白昼幽夢 / Daydream_Revenant (宇宮 祐樹)
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前編

■ 

 

 拝啓、この終わりのない世界へ訪れた、誰でもないあなたへ。

 私はイストワール。このゲイムギョウ界の歴史を管理する、司書の役割を持つ者です。

 

 そのきっかけを語ることは、私にはできません。

 私の知らない予兆があったのかもしれませんし、彼女がふと願った、それだけのことだったのかもしれません。ただ一つだけ確かなのは、それはすでに起こってしまい、もう先に進むことも、後に戻ることもできないということです。

 崩壊と呼ぶには優しすぎるものでした。ですが、終焉と呼ぶにはあまりにも残酷でした。

 希望も無く、終わりすらも迎えられなくなった彼らを、私は見届けることしかできませんでした。

 それが『歴史を管理する』という、私の役割でしたから。

 

 事の顛末を、ここに記しておきます。

 端的に言ってしまえば、ある一日のループでした。

 何の変哲もない平凡な一日でした。大きな事件や事故もないありふれた日常。

 だからなのでしょう。きっと彼女は、こんな日々を望んでいたんだと思います。

 呆れるくらいに退屈で、平和だということすらも忘れてしまいそうな、静かな日常。

 それが永遠に続けばいいと、女神でありながら――いえ、女神だからこそ、願ったのでしょう。

 ループが始まったのは、その日からでした。次の日もまた次の日も、同じ一日の繰り返し。

 人々は同じ日常を繰り返し、永遠に静かな日々を送り続ける。

 当然ながら、そのことに気が付いたのは一人もいませんでした。

 

 ただ、私だけはこのループを記録していました。

 私は歴史を管理する司書であり、神代に作成された機構(システム)ですから。

 ですが、私ができることはそれだけでした。

 起きている現象に干渉することなど、私にはできるはずもありません。

 プラネテューヌの女神である彼女自身が、こうした結末を望んだ、ということも含めて。

 

 ループが続いているにも関わらず、人々は平和な日々を過ごしていました。

 いいえ、元々は彼女らが願ったことなのですから、当然のことかもしれません。

 繰り返す毎日を同じように迎え入れ、同じように過ごし、同じように眠りに就く。

 永遠に繰り返される、平穏な日常。確かにそれは、完全な平和と言えるのかもしれません。

 そういう意味では、彼女は自らの手で、このプラネテューヌに平穏を齎したのです。

 でも。

 繰り返す日々を同じように生きる人々は、果たして生きていると言えるのでしょうか。

 

 ……私には、彼女らが亡霊に見えて仕方がないのです。

 永遠に続く平穏という白昼夢に囚われた、亡霊。

 この先もずっと、こんな世界が続いていくと思うと、私は。

 

 生きるということは、変わるということです。

 どんなに辛く、苦しいことがあっても、その変化を受け入れて人々は生きていくのです。

 ですが変化を拒んだその瞬間、人々は生きる意味を失い、ただの亡霊となってしまう。

 その成れの果てが、この世界です。

 

 私は役割を失いました。

 最早、記録は意味は持ちません。変化を書き留める必要がなくなってしまいましたから。

 ある意味でこの世界は、彼女の望み通りに完成したのです。

 変わりようのない静かな日々と、そこに彷徨う亡霊のような人々という形をとって。

 

 ここにはもう、何もありません。ですから、どうか早々に立ち去ってください。

 あの亡霊のように、永遠を彷徨う屍のようになりたくなければ。

 

 私は、そうしました。

 生き続けるために。

 

■ 

 

「……くそ」

 

 切断。視界にノイズが走り、クロワールの意識が現実へと引き戻される。

 最初にあったのは後悔だった。短くなった髪を書き上げて、荒く息を吐く。

 いつも通り適当に座標を設定したら、まさかこんなところに着地するとは。

 この時だけ、クロワールは自らの杜撰(ずさん)な性格を恨んでいた。

 

「なんだって、こんなところに……」

「クロちゃん?」

 

 吐き捨てたその言葉に反応したのは、ネプテューヌだった。

 心配そうな表情を浮かべながら、こちらの顔を覗いてくる。

 それが鬱陶しくて、顔を明後日の方へ背けると、彼女は口を尖らせながら続けた。

 

「どうしたの、なんだか変だよ?」

「何がだよ」

「さっきからぼーっとしてたし。ほんとに大丈夫?」

「別に。どうってことねーよ」

 

 変なところで勘が鋭いのは、こちらもあちらも変わらないらしい。

 そんな様に辟易とするクロワールが、もう一度ため息を吐いた。

 

「それにしても、雨だなんてツイてないね」

「…………」

「別に、嫌いってワケじゃないんだけどさ」

 

 ビニール傘の向こうに広がる曇天を眺めながら、ネプテューヌがそんなことを呟く。

 さあさあと振り続ける雨は、勢いを弱める気配もなく、ネプテューヌの足元を濡らしていく。

 街並みは静けさに包まれていて、雨音だけがビルに反射してぼんやりと響き渡る。

 しんみりとした空気感。穏やかな陽気とは違う、艶やかな落ち着いた空気。

 ただ、そのどれもが今のクロワールにとっては、ひどく不快なものであった。

 

「行くぞ」

「え?」

「時間のムダだ。ここにはもう、なんもねーんだからな」

「ちょ、ちょっとクロちゃん!」

 

 急いで立ち上がるネプテューヌが、立ち去り始めようとする彼女の後を追う。

 

「いくらなんでも早すぎるよ! もっといろいろ探検しないの?」

「だから、そんなことしてもムダだっての」

「そんな……! いつものクロちゃんだったら『なんかおもしれ~ことでもね~かな~?』って、勝手にそこらへんウロウロし始めるのに!」

「……ちょっと待て。それ、俺のマネしてんのか?」

「うん、そうだけど?」

「だったらもう少し、似せる努力とかしろよな」

「と、とにかく!」

 

 がし、とネプテューヌが勢いよく、クロワールの羽根を掴む。

 

「いっ……お前、羽根はやめろって何度も言ってるだろ!?」

「ごめんごめん! でもやっぱり、ちょっとだけ探検しようよ!」

「だからムダだってわかんねーのかよ! ほら、さっさと行くぞ!」

 

 どうしてこうもワガママで、自分勝手なのか。

 今一度クロワールが疑問に思ったが、その答えはすぐに見つかった。

 彼女はどうあがいても、ネプテューヌなのだ。

 ならば、仕方のないことだった。

 

「……ねえ、クロちゃん」

 

 至った回答に頭を抱えていると、ネプテューヌが静かにそう問いかけてくる。

 

「なんだよ」

「私のこと、置いて行かないの?」

「はぁ?」

 

 苛立ちを含んだ声と共に、クロワールが彼女の方へと向き直る。

 浮かべるネプテューヌの表情は、不安に満ちた曖昧なものだった。

 

「いつもだったら、早くしないと置いてくぞー、なんて言ってくるのにさ。今日は言わないよね。なんだか、なんとしても私をここから追い出そうとしてる感じがするよ?」

「……今はそういう気分じゃねえってだけだよ」

「じゃあ、こっちに来てからしばらくぼーっとしてたのは、なに?」

「お前には関係ねーだろ。ちょっとボケっとしてたくらいでうるせーんだよ」

「だったら、ここにいてもムダだ、っていうのは?」

「それはだな……」

「……どうして、ムダだって分かるの?」

 

 すると彼女は、クロワールの瞳をじっと見つめながら、

 

「もしかしてクロちゃん、ここに来たことあるんじゃないの?」

 

 沈黙。見つめ合う二人を、雨音が包み込む。

 焦りはなかた。後ろめたさも。後悔すらも感じていない。

 ただクロワールの中にあったのは、諦めにも似た奇妙な感情だった。

 それと、僅かな懐かしい感覚。それは同時に、忌々しさを想起させるもので。

 

「……だったら、なんなんだよ」

「え?」

「もし俺がここに来たことがあるとして、お前になんの関係があるんだよ」

 

 クロワールにとって、ネプテューヌという人間は、旅人から一番遠い存在であった。

 いつもそうだ。行く先で起こった事件に自分から突っ込んで、なんとか解決しようとする。

 そこで手に入れた栄光も賞賛など、全て彼女の手に残らないと、知っているはずなのに。

 英雄になろうが、救世主になろうが、再び旅路へ戻れば、また旅人からやり直し。

 旅人とはそういうものだ。結局、旅人は旅人以外の何者にもなれないのだ。

 だから。

 

「お前は一体、何になろうとしてるんだよ」

 

 その問いかけに、ネプテューヌは一度だけ顎に手を当てて考えたあと、

 

「私は、自分に正直になりたいだけだよ」

 

 何の気もなしに、そう告げた。

 

「……は?」

「困ってる人がいたら、助けたい。そうすることでみんなが喜んでくれたら、私も嬉しい」

「バカかお前。今までそうしてきて俺たちが得したこと、あったかよ」

「ないよ。でも、そうしてきた人たちは、みんな笑顔で私たちを送り出してくれた」

 

 話にならない。価値観が違いすぎる。

 クロワールは、ネプテューヌのこういうところが嫌いだった。

 その在り方がまるで、女神を思わせるから。

 

「……俺が、困ってるように見えたのかよ」

「うん」

 

 なんの気もなしに頷く彼女へ、クロワールが舌を打つ。

 

「それにクロちゃん、ちょっと思ってたんじゃないの?」

「なにを」

「私ならきっと、なんとかしてくれる、ってさ」

 

 自信満々に言い放つネプテューヌに、クロワールは、ただ。

 

「……そう、か」

「え?」

「思えば俺は、そういう未来を望んでたのかもしれないな」

「く、クロちゃん?」

 

 あの記録を残したことも。偶然にも、こんなところに辿り着いたことも。

 出会ったことすらも、全ては今この時のためなのかもしれない。

 それこそが運命――あるいは、彼女から自分へ送られた、呪いか。

 ぼんやりとした表情を浮かべながら、彼女はネプテューヌの前にふわりと浮かんで、

 

「ついて来い」

「……どこに、いくの?」

 

 不安と共に投げられた問いかけに、クロワールは一言。

 

「アイツの夢を、終わらせに行くんだよ」

 

 

 寂れた廃ビルの非常階段を昇りながら、ネプテューヌがつまり、と一つ置いて、

 

「ここはクロちゃんの故郷だった、ってこと?」

 

 果たして故郷と呼ぶべき場所なのか、あるいは自分がそう呼びたくないだけなのか。

 浮かんだ曖昧な疑問を呑み込んで、クロワールは頷いた。

 

「元々は普通の街だったんだ。どこにでもあるような、それこそお前の故郷みたいな」

「……でも、今はそうじゃないんだよね」

「ああ。どいつもこいつも、亡霊みたいになっちまった」

 

 傘に着いた雫を払いながら、ネプテューヌが階段の外へと目を向ける。

 曇天の下に広がる風景は、何の変哲もないプラネテューヌの街並みであった。

 決して寂れているわけでもなく、かといってそこまで賑わっているわけでもない。

 他の次元と同様の、どこにでもあるような、至って普通の街の一つ。

 ただ、ネプテューヌはそんな景色に、奇妙な懐かしさを感じられずにはいられなかった。

 行方の知れない郷愁。揺蕩うような感覚が、胸の奥に広がってゆく。

 

「呑まれるんじゃねえぞ」

 

 クロワールの放ったその一言に、ネプテューヌがはたと我に返る。

 

「どこまで似ていようが、ここはお前の故郷でもなんでもねーんだからな」

「……うん。分かってるよ」

「どうだかな。もしお前がそれに捕まっても、助けてやらねーぞ?」

「それこそ、どうだか、だよ」

 

 非常階段の手すりに背中を預け、ネプテューヌがくすりと笑う。

 

「とりあえず、今までの話を纏めると、この世界は一日がループしてるんだよね?」

「正確には時間軸の繰り返しと存在の固定保存の合わせ技だな」

「……っていうと?」

「アイツらが歳を取ることはないし、何かに干渉されもしない」

「んー、ピンと来ないかも。もっと分かりやすく!」

「そうだな……背景みたいなモン、って言えば分かるか? たとえば俺たちが登場人物だとして、アイツらやこの世界はその背景……つまり、こっちからじゃ手出しできないってワケだよ」

「ふむふむ」

 

 果たして上手く伝わったかは分からないが、彼女はとりあえず首を縦に振ってくれた。

 

「で、そこまで分かったとして、お前はどうするつもりだ?」

「そうだなあ……とにかく、もっと探検してみようよ」

 

 よっ、とネプテューヌが手すりから身を起こして、階段を昇り始めた。

 

「だから、無駄だって。さっきも言った通り、ここには何にもねーんだからよ」

「そんなの分かんないよ? もしかすると、ループしてない人が見つかるかも!」

「……いるわけねーだろ、そんなヤツ」

 

 何百、何千ものループを観測したクロワールにとっては、呆れた戯言にしか聞こえなかった。

 ただ同時に、そんな奇跡を誰よりも望んでいたのも、彼女だけであった。

 

「あきらめちゃ、ダメ、だよっ、クロちゃん!」

 

 なんて、片足ずつでぴょんぴょんと遊びながら、ネプテューヌが階段を上がっていく。

 

「……諦めてなんかねーよ」

 

 非常階段の外側、柵の向こうで浮かぶクロワールは、小さく呟いた。

 

「とうちゃーく!」

 

 やがて屋上に辿り着き、ネプテューヌが叫びながら再び傘を開く。

 長らく使われていない廃ビルであった。塗装は所々が剥がれ落ち、コンクリートには雨の跡が残っている。うーん、と一通り周囲を見回すと、ネプテューヌはふぅ、と息を吐いてから、ぽつりと。

 

「なんにもないね」

「だから言ってるだろ」

 

 傘に入ったクロワールが、呟きに答えた。

 

「駐車場だったのかな」

「確か……そうだな。数年前に売り払われてたところだったはずだ」

「なら丁度いいや。ここ、私たちの拠点にしようよ」

「はあ?」

 

 間の抜けた声を上げる彼女をよそに、ネプテューヌがよっ、とビルの縁へ腰を下ろす。

 

「拠点って……そもそも俺たちに用意するモンなんてねーだろ?」

「そんなことないよ? もしはぐれちゃった時とか、ここに集まっておけば合流できるし」

「……お前、そんなこと考えたこと一度もねーだろ」

「それに、さ」

 

 すると彼女は、後ろに広がる街並みへと振り返って、

 

「ここからの眺め、私は好きだな」

 

 淡い紫の瞳には、雨の向こうに佇むプラネタワーが映っていた。

 

「……あそこに、女神様がいるんだよね」

「お前と同じ名前のヤツがな」

「そっか」

 

 ぼんやりとその影を望む彼女の横顔は、何も語ってはくれなかった。

 

「お前は、どう思う?」

「なにが?」

「この次元のことだよ」

 

 自分でも呆れるほど曖昧な問いかけに、クロワールが心で後悔する。

 そんな彼女に気づくはずもなく、ネプテューヌは少しだけ間を置いてから、語り始めた。

 

「いつまでも続く平和な日々っていうのは、確かに幸せなことだと私は思うよ」

「……お前も、そう思うのか?」

「うん。私もたまに考えるもん。こうして冒険してるより、普通に生きている方が絶対に楽だって」

「意外だな。お前がそんなこと思ってるなんて」

「かもね。でも、どうしたって私は人間だから。怖いものは怖い」

 

 でもね、とネプテューヌは、クロワールの方へまっすぐと向き直って、

 

「怖いからって足踏みをしても、何かが変わるわけじゃないんだ」

「……ああ、そうだな」

「だから、進まなくちゃ。何かを失うことがあっても、誰かと別れることになっても」

「でも、悲しくならないのか?」

「そりゃ悲しいよ。でもさ、悲しくなって踏みとどまっても、その悲しみがなくなるわけじゃない。次の一歩を踏み出さない限り、永遠にそれは消えないんだと思うな」

 

 そうして彼女は、鈍色の空を見上げてから、深く息を一つ。

 

「もしかすると、だから私は旅を続けてるのかもしれないね」

 

 少しの沈黙。そのあとに、ネプテューヌがくすりと笑みを溢す。

 

「なんだか恥ずかしいな、クロちゃんとこういう話するの」

「……いいと思うぜ、俺は」

「やっぱり今日のクロちゃん、なんだか変だよ」

「うるせーよ」

「ふふ」

 

 吹き出した彼女に、クロワールが口を尖らせる。

 

「けど、安心したぜ。お前もアイツと同じ考えだったら、って思ったからな」

「理解はできるよ。でも、私はそうとは思わないだけ」

「それでいいんだよ。お前は、お前のままで」

「……やっぱり、今日のクロちゃん、なんだかおかしいよ?」

 

 素直になれなくなったのは、いつからだろう。

 世界の全てが陳腐に見えたのは、どこからだろう。

 それも今なら思い出せるか。或いは、元に戻りつつあるのか。

 もしかすると、この郷愁に呑まれているのは――

 

「……だれ?」

 

 聞き覚えのない少女の声が響いたのは、その時だった。

 突如として耳に入る呟きに、ネプテューヌとクロワールが非常階段の方へ振り返る。

 二人の視線の先に立っていたのは、傘を持った十五、六ほどの齢の少女であった。

 瞳の色は翡翠。腰までに伸びる髪は、後頭部で一つに纏められている。

 服装は黄色いパーカーで、逆の手には荷物の入ったビニール袋を抱えていた。

 

「……え?」

 

 流れた静寂は、ネプテューヌの呟きによって崩される。

 その瞬間、少女が傘とビニール袋を投げ捨てて、パーカーのポケットへ手を入れた。

 次に見えたのは、こちらへ向けられた拳銃の鈍い輝きで。

 

「動くな!」

「ちょっ、ちょっと!?」

「だから動くな! それと勝手に喋るなっ!」

「わかった! わかったから!」

 

 かたかたと細かく震える銃口に、ネプテューヌが慌てて両手を上げる。

 ビニール傘が情けなく地面を跳ねて、紫の髪に雫が滴り始めた。

 

「……あんたら、誰?」

「私はネプテューヌ。こっちはクロちゃん。二人で次元を旅してるんだ」

「ネプ、テューヌ……?」

 

 ぽつりとその名前を口にしたかと思うと、すぐさま彼女は銃を強く握り直す。

 

「あんたら……もしかして、あのクソ女神の……!」

「違うよ! 私たちはただの旅人! ちょうどさっきここに来たばっかりなんだって!」

「旅人……?」

 

 疑いの視線は晴れない。だが、濡れた引き金が引かれることもなかった。

 硬直。頬を伝う雨を拭うことすらもできない緊張が、ネプテューヌの全身に走る。

 やがて沈黙を破ったのは、彼女からだった。

 

「……この街は、六年前からおかしくなっちゃったんだ」

「六年……そんなにも前なのか?」

「そんなにもって……ちっこいの、なんか知ってるの?」

「知ってるも何も、俺は元々ここの住人だよ。お前だって、見覚えあるんじゃねえのか?」

「……あんたみたいなヤツ、知るもんか」

「少なくとも、俺みたいなヤツは知ってると思ったんだがな」

 

 未だに向けられる鋭い視線に、クロワールは疲れたように息を吐いてから、

 

「こうやって話す方が、あなたには馴染み深いかもしれませんね?」

 

 普段とはかけ離れた優しい声色に、少女の目が見開かれた。

 

「なんで、あんたがここに……」

「ああ、よかったです。これで分からなかったら、目も当てられないことになりましたから」

「……どういうことなのさ、一体」

「困惑する気持ちは分かります。私だって今、とても驚いているんですから」

「そんなこと、言われたって……」

「でも、これだけは伝えさせてください」

 

 するとクロワールは、雫を纏うの銃口をものともせず、彼女の前に進んで、

 

「今まで一人にしてしまい、申し訳ありませんでした」

 

 ゆっくりと、その小さな頭を下げた。

 

「……は?」

「私は逃げたんです。生きるために。情けない話にはなりますが」

「あんた、何言って……」

「けれどもう、私は逃げません。あなたを二度と、一人にもしません」

 

 そしてクロワールは、少女の瞳をまっすぐと見つめながら、

 

「だからどうか、俺たちを信じてくれ」

 

 敵意はもう無かった。それよりも、疑問の方が上回っているのだろう。

 そんな一連の流れを眺めていたネプテューヌは、少し意地の悪い笑みを浮かべていた。

 

「なーに、クロちゃんって元々は敬語キャラだったの?」

「うるせーよ」

「えー、いいじゃん! かわいかったんだし、絶対そっちの方が似合ってるよ!」

「……俺には似合わねーよ」

 

 こんな変わり果てた姿になってしまったことが、何よりの証拠であった。

 

「とにかくだ。俺とお前は話が通じる。それだけで信頼に足る理由にはなるはずだ」

「……仲間、って思っていいの?」

「君がそう思ってくれるなら、ね?」

 

 笑いながら答えるネプテューヌに、少女は拳銃を構えたまま動かない。

 再びの沈黙が流れる。しかしそれは張り詰めたものではなく、何かを探るようなもので。

 そして。

 

「もういい。手、降ろしなよ」

 

 言われるがまま、ネプテューヌが両手をすとんと下ろす。

 少女が気の抜けたように座り込んだのは、それと同時だった。

 

「なんなのさ、あんたたち……」

「さっきも言った通り、旅人だよ! そして今は、君の仲間!」

「そういうことじゃ……ああ、いいや。なんでもないよ、もう……」

 

 つまらなさそうな視線を拳銃へ向けたかと思うと、少女がそれを近くへ投げ捨てた。

 

「撃たなくてよかったよ。人を撃ったことなんてないから」

「私も撃たれることにはまだ慣れてないから、お互い様だね」

「……どういうことさ?」

 

 答えが返ってくることはなく、傘を拾ったネプテューヌが少女の前へ立つ。

 

「ささ、君もこっち来て! 一緒にお話しようよ」

「ちょっとあんた、勝手に……!」

「あ、クロちゃん火ってあったっけ? それとご飯の準備もしないとね!」

「構わねーけどよ、もう少し探検するんじゃなかったのか?」

「それよりも、せっかく増えた仲間と親睦を深める方が大切だよ!」

 

 好感度も稼げるしね! なんて口走る彼女に、少女が呆れた視線を向けた。

 

「……食料は、そこに入ってるよ。缶詰ばっかりだけど」

「おお! じゃあ、今日は私が腕によりをかけちゃうよ!」

 

 自信満々に腕まくりを始めたネプテューヌが、ビニール袋を持ちながらふと問いかける。

 

「そういえば、聞いてなかったよね」

「……何を?」

「名前だよ! 仲間なんだから、それくらい教えてくれてもいいよね?」

「ああ、そっか」

 

 思い出したように少女は答えたかと思うと、

 

「私、ピーシェって言うんだ」

 

 

 廃棄された駐車場、その最上階の片隅にて。

 炎に照らされる髪を後ろで一つに纏めながら、ネプテューヌが口を開く。

 

「それで、ピーシェ?」

「なに?」

「どうして君だけ、ループの影響を受けてないの?」

 

 黙って聴いていたクロワールは、しかしながら大方の予想はついていた。

 この世界を取り巻く現象の全ては、シェアエネルギーの逆流によって引きこされている。

 人々の捧げる信仰を伝うことで、彼女の意思によってこの現象を発現させる仕組みだ。

 少々陳腐な例えにはなるが、()()()()()()()と言えば分かりやすいか。

 だから彼女を信仰している限り、このループから逃れることはできない。

 しかし、逆を言えば。

 

「……私は、アイツのことが嫌いだったから」

「そうか」

 

 予想通りの返答に、クロワールが首を縦に振る。

 シェアエネルギーが原因であると理解しているのは予想外だったが。

 

「ずっと一人だった。親に捨てられて、友達もできなくて、拾ってくれる人もいるわけがなくて。ゴミを漁って生きてきた。食べるものが無い日の方が、多かった。人には言えないことも、沢山」

「だから、そんなもの持ってたんだね」

「頼れるのは自分だけだ、って分かったから。自分の身は、自分で守るしかないから」

「……すまなかった」

「今更あんたが謝ったって、何かが変わるわけないじゃん。やめてよ」

 

 言葉の全てが心を抉る。色を失った彼女の瞳には、炎に照らされる銃が映っていた。

 

「女神なんて信じられるわけがなかった。信じても、何も変わらなかったから」

「だからループを回避できたのか」

「笑えるよね。アイツを信仰してないお陰で、助かるだなんて」

「でも、今までよく無事だったよね。女神様にも見つからずに」

「見つかったら殺されると思ったから。逃げるしかなかったのさ」

「……そんなこと、するわけねーだろ」

「どうだかね。あんたはそうかもしれないけど、向こうは?」

 

 肩をすくめて呟くピーシェに、クロワールは何も言い返せなかった。

 

「まあでも、生きるのには困らなかったよ。食べものを盗んだり、勝手に寝床を使ったりしても、誰も何も言わなかったからさ。そういう意味では、前より過ごしやすかったって言えるね」

「……けど、このままじゃダメだって思うんでしょ?」

「そだね。でも何より許せないのは、アイツがこの世界を望んだってことさ」

 

 頷いて、ピーシェが缶コーヒーを傾ける。

 

「ねえ、クロワール」

「なんだよ」

「今のこの世界は、あの女神が願った幸せな世界だって、さっき説明してくれたよね」

「そうだ。あいつがそう望んだからな」

「なら、もし私が女神を信仰してたら、私は永遠にこの世界でゴミみたいに生きてたってこと?」

「……かも、しれないな」

「あはは、やっぱりそっか」

 

 乾いた笑い声を上げながら、ピーシェが真っ暗な空を仰いで、

 

「ふざけるな」

 

 冷たく吐き捨てると共に、空になった缶を後ろへ投げた。

 

「私がどうなろうと、アイツは知ったこっちゃないんだ」

「ピーシェ……」

「変わらない日々が幸せだって言うのなら、私はあのまま生きていた方が幸せだったのか?」

 

 その問いかけに、クロワールは何も答えることができなかった。

 沈黙。炎の弾ける音だけが、三人の間で響き渡る。

 

「……この世界が元に戻ったとしても、私が普通に生きられるなんて思ってないよ」

「そんなことないよ」

 

 返ってきた彼女の言葉に、ピーシェが呆れた視線を向ける。

 

「あんたに何が分かるのさ」

「分からないよ。私は旅人だからね。でも、それはピーシェも同じじゃないの?」

「……何、を」

「どんな未来が私たちに訪れるかなんて、誰にも分からないんだ」

 

 そうしてネプテューヌは、彼女と同じように夜空を眺めながら、

 

「確かに、未来ってのは怖いものだと思うよ。先の見えない、真っ暗な道みたいなものだから」

「……私は進みたくないよ。どうせ、その先に光なんてないんだから」

「でも、このままじゃずっと、君の道は暗闇に包まれたままだよ?」

 

 炎は儚く、しかし確かにピーシェのことを照らしている。

 

「自分の目で確かめるまで、未来なんて誰にも分からない」

「……自分の望まない未来が訪れることも、あるでしょ」

「でも、ピーシェが望む未来が、その道の先にあるかもしれないよ?」

「それは……」

「雨が降るか、晴れになるかなんて、明日にならないと分からないんだよ」

「……きっと雨だよ。この先もずっと、永遠に」

 

 応えるピーシェの声は、震えたものだった。

 

「怖いならさ、一緒に進もうよ」

「え?」

「一人で進むのは私でも怖い。でも、二人なら手を繋いで一緒に歩いて行ける」

「……それだけのことじゃないか」

「かもね。けれど、私はそうしてくれる友達がいたから、旅を続けられた」

 

 向けられる視線に、クロワールがため息を一つ。

 

「勝手に手を引いて振り回してるだけだろ、お前は」

「それでも、私と一緒に着いてきてくれたよね?」

「……そうだな」

 

 小さな呟きに、ネプテューヌがくすりと笑う。

 そんな二人のことを眺めながら、ピーシェが、ふと。

 

「……ああ、そうだったのか」

「え?」

「私が欲しかったのは、普通の暮らしや輝かしい未来じゃない。そうやって一緒に歩いてくれる、ずっと隣で手を握ってくれる、仲間だったんだ」

 

 恵まれた豊かな生活でもなく、暗闇の先にある不確かな光でもなく。

 未来へと続く道を共に踏み出す、隣に居てくれる存在。

 手を握ってくれるだけで、未来への一歩を踏み出す勇気をくれるような、そんな。

 

「……決まりだね」

「うん」

 

 こくり、と確かに頷いたピーシェに、ネプテューヌは笑いかけて、

 

 

「君の未来を、確かめにいこう」

 

 

■ 

 



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後編

 

 ――ノイズと共に現れたのは、かつての女神だった。

 

「これが、あなたの望む理想の世界だというのですか?」

「うん」

 

 頷いた彼女の顔は、黒いノイズで塗り潰されている。

 それがただのデータの破損なのか、あるいは自らが塞ぎ込んだだけなのか。

 答えは、未だに分からなかった。

 

「もう、疲れちゃったのかもね」

 

「疲れた?」

「失うことにも、悲しむことにも」

 

 声は震えていて、今にも消え入りそうなほどに掠れたもので。

 言葉が裏表のない本心であることを、何よりもはっきりと示していた。

 

「だからといって、こんな世界が許されるとでも?」

「じゃあ、何かを失っている人はいる。誰か、悲しんでいる人はいるの?」

「それは……」

 

 窓から望むプラネテューヌの街並みは、いつも通り変わらぬまま。

 何も変わることなく、永遠にこの雨の一日が繰り返されていく。

 変化を拒んだ、退屈で平穏な日々。終焉は訪れず、循環のみが存在する世界。

 

「これが、みんなが幸せに暮らせる、たった一つの答えなんだよ」

「……ですが、それは未来を放棄しているのと何も変わらないのでは?」

「だったら、過去に縋り続けることって、悪いことなのかな」

 

 はっきりと、彼女の言葉を否定することはできなかった。

 眼下に広がるこの世界は、ある意味では一つの幸せを体現したものなのだから。

 

「……あなたは未来を拒絶している。それでいいのですか?」

「この平和がいつまでも続いてくれるのなら」

 

 静かに語る彼女は、どんな表情を浮かべていただろう。

 欠け落ちたデータには、何も残っていなかった。

 

「……もう、記録は意味を持ちません」

「そうだね」

「ですから私の役目は終わりです」

「うん。今までありがとう。お疲れさま」

 

 別れに悲しみはない。怒りも、呆れも通り越した。

 ただ、心の中に会ったのは、こんなものか、という錆びついた理解だけ。

 

「……私は、あなたのことが好きでした」

「そうなの?」

「はい」

 

 引き留めようなどとは、今更思わない。これで何かが変わるとも、思っていない。

 ただ、最後なのだと。機構(システム)であるはずの自分が、直感でそう思ったから。

 

「あなたは、人々に希望を与える存在だった」

「そうかな」

「そうです。私も、国民の皆さんも、他国の女神たちも。あなたの姿を見て、勇気を貰っていた。あなたは私たちに未来を与えてくれた。先の見えない暗闇の道を、その明るさで照らしてくれた。幾度も訪れる夜に、朝焼けを齎してくれた。あなたは――この世界を照らす、太陽だった」

「……そんなこと」

「きっとあなたは、この世界の主人公であったんだと、思います」

 

 言葉は自らの予想より、遥かに多く紡がれた。

 願っていたのだろうか。無謀にも、そんな希望を与える存在に戻ってほしいと。

 けれど同時に、それが不可能であること、無駄であることを、誰よりも一番理解していた。

 では、何故こんなにも、濁流のように言葉が吐き出されていくのか。

 ……ああ、そうか。

 後悔、していたのか。

 

「もっと、あなたを理解するべきでした」

「充分だよ。そう思ってくれるだけで、私は嬉しかった」

「私は、あなたの傍にいちばん長くいたはずなのに、それができなかった」

「そうだね」

 

 短く返される答えに、造られたはずの心がじんじんと痛んでいく。

 データベースで構築された思考領域に、どろどろとした感情が湧き上がってくる。

 

「……私はもう、ここにはいられません」

「そんなことないよ」

「いいえ。あなたを理解することができなかった。あなたの痛みを共有することができなかった。あなたの本当の望みを、叶えられなかった。私は……私は、あなたに望むことしかできなかった。祈ることしかできなかった。希望で在り続けることを、まるで呪いのように願っていた」

 

 後悔は続く。永遠に振り続ける雨のように、それが止むことはない。

 

「私は、行きます」

「どこに?」

「分かりません。ここではない……あなたの傍ではない、どこかに」

 

 それを戒めと呼ぶには、いささか高尚すぎるだろうか。

 ただ、今の自分にはそうすること以外、できないような気がした。

 

「寂しくなるね」

「……ごめんなさい」

「大丈夫だよ。ここには、みんながいてくれるから」

「でも、そこにあなたを理解してくれる人はいるんですか?」

「今までもいなかったじゃん、そんなの」

 

 ノイズの裏に隠れた彼女の顔を想像することが、怖くてできなかった。

 

「さようなら」

「うん、さよなら」

 

 会話はそこで途切れる。

 彼女の姿も、データの欠片となって崩れ落ちてゆく。

 

 ただ。

 遺された後悔が消えることは、決してなかった。

 

 

 記録終了。

 わずかなノイズの後に見えたのは、あの時と同じ鈍色の空だった。

 

 

「おはよ、ピーシェ」

 

 止むことのない雨の下、屋上で佇んでいたピーシェが、ネプテューヌの声に振り返る。

 

「あんたたち、やっと起きたの?」

「ごめんごめん、クロちゃんが思ったよりぐっすりしてて」

「お前だって、さっきまで寝ぼけてたじゃねーかよ」

「……まあ、いいけどさ」

 

 適当な呟きを返して、ピーシェが再び同じ方向へ望む。

 彼女の隣に立ったネプテューヌが見たのは、雨の中に佇むプラネタワーの影だった。

 

「……まだ、怖い?」

「かもしれない。これで何も変わらなかったら、意味がなかったら、って思うと」

「そっか」

「……でも、ここにいたままじゃ、何も変わらない」

「うん」

「それに、さ。二人が一緒に来てくれるなら、何かが変わる気がするんだ」

 

 なんて答えたピーシェが、ビニール傘の向こうでくすりと笑う。

 張り付いた雫で歪んでいたけれど、それが二人の初めて見た、彼女の笑顔だった。

 

「……水を差すようで悪いけどよ、具体的にはどうするつもりなんだ、お前ら」

「んー……いつも通りにやればいい、って私は考えてるけど」

「つまり、行き当たりばったりってことじゃねーか」

「でも、私達の旅もそんなもんでしょ」

 

 交わされる会話に、ピーシェがため息を一つ。

 

「奥の手はある」

 

 密かな、しかし強い呟きと共に、彼女が首にかけていた紐を指先に絡ませる。

 少なくともそれは、昨日の彼女にはなかったものだった。

 

「何それ?」

「内緒。偶然見つけた代物だから、うまく動くか分かんない、ってだけ言っとく」

「……そんな隠し事してる時間ねーぞ?」

「かもね。でも、その前に私はアイツと話がしたいんだ」

「話って……今更、何を」

 

 答えの代わりに、雨粒が傘に跳ね返る音だけが響く。

 向けられる彼女の静かな視線に、クロワールが肩をすくめた。

 

「好きにやらせろ、ってことかよ」

「悪いね」

 

 申し訳なさそうに、ピーシェは弱々しい笑みを浮かべるだけだった。

 

「勝手にしろよ。ただし、マズいことになったら、俺はコイツを連れて逃げるからな」

「ちょっと、逃げるならクロちゃん一人でやってよ! 私は最後までちゃんと付き合うから!」

「……ありがと。クロワール」

「ああ。無理やりにでも連れてくから、安心しな」

「え?」

 

 間の抜けた声を上げるネプテューヌの肩を、ピーシェが軽く叩く。

 

「あんたは旅人なんだろ? だったら、旅を続けなきゃ」

「……それって」

「ほら、さっさと行くよ」

 

 心に浮かんだ疑問は、雨音に埋もれて霞んでいってしまう。

 ぼんやりと彼女の背中を眺めていたネプテューヌは、やがてその足を踏み出した。

 

 

「……で、何事もなく到着したわけだけど」

 

 プラネタワーの正面、門の前に立ったネプテューヌの呟きだった。

 

「当たり前だろ。俺たちと同じで、街の連中も俺たちに干渉できねーんだからよ」

「そうじゃなくてさ、女神様は私たちに気づいてないのかな、って」

「……知らないとは考えにくいな」

「でしょ? それなのにここまで来れたのって、やっぱり……」

「待ってるなら、それはそれで都合がいいさ」

 

 会話を続ける二人の間を割って、ピーシェが雨粒に濡れた門へと手をかける。

 軋んだ鉄の音と共に、すんなりと道が開かれた。

 

「進むよ」

「うん……」

 

 臆することなく踏み出したピーシェの後を、ネプテューヌとクロワールが続いていく。

 踏みしめた水溜まりには、プラネタワーの全貌と、その頂上にある光が反射して映っていた。

 そのまま教会の講堂を開き、二人が傘に着いた雫を落とす。

 ばさばさとビニールの暴れる音だけが、広大な空間に響き渡った。

 

「……誰もいないね」

「こうも都合がいいと、怪しくなってくるな」

 

 誰もいない長椅子の間を、三人が進んでいく。

 

「静かすぎて不気味だよ、私は」

「でも、これがアイツの望んだ世界なんだよ」

「……女神様が望んだ世界、か」

 

 上階へと続く階段を見つけると、ピーシェがそこで立ち止まった。

 

「で、クロワール? アイツは一体、どこにいるのさ」

「さあな。けどよ、六年もバカみたいに同じ部屋にいるとは考えにくいぜ?」

「でもアイツ、そういう類のバカじゃなかった?」

「……否定できねーな」

 

 そうやって立ち止まる二人をよそに、ネプテューヌがかたん、と階段を踏み出した。

 

「ちょっと、ネプテューヌ?」

「多分だけど、女神様がいるのはこのいちばん上じゃないかな」

「……どうしてそう思う?」

「だって、この世界は女神様が望んだ世界なんでしょ?」

「ああ……」

「それならきっと、女神様はずーっと、この世界を眺めていられると思うんだ」

 

 顔を見合わせるピーシェとクロワールを差し置いて、ネプテューヌが階段を昇っていく。

 やがて二人も進みはじめ、階段を昇るだけの時間が続いていった。

 途中に見える曇り切った窓の前で、ピーシェがふと立ち止まる。

 

「私だって……この国の景色は嫌いじゃないさ」

 

 表面を指でなぞると、その隙間から雨に包まれたプラネテューヌの街並みが顔を覗かせた。

 

「……晴れたプラネテューヌの方が、私は好きだったのに」

 

 くぐもった雨音が、ピーシェの呟きをかき消していく。

 やがて階段を昇り続けること、しばらく。ついに三人が、屋上へ続く扉へと辿り着く。

 額に浮かぶ僅かな汗を拭うと、ネプテューヌはピーシェへと道を開けてから、

 

「この先に、君の未来が待ってるよ」

「……うん」

 

 そうやって伸ばした自分の腕が、未だ震えていることに気づく。

 怖くないといえば、嘘だった。相対するのが女神という存在であること、この先に待つ未来が、もしかすると自らの望むものではないということ。先も見えない不確かさに対する恐怖と不安が、どろどろと足元に纏わりつくような感覚を、ピーシェは覚えていた。

 ずっとこうだった。この現象が起きる前もずっと、こんな風に一人で怯えていた。

 けれど。

 

「私はもう、一人じゃないんだ」

 

 解き放った扉から聞こえてきたのは、強い雨音だった。

 降りしきる雨をものともせず、ピーシェが一歩ずつ、しっかりと前へ歩いていく。

 水の滴り落ちる階段を上がってゆき、その先の街を見渡せる展望へ。

 そして。

 

「おかえり」

 

 言葉と共にこちらを振り向いたのは。

 ネプテューヌともパープルハートとも言い難い、歪な姿をした女神だった。

 

 

「……随分と、無様な恰好になったもんだな」

「君だって、人のこと言えないんじゃない?」

 

 返ってきたその言葉に、クロワールが口を噤む。

 抑揚のない笑みを浮かべる彼女の左目には、電源マークを模した構造体が浮かび上がっていた。

 

「シェアエネルギーが暴走しちゃってさ。自分でも手がつけられなくなっちゃったんだ」

「……六年もこんなことしてたら、当然だろ」

「まあね。でも、この世界を維持できるなら安いもんだよ」

 

 女神化した右腕と、少女のままの左腕を交互に見つめながら、彼女が息を吐く。

 

「……私のことは、知ってたのか?」

「そりゃ、ね。女神である私を嫌っていたことも、知ってる」

「だったら、どうして放っておいたのさ」

「放っておいても問題なかったから、ってのもあるけど……」

 

 少し言葉を探すようにしてから、女神は再び口を開いて、

 

「君は、この世界を受け入れていたんじゃないかな?」

「……は?」

 

 唐突に言い渡された問いかけに、ピーシェが間の抜けた声を返した。

 

「だって、前の暮らしよりも今の暮らしの方が、君にとっては遥かに幸せなはずだよ?」

「それは……」

「今までの君なんて、いつ死んでもおかしくなかったんだからさ」

 

 否定はできなかった。今、こうして生きていることが、何よりの証拠だったから。

 拳を握りしめる。荒んだピーシェの視線に、女神はあれ? と首を傾げながら、

 

「もしかして、無理やり元の暮らしに戻してあげたほうが、よかった?」

「ふざ、けるな……!」

「……ふざけるな、だって?」

 

 空気が冷たく感じられたのは、雨に体を打たれすぎたからだろうか。

 一瞬にして静寂を齎した彼女の言葉に、ピーシェが息を呑む。

 雨に濡れた神の隙間からは、ぼんやりと光る紫の瞳がこちらを覗いていた。

 

「どうして……」

「……え?」

「どうして、今まで私のところに来なかったのさ」

「それは……」

「君は生きてきたじゃないか。今までとは違って、食料にも眠る場所にも困らなかった。違う?」

「違わない、けど」

「君は私の理解者だって思ってたんだけど、勝手な思い込みだったんだね」

「……でも。私は今、ここに立ってる」

 

 震えながらも、しっかりと言い放ったピーシェの言葉に、女神がゆっくりと首を傾げた。

 

「……今更、何をしに来たのさ」

「対話を」

 

 短く答えた彼女が、額に張り付いた前髪をかき上げる。

 翡翠の双眸はしっかりと、正面に立つ女神のことを映していた。

 

「私は、お前が嫌いだ」

「……どうして?」

「私を見てくれなかったから。女神なのに、救いの手を差し伸べてくれなかったから」

「それは……うん、謝るよ。ごめんね」

「でも、本当に嫌っていたわけじゃないんだと、思う」

「どういう、こと?」

「私も、この国の景色が好きだから」

 

 街並みを見下ろすピーシェと同じように、女神の瞳もその風景を映し出す。

 雨に包まれたプラネテューヌの街並みはいつも通り、何も変わることはない。

 ただ、何故だろうか。

 いつもだったら気にしない雨音が、こうも煩わしく聞こえるのは。

 

「私は、お前が信じられなかっただけなんだ」

「信じられなかった?」

「お前を信じても、何も変わらなかったから。信じても無駄だって、分かってたから」

「……耳の痛い話になるね」

「私は……未来を信じられなかった。今日を生きていくだけで、精いっぱいだった」

「そうだね」

「……でも、お前も私と同じじゃないの?」

「同じ? 女神である私と、人である君が?」

「うん。未来を信じられずに、今に縋り続けることしかできない、寂しがりやなんだ」

「そんな、こと……」

「じゃないと、こんな世界なんて望まないよ」

 

 ピーシェの言葉に、女神は口を閉ざしたまま答えない。

 降りしきる雨音が沈黙を紡ぐ。濡れた前髪が、彼女の瞳を隠していた。

 

「お前の痛みが分かったわけでもない。寂しさを理解することなんて、きっとできない」

「……そうだね。君は人間で、私は女神だから」

「でも、一緒に進むことはできるんじゃない?」

「一緒に……?」

「そう。それなら寂しくなることもない。そうでしょ?」

「それで、私たちの望む未来は訪れるの?」

「分かんないよ。少なくとも、ただの人間である私には」

「……私にも、分からない。これからの事なんて、誰にも分かるはずがない」

「なら、今よりもずっといい未来があるかもしれないよね?」

「君は一体……何を望んでいるの?」

「雨が上がった後の、青空を」

 

 鈍色の雲、その向こうを見つめながら、ピーシェはそう答えた。

 

「……君が生きていけるかどうかも、分からないのに?」

「それでも。今よりずっといい未来になるって、信じられるよ」

 

 会話はそこで途切れる。視線を交わす二人の間を、雨粒が通り過ぎていく。

 やがて言葉を繋いだのは、彼女からだった。

 

「……私は」

「うん」

「私は、プラネテューヌの女神。この世界を守護する、最後の一人」

 

 宙に伸ばした女神の右腕には、漆黒に染まる刀が握られる。

 それを地面に突き立てると、彼女は紫に輝く瞳をピーシェと向けて。

 

「人間よ。未来へ進みたくば、その意思を私に示してみろ」

 

 背後に浮かび上がるのは、透明の片翼。頭上には天使を模したような円環。

 そして、放たれたシェアエネルギーの覇気が周囲の雨粒を吹き飛ばす。

 

「ピーシェ!」

「……やっぱり、こうなるのか」

 

 ピーシェが吐き捨てると同時、刀を取った女神が、彼女へと襲い掛かる。

 咄嗟に後方へと回避。地面を転がりながら取り出した銃を構えて、引き金へと指をかける。

 乾いた音が続き、それと同じ数だけ、彼女の刀から甲高い音が鳴り響く。

 刀身から上がる白い煙の向こうからは、それよりも鋭い彼女の視線が向けられていた。

 

「お前は進みたくないの?」

「……この世界を望んだのは、他でもない私なんだ」

「だから、この世界に残り続けて……進もうとしないってこと?」

「それが最後の女神である、私の役目だから」

 

 言葉を放ち、再び女神が刀を振り下ろす。

 それを防いだのは、双剣を重ねるネプテューヌだった。

 

「ネプテューヌ!」

「っ……この……!」

「……旅人か」

 

 交差する刀身を挟みながら、女神が言葉を紡ぐ。

 

「私と同じ名前。でも、それ以外は全て違う」

「どういう……こと……?」

「君には失うものが何もない。だから、進み続けることができる。私と違って」

「……そうじゃない、よっ!」

 

 刀を蹴り上げ、そのままネプテューヌが女神の同体を踏みつけて、跳躍。

 空中へと舞い上がる彼女へと、体勢を立て直した女神が刀を振るう。

 閃光。わずか一瞬の後に訪れた剣戟が、彼女の髪を切り払った。

 

「私にだって失うものはある……ううん、失ってばっかりだよ」

「何を」

「誰かと出会って、何かを手に入れても、旅に戻ったらそれは全部なくなっちゃうから」

「それで君は、悲しくならないの?」

「なるよ。でも、笑顔で送り出してくれるみんなが、それ以上の嬉しさをくれる」

「……そう」

 

 続くのは言葉ではなく、連続して鳴り響く銃声だった。

 咄嗟に刀を構えて、向かってくる鉛玉を女神が弾く。

 ただ、そのうちの一つは刀を通り過ぎ、彼女の頬へと直撃した。

 血は流れない。ぼろぼろと、まるで砂の城が崩れるように、彼女の頬の()()()が地面へ落ちる。

 

「お前……」

「しょうがないよ。シェアエネルギーとか全部、維持に使ってるからね」

 

 地面に転がる灰色の欠片を踏み潰して、彼女が答える。

「……そこまで行くと、もう戻れねーぞ」

「いいよ。戻るつもりも、進むつもりもないから」

 

 そうして刀を構えたネプテューヌが、地面を蹴ってピーシェへと向かう。

 斬撃。咄嗟にピーシェが横へと跳躍し、拳銃を握り直して胸の前へ。

 狙いを定め、引き金に指をかける。

 一瞬の間の後に、乾いた銃声が鳴り響く――ことはなく。

 

「な……!?」

 

 からん、と。

 真っ二つになった銃身が、彼女の足元に跳ね落ちた。

 

「ピーシェ、これ使ってっ!」

 

 その理由を理解するよりも先に、ネプテューヌから投げ渡された剣を掴む。

 次の瞬間、直上より振り下ろされた漆黒の刀を、その剣が受け止めた。

 

「……っ、あのさ!」

「なに?」

「一緒に進めないのか!? 私と、お前で!」

「……よくそんなこと言えるよね。私が嫌いなんじゃなかったの?」

「自分でもそう思うよ! でも、私もお前も、同じだから!」

「…………」

「私と一緒に、この世界の未来を確かめにいこうよ!」

 

 答えはない。代わりに返ってくる剣戟が、彼女の体を吹き飛ばした。

 濡れた地面に拳を撃ち付けながら、ピーシェがゆっくりと立ち上がる。

 

「……それは、できない」

「どうしてだよ!」

「私は、この世界の女神だから」

 

 静かに告げる彼女に、ピーシェは一度歯を食いしばってから、

 

「この、分からずやッ!」

 

 叫ぶと同時、ピーシェが首からかかる紐へと手をかけ、強引に引き千切る。

 そして彼女の手に握られたのは――黄金の光を放つ、菱形の結晶体で。

 

「女神メモリー……?」

 

 輝きを目の当たりにしたクロワールが、思わずその名を呟いた。

 女神メモリー。

 とある次元において、手にした人間を女神へと昇華させる、奇跡にも近い代物であり。

 また同時に、手にした人間を醜い怪物へと堕落させる、危険なアイテムであった。

 

「奥の手ってまさか、アレのこと!?」

「アイツ、博打にも程があるだろ……!」

 

 緊迫する二人をよそに、ピーシェがメモリーを自らの胸元へと掲げる。

 

「……化け物になるかもしれないけど、いいの?」

「でも、お前と同じ女神になれるかもしれない」

「そんなの、分からないよ」

「ああ。お前にも、私にもね」

 

 黄金の光が示す道は、誰にも分からない。

 けれど、今になってピーシェがその一歩を躊躇うことなど、あるはずがなかった。

 

「なら、私に見せてよ。君の未来ってやつを」

 

 静かな呟きと共に、女神がその刀を構え、ピーシェの眼前へと迫る。

 けれど、目は逸らさなかった。握り締めたメモリーが、急速に輝きを増していく。

 視界を埋め尽くすのは、黄金の光。太陽の如く煌めくそれは、二人を強く照らしていた。

 そして――

 

 

「……え?」

 

 

 轟音と共に全身を襲ったのは、強烈な浮遊感で。

 声を漏らしたピーシェが見たのは、遠ざかっていく女神の姿だった。

 

「ピーシェ!?」

「……残念だったね」

「そんな……!」

 

 落ちていく彼女を一瞥し、女神が刀をネプテューヌへ向ける。

 

「まだ、やるつもり?」

「……諦めないよ。だってピーシェと約束したもん」

「君は旅人なんだから、放っておけばいいのに」

「でも、そうしたら絶対に後悔するから」

「……旅人に向いてないよ、君」

 

 じりじりと詰め寄ってくる彼女に、ネプテューヌが片方だけになった剣を構える。

 後ずさって、ぶつかった手すりの後ろには、プラネテューヌの街並みが広がっていた。

 

「あの子の未来はここで終わった。それだけのことなんだ」

 

 言い放った女神の言葉に、震えた声で返したのは。

 

「……勝手に」

「なに?」

「勝手に決めてんじゃねーぞ、お前!」

 

 飛び出したクロワールは、一目散に落ちていくピーシェへと向かっていく。

 ネプテューヌが身を乗り出して覗くと、既に彼女は自由落下を続けるピーシェに追い付いていた。

 

「おいっ! ピーシェ!」

「……クロワール?」

「お前、なんでそんな簡単に諦めてんだ! この馬鹿野郎!」

「でもさ……もう、ダメだったじゃんか」

「何がだよ!」

「女神と対話をしても無駄だったし……メモリーも、何も応えてくれなかった」

「それは……」

「結局、私の未来はこんなものだった。そういうこと、でしょ?」

「……けど、それはお前一人の話だろ!?」

 

 叫ぶクロワールに、ピーシェがおぼろげな視線を向ける。

 

「足りないのはシェアエネルギーだ! それは俺がサポートする! だから、もう一度!」

「もう一度……どう、すればいいの?」

「信じればいいんだよ! そんなに難しいことじゃないだろ、今のお前には!」

「信じるって、今更……何を」

「んなもん、本当は分かってるんだろ!?」

「……そう、か。私……は」

 

 輝きを灯すメモリーを握り、ピーシェが告げた言葉は。

 

 

「私は、青空が見たい」

 

 

 ――そして。

 

「っ!?」

「……なに、これ」

 

 先程のものとは比べ物にならないほどの光に、ネプテューヌと女神が声を漏らす。

 鈍色の空へと繋がる、黄金の柱。天上へ伸びるそれは雲を切り裂き、太陽を覗かせた。

 降り続いていた雨は上がり、暖かな日差しがプラネテューヌの照らす。

 晴れ渡る青空の中、陽光を背に君臨したのは。

 

「……女神?」

 

 黄金の陽を翼に宿す、その者の名を。

 

「イエロー、ハート……!」

 

 自らの意思を告げるように、ピーシェ――イエローハートが、口にする。

 琥珀に輝く瞳の先には、剣を構えるかつての女神の姿が映っていた。

 

「行くよ!」

 

 高らかに声を上げると同時、イエローハートの翼が空を駆ける。

 衝突はすぐだった。漆黒の刀と陽光の刃が激突し、衝撃波を放つ。

 

「言ったでしょ?」

「……何を?」

「未来はどうなるか誰にも分かんない、って!」

 

 叫ぶと同時、イエローハートの放った蹴りが、女神の体を打ちあげる。

 そのまま追走。上空に舞い上がった彼女の拳は、しかし紙一重で避けられる。

 刃が女神の頬を掠り、零れ落ちた欠片が宙を舞う。

 直後に放った斬撃がそれを両断し、ピーシェへと襲い掛かった。

 

「うわっ!?」

 

 体を揺るがすほどの衝撃と共に、世界がぐるぐると回転する。

 翼の出力を上昇、無理やり体勢を立て直すと、眼前には既に次の一手が迫っていた。

 両腕を重ねる。直後に、鈍い金属音が体の全体に響き渡った。

 

「っ……この……!」

「……人であることを捨ててまで、進もうとするなんて」

「なに、さ!」

「愚かだ。もう、後戻りできないんだよ?」

「かも、しれないね! でも!」

 

 太陽の輝きに呼応するように、イエローハートの翼が光を放つ。

 未来へと続く道を照らす、黄金の光。それはやがて、交錯する彼女の刃へ灯る。

 

「戻る必要なんて、もうどこにもないんだ!」

「な……!」

「進み続けたその先に、私の望む未来があるはずだから!」

 

 張り上げた声と同時に、イエローハートが両腕を解き放つ。

 灼熱。空間を歪ませるほどの熱が、女神の体ごと吹き飛ばした。

 瞬時に体勢を立て直す彼女へ、再び光を纏う刃が迫る。

 剣戟は鳴り止まず、幾度も交わる刃と刀が、星屑のように青空を彩っていた。

 

「……すごい」

「急造とはいえ、ここまで張り合えるなんてな」

 

 ぽつりと言葉を漏らしたネプテューヌに、クロワールが答える。

 

「急造?」

「考えてみろよ。街がこんな状態で、メモリーにシェアエネルギーが残ってるはずねーだろ」

「失敗したのはそれで……じゃあ、ピーシェはどうやって変身してるの?」

「アイツの中にある信仰心を、無理矢理シェアエネルギーに変換させてんだよ」

「……信仰心? でも、ピーシェは女神を信じてないんじゃ……」

「けどよ、アイツ言ってたじゃねーか」

 

 青空を自由に駆ける彼女を眺めて、クロワールが。

 

「自分の未来を信じてる、って」

 

 過去に縋り続けるための力と、未来を信じて進むための力。

 そのどちらが強いかなど、語るに及ぶはずがなかった。

 

「ただまあ、まだ博打なことには変わりねーな」

「まだ……って、まさか!」

「何といっても急造だからな。長くは保たねーぞ」

 

 クロワールが告げたその瞬間、三度目の激突が起こる。

 放たれた熱波が、ネプテューヌの髪を荒く靡かせた。

 

「……なるほど。未来への信仰心、か」

 

 向けられた紫の瞳は、どこか懐かしい雰囲気を纏っていて。

 

「無理やりなことするなあ、いーすん。そんなことする性格じゃなかったのにさ」

「……変わったんだよ。きっと、お前を連れ出すために」

「私を?」

 

 交錯する刃と刀の向こうで、彼女がこくり、と首を縦に振った。

 

「クロワールは、未来を見せたかったんじゃないかな」

「未来?」

「うん。未来にはこんな可能性もあるんだって、教えたかったんじゃないの?」

「……そのために、三日どころか六年もかかるなんて。時間かけすぎだよ」

 

 くすりと笑ったのも束の間、女神が刀を振り払って、イエローハートを軽く吹き飛ばす。

 体勢を立て直すのは容易だった。そしてそれは、対話が始まることを意味していた。

 軽く息を一つ。そして、崩れ始めた右腕を眺めながら、女神が口を開く。

 

「私はもう長くない。このまま戦い続けたら、たぶん朽ちていくんだと思う」

「……降参する?」

「まさか。それに、それは君だって同じじゃないの?」

 

 女神の右腕が示した、その先には。

 ぼろぼろと微かながらも、同じように崩壊を始めつつあるイエローハートの左腕があった。

 

「本来、存在しない筈のエネルギーを使ってるんだ。そうなって当然だよ」

「……でも、私は降参しないよ」

「そっか」

 

 瞼を閉じ、再び開いたそこには、紫の瞳が冷たく光り輝いていて。

 

「次で、終わらせる。この戦いも、君の未来も」

 

 そうして刀を構えた女神の姿を、太陽のように光を放つ琥珀の瞳が映していた。

 

「終わらないよ。私はまだ、進み始めたばっかりだから!」

 

 永遠の過去を守り続ける旧き女神と、未来への道を歩み出した新たな女神。

 対峙する二人は、それぞれの翼で青空を駆け出した。

 

 そして。

 永きに渡る白昼夢が、終わりを告げた。

 

 

 

「……あ、れ?」

 

 朧げな視界に映ったのは、心配そうな表情を浮かべるピーシェの姿で。

 

「大丈夫?」

 

 その声に答えることもせず、首だけを動かして周囲へ視線を巡らせる。

 見えたのは、彼女と同じような表情で自らを見つめる、同じ名を冠した少女と。

 傍らで呆れた表情を浮かべている、かつての同僚。

 そして、そんな彼女らの後ろに広がる、晴れ渡った青空であった。

 

「……そっか。負けちゃったのか、私」

 

 深く息を吐くと、どうしてか安心したような落ち着きが胸の中に広がった。

 不思議と後悔はなかった。あるのは、整然とした理解のみ。

 思えばいつかはこうなるのだと、自分でも分かっていたのかもしれない。

 

「いつもみたく、勝てると思ったんだけどなあ」

「……残念だけど、私の勝ちだ」

「そうだね。完敗だよ」

 

 はは、と軽く笑みをこぼすと、視界の片側だけが不自然に歪む。

 それが、顔の右半分が崩れ落ちたことだと気づくのに、時間はかからなかった。

 言葉を失う二人の代わりに、クロワールが問いかける。

 

「ワガママはもう済んだか?」

「そうだね。やり切ったよ」

「……そうか」

 

 吐き捨てた彼女の顔が、どこか悲し気な色に染まっているのは、気のせいだろうか。

 片側だけになった女神の視界では、そんなことすらも分からなかった。

 

「謝りもしねーし、嘲笑いもしねー。別れの言葉は、六年前に言ったからな」

「冷たくなったなあ、いーすんも」

「……ただ」

「ただ?」

「もう後悔はしねーし、させねーよ」

「……そっか」

 

 その言葉が向けられたのは自分でないことくらい、理解できた。

 けれど、どうしてだろうか。それが、自分のことのように、嬉しく思えた。

 

「ピーシェ」

「なに?」

「君の意思、確かに見せてもらったよ。この国の未来は、君の手に託された」

 

 告げられた言葉に、ピーシェが自らの右手へ視線を落とす。

 すると彼女は、ゆっくりとその手を女神へと差し出した。

 

「……なんの、つもり?」

「未来は私の手に託された、って言うんでしょ?」

 

 片目を見開いたままの彼女に、ピーシェは微笑みを携えながら、

 

「一緒に進もうって、言ったじゃん」

「……あはは。そういえば、そうだったね」

「だから、ほら。一緒に……」

「ごめんね。でも、それはできないんだ」

 

 力なく震える腕が、差し出された手のひらへと伸びる。

 そうして指先が触れた瞬間、彼女の右腕が胴体から離れて、ぼろぼろに崩れ落ちた。

 

「残念だけど、私は行けない。だって、私はこの世界の女神だから」

 

 運命と言えばそうなのだろう。末路と言えば、そうなのかもしれない。

 ただ確かなことは、ある一つの時代が終わりを告げ、また新たな時代が始まるということ。

 そこにかつての女神の姿など、あってはならない。

 どれだけ足掻こうとも、世界がそれを許さないのだ。

 

「ねえ、いーすん」

「……何だよ」

「この子の引継ぎ、お願いしてもいいかな?」

「ああ」

「三日かかっても、いいからさ。立派な女神にしてあげてよ」

「分かってる。それが、俺の役目だからな」

「……ごめんね。最後になっても、迷惑かけちゃって」

「慣れてるよ」

 

 淡々と答えるクロワールに、女神が微笑みを浮かべる。

 それはかつて、彼女が浮かべていた、無邪気なものだった。

 

「旅人さん。いーすんのこと、これからもよろしくね」

「……分かったよ」

「それと、さ」

「うん」

「君の出来る限りでいいから、いーすんのそばにいてあげてね」

 

 女神の瞳は、首を傾げる旅人を映す。

 それはここではないどこか、ずっと遠くを見つめていて。

 

「私には、それができなかったから」

 

 崩壊が止まることはなく、風に靡く髪すらも塵と化していく。

 時代の終わりが迫るその中で、最後の言葉を紡ぐために、女神が口を開いた。

 

「君たちと出会えてよかった」

「私も。話が出来て、嬉しかったよ」

「……さよなら、だね」

「うん」

 

 そして、最後に残されたぼろぼろにひび割れた瞳には。

 突き抜けるような青空と、太陽の輝きに照らされる、プラネテューヌの景色が映っていて。

 

「ああ、そうか……この国は、こんなにも綺麗だったんだね……」

 

 一陣の風が吹き抜けたかと思うと、それらは全て塵となって、消えた。

 

 

 夕刻。眩い西日が差し込む、プラネタワーの頂上にて。

 

「俺ができるのは、ここまでだな」

 

 クロワールが告げたのは、あれから三日が経ってからのことだった。

 

「近々、教会の方から話があるはずだ。それが終われば、お前はこの国の女神になる」

「思ったよりも早かったね」

「……アイツ、引継ぎがしやすいように色々調整してたんだよ。腹立つぜ」

 

 小さな腕に顎を乗せながら、クロワールが口を尖らせる。

 そんな彼女の代わりに、ネプテューヌが言葉を続けた。

 

「まだ実感、湧かない?」

「正直。でも、やらなくちゃいけない、って思ってる」

「上手くいくといいね」

「うん」

 

 こくり、と小さく頷くと、改めてピーシェが二人の方へと向き直る。

 

「ありがとね。ネプテューヌ、クロワール」

「……いきなり何だよ」

「君たちがいなかったら、私はこの未来に辿り着けなかった」

「ピーシェがここまで来れたのは、自分の未来を信じられたからだよ。私たちは手を握っただけ」

「でも、二人がそうしてくれたから、私は進むことができたんだ」

 

 自らの右手を見つめながら、ピーシェが答える。

 その中には、黄金に輝く結晶体があった。

 

「……さよなら、だね」

「ああ」

「また会えるかな?」

「さあな。明日また来るかもしれないし、お前が女神を辞める直前になるかもしれないな」

「……でも、来てくれるんだ?」

「覚えてたらな」

 

 意地っ張りな彼女の性格にも、もう慣れたころだった。

 

「もー、クロちゃんったら素直じゃないんだから」

「なんだと?」

「だって、ここはクロちゃんの故郷なんでしょ? なら、忘れるはずないもん!」

「……あー、もう! お前はほんっと、いらねーことばっかり!」

 

 声を荒げるクロワールが、そのままの勢いで座標を記す。

 二人の真後ろに、ぼんやりと光る穴が開いたのは、すぐだった。

 

「行くぞ!」

「あっ、ちょっとクロちゃん!」

 

 強引に手を引かれながらも、ネプテューヌが後ろを振り返って。

 

「……やっぱり、未来は誰にも分からないんだ。もう、会えなくなるかもしれない」

「そうだね」

「でも、私はいつか、その時が来るって信じてるから!」

「……うん! 私もだよ!」

 

 未来は誰にも分からない。人はおろか、女神ですらも。

 だからこそ旅人である彼女は、その未来を信じて進むことができるのだろう。

 続く道は未だ暗く、不安と恐怖が入り乱れている。

 ただ、その先には小さく輝く、太陽のような光があった。

 

「さよなら、ピーシェ」

 

 別れを告げる彼女へ、ピーシェは笑顔を浮かべながら、

 

 

「さよなら、ネプテューヌ! また、いつかの未来で!」

 

 

 

「白昼幽夢 / Daydream_Revenant」 結

 

 



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