走行帰兵ウマムス (影のビツケンヌ)
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懐疑

 ある朝、寮からトレセン学園への道を歩いていたライスシャワーが信号待ちをしていると、自分の隣に何者かが立ち止まったことに気付いた。

 自分の身の回りで起こる不幸が全て自分のせいだと思い込んでいるライスシャワーは、普段ならここでそそくさと別の交差点にルート変更を行い、他人に迷惑をかけまいと心がけている。だがその時ばかりは、自分と同じトレセン学園の制服を着た隣の人物、もといウマ娘に興味が沸き、ちらりと目をやった。

 

「……」

 

 まず背丈がかなり高い。目測でも一七〇センチ強はあるだろう身長は、一四五センチのライスにすれば見上げる高さだ。肩幅も広くがっちりしており、ウマ娘特有のウマ耳の存在もあって余計に上背が大きく見える。

 次に目を引くのは、ウマ娘としても珍しい青色の毛だ。正確にはもっと彩度の低いくすんだ水色に近い発色の髪は、単に長いというより手入れを怠っているが故に長くなっているように思える。自分の容姿にはあまり気を使わないタイプなのだろうか。

 そして、基本的に見目麗しい美少女として生まれる――ライスにはその自覚はあまりない――ウマ娘とは思えぬ峭刻な容貌。切れ長の目は情動性に欠け、耳も尻尾も表情筋同様ぴくりとも動かない。学園にも感情表現の苦手なウマ娘はいるが、彼女のそれは得手不得手とは別次元の、人として大切な何かを摩耗してしまっているように見えた。

 こんなウマ娘がいるものなのか。ライスにそんな感想を抱かせる程に、そのウマ娘は異質であった。

 

「……あ、青だ」

 

 信号が変わると、ライスはすぐに横断歩道を渡り始めた。得体の知れないウマ娘への恐怖と、周囲に不幸を振り撒くまいとする普段通りの思考が取らせた行動である。しかしあの長身のウマ娘は、ライスを遥かに超える歩幅で以て彼女を追い抜き、先に反対側の歩道に到達した。特に先を争うつもりもなかったライスは、その時初めて彼女の長い手足と、それが生み出すストライドの長さという優位性について‘ウマ娘らしく’意識したのだった。

 その歩幅の差が、明暗を分けた。

 

「あっ――」

 

 声を上げたのは自分か、それとも他の誰かか。渡ろうとしていた先の歩道、そこに面した工事現場から赤黒い鉄骨が落ちてくるのを見たのは、自分だけではないらしかった。

 落下地点は目と鼻の先。それは当然、先に道を渡り切った彼女の真上。

 

「きゃああああああぁぁぁぁぁーーーーー!!」

 

 直視に堪えぬ惨劇を予感し、ライスは叫喚と共に目を覆った。直後、伏せられた耳からも伝わる轟音。

 何ということだ。自分は駄目な子だと日頃思い続けてきたが、これでは疫病神どころか死神ではないか。ライスの自己嫌悪は過去最悪に達していた。幾らウマ娘といえど、高所から落下してくる重量物に耐えられる程の頑健さは持ち合わせていない。たとえ即死を免れようとも、レースに出るウマ娘ならば選手生命を恒久的に絶たれることは必至だ。たまたま通りすがっただけのウマ娘を襲った()()に、ライスは己の運命を嘆き、この世に生まれてきたことを恨みさえした。

 ところが、ライスが恐る恐る事故現場に目を向けてみると、

 

「え……?!」

 

 鉄骨は紙一重でかのウマ娘の背後のアスファルトを抉るのみで、彼女自身は直立不動のまま、全くの無傷であった。とんだ偶然もあったものである。こんな状況下でも、彼女の顔は何の感情も表さず、自分を危機に陥れた鉄骨をただ冷たく静かに見下ろすのみである。

 

「大丈夫か?!」

 

 どこか人間離れした冷静さにライスが呆然としている間に、その場に居合わせたうちの一人が駆け寄ってくる。そうだ、助かったのだとしても、自分が近くにいなければ起こらなかったかもしれない事故だ。自身のネガティブさにかえって助けられ、ライスは謝罪の言葉を胸中で捻り出しつつ、彼女に向けて歩を進めようとした。

 そんなライスの足は、先程とは別種の驚愕で止まることになった。

 

「……って、何だ最低野郎(ボトムズ)かよ。心配して損したぜクソが」

 

 すぐ近くまできたその男性は、被害者を案ずる顔から一転、汚物を見るような顔で吐き捨てた。これ見よがしに声を張り上げた彼は犬の糞を踏んだような足取りで去っていき、悪罵を受けた彼女も何食わぬ顔でその場を離れていく。

 ライスの鋭敏なウマ耳は、通りのそこかしこでひそひそと話す声を捉えていた。

 

「最低野郎ってあの子……?」

「じゃああいつが『レッドショルダー』の生き残りなのか?」

「あんなのを入学させるなんて、トレセン学園は何を考えてるのかしら」

「あいつがレースに出ると思うとぞっとするね」

「さっきのでくたばってりゃよかったのに……」

 

 ライスにも、これが自分のもたらした不幸以前の問題だと理解できた。怪我を心配する言葉の一つもなく、それどころか死ねばいいとすら言われる程の嫌われよう。一体彼女の何がそうさせるのか。普通のウマ娘なら、レースでどんな失態を犯したとしてもここまで非道な扱いを受けることなどない筈だ。

 

「あ……ま、待って!」

 

 力になれるかはわからないが、せめて自分だけでも彼女に思いやりのある言葉をかけてあげたい。そう思って追いかけた背中がトレセン学園の正門付近にあるのを見て、ライスの足は三度止まった。

 

「スコープドッグを退学させろーッ!!」

「ウマ娘のクズをレースに出すなーッ!!」

「赤ん坊殺し! 大量殺人者!」

「トゥインクルシリーズに人殺しはいらない!」

「メルキアに帰れ!!」

 

 横断幕やプラカードを掲げたデモ隊が正門前に押し寄せ、校舎に向けて口々に罵り声を浴びせていたのだ。プラカードには『SCOPE DOG GO HOME』『ウマ娘の恥晒し』『ターフを犠牲者の血で汚すな』などとあらん限りの非難の言葉が書かれていたが、

 

「嘘……」

 

 その中でも一際大きくライスの目を引いたのは、あのウマ娘が銃を持ち、幼い子供の遺体を足蹴にしている様が大写しになったものだった。

 あの写真の人物が、彼らが退学を要求している“スコープドッグ”というウマ娘なのか。スコープドッグというのは、目の前にいる彼女と同一人物なのか。心に受けた衝撃を受け止めきれず、ライスは思わず彼女の顔を覗き込んだ。

 

「……」

 

 鉄面皮かと思われた彼女の顔は、眉間に僅かに皺を寄せ、デモ隊のプラカードを視界に入れまいと目を伏せていた。何より力なく垂れ下がったウマ耳を見れば、彼女――スコープドッグが目を逸らしたい現実を突き付けられ、苦痛に苛まれていることは明白である。

 初めて見たスコープドッグの表情らしい表情に、ライスには確信できることがあった。よしんばデモ隊の言う通り彼女が人殺しだったのだとしても、それは間違いなく彼女自身の意思によるものではないと。あの写真を見て、()()()()()()()()()()()()()()ような人が、好き好んで人を殺しなどしないだろうと。

 やがてスコープドッグは逃げるように正門を離れ、塀を乗り越えてトレセン学園の敷地内に入っていった。

 

 

 

 

 

「ハハハハ、それで結局彼女だけになってしまったのかい」

「笑い事じゃないぞタキオン……」

 

 チーム・アンタレスの部室は閑散としていた。卒業生達が未来のチームメンバーに明け渡していったロッカーには、十五分前までは十人程のウマ娘達の荷物が置かれていたが、新たに一人の入部希望者が現れると、彼女達は蜘蛛の子を散らすように部室を去っていってしまったのだ。自主トレーニングを終えて戻ってきたばかりのアグネスタキオンは、チーフトレーナー兵藤から事の次第を聞いて大いに笑った。

 アンタレスは同世代の他チームに比べれば目立ってはいないものの、確かな実績のあるチームだった。しかしここ数年新メンバーに恵まれず、昨年メイクデビューしたタキオン以外のメンバーは昨年度末に全員が卒業。チーム解散の危機を前にようやく現れた新メンバーも殆どが加入の意思を翻し、盛大な肩透かしを食らった形である。

 はっきり言って、アンタレスは空中分解寸前であった。

 

「……サインはしたぞ」

 

 最後にやって来たこのウマ娘――今年度高等部に入学してきた新入生スコープドッグに付き纏う()()を慮れば、入部を取り止めた彼女達の判断を一概に否定することは難しいのかもしれない。だがそんな先入観に踊らされるだけの輩にはアンタレスにいて欲しくないというのがタキオンの本音だった。

 

「ありがとう。さて、あと三人か……」

「新入生相手に勧誘でもするかい? 言っておくが私はやらないよ、忙しいからね」

「やれやれ……仕方ない、俺もそろそろ腰を上げないといかんな。受け身のままでは原石の一つも拾えんか」

「……君、ちゃんと仕事してるのかい?」

「目立たない努力が多いんだよ、お前と同じでな」

 

 今の自分があるのは、このチームがあったからこそだとタキオンは考えている。

 繊細過ぎる自分の足をあの手この手でなだめすかしてギリギリの状態で走っていた彼女は、授業もトレーニングも欠席せざるを得ないことがままあり、それが悪い噂を呼んでいた。トレーナーの指示通りのメニューをこなせないだろうと、チームへの所属もトレーナーとの専任契約もしていなかった為、一時は退学勧告すら出されていたのだ。

 そんな時に出会ったのがアンタレス、そして兵藤トレーナー。兵藤は「厄介者を押し付けられただけだ」とは言っていたものの、タキオンの意思を尊重し、トレーニングメニューの他デビュー時期やその後のレースの出走登録さえ彼女の好きにさせていた。卒業していったアンタレスのメンバーも、偏見を持たずにタキオンに接し、彼女のライフワークである様々な研究にも積極的に協力していた。タキオンがアンタレスを存続させたいと願うのは、大量の実験器具の置き場所に困っていることばかりが理由ではない。

 

「今日はもう遅い。スコープドッグ――スコープでいいか、お前のトレーニングは明日以降だ。授業が終わり次第またここに来てくれ」

「了解した」

「俺は帰る。タキオン、施錠は頼むぞ」

 

 お気に入りの白いマリンキャップを被り直し、兵藤は部室を後にする。人数の大幅減や実験の都合もそうだが、鍵の管理を任せられるまで構築することのできた信頼関係を、タキオンは貴重なものと認識していた。

 

「……」

 

 扉が閉まると、兵藤をじっと見送っていたスコープとタキオンが部室に残された。数秒の静寂――タキオンには、スコープが兵藤について何か考え込んでいるように見えた。

 

「安心するといい。彼はチームメンバーの待遇をその者の前歴で不当に悪くすることはない。私がここにいるのがいい証拠だ」

「……皆、俺を知っているのか」

「君の言う“皆”がどこまでを範疇とするのかの定義は不明だが、少なくとも私とトレーナーは、センセーショナリズムに染まっていない情報は持っているよ」

 

 タキオンが口を開くと、スコープはやおら彼女に振り向いて問うた。タキオンが部室に戻り椅子に座ってからというもの、二人は一歩もその場を動いていない。立ったままのスコープに「使いたまえ」と着席を促し、タキオンは続けた。

 

「少し調べればわかることだ。正門前で騒ぐ者達にはそれができないらしい」

「……ここに来るまでに六つのチームを訪ねた。受け入れられたのはここだけだった」

「ふむ、トレーナーや教員には理事長からの通達があったと聞いたが……まあ何にせよ、君はここに受け入れられたことを素直に喜ぶといい。ようこそアンタレスへ」

 

 鷹揚に語るタキオンを、彼女の向かいの椅子に座ったスコープは無言で見つめていた。表情に変化が現れずとも、信頼に値するかどうかを量られていることはタキオンにもわかった。他人を元気付けるようなことは柄ではないが、チームへの心象をよくしておくに越したことはない。タキオンは、それを単なる打算だとは言いたくなかった。

 

「――デモンストレーションはこのくらいにしておこう。世間が騒ぎ立てていることよりも、私にはもっと別に知りたいことがあってね」

 

 それでも、タキオンの知的好奇心をとどめるには至らない。

 

「知りたいこと?」

「このチーム・アンタレスの前任者、兵藤トレーナーの大叔父にあたる人物の論文がここには多く保管されている。その中に一つ興味深いものがあったんだ」

 

 本来こういった前置きは好かないが、兵藤には事前の説明をしっかり行うことを口酸っぱく言いつけられている。タキオンはそれを思い出しつつ、スコープへの最初の質問を口にした。

 

「まずは問おうスコープドッグ君。君は、()()()()()()()()という経験が何度か……いや、それこそ()()()あったりはしないかい?」




入学したことが幸運とは言えない。それは次の地獄への誘いでもある。
ここは、トゥインクルシリーズの最前線。
滲み出す偏見が、お前など要らないと呻きを上げる。
呻きは恐怖を呼び、血を求める。
競い合い、鬩ぎ合い、その汗を互いの涙で洗えと断末魔の地が叫ぶ。

次回、『トレセン』

青く茂った芝が狂気を促す。


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トレセン

 ライスシャワーがスコープドッグと再会したのは、美浦寮の廊下だった。選抜レースに向けての自主トレーニングを終え、自室のある階まで階段を上り切ったところで、今朝見たのと同じ背中を認めたのである。

 

「あっ……」

「……」

 

 スコープの耳は一瞬ライスの方に向けられたが、彼女は何事もなかったかのように歩いていく。声をかけようかかけまいか悩んでいるうちに、ライスは自然と足音を殺し、それを追いかけていた。

 追ったところで何を言うというのか。何をするというのか。ライスは散発する思考を上手く纏めることができずにいた。今朝の詫びをすればいいのか、どうやって彼女を励ますべきか、その前にまずは挨拶の一つもするのが礼儀か、そもそも彼女は自分の名前も知らないではないか――

 

「わぷっ」

 

 立ち止まったスコープの背中にぶつかって、ライスは廊下の端に辿り着いたことにやっと気が付いた。

 

「あっ、ご、ごめんなさい!! ライスはその……」

 

 慌ててスコープから離れ、頭を下げる。以前自分とぶつかって書類の束をぶちまけてしまったり、尻餅を搗いて服を汚してしまった人間が何人かいた。その経験がライスに取らせた反射的な行動だったが、スコープからは何の反応も返ってこない。

 ぎゅっと閉じていた目を開き、スコープを見上げると、彼女は自室があると思しき方角を見たまま立ち尽くしている。そちらに何かあるのかと怪訝に思ったライスは、スコープの大きな背中の陰からそっと顔を覗かせ、

 

「――ッ?!」

 

 今朝のデモと同等の衝撃に襲われた――部屋の扉には血のように赤い文字ででかでかと書かれていた。

 

  『人殺し』

 

 寮制であるトレセン学園の二つの寮、栗東寮と美浦寮のどちらも、原則としてウマ娘以外の進入は認められていない。警備システムを完備し、外部からの侵入がほぼありえないものである以上、これは内部の者の犯行であることは火を見るより明らかだ。つまり、美浦寮に住むウマ娘のうち何者かが、この落書きというにはあまりに陰湿で邪悪極まる行為に及んだのだと推測できる。

 

「非道い……どうして、こんな……」

 

 ライスはスコープの過酷な境遇に涙した。敵だらけの世界からこの学び舎に逃げ込んでも、その内に潜む敵に狙われ続ける。彼女が背負わされたスティグマからはどこに行っても逃れようがないのか。同じ学園に通うウマ娘の中に、こんな行いを平気でできる者がいることなど知りたくなかった。

 

「ぐ、ぅ……!」

「……え、あっ?! だ、大丈夫ですか?!」

 

 その時唐突に、スコープが頭を抱え苦しげに呻いた。壁に手を突き今にも倒れ込みそうな彼女を、ライスは全身で支える。体の大きさ以上に筋肉量が多いのか、ウマ娘の膂力をしてもずっしりと重い。

 

「やめ、ろ……来るな……!」

「い、嫌です! そんなに苦しそうにしてるのに、放ってなんておけません!」

 

 浅く荒い呼吸を繰り返すスコープの、譫言のような拒否。ライスはそれに従わなかったのが、自分でも不思議であった。

 平時であれば、ライスは困っている者を助けたいと考えても、自分の助力が逆に相手の迷惑になってしまうことを第一に心配する。そうしてくよくよと悩むばかりで時間を浪費し、相手の問題が勝手に解決したり、或いは更に大きな問題に発展してしまう。前者ならば「やはり自分は要らなかった」と後ろ向きに納得し、後者ならば「自分がもっと早く行動していれば」と自責するのだ。

 だが、今のライスは迷うことなくスコープを助けようとしている。彼女が何を責められているのか、何に苦しんでいるのか、それらを誰の口からも聞いてはいないというのに。

 

「いいんだ……これ、で……」

「だめです!!」

 

 否、だからこそ。

 

「ライスはまだ、何も知らないのに……何もしないままで後悔したくない!!」

 

 大して知りもしないで彼女を否定し放逐することなどできない。そもそも彼女が本当にスコープドッグという名前なのかさえ確認を取れていない。知らなければ、好きになることも嫌いになることもできないではないか。手の届かない所に消えていってから全てを知ったとて後の祭り。そうなる前に行動を起こすことができなければ、きっと自分は心にぽっかりと穴を空けたまま生きることになるだろう。

 彼女のことを知りたい。知らなければならない。ライスはその一心で、スコープを背負って階段を駆け下りていった。

 

「ヒシアマゾンさーん!!」

「おうライスどうし――いやホントにどうしたァッ?!」

 

 

 

 

 

 ライスシャワーと居室を同じくするゼンノロブロイが事のいきさつを彼女から聞いたのは、寮の門限を三時間以上も過ぎた後だった。急病人を寮長ヒシアマゾンの手を借りて学園の保健室に運び込み、そこで検査結果を待っていたのだという。幸いというべきか、特に病気に罹っていたという訳でもなく、精神的な理由によるものだったらしい。だが件のウマ娘の名を聞いた時、ロブロイは耳を疑った。

 スコープドッグ。中等部の自分とは縁遠いとは言わずとも、ライスも属する高等部と特別に縁がある訳でもなかったロブロイは、彼女がトレセン学園に入学していることを知らなかった。しかしスコープドッグというウマ娘の存在自体をライスが知らなかったことに、ロブロイは驚いた程であった。

 そんな彼女と、ロブロイは学園の食堂でばったり出くわした。

 

「あ……!」

「……」

 

 朝練を終えたウマ娘達で早くもごった返す食堂は、ティーンエイジャーの少女が集まる場とは思えぬ異様な静けさに包まれている。十中八九、スコープがここにいることが理由だろう。この時世、彼女を知らない者の方がここでは少ない。

 

「あ、あの! スコープドッグさんですよね?」

「……そうだ」

「私、ゼンノロブロイっていいます。同室のライスさんからお話を聞きました。えっと、その……い、一緒に朝ご飯食べませんか?!」

「……ああ、構わない」

 

 あらすじだけでは登場人物の背景を把握できないように、事前情報だけで人となりが正確にわかる筈もない。‘悪名高い’スコープドッグが世間の作り出したイメージ通りの人物であるならば、彼女に関わったライス――心労のせいか今朝はまだ寝ていた――が無事に部屋に戻ってきたかも怪しいのだ。

 百聞は一見に如かず。対処を量りかね、食堂にいる大多数のウマ娘と同じように遠巻きに見ているだけでは何も変わらない。ロブロイは火中の栗を拾う覚悟で、とまではいかずとも、なけなしの勇気を振り絞りスコープを朝食に誘ったのだった。

 

「俺はここで待つ。自分の分を取ってこい」

「ありがとうございます!」

 

 見れば、スコープの手には焼きそばパンが二つ握られていた。常人より多くのエネルギーを必要とするウマ娘は、朝食もがっつりボリュームのあるものを食べる傾向があるが、スコープはそれだけで済ませるつもりだったと見える。食堂の定番メニューであるにんじんハンバーグ定食を持ってロブロイが戻ってきた時、彼女は律儀にも、まだそれらに手を付けていなかった。

 

「「いただきます」」

 

 当然といえば当然か、食前の挨拶は同時に行われた。南米を出身とするというスコープがここまで流暢に、訛りの一つもなく日本語を話しているのなら、その文化に対する理解も多少はあるものと見ていい。ロブロイは既に、眼前のウマ娘に粗暴なパーソナリティーを見出すことができないと感じていた。

 互いに最初の一口を頬張り、それを飲み込んだタイミングで、スコープが口火を切った。

 

「ライスシャワーと同室だと言ったな」

「はい、仲良くさせていただいています」

「礼を伝えておいてくれ。わざわざすまないと」

「はい! あ、でも、直接伝えた方が喜ぶと思います。ライスさん、とても心配していましたから……」

 

 二口目に移ろうとしていたスコープの動きが止まる。口数が少なく、不愛想に見える彼女の鉄面皮は変化に乏しいが、その時ロブロイには、スコープが意外そうな顔をしているように見えた。

 

「……俺を心配する人と会ったのは、理事長以来だ」

「秋川理事長さん、ですか?」

「ああ……会っていなければ、俺がレースに出るという発想自体、多分しなかった」

 

 入学以前にトレセン学園の理事長秋川やよいと会ったと語るスコープ。子供のような体躯(実際かなり若いらしい)の彼女は変わった人物ではあるものの、豪放磊落な性格、ウマ娘の為に私財すら投じて支援を行う情熱は多くの人から尊敬を集めている。ウマ娘をこよなく愛する彼女ならば、()()()()()を持つスコープに手を差し伸べるのも頷ける話だ。

 考えてみれば、スコープがトレセン学園に入学したのはある意味で正解だったのかもしれない。出走手当の他上位入着者には多額の報酬も支払われ、それを目的に走るウマ娘も少なくはない。何らかの重大な違反行為がない限り、資格あるウマ娘のレースへの出走登録が拒否されることはまずないだろう。少なくとも、入学せずに職を探すよりは余裕がある――彼女の立たされた苦境は、ロブロイには察するに余りある。

 何にせよ、理事長が関わっているのなら、スコープドッグというウマ娘は世間で騒がれるような‘悪い’ウマ娘ではない筈だ。

 

「スコープドッグさん」

「スコープでいい」

「では、私もロブロイと呼んでください。スコープさん、食べ始めたばかりですけど、もしよければ今度はライスさんも一緒に――」

 

 バキ、という音がした。発生源は、スコープの口の中。

 

「!」

 

 無表情なスコープの目に剣呑な光が宿る。焼きそばパンの三口目が収まった口中に彼女は無造作に指を突っ込み、何かを取り出した。咀嚼された麺や青のりに塗れながら、キラリと光る透明な物体。

 

「え……?!」

 

 尖ったガラス片。臼歯に砕かれて二つに割れたそれは、その縁に僅かに血を滲ませていた。

 購買で売られている既製品を除けば、トレセン学園での食事は全て備え付けの厨房で作られている。スコープが食べていた焼きそばパンも例外ではなく、厨房で調理された焼きそばをパンに挟み、温かい状態でラップに包んで売られているのだ。つまりこのガラス片は、厨房での調理過程で混入した――させられたもの。

 ロブロイは、一瞬でもスコープがここに来たことが正解だったなどと考えた己を恥じた。‘人殺しのウマ娘’への悪意は、こんなところでも牙を剥くのだ。

 

「……先に行く。今後は、あまり関わらない方がいい」

「あ、スコープさん……」

 

 スコープはぶっきらぼうにロブロイに告げ、席を立った。返却口の方へずかずかと歩いていき、未開封の方も合わせて残飯入れに放り込む。

 

「おい」

「ヒッ! な、なんでしょう?!」

「次はない。貴様らに次など与えてやるものか」

 

 強い語調で厨房スタッフに釘を刺したスコープは、足早に食堂を立ち去っていく。

 自分のにんじんハンバーグに異物混入がなくとも、ロブロイはもうそれ以上食べる気になれなかった。

 

 

 

 

 

「――よし、計測は終わった。スコープ、少し休んでいろ」

「了解した」

 

 アンタレスの特徴の一つに、走行能力を測る際にドローンを利用するというものがある。時速六十キロを超えるウマ娘の足に追随して飛行させ、そのフォームを間近で撮影するのだ。他のチームではドローンの駆動音がウマ娘の集中力を削ぐとして嫌われる手法だが、タキオンの手による改造で劇的に静粛性が増しており、前年度まで所属していたウマ娘達は然程気にしていなかった。そもそも兵藤は、この程度の雑音を気にしているようではレースでの活躍など見込めないと信じている。

 スコープのアンタレス加入後最初のトレーニング。ドローンで撮影した動画をノートPCに取り込み、兵藤はタキオンと共にそれを観察していた。

 

「どう思う? トレーナー君」

「タイム自体は上の下、成長性を加味してもGIじゃ平均がいいところだろう。だが……」

 

 スコープを見遣る兵藤。彼女は芝のコースの端に座り、少し離れたダートコースでパワートレーニングをしている他のチームのウマ娘を眺めていた。

 

「あいつはまだ余力を残している。足を全部使い切らせた時はどうなるかわからん」

「だろうね。この走り方なら納得もいく」

 

 ノートPCのディスプレイには、二つのウィンドウで同時に動画が再生されていた。一方は卒業した元部員の走る姿、もう一方は先程撮影したスコープの走る姿。

 

「関節の使い方が上手いんだろう。走行時の体の上下動が極端に小さい。これなら重心も安定するしスタミナの浪費も防げる。走るというより、ローラースケートで滑走している感じだ」

「さしずめ『ローラーダッシュ』といったところか。ストライドが大きいから上り坂には弱いだろうが、それはこれからどうにかしてやるさ。問題は上半身の動きが小さく纏まり過ぎていることだ。原因は――」

「……まず間違いなく、銃を持って走り回っていたこと」

「精神的なケアの比重が一番大きくなるな。昨夜保健室に運び込まれたと聞く。PTSDを発症しているとなれば、他のウマ娘にも手を借りることがあるかもしれん」

 

 そこまで話して、兵藤はタキオンに向き直る。今日部室に来てからこのトレーニングの間も、ずっと彼女に問いたいと思っていたことがあるのだ。

 

「タキオン。お前、スコープに何を訊いた?」

 

 自分が帰った後も寮の門限ギリギリまで部室に人がいたことを示す電子ロック記録。何らかの精神的ショックによって保健室で一夜を過ごしたスコープ。部室の机上に残されていた論文と計算式。兵藤には、それらの中心にあるものがタキオンだと思えてならなかった。対するタキオンは、どこか嬉しそうに説明を並べ立て始める。

 

「君も気付いているだろう? スコープ君の、地面に杭を突き刺すようなコーナリング……トップスピードをほぼ維持したまま内ラチ際を曲がっていたが、あれは本来遠心力や加速度によってウマ娘の骨格筋肉系に多大な負担を強いる行為だ。だが彼女の上半身の動きの癖然り、それが習慣化される程長く続けているのなら、彼女は異常な回復力を持っていることになる」

「何の話だ」

「まあ聞きたまえよ。彼女の証言からも裏付けが取れている。NGOに保護された当初、彼女は骨盤骨折と大腿筋損傷を併発していた。普通なら全治三ヶ月、それを彼女は七日でリハビリを終えたらしい」

「七日……」

「それだけじゃないぞ。供述を元に戦歴を仔細に分析すれば、驚くべきことが明らかになる。作戦に於けるスコープ君の配置された状況、全体の死亡率から計算すると、彼女の生き残る確率は殆ど奇跡ともいえる。特に先の怪我の際は偏差値2.95、総合死亡率に対する特異偏差率40.66。これ以上の検証は倫理的な理由で行わないが、これだけでも結論には至った」

 

 一拍入れて、タキオンは続ける。その一言は、論文の題名でもあった。

 

「彼女は、『異能生存体』だ」




言うなれば運命共同体。
互いに頼り、互いに助け合い、互いに高め合う。
一人が五人の為に、五人が一人の為に。だからこそ夢を追いかけられる。
嘘を言うな!
猜疑に歪んだ暗い瞳がせせら笑う。
お前も、お前も、お前も、俺の為に沈め!

次回、『アンタレス』

こいつらは何の為に集められたか。


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アンタレス

「すみません、ここがチーム・アンタレスの部室で合ってますか~?」

 

 スーパークリークがそのプレハブ小屋にやってきたのは、日が大分傾いてからだった。

 

「兵藤トレーナーに何か用かい? 彼ならトレーナー室に資料を取りに行ったよ」

「はい、それもあるんですけど……」

「私は今手が離せない。そこの椅子にかけて待つといい。少々遅れているようだが……まあ、じきに戻ってくるだろう」

 

 部屋の奥にいたタキオンが、背を向けたままクリークに応える。彼女はクリーンベンチに向かい、その中でシャーレに固体培地を分注していた。クリーンベンチの送風機の音に交じって、電動ピペッターの吸排気音が部室に断続的に響いている。クリークの()は兵藤以外にもあったが、作業に集中している様子のタキオンにそれ以上時間を割かせるのは躊躇われた。

 大人しく椅子に座ると、入り口側の部屋の隅にいた目的の人物と目が合った。

 

「あっ、やっぱりここにいましたね!」

「……」

 

 クリークはすぐに立ち上がり、そちらへ歩み寄る。無言の相手が投げる視線は興味の有無を感じさせず、監視カメラのように無機質だった。

 

「貴女がスコープドッグちゃんですね。私はスーパークリークっていいます~」

「……俺に何の用だ」

 

 昨日も、そして今日も行われていた、スコープドッグのトレセン学園入学反対デモ。彼らを始め口さがない者達に『最低野郎(ボトムズ)』の誹りを受け蔑まれているその名をトレセン学園で聞くことになるとは、クリークは考えもしなかった。クリークもまた、今朝の食堂でスコープを遠巻きに見ていた一人だったのだ。

 それ故に、クリークには気付いたことがあった。

 

「スコープちゃん、でいいかしら?」

「構わない」

「スコープちゃん、お昼ご飯は食べましたか〜?」

「!」

 

 昼休みに食堂に行ったクリークは、今朝とは正反対の(或いは普段通りの)騒がしさで、その場にスコープがいないことを知った。購買に訪れた様子もなく、そもそも()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()彼女が自力で食事を作れる筈もない。つまりスコープは、唯一の栄養補給源である食堂のスタッフを疑うあまり、食事を疎かにしているのではないか。他人への世話焼きをこよなく愛するクリークの、それが推論だった。規格外に大食漢な友人の例もあり、捨て置くことはできない。

 

「……食べていない」

「やっぱり! だめですよ、ご飯はちゃんと食べないと〜」

「……」

 

 その程度のことは百も承知だ。視線でそう語られた気がした。無論クリークとて、スコープに説教をする為にここに来た訳ではない。クリークは肩にかけていた鞄から、分厚いタオルに包まれたタッパーとプラスチック製のスプーンを取り出し、スコープに差し出した。

 

「オグリちゃんが沢山食べてしまったので、これだけしか残らなかったけれど……」

「……これは?」

「カレーライスですよ~。私がお昼に作りました〜。どうぞ召し上がれ! 大丈夫、危ないものは入ってませんから」

 

 スコープはクリークと受け取ったタッパーをかわるがわる見つめている。皆が平気な顔で食事を摂っていたことを思えば、スコープが異物混入の被害を受けたことは、あの場にいたウマ娘達にも意外に知られていないようだった。厨房スタッフの――一部であると信じたい――悪意は、明確に彼女一人に向けられたもの。疑うのも当然かとクリークは気落ちしかけたが、スコープが丁寧な手付きで蓋を開け始めたのを見て、内心ほっとした。どうやら、他者の善意までもを疑う程に荒んではいないらしい。

 作りたての状態と比べれば多少劣るが、中身はつい先程電子レンジで温め直したばかり。開けた瞬間から食欲をそそるスパイシーな香りが部屋に漂う。タキオンにもその芳香が届いたのか、彼女の耳が一瞬だけ後ろを向いたのをクリークは確かに見た。

 

「いただきます」

 

 挨拶のみ口に出し、以後黙々と食べ進めるスコープ。速くもなく遅くもなく、一定のペースを維持して米とルーをスプーンで掬い、口に運んでいく。相変わらずの仏頂面だが、次第に耳が横向きに倒れていくのを見て、クリークは破顔一笑した。

 

「すまん、遅くなった。喜べタキオン、とんだ逸材が……何だこの匂いは」

「おかえりトレーナー君。君に客人だよ」

 

 スコープがタッパーを半分程空にしたのと時を同じくして、兵藤が帰ってきた。作業を終えたらしいタキオンも彼の方に歩いてくる。クリークがそちらに向き直ると、スコープも顔を上げ、無造作にスプーンを置いた。

 

「お前は……スーパークリークか。というより、何故スコープはカレーを食べているんだ?」

「はい、スコープちゃんがお昼ご飯を食べていなくて、お腹が空いているだろうと思って」

「食べていない? 何故そんな……」

「……朝食に買った惣菜パンに、ガラス片が入れられていた。食堂は信用できない」

 

 クリークとスコープの説明を聞いて、兵藤は頭を抱えた。全くの初耳だったに違いない。

 

「スコープ……そういうことは教員なり事務員なりに相談――いや、お前に無理は言えんな。どうしたものか……」

「空腹の状態であの記録か! 凄いなスコープ君、君の能力は想定以上だ」

「さっき喜べと言ったのは撤回するぞタキオン。おかげで計測はやり直しだ。全く不調を表に出さないのが上手い奴だよ……」

 

 呆れた風な語調だが、態度の端々からスコープへの心配が滲み出ている。やはりスコープも自分も、このチームに入ることが正解なのだと、クリークは確信を強めた――堪はいい方だと自負している。

 

「あの~、そのことなんですけど……」

「ああすまん、客を放置するのはいかんな。何だ?」

「私、このチームに入りたいんです~。ここで活動しながら、スコープちゃんのご飯を作ってあげられたらなあって」

 

 ただ手をこまねいて見ているだけではいたくない。傷付いたスコープの心身を、自分にできるやり方で癒してあげたい。遍く発揮されるクリークの母性は、溢れんばかりの慈愛となってスコープを包み込まんとしていた。彫刻のような彼女の顔が、いつかは笑顔で満たされる時を願って。

 

「入部なら大歓迎だが……飯を作る?」

「よかったじゃないかトレーナー君。後ろの一人も合わせればあと一人だ」

「ふぇっ?」

 

 タキオンが指を差した先には、果たして耳の大きな黒鹿毛のウマ娘が兵藤の背後に隠れるようにして佇んでいた。

 

 

 

 

 

 昨日今日と随分に濃い日が続くものだと、ライスは振り返ってみて驚嘆した。スコープとの出会い、彼女の不調、そして選抜レースを待たずしての彼女と同じチームからのスカウト。自分でそうなるよう動いた訳でもないのに、こうもスコープとの関わりが多くなると最早運命的なものをも感じる。

 アンタレスに新たに二人――ライスシャワーとスーパークリークの加入が決定し、時間の都合からその日のトレーニングはお開きとなった。ライスは寮を同じくするスコープと同道し、二人が初めて会ったあの交差点に差し掛かっていた。

 

「礼を言っていなかったな」

「お礼……?」

「昨晩は、助かった。わざわざすまない」

「う、ううん。いいの、ライスはスコープさんのことが知りたくて……」

 

 信号待ちの間の会話。今朝の出来事をロブロイから聞いていたライスは、スコープを受け入れたチームがあったこと、クリークが今後スコープの食事を作ることを聞いて安堵したものだった。敵意と悪意に包囲されたスコープに自分以外の味方がいたことが、堪らなく嬉しかったのだ。心なしか、自分に礼を言うスコープの声色も――彼女の声自体あまり聞いていないのに――僅かばかり明るく聞こえる。

 

「……お前も、俺を知っていると思っていた」

「昨日までは知らなかったよ? ロブロイさんから聞いたけど……ライスが知りたいのは、もっと違うこと」

「違うこと……?」

「えっと、どんな食べ物が好きなのかな、とか、なんでトレセン学園に入ったのかな、とか……」

 

 相手が自分を知らないとは思いも寄らなかったらしいスコープに、何とか言葉を選びながら答えるライス。「戦い以外のこと」という言い方はしたくなかった。他者の不幸を何より嫌うライスには、その話題に自分から触れる勇気はなかったのである。

 

「理事長に誘われた。トレセン学園に入学しないかと」

「理事長さんに?」

「進学先も就職先もあてがなかった。だから受験した」

 

 しかしスコープの回答は、その話題を容易に想像させ得るものだった。人殺しのレッテルを貼られた彼女に選べる道はそれ以外になかったという事実。辛いことを思い出させてしまったのではないかと、ライスは俯き、唇を嚙み締めた。

 

「――ライス」

 

 横に並んで立っていたスコープの声が前方から聞こえて、ライスははっと顔を上げた。見れば信号は既に青に変わっており、スコープは横断歩道の中程で立ち止まってライスを待っている。ロブロイに聞いた通りの律儀なウマ娘だと嬉しくなり、歩道から足を踏み出そうとして、

 

「危ない!!」

 

 スコープのいる場所に向けて、一台の軽トラックが突っ込んできた。

 

 

 

 

 

「うわあああああぁぁぁぁぁん!! ドレーナーざんが死んじゃうがど思っだあああああぁぁぁぁぁ!!」

「泣くなチケゾー、私は生きているだろう。せめて病院では静かにしなさい」

 

 友人の良川トレーナーが事故に遭ったと聞いて、兵藤は肝を潰した。兵藤がアンタレスのトレーナーとして大叔父の後を継いだ時からの付き合いである彼は、アンタレスがそうであったように卒業生として担当ウマ娘を送り出し、先日新たに一人のウマ娘を担当し始めたばかりである。そして入部から数日と経っていないチームメンバーが事故に巻き込まれかけたとあれば、彼が病院に駆け付けない理由はなかった。

 そして今、号泣する良川の担当ウマ娘ウイニングチケットと、目撃者であるライスを伴い、彼の病室に面会に来ている。

 

「……意外に元気そうで安心したよ。スコープを庇ってくれたことには礼も言う。しかし無茶したもんだ」

「交通事故如きで未来あるウマ娘を走れない体にしたくなかったのだよ」

「それでお前が死んだら元も子もないだろうに。よくその程度で済んだな……」

 

 軽トラックに轢かれそうになっていたスコープを、通りかかった良川が突き飛ばし、身代わりになる形での事故。路肩から急発進した軽トラックはそれなりの速度が出ていたが、良川は右上腕骨を折る以外には大した怪我もなくぴんぴんしている。

 

「あ、あの、ごめんなさい! ライスがちゃんと信号を渡っていればこんなことには……」

「気にすることはない。君が救急車を呼んでくれたのだろう? スコープ君と合わせて礼を言いたい」

 

 尚、下手人の運転手を現行犯逮捕したスコープは、駆け付けた警察に同行し聴取を受けている。聞けば、逃走を図った犯人の軽トラックの側面に回り込み、車体を横転させて止めるという荒業を使ったとか。「凄いパンチだったなあ」と冷や汗をかきつつ呟くライスの声は、兵藤は聞かなかったことにした。

 

「――チケットのトレーニングはどうする? 利き腕が塞がっては仕事にならんだろう」

「えー?! じゃあトレーニングできないのー?! そんなー!!」

 

 無事が確認できたならと、兵藤は仕事の話に入る。良川も自分と同様、新しく担当するウマ娘に本格的に鍛えることができていない。契約早々にトレーナーが現場を離れる羽目になっては、泣き止んだと思いきやまた喧しくなり始めたチケットの気持ちもわかろうというもの。

 その答えは、兵藤にも利のある形で返ってきた。

 

「そのことだが、確かアンタレスは部員が不足しているだろう? 私がサブトレーナーになる形でそちらに合流すれば、出走条件は満たせるのではないかね?」

「いいのか? サブならお前の名前はあまり表に出なくなるぞ」

「私がすることは大して変わらんよ。チケゾーの望み通り、ダービーで勝たせる。立場など些細なことさ」

「トレーナーさぁん……!」

「……わかった、その話受けよう。お前、あまり自分の担当を心配させてやるなよ」

「善処しよう」

 

 兵藤から見ても、良川は変人の類にあたる男だった。彼はウマ娘を理事長に負けず劣らず愛し、ウマ娘を最高のパフォーマンスで走らせることを至上の喜びとしている一方、自分の評判には無頓着極まりない。それは大叔父にも似ていたが、彼がここまで自分のチームを持たなかったことのみが二人の決定的な差異であった。

 兵藤が良川と友誼を交わしているのは、兵藤自身が身勝手と自覚する危惧、或いは恐怖心によるものであった。一歩間違えれば、良川が大叔父と同じ道を辿ってしまうのではないかという――

 

「今日はもう帰る、流石にもう夜も遅い。書類は後で頼むぞ。チケット、ライス、寮まで送ろう」

「はい!」

「あ、ありがとう、ございます!」

 

 車でウマ娘二人を寮に帰し、兵藤も帰路に就いた。トレーナーにも学園から寮が用意されているが、兵藤は立川市の自宅から通勤している。その途中で、彼は渋滞に捕まった。

 

「……そうだ」

 

 スマートフォンに接続したカーオーディオでタキオンに電話をかける。三コール程で繋がり、実験器具を洗っているらしき音をバックにタキオンが応答した。

 

『やあトレーナー君、良川トレーナーは無事だったかい?』

「腕の骨を折った以外は何ともない。仕事ができなくなるからうちと合併することになった。また仲間が増えるぞ」

『おお、何とか五人揃ったね。私も少し安心しているよ、これを全て実験室に移すのは骨だ』

 

 前置きもそこそこに、兵藤は本題を切り出した。

 

「……タキオン、やはり俺は、爺さんの論文は信じられん」




無能、怯懦、虚偽、杜撰。どれ一つとってもレースでは命取りとなる。
それらを纏めて無謀で括る。
用意した作戦、用意された地獄。
内も怖いが外も怖い。
脆弱なバ場、狭隘なゲート、充満する敵意。
まさに破裂必至の大動脈瘤。

次回、『メイクデビュー』

怒涛のドミノ倒しが始まる。


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メイクデビュー

 トレセン学園の多くのウマ娘がそうであるように、ウイニングチケットも入学前からスコープドッグのことを知っていた。自他共に認める程に涙腺の緩いチケットは、まとめサイトでスコープの生い立ちを知って二秒で泣き、その後数十分涙が止まらなかったのを覚えている。

 実際には、スコープの‘悪評’が書かれたサイトの後半部分は泣いていたせいで碌に読めていないのだが、それで彼女を知った気になっていたのはある意味で幸運だったのかもしれない。早起きでデモ隊に鉢合わせなかったこと、スコープが来る前に朝食を食べ終えていたこともあり、チケットの中でのスコープへの認識は「少年兵として戦わされていた可哀想なウマ娘」のままで維持されていたのである。加えて担当トレーナー良川の事故に伴うアンタレスへの合併に近い形での加入は、チケットの中でのスコープ(と救急車を呼んだライス)の株を急上昇させた。

 

「昨日はトレーナーさんを助けてくれてありがとう!! アタシウイニングチケット! チケゾーって呼んでね!!」

「……スコープドッグだ。スコープでいい」

 

 以上のやり取りで、スコープはチケットの――少なくともチケット自身の認識では――友達になった。そして友達として、チームメイトとして過ごしていく中で、スコープについて幾らかわかったことがあった。

 

「よし、次はスコープ、チケットと走れ」

「了解した」

「はーいっ! スコープ、今日も負けないからね!!」

「……ああ」

 

 兵藤とタキオンの分析によれば、スコープの脚は短距離以外なら何でも熟す非常に高いポテンシャルを持っているのだという。再計測の結果、単純な肉体的スペックは既にクラシック級の上位層に匹敵しているらしく、タイムアタックでも安定して好成績を叩き出している。しかし実際には、彼女は逃げや先行などの「追われる立場」になった途端にコンディションが急落し、またどうしてもスタミナをゴール後まで残そうとしてしまう改善できない悪癖があった。兵藤に問い質されて彼女が提出した診断書の内容――彼女が患う心的外傷後ストレス障害(Post Traumatic Stress Disorder)が、本来の能力を十全に発揮することを妨げているのだ。彼女を縛り苦しめるトラウマが如何なるものなのか、想像するだけでもチケットは涙を禁じ得なかった。

 そんなスコープをベストコンディションに保つには、何よりも精神的なケアが欠かせない。そう繰り返す兵藤を見て、単純なチケットは全力のスコープと走りたい一心で彼女を構い倒し、何とか元気付けようとした。

 

「スコープスコープ、今度の夜一緒にラーメン食べに行こうよっ!」

「夕食ならクリークが作ってくれている。俺は行かない」

「えーっ、行こうよぉ!! 一人より二人で食べた方が美味しいってぇ!! あっ、だったらクリークも誘えばいいんだ!! それにライスにタキオンも、あとトレーナーさんも!!」

「……わかった。同行する」

「やったーッ!!」

 

 無口で不愛想な(チケットは“控えめ”と好意的に解釈している)スコープは、友人からの誘いにも積極的には参加したがらない。ただ、悪気があったり変に遠慮している訳ではないので、チケットは無自覚にも勢いで押し切ることができる。

 

「スコープっ、今日の放課後ハヤヒデと勉強会するんだけど――」

「……どこかわからないところがあるのか?」

「そうなんだよぉ! このままじゃ次の小テストも再試験になっちゃうー!!」

「助けが必要なら、俺も参加する」

「ありがとーっ!!」

 

 一見して陰性にも見える近付き難い雰囲気こそあるが、実際には律儀で思いやりのあるウマ娘だというのも、話してみなければわからないだろう。過去の話が本当ならば勉強などできたものではなかった筈だが、意外に頭も良い。彼女が勉強を教える過程で、チケットの他の友人達とも交流を持てたのは僥倖といったところか。

 

「スコープっていつもコーヒー飲んでるよねー、他のは飲まないの?」

「……他の飲み物を買って失敗できる程、持ち合わせに余裕がない」

「そんなぁ!! だ、だったらアタシのにんじんサイダーあげるよ!」

「……?! ゲホッゴホッ! ……なんで皆こんなものを美味そうに飲むんだ」

「うっそぉ!? スコープ、炭酸飲めないの?!」

 

 ブラックコーヒーを好み、部室近くの自販機で見つけてからというもの毎日のように飲んでいる。「カフェと話が合いそうだ」とはタキオンの談。尚、タキオンは紅茶党で大のコーヒー嫌いな上、溶けなくなるまで砂糖を入れてもまだ足りないという度を越した甘党である。

 事前情報だけでは知り得なかったスコープの側面。それが少しずつ明らかになりながら、いよいよ彼女のデビュー戦が翌日に迫るところまで来た。時期が時期故にかなり巻いたスケジュールではあったが、他の三人も三週間以内に初出走の予定となっている。

 

「良川さん、腕の方は大丈夫ですか~? 私があーんってしてあげましょうか?」

「ハハハ、問題ないとも。もう治ってから一ヶ月以上経っている」

「あっ、じゃあアタシにあーんってして!!」

「いいですよチケットちゃん。はい、あーん」

「トレーナー君、醤油を取ってくれないかい」

「お前の方が近いだろう自分で取れ」

「じゃ、じゃあライスが取ってあげるね!」

「……」

 

 クリークはいつからか、スコープだけでなくチームメンバーの分まで食事を作ってくるようになっていた。今では週に一回、兵藤と良川を含めた七人で部室に集まり夕食を摂るのが通例である。五人のウマ娘の中で一番大きなスコープが一番小食で、一番小さなライスが一番の大食いだということも、チケットはこの習慣が始まってから知った。元々スコープに安全な食事を安心して摂らせる為だったものが、こうして仲間達の絆を深めることに一役買っている。

 入部から二ヶ月も経てば、収まる気配の見えないデモを目撃することは避けられない。それでスコープが最低野郎(ボトムズ)と罵られていようとも、それは決して彼女の本質ではないのだ。彼女の優しさが良川を助け、チケットをアンタレスに呼び込んだ。禍を転じて福と為す、とは少し違うが、チケットはスコープが中心となった偶然の成り行きを感慨深く思った。

 思ったのだが。

 

「スコープ、明日はやっぱり差しで行くの?」

「……そうだ」

「だよねー! 何ていうか、脚質とかじゃなくって、スコープは追われるより追いかける方が似合ってる感じする!」

 

 何の気なしに、チケットは明日のデビュー戦に関してスコープに水を向ける。にんじんを咀嚼していたスコープはそれを飲み込み、短く答えた。

 確かにスコープとは友誼を結び関係も深くはなったが、しかしチケットにはもっと気になることがあった。スコープはトレーニングで誰と競って勝ったとしても、喜んでいる様子を見せないし、負けても悔しそうにしていないのだ。結果を淡々と受け入れているというのとも異なる、文字通り何も感じていないかのような――

 

「……」

 

 走り、競い、勝つことに本能的に喜びを感じるウマ娘にあって然るべき闘争心の欠落。トレーナーからスカウトを渋られる原因にさえなるその理由を特に深く考えず、直接尋ねもしなかったことを、後にチケットは胸を引き裂く程悔やむことになる。

 

 

 

 

 

 「間違いなくここ十年で最悪のレースになる」という、兵藤のその予想に反論できる者はアンタレスにはいなかった。恐らくはトゥインクルシリーズ史上初、殺人の前歴が明らかな――そしてURA発足以来最も多くの人命を奪ったウマ娘のメイクデビュー。暴走した正義感がいつどこで牙を剥くか知れたものではない。兵藤自ら関係各所とかけ合い、スコープだけを早朝に東京レース場に入場させることで、彼女がデモ隊と遭遇することは何とか回避できた。改めてアンタレスの面々が入った時、警備が目を光らせていたのが功を奏し、デモ隊が会場内に乗り込んでくることもなかったのは嬉しい誤算であった。

 だが当然ながら、パドックに出るのが不可避の行為である以上、そこからは最早どうすることもできない。

 

『四番、スコープドッグ。一番人気です』

「嘘だろ、本当に出てきやがった……」

「あんな奴がセンター獲って歌って踊るとか考えただけで吐き気するわ」

「恥知らずってこういうことね」

「前走ってる娘蹴り殺したりするんじゃねえぞー!!」

「故障しちまえっ!」

 

 あちこちから飛んでくる悪罵の数々。冷たい雨の中それらを無言で受け止めるスコープの姿が、ライスの目には痛々しく映った。

 

「非道いよ……こんなのあんまりだよぉ……」

 

 この日出走を予定していたスコープ含め九人のウマ娘のうち三人が、大した理由もなしに出走登録を取り消している。同じレースでデビューすることすらも経歴に傷を付ける――トレセン学園関係者にさえそう考えられている上に、折角の晴れ舞台でのこの仕打ち。自分がその立場だったなら到底耐えられないだろう理不尽に晒され、それを甘んじて受け入れるスコープを見て、ライスは余計に悲しくなるのだ。

 他のメンバーと共に地下バ道でスコープを待ち構え、その姿を捉えるや、ライスはいの一番に駆け出した。

 

「スコープさん! あ、あの……」

 

 寮で彼女を助けたあの夜と同じく、何を言うのかも決めていなかった。気にすることはないと慰めればいいのか、勝ってくれと応援すればいいのか。頭に浮かぶ選択肢のそのどれもが不正解であるような気がして、迷っている自分にも嫌気が差して、さっき拭ったばかりの涙がまたじわりと滲んでくる。チームにスカウトされて仲間と一緒に鍛えてきたというのに、自分はまだ駄目な子のままなのか――そう思った矢先、ライスの肩にそっとスコープの手が置かれた。

 

「……最善は尽くす。俺には、勝利が必要だ」

 

 それだけを言い残し、スコープは一歩一歩踏み締めるような足取りで去っていった。

 “勝利が必要”。勝てるという自信や勝ちたいという願望ではない、無機質且つ冷淡な目的性。その実勝たなければ、スコープは生きる活路さえ切り開けない。彼女の闘志を凍り付かせてしまった過去と現在に胸を痛めながら、ライスは一つ心に決めた。

 

「――見てるよ、スコープさんの走り」

 

 涙で歪んだスコープの後ろ姿は、陽炎のように揺らめいて見えた。

 

 

 

 

 

 実のところ、レースの勝敗自体はスコープの圧勝で終わるという確信が兵藤にはあった。出走を取り消した三人がいれば多少は変わったかもしれないが、たとえ精神的に‘デリケート’なスコープが万全の状態でなかったとしても、デビュー戦に出てくるウマ娘程度を相手に彼女が後れを取るようなことはとても考えられなかったのだ。それは十年以上アンタレスを率いてきた兵藤の経験に裏打ちされた、「才能を見出し、それを鍛錬で引き出した」という自負である。

 

『――大欅を越え四コーナーへ、ここで最後方スコープドッグがバ群を突き破って加速する! 仕掛けが早いか他は追わない、二番手との差が徐々に開きながら最後の直線に入る! 抜け出したスコープドッグ加速が止まらない! 二番手以降仕掛け始めるが届かない! ――』

「……」

 

 故に兵藤は、視線だけはレースの展開を追いつつも、実況も歓声も聞き流して思考に耽っていた。具体的には、良川が事故に遭ったあの夜のこと。あれから二月経ったが、その時のタキオンとの会話は未だに脳裏にこびり付いて離れようとしない。

 

“もし論文の内容が正しかったなら、スコープを庇った良川は死んでいなければならない筈だ。良川があの程度の怪我で済んだなら、スコープが死なないのは当然だろう”

“本当にそうかな?”

“そうだ、異能生存体など眉唾に過ぎん”

“出来過ぎているとは思わないかい?”

“……出来過ぎている?”

“スコープ君は身寄りがない。日本に来てからは児童養護施設で暮らしていたそうだが、決して経済的に恵まれた環境とはいえないだろう。レースで生活費を稼ぐ以外にやりようがなかったが為にトレセン学園に来たのなら、折角所属したチームが解散してしまえばデビューすらできず、そのまま退学、最悪の場合餓死だってありえた筈だ。なのに今日一日だけで、幸運にもメンバーは揃った”

“……まさか”

“そう、事故に遭った良川トレーナーが生存し合併の話がスムーズに進んだことも、クリーク君がスコープ君を心配して入部を希望したことも、そして君がライス君をスカウトしたことさえも……全てはスコープ君の持つ異能の因子が、彼女一人を生き残らせる為に引き起こしたことだとは考えられないか?”

“馬鹿な……ただの偶然だ”

“必然たり得ない偶然はない。レースだってそうさ。スコープ君の力が今後どう影響してくるのか……とても楽しみだよ”

 

 兵藤が意識を現実へ再浮上させた時、丁度スコープがゴール板を駆け抜けていった。

 

『――勝ったのはスコープドッグ!! ジュニア級離れした実力でレースを制した! 南米からの刺客スコープドッグ、彼女は歴史の裂け目に打ち込まれた楔となるのか!? ――』

「……必然たり得ない偶然はない、か」

 

 観客席の上の方では、レース結果を目の当たりにした観客の幾らかが、『最低野郎』と書かれた横断幕をおずおずと下ろしている。それを見た兵藤は、自分とタキオンが他の四人から少し離れた位置に立っているのをいいことに、視線を合わせず隣のタキオンに問うた。

 

「タキオン、お前は何故あいつが異能生存体であることに拘る? お前は何が目的だ?」

「ウマ娘の肉体が秘めた可能性……それを観測する一助になればと、そう思っているよ」

 

 兵藤はタキオンを一瞥する。荒れたターフにじっと立っているスコープを眺めるその顔は、いつになく穏やかな笑みを浮かべていた。

 これから大変だというのに人の気も知らないでと、兵藤は心中で悪態を吐いた。




野心とは才能の別名と冷たく嘯く。そうかもしれない。
だが、野心には挫折がひっそりと寄り添うことを知るがいい。
この業界がそれだ。結果の全てがここにある。
なるほど、忠告のつもりか、それとも……?
ふん、騙されはしない。敗者は敗者を知る。
出せ! 出してみせろ! 己の全てを!!

次回、『集客』

時に、傲慢の別名は何というのだろうか?


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集客

 アンタレスへの新規加入者四人のメイクデビューから八ヶ月。学園で不定期に開催される小規模な模擬レースの後に、それは起こった。

 

「スコープドッグさん、ですね?」

 

 その時学園内にいたアンタレスの関係者は、良川とチケット、スコープだけだった。すみれステークスに出走するべくクリークと兵藤が阪神レース場に向かい、ライスが応援の為、タキオンが曰く「ちょっとした検証」の為それに同行した。一方チケットは来月の弥生賞に向けたトレーニングの為同行を辞退、特に予定がない筈のスコープもトレーニングを理由にこれを拒否した。二人の面倒を見ることを良川が請け負い、この日に至る。

 模擬レースでグラウンドが使えなくなることを、勝負勘を維持する好機と捉えた良川の提案で、二人は出走を決定。最終直線での二人の競り合いの末、ハナ差でスコープが勝利を収めた。そしていつものようにチケットが悔し泣きする中、スコープに声をかけたのがチケットに続き三着となったウマ娘、中等部所属のグラスワンダーであった。

 

「……そうだ。俺に何か用か?」

 

 良川は最初、グラスがスコープの強さに興味を示したのかと思った。グラスは昨年十二月前半のジュニア級GIレース、朝日杯フューチュリティステークスで二着を獲っている。一方のスコープはジュニア級で三つのレースに、更に十日前にもクラシック級GIIIレースの共同通信杯に出たものの、重賞では一着を獲っていない。そんなスコープが、昨年十二月後半のホープフルステークスを勝ったチケットさえ下してゴールしてみせたのが、彼女の闘争心に火を付けたのかもしれない、と。

 

「貴女は、何の為に走っていますか?」

 

 だがグラスの不機嫌な、或いは不完全燃焼とでもいうべき表情を見て、その考えは霧消した。彼女の問いに、ややあってスコープは答える。

 

「……俺には勝利が必要だ。走らなければ手に入らない。だから走る」

「その走りを、貴女は自分に誇れますか?」

「戦いに誇りなどない」

 

 きっぱりとしたスコープの応答。彼女の顔は昆虫のように動かなかった。彼女がチームメンバーと併走する度に見せる、無感動で冷めきった目だ。それを前にしたグラスは、「……やはり」と小さく呟きつつ嘆息した。その眉根に皺が寄り、次いで開かれた口が泡を飛ばさん勢いで浴びせかける。

 

「貴女には闘志がない。勝ちたいという欲望もない。夢や目標も感じられない。貴女は空っぽです。走らなければならない、勝たなければならないという必要性と義務感だけで走っている。そんな人と競ったところで、勝利にも敗北にも意味はありません。終わったことをいつまでも引きずって嫌々走っている位なら、走ることなど今すぐ止めてしまいなさい!」

 

 あまりにも的確な言葉――“空っぽ”。鋭過ぎる正論が、スコープの印象を残酷に縫い留めた。

 

「その言葉、取り消して貰おうか。グラスワンダー君」

 

 サブトレーナーの身とはいえ、最早静観などしていられない。少し離れた観客席から一部始終を見ていた良川は、三人の方に足を進める。自分でも驚く程に底冷えのする声が出ていた。四十も越して大人気ないとはわかっていても、自分の受け持つウマ娘を害されて黙っていられる程良川は気が長くなかった。

 

「貴方は、アンタレスの……」

「知っているのなら自己紹介は割愛する。いいかねグラスワンダー君。彼女の‘戦い’はまだ終わっていないのだよ。自己実現欲求の為に走る君には、安全の欲求の為に走る彼女が浅ましく見えるのかもしれないが、君の発言はスコープ君を大いに傷付けるものだ」

「安全の欲求……」

 

 スコープドッグというウマ娘の入学が決定した時点で、トレーナーや教員には秋川理事長から彼女に関する通達が届いていた。それ自体は良川の知る情報をなぞるものでしかなかったが、白状すれば、当時の彼には彼女の担当になれる自信はあまりなかった。

 数年前のニュース――政情不安定な南米の小国メルキアで、一人のウマ娘が人権団体に保護された。彼女の名こそスコープドッグ。メルキアの公用語である英語とスペイン語の他、日本語を流暢に話していた彼女は、親族に日本人がいた可能性が高いとして安全な日本に渡ることとなり、児童養護施設で暮らすことになる。

 ところがその後、ある事実が世間を震撼させた。

 内戦状態にあったメルキア政府軍は、数々の国際条約で禁止されている筈の少年兵を組織的且つ公然と運用し、その中にいた多数のウマ娘の一人がスコープであった。更に多国籍軍の介入により壊滅するまで彼女が所属していた『メルキア陸軍第二四戦略機甲歩兵団特殊任務班X-1』、通称『レッドショルダー』が、内陸部の都市サンサに於ける大量虐殺(ジェノサイド)に関与していたことが明らかになると、彼女に対する評価は「戦禍に巻き込まれた悲劇の少女」から「虐殺に加担したウマ娘のクズ」へと転落。ショッキングな内容故に大手メディアが報じなかったのは彼女にとって唯一の救いであろうが、ネット上で拡散した情報は最早戸を立てることもできず、現地に潜入していた戦場カメラマンが偶然捉えた‘証拠写真’もこれに拍車をかけた。

 最低野郎(ボトムズ)吸血部隊の生き残り(ラストレッドショルダー)。世論の‘叩くべきもの’がたった一人の身に集約された結果が、スコープドッグというウマ娘を今も尚苦しめている。

 

「ウマ娘の能力はその精神面に大きく影響を受ける……彼女が走る理由はそこにある。PTSDの問題は、心の強い君が考える程軽くはないぞ」

「……!」

 

 スコープが他のメンバーと比べて頻繁にレースに出ているのは、兵藤と良川の判断によるものだった。報酬金額は上位のレースの方が多いのは勿論だが、彼女には確実に勝てるレースで「十分な金が懐に入っている」という実感を持たせ安心させると同時に、堅実にファンを、つまり味方になってくれる人間を増やすべきだと二人は考えていたのだ。身の安全さえ脅かされていては夢や目標を持つことも難しい。今の時期は、彼女の心の余裕や、健全な自己肯定感を育む為の土壌を涵養している最中なのである。

 それを、グラスに邪魔された。ウマ娘を愛するが故の良川の怒りは、同じウマ娘に対しても一切の矛盾も未断もなく向けられる。身体能力では劣る筈の相手に、グラスはたじろいだ様子を見せていた。

 

「待ってください、良川トレーナー」

「む?」

 

 そんな折、二人の間に割って入る者があった。身長は一七五センチのスコープと同程度だが、ボリュームのある芦毛の髪型は彼女をそれ以上に大きく見せる。制服姿なので先のレースには参加していなかったようだが、良川には記憶に新しいウマ娘だった。

 

「君は……ストライクドッグか」

 

 ストライクドッグ。スコープやチケットらとは同期にあたる。朝日杯FSでグラスと七バ身差を付けて勝利した他、京都ジュニアステークスと共同通信杯でスコープを破っている実力者だ。担当トレーナーは彼女にトレーニングメニューを渡すだけで放置し、彼女自身もトレーニングを行う姿を滅多に見かけなかった為ノーマークだったが、重賞を三度も勝てば注目度も上がるというもの。

 

「私はアメリカにいた時グラスの姉弟子でした。妹分の不始末、その責任の一端は私にもあります。どうかこの私に免じて、平にご容赦ください」

「ストライクさん……」

 

 スコープとは違う、勝つことが当然だと言わんばかりの傲慢な無表情を勝利の度に見せていたストライク。他の生徒とさしたる交流もなく、プライドの高いウマ娘だと良川は思っていたが、なかなかどうして優しい所がある。遮られてやり場を失った怒りが、氷水に突っ込んだように冷めていくのを感じた。

 

「……わかったよ。やはり、私も大人気なかったな」

「感謝します。行くぞ、グラス」

「は、はい……!」

 

 ストライクはグラスを見えない糸で引っ張るようにして去っていく。良川が横目に見たスコープの顔には、自分を負かしたウマ娘と相対しても、やはり何の情動も浮かんではいなかった。わかりきったこととはいえ、それが良川には辛く、そして寂しい。

 クリークの謎の体調不良の話は、その直後に舞い込んできた。

 

 

 

 

 

「う、うう……」

 

 日が沈んだ頃、仁川から帰ってきたクリークは、学園の中庭で泣いていた。

 デビュー戦以降のトレーニングから、体に抱えていた不可思議な違和感。気にするまでもないと無視を決め込んでいたが、出走直前、遂にそれを無視できなくなった。レース後の診察で発覚した正体不明の呼吸器系・循環器系の異常――担当した医師と兵藤の判断で、およそ半年以上のレースへの出走を見送らねばならなくなったのだ。

 

「たった一度の機会だったのに……」

 

 本人の気分優先で前哨戦にすみれステークスを選びこそしたが、クリークはチケット同様三冠路線を走るつもりであった。それはアンタレスが四半世紀以上も続く息の長いチームでありながらクラシック三冠の一角も獲っていないことも理由の一つではあったものの、スコープの為というのが彼女の中では大きなウェイトを占めていた。

 スコープはレースに勝つことも、走ることも楽しんでいない。少しでも自分が彼女の世話を焼き、そして背中を見せることで、彼女が擦り減らし風化させてしまった情熱を蘇らせることができるのではないかと、クリークは考えていた。

 それが、この体たらくである。

 

「――クリーク」

「……えっ?」

 

 唐突に現れた気配にクリークがはっと顔を上げると、彼女の目の前にはいつの間にかスコープが佇んでいた。月明かりの下、涙で滲んだスコープの顔は、クリークには自分と同じく哀しんでいるように見えた。

 

「それ程苦しんでいるのに、何故お前は走るんだ?」

 

 走る理由そのものからの問い。答えていいものだろうか、とクリークは逡巡する。それがいけなかった。

 

「今日、中等部のウマ娘に怒られた。嫌々走っているなら走るなと。何も言い返せなかった」

「……」

「俺にはわからない。他人を蹴落としてまで手に入れたいものなど、俺には命位しかない。生きる保証のある奴が、何故争い合う必要がある?」

「それは……」

 

 裏を返せば全ての競技者に対する侮辱とも取れるスコープの疑問。クリークには、それがスコープが本心から発した純真にして当然の問いかけだと理解できた。

 戦争を過去のものとするこの国の人々と、戦いを隣人としていたメルキアの国民。争うことに疲れたスコープは、銃も要らない平和な世界の中で、それでも他者を踏みつけにして這い上がること、夥しい数の犠牲の上に一握りの栄光を見出そうとすることが理解できないのだ。もし()()()安全な場所で不自由なく暮らすことができていたなら、彼女は頼まれても走らないだろう。レースで勝つのはただ一人、大抵のウマ娘は未勝利戦も突破できずに走りの最盛期を棒に振ることになる。それは否定しようのない事実だった。

 膨大な、あまりにも膨大な夢と青春の意味無き損耗。スコープの目には、このトゥインクルシリーズがそう映っているに違いない。

 

「……レースも戦争も同じだ。負けた者の未来を奪う。勝った者の自由も奪う。走り続ける限り、この地獄は終わらない」

 

 レースと戦争、二者の間にある競争・闘争という共通項。己が築いた屍の山の上で、次は自らがその一部となることに怯えながら、血塗られた冠を掴み取る。見方を変えれば――否、自分が向き合わなかっただけだ――スコープの言う通り、輝かしい栄誉の裏側で数多の夢を歴史の狭間に葬り去ってきたこの業界は地獄そのものだ。

 もうクリークには何の反論もできなかった。自分と同じレースに出ていた者にとっての勝者であり、自分が出られなくなったレースに出る者にとっての敗者である自分の言葉など、スコープには届くまい。レースに関わる限り、心からの彼女の笑顔など望むべくもないのか――

 

「違うよッ!!」

 

 聞き慣れた声が、スコープの主張に反駁した。

 

「そんな悲しいこと言わないでよぉ……!!」

 

 チケットだ。事あるごとに泣いている彼女だが、その悲痛な叫びは、今の彼女が流す涙の重みを普段とは比較にならないものに変えていた。

 

「確かにレースで勝てば、負けた誰かの、その誰かを応援してた人達の夢を奪うのかもしれない。奪った夢を背負って走るのは苦しいことかもしれない。でも……レースは奪うだけじゃない! それ以上に、誰かに夢を与えられるんだよ!!」

 

 チケットはクリークがスコープに伝えたかったことの全てを代弁した。そうだ、どんなに非情な光景に見えたとしても、互いを潰し合うこと、勝利に縛られることがレースの本質ではない。少なくとも自分は、自分を負かした相手を憎むようなことはしないと誓える。レースを制した者の輝きが、必ず誰かを笑顔にできると知るから。

 

「スコープ、アタシのダービー見てて! 絶対に勝って、夢を叶えて、それで……沢山の人に夢を与えるから!! 証明するからッ!!」

 

 まだ皐月賞も始まっていないというのに、威勢よく啖呵を切るチケット。常日頃自身の目標である日本ダービーへの思いを口にするチケットならば、或いはスコープの心を蝕む闇を照らすことができるのかもしれない。

 涙を拭いつつグラウンドの方角へと駆け出していく彼女に、クリークは今の自分には実現できない思いを託した。




この時点で警告だと気付かなければいけないのだ。
自分を信じて欲しいとなど言ったことはない。
無論、愛して欲しいなど考えたこともない。
ましてや、願い事など聞く耳を持たない。
後悔もなければ未練にも思わない。
ただ一つだけ確実に為すべきことがある。
それは、自分を超えようとする者を圧殺すること。これだけは誠実に実行するのだ。

次回、『好敵手』

ただの一度も仕損じてはならない。


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好敵手

 七月から八月に亘る夏期休業期間、トレセン学園ではクラシック級以上のウマ娘を対象に夏合宿が行われる。通常殆どの生徒は学園主導で館山湾の合宿所に向かうが、トレーナーやチームの方針によっては別の場所を合宿先に選ぶこともあり、チーム・アンタレスもそんな例外の一つであった。

 昨年はタキオン以外のメンバーがジュニア級だった為、兵藤は学園のある東京都府中市と千葉県館山市を東京湾アクアラインを通じて行き来し多忙を極めていた。幸いにして、今年度は長野県南佐久郡南牧村、野辺山高原のホテルに全員を連れていくことができている。

 

「アイス美味しかった~……あれ、スコープ何してるの?」

「……」

 

 チケットが畳敷きの居室に戻ってくると、そこには一足早く風呂から上がったスコープがいた。彼女は広縁に置かれた椅子の一つに深く腰掛け、ポータブルDVDプレイヤーの映像をじっと見つめている。

 

『――抜けた抜けたっ! 先頭はウイニングチケットっ!! ウイニングチケット!! ウイニングチケットが先頭で今、ゴール!! ダービーを制したのは、ウイニングチケットだぁーっ!!』

「あっ、アタシのダービー!!」

 

 スコープが見ていたのは、チケットがダービーウマ娘になった今年の日本ダービーだった。彼女は動画を何度も巻き戻し、第四コーナーからゴールまでの展開を再生し続けている。

 クラシック三冠の一角たる皐月賞に、友人のビワハヤヒデ、ナリタタイシンと共に挑んだチケットだったが、ライスの友人ミホノブルボンに一着を奪われ、その反省から徹底的に心身を鍛え直した末、見事にダービーで勝利を飾った。しかしラストスパートでの無理な加速が祟ったか、左足の距骨と第四・第五中足骨の骨折が三日後に判明。極短期間で快復しリハビリも終了したものの、体への負担を心配したトレーナー二人(どちらかと言えば良川)の判断で、アンタレスは他の生徒達とは別に合宿を行うことになったのである。これは空気の澄んだ涼しい環境でチケットとクリークの負担を軽減するのと同時に、秋にGIを控えたスコープとライス、タキオンの三人に高地トレーニングを課す目的もあった。

 秋のGI――即ち、菊花賞と天皇賞(秋)。前者にはスコープとライス、後者にはタキオンが出走する。

 

「ここ一ヶ月ずっと見てるよね! そんなに気に入ってくれるなんて……やっぱりアダジ、頑張っだ甲斐があっだんだあああああぁぁぁぁぁ~~~~~!!」

「……」

 

 かの日本ダービーの後、菊花賞への出走をスコープ自らが決めたことは、アンタレスの関係者全員を仰天させた。それまで将来に対する目標が希薄に過ぎ、トレーニングメニューも出走するレースも兵藤に言われるがままだったスコープが、自分の意思で出たいレースを選択するというのは、格別に大きな成長といえるだろう。暇さえあれば過去のレース記録を見るようになった彼女の姿は、チケットの目には戦意という火に薪をくべているかのように映った。

 合宿中に調子を取り戻せば、自分も菊花賞に出る予定になっている。スコープには初めてのGI、大舞台で競い合えることに、チケットは血沸き肉躍る思いだった。

 

「……合宿の前に、ライス達と――お前に負けた奴らと話した」

 

 チケットが例によって感涙していると、スコープがおもむろに口を開いた。

 

「俺が考えていた程、負けた者達は悲観的にはなっていなかった。彼女達には戦場より余程確実な形で‘次’が与えられている。それが、俺にはなかった‘余裕’を生んでいた」

「余裕……?」

 

 チケットはスコープの言葉を思わず鸚鵡返しした。スコープの言った通り、ライスもチケットと共にダービーに出たが、三つ巴の戦いとなったBNW(ハヤヒデ、タイシン、チケットのイニシャルを取った名称)とそれを追い越そうとするブルボンに前を塞がれる形となり、五着に沈んでいる。しかしそれで彼女が諦めた様子はまるでないし、他の三人も同様だ。

 

「今まで気付いてはいなかったが……俺にも、‘次’はまだあるらしい。だからきっと‘余裕’もある」

 

 そこでようやく、チケットはスコープの真意を掴んだ。

 

「命のやり取りではない、純粋な勝負というものを楽しんでみることにした」

 

 チケットの勝利とその下にある敗北。確かに厳しい世界だが、スコープはゴールの向こう側に続く道を知った。たとえレースに負けたとしても、膝を折ろうとする自分自身に負けさえしなければ、夢は、未来は失われることはないのだと。勝者への挑戦権は、ここでは敗者に等しく与えられている。

 スコープはまだ、チケットが抱いていたような夢を持っていない。戦いの中で風化していた勝負事を楽しもうという心持が、クラシック戦線も半ばで蘇り始めた彼女は、いわば長い停滞と迷走の末に振り出しに戻ってきたばかりだ。しかしスタートラインに立てたこと自体、彼女には非常に大きな一歩と言っていい。

 

「スコープうぅぅぅぅぅ~~~~~っ!!」

「……何だ」

「アダジごれからもズゴーブど一緒に走るよおおおおおぉぉぉぉぉ~~~~~!!」

「……そうか」

 

 重く虚ろな悲しみを取り離し、何物をも握っていないその手に生まれた、如何なる夢をも掴む可能性。それはいずれチケットら同輩達と熱くぶつかり合うことになる――その舞台には、スコープを苦しめていたしがらみは存在しないと、チケットは信じていた。

 スコープに抱き着きながら、滂沱の涙と共にチケットは叫び泣く。寝間着が色々な液体に塗れるのも構わずそれを受け止めるスコープは、空いている右手でDVDを別のものに入れ替えた。

 

  『二〇XX年六月六日 第XX回安田記念 ストライクドッグ 1:30.9』

 

 

 

 

 

 菊花賞当日。それはスコープが初めて勝負服を着て走る日でもある。自身が着る衣服に無頓着で、チケットらと買い物に行くまで私服の類を殆ど持っていなかったスコープは、勝負服の発注の際もデザイナーに丸投げしていた。

 

「どんな具合だい?」

「……決して着心地がいい、という訳ではないが……何故か、とてもしっくりくる。懐かしさや、お袋に抱かれたような心地さえする。多分、この服だけで過ごしても問題ないだろう」

「いやチケゾーじゃあるまいし……」

「ハハハ、どうやら好評のようだね。私も初めて着た時は気分が上がったよ」

 

 届いた勝負服はオレンジがかった赤色の耐圧服で、露出もゼロに等しく、()せることを目的とするものとしては地味という他なかったが、そこから醸し出される異質さはむしろスコープドッグというウマ娘の存在感を存分に際立たせていた。

 

『十五番、スコープドッグ。八番人気です』

「その勝負服の肩は赤く塗らねえのかい?」

「貴様、塗りたいのか!」

「へっ、冗談だよ……」

 

 パドックで野次が飛ぶことはあったが、メイクデビューの時に比べればずっと小規模なものだ。実力が認められ、ファンも増えた今では表立って彼女を侮辱する者は多くない。愛想を振りまくようなことはしていないものの、鋭く前方を見据える双眸からは、努力に裏打ちされた確固たる自信が垣間見える。

 よくも成長したものだとタキオンは感心していた。昨年自分が菊花賞ウマ娘になった当時、スコープは行く先も知らず淡々と走り続けるだけの機械のようであった。それが今年のダービーの後、彼女は部室に来て開口一番「去年の菊花賞の記録を見せてくれ」と言い出し、他にも保管されていたレース映像を片っ端から閲覧し始めたのだ。それまで受け身に近かったトレーニングも積極的に取り組み、自己記録を幾度となく更新している。後輩としても観察対象としても興味深い。

 死なない為に生きるだけではない目的意識の芽生え――これもまた、彼女の特異性のなせる業なのだろうか。

 

「――ストライクドッグ」

「む、お前は……スコープドッグか」

 

 地下バ道でスコープが声をかけたのは、彼女をGIIIで二度破っているウマ娘、ストライクドッグ。色と細部のデザインの差こそあれど、奇しくも同じ耐圧服を身に纏った二人が向かい合う。スコープはどうやら、彼女へのリベンジを一つの目標としているらしかった。これも今まではありえなかったことだ。

 

「今回は、お前に勝つ」

「勝つだと? ……ふん、なるほど。どうやら相当に仕込んできたらしいな」

 

 目上の者がいないところでは尊大に振る舞うストライク。それは上下関係への絶対的な帰順と、己の能力に対する偏執にも似た誇負によるものだというのは、校内に於ける教員やトレーナー間での評判は無論、メディアを通して多くの人が知るところであった。ここまで無敗で勝ち進み、短距離から長距離まであらゆる距離に難なく対応していることからも、それが単なるビッグマウスでないことはタキオンにもわかる。

 

「だがスコープドッグ、お前に勝利の女神が微笑むことはないのだ。それを得るのは選ばれたウマ娘、『パーフェクトストライダー』であるこの私だ!」

「――たとえ神にだって俺は従わない」

 

 己の勝利を疑わないストライクに、スコープはいつになく強気に言い放った。

 

「ふーむ……?」

 

 パーフェクトストライダー。その単語が、魚の小骨のようにタキオンの中で引っかかった。スコープの能力、特異性、それを調べる上で何か重要なことを見落としているような気がする。そして、その単語がストライクの口から出たことも――。

 二人はしばらく睨み合った後、話すことはないとばかりにコースへと歩いていく。彼女達の気迫に押されたか、妙にゲートインに時間がかかったせいで、タキオンは思考に耽るあまりスタートダッシュを見逃してしまった。

 

 

 

 

 

 スタートは、ライスとしてはらしくもなく出遅れた。だがそれは他も大体同じだったようだ。十八人のうち正常なスタートを切れたのはブルボンとストライク、そしてスコープだけ。逃げのブルボンはともかく、差しのスコープと追い込みのストライクに先を行かれる程、二人の放つ雰囲気は凄まじかったのだとライスは改めて認識した。

 焦りは禁物、故に意識を切り替える。二人が先を譲るように下がっていく中でのポジショニングで、ライスはハヤヒデの真後ろに付けることに成功した。スコープに迫る長身の彼女の背後では強烈なスリップストリームが発生している。ブルボンに勝つだけなら先頭を行くそちらの後ろの方が確実だったが、スコープやストライクの末脚を警戒し、スタミナを温存することを優先したのだった。

 

「……」

 

 淀の坂を下りながら、ライスはスコープの強みについて考える。スコープはクリークと同様コーナリングを得意としているが、クリークのそれが無駄のない動きでスタミナを回復させるものであるのに対して、スコープはタキオン曰く「(ピック)を突き刺すような」踏み込みによって強力にバ場をグリップし、直線と全く同じ速度を維持して走る‘無茶な’走法だ。坂路、特に下り坂を得意とするライスでさえ、京都レース場の第三コーナーにあるこの坂では、遠心力で外に振られないようスピードを抑えていた。しかしスコープならば、それすらもねじ伏せて最内を曲がり、二周目にはそればかりか勢いに乗って加速してくることは容易に想像できる。

 これまで併走以外ではスコープと一緒に走ったことのないライスだったが、勝率は五分五分で、油断ならない相手なのは間違いない。ましてや今のスコープならば、下手をすればライスどころか皐月賞ウマ娘(ブルボン)ダービーウマ娘(チケット)も相手にならないことだってありえる。

 

「頑張れー!!」

「ブルボン行けー!」

「勝てよチケゾー!」

 

 一個目のホームストレッチに入り、スタンドの歓声が走者達を迎える。BNWとブルボン、ストライクまでの人気票数はほぼ横並びに近く、実際そこに順位などあってないようなものだった。彼らは知らないのだ、スコープドッグというウマ娘の恐ろしさを。

 

「でも――ライスだって……!!」

 

 だとしても、それが勝利を目指さない理由になどならない。

 バックストレッチで息を入れ、坂を上って再びの第三コーナー。既にライスには、先団を目指して徐々に進出してくる二つの足音が聞こえていた。最終直線手前頃から仕掛け始めるチケットの差し足ではない――当然それは、スコープとストライクのものだ。焦燥感に心が炙られるが、ライスは努めて冷静さを保ち機を伺う。

 

「……ここだっ!」

「っ!!」

 

 第四コーナーに差し掛かり、ハヤヒデが仕掛けるのに合わせてライスも動いた。彼女の後ろにぴったりと張り付き、直前まで足をためる。直線に入ってハヤヒデがブルボンに近付くと、遂にブルボンもスパートをかけ始めた。縮まっていた二人の差がアタマ差程で止まり、そこからやや開いたところで、

 

「今ッ!!」

 

 安全地帯から飛び出し、ブルボンに並んだ。残していた力を、この瞬間に全て注ぎ込む。

 

「はあああああぁぁぁぁぁーーーーー!!」

「ああああああああああああああああ!!」

 

 この時、走ること以外の物事はライスの頭から完全に抜け落ちていた。燃料の一滴まで絞り出し燃やし尽くすような勝利への渇望が、彼女の矮躯を執拗に急き立てる。ライバルとの瞬きする余裕もない鍔迫り合い。全ては夢見た輝きを己の手に掴み取る為。限界まで研いだ精神を、ただ前へ前へと突き立てる。

 ――二つの風が、先頭二人の右手で吹き抜けた。

 

「――えっ……?!」

 

 体格が大きく慣性力が働きやすいハヤヒデを風除けに使い続けたことで、ライスは無意識に内ラチから四十センチ程の間隔を空けて走っていた。その間隙、およそ人一人分が通れるギリギリのルートを、スコープとストライクが駆け抜けていったのである。皮肉にも、ストライクもスコープのスリップストリームを利用していた。

 加速度的に小さくなっていく背中。既に最高速に達していたライスには、二人に追いつくビジョンがどうしても浮かばなかった。

 

『スコープドッグとストライクドッグ、もつれるようにゴールイン!!』

 

 だというのに。

 

『――確定しましたっ! 勝ったのはスコープドッグ!!』

 

 覆しようのない敗北、それがもたらす無念は、奇妙な晴れ晴れしさに上書きされていく。

 ゴールの向こう、ウイニングサークルにも入らず肩で息をしているスコープの姿が、ライスには何よりも尊いものに思えた。

 

「スコープさん……やっと、()()になれたんだね」




不満と懐疑、期待と暗黙。
閉塞空間に絡み合う偉業の因子。
利己的に、利他的に。そう、それは存続を賭けて鬩ぎ合う、巧妙に仕掛けられた普遍の神秘。
未来を切り開かんと肉の檻を突き抜ける過去からの銃弾。
孤独な魂がそっと呟く。
あいつもこいつも、俺の糧になればいい。

次回、『継承』

これも一つの証明か。


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継承

「……あら?」

 

 クリークは唐突に、自分が何もない空間の中に立っていることに気付いた。周囲は黒い虚無に閉ざされていながら、自分の姿ばかりははっきりと浮かび上がっている。

 すると意識の埒外から、遥か前方に眩い光が現れた。そして、それに向けて駆けていく人影が一つ。

 

「スコープちゃん!?」

 

 思わず追った背が光の中に消え、次いでクリークもその光へと身を投げる。収束した光が胸骨を貫き、体内で爆散。燃えるように熱くなった体に、無限にも思える力が沸き上がった。

 光の向こうに見える赤い影、青い髪。嗅いだこともない筈の火薬の臭いがクリークの鼻腔を刺す。

 

「―――――――――」

「え……?」

 

 何かを喋ったスコープの口の動きしかクリークには届かず、彼女は光と闇に溶けて消えていく。

 目に映る世界は自室の天井と、自分を覗き込むルームメイトのタイシンに置き換わっていた。

 

「……あら、タイシンちゃん?」

「珍しいね、クリークさんが寝坊なんて」

 

 その一言でチケットと朝練の約束をしていたことを思い出したクリークは、大慌てで支度して寮を飛び出すうちに、夢の内容を綺麗に忘れてしまっていた。

 

 

 

 

 

 二十分以上に亘る写真判定の末、掲示板に同着の文字が二つ並んだのを見て、メジロマックイーンはあんぐりと口を開けた。

 

「アッハッハッハッハッハッハッハ!!」

 

 メジロ家の名に相応しくない振舞いを笑われたのだと思ってさっと顔を赤くしたマックイーンだったが、下手人のタキオンはすぐ近くのクリークと掲示板を代わるがわる見ながら、まさしく抱腹絶倒していた。勝利への歓喜のあまり爆笑している、という様子ではない。同じチームに属する筈のクリークも、何がそんなに可笑しいのかと困惑しているようだ。

 

「まさか、まさかだ!! 遺伝確率二五〇億分の一、異能の因子、それがこれ程の結果をもたらそうとは!!」

 

 実力ある走者であると同時に、怪しげな実験に明け暮れる変人でもある――アグネスタキオンというウマ娘の人となりは既にマックイーンの知るところであったし、彼女にとってはレースでさえ実験や検証の一環なのだというのも頷ける話ではある。だがタキオンの言葉の意味は、マックイーンには微塵も理解できなかった。

 

「決定的な証拠は得られた。スコープ君本人のデータもすぐに揃うだろう。あとはライス君だけだ……彼女が結果を出しさえすれば……」

 

 喜悦に満ちた不気味な高笑いと共にウィナーズサークルへと歩いていくタキオンを、マックイーンはしばらくその場に立ち尽くして見送っていた。

 

「――何にせよ、今は勝利を喜ぶべきですわね」

 

 気を取り直して、自らもタキオンの後を追う。次は同着ではなく、単身で盾の栄誉をもぎ取って見せると誓いつつ、マックイーンは未だ喝采の収まらぬ観客席に手を振った。

 ちらりと横目で見たクリークは、タキオンにどこか険しい視線を向けていた。

 

 

 

 

 

「教えてください。異能生存体って何なんですか?」

 

 メジロマックイーン、アグネスタキオン、スーパークリークの三人が同着という前代未聞の結果となった天皇賞(秋)から一ヶ月後、ジャパンカップ。出走を目前にしたスコープが控室から出て行った後の沈黙は、クリークからタキオンへの詰問に破られた。

 

「クリーク、それは――」

「いいんだよ、トレーナー君。インフォームドコンセントがなっていなかったのは私の責任さ。尤も、私が異能の因子を制御できる筈もないのだが……それを受け継いだ彼女には、知る権利は当然にある。良川トレーナーにも知っておいて貰った方がいいだろう」

 

 ライスとチケットが一足早く観客席に向かった為、控室にはアンタレスのトレーナーとウマ娘が二人ずつ残っていた。兵藤が狼狽しながら誤魔化しの言葉を模索しようとするのを、椅子に座ったタキオンがぴしゃりと止める。

 行動の殆どが実験・研究に直結していると言っても過言ではないタキオン。兵藤は彼女の個性や美点としてそれを認めているが、目的の為に手段を選ばないきらいがある彼女は誤解されやすい。弁明に労力を割きたがらない性質も相まって、ドーピングや期末試験での不正を疑われたこともある。そんな彼女がここ一年半程執心している『異能生存体』について、不審に思う者がいてもおかしくはないだろう。

 クリークの瞳に宿る強い光に急かされ、「少々、話が長くなるよ」と前置きしてから、タキオンは語り始めた。

 

「アンタレスに前任者がいたのは知っているね。その人物、兵藤トレーナーの大叔父――この業界を去って久しいから、大塚‘博士’と呼ぼうか。博士というだけあって彼は研究畑の人間で、トレーナーとしての仕事の傍ら私のように研究を行っていたそうだ。今もあの部室に保管されている一連の記録は有用なものが多い」

 

 嫌なことを思い出させるものだ。アンタレスの前任者という言葉が出た時、兵藤は胸中でそう吐き捨てた。大塚元トレーナー。彼をチーフトレーナーの座から引きずり下ろしたのは、もう二十年も前になる。

 心の闇の底に封じ込めた記憶が、兵藤の脳裏に去来する。トレーナー資格取得以前に大塚に抱いていた憧れ。アンタレスのサブトレーナーとなってから知った、ウマ娘の闘争心を過度に煽る当時のチームの体質。ウマ娘とその能力の可能性に耽溺し、彼女達の夢を食い物にして過激な研究に没頭する大塚の歪な二面性。秋川理事長の前任者と結託して強行した大塚の『自主退職』と、それに伴って生じた首の挿げ替え。

 当時を知らない――兵藤が多くを語らなかったというのも大きい――タキオンが、大塚の研究内容に純粋な気持ちで興味を示すのは尤もなことだが、四半世紀近く尾を引く兵藤には、それは信頼のおけるものではなかった。

 

「『異能生存体』というのは、その中にある一つの論文で語られる概念だ。元々はウマ娘ともレースとも関係のない、純学術的な研究。大塚博士はある種の微生物の中に、他と比べ群を抜いて生存率の高い個体を発見した。如何なる損傷からも完全に回復し、‘死なない為の偶然’すら引き起こして生きながらえる。それが異能生存体だ」

 

 「だが、君の求める答えはこれだけではないだろう?」兵藤の意を先回りするように、タキオンは薄く笑みを浮かべた。

 

「昨年度の春、私は()()()()異能生存体のウマ娘を見つけた。弾除けにも等しい扱いが殆どの少年兵でありながら、自分以外の隊員が全滅するような状況下でさえ奇跡的に生還したウマ娘を」

「……スコープちゃん、ですね」

「そうだ。私はスコープ君の持つ、異能生存体としての極めて高い回復力に着目した。ウマ娘が皆彼女のようであったなら、毎年少なくない数が発生するウマ娘の故障、それに伴う引退も防げるのではないかとね」

 

 私にも無関係ではない、とタキオンは付け加える。スコープのデビュー戦で彼女が吐露した言葉が思い起こされた。

 

“ウマ娘の肉体が秘めた可能性……それを観測する一助になればと、そう思っているよ”

 

 タキオンの語り口でたった今想起されたそれが、説明を面倒くさがってのらりくらりと追及を躱そうとする彼女の悪癖からくるものではなかったのだと、兵藤はようやく思い至った。言葉通り、彼女は己の飽くなき探求心を満たすのと同時に、全てのウマ娘が実力を遺憾なく発揮できる下地を(方法はともかく)整えようとしていたのである。

 

「しかし当然、スコープ君のゲノム情報を使った遺伝子治療(ジーンセラピー)は、URAが取り決めた遺伝子ドーピング規制に抵触する。そしてそもそも異能生存体の遺伝確率は二五〇億分の一……つまり生命活動に不可欠なものまで含んだ、非常に広範で複雑な遺伝子配列の上に成り立っている。従来の手法は、はっきり言って現実性を欠く」

「……だから、今までにない方法をとったと?」

「そうだよ、トレーナー君。トレセン学園でまことしやかに囁かれる、『因子継承』と呼ばれる現象。それに賭けてみることにしたんだ。君は眉唾と思っているのかもしれないが……」

 

 それまで訝しげに黙して聞くのみであった良川が、ここで口を開いた。

 

「因子継承――トレセン学園のウマ娘の一部に起こる、身体能力の急激且つ飛躍的で説明不可能な向上に対して、ウマ娘神学的アプローチから理論化を試みた、という体の都市伝説だったか。異能生存体とやらにはあまり理解が追い付いていないが、そちらについては覚えがなくもない。……タキオン君、君はそれを意図的に起こす方法を知っているのかね?」

「知っている、というには些か不明瞭な知識だがね。大塚博士の書きかけの未発表論文から、断片的な情報を基に再現性を度外視して推測したに過ぎない。故に詳細は省くが、これによって私とクリーク君、それにチケット君には、異能の因子を受け継がせることができた筈だ。ライス君に何かが起これば、彼女も異能生存体になったということになる」

 

 自身の生存の為に因果律にすら干渉する特異体質、自然科学でなく人文科学を基にした不完全で曖昧な理論。原理を理解こそすれ納得はできていないが、タキオンの説明を敢えて素直に受け取ってみれば、それは兵藤にも腑に落ちるものであった。

 去年の菊花賞以来タキオンは何らかの方法で脚部不安を解消し、自主トレーニング以外にも積極的に顔を出している。ダービーで骨折したチケットは二週間足らずでリハビリを終えており、五着とはいえ菊花賞を無事に完走。すみれステークスより向こう半年レースに出られなかったクリークは、快復したばかりの身でシニア級の二人に並んで勝利をもぎ取った。それら全てを偶然と切って捨てるには、タキオンの言葉を借りれば“出来過ぎている”のだ。そして将来、ライスにも同様の出来事が起こりうる。

 

「……何にせよ、異能生存体になることそのものの危険性は無視できるレベルで少ない。後天的に異能の因子を獲得できる者がここの生徒に限られていて、再現性も保証されていない以上、それを誰かに利用されるということもない。大塚博士の異能生存体に関する論文が、信頼に値しないと世間に思われているうちはね」

 

 しかしタキオンの論理と、オリジナルとコピーが同時に存在するという事実は、兵藤に飛躍した考えを強いた。即ち、スコープがその身に宿す異能にとっては、コピーを作らせることさえも生存戦略の一部なのではないか、と。

 

『――紅白の耐圧服が走る、跳ぶ、駆ける! スコープが差し、ストライクが追い上げる! 鉄の末脚が勝利の道をこじ開ける!! ――』

 

 この日、スコープは再戦を挑んできたストライクをシニア級の強豪諸共返り討ちにし、その名を世間に轟かせた。

 与えられた異名は、『赫奕たる異端』。

 

 

 

 

 

 四月下旬、天皇賞(春)。

 

「ライスさん……」

 

 ミホノブルボンは、ざわめく観客席に背を向けて歩いていた。見事一着となりながら、「メジロマックイーンの天皇賞連覇」を見に来た観客達からブーイングを浴びせられ、逃げるようにコースを去っていったライスに、僅かばかりの力添えとして賞賛の言葉を贈ろうとしていたのである。

 ブルボンは、ジャパンカップへの出走を怪我で取り消して以来レースに出られていない。かの菊花賞で(スコープとストライクにかっさらわれた感はあるが)競り合ったライスを唯一無二のライバルと定めた彼女には、勝者たるライスがこき下ろされ、暗く沈んでいるのが忍びなかったのだ。

 

「一体、何故です?!」

 

 そんなブルボンが通路の角を曲がろうとした時、行く手から女性の悲痛な声が響いてきた。

 

『私が手掛けた彼女が二度も敗北を喫している。奴は彼女を凌駕した天然のパーフェクトストライダーである可能性が高い』

「トゥインクルシリーズにはまだ先があります! 今後もトレーニングを続ければ……」

『そのトレーニングの質でも上回っていた相手に敗れたのだ』

 

 長い茶髪のその人物には見覚えがあった。ストライクドッグの担当トレーナー弥永。トレーニングを監督している姿が殆ど見られず、ゴーストトレーナーと揶揄されている。彼女はスマートフォンで誰かと会話しているらしかった。すぐ隣にはストライクが控え、俯き加減にスピーカーからのしわがれた声を聞いている。

 聞くべきではない話――その判断とは裏腹に、ブルボンは柱の陰に身を隠し、耳をそばだてていた。

 

『幾度勝ったところで過去の負けが消えることはない。無敗で終わることができなくなった以上、PSとしての価値は低くなったと言わざるを得まい。奴がPSであるならば尚更だ』

 

 老人と思しき相手の言う“奴”がスコープを指すものだというのは、ブルボンにもわかった。

 ストライクがスコープに二度敗れてからというもの、その後期待されていた二人の対決は実現していない。有馬記念でタキオンとクリークを、大阪杯でチケットを破ったストライクだったが、そのどちらにもスコープが現れることはなかった。スコープはGIII根岸ステークスとGIフェブラリーステークスに出走、つまりダートレースに舵を切ったのだ。これについて同チームのライスは「ダートも走ってみたくなったんだって」と上機嫌で答えている。

 閑話休題。

 

「そんな……だから供給量を減らすと言うのですか?! 十分なヂヂリウムが摂取できなければ最悪ストライクの命に関わります!」

『節約すれば冷凍したストックで賄える。投与スケジュールも定時連絡と共に送信した。それに従え』

 

 しかし、ストライクとスコープが該当するという『PS』とは何なのか。スコープが“天然”だというのなら、ストライクはそうではないのだろうか。

 そして、ストライクが必要としている『ヂヂリウム』とは何なのか。“命に関わる”とは穏やかではないし、単なるドーピング問題とも異なる。

 

『次は宝塚、その次は有馬だ。そこで奴に勝てなければこのプランは打ち切る。些かも揺るがん』

 

 老人の冷酷に言い放った言葉を最後に、通話は途絶えた。足音が遠ざかり、静寂が支配する。

 

「ら、ライス、泣かないよ。だってスコープさんは、勝つどころか走ることだって望まれてなかったから……ライスが泣いたら嘘だ、嘘だよ――」

「好きに泣けばいい。俺は泣けなくなっただけだ。耐えるだけが強さじゃない」

「う、うう……うわぁぁああああ~~ん!!」

 

 当初の目的通り、ライスに宛がわれた控室の前に辿り着く。ストライクとスコープとの間にある差異――決定的なものがあるとすれば、それは仲間達との絆であろう。ブルボンは部屋から漏れ聞こえてくる声を聞き、それだけを確信していた。




監獄に監禁と隔離を求め完璧さを追求すればこれになる。
ここには高い塀もなければ深い堀もない。高電圧の柵もなければ看守さえいない。
あるのは澄み切った空と穢れなき塩水のみ。
摂氏三十七度。素肌どころか脳漿さえも茹で上がる。
水をくれ、五臓六腑を潤す水をくれ!

次回、『臨海』

恨み辛みの言葉さえ干上がる。


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臨海

 ビワハヤヒデにとって、自分の想定以上の存在だと認識する人物は、『シャドーロールの怪物』の異名を持つ実妹ナリタブライアンであった。その恐るべき才能は、今年皐月賞とダービーを制し、菊花賞の勝利も確実と評されてることから明白だ。ハヤヒデが己の持論――“勝利の方程式”に固執するようになった遠因でもある。

 だが昨年十月以来、その評価に値する者が二人増えた。

 

『――勝ったのはスコープドッグ! 淀の坂を走り抜けた戦慄が舞い戻り、今グランプリの頂点に輝いた!! 二着ストライクドッグ、三着に入ったのはビワハヤヒデ! ――』

 

 『赫奕たる異端』スコープドッグ。

 『完全なる走者』ストライクドッグ。

 自身が六着となった菊花賞。ライスシャワーとミホノブルボンに敗れたことが実力と努力の不足で、ウイニングチケットに差され掲示板を外したことが根性の差と不運によるものだったならば、スコープとストライクに負けたのは全くの想定外だったと言っても過言ではない。GIクラスの強豪との公式な対戦経験を欠くスコープ、菊花賞以前の公式戦では二千メートル以下のレースにしか出走していないストライクを、当時のハヤヒデは重要なファクターとして捉えていなかったのだ。

 故に式を組み直し、それを適用するに当たって研鑽も積んだ。

 

「……遠い、な」

 

 しかし、二人はそれすらも易々と超えていった。二人と自分との間に付けられた半バ身の差は、四着との間に付けた五バ身差よりも遥かに遠いものだった。

 

「――いや、ならばそれさえも変数に加えるまでだ」

 

 勝利の為に何度でも修正を繰り返す。そうでなければ、妹が誇れる姉であることなど――ナリタブライアンに勝つことなど、夢のまた夢だろう。

 栄誉あるレースの勝者、歓声を浴びながらも眉一つ動かさぬ寡黙な友人をハヤヒデが称えようとした時には、ストライクは既にターフに背を向けていた。

 

 

 

 

 

 六月末の宝塚記念が終わると、夏合宿は目前に迫っている。直前で体調を崩し当レースを回避したライスも調子を取り戻し、明日にはアンタレスの全員で館山に向かう手筈だ。

 タキオンにとって、合宿は実験・検証に好都合な機会――やろうと思えばどんなことにも実験を絡めることはできる――だが、出発前の最後の休日である今日、彼女は悶々としていた。

 

「やれやれ……何をしても上手くいかない日というのはあるものだねぇ」

 

 休日とて特に用事はなく、チームメンバーも他の友人達と出かけている。兵藤と良川は合宿の準備に忙しい。その上トレーニングができる学内施設はここぞとばかりに全てメンテナンス中だ。手持ち無沙汰のタキオンは、半ば彼女の実験室と化した冷涼なチームルームに入り浸り、実験器具を掃除しながら誰にともなくぼやいた。暇に飽かしてつい先程調製した培地はものの見事に化合物の配分を誤り、また先週作った固体培地に重篤なコンタミが発生していたことに気付く、まさに弱り目に祟り目。

 

「待機という行為をこうも退屈に思ったことはない……」

 

 先日スコープは宝塚記念に勝利したばかりだが、彼女の持つ異能生存体としての能力を示す結果はここ半年得られていない。異能の因子を受け継いだ自分を含む三人も、異能のいの字もないストライクドッグというウマ娘に敗れているし、ライスに至っては因子継承が正常に行われたのかさえ不明なままだ。

 異能生存体の力の本質は死に繋がる要因の回避にある為、明確で急迫した危機に直面するような状況に置かれなければ(知らず知らずのうちに回避した事故があったとしても)それを観測することは難しい。この学園に於いてスコープの力が作用してきたのは、‘そうでなければ死ぬ可能性があるから’だったのだ。幾らマッドサイエンティストの気があるタキオンといえども、対象者に生命の危険が伴う実験をする程道に外れたことはできなかった。

 既出のデータは整理が終わっている。よって今のタキオンにできることは何もなかった。

 

「しかし……私達三人とスコープ君との間にある差異とは何なのだろうね――」

 

 ただ一つ、考察を除いては。ビーカーを純水で洗う手の動きはそのまま、彼女は思考の海に沈んでいく。

 ストライクは異能生存体であるタキオン、クリーク、チケットを破り、その一方でスコープには三度敗れている。単純な実力や成長率、レース中の互いの精神状態の差だと言えばそれまでだが、タキオンは何か自分の考えが及んでいない他の要因が関わっている線を捨てきれずにいた。負け惜しみじみた発想に自嘲もしたが、その可能性を排除できていないのも確かだ。

 異能生存体であることはウマ娘の走力そのものに直接的な影響はないにせよ、その驚異的な回復力はトレーニング効率の向上に寄与している。怪我からの回復は論なくして、筋肉の超回復速度も若干の、しかし有意な差が見られた。オーバーワークを許容できる訳ではないので短期的には効果は見込めないものの、積もった塵程の差異でレースでのパワーバランスは簡単に崩壊し得る。それがかの天皇賞(秋)だった。であれば、それを以てしても自分達三人ではストライクに届かず、スコープならば超えられる理由は、一体どこに存在するのだろう。

 それとも、()()があるのはストライクの側なのか――

 

「失礼します」

 

 純水の入ったタンクが空になるのと、チームルームの扉が開くのは、ほぼ同時だった。タキオンが振り向いて確認すれば、入ってきたのは制服姿のミホノブルボン。

 

「おや、ブルボン君。ライス君ならここにはいないよ」

「いえ、今日は別行動です。タキオンさん、貴女に質問があって来ました」

 

 学内にある実験室(チームルーム)を使う為に制服を(その上から白衣を)着ている自分とは異なり、ブルボンには特段学内にいる必要はない筈だ。つまり彼女の言葉通り、わざわざ自分に会う為に制服を着て来たのだとタキオンは推察した。余程気になることがあったのだろうと耳を傾け、

 

「――PS(パーフェクトストライダー)とは、何のことですか?」

 

 続く言葉に、彼女は度肝を抜かれた。

 

 

 

 

 

 不幸にも、今年の夏合宿はアンタレスに限らず多くのウマ娘が、屋外でのトレーニングを日没後に行わざるを得なくなってしまった。

 

「腿上げとか腹筋とか腕立て伏せとか……折角館山まで来たのに意味ないじゃーん!!」

「背に腹は代えられない。乾球温度と相対湿度を基に暑さ指数を算出すれば三十四……激しい運動をするには危険な暑さだ」

 

 この夏、関東は発達した高気圧の影響で記録的な猛暑に見舞われている。海辺の街であるここ館山市も、七月半ばからは日中の気温が三十度を下回る日がない。トレーナー達の判断で炎天下のトレーニングが避けられるのも無理はないが、合宿を楽しみにしていたチケットにはとても納得できるものではなかった。

 そんな折、チケットのトレーニングを眺めていたタキオンが言った。

 

「そうだチケット君、それなら気分転換ついでに一つ頼みがあるんだが」

「いいよタキオン、何?」

 

 二つ返事で了承するチケット。タキオンの実験に付き合ったのは初めてではない。タキオンの手から水色の液体が入った試験管が渡される。

 

「この薬を昼食後のストライク君に届けて、飲んだ感想を聞いてきて欲しい」

「これ、一昨日飲んだやつだよね? ユーイな差が見られなかったとかでボツになったって」

「ああ、だがもう一度データを取りたいんだ。スコープ君に頼んだ方が()()()()()だろうが、精神的な刺激が前提条件を変えてしまう可能性もある。依頼するには君が適任だ」

「わかった、任せて!!」

 

 果たして二時間後、試験管を受け取ったストライクは、中の液体を掬って舐め、開口一番不機嫌な顔で言い放った。

 

「これは、薬ではないな。偽薬だ」

「ギヤク?」

「何のつもりだ? こんな無意味な代物を……」

「でも、タキオンはウマ娘の為に研究をしてるんだし、協力したらいいことあるかもよ! スコープにだって――」

 

 勝てるかも、とまでは口にできなかった。ストライクの鋭い目がギロリと動いてチケットの目を睨みつけ、それ以上を封じたのだ。

 

「――私の前でその名前を出すな」

 

 こんな底冷えのする声の出せるウマ娘が、トレセン学園にいるのか。チケットは外の暑さも忘れる程の怖気を感じて、青い顔で硬直することしかできなかった。

 

「私こそが最強、私だけがPSだ。私でなければならないのだ」

 

 結局タキオンにはまともな報告ができなかったが、当のタキオンは何かやりきったように満足気だった。

 

 

 

 

 

「新しい解析結果が出た」

 

 夏合宿も終わりに近付いたある夜、アンタレスのトレーナー達が使う居室にタキオンが訪ねてきた。消灯時間はとっくに過ぎているが、何やら神妙な面持ちの彼女を帰すに帰せず、ローテーブルを囲んで膝を突き合わせている。

 

「解析? また異能生存体絡みか?」

「いいや、それとは違う。もっと深刻で恐ろしい問題だ」

「君がそこまで言うからには、余程のことらしいね」

 

 常日頃研究内容を脳内で遊ばせながらニヤニヤしている印象の強いタキオンが見せている、鏡ヶ浦の如く凪いだ真顔。こんな顔もするのかと意外に思いつつ、良川は彼女の伝えんとする事の重大さをひしひしと感じ取った。合宿中も行っていた(しかも一度わざわざ兵藤に車を運転させ学園に戻っていた)実験内容がそれに関するものであるならば、熱を上げていた異能生存体の研究を中断するだけの相当な理由があったに違いない。

 確かめるような首肯の後、タキオンは口を開いた。

 

「スコープドッグとストライクドッグ――この二人のウマ娘は、PSだ」

「馬鹿なッ!!」

 

 PSという単語が出た瞬間、兵藤が身を乗り出して吠えた。

 

「俺と秋川()()が爺さんを……あいつを追い出す理由に使った研究だぞ?! ウマ娘ゲノム計画だって当時は完了していなかった、それをあいつは――まさか……?!」

「落ち着いてくれ、トレーナー君。それについても話そう」

 

 熱血という言葉とは縁遠い人間である兵藤の、著しく冷静さを欠く振舞い。彼にとってトラウマにも似た人生の汚点である、アンタレスの前チーフトレーナー大塚、その現役時代の研究が絡んで来るとなれば、いよいよ由々しき事態であることが歴然としてきた。彼が調子を取り戻す時間を稼げるよう、良川はタキオンに問う。

 

「タキオン君、PSとは一体?」

「‘走行に適した形質’が発現することで生まれる、文字通り『完全なる走者(Perfect Strider)』……大塚博士が残した最後の未発表論文に登場する概念さ。彼はその表現型を生み出す塩基配列を同定し、ゲノム編集技術と、ウマ娘の骨格筋細胞が持つ細胞小器官ウマムスコンドリアの人為的導入を用いてPSを造り出そうとしていた。トレーナー君が今の地位に就くまで、アンタレスは博士がウマ娘の能力純度を篩分けし優秀な遺伝子を探し出す為の実験場だったんだ」

 

 良川は絶句した。最高の能力を持つことが生まれながらにして確約されたウマ娘――そんなものが存在するならば、即ちその存在自体がドーピングであり、全ての競技者への侮辱ではないか。今思い出せば、URAが遺伝子ドーピング規制を発表したのが大塚の退職後、ヒトゲノム計画に次ぐウマ娘ゲノム計画の完了と前後してのことだったのはとんだ皮肉である。

 

「名前は伏せるが、さる情報提供者からの報告によって、スコープ君とストライク君がPSである疑いが浮上した。そしてスコープ君が“天然のPS”であるらしい、とも」

「……天然の?」

「博士本人がそう言ったらしい。弥永トレーナーが電話しているところに偶然通りがかったそうだ」

 

 情報提供者とやらが誰かはともかく、その報告がなければこんな話題を知りもしなかっただろう。良川は密かに、匿名の人物へ慨嘆を交えて感謝した。その人物への気遣い故か、タキオンはすぐに話を軌道修正する。

 

「スコープ君のDNAからは、確かに論文に記載された通りの、走行能力の向上に関与する遺伝子の活性が多数確認された。血中のヘモグロビン濃度を高めたり、アドレナリン産生量を増大させたりといったものだ。一方でストライク君では活性が確認できなかった……怪しいと思ってもう少し調べてみたら、これだよ」

 

 タキオンが懐から取り出したのは、無色透明な液体の入ったアンプル。それを机上に置く彼女の眉根には小さな皺が寄っていた。

 

「これは?」

「『ヂヂリウム』なる薬品のようだ。成分分析の結果、数十種類のタンパク質が含まれていた。恐らくはタンパク質工学(プロテインエンジニアリング)で作られた人工の脱メチル化酵素群だね」

「脱メチル化酵素?」

「DNAは通常、一部の領域が後天的な化学修飾によって機能しない状態にされている。脱メチル化酵素はメチル基を取り除き、当該領域の活性を取り戻す酵素だ。体内に入った人工酵素の活性部位が特定の塩基配列を認識し、脱メチル化を起こすことで遺伝子を機能させているのだろう。ストライク君はこれを定期的に注射している。そんなことをしなければならないウマ娘が自然なものである筈もない」

「ということは、パフォーマンスの維持の為に常に活性化させ続ける必要があるのか……それでいて、遺伝子ドーピングが疑われたら使用をやめれば検知されないという訳だ」

 

 大塚がPSの研究を理由に職を追われ、その後の研究の末にストライクドッグというPSを生み出したのなら、当然遺伝子ドーピング規制は承知の上だろう。その網の目を掻い潜る策が用意されている辺り、彼の知性と狡猾さは想像を絶する。しかし良川が納得しかけたのも束の間、タキオンが更に畳みかけた。

 

「それだけではないよ。彼女のDNAをスコープ君のものと比較すると、‘走行に適した遺伝子’の領域と同時に、本来生存に不可欠な領域までもメチル化されていることがわかった。酵素が十分な活性を示す濃度に種類毎の差があったことも考え合わせると……これは大塚博士の保険であり、ストライク君への脅迫材料である可能性が高い。現状博士しか製造方法を知らないヂヂリウムの供給がストップすれば、彼女の身には間違いなく生命の危険が及ぶ。彼女は博士の研究、即ちPSの能力の証明に協力せざるを得なくなるんだ」

「……何てことだ……」

 

 倫理性はともかく研究内容の学術的価値を素直に認めていたらしいタキオンが、苦々しい表情を浮かべている。良川は、最早彼女も自分や兵藤と同じく、大塚を先達として敬うことなどできなくなっていることを察した。

 

「最強の証明の為にスコープ君を倒す、その舞台はきっと有馬記念だ。それが叶わなければストライク君は‘廃棄’され、代わりに天然のPSたるスコープ君が研究対象になるだろう。それまでに、何かしらの手を打つ必要がある」




轢死か、凍死か。挽き潰されるか固まるか。
その間にある限りなく薄い不安定な一線。
震える狂気と才能がその臨界を探る。
信じるか、信じられるか。賭けるか、賭けきれるか。
ウマムスコンドリア。
俺達はここまでこの謎の微生物と運命を共にしてきた。
だからこそ。

次回、『ダウンバースト』

しかし、生き延びたとしてその先がパラダイスの筈がない。


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ダウンバースト

 夏合宿が終われば、秋から冬にかけてのトレセン学園は多忙を極める。

 トレセン学園で催される年二回のファン感謝祭のうち、秋に開催されるものは『聖蹄祭』と呼ばれる。クラス単位やチーム単位で行われる催し物は文化系に特化しており、カフェや出店などの他、ファン参加型のイベントが多く行われるのも特徴だ。

 在校生の保護者やファンを始めとした多くの客が訪れる中で、しかし一軒だけに閑古鳥が鳴いていた。店のコンセプトを優先した‘特殊な立地’故に客が寄り付かないその喫茶店を出店しているのはマンハッタンカフェ。カフェ自身、自分の店の静かな雰囲気を楽しむ為に出店している節があり、客が来ないことは寧ろ好都合だったのだが、

 

「……」

 

 開店一時間後にふらりと現れたタキオンによって、彼女の独りの時間は現在進行形で浪費されていた。タキオンはオーダーしたアイスティー(既に氷も融けきっている)に大量の砂糖を入れてだらだらと飲みながら、持ち込んだノートパソコンと睨み合い、かれこれ三時間以上も店内に居座っている。

 

“サンプルの採取に問題が生じていてね。今日はここにいる方が安全だと判断したのさ”

 

 追い出すこともできたが、訪ねて来た時の真剣な、或いは深刻なとでもいうべきタキオンの顔を見ると、それは躊躇われた。入学してより長い付き合いだが、そんな表情を見た経験はカフェにはない。断れば人死にが出そうな気さえして、思わず尻込みしたのが実情である。

 

「分離したA-Ah7がウマムスコンドリアに取り込まれて……ランナー・インスティンクトが脱メチル化……B-Xt1は脂質二重層に貫通したまま……」

「……」

 

 手持ち無沙汰になり、掃除ついでにカフェが覗き見た画面には、タンパク質の立体構造を表す色とりどりのリボンが渦巻く様子――生物の授業で最近習ったばかりだ――が映し出されていた。タキオンはカーソルを手繰ってその3DCGをぐるぐると動かし、何やらぶつぶつと独り言を呟き思案しては、別ウィンドウで開いたメモ帳に文字を打ち込んでいる。メモを保存すると今度は別の3DCGを開き、再び文字を打ち込み始めるのだ。

 

「……よし」

 

 あと三十分程で聖蹄祭も終わろうという頃、キーボードを叩く音が止まる。タキオンは大きく伸びをして椅子から立ち上がった。

 

「ありがとうカフェ。代金はここに置いておくよ」

「……はい。ありがとう、ございました……」

 

 来店時より幾らか晴れやかになった顔を見て、カフェは当人でもないのに肩の荷が下りる思いがしたのだが、

 

「……ちッ、すっかり忘れていた」

 

 出口のドアを開けたタキオンは忌々しげに舌打ちした。

 

「カフェ。今度の日曜日、外出はお勧めしない」

「日曜日……?」

 

 返事を待たず、足早に店を後にするタキオン。去り際に彼女が見上げていた空は、分厚いスレート色の雲が陰鬱に垂れ込めていた。

 次の日曜日には、かのスコープドッグも出走するGIIマイルレースの毎日王冠が迫っている。

 

 

 

 

 

 日曜日であるにも関わらず、ナリタブライアンは聖蹄祭の実施に伴い生じた多数の書類整理に駆り出されていた。エアグルーヴと並び生徒会副会長を務める身故致し方ないとは思いつつも、毎日王冠を現地で観戦できないのは苛立たしい。そんなブライアンの思いに水を差すように、生徒会室に一本の電話が入った。

 

「……こちらトレセン学園生徒会室」

『副会長だね? 会長がいるならスピーカーをオンにしてくれ』

 

 相手は名乗らなかったが、それがアグネスタキオンであることは、受話器を取ったブライアンにはすぐわかった。いつかターフで相まみえることを望む強者の一人――しかし彼女の声の調子は、落ち着いているようでどこか慌ただしく、時折聞こえる呼吸音から小走りになっていることが窺える。生徒会長シンボリルドルフに、そこまで急ぎで伝えねばならない用件とは一体何なのだろうか。

 

「今オンにした」

 

 傍らで見つめるルドルフを横目にちらりと見てから、要望通りスピーカーボタンを押すと、直後にタキオンが捲し立て始めた。

 

『会長、要点だけ言う。今すぐ全校生徒を屋内に避難させろ』

「その声は……アグネスタキオンか? 随分切迫した様子だが――」

『今からおよそ二十分以内に、ここ府中市を中心とした局所的な異常気象が起こる可能性が極めて高い。マイナス七十度のダウンバーストだ。低体温症どころか肺からの出血で死ぬことさえあり得るぞ』

「ま……マイナス七十度?!」

 

 横で話を聞いていたエアグルーヴが瞠目する。マイナス七十度、それは尋常ならこの関東平野に発生することのない温度だ。残暑の厳しかった九月から十月に入って、やっと秋の気配が見え始めたばかり。制服の衣替えもまだだというのに、そんなものが直撃すればこの街は目も当てられないことになろう。俄かには信じがたい話だが、タキオンが(研究以外の目的で)嘘を吐くとはとても思えない。

 思えば今日の天気は妙だった。ブライアンが呼び出された朝、前日までの暗い曇り空が噓のように晴れていたのに、昼食後にはいつの間にか不気味な暗雲が頭上で渦を巻いていたのだ。これがタキオンの言う“局所的な異常気象”、マイナス七十度のダウンバーストの前触れだったらしい。

 

「わかった、すぐに通達しよう。君はどうするつもりだ?」

『自分にできることをしに行く。チームメイトを見捨ててぬくぬくしていられる程、私は図太くないのでね』

 

 伝えるだけ伝えて、タキオンは通話を切った。事情を察したルドルフからは、普段浮かべている人を慈しむような穏やかな笑みが消えていた。

 

「会長、あと十五分もすれば毎日王冠の発走時刻です。話が本当なら、このままでは……!」

「ああ。一寸光陰、迅速に動かねばならない。エアグルーヴ、寮長の二人と協力して速やかに生徒達に連絡を。ブライアンは屋外にいる者達を呼び集めてくれ。私は理事長を通してレースの中止を具申しよう」

 

 ルドルフとエアグルーヴは、突然仕事を振られ固まるブライアンをよそに、校内で許されるギリギリの速度で廊下を駆け出した。

 

「ああ、クソ……毎度毎度、何故気付くと手元に仕事があるんだ……!」

 

 

 

 

 

「ど、どうしたんですかタキオンちゃん?」

「はあ……はあ……ウマ娘専用レーン走行中の通話が禁止されてさえいなければ……」

 

 七万人の観客でごった返す東京レース場の観客席。スコープが走り出すのを今か今かと待っていたクリークは、そこに現れたタキオンに驚いていた。研究対象である筈のスコープが出るというのに現地――ウマ娘の足ならそう遠くない――での観戦を断った彼女が今更、しかも息を切らしてまでやってきたのだ。

 

「あ、タキオン! やっぱり直接見たくなったの?」

「実験は終わったのか?」

「悪いがトレーナー君、今回はインフォームドコンセントの余裕はない。勝手にやらせて貰う」

「は? 何を――ぐっ」

「ぬっ?!」

「ほわあっ!?」

「あら~……」

 

 何か裏があるに違いない。クリークがそう考えたのも束の間、タキオンは四本のアンプルのようなものを取り出し、その場にいた兵藤、良川、チケット、クリークの四人の首筋に有無を言わさず突き刺してしまった。続けて更に一本を自分にも注射する。

 

「ウマムスコンドリアに働きかけて急速に不凍糖ペプチドを作らせる薬品だ。トレーナー二人に刺した分には私のウマムスコンドリアも入っているから、十分効果はある筈だ」

「ふとーとーペプチド?」

「……おいタキオン、これはいつもの実験じゃないな。何があった?」

 

 自分と同じくただならぬ気配を感じ取ったらしき兵藤が、冷や汗を浮かべタキオンに問うた。彼女が実験に参加させる者に対してその内容の説明を怠らないのは、かつて兵藤に小言を貰ったからだという。自分よりずっと付き合いの長い彼が、その約束を敢えて破る彼女に血相を変える程の何かが起きたのだ。

 タキオンは、強張った口を無理矢理動かすようにして答えた。

 

「――あと数分でマイナス七十度のダウンバーストが起こる。東京レース場(ここ)がその中心だ。今打った薬品で肺出血や凍死は防げる」

「え……ま、待ってよ! それじゃあスコープは? レースに出る皆は? ここにいる人達は?!」

「無理だ。会長に頼んで()()()()では、避難は間に合わない。だから私達だけでも助かる方法を選んだ」

 

 その場のメンバーと共に、クリークは言葉を失った。この状況でタキオンが嘘を吐くような人物ではないとわかっていても、マイナス七十度というのは想像を絶する。会長に話したということは、当然この話は秋川理事長を通してURAにも伝わっていると見ていい。しかし幾らタキオンといえど所詮は天気予報士でもないただの高校生故、子供の戯言と一蹴されてレースは通常通り決行――避難を促すようなアナウンスがここまで流れていないのがいい証拠だ。それに十中八九、この場でそれを公表すれば観客はたちまちパニックに陥り、将棋倒し等の二次災害は避けられない。

 苦渋の選択。苦虫を嚙み潰したようなタキオンの顔にそれが表れている。昨年のジャパンカップで彼女が語ったことが真実ならば、少なくともスコープの生存は保証されているし、こうして彼女の作った薬品の注射が間に合ったのも異能生存体であるおかげ。そしてその効能が確かであれば、兵藤と良川も無事――

 

「――っ、ライスちゃん!」

 

 数分前に用便に行ったライスが帰ってきていない。昨年以降、彼女が異能生存体であることを示す結果はタキオンから報告されていなかった。つまり彼女が異能生存体だという確証はなく、ダウンバーストが起きれば他の観客共々凍死する危険があるということ。

 走り出そうとしたクリークは、すぐさまタキオンに羽交い絞めにされた。

 

「離してくださいっ!! ライスちゃんが帰ってきてないんです!」

「もう間に合わない! ライス君が異能の因子を受け継いだと信じるしかないんだ!!」

「え、タキオン……何、異能の因子って?! ライスに何があったの?!」

「チケット君今は説明は――」

 

 ゲートの開く音と共に上がった歓声が、奇妙などよめきに変わった。観客達は走り出したウマ娘そっちのけで何故か空を見上げている。何事かとそれに倣うと、上空で渦巻く黒雲から光り輝く何かが落下してきていた。

 

「来たかッ、一塊になって動くな!! 皆伏せろォォォーーーッ!!」

 

 十月の府中に、冷獄が吹き荒れた。

 

 

 

 

 

 結論からいえば、スコープとライスは無事であった。

 

「うおおおおおおおおん!! 二人ども生ぎででよがっだよおおおおおおお!!」

「ひゃああ!?」

「……心配をかけたな」

 

 レーンのほぼ中心に衝突した高気圧の塊は、走行中のウマ娘を外ラチまで軽々吹き飛ばし、周囲のあらゆるものを放射状に凍てつかせた。当然二人もこの災禍に巻き込まれたが、スコープは一緒に飛ばされた他のウマ娘が彼女に折り重なるような形で風除けとなり、ライスは背の低さに救われて周囲の観客に風を遮られたことで助かったのだ。転倒による怪我も非常に軽微で命に別条はなく、走りにも影響はない。チケットは鼻水を垂らし大いに喜んだ。

 だが、喜べるのはそこまでだった。

 

「負傷者約三万人、うち学園関係者四十人。死者二百一人、うち学園関係者十六人。URA発足以来最悪の事故だね。タキオン君が気付いていなかったらと思うと背筋が寒くなる」

「人災だ。何とでも理由を付けて屋内に避難させていればよかったのに、頑迷な委員会が少しでも助かるチャンスをふいにした」

 

 ダウンバーストの発生によって中止となった今回の毎日王冠は、URAの、ひいては日本ウマ娘トレーニングセンター学園の最大の汚点となった。出走した十人のウマ娘のうちスコープを除く全員が死亡。怪我をしたウマ娘の中には、凍傷によって競走生活に支障をきたし引退を余儀なくされる者もいた。学園関係者への連絡が事故の発生までに完了できなかったことは致し方ないとされる一方で、事態を悟ったタキオンの警告を聞き入れなかったURAにはバッシングが集中している。

 

「違う、違うんだトレーナー君。私の見通しの甘さが招いた結果だ。もう少し早く気付いていれば……」

「タキオン、自然災害なんだ。お前が予測できなくたって――」

「そうじゃない! 異能の因子だ! あれは異能生存体がいたから起こったことだ。異能の因子が、あの場にいた‘将来の敵’を排除して自身を生存させる為に起こしたことなんだよ!!」

 

 アンタレスも無傷では済まなかった。これまで明かされていなかった‘異能生存体’について、今回の事件を機に、チケットはライスと共に説明を受けた。アンタレスのチームメンバーがあの惨劇を生き残ることができたのは――タキオンの薬が運良く間に合ったことも含めて――異能の因子によるものなのだと(皮肉なことにライスが異能生存体であることも裏付けられた)。そしてダウンバーストが異能の因子によって引き起こされたのだというタキオンの言葉は、チケットらを震撼させた。

 クラシック・シニア混合レースであることを勘案しても、今年の毎日王冠は例年より多くのクラシック級ウマ娘が出走している。中にはその成長性から、いずれスコープを打ち負かすことになるであろう者も存在した。本来極めて希少な異能生存体がタキオンの手で同時多発的に生み出された皺寄せ――複数の異能の因子の干渉も手伝ってか、スコープが持つ異能の因子は自身の生存を脅かすことになるであろう彼女らを、ダウンバーストという“事故”で、今後己と相まみえる可能性諸共消し去ってしまったのだ。

 無論異能生存体の情報は外部に漏れていない。大衆が知るのは、「スコープドッグというウマ娘が偶然生き残った」という結果だけだ。そしてそれだけでも、アンタレスには大きな打撃だった。

 

「なんで……なんで貴女だけが生きてるのよ! あの子じゃなくて、貴女が!!」




三年間の努力が結晶する。
乾坤一擲。
年末の中山に殺到する観客、十七万。
当日発生する経済効果、四兆。
一日だけで我が国の防衛予算に匹敵する。
だが、得られるものからすれば蚊の涙。
ささやかなりと野心が嘯く。

次回、『有馬記念』

トゥインクルシリーズでウマ娘達が犯した最大の誤り。それは、奴を敵に回したことだ!


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有馬記念

『ピスピース、ウマ娘の宣伝担当(自称)ゴルシちゃんだぞーっ!!』

「……は? 何これ?」

 

 学外の友人から送られてきたURLを開いたトーセンジョーダンは、送り主の意図を量りかねた。大手動画投稿サイトにアップロードされているその動画には、トレセン学園一のトリックスターと悪名高いゴールドシップが映っている。何故かいつも自分に突っかかってくる彼女との関係を、まさか友人が知っている訳ではあるまい。

 

『……といつも通り行きたいところなんだが、今日はゴルシちゃんはお休みなんだ』

 

 「いや出てるし」という言葉が口をついて出たが、ハイテンションで登場した直後にどこか寂寥感のある顔で語られて、ジョーダンはますます混乱していた。とはいえ折角友人が送ってきたのを無碍にすることもできず、彼女は渋々展開を見守る。

 

『ゲストが来ててな、皆に伝えたいことがあるんだってよ。それじゃあおかゆ、バトンタッチだ!』

『ひゃ、ひゃい!!』

 

 動画が始まって三十秒と経たないうちに主役が譲られ、現れたのはライスシャワー。半年前の天皇賞(春)に勝利したウマ娘であり、あのスコープドッグのチームメイトでもある。そしてスコープ同様、かの毎日王冠の惨劇を生き延びた一人。

 図らずも、今ジョーダンが柱に寄りかかりながら動画を見ている、学園本校舎メインエントランスの広間は、五日前にスコープが糾弾されたのと同じ場所だった。退院してきたばかりの(というには期間が短過ぎるが)彼女に対し、出走していたウマ娘の一人の母親が学園に押しかけ、散々に痛罵したのだ。

 

“私の子を盾に使ったんでしょう?! 自分が生きる為なら他人の命なんてどうでもいいってワケ?! 人殺し!! やっぱり貴女はレッドショルダーよッ!!”

 

 下手人が警備員に取り押さえられた僅か数十分後には、学園の生徒が撮影したらしき動画がSNSで拡散されていた。母親の発言を問題視することを趣旨に投稿された筈のそれは、母親の言葉に同意し、スコープの本質が‘生き延びる為には仲間の犠牲も厭わない’レッドショルダーそのものだと誹る形へと曲解され、今や世間には彼女が学園に入学した当初の無情な熱がぶり返している。タイムラインが最低野郎(ボトムズ)一色に染まっていくのを、ジョーダンは五日前と同じく指を咥えて見ていることしかできなかった。

 ジョーダンのルームメイトであるチケットもこの影響をもろに受け、いつもの号泣もできない程に憔悴しながら毎晩枕を濡らしている。自分もつられて泣いた故、チーム・アンタレスが負った心傷は想像に難くない。

 

『ら、ライスシャワーです。この動画を見ている人に、見せたいものがあります』

 

 そのアンタレスに属するライスが、わざわざ登録者数の多いゴルシのチャンネルという場を借りてまで伝えたいこととは何なのか。火消しに走るにも最早多勢に無勢、ましてや本人でもない上に、文字通りの()()()()生還は釈明のしようがない。諦念に濁った目で画面を見つめるジョーダンとは対照的に、画面の中のライスの目にはそれでもキラリと光るものがあった。

 ライスの手元の操作で画面が切り替わる。映し出されたのは、学園から程近いラーメン屋のカウンター席に並ぶアンタレスのチームメンバー。

 

『これは初めてチームの皆で外食した時の写真。スコープさんがラーメンを全部食べ切れなかったから、皆で分けて食べたの。見かけによらず小食なんだ、スコープさんって』

 

 次の写真は、ショッピングモールの衣料品店で服を選んでいるスーパークリーク。自分のものではなく、その奥で服を体に当てられているスコープのものらしい。

 

『これはその一ヶ月後くらいかな? スコープさんが私服を全然持ってないって言うから、皆で服を選んだんだよ。クリークさん張り切ってて、お金全部出しちゃった』

 

 その次の写真では、スコープとチケットがまばらに木が生えた草原の中に立ち、何やら話し合っている。空中に展開されたウィンドウや縦横比の違いからして、VRゲームのスクリーンショットのようだ。

 

『タキオンさんが作ったVRウマレーターの小型版をテストしたりもしたの。スコープさんとチケットさん、ウマネスト初めてなのにすっごく上手で、ライスが出る幕なかった。ふふっ』

 

 更にその次は、畳張りの部屋に敷かれた布団の上で、アンタレスのチームメンバーがババ抜きをして遊んでいる様子。撮影者の手札はハートの5とジョーカーのみだった。

 

『合宿も楽しかったよ。怖い話大会をすることになって、スコープさんがメルキアでナックラヴィーに会ったって言って……怖かったけど、ライスが震えてたから、一緒の布団で寝てくれたの。スコープさん、温かかったなあ……』

 

 その後も幾つかの写真が表示されたが、いずれにもスコープの姿があった。ほぼ時系列順になっているそれらに映ったスコープの表情は、時間を追うごとに柔らかくなっているのがわかる。

 一通り見せ終え、ライスに映像が戻る。頭の悪さは自他共に認めるジョーダンであったが、ライスがこの動画で伝えようとしているメッセージを僅かながら察していた。

 

『……ライス、最初はスコープさんを怖いと思ってたの。顔も硬くて、何を考えているのかわからなくて……でも本当は、優しくて、皆と走って笑える、普通のウマ娘だった』

 

 ライスの唇は震えている。それを必死に噛み殺すように、彼女は続けた。

 

『普通だから……苦しんでる。合宿の夜、スコープさんは魘されてた。やめろ、やめろって……普通のウマ娘だったのに、銃を持った人達に無理矢理連れていかれて、生きる為に必死で頑張ったのに何もかもを失くして、それで、』

 

 ジョーダンは息を吞んだ。潤んだライスの瞳から一筋の雫が零れ落ち、普段の彼女らしからぬ調子で悲痛に声を荒げて叫ぶ。

 

『――スコープさんはもう、一歩学園を出たら駐車係の仕事だってないのッ!!』

 

 何故スコープがトゥインクルシリーズに出るのか、その理由は耳にしたことがあった。進学も就職もできずに進退窮まった彼女は理事長自ら声をかけられ、入学早々アンタレスに入部、レースの賞金を生活の糧にしているのだと。恐らく学費を差し引いたその金額の多くは、()()()()()()()()()()()()()()()()貯蓄されているのだろう。今の彼女の青春は、引退後の職すら諦めた上に存在するのだ。

 そしてその懸念が、彼女を憎む者達の手で現実のものになろうとしている。

 

『お願いします……ライスのことは、幾ら嫌いになってもいいから……スコープさんは、スコープさんだけは……どうか、嫌いにならないで……これ以上、輝く機会を、夢を奪わないで……生きる理由とその意味を、与えてあげて……お願い……』

「奪うワケないじゃん……! でも、でもっ、どーすりゃいいかなんてわかんねーし……!」

 

 肩を震わせて泣き出してしまったライスに、ジョーダンも貰い泣きした。スコープが諸悪の根源であるかのように扱われたまま、無数の怨念を背負って消えていくようなことは到底受け入れられない。それは確かにライスと同じ考えだったが、世論という巨大な潮流を変える方法は彼女には思い付かなかった。

 無力感に打ちひしがれながら、ふと動画のコメント欄に視線を下ろすと、どこか見慣れた名前が飛び込んできた。

 

「……メジロ、財団?」

 

 最上段に固定されたそのコメントにはURLが添付され、他には短く“スコープドッグ特別支援サイト”と書かれているのみ。ジョーダンは深く考えずにリンクをタップする。たちまち画面がブラウザに遷移し、中央に大きく何かの金額が表示された。

 

  《990,100¥》

 

 取り敢えず、ジョーダンは事情を知っていると思われる友人メジロパーマーの元へと走り出した。

 

 

 

 

 

「何を企んでいる」

 

 十一月の第一金曜日。普段通りのトレーニングが終わった後、良川とタキオンが居残った部室に、ストライクがやってきた。「失礼します」と良川に挨拶し、三角フラスコを乾かしていたタキオンの背後に立って言い放ったのが、先の一言である。

 

「……何のことかな?」

 

 タキオンは振り返らない。とぼけて見せている彼女だが、ストライクに関連することなら良川にも心当たりがあった。

 

「ここまで追跡を躱しておいて土壇場で白を切るつもりか。私の常用薬が合宿中に盗まれた。個室の、しかもウマ娘以外立ち入り禁止だった私の部屋に入り込んで薬を盗み出し、その薬を扱うことができる者などお前しかいない。私にわざわざ偽薬を飲むよう要請して時間稼ぎをしているのもいい証拠だ」

 

 一触即発の空気を感じ取り、良川は椅子から腰を上げようとした。ストライクの言う“薬”とはヂヂリウムに違いない。進捗状況は不明だが、タキオンの研究は決して悪意あるものではなく、寧ろストライクを、他のウマ娘を助けようという意思に基づくものなのだと伝えるつもりであった。

 しかしすぐに、釘を刺すような視線がタキオンから飛んできて、良川は起立を断念した。何か自分には考えの及ばない神算鬼謀があるのかもしれない。良川は渋々ながらそう考えて、事の成り行きを見守ることにした。

 

「ふむ、“薬を扱うことができる者”か。その言い方だと……ストライク君、君は自分の薬がなくなることだけでなく、それが何の薬なのか知られることも恐れているように聞こえるね」

「お前なら逆行解析も容易いだろう。そういう判断だ」

「私に薬の成分を知られれば不利になる。君のことだから単なる規制薬物ではないだろう。それはきっと君の固執するPSに関係して――」

 

 瞬間、ストライクはタキオンを強引に振り向かせ、胸倉を掴み上げた。タキオンの手から滑り落ちたフラスコが床の上に砕け散る。

 

「無駄口を叩くな!! 質問しているのはこちらだ!!」

「タキオン君!!」

「大丈夫だ良川トレーナー。落ち着きたまえよ」

「……わかった」

 

 良川は思わず立ち上がったが、タキオンに宥められて再び着座した。やはり今回、自分の出る幕はないらしい。

 ウマ娘が後方に耳を倒す――耳を絞るのは、一般に怒りの感情を表すものだとされているが、逃げウマがレース中に後方から迫られるなどして焦った時にもすることのあるボディランゲージだ。ストライクの耳は飄々としたタキオンの態度に対する怒りばかりでなく、明らかに余裕のなさが表れている。話の主導権は既にタキオンの側にあった。

 

「それだけではない。『レッドショルダー』に逆戻りした筈のスコープドッグが、例の動画が出て以来再び評価を一転させている。あれはお前の差し金か?」

「差し金? いいや、あれはライス君とスコープ君それぞれの独断だよ。私も驚いたものさ」

 

 例の動画――ライスがゴールドシップに協力を要請して作成・投稿したものだ。良川には勿論、兵藤にも他のチームメンバーにも一切相談はなかった。

 既に一ヶ月が経過しようとしている毎日王冠の惨劇、その生存者の一人ライスシャワーの涙は、多くの人々の同情を誘った。スコープドッグというウマ娘の人となりを間近で見つめ続けてきた彼女が、彼らの偏見の目を取り払ったのだ。そして多くの優秀なウマ娘を輩出してきたメジロ家の運営するメジロ財団が、スコープを支援する為のウェブサイトを設立し、動画のコメント欄に貼り付けたことも、事態を急転直下の解決に導いた。サイトはファン投票――十二月のグランプリレース有馬記念への出走を決めるものだが、投票開始日にはまだ十日程ある――でスコープに入れるという署名が三十万筆以上集まり、スコープ本人への金銭的支援を行うクラウドファンディングの募金額は月を跨いだ時点で七千万円を突破している。世論というものの流されやすさを呆れ交じりに嘆じたのを、良川は覚えていた。

 更に、ライスの行動に触発されてか、スコープもまたゴルシに接触し、短い動画で声明を発表した。先週日曜日のことである。

 

“俺の為に動いてくれている人間がいるらしい。俺に寄付する為の金を集めていることも知った。だから、俺は一つ約束する。俺が有馬記念で一着を獲ったその時にだけ、俺はその金を受け取ろうと思う。そしてその使い道も、その時に皆の前で話したい”

 

 ライスのそれは純粋にスコープを想ってのものだった一方、スコープの独断行動の理由、そして彼女の言う“使い道”は、彼女が黙して語らず、謎のままであった。結果として評判は元通り以上になっているからと兵藤も匙を投げ、以降触れられずにいる。とはいえわざわざ大衆を前にして発表する予定であることは、世間にいい意味での憶測を呼んでいるのも事実だった。

 良川が見るに、ストライクはこの状況に何か危機感のようなものを抱いているらしかった。

 

「バカな……出来過ぎている。信じられるものか!」

「当ててみせようか? 君はスコープ君に勝つことを望み、スコープ君がこれ以上の力を付けることを恐れている。スコープ君に精神的な支柱が増える程君は窮地に陥る。君はPSであることを、最早スコープ君に勝つことでしか証明できないからだ」

「貴様……!!」

 

 今にもストライクがタキオンを締め上げようとしていたところで、部室の扉が開いた。

 

「……何をしている」

 

 噂をすれば影が差す。入ってきたのは件のスコープだった。相も変わらず無表情だが、その目はストライクの手に注意深く向けられている。

 ストライクはタキオンからぱっと手を離した。慌てて良川が駆け寄り、「大丈夫かい?」「平気さ」とやりとりする間に、ストライクはスコープの眼前に移動していた。

 

「スコープドッグ、あの動画は何だ? 私への当てつけのつもりか?!」

「お前に何か問題があるのか?」

「お前にはわかるまい。最強であれと生まれてきたこの私の存在意義は。私は、ただの偶然に過ぎないお前より強いんだッ!!」

 

 やっと良川にも、ストライクがここに来た理由に得心が行った。勝つことが前提の余裕とも取れるスコープのあの声明は、彼女の逆鱗に触れてもおかしくない。PSとしての証明は、彼女にとってそれ程に重い。それはきっと、最早有馬記念というタイトルすらも凌駕するものだ。

 怒声がこだまし、数秒の静寂。スコープはぶっきらぼうに言った。

 

「お前は、ただ走ればいい。有馬記念で」

「……くそっ」

 

 ストライクは忌々しげにスコープを睨み、足早に部室を去っていった。

 散らばるフラスコの破片が、エアコンの温風で虚しく揺れていた。




腕もいい。用心深くもある。
ファンの期待を裏切りもした。邪魔者と誹られたこともある。
味方の血肉を喰らうようなこともした。運もいい。
だがそれだけか? それだけで勝ち進み続けたというのか?
違う!
遺伝確率二五〇億分の一、異能の因子、異能生存体。
それがお前達の正体だ!

次回、『不死の舞台』

お前達は負けない。


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不死の舞台

 例年晴れることの多い有馬記念は、今年は珍しく雨天が予報されていた。それは奇しくもスコープのメイクデビューと同じ天候だと思われたが、スコープのパドック入場を前にして土砂降りに変わりつつあった。

 

『注目の一番人気、十三番スコープドッグ』

「待ってました!」

「今日も、いや今日は勝ってくれよ!!」

「気持ちだけは百票入れたからな!」

「五万円寄付したぞー!!」

「俺らの気持ち受け取ってくれい!!」

 

 会場に押し寄せた観客達は、激しい雨のことなど気にもしていない様子だ。年末最後の大一番への興奮が渦を巻き、凄まじい熱気を放っている。その中心にいるのは紛れもなくスコープだった。メジロ財団のクラウドファンディングで彼女の為にと最終的に集まったおよそ四億五千万円、贈与税を引かれても二億円以上に及ぶ支援金受け取りの成否が懸かったこの戦いを、彼らはその目で見届けようとしていた。

 

「……去年の秋天の時もそうだったんだがな」

「うん?」

 

 その人垣に阻まれ、良川は前列から遠く離れた位置でスコープを眺めていた。皆が口々にスコープへと応援の言葉を投げかける中、背後にぬっと姿を現した兵藤が話し始める。

 

「本当は、チームメンバーを同じレースに複数人出すのは気が進まなかったんだ。爺さんと同じ轍を踏むことになるんじゃないかってな」

「『共食い』……大塚博士の行っていた限界性能試験か。ウマ娘特有の闘争心の高さを悪用し、チームメンバーのライバル関係を必要以上に煽って同じレースに出走させる。これで怪我をするウマ娘が出なかったのが不思議なくらいだが、その辺りは彼の名伯楽たる所以かな」

 

 二番人気でスコープと雌雄を争うストライクの他にも、今回のレースには錚々たる面々が集まっていた。特にアンタレスはメンバー全員がファン投票上位に食い込み、人気票数も殆ど横並び。やはりスコープとストライクの注目度合いは突出していたが、いずれ劣らぬ強者ばかりの彼女らの目は、それでも尚たった一つの勝者の座を求めてぎらついていた。

 しかし良川には、スコープが、タキオンが、ライスが、クリークが、チケットが、絶対に負けないという矛盾を孕んだ確信があった。直接生死に繋がるような状況ではないものの、彼女達が共通して持つ異能の因子がそうさせているのかもしれない。ここまで努力を重ね、仕上げることができたという結果まで含めて。

 

「だが君は違う。彼はマインドコントロールの結果として出走させた。君は彼女らの意思を尊重した結果として出走させた。君は同じことをしていると思っているのかもしれないが、少なくとも私は、行動の意図という点で君を評価したい」

 

 良川はそこでようやく振り返り、ウマ娘達に向けていた目を兵藤に移して彼を讃える。対する兵藤は面食らった様子でマリンキャップを取ると、視線を逸らして照れくさそうに後頭部を掻いた。

 げふん、と咳払いし、兵藤はキャップを被り直す。

 

「――ストライクのトレーナー、弥永についての情報が出た。タキオンには後で話すが、お前とは今のうちに共有しておきたい」

「わかった。場所を移そうか」

 

 良川が最後にもう一度見たスコープは、降りしきる雨の中でじっと空を見上げていた。

 

 

 

 

 

 人払いをした控室の中で、ストライクは保冷バッグの中を漁っていた。保冷剤とスポーツドリンクに埋もれ、二重底の下に隠されていたのは、透明な液体の入ったアンプルと無針高圧注射器。

 

「んっ……ふう」

 

 注射器にアンプルをセットし、首筋に当ててスイッチを押し込むと、ばすっ、という脱気音と共に液体が打ち込まれる。これまで全ての公式戦で行ってきた作業だ。日常生活用、強度別のトレーニング用、模擬レース用、公式戦用で含有する酵素の量や比率は異なり、PSの性能を最大限に発揮可能になる公式戦用は、今注射したのが最後の一本だった。次にそれらが支給されるのは、このレースに勝った後。

 

「……勝たねば」

 

 当たり前だと思っていた勝利。それを奪われて初めて、ストライクは凡百のウマ娘達の「勝ちたい」という気持ちを知った。自分もウマ娘である以上、それは初めから自分の中にあるものだと自覚していて、「負けてもいい」と思って走ったレースなど一度たりともなかったが、PSとして優れた走行能力を約束されて生まれた自分には、それは半ば関係ないものだと思っていたのかもしれない。凡愚の思い上がりなどではない厳然たる事実として、自分は他者より優れている。その事実を、スコープドッグという異分子が破壊した。

 人の手によらない天然のPS、スコープドッグ。ヂヂリウムを使った遺伝子発現の制御で手綱を握っておくことができない相手であるにも関わらず、大塚は自らの野望の結晶たる自分を切り捨て、スコープを研究に使おうと画策している。そうなれば最強を示す機会は永久に訪れない。遺伝子の機能不全による死の恐怖と同等かそれ以上に、ストライクは己の存在意義が果たされないことをこそ恐れていた。

 その為に、スコープドッグへの勝利で以って、彼女の全てを否定する。

 

「真の戦士は、私一人で十分だ」

 

 ストライクが控室を出て廊下を少し歩くと、丁度スコープも自身に割り当てられた部屋から出てくるところだった。ふと立ち止まったスコープの脇を通り過ぎようとすると、自然に両者の目が合う。

 

「……」

「……ふん」

 

 ままならぬ現状に燻る怒りを込めて睨みつけても、スコープはピクリとも表情筋を動かそうとしない。鉄面皮の裏側で自分を嘲笑われているような気がして、ストライクは殊更苛立たしくなった。

 

「待て」

 

 背後から声がかかる。ストライクは足を止めるが、振り返らない。最早スコープの顔も見たくなかった。

 

「……記者会見は、見ておくべきだ」

 

 何かと思えば、もう勝った後の話をしているのか。ストライクは呆れたが、死んでいく自分のプライドに終止符を打つには丁度いいのだろうと思い直して、何も返さず歩き出した。

 

 

 

 

 

 担当バとそのライバル達が続々とターフに姿を現すのを、弥永は中山レース場最上部のゴンドラ席から見下ろしていた。すぐ隣には自分の()()()、もとい共犯者である大塚が立ち、サングラス越しに下界へ険しい視線を送っている。

 

「弥永、わかっているな。このレースでストライクドッグがスコープドッグに勝てなければ、プランプロトツー=イプシロンは打ち切り、直ちにプランプロトワンに移行。お前はストライクドッグとのトレーナー契約を解除し、スコープドッグと契約して貰う。その為の仕掛けはいつでも使えるようにしておいた」

「……はい、博士」

 

 喉元まで出かかった「貴方はウマ娘を何だと思っているのだ」という言葉を、弥永は必死で呑み込んだ。その言葉が自分自身に跳ね返ってくることを恐れたからだ。たとえ今大塚をどんなに責めようとも、良心に蓋をして彼の誘いに乗った事実を否定することはできない。

 同量・同質の努力では決して覆すことのできない、決定的な能力差。努力の末に得た力を、それ以下の努力でねじ伏せてしまう才能の差。ウマ娘達の夢を支えたい一心でトレーナー試験の狭き門を潜り抜けた先で見たその光景、担当バがことごとく才能ある同期に敗れ学園を去っていく姿に、弥永は心を痛めた。苦悩の果てに過った考え――『全てのウマ娘の能力の初期値と成長率が同じなら、後は努力の差だけがものをいう筈だ』――それこそが、悪魔に魂を売り渡すきっかけとなった。

 大塚が接触してきたのは、弥永の父が病に倒れた直後のことだった。“私の研究に協力すれば、私の伝手で古巣の大学病院を紹介してやる。金も出そう”という甘言に縋り、その対価がストライクドッグとのトレーナー契約、彼女の能力を最大限に引き出すトレーニングの指示通りの遂行(つまりトレーナー業の代行)、そして機密保持。全てが好都合過ぎた。

 

「……博士、もしストライクがスコープドッグに負けたとして、本当に契約を変更してまで研究する価値があるのでしょうか? 幾ら能力があろうとも、それ故に欠陥を持つウマ娘は研究材料には不適当かと」

「奴の抱える精神疾患については私も把握している。その上で、その欠陥を埋め合わせて尚釣りのくる価値が奴にはある」

「貴方が手ずから作り上げたストライクよりも上だと?」

「ストライクドッグを奴以上の逸材としてプログラムすることができなかったのは私の失態だ……だが、それがわざわざ非効率なやり方を続ける理由にはならん」

 

 ストライクドッグ。日本の生殖補助医療関連法規の不備を突き、不妊のウマ娘を秘密裏に代理母(サロゲートマザー)として誕生したウマ娘。最強のウマ娘を作るという大塚の妄執によって、倫理性の欠片もない遺伝子操作で作為的に作り出された歪な生き物だ。現在に至るまでその存在に大塚が関与・干渉し続け、家庭環境すらも完全に掌握されている。

 ストライクの出生の秘密を大塚に聞かされて、愕然としなかったと言えば嘘になる。しかし弥永は当初、彼女を徹底的に利用し尽くす腹積もりでいた。彼女の活躍によって大塚の研究が立証されれば、一握りの才能に夢を奪われる理不尽な現実をトゥインクルシリーズに突き付けることができる。そして皮肉にも、いずれ多くのウマ娘達がこぞって同じ力を求める筈だ。遺伝子ドーピング規制は、従来の手法では検出困難な被メチル化遺伝子と、酵素群の組み合わせと比率次第でそれらを自在に発現可能なヂヂリウムによって有名無実化するだろう。その暁には、PSと同じ能力で平均化されたウマ娘達が、残酷に過ぎるレースの世界を真に‘公平’にしてくれる。普及までの混乱と、絶対的優位性を失ったストライク自身のその後のことなど、後は野となれ山となれ――菊花賞での彼女の敗北まで、本気でそう考えていたのだ。

 

「優れた者がいれば、私はそれから目を背ける訳にはいかん。奇跡というものを私は目撃した……それは、あるのだ!」

 

 敗北した相手への逆襲。普通のウマ娘なら十分あり得ることだが、最高の能力を持つよう‘設計’されたPSが相手なら話は変わる。行手に塞がるあらゆる敵を赤子の手を捻るように蹴散らし、それでもただ一人にだけ勝つことができない不可解な実態。完全なる走者であることが自身のアイデンティティーと信じて止まないストライクが、その最大の障害となったスコープを前にもがき苦しむ姿に、いつしか弥永は打算をかなぐり捨て、ストライクを勝たせることに躍起になっていた。完璧な大塚のトレーニングマニュアル――ストライク以前の担当バがいた時にこれがあればと頭を抱えたこともある――から逸脱したメニューを行うことは勿論なかったが、その熱意は確実にストライクに伝わっていたと自負している。

 その一方で、弥永はストライクにとって然程重要視されていないだろうと自覚していた。ストライクは縦の繋がりには従順だが、横の繋がりは極めて薄く、基本的に孤立した(スタンドアローンな)ウマ娘だ。トレーニングを他人と一緒に行わない指導方針の影響もあって友人らしい友人が殆どいない。大した趣味もなく、栗東の寮長フジキセキによれば、休日は一人部屋から一歩も外に出ていないという。それを苦にした様子もないのは、彼女の心の拠り所が己の存在証明だけであり、それ以外の何物にも精神的に依存していないからなのだろう。だとすれば、彼女がライバル視どころか敵愾心や憎悪すら向けているスコープは、方向性は異なれど彼女が初めて依存した‘他者’であり、その点に於いて自分よりもずっと大きな存在に違いない。

 

「……ストライク」

 

 今更ながら、ストライクが何故スコープに負け続けているのか、弥永は自分なりに理解できた。PTSDを患う程の悲惨な過去を持ちながら、チームメンバーに恵まれ、今やファンの期待を一身に背負って走るスコープは、とても多くのものに支えられて生きている。支援という名の脅迫の下、この世に生まれ落ちる前から押し付けられた‘最強’という命題の証明を自分の意思だと勘違いしたまま、孤独に戦い続けているストライクと比べれば、その差は一目瞭然だ。精神面もウマ娘の能力を左右するというトレーナーとしての基本に立ち返って考えれば、ストライクがスコープに勝つ未来はどうしても想像できなかった。

 

『――年末の中山で争われる夢のグランプリ・有馬記念! あなたの夢、私の夢は叶うのか! ――』

 

 この舞台での敗北は、ストライクを更なる絶望の淵に叩き落とすことになろう。コートのポケットに保冷剤と共に忍ばせた最後のヂヂリウムを彼女に託したとて、何の慰めにもなりはしまい。先延ばしにされた死が訪れる前に、彼女の精神が死を迎えることさえ考え得る。

 それを覆せるのは、きっと皮肉にも、ストライクドッグに引導を渡すスコープドッグ自身なのかもしれない。そんな淡い希望を抱くことしか、弥永にはできなかった。

 

 

 

 

 

『――スタート! ――』

 

 『無事之名バ』という言葉がある。時速六十キロ以上で走り回るウマ娘達が、時にそのスピードが徒となって命を落とすことさえあったことから、競走能力如何よりも怪我なく走り続けることをこそ尊んだ言葉だ。これは、スコープドッグというウマ娘について言えば間違いなく保証されたものと考えていい。異能生存体の尋常ならざる回復力、そもそも死に繋がる要因を寄せ付けない体質があれば、怪我での引退とは無縁と云えよう。GI四勝の実力とそれを裏付けるPSというポテンシャルも加わればマ子にも衣装である。

 故に兵藤は、実際に走り出すその時まで、スコープの無事を微塵も疑っていなかった。

 

「む……?」

 

 普段より妙に前方に位置取るスコープを見て、兵藤は胸騒ぎがした。肩掛け鞄から可変倍率双眼鏡を取り出し、スコープを注視する。電波測距儀と指向性マイクを搭載したタキオン特製の逸品は、泥に塗れて向こう正面を走るスコープの問題をつまびらかにした。呼吸が荒く、目の焦点が合っていない。

 

「……まずいぞ。良川、すぐにレースを中止させろ!」

「な、何を言っている? また何か事故が起きるとでも――」

「わからんのか良川!! スコープは、」

 

 今の今まで意識していなかった。レースそのものが引き金になるなど考えもしていなかったからだ。

 

「PTSDの発作を起こしている……この天候とバ場状態が、フラッシュバックを誘発しているんだ!!」




捻れて連なる二重螺旋のように、精妙にして巧緻、大胆にして細心。
練りに練られた能力が、遺伝子の如く自己を複製する。
いよいよクライマックス。いよいよ大詰め。
舞台を用意した諸悪の根源がツケを払う時が来た。
万雷の拍手喝采と共に、眩し過ぎるスポットライトを浴びるのは誰だ?!

次回、『中山』

勝負とはいつも残酷だ。


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中山

 クメン密林から無数の支流が合わさり、ロウムス平原を東西に二分して流れるメルキア最大の河川、タイバス。そこで行われた大規模渡河作戦は夥しい数の死者を出し、特に第一波上陸部隊での生存者はたった一人、俺だけだった。

 雨降る中山の芝を踏みながらにして、俺は今タイバス東岸の泥濘の中にいた。

 

「はあッ……は、あッ……」

 

 上陸用舟艇から降りる瞬間から、切り立った崖のような岸の上のトーチカが暴風のように機関銃弾を叩きつけてくる。泥に紛れて仕掛けられた地雷で、すぐ前の仲間がピンクの霧になって消えた。人間用パワードスーツのウマッスルシリンダーから漏れ出したポリマーリンゲル液が、落雷で炎上して退路も断たれてしまう。それでも、生きていたければ進むしかない。

 

「ぐ、ふうっ、はあッ……!!」

 

 幾夜魘されたか知らない悪夢。目の前、僅かな一跨ぎ。それができない泥沼の中で俺は喘ぐ。身に絡み付く過去を振り解こうとして――

 

「大丈夫」

「あ……」

 

 血と硝煙の臭いが遠ざかる。視界を覆っていたタイバスの泥濘が薄れ、輝く世界が広がり始めた。

 声が聞こえる。

 

「私が、私達が貴女を支えます。どうか闇に負けないで、立ち上がって!!」

《ピュリティオブハート》

 

 クリークの声。青白く温かな光が、俺の体に浸透していく。肺を通して全身の血管を巡り、既に尽きかけていた体力が蘇るのがわかった。

 

「私には優秀なモルモットを使い捨てにする趣味はないのでね。君には走り続けて貰うよ」

《U=ma2》

 

 タキオンの声。宙を流れる金色の光は、理解の及ばぬ数式の形をしていた。そこから導き出されるエネルギーが体を満たし、足を動かす。

 

「アタシは知ってる! スコープはとっても優しくて強い、凄いウマ娘なんだって!」

《勝利のチケットを、君に!》

 

 チケゾーの声。一切れの紙のように凝縮された力が受け渡される。胸の中心から溢れ出す熱が、冷めることなき熱情となってこの身を急き立てる。

 

「ライス、スコープさんに会えてよかった。スコープさんは、ライスのヒーローなの!」

《ブルーローズチェイサー》

 

 ライスの声。蒼い花弁が舞い踊り、刃の閃きが見え隠れしている。それを巻き起こす一陣の風が、俺の背中を強く押した。

 

「俺は――」

 

 気付けば、俺は中山の短い直線に先頭で入り始めていた。

 聞いたことがある。ウマ娘は多くの想いを背負って走るのだと。自分の身に今何が起きたのかは把握しかねたが、共に夢を()けた仲間達の想いが俺の力になったのだと、それだけは理解できた。

 だとすれば、この好機を逃す訳にはいかない。無条件の愛をくれたクリーク、フラットな見方をしてくれたタキオン、夢を与えてくれたチケゾー、真心から俺を心配してくれたライス、他にも多くの人が俺を支えてくれたから、ここまで走り抜いてこられた。血塗られた過去が現在の苦痛を形作っているのだとしても、今日という日が昨日の為にあるのだとしても、俺はこの日を生きて走り抜き、双肩に懸かる想いに報いなければならない。それがやっと見つけた夢を叶え、夢を与える唯一の道ならば。

 勝ちたい。

 純粋に、そう思える。

 

「明日に繋がる、今日ぐらい!!」

《アーマードトルーパー》

 

 むせ返る程染み付いた炎の臭い。骨の軋みと地獄の呻き。目も眩む破壊の中を駆け抜け、それら全てがスローモーションになって背後(過去)に消える。加速する時が容赦なく突きつける明日(未来)に、俺は恐れることなく飛び込んでいく。一瞬の煌めきの中にある希望に皆が魅せられる理由を、俺自身も理解できたから。

 俺だけではない。追い抜いてきた仲間(ライバル)達が、飛び散る光を呑み込んで猛追してくる。ここにいる誰もが焦がれて止まぬ勝利、それを他の誰にも譲りたくないという気持ちが耳朶を打ち、俺の魂を震わせる。

 

「私は負けません!!」

「私は負けない!!」

「アタシは負けない!!」

「ライスは、負けないんだあああああ!!」

 

 だが、勝つのは俺だ。

 

『――降り注ぐ歓声、舞い降りた鉄騎兵、疾走する夢の終着点、中山が燃える! 圧倒的、ひたすら圧倒的パワーが蹂躙し尽くす! ささやかな望み、芽生えた愛、絆、健気な野心、老いも若きも、男も女も、昨日も明日も呑み込んで、走る、炎、炎! 今、音を立てて、中山が揺れる!! ――』

 

 ゴール板を通過する。灼けるような気管と笑う膝。荒れる呼吸音が、榴弾の爆発をも凌ぐファンの歓声に上書きされた。観客席に手を振れるだけの余裕は俺にはなかったが、せめてもと顔をそちらに向けると、一段と声が大きくなる。勝利は達成された。

 瞬間、アンタレスのメンバーが次々に抱きついてきた。皆俺と同じく、一言も発することができない程疲れ切っているらしいが、その表情は明るい。

 

「……!」

 

 ふと思い出して掲示板を見遣れば、ストライクドッグの番号は表示されていなかった。

 

 

 

 

 

「お待ちください博士、博士!」

 

 大塚は杖を突きつつ、弥永の呼びかけを無視し、地下バ道に向かってずかずかと歩いていた。

 

「私としたことが、見落としていた……奴が異能生存体だったとは……!!」

 

 レース中にPTSDの発作を起こし、掛かってペースを乱した時は、天然のPSといえど敗北の二文字が大塚の脳裏に浮かんだ。しかしスコープは危機的状況を覆し、先行位置から抜け出て最終直線で急加速、二バ身差でゴールインしたのだった。そこで何が起きていたのかを、大塚は長年の研究に裏打ちされた見識眼で正確に把握していた。

 

「土壇場での因子継承、そして同時多発的なPSの因子の複製譲渡……あのようなことができるのは異能生存体を置いて他にいない。奴の経歴を見た時点で、気付くべきだったのだ!」

 

 大塚がアンタレスのチーフトレーナーになるよりも前、ある大学の研究室で密かに行っていた研究。それが異能生存体だった。人間に適用した場合の遺伝確率がとても現実的な数値とは考えられず、玉虫色の結論を出した論文を書いてお茶を濁したまま放置していたせいで、大塚は自ら提起した概念が目の前にあると気付けなかったのである。

 名誉回復と引退後の資金確保の一挙両得。レースの展開まで含めたドラマ性の演出すらも狙い通り。チームメンバーにPSの因子を継承させたのも作戦の内か。異能の因子とはそれ程に恐ろしい。

 

「奴は最早生まれながらのPSなどではない……自身の生存の為にあらゆるレースに勝利する化け物だ。これを制御することができれば……!!」

 

 ストライクがスコープ以外の相手に負けたことがないように、スコープもストライク以外に負けたことがない。真の意味で双方の実力は伯仲していて、その勝敗を分けたのは異能が働いたか否かだけだったのだろう。

 つまり、「レースに勝たなければ命に関わる」状況を意図的に作り続ければ、スコープは絶対に負けることがないのではないか。大塚は、自分の頭脳が弾き出した仮説に身震いした。

 

「必ず、必ず手に入れてやるぞ、スコープドッグ。お前の力を私に見せてみろ……!」

 

 この仮説を検証するには、彼女はあまりに多くの金を稼ぎ過ぎた。すぐにでも契約を兵藤から奪取しなければならない。当初はアンタレスに属するアグネスタキオンが処方した薬品に関するスキャンダルを流す間接的な計画だったが、異能生存体の真贋織り交ぜた情報を開示してやれば、もっと確実に兵藤を退職に追い込み、スコープと契約を結べるだろう。そして何らかの名目で寄付金を奪い取れば、またしばらくはスコープの勝敗に異能が関与し続ける。

 その為に、まずはスコープ本人と接触したい。

 

「――スコープドッグ」

「?」

 

 大塚が地下バ道に辿り着くと、丁度スコープが掲示板入りしていたチームメンバーに囲まれて会見に向かうところだった。歩調を緩め、ゆったりと歩きながら声をかける。

 

「私はチーム・アンタレスの前チーフトレーナー、大塚だ。単刀直入に言おう。私の元に来る気はないか?」

「……」

 

 表情の変化こそないが、その視線は冷たい。レース後も残るアドレナリンの影響か、仲間達の雰囲気も刺々しくなる。

 

「私はストライクドッグのトレーナー弥永にトレーニングのいろはを伝授した。既に引退した身だが、トレーナー資格は維持したままだ。医師免許も持っている。私と共にあれば、彼女を育てた最高のトレーニング環境を約束しよう」

「冗談はなしだ、俺はクソ真面目なウマ娘だ」

 

 思ったより義理堅いウマ娘のようだ。大塚は現時点で深追いする気はなかった。いずれにせよ、こちらの策が功を奏すれば確実にスコープを手に入れられる。焦る必要はない――

 

「笑止!!」

 

 地下バ道一杯に響き渡る女児の声。大塚を含め、その場にいた皆が目を向けた発生源からは、トレセン学園現理事長秋川やよいが歩いてきていた。すぐ隣には、緑色のスーツがトレードマークの理事長秘書駿川たづなが控えている。

 

「大塚元トレーナー、貴君の悪行は既に把握済みだ。ウマ娘の能力研究の為にその青春を無為に使い潰してきたのみならず、その野望で更に新たな犠牲者を生み出そうとしている!」

「ストライクドッグさんを遺伝子組換えウマ娘として誕生させた遺伝子組換え規制法違反、遺伝子の活性を維持する薬品の提供を盾に研究に協力させた脅迫罪、そして薬品の提供を中止した殺人未遂罪。断じて許せません」

「粛清ッ!! 貴君のトレーナー資格を永久に剥奪し、ウマ娘関連事業への一切の関与を禁ずるッ!!」

 

 まさか、もう事が露見したというのか。大塚が動揺している間に、どたどたと駆け寄ってきたウマ娘の警察官数名が彼の杖を取り上げ、素早く手錠をかける。

 

「ま……待て! ヂヂリウムの製法は私の頭の中にしかない。私を逮捕すれば、ストライクドッグの命はないぞ!」

「無用! 善意の第三者による協力で、その組成は明らかにされている! 遠からず製造が完了するであろーう!」

 

 切り札だったヂヂリウムも、既に対策が取られているらしかった。万事休すか。先手を打っていたつもりが後手に回っている。

 

「あ、あのっ! 私はどうなっても構いません、ですからストライクは、ストライクの登録抹消だけは――」

「愚問! 何故登録抹消の必要がある? 遺伝子組換えウマ娘であるストライクドッグは、遺伝子組換えでないウマ娘に敗れている。よってその効果は、走行能力への影響は疑問が残る!」

「あっ……!」

「杞憂!! 弥永トレーナーは今後も、ストライクドッグと共に邁進するべし! はーっはっはーっ!!」

「な……なんと……」

 

 弥永の嘆願と理事長の受け答えで、大塚は得心が行った。この状況も、スコープドッグが異能生存体であるからこそ起きていることなのだと。

 スコープは、ストライクが自分に勝てなかった場合、自分が研究材料になることを察知していた。生命の危険が迫ると判断した異能の因子が、天然のPSであるスコープと、本来PSでない四人のウマ娘を因子継承によってストライクに勝たせ、同時に学園上層部が大塚の排除に動くよう誘導することで、大塚という脅威を取り除いてみせたのだ。傍から見ればPSでないウマ娘がPSに勝っているように見え、自分自身がPSであるという線も巧妙に隠している。

 自分は初めから、彼女の異能に踊らされていたに過ぎなかった。大塚は今それに気付き、驚嘆と共に膝から崩れ落ちた。

 

 

 

 

 

「沢山の人に支えられてここまで来て、やっと一つ夢ができた」

 

 重い足を引きずり、ストライクはスコープに言われた通りに会見の場にやってきた。もう幾らか質問は済んでいるらしく、スコープは用意していたと思しき言葉をすらすらと口にしている。

 

「怪我や疾病は言わずもがな、差別、貧困、紛争、独裁者による弾圧に、各地に残る民族問題……世界には様々な理由から夢を持つこともできないウマ娘が一億人以上存在する」

 

 夢。思えば自分はそんなものを持ったことはなかった。ただのウマ娘と同じ歴史のイントロンとして消えていくのが怖くて、足掻いていただけだった。或いはそれが、叶わないからこそ、届かないからこそ夢だったのかもしれない。

 

「誰よりも地獄を見てきた俺だからこそできることがある。俺はこの金を自分の為ではなく、そういうウマ娘が夢を持つ機会を取り戻す為に使う。……最初に使うべき相手も、目星を付けている」

「――っ?!」

 

 だが今、ストライクは確かにスコープと目が合った。

 

「偽善だと言う者もいるだろう。生き残る為に数多の屍を築いた、この手の血は拭えない。そして今、他者の夢を踏み砕いて得た金で、夢を持つ機会を取り戻すなどと宣っている」

「お前っ……そこまで……!!」

 

 仮面のような顔貌の裏にあった不器用な優しさに、ストライクは涙した。あくまで有馬記念での戦いに徹し、勝利を条件として多額の金を受け取ろうとしていたのは、偏に自分と弥永を助けようとしてのことだったのだ。

 

「その上で、俺は敢えてその汚名に、赤い肩をした鉄の悪魔の名に甘んじて、この資金を元手に活動しよう。虐殺の使徒としての名は今日で終わりだ。諸問題を抱えたウマ娘の社会復帰、就学・就職支援を行う非営利組織――」

 

 夢が与えられる。

 

「レッドショルダー・ファウンデーションだ」

 

 

 

 

 

 二月の第三金曜日。二日後にはスコープの出走するフェブラリーステークスが迫る中、トレーニングを終えたアンタレス一行は、クリークが夕食の皿を並べるのを待っていた。

 

「そういえば、ストライク大丈夫かなぁ?」

「もう一ヶ月も学園に来ていないようだが……」

「お薬、足りてないんだったよね? 苦しいのかな……」

 

 チケットと良川の言う通り、ストライクは有馬記念以来登校頻度が少なくなり、一月半ばからは学園に姿を見せていない。特別に関わりが強かった訳ではないが、友人の最大のライバルが息災でないことに、ライスも気を揉んでいる様子だ。

 

「大丈夫ですよ〜。ストライクちゃんは帰ってきます。何となくですけど、そんな気がするんです」

「……」

 

 一方で、勘の良さを自覚するクリークは気楽に構えている。当のスコープは一言も発することなく、テーブルの上を見つめていた。

 

「……タキオン、どう思う?」

「現役続行が望まれるのは何も主役ばかりではないということだ。いずれまた、お目にかかることもあろうさ……」

 

 面倒臭そうに問うた兵藤に、タキオンは敢えて答えになっていない答えではぐらかした。タキオン自身ストライクの現状を把握している訳ではないが、スコープと同様、ライバルである彼女のファンは多い。再戦を望む声が大きければ、また対決は実現するだろう。そんな希望を込めた言葉でもあった。

 

「失礼します」

 

 その時、鋭いノックに遅れて部室の扉が勢いよく開かれた。次いでハキハキとした聞き覚えのある声が部室を満たす。

 

「ストライクドッグ、ただ今参上しました。昨日ヒトフタマルマル付で弥永トレーナーとの専属契約を解除。チーム・アンタレスへの移籍を希望します!」

 

 タキオンは兵藤と顔を見合わせ、それから爆笑した。




リリース以来変わることもなし。
天井と課金、札の匂いとその軋み。
穢れに満ちたキャッシュの雨。
加うるもなし、引くもなし。
脈々たる自己複製。異端と言わば言うもよし。
我が征く道は荒涼の、友は尽かした金ばかり。
赤いゴルシのピンクの目、ぐるり回ってネイチャの目。
全ては、そう――振り出しに戻る。

走行帰兵ウマムス アプリ版

これが最低野郎(ボトムズ)だ!↓



[触れ得ざる孤影]
スコープドッグ
星3
芝:A ダート:A
短距離:D マイル:B 中距離:A 長距離:A
逃げ:E 先行:D 差し:A 追込:A
成長率補正:スピード10%、スタミナ10%、パワー10%

固有スキル…
アーマード・トルーパー:
レース中盤に回復してから最終直線までに追い抜くと肉体を酷使し、追い抜いた分だけ加速力が上がる
 発動条件:レース中盤に回復スキルが発動してから最終直線までに一人以上追い抜いている
 効果:追い抜いた回数に応じて最終直線で加速力上昇
    (三回で最大効果)

所持スキル…
・コーナー巧者◯
・直線回復
・臨機応変

覚醒スキル…
レベル1:目くらまし
レベル2:好転一息
レベル3:追い込みためらい
レベル4:弧線のプロフェッサー

固有コンディション…
PTSD:
過去の記憶が心を締め付ける…
よく眠れないと能力が落ちてしまう
 育成開始時点で取得。イベント『寝不足で……』で根性-10。シニア級十二月後半に解消

固有イベント…
・異能生存体
条件:本番ターン開始時点で「寝不足」以外のバッドコンディションまたはマイナススキルを所持(100%発生)
体力-20、バッドコンディションを解消、マイナススキルの解消に必要なスキルポイントを獲得

隠しイベント…
・平和
条件:クラシック級五月後半に出走しない
コンディション「切れ者」取得
・宿命
条件:
・菊花賞で一着後にクラシック級十二月後半までのGIで一着
・シニア級の安田記念で一着後に宝塚記念に出走しないか、シニア級の安田記念に出走せずに宝塚記念で一着
以上二つを満たすと最終目標の有馬記念に出走するストライクドッグの能力が強化される
勝利後全ステータス+20、スキルポイント+60、「差し切り体勢」のヒントLv+2

固有二つ名…『装甲騎兵』
条件:
ストライクドッグに三回以上負けずに、菊花賞以後無敗、ファン数320000人以上で育成を完了する


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