみ。

 

 

向正面の直線では、先頭は変わらず4番。2番手の7番は、やや苦しそうな顔を浮かべて追いすがっている。1番とのポジション争いを制し、3番手に上がってきたタマモクロスがその後に続いている。

それぞれ3/4バ身の間隔で、それ以下の娘達も大きな差はなく固まっており、ほぼ平均ペースでレースは流れている。

このままの位置をキープし、最終直線で溜めたエネルギーを解放すれば、二人が思い描いた勝ちパターンそのもの。

2回目の出走にして、ウイニングライブのセンターを頂くことになる――

 

 

――はずだった。

 

 

(っ、アカン!このままやと最後で後続に囲まれて捲れんくなってまう!ここは――)

 

「タマ……っ!」

 

 

()()()ジリジリと、ペースが上がっていく。

 

メイクデビュー戦でも掛かるところを見せたタマモクロス。今回は()()()()()()()()、自らの意思でペースを上げた。

無論、大原は指示していない。すぐ後ろに控えている7人のプレッシャーを背に受けて、我慢ができなくなったのだ。

 

「ダメだ!タマぁ!!

抑えろ!抑えるんだ!」

 

仕掛けるのが早過ぎる。このままでは持たない。

雨を吸った重い砂を蹴り込み、力強く進出を開始した自分の担当を遠目に、大原はそう直感した。

聞こえるはずもないのに、思わず叫んだ。近くにいた観客が、何事かと驚いてこっちを向く。

そして彼は、そのことをタマモクロスに伝えることができない。

 

お願いだから気付け。気付いてくれ――

 

他のトレーナーはみんな、こうも身が引き裂かれるような気持ちを抱えてちゃんと仕事が出来ているのだろうか。

首を掻きむしりたくなるもどかしさを抱えた彼を無視するように、レースは後半へと差し掛かっていた。

 

 

第3コーナー手前から先頭グループは順位を変えることなく膠着していたが、ここで少し動きを見せた。

 

(――来よったな――っ!)

 

大外から5番が、ペースを上げたタマモクロスの外に並んで来た。そのまま彼女の前に出ようと、斜めに切り込もうとする。

ここで進路を塞がれては、再加速に余計なパワーを割くことになる。そうなっては、最後の直線で競り合う余力が残らない。

 

(させへんっ!)

 

今のポジションを死守するために使うスタミナと、ブロックから抜け出すために使うスタミナ。

どちらが省エネかを瞬時に考え、彼女は前者を選択した。

 

瞬間的にブーストを吹かし、進路をインターセプト。

鋭くカットインしてこようとしていた5番を弾き出し、3番手の維持に成功する。

 

「ぐっ……」

 

急激な加速の代償に、脚に鈍に鈍い痛みが走る。

一瞬冷汗が出るものの、壊したわけではなさそうだ。

ギリギリだが、まだ脚も残っている。

 

(さぁ、行くで!)

 

ここからタマモクロスは更に脚の回転を速め、先頭との差を詰めにかかった。

 

レースの分水嶺となる3分3厘でも、先頭の4番は後続をあまり意に介さず自分のペースで逃げていた。

しかし、突如として大きな気配がすぐ後ろまで迫ってきたのを感じ、ちらりと背後を振り返る。

 

3/4バ身差で7番とタマモクロスが2番手争いを繰り広げ、ふたりの1バ身半後ろを2番が4番手で追従。

全員、()()()()()()()()

見据えているのは自分の遥か先――直線の最後に佇むゴール板のみ。

嘗められたものだとキッと視線を前へ戻し、ギアを1段階上げた。

 

「無理ィ~!」

 

第4コーナーでは、スタートからずっと2番手をキープしていた7番が、タマモクロスとの競り合いに負けて後退。

彼女が単独2番手となり、いよいよ先頭を射程距離に捉えた。しかしハナを進む4番の手応えはかなり良さそうで、十分に力を温存したまま走っているように見える。

 

タマモクロスと先頭の差は1バ身。

その外半バ身後ろに、今までずっと控えていた2番が3番手に上がってきていた。

 

「――逃がしませんよ?」

 

ぼそりと、2番の呟きが聞こえ、ぞわっと産毛が逆立つ。

背後から迫り来る怖気を振り払うように、回る脚に鞭を打つ。

 

 

コーナーを曲がり、迎えた最終直線。

 

ここからは、小手先の策も小賢しい細工も一切関係ない。

 

より速い方が勝つ。

より余力がある方が勝つ。

より筋力に優れた方が勝つ。

 

文字通り、死力を決した350m。

 

「あ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"!!」

 

小さな身体から、獣のような濁った咆哮が響く。

ハナを進む4番に、外からじわじわ上がってきたタマモクロスが、クビ差まで詰め寄ってきた。3番手の2番も3/4バ身差ですぐそこまで迫る。

スタンド前で繰り広げられる激走に、観客は怒号にも似た声援を送る。

 

「走れぇぇぇぇぇぇ!」

 

鬼気迫る表情で駆けるタマモクロスに、大原も大声で声援を送る。

勝て――勝て!

後はもう、気力の勝負。叩き合いなら、彼女にも十分勝機はある。

 

 

しかし――

 

 

残り250mで、タマモクロス身体がガクリと沈む。

 

悪いことに、彼の予想は正しかった。

その類稀な観察眼は、教官業務から離れてもなお健在だった。

 

ここに来て再びのガス欠――初戦と同様に、最後までスタミナが持たなかった。

 

ギリっと奥歯を噛んだ口の中で、血の味がする。

また、届かないのか。

 

「タマ――」

 

か細く呟いた名前は、スタンドを揺らす声援に掻き消された。

 

 

明らかに速度が落ちた芦毛(8番)に、観客からどよめきが起こる。

その隙を見逃さず、先頭の4番がダメ押しの加速で再び突き放しにかかる。残り1ハロンでは、2番手との差は1と3/4バ身に開いていた。

 

(嫌や!もう負けたくあらへん!)

 

タマモクロスも何とか粘ろうとするが、その外半バ身差の位置から2番が詰め寄ってくる。

暗殺者のように、音もなく近寄り、その首を一気に獲ろうと機を狙っている。

 

そしてラスト150m地点――

ついにその剃刀のような末脚が、タマモクロスを切り裂いた。

 

「――ふふっ」

 

「ぐっ――!」

 

並ぶことなく一気にかわされる。2番は並々ならぬ殺気を携えて、そのまま先頭にも一歩一歩詰め寄っていく。

この瞬間、彼女は悟った。

 

 

あぁ、今回もアカンか――

 

前の2人が並んだところで4番も粘りを見せたものの、結局最後は2番が、彼女に止めを刺した切れ味そのままに差し切った。

タマモクロス(8番)しか見ていなかった4番を半バ身差で下し、先頭でゴール板の前を駆け抜ける。

 

失速した上に戦意まで喪失したタマモクロスは、最後の最後ラスト60mで伏兵の3番にもかわされてしまい、最終的に4着でゴールした。

 

メイクデビュー戦より粘りは増したものの、どうにも詰めが甘いレースが続いている。

好走したところで所詮は敗者。

 

1着か、それ以外か。

レースの結果はそれしかない。

 

肩で息をしながら、タマモクロスはスタンドへと目を向ける。

 

「あ――」

 

最前列――三脚付きのカメラの隣に、トレーナーの姿を認めた。

目が合う。彼は何かを言って、薄く笑って頷いた。

 

『おつかれさま』

 

口の動き方で、何を言われたか理解した。

 

 

今回の敗因は、タマモクロス自身が中盤で折り合いを欠いたこと。

彼の言う通り、焦らず控えていればもっとスタミナが温存できたし、最後でも粘ることができたかもしれなかった。

 

レースに「たられば」はご法度だが、こんなレースを2回もしてしまっては悔いも残るというもの。

こんな体たらくな結果でもなお、優し気なトレーナーの雰囲気にバツが悪くなり、思わず顔を逸らした。

 

 

 

「――済まない」

 

そっぽを向いてしまった担当に小さく謝りながら、大原は早くも次のレースまでに必要なトレーニングを考えていた。

贔屓目無しに、今日のレースは勝てる内容だった。

重バ場の影響で最後はスピード勝負になったとはいえ、指示通りにしていれば最後も十分伸びたはずだ。

 

 

やはり彼女の一番の課題はメンタル――競争バとしてのマインドがまだ未熟であるところだ。

 

「カウンセラーや心理学の教授も当たってみるか……」

 

精神面のハードルを乗り越えるために、出来そうな事を独りごちた時――

 

 

()()はかかってきた。

 

 

ポケットの中で震えるスマートフォン。

手に取り、画面を確認する。

 

 

『駿川たづな』

 

 

――嫌な予感がする。

跳ねた心臓を落ち着かせるように一度大きく深呼吸をし、緑色のボタンをタップした。

 

 

「――お疲れ様です。大原です」

 

『駿川です。今宜しかったですか?』

 

「えぇ、丁度今レースが終わった所でして」

 

『こちらでもテレビで観ていました。次こそは良い結果になるよう、陰ながら応援していますよ』

 

「……はい。彼女のために、日夜全力でトレーニングを練っております」

 

 

これも全て言い訳に聞こえるに違いない。

まさか、『特編』の特別査定がもう――

 

 

「……それで、どうされましたか?」

 

額にうっすらと脂汗を浮かべ、本題に切り込む。

 

『はい。

 

大原さん、落ち着いて聞いてください』

 

 

 

結論から言えば、トレーナーとして体たらくな自分への、(URA)からの沙汰ではなかった。

 

 

それ以上に、悪いものだった。

 

 

 

『タマモクロスさんのお母さんの容体が急変しました。

 

再度集中治療室(ICU)に移送された後、現在はオペ室で緊急手術中とのことです』

 

 

 

大原は、神には祈らない。

 

何故なら、神は祈るものではなく、恨むものだから。

 

 

 

参考サイト様:http://ovi.la.coocan.jp/index.htm




前回の更新で告知しておりました、ウマ娘の二次創作企画
詳細なレギュレーションをTwitterに挙げておりますので、ご興味ある方はぜひ一度ご覧ください
ご参加お待ちしております。


TwitterID:@ayaka_nizi


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選択 前編

過去最長を更新しました。
それでも収まらず、今回も前後編に分けました。


阪神レース場からの帰途で、二人は特に言葉を交わさなかった。

メイクデビュー戦と同じように、飲み物を片手に窓からの景色を眺めている。

お互い肘置きに頬杖をつきながら、鏡合わせのように同じ姿勢のまま、黙って座席に座っていた。

 

大原の指示に背いた後ろめたさがあるのか、タマモクロスは終始目を合わそうとしない。

だが耳が全力で前傾姿勢を取っており、本人が一番堪えているのがありありとわかる。

ちゃんとやっていれば勝てたレースだったと、感覚で分かっているからだろう。

 

彼女はいたく落ち込んでいるが、大原は今回のレースの内容に関して概ね満足はしている。

無論言いたい事は沢山あるのだが、しっかり反省している相手に追い打ちをかけるほど彼も鬼ではない。

 

途中精彩こそ欠いたものの、前回とは比較にならないほどの理性的なレースメイク。

最後の最後まで「もしかしたら」と思わせる粘り腰。

一度火が点けば、叩き合いに滅法強い勝負根性。

 

実戦経験の不足も、トレーニングとレースで解消出来つつある。

 

 

追い風が確実に吹いている。

これからだ。

本当に、これからなのに――

 

 

レースの直後にかかって来たたづなからの電話の内容を思い出し、口を突いて出そうになる悪態をどうにかこらえる。

 

 

母親の手術は数時間にも及んだそうだ。

一時は本当に危険な状態で、寸でのところでどうにか持ちこたえたらしい。

医師による手腕か、はたまた彼女自身の生きようとする力か。

峠は越えたものの、時折不安定になる心拍が、今もなお一刻の予断も許さぬ状況であることを暗に告げている。

 

だが、誰もが口にしないだけでわかっていた。

回復の見込みなどと言った状況はとうに過ぎ、()()()()()()()()()()ということに。

 

 

何故、たづなが母親の容体について知っているのか。

一瞬大原の息も止まりかけたが、過去に病院の所在地をトレセン学園のツテで探し当てたことを思い出した。

粗方、そこから足がついたのだろう。

肉親よりも先にたづなが知っていたあたり、理事長室でも何かしらの働きかけをしていたことが予測できた。

 

そこで聡明な理事長と秘書は気付いたに違いない。

一介の教官に過ぎなかった男がある日突然、学園からのオファーを待たずして『特編』などという鬼札を切った理由に――

 

 

執刀医からは、もっと大きな病院に移すべきだと勧められたと聞く。

裁量が自分にもあるのなら、喜んで身銭を切るだろう。すぐにでも、もっと良い環境に置いてあげたい。

ウマ娘の幸福を至上の命題としている理事長室(あのひとたち)も、きっとそうするはずだ。

 

だが、縁者以外に彼女の身の振り方を決めることはできない。

大原もたづなも理事長も、所詮は"赤の他人"。

どれだけ親交を深めようとも、無二の関係を築こうとも。大切な家族を預かっていても。

この国では、手を差し伸べることができないのだ。

 

 

そして、その意思決定をするはずの彼女の娘(タマモクロス)は、まだこの事を知らない。

例によって、口留めされているままなのだろう。

自分の生命が瀬戸際にも及んでもなお、ひた隠しにしている。

文字通り、本当に墓まで持って行くつもりだ。

 

ICUに運ばれた際も、うわ言のように「娘には――」と繰り返していたらしい。

何を言いたかったのかは、その場に居合わせなくてもわかる。

 

 

 

大原は、選択を迫られていた。

 

 

 

母親の意思を尊重した場合、タマモクロスは今と変わらず、トレセン学園でトレーニングに励むことになるだろう。

彼女も、それを望んでいる。

あの子の夢の足枷にはなりたくないと、あの日涙ながらに訴えたように。

 

大原自身、病床で誓ったのだ。

 

『俺の人生を"賭して"、貴女とタマモクロスの夢を叶えます――』

 

自分のバッジが惜しいわけではない。

何もしてやれなかったと嘆く、痛々しく痩せ細った女性が見せた、母親としての矜持。

あの覚悟――親としての我が子への献身を、踏み(にじ)るようなことはしたくなかった。

 

例え娘には()()()()になったとしても。

その願いだけは、果たさせてあげるべきなのではないか。

 

タマモクロスは、素質に満ち溢れた素晴らしいウマ娘だ。

喪った悲しみはさぞ深いだろう。暫くはトレーニングにも障るかもしれない。

だがそれは、種としての本能と時間がいつか風化させてくれる。

今はまだ燻っているが、いつか必ず芽を出し、光り輝く大輪の才能を開花させるだろう。

 

 

 

――親の死に目に会えないという()()を糧として。

 

 

 

大原の両親は、共に息災だ。

トレーナー業とは全く関係ないが、どちらも未だにバリバリの現役として働いている。

しかし、それも必ず終わりが来る。

何時かは老いて、その天寿を全うする日が来るだろう。

 

そこにはきっと息子である自分が立ち会って、その最後を看取るはずだ。

 

もし、それが出来なかったら。

それどころか、亡くなった事さえ知らなかったとしたら――

 

きっと後悔する。

否――必ず、後悔する。

 

 

それは多分、自分が思っているよりもずっと、親不孝なことなのだと思う。

タマモクロス()の意志も聞かずに、大人達の都合だけで決めてしまっても良いものなのだろうか。

 

 

しかし――

 

母親が危ないと知れば、あの小さな芦毛のウマ娘は学園を出て行くだろう。

あの日語った夢も、彼との約束も。何もかも捨てて。

そうしてまた、残された家族のために身を粉にして働くのだ。

 

自分の気持ちを、今度こそ心の奥に閉じ込めて。

決して開かぬよう、理性の鎖で雁字搦めに縛り付けて。

本能が滂沱する(さま)に、気付かないふりをして。

 

そうするのが当然とでも言うように。

働いて、働いて、働いて。

 

そしていつか遠くない未来、ベッドで眠る母親の手を取って。

()()()()、お別れをして。

弟妹達と、肩を寄せながら泣くのだろう。

 

 

そしてその裏で人知れず、彼のトレーナーとしての人生もまた終わるのだ。

 

 

 

夢の行く末を、他でもない、大原(トレーナー)が決めなければならない。

 

 

母親の遺志か。

子の気持ちか。

 

自分の人生(バッジ)か。

あの子の人生(わかれ)か。

 

 

考えて。考えて。

 

 

彼が選んだのは――

 

 

 

 

□ ■ □ ■

 

 

 

 

新幹線と鉄道とタクシーを乗り継いで暫く――

日もだいぶ傾いた頃に、二人はトレセン学園へと帰ってきた。

 

 

「タマ、今からちょっと話せるか?」

 

「えぇー……それ今からやないとアカンの?

流石に今日は疲れたんやけど……」

 

途中何度も船を漕いでいたタマモクロスは、レース後のミーティングに対して露骨に難色を示した。

こんな小さな身体でありながら、60kmを優に超える速度で激走した直後だ。

人間の自分には推し量れないほどの疲労が蓄積されているはずだ。

 

「どうしてもだ。頼むよ」

 

「……あぁもうわーったわーった。

手短にしてもろてええか?」

 

ホンマにはよ終わらせてやーと、部室へと向かう彼の後をぽてぽてと付いていく。

 

 

学園の隅にある小ぢんまりとしたプレハブ小屋――この部室もすっかり見慣れたものだ。

抱えていた三脚等の荷物を下ろし、お互いの定位置に腰かける。

お茶でも入れようかとトレーナーが声をかけるも、だらんと座っている担当は黙って首を横に振った。

 

「じゃあまずは……とりあえず、レースお疲れ様。

何が良くて何がダメだったのか――敢えて俺から言うことはない。

お前自身、今日の敗因はよく分かってるはずだからな」

 

「……」

 

明後日の方向を向きながら、不貞腐れるように頷く。

大凡(おおよそ)反省会で取るような態度ではないが、ちゃんと分かっている筈なので良しとする。

 

「潰すべき課題も更に明確になった。

これから伸びるぞ、お前は」

 

「……当たり前や。次は——次こそは絶対1着取ったる。

もうアンタにも悔しい思いはさせへん」

 

「そうか……」

 

「……トレーナー?」

 

いつもなら、笑って「あぁ、期待してるぞ」なんて言う筈なのに。

何か考え事をしているかのように、表情が曇っている。

 

一瞬の沈黙の後、ハッと顔を上げる。今度は彼がバツが悪そうな顔を浮かべた。

 

「――あ、いや済まない。

実に頼もしいなと思ってな」

 

「ハッ、何やそれ。アンタがそないなコト言うとか珍しいなぁ」

 

椅子の背にだらりともたれかかり、半分溶けた状態のタマモクロスがケラケラと笑う。

 

彼はこの取り止めのない話をしている間、努めて平静を装っていた。

だがこの辺りが限界だった。

 

 

 

「――次のレースについての話をしようか」

 

「お、もう決まっとるんか。次も(ダート)なん?」

 

「そうだ。

6月中旬、阪神レース場 ダート1700m」

 

「今日とほぼ一緒やな。

ほな、明日からそれに向けてトレーニングとオベンキョー頑張らんとな」

 

「それには出さないことにした」

 

「ほうほう、ほんならぎょうさんトレーニング出来るな――って、

 

 

……え?」

 

 

レースに、()()()

 

 

「……どういうことや?」

 

口調が真面目なものに変わる。

普段から小難しいことを延々と口にしている男だ。何か事情があってのことに違いない。

 

「……病院から連絡があった。

 

 

お母さんの容態が今朝急変して緊急手じゅ――」

 

気付いた時には、身体が勝手に動いていた。

手を伸ばし、デスクの向こう側にいるトレーナーの襟首を掴んで引っ張る。

 

引き寄せられた衝撃で、机上の書類や湯呑みが床へと落ちた。

 

 

 

「――どういうことや」

 

 

 

鼻の頭同士がくっつくほどの近さ。

顔が視界の端へとはみ出す距離で、タマモクロスは繰り返す。

さっきと全く同じ言葉。だが、それに内包されている感情は全く異なっていた。

 

瞳の端から火が漏れる程の怒り。

青い双眸は男の顔を目掛けて、抜き身の刃のような鋭い視線を向ける。

 

 

「――言葉通りだ。お前のお母さんが危篤だ。

峠は越したようだが、まだまだ油断できない状況らしい」

 

ヒトとウマ娘の力の差は絶対だ。

その気になりさえすれば、大怪我を負わせることなど造作もない。

 

だが、そんなウマ娘からの強烈な敵意を向けられてもなお、彼は怯むことなく彼女を見つめている。

 

「……()()()()()()()()?」

 

「……」

 

 

沈黙。

だがこの状況においては、何よりも雄弁に答えを語っている。

ネクタイを引っ張る手に、更に力が籠る。

 

 

「何で黙っとった。」

 

「……」

 

「母ちゃんのいる病院、レース場からの方が近いんやぞ。何で黙っとった」

 

「……伝えるべきかどうか、ずっと考えていた」

 

トレーナーの言葉に、血が上っていた頭に更なる燃料が注がれる。

 

「こンの――っ!」

 

振り抜こうとした拳を、残っていたほんのひと握りの理性が踏み止まらせる。

ウマ娘が激情のままヒトを打ち据えれば、どうなるかなんて子供でも分かる。

やり場のなくなった憤怒を、言葉に乗せて吼える。

 

「ウチの、ウチの母ちゃんやぞ! アンタのとちゃうんぞ!

何でウチん家の事を外野に決められなあかんねん!」

 

じっと自分を見つめて口を閉ざすトレーナーを揺らし、叫ぶ。

 

「何でや!? 何でなんや!?

ヨソモンがしゃしゃってくんなや!」

 

犬歯を剝き出しにして、呪詛にも似た言葉を吐き出す。

 

「何であの時嘘ついたんや! 全然大丈夫じゃなかったやんか!」

 

 

『んで、どやった?母ちゃん元気しとった?』

 

『――あぁ、元気だったよ。タマによろしくと言っていた』

 

『なんやその玉虫色の返事……まぁええわ』

 

 

「……あの時、嘘をついたことは、謝る。

望むなら、手をついて……っ、謝罪しよう」

 

「ウチがそないなコトして欲しいと思うか!?

アンタが土下座したら、母ちゃん治るんか!? 」

 

視界が滲む。目の前の顔がぼやける。

 

「何でや、何で教えてくれへんかった!

何でちゃんと言うてくれへんかった!」

 

「……」

 

「その口は飾りとちゃうやろが!黙ってたらわからんやろ!」

 

段々と土気色になっていくトレーナーの顔。

涙を流しながら、大原を締め上げたままタマモクロスの追及は続く。

 

「なぁ! 頼むから何とか言ってくれや! トレーナー!」

 

心が引き裂かれそうだった。

レース後の満身創痍な身体と一緒に、このままバラバラになってしまうんじゃないかとさえ思った。

とめどなく溢れる涙を拭おうともせず、彼を怒鳴りつける。

 

「母ちゃんが大変なの知っとって、ウチにトレーニングさせとったんは何でや!

大事な家族やぞ!? アンタにとっちゃ、他所の家の事なんかどうでもええんか!?」

 

「……っ、お前だって、本当はわかっ、てたはずだ……

お母さんは、遅かれ早かれ――」

 

「だから割り切れってか!? 先は長くないから、言っても言わんでも変わらんってか!?

 

それでハイそうですかとはならんやろがボケ!

アンタ自分の親がそうなっても同じコト言えるんか!?」

 

「……」

 

「何で黙っとった!

ええからさっさと答えろや!

 

ウチが()()()()()()()()()()()()()()!」

 

これ以上しらばっくれるようなら()()()()()

そう、暗に脅していた。

 

 

「……」

 

 

それでもなお、目の前の男は口を開かない。

それどころか、締め上げられても一切変わらない表情に、タマモクロスの方が戸惑いの色を見せた。

 

 

――どうして、ここまで頑なに何も話さない?

 

 

二人が初めて出会い、一緒にトレーニングしながら今日に至るまで、実はまだ2ヶ月も経っていない。

日数にすれば非常に短い。しかし、お互いにどんな人物であるのか、人となりが十分にわかるくらいには濃密な時を過ごしてきた。

 

この大原という男は頑固で融通もあまり利かず、おまけに頭でっかちでいつも偉そうにしている。

こっちに学がないのをいいことに、常に上から目線でバカにしてくるし、文句を言うとすぐに屁理屈をこねくり回して言い負かしてくる。

ちょっと走っただけですぐに息が切れるし、身体は超硬いし、おまけに料理なんて壊滅的に下手くそだし。

 

だが自分に対しては常に真摯に、全力で尽くしてくれていた。

結果が出ないのは自分の責任だと、何日も寝ずにメニューを練ってくれていた。

初めての専属トレーナーとして色々と手探りの中、自分のために方々に頭を下げ、トレーニングのヒントを得るために日夜駆けずり回っていた。

 

トレーニングの方針の事等で軽い口論になった時も、非があるときはびっくりするほど素直に謝ってきた。

多少理不尽なことを言っても、悪くもないのに謝罪の言葉を口にしていた。

 

 

そんな男が――頑として口を割ろうとしない。

タマモクロスの知る大原久は、()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「……あるんか?」

 

彼女の目に、理性が戻ってくる。

 

 

「ウチに話せんかった"理由"が、あるんか……?」

 

 

襟を掴んでいた腕が緩む。

抗えない力で吊るされていた首が解放され、その場に崩れ落ちながら咳き込むトレーナー。

 

 

「っげほっ、げほっ――ぉぇ……っ」

 

机を挟んだ向こう側、背中を丸めてえずく。

自分が無意識にかなりの力を籠めていたことに気付き、顔が青ざめる。

 

「流石ウマ娘、すごい力だな……」

 

「あ――」

 

よろよろと立ち上がるトレーナーの姿に、思わず後ずさる。

 

「ちゃうねん、トレーナー、ウチ――」

 

「お前の怒りは至極当然だ。俺だって、お前の立場なら同じことを言うし、すると思う。

お前は俺を責める権利があるし、俺はお前の誹りを受け入れる義務がある。

 

それだけのことをしたと言う自覚もある」

 

彼の声音は優しかった。

 

「言い訳に聞こえるかもしれないが、考えてみて欲しい。

タマ――全てはお前と、お前のお母さんと、俺の夢を叶えるためだ。

 

どうして娘のタマより先に、俺がお母さんの容体を知っていたと思う?」

 

 

「それは――」

 

 

正直、思い当たる節はあった。

もしかしたらと。自分の母ならと。

 

それは傍から見れば()()()()()()()()()()で。

娘としては()()()()()()()()()()()ではなかった。

 

 

「正直、俺のエゴもないと言ったら嘘になる。

あの日、夜の公園でそれを伝えてしまったら、きっと俺の下には来てくれなかっただろうし。

 

お前ほどの逸材が、陽も当たらずに朽ちていくのが惜しかった」

 

懺悔にも似た独白は続く。

 

「でも、決めたんだ。伝えると。

 

学園を辞めて、母親の所に戻って、残された時間を家族と一緒に過ごすのも。

学園に残って、俺と一緒に夢を追い続けてくれるのも。

 

()()()()()()()()。タマモクロス。

 

どっちを選んでも、俺はそれを受け入れる。

どんな選択をしようとも、俺はお前の事をずっと支え続ける」

 

「トレーナー……」

 

「明日は1日オフにする。学園には俺から連絡しておくから、お母さんに会ってこい。

直接話せるかどうかはわからないが、ゆっくり考えて答えを聞かせてくれ」

 

話は終わりだ。疲れている時に、こんな話をして本当に済まなかった。

そう言って、先に部室を出て行った。

 

 

「ウチは――」

 

空が、泣いていた。

日が地平線に隠れ、顔を出した夜と溶け合っている。

 

茜色と闇色が斑に混ざり合い。彼女の心の中をそのまま写したかのようであった。

 

 

(トレーナー)は、選んだ。

次は彼女(ウマ娘)の番――




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選択 後編

前話が過去最長だと言ったな、あれは嘘だ。(即更新しました)


母の、笑った顔が好きだった。

すぐ抱きしめてくれる腕が好きだった。

走っている時、背中を押してくれる声が好きだった。

 

(ウチ)が走ると、母はとても喜んでくれた。

運動会や地域の行事で、私は決まって一番だった。

 

小さな催事相応な、簡素な作りの1着の旗やトロフィー。

でもそれらを持って帰る度に、家の目立つところに飾ってくれた。

未来のスターウマ娘や!と、手放しに褒め称える母。

すごいすごい! と無邪気にはしゃぐ弟妹(チビ)達。

 

裕福とは言い難い家だった。

でもそんじょそこらの家よりもずっと、家族の絆は強いという自負があった。

応援してくれる母とチビ達と、それに応える自分自身が誇らしかった。

 

自分の事のように喜んでくれる母が大好きだった。

「無敵のタマねぇ」の姿に、目を輝かせるチビ達が大好きだった。

 

そんな私が、"トレセンに行きたい"と言い出すのはごく自然なことだった。

レースで勝てば、多額の賞金が出る。それがあれば家族ももっと楽ができると、子供ながらに思っていた。

 

しかし――

あんな事を言わなければ、ずっと母は私の傍にいてくれたのではないだろうか。

私があんな夢を抱かなければ、こんな気持ちになることもなかったのではないだろうか。

 

 

人生は、無数の選択の果てに成り立っている。

 

玄関にどちらの足から入るか。

夕飯の弁当をどの店で買うか。

掛かってきた電話に今出るかかけ直すか。

夢を追うか、諦めるか。

 

小さなものから、大きなものまで。

 

無限とも言える択の中から、物事の優先順位に応じた選択肢を選ぶ。

じっくり時間をかけて考えるものもあれば、無意識の内に既に選んでいることもある。

 

今私が対峙しているのは前者の方。

しかも、一度進んだらもう引き返せない。

 

 

やりたいことは、わかっている。

やらなきゃいけないことも、たぶん、わかっている。

 

 

()()()()()()()()。タマモクロス。』

 

あの人(トレーナー)は、選んだ。

 

 

次は、私が決める番。

 

 

 

■ □ ■ □

 

 

 

未勝利戦を終え、トレーナーから母の危篤を知らされた翌日――

タマモクロスはひとり、バスの最後部の座席に揺られていた。

 

府中から、電車やバス等の公共機関を乗り継いで数時間。

段々と近づいてくる目的地。窓を少し開けてみれば、懐かしい匂いがした。

杖を持ったお年寄り。タブレットを忙しく操作しているスーツ姿のサラリーマン。車内にはぽつぽつと人が座っており、彼女は一番後ろの長いシートを独り占めしていた。

 

端に座り、憂いに満ちた表情で外の景色を眺める。

出稼ぎと言う名の上京をして以来、一度も帰っていなかった故郷。

なぜ電話だけじゃなく、もっと足繫く帰省しなかったのだろう。

昨夜から幾度となく繰り返した後悔に、顔には濃い隈が浮かんでいた。

 

延々と付き纏う自責の念。

だがこれも、彼女が選んだ結果のひとつ。

 

思わず手に力が籠る。握り締めていた紙が、くしゃりと音を立てた。

 

 

『ぁいご乗車ありがとうございました~。○×病院前、○×病院前です。お降りの方は――』

 

 

運転手の間延びした声に、はっと意識が引き戻された。

よろよろと立ち上がり、ICリーダーにカードを翳す。

二段しかない大味なステップを降りて、小さく伸びをする。

 

ディーゼル車の大きなエンジンの音を背に聞きながら、実に半年ぶりに、彼女は地元に降り立っていた。

 

 

彼女の母親が入院しているのは、実家からほど近い距離に立っている総合病院だ。

地方で幅を利かせている医療法人が経営している医院で、町医者を縦に大きくし、入院棟をくっつけたような規模感の建物である。

設備も環境もそれなりと言ったところだが、重篤な患者となると些か手に余るようだ。

入院するに際し、もっと大きな所に移るべきだと勧められていたことを思い出す。

諸々の理由で、それは断念せざるを得なかった訳だが。

 

 

当然、ここに来るのも半年空いていることになる。

 

自動扉をくぐって受付に行き、掌の中でしわくちゃになっていた紙を渡す。

 

これは今朝起きた時、自室の扉の隙間から入れられていたもの。

あの後、トレーナーが用意してくれた紹介状だ。

トレセン学園の印が押されており、「これを見せれば直ぐに面会できる」と、この一ヶ月ですっかり見慣れた筆跡で書かれたメモも添えてあった。

 

一々マメなトレーナーに心の中で謝辞を述べつつ、受付が紙を持って奥へと引っ込んでいく様をぼんやりと見ていた。

 

冷たいリノリウムの床。消毒用アルコールの匂い。

立ち止まったら、くらりと来そうな感覚。

相変わらず、ここは時間がゆっくりと流れているかのような錯覚を覚える。

 

しかし、今日の病院は少しばかり騒々しい。

 

受付のカウンターからは見えない裏手の方から、「どうして――」「なぜ――」といった声がひそひそと聞こえて来る。

 

驚き。戸惑い。

音量を絞っていても、ウマ娘の耳は小さな音でも鋭敏に感じ取れる。

 

スタッフの動揺。

これが意味するところは――

 

 

トレーナーの話を聞いた時に沸いた疑念。

それがいよいよ、確信に近いものへと変わる。

 

 

「――お待たせしました」

 

待つこと少し、廊下の奥からひとりの男性が現われた。

おぼろげな記憶を辿れば、この白衣の男は確か母親の主治医を名乗っていた人物だったと思う。

挨拶もそこそこに、彼の少し後ろをついて歩く。

集中治療室(ICU)へと案内されている間、医師からの説明は左から右へと通り抜けていた。

 

一歩一歩、進む。

段々と気分が悪くなってきた。

 

 

この先に、()()。血を分けた親子だからこそ分かる。

でもその気配は余りにも希薄で――

吹けば飛んでしまいそうな、微かな火が揺れているのを感じる。

 

会いたい。会いたいけど、帰りたい。

このまま顔を見ずに回れ右をしたほうがいいのではないだろうか。

そんな考えが脳裏を過ぎる。

 

 

「――こちらです」

 

 

入念な手指消毒の後、通された部屋。

様々な機器に囲まれて、母がベッドに横たわってた。

 

「母ちゃ――」

 

慌てて呼びかけようとするが、隣に立っている医師が肩を掴み、首を横に振る。

目を閉じ、浅く息をする女性。

最後にあった時よりもずっと瘦せ細っていて、身体の至る所に管が繋がっている。

痛々しい姿に、思わず目を逸らしそうになるのをぐっとこらえる。

 

こんなになってしまう程放っておいてしまった事に、再度タマモクロスを苛む心の呵責。

母から譲り受けた玉飾りが、耳の隣で悲しげに揺れる。

 

 

「――ウチのせいや」

 

バイタルモニターから流れる電子音だけが響く部屋で、ぽつりとそう零した。

 

自分が()()()()()()なんて抱いていなければ、こんな事にはならなかった。

母も身体を壊すことなく。チビ達とみんなと一緒に。

決して恵まれていたわけではないけれど、慎ましいながらも楽しくやっていけたはずだ。

 

母の笑顔が見たいから、走っていたのだ。

こんな結末になるのであれば、最初から――

 

「ウチが"トレセンに行きたい"なんて言うたから」

 

後悔が、悔恨が、無念が、眦から雫となって落ちる。

 

「母ちゃんがこないに大変な思いしとる間も、ウチは何も知らんとトレーニングに現を抜かしとった。

とんだ親不孝モンや」

 

言葉も、涙も、止まらなかった。

 

「チビ達もえらい迷惑やったやろな。

ウチがあんなこと言わんかったら、もっと色々ガマンもさせへんかったのに」

 

選ぶということは、つまり()()()()()()()()()()ということ。

その結果は、いつか自分に返ってくる。

 

夢を選んだ今と、選ばなかった"もしも"。

この制服を着ていること自体、間違いなのではないか。

 

「なぁ、母ちゃん。

ウチ、もう――」

 

 

その先は、医師が息を呑む音に遮られた。

 

 

意識不明だったはずの女性。

その瞼が微かに震え、ゆっくりと開かれる。

 

暫くの間、定まらない視線を漂わせた後、病床の隣に立つ人影に焦点が合った。

 

テレビや新聞で良く見かける制服。

昔自分が身に付けていたものに良く似た、青と赤の玉飾り。

同じ配色の鉢巻とイヤーキャップが良く映える、銀灰色の髪と尻尾。

 

決してここにいるはずのない()()()()の姿を認め、瞳が限界まで大きく見開かれる。

そして、何かを悟ったかのように小さく笑った。

 

「母ちゃん」

 

泣き縋りたい気持ちを抑え、タマモクロスは母親に語りかける。

 

「ウチ、トレセンに入ったで。地方やのうて、中央のや。

働いとる時に会ったあんちゃんがたまたまトレーナーで、スカウトしてもろたんや」

 

勿論、全て電話やメールで話しているから知っていること。

だが唐突に、自分の言葉で改めて話して聞かせたくなった。

 

「府中のトレセンってごっつ広いんやで!ウマ娘でも、端から端まで行くのにえらい時間かかるんよ。

今は家引き払ってしもうて、近くにある寮で暮らしとる。ホンマなら相部屋らしいんやけど、今は偶々誰もおらんさかい一人や。タマだけにな」

 

沈黙が生まれないように、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。

少しでも静かな時間が出来てしまえば、また眠ってしまうかもしれないと思ったから。

 

「美味しいモンが腹一杯食べられるし、施設だって地方のものと全然ちゃうねんで。

クラスメイトや先輩後輩も、ウチと同じくらい速そうなヤツばっかりや」

 

「最近はレースにも出始めとるんやで!今は……まだダサいトコロばっか見せてもうとるけど、

いずれウチの強さを中央にも轟かしたる」

 

その"いずれ"に、果たして母親の姿はあるのか――

余計な思考を頭から追いやり、なおも喋り続ける。

 

「こないな暮らしが出来とるのも、全部ウチのトレーナーのおかげや。

母ちゃんも会うたやろ?

アイツいっつも屁理屈ばっかこねてから、憎たらしいことありゃせん!

 

……でもトレーニングのコトになるとビックリするくらい真剣になるんや。

ウチのことずっと考えてくれて、ごっつ良くしてもらっとる。

毎日目の下に濃ゆい隈作って、ウチの為に色々と考えてくれとる」

 

口の端が微かに吊り上がる。

半分愚痴のような娘の話を、彼女は目を細めて楽しそうに聞いていた。

 

「……ウチはこの恩を返したい。早よ1着取って、ウチと、ウチのトレーナーは凄いんやぞ!って周りに大声で言いたい。

ウチのデビュー戦、見とった? ホンマダサかったわぁ……

昨日は4着やってん。一歩前進ってトコやな」

 

編入前日の、グラウンドを見下ろす舗装路で交わした言葉。

あの時、彼はタマモクロスに何か大事なことを伏せていた。

 

過去の実績も白紙。それどころか、デビュー後もイマイチ振るわないウマ娘。

そんな自分がここまでの待遇を受けていられるという事は、トレーナー側にも何かしらの皺寄せが来ているに違いない。

 

学は浅いタマモクロスだが、同年代と比べても社会への理解がある分、何も考えずにただ享受するほどバカではなかった。

 

「トレーニングは、楽しい。ベンキョーはまだ苦手やけど、賢くなって自分の引き出しが増えるのは楽しい。

ハッキリ言うて、今の生活はめっちゃ充実しとる。」

 

でもな? と、そこで言葉が途切れる。

 

 

「でもコレは、母ちゃんやチビ達を不幸にしてまで得てええモンなんかな……?

みんな辛い思いして、ずっとガマンさせとるのに、ウチだけこないな幸せでええんかな……?」

 

サッと顔が曇る。

 

 

「今まで()おへんでホンマにごめんな……」

 

彼女は怖くなった。

自分だけが幸せを享受していることに。

家族はみんな苦労しているのに、自分だけが満ち足りた日々を送っている。

想像以上に険しくはあったが、今の生活は自分が思い描いていたスターダム街道そのものであった。

 

「幸せの総量は保存されている」という、誰が提唱したかも定かではない理論がある。

 

幸運とは有限であり、それをみんなで分け合っているという空想論。

誰かが幸福になれば、その分誰かに皺寄せが来る。

幸せになった者がいるなら、その裏で必ず不幸になった者もいる。

 

一見鼻で笑いたくなるような与太話の類だが、もしかしたらそれは真理なのかもしれない。

ふと、そんなことを思った。

 

 

病院側の対応。

トレーナーの閉口。

目の前にいる母の容体。

 

 

タマモクロスは震える唇で、至った答えを口にする。

 

 

「母ちゃん。

 

ウチに知らせんと、逝くつもりやったんやろ……?」

 

 

母の優しそうな微笑みは、変わらなかった。

 

「何でや……何でそないなことするんや。

 

父ちゃんがおらんウチにとって、母ちゃんだけが唯一の親やのに」

 

一時は引っ込んでいた涙が、再び溢れ出す。

 

「迷惑とか思うとったんか?

身体悪くして、入院せんといかんくなって、ウチがトレセン行けへんくなったから。

ソレに責任(ケジメ)取らなとか思うたんか?

……母ちゃんは、ウチがそないなことして欲しいって思うんか?」

 

そないなワケないやんかと、激しく首を横に振る。

 

「親の死に目に会えんなんて、そんなん嫌や。

そないなことなら、トレセンなんて行かんでええ。

ずっと傍におる。どんなにしんどくても、ウチがまた働く。

前よりももっと稼いで、もっとええ病院に入れたるさかい」

 

ベッドの傍に寄り、膝をついて手摺りを掴む。

 

 

「……だから、ウチに黙って死なんといてや。

 

お願いやから、もっと一緒におってや――」

 

 

俯き、肩を震わせて泣く。

もっと話したい。もっとずっと一緒に居て欲しい。

本当に伝えたい言葉は、嗚咽に遮られて出てこない。

想像するだけで、悲しくて挫けそうだった。

 

もし、あのまま何も知らずにトレセンでトレーニングを行い、全てを後から知らされていたら――

きっと心が壊れていた。

走る理由も、大事な家族も喪って、空虚なウマ娘の形をした何かになっていたはずだ。

 

 

しゃくり上げる小さな芦毛。その頭に、ふわりと手が触れる。

 

 

「っ、母ちゃ――」

 

 

母親の指が、愛娘の涙をそっと拭う。

そのまま頬に手を添え、愛おしそうに撫でる。

 

「母ちゃん」

 

衰弱が進み、枝のように細くなってしまった指。それに、自分の手を重ねる。

微かな温もり。自分の体温を伝えるように、暫くじっと動かなかった。

 

 

"ごめんね"

 

 

頬から手を放し、タマモクロスの掌に指で文字をなぞる。

 

「っ、謝るのはウチの方や……!

こないになるまで放っておいたウチが全部悪いんや。

母ちゃんがおらな、走る理由なんて――」

 

"タマがはしるとこ みせて"

 

「――っ!」

 

"タマのゆめが かあちゃんのゆめ"

 

「でも……っ」

 

"いつでも ()()()()() おうえんしてる"

 

 

「……ええんか?ウチ、また走っても……」

 

 

"タマは きっとスターになる"

 

"かあちゃんの じまんのむすめ"

 

 

 

"あいしてる"

 

 

「……」

 

 

そう書くと、瞳に涙を一杯に溜めた愛娘の頬をもう一度優しく撫で、再び目を閉じた。

 

 

「再び眠ったようです。

体力もかなり消耗していると思われるので、どうかそっとしておいてあげてください」

 

手を握ったままじっとしているタマモクロスに、医者がそっと肩に触れた。

 

「……」

 

時間にして1分程。

暫く動かなかった患者の娘は、制服の袖でゴシゴシと顔を拭うと(おもむろ)に立ち上がった。

 

 

「……すんません。もう大丈夫です。

会わせてくれてありがとうございました」

 

 

そこに居たのは、さっきまでの不安に押しつぶされそうなウマ娘ではなかった。

 

 

目を赤く腫らしつつも、その内に"覚悟"を携えた、1人の()()()が居た。

 

 

 

 

■ □ ■ □

 

 

 

 

『大原だ』

 

「いつも思うとるけど電話出るの早ない? ホンマに待機しとらんでこないに早う出られるモンなん?」

 

『社会人はレス早くしてナンボだからな。

……まぁ、今日は流石に待っていたが』

 

「そーゆー相変わらずバカ正直なトコロは好感持てるわ。

普段から減らず口叩かんとそうしてもろてええか?」

 

『……善処しよう』

 

電話口のトレーナーは相変わらずの様子だった。

しかし、普段よりも緊張しているのが伝わってきた。

 

それを感じ取りつつも、タマモクロスは話題を逸らす。

 

「母ちゃん、会えたで。()()()()()()()

 

『そうか……謝って済む問題ではないが、本当にすまなかった』

 

「なんや、えらいすぐに頭下げて来たな」

 

『全て知ったのだろう? なら、俺も黙秘しておく必要はない。

……お前の気持ちも、お母さんの気持ちも良く分かるからな』

 

「まーた知ったような口利いてから……まぁええわ。これは貸しやからな」

 

お手柔らかに頼むというトレーナーの情けない声を聞き、ふっと笑みが零れる。

 

『……今日は実家に泊まるのか?別に急いでないからゆっくりしてきていいぞ』

 

「いや、家にはもう寄ってきた。チビ達にも会うてきた」

 

母親とタマモクロスが家から離れる際、弟妹達のことは地域の大人や親戚などに時折様子を見てもらうようお願いしていた。

 

久々に会った姉の姿に弟妹達は「タマねぇだ!」「おかえりタマねぇ!」「すげぇ!ホンマにシンボリルドルフやミスターシービーと同じ制服や!」と大喜び。

 

府中でのお土産と、一番下の妹に誕生日プレゼントを渡し、久しぶりの実家で色々な話をした。

 

聞けば、料理を除く家事は全部自分達で分担して行っているとのこと。

ちょっと見ない間に随分と逞しくなっていたチビ達に、タマモクロスは驚きを隠せなかった。

 

「今日はこのまま府中に帰るで。夜には着くと思う。

寮長に話しとってくれへん?」

 

『わかった。俺から伝えておこう』

 

 

それとな?と、小さく息を吸い込む。

 

「次のレースの事なんやけど……」

 

『……あぁ』

 

 

 

()()()()()()()()()()()、まだ出来るよな?」

 

『っ!?』

 

受話器の向こうで、息を呑む気配がした。

 

 

「母ちゃんも、チビ達もな、言うとったんや。

 

『タマ(ねぇ)が走ってるトコロが見たい』って」

 

レース場を駆ける自分の娘に。自慢の姉に。

それぞれの夢を乗せて。走り続けて欲しいと願っている。

 

眠る前に見せた母の笑顔。

「タマねぇがおらんでも大丈夫!」と強く言い切った弟妹達。

 

走る"理由"への焦点が再び定まり、彼女の中で鮮明な像を結んだ。

迷いは消えた。

後はもう、目標に向けて進むだけだ。

 

「せやから、ウチは走るよ、トレーナー」

 

『……いいのか?』

 

「あぁ、無論や。ただ、()()レースだけは絶対に負けられへん。

何があっても、絶対にウチがセンターのウイニングライブを家族に見せたる」

 

"次回"を強調した理由。わざわざ言葉にせずとも大原は理解していた。

 

「お願いやトレーナー。ウチを、1着にしてくれ。

悔しいけど、今のウチだけやと無理や。頼む」

 

『勿論だ。万事どころか億事を尽くして、お前を勝たせると約束しよう』

 

「それは頼もしいことやな。

ほな、また後でな。あんじょうよろしゅう頼むわ」

 

『任せておけ。帰る時気をつけてな』

 

 

画面の赤いボタンを押し、前を向く。

 

 

「……負けられへん。今度こそ」

 

 

小さく呟いた言葉には、辺りが揺らぐ程の灼熱の覇気が込められていた。




アンケートの回答もご協力お願いします。

ウマ娘短編アンソロジー企画
参加表明していただいた方は本当にありがとうございました。

最終的に、私を含めて20名もの方にご参加いただけることになりました。
初めての主催で行う企画に、ここまで沢山の方に手を挙げていただけて感無量です。
この場をお借りして御礼申し上げます。

7月は執筆期間とし、8/1から順次投下予定です。
掲載順等、決まり次第告知します。

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世界への反逆

先日頂いたタイトルロゴです。
ファンアートを頂くのは初めてで、光栄の至りです。


【挿絵表示】


お贈りくださった「ウルト兎」様、本当にありがとうございます。
これからも更新頑張ります。



「うわぁすげー!」

 

「ヒトもウマ娘もぎょうさんおる!」

 

「ねぇ、私何か食べたーい!」

 

「ねぇおじちゃん、何か買ってー!」

 

「「「「買って買ってー!」」」」

 

「おい、チビ達。あんまトレーナーを困らせたらアカン!」

 

 

6月中旬 阪神レース場

もはや彼女の主戦場と呼んでも差支えない場所。

そこに大原とタマモクロスは、彼女の弟妹を連れて来ていた。

 

彼女の実家と阪神レース場は、実はさほど離れていない。

どうせなら家族も呼んではどうかと、トレーナーから彼女に提案したのだ。

 

「そりゃ、来てくれたら嬉しいけど……ええんか?」

 

誘った時、言葉は遠慮がちだったが、耳と尻尾の動きまでは抑えきれていなかった。

それを是と受け取った大原は彼女と一緒に宝塚市に前日入りし、今朝ワンボックスをレンタカーで借りて実家へと向かい、全員回収してレース場へと戻ってきたところだった。

 

「いや、別に構わない。元々そのつもりだったしな。

みんな何がいいかな?後で好きなものを買って来よう」

 

「ホント!?おっちゃんありがとう!」

 

「「「「ありがとー!」」」」

 

「お前らはまったく……ええんかトレーナー?」

 

「勿論。折角のお姉さんの晴れ舞台だ。目一杯楽しんでもらいたい」

 

「……ほんまおおきにな」

 

嬉しそうにトレーナーと自分の手を引く弟妹達の姿に、彼女は目を細めた。

 

「本当はお母さんも呼んであげたかったんだが――済まない」

 

「その話はええって。あんな状態じゃ、移動するのも大事(おおごと)やさかい」

 

体調を最優先にし、母親は病院でお留守番だった。

しかし特別にICUにテレビを持ち込ませてもらい、中継をリアルタイムで見届ける準備は万全だ。

 

 

「……調子はどうだ?」

 

またひとつ、雰囲気が変わった自分の担当に尋ねる。

地元に帰り、親子で面会をした翌日。グラウンドに現れたタマモクロスは何かが違っていた。

 

憑き物が落ちたような、心に芯が通ったような、そんな落ち着いた雰囲気。

地に足が着き、明らかに精神が安定していた。

ついこの間まで緊張に震えていた彼女が、今はこんなにも頼もしい。

 

 

「――すこぶるええ。今日は負ける気がせぇへん」

 

強がりではない、確かな手ごたえと自信。

課題であった、メンタル面での不安。一時的かもしれないが、それがほぼ解消されつつある。

今までであれば、明日もわからない母親の体調で頭が一杯になり、心ここに在らずと言った状態になっていたはずだ。

 

親子の対話。弟妹との対話。それらを通じて、またひとつ壁を乗り越えたようだ。

 

 

「いつもなら、また緊張とプレッシャーでいっぱいいっぱいになってたはずだからな」

 

「言うとけ!……まぁ今日はチビ達もおるさかい、ええ気晴らしになっとるんはホンマやな」

 

柔らかい笑みを浮かべる彼女からは、いつものレース前のピリピリとした雰囲気は微塵も感じなかった。

心身共に充実している彼女に、これ以上の言葉は蛇足だろう。

 

「……みんなと観客席で待ってる。落ち着いていけば必ず勝てる」

 

「あぁ。あの血反吐吐きそうなトレーニングも今日のためのモンや。感謝するで、トレーナー」

 

「礼なら勝ってから、弟妹とお母さんに伝えてあげるんだな」

 

「勿論や。アンタも、ウチの華麗なダンス見て腰抜かさへんようにな!」

 

そんな言葉を交わしながら、レース場の奥へと歩いて行く。

 

 

運命のレースまで、あと3時間を切っていた。

 

 

 

 

□ ■ □ ■

 

 

 

 

そうして弟妹と過ごし、トレーナーと最終確認をしている間に、出走する第3レース直前となった。

パドックでのお披露目も終わり、全員が地下バ道を通ってゲートへと移動している。

 

発表されたバ場状態は「(やや)重」。

前回よりは有利な条件。ダート特有の、パワー勝負や叩き合いに持ち込みやすい状況だ。

アップも兼ねて、足元の感触を確かめるようにしながら走って向かう。

 

今回タマモクロスは6枠7番での出走。2番人気となった。

芝のデビュー戦でも前回のダートでも、結構しっかり走るといった評価はなされているようだ。

ただし、最後の詰めの甘さから本命にはできない。そういった予想が人気順に表れている。

 

まぁ、妥当だなと彼女自身も納得している。

不甲斐ないレースをした自分には相応しい内容。

だが今日からは、その評価を改めてもらわなければならない。

 

 

レースに出る全員がゲートに収まった。

どの番号の枠内からも、並々ならぬ気迫を感じる。

 

デビューから2ヶ月も経っていないタマモクロスにとっては、これで2度目となる未勝利戦。

だが他の出走者の中には、もう幾度目かわからないほど、この地で二の足を踏んでいる娘もいる。

 

負けに負け続け。未だに頂いたことのない先頭の景色――

赤く血走った眼には、そのイメージが焼き付いていて離れない。

 

トゥインクルシリーズを走る3年間、一勝もできずにその現役を終えるウマ娘もいる。

むしろ、そちらの方が遥かに多い。

重賞に目が行きがちだが、トレセン学園は2000人以上の強豪が一堂に会して覇を競う群雄割拠。

一度勝つだけでも、実は大変に栄誉なことなのだ。

 

更にその上澄み中の上澄み。極めて肌理(きめ)の細かい濾紙(レース)で何度も何度も濾した先に現れる、一切の混じり気のない純なる素質。

G1(スター)ウマ娘とは、得てしてそういうもの。

華々しい舞台の裏では数えきれない程の、夢の屍が積み上げられている。

 

 

勝利を渇望し、(こいねが)う者。

「今度こそは」という狂気にも似た執念が、全身からオーラのように立ち上る。

 

 

だがそれはタマモクロスとて同じ。

気圧されないよう、闘志を剥き出しにして周りに圧をかけていく。

 

 

目を閉じて、一度深く息を吸った。

数秒止めて、ゆっくりと吐き出す。

 

瞼を開くと、さっきよりもずっと視界がクリアになっていた。

 

掲示板の文字。遠くに聞こえる選挙カー演説。

応援席に詰め掛けている観客ひとりひとりの顔までハッキリと見える。

 

身体の内側は燃えるように熱いのに、頭は驚くほど冴えている。

 

「"ココロは熱く、アタマはクールに"か――」

 

デビュー戦のプレッシャーに圧し潰されそうになった時、トレーナーが自分に向けて放った言葉。

それを思い出し、小さく笑った。

 

情熱と冷静を色に織り交ぜた鉢巻が、芦毛の傍で風にそよぐ。

そっとそれに触れて、正面を向いた。

脚を前後に開き、気を集中させる。

 

 

 

出走者11名

阪神レース場 第3レース

ダート右回り1700m

 

 

絶対に負けられない戦い。

 

その幕が、「ガシャン」と無骨な音を立てて上げられた。

 

 

研ぎ澄ませていた神経が最速でその音を拾い、電気信号を脚の筋肉へと伝播させる。

臨界寸前まで溜めていた力を黒色火薬よろしく爆発させ、前方へ弾丸のように飛び出した。

 

今までで最高のスタートを切ったタマモクロスは、そのままするすると上がり先頭争いに食い込んだ。

その内から負けじと2番が積極的に出てきて、タマモクロスとハナを奪い合う。

今日のコンディションは抜群だ。始まった直後だが、ぐんぐんと前に進む自分の身体に今までとは違う手応えを感じていた。

 

トレーナーの言葉を借りるなら、()()調()だ。

 

(――っと、アカンアカン。上手く行っとる時こそ落ち着かんと。

また熱くなってもうて、全部おじゃんにしたらかなわんさかいな)

 

逸る脚を宥め、余力を残せるようにペース配分に気を配る。

先頭の二人が並び、挨拶替わりの火花を散らす。冷静さを維持しているタマモクロスは、抜け出すことなく少し抑えて走る形となった。彼女と2番、先頭2人が競り合ったままの態勢は変わることなく、第1コーナーへと差し掛かる。

 

この時の後続は、2人の外側を半バ身差でぴったりと付けている9番が3番手。その1バ身後ろに3人が並走して、残りは後ろを付かず離れずといった距離を維持したまま、思い思いのペースでゆるりと追いかけている。

 

第1コーナーを曲がり、第2コーナーに差し掛かるまでの緩やかな曲線。

どちらが先に動くか、後出しジャンケンのように互いのを(ハラ)を探り合っている先頭2人。

ジリジリとした展開。焦れた方が負け。そんなチキンレースが続くのかと思った矢先――

 

(――っ!?)

 

タマモクロスの内ラチ側で並走していた2番が、自動車の幅寄せの要領で外側に膨らんできたのだ。

体操着の袖が触れ合うほどの至近距離。人間の徒競走なら兎も角、60kmを超える速度で駆けるウマ娘にとって、その距離は事故と紙一重。

 

慌てて減速して、距離を確保する。背中に嫌な汗が出る。

 

(コイツ、一体何考えとるんや!?)

 

乱された走調(歩調と対比して使われるトレーナー用語)に、衝突を省みず危険走行を繰り出してきた相手を内心で怒鳴りつける。

その背中を後ろから睨みつけていると、こちらを振り返り、はっと浅く笑った。

 

間違いない。この2番は、ラフプレーすれすれの走行を意図的に行っている。

 

(……上等やないか)

 

ナイーブな性質故か、彼女は少々()()()()()

ここまで挑発されて黙っていられるほど、彼女はお淑やかではなかった。

逆にお前の方を潰してやるとばかりに、犬歯を剥き出しにしながらペースを少し上げた。

 

内側にいる2番が3/4バ身差でリードしており、その外で青筋を浮かべながら追いかける2番手タマモクロスはやや掛かり気味。

その後ろ2バ身半差に1番と、更に半バ身差で9番。その3/4バ身内にそれ以外の7人が団子となって控えている、かなりの混戦の様相を呈していた。

 

 

 

 

□ ■ □ ■

 

 

 

 

「うわぁタマねぇすげー!ずっと前の方におるで!」

 

「いけータマねぇ!そのままゴールや!」

 

「アカンよ!そのままだと2番じゃん!」

 

「あ、そっか……いけー!抜いてゴールや!」

 

そんなレースを応援する、今日も大勢の人で賑わっている観客席。

大原の隣で、チビ達も大声ではしゃいでいる。

初めて来たレース場。それも自分の自慢の姉が好走しているのを目の当たりにして、テンションも最高潮といった具合だ。

傍に立ってカメラを回している彼もまた、その様子を見て微笑ましく思っていた。

 

ふと、その内の一人が不安そうに大原に話しかけてきた。

 

「……なぁおっちゃん。タマねぇ勝てるよね?」

 

「……どうしてそう思うんだ?ほら、あんなに良い位置につけてるじゃないか」

 

「でも! 前のレースも、その前のやつもタマねぇはずっと前の方におった!テレビで観てた!

前の方におったのに、最後に抜かされて負けてしもた……今日だって今までと同じ――」

 

流石、弟妹の中で一番タマモクロスと歳が近い子だ。しっかりしているというか、良く観ているというか。

デビュー戦と前回のレースと展開が同じことに、あの光景を想起してしまったのだろう。

 

目に涙を浮かべて心配そうに俯いている頭に、大原はそっと手を乗せる。

 

「心配ない。今日のお姉ちゃんは本当に調子が良くてな。キミたちが応援に来てくれたおかげだ」

 

「ホント……?」

 

「あぁ、トレーナーの俺が言うんだから間違いない」

 

くしゃくしゃとその頭を撫でながら、努めて明るい声色で太鼓判を押す。

 

「それにな。今日のお姉ちゃんにはひとつ、秘策を持たせてあるんだ」

 

「ひさく……?」

 

「必殺技があるってことだよ」

 

「ひっさつわざ!?」

 

子供が喜びそうな言葉を選んでやると案の定、目を輝かせる。

 

「そう、だから今日は大丈夫だ。みんなの所に戻って、一緒にお姉ちゃんを応援してあげてくれ」

 

「わかった!」

 

笑顔で頷くと、他の兄弟のいる所へと戻っていった。

 

 

「"必殺技"、か――」

 

誰にも聞こえないように、小さく呟く。

これは、チビ達を安心させるためについた出任せの嘘ではない。

 

事実、今回は本当に策をひとつ、彼女に授けてある。

 

 

だが大原は、タマモクロスにそれを()()使()()()()()()()と指示してある。

理由は単純――ともすれば()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だからだ。

 

 

「あんなことしか言ってやれなくて、本当に済まない――」

 

ウマ娘の引き出しを増やし、ポテンシャルを十全に発揮できるサポートをするのがトレーナーの使命。

もっと具体的な良い作戦を与えることができない、トレーナーとして余りにも未熟な己を恥じた。

 

歯痒さに歪んだ顔でダートを見つめるトレーナー。

その視線の先で、彼の担当は鮮やかな"赤と青"を翻して疾駆していた。

 

 

 

 

□ ■ □ ■

 

 

 

 

ほぼ一塊となった集団は、第2コーナーを抜けて向正面に入った。

先頭は変わらず、7番(タマモクロス)にラフプレーを仕掛けてきた2番で、1と1/4バ身と差を少し広げて悠々と走っている。

直線に入り「……あれ、今ココでコイツに付きあう必要あらへんな」と冷静さを取り戻したタマモクロスは、無理に追わずに控えて2番手をキープ。

その他後続は1と1/4バ身差で固まって追走。

誰が我慢できずに飛び出すか。堪え性のないウマ娘の後の先を狙い、全員が虎視眈々と機を窺っている。

 

(――絶対逃がさへんからな)

 

第3コーナー手前では、自分に吹っ掛けてきた2番をいつでも捉えられるように、タマモクロスが先頭まで3/4バ身差のところまでじわりと接近した。落ち着けと自分自身に繰り返し言い聞かせながら、溜めた脚を解放させるタイミングを今か今かと図っている。

 

そこで大きな気配が、彼女の()()で膨れ上がる。

 

(――っと、前のアイツのコトばっか見とってもアカンな)

 

内側から3番。そして外側からは4番が。タマモクロスの影を踏む位置まで上がってきた。

 

 

「デビュー1ヶ月のポッと出なんかに――っ!」

 

「今日こそ――今日こそは……っ!」

 

 

鬼気迫る表情。髪を振り乱し、腕を大きく振り、我武者羅に脚を繰る。

 

「勝ちたい」

 

今の出走者達を動かしているのは、その気持ちただ一つ。

ずっと黒く塗り潰されてきた過去に、まず最初の白を付けるため。

すぐ傍にある永遠の果てを目指し、ウマ娘達は駆り続ける。

 

(どえらい殺気やな。負けを拗らせ過ぎると、ウチもいつかこんなんなってまうんか……)

 

その必死さに充てられ、ますます彼女の頭は冴える。

 

(確かにウチは、アンタらの言う通りポッと出の新参者や。

けど、()()()()()()()? )

 

確かに、レースの経験が豊富なのはそれだけで大きなアドバンテージになる。

本番でしか感じられない雰囲気、駆け引き、他者の動き。

"知っている"というのはそれだけで有利になる。

タマモクロス自身、経験の少なさから何度も苦渋を飲まされた。

 

しかしそれは、レースの趨勢を定める()()()()()()にはならない。

 

経験は、これからいくらでも埋められる。

技術だって身に付けられる。

速度も、体力も、根性も、全てトレーニングで補える。

 

心身共に強い方が勝つ。

勝負とは得てしてそういうものだ。

 

 

レースの3分3厘――残り600m弱の位置で、彼女をマークしていた後方二人が仕掛けてきた。

内から3番、外から4番がそれぞれ上がり、タマモクロスに並んでくる。

3人での2番手争い。左右を挟まれた彼女は、横に躱すという選択肢が取れない状況になった。

 

加速して突き放すか。

減速して立て直すか。

 

(――さて、どないしよか……?)

 

思い浮かぶのは、今までのレースのこと。

無駄に吹かしたブーストによって燃料切れを咎められ、背後から差されるレースだった。

既に"同じ轍"を踏んでしまっているのだ。三度目は絶対に避けたい。

 

しかしここで速度を落とし、二人を大外から躱してあの憎たらしい先頭(2番)を捉えるとなると、相応のリスクを負わなければならない。最悪、捉えきれずに千切られて終わってしまう。

稍重のダートは、再加速するのに相応のパワーとスタミナを消費する。

 

一瞬の逡巡の後――

 

 

(――よし、ほな行こかぁ!)

 

 

ドンと大きな音を立て、彼女は砂を力強く踏み込んだ。

今日は調子がすこぶる良い。脚も最後まで持つはずだ。

 

 

「「なっ!?」」

 

迫っていたウマ娘達が驚きの声を上げる。

この芦毛は、走った過去2回のレースとも全く同じ負け方をしている。

だから、無茶なスパートのかけ方はしないだろうと踏んでいた。

 

左右からのプレッシャーも、「引っ込んでろ」という言外の意味を込めていたはずだったのだが――

 

無謀とも言える、最終コーナー前からの加速。

学習しないのか? それとも何か奥の手が?

しばし面食らうが、それならまた潰れたところを差してやると追走する。

 

第4コーナーでは、先頭2番は変わらず。ずっとハナを進んでいるがかなり余裕を残しているように見える。3/4バ身差で外に付けている2番手タマモクロスは、軽々とハナを切っているウマ娘を見て苦い顔をする。

 

(なるほど……やはり最後はコイツとの勝負になるんやな)

 

1()()()()の2番は、今回の出走者の中では頭ひとつ抜けている印象があった。

彼女もパドックで、2番の鍛え抜かれた脚を確認している。余力もまだまだありそうだ。

 

タマモクロスには「最高速度が他と比べて劣っている」という、克服にまだ時間がかかる明確な欠点がある。

仮に両者のスタミナ全く同じだけ残っていたとしたら――

 

 

()()()()()()()()()()()()

 

 

(――っちゃう!「勝てるかどうか」やない! 「勝つ」んや!

もうここしかないんや! 今までで一番気張れやタマモクロス!)

 

雑念を追い出し、ギアを更に1段階上げる。こちらも無茶な競り合いは避け、ずっと脚を温存していたのだ。

全てはこの、自分の前をチョロチョロしているコイツを討ち取るため。

スタミナがどれだけ残っているかは知らないが、ずっとハナを進んでいた分の消耗はしているだろう。

 

半バ身差で後ろにいる3番手と4番手は、乾き始めているバ場に少しバテてきていた。その後ろ1バ身半差にいる残りの集団も、先頭2人を咎められる脚は残っていない。

 

 

彼女の冷静なレース運びが、遂に背後からの憂いを完全に排除した。

後は7番(タマモクロス)と2番の一騎打ちとなった。

 

第4コーナーを抜けて、迎えた最終直線。

一滴の余力も残さないとばかりに、彼女は最大出力で脚を回す。

 

砂を穿ち、蹴り出し、また穿つ。

小さな身体が、地を平らに均す重機のように進んで行く。

 

(もう……ちょい……やぁ――っ!!)

 

自身が出せるトップスピードで、猛然と追いすがる。

 

2番がスパートをかけた時点で、1バ身半ほど差があった。

 

残り300mで1バ身差。

残り250mで半バ身差。

 

そして――

 

(やっと、追いついたでぇっ!)

 

「――!?」

 

ラスト残り1ハロン(約200m)で、遂にタマモクロスが2番にクビ差まで迫っていた。

ホームストレッチで繰り広げられる熾烈なデッドヒート。観客は口角泡を飛ばすような剣幕で熱狂的な声援を送る。

 

「いけぇー!」

 

「タマねぇがんばれー!」

 

「あとちょっとー!」

 

「タマねぇファイトー!」

 

姉の気迫籠った疾走に、弟妹達も大声を張り上げて応援していた。

 

「タマぁぁぁぁぁぁ!そのまま走れぇぇぇぇぇぇ!」

 

身を大きく乗り出して、裏返るほどの勢いで大原も声を張り上げた。

見立てでも、このスピードを維持し続けるだけの脚はまだ残っている。

 

 

しかし――

 

 

「「なっ――!?」」

 

プロキオンが驚愕の声を上げる。

 

ついに捉えたと思っていた先頭の2番が、抜かせまいと速度を上げたのだ。

 

タマモクロスが、大原が、ゾッとするほどの切れ味。

彼女が歯を食いしばって付いて行くのを嘲笑うかのように、じわじわと再び差を開いている。

 

 

(――っ、速っ――)

 

 

想像よりも遥かに力を溜めていたようだ。

力強いスパートによって、一瞬にして差が大きく広がる。

 

「タマ……」

 

やり場のない気持ちが、担当の名前を無意識に呼ばせた。

どうか、これまでの研鑽が、彼女の努力が、家族の絆が。

あの娘に、力を与えますように――

 

 

再び小さくなり始めた背中に、逃すまいと死ぬ気で追い縋る。

 

やはり強い。伊達に1番人気を背負っていない。

終始逃げの姿勢でここまでのスパートをかけられるのは、途中隙を見て息を入れていたのだろう。

タマモクロスよりも長い勝負経験があるからこその戦術。だがそれは、このウマ娘がデビューしてから今までで一度も勝てていないということ。

"今度こそは"という思いがあるに違いない。序盤のラフプレーも、そういった強い気持ちの表れだったはずだ。

 

 

このままでは追いつけない。ウマ娘としての本能がそう告げていた。

 

(……嫌や)

 

また、勝てないのか。

 

(嫌や)

 

また、あの屈辱を味わうのか。

 

(嫌や!)

 

家族の、失意に沈んだ顔を見るのか。

 

(嫌や嫌や!!)

 

母に、自分の泣き顔を見せて別れるのか。

 

(もう負けたない!本当に、コレが最後かもしれへんのや!)

 

 

 

例え()()()()()()()()()()、今回だけは絶対に負ける訳にはいかないのだ。

 

 

 

()()()、トレーナー! 母ちゃん、チビ達、見とってくれ――

これがトレーナーと二人で鍛えた、お前らの姉ちゃんの――アンタの娘の走りやぁぁぁぁぁぁ!)

 

 

 

今の速度から、更にその一段階上へ。

 

「タマ――っ!」

 

切羽詰まったトレーナーの声が、どこかから聞こえた気がした。

それを無理矢理頭から追いやり、フォームを変える。

 

 

顎が地面を擦りそうになるほど、身体を低く。

体重を前に預け、身体が地面に着く前に砂を掻き分けて進む。

 

観客席から、一際大きなどよめきが上がる

 

 

 

 

これが、大原から授けられた必殺技――もとい、()()()

 

 

 

 

()()()姿()()()()である。

 

 

 

 

□ ■ □ ■

 

 

 

 

「『レースで絶対に勝てる秘策が欲しい』、だと……?」

 

「せやねん!ウチ、次のレースは絶対に勝たなアカンねん!

もうあんまり時間がないねん! 何かええ方法があればあだだだだだだ!何さらすねん!」

 

「む、スマン。お前が余りにもあんまりな事を言うからつい」

 

「言葉にするのも憚られるってか!? そのカワイソウなモノを見る目やめーや!」

 

レースの数日前――

 

柔軟をしながらそんなバカなお願いをしてくる担当に、背中を押していた腕に必要以上に力が籠る。

 

「……そんなものがあるなら、俺が試してないはずがないだろう?

俺だけじゃない。トレーナー全員が実践してる。

 

トレーニングに正解はないと、前にも言ったこと忘れたのか?」

 

「せやけども!」

 

そーゆーリクツやないねん!と、タマモクロスは珍しく食い下がった。

 

「オカルトでもええねん!付け焼刃でええねん!ウチにはまだ出来んモノでもええ!

何か、ウチがココロが折れそうになった時に、支えてくれる何かが欲しいんや!」

 

「……弟妹と、お母さんの事を思えば――」

 

「母ちゃんとチビ達からは既にもろうとる!あとはアンタからや、トレーナー!」

 

 

こうして取り組んでいるトレーニングがそうじゃないのか。

そう言いかけた口が、彼女の表情を見て動かなくなる。

 

「……」

 

藁にも縋ろうという必死さ。言葉とは裏腹に、その顔は真剣そのものだった。

 

「トレーナー……後生やから……」

 

ここまでされては無下にもできない。

柔軟の補助を辞め、ふむと顎に手を当てて考える。

 

「……と言っても、思いつく限りのことは全てやってるし、引き出しは出し惜しみなく全て解放しているんだがな」

 

「それはわかっとる。でも、そこを何とか……」

 

普段は小言を言いつつも諾々と従う彼女が、トレーニングの最中にも関わらずしてきた頼み事。

 

「……よっぽど勝ちたいんだな」

 

「あ、当たり前や!そりゃあいつでも1着取るためにトレーニングはしとるけど、今回は――」

 

「わかっている。大丈夫だ」

 

悲しそうに萎れている耳と尻尾。小さな頭にポンと手を置き、大原は何かないかと考えを巡らせる。

 

正攻法から外れていても効果的。且つ、万が一実践した時にちゃんとメリットとして作用し得るアドバイスとなると――

 

 

「――あ」

 

「何か思いついたんか!?」

 

 

トレーナーの反応に、目を輝かせるタマモクロス。

 

「いや、でもこれは……」

 

「何でもええ!教えてぇな!お願いやから――」

 

スーツの上着を掴み、こちらを見上げる濃紺(コバルトブルー)の瞳。

 

しばらく言い淀んでいたが、本当に必死なタマモクロスのその表情に、彼も遂に折れた。

 

 

「……まず最初に言っておくが、これはアドバイスどころかトレーナーの采配としては下の下――指導者として()()な発言だと言うことを断っておく」

 

他言無用だからなと、しつこいくらいに釘を指す。

 

「……いいか、もし体力の限界を超えて最高速度を維持したまま走りたいなら――

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()。以上だ」

 

 

「……え?」

 

それだけ?と言った表情の担当に、彼はジャケットの胸ポケットからペンを取り出した。

 

「理屈としては、本当に単純なんだ。

例えばこのペンをこうやって掌の上に立てようとする。すると――」

 

ペンは一瞬立ったものの、すぐに支えを失いターフの上へと落ちた。

 

「まぁ、普通はこうなるよな。じゃあ、ペンを立たせたままにするためにはどうしたらいい?」

 

彼女は少し考えて、頭に浮かんだことをそのまま口にした。

 

「倒れそうになった方向に手を動かす」

 

「正解。流石だな」

 

大原はペンを再度掌に立て、今度はバランスをとるように手を前後左右様々な方向に動かした。

 

「こんな感じに、倒れそうになった方向に向けて動かすと、ペンは倒れない。

 

それを、()()()()()()()()んだ」

 

講義を聞いている芦毛の生徒がゴクリと唾を呑む。

 

「身体を限界まで倒すとどうなるか――当然どこかで支えきれなくなって、地面に着く」

 

そう言いながら、段々と自分の身体を倒していく。そうして重心がずれていき――

両手で受け身を取りながら、うつ伏せで芝に倒れる。

 

「じっとしていたら、こうなる。

 

だが、これが走っていたらどうなるか――」

 

ここまで来れば、彼女も察した。

このアドバイスが()()()()()()()()()()()()()()であるかということに。

 

 

「身体が倒れる前に、進む――いや、()()()()()()()()()()()()()()()という方が正しいな」

 

 

自分の上半身を使い、無理矢理にでも走らなければならない状況を作る。

嘗て遥か昔に考案され、数多のウマ娘を壊し、不適切な指導の代名詞となった理論である。

 

 

「唾棄すべき根性論が全盛期の時に考案されたフォームだ。気合いで脚を前に出す。

出さなきゃ倒れるからな。そうやって自分を追い込み、無理矢理速度を維持したまま走る。

極めて前時代的な、過去の忌物だよ」

 

これを考えた奴は悪魔か何かだなと、唖然とする担当を見ながら彼は肩をすくめる。

 

「このフォームの一番駄目な部分は、『理論上は正しい』ってところだ。

ウマ娘に強いる負担を度外視し、筋力や速度等を入力してシミュレーションした際、最も速く走れるフォームが()()にほぼ近似した姿勢になる」

 

「だが当然、比喩でも何でもなく"死ぬほど危険"だ。体力が尽きて脚が繰り出せなくなった場合、トップスピードのまま地面に叩き付けられることになる。事故の写真、見るか?」

 

青い顔で首をブンブンと横に振った。

 

「……他にも、足腰にかかる負担が尋常じゃない。特に足首――いや、膝だな。膝に相当な柔軟性を備えていないと、脚の回転が出ている速度に間に合わない。無理にやっても壊れるからな」

 

「……で、でもそれが出来れば、スパートでヘバらんと速度を維持できるんよな?」

 

「まぁ、理論上は可能だ。ただ、これは"禁じ手"だ。タマが怪我した挙句、俺が指示したとバレようものなら一瞬でクビが飛んじまうような代物だ。

だからそんなものに頼らず、自分が今までやってきたことを信じてトレーニングに励んでくれればいい」

 

「……うん」

 

耳をぺたんと寝かせ、神妙な面持ちで頷く。それを見たトレーナーが取り繕うようにフォローを入れた。

 

「まぁ……ただ、タマくらい根性があれば、耐えられる可能性はあるがな。済まないな。こんなことしか言えなくて。当日までにもっと良さそうなアドバイスが思いついたら言うから、これは忘れてくれ

――さ、お喋りはこの辺にして、柔軟の続きをしよう。もう時間がないんだ。いつもより厳しく行くぞ」

 

「……わかった。無理いってごめんな? ――って待ちや、ちょ、まだそないに身体は曲がらなあだだだだだだだだ!」

 

この日から、トレーニング前後の柔軟体操は特に入念に行うようになった。

 

まるで、()()()()()()()()()()()()()――

 

 

 

 

□ ■ □ ■

 

 

 

 

「あ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"!!」

 

脚が重い。太腿が重い。足首が痛い。身体が今にも倒れそうだ。

濁った咆哮が喉の奥から漏れる。本当に、自分の声帯が発した音なのかも疑わしい。

 

地面とほぼ平行になっている身体を、ウマ娘の膂力と速度で無理矢理に維持している。

身体の色々な所に脚が当たり、ジッパーの金具でピッと切り傷ができる。

限界を超えた筋肉の酷使に、脚のありとあらゆる箇所から悲鳴が上がっていた。

 

 

だが効果は劇的だった。一歩踏み込む度に、信じられないほど前に進む。

脚を繰りだす度に少しずつ、自分の身体が驚くほど動く。

 

空気抵抗も最小限に、もはや白く光る流星のような速度で先頭へと肉薄する。

 

 

音も、光も、何もかも置き去りにして、その生命を燃やして駆ける。

 

 

でもこれでいい。今日だけは、いい。

だって、今日は、母にとっての最期のレースになるかもしれないから。

 

神様は残酷だ。

 

他のウマ娘と同じように、自分に走る機会を与えてくれなかった。

チビ達に自由を与えてくれなかった。

母に、丈夫な身体を与えてくれなかった。

 

 

だから今この瞬間は、世界に対する反逆なのだ。

 

 

切り傷が増えた脚が、じくじくと鈍い痛みを訴える。でもこの歩幅は決して緩めない。

 

先頭が巻き上げた砂埃が顔を撫でる。でもこの両の瞳は前を見据えたまま決して瞑らない。

 

 

(ウチは、神に――祈らへん)

 

 

自分から大事なものを奪っていく相手と、自分は戦う。

アンタらの思惑通りになんて、決してさせない。

もう何もアンタらから奪わせない。

 

 

これが、神様に対する、私の闘争(my against fight)

 

 

 

前を行く2番(アイツ)の背中がどんどん近くなる。

ウチが追いつくのが先か、奴がゴール板を抜くのが先か。

 

 

あと100m

 

あと50m

 

 

完全に並んだ。

 

 

「あ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"!」

 

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 

勝ちたい。

負けたくない。

 

お互いの気持ちを叫び声に乗せ、際の際まで力を燃やし尽くす。

 

どっちが先かなんてもうわからなかった。

ただ、一寸でも、一毛でも、先に前へ進む。

それだけを考えて脚を動かした。

 

 

「いっけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!

タマモクロスぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!!」

 

自分を応援する、一際大きな男の声。

 

 

 

それが、最後に彼女の背中を押した――

 

 

 

歓声が、地面を揺らす。

ゴールしたのかも分からず、タマモクロスはしばらく同じ姿勢のまま走り続けていた。

ガタが来ている身体を無理矢理起こして、掲示板を見た。

 

 

 

一番上には、自分のゼッケンと同じ番号が書いてあった。

 

 

 

『二人が縺れるように、今ゴールイン!

 

勝ったのは7番!クビ差で7番、タマモクロスです!』

 

 

レース場に、実況の叫び声が響く。

それを聞いた観客が、再度大きな拍手と歓声を上げた。

 

勝った。

正真正銘、彼女が勝ったのだ。

 

「……へへ、ウチも結構やるもんやろ?」

 

 

誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。

 

 

「観とったか?母ちゃん――

ウチ、やったで。一着や。

 

母ちゃんの娘が、中央で一着を取ったんや」

 

駆け寄ってくるトレーナーの姿を遠くに見ながら、頭の中はふわふわとどこかを漂っていた。

笑っていた脚が身体を支えきれず、その場にへたり込む。

 

「タマ!良かった!おめでとう!お前の勝ちだ!」

 

歓声が、いつまでたっても止まなかった。

 

彼女は観客に向けて、大きく手を挙げた。

 

 

 

 

□ ■ □ ■

 

 

 

 

それからのことを、少しだけ話す。

 

レースの後、ボロボロの身体でウィニングライブをきっちりとやり切ったタマモクロスは、糸が切れた人形のように眠りについた。

 

弟妹達は泣いて喜び、姉の事を讃えていた。

 

母親は、レースをテレビでしっかりと観ていた。

ゴール前を駆け抜けた瞬間、満足そうに笑って泣いていたと言う。

 

前傾姿勢での無茶な走行が祟り、タマモクロスは怪我や打撲、捻挫等複数の症状有と診断され、1ヶ月半の休養を言い渡された。

 

その間彼女は実家へと帰り、家族と一緒に療養していた。

特に、母親の所へは足繁く見舞いに通い、具合がいい日は面会で積もる話をしていた。

 

 

 

そして、月が替わって7月――

 

 

 

タマモクロスの優勝を見届けるかのように、彼女の母親は息を引き取った。

彼女が獲ったトロフィーは、本人の希望で母親の墓に供えられた。

 

 

 

彼女が獲った、初めての1着。

それを最も喜んで欲しかった人は、それと引き換えになるような形で彼女の前からいなくなってしまった———




補足:史実のレースでは、2番ではなく4番が1番人気でしたが、話の展開を考慮した結果変更しております。
また、タマモクロスの母親の死期は(所説ありますが)7月下旬とされていましたが、こちらも話の展開を考慮して少し変えてあります

いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。
本作は、大きく分けて5部構成を想定しています。

1部が、タマモクロスとトレーナーが出会い、トレセン学園に入るまで
2部が、メイクデビューから、初めて1着を取り、母親と別れるまで

次回から、第3部となります。
是非ご期待ください。


~3部予告~





『っ、タマ! タマぁぁぁ! 大丈夫か!? だっ誰か、誰か担架を!早く!』






『ご乗車ありがとうございました 笠松 笠松です お足元に――』






『大原さん。次のレースで1着を取れなかった場合、そのバッジを預からせて頂きます』





『なんて読むんやコレ――"とくへん"?』






次回から、お話は更に加速します。

参考サイト様:http://ovi.la.coocan.jp/index.htm
※ネタバレを多分に含むため、閲覧は自己責任でお願いします


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間章――秋川やよいの場合

いつもありがとうございます。

今回は少し本編から逸れます。半分本編の半分番外です。
独自考察マシマシです。

次回より、本格的に第3部スタートです。


「全てのウマ娘が輝ける社会を」

 

先代の理事長が、事あるごとに口にしていた言葉。

物心ついた時から、その娘である秋川やよいは常に、その思想を語られて育ってきた。

 

"毒された"と言うと聞こえが悪いが、今日に至るまでのレースの歴史やウマ娘の活躍、そして悲喜こもごもを寝物語の代わりに聞かされていた彼女にとって、自分も斯くあるべしという意識が芽生えるのは必然と言えた。

 

職業や将来のキャリアの多様化が叫ばれる時代になっても、ウマ娘が最も輝けるのは(ターフ)の上――走ることこそが、彼女達の唯一性(アイデンティティー)だと今でも信じている。

その原石を育み、導くのがトレセン学園の使命。ウマ娘の更なる発展のためになくてはならない場所。

 

そしてその運営母体であるURAは、その宿願を成すための組織。

自分と志を同じくした者達が集い、その大きな御旗を共に掲げている。

 

 

今の椅子に座るまでは、()()()()()そんなことを考えていた。

 

 

海外へと越していった母の代わりにトレセン学園を受け継ぎ、当代の理事長として己が野望のために日夜奔走を初めて早1年と少し――

 

 

まだ幼さが残る容姿の「少女」は、理想と現実の差をこれでもかと思い知ることとなった。

 

 

ウマ娘によるレースの歴史は、現在の元締めであるURAの発足よりはるか昔に興った。

それこそ、例の壁画が描かれていたような時代から、その記録は残っている。

 

最古の史料によれば、複数名のウマ娘が走り、その結果を基に(まつりごと)を行うと言った占いのような側面を持ち合わせていたらしい。

そしてレースの後には出走した皆で歌い踊り、勝負の遺恨を全て流す。

現在のウィニングライブはこれの名残りだと、一部の学者達の間では言われている。

 

それが近代へと時が進むにつれ、より「競技」としての色を強く帯びていった。

 

他者と競い、その脚を揮うことを本能的に刷り込まれている彼女達にとって、競走というものは当時現代よりも遥かに少なかった娯楽の中でも、特に人気のあるひとつであった。

 

今日のように整備された立派なレース場もなく、特殊素材で作られたシューズやウェアもなく、その走りを洗練するための施設やトレーナーもなく、明確に引かれたルールもない

だだっ広い草原に線を引き、よーいドンで駆けだし、その結果に一喜一憂する。

 

ただそれだけだったレースに大きな変化が訪れたのは、20世紀も半ばの事。

全国各地で行われていた草レースを、より組織的に運営・管理していこうという者達が現われた。

 

流麗に尾を靡かせ、その体躯を風とする瞬間こそ、ウマ娘としての本懐――

その様をもっと周知させ、ウマ娘の更なる社会的地位の向上、ヒトとのより良い関係の構築を目指す。

 

その発起人と、掲げられた理想に賛同した数名によって立ち上げられたもの。

それこそが、URAの前身となる組織である。

 

彼女たちはまず、全国に協力者を募る所から始めていった。

各地で行われていた、ご当地ルールで成り立っていた野良のレース達。

それらに手を入れ、レギュレーションを明文化した。

 

スケジュールを組み、出走者を事前に周知する仕組みを作った。

パドックを設け、その日のコンディションで誰が良さそうかを予想する新たな楽しみを提案した。

 

そうして地道に積み重ねた努力が実を結び、いつしか人々はその火花を散らすレースに熱狂した。

自分と変わらない姿――ともすれば幾回りも小柄な彼女達が、想像を絶する速度で芝を焦がす。

その迫力は想像を遥かに超え、手に汗を握りながら声を枯らして応援する観客が後を絶たなかった。

それは人間だけでなく、ウマ娘にとっても例外ではなかった。

そうして有志によって行われていた娯楽は、より洗練されたエンターテインメントとして、その姿を変えていった。

 

 

そんな全国各地で人気を博すイベントに、支援者(スポンサー)が付くまでにさほど時間はかからなかった。

 

 

最初は、地方の小さな新聞社だった。

それがあれよあれよという間に、多数の企業が我先にと手を挙げた。

その中には、金の匂いに敏感な先見の明がある大企業も含まれていた。

 

高度経済成長の煽りで急激に成長していたテレビ局。

アスリートとしての側面から、彼女達とのタイアップを目論む製薬会社やスポーツ用品メーカー。

その他証券や総合商社等、巨額の資本がレースを取り巻く環境へと注ぎ込まれた。

 

全国各地のレース場は大人数が収容できる観客席が設けられ、蒼く綺麗な芝を植えられ、砂浜から良質な砂が敷き詰められた。

 

より機能的なウェアやシューズの製作がメーカーの間で活発化し、彼女達が最も力を発揮することが出来る姿――「勝負服」が開発された。

 

ウマ娘の素質をより引き出すための理論が確立され、それを指導する「トレーナー」という新たな職業が生まれた。

 

行われるレースの格に応じた"グレード制"を導入し、高いものには多額の賞金が出るようになった。

その栄誉を授かることはウマ娘にとって至上の誉れとし、より鎬を削り合う土壌を育んだ。

 

レースのための知識・トレーニングを体系化し、それを「教育」として施す場所が作られた。

それが、日本ウマ娘トレーニングセンター学園――

昔からあった、ウマ娘を鍛え、より仕事に従事しやすい身体作りを行う場所に教育棟や寮を併設した「学校」である。

 

先導していた彼女達組織の周りは、目まぐるしく変化していった。

年々充実していく、ウマ娘の競争バとしての人生。

 

傍から見れば、理想に一歩一歩近づいているように見える。

まさに順風満帆といった様子。

 

 

しかし、彼女達の顔色は優れなかった。

 

「トゥインクルシリーズ」と銘打たれたそのレースは、それは大いに盛り上がった。

最初の想定を遥かに超えて。

 

一緒に立ち上げた十数人の同志。

自分達では到底制御できないほど、その規模は大きくなり過ぎた。

 

 

当時既に「URA」と名を改めていた組織の会合は、さながら株主総会のようであった。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

既にスポンサーの息のかかった人物が中枢へと入り込み、草創期の志は徐々に力を失っていった。

自社の利益になる取り組みには賛同し、それ以外のものは次第に排斥するようになっていった。

 

レースは、興行(エンタメ)としてあまりにも有能過ぎた。

 

御旗に描かれていた理想は色褪せてしまい、もはや染みとなってそれが嘗てそこにあった事が分かるだけとなった。

 

ウマ娘に夢を与えるためにあるはずだった組織は、今や「諮問委員会」をはじめとするトゥインクルシリーズのブランドを保つためのものに様変わりした。

 

より多くの利潤のために。

 

「より多くのウマ娘が輝ける機会を」という本音はいつしか建前へと変わる。

それはあくまでレースの後に得られる結果であり、彼女達が意図していた目的とそっくり入れ替わっていった。

 

 

「果たしてそれは、URA(ウチ)の品位を保つことに繋がるのか?」

 

「リスクが大き過ぎる。仮に失敗した場合、誰が責任を取るのか?」

 

何か案を出す度に、その答えが返ってくるのが当たり前になった頃――

初志が風化した、今の組織の雛形が完成した。

 

 

 

そして月日は流れ――

 

 

 

現在もURA役員の大多数は、トゥインクルシリーズの商業的価値を担保し続けるためにその椅子に座っている。

そんな組織がなぜ、秋川やよいら"創設者の意志を継いだ者"をトレセン学園の理事長として擁立し続けているのか――

 

それは、大っぴらにできない金や利権の都合――所謂「大人の事情」の匂いを出来る限り薄めるため。

我々は崇高な使命の下に集まっているという体裁を保つプロモーション活動の一環である。

 

 

全てのウマ娘達が平等に輝ける機会を、レースによって作り出す。

大層心地良く聞こえる言葉だ。

 

だが、実現できる目標は()()()とは呼ばれない。

 

へぇ、すごい。

頑張って、応援してる。

 

そう言った類の言葉は山ほど貰ってきた。

しかし、()()はできるが、()()はできない。

 

良くも悪くも、現実を見ていると言えよう。

肩を叩いてくれる人は大勢いたが、その手を握ってくれる人はほんのごくわずかだった。

 

 

今のURAがさも悪の権化か何かのように語ってきたが、実のところそればかりではない。

 

レースというものに新たな価値を見出したことで、地方の経済を大いに活発化させた。

スポーツ用品のメーカーや、飲料やサプリメントを作る製薬会社の発展。

ウェアを製造するスポーツブランドや、勝負服のデザインに関わるアパレルブランド。

全国各地のレース場で行うことにより、公共の交通機関や宿泊施設も大いに利用される。

レース場のスタッフやトレセン学園で働く人員の公募も、何人いても困らないといった具合だ。

 

今のURAが、日本を豊かにしたことは紛れもない事実。

だからこそ、秋川やよいはそのギャップに苦しんでいた。

 

やらない善より、やる偽善。

利益のためとはいえ、今の組織が多くの人々に潤いを齎している。

自分の掲げている理想は、本当は間違っているのではないだろうか――?

 

 

母親が更なる発展の糸口を求めて、その拠点を海外へと移した時のことを思い出す。

 

空になった「理事長の椅子」に誰が座るのか。

URAの内部はその話題で持ち切りだった。

 

やよいは誰よりも早くに自薦し、自らの理想を滔々と語り、その座を()()()()()()()()

 

しかし、本当は彼女も理解していた。

 

()()()()()()()のが彼女だったから、選ばれた。

目を輝かせて未来を口にする、見た目麗しい幼い少女。

URAの顔であるトレセン学園のトップに据える()()()に、これ以上の適材はいなかった。

 

 

彼女は、ただ悔しかった。

彼女の夢を本気で応援してくれる人は、少なくとも近くにはいなかった。

理想は語れ。ただし、何もするな。

暗にそう言われていた。

 

内定した日の夜、枕に顔を埋めて一晩中悔涙に咽ぶ彼女の姿があった。

 

このままでは終われない。

何としてでも、自分の思い描く社会を目指す。

 

その日から、彼女は口調を変えた。

大人に嘗められないよう、より理知的に。

忙しい中、端的に自分の意志を伝えるために。

 

そのためには、まず学園の仕組みから整えていこう。

門戸を広く開き、もっと多くのウマ娘を受け入れられるように。

 

家庭の事情で、トレセンへの入学を諦めている娘達がいる。

地方に埋もれている、まだ見ぬ特大の原石がある。

 

それらを等しく救うために、自分ができること。

ひとりでは無理だ。

協力者が必要だ。

 

自分の理念に心から共感して、手を取り合って同じ目標へと進んでくれる無二の理解者が――

 

 

何の因果か、それはすぐに現れた。

それは母の古くからの友人であり、自分も良く知っている人物であった。

 

 

「……久しぶりね、やよいちゃん」

 

 

「……ご無沙汰しております。駿川さん」

 

 

理事長とその秘書が出会った時こそが、今も推し進めている改革がまさに始まった瞬間だった。




リアルのJRAは国営で発券している馬券の売り上げで運営しており、スポンサーもテレビ局や新聞社等、一部の企業のみだったのですが、賭けが行われていないウマ娘世界のレースでは、今回のように企業からの出資がないと成り立たないのではと考察しています。


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第3部 もう一つの邂逅編
暗雲 前編


更新大幅に遅れまして本当に申し訳ございません。

第3部の開始です。
ここからは駆け足めに。

また、1話と2話を少しだけ加筆しております。


 

トレセン学園内、某所――

 

学舎の中のとある一室。

敷地面積も室内の間取りも、他の教室と比べてさしたる違いはない。

地図の上では、全くもって何の変哲もないただの部屋。

 

 

しかし――

 

その部屋の前を通る者は誰もが息を潜める。

それは生徒にのみ留まらず、教職員においても例外ではない。

 

扉を隔てた向こう側。中から時折発せられる強烈な威圧感(プレッシャー)

それがこの部屋を、特別な場所たらしめている要因のひとつである。

 

良質な木材を贅沢に伐り出して誂えた、トレーナーが使うそれよりも数段上等な執務机。

その上に置かれた、ダイアル式の見た目が実にクラシカルなアンティークの電話機。

壁に掛けられた大きな額縁には「Eclipse first, the rest nowhere.(唯一抜きんでて並ぶ者なし)」の言葉が、精緻な文字で綴られている。

 

トレセン学園、()()()()

 

そしてその部屋の主となれば、答えは自ずと導かれる。

 

 

「マルゼン、秋にあるファン感謝祭の警備スタッフ増員案についてなんだが――」

 

「もう、いい加減少しは休憩したら?ここんところずっと働き詰めよ?」

 

「いや、実行委員会の皆も頑張ってくれているんだ。ここで休んでしまっては職務怠慢。生徒の長たる者の務めとして――」

 

レースに於いては既に第一線から退いたものの、その唯一無二の存在感はデスクワークをしている姿にも健在である。

 

至上唯一の七冠ウマ娘。この学び舎に集う全てのウマ娘を束ねる長――絶対の体現者(シンボリルドルフ)その人であった。

 

 

彼女に話しかけたマルゼンと呼ばれた少女――と呼ぶには目鼻立ちが大人び過ぎてはいるが――は、机に向かって黙々と作業を進めているシンボリルドルフが手に取ろうとしていた書類を横から搔っ攫う。

 

「……マルゼンスキー」

 

「この書類()は預かったわ。返してほしくば、お姉さんとお茶しなさい」

 

「――わかった。まったく、君には敵わないな。そんなに入れ込んでいたかな?」

 

「ええ、眉間にこーんな深い皺が寄っちゃってたくらいには」

 

それは不味いなと生徒会長はふっと肩の力を抜き、椅子に座ったまま軽く伸びをする。肩甲骨あたりの骨が、パキパキと渇いた音を立てるのがこちらにまで聞こえてきた。

目の間を指で揉んで、困ったように笑う会長サマ。マルゼンスキーは同じく笑みを浮かべたまま、目線だけは鋭く彼女を見つめている。

 

トゥインクルシリーズを引退してからというもの、デスクワークに根を詰め過ぎているように見える。そして、その様子をおくびにも出さないからなおのこと始末が悪い。いくら生ける伝説と称される彼女と言えど、自分と同じウマ娘。疲れもすれば体調だって崩す。

 

やはり、目付け役は必要だ。放っておけば、このまま自己の体調を省みずに職務に殉じることは目に見えている。

自身のトレーニングは? 休息は? 息抜きは出来ているのか? そもそもオフはあるのか?

それらの質問には、決まっていつもの微笑みで「万事抜無」と事も無げに返される。それなりに付き合いの長い自分にすらそうなのだ。他人には弱みなぞ決して見せない手合い。もしこれが独りだったら、暗くなるまでずっとこの調子だろう。

 

しかし、彼女を"こう"してしまったのは、自分も要因の一端を担っている。

一分の隙も見せられない皇帝様に、ガス抜きの手伝いをするのは自分の仕事だ。

 

来客用のソファに腰を下ろし、ティーポットにお湯を注ぐ。その手際の良さには、初めから横槍を入れる算段でいたことが窺えた。

戸棚からお茶請けの焼き菓子を取り出し、対面のソファへと手を向けて着席を促す。

 

「ほら、座った座った」

 

「いや、ここでいい。今少し片付けるから――」

 

「あれぇ、いいのかな~? 貴女の大事なこの子はお姉さんが持ってるんだけどな~」

 

ほんの一服入れるつもりで、執務机からは動かないつもりでいたシンボリルドルフ。だが今からやっつけようとしていた書類を人質に取られたとあっては従うほかない。降参とばかりに肩を竦めると、導かれるがまま椅子から立ち上がり、対面のソファに腰を下ろす。柔らかい革の感触。背もたれに身を預けると、疲れがどっと押し寄せて来たような気がした。無意識に、ほぅと小さくため息が漏れる。

 

「やっぱり、ちょっと無理してたでしょ」

 

「……この程度で音を上げているようでは、皆が見ているような"皇帝"も形無しだな」

 

「万年筆を走らせる姿も十二分に板についてるけど、やっぱり貴女はターフの上で自分自身を走らせてる方が素敵よ」

 

ポットから淡い琥珀色の液体をカップに注ぎ、ソーサーを添えて彼女の前へと置いた。

 

「……良い香りだ。これは春摘み(ファーストフラッシュ)のダージリンかな?」

 

「ご明察。生徒会長サマは目利きも一流なのね」

 

「このくらい、少し嗜んでいる者であれば誰だってわかるさ」

 

あまり変に持ち上げないでくれないかと苦笑しつつ、湯気の立つカップを持ち上げる。その和んだ空気のまま、時折菓子をつまみつつ暫く取り留めのない談笑に講じていた。

 

「……これって確か……」

 

お互いの積もる話も粗方尽きかけた頃、マルゼンスキーが思い出したかのようにシンボリルドルフから誘拐した書類の束に目を向ける。

 

「あぁ、理事長殿が推し進めている"例の計画"に関する草案書だ」

 

現職の理事長(秋川やよい)が一部のURA関係者の協力の下、今のトレセンの在り方を根底から覆すために秘密裏に活動を行っていることは、生徒会室にもそれとなく伝えられている。

 

そして、数刻前に秘書自らが持ち込んできた()()

 

協力の打診――もとい共謀の通知書だ。

 

 

「あの『学園からの推薦枠をもっと増やす』ってやつ?」

 

「あぁ。奨学金を受け取れる枠を今以上に増やし、もっと多くのウマ娘に我が校の門戸を開くための施策だそうだ」

 

取り返した書類群をちらと見やる。

 

「これが本当に実現したなら、全国各地のまだ見ぬ原石を今以上に多く拾い上げることができる。トレセン学園だけでなく、トゥインクルシリーズ。ひいてはウマ娘の輝ける社会に繋がる大きな一歩だ」

 

「そうね……」

 

書面には、地方で活躍するウマ娘達の中央斡旋に関する意見や、家庭の事情や経済的な理由でトレセンへの入学を諦めざるを得ない娘達に向けたトライアウトの実施等の()()()が所狭しと並べられている。

 

「これが本当に出来るのであれば、どれだけいいのかしらね……」

 

「――あぁ。()()()()()()()()、な……」

 

希望に満ちた夢の設計図を前にして、彼女達の表情は暗い。

 

「正直言って、現段階では絵に描いた餅と言ったところだろうか」

 

「えぇ。今のURA(うえ)のままだとね」

 

「暗雲低迷。一筋縄では行かないかーー」

 

現体制のURAの方針は、彼女らも良く知る所であった。つい先日、召喚を受けて馳せ参じた諮問委員会の役員達が貼り付けていた能面のような顔を思い出し、眉根に皺が寄る。口に含んだ液体に、茶葉から出た以上の渋味が混ざっている気がした。

 

極めて保守的なあの面々が、これを見て大人しく首を縦に振るとは到底思えない。利益や損得でしか動かない、あの人情味のない役員の事を考えると、理事長の苦心や心労が伺える。

 

「何か、きっかけが欲しいわよね」

 

「……そうだな」

 

物事には『機』というものがある。急いては事を仕損じるという言葉もある通り、これを成就させるには慎重に事を進めなければならない。何かを成すためには相応の制約や規則や稟議が付いて回る。大きくなり過ぎた組織とは実に難儀なものだ。カップの中身を全て飲み干し、ままならないなと短く息を吐いた。

 

「……推薦と言えば、今年はひとり変なタイミングで入学してきた子がいたわね」

 

ふと、思い出したかのようにマルゼンスキーがぽつりと溢す。

 

「マルゼンも知っていたか」

 

「私も理事長からのEメールくらい見るわよ」

 

「E……?」

 

聞きなれない冠句に首を傾げつつも、自身も聞きかじった事を言葉にする。

 

「元々はある教官からの推薦だったそうだよ。それを、理事長直々に対応して入学と相成ったそうだ」

 

「今年度の推薦枠は全部埋まってたはずよね?欠員が出たってこと?」

 

「いや、それもない。漏れなく全員入学している」

 

「……変な話ね」

 

「しかも推薦した教官は、現在その生徒の専属トレーナーだそうだ」

 

話をする中で、色々と妙な内容が断片的に現れる。そして浮かぶ、ひとつの()()()――

 

「「……」」

 

ないな。顔を見合わせてかぶりを振る。

 

職員の間で囁かれている噂の又聞きだが、もし仮に()()()()()が本当にあったとして、それを行使するような愚者は中央(ここ)にはいないだろう。

 

だが、もし――

 

「その子の名前は?」

 

「ええと、確か――」

 

本来存在しなかったはずの異分子(イレギュラー)だとするなら、それは今の状況に一石を投じえる。

 

流動を促す呼び水となるか。変化をせき止める石となるか。

 

全ては、そのウマ娘とトレーナーの結果次第――

 

 

■ □ ■ □ ■

 

 

()()()が、走っていた。

 

闘志は無く、覇気も無く。

 

流れていく景色。スタンドに詰め掛ける観客。他の出走者の息遣い。()を踏み鳴らす蹄鉄の音。

今の彼女には、それら全てが見えていない。何も聞こえていない。

 

力は無く、速度も無く。

 

それは最早レースですらなかった。他者を介さない、自身の限界とも戦わない。

ただ機械的に、脚を繰り出しているだけ。

 

ふと隣を見た。ゼッケンを着けたウマ娘が尾を揺らし、鬼気迫る形相で走っている。

なぜこの子は、ここまで必死になれるのだろう。

何のために走るのだろう。

 

(ウチ)にはもう――

 

そんなことを考えていた刹那。

 

「――あっ」

 

前を走っていた内の一人が、脚をもつれさせた。慌ててコースの外側に出ようとするが間に合わない。

 

バランスを崩し、ターフの上へと身体が投げ出される。それに折り重なるように、後続が態勢を崩していく。

 

平常時であれば、躱すことなど容易かったであろう。しかし、上の空で走っていた彼女にとって、その油断は致命的だった。

 

ふわりと、身体が重力から解き放たれる。

 

(なん――)

 

視界に映る青と緑。その上下がぐるりと反転する。突如として押し寄せる浮遊感に、思考が追いつかない。

 

 

140cmの体躯が宙を舞い――

 

時速40kmの速度を以て、地面へと叩きつけられた。

 

 

「っ、タマ! タマぁぁぁ! 大丈夫か!? だっ誰か、誰か担架を!早く!」

 

芝の上をごろごろと転がり、やがて動かなくなる。その様子をスタンド最前列で見ていた男が、半狂乱になって叫んでいた。

 

 

悲痛に名前を呼ぶ声が、静まり返った観客席に響いていた。

 

ストレッチャーに乗せられる担当に駆け寄るトレーナー達。

 

「タマ、大丈夫か!? 返事をしろ! タマ!?」

 

虚ろな視線を漂わせているタマモクロスに、大原が大声で呼びかける。

 

(――空、青いなぁ……)

 

 

タマモクロスの初勝利から1ヶ月と少し。

 

療養明け初めてのレースは、出走者が複数名転倒したことにより出走中止となった。

 

 

彼らにとって、余りにも険しい夏が始まる。



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