Bright Azure ── 輝ける碧【DQ5主フロ】 (サクライロ)
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【第一幕】サラボナ篇
#1. 来る瞬間【序】


 記憶は混沌として、時に己が何の為に在るのか自問することがある。

 

 直ぐに返る答えは、父の為。

 また、未だ見ぬ母の為。

 僕に連なる人々の、その切実な願いの為。

 僕自身もずっとそれ以外答えを見つけられなくて、それだけに縋るしかなくて、

 そのほかに、己を奮い立たせる術を持ち得なくて。

 ただ、この命ある限りは挫けるものかと。

 未だ耳に残る父の断末魔が、毎晩のように僕にそれを知らしめるから。

 あれからおよそ、十年────

 喪った父との誓いは未だ、果たせずにいる。

 

 

 

 

 

「一緒に行けなくて悪い。本当に有難うな。……テュール」

 長年苦楽を共にした友人であり、ラインハット王国の第一王子であったヘンリーは珍しく、その瞳に真剣な色を滲ませ、訣別の言葉を口にした。

「いいんだ。これ以上親分が不在にしてちゃ、デール様だって困るだろ?」

「子分としては、お前の方が上等だけどな」

 彼の異母弟であるデール様を槍玉に挙げた僕に、ヘンリーは愉しげに笑う。十二年ほど前、ほんの遊びで始まった関係は、しかし僕達をしっかりとした絆で繋いでくれた。父を目の前で喪ったその直後、魔物達に拉致され、どこぞの神殿の建設現場で奴隷として昼夜を問わず働かされた。幼すぎて何も知らなかった僕に読み書きから根気よく教えてくれたのは、他でもない『親分』ヘンリーだった。

「……本当は、一人で行かせるの少し不安なんだけど」

 ぽそり、と悔恨を滲ませた声が聞こえて。僕は精一杯、いつも通りの笑顔を作りヘンリーを振り返る。

「大丈夫だって。一人じゃないから……スラりんに、ピエールだっているし」

 買ってさほど年月が経っていない割にくたびれた馬車を見上げれば、中には『仲魔』になったばかりの、いわゆる魔物が何匹か。出発を前にちらちらとこちらを窺っている。

 オラクルベリーで魔物を研究しているお爺さんから教えてもらった、魔物を従える力がある、ということ。実際仲魔にしてみたら、従えるというより友達になると言った方が近かったけれど、とにかく僕にはそういう奇特な力があるらしい。こちらに寝返ってくれた魔物達は総じて知能も高いようで、名乗りもあげられれば人間である僕と簡単に意思疎通も図れる。今や仲間として、そして僕の新たな友人として、戦力としても十二分に活躍してくれていた。

 ヘンリーには祖国がある。一度は全てを諦めながらも魔物の手に陥ちかけた祖国を救い、今は弟王陛下を支え生きることを誓った。そんな彼を、僕に引き留められようはずがない。

「……大丈夫」

 もう一度言うと、ヘンリーはわざとらしく大きな溜息をついて顔を上げた。

「わかったよ。……気をつけて行けよ。無理かもしれないけど、たまには顔出せ」

「うん。ヘンリーも、元気で」

 これ以上は別れが辛くなるだけだから。ひらりと手を振り背を向けて、いよいよ彼から数歩分の距離を離れていく。

「……テュール!」

 馭者台に登ろうとしたその時、ヘンリーが一際大きな声で僕を呼んだ。

「早く、嫁さん見つけろよな‼︎」

 何かと思い振り返れば、そんな一言で。

 思わずつんのめりそうになるのをなんとか踏みとどまり、僕もまた大声を投げ返した。

「……ヘンリーこそ! 早く迎えに行ってこいよ‼︎」

 僕の言葉は的確に伝わったらしい。みるみるうちに頭のてっぺんまで赤くしたヘンリーが「な、なっ」と口籠るのを見て思わず噴き出した僕は、今度こそ腕を大きく振って別れを告げた。

 父との誓いを果たす、新たな旅に出るために。

 

 

 

 長く姿を隠していたラインハット王国のヘンリー王子が無事の帰国を果たし、修道院に身を寄せていたとある女性を妻として王家に迎えたと噂に聞いたのは、それから割とすぐ後のこと。

 ラインハットを発った後、僕は船で別の大陸に移動していた。直接二人に祝福を伝えに行けなかったのは残念だったけれど、彼らのめでたい報せはその当時少しだけ荒んでいた心を温めてくれたように思う。

 なぜかその頃、行く先々で結婚の話題がついて回っていた。街の誰々が結婚式を挙げたばかりだとか、どんな相手が良いか聞かれたりとか。僕と同じ年頃の人々は男も女もそんな話で持ちきりで、ああ、そういう年頃なのかな、なんてぼんやりと思ったりしていた。

 ────結婚、なんて僕は考えたことがない。

 そもそも、僕には父の遺志を継いで母を魔界から連れ戻すという命題があって、そこに他所のお嬢さんを巻き込む気などさらさらない。母を救うまでは、どこかの街に定住するつもりだってもちろんないわけで。

 今はただ、父の悲願であった母を救うこと。その為には魔界に赴かねばならないこと。ただの生身の人間にはそれは叶わぬらしいということ。魔界への扉を開く為には、伝説の勇者の力が必要だということ。

 その為に、父は勇者だけが扱えるという剣を探し当てていた。

 勇者が見つからないなら、勇者の方から見つけてもらうしかない。だから、まずは僕も父に倣って勇者の武具といわれる天空の装備品を蒐集することにしたのだった。その一つがサラボナという街にあるらしい、とヘンリーの義弟であるデール国王から教えて頂いて、僕は迷わずサラボナに向かうことにした。

 途中、昔はぐれてしまったキラーパンサーのプックルと再会したり、古代転移魔法ルーラの復活に協力したり、そのお陰で思ったより早くヘンリーとマリアさんに祝辞を伝えられたり……そこでまた僕の婚期について駄目押しされたり。と、色々とあったものの、やはり僕はその時はまだ、とにかく勇者を見つけることしか頭になかったのだ。

 

 

 

「聞きました? サラボナの大富豪が娘の結婚相手を募っているって噂」

 この話題も、ここに至るまでにもう何度か聞いた気がする。曖昧に笑って頷き、頼んだ食事を摘みながら相手の話に耳を傾けた。

 そこは、サラボナから歩いて三、四日ほどの場所にある宿屋だった。小さな酒場はほぼ満席で、僕も何とか部屋を確保できたほど。

 どうやら、数日後に噂の大富豪が娘のお披露目をするそうで、我こそはと思う男達が集まってきているらしい。

「ルドマン家の一人娘だろ? なかなかの別嬪さんだって聞いたぞ。しかも実家は大金持ち。そんなお嬢様と結婚できたら……いいよなあ」

「以前、旅からのお帰りでうちの宿屋にお泊まりなすったんですがね。いやぁ、ほんとに天女みたいなお嬢さんでしたよ。私も独身でもっと若けりゃ手を挙げるんですがねぇ」

「あんたらじゃ無理だっての。あんな上等な娘さんに相手してもらえるわけないだろ? 莫迦だねぇ」

 宿を切り盛りするおかみさんが、酒場のカウンターでうっとりと喋るマスターの言葉を耳聡く聞きつけ、スパッと一刀両断する。だが夢見る男達の雑談は止まらない。どんな容姿だったとか、どんな会話をしていたとか、持参金がどうとか、すっかりその話題ばかりで盛り上がっている。

「まったく、男ってやつは。……あんたくらいの男前なら、目があるかもってのも分からなくないけどねぇ?」

 年頃だからか、僕は時折こんなお世辞を貰うことがある。苦く笑って首を振ると、おかみさんはさも勿体ないというように息を吐いた。

「ああ、そういやなんか凄い盾も譲ってもらえるって?」

 盾、という単語に反応し、僕は今度こそ、会話の内容だけに全神経を研ぎ澄ませる。

「本物かは知らんけど、勇者の盾だって話だぜ」

「さすがにレプリカだろ? いくらルドマンさんでもそんな大層なもんを婿程度の男にやったりするかよ」

「そうだよなぁ。ま、俺は白薔薇の君と結婚できればもう御の字だけど。盾と言わず、資産もたんまりついて来るだろうし」

 ────どうやら、娘の結婚相手に盾を譲る、という話らしい。

 剣と同じく、可能ならば手元に持っておきたいが、一人娘の婿に譲るというのが条件なら、僕にその資格は頂けそうにない。であれば富豪令嬢の婿となる人を見極めて、必要なら交渉するしかないか。最悪手に入らなくとも、盾の在り処だけ押さえておけばいい……

 そんな風に考えて、食事を終えた僕は部屋に戻り、早めに休むことにした。

 

 まさか、この四日後に、僕自身の人生を大きく揺るがす出逢いが待っていようとは。

 その時の僕は、露ほども思いはしなかった。

 何度も耳にした噂のご令嬢が一体どんな女性なのか、特段の興味も湧かなければ、考えることすらしなかったのだ。

 

 

 

 翌日、宿を出て中一日。野宿を二泊、地下に作られた洞窟を更に半日と少しかけてやっと通り抜ければ、サラボナはもう目と鼻の先だ。

 洞窟から出ると、山に囲まれた森の中にきちんと整備された石畳が、恐らくは街へと長く続いているのが見えた。

同じく洞窟を抜けて来た旅人達は思い思いに水場を使ったり、束の間の憩いに勤しんだりしている。昨今の魔物の荒れようからここはまだ安全とは言い難いものの、ある程度の治安は約束されている様子を見ることができた。

 ────良い、ご領主様なんだな。

 ラインハットやその周辺は偽の太后が荒らした後だったから、丁寧に手入れされている土地をこうして歩くのは少し新鮮だった。

 石畳を数刻も往けば大きな川のせせらぎに出会い、そこで軽く昼食をとる。あとは川沿いに、爽やかな空気を楽しみながらのんびりと南下していった。

 いよいよサラボナが近づくほど活気が伝わってくる。普段から賑わっている街なのだろうが、見るからに富豪の噂目当ての男達があちらこちらから集ってきているようだった。

 僕はというと、街の外に架けられた橋を渡ってすぐのところで宿屋の納屋を見つけて、先ずはそこに居た宿の人に宿泊したい旨を告げ、馬車を繋がせてもらった。中の魔物を警戒されては困るので念の為、その旨も伝える。どうやら僕のような、所謂『魔物遣い』と呼ばれる人間は珍しいものの稀には居るものらしく、どこの宿屋でもちゃんと説明すれば快く受け入れてもらえたのが救いだった。

 宿の場所を教えてもらい、いざ街に入ろうとしたその瞬間。

 人だかりの向こうが突然、派手にざわついた。

 

 何だろう?

 

 咄嗟に、街の様子を窺い見た。明るい街並みに人が群れて、騒めきの向こう側から甲高い仔犬の鳴き声がする。と思うとほぼ同時、人集りの隙間から白い仔犬が唐突に現れ、勢いよく僕に飛びついてきた。激しく尻尾を振りながら前足で服にしがみつき離れようとしない。驚いたものの、その可愛らしい仔犬を抱き上げようとして僕は自然と膝をついた。 

 ────その時、

 

 

「どなたか、その仔犬を捕まえてください!」

 

 

 微かに甘い花の香りと共に、

 澄んだ、鈴のような涼やかな声が僕の耳を軽やかに打った。

 

 その響きに、導かれるままに顔を上げた、その先に。

 

 人の波間をかき分けて現れた、

 晴れた青空のような長い髪がふわりと視界の端に翻った。

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 ──────────時間が、

 

 

 

 止まる。

 

 彼女をこの目に映した瞬間、

 息を継ぐことも忘れその存在にただ意識を奪われる。

 

 翡翠の瞳が大きく見開かれ、

 跪いたままの僕を映す。

 

 互いの瞳の中に

 囚われてしまったかのよう、

 

 何も聞こえない。

 他に、何も見えない。

 

 

 

 ────彼女しか、視えない。

 

 

 

 きっと、ほんの一瞬だったけれど、永遠とも思える不可思議な瞬間。

 一層のざわつきが、人混みの中から聞こえる「フローラさんだ」という囁きが、そして手元に抱いた仔犬の体温が、切り取られた空間から僕を唐突に現実へと引き戻す。

 胸を、鋭く衝かれた心地でもう一度焦点を合わせると、目の醒めるような美しい碧髪をなびかせた可憐な少女が、胸元で両手を固く握りしめたまま、その清楚なドレスを風に揺らして僕を見つめ、立ち尽くしていた。

 

 ────この女性が、フローラさん?

 大富豪が結婚相手を求めているという、あの。

 

「……ごめんなさい、私ったら……、ぼうっとしてしまって」

 僕の不躾なまでの視線に我にかえったのか、少女は恥じらうように頬を染め、狼狽えながら言葉を紡ぐ。

「……、いえ、こちらこそ……この子は、貴女の?」

 何故かからからに乾いてひりついた喉からやっと声を発すれば、彼女はおっとりと頷き、遠慮がちに僕へと一歩、歩み寄った。

「────はい。突然、走り出してしまって……あのまま街の外へ出てしまうのではと、気が動転してしまいました。……捕まえてくださって、本当にありがとうございます」

 感謝の言葉を述べて頭を下げた彼女の陶器のごとく白い肩越しに、長く艶やかな空色の髪がさらりと零れ落ちる。

「そう、なんですね。止められて本当に、良かった」

 動転しているのはこちらの方だ。

 僕の拙い返答にほんのりと微笑む彼女は、今まで見たどんな絵画より清らかで、愛らしかった。天女か、聖女かと見紛う微笑みに、暫し僕の意識は魂ごと奪われる。翡翠の瞳を彩る薄紅色の頬、咲いたばかりの桜の唇は控えめに弧を描き、慈愛に満ちたその表情の傍らを瞳に似た碧い髪が流れる。人のものとは思えない白い肌は壊れそうなほど儚いが、よく見れば走ってきたためか薄っすらと額が汗ばんでいる。──その様が妙に生々しく、僕の心臓は知らずどくんと跳ねる。

 胸の前で組んでいた掌を紐解き、彼女は華奢な腕をそっと僕の方へと差し伸べ、呼びかけた。

「リリアン、……いらっしゃい」

 優しくも甘いその響きに誘われ、吸い寄せられるように立ち上がった。捕まえた仔犬を手渡そうとしたが、外套にしがみついたまま仔犬はなかなか離れようとしない。

「……まぁ、リリアンがこんなに懐くなんて」

 彼女の宝石のような瞳に、わずかに驚きの色が点る。

「ほら。ご主人様のところに帰りな」

 整えられた白い毛並みを撫でてやると、仔犬はくぅん、と甘えた声を出しながらされるがままに、僕に抱えられるだけの格好になった。

 作り物のような綺麗な腕が、武骨な腕から柔らかな仔犬を受け取って。

 ほんのわずか、その透き通るような肌に触れたその瞬間、

 ざわり、と、

 全身を巡る血が一気に逆流したような熱さを覚える。

 ────この心地は、なんなのだろう。

「ありがとう、ございます」

 指が触れた瞬間、彼女もうっすらと頬を紅色に染めながら、わずかにその肩を震わせてもう一度、感謝の言葉を伝えてくれた。

「……旅のお方、でしょうか?」

 ふわりと白い仔犬を抱きしめた彼女が改めて僕を見上げ、首を傾げる。見るからにくたびれた旅装を恥じつつ、自然とどぎまぎしてしまう内心を必死に隠しながら、僕は精一杯の微笑みを繕い彼女に向けた。

「はい。たった今、この街に着いたばかりです」

「そうなのですね。お疲れでしたでしょうに、お手を煩わせてしまって本当に申し訳ありませんでした」

「いえ、もう宿を取るだけなので大丈夫です。どうかお気になさらないでください」

 一言、一言が澄み切った鈴の音の如くこの胸に凛と響く。彼女が頭を垂れるたび、癖のない長い髪が頸から零れ落ちて、まるで神秘的な滝でも目の当たりにしているような気分になる。──それでいて、美しい髪の隙間からちらりと覗く滑らかな肌はどこか煽情的ですらあって。あまりに清純な彼女に不似合いな、そんな感情を抱いてしまう己に気づき、密かに唇を噛みしめた。

 ……何を考えているんだ、僕は。

「わたくし、この地方にて代々領主を務めさせていただいております、ルドマン家長女のフローラと申します」

 きっと彼女にとっては自然な所作なのだろう。仔犬を片手に抱いたままドレスの裾を軽く摘むと、流れるように優雅に礼を取り、目の前の可憐な少女はたおやかにそう名乗った。

「あ……、テュール・グランと申します。ご丁寧に、ありがとうございます」

 慌てて僕も、普段あまり名乗らない姓を添えて答え、頭を下げる。

「テュール、さん。素敵なお名前ですね」

 僕の名を反芻し、ルドマン嬢はそう言ってやわらかな笑みを覗かせる。

「もし、ルドマン家にお寄りになる機会がございましたら是非わたくしをお訪ねくださいませ。ささやかですが、リリアンを止めてくださった御礼をさせて頂けたら。──お時間を取らせてしまって、本当に申し訳ありませんでした。どうぞ、このサラボナでゆっくりなさって行ってくださいね」

 どこまでも優しく、穏やかなルドマン嬢の声音に、浮ついたこの感覚をどうにも抑えきれない。

「はい、きっと」

 地に足がつかない心地でようやくそれだけ答えると、ルドマン嬢はもう一度花のような微笑みを残し、妖精の如く軽やかに会釈して、仔犬を抱いたまま足早に去っていった。

 ────夢の中にいるような気分だ。

 小さく、遠ざかっていくその背中をぼんやりと眺めながら、僕は心の内側でそっとそう独りごちる。

 先程の、全ての空気が時間の流れを止めたようなあの感覚から、熱に浮かされているような、ふわふわした心地が続いている。

 あくまでもそれは現実感がないということであって、これが夢ではないことくらい僕は嫌という程承知していたのだが。

 それでも、この甘やかな邂逅が魔物の策による夢であってもおかしくないと思うくらい、僕は彼女に意識の全てを持っていかれていた。

「──兄ちゃん、すっかり鼻の下が伸びきってんなぁ」

 どれくらいそうしていただろうか。とっくに見えなくなった背中を尚も目で追っていた僕に、周りで見ていたらしい一人がからかうように声をかけた。

「……あ、すみませ」

 いつの間にか、否、そういえば初めから人集りをかき分けて飛び込んできていた気もする。僕とルドマン嬢のやりとりを見ていたであろう人々が声を上げ、我先にと彼女を褒めそやし始めた。

「仕方ないさ。あのひとをああも間近で見たらね。本当、女神様っているんだなぁって思っちまうよ……」

「なぁ? 別嬪だろ? サラボナの白薔薇、フローラ・ルドマンはさ。器量好しはどこにでもいるが、ああいう気品は一朝一夕で身につくもんじゃねえ。あれだけのご令嬢には中々お目にかかれねえよ」

「いつかどこぞの貴族様にでも輿入れするものかと思っていたら、まさか、誰でも求婚させてもらえるとは。いやぁ、すごい話もあったもんだよ!」

 すっかり惚けてしまっている僕に、居合わせた人々は代わる代わるに彼女の素晴らしさ、美しさについて熱弁を奮ってくれる。

 誰でも、求婚。

 そうか。そうだった、彼女はもうすぐ、この街に集まった数多の男達のうち恐らくは誰かの元に────嫁ぐのだ。

 腹の奥深く、ずっとずっと内の方で、ぞろりと。

 僕の知らない、暗い感情が音もなく頭をもたげた。

「無謀だろうけど、息子には頑張ってもらわないと。そりゃもう、フローラちゃんはずーっと憧れの君だったんだから」

 彼女を良く知る雰囲気で年配の女性がしみじみと呟くと、同じく求婚しようとしている誰かの親だろうか、白い髭を蓄えた男達が揃って頷いた。

「長いこと街を離れて、修道院で花嫁修行してきたと言っていたねぇ。あれほどの娘さんなら、どこぞの王様から声がかかってもおかしくないと思うんだがね」

「まぁルドマンさんは、誰が相手でもそう簡単には娘を手放さんだろうよ。だからこそ、今から屋敷で告知とやらをするんだろ? どんな無理難題をふっかけられるのかねぇ」

 尚も盛り上がるばかりの街の人達の会話は、もう半分以上は頭に入って来なかった。

 今日これから、ルドマン卿の屋敷で告知が為される。彼女の結婚相手を選定する為の条件が示される。誰でも、その試練に挑戦することができる。────誰でも。

 ふらり、と勝手に脚が動く。彼女が去ったその方角を、既に見えない背中を追うように、僕はゆっくりと歩き出した。

「お? お兄さんも行ってみるかい? ──ルドマンさんの屋敷はそこの噴水を真っ直ぐ行ったところだよ!」

 すれ違った男が、背中に囃すような声を投げかける。

 けれど、僕には何も答えられなかった。振り返ることもできなかった。

 ──この時本当は何を考えていたのか、今でも僕にはよく思い出せない。

 ただ、告知の場に行かなくては、と。

 それだけが、僕の思考を占めていた。




2019.04.29 pixiv初出


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#2. 彩、鮮やかな

 その豪邸には、溢れんばかりの人が詰めかけていた。

 野次馬も相当数混じっていただろうが、多くはフローラ・ルドマンとの結婚を望む男達だった。身なりの良い者、歴戦を思わせる屈強な者、いかにも学のありそうな者。どこにでもいそうな町民から、どこぞの王宮から出てきた出で立ちの者まで、広いとはいえ限りあるその空間には男という男がひしめき合っていた。

「順番に応接間へお通りください。間も無く、当主から挨拶がございます」

 慣れた手つきで客人達をさばくメイドの誘導に従い、人の流れに乗って僕は大広間へと抜ける。

 広間の中央に飾られた、ルドマン家の立派な紋章がちらりと僕の意識をかすめた。

 ……どこかで見たような。

 富豪と言っていたし、世界中に別荘や船といった資産を持っているのかもしれない。ならば、オラクルベリーやポートセルミで見かけたことがあったかも。

 そう、思った瞬間僕の周りが一際大きく騒めく。顔を上げれば、螺旋階段の上から恰幅の良い男性がゆったりと降りてきた。恐らく彼がルドマン家の現当主なのだろう。彼は広間に集められた男達の顔触れに満足そうに一つ頷き、階段を中ほどまで降りると、その場から全体を見渡しよく通る声で告げる。

「皆様、方々よりよくぞお集まりくださった。我こそはルドマン家当主、ロドリーゴ・ルドマンでございます」

 どこからともなくぱらぱらと拍手の音が降り、ルドマン卿はゆるやかに礼をとってまた観衆を見渡す。

「本日皆様にお集まり頂いたのは他でもない。我が娘、フローラの結婚相手を探す為。これ程多くの方々に娘を望んで頂けておることに、まずは心より感謝を申し上げたい」

 立派に蓄えられた口髭を撫で、ルドマン卿は目を細めた。その様子から、一人娘をいたく大事にされているであろう様子が伝わってくる。

「フローラは我がルドマン家の、我ら夫婦の宝であります。大切に育ててきたその宝を、つまらぬ男にやすやすと渡すつもりはございません。つきましては本日、ここにお集まりの皆様を証人とさせて頂き、フローラの夫となる者への条件を申し上げたいと思う」

 隣でルドマン卿を見上げる男が、こくりと唾を飲んだのが判る。この場を共有する男達がみな、一様に緊張感を高める。

 ──どんな無理難題か。

 先程、そう揶揄していた人がいたことをちらりと思い出す。

「……さて、皆様は炎のリング、というものをご存知ですかな?」

 固唾を飲んで次の言葉を待つ男達に、ほんのわずか、にやりと笑ったように見えた。ルドマン卿が楽しげに、謎掛けを続ける。

「古い伝承によれば、この大陸のどこかに、不思議な対の指輪があると申す。一つは炎のリング。もう一つは、水のリングと呼ばれるものでな、どちらも身につけた者に幸運をもたらすとのこと。──この二つの指輪を手に入れ、双方の結婚指輪としてもらいたい。見事果たした者にのみ、フローラとの結婚を認めよう」

 卿の言葉が終わらぬうちに、静まり返っていた広間が地を揺るがすが如く激しくどよめいた。憤る者、絶望する者。条件はそれだけかと居丈高に居直る者。阿鼻叫喚とばかりに喧騒を増す広間の様相をいっそ愉しげに見遣り、卿はぱちんと掌を叩いて締めの言葉を発する。

「どなた様も揚々励んで頂きたい。結婚が決まった暁には我が家の家宝の盾をその印として差し上げよう。──では皆様、ご健闘を」

「お待ちください、お父様!」

 男達の野次を物ともせず流麗に締めくくったルドマン卿の台詞を、鋭くも凛とした声が遮った。

 ────え。

 咄嗟に、弾かれたようにそちらを見れば、いつからそこに居たのだろうか。螺旋階段の一番上から、先程まみえたばかりの可憐な少女が長い碧い髪をさらりと宙に流し、握りしめた手摺から身を乗り出して父親を見下ろしていた。

「フローラ、何故そこにいる? お前には自室で待っているように言ったはずだ」

 少女の制止に、卿は不愉快そうに眉根を寄せる。だが少女は怯まない。真っ直ぐに父親を見つめたまま、一歩、階段を降りて珊瑚色の唇を開く。

「お父様。私はこれまでずっと、お父様の仰る通りにして参りました。──けれども、これだけは。夫となる方だけは、私自身に決めさせて頂きたいのです」

 凛とした、強い声音で言い切ると、彼女は父親の返事を待たず僕達の方を向き直り、出来るだけ大きく声を張り上げた。

「それに、皆様! 炎のリングは溶岩の流れる、大変危険な場所に出現するものと聞いたことがございます。どうか、お願いです。そのような危険を、私などの為に冒すことはおやめください。皆様の御身こそどうかご自愛ください!」

 悲痛なほどの、彼女の渾身の叫びに集まった男達が身じろぎする。──それでも、そんな中でも僕は、その場で彼女の姿を再び見ることが出来た高揚感を抑えられずにいた。

 ひとたびこの目に映せば、もう視線を外すことができない。

 この心地を、なんと呼んだらいいのだろうか。

「────あ、……あなたは」

 これだけたくさんの人集りで、そう簡単に気づけるはずはないと思うのに。螺旋階段の先だけを真っ直ぐ見上げていた僕に彼女が気づいたらしく、密やかに目を瞠った。

 気づいてもらえたことにじわりと悦びが湧きあがり、目配せだけで彼女に挨拶を返す。

 ルドマン嬢──フローラは僕の視線を受けてほんのりと目元を薄紅に染め、口許をそっと繊細な指で抑えた。先ほど知り合ったばかりの男がこの場に居て驚いたのだろうか。わずかに恥じらうように、しかしどこか不安げな表情で僕を見つめている。

 しかしそんな表情ですら、僕にとっては悦びでしかなくて。

「どうした、フローラ」

 口許を押さえたまま人集りの一点を見つめているであろう娘に、ルドマン卿が怪訝な顔で階段を上り近づいていく。彼女の隣に並び立ちその視線の後を追った卿が、──僕のいる辺りを凝視して。僕に気づいたかは解らないが、小さく溜息をつき傍らに立つ娘を一瞥する。何か、囁いたようだったが、それはさすがにここまでは聞こえてこなかった。

「──とにかく! フローラと結婚したくば伝承の指輪を二つとも揃えてここに持ってきてもらおう。条件はそれだけ、叶えたものに娘と盾を与える! 話は以上だ。皆様のご健闘をお祈りしますぞ」

 改めて階下の僕らの方を向き直り、最後にそれだけ述べると「さぁ、フローラ。来なさい」と娘の腕を掴みあっという間に二階の向こうへと消えてしまう。取り残された僕らはと言うと、「お疲れ様でございました」という無情なメイドの一言により次々と屋敷を追い出された。そうして豪邸から噴水広場にかけての道は、今広間に居合わせた者から外で様子を窺っていた野次馬達まで大勢が入り乱れ、サラボナの街中はちょっとした混乱に見舞われることとなった。

「やっぱりな。あの狸親父、娘を嫁にやる気なんざさらさらねぇんだよ」

「炎と水のリングなんて……伝承どころか、お伽噺の類いじゃないのか? 本当にあるのかよ、そんなもん」

 殆どがルドマン卿の提示した条件に対する非難ばかり聞こえてくる中、唐突に背後から外套を強く引かれ、一瞬後方によろめきたたらを踏む。

「──あなた、さっきフローラと目が合っていましたね。どなたですか? 彼女と知り合いなんですか?」

 すいません、の一言もなく、僕の外套を掴んだ張本人は息もつかせずそう畳み掛けてくる。肩越しに振り返れば、僕と同年代くらいの線の細い金髪の青年が、元々は穏やかそうな瞳をきつく釣り上げて僕を睨みつけていた。

「……ついさっき、街の外に飛び出しそうになった仔犬を捕まえただけです。あなたこそ、ルドマン嬢……フローラさんをよくご存知のようですが」

 フローラ、と呼び捨てにする青年に若干の苛立ちを覚え、自然と声音が低くなる。そんな僕の返答に青年はわずかに外套を掴む力を緩めたが、警戒するように凄むことはやめない。はっきりと僕を敵と認識した目で見据えて、叩きつけるように言う。

「僕はアンディ。フローラとは幼馴染です。……ずっと、子供の頃からフローラだけを想ってきました。お金も、地位もないけれど、僕は想いだけなら誰にも負けない自信がある。あなたにだって、絶対に負けません!」

 強く言い切って、彼は外套から手を離すとずかずかと人混みから離れていく。ルドマン卿の条件にも臆さない瞳。僕よりずっと腕力のなさそうな青年だった、けれど、その秘めた情熱に一瞬気圧されたことが、後から思い返すとじわじわと悔しさに変わっていく。

 ──絶対に負けない、だなんて。そんなもの、やってみないとわからないじゃないか。

 確かに僕は、ほんのついさっき彼女を知ったばかりで。まだ彼女のことを何も知らない、けれど、それでも、────

(それでも、……何だって?)

 本当に、ふと我に返り、今しがた自分を支配していた思考に驚愕する。

 ついさっき会ったばかりなのだ。そんな、まだやっとたったの二回、目にしただけの少女に。

(求婚、しようっていうのか? していいのか? テュール……)

 まだ少しだけ冷静な僕が、恐らくは初めての衝動に我を忘れそうになっている僕にそう自問する。

 結婚なんて、考えたことはない。

 僕は目的があって旅をしている最中で、他人をそこに巻き込もうとは露ほども思っていない。

 そんなことはずっと当たり前で、揺らがないと思っていた。

 思って、いたのに────

 自戒しながらも瞼を閉じれば、さっきこの目に焼き付けたばかりの可憐な姿が、鮮やかに思い出される。

 あの華奢な美しい手を、取るのは、先ほどの金髪の青年か。

 それとも、別の。

(……嫌だ)

 それは、嫌なんだ。

 理由なんて何だっていい。

 ただ、それだけは、嫌だって思った。

 他の誰かのものになってしまう彼女なんて、見たくない。

 誰かのものになるのを、何もしないでただ見ているだけなんて──耐えられない。

 そう、思ってしまったんだ。

「──のリングは、確かに一説では、ここから南東にある死の火山に現れると言います」

 未だ散らない人集りの中、学者肌らしい出で立ちの青年が狼狽えながらも懸命に説明しているのが聞こえてくる。

「ですが、リングは常にそこにあるとは限りません。何百人が同時に探しても見つからないかもしれない。何故なら──古い伝承に拠れば、炎と水のリングは持ち主を選ぶ。本当に必要とする者の前にのみ、姿を顕しその力を貸すのだと、そう伝えられているからです!」

 悲劇の主人公よろしく叫んだ青年を取り囲む人の群れから、大きな溜息や落胆の声が漏れる。候補者のほとんどは、これらの情報から挑戦することをやめてしまうのかもしれない。

 ──好都合だ。

 そっと人の波を抜け出し、街のすぐ外に繋いだ馬車へと急いだ。納屋の番人に声をかけ、馬車の中で時間を潰している仲魔達を小声で呼ぶ。中で何をして遊んでいたのやら、スライムナイトのピエールがひょいと荷台から顔を出し、首を傾げてみせる。

「行きたいところができたんだ。明日の朝早くに出発したいんだけど、みんな大丈夫かな?」

「問題ない。皆ちと鈍っておりますんでな、暴れられる処を所望致すが」

「そうだね。溶岩が流れるようなかなり暑いところみたいだから、ガンドフに冷気溜めといてって伝えておいて」

「承知」「オマカセー」

 伝言でも良かったが、本人もひょっこりと愛くるしい一つ目を覗かせてくれる。安堵して二人の肩を軽く叩いた。

「ありがとう。あとでご馳走、差し入れするね」

「ごちそうー!」「わぁ〜い!」

 うっかり口走った言葉に今度はスラりんとホイミンが反応し飛び出してくる。「こら、他の馬が驚くから!」と何とか落ち着かせ、改めて皆に手を振り馬車から離れようとした、その去り際に。

「……あるじ殿、何かござったかね?」

 ピエールが不思議そうに僕を呼び止め、僕もまた首を傾げて振り返った。

「何かって?」

「いや……、随分と、良い表情(カオ)をなさっておられる」

 ピエールの何気ない一言に、一瞬、虚を衝かれる。

「そう、かな──うん、そう……かも」

 歯切れ悪く口籠もり、同時にひどい気恥ずかしさが襲ってきて、僕はきっと紅潮しているであろう熱い顔を掌で覆いながら納屋を飛び出した。

 ──こんなにあっさり、勘づかれるなんて。

 自覚すら覚束ないこの感情に、舞い上がっている自分を簡単に見抜かれてしまったと思うと、何とも居心地の悪い、居た堪れないような何かが僕を襲う。

 だけど。

 そんな初めての感情に弄ばれながら、ふと顔を上げ思った。

 ──さっきから、

 ここは、こんな風景だっただろうか?

 空が。木々が。土が。水が。

 ずっと見てきた、同じ景色、同じ光景のはずなのに、

 何故かいつもよりずっと明るく、鮮やかに見えて。

 そういえば、今の馬車も。皆の顔も。

 まるで目隠しがとれたみたいに、明るさを増していて。

 先ほど居た、噴水広場も。

 街の活気も。

 何故だろう。さっき、町に入る直前に見た風景とは、まるで彩が違って見えて──

 

 ……彼女に、出逢った瞬間から?

 

 とくん。

 己の心臓が、ひとつ、新たな刻を大きく刻んだ。

 

 見るものすべてが、鮮やかな色を持つ世界。

 これが、本当の世界だったのかもしれない。

 ずっと、ずっと、暗い薄い膜越しに見えていただけ、

 だったのかもしれない。

 ──そういえば、父さんが生きていた頃はまだ、

 世界はこんな色をしていた。

 

 いつの間にか、忘れてしまっていた。

 

 もしかしたら、父さんを喪ったあの日から

 僕は意識しないまま、光をも失っていたんだろうか。

 彼女が、解き放ってくれたんだろうか。

 その清らかさで、僕に巣喰った闇をも払って。

 

『良い貌を、なさっておられる』

 

 ピエールの言葉を、もう一度、深く噛みしめる。

 その、いつもよりずっと鮮やかに美しい世界を、僕は駆け抜けて街に戻った。

 道具屋で新たな探索地に備えて薬草に聖水、携帯食糧などを多量に買い込み宿に入る。明朝早くに一度発つ旨を番頭に告げ、早めに夕食をもらい、馬車の仲魔達にも夕餉を差し入れしてから再び宿に戻って温い湯を使う。

 そうして僕は、明朝に控えた冒険の為、その夜は早めに就寝した。

 

 

 いつもの夢は、見なかった。



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#3. 好敵手

 翌朝、まだ辺りが薄暗い頃、僕らはサラボナを出発した。

 南東に進むにつれ足場が悪くなっていく。この辺りはあまり普段から人が来ないのだろう。その代わり、魔物が出る。だいぶ日は昇ってきたものの、鬱蒼と茂る木陰や草叢には飢えた魔物が潜んでいて次々に馬車を襲う。──暴れ足りないと豪語する頼もしい仲魔達のおかげで、さほど難なく撃退出来ているのだが。

「先客がおるようですな。血の匂いのお陰で魔物どもが余計に集まっておるようだ」

 ピエールの言葉に僕も無言で頷き、改めて父の形見の剣を握り直した。

 ルドマン卿の宣言を受け、諦めた者は多かったようだがそれでも無謀な人間は一定数存在する。僕もその一人だが。

 炎のリングに認められれば水のリングへの道も自ずと導かれるだろう。ならば、と腕に覚えのある者達がここへ向かうのは至極当然のことと言えた。恐らくは、昨夜のうちに洞窟へと向かった人間がいくらか居たのだろう。──そして、血が流れた。

 昨日、僕を威嚇してきた細身の青年を思い出す。彼も洞窟を目指しただろうか。苛立ちはしたが、彼に何かあっては寝覚めが悪すぎる。心密かに彼の身を案じつつ、僕らは洞窟への道のりを急いだのだった。

 

 

 

 件の洞窟は、サラボナを出て四日と少し、馬車を飛ばしたところにあった。

 日中何時間も走りっぱなしのパトリシアを労い、途中見晴らしの良いあたりや、小さな休息場を見つけては交代で休息をとった。後ろから追いついて来た見知らぬ男達と一言二言交わしたり、悪態をつかれることもあったが、ひとまずこの道中であの金髪の青年に会うことはなかった。

 草地が砂地に変わってもう一日半ほど往くと、大きく深い洞窟が口を開けて僕達を待ち構えているのが見えてきた。洞窟の周辺に何頭かの馬や、馬車が繋がれているのが見える──が、そのほとんどは息がない。主が洞窟内を探索する間に魔物に襲われたらしかった。実際、僕らが到着した時にも魔物達が群れて襲いかかってきた。停められていた馬車の中はさすがに空で、見張りはそもそもいなかったか、逃げたのかはわからないが、この場に馬以外の死体がなかったことだけがせめてもの救いだった。

「馬車は入れそうにないね。……プックル、マーリン、それとスラりん。ここでパトリシアを守っていてくれないか? 今回は僕とピエール、ガンドフ、ホイミンの四人で行って来ようと思う」

 洞窟から少し離れた、入り口からはすぐに見えない木陰に僕達の馬車を停め、僕は仲魔達にそう采配する。ここに隠していくのは後から来る人間に僕の仲魔を野生の群れと勘違いされては困る為。念の為三匹にしっかりと装備品を預け、最低限の装備と携帯品は多めに整えて、僕達は馬車を降りる。

「ここは御安心を。戦果を期待しておりますぞ」

「うんうん、まかせてー! いってらっしゃーい!」

「まっかせました〜! いってきま〜っす!」

 賢者の風格を漂わせるマーリンはともかく、スラりんとホイミンの仲良しコンビによるハイタッチには思わずがくりと脱力しつつ。──いや、場の緊迫感にそぐわぬそのふわふわのんびり癒しっぷり、僕は君達を心から尊敬している。

「じゃあ……、プックル、頼むな」

 馴染んだ毛並みを一つ撫でれば、勇ましく吼えて承諾を返してくれる。本当に頼もしい僕の親友。

 隣にいなくとも、君達は必ず最善の行動を取ってくれる。

 だから、安心して背後を預けていける。

 大事な仲魔達と二手に別れ、僕らはいよいよ溶岩が流れる灼熱の洞窟に足を踏み入れた。

 

 

 

 予想はしていたが、洞窟内にはとんでもない熱気が立ち込めていた。ただ歩くだけでも体力を奪われそうな、焼けたばかりの熱を放つ地面。煮え立つマグマが沼になり通れない道も所々に見受けられる。正に『死の火山』の名に相応しい場所だった。

 ボコボコと噴き出る溶岩からは絶え間なく炎を纏った魔物達が躍り出る。ガンドフの息で冷やせば火勢が一瞬弱まることがわかり、僕達はホイミンのトヘロスとガンドフの息を頼りに慎重に歩を進めた。時折人の気配を感じ奥を見れば、先日ルドマン邸に集っていたであろう屈強そうな男達が幾人か、探索しているのが見えた。どうやらまだ誰も指輪を手に入れていないらしい雰囲気に、僕は密かに安堵の息をついた。

「ところで、あるじ殿。この度はまた何ゆえに炎のリングとやらを?」

 何度目かの魔物の襲撃をばっさり斬り捨てたピエールが、彼を乗せて跳ね回るスライムを労いながら僕を振り返り不思議そうに問いかける。

「あ……えっと、何て言うか……」

 僕もまた、父さんの剣を納めながら視線を泳がせた。──なんと答えたらいいのか、自分でもよくわからなかった。

「サラボナのまちに、たてがあるんでしょう〜? それをてにいれるためじゃないの〜?」

 僕らの周りをふわふわと漂い、トヘロスをかけ直しながらホイミンが唄うように僕の代わりに答える。……うん、確かに、みんなにはずっとそう話してきたし、僕も元々はそのつもりだったんだけど。

 今ここに来ているのは、盾のため、と言うより────

「……そうなんですか? フローラじゃなく、ルドマン家の盾が目的で?」

 唐突に、棘のある声が僕の背中に刺さる。聞き覚えのあるその鋭い声に、僕は慌ててその主を振り返った。

「──アンディ、さん!」

 この間と同じ、吟遊詩人のような出で立ちの金髪の青年が洞窟の壁面にもたれながらこちらを睨み据えている。やはり来ていたのか、というよりも、なんというタイミングで聞かれてしまったのか。

「誤解です。僕の話も聞いてください。僕はそういうつもりでここにいるわけじゃない」

 必死に弁解を試みるが、彼の眼差しは面差しに似合わぬ苛烈さを増すばかり。いよいよ憎悪すら込めた視線を躊躇いなく僕にぶつけ、彼は──自らの憤りを落ち着かせるように──息を吐き、瞼を一度閉じてから吐き捨てる。

「言い訳は結構ですよ。ますますあなたには負けられないと思いました。あなただけじゃなく、誰にもね。炎のリングは絶対に僕が持ち帰るんだ!」

 語気も荒く、心底軽蔑した表情で。──だが、僕だってこればかりは、誤解されたままではいられない。

「だから、違います! 僕は盾のために来たんじゃない。フローラさんに惹かれた。彼女を欲しいと思ったから、何もせず諦めたくないと思ったから……だからここに来たんだ‼︎」

 

 

 ────言霊。

 言葉にしたら、もうこの想いからは逃れられない、

 そんな直感に刹那、呑まれた。

 

 

 僕が張り上げた叫びの余韻が、狭い洞窟の壁に反響する。

 アンディは何も言わなかった。僕の言葉を聞いて、微かに瞠目したまま、ただその場に立ち尽くしていた。

 そんな彼を正面に見据え──僕は、自分が放った言葉の意味に段々と、顔から火が出そうなほどの熱と、心臓が破裂するほどに暴れ出すような心地を覚えていく。

 彼女を欲しい、って。

 いつか、ヘンリーに発破をかけた時を思い出す。今の僕の顔は、あの時のヘンリーより真っ赤なんじゃないだろうか。

 でも、やっぱりそうだ、とどこか安堵する自分もいた。

 恋なんて、したことがない。愛なんて解らないから、この気持ちがなんなのか、全然自信が持てなかった。

 いいんだ。彼女を欲しいと、思っていても。

 そう言う気持ちだと思っていて、いいんだ。

「……そうでなくては、困ります」

 長い沈黙のあと。ぽつり、と低くアンディが呟いた。

 きっと酷く赤面している僕の表情を見遣る、その瞳に先程の剣呑な色はなかった。

「では、改めてどちらが先に炎のリングを手にいれられるか。競争ですね。……ええと」

「テュールです」

 わずかに言い澱む彼に、急ぎ被せるように名乗る。以前、ちゃんと名乗れなかったことがずっと気になっていた。

 好敵手として、名を知っていて欲しかった。

「……テュールと言います。サラボナには、あの日着いたばかりです。着いてすぐに……たまたま、仔犬を追ってきたフローラさんと知り合って」

「それは、恐ろしい程に幸運でしたね」

 僕の言葉に、彼はどこか自嘲気味に笑って呟く。

「時間が惜しい。早く探さなくては、他の奴らに────」

 そう言って一歩、踏み出したアンディの表情が苦痛に歪んだのを見過ごせなかった。崩折れかける細い身体に咄嗟に駆け寄り、その肩を支える。壁面に押し付けていたらしい腕を包んでいるはずの布地はそこになく、焼け焦げた袖口と爛れかけた腕だけがあった。

 僕に火傷を見咎められ、彼は苦く笑う。

「少ししくじっただけです。これくらい……」

「駄目ですよ! なんでこれを放っておくんですか。サラボナに戻れなくなってもいいんですか⁉︎」

 僕が頼むより早く、ホイミンが音もなく近寄り彼に回復魔法を施す。触手が触れた場所から赤みが徐々に引いて、それと同時にアンディが目を瞠るのが分かった。僕も彼の腕に手をかざし、ホイミンの施術を手伝う。

「……敵に塩を送るとは、余裕ですね……」

 白い光が火傷を癒していくのを眺めながら、悔し紛れと言うように彼が呟く。それをちらりと視界の端に収めながら、僕も答える。

「あなたに何かあったら、きっとフローラさんが悲しむ。……幼馴染なんでしょう」

 少し嫉妬が滲むくらい、許して欲しい。

 その座は僕には一生得られないものなのだから。

 僕が知ることのできない彼女を知っている人。子供の頃から彼女を想い続けていたなんて──想い続けることができたなんて、なんと羨ましいことか。

「魔物遣い、なんですね」

 敵意を全く見せず僕らを見守る仲魔達を見遣り、彼がそう小さく呟く。

「はい。彼らに助けてもらいながら、旅をしています」

「そうでしたか。……随分楽になりました。ありがとうございます」

 赤みが引き、爛れた痕も大分滑らかになった頃、彼が息をついて僕らに礼を言ってくれた。

「おにいさん、むりしないで〜。これいじょうふかいところまでやけどしたら、ホイミンのまほうもとどかないよ〜」

 ほわほわとアンディの肩越しを舞い、その身体に魔物除けのトヘロスを存分に施しながらホイミンが心配そうにそう伝える。可愛らしいその小さな魔物にアンディは毒気を抜かれたように微笑み、触手を少し撫でながら頷いた。

「ありがとう。分かっているよ……でも、僕はまだ退けないんだ。多分、君のご主人もね」

 彼の囁きに、僕は無言の肯定だけを返す。

 そう、僕達は一緒には行けない。ここからはもう、手助けもしてやれない。

 せめて、お互いが無事彼女の待つあの街へ戻れるよう、祈り最善を尽くすばかり。

「命だけは……大事にしてください」

 それだけ、告げて僕は立ち上がる。僕に従う仲魔達もまた態勢を立て直した。たった今アンディが来たであろう洞窟のずっと奥を見つめ、僕はそちらに向かって歩き出す。

「──そっちは、溶岩が噴き出して進めませんでしたよ」

 去り際に、アンディの怪訝な声が背後に届いて。

 肩越しに彼を振り返り、静かに答える。

「でも、道があったでしょう?」

「……本気ですか」

 愕然としたらしい彼に、もう僕は答えなかった。振り返らずただ真っ直ぐに見据えた、洞窟の奥深くだけを目指し足を踏み出す。

 だから、最後にごく小さく呟かれたアンディの言葉も、もう聞こえないふりをした。

「……どっちが……命知らずだか」



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#4. 炎の指輪

 治癒魔法を施したアンディを残して歩くこと十数分。

 洞窟内の熱気はますます強くなり、熱風が絶えず頰を打ち付ける。ゴォオン、という不気味な音が常にこだまする中、僕達は壁面からも弾け飛んでくる溶岩からお互いを庇うように身を寄せ合いながら進んでいった。

「これは、厳しいですな……」

 奥行きにして十メートル程度、僕達の前に横たわった溶岩の沼を眺め、ピエールがそう独りごちた。

 どこからか流れ着いたらしいその溶岩はまだまだ高熱を宿し、石を投げ込めば一瞬で焼け焦げる。と言っても深さは当然さほどなく、おそらく掌の厚さ程度のものだが、生身で触ればただでは済まないだろう。更には床下から溶岩が噴き出しているらしく、時折場所を変えながら赤い火柱が上がる。

 幾らかは溶岩から顔を出している岩場があるものの、間隔が空きすぎてそこを頼りに渡るには心許ない。

「アンディが言っていたのはこれのこと、だね」

 呟くと、傍に並んだピエールがこちらを見上げ、意味ありげな笑みを滲ませて答える。

「うむ。──先程はまさか、あるじ殿のあのようなお姿を拝見できようとは思わなんだ」

「っ……‼︎ ピエール⁉︎」

 唐突にさっきの話題を蒸し返され、僕は思わず全力で狼狽えた。見れば、ホイミンにガンドフまで、どこかにやついた目で僕をしげしげと眺めているではないか。

「やめてくれって! 本当、そういうのには慣れてないんだから……!」

「またまたぁ〜。『ふろ〜らさんが、ほしいぃっ!』だって〜、ごしゅじんさま、かぁっこよかったぁ〜♪♪」

「だからやめてくれってば! 本当にもう、思い出させないでくれよ‼︎」

 ただでさえ暑いのに、僕だけがますます暑苦しく体温を上げている気がする。ホイミンは楽しそうに盛り上がっているし、ガンドフは生暖かい一つ目で僕を眺めながら何やら頷いてくれているし。

 ああ、穴があるなら全身丸ごと埋まりたい。今なら丸焼きか煮込みにでもなりそうだけど。冷やかしとはいうが、こんなの全然肝が冷えない。

「ははは。まこと、あるじ殿は初心(うぶ)なお方ですなぁ」

 そして、誰よりも愉快そうに僕を見上げてくる頼れる相方を、僕は赤面した顔を腕で覆い隠し、悔しさを込めて精一杯睨みつけた。

「……どうせ僕は、まだまだ青いよ」

 どれほどの年月を生きてきたのかわからないが、恐らくは僕よりずっと経験豊富であろうスライムに跨ったその騎士は、すっかり不貞腐れた僕の様子にも温かな眼を差し向ける。

「良いのではないですか。あるじ殿は、もう少し貪欲になった方が良い」

「……十分欲張りだと思うけどな。それより、……今更だけど、僕の私情でこんな危険なところに付き合わせて……ごめん」

 僕の言葉に、三者三様に僕を冷やかしていた面々はきょとんと顔を見合わせる。

「きにしなくていいのに〜。ホイミンはたのしいよ!」

「ま、それ以上の収穫がありましたしな。拙者も他の者たちも、あるじ殿のための危険など微塵も厭ってはおらぬ。安心なされ」

 収穫とは何だ、とちらりと引っかかりはあったが、頼もしくも優しい皆の言葉に、ほんのりと胸の内側が温まるのを感じた。

 ──本当に、僕は仲間に恵まれて、幸せ者だ。

「さて、……それで、どうしますかな」

 溶岩の沼に今一度視線を戻し、ピエールが今度こそ難しい声色で唸った。

 僕も暫し、沼を見つめていたが。後ろから僕を見守っているガンドフを振り返り、優しい眼差しに向かって問いかける。

「ガンドフ、まだ冷たい息……いける? 手伝ってほしい」

 ガンドフはもちろん、というように穏やかな瞳で頷く。ほっと息をついて皆を向き直り、一人一人……一匹一匹の眼を覗き込みながら、言葉を紡いだ。

「──ここからは、僕一人で行ってくる」

「あるじ殿!」

 さすがに叱責する声が飛ぶ。苦笑いを嚙み潰し、真っ直ぐに諌めてくれる相方に視線を返した。

「全員でここは越えられないよ。今から他の道を探してもいいけど──この洞窟では消耗が激しすぎる。ガンドフ、僕の服と、膝から下をできるだけ冷やして。それで僕が走って渡る間、こちら側だけでいいからなるべくあの沼を冷却してほしい。……僕が渡りきったら、全員洞窟の外に出て待機していて。僕はリレミトがあるから、大丈夫」

「それだけで何とかなるものですか。せめてホイミンをお連れくだされば。拙者とガンドフはここでお待ちしますゆえ」

「ありがとう。……でも、正直この先絶対に守りきれるって自信がないから」

 僕の返答に、ピエールが言葉を失ったのがわかる。無謀だ。解ってる。でも、本当にこれは勘でしかなかったけれど──この奥に僕を呼ぶものがある。否、この洞窟に入った瞬間から、ずっと何かに喚ばれている。あの向こうから。

 行かなくてはいけないと、本能が言っている。

「……あるじ殿も大概、頑固者でござるな」

 長い長い逡巡の後、苦々しく呟いたピエールに、僕も黙って苦笑を返した。

「では、渡られる前に一度ホイミンをあちらに。溶岩による損傷はなるべく抑えさせましょう。渡り終えられましたら、拙者らは退避します」

「それで十分だよ。わがままばかり言って、本当にごめん」

 どこまでも心強い仲魔達の提案に、僕は感謝以外の念を持てない。

「……礼は、昨日以上の馳走でもご用意頂くとしようかな」

「わ〜! ごちそう! ごちそう!」

 何故か魔物である彼らも人間の作る美味い食事には目がないらしい。どこかで聞いたようなはしゃいだ声に、緊張と熱気からくる汗を顎から滴らせながらも僕は思わず笑う。

「……善処させてもらいます」

 

 

 

 このうだる熱気の中、冷気を維持することは簡単ではないだろうに。

 外套の裾はできるだけ短くくくり直し、念の為、持っていた手拭いを裂き、なけなしの水を含ませてから足に巻きつける。その上から靴を履き直し、ガンドフに冷却を頼んだ。汗で張り付いた服が薄っすら凍りつくほどに冷やされ、その息が沼を冷やし出すや否や、わずかに見える岩場を狙って全力で駆け出した。

 どうしたって足首まで取り憑いてくる強烈な熱。構ってなどいられない。立ち止まったら一気に呑まれる────

「ベホイミ! ベホイミ〜!」

 疾走する僕に並び飛びながら、ホイミンが必死に回復魔法をかけてくれる。膝にも及ぶ熱による痛みが瞬時に軽減され、また焼け付くのを何度も何度も繰り返す。

 ──岩場の上は却って危ない。このまま抜けた方がいい!

 溶岩を避けようと思ったが、初めの一蹴が思った以上にぬるついた。不安定すぎて即座に経路を変える。岩場のほど近い浅い地面だけを蹴ったその直後には踏み抜いた場所から火柱が上がり、僕の髪をちり、と焦がす。あと少し、あとわずか。あと三歩というところで、渾身の力を振り絞り向こう岸へと跳び込んだ。ガンドフの息がさすがに及ばぬこちら側に肩口から激しく転がり込み、投げ出されてほどけた外套が溶岩を掠った部分だけ、濁った音を立てて燃え尽きた。

「ごしゅじんさま‼︎」

 すぐに追いついてきたホイミンが急いで僕の身体に触手を伸ばし、火傷の治癒を開始してくれる。

「あ、りが、とう」

 薄くなった空気を必死に取り込みながら、ホイミンを仰ぎ礼を言った。何度か大きく咳き込んで肺の空気を入れ換える。その間にも、激しい痛みに痺れるばかりだった脚がみるみるうちに癒えていく。火傷が深く侵食する前にホイミンが対処してくれたお陰だった。

「──ありがとう、ホイミン。……もう、大丈夫」

 靴と、肌にはりついた手拭いを一度取り、両脚を良く摩る。感覚が戻ったことを確認して。僕は懸命に回復魔法をかけ続けてくれるホイミンのぷよぷよした体をそっと撫でた。

 くすぐったそうに少しだけ笑い、「ほんとうに、ひとりでいくの?」とホイミンが改めて問いかける。

「うん。……心配かけてごめんね。皆で、外で待っていて」

 そう簡単には、死んだりしないよ。

 僕の決意を受け取ったと言うように、ホイミンはひとつ、大きく僕の周辺を旋回した。念入りにトヘロスを施して、名残惜しげに僕の元を離れていく。

「──きをつけてねぇ!」

 ふよふよと飛んでいくホイミンと、未だ煮えたぎる沼の向こう岸で僕を見守ってくれている仲魔二人に見えるよう、僕は大きく手を振ってから皆に背を向け小走りに駆け出した。

 

 

 

 

 

 息をするだけで、内臓が焼かれそうだ。

 そう、思うほど洞窟の深部はただ熱かった。もう自分が汗をかいているのか、ここに入り込んでどれだけ時間が経ったかも分からなくなっていた。先ほど濡らした、乾きかけの手拭いに聖水を少量染み込ませ口元に当てる。こうでもしないと熱だけでやられてしまいそうな気がした。

 いよいよ奥深くに到達すると、道は今にも崩れそうな石段に変わる。細く連なったその石段の遥か下方にはぐつぐつと煮えたつ溶岩の海。落ちたらひとたまりもない。

 ここに至るまでにも何度か魔物を退けてきた。まだ魔法は使える、剣も振れるけれど、戦闘のたびに体力が大幅に削られていく感は否めない。

 ──もう少しなんだ。僕を喚ぶ、気配まで。

 この高温の地面で靴はほとんど役に立たず、足の裏はもうずっとじくじくと痛んで感覚がなかった。一応たまにホイミをかけながら進んできたけど、付け焼き刃でしかなかったらしい。立ち込める熱気に揺らめく空気の向こう、祭壇らしきものが見えた瞬間、耳障りな嗤い声と共に人型の焔が二体、目の前に躍り出た。────

「────っ、シルフの刃よ‼︎」

 咄嗟に詠唱し魔法をぶつけた。一体が怯んだ瞬間その懐に潜り込み、剣を深く薙ぎ払う。ぐらついた焔が僕に覆い被さり、反射的に膝と剣の柄で弾き飛ばす。──もう一体。息をつく間も無く身を伏せて焔の拳を躱し、その腕を斬った。叫びながらよろめく焔をすかさず蹴り飛ばし、眼下の溶岩の海へと屠る。

 息が、上がる。この程度の戦いでも消耗が厳しい。怪我はなかったはずだが、額に貼りつく前髪を腕でぐいと拭ったらどこからか腕にべとりと赤いものがついた。──いつの間に。急ぎ、塗り薬にした薬草を取り出し傷口を手探りで探しあてて塗り込んだ。

 少ししたら乾くだろう。ほんの一呼吸の間、疲労を吐き出すように瞼を閉じ、深く息をつく。

 こんな冒険をしたなんて、あのひとが聞いたら卒倒しそうだ。

 何となく、瞼を閉じたら先日の広間での彼女が思い出された。切実さしかない、いっそ悲愴なほどの声で「ご自愛ください」と叫んだ彼女。決して誰にも、こんな危険を冒されることを望んでなどいなかった。……僕と目があって、不安げな表情を覗かせた彼女。彼女がもし、ここにいたら何と言ってくれるだろう。

(……莫迦だな。叱られたい、ような気分になるなんて)

 子供か、と自嘲せずにはいられない。これではまるで、構って欲しいばかりの子供じゃないか。

 心配して、揺らいで欲しい。僕を想ってその心を震わせて欲しい。僕がいない時いつでも思い出せるように、あの澄んだ心に僕の存在を深く刻んで。

 指輪なんて関係なく、僕のことを意識して欲しい。

 そんなもの、どうしたら手に入れられるんだろう?

 伝承の指輪を探す方がずっと簡単だと思えるほど。

 もう一度、息を吐いて立ち上がる。祭壇があった。ならばきっと、そこが指輪の在り処だ。その証に、喚ぶ気配がますます近くなっている────

 

「……っ!」

 

 良く避けられたと思う。溶岩の中から何かを投げつけられたのだ。翻って見れば、むくりと山のような溶岩が三峰、溶岩の中から立ち上がる。

 ──番人がいたのか!

 唸るような奇声を発し、その魔人は流動的に襲いかかる。咄嗟に退いて何とか魔法を放つが、あれでは近づいて斬ることはできない。魔法だけで凌げるか? 否、そこまでの力は残っていない。どうしたら。

 斬れるのはどこだ。懸命に思考を巡らせる。溶岩。どろどろ。固められれば、でも。

 魔人の一体がその口を大きく開けた。次の瞬間、火炎が辺り一体に放たれる。さっき投げつけられたと思ったのは焔の玉だったのか、と辛々逃れながら思案する。

 ──まずい。どんどん祭壇から離されてる。

 密かに舌打ちするが、追ってくるのはどうやら一体だけだった。ならば相手できるかもしれない。手元に残った聖水を二、三本懐から抜き取り、握りしめて間合いを取る。息を、殺して。たった一筋の機会を見失わないよう。

 魔人が、頭をぬっと擡げて、その口を大きく開く────

 瞬間、地面を強く蹴り駆け出した。呪文を詠唱しながら火炎が放たれた瞬間大きく地を蹴る。口を開けたままの魔人にバギマの刃が容赦無く襲い掛かり、悶絶するように大きくうねった魔人の頭に瓶ごと聖水をぶつける。狙い通り額に深々突き刺さったそこからみるみる固形化していったのは水分のせいではないだろう。聖水に付与された微かな光魔法の力か。ほとんど同時にバギマの反動を利用して近場の岩に駆け上り、宙高く躍り上がるとのたうち回る魔人の脳天目がけて勢いよく剣を振り下ろした。

 ──固まれ‼︎

 着地場所がなく魔人の頭を踏みしめた靴の裏が蒸発するような音を立てたが、気にする余裕は無い。渾身の力で父の剣をめり込ませた。深く、顔の半分ほどまで沈ませた剣にさらに力を込める。止まるな。このまま斬り裂け、このまま‼︎

 ぶぁ、と手元にかかる圧がいっぺんに消失する。と同時に僕は溶けた魔人の頭から投げ出される格好で落下していた。やったか、とまずい、がほぼ同時に脳裏に飛来する。──いや無理だ!

「ごしゅじんさま‼︎」

 全ての思考が走馬灯の如く一瞬だった。柔らかすぎる身体が僕の身体に目一杯ぶつかって落下場所を変えてくれる。溶岩の魔人が崩れて消えたその後にできた溶岩地帯の、ほんのわずか隣の地面に僕の身体がどさりと音を立てて転がり落ちた。

「────っ、ホイミン⁉︎」

 すぐさま身体を起こし、たった今助けてくれた大切な仲間を呼ぶ。僕にぶつかってくらくらしているらしいホイミンは少し上空でふわふわと漂っていたが、僕の声にはっと我に返り泣き声交じりに飛びついてくる。

「うわ〜ん、ごしゅじんさま! よかったぁ〜‼︎」

「どうしてここに……! 一人で来たのか? 怪我はない⁉︎」

 手に触手を取り合い、泣きつくホイミンと真剣に問い質す僕。側から見たら滑稽な風景かもしれない。それでも僕達にとっては万感の再会でしかなかった。

「えっと、みんなでもどってたんだけど、とちゅうであのおにいさんにあって……あっ、おにいさんがまたやけどしちゃったから、しらせにきたの。ホイミンのまほうだけじゃなおらなくて、ピエールたちがおにいさんつれてさきにもどるって。キメラのつばさつかうねっていってた!」

 ほんわか、癒し系のホイミンからとんでもない事実を聞かされ、疲労困憊の身体から血の気がざぁっと勢いよく引いていく。

「ホイミンの魔法で治らないって……あの人、一体どんな無茶を……!」

 動揺を抑えきれず僕が唇をわななかせると、ホイミンはひどく居心地悪そうに──申し訳なさそうに、もぞもぞと触手をくねらせながら続けた。

「……あのね、……ごめんなさい。ホイミンたちが、あのようがんのむこうにごしゅじんさまひとりでいったよって、いっちゃったの。そしたら、おにいさんがはしりだしちゃって……」

 ────ああ。

 そんな風に言われたら。

 というか、そんなことを聞かされたら。

「それ、────僕のせい、じゃないか……」

 自戒の言葉は、知らず口から溢れ行く。

 別に、誰のことも怒ったりしないけど。叱ったり、しないけど。

 僕の勝手で、誰も傷つけたくない。それだけなのに。

 どうしてこうなってしまうんだろう。

 その場に尻餅をついたまま、力なく肩を落とす。そんな僕を追いかけて、ホイミンがおろおろと覗き込んでくれた。

「……ごめんね。心配ばかり、かけてしまって」

 優しい人達、優しい仲魔ばかりだから。僕の周りは。

 たまにこうやって、心配してもらえることが怖くなったりするんだ。

「すごいな。ホイミン、一人で……助けに来てくれたんだ」

 ぷにぷにの肌をくすぐると、ホイミンは照れ臭そうに触手を丸めながら笑った。

「ホイミンだって、ごしゅじんさまのなかまだもん」

 そんな表情に、その言葉に、ひどく泣きたいような気持ちになる。

「──ありがとう。……すごく、助かった」

 ホイミンは僕の言葉に文字通りのとろけるような笑顔を返し、早速とばかりに身体中の損傷を治癒しはじめてくれる。

「りんぐ、あった?」

 今までの疲労感が嘘のように軽くなるのを感じながら、僕はすっかり距離のできた祭壇に視線を投げやる。

「あと二匹斃したら、多分ね」

 

 

 その後はホイミンが補助してくれたので、はじめの一体より楽に片付けることができた。

 脳天から核を狙う作戦は功を奏し、ぎりぎり残っていた水分──聖水が大いに役立ってくれた。僕にヒャドでも使えればもう少し楽だったかもしれないが、風魔法の適性しかないのだから仕方がない。先ほどのように一体ずつおびき出し、今度は周りの足場を確認しながら脳天を冷やし貫く。ホイミンが傷と体力を回復してくれたおかげで手元が狂うことも足を滑らせることもなく、落ち着いて捌いていける。

 三体目の魔人を沈ませたその瞬間、祭壇の中心に眩しいほどの紅い光が宿った。

 光は一瞬で紅蓮の炎へと変わり、轟音と共に天井まで届きそうな火柱を噴き上げる。すわ崩れるか、と身構えたが、やがて火柱がふっと消失したその跡に、小さく輝くものが残されているのが見えた。恐る恐る、焔の吹き上げたその場所を覗くと──赤と呼ぶにはやや暗い、まるで夕闇のような。不思議な色味の指輪が岩の中に嵌っていた。

 僕が触れると、指輪は誘われるように岩の中からぽろりと零れ落ちこの掌に収まる。

 この洞窟で、ずっと僕を喚んでいた不思議な気配も、いつの間にか消えていた。

「……やった、やったぁ! ごしゅじんさま〜!」

 殆ど茫然としている僕の代わりに、ホイミンが指輪を握る掌を覗き込み、周辺をぐるぐると旋回しながら踊り上がる。

 掌の中のリングをよくよく眺めれば、小さな朱い宝石がひとつだけ埋まっている。その石の中、消えない炎が音もなく揺らめいているのが見えた。しかして炎のリングは先ほどの火勢が嘘のように、掌の中で穏やかな温もりを湛えていた。

「……戻ろう。アンディが心配だ」

 喜びを噛みしめる間も無く、そう呟いた僕の肩にふわりと停まりホイミンが頷く。僕の魔法の圏内にホイミンが居ることを確認して、僕はいざ、リレミトを唱え死の火山を一瞬で脱出した。

 その口で、次いでルーラを唱える。

 恋しい人と、好敵手が待つ街を目指して。



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#5. 生還

 暑さのあまり、食事を摂ることも失念していたから、どれだけ洞窟内に籠っていたかも分からなかった。

 外は真っ暗で、とりあえず夜だということはわかったが、ルーラで街に戻ってみたらどうやら思った以上に遅い時間らしかった。店は酒場すら既に閉まっていて、恐らく普段なら誰もが寝静まる時間なのだが、街の一画からは夜半だというのに慌ただしい声が漏れ聞こえていた。

「──あるじ殿! ホイミンも無事であったか!」

 街の入り口で僕を待ってくれていたらしいピエールが、転移してきた僕達を見つけざま直ぐに駆け寄ってくる。

「遅くなってごめん。アンディの容体は?」

「すぐに医師に見せたようですが、なんとも。氏の家に参りますか」

 ピエールの言葉に僕は性急に頷く。炎のリングを懐の一番深いところに納めて、ピエールの誘導に従い足早にアンディの家に向かった。

 アンディの家は街の入り口すぐ、ルドマン邸とは噴水を挟んで対角線上に位置していた。寝静まる街の中で一軒だけ、煌々と明かりを灯しているのですぐにわかった。建物に近づくと、恐らく叩き起こされた道具屋が薬草を運び終えて帰宅するところだった。数日前の夕方顔見知りになった店主は、僕の顔を見て少し驚いたようだったが、すぐに会釈をして店の方角へと去っていった。

「──みんな!」

 暗がりの中、僕の馬車も家の前に停められていた。恐らく馬車の中にアンディを横たえ、一気に運んでくれたのだろう。馬車の前には僕の大事な仲魔達が並んで、揃って心配そうに二階を見上げていた。

「ごしゅじんさま! おかえりなさい!」

 僕の呼びかけに気づき、スラりんをはじめ皆が僕の方を振り返る。僕も小走りにそちらに近づいて、中の灯りに人影が忙しなく揺らめいている家の様子を見遣った。

「ご主人に大事は?」

「僕は大丈夫、ホイミンが来てくれたから。それより、本当にありがとう。皆すぐに動いてくれて」

 マーリンの無感情ながらも優しい問いかけに胸が熱くなるのを感じながらも、言葉少なにそれだけ労いを返す。「皆は中で休んでいて。挨拶してくる」と言い残し、僕は木製の扉を小さく数回叩く。

程なく、ひどく疲れた風貌の女性が扉を開け、僕の顔を見て「あんた……」と息を呑んだ。

「夜分遅くにすみません。外の、馬車の主です。アンディさんの容体はいかがですか」

「──あんただったんだねぇ。こないだそこで、フローラちゃんと話していたよね」

 僕の問いには答えず、女性はどこか落胆したような、気落ちした作り笑いを浮かべる。

 扉を押し開き、中に招き入れながら母親らしきその女性は僕に向かって密かに、感謝を口にした。

「アンディを、助けてくれてありがとうね。あんたんとこの魔物ちゃんたちが運んでくれなかったら間に合わなかっただろうって、先生が言ってたよ。……本当、ありがとう」

「僕は何も……全部、彼らが独断でしてくれたことなんです。その言葉はどうか、彼らに」

 頭を下げる母親に、僕は首を振ってみせる。

 今回は本当に、僕は何もしていない。僕が受け取るべき言葉ではない、それだけだ。

 意外な返答だったのか、軽く目を瞠る母親に安心させるよう少しだけ微笑んで見せて。

「……アンディを、見舞わせてもらってもいいですか?」

 母親は「もちろんさ」と頷くと、軋む階段を登り二階へと上がっていった。すぐにその後を追いかけると、二階には父親と思しき男性と、懸命に涼しい息を送るガンドフ、苦しげに喘ぎながらベッドに横たえられるアンディと──その傍らで懸命に手をかざしている、フローラの姿が。

 ────フローラが、どうしてここに?

 予期しなかった人物を前に、僕の心臓が激しく痙攣した。どくり、と己の鼓動が耳に煩いほどこだまする。もう汗などかき切ったはずの身体なのに、じわりと嫌な水分が滲み出る。

 どうして、彼女が。

「──あなたは……‼︎」

 何も言えず、部屋の入り口で立ち尽くしてしまった僕に気づいてくれた彼女が、弾かれたように立ち上がった。その目許は憔悴し過ぎて見つめ返すのがつらいほど。あんなに会いたいと思った彼女を直視できず、床に視線を落とした僕なのに、彼女はまろびながら駆け寄ってくれる。

「ご無事、だったのですか」

 鈴のような声が、微かに震えている。あの時より、仔犬の分だけ近い距離。

「あ、アンディが、あなたが死の火山のずっと、ずっと奥に行かれたと……たったお一人で、進んで行かれたと……、教えて、くれました」

 僕の、肩ほども背がない彼女が、精一杯僕を見上げて。真っ直ぐにその純真な瞳を向けて────

 どうして、貴女が、アンディの部屋に?

 こんなにも僕の身を案じてくれているというのに、あんなにそれを望んだというのに、僕はそんな歪んだ思考に囚われてどうしても彼女に視線を返せない。

 口を開けばそんなどうしようもない問いが溢れてしまいそうで、口許をきつく引き結ぶ。

 そうして顔を背けた僕の、胸か──腕のあたりに視線を落とした彼女の気配がびくりと強張ったのを感じる。

「……お、お怪我、を」

 怪我なんて、と思った矢先、そういえば先程頭をわずかに切ってしまっていたことを思い出した。あの時腕で拭った血が乾いたままだったのだろう。

「……大したことはありません。本当に、大丈夫ですから」

 咄嗟に、薬を塗り込んだ額に触れながらそう言った。素っ気なくなってしまったかもしれないが、ばつの悪さが勝ってしまった。

 黙り込んだ彼女の顔を見るのがどうしても怖くて、僕は恐る恐る彼女の胸許を窺い見る。

 手を伸ばせば触れられそうな、白い肩が。震えている。

 肩だけじゃない。胸の前で握りしめた、小さな拳も。

 勇気を振り絞ってその瞳を覗き返せば、僕の足下のあたりをじっと見つめた双眸から、綺麗な泪が今にも、溢れそうなほどに張り詰めているのが見てとれて。

「────っ、かっ……た……」

 ついに、彼女は顔を両手で覆った。折れそうな華奢な肩を小刻みに震わせ、掌と碧い髪にその顔を埋め隠しながら彼女は密やかに泣いていた。いとも儚く零した、その嗚咽にきっと深い安堵を滲ませて。

 僕は莫迦だ。

 貴女に、心配してほしいだなんて。気にかけてほしい、なんて。いっそ叱られてみたい、だなんて。

 身勝手なことを思った。

 ──こんな思いを、させたかったわけではないのに。

「……ごめん……ごめん、フローラ」

 自然と、そんな言葉ばかり、口をついて出ていた。

「ごめん──心配を、かけてしまって。僕は、平気だから……大丈夫だから。……泣かないで……」

 僕の目の前で、掌を涙で濡らすばかりの彼女の頰を拭いたくて、その少し乱れた髪に、恐る恐る、触れて。

 こんな時なのに、わずかに触れただけで──僕の心は恍惚と罪悪感とで綯い交ぜになってしまう。

 ────ああ。

 たまらなく、好きだ。

 苦しいほど。切なく甘く胸を締め付け続ける感情の正体を、僕はこれ以上ないほどに思い知る。

 今すぐに、目の前の、この壊れてしまいそうな細い肩を、力の限りに抱き締めてしまえたら。

「……フローラちゃん、今夜はもうお帰り」

 尚も、嗚咽をこらえたまま小さくしゃくりあげる彼女に、アンディの母親がその背をさすりながら優しく声をかける。

「待ち人も戻ったんだろう? アンディも、すぐにどうとはならないさ。ずぅっと看病してくれてたらさ……、嬉しいけど、あんたまで倒れちまったら大変だよ」

 噛んで含めるような母親の言葉に、フローラが目元を拭い、深い呼吸を何度か繰り返して少しずつ落ち着きを取り戻す。──それとは裏腹に、僕の心には少しずつ、醜い陰りが広がっていく。

 ずっと、看病していたのか。

 君が、アンディを。

「……ありがとう、ございます……おばさま。──でも、今回のことは、私が招いたようなもの、ですから……」

 彼女自身に言い聞かせるように、フローラは呟いて。

 僕にひとつ、会釈をするとおもむろに立ち上がり、またベッドの傍らの椅子に腰掛ける。

「……取り乱してしまって、ごめんなさい」

 誰にともなく、ぽつりとそう呟いて。

 フローラは一度瞼を閉じると、そっと何か囁いて。掌にほわりと淡い光を灯す。

 僕も立ち上がり、彼女の傍らに立った。見下ろしたアンディの顔は赤く、ずっと熱が篭っているのがわかる。その、頭の方でガンドフが、ほとんどずっと休みなく涼しい空気を送り続けてくれていた。

「熱が、全然下がらないんです。……お医者様は、明日が山だろう、って」

 力なく呟く、彼女の声にどこまでも胸が締め付けられる。

 きっと、魔法はそんなに効かない。表面的なものは治せるけれど、より深い損傷はもっと高位の魔力を必要とするのだ。ホイミンで治癒できなかったのなら、あとは──回復魔法の効果が現れるほどに、本人の体力が戻ることを期待するしかない。

 それでも、回復魔法は悪化を食い止める手助けくらいにはなれるから。

「僕の、ホイミスライムをお貸しします。治癒能力は高いから、きっと役に立つと思う。……だから、少し休んでください」

 彼女の光がふわりと消える頃、引き継ぐように僕もベホイミを唱えその隣から光を降らせる。微かに目を瞠る彼女に微笑みを返し、僕はその提案を呑んでくれるよう目で促した。

「……でも……、それではあなたが」

 憔悴しきった翡翠の双眸を泳がせ、彼女が口籠る。

「お願いです。貴女がそれほどまでに疲弊することを、きっと……アンディは喜ばないと思うから」

 本当は、そんなことないのかもしれないけれど。

 想いを寄せた女性が自分のために看病してくれる。それが嬉しくない男など、いないとも思うけれど。

 それでもやっぱり、君にそんな哀しい、疲れた顔をさせてまで、つきっきりで看病してほしいとは僕には思えないから。

「ほら、フローラさんや。今が帰りどきだよ」

 ずっと様子を見守っていたアンディの父親が立ち上がり、フローラの肩をポンポンと叩く。

「儂がお屋敷まで送ってやろう。──有難いが、あんたも、お仲間さんも無理はせんでな。今まで火山に行っとったんだろう?」

 人の良さそうな父親の言葉に、僕は黙って頷く。その、視界の端で、フローラがわずかに身体を強張らせたのが判った。 

 僕はそんな彼女に気づかないふりをして。彼女はふらりと立ち上がっては僕と、ガンドフに向かって代わる代わる頭を下げた。

「……本当に、ありがとう……ございます……っ」

 嗚咽混じりのその声に、黙って首を振るしかできなかった。

 御礼なんて、言ってもらう資格はない。

 彼女が自分の所為でと、アンディの火傷を気に病む必要なんてどこにもない。

 僕が、強引に溶岩を突破しなければ。アンディは更なる火傷を負うことはなかったかもしれないのだから。

 ──そう、言えばよかったのに。僕にはどうしても怖くて、言うことができなかった。

 アンディの父親に支えられ、階下へと降りていくフローラの背中を茫然と見つめながら。僕は僕の臆病ゆえに呑み込んでしまった情けない独白を、ただひたすらに苦く噛みしめるばかりだった。

 

 

 

 東の空が白む頃、ホイミンたちと交代しアンディの家を出た。

 昨日の昼頃からずっと頑張ってくれていたホイミンに少しでも休息を取らせてやりたくて、そこまでは僕が休み休み回復魔法をかけ続けていたのだけれど、さすがに限界がきた。ずっとアンディを冷やしてくれていたガンドフも半ば無理矢理に引きずり下ろし、馬車に押し込む代わりに回復魔法を使えるピエールとホイミンに出てもらい、僕自身は宿で少しだけ休ませてもらうことにした。

「あるじ殿もいい加減働きすぎでござるよ。この際夜までゆっくりお休みなされ」

 それでは君達が夜まで働くことになってしまうと思うのだが。すっかり朦朧として頭が働かない僕は、ありがたく二人の厚意に甘えることにした。

「かわりばんこにするからだいじょうぶ〜! ごしゅじんさま、またあとで〜!」

 どんな時でもほわほわと癒しを振りまくホイミンと頼もしいピエールに見送られ、ふらふらと宿に舞い戻る。

 数日宿を空けた客が戻ったと思えば服も身体もぼろぼろで、宿の人達はさぞかし驚いたことだろう。周りの視線にも構わず、宿に確保した自分の部屋に戻るなり、湯も使わずにベッドへと突っ伏した。

 地面に吸い込まれるように世界が回る。そのまま、僕はどろりとした眠りの底に沈んでいった。



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#6. 臆病

 ふと、胸のあたりに熱さを覚えて目が醒めた。

 

 まだ重たい瞼を薄くこじ開け、部屋を照らし出すその方角を仰ぎ見た。窓から低く差し込む光は朱く染まり、窓際に飾られたランプが床へと伸びる長い影を映し出す。どうやら、僕はすっかり夕方まで熟睡してしまったらしい。

 ぐらつく頭を抑えながら肘をついて起き上がれば、あまりに着の身着のまま倒れこんでいた自分に失笑する。商売とはいえ、泥やら埃やら血痕やら、ついでに全身汗塗れのままシーツに倒れ込まれては宿の方の心労は如何ばかりだろうか。今更ながら、湯を使うついでにせめて目立つ汚れだけでも洗い落としてから返そう、と心に決め、手早く着替えを出した僕は浴場に向かうべく立ち上がった。

「──ああ! ようやくお目覚めですな」

 廊下に出ると、ちょうど通りかかった支配人が僕を認め声をかけてくる。明け方から今まで一歩も外へ出ていないのだから無理もない。遠慮がちに笑って頷いてみせた。

「すみません、変な時間に休ませてもらってしまって。……少しシーツを汚してしまったので、あとで交換していただいてもいいでしょうか」

 腕に抱えたシーツを掲げて見せると、支配人は大袈裟に腕を振りながら僕に近づく。

「ええ! ええ! お安いご用です。そちら、今お預かりいたしましょうか」

「あ、いや、すみません。申し訳ないので落ちるところまでは洗ってからお返しします。……少し、傷口が開いてしまったみたいで。本当に申し訳ありません」

 支配人の厚意に思わず及び腰になりつつ、シーツを抱え直して答える。血痕もそうだけど、考えてみたらあの灼熱地獄でかいた汗を全く流していなかった。──今の僕はもしや、とんでもない悪臭を放っているのでは?

「あの、湯をお借りしてきますね。それでは」

 慌てて支配人から目を逸らし、そそくさと階段を駆け下りた。とにかくこの身にまとわりついた汚れを早く落としきってしまいたくて、脱衣場に飛び込むと急いで服を脱いだ──瞬間、服の内側から何か小さいものが転がり落ちそうになり、咄嗟に手を伸ばしてそれを掴み取る。

「あ……、いけない」

 忘れていた。掴んだ掌には昨夜、懐に入れたままにしていた炎のリングがほんのりと熱を帯びたまま納まっていた。嵌め込まれた石を覗き込めば昨日も見た炎が石の中、艶めかしく揺らめいている。昨夜はアンディの看病を手伝うことに必死だったから──そういえば、指輪を手に入れたことをまだ誰にも言ってなかったな、と思い至る。

 ……フローラは、喜ばないかもしれないな。

 昨日の涙を思い出し、ずきりと胸が鈍く痛んだ。

僕が一つ目の指輪を手に入れたことを知ったら、彼女はどんな反応をするだろうか。

喜ぶ姿を想像したかったけれど、昨日のあの憔悴した顔がどうしてもちらついた。何の憂いもなく、僕が指輪を得たことを喜んでくれる彼女の姿など、どうしても想像がつかなかった。寧ろ、危険を冒したことを哀しむ姿しか、浮かんではこなかった。

 ──もう一つの、もっと嬉しくない可能性がその姿の裏側にちらついたが、頭を強く振って追い払った。

 どうしたらいいんだろう。……それでも、僕は彼女を諦めたくないと思っている。リングを二つ、手に入れることで彼女を得ることが叶うなら、どんな危険を冒したって手に入れようとすら思っている。

 そんな風に僕が、誰かが彼女の為危険に身を投じることを、彼女が何より望まないだろうということも、解っている。

(……やめよう。考えたって、答えは出ないし……)

 所々破れた汚ない服を脱衣所の籠に畳み入れ、大きな溜息をつく。──恋の病とはよく言ったものだ。こんな痛み、ずっと続いたら僕は早晩神経をやられてしまいそうだ。

 握りしめたままの指輪を、部屋に置いてくれば良かったと一瞬後悔したが、置いていくよりは身につけていた方がいいかなと思い直す。結婚指輪にすると言っていたものだけれど、少しの間ならつけていても問題ないだろうか。

 湯浴みの間だけ。そう言い聞かせながら、躊躇いがちに指を通した。──まるで僕の薬指に誂えたようにぴったりと嵌ったその指輪は、艶めかしい夕闇の紅を湛えたまま静かに光を照らし返していた。

 

 

 

 全身を洗い流してさっぱりしたら急激に腹が空いてきて、急いで湯浴みを終えた僕は固く絞ったシーツと引き換えに簡単な食事を頼んだ。

「永く宿屋を営んでおりますが、ご自分でシーツを洗ってくださったお客さんなんて初めてですよ」

 支配人とコックの方に苦笑されながらも手短に食事をとり、仲魔達の分の食事も頂いて宿を出る。馬車で待っていてくれている皆に頭を下げつつ食事を届けてから、改めてアンディの家に向かった。

 指輪は今一度、失くさないよう鎖を通して首にかけ、服の内側に隠した。昨晩のことがあったからか、まだ誰かに見せる気にはなれなかった。

 家に着いて扉をノックし、また中に入れてもらう。覚悟はしていたが、昨晩以上にやつれた様子のフローラがやはりアンディの傍らに座っていた。その向かいで、患者の上だというのにちゃっかりアンディの腹の上に乗っかり回復を施すホイミンの姿が見える。

僕が声を発する前に気配に気づいたらしいフローラとホイミンがほとんど同時に顔を上げ、「テュール、さん」「ごしゅじんさまぁ!」とやはり同時に──否、控えめなフローラの呼びかけに被せるが如く、ホイミンが嬉々として叫んだ。

 ──そこはホイミン、空気を読んでくれたら……っ!

 彼女が僕の名を呼んでくれた。そんな僕の密かな歓びと落胆など知る由もなく、ホイミンは嬉しそうに触手をくねくねと躍らせる。その様子に、くすくすとフローラが小さく笑うのを見て僕は更なるショックを受ける。

 ──なんでホイミンがフローラと仲良くなっているんだ!

 そんなことを本人の目の前で、しかもこの状況で言えるはずもなく。動揺を必死に腹の奥へと押し込めつつ、挨拶代りに小さく頭を下げてみせるとアンディの容体を確認する為、ベッドの側へと歩み寄った。

 アンディの顔はまだ少し赤かったが、昨晩のような内に篭った苦しさはかなり和らいでいるように見えた。穏やかな寝顔に、ひっそりと安堵の息を漏らす。

「昨晩より、ずいぶん落ち着いたみたいです。……テュールさんと、ホイミンちゃんたちのお陰ですわ」

 目許に隠しきれない疲労を滲ませ、フローラがそう言って微笑む。

 いつから来ているのかはわからないが、その横顔からはやはりろくに休息を取れていないのだろうと推測できた。

「いえ、そんな……貴女の献身の賜物です」

 うまく言葉を選べなくて、そんな風に返した僕に、彼女はいよいよ申し訳なさそうに肩を縮めて眼を伏せる。

「……私は、今日はほとんど見ているだけでしたから。ピエールさんとホイミンちゃんが、何度も魔法をかけてくれていたんです。──テュールさんも、明け方までそうしていてくださったと、おばさまからお聞きしましたわ」

 膝の上にきちんと揃えられた白魚の手は、指先と甲が特に痛々しく赤らんで見える。

 昨晩から続く看病で、魔法が使えなくなるほど消耗しているはずなのに。それでも出来る限りそばにいて、何度も手拭いを変えて、身体を冷やして、薬草を塗り直して、時折アンディが身じろぎすればその口許にこまめに水分を運んで。

 きっとそうして、彼女が献身的に看病を続けていたから、アンディはここまで回復できたんだろうと思う。

 ──本当に良かった。そう思いながら、腹の内側でちりちりと嫉妬が燻るのを止められない。

「ホイミン。休んできていいよ? しばらく僕が代わるから」

 そんな、直視したくない黒い感情に黙って蓋をして。ずっと魔法をかけ続けてくれているであろうホイミンを撫でやり、休憩を促した。

「そぉ〜? ごしゅじんさま、ねた〜?」

「うん、もうぐっすり。魔力も戻ったし」

 微笑みを返し、昨晩から何度も詠唱した回復魔法を掌に喚び起こす。今朝方枯渇した精神力は日中のほぼ全てを費やした睡眠で無事回復を果たしていた。

「じゃあ、ちょっとだけいってくる! ふろ〜らちゃん、またね〜!」

 相変わらず、疲労など感じさせないのんびりっぷりで部屋中を大きくふよふよと漂い、ホイミンは窓から出て行った。いつの間にそこまで親しくなったのか「本当にありがとう。ゆっくりしてきてね」とフローラが微笑みそれを見送る。──何故か、つい最近そんな夢を見たような気がして、僕は軽く瞬いてから首を振った。

「貴女も、少し休んだ方がいい。僕が看ていますから」

 魔法を施しながら休息を勧めてみたが、彼女は緩い笑みとともに遠慮がちに首を振る。

「お気遣いありがとうございます。でも……家に居ても、眠れなくて」

 そっと、青黒く染まった目許を隠すように触れ、彼女は僕から顔を背けるように俯いた。

「……ごめんなさい。お見苦しい、ですよね」

「そんなことは」

 思わず大きな声が出てしまい、慌てて言葉を呑み込んだが遅かった。小さく呻くような声がベッドの方から聞こえ、フローラは反射的にそちらへと身を乗り出す。

「────、アンディ」

 金髪の青年は、うっすらと瞼を開けると僕が見たこともない穏やかな、優しい眼差しを彼女に向けた。

「……なんて、顔。してるの……フローラ」

「……っ、だっ、て、……あなたが……」

 みるみるうちに瞳から涙を溢れさせるフローラを、アンディがさも愛しげに見遣って。

 そんな光景を目の当たりにして、ざわざわと耳障りな音が鼓膜の内側へと纏わりついてくる。

「……つくづく、運の強い人ですね」

 二人のやりとりに立ち尽くすばかりの僕にやっと視線をよこし、アンディがそう呟いて、息を吐く。

「二度も……助けられました。ありがとう、ございます」

「いえ、仲間達が頑張ってくれたお陰です。それより……間に合って、良かった」

 二人には見えないよう、後ろ手に拳をきつく握りしめて、平静を装い答える。──こんな気持ち、どちらにも絶対に気取られたくはない。

 僕の澱んだ感情などきっと知らない彼女が、涙を拭いアンディに言葉をかける。

「ずっと、あなたに回復魔法をかけてくださっていたんですよ。テュールさんも、仲間の皆さんも……ガンドフさんだって、昨晩ずっとあなたの身体を冷やしてくれて……」

 荒れた手で、脱力したままのアンディの掌を包んで。彼女は含めるように、一言、一言丁寧にそれを伝えていく。

「もう、あんな危険なところには、行かないでください……お願い」

 最後はまた、涙声に呑まれて。

 しばらくそうして、フローラのすすり泣くような声だけが室内に密やかに響いた。

「まったく……存外、気が利かない人だな」

 ややあって、呆れたようなアンディの掠れ声が耳に届く。何もできずただ立ち尽くしていた僕は、彼の言葉に若干鼻白んだ視線だけを返した。

「……あんな、溶岩の向こうまで単身乗り込んでおいて、生きて帰ってきたんです。……手に入れたんでしょう?」

 アンディの静かな問いかけに、本当にごく微かに、

 フローラの小さな背中が、震えた気がした。

 ベッドに深く身体を沈めたまま僕にそう問うたアンディに、僕はただ──黙したまま、顔を背けた。

 手に入れた、と、この場では何故か、言いたくなかった。

 肯定も、否定もしたくなかった。

 下らない、意地だったのかもしれなかった。

 ────臆病だったのかも、しれなかった。

 彼女が其処で、どんな心境で、僕の答えを聞いていたのか、

 

 そのときは確かめるのが、ただ酷く、

 怖かった。

 

 

 

 その後すぐ、当のアンディに促され、僕はフローラをルドマン邸へ送るという名目でアンディの家を追い出された。

 もう大丈夫だから、フローラの方が倒れそうじゃないか。しっかり休んで、元気になったらまた顔を見せに来て。

 看病していた本人からそこまで言われたら、フローラもさすがに引き下がるしかないようだった。

 辺りはすっかり暗かったから彼女を送ること自体はやぶさかではないし、束の間とは言え二人きりで歩けることは嬉しかったけれど、それ以上に今は、先ほど答えられなかったアンディの問い掛けが重く心にのしかかっていた。

 ──気づきたくない、考えたくないことが。一度は黙殺した考えが、さっきから否応無しに僕の思考を揺さぶっている。

「……テュール、さんは」

 そう、遠慮がちにフローラが言葉を発する。

「……あの……いえ、ごめんなさい。なんでも、ありません」

 何か問おうとしたようだったけれど、そのまま口籠もり、また沈黙してしまう。僕も、折角のフローラと話す機会だというのに、聞きたいこと、話したいことが何一つまとまってくれなかった。

 何を言っても、何を聞いても、己の情けなさを露呈するだけのような気がして。

 ────指輪を、

 僕が持ち帰ったなら、貴女はどう思いますか。

 あの日「夫となる人は自分で決めたい」と言った貴女に、意に添わぬ婚姻を強いてしまうことにはなりませんか。

 大広間に候補者が大勢ひしめき合っていた中、僕に気づいてくださったのはなぜですか。

 アンディをあんなにも親身に看病したのは、幼馴染だから、ですか。

 あんなにも泣いたのは、ただ僕の身を案じてくださっていたから、なのですか。

 

 ────誰に、『夫となる相手』を、望みますか。

 

「……テュールさんは、お優しい方ですね」

 唐突に。ぽつりと、彼女が僕の隣でそう呟いた。

「──そう、でしょうか」

 どきりと心臓が高鳴る。その動揺をできるだけ押し隠して僕が答えると、隣を歩く彼女が密やかに微笑んだような気がした。

「お仲間の皆さんを見ていれば、わかりますもの」

 それきり、僕達の間にはまた沈黙が満ちる。

 噴水広場を抜け、橋を一つ渡れば、すぐにも彼女の屋敷に辿り着いてしまう。

「……わざわざお送りくださいまして、本当に有難うございました」

 門の前で振り返り、フローラは美しい髪を肩からさらりと流して僕に頭を下げてくれた。

「いいえ。これくらい」

 相変わらずろくな返答ができなくて、僕は名残惜しい気持ちを気取られないよう声音を抑えて首を振る。

 顔を、あげた彼女が、

 ────幻かと思うほど。

 ほんのわずかに、僕を上目遣いに、見上げた。

 くたびれきったその頬に、ほんのりと赤みを差して。

 ルドマン邸の周りは他よりずっと明るかったから、そう見えただけかもしれない。

 僕が彼女を望むあまり、そう感じただけかもしれない。

 けれど、彼女が一瞬だけ見せたその表情は、気のせいというにはあまりにも────

 

「フローラ。やっと帰ったのか」

 

 甘やかな瞬間は、無情な一言にあっけなく破られる。

 低い一声と共にフローラの背後の扉が開き、傅く使用人に見守られながら館の主が姿を現した。

 ──先日大広間の階段で見た、ロドリーゴ・ルドマンその人だった。

「……お父様。遅くなってしまって、本当に申し訳ございません」

 微かに驚きを見せたものの、フローラはすぐにしなやかな礼をとり父親に頭を下げる。

「全く、嫁入り前の娘が……ノルンの息子が心配なのはわかるが、婚約者でもない男の部屋にこうも遅くまで入り浸る娘があるか。はしたない」

「承知しております。──意識が戻りましたので、もうこれほど長い時間お邪魔することはないかと」

「当然だ。そろそろお前は自分の立場を……、そちらは?」

 立ち去るタイミングを失ってしまい、フローラの後ろでずっと親子のやりとりを聞いていた僕だったが、突然話を振られ慌てて背筋を伸ばす。紫の外套を纏っているから、彼の方からは宵闇に溶けてよく見えなかったのかもしれない。

「突然の訪問失礼いたします。テュール・グランと申します。遅い時間でしたので、フローラさんにここまで付き添わせていただきました」

 一歩、前へ出て頭を下げる。彼の不興を買わないよう、なけなしの語彙を総動員して挨拶を述べた。ルドマン卿はそんな僕をまじまじと見つめると「あの時の若者だな」と低く呟いた。

「──テュールさんは、あの火山でアンディを助けてくださったのです。お仲間の皆様と共に、アンディの治療にもあたってくださいました」

 少し、語弊があるような気もしたが。僕も一度は助けたことは事実だし、仲魔達と交代で回復魔法を施し続けたのも本当ではあったので、僕は黙ってフローラの言に首肯した。

 ルドマン卿はそんな僕とフローラを尚も見比べていたが、ふむ、と一つ頷くと軽く指をならして僕を手招きした。

「ちょうど良い、寝る前に一杯やろうと思っていたところだ。君、付き合いなさい」



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#7. 酒席

 通されたのは、あの日と同じ大広間だった。

 大広間と思っていたが、実際は本当に広すぎる応接間だったらしい。当日は撤去されていた立派なテーブルが二つと豪奢な椅子が幾つか置かれ、広いその卓上の一つには所狭しと大小の瓶が並ぶ。もう一つの、部屋の中央に置かれたテーブルには小洒落た料理が何皿も。さすがは富豪、と思わざるを得ない晩酌の様相だった。

「昔から各地の酒を集めるのが好きでね。まぁ掛けなさい」

 着席を促され、僕は恐縮しながら端の方に置かれた椅子に腰を下ろした。誘われるままについてきてしまったが、フローラの父親と一対一で飲む、などというシチュエーションはさすがに想定していなかった。当のフローラは、急な誘いに緊張する僕をひどく申し訳なさそうな顔で見上げていたものの、屋敷に入るとすぐに彼女の自室へと追いやられてしまったようだった。未婚の娘が男同士の飲みの席に顔を出すものじゃない、という父親のお説教つきで。

「グラン君と言ったか。出身はどこかね」

「……サンタローズです。ただ、僕自身はずっと旅をしておりまして」

 ずいぶん昔に滅んでしまった村だが、故郷と呼べる場所はあそこしか知らないので、正直にそう答える。

 僕の返答を聞き、卿は苦いものを噛みしめるように顔をしかめる。……その瞳は、古い過去の記憶を呼び起こすかのように遠くを見ていた。

「サンタローズ……か。久々に聞いたな。昔、何度か立ち寄ったことがある。実に美しい、のどかな村だった」

「──ご存知でいらっしゃいましたか?」

 今度は僕が、驚きの余り前のめりに尋ね返す番だった。

「これでも、昔は冒険家でね」

 どこか愉しげに卿は言い、僕の目の前に美しいグラスを卒なく差し出す。

「若い頃はずいぶんといろいろなところを回ったものだ。……しかし、ラインハット王国がサンタローズを滅したのはかなり昔の話ではなかったかな? 君はその時まだ子供か、生まれていなかったくらいだろう」

 低く、確認するように問われ、僕は静かに目を閉じて頷いた。第三者からその過去を語られることに少しだけ胸が痛んだが、過ぎてしまったことは何事も変えられない。

「仰る通りです。当時の僕は六歳でした。……理由あって、サンタローズが滅んでからは長く、あるところで過ごしていまして……最近ようやく戻ったばかりです」

 濁した答えが気になったようだったが、卿は結局それ以上の追求はしなかった。その代わり、ずらりと並んだ瓶から酒を選びながら、ラインハットの話題を口にする。

「なるほど、随分と苦労をされているようだ。──ラインハットと言えば、最近も何やら騒動があったらしいな。長く行方不明だった王兄殿下が帰還されたとか」

 卿の言葉に僕は一瞬返答を悩んだが、思いがけず耳にした懐かしい友の話題に頬が緩み、自然と小さく頷いていた。

「……友人です」

 卿は軽く瞠目して振り返り、僕の表情を見て満足げな笑みを浮かべた。

「どうやら、君は色々と冒険譚を持っているようだ。これを肴に、どこまで聞かせてもらえるかな?」

 言いながら取り出したのは、黄色いラベルがどこか可愛らしい、細身の美しい小瓶。

「今は亡き、サンタローズの蜂蜜酒だ。年代物だが、どうかね?」

 

 

 

 それから、僕とルドマン卿は時間を忘れて話し込んだ。

 ヘンリーの国の内情に関わる事柄についてはさすがにあまり込み入ったことまで話せなかったが、ラインハットの王太后が別人──つまりは魔物だったが──に成り代わっていた件、ヘンリーが陣頭に立ってその企みを砕いた件については、彼の手伝いをしたということで所々ぼかしながら話をした。ルドマン卿は少年のように目をキラキラと輝かせ、僕の話に食い入るように聞き入っていた。

「いや、面白いな。君は面白い! 若いのにまぁ、随分と修羅場を潜ってきておる。儂は君のような若者が好きでな、男はやはりこうでなくてはいかん!」

 興奮した様子の卿が僕の肩を叩いて笑う。恐縮しつつも、気に入ってもらえるということは当然悪い気はしない。

 また、ルドマン卿が若かりし頃の冒険譚も幾つか聞かせてもらった。見たことのない世界の話も幾らかあった。灼熱の砂漠が広がる中に佇む美しい国の話。秘境ともいえる山の奥深くに人を寄せ付けず聳え立つ城の話。南の海のどこかに浮かぶ不思議な収集家の館の話。

「────いや、こんなに旨い酒は久し振りだ。あの子の目は曇っていなかったようだな」

 話の合間に、卿がグラスを揺らしながらどこか嬉しそうに、ぽつりとそう呟いた。

 意味を捉えかね軽く首を傾げると、卿はまた照れ臭そうに笑い、手の中のグラスを一気に呷る。

「いや、あの場に来てくれた君だ。どうかね、フローラのことは? 憎からず想ってくれていると、儂は考えているんだが?」

 ずずい、と僕の方に身を乗り出し、卿が気分もよさそうに僕にそう問うてくる。

 憎からず──どころか、僕はあなたのお嬢さんに呆気なく、この心をすべて囚われてしまっています。

 などと口にするのはあまりに気恥ずかしく、恐らくは顔を赤らめて俯いてしまった僕に、卿はますます笑みを深め背をばしばしと叩いてくる。

「なんだなんだ! こっちの方は随分と奥手だな。まぁそれくらいの方が誠実で良い」

「……恐れ入ります。卿」

 酒のせいだけではなく熱を持った頰を軽く抑え、僕は軽く息をつく。この話題だけはどうにも未だ、気恥ずかしさに打ち克つことができない。

「君ならばきっと伝承の二つのリングを見つけてくれるだろう。期待しておるよ。もう何人かは死の火山へ向かったらしいと聞いたが……そうか、君がノルンの息子を火山で助けたと、そう言っていたな?」

 満足そうに僕の顔を覗き込む卿の言葉に、すっかり忘れていた指輪のことを思い出す。

 今、報告してしまっても良いものだろうか。

「はい、実際に彼をこの街まで運んでくれたのは仲間達なんですけど……、あの、実は」

 そこまで言って、僕はちらりと卿の様子を窺う。すっかり僕を信頼してくれているその眼差しに心を落ち着かせ、僕は深呼吸を一つすると服の内側にぶら下げたままだった細い鎖を取り出した。

「……こちらを」

 一度、掌に握りしめてから、そっと卿に差し出した。夕闇色の指輪は尚も不思議な温もりを湛えている。卿は目を瞠り、息を呑んだまま指を差し出し僕の掌から指輪を摘んだ。卿が覗き込んだ宝石の内側には、きっとあの不思議な炎が揺らめいていたに違いない。

「……こんなに、早く、手に入れるとは」

 驚嘆に声を震わせ、卿が呟いた。黙って掌を収めた僕と、指輪を交互に見比べる。その頰がじわじわと紅潮し、卿がこの上なく歓喜に満ちた表情で立ち上がる。

「いや、──天晴れだ! グラン君、いやテュール君と呼ばせてもらおう。君は凄い男だ。これほどの歓びを覚えたのはいつぶりだろうな!」

「本当は、二つとも揃えてお渡ししたかったのですが……申し訳ありません。慌ただしくて、水のリングの方はまだ探しにも行けていなくて」

 そんなにも喜ばれてしまうと寧ろ片方しか渡せないことが心苦しく、僕は卿に詫びたが、卿は首を振ると破顔したままいそいそと使用人を呼びつけた。何か囁き、使用人は会釈をするとすぐに応接間を出て行く。そうして僕の方を向き直り、卿はますます興奮した様子で身を乗り出した。

「聞かせてもらわねばならん話が増えてしまったな。どうだった? この指輪を得た時は。死の火山ではどうやって探索したのかね? 以前足を踏み入れた時にはあちこちから溶岩が噴き上がっていて、ろくに進めなかったものだがね」

 結局、僕はルドマン卿に捕まったまま、魔物と斬り結びながら洞窟を探索した話、仲間の力を借りて溶岩の沼地を駆け抜けた話、灼熱地獄の中単身で溶岩の魔人と戦った話──途中からホイミンに助けられて全ての魔人を斃した話まで、ほとんど洗いざらい告白させられた。ルドマン卿の輝く瞳はその間ずっと燻ることはなく、僕達は夜が更け切るまで長い長い時間を語り、飲み明かしていたのだった。

 

 

 

 恐らくまたも明け方近い頃、僕はやっとルドマン邸から解放されふらふらと宿に戻った。

 連日おかしな時間に戻る客に番頭は少しばかり怪訝な顔をしたが、特に何も言わず部屋の鍵をよこしてくれる。

 僕はずっと喋っていたのであまり飲まずに済んでいたが、もともとあまり酒には強くないので、部屋に戻りベッドに身体を沈めると酔いとともに急激に重たい疲れが襲ってきた。

 ──今日はさすがに、湯を使ってから休もうかな。

 眩暈のような気持ち悪さを覚えながらも上半身を起こす。外套とターバンを外して棚に置き、身軽にしてから着替えを手に取った。ふと胸許に手をやり、さっきまでそこにあった指輪に思いを馳せた。

 ルドマン卿が何かを使用人に言いつけたしばらく後、運ばれてきたのは上品な小箱だった。

白く美しいその小箱は二つあり、一つには赤と金の糸で、一つには青と銀の糸でシンプルな刺繍が施されていた。その、赤の糸の小箱を卿が手に取り、そっと開いて中を見せてくれる。

「君の、結婚指輪を入れてもらおうと思ってね」

 それは宝石箱だった。指輪を一つだけ収められるその台座は美しい白い絹で彩られている。優しく囁き、ルドマン卿が僕の炎のリングをそこに収めるよう促した。──わずかに躊躇ったが、僕が持ったままどこかで紛失してしまう心配をするよりは、こうして預かっていただく方がいいのかもしれない。そう思い直し、台座に指輪をそっと差し込んだ。

「二つ揃うのが楽しみだな」

 片方に指輪を収めた色違いの宝石箱を隣合わせに並べて眺め、ルドマン卿は嬉しそうに目を細めた。

 ──その表情は、いつの日か亡き父が僕を見つめてくれた眼差しにとてもよく似ていた。

 愛しい娘の幸せをただ希う、父親の顔だった。

 炎のリングは炎の火山に。では、水のリングは水の多い場所にあるのかもしれない。そう僕が言うと、ルドマン卿は快く船を貸すと言ってくれた。

「小さな帆船だが、それ故に小回りがきく。この大陸内の水場を探索するなら十分だろう」

 馬車はあってもさすがに船までは持たない僕には、有難すぎる申し出だった。

 思いがけず、彼女の父親の厚意を……好意を、頂ける結果になった。あとは、────

 そうして、僕はふと空を仰ぎ瞼を閉じる。

 昨夜、別れ際にフローラが見せた、あの表情が瞼の裏側に浮かび上がる。

 ほんのりと目許を染め上げた、あの遠慮がちな眼差しに、

 ────僕は、恋情を見た気がしたのだ。

(……都合よく、考えすぎ……かな)

 吐息を零せば、少しだけこの胸の苦しさが和らぐ気がする。

 それでも、あの幻のような一瞬を想うだけで、この胸には甘やかな熱が何度でも甦る。

 信じたい。この想いが、僕の独り善がりではないのだと。

 僕だけの想いではないのだと。

 このまま指輪を二つとも手に入れて、ただ形式的に彼女を妻にできたとしても、きっと心から満たされはしないだろうと、僕はもうなんとなく解っていた。

 彼女の気持ちが伴わない結婚など、僕は強要したくない。

 でも、易々とその権利を、誰かに渡すこともまた耐えられない。

 ……だから、僕は指輪を探す。

 二つ揃えて、その時はきっと彼女の気持ちを確かめに行く。

 指輪でもルドマン卿でもなく、彼女自身に僕を望んで、選んで欲しい。そう思うから。

 もしも、選んでもらえなかったら──選んでもらえるよう、努力する。それしかできない。でも、今の僕なら。君が誰かのものにならない限り、僕はきっといつまでだって君の気持ちを待っていられる。……そう、思えるから。

 その時のために、もう少しだけ、勇気を育てるから。

 ────まだ、答えは出さないでください。

 そして、いつか、……

 

 どうか、

『僕』を、選んでください。

 

 

 

 

 急いで湯を使ってまたベッドに倒れこんでから、やはり昼も過ぎる頃、僕はやっと目を覚まし次の旅に向けての準備を整えた。

 一度ルドマン家を訪問し、昨夜の礼と、船をお借りする件について改めて話を聞いた。

 操船はしたことがないので不安があったが、水のリングを探す間は操船できる方に一人ついていて頂けることになり、肩の荷が下りた。

「昨夜あれだけ言ったのに、フローラはまたノルンの息子を見舞っておるらしい。気を悪くしないでくれると良いんだが」

 申し訳なさそうにそう言ってくれるルドマン卿に、僕は微笑んで首を振る。彼女の気持ちは痛いほどわかるから──この胸が痛まないといえば嘘にはなるけれど、彼女自身の為にも必要なことだと解っていた。アンディの回復をその目で確かめないと、彼女に安眠できる日は訪れないのだろうから。

「大丈夫です。……少し、彼が羨ましいですけど。それでは、明日から船をお借りしますね」

 僕の言葉にルドマン卿は微笑ましげに目を細め、「楽しみにしておるよ」と言い添えてくれた。

 宿に戻り、支配人と番頭に明日からまたしばらく部屋を空ける旨を伝えた。どうやら僕が寝ている間に、炎のリングを持ち帰った者がいるらしい、という噂が街中に広がっていたようだった。そういえば先ほどちらりと「無駄に怪我人を出すのも本意ではないからな」とルドマン卿が言っていた気がする。支配人達はどうやら僕がその指輪を持ち帰った張本人だとほとんど確信しているらしく、羨望のような、妙に高揚した熱い視線で以て頷かれた。

 ──つまり、恐らくはフローラも聞かされた、ということ。

 むずむずと腹の奥に湧き上がる気持ちを懸命に抑え、すれ違う人々の好奇に満ちた視線を受け流しながら、僕は馬車で暇を持て余す仲魔達の元へと走った。

「あっ、ごしゅじんさまだー! わーい!」

 あまりに暇すぎて馬車の外で遊んでいたらしいスラりんが真っ先に僕に気づき、ぴょんぴょんと跳ね回る。そんなスラりんの周りをふわふわ漂うホイミンは、「でかけるの〜?」とにこにこしながら問いかける。僕は頷き、馬車の幌を開けて頼もしい仲魔達の顔を一人一人、眺め見た。

 プックル、ピエール、ガンドフ、マーリン。スラりんにホイミン。みんな、僕をいつでも支えてくれる、大切な大切な仲魔達。

「や、みんな。随分待たせちゃって、ごめんね」

「遅いオハヨウ、ですな? あるじ殿」

 なぜかにやにやした声音でまぜ返してくるピエールに苦笑を返し、僕は清々しい気持ちで、みんなに告げる。

「次は船だよ。──水のリングを、探しに行こう!」

 

 

 

 意識を取り戻したとはいえ、まだ体調に不安の残るアンディの為に、ホイミンだけこの街に残していくことにした。

 アンディの両親を訪ね、治療がてらホイミンを預かってもらいたい旨を伝え、ホイミン本人にも留守の間のことをよくよく頼んで、翌朝僕達はいよいよサラボナを発った。

 結局、一昨日家に送ったのを最後にフローラに会うことはなかった。

 想いが募るばかりの今、彼女を目にしてしまったら、一層離れ難くなってしまう気がして。

 それに、僕が炎のリングを手に入れたことを──婚約者の座に王手をかけたことを彼女にどう思われているのか、知ることがまだ、怖かった。

 街を出てしばらく北に進むと、すぐに小規模ながらも見事な船が目に留まる。その船の前で、熟年の男性が待ち構えていた。

 船体に刻まれたルドマン家の紋章をちらりと確かめ、彼に深々と頭を下げる。

「初めまして、テュール・グランと申します。この度は大変お世話になります」

「テュールさん、よろしくどうぞ。旦那様から話は聞いております。私も若い頃は旦那様に仕えて世界中を周った身、貴方の働きには大変期待しております。参りましょう!」

 僕達は船に乗り込んだ。ポートセルミで見たどの船より小ぶりではあったが、馬車を載せても十分なほどの広さがある。その船の使い勝手の良さに僕は思わず感嘆する。

「よし。行こうか!」

 天気も良好、決して大きくはない帆を張って。

 僕達は新たな冒険を求め、未開の水辺へと漕ぎ出したのだった。



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#8. 再会

 久々の船旅はとても心地いいものだった。

 海とは違い、サラボナを囲む山々を眺めながら、その木々の間を流れる大きな河を上ってゆく。陽射しもちょうど良く、波間から立ち上がる涼しい風に身体が冷えすぎることもない。潮風に髪がべたつくこともなく、爽やかな森の香りを吸い込みながら揺れに身を任せる。

 ここ数日の疲れもあってか、揺られているだけでうとうとと気持ちのいい眠気に落ちてしまいそうになる。

「お疲れでしょうから、寝ていてくださって構いませんよ」

 クラウスさん──ルドマンさんがつけてくださった帆船の航海士が笑いながらそう言ってくれたが、僕は彼の有難い言葉に苦笑しつつ首を振り返した。

 せめて、急な魔物の襲撃には備えていたい。それに、乗り込んで早々に操船を任せきりにして寝てしまうなんて、申し訳なくてさすがにできない。

 クラウスさんは、普段からこの川沿いを視察する際、ルドマン卿の供をなさっている方だという。クラウスさんの操船の腕は確かで、絶妙に風を捕まえて帆船は素晴らしいスピードで進んでいく。

 ここはルラフェン地方に続く、大きな湖に繋がっている水路らしかった。昔はこの辺にもっと多くの集落があって、この水路が重要な移動手段だったのだろう。魔物が増えたり、人が街に集うようになったりで寂れていってしまった、といったところだろうか。

「あー、きもちいねー」

 遊び疲れたらしいスラりんが、舳先に這い上がって風をたっぷりと受け止めながらぷるぷると小さな体を震わせている。

「こーら。落ちるなよ?」

「だいじょぶだもーん」

 答えるなり、ぴょこぴょこ跳ねながら僕の肩に戻ってくる。珍しく甘えるように頰に擦り寄ってくるスラりんを、僕は指の背でくすぐるように撫でてやった。

 こんなにものどかな時間は本当に久しぶりで、今しなければならないことが何か、ともすれば失念してしまいそうになる、けれど。

 ──ここに、フローラがいたらいいのに。

 思考の空白に、忘れたくても忘れられそうにない僕の想い人を不意に思い出してしまい、つい口許が綻んでしまう。

 疲れきったあの人に、こんなにも優しい、穏やかな時間を過ごさせてあげられたなら。

 頬を撫でてゆく翠色の風の心地よさに、目の前をあの碧い髪がそよいでいく幻想を視る。

 アンディが運び込まれてから一昨夜まで、殆ど寝ずに看病していた彼女。その姿に、何度も直視し難い痛みを味わった。けれどその最後──彼女を屋敷へ送り届けた一昨日の夜、別れ際に彼女が僕にくれた眼差し一つで、迷いも苦しみも吹き飛んだ。

 信じてみたい。勇気を、出したい。

 僕だけの恋ではないって、思いたい。

 僕の思考に同調してくれたみたいに、船の一角に座り込んでいたプックルがのそりと立ち上がり、手の甲にその頭を軽く擦り付けてくれる。

「……うん。そう、まずは水のリングを見つけないとね」

 その勇猛な、頼もしい瞳を覗き込み立派な毛並みを撫でれば、プックルは得たりとばかりに嬉しそうな喉声を鳴らしてくれた。

 ──そう、全ては指輪を揃えてから。

 そうしないと、僕達の関係は始まりすらしない。君に想いを伝えることも、君に本当の意味で振り向いてもらうことも。……でも、いつか。

 君と、こんな時間を共に過ごすことができたなら。

 そんな、幸せな想像に束の間、身を委ねる。

 水面に映り煌めく木漏れ日と、さやめく風の音に包まれて、船上の時間は穏やかに流れていった。

 

 

 

 サラボナを離れて一日半、時折遭遇する魔物を退けながらも船の上で一夜を明かし北上を続けてきた僕達だったが、辿ってきた水路は山の奥深く、大きな水門を前にして途切れてしまった。

「ああ、忘れていましたよ。この時期は水門が閉まるんだった」

 クラウスさんの言葉に僕は振り返り、首を傾げた。

「この時期は突発的に雨量が増えることがありますので、念のため普段は水門を閉じているんです。近くに村がありまして、そこで水門を管理しておりますね」

「なるほど。では、特に水量に問題がなければ開けてもらえる、ということですよね?」

 水門を見上げながら僕はクラウスさんに問い返す。ふと、水門の横に粗末な立て札があるのが目についた。立て札にはこんな注意書きが貼り付けられている。

 

『無用の者 水門を 開けるべからず

 用のある者は ここより北東

 山奥の村まで』

 

 水飛沫が浸みて文字が些かよれてはいたものの、雄々しい字でそう書かれている。

「そういうことになります。もし、行って管理人を呼んできてくださるのでしたら、私はここで船を見ておりましょう」

「良いのですか? 村があるのでしたら、今夜は宿を取ってクラウスさんにも休んでいただいた方が。まだまだ長丁場になりそうですし」

 僕の冒険に付き合わせてしまう負い目があり、せめてもとそう提案してみたが、クラウスさんは穏やかに首を振った。

「私は根っからの船乗りですから、陸より水の上の方が落ち着きます。テュールさんこそ、是非一晩ゆっくり休んでいらしてください。今からでしたら村に着く頃には丁度夕刻ですし、あの村は温泉が評判ですから、きっと疲れもとれると思いますよ」

 クラウスさんの勧めに恐縮しつつ頷き、僕達は船を岸に寄せると近くの樹に入念に括り付けた。船に興味があるらしいピエールと船で寝るのが気に入ったらしいガンドフを用心棒として残し、馬車と荷を少しだけ下ろす。

「それでは、明日の昼過ぎに戻ります。よろしくお願いしますね」

 残ってくださるクラウスさんと仲魔達に留守を託し、僕は馬車と共に北東の村へ向けて出発した。

 

 

 

 

 

 ある程度均された地面ではあったものの、やはり山道なのでどうしても足を取られる。

 もう少し早く着けるかと思ったが、村が見える頃にはクラウスさんの言った通り夕刻になっていた。

 山裾を染める夕日が、どんどん落ちて見えなくなっていく。

「宿を取る前に、水門の管理人の方に話を通した方がいいだろうね。遅くなっては申し訳ないし」

「では、私が聞いて参りましょう」

 いち早く進み出てくれたマーリンが、村近くの畑にいた村人に近づき何やら聞き込みを始めてくれる。

 魔物だけれど「魔法使い」と呼ばれる種族であるマーリンは、特にこの暗がりでは一見普通の老人に見える。普段でも深くフードを被ったその様は賢者のようにしか見えない為、こうして僕の代わりに見知らぬ土地で立ち回ってくれることが多々あった。

 しかし、一度戦闘となればその魔力は絶大で、仲魔の中では随一を誇った。同じ魔法でもマーリンが詠唱するものは威力が違うのだ。さすがに腕力はなかったが、強大な敵と対峙した時こそ後方から放たれる強力な魔法は何度も僕達の切り札となってくれていた。

 マーリンが話をしてくれている間、僕も何か情報を得られないかと夕闇に染まり行く村の中を見渡す。……と、視界の端にいくつか並んで建てられた墓石と、そこに跪き祈りを捧げている一人の女性の後ろ姿が目に付いた。

 ──墓参りかな。

 そういえば、父の墓、というものがなかった気がする。亡くなったのは遺跡の中だったし、確かラインハットにもなかった。それに、今やサンタローズは廃墟も同然だったから。

 先日、思いがけずルドマン卿とサンタローズの話をしてしまったからか、唐突にそんな思考が頭をよぎっていった。──いや、そんなことも考える余裕がないくらい、僕が今まで遺言のことで頭がいっぱいだっただけなのかもしれない。

 今度、サンタローズに寄ったら、粗末でいいから墓を作ろう。家のあった場所でもいい。

 そんなことをぼんやり考えていたら、いつの間にかマーリンがすぐ側に戻ってきていた。

「お待たせしました。この村の一番奥に、ダンカンという者が住んでおるそうです。その家の者に言えば水門を開けてくれるだろうと」

「ダンカン?」

 聞き覚えのある響きに、思わず聞き返す。

「──ええ、左様です。身体を壊して療養しているそうですが、娘がおるので水門を開ける分には問題なかろうと。……いかがなされた? ご主人」

 淡々と報告しながらも、本題とは違うところに食いついた僕にマーリンが若干怪訝な視線を寄越す。

「ダンカン、って言ってた? 本当に?」

「左様でございますが」

 重ねて聞いた僕に、駄目押しとばかりにやはり淡々とマーリンが答える。

 ──ダンカン。アルカパで再会できなかった、幼馴染みの苗字だ。あの宿屋を買い取ったという夫妻がそう言っていた。もちろん、人違いかもしれないけれど、でも。

「あ、……ごめん。じゃ、早速その、ダンカンって人の家に行ってみるね。マーリン、ありがとう」

 喜ぶのはまだ早い。僕はいつものように微笑みを繕い、マーリンを労った。賢者然した凄腕の魔法使いは、フードの下で澄ました顔をして頷いた。

 

 

 

 小さな村なので、奥の家というのはすぐに見当がついた。

 村全体が棚田のようになっていて馬車を入れづらかったので、皆には村の入り口付近に留まってもらうことにして、僕は逸る心を抑えつつその一番上、奥まったところに建てられた家の扉を軽く叩いた。

 中から幾度か大きく咳き込む声が聞こえ、「はい、ちょっとお待ちくださいよ」と掠れた男性の声が聞こえる。先程、マーリンがダンカン氏は身体を壊して療養していると言っていたから、休んでいるところを起こしてしまったかもしれない。

「あの、ゆっくりで結構ですので。水門のことで伺いたいことがありまして」

 扉の向こうに聞こえるよう、ゆっくりと呼びかける。──呼びかけながら、僕は奇妙な既視感の理由を紐解こうと懸命に記憶を探っていた。

 咳。ダンカン。療養。

 ──風邪をひいて。うつったみたいだね。

 唐突に、水の中に放り込んだ記憶の扉が開くように、映像が雪崩れ込む。宿屋で寝込む父の姿。中々サンタローズに帰れなくて、サンチョが恋しくなった頃いつもビアンカが遊びに誘いにきてくれた。アルカパの、街の中で小さなプックルに出会って、それで──

 

「すみませんね、お待たせして」

 

 扉を開けたその男性は、記憶の中にある風邪をひいた男性より随分老けて見えた。白髪だらけのその髪はやや長く、寝巻きと思しき格好に肩掛けを載せている。ごほ、ごほ、と何度か咳き込むと、「ちょっと、体調が良くなくてね」と困ったような愛想笑いを浮かべた。

『うつっちゃいかんから、あっちに行っていなさい』

 ──子供の頃に見た笑顔にそっくりだった。

「おじさん」

 思わず、声が出た。取り戻したばかりの記憶に手が震える。それでは、やはりこの家は。

 明らかに不審な僕の様子に、ダンカンさんは眉根を寄せ首を傾げる。

「はて、どちら様で……? どこかでお会いしたことがありましたかな?」

「テュール、です。おじさん。パパス・グランの息子の……ビアンカのお父さん、でしょう? ダンカンさん」

 畳み掛けるように、そう言った。人違いではないことを祈って。──僕の言葉に、目の前の初老の男性はみるみるうちに顔色を変える。目玉が飛び出そうなほどに目を見開いて、口もあんぐりと開けたまま、僕の顔を懸命に見上げてくれる。

「え? パパスの息子? ──本当に、あの坊主かい⁉︎」

 僕も興奮を抑えられず、思わずこくこくと何度も頷く。

「はい。ご無沙汰しています。まさか、こんなところでお会いできるなんて」

 本当に、ダンカンさんその人だった。名前を聞いた時にはまさかと思ったが、予期せぬ再会に胸が熱くなるのを感じる。──ということは、娘、というのは。

「いやぁ、驚いた! よく生きていたなぁ。そうそう、昔はよくパパスに連れられてうちの宿屋に遊びに来てくれたなぁ。懐かしいなぁ。あーんなに小さかった坊主が、こんなに大きくなったのかい……」

 しみじみと僕を見遣り、ダンカンさんが瞳を潤ませる。「歳をとると涙もろくて、いかんね」と照れ臭そうに笑う彼に、僕は少し切なく笑って頷く。

「パパスはどうしたね? 父さんは。元気でやってるのかい?」

 僕を室内に招き入れ、ダンカンさんはそう尋ねてきた。折角喜んでくれているのに水を差したくはなかったけれど、僕は正直に首を振り答える。

「父さんは、あの……サンタローズがなくなった時に……」

 恐らく、それは想定内の答えだったのだろう。ダンカンさんは、ああ、と小さく呟くと、悼ましげに目尻を落とし僕を見た。

「──そうか。いや、坊主だけでもよく生き延びたよ。……一人で随分苦労しただろうに。よく頑張ったね」

 温かな労いの言葉に、はい、と噛みしめるように答える。

「うちも、母さんが亡くなってね。あんなに元気で丈夫だったのに……わからんもんだよ」

「おばさんが?」

 あまりに小さい頃のことはさすがに覚えていないが、父に連れられてサンタローズに帰ったばかりの頃、家にお客としてきていたビアンカの母親を思い出した。確か、その時もおじさんが風邪をひいていて、薬を取りに来たんだよって話してくれたっけ。

 その、お見舞いに行った父さんまで風邪を引いてしまって、大の男二人を看病していたのがおばさんだった。

「そう……なんですか。会いたかったな……」

 何となく、自分の母親のような喪失感を感じてぽつりと呟くと、ダンカンさんも目許を緩ませて頷いた。

「あとで墓参りでもしてやっておくれ。テュール坊が手を合わせてくれりゃ、母さんも嬉しいさ。──そういや、下の墓地の方でビアンカに会わなかったかい? ついさっき墓に行くって言って出て行ったんだが」

 ダンカンさんが言い終わらないうちに、扉の外で物音が聞こえた。咄嗟に立ち上がりそちらを注視する。「父さん? 鍵開いてるけど、またお客さん?」と、快活な声とともに扉が開け放たれ──立っていたのは、眩しいほどの輝きをまとった美しい女性。

 およそ十数年ぶりに見る幼馴染を、僕は息を呑んで見つめた。

 あの頃、僕をレヌール城へと毎晩連れ出した気の強そうな瞳は芯の強い眼差しへと成長し、二つに分けていた明るい金の髪は編み込まれて右肩に纏められている。僕より少し大きかった背は、今は僕が見下ろす程度で止まっていた。──記憶よりずっと大人びたその姿に、ああ、ビアンカは女の人だったんだ、と間抜けなことを思う。

「ビアンカ! 覚えているかい? パパスおじさんとこのテュール坊だよ。生きていたんだよ! 良かったなぁ!」

 ダンカンさんが喜びを滲ませ僕を指し示すと、ビアンカと呼ばれたその女性も目を見開き僕を凝視する。

「──うそ、……テュール? ほんとに?」

 けれど、真っ直ぐに僕を見つめるその瞳はほんの少し、あの頃の面影を宿していて。

 ずっと大人びた彼女にそんな風に見つめられるのが何だか気恥ずかしくなって、僕は少しだけはにかんだ笑顔で頷いてみせた。

「……本当だよ。久しぶり、ビアンカ」

 

【挿絵表示】

 

 宿を取るつもりでいたのだけれど、ビアンカとダンカンさんに熱心に引き止められ、僕はそのままダンカン家に一泊させてもらうことになった。

「ここで他の宿を取らせたりしたら母さんに笑われるわ。ダンカン亭の名が泣くよ、って」

 ビアンカはそう言って笑い、ダンカンさんも満足そうに何度も頷いていた。

 僕も、今夜くらいは二人とゆっくり話したいと思ったから、有り難くその申し出を受けることにした。

 仲魔達が待つ馬車へ一度戻り、食事を渡しがてら、ビアンカも連れて行ってプックルに引き合わせた。プックルもすぐに気づいたようで、喉を鳴らしてビアンカの掌に鼻を擦り付ける。件の猫がモンスターであったことにビアンカは少し驚いたようだったが、耳のあたりの鬣に括り付けたリボンに気が付くと「まだ持っててくれたんだ。このリボン、もうボロボロね」と少し涙を滲ませながら微笑み、長いことプックルの背中を撫でていた。

 ビアンカが用意してくれた夕食を三人で囲んで、僕達は取り留めなくこれまでの話をした。サンタローズが滅ぼされてから、ダンカン一家がアルカパの宿屋を引き払いこの村に引っ越してくるまでのこと。おばさんが時期外れの流行り病に冒され、治療の甲斐なく永遠の眠りについたこと。

 僕の話は、奴隷時代のことなど面白いことはないので言葉を濁しておいたが、父さんの遺言があってそれを果たす為に旅をしていること、実は母さんが生きているらしいことなどを思いつくままに話した。

 ダンカンさんは時折僕の話に目を丸くしたり感心したり、ビアンカはレヌール城を探検した時のようにわくわくと目を輝かせて、僕の話に聞き入っていた。

「──あ、父さんはそろそろ寝なきゃ。また体調崩しちゃうわよ」

 温かいミルクを三人で頂きながら尚も話に花が咲いていた僕らだったが、ふと時計を見たビアンカがダンカンさんにそう促した。

「うん? もうそんな時間か。すまんね、坊。年寄りは夜も朝も早くてね」

「もう。父さんはここがちょっと弱いのよね。寝不足とか、ちょっと寒い日とかすぐ祟るの。──あ、父さん、私も今日はそっちに寝るね。寝床を用意するからちょっと待ってて」

 ビアンカは自分の鎖骨の辺りをトントンと示しながら立ち上がった。咳が頻繁に出るようだから、気管支か肺が辛いのかもしれない。奥の部屋に消えて行ったビアンカを見送り、僕はダンカンさんに向き直った。

「働き者ですね、ビアンカ」

「だろう? この辺でも、気立ても器量もいいって評判なんだぞ。坊はまだ独り身かい? ビアンカもそろそろ身を固めて欲しいんだがねぇ。この田舎じゃ、なかなかいい話もなくてね」

 思わぬ方向からまたもやそんな話を繰り出され、僕は飲みかけのミルクをあわや噴き出しそうになる。

「……何か、どこに行ってもそういう話になるんですよ。僕はこういう身の上だから、そういうことはあまり考えたこともないんですけど」

 当たり障りなくそう答えると、ダンカンさんは何やら嬉しそうに口角を上げて僕を覗き込んだ。

「そうか、そうか! そりゃあ坊よ、お前さんがいい男に成長したからだよ。坊を見りゃあ婿に欲しいと思う親は多いだろうね。なぁ、もし────」

「ちょっと! もう、父さん。一体何の話をしてるのよ!」

 上機嫌で尚も距離を詰めてくるダンカンさんを、ビアンカの大きな声が制した。内心ほっとした僕はビアンカの方を振り返る。当のダンカンさんは、無念というような目で僕と娘をまじまじと見比べ、一つ大きく溜息をついた。

「──ビアンカ、お前だって……」

「はいはい、お床の準備ができましたよー。父さんはとっとと寝なさいな! テュールはまだ起きてられるわよね? もう少しだけ話しましょ! すぐ戻ってくるから、待っててね」

 一息にそこまで喋りきりながら、ビアンカはダンカンさんの背後に回りぐいぐいとその背を押す。ダンカンさんは少し咳き込みながらも「おいビアンカ、そう押すんじゃない。じゃあ坊、ゆっくり休んでな」とほとんど流されるように奥の部屋へと消えて行った。

 ──もう少し、病人は労った方がいいのでは。

 余計なことかもしれなかったが、取り残された僕はビアンカの有無を言わせぬ勢いにそんなことを思っていた。

「さ、これで邪魔者はいなくなったわ」

「邪魔者って……」

 さっさと戻ってきては何事もなかったかのように木卓に向かい腰掛けるビアンカに、僕は苦笑を返す。こういうところ、変わらないなぁ。

「そういえばさ、テュールはどうしてこの村に来たの? 観光、ってわけじゃないわよね」

 それぞれのカップにピッチャーに注がれたミルクを足しながら、ビアンカが首を傾げ僕にそう問いかける。

 そういえば、僕も再会の喜びのあまり本来の用件をすっかり忘れてしまっていた。ここから先の目的を達成するには、あの水門を開けてもらわなくてはならないのだ。

「あ、もしかして温泉に入りに来たのかしら? ここの温泉はすっごくいいのよ。それともまさか、私に会いに来たとか! なーんて」

「ああ、それ半分あってるかも。村の外に水門があるだろ? 実はあれを開けて欲しくて」

 おどけて言うビアンカに小さく笑いを返しながら、僕はやっと本来の用件を伝える。すると、ビアンカがすぐに怪訝な顔をして首を捻った。

「──ねぇ、水門の先に何かあるの? 何かここ数日、テュールと同じこと言って来る人が多いのよね。こんなに頻繁に開けることってないから、気になってはいたんだけど」

 ビアンカの言葉に僕は愕然とする。そうか、水のリングから探す輩がいても何もおかしくはなかった。寧ろ死の火山の危険性を考えれば、どこにあるかも未知数である水のリングから探すことはもしかしたら賢い選択だったのかもしれない。

 ──ということは、今も相当数の人間が水門の先に進んでいるということで。

 いや、今回も火山の時のような魔人が守っているかもしれないし。水場で進みづらい場所かもしれないし、さっき街を出た時点では水のリングが見つかったという噂は露ほども聞かなかった。

 まだ大丈夫、間に合ってる。と自分に言い聞かせ、僕は「ねぇってば」と答えをせっつくビアンカに向き直った。

「あ──えっと。実は、水のリングって言う指輪を探しに行きたいんだ。はっきりとは言えないんだけど、水門の先にあるかもしれなくて」

「水のリング? 何それ、素敵!」

 僕の説明を聞くや否や、ビアンカの表情が昔レヌール城を目指した時の如く輝きだす。

 冒険が好きなのも変わらないんだな、と思わず笑みをこぼしてしまった。

「あ、笑ったわね。仕方ないじゃない、宝探しとか大好きなんだもの。……でも、それを他の人達も探しに行ってるってこと? 見つけたら何かあるの?」

 ビアンカの純粋な疑問による追及に、僕はいよいよ答えに窮することとなった。何かある、んだけど。それを彼女に言うのはあまりにも気恥ずかしい。

「……ノーコメントじゃ、だめ?」

「だーめ。水門の鍵は私が持ってるのよ? どう言うことか、わかるでしょ?」

 うん、こういうところも本当に変わっていない。この押しの強さで子供の頃はどれだけ振り回されたことか。

 ──でも、そのお陰でビアンカとの思い出は、忘れられないものになっているんだ。

 ほらほら、吐いちゃいな。と言わんばかりのビアンカの好奇の眼に競り負けて、僕はついに本当の目的を白状させられることになった。

 

「……水のリングを見つけたら、──求婚……できる、ことになってるんだ。……サラボナの、領主のお嬢さんに」



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#9. 独白

 僕の、消え入りそうなほど小声になってしまった告白に、ビアンカは束の間言葉を失ったようだった。

 気心知れた幼馴染に求婚のことを伝えてしまったという事実に、じわじわと恥ずかしさがこみ上げる。多分また思いっきり赤面してしまっていることだろう。せめてもと顔を背け、片方の掌で熱を持った頰を覆い隠した。

「…………きゅう、こん?」

「あの、花のじゃなくてね」

「分かってるわよ! そんなの間違えないってば!」

 ついふざけた返しを入れてしまうものの、こちらも恥ずかしさを誤魔化したい一心なのだが。僕以上に動揺を隠さないビアンカがすかさず大声で叫び返す。

 そしてまた、時計の秒針がチクタクと時を刻む音ばかりがしめやかに流れて。

「──結婚、するの? テュール」

「え……あ、いや、えっと」

 ぽつり、とビアンカにそう問われ、しどろもどろになりながら言葉を探す。

「多分、すぐには……無理だと、思ってるけど……でも、──うん」

 ああ、やっぱりこういう話題にはどうしても耐性がない。人のことは聞き流せば良かったけれど、自分のこととして話すのはどうにも落ち着かなくて駄目なのだ。大体、この気持ちを自覚したのだって本当につい最近で、ほとんど誰にもこんな話をしたことはないのだから。ますます熱の上がっていく顔を木卓に突っ伏し、腕に埋めて隠した。一言、ビアンカに答えるたびに自分の鼓動がうるさくなっていく気がする。

 もうちょっと、堂々と自分の気持ちを言葉にできるようにならないと──この想いと向き合う勇気を持たないと、あの人に伝えることなんていつまで経っても出来そうにない。

 自分の小心ぶりに密かに溜息をついていると、

「……ね、どんなひと?」

 突っ伏したままの僕に、優しく。

 ビアンカが更に問いかけて来る。

 熱い顔を少しだけ、彼女の方に向けると、ビアンカは頬杖をついたまま穏やかに僕を眺めていて。

「やぁだ。耳まで真っ赤」

「うるさいなぁ」

 茶化すようにくすくすと笑うビアンカに、僕は精一杯の悪態をつく。

「どんなひとなの? 聞かせてよ。ねっ?」

 小さな子供に言い聞かせるような、その穏やかな声音に、僕は懐かしい記憶を垣間見る。

 昔、父に連れられて泊まったアルカパの宿屋で。僕は当時サンタローズの家のことを何でもしてくれていたサンチョに会いたくて、恋しくて泣いてしまったことがあった。

 早く帰りたくて駄々をこねた時、ビアンカがいつもこうやって、優しい声で背中を撫でてくれた。

 ──サンチョさんってどんなひとなの? お姉ちゃんに教えてよ。

 埋めた腕から顔を持ち上げて、そっとその表情を窺えば、あの頃より大人びたビアンカが優しい眼差しで僕を見ている。

 その、何もかも抱きとめてくれそうな優しさに誘われるように、僕は思いつくまま、躊躇いがちに言葉を紡ぐ。

「碧くて、白い……ひと。すごく、澄んでて……、なんていうか、清らかな魂を持った、ひと」

 僕の辿々しい言葉に、ビアンカは「詩人ねぇ」と小さく笑う。

「でも、領主様のところのお嬢様だなんて、すごい人に申し込もうと思ったものね。怖いもの知らずっていうか。それでそんなに真っ赤になっちゃってるんだからさ、大胆なんだかそうじゃないんだか」

「──初めてなんだよ。こんなの……仕方ないだろ」

 もう、どうとでもなれだ。半ば自棄っぱちな心情で僕は頰を抑えたままそっぽを向く。荒療治と思ってこの場を乗り切ろう、と心密かに決意して。

「へぇ。初恋?」

「悪い?」

「やだ、開き直らないでよー。それで? そのお嬢様とは、もういい仲なわけ?」

 だがしかし、話術はどうしたってビアンカの方が一枚上手らしい。拗ねる僕にころころと楽しそうに笑うと、木卓の上で腕を組み僕の方へと身を乗り出した。

「いい仲って、ビアンカ、その言い方おばさんっぽいよ」

「うるさいわね! こういう話は冷やかす方は楽しいもんなの。──で、どうなのよ? お嬢様とは」

「どうって……まだ知り合って数日だし、どうも何もないよ。……僕が一方的に、────すき、……なだけ」

 ささやかに反撃を試みたものの、やはり呆気なく切り返される。せめてこれだけは卒なく言おうとしたのに、ほら。

 羞恥のあまり、好き、の一言をどうしても言い澱んでしまって。気持ちを振り絞りなんとか口にしたもののその瞬間、今日一番に顔が熱く火照り出すのを感じた。

 どうして、想いを言葉にするのはこんなにも難しいのか。

 そういえば、アンディと死の火山で言い合いになった時。あの時叫んだ言葉も、勢いで出たものだったとはいえ僕を縛るには十分すぎるまじないだった。

 ──とっくに、逃れられなくなっているくせに。つくづく小心者だ。僕は。

 さっきからばくばくとうるさく動悸する心臓がもうそろそろ口から飛び出てしまいそうな気がして、目の前のミルクを急いで飲み干し顔の熱を誤魔化した。

「ふ──ん、そっかぁ」

 人の気も知らず、ビアンカは少し拍子抜けしたように宙を仰ぐと、背もたれに体重を預けてキィ、と椅子を鳴らす。

「そういうことなら、明日はそんなにゆっくりしてられないね。先に他の人にリングを見つけられちゃったりしたらテュール、泣きそう」

「泣かないよ! ──……一応、もう一つの指輪は見つけてあるから……そうならないといいなとは思う、けど」

 反論ついでにうっかり口を滑らせた僕に、またしても興味津々という目つきで「もう一つって何? なぁに?」とビアンカが聞き返して来る。

 こんな流れ、つい最近他にもあったような気がするな。

 結局僕はビアンカに押されるがまま、先に炎のリングという指輪を見つけてあること。実はその二つを結婚指輪として持ち帰ることが求婚の条件であること──を、洗いざらい話させられた。もう、結婚だの求婚だのと口にするだけで顔から火が出そうだったが、ビアンカはそんな僕を楽しそうに、でもどこか寂しそうに眺めながらも僕の話を聞いていた。

 そうしてだいぶ夜も更けた頃、明朝必ず水門を開けてくれるとビアンカと約束をして。

 僕はビアンカの、少し小さいベッドを借りて就寝した。

 

 

 

 久々に、胸が重苦しいような気配を感じて身じろぎをした。

 ぼんやりとした視界を凝らすと、殺風景な石造りの、洞窟みたいな天井が暗く映った。

 現実感のないその光景は、僕がもう長いこと見続け、見飽きたものだった。

 ──夢、かな。

 多分そこは、僕がまだずっと幼い頃、閉じ込められ逃げ出せなかった大きな暗い、暗い牢獄。

 あそこではすぐ近くにいつもヘンリーがいてくれたけれど、他の、周りに居た者たちは誰も彼も恐ろしくて仕方なくて、でも夜が来て眠ろうとすると父さんの最期の叫び声がどうしても耳から離れなくて。

 こうやって、夜中に何度も一人で目を覚ましては、声を殺して泣いたりしていた。

 どうしても心細い時、薄すぎるぼろぼろの毛布を固く握り締めながら目だけをぎゅっとつむっていた。

 そうして時間が過ぎるのをただ待っていると、あの子が迎えに来てくれる気がした。

『テュール。ねぇ起きて、テュール』

 真っ暗に寝静まった夜の部屋に、忍び込んでは僕を起こしてくれた小さな手。

 真っ暗な部屋でもわかってしまうくらい目をキラキラさせて、『さ、行きましょ』と手を引いてくれた彼女。

 どうしているだろう。今も、お転婆ばかりでおじさん達を困らせたりしているだろうか。

 たった今この場に起こしに来てくれることはないと、幼いながらにきちんと理解はしていたけれど、僕はいつしかビアンカとのその思い出を夜、眠る時の支えにしていた。

 あの小さな手を、あの輝く瞳と金の髪を忘れなければ、僕はどんな暗闇に捕まっていても自分を見失わないでいられる。

 そう、何度も何度も言い聞かせて。

 

 

「──ル。起きて、テュール」

 

 耳元で甘く、悪戯っぽく名前を呼ばれ、今度こそ本当に身じろぎをする。

「おはよ。よく眠れた?」

 まだ、夢との境目がはっきりしない頭でぼんやりと声の主を見る。目に映り込んだのは暗い岩天井などではなく、窓辺から差し込む朝陽に照らされた明るい部屋。そして、傍らで楽しそうに僕を覗き込む、大人びた幼馴染の顔。

「……おはよ。ん、よく寝たよ」

 まだ半分くらい微睡みの中にいる僕は、ほとんど鸚鵡返しに答えてはにかむ。何だか、目が覚めた時に人がいる、というのがひどく新鮮で。そういえば、誰かに起こしてもらうのはヘンリーと別れて以来だっただろうか。

「なぁに? 幸せそうな顔しちゃって。いま朝食用意するから、顔洗ったら父さんと一緒に待っててあげてよ」

 目をこすりながら身体を起こすと、鼻唄でも歌うようにビアンカが肩を揺らしながらキッチンへと去っていく。言われた通り洗面台を借りてさっぱりさせた後、僕はダンカンさんの寝室を覗きに行った。

「おはようございます、ダンカンさん」

「お、おはようさん。昨夜は随分と盛り上がっていたね?」

 ダンカンさんも上機嫌で僕を迎え入れてくれる。うーん、盛り上がっていた……のかな? 思い返せば、僕が冷やかされてばかりだった気がするんだけど。

「そう、ですかね……なんて言うか、ビアンカにやりこめられっぱなしでした。情けないんですけど」

「ははは。こりゃ尻に敷かれるな。あの子は母さんに似て気が強いところがあるからなぁ」

 溜息交じりの僕の返答に、ダンカンさんが声を上げて笑う。笑った後、少しだけ苦しそうに噎せてしまったので、僕は慌てて身体を支えてその背をさすった。

「──ああ……すまんね。つい嬉しくて、年甲斐もなく浮かれてしまって」

 顔を覗き込むと、ダンカンさんは少しだけ、困ったように笑った。

「大事にしてくださいね。ビアンカのためにも」

「ああ、うん……テュール坊、そのことなんだが……少し、話を聞いてくれないかい?」

 咳が収まった様子を見て僕は頷き、ベッドの傍らに置かれた小さな椅子に腰掛ける。ダンカンさんは「有難うな」と一言呟き、一度目を閉じて長く息を吐き出した。……何から話そうか、少し躊躇っているようにも見えた。

「本当は昨日、話したかったんだがね。──坊は、ビアンカと一緒になってくれる気はないかい?」

「…………え」

 思考が、一瞬でまっさらになる。

 言葉を詰まらせた僕を見遣り、ダンカンさんは目を細めて頷きながら、もう少しだけ声を潜めた。──多分、ビアンカに聞かれないために。

「突然こんなことを言って、驚くだろうね。でも……坊なら安心してビアンカを任せられる。なんたってあのパパスの息子だし、ビアンカもずっと……おっと、これは私が言ってはいけないな」

 照れ臭そうに、ダンカンさんは笑って鼻の頭をかいて。

「もちろん、坊が旅を続けなくてはならないことはわかっているよ。だからこそ、ビアンカを一緒に連れて行ってやって欲しいんだ。あの子は外の世界が大好きだからね」

「ダンカンさん……あの」

 何とか、ダンカンさんの話の合間に言わなくては、と思い呼びかけたが、ダンカンさんは分厚い掌を顔の前にかざして僕を制止した。

「最後まで、聞いておくれ。──これはビアンカには言っていないことなんだが、実はビアンカは……、私達夫婦の、実の娘じゃないんだ」

 あまりの独白の重さに再び絶句した僕に、ダンカンさんは少し、疲れたような笑みを見せる。

「私はこんな身体だし、この先どうなるかもわからん。そう思うと、この先たった一人で残されるあの子が不憫でね……それでなくとも、ビアンカは子がなかった私と母さんにたくさんの幸せをくれた。だから、私もあの子を精一杯、幸せにしてやりたいんだよ」

 扉の向こう、今も家事に勤しむ彼女を慈しむように。

 ダンカンさんの瞳はやっぱり、ルドマン卿に見たそれと同じ色をしていた。

 ビアンカの幸せを、誰よりも願う親の瞳だ────

「お待たせ! さぁ、出来たわよ。……何の話してたの?」

 声かけとほぼ同時、ノックもなしに扉を開け放ったビアンカは、室内の微妙な空気に目を丸くすると怪訝な顔で僕とダンカンさんを見比べた。こんな話を聞いてしまった直後だったから、何となく気まずさを感じつつも僕は愛想笑いを顔を貼り付け、ダンカンさんもまたばつが悪そうに目を逸らす。

「なんでもない。用意してくれてありがと、ビアンカ」

「あ、うん。テュールは昨日と同じところに座ってね! 父さんもほら、食べましょ」

 僕のそれはとってつけた笑顔だったが、ビアンカはすぐに太陽の如く良い笑顔を僕に向けると、扉のそばに立って手招きをする。頷き、未だベッドに腰掛けたままのダンカンさんに手を差し伸べた。

「行きましょうか」

 立ち上がる時の支えのつもりだったが、ダンカンさんは感無量と言うように目を細めると、手を差し出した僕と、ビアンカとをしみじみと見比べた。

「坊も、父さんを亡くしたからわかるだろうが……ビアンカも本当は寂しいんだよ。なんと言っても母さんっ子だったからね」

 唐突に故人を話題に出され、僕もビアンカもなんとなく固まってしまう。それをどう解釈したものか、ダンカンさんはますます感じ入るように頷きながらも僕を見つめる。

「ビアンカもテュール坊が来てくれて、昨日から本当に嬉しそうにしとるよ。なぁ、坊。ビアンカのことを、よろしく頼むよ」

「ちょっ、ちょっと! もう、何言ってるのよ父さん」

 今度はビアンカが慌てた声を出した。動揺した風にベッドの側に駆け寄り、僕をぐいぐいと扉の方へ押しやりながら父親の腕を引っ張る。「早く食べましょ、ってば」なんて言いながら、ビアンカは──ほんの少し気恥ずかしそうな目で、僕をちらりと見やった。

「あ、うん、ごめん。居間に行くね」

 押されるがままになんとなく謝りながら寝室を出る。背後からは尚も親子がわやわやと言い合う声がする。変なこと言わないでよもう! と叫ぶビアンカと、いいじゃないかといなすダンカンさんと。仲がいいなぁ、と思わず笑いが漏れたが、そういえばさっき、ダンカンさんにちゃんと言えなかったことに思い至り、少しだけ気分が落ち込んだ。

 ──僕が今、別の女性に求婚したいと思っていること、知ったらがっかりさせてしまう、よな。

 昨夜のビアンカは僕を冷やかしてばっかりで、それはそれで大変気疲れしたものだが、ダンカンさんの方は奥さんを亡くした上、病人なのだ。

 気落ちの末にもっと体調を崩して寝込んでしまうことだってあり得そうで、僕はますます気分が重くなるのを感じた。

 ……ダンカンさんと親しかった父さんがもしここに居たら、ダンカンさんの申し出を喜んで僕に勧めただろうか。

「あら? テュール、どうかした?」

 ようやっとダンカンさんを説き伏せたらしいビアンカが彼を引きずって居間へと戻ってきた。俯いた僕の顔を覗き込み、きょとんと首を傾げてみせる。

「あ、ううん。なんでも」

「わかった。水のリングのこと考えてたんでしょ? きっと大丈夫よ。テュールならすぐに見つけられるって!」 

 朗らかな笑みと共に彼女はそう言い、僕の目の前に焼きたてのパンとスープを並べてくれる。僕も立ち上がり、それぞれのコップにミルクを注ぎ入れるのを手伝った。

「なんだい、リングって? 坊は探し物をしているのかい」

「そうなのよ。それで水門を開けて欲しいんだって。ここ数日、そう言う人が何人も来てたじゃない?」

 ビアンカの言にダンカンさんがふむ、と頷く。そして、手元のパンを楽しそうにちぎりながら、ビアンカがとんでもない提案をしてくれた。

「だからね、私もテュールと一緒に行って、リング探しを手伝ってあげようと思って!」

「は⁉︎」

 あまりの衝撃にパンの塊をうっかり飲み込みかける。げほげほ、と噎せこむ僕に、その返答がお気に召さなかったらしいビアンカが鼻白んだ視線を向ける。

「は? って何よ。いいじゃないの、私だってテュールには幸せになって欲しいもんね」

「ビアンカ? どういうことだい?」

 僕らのやりとりに今度はダンカンさんが怪訝そうに首を傾げて。ああ、これは──藪蛇だ。

「あのね、テュールったら……、結婚したい人がいるんだって!」

 彼女がうきうきと言い放ったその瞬間、居間に満ちたこの空気をなんと表現したら良かっただろう。

 さも愉しげに僕をつつこうとする幼馴染と、俯いて固まる僕と、凍りついたように僕を凝視するダンカンさんの痛いほどの視線と。

 ──混沌、とはこう言う事象ではないだろうか。余りに居た堪れない。

「水のリングっていうのを持ち帰ることが求婚の条件なんですって。だから先日から男の人が水門開けろってたくさん来てたのね! ──そういうわけだから、私も一緒に探してくるね。何日かしたら帰ってくるわ」

「ちょ、ちょっと、ちょっと待ってビアンカ」

 またしても僕の意見など微塵も聞かず話を進める幼馴染に、僕は必死の思いで声を割り込ませる。

「僕抜きで勝手に決めないでくれよ。ものすごく危険かもしれないのに、連れてなんて行けないよ」

「あら、私それなりに戦えるわよ? 一人でこの辺出歩いたりしてるしね。テュールに迷惑はかけないから! ね? いいでしょ?」

「良くない。本当に、何があるかわからないんだから。ビアンカに何かあったら、僕はダンカンさんになんて詫びればいいのか」

「考えすぎよー。自分の身くらい自分で守れるってば! それに、テュールがもし大怪我でもしたら、担いで帰ってくる人間が必要でしょ?」

「それは仲間がいるから平気……ていうか、縁起でもない想像しないでくれる⁉︎ なんで僕が運ばれるのが前提なのさ‼︎」

 駄目だ、口では到底敵いそうにない。それでも僕はなんとか食い下がろうとしたが、ビアンカがちらつかせた伝家の宝刀を前に呆気なく陥落させられることとなった。

「あーら、そんな口きいちゃっていいのかしら。水門の鍵は、わ・た・し・が、持ってるんですけど、ねー?」

「…………っ」

 卑怯。この上なく卑怯だ。悔し紛れに軽くビアンカを睨めつけたが、当のビアンカは涼しい顔でミルクを飲んでいる。この押しの強さに僕が勝てる日などきっと永遠に来ないのだろう。

「ってことだから父さん、しばらく留守にするね。ご飯はいつもみたいに用意しておいたから、自分で食べられるわよね? 水門の鍵は私が持って行くから、もしこの後また水門開けてほしいって人が来たら『管理人がしばらく不在です』って言っておいて。別に帰ってもらってもいいし! どのみちリングは私達が見つけるんだから、ねっ」

 名案! とばかりにぱちんと手を叩き、ビアンカは本当に楽しそうに語る。そんなビアンカをどこか諦めた瞳で僕は見遣り、ダンカンさんはやや申し訳なさそうに肩をすくめた。

 取り残された男同士、何とも言えない表情で顔を見合わせる。

「……坊、よろしく頼むよ」

 駄目押しで、遠慮がちに頼まれてしまえば、僕にもう逃げ場などない。

「うふふっ、また一緒に冒険できるわね!」

 そんな微妙な空気など全くお構い無しで、肝の座った僕の姉貴分は眩しいほどの笑顔をこちらに向けたのだった。

 

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#10. 航路

 かくして、僕達一行は──何故かビアンカを加えて、水門の向こうに向けて山奥の村を出発した。

 正直、こちら側の事情をよく呑み込んでいるであろうクラウスさんにビアンカを紹介しなければならないことが一番頭が痛かった。クラウスさんはルドマン家に仕える方であり、その当家の御令嬢に求婚を望んでおきながら、道半ばにして余所の女を連れてくるとは何事かと。物腰柔らかな御仁だが、こればかりは怒鳴り飛ばされても仕方がない、と僕は内心びくびくしながら船へと戻った。

「ただいま戻りました」

 できるだけ平静を装い、操舵室で休息を取っているであろう航海士を探し出して声をかける。

「ああ、お帰りなさい。随分と早かったですね」

「いえ、そんな。──あの、ご紹介します。水門の管理人なんですが、偶然、僕の幼馴染が務めていたようでして」

 僕が言い終わらないうちに、背後からひょこっと顔を出したビアンカが明るい笑顔で自己紹介を捻じ込んできた。

「初めまして! ビアンカ・ダンカンと申します。昨年からこちらの水門の管理を任されておりますの」

「おお、これは。ご足労いただきありがとうございます。テュールさんのお知り合いなのですかな?」

「はい。昔、夜毎一緒に冒険した仲ですわ!」

 にこにこと楽しげに宣うビアンカに僕は大慌てで「子供の頃です、子供の!」と補足する。嘘は言っていない、が、何故こうも誤解を招きかねない言い方をするのか。

 クラウスさんは穏やかながらも一瞬怪訝な色を覗かせたが、それ以上の追求はせず「それは、懐かしい方と会われたのですね」と微笑むだけにしてくれた。

 ルドマン家に関わる面々はなんとなく僕に甘い気がする……のは気のせいだろうか。お家柄なのか、冒険家というものに寛容なのかな、という気もするが。

「それで、その……、ビアンカが、リング探しに同行すると言ってきかなくて……」

 いよいよ萎れながら僕がそう言うと、さすがのクラウスさんも目を丸くしてビアンカと僕とを見比べた。

「ごめんなさい、お邪魔でした? 実は人数的にこれ以上は船に乗れないとか……そこまでは考えていませんでしたわ」

 これまたあっけらかんとビアンカは言ってのける。いや、ビアンカ、今絶対に悪いと思ってないだろう。

「いえ、そんなことはございませんが……女性には些か危険が過ぎるように思います。恐らく何日も船上でお過ごし頂くことになってしまいますし、ご家族も心配なさるのでは」

「それでしたらご心配には及びません。家には父親が一人いるだけですの。私も普段からちょくちょく家を空けておりますし、父も私の不在には慣れておりますもの! ──それより私、テュールのことをどうしても手伝いたいんです。テュールの初恋が報われて欲しいんですもの」

 いや、どう見てもダンカンさんは心配だと思うんだ。だって身体を壊して静養中なんだよ? あんなに咳込んでいたんだし──などと言うのは外野の言い分であって、本当のところは実際に共に生活している本人同士にしかわからないのかもしれないけど。

 しかもさりげなく人の羞恥ポイントを抉ってくる。いい性格していると思うよ、本当に。

「ビアンカ、さりげなく僕をダシにしないでくれない?」

「あらやだ。してないわよ? テュールには心から幸せになって欲しいって思ってるだけ!」

 いつもの調子でばっさりと言い切られてしまえば、僕に反論の術はない。情けない目でクラウスさんに助けを求めることしか最早出来ることがないのである。

「……そういうわけなんです。水門を開けられるのも彼女しかいないもので、その……」

 奥歯に物が挟まった言い方しかできない僕に、クラウスさんの視線が次第に同情に満ちたものに変わっていく。このなんとも言えない表情、ついさっきも見たばかりな気がする。

「……な、なるほど。ま、こちらはろくにお構いはできませんが、テュールさんがよろしいのでしたら、私に異論はございません」

 本っっっ当にすみません。

 若干引き攣った愛想笑いを浮かべてくださるクラウスさんに心の奥でひたすらに手を合わせ拝み倒し、僕は溜息混じりに、後ろに立つビアンカを向き直った。

「こう言ってくださったから……水門、開けてもらえる? 管理人さん」

 人の気も知らず、この良くも悪くも太陽の如く明るさを振りまく幼馴染は得たりと笑んで言い放つ。

「ええ。喜んで!」

 

 

 

 例の、水門横の貼り紙を見て「これ、いっそ剥がしておこっか。どうせ無駄足なのに村まで来てもらうのも悪いじゃない?」などと言い出したビアンカをクラウスさんと共に懸命に宥め諌めつつ、やっと水門の開閉装置を動かしてもらう。

 なんとも先が思いやられる。それもこれも、僕がビアンカに口で競り勝てないのが悪いのだが。

「──あらっ? やだ。これ、そういえば船からは閉められないわよね?」

 船に乗り込み、まさに水門を越えようというところでビアンカが船から身を乗り出して叫ぶ。

「ああ、うん。そりゃそうだよね」

「うっわ、何よその言い方! むかつくー!」

 むかつくと言われても。そもそも鍵とは水門の開閉機が設置された小屋の鍵なのであり、水門自体はその機械で開閉する仕組みである。船から身を乗り出してガチャン、はいおしまい。なはずがないことくらい、水門管理人のビアンカならわかりきったことだと思ったのだが。

「ビアンカが降りて、閉めてきたらいいんじゃない?」

「その手には乗らないんだからね!」

 絶妙な提案だと思ったが、すかさず全力拒否された。別に、ここまで来て黙って置いていこうなんて思ってないんだけど。僕はそこまで非道な人間に見えるのだろうか。

「じゃあ……わかった。僕が水門を閉めてくるから、装置の小屋の鍵、貸してよ」

 僕がそう言って片手を差し出すと、ビアンカは何故か真顔になりまじまじと僕を見る。何かおかしいことでも言っただろうか。

「──何? 今の時期は閉めておいた方がいいんだろ。開けっ放しにして下流に万が一のことがあったら大変だよ」

「……ええ、そうね、そうだわね」

 渋々といった風でビアンカは頷き、「わかったわよ。すぐに閉めてくるから、一度岸につけてくださいます?」とクラウスさんに声をかけた。

 クラウスさんはすぐに巧みな舵裁きで、水門を通り抜けてすぐの岸に船を寄せてくれる。

「僕の他にも水門の先に行った人がいるって言ってなかったっけ。その人達が戻ってきたらどうすんの? ビアンカが村にいないと帰れなくない?」

 僕の正論にビアンカはますます渋い顔をしたが、「まぁ、何とかなるんじゃないかしら」と言葉を濁し水門を閉めるために一度船を降りていった。

 いや、鍵は君が持ってるんだろう。僕達はいいとして、本当にどうするつもりなのか。

 ややあって、重たい水門が轟音と共に再び閉じられる。戻ってきたビアンカはまだ微妙な顔つきだったが「父さんがスペアの鍵持ってるし、誰かに頼めば開けてもらえるから、多分大丈夫よ」などと宙を仰ぎつつ言っていた。

 釈然とはしないが、まぁそういうことなら。

「さっ、行くわよ──!」

 宜候よろしく、気を取り直して舳先に足を掛け指差すビアンカの姿に、はいはい、と苦笑いしつつ僕はクラウスさんの隣に並び立つ。

「では、お願いします」

「ええ。お任せを」

 クラウスさんがそう答えると同時に、向きをわずかに変えた帆が風を捌いて船体は水上を滑り始める。

 未だ残る朝靄をかき分けて、領主様の帆船は緩やかに発進した。

 

 

 

「そっか、領主様ってサラボナのルドマン様のことなのね」

「知ってるんだ?」

「そりゃあ、有名人だもの。有り余る財力をこの辺一帯に還元してくれる大富豪だって。サラボナの街って、きれいだったでしょ? うちの村とかあの水門だって、ルドマン様が色々整備してくれてるらしいわ。直接会ったことはないけどね」

 昨日と同じ穏やかなさざ波の上、僕とビアンカは甲板に出てのんびりと雑談している。

 クラウスさん曰く、この湖はルラフェンの辺りまで広がっていて、ほとんど水門の対岸にあたる最遠の場所に『滝の洞窟』と呼ばれるところがあるのだそうだ。

 所要日数はおよそ船で五日から八日。風と波の状態に大きく左右されるので、順調に行けて五日程度、とのことだった。

 その場所が水のリングの在り処ではないか、とルドマン卿が言っていた、と先程、クラウスさんが舵を握りながら教えてくれた。

「それにしても、すごい船よねぇ。さすがルドマン様の船、って感じだわ」

 船縁に肘をつき、帆を仰いだビアンカが感嘆の声を漏らす。

 実際、僕も詳しくはないけれど船は小ぶりな割に設備も充実していたし、どこをとっても立派な造りだった。クラウスさんの勧めで、ビアンカは普段卿が使っている一等立派な船室を貸し与えられることになった。つくづく僕はこの方に頭が上がりそうにない。

「ルドマン様からこんな立派な船を使わせていただけちゃうなんて、早くも将来性ありありなんじゃない? すごーい、テュール」

「あのさ、僕がすごいんじゃなくてルドマン卿がすごいんだからね?」

「そうよねぇ。いくら娘の結婚相手候補だからって、普通はこんなに簡単に船を貸したりしないと思うわ。でも、ルドマン様だもんね。懐の大きい方だとは聞いてたけど、ほんとみたいね」

 ビアンカの言葉に僕は深く頷く。実際、酒を飲み交わしてみればルドマン卿は人情に厚い、本当に度量の大きい方だとわかった。その懐の大きさで、一人娘に厳しくも、深い愛情を持って接しているのがよくわかる。

 僕に良くしてくださるのも、娘を託す相手としてある程度信頼してくださっているからだろう、と思うと何だかくすぐったい気持ちになる。

 そうして、他愛のない話をビアンカとしている間にも、舳先よりずっと北のほう、火山で感じたものとはまた違う清涼な気配に喚ばれていることに、僕はなんとなく気づき始めていた。

 多分、こちらであってる。──そして、まだ誰の手にも渡ってはいない。

「修道院に寄付とかもしてらっしゃるんだって。あれ、そういえば一人娘が修道院に行ってるって聞いたけど、テュールが好きなのってその人のこと?」

「うん、そう。ルドマン卿が結婚のために呼び戻したって聞いたよ」

「なるほどねぇ。──ちょっとは慣れてきたじゃない。にやけちゃって、あーやだやだ」

 ぱたぱた、とこれ見よがしにビアンカが掌で顔を仰ぐ。そりゃね、昨夜からあれだけ冷やかされてれば図太くもなるよ。

 しかし、にやけてるか? 僕はやっと赤面症が治まりつつある自分の頰をむにっとつねってみる。

「ほーんと、お熱なのねぇ。私も会ってみたいなぁ。リング見つけたらすぐにサラボナに戻るんでしょ?」

「……そうだけど、その前にビアンカを家まで送るよ?」

「えぇー? 要らないわよぉ、一人で帰れるもの。それよりサラボナ! 行きたいなぁ。久々の街歩き! ああ、ワクワクしちゃう!」

「嘘だろ。そこまでついてくるつもり⁉︎」

 ビアンカの無茶ぶりにもだいぶ慣れてきたつもりだったが、さすがにこの発言は看過できない。この調子だと、フローラに会うまで帰りそうにないじゃないか。

「ついていくんじゃなくて、行き先が同じなだけよ。ねー」

「……すごいね。物は言いようだね」

 そんな調子のいいことを楽しそうに言い、ビアンカは傍らに跪いているプックルに同意を求める。いつもは雄々しいばかりのプックルが、今はガタイの良い猫にしか見えないのはなぜだろう。

 そして、僕なりに思いっきり嫌味を込めて言ったのに、ビアンカは相変わらずころころと笑っている。

 プックル以外の仲魔達はと言えば、一つ大きめの船室を充てがわれていてそこで休息をとっている、ということもあるのだが、やはり僕とビアンカの無遠慮な応酬に若干ひいているようで、皆いつになく大人しくしていた。口を挟んでくる余地がないというか、僕も気心が知れている分ぽんぽん言い合う形になってしまっていて、みんなを置いてけぼりにしている感は否めない。

 そうこうしているうちに日は傾き、僕達は船に積んだ携帯食料で簡単な食事をとった。

 これは本当にすごいと思うんだけど、この船、キッチンはもちろん、シャワールームまでついているのだ。汲み上げた水を加熱して真水に変える仕組みを備えているらしい。これは飲用には適さないものの、洗濯や浴用にならば必要十分な水質らしく、おかげで僕達は問題なく湯を使わせてもらうことが出来た。ビスタ港からポートセルミ港まで乗った時も数日かかったが、あの時は海水を汲み上げただけの風呂が使えるだけだったのでひどく体がべとついたものだった。傷があるとしみるしさ。

「村の温泉ほどではありませんが、ビアンカさんもよろしければ是非、どうぞ」

 なんてクラウスさんに言われて、ビアンカも喜んでシャワーを使わせてもらっていたようだった。

 温泉といえば、確かにあの村は温泉が名物らしく、変わった香りが充満していた。昨日再会を果たしてダンカンさんの家に泊めてもらう運びになったところで、温泉を勧められてどんなところか宿屋へ覗きに行ったのだ。大きな露天の風呂は確かに心地好さそうだった。だが、混浴だなんて聞いてない。そこで初めて男女混浴であることを知り、僕はすごすごと入浴を辞退してきた。

「誰も気にしないのに、勿体ないわね。疲れとれるよ?」

 そう言われましても、年頃の、経験の浅い青年に見知らぬ女性との混浴は難易度が高すぎます。せめて時間で区切るとかしてくれていたら良かったのに。結局、ダンカンさんの家でシャワーだけ借りたという顛末であった。

 夜はビアンカには船室で休んでもらい、僕とクラウスさんは操舵室の中で交代で休むことにした。

 船に乗ってから、僕はちょいちょいクラウスさんの指導を受けて操船を学んでいた。僕にもある程度できるようになればクラウスさんの負担が減ると思ったのと、純粋な興味からだったのだが、クラウスさんは「初めてとは思えませんよ。感覚をつかむのがお上手です」などと褒めてくれて、何度か教えてもらううちに一人で任せてもらえることも増えてきた。

 その指導の甲斐あって、ほんの二、三時間ではあるが、クラウスさんにも交代で休息をとってもらうことができている。

 魔物は、あまり出なかった。北から感じる清浄な雰囲気が、まるで結界となっているようだった。

 ──死の火山とは、あまりに対照的な。

(本当に、あっているのかな……? 実は違うものが眠っているだけなんじゃ……)

 そんな不安が胸をよぎることもあったが、船は僕の迷いなどお構いなしに、導かれ引き寄せられるように真っ直ぐ、北へ北へと進んでいた。

 羅針盤を、灯りにかざして。間違いないことを確認する。

 喚ばれているんだ。やっぱり、あちらから。

「……不思議なものですね。まるで、風と波が我々を勝手に運んでくれているようだ」

 いつの間に目覚めたのか、クラウスさんが僕の隣に立って、羅針盤と、帆がたなびく船尾とを見比べていた。

「もう起きられたんですか? もうしばらく休んでいてもらっても大丈夫そうですよ」

「ええ、そのようですね」

 僕の言葉にクラウスさんは異論なく頷き、しばらく黙ってまだ暗い波間を見つめていたが、やがて畏敬すら込めた瞳でじっと僕を見た。

「──テュールさん。私は長いことこの湖を行き来していますが、こんなに順調に進んだことは今までにありません。ましてやほとんど舵をとらず、正確な航路をとるなど。……恐らくあと三日もあれば洞窟につけるでしょう。テュールさん、リングの伝承について、お聞きになったことはありますか」

 クラウスさんの問いかけに、僕はサラボナに来たその日、噴水広場で聞いた話を思い出す。

「……リングは、持ち主を選ぶ。必要とする者の前にのみ姿を顕わし、その時でなくば何百人が一斉に捜索しても見つけられはしない……」

「そう、言われております」

 クラウスさんは静かに首肯し、今度は船首の方角を遠く見遣る。

「旦那様と私共は、昔から何度もあの洞窟を探索して参りました。……ですが、伝承の指輪らしきものは何一つ、見つけることは叶いませんでした。──恐らくは、貴方なら」

 クラウスさんの言葉に、僕も黙って肯定の意を返す。

 必ず、僕が水のリングを見つけてみせる。

 その為にここにいるのだから。

 クラウスさんは、真っ直ぐに北を見つめる僕を傍らから見上げ、目を細めて呟いた。

「……本当に、頼もしい方だ」

 

 

 

 そうして、穏やかな航行を続けること更に三日。

 水平線が狭まり、進路の先にいつか通った大きな橋が見えてきたのは、水門を出て四回目の夕暮れを迎えるほんの数時間前のことだった。



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#11. 滝の洞窟

 ふ、と澄み切った風が船を、この頰を凪いでいく。

 まだ記憶に新しい香りが鼻をくすぐり、つられて遠く岸の方を見遣ると、目の前には恐らく先日、ルラムーン草という魔草を求めて来たときに通った橋が見えた。

 その橋の下がちょうど、大きな滝になっている。白く降り落ちる水が冷たく飛沫を散らし、流れる風を瑞々しく湿らせていく。

「滝を潜ります。皆さん、船室の中へ」

 クラウスさんの指示に従い、それぞれが船室に入り待機する。窓の内側から外を窺えば、速度を緩やかに落としながら船が真っ直ぐに滝に向かって吸い込まれていくのが見える。

 ドドドド、という激しい振動とともに上から叩きつける如く圧がかかり、船が数度、大きく傾いだ。

 ────この気配は。

 すぐに窓の外が暗がりに変わり「着きましたよ」とのクラウスさんの言葉を合図に僕は船室を勢い良く飛び出した。

 滝の、内側は大きな空洞になっていた。がらんとした空間には静謐な空気が漂う。滝から射し込む光が洞窟内をぼんやりと照らし出し、なんとも幻想的な雰囲気を漂わせていた。

 何より、その気配に覚えがあった。この清涼な、清浄な気配は。

「…………フローラ」

 言葉に、零れ出てしまっただろうか。僕の呟きが低く、この空間に反響する。

 あまりの衝撃に、僕は立ち尽くしてしまっていた。

 洞窟内に満ちる空気が、まるで彼女そのものだったから。

 深い、癒しのような。ただ静謐で穏やかな、蒼に彩られたその世界には清らかな気配ばかりが満ちていた。

 まるで、彼女の懐にまるごと抱かれているような。

「──ル。ねぇ、テュールったら」

 雰囲気に呑まれていたから、ビアンカが何度も僕を呼ぶ声にも気づけなかった。肩を軽く揺さぶられ、僕はようやく船を飛び降りて立ち尽くしていたことを悟る。

「あ……ご、ごめん」

 振り返って詫びれば、幼馴染は苦笑まじりに溜息をついて肩を叩いた。

「もう、ぼんやりしてないでよね。何? フローラさんの幻影でも見えた?」

 幻影というか。どう説明したものかわからなくて、僕は再び空洞の天井へと視線を泳がせる。

「いや、……なんていうか。……びっくりして」

 要領を得ない返答に、ビアンカはやはり首を傾げたようだったが、その背後で幾つか停泊中の船舶に並べて帆船を固定していたクラウスさんが興味深げに、どこか感心したように僕に呼びかけた。

「ああ、確かに。ここの雰囲気はどことなく、お嬢様に似ている気がしますね」

 彼を振り返り、共感に感謝して深く頷く。

 肺いっぱいに澄んだ空気を取り込めば、彼女がたった今隣に立っているような錯覚にさえ陥る。

 ────こんなところがあるなんて。

「村に越してきてだいぶ経つけど、水門の先にこんなところがあるなんて知らなかったな。──綺麗ね……」

 僕の隣に並び立ち、ビアンカもまた天井を見上げ呟いた。

「中はもっと綺麗なんですよ。如何しましょう、すぐに探索に行かれますか?」

 クラウスさんの言葉に僕は再び頷き、いざ探索の準備を整えるため、僕達は今一度船の中へと戻った。

 

 

 

 クラウスさんには引き続き船を守っていただくことにして、洞窟内の探索には僕と、火属性の魔法に特化したマーリン、さすがに暇を持て余したスラりん、そしてビアンカとその守役にプックルをつけた五人で臨むことになった。

 ガンドフはすっかり船が気に入ってしまったみたいで、名残惜しげに首を振って動こうとしなかった。まだアンディを冷やし続けた疲れも残っているのだろうから、軽く労って休息に宛ててくれるよう頼んだ。

 ガンドフ一人では荷が重いこともあるかもしれないので、念の為今回もピエールに残ってもらう。

「さほど深い洞窟ではありませんし、大した魔物も棲み着いてはいませんから、一日あれば粗方見られるかと思います。我々が把握していない隠された場所があれば別ですが……」

 洞窟の様子をわかる範囲で教えてもらい、とりあえず一日経って誰も出て来なければピエールに確認に来てもらうよう取り決めをして、いよいよ僕達は船を離れ、洞窟の中へと入っていった。

「……うわぁ、すご──い!」

 水が張り巡らされた石の回廊を通り、二つ目の洞穴を潜り抜けたところでビアンカが感嘆の声を上げた。

 僕も、仲魔達もまた息を呑んだ。──目の前には、入り口よりももっと深く、海の中にでもいるような蒼の世界が広がっていたのだ。

 足元は岩の通路が連なっていたが、その下には澄んだ水がゆらゆらと揺蕩っていた。高い岩天井からは、光と共に零れ落ちる幾筋もの滝。さらさらと降り続く雨音のような滝の音に埋もれながらも、そこかしこで跳ね返る雫が軽快な音楽を奏でている。

「すごい、すごいねテュール! 私、こんな綺麗なとこ初めて!」

 まるで子供のようにはしゃぐビアンカが、見た目にそぐわずあの頃の、髪を二つ結びにしていたお転婆少女のようで。僕は思わず笑いをこぼしてしまう。

「ほんとだよね。レヌール城のおどろおどろしさとは大違い」

「あの時は暗かったし、お化けも本当に出るし、カビ臭いし埃っぽかったしで最悪だったよね。良くあんなところ冒険できたと思うわ! ……でも、テュールが一緒だったから楽しかったんだけどね、結局」

 少し照れ臭そうにビアンカは笑い、「プックルも、私と冒険するのは初めてよね! 嬉しい、よろしくね!」と傍を歩くキラーパンサーの首に抱きついた。プックルも満更でもなさそうな喉声で返事をする。冒険、といっても今回はあまり強い魔物には遭遇しそうにないけれど。

「今のところ変な気配はないから大丈夫だとは思うけど、万が一おかしなことが起こったり、やばそうな魔物に出くわしたらすぐに退くんだよ? 間違っても手なんか出しちゃだめだよ? 僕達でなんとかするから!」

「んもー、わかってるってば。ちゃんと安全地帯で見てて、テュールがのされたら回収してあげるわよ。安心して!」

 違うってば。

 死の火山でのことがあるからまだ不安ではあったが、とりあえずここの雰囲気は火山のそれとは大分違う。クラウスさんも言っていた通り、さほど強い魔物もいないように見受けられる。あとはリングの在り処に『番人』がいなければ、といったところ。

 言った端から「テュール、見てみて! 可愛い魔物突ついちゃった!」などとはしゃいでいるし。本当に頭が痛い。でも、頭を抱えている場合でもないので首をぶんぶんと振り、己の頰を軽く打って気合を入れ直した。何があっても僕がしっかりフォローしていかなくては。

 ……本末転倒な気もするけどさ。

「よし! 行こう。ピエールに探される前に戻らないとね」

 僕の傍らで静かに頷くマーリンと、元気よく跳ね回るスラりんにそう声をかけ、「あ、ちょっと待ってよー!」と叫びながら追ってくる幼馴染を笑って交わしながら、僕達は改めて水の溢れる洞窟を進み始めたのだった。

 

 

 

 洞穴をいくつか抜けて進むと、さすがに少しずつ、手応えのある魔物も湧いてくるようになった。

 そうは言ってもやはり火山の時ほどの苦戦はなく、僕が剣を抜く前にマーリンの炎で片がついてしまうこともある。スラりんにとっても割と暴れやすい環境のようで、実に活き活きと噛みつき回っている。ビアンカも特製の鞭をわくわくと構えていたのだが、どうやら武器を振るうスピードではプックルをはじめとした仲魔達相手には分が悪いと判断したらしい。途中からマーリンとの魔法勝負のような様相となってきた。

「中々筋がよろしい。一介のヒトの身でベギラマをも習得しておられるのだな」

「一人で村の外ほっつき歩いてますからね。それに私、火の精霊とは相性がいいみたいなの! 今はこれ、練習中なのよ」

 ビアンカは得意げに言いながら両手を重ねて目の前にかざし、「サラマンダーの吐息よ、尊き焔よ。ここに宿れ!」と手短に詠唱する。彼女が言葉を紡ぎ終わる前に空気が軽く振動し、掌から大きな火球が壁に向かって勢いよく放たれた。

「ほう、メラミですな。良い火勢だ」と言いながらマーリンがビアンカに近づき、重ねた掌を示して何やら助言をする。

 ビアンカはマーリンが囁いた言葉に目を輝かせ、次に見つけた魔物に向かって早速詠唱を開始する。──合掌。

「わっ、すごいすごい! これならメラとは全然違う!」

 大喜びのビアンカと、相変わらずの澄まし顔のマーリン。そしてたった今焔に焼かれて消えた魔物の影を交互に見遣り、僕はなんとも言えない心地になる。

 ……マーリンって、意外と先生気質なんだな。

 僕は風魔法にしか適性がないから教えてもらえないだろうけど、他にも火魔法に適性のある仲間が増えた時にはこんな風にマーリンから指導してもらうのも良いかもしれない。

「ねぇ! 今の見た? 私、結構強いでしょ?」

 得意満面といった表情でこちらを振り返る彼女に、いつぞやの冒険の面影を見る。

「うん、昔危うく燃やされそうになったのを思い出した」

「そんなことあったかしらねぇ?」

 こういう話題はきっちりとぼけてくるところもビアンカらしい。すぐににっこりと笑いかけると、「ね、楽しいね!」と僕を下から見上げて首を傾げる。

「嬉しい。テュールとこうしてまた冒険、したかったの」

 大人びた彼女がほんのりと目許を朱く染めて、噛みしめるように呟いて。

「……そうだね。またこんな風に一緒に出かけられるなんて、思わなかったから」

 僕の言葉に、またビアンカは嬉しそうに笑ってみせる。

「ふふっ。──良かった! テュールも私のこと、忘れないでいてくれて」

 そんな風に呟きながらも「あ、こっち通れるわよ! 行ってみましょ!」と僕の腕を掴んで引っ張る幼馴染の姿が、子供の頃僕の手を引いてくれた姿と重なって。

「……忘れるわけないよ。これからも、ずっと覚えてる」

 長い長い暗闇の中、縋り続けた金色の記憶。

 昔も今も変わらない、明るく全てを照らす太陽のような。

 僕の独り言が聞こえてしまったのか、ビアンカはその時振り返らなかったけれど、金の髪を掛けたその耳元が微かに赤らんでいるのが見えたような気がした。

 

 

 

 洞窟をさらに奥へと進むと、ちらりほらりと先客にも行き会うようになった。

 一体どれくらいの時間を探し続けているのか、寒さの為か顔色も悪く疲労でへたり込んでいる者もあれば、やはり敵意剥き出しの悪態をついてくる者も少なくなかったが、僕としては死の火山の道中ですでにそう行った手合いには慣れていたので大して気にならない。

 たまに動けそうにない人を見つけた時には薬草を分けてあげたり、簡単な手当てを施したりしながら、僕達は更に階層を深く下っていった。

 途中途中には一際大きな滝が遥か奈落へと落ちていく様を間近に見られる絶景の回廊があり、僕達はその都度しばらく足を止めては水の織りなす幻想的な景色に酔いしれた。

 奥へと続く階段を数回降りた頃、ビアンカが僕のすぐ後ろで肩をぶるっと震わせた。

「あれ、寒い? ビアンカ」

 肩越しに振り返って尋ねると、ビアンカは少し困ったような微笑みを浮かべた。

「薄着すぎちゃったかしら。ここ、水場だし地下だものね」

 確かに、ビアンカは肩からほとんど肌を露出した服装だった。外は初夏の頃でもう汗ばむほどに暑かったが、冷んやりした空気を纏うこの洞窟でその格好では、風邪を引いてしまうかもしれない。

 念の為毛布は持ってきていたけど、水の多いこの場所でうっかり濡らしてしまったら休憩したい時に使えなくなるし……と少しだけ思案して、僕は自分の外套の裾をもう少し短く縛り直してからそれを脱いだ。

「はい。いいよ、羽織ってて」

 肩を抱いて小さくなっているビアンカに差し出すと、ビアンカは目を丸くして僕と外套を見比べた。

「……いいの?」

「え? うん。風邪引かれたら困るし」

 本当にそう思ったから差し出したまでではあったが、ビアンカは尚も僕を上目遣いに見上げると、少し躊躇いがちに腕を伸ばし外套を受け取った。

「……ありがと」

 ビアンカの手に外套が渡ったことを確認し、僕も頷き微笑んでみせる。

 すぐにビアンカは頭から外套を羽織り、ぶかぶかの襟に口許を埋めたまま「ふふっ、あったかーい」と相好を崩した。

「そっか。良かった」

「テュールは? 私に外套貸しちゃって大丈夫なの?」

「平気だよ。伊達に筋肉ついてませんから」

 剥き出しになった腕を軽く叩いておどけてみせると、ビアンカは肩を揺らしてくすくすと笑った。

「ほんと。逞しくなったねぇ」

 これでも十年、大神殿の建設現場でこき使われてきたからね。……とは言わなかったけれど、成長期をあの地獄のような場所で過ごしたことにも多少の意味を見出せるなら、あの頃の自分がわずかながらも救われる気がする。

「──こんなところに女連れとは、めでたい野郎もいたもんだぜ」

 唐突に、棘のある声を投げつけられた。恐らくはあの広間に集まっていたうちの一人だろう、屈強ではあるが柄の悪そうな大柄な男が水の中に立ち、下卑た薄笑いを浮かべながら僕達を見ている。またか、と僕は気のない一瞥のみちらりと返し、「行こう」と仲魔達とビアンカを促した。

 その辺りの水の中を念入りに探っていたらしい男は、すれ違っていく僕とビアンカを嘗めるように眺め、鼻で笑う。

「知ってるか? この洞窟にはすごい指輪が隠されてるんだとよ。そいつを見つければ、金持ちのお姫さんと伝説の盾が手に入るってな。……あんた、女がいるなら指輪は必要ないんじゃないのかい」

 悪意をたっぷり込められた男の皮肉に「貴方には関係ない」と言い捨て、僕はもう彼に目もくれず洞窟の奥だけを目指して歩を進めた。

 そんなところを幾ら探っても水のリングは見つかりはしない。そう言ってやりたい気待ちを、ぐっと呑み込む。本当はこの清らかで美しい洞窟に、彼女の気配すら感じられるこの場所に、あんな男が居ること自体が煩わしいのだけれど──あんな奴がフローラのことを口にしただけで、腑が煮え繰り返りそうになるけれど。

 外野の言うことなど気にするな。伝承の指輪は今この瞬間にも、恐らくこの洞窟のずっと奥で、主となる人間を喚び続けているのだから。

「はっ。俺ですら手こずってる指輪を、お前みたいな色狂いに見つけられてたまるかよ」

 遠ざかっていく背後から、呪詛の如く男の低い声が投げかけられる。プックルが一際激しくグルルル、と唸ったが、首元をとんと叩いてそれを宥めた。尚も好戦的なプックルを半ば引きずるように、僕達は足早にその場を離れた。

「……なんなの? あいつ、すっっっっっごいむかつく‼︎」

 そのまま、足を止めずにしばらく無言で歩き続けて。そろそろ十分離れただろうと言うところで、たまりかねたビアンカが憤ろしく叫んだ。

「いちいち相手してたらきりがないよ。放っておけばいい」

「テュールもテュールよ! 炎のリングはテュールが見つけてあるんでしょ⁉︎ そう言ってやれば良かったのに‼︎」

「変に逆上されたくないし。──いいんだ。どうせ、あいつに水のリングは見つけられないよ」

 激情を露わにするビアンカに対して、僕の心は答えるほどに冷えていく。ほとんど独り言のように呟いた僕の言葉に、ビアンカが少しだけ、怪訝そうに眉根を寄せた。

「……なんで、言い切れるの?」

 ビアンカの問いかけに、僕は答えなかった。それを今、彼女に言うことにさほど意味はないような気がしたから。

「少し、休憩にしようか」

 ちょうど、水場の端に濡れずに座れそうな岩場を見つけてみんなを手招きする。スラりんは「おやつ! おやつ!」と大喜びで寄ってきたが、ビアンカは尚も釈然としない顔つきで、プックルに寄り添うようにして近づいてきた。

 黙ったまま、僕が差し出した保存食の固いスナックを受け取り、のそりとその辺に腰を下ろしたプックルの傍に暖をとるように座って──手の中の、スナックを眺めながらビアンカがぽつりと呟く。

「……テュール、一度も道を悩んでないよね」

 その囁きに、僕は黙って視線だけを返す。……ビアンカは尚も己の手の中を見つめ、訥々と、これまで通った道を紐解くように、ひとつひとつの事象を数え上げた。

「初めて、来たのに、全然迷わないよね。他の人達に行きあっても、全然焦ってないよね。ここまでくる途中だって、一度も立ち止まって探してなかった。──船だって、もっとかかるって言ってたのにあっという間に着いたよね。……まるで、リングがどこにあるのか知ってるみたい。……ううん、違う、リングが、テュールを────」

 そこまで言うと、ビアンカはスナックを握りしめたまま、わずかに顔を上げて僕を窺い見た。

 得体の知れない何かに、どこか畏怖を覚える瞳。

 ……そんな彼女に、苦く微笑んで僕は頷く。

 

「──炎のリングの時も、こうだったから」



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#12. 水の指輪

 束の間の休憩を終えて、今度はくるぶしまで浸かる程度に浅い水路の中を進んでいく。

 さっきリングへの道筋の話をしてからというもの、ビアンカはずっと無言だった。

 僕も何となく、何を話していいか分からなくて、沈黙を守ったまま歩き続けていた。

 水をかき分けるごとにぱしゃん、と響く水の音。その静けさに耐えかねたのか、ビアンカの隣を行くプックルが、がぅ、とまろやかな喉声で彼女の機嫌を窺った。

「やだ、ごめんね。……何でもないのよ」

 ビアンカはすぐに傍らの毛並みを優しく撫でる。その手の甲に頰を擦り付けるプックルに「優しいね」と微笑んで、彼女の視線は前を歩く僕の背中に向けられる。

「……なんか……やっぱり、長いね。十二年って」

 少しだけ振り返れば、彼女はどこか寂しげな微笑みを浮かべて僕を見ていた。

「急に知らない人みたいな顔するんだもん。……びっくりしちゃった」

「そう、かな……ごめん」

 遠慮がちに告げた詫びの言葉に「ううん」とビアンカは短く首を振る。

「いいの。──私こそ、変なこと言ってごめんね」

 それきり、洞窟の奥深いその場所には暫し、ひたひたと流れる水の音と、その水を踏んでいく跳ねた音だけが静かに響いて。

「……母さんも、死んじゃったしさ」

 長い長い空白の後、ぽつりとビアンカが零した。

 今度は僕が歩幅を緩め、ビアンカと隣り合うように並んでその横顔を覗き込む。

「すっごい、元気だったのよ。本当に突然……村に引っ越しして、家も建ててやっと落ち着いてきてさ。宿屋は手放しちゃったけど、ここで父さんの身体を治してまた一から頑張ろうねって、言った矢先だったの。──ほんと、人生って何が起こるかわかんない……」

「……そっか」

 淡々と口にするビアンカの言葉に小さく頷き、耳を傾ける。

 村を出たあの日、ダンカンさんが言っていた「ビアンカも寂しいんだよ」という言葉がふと、脳裏をかすめた。

「パパスおじさまも亡くなられたって言うし。──テュールは結婚しちゃうし、……なんだか私だけ取り残されていくみたいで」

「待って、まだしてないから結婚‼︎ 多分すぐには無理だから絶対‼︎」

 不意打ちで蒸し返された話題に瞬間的に頭が沸騰する。思わず赤面顔もそのままに大声で即時訂正を求めると、ビアンカは一瞬ぱちくりと目を瞬かせ、次いで躊躇なく噴き出した。

「……ぶっ、あはっ、あはははははは! んもぅ、やっぱりテュールはそうでないと!」

「そうでないとって何⁉ こないだから散々冷やかし尽くしてるだろ、そろそろこういうのやめてくれよ!」

 僕達の他には誰もいないその階層に、ビアンカの盛大な笑い声と僕の必死の懇願、というか絶叫が響き渡った。少し先を跳ねていたスラりんまで吃驚して水溜りに転々と転がる始末。さっきの男のところまで聞こえているんじゃないのか、これ。

「……はあぁ。思いっきり笑ったらなんかすっきりした!」

 尚も笑いを堪えつつ、目尻を軽く拭ってビアンカがいつもの眩しい笑顔を僕に向けてくれる。

「よーっし、気を取り直して頑張るわよ! 早く水のリングを手に入れて、あんなやつ鼻で笑ってやればいいわ!」

「あんなやつって、さっきのむかつく男のこと?」

「決まってるでしょ⁉︎」と、ビアンカは鼻息も荒く険しい顔つきで振り返る。

「テュールに舐めた口きいた上に、私のお尻を触ったのよ? 絶っっっ対に後悔させてやるんだから‼︎」

「は?」

 思わず間抜けな声が出た。誰が、誰の尻を触ったって?

「ああ、やっぱりテュール気づいてなかったのね。あいつ、すれ違いざまに私のここ、撫でていったのよ! こう、さわさわっと!」

 怒り冷めやらぬ形相のビアンカが、羽織ったままの僕の外套の上から腰のあたりをぱんぱんと示してみせる。女性がそんなところを差しているのを見るのはそれこそ赤面ものなのだが、呆気にとられた僕には最早「はぁ」などという気の抜けた声しか出せない。

 ……こんなこと言ったら張り飛ばされるだろうから絶対に言う気はないが、この女丈夫の尻を触るとは、寧ろなんと無謀な豪傑漢か。

「うあぁ、思い出したら鳥肌が……あー気持ち悪いったら! プックルは気づいてくれたよねー、怒ってくれたもんねー。テュールよりよーっぽど頼りになるねー」

 さらに愕然とする僕を尻目に、がぅがぅ! と喜んでいるのかビアンカの怒りに同調しているのか、プックルが前足を跳ねさせて吼えるとビアンカは僕に当てつけるが如くにこにことプックルを撫で回す。

 確かに僕は、ビアンカの不快に全く気づかなかった。これは僕の落ち度だと思う。……でも。

「……メラくらいなら正当防衛だったんじゃないの。ちょっとだけ燃やしてやれば良かったのに」

 すぐに言ってくれたら抗議くらいしたのに。そんな恨みがましさも込めて小声で言い返すと、ビアンカは一層冷たい目でじとりと僕を睨んで言った。

「それ、フローラさんが同じ目にあっても言える?」

「…………ごめんなさい」

 それ以上何を言えるわけもなく、僕はあっさり観念してビアンカの御前に頭を垂れた。

「まったくもう。テュールも、今後女の子を連れて歩くときはもっと気をつけなさいよね!」

 否、今も自発的に連れて歩いているつもりはないんだが。

 とりあえず僕を言い負かしたことで気が済んだらしい。締めの駄目押しで僕をしっかり叱りつけ、得意げに宙を仰ぐと「さっ、そんなわけだから、とっとと水のリングを手に入れてあの下衆男の鼻を明かしてやりましょ!」とビアンカが実に楽しそうに微笑んだ。

 ──したたか、だよなぁ。

 その笑顔から視線を泳がせて逃し、苦笑いに口元を歪ませながら僕はぼそりと呟いた。

「……気持ちは嬉しいけど、多分逆効果だから、やめたほうがいいと思うよ……」

 

 

 

 一層重厚な、清らかな気配が次第に近づいて、足取りが軽くなるのを感じる。

 もうどれくらい潜っただろうか。地下の奥の奥深くに流れ落ちる滝はひどく美しくて、まるで不純物が全て濾過された後のようにただ透き通っていた。嵐の如く、雪煙の如く激しいのに、何故だかどこか静謐な。その澄み切った水が全て、集約される場所に僕らはたどり着いた。

 この『滝の洞窟』の、大きな大きな滝壺だった。

「…………すご……」

 轟音とともに四方から流れ込む圧巻の水の競演に、ビアンカが息を呑んだまま、感嘆の声を漏らす。

「──うん。ほんとに、神様がいそうな場所だよね……」

 僕も、ずっと辿ってきた地上からこの奈落へと降り注ぐ滝を遥か頭上に見上げて。あまりの遠さ、あまりの神秘にそんな感想しか出てこない。

「もうさすがに行き止まりよね。……ここに、ありそう?」

 ぐるりと滝壺を見上げていたビアンカが少し不安そうに振り返り、僕の顔を窺い見た。

「うん。……多分、あそこ」

 頷いて、滝がなだれ落ちるその向こうの一点をそっと、指差す。強く強く誘う、この清浄が漏れ出でる場所を。

 きっと、あの中に祭壇がある。

「……え? 滝の中、潜るの? さっき船で通ったみたいに?」

「そうかも……まぁ、滝の洞窟ってくらいだし」

 信じられない、と言うようにたじろいだビアンカと、無言ながらもさも嫌そうに顔をしかめたマーリンの気配に苦笑し、僕はまた道を探して水場に足を浸した。

「また濡れちゃうし、みんなはそこに居ていいよ」

 立ち尽くしたままの仲間達を振り返ってそう呼びかけると、「スラりんはへーいきー!」と青いぷにぷにした小さな身体がすかさず飛びついてくる。間髪入れずに「や、やっぱり私も行く!」とビアンカが水場へと飛び込んだ。残されたマーリンと、水がやや苦手らしいプックルが渋い顔をしてその後に続く。

 何だかんだで本当に、優しい仲間達だと思う。探索が終わったらたっぷり労ってあげなくては、と僕は心密かにこの胸に誓った。

「ねぇ、でもやっぱり無茶よ。あんな勢いの大きな滝に打たれたりしたら、テュールだってただじゃ済まないでしょ?」

「うーん……まぁそうなんだけど……」

 さすがの僕も首を捻らざるを得ない。間違いなく、指輪の気配はあそこからしている、けれど、大量の水が崩落し続けるあの滝に少しでも身を掠めたらその瞬間に滝壺の奈落へと葬り去られるだろう。

 この洞窟に魔物が少ないのは、そもそもこの滝を前に沈まされてしまうからではないだろうか。

 いくら水の属性を持つ魔物でも、この滝に巻き込まれて命があるとは思えない。

 その想像にはひやりと背筋をつたうものを感じたが、いつの間にやら滝の方へと跳ねて、いや流されていったスラりんが「ねーねーごしゅじんさまー! あっち、あるけそうー!」と大喜びで叫ぶのを見て、僕は慌てふためきそちらへ向かってざぶざぶと水を掻き分けた。

「こ、こら! スラりん、一人で滝に近づいたら駄目だよ⁉︎ ちょっと深いと君はすぐ流されちゃうんだからさ‼︎」

「うー、ごめんなさーい。ねぇみてみてー! あそこ、あるけそうでしょー!」

 僕の腰ほどの深さにもなるその水場の中で、反省の色もごくわずかにスラりんが意気揚々と振り返ってみせたのは────

 透き通る巨大な滝が起こす激しい水煙と白い泡の渦の中、水場は滝の衝撃を避けるようにずっと先まで伸びていた。目を凝らすと、その壁の少し上の方にある大きな岩に弾かれて、滝が岩棚より少しだけ手前を滑り落ちていっているように見えた。

 ──隙間があるんだ。岩肌と、滝との間に。

「……スラりん、すごいな。確かにあそこからなら……入れるかもしれない」

 思わず呟いた僕を見上げて、小さな青い魔物は僕に捕まえられたまま、まるで幼い坊主の如く得意満面の笑顔を覗かせた。

 

 

 

滝の裏側に続く浅瀬の壁面まで歩き、いや泳ぎ切ったところで、もうみんな全身ずぶ濡れだった。

 そのわずかな水場は滝の崩落地帯を少しそれていたとはいえ、滝壺の誘引力が思った以上に半端なかったのだ。絶えず雪崩打つ滝を飲み込み続ける激しい渦が、僕達をも飲み込むべく抗い難い流れで身体に取り憑く。そこそこに深さもあって、僕より小柄なマーリンとビアンカはすっかり胸まで浸かってしまった。プックルも一応泳げはしたものの流れが急なところがあり不安だったので、僕は一人ずつ流れに持っていかれないよう必死で支えながら、なんとか壁伝いに歩けるところまで全員を連れていった。

「だから、待ってていいって、言ったのに……」

 先に渡ったプックルに命綱を咥えてもらい、それを頼りになんとかマーリンまでは問題なく滝壺を超えられたが、さすがに三往復目ともなると息が切れてしまって。最後に残ったビアンカがうっかり水を飲んでしまわないようずぶ濡れの重い外套ごとその肩を支えながら、僕はぽつりと苦い本音を漏らしてしまう。

「だ、って、見たいんだもん。指輪! 絶対、行かないと!」

「……はいはい。ていうかさ、も、これ、脱ぎなよ。濡れちゃってるし、危ない、って」

 この滝壺で水をたらふく吸った重い布、しかも奈落の底へと誘い込もうとするその流れは恐ろしく早い。正直命取りにしかならないのだが、ビアンカは珍しくぶわっと顔を真っ赤に染めると僕の外套を片手で握りしめ、ぶんぶんと激しく首を振る。

「だめっ! いま、とったら服っ、透けちゃうからっっ!」

 ああ。それは、駄目かもね。うん。

 色気も何もないやりとりを息も絶え絶え、命がけで交わしつつ、なんとか僕達は水場の向こう岸、壁に触れられるところまで泳ぎ切った。

 ……こんなところで、ここまで消耗するとは。

 向こう岸に荷物を置いてきて正解だった。少しとはいえ、毛布に食糧がこの水に浸かってしまえばどのみち使い物にならないんだし。……もう僕は、ここで水のリングを手に入れたら魔法で脱出する気満々でいたから、あそこに置いてきた荷物を今更拾いに戻るつもりはなかった。誰か一人でも向こう岸で待つと言っていたら、話は別だったのだけど。

 本当にみんな、優しくて、健気な仲間達だと思う。

「ごしゅじんさまー! びあんかちゃんも、だいじょーぶー⁉︎」

 一番先に僕の頭に乗って到着した元気そのもののスラりんが、これまたプックルの頭の上で跳ねながらあわあわと僕達を労ってくれる。

「──────、うん。大丈、夫」

「わたし、も……テュールがずっと、支えてくれたし」

 激しい渦流からやっと解放されて膝をつくと、食いしばっていた全身からみるみる力が抜けていく。はあぁ、と息を深く吐き出せば、その傍らで呼吸を整えているビアンカがぽん、と僕の背を叩き、ゆっくりさすってくれる。

「……ありがとう、ね」

 少しだけ熱っぽいその囁きに、僕は少しだけ微笑んで、首を振って返す。

「──もう、ちょっとだけ、頑張れる?」

 別に、服がちょっとぐらい透けてるのなんか気にしない……とまではさすがに言えないけれど、そんなにも重く濡れそぼった外套は身につけているだけで苦しいだろうに。脱いでしまって構わないのに、そう思ったけれど、ビアンカは女性なのだと今更ながら思い直した。僕に見られては恥ずかしいこともあるだろう。──いくら気心知れた仲とは言っても。

 だから、あともう少しだけ頑張ってくれたら、すぐに船に帰れるから。

 背中をさすってくれる彼女を少し下から見上げたら、冷えて血の気のない頰にそれでもほんのり朱を差した幼馴染が、照れ臭そうに笑ってくれるのが見えた。

「……当たり前でしょ。この程度で音をあげるくらいなら、最初から無理言ってついてきたりしないわよ」

 こんな時にも──否、こんな時だからこそビアンカらしい頼もしい返事に、僕も自然と口許が緩む。

「テュールこそ、こんなとこでへばってる場合じゃないでしょ? お目当てのものはすぐそこ、なんだからさ」

「……言ってくれるね。誰がへたばってるって?」

 強がりでもなんでもいい。膝に手をつき、僕は水を散らして勢いよく立ち上がった。前髪から滴る水滴を乱暴に拭って、僕はやっと仲間達の方を向き直る。

「一応、気をつけて。炎のリングの時は祭壇の周りにリングを守る魔物がいた。ここはそういう感じはしないけど、用心はしたほうがいい」

「じゃあ、スラりんがみてくる! これくらいならすぐとおれるしー!」

 僕の言葉を最後まで聞いたのか聞いていないのか、青い軟体が一際大きく飛び跳ねたかと思うとべたりと岩肌にくっつき、そのすぐ真横を凄まじい勢いで落下する滝との距離をうまく取りながらも壁面伝いにむにょむにょと進んでいった。

「滝に身体を取られるなよ!」

「へいきへいきー!」

 見ているこっちは肝が冷える光景だが、スラりんにとっては割と楽勝だったらしい。あっさりと滝の裏側に回り込み、「ごしゅじんさまー! ここ、またどうくつになってるー!」と怒涛の滝の音に紛れつつ叫んでいる声が聞こえる。

「なにもいないよー! ……んー、でもなにもないよー!」

「えっ⁉︎ どういうこと⁉︎」

 僕より早く驚愕を露わにしたビアンカが、これまた制止するより早く壁伝いに滝の裏側へと侵入を試みる。

「ビアンカ、危ないって‼︎ せめて命綱持ってから行って‼︎」

「そんなもの気にしてる余裕ないわよ‼︎」

 怒鳴り返しながらもビアンカの姿が滝の裏側に吸い込まれる。ますます肝がキュッと絞られるのを感じながら、僕と残された仲魔達は滝の裏側の反応を固唾を呑んで見守った。

「……大変よテュール! 本当になにもない‼︎」

 いや、待て。

 何も知らない人がこの場を通り過ぎれば、不幸にもこの滝で落命した怨霊か何かと思うに違いない。この世の終わりかとばかりの絶望的な声が二つ、滝の内側から響いているが、僕には彼らの衝撃の理由に心当たりがあった。

 ──炎のリングも『はじめはなかった』のだから。

「ビアンカー、とりあえず落ち着いて……今そっちに行くから」

 努めて冷静に声を発し、僕はまずプックルに綱をつけて滝の裏の細い道を渡らせた。しなやかな筋肉を駆使してプックルはバランスよく滝の裏を通り抜け、その綱伝いに今度はマーリンを壁にへばりつかせて通す。最後に僕が同様に、岩肌にしがみつきながら滝の裏側へと入った。──すぐに壁をくりぬいた大きな穴に行き当たり、僕達は順番にその中へと身体を滑り込ませた。

 ──────ここが。

 まるく、広い空間だった。外界からの侵入を阻む滝の轟音すら気にならなくなるほどに静謐な、あの空気に満ちている。中央に一際大きな岩造りの台座がひとつ、鎮座している。それだけの空間。それ以外にはなにもない。……今は。

「テュール‼︎ 見てよ、どこにもないの。どうしよ、誰かが先に見つけて持って帰っちゃったのかも……っ」

「落ち着いて、ビアンカ」

 動揺と寒さのためか、小刻みに震えだした幼馴染に一言、静かに囁いて。その肩にそっと一度だけ手を置いて、僕は真っ直ぐに岩の台座を見つめた。──その中央を。

「まだ、あるよ。……大丈夫」

 確信を込めた僕の言葉に、ビアンカが息を呑み眼を見開く。

 迎えに来たよ。

 そのまま、吸い寄せられるように台座へと手を伸ばした。僕を喚びこむ愛しい気配がまるで光の渦となり、瞬間、台座が凄まじく発光する。水の粒子がその光の中を舞い踊り、水が激しく轟くような音と共に何もない空間に幻の巨大な滝を形作った。──次の瞬間には幻は跡形もなく消失し、ぽっかり拓けたまるい空間には再び静寂だけが満ちた。

 全ては、瞼を一度瞬いた間のことだった。

 誰もがその目まぐるしい幻の舞台に意識を奪われる中、僕は伸ばした手で台座に触れた。……先程までそこにはなかったはずの、青い小さな宝石を嵌め込んだ、白銀に輝く細身のリングがその中央に埋まっていた。

 ────迎えに、きたよ。

 リングにわずかに触れれば、炎のリングの時と同じく台座からぽろりと離れ、僕の手に吸いつくように収まる。

 この掌に、清楚で小さなその指輪を包み込むだけで、僕はまるであの人を抱きしめているような恍惚に襲われる。

 会いたかった。いとしい、ひと。

 暫し僕は、仲間の目も厭わず指輪を胸にそっと押し抱き、久々にこみ上げた胸を締め付ける甘い痺れに酔いしれた。

「……あった、の?」

 やがて、全てを見届けたビアンカが、そんな僕の背中に向かって茫然としたまま呟いて。

「──うん。……ほら」

 掌をそっと開いて、僕はビアンカと仲魔達に、手に入れたばかりの美しい指輪を披露する。

「わぁ……綺麗。噓みたい……」

 真っ先に覗き込んだビアンカがうっとりとその輝きに魅入られる。白銀の軀に蒼の瞳を一つ埋め込んだ、その小さな宝石を覗き込めば炎のリングと同じく、石の中を美しい漣が絶え間なく満ち引きを繰り返しているのが見える。

 スラりんは「きれいきれーい! やったーみつけたーごしゅじんさますごーい!」と台座の周りをぐるぐる跳ね回る喜びよう、マーリンは苦労した甲斐があったと言わんばかりにすましているし、プックルはゴロゴロと喉を鳴らして僕の腕に身体をごと擦り付けて労ってくれる。

「……ありがとう。みんな、ここまで頑張ってくれて」

 心からの感謝を口にすれば、皆一様に照れ臭そうに笑ってくれて。

「大したことはありませんでしたな。最後以外は」

「そうよね。まさか魔物じゃなくて、滝壺にやられそうになるとは思わなかったわ」

 生真面目に考察するマーリンと、真剣に同意するビアンカのやりとりがなんだか可笑しくて、思わず声を上げて笑ってしまう。──と、くしゅっ! とビアンカが小さく身体を震わせてくしゃみをした。

「あ、ごめん。それじゃ帰ろう? みんな、僕に捕まって」

 ぐるりと仲間達の顔を見渡し、指輪を持たない方の腕を差し出す。ビアンカが、マーリンが頷いてそれぞれ肩と腕に手を置き、スラりんはいつものように頭の上へ。プックルは僕の側に擦り寄り、その毛並みに指輪を握りしめたままの手を置いて、僕は洞窟を脱出するための呪文を唱えた。

「アリアの加護よ、我々を導け。──疾く糸玉の元へと!」

 

 

 

 船を停めた洞窟の入り口、その入江の端で、乾いたところを選んで火を起こしてもらう。

 洞窟を覆う滝の幕が宵闇から濃い青へと変わっていく。そろそろ夜が明ける頃なのだろう。確か、洞窟に入ったのは陽が落ちる少し前だったから、およそ半日以上は潜っていたらしい。

 交代で休息を取っていたというクラウスさんとピエールは、全身ずぶ濡れで現れた僕達にもさほど動じず、てきぱきと世話を焼いてくれた。クラウスさんはすぐにビアンカを船に備えられたシャワールームへと連れて行き、僕達はピエールから乾いた布を受け取って水気を拭いたり、着替えたりして簡単に身支度を整えた。すぐに戻ってきたクラウスさんが今度は薪の準備をしてくれて、やっと暖をとることが出来た。

「……素晴らしいです。まさか私のような一介の船乗りに、伝承の指輪をこの目で見ることが叶うとは」

 ぱちぱちと爆ぜる焚き火を前に腰を下ろせば、さっきまで冷たい滝壺を彷徨った身体が心地よい疲れを滲ませる。失くさないよう、着替えた際に鎖を通した繊細な白銀の指輪を、火にあたりながらクラウスさんにも見てもらった。

「無事に見つけられて良かったです。色々と教えてくださり、本当にありがとうございました」

 僕が姿勢を正し頭を下げると、クラウスさんは穏やかに笑んで首を振る。

「私は何もしておりません。テュールさんが求めたからこそ指輪が応えた。そういうことなのでしょうから」

 物静かな返答に、自然と二人とも、僕の掌に収まった指輪へと視線を移す。焚き火の熱にも揺らがない、清廉な輝きが物言わず石の中に揺蕩っている。

「……思い出して、しまうんです」

 その、手の中の静かな漣をぼんやりと眺めながら、僕はいつしかぽつりと呟いていた。

「この、指輪を手にした時──この洞窟に、来た時も。もうずっと……彼女が、ここに居るような気が、して……」

 そっと、握り締めれば。あの華奢な肩を抱きしめている心地になる。

 美しい、碧い髪をなびかせた彼女がこの腕の中、僕を見上げてくれている幻影まで視える、気がする。

 ──幸せだと思ったのに、今は、おかしくなってしまいそうだ、と思う。

 彼女のことを強く想うばかりに、僕は段々と狂ってきているのではないだろうか。

 会わずに出てきたのは自分なのに。あの眼差し一つを信じようと決めたのは、他ならぬ僕自身だというのに。

 ……答えなんて見つからなくて、僕はただ、掌に包んだ指輪を祈るように額に押し戴く。

 ──────会いたい。

「……私は、テュールさんがテュールさんのような方で……良かったと、心から思っておりますよ」

 どこまでも優しい、クラウスさんの声が、静かな波紋のように僕の身体に浸透していく。

「お嬢様を……、どうか、よろしくお願いいたします」

 切実なほどに心に刺さる、その言葉に。

 僕は、何故か目頭に熱くこみ上げるものをこらえながら黙って深く、今一度深く頭を下げた。

 滝に隔てられた洞窟の外は、いつの間にか朝を迎えていた。



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#13. 裏切り

 シャワーを使い、体温を取り戻したビアンカを焚き火の輪に招き入れて、僕達はその場で簡単な朝食をとりながら帰路について相談をした。

 転移魔法を使えることは話したが、船ごと転移できるかどうかがはっきりしなかった。成功したとして、街中にいきなり船が現れてはたまらない。キメラの翼で船ごと街へ戻った経験もないとクラウスさんが言っていたので、やはり今回は念の為、普通に航行して戻ろうという話になった。

「少しばかり波が荒れてきそうですので、サラボナまではおよそ一週間か、もう少しかかるくらいになりましょうか」

 クラウスさんに改めて所要日数を確認し、食糧と水が足りるかを再度相談した。思いがけず往路が早まったので食糧庫には大分余裕があるはずだが、途中からビアンカが同行した分多少計算が狂っている。念の為ここから近いルラフェンまで僕が行って少し買い出しをしてくるという提案をしてまとまった。

 昼頃に洞窟近くの岸に船をつけてもらう約束をし、パトリシアの毛並みを整えてやって、一度船を洞窟の外に出してもらい、馬車と僕だけに注意を絞ってルーラを唱える。

 何度か使ってみて、この魔法の効果範囲もだいたい掴めてきた。僕の集中力、魔力によって運べるものや人数が変わってくるようだ。今回のように対象を絞れば、パーティーのうち数人だけ移動させることができる。馬車なら何度かやっているので問題なかったが、サラボナへの帰還についてはさすがに船のような大きなものと共に──それもそれなりの距離を転移したことはなかったから、僕自身ぶっつけ本番は怖いかな、と思ったというのが大きかった。

 ……早く帰れるなら、それに越したことはないのだけれど。

 およそひと月ぶりに訪れたルラフェンは相変わらず入り組んでいて、妙な匂いと黒い煙が漂っていた。記憶を頼りに店を探したが、まだ朝が早すぎてどこも開いていない。せっかくルラフェンに来たから、とベネット爺さんの家を訪ねてみると、相変わらず古びた本の山に埋もれた書斎で何やらぶつぶつぶつぶつ呟きつつもひっきりなしにページを繰っていた。このお爺さんは一ヶ月もの間ずっとこうして本を読みあさっていたのではなかろうか、と思うほどだ。

「おお! 誰かと思ったらお前さんか。どうじゃその後、古代魔法ルーラの使い勝手は⁉︎」

 恐る恐る声をかければ再会の喜びも束の間、さながら尋問の如く、復活させたばかりの古代転移魔法ルーラの使用感について聞き取り調査が開始された。魔力を一度にどのくらい使って、どの程度の人数をどのくらい遠くへ運べたことがあるか。転移後に身体的な変化はないか。生命体以外に運んだものは。周辺数歩分の距離にあった意図しないものを巻き込み転移したことはないか。術者が転移せず他者にのみルーラを施すことは可能なのか。

「ええ、きちんと意識してやれば転移したい対象だけにルーラを施すことができました。でも僕が同伴して転移しない術式は不可能かなと思います。──あの、すみません僕、実はこの後用事がありまして」

 まだまだ続きそうなベネット爺さんの質問責めから及び腰になりつつ壁の時計をちらりと盗み見て、そろそろ店が開く時間ということにさすがに焦りが出始める。

 このお爺さんはずっと昔に失われた古代魔法の研究をしている方で、その情熱に共感してこのルーラという転移魔法の復活をお手伝いした訳なのだが、とにかく研究に懸ける情熱が物凄い。一ヶ月前には僕という被験者を得て、大層活き活きと実験に明け暮れていらっしゃった。ルーラが完成した暁にも、次の魔法じゃ! 死ぬまでに後百個は完成させるぞい! と意気込んでいたから、多分今日もこのまま話を聞いていたらまた別の魔法実験に付き合わされそうである。まだ時間があるからと訪問したのは迂闊だったかもしれない。

「おお、そうか? 残念だの。君のような風魔法に適性のある者はあまりおらんでな、他にも手伝って欲しい研究が山ほどあるんじゃよ」

「はい、また時間ができた時には必ず……ですから、お身体に気をつけて研究なさってくださいね。食事と睡眠はちゃんと摂って」

 一番不安に思われるところを念押しして、僕はベネット爺さんに再会を約束し家を出た。

 

 

 

 急いで開店したばかりの店に駆けつけ、必要なものを購入して迷路のような街を出る。

 パトリシアを励ましながら馬車を飛ばし、なんとか太陽が頭上を通過する頃には待ち合わせの場所に辿り着いた。

「すみません、店が開く時間を考えていなくて。少し遅くなりました」

 とっくに岸に停泊させて待っていてくれたクラウスさんに詫びれば、いつもの穏やかな表情で労われる。

「ええ、そうだろうと思いました。私も気づかず見送ってしまい失礼しました。ビアンカさんはお休み中ですよ。テュールさんも一睡もなさってないのですから、しばらく操舵は私に任せて休憩なさって下さい」

 彼の言葉に恐縮しつつも有り難く頷き、僕は簡単にシャワーを使わせてもらった後、操舵室にある簡易ベッドに夜まで身を投げさせてもらった。

 目が覚める頃にはすっかり辺りは暗く、船は南へと向かって全速前進している最中だった。眠っていた間にも何度か魔物の群れとの遭遇があったらしく、先に目覚めたビアンカや僕の代わりに魔物番をしてくれていた仲魔達が撃退話を得意げに聞かせてくれた。

 そうしてようやくクラウスさんから舵を任され、彼にも休息をとってもらいながら、僕は今、夜の湖畔の風に当たっている。

 ──サラボナまであと、六日。

 やはり往路とは違い、天候も落ち着かなければ湖の様子も騒がしかった。先程まで星が見えていた空からは突然大粒の雨が降り出しては甲板を激しく叩き、低い唸り声と共に現れた魔物は幾度となく船を捕えて傾けようとした。水中の魔物には割と聖水が有効で、船体づたいに流し込んでやるとそれを嫌って離れていく。尚も追いすがってくる相手のみ迎撃して、事無きを得る。

 起きている仲魔達と場所を分けて見張りをしていたが、何故か僕が守っている場所ばかり狙われる……というより、どうも僕を狙ってくる魔物が多いように思われるのは、僕が持つ水のリングがそうさせているのか。

「この辺りの魔物たちは洞窟の守り手なのでしょうな。御神体を奪われたと立腹しておるのでしょう。何、洞窟から離れれば落ち着くであろうよ」

 飄々とピエールは嘯いたが、そう言われると僕の気がどうも晴れない。が、ではお返しします、という訳にもいかないのだから。地図と風向きを確認し、帆の角度を調整して、僕は早く洞窟の霊域から脱出することを祈るばかりだった。

 やがて夜が明けて、空を包んでいた重たい雲の隙間から幾筋かの光が漏れだす。

 ひとまず一晩目を無事に切り抜けたことに安堵する。そうして起きだしてきたクラウスさんと仲魔達に状況を報告し、食事を取ってから見張り番を交代した。

 ピエールが推測した通り、魔物たちの襲撃は洞窟を離れるほどに次第に収まりつつあるように感じられた。

 

 

 

「あぁ……不覚だわ……」

 甲板に出て、船縁にぐったりと身体を伏せもたれている金髪の女性が一人。

「大丈夫? 水かなんか要る?」

「へいき……うぷ。行きは大丈夫だったのに、昨夜はずいぶん揺れたわね」

「ああ、うん。マーマンが結構下から揺らしていたからね」

 頷き、船縁に寄りかかったまま肩越しに水面を覗いた。

 今日はビアンカだけでなく、仲魔達も何名かは船酔いに苦しんでいるようだった。船に慣れているクラウスさんと、昨夜必死で魔物に応対していた僕やピエール、プックルは割と平気だったのだが、特に船室で休んでいた面々がやられてしまったらしい。マーリンなどはフードをいつもより深く被りむっつりと押し黙っているが、食欲のなさは誤魔化せない。あれだけ船の揺れに慣れたガンドフでさえ、船室でぺちゃんこに倒れていたのには驚いたが。

「最低でもあと六日は乗るんだものね。耐えるのよビアンカ……船酔いごときに負けてたまるもんですか……」

「別に、ビアンカは村に帰ってもらっていいんだけど。ダンカンさんが心配じゃない?」

「心配だけど、それよりもっとテュールの方が心配なの!」

 このやり取りももう何回したことやら。間髪入れずにきっぱりと言いきり、苦笑する僕を軽く睨め付けたビアンカが、船縁に肘を置いたまま視線をふと湖面へと落とした。

「……ねえ、そういえばさ」

「うん?」

 どことなく沈んだ声音に、僕は首を傾げると隣で面伏せる金の三つ編みを振り返った。

「……あのむかつく奴、お金持ちのお嬢さんと盾、って言ってた。盾ってなんのこと? テュール、そのことは言ってなかったから」

「────ああ」

 ビアンカに問われ、僕ははじめて……盾のことをすっかり失念していた自分に気がついた。

 そう、だった。そもそも僕がサラボナに来たのは、父の遺志を継ぐため。『天空の盾』の情報を……否、そのものを得るため。

「……指輪を二つ、手に入れたら、結婚相手として認める証として……ルドマン家に伝わる盾を頂けるんだって。その、ことじゃないかな」

 少し前にも、あの火山の中で。アンディに烈しく責め立てられたことを思い出す。

 そんなつもりはなかった。それがどんなに今の僕の真実であっても、サラボナの街に入るあの瞬間まで僕が『そのつもり』でいたことは否定できない。

 フローラに興味などなかった。盾のことしか頭になかった。

 だから、どこかまだ後ろめたさのようなものがあって……何となくそんな、誤魔化したような言い方になってしまったのだ、と思う。

「……ふぅん」

 ビアンカは無感動な相槌を一つ打つと、またぼんやりと波間に視線を彷徨わせる。

「それって……パパスおじさまが探していたっていう、伝説の武具と関係があったり、するの?」

 ……どうして、こうも鋭いんだろう。

 気づかれたくなくて濁したことを、どうして言い当ててしまうんだろう。

 頷くことも、否定することもできなくて、答えを飲み込んでしまった僕に。ビアンカがやっと首だけ振り返って、少し辛そうに微笑んでみせる。

「ごめん。こんな言い方、したら嫌だよね」

「────いや……」

 やっと、それだけ絞り出すと、ビアンカは尚も切なげな微笑みばかりを向けて、船縁に組んだ腕に頰を埋める。

「でも……そっかぁ。良かったじゃない。テュールはその指輪を持って帰れば、初恋の人と結婚して伝説の盾も手に入れられるかもしれない、ってことでしょ? 大団円ね。パパスおじさまだってきっと喜んで」

「ごめん、ビアンカ」

 それだけは。

 強い声で、遮ってしまった。祝福を口にしていたビアンカに。ビアンカの肩がわずかに強張ったのがわかった。けれど父の名が出た瞬間、それ以上聞くことに耐えられなかった。

 それらはすべて、本当のことだというのに。

「……ごめん」

 もう一度だけ、短く告げて、僕はビアンカを甲板に一人残したまま、操舵室のある船尾甲板へと逃げ込んだ。

 それ以上、聞きたくなかった。嫌という程わかっているつもりだった。でも、第三者であるビアンカから、善意でそれを突きつけられることは思った以上に痛かった。

 あの日大広間に居た数多の男達。昨日洞窟で行きあった、リングを探していた男達。

 うら若き美しい少女と、家宝や富豪の財に目が眩んだ男達を忌み、嫌悪する資格など、自分にはない。

 ──誰よりも先に、盾だけを欲していたのは自分なのだ。

 その事実が、フローラへの想いを純粋なものでいさせてくれない。いっそ家宝の盾が伝説とは無関係のものだったなら。

 そんな風に思ってしまうことがまた、ずっと慕い続けてきた父への裏切りのようで、ひどく胸が痛かった。

 どうして、ただ出会うだけでは駄目だったのだろうか。

 生まれて初めて、僕は自分の境遇、運命を少しだけ、呪いたいような気持ちになった。

 伝説の盾も、勇者と共に魔界を目指すという使命も、彼女への想いの妨げにしかならないのだ。

 例え、彼女と結ばれることができたとして。この危険な旅につきあわせるのか? 一人待たせて、置いて行くのか? それとも彼女をも魔界へ連れて行こうというのか?

 こんな男に、彼女を幸せになどできるものか。

「どうか、なさいましたか」

 ずっと船尾で波を眺めている僕を気にしてくれたクラウスさんが、いつもの穏やかな声をかけてくれる。

「──あ……、すみません」

 少しだけ頭が冷えて、笑顔を繕い振り返ると、操舵室から覗くクラウスさんの側へと歩み寄る。

「そろそろ代わります。すみません、お任せしっぱなしで」

「この為に同行させて頂いているのですから、テュールさんは私にまで気を遣いすぎですよ。……少し、お辛そうに見えたものですから」

 優しい、クラウスさんの心遣いに、またも喉元に何かが込み上げてしまいそうになる。

「……大丈夫です」

 苦い、それを飲み下して。僕はただ微笑み、首を振った。

 これ以上この方に甘えるわけにはいかない。

「ご心配をおかけして、すみません」

 重ねて言った僕を、どこか憂うような瞳で見つめて。何も言わずにクラウスさんが舵の前を譲ってくれる。

「……お嬢様も、よくそんなお顔をなさいます」

 軽く頭を下げてから舵を握った僕に、ぽつりとクラウスさんが呟いた。

 思いがけないフローラの話題に顔を上げると、クラウスさんは何故か、少しだけ痛ましげな微笑みを僕にくれた。

「お二人が……その、お二人だけの辛さを、和らぎあえる関係になってくださったら、と。……そんな風に、思えましたもので」

 クラウスさんの言葉を聞きながら、胸に下げた指輪を服の上からそっと、包んだ。

 君がこんな風に苦しい時、僕が癒してあげられる存在になれるなら、僕の苦しみなんてもう些末事でしかない。

 本当にそんな存在になれるなら、もう誰のどんな視線も、言葉も怖くないと思える。

 ──あの人さえ、僕を信じてくれるなら。

「……なりたい、です。誰よりも、彼女を……」

 切実さを滲ませた僕の答えに、クラウスさんがもう一度、優しい笑みを浮かべて頷いてくれる。

 こんなにも苦しい。こんなにも胸が痛むのに。

 一瞬でその痛みを取り除いてくれるのも──この恋であり、彼女だけなのだ。

 

 

 

 船は順調に航行し、一路サラボナを目指す。

 夕飯時、改めて顔を合わせたビアンカに頭を下げられた。

「さっきは無神経だった。本当に、ごめんなさい」

 そんな風に謝らせてしまうことが辛くて、僕は黙っていつもの微笑みをつくり、首を振った。

「気にしないで。ビアンカは何も悪いことは言ってないよ」

「でも」

 ビアンカは尚も言い募ろうとしたが、僕が目配せで制止を訴えたので、続く言葉を呑み込んだようだった。

「……傷つけたかったわけじゃ、なかったの」

 しばらくはお互い黙ったまま食事の準備をして。キッチンで温めたスープを深めの皿によそい、配膳しながら、僕にだけ聞こえる小声でビアンカが呟いた。

「わかってるよ」

 僕も、カトラリーをそれぞれの席に並べながら。目は向けなかったけれど、安心させたくてできるだけ穏やかに、そう返した。

 小さく息をついたビアンカが、配膳の手を止めて僕の横顔をじっと見つめる。

「テュールは、本当に……フローラさんを愛していて、結婚したいんだよね?」

 そんな言葉にも、もう僕は……赤面して、狼狽えることはなかった。

「……うん。そう……」

 静かに、頷いた僕を。

 ビアンカは寂しそうな瞳で、一度見上げてから瞳を伏せた。



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#14. 混迷

 帆船でサラボナを発った朝から、およそ二週間近くが経過していた。

 ────僕達は再び、この街に戻ってきた。

 

 

 

 水門を再び越えて、「本当に一度戻らなくていいの?」という僕の問いかけを無視したビアンカも帆船に乗せたまま、僕達は旅立ちの時と同じ岸辺に船をつけた。

「本当にありがとうございました。お世話になりました」

 感謝してもしきれない、この長旅につきあってくださったクラウスさんに深々と頭を下げる。この穏やかな航海士のお陰で、僕の心はどれほど救われただろうか。

「こちらこそ、旦那様に土産話をお聞かせできるのが楽しみです。大変楽しい船旅でした」

 船の手入れをしてから戻るというクラウスさんにその場で別れを告げ、僕達は馬車と共にサラボナの街へと向かった。

 初めてこの街へ来た時と同じように宿の納屋に立ち寄り、既に顔見知りになっていた厩番の方に話しかけると、二つ返事で馬車を引き受けてくれた。「今夜はお泊まりですよね?」と何故か目を輝かせて言うその男に愛想笑いで頷き返し納屋を出る。外で待っていたビアンカの元に駆け寄り「お待たせ。街に入ろうか」と声をかけた。

 ビアンカは、あれだけ厚かましいことを言っていた割に今は珍しくも大人しくしていた。……どこか緊張しているようにも見てとれた。

「ねぇ、すぐにルドマン様のところに行くの?」

「その前に一ヶ所、寄りたいところがあるけど……何、まさか本当にお屋敷までついてきたりしないよね?」

 いつもの軽口のつもりだったが、やはり歯切れが悪い。「やだ、さすがに中まではついていかないわよ。……お屋敷の外で待ってるのは駄目?」などと微妙な提案をしてくる。僕としてはビアンカを見咎められて変に誤解を受けてはたまらない。出来れば、本当に街歩きでもしていてほしいと言うのが本音だった。

「ビアンカも今夜は宿に泊まるんだろ? だったら、先に行って部屋とってきたらどうかな。それで少し散歩でもしてきなよ。行き先が同じなだけ、なんだろ?」

 少し意地悪かな、と思いつつそう言い返すと、ビアンカは顎を抑えて少し考え込む風をする。すぐに「そうね、じゃそうする」とこれまた珍しく物分かりのいい返事をして、宿の方へと手を振りながら去っていった。ほっと胸をなでおろし、僕もまた改めて久々の街中を目的地に向かって歩き出した。

 いつの間にか僕の顔はそんなに知れ渡っていたのか、道行く人から「よっ! お帰り、色男!」だの「水のリングってやつも見つけたのかい? すごいねぇ!」だのと声をかけられる。こういう経験は今までにないので、どういう顔をしていいかわからない。

 やはり炎のリングを持ち帰った話は、その後水のリングの探索に出た話と共に、街中で持ちきりの噂になっていたようだった。

 すぐに目的の場所であるノルン家──アンディの家に辿り着き、いつかのように扉を軽くノックすると、「はい、はい」という耳慣れた声と共に、二、三拍置いて中からノルン夫人が顔を覗かせた。

「ああ、テュールさん。帰ってきたんだね」

 当初の頃よりは幾分か物腰が柔らかかったが、それでもまだこの方の僕への対応は決して温かいものではない。息子への愛情が為せることなのだろう、そう思えたから、僕もさして気に留めないよう振る舞いつつ頭を下げた。

「こんにちは。たった今戻りました。長い間ホイミンを預かっていただき、本当にありがとうございました」

「こっちこそ、ホイミンちゃんにはずうっと助けてもらったよ。ありがとうね。……だいぶ良くなったんだけどさ、アンディがちょっと重い風邪をひいちまったみたいでね。でも、やっと起き上がれるようになってきたんだ。さあ、上がっておくれ」

 促されるままに室内に入り、何度か上がらせてもらった階段を静かに昇る。

 二階には──これも覚悟はしていたけれど、やはりフローラがいつもの椅子に座っていた。その傍に、心配そうに彼女に寄り添うホイミンと。ベッドにはだいぶ血色良くなったアンディが毛布をかけたまま上半身を起こして座っていた。……真っ先に目に入ってしまうのが彼女であることに、何故か自嘲めいた気持ちが湧き上がる。

「テュール、さん」

 そして、僕に真っ先に気づいてくれるのも、やはり彼女だった。

 あの日のように僕を見つけたフローラがすぐに立ち上がり、つられてホイミンが、アンディがこちらを振り向いた。それぞれがどこか安堵の息を漏らす中、フローラが桜貝の唇をわずかに、震わせた。

「────おかえり、なさい」

 微笑おうと、してくれたようだった。いつも以上に綺麗に化粧を施した顔を、懸命に僕に向けて。その表情があまりにも切なくて、僕はずっとこらえていた愛しさがこの身を迸り出そうになるのを生々しく感じた。

 会いたかった。すごくすごく、会いたかった。

「……ただいま、戻りました」

 腕を伸ばして、捕まえてしまいたい衝動をどうにか抑えてそれだけ告げれば、彼女は今度こそ安堵したように柔らかく微笑んでくれた。

「ちょうどいいところに来てくれた。テュールさん、フローラを連れ帰ってやってもらえませんか」

 ほとんど出会い頭に、どこか不機嫌さすら見せる様相でそんな不穏な物言いをする。未だ病床のアンディの言葉の意図を図りかね、僕は彼の方を首を傾げて振り返った。

「えっと、どういう……?」

「言った通りですが」

 ますます不機嫌さを露わにするアンディはにべもなく僕の問いを退ける。傍に立つフローラをちらりと見遣り、溜息混じりに呟いた。

「僕の見舞いを逃げ場にされるのも、いい加減迷惑だ」

 やはり僕には彼の発言の意味がわからず、ただ目の前の男女を眺めるだけだったが、フローラは幼馴染の男の言を耳にした途端目を瞠り、なんとも言えない表情のまま頬を赤く染めあげた。

「──ご、ごめんなさい、アンディ」

 そんなつもりじゃ、と声を上げかけた彼女を制し、アンディは僕に退室を促す。何だか痴話喧嘩でも見せられているようで釈然としないが、僕は彼の譲らぬ姿勢を感じ取り、フローラとホイミンにそっと目配せすると、一つ会釈をしてそのまま階段を降りていった。

「おや、もう行くのかい」

 ほとんどとんぼ帰りなので無理もないが、階下で家事をしていたノルン夫人が、降りてきた僕に声をかける。

「はい、アンディからフローラさんを家に送っていくように言われまして……とりあえず、元気そうで安心しました」

「そうかい。そうだねぇ」

 僕の言葉に夫人はそっと目を細め、「命あっての物種、だよねぇ」としみじみと呟いた。

 ──ずっと、醜い嫉妬心が邪魔して素直に思えなかった「助けられて良かった」という気持ちが、やっと僕の中にも芽生えたような気がした。

『母親』に、こんな顔をしてもらえたなら。きっとみんなも、僕も、フローラも、彼を助けようと力を尽くした甲斐がある。

「……本当に、ありがとうね。……フローラちゃんも」

 その頃階下に降りてきたフローラにも目を向けて、ノルン夫人が今一度、感謝の言葉を伝えてくれた。

 僕も、フローラも、ホイミンも。夫人に微笑みを返すのが精一杯だった。

 僕達から顔を背けた夫人の瞳には、あの晩すら見ることのなかった涙がひとしずく、光っていた。

 

 

 ノルン家を出て、ホイミンはみんなのところに先に戻ると言ってそこで別れた。

「ふろ〜らちゃん、これであんしんしてねむれるね!」

 ホイミンの言葉にフローラはまたうっすらと頬を染め、僕は驚いてしまって「まだ眠れていなかったのですか」と、後々思えば無神経極まりない問いを発してしまった。

「あ、……ええ、でも」

 僕の問いかけに困ったように、頬を赤らめたままのフローラが視線を泳がせる。どういうことかとホイミンを見上げたと同時に、フローラの「……もう、大丈夫だと、思います」というか細い、どこか恥じらうような声が聞こえた。

「うん、もうだいじょうぶ〜! いっぱいねてね〜!」

 さっきから何なんだろう。アンディといいホイミンといい、僕にはわからない話をしているような。そんな僕の戸惑いなどお構い無しに、ホイミンはふよふよと馬車の方へと飛んで行ってしまう。

 そうして、ノルン家の前には僕とフローラだけが取り残された。

「…………、行きましょうか」

 ここでさりげなくエスコートできれば良かったが、そんな甲斐性があるはずもなく。相変わらず気の利いた言い回し一つできない自分に落胆しつつ、彼女を帰路へと誘った。

 ──ルドマン邸に着いたら、水のリングのことを報告することになるだろう。

 そう思うと、自然と緊張で背筋が伸びる。

 何度も何度も頭の中で考えて、彼女に気待ちを問う覚悟を作り上げてきたけれど、いざその時を思うと手が、身体がどうにも震えてしまいそうな気がした。

 隣を歩く彼女は相変わらず清楚で、微かに花の香りがする。

 一歩踏み出す度に視界に碧い髪がちらついて、何度も幻に視たその光景を目にする幸せに心臓が大きく跳ねる。

 人波の間を通り抜け、噴水広場へとさしかかった。

 人々の注目はすっかり僕達に注がれていたが、僕はこの後に控えた告白のことで頭がいっぱいで、密やかに囁かれる噂話も、好奇の目も何もかも気にする余裕がなかった。

 だから、すっかり失念してしまっていた。

 先程まで同行していた幼馴染に、街歩きを勧めてしまっていたことを。

 

「テュール!」

 

 明るく、弾む声が背後から僕を呼んだ。

 あ、と思った時にはもう遅かった。僕の紫の旅装束を見つけた幼馴染が、朗らかな笑顔で駆け寄ってくるところだった。

「もう行ってきたの? 早かっ────」

 邪気のないその声は、僕のすぐ隣を歩く彼女が振り返ると同時に噤まれる。

 碧い髪が、翻る。

 きっとその翡翠の瞳に今、輝く金髪の三つ編みを揺らした女性が映っている。

 普段は喧騒がやまないはずの街の広場で、ほとんどの人が息を止めて僕達を注視した。

 ──伝承の指輪を持ち帰ったらしい若者と、富豪令嬢が歩いている。

 では、あの女性は?

「…………お知り合い……ですか? テュールさん」

 沈黙を破ったのは、碧髪の富豪令嬢だった。

「──あ。はい、紹介します。僕の幼馴染で、上流にある水門を管理している人で……」

 早口に言いながらも、頭の中が真っ白になって何も考えられない。

 すぐ横に立つフローラの、ビアンカを見つめる横顔はただ真っ直ぐで、表情が窺えない。

 ただ、わずかにその唇が僕の言葉を辿って動いた、気がした。

 言葉を飲み込んだまま足を止めたビアンカは、酷く取り乱した様子で僕とフローラを見つめていた。

 一目で、フローラ・ルドマンその人だと気づいたんだろう。

「……ビアンカ・ダンカンです。たまたま、リングを探しに行った時に再会して、それで」

「ごめんなさい‼︎」

 僕の拙すぎる説明を遮るように、ビアンカが大声を出して、僕達に向かって勢いよく頭を下げた。

「邪魔するつもりはなかったの。ごめんなさい。──私、宿に戻ってるね」

「お待ちください!」

 しん、と静まり返った広場に。慌てて立ち去ろうとしたビアンカの背中に、フローラの凛とした声が響いた。

 ルドマン卿が結婚相手の条件を告知したあの日にも、広間で同じ呼びかけを聞いた。

 あの時は、父親を制止する声だった。

「ビアンカ……さん。お待ちください。──テュールさんと、お知り合いでいらっしゃるの……ですよね?」

 今、彼女から発せられる声は、あの時よりもずっとずっと優しくて。

「……、え、ええ。幼馴染です、けど」

 まさかフローラから呼び止められるとは思っていなかったのだろう。ビアンカが珍しく、辿々しい口調でフローラの問いかけに答えている。

 僕はこの状況に頭がついていかず、ただ二人のやり取りを眺めるしかない。

 フローラは長い睫毛を一度伏せ、一つ深く息を吸ってから──僕と、ビアンカを交互に見つめて、言った。

 聖女の如く、どこまでも優しく穏やかな。けれど、彼女自身の感情は欠片も見えない、その声で。

「是非、お二人で我が家へおいでくださいませ。……テュールさんも、父にご用がおありなのでしょう?」

 

 

 

 ……どうして、こうなったのだろう。

 先頭にフローラ。その後ろに、僕と、何故かビアンカが隣を歩いて、僕達はすぐにルドマン邸へと辿り着いた。背後からひしひしと感じる野次馬の視線があまりにも痛い。

「テュール、あの……本当にごめんね」

 フローラに聞こえないよう、極々小さな声でビアンカが僕に囁く。

 僕はただ、小さく首を振るしかない。ビアンカを引き留めたのはフローラであって、僕がそこに異を唱えることなどできないのだから。

 屋敷の扉が内側から開き、令嬢を迎え入れる。すぐに彼女は何かを使用人に伝え、僕達にも中に入るよう促した。重い扉は閉じられ、痛いほどに刺さり続けていた好奇の視線は途絶えたが、気持ちは少しも楽にならない。

 いつもの応接間へと案内され、先日はなかったソファへの着席を勧められたが僕もビアンカもそれを固辞した。フローラもまた僕達の傍に立ったまま、恐らくはこの館の主人を待っている。

 程なく奥まった扉から人の気配がして、恰幅の良い熟年の男性が、加齢を感じさせつつも尚美しい女性を伴って現れた。

「テュール君、待っていたぞ。君ならば必ず、水のリングを手に入れると信じていた」

 すでに確信に満ちたその口ぶりは、クラウスさんから報告を受けた後だったのだろうか。

 上機嫌でそう言うと、ルドマン卿は後ろに控えた上品な物腰の女性を振り返り微笑んだ。

「紹介が遅れてすまんな。家内のアウローラだ。アウローラよ、どうだ。彼が我々の息子になってくれる男だよ」

「まぁ、あなたったらお気が早いこと」

 フローラとは違う、豊かな栗色の髪を美しくまとめ上げたルドマン夫人はフローラに似た仕草でくすりと上品に微笑むと、僕達を優しく見つめて優雅に礼をとった。

「ロドリーゴの妻、そしてフローラの母でございます。テュールさんのお話は、夫より予々聞いておりますわ。先日はこの人の晩酌におつきあい頂いたそうで、ごめんなさいね」

「おい」と細君に向かって少し鼻白む卿に慌てて「いえ、こちらこそ大変ご馳走になってしまいました。テュール・グランと申します」と名乗り頭を下げた。

 先程から、僕達より少し前方に立つフローラの表情は見えない。今この会話を何を思って聞いているのか、せめて確かめたいと思ったけれどその術がなかった。

「……それで、テュールさん。そちらのお嬢さんも、私達にご紹介いただけますかしら?」

 ひどくたおやかな声音だったが、その内容に僕の背筋は凍るほどの思いがする。

「大変失礼いたしました。──彼女はビアンカ・ダンカン、上流にあります水門の管理者で、……僕の、幼馴染です」

 僕の紹介に合わせて、すっかり恐縮した様子のビアンカが「ビアンカです。本日は突然訪問させていただき、失礼いたしました」と小さくなって頭を下げた。

「私が、お招きしたのです。お母様」

 それまで黙って佇んでいたフローラが、凛とした声を発する。

 父親は娘をちらりと見やったが特に何も言わず、母親だけがどこか憐れむような瞳で娘を見つめていた。

「……なるほど。先程クラウスから大方の話は聞いたよ。まあ、楽になさい。──それで、テュール君。私は今も期待していて良いのかな?」

 それが、指輪のことを示しているのだと判断して。僕は頷き、中央の立派なソファに腰掛けた夫妻の前に歩み出ると胸元に下げた鎖をそっと外した。

「……どうぞ、お確かめください」

 両の掌に指輪をのせて跪き、お二人の前に差し出した。白銀の指輪を卿がそっと摘み、奥方へとその宝石の中を覗かせる。恐らく中の漣を確認したであろうルドマン夫人が、口許をそっと抑えながら「なんて、美しいこと」と目を細めた。

「──間違いない。良くやってくれた、テュール君!」

 興奮した様子のルドマン卿が勢いよく立ち上がり、僕の手を取った。使用人に合図をすればすぐにあの小さな宝石箱が運ばれてくる。ソファの前のテーブルにそれらの箱は置かれ、中を開ければ白銀と一対を為す紅い指輪がその一つの中に埋まっている。命懸けで手に入れた、あの指輪だった。

 卿と呑み交わした日、目を細めて見つめていたもう一つの小箱に、白銀の指輪が収められる。

「これで君は条件を満たした。フローラとの結婚、喜んで認めようではないか! フローラ、お前も彼が相手ならば異論はなかろう?」

 嬉々としたルドマン卿の言葉に、今言わなくては、と気持ちが焦る。僕は、その前にフローラに確かめなくてはならない。

 僕と結婚したいと思ってくれるのか。僕を夫に選んでくれるのか。僕を、望んでくれるのか。

「────はい、お父様」

 けれど、僕の焦燥など無残に砕け散る。その、感情を窺わせない声で、フローラは確かに一度肯定した。した、けれど。

「……けれど、……ビアンカさんは?」

 唐突に名前を挙げられたビアンカは、「え?」とフローラの横顔を凝視し、次いで焦ったように僕を見る。

 助け舟など出せるはずもない。僕も僕で、自分のことでいっぱいいっぱいなのだから。

「わ、私⁉︎ ──私はただの幼馴染なんです。ほんとに。あの、私お邪魔ですから、もうこの辺で」

「お待ちください、ビアンカさん!」

 完全に慌てふためいているビアンカを、フローラの凛とした強い声が押し留める。

 びくりと肩を震わせたビアンカを一度だけ振り返って、フローラは慈愛に満ちた眼差しをビアンカに向ける。

 その瞳が映すのはビアンカであって、僕ではない。

「ビアンカさんは、テュールさんを……お好きなのでは、ありませんか」

 真っ直ぐな、優しすぎる彼女の声でそっと紡がれるその言葉が、僕には欠片も頭に入っては来ない。

 立っているだけのはずの地面がぐるぐると旋回する。

 ────彼女は、何を言っている?

「……それに、テュールさんも、……ビアンカさんのことを」

 再び両親に向き直ったフローラは、しかしその視界に僕を含めず睫毛を伏せて呟いた。ひどく、落ち着いた様子で、無感情なほど淡々と、彼女は言葉を続けている────のに。

 それなのに。

「そのことに気づかず、私と結婚して……後悔することになっては……」

 どうして、今。

 

 彼女が泣いているような気がするのだろう。

 

「あ、あのね、フローラさん。そんなことは」

 おろおろと取りなそうとするビアンカを、やはり僕は何も言えず、ただ茫然と眺めていた。

 僕が、ビアンカを?

 僕が気づいていないだけで?

 ────本当に?

「……まぁ、落ち着きなさい。フローラ」

 混乱する頭に、ルドマン卿の溜息交じりの声が低く、重く響く。

「こうしてはどうかね。今夜一晩、テュール君にはよくよく考えてもらうのだ。そうして本当に望む相手を、明日改めてここで選んで貰えば良い。儂らとて彼には真実、好いた相手と添い遂げて欲しいと思っておる。……ビアンカさんがその相手だと言うなら、そう言ってくれて構わんよ」

「────え」

 もう、本当に何が何だかわからなくて。畏れも何もなく縋るようにルドマン卿を見つめれば、卿は僕に限りなく温かな、信頼の眼差しを手向けてくれる。

「君なら、真実……君の援けとなる娘を選ぶことができるだろう」

 そんなの、無理です。

 叫び出したい気持ちを必死にこらえて。

 何が本当かわからない。何を信じていいのか、自分の気持ちですら、こんなにも覚束ないのに。

 たった一晩で一体、僕に何を決められるというのか。

「テュール君は、宿を取っているな。ビアンカさんは我が家の離れに泊まってもらうと良い。すぐに手配させよう。明朝またここに来たまえ。我々の目の前で、花嫁を選んでもらう。……それでいいな? フローラ」

 最後の確認は、僕ではなく一人娘に投げられた。どこか呆れたような声音を伴って。

 フローラは力なく、はい、と一つ頷いて俯く。

 ビアンカも、僕から顔を逸らし俯いたままだった。

 そのまま、二人の女性はそれぞれが手を引いて連れ出され、僕は茫然としたまま、いつの間にか屋敷の外に一人、遠巻きに僕を眺める人達に囲まれ立ち尽くしていたのだった。



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#15. 覚悟

 あれから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 ルドマン邸を辞して、野次馬に揉みくちゃにされながら宿に戻った。ほとんど何も考えられないまま。

 茫然自失のまま宿泊の手続きをして、充てがわれた部屋の寝台に身を投げ出し宙を仰ぐ。

 一体、何が起こったのだろう。

思い出せるのは、ルドマン卿にもう一つの指輪を渡したこと。結婚の許しをいただいたこと。ビアンカがその場にいたこと。──いざその時になって、フローラが、僕とビアンカに問いかけたこと。

(……違う)

 問題は多分そこじゃない。そうじゃないんだ。

 一切の感情が見えなかった。いつもの優しい微笑みも、慈愛に満ちた穏やかな気配も。ただ感情を押し殺すばかりのフローラと、──ビアンカ。

 ……これは、報いだ。

 気づいていた。見て見ぬ振りをした、その報いだ。

 ビアンカの想いに、気づかなかったわけではなかった。何度も何度も示されていた。ビアンカの家で、船の上で、洞窟で。──ただ僕に、受け止める勇気がなかっただけのこと。

 初めての想いに翻弄された。二つのリングを手に入れて浮かれていた。冷やかされるのも、本当はそこまで嫌じゃなかったのかもしれない。想いを打ち明けて、フローラのことを話せる唯一の人となったビアンカに、僕が甘えすぎた。

 その関係が心地よくて。

 今のままの僕達から、変わってしまうことを怖れて。

 ビアンカは今まで、どんな想いで僕の話を聞いてくれていたのだろうか。

(……なんて、ことを)

 そして今、この街にあるルドマン家の離れで、きっと一人、戸惑いながら過ごしている。

(──なんてことを)

 ビアンカが勝手について来たんじゃない。

 ここまでついて来させたのは、僕だ。

 いつまでたってもビアンカに向き合えなかった僕が、そうさせただけだ。

 

 ──そして、

 そんなビアンカの想いをたった一人、掬いあげたのがフローラだった。

 それだけのことだ。

 

 感情を欠片も見せなかったフローラは、本当はどんな想いで僕とビアンカを見ていたのだろうか。

 あれほど側にいた女性の想いを踏みにじる愚かな男を、どう思っただろうか。

 あんなにも優しいフローラに、

 あんな顔をさせたのも僕なのだ────

 情けない。あまりに、愚かで。

 込み上げる憤ろしさを、唇を噛んでやり過ごす。

 どうしたらいい。どうするのが、僕にできる最善なのか。

 必死に考えを巡らせるけれど、こんがらがった頭では何一つ糸筋が浮かばない。

 もういっそ誰の手もとらず、このまま街を出てしまおうか。

(────、ふざけるな‼︎)

 一瞬脳裏を掠めた卑劣な考えに益々、己への嫌悪がこみ上げる。

 ここまでついてきてくれたビアンカを、このまま黙って放り出すことなどできない。できるはずがない。

 ──だったら、その手を取るのか?

 彼女がもしも僕と行きたいと願ったら、僕は彼女を選ぶべきなのか?

 天空の盾も捨てて。使命も、いっそ何もかも投げ打ってでも、たった一人を選んで良いというのなら────

 

 

 未だまとまらない思考を叱咤して、のろのろと身体を起こす。

 ちゃんと、伝えなくちゃいけない。

 まだ何も形にならない。何が正しくてどうするのがいいのか、わからないけど。

 それでも、このまま明日を迎えることだけは、しちゃいけない。

 ──寝台の上に投げ出したターバンをもう一度乱暴に掴み、僕は宿の外へと駆け出した。

 

 

 

「おお⁉︎ 噂の色男のお出ましじゃねえか‼︎」

 宿を飛び出すなり、たった今酒場へと向かおうとする見知らぬ男達の群れに捕まった。

「ちょうどいいや、兄ちゃん。ちょっとつきあえよ」

「いえ、あの! 行くところがあるんです。それは後で」

 焦ってなんとか交わそうとしたが、がっつり取り囲まれて抜け出せない。こんなところで暴れるわけにも行かず、僕はほとんど引きずられるまま宿屋の二階へと連行された。

 まだ踏み入れたことがなかったサラボナの酒場は、さほど広くない室内に客が所狭しと席に着き、注文を叫ぶ声が賑やかに飛び交っている。

「──テュールさん」

 カウンターを取り囲む人だかりの中心から、聞き覚えのある穏やかな声で呼ばれて、思わずそちらを覗きこんで目を瞠った。

「……クラウスさん」

 その名を呼び終わらないうちにも、彼を取り囲む人々に「噂の御仁じゃないか! おい、ここに座んな」と腕を引き寄せられカウンター席に強制的に座らされる。その目の前に次々にエールや葡萄酒が置かれ、僕は困惑しながら周りを見渡した。

「すみません。陸に上がったらここで一杯やるのが常なんですが、今日は事情が違ったようで」

 申し訳なさそうに小声で肩をすくめる彼に、ぶんぶんと首を振る。恐らく、僕の探索に同行したことで質問責めにあっていたのだろう。船旅を終えた後までご迷惑をかけてしまっていることに、酷く申し訳ない気持ちになる。

「なぁ、あんた随分と優男なのにやるじゃねぇか! 伝説のリングを二つとも手に入れたって?」

「あんなものはフローラさんを嫁にやらない為の口実かと思ってたよ。本当に存在するとは思わなかった」

「なあ、昼間連れていたいい女、ありゃ誰だい? フローラさんとはまた違ったタイプのとんでもない美人だったじゃないか。まさか愛人、とか言わないよな?」

「見てたぜ、幼馴染なんだろ? 羨ましいよな、あんな別嬪の幼馴染がいるなんてよ。ほんと、実はコレ(・・)だったりしねぇの?」

 背後から覗き込む客の群れに何発も小突かれ、終いにゃ小指をちょいちょいと示されて僕はたまらず首を振る。「違います! そういうのじゃ」と必死に弁解していたら、隣でグラスをからりと揺らしたクラウスさんが溜息混じりに背後のハイエナたちを一瞥し呟いた。

「テュールさんはあんた方と違って紳士なんだから、あまりからかっちゃいけない」

 いや、子供なんです……と言いたい気持ちをぐっとこらえる。齢十八など、ここにいる皆さんに比べたら若輩もいいところだろう。それにしてもこの状況でこの落ち着きぶり、僕はつくづくクラウスさんの態度に感銘を覚える。

「幼馴染っていやぁ、お嬢さんもまぁ熱心に通ってるよな。アンディって火山で酷い火傷をやらかしたんだろ?」

「あぁ、なんか今度は病気で臥せってるってよ。兄ちゃんに力及ばずで腐ってんじゃねえの? 水のリングには挑戦すらできなかった訳だしな」

 今度はまた気鬱な話題を繰り出され、僕は内心嘆息する。そういえば先ほどもアンディ宅でフローラに会ったんだった。しかも、痴話喧嘩のようなおまけつきで。

 病が気落ちからくるものだというのもわからなくはない。もしも僕が同じ境遇だったら、寝込むとまではいかなくともやはりしばらくは立ち直れなかっただろうから。

「しっかしまぁ、あんな美人の知り合いがいるくせに、なんでまた白薔薇に求婚しようと思ったんだい? あっちはどうみてもあんたを好いてるだろうに。罪な男だねぇ」

 さらに酒臭い男が肩越しに顔を近づけ問うてくる。不躾だが、あまりにもはっきりと言い切られてしまい思わず目が泳ぐ。アルコール臭からつい及び腰になりつつ、回らない頭を必死に動かしながら、僕はもう何度目かの首を振った。

「それは……そういう話はしていませんから。そもそもリングを探す途中でばったり再会しただけなんです。彼女の方からリング探しを手伝いたい、と申し出てくれたので同行してもらっただけで」

 そんな言い方しかできない自分にますます嫌気がさしてくる。これではまるで、僕がビアンカのことを迷惑に思っていたみたいだ。

 ──違う。散々振り回されて困惑もしたけれど、この二週間近く、ビアンカと共に過ごして楽しかったこともまた、事実なのに。

 案の定男は「健気だねぇ!」と叫び、酒が入って昂ぶっているのか、ずずいと後ろから僕の肩にもたれかかって大げさに涙ぐんだ。

「あんた、ほんっとに罪だねぇ? 一言も言わないって、そりゃあんたに心底惚れてるからだろうよ。それで他の女の為の指輪を一緒に探すだぁ? こっちの胸が張り裂けらぁ! お嬢さんも美人さんの一途な恋心に感じるもんがあったんだろうよ。お前さん、抱いてやれよ。今夜一人で泣かせるとか男のすることじゃねぇぞ?」

「いや、もうおっさんはそろそろ水飲んどけや。兄ちゃんには兄ちゃんの事情ってもんがあんだろうよ、野暮はいけねぇ」

 僕に張り付いた酔っ払いの男性を誰かが引き剥がしてくれたが、次々に投げかけられた内容は僕に現実を突きつけるのに十分過ぎた。

 ……やはり、行かなくてはいけない。

 今夜のうちにちゃんと話をしなくてはいけない。

 カウンターに手をつき、勢いよく立ち上がる。一瞬だけ、僕達の周りの人だかりが動きを止めた。隣に座るクラウスさんを振り返れば、何度も僕を励ましてくれたあの穏やかな眼差しで頷かれた。

「……行ってください」

 頷き、一つ深く頭を下げて店を飛び出した。引き止めようと伸ばされた手を遮るように「あの人にはまだ、やることがあるんですよ」とクラウスさんが口添えしてくれているのが聞こえる。ありがとうございます、と心の中で呟いて階段を駆け下り、ルドマン邸のある噴水広場の方へと身体を向けた、その時。

「テュールさん」

 全く予期せぬ声がかけられる。振り向けばノルン夫人がどこか憔悴した様子で佇んでこちらを見ていた。──まさか、アンディの容体が急変でもしたのだろうか?

「どうなさったんですか。アンディは」

「よく、寝てるよ」慌てて駆け寄った僕に夫人は疲れた笑みを見せる。そうして僕をじっと見上げて──ひどく、哀しそうな眼差しを真っ直ぐに向けた。

「ねぇ、テュールさん。……随分と器量好しの幼馴染のお嬢さんがいるって、本当かい?」

 思いがけぬ問い掛けに身体が強張る。どうして、この人までビアンカのことを。

 動揺がそのまま漏れ出ているであろう僕をもう一度見上げて、夫人は重く息を吐き地面に視線を落とす。

「ごめんよ。さっきそこらで知り合いが話しているのを聞いちゃって……あんたを随分と慕っているようだったって。──うちの息子もね、あんな軟弱なりにフローラちゃんのことをそりゃもう、子供の頃から慕っていたもんさ。何かっていうとフローラ、フローラって……」

 握った拳が、震えている。もう僕を見ないまま、夫人は言葉の続きを口にする。

「……恩人のあんたに、こんなことは言いたくない……けど、一度だけ、聞いておくれ。もし、もしだよ。他に好い人がいるなら、────」

「リア‼︎ その人に莫迦なことを言うんじゃない!」

 夫人の後を追って来たのか、その背後から息を切らして駆け寄ったアンディの父親──初老のノルン氏が怒気も荒く妻の肩を引く。しかし夫人は頑なに地面を見つめたまま、夫の顔を見ようとはしない。

「……フローラちゃんのことは、諦めてやってくれないかい。あの子には……フローラちゃんだけが、支えなんだ……」

「やめないか‼︎」

 怒号が飛ぶ。無理矢理に紡がれた言葉を断ち切るように、温和だったアンディの父親が目の前の母親を烈しく叱責した。いつしか母親の頰からは嗚咽とともに二、三滴の涙がぱたぱたと滴り落ちていた。

 僕には、何も言えなかった。

「──すまん、テュールさん。アンディの意志じゃないんだよ。それだけわかってやってほしい。……あいつは心配いらん。すぐに元気になるさ」

 ノルン氏はいつもの穏やかな声でそう言い、尚も身体を強張らせたままの奥方を支えるように寄り添って自宅の方へと去っていく。夫人は深く俯いたまま、それきり僕を振り返ることはなかった。

『──なぁ、坊。ビアンカを、よろしく頼むよ』

 いつか、ダンカンさんに告げられた言葉を、何故か今思い出す。

 ビアンカと一緒になってほしいと、僕に言った父親。

 フローラを諦めてほしいと、僕に言った母親。

 どちらもひどく切実な、子を思う親の心の現れ。

 ────では、僕は?

 きり、と軋む胸を掴んで抑える。

 この痛みは、どうしたらいい。

 息を、吐く。目を閉じて、ゆっくり息を吸い込んで。もう一度目を開けた時、僕の覚悟は決まっていた。

 改めて、噴水広場の先へと駆け出した。まだ何もまとまらない思考を振り切るように。その先に、何がしかの光が見えることを祈りながら。

 

 

 

 街の喧騒を逃れた、静まりかえった豪邸の重厚な門扉を前に立ち止まる。

 ここを訪れるのは五回目だ。一度目は、結婚の許しを得る条件を聞くため。二度目は、フローラを送って来た時。次はその翌日。

 四度目は、ついさっき、ビアンカを伴って水のリングを渡しに来た時。

 この門のところで、フローラが僕に頭を下げてくれた。

 あの日、見上げてくれた君とほんの一瞬──想いが通じ合った、気がした。

 会えなかったこの二週間、何度あの記憶に慰められただろう。

 窓の所々に明かりが灯された屋敷を見上げるが、僕には彼女の部屋がどこかなど知る由も無い。

 そういえば、眠れていないと言っていた。

 無性に不安が募り、幾つかの暗い窓辺をじっと見遣る。

 アンディさえ回復すれば、君は安心するのだと思っていた。

 これだけの時間が経てば、アンディはきっと元気になって、君が彼を見舞い続けることもない。

 ──でも、それでも君はアンディの元に通うのではないか。そんな風にも、思っていた。

 僕にとっての幼馴染は、ヘンリーとビアンカくらいしかわからない。二人とも、とてもとても大切な存在だけれど、フローラにとってのアンディがそれと同じとは限らない。

 だから、本当はその覚悟も、して来たつもりだった。

 君が誰を望んでも、この気持ちに変わりはない。

 ただ、胸が痛むだけ。

 

 ──暗いだけのはずの窓辺に、人影が映り込んだ。

 

 普段と違う雰囲気のその人影に、思わず息を呑む。

 暗い窓辺に、翳りを帯びた長い髪の女性が佇んでいる。

 ぼんやりと窓に手を添えた彼女は、ふと僕の方を見遣ると憂いを帯びたその表情を驚愕へと変える。

 惹きつけられるように、視線が交わった。

 ────どうして。

 こんな気持ちでいるのに、たった一度視線を交えただけで。

 どうしてこんなにも、この胸は甘く燻るのか。

 昼間、あれほど表情を隠したままだった彼女が、今は窓辺から赤裸々に戸惑いを見せている。

 僕だけを、見てくれている。

 ────お願いだ。どうかそのまま、待っていて。

 すぐに身を翻し、屋敷の扉を軽く叩いた。使用人の方が扉を開け、突然の来訪者に些か怪訝な目を向ける。しかし程なく屋敷の主が奥方を伴って姿を現し、僕は彼らに深く頭を下げ夜分の訪問を詫びた。

「このような時間に、大変申し訳ありません。卿」

「何、一晩呑んだ仲ではないか。──どうしたね? 君の相談事なら喜んで聞かせてもらおう」

「もう、あなた。テュールさんはフローラにご用がおありなのではないの?」

 上機嫌で応接間へと僕を招き入れようとするルドマン卿を夫人がたおやかにたしなめる。

 しかし僕はその指摘の鋭さに密かに驚嘆していた。ビアンカといいフローラといい、女性は皆、特殊な勘でも持ち合わせているのだろうか?

「は、はい。お許しいただけるなら、フローラさんと少しだけお話したいのです。……このような時間に、非常識なのは重々承知しております」

 再び頭を垂れる僕に、お二方は顔を見合わせた。先に卿が静かに頷き、奥方が僕に向かって優しく声をかける。

「……フローラは、二階の自室におりますわ。早く休むように言いましたから、眠っておりましたらごめんなさいね」

 そのご厚意に深く感謝を覚え、ありがとうございます、とまた頭を下げる。使用人に促され数歩、踏み出した僕を「テュール君」とルドマン卿が呼び止めた。

 立ち止まり、僕は卿へと真っ直ぐに向き直る。

 僕の視線を正面から受け止めた卿はどこか、眩しそうに目を細めた。

「伝承の指輪は君を選んだ。君が誰よりも指輪を必要としていた、その証だ」

 低く、腹に響くその言葉は奇妙に心地よく、温かい。

「君は何かを為すために旅をしておるのだろう。君の目的が最後どこに往き着くものか、儂は聞いておらんな。だが、構わん。あの二つの指輪はいつか必ず君の往く道の援けとなるだろう。──同じように、君の伴侶は君の援けとなるべきだ。そう、儂は思うんだよ」

 ゆっくりと、噛んで含めるように。彼はそこで一度言葉を切ると、確かめるように僕の瞳をもう一度、覗き込んだ。

「その相手が真実ビアンカさんだと思うなら、儂らに気兼ねは一切いらない。それだけ、伝えておきたかった」

 なんとも言えない感情に恐らく顔を歪めた僕を、卿は穏やかに眺めやる。一つ頷いて視線を外すと、改めて階段へと促した。

「引き留めてすまなかったな。行ってやってくれ。そこの階段を上がってすぐ、左手の部屋だ」

 夫人と並んで僕を見守る卿に黙って一礼し、足音をなるべく立てないようゆっくりと階段を上った。

 すぐに彼女の部屋の前に辿り着き、今更ながら心臓が激しく動悸しているのを感じて、深呼吸を一つする。

 こうして女性の寝室を訪ねるなど、初めてのことだ。

 何とか緊張を落ち着かせ、軽く二回、扉を叩く。

「──……、フローラ?」

 ノックをしても反応がなく、躊躇いがちに呼びかけたものの、やはり返事はない。

 先程目があったと思ったのが間違いでなかったなら、きっとまだ眠ってはいないはず。

 どうしようかと、一瞬逡巡した。が、意を決してドアノブに手をかける。そっと扉を押し開き、僕は真っ暗なその部屋を覗き込んだ。

 広いその部屋は意外なほど殺風景で、暗がりにも上品な設えであることはわかるものの、恐らく必要最低限の家具以外は置かれていないようだった。

 この部屋で、彼女は普段何をして過ごしているのだろうか。

 そんなことを思いながら、薄く開けた扉の隙間から身体を中へと滑り込ませる。

 彼女はベッドに横たわっていた。先程見たのは幻であったかのように、静かな寝息を立てて眠っているようだった。

 眠り姫のような可憐な寝顔に、胸が疼くのを感じながら恐る恐る、一歩近づく。

 髪を全て下ろしたフローラを見るのは初めてだった。化粧を落とし瞼を閉じた彼女はいつもより少しだけ幼く、あどけなく見えた。

 ……眠れたなら、良かった。

 下で卿と少し話していた間に眠ったのかもしれない。間に合わなかったのは残念だったけれど、彼女がちゃんと眠ってくれたのならもうそれで良い気がした。

 そうして改めて、その寝顔を見つめる。

(……また、やつれた。……フローラ)

 昼間は化粧で気づかなかっただけか、それとも今は暗い中で見ているからなのか。

 彼女の衰弱具合は、二週間前に見たもの以上に酷いように見えた。恐らく、眠れていない、なんてものではない。食事もろくに取れていないかもしれない。元々が華奢とはいえ、出逢った日と比べればその違いは歴然としていた。

 アンディが運び込まれた日の彼女は酷い憔悴ぶりだったが、あれからもう二週間も経つのにこれほどまでに彼女が疲弊している理由を、僕には一つしか思いつけなかった。

 アンディの為に、君はこんなにも。

 ……いや、

 ────まさか。

 ふと、死の火山から戻ったあの日、目の前で泣き崩れた姿を思い出し、どくりと血が騒いだ。

 まさか、僕の身を案じて?

 そういえば、ホイミンとの別れ際にも確か「これで安心して眠れる」と言われていた。もう大丈夫と、頰を赤らめて。

 思わず手を伸ばし、そのやつれた頰をそっとなぞる。

 ────────。

 ほんのわずか、指先をかすめるくらいに触れてしまってから、僕はどうしようもない違和感に気づいてしまった。

 目の前の君は今も、静かな静かな呼吸を繰り返している。

 けれど、きっと君は────

 その寝顔が君の答えのようで、僕の口から知らず、溜息が零れる。

 どうしようもない。それでも、僕は君が恋しい。

 いっそ忘れてしまえれば楽になれるのに。

 ふと、毛布に投げ出された右手が目に留まる。

 恐らく連日の看病で痛々しく荒れた掌を、壊れ物に触れるようにそっと拾い上げる。

 その過程で、先程感じた違和感は確信へと変わる。

 ……君は、僕を望んではくれないかもしれない。

 この手を取ることを拒まれるかもしれない。

 けれど、それでもいい。本当にそれでもいいから────

 

 初めて触れた彼女の手は、ひどく小さくて、軽かった。

 その手のひらに、一度だけ、

 そっと唇を押し当てる。

 

 ────どうか、想うことだけは、許して欲しい。

 

 愛しさの波に飲み込まれてしまう前に、急いで彼女の手をベッドに戻して。僕は足音を忍ばせ寝室を抜け出した。

 彼女にどうか、伝わることを祈って。 

 扉を閉めて息を吐けば、遣る瀬無い想いばかりが僕を苛む。

 彼女の手を取った己の掌を、確かめるように握り直して。

 そうして、僕は階下へと降り、待っていて下さったルドマン夫妻に今一度、謝辞とともに深く頭を下げて屋敷を出た。

 

 

 

 ルドマン邸の敷地内にある、噴水広場より南へと続く橋を渡り、僕はそこにある建物を仰ぎ見る。

 離れというからにはここだと思ったが、さすがに卿にその所在を訊くのは憚られた。

 建物は未だ煌々と明かりを灯していた。入口を探して見回した瞬間、頭の上から聞き慣れた快活な声が降る。

「おっ。非行少年、発見」

 冗談めかしたその声はいつもの朗らかさを感じさせて、どこかほっとしながらそちらを見上げた。

「もう少年って歳でもないよ」

「そう? そうかもね」

 二階のバルコニーに、ビアンカは居た。手すりに腕を重ね、そこに頰を埋めてくすくす笑っている。ひとしきり笑うと、彼女は高みから僕を見下ろして……どこか艶めかしく微笑んだ。

「会いに、きてくれたの? テュール」

 僕も目を逸らさず、頷いて微笑みを返す。

「話をしたくて。──今、いいかな?」



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#16. 願い

 ────話をしたくて。今、いいかな。

 僕の申し出をバルコニーの上で聞いたビアンカは「紳士らしくしてくれるんなら、いいわよ」とおどけて言い、扉を開ける為に一度、部屋の中へと消えた。そんな一言についさっき、フローラの手に落とした口づけの記憶がよみがえり、今更ながら身体が急激に熱くなるのを感じる。

 ……あれは紳士の範疇だろうか。そうだと思いたいけれど。

「お待たせ。どうぞ」

 慌ててぱちぱちと頰を叩いて熱を冷ましていると、ビアンカの卒ない呼びかけが聞こえ、僕は声のした方へ向かった。

 ルドマン邸の離れは、それでも尚一般的な家よりも随分大きい一軒家だった。普段は賓客の宿泊に使われているのだろうか、決して華美ではないが上等な家具家財が並ぶ。思わず室内を見回した僕に「緊張するでしょ。汚したり壊したりしたら大変よね」とビアンカが小さく苦笑した。

 しかし一階の居間部分に設えられたテーブルの一角には以前ルドマン邸の応接間で見たような大小の酒瓶が並べられており、今度は僕がつい笑いを零してしまう。

「何? テュール。わざわざ色々とご用意下さったのよ。どれでも好きにいただいていいんですって」

「うん。以前卿が、お酒を集めるのがお好きだって言ってらしたのを思い出して。──あ、これ」

 居並ぶ酒瓶の中から見覚えのある黄色のラベルを見つけ、その一本を手に取る。

「この間ご馳走になった蜂蜜酒だ。サンタローズの酒なんだって。僕達が生まれる前のものだよね、多分」

 サンタローズ。今は亡き村の名にビアンカの顔が一瞬辛そうに歪む。けれどもすぐにいつもの表情を取り戻し、「そうなの? すごい! 初めて見たわ」と酒瓶を覗き込んだ。

「せっかくだから開けちゃう? 蜂蜜酒なんて美味しそう!」

「うん、結構軽くて飲みやすかった。実は僕、あんまり酒には強くないんだけど」

「あはは、テュールらしい」

 笑いながらビアンカがグラスを差し出し、それを受け取って席に着いた。手元のグラスにビアンカが手ずから、とくとくと金色の液体を注いでくれる。用意されていたらしい軽食の皿をテーブルに出し、対面の席に彼女が腰掛けるのを待ってから、「せっかくだから、乾杯」とグラスを傾け、縁を軽くぶつけ合った。

「……はぁ、美味しーい」

 こくりとグラスから液体を飲み込んだビアンカが、ほぅ、と息をつきながら視線を手元に落とす。

「──なんか、変な気分ね。テュールとこうして向かい合ってお酒を飲んでるなんて」

「……お互い、大人になったから。ね」

 グラスの中の液体に映る自分を覗き込んで僕が言うと、ビアンカもついと目をあげて「そうよね」と頷き、またグラスを揺らす指先の方へと顔を俯かせた。

「……なんか、大変なことになっちゃったね。ごめんね」

 しばらくの沈黙の後、ぽつり、とビアンカが呟く。

「僕の方こそ。巻き込んで、ごめん」

「テュールは悪くないじゃない。私が無理言ったから……最悪な誤解、させちゃったし。幸せになって欲しいって言ったのは私、なのにね」

 睫毛を伏せたままの彼女を見つめれば、眉尻を下げて困ったように微笑まれる。

「まさかテュール、悩んでるわけじゃないでしょ? ──悩むことないわ。フローラさんと結婚した方がいいに決まってるじゃない」

 優しく、諭すようなビアンカの言葉に。今度は僕が視線を外し瞳を伏せる。それを肯定と捉えたのか、ビアンカがグラスを置いて頬杖をつき、少し遠くを見るように目を細めた。

「私のことなら心配しないで。今までだって、一人でやってきたんだもの」

「──ビアンカは、本当にそれでいい?」

 遮るように問うた僕の言葉にビアンカがほんのわずか、震えたのが見えた。その表情を追うように、正面から真っ直ぐに彼女を見る。

 ……見たことがないほど真剣な眼差しのビアンカが、僕の鎖骨のあたり、一点だけをじっと、見つめていた。

 

「……連れていって、って言ったら、そうしてくれるの?」

 

 弓を、引き絞るような。

 生まれて初めて見る女性が、そこに居る。

 

 ぎりぎりに張り詰めた、

 彼女の剥き出しの感情を、僕は今、初めて見ている。

 ずっと目を逸らし続けていた、

 僕が黙って葬ろうとしていた、

 彼女の、本当の想いを。

「──ごめん。でも……やっぱり、テュールとの思い出ってすごく、大切で」

 再び瞳を伏せ、ビアンカはテーブルの上に視線を彷徨わせながら言葉を探す。両手の中に置いたグラスを指先で幾度も弄びながら。

「サンタローズがあんなことになって──でも私、絶対にテュールは生きてるって信じてた。一緒にまた冒険するって、約束したもの。……私より小さな背中で、私のこと一生懸命守ってくれた。あの勇敢な男の子に、ずっと……ずっと、会いたいって思ってたの」

 一度、ビアンカの双眸が窺うように僕を見て。僕は黙って緩く微笑み、続きを促す。

 目があうと、ビアンカはくしゃりと泣きそうに目許を歪ませる。

 いつも快活な彼女が見せる痛ましい表情に、どうしたって胸が潰されそうなほど締めつけられる。

「だから、テュールがうちに来てくれた時……本当にすっごく嬉しかった。わがまま言って一緒にリングを探してた間、楽しかったけど……それ以上に──ドキドキ、してた。テュールは子供の頃よりもっとずっと強くなってたし、私より大きくて、……優しくて」

 ……格好良かったし、と最後に、ほとんど消え入りそうな声で付け足して。──買い被りすぎだと思ったけれど、下を向いて小さくなったビアンカが首筋まですごく赤くなっていたのが見えてしまって、僕もやはり恥ずかしくてたまらなかったから、ただ黙って彼女の手元を見つめながら続きを聞いていた。

「──私が先に、会いたかった……」

 微かに届いた苦しげな吐息とともに、ビアンカが頭を深く、深く垂れて。視界の端に、太陽の色の三つ編みが揺れる。

「……洞窟までついて行ったのは、失敗だったかな。……だって、……どんどん、好きになっちゃうんだもん」

 テーブルの向こう、深く俯いたままのビアンカが、やっと聞き取れるほどの掠れた声でそう、呟いた。──本人の口から直接紡がれたその言葉に、一際大きく心臓が脈打つ。

「幸せになって欲しいって、初めは本当にそう思っていたのに。私、どんどんわがままになってた。テュールの側にいればいるほど、フローラさんに嫉妬、してた。……嫌な考えもいっぱいした。今だって、──ほんとは、私を選んで連れて行って欲しいって、思ってる……」

 そこまで言って、ビアンカはふと、さっき佇んでいたであろうバルコニーの方を振り仰いだ。

 吹き抜けになっている居間からそちらを見るとバルコニーの広い窓が天窓のようになっていて、そこから見える星がいくつか、漆黒の窓辺をちかちかと彩っていた。

 もしかしたら僕の来訪に気付くまで、あのバルコニーで彼女が思い描いていた、願い。

 

「……一緒に、行きたいなぁ……」

 

 それは、あまりにも切実で。

 きっと再会してから今、初めて僕が触れた、ビアンカの一番まっさらな想いだった。

 僕が受け取るには勿体無いくらい、綺麗で純粋な感情。

 嬉しいと、素直に思った。そうやって想ってもらえることを、僕はずっと怖がっていただけだった。

 思えば、ビアンカの心はいつだって──幼い頃も今も、真っ直ぐに僕の方を向いてくれていた。

 そんな彼女を知っていたからこそ、希望が見えなかったあの十年も、彼女やヘンリーを拠り所にして耐えることができた。

 何から話したらいいだろう。僕にとって、貴女がかけがえのない存在であるということを。

「──父さんを亡くしてから、十年、……あるところに囚われて、いてね」

 先日は話さなかったつまらない話を、ぽつり、零してみる。

 ずっと顔を伏せたままだったビアンカが、僕の声に反応して、少しだけこちらに目線をくれる。

「確か、セントベレス山と言ってた。ある教団の神殿の建設の為に、ずっと奴隷として働かされていたんだ。……二年くらい前かな、そこから逃がしてくれた人がいて。その人のお陰で、僕は今ここに居る。──暗い話で、申し訳ないけど」

 話している最中にも、ビアンカが息を呑み固まった気配を感じて、僕は出来るだけいつも通りの微笑みを彼女に向ける。

「聞いて。……ずっと、夜が怖かったんだ。毎晩毎晩、父さんが夢の中で死んでしまう。まだ子供だった僕は眠るのが怖くて──そういう時、ビアンカのことを思い出してた。……目を閉じていれば、ビアンカが迎えにきてくれる。そんな妄想に、必死で縋ってた」

 真っ暗な闇の中、僕を揺り起こしてくれる小さな手。

 目を開ければ、どんな暗闇でもわかる、金の髪。

 あの思い出が、幼い僕をどれほど救ったか。

「父さんを目の前で失った。大人になって、奇跡的にサンタローズへ戻れたけど、村はとうの昔に滅んでいた。家を守ってくれていたサンチョがどうなったかも分からない。もう僕にとっての肉親は、会ったことがない母親しかいない。……だからかな。アルカパの宿屋へ行った時、ビアンカたちに会えなかったのは残念だったけど……引っ越した、って聞いて本当は少し、ほっとした」

 さっきから、ビアンカは息を詰めたまま動かない。突然こんな話を聞かされれば当然だろう。その瞳は、僕の前に置いたまま中身が減らないグラスを真っ直ぐに見つめている。

 サンタローズ。今も思い出せる、蜂蜜色の平穏な日々。

「……まだ、どこかでちゃんと生きてる。旅を続けていれば、いつかきっとまた会える。そう思えたから、頑張れた。──いつだってビアンカは、そうやって僕の手を引いてくれる。怖い夢に怯えても、ビアンカを思い出せば越えられたみたいに」

 ふと、温かな色の記憶がよみがえる。小難しい本を一生懸命読んでくれる幼い君の姿。

『あなたより二つもお姉さんなのよ』

 そう言って得意げに笑った、金のおさげが眩しい少女。

 どちらも兄弟がいなかったからか、自然と君が僕の世話を焼いてくれる形になっていた。

 僕が泣いたら慰めて。一人でいれば遊びに誘って。

 一緒にいれば、どこへ行くにも手を繋いで引っ張って。

 そんな風に僕に構ってくれる人なんて、父さんとサンチョ以外知らなかった。

「今だって、僕はビアンカに救われてる。──大事な、大事な……僕の姉さんが、元気でいてくれて。変わっていなくて、すごく、ほっとしてる……」

 一点を見つめ続けていたビアンカの蒼い瞳が一瞬、戸惑うように大きく揺らめいた。

 君は、象徴なんだ。

 太陽のような君が、僕にとって、あの幸せな日々そのもの。

 終わりのない暗闇を、その温かい記憶で照らしてくれた。

 これからもきっと変わらない。僕の太陽であってほしい。

 だから、ただあの頃のままでいて欲しかった。 僕の過去など知らなくていい。共に越えてきたヘンリーとは違う、幸せな頃の僕の記憶だけを守っていてくれるひと。まるで本当の姉のように慕っていた。

「……ビアンカには、いい迷惑かもしれないな」

 我ながら身勝手すぎる言い分につい、自嘲の息が漏れるけれど。すぐに「そんなことないわよ!」と叫んでくれる、心優しい幼馴染にもう一度、感謝を込めて微笑みを返して。

 心配ばかりかけた。今だって、知らなくていいはずの話を聞かせてしまった。

 ──もう大丈夫なんだって、言いたい。

「……うん。だから……甘えてしまって、ごめん」

 十二年。誰も昔のままではいられないくらい、時間が過ぎた。それでも君は、変わらないまま僕を待っていてくれた。

「ビアンカの気持ちを考えず……僕ばかり、甘えてばかりで。本当に、ごめん」

 会えてよかった。話せてよかった。もう一度一緒に冒険ができたことも。変わらぬ信頼と、親愛をくれたことも。──この綺麗な感情を、寄せてくれたことも。

 全て拾って、この先の艱難を越える力に変えていく。

「──ここからは一緒に、行けない。……けど」

 どこか焦点の合わない眼を見開いたままのビアンカを、正面から見つめて、ここに来る前に決意した言葉を口にする。

 例えあの人が僕を拒んだとしても、それをビアンカの手を取る理由には絶対にしないと決めていた。

 誰かの望みを、僕の選択の理由にはしない。

 いつか、どんなにか後悔することがあっても、誰かの所為にだけはしたくない。僕の選択で誰かが悲しむことになるのなら尚のこと。

 だったらせめて、この心に誠実で在ろうと。

「ビアンカがくれたもの、思い出も、その気持ちも。全部忘れない。これからもずっと覚えてる。──本当に、ありがとう」

 やっと、一番言いたかった言葉を喉の奥から絞り出し、

 ひたむきに僕を見つめ返す眼差しに向かって、深く深く頭を下げた。

 ありがとう。────姉さん。

 伝えきれない深い感謝と親愛を込めて頭を垂れた後、姿勢を正して正面を見れば、顔をくしゃくしゃにしたまま限りなく優しく微笑む彼女が僕を見ていた。

「……莫迦ね。世話くらい、これからも焼かせなさいよ」

 少し鼻にかかった涙声が、優しい笑いを含んだまま、僕の耳を甘くくすぐる。

「何が、ありがとう、よ。嫁入り前の生娘かっての。……ほんと、莫迦。だったらもっと甘えてよ。おじさまが目の前で、なんて知らなかったわよ。……奴隷なんて、聞いてないわよ。そこまで信用なかったの? 私」

「違うよ。それは、違う」思いがけない切り返しに慌てて身を乗り出し弁解する。「僕がビアンカに知られたくなかっただけだ。正直思い出したくないことばかりだし、ビアンカと居るともっと懐かしい記憶ばかりでそういうの……嫌な記憶、忘れていられたから」

「──うん。ごめん、嘘。わかってる」

 しどろもどろに言葉を繋いだ僕を、真面目な声で遮って。

 ビアンカはもう一度、揺れる瞳で僕の瞳を覗き込む。

「…………私、……テュールを、救えた?」

 まだどこか不安げな彼女を安心させたくて。立ち上がり、テーブルの上、グラスを包んだままのビアンカの手の上から、そっと自分の手を添える。

「うん。──だから、ここに居るんだろ」

 生きているって、確かめて。

 重ねた掌に、ぽつりと雫が滴り落ちる。

 ほんの数滴だったけれど、ビアンカの嗚咽が落ち着くまで、僕はずっとそうして彼女の掌に触れていた。

 

 

 

 

 

 それから、グラスと酒瓶に残っていた酒を二人で急いで飲み干して、僕は逃げるようにビアンカの宿泊する離れを出た。

「もう大丈夫。目が覚めたわ」

 涙を拭い、蜂蜜酒をあおったビアンカはすっかりいつもの彼女だった。

「嫌という程よ──くわかった。テュールにとって私は世話焼きおばさんってことよ。母親代わりとも言うわね。仕方ないから甘やかしてあげる! ほら、言いたいこと全部言っちゃいなさいよ、聞いてあげるから」

「ちょ、何だそれ。別にそんなこと思ってないって」

 泣き止んだと思ったら唐突にとんでもないことを言い出す。あまりの物言いに僕が声を上げるとビアンカはまだ中身の残る酒瓶の底をどん! とテーブルの中央に叩きつけ「女の涙は安くないのよ。私を泣かせたからには、それ相応の対価を払ってもらうからね」などと凄んでくる。さっきまでのしおらしさはどこへいったのか。

「大体さ、二つの指輪を揃えたんでしょ? 何なのその自信なさげな顔。もっと堂々としてりゃいいじゃないの。そんなんだからフローラさんに要らない誤解されるのよ」

「……それは、……もうほっといてくれよ。自信なんか……あるわけないだろ」

 酒の所為なのか、いつぞやの冷やかされやり込められ続けた夜より更に勢いを増す幼馴染の弁舌に、僕は頭を抱えて顔を背ける。

「それがわかんない。なんでそこまで卑屈になるわけ? こういっちゃなんだけど、テュールは十分男前よ。そんじょそこらの男よりずっと顔はいいし、腕も立つでしょ。フローラさんだって相手がテュールなら嫌がらないわよ。さっきだって別に嫌だなんて言ってなかったじゃないの」

 その剣幕とは裏腹に、素直に受け取るには気恥ずかしすぎる称賛の言葉を羅列され──それ自体は、喜ばしいことなのかもしれないけど。

「……だからさ、言っちゃいな」

 顔を伏せた僕に、ビアンカがひどく優しい声を降らせる。

「姉さんが聞いてあげる。──他にもフローラさんに言い寄ってる人がいる、とか?」

「言い寄ってる……っていうか……」

 相変わらずなんなのだろう、この鋭さは。ニュアンスは違う気がするけれど、僕の脳裏を金髪の青年がかすめていく。

「幼馴染は、いる……かな。先の火山で酷い火傷をして、ずっとフローラが彼の看病をしていた」

「ああ、炎のリングがあったところ? ははぁ、それで嫉妬に狂っちゃったと。まぁねぇ、好きな人がずーっと異性を、しかも親しい仲の異性をかかりっきりで看病してれば気にもなるわよね。フローラさんも罪な人だわー」

 言わなきゃよかった。立て板に水の如く饒舌に喋り続ける幼馴染に完全に気圧され、僕は苦い溜息を漏らした。ビアンカはそんな僕の様子に気づいたらしく軽く睨め付けたが、特に追求はせず話を続ける。

「でも、それが理由じゃないでしょ。指輪を見つけたのはテュールなのよ。その幼馴染とやらはフローラさんと駆け落ちでもしそうな相手なわけ?」

「……そんなの、わからないけど……ない、と思いたい……」

「ないでしょうねえ、私もそう思う」何の根拠があるのか、ビアンカは僕のやはり自信のない回答にうんうんと深く頷く。そして僕の鼻先にびしりと人差し指を突きつけ「とにかくね! そんなしみったれた顔で明日うまくいくと思ってるわけ? プロポーズするのよ、プロポーズ! いい加減肚の中全部曝け出しなさいよ。私くらいしかテュールの話聞いてあげられる人いないでしょ⁉︎」と大変男前な啖呵を切ってくれた。

 ああ、やっぱり、僕はこの姉貴分に一生敵わないのだろう。

 ちらり、と鼻先に突き立てられた指の向こうを覗き見れば、威勢の良い台詞には似つかわしくないほど、優しいばかりの眼差しに見守られていて。

 その瞳に、何度でも甘えてしまう。導かれてしまうんだ。

「……こんな……、旅をしている、僕だから」

 気がつけば、ずっと自分の奥の奥に押し込めていた考えが、ぽつりぽつりと言葉になって口から出ていた。

「──僕が、フローラを望むことで、……彼女を不幸にしてしまうかもしれない……」

 例えばこの街で、毎朝彼女に見送られて仕事をして、家には可愛い子供もいて、温かな食事や団欒を楽しみに家に帰る。

 そんな、当たり前のような生活は僕には到底無縁のもので。

 そんな当たり前の日常を彼女に過ごさせてあげることも、僕には出来ない。

「幸せで、いて欲しいのに。僕には何も叶えてあげられないかもしれない。悲しませることしかできないかもしれない。……そう思うと、──それだけが、怖くて……」

 こんな男に望まれる彼女が不憫で。

 申し訳なくて、それがわかっていながら手を伸ばすことは罪悪のように思えて、結局は躊躇ってしまう。

 どうしようもなく欲しいのに、手に入れてしまうことが限りなく怖い。

 父さんのようにいつか、守りきれずに最悪、命を落としてしまうかもしれない。側にいる限り絶対に守ろうと思うけれど、それでも万が一、彼女を失うことになったら。

「……そう思ってるテュールなら、大丈夫よ」

 幾度となくこの身を苛む葛藤に縮こませた僕の背を、優しいビアンカの声が撫でる。

「大丈夫。不幸になんてならないわ。──誰よりもフローラさんの幸せを願う人が夫になるんだもの」

 その温かい声につられて顔を上げれば、やっぱりひどく優しい微笑みが僕を見守っていてくれる。

「テュールがフローラさんを不幸にするわけない。絶対に大丈夫よ。……それとも、境遇が違うってだけで、テュールはフローラさんを好きになったこと、不幸だと思ってるの?」

 ビアンカの言葉に、ただ黙って首を振る。

 どんなに苦しくても、胸が痛くても、僕は彼女と出逢えて幸せでしかなかった。

 彼女も、そう思ってくれるだろうか。

「……っていうかね。この私を振ったんだから、二人とも幸せにならなかったら本気で殴りに行くからね?」

「ビアンカ、励まし方がわかりにくい……」

 乾いた笑いを浮かべた僕をもう一度睨んで、最後に残った金色の液体を一気に飲み干す。

 そうしてビアンカはグラスをたん、と音を立ててテーブルに置き、「さぁ、もう大分いい時間だけど。明日に備えてそろそろ帰れば? それとももう一本つきあう?」などと宣った。え、と思って時計を見れば、そろそろ日付も変わろうかという頃合い。

「……っ、もうこんな時間⁉︎」

「あーら大変。こんな時間にここにいるの、誰にも見られなきゃいいけどー」

「なっ……からかうなよ、もう!」

 あわあわと席を立ち、僕も大急ぎでグラスの中身を飲み干した。急激に回るアルコールに若干の眩暈を覚えつつ玄関へと走り、ドアノブに手をかける。

「じゃあ……、おやすみ。ビアンカ」

 去り際に振り返って告げれば、慈しむような視線が返る。

「おやすみ。──テュール」

 椅子に腰かけ、テーブルに肘をついたままひらりと手を振るビアンカにもう一度微笑みかけて、僕は早足で離れを出て行った。

 ────ありがとう。

 込み上げる気持ちを、たった今閉めたばかりの扉の向こう側に置いて。

 

 

 

 

 

 寝静まりつつある街中を通り抜けて宿に戻った。

 そろそろ宿の二階にある酒場から聞こえる声も先程の賑やかさは薄れて、ちらほらとすれ違う人達から冷やかしの声はとんでも呼び止められることはない。

 ──明日、どんな結果になっても後悔はしない。

 僕はただ、この想いのまま彼女に向き合うだけ。

『その幼馴染は、フローラさんと駆け落ちでもしそうな相手なわけ?』

 ふと、先程のビアンカとの会話が頭をよぎる。

 夫となる人物は自分自身で決めたい。そう言ったフローラ。

 本当にアンディを望むなら、彼女はきっと駆け落ちだってするだろう。

 あの時の、凛とした声が今になって僕を支える。

 あの時交わした眼差しも。君の、ほんのりと赤らんだ頰も。

 信じたい。信じている。

 宿に着き、外套とターバンを外して再びベッドに身体を横たえた。夕方混乱しきった頭で感じていた重く気怠い気鬱さとは違う、どこか心地よい疲労感に包まれて、束の間体重の全てを寝台に預ける。それから身を起こし、手早く湯浴みをしてから僕はようやく、久々の陸での眠りについた。



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#17. 慕情~side Flora

 彼が、もう一つの結婚指輪──水のリングを探すためにサラボナを発ったと父から聞かされたのは、幼馴染のアンディが大火傷を負って帰ってきてから四日ほど経った日の夜のことだった。

 

 

「────テュールさんが」

 父から彼の名を告げられ、呑み込んだ呼吸とともに一瞬、心臓がすくみ上がったのを感じる。

「そうだ。今日、クラウスが同行して行った。さすがに帆船は素人には難しいからな」

「……そう、ですか」

 淡々と告げられる父の言葉に、この身を支配しようとする動揺を必死に押し殺し、なんとかそれだけ答えた。

 テュールさんが、二つ目の指輪を求めて行ってしまわれた。

 また一つ目の時のような危険があるかもしれない。アンディのような大怪我をなさるかもしれない。その恐怖に、今にもこの心臓が抉り取られそうな気すらして、私は無意識のうちにぎゅっと肩を抱いて立ち尽くしていた。

 そんな、無力でしかない私を一瞥し、父は深い溜息をつく。

「だというのに、お前は……いつまでノルンの家に入り浸る? あの息子は目を覚ましたとお前が言ったのだろう。いい加減、自分の伴侶となる相手を見定めたらどうだ」

「……お父様」

 思わず、咎めるような声が出てしまい、慌てて口許を抑えたがもう遅い。父は呆れた視線を遠慮なく私に降らせ、私はそれ以上の申し開きができるわけもなく口を噤んだ。

「──お前も、彼を好いているものだと……思っていたのだが、な」

 落胆させた。どこか諦めたような父の声が胸に刺さる。違うんです、と叫びたかったが、言葉がどうしても出てこなかった。まだ、その感情を直視する勇気がなくて。

 父は黙って立ち尽くしたままの私をしばらく眺めていたが、やがてもう一つ溜息をつくと何も言わずに部屋を出て行った。

 

 ────アンディは、大切な幼馴染です。

 

 呑み込んだ言葉を喉の奥で反芻する。それを口にしてしまうことは、ひどく残酷なことのように思われた。

 それ以上に想うことは、きっともう叶わないのだから。

 十日ほど前、この街に来たばかりのあの方に出逢った。

 あの瞬間、私という人間はあの方にすっかり塗り替えられてしまったのだ、と思う。

『夫となる人は、私自身で決めたいのです』

 それを、父に告げることは酷く勇気のいることだった。それでもあの時は、言わなくては、と私の中の何かが強く叫んでいた。あの場に集まってくださった皆様にも、無為に危険を冒すことになって欲しくはなかった。

 ──出逢ってしまったと、思ったから。

 彼以外の誰が父の条件を満たせたとしても、きっと応じることなどできないのだと、思ってしまったから。

 だから、あの場に彼の姿を見つけた時、驚きのあまり息が止まるかと思った。

 ──あの方が。あの方も、私を……妻にと、望んでくださって……?

 そんな自分本位な悦びと共に、すぐに私を戒める私自身が叫び始める。

 ここまで、総てを運命に委ねると誓ってきたではないか。

 今日初めて知り合ったばかりの殿方がその相手だなどと、どうして断じることが出来ようか。

 都合の良い夢に己を委ねてはならない。

 何のために生きている。何のために生かされてきたのだ。父に護られ、母に愛されて今日まで来たのは、

 

 ────あの盾と共に生きるため。

 

(この気持ちに、流されては、いけない……)

 もう何度も何度も自分に言い聞かせた、その言葉を今一度、まじないのように呟く。

 窓の外をふと眺めれば、暗い門の前に居るはずのない影を探してしまう。

 一昨日、彼がアンディの家からの帰り道を送ってくれた。

 歩幅一つ分は離れていたのに、隣を歩く彼の温もりが私をずっと包んでくれていた気がした。

 この方はどうして、死の火山へ赴いたのだろう。

 その理由はほとんど示されていたというのに、私はそれを、自信を持って受け容れる勇気を持てなかった。

 私を、望んでもらえているなんて。

 そう思うことすらおこがましく感じられて。

 どうやってもそれを聞く勇気が持てなくて、思いきって切り出してみたものの、結局は言葉を呑み込んでしまった。

 テュールさんの、時折感じる視線はとても優しかったけれど、その瞳にどこか悲しい色を含んでいる気がして、私は中々真っ直ぐに見返すことができなかった。

 どうして、そんなに哀しい眼をなさるのですか。

 私には、私を見つめるその切ない瞳の理由がどうしてもわからなくて。

 私に、その哀しみを埋めて差し上げることが出来たらいいのに────

 そんなことを思っていたから、つい、別れ際に彼を見上げてしまった。

 あの瞬間、きっと、気持ちが溢れてしまった。

 一体どんな顔をしてしまったものか、今思い出すと身悶えたくなるほど恥ずかしいのだけれど。

 私が見上げた瞬間、彼は目を瞠って、そして────

 これ以上ないほどに、愛しげな眼差しを……くれたのだ。

 

 

 胸が、苦しい。

 思い返すと、どうして、…………

 

 

 掌を合わせ、私はひっそりと窓辺の神に祈りを捧げる。

 どうか、あの方がご無事でありますように。

 大きなお怪我をすることなく、この街に戻られますように。

 指輪なんて要らない。どんな財宝も無くていい。

 貴方だけが、生きていてくださればそれでいい。

 私のものなど、何もかも捧げて構わないから。

(…………お願い、です)

 もう涙など出ない。そう思ったのに、彼を想うと喉の奥からこみ上げて抑えきれないものがある。

(……、……お願い……っ)

 自室の、誰も居ない窓辺に小さな椅子を置いて腰掛けたまま、私はひっそりと声を殺して泣いた。

 怖い。

 貴方を失ってしまったら。

 もう二度と、会えなくなってしまったら。

 出逢って数日の方なのに。お会いしたのも、言葉を交わしたのも数えるほど。だと言うのに、どうして、こんなに心が震えるの。どうしてこんなに、惹かれてしまうの。

 どうして、あの方じゃなくちゃ駄目だって、思ってしまうの。

 恐怖感に押し潰されそうになりながら、私はただ一心に、神へと……恋しいあの方へと、祈りを捧げ続けた。

 お願いです。

 どうか、ご無事で────

 早く……早く、帰ってきて。

 ──私の願いとは裏腹に、彼はそれから十日経っても、サラボナに戻っては来なかった。

 

 

 

 

 

「心ここに在らず、だね」

 アンディの声に、ぼんやりと遠いところに囚われていた意識が不意に覚醒する。

「あ……、ごめんなさい」

「いいよ。……どうせまた、眠れてないんだろ?」

 見透かされてしまった問いに私は黙って目を伏せる。ふわりふわりと私達の周りを漂う可愛らしいホイミスライムが、心配そうに私を覗きこんでくれる。

「ふろ〜らちゃん、ねむれないの〜? だいじょうぶ〜?」

 温かい触手がそっと頭を撫でてくれる。その温もりになぜか肩の力が抜けていく心地を覚えて、私は彼──彼女かもしれないけれど──に向かって精一杯の微笑みを向けた。

「大丈夫よ。心配させてしまって、ごめんなさい」

 いつも通りに笑ったつもりだったけれど、どこか不安そうな目をした優しいホイミスライムは、尚も私をじっと見つめてから口を開いた。

「ごしゅじんさまとおなじこと、いってる〜。でも、ちゃんとねないと、ホイミンもげんきにしてあげられなくなっちゃうから〜」

 テュールさんも。彼のことを耳にしただけで、この身がじんわりと熱を持つのを感じる。

 彼は今頃、どこに居て、何をしているのだろう。

「ホイミン。フローラはね、君のご主人のことが心配で、気になって気になって眠れないんだよ」

 苦笑まじりにアンディがそんなことを言い、私はまたぼんやりと想いを馳せてしまっていたせいで、その言葉に反応するのが遅れてしまった。

「──っ……、あ、アンディ!」

「だって、そうだろう? 毎日見舞いに来てくれるのは嬉しいけど、その顔。……もう少し、寝る前に冷やした方がいいんじゃない」

 アンディの指摘にはっとして目許を抑える。だって、ちゃんと化粧で誤魔化せていると思っていたのに。

 頰に手を当てたまま、ちらりとアンディを窺い見れば、アンディは尚も苦笑いしながら私から目をそらす。

「……分かるよ。何年、君のことだけ考えてきたと思ってるの」

 ────あ。

 私を見ようとしないアンディの、その優しげな横顔を見つめる。私をずっと支え、励ましてくれた、私の大切な幼馴染。

 もう、その気持ちには応えられないことに、きっとお互い気づいてしまっている。

「……そろそろ、帰りな」

 まだ寝返りすらままならない身体を横たえ、首だけをどうにか私の方へしゃくって見せて、アンディが帰宅を促す。

「ほら。ルドマンさんにもどやされてるんだろ? ……変な噂が立つのは僕も嫌だしさ。……僕も、もう少し眠るから……」

 そう言うなり、アンディは長い睫毛をそっと伏せ、ふぅ、と少し長く息を吐き出した。

 アンディは──恐らく火傷の損傷はあらかた癒えたものの、体力が著しく衰えてしまっていたためか、今度は風邪のような症状が出て寝込んでしまっていた。高熱が上がっては下がることを繰り返し、熱が上がっているうちは朦朧としてろくに話せない。ホイミンちゃんの魔法は基本的に皮膚の損傷を修復してくれるものだから、熱そのものを下げることはできない。だから、あまりに熱が高い時には私とおばさまが交代でアンディの脇や首を冷やすなどしていた。

「──そう、ね。お邪魔してしまって、ごめんなさい。……ゆっくり、休んで。早く良くなることを祈っています」

「ん。ありがとう」

 短く礼を言ってくれたアンディは、しかしもう私に視線を向けることはしなかった。目を閉じて脱力していく彼に向かって頭を下げ、まだ心配そうに見つめてくれるホイミンちゃんに微笑みかけると、私はゆっくりと階段を降りていった。

「ふろ〜らちゃん」

 すぐに追いかけてきてくれたホイミンちゃんが、背中に呼びかけてくれる。

「ごしゅじんさま……、だいじょうぶだよ。つよいもん。ほんとうだよ、だから……だから、あんしんしてね」

 振り向いて、ふわりとホイミンちゃんを抱きとめると、ホイミンちゃんはどこか泣き出しそうな顔をしてそんな風に言ってくれた。

 この小さな魔物は、心底主人を敬愛し、信頼しているのだ。

 私もこの子のように強くいられたら。

 ただ信じて、待つことができたなら。

「──ええ。……ええ……、ありがとう……」

 自分の不甲斐なさに。情けなさに。無力さに。

 どんなに抑えてもこの心を支配する、切ない慕情に。

 優しい、やさしいホイミンちゃんの言葉が引き金となって、私の瞳からもう枯れたはずの涙がぼろぼろと零れた。

「──っ、……め、なさ……っ」

 心配させたいわけじゃないのに、あの方の使い魔は彼をただ思い出させるほど優しくて。

 ホイミンちゃんはそんなどうしようもない私にあわあわと優しい光を浴びせてくれる。「なかないで、ふろ〜らちゃん」と、一生懸命呼びかけてくれる。

 私は嗚咽を堪えるのに必死で声も出せず、ただ頷くしかできなかった。

 会いたい。貴方に、逢いたい。

 無事に帰ってきてくれたら、もう泣かないと約束する。だから、

 今だけ、……弱い私でいることを許して欲しい。

 次にあの方に会う時には、きっと、笑顔で「お帰りなさい」と言いたい。それくらいしか、出来ることなど浮かばないから────

 

 

 

 

 

 彼がサラボナに戻ってきたのは、それから二日後の夕刻前のこと。

 見たこともない、太陽のような、溌剌とした美しさを感じさせる女性を伴って。

 

 

 ご無事だったことにほっとして、その女性がテュールさんの傍らに──とても親しげに、寄り添っているのを見て、その瞬間に全てを理解できた気がした。

 なんて素敵な方なのかしら。

 あの時の、哀しい瞳はきっと、この方を想っていたからだったのね。

 愛しい眼差しをいただいたと思ったのも、きっと独り善がりな私の勘違い。

 貴方を想うばかりに、都合の良い想像をしてしまっただけ。

 だって、ほら────

 こんなにもお似合いのお二人に、私が入る隙間なんてどこにもないのだから。

 

 

 神は祈りをお聞き届けくださったのだ。

 私の、淡い恋心をその代償として。

 

 

 明日、貴方の答えが示される。父がそのように計らっていた。私と、貴方が連れてこられたビアンカさん。テュールさんが真実望む女性と結婚するように、と。

 そんな猶予に意味があるとは、さほど思えなかったけれど。

 ────せめて、

 早く、眠って。少しでも元気にならなくてはならない。

 貴方を祝福する日に、アンディに指摘されるような見苦しい風貌であってはならない。

 何も憂うことなどなく、笑って、お二人を祝福しなくては。

 そう思って早めに毛布を被ったけれど、やはりすぐに寝付くことはできなかった。

 眠らなくては。そう思うほど、動悸がベッドの中にこだまする。胸が千切れそうに痛くて、いっそ吐きそうなほど。

 部屋の明かりをつけずに窓際に近寄れば、いつにも増して賑やかな夜の街が見える。

 今頃、テュールさんのことが噂になっているに違いない。

 こんな気持ちであの方を迎えることになるなんて、

 この窓辺で泣きながら祈っていた時には想像もしなかった。

 明日、

 ────私はこの恋を喪失する。

 恋だった。どうしようもなく、恋だった。惹かれて、苦しくて、切なくて、それでも心は貴方を求めてやまなくて。

 ……でも、もう、

 終わりにしなくては。

 幾度目かの涙を掌で拭い、もう一度、ほとんど無意識に、いつも眺めてしまっていた門のところをふと、見遣った。

 

 

 ずっと恋しく思っていたから、

 幻を視てしまったのだろうか。

 

 

 深い、紫色の装束が、

 夜の闇に浮かび上がって。

 息を呑み、窓の縁に手をかけて下を覗き込めば、

 あの人が真っ直ぐに

 私の部屋を見上げていた。

 

 

 ────目が、合ってしまった、

 気がした。

 

 

 すぐに彼は屋敷へと歩いて行った。階下で、誰かが話している気配を感じる。私は慌ててベッドに飛び込み、また毛布をかぶり直した。

 ──もう、告げにいらしたの?

 あの方と一緒に行く、と。

 それしか思い至れなくて、ばくばくと心臓が叫ぶのをただ必死にこらえていた。

 どれくらい経っただろうか。階下から、誰かが階段を上ってくる足音が聞こえて。

 程なく扉が軽く叩かれ、廊下から遠慮がちな呼びかけが聞こえる。

「──……、フローラ?」

 愛しい、声。

 その声で名を呼ばれると、全身に甘い痺れが走る。

 もう、こんな想いを募らせてはいけないのに────

 黙って寝たふりをしていれば、静かに扉が開けられ、彼が室内に足を踏み入れた気配を感じる。

 目を閉じて、熟睡を装う。どうか、気づかれませんように。

 眠ったふりをした私に、彼はそっと近寄ると──その温かな手でほんの一瞬、私の頰に触れた。

 びくん、と反応しそうになる身体を、もう全力で戒めて。

 どうか、気づかないで。

 今は何も言わないで。

 明日になったら、きっと笑顔で、お二人にお祝いの言葉を言えるから。

 今ここで聞かされたら、私はきっと明日、起き上がれなくなってしまうから。

 目覚めない私に、彼は静かな溜息をひとつ、零して。

 毛布の上に投げ出した私の右の掌を一度、掬い取る。

 

 ────手のひらに、

 温かくて柔らかな何かが触れた。

 

 すぐに掌は再びベッドに戻され、彼はもう黙ったまま、私の部屋を静かに出て行った。

 階段を降りる音が聞こえなくなってしばらく経つまで、私はそうして息を殺していた。

 ────どうして?

 もう、彼がきっとここにはいないことを薄く目を開けて確かめてから、彼が触れた手のひらにそっと、触れてみた。

 どうして、口づけを、…………

 もう何も分からなくて、恥じらいと戸惑いと、よく分からない感情が綯い交ぜになって。私はその掌を胸に押し抱いたまま、毛布の中で小さく、小さくうずくまった。

 ────哀れで愚かな女を、憐れんでくださったのだろうか。

 無理矢理にそう結論づけ、私は胸元に拳を抱きしめてぎゅっと目を閉じた。

 眠ろう。

 今は、眠ってしまおう。

 明日、無様な私を見せないために。

 あの方と、あの方の大切な方のために、

 精一杯祝福できる私であるために。

 

 

 

 人生で一番に切なく、辛い夜は、

 そうして残酷なほどゆるやかに更けていった。



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#18. 求婚

 目が覚めて、いつも通り冷えた真水で顔を洗う。

 髪をいつもより少しきちんと梳って、後ろで一つにまとめ直した。服は、普段旅ばかりなのもあって大したものを持っていなくて。少し悩んだけれど、父さんが小さい頃僕のために誂えてくれたものに似せて仕立てた、紫の旅装が結局一張羅みたいなものだから、と思い直して、いつも通りの服を身に纏う。

 結果的にはそれが良かったみたいで、緊張が幾許かほぐれた気がした。

 まだ早い時間であることを確認して、食堂へ向かう。早めに朝食をとるのは、他のお客にあまり余計な詮索をされたくなかったから。いつもは寧ろ噂話に耳をそばだてる為に人の多い時間を狙って利用したりするけれど、今この街でその必要はほとんどなかったし、寧ろどうみても噂話の渦中にあるのは僕だったからだ。

 食堂でも従業員からちらほらと冷やかしをもらい、愛想笑いを返しながらも手早く朝食をとる。

 いつも自分が朝食をとる間に仲魔達の分を用意してもらうのだけど、今朝はそれが妙に豪勢だった。

「この街の大旦那様からのお心付けでございます」

 支配人からのそんな言葉に恐縮しつつ、差し入れ分の朝食を受け取る。リング探しに一役買った彼らを評価していただいたものだろうか。後ほど改めて御礼を申し上げなくては、と心密かに誓い、僕は一度宿を出て街の外の馬車へと急いだ。

「みんな、おはよう」

 幌を覗く前に、匂いに反応したらしいスラりんがぴょこんと顔を出す。「わぁ、おいしそー! あっ、おはよーごしゅじんさまー!」と大はしゃぎだ。続いて他の仲魔達も、それぞれ朝の挨拶を口にしながら幌を大きく開けていく。

 この街に来たばかりの頃は他の馬を驚かせてはいけないと静かにしてもらっていたが、ちょくちょく立ち寄るこの奇妙な馬車の面々は、今ではこの場所にすっかり馴染んでいるらしい。心優しいプックルやガンドフなど、いつのまにか動物たちの輪に混じってうたた寝していることすらある。

「ほう、これは中々。サラボナはさほど肥えた土地ではなかったと記憶しましたが、飯は悪くありませんな」

「今朝はルドマン卿が差し入れてくださったみたいなんだ。あとで御礼を言わないと」

 満足げに籠の中身を眺めるピエールとマーリンにそう言い添えると、二人は何を思ったかしげしげと僕を眺め、顔を見合わせて頷きあう。

「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、と申しましてな」

「なるほど、先ずは佳き娘御の父親から懐柔するとは。さすがご主人、見事な手腕」

「してない! 何その言い方! 僕にそんな特殊能力ないからね⁉︎」

 いちいちそうやって混ぜ返すのはやめてほしい。ほとんど反射で言い返した僕に、二人はくつくつ忍び笑いを漏らしている。

「して、本日のご予定は?」

 グルグルと喉を鳴らして側に寄ってきたプックルの首をくすぐってやりながら、ピエールに予定を問われ、僕は少しだけ思案してから返事をした。

「午前中は大事な用があるんだ。とりあえず昼過ぎまでは自由にしてもらってていいかな」

「承知。では、そのように」

 いつも通りの返事に頷き、宿に戻ろうと身を翻した僕の背にピエールがどこかにやついた一言を投げかける。

「ご武運を。あるじ殿」

「っ……、よく分かってるね」

 僕の相方は相変わらず人の虚を衝くのが上手い。しれっと投げられた言葉に少なからず狼狽えた僕を更に愉しげに見遣り、ピエールは籠の中の料理を摘みながら低く笑った。

「リングが揃って、あるじ殿が斯様に身嗜みを整えられての大事な用といえば、それ以外にあるまいよ」

 反論のしようがございません。恐らく赤面して更に口籠った僕を「ごしゅじんさま、がんばれ〜!」「いけいけー!」などとぷにぷにした青い二匹組が囃し立てる。

「……行ってくる!」

 結局どうにも良い返しを思いつかず、未だ熱い顔をひたひた叩きつつ、僕は納屋を後にした。愉快そうに笑うみんなの微笑ましげな眼差しを背中に受けて、くすぐったく感じながら。 

 

 

 

 明朝と言っていたはずだから、常識の範囲内で早めに伺おうと思い、宿の部屋で準備を整えていたら、ちょうど出ようかというタイミングでルドマン邸からの遣いが来た。

 心の準備は十分すぎるほどにしたつもりだったが、いざその時を迎えると、指先まで伝わるほどの動悸に身体中を支配されるのがわかる。

 宿を出て歩いてしまえば、程なく屋敷に着いてしまう。

 遣いの方に促され応接間の扉を通ると、既に室内にはルドマン卿と奥方のアウローラ様が昨日と同じく中央のソファに座っていた。奥に腰掛ける卿の向こうにフローラが、僕が入室した側にはビアンカがそれぞれ立って、僕の到着を待っていたようだった。

「おはようございます。申し訳ありません、お待たせしてしまったでしょうか」

 開口一番に僕が詫びると、ルドマン卿はいつもの人の良い笑みを浮かべ立ち上がる。

「何、儂がせっかちなだけだ。ビアンカさんも急がせてしまい、すまなかったな」

 話を振られたビアンカは「いいえ、平気です。朝はいつも早いですから」と首を振り朗らかに答える。その表情は普段のビアンカと同じで、僕はまた少しだけ緊張がほぐれるのを感じた。

 きっと僕のために、ああして振舞ってくれているんだろう。ちらりとビアンカを見ると、奥の皆様には見えない角度で微笑みをくれる。

 奥に佇むフローラからビアンカの表情は見えないだろうが、僕がビアンカに視線を遣ったのは分かったのだろう。わずかに床へと視線を逃し俯いた。けれど、それを追って彼女を見つめると、すぐに顔を上げて遠慮がちな微笑みで応えてくれた。

 ────ちゃんと、僕を見てくれている。

 昨日ここに来た時には一切目を合わせてもらえなかったから。一日ぶりに見る彼女の微笑みに胸が熱くなり、また、僕をその目に映してくれたことに安堵して、改めてルドマン卿へと向き直った。

「……さて」

 もう何度も聞いた、腹に響く低音の声にこの身がわずかにすくむのを感じる。

「テュール君。結論を、聞かせてもらっても良いかな」

 落ち着いた声にもかかわらず凄みを感じる卿の言葉に、僕も肚に力を込めて、怖気付きそうになる己を叱咤し頷く。

 その隣に腰掛ける奥方は、まるで昨日のフローラのような感情を窺えない微笑みを浮かべて僕を見つめている。

 ビアンカもまた、ずっと励ますような視線を僕に向けてくれていた。

 ────フローラだけが、耐えきれないというようにわずかに僕から顔を背けた。

 華奢な両手を胸の前できつく握りしめ、伏せた瞳は昨日のように感情を失ったまま、床の一点をじっと見つめている。

「フローラと、ビアンカさん。どちらを君の伴侶に望むのか、この場で示してもらいたい」

 重ねて響いた父親の言葉に、ついにフローラは目をそっと閉じて、祈るように項垂れた。

 そんな彼女の仕草ひとつひとつに決意が挫けてしまいそうになり、心の中で何度も自分を叱責する。

 信じるって決めた。後悔しないって、決めたじゃないか。

 彼女の心が既に他の男のものであったとしても。

 彼女が僕に望まれることを拒んだとしても、僕のこの気持ちが変わることはない。偽りもない。

 ────伝えなければ、始まらないのだから。

 一歩、瞼を落としたままの彼女に近づく。黙って見守る奥方が、小さく息を呑んだ気配がした。

 ビアンカの強い視線に押されて、もう一歩。

 初めて逢った日と同じように、清楚なドレスの胸許に固く握られた小さな手が震えている。今すぐにその手を取りたい衝動を必死にこらえて、肩をすくめたまま動かないフローラの前に立ち、彼女を見下ろした。

 緊張のあまり、重く吐息が零れる。──その気配に驚いたように、フローラがうっすらと瞼を開けた。

 緩やかに、花弁が開くように。

 翡翠の瞳が見開かれて僕を映す。

「────僕は、見ての通り……目的があって旅をしている途中で」

 頭の中で何度も何度も考えてきたのに。用意してきた台詞なんて、いざ彼女を前にすればあっさりとどこかへ吹き飛ぶ。

 驚愕に揺らめくばかりの彼女の瞳に、嫌悪の色は見えない。

「怖い思いを、させてしまったり……貴女に、要らぬ心配をかけてしまうかもしれない。ずっと側にいることも、もしかしたら、できないかもしれない。…………それでも」

 僕の声以外に音のない、静謐なはずの広間で。

 自身の鼓動の音ばかりが耳の中に煩いほど響いている。

 真っ直ぐに見下ろした翡翠の双眸に映り込む自分を見ていると、あの日、君に一瞬で心を囚われたことを思い出す。

 もう一度だけ、息を吐いて、

 僕を戒めるこの緊張を、手放す。

 

 

「────僕の、妻に……なっては、くださいませんか……」

 

 

 僕の言葉が途絶えて、広いこの応接間には静寂が満ちた。

 彼女は眼を見開いたまま、その瞳に僕だけを映したまま、固まって動かない。

 僕も、他の誰も、微動だにしなかった。分かるのは、ただ僕とフローラに三者の視線が注がれていることだけ。

「…………、……わ……私」

 永遠かと思えた長い空白の中、か細いフローラの声が空気を震わせて密やかに響く。

「何もできない、女です。──ビアンカさんのように、あなたをお手伝いすることも……、私には、守っていただくことしか、出来ません……」

 どこか辿々しい彼女の言葉に、その澄んだ鈴の声に。胸がじわりと熱く、いっぱいになっていくのを感じる。

「構いません。──僕が、貴女を守るから」

 思わず半歩、踏み込んでそう言うと、フローラは微かに身体を震わせ、距離を詰めた分更に上向いて僕を見た。

「……ほんとうに?」

 壊れそうな桜貝の唇が、ほんの小さく動いて、この至近距離でもやっと聞こえるほどの言葉を紡ぎ出す。

「ほんとうに、────私で……いいの……?」

 このまま身を屈ませれば唇を奪える。そんな誘惑にくらりと酔いながらも、何とか理性を保ちきってひとつ、頷く。

「貴女がいい」

 僕にもうあとわずかでもいい、詩人の才があったなら。

 もう少し気の利いた言葉を選べるのに。

 どうしても出てくるのは、そんな色気も何もない言葉だけ。

 いっそぶっきらぼうなほどの告白に、フローラはその綺麗な双眸を目一杯見開いて。すぐにその瞳が大きく揺れて、彼女は急いで顔を伏せた。

「──……しい、……」

 華奢な指先で、花弁の口許を覆い隠して。

「……嬉しい、です」

 隠された顔を覗けば、その耳許が、項が、ほんのりと紅を点して。

 上目遣いに僕を見上げた瞳は微かに潤む。

「ありがとうございます────テュールさん。私、きっと……良い妻になりますわ」

 指先の下に隠した口許が。朱に染まった目許が。

 僕に向かって、緩やかに愛らしく、弧を描いた。

 

 

 ──────笑った……!

 

 

 今まで見た、どんな笑顔よりあどけなくほころんだその微笑みが、僕の心臓を瞬時に、鮮やかに歓びで射抜いていく。

 笑った。笑ってくれた。

 嬉しいと、言ってくれた!

「……フロー」

 ラ、と舞い上がるまま名を呼ぼうとした瞬間、鼓膜を破らんばかりの勢いで「そうか! フローラを選んでくれるか‼︎ そうかそうか‼︎」と盛大に笑うルドマン卿の大声量が響き渡った。驚いて振り返るより先に肩をばしばしと叩かれ、そういえばフローラのすぐ隣に立っていらっしゃったことを今更ながら思い出す。それにしても思った以上の力で肩やら背中やら乱打され、それなりに鍛えたはずの身体が若干悲鳴をあげる。

「お、お父様、テュールさんが」

 興奮した父親のあまりの勢いに、咄嗟にフローラが間に割って入ろうとしてくれる。だが卿の手が彼女にぶつかってはたまらない、こちらもほとんど反射的に彼女を庇う形で身を翻した。

「おお、すまんすまん。つい力が入ってしまってな」

 期せずして身を寄せ合った僕達を眺め、卿は嬉しくてたまらぬというように破顔する。

 お若い頃冒険稼業で鳴らしたという豪腕が伊達ではないことを再認識させられた。既に現役ではないにしろ、素晴らしい筋力を維持されていると思う。

「いえ、大丈夫です。……改めまして、結婚をお許しくださり本当に有難うございます。卿」

「父と呼んでもらえる瞬間が待ち遠しいよ」

 深々と頭を下げ謝辞を伝えた僕に、ルドマン卿はますます笑みを深め頷く。そして一つ軽快に手を叩き、「さぁ! 忙しくなるぞ。皆、婚礼の準備だ!」と高らかに叫んだ。

 卿の言葉を合図に、屋敷に控えた使用人達が一斉に動き出した。フローラはすぐさま僕の側から引き離、いや引き剥がされ、「さぁお嬢様、急いで採寸からやり直しですわ」と両腕を掴んだメイド達に引きずられていく。名残惜しげに僕にちらりと視線をくれたものの、すぐに奥方、そして彼女を捕まえたメイドたちと共に応接間の外へと消えてしまった。しかし絶妙なタイミングでその後を追ったビアンカが「あっ、私、お手伝いしまーす!」と楽しそうに声を掛け広間を出ていく。えっ、などと思う間もなかった。

「…………すぐに、挙式なのですか?」

 周囲の怒涛の勢いに呆気にとられ、激しく間抜けな問いを発してしまった僕を卿は穏やかに振り返った。

「まぁ、そうだな。元々すぐに式を挙げられるよう、諸々の準備を進めさせておいてはあった」

 君の式だと言うのにこちらで勝手に進めてすまないね、と言われれば、僕は首を振る以外ない。ただ何となく、結婚式とは準備に時間がかかるものという先入観と、正直すぐに彼女に頷いてもらえるとは思っていなかったので、実際に式を挙げるのはまだ大分先のことだろうと本当にぼんやり思っていただけなのだ。

 ……まだ、信じられない。フローラが僕を、喜んで受け入れてくれたなんて。

 先程の愛くるしい笑顔を思い出すと、自然と口許が緩んでしまう。鳩尾のあたりがむずむずするのを掌で必死に抑え気持ちを落ち着けていると、何やら悪戯を思いついた小僧のような笑みを浮かべた卿がおもむろに僕を見上げてくる。

 小首を傾げてみせればますます愉快そうに口角を持ち上げ、彼は言う。

「そうそう、言い忘れたかな? 君と飲み明かした翌日、ラインハットのヘンリー王兄殿下へ遣いを差し上げてね。君の結婚式にご出席を賜われるようお願い申し上げた。殿下は大層お喜びになり、すぐにでもと妃殿下とご一緒にサラボナをお訪ね下さることになったのだよ。もう二、三日中にはお着きになるそうだから、それを待って挙式の予定だ。頼んだぞ、花婿殿!」

 ────全く聞いていなかった訳ですが⁉︎

 初耳も初耳、一切予想していなかった事態に言葉が出ない。ラインハットからここまでだなんて相当の日数がかかるはず……ということは、だからこそ僕が水のリングを探しに出るより前に卿は挙式を見越して動いていたのか。

 そこまでの期待をいただいていたと思うと甚だ恐れ多く、同時にこの義父は中々お人が悪い、と思わせられる。思い返せば結婚相手の条件告知の際も、こんなたちの悪い笑みを浮かべていらしたものだった。炎のリングについて聴衆に問いかけた彼のあの愉しげな表情は今も忘れられない。

 驚愕に言葉を失ったままの僕をますます愉快そうに眺めてから、卿は暫し視線を宙に彷徨わせて思案する。

「まぁ、そういうことだ。……ところで、実は式の前に一つ、頼まれて欲しいことがあるんだがね」

「……? はい。僕にできることでしたら」

 戸惑ったまま頷くと、卿はまた満足げな笑みを一つ浮かべてその用件を口にした。

「恐らくビアンカさんの村だと思うのだが、温泉のある山奥の村の萬屋に花嫁のヴェールを注文してある。あそこの職人は良い技を持っていてね。そろそろ仕上がる頃だから、君が取りに行ってくれないだろうか。うちの者に行かせるつもりだったが、少々手が足りないようでな」

 最後はやや申し訳なさそうに告げられたが、それくらいなら造作も無い。ここに居ても役に立てることはあまりなさそうなので、寧ろ願っても無い申し出だった。

「お任せください。出来るだけ、ヘンリー……殿下をお待たせしないよう、早く戻るようにしますので」

 僕の返答に卿は少しだけ目を丸くした。答えてから、そういえば船で行ったらルーラでは戻れないかもしれないことに思い至る。いや、本当はルーラで村まで行ければ即日往復できるのだが、どうだろう。

「そうか、頼もしいな。よろしく頼むぞ。昨日まで使ってもらっていた船で行ってくれても良いし、村の近くまでは定期船も出ている。代金は全て支払い済みだから、注文の控えだけ持って行けば良いだろう」

 続く卿の言葉に内心ほっとして頷いた。片道を定期船で行ければ、少なくとも帰りは魔法でなんとかなりそうだ。控えについては執事の方を訪ねるよう言われ、了承してその場を辞そうとしたところでふと、伝えねばと思ったことを思い出す。

「卿、……今朝は過分なお心付けを頂戴しまして、本当に有難うございました」

 僕の謝辞に、ルドマン卿は卒なく笑う。

「領民の命を救ってもらった礼を、していなかったのでな」

 恐らくアンディのことだろう。どこまで事情をご存知なのかはわからないが、僕ではなく仲魔達を指して言ってくださったことが嬉しく、僕は卿に向かって今一度深く拝礼する。

 そうして件の執事からヴェールの注文票の控えを預かり、僕はルドマン邸を後にした。



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#19. 朋友

 さて、ルーラで一足飛びに行けるか、風の精霊の力を借りて位置を探ったものの、うまく捕捉できなかった。

 大きな街ならほぼ問題なく飛べるのだが、あまりに小さな村だと難しいのだろうか。仕方がないので馬車のある宿の納屋へ向かい、たまたまそこに居たプックルを拾う。一緒に遊んでいたホイミンとスラりんには留守のみんなへの伝言を頼んで、急ぎ街の外の船着場から定期船の昼便に乗り込んだ。

 村に着くのは明日の夕方になりそうだが、帰りは魔法で済むと思えば気が楽だ。

 概ね定刻通りの翌日昼過ぎに船は着き、そこから他の乗客に紛れつつ村へと向かう。山道なのでやはり多少は魔物に遭遇するが、プックルと僕で問題なく対処できるレベルのもの。僕達よりずっと後ろから村へと向かっているらしい、街帰りと思しき集団が途中途中で狩られた魔物を見て声を上げている。馬車よりはどうしても時間がかかったが、そうこうしながら日がとっぷりと暮れる頃にようやく村へと辿り着いた。

 この村に来たからには挨拶しなくてはならない人がいたが、先ずは目的を果たしてから、と村人を呼び止め萬屋の場所を聞く。教わった通りに店を訪ったが、生憎店は閉まっていた。「残念だったね、お兄さん。ここのドワーフは日暮れと共に寝ちまうから」と通りすがりに笑う村人に軽く会釈を返し、一つ溜息をつく。

「残念。今夜はここで一泊しないとだね」

 早く帰ると意気込んだけれど、やはり三日はかかってしまいそうだ。僕の落胆を感じとったプックルが、慰めるように腕に身体を擦り付けてくれる。

「そうだ、プックル。温泉って知ってる? 一緒に入れたら気持ち良さそうなんだけどな。魔物も一緒に浸かれる温泉があったらいいのに」

 揶揄い半分に言ってみると、泳げはするものの水が決して得意とは言えないプックルはやや不快そうにグォン、と吼え首を振った。「冗談だよ。ごめん」と笑いながら頭を撫でて、改めて村のずっと奥を見遣る。

 ……やはり、ちゃんと伝えなくては。

 少しだけ、気鬱と共に足取りが重くなるのを感じつつ、僕は村の奥へと足を踏み出した。

 

 

 

 およそ二週間ぶりに訪ったダンカンさんはやや憔悴気味ではあったが、僕達を見送ってくれた日よりは目に力を宿していて僕は密かに安堵した。

「おや、坊だけかい? ビアンカはどうしたね」

「あ、えっと。今サラボナにいます。実はちょっと、今日はお遣いを頼まれて参りまして」

 頭を掻き、言葉を濁す。が、無意味な配慮であったことに思い至り、どう説明したものか暫し口籠ったまま思案する。

「お遣い? ふむ、よくわからんが忙しそうにしているなぁ。坊よ、若いからって無茶はいかんよ。私のように身体を壊しては元も子もないのだからね」

 僕を案じてくれるその声に、自然と肩の力が抜けていく。

「ありがとうございます。中々ビアンカをお帰しできなくてすみません」

「何ならそのまま貰ってくれても構わないんだよ?」

 笑ってそう応えたダンカンさんはおどけた表情ではあったが、どこか自嘲的な微笑みにも見えた。僕が言葉を探して視線を泳がせると、申し訳なさそうに首をすくめて僕を見る。

「すまないね。……坊には想い人がいると言っていたのに」

「いえ、……謝らないでください。僕の方こそ……」

 背中を丸めれば記憶よりもずっと小さく感じられるダンカンさんを見下ろし、僕も遠慮がちに言い繕う。

 そうして、暫しの間白髪の増えた彼の頭を見つめ──意を決して静かに、告げた。

「……結婚が、決まりました」

 僕の言葉にダンカンさんは一瞬ぱっと目を剥いたが、恐らく硬い表情をほぐせずにいる僕の様子だけで相手が誰なのか察してくれたらしかった。その微笑みに少しだけ切なさを滲ませて、ダンカンさんはゆっくり頷いてくれる。

「──ああ……、これで……パパスも安心できるなぁ……」

「……申し訳、ありません……」

「何を謝るんだい。……謝らなくてはならないのは私の方だ。悩ませてしまって、本当に悪かったね」

 どうにも言葉を選べなくて項垂れるばかりの僕に、そんな優しい労りをくれる。

「ああ、なるほど。それでビアンカが戻らないんだね。あの子は本当に世話焼きだから」

「は、はい。今も式の準備を手伝ってくれているようで」

「その様子だと結婚式を見るまで帰りそうにないな? はは。ついでにあの子も好い人を見つけてきてくれればいいんだがなぁ」

 ビアンカの気質をよく分かっているダンカンさんが、冗談めかしてそんな風に言って、笑ってくれる。

 ──血の繋がりはなくとも、僕にはあなた方が本物の親子にしか見えない。

 それはひどく尊いもののように感じられて、同時に、ビアンカはやはりダンカンさんの元を離れるべきではない、と強く思う。

 ここで幸せになってほしい。彼女にとってかけがえのない家族がいる、この場所で。いつか、僕なんかよりずっと素敵な伴侶を見つけて。

「今度は是非、お嫁さんを連れておいで」

 優しいばかりのそんな申し出に頷きを返して、僕はダンカンさんの家を後にした。

 

 

 

 翌朝、日の出と共に起き出した僕は、朝食もそこそこに宿を飛び出し、プックルと連れ立って萬屋へと向かった。

 目算の通り店は既に開いており、店主はカウンターに向かい何やら魔物の皮やら角やらを数えているところだった。洞窟になっているその店先を覗き込むと、「おや、今日はまたお早い客だ」と老年のドワーフが片眼鏡の奥の眼球をぐるりと動かしこちらを見た。

「すみません。こちらで婚礼用のヴェールの仕立てをお願いしている者なのですが」

 道具袋に折り畳んで入れた控えの紙を取り出し、軽く会釈をして告げると、ドワーフは片眼鏡をカウンターに置き眼をますますぎょろつかせながら「おお、おお」と呟いて店の奥へと消えていく。程なく、もう一人ドワーフを伴い、大きく立派な化粧箱を二人掛かりでよろよろと抱えながら戻ってきた。

「領主殿んとこのだったな。うん、間違いない」

 箱を僕の程近く、入り口付近に置かれた椅子まで運んだ店主は、僕が差し出した注文票の控えを手早く照合する。

「昨晩やっと出来上がったばかりだ。すんごい出来だぞ」

 店主が何やら確認している間にも、先程箱を一緒に運んできた年若いドワーフが人好きする笑みを浮かべて話しかけてくれる。こちらが卿が言っていた名工だろうか。

「なぁ、あんた、もしかして新郎か?」

 ……最近僕の顔には自己紹介でも書いてあるのだろうか。思わず真顔でぺたりと頰を抑えた僕を彼は笑い含みに見遣り、「領主様んとこの人とは、身なりが違う」と言い添える。そして改めてまじまじと僕を上から下まで眺め、「ちょっと待ってろ」と言い残して店の奥へとぴょこぴょこ走っていった。

「ほう、あんたが花婿か。こんな山奥までご苦労なことだ」

 何やらカウンターで書類を封筒にまとめていた店主がぴょんと飛び降り、ややぶっきらぼうにそんなことを言う。「これは領主殿に」と封筒を渡され、とりあえず黙って頷き受け取る。それを道具袋に収めたタイミングで、先程の若いドワーフが「できた、できた」と忙しなく戻ってきた。

差し出されたのは、掌に収まる小さな小さな白い花束。

「……これは?」

「おまけだ。さっきのヴェールで使った、シルクの小花の余りを束ねてきた」

 若いドワーフがわくわくと店主を振り返ると、店主も「ま、お代はたんまりもらってある」と頷く。今ひとつ彼らの意図がわかりかねたものの、厚意である事は理解できたので、礼を述べつつそれを受け取った。

「式で、胸につけるといい!」

 シルクで作られた可憐な花束が僕の手に渡ったのを確認して、若いドワーフが自分の左胸を示しながらぱぁっと破顔する。

「ありがとうございます。わかりました、胸元ですね」

 その純粋な好意が嬉しくて、小柄なドワーフの前に少しだけ身を屈めて微笑むと、店主が視界の端で、何やら呆気にとられた様子で身動きを止めているのが目に留まった。

「ん? 師匠、どうかしたか?」

 僕の視線につられて振り返った若いドワーフが店主に向かって呼びかける。師匠、という事は、名工は店主の方だったのか。

「──、いや……なんだ。随分と、懐かしいことを思い出した」

 緩やかに息を吐いた彼は、先程までの人を寄せ付けない雰囲気ではなく、どこかやわらかな瞳で初めて、僕を見た。

「……お若いの。幸せにな」

 

 彼がこのとき覚えた既視感の理由を僕達が知ることになるのは、もっとずっと後のこと。

 この時の僕達には、お互いに知る由もなかった。今から二十数年ほどの昔、彼が今目の前にいる新郎の母親の為、生まれて初めてシルクのヴェールの縫製を手掛けたのだということを。彼にヴェールの作製を懇願しに来た、とある国の王であった新郎の父親に、愛弟子と同じように思いつきで作ったシルクの小花のブートニアを手渡したのだということを。

 

 

 

 無事に婚礼用のヴェールが入った箱を受け取り、店の外の人気がない辺りまで移動して、プックルの背に手を載せつつルーラを唱える。

 瞬時にふわりと身体が重力を失い、周囲の景色が光に溶けると同時に風景を再構成する。

 ほんの一瞬で目的の場所へと転移する、今では失われたこの古代魔法は本当に利便性に優れた素晴らしい術だ。

「おっ、戻ってきたな。みんな! 色男のご登場だぜ」

 目を開けるより先に聞き覚えのある軽快な声音を耳にして、久々の感覚に心が躍る。

「──ヘンリー! いつこっちに着いたんだ⁉︎」

 サラボナの入口で、仲魔達と連れ立って僕を待ち構えていたその人こそ、朋友ヘンリーだった。昔、共に奴隷として働き、その後旅をしていた頃からすれば想像もつかない立派な出で立ちではあったが、どこか得意げに僕を見つめる瞳はあの頃から全く変わりがなくて。

「昨日だよ。折角驚かせてやろうと思ったのに、ルドマン公が俺が来ること、とっととバラしたって言うからさぁ。お前のことだからここら辺に転移してくるって踏んで、早朝から張り込んでやったぜ」

 さも残念そうに宣ったかと思えば、今度は大得意でふんぞり返る。俺の読みはすごいだろう⁉︎ とばかりにいい笑顔でにじり寄る旧友に僕もつい笑いが溢れる。「ま、拙者の助言が功を奏しましたな」などと隣で茶々を入れるピエールを軽く小突くヘンリーを見ていると、まだラインハットを解放する前、ヘンリーと共にあちこちを放浪していた頃にたちまち心が還ってひどく懐かしい気持ちになる。

「──何だ。お前、すごい良い顔してるじゃん」

 嬉しくてにやついてしまっていたのか、僕の顔を傍から覗き込んでヘンリーがそんなことを言う。

「そう? 久々に会ったからかな」

「莫迦言え、お前ついこないだうちの城に来たばかりだろうが。──こうも自覚ない辺り、さすがだよな。ピエール」

 そういや確かにルーラを覚えたばかりの頃、祝辞を述べにラインハットへ飛んだから、まだ一ヶ月半くらいしか経っていない。もっとずっと長く会っていなかったような気がして、僕は無意識のうちに首を捻った。

 ていうか、自覚ってなんだ?

「まあ、致し方ありませんな。なんと言っても我があるじ殿は筋金入りに初心(うぶ)である」

「あー、違いない。純粋なんだな、うん」

「よくわかんないけど、今絶対莫迦にしてるだろ……」

 僕を除け者にしたまま頷きあう二人を恨めしく思い、悔し紛れにそう呟く。とすぐに、ぷにぷにの青い二匹組が「ごしゅじんさまは、ぴゅあなんだよー!」「ぴゅ〜あ〜!」と叫びだす。多分擁護してくれているのだろうが、煽られているのと大差ないと感じてしまうのは僕の心が狭い所為だろうか。

「いいひとに出逢えたんだな、って言ってるんだよ」

 不貞腐れるしかできない僕の肩を軽く叩き、ヘンリーがどこか大人びた微笑みで僕を覗き込む。

「ところでそれ、ヴェールだろ? 早く行って届けた方が良くないか」

「あ、そうだった」

 ヘンリーに指摘され、はたと抱えたままの箱のことを思い出した。傍で僕を見守るプックルを軽く撫で、他のみんなには「行ってくるね」と手を上げて告げる。どうやらヘンリーは一緒に街に入るつもりらしく、僕の隣で同じく仲魔達にひらひらと手を振っている。

「マリアさんは? 一緒に来てくれてるって卿が言ってらしたけど」

「昨晩は公の屋敷の離れに泊めてもらったから、そっちかな。ああ、でもマリアのことだから今頃、自分の準備そっちのけで花嫁を手伝いに行ってそうだよな……」

「そうか。やっぱり、相変わらずなんだね」

 ほんの短い期間、僕達の旅に同行してくれたことがあるマリアさんがその間甲斐甲斐しく僕達の世話を焼いてくれていたことを思い出す。申し訳ない気持ちはもちろん僕にもあったものの、特にヘンリーは当時から彼女をとても慕っていたから、嬉しくも心苦しいといった想いが強かったようだ。

「俺は貴女に、侍女として来てもらってる訳じゃない」などと強く言いすぎて彼女を落ち込ませてしまう、といった一幕もあった。

 一国の王の兄、今やその妃であるマリアさんがお手伝いなんて、ルドマン卿が許さないような気もするが。

「あ──……んー、なんだその」

 そんな雑談をしながら屋敷に向かっていた僕らだったが、町の中央の噴水を通り過ぎたあたりで急にヘンリーが歯切れも悪く頰を掻いた。

「ん? どうかした?」

 歩きながら振り返り小首を傾げると、ヘンリーも足は止めないものの、顔の前に軽く掌をかざして謝るような仕草をとる。

「すまん、テュール」

「…………何が?」

 言葉は詫びているものの、困ったような表情にどこかにやけた笑いを含ませたこの幼馴染の青年に、僕は困惑と共に嫌な予感を覚えながら今一度問い返す。

 ──ヘンリーがこういう顔をするとき、大体ろくなことにはならない。

「おお、婿殿よ! さすが早かったな、待っておったぞ!」

 ヘンリーが更なる弁解を始めるより先に、すぐ橋の向こう、屋敷の門の前で僕を見咎めた卿が大声で叫ぶ。どうやら屋敷の外であれやこれやと使用人達に指示を出していた最中らしい。いち早く僕に気づくと側に駆け寄り、ヴェールの箱をもぎ取っては側にいた使用人に預けて、また他の数人の使用人と共に僕を今来た道へとずんずん押し戻していく。

「え? どうしたんですか? まだ何か用事が?」

 更に訳がわからず周囲を見渡しながら問いかける僕に、「まぁまぁ、とりあえずついて来なさい」と愉しげに嘯く卿。助けを求めてヘンリーの方へと必死に首をもたげたが、彼は屋敷の前に佇んだまま、どこか悪戯っぽくも申し訳なさそうな顔つきでひらひらと手を振っている。そのままの勢いで町の外まで連行され、用意されていた立派な馬車に押し込まれた。僕の馬車とは似ても似つかないふかふかのソファを備えたその素晴らしい馬車を勢い良く走らせ、ルドマン卿はわくわくと瞳を輝かせながら、尚も呆気にとられたままの僕に言った。

「君たちの結婚式は、遥か北東の海上に浮かぶカジノ島で執り行なおうと思ってな!君には今からカジノ島の場所を覚えてもらうぞ‼︎」

 

 

 

 連行された先で待っていた、カジノ島から直接ここまで来たというルドマン家の使用人の方と落ち合い、砂地に大きく魔法陣を描いて、その中からキメラの翼で強制転移させられる。

 キメラの翼は最後に立ち寄った街へ転移できる、そこそこ高級な魔道具である。魔法陣がなくとも、数人ならば使う人間の記憶だけを頼りに移動できる便利な代物だが、別々の場所に転移してしまうと言った事故がないわけでもないため、こうして術式を縛ってやる方が無難なのだとか。

「さすがに何百人という人間を転移させるだけの人員は連れて来られんで、諦めておったのだがな。ヘンリー殿下から良い方法を伺ったのだ! 君、どこへでも自在に転移できる古代魔法を習得しているそうじゃないか⁉︎」

 ──さっきヘンリーが謝っていたのはこのことか……っ!

 ようやく合点がいき、がくりと膝から崩折れそうな心地を覚えるが、隣で瞳を輝かせている卿は意に介さない。懐からうきうきと何やら書類を取り出し、凄まじい勢いでめくりながら僕に最後の仕事を促した。

「サラボナにいる執事に、式の参列者のリストを預けてある。彼が補助をするから、ここへどんどん人を運んで欲しいのだよ。エルフの飲み薬ならいくらでも用意するからな! 頼んだぞ、花婿殿!」

 こうなれば半ば自棄である。すぐさまサラボナへと戻り、執事に掛け合って街の広場に魔力の補助となる魔法陣を描いた。何人まで一度に転移できるか、僕にもわからなかったのでとりあえずは十人程度から始めさせてもらう。式場へ運び込みたい道具なども魔法陣の中に寄せ、先ずは準備のため使用人の方を数人選んで転移する。それを何度か繰り返し、飲み薬で魔力を補充して次は花嫁とその手伝いをしている面々である。「テュールさん、あの……父がまた無理を言ったみたいで」三日ぶりにようやく目にした僕の愛らしい花嫁は開口一番萎れた表情でそんな謝罪を口にし、僕が何か言うより先に「大丈夫よフローラさん! テュール頑丈だから、ここは黙って頑張ってもらいましょ!」などとビアンカに強引に押し切られる。相変わらず過ぎて涙ぐましい。ゆっくり会話を楽しむ暇もなく転移し、全員無事移動できたことを確認してまたサラボナへととんぼ帰りする。次は来賓である。段々感覚がつかめて来たので、一度に転移する人数を三十人程度まで増やして何往復かを繰り返した。

 街の人も大部分が参列するらしく、それだけでも数百人に上る。カジノ島とやらにこれだけの人間が入り切れるものだろうか。

「テュール……ほんと悪いな。うっかり口が滑ってさ」

 最後の方、いかにも申し訳なさそうに縮こまって魔法陣に入って来たラインハットの王兄夫妻に、僕はそろそろなんとか保っているだけの意識を向け苦く笑う。

「……どうも。ご無沙汰してます、マリア妃殿下」

「もう、おやめくださいませ。テュールさんにまでそんな呼び方をされてしまっては寂しいですわ」

 困ったように微笑むマリアさんに僕も笑みを返し、「この度は、まことにおめでとうございます」と礼を取ってくれる彼女に跪き頭を下げる。

 他数人の来賓客と僕の仲魔達、最後に残った執事が参列者リストに漏れのないことを確認して陣の内側に立つ。これで最後と精神力を振り絞ってもう一度だけ、ルーラを唱えた。

 これはルーラ酔いとでも言うのだろうか、最早浮遊感なのか、自分が気持ち悪いだけなのかの判別がつかない。

 カジノ島へは瞬時に着いたが、僕の意識は一度そこで途切れることとなった。



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#20. 婚礼~side Henry

 ラインハットはそこそこの大国だが、さすがにここまでの船はない。

 音に聞くサラボナの大富豪とは斯くやあらん、ともいうべき豪華すぎる客船の一室のベッドに消耗しきった幼馴染を横たえてやり、俺は密やかに笑いを噛み殺した。

 これから挙式だというのに新郎がこれでどうする。使い果たしすぎだ、と思ったけれど、その原因の一端は俺が担っているようなものなのであまり強いことは言えない。隣からひしひしと、最愛の妻の手痛い視線を感じることだし。

「大丈夫でしょうか……テュールさん」

 心配そうにぽつりと漏らしたマリアの言葉に、誰より不安げに新郎に寄り添っていた純白のドレスの佳人がびくりと背中を震わせる。そんな妻と、これから目の前の男に嫁ぐ可憐な碧髪の少女を苦笑まじりに見遣って、せめて少しでも不安を取り除いてやりたいと、思い切って彼女の背中に呼びかけた。

「……ルドマン嬢、いえ、フローラさんとお呼びしてもいいかな? こいつなら大丈夫ですよ。本当に頑丈だから」

 フローラさん──俺達より更に歳若いという、まだどこかあどけなさすら残る少女は、俺とマリアを交互に見上げて瞳を伏せる。胸元から下だけを清楚な白で覆った彼女は、美しく仕上げた化粧をほんの少し歪ませて「ありがとう、ございます……殿下。お手を煩わせてしまい、本当に申し訳ございませんでした」と深々と礼をとってくれるが、内情を知る俺としてはどうにも心疚しい。

「気にしないでくれ。今回のこれは俺も悪かったから……大事な新郎を本番前に酷使させてしまってさ」

 死んだように眠るテュールの前髪をくしゃりと撫でてやり、苦い溜息をつく。今回の結婚式を主催するルドマンという男、ラインハットに遣いを寄越した時から面白い御仁だとは思っていたが、まさかルーラの話にここまで食いついてくるとは。

「そうですとも、貴女が気に病むことはございませんわ。殿方って時々、どうしようもなく子供におなりですのね」

 マリアにしては辛辣な物言いに、さすがの俺も苦笑を禁じ得ない。その殿方には俺はもちろん、新婦の父も含まれているのだろう。

「もうしばらく寝かせてやって、時間が許すなら少し、あちらでお話ししませんか? こいつがどうやって貴女を口説き落としたのか興味がある」

 揶揄い混じりに扉の向こうへと花嫁を誘うと、彼女はまだ心配そうに彼女の夫となる男の顔を覗き込んでいたが、やがて華奢な手でそっと男の額に触れてからおもむろに立ち上がった。

 船室の扉を出ると、立派な調度品に彩られた応接室に続く。

 この辺り一帯の部屋は、船の主であるルドマン公が普段使用している私室らしかった。

 この巨大な船は実際に航行させるものというよりは船を象ったテーマパーク的な位置付けにあるらしく、今俺達がいるフロアには十数室という規模の宿泊用の客室まで用意されている。普段から船全体をカジノとして解放しており、裕福な貴族などの中には数日間泊まり込みで遊んでいく者も多いのだとか。

「いや、この船は本当にすごい。噂には聞いていたが、君のお父上は随分とやり手だな」

「……無茶ばかり申す父で、お恥ずかしい限りです……」

 俺なりに褒めたつもりだったが、やはりテュールのことが頭にあるのか、フローラさんはそれだけ言うと力なく項垂れてしまう。そんな彼女を励ますように「ね? 殿方って子供でございましょう?」と優しく囁くマリアだったが、そこまで餓鬼だっただろうか。こういう粋な金の使い方を見せられると、男として逸るものを抑えられないこともあるのだ。

「それで、今をときめくサラボナの領主令嬢がどうやってあの朴念仁とお知り合いに? あいつが何か粗相をしてたら是非教えて欲しいんだけど。親分がお叱りを食らわしてやるからさ」

「そんな、粗相だなんて」

 これまたからかい半分ではあったが、どうやら真面目な気質の愛らしい花嫁は慌てて首を一生懸命横に降る。

「私の仔犬が街の外へ飛び出しそうになったのを、テュールさんが捕まえてくださったのです。助けていただきこそすれ、何も困ったことは」

「ああ、ごめんごめん。社交辞令っていうか、分かりにくかったよな」

 一生懸命言い募る花嫁に、なんだか申し訳なくなりこちらも被せるように取りなす。尚も不安そうに俺を見る彼女に「あいつとは昔からこんなだから、つい軽口を叩いてしまう。悪かったよ」と言い添えた。

「……ヘンリー殿下は、ずっと昔からテュールさんとご友人でいらっしゃるのですか?」

 ドレスが崩れないよう気を遣いつつ、応接テーブルの向こうに腰掛けた彼女が、どこか羨望の色を込めた問いを発する。

「ああ、もう十年来の付き合いになるかな。子供の頃、あいつを俺の子分にしてやってさ」

 答えながら、古い記憶に少しだけ想いを馳せる。決して思い出したい記憶ではないが、こうして多少懐かしく思い返せるくらいには時が経った、ということだろう。

 十年以上前。俺がどうしようもない、救いようがないほど莫迦な子供だった頃。

 取り返しがつかないことがあるのだ、と思い知らされた。起こってしまった後ではどうしようもないことが。もう少し早く俺の目が覚めていれば、あいつの父親が命を落とすこともなかっただろうに。時間を戻すことが叶うなら、と足りない頭で何度願ったかわからない。俺よりもっと幼かったあいつが絶望の底に叩き落される様を目の当たりにして、絶対に手を離すものかと誓った。それくらいしか、当時の俺に償える方法はなかった。

 今だって償いきれたとは思っていない。寧ろ、俺を真っ当な人間へと引っ張っていってくれたのは、小さかったあいつの手だったような気すらする。愛する父親の死に目にあって尚、歯を食いしばって泣くのを堪えていたあのちびの姿に、この弱い心根をどれだけ叱咤されただろうか。

 ──だから、少しだけ、意外だった。

「……長い付き合いだが、ああいう顔は見たことがない」

 フローラさんばかりでなく、隣に座る妻までもが俺の呟きに目を瞬かせてこちらを振り返る。

「ああ、いや。あいつ、欲がないからさ」

 慌ててそう言い繕う。少なく見積もっても半分くらいは本当のことだ。テュールは自分の望みというものを持たない。俺が知る限り、あいつを生のぎりぎりで支え続けていたのはあくまでも親父さんの悲願であって、あいつ自身の望みではなかった。その複雑な生い立ち故か、酷く優しい気質のくせに甘さという隙を作らず、それ以上に他者を気安く自分の領域に入れることがない。──多分、ずっと共にいた俺でさえも、本当の意味であいつに心を許されてはいない。恐らく本人は全くと言っていいほど気づいていないのだろうが。

 だから、意外だったのだ。俺とピエールの軽口にあんな風に笑うテュールなど、これだけ長く知った仲でも初めて見た気がしたから。

「確かに、無欲な方だとは思いますけれど……」

 マリアがぽつりと呟いて、未だ開かぬ扉を遠く見遣る。

 いや、眺めていたのは同じくその扉を心配そうに見つめる花嫁の横顔だったのかもしれない。

「……フローラさんは、あいつの生い立ちのこと、どこまで聞いてる?」

 ふと思いついてそう問いかけると、フローラさんは一瞬息を詰めてから緩く首を振った。

「──何も。お恥ずかしい話なのですが、私、テュールさんとはまだお会いして間もないのです。今日までもあまり、お話をする機会もなくて……」

 さすがにこの回答は予想しておらず、今度は俺が狼狽える番だった。 

 なんだって?

 受け容れ難い落胆、絶望と共に、憤りに似た感情が腹の底から湧き上がる。

 あいつは自分のことを何も知らない、世の不幸など何も知らないまま何不自由なく育ったような、お綺麗なばかりのご令嬢と結婚を決めたって言うのか?

 身勝手とわかっていても止められない。正気の沙汰とは思えなかった。

 あいつは、あいつにだけは、そんな生半可な気持ちで伴侶を決めて欲しくはなかった。

 誰よりも、救われて欲しかった。間違いなくあいつの全てを受け止めて、受け容れあえるようなひとと結ばれて。深く、深すぎる傷を負ったまま大人になってしまったテュールをどこまでも癒してくれるような女性と、誰よりも幸せになってくれることを純粋に願っていた。──それなのに。

 理不尽な感情だ。目の前の、何も知らぬだけの彼女にぶつけていいものではない。それ位はいくら沸騰した頭でもわかる。目を合わせず息を吐いて誤魔化そうとしたが、彼女はどこか怯えたように瞳を伏せてしまった。しくじった、と思ったが多分、もう遅い。

 重く息苦しい空気が満ちて、どうにも居心地が悪くなった頃。

「フローラさん! ここにいたのね」

 唐突に、太陽の如く明るい声が響いた。思わず振り返ると、長い金髪を一つに編んだ美しい女性がフローラさんに向かって真っ直ぐ歩み寄ってくるところだった。花嫁より大人びた色気を纏ったその女性は、俺とマリアに気づくとにこりと笑って、軽く会釈をしてくれる。

「ご歓談中、失礼しました。フローラさんとお話しさせていただいてもいいかしら?」

 物怖じせずそう問うた彼女に快く場を譲る。正直、有難かった。

「ビアンカさん、探させてしまってごめんなさい。私、もう行った方が良いでしょうか?」

「テュールはまだ寝てるんでしょ? だったら平気よ。気がつくまで側にいてやって。ちょっと、居場所を確かめておきたかっただけなの」

 花嫁の傍に跪き、朗らかに答える彼女の名に聞き覚えがあった。そしてまた、彼女があいつの名を呼び捨てにしていることに記憶のパズルがぱちりと嵌る。神殿建設に無理矢理従事させられた幼い頃、そして自由を取り戻した後にも、あいつが気にして消息を探していた女性がそんな名ではなかったか。

「──失礼。ビアンカさん、と言ったか? もしかして以前、アルカパの街で宿屋をやっていらした」

 不躾に割って入った俺に、金髪の女性は「え、ええ。そうですけど」と驚きを隠さず振り返る。そして俺の身なりから察したのか、「──あ! もしかして、ラインハットのヘンリー様でいらっしゃいますか? テュールのお友達の!」と口元を抑えながらも素っ頓狂な声を上げた。

「ああ。──なんだ、良かった。あいつ、ちゃんと会えたんだな」

 誰に言ったわけでもない独り言が、先程の身勝手な激昂を緩やかに溶かしていく。

 懐かしい土地を共に訪ね歩く中、アルカパの宿屋でテュールの期待が落胆に変わる様をこの目で見てきた。

 あいつは、ずっと会いたかった人に会えたのか。そうか。

「フローラさん。宜しければ、ご一緒にテュールさんの様子を見に参りませんか」

 唐突に、黙って隣に座っていたマリアが花嫁にそう声をかける。つられてそちらに視線をやれば、彼女はどこか固い表情のままマリアに頷きを返していた。

「ヘンリー様。私、少しだけフローラさんにご一緒させて頂きますね。こちらでお待ちくださいますでしょう?」

 有無を言わせぬ確認に、ああ、と気圧されるまま答えると、マリアはすっと立ち上がり、フローラさんを船室の奥へと促した。

「──ああ、そうだ。フローラさん」

 ふと、あいつの旅の目的がどうだったのか気になって、去り際の花嫁の背に声をかける。

「これについてはご存じないか? サラボナに伝説の勇者の盾がある、という話だ。あいつはずっと伝説の勇者を探して旅をしている。その為に天空の武具を集めているんだ。何か知っていることがあるなら、教えてやってほしい」

 花嫁は動きを止め、肩越しにわずかに俺を振り返った。一瞬違和感を覚えるほどに無機質な瞳がこちらを向く。だがすぐに、それが見間違いかと思える慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、彼女はしとやかに頷いた。

「……それでしたら、もう、テュールさんのものですわ」

 花嫁の言葉に、ほっとして知らず籠っていた肩の力が抜ける。

「そうか。良かった、俺も一つ肩の荷が降りたよ」

 フローラさんはもう一度、あでやかな笑みを残し礼を取ると、マリアに連れられて奥の船室へと入っていった。

 いつの間にやら妙な緊張で手に汗をかいている。妻に待てと言われたからには離席して散歩というわけにもいかないし、と軽く脱力しながら室内を見渡すと、先程の美人がすっかり神妙な顔つきでじっとこちらを凝視していた。

「……今のは『なし』です、殿下。失礼ながら。テュールが知ったら怒りますよ、多分」

「怒る? あいつが?」

 今の会話の何がいけなかったのかわからないが、『怒る』という感情表現がまずテュールの面構えにはどうにもそぐわない。しかし、金髪の美人は真剣に俺を見据えると、深々と頷いてみせる。

「怒る、とは違うかもしれませんけど。あの子、盾のことを言われるのすごく嫌がっていたから」

 それだけ言うと、彼女はどこか沈痛な面持ちのまま、女性が二人消えていったばかりの奥の扉を見遣る。

「……よく分からないな。親父さんの遺言だぞ? 勇者を見つけるために装備品を集めろって。その為にサラボナまで来たんだろう。嫌がるも何も、あいつに何を反発する必要があるんだ」

 少なくとも一ヶ月半前、ラインハット城を訪れたテュールはそんなことを厭う奴じゃなかった。相変わらず愚直に真っ直ぐに、父親の遺志だけを継いで立つ男だったというのに、何がこうもあいつを変えたというのか。

 ──慣れぬ恋にうつつを抜かした、とは言いたくないが。

「そうですけど、それが辛いんです。今のテュールには」

 溜息を一つつき、彼女は俺に向かって一礼すると今来た甲板の方へと立ち去ろうとする。

「待ってくれ。ビアンカさん、君はテュールの過去をどれくらい知っている?」

 思わず呼び止め、先程フローラさんに投げかけたのと同じ問いを押しつけると、金髪の美人は少し怪訝な顔をして振り返った。

「サンタローズ出身で、故郷の村が滅ぼされて、十年ほど囚われの身でいて、目の前で父親を亡くした。こと、くらいかしら」

 どこか無感動にそれだけ告げると、彼女はさっさとこの場を立ち去ってしまった。

 一人取り残された俺は、女性たちの後をついてテュールを見舞おうか暫し悩んだが、何故か酷く疲労感を感じて、そのままソファに深くもたれ息を吐いた。

 ──お前を知っている、お前もずっと探していた人がこれほど側にいるのに。

 そんなことを考えてはいけないと、頭ではわかっていても。先程の花嫁の回答に感じてしまった絶望感は簡単には拭えない。

 どうしてテュールは昔馴染みのあの人ではなく、何も知らない令嬢を妻に望んだのだろうか。

 確かに、活き活きとしていた。見たことがないほど良い顔をしていた。だが、それが花嫁の影響とは限らないんじゃないか。一ヶ月半前には探し人との再会の話は聞かなかったから、ビアンカさんと再会したのもつい最近なのだろう。だったら、あいつが良い方向に変わったのはビアンカさんの影響でもおかしくはないんじゃないのか。

 朗らかな、感じの良い女性だった。大人びていて、快活そうで。テュールのこともよく知っていて、憎からず想っていたようにも見受けられた。

 ……すっかりビアンカさんに肩入れしている自分に気づき、頭を振ったところで、奥の扉が静かに開けられマリアだけが中から出てくる。

 俺と目が合うとそっと微笑み、こちらにゆっくり歩み寄りながら甲板への出入り口を守っている使用人を手招きする。

「テュールさんが気がつかれましたので、皆様で準備を手伝って差し上げてくださいませ」

 目覚めたのなら一言声をかけて、と思い腰を浮かせたが、進みたい方向とは真逆に腕を引かれる。「ヘンリー様は、そろそろ来賓席に参りませんと」とこれまた有無を言わせずマリアに引きずられ、甲板に出る。人混みから隔離されたスペースを出るなり唐突に人と初夏の熱気に晒され、一瞬で特別室の方に戻りたい心地になるのをぐっとこらえた。

 不機嫌なのか、さっきからマリアはあまりこちらを見ない。口も最低限しかきいてくれない。何がそんなに不愉快なのかはわからないが、せっかくのテュールの晴れの日に水を差すような真似は控えたかったので、とりあえず大人しく来賓席へと移動した。

 最前列で神父を拝めるその特等席で、陽光に晒され熱くなった椅子に腰かければ、喧騒に包まれた周囲からはざわざわと噂話がいくつも聞こえてきた。

「そうそう、炎のリングに水のリングを拝めるんだよ? 伝承の指輪なんて本当にあるんだねぇ。わくわくしちまう」

「本当に羨ましいよ。あのフローラさんと結婚できるだけじゃなく、天空の盾も手に入れられるってんだから。なぁ、実はあの青年が本当に伝説の勇者だったりしないかねぇ?」

「おお、いいじゃないか! 勇者と天女のラブロマンスか。ポートセルミのステージに題材を持ち込んだらヒットするんじゃないか⁉︎」

「これだけの人数を花婿が全員転移させたんだろう? 只者じゃないよな。あんな魔法は見たことない」

 やいのやいのと楽しげに話す内容を聞いて、成る程、天空の盾を得る条件がフローラさんとの婚姻だったのか、と納得した。

 ……いくらあいつでも、それが令嬢を妻に望んだ理由とは思いたくなかったが。俺が知る限りのこれまでのテュールを思えば、そう考えるのが自然なような気がした。

 ──上手くは、いかないものだな。

 少し遣る瀬無い思いでまだ誰もいない壇上を眺める。きっとあの金髪の女性とは、結ばれたくても叶わぬ事情があったのだろう。……ふと斜め下から視線を感じ、隣を振り返ると愛しい妻がどこか不安そうに瞳を揺らし俺を見ていた。

「どうした? マリア」

 俺の問いかけにマリアは答えず、尚もじっとこちらを見ていたが、やがて少しだけ躊躇いながら口を開いた。

「……ヘンリー様は、私が鞭で打たれていなかったとしても、私を妻に望んでくださったのでしょうか」

「は? ……え⁉︎」

 やっと応えてくれたと思いきやとんでもないことを言い出す。頓狂な声が出てしまった俺を尚も見上げ、マリアが更に言葉を紡ごうとした、その時。

「皆様、大変お待たせいたしました。新郎の入場でございます」

 前方の甲板に備えられた立派な祭壇に神父が上がり、何度か言葉を交わした執事が結婚式の開始を高らかに宣言する。程なく、緊張した面持ちで礼装に身を包んだ幼馴染が姿を現した。左の胸元に清楚な白い小花を挿し、些か落ち着かない様子で観衆の目を引いている。いつもの見慣れた旅装ではなく、どこぞの王族かと見紛う礼服姿の幼馴染は心なしか男ぶりも上がって見える気がする。

「へぇ、結構似合ってんじゃん」

 思わず独りごちたその呟きに、隣でまた息を呑んで見守っていた妻が控えめに同意を示して。

 壇上へ上がり、花嫁を迎える為にこちらを向き直ったテュールと一瞬、目が合う。

 気恥ずかしいのを誤魔化すように、ほんのわずか、はにかんでみせて。

 それから、ずっと真っ直ぐ敷き詰められた赤い絨毯の向こう側、父親に伴われた碧髪の花嫁を見つけると、もうテュールは心を奪われたように彼女に釘付けになった。

 先程は身につけていなかった、羽衣のようなヴェールでうっすらと表情を隠した碧髪の花嫁は正しく、輝ける天女のようだった。

 彼女が歩くその跡をふわりと翻る軽やかなヴェールには、テュールの胸元にあるものと同じ、光沢のある小花が美しく散らされている。よく見れば、あれはどうやら絹でできているらしかった。枯れない花とは粋なことをする、とひっそりと感嘆の息が漏れる。

 一歩、一歩ゆっくりと、汚れなき純白のドレスに身を包んだ花嫁が自分に向かって歩いてくる姿を、祭壇の前に佇んだ俺が良く知るはずの幼馴染は、ただひたすらに満ち足りた表情で柔らかく微笑み見守っていた。

 

 そんな、眺めただけで痛いほどに感じられる深い愛情に、

 己の浅慮を思い知る。

 

 

 近づいてきた彼女の手を取り、並び立つその瞬間に彼女に注がれた、何より愛しげなその眼差し。

 誓いの言葉を述べたときの、揺るぎない声音。

 白銀の美しい指輪を彼女の細い指に通した瞬間には、純白の花嫁の姿だけを余すことなくその瞳に映して。

 口づけを促され、少しだけ躊躇いがちに身体を屈めた、その時の気恥ずかしげな表情も。

 

 

 ああ、

 こいつ、今、幸せなんだ。めちゃくちゃ。

 そんなテュールを目の当たりにし、先程までの自分の思考がいかに愚かだったかを思い知らされた。

 悔しいが、こんなにも想いを露わに誰かを見つめるテュールを、俺は見たことがない。

 ──そしてこれこそが、俺自身がずっとあいつに対して望んできた姿なんだと。

 自分の為には何一つ望まなかったテュールが、自ら何かを欲する瞬間をずっとずっと待っていた。きっとそれがいつか真実、こいつにとっての希望となる。救いとなる、そんな気がして。

 盛大な拍手が鳴り響く中、マリアと俺もずっと両の手を鳴らしている。そうしてテュールが花嫁の肩を遠慮がちに抱き寄せ、視線を通わせてお互いに微笑みあったのを見て、やっと、これで良かったのだ、と素直に思うことができた。

「……重ねて、しまったのです」

 ぼんやりと二人を眺め拍手をしながら、マリアがぽつりとそう呟いた。

「私が、奴隷でなかったら。お二人の過去に関わることがなかったら、そうして出逢っていたとしても、ヘンリー様は変わらず私を望んでくださったのだろうか、って」

 この場にそぐわぬ独白にどきりと胸が鳴り、思わず傍に並び立つ妻を省みる。

「……埋められない時間があるのは、私も同じです。フローラさんは、尚のこと」

 マリアの瞳は新郎新婦だけを映している。が、その言葉は真っ直ぐに俺だけに向けられ、その想いはひどく温かい。

「けれど、……あなたの手を取って、私はより深く、あなたを知ることができました。あなたを大切に想うことも。──それで、良いのではないかと」

 マリアの言葉に小さく頷き、今一度、寄り添い合う二人を見つめる。

 まだお互いのことを何も知らない、まっさらなままの二人。

 あいつの壮絶な過去を知ったら、彼女は苦しむかもしれない。

 何も知らないお嬢様には重すぎる過去かもしれない。

 テュールは再び絶望するかもしれない、けれど。

 あいつが今、やっとその手に掴んだ幸せを、この俺が祝福してやらなくてどうする。

「テュール! それにフローラさんも、おめでとう! 本当に素敵よー!」

 湧き立つ歓声に紛れて、先程少しだけ言葉を交わした金髪の女性が、輝くような笑顔で一際明るい声を投げかけているのが見える。

 きっと彼女の声に顔を上げたフローラさんが、少しだけ、切なげに声の主を仰いだ。すぐにテュールがその手を引いたので、それ以上の変化は分からなかったが。居並ぶ来賓たちに順番に挨拶を述べるため、祭壇から降りた二人は真っ先に俺とマリアの前に立ち、一度顔を見合わせてから、微笑む。

「今日は、ありがとう。……来てくれて」

「ああ」

 テュールの言葉に短く、頷いて。その傍に寄り添う花嫁を見つめた。先程のことがあってか、俺に相対する彼女の表情はやはりどこか固いままだったが、その瞳は臆することなく真っ直ぐに俺を射抜いてくる。

 ────意外と芯は強そうだ。

 か弱いだけの世間知らずかと思ったが。テュールはこう見えてどこか抜けたところがあるから、こういう眼をした伴侶なら、悪くはない。

「テュールを、頼むよ。……フローラさん」

 自然と、そんな言葉が口を突いて出た。

 目を瞠ったフローラさんが翡翠の瞳を大きく揺らめかせる。小さく頷いて微笑んでやると、はい、と噛みしめるように微かに応えて、テュールと繋いだ指を絡めなおした。

 そんな花嫁に、新郎はヴェールの上からまた愛しげな微笑みを降らせる。

 その想いが、裏切られることがないように。

 もう二度とお前が絶望に追い落とされることがないように、このめでたい日に祈ってやる。

 だから、幸せになれ。テュール。

 もはや聞き取れないほどの歓声と拍手を浴びつつ、参列者の隙間を縫って歩いていく二人を見送る。二人の行く先、高く青い空をめがけて色とりどりの花のシャワーが舞い踊り、手の込んだことに花火も連続して打ち上がる。この派手な仕込みはあの少年のような眼をした御仁か、と思うと口の端が勝手に緩み、くつくつと笑った俺を隣のマリアが不思議そうに首を傾げて見上げた。

 ほら、もう、お前の未来は明るいよ。

 清々しい心地で見上げた、珍しく雲ひとつない初夏の青空は、花嫁の髪が溶けて広がったような優しい色をしていた。



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#21. 天空の盾

 ふ、と無意識の淵から浮き上がる。

 

 見覚えのない天井……は、ここは船上だっただろうか、と未だ靄のかかった頭で束の間思考を巡らせる。が、澄んだ声が僕を一瞬で現実へと引き戻した。

「──テュール、さん」

 反射的に視線を向けると、心配そうに僕を覗く碧い双眸。

「……フローラ」

 シーツに肘をついて上半身を持ち上げ、からからの喉でそれだけ絞り出すと、目の前の君は力が抜けたように息を吐き、微笑んだ。

「良かった。……覚えていらっしゃいますか? 父がまた、皆様のご帰還のためにあなたにルーラをお願いして……」

 彼女の鈴のような声を聞きながら、少しずつ先程の事態を思い返す。そうか、どうやら僕はまた昏倒していたらしい。

 婚礼のあと、サラボナの街を挙げて宴を催すと豪語したルドマン卿の言葉に参列客は色めき立った。船を降りた島の砂浜に魔法陣を描いて順次移送したが、陽が高くなるにつれ眩暈がしてきたのは覚えている。それでも今回は隣にフローラが控えていてくれて、僕が転移する度に魔法陣を綺麗に描き直してくれたり、戻るたびに飲み薬や水を差し出してくれたりとずっと手伝っていてくれたのでなんとか最後まで頑張れた。……それで、最後にフローラと肩を寄せ合い卿らご家族や友人達を運んだはずだが、そこから再びサラボナに到着したあたりの記憶がない。

 今日一日で一生分……とまでは言わないが、軽く数年分ルーラを唱えた気がする。

「もう夕方になりますわ。ずっとお忙しくしてらして、疲れていらっしゃるのに……父が無理ばかり言って、本当に申し訳ありません」

「いや、いいよ。寧ろこれくらいで力尽きるなんて情けない……僕の方こそ、ほんとに」

 さらりと碧い頭を垂れて詫びてくれるフローラに、しどろもどろに言葉を繋ぎながら、ふと不安になった。今のこのやり取りすら、現実味がなさすぎて。

 ──実は、夢だったりしないだろうか。今も。

 随分と、長い夢を見ていたような気がする。それもひどく幸せな、現実にはありえないような夢を。

 目の前のフローラは普段着ているような清楚な白いドレスを身に纏っているが、婚礼の時のそれではない。

 あの、この世のものとは思えないほど儚くも美しかった、女神の如き純白の花嫁姿は、僕が望み過ぎた故に見た幻だったのではないだろうか。

 ……結婚した気になっているのは、自分だけだったりしないだろうか。

 ちら、とフローラの左手を盗み見ると、薬指にあの清らかな白をまとった細い指輪が見えて、僕の心臓が勝手に跳ねる。

 ──夢じゃ、ないよな。

 項垂れるフローラを見つめたまま、毛布の中に忍ばせた自分の左手を右の指先でこっそりとなぞった。少し熱を帯びた感触を薬指に見つけたその瞬間、僕は絶対に頰が緩んだだろう。咄嗟に口許を覆って隠す。

 ──ちゃんと、つけてる。大丈夫。

 夢じゃない。

 僕の高揚を知ってか知らずか、フローラが控えめに切り出した。

「それで、今本宅で父が皆様をお招きして宴を催しておりまして……テュールさんがお目覚めになったらお連れするように言われているのです、けれど。良かったら、先に何か軽く召し上がりませんか? ずっと慌ただしかったですし、この後ももしかしたらあまりお腹に入れられないかもしれませんし」

「あ、ありがとう……うん。まだ時間が大丈夫なら、お願いしたいな」

 駄目だ、やっぱり舞い上がってる。思いがけずうわずった己の声に、頭を硬い何処かに打ち付けたいような衝動に駆られる。しかしやはり僕の挙動不審には気づかぬ様子のフローラは、いつものように優しく微笑み頷くと、そっと立ち上がりベッドから離れていく。

「それでは、一階のテーブルにご用意しますね」

 さらりと流れる碧い髪の背を見送り、トン、トン……と階段を降りる体重を感じさせない足音を聞きながら、僕は未だ毛布に埋れる膝に両肘をつき、組んだ指の上で項垂れながら盛大に溜息をついた。

 あんなに欲しかった、フローラとの二人きりの時間。

 なのに、ここまでろくに話ができないとは。

 不甲斐なさのあまり、胸を焼くような吐息ばかり漏れてしまう。

「……見放されないように、しないとな……」

 自分に言い聞かせたくて、ぽつりと小さく口にする。

 正直、未だに信じられない。密かな期待は捨てきれなかったものの、フローラが僕をこうもあっさりと──笑顔で受け入れてくれたということが、実感として湧いてこない。

 それでも、きっと彼女は、ずっと側にいてくれた。船上の婚礼の前も、今だって。

 僕の目覚めをひたすらに待っていてくれたフローラの姿を思い浮かべて、ふと今も階下で僕を待っているであろう姿に思い至って、僕は慌てて毛布を跳ね除け、ベッドから飛び起きた。

 先程こっそりと確かめた、左手を今度こそ持ち上げてかざしてみた。

 あの深い夕闇にも似た紅い指輪が、僕の指に誂えたかの如くぴったりと嵌っていた。

 

 

 

 婚礼直後、その足で帰還劇を繰り広げたので当然ではあるのだが、僕は未だ礼装のままだった。もちろんこれは私物ではない。意識が飛んでしまったのだから言い訳のしようもないが、これはやはりルドマン卿──義父が用意してくださったものだろうか。

 有難いことに、枕元に僕の旅装が畳まれていた。ほっとして急いで着替え、さすがに皴がついてしまった礼服を溜息混じりに畳む。慣れない格好はするものじゃない。

 しかし、ふと礼服の襟の下に刺したままにしていた白い小花の束が目に留まった。

 シルクで精巧に作り込まれたそれは、奇跡的にどこも歪んではいないようだった。ほっとして、何となくそれを大事に道具袋に入れる。まだ夢うつつの今だからこそ、指輪だけでなく、実感として記念になるものを取っておきたかった。

 ドワーフがくれたアドバイスの通り、胸元につけて式に出て良かった。赤い絨毯の向こうに彼女がヴェールをたなびかせた瞬間、胸元のものと同じ小花が美しく躍った。それに気づいた時、嬉しかったし誇らしかった。彼女と同じ花を身につけたことで、彼女は僕の花嫁なのだとより強く思うことができたから。

 もはや記憶の中にしかない、夢のような瞬間を噛み締めてから、僕は急いで階下へと降りた。

 一階の居間では、フローラがちょうど見覚えのある立派なダイニングテーブルの上にサンドイッチを並べているところだった。ああ、ここはビアンカが泊まっていた離れなんだ、と今更ながらに理解する。道理で天井に覚えがなかったわけだ。

「本当に、簡単なもので申し訳ないのですけれど…」などと俯くフローラに何度もお礼を述べながら、僕は目の前に広げられたサンドイッチとスープをありがたくいただいた。フローラが初めて僕のために用意してくれた手料理、と思うと勿体ないやら緊張するやら、咀嚼すれどもほとんど味がわからない。だがもちろん不味いなんてことはなく、しっかり具を挟み込んだサンドイッチは心地よく腹に溜まって、僕は十分すぎるほど空腹を満たすことができた。

「フローラは、食事とれてる? 良かったら一緒に、どうかな」

 ずっと控えめに微笑みながら斜向いに腰掛けて僕を見守ってくれているフローラに、そんな風に問い掛けてみる。ずっと僕についていてくれたのだし、きっと彼女も食事の暇なんてなかっただろうから。

 僕の提案に彼女は少しだけ動揺を見せて、視線を泳がせ暫し思案したが、「それでは、お言葉に甘えますね」と遠慮がちに微笑んで席を立った。

 程なく、僕によそってくれたものより小ぶりな皿にスープを入れて戻ってくる。

 今度は向かいの席に座り、きちんと手を合わせ神に祈りを捧げてから、僕に一度小さく笑いかけてスープをひと匙、すくって持ち上げた。

 全ての所作が流れるように美しく、僕はいつのまにか彼女の動作にすっかり魅入ってしまっていた。

「……あの、テュール、さん?」

 音も立てずに三回ほどスープを可憐な口許に運んだ彼女が、気恥ずかしそうに肩をすくめて僕を見上げた。

「私、どこかおかしい……でしょうか」

「あ。いや、違……違うよ、ごめん。つい、ぼーっとしてしまって」

 僕は変態か。すっかり彼女の唇に意識を奪われてしまっていたことに気づき、慌てて手と首を振った。本当は思いっきり見惚れてしまっていたのだけど、僕の曖昧な返答に目許を緩めたフローラは「お疲れですもの。無理もありませんわ」と優しく頷いてくれる。ああ、良心が痛む。

 ──これからは毎日だって、こんな風に彼女と食事が出来るんだ。

 そう思うと何ともくすぐったかったが、同時に己の中に保留し続けている悩みが頭をもたげる。しかしすぐにその思考に無理矢理蓋をして。

 今日はまだ、考えたくない。このひと時にもう少しだけ甘えていたい。

 そんなわがままな考えがよぎった瞬間、「テュール、さんは」とフローラが遠慮がちに言葉を発した。

 彼女に目を向ければ、皿の縁に手を置いたまま、微かに揺らめく瞳を僕に向けて。どこか言い澱むように、唇が動いた。

「──テュールさんは、勇者様を求めて旅をしていらっしゃると……お聞きしました」

 どくり、と身体中の血液が逆立つ。たった今目を伏せたことを、どうして彼女が。

「……先程、ヘンリー殿下からそのように伺いました」

 僕の動揺を察したのか、フローラは尚も控えめにそう言い添える。

 出来ればちゃんと自分の口から伝えたかったことだけど、ずっとその機会がなかったのだし。知られてしまったならこれ以上隠すことでもない。

「──うん。勇者、というか……母親を、探しているんだ。本当は」

 静かに告げると、身じろぎこそしなかったものの、微かにフローラが息を呑んだのがわかった。

 出来るだけ、怖がらせないように。微笑みを顔に貼り付けて、言葉を探す。

「物心ついた時には、居なかったんだけどね。父さんがずっと母さんを探して、幼い僕を連れて旅をしていて……でもある時、魔物に襲われた僕を庇って父さんだけ、亡くなってしまったんだ。──その、父さんの遺言が、伝説の勇者を探すこと」

 ちらりとフローラの様子を窺うと、気丈に僕に目を向けて話を聞いてくれていた。少しだけほっとして、続く言葉を頭の中から探りあてる。

「母さんがね。魔物に攫われて、『魔界』ってところにいるんだって。そこには生身の人間は行けない、勇者の力が必要だって。だから、勇者の力を借りて、母さんを助けてくれって──父さんが最期に僕に言い残して。父さんの願いを叶えたくて、僕もやっぱり、母さんには会ってみたいから……勇者を見つけるためにずっと、旅をしてる。──まだまだ、会えそうにないね」

 最後は自嘲交じりの愚痴が溢れた。まだ、さすらい始めて二年くらいしか経っていないけれど。勇者の話なんて、眉唾物の噂でさえも聞こえてこなくて。

 本当に存在するのか。この世界に、いつ現れるのか。僕が老いてこの生を終えるまでに、否、母の命が尽きる前に、勇者の力を借りることはできるのか。

 ────この旅はいつ、終わるのか。

「……それでは、この街にこのまま留まることはできません、よね? お母様をお救いしてはじめて、あなたの旅は終わるのですもの」

 静かに、確かめるように降るフローラの言葉に。僕はただ黙って頷く。

 わかってる。僕は行かなきゃいけない。その為に今日まで、死に物狂いで命を繋いで来たんだ。終わりがなくても、行く宛がなくても、この道の先にどんな危険が待っていても。

 

 

「……私、ついて行っては駄目でしょうか」

 

 

 意を決したようなフローラの訴えが、僕の思考を唐突に遮った。

 え?

 その意図を捉え損ね、思わず顔を上げて正面から瞳を見つめ返すと、見覚えのある強い視線が交わる。

「わがままなのは、わかっています。……あなたの旅路にはお荷物でしかないということも。ビアンカさんのようには、お役に立てないことも……わかっています。でも……、でも、私」

 声を震わせながら、皿の縁を支えたままの華奢な指先に視線を落とす。

「…………もう、待っているだけなんて、嫌なの……」

 それきり、彼女は口を噤み、肩を小さく縮めて俯いた。

 死の火山から戻った夜、そして長い船旅から戻ったあの日にも、恐らく殆ど寝ずに僕の身を案じていてくれたことを今更ながらに思い出す。

 ──それでも、僕にはすぐに頷けない。僕の往こうとしている道は平穏には程遠い。先日の、滝の洞窟のようなところばかりならまだしも、例えばあの死の火山へフローラを伴って行けと言われたら。馬車で待っていてもらうことすら、僕にはできないだろう。他に停まっていた、魔物に襲われた後の馬車の残骸を見てしまったら尚のこと。

 けど、でも、それでも。

 危険だとわかっているのに、彼女の願いにどうしても揺らいでしまうのは。

「……すぐに決めてくださいとは、申しません」

 瞳を伏せたまま、フローラは小さく呟く。

「父だって、反対すると思います。──わかっています。……ただ、私の望みを、知っておいていただきたかったの……」

 

 

 私の、望み。

 

 

 その言葉が、信じられないほどこの身体を清涼な感覚で一気に満たしていく。

 フローラが、彼女自身の意思で、僕に同行することを望んでくれる。

 ──────なんて、倖せ。

「……ちゃんと、考えてみる。僕も──出来るなら、一緒に行きたい……から」

 まだ、触れる勇気が出せなくて。対面の椅子に座ったままの距離で、僕はそれだけ、絞り出す。

「……ありがとう。すごく、嬉しい」

 辿々しくもなんとか微笑んで伝えると、目の前の君もほっとしたように表情を和らげた。

「おかしな話をしてしまって、ごめんなさい。……スープのお代わりはいかがですか?」

「あ、うん。大丈夫だよ。自分でやるから」

 まだ彼女の皿にスープが残っているのをちらりと見て慌てて立ち上がり、空になった皿を持ってキッチンへと急いだ。自分のことは自分で、なんて子供染みた教訓だが、食事途中の妻に給仕をさせるわけにはいかない。すっかり冷めてしまっただろうが、彼女が作ってくれた小鍋の中のスープをよそう。レードルに一杯、すくっては皿へと流し入れるごとに、胸が幸福感でいっぱいになる。

 ……もう、怖いほどに幸せで。

 まだ、実感には程遠いけれど。他の男に渡したくない一心でここまでなりふり構わずやってきた、けれど。

 当たり前に一人きりだった生活に、君が加わってくれるこの幸福。

 甘く見ていた。これは、知ってしまったらそう簡単には抜け出せそうにない。

 ──本当は今すぐ、このまま連れ出してしまいたい。

 絶対にフローラに気づかれないよう、居間に背を向けてごくごく小さな溜息をつく。頭を振り、思考を振り切ってから僕はフローラの待つテーブルへと戻った。

 明日改めて、これからのことをちゃんと話そう。

 だからせめて、今日だけは────

 二杯目のスープも、フローラを眺めながらあっという間に平らげて。「お口にあったなら、良かったです」とはにかむ彼女を抱きしめたい衝動に抗いながら、空になった皿を手早く片付けた。そうして僕達は連れ立って、まだまだ大盛況の宴の輪へと急いだのだった。

 

 

 

 本宅、とフローラが呼んだルドマン家の屋敷の庭から噴水広場の向こうまで続く道は、どちらを向いても文字通りお祭り騒ぎの様相だった。

「よっ! ご両人のお出ましか。なかなか似合いの夫婦ではないか!」

 門を解放した豪邸の庭先にこれでもかと酒やご馳走を並べ、顔を真っ赤にして大層上機嫌な卿、いや義父が僕達を出迎えてくれた。どうやら卿の相手はヘンリーが務めていたらしく、こちらもすっかり出来上がった様子で「やっと来たかテュール! おら、お前も呑め! こら!」とグラスを押し付け絡んでくる。僕が酒に弱いのは知っているだろうに。

 ほとほと疲れた表情のマリアさんが僕達に歩み寄り、「お身体はもうよろしいのですか? テュールさん」と心配そうに声をかけてくれる。

「ええ、もうこの通り。二度もご心配をおかけしてしまい、申し訳ありません」

「大丈夫だーって、こいつは昔から頑丈だけが取り柄なんだからさぁ。なあテュール?」

 首に巻きついて尚も酒癖悪く絡んでくるヘンリーの腕をそれとなくほどきながらマリアさんに詫びると、今度はルドマン卿が背中を豪快に叩いてくる。

「いや、本当に悪かったな! しかし君のお陰で最高の式になった。礼を言うぞ、テュール君!」

「……それは、何よりです」

 はらはらと父親を眺めるフローラの視線を肩越しに感じつつ、若干の引きつり笑いを返す。どうしよう、これは今から朝まで呑まされての泥酔コースまっしぐらなのでは……

 非常に嫌な予感になんとかこの場を逃れられないかと思ったところで、ルドマン卿が少しだけ声をひそめて僕を手招きした。

「渡したいものがある。フローラ、お前も来なさい」

 僕のすぐ後ろに控えたフローラが一瞬瞳を揺らめかせたが、すぐに黙って頷く。卿は更に「殿下と妃殿下も、よろしければご一緒に」と傍らのヘンリーたちにも声をかけた。大丈夫なのかと一瞬思ったが、ヘンリーは赤ら顔ながらも真剣な面持ちで頷き、マリアさんをエスコートする形で僕らの後に従った。

 戸外の喧騒を逃れて屋敷に入れば、人気のない屋敷にどこか冷んやりとした空気が漂う。

卿は振り向かず、真っ直ぐに階段へと向かう。僕とフローラ、ヘンリーとマリアさんもただ黙ってその後に続いた。階段を上がるとすぐにフローラの部屋の扉が現れる。先日一度だけ訪れたその場所にまつわる記憶に、心臓が密やかに跳ね上がる。──その扉を、卿は躊躇いなく開け放った。本人を伴うとはいえ淑女の部屋に無遠慮に入ることは躊躇われたが、卿に目で促され大人しく中へと入った。

「これを、君にあげよう」

 渡されたのは鍵だった。卿を見返すと、彼は何も言わず僕の背後に控えたフローラへと目配せをした。フローラはまた黙って頷き、しとやかに一歩前へ出る。そうしていつか覗いたベッドへと歩み寄り、そっとシーツを持ち上げた。……ベッドを支える脚と脚の空洞部分に、高さの低い大きな宝箱が収められているのが見えた。

「──テュールさん」

 澄んだ声に促され、鍵を握りしめてフローラに近づく。さすがにこの状況で、中身が何かはわかる。父の悲願を成す為に必要な、あの盾だ。

 宝箱をベッド下から引き出し、鍵を宛がった。かちり、と軽い音が響き、錠が開いたことがわかる。フローラの華奢な手が宝箱の縁を滑り、そっと蓋を奥へとずらした。──中から白銀に似た光沢が静かに輝く、神々しいばかりの盾がその姿を顕した。

 これが、──────

 僕だけではない。後ろで見守っていたヘンリーも、マリアさんもきっと呼吸すら忘れてその盾を見つめていた。フローラは緩やかな手つきで全ての蓋を滑らせ終え、再び僕のすぐ後ろへと下がった。刃と竜頭を象ったその盾は、遥か昔世界を駆逐しようとした悪を今も尚許さぬというように荘厳な気配をまとって箱の中に鎮座していた。

 これが、天空の盾。

「持ってみるかね?」と問いかけた卿に、僕は緩く首を振った。僕に扱えないことはもう、わかっている。

「ヘンリー殿下からお話は伺ったよ。テュール君、伝説の勇者に会う為に、これら天空の装備を集める旅をしているそうだな」

「……はい。仰る通りです」

 深く頷いた僕に卿は薄く笑い、「なるほど、これが運命か」と独りごちた。

「その盾は元々、フローラのものだ」

 思いがけない一言に、言葉が詰まる。反射的にフローラを振り返れば、彼女はただ厳かに目を伏せたまま僕の側に控えていた。振り返った視線の向こうでは、扉付近に佇んだヘンリーもまた、驚愕を露わにしてフローラを見つめていた。

「詳しいことはいずれ、フローラが話すだろう。……盾はここに置いてある。いつでも、好きな時に持って行きなさい」

 ありがとうございます、と乾いた喉で答える。

 フローラはまた黙って進み出ると、蓋を再び盾に覆わせ、僕に鍵をかけるよう促した。

 全てを元に戻し、僕達は順番にフローラの寝室を出た。

 あの盾の威光に当てられたように、誰も何も言葉を発しないまま、屋敷の外へと歩み出る。

 まるで屋敷の中が結界でも張られていたかのように、外に出た瞬間、先程の激しい喧騒が耳に還った。

「さぁ皆、飲み明かすぞ! 夜はこれからだ‼︎」

 背後から叫んだ卿に、街の主を待ちわびた町民たちが熱気の篭った歓声をあげた。逃げる間も無く首根を捕まえられ、ほとんど無理矢理に乾杯させられ口許に酒を運ばれる。「お前一人素面とか許すわけないだろうが! おら、親分様の酒はしっかり呑めよ!」とまぁ口悪しく絡んでくれるヘンリーはやはりそれなりに回っていたらしい。そっちはそれなりに呑めていいよな。僕には無理なんだ‼︎

 案の定、二杯も流し込まれたところで吐き気を堪えきれなくなり、逃げるようにその場を辞してきた。フローラはフローラでどこかに連れていかれているらしい。しかし僕は今夜、宿屋に行くべきなのか、先程の離れに向かうべきなのか。おたおたしているとまた捕まってしまう。とりあえず急いで宿に向かったが、すっかり馴染みの番頭からは「グラン様のお荷物はルドマン様のご意向により全て別宅の方へと運ばせていただいております」と無慈悲なお言葉を頂いてしまう。仕事とはいえこのどんちゃん騒ぎに加われないのは無念だろう。心密かに手を合わせ、急いで離れへと向かった。

 途中でビアンカと話し込むフローラを見つけ、声をかけた。

「やぁだ、何テュール? ひっどい顔ー!」

「うるさいなぁ、無理矢理飲まされたの……限界なんで、先に戻ってるね。フローラ」

 耳元で容赦なく大声を出され、ますますがんがんと割れ始める頭を抑えてそれだけ告げると、フローラもすぐにビアンカに挨拶をして僕の後を追ってきてくれた。

 こんな時なのに、帰る場所が同じ、ということがたまらなく嬉しい。

 ──本当に、連れていけたらどんなに幸せか。

 婚礼の時は勢いで手を引いたり、抱き寄せたりできたけれど。

 今、後ろをついてきてくれる君に、気安く触れる勇気もまだないのに。

 離れに辿り着き、フローラが急いで冷たい水を汲んでくれる。すぐに一杯飲み干し、水に晒した冷たい布を渡してもらって額に当てた。

「ありがとう……フローラ」

「いいえ、これくらい……無理はなさらないでくださいね。今日はもうお休みになってくださいまし」

 まだ湯も使っていないし、せめて顔くらいは……と思ったけれど、一度脱力してしまったら急激に酔いが回って身体がいうことを聞かなかった。フローラの目の前でなんという失態か。

 ……さっきは、目が覚めたらこの離れに運び込まれていて、一緒に過ごす覚悟も何もないままだったけれど。

 本当は、心のどこかで緊張していた。宿のものとは明らかに違う広さの寝台。

 フローラの私室のものよりもっと広い、二人で十分寝られてしまうそこに、今夜は二人で休むのかと思ったら、さすがの僕でも色々とあらぬことを想像してしまった。どうなってしまうのか、一体どうしたらいいのか────

 けれど、少なくとも今夜については哀しい杞憂だった。僕はすっかり酩酊状態で、横になるなり意識を手放してしまったから。

 翌日、目が覚めた頃には太陽はすっかり真上に上がっていた。隣に寝ているかもと思ったフローラの姿もなく、その気配は階下から聞こえる。結局記念すべき初夜に何事もなかった安堵と落胆、相反する感情に激しく弄ばれ、僕はがっくりと項垂れつつ階下へと降りていった。




原作ゲームでは、別宅の一階入ってすぐがベッドなんですが。
よく考えたら違和感もりもりでしたので二階にしてあります。


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#22. 悔恨

 結婚式の翌日、見事に寝過ごした僕は、友人達の出発をことごとく見送り損ねるという失態を犯した。

「申し訳ありません、テュールさん。やっぱり無理にでも起きていただいた方が良かったでしょうか……」

 僕の代わりにヘンリーら王兄夫婦とビアンカを送り出してくれたらしいフローラが、酷く恐縮して小さくなるのを懸命に宥めた。

「いや、気にしないで。多分だけど、寝かせておけってみんなが言ってくれたんだろ?」

 僕の言葉に消極的に同意するように、フローラが上目遣いに僕を見上げる。

 ビアンカは、朝一番の定期船でサラボナを発ったらしかった。

 家に残してきた父親がそろそろ気になるから、と笑っていたという。昨日はあまり話す時間をとれなかったが、商魂逞しい彼女は街の人々を相手に自分の村の温泉を宣伝していたのだそうで、意気投合した何人かと連れ立って船に乗っていった、とフローラが教えてくれた。もういっそ宿屋の女将にでもなればいいのに。

 ヘンリーとマリアさんは、護衛の兵士らと共にサラボナのずっと東の岸に着けたという自国の船へと戻っていったそうだ。「あなたが起きる前に出ないと、またルーラを使わせてしまいそうだから、と笑っていらっしゃいました」とすまなそうに伝えてくれるフローラに、然もありなんと息を吐く。ヘンリーらしい。

 まだ少し頭は痛かったけれど、胸のむかつきは幾分ましになっていた。遅めの昼食の前に湯浴みを勧められ、若干の緊張を誤魔化しつつ浴室を使う。湯を浴びてさっぱりできたのは良いのだけれど、正直全ての着衣を脱いだ状態の今、この同じ屋敷にいるのはフローラだけだと思うとやはり心が落ち着かない。

 ……落ち着け、まだ何もしてない。

 それもまた情けないような気がするが。昨夜、折角の初夜に本当に何もなかったのだと知ったら、ヘンリーは盛大に笑うだろうか。

 なし崩し的にこの離れで新婚生活を始めさせてもらっているが、昨日天空の盾を譲り受けてしまったからには、今の僕にはこれ以上この街に留まる理由もない。

 ──天空の盾は、フローラのもの。

 昨日、卿に告げられた言葉を思い出す。……どういうことなのだろう。さすがに、彼女自身が伝説の勇者、ということではなさそうだったが。

 いずれフローラが話してくれると言っていた。ならば、その時を待つのが僕にとっての最善なのだろう。

 ……本当にそれだけでいいのか。まさか、と嫌な想像が脳裏をかすめていく。──今回ルドマン卿が結婚相手の条件を出したのは、より勇者に近い存在に……否、できれば勇者自身に彼女を嫁がせたかったからではないのか。

 もし今、僕達の目の前に『勇者』が現れてしまったら。

 まだ見ぬ勇者たる青年に謂れのない歪んだ嫉妬を覚えていることに気づき、必死で思考を振り切る。勇者の盾が導く縁。そこに、僕が割り込んでしまっただけだとしたら。

 どうしようもない苛立ちを、頭からシャワーを浴びることで必死に鎮めた。

 そんなこと、考えるな。結婚の許しをいただいたのも、今、彼女の伴侶となったのも僕なのだから。

 無性に、彼女を抱きしめたかった。けれど理由もなくそうする勇気があるわけもなく。また溜息をつき、湯を止めた。

 ……結婚、したのに。いつまでこんな想いを抱えていくのだろう。

 自分の意気地のなさが原因なのはわかっているが、ではどうしたらもっと近づけるのか、それがわからなかった。婚礼より前に比べたら信じられないほど、フローラと共に過ごす時間は増えている。幸せなのに、これ以上に距離を詰める方法がわからない。

 ──そうだ。答えを、出さないと。

 殆ど心は揺れるままに決まっているようなものだったが、念のため仲魔のみんなにはちゃんと相談しておきたい。フローラを僕の旅に同行させても良いかどうか。とりあえず話して来よう、と心に決め、僕はやっと着替えに手を伸ばした。

 

 

 

 僕が湯を使っていた間、食事の準備をしてくれていたフローラに礼を言って、申し訳ないが仲魔のみんなにも食事を渡したい旨を伝えた。

 髪が濡れそぼったままの僕を見て、フローラはほんの少し目を瞠り目許を赤く染めたように見えた。そうして目を逸らされると、なんだかこちらまでどぎまぎしてしまう。

 ……少しは、意識してもらえてると思っていいかな。自意識過剰にもそんなことを思う。

「昨日、あなたの馬車をこちらの庭にひかせていただいたので、お仲間の皆さんも庭にいらっしゃると思います」

 微笑んでそう教えてくれたフローラが、「でも、もし皆さんがお嫌でないなら、こちらで一緒にお食事させていただくのも賑やかで良いかもしれませんね」などと言ってくれて、ますます胸がいっぱいになる。

「……ありがとう。ちょっと、聞いてみるね」

 離れとはいえ十分すぎるほど広い庭に出ると、確かに仲間達が思い思いに鍛錬したり、遊んだりしていた。ぱっと見、街中で異様な光景かもしれない。ルドマン家の敷地内だからこそ、全く問題なく過ごせるのだろう。

「あ! ごしゅじんさま、おはよーおはよー!」

 ぴょこぴょこ走る練習をしていたらしいスラりんが、僕を見つけてすかさず軟体タックルをかましてくる。

「おはよ。ていうか、遅いよね。ごめん、また寝坊しちゃって」

「ほぅ、あるじ殿。昨晩は無事オトコをあげられましたかな?」

 魔物のくせに何でそんなこと知ってるんだ。これまたにやにやとピエールが冷やかしてきたが、憮然として首を振った。

「残念、何もありません。昨日はすっかり酔ってたし」

「なんとまあ」途端に仲魔達の目が憐れみの色に変わる。ほっといてほしい。

「我々も昨日は実に良い日であった。たんまり馳走を分けてもらいましてな」

「そうだったんだ。ごめん、ほったらかしで」

 何だかんだでご満悦なみんなだったが、主人として目を配りきれなかったことは謝らなくてはなるまい。そう思った故の謝罪だったが、マーリンからは「一人では何も叶わぬ人の仔でもあるまいし。我々は何とでもなります。問題はない」と却って恐縮してしまう一言をいただいてしまった。

「ま、そのように気遣ってくださるのはありがたい。お陰で美味い飯も食える」

 相変わらず飄々としたピエールの物言いに、思わず笑いが零れる。

「そうそう、フローラがみんなも中で一緒にご飯食べないかって。どうする?」

 先程のフローラの提案を伝えると、仲魔達は一様に顔を見合わせた。

「ホイミン、たべたい〜!」

「スラりんもー!」

 青い軟体二人は揃って声を上げたが、他の面々はやや微妙な面持ちだ。あまり喜ばしくない誘いだっただろうか。

「いや、気が進まないならまたこちらに運んでくるだけだから、いいんだけど」

 そう言い添えると、ピエールは苦笑混じりに首を振った。

「新婚の、奥手すぎて奥方に手も出せぬあるじ殿の貴重なひと時にお邪魔するのは、申し訳なくてどうにも」

 ……もう本当にほっといてくれないかな‼︎

「あ、そっかー」

「たしかにね〜、わるいよね〜」

 さっきは嬉々として名乗りを上げた二人まで、何やら殊勝なことを言い始めるし。ガンドフは相変わらずどこか嬉しそうな一つ目で僕を眺め、真っ先に疲れた顔をしたプックルはやれやれとばかりに僕に背を向けて寝そべる始末。

「……じゃ、じゃあこっちに持ってくるよ。それでいい?」

 多少げんなりしつつ確認すると、皆にやにやしながら頷いてくれる。ああもう、早く立ち去りたい。

「あ、そうだ」

 聞かなくては、と思っていたことを思い出して、去り際にたたらを踏み、みんなの方を向き直った。

「ちょっと、相談したいんだ。──フローラのことで」

「奥方殿が、何か?」

「うん。……彼女がね。一緒に行きたいと……言ってくれて」

 みんなはいつも通り、何という事もなく首を傾げただけだったが。僕はそれを口にした瞬間、甘やかな歓びがこの胸を埋め尽くすのを直に感じて密かに唇を噛んだ。

 やっぱり、共に行くことを望んでしまう。僕も、いや、僕の方がきっと強く。

「簡単に頷けることじゃないのはもちろん、わかっているんだけど。正直、嬉しい……僕は。でもきっと、みんなにはそれだけ余計な負担を強いることになる」

「確かに。ま、奥方殿が常時お側に居られれば、あるじ殿の無茶も少しは収まるやもしれんが」

 先日の火山のことを言っているのか、根に持った風情のピエールの物言いについ苦笑してしまう。

「私は、異論ありませぬ。寧ろ面白い」

 珍しく眼を光らせたマーリンが、静かにそう提言した。

「……面白い、って?」

「奥方様の資質です。何なら、私が直接ご指導申し上げても良い」

 思わず眼を見開く。マーリンの言う資質、とはつまり魔法の適性か。

「このまま眠らせたままか、花開かれるかは奥方様次第。ただ、彼女は天稟に大変恵まれておる。炎、光、冥、少なくともこれらを詠みこなすことは彼女にとってそう難しくありませんでしょう。……それに、これは如何なる理由か判じかねますが──恐らくは、天属性の気も」

「なんだって⁉︎」

 思いがけぬ大声が出てしまい、咄嗟に手で口許を塞ぎ館の方を振り返る。幸い窓越しにも彼女は気づいた様子がなく、変わりなくテーブルに料理を運んでくれている。ほっとしたところで彼女が僕の視線に気づき、小さく微笑んでくれた。僕も急いで微笑みを繕って返し、もう一度マーリンに向き直った。

「天属性、って。それは勇者だけが持つ資質だと確か、聞いたよ。……どうして、彼女が」

「あくまで『気配』のお話です。恐らく彼女自身に天属性は扱えないが」

 詰め寄る僕にもマーリンは動じない。感情の読めない瞳を真っ直ぐにこちらに向け、僕の両眼を射抜き──口端だけ、微笑んだ。

「ご主人にも、似た気配を感じます。不思議なものだ」

 詭弁ではないか。そう思ったが、これまでのマーリンの振る舞いを思い返し即座に否定した。決して根拠なくあやふやなことを言う御仁ではない。

 ……僕にも、天属性の気が?

 そんなもの、僕自身は感じたことがないけれど。父さんが見つけた天空の剣だって、柄を持つと確かに強く弾かれる感触がある。剣が正統な持ち主以外を拒絶しているのがわかるのだ。あまつさえ柄に触れれば重力を増し、引きずることさえできないから、刃を鞘で無理矢理包んで運ばなくてはならない。

「……適性とは、魔力の可否だけではないのです。ご主人の持つ、我々を手懐ける力を見れば明らかなこと」

 言葉を失ったままの僕を静かに見上げ、マーリンは続ける。

「何にせよ、私は歓迎いたします。奥方様さえ望めば、いずれ私を凌ぐ魔導の使い手にもなれましょうから」

 マーリンの提言を、頭の中でもう一度噛み砕く。炎、光、冥。どれも僕には得難い力ばかり、これらの可能性をあの華奢な身一つに秘めているという。

 改めて仲魔達の顔を見渡せば、誰一人異論はないというように目で同意を示してくれる。

「……マーリン、みんな。ありがとう。もう一度フローラと相談してみるよ」

 相変わらずの澄まし顔で頷くマーリンに心の中でもう一度頭を下げ、僕は館の中に戻った。

 

 

 

 せっかくテーブルいっぱいに用意してくれた料理だったけれど、フローラに謝りながらその大部分を庭へと運び出して、僕はまたフローラと二人きりで遅い昼食をとった。

 みんな変に気を遣ってくれて、と言ったら、意味を理解してくれたらしく頬を染めて頷いていた。そんな表情にまた、少なからず好意を持ってもらえているのだと思うことができて、じわりと沁みる歓びとともに安堵する。

 本宅と違って、ここには僕達の他に手伝い等してくれる人はいない。

 僕はともかくフローラは育ちが育ちなので、多少なりとも人手は必要なのでは、と思ったりもしたが、実際彼女は身の回りのことはなんでも一人でできた。「修道院では、すべて自分でしていたことですから」と、こともなげに言う。

 この料理を一人で用意してくれた、と言うのにはさすがに驚いてしまったが、「本宅のコックにはまだまだ及びませんが」と控えめに微笑む彼女をみるに、実は凝り性なのでは、と思ったりもする。

 緊張が少し解けて、昨日よりもっと美味しく感じられるそれらの料理をいただきながら、僕もフローラに一緒に来て欲しいと思っていることを伝えた。二度目のプロポーズのようでどきどきしたけれど、彼女の表情はどこか固いままで。昨日はもっと解れた笑顔を見せてくれたから、少し、引っ掛かりを覚えた。

「……僕からも、お義父さんにお願いするよ」

 父親が許さないかもしれないことを不安に思っているのか。そう思って声を掛けたが、ありがとうございます、と囁いた彼女の微笑みはやはり力無いものだった。

 いざ出立となれば怖れや不安があるものだろう。一抹の寂しさを覚えながらも、僕はそう結論づけて食事を終えた。

 

 ──後から思えば、やはりきっとどうすることもできなかった気はするけれど。

 せめて僕がこの時、想いをもっとちゃんと言葉にして伝えていれば。フローラをあんなにも追い詰め、苦しめることはなかっただろうと、僕はこの数日後、ひどく後悔することになる。



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#23. 祠の壺

 遅い昼食を終えた昼下がり、フローラを伴いルドマン家の本宅を訪れた。

 卿はいつもと全く変わらぬ様子で僕らを出迎えてくれた。昨晩はいつまで呑んでらしたのかわからないが、全く酔いを残してらっしゃらない酒豪っぷりに密かに舌を巻く。

「そろそろ来る頃かと思っていたよ。二人共、昨日はご苦労だったな」

 見慣れた応接間で卿と相対し、開口一番労いの言葉をいただく。

「申し訳ありません、実はあまり酒は得意ではなくて……ああいう場ではすぐに潰れてしまい、面目ないです」

 天空の盾を収めた宝箱の鍵を譲り受けた後、申し訳程度に盃をいただいて辞してしまったことを詫びた。卿はまた愉しそうに笑い、「何、君はまだ若いからな。歳を重ねれば呑み方もわかってくるものだ」とありがたい言葉を下さった。

「そろそろ、旅立ちを考えているのかね?」

 静かな問いかけに「はい」と頷いて短く答える。卿はまた満足げに頷き、「また土産話を聞かせてもらうのが楽しみだ」と笑った。

「フローラ。お前はテュール君が帰るまで家を守れるな?」

 卿の視線が僕の隣へと移り、フローラがわずかに身体を強張らせる。拳一つ分離れて座る彼女の緊張を見てとり、思いきって口を開いた。

「そのことなのですが、──お義父さん。今日はもう一つ、お許しをいただきにあがりました」

 僕の呼びかけに卿が目を見開く。フローラから揺らいだその視線を捕まえて、僕もまた、緊張を覚えながらも言葉を紡いだ。

「フローラに、僕と一緒に来てもらいたいと思っています。……何卒、共に出立することをお許しいただけませんか」

 目の前に座る僕と、フローラを卿が交互に見遣る。フローラもどこか遠慮がちではあったが、「お願いです、お父様。私の与り知らぬところでテュールさんに何かあったらと思うと……」と懇願の言葉を口にしてくれた。先程の力無い微笑みが、出立への躊躇い、というわけではなさそうなことにひっそりと安堵の息が漏れた。

「……厳しい旅になるのではないか。テュール君にとっても、フローラが足手まといになりこそすれ、役に立つとは到底思えないが?」

 ちらり、と娘を一瞥し義父は手厳しい問いを発する。視線さえ逸らさなかったものの、フローラは気圧されるように肩を縮めた。

「僕の仲間達からも了承は得ています。魔法使い曰く、フローラには類い稀な魔導の才があると。いずれは立派に僕のパートナーを務めてくれると、信じています」

 今度はフローラが驚愕を僕に向ける番だった。目を瞠る彼女を振り返ってそっと微笑み、身体のすぐ隣にある華奢な掌を思いきって包んで握る。

 ぴくり、と彼女は身じろぎしたが、振りほどくようなことはなく、わずかに目許を赤らめて、重ねた手に切なげな視線だけを落とした。

「…………、ふむ」

 暫し、卿は顎に蓄えた立派な髭を撫でながら僕らを眺め、思案していたようだった。

「では、こうしよう。ひとつ、出立の前に頼まれて欲しいことがある」

 ぽん、と膝を打ち、卿が身を乗り出した。振り返って使用人に何かを申しつけ、また僕達を交互に見遣りながら、彼はある提案を口にした。

「サラボナを出て船で北西へ向かったところに、祠がある。ビアンカさんの住む村から西にある小島だ。祠の中に壺が一つ納められているのだが、その壺の色を見てきて欲しい。できるかね?」

 卿が話している最中に先程の使用人が羊皮紙を持ってきて、卓上に広げた。船の上で何度も広げたその地図を指先でトントンと示しながら、卿は僕達を窺い見る。

 戸惑いながらも、僕は頷いた。それくらいなら造作もないことだが。

「但し、今回はフローラのみを伴って行くこと。仲間の皆さんには別宅でお待ちいただく。船はテュール君がすっかり扱えるようになったとクラウスから報告を受けておるから、今回は二人でも問題ないだろう。万が一どうにもならなくなったら転移魔法で逃げ帰ってくれても良いが、その場合、課題は失敗だ。フローラの出立は許可できん。……どうだ?」

 隣に座るフローラが身体をすくませたのが、繋いだ手から伝わった。すぐにその手を握り返して、僕は強く頷く。

「わかりました。必ず無事に、確認して戻ってまいります」

 不安げに僕を見るフローラに、もう一度微笑みを返して。彼女は何か言いたげに唇を震わせたが、どこか辛そうな表情のまま目を伏せた。

「頼もしい夫だな、フローラ」

 嬉しそうに響く父親の言葉に、フローラは尚も項垂れたまま、はい、と頷く。フローラの気落ちの理由が僕にはわからなかったが、とりあえずそのことは頭の隅に置いておくことにした。

 期せずしてこれから祠へと往復する間、二人きりで過ごせることになったから。船で行くなら片道に軽く二日はかかるだろう。時間はたっぷりあるのだから、ゆっくり話をすればいい。

 少しでも、彼女ともっと深く理解し合うきっかけになれたら。

 明朝から再び帆船をお借りする約束をして、本宅を出た。その足で久々の道具屋へと向かう。所要日数は大体往復で五日、念のためそれより多めに見積もって、足りない食糧や聖水を買い込む。

 荷物は別宅に運んでもらえるよう頼んで、二人で歩いて仮の新居へと戻った。

 フローラは相変わらず浮かない顔のままだった。一度だけ「あなたは旅を急がなくてはならないのに、余計な用事で時間を取らせてしまって、本当にごめんなさい……」と謝られたが、その時は彼女と目の高さを合わせて覗き込み、緩やかに否定した。

「僕が、君と一緒に行きたかったから受けたんだ。気にしなくていいんだよ」

 一瞬、泣きたいように顔を歪ませたが、すぐに彼女は微笑んでくれた。でもやはり、その表情からはひどく辛そうな気配しかしなくて、胸が痛かった。

 明日の為に準備を全て整え、仲魔達にも数日留守にする旨を告げる。

 夕飯時も、空気は重いままだった。今日は僕も手伝って一緒に作って食べたが、フローラは次第に僕と目を合わせなくなっていっているような気がする。僕が何かしてしまったのか、鈍いなりに一生懸命考えたけれどどうしても理由がわからなかった。

 ……やっぱり、一緒に行くのは嫌だと、思われてしまったのだろうか。

 それぞれ順番に湯を使って、夜も早めに休むことにした。

 濡れた長い碧髪を白い項に零しながら結い上げ、薄い寝着を纏ったフローラの姿にどうしようもない昂りを感じてしまったが、こんな状況で近づけるわけがない。初めて一緒に同じ寝台に潜り込み、僕の緊張は正直振り切れそうなほどに最高潮だったけれど、結局この夜も手も触れられぬほど身体を離したまま就寝してしまった。

 ……それでも今、隣に君がいる。

 触れる勇気もない自分が情けないけれど、不甲斐ないけれど。

 僕から顔を背けたまま寝息を立てる君が、切ないほどに愛しいばかりで。

 ふと、求婚の前日の夜、眠る彼女を訪ったことを思い出す。

 あの時感じた違和感のことを、今度訊いてみよう。そう自分に言い聞かせ、深呼吸でなんとか緊張を落ち着かせながら、僕もまた瞼を落とした。

 

 

 

 

 

 翌朝、まだ陽も昇り始めたばかりの頃、フローラと連れ立ってルドマン家の家紋入りの帆船に乗り込み、出発した。

 今回は操船できるのが僕しかいない上、魔物に遭遇した時の対処もほぼ僕一人で請け負わなくてはならないので、フローラにはありったけの聖水を託して、操舵室の内側に控えてくれるよう頼んだ。身躱しの服に身を包んだ彼女は固い表情のまま頷く。聖水で魔物を避けていればまとまった数を相手にすることもそうないから、この辺りの魔物ならば僕一人でも捌けるだろうと踏んでいた。

 街から凡そ一日くらいの距離では船の行き来も多い為か、さほど魔物が出ない。これは先日、定期船に乗った時も思ったことだった。やはり水門のあたりから多くなる印象だ。

 左右を深い森が挟み、いつかのように心地よい風がそよぐ。こんなにものどかな時間をフローラにもあげたい、と願ったことを思い出した。

「フローラ」

 操舵室の窓から外をぼんやり眺めていたフローラを手招きして、後部甲板へと呼んだ。おずおずと近づいてくる彼女を隣へと招き入れ、若干の緊張を抑えながら並んで立つ。

「……気持ちいいですね」

 初夏の日差しに、新緑の香が立つ風を受けて碧い髪が一筋、目の前を軽やかに流れていく。

 あの日見た幻が、今、目の前にある。

「うん。……君にも、こんな風にのんびりさせてあげたいってずっと、思っていて」

 船縁に手を添えて遠くを見ていた君が、翡翠の双眸をつとこちらに向けて小首を傾げた。

 不意に視線が交わって、心臓が小さく跳ね上がる。

「水のリングを探しに行っていた頃、……君はずっと、アンディの看病をしてただろ?」

 思わず視線を泳がせそう言うと、フローラは少しだけ目を瞠り、またどこか苦しそうに視線を遠い湖面へと落とした。

 船縁に載せられた白い手は、いつか見た痛々しさはだいぶ薄れてはいたが、今度は僕の為に家事をしてくれているからなのか、まだどこか荒れた風だった。昨日本宅で義父と話をした時、掴んだ指先は思った以上にかさついていた。

 けれど、ちらりと盗み見た横顔はかなり血色も良くなっていて、やつれきった彼女が少しずつ元の姿に戻れているのだと思ったら、ほっとして肩の力が抜けた。

 あんな苦労は、もうさせたくない。

「……ビアンカさんは、この先の村にお住まいなんですよね」

 遠く、焦点を合わせず眺めていた彼女が、ぽつりと呟いた。

「そうだね、この先に水門があって。その手前から軽く半日くらい歩いたところ」

「そんなにかかるのですか。ビアンカさん、よくお一人で行き来されていると仰っていたから、もっとお近くなのかと思っていました」

「山道だから、慣れもあるんじゃないかな? それにビアンカはちょっと特殊だと思うよ。魔法なんて僕より上手だしさ」

 得手不得手はあるだろうけどね、と苦笑してみせたが、彼女はぎごちなく微笑んだだけだった。

 それきり会話は途絶えてしまって。どちらからも何も切り出せないまま日暮れを迎えた。

 やはり陽が出ているうちの方が魔物は出にくいから、定期船が通るぎりぎりの水域までは船を進めて、陽が昇ってから僕が仮眠を取る方がいいかと考えて、夜のうちはフローラに休んでもらうことにした。フローラはひどく複雑そうな、申し訳なさそうな表情で躊躇していたが、「僕が休んでいる間は見張りをお願いすることになるから」と説得して、なんとか休んでもらった。

 そうして、その夜は一人で時々現れる魔物の相手をしながら進められるところまで船を進めて。

 朝になり、起き出してきたフローラと簡単な朝食をとった。心配そうに僕を見るフローラに「少し休めば、大丈夫」というと釈然としない顔で頷いていた。

 朝食の後、二、三時間の予定で近くの岸に停泊して仮眠をとった。フローラには半刻ごとに場所を変えて聖水を撒くこと、少しでも異変を感じたらすぐに僕を起こすことをよくよく念押しして。

 元々旅をしている中で、自分は魔物の気配には敏感な方だと思っていたのだけれど、このやり取りの中で驚くことがあった。

「……テュール、さん」

 操舵室で仮眠をとっていた僕の耳許で、フローラが息を殺して囁く。普段と違う彼女の雰囲気にすぐに目を開け起き上がると、「申し訳ありません。何となく、あちらの木の方に嫌なものを感じて……」と言う。僕が耳を澄ましただけではわからなかったが、表に出て様子を窺っていたら程なくキメラが森の中から唐突に飛来し、それを皮切りに数体のマーマンやオクトリーチまでもが浮かび上がってきたのだった。統率のとれた行動は、群れてこの辺りを通る船を狩ろうとしているのか。

 すかさず剣を振り払い、キメラを打ち落とす。その傍らからフローラが海の魔物の群れめがけて聖水を投げつけてくれる。もんどり打ったマーマン達をバギマで退け、船体に絡みつき登ろうとするオクトリーチの足を次々切り裂いて湖の底へと沈めていく。意外にも臆さずフローラが船縁へと駆け寄り、船体の外側に聖水を伝わせてくれる。

「……すごい。よく気づいたね」

 概ね魔物の気配が消えたところで、父さんの剣を拭いながらフローラを振り返ると、フローラは今更震えがきたように身体を強張らせ、へなへなとその場に座り込んだ。

「────大丈夫⁉︎」

 咄嗟に駆け寄り額を撫でると、フローラはまだ焦点の合わない目で頷く。

「だい、じょうぶ、です」

 それだけ言うと、瞳を閉じ、何度か深呼吸をする。まだ震えの収まらない細い腕をさすってやると、やっと深く息を吐いて、僕の顔を見てくれた。

「……あなたが、いてくれたから。大丈夫、です」

 控えめだったけど、久しぶりに見た彼女の微笑みに、性懲りも無く心が踊ってしまう。

「僕の方こそ、助かった。今みたいにちょっとしたことでもいいから、気づいたら僕に教えてもらえたらありがたいな」

 これは心からの本音だったが、フローラは尚も遠慮がちに黙って頷いていた。

 その後も、ちょくちょく戦闘にもつれ込みながら船は進んだが、フローラは直接戦闘には参加しないものの絶妙な聖水捌きで僕を援護してくれた。うっかり擦り傷を作ってしまった時にはすぐにベホイミを施してくれて、これまた僕は感激のあまり、施術してくれる彼女を抱き締めてしまいたい衝動を気取られないよう抑える方が大変だった。

 次の日暮れ前にまた少しだけ仮眠をとり、夜の間はなるべく船を走らせる。

 そうして、まだ夜明け前の闇深い頃、帆船は小島へと到着した。

 

 

 

 小島の岸に船を着け、近くの木にしっかりと括り付けて。

 真っ暗な中でも祠はすぐにわかった。月明かりだけに照らし出された石造りの建物が、木立の向こうに見えたから。

「……明るくなってからにする?」

 さすがに真夜中の祠参りは肝が冷える。念のためフローラに訊いたが、彼女は顔を強張らせたまま首を振った。

「行けます。────大丈夫です」

 幸いにも、周りに魔物の気配はなかった。祠の中ならもっと安全だろう。持ってきたランプに火を入れ、手を繋ぎあって真っ暗な林を抜ける。すぐに祠の入り口が見えてきた。

 中ももちろん真っ暗で、ずっと螺旋階段になっているらしかった。フローラの手を取り、一段一段、ランプで照らしながら降りていく。

 どれくらい下っただろうか。やがて、螺旋階段の終着点に確かに壺が安置されているのが見えてきた。何やら魔法陣の中に置かれたそれは、中から静かな青い光を仄かに放っている。

「青、だね」

 僕の言葉に、フローラも強張ったまま、頷く。

 もう一度、二人で手を引き合いながら階段を昇った。静謐な空間に、かつん、かつんと僕達二人の足音だけが響く。

「……フローラさえ良かったら、ここで休息をとっていかないか」

 先程入った入り口が見えてきたところで、僕はフローラにそう提案した。

 繋いだ手をびくん、と震わせてフローラが僕を見た。暗がりで表情はよくわからなかったが、きっと怖いのだろう、と思って手を握り直し、できるだけ優しく、言葉を続ける。

「多分、祠の中には魔物が入ってこられないから。船で寝るよりここの方が安全かなって。──大丈夫、何もしないよ」

 最後の言葉は蛇足だったかもしれないけど。安心させたくて、つい口から出てしまった。

 ……何かしたいって言ってるも同然じゃないか。

 あとからそんな考えに至って気恥ずかしくなってしまったが、君は静かに、はい、と答えてくれて。とりあえず僕達は入り口付近の広い場所に身を寄せ合って、壁にもたれた。

 足元にランプを置き、持ってきた毛布を二人でかけて手を繋ぐ。

「気になることがあったら、すぐに起こしていいからね」

 もう一度念を押すと、素直な君はまた、はい、と頷く。

 目を閉じると、ふわりといつもの花の香りがした。

 今までで一番近くにフローラの体温を感じる。

 そんな、独り善がりな幸せに身を委ねて、僕は浅い眠りの淵へと落ちていった。

 

 

 

 目が覚めると、外はすっかり昼時のようだった。

 隣に座り眠るフローラは綺麗な睫毛を伏せたまま、静かな呼吸を繰り返していて。その頭がわずかに僕の肩にもたれかかっていて、目覚めて早々に心臓が鷲掴まれる心地を味わった。

 あまりの幸せにもう一度だけ眠ってしまいたくて目を閉じたところで、僕の身じろぎが伝わってしまっただろう。フローラがうっすらと目を覚まし、僕は心の中で激しく落胆する。

「……おはよう」

 肩に乗せられたフローラの眠そうな顔を間近に見下ろして、照れ隠しに微笑んで言うと、君もまた恥ずかしそうに、おはようございます、と返してくれた。

 その場を片付け急いで岸を離れて、舵を安定させてから二人で簡単な食事をとった。

「あとは、無事に戻るだけだね」

 この調子なら、明後日には卿にご報告できるだろう。晴れてフローラの出立が許されれば、いよいよまた、まだ見ぬ地への旅が始まる。

 ほとんど課題をクリアした状態で僕は内心浮かれていたが、フローラはここにきてますます思いつめたように物思いに耽ることが増えた。

 魔物に遭遇すれば懸命に協力してくれるのは変わらなかったが、それ以外の時間はずっとぼんやりしていて、名前を呼んでもなかなか反応がない。

 そうかと思えば、じっと自分の手を見つめていたり。物憂げに遠くを見つめていたり。

 正直すごく心配だったし、こんな状態の彼女をすぐに連れ出すことはきっとできない。なんとか話をしたかったけれど、糸口をなかなか掴めないまま、無為に時間は過ぎた。

 そうして幾度かの魔物との遭遇も無事乗り切り、出発からやはり五日後の午後、僕達はサラボナに到着した。




この祠、原作内では「一日あれば往復できますわね」ってフローラが言ってくれるんですけど、その縮尺で一日往復ってⅤ世界どんだけちっこいのん……てのはワールドマップと睨めっこするたび思うことです。レヌール城かて縮尺信じたら夜半に往復絶対不可能。
もう脳内変換で、あれだよメルカトル図法!見た目よりでかい小さい!と都合よく自分に言い聞かせながら旅させてます。


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#23.5 憧憬~side Flora

 これで良かった、と思わなくては。

 

 

 

 私を選んでくださったあなたに、

 祝福してくださったビアンカさんに、

 そのお気持ちに報いなくては。

 長年私を想い続けてくれた、

 アンディの気持ちに応えられなかった。

 きっと、私がアンディと一緒になることを望んでいらした、

 おば様のお気持ちにも。

 痛いほどに伝わってくる、ビアンカさんの想いすら踏み躙って。

 ────嬉しかったわ。残酷なほど、ただ純粋に嬉しかった。

 目を開けるのが怖くて怖くてたまらなかった私の前に、

 あなたは立ってくださった。

 手を差し伸べて、私を妻にと、望んでくださった。

 悦びのあまり、のぼせ上がってしまった自分が憎い。

 そのお気持ちだけを信じていられたらよかった。

 醜い私など、気づきたくなかった。

 

 式の準備中、ビアンカさんはずっと忙しなく動いてらして、

 でも目が合うと必ず、太陽のような微笑みを向けてくださった。

 どうしてそんなに、魅力的でいらっしゃるのかしら。

 彼女の笑顔を見ていると、何故だかひどくほっとする。

 それと同時に、もっと濁った、澱んだ想いが、

 私の胸の奥底にじわりと溜まって、広がっていく。

 ⋯⋯私よりずっと、素敵な方なのに。

 私よりずっと、あの方にお似合いでいらっしゃるのに。

 あの方もきっと、心を許していらっしゃるのに。

 

 どうして、私だったのかしら。

 思いつける理由は一つしかなかった。

 まさか、と思いながら、今はその考えを追い落とす。

 

 答えが『それ』だと理解したのは、婚礼のほんの直前。

 ラインハットから遥々お越し下さった、彼のご友人でいらっしゃるヘンリー殿下から問い質された、あの時だった。

 曰く、彼は天空の武具を求めて旅をしていると。

 知っていることがあれば教えてやってほしい、と。

 

 全身が、身体をめぐる血が、一瞬で凍りついた。

 全てが腑に落ちてしまったあの瞬間、

 私は自分の気持ちがわからなくなった。

 泣きたいのか、怒りたいのか、笑いたいのか。

 どうして、

 今になって知らされなくてはならないの。

 ここまで来て、後戻りできないこの時に。

 もっと早く、私が提言したあの時に言ってくださっていれば、

 父に盾のことを相談することだってできたのに。

 今すぐにこのドレスを脱ぎ捨ててしまいたい。

 このドレスを着るべきなのは私じゃない。

 そんな、幼稚な衝動を必死にこらえて、微笑んだ。

「⋯⋯それでしたら、もう、あの方のものですわ」

 うまく、笑えただろうか。

 ヘンリー殿下が頷いてくださってほっとした。

 私たちから距離をとって話を聞いていらしたビアンカさんが、

 どこか切なげなお顔で私を見つめていらした。

 

 ────ビアンカさんは、ご存知だったのね。

 

 痛い。

 胸が、痛い。

 

 ごめんなさい。

 何も知らない愚かな花嫁で、本当にごめんなさい。

 こんな私が今日、花嫁になるなんて。

 あの方を、この素敵な方から奪ってしまうなんて。

 本当に、本当に、本当にごめんなさい。

 

「⋯⋯フローラ?」

 微かな呼び掛けと共に、船室で眠っていた彼がこちらを見た。

 咄嗟に微笑みを繕って覗き込む。

「はい。ここにおります」

「うん。⋯⋯ごめん、もしかして僕、倒れてた?」

「はい。随分消耗されていて⋯⋯もう少し、横になってらした方が。今、医師を呼んで参りますね」

 立ち上がろうと腰を浮かせたら、隣に控えてくださったマリア様が微笑んで私を押し留め、代わりに部屋を出ていかれた。

「⋯⋯どうしたの。フローラ」

 マリア様が去られ、閉じられた扉をぼんやりと眺めていたら、まだベッドの中に横たわったままの彼が、ぽつりと私に問いかけた。

「────え?」

「何か⋯⋯、悲しそうにみえた」

 

 どうして、そんなにも優しいの。

 お前の所為で望まぬ結婚をするのだと、

 詰ったって構わないのに。

 込み上げかけた涙を喉の奥深くに押し込めて、

 精一杯、微笑んだ。

 

「いいえ。⋯⋯何も。きっと、あなたが気がつかれたのでほっとしてしまったんだと、思います」

「そっか。心配かけて、ごめんね」

 いいえ、ともう一度答えた声は力なく溶けて消えた。

 ベッドに肘をついて身を起こし、改めて私を見つめた彼が、ふわりと照れ臭そうに微笑んで、言ってくださった。

「⋯⋯すごく、綺麗だ。夢かと思った」

 

 

 

 これで良かった、と

 思わなくては。

 

 

 

 きっと良い妻になる。そう言ったのは、私。

 ならば精一杯、自分にできる精一杯で、夫となってくださるこの方に尽くそう。

 ビアンカさんには遠く及ばなくとも、私なりに誠心誠意、この方に尽くしていこう。

 

 

 しん、しんと、

 昏く澱んだ呪いが、私の中に積もっていく。

 

 そんなものは欺瞞にすぎない。

 私が報いる方法は、ただひとつ────

 あの方に、彼をお返しすること、ではないの?

 

 結婚式には間に合わなかった。

 知るのが遅すぎて、頭の整理もつかなかった。

 今、旅立たれる前の今、

 覚悟を決めるなら今しかないのではないの?

 

 恋、などという浮ついたものより、大切なものがある。

 守らなくてはならないものがある。

 わかっていたのに。ずっとそうやって、自分を戒めて生きてきたのに。

 天空の盾のためだけに生きることを、覚悟してきたはずなのに。

 きっとこれは、恋に溺れた愚かな私へ、私の半身が与えた罰なのだ。

 

 数日、共に過ごして、共に船で父の遣いに出て、

 その中でまた、幾度となく、自分の至らなさを思い知らされた。

 なんの役にも立てない。足手まといにしかならない。

 彼の優しさに触れるたび、罪悪感で押し潰されそうになる。

 気を遣わせてしまうたび、情けなくて消えてしまいたくなる。

 滔々と積もり続ける鬱屈した感情は、

 ますますビアンカさんに縋るように、この心を向かわせる。

 

 ああ。────私、

 お二人のように、なりたかった。

 

 泣くな。

 私が泣いてはいけない。

 何も知らなかった私に、お二人をきっと苦しめた私に、

 泣く権利など欠片もない。

 

 

 さよならを、言おう。

 

 

 優しいあなたを、今度こそ自由にして差し上げたい。

 あの夜誓ったように、精一杯笑って、祝福をしよう。

 ビアンカさんがしてくださったように。

 私もただ、お二人の幸せを、願おう。

 

 

 これで良かったのだと、思おう。

 

 

 夢を見られて幸せだった。

 

 

 

 

 大好き、だった。



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#24. 碧き光

「そうか。壺は青かったか」

 街に到着してすぐに義父を訪い報告すると、彼は安堵したように頷いた。

「ご苦労だったな。テュール君、フローラはどうだった? 君の邪魔にならなかったなら良いんだが」

「邪魔どころか、大変助けてもらいました。彼女がいち早く敵の襲来に気づいてくれたお陰で、殆ど被害らしい被害も受けておりませんし」

 僕の回答にルドマン卿はどこか満足そうに頷く。その表情を見て、実はこの方は反対する気など初めからなかったのだ、と直感した。

「よろしい。フローラの出立を許可しよう。──フローラ、これまで以上にしっかりとテュール君を援け、動くようにな」

「……ありがとう、ございます」

 しかし、当のフローラは相変わらず沈みきった様相だった。父親の門出への一言も沈痛な謝辞一つで受け流し、目もあげない。義父はまた溜息をついて僕を見たが、僕もせめて苦く微笑んで首を振ることしかできなかった。

 出立前に、フローラときちんと話をしよう。彼女が抱えている悩みを知ることができれば、一緒に解決だってできるかもしれない。

 ……夫婦、なのだから。

 卿からは改めて、出立の際にはポートセルミの港に停泊している卿所有の大型船を自由に使って良い、という有難い申し出を頂き、恐縮しながら屋敷を辞した。

 別宅への帰宅前に、少し遠めの寄り道をしてアンディを見舞った。

 アンディを蝕んでいた病魔は去ったらしく、彼は元々細身の身体をさらに痩せさらばえて自室の椅子に腰掛けていた。

 僕達を見ると、存外にも嬉しそうに微笑んでみせた。

「おめでとう。……残念だったよ、僕も是非とも君の花嫁姿を見たかった。さぞかし美しかったんだろうな」

 アンディの言葉に、フローラはますますその身を固くし表情を歪ませる。

「仕方ないね、病み上がりだったから」

 俯くばかりのフローラに自嘲気味に笑ってみせ、今度は傍らに立つ僕へと目を向ける。

「……フローラを、連れて行くんですか?」

 もう、僕を責める色はない瞳に、真っ直ぐに視線を返し頷いた。

「──はい。僕が絶対に、守ります」

「当然でしょう。彼女に何かあったら許しませんから」

 薄く笑った彼の瞳には、どうしようもない羨望が滲んでいた。

「悔しいが、あなたになら任せられる。……フローラを、よろしくお願いします」

 僕はもう一度、しっかりと頷いて。尚も項垂れるフローラの肩をそっと抱いて、アンディの部屋を後にした。

 階下にいたアンディの両親はそれぞれに複雑な表情を浮かべ、階段を降りてくる僕達を見守っていた。

「フローラさん。……幸せにな」

 最後に見送られるとき、父親が優しく彼女に告げた。彼女は胸を押さえたまま、掠れた声で、ありがとうございます、と呟いて頭を下げた。

 

 

 

 

 

 別宅に辿り着き、留守を預かってくれた仲魔達みんなを軽く労ってから屋敷に入った。

「今日は僕が食事を作るよ。……大したものはできないけど。フローラは、休んでいて」

 そう声をかけたら、彼女はますます泣きそうな顔で俯く。

 ……なんと言って訊いたら、君は話してくれるだろう。

「えっと。出発は全然急がないからね。三日後でも一週間後でも、フローラが準備できたら教えてくれたら」

 せめて、少しでも不安を取り除いてあげたくて、思いつくままに言葉をかけたけれど、フローラは目を合わせないままに息を呑み、小さく首を振った。

「──明日、出られますわ。そんなに物は多くありませんし……これ以上、遅くなっては」

 言葉少なにそれだけ告げ、絶句した僕に構わずフローラは二階へと上がっていく。

 明日、だなんて。

 僕はいい、元々本当に荷は多くないし。しがらみもないから、少しの着替えや道具を馬車に積めば何処へでもいける。でも、フローラにとっては性急すぎるんじゃないか。

 僕に迷惑をかけまいとしてくれているのは、わかる。

 今回の祠参りのことだって、僕に余計な時間を使わせたと随分と気に病んでいた。彼女が気にする必要などないのに。

 旅ばかりの男の料理なので、本当に適当な煮込み料理くらいしか作れないが、ピエールたちに駄目出しされながらも日々試行錯誤を繰り返してきたレシピを手早く下ごしらえして、僕はフローラを追って二階に上がった。

 フローラは、寝台に腰掛けて茫然としていた。

 傍らに大きくない旅行鞄を広げ、何枚かのドレスや、旅装にあたる魔力のかかった服、それに魔導の本が何冊か綺麗に入れられていたが、その半分くらいはまだがら空きだった。

 そこまで入れたら燃え尽きてしまったというように、彼女は放心状態で力なく、ベッドの端に座っていたのだった。 

「……フローラ」

 恐る恐る、声をかけると、フローラはどこか虚ろな瞳を揺らして僕を見る。

「……あ。ごめんなさい、ぼうっとしてしまいました……」

「いいよ、そんなの。本当に大丈夫? 準備なんて後にして、今日はもう休もう。船旅で疲れてるんだから」

 寧ろ、休んでほしい。こんな状態の君を放ってはおけない。

 けれど、僕の願いも虚しく君はやはり首を振る。

「大丈夫です。本当に、ご心配ばかりおかけして、申し訳ありません……」

「いいから、休んで。……ここのところずっと塞ぎ込んでるの、気づいてない? 僕には話せないことなのか?」

 空いている隣に腰を下ろして、思い切ってそう訊いてみたけれど、フローラはやはりずっと俯いたまま、唇をかみしめて何も言わないままだった。

 ──お二人が、お二人だけの辛さを、和らぎあえる関係になってくださったら。

 いつか、クラウスさんが僕にくれた優しい言葉が耳に還る。

 そうなりたいと思った。彼女の苦しみを癒してあげられるなら、もう僕の苦しみなんて何もかも気にならないのだと。

 実際は、何もできない。僕には君の痛みを一つも解ってあげられない。

 全てを分かち合うと、誓ったはずなのに。

「……明日さ、ポートセルミ港へ向かう前に、ビアンカの村に行かないか?」

 せめて、気分転換になったらという思いからだった。ビアンカの父であるダンカンさんにも、フローラを連れてくるよう言ってもらったということもあって。結婚式の前後にビアンカは式の準備を嬉々として手伝っていたようだし、フローラも何だかんだとビアンカには心を許しているように見えたから、もしかしたら女同士、朗らかな姉御肌のビアンカに引き合わせた方が彼女の心が軽くなるかもしれない。そんな思惑もあった。

 正直悔しいが、なりふり構ってなどいられない。

「ほら、またしばらく会えなくなるから。定期船で行って、挨拶したらルーラでポートセルミに飛ぼう。山あいの素朴な村だから、少しは気が紛れるんじゃないかな」

 僕は入りそびれたけれど、温泉だってある。何なら頼み込んで、彼女が入る時だけ女性だけの湯にしてもらってもいい。色々効能のあるらしい温泉に浸かれば、彼女を蝕む気鬱も少しは晴れるかもしれない。

 

 

「────……きま、せん」

 深く、俯いた君が、

 重苦しい呟きを膝に落とした。

 

 

「…………、え?」

 聞き間違いかと思って、咄嗟に横顔を覗き込んだけれど。胸許まで深く、俯いた君の顔は見えない。

「フローラ。今なんて──……」

「ごめんなさい」

 僕の問いを遮ってフローラが立ち上がる。よろめきながらベッドを離れ、逃げるように目の前の壁へと縋り付く。

 つられて立ち上がったが、フローラの全身から伝わる拒絶に二の足を踏んだ。

 ──────どうして。

「……めん……なさい」

 壁に向かって俯かせた顔を更に僕から背けて、フローラは今にも消えてしまいそうな声で、呟く。

 華奢な肩は、初めて魔物に対峙した時と同じくずっと震えている。君の薬指に光る白銀の指輪が、その指が、心臓の痛みに堪えるように白い胸へと爪を立てて。

「どうか……、お一人で……行ってください。ビアンカさんの、元へ」

「────どうして」

 それしか、言えなかった。どうして。どうして、君を置いて行かなきゃいけない。

 一緒に行きたいって言ったじゃないか。その為に、二人で試練を越えたじゃないか。

 僕の悲愴な問いかけにも、君はやはり、緩く首を振るだけだった。

「…………もう、良いの……、です」

 震え続ける肩をぎゅっと抱きすくめて。ますます小さく感じられる君が、絞り出すように、言葉をつなぐ。

「選んで、いただけただけで、十分だったのです。身に余り過ぎる幸福を、いただきました。……なのに」

 痛ましげなのに、揺るぎなく響く声。君の矜持かもしれなかった。けれど、今にも崩折れそうな肩が、君を冒す苦しみの昏さを物語る。

「私は愚かにも、一緒に……行きたいなどと、わがままを言って。あなたを縛って、繋ぎ止めて、しまいました。その所為で、無駄に時間を使わせて──やっぱり、私は……あなたに相応しくなど、なれなかった」

「そんなこと、ない。無駄でも、わがままでもないよ。──聞いて、フローラ」

 君に届く言葉を選べない。もどかしくて、必死に呼びかけるけれど君はこちらを見てくれない。

 ────あの日みたいだ。

 求婚の前日、ビアンカの想いを汲み取った時の、君みたいだ。

「……魔法だって、使えません」

 押し殺すような、ひどく痛々しいフローラの声が、耳に、頭の中に直接こだまする。

「守って、いただく、ばかりで。魔物ひとつ、相手できませんでした」

 守るって言ったのに。僕が守るって。

 それすら、君を追い詰めるだけだったのか。

「ビアンカさんは──ビアンカさんなら、お一人で山を歩けるほど、お強くて。魔法だって、お上手で。私は、ビアンカさんのようには……あなたの力には、なれない────」

 彼女の、苦し過ぎる独白を聞いているうちに、

 腹の底から、ずっと積もらせた昏い感情が。

 君を知ってから何度も葬り去ってきた、僕の醜さが。

 君の毒に誘われるように、ゆっくりと頭をもたげた。

「──……、フローラは」

 一人で行け、と言った。

 それは、ただ挨拶をしに行けという意味ではなくて。

「ビアンカが選ばれるべきだったって……言いたいのか?」

 

 

「──────っ、だ、って」

 

 

 今、この瞬間に、

 はじめて君が迸らせたその感情は、

 痛々しいほどの、────ただ深い、ふかい、哀しみ。

 

「盾、を」

 苦しい、苦しすぎるそれを。

 フローラはきっと知らず肩をきつく抱いたまま、小さく己を抱きすくめたまま、吐息とともに少しずつ絞り出す。

 彼女を蝕むそれを、その毒に抗いながら、少しずつ。

「天空の、盾を。……私と結婚したら、渡すなどと……父が、言わなかったなら」

 張り詰めて、今にも決壊しそうなそれを、必死に己の内に押し留めて。

 ──────そこまで、

 彼女を追い詰めてしまったのは、

 

 

 

「────あなたは、

 ビアンカさんを選べたのでは……ないのですか……」

 

 

 

 はらり、と。

 地面に花弁が舞い落ちたように、

 彼女の言葉が、唇から重く零れて、落ちた。

 

 よろめいて、ぶつかった壁に身体を預けたままフローラは動かない。

 ……僕も、動けなかった。

 時計の音しか聞こえない静寂の中、彼女の落とした哀しい問い掛けだけが、僕の感覚を縛り上げていく。

 違うよ。

 本当は僕も、そう思われることを怖れていた。

 他の誰よりも君に、そう思われてしまうことを怖れていた。

 ずっと、ずっと求めてきたから。天空の伝説を、それに纏わるものを。父の悲願の為だけにずっと、生きてきたから。

 僕を知る人は皆、盾が手に入って良かった、と言う。

 結婚式でも参列席から漏れ聞こえた「上手くやりましたね」という声。

 もしかしたら、ヘンリーだってそう思ったかもしれない。盾の為に結婚を決めたなどと、軽蔑されたかもしれない。

 ──────違うのに。

 今、僕自身が望んでいることは、そうじゃないのに。

「……もう、いいのです。もう、あの盾はあなたの……もの」

 力なく、首を振る。幻のように儚く、フローラのかそけき声がこの真っ白な空間に響く。

 

「……お願い。……どうか、もう、

 ……あなたは────自由に…………」

 

 透明な雫が、

 彼女の頰を伝い、降り落ちる。

 

 もう、

 どうしようもなかった。

 

 衝動のまま手を伸ばし、涙に濡れる細い手首を殆ど強引に、乱暴に引き寄せた。

 驚き濡れた瞳を見開く君の頰を捉まえて、

 無理矢理に唇を重ねる。

「……っ────!」

 唐突に唇を塞がれもがく彼女を、その両手の自由を奪って。

 苦しげに吐息を漏らす君の隙間に舌を滑り込ませて。

 震える背中に、腰に、腕を回して捕まえて。

 小刻みに震える身体を何度も何度も抱きしめて、舌を絡めとる。濡れた音が密かに響いて。絡み合う吐息は熱く、どちらのものともわからない心音がこだまする。細く、今にも折れそうな指の隙間に己の指先を潜り込ませれば、君が応えるように握り返してくれる。

 やがてわずかな蜜を吐息と共に零し、名残惜しくも唇を解放して。

「────それ以上は、聞かない」

 まだ、荒く息をつくフローラを抱きすくめ、耳許に囁く。

「いらないよ。そんな、自由なんて」

 睫毛に涙を滲ませたフローラが、困惑した表情で僕を見上げる。

「……君がいない自由なんか、いらない」

 びくり、と君が腕の中で身体を震わせる。その折れそうな身体を、頰を擦り付けて抱きしめて。

「盾が欲しかったんじゃ、ない。そうじゃないよ……」

 どうして、今まで一度も言わなかったんだろう。

 もう、そんな勇気がない、なんてこともなかったのに。たった一言、この想いを口にしていたら、君はここまで苦しまなかったはずなのに。

「……好きなんだ」

 当たり前すぎて言わなかったなんて、言い訳にもならない。

「好きなんだ。君が好きだ。君しか、君以外に、僕が欲しいものなんてない……!」

 もっと強く、腕に力を込めれば、君の頼りないほど細い腕が、そっと僕の背を滑って。

 小さな掌が、僕の服を遠慮がちに、掴む。

 震えるその肩を肯定するように抱きしめれば、君の碧い小さな頭が、この胸に甘やかに埋まる。

 ────微かな、嗚咽が、吐息を乱して。

「ごめん……ごめん。ずっと、言いそびれていて。こんなに泣かせて……こんなに、苦しませてしまった。本当に、ごめん」

 ふるふると、君は僕の腕の中でまた力なく頭を振る。

 震える手で、崩折れそうな肢体を懸命に僕に縋りつかせて。

「────っ、……すき……」

 か細い、今にも消えてしまいそうな声が、埋まった胸許から静かに届く。

「……、……好き……あ、なたが……っ、好き────」

 一言、発するたびに苦しげに息をつきながら、君が腕の中でしゃくりあげる。

「すき、なの……っ」

 あんなにも、苦しかった。

 あんなにも辛く、思い悩んだのに。

「────うん。僕も、……好きだ……」

 このたった一言で、全ての痛みは霧散して溶けてなくなる。

 初めからずっと、その心だけが欲しくて。

 僕にしがみついてうずくまる、君の碧い髪に頰を埋めれば、甘やかな悦びが、痛みの代わりにこの胸を浚っていく。

 ────君を欲するたび、初めての感情に翻弄された。

 どんなに苦しくても、何度自分を嫌悪しても、

 この想いを手放そうとは思わなかった。

 滑らかな髪を掬って、綺麗な形の額を撫でて。涙に濡れた頰を口づけでなぞる。

 もう一度、呼吸ごと君の唇を塞いで、飲み込む。

 柔らかな唇を甘く噛めば、君が愛くるしい声を漏らして。

「……僕と一緒に、来てくれる?……」

 離れゆく唇の中に、密やかにそう囁けば、君が濡れた頰を耳まで赤らめて微かに頷いてくれる。

 湧き上がる愛しさを全て込めて、僕はもう躊躇いなく、やっと捕まえた君を抱きしめた。

 ……あの日の誓いが、この胸に去来する。

 この世界で僕だけが、この手で君を幸せにすると誓った。

 誰にも渡さない。手放したりしない。

 僕を好きだと言ってくれた君を、

 ────死が、二人を分かつまで。

 

 

 

 

 

 その夜は、以前より枕を近づけて、並んで休んだ。

 たくさん泣かせてしまったから、軽く濡らした布をフローラの目許にあてがいながら、僕らは小さな灯りを頼りに寄り添いあって、これまでのことをぽつぽつと告白しあった。

 ──ろくに話もせず夫婦になってしまったから、これからはこんな風にたくさん、お話しましょうね。

 そう、密やかに囁いて、はにかむ君が可愛くて仕方なかった。

「……まだ、眠くない?」

 そう問いかけると、フローラはこくりと小さく頷いて。

「こんなに、近くにいると思うと……眠れそうになくて……」

 吐息だけでそう答えた彼女は、恥じらいを隠すように軽く目を逸らして俯いた。

 あまりに可憐なその横顔に、今にも何処かに吹き飛んでしまいそうな理性を必死で押しとどめていたら、ふと、数日前訊こうと思った些末事を思い出した。

「……そういえば、さ」

「はい……?」

「どうして、寝たふりをしていたのか……聞いてもいい?」

 フローラの吐息は、まるで生まれたての雛鳥の羽音のようだ、と思う。彼女が息を詰める気配が似ていると思う。

 かそけき音だけれど、僕はきっとどこにいても聞き分けられる自信がある。

「……ど、して、そう……?」

 驚きのあまり、声音を掠れさせて君が問い返す。その髪を一房掬い上げて、そっと口づけを落として。

「……なんとなく。でも……」

 髪に、唇を寄せただけなのに。ぴくんと身を捩るフローラはあまりに繊細で、清純で。

「手を……とったから。かな」

 奴隷生活が長かったせいなのか、戦闘の中で培われた感覚なのかはわからない。

 ただ、触れれば──見ただけではわからなくとも──それが深い眠りか、そうでないかはわかる。

 あの夜。フローラは眠っていなかったはずだ。僕が部屋に入ったことも、手のひらに口づけて行ったことも……おそらく気づいていたはずだ。ベッドに入ったのがいつかはわからないけれど、少なくとも僕の来訪は分かっていて、目覚めないふりをした。

 フローラはそんな僕の言葉を、噛みしめるように聞いていた。

 その瞳に少なくとも先程の慟哭は見られなくて、僕はひっそりと安堵する。

「……テュールさんの、仰る通りです」

 ぽつり、と独り言のようにフローラが呟く。

「あの晩──あの夜は……ビアンカさんとあなたを祝福しなければ、と……そればかり考えて、いました」

 誤解は解けたと思っても、彼女の静かな独白は、僕の胸をこの上なくきつく締め付ける。

「朝になれば、あなたはきっとビアンカさんを選ぶから。私は笑ってお祝いしなくては、って……」

 どうして、そんな風に思ったの?

 視線だけで問いかけたら、フローラは困ったように……口の端に自嘲めいた笑みを零した。暫し逡巡したあと、静寂に溶け込む声で密やかに、答える。

「お似合いだと、思ったのです。……私などよりずっと。その場所は──あなたの隣に居るべき方は、初めから私ではなかったのだと……」

 その時を思い返しているのだろう。フローラの表情は見たことがないほど翳りを帯びていて。

 遠く、遠くを見遣るように。暗闇にその視線を沈め、フローラは訥々と話し続ける。

「あの時、アンディが──ひどい火傷を負って帰ってきました。……看病しながら、私、とても……怖くて。あなたが火山の、もっと奥へ向かったと、アンディが言っていたから。無事にお帰りになっても、またすぐに旅立たれて。お見送りもできなくて、私……」

 そこまで呟いて、君は長い睫毛を祈るように伏せる。美しい碧髪がさらりと寝着をつたい落ちて。

「……ずっと、無事なら何もいらないって、祈っていました。お願いです、私の信心をお聞き届けください。私の全てを捧げても構いません、あの方をご無事にお返しください、って」

 ……だから、代償だったのだと。

『テュール』が無傷で帰る、その手助けの為に、神が僕にビアンカを引き合わせたのだと。

 神が巡り会わせたのがビアンカだったからこそ、フローラは身を引かなくてはならなかった。僕と結ばれることこそが、フローラが捧げた代償だった。

 ──そう、フローラは判断した、ということ。

「……莫迦げた、思い込みに過ぎませんでした」

 眸を伏せたまま自嘲めいた呟きをこぼす、フローラをただ抱き寄せることしかできなかった。

 そんなものは結果論で、僕は実際ビアンカの助けを必要としていたわけではなかった。火山だって、僕と仲魔達には少し苦しかった程度。それでも──もしかしたら、それらもフローラの祈りが為したことかもしれない。もちろんそうではないかもしれない。誰にも、貴き神の本当のご意志を測る術などないのだから。

「ただ、……あの夜の私は愚かにもそう、思い込んでいて。あなたはきっと、ビアンカさんと行く、と……告げにいらしたのだと、思ってしまったから……」

「…………うん」

 僕が首肯して、それきり暫し沈黙が満ちる。

 すっかり夜も更けて、先程までざわついていた街もすっかり寝静まったようだ。

 静謐な暗闇に、さらさらと木々が揺れる音と、時折ホゥ、と梟が啼く声ばかりがかすかに響く。

 ────フローラ。

 その悲しみは、君も僕を望んでくれていたが故のものだと、そう思ってもいいのだろうか?

 そういう話を、今日に至るまで僕達はしたことがなかった。タイミングも、きっかけもなに一つ持てなかった。

 誰々と結婚しろとか、諦めろとか。

 周りの誰もが言いたいことを言うばかりで、本当はこの気持ちは間違いなんじゃないかって、何度も何度も自問した。

 だって、恋なんて知らない。こんな気持ちは初めてなのに。

 この想いが本物かどうかなんて、どうやったら判別できる?

 いっそ子供じみた独占欲でしかないのかもしれないって、今でもずっと、不安なんだ。

 誰が決められるというのだろう。誰かが鑑定でもしてくれるというのか。これが偽りなき愛だと。真実、運命なんだと。

「──諦められると、思ったんです。まだ出会って間もないから、あなたのことはまだよく知らないから。……なのに、駄目でした。つらくて、胸が張り裂けそうで……あなたの口からそれを告げられる瞬間がくるのが、怖かった。すべて運命に委ねようと思っていたのに、愛憎に狂っていく自分なんて認めたくなかった。だから……」

「うん。──……うん」

 淡々と、呟くその様は押し殺した感情の大きさを思わせる。

 愛憎に狂っていく自分。その感情には、僕も覚えがあった。

 何度も何度も、見ないよう蓋をして閉じ込め隠した僕の黒い嫉妬。

 君の気持ちを知ることが怖くて、何度も何度も怖気づき、躊躇して、言葉を呑み込んだ。あの頃の自分。

 俯いたままのフローラの額を僕の肩で受け止めて、背中をゆっくりと摩る。静かだけれど、緊張が伝わってくる、その背を。

「……でも、あなたに誤魔化しは通りませんね」

 そこまで囁いて、フローラは長い睫毛を落としてゆるりと息をつく。僕にその華奢な身体を預けたまま、

「……愚かな女と、思われましたか」

「いや。──何だろう。溺れそう」

 感じたまま、正直に言葉にすると、さすがに少し怪訝な表情でフローラが僕を窺い見る。

 そんな顔も、可愛い。……と言ったら怒られそうだけど、そんなやりとりもいいな、と思うと自然と口角が緩むから、僕も大概救いがない。

「そんなに、そうやって、君も僕を求めてくれていたんだって思ったら。──嬉しくないはずが、ないよ……」

 言葉の最後は、口づけに飲み込ませて。ゆっくり、深く一度だけ唇を食んで、フローラの綺麗な瞳を覗き込む。

「────好きだよ」

 まつ毛が触れそうな至近距離。

 暗がりの中でも僕をほのかに照らす翡翠の眸。

 この世界の誰よりも近くで、君を独り占めできる悦び。

「初めて会った、あの時から……君に惹かれた。どうしようもなく、焦がれた。他の誰かのものになる君なんて、考えただけで耐えられなくて……」

 耳許に囁けば、少しくすぐったそうに首をすくめる、その仕草も愛らしいと思う。

「父のこと。天空の武具のこと。その為にこの街に来た、ってことですら忘れていたくらい──君に、溺れているんだ。僕は」

 わずかに潤んだ瞳も、熱をもった頰も、桜貝の唇も。

 鈴が鳴るような軽やかな澄んだ声。朝露に濡れて咲いたばかりの花の香り。その髪は、穏やかに晴れ渡る春の空のように、荒ぶる事を知らぬ碧。白く滑らかな肌を辿って指を絡ませれば、その小さな掌は存外にも荒れていて。

 彼女を構成する何もかもが、ただただ限りなく愛おしい。

「今だって、夢を見ているんじゃないかって思う。こんな幸せな夢、見たことがない……ずっと、昏い夢を見てた。眠るたびに父の最期が夢に顕れて。なのに……君を、知ってから……あの夢を見ていないんだ────」

 微かに目を瞠る、フローラにそっと微笑みかけて。

「もう、君がいなければ眠ることだって、できない」

 薄手の寝着を纏ったフローラはその体温だけでほんのりと温かい。その壊れそうな身体を、縋るように抱きしめて。

「……愛してる。ずっと、僕の隣にいて……、フローラ」

 僕の切実な声に応えるように、フローラが僕の背に腕を這わせ、そっと、優しい抱擁を返してくれる。

「……誰よりも、お慕いしております。──そう、わたしも、溺れてしまっているの……」

 その囁きに胸が熱くなるのを感じながら、僕はまた、彼女の濡れた頰を掬い、やわらかな唇を幾度となく啄ばんだ。

 

 

 それから、どちらからともなく、

 僕達は互いの素肌を重ねて。

 思うままに求めあい、何度もひとつになったあと、

 僕とフローラは融け合うように眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 こどもの、声がする。

 

 

 

 まだ幼いこどもの、呼び合うような声。

 恐らく、男の子と、女の子がひとりずつ。

 こどもの頃の僕とビアンカだろうか? と思ったが、やがて視えてきた髪がフローラと同じ碧色で、ああ、これは夢だ、と思う。

 ああ、そっか。うん、……いいな。

 真っ白な、暖かな光に満ちたその空間で遥か遠くを見渡せば、こどもたちと、仲魔達、その中心に愛しい君。相変わらず美しい、輝くような碧い髪をなびかせ、穏やかな微笑みをたたえた君が僕を振り返る。

 いつだって、君が一番先に気づいて、見つけてくれるんだ。

 僕は知っている。

 僕も、そうだから。

 

 

 

『────あなた』

 

 

 

 

 

 

 初めて、願った僕の未来。

 

 僕自身の為に、僕が初めて、欲した。

 

 君と二人、紡いでいく、

 未来を。



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#25. あたたかな、光~side Flora【終章1】

 生まれたばかりの心地良い、瑞々しい風が頰を撫でる。

 朝の澄んだ気配に身じろぎし、うっすらと目を開ければ──鼻先にぶつかりそうなほど近くに貴方の顔を見つけて、どきりと心臓が跳ね上がった。

 

 ────私、あなたと……

 

 昨夜の記憶が、一気に脳裏を駆け巡って。いっそ爆発してしまいそうなほど身体が火照るのを感じる。大好きな、誰よりも大切なその人は、恐らく昨夜の行為そのままの姿で穏やかにその瞼を閉じている。規則正しい寝息と落ち着いた鼓動が、触れた肌越しにほんのりと伝わる。

(……あたたかい……)

 まだ、自分の心臓はうるさいくらいに高鳴っているけれど、その温もりに少しだけ、ほっとした。

(……、すき)

 彼の、整った睫毛をぼんやりと眺めていたら、昨日何度も伝えた言葉が口をついて溢れそうになる。

 ────好き。

 こんな気持ちが在ることすら、今まで全く知らなかった。

 こんな想いを知る日など、私には来ないと思っていた。

 少し、視線を移せば、彼の腕や胸元に、恐らく古い傷であろう痕が無数に見える。

 どんな世界に、生きてきたのだろう。

 少しだけ聞かせてもらった彼の生い立ちは余りにも凄惨で、自分が如何にぬるま湯に浸かってきたのか思い知らされた。

 十年にも及ぶ長い時間、光のない世界を生きてきた人が。

『君がいなければ、眠ることだってできない』

 私を見つけて、私を望んで……そんな風に言ってくれた。笑ってくれた。

 嬉しくて、嬉しすぎて胸が痛むなんて、知らなかったの。

 ──絶対に、良い妻になろう。

 誰よりもこの方に相応しい女でありたい。

 昨夜は彼の優しさに甘えて、随分と醜態を晒してしまった。

 愚かな、情けないばかりの私を、それでも彼は愛しいと言ってくれた。

「テュール……さん」

 その、名を。大切に、噛みしめるようにそっと、呟いて。

「……フローラ」

 聞こえないくらいの囁きだったと思うのに、眠っていたはずの貴方は、私の声を当たり前のように拾ってくれる。

「──おはよう」

 少し、照れ臭そうに。貴方が微かに笑って、囁く。

「おはよう、ございます……あなた」

 その優しい響きに胸がいっぱいになるのを感じながら、私も微笑む。

 そんな私を、まるで玻璃の置物にでも触れるかのように、そっと抱きしめて。

「幸せすぎて……怖いな」

 耳の奥に、甘い声が直接流し込まれるような感覚に、私の躰は昨夜の快楽を呼び覚まされるように──びくん、と背筋が震えてしまう。ぁ、と小さな声まで漏れて、あまりの恥ずかしさに身悶えてしまいたくて、私は慌ててシーツに顔を埋めた。

 そんな私の反応を愉しむように、彼はくすりと笑みを零して。

「すごく、可愛い。フローラ」

「……も、もうっ……」

 きっと私、今どこまでも真っ赤になっているわ。

 身体の全てが心臓になったみたいに、ばくばく鳴り響いているもの。

「そんな顔をされたら、また触れたくなってしまう。──身体、辛くはない?」

 少し、悪戯っぽい笑みを口の端に浮かべて、でも変わらぬ優しい面差しで、私を気遣う言葉をくれる。

「は、い……大丈夫、だと……思います」

 おずおずと私が答えると、テュールさんはほっとしたように息をついた。

「本当に、ごめん。加減が全然できなくて……今日は無理しないで。辛かったら、休んでいていいから」

「いえ、そんな……平気です、私」

 慌てて、被せるように答える。だって、今日は出立の日なのに。休んでなんていられないもの。

「そ、そうですわ、朝食の前に湯浴みを────」

「⁉︎ フローラ!」

 立ち上がろうとして、あ、と思ったのもつかの間、テュールさんの腕が咄嗟に私を抱き止めてくれる。

 脚に力がうまく入らず、身を起こした勢いで寝台から転がり落ちそうになったみたいで。

 昨日に続く醜態に、そして自分が全裸だったことにも今更気づいて、またもや私は身体中を沸騰させてしまう。

「ご、ごめんなさ……、こんな」

「謝ることないのに。良かった、間に合って」

 俯く私にシーツを被せて、あまりに優しく撫でてくれるから、ついつられて顔を上げてしまう。

 ──上げた先には、貴方の……慈愛に満ちた微笑みが、待っていて。

 そっと、触れるだけの口づけを、落としてくれる。

「……あー……駄目だ。自制がきかない」

 唇が離れていく瞬間、溜息混じりに自嘲気味な囁きが聞こえる。

 でも。

 私も、触れて欲しいって……思ってしまうの────

 その囁きへの同意を込めて、彼をそっと見上げると。

 ちょっと困ったように、少し耳を赤らめて、貴方は笑う。

「……湯浴み、一緒に……いい?」

 きっと、そういう意味であることを、私は理解して。

 恥ずかしさをこらえるために一度肩をきゅっとすくめてから、私を抱き寄せてくれる彼の唇に届くよう──黙って、身体を擦り寄せて口づけを返した。

 

 

 

 

 

(ほとんど、私からねだった……のに……)

 本当に、情けないことに。すっかりのぼせてしまった私は、湯浴みの後しばらくソファから動けなかった。

 せめて浴室の掃除くらい、自分でしないと恥ずかしいと思って何とか立ち上がろうとしたけれど、腰も膝もがくがくと嗤ってしまって歩くことすらままならない。そんな私に呆れるでもなく、テュールさんは何度も謝罪の言葉を口にして、私をソファに横たえるとすぐに館の奥へと消えていった。

 ──ああ……私、これほど何も出来ないなんて……

 昨夜はようやくお互いの気持ちを打ち明けあって、色々なことを話して。私が勝手に感じていたテュールさんとの距離感も、テュールさんとビアンカさんとの関係のことも、一切の憂いが断たれるほどになった。だから──今度こそ、良い妻になろう。もっとしっかりしようって、誓ったのに。

 わがままを言って同行を願い出たのも自分のくせに、いざ出立の日にこの体たらく。情けなさすぎてじわりと目尻が熱くなる。

 テュールさんにお会いしてから、私……涙腺が緩すぎだわ。

 自分は我慢強い方だと思っていた。少なくとも記憶にある限り、人前でこんなに泣いたことはない。我慢強いというより──今まで、それほどまでに感情が昂ることがなかっただけかもしれないけれど。

 テュールさんは、不思議。

 修道院に入って、シスターも皆穏やかな方々だったけれど、テュールさんの持つ雰囲気はこれまでお会いした他の誰とも違う。

 どこまでも優しくて、どこまでも穏やかで──そう、母なる海のような広さ。神が降り立った瞬間の、波一つなく輝く海のことを凪と呼ぶのだと、昔乗った船で教えられたのを思い出す。

 それに似た深い愛情をたたえながら、きっとその、ずっとずっと奥で、もっと凄まじい激情をも秘めているひと。

(昔……占い師の方が言っていた『光』というのは、やっぱりテュールさんのこと、なんだわ……)

 ほとんど記憶に残っていない、そんな邂逅をふと思い出す。

 私は、両親の本当の娘じゃない。

 まだ生まれたばかりの赤ん坊の頃、不思議な盾と共に泣いていた私を、旅行中だったルドマン夫妻が見つけてくれたのだそうだ。

 盾から離すと一層強く泣くから、とりあえず揺り籠がわりに盾を裏返してその中に寝かせていたのだと、母が良くおどけて話してくれた。

 父にはその盾の文様に覚えがあり、拾った赤児の変わった髪の色も気になって父なりに色々調べたのだという。

 結局、その盾がどうやら天空の盾と呼ばれる伝承の品に良く似ているということ以外、明確なことは分からなかったそうだけど、盾が本物ならば無暗に所在を明らかにするわけにはゆかない、そして共に居た私もまた捨て置いてはおけない──との判断で、私は旅先で生まれた子供として二人の娘になった。ただ、私のような碧髪はとても珍しいらしく、両親は私を好奇の目から守る為、旅を終えても病弱と称してサラボナの街中にはあまり出さないようにした。そういうわけで、幼い頃、私が言葉を交わせた同年代の相手といえば、ルドマン邸に時折出入りしていた鍛治師さんの息子のアンディだけだった。

 ルドマン家の娘になって五、六年ほど経った頃、私は修道院に入ることが決まった。

 表向きは花嫁修行と療養を兼ねて、内実も似たようなものではあったものの、どうやら本当の目的は──本当かどうかは分からないけれど、神託をいただいたのだと、父が一度だけ話してくれた。

『お前は聡い、佳い娘だ。まだ幼い頃から自分の立場を良く理解し、儂ら夫婦に仕えてくれた』

 人払いをした書斎でそう切り出した父は、大きな掌で私の頭を撫でた。

『お前はな──フローラ。その身に大きな運命を背負っているという。それがどんなものかは、儂にもわからん。ただ、大いなる護りと共にあれと、お告げをいただいた。さすれば運命はお前を光へと導くであろうと。先日占星術の大師を招いただろう、あの方が仰られた。もしもそれが本当なら……儂はお前に、その運命とやらを生き抜く力を備えさせてやらねばならん』

 盾が私を護り、私が盾を護るのだ。父はそう解釈し、ゆくゆくは盾の守役である私と共にその役目を果たしてくれる相手が現れることを予見して、修道院に入れることを決めた。盾のことは内密に、決して外に漏れぬよう計らってもらい、私は盾と共に凡そ八年間、修道院で過ごすことになった。修道女として、また良家の子女として学びながらも、修道院の奥に用意された個室で一日に何冊もの本を読み、魔術について、魔物について、この世界とかつての伝説について──そういった知識を得ていった。いつか必ず必要になる、そう自分を叱咤して励み続けた。

 それまでの私の人生に、私の意思など不要だった。私という存在は盾の為にあり、いつか来たる運命の日まで盾を護ることだけが私の存在意義だった。

 それで良いのだと、私自身は納得して生きてきたつもりだった。──けれど、いざサラボナに戻った時、父が当の私を無視して結婚相手を決めようとしていること、名乗りを上げてくださった皆様にとんでもない条件を突きつけようとしていることを知った時は、さすがに憤りを禁じ得なかった。

 ──私は確かに盾の守役かもしれないけれど、盾の為なら誰を犠牲にしてもいいなんて考えが許されるはずがないのに。

 父の意図は理解できなくもなかったけれど、それが余計に私を苛立たせた。父に対してそんな風に思うのも、初めてのことだった。

 ──私が本当に、天空の盾の守役であるならば、

 そんなことしなくても、『光』へと導かれるのではないのですか。

 盾と共にあれば、いつかは。

 そう、訴えてみたけれど、父は眉根を寄せるばかりで。

「お前は些か甘さが過ぎる。少し頭を冷やしてきなさい」

 そう言ったきり、私を屋敷から追い出してしまった。

 あまりに無力で、やるせなくて。

 だからって、今まさに結婚相手の噂に浮き足立つ街を迂闊にふらつくこともできなくて。

 せめて、庭にいた仔犬のリリアンと戯れて気を紛らわせようと思ったら、

 唐突に、リリアンが駆け出した。

 

 慌てて追いかけた、その先に────

『光』を、

 見つけた。

 

『光』だと、思ったの。

 

 とても穏やかな、懐かしい空気を纏った方。

 懐かしいのに、視たことがないほどあたたかい光が、彼から溢れ出ているように見えた。

 目映い光ではない、けれど、きっと世界のどんな暗闇も塗り替えてしまいそうな、すべてを癒してしまいそうな。

 不思議な強さを感じる、優しくてあたたかな、光が。

 その光に当てられて、私は言葉を失ってしまった。

 リリアンはそんな私に目もくれず、彼の足元に寄り添い鼻を鳴らす。

 リリアンを抱き上げた彼の、深い、黄昏のような濃紺の瞳が私を映した瞬間、────

 

 ああ。

 

 ひどく嬉しくて、泣いてしまいたい。

 何故かしら。たった今、出逢ったばかりの方なのに────

 

 

 

 

 

「フローラ」

 一番呼んで欲しい声に呼ばれた気がして、私はふっと薄く目を開ける。

 ──いつの間にか、眠ってしまっていたのかしら。

「……ごめん。少し、うなされていたように見えたから」

「私……?」

 言われて、ひた、と頰に触れれば、確かに一筋濡れているのを感じた。

 ──泣きたい気持ちの夢を見たから、泣いてしまっていたのかしら。

「大丈夫……?」

 睫毛に滲んだ涙を指で拭って、テュールさんがそっと覗き込んでくれる。

「……あなたの、夢を見ていました」

「僕の────?」

「ええ。……出逢った日の、ことを」

 そう、呟いて、貴方の頰に手を伸ばす。

 手を伸ばせば、届く距離。

 ずっと逢いたかった、わたしの、光。

「一目、見た瞬間────泣きたいほど嬉しかったことを、……思い出して、いました」

 私の告白に、貴方がわずかに瞠目する。

 その精悍な頰をなぞり、いつも貴方がしてくれるように、精一杯優しく、微笑んでみせて。

 いつか、ちゃんとお話ししますね。

 今日はこれから忙しいのだから。旅装に着替えて、遅い朝食を用意しなくては。両親に挨拶して、街の人にもお別れを告げて、そうして盾と、少しの荷物を持ってあの馬車に乗り込むのです。

 運命へと続く、この永く遥かな旅路への第一歩を、

 貴方と共に、……共に踏み出す日なのだから。



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#26. すべての世界を、君に【終章2】

 その塔は、街の入口と対になる豪邸の向こうに聳え立っていた。

 街を遠くから望めばすぐに目につくその塔の存在には気づいていたが、街からほど近くに建てられたそれが何を意味する建造物なのかはわからなかった。何かを守るためなのか、何かを祀るためなのか。

「幼い頃、よくここにこっそり入り込んで遊んだんです」

 いよいよサラボナを発つ直前、最後に行っておきたいところがある、と言ったフローラと共に、僕は今その塔の最上階を目指している。

 白壁をなぞり、軽く息をつきながら階段を上る彼女が少しだけよろめいて、咄嗟にその背に腕を添えた。碧い双眸が僕を振り仰いで、恥ずかしそうにそっと微笑む。その手を片方、掬い取って僕も微笑みを返した。

「小さい頃は特に、あまり街に出してもらえなかったので。幼い私にとっては、大人達の目を盗んでここに登るだけのことでも大冒険でした」

 かつん、と軽い足音を立てながら、僕の知り得ない君の話を聞かせてくれる。

「……それって、アンディも一緒だった?」

 幼い頃のことというとどうしても気になってしまって、でも僕の嫉妬心に気づかれるのもなんだか癪で。なるべく感情を気取られないよう、静かな調子で問うてみたら、君が少しだけ驚いたように僕を見た。

「──アンディは……いえ、ここに来たことはありません。私の遊び相手として、時折屋敷を訪れてくれていただけなのです」

 それだけ言って、彼女は目を伏せ、さらりと流れた自分の髪を眺め遣る。

「この髪が、珍しいと言って……妙な噂になることを恐れたのか、両親が私を外に出しませんでしたので」

 それは、なんとなく納得できることではあった。恐らく隔世遺伝の類なのだろうが、ご両親の髪はフローラとは似ても似つかぬ栗色と黒。要らぬ詮索を嫌ったのは当然だっただろう。僕もまた、これまでの人生で色々な人に会ったように思うけれど、フローラのような鮮やかな空色の髪は今までに見たことがない。

 ──────空色の、髪?

 否、どこかで。遠い記憶の揺蕩う底で、何かが蠢いたけれど。その正体を探り当てる前に、君の小さな声が耳に届く。

「……ここは、街とは反対側にありますから。人目を避けて、一人になりたい時にはちょうど良くて」

 塔をところどころくり抜いた窓の一つに手を添えて、外に広がる高い空を君が見上げる。

 そうしていると、本当に空から地上へ舞い降りた女神のように見える。

「じゃあ、ここは君の隠れ家みたいなもの、だね」

 軽くおどけて微笑むと、君も嬉しそうににこりと笑い、頷く。

「はい。……一度、父に見つかって怒られてからは、控えておりましたけれど」

 落ち着いた君に似合わない、そんな悪戯っぽい告白をそっと囁いて。君にもそんな無邪気な頃があったんだ、と当たり前のことをこんなにも嬉しく感じる。

「こうしてどなたかと一緒に登るのは、テュールさんが初めて、です」

 ──そして、そんな風に、微笑んでくれる。

 嬉しくて、幸せで。ついもっと傍に寄りたくなる。

 昨日、ようやく気持ちを通わせるまで、こんな風に話せるようになるとは思っていなかった。

 ずっとこうして、君と話したいと思っていた。

「……嬉しいな。君とこうやって、初めてのことができるって」

 思ったままのことを口にしたら、僕の肩のあたりにある君の耳が、かぁっと紅く色づいたのが見えた。

「もう、初めてのことばかり、です……」

 その言葉の本意はわからなかったけれど、何となく昨夜と、今朝のことが思い出されてしまって。僕もまた気恥ずかしさがこみ上げてしまい、君と手を繋いだまま、空いた手できっと赤い頰や口許を覆った。

 ──駄目だな。幸せすぎて、緩みすぎてる。

 かなり高いその塔を半分も登ったところで、フローラが次第に足をすくませ始めた。

 心なしか顔色も段々と青ざめてきて、僕と握りあった掌にしがみつくように身を寄せる。

 そうしてしがみつかれるのは正直浮かれるほど幸せだったけれど、フローラがただならぬ様子であるのを喜んでみているわけにはいかない。

「フローラ、……怖い?」

 恐る恐る訊くと、フローラは怯えた瞳を一度僕に向け、申し訳なさそうに目を伏せる。

「……克服、してから、旅立ちたいと……思ったのですが……」

 言葉尻に力無い溜息を滲ませて。君は見るからに肩を落とし、形の綺麗な額を僕の肩に預けてくれる。

「……申し訳ありません。実は……あの、……高いところが、苦手で」

 ────────可愛い。

 そんな、苦手なところがあるのも。こうやって気まずそうに告白してくれるのも。怯えを隠さないのも、それなのにこうやって頑張って、高いところに登ろうとしてしまうところも。

 可愛くて、可愛すぎて、先に僕がどうにかなってしまいそうだ。

「謝ることないよ。寧ろ、……嬉しい、って言ったら、変かな」

 なるべく真っ当な労りの言葉をかけてあげたかったのに、相変わらずうまい言葉の一つ選べない僕はそんな拙い言い回しになってしまう。

 案の定、どこか怪訝な表情で見上げられてしまい、苦笑するしかない。

「ごめん。──あんまり、君が可愛くて」

 どうにもにやけてしまう口許を腕で隠しながら小声で言い添えると、君もまた目を瞠り、赤らんだ頰を隠すように顔を背けた。

「だって、……高いところが苦手、だなんて。これからの旅の妨げになりこそすれ、役に立つとは思えませんわ」

 まぁ、確かにそれは、そうかもしれないけど。

 高いところくらい、僕がずっと支えてあげるし。

 君がうっかり落ちないよう、ずっと手だって繋いでいたいし。

「……君は、天女みたいな人だから」

 ふと、思いついたイメージをそのまま、言葉に替えてみる。

「空から堕ちたような気がして、怖いのかもね」

 いつかどこかで聞いた、空から堕ちた天女の御伽噺。

 あの天女の顛末はどんなものだっただろうか。空に還ってしまっただろうか。──フローラが手の届かぬ高みへと還ってしまうなんて、僕にはきっと耐えられないと思ってしまうけれど。

 空の欠片のような君を見ていると、美しい君が空から堕ちてくる様がすんなりと絵になって浮かぶ気がした。

 僕の戯言を黙って聞いていたフローラは、どこか虚を衝かれたような顔をして、微かに目を見開いて遠くを見ていた。

「あ。ごめんね、変なこと言って」

「いえ、──いいえ。ちょっとだけ、驚いてしまって」

 ふるふる、と君は首を振り、握った手の腕に華奢なその身を寄せて僕を見上げる。

「一番上まで、行きたいのですけれど。……付き添っていただけ、ますか?」

 震え出しそうなまでに怯えの色を滲ませながらもそんなことを言う。このひとは、どれだけ僕を悦ばせれば気が済むんだろう。

「もちろん。落ちたりしないよう、僕が捕まえていてあげる」

 翠の旅装に包まれた肩に手を回して抱き寄せると、彼女がほんのり身じろぎをして、赤い顔を小さく俯かせる。

 それから、肩を抱いて寄り添いあったまま、続きの階段を上った。

「何度も、ここには忍び込みましたけれど。……やっぱり怖くて、一番上には一度しか上がれたことがないんです」

 僕にほとんどその温もりを預けたまま、最上階から吹き込む爽やかな風にしなやかな碧髪を躍らせて、君がぽつりと呟いた。

 かくして、塔の最上階は。──広く開け放たれた物見台のような場所だった。全方位、サラボナを取り囲む全ての風景がここにある。ずっと続く河と森林の向こう、あちらにあるのはルラフェンだろうか。僕が潜ったばかりの滝の洞窟はきっとあの辺り。水がキラキラとこの遠くまで反射の光を寄越す。見渡せば遠くに水平線、そして南にごつごつとした火山帯。このサラボナの地形、稜線まで全て見通せる、高い塔。

「すごい。一望できる」

 思わず呟くと、僕にしがみついたフローラが微かに頷き、僕の視線を追った。

「……一度しか、見たことがない光景なのですけど。とっても怖かったのに、何故か……この眺めだけは、忘れられなくて」

 彼女が風に攫われないよう、強く抱き寄せ直して。腕の中のフローラを見下ろす。

 僕の視線に気づいたのか、君も僕を少し見上げて、笑う。

「もう一度、今度はあなたと一緒に見られたことが……、嬉しい」

 そんな、可愛いことを言ってくれる君が本当に愛しくて。

 僕も微笑んで、そっとその額に口づけを落とした。

 彼女は眩しそうに目を細めて、またほんのりと微笑んでから、遠いこの風景を眺める。

「この塔は、私が生まれるよりずっと前から建っているのだそうです。何でも、魔物の襲撃に備えて父が建てたのだとか」

「お義父さんが?」

「ええ。詳しいことは聞かされていませんが……見張りをするくらいですから、何か良くない予兆を感じることがあったんでしょうか」

 彼女の言葉に頷き、僕はつい最近訪れた祠のある小島を目視で探す。

 小島は、ここから祠の外壁までとても良く見えた。晴れた空の下に小さく浮かぶ小島は先日、夜中にフローラと二人で歩いたそことは違う場所のように見える。

 昨日、壺の色を伝えた時の義父の安堵の顔。色が青以外の何色かに変わることを恐れているのが、僕にも察せられた。もしかしたら、あの壺は本当に魔界か何かからの敵の襲来を知らせる為のもので、この塔はあの小島をここから監視する為に建てられたものなのかもしれない。

 この塔が役割を果たしてしまう日が来ないことを、ただ祈るしかない。

「──それでも、私にとってここは、外の世界に触れられる唯一の場所で。この塔の窓から見える風景をモチーフにして、遠くにある町や村や城のことなどをあれこれ想像するのが好きでした。どんな町かしら、どんな服を着た人達がいるのかしら。どんなお祭りをやっていて、……私はいつか、どんな方と出会えるのかしら、って……」

 その澄んだ声を聞きながら、幼い君が塔の窓から顔を出して、遠い国々へと想いを馳せている愛らしい姿を想像した。

 もし僕がその場にいたら、きっと君にこう言っただろう。

『僕が全部、見せてあげる』

 空想の中の子供の君に、幼い僕が呼びかける。

 その言葉のまま、たった今この喉からこぼれ落ちた独り言を、大人の君が拾い上げて。振り返った君の頬を、慈しみを込めてそっと、撫でた。

「一緒に、見に行こう? 君が見たかったもの、全部」

 幼い君の願いを、これから僕が叶えるんだ。

 君の二つの翡翠の瞳に映り込む僕を覗きこむ。やがて君がやわらかく笑んで頷き、僕は満ち足りた想いを噛みしめながら、彼女の珊瑚の唇を食むようにそっと、自らを重ねた。

 わずかな間、彼女の優しい体温を直に感じて。

 吐息混じりに唇が離れた頃、彼女が小さく、呟いた。

「……私にも、ずっと見続けている夢が、あるんです」

 かき消えそうな告白に耳をすませば、君は困ったように少しだけ眉を寄せて、力なく微笑む。

「空しか、見えない。雲よりずっと、ずっと高いところから落ちてくる夢……どこから落ちているのか、それが私なのかも、わかりません。物心つく頃からもう、何度も、何度も────」

 繋いだ手が、僕の腕に抱き込んだ身体が、わずかに震えたのがわかる。

 できるだけ優しく抱擁を返すと、君が顔を上げて、応えるように笑ってくれる。

「……天女ではありませんけれど。先程のお話で、この夢のことを思い出してしまって」

「そっか。──嫌なこと、思い出させてしまったかな」

「あ。いえ」

 抱きすくめた僕を顎を持ち上げて懸命に見上げ、君は視線を彷徨わせて言葉を探す。

「嫌、というのとも少し、違って。……怖いけれど、嫌な夢ではないんです。寧ろ──」

 そこまで言って言葉を飲み込むと、君は僕の腕の中、めいっぱい真っ直ぐに首を上向きに傾けて、高く遠い空を見上げた。

「夢の、始まりがいつも、曖昧で。それをずっと、知りたいような気が……するんです。一体、どこから落ちているのか。始まりにはいつも、誰かがいる気がする、けれど、目が覚めると思い出せない……」

 それきり、彼女は遠い空の向こうを見つめたまま、軽すぎる体重を僕に預けて口を閉ざす。

 どんな夢なんだろう。たった一人、雲より高いというその場所から落下する情景を視るなんて。きっと羽などなく、自らの重さだけで加速しながら宙を凪ぎ空を割って落下する、あの激しく心許ない心地。

 そんな夢を幼い頃から幾度となく見続けているのなら、高いところが恐ろしくもなるだろう。

「……お恥ずかしいです。あなたが長い間苦しんでこられた、お父様の夢の方がずっとお辛い話なのに……こんな話、されても困ってしまいますよね」

「そんなことない。話してもらえて嬉しいよ。そりゃ、僕にはすぐに何かしてあげられるわけじゃないけど……知っているだけで、違うってこともあると思うんだ」

 君を包み込んだ腕に力を込めながら一生懸命伝えたら、ちゃんと受け取ってもらえたみたいで。君が穏やかに頷くのを見て、ほっとして少しだけ、力を緩めた。

「無理、しないでいいからね。怖い時は……目を瞑っていたっていいんだから」

 今一度、抱きしめたまま君の手を取る。振り返って見上げた君の碧い髪に頰を埋めて、握った左手の指をそっと絡ませて。

「そういう時は、僕が君の眼になる。君がどこにも落ちていかないよう、僕が君を抱きしめる。絶対に離さない。絶対、僕が守るから……」

 とりとめなく。思ったまま、口にした誓いの言葉に、君がほんのりと首筋を赤く染めて、はい、と応えてくれる。

「……でも、やっぱりもう少し、頑張ります。私も……私こそ、あなたにもっともっと相応しい私でありたいから」

 そんなの、今のままで十分すぎるのに。

 それでも君の、その気持ちがたまらなく嬉しいから。

「それって、ずっと傍に居てくれるってこと……、だよね?」

 思いっきり君の言葉を意訳して、嬉しさのあまり口角が緩んでしまうのを必死で堪えて君の愛らしい瞳を覗き込む。

「え? ……ずっと、……居て良いのです、よね?」

 至近距離で僕に見つめられて、あわあわと赤い顔で視線を泳がせる。そんな君も、たまらなく可愛くて。

「もちろんだよ。──嫌だって言われても、きっと離れられないけど」

 だって、君は、僕の最愛の妻なのだから。

 もう一度だけ、と頰を掬い取って柔らかな唇を啄ばんだところで、遠くから定期船の接近を知らせる汽笛が聞こえた。

 塔の遥か下をちらりと見遣れば、川上から大きくない船がこちらへ向かって緩やかに航行しているのが見える。もう半刻もすれば、あの船は折り返して山奥の村のある奥地へと向かう。

「残念。時間切れみたいだ」

 名残惜しくも唇を離し、君を抱き上げたまま立ち上がる。物見台の段差の上に足をかけ風に煽られれば、きゃっ! と高い声で叫び慌てて僕にしがみつく君を、思い切り抱きしめて。

「行こう。この世界の全て、空の果てまでだって、一緒に」

 怖々頷く君に、こみ上げるまま笑顔を向けて。

 大丈夫。何処へだって行ける。だって、君には僕がいるし、僕には君がいるから。

 抱き上げたまま踵を返し、今来た階段を早足で降りていった。必死にしがみついてくれる君の温もりと重みを、その倖せを確かめながら。

 今頃、下では仲魔達が出発の時を待っているだろう。馬車には君の証である天空の盾、父の証である天空の剣。その二つを携えて、僕は未だ見ぬ運命へともう一度、踏み出す。

 この街で出逢い、やっとこの手に捕まえた、

 唯一無二の大切な君の手をとって。



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#27. さよなら。またね~side Bianca【終章3】

 十年以上の久方ぶりに再会した幼馴染のテュールが、新婚ほやほやの可愛らしい奥様を連れて山奥の村を訪れたのは、あの盛大な結婚式から一週間以上経ったある日の午後のこと。

「随分と遅かったじゃないの」

 自宅の居間に二人を案内し、向かいの席に腰掛けながら冷やかすように笑って言えば、二人は顔を見合わせ、それから揃って申し訳なさそうに肩を縮める。

「申し訳ありません、ビアンカさん。色々手伝ってくださったのに、ろくに御礼も申し上げられず……」

「やだ、フローラさんはたくさん言ってくれてるわよ! ごめんなさいね、気を遣わせちゃって」

 テュールが言い訳を口にするより早く、フローラさんが真摯な声で頭を下げてくるものだから、私は慌てて首と手をぶんぶん振ってみせた。

「ほーんと、テュールには勿体なさすぎるお嫁さんよねぇ。私と代わってよ、テュール」

「……そればかりは、例えビアンカの命令でも聞けないな」

「命令って何よ!」

 まるで幼いあの日に還ったみたいにテュールと軽口を叩き合う。フローラさんは少し気後れしたように私達を眺めていたけれど、テュールが何やらひそひそと彼女に耳打ちすると、春風のようにふわりと相好を崩してくすくす笑った。

「ちょっと。何、ひとの目の前で堂々と悪口言ってんの?」

「言ってないよ。むかーし、ビアンカの命令で真夜中にお化け退治をやらされたんだよね、って言っただけ」

「だから命令してないって! 『誘った』のよ、フローラさんの前で人聞きの悪いこと言わないでよね!」

 私達のやりとりがますます可笑しいのか、フローラさんは口許を押さえたまま小さく肩を震わせている。

 うん、私も楽しい。こんな風に気兼ねなく軽口を叩きあえるなんて、何年ぶりだろう。

 ──そんな関係を、続けさせてくれたのは。

 紛れもなくこの子、なのよね。

「確かあの頃は僕の方が体も小さかったのにさ、遠慮なく僕を盾にしてくれたよね。あー、ビアンカのメラが肩をかすめて火傷したっけ、忘れてないよ」

「騙されちゃ駄目よ、フローラさん。テュールだってノリノリだったんだからね? 王妃様の幽霊に面と向かって『おばさんだぁれ?』ときたもんよ。普通は体が透けてりゃ腰抜かすわよ」

「六歳の子供に何を求めてるわけ……悪い魔物じゃなかったんだからいいだろ、別に」

 あまりに遠慮なくポンポン言い合うものだから、フローラさんが少しだけ困ったように私達を交互に仰ぎ見る。──と思ったら、テュールがフローラさんの視線を掬い取るように頰に手を添えて、優しく撫でているのが見えた。

 ──すぐ、気づくんだ。

 その光景にちりり、とわずかに胸が痛む。

 すっぱり諦めたつもりだけれど、やっぱり、何も感じないわけではないみたい。

「お二人とも、とっても仲が良くて……羨ましくなってしまいました。お二人の小さい頃のお話を聞けて、嬉しいです」

 そう言って控えめに微笑むフローラさんは、本当に、すごくいいお嬢さんだなって思う。

 そう、いい子なのよ。そりゃあもう、ものすご────く。

 多分私、ここまで素敵なお嬢さんには今まで会ったことがない。

 可愛いし、女らしいし、慎ましやかだし、上品だし、育ちの良さがその佇まいから如何なく顕れていて、それでいてお人好しだし、優しいし、身分や地位みたいなものを鼻にかけたところがちっともなくて。

 ああ、本物の淑女ってこんな人のことを言うんだ、って感動すら覚えてしまう。長く宿屋を営んできて、いろんな人を見てきた父さんでさえ、フローラさんを見た途端すっかり固まってたのが可笑しかった。

 せめて、もうちょっとでも嫌な子だったら、私ももう少し意地を張れたのに。

 ──なんて、そんなの言い訳に過ぎないんだけど。

 少なからず男前と呼べる部類の人間とはいえ、彼女を見事射止めた幼馴染には改めて畏敬の念すら抱いてしまう。ほんとすごいよ、テュール。

「テュールの昔話だったら、これからたっぷり聞かせてあげる。今夜は泊まっていくんでしょ? 宿とった?」

「いや、もう少ししたら行くよ。また旅に出るから、今日は挨拶に来ただけなんだ。これからポートセルミに行って────」

「は? 今から? フローラさんも一緒に⁉︎」

 当然宿泊していくものだと思ったら、散歩にでも行くみたいにさらりととんでもないことを言い出すから、思わず変な声が出てしまった。

「もうすぐ日が暮れるじゃない。よりによって今から? ポートセルミまで何日かかると思ってんの? あんたフローラさんにどんだけ無茶な旅を強いるつもり⁉︎」

「違うって! ルーラですぐに行けるから‼︎」

 渾身の人でなし呼ばわりを、これまた全力で否定するテュールの悲痛な叫びに、あ、そっか。と腑に落ちる。そういえばテュール、不思議な魔法を習得してたんだったっけ。

「ああ、あの……ぶっ倒れちゃったやつ」

「それ、人数と回数が多すぎただけだからね?」

 相槌に憐みをこれでもかと込めてやったら、恨みがましげに受け流された。フローラさんの前で言うなってか。はいはい。

 まったく、ちょっと見ない間に随分仲良くなっちゃってさ。

 恐らく平静を装っているものの、フローラさんはさっきからすごく私に気を遣ってくれている。

 多分、私が傷ついた素振りを見せたら、真っ先にいたわってくれるんだろうな。

 フローラさんは、きっとそういう人だもの。

「あ。じゃあ、温泉! 入って行かない?」

 ふと、我が山奥の村一番の名物を勧めてなかったことに気がつき、ぱちんと手を打ってフローラさんの方へと身を乗り出す。

「この間少し話したでしょ? この村に来たからには、やっぱり温泉に浸かって行かないとね! ここの温泉は気持ちいいわよー。滋養強壮に疲労回復はもちろん、美肌にもいいって評判なの。山の空気を胸いっぱいに味わいながら入る露天風呂! 最っっ高よ。あ、テュールには言ってないから。ねね、フローラさん、どお?」

「ビアンカさん。おたくのところの温泉、確か混浴じゃありませんでしたでしょうか」

 幼い頃からの宿屋業で磨いた私の唄うような口上に、すかさずテュールが冷や水をぶちまける。大方フローラさんを他のお客に見られるのが嫌なんでしょう。気持ちはわかるけど、狭量ってもんだと思うわ。

「ちゃんと貸し切ってもらうってば。魔法ですぐ行けるんだったら時間だって大して気にならないでしょ? 女二人、水入らず! ね?」

 貸し切れるのかよ、聞いてないよ! と目で訴えてくるテュールを無視してフローラさんの華奢な手をとりずずいと迫ると、彼女は気恥ずかしげに頬を染めて目を泳がせ、答えに窮するように口籠った。

 か、可愛い。

 女の私でもくらりとくる可愛らしさ。

 多分フローラさん、こういう、温泉みたいに他人と浸かるようなお風呂って入ったことないんだろうな。初めてだとちょっと抵抗あるわよね。うんうん。

 サラボナのお嬢様が病弱らしいって噂はこの村にも聞こえていたし、もし療養に来ることがあればお目にかかっていただろうから、少なくとも私がここに越してきてからのご来訪はなかったはず。

 だったら尚更、ここの温泉の良さを知ってもらわなくちゃ!

 それに、この機会を逃したらもう一生、伝えられそうにないもの。

「ビアンカ、僕のいないところでフローラに何を言うつもりだよ……」

「失礼しちゃうわねえ。あのね、私とフローラさんだからこそ一対一(サシ)で話したいことがあるわけよ。当事者なんだからそれくらいわかるでしょ?」

 別に今更、回りくどい言い方しなくてもいっか。ぴしゃりと核心を言ってのけると、不肖当事者のテュールはぐっと言葉を詰まらせ、悔しそうに私を軽く睨めつけた。いい気味だこと。

「私に妙なこと吹き込まれたくなければ、大事に大事に閉じ込めてこんなところに連れてこないことね。過保護も度を越すと鬱陶しいわよ! ──さ、フローラさん行きましょ? 露天だから陽が傾くと寒くなっちゃうもの。テュールは父さんの相手でもして待ってて!」

 言いたいことだけ一気にまくし立て、私はフローラさんの華奢な腕をとる。ほんのりと頰に紅をさし、あの、と尚も夫の答えを伺うフローラさんに、テュールは如何にも苦々しい笑みを向ける。

「──まぁ、フローラも……入りたいって言うんなら……」

「決まりね」

 肝心のフローラさんの返答は聞いてないけど、腕をするりと絡ませて戸外へ向かうよう促す。と、フローラさんはますます頬を赤らめて私を見た。えっ、私?

 どうやら嫌がられているわけではないらしい反応に私はちょっと気分を良くして、フローラさんを自慢の露天風呂を備えた宿屋へと意気揚々ご案内したのだった。

 

 

 

 ────っていうか、気づきなさいよ! あンの安本丹ッ‼︎

 

 他のお客様を追い出し……こほん、出払ったあとの温泉でフローラさんと二人きり、浴布を巻いて丁度良い熱さの湯に浸かりながら、私は心の中で激しく毒づく。

 初めはフローラさんが髪を結い上げた時、首筋にうっすら浮かぶ赤黒い斑紋を見つけてしまって。

 病弱とは聞いていたけれど、何か厄介な皮膚の病だったりするのかしら。あら? でも先日、結婚式の準備で髪を整えた時には見かけなかったわよねぇ。そんなあさってなことを考えつつも、とりあえず何も聞かずに案内したのだけれど。

 温泉の地面が滑りやすくて、よろめいたフローラさんを支えた時に気づいてしまった。

 彼女の肌に浮かび上がる無数の痕。あれは────

 フローラさんの肩を支えたまま、はだけた胸元をがっつり凝視してしまった私を見て、フローラさんもようやく気づいたみたいだった。あわあわと身体中を真っ赤にして、何故か必死に謝られながら半ば温泉に身投げをされて今に至る。

 や、天然というか、仕方ないでしょこれ。多分、そういう知識はお持ちでなかったんだろうし。フローラさんを見ていればなんとなくわかる。

 あの子も、ただ単にわかってなかったんだろうけど。多分、やっぱり想像もしなかっただけなんだろうけど。

(がっつきすぎでしょ、あの莫迦……っ‼︎)

 色々話したいことがあったのに、これのお陰でどう話しかけていいかわからない。見るからに初心(うぶ)で無垢なお嬢様に、あんたなんってことしてくれてんのよ‼

 ああ、ほんと、一発くらい殴ってもいいかしら。

 結婚できるほどには二人とも大人なのだし、テュールだけを責めるのは理不尽かもしれないけど。……でも、あの痕をつけたのは十中八九テュールな訳で。フローラさんが自発的につけられるような場所にはどれもついてない訳で。そういうのをさ、これでもかとつけておきながらよ? 私がフローラさんを温泉に誘った時点でフォローしきれてなかったって言うのは……

 うん、やっぱり後で一発はたこう。

 心密かに私がそう決意するのと、フローラさんのか細い声が聞こえたのはほとんど同時だった。

「……あの、……ほんとに、お恥ずかしいところを……」

 なるべく肌を隠そうとしているんだろう、真っ赤な顔を口許近くまでお湯に沈めながらフローラさんが呟く。

「い……いいの、いいの。私こそごめんなさいね、あんな風に見られたらそりゃ恥ずかしいわよね」

 なるべく優しく、これ以上怖がらせないように言ったつもりだったけど、そりゃあ……

 私でもこんな状況、悶死するわ。しない方がおかしい。

「い、いえ、ビアンカさんは何も……本当に、なんて言ったらいいのか……」

「わ、わかったわ、わかったから少し風に当たりましょ。大丈夫よ、私達以外来ないから! そんな風に浸かってたらすぐにのぼせちゃうわ」

 私の言葉に、フローラさんは首まで浴布を巻き直し、きゅっと肩を抱いたまま少しだけ顔を持ち上げる。

「普通にしてて、大丈夫だから、ね?」

 なんだか、フローラさんがずぶ濡れで怯えている子犬みたいに思えてきて、とにかく早く安心して欲しくて、私は懸命に言葉を選んだ。

「……ありが、とう、……ござい……ます……」

 ますます消え入りそうな声で真っ赤な顔を湯の中へと沈ませる彼女を慌てて押し留める。

 ああもう、こんな可愛い子にここまで恥ずかしい思いをさせて。

 つくづくテュール、赦すまじ。

「……あとで、私からも言ってあげるからね。今度からはせめて、もっと見えにくいところにしてもらうのよ?」

「っっ──────」

 ぱく、ぱくと言葉もなく唇を震わせながら、フローラさんがついに固まった。ありゃ失敗したかな? と思いつつも、知った以上は同じ轍を踏ませるわけにはいきませんから。

「ほんと、ごめんねぇ……不肖の弟が。もう夫婦なんだから好きにすればいいとは思うんだけど、やっぱりこんな風に恥じらうことになるのは女の貴女なんだから。やらかした張本人が全く気付かないってのは、さすがにどうかと思うわ」

 溜息とともにそんな風に詫びると、フローラさんはまだ頰を紅潮させたまま、ほんのわずかに目を瞠った。

 やっと目が合って、私は彼女に微笑みかける。

「無理に、連れてきてごめんね。どうしても貴女に……言いたいことがあって」

「……?」

 小首を傾げる可愛らしい彼女の、碧い瞳を真っ直ぐ見つめて。

 ずっと、伝えたかった言葉を解き放つ。

 

 

「……チャンスをくれて、ありがと」

 

 

 本当はね。とっくに分かってたの。

 テュールが、私と再会したあの時には既に、貴女を選んでいたって。分かってた。

 私と話しているくせに、見え隠れする貴女の影。

 私と居るくせに、ここには居ない貴女に想いを馳せてるテュールの瞳。

 無理を通して、水のリングを探す冒険に同行させてもらったけど、テュールの想いはちっとも揺らがなかった。

 貴女に夢中だったからなのか、私はテュールの恋愛対象にすらなれなかった。

 水のリングを手に入れた瞬間に見せた、とろけそうなほど甘く優しい面差しは、今も鮮明で忘れられない。

 貴女とは出会ったばかりで、まだろくに話も出来ていないって聞いて、なんでもっと早く再会できなかったんだろうって思った。

 私が先に会ってさえいれば、テュールは私を選んだんじゃないかって。

 こんなに気があうのに、仲が良いのに、私より相性の良いひとなんているのかって。

 テュールが求婚しようとしているフローラさんを、一目見たかったのは本当。どんな人なのか知りたかったのも、本当。

 でも、本当の奥底には、もっともやもやした気持ちがあった。

 私の方がテュールに相応しいって思いたい、気持ち。

 もしもフローラさんが高慢ちきで嫌なお嬢さんだったら、私が助けてあげなくちゃ。

 もしもフローラさんに他に想い人がいたら、傷つくであろうテュールを私が慰めてあげなくちゃ。

 遅い初恋にのぼせているだけかもしれないんだから、危なっかしいテュールを私が見ていてあげなくちゃ。

 そんな、打算があった。綺麗事の裏に隠し通した、私の醜い、どろどろした感情。

 

 貴女が私を引き留めた時、

 敵わないって、直感した。

 

 わかるわ。あんなに真っ直ぐ、テュールに向けられる気持ちを目の当たりにしたら。

 フローラさんは、フローラさんだってきっと初めから、テュールのことが好きだった。好きで、好きで仕方ないくせに、私の存在を誰よりも尊重したのよ。出会って数分の、その幸せに水を差しにきた女を。

 こんなお人好し、テュールの他に見たことがないわよ。

 私、自分の立ち位置を守ったまま、叶いそうになければ黙ってやり過ごそうとしてた。でも、あわよくば、って期待もしてた。──フローラさんが嫌な人だったらいいのに、なんて、私の方がずっと嫌な女だったよ。

 そんな、狡い私の気持ちを、自分の幸せなんかそっちのけで汲み取って、テュールと向き合うチャンスをくれた。

 逃げちゃ駄目って。私のために、そうしてくれた。

 だから、私はあの夜、言えずに蓋しようとしていた想いを正面から伝えることが出来た。

 だから、テュールは真摯な想いを私に聞かせてくれた。

 たとえ叶わなくても、私の、テュールの……お互いの気持ちは誰よりも深く、理解し合うことが出来た。

 それは紛れもなく、フローラさんのお人好しのお陰だった。

 

 

 今ならわかる。

 再会したのがフローラさんより先でも、テュールはきっとやっぱり、フローラさんに恋をしたのだろう。

 もし先に会っていたら、私はテュールが恋をする残酷な瞬間を、この目で見なくてはならなかったのかもしれない。

 例え、長く過ごした義理で私を選んでもらったところで、きっとテュールも、私も、フローラさんも。誰もこんな風に幸せには、なれなかったんじゃないかな。

 

 

 そう思うのは、

 今が、幸せだから──なんだよね。

 

 

「わ……、わた、しは何も……」

「引き留めて、くれたでしょ? あの場では気丈にしてたけど……フローラさんだって辛かったでしょうに」

 あの時の、呼び留めた時の凛とした姿が嘘のように今、狼狽えるフローラさんに、私は少し苦い笑みを零す。

 そう、凛として。とても美しい立ち姿だったけど、あの時もその手は微かに震えていた。

 どんな想いで、呼び留めてくれたの。

「フローラさんのお陰で、私、自分の気持ちにちゃんと決着をつけることができたの。あの時呼び留めてもらわなかったら──きっと今も、引きずってしまっていたと思う……」

 それが私の精神的に、決して良い状態ではなかったということも、今だからわかる。

 誤魔化そうとした気持ちは、いつか誤魔化しきれないほど肥大しただろう。見て見ぬ振りをした感情はいつか爆発しただろう。そうなった時、テュールとの関係はきっと、今のようでは居られなくなっただろう。

 そんな私をテュールが選んでくれたとして、今度はテュールが、そしてフローラさんが────

 あんなにも強く惹かれ合う二人が、私の所為で結ばれず。そうして得た結末に、どれほどの幸福が訪れただろう。

 すべて、今だからこそ思うこと。

「……姉、なんですって」

 ぽつりと零したその言葉に、フローラさんが伏せていた睫毛を上げる。

「家族を亡くしてしまったから、──せめて、私には……小さい頃のことをただ知っているだけの、いつまでも甘えられる姉さんでいて欲しいんですって。これからも、ずっと」

 ちょっとだけ悔しいけれど。まだ少し、ほんのりと切ないけれど。

「そう言われちゃったら、ねぇ。何だか目が覚めちゃって」

 そう、私には、私にしかできない在り方がある。

 私のことを『大事な姉さん』と呼んだテュール。

 あんなにはっきり私を選ばない宣言かましたくせに、尚も浮かない顔で言い澱んだテュール。私に促されるまま、その胸につかえていた気持ちをやっと吐き出したテュール。

『僕がフローラを望むことで、彼女を不幸にしてしまうかもしれない。……そう思うと、──それだけが、怖くて……』

 選択肢なんて初めからないくせに、最後までフローラさんの幸せばかりを秤にかけて。

 あの子がその手で倖せにしたかったのは、初めから貴女だけ。

 ……そういう悩みを打ち明けちゃえるほど、テュールが心から甘えられる相手は『姉』である私だけ。

 悔しいから、これは教えてあげないけど。

「それに、フローラさんすっごく可愛いし? こんな妹なら大歓迎だなぁ、って」

「そ、そんなことは……」 

「あら、本当よ? だって私、フローラさんのこと大好きだもの。割と本気でテュールから奪っちゃいたいくらい」

 おどけついでに口を突いて出た言葉だったけど、何だかすごくすとんと腑に落ちた。

 ──ああ、そうね。そうだったのね。

 私、フローラさん『も』大好きなんだわ。

 反芻したらなんだか嬉しくなって、フローラさんの華奢な肩にぎゅっ、と抱きついた。

「ビ、ビアンカさん⁉︎」

「ほんっっ……とーに、テュールには勿体ない。あーあ、何で私女なんだろ。男だったら今すぐ奪っちゃうのになー」

「冗談でもやめてくれ! ビアンカが恋敵とか、勝てる気がぜんっっっぜんしない‼︎」

 せっかく気持ちよく口説いているというのに、脱衣場へ続く扉の向こうから聞こえるはずのない怒号が響く。

 反響で静まり返る湯気の中、フローラさんと私はそっと顔を見合わせた。

「……助平。何でいんのよ」

「あんまり長いから、心配で……様子を窺いに来たんだよ。中は見てないし、見ません」

「言われなくてもそろそろ出ますー。ったくもう、信じらんない! いつから盗み聞きしてたわけ? フローラさん、気をつけなさいな。テュールってば覗きの達人かもしれないわよ」

「だから何でそういうこと言うかな……!」

 憮然とした、今にも地団駄を踏みそうなテュールの声を扉越しに聞いていたら、私もフローラさんも可笑しくなってしまって。どちらからともなく笑いが零れ出す。

 ほら、いいじゃない。こんな空間も。

 ちょっと生意気な、男前の弟分と。この上なく可愛らしい妹分と。

 大好きな二人と、笑っていられるこの空間。

 お互いの大好きな人を、大切に想う者同士の、私の誰より大切な人達。

 この幸せを守れたこと。守ってくれたことに、私は感謝してやまないの。

 願わくば、それをくれた貴方達がどこまでも、末長く、幸せであってくれますように。

 

 

「ご心配ついでに言わせてもらっていい?」

「……聞きたくないけど、どうぞ」

「フローラさんに噛み痕つけるんなら、もうちょっと目立たない場所にしなさいよ。このケダモノ」

「────……ッッ⁉」

 

 

 

 

 

 いつでも、帰っていらっしゃい。

 私はこれまで通り、この静かで穏やかな村で、父と共に過ごしていく。

 いつかきっと素敵な伴侶も見つけて、二人に紹介しちゃうから。

 ──この三人の輪に入れる人なんて、なかなか見つからないかもしれないけど、ね。

 

 だから、気をつけて行っておいで。

 また無事に、逢える日が来るって、信じてる。

 

 

 

 

 信じて、いるから。

 

 

 

 




これにてサラボナ篇、完結です。
お立ち寄り下さった皆様、本当にありがとうございました!

明日は奇しくも主フロの日。幕間として、本日分のおまけにあたる記憶喪失if番外(やや長いです)を挟みまして、第二幕より、舞台はポートセルミに移ります。
物語としては実質これにて閉幕で、続きはまるごと壮大に蛇足な後日談です。
ゲームはいよいよ中盤ですけど、この話は俯瞰すればするほどここで終わるのが綺麗だなと…うん…
だというのに今も書き続けているのは、単に私がこの二人にもっと会いたいというだけのことで。よかったら続けてお付き合いを、と申すにはあまりに冗長な物語になってしまっていて、おこがましいことこの上ないのですが。
いつかまた、ちょろっと見かけられた折などに夫婦の様子を覗いて頂けたら、とても嬉しく思います。

※第二幕は朝夕の2回/日更新していきます。


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第一幕・幕間
七十二時間後の永遠【記憶喪失if】


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あなたは40分以内に3RTされたら、攻めが記憶の一部を喪失している設定で両片想いでじれったい主フロの、漫画または小説を書きます。

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 という、診断メーカーで叩き出したお題です。
 if的な短編として書いたものなので、ご都合主義感は拭えませんが、幕間としてお読みいただいても差し支えないかと思い、第一幕の番外に組み込みました。
 分割しようか悩みましたが、試しにこのまま投稿します。凡そ2.5万字です…目が滑ってごめんなさい…

 祝・主フロ(0526の語呂合わせ)の日!
 本日(の予定が間に合わない気がしてきた…近日中に必ず!)、pixivにもEND後想定の新作短編を投稿します。ポイピクにはそちらの挿絵を投稿済です。宜しければ是非、覗いてやってください。



「ほんっと、ごめんねぇ。勢い余っちゃって……」

 憎まれ口を叩かれて、衝動的に軽くつねってやりたくなっただけなのだが。どうやら相手は身を躱した時、背後にあった食器棚を避けようとしてくれたらしい。有り難い配慮だが、それで頭を打って昏倒していれば世話がない。

 思わず重いため息が漏れてしまって、目の前で屈み込んだ可憐な少女が綺麗な瞳を揺らめかせ振り返った。

「いえ、そんな、ビアンカさんの所為では……ちょっと当たりどころが悪かっただけだと思いますから、どうか気になさらないでくださいまし」

 どうしたどうした? と肩掛けを羽織って出てきた父親が眼を円くして、ビアンカは苦い笑みを返す。すっかり意識を手放した青年の側に侍る碧髪の少女は、彼が惚れ抜いてつい先日めでたく婚礼を上げたばかりの彼の新妻だ。翡翠の瞳をいっぱいに見開き訴えかける様が痛々しくて、どうにかして安心させたくて。気づけばビアンカは目の前の少女に向かって優しく微笑みかけていた。

「ありがと、フローラさん。……ごめんなさいね。せっかくの新婚さんに水刺すような真似しちゃって」

 自分でも驚くくらい慈しみ深い声が出た。少女はそれでも尚、哀しげにほんのり微笑んで首を振る。

 青年とビアンカは幼馴染である。長く疎遠にしていたが三週間ほど前に偶然再会し、今日はその後結ばれた可愛いお嫁さんを連れて遊びに来てくれた。すぐに遠方の街へ向かうと言う若夫婦をもてなして、村の自慢の温泉に新妻を誘った。のんびり秘湯とお喋りを堪能し自宅に戻ってきたところで、青年が放った一言がほんのちょっとビアンカの癪に触った。いつものことである。なのでいつものようにうっかり手が出た。頰をつねってやろうとした手はあっさり躱されたが、たまたまその背後に食器棚があった。勢い余った自分を咄嗟に抱きとめ、さらに棚にもぶつからないよう体勢を変えた青年はビアンカの体重も相まってうっかり脚をもつれさせ、椅子の背もたれに後頭部を強打してしまったのだ。

 すぐに屈み込み手を貸した妻に彼は大丈夫、と呂律の回らぬ様子で答えたが、そのまま意識が飛んでしまった。細い腕で懸命に抱き起こし、妻が回復魔法を施したが意識は戻らない。とりあえずベッドに運ぼうとしたが、体格の良い成人男性を運ぶのは女性二人でも荷が重い。ビアンカの父も病のため長く伏せっていて、体力が著しく落ちている。他の村人を呼んでも良かったが、街の入り口に停めた馬車の中には青年の仲間である魔物たちが控えているという。すぐに彼らを呼んできます、と華奢な令嬢は気丈にもしゃなりと立ち上がった。

「私が呼んでくるわよ? フローラさんはこいつについていてあげて」

「いえ、私が。馬車の場所もすぐにわかりますから……ビアンカさん、テュールさんをよろしくお願いします」

 見守る家主とビアンカに軽やかな会釈を返し、フローラと呼ばれた少女が急ぎ足で家を出ていく。父親もこほこほと軽く咽せながら、倒れた青年を心配そうに覗き込んでいた。

 まったくもう、人騒がせなんだから。責任転嫁でしかないがそんなことを思いつつ、目の前で人事不省に陥った幼馴染みの頰をむにっと摘んだ。

 今更二人きりにされたって、気まずいだけなのよ。

「なんだか、結婚式の日みたい、ね……」

 男のくせに整った長い睫毛を眺めていたら、ぽろりとそんな言葉が唇から零れ出た。父親が怪訝な、どこか寂しげな眼差しでこちらを見たが、気づかないふりで誤魔化す。

 自分自身の結婚式だっていうのに転移魔法の使い過ぎで倒れたこの男を、彼女は世界一清楚な、天使みたいな花嫁姿で、ひたすら献身的に寄り添って看護していた。

 もしテュールがあの時、私を選んでくれていたら────ああやって一番側にいたのは私、だったのよね。

 そんな戯言が一瞬脳裏をよぎる。莫迦なこと考えるもんじゃないわ。頭を振って思考を散らし、腹立ち紛れに幼馴染みの額をぺしりと叩いた。

「こら、ビアンカ。倒れている人間に手荒なことをするんじゃない」

 珍しい父親の小言にたしなめられ、はぁい、と肩をすくめる。と、微動だにしなかったテュールがようやく微かに身動ぎした。

「────う……」

 絞り出すように呻いた彼は、瞼をゆっくり半分ほど持ち上げると尚も茫然としたままビアンカと、白髪まじりの父親の顔を眼球だけ動かして見比べる。

「気がついた? ごめんね、頭ぶつけさせちゃって」

 まだ頭がはっきりしないらしい。なるべく優しく謝りながら額をそっと撫でた。隣で覗き込んでいた父親も安堵したらしく、緩く息を吐く。

「良かった良かった。坊、少しビアンカのベッドで休んで行きなさい。ビアンカや、テュール坊に優しくしてやるんだよ」

 それだけ言って、父親はのそりと立ち上がり軽く咳き込みながらも奥の部屋へと戻って行った。無理させちゃったかしら。小さく丸まった背中を見送って幼馴染みの方を向き直った瞬間、ビアンカはどきりと全身の血が逆立つのを感じた。

 ────びっくりした。

 いつの間にか上体を起こしていた彼の、精悍な顔が、優しくて深い黒曜石の瞳が、食い入るようにまっすぐ、自分だけを見ていたから。

「…………、ビアン、カ?」

 一体どうしたのか、その呼びかけはあまりにも真摯で。心臓を彼の手で直接掴まれているような、恍惚にも似た心地さえする。

 声も出せずに瞳孔を見開き彼を見つめ返すと、幼馴染みはますます身を乗り出した。ビアンカの両の二の腕を強く掴み、揺さぶりながら勢いよく畳みかける。

「本当に……? 本当に、ビアンカ!?」

「は⁉︎ ちょっと何よ、テュール! 寝惚けてるの!?」

 思いの外顔が近くて、赤くなってしまったかもしれない。

 けじめをつけてすっぱり諦めたつもりでも、一度自覚した想いはそう簡単には消えてくれない。どきどきと高鳴る鼓動が耳障りで咄嗟に突き飛ばしそうになったけれど、また頭を打ったりしたら。済んでのところで耐えて、せめてもときつく睨み返した。

 新婚のくせに、自分に気なんかないくせに。何を考えているんだろう、この男は。

 けれど、テュールは────目覚めたばかりの幼馴染みはどこか様子がおかしかった。周りをきょろきょろと見廻したと思えば小さく呻きながら後頭部をさする。まだ痛いのかしら、とビアンカが申し訳なく思ったところで、ひどく心許ない、驚愕に満ちた呟きが微かに、聞こえた。

「っ……だって……え、ここ、どこだ……? 僕は、サラボナに向かって」

 サラボナ?

 ついさっきはポートセルミに向かうって言っていたのに。愕然として見つめ返したビアンカを尻目に、テュールは一人額を抑えて考え込む。何か思い出したらしく唐突に息を呑むと、ほとんど衝動的に腰を浮かせた。

「そうだ、天空の盾……!」

 今にも飛び出さん勢いで立ち上がったが、目を見開いたまま黙って見上げるビアンカにようやく気づいたらしい。申し訳なさそうに眉尻を下げ、彼はゆっくり跪くとビアンカの目の高さに合わせて屈み、その顔を覗き込んだ。

「あ、ごめん。……あのさ、ここ、どこ? 馬車……そうだ、馬車を知らないか? 仲間の……えっと、モンスターたちがそこにいるはずなんだ、けど」

 怖くないよ、いい魔物ばかりだから。一生懸命言い募るテュールにビアンカにはぎこちなく頷くことしかできない。知ってるわよ、プックルもいるんでしょ。言い返したくても、凍りついたように固まった唇は全く動いてくれなかった。

 どういうこと?

 覚えて、ないの? ……嘘でしょう!?

「……助けて、くれたの? なんか、迷惑かけちゃったみたいでごめん。よく僕だってわかったね」

 気恥ずかしげに微笑む幼馴染みが、同じ人なのにさっきとは別人に見える。

 憎まれ口、叩いてたじゃない。どうしちゃったのよ。

 何も答えないビアンカに、テュールは少し怪訝な目を向けた。けれど、再会を驚いていると思ったのだろう。ふわりと目許をやわらげると、優しい手つきで一度、ビアンカの頬をそっとなぞった。

 まるで、愛しく想われていると錯覚してしまいそうな。

「ああ……でも、良かった。ビアンカ、元気だったんだ。アルカパの宿屋にいなくて、残念だけどそのうち会えるかなって……」

 何も言えずその場に座り込むばかりのビアンカに、目の前の男は事もあろうか、甘やかな──それはビアンカがそう感じただけかもしれないけれど──ひどく甘やかで嬉しそうな囁きを、耳許にそっと零す。

「びっくりした。すごく、綺麗になってて」

 ああ、もしかしてこれ、やっぱり夢かな。なんて小さく笑いながら独りごちるテュールを茫然と眺めて、ビアンカはもう本当に、何一つ言葉に出来なかった。

 ちょっとよろけて、頭をぶつけただけ。すぐに意識だって戻った。何も変わらない、このまま何も変わらず、彼らを見送って今日という楽しい一日が終わるはずだった。

 なんでよ。

 先に出逢いたかったって、確かに願ったわ。でも、こんなの。

 夢であってくれれば何倍もいいと思う。神様の悪戯? それともこれは、傲慢だった私への罰なの?

 その時だった。コンコンと軽やかに扉が叩かれ、「ビアンカさん。フローラです、入りますね」と遠慮がちな声が扉の向こうから聞こえた。

 ちょっと待って。今、会わせちゃったら────

 制止する間も無く扉は開けられ、目の醒めるような青が視界一杯に広がる。今日は暑いくらいの快晴だったが、この青はそれだけの所以じゃない。

「テュールさん! 気がつかれたのですね」

 鈴を転がしたみたいな透き通った声が空気を震わせて、碧い髪が風に流され翻る。

 見るからにほっとした愛らしい少女が青年を呼んで、その瞬間彼の真っ黒な瞳が大きく、揺れた。

 澄んだ声に誘われるまま顔を上げる。碧髪の少女の、その瞳の翡翠色がテュールを映した。もう、そのまま、視線はまっすぐ彼女に縫い留められて。

 ……やっぱり、これは罰なんだろう。だって。

 たった一目で恋に陥ちるこの男を、今になって、こんな風に目の当たりにしなければならないのだから。

 

 

「────────君、は……?」

 

 

◆◆◆

 

 

 はじめの一声は、ただ安堵が漏れ出ただけのものだった。

『気がつかれたのですね』

 その瞬間まで何の疑いも持たなかった。だが、茫然と自分を見つめる瞳が昨夜……一昨日と交わしあったものと全く違うことに、フローラもすぐ気がついた。あんなにも優しく、慕わしげに見つめてくれた眼差しが、今はまるで自分を初めて映したと言わんばかりに驚愕を宿し、ただただ大きく見開かれていたから。

 どうなさったのかしら。温泉に入ったあと、どこかおかしなところが……もしかして、さっきビアンカさんに指摘された『痕』が、見えてしまっているのでは。

 思い至ると無性に恥ずかしくなり、思わずぺたりと首筋を隠したところで、傍らから飄々とした声が飛んだ。

「如何なされた、あるじ殿。魔物にでも抓まれたような顔で」

「ピエール。ホイミン」

 ずっとフローラに縫い留められていた黒曜石の視線が緩やかに解かれる。あからさまにほっとした様子で立ち上がりながら、青年は親しげに仲魔たちを呼んだ。

「良かった。実は僕にも、何が何だかよくわからなくて」

 はて、と小首を傾げ合う仲魔たちの側に歩み寄ると、テュールはきょろきょろと辺りを見回し、次いでビアンカを振り返って、言った。

「気づいたらここで、介抱してもらってたんだ。みんなは無事? あ、この人、僕の古い知り合いでビアンカって言うんだけど」

 ………………妙な沈黙が女性陣と魔物たちの間に流れる。

 ん? とテュールもまた首を傾げたが、何とも生温い相槌と共にピエールが続きを促した。うん、と怪訝な顔をしつつ、テュールは更に皆が頭を抱える言葉を発する。

「すごい偶然だよね。まさかこんな風に再会するとは思わなかった。……それで、ここはどこだろう。サラボナからそんなに遠くはないと思うんだけど」

「ちょ……っっっと、待って。テュール」

 喋るテュールの肩を半ば強引に掴み、え? と動揺するその人をそのままずるずるとキッチンまで押し遣った。そこに居て、動かないでよ! と子供に言うが如く強めに言いつけて、ビアンカは急ぎフローラたちの側へ駆け戻る。

「……頭を打ったと聞き申したが。これまた随分と阿呆になられたようで」

「もう! 何言ってるの。さっきからこんな調子でおかしいんだってば!」

 主人が主人なら仲魔も仲魔だ。どこかのんびり宣うスライムナイトに対し、ひそひそとではあるものの思わず声を荒げてしまう。そこへ少し硬い澄んだ声が、りりん、と小さな鈴を転がすようにか細く響いた。

「覚えて、いらっしゃらない……の、ですか?」

 声の主は物腰柔らかな領主令嬢────フローラ・ルドマンだった。否、今はフローラ・グランと名乗っているかもしれない。つい先日、あの阿呆と婚礼を挙げたばかりの清楚な少女は今、自分たちを襲った予期せぬ出来事に震えながらも気丈に相対している。

 自分もこの状況に頭がついていきかねているし、正直叫び出したいくらいの気持ちだったけれど、彼らの姉としての矜持がビアンカを支えた。なるべく動揺を見せないよういつもの顔を装って、ビアンカは両手をひらりと振ってみせる。

「そうみたい。こういうのって、いきなり本人に言ってもいいものかしら。あんた記憶が飛んでるのよ、って」

 ビアンカの言葉を受けて、フローラの翡翠の瞳が一瞬悲しみに揺れた。だがやはり、彼女は気丈だった。ぐっと唇を噛むと長く碧い睫毛を静かに閉じ、何かを思案し始める。

「健忘……記憶の障害は戻る確証がないものだと聞きます。すぐ戻ることもあれば、数十年、或いは一生そのままということも。テュールさんの場合は頭を打ったことが原因なのでしょうから、とにかく後頭部の挫傷の治癒が健忘解消の糸口になればいいのですが」

 さすが、修道院帰りの令嬢は博識らしい。私のベホイミではお変わりありませんでしたが、と落胆するフローラにホイミンがそっと寄り添い、つぎはホイミンがやってみる〜、と懸命に声をかけていた。微笑んで頷く少女を見ていると痛々しくて、堪らない心地になる。

 もう、こんな健気な奥さんにいらない心労かけて。何やってるのよ、あんたは!

「ビアンカ。ビアンカ、あの」

 またもや自分のことは棚上げで、内心悪態をついたビアンカの肩をちょんちょんつつく者がいる。動くなと言ったのに、この阿呆は五分と保たなかったらしい。

 しかめっ面で振り返ると、何やら浮ついた様子のテュールが背後にくっついて覗き込んでいた。「待ってても来ないから。みんな、玄関に集まってないで中に入って話せばいいのに」と人の気も知らずけろりと言ってのける。

「……ところでさ、あのひと……ビアンカの友達? あのひとも、僕を助けてくれたのかな」

 さてはこちらが本命か。さりげなくフローラを目で示し、テュールがビアンカの耳許にこそこそと囁いた。平静を装っているつもりだろうが、明らかにそわそわ落ち着かない。耳朶、思いっきり赤いし。そんな反応を見せつけておいて、いったいビアンカにどうしろというのか。

「仲魔たちを見ても動じないなんて、すごいひとだね。……さすがに怖がられることが多いんだけど。特に、女の人には」

 あんなにお淑やかに見えるのにな、などと感じ入った様子で囁くテュールをまじまじと見つめながら、ビアンカは肩に色濃い疲労感がずしりと溜まっていくのを感じていた。

「……いや、もう、ちょっと黙ってて……」

 忘れてる。やっぱり間違いなく、忘れてる。

 これは何か。仲を取り持てとでも言いたげなテュールの様子にふつふつと苛立ちが募る。紹介しろというならしてやってもいいが、あんたの奥さんでしょ、と言ってやったら今この男は再び卒倒するのではなかろうか。

「あるじ殿、とりあえず一度状況を整理してみては如何か。我々がどこへ、どのような目的で向かっていたのか、こちらの婦女子方にはおわかりになるまいよ」

「ああ。そっか、そうだよね」

 ピエールがまたもや絶妙なタイミングで助け舟を出して、ビアンカもフローラもほっと小さく息を吐く。当のテュールはあっさり頷くと女性たちへと向き直り、自分を救助してくれたことに対するあさってな謝辞を述べた後、彼自身が把握している現状について訥々と語り始めた。

 曰く、自分たちはサラボナという街に向かって旅をしていた。道中の魔物にさほど苦戦した覚えはない。サラボナを目指しているのは、ラインハットという国で勧められたから。訳あって、その街にあるという『あるもの』を手に入れたいと思っている。もう数日でサラボナに着けると思った。確か十日ほど前ルラフェンという街を発って、昨夜は街道沿いの宿屋に一泊したと思う。

 生温い沈黙と共に、ピエールとホイミンが顔を見合わせた。

「なるほど。凡そひと月分というわけか」

「ひと月? 何が?」

 気心知れた相棒の呟きをテュールは聞き逃さなかったが、鉄仮面の小柄な騎士は苦く笑って首を振った。その隣からホイミスライムがおずおずと進み出て、黄色い触手をテュールの後頭部へと伸ばす。

 治癒術を試みるも、残念ながら変化は特になかったらしい。

「も、もどるのかな〜? これ……ホイミンにもわかんない〜〜」

 え、ここ怪我してるの? と驚いたテュールが首から上をさすったが、外傷はない。治りかけのたんこぶがターバンの下にしぶとく鎮座しているぐらいだ。今の治癒で記憶が戻れば、と全員が期待したが、どうやらその兆候もない。

 面倒なのは、彼がちょうどサラボナに着く直前以降の記憶を失っているらしいことだ。この一ヶ月のうちに彼の身に起きた出来事はあまりに目まぐるしく、最も側にいた仲魔たちでさえ彼の状況を正しく説明できる者はいない。

 テュール除く四者の間に再び、何とも言えない沈黙が漂った。

「……とりあえず、『例のもの』については心配要らぬ」

 誰も、何から切り出していいのか判じられず顔色を窺いあっていたが。沈黙に耐えかねたテュールがまた余計なことを言いかけたところで、ピエールが小さく呟いた。例のもの、と濁したが、それが何であるかはテュール以外の全員も当然承知している。

「ピエール、でも……」

「それの持ち主は今この場にいらっしゃるから、心配は要らぬと申しておる」

 もう一歩踏み込んだ発言にフローラが瞠目し、テュールも迷わずフローラを凝視した。この中で今、彼が素性を知らないのはフローラだけなのだから当然だが。

「────それじゃ、もしかして貴女が……富豪、の?」

 遠慮がちに尋ねたテュールに、フローラもまた睫毛を伏せて控えめに頷く。可憐な仕草にとくりと心臓が高鳴ったが、同時に処理しきれない情報量が頭の中を駆け巡った。

 噂の富豪令嬢がここに居る。と、言うことは。

「え、それじゃあここ……もしかしてサラボナ、なのか!? どれだけ倒れてたんだろう、本当にごめん。みんながここまで運んでくれたんだよね?」

 何だろう、変な病だったら嫌だな。いまいち記憶に自信がないんだけど、と再び眉間を抑えたテュールを四者四様にまじまじと見つめた。

 彼なりに必死に記憶を繋ぎ合わせているのだろうが、さっきからテュールが口を開くたびに何かが混乱する。誰も彼もこの状態の彼を扱いかねている。うんざり顔のビアンカがちらりとフローラを見れば、彼女は悲しみとも切なさともつかない、何とも言えない表情で新婚の夫を見つめていた。

 どうするつもりなんだろう。いっそ言ってしまえばいいのに。自分たちは結婚したばかりなんだって。

「あれ? でも……」

 はたとテュールが思考を止めてフローラを見た。再び正面から見つめられてフローラはびくりと身を固くする。何か思い出してくれたのだろうか、と皆ささやかに期待したけれど、彼が口にした言葉は場の空気を更に凍りつかせただけだった。

「ご結婚……決まられたばかりですよね? 申し訳ない、大事な時にこんな、行きずりの旅人の世話をさせてしまって」

 ────言うに事欠いてなんてことを、あんたは!

 喉元まで迫り上がった罵倒を辛うじて飲み込めたのは、ビアンカより早くホイミスライムが声をあげたからだ。

「ごしゅじんさま! ちがうよ、ふろ〜らちゃんは」

「え、何? 僕がどれくらい眠ってたのかわからないけど……もうお相手は決まったんだよね? ほら、指輪だってなさってるし」

 声はひそめたつもりだったが、しっかり聞こえてしまったらしい。さっと青褪めた富豪令嬢がほとんど反射的に、指輪の左手を背後へと隠した。

 指輪のことを指摘したのはあまりに不躾だっただろうか。事情は噂で伝え聞いていたから、そういうことかなと思っただけなのだが。

 ────ただ、どうしてだろう。

 自身で発した言葉だと言うのに、それを口にした瞬間、心の臓を抉り取られるような……ひどく嫌な、違和感が。

 身体の芯を、駆け抜けたような気が、した。

 今までだって決して楽しい半生ではなかった。しかし、こんな奇妙な……言いようのない不快感に襲われたことは未だかつてなかった。

 ……なんだろう。

「だって、結婚相手に家宝の盾を譲るって話だったよね。それは無理だから、とにかく持ち主に相談してみようって話してたんじゃないか。僕が役立たずの間に、ホイミンたちが代わりに交渉してくれたのかなって」

 何もおかしなことは言っていない。旅の途中、仲魔たちに話し聞かせていた内容を繰り返しているだけだ。だというのに、自分を見つめるみんなの目が次第に憐みと戸惑い、ついでに軽蔑めいたものまで満ちてきて、ひどく居た堪れなくなっていく。しかも何故か、碧髪の令嬢を直視できない。何となく目を向けることが怖くて、テュールはそっと彼女から顔を背けた。

 仲魔たちがなんらかの理由で使い物にならなくなった自分をここまで運び、盾を貸してもらえるよう話を通してくれた。それなら彼女が仲魔たちを恐れないのも納得できる。見た目よりずっと豪胆な方だなとは思うけど。

 女性二人から背を向けて、あくまで仲魔たちに向かって声を殺して告げたつもりだったが、珍しく憤慨した様子のホイミンがさっきより更に大きな声をあげて跳ね上がった。

「うも〜〜〜っっ! ごしゅじんさま、あのゆびわはねぇっ!」

「ホイミンちゃん!!」

 すかさず遮ったのはあの、清純な碧髪の乙女だった。切実な、懇願の篭った呼びかけ一つでホイミンの口を噤ませて。

 どこか悲しげに振り返ったホイミンに優しく目配せを返し、少女は緩やかに首を一度振ってみせる。そうして、綺麗な翡翠の双眸をゆっくりとこちらへ移した。

「……いいえ。まだ、お目覚めになったばかりですから。もう少しゆっくり、お身体を休めた方がよろしいですわ」

「あ。は、はい。すみません……」

 母性すら感じられる透明な眼差しに見つめられて、テュールは思わずどぎまぎしてしまう。変に緊張して、呂律もうまく回らない。

 ……また、あの違和感がちり、と胸をかすめた。

「あの、フローラ……さん。その、……盾の、ことは」

 それでも何とか、真っ先に問うべき用件を絞り出すと、花のような清楚な令嬢はまたもや優しく微笑んでくれた。

「大丈夫です。何も……、心配は要りませんから」

 そう言って向けられた表情があまりにも慈愛に満ちていて、けれどどこか胸を軋ませる切なさを覚えて、テュールは相槌も忘れ再び目の前の令嬢に見入ってしまう。

 ……フローラ、さん。

 初めて呼んだ名前なのに、たった一度口にしただけで、不思議と甘く芳しい、けれど苦しい心地で胸がいっぱいになる。

 まだあどけなさが残るその少女はとても優しげで、儚くて清らかで。まるで天空の女神のよう、今にも空に溶けて消えてしまいそうだ。本当に生身の人なのだろうか。見慣れない碧い髪も、彼女の白い滑らかな肌にとてもよく映えて。先ほどから極々わずかに漂う花の香りも、きっと彼女のものなのだろう。……どこかで嗅いだことがあっただろうか。甘くて、何故か恋しい匂いがする。

 旅の途中のどこかで聞いた、サラボナの白薔薇という異名をふと思い出した。実際目にした彼女は白薔薇よりももっと可憐で繊細で、自分の貧相な語彙ではとても形容しきれない。

 こんな、聖女のような少女の花婿に選ばれた幸せな男が、この世にいるのか。

 羨む理由もないのに、妙に肚の中が落ち着かなかった。暗くて苦い、知らない感情が身体の奥底で不気味にざわつく。

 どうやら、盾を探している事情は正しく汲んでくれているらしい。確かに安堵しているのに、心臓をぎゅっと握り潰されるような奇妙な痛みはどうしても消えてくれなかった。

 さっきから、なんでこんな気持ちになるんだろう。

 少し席を外しますね、と令嬢が告げて、テュールと彼女をおろおろ見比べたホイミンが華奢な背を追って出て行った。

 扉に吸い込まれた二つの影を目で追いながら、テュールは胸に芽生えたばかりの、まだ名前も知らないその感情を茫然と持て余していた。

 

 

◆◆◆

 

 

 足早に外へまろび出て、ようやく深く息を吐く。

 室内の雰囲気の所為だろう、ひどく息苦しかったことに気がついた。温泉村であるここの空気は変わった匂いがして、肺の空気を入れ替えれば少しだけ気分がすっきりした。

「ふ、ふろ〜らちゃん……」

 すぐに追ってきたホイミスライムがおずおずと声をかけてくれる。明らかに自分を気にかけてくれたホイミンの心遣いが嬉しくて、でも同時に惨めな気持ちを打ち消せない。せめてもと微笑みを繕い、フローラはホイミンを振り返った。

「……ごめんなさい。私のことは、心配要りませんから」

 あんなふうに出てきたら、きっと皆さん気にしてしまう。

 耐えれば良かった。けれどフローラにはあの時、既に自分を御しきれる自信がなかったのだ。

 泣くのだけは嫌だった。何も覚えていない彼の前では、特に。

「ホイミンちゃんもどうか、テュールさんについていてあげてくださいね。きっと今、とてもお心細くていらっしゃるから」

 せめてもの本心からの願いを託せば、ホイミンはひどく悲しそうに目尻を下げる。

 ホイミンとフローラはサラボナで出会ってからの仲良しだ。フローラの幼馴染のアンディが大火傷をした際、ずっと一緒に看病してくれた。テュール一行が船で水辺探索の旅に出た際もホイミンはアンディの部屋に残ったから、ホイミンだけが他の仲魔たちより長くフローラと過ごしている。

 無欲な主人に初めて『彼女が欲しい』と言わしめた女性。

 そしてフローラもまた、彼の身を案じてずっと眠れずにいたことをホイミンは知っている。人間の世界のことはよくわからないが、なんやかんやあってフローラはいつでも主人の一番隣に居るようになった。ホイミンたち魔物にも分け隔てなく優しいし、美味しいご飯も作ってくれて、おまけにいつもお花のいい匂いがする。大好きな主人の隣を取られる寂しさはあっても、その相手がこれまた大好きになったフローラだったのは、ホイミンにとってたまらなく嬉しいことだった。

「もう少し、様子を見て……どうしても記憶が戻られないようなら、皆さんはポートセルミに向かってください」

 だから、そのフローラがどこか寂しそうに微笑みながらそんなことを言った時……ホイミンは、青い身体のどこかがぎゅうっと悲しく、締めつけられるような心地になった。

「ふろ〜らちゃんは、どうするの……?」

 ────どうするのがいいのかしら。

 自問して、自嘲する。そんなことも自分で判断できないなんて情けない。

 わかっている。対外的に、自分は正当な彼の妻だ。彼の記憶があろうとなかろうと。彼が拒絶しない限り側にいれば良いし、彼もまた、記憶になくても本人と周囲が妻だという人間を邪険にはしないだろう。先ほどの様子を見ていてもそれはわかる。

 わかる、からこそ。

「何で……言わないの。フローラさん」

 込み上げたものをこらえたところで、憤りを抑えた女性の声がした。咄嗟にまた表情を繕い振り返る。

 黙って微笑むばかりのフローラを見て、ビアンカは深々と大きなため息をついた。

「ううん、なんとなく、そんな気はしてたけど……もう」

 思いきりしかめっ面で、フローラの目礼にも愛想ひとつ返さない。今のビアンカにそんな余裕はない。苛立ちを隠さない様子に、フローラもまたひっそりと吐息を漏らす。

 呆れられてしまうだろうか。

 想いを伝えあってから。真実『夫婦』と呼べる間柄になってからまだ、たった三日しか経っていないのだと言ったら。

 きちんと向き合って、話をして、お互いに心を寄せ合っているのだと思えた。想いを通わせあえたから、一緒に行きたいと素直に伝えることもできた。

 ……でも、今の彼は。

 彼はフローラを知らない。盾のことも指輪のことも、初めて出逢ったとき仔犬を助けてくれたことも、フローラが死の火山で火傷を負ったアンディの看病をしていたことも。結婚のことももちろん、知らない。

 好いてくださる理由がない。何も、何もご存知ないのに。

 そもそも、ほとんど話もできていなかった。一目……そう、一目見た時から、と彼は言ってくれたけれど。疑うわけじゃない、けど……今の彼を見て自分を望んでくれているなんて、どうしても思えない。

 寧ろ、────

(やっぱり、……自然、ですよね)

 先ほど目にした光景を思い返し、フローラは密かに俯き、ひっそりと重苦しい息を吐く。

 自然なのだ。自分といるより、ずっと。

 テュールとビアンカ。二人が並んで話をしているその光景が、フローラの目にはいつだってこの上なく眩しく映っていた。

 お似合いだとか、美男美女だとか。形容する言葉はいくらでもある。でも、ただ似合っているというだけではなくて。

 欠けた破片が嵌るみたいに、二人で立つ姿はしっくり、そうしていることこそ何よりも当然のように思えた。

 そして二人もまた互いに、幼馴染みである以上に親密に、心を許しあっているのだろうと。

 フローラにはどうしても、そう思えてならなかった。

 二人こそが、本物の家族────夫婦の、ようだと。

「ビアンカさんもお聞きになったでしょう? 彼は盾を必要となさっていただけなのです。……元々、私と結婚するおつもりは」

「それ以上言ったら怒るわよ」

 険しい顔で遮られて、フローラは困ったように微笑んだ。

 その側にはホイミスライムがふよふよと漂って、ひたすら心配そうに自分たちを見守っている。

「何も遠慮することないわ。話してきなさいよ、私も魔物さんたちもちゃんとわかってるんだから。あなたたちが、夫婦なの。あんな状態のあいつを支えてあげられるのはフローラさん、あなただけなのよ」

 重ねて言葉を尽くしてくれるビアンカに、フローラはやはり固い微笑みを返すことしかできなかった。

 わかっている。彼が、そう言えばきっと受け容れてくれること。あなたの妻だと言われれば、その実感が持てなくとも優しくしてくれることも。

 彼の、気持ちがなくても。

「テュールさんは、『私』をご存知ありません」

 フローラは努めて穏やかに首を振る。さっき見た、とても親しげに顔を寄せ合い話す夫とビアンカの姿が浮かんだ。

「突然、夫婦なのだと言われても……戸惑われるだけ、ですわ」

 どうしても、思うのだ。

 これは、神が与え賜うた最後の機会なのでは。

 何も知らず、この方から彼を奪ってしまった愚かな自分に、ようやく下された審判の時なのではと。

「盾のことは、心配いらないのだと。それだけ伝われば、私はもう……十分です」

 フローラ自身の口から盾の件を示唆されて、ビアンカは密かに唇を噛む。

 盾を探しにきた自分を気取られることを、テュールはずっと恐れていた。ビアンカも、船の上でそれを指摘した時のテュールの取り乱した様子から、何となく察してしまった。

 盾の情報を得るためにサラボナに来たのであって、伴侶を望んだわけではなかった。結婚なんて生涯、するつもりもなかった。────それでも、彼女に出逢い、彼女を欲して、指輪を探し始めた時には盾なんてもう二の次になっていた。

 打算による求婚であり、愛などないのだと。フローラにそう『誤解』されてしまうことこそが、初恋の衝動に掻き立てられたテュールにとって何より恐ろしいことだった。

 それがわかったから、嫌と言うほどわかっていたから。ビアンカは恐れ多くもラインハットの王兄殿下に抗弁したのだ。親友の為にと、純粋な善意で伝説の盾の件を口にしたヘンリー殿下に。それは言わない方が良かった、本人が聞いたらきっと怒ると。

 あの時の凍てついた空気、花嫁が黙って受け止めた重すぎる葛藤は、赤の他人であるビアンカにも痛いほど伝わった。

 だと言うのに、あの莫迦はさっき、自分からそれを彼女に曝した。何も覚えていないからって、知らないからって!

「それに、今はビアンカさんが居てくださいますから。見ず知らずの私より、ビアンカさんが付き添ってくださる方がテュールさんも……きっと、安心なさると思うのです」

 淡々と、穏やかに微笑んで告げるだけの彼女が、ビアンカにはひどく痛々しく映ってならない。

 まるであの時のようだ、と思う。

 サラボナの街中で、空気を読まず声をかけてしまった。そんな自分を疎んじることなく呼び留めた、誰にも気づかれなかったビアンカの想いをフローラだけが誰より優しく拾い上げてくれた。あの時と。

「……お目覚めになった時、お側にいたのがビアンカさんで良かったです。本当に」

「良いわけないでしょ。何言ってるの」

 フローラにまで言い方がきつくなってしまう。ああ、こんなふうに追い詰めたいわけじゃないのに。

 それでも、やんわり言い聞かせただけじゃ彼女は説得できない気がする。────そう、例えば、

「サラボナに……、帰るつもりじゃないでしょうね?」

 一人で。

 感情の窺えない、凪のような瞳でフローラはビアンカを見つめ返した。決して肯定されたわけではなかったけれど、フローラが半ば本気でそのつもりでいることは容易に察せられた。

 ────冗談じゃ、ない!

「そこのホイミスライムちゃん!!」

 衝動的に、声が出た。びくんと触手ごと震え上がったホイミンに構わずビアンカは叫ぶ。

「フローラさんを村から出さないでよ。キメラの翼も使わせちゃ駄目! ……テュールに言うわ。フローラさんが言わないつもりなら、私が全部ぶっちゃけてやるから」

「ビアンカさん!」

「フローラさんは、私とテュールがくっついた方がいいって言うの!?」

 鋭く問えばフローラはびくりと肩を戦慄かせる。怯んだのを見てすかさずビアンカが大声で畳みかけた。

「結婚したのはフローラさんでしょ!? あいつが選んだのも、その指輪を必死に探してきたのも……全部あなたと結ばれたかったからじゃない!! フローラさんが要らないって言うなら喜んで引き取るわよ。けど、そうじゃないんでしょう!?」

 ビアンカだって好きだった。淡い恋をしたことは何度かあるけれど、テュールに恋をしたのは多分二度目で、本当に本気の恋だった。選んで欲しいと本音では思ったし、フローラに嫉妬だってした。けれど今は、ちゃんと諦められて良かったと心から思っているのだ。テュールが、フローラが、二人が愛し合い幸せに笑っていてくれさえすればそれでいいのだと。

 なのに、どうしてこの子は。

「……だっ、て……!」

 苦しげな、絞り出すようなフローラの声が、真っ直ぐなビアンカの訴えを跳ね除けた。

 瞠目したビアンカを、フローラは強い眼差しで見つめ返す。どこにそんな意思の強さを秘めていたのかと思うほど。

「違います。違うんです。だって、あのひとには初めからビアンカさんが……いたのに。盾なんて、言ってくださればいくらだってお貸ししたのに!」

 信じたい。好きだって、盾が欲しかったんじゃないって言ってくれた彼を信じたい。それなのに。

 今、彼の中に自分はいない。その記憶の中に、彼が好きになってくれた自分は存在すらしないのだ。

「……私じゃ、ない! 私が、盾を持っていなかったら……私、なんて、本当は……!!」

 会うこともなかった。知ることもなかった。盾がなければ、こんな分不相応な夢を見ることもなかった。

 初めて恋した殿方に見初めていただくなんて、身に余る幸せにうつつを抜かすこともなかった。

 自分が愛された幻想は泡沫の夢と消えたけれど、ビアンカは今もちゃんと彼の中にいる。あんなにも近く居られて、あんなにも気を許しあっていて、彼が望めばずっと支えてどこまでも一緒に行ける。彼女が側に居てくれる、それだけが救いで、それこそが、盾の守役を放棄した自分に神が下した最後の罰なのだと。

 ────あるべき形に還るのだ。それだけだ。

「お願い、します。……ビアンカさん。テュール、さんを……」

 サラボナでは一度も涙を見せなかった。ひたすら気丈に、自身の感情を内に封じて凛として微笑んでいた彼女が。

 今、ついに脆く崩折れる様を目の当たりにして、ビアンカはたった一つの問いかけを胸の内側でひたすらに反芻していた。

 そんなにも好きなくせに、どうして貴女は自分から私に譲ろうとばかりするの。

 そもそも呼び止めなければ良かったのに。ビアンカから見ればテュールがフローラに夢中なことなど一目瞭然だった。あのまま黙って引き下がらせてくれれば、二人とも何のわだかまりもなく結婚できたのに。告白するチャンスをくれたことは感謝しているけれど、ビアンカだって決してフローラを傷つけたかったわけではない。

 けれど、────深い事情までは知らないけれど、これがテュールが恐れていた、盾の認識がもたらす可能性の一つなのだということは何となく、理解できた。

 否、もしかしたら最悪の結末かもしれないということも。

 ……私の所為だ。全部。

 軽率な行為の結果を悔やんでも悔やみきれない。もし本当に、このままテュールの記憶が戻らなかったら? 今までの全部、なかったことになってしまうの?

 もう、ビアンカにはそれ以上何も言ってあげられる気がしなかったけれど、せめて優しくしてやりたかった。自分のことは二の次にして他人のことばかり考える、その為に自らを傷つけて顧みない、やっぱりとんでもなくお人好しなこのお嬢様に。

 手を伸ばして、その綺麗な碧髪を撫でようとした、その刹那。

 

 古傷だらけの大きな掌がビアンカの手首を掴み、阻んだ。

 

 

◆◆◆

 

 

 フローラと、彼女を追ったホイミンが出て行ったあと。

 テュールは暫し茫然と、彼女が居た余韻に浸っていた。あの鈴のような綺麗な声が、まだ耳の中にりんと響いている。

 夢のような時間だったな、と思う。ほんの二言程度言葉を交わしただけなのに。あの翡翠の瞳に自分が映ったのだと思うと、ひどく甘酸っぱい心地になる。

 ────そういえば初め、名前を呼んでくれてなかったか?

 今更思い出し頭を抱える。彼女に自分の名を呼んでもらえていたなんて。認識してなかったとはいえ、もっとちゃんと正面から聞いておけば良かった。

 先程からの自分の思考がおかしくて、ふと失笑してしまう。何を考えているんだか。これではまるで、自分が恋煩いでもしているみたいじゃないか。

(…………、まさか)

 あり得ない可能性に行き当たり、愕然として首を振った。自分が女性に恋をする? 笑ってしまうほどあり得ない。先日結婚したばかりのラインハット王兄夫妻を訪った時、自分は一生色恋ごとに縁がないなと改めて実感したばかりだ。元々興味も薄ければ、そんな気持ちの余裕もない。親友を祝福こそすれ、未だ羨む気持ちすら湧かないというのに。

 大体、彼女は既に人妻だ。あの指輪が全てを物語っている。ちらりと見ただけだけれど、彼女の細い指に悔しいほどよく似合う、とても清楚で上品な白銀の指輪だった。あれを贈れる男に甲斐性で勝てるとも思えない。

 出逢うのがもう少し早かったなら、自分は結婚を請うただろうか。その男より先に、彼女に。

 見知らぬ男に言いようのない劣等感を抱きつつ、ふと、本当に何の気無しに、自分の手を見た。

「……あれ?」

 左手だ。その薬指に、いつの間にか金の美しい指輪が嵌められている。こんなもの手に入れた覚えはないけど。手の甲を自分に向けてかざすと、石座には燃えるように美しい赤い宝石が埋まっていた。否、微かに揺らめいている。何だこれは。まさか炎の幻が映っているのか?

 目を凝らしてよくよく覗くと、やはり石の中で炎が龍の如くうねっているように見える。

「……ピエール。これ、何だか知ってる?」

 じっと見つめていると、何やらその炎に語りかけられているような気がしてくる。自分が倒れている間に誰かが嵌めたのかもしれないが、何かしら知っていると思われたピエールはあっさりと首を横に振った。

「さぁて。あるじ殿のものには違いなかろうが」

 ピエールの古めかしい言い様は時に謎掛けに聞こえる。こういうやりとりは苦手だ。とりあえず追及するのはやめて、テュールは改めてその指輪をまじまじと見つめた。

 ……これは幻じゃない。本物の炎だ。

 何故か確信を持ってそう感じた。同時に何か、息苦しい心地が意識の端を過って思わず胸を抑えた。けれどそれは一瞬のこと、抑えた時には既に違和感は去ってしまっていた。小さく首を捻り、再びその石を眺める。

 黙り込んだ主人をちらりと盗み見て、ピエールは鉄仮面の下、密かに思考を巡らせた。

 主人の現状について懇切丁寧に説明するのは構わないが、ピエールにはもう一つ、大きな懸念があった。

 主人が気付いているかはわからない。そして、ピエールにとっても経験による推論でしかないことだが。

 何某に従属する魔物は、恐らくその主に因って精神状況を左右される。

 スライム属は不思議と人間に近い感性を持っているように思うが、自分たち魔物という生き物は基本的にヒトのような感情を持たないことが多い。魔法使いのマーリンなどその点で大いに親近感が湧く。判断基準は本能、もしくは自分たちより上位の存在による下命であり、個々の感情が左右することは基本ない。どうやら自分たちのような傑出した力を授からぬ魔物というものは、他者の力なり思想なりの受け皿たり得るよう造られているのでは、などとピエールは最近よく考える。ピエールとて元々は今よりずっと淡白な気質であり、今の主人に出会って随分とヒトらしい機微を学んだのだ。

 ピエールが主と定めたその男は、普段よく己を律している人間だ。激昂したところなどまず見たことがないし、強敵を前にしても動じることはほぼない。常に己を冷静に保ち思考する。だからこそ彼に従属するピエールや他の仲魔たちは如何なる時も彼の下、冷静に行動することができている。

 以前、緑髪の王子が同行していた頃に少しだけ、主人の育ちについて聞いたことがあるが、なるほどと感心した。その環境で生き抜くことができたのは意思の強さや運もあろうが、その類稀なる精神性も大きく影響していたことだろう。

 現状、主人は記憶を一部欠損しているようだが、幸い情緒の面に大きな混乱は見られない。今この状態の主人を必要以上に刺激したくないと考えている。というのもこの一ヶ月、ピエールにとっては中々刺激的な毎日でもあったが、主人の感情の起伏はいつになく激しかった。落ちたと思いきや上がるし、かと思えば呪いに足をとられたかの如く精神の底を這いずる有様が二転三転と続いていた。悦ばしいとは言い難いが、青臭いその感情の波が不快でなかったのもまた事実だ。それがこのニ、三日で嘘のように落ち着き、いや寧ろ今までになく上機嫌を保っていたとも言える。記憶をなくした為か、たった今の状況はこの数日ほどではないが、とりあえず随分と落ち着いた状態のように思える。

 サラボナにおける目的も達成出来ているのだし、彼にとっての大元の目的……尊父の遺言を継ぐという記憶は損なわれていないようなので、大局で言えば問題なかろう、放っておけば何とかなると楽観視していたのだが。主人はともかく新妻である奥方殿と、一時船旅を共にした黄金色の乙女のご様子がどうも芳しくない。はて、これは些かまずいかとも思ったが、人の心の機微に聡いスラりんやホイミンならばともかく、ピエールには人間同士の仲らいなど管轄外であった。

 結果、生温いこの空気を愉しみつつ、腑抜けた主人を眺める以外に出来ることなどなかったわけである。

 もう一人、惚けた男を見守っている視線があった。彼と親しいという黄金色の髪の美しい乙女だ。ここの家主の娘であるというその女性は、ホイミンたちが出て行った後も複雑な顔つきでテュールを見守っていた。何か言いたげに何度か息を吸い直していたが、その都度ため息に変えて肩を落としていた。

 テュールが指輪に気づいた時にもどうやら思うところはあったようだが、何か問われる前に目を逸らしていた。やがて何度目かのため息を零し終えると、彼女はひどく落胆した様子で黙って外へ出て行った。

「どうしたのかな……? ビアンカ、元気なかったね」

 誰の所為だか。間抜けな発言に思わず忍び笑いを漏らすと、気に障ったらしいテュールが顔をしかめてピエールを見た。尚もくつくつと笑いを噛み殺し、主を見上げたピエールはさも慇懃に礼を取る。

「失敬。無自覚とは罪深きものよと思ったまで」

 憮然とした主人にもう一つ苦笑を返し、ピエールは改めて自身の思索に耽る。さて、自分にとってさほど大きな問題はないが、このまま先の旅路を急ぐのも短慮と思える。どうしたものか。

 余計な刺激を与えぬ程度に根気よく治癒を促し、同時にうまく辻褄を合わせてじわじわと記憶が戻るよう仕向けるか。ホイミは外傷によく効くが、皮膚の内に篭った傷へ作用させることは難しい。身の内を冒す病魔を治癒できないことと似ている。但し、今回のこれはあくまで挫傷であるから治癒の見込みは当然ある。欠損しているのはここひと月の記憶のみ、うまく説明出来ればさほど問題なく進めそうだが。

 ただ、……問題はやはり、彼女であろう。

 一ヶ月間、主人の精神状態に多大な影響を及ぼした張本人である彼の奥方。彼女は難なく自らの素性を伝えてくれるものとピエールは考えていた。それが最も混乱の少ない伝達方法であろうと。だが、彼女は告げなかった。だけでなく、それを訴えようとしたホイミンを止めて出て行ってしまった。

 こういった場合、本人を差し置いて話しても良いものか。

 はて、と何度目か首を捻ったその直後、扉の外でにわかに騒がしく、言い争うような声がした。

「ビアンカ達かな? どうしたんだろう」

 喧騒につられてテュールが立ち上がる。さすがに一旦止めるべきかとピエールも緑のスライムごと跳ねたがその時、がちゃがちゃ! とドアノブを激しく揺さぶる音がした。すぐさまテュールが駆け寄り扉を開け放つと、黄色い触手を目一杯ドアノブに絡ませたホイミンがもつれながらこちらへ転がり込んできた。

「ホイミン!? どうした、フローラさん……二人は!?」

 驚いたテュールがホイミンを抱きとめて、外に出た女性二人の安否を問うた。けれどホイミンは答えず、飛び出そうとしたテュールの腕に触手を絡ませ引き留める。うるうると水を湛えた瞳で、まっすぐに主人を見上げて。

「…………おもい、だして、よぅ〜〜〜!」

 涙声でぺしぺしと外套を叩き、かと思いきやいくつかの触手を持ち上げてベホイミを詠み出す。温かな光をテュールの後頭部にかざした途端、ずきりと鈍く、首の後ろに痛みが走った。

「ホ、ホイミン……? 何、一体」

 一瞬の痛みだ。緩く息を吐いて紛らわせながら振り返ろうとするが、ホイミンがそれを許さない。ほとんど無理矢理に肩と、耳の後ろから首の付け根のあたりまでを触手で懸命に抑えつけ、ホイミンはまたもやベホイミを唱えるのだ。

 ずくん! と再び、抉られるような痛みが脈動と共に、頸椎の上のあたりを鈍く突き抜けた。

「はやくっ、おもいだして〜! はやく〜〜!!」

 ベホイミの光が消えるより早く、ホイミンは次のベホイミを触手に宿す。「思い出すって、一体なんのこと?」と落ち着かせるよう穏やかに問うたがホイミンの激昂は治まらない。施術している以外の触手でぽこぽこと人の背中を叩いてくる。しかもピエールまでもが苦笑混じりに立ち上がると、「やれやれ。どれ、拙者も加勢致すか」などと宣い、これまたテュールに向かって治癒魔法を唱え始めたのだ。

 一体なんだというのか。魔法に副作用はないが、傷もないのに何度も何度も治癒魔法をかけられるのはあまり良い気がしない。

「ちょっと、二人とも……」

 さすがに本気でやめさせようと腰を浮かせたが、その瞬間頭の上からホイミンにのしかかられる。もう数度目のベホイミに思いきり魔力を込めた彼が、涙目で絶叫した。

「もぉ、もおぉっ! ごしゅじんさまのばかっっ!! ふろ〜らちゃんをなかせてぇぇ……ふ、ふろ〜らちゃんがいなくなったら、いくらごしゅじんさまだってゆるさないんだからね〜〜〜!!」

 

 

 

 ────────あな た ハ、ジ ユウ ニ。

 

 

 

 唐突に、

 霞みがかった意識の底から映像が還る。真っ白な、まるで光の洪水みたいに流れ込む怒涛の幻影の中、

 彼女の透明な泪──……だけが、

 頭の中の漠然とした靄をあたたかく照らす。

 違う。違うよ。違う違う違う違う違う違う。

 泣かせたくない。悲しませたくなかった。誰よりも君の幸せを願ってる、叶うならこの手で誰より幸せにしたい。自分の所為で僕を縛ったなんて、僕を苦しめただなんて、そんなこと絶対にない。君に囚われて、この心は至上の喜びを知ったのだから。

 指輪。水の幻影、仔犬。祠、青の光、帆船、礼装の小花、塔、天空の盾、炎と水の喚び声。

 イメージが次々に瞼の裏を奔って、同時にずっと奥の方から自分を喚ぶ気配がする。静かに、静かに時を待っていた左薬指の炎の石がじわりと熱を灯し、己を醒ませとテュールを叱責する。

 この気配を、知っている。

 そして、────そして、

 絶対に離さないとあの時、誓った、

 

 やっと捕まえた、僕の碧。

 

 弾かれるように立ち上がった。が、耳の後ろで割れんばかりに激しい頭痛がして途端に崩折れかける。気持ち悪い、頭の中を轟音がこだましているようで、これが夢か現かもわからない。咄嗟に追従したピエールに支えられて何とか均衡を保った。

 記憶の順列が、意識と無意識が混濁する中、半開きのままの扉が目に留まる。

 もう、何も考えず、まろびながら遮二無二外へと飛び出した。

 

 逃がさない。

 自由なんかいらない。

 今更他人になるなんて、絶対に許さない。

 

 

◆◆◆

 

 

 いきなり手首を掴まれて動きを止められ、ビアンカは驚きのあまり言葉が出なかった。

「ごめん。……ちょっと、二人で話させて」

 そう言ったテュールの顔は、血の気が失せてほとんど蒼白だった。ぶつけたところが痛むのか、ひどく顔を歪めていて、額からは幾筋かの脂汗が流れて顎へと伝う。

「テュー……、ル」

 尋常ならざる雰囲気に、ビアンカは益々言葉をなくした。

 記憶は戻ったのとか、二人ってどっちのことよとか、ひどい顔色じゃないのとか、言いたいことは色々あったけれど。

 真剣な眼差しと有無を言わさぬ気迫に押され、それ以上何も言えなくなってしまう。

「少しだけ、フローラ……と、二人にして」

 自分にだけ聞こえるよう身を屈め、耳許に囁かれたその名にビアンカが目を見開いた。

 敬称をつけず妻を呼んだ男の顔を、正面からじっと見上げる。

 大丈夫なのね。

 目で問えば小さく、しかし強い首肯を返された。それだけで納得して、ビアンカも黙って二人に背を向けた。いつの間にか、あの小さなホイミスライムも姿が見えなくなっている。縋るようなフローラの視線を振り切ってその場を離れた。

 フローラは固まっていた。テュールがビアンカの手を掴んだ時にはやはり彼女が望まれるのだと覚悟を決めたのに、何故かビアンカだけが無言で去ってしまう。その背が家の中に消えるのを待って、怖いほどの真顔でテュールが振り返った。外壁まで追い詰められ、フローラは益々怯えて小さくなる。顔を伏せた瞬間その脇にどん! と勢いよく掌をつかれ、びくりと心臓が跳ね上がった。華奢な身体を壁と自分の間に閉じ込めて、テュールは低く、静かに、自らの憤りを発露させる。

 

「……なんで、言わなかったの?」

 

 怒ってる。

 俯いた顔をあげられない。こんな彼は見たことがなくて、フローラは戸惑いと怯えを隠しきれない。

 否、付き合いの長いヘンリーや仲魔たちでさえ、ここまで怒りを露わにするテュールは見たことがないかもしれない。

「何も覚えてない今ならビアンカを好きになるだろうって? ……余計なお世話だ。今だってずっと、僕は君しか見えてなかった」

 重く、低く押し殺した声がフローラの身をすくませる。

 怖い。

 すごく、すごく、ものすごく、こわい。

 でも────……

「思い知らせてあげる。僕が、誰のものか」

 言うなり、大きな両手に頭を包み込まれた。息を呑む間も、瞳を覗き返す暇すらなく、フローラを引き上げた彼は問答無用でその桜色の唇に喰らいつく。

「ッ、────!!」

 三日前にも強引に奪われた。泣いて、意固地になったフローラの心をこじ開けるような口づけをくれた。

 あの時よりずっと荒々しい、激情をぶつけるような求め方。

 熱い。触れたところが爛れそうなほど熱をもって。獣のように噛みつかれて、必死の息継ぎの隙をついて口腔にまで彼の舌が入り込む。ちゅく、と甘い水音が直接脳に響いて。絡み合う舌も、振り解けない腕も、もう髪の先まで全て、彼に食べられて、吸い尽くされてしまいそう。

 顎を無理矢理上向かせ、吐息まで全て呑み込む。酸素が回らずふらついた身体を抱き込んで、逞しい腕が檻のように彼女を捕らえた。ん、と声にならない喘ぎを喉から零せば、テュールはまた愛しげに眦を細める。赤く色づいたこめかみから頬、首筋と指の腹で優しくなぞって、深く咥えこんだ唇を更に強く押しつける。

 全身全霊で、彼の熱情を注ぎ込まれる感覚。

 やがて、すっかり腰が抜けて土の上にへたり込んでしまったフローラを、彼は紫の外套で覆い隠すように抱きしめた。

 愛しい声が直接、鼓膜を震わせて流れ込む。

「何度だって、君を選ぶよ」

 ……背筋が、

 ぞくりと、痺れる。

「君が思い知るまで、何度だって好きになる。忘れたっていい。そのたび君に恋をするから」

 蕩けそうな恍惚に耳が、為す術もなく侵されていく。

 どうして、私にまだこんな、残酷な夢を見せるの?

「……許さないよ。手を、放そうとしたこと」

「────あ……」

 わずかに息を呑んだフローラを、漆黒の瞳が見下ろした。

 視線が交錯した先の、哀しみと憤りに染まった双眸が切なく、歪む。

 そのまま、彼はフローラの肩にことりと額を落とした。

 一際大きく跳ねた心臓の音が伝わってしまったかもしれない。鎖骨に吐息がかかる至近距離で、心臓がばくばく叫んで破裂しそう。緊張を必死に堪えるフローラの、その耳許に、彼はかすれた声で力なく、囁いた。

 

「叱ってよ……」

 

 幼い、本当に稚い、まるで怯える子供のよう。

 どうしようもない寂しさが彼の全身から溢れ出て、切なくて、フローラは思わずその大きな背中に腕を回した。

 大人の男性にそんなことを思ったのは、初めてだった。

 フローラに抱きとめられたテュールもまた、折れそうな肩に縋りつき、万感の想いを込めて抱きしめ返した。

 白い首筋から漂う甘い花の香りが、そっと背中を撫でてくれる細い手が、彼の内に芽生えた恐怖を優しく解きほぐしてくれる。

「叱って、いいよ」

 どこにも行かないで。

 僕を『解放』なんてしないで。

「僕がまた君を忘れたりしたら、怒っていい。めちゃくちゃ怒っていいから、だから……お願いだから、僕から離れていかないで」

 手を放せばきっと天に帰ってしまう。天女のような君だから。

 直感したのはそれだった。いつのことだったか、まだはっきりとは思い出せない。あなたを自由にしたい、そう言って泣いたフローラの姿が鮮烈に浮かんだ。一度思い出したら、瞼の裏にこびりついて剥がれなかった。

 どうして忘れたんだろう。こんなにも大切なのに、あんな想いは二度とさせないと誓ったのに。忘れてしまえば楽になると思っても、忘れたいと思ったことなんてただの一度もなかったのに。

「ごめん。簡単に忘れたりして」

 ようやく落ち着いてきたテュールは、気づけば謝罪を口にしていた。ずっと背中をさすってくれているフローラがふる、と小さく首を振る。

「テュールさんの所為では、ありませんから……」

「ほら。またそうやって僕を甘やかす」

 相変わらず責めない妻に苦笑して、テュールは至近距離で額をこつんとぶつけると小さく、問う。

「……それとももう、怒るのも嫌になった?」

 翡翠の双眸が見開かれる。こんな時、臆さず真っ直ぐ見上げてくる彼女の眼差しはとても真摯だ。

「こんな情けない男が伴侶だなんて。愛想が尽きた?」

「そんな。そんなこと」

 咄嗟に言い募ったが、フローラにはそれより先に確かめたいことがあった。恐る恐る夫の頬に左手を滑らせ、溢れそうな衝動を懸命に抑えて問いかける。

「……記憶……戻られた、の、ですか?」

 もう、訊くまでもないことだけれど。添えられた手を武骨な掌に包んで、頬を預けたテュールが頷く。

「うん。……フローラが、泣いてるって思ったら」

 そっと告げれば、フローラが微かに瞠目する。

 実際は仲魔たちが諦めず、しつこく治癒魔法をかけてくれたお陰かもしれないし、ホイミンがフローラを想って叫んでくれたことが引金だったかもしれない。けれどどちらの記憶も、今のテュールにはひどく曖昧だった。

「まだちょっと記憶があやふやで。どれがいつのことだか、よくわからない」

 一気に思い出したから仕方ないね。そう言って、テュールはフローラのいちばん好きな、少し困ったような顔で笑う。

 もう向けてもらえないかもしれないと思った。はにかむような彼の笑み。

「でも、……僕のもの、だよね?」

 穏やかな、しかしどこか妖艶な眼差しが、一度交われば逸らせない引力を伴ってフローラの視線を捕まえた。

「記憶違いじゃないよね。好きって……言ってくれたよね」

 甘く。甘く、搦めとるように。

 慈しみと愛しみを限りなく込めて、彼はフローラに繰り返し触れる。少し乱れた髪を、湿った頰を、やわらかな唇を親指で優しくなぞって、指輪にもそっと、触れるだけの口づけを落とす。

 事が起こってまだ一時間くらいしか経っていないけれど、優しい仕草がひどく懐かしかった。せっかく拭ってもらったのに、喉を灼く涙が頬を伝ってフローラの旅装をぽつぽつと濡らす。

 寂しかったの。とてもとても、寂しかったの。

「────っ……テュール、さんが、目覚められた時……わ、私のことだけ、わからなくて」

 ちゃんと答えたいのに、嗚咽が邪魔をしてうまく言えない。広い胸に顔を埋めれば、テュールはうん、と頷きながらまたフローラの頭を撫でる。

「ひ、ひと月も……なかったんだって。私、だけ、たったひと月分の記憶も……そう、思ったら────」

「うん」

 また優しく髪を梳かれて、フローラはもうそれ以上何も言葉にできなくなってしまった。しゃくりあげるたび漏れてしまう情けない声を掌で必死に呑み込む。

 テュールもまた、頭痛に耐えつつさっきまでの記憶を少しずつ手繰っていた。妄想と現実の境界が曖昧で認めたくないものの、あれは全部事実なんだろう。記憶が飛んでいたとはいえあんなことを言った自分を殴りたいし、消せるものならそっちの記憶を抹消したい。

「うん。……ごめんね。怖かったよね。本当にごめん」

 詫びれば、フローラはまた健気に小さく首を振って応える。

 やっぱり僕は、君しか要らない。

 そう思ったらもう自然と、誓いの言葉が口から出ていた。

「これからの、僕の一生分。全部、君のものだから」

 再び息を呑んで顔を上げ、目を瞠ったフローラがとてもとても可愛くて。こんな時にもテュールはつい破顔してしまう。

 ひと月がなんだ。そんなものいつか思いきり笑い飛ばせるくらい、自分はフローラのことをきっとずっと好きでいる。何度でも好きになる。そう言い切れる自信がある。

 君を知らなかった時間の分まで、愛し抜くって誓うから。

「要らないって言っても駄目。返されてやらない」

 冗談めかして言い添えたら、真っ赤な目をしたフローラがようやく、ふわりと遠慮がちに笑ってくれた。

 その微笑みにテュールは何度でも心を奪われる。幸せな、甘やかな感動を伴って。

「すき、です。……テュール、さん」

 愛しい、澄んだ鈴の声が、りん、と胸に沁み渡る。

「あなたの側に、いたい……です」

 少し恥ずかしそうに微笑む、誰より愛しい彼の妻を、テュールはもう一度、大切に包み込んで抱きしめた。

 そうして、さっきの乱暴なそれとは違う、玻璃に触れるような優しすぎる口づけを……

 涙の滲んだ薄紅色の目尻にそっと、落とした。

 

 

◆◆◆

 

 

 何をしていたのかは知らないが、長々と話し込んだ末に妻の肩を抱いて戻ってきたテュールは、記憶喪失とは何だったのかと思うくらいいつもと変わらない様子で、迷惑をかけたことをビアンカと仲魔たちに繰り返し詫びた。

 あの後も相当泣かされたのか、俯いたフローラの瞳は兎のように赤かった。けれどさっき感じた深い絶望は消え失せていて、ビアンカは心底ほっとする。

 散々引っ掻き回されて脱力したものの、元はと言えば自分が手を出したのが悪い。喉まで出かかった文句をぐっと飲み込み、ビアンカはわざとらしく苦笑いを浮かべて顎をしゃくってみせた。

「もういいから、あんたたちこれからポートセルミに行くんでしょうが。またこっちに帰ってきたら顔出しなさいよね。今度はもうちょっと家具の配置、考えておくわ」

「……またどつかれるのが前提なの?」

 痛い目を見た所為だろう、テュールお得意の愛想笑いもさすがに少し引き攣っている。ビアンカにしてみれば可愛くないことを言われるとつい身体が反応してしまうのだから、テュールがもう少し可愛げのある弟になればいいだけの話である。……とはいえ。

 まあ、これくらいの仕返しは許されるかしらね。

 恐らく誰も気づいていないが、ビアンカにしてみれば二度も失恋の憂き目を見せられたのだ。このまま帰すのはどうにも腹の虫が治まらない。すっかり自分の背丈を追い越した幼馴染を見上げれば、彼は慄いて反射的に身を退く。整った鼻先へと利き手を持ち上げ、ターバンに隠れた額を一つなぞって、ビアンカは容赦無くその眉間をぴしりと弾いた。

「痛って!」

 咄嗟に額を抑え声をあげたテュールと、すまし顔のビアンカを困惑したフローラがおろおろと見比べる。ビアンカにあまり馴染みのないホイミンはそんな光景に目を円くしているが、ピエールは何やら愉しそうである。そんな、やっと戻ってきたいつものテュールとのやり取りに、ビアンカはああ、とようやく心から安堵した。

 戻って良かった。本当に良かった。

 さっきのあれはやはり泡沫、悪い夢のようなものだったのだ。

 そうよ。もう、あんなものは見たくないわ。

 今のこの関係が大切なの。私はいつまでも、この二人の姉さんでいたいんだから。

 ────やっぱり、この子たちとはこうでなくっちゃね。

 そうしてビアンカは今度こそ憂いのない、太陽の如く輝く笑顔を二人に向けたのだった。

「テュールがフローラさんをちゃあんと大切にしてたら、彼女に免じてちょっとは我慢してあげる。『次は』ね!」

 

 唖然として固まった新婚夫婦を尻目に、ピエールとホイミンが揃って笑い出したのはいうまでもない。

 

(了)





【挿絵表示】

執筆当時描いた蛇足漫画をこちらにも掲載。ヘンリーはヤブルーラの使い手なのだ!(嘘)



2021.06.12 追記
ヤンデレな壁ドンテュールをどうしても絵で見たくて描いてしまった、ワンシーンコミカライズ。神絵師様に描いていただけたら昇天する……と幸せな妄想をしつつの妥協の産物です。お粗末様です!

【挿絵表示】


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【第二幕】テルパドール篇
#0. 序・ある日の船上にて~side Flora


祝・ドラクエの日、35th!

そんな素敵な日に、こちらでも新たな幕開けを迎えられました。
少しでもお楽しみいただければ幸いです!



「僕と一緒に、来る?」

 

 いつぞや聞いたような殺し文句を、私の最愛の夫はいつもの穏やかな微笑みのまま、さらりと口にしてのける。

 告げられたばかりの薄く青みがかった、柔らかなゼリーのような愛らしいその魔物は、さも嬉しそうに全身を震わせると、ぴゃっ! とまた愛らしく鳴きながらテュールさんに飛びついてきた。

「──っ、待って。君、興奮すると麻痺毒を出すんだっけ?」

 咄嗟に両手で受け止めてしまったテュールさんが、少しだけ困ったように笑いながら首を傾げる。

「あ、あ、ごめんなさいっ。しびれん、なおせるっ」

 夫の腕に青い触手を巻きつかせたしびれくらげは、すぐに何か呟いて青い光を彼に浴びせた。「ありがとう」と微笑む彼に、小さな魔物はぽやんとした笑みを返す。

 ──話には聞いていたけれど、本当に悪意が感じられないわ。

 ついさっきまで魔物の大群の中にいた、あの殺気立ったうちの一匹とは思えない。

 この船の他の船員達も、彼が魔物遣いであることは聞かされていたはずだけれど。あれだけの死闘の直後に、起き上がってきた魔物とこうも朗らかに馴れ合う彼の姿には戸惑わずにはいられないようだった。

「しびれん、っていうんだ? 可愛い名前だね。僕はテュール、好きに呼んでね。ここにはスライムとか、ホイミスライムの仲間もいるから、きっと仲良くなれると思うよ」

「うんっ! しびれん、がんばるっ!」

 新たな主人となった彼に抱き上げられ、益々にこにこと笑みを深めるしびれくらげを私と並んで眺めやる、スライムに跨った熟練の騎士は「やれやれ、久々に拝見しましたな。つくづくあるじ殿も罪な御方よ」と苦笑まじりの声で私を見上げた。

「ピエールさん? いかがなさって……」

「ああ、いや」意味がわからず仮面を横から覗き込んだ私から、ピエールさんはこほんと咳払いをし顔を背ける。「失礼。奥方殿が気分を害されているのではと、早合点を」

 私が、気を悪くして?

 そう思われてしまった理由はよくわからなかったものの、新婚の私を気遣ってくださっていることだけは理解できたので、私は控えめに「お気遣い、ありがとうございます」とだけ返事をして微笑むに留めた。

 ──折角来てくれた新しい仲間に、私が妬いていると思われてしまったのかしら。

 それくらいしか考えが思いつかなかったが。確かに、自分にもいただいたような言葉をかけてもらっている様を目の当たりにするのは若干もやっとしたものを感じたものの、彼に懐いた風のその魔物は大変愛らしく、むしろああして睦みあっているのが羨ましく感じられてしまうほどだ。

 ホイミンちゃんやスラりんちゃんのように、私もあの子と仲良くなれたら嬉しいわ。

 テュールさんの仲間の魔物達は彼のようにとても優しくて、彼らはすんなり私を受け容れてくれた。まだ、共に戦う仲間としてではなく、客分に過ぎないことは否めないけれど、私も私にできることを早く身につけて、彼らの力になっていきたいと思う。

 その為に、今は少しずつマーリン様に教えを乞うている。ベホイミ以外の魔法は実践したことがなかったから、本当に初歩的な補助の魔法から少しずつ、だけれど、最近は後方から支援させてもらえるようになってきた。先ほどの戦闘でも、やっといくつかの魔法をかけられるようになって。

(ベホイミとは違って、攻撃の魔法も補助の魔法も、少し遠い対象にかけることになるから。まずはかけ間違いをしないよう、よく練習をしないと……)

 敵味方が入り乱れた戦いの場では一瞬の判断が生死を分ける。マーリン様から何度も伝えられた指導の内容を今一度、頭の中で反芻する。

 幻惑だろうが減防だろうが、間違って味方にかけてはたまらない。味方にかけるべき魔法なら、その逆もまた然りだ。

 ましてやそれが、強力な攻撃魔法であれば尚のこと。

 先程は焦ってしまう気持ちを深呼吸で必死に落ち着かせながら数回、魔法をかけたけれど。判断に間違いはなかっただろうか。

 後でマーリン様にお伺いしてみよう、と一人頷いたところで、先ほどのしびれくらげを連れたテュールさんが私のすぐ近くに来ていることに気がついた。

「フローラ」

 一人思索に耽ってしまっていたことに気づかれたのだろうか。急に気恥ずかしくなり、慌てて背筋をしゃんと伸ばして彼に視線を返した。

「お疲れ様でした、テュールさん」

「うん、ありがとう。フローラ、怪我はない?」

 いつもの優しい手つきでそっと頰を撫でてくれる。それだけで、私は幸せばかりで胸がいっぱいになってしまう。

「……はい。守って、いただきましたから」

 顔を上げて、精一杯微笑みを返すと、彼もほっと息をついて照れ臭そうに笑った。

「良かった。すごく頑張ってくれていたから、そっちが狙われるんじゃないかって心配で。──マヌーサとルカナン、絶妙だった。あのタイミングで二つ詠唱できるなんてすごいね」

 褒めてくださった。敵の一群にマヌーサをかけた直後の敵の散り方を見て急いで詠唱したものがうまくかかっただけなのだけれど、彼はちゃんと見てくれている。

「いえ、……そんな」

 嬉しいのに、どんな顔をしたものかわからなくて。思わず熱くなった顔を俯かせると、彼がふわりと微笑んだ気配がした。

「本当に、助かったから。ありがとう」

 身を屈めて、耳許に優しく囁いてくれる。そんな風に言われてしまったら、私は全身に火がついたような心地になる。

「……お気持ちはわかりますが、あるじ殿。衆目が」

「わかってるよ! ……ご、ごめん、フローラ」

 きっと真っ赤になって固まってしまった私の傍から、ピエールさんが苦笑まじりに呟いて。俯いたまま益々頭に血がのぼる心地を覚えながら、彼もまた動揺を露わにするのを聞いていた。あわあわと謝られて、恥ずかしさに顔を上げられずただ黙って首を振る。

「いやぁ、お二人が仲睦まじくして下さるなら我々としてはいくらでも、大歓迎ですよ」

 白髭をたっぷりと蓄えた船長が豪快に笑いつつ言えば、一連の流れを見守りつつ撃退した魔物の残骸を片付けていた船員達もどっと声をあげる。

「全くだ! ええ、いくらでも見せつけてくださいよ。俺ら独り身連中に嫁さんの有り難みを教えてやってくださいッ!」

「そうは言うが、お嬢様ほどの嫁さんなんて普通見つからねえからな? お前、現実を知るだけだぜ?」

 悲哀すら感じる面持ちで一人の若い男が自棄気味に叫べば、もう少し落ち着きのある男がそれを冷やかし、船員達から海をも揺るがすような笑いが起きる。

 雰囲気につられて顔を上げた私と、テュールさんの目があって。気恥ずかしげにお互い、微笑んだ。彼の紫の旅装の肩に触手を落ち着けたしびれくらげが、もぞもぞしながら「だぁれっ?」と小さくテュールさんに問いかける。

「あ、えっとね。フローラ、っていうんだ。僕の、奥さん」

 言いながら、彼の首筋がほんのり赤らむのが見えてしまう。どことなく幸せそうに緩む表情を見てしまうと、大切にしていただいている実感を否応なしに感じてしまって。嬉しくて、勿体無くて、胸がぎゅっとするのを感じる。

 こんな気持ち、なんと呼んだらいいのだろう。

「おくさん、っ……」

 私のそんな高揚とは裏腹に、目の前の可愛らしい魔物はどことなく消沈したように声を落とす。

「……よろしくね? しびれんちゃん」

 膝に手をついて、少しだけ目線を落としてしびれくらげを見つめた。怖がらせないように、できるだけ優しく微笑んで。

 私、とりわけこのスライム属の魔物ちゃん達が好きみたい。

 本当に愛らしくて、人懐っこくて。ぷにぷにと水を含んだような柔らかな身体にも、その朗らかさにもいつだって癒される。スラりんちゃんも、ホイミンちゃんも、魔物だなんて気にならないほど私と仲良くしてくれて。

 だから、割と純粋に、この新しい仲間が増えてくれたことは嬉しかった。仲良くなれたなら、もっと。

「……よろしく、ねっ」

 引っ込み思案なのか、彼の肩に半分ほど顔を隠したまましびれんちゃんは遠慮がちに囁く。

 それでも、ちゃんと返事をもらえただけで私は嬉しくなってしまって。もう一度にっこりと微笑んで「仲良くしてくださいね」と言い添えた。

 しびれんちゃんは毒気を抜かれたように私を見つめて、やがて小さく頷きながら、はにかんだ顔を見せてくれた。

「他のみんなにも、紹介してくるね」

 交替で休息を取っている他の仲魔の皆さんの元へ、テュールさんはしびれんちゃんを連れて去っていった。この船に誂えられた、前方の甲板下にある小部屋がそうだ。その部屋はかつて、テュールさんが幼い頃このストレンジャー号に乗った時、お義父様と共に過ごされた部屋なのだという。

 ──この船で、幼い私とテュールさんがほんの一瞬、邂逅した。

 四歳の頃の記憶なんて、ほとんど残ってはいないけれど。艶やかな黒髪の、穏やかな眼をした親子連れを見かけたことは何故だか朧げに憶えていた。いつ、どこで会ったのかも思い出せなかったけれど、この船にテュールさんと訪れた時、不思議と鮮やかに記憶の断片が蘇った。

 当時忙しかった父に連れられて、幼い頃はずっとあちこちを旅していた。ある港で、船の段差を跨げず立ち往生してしまった私を抱き上げて、この船に乗せてくださった大きな手。

 怖いほど大柄な体躯に圧倒されたのに、その深く優しい瞳に覗き込まれた途端、安心してしまったこと。

 そして、すれ違いざま、私の髪を物珍しそうに振り返った、小さなあなた。

 当時の私は、幼いなりに自分が異質であることを呑み込んでいて。この髪の色も、両親の本当の子供ではないからだということを理解していた。だからどう、ということではなかったけれど、お揃いの髪と瞳の色を持つ、とても仲が良さそうだったその親子のことが──眼に、焼きついた。

 ……いいな。

 父親が小さな子供の頭を優しくくしゃりと撫でて、その子が満面の笑みで父親を見上げていた。それがひどく、印象に残った。

 あの笑顔が、ずっと私の心に灼きついていて。

 幼心に、また会えないかしら、なんて淡い期待を抱いたけれど、その旅を終えて暫くはサラボナに閉じ篭もる事になってしまって。その後、今度は修道院に滞在することになったから、その頃にはそんなささやかな願いなど諦めてしまっていた。

 ──まさか、あなたがあの時の男の子だったなんて。

 ほとんど時を同じくしてこの記憶を取り戻した私達は、やっぱり顔を見合わせて、微かに戸惑いながらも微笑み合うばかりだった。

「奥方様。先ほどは、大変良い動きでした」

 夕食の準備までまだ間があるから、少し魔道書を読んでこようかしら。そう思って、船の後方にある特別室へと足を運ぼうとした時、マーリン様が声をかけてくださった。

「ありがとうございます。まだ、どの魔法をかけるべきかの判断に自信がなくて……咄嗟のことだと、どうしても」

 正直に不安な点を告げると、マーリン様は厳かに頷き、静かに見解を述べられる。

「今回、先にマヌーサをかけられたのは正しいご判断と思います。単純に被弾が減ります。あれ以上こちらに寄られるとご主人らも巻き込みかねませぬから、間合いとしても正しい。ルカナンは、あの間なら無理はせずとも良かったかと思いますが、結果的にはうまくかかりましたな」

 とりあえず間違いはなかったとの回答に、私は思わずほっと安堵の息を漏らした。

「そろそろバイキルトも試してみましょうか。あれは逆に、お味方が近くに居る時にかけるのが良い。ベホイミほどではないが、少しばかり前に出ていただく必要があるやもしれぬ。──もう少し扱える呪文が増えましたら、状況に応じたそれぞれの使途を細かく考察致しましょう」

「わかりました。ありがとうございます、機をみて試してみますわ」

 的確なアドバイスに感謝を込めて深く頭を下げると、マーリン様は満足げに頷き、また先ほどの戦闘の跡地へと去っていった。

 マーリン様は個人的に魔導、魔力について研究をなさっているらしく、戦闘の後余裕があるとああして実地を検分なさるらしい。後に残る残り香のようなものから古い魔法の痕跡を見つけたり、属性の検証などをするのだとか。

 私の持つ魔力についても大変興味深いと仰っていたから、今こうしてご指導いただけているのも単に研究対象としてかもしれない、けれど。

 何とかして皆様の足手まといになりたくない私にとっては、マーリン様のご教示はただただ有難いことでしかない。

 ──幾つかの補助呪文で対象を絞る練習を致しましょう。遠方の対象にも的確に術を施せるようになられましたら、次は炎魔法を詠んで頂こうと思っております。

 先日、講義の終わりにマーリン様が私にそう告げた。

 ……いよいよ、戦力として実戦に参加する。そう思うと身体が竦んでしまいそうになる。炎魔法を扱う自分など想像もつかないが、万が一にもテュールさんを焼くようなことがあってはいけない。もっともっと気を引き締めて、魔力を正確にコントロールする術を身につけなくては。

 魔物といえども、命ある者。それをを手にかけることが、私に出来るのだろうか。

 そんな、恐れに似た思考を頭を強く振って追い出す。ここまで来たら、温いことなど言ってはいられないのだ。私も、戦う。そう決めたのは他ならぬ私自身なのだから────

 

「ふろーらちゃああああーん!」

 

 背筋を這い上がる緊張に一人唇を噛んでいたら、いきなりその背中にぺしゃりと生温い、柔らかいものが飛んできた。

 びっくりして振り返ると、勢い余ったらしいスラりんちゃんが、えへへ、と苦笑いしながら私の肩に貼りついていた。くすくす笑いながら手を伸ばし「どうしたの? 新しいお友達には会った?」とぷにぷにの頭を撫でた。その後ろからふよふよとホイミンちゃんがしびれんちゃんを連れて飛んできて、些か興奮気味に声をあげる。

「みてみて〜! かわいいおんなのこ! しびれんだかられんちゃんってよんじゃおうかなっておもって〜!」

 ホイミンちゃんの言葉に、何故か一瞬脳天を打たれた如く衝撃を受け固まる。そ、そう、やっぱりちゃんと性別はあったのね。──というか、

 ……さっきのピエールさんの言葉は、そういう意味……だったのかしら。

(人間と魔物でも、恋は成立する、の、かしら……)

 確か、昔話で魔族とエルフの恋物語を読んだことがある。とてもロマンチックで悲しいお話だったけれど、そんなことを思い出すとテュールさんの先ほどの言葉に益々もやもやしたものを感じてしまう……のは、私の愚かさ故に違いない。

「れんちゃ〜ん! ふろ〜らちゃんだよ! やさしいよ!」

「ごはんおいしいよ! いいにおいだよ! だいすきー!」

 そんな私の馬鹿げた葛藤など知る由もなく、仲良しのこの魔物達は口々に嬉しい言葉をちりばめながら私を紹介してくれる。

「……しってるっ。ごしゅじんさまの、おくさまっっ」

 もぞもぞと、どこか気弱げに囁くしびれくらげの女の子が何とも愛らしく、しかしどこか寂しそうに見えて、不意に、つい先日別れを告げてきたばかりの、金髪の快活な女性のことが思い出されてしまった。

 ──思い上がりも甚だしいわ。

 同じ人を好きになったからって。こんな気持ちで思い出すなんて、烏滸がましいにも程がある。

 優越感など持つわけがない。私が何かに優れていた、などという理由で選んで頂いたのではないということを、私が一番よくわかっている。想いを通わせた今でさえ、愚かな思考を拭いきれないのに。選ばれるべきではない私を、ただ天空の盾という付加価値のために選んでいただいたのではないか、という思考。天空の盾が私の元にあったが故に、本来選ばれるべきだったあの方からテュールさんを奪ってしまったのではないか、という思考。

 そんな理由で伴侶を選ぶ方ではないと、どんなに頭では理解できても。

 私よりずっと理想の一対に見えた、お二人が並んだ姿は、今も私の瞼の裏に灼きついたまま、時折浮かんではこの胸を切なく締めつける。

 あの方がどんなに魅力的な方なのか。私など足元にも及ばない、きっと一生かかっても叶わない、素晴らしいところをどんなにたくさん持っていらっしゃるのか。私が誰よりも一番にわかっている。

 何より私が、私自身が、あの方を──ビアンカさんを、とてもとても、心からお慕いしているのだから。

「……素敵な方ですよね。テュールさんは」

 尚もホイミンちゃんの後ろに隠れるようにふわりと浮いているしびれんちゃんに合わせて腰を落として、少し見上げるくらいの高さから、彼女を優しく覗き込む。

「────、うんっ」

 先ほど仲間になったばかりの小さな魔物は、襲ってきた時とは似ても似つかない純真なばかりの瞳をきらめかせて頷く。

「あのひと、しびれんのこと、らくにしてくれたよっ。ずっとずっとくるしかったのっ。もうくるしくないのっ」

「わかるー! なんかね、ごしゅじんさまのそばにいるとやさしくなるよねー!」

「うんうん♪ ず〜っとそばにいたくなるよね〜!」

 目の前のそれぞれに青いスライム属達は、口々にそんな、聞いているだけで嬉しくなる言葉を謳う。まるで私が日々感じていることそのもので、自然と笑みがこぼれてしまう。

「……私もよ。ずっと、お側にいたい……」

 最後のホイミンちゃんの言葉にぼんやりと同調した私は、みんながつと私の後ろを見たことに気づかなかった。次の瞬間、背後から唐突にきつく抱きすくめられ、息を呑む。

「──離さないって、言っただろ?」

 耳許に、愛しい声。

「テュ……、ル、さん」

 さっきからびっくりさせられることの連続で、どきどきと心臓の音が鼓膜まで響く。私を捕まえたテュールさんの腕にもきっと、この動悸は伝わってしまっているのだろう。

「側にいたいのは、僕だって同じ……だから」

 ぎゅ、と更に力を込めたテュールさんの逞しい腕にそっと触れて、私はきっとまた赤らんでしまった頰をその肌へと擦り付ける。

「……はい」

 ────好き。

 あなたの温もりを感じて、この心に囁くだけで、きっと私の想いは簡単にあなたに伝わってしまう。

 そっと腕の戒めを解かれて、大きな手が私の肩を支えて振り向かせる。誰よりも大好きな、その優しい瞳に射抜かれて。頰を滑る掌に、近づいてくる吐息に合わせて、緩やかに瞳を閉じる。

 いつの間にか、すす、と物陰に隠れた三匹の熱っぽい視線を気恥ずかしく感じながら。私は限りない幸福感に身を委ね、愛しいあなたの、甘く啄むばかりの口づけを受け容れた。

「……ごめん。そういえば何か用事、あった?」

 暫し、船室の陰に隠れて秘めやかな時間を堪能して。は、と熱い吐息を零したあなたが、私の濡れた唇に親指をそっと這わせて拭い、間近に瞳を覗き込む。

「あ、いえ……少し、時間があったので、本を読もうかと思ったくらいで」

 すっかり口づけの熱に浮かされて、ぼんやりした頭を必死に働かせてそう答えると、彼はまた優しく笑って、私の手を取り特別船室の奥へと誘っていく。

「じゃあ、僕も一緒に勉強しようかな。実は今、ベホマを覚えたいなって思ってて」

「え? あの、全快魔法を、ですか?」

 全快、といっても完全に回復させるわけではないらしいが、表に見える傷という傷を一瞬で修復する高位魔法だ。

 その奇跡とも呼べる回復力のために、術者には比類なき精神力を要求されるという、単回復魔法の最上位格。

「凄いです、テュールさん……いずれは神官様にもなれそうですわね」

 ほぅ、と嘆息しつつ彼を見上げると、私の呟きが可笑しかったのか、彼は緩んだ顔を私から背け、肩を小刻みに震わせた。

「もう。そんなに笑わないでくださいまし!」

「っ……、ごめん。でも、神官かぁ。面白いね。僕自身は全然、信心深くないけど」

 謝りながら尚も笑いを噛み殺す彼に軽く唇を尖らせ、特別船室のテーブルに読み途中の魔道書を広げて座った。これは補助の呪文がいくつか収められた本で、次に習得したいと思っている誘眠の呪文、ラリホーのところに栞を挟んであった。

 魔道書はそれ自体が媒介となるわけではなく、あくまで理論を記したものだ。実際に習得するには魔力を行使してみなくては始まらない。

 補助魔法や回復魔法は特別な属性の精霊の祝福を必要としないので、魔力の鍛錬にうってつけなのだとマーリン様がおっしゃっていた。勘の良い方なら魔道書などなくても戦闘中の感覚で習得されることもあるらしくて、よくよく聞いたらテュールさんの風魔法は殆どが独学、精霊の祝福のみで習得したらしい。それだけ、彼が昔からその身を危険に晒していたということの証左でもある。

 ……私がそれだけ、ぬるま湯に浸かって生きてきたということの証左、ともいえる。

「でも、テュールさん。ベホイミでは間に合わない、と言うことは今のところございませんよね? ホイミンちゃんもいるのですし……どうして最上位の回復魔法を?」

 さらに分厚い魔道書を持って私の向かいに腰かけた彼に、ふと湧いた疑問を投げかけた。もちろん、高位魔法の使い手が増えるに越したことはない。それでも、彼の負担が大きくなり過ぎるのではという余計なお節介からきた疑問だったのだが、彼は軽く眼を瞠ってからやや気まずそうに視線を逸らした。

「────それは、……内緒」

「え」

 何気なく発した問いにまさか、そんな反応が返ってくるとは思っていなくて。逸らされた瞳を追うように彼を見れば、どこか拗ねたように眉間に皺を寄せて、口許に手の甲を宛てがって隠す。

「……やっぱり。僕に神官は無理だな」

 そうしてぽつりと零された独り言の意味がわからず、遠慮がちに首を傾げると。彼は困ったように小さく笑って、どこか自嘲気味に囁いた。

「こんな、邪な神官はいないよ」

「────っ、そんなこと」

 彼自身の口から紡がれたとは思えないほど、彼にそぐわない表現に思わず声をあげてしまう。私に言わせれば、あなたほど純粋な魂の持ち主はいないのに。

「邪だってば。──先を越されて悔しい、ってだけなんだから」

 先を、越されて?

 いよいよ何のことかわからなくて、私は途方に暮れてしまったのだけれど。

 最上位の回復魔法、と必死に考えを巡らせた時に、一つ思い出したことがあった。

 つい先日の魔物との遭遇時、私の立ち位置が悪く転んでしまった際。膝と腕に傷を作ってしまったのだが、すぐ隣に居たホイミンちゃんが見たこともないほどまばゆい光で傷を瞬時に癒してくれた。お礼を言うより早く、ほとんど傷が塞がると同時にホイミンちゃんが大喜びでくねくねと空高く躍り上がり、感極まったように叫んだのだ。

『やった〜〜っ! ホイミンのはつベホマ、ふろ〜らちゃんにあ〜げた〜〜〜っっ!』

 今の魔法こそが単回復最上位魔法ベホマ、と言う事実にすっかり気をとられてしまって、『すごいわ! ホイミンちゃん、本当におめでとう‼︎』と戦闘中にもかかわらず手に触手を取り合い二人で大喜びしてしまったのだが。

 まさか、……────まさか、

 あの時の、ことを?

「……ホイミン、いっつもいいところを持っていくんだよなぁ……」

 そっぽを向いたあなたが、不貞腐れたようにぽそりと、呟いた。

 そんなことを、思ってくださっていたなんて。

「────フローラ」

 くす、くすと。思わず笑いが零れてしまう私を咎めるように、テュールさんが据わった眼で軽く睨め付ける。

 そんな表情をも向けていただけるようになった今が、たまらなく幸せで。

「ごめんなさい。……こんなこと、言ったらお気を悪くされるかもしれないのですけれど」

 どうにも緩んでしまう口許を指先で隠しながら、こみ上げる愛しさを思うまま、言葉に代える。

「あなたを──お可愛らしいと、思って、しまって……」

 男の方にこんなことを思ったのなんて、初めて。

 それでもやっぱり、ご本人を前にそれを口にすることは何となく申し訳ない気がして憚られて。にやけてしまう顔を両手で半分隠したまま、ほとんど口籠るように囁いた。

 私達、似た者同士なのでしょうか。

 胸に満ち溢れる幸福感をこっそりと噛み締めていたら、音もなく腰を浮かせたテュールさんが私の右肩を乱暴に引き寄せた。見上げる間も無く体勢を崩した私の耳を噛むように、

 ────今夜は覚悟、しておいて?……

 低く、密やかに囁いて、手を放す。

 彼はまた椅子にすとんと腰を下ろした。平然としてらっしゃるけれど、耳朶が赤くなっている。……きっともっと赤く、熱を持ったばかりの自分の耳朶を、私もそっと手で抑える。

「……、……っ……」

 もう、何も言えなくて。羞恥のあまり所在無く虚ろう視線を開きっ放しの魔道書に何とか落としたけれど、文字はちっとも頭に入ってこない。

 黙って魔道書を読むあなたを前にしていることがいたたまれなくなってきて、私はついに本を閉じ、立ち上がってしまう。

「────あの、そろそろ……お夕食の準備を」

 この一ヶ月ほど、交渉を重ねて勝ちとった調理手伝い。料理長には何度も恐縮され首を横に振り続けられたが、毎日毎日ねだり倒してようやく了承してもらった。

 数少ない、お役に立てそうなことだったから、私も船の一員として役割を得たかった。テュールさんやお仲間の皆さんは交替で魔物番をしてらっしゃって、さすがに私はまだそこには入れてもらえなかったから。

 顔を上げたあなたと目も合わせられず、慌てて本を片付けた私に、テュールさんはいつもの優しい微笑みを向けてくれる。

「うん。ありがとう、楽しみにしてるね」

 もう何度も目にしているのに、この表情にときめかずにはいられない。

 大好きな、ひと。

 彼の優しい眼差しに見送られ、私は真っ赤に茹で上がった顔のまま特別船室を出ると、扉を後ろ手にそっと閉めた。

 

 

 

 お互いのことを何も知らなかった結婚式から、およそ二ヶ月。

 まだきっと、お互いを手繰り寄せている最中だけれど。それでも私達は少しずつ、私達なりの夫婦の関係を形作りながら前に進んでいる。

 そして、船は南にある砂の大陸を目指し進む。あなたの旅の目的に近づくための──『伝説の勇者』の存在を、確かめるために。




2019.6.6 pixiv初出


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#1. ポートセルミ港

35th特番、がっつりリアタイしちゃいました!
Ⅲ2Dリメイクきましたね〜!これは子供達と一緒にやりたい!
5s来たら嬉しいんだけど、絶対小説に影響くらう自分は来たらどうしようまだ待って…と祈りながら見てました。いや来たら嬉しいけど!その前に9を、フローラ改悪なしでお願いしたい。天空エディションはそのあと欲しい、連携技と着せ替え実装、みかわしの服フローラとポートセルミのテトラポッドでまったりデート…実現させてくださいお願いします後生ですから……………………(超切実に合掌)




 遥か南方の砂漠の国、テルパドールと呼ばれる異郷の城に、伝説の勇者を祀る墓があるという────

 真偽はともかく、自由の身になってから幾度となく耳にした噂話だった。とはいえ、それを確かめるにはテルパドールは遠すぎて。これは埋もれた昔話の類ではなかったし、実質テルパドールへと渡る手段もなかったから、地図を見比べた結果、伝説の盾があると噂されていたサラボナを優先した、という事情があった。

 今となっては、あの瞬間にサラボナを訪れたことは僕にとってかけがえのない僥倖となった。ヘンリーの異母弟であるデール王には感謝してもしきれない。

「村と呼ぶにも小規模ですが、あちらの大陸には砂漠の中に集落が点在しています。気候によって極端な暑さ、または寒さに見舞われる土地です。なるべく過ごしやすい時間帯を見極めて、集落間を移動する形で歩を進められるのがよろしいでしょう。可能でしたら、港かどこかで案内人を雇われることをお勧めいたします」

「大変有益なご助言、痛み入ります。心づけはどのくらい用意すればよいでしょう? あちらでゴールドは如何程の価値を持ちますか?」

「そうですね。城や港ならまだしも、集落では貨幣は余り意味を為さないやもしれません。あちらにはいない魔物の結晶や宝石を持っていくほうがよろしいかもしれませんね。小さいものでも喜ばれるかと存じます」

 その日は朝からポートセルミ港に停泊した大型客船、ストレンジャー号の船長室にて、白髭の船長をはじめ数人の航海士と共に海図を睨みながら、次の長旅についての相談をしていた。

 港町ポートセルミに入ったのは昨日のこと。三日ほど前、サラボナを発った僕らは一度ビアンカの住む山奥の村を訪れたあと、このポートセルミに魔法で移動してきた。ルドマン卿所有の船を訪ね、これから世話になる旨を伝えて乗組員の皆様に挨拶させてもらった。夜は酒場で歓迎の宴を開いてもらい、やや酔いを残しつつも翌朝改めて場を設けてもらって今に至る。

 テルパドール城のある大陸まではまっすぐ行ければおよそ二ヶ月程度の道程だが、昨今の海の魔物の危険性や、海流の関係や物資の補充といった問題もあり、どんなに早くとも三ヶ月半は見積もりたいとのことだった。僕もできれば途中の村々でもっと話を集めたいところだし、初めて旅に同行するフローラも一緒だから、あまり焦らず進められれば良いと思う旨を伝えた。

「今が六月ですから、あちらの岸に着くのは早くて十月半ば頃。比較的過ごしやすい季節の筈ですが、朝晩は特に真冬の如く冷えることもあるとか。くれぐれも準備を入念になさってください」

 あちらの港についても、城に行くにはまず一度岩山を迂回せねばならず、その真西に数百キロの距離。恐らく数週間は馬車を引いて歩くことになる。砂地はひどく足を取られるというから、地図で見れば半月程度の道のりでも、倍以上かかるとみていいだろう。船長の真摯な眼差しに僕は黙って頷いた。

「僕達を下ろしていただいた後、皆さんは如何なさいますか? 単純に港と城を往復したとして、二ヶ月以上はかかってしまうと思います。その間ずっと砂漠の港で待っていていただくのは忍びないのですが」

 僕の提言に、航海士の面々は揃って目を見開き、ちらほらと顔を見合わせる。

「……そうですね、二ヶ月ではさすがに大きな町との往復はできませんし……その場でお帰りを待つことになるかと。まぁ、何とでもなりましょうよ」

 やや歯切れも悪く航海士の一人が答える。それも想定のうちなので、頷いて更なる提案をする。

「実は、僕は転移魔法を使えます。過去に訪問したことのある大きな街なら、ある程度魔法だけで行き来が可能です。例えば、テルパドールでの諸用が済んだらサラボナへ戻ることもできます。およそ二ヶ月見積もれば、テルパドール岸からサラボナのあたりまでお戻りいただくことができるかと思うのですが、いかがでしょうか?」

 今度こそ、航海士達の目の色が変わった。別の場所で合流できれば、今回の長い船旅を、例えば交易に活用してもらうことだってできるだろう。僕としてもこれほど立派な船を遊ばせておくのはもったいないし、どうせ船を出すなら何かしら成果を持ち帰っていただく方がいい。テルパドール岸から二ヶ月程度の距離なら、サラボナ周辺での合流が妥当かなと思う。

 それに、これなら砂漠を歩くのも行きだけで良くなるし。特に旅慣れないフローラにかかる負担を減らしてあげたい、という思惑も大いにあった。

 初めての砂漠は無理をせずゆっくり歩を進めて、テルパドール首都にも数日滞在し情報を集める。大体それで一ヶ月半から二ヶ月かかるくらいだろう。テルパドールがルーラで転移可能な場所なら、約束の二ヶ月後に何か用事ができて間に合わなかったとしても連絡を取り合うことも可能だから。

「確かに、それは我々としてもありがたいご提案です。若旦那様方はテルパドールへ行った後のご予定は特に立てられていないのですかな?」

「ええ。何にせよ、一度どこかの街に戻った方がいいかとは思いますので……それならサラボナが良いかと考えた次第です。ポートセルミの方がご都合が良いようでしたら、そこまでお戻りいただいても構わないのですが」

 その場合は僕達が少し船を待つことになるだろうが、ルーラで他の街を周りながら時間を潰すのも悪くはない。

 呼び捨てで良い、と言ったのに、律儀に大仰な呼び方をしてくださる船長に恐縮しつつ答える。船長もまた首を振り、地図を辿ってサラボナからずっと東の岸をとん、と指し示した。

「サラボナに港はございませんが、我々が船をつける時はこの辺りが多いです。地形が少々ややこしいのですが。大旦那様へのご報告も兼ねて、我々も数名サラボナに入ろうと思います。ですので、街で合流いたしましょう。その後の進路については合流後改めて相談、ということで」

「それで結構です。よろしくお願いします」

 何とか無理なくまとまった今後の予定にほっと胸をなでおろし、頼もしい航海士の面々に深く頭を下げた。これから軽く半年間はお世話になる方々だ。ルドマン卿の口添えとはいえ、僕のような若造の要望を受け入れ、危険と言われる今の海でこれだけの長期間船を出してくださる。正直、頭が上がらない。

「何、これも不思議なご縁です。お父上の探し物への道筋が今度こそ、見つかると良いですな」

 まるで父のような、温かくも低く響く船長の言葉に、また深く頷いた。

 信じ難い話だが──僕は昔、この船に乗ったことがあった。ストレンジャー号と呼ばれるこの船は、もう三十年ほど稼働し続けているルドマン卿所有の豪華客船である。かつては卿を乗せあらゆる場所を訪れた船だが、ここ十数年で海の魔物の活動が活発になりすぎて、大陸間の行き来が思うようにできなくなった。昔は定期的に出ていたというビスタ港との連絡船も、今は年に数えるほどしか出ていない。その船でさえ、つい最近まで偽太后の手に落ちていたラインハットの圧力も重なってほぼほぼ廃業状態だった。そう考えれば逆に、ストレンジャー号が航海を控えたのは当時のラインハットに目をつけられることを恐れた、というのもあったかもしれない。というのも、この船の乗組員はどこの傭兵にも負けず劣らずの屈強な猛者揃い。少しくらい魔物に襲われてもどうということはなさそうな布陣なのである。

 船長をはじめ、さすがに乗船員すべてが当時と同じとはいかなかったが、今の船長もまた二十年来この船に乗り続けているベテランだった。勿論、父と僕のことも記憶してくれていて、前の船長が話してくれていたという父の話まで聞かせてくれた。他にも数名、僕を覚えてくれていた年配の船員が気安く声をかけてくれたのがありがたかった。

「確かにここ数年、凶暴な魔物が増えた印象はあります。陸のことはわかりませんが、どうもこの辺りで沈む船が非常に多い」

 船長が指差したのは、カボチ村のあたりからずっと東の内海だった。その北西には先日結婚式を執り行ったカジノ島が位置している。なかなか危険なところでやったものだ、と今更ながら肝が冷える。

「すみません。ここには何があるのでしょう?」

 たった今船長が示したすぐ東側、地図の中心部分に、山を示す記号を見る。見る限り随分と高い山だが、よく見るとその山を有する大陸内の殆どに特記がない。地名らしきものややは勿論、使い込まれた海図なのに走り書き程度の筆跡すら見当たらないのが不思議だった。

「神々の住む地、と言われておりますわ」

 ぽつりと答えたのは、隣から覗き込んだフローラだった。

「神々の……」

 振り返った僕に、彼女はいつものように、聖女と見紛う優しさに満ちた微笑みを見せる。

「はい。古くからの神を祀る部族が住んでいると、以前読んだことがあります。その大陸はとても不思議な場所だそうで、南に森がありますでしょう? 何度入っても奥には進めない、奇妙な森なのだそうです。その地図もどこまで正確に地形を拾えているか、わからないそうですよ」

「へぇ……」

 フローラの言葉に相槌を打ちながら、再び地図へと視線を落とす。同じ世界に在るのに、そんな場所があること自体ひどく不思議に思えてならない。

 勇者がいないと入れないという魔界にも似た、神域とでも呼ぶべき場所なのだろうか。

 ──古い神を祀る部族、

 という言葉に引っ掛かりを覚えた。

『……何が光の教団じゃ。儂らは、あやつらが来るまでこの地で平和に暮らしていたのに』

 さも悔しげに吐き捨てた、ぼろぼろの布を纏い倒れ臥したご老人。

『今の儂らには、何の自由もない。かつての我らが神を崇めることさえ許されぬのじゃ』

 あの忌まわしき場所から逃れた折、耐え難い汚臭と振動に意識が朦朧とする中、ひどく高いところから落下した感覚。

「フローラ。……この山の名前、知っている?」

 自分の中で殆ど答えは出ていたが、恐る恐る、隣に佇み地図を見下ろす博識な妻に問うてみた。

 きっと、君ももうわかっているんだろう。哀しげな眼差しが一瞬、僕の眼前を過っていく。

 ……引導を渡されるなら、君がいい。

「確か、──セントベレス山、と言ったかと……思います」

 予想を裏切らない妻の答えに、僕はひたすら苦い味の吐息を漏らした。

 

 

◆◆◆

 

 

 かつて伝説の勇者が使ったと言われる盾を求めて、西の大陸にある街、サラボナを訪れたのが今からおよそ二ヶ月ほど前のこと。

 その街で、僕は運命とも呼べる邂逅を得た。

 生まれて初めて、恋を知った。欲深い自分を知った。嫉妬も、葛藤も、身を焦がすばかりの愛しさも。懐かしい人にも再会した。僕を取り巻く人達の優しさ、尊さに改めて気づかされた、そんな日々。

 託してくれる人もいた。応えられないことも、あった。それでも僕は、彼女の手を取ることだけを希んで。

 そっと傍に視線を落とせば、欲してやまなかった君が静かに寄り添ってくれている。

 誰よりも愛しい君が今、隣にいる。

「準備をしないとね。二週間、忙しくなるよ」

 華奢な掌に指を絡ませ、軽く握って声をかけると、君はどこか嬉しそうに微笑み、頷く。

 朝一での船上の会議を終え、今は人気の無い埠頭の一角にてフローラがストレンジャー号のキッチンを借りて用意してくれた手弁当を広げて、仲魔達と共に昼食を取っている。

 心地よい六月の陽射しが降り注ぎ、潮の香りのする風が鼻先をくすぐっていく。晴天の下、みんなで賑やかにバスケットを囲めば、ピクニックでもしているようで朗らかな心地になる。

 出航は二週間後に決めた。船長も言っていた通り、今回は砂漠という未知の場所へと赴く上、長い船旅になる。船出の前にしっかりと準備を整えておかねばならない。

 義父であるサラボナの大富豪、ルドマン卿がフローラの持参金として、決して少なくない──それこそ家を一軒建てられそうな金額を持たせてくれていたが、それに頼りきってしまうのは情けない。出立までに少しでも小金を稼いでおきたいとも思う。定職を持たない僕の場合、金になりそうな魔物を狩る、くらいしか金銭を得る手段がないのだけれど。

「確か、火山に宝石を落とす魔物がいたよね? 滝の洞窟でも見かけたけど、あっちは遠すぎるから」

 火山に同行したピエールに話を振ると、あそこでの一件をまだ根に持っているのか、露骨に嫌そうな気配を醸しながら頷く。

 物理的にも常に鉄仮面を貼り付けている彼だが、割と喜怒哀楽を表に出してくるのが面白い。

「斯様な無茶はなさらぬとお約束くださるなら、お供致そう。確か、サラボナから馬車で数日かかりましたな」

「大丈夫だって、もうそんな奥に潜る必要ないし。入り口の近くで値のつく結晶とかだけを集めてくるつもりだから」

 言いながらも、首筋にちくちくと純真な視線が刺さる。フローラが隣から心配そうに僕を見上げているのが、気配だけでわかってしまう。

「あのね〜、ようがんがみちをふさいでてね〜、とおれなかったからね〜、ごしゅじんさまがはしってとおりぬけたの! ホイミン、やけどにたっっっくさんベホイミしたよ〜〜〜!」

 いつか言われるとは思っていたが。フローラのサンドイッチを次から次へと頬張りながら、ホイミンが大得意で僕の黒歴史を暴露してくれた。へーすごーい! とやんや喝采するスラりんに鼻高々といった風情のホイミンは、あくまで自分の武勇譚を披露したまでのようだったが、案の定フローラはすっかり身体を強張らせて言葉を失ってしまう。

「もう、しないから。ほんとに……約束する」

 申し訳なさのあまり恐る恐る血の気の引いた顔を覗き込んで、その頰を包むように撫でると、彼女はまだ不安そうに僕を見上げていたものの、やっと少しだけ息を吐いてくれた。

「奥方様は如何なさいます。まだ戦いに慣れぬ女人をお連れするには厳しい場所ではありますまいか」

 フローラの魔法指南を進んで引き受けてくれたマーリンは、相変わらず無表情ながらも深慮な提言をしてくれる。

「そう、なんだよね……」

 顔色を失ったままのフローラをちらりと見遣り、僕も小さく頷く。正直、死の火山は内も外も危険すぎて、フローラを連れていきたいとは思えない場所だ。サラボナから距離があるから馬車がなくては移動が辛いが、洞窟内は馬車が通れるほど広くはない。探索の間は外に留めておく必要があり、しかしその馬車すら魔物に襲われてしまう。見張りを置かなくてはならないからあまり人員を割けない。街で待っていてもらうのが最も安全だけれど、待つだけでは嫌だといった彼女をいきなり一週間近くも一人、置いていくのは忍びない。

「……あの……、もう、わがままは申しませんから……」

 肩を縮めた彼女が酷く申し訳なさそうに囁いたが、そんな風に言わせてしまうこと自体が辛くて。

 ずっと、役立たずなのだと自分を責めていた。そんなことはないのに、何も出来ないと、僕の足手まといにしかならないと嘆いて。今ここで置いていくのは彼女の葛藤を肯定することになってしまう、そんな気がした。

「……うん。やっぱり、一緒に行こう?」

 弾かれたように顔を上げたフローラの視線を受け止めて、できるだけ優しく微笑んだ。もう、不安そうな顔はさせたくない。

 眼を瞠る彼女とは対照的に、心優しいガンドフや成り行きを見守っていたピエールがひっそり安堵の息を吐いている。

「フローラは魔物の気配にすごく敏感だし、回復魔法を使えるだろ? 居てくれたら有難いよ。それに、本当に奥へは入らないつもりだから。全員ちょくちょく馬車に戻って休憩も取れるし、帰りは魔法で一気に戻ってこられるから、そこまで大変ではないと思う。──暫く湯を使うことはできないけど、ね」

 最後はおどけて言ってみたけど、彼女は「そんなの、平気です」と急いで答えて首を振る。僕の肩に遠慮がちに額を押し当て、噛みしめるように「……ありがとう、ございます」と囁いた。

「ありがとうございます。──少しでも皆さんのお役に立てるように、私、頑張ります」

 本当に、なんと心の綺麗な人だろう。彼女の澄んだ決意が、その心根が、僕に活力を与えてくれる。

「うん。頼りにしてる。できれば僕も、君にもっといいところを見せたいし」

 冗談めかしてそう告げた。肩に頭を預けてくれる君が愛おしくて、碧い髪に指を絡ませて後頭部をそっと撫でる。すぐに顔を上げた君がうっすらと頰を染めて、気恥ずかしげに言葉を紡いだ。

「テュールさんは、いつだって、……世界一素敵な御方、ですわ」

 まっさらかつ直球な彼女の囁きに、僕の方が赤面して固まってしまう。ごほん! と態とらしい咳を一つかましてくれたのはピエール。「いや、今日は暑いですなぁ。暑い暑い。夏はまだだというのに一向に妙な汗が引かぬ」などといい、バスケットに残った料理を次々と平らげていく。

「あ、こらピエール! 僕もそれ食べたかったのに!」

「あるじ殿には隣にとっておきの逸品がござろうが。飯くらいこちらに融通なされ」

 しれっととんでもない冷やかしをくらい、益々頭に血が上る。そんな風に言われると、真っ昼間から意識してしまうじゃないか。

 ちら、と隣のフローラを盗み見れば、やはり彼女も鎖骨のあたりまで肌を薄紅色に染めて俯いていた。あまりに可憐な横顔に、すぐにでも抱きしめたい衝動が腹の底から湧いたが必死に押し留めた。仲魔達の手前、さすがにそれくらいの理性は残っている。

「おーいしかったー! ふろーらちゃん、ありがとー!」

「うむ、中々の馳走でござった。いやぁ、このような飯にありつけるのであれば、結婚というものも捨てたものではありませんな」

 別に、君達の飯のために結婚したわけじゃないんだが。富豪邸の本宅で腕を奮うコック仕込みの料理の腕前は、妙に舌の肥えた仲魔達の胃袋を掴むには十分だったようだ。お互い頰を紅潮させた微妙な雰囲気のまま座り込んでいる僕達を尻目に、バスケットを空にした仲魔達は満足気に頷きあい、腹を撫でつつそれぞれにのんびりと寛いでいる。

 ……僕が野営で自炊していた頃には「今日は何の魔物の煮込みで?」などと口々におちょくってくれたものだが。腹さえ壊さなければ良い、という杜撰な料理だったのは否定しないが、そんなに酷かっただろうか。今後、折を見てフローラに料理の手ほどきを請うべきかもしれない。

「して、サラボナへはいつ頃?」

 この言いようのない空気は誰のせいだと思っているのか。相変わらず飄々と尋ねてくるピエールに、僕は思わず苦笑いを噛み潰す。

「……明日か、明後日かな。少し準備を進めてからにするつもり。とりあえず今日は今の所用事はないから、みんなは自由にしていていいよ。僕は市場を覗いてくる」

「承知。ならば少々、腹ごなしに小物の相手でもしてくるかな」

 ピエールの言葉に合わせて、彼を乗せた緑色のスライムがぴょん、と跳ねる。あのスライムが喋るのは見たことがないのだが、ピエールはせっせと飯を分けてやっているようだ。だからこそ、彼の食事量は正直半端ない。食事にこだわるのもその為かと思われる。あのスライムはスラりんとどう違うのだろう、とずっと気になっているが中々聞けずにいる。

 彼に同調したらしいプックルが、のそりと立ち上がり僕に目配せをする。「うん、いってらっしゃい」と手を振ると、微かに満足げな表情を浮かべてととん、と足取り軽やかにピエールの跡を追った。

「市へ出るなら、同行してもよろしいか。古本があれば覗かせていただきたい」

「もちろん。マーリンなら好きに見ていて構わないよ。みんなは、どうする?」

「あそんでるー!」

「ホイミンも〜!」

 元気に声を上げた二匹の頭をぽん、と撫で、ガンドフを振り返れば、もう眠そうにうとうとと船を漕いでいる。

「あはは、暖かいからね。んー、ここで寝かせてあげたいのは山々だけど……」

 港の最端の埠頭だからそうそう人は来ないと思うが、海辺だし日が暮れてきたら冷えてきそうだ。無理にでも馬車に入れるべきか悩んだが、「スラりんたち、ここであそんでるよー!」「ガンドフみてるよ〜!」と青い二匹が言ってくれたので、ありがたく甘えることにした。

「じゃあ、夕飯前に迎えにくるね。もし宿に戻りたかったら、昨日も泊まった納屋の方に行ってくれればいいから。よろしくね」

 最後に「海に入っちゃだめだよ?」と子供にする如くな念押しをして、簡単に片付けをしたあとスラりん達と別れた。

 港町とはいえ、数年出航を控えてしまったポートセルミの市場は繁盛しているとは言い難かった。それでも多少物珍しい品もあり、先程船長達から聞き込んだ内容を元に店先をつらつらと覗いていく。

 夏に向かうこの時期に冬物はなかなか置いておらず、特に靴を探すのが難しかった。砂が入りにくいよう、縫い合わせの少ない丈のある靴が良いと聞いたが、中々見つからない。結局オーダーで作ってくれる靴の仕立屋を見つけて相談し、二週間以内に数足、皮製の靴を仕立ててもらうことになった。

「防寒なら、アルミラージの皮がおすすめかねぇ。この辺じゃ取れないんで些か貴重でね。オラクルベリーならもう少しアルミラージ製品を扱ってるんだろうが、ここ数年はビスタ港にもろくに船が出せていなかったもんでさ」

 店主の言葉になるほどと頷く。魔物が持つ素材は、魔物自体が魔力により形作られるが故に特殊な魔力を帯びていることが多い。氷冷耐性の高いアルミラージの皮なら、確かに寒さには強いだろう。

 そして、オラクルベリーは世界に名高き商業都市。とても活気のある街だから、ここに劣らず品揃えもあるかもしれない。明日あたり行ってみよう、と脳裏に刻んで、もう一つだけ店主に交渉を試みる。

「アルミラージでしたら多分、伝手があるのですが、持ち込みで割り引いていただくことはできますか?」

「ほう? 面白いね。加工皮じゃなく現物でいけるのかい?」

「はい。何体くらいあると良いでしょうか」

 アルミラージは角も中々良い値がつく。ヘンリーと共に父の隠れ家を探索した際、拾った角を何度か換金したことを覚えていた。

「ご注文の靴だけなら、五体もいれば充分だがね。さっきも言った通りこの辺じゃ希少な素材だ。二十くらいまでならうちで買い取ろう。何なら、他の店も紹介するよ」

 こんな時、ルーラを使えて良かったと心底思う。サラボナで小金稼ぎをする前に父の隠れ家でアルミラージを幾らか狩ってこよう。ついでに、オラクルベリーにも行ってあの掘り出し物屋を覗いても良いだろう。

「では、明日には手配してお持ちします。よろしくお願いします」

 前金として五百ゴールドを支払い、靴の注文を終えた。あとは衣服とテント、食糧などまだまだ大量に買わなくてはならない。水で増える穀類や数ヶ月保存可能な干し肉など、とにかく大所帯なので量も嵩張る。砂漠ではどれほど自給自足が可能なものか。

 ──最悪、狩った魔物の肉を食うしかないのだが、フローラにそれを強いるのは……

 正直抵抗がありすぎるが、彼女はそうやって線引きをされることを望まないだろう。僕達と同じものを食べ、同じ生活をすることだけを望んでくれている。それは痛いほどにわかる。富豪令嬢であった彼女は、しかしそれまでの生活に僅かの未練も見せない。

「ふふ。そういえば、皆さんは甘いものはお好きでしょうか?」

 どことなく楽しげに笑ったフローラが、通りすがりの店先で綺麗な空の小瓶を手に取った。

「ん? うん。お菓子みたいなもの? 好きだと思うよ」

 保存食の代表格である、いつもの味気ない固いスナックを見繕っていた僕を振り返り、フローラは花のような微笑みをみせてくれる。

「良いことを思いつきました。いくつかこの小瓶を買ってもよろしいでしょうか? あと、果物とお砂糖も」

「もちろん、いいよ。何か作るの?」

「はい。でも、まだ内緒です」

 僕を見上げて悪戯っぽく微笑むと、人差し指を桜貝の唇にそっと押し当てる。彼女にしては珍しい、どこか蠱惑的な表情に、どくん、と心臓が跳ねてしまう。

 ────ああ、もう、可愛いなぁ。

 僕の邪な感情には気付かず、楽しそうに果物を選ぶ愛らしい妻の背中をうっとりと眺めていたら、マーリンが古い本を一冊携えてこちらに寄ってきた。

「ひとつ、こちらを買わせていただいた。奥方様は回復魔法以外行使されたことがないとのこと。であれば、簡単な補助魔法から練習されるのがよろしかろう」

「ああ、いいね。本当にありがとう。色々考えてくれて」

 相変わらず、冷淡に見えて深慮に満ちた御仁である。それを言うと面白くなさそうな顔をされるのではっきりとは伝えなかったが、彼もまた珍しく緩い息をつき、眼を細めて買い物に勤しむフローラを眺めやった。

「育成し甲斐のありそうな素体を、一から仕込むのは初めてなもので」

 ……さすがは魔族と言うべきか。それでもその眼差しに少なからず慈しみを感じられるあたり、彼なりに精一杯の親愛表現なのだろう。やがて瑞々しい木苺を二包みほど選んで戻ってきたフローラが「お待たせいたしました」と僕達に並び、歩き出した。

「この後は、お夕食までご用はないのですよね。船長達との待ち合わせのお時間まで、また少し船でお料理をしたいのですが、よろしいでしょうか?」

「うん、もちろんだよ。そしたら僕も少し外に出て来ようかな? 今からなら十分夕飯に間に合うしね」

 今夜もまた、船長達と酒場で夕食を共にする約束をしている。夕刻まではまだ数時間あるから、アルミラージくらいなら軽く狩って戻ってこられそうだ。

 フローラの細腕には重すぎる、小瓶を納めた木箱をストレンジャー号まで運んでやり、夕刻迎えに来る旨を告げて再び仲魔が遊ぶ埠頭へと戻った。去り際、扉の影に隠れて触れるだけのキスを奪うことも忘れずに。

 背後から無言の圧力をかけてくるマーリンに気づかぬふりをして、日向で昼寝中のガンドフを貝殻でせっせと飾り立てているらしいスライム属の二人に声をかけた。すっかりめかしこまされたガンドフを笑いながら揺り起こしたところで、ちょうどピエールとプックルも戻ってきたので、まとめて馬車に乗ってもらいサンタローズへと転移した。相変わらずの荒れ果てた様子は何度見ても胸が痛むが、昨日拵えたばかりの墓標を見つけると少しだけ、心が和らいだ。

 昨日、ストレンジャー号に赴き挨拶をした後、宿に荷物を落ち着けた僕とフローラは二人きりで束の間、このサンタローズへと飛んだ。

 彼女に僕の故郷を知っておいて欲しくて。ほんの小一時間のことだったが、今も荒廃が燻る村の端々で君は何度も悼ましく表情を歪ませ、黙祷を捧げてくれた。手を合わせ、幾度も頭を垂れてくれた。

 当時難を逃れた僅かな人々が建てた墓標の隅に、父の名を刻んだものを並べて建てた。父の隠れ家を見守り続けてくれたお爺さんも、僕達の拙い弔いを見守ってくれた。

「一応、村長だったらしいのに、ずっとお墓がなかったんだ。生死が伝わらなかったから仕方ないけど……父さんの魂の、寄る辺になれたらいいよね」

 こういう時、父の好きだったものなど供えられたら良かったのだけど、残念ながら幼過ぎて覚えていなくて。何となく酒は嗜みそうな気がしたので、持ってきた葡萄酒をひと瓶、墓前に添えた。

 父の剣を墓前に掲げ、長く手を合わせていたら、どこからか君が野花を摘んできてくれて、父や他の人の墓にも供えてくれた。

「また是非、連れてきてくださいね。……きっとお義父様、喜んでくださっているのではないかしら。テュールさんのお気持ち、お義父様に届いているはずですわ」

 どこまでも優しく響く君の言葉が切なくて。黙って頷いて、フローラの肩を抱き寄せた。一緒に手を合わせていたお爺さんも、涙ぐみながら頷いていた。

「辛い、時代じゃったがの。テュール坊が生きとって、こんなに大きゅうなって。今やしっかりとパパス殿の遺志を継いでくれておる。まだ終わっておらん、希望はあると、この老いぼれにも思わせてくれる。それがまことに、奇跡じゃよ」

 喉元を苦く、熱く圧迫するものを飲み下しながら、身体に染み渡るお爺さんの囁きをただ聞いていた。

 僕が受け継いだものなんてほんの少ししかない。きっと、父が追っていた母の影はまだ端すらも見えていない。母を連れ去った魔の者の正体も────

 それでも、意地でも終わらせない。終わったと思えるのは、いつかここに母を連れてくる時。父に全てを報告できた時、それだけだ。

 作りたての墓標に昨日と同じく手を合わせて、誓いを新たにしてから洞窟へ向かった。再びお爺さんを訪ねて、近々船で南の大陸へと渡ることを話すと、感極まったように何度も頷いてくれた。

 その後、全員でさっくりと数十体のアルミラージを狩り、ついでにとれたガメゴンの甲羅も幾らか馬車に積み込んでポートセルミに戻った。

 正直、フローラの用事の隙間に片付けられて良かったと思う。魔物で動物のそれよりずっと大きいとはいえ、兎型の死骸を大量に運ぶところなど、フローラが見たら心を痛めるに違いない。

 核を破壊すればその身をほとんど消失してしまう魔物という生き物は、形を崩さず運ぶことの難しさが一層素材としての希少性を高めている。だからこそ、僕のような冒険者らの生活の糧になり得る訳だけれど。

 先ほどの交渉から数時間でアルミラージを大量に納品した僕らに、店主は目玉が飛び出るほど驚愕していた。「信じられん。旅人さん、あんた一体どんな伝手を持っとるんだ?」と声を震わせる店主に、ただ苦笑いして「……まぁ、そこは秘密、です」としか答えられない。狩場についても、迂闊に広まるとサンタローズが更に荒らされてしまいそうな気がしたので黙っておいた。

 とにかく、お陰で僕達は想定外の収入を得ることができた。靴も前金の分だけで仕立ててもらえることになったし。

 僕達は良く知らなかったのだが、このアルミラージという魔物は昔ラインハット王国周辺に多く生息していたものの、素材の有用ぶりから乱獲されて今はあまり見られなくなってしまったらしい。そう言えば子供の頃、外で何度か対峙した覚えがある。希少なアルミラージをまとまった数持ち込んだ者がいるということで、ポートセルミの市場ではその後しばらくあらぬ噂が回ったそうだ。曰く、ポートセルミ周辺のどこかでアルミラージが大量発生しているとか。後日噂を聞きつけた一攫千金を狙う輩がその所在を確かめにここ周辺の探索を強化したとかしないとか、その頃既に船に乗り込んでいた僕達には与り知らぬ話である。

 

 

 

 靴屋の店主から同業者を紹介してもらい、十匹程度のアルミラージを手土産に外套の仕立ても依頼することができて、最低限の装備は整いそうなことに安堵しながらフローラを迎えに行った。

 ストレンジャー号に上ると甲板まで甘い匂いが立ち込めていて、一緒に上ってきたスラりんが僕の肩の上でぷるぷると身体を震わせ、嬉しそうに声をあげる。

「わー! いいにおーい!」

 苦笑しながら操舵室の下に続く階段を降りると、珍しく髪を後ろで結い上げたフローラがちょうど後片付けをしているところだった。

「お帰りなさいませ。こちらもついさっき、調理が終わったところですわ」

 にこやかに首を傾げた彼女が示すテーブルには、昼にも劣らぬ手弁当の数々。どうやら今回も仲魔達の夕食を用意してくれたらしい。これを一人で、と思うとつくづく頭が下がる。

「作ってくれたんだ? 大変だっただろう。ありがとう、絶対みんな喜ぶよ」

 実際、酒場の料理を適当に運ぶより、フローラの手料理の方が仲魔受けがずっと良いのだ。僕だって彼女が作ってくれる料理の方が好きだし、嬉しい。惚れた弱みもあるのだろうが、つくづく僕には過ぎた妻だと思う。

 ……彼女に相応しい男にならなくては、と、改めて思う。

「喜んでいただけたら嬉しいです。それと、もう一つ。お試しいただきたいものが」

 はにかみながら彼女が差し出したのは、先ほど買った小瓶に詰められた、ルビーのような赤紫色の光沢が美しい木苺のジャムだった。

「これでしたら、熱湯を使ってきちんと封をすれば、普通に置いておいても半年は悪くならないそうです。修道院で教えていただいたのですが。確か、当時も旅の方の為に作っていたものでしたので、お役に立てるのではないかと」

 またまた僕は感嘆してしまう。奴隷生活が長過ぎた為だろうか、普段甘味を口にする習慣がなかったので考えたことがなかったが、確かにジャムは保存性に優れていると聞いたことがある。戸棚からいつものスナックを出してきた彼女が作りたての木苺ジャムを載せて差し出してくれた。僕より先にぱくついたスラりんは一口めで瞳を輝かせ、「うわーっ、おーいしー! さいこー!」とキッチン中を跳ね回っている。

「……すごい。美味しい」

 僕も受け取って、一口食べてみた。濃厚な甘酸っぱいジャムが、固く味気ないばかりのスナックと合わさるとほろりと絶妙な味わいに変わる。普段食べているものと同じものだなんて、到底思えない。

 幼い頃、こういうおやつのようなものをサンチョは作ってくれただろうか。いまひとつ思い出せないのが歯痒い。

「なんか、こう……お菓子、みたいなものって食べた記憶があまりなくて。今まで気にしたことなかったんだけど、……美味しいね」

 母の記憶がないせいもあるのかもしれない。まるで幼い子供に還ったような心地で、郷愁にも似た切ない幸福感とともにジャムの甘さをしみじみと味わっていたら、つ、と頰を良い香りの指先になぞられた。つられて見下ろすと、聖母の如く慈愛に満ちた眼差しが僕を見上げていた。

「これから、たくさん作りますから。……一緒に色々、いただきましょう?」

 優しく、包み込むように微笑んで、首を傾げて囁く。

 こんなにも僕ばかり、欲しいものを与えてもらって。

「……うん。楽しみだな……」

 しあわせすぎて、怖くなる。

 頰を滑る手を取り、白銀の指輪に恭しく口づけた。

 僕の女神。大事な、だいじなひと。

 気恥ずかしげに首を竦めた彼女と微笑みを交わし、いくつも積み上がったバスケットを順番に外へと運び出した。船の外で待っていた馬車の面々はそれはもう凄まじい喜びよう。「納屋に着いてからね?」と念押ししつつ、昨夜と同じ宿に向かった。

 その頃にはもう陽は傾きつつあって、宿の一階を占める大きな酒場には早くも人がちらほら入り始めていた。階下の大きなテーブルに船長ら見知った顔が陣取るのを見つけ、フローラの手を引いて降りた。そうして互いに今日一日の収穫を報告しあったり、明日以降の予定を簡単に話したりしながら賑やかな夕食を終えた。

 

 

 

 明日はオラクルベリーで一日のんびり買い物をして、明後日には一度、妻の故郷に戻る。と言っても、恐らく彼女は足を運んだことがない、辺境の危険な探索地だけれど。

「────怖い?」

 一緒にベッドに潜った、どこか幼く見える君の手を握り問いかけると、君は小さく首を振り、幸せそうにほんのりと微笑む。

「あなたが、いて下さるから。平気です」

 その穏やかな表情に、僕も微笑んでもう一度、指を絡め直した。

 いつか、君に似たあの美しい蒼の洞窟にも連れて行きたい。すぐに行ける場所ではないから今は無理だけれど、何もかも終わらせたその暁には。

 化粧を落とした君は年相応のあどけなさを映していて、けれどその白い肌にかかる碧い髪にふと、数回愛し合ったあの昂りを喚び醒まされる。

 いい加減獣じみた衝動に辟易しつつ、君の髪を梳いて何とか紛らわせていたら、「……あの」と腕の下からか細い声が聞こえた。

「昼間……お聞きした、火山でのこと……」

 言い澱む君を覗き込むと、少し困ったように眉を寄せ視線を泳がせる。

「……うん。心配かけちゃったよね……ごめん。本当、ホイミンのお陰で全然平気だったよ。ガンドフにも冷やしてもらってたし」

 こめかみの辺りを包んで撫でると、フローラはそっと瞼を閉じて、僕の紅い指輪をなぞるように掌を重ねた。

「そんなに、……してくださった、のは、……」

 消灯した部屋の、窓からぼんやり差し込む薄明かりだけではシーツに顔を埋めた君の表情はわからない。けれど、きっと今、また薄紅色に頬を染めているんだろうということは何となくわかった。触れたままの頰はほんのりと暖かくて、彼女の緊張が伝わってくる気がした。

「──だって。嫌だったんだよ。……誰かが、君に求婚するのだって、見たくないって……」

 その、一心だった。身勝手が過ぎたかもしれない。君の意には沿わなくても。それでも、耐えられないと心が叫んでいた。

 シーツの中、柔らかな身体を抱き寄せれば、君は甘えるように僕の首筋に頰を擦り寄せてくれる。その髪から、いつものほのかな花の香りがして。

「僕が指輪を持ち帰れば、他の誰も、君には近づけない。……だろ?」

 まだ恋の自覚すら覚束なかった頃、駆り立てられるように炎のリングを手に入れる為動いた。

 あの時にはもう、とっくに堕ちてた。

「──テュールさん」

 澄んだ、鈴のような声が、僕を呼ぶ。

 細い腕が僕の背中を抱き締めて、僕もまた愛しさを込めて、彼女をそっと腕に包み込んだ。

「……大好き、です……」

 儚い吐息に溶けて届いた、愛しい君のかき消えそうな告白に、理性なんてものはいとも容易く消し飛ぶ。

「僕も、だよ。好きだ……フローラ」

 強く、力を篭めて抱きしめあった。滑らかな額に口づけを落とし、お互いの肩を、背を、頰をなぞり合って。港口を示す灯台の光が時折差し込む宿の静かな一室で、僕達は互いの存在を何度も何度も確かめながら、穏やかな眠りへと意識を落としていった。



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#2. 家族の偶像

 ────カタン、

 と小さな物音と共に、潮の香りのぬるい風が寝室を吹き抜けた。

 明るい方を確かめるように寝返りをうって、うっすらと瞳を開けると、窓から差し込む柔らかな光が逆光になって、窓辺に佇む君の輪郭をどこか幻想的に映し出す。

「あ。……起こしてしまいましたでしょうか?」

 僕の目覚めにすぐ気づいたフローラが、身体ごと振り返って微笑んでくれた。

「おはようございます。テュールさん」

「……うん。おはよう」

 すっかり身支度を整え、薄化粧も綺麗に施した彼女をシーツの中から見上げ、少しばかり決まり悪いのを誤魔化すように微笑んだ。

 フローラは朝が早い。初めて身体を重ねた翌朝こそ共に目覚めたものの、それ以外の日はほとんど彼女が先に目覚めて全ての支度を整えている。僕がとりわけ寝坊症ということはないはずだけれど、きっとフローラを抱きしめて眠ると心地良過ぎて、いつも以上に熟睡してしまうのだと思う。

「……フローラ、ちゃんと眠れてる?」

 微かに枕元に残った彼女の香りに鼻孔をくすぐられ、ささやかな幸福感を噛みしめていたが、ふと不安になった。僕がこんなにも安眠させてもらっている裏で、君は眠りが浅いのではないだろうか、と。

「え? ……はい。ぐっすり、眠れておりますが」

「なら良いんだけど。いつも朝早いから、また……あの夢とかみてるんじゃないかって思って」

 戸惑いながらも僕に答えたフローラが、ベッドに腰掛け目を瞠る。すぐ近くに来てくれた彼女の頰を撫でると、彼女は朝の野薔薇の如くその肌を色づかせながら、そっと視線を彷徨わせた。

「……大丈夫です。私も……テュールさんと一緒に眠るようになってからは、あの夢は見ていません、から」

 その言葉にほっとして、自然と頰が緩む。

 サラボナを発つ直前、街のすぐ側に立つ塔の最上階で君が話してくれた夢の話。雲より高いところから落ち続ける夢の話。物心つくほど幼い頃から君を悩ませ続けているというその夢が、今も君を蝕んでいるのではないかと懸念していた。

 僕が救われたように、君にとっての救いになれたらいい。

「早く支度するのは、習慣……と申しましょうか」

「習慣?」

「はい。修道院では日の出と共に活動を始めるのが常でしたので、一度そのリズムが出来てしまうと今でもつい、早く目が覚めてしまって」

 しっかり者の彼女らしい答えに感心してしまう。そうは言っても、彼女が修道院に居たのは二年近く前の筈だが、帰郷してからもずっと早起きを習慣づけているということか。

「ほとんど幼少の頃から続けていますから、中々変えられないだけなのですよ。──それに」

 ついため息混じりに彼女の横顔に魅入ってしまう僕に、君が控えめな微笑みをみせる。

「いつだって、きちんとしていたいのです。……あなたの妻として、恥ずかしくないように」

 十六歳の、まだあどけなさを残す目の前の少女は、大人びた表情を湛えたまま真っ直ぐに僕を見る。

 その瞳に、恥じらいだとか、浮立つような感情は微塵も映っていなくて。

 悔しいほどに凛とした、美しい人がそこに居た。

「──あんまり、頑張りすぎないで。……僕が居た堪れなくなるから」

 呼吸も忘れるほど見惚れた後、やっと息を吐いて出たのはそんな一言。

「え……?」

 当然ながら困惑し、俯いた僕を覗き込んでくれる君の肩に、自分の額を押し付けてこの重さを預ける。

「今だって、十分すぎるのに。これ以上頑張られたら、隣にいる自信がなくなりそう……」

「──っ、そ、そんな」

 情けなさすぎる僕の独白に、狼狽えてくれる。

 たった今あんなにも強く美しい眼差しを向けてくれた君が、今度は眉尻を下げて僕を覗き込んでくれる。

「……うん、冗談。見放されないよう、頑張る」

 顔を傾けてすぐ側にある君の顔を見つめれば、まだ不安そうな瞳が揺らめいて僕を映している。

「見放す、なんて、…………っ」

 尚も言い募ろうとした優しい君の言葉は、甘く噛みついた唇の奥に溶けて消えた。

 突然の口づけに君はぴくりと身体を震わせた、けれど、突き放すようなことはせず、恐る恐る緊張を緩めて僕を受けとめてくれる。

 彼女の赦しに応えるようにかたく抱きすくめて、縋り付く君の小さな頭を上向かせた。仰け反った細い喉元から、ん、と愛らしい声が漏れて、一瞬ずくん、と鳩尾を掴んで揺さぶられる激しい衝動に襲われる。

 ────これ以上は、駄目だ。

 蕩けそうな恍惚感の中、なけなしの理性が頭の中でそう、叫んだ。

 弾かれたように肩を掴んで、身体ごと唇を引き離す。どくどくと早鐘が鼓膜を打って響く中、びっくりして綺麗な目を大きく見開いた君が、声もなく僕を見上げているのだけが視界に映った。

「…………っ、ごめん」

 途端に抗い難い羞恥が襲ってきて、思わず彼女から顔を背け、手の甲でぐい、と燒け焦げそうに熱い口許を拭った。

 また、だ。ほんの二、三日前から感じるようになった、抑圧、抑制じみた感覚。僕が己の情慾に溺れてしまいそうになる度、こうして現れては戒めてくる。

 君と心を通じ合わせ、初めて身体を重ねて、その悦びを知ってしまったから。きっと、歯止めの効かない熱情を知ってしまったから。これ以上に箍が外れてしまいそうになるのを、本能が必死に押し留めているのかな、となんとなく思う。

 だからこそ、旅立ってからは必死に自重していたつもりだ。まだ通じ合って間もない君だから、これから先ずっと、ずっと一緒に居たいから。勢いに任せて性急になりすぎることだけは避けたかった。キスくらいなら、と隙あらば乞うていたことは否定はしないけど、それですらも今のように目の前が昏くなるほどの衝動に侵されそうになる。

 君に触れることが段々、空恐ろしくなっていく。

「……嫌じゃ、ないんです。……本当に……」

 顔を背けたままの僕の腕に、彼女の華奢な指が、遠慮がちに、触れた。

 その引力に逆らうことなく彼女を見下ろすと、ほんのりと首筋を薄紅に染めた君もまた、気恥ずかしげに俯いたまま僕に身を寄せ、少しだけ体重を預けてくれる。

「うん。……ありがとう。────僕が、もっと君を大切にしていたいだけ……」

 今度こそ、何より優しく、傷つけないようそっと腕に包む。

 碧い髪の中に指を埋めて、小さく綺麗な頭の形を確かめて。

「……朝食、行こうか?」

 そっと耳許に囁いて、君の返事を待った。昨日の木苺ジャムより赤い顔が、どこか心許ない表情のまま僕を窺い見る。至近距離にある翡翠の瞳は戸惑うままに泳いで、やがて小さくこくりと頷いた。

 

 

◆◆◆

 

 

 顔を洗い、手早く身支度を整えて階下に降りた。早朝のひと仕事を終えたらしい、港で働く人々に混じって二人で簡単な朝食をいただいた後、仲魔達用に頼んでおいた食事も受け取って、朝の挨拶に赴いた。

 妻の手料理ではないことにあからさまに落胆してくれた面々であったが、朝から準備する方の手間くらいは理解しているらしい。僕にだけわかる程度のため息をつきつつ、大皿を囲んでいた。

 今日はこの後、商業都市オラクルベリーへ行く。昨夜船長達と話をして、不都合がなければ何名か同行させてもらえないか、との申し出を頂いたため、数名の船員達と連れ立っての移動になる。あの街には夜しか開かない店も多いので、オラクルベリーで一泊してから明朝一度ポートセルミに戻り、その後僕達だけサラボナへと飛ぶ算段だ。

 宿にはしばらく戻らないので一度荷物をまとめて精算をし、馬車のみんなと共にストレンジャー号が待つ係船場へと向かった。

「やぁ、おはようございます。今日は我々の無理を聞いていただき、まことに申し訳ありませんな」

 甲板に出て整備の指図をしていたらしい船長が早々に僕達に気づき、朗らかに声をかけてくれた。

「いいえ、僕こそ我儘をお聞きいただいていますから……空間転移くらいお安い御用です。帰還は明日の予定でよろしかったでしょうか?」

「ええ、それで構いません。よろしくお願い致します。────お前達、くれぐれも羽目を外して若旦那様方にご迷惑をかけるんじゃないぞ?」

 若干の凄みを帯びた船長の言葉に、船内から駆け出してきた数名の若者達が姿勢を改め「はい!」と叫ぶ。

 今更ながらこれが大富豪ルドマン卿の所有船であり、その息女が今、僕の妻なのだという事実に、畏縮にも似た恐れ多さばかりがこみ上げる。

 僕自身が望んだのはフローラただ一人。とは言え、付随して得たこの後ろ盾、ルドマンの名はこれまでの僕では考えられないほど大きな影響力を持っている。その意味を、僕は理解しておかなくてはならないだろう。奇跡的に卿のご厚意をいただける結果となったとは言え、僕自身は今も身寄りのない一介の旅人に過ぎない。こんな根無し草によくぞ一人娘を任せようと思われたものだ、とこちらが驚くほどだ。

 改めて、結婚という結びつきのもつ意味を考えさせられる。

「今日は、ストレンジャー号も沖に出られるのですか?」

 先程から忙しない船上の様子を見上げつつ質問を投げかけると、船長が白髭を撫でつつ穏やかな笑みを浮かべて頷く。

「ええ、まぁ。カジノ島への送迎です。元々月に数回行き来をしておりまして」

「そうなのですか? ──それでは、僕達の旅にお付き合い頂いてしまっては」

「いやいや。それは問題ありません」思わず狼狽してしまった僕に、船長は表情を変えず緩やかに首を振ってくれた。

「暇を持て余した我々を見かねた大旦那様が、こちらにも仕事を振って下さったまでですよ。カジノ島には元々送迎用の客船があります。最近はビスタ港にも寄れるようになりましたから、それでこちら側の賓客の送迎を少しばかり請け負って居りましたのです」

 なるほど、と頷いていたが、少しばかり嫌なことに思い当たった。

 ────それでは婚礼の時、僕はポートセルミまで転移していれば良かったのでは? 少なくとも初めのあの強制連行からのキメラの翼、あれは必要なかったのでは……

 思いついてしまうと悶々とするが、否、恐らく時間を優先させた結果なのだろう、と自分を納得させる。そうだよな、ここから船で移動したらまた一日以上かかってしまっただろうし。どうせ移動させるなら直接会場に転移した方がやはり楽か。それを思うとさすがは卿、随分と画期的な方法を思いついたものだ。寧ろ、遣いの方……は恐らく元々連絡用に配置されていた方なのだろうが、彼こそご無事で本当に良かった。道中ろくに宿も取れず大変だっただろうに。

 何というか、思った以上に引きずっていた自分に冷笑を禁じ得ないし、結局はあれが最善であったと思えるあたりに富豪ルドマン氏の先見を垣間見て改めて驚嘆してしまう。どのみちあの人数を何とかして運ばなくてはならなかったのなら、それは転移先がどちらだろうと大して変わらないことだ。うん、もうこの件について考えるのはやめよう。

 何とか思考に折り合いをつけて息をついたところで、心配そうに僕を見上げる視線に気がついた。眉間に皺が寄ってしまっていただろうか、慌てて目許をこすって誤魔化す。

「な、何? フローラ」

「────いえ。何だか、難しいお顔をなさっていたようでしたので」

 その表情は、多分僕が何のことを考えていたか思い当たっている顔だろう。彼女は挙式の前後にも、卿の思いつきに幾度となく苦言を呈していたから。

 かと言って、実の父親に対する疑念など不用意に抱かせたくはない。「うん、ちょっと思い出したことがあって。でももう解決したから、大丈夫」と早口に答えたら、彼女は釈然としない様子だったものの、小さく頷いてそれ以上問うてくることはしなかった。

「若旦那様、ルドマン家ですぞ。こんな船の一隻や二隻、長旅に出したところでどうとでもなります」

 終いにはどことなく得意げな船長に笑いながら嘯かれ、僕はあはは、と乾いた笑いで答える。

 ────もうさ、スケールが違うんだよなぁ。

 この船を、その名を預かって旅立つのだ。ルドマン家の紋章を文字通り御旗と掲げて。サラボナのルドマン家本宅で、幾度も卿を前にして感じた緊張感が蘇る。知らず力の篭った腕に、暖かくも華奢な手が触れた。

 振り返ると、穏やかに微笑む愛しい君がいた。

「テュールさん」

 鈴を転がした清らかな音色は、僕の内心を支配した感情を一瞬で解きほぐしていく。

「私を、フローラ・グランにしてくださったこと。本当に……、ありがとうございます」

 そうしてまた、幸せそうに、少しの恥じらいを含めて、笑ってくれる。

 一昨日宿帳を書いた折、僕の姓名に連ねて綺麗な筆跡で綴られた君の名に、心臓が跳ねたことを思い出す。

「僕の方こそ。────僕の妻になってくれて、本当に、ありがとう……」

 また抱きしめてしまいたい気持ちを懸命に怺えて、触れた手を繋ぎ微笑みを返した。

 君の名が、一つの証。君が僕のものである証。

 他の誰もが僕達の影にルドマン家を見たとしても、彼女だけはそれに縛られない。思えば出会ってから今まで、彼女が僕より実家を重く見るようなことは一度もなかった。僕だけを見てくれる。僕だけを尊重してくれる。それがどんなに、このちっぽけな存在に力を与えてくれていることか。

 ────『あなた』の妻として、恥ずかしくないように。

 今更ながら、彼女の決意が心に染み入る。

 僕はどんな夫になっていけるだろう。誰より寄り添ってくれる、優しく強い君に恥じない夫になっていきたい。いつだってあの凛とした眼差しを受け取るのに相応しい夫でありたい。

 もう一度指を絡め直せば、応えるように握り返してくれる。

「お待たせいたしました。全員準備が整いました」

 船長とは違う低い声が僕達を呼んで、振り返ると六人程の程よく日焼けした見事な体躯の若者達が、若干の緊張を漂わせつつ目の前に立っていた。

「お嬢様、若旦那様。本日はよろしくお願い致します」

 律儀に頭を下げてくる、生真面目そうな一等背の高い青年に、一縷の望みをかけて話しかけた。

「こちらこそ、よろしくお願いします。──あの、できたら本当にテュールと呼んでもらえたら。僕はまだ婿入りした訳でもないのですし、僕の方が皆さんよりずっと若輩なのですから」

 あの船長の手前無理な願いかもしれなかったが、それでもこの二日間若様扱いされ続けるのはなかなかしんどいものがあったのだ。フローラは一人娘だが、卿は僕にすぐには後継を強制なさらなかった。だから、まだ入婿の体はとっていない。卿には養子を考えている者もいるそうで、そう言ったことを含めて僕が旅の目的を果たした後改めて家の話をしよう、と言ってくださったのだ。フローラは事実彼らの主人の娘なのだから仕方ないとは思うが、現時点で後継者でもない僕がその威光を着るのはどうにも居心地が悪い。

 恐らく僕より年上である青年達はちらりと顔を見合わせ、首を捻りあったが、中でも奔放そうな青年が「じゃあ、俺テュールさんって呼ぼうかな? それでいいですか?」と言ってくれて、ほっと肩の力が抜けた。

「ええ、是非それでお願いします。小心者なので、大仰な呼び方をされると本当に居た堪れなくて」

 冗談めかして言うと、彼らも軽く声を上げて笑ってくれた。

「お嬢様を射止められたのはどんな傑物かと思っていましたら、なんだ、随分と気安い方じゃないですか」

「こら、アラン。お前がどう思おうと我らがお嬢様の旦那様には違いないんだからな? 弁えておけよ」

 小突かれて軽く口を尖らせた青年らを微笑ましく見遣り、「いいんです。本当に、旦那様なんて柄じゃないですから」と言い添えた。

「では、表で転移の術式を行いますね。馬車ごと転移しますので、少々手狭ですが皆さん乗っていただけますか? 中に僕の仲間の魔物がおりますが、みんな気の良い者達ですのでどうぞご心配なく」

 僕の言葉に軽やかに頷いたフローラが真っ先に幌へと向かっていく。「お邪魔しますね」とにこやかに言いながら入っていく姿を見て、青年達も緊張を露わにしながら馬車に近づいた。誰よりもか弱げな少女に誘われ、大の男達が「し、失礼します!」と口々に畏まり慄きつつも幌に入っていく様は見ていてなんとも心が和む。……本人達は決死の覚悟なのかもしれないが。

「────それでは、行って参ります」

 密やかな笑いを噛み殺しつつ、船長に挨拶を告げて係船場の外へ出た。幌の中に向かって「では、すぐに転移しますね」と呼び掛け、パトリシアと馬車に触れたまま詠唱を開始し風の精霊を喚ぶ。すぐに視えてきた懐かしい光景の先に着地点を探しつつ、ルーラを唱えた。光の粒子の中、僕の手に触れた全てのものは重力を一度失い異なる風景の元にその存在を再構築した。

 瞬きほどの合間に、馬車は絶え間なく人が行き交う賑やかな街の南側、修道院へと続く海沿いの道に降り立っていた。通りすがりの旅人達が突然現れた馬車を見て一瞬目を丸くしたが、ああキメラの翼か、というようにまた視線を逸らしていく。何となく苦笑しつつ、着きましたよ、と声をかけた。すぐに狐につままれたような面持ちで男達が幌から顔を覗かせる。その背後から、フローラが彼らを覗き込みくすくすと可愛らしい笑い声を零していた。

 

 

 

 馬車から降りた面々は「おお! オラクルベリー‼︎」とそれぞれが喜びに表情を輝かせた。

 特に詳しいことは聞いていなかった僕は、何かあるのかと背の高い青年に意見を仰ぐ。僕の視線に気がつくと、彼は小さく笑いながら答えてくれた。

「実は、我々は皆この辺りの出身なのです」

 なるほど、納得できた。つまり船長は束の間の里帰りの意味で彼らに一日の暇をくれたということなのか。

「ビスタ港には以前より寄港し易くなりましたが、オラクルベリーやラインハットまでは少々日数がかかりますから。船も待ってはくれませんし……ですので、一日だけでもこうして帰らせていただけるのはありがたいことです」

「ほら、最近までビスタ港はほとんど閉鎖状態だったじゃないですか。俺やこいつは十四、五の時に船の仕事がしたくてポートセルミに渡ったんですよ」

「そうそう。一人前になるまで帰らねえ!とは言ったものの、まさかその後船が出なくて本当に十年以上帰れなくなるとは、思わなかったよなぁ」

 和気藹々と語り合う彼らの歳の頃は二十半ばから後半くらいだろうか。この十余年、ラインハットの政変をきっかけにこの近海を取り巻く情勢は目まぐるしく変動し、彼らの人生もまた大きく揺れ動いた。

「────うん。本当に良かった……でしたら、今日はゆっくりなさってきてくださいね」

 愉しげに語らう青年達に声をかけると、彼らもまた照れ臭そうに頷く。

「ええ。若……テュールさん達も、良い買い物が出来ますように」

 言い直してくれる律儀さがまた清々しい。明朝、またこの辺りで合流する約束をし、馬車に残った仲魔達に声をかけた。降りてきたフローラと並んで馬車を引き、街に入ろうとしたところで、先ほどアランと呼ばれた朗らかな青年が追ってきて「お嬢様、テュールさん」と呼び止めてくれた。

「あの、この後宿をお取りになりますよね? 実は俺、実家が宿屋を営んでまして。ぜひうちに泊まっていってくださいませんか? お二人のことも是非家族に紹介したいですし!」

 それは、願っても無い誘いである。どちらからともなくフローラと顔を見合わせて頷きあい「こちらこそ、是非お願いします」と微笑んで頭を下げた。「いや、頭はあげてくださいね? あまりいい部屋はないかもしれないんですけど!」などと焦りを隠さない青年は気質も大変好ましく感じられる。

「俺、アラン・マクベルと言います。ルドマン様には五年くらい前からお世話になっています。お嬢様には、以前ポートセルミでお出迎えした時、一度だけお目にかかりました」

「修道院から戻った時、ですよね? 海が荒れて中々船に乗れませんでしたので、無事に港が見えた時にはほっとしましたわ。あの時は皆さんでお出迎えくださり、本当にありがとうございました」

 流れるようにたおやかに腰を折るフローラの姿に、青年は精悍な目許を赤らめつつ慌てふためき「いや、だから頭はあげてください、ってば!」と声をかけている。微笑ましい反面、どうにも胸に燻りを覚えてしまうのは僕の狭量故に違いあるまい。

「馬車は裏で大丈夫ですかね?」と尋ねる青年に頷き、誘導されるまま宿の裏手に向かった。さすがは商業都市の宿、数台の馬車が入れるであろう大きな厩を備えている。その入口付近でのんびりと薪を割っていた年配の男性が来客に気づき振り向いた、と同時にあんぐりと大きく歯抜けの口を開けた。

「や、ただいまダン爺! ──さっすがに老けたなぁ」

 恐らく十数年来の再会だと言うのに、ちょっとお遣いにでもいっていたと言わんばかりの彼の挨拶にはこちらもかくりと拍子抜けしそうになるが。それこそが彼の性質なのだろう。

「あ、アラン坊ちゃん⁉︎ 本当に、本当に坊ちゃんで⁉︎」

 すぐに彼が誰なのか理解したらしい厩番のお爺さんは、あっという間に瞳をたっぷりの水分で潤ませて青年に縋り付いた。

 ────もしもサンチョが生きていて会うことができたなら、こんな風にすぐ、僕に気づいてくれるだろうか。

 つい感傷に浸ってしまうあたり、僕も大概諦めが悪い。

 彼が当時何歳だったのか、僕はよく覚えていない。思ったより若かった気もするし、父より年上に見えた気もする。サンタローズの事変から十二年、生きていたとしたら今何歳で、髪はどれくらい白くなっているだろう。ふと、相応に歳を重ねたダンカンさんの白髪混じりの姿を思い出した。

「大袈裟だなぁ。手紙は送ってただろ? ボトルシップは無事届いた? あれ、今俺が乗ってる船がモデルなんだぜ!」

「もちろん拝見致しましたとも! まっことご立派な船で、なんでも西の大陸の偉い方の船だとか? まあまあ、こんなにご立派になられて……こうしちゃおれん、早く大旦那様方にお知らせしませんと!」

 感極まったお爺さんはほとんど僕達や馬車には気付かず、早口でそこまでまくし立てると、言い終わらないうちに宿の中へと走っていってしまった。「……ああ、相変わらずせっかちなんだから」と呟く青年と軽く笑いあい、彼の案内で厩の中に馬車を入れさせてもらう。

「家を出るまでは、俺も結構こういうことを手伝っていたんですよ。なんか、懐かしいなぁ」

 大人しく繋がれたパトリシアの毛並みを撫でやり、眼を細める青年に「家業は、他のどなたかが?」と問うと、彼は日焼けした顔を屈託無く緩ませて「ええ、自慢の兄が。今も張り切って切り盛りしているはずですよ」と笑った。

 果たして、自慢の兄上は宿のカウンターに鎮座し弟君の来訪を待ち受けていた。「アラン! 貴様、ろくに便りもよこさんで‼︎」などと叱責口調で弟の首を締め上げながらも、その表情は溢れる喜びのままに破顔している。「嘘だろ、出したよ手紙。俺の雇い主様達の前で余計なこと言わないで」と情けない声を出した弟の言葉に、はたと兄上が真顔でこちらを見たのがなんとも可笑しかった。

「……雇い主様だと⁉︎ 莫迦野郎、それを早く言え‼︎」

 弟に負けず見事な体つきの宿の若亭主は一瞬で顔色を変えると、たった今まで羽交い締めにしていた弟を放り投げ、即座に居住まいをぴしりと正し「失礼いたしました。弟が大変お世話になっております、西の大公ルドマン様の御家の方でございましょうか」などと慇懃なまでに丁寧な挨拶をくださった。僕の方が恐縮してしまい、「いえ、あの、彼女が卿のご息女なのです。が、そのような扱いは望んでいませんので、どうか普通になさってください」と狼狽える始末。僕のすぐ後ろに控え、黙って場を見守っていたフローラがそこで初めて口を開いた。

「こちらこそ、アランさんにはいつも大変お世話になっております。ですが今、夫が申しました通り、今の私はルドマンの遣いではございません。どうかお気兼ねなく、一介の客として扱っていただけましたら大変嬉しゅうございます」

 どこまでも清涼に響く、彼女が奏でる鈴の声に僕も主人も毒気を抜かれてしまった。

 彼女はいつもと変わらず穏やかに笑う。拭いきれない気品をまとい、物腰は優雅に柔らかく、この場で誰より落ち着き払っている。どこをどう見てもお忍びの姫君である。いつの間にかカウンターの奥から顔を出したご両親らしき年配のお二方と、ご亭主の奥方と思しき女性も、呆気にとられたようにフローラと、久々に見る次男坊とを交互に見ていた。

 ────本当に、このひとには敵わないな、と思う。

「えーっと……そんなわけで、ただいま」

 へらりと笑い沈黙を破ったのは、やはり奔放な宿屋の次男坊であった。

 絶妙に緊張感を打開してくれた彼の言に、思わず笑いがこみ上げる。フローラもまた彼から僕へと視線を移し、愉しそうに微笑んだ。まだ唖然としている宿屋の面々へと向き直り、最後の締めくらいはと笑顔を作り直し、宣った。

「昨今は海路も荒れており、中々帰郷が叶わなかったようですが、縁あって本日、彼のご帰省に同行させていただきました。しかし一日限りですので、どうか我々には構わずご家族水入らずでお過ごしいただければ。……その前に一泊だけ、宿泊の手続きをさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」

 

 

 

 無事宿に一室を確保し、日中の予定を全て消化し終えた僕達は今、修道院から街へと続く道をのんびりと散策しながら夜の訪れを待っている。

 宿屋マクベル亭の大旦那と現主人は、ルドマン公息女であるフローラをもっともてなしたがっていたように見えたが、相変わらずおっとりと微笑みつつ首を傾げる令嬢を前に寧ろたじたじのご様子だった。それとなく匂わされた夕食への誘いにも「せっかくですから私、以前入れなかったお店でお食事をしてみたいですわ。ね、あなた」と花の微笑みで言われれば、僕はもちろん宿の皆様もそれ以上強く言えるはずもない。明日の朝食だけはお言葉に甘えます、と約束をして、また連れの魔物達に食事を用意してもらえたらありがたい旨を伝えて、あとは自由にさせていただけることになった。

 代わりに、いくつか探し物を扱っていそうな店を教えてもらい、昼食を挟んで順調に店を回ることが出来た。あとは夜に開く雑貨屋やオラクル屋を覗いて、昼見たものといくつか比較をしたいくらいのもの。

 昼食の後少し時間ができたので、あの海辺の修道院へ足を運んできた。

 実はこれまで本人にちゃんと確認したことはなかったのだけれど、フローラが数年学んだという修道院はやはりここのことだった。僕とヘンリー、マリアさんが樽に入って流れ着くほんの数日前、ほとんど入れ違いにこの修道院を発っていたのだそうだ。

 正直、この二年間の出来事は自分に直接関わること以外あまり覚えていなくて、そういえばどこぞのご令嬢が最近までここで学んでいた、とシスターが言っていたかな、くらいにしか思い出せない。

 当時は父の遺言や母の行方のことで本当に頭がいっぱいだったし、サラボナで彼女に出会うまでご令嬢の噂に興味のひとつも湧かなかった僕だから、今となっては致し方ないことかと寂しく思ったりもする。

 もし二年前に君と知り合っていたら、僕の人生は今頃どう変わっていただろう。

 再会を喜んだのも束の間、マザーから僕らのことを聞かされたフローラもまた、あと数日出発を遅らせていれば……と唇を噛んで俯いていた。

 でも、それで良かったのかもしれない。もしも僕達が流れ着いた時君がここに居たら、君はきっと実家には戻らず僕達を世話してくれる羽目になったのだろうし。僕もまた、ここで君に出会ってしまったなら黙って実家へ帰せた自信はない。最悪、結婚の許しを待たずに卿の不興を買い、サラボナを叩き出されていたかもしれない。当時十四歳の少女に、今ほどの想いを抱いたかどうかは定かではないけれど。

「敬虔なる私達の家族、シスター・フローラ。いいえ、今はグラン夫人でしたね。神の与え給うご縁とはまことに異なもの。神の寵愛を戴いたあなたと、神のお導きに因りこの地へと辿り着かれたグラン様。お二方にもたらされた希なるご縁、素晴らしき出逢いを──私達も心より歓び、祝福いたします。お二人の歩む道に、尊き神のご加護をいただけますように」

 慈愛に満ちたマザーの言葉を戴き、手を合わせ祈る清廉な妻の隣で、いつもは信心の薄い僕も首を垂れて神への感謝を捧げた。

 顔馴染みのシスター達や、住み込みの母子とそれぞれ懐かしく言葉を交わし、ヘンリーがマリアさんに求婚した時の様子などという大変愉快な話も聞かせてもらって、満ち足りた心持ちで修道院を後にした。

「いつかまた訪れることができたら、と思ってはいましたけれど、こんなに早く皆様にお目にかかれるとは思いませんでした。テュールさん、本当にありがとうございます」

 心底嬉しそうに声を弾ませ振り返るフローラが急に年相応に少女らしく見えて、そんな屈託ない表情にどきりとする。

「修道服姿のフローラ、ちょっと見てみたかったな。あそこにあった本全部読んだんだって? 物知りだとは思っていたけど、すごいな」

「ふふ。お陰様で、読書が趣味になりました。あと、お料理やお裁縫を教えていただいたり……修道院では可能な限り自分達で作って賄うのですよ。衣服の仕立てもしましたし、裏の畑をお世話させていただくこともありました」

 重ね重ね驚かされてしまう。土仕事を喜んでやるご令嬢など想像もつかない。料理の件はもちろんのこと、このお嬢様の持つ生活スキルの高さは半端ないように思うのだが。

 個人の研鑽を欠かさないことは勿論、見識を深めることも怠らない。いっそ彼女に出来ないことなどないように思える。思ったままそんなことを呟いたら、彼女は緩やかに首を振り、微笑んだ。

「私自身はまだまだ、足りないものだらけです。魔法も武器も満足には扱えませんし、一人では外を出歩くこともままなりません。目の前に助けを請う方がいても、きっと共倒れになるだけ。いいえ、私の方が助けを請うしか出来ないかもしれない……」

「それで、いいんじゃないかな? 助けを呼んでくれるだけで十分だと僕は思うよ。君にはもう、僕や仲間がいるんだし」

 少し、遠くを眺めた彼女の横顔を覗いてそう言ったら、彼女は微かに驚いたように目を瞠ってから「そう、……そうかもしれませんね」と呟いた。

「今までは、自分の無力さにさほど疑問を抱いたことはありませんでした。出来ないことが当たり前で、何とかしようなどと思ってもみませんでした。……何も出来ないことが、あんなにも辛いことだなんて思わなかった……」

 それは、僕がリングを探していた時のことを言っているのか。それとも、一緒に小島の祠を訪ねた時のことを。

 さらりと長い碧髪を風になびかせ、彼女は地面に視線を落とした。旅装ではない、踝まで隠した清楚なドレスが髪に遅れて僅かにはためく。襟元を薄いカーディガンで覆った彼女はひどく大人びて見えるけれど、悔恨に揺れる瞳はどこか寂しげで、一人膝を抱えてうずくまる子供のようにも見える。

「……やっばり、我儘、なんだと思います。私もあなたと肩を並べていたい。後ろで守られるだけなんて、嫌。何処へだって行けてしまうあなたに、ちゃんとついていけるだけの力を持ちたいのです。……例え、其処が『魔界』だったとしても」

 どくり、と心臓が強く鼓動を打った。母について僕が語ったことに、彼女が言及するのは初めてだった。僕ですら実感を伴っていないその場所へ赴こうという意志を、彼女はその強い眼差しで口にした。

「けれど────だからこそ、あなたにお願いしたいことがあります」

 そうして、数歩分身体を開けて振り返った彼女は、ひたむきすぎる瞳を真っ直ぐに僕に向けた。

 残酷なほどに澄み切った声が、耳許を凪いでいく。

「私がいることで危険が増してしまう時は、すぐにでもその場に置いていってください。そのことで気が咎めたとしても、どうか私のことは捨て置いてください。私一人のために多くの犠牲を払わないでください」

 逸らすことを許さない綺麗な双眸は、その引力だけで僕の視界を捉える。交わった視線の先で、一瞬苦しげに翡翠の虹彩が揺らいだ。

「……私も、気をつけます。仲間の皆さんに、あなたに危険を及ぼさないよう、細心の注意を払っていくつもりですけれど、どうしたって間に合わないことがあるかもしれないから……」

 そこまで告げたフローラは、やっと僕から視線を外し、瞳を伏せた。

 そんなことは出来ない、と答えることは容易い。どんな局面だろうと置いていくつもりは微塵もない。それは彼女が譲れないのと同じで、僕にとっても引くことのできない一線だ。けれど、彼女が望むのはそういう答えではないのだろう。伴侶となった今ならなんとなくわかる。

 君がここに居てくれるのは、それほどの覚悟があってのことなのだと。

「…………、────わかった」

 三歩の距離を立ち尽くしたまま見つめあって、やっと吐き出した声に、君が小さく身動ぎする。

「誰一人危険には曝さない、って言いきれたらいいけど、さすがに無理だからね。だから、最善を尽くすよ。誰も失うことがないよう、今まで以上に気を配るようにする。だから……君ももっと、僕達を頼って」

 ゆっくり一歩、踏み出して。黙って僕を見上げている君と視線を交わらせたまま、窺うように膝を屈めて微笑んでみせる。

「大丈夫。君が守ってくれるように、僕も、僕の仲間達も君を守る。────迷惑なんかじゃない」

 手を伸ばせば、すぐに触れられる滑らかな頰。僕の掌に包み込むと白さが一層引き立つ。撫でられるままそっと頰の温もりを僕に預けた君が、やっと表情を緩めて息を吐いた。

「もう、家族、ですものね」

 瞼を閉じ、やわらかく笑んで囁いた、透き通った彼女の声に。張り詰めていた心が解けてじわりと歓びが滲んでいく。

「うん。……君も、プックルもピエールもホイミンも。みんなみんな大切な、僕の家族だから」

 それを口にしながら、僕は奇妙な高揚感を感じていた。

 魔物遣いの資質を見出してもらい、魔物達が友となってくれて今日まで来たけれど、この不思議なつながりを『家族』だと認識したことは多分、なかった。

 父さんとサンチョはこれまでの僕にとって唯一の家族で、今でもあの時間を愛しく思い出すけれど。仲魔達と過ごす時間はあの頃に少し似ていて、でもどうしてなのか、それを家族と呼ぶことは出来ずにいた。

 今、やっと理由がわかった。

 ずっとずっと、無意識裡に抱いていた『家族』の偶像。昨日、みんなでバスケットを囲んで昼食をとった。君が弁当を作ってくれた。一緒に買い物をして、甘いおやつも作ってくれた。見下ろせば、いつだってすぐ隣に居てくれた。共に眠って、目を覚まして、また君が笑って挨拶してくれて。そんなかけがえのない瞬間をいくつも、惜しみなく与えてくれる、君が。

 僕達を『家族』にしてくれたんだ。

「……フローラ」

 往来で人目はあったけれど、抱きしめたい気持ちが勝った。そっと肩を抱き寄せたら、君は戸惑いがちに軽い体重を預けてくれた。

「────ごめんなさい」

 腕の中から、ごく控えめな囁きが辛うじて耳に届く。

「お義母様をお助けするために旅をなさっているあなたに、言って良いことではありませんでした」

「……いや。いいんだ、フローラの覚悟はちゃんと伝わったから」

 もう一度だけ力を篭めて抱きしめたら、君もそっと優しい抱擁を返してくれた。そうしてお互いの体温を確かめてから、照れ隠しの苦笑いを交わしつつ身体を離して。

 家族で、夫婦で、まだ恋人になったばかりの君と僕。ほとんど会話がないまま一緒になった僕達だけど、だからこそ、これからたくさん話をしようと君も言ってくれた。

 こんな風にたくさん、たくさん話そう。譲れないことがあってもいい。意見がぶつかって折り合わないことがあっても、最後は笑って越えていければいい。

「あぁ。なんか、安心したらお腹空いちゃったな」

 急に空腹を感じて思わずぽろりと口にしたら、フローラが肩を揺らして笑いながら僕を見上げた。

「ふふ。それでは街に戻って、食べるところを探しましょうか」

「そうだね。フローラ、食べたいものはある?」

「特にこれというものは……テュールさんは何かございますか? 通りを歩いて、美味しそうな匂いがしたところに入ってみるのも楽しそうですわね」

「あはは、いいかも。匂いは嘘つかないもんね」

 肩を並べて他愛ない会話を楽しみつつ、ちゃっかりと君の手を引いて歩き出した。こんなのどかな夕暮れ時に二人きりで歩くのはそう言えば初めてに等しくて、気づいてしまうとどぎまぎして繋いだ手までじわりと汗ばんできてしまう。

「何だか、デートみたい、ですね」

 ほとんど頭の高さにある僕の肩に頰を寄せたフローラが、幸せそうに小さく、囁いた。

「……デートです。結婚して二週間も経って、念願叶って今日がまさかの初デート。甲斐性なしでごめんね?」

「もう。テュールさんたら」

 本当はどきどきして、きっとまた顔が赤くなってしまっていたから。夕映えの朱に紛れてわからないことを祈りつつ、態とらしく唇を尖らせて言ったら、君はまたくすくすと愛らしく笑って腕に抱きついてくれた。

「大好き、ですから」

 ────もうちょっと自重しようと思ったのに。そんなに可愛く言われたら、我慢なんかできない。

「うん。……僕も」

 囁きとともに身を屈めて、柔らかな唇を掠めて奪った。

 朝、身を竦ませたあの躊躇いは感じなくて、その代わり、信じられないほどの幸福感が胸いっぱいに広がっていく。

 倖せを、増やしていこう。二人の時間を、思い出をたくさん。

 諦めの悪い僕だから、さっきの君の願いを全て聞き届けることは出来ない。置いて行って、だなんて、どんなに懇願されてもしてやらない。その分がむしゃらに足掻くし、君にも足掻いてもらえることだけ考える。

 僕と離れたくないって、置いていかないでって言わせてみせるよ。

 通りすがりの旅人の冷やかしめいた口笛を受けて、お互い火照った顔のまま、肩をすくめて笑い合った。そうしてもう一度手を繋ぎ直して、街へ入っていく人々の群れへと溶け込んでいった。



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#3. 父の秘策

「どうでしたか? いい買い物はできました?」

 ルドマン卿所有の大型客船ストレンジャー号、その乗船員の一人であるアラン氏の実家が営むオラクルベリーの宿屋に一泊した翌朝。ご家族のご厚意で朝から豪勢な食事にお招きいただくことになり、上機嫌で席へと案内してくれたアラン青年は開口一番にこやかに問うた。

「そうですね、必要なものは大方揃えられたかなと。やはり商業都市は品揃えが違いますね」

 僕もまた頷きつつ、昨日購入を決めたものを思い返した。保存食の代表格である乾物や穀類はポートセルミよりこちらの方が種類が豊富で、フローラと相談しながらまとまった量を仕入れることが出来た。馬車は狭くなるものの、これで一月半程度は余裕で保つだろう。他にもテントだったり、水を溜める為の道具だったりと中々面白いものが見つかった。

 面白いと言えば、一連の買い物中にフローラが最も興味を示したものが面白かった。夜のみ営業している掘り出し物専門のオラクル屋という店がある。その軒先でフローラは縫いとめられたように立ち止まってしまったのだった。外に何かあったかな? と思いつつ店主と話しながら待っていたが、やっと入ってきたフローラは夢見心地な瞳を泳がせ、入口にかかっていたのれんへの賛美をうっとりと口にした。

「あんなに可愛いのれんを見たのは初めてです……! あなた、ご覧になりましたか? 可愛すぎて私、息が止まってしまうかと思いました。あんな素敵なのれんがお出迎えしてくれるなら、毎日だってここに通いたいくらいです。今は無理でも旅が終わったら……駄目かしら?」

 珍しく興奮気味に語る妻に僕も店主も呆気にとられてしまい、「そ、そんなに気に入った?」とうっかり聞き返したのがまたいけなかった。「それはもう! あんなに可愛らしいホイミスライムちゃんが三匹も、仲良くお手手をつないでお迎えしてくれるのですよ⁉︎ お顔もとっても優しくて、特に真ん中の子、本当にホイミンちゃんにそっくりではありませんか? 色合いも素敵です。作られた方の深い愛情が伝わってきます。素晴らしいです‼︎」と一層熱弁される始末。ホイミンと仲が良いのはアンディ絡みからだと思っていたが、実は純粋にホイミンの造形が彼女好みだということなのか。まさかのれん一つで僕達の終の住処が決まることになるとは思ってもみなかった。

「お嬢さん、いい趣味しているじゃないか。いつでも見に来ておくれ。のれんも喜ぶよ」と苦笑する店主に「はい、きっと!」と握り拳で力一杯返事をする、そこまで積極的な彼女を見るのは初めてな気すらした。

 店を出てからも名残惜し気にちらちらと振り返っていた。いっそこの店で働きたいと言わんばかりの入れ込みようである。夜しか開かない店だから、さすがにそこは許容できる気がしないが。

「帰ったらホイミンに教えてあげたら? 喜ぶかもよ」と言うと、にこにこ嬉しそうに頷いていた。自分で言っておきながらもやっと嫉妬めいたものを感じてしまうあたり、余裕がないというか何というか。一度そう思い始めると、彼女が愛用しているイヤリングまでホイミンの形に見えてくるから救いようがない。

「アランさんは、ご家族とゆっくり過ごされましたか?」

 妻もまた昨夜のことを思い出しているのだろう、一人顔を綻ばせている様子に苦笑しつつ青年に目を向けると、青年もまた日焼け顔をぽり、と掻きながら気恥ずかしげに笑った。

「はい。なんか、昨夜久々にお袋の飯食ったら、ああこんな味だったなーって。色々積もる話もしまして、やっぱ家族っていいもんだな、と」

「本当に、ありがとうございます。聞けば旦那様が転移魔法で帰省をお手伝いくださったのだとか。いやさすが、お若いのに素晴らしい術をお持ちで驚きました」

 改めて、見事な体躯の宿の亭主に深々と腰を折られるとどうしていいやら。「いえ、元々僕達が買い出しに来たかっただけなんです。今度遠方の大陸まで船を出していただくことになっていまして、その準備がてらアランさん達にもご同行頂いたまでで」と弁明すると、その脇からご両親が「ほお、船を出せるようになったのですか? ビスタ港は開かれたものの、連絡船はまだまだ動かせないと聞きました」と興味深げに身を乗り出す。

 オラクルベリーとしても、交易がもっと盛んになれば恩恵は大きいのだろう。アランさんはアランさんで「他の船はまだ出し渋ってるけど、うちの乗組員は腕がたつからね。テュールさんもお仲間さんもお強いっていうし、ま、大丈夫でしょ? 他の船ももっと気軽に出せるようになるといいんだけどな」とさも楽観的に言う。

 ────そうか。海路に巣食うものがいるなら、一度全力で叩いてみてもいいかもしれない。

 どのみち船長が一昨日示した、船がよく沈むと言う場所は航路上通過せざるを得ない、警戒すべき要所だ。先日フローラと共に祠の小島へ向かった時、普段徒党を組まないはずの陸と水棲の魔物とが連携して襲ってきたことがあった。数種の魔物が入り乱れて遭遇すること自体は、良くある。だが、異なる地域に生息する他種属同士が謀って共闘する、という状況は今まで見たことがなかった。且つ、魔物達の動きは非常に狡猾だった。明らかに船の転覆を目的に動いていた。あれが定期船だったら、どれだけの被害が出ていたことか。

 正義の味方を気取るつもりはない。けれど、僕や仲魔達が力になれるなら、危険を顧みず船を出してくれる方々にこの大恩をお返ししたいと切に思うのだ。もちろん、戦力的に無謀なら切り抜けることに注力する。所詮僕は、多少腕に覚えのある一介の旅人に過ぎない。

 父ほどの剣の腕があれば、もう少し強気でいられたかもしれないが。

 強く、人の信頼を得られる人だった。剣の技量だけではなく、他人の為に動くことができる人だった。母を……彼の妻を救うという目的のためならば勇者という赤の他人の力すら厭わず求めることができる、そういう意味で己を過信し過ぎることもなかった人だと思う。ただ一つ────僕という弱みを除いては。

 父を尊敬している。しているからこそ、父のように命を落とすことだけはあってはならないのだ。弱いから、未だ力が及ばないからこそ手を尽くして生き延びなくてはならない。僕が父の死に学ばなくてどうする?

 今更ながら、背筋を冷たいものが伝う。守らねばならないものが増える恐ろしさを、ある種の結果を伴って痛いほど実感する。

 父は何故、僕を彼の旅に同行させたのだろうか。それこそ足手まといにしかならなかっただろうに。勇者でもない、幼い僕を父の側に置くことに、当時何の意味があっただろう。

「……テュールさん」

 思考の小径に迷い込んでしまったその時、澄んだ鈴の声が緩やかに僕を掬い上げた。

 呼吸すら忘れていたように、振り返ると同時に身体中が新鮮な空気で満ちていく。清涼な気配をまとった僕の妻はいつもと変わらぬ微笑みを宿し、いつの間にか膝上に握り込んでいた固い拳にそっと触れてくれる。

「あとで、私にも聞かせてくださいね」と静かに優しく言い添えて、彼女はすっと姿勢を正した。

 ……たったそれだけで、僕の精神をも一瞬で立て直すことに成功する。

 彼女は、すごい。

「あの、お口に合いませんでしたでしょうか」

 手が止まってしまっていたことに気づいたんだろう。若女将に不安げな視線を向けられ、慌てて首を振り笑顔を繕った。

「とんでもない、とても美味しいです。こちらのお料理は奥方様が?」

「いえ、今日は義母が……アランさんのお陰で、昨夜からとっても張り切ってくれていまして」

「あら嫌だ、年甲斐もなくお恥ずかしいですよ」

 話を振られた母君は照れたように口許を抑えて笑う。「いつも厨房は嫁に任せているんですけどね。久々に息子の顔を見ますとね、あれも好きだったわ、これも食べてたわ、みたいに色々思い出してきて、懐かしくってねぇ。まぁ、親馬鹿ですわねぇ」

 ころころと笑う母親に「お袋、それでもこれはちょい作りすぎ」と軽口を叩くアラン氏は左右から小突かれて、それを見た母親や義姉もまた微笑ましげに笑っていて。料理と同じ、心温まる風景がそこにあった。

「すごく、優しい味がします。……ご相伴に預かり、本当に幸せです」

 本心から滲み出る幸福感のまま、頰を緩めて呟いた。

 こんな風に理想の「家族」と触れ合う機会もあまりなかった僕は、こういうひとときをずっと渇望してきたんだと思う。

 それが妬み、嫉みに変わらずいられるのは、手に入れたばかりの僕だけの「家族」が在るお陰で。

 ちらりと隣を見れば、フローラもまた羨望めいた色を浮かべて目の前の大家族を眺めていた。

 目が合うと、僅かな困惑とともに微笑む。

 父であるルドマン卿を見るに、淑女として厳しく育てられた彼女だから、こういう団欒はどこか眩しく映るのだろうか。

 和やかな雰囲気のまま僕達は朝食を終え、支度を整えたアランさんと連れ立って宿を後にした。

 

 

 

 オラクルベリーを少し離れた昨日の転移場所で他の船員達と無事に落ち合い、心残りがないことを確認してポートセルミへ戻った。

 家族と一夜の団欒を楽しんだ面々は、昨日より活力に溢れた表情で係船場へと戻っていった。ストレンジャー号は出航中だが、留守の間にもこなさねばならない仕事が何かとあるらしい。船長は当然船の上で、係船場では船長より年配ながらも浅黒い、ご立派な体躯の御仁が留守を守っていた。

「イヴァン様ではありませんか! お会いできるとは思っておりませんでした」

 挨拶がてらフローラを伴って船員達に続いたところで、妻が一際嬉しそうな声を上げた。

「おお、お嬢様! 益々お美しくなられて。この度はご結婚、まことにおめでとうございます」

 どなたかと妻を振り返る僕に「ストレンジャー号の前の船長でいらっしゃいますわ」と微笑み、フローラは彼の前に進み出る。彼女が紹介するより先に、そのいかにも海の男という風情のご老人は「お話は聞いている。パパス殿のご子息だと」と目を細めて僕を見た。

「……懐かしいな。お父上に連れられていた時はあんなに小さかった坊やが」

 慈しみのこもった太い声に胸を掴まれる思いがする。こみ上げるものを感じながら、ご無沙汰しております、と告げた。

 加齢のため第一線を退いた彼は今、ポートセルミの小さな漁船を取りまとめた組合を運営しているという。少しずつ腕利きの者を集め、海上の自警団的な役割を果たしつつ漁場をじわじわと拡大しているところだとか。

 同時に、ストレンジャー号がこうして不在の際は係船場や埠頭の管理も引き受けていらっしゃるのだそうだ。

 自治が保たれているとはいえ、この街においてもルドマン家の援助の大きさは計り知れない。そもそもカジノ船をあの場所に作った経緯も、海運業が壊滅的であったここ十年ほどの間に卿が打ち出した奇策なのだというから驚きだ。ろくな収益を見込めなかったポートセルミが持ち直したのは、カジノ船から得られる税収諸々のおかげだった。

 渡りに船、と思い、イヴァン殿に今朝方考えついたことを話した。一通り打ち明けたところで、彼はいかつい指先で顎を摩りながら目を細め、「血は争えんなぁ」と呟いた。

「え? どういう……」

「君のお父上にも一度、魔物一掃の助力をいただいたことがあってな」

 目を瞠った。父が、今の僕と同じように?

「さすがに憶えてはいまいな。坊やがまだ赤ん坊の頃、たまたま小舟で行き合った氏が南の海で魔物に囲まれ立ち往生していたストレンジャー号を見事脱出させてくれた。その恩があって数年後、船を使いたいと言ったパパス殿をお乗せすることが叶ったわけだ。あの時の赤ん坊が今また魔物を掃討しようと言い出すとは、いや、縁とはつくづく不思議なものだな」

 思いがけない懐古談に言葉を失った。そこまで古い父の話は聞いたことがなかった。赤ん坊の僕を連れての船旅、ということにもまた驚いたし、やはり父は昔からそういう人だったのだな、としみじみ思うことが出来た。

 僕にもできるだろうか。父さんが為したように。

「お付きの方がまた博識でな。魔物を酔わせる方法などご存知で、これは大層な方々だと思ったものだ。……どうやら、お父上方の知恵が年月を経て君の助けになるかもしれんな。そうは思わないかね? 坊や」

 お付きの方、とはもしやサンチョのことだろうか。他に誰か居たのだろうか。聞きたいことは山ほどあったが、さも愉しげに笑い含む、老いてなお眼光鋭い御仁を前に僕はごくりと唾を飲み、真っ向からその闘志と相対して請うた。

「────ご教示いただけますか。父は、どのようにして魔物の群れを退けたのでしょうか?」

 

 

 

 

 

 小一時間、イヴァン殿と掃討作戦について相談をし、荷物を整理した僕らは兼ねての予定通りサラボナへと飛んだ。

 さほど急ぐつもりはなかったのだが、事情が変わった。死の火山へ向かう前にルドマン家の本宅に立ち寄り、イヴァン殿から預かった書簡を執事に託した。あいにく卿は視察のため留守にしていて、ただ近く戻る予定ではあるとのことだったので、内容を検めてもらえるようお願いして街を出た。

 元々小金稼ぎだけの予定だったのが、宝石を手に入れたいもう一つの理由が出来た。それこそが父が、時を超えて僕に授けてくれた魔物掃討の秘策だった。

「宝石を、砕くのですね」

 パトリシアを励ましつつ馬車を駆る。時折襲う激しい揺れに僕の外套を掴んで身を寄せながら、一頻りの話を聞き届けたフローラが呟いた。

「うん。なるべく細かく、本当は砂くらい細かくてもいいって。だから、欠片でもいいから集めて来てほしいって言われた。特に、魔物から拾える宝石は効果が高いらしいから」

 答えた僕に、フローラがこくりと小さく頷く気配がする。

 手元に少しだけ持っていた宝石は全てイヴァン殿に託して来た。出航までの凡そ十日間でその宝石を砕き、船底に罠を張るのだという。それだけでは到底足りず、これから向かう火山でできる限り多くの宝石を集めて来てほしい、というのが改めて受けたイヴァン殿からの依頼だった。

 代わりに託された卿への手紙は、イヴァン殿率いる組合の実質出撃許可を請うものであった。卿の領海内で事を起こすつもりであること、把握しうる限りの戦力とこれまでの被害について簡単にまとめたものが記されていた。

「大旦那様はこういったことがお好きだからな。寧ろ陣頭に立ちたかろう」とイヴァン殿は笑い、正直僕もまた同じ事を思って密かに笑ってしまったのだった。

「儂も常々腹に堪え兼ねておったのよ。お前達も皆、同じ思いだろう? 今こそ母なる海を我々の手に取り戻すのだ!」

 手紙をしたため終えたイヴァン殿が力強く言い切れば、埠頭に集った屈強な船乗り達も声高にオォ‼︎ と呼応していた。

 僕はまだ、父ほどに強くはない。

 でも、今回はプックル達だけじゃない。こんなにも頼もしい味方がたくさんついていてくれる。

 なんと心強く、有り難いことか。

「……テュールさん」

 暫く黙ったまま、隣で瞼を閉じて内に篭る魔力を探っていたフローラが、つと眼を開けて僅かに振り返った。

「前方に何か、います」

 相変わらず、素晴らしい察知能力だ。小さく頷いて幌を軽く叩き、同時にパトリシアの速度を緩めた。────中から『暴れ足りない』頼もしい仲魔達が身構える気配がする。

「すぐ、終わらせるよ」

 言うより早く、プックルが幌を割って咆哮し跳躍した。飛来したキメラをひと凪で捉え喉元を喰い千切る、瞬間降り注いだ槍をピエールと僕で弾き落とした。仲魔の中でも特に俊敏なこの二匹は地に降りてなお加速し、ガンドフの冷たい息に煽られて草叢に伏せたランスアーミーを次々に薙ぎ払う。その草叢に紛れて、いつの間にか飛び出したスラりんも敵に噛みつき暴れまわっていた。全て斬り伏せた彼らが振り返ると同時にマーリンの炎に翼を焼かれ、僕が斬り捨てたキメラの亡骸が数体、どさりどさりと重い音を立てて地に落ちた。

「プックル‼︎」

 泡を食って逃げ出したベロゴンの群れを追うプックルを即座に押し留め、御者台に立って辺りを見渡した。全員の無事を確かめほっと息をついて、その隣で息を殺していたフローラを覗き込む。

「────、大丈夫?」

 ホイミンが庇うように寄り添っていた僕の妻は、顔色こそ失ったものの気丈にもしっかりした声で「はい」と頷く。微かに震える手で「ありがとう、ホイミンちゃん」と目の前のホイミスライムを撫でやり、馬車の木枠を支えに地面へと降り立った。

 ととん、と軽い足音と共に戻ってきたプックルの側に迷いなく歩み寄った彼女は、その耳許に何事かを囁いてから掌にやわらかな光を灯した。先ほどの猛攻の折にキメラの嘴が彼の後ろ足を抉っていたことを、彼女は見逃さなかったのだ。

 プックルは特に怪我に頓着しない性質だから、あの動きを見て傷を負っているとは普通思わないだろう。当のプックルは顔色一つ変えず、黙ってフローラの施術を見守っていた。

 この遠征の過程で、マーリンがまずフローラに課したことが「出来るだけ多く回復魔法を行使する」ことと「魔力の底を知る」ことだった。次いで、より多くの回数をこなせるよう、必要なだけの魔力を消費できるようになること。出来れば、内に眠る魔力を少しでも多く使えるものにしていくこと。

 一も二もなく承諾した彼女は、サラボナを発ってから愚直に己の中の魔力を探っていた。こうやって時折戦闘にもつれ込んだが、彼女は馬車の中で目と耳を塞ぐことはせず、恐れながらも御者台に居て戦闘の様子を逐一見守っていた。そうして傷ついた者がいれば、いち早く駆け寄って治癒魔法を施した。勿論ホイミンも補佐としてついていたが、この半日の間は全ての回復をフローラ一人で請け負ってくれていた。

「奥方殿は目が良い。彼女は良き後方の担い手になりますな」

 少なからぬ世辞が含まれていたかもしれないが、ピエールがそう評してくれたことは素直に嬉しかった。

「もう少しで水場に着くから、今日はそこで野営しようか。フローラも疲れただろ?」

 さすがにいつも以上に青白い顔のフローラを慮ると「私は、大丈夫です……が」と遠慮がちに言い、僕達の愛馬の凛々しく美しい首をそっと撫でた。

「パトリシアちゃんは、ずっと走り通しですものね。お休みさせてあげないと」

 そんな風に優しく毛並みを撫でられて、喜ばない馬はいない。

 嬉しそうに鼻を鳴らすパトリシアに、お前もか、と内心苦笑し、それからもう半刻ほど馬車を走らせてサラボナの南からずっと広がる湖の端へ出た。湿地帯はそろそろ終わりを告げ、もう半日も馬車を進めれば乾いた砂地と、険しい岩山だけが続く火山の膝下に入っていく。

 湖の冷たい湖水で簡単に汗を流し、火を熾して簡単な夕食を取った。いつも仲魔達にけちょんけちょんにいなされる僕の雑穀粥が、フローラの調味で全くの別物に生まれ変わる。同じものを煮ているだけなのにどういうことだろう。

「お塩一つとりましても、味の染み方がございますから」と彼女は言ってくれるが、さっぱり意味がわからない。

 食後には、少しですが、と彼女があのジャムをスナックと共に差し出してくれて、仲魔達は飛び上がって喜んだ。食べ物一つでここまで士気が上がるのか、と驚嘆する。食えればなんでもいいの精神でここまで来た自分が些か惨めに思えるほどだ。

 ────言っても奴隷上がりなんだから、仕方ないよなぁ。

 こんな時、真実育ちの良い彼女と自分とをつい比べては気落ちしてしまう。だって本当に今まで、そこまで味にこだわることがなかったから。

 そう言えばどこの店だったか、料理にけちをつけていたお爺さんに会ったことがある。酒は美味いが料理は不味い、と散々な言われようだったが、僕はそんなに悪くないと思ったのでそのように答えたら何故だかひどく同情された。別に美食ではないというだけで、普通の味覚だと思うのだけど。

 今だって、フローラの作るものはちゃんと美味しいと思えるんだし。

 簡素ながらも普段の野営時よりずっと満足いく夕食を味わった後、すっかり暗くなった湖のほとりでフローラの水浴びを護衛した。水浴びと言っても水に浸した布で身体を拭うくらいのものだったけれど、彼女が気を遣って周りに見えにくい夜を選んでくれたのだった。ホイミンが茂みの外側で更にトヘロスを重ねがけしてくれている。彼女の側に僕一人が付き従っているのは勿論、仲魔達の余計な気遣いの賜物である。

 星明りにぼんやりと輝く静かな湖のほとりで、ぱしゃん、と跳ねた水音を立てる。暗闇に浮かび上がるフローラの姿は御伽噺で聞きかじった人魚のイメージそのものだった。

 その神秘的な美しさに息を呑む反面、どうしたって性的にそそられてしまい必死に興奮を抑え込んだ。どんなに暗くても、否、暗いからこそ余計に、あんなにも無防備なフローラを前にして理性を保てと言う方が無理がある。

 ……いい加減、けだものじみてるな。本当に。

 はぁ、と熱の篭った吐息を零した時、一通り身体を清め終えて身交わしの服を着直したフローラが「お待たせいたしました」と声をかけてくれた。

「……? どうか、なさいましたか」

「え。いや、なんでも。さっぱりできた?」

 暗くて見え辛いのが幸いした。ため息こそ気づかれたものの、僕の情けない赤ら顔までは見えていない様子の君は「はい、とっても。ずっと見守ってくださり、ありがとうございました」と愛らしく見上げて微笑んでくれる。

「良かった。明日から多分こういうことはできないと思うんだけど」

「平気ですよ。ちゃんと解っておりますし、みんな同じなのですから」

 殊勝な君の言葉が嬉しくて、愛しくて。やっぱり我慢しきれなくて、少しだけ、と己に言い訳しながら華奢な肩を背中からそっと抱きしめた。

「……っ、テュールさん」

 突然の抱擁に、君が僅かに身じろぎし戸惑った声を漏らす。

「ごめん。少しだけ、こうさせて」

 密やかに囁けば、君はまた遠慮がちに頷いて僕に体重を預けてくれる。

 微かな花の香りが心を和ませた。心地よくて、穏やかな、倖せ。

 ほんの僅かな時間だったけれど、フローラを腕の中に確かめたことで満たされてやっと身体を離した。目が合うと気恥ずかしそうに微笑む彼女を、何度でも好きだ、と思う。

「ありがとう。……ゆっくり、休んでね。明日も頼りにしてるから」

 額に軽く口づければ、彼女も素直に頷き、胸許に頰を擦り寄せてくれた。

 火を消して、僕と仲魔達が交替で見張りをしつつ夜を明かした。仲魔達もまた、魔物の気配に聡い。静まり返った夜なら尚更で、馬車に近づかれる前にひっそりと動き出し、草叢で小競り合いをしては戻ってくる。夜が明けてみれば、馬車の周りには身体を失った魔物の核である大小の結晶がいくつも転がっていた。

 苦笑しつつ、それらを拾い上げて道具袋に収めた。大事な大事な、僕ら冒険者の金策の元だ。今回目的としている宝石とは違うものだが、これも加工すれば装飾品や魔導具として活用される。故に状態の良いものほど高く買い取ってもらえる。

 起き出してきたフローラと準備をして、手早く腹拵えをした後、水の補充をしてからまた馬車を走らせた。

 そこから更に三日、火山に近づくほど荒れた魔物との遭遇も増え、二度ほどフローラが限界を迎える惨事もあったものの、これもマーリンの課題のうちなので致し方ない。尚も戦闘に加わろうとするフローラを宥めて馬車の中で休息を取らせつつ、先を急いだ。

「奥方様がお使いになれる魔力量はこの二、三日で着実に伸びております。ご心配は要らぬ。休めばまた施術はできる。役割を得たいとお思いなら、まずはしっかりと休まれることです」

 今や彼女が全幅の信頼を置いている、魔導の師であるマーリンの言葉は特に効いたようで、その後は大人しく魔力の回復に努めていた。どこまでも健気な姿に胸が熱くなる。

 そうしてサラボナを発って四日目の夕方、突然打ちつけてきた夕立ちを凌ぎつつ、僕達の馬車は火山の根元に大きく拓けた洞窟の入り口へと辿り着いた。



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#4. 宝石採集

 相変わらずの茹だる熱気。先日訪れた時より外気温そのものが上がっている所為だろうか、そして先ほどの夕立の所為もあるのか。ねっとりと手足に重たくまとわりつく湿気が疲労を誘う。どこからともなく吠え声のような低い地響きがこだまする洞穴の入口付近で、僕達はしばしば休息を挟みつつ魔物の気配を探していた。

「あの踊る阿呆だけをうまく誘き寄せて狩れればよいが。そう上手くはいかぬな」

 いかにも苛立だしげなピエールの呟きに思わず失笑が漏れる。ただでさえ暑苦しい溶岩の洞窟で、魔物寄せの餌を撒いてもつられてくるのはマドルーパーやホースデビル、そして炎を纏った人型の魔物ばかり。宝石袋の魔物もこれまでに五、六体は狩れたが、拾えた宝石は微々たるもので、この調子では宝石を集める前に僕達が干上がってしまいかねない。

「──うん、一度馬車に戻ろうか。飲み水がなくなる前に」

 所々を溶岩が流れる洞窟内は、その高温の所為もあってか、全体が不思議と朱く染め上げられている。滝の洞窟が一面真っ青だったのとは対照的だ。その溶岩の熱にあてられたのか、色白のはずの頰を緋色に染め、やや息が上がった妻の様子が気にかかった。かくいう自分もここに入ってからというものずっと蒸し風呂状態で、顎や髪からは汗がひっきりなしに滴っている。ちょくちょく水分は摂っているけれど、脱水を起こして倒れては元も子もない。

 今回は他に探索者も見当たらなかったので、洞窟の入口すぐのところに馬車を止めた。中でガンドフとプックル、そしてホイミンがトヘロスで馬車を守りつつ、留守を預かってくれている。

「おかえりなさ〜い! ほうせき、とれた〜?」

 出入口に近づくと、夜の涼しい外気とともにホイミンがいつもの癒し全開で出迎えてくれた。が、探索組の表情は明るくない。

「とけるううぅー! もうとけちゃうー! スラりん、つぎはるすばんしてるー!」

 真っ先に幌の中へと逃げ込んだのはスラりん。洞窟の中でも青い身体をたるんたるんに弛ませ、今にも溶けてなくなりそうな様相でバテていた。苦笑しつつ、手桶に少しだけ水を張って「ほら、ここに入ってていいよ。お疲れ」と声をかけたらどこにそんな力が残っていたやら、目を輝かせたスラりんが瞬時に手桶に向かってばしゃあん! とタックルをかます。「うわぁん、いきかえるー! ありがとうごしゅじんさまー!」と元気にわめくスラりんにくつくつと笑いつつ、残る探索組の面々を振り返った。

「みんなも水の補充をしておいて。少し休んでから、もうちょっとだけ潜ってみよう」

 各々が疲れた様子で頷き、馬車の周辺の岩場に腰掛けていく。みんなの間を心配そうにふよふよと漂うホイミンには「なかなか、難航しててさ」と苦笑してみせ、やはり岩場の一つにくたりと座り込んだフローラの隣に腰を下ろした。

「……顔、赤いね」

 汗の為か、しっとり湿った頰をなぞるとやはりいつもより熱い気がする。

 急に触れられて驚いたらしいフローラが目を見開いた。

「少し、暑かったから……火照っているのだと思います。こうして涼めば、すぐに落ち着きますわ」

「うん。──もう夜だし、このまま休んでいてもいいよ? 僕がまだ動けるから行こうかなって思ってるだけなんだ。スラりんも留守番するって言ってるしさ」

 言いながら仲間達の顔を順繰りに見遣れば、ピエールは参ったと言わんばかりに首を振り「全く、目を離すと何をしでかすかわからぬ方ですからな」と溜息混じりに嘯く。マーリンもまた「奥方様が参られるならば、私めも」と静かに答えた。ガンドフとプックルも同行の意思を示してくれたが、馬車が手薄になりすぎるのも良くない。今一度フローラの顔を覗き込むと、彼女は長く逡巡した後、遠慮がちに言った。

「……できれば、あなたと一緒に行きたい、です。私もまだ、動けますから」

 微笑んで、深く頷いた。疲労は身体に蓄積する。ここまでくる間にも二度ほど動けなくなった彼女だから、自覚以上の負担がかかっている可能性は否定しきれない。けれど、だからこそ自分の限界が以前よりわかるようになっているはずだし、何より彼女の意思を一番に尊重したかったから。

「ご主人。ひとつ、宜しいか」

 自分の革袋から水をちびちびと啜っていたマーリンが、暗いマントの奥の目を光らせてこちらを見た。

「日が昇っている間より、夜から明け方の方が幾分か探索しやすいのではありますまいか。このあと潜る面々で夜半まで休息をとり、そこから探索を開始しては如何かと」

 確かに、まだ暑さは残るとはいえ日中に比べれば今の方がだいぶ過ごしやすかった。洞窟の奥に潜れば外気など関係ないが、今くらい浅いところを探索するなら時間帯を考慮する意味は十二分にある。

「言えてる。じゃあ、そうしようか? 今一、二時間頑張ってそのあと朝まで寝てしまうよりはずっと良さそうだね」

 今から一度仮眠をとって身体を休め、まだ暗い涼しいうちに起きて再び探索する。日が昇って気温が上がってきたらまた休息をとる。確かにこの方が、灼熱地獄による消耗を少しは抑えられるように思う。

 何にせよ、ここでこのまま何日も探索を続けることは出来ない。この暑さで水が悪くなる可能性だってある。飲み水と食糧が尽きるのが先か、僕達の精神力が枯渇しきるのが先か。

「それでさ、ガンドフ。良かったら一緒に来てくれる? やっぱり、冷たい息があった方が助かるなって」

 大きな一つ目に深い慈しみを湛えたこの魔物は、僕の指名に嬉しそうにその表情を緩ませ「オマカセ」と微かに囁いた。優しく穏やかなビッグアイとにっこり視線を通わせてから、改めてピエールへと向き直る。

「そういうわけで、ピエールには次は馬車を守っていてもらいたいんだけど……もちろん、仮眠を取ってもらってからね」

 そう切り出すと、彼は渋々ながらも「まぁ、奥方殿が一緒であるならそうそう問題も起こすまい」と頷いた。起こる、ではなく起こす、って。いったい彼の中で僕の信用はどれだけ地に落ちているのだろう。

 だいたい話もまとまったので、プックルとホイミンに引き続き見張りを頼んで、残りは仮眠をとることにした。岩場の上でそのまま寝る者もいたが、先ほどの夕立でそこかしこが濡れていたため、数名の仲魔達は馬車の中で寝ることにしたらしかった。それ以上場所を圧迫するのも申し訳なく、僕はフローラを誘い比較的乾いた岩場の陰に布を敷いて、その岩にもたれながら休むことにした。

「なんだか、祠に行った時を思い出します」

 身を寄り添って、毛布がわりに僕の外套を二人に掛けたところで、フローラがほんのりと微笑み呟いた。

「ほんとだ。あの時はすごい、どきどきしたな」

 ほんの二週間ほど前のことなのに、随分昔のことのように感じる。真夜中の祠で二人、並んで休息をとったことを思い返して呟くと、隣の君が少し驚いたように目を瞬いてこちらを見た。

「あんな近くに君がいたの、初めてだったから。……緊張した」

 そう、目が覚めたら肩に君の頭がもたれかかっていて、心臓が止まるかと思うほど大きく跳ね上がったんだった。

 今、またそうして僕に体重を預けてくれる君を抱き寄せて、改めて共にいられる喜びを噛みしめる。あの時はまだ、本当に君が来てくれるのか、連れ出せるのか不安で仕方なかった。

「私も、すごくどきどき、してました。……けれど、テュールさんがとっても温かくて、こうしていたら安心して眠って、しまって、……」

 どことなくとろんとした目つきでぽつぽつと囁く君は、ここに来て化粧を落としたままでいることもあってか、いつもよりずっと幼く見える。

 疲れているんだろう。頰に触れてくる君の頭が、心地よい熱を持っている。ふと、汗臭いのではと心配になったけれど、長い睫毛を落とした君はすっかり力が抜けた様子で小さくなっていて、あまりの愛らしさにそんな懸念は呆気なく吹き飛んでしまった。

「今も、眠っていいんだよ。……お休み」

「……おやすみ、なさい」

 髪を撫でると、甘く優しい声が小さく返事をしてくれる。

 それだけで僕はすっかり幸せで満たされて、子供のように温かな手をとり指をそっと絡めた。微かに感じる息遣いと心地良い花の香りの中、僕は束の間の眠りへと緩やかに意識を落としていった。

 

 

 

 周囲が動く気配に目を覚ますと、先に起き出した面々が次の探索の準備をしているところだった。

「お幸せそうな寝姿でござった。いやはや、声をかけては無粋かと」

 声音ににやにやと笑いを含ませたピエールがここぞとばかりに冷やかす。僕は黙って聞こえないふりをしたが、一緒に目覚めたフローラは素直にも顔を赤らめ俯いていた。

 寝ずの番をしてくれていたプックルとホイミンを労い、軽食で小腹を満たしてから洞窟探索を再開した。

 やはりガンドフがいてくれると暑さが大分和らぐ。場所が場所だけに炎に強い魔物ばかりなので、彼の吐息は抜群の効果を発揮した。魔物を狩りやすくはなったが、やはり中々踊る宝石には遭遇しなかった。そろそろ夜が明けてしまう。何かもう少し良い方法はないかな、と思考を巡らせたその直後。

「────きゃ……っ!」

 火の粉が舞った。岩棚の上方に潜んだ魔物がフローラめがけて躍りかかる様が視界に飛び込んだ。咄嗟に両腕で頭を覆ったフローラを引き倒し抱き止めた瞬間、一筋の青い光が視界を凪いだ。

 え?

 思考の前に、雪混じりの凍てつく風が吹き荒れ火勢を緩ませる。ガンドフの息とは違う、吹雪か? そう直感した瞬間にも奇襲を阻まれた魔物達は激昂し我先にと飛びかかってくる。ガンドフの息と風魔法で応戦しつつ、慌ててマーリンを振り仰いだ。

「マーリン! 今のは」

「指輪か。気づかなんだ」

 無感情に言い捨て、彼は一際大柄なホースデビルを強烈なメラミで射抜いた。グガァ‼︎ と絞り出すように吼えた、馬面に山羊の角を持つ悪魔は筋肉質の腕を大きく振りかぶりガンドフの脳天を割ろうとした──のをぎりぎり滑り込み剣の柄で受けたが、重すぎて耐えきれない。このままでは折れる、その直感と共に衝撃を右肩に逃がしたのとマーリンの追撃が入るのがほぼ同時だった。

「テュールさん‼︎」

 澄んだ、悲痛な声が響いた。焔玉に呻いたホースデビルが前のめりに倒れ臥す。岩のような拳がみしみしと右半身にめり込んだ。歯を食いしばって身を屈め、渾身の力で剣を薙ぎ腹を蹴り上げて、力の逸れた方へと身体を逃した。ズシン、と重い音を立てすぐ横に崩れ落ちた魔物を視界の端に確かめて、よろめくままに膝をつき顔を上げる。

 ほとんど無意識のうちに右肩に回復魔法を施し、荒く息を継ぎながら辺りを見回した。炎の魔物はほとんどガンドフが処理してくれていて、幸運にも宝石袋の魔物も二体ほど狩れていたようだった。背後に倒れたホースデビルも事切れているらしい。──苦悶に歪んだその顔に、ずっと昔目にした馬面の魔物が脳裏を掠めて怖気を感じたが、瞼を閉じて振り切った。父の剣が壊れていないことを確かめて安堵したところで、フローラが駆け寄ってきて泣きそうな顔で回復魔法を施してくれた。

「だ、だいじょうぶ……、ですか」

 応急処置的に治癒したから直後の痛みはだいぶ治まっていたが、フローラのベホイミはひどく温かく損傷に沁みていく。

「大丈夫。本当、昔から頑丈だけが取柄だから。……でも、真正面から受けちゃだめだね、やっぱり」

 彼女の前では格好つけていたかったのにこれでは、さすがにばつが悪い。思わず自嘲気味に笑って言ったけれど、彼女は涙を堪えるように黙って唇を噛み、今一度の回復魔法を僕に施した。

 回復術は怪我に反応して魔法をかける手に熱が返る。治癒の反発が大きいほど──つまり大きい怪我を治すほど、より熱く強い衝撃が手元に返る。逆に治ってしまえば熱は感じないから、重ねがけすると言うことは一度で治癒の熱が消失しなかった、と言うことで。

 思った以上の損傷を負っていたかもしれない。何より、フローラに無様なところを見せて、心配までかけてしまった。

「……ごめんね。ちょっと、過信しすぎた」

 もうちょっと早く反応できれば受ける前に斬りつけられたし、受け流して斬り返すこともできた。未熟と慢心の証拠だ。うろ覚えの父のスタイルをなぞって習得した独学の剣技は防御には向かない。早い斬り返し、数歩先を読む判断で常に先手で敵を薙ぐ。大人になり自由を手に入れてから改めて再現しようとしたあのスピードは最低でもこの要素を踏襲しないと成り立たない。まだまだだな、と思いつつ、やはり心配そうに僕を見上げる瞳を見下ろして微笑んだ。

 せめて、安心してほしかった。

「あ、そういえばさ」

 施術を終え、僕の肩に添えられた華奢な手を取った。左の薬指には白銀に蒼の瞳が美しい細身の指輪が、変わらぬ清廉な輝きを放っている。

「さっきの吹雪……、この指輪が?」

 黙ってフローラの施術が終わるのを待っていてくれたらしいマーリンが、静かに頷きながら歩み寄った。

「恐らく。発動の直前、その石が光りました。魔道具の一種なのでしょう。ご主人の指輪も何がしかの力を秘めておられるのでは」

「全然気づかなかった……こういう魔道具って使ったことがないんだけど、かざすだけじゃ何も起こらないよね? いわゆる魔導の杖みたいなものなのかな。使い方がわかるなら教えてほしい」

 ただ手をかざしただけでいちいち魔法が発動していたら大変だ。婚礼会場や別宅が恐ろしいことにならなくて本当に良かったと思わなくては。

 今回だって、フローラは意図して発動させたわけではなかっただろう。不用意に発動させないためにも、また今後有用にしていくためにも扱い方を知っておきたいのだけれど。

「そうですな……私も杖、といったものはあまり使ったことはありませぬが。魔力や契約を必要とせず、思念で発動させるものと聞いたことはあります」

「……思念? ごめん、いまいちイメージが……あ、イメージしろってことかな? 頭の中に思い描く、ってこと?」

「恐らくは。キメラの翼なども簡易な魔道具の一種ですが、あれは着地点を思念で探りますな。あの感覚に近いかと」

 同じく真剣に話を聞いていたフローラと、神妙な面持ちで顔を見合わせる。マーリンの言うことはなんとなく理解できたが、こればかりは使ってみないと感覚が掴めないという気がした。

「魔物の気配がしたと思ったら、頭上から炎が……それで焦って、身を庇ったのだと思うのですけれどよく覚えていません。どうしてあそこで発動したのか……」

「イメージっていっても、そもそも魔法が発動すること自体知らなかったんだしね。何だろう、炎だったからかな? ほとんど無意識に消さなきゃ、って思ったとか」

 フローラは尚も首を傾げつつ「そう……かも、しれません」と頷いていた。そうなると気になってくるのは僕が身につけている炎のリングだ。どうしたって炎なのでここではあまり意味を為さなそうだが、どんな魔法が秘められているのか正直すごく興味があるし、楽しみでもある。

 でも、──そうか。

 僕とフローラの繋がりを示す一対の指輪。水のリングを見つけた時にはまるで指輪に君を封じ込めたかのように、君の気配を掌の内に感じた。君のためにと手にした指輪が今、君を救うために秘められた力を発現させてくれたのだと思うと。

 にやけてしまっていたのに気づいたんだろう、フローラが不思議そうに僕を見上げた。苦笑して頭を振り「ありがとう。すっかり良くなった」と囁いて、手を引いて立ち上がった。

「私の方こそ……、庇ってくださって、ありがとうございました」

 目尻をほんのりと愛らしく赤らめた君が、そっと顔を寄せて僕にだけ聞こえる囁きを返してくれた。仲魔の前で恥じらっているのか、彼女らしく控えめに示してくれる好意が嬉しくてつい、表情が緩んでしまう。

 回復術を受け指輪について話し込んでいるうちに、たった今殲滅した魔物達が身体を失い次々に結晶へと変わっていった。ガンドフがのそのそと拾い集めてくれたそれを財布代わりの道具袋に納めたところで、区切りも良かったのでみんなで休息をとることにして馬車に戻った。

 結局、ここまでで狩れた『踊る宝石』は十数体ほど。小金程度なら悪くないかもしれないが、掃討作戦には全然足りない。どれだけあっても足りないことには違いないけれど。

 今度は木陰に馬車を移して改めて野営地を作り、時折聖水を撒きつつも日が暮れるまでそれぞれのんびりと身体を休めた。

 夕方には妙案を閃くことを祈って、お陰で僕はうたた寝の最中、宝石袋にまみれて嬉しい悲鳴をあげる夢を見た。

 ……逆夢にならないことを祈るしかない。

 

 

 

 そうして、死の火山に着いて丸一日が経過した。夕刻、また雑穀粥を拵えてみんなで分けあいながら、つらつらと気になることを話し合った。

「やっぱり、踊る宝石だけ会う回数が減ってると思うんだ。前はもう少し頻繁にぶつかった気がするんだけどな……」

 魔物から得た結晶は今朝方の狩りで道具袋を一つ一杯にした。さすがに狩り尽くしたということはないと思うけど、体感として踊る宝石に遭遇しづらくなっている、という気がする。

「その、指輪がヒトの手に渡ったから、ということはありませんかな」

 物静かなマーリンの提言に目を上げると、遠慮のかけらもなく四杯目のおかわりをよそっていたピエールもまた頷いた。

「ありそうではある。とびきりの宝の気配が失せたので住処を変えている、ということも」

 思わず、自分の左手をじっと見つめた。そういえば滝の洞窟でもあの宝石袋には遭遇したけれど、それ以外の場所では凡そ見たことがない。

「あの阿呆どもの生態など拙者は知らんが、随分と宝石に執着しておるように見えたものでな」

 心底うんざりと言った風情でピエールは言ったが、僕も正直気になってはいた。例えばフローラの身躱しの服、胸に大きな橙色の宝石が飾られている。この石の魔力で身のこなしを補助する女性用の特殊な旅装なのだが、遭遇した『踊る宝石』の多くがフローラに──恐らくはその胸許の宝石に誘われるように寄ってきた、ように見えたのだ。

 だからと言って、彼女を囮にする気はさらさらない。危険に曝すことが言語道断であるのはもちろん、ああ見えて『踊る宝石』は奇術を幾つも使ってくる。もし混乱の術、メダパニをかけられてしまったら、正気に戻った時彼女はどれほど自分を責めることか。

 よしんば宝石で釣れたとしても、餌として撒けるほど数に余裕があるわけでもなく。

「……あの、この石、外しましょうか」

 おずおずとフローラが申し出てくれたが、微笑んで断った。

「大丈夫だよ。フローラを守るためのものは、どんなにちょっとしたものでも身につけていてほしいな」

 これもまた本心からくる言葉だったし、殊勝な彼女もすぐに僕の願いを飲み込んでくれた。代わりに、意味のある提案かはわからないけれど、と遠慮がちに切り出した。

「宝石、でなくては意味がないのかもしれませんが……一度、私の装飾品をお試しいただくのはどうでしょうか? 耳飾りと腕輪くらいしか手元にありませんけれど」

「そうか、光り物が好きって可能性もあるよね。でも、いいの? 似合ってるのに。高価なものなんだろうし」

 率直な懸念を口にしてみたが、フローラはやはり穏やかな表情のまま首を振った。

「良いのです。魔力が込められているということもありませんし、思い出の品というわけでもありませんから。……この指輪だけ持っていられれば、私は十分です」

 そう言ってやわらかく微笑んだ彼女は、薬指の清らかな輝きを愛しげに撫でた。

 どうしてこうも健気なのか。このたった二週間程度の間にも普通では考えられないほどの苦労をかけているというのに、君は僕と揃いの指輪さえあればいいと笑ってくれるんだ。

「ありがとう。……できるだけ、傷つかないようにするからね」

 思わぬ怪我を招かないよう、彼女は指輪以外の装飾品を旅立った頃から外していた。懐からそれらを出してくれたフローラに、大事に受け取りながら言葉を返した。

 食事を終え、夜風が心地よく感じられる頃、再び洞窟探索へと繰り出した。

 今度の面々は僕とフローラ、ずっと留守番組だったプックル、そしてガンドフとピエール。マーリンも引き続き志願してくれたが、昨夜から炎魔法のみで戦い続けている彼の魔力は休息をとったとは言え万全とは言い難い。彼は何も言わないが、恐らくはフローラに魔法を実践して見せてくれているのだろう。そんな気遣いを感じられるが故に心苦しかったが、今回は馬車番がてら休んでもらうことにした。

「指輪の力を使うなとは申しませぬが、くれぐれも味方を巻き込みませんよう。魔力を要しない分、使いこなせれば有用には違いありませぬ」

 これまでの数日間で師弟としての信頼も育まれているのだろう。真剣な面持ちで頷くフローラに助言を与え送り出すマーリンの姿はすっかり、愛弟子に対する師のそれだった。

 さすがに昨夜からの探索で入り口近辺の魔物は狩り尽くしてしまったようだったので、もう少し奥の方まで進んでみることにした。

 何度か狩場を変え、見通しのよい拓けたところを選んで岩の上に布を拡げた。そこにフローラの装飾品を置く。金色が美しい繊細な耳飾りと腕輪が辺りの朱い空気を反射して輝いた。

 程なく僕らの気配に寄ってきたマドルーパーの群れに紛れて、二、三体の踊る宝石が姿を現した。相変わらずの俊敏さでプックルが次々に喰らい付き、袋に穴を開けてはぼろぼろと宝石を零していく。踊る宝石はスライム並みに背が低い上、ぴょこぴょこと忙しなく跳ねる。なぜか殺気をほぼ感じないため、いつの間にか接近されていることも多々あった。ピエールや僕にはその動きがやや捉えづらかったのだが、プックルには割とやりやすい相手だったらしい。

 袋をプックルに任せマドルーパーを相手しているうちに、地面に散らばった宝石に更につられるように宝石袋が数体顔を出した。そちらにも活き活きと噛み付いては穴を開けていくプックルが頼もしい。

 中身をほとんど失った宝石袋からひらりと地に落ちてただの布切れのようになっていく。哀愁を誘う最期に心の中で手を合わせた時、突然プックルが雄叫びをあげながら洞窟の奥めがけて駆け出した。

「プックル⁉︎」と慌てて呼ぶと足を止めたが、どこか怯えた顔で振り向き、頭を大きく振りながらこちらに飛びかかってきた。

 ────メダパニか!

 舌打ちしつつ、勢いよく跳躍してきた彼を抱き止め転がる。何とか身体の下へと組み敷いたがさすがに抑えきれず「ガンドフ、手伝って‼︎」と一際身体の大きい仲魔を呼んだ。グォオ‼︎ と肚に響く咆哮を繰り返し暴れるキラーパンサーを二人掛かりで抑え込み、急ぎ道具袋に手を突っ込んでぼろぼろのリボンを探り当てた。混乱症状に特効薬はないけれど、プックルになら。

「落ち着け、プックル‼︎」

 叫び、無理矢理に匂いを嗅がせた。それでもしばらく暴れていたが、やがてじわりと焦点を結んだプックルが鼻先のリボンを軽く食んだ。ほっとして喉元をくすぐると、リボンを離してぺろりと掌を舐めてくれる。

 ……良かった。

 安堵と同時に、やはり混乱は怖いな、と痛感する。解毒剤のようなものがないから眠らせるくらいしか対処法を思いつかないが、あいにく誰も誘眠の呪文は覚えていない。

「プックル、馬鹿力……」

 グルル、と申し訳なさげに眦を下げたプックルを、思わずくたびれた笑みと共に撫でた。一先ず大事にならなくて良かった。その頃、残党を片付けていたピエールと彼を援護してくれたらしいフローラがこちらへと駆けつけてくれた。

「大丈夫ですか! 皆さん、テュールさんもお怪我を……」

「ありがとう。大したことないよ、少し爪が当たったくらい」

 暴れるプックルを抑えつけたから、多少なりとも引っ掻き傷が出来ている。僕らを見渡すなり、フローラは近くのガンドフから順に治癒魔法を施し始めた。起き上がったプックルと僕を素早く検分し「メダパニであったか。全く、阿呆のくせに忌々しい術ばかり使う」などと呟いたピエールはつくづく踊る宝石とはそりが合わないと見える。

 曰く、魔物だというのに戦意もない、頭を宝石に占められすぎて物事を考えもしない阿呆の分際で小賢しい術をいくつも使ってくるところが極めて腹ただしいのだそうだ。そう言われると確かに、思考のしっかりした魔物よりは本能で動く動物に近い性質なのかもな、と思ったりもする。

 ──その、白い袋の魔物が、視界の端に映り込んだ。

「待った‼︎」

 叫ぶと同時に駆け寄って、岩場の上で蠢く袋に飛びついた。うっかりプックルに気を取られている間に、岩の上に置き去りだったフローラの耳飾りを飲み込まれてしまったのだ。他にも落ちていた宝石を拾い食いしたらしいこの踊る宝石は、えらく重たく膨れ上がった身体をじゃらじゃら言わせつつ、尚も腕輪を欲して僕に捕まったまま懸命に舌を伸ばす。

「駄目だって! 今の出せって、頼むから‼︎」

 こっちも激しく気が動転している。何とか取り戻せないかと舌を出したままの口に手を突っ込んで袋の中を弄ったら、おえっ、とえづいた踊る宝石の口からどざざざざざ‼︎ と大量の宝石が地に溢れた。びっくりして一瞬固まった僕を尻目に「おお、豊作豊作」などと謳いつつ近づいてきたピエールがひょいひょいそれらを拾っていく。

「耳飾りは⁉︎ ピエール‼︎」

「……残念ながら。これですかなぁ」

 ふむ、と怪訝な声で彼が摘まんで見せてくれたのは、半分溶けて結晶化した耳飾りの残骸だった。ぞくり、と背筋に怖気が走る。踊る宝石とはもしかして、腹に入れたものを宝石に変えてしまう魔物なのか?

 咄嗟に、魔物の口に突っ込んだ掌ごと身を引いた。自由になった踊る宝石は改めて餌を求めて跳ね回る。

 手首の腕輪がわずかに変形し、まだらな石に変化しかかっていたものの、手そのものは無事だった。鉱物だけを溶かすのか、もし左手だったら炎のリングはどうなっていただろうか。今のが右手で本当に良かった。

「いっそもう一度食わせ直して、吐かせた方が役に立つやもしれんよ。奥方殿もこれでは身につけられまい」

 僕ではなく妻に承諾を求めたピエールに、彼女は迷いなく頷いたが、その表情は些か複雑そうだった。

「私は構いません、が……少し、可哀想ではありますね……」

 一部始終を固い表情のまま見守っていたフローラは、愁いを帯びた眼差しを袋の魔物に向ける。

 結果倒してしまうのならその方が哀れと言えなくもないが、その感覚は女性である所以なのかもしれない。……とはいえ、解らなくもない。この踊る宝石はどうやら本当にあまり害のない魔物だ。敵愾心剥き出しで襲ってくる他の多くの魔物とは違い、単に僕らの持ち物を餌として見ているだけだ。敵意を感じない相手に手を下すのは無益な殺生を行っているようで、正直気持ちの良いものではない。

 そうこうしているうちにフローラの腕輪をも飲み込んでしまった踊る宝石がぴょんぴょこ跳ねつつ何処かへ行ってしまいそうになったので、慌ててもう一度捕まえた。「これも食べる?」ととりあえず道具袋から魔物の核を取り出すと、べろんと器用に舌で巻き取る。あ、食べるんだ。共食い? などと思いつつ、今一度フローラを振り返った。

「じゃあ……ごめん。耳飾りも全部宝石に変えさせてもらうよ。その代わり、吐き出させたら倒さずにこのまま帰そう」

 また甘いことを、と溜息混じりにピエールが僕を見る。つい苦笑が漏れてしまうが、僕だって別に見境なく魔物を殺したいわけじゃない。フローラが可哀想と言ったのは無理矢理吐かせるという行為のことだろうけど、逃がすと聞いてそれはそれでほっとしたように見えた。

 踊る宝石の前に半分結晶化した金色の小さな飾りを転がしてやると、嬉々としてぺろりと飲み込む。

「ちょっと、ごめんね? 今のだけ返してね」

 踊る宝石には理不尽だろうが、こちらにも事情がある。無事吐き出してくれることを祈りつつ再度右手を差し入れた。やはり苦しげにおえぇと呻いた袋が、今度はぽろぽろとたった今飲み込んだばかりの異物を吐き出した。ついさっきまで装飾品や核の結晶だった異物達はどれもこれも、特に腕輪は大きさも申し分ない見事な宝玉にその姿を変えていた。

 やっと解放され、不服そうな踊る宝石が何かの術を発動させる前に空になった口へと結晶片を放り込む。むぐむぐ、としっかり反応して飲み込む姿は思いの外可愛い。「無理に吐かせて本当にごめんね。これ、お詫び」と道具袋の中の結晶をざらっと地面に撒いてやると、踊る宝石はふたたび跳ねながら結晶を次々に食べ始めた。

「あれはいいので?」

「うん。お腹空っぽにさせちゃったし……お陰でたくさん宝石が手に入ったから、これくらいはね」

 踊る宝石の食事を邪魔しないよう声を潜めて囁きあい、仲魔達の背を押して帰還を促した。折角、期せずして大量の宝石を得られたのだ。これ以上欲をかくまえに撤収してしまったほうがいい。

 そっとその場から立ち去りかけた時、ぴょこぴょこ跳ねていた袋の魔物が動きを止めてじっとこちらを見ているのに気がついた。

 ……なんだろう。もしかして、一緒に行きたいと思ってくれたのかな?

 振り返って目を合わせてみたが、魔物は感情の伺えない気の抜けた顔を一度瞬かせると、足元に転がった結晶を全て舐め拾ってから洞窟の向こうへとびよんびよん跳ねつつ消えていった。

「あれはもう、やっていけんかもしれんなぁ……」

 その背を黙って眺めていたピエールが低い声音でぽつ、と独りごちた。

「え? ……どういうこと?」

「いや。いかんせん宝石阿呆ですからな、致し方ない」

 餌付けのようになってしまったのが良くなかっただろうか。相方の言葉の意味が僕にはよくわからなかったが、もう踊る宝石は白い影すら見えなくなってしまっていたから。それ以上の縁はなかったのだと自分に言い聞かせて、僕は目で追うことを諦めた。

「……あ、テュールさん」

 洞窟の出入口に向かう途中、フローラが軽やかに駆け寄り僕の隣に並んだ。

「こちら、テュールさんの持ち物ですか」

 彼女が差し出してくれたのは、プックルを正気に戻したぼろぼろのリボンだった。大切な思い出の品をフローラが拾っていてくれたことに胸が熱くなるのを感じながら、「うん、そう。落としちゃってたんだね。ありがとう、拾ってくれて」と感謝を口にしつつ受け取った。

「……これ、ビアンカにもらったんだ。子供の頃に」

 よれよれのリボンを見つめながら呟いたら、隣のフローラがわずかに瞳を揺らめかせて僕を見上げた。

 どこか不安げにも見えるそんな彼女に、僕は精一杯、慈しみを込めた微笑みを向ける。

 君に隠すことなど何もない。君さえ嫌でないなら、知っていてほしい。僕が歩いてきた時間のこと、全部。

「あとで、聞いてくれる? プックルと出会った時の話」

 顔を覗き込んで訊いたら、優しく微笑んで頷いてくれた。

 リボンを小さく畳んで道具袋にしまい、改めて彼女と指を絡めた。軽く顔を見合わせて微笑んでから、少しずつ明るくなる空の下、僕達を待つ馬車の元へと戻っていった。



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#5. 水辺の休息

 十分に集まったか、と言われると、余剰な程足りているとは言い難い。

 とは言え、先ほどの出来事の中でここに来て一番の量の宝石を手に入れることができたし。すっかり踊る宝石を狩る気も削がれてしまったので、宝石採集はここらで打ち止めにして戻ろうかという話になった。

 幸い、副産物として昨日までに集めた結晶核が道具袋にたっぷり三つ。換金すればそれなりの額になる。出航までもう数日あるので、宝石商を当たって少し補填してもいいかもしれない。

「ああ、でも一度、汗を流したいな」

 すっかり汗を吸ってじっとり湿ったままの服を嗅いで、思わず顔をしかめた。途中途中で身体を拭くくらいのことはしていたものの、水に浸かることなく五日が経過していた。このまま街に戻るのはちょっと抵抗がある。

 それに今は明け方なので、さすがにこの時間の宿の受け入れはないだろう。恐らく朝の食堂準備にてんてこ舞いの時間帯だ。せめて昼過ぎまで時間を潰したいが、現状ほとんど全員が昨夜から起きて動きっぱなしなので、なんとか交替で休息を取らなくてはとも思う。

「一度サラボナに戻って、湖沿いに人気のないところまで行ってみようか? ついでに仮眠もとってさ、夕方までにポートセルミに戻ろう」

 僕の提案に、皆一様に頷いてくれた。フローラだけが「せっかくサラボナに戻られるのでしたら、別宅をお使いいただいても父は何も言わないとは思いますけれど……」と言ってくれたが、約束もなく訪ねて万が一にも他の賓客と鉢合わせてしまっては申し訳ない。ただでさえ凄まじい不衛生ぶりなので、そこは笑って辞退した。

 深く考えず「今日は天気も良さそうだし、気持ちよく水浴びできそうじゃない?」などと口走ったところで、そうだ、フローラは女の人なんだよな。という考えが過った。先日は夜だったからまだ良かったけれど、この晴天の下彼女を水浴びさせるということは────

 不自然に口籠ってしまったから、多分僕の不埒な考えは透けてしまっただろう。彼女と目を合わせるのが忍びなくて、熱くなった顔をついと背けた。

「と、とにかく、早く休みたいよね。うん、早く行こう?」

 またもやにまにまと緩んだ視線を向けてくる仲魔達をどついて馬車に押し込め、全員馬車に収まったところで、久々のルーラを唱えた。一瞬で転移したその先で、先日と同じく火山への道筋をパトリシアに示す。湖の畔自体は馬車で進むには向かない湿地帯なので、少し離れたところに整備された道を小一時間走らせてから休憩場所を探した。

 パトリシアを先導しながらしばらく行くと、一本の大木を囲むように木々が並ぶ、木陰が涼しい水辺に出た。

 ちょうどいいかな、と思って声をかけようと馬車を覗くと、ほとんどみんな爆睡中だった。反応したのはプックルとマーリンくらいで、苦笑しながら湖についた旨を告げる。幌とガンドフに支えられて眠るフローラの膝の上、ホイミンとスラりんが幸せそうに寝息を立てている。微笑ましくも羨ましい構図だ。あまり見たことがないフローラのあどけない寝顔にささやかな悦びを覚えつつ、起こさないようそっと幕を閉めた。

 魔族に身体を洗う習慣があるのかは定かでないが、マーリンはさっさと茂みの陰の見えにくいところへ行ってしまい、僕はプックルに水をかけながら丁寧に毛並みを整えてやった。

 水はあまり好きではないプックルだが、こうして手入れをされるのは子供の頃からさほど嫌がらない。

「気持ちいい?」

 声をかけると、フニャンと珍しく甘えた声を出す。なんだか可笑しくなって「なんか、久々だね。こうやってプックルを綺麗にしてやるの」と耳の後ろを撫でてやった。身体も大きく、信じられないほど勇猛になった君だけれど、やはり僕にとってプックルはいつまでも甘えたがりのままなんだな、としみじみと思う。

「小さい頃は結構怖がって、僕の後ろで小さくなったりしてたのにな。今は絶対僕より先に前に出ちゃうんだから、ほんと敵わないよ」

 声を潜めてくすくすと昔話を囁いたら、どこか不服そうに眉間に皺を寄せてプックルが鼻を鳴らした。びしょびしょの身体を猫の如くぶるるる、と震わせてわざとらしく水を飛ばしてくる。「こら、やめろって! もう」と笑い含みに止めたら、フン、と鼻息も荒く勝ち誇った顔で僕の周りをぐるりと歩き、さも満足げに寝そべった。

 まるで王様の如く悠々としたプックルの表情にまた笑いを堪えつつ、今のうちに汗を流しちゃおうかな、と思い立ってターバンを外し外套を脱ぐ。ずっしりと汗を吸って重い布地に憂鬱な息が漏れる。宿に着いたら、これも全部洗濯しないといけない。

 こっそりと幌の気配を伺い、まだ妻が起きてこないことを確かめて。腰布以外の着衣を取り、急いで湖に身体を沈めた。

「……冷てッッ‼︎」

 全身の血管がキュッと締まり、鳥肌とともに思わず情けない声が出た。

 日が昇ってしばらく経つけれど、朝の湖はやはり冷たい。普段水場でこんな風に全身浸かって洗ったりしないのだけど、脱いだところをもしフローラに見られたら、と思ったら恥ずかしくてたまらなかったのだ。歯の根ががちがちいうのをこらえて手早く髪を解き、べとついた頭皮を懸命に擦る。宿に入れば湯でしっかり洗えるけれど、とにかく今はこの不快感が少しでもどうにかなれば。

 ……ちょっとは、ましになったかな?

 溜息のぬるさが却って身体の冷えを際立たせる。一度上がって身体を拭こう、と思い顔を両手で拭ったその時、ばしゃん! と盛大に水が撥ねて「つっ……めたあああいっっ!」という舌ったらずな大声が耳のすぐ近くで響き渡った。

「……スラりん。起きたの?」

「おきたー! ここつめたいよごしゅじんさまー!」

「うーん、昼になればもう少しぬるくなるとは思うんだ、けど、……」

 ぷかりと浮かんだ青い軟体を掬い上げ、何気なく返していた言葉がじわじわと詰まっていく。スラりんに続いて「ホイミンもおきた〜」と漂ってきたホイミスライムのその向こう、幌幕をかき分けて碧い髪が──フローラが顔を覗かせたのだ。

 まだぼんやりと眠そうな顔つきだった彼女は、水に浸かった僕と視線が交わるなり、その翡翠の双眸を大きく見開いた。真っ白な肌をかぁっと真っ赤に染め上げて息を呑み、首まで紅潮しきった顔を慌ててぱっと背ける。

 ──────待て待て待て‼︎‼︎

 裸を見られるのなんて初めてではないのに、なんなんだこの気恥ずかしさは。よく考えればもっと恥ずかしいことだってしているというのに、寒気なんてどこかへ行ってしまいそうなほどの羞恥で今まさに頭が沸騰しそうだ。

「いやその、えっと、先にさっぱりしたいかなと思って‼︎」

 こちらも反射的に口許までばしゃ‼︎ と水に沈め、早口にまくしたてた。何を口走っているか自分でもよくわからない。「あ、はい、……ごめんなさい」と首筋まで真っ赤に染まった彼女もまた目を逸らしたまま、幌の中へとその背を吸い込ませていった。

 ……こういう時って、どういう顔をしたらいいんだ。

 未だ心臓と顔ばかりが熱くどくどくと脈打つのを感じつつ、ばしゃり! と顔に冷水を打ちつけ嘆息した。いや、確かにまだ結婚してそう経ってないけども。気持ちもちゃんと通じあって、ここまでそれなりに密な時間を過ごしてきているというのに、未だにこんな反応をしてしまう自分がなんとも情けない。

 冷たい水が嫌なのか、僕の頭上に避難したスラりんが「どうしたのー? ごしゅじんさま、かおまっかー」と能天気な声で呼びかける。苦笑いを嚙み潰し、スラりんを地面に下ろして僕も湖から上がった。

 冷えた肌にまだ涼しい朝の風が痛いほど刺さる。鳥肌に耐えつつ用意していた布で手早く身体を拭き、乾いた着替えに身を包んで、やっと気持ちを落ち着かせることができた。

「……フローラ」

 未だ静かな馬車の中をそっと覗くと、暗い中、まだ夢の中の仲魔達に紛れてフローラが所在なく座り込んでいた。僕の呼びかけにぴくりと反応し、わずかに顔をこちらに向ける。

「──、すみませ……なんだか、その」

 彼女もまだ顔が紅潮したままなのだろうか。隠すように両手で頰を包んで、フローラは辿々しくも言葉を選び視線を彷徨わせた。

「……どきどき、して……止まらなくて……」

 かき消えそうな、儚い声。

 肩を抱いて、恥じらいを隠さず俯く可憐な横顔に、彼女も僕を意識してくれているのだと思い知った。僕もまだ気恥ずかしさに苛まれていたけれど、小さく身体を震わせる彼女を愛おしく思う気持ちの方が勝ってしまって。

「……こっち、来て? フローラ」

 声を潜めて手招きをしたら、遠慮がちに幕の側へと身を寄せる。その華奢な身体を、壊さないようにそっと捕まえる。

「大好き、だよ……」

 胸をいっぱいに満たしていく気持ちを、溢れるままに口にして。

 碧い髪が、さらりと僕の肩にかかる。抱き締めた服越しにとくとくと小さな鼓動が伝わって。僕の高鳴りも、今君に届いているだろうか。

 心が同じだと、感じられることがこんなにも幸せだなんて。

「……好き、な、気持ちが、止まらなくて」

 僕の肩に頰を押しつけた君が、か細い囁きを耳許にそっと吐き出す。

「しあわせなのに……苦しい、です────」

 ああ、もう。

 そんな気持ちまで、僕と君はきっと一緒だ。

 好きで、好きでたまらなくて。近づきたいのに歯止めが効かなくなるのが怖くて。想いを通わせあって、ただ幸せなだけでいられたなら。感じる幸せの大きさに比例して、甘やかな切なさも、どうにもならないもどかしさも日増しに大きくなっていく。

 そんな苦しさだって、愛おしいと思えるほど。

「あ、……ごめん、髪が濡れたまま」

 君の髪に、襟口にぽたりと雫が降っていることに今更気づく。身体を離そうとしたけれど君はふるりと頭を振り、尚も肩に額を押しつけて僕にしがみついた。

 ────触れたいよ。

 抗い難い衝動に負けて、一度だけ、と目の前の君をきつくきつく抱き締めた。びくりとしなった背が震えて、すぐに腕の力を緩めればけほけほと小さく咳き込む。

「……これでも、すごく我慢してるんだ」

 潤んだ瞳を下から覗く。優しい、澄んだ眼差しが困ったように僕を見つめ返した。唇を寄せてしまいたい追の衝動を堪えつつ、微笑んでその頰をそっと撫でる。

「でも、黙って見せる気にもならないからね。これ以上」

 え、と目を瞬いた彼女がばっと後ろを振り返った。その背後で、いつの間にか起きていたガンドフとピエールが大変生ぬるい微笑みをたたえて僕達を見守っていたのだった。実は馬車の外でも他の仲魔達がにやけながら並んで僕らを見上げていたのだけれど、フローラがそこまで気づいていたかどうか。

「何、拙者らに気遣いは無用。さ、遠慮なさらず続きを、どうぞ」

 ほとんど全身、爪の先まで真っ赤になって固まったフローラに、ピエールが嫌味なほどにこやかに追い討ちをかける。

 ……声にならないフローラの叫び声が、サラボナ一帯に広がる湖畔を揺るがしこだました。

 

 

 

「恥ずかしくて、表に出られません……」と馬車の隅に小さくうずくまった彼女を宥めてなんとか連れ出した。僕はいいけどフローラをあまり揶揄うなよ? と、澄まし顔のピエール達に釘をさすことも忘れずに。

 改めて、みんなで火を囲んでスナックとジャムの朝食をいただいた。やっぱりフローラのジャムはとても美味しい。疲れた身体に優しい甘さがじわりと沁みて、活力になっていくのがわかる。

 あっという間にひと瓶空になってしまうのを見て、フローラが控えめに微笑みながらも「もっとたくさん作らないと、砂漠でもすぐに使い切ってしまいそうですね」と言ってくれた。「うん! もっと〜!」「もーっとほしーい‼︎」とはしゃぐスライム属の二人にくすくす笑い、「そうね。他の果物でも作ってみましょうか? いろんな味を選べたらきっと楽しいですよね」と答える僕の妻は正しく女神か聖母そのものである。その横顔にうっとりと魅入りつつ「そしたら、本腰入れて買い出ししなくちゃだよね? 明日か明後日、一緒に行こうよ」と誘ってみたら、嬉しそうにきれいな笑顔で頷いた。天使だ。

 朝食の後は仮眠を取らせてもらった。思いのほか水が冷たいことを伝えて、水浴びするかどうかはフローラの判断に委ねることにした。側についていたいけれど、ついていたら正直もう我慢できる自信がない。

「ふろ〜らちゃんがあらってるあいだ、ホイミンとスラりんがまもる〜!」とスライム属達が騎士よろしく宣言してくれたので、悔しいが今回は彼らに任せて、些か悶々としつつ暫し木陰でうたた寝をした。

 怠い身体の隅々まで、とくとくと血が巡っていく感覚が心地よい。

 ほんの一時間程度のつもりだったが、目が醒めると太陽がすっかり頭上を通過していた。すぐ隣の木の幹に身体を預けて座ったフローラは半乾きの髪を珍しく編んでまとめていて、「スラりんちゃん達が居てくれましたので、安心して水浴びが出来ました」とはにかみながら教えてくれた。その後は僕と一緒に少しうとうとしつつ、水遊びをする仲魔達をここから眺めていたらしい。

 僕はといえば、目覚めたら君が傍らにいてくれたことで、まるで膝枕でもしてもらっていたような錯覚を覚えてしまって。気づかれないようこっそりと吐息を零して、妙な興奮を誤魔化した。

「そういえば、初めてちゃんとフローラの寝顔、見たかも」

 横たわったままフローラを見上げて囁いたら、君はまた頰に鮮やかな紅を点して顔を背けた。

「……初めてだなんて、大袈裟ですわ」

「大袈裟じゃないよ。いつもフローラの方が先に起きてるじゃないか」

 僕の言葉に視線を泳がせたフローラが「そんなこと……」と口籠った。困らせてしまうのは本意でないにしろ、そんな風に俯く君も可愛くて、つい弄りたくなってしまう。

「そうか、そういえば祠でもちょっとだけ見たかな。あと『あの夜』も寝てはいたけど、実際眠ってなかったんだから数には入らないよね?」

「もう、テュールさんっ!」

 恥ずかしそうに声を上げた彼女の桜貝の唇に、笑いながら人差し指を押し当てて。

「そんなに大きな声を出したら、気づかれちゃうよ」

「──っ……」

 またもや顔全体を真っ赤に染めたフローラの掌を捕まえたまま身を乗り出して。ほんの一瞬、柔らかな珊瑚色に自分の唇を押し当てた。

 すぐに離して賑やかな水辺を振り返り、今度は誰にも気づかれなかったことを確かめて。まるで大人の目を盗んで悪戯をする子供のようだ。顔を見合わせれば可笑しくなって、どちらからともなくくすくすと笑い声を零しあう。

 ああ、────幸せだな。

 ほんの二、三ヶ月前には考えもしなかったこと。君という人間が存在することを全く知ろうとしなかったこと。欠片も興味はなかったくせに、知ってしまったらもう、逃れられなかった。

 こんなに満たされてしまったら、もう君なしでは無理だよ。

 僕が起きていることに気がついた仲魔達がびしょ濡れのまま次々に戻ってくる。彼らを拭いてやっている間にフローラが温かい粥を準備してくれたので、みんなで遅めの昼食にした。片付けた頃にはだいぶ陽も傾いてきていて、肌寒くなる前におよそ一週間ぶりのポートセルミへと転移した。

 雑多な諸用は全部明日に回して、すぐに宿の手続きをした。フローラと交代で久々の湯を使い、下の酒場で夕食をとった後、船に帰還を告げるため僕だけ外に出た。

 少し湿った潮の香の夜風が、ここが港町であることを教えてくれる。

 いつもながら一際立派な係船場では、カジノ島の送迎を終えて次の出航準備をしていたストレンジャー号が僕を出迎えてくれた。

「イヴァン前船長から簡単に話は聞きました。面白いことになっておりますなぁ。大旦那様からの言伝も預かっております。明日の昼過ぎにでも改めて、お打ち合わせを致しましょう」

 僕の姿を認めた船長は穏やかに僕を労い、今夜はゆっくり休息をとるように言ってくれた。お心遣いに感謝しつつ、明日また色々と相談させていただく約束をして、足早に宿に戻った。

 起きて待っていたいとフローラは言ってくれたが、眠かったら気にせず寝るよう念を押して出ていた。果たして、彼女は椅子に腰かけたままことりと意識を手放していた。そりゃそうだ、六日もの間ずっと馬車か洞窟の中で、あれだけの冒険をすれば相当疲れているだろう。軽い身体を抱き上げると、いつもの優しい花の香りがした。ベッドに彼女を横たえ、額にかかった碧い髪を払ってやって、静かな寝息が零れる柔らかな唇を少しだけ、どきどきしながら啄ばんだ。

 眠り姫は目覚めなかったが、ほんの微かに「……ル、さん」と寝言で僕を呼んでくれた。どきりとしたけど、彼女はより深い眠りに堕ちていったようで。初めて彼女の穏やかな寝顔をじっくりと堪能して、最後にもう一度だけ口づけてから、寝る前に軽く鍛錬してこようと思い立ち、父の剣を持って再び宿の外に出た。

 

 

 

 本当はもう一度だけ、寝顔を見たことがあるのを思い出していた。

 でも、あの時の君は、どこか切なそうな寝顔で、一筋の涙が頰を伝っていたから。

 夢の中で何か辛い思いをしているんじゃないか。不安になって揺り起こしたら、君はたまらない笑顔でとびきりの言葉をくれた。

 ────僕と出逢ったあの瞬間、泣きたいほど嬉しかった、と。

 視線が交わったあの時から同じ気持ちをずっと、育ててきたんだって。

 父の悲願を忘れはしない。母を救うという、人生の目的も。

 ……でも、僕は彼女に教えられてしまった。僕自身が望んで果たしたいことが、今の僕にはある。

 力が、欲しい。

 共に来てくれる彼女を、絶対に失わずにいられるだけの力が。

 人間の身体ではどうしようもないことかもしれない。けれど、どんな巨体が相手だろうと、真正面から受けて力負けする、なんてのはもう懲り懲りなんだ。

 誰もいない街の外れで一人身体を馴らしていたら、ひょっこりと現れたピエールが「お相手致そうか」と不敵な声をかけてくれた。彼もまた、夜も含めた自由な時間にはこうして散歩をしたり、鍛錬や狩りをしたりと割と気ままに過ごしているのを知っている。

「助かる。ピエールの剣は速いからね」

「あるじ殿も、だいぶ返しが速くなられましたな」

 にんまりと笑いを含ませた彼の返事に、やはり彼は武人なのだな、と頼もしく思う。

 それから小半刻、相方と剣で打ちあってから宿に戻った。シャワーでざっと汗を流し、がしがし拭いて妻の眠る寝台へと潜り込む。フローラはぐっすりと眠っていて、愛らしい寝顔を間近で見るとたまらぬ幸福感にこの心を酔わされる。

 ────結婚したんだ、ってこんなことで実感するのはおかしいかな。

 部屋に戻ったら当たり前に君がいる。こんな奇跡がどうして我が身に起こったのか、未だに信じられない心地になる。

 彼女の額に軽く口づけて、小さな頭を胸に寄せて横たわった。久々の柔らかな寝床に身体を沈ませると、吐息と共に心地よい疲労感が指先まで滲み出ていく。甘やかな花の香りに誘われて瞼を閉じた。あっという間に僕の意識は深い眠りの底へと潜っていって、そのまま朝も遅い時間までぐっすりと熟睡してしまったのだった。



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#6. 出航準備

 それから出航までの数日は慌ただしく過ぎた。

 ポートセルミに戻った翌日、連日の疲れが祟ったのかフローラが珍しく少し寝過ごした。と言っても僕とほとんど同時に目が覚めた、と言うくらいだけど。

 顔色も優れなかったので、ホイミンとスラりんを宿の部屋に呼び寄せ、フローラの話し相手兼監視役を担ってもらった。こうでもしないと、ふらふらしたまま僕について動こうとしてしまうから。

 午前中は、火山で得た雑多なものの整理や換金に奔走した。忘れないうちに鍛冶屋へ足を運び、父の剣を見てもらう。先日ホースデビルの一撃を無理矢理防いでからというもの、柄と剣身がややぐらついた感じがしていた。ここはプックルの隠れ家で見つけたばかりの、未だ煤けていた父の剣を綺麗に手入れしてくれた鍛冶屋でもある。

「立派な剣だからそうそう壊れはしないだろうが、あんた、あんまり無茶な扱いはいかんよ?」

 耳に痛い忠告をありがたく受け取り、研ぎ直しと調整を依頼して宿に戻った。部屋に昼食を持ち込んで妻と一緒に軽く食べた後、細かい用事などは気にせずしっかり休むよう念押しをして船へと出かけた。

「テュールさんは、お元気なのですね……」

 見送り際、ベッドに腰掛けたフローラは落ち込んだうさぎの如くしゅんと項垂れ呟いた。

「いや、えっと、僕は本当に丈夫だから。育ちのせいかな、普通の人より体力あるんだ、多分」

 慌てて言うと、目を伏せたまま遠慮がちに頷いていた。どう解釈してくれているかはわからないが、十年の奴隷生活で鍛えられた体力だけは伊達じゃない、と我ながら思う。

「夕方、元気そうだったら外の店で食事しよう? だから、今日はゆっくり休んでいてね」

 昼食の様子からあまり食欲もないようで心配だったが、目の高さを合わせてできるだけ優しく伝えたら、嬉しそうにほんのり微笑んでくれた。

 係船場では既に、船長達が海図を広げて話し合いをしていた。

 遅れての到着を詫び、その輪に加わる。気後れしそうなお歴々に囲まれ若干緊張しつつ、先ずは宝石採集の成果を報告した。凡そ道具袋二袋分の宝石を前船長に手渡したところ、居合わせた航海士達は各々目を丸くし嘆息していた。

「まさか本当に、これだけの宝石を一週間足らずで集めて来るとはな。仄かに魔力を感じるが、これらの石は魔物から?」

「はい、踊る宝石という魔物が生成したものです。どうでしょうか、まだ足りないようなら市場を当たって来ようかと思っているのですが」

 僕の問いにイヴァン殿は首を振り「あればあるほど良いとは言ったが正直、想定以上だ。これなら十分事足りる」と言ってくださった。

現船長のフォスター殿もまた「テルパドールにも幾らか宝石をお持ちになる予定でしたでしょう? 掃討後、余った分はそのままお持ちいただけるようにしましょう」と言い添えてくださる。ほっとして、お二方に深く頭を下げた。

「大旦那様からも言伝を頂戴しております。こちらは、若旦那様に」

 久々の大仰な呼ばれ方に苦笑いしつつ、書簡を受け取った。

 中には流麗な筆致で、当に激励としか言いようのない力強い言葉が並べられていた。曰く、母なる海の安寧を願い、長く辛酸を嘗めた航海環境の是正を試みる、その心意気に深く共感し、また西の主公として大いに期待している、と。卿の興奮が直に伝わるその書簡を胸を熱くしながら読み進めていたが、最後の一文にぴたりと目が止まった。

「僕に、……総帥権を一任する、と」

 口の中で反芻し、さすがに強い戸惑いに躊躇いつつ顔を上げた。

「……僕はただの旅人で、人を率いた経験などありません。いえ、人と一緒にこういった戦いに臨んだこともほとんどないんです。ましてや今回、共に海に出てくださる皆様はイヴァン殿やフォスター殿の元に集った方々なのですから……」

「それだけ貴方が、大旦那様の信の篤い方だと言うことでしょう」

 ほとんど間を置かず、真っ先に静かな言葉を返してくださったのはフォスター現船長だった。

「ご心配には及びません。もちろん我々も自分らの兵の統率はいたします。若旦那様に率いていただきたいのは船の長である私と、イヴァン殿。そして貴方のお仲間方と、この掃討作戦の全容、です」

 穏やかに微笑む白髭の船長の隣で、イヴァン殿もまた、皺を刻んだいかつい顔を悪戯っぽく歪めて男前に笑う。

「今度の作戦は君と、君のお父上の共闘のようなものだろう? 我々は同調したまでだ。……それに、お嬢様の新婿が指揮をとる、となれば、我々ルドマン様に仕える多くの船乗り達への顔見せとしても申し分ない」

 言いようのない不安に恐れを抱きつつ頷く。つまり今回の戦線は、現状ルドマン家後継の筆頭候補である『フローラの伴侶』の存在を知らしめる絶好の機会である、と。その意図は卿の手紙からも薄々読み取れた。

 ここまでお膳立てしていただいて、身の丈に合わない大舞台に躊躇しているに過ぎないと、頭ではわかっている。

「……今回乗船する中にはパパス殿を知る者も多い。彼らもまた、君の活躍を楽しみにしている」

 ────更に、駄目押しで父の名を出されては、ここで引くようなみっともない真似が出来るか。

 まだ踏ん切りはつかないけれど、元々この話を持ちかけたのは僕だ。ここまでおおごとになるとは予想していなかった、けれど、参戦してくれる船員達一人一人の命を預かる責任を船長二人に押し付けようとは思わない。

「……精一杯、務めさせていただきます。若輩ですし、海のことは全くの素人ですので、皆様、何卒諸々ご教示ください」

 汗ばむ掌を固く握り込み、数多の視線を受け止める。改めて、集まってくださった一人一人に向き直り、深く拝礼した。

「それでは、海洋における戦則についてご説明いたしましょう。若旦那様、こちらへ」

「あの」

 言うなら今しかない。思い切って声を上げたら、居合わせた面々がぱらぱらとこちらを振り返った。再び視線を受けて気恥ずかしくなるのを堪え、懸命に言葉をつなぐ。

「あの、出来れば……やっぱり名前で呼んでいただけると。若旦那様、というのはなんとなく、心臓に悪くて」

 僕の懇願を受けて、フォスター船長は些か面喰らったようだった。初対面の際も伝えたことだが、社交辞令と思われていただろうか。

「……と、坊やが言っとるぞ? フォスター。お前さんは船乗りのくせに堅苦しいのが難だなぁ」

 にやりと笑ったイヴァン殿がすかさず肘で船長の脇腹を小突いた。いや、豪華客船の船長として礼を重んじるその姿勢は絶対に必要だと思うし、尊敬しています。ただ僕が恐縮してしまうというだけで。

「そういう貴方は気安過ぎます。その呼び方は失礼だと申し上げたでしょうに」

 苦虫を噛み潰した顔の船長がイヴァン殿の軽口を咎めたが、老練の船乗りは意に介すことなく笑っている。坊や、という呼び方のことなら確かに幼い気はするものの僕は気にならない。生真面目な船長がちらりとこちらを見たが、微笑んで首を振ってみせるとややため息混じりに頷いた。

「……わかりました。では、テュール殿、こちらへどうぞ」

 瑣末事ながらも押し通してしまったことに罪悪感を覚えたが、僕を促す船長の瞳は先ほどより少しだけ親しげに緩んで見えて、何よりその呼びかけに心からの安堵と感謝が湧き上がる。

「はい。────ありがとうございます!」

 

 

 

 ストレンジャー号をはじめ、ポートセルミ港を拠点とする船の多くは客船もしくは漁船で、戦闘に特化した船というわけではない。ヘンリーの祖国ラインハットにならばそう言った船もありそうだが。

 しかし、そこはさすがルドマン卿の膝元といったところで、小さな船でも沈みにくい工夫を施してあったり、飛び道具だの救命用の魔道具だのを至る所に積んであったりする。

 話し合いの後、埠頭に停船中の船を幾つか見せてもらった。今回参戦する船は大型の船がストレンジャー号を含め三隻、他に出られるだけの小型船舶を集めてざっと十数隻とのことだった。既に何隻かの小舟は近海の警備がてら沖に出ているという。

 今回の作戦、第一の目的はここ数年の難所であるカボチ村西の海域、セルマー海峡をストレンジャー号で無事通過すること。第二がその海域の魔物をできる限り殲滅すること。その後はストレンジャー号が囮となり、魔物らを釣ってなるべく南へと誘導する。残った船隻で海峡以北の魔物を散らし、まずはポートセルミからサラボナ近辺までの海域の安全を確保することが狙いだ。それ以南の海域についてはストレンジャー号、つまり僕らの力に依るところとなる。

「船底を覆うように、この網を取り付ける」

 小さな革袋をいくつも縫い込んだ大きな網を広げて見せながら、イヴァン殿がいつも以上に固い低音で告げた。

「中には砕いた宝石と聖水を仕込んである。船底に穴を開けようと寄ってきた魔物はこいつを破って酔っ払うって寸法だ。宝石は魔物にとって猫のマタタビのようなものらしいが、宝石片を聖水に漬けることで更に濃い酒のような効果を得られるのだと。君のお父上が授けてくださった秘策だ」

 海だから、革袋が破れれば水中に一気に拡散する。陸上では風向きその他の要因であらぬところに影響を及ぼしかねないが、海中だからこそ、一度に多くの魔物が暴れてもこちらへの危険はほとんどない。イヴァン殿曰く、少量でも十分効果があったそうだ。ただ宝石はどうしても高価なので、常時この罠を張り続けることは難しいのだという。

 ストレンジャー号に出会った当時、父は手持ちの宝石を剣の柄で粉々に砕いては聖水の瓶に流し込み、海に撒きながら尚追いすがる魔物を次々斬り伏せ船を動かしたのだ。その顛末も、臨場感さながらに教えてくださった。

 イヴァン殿から語られる父の武勇譚を聞きながら、まるで子供の自分に還ったように、胸がわくわくと躍り昂るのを止められなかった。

 どんな勇者だって敵わない。僕の父さんは、世界で一番の英雄だ。

 出航まであと数日。足りない買い物や雑用をこなしがてら、空いた時間に罠づくりを手伝うことを申し出た。その日は日暮れまで宝石を砕いたり、革を裂く作業を手伝ってからフローラの元へと戻った。

 妻の待つ部屋に帰る、という所帯じみた行為がたまらなく嬉しい。昼食ぶりに見た彼女は肌もだいぶ温かみを取り戻していて、僕はまた安堵の息を吐いた。

「たくさんお休みをいただいて、すっかり元気になりました。ですからまた……明日は、一緒に連れて行ってくださいね」

 にこりと控えめに笑い、彼女なりに精一杯ねだってくれる。そんな姿にまた愛くるしい気持ちを抑えられず、傍に腰を下ろして柔らかな身体をそっと抱き寄せた。

「じゃあ、明日こそ市へ買い物に行こう。なんならジャム作りも手伝うよ」

 額をこつりと合わせてそう言ったら、嬉しさが溢れるような、満面の笑顔で頷いてくれた。

 その夜は約束通り二人連れだって外に出て、船員に教えてもらった穴場の料理屋で食事をした。港町ならではの、新鮮な海の幸のスープがとても美味しかった。

「なんだか、元気になれるお味ですね」

 相変わらず美しい所作で銀の匙を口に運ぶ彼女が、鈴の声で囁いて微笑む。

 珍しい料理を楽しみながら、今日の打ち合わせの報告をした。義父からの指名について話すのは何となく気が引けてしまったが、フローラは「あなたになら、きっと皆様ついてきてくださいます。私も精一杯お手伝い致しますから」と優しく、そして心強く肯定してくれた。

 食事の後は夜のポートセルミを二人でのんびり散策して宿に戻り、また少しだけ身体を動かしてから就寝した。

 出航まで、あと五日。

 

 

 

 翌朝は朝から市場巡りをした。

 やはり地方によって売られているものが違うので、ポートセルミとオラクルベリーをもう一度はしごしていろんな果物を見て回った。

 柑橘類に色とりどりのベリー、桃。光沢の素晴らしい林檎に、珍しい水分の多い果物なども見かけた。「こんなにたくさん買っていただいて、良いのですか?」と彼女は何度も僕を振り返り、その都度笑って頷いてみせた。

 雑貨屋でジャムを入れる小瓶を見繕っていた時、小ぶりな深い蒼色の石にしゃらりと金のフリンジが飾られた、シンプルな耳飾りが目に留まった。

 つい先日、躍る宝石に飲み込ませたものと少し形が似ているが、あちらは全て金で出来ていて細工もずっと細かかった。こちらはそれより質素な装飾だけれど、わずかに紫がかった瑠璃色の宝玉が放つ清楚な輝きはフローラによく似合いそうな気がした。

 ちらりと彼女を盗み見るとまだ小瓶選びに夢中なようだったので、こっそりと店主を手招きして急いで会計してもらった。

 我ながら一端の夫のようだな、なんてどきどきしつつ。

 フローラは今回、あまり装飾のない簡素な小瓶を選んだ。硝子が厚い方が密閉するのに良さそうだから、という理由で選んだ小瓶を大量に馬車へと運び込む。割れないよう細心の注意を払って転移先を選び、ルーラを詠唱して船の近くまで一気に戻った。

 それからまた船に材料を運び込ませてもらい、フローラはこの後ずっとジャム作りをするとのことだったので、僕はキッチン外の甲板で罠の材料をちまちま準備しつつ、たまにフローラの手伝いをすることにした。聞けば、仕上げにジャムを詰めた小瓶を煮沸することで保存性を最大限高めるのだそうで、火傷されてはたまらない、とそこは僕が申し出て担当することにした。修道院仕込みの手際を疑う訳ではないが、過保護上等の夫としては妻の白肌に痕でも残ったらと思うとどうしても心配なのだ。

 簡単な軽食でお昼にしたあと、それぞれの作業に取り掛かった。小さく切った革を見本の通り小袋に仕上げていく。ここに宝石片ごと聖水を流し込み、溢れないように絞り上げる。奴隷だった頃は力仕事専門で、こういった細かい仕事はあまりしたことがない。綺麗に仕上がっている見本と睨めっこしつつ、四苦八苦しながら革袋を仕立てていった。中身が簡単に漏れないよう隙間なく縫い合わせる。革は厚いので、これは確かに非力な方には辛い作業だろうな、と思う。

 尤も、この浅はかな先入観は翌日、呆気なく破られてしまうのだが。

 集中して縫っていたら、程なく甘い香りが立ち込め始めた。

 扉の向こうでフローラも頑張ってくれている。そう思うと、慣れない作業もまだまだやれると思えてくる。

 そこからまた一、二時間、黙々と縫い作業をしていたら、後ろで髪を結いたエプロン姿のフローラがひょこっと顔を出した。「お疲れ様です。出来立てのジャムで少し休憩はいかがですか?」と、中に紅茶まで用意して手招きしてくれる。仕込んだばかりのそれは桃のジャムで、ついでに焼いたというふわふわのスポンジにジャムを挟んでちょっとしたケーキのようにしてくれていた。スポンジとジャムの相性も絶妙で、木苺とはまた違う爽やかな甘さに舌鼓を打った。

 せっかく作ってくれたおやつなので、差し入れと報告がてら、イヴァン殿が作業場として解放している灯台の一階を訪った。手隙の船乗り達が僕と同じく、それぞれの作業に勤しんでいる。「妻が甘いものを作ってくれましたので、良かったら」と皿を差し出すと灯台に居合わせた男達は祭りの如く沸き立った。

「さすがお嬢様、人心を掌握する術を心得ておいでだ」

 あっという間に空になった皿を苦笑しつつ眺めやり、イヴァン殿は冗談めかして呟く。僕の作った拙い革袋も検分し「うん。ま、綺麗ではないがしっかり縫製できている。この調子で頼めるかね? 坊や」と労ってくださった。頷き、またフローラが調理する船の甲板へ戻って作業を再開した。ちまちま縫う作業に没頭していたら、あっという間に陽が傾いてきた。

 ちょうどその頃、小瓶にジャムを詰め終わったというので最後の仕上げ、煮沸をまとめて行った。ぐつぐつ煮え立つ鍋に小瓶を沈め、しばらくしてから取り出す。高温のそれを金属の棒で挟んで取り出し、ミトンで拾い上げてテーブルに並べていく。うっかり取り落とさないよう細心の注意を払わねばならない。料理とは時としてこのような危険まで冒さなくてはならないものなのか、と密かに戦慄する。

 後片付けまで全て終わる頃には、すっかり陽が沈んでいた。

 今日の成果をイヴァン殿に渡し、鍛冶屋に寄って研ぎ終わった剣を受け取ってから宿に戻った。二人ともそこそこ疲れていたので今日は酒場で簡単に夕食を済ませ、湯を使った。あとは寝るだけというところで、昼間こっそり買った耳飾りの小さな包みを手渡した。

 え、と目を瞬かせた彼女に、照れ臭いのを我慢しつつ開けるよう促す。おずおずと包みを開けた彼女は、中から現れた耳飾りを見つめて息を呑んだ。

「小さいけれど、瑠璃石を使ってるんだ。幸運の石なんだって」

  両手にそっと耳飾りを載せて見入っているフローラに、じわじわと侵食する緊張を堪えながら、声をかけた。

「ちょっと濃いめの蒼だけど、フローラに似合いそうだなって……こないだ溶かしちゃったやつより、ずっと質素なんだけど」

 気に入ってもらえただろうか。ベッドに腰掛けたまま耳飾りを見つめている彼女の表情は僕からは見えず、敢えて覗き込む勇気も持てなくて。それでも中々返事は返ってこず、緊張が振り切れそうになった頃、

「……指輪だけ、あれば、十分だって……申しましたのに」

 きゅっと、胸許に耳飾りを握り込んで。

 微かに湿った声音で、ぽつりと彼女が呟いた。

「手放せないものが増えてしまいました。……大切に、します」

 そうして顔を上げた彼女は、言い表せないほど澄み切った、綺麗な笑顔を僕に向けてくれた。

 胸がいっぱいになる僕の目の前で、耳飾りをつけて見せてくれる。微かに潤んだ瞳でにこり、と微笑んだ、そのあどけない表情は、そう。求婚した日に僕の心臓を射抜いていった、一片の曇りもないあの笑顔と同じもので。

 ────ああ。

 僕はやっぱりその笑顔が、好きで好きで仕方ないんだ。

 嬉しくて、こみ上げる愛しさが抑えきれなくて、逸る衝動のまま彼女の傍に手をついた。耳飾りごと頰を掬い取って、ほんのりと紅色に染まった目許に口づける。次いでやわらかな唇と、恥ずかしそうに睫毛を伏せた瞼もなぞって。

「フローラ。……好きだよ……」

 覆いかぶさるように体重をかけると、華奢な身体がすんなりとベッドに沈んだ。

 浅黒い肌の下に閉じ込めた君は、その碧髪も相まって深海の真珠のようにまっさらで美しい。僕と視線を絡めるたび、白い肌がほんのり色づいていく様はたまらなく愛らしくて。

「良かった。すごく、似合ってる」

 形の良い耳朶に揺れる瑠璃と金の耳飾りをくすぐれば、その耳の先までさぁっと鮮やかに赤らむ。

 熱を持った耳をそっと、甘やかに食んで。

「もっと、触れても……いい?」

 耳の中に囁きを落とせば、君がこくり、と恥じらいながらも小さく頷いてくれる。

「……テュールさん。……大好き、です……」

 透明な、鈴の声が僕を君の奥へと誘う。

 滑らかな肌に掌を這わせて、指を絡めて。

 眠りにつくまでの僅かな時間、僕は思うままにフローラと肌を重ね、お互いを貪りあった。

 薄衣を脱ぎ捨てた肌はしっとりと汗ばんで、触れたところから二人分の鼓動がとくとくと重なって響きあう。

 深く、深く交わって。抱きあって求めあって、何度も何度もお互いを満たしあって。

 愛しい花の香りに浸った秘め事の最後、僕はフローラの温もりを腕の中に確かめながら、緩やかに瞼を閉じた。

 

 

 

 翌朝は恐ろしいほどすっきりと目が覚めた。

 こう言ってはなんだが、何をそんなに溜め込んでいたのだろうかと。思えばサラボナを発ってからずっと彼女とこうして睦み合うことを我慢していたんだった。と言っても二週間程度の空白でしかないけれど、夫婦なんだからもう少しくらい、開き直ってもいいものだろうか。

 フローラは昨夜の耳飾りもそのままに僕の胸許に額を寄せて、健やかな寝息をたてていた。耳飾りがしゃらりと揺れる耳だけは色めいて艶かしいのに、無防備な寝顔は不似合いなほどに無垢そのもので。つい緩んでしまう頰をそっと額に擦り寄せた。当然、彼女もすぐに目を覚ます。昨夜抱き合った姿のままであることに互いに気づき、こみ上げる羞恥を紛らわしてくすくす笑いあった後、順番に朝湯を使い身体を流した。

 朝食の後は、以前頼んだオーダー品の靴などを確認しに仕立て屋へ行った。出来たものを試着させてもらい、ほんの少しの微調整をお願いしてから昨日の続きの仕事をもらう為に灯台へ行った。

 いよいよ作業も追い込みで、仕上げのために船員のご家族も駆り出されているようだった。

「ほらほら、あんたらがとっとと手を動かさないとあたし達の仕事がなくなるんだよ! 早くおやり!」

 数人で大網を取り囲み、威勢良く船員達をけしかける奥方達は神と見紛う手捌きで網に革袋を取り付けていく。え、あれ僕が昨日使っていたのと同じ針と糸だよな? 絞った革袋は益々硬くて針が通らないはずなのに、なんなんだあのスピードは。

「手練れ、どころの話ではありませんわね。さすがですわ……」

 僕の隣で呆然と奥方達の神業を見つめていたフローラもまた、ほう、と吐息に感嘆を滲ませて呟いた。

「まあ! もしや、ルドマンのお嬢様では⁉︎」

 灯台の入り口に佇んだまま彼女達の手腕に見とれていたら、場を取り仕切っていた年配の身なりの良い女性がふと、こちらに視線を留めた。

「こんなむさ苦しいところへよくお越しに! ……あら? ではそちらがもしかして、噂のお婿様で?」

 噂のって何だろう。大凡見当はつくものの、混ぜ返したい気持ちを堪えて愛想笑いで会釈をした。同じく僕らに気がついたイヴァン殿も「おいおい、若人を威嚇してくれるなよ?」と揶揄い混じりに夫人をいなしつつ立ち上がり出迎えてくれた。

「すみませんな、家内です。お嬢様にまでわざわざお運びいただき申し訳ない。坊やは今日も手伝ってくれるのかい?」

「はい。こちらの準備は、あとは持ち物の確認くらいですから。僕ではあまり役に立ちそうにないのですけど」

 不躾だと鼻白んだ奥方の視線をさらりと受け流し、イヴァン殿がまた革布と裁縫道具を手渡してくれる。

 昨日と同じく、ストレンジャー号の甲板を借りて縫製に明け暮れた。フローラのジャム作りも順調なようで、これまでに半分以上の果物を消化できたらしい。早ければ明日中には全部ジャムにできそうです、と、合間に作ってくれたサンドイッチを昼食に振る舞いながら話してくれた。

「結局一人で任せちゃってごめんね。ずっとやってて疲れない?」

 船のキッチンに籠りっぱなしのフローラを労うと、彼女はやはり微笑んで緩やかに首を振ってみせる。

「修道院で作っていた時も、一度にたくさん仕込んでいましたから。それに、スラりんちゃん達やあなたの喜ぶ顔を思い出したら、疲れなんて吹き飛んでしまいます」

 予想はしていたが、相変わらずの殊勝な回答についため息が漏れてしまった。ずっとやっていて集中力が途切れがちなのは寧ろ、僕の方だったからだ。

「……負けてられないなぁ。僕ももっと頑張らないと」

 呟いて、扉の外へ視線を投げる。午前中縫えたのは精々六、七袋。昨日とさほどペースが変わらない。あの神業とまではいかなくとも、もう少し早く縫えたらいいのだけど。

「ほ、ほら! 早くしないと船出に間に合わなくなっちゃうからね! その調子でどんどん、おやりっ!」

 唐突に響いた愛らしい声に、全くそぐわない威勢の良い台詞回し。ぎょっとしてフローラを凝視すると、当の本人は勢いで握ったらしい拳もそのままに、ぱちくりと目を瞬かせたあと、困ったように首を傾げた。

「……こんな感じでした? 難しいですね、叱咤激励って……」

 ────今の、励ましのつもりだったのか⁉︎

 腹を抱えて笑い出したい衝動をそれこそ死ぬ気で抑えつつ、「も、もしかして、さっきのイヴァン殿の奥方の真似?」と訊いてみたらやや憮然として頷かれた。面白い。面白すぎる。とんでもなく上品で落ち着いたお嬢様なのに、大真面目にこういうお茶目な一面を見せてくる。しかもどうやら自覚がない。幾らなんでも隙がなさすぎだろう。

「笑っていただけたなら、良いですけれど」

 どうにも堪えきれずテーブルに突っ伏して肩を震わせていたら、つん、とそっぽを向いて唇を尖らせる。そんな横顔も可愛くて仕方がない。

 ああ、もう、このひとは本当に。

「本当に、……どれだけ僕を骨抜きにすれば気が済むのさ?」

 くすくす笑いながら君を見上げて囁いたら、またもやかぁっと鮮やかに顔を赤らめた。そんな反応もまた、可愛い。本当に、冗談抜きで僕は君に惚れ直してばかりなんだから。

 フローラの激励のお陰で憂鬱な気分は一気に晴れて、その後も思い出すたび笑わせてもらった。うん、確かに疲れが吹き飛ぶ。大変楽しい気分のまま、とりあえず午前より少しペースを上げてこの日は計二十三枚の革袋を縫うことができた。気の持ちようって素晴らしい。

 この作業報告を以て僕はお役御免となった。あとはこちらで仕上げるから、とのお言葉に頷いて、次の日は一日フローラの調理手伝いと荷物の確認に費やした。

 既にほとんどの荷はストレンジャー号に運び込んであり、特別船室はいつでも使えるようになっている。卿らご家族がご遊航の際使われる特別船室を今回、夫婦で使うようフォスター船長から伝えられた時の緊張ときたら。フローラには当然のことでも、これまでにしがない三等船室しか使ったことがない身には恐れ多いことこの上ない。

 オーダー品の靴や衣類も全て無事に受け取り、これでほぼ僕達の出航準備は整った。



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#7. 内なる混沌

 いよいよ出航前日という日の昼時前、フローラと連れ立ってラインハット城を訪れた。

 婚礼の翌日に寝過ごしてしまい、ヘンリー夫妻を見送りそびれたことをずっと悔やんでいた。遠方へ旅立つ前に挨拶に行こうと思ったものの、海路で戻ったヘンリー一行がいつ頃ラインハットに到着するのか、今ひとつ見当がつかなかった。

 二週間経てばそろそろ着いている頃かと思い、約束もなしに勢いで訪問してみたところ、毎度のことながらラインハットの衛兵達には大いに歓待され、すぐさま城内に通していただいた。

 ヘンリー夫妻は数日前に帰国したばかりらしく忙しくしていて、今日もちょうど領内の視察に出るところだった。突然訪門した非礼を詫びたが、「まあ、そんな便利な魔法が使えちゃ仕方ない。神出鬼没にもなるよな」と苦笑して返された。

 王兄殿下の私的な謁見ということで通された広間ではデール国王陛下のご同席も叶い、新妻を紹介し、また急であっただろう義父の招待を快くお受けくださったことへの謝辞もお伝えすることが出来た。

 ヘンリーの異母弟であるデール国王陛下は兄に似ず、温和で純朴な雰囲気のお方だ。ヘンリーが行方知れずとなってわずか一年後に父王を病で失い、まだ幼かったデール様は母である太后を後見役として王の座に就いた。その母君がいつからか、魔物に成り代わっていたわけだが。

 僕とさほど変わらぬ若さで国主として立つ覚悟はいかほどの重圧か。しかも魔物の策謀の下、搾取され荒廃させられたあとの領土を彼は厭うことなく受け入れ、領民の為に力を尽くしている。

「伝説の盾が見つかれば、との一念でサラボナ行きをお勧めしたのですが、それ以上の素晴らしい出会いを得られたのですね。本当に良かった……!」

 本来ならば雲の上のお方だというのに、旧くからの友の如く飾らない祝辞をくださる。フローラと二人、微笑みあってから礼をとった。そんな僕達を、国王陛下と王兄夫妻は温かな眼差しで見守ってくれていた。

「ひとつ、これはあくまで個人的なご相談なのですが。実は今度、西の内海の魔物退治を考えておりまして────」

 そう、出航前にこの話を通しておきたかったのもあって、無理を押して訪問させてもらったのだ。ビスタ港を起点とする北東の内海は主にラインハット王国の領海になる。西側で魔物を狩るというだけでこちらに何がしかの影響があるかはわからないが、西の大陸とは国同士で連携するような関係でもないだろうから、せめて情報だけでも入れておきたかった。

 だからこそ、次にヘンリーの口から出た言葉には息が止まるほど驚いた。

「ああ、その件なら先日手紙を頂戴したよ。ルドマン公から」

「────は⁉︎」

 思わず素っ頓狂な声が出た。僅かに息を呑んだ隣の気配はフローラだ。いちいち情報が早すぎやしないか、否、ルドマン卿の根回しが早すぎるんだ。このタイミングでヘンリーが連絡を受けているということは、ラインハットに無言の共闘を要請しているも同然じゃないか。

「は? じゃねーよ。お前が指揮って西海の魔物を蹴散らしてくるって話だろ? 面白そうなことやってんじゃん。いや寧ろ、珍しいか。そういうの自分から首突っ込んでくタイプじゃないもんな、お前」

 ずけずけとひとの性格分析までしてくれる。間違ってはいないけど、よりによってフローラの前で人を物臭坊主みたいに言うのはやめていただきたい。

「いや、まあ確かに、テルパドールへ向かうついでではあるんだけど。……魔物に手を焼いてどこも船を出せずにいる中、協力して下さるんだ。僕達にできることがあるなら、喜んで力になりたい」

 卿の船ならいざ知らず、戦力を持たない小舟の多くは日々の漁すらままならない。今以上に船を出せなくなれば恐らく内海にはますます魔物が跋扈するようになり、制海権を人の手に取り返すことはほとんど不可能になるだろう。

「それに、海路が分断されるような状況が良いはずないだろ? 少しずつでも船が行き来できるようにしたいんだ。船を待っている人も、出したい人もたくさんいるってわかったから」

 指を組み、言葉を選びながら答えたら、ヘンリーがどこか眩しそうに目を細めて僕を見た。

「やっぱり、変わったよな。お前」

「──そう……かな」

 そう、かもしれない。十年ぶりに自由を手に入れて、それでも頭を占めていたのは父と、母のことばかり。やっと父の遺志を果たせる、その思いばかりが逸って、正直ラインハットのいざこざに関わるのも少し煩わしく感じていた。どうやら太后が何者かに成り代わられているらしいとわかった時も、ヘンリー一人に行かせられない、という綺麗事以上に、父を死に至らしめた事件の真相を少しでも知りたいという下心が大きかったからこそ協力したようなもので。そういう事情がなかったら……マリアさんのような、純粋な善意だけでは手伝わなかったかもしれない。戻るべき祖国がある彼を疎んじて、無謀だと突き放したかもしれない。決別して、先を急いでいたかもしれない。

 薄情だな、と今更ながら、思う。

「ま、元々押しに弱いんだ、こいつは。お袋の偽物討伐だって俺が押し切って付き合わせたようなもんだったし。だから今回の西海の話、乗せられて仕方なく、ってんじゃないならお前にしちゃ随分立派だと思ったんだよ。そんだけ」

 褒めているのか貶しているのか、揶揄い口調のヘンリーを軽く睨み、僕は敢えて国王陛下に相対し姿勢を改めた。

「……恐らくポートセルミとサラボナの狭間、セルマー海峡が主戦場になるかと予想しています。こちらへの影響については何とも言えませんが、僕達はその後南下しますので追い立てられた魔物が北へ流れる可能性があります。念のため、海洋と沿岸の警備の強化をお願いできればと」

 ビスタ港とポートセルミ港の間にはカジノ船があるので、多少流れてもそこで食い止めてもらえる期待はある。が、万が一ということもあるから。

 話を一通り聞き終えたデール国王殿下は、思った以上に硬い表情のまま暫く黙り込み、やがて逡巡しつつも頷いた。

「分かりました。と言いましても、我々はビスタ港を守るので精一杯かとは思うのですが……」

 どこか腰の引けた物言いに引っかかりを覚える。何某かの事情があるにせよ、僕が持ちかけたのはあくまで受動的な警備の話だ。

「実は先日、オラクルベリーに行く機会がありまして。町の方にビスタ港の連絡船について聞かれました。できれば、この機に連絡船の復興を視野に入れて動いていただけたら、と思ったのですが……」

 顔色をちらりと伺いながらもう一歩、踏み込んでみたが。若き国王は見るからに暗澹たる表情になり、眉尻を落としたまま力なく首を振った。

「──申し訳ありません。そもそも、船がないのです。偽の母が次々に廃棄させてしまい、ビスタ港に入れられる客船がありません。それでもここ数年はたまに連絡船を出せていたのですが、半年ほど前でしたか、最後の客船が魔物の襲撃にあって沈んでしまいました。新たに船を造ろうにも職人がおらず、恐らく処刑してしまったか、国外に逃れたものかと。……他国から購入しようにもお恥ずかしながら、今の我が国にはその余力もありません」

 僕も、フローラも愕然として言葉を失った。

 東の大国と謳われたラインハットが、それほどまでに衰弊していたなどと誰が想像出来ただろう。

 魔族の謀略を退けた。城下にも笑顔が戻り始めた。誰もが王兄殿下の帰還を喜び、圧政の終りを祝っていた。ラインハットは在りし日の平和を取り戻したのだと、信じて疑わなかった。

「今や、大国の意地で建っているだけなのです、この国は。たった十年の内に兵士も、領民も随分と減らしてしまいました。──幼かったとは言え、母を止められなかった僕の咎です。僕がもっとしっかりした子供だったら、頼りないなんて思わせなければ、きっと母にあれほどの愚行を冒させることはなかった……」

「お前に何の責がある。それを言うなら俺が、あの頃捻くれずにもっとちゃんと親父と向き合っていればこんな事態は避けられたかもしれん。そもそもお袋に道を誤らせたのも、俺が世継として心許なかったことが第一の原因だろうが」

 険しい声音でぴしゃりと遮った実兄の言葉にも苦く笑って項垂れる。そうだろうか、と僕も思ったが口にはしなかった。

 幼いヘンリーが例えどんなに人望厚い第一王子だったとしても、あの頃の継母君はやはり彼を陥れようとしたのではないだろうか、と思ってしまったのだ。それは決して彼の、この兄弟の罪ではないのに。

 それでも彼らは、そこまで負ってゆかなくてはならないのか。

 たった今まで華々しく見えていた、為政者の水面下を垣間見たような心地がした。

「ま、幸い王族用のと兵船は数隻残してあるからさ。そうだ、久々に兵船出せばいいじゃん。こういう時のための備えだろ?」

「兄さん、あまり簡単に言っちゃ……」デール国王が困惑した様子で兄の思いつきを諌めたが、すぐに僕を振り返ると安心させるような穏やかな笑みを向けてくださった。「いえ、でも。やれるだけのことはやらせていただきます。ルドマン公に頼りきりでは情けないですから」

「ありがとうございます。……無理をお聞き届けいただき、本当に申し訳ないです」

 僕の言葉とともに、隣ですっかり消沈した様子のフローラが深く頭を垂れた。

 この様子では、実はサラボナに向かう際も相当のご苦労があったことだろう。国の威信を懸け送り出してくださったに違いない。……そう思うと、義父は実はラインハットを試しているのではないか、などという空恐ろしい考えまで過ってしまう。肚の中で何を考えているか僕には測れぬ方だから、ただの愚かな憶測に過ぎないことを祈るしかないけれど。

「いいんだよ。オラクルベリーの町民の要望なんて、本来は俺が聞いて来なきゃならんところだ。伝えてくれてありがとうな」

 すっかり王族の顔つきになったヘンリーが大人びた微笑みを向けたが、次いでその口許を引き締め声を一段下げた。

「……しかし、用心しろよ。テュール」

 彼の一言が場の空気を一瞬で塗り替える。自然伸びた背筋に嫌な汗を感じながら、僕は彼の視線を正面から受け止めた。

「お前ももう、判ってるだろうけど。……あの内海の中央にある山、俺達が『大神殿』を作らされてたとこ、だろ」

 ひどく真剣な声音でヘンリーが断定した内容に、僕もマリアさんも僅かに眉根を寄せた。僕のすぐ隣にいるフローラと、黙って話を聞いていらしたデール国王陛下も身動ぎしたのが伝わった。

この場に居合わせた面々は、程度の差はあれども、光の教団がどういう集団なのか薄々理解している人達だ。

「……ヘンリーもやっぱり、気づいてたんだ」

「そりゃあな。──何もかも教団の所為とするのは尚早だろうが、場所的にも、魔物の勢力図的にも怪しいじゃないか。もう何隻も沈まされてるんだろう? うちも実は、先の航海中に何度か魔物に捕まって手こずった。例の海峡もそうだし、ポートセルミ沖でも何度かやらかしたな。無事切り抜けられたから良かったけど」

 ヘンリーの回顧談にぞっと肝が冷えた。淡々と語っているが、マリアさんが同乗した船への度重なる魔物の襲撃。生きた心地がしなかったのではないか。本当に、無事に戻れて良かったとしか言えない。

「光の教団は魔族と繋がりがある。証拠は出せなくとも俺達は知っている。俺達を拉致し教団に連れ込んだのが他ならぬ魔族だったんだからな」

 苦々しげな彼の呟きに唇を噛み、一度だけ黙って首肯する。

 海で、陸で。人間の世界にじわじわと影響を及ぼしつつある、新たな神を崇める教団。魔族が崇めるなら、それは魔神と呼ぶべきものではないのか?

 それこそ夢物語か、御伽噺でしかなかった話。遥か昔の勇者の伝承譚は魔族の神か、魔王の復活から語られてはいなかったか。

 ──ならば余計に、早く現れてくれればいいのに。

 まだ見ぬ勇者に身勝手な苛立ちを覚える。生まれる前からレヌール城は魔物によって滅ぼされていたし、恐らくは神殿建設だって始まっていた。そんな僕が今度、十九歳になるのだ。凡そ二十年以上も前から闇の手による侵食は始まり、未だ誰にも止められずにいる。

 一体いつから、魔族はこの世界に手を伸ばしてきたのだろう。

 そして、世界を救うという勇者は、いつまで魔族の侵攻を許せば現れるというのか。

「目を光らせてはいるが、この大陸にも恐らく教団の手の者が居る。すぐに手を下すには正直俺も報復が怖いんでな、悪い。ただ、そいつらの足取りは把握しておく。俺達の領内で教団の好きにはさせるかよ」

 相変わらず頼もしい幼馴染の言動に、やっと少しだけ、ぎこちなく笑うことができた。

「お前のお袋さんの件も、案外教団に繋がってたりしてな」

「……嫌だな。教祖とか言われたら、さすがに落ち込む」

 そういう意味じゃねぇよ、とヘンリーは笑ったが、僕は申し訳程度の微笑みを頰に貼り付けて首を振った。

 魔界に囚われているという母親。今も生き永らえているなら、逆に何のために生かされているというのか。それほどの存在価値を僕の母が持つという、母という以外何も知らない人だけれど、だからこそそれがどうしても理解しきれなくて。

「ま、気をつけて行けよ。藪つついて蛇、くらいで済めばいいけどな」

「脅かすなよ……万が一やばいのが出たら、さすがに今回は退くよ。それくらいの分別はある」

 薄く苦笑いを返したら、翠の瞳に一際強い力を込めたヘンリーが僕を見据えた。

「親父さんの仇が現れても、か」

 不意打ちで囁かれた、鋭利に研がれた一言に。

 身体中の血がざわりと逆立つ。

 ……考えなかったわけでは、ない。

 人にはあり得ぬ蒼い顔。禍々しい、死神のような立ち姿を忘れた日はない。しかし十年、あの忌まわしい場所に居て一度も奴らにまみえることはなかった。ヘンリーの言う通り、教団に囚われて魔族を見たのは幼い頃のその一度きり。確証というには弱すぎる。それでも、僕らをあの場所に連れてきたのは紛れもなく奴らであって。奴らは奴らの『神』を盲信していて、そのために教団を、神殿を作り上げようとしていて、だからこそ父の仇は間違いなくあの教団に繋がっていて。

 今この時、僕はどんな顔をしていただろう。

「──……今は、退く」

 自分ものとは思えない、

 低い、呪詛めいた声が喉から溢れた。

「僕の私情で、皆を危険には晒せない」

 黙って隣に寄り添ってくれる妻の気配が、今は痛いほど精神に刺さる。

 本当は、

 あの魔族らを目にした時にどうなるか、自分でも解らない。

 恐れに身がすくむだろうか。

 怒りに精神を喰われてしまうだろうか。

 刺し違えても滅したい、と願ってしまうか、

 死の淵を見てそれでも生に縋りつくのか。

 ──────駄目だ。

 僕が思い出さなくてはならないのは、あの炎にもう誰も焼かせはしない、その誓いだけだ。

 緩く、瞼を閉じて息を吐いた。若干の冷静さを取り戻した頭がやっとまともに回り始める。それと同時に、いつの間にやら爪が食い込むほど握り込んでいた拳に温かなものが触れていたことに気がついた。僕の思考を邪魔しないよう、ただ添えられただけの優しい手。

 この手のためにも、生きて、守ると決めたのだから。

「……大丈夫。今回は、仇を討つための戦いじゃないから」

 今度は、ちゃんと落ち着いて言えた。

 それを聞いたヘンリーもまた、ほっとした表情で息を吐いた。

「その顔だと、今の話は全部理解できているようだな? フローラさん」

 不意に話を振られて、僕の傍らに控えていたフローラが真剣な面持ちのままこくりと頷く。何を示唆したものか僕には分からなかったが、ヘンリーは満足げに頷くと「良かった。そういうわけだから、テュールをよく見ていてやってくれよな」と続けた。

 どう言う意味かと顔をしかめてみせたら、「いくらお前でも、フローラさんの前でそうそう無茶はやらかさないだろ」とやや呆れた声で諭される。似たようなことをピエールにも散々言われている気がするが、そこまで言われるような問題行動をやらかしたことがあっただろうか。釈然としないまま更にヘンリーを見つめ返せば、ため息混じりに「これだから、自覚のない奴は嫌なんだ」と呟かれた。……かと思いきや、

「普通の神経の奴はなぁ。地上から遥かに高い、床のない吹き抜けを! 何もない空中を! 歩いて渡ってみようなんざ考えねーんだよ‼︎」

 突然どえらい剣幕で神の塔の一件を捲し立て始める。心臓ガメゴン製のてめーと一緒にすんじゃねぇ‼︎ と重ねて食ってかかるヘンリーに怪訝な顔を向けた僕の隣で、フローラが想像したのか身体を強張らせたのが伝わってきた。

「修道院の南にある塔なのですが、最上階に擬態の魔法を解く宝具が置かれていたのです。が、宝具への道が不思議なことに目に見えない、道なき道になっておりまして……」とマリアさんが丁寧に説明してくれたが、ああ、それは逆効果です。高所恐怖症のフローラはすっかり顔面蒼白で「わ、渡られたのですか……そこを」と縮こまりながら呟く。彼女を安心させたい一心で、小刻みに震える掌をそっと握って体重だけ引き寄せた。

「あれはあの道で正解だっただろ。他に渡る方法あった? 大体いきなり渡ってない、念のため剣でつついて確かめたし」

「それだよそれ! 確認してるから大丈夫ーとかのほほんと言いやがって。吹き抜けのど真ん中で俺、片足落ちたよ⁉︎ いやマジで死んだと思った」

「よく言う。ずっと僕の腕掴んでたし、ちょっと踏み外しただけじゃん。すぐに引き起こして何ともなかったよね?」

「そういうことじゃねぇよ莫迦野郎が! あれここ床ないねごめんとかほざいたの、一生忘れねーぞ。お前、もしマリアが落ちてたらどうしてくれんだよ。次はフローラさんかもしれないんだからな⁉︎」

 それを言われるとちょっと痛い。僕自身は高いところは全く平気で、触ってそこに見えない床があるのはわかったから大丈夫な自信もあった。しかし確かに二人は完全に腰が引けていたし、強引だった感は否めない。その頃既に仲魔だったスラりんとピエールは、一見何もない空中をよたよた歩く僕らを向こう岸でぽかんとしながら眺めていたのだった。ほら、また清らかなる乙女やラインハットの王族じゃないと宝具を手に取れないなんて言われるのは癪だし、一人で行ってうっかり足を滑らせてはそれこそ目も当てられないし。だから、二人には申し訳ないけど支え合いつつ無理矢理ついてきてもらった、というのが正直なところだった。

 あの塔はとにかくずっと何かに試されている感じがして、それが居心地悪くて正直早く抜け出したかった。父と、恐らくは母の幻影を見せられたのも、惑わされているようで決していい気持ちはしなかった。

 せめてこの二人……ヘンリーとマリアさんの前でなかったなら、もう少し素直に感傷に浸ることもできたかもしれない、けど。

「わかった、もっと気をつけるよ……」

 半ばうんざりしつつ答えたら、やっと溜飲を下げたらしく勝ち誇ったように睨みつけられた。

「ほんっと、こいつのこういうところがむかつくんだよ。空飛ぶ魔物を仲魔にするとかあっただろうが、頭使えよ頭! こないだ馬車でホイミスライム見た時正直殺意わいたぞ俺は。フローラさん、苦労するだろうが頑張ってくれよ? テュールの『大丈夫』をくれぐれも信用しすぎるんじゃないぞ!」

 すっかり怯えて頷くばかりの新妻に何を余計なことを言ってくれているのか。「だから本当に大丈夫な時しか言わないって!」と殆ど悲鳴の如く叫び、無理矢理に会話を終わらせた。用件は伝えたし、これ以上長く時間を割かせては申し訳ない。こちらもまだ用事が残っているのでこれにて辞去する旨を告げた。

 人払いして頂いていたので、衛兵は扉のあちら側を守っている。国王と王兄夫妻に深々と拝礼し、広間を出ようと扉に手をかけた、その時。

「……本当は、真っ先に復興しなくてはならない土地があると、我々も解っているんです」

 あまりに重い悔恨を含んだ、デール国王の呟きが聞こえた。

 振り返るとデール国王が立ち上がり、まっすぐに僕に向かって頭を下げていた。

「申し訳、ありません……」

 慌てて彼の前に跪いて見上げ、姿勢を正すよう乞うた。僕にとっては全て過ぎたこと。彼に頭を下げてもらう道理などどこにもない。

「お顔を、お上げください。僕は太后様から直々にお詫びの言葉をいただきました。僕も、もう良い、と言った。それでこの話は終わった、そうでしょう?」

 そうでなければ、幾ら親友がいるとはいえこの城をこんなに頻繁に訪れたりするものか。懸命に訴えたが、デール様は尚も苦しげに顔を歪め、低く苦い呟きを漏らした。

「テュールさんの赦しをどれほど得たとしても、サンタローズの方々はラインハットを赦しはしないでしょう。──今も、兵士の立ち入りは拒絶されます。当然のことです……」

 それを、問われれば僕にはもう何も言えない。サンタローズは確かに僕の故郷だけれど、焼き討ちにあったのも僕じゃなければ、荒れ果てた村に戻って少しずつ再興に向かおうとしているのも僕じゃないから。

「……それでも、少しずつ何とかしていきたいと思ってるんだ」

 項垂れきったデール様を支えるように隣に立ったヘンリーが、彼に似つかわしくないほど真剣な表情で言葉を繋いだ。

「まずは毒草地になっちまった村の土を入れ替えて、草と木を植えて。土地が健全になったら畑を整えて家を建て直して、人を呼んで、さ……すぐには無理でも、お前達が旅を終えたらあの村に帰れるようにしてやりたい。その為に俺達にできることは、何だってやらせてほしい」

 どこまでも真摯な。二人の想いが痛いほど、突き刺さる。

 ラインハットに戻る数ヶ月前、サンタローズに滞在した暫くの間。村焼きから命からがら逃げ果せて、今も荒廃したままの村に戻り細々と暮らしている人々から話を聞くたび、ヘンリーの表情が今のデール様以上に痛々しく歪むのを何度も何度も見てきた。

 俺の所為だろう? と、自分を責めろと言外に訴えられるたび、黙って首を振った。別に君の所為だなんて思ってない。そんな風に、悔やみ続けられる方がよっぽど重い。

「……気持ちは、わかるよ。でも……君達の責任だと、あまり思いつめないで欲しい」

 だから、僕はやっぱり、こう言うしかない。

「だって、当時子供だったんだよ。僕もヘンリーも、デール様だって、十にも満たない子供だったじゃないか。誰も彼も巻き込まれただけだよ。そこまで……そうやって、君達がサンタローズや父さんのことばかり気にかけてずっとずっと気に病んでいくことを、父さんが喜ぶとは思えないんだよ」

 それは、本心だ。サンタローズの村人の代弁じゃない、僕が彼らに抱いている一番の本音。

 成長した今だからこそ、思う。あの時、確かに無念に違いなかった父が最期の瞬間、幼いヘンリーにその業を一生抱えて生きろ、などと念じただろうか。自分の息子とさほど年の変わらない子供に。

 王子と言えど躊躇わずその頰を張り、父王の懸念を涙ながらに伝えていた。あれほどヘンリーを深く思い激しく叱咤した父が、彼にそんな呪を施すはずがないのだ。

 父が望むのは、ただ前向きに歩んでいくことじゃないのか。

 あの日、彼が守った子供達がこうして互いに力を合わせ、過ちを正し、二度と悲劇を起こさぬよう新たな今日を繋いでいく。

 その姿勢だけが、父の、村人達の命に報いることになるんじゃないのか。

「君達は、ラインハットの国主だ。今やほとんど住む者のいない小さな村より先に、慈しむべき民がいるだろう……」

 そして、誰かに手を差し伸べたかったら、まずは自分が真っ直ぐに立つのが先じゃないのか。

 人々がどんなに希望を感じていたって、デール様が思い悩むほどにはラインハットの現状は明るくないらしい。だったら、意地なんて言わずに国力をつけて頂きたいんだ。ラインハット王国が真実、在りし日の素晴らしい姿を取り戻したのだと、いつか胸を張って言えるように。

 サンタローズだって、いつまでも変わらないままじゃない。ヘンリーやデール様がそこまで気遣わなくとも、少しずつだけど人は居着いていっているし、子供の姿も見えるようになった。本当に少しずつ、あの惨劇は過去へと変わっていってる。

 ちゃんと立ち上がっていくよ。いつか、また手を取り合える日も来るだろう。

「────それでも、俺達はもう子供じゃない」

 長い、長い沈黙のあと。ぽつりと低くヘンリーが零した。

「やらかしたことの重みくらいわかる、ってだけだよ」

 僕ももう、それ以上反論はせず頷いた。彼の言い分も痛いほどわかる。

 そうすることで君が前進できるなら、それでもいい。何かしたいと思うことが、顔を上げるきっかけになるなら。

「力を尽くすと、お約束します。あなたが救ってくださったこの国を、あなたに恥じることがない国に今一度育て上げてみせると……我が王冠にかけて、誓います」

 デール国王も静かに告げ、まるで臣下のごとく恭しく、僕に向かって敬礼を下さった。

 その想いだけで十分です。本当にもう、十分だ。

 飾り気のない、偽りない言葉が何より胸を熱くする。凡庸だとか、気迫にかけるなどと囁かれることもあるけれど、この方を王として戴いたことはラインハットの民にとって間違いなく、この上ない僥倖だろう。

 必ずやヘンリーと共に、良い国を造って下さるに違いない。

 全てのやりとりを黙って見守って下さっていたマリアさんを振り返り、丁寧に礼を取る。

 そうして改めて、どこか切ない穏やかな微笑みで並んで僕らを見送る異母兄弟に向かい、フローラと共にもう一度、答礼を返して広間を出た。

 

 

 

 城門を抜け、遠ざかる城壁を一度だけ振り返りながら、並んで歩くフローラにだけ聞こえる小さな声で呟いた。

「……全てが明るみに出た後にね。ヘンリーは僕に、斬ってもいいと言ったんだ」

 綺麗な翡翠の双眸が揺らぎ、僕を振り仰いだ。黙って淡い微笑みを返し、彼女の無言の問いを肯定する。

 いつから繋がれていたものか、長い長い獄中生活からやっと解放されたばかりの、痩せこけた力ない初老の女性だった。否、投獄のストレスから老けて見えただけかもしれない。狼狽えるデール国王と、粗末な旅装を身に纏ったヘンリーを前にして、赦してたもれ、と泣き崩れた。

 十年以上前に見た彼女の姿を、僕はいまいちよく思い出せない。

 幼いデール様を庇うように、豪奢なドレスを広げてきつい眼差しで僕を見ていた。当時母親というものがよくわからなかった僕は、ギラギラした気迫の、少し怖い方だな、と思った覚えがある。

「愚かな人だと、思う。絶対に許されないことをした人だと思う、けど……やっぱり、斬れないよね。そんなに簡単じゃないよ」

 ほとんど自分に言い聞かせる為に独りごちたそれに、声もなく同意を示して、フローラが頷いた。

 彼女が実子である第二王子を王にしたいと望まなければ、そうして世継であったヘンリーの廃嫡を企てたりしなければ。きっと父が命を落とすことはなかった。サンタローズが焼かれることも、彼女自身が幽閉されて、挙句この国の領民達が次々に処刑されるような事態にもならなかったろうに。

 母の愛と呼ぶには、あまりに罪が重すぎる。

 それでも、

「……お袋、と、呼んでらっしゃいましたよね」

 隣を歩く君が、噛みしめるように呟いたその言葉に、うん、と静かに頷いた。

 ──それでも、ヘンリーが母と呼んだから。

 断罪したところで命は一つも戻らない。そんな虚しさもあった。彼女は心底反省して、今は城の奥で大人しく教会の手伝いなどをしているそうだ。それで良いと兄弟が言うなら、僕がこれ以上介入する必要もない。

 ただ、どうかもう二度と、過ちを犯すことのないようにと。

「ここでお昼を食べてから行こうか?変な話ばっかりするからすっかりお腹空いちゃったよ」

 湿っぽい空気を吹き飛ばすべく思い切り伸びをして言ったら、フローラも僕を見上げてちょっとだけ笑ってくれた。

「私も、お腹が空きました。このあとはサラボナに行かれるのですよね?」

「うん。出航前にもう一度、お義父さんにご挨拶を、と思ったんだけど……吃驚したね。あそこまで根回しが早いとは思わなかった」

 割と心から感嘆を込めて言ったのだけど、フローラは「他所様のご都合を考えず軽々しく働きかけるのは、あまり褒められたこととは思えませんけれど」と険しい表情で呟く。父君が娘に厳しいように、この娘もまた父に手厳しい。それもまた互いに愛情と信頼あってのことだろうと、僕は唇を引き結んだフローラを眺めながらも微笑ましい気持ちになってしまう。

 そんな、難しい顔で遠くを見つめる最愛の妻の手を引いて、僕はラインハットで一番大きな食事処へと彼女を誘った。

「──じゃあ、急いで食べて出掛けようか。船長達をお待たせすることになっては申し訳ないから」

 

 

◆◆◆

 

 

 ラインハットの酒場で和やかに昼食をとったあと、再びフローラを伴って、今度はサラボナへと転移した。

 毎度のことながら約束は入れずの訪問で、お会いできるか不安があったが、今回は無事にお目通りが叶った。凡そ二週間ぶりに会った義父は、相変わらず上機嫌で僕達新米夫婦を迎え入れて下さった。

「ほんの少し見ない間に、随分と夫婦らしくなったものだな」

 嬉しそうに目を細める卿の前で、つい緩んでしまう頰を表情筋のみで抑えるのが大変だった。

「大変恐れ多いお役目を拝命しまして、僕に務まるのか甚だ不安ではあるのですが……」

 いただいたお手紙についての謝辞を述べ、また内心の憂いを正直に伝えると、卿は愉快そうな笑みを浮かべて僕を見た。

「君はいずれ、人の上に立つ男になると儂は見ておる。今度の一件は小手調べに丁度良いかと思ってね」

 我がことながら、随分と高く買っていただいたものである。恐縮しつつもその表情を窺うと、やはり僕にどこか甘い義父は穏やかな眼差しで微笑んだ。

「何、心配するな。船長らをはじめ彼らは海上の専門家だ。君は全体を広く見渡し、欠けるものが出ないよう気を配ってくれさえすれば良い」

 一見簡単なようだが、その采配にポートセルミの海運業の命運が、そして多くの船乗りの命そのものが懸かっている。一層気の引き締まる思いで唇を噛み締め、姿勢を正した。

 途中一度はイヴァン殿と落ち合う予定だが、そこから先は狼煙代わりの花火だけが連絡手段となる。ストレンジャー号だけが海峡を越えるので、他の船の無事を確認できるのはテルパドールからの帰還後だ。うまく釣れることを祈るしかない。

 宝石集めから戻って、内職の合間にも船長らと何度か作戦会議をした。小舟にはそれぞれ最低限の武器の使い手と、回復薬や聖水、魔物を釣るための餌を積み入れてある。主な戦闘はストレンジャー号が引きつけて行い、魔法の使い手を乗せた大型船二隻が補助に当たる。小舟には情報収集と伝達役を担ってもらい、魔物に追われたらすぐに大型船舶の間合いに入ってもらうよう伝えてある。万が一沈まされそうになった場合は近くの船舶がいち早く救助すること。こう言った一つ一つの判断を、戦いながら僕が下す、ということなのだ。

 一つ、提案をして、帆をもう一つ用意してもらってあった。

 僕も実は、内海の中央に位置するセントベレス山が恐らく『大神殿』の建設地である、ということに引っかかりを覚えていた。光の教団のこと、奴隷として十年過ごしたことはフローラ以外には話していなかったが、もしも教団が魔物の増殖に絡んでいるとしたら──多少の挑発にはなるかな、と思って。

 帆は、街の教会に保管されていたものを借りた。長くこの世界を護っているとされる主神、マスタードラゴンを模った紋章が刻まれた帆である。

 長い船旅故、何卒神の御加護をいただきたい、と尤もらしい理由をつけてお借りした美しい竜帝の帆を、今はルドマン家の紋章の代わりにストレンジャー号の前面部に掲げてある。

「フローラはどうかね? 回復魔法だけは修道院で学んできておったようだが。さすがの儂も、フローラが魔物相手に戦うようになるとは全く予想しておらんでな」

 何故か済まなそうに卿からは尋ねられ、その隣に綺麗な姿勢で腰掛けた奥方様はさも心配そうなお顔で娘を見つめた。フローラもちょっと困ったような顔つきで僕を窺ったが、何も不安になることはない。彼女に微笑みを返して両親へと向き直り、この二週間で経験したことをありのままに話した。

「大変、助けてもらっています。先日死の火山へ探索に行きましたが、フローラがすべての回復を担ってくれましたし……魔物の気配にとても敏感なので、先手を取られることがほとんどありませんでした。僕の仲間達も、フローラは目が良い、と何度も褒めておりました」

 報告の途中にも卿はほぅ、と何度も目を瞠り、奥方様も口許を抑えて僕と愛娘を交互に見つめた。そんな母親にやわらかな微笑みを向けた妻の横顔をちらりと見遣り、もう一つ、僕自身の所感を付け加えた。

「──何より……僕や仲間達の力になろうとしてくれることが、一番有難いことです。そのための努力を惜しまない人ですから」

 真っ先に視線を上げたフローラと顔を見合わせ、微笑みを交わし合う。そんな僕達を眺めた義父もまた、「成る程。夫婦らしくもなるわけだ」と満足そうに頷いた。

 ここへ来る前にラインハットを訪問してきたこともお話しした。卿の手紙が無事国王らの手に渡ったことを伝えると、「余計なことをしてすまんな。過日の、婚礼にご列席いただいた礼を申し上げるついでにお知らせしておきたかったのだよ。君のご友人ならば動向を知っておきたかろうとも思ってな」と仰られた。そのお顔に他意は見られず、僕はとりあえず笑って流されておくことにした。相変わらずこの方の本音は見えないな、とひっそりと思いつつ。

「後日お返事が届くこととは思いますが、ビスタ港周辺に関しては警備を強化していただけるとのお言葉をいただきました。僕達もできるだけ、北には流さぬよう留意して参ります」

 この言葉にも卿はただ力強く頷き、「頼んだぞ」と激励をくださった。

 あとは、テルパドール訪問後に一度サラボナへと戻る旨を伝えて、用件の全てをお話しできたところで、これにてお暇する旨を告げた。

「そうか、出航は明日だったな。今夜のポートセルミは賑やかしくなりそうじゃないか? なぁ、お前」

 どこかうきうきと奥方へ声をかけた、その夫に向かいアウローラ様は優雅なため息をつきつつ「あなたったら、また悪い癖が出てらっしゃいましてよ」とはんなりと諌める。僕もこれまでのお付き合いの中で、卿が何を意図しているのか何となく読めてきた。隣で何とも言えない顔をしている、況やフローラをや。

 果たして卿は輝くほどの満面の笑みで、ほとんど想定通りのご提案をくださった。

「儂もポートセルミに同行しても良いかね? 何、帰りはちゃんとこちらで手配する、心配はいらん。君に送ってもらっては船の見送りが叶わんからな。さぁ、行こうではないか。君達の壮行たる宴の舞台へ!」

 

 

 

 斯くして、僕らは大陸に名だたるルドマン卿のご同伴をいただき、ポートセルミへと戻ることとなった。

 ルーラを詠唱する前に一度街の外へ出て、やっと炎のリングの効果を確かめることが出来た。やはり炎の魔法のようだったが、単体を狙うメラ系とは違い大分広い範囲に爆発を仕掛けることができるようだ。使ったことのない魔道具を義父の前で試すのは危険かとも思ったが、やはりと言うべきか彼は両の眼をこれでもかというほど輝かせ、大興奮で指輪の魔術に拍手喝采を下さった。

「なんと、二つの指輪にこのような魔法が込められていたとは! さすが伝承の指輪というだけのことはある、素晴らしい。これなら必ずや君達の役に立つだろう!」

 フローラも何とか例の吹雪を発動させることに成功した。やはり魔法とは使い勝手が大きく違うので、特にこれから魔法を覚えていきたいフローラが頼りすぎるのは良くないかもしれない、という結論に至ったが、例の魔物討伐まではあまり間もない。彼女には回復役に徹してもらうつもりでいるものの、どうしてもという時には指輪での援護も視野に入れて行くよう相談をしあった。癖になっては怖いが、魔力を消費しないというだけで精神的に大きな価値がある。

 何度か空に向かって指輪を使う練習をしてから、ようやくポートセルミに移動した。

 卿のご推察の通り、今夜はポートセルミで一等大きな酒場を貸し切っての壮行会が行われる。まだ夕方前だったが、酒場には船員の妻も交えた人々が忙しなく動き、次から次へとテーブルに酒や料理を並べていた。そこへひょっこり彼らの主たるルドマン卿が現れたものだから、酒場は一転大いに沸き立った。イヴァン殿とフォスター殿、船長のお二人が先頭に立ってすぐに卿を出迎え、彼らは往年の友の如く抱き合い肩を叩きあっていた。どれほど長い付き合いなのだろうか、その篤い信頼の絆を少しばかり羨ましく感じたほどだ。

 卿に手招きされ、僕らも早速始まったばかりの宴の輪に加わった。次々に乞われる挨拶に応え、固く掌を結んでいく。この一人一人が僕達を支えてくれる、そう思うと武者震いのような心地がした。フローラもまた船員のご家族一人一人と言葉を交わし、何かを誓い合っていたようだった。

「光の……教団」

 話しておくべきか迷ったが、ヘンリーが昼間言っていた『大陸に教団の手の者がいる』という情報が気にかかった。挨拶がひと段落つき、卿と船長二人を交えて話す機会を得た時に切り出してみたところ、フォスター船長はひどく怪訝な表情で教団の名を反芻した。

「はい。まだ確証はありませんのでお話しすべきか悩んだのですが……あまり良からぬ噂を聞く教団です。最近あちらこちらで布教活動をしているらしいと友人から聞きましたので、念のためお耳に入れておきたく思いまして」

「その友人、とはラインハットのヘンリー王兄殿下で間違いないかね? テュール君」

 低い声音で確認した卿に船長らが声もなく驚愕を見せ、僕もまた、黙って深く頷いた。

「灯台に、落書きがあったのさ。消しても消してもいつの間にかまたやられている。しつこい餓鬼の仕業かと思ったが」

 エールを並々注いだジョッキを傾け、どこか苦々しげにイヴァン殿が言う。思わず腰を浮かせ、「何と書いてあったのですか」と問うと、イヴァン殿は一層苦虫を噛み潰したような顔をして、テーブルにとんとんと指をつき、見えないその文字をさらりとなぞった。

 ────もっと、光を!

 素知らぬふりをするつもりが、動揺がしっかり面に出てしまっていたらしい。「心当たりがある、と言う顔だな」と鋭く卿に言われ、苦笑しつつ首を振って再び腰を下ろした。その字面、確かに何度かあの建設現場で見た覚えがある。

 ……何をするつもりなんだ。一体。

「それで教会から帆を借りたのかい。坊やも食えんな」

 今度はおどけた口調だったが、イヴァン殿の眼は異様なほど鋭く、真剣だった。

「……はい。先ほども言った通り、確証はないのですが……此度の海の魔物の一件、光の教団が繋がっている可能性があります」

 周りに絶対に気取られぬよう、細心の注意を払って声を潜めた。それきり僕らのテーブルには暫しの沈黙が満ちる。

 ややあって、イヴァン殿がジョッキに残ったエールを一息に飲み干し、たん、とテーブルにそれを置いた。

「良い事を聞いた。参考にさせていただくよ、坊や」

 いつもの口調で僕の肩を軽く叩き、彼は空のジョッキを携えてカウンターへと去っていった。

「……イヴァン殿の孫も、あの海域で沈んだのです」

 その背を見送りながら、フォスター殿が静かに、呟いた。

 はっとして振り返ったが、もう遅い。僕は何という軽率なことを。

「今の君と変わらないくらいだったな。三年ほど前のことだったよ。……あの頃はまだ船を出せていたかな。船が襲われることが増えたというので、自警団を組むようイヴァンに依頼した矢先のことだった。孫だけではないがね、小型客船一つで五、六十人は乗る計算だ。これ以上の犠牲は正直、御免被るな」

 敢えて感情を含めず淡々と紡がれた卿の語り口に、こみ上げる遣る瀬無さを唇を噛んでやり過ごした。

 何としても、総員無事に返さなくては。

 きっとそれが、僕にできる一番の弔いだ。

 

 

 

 だいぶ夜も更けた頃、尚も賑やかしい酒場のどこにもフローラの姿がないことに気がついた。

 こっそりと二階の客室に戻り覗いてみたが、気配はない。となれば外かな、と思い、すっかり出来上がり盛り上がっている人々の間をかい潜って表へ出た。酒場の喧騒とは裏腹に静まり返った街中をぐるりと見渡したが、フローラらしき人影は見当たらない。そのまま埠頭の方へ向かって歩いて行ったら、灯台の光をちらちらと反射する暗い海の手前に小さな影がうずくまっているのを見つけた。

「こんなところにいたんだ」

 海を見渡せる埠頭に面した舗道の縁に、フローラは腰掛けていた。夜風にさらさらと揺れる碧い髪を宵闇に溶かし、真っ黒に揺らめく波間をぼんやりと眺めていたようだった。声をかけるとすぐに振り返り、申し訳なさそうに眉尻を下げて僕を見た。

「あ……、すみません。黙って出てきてしまって」

「全くだ。こんな夜遅くに一人で外に出るなんて、危なすぎるよ」

 別に本心から怒っていたわけではないが、人気のない暗がりに彼女一人で居させるのはやはり心配なんだ。特に暴漢などに襲われでもした時、彼女の細腕では相手が例え人間の女性であったとしても敵わないように思うから。

「……っ、ごめんなさい……」

 案の定、君は身体を縮こませて謝罪の言葉を口にする。「気をつけて欲しいだけだから。怒ってはいないよ」とできるだけ優しく頭を撫で、その隣に腰を下ろした。少し寒そうな細い肩に僕の外套を掛けて抱き寄せると、「……暖かいです」と控えめな微笑みが返ってきた。

「──……、広いね」

 そのまま、彼女の頭に軽く体重を預けたまま暫く、寄せては返すばかりの波の気配をぼんやりと感じていた。

 夜の闇よりも深く、何もかも飲み込みそうな混沌を揺蕩わせる暗い海面は、昼間ヘンリーに問われてさざめいた心の闇を思い起こさせる。

 僕の中にも、ある。この海よりもきっと昏い、深くて澱んだ底の見えない混沌が。

「子供の頃は、海が……とても、怖かったんです」

 やがて、互いの温もりが沁みる頃。ぽつりと君が呟いた。

 聴覚を研ぎ澄まし、今にもかき消えそうな告白に耳を傾ける。

「こんなに、大きくて深い水。私なんて砂粒よりちっぽけで、あっという間に飲み込まれて消えてしまいます。小さい頃──あの船であなたに出会った頃、私も父に連れられて旅をしていましたけれど、船に乗らなくては、と思うたびに足がすくみました。沈んだらどうしよう、乗りたくないって……本当に、当時から莫迦げていたなと思うんですけれど」

 最後は自嘲気味に声を潜めた君の肩を、もう一度ぎゅっと力を込めて抱いた。君がこんな風に淡々と話してくれる時は、大抵自身の内側の恐れや何かと戦っている時だから。

「海と、空の色だって。言ってくださったのは、あなただったのかな、って……」

 潮風に溶けそうな呟きにつられて視線を交わせば、彼女はまた遠慮がちに首をすくめ、微笑む。

「正直に言うと、今も怖いです。でも……、いつからか、船に乗るたび思い出す言葉がありました。私と同じくらい小さかった誰かが私にくれた、おまじない。綺麗な髪だねって、空や海の青色だねって……わたしの色だから、大丈夫。飲み込まれたりしない、そう、船に乗るたび何度も自分に言い聞かせて……」

「────あ」

 フローラの言葉を頼りに記憶を弄ったら、ふと焦点が合った。先日取り戻したばかりの記憶の中、肩口で碧い髪を切り揃えた小さな女の子が、どこか羨望を滲ませた眼差しで幼い僕と父を見上げていた。

「多分、そう。だって、すごくキラキラして……光る水面みたいな女の子だったから。妖精みたいだなって思って」

 だから、多分その時言ったんだ。すれ違っただけの幼い君に、すごくきれいな髪だねって。あの空とか、この海みたいなどこまでも澄んだ碧だねって。

 そんなきれいな髪は初めて見た、と言った気がする。小さな君は吃驚したように目をぱっちりと見開いて、それから恥ずかしそうに、ありがとう、と言ってくれた。

「やっぱり……、あなたがずっと、私を守ってくださっていたのですね」

 波の音より静かに、けれどほんのりと嬉しそうな色を滲ませて。囁いた君は、遠い宵闇の中に再び視線を溶かす。

 闇に浮かぶ綺麗な白い横顔に、ほんのひと時、見惚れる。

「もう、大丈夫です。怖いけど……怖くない。あなたがいるから、私は明日、新たな一歩を踏み出すことができます」

 確かめるように、彼女の内に呟いて。そうしてフローラはどこか艶めいた瞳をこちらに向け、僕の視線をいとも容易く搦めとる。

「────優しい、瞳ですね」

 唐突に囁かれた一言にどきりと心臓が鳴った。覗き込むと君は僕の腕に軽い頭を横たえ載せたまま、密やかに、楽しげに笑った。

「ふふ。……十数年、言いそびれてしまいましたけど」

「……十数年越しの、褒め言葉?」

 さすがに気恥ずかしくて、軽く冗談めかして返したら、彼女は綺麗な眼差しに惜しげもなく愛しさを乗せて投げかけてくる。

「今も、変わっていませんよ」

 ……本当に、一体どこでこんな殺し文句を覚えてくるのか。

 その一言で生まれた心地良い熱を君に分けるように、尚も僕を見上げる頰をそっと、捕まえて。

 誰も見ていないから。

 そう、自分に言い聞かせて。誰よりも愛しい君と秘めやかに口づけを交わした。

 甘く優しい唇を深く食むたびに、昼間、身体の芯からおぞましく冷えていったものが、緩やかに溶け出していくのがわかる。

 君が僕を捕まえていて。僕が、僕を見失わずにいられるよう。

 漣が絶え間なく満ち引きを奏で、潮の香りが満ちる中。名残惜しくて、君の温もりを繰り返し求めた。外套の内側に君を隠し閉じ込めて。

 宴が終わり、酒場を出てそれぞれの住居に戻り行く船員達に見つかるまで、僕らはそうしてずっと身を寄せ合って波の音を聴いていた。

 

 

◆◆◆

 

 

 翌朝、名士ルドマン卿を筆頭に数多の船員家族らに見送られ、ストレンジャー号と他数隻の船舶がポートセルミ港を出航した。

 既に小舟が十隻ばかり、例の海域周辺へ向かって就航している。あまり深入りはせず警備がてら周ってくれれば良いと伝えてある。凡そ一週間程度で一度合流し、その後セルマー海峡の通過を試みる算段だ。

 絶対、なんて言えないのだと、わかってはいるけれど、

 それでも絶対に全員、再びこの地を踏ませてみせる。

 遠ざかる陸地をこの目に焼き付けながら、今一度の誓いを立てた。水のリングを求めて出た時と同じ、強い決意が漲るのを感じる。

 大丈夫。大丈夫だ。

 瞼を閉じるのと同時に船長に名を呼ばれた。すぐに振り返り、同乗した航海士達の元へと急ぐ。数日後に控えた戦いを前に、必ず勝って戻ろうと彼らに告げるために。



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#8. 死角に潜むもの

「よう。効果覿面過ぎやしないかい? 坊や」

 筋骨隆々、浅黒い肌を更に真夏の日差しの下黒々と焼き上げたイヴァン船長が、接舷した客船の向こうから挨拶がわりに笑い含みの声を投げかけてきた。

 愛想笑いと、若干の緊張感で以て彼を出迎える。ポートセルミ港を経って四日、竜神の帆を戴き、時折魔物の餌を撒きつつ緩やかに航行を続けるストレンジャー号は彼の指摘の通り、目覚ましいと言える戦果を挙げ続けていた。

「お前らが全部料理しちまうもんだから、うちの船員どもが暇すぎて呆けかけてるぞ。ちったぁこっちに回せ」

「そうは仰いましても……そちらが少し航路を変えてみてはいかがですか。セルマー到達までにも出来る限り魔物を減らしておきたいと、こちらの総帥殿も仰せですので」

 戦意を隠さず揶揄する老船長の態度に動じることなく、共に出迎えた当船舶の長は澄まし顔で応酬する。

 僕には決して見せることのないフォスター船長の慇懃とも取れる表情が可笑しく、僕はこっそり顔を背けてこみ上げる笑いを噛み殺した。

 イヴァン船長率いるヴィクトリア号は、ストレンジャー号よりさらに十年ほど長く稼働している大型客船である。年季の入った船だがまだまだ現役で、普段はカジノ島から各都市への送迎を担っているらしい。古めかしくも懐かしさを感じさせる、上品な装飾が美しいこの船がストレンジャー号の左舷後方を二海里ほどあけて航行し、さらにその後方を少し小ぶりな新型客船、フローリア号が護っている。

 フローラの名を冠した通り、結婚を控えた娘のために卿が造らせたばかりの真新しいこの客船は、なんとこれが処女航海となる。

 実質義父から僕達夫婦に贈られた三つ目の結婚祝いであったが、いかんせん僕が馬車つきの大所帯であったが故に、当面の旅の間はストレンジャー号を借り受けることになった、という経緯がある。

 いよいよセルマー海峡入りを目前に控えた今日、各船の長を交えた最後の作戦会議が行われる。二人の老船長には先に船長室へと向かってもらい、僕とフローラでもう一隻の客船の到着を待った。船長を下ろしたヴィクトリア号が一度離れ、次いで接舷してきた可憐なフローリア号から先の二人よりも年若い、壮年の船長が降りてきた。

 彼ともポートセルミでの打ち合わせの際、何度か同席したことがある。デニスと名乗ったこの方は長くストレンジャー号に乗っていた人で、雰囲気はフォスター船長に似たところがある。少し線の細い引き締まった体躯、しかしどことなく父を思い出させる黒髪に黒い瞳。勇猛な雰囲気の人ではないが、彼の風貌に父を見てしまうのは穏やかながらも闘志の宿る眼差し故だろうか。

「お待たせしました。打ち合わせの場所は船長室で良かったですか?」

 頷き、フローラと共に船内へと彼を促した。彼にとっては勝手知ったる古巣だけに、途中すれ違う仲間達と親しげな挨拶を交わしながら迷いなく甲板を進んでいく。どうやら彼は、この船の乗組員達にとっても大変頼れる兄貴分であるようだ。

「活気があって何よりだ。あまり心配はしてませんでしたが、今のところ問題なさそうですね」

「ええ。皆さん、本当に腕が立つので、却って僕の立つ瀬がありません。あの見張り台でじっとしているくらいしか」

 僕の返答に、はためく帆の隙間から見える見張り台を仰いだデニス船長が肩を軽く揺らして笑った。

 同乗する船員達は皆腕利きだと聞いていたが、これほどとは思わなかった。ひとたび魔物が海面から顔を出せば見張り番の掛け声とともにブーメランが矢の如く飛び交い、近接戦を得意とする仲魔達には出る幕すらない。僕もほとんど見張り台の上から戦況を見守るだけ、精々マーリンが何やら炎魔法を試してはほくそ笑んでいるくらいのものだ。「甲板か、せめて船首まで登ってくる気概が欲しいものよ。こう距離があっては手持ち無沙汰でかなわん」などと珍しくピエールがぼやく程度には、僕達もまた暇を持て余していたのだった。

 ただ、なまじ時間があっただけに、考え事に没頭することはできたように思う。

 セルマー海峡で、そしてこの内海で一体何が起きているのか。結局推測の域を出ない結論は一周回って出港前とさほど変わらないけれど、僕の中の覚悟だけは大きく変わった。否、フローラの意識もより強く変わったかもしれない。

 ──同じ悲劇を、起こさせたくない。

 きっとあと数日で迎えることになるセルマー海峡での戦闘を前に、今日は歴戦の船長達の説得を試みなくてはならない。船長室の手前で思わず足が止まり、自然汗ばむ掌を握り直す。緊張に強張る身体をそっとほぐすように、妻の白い、華奢な手が二の腕に触れた。

「……行きましょう?」

 いつものようにふわりと優しく笑う、妻の存在が僕の背中を押してくれる。

 頷いて、ひとつ深く息を吸い込む。改めて彼女の温かな手を包み、三人の船長が待つ船長室へと足を踏み入れた。

 

 

◆◆◆

 

 

 遡って、昨日の昼下がりのこと。

「ほれ。これなら使えそうか?」

 真夏の日光が燦々と降り注ぐ甲板で、スライム属の二人が何やら船員達と話し込んでいた。またもや見張り台で海面を眺めつつぼんやり考え事をしていた僕は、ふとその様子が気になってロープ伝いに甲板に降りた。

「うん! ありがと、おにーさん! やーったー!」

 大喜びで飛び跳ねるスラりんが喋りながらも器用に何やらくわえている。彼らの周りをふよふよと漂うホイミンも「スラりん、よかったね〜」と嬉しそうだ。

「何が『良かった』の?」

 首を傾げつつその賑やかな輪をひょいと覗くと、「あ、ごしゅじんさまー! みてみてー!」とスラりんが振り向きざま、得意満面の笑みでくわえた得物を見せてくれた。少し小さめの、使い込まれたブーメランだった。

「ブーメラン使いたいけど持ってないって言うんで。使い古しですけど、良かったら」

 気のいい船員が人好きする笑顔を向けてくれて、僕はすっかり恐縮しつつ軽く頭を下げた。

「有難うございます。こちらの準備不足で、申し訳ないです」

 以前オラクルベリーで買った刃つきのブーメランなら所持しているのだが、子供の頃使っていた木製の古いブーメランはさすがに手元になかった。仲魔達にはそれよりずっと威力の高い武器を買い揃えたからもう使わないかと思ったのだけれど、考えてみたら船から攻撃を仕掛けるなら飛道具の方が使い勝手が良い。確かにスラりんなら僕のお下がりのブーメランを一時期使っていたし、ここでは牙よりブーメランの方が参戦しやすいだろう。

「得物は多めに積んでますから、気にしないでください。むしろ入り用ならどんどん相談してもらえた方が、役に立てればこっちも嬉しいですし」

「へーぇ、スライムってこういうの使えるんだなぁ。ちっこいのに頼もしいじゃん!」

 会話の合間にも逞しい腕が数本伸びてきて、ぐにぐにとスラりんの頭を撫でた。やや乱暴な手つきではあったがスラりんも特に嫌がらず、腕の主達にへへーっと緩んだ笑顔を向けている。

 長い船旅になるので、船員の皆さんに改めて僕の仲魔達を紹介してあった。どうしても魔物なので受け入れてもらえるか不安だったし、当初はあからさまに異質なものを見る目つきで見られたこともあったけれど、とりわけ人懐っこいスライム属達との触れ合いをきっかけにこのような微笑ましい交流風景を見ることもできるようになっていた。一度話してみれば興味が湧くらしく、遠巻きに見ていた航海士も恐る恐る挨拶や質問を投げてくれる。お陰でスラりんとホイミンはたった三日ですっかりストレンジャー号のマスコットと化している。乗船初日には少しばかり船内の他人行儀な雰囲気を心配していたフローラも、先程甲板を通りかかった際はほっとした顔つきで彼らを眺めていた。

「はやくなにかでないかなー。これ、なげてみたーい」

 ぷにぷにと跳ねながら鞠のごとくブーメランを弄ぶスラりんに、いつものように笑いながら釘を刺した。

「調子に乗って海に落ちたら、助けられるかわからないよ? 小さくて軽いんだから、気をつけなきゃ」

「おちたことないもーん! おちそうになったらこーやって」

 意気揚々と答えながら飛びついてきたと思ったら、唐突に身体を薄く拡げ伸ばして僕の身体にぺとりと張り付く。僕は慣れているからいいけど、いきなりその超軟体ぶりを披露すると皆さんきっと引いちゃうぞスラりん、と僕はひっそり心の中で毒づいた。

「べったりするからへいきだもーん!」

「これ、不用意に人にやっちゃだめだよ? 顔巻き込んだら下手すりゃその人窒息するからね?」

「ううう、わかってるもん‼︎」

 つい小言ばかりになってしまう僕にもごもごとスラりんが言い返し、そのやりとりが面白かったのか、甲板は和やかな笑いに包まれた。

「テュールさん、なんか父親みたいだなぁ」

 居合わせた若き航海士のアランさんが可笑しそうにそう言って。周囲の面々がにこやかに頷くのを見ながら、僕は少しだけ不思議な感覚に捉われていた。

 幼い頃、父さんにこういう細かいことを言われた記憶はあんまりないけれど。よくよく思い返せば、一人で遠くへ行くな、くらいのことはちょくちょく言われていたっけ。

 僕の小言が父性からくるものなのかは自分ではわからないけれど、それだけ彼ら仲魔達への思い入れを大事に持てているということなんだろう。そう思うと、なんだか嬉しい。先日感じた、家族なんだ、という実感を改めて噛みしめる。

 ──遠い昔に喪ってしまった『家族』だけれど、喪失の痛みは今もこの身の内にある。

 どうしても、ふとした瞬間にそのことを考えてしまう。出航前夜の壮行会で、僕の不用意な発言から思い知らされたこと。目の前の誰かも大事な人を亡くしたひとかもしれないということ。『沈没』という短い言葉に表される事象の陰に、何百という命が喪われているであろうということ。

 当たり前のことなのに、頭では理解していたつもりなのに、実感を伴って突きつけられた事実が重く胸にのしかかっている。

 この船にもきっと、家族や知り合いを失った人達が多く乗っているのだろう。この三年、セルマー海峡だけで沈んだ船は客船が四隻、漁船に至っては十五は行方不明だと言っていた。三百人にも上る、凡そ村二つ分強の人々が還らぬひととなっているのか。おいそれと船を出せなくなるわけだ。

「また難しいこと考えてます? テュールさん」

 アランさんの軽快な呼びかけに意識を引き戻される。「眉間に皺、寄ってましたよ」と笑い含みに囁かれ、思わず苦笑いしながら頷いた。

「あ、……はい。例の海峡の事が気になってしまって。結局、どうしてあの場所でよく船が沈むのかな、って」

 言いながらちらりと周囲を見渡すと、居合わせた船員達は皆神妙な面持ちで互いの顔を見合わせていた。また軽率な物言いになってしまわぬよう気を引き締めつつ、努めてやわらかく口火を切った。

「良かったら、皆さんの見解をお聞かせいただけませんか? 一人で考えているとどうしても手詰まりになってしまって」

 これは本当だった。暇を見てフォスター船長やピエール達にも度々意見を求めてはいるものの、どうしたって情報が少ない。そもそも沈没した船は陸を遥か離れた沖の上で『沈没』してしまっているのだから目撃情報も何もない。同海峡を越えて戻った船ももちろんあるが、証言としては魔物がいたが切り抜けた、くらいのものでさほど参考にならない。

『魔物が増えることと、魔物がひとところに集うことは全く別の事象よ。履き違えると痛い目を見る。基本的に我々は好き勝手群れても統率されることはない、魔王殿の御力でもない限りは』

 相談を持ちかけた際、普段魔族について語ることのないピエールがそんな忠告をしてくれた。魔王殿とやらの詳細が気になったり、それでは君達の主人である僕はなんなのか、などとちらりと思ったりもしたが今は黙っておいた。

 ……どうしても気にかかるのは、光の教団だ。この内海の中央に位置する神が坐するという大陸で、今この瞬間にも神殿建設が続けられているであろう、セントベレス山の頂。

 あまりに目と鼻の先だからこそ、何か関係しているのではと思わずにはいられない。どんなにこじつけに過ぎないと思っても、ここからすぐ東に目を向ければ嫌でも目に止まる崇高な山。頂上は常に分厚い雲がかかっていて見えない。多分あの中で、命をぎりぎりで繋いでいる奴隷達が必死に働いているのだ。今も。

「……うーん……やっぱり魔物なんじゃねぇのかな。って思うけど、俺は」

 一人の航海士が首の後ろを掻きながら思案して、何人かがぱらぱらと同調するように頷いた。

「たまたま装備が悪かったとか、天候が良くなかったとか。考えられなくもないっすよ。嵐ン中魔物の大群に襲われたら、この船だってただじゃすまねえかも」

「でも、それだけだとセルマーに限定される理由がないと思うんです。現にポートセルミに所属する客船は、セルマー以外の海域で沈んだことはないんでしょう?」

 ずっと引っかかっている理由の一つがそれだ。ラインハットの客船はポートセルミとの間で沈んだが、ポートセルミの客船がそこで沈んだことはまだ、ない。あくまでもセルマー海峡だけの出来事なのである。

 事の起こりは三年前、魔物の蔓延を肌で感じるようになり同時に漁船がちらほらと行方不明になることが増え始めた。海上警備を強化するようルドマン卿がイヴァン殿に話をした頃、大型客船が悲劇に見舞われた。サラボナ北東を発って数日、待てども待てども船影は見えず、到着を待ち続けたご家族や知人の心中は如何許りであっただろうか。それから半年ほど経った頃、二度目の客船沈没があった。魔物に注意を払いつつ無事航行を遂げていた最中のことだった。いつ、どのように船が沈没したのかはわからない。残りの二隻はそれからおよそ一年後、時間差で航行していたものが行方不明になったのだそうだ。ここまで原因不明の船の消失が続き、サラボナ北東とポートセルミ間に出ていた連絡線は已む無く運行を休止することとなった。漁船その他の船も出来る限りの警備強化をして、必要に駆られた時のみなるべく船団を形成してその海峡を渡るようにしていると言う。

 そう考えるとなるほど、義父がフローラを急ぎ修道院から呼び戻したという話も合点が行く。彼女が十四歳という若さで修道院を発ち、また僕達が樽に入って流れ着いた頃には海洋事情は相当悪化していたのだ。

 海流の関係か、船の残骸もご遺体もほとんど見つかってはいない。内海中央の神の地か、遠い東の大陸に多くのご遺体が流れ着いているらしいとの噂があり、そちらで弔われていることを祈るばかりなのだとか。

 嵐だろうが、魔物との遭遇だろうが、あくまで偶発的な事象と捉えるべきだろう。そうではなく、こうもセルマー海峡でだけ頻発する理由があるはずなのだ。

 強大な魔物が巣食っているのか。船底に穴を開ける罠でも張られているのか。ピエールが示唆したように、魔王のような力を持つ何者かが魔物を統率し動いているのか。

 脳裏を過るのはあの青白い顔。忘れもしない、間違いなく教団と繋がっている、恐ろしい力を持つ高位の魔族。父を生きたままこの目の前で灼いた、残虐無比なあの魔物の姿だ。

「その海峡だけで何艘もの船が沈んでしまう、そこに共通した原因があるなら出来る限り取り除いてから先へ進みたい。それだけなんです。……でも何か、ずっと見落としている事があるような気がして……」

 また、あの得体の知れない昏い混沌が足許をぞろりと這った。まるで呪いだ。一度だけ頭を揺すってそれを振り切り、まじないの如く自分に言い聞かせた。一見すれば誰にともなく呟いたかのように聞こえるよう。

「見落としかぁ……んー。確かに、ちょうど見えませんからね、セルマーって。ポートセルミの灯台からも死角だし、前に乗り付けてたサラボナ北東の岸からも結構距離があるんですよね」

 アランさんの何気ない一言に、ふと意識を引かれた。ちょうど、見えない?

 咄嗟に頭の中にある地図を広げた。細かいところは朧げだが、なんとなくの位置関係は頭に入っている。

「サラボナの見晴らしの塔からもさすがに見えないですよね? そうか、結構遠いんだ」

「遠いですよぉ。あの塔からだと見えるのは精々カボチの手前くらいまでじゃないですか? カジノ島からならもしかしたら見えるかもしれないけど……そもそもカジノ船自体が視界遮ってるからなぁ」

 それではカボチ村周辺からならよく見えるのでは? と問うたが、あの近辺はカボチの住民が自治を任されている土地なのだそうだ。そもそも森があるせいで霧が出て見通しづらいこともあるが、村そのものが排他的な性分からか、船も寄せられなければ見張り台の一つも作らせない。正直、海峡の更に沖合を通らなくてはならないのもこの為なのだそうだ。僕もカボチ村にまつわる苦い経験を思い出し、然もありなんと溜め息を零した。

「そうだ。参考までに、これまでセルマー海峡にどんな魔物が現れていたのか、わかる方がいたらご教示いただけませんか?」

 肝心なことを聞きそびれていた。改めて全員の顔を見渡すと、それぞれ首をひねりながら馴染み深い種属名を挙げてくれた。

「どんなって……普通じゃないっすかね? マーマンにオクトリーチ、しびれくらげ、あと海賊っぽいやつとか。幽霊船長って俺達は呼んでますけど」

「ああ、確かに。この辺で遭うやつと大体同じ感じなんですね」

 名を挙げられた魔物達が最近相手をしたものばかりであることに内心落胆しつつ、頷いた。結局は全ては同じ海の中、延長線上にあると言うことか。セルマーでしか観測できない特異点のようなものが事前にわかれば、検証して手を打つこともできるのに。せめてヘンリーにもっと詳しく話を聞いておけば良かった、などと今更悔やんでも遅い。

「──そういえば、前に乗り合わせた船がセルマーを通って戻ってきたんです。半年くらい前でしたか、その時もやっぱり魔物の群れに捕まって」

 いよいよ手詰まりか。そう思った時、一人の青年が思い出したように声をあげた。場の注目を一瞬で攫ったその航海士は状況を懸命に思い起こそうと瞼を閉じて宙を仰ぎ、そのこめかみをとんとんと軽く叩いた。

「振り切ってきたんですが……そうそう、最後にどこからかキメラが飛んで来てたんですよ」

 

 記憶の、欠片がどこかでかちりと嵌った。

 

 海で見るのは珍しいですよね、と言う彼の声が遠ざかり、同時に耳の奥でざぁっと血流がさざめく。身体中から血の気が引いていく感覚が妙に生々しく皮膚へと伝わる。

 そんな、──まさか。

 少し思い出したことが、と何とかそれだけ皆さんに告げて立ち上がり、身を翻すと同時に床板を蹴る。船内のとある部屋を目指して、僕は全力で駆け出した。

 

 

 ────どうして。

 どうして、どうしてもっと早く気づかなかった!

 

 

 違和感はあった。小さいけれど、ずっとずっと引っかかりはあったんだ。それこそ今回、サラボナを発つ前から。

 初めの違和感は婚礼の後。出立の許しをいただくために、フローラと二人きりで西の小島の祠詣りに出掛けた。あの時、休息のために岸辺で停泊していた時、キメラの襲来を皮切りに水棲の魔物が襲ってきた。とは言え魔物の半分以上は船縁に絡みついて船を転覆させようとしていただけで、だからこそずっと違和感が残っていた。今までに、対峙した僕達より先に馬車を引き倒そうとするような輩がいただろうか?

 それでもそれは、ほんの些末な引っかかりに過ぎなかった。偶々だと、それ以降は気にもしなかった。キメラが多いのも地域柄のことだろうと、漠然と思っていた。

「────フローラ‼︎」

 ほとんど叫び声と共に目的の扉を開け放つ。その室内ではフローラが講師然したマーリンと向かい合い、昨日始めたばかりの魔導の講義を受けているところだった。只ならぬ様相であろう僕にいち早く気づいてくれたフローラが跳ねるように立ち上がり、すぐさま入口へと駆け寄って来てくれる。

「どうなさったのですか。まさかもう敵襲が?」

「いや、違う。ごめん講義中に……フローラに、どうしても訊きたいことがあって」

 乱れた息を整えながらフローラの肩を強く掴んで訴えたら、すぐに彼女は可憐な唇にきゅっと力を篭めて引き締め、姿勢を綺麗に正してあとに続く言葉を待ってくれた。

「この間……お義父さんの帆船で二人で祠を見に行った時のこと、思い出せる? ほら、僕が途中で仮眠をとった時。君が魔物の気配に気づいて教えてくれた」

 綺麗な双眸にわずかな戸惑いを映しながらも、君が頷く。期待通りの返答に安堵しつつ、更なる問いを被せた。

「あの時、真っ先にキメラが襲って来ただろ。何を狙っていたと思う? ──間違っていてもいい。フローラが感じたままでいいから、聞かせてほしいんだよ」

 一言、ひとこと。問いかけを紡ぐたび、君の瞳にじわじわと驚きの色が滲んでは広がっていく。

 今更何を言い出すのかと思うだろう。僕の勘違いならそれでいい。どうか気のせいであってほしい。莫迦げたことを言うなと、一笑に付してくれても構わない。

 何故あの時、フローラを一人にした?

 無事だったのが奇跡なんだ。側にいろと、僕が休んでいる間も船室から出るなと言えば良かった。話しかけられないなんて、干渉してこれ以上嫌われたくないなんて、莫迦げた感情に惑わされないで。

 あの時だけじゃない。死の火山へ向かう時にも、キメラが先陣を切って突っ込んで来たことが何度かあった。そのいずれの時も、君が襲撃の気配に真っ先に気づいていた。

 偶然では、なかったとしたら。

「……勘違い……だと、思っておりましたが」

 やがて、記憶を深くまさぐった君が、怖気を堪えるようにその華奢な肩を両手に隠して抱いた。そのまま、恐る恐る先の問いへの答えを口にする。

 ──僕を震撼させるのに十分すぎる、おぞましい答えを。

「私……だった、かも……しれません……」

 

 

◆◆◆

 

 

 何故、彼女が狙われたのかは分からない。

 見るからにか弱いからなのか、碧い髪が珍しかったからなのか。それとも彼女が水のリングを持っているからか。

 思いつくままに列挙してみたが、一通りの話を聞かされたピエールは渋い声音のまま「ま、指輪はないでしょうな。その中で言うならばやはり、奥方殿が弱い、と言う一点に尽きるのでは」と辛辣かつ容赦ない一言を浴びせてくれた。

 急遽、講義を中断して二人についてきてもらい、今は前部甲板の下に設えられている小さな船室に集まっている。僕が幼い頃、父と共に寝泊りした懐かしい小部屋だ。子供の頃はずいぶん広く感じた船室だったが、今入ると窓がない所為か、はてまた仲魔達で賑わっている所為か、記憶より随分と手狭に感じる。

 とにかく今は、少しでも早くこの思考がまとまって欲しい。きっと結局は何の確証も持てはしないけど。

「やはり、そうですよね。私もきっと、自分が弱いからいつも狙われてしまうのだろうな、と思っていました。もしそうでも、私が狙われる分には寧ろ皆さんは動きやすくなるのでは、とも思ってしまって。──黙っていてごめんなさい……テュールさん」

「何でフローラが謝るの。魔物がなりふり構わず自分に向かってくるなんて怖かっただろうに。本当に、無事でいてくれて良かった……」

 項垂れたフローラの両手を掴むと、その優しい温もりに安堵して力が急速に抜けていくのを感じる。恐ろしかったのは君だというのに、こんな時まで励まされるのは僕の方だ。

「いつだってあなたが守ってくださいますのに。何を怖がることがあるでしょうか」

 そう言って穏やかに微笑む君の掌から、しかしごくごく微かに伝わってくる震えに気づかずいられるほど愚鈍ではない。

 やはり彼女が魔物の気配に敏感であるのは、自身が執拗に見られている──狙い定められている感覚からくるもののようだった。ならば死の火山で何度か不意打ちに驚いていたことも理解できる。水のリングの魔力が発動した瞬間、彼女は完全に後手を取られた状態だったから。

「確かに、弱い者から狙わんとする判断自体は理解できます。しかし、奥方様は回復以外まだ何もお出来にならぬ。逆に言えば毎回どうしても真っ先に屠りたい相手とも思えぬ、ましてや側には必ずご主人ほどの使い手がおるというのに」

 マーリンはやはりいつでも冷静だ。その提言を頼もしく聞きながら、僕もまた内心に浮上していた可能性を示した。

「屠るため、ではなかったら? ……何の根拠もない戯言を言うよ。キメラだったら、フローラ一人くらい運んで飛べるよね」

 多少のことでは動じない仲魔達の間にもさすがに僅かな戦慄が走る。フローラもまた、僕の隣でびくりと身体をすくませた。

 掻い潜る自信があったということだろう。実際、一太刀避ければフローラをその背に引っ掛けて飛び去るだけで良かったのだから。舐められたものだが、速さに重きをおいた父の剣技を手本にしてきたことをこれほど有難く感じたことはない。

「運べるとは思いますが。……何か目的があって生け捕りにしようとした、と?」

 先の戯言に込めた、僕の本意を咀嚼したマーリンの厳かな問い返しに、黙って深く頷いた。

 殺意が全くなかったとは言わない。殺してもいいと考えていただろうとは思う。運が良ければ掴んで飛び去る、くらいの感覚だったのではないだろうか。──そしてそれはきっと、船にも同じことが言える。

 沈没じゃないかもしれない。あまりに魔物に沈まされることが多かったからそう思い込んでいるだけで、本当は目の届きにくいあの海域で船まるごと『生け捕り』にされているのではないだろうか?

「荒唐無稽だと思う? ──僕はあり得ると思っている。すぐそこに、大量の労働力を必要とする場所があることを知っているからね」

 僕の意図を汲んでくれている仲魔達は無言の肯定で応える。唯一、フローラだけがひどく哀しげな眼差しで僕を見つめたが、緩く首を振って返すとそっと睫毛を伏せてまた項垂れた。

 もう、傷ついている場合じゃない。

 他でもない君が狙われて、黙ってなどいられない。

 当時は疑問に思う余裕もなかった。あれだけ過酷な建設現場で、脱落、処分されていく者もたくさんいたのに。そういえば作業場から人が減ることはほとんどなかった。一体どれだけのご遺体を毎日、あの樽で流していたんだろうか。そして、ほぼ同数かそれ以上の人間がどこからか常に『補充』され続けていた。

「客船一つで五十から六十人。船ひとつ、ほんの数海里運べればそれだけの労働力──奴隷を一気に手に入れられる。……巧妙だと思わないか? 現に今まで誰も沈没を疑わなかった。それだけの規模で拉致が行われているなんて、普通想像もしないだろう」

 そう、普通の人は思いつきようがない。だってまさか、神の地と謳われるセントベレス山で人道に悖る行為が行われているなんて。それが還らぬ何隻もの船と繋がろうなんて、考えもしないだろうから。

 思い出したくない記憶を掘り起こすことは難しい。三年前、僕はまだセントベレス山にいた。耐え難い汚臭と血の匂い。誰かの悲鳴とすすり泣き、それを打ち消す非情な鞭の音。強制労働に従事して九年目、何百人という奴隷がろくな休息も与えられずにひたすら岩や砂を運ばされていた。もはや色々な感覚が麻痺していたような気もする。屈辱も悲嘆も尊厳も、幼い頃はまだ懸命に守っていたはずの一切が遠くて。

 ただ、父の悲願を為さねばと。いつかその地を逃れて母さんを救い出すという幻想を、ただひたすらに胸の内に守っていた。

 それで精一杯だったのだろうか、ヘンリー以外の奴隷仲間のことはほとんど思い出せない。あんなにたくさんいたのに、入れ替わりも激しかったからかいつしか覚えることをやめてしまったのかもしれない。入ってきてすぐの頃には自分の身の上を話す人もいたけれど、ほとんどはそんな気力を持たない者ばかりで、その人達もいつの間にか欠けていっては誰も顧みなかった。その三年から僕達が脱出するまでの間に、船に乗っていたという人が入ってきたかどうかも定かではない。

 せめてイヴァン殿に似た青年がいなかったか、思い出せたら良かったけれど。

「フローラの件は違う目的もあるのかもしれない。でも結局は同じところに辿り着く気がする。子供が攫われる、という話が昔からあるのを知ってる? 本当の目的は知らないけど、何者かが世界中から子供を集めていて、ヘンリーは元々その一環で攫われたんだ。太后様から伺った話だから間違いない。……結果、僕も一緒に捕まって教団の奴隷にさせられた、ってだけだよ」

 子供、というのも疑問が残る。僕達が子供の頃『子供』だった存在が拉致の対象だと言うのなら、フローラもちょうどその年齢に当たるのだから。本来の目的がわからないことにはなんとも言えないけれど、単に子供を産むであろう女性を代わりに集めている、という見方もできる。どれもこれも、吐き気がしそうな話ではあるけれど。

 フローラには酷な話だろうか。不安になってちらりと横顔を見たが、彼女はやはり気丈に口許を引き結び、食い入るように僕の話を聞いていた。懸命に凝らした翡翠の瞳が激しい憤りに揺れている。その様子を盗み見ただけで、僕まで喉元に熱いものがこみ上げそうになってしまう。

 君が怒ってくれるならもう、それだけでいい。

「真実がどうかは別として、お考えは概ね理解した。それで、あるじ殿はこれからどのようになさるおつもりか?」

 暫し、各自考え込むような間があって。船腹をうちつける水の音が篭って響く静寂を、ピエールの低く鋭い声が破った。

「セルマー海峡で何が起こっているのかを確かめたい。僕の推測通りなら、単身で海峡に入れば船をどこかに運ぼうとする勢力が現れるはずだ。それを釣りたい。──その為には、あまり大規模な船団を組んでは行けないかもしれない」

「……納得、しますかな。あの御仁は」

「してもらう」

 ピエールの言葉を遮って、強い口調で言い切った。ここまできて、尻込みしている場合じゃないだろう。

 教団のことを話したのは迂闊だったけれど、それ以前に、あの老船長にとって今回の討伐が弔い合戦であることは理解している。孫のことだけじゃない。船を、海を率いて来た者としての矜持が彼を支えている。彼に退けということは、きっと死ねということに等しい。

 ────それでも。

「説得する。呑み込んでもらわなきゃ困る。機会は一度きりだと思わないと、中途半端に叩けば次は本当に対処できない奴が出てくるかもしれない」

 幸か不幸か、まだ誰も気づいていない今だから。恐らく奴らはこの件、そもそも人間を奴隷にしていることを、人間社会に気取られないよう秘密裡に行ってきている。これだけ長く、あんな残虐なことをしておいて、セントベレス山の外の世界で教団の真実を知る人間は僕らとヘンリー達くらいしかいないのだから。

「しかも、どうやら信者を増やしたいようだからね。余程教団の名に疵が付くのは嫌と見えるよ。……だったら、揺さぶりをかけない手はないだろ? あの海域の船に手は出せないと思わせるくらいの威嚇はしておきたい。じゃないと、僕らも安心して先へ進めない」

 その為に、炙り出さなくてはならないのだ。巧妙に隠されてきた、死角に潜んだ本当の敵を。その企みはここで潰えるのだと、思い知らせなくてはならない。

「……フローラ」

 ずっと僕に寄り添ってくれていた、少しだけ蒼ざめた様子の妻の手を握り直す。

 囮になんてしたくない。必要以上の危険に曝すようなことは。出来るなら本当に船室の中に閉じ込めておきたいと思う、けれど。

 ──君はきっと、僕の一番近くで戦うことを望んでくれる。

 だったら。

「絶対に守る。側にいるから、──力を……貸してくれる?」

 繋いだ手から、返事より先に君の覚悟が伝わってくる。

 怖れも、緊張も、何もかもを唇一つ噛んで呑み込んで。健気すぎる僕の妻は、その揺るぎない眼差しに一切の迷いを見せずに頷いた。



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#9. 洋上、衝突

 さて、この一連の推察をどのように説明したものか。いざフォスター船長の元へ相談に出向こうとしたところで、僕は思わぬ躊躇に足を止めてしまった。

 実際この件に光の教団が関わっているのか否か。判然としない、当て推量でしかないことをしたり顔で主張するのも嫌だったし、何より僕自身が過去の一切を船長達に伝える勇気を持てなかった。フローラと仲魔達にはどれだけありのままに話せても、奴隷であった事実を第三者に打ち明けるということは今更ながら、とんでもなく勇気のいることだったのだ。

 彼らが主と戴く当家令嬢の新婿の出自が奴隷だった。学のない物知らずの僕でも、その身分が忌まれるものであることくらい承知している。ラインハット王族という、真実褪せない身分であったヘンリーとは違う。

 こんな奴隷上がりの見窄らしい男を、皆さんは受け入れてくれるだろうか。

 もしも失望され、態度が変わってしまったら。

 そのように考えること自体、僕自身が未だ彼らを信じきれていないことの証左のようで心底嫌気がさす。それでも、どうしても奴隷の件だけは、フローラ以外の人間に話す気になれなかった。

「私は、話さなくとも良いと思います」

 僕の情けない独白を聞かされたフローラは、それでも動揺を欠片も見せず、彼女なりの回答を穏やかに口にした。

 きっと更に心許ない、彼女にしか見せられない臆病な眼差しで訴えると、フローラはもう一度聖母の微笑みで頷いてくれた。

「結局は魔物を釣り出す、というお話になるのでしょうし。先ずは確証を得るために動きたいということなのですから、テュールさんが絶対に必要だと思われたことだけ、お話しされれば良いのではないでしょうか」

「……それで、いいと思う? 船ごと捕らえられている可能性を認識できているかどうかで、僕達がテルパドールへ向かったあと残る船の警戒の仕方が変わってくる。情報は持っておくべきだと、その方がいいとは思う……のだけど」

 被害を出したくない。だったら回避の為の情報は共有しておくべきだ。僕の私情などどうでもいい、そう思うのに躊躇は拭えない。僕ならやはり、知らずに不幸を生むより知っておきたいと思うだろう。残酷な事実でも、──それが、真実であるなら。

 それでも。

「私も、酷だと思いますもの。……イヴァン様にこの上、期待を持たせてしまうことは」

 目を伏せたフローラの独白は、臆病の更に奥底に隠した僕の甘さをこれでもかと浮き彫りにする。

 船は沈んでなかったかもしれない。イヴァン殿の孫は生きているかもしれない。あまりに稀薄なその可能性は希望だろうか、絶望だろうか? 事が起こった瞬間落命を逃れたとして三年、今も生存している保証などない。仮に教団の関与が確定したところで彼らを救い出す方法も、その力も僕にはない。

 僕は正義の使者でも、勇者でもない。父の遺志を継ぎたいだけの、ただの旅人に過ぎないから。

「……難しいね。一番正しいことなら、どんなことだって迷わず決められると思っていた」

 ぼんやりと呟いた、ほとんど独り言に過ぎないそれに、フローラが小さく同意を示してくれた。

「あなたの選択には誠意があります。だからこそ父も、他の皆様もあなたを信じられるのですわ。もちろん、私も」

 控えめながらも揺るぎない、君の言葉が僕の背中を強く押す。きっと彼女の言葉には偽りがないから。……確かに、そうだ。君が言ってくれるように、君の励ましにも誠意しかない。だからこんなにも、すっと心に浸透するんだ。

 自分でも驚くほど勇気づけられるのを感じながら、決意も新たに顔を上げた。

 そうして明けた今日、船長室には大型客船三隻の船長が集い、これから遂行する作戦についての合議の時を待っている。当船舶のフォスター船長には簡単に話を通しておいたけれど、温和な彼でさえさすがに顔をしかめた。当然だろう。ましてや海の武人とも呼ぶべきイヴァン船長相手に、僕がどこまで交渉できるか。

 フローラの温かく優しい手に支えられ、緊張と共に船長室へと足を踏み入れた。

 高級な厚手の絨毯を敷き詰めた室内の真っ直ぐ数歩先、船室の中央に据えられた卓を囲んで、船長達は談笑していたようだった。僕とフローラが入室すると和やかな空気は一変、どこか張り詰めた雰囲気へと変わる。真正面から僕の視線を捉えたイヴァン船長が不敵に笑い手招きする。

「待ったぜ、総統殿。今日は配置と動きの確認ってことで良いんだろう?」

 卓上に広げた海図の上に肘をつき、彼は言う。頷き、彼の向かいに立ったまま近づいて卓を見下ろした。「お待たせ致しました。皆様、改めましてよろしくお願いします」と会議の始まりを告げれば、三船長と僕の背後に立つフローラがきりりと姿勢を正したのがわかった。

「この速度、この航路だとあと二十時間程度でストレンジャー号はセルマーに差し掛かる」

 最年長の老船長が海図の上の現在地を指し示す。その左右に腰掛けた彼より若い船長達は特に異論もなく彼に主導権を譲っている。誰が選ぶでもなく、海における長はこの老練の船長だということを示していた。

「えらく悠長な進み具合だがな。まあいい、今のストレンジャー号との間隔は概ね二海里弱ってとこだ。念のためもう少し詰めるか。予定通りなら昼頃の到着だからそのまま仕掛ける。我々は海峡に向かって西側から内回りに追跡する。小舟は特に収穫なしで退かせているが、このまま問題なけりゃポートセルミに戻しても良い。今の感じならこの三隻で事足りるだろう」

「その、件ですが」

 緊張のあまり腰が引けそうな自分を激しく叱咤し、発言を捩じ込んだ。三船長が一斉にこちらを見る。フォスター船長だけ、憐れみに似た眼差しで見守ってくれているのがわかった。

「実際に、セルマー海峡で何が起こっているのかを確かめたいんです。他の船にはもう少し距離を取ってもらって、この船だけで海峡に入りたいと思っています」

 船長室中央の椅子に深く腰掛け、腕を組んだイヴァン船長の眼に鋭いものが走る。落ち着いた様子でぎし、と椅子を揺らした彼は、重圧感のある低音で場の空気を震わせた。

「距離をとる、てのはどのくらいだ」

 真っ向から返された問いに思わず唾を飲む。緩く息を吐き、気持ちを落ち着けてから口を開いた。

「三海里半から五海里。出来ればあちらの飛空魔の視野に入らない程度には空けたいです。ですが、合図の花火に気づけないほど離れては困りますから、そこは適度に」

 具体的な距離を聞き、老船長は益々渋い表情で海図を眺める。

 ここまでストレンジャー号を中心に魔物を狩りながら航行してきたが、二手に分かれる。ストレンジャー号はより自然な航海を装うため、普段の船と同じ航路で問題の海峡に向かう。ヴィクトリア号とフローリア号にはストレンジャー号と交替で魔物狩りに一日注力してもらい、予定より早い明朝の日の出を目処に海峡から五海里弱の距離をとって待機してもらう。期待通りの襲撃ないし変化に応じてストレンジャー号が花火を打ち上げるので、それを合図にこちらに向かってほしい。

「花火を打ち上げた後、ストレンジャー号も一旦引き返す形で航行できれば、恐らく小一時間程度で合流できますよね? この船の皆さんなら魔物の群れを十分凌げます」

 ヴィクトリア号及びその他船舶には、恐らく周辺海域から集まってくるであろう魔物の対処もお願いしたい旨を併せて告げた。

「海峡であった襲撃の際、キメラが現れたという証言がありました。偶然かもしれませんが、僕にも少しばかり心当たりがあります。それを検証したいんです。あまりに大勢で通ると警戒されてしまうかもしれない。あと、小舟も戦力を積んでくださっているはずですから、余力があれば海峡以北の魔物掃討をお願いできたら。海峡上の残党狩りはお二方にお任せしたいですから」

 海図を覗き、周辺の海域を指で辿りながら三船長を伺い見た。それぞれに難しい表情のまま卓を見下ろしている。やはりすんなりとはいかないか、とひっそり肩を落とした瞬間、イヴァン船長のやや掠れた声が静寂を破った。

「……単独で行くのは、ストレンジャー号でなくてはならんか」

 つられて顔を上げれば、感情を抑えた静かな双眸が真っ直ぐこちらを射抜いていた。

「有り体に言えばな。お嬢様をお乗せした船を、すぐに救援できない形で前線に出すことには承服しかねる」

 胸を衝かれる。想定内の答えとはいえ、容赦なく叩きつけられた否認には小さくない落胆を覚えた。僕の失意を知ってか知らずか、老船長は更に畳み掛ける。

「フローリア号は後方支援のための面子で成っているが、うちの船はストレンジャー号と同等の働きができるはずだ。且つ、ストレンジャー号の方が速い。ヴィクトリア号が先行し、ストレンジャー号とフローリア号が駆けつける形の方が望ましいと思ったが、どうだ」

「────それは」

 言い澱んだ僕に被さるように、背後から透明な声が響く。

「……恐らく、私が一番早く襲撃に気づけると思うのです」

 誰よりもこの場にそぐわない、どう見ても戦いとは無縁の少女の声だった。同時に誰より狼狽したのは老練の船長で、即座に腰を浮かせると荒々しく声をあげた。

「何を……っ、仰っているのですか⁉︎ お嬢様‼︎」

「本当なのです、イヴァン様。キメラの襲撃、私はこれまでに何度もいち早く気づいて参りました。テュールさんにお確かめくださっても構いません。……テュールさんと私は今回、他の船に乗ることが叶いません。どうかご理解くださいませ」

 彼女よりずっと大柄な男の、恫喝に等しい叱責にも彼女は全く動じない。淡々と告げて、ちらりと哀しげな眼差しを僕に投げかけた。僕も頷いて船長達の卓へと向き直り、彼女の言葉を引き継いだ。

「フローラの言に間違いはありません。彼女は魔物の気配にとても敏感です。実際、僕は何度も彼女に助けてもらっています」

 茫然とした様子で僕達の説明を聞いていた船長達だったが、唐突にだん! と卓に手を衝きイヴァン殿が僕を凝視した。それ以上間を詰められたわけでもないのに、胸倉を掴まんばかりの怒りの色に戦慄すら覚える。

「まさか、……宝石狩りの時、お嬢様は」

 ────ああ、

 今更ながら、この人達はフローラが危険な探索地へ赴いたとはゆめ思わなかったのだ、と気がついた。無理もない、あの火山にこの淑やかなご令嬢を連れて行くことがどれほど有り得ない話か。ほんの少し前までの僕ならばやはりそう思っただろう。街で待っていてもらうのが当たり前だと──それでも、一度冒険を共にしてしまった今はもう、彼女を手放せる気がしない。

「……同行してもらいました。その時にも、キメラに遭っているんです」

 絶句した船長達の頭上に、尚も静かなフローラの声が降る。

「私が望んでお願いしたことです。テュールさんが私に何かを強要したことなど、一度もございません」

 呆気にとられる男達を前に、フローラは落ち着き払ったまま瞼を伏せた。実はこの中で彼女が最も権威を持つ存在とはいえ、ここまで庇い立てされては正直男として情けないことこの上ない。その上、引き際までこうも見事に弁えられては。

 せめて、気持ちで負けるわけにはいかない。背後の澄んだ気配に支えられ、自然と口許に、握り締めた拳に力が篭る。

「……お嬢様のお望みとは言え、よくもまぁ……」

 老船長が如何にも苦々しげな笑みで唇を歪ませた。甘んじて受ける覚悟はしてきたが、この場にフローラが同席していなかったら今頃、僕は数発張り飛ばされていたたろう。

「明日は、少々天気が崩れそうです。雲が出る兆しがある」

 それまで黙って成り行きを見守っていたデニス船長が、徐ろに口を開いた。

「五海里といえば凡そ二時間の距離です。ストレンジャー号が逆行できれば確かに小一時間で合流できましょうが、まず天候が思わしくない。魔物に捕まって、もしくは船に異常を来して動けなくなる可能性もある。その場合でも二時間持ち堪える、もしくはストレンジャー号単体で切り抜ける自信はありますか?」

「あります」

 デニス船長の問いに即答した。隣の老船長が怪訝な目を向けてきたものの、臆したら負けとばかりに更に重ねて言い切った。

「フローラを乗せた船を沈ませはしません。僕も、皆さんも同じ覚悟でいます」

 言いながらもストレンジャー号の責任者たるフォスター船長に同意を求めて目配せする。彼もまた、やれやれと言うように苦笑し頷いた。

「テュール殿の仰る通り、船員の士気はこの上なく高い。あなた方が来るまでは粘ってみせますとも」

 長年の腹心の翻意にイヴァン殿は益々眉間に皺を寄せた。僕と、フォスター殿を何度も見比べては睨み、卓をとんとんと指先で鳴らす。そんな先達らの様子を、フローリア号の若き船長デニス氏は微妙な苦笑いを浮かべつつ見守っていた。

「……お前ら、この後テルパドールへ向かうんだろうが。解っとるんだろうな」

 やがて、苛立ちを隠さないイヴァン殿の詰問が飛んだ。

 彼の指摘は正しい。この後凡そ三、四ヶ月の航海を控えるストレンジャー号こそ物資も、体力も温存すべきなのだ。万が一船が損傷すれば暫く進めなくなる。そしてこの船には、西の大公ルドマン卿の一人娘が乗船している。

 万が一など許されない。絶対にだ。

「カイルの件で儂を気遣ったつもりなら要らん世話だ。本気で張っ倒すぞ」

 孫の名らしいそれを口にし、怒気も露わに吐き捨てたイヴァン船長に僕が答えるより先に「いいえ」と、凛とした声が僕の背後から発せられる。

 どんな哀しみも憤りも、一瞬で鎮めてしまう浄化の声。

「いいえ。何より私の身を第一にご案じ下さっていること、分からぬはずがございません。本当に、有り難うございます。……イヴァン様」

 そうしてフローラは碧い髪をさらりと肩から零して頭を下げる。深い慈しみと、微かな贖罪が込められた彼女の一言に、今度こそ老船長は言葉を失った。

「船も、彼女も、みんなも守るつもりでいます。若造の大言壮語と笑われてしまうかもしれませんが。ヴィクトリア号とフローリア号が到着するまで、絶対に持ち堪えてみせます」

 嘘ではない。僕にはそれしか言えないし、それを真実にするつもりしかない。あとは信じて、力を貸してくださるよう頭を下げる以外に今、僕に出来ることなんてない。

 僕の誓いを聞き届けた彼は、その本心を見定めるかのように訝しげな瞳で僕を見る。暫し睨み合ったのち、大きな溜息と共にうんざりと目を逸らしたのはイヴァン殿の方だった。

「……大見得で終わらせるんじゃねえぞ、小僧。お嬢様の身に何かあってみろ。死んで逃げられると思うなよ、それこそ地獄の果てだろうが絶対に追いかけてやるからな」

 抉るような、苛烈な眼光で僕の両眼だけをもう一度正面から見据えて。歴戦を思わせる白髪の船乗りは、鬼神の如く腹に響く凄みを帯びた声でそう告げた。

 

 

 

 会議の開始からおよそ一刻後、西へと傾きつつある太陽の下。ストレンジャー号はそれぞれの船長を見送るため、再び彼らの客船を船尾に迎えた。

 実質明日からの長い航海に備え、この数日で目減りした物資をそれぞれの船から補充した。久々に見交わす顔ぶれに湧き立つ船員達を船長らと並んで眺める。総勢凡そ百五十名、小舟も入れれば二百にも迫ろうという大船団が今、この海に集っている。

「それで結局、光の教団とやらは関わっていそうなのかい」

 見送りの際、すれ違いざま薄く笑って声を潜めたイヴァン殿の気迫に、僕は引きつった笑いと共につい言葉を濁してしまった。

「ちっ。しっかり『検証』してくれよ、総帥殿」

 態とらしい舌打ちを残し、イヴァン殿は再び接舷したヴィクトリア号へと消えていく。離れ行く客船をフローラとフォスター船長、そして次の船の到着を待つデニス船長が隣に並んで見送った。

「あの人に喧嘩を売るとは、いい度胸だ」

「喧嘩だなんて。そんな」

 ぽそりと呟かれた声に思わず狼狽し振り返れば、どこか可笑しそうに笑みを零したデニス船長が肩を揺らして僕を見下ろした。

「人を頼るのは苦手かい?」

 僕より更に長身の、普段あまり見ることのない黒髪黒眼はどうしたって父を連想させる。僕に実の兄がいたらこんな感じなのだろうか。会議の前よりどこか気安い雰囲気のデニス船長に、何となく照れ臭いようなものを感じて口籠もりつつ、頷いた。

「はは。何となくそうかなって気がしたんだ。なるほど、大旦那様の采配も頷けるな」

「……そうでしょうか。ずっと一人でやってきましたから、どうやって他人様に力を借りたらいいのかわからなくて」

 親しみを覚える容貌に誘われてか、普段は零さないだろう本音がぽろりと漏れた。彼は興味深げに頷き、僕にだけ聞こえる密かな、穏やかな声で言う。

「だが、君の傍には今、お嬢様がいるんだろう? どうやら酔狂でお連れしているわけでもなさそうだ。……同じように、してみたらいいんじゃないか」

 ──簡単に言ってくれる。

 至極当然という口調に困惑と、微かな苛立ちが湧いた。僕なりに心を開いているつもりでも、どうしたってフローラと同じようにはいかない。勿論皆さん良くしてくださるけれど、それでもこの船の中、僕だけが未だ異物のように感じられるのに。

 返事に窮し俯いた僕をまたちらりと見て、彼は苦笑したようだった。目の前には白亜と碧の装飾が美しい、新型客船フローリア号が接舷しようとしている。

「ま、中々すぐに気を許すってわけにもいかないだろうが、ストレンジャー号の連中は気風がいい。でかい家族が出来たと思ってくれれば、みんなも喜ぶ」

 船員達の賑やかな喧騒の中、彼の穏やかな囁きが際立って聞こえる。不思議と沁み入るのは、昨日フローラが言っていた理由のせいだろうか。

 ──誠意が、あるから。

「あのおやっさんもな。頼ってやりな、喜ぶから」

 最後にぽん、と僕の紫の肩を叩くと、口角だけで小さく笑った。ひらりとその手を振ったデニス船長が促されるままに船を移乗し、出発を告げるあちらの船員の掛け声が高らかに響いた。

「……喜ぶ、ってさ。ほんとかな?」

 両船を繋ぐ綱が解かれ、威勢の良い宜候の声とともに船が離れていく。すでに見えなくなった黒髪をぼんやりと目で追いながら呟いたら、並んで見送る君が僕を軽く見上げて優しく微笑んだ。

「ええ。きっと」

 

 

 

 二隻の客船を見送ったストレンジャー号は乗船員らにこれ以降の予定変更を通達し、今は緩やかに航路を変えてセルマー海峡へ向かっている。ヴィクトリア号が大きく蛇行して魔物を狩ったあとの夕暮れの海路は、久々に魔物の気配もなく穏やかに凪いでいる。

「お疲れ様です、テュールさん。いよいよっすね」

 甲板に出てぼんやりと夕陽を眺めていたら、通りがかったアランさんが声をかけてくれた。振り返り、淡い笑みを作って頷く。

 明朝、この船は問題の海峡に差し掛かる。

 例え僕の推測が正しかったとして、あの青い顔の慇懃な魔族達が現れない保証はない。触らぬ魔族に何とやら、とも言えようが、逆に今回船団を組んで無事海峡を越えたとして──そして毎回同じように厚い警備態勢で以て越え続けたとして、掌握を回避し続ければ業を煮やした魔族らによっていつかもっと甚大な悲劇が起こらないとも限らない。

 奴らが人間社会にひっそりと信仰の根を張り巡らせようとしている今、そして、こちらが勘付いたことも悟られてはいない今が最大の好機に違いない。

「しかし……これで何も出なかったら拍子抜けですよね。幸運っちゃ幸運だけど」

「出ると思いますよ」

 アランさんと並んで今一度、水平線を染める夕焼けに魅入られながらすかさず答える。目を丸くして僕を覗き込んだ彼を微笑んで見遣り、「……多分」と控えめに言い足した。

 うっかり続けそうになった言葉は、胸の内深くに飲み込んで隠した。

 ──あいつらが、あいつらにとっての邪教を許すはずがありませんから。

 その夜の海は不気味なほど静かで、船腹に打ちつける波の音ばかりが延々と聞こえていた。どこまでも続く海原を遠く見遣れば、天から冷たく見下ろす月がその波間にぼんやりと照り返す。

 翌朝、夜明け前から広がり出した鉛色の雲に朝陽を遮られた曇天の下、ストレンジャー号は予定通りセルマー海峡へと入った。

 

 

◆◆◆

 

 

「畜生、どえらく溜まってやがるな。おいこっちもだ! 手の空いてるやつは得物持って右に回れ‼︎」

 半刻も経たないうちに魔物に船を取り囲まれ、一帯は混乱の様相を呈した。これだけ魔物が巣食っているのは普段船がこの海域を避けて通らないからというのもあるのだろう。魔物の坩堝と化した海を船縁から覗けば、深い蒼に紛れて無数の人ならざる生き物達が水を撥ねて蠢く。それらも船員と仲魔達の飛び道具や魔法、特技を前に次々と沈んでいく。周囲を囲まれて進めないかと思ったが、船底の罠が功を奏したか、その戒めも少しずつ解けていく。

「引き返しますか、テュール殿⁉︎」

「いや、まだ! 確かに多いですけど、これくらいなら問題ない。遭遇の合図だけ準備をお願いします! 念のため旋回できるようにしておいてください!」

 ブリッジからの船長の呼びかけを受けて、僕も大声で叫び返した。北よりの強い追い風。これだと引き返す時は時間がかかってしまうかもしれない。でも逆に言えば、他の船がこちらへ向かう分には早いはず。

 速度を緩めた船の船首や甲板に魔物がよじ登ってきた。半数くらいは船底に仕掛けた罠に酔ってふらついていることもあり簡単に落とせたが、船首から爆発魔法のイオばかりを放って腐っていたピエールは漸く剣の届く範囲に敵が入ってきたことに高揚し、彼を乗せた相棒の背を軽く叩いた。

「やれやれ。やっと少しは楽しめるか」

 言うより早く剣を抜いたピエールは、ここ数日で溜まった鬱憤を晴らすべく魔物の群れへと突っ込んでいく。

「痺れ海月がいる! ピエール、麻痺の対応も頼む‼︎」

「承知!」

 満月草の用意はあっても有限だ。麻痺を治すキアリクを使えるのはこの船でピエールとホイミンの二名だけ。出来れば彼には治療もこなしてもらいたかった。期待の通り彼は魔物を捌きつつ、崩折れた船員の傍に回り軽やかに麻痺を解除していく。「あ、有り難い」と囁かれる声に目もくれず、再び剣を構えて甲板を駆けた。

 僕は外套の内側に父の剣と刃つきのブーメランを隠し持ち、見張り台ではなく甲板の中央にフローラと二人、背中を合わせて並んで立った。今はまだ、ここまで魔物の攻撃は届いてこない。

「──テュールさん」

 爽やかなはずの朝の風に瘴気が混ざる。身躱しの美しい緑衣に身を包んだフローラが長い碧髪を風に躍らせ、硬い声で僕を呼んだ。

「上に、かなりの数が。二十羽以上は居ると思います」

 甲板では船員と仲魔達が応戦している。遮るもののない海上で、飛空魔の姿は見えない。……とすると、雲からか。

「……船室の方に寄っておいて。間に合うようなら、中に飛び込んで」

 一等声を潜めて指示をした僕に、フローラがぎこちなく頷いて了承を示す。

 何となくだけど僕にもわかる。何者かが僕達をとり囲んで見ている、気がする。──否、あの竜神の帆を睨んでいるのかもしれない。これまでとはどこか違う、明確な敵意が刺さってくる。

 数がどれだけ多かろうと、君は絶対に奪わせない。

「……あの、テュールさん」

 交戦の喧騒の中、意識を研ぎ澄ましていた僕の耳に、背中越しにも震えが伝わりそうな、怯えを含んだ声が届いた。

「足元からも、何か嫌な感じを受けます。気をつけて……」

 強張ったまま、フローラが言いかけたその瞬間、

「プックル‼︎」

 短く呼んだ親友と共に頭上からの急襲を迎え撃った。ほとんど垂直に急降下したキメラ達を船室から飛び出したキラーパンサーが二、三羽まとめて薙ぎ倒し、同時に懐から投げつけた僕のブーメランがもう数羽の勢いを殺す。反射的に頭を庇いその場にしゃがみ込んだフローラをプックルと共に囲い立ち、次々に飛来するキメラを斬り捨てては引き裂いていく。

 ──何羽いるんだ、一体⁉︎

 これまで遭遇した中で最も多い群れに違いなかった。あっという間に十数羽は落としたのに、雲間からの襲来が絶えない。「テュールさんを援護しろ‼︎」「お嬢様に触れさせるな‼︎」という叫びと共に数人の船員が駆けつけた。プックルがフローラの側についていることをちらりと確認して彼らに場を任せ、辺りを見回してすぐに違和感に気がついた。

「テュール殿!」

 船長の緊迫した声が走る。見張台へ続く網縄に飛びつき、「何かが船を動かしてる。すぐに見ます!」と叫び返した。よじ登る僕を追い落とそうとするキメラがマーリンの炎に、船員のブーメランに退けられる。急いで登りきり見張り台へ飛び移って、思いきり身を乗り出し船底の更に下に映る影を覗いた。

 ──何かいる。それも、恐ろしく巨大な。

 ストレンジャー号を半分飲み込めるほど大きな影が、船の下で蠢いていた。あんなものに転覆させられたらひとたまりもない。ぞく、と背筋に怖気が走ったが、海中に身を潜めた何者かは特に船を揺らすこともせず、わずかに船を先導する形で内海の中央へとぐんぐん進んでいく。

 ふと額に圧を感じ顔を上げると、正面から突っ込んできたキメラと目があった。剣を抜きざま躱しその付け根を抉る。手応えとともに打ち払って、もう一度声を張り上げた。

「すぐに合図を‼︎ ──船底に何かいます。石入りの聖水を撒いてください! 方向転換、無理だったら錨を下ろして‼︎」

 恐らく今、セントベレス山に向かって流されている。いや、魔物の背に載せられ運ばれているのかもしれない。

 大人しく連れていかれるなんて、冗談じゃない!

 見張り台の手摺をぎり、と掴んだところで、花火の爆発音に紛れて聞き覚えのない声が耳に届いた。

「……あんたら、天空信仰の者かい」

 咄嗟に身を翻す。たった今翼を斬られて落ちたはずのキメラが自らに治癒魔法を施しつつ、ばさ、と羽ばたいてこちらを見ていた。竜神の帆を掲げているから出た問いだろう。少しばかり剣呑な色が薄れて見えるのは、先程僕と視線を交えたからか。

「生憎、人間の世界にはそれしかないよ。お前達は光の教団に関わる者か」

 すぐさまこちらも切尖を突きつけ、ぎょろついた目玉を睨み据え問い質した。回答を期待した問いではなかったが、僕の目の高さまで浮上した魔物は明らかな愉悦を嘴に滲ませニィ、と笑う。

「俺たちゃ卑しい魔物だぜ? 信仰なんてお堅いモンは人間サマの十八番だろう」

「……何故、船を襲う? いや」

 無駄話をする時間はない。質問返しは無視して、一番訊きたかったことを正面からぶつけた。こいつにどこまで答えるつもりがあるのかは分からないが。

「違うな。この船をどこへ運ぶつもりだ? あの崇い山に座す神とやらの供物にでもする気か」

 僕の挑発にキメラはヒュウ、と嘴を鳴らして意外にも感心した風に応えた。尤もそれはやはり、胸糞悪くなる回答でしかなかったが。

「察しがいいな。神の御許で働いて死ねる、信心深いあんたらに何とも似合いの死に様じゃねえか」

「……何故妻を狙った」

 図星か。言葉尻にせせら嗤った目の前の魔物を、苦く込み上げるものを堪えながら睨み返し更に問いを重ねた。片やキメラは、如何にも興味がなさそうに眼下にいるフローラを無感動に一瞥し言い捨てる。

「妻ぁ? ああ、あの碧髪があんたのつがいってわけか」

 黙したまま眼に、構えた剣に力を込めれば、魔物は益々無表情のままばさりと翼をはためかせる。下で不安げに見上げているフローラの澄んだ気配に密かに安堵して、今一度キメラを睨み返した。腰に収めたブーメランにも手をかけて。

「────ケッ」

 ほんの一間ほどの距離。一触即発、先に均衡を崩したのはキメラの耳障りな笑い声だった。僕の周囲を旋回し、翼と嘴を持つこの蛇の魔物は金属音の如く響く歪んだ高音を発した。嘲笑めいた声が高らかに響いては鈍色の空に吸い込まれて消えていく。

「ケケ、ッケケケケケ! 面白ぇ。あんた、面白ぇから一つだけ答えてやるよ! あんな碧髪は見たことがねえからさ‼︎」

「……何?」

「言った通りだよ。俺もそれなりの人間を捕らえてきたが、あんな髪の人間は初めて見たぜ? 緑ならまだ見るがな。そういうとびきりの変わり種をな、御所望の方が居るんだよ」

 変わり種?

 キメラと対峙したまま、瞬時に考えを巡らせる。どういうことだ? 無差別に見えて、やはり何か目的があるんだ。言われてみればヘンリーも輝くような翠髪の持ち主だった。確かに碧髪ほど珍しくはないけれど、そういう恐らく一目でわかるような特徴も手掛かりに、こいつらは十年以上も昔からずっと何かを探して子供を、人を攫い続けてきたのかもしれなくて。

 その目的のために、今度はフローラが狙われた。

 一体、何の為に?

 恐らくひどく強張った僕の表情を愉しげに眺めていたキメラがふと、濁った硝子玉のような目玉から皮肉った笑みを消した。

「なあ。あんたの女、本当に人間か? 確かにガワはヒトみてぇだが、ありゃ────」

 キメラの言葉は最後まで紡がれることはなかった。突如躍り上った巨大な紫色の何かがキメラを吹っ飛ばしたからだ。目の前を凄まじい勢いで薙いだそれに思考が一瞬止まる。無残に千切れた羽が、彼の居た場所からはらはらと散った。

『お喋りが過ぎるのう。キメラ風情が』

 視界から消えたキメラを目で追う間も無く、海全体を揺るがし木霊するような、身の毛もよだつ悍ましい声が響き渡った。その波間から、船体の半分ほどの紫の巨体がずぶずぶとその身を露わにしていく。すぐさま見張台を飛び降り、フローラを庇って船縁との間に立ちはだかった。

「な、なんだよ、ありゃ……!」

 それぞれに見下ろした船員達の表情に動揺が広がっていく。こんなもの、普段の魔物達の比ではない。

 丸い頭だけでこの船の半分を占めそうな巨大な──鮹、だった。毒々しい紫と青の斑紋に、丸い頭から伸びた鮹の足は樽よりも太く、澱んだ金色の吸盤がてらてらと光っている。その全長はこの船にも匹敵しそうだ。巨大な鮹が潜むその頭上を今、ストレンジャー号は懸命に旋回しようとしていたのだ。

「……マザー……オクト?」

 殺気立つプックルに縋りつき、目を見開いたフローラがぽつりと呟いた。咄嗟に妻を振り返れば、彼女は青褪めた表情のまま僕を見上げる。

「以前、文献で読んだことがあります。青い斑らの身体に九つの鮹足を持つ、深海の奥深くに棲む水棲の魔物の母だと」

「魔物の、母?」

 思わず訊き返せば、彼女はまた険しい表情のまま小さく頷く。

「深い、深い海の底で魔物を生み、また育てているのだと。だからこの場所にこれだけの魔物が湧いているのかもしれません。でも、……こんなに大きい、なんて」

 戦慄を滲ませたフローラの囁きに同意せざるを得ない。単純に、これほど大きい魔物を見たことがない。あれだけ湧いていた魔物達が本当に小物に見えるほど。そして船にまとわりついていた小物達は今、かしづくようにマザーオクトの側に控え指示を待っているようだった。

『小癪だこと。船底に何か仕掛けたねぇ。随分と良い心地だが、力がうまく入らぬわ』

 宝石に酔っているのか、言葉に反してうっとりと上機嫌にすら見える大鮹の魔物は古めかしい言葉を唄うように紡ぐ。しかしその巨体から響く声は誇張ではなく、海そのものをびりびりと震わせる。

『お陰で妾は加減ができぬ。うっかり壊してしまうかも、……のう?』

 マザーオクトが少し足をくねらせただけで、海面が激しく揺れて波打った。「抑えろ! 来るぞ‼︎」とフォスター船長が短く叫んだ、その瞬間大鮹の足が海を割り、盛大な水飛沫とともにゆらりと持ち上がる。

「────ッッバギマ‼︎」

 詠唱の暇もなく放った風魔法とマーリンの炎魔法、ピエールの爆破魔法が空中で交錯し、振り下ろされた鮹の足を押し返す。風圧と重ねた魔法の衝撃で船がざあ、と反対側へ押し流された。足を刻まれ焼かれたマザーオクトは『おお、痛や。この虚け者らめが』と不快そうに吸盤のついた足を引いた。

 いつの間にか僕の側で海を覗き込んでいたガンドフがすうっと息を吸いこみ、そのまま海中のマザーオクトに向かって、ふぁあ……と甘ったるい香りの息を吐き出した。

 眠気を誘発する、魔物特有の甘い息。

「ガンドフ。いつの間にそれ」

 知らぬ間に新たな技を習得していたガンドフは、驚いた僕に向かって首を傾げて照れ臭そうに笑った。「マネ。デきた」と彼特有の短い言葉で告げたあと、もう一度深く深呼吸して長く、長く息を吐き出す。

 ごぼ、と大きな気泡を放ちながら暫し動きを止めた巨体から何とか一度、距離をとって。

 急旋回したストレンジャー号は再び迫ってきた魔物達を蹴散らしつつ、全速前進、今来た航路を戻り始めた。



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#10. 海中決戦

 命辛々、といった体たらくだった。

 いつの間にか風は東からの生ぬるい風に変わっていた。神の山から吹き下ろす湿った風が雨雲の到来を思わせる。横風を掴み海上を滑る船の上で、やや消沈した船員達を励ましつつ、僕とフローラはそれぞれに怪我人の治療や態勢の立て直しに奔走していた。

 周辺には依然として魔物が蠢き、進路を阻もうと追い縋ってくる。気持ちを奮い立たせて応戦してくれる船員達と共にひとしきり撃退したところで、ブリッジから各所の状況を確認してくれているフォスター船長のところへ向かった。

「どうやら、今まで海峡を抜けられた船は単に運が良かっただけのようですな。……あんな大物が巣食っていたとは」

 向かい合った白髭の船長は苦笑いしつつ独りごちる。言葉もない。あの大鮹が本気を出せば、客船の一つや二つひっくり返すことなど造作もないだろうから。

 ──だが、それはしなかった。恐らくそれは奴らにとって最後の手段だ。

「多分、ですけど、あいつらは僕達をすぐ皆殺しにするつもりはないと思われます。……生け捕りにしたいらしいですから」

 顎に蓄えた髭をさすりながら視線を彷徨わせていた船長がこちらを見た。その表情が諦めに満ちたものではないことに、僕は心の底から安堵を覚える。

「先ほど魔物から何やら聞き出しておられたようですが。生け捕り、ですか」

 眼に確かな意思を宿し問い返してくれた船長に向かって、僕もまた力強く頷いた。恐らく読み通りだった奴隷という目的は伏せたまま、やっとことの核心に触れられる。

「目的は不明ですが、生きた人間が大量に必要なようです。だから無暗に殺されることはないと思う。……抵抗が過ぎれば、排斥されるかもわかりませんけどね」

「はは。抵抗、するおつもりですな? もちろん」

 ──やはり、この方は戦意を失っていない。

 敬意を込めて彼を仰ぎ見れば、寧ろ余裕さえ感じさせる笑みを返された。少なからず畏縮した船員達を前に、さすがは船長というべきか。これほど頼もしいことはない。

「はて、しかしどのように料理しましょうか。あれだけ大きいと甲板へお招きするわけにもいきませんし」

 強い向かい風を受け流し翻る竜神の帆をどちらからともなく見上げ、先に呟いたのは船長だった。僕も視線を外して今来た方角を振り返る。そろそろ大鮹は目を覚ました頃だろうか、いつ追いつかれてもおかしくはない。

「海中に潜られてしまうと手が出せませんよね。かといってあの大きさでは繋ぎとめておくのも難しそうで。頭を狙うしかないと思うんですが、海では足場がないのが痛い」

「同感ですな。鮹といえば足は再生するものと相場が決まっている。初めから頭を狙うのが賢明でしょうが、……うむ」

 船長と顔を見合わせ首を捻る。飛び道具と魔法でとにかく頭を叩くぐらいしかあの化け鮹を討ち取る方法を思いつかない。父が遺してくれた宝石の知恵は多少の目眩しにはなるだろうが、あの巨体を酔わせて下手に暴れられても困る。さて、どうしたものか。

「あれを相手どりながら雑魚も片付けなくてはならない。厄介ですな。せめて小物を一掃できれば、大鮹に集中できる分少しは楽になりそうですが」

 若干のため息混じりにフォスター殿が口にした、その言葉がある魔法の記憶を呼び覚ました。がば、と勢いよく顔を上げた僕に船長は目を丸くしたが、目配せで頷いてみせると甲板を跳ねつつブーメランを投げているスラりんを見つけ、急いで呼びとめた。

 あるじゃないか。こういう場面にこそお誂え向きの魔法が。

「なぁにー? ごしゅじんさまー」

 相変わらずマイペースに近づいてくるスラりんに駆け寄り膝をつく。当たり前のように肩に飛び乗る彼を拾い上げて、ひやりと頰に当たる心地いい感触に思わず微笑みつつ問いかけた。

「あのさ、スラりん。ずっと前に魔物を消してしまう魔法、見せてくれたよね? 確かマーリンが破邪の魔法だって言ってたやつ」

「えー? なんだっけー。んーとんーと、……あ、そーだ! ずーっとつかわなかったからわすれてたー!」

 スラりんもどうやら失念していたらしく、少しの間口許をむにむに動かしながら唸っていたが、唐突に頓狂な声を上げた。器用にブーメランを軟体で包み込んだと思うと僕の返事も待たずに飛び降り、再び船縁へと跳ね上がる。海面をばちゃばちゃうって暴れる眼下の魔物達に向かって、なんとも可愛らしくも勇ましい宣言、否、詠唱を放った。

「んむむむむー、やみにまどいしものよ、なんじのあるべきところへと! ひかりあーれーっ! ニフラ──ムっっ‼︎」

 最後の呪言を高らかに口にした、その瞬間。

 眼球の奥を灼きそうな、真っ白な光が満ちた。海を、船の輪郭をも呑み込みスラりんの身体だけが陰影となって辛うじて見えるその光景に、誰もが目を瞑る。光はすぐに消え去り、恐る恐る目を開ければ────

 あんなにも蠢いていた魔物達のほとんどが消えていた。

 夢でも見ていたかのように、海は束の間穏やかな揺らめきを取り戻していたのだ。

 たった一匹の小さなスライムが起こした奇跡を目の当たりにした船員達は言葉を失って立ち尽くし、やがて、うおおおおぉ‼︎ と盛大な歓声で船を揺るがした。

 これこそが強烈な光の下、魔物を核ごと浄化してしまう古の破邪魔法、ニフラムだった。マーリン曰く、今やほとんど使い手のいない廃れた古代魔法の一つだそうだが、聖魔法と呼んで差し支えなさそうなこの魔法を何故スラりんが使えるのかはわからない。術者の力量に応じてそれより低級な魔物を浄化できるのだという。但し便利な反面、頼りすぎると実戦の勘が鈍る。仲魔になって間もない頃スラりんに一度見せてもらった後、有用だけれど今はあまり使わず鍛錬を積みたいかな、という話をしたのだった。それが凡そ一年半程前のこと、それきり日の目を見なかった魔法なので術者本人すら忘れていても無理はない。

「すげえ、すっげえ‼︎ 今のなんだ⁉︎ 一瞬で魔物が消えちまった‼︎」

「こいつは恐れいった! まるで勇者みてえじゃねえか‼︎」

 興奮した船員達にわっと囲まれ、スラりんも遠巻きながらにへーっと得意げに笑っていた。数を一気に減らしたことで、落ちかけた士気も取り戻せたようだ。微笑ましくその光景を見遣って、……その視界の奥で灰色の海が、生き物の如くみるみる迫り上がるのが見えた。

「────みんな、掴まれッ‼︎」

 咄嗟に力の限り声を迸らせた。船尾に集った船員が驚き屈み込んだ、その頭上に白い泡を纏った大波が、ドオオン‼︎ という轟音を立ててなだれ込む。膝下ほどの海水が甲板へ一気に流入し、強烈な水圧に押し流され支柱を背にたたらを踏んだ。場馴れした船員達はすぐさま近くのどこかしらに掴まって無事だったようだ、けれど。

「……スラりん? どこだ⁉︎ スラりん‼︎」

 衝動的に水をかき分け、ぐるりと見渡して無我夢中で呼んだ。たった今そこの船縁でにやけていたスライムがいない。水が引いていく船床に目を走らせたがどこにも見えない。船員達がどよめきだすと同時に、船室からフローラと仲魔達が飛び出してきた。彼らもまたすぐに状況を察して、青ざめながら声をあげスラりんを探し始めた。

 ──ひっつくから大丈夫だって言ったじゃないか。落ちたりしないって。

 せめて、せめて僕の肩に乗ったまま魔法を放ってくれていたら見失ったりしなかった。すぐに掴んで離さなかったのに。

 返事してくれ、頼むから‼︎

『見向きもせぬか。舐められたものよの』

 船縁の外側に貼り付いていないか、確かめようと駆け寄ったところでおぞましい声が海鳴りの如く響いた。瞬間、船体がガクンと大きく揺さぶられ慌てて船縁にしがみつく。おびただしい男達の悲鳴、そして背後で恐らく人がぶつかり転がる音がする。

 どうやら吸盤で船底を捕らえられ、持ち上げられているようだった。苛立った大鮹はそのまま船を担ぎ上げ、再び内海の中央へ向かう。船の真下に潜り込まれては攻撃が届かない、けれど止めないと──今、何とかしないと。

「今動ける方、いますか⁉︎」

 混乱する甲板に向かって今一度、声を張り上げた。

「罠の網を切ってください! 奴の動きを止めたい‼︎」

 大声をあげながら、船底を包む巨大な網と船を繋ぐ縄を次々に切り落とす。それを見た船員達も船縁に飛びつき縄を切り始めた。その合間にも波間に見える網に視線を走らせるが、青い小さな軟体はやはりどこにも引っかかってはいない。

(くそ。やっぱり落ちたのか)

 直視するには苦すぎる現実。鉄の味が滲むほどに唇をきつく噛んだ。落胆している場合じゃないから──こんなことを繰り返したくないから。諦めたわけじゃない、けど、今は思考を切り替えなければ。

 濡れて重い網はほとんどが海中に沈んだが、船は依然傾いたまま。切らずに残した一箇所だけまだ網が繋がっている、その縁に足をかけ「すぐに戻ります!」と叫んだ。制止より早く、外套と被り物だけ脱ぎ捨てて網を片手に海へと飛び込む。体重に任せて潜って、船底の裏にいる大鮹に左手を向けた。船を巻き込まないよう下方向を狙って。

 ──水中でもいけるか。頼む!

 左手の指輪が朱い光を放つ。水中での爆発が激流と衝撃を巻き起こし、鮹の気を引いた。目が合う前に網を手繰り海面を突き破って顔を出す。ぶは、と肺の空気を入れ替えた途端、鮹足が胴体に巻きつき再び僕を海中へと引き摺り込んだ。

「テュールさんッッ‼︎」

 絶望が凌駕した、初めて聞くフローラの悲鳴が水と気泡の濁音に阻まれ急速に遠ざかった。息を堪えつつ正面から相対した鮹の眼を睨む。大鮹はさも憎々しげに水を震わせ、海中でも耳に伝わる不思議な言葉を放つ。

『小賢しい人間めが。こちらはお前達が数匹減ろうが構わぬのよ』

 締め上げる足に更なる圧がかかり、肋骨がみしみしと歪に軋んだ。食いしばった歯の隙間からごぽりと空気が漏れ出す。腕ごと締め上げられているから剣は抜けない。捻り潰さんと圧を増す紫の足肌に、何とか左手の甲を埋めるように押し当てた。直接爆破するイメージを薬指に集中させて。

 多少の自損は覚悟の上だ。木っ端微塵に爆ぜろ‼︎

 次の瞬間、濁った爆音と共に鮹の足が弾けた。鼓膜をつん裂く絶叫が海中に轟き渡り、視界が一気に海より禍々しい青と黒で染まる。大鮹の血と、大量に放たれた鮹墨の煙幕だった。海中だというのに酷い臭気がして、吐き気がこみ上げたが必死に堪え、ただ無我夢中で鮹足の残骸を蹴った。

 どちらが上だ? わからない。沈んでいるのか、浮いているのかも。真っ暗な視界の中、死の予感が痛烈に意識を貫いた。まずい、もう、息がもたない────

 助かるためにもがき、伸ばした腕を何かが掴んだ。

 そちらが上だ。確信してもう一度、千切れた鮹足を踏み台に渾身の力で水を掻く。か細いそれを手繰り寄せ、黒い靄に霞む眼を懸命に凝らした。

 

 ────目の醒めるような、碧が。

 

 唐突に、ぬるい空気の中に浮上した。

「テュールさん⁉︎ わかりますか、テュールさんっ‼︎」

 やっと探り当てた網に縋りつき、げほッ、ごほ‼︎ と胸を抑えて何度も激しく噎せる僕を、どこか懐かしい声が必死に呼んだ。背中をさすった温かなものが今度は左手や腹部に触れて、爆発で負った傷がじわりと癒されていく。ひとしきり咳き込み、その細い腕で必死に僕を支えてくれているひとを見上げた。

「──……だい、じょ……う、ぶ」

 濡れて乱れた碧髪からひっきりなしに水が滴る中、翡翠の美しい双眸を、きっと海水ではないものでひどく潤ませて。

 今にも泣き出しそうな顔で、僕だけを見つめる、君を。

「……ありがとう。フローラ……」

 この華奢な身体のどこに、こんな力があったのだろう。

 浮力があるとはいえ、彼女は船から垂れた網に片手で捕まり、その震える細腕たった一つで僕を支えてくれていたのだった。その掌からほわりと温かなベホイミの光が溢れている。唇と目許を痛々しいほどに歪ませ、フローラはひとつ首を振ると濡れそぼった頭を僕の肩に押し当てた。そのたおやかな背中に腕を回し、僕も遠慮がちに彼女を胸に収める。

 ────……、生きてる。

 長く吐いた息が妙な安心感をもたらした。小さくしゃくりあげる細い身体から速い心音が、温もりが伝わって。たった今生々しく直面した命がまだ、僕の中から消えていないことを痛切に実感する。

 彼女が、その手で繋いでくれた。

 意識がはっきりしてくると、船の上から仲間達がひっきりなしに叫んでいたことにも気がついた。ピエールやガンドフ、マーリンは何度も「あるじ殿!」「ご主人! 無事か」と僕を呼んでくれていたし、体格の良い男達もこぞって身を乗り出し「早くお上がり下さい、お嬢様!」と口々に声を上げていた。無言で頷き、フローラに網を登るよう促したけれど彼女は強張ったまま動かない。なんとか一段足をかけたものの、網にしがみついたまま小刻みに震えてそれ以上どうにもできないようだった。

 ────怖いのか。不安定な網を登るのが。

 青ざめた彼女の横顔が、サラボナを発った日のことを想い起こさせる。

 高いところは苦手なんだ。あの日も町のすぐそばの塔に登りながら酷く怯えていた。それなのに今、あの船縁から僕のために身を投じてくれた。

 その想いの深さに罪深いほどの歓びと、己の軽率さを責める心が湧き上がりせめぎあう。

 苦しい────狂おしいほどに、胸の内側を熱いものが満たしていく。

 海はまた不気味に遠吠えて、マザーオクトに追従してきたであろう魔物達の襲来を示していた。先ほど仕掛けた攻撃で大鮹は船体の運搬を止めたようだったが、僕達がここにいるから船自体が離れて行けない。快癒とは言い難いが時間がない、震えるフローラをほとんど無理矢理横抱きにして網に足をかけた。

「テュ、テュール、さん」

 怯えた君が僕の首にしがみつく。悦んでいる場合じゃないけれど思わず頰が綻んでしまって、「落とさないから。捕まっていて」と耳許に囁いた。先程きつく締め上げられた身体は未だ骨が軋む痛みを残す。海水をたっぷり含んで四肢に纏わりつく衣服もまた動きを妨げた。追い縋ってきた魔物達を、それでも魔法を浴びせ退けながらも何とか網を手繰り登ろうとした、その時。

「ピエール! ガンドフ、マーリンもホイミンも、かくれててえええ──‼︎」

 気の抜けた、耳に覚えのある舌ったらずの声がどこからか聞こえた。フローラと同時に息を飲んだ、その瞬間再び真っ白な光が辺りを埋め尽くした。海原を鮮烈に走り抜けた光が再び、魔物の群れを見事一掃していく。

 急ぎ、その光源を目で追えば、少し離れた海面にぷかりと漂う青い小さな個体が。

「────スラりん‼︎ 大丈夫か⁉︎」

「へいきぃー。でも、もどれなーい。ながされちゃうぅー」

 そんな呑気な。へらりと笑ったらしいスラりんは為す術もなくぷかぷかと海面にたゆたっている。とりあえずほっと息をつくも束の間、総毛立つ殺気と共に海が再び大きく揺らぎ、さざめいた。

『妾の可愛いやや子達を何処へやった。スライム如きが……赦されると思うな‼︎』

 血気だった大鮹がざぁ、と水を持ち上げてその巨体を海上に晒し、スラりんめがけてよろよろと動いていく。まだ繋がったままの網ごと船体が引きずられ、再び船から叫喚が、そして腕の中のフローラが悲鳴をあげた。抉れた足から蒼い血が広がっていくが、どうやら怒り心頭の大鮹は気にも留めない。必死にバギマを飛ばし、船上からもマーリンがメラミを放ってくれたが、どちらも遠すぎて掠った程度にしかならなかった。

「スラりんッ‼︎ 逃げろ──────ッッ‼︎」

「むりぃぃぃぃぃ──っっ‼︎」

 血も凍るほどの戦慄。僕と半泣きのスラりんの、全身全霊の絶叫が重なってこだました。万事休すか。思わず目を伏せた瞬間、僕達のこめかみを何かが鋭く駆け抜けた。

 ……え⁉︎

 視認するより早くフローラが再び息を呑む。その物体は海面すれすれに鮹の脇を滑空し、スラりんの懐へと迷いなく突っ込んだ。水飛沫を上げて舞い上がったそれは青い軟体を空高く抱え上げ──否、嘴に咥えて、ばさりと大きく翼をはためかせる。

「……お前……!」

 濡れた翼からばらばらと水滴が散った。雨粒と雫を浴びながら、僕は翼の主を見上げてそれ以上言葉にならなかった。

 きゅう、と目を回したスラりんを嘴からぶら下げ、つまらなそうに目を細めたのは、

 ────つい先ほど、相対したキメラだったから。

『おのれ……ッ、おのれ、おのれえええぇッッ‼︎』

 目の前で獲物を横取りされたマザーオクトが忿怒のあまり、海をびりびりと震わせ声ならぬ声で激しく咆哮する。いかにも不機嫌な様子でそれを一瞥したキメラは、再び大きく羽ばたくと甲板めがけて真っ直ぐに舞い降りた。呆然と見守る仲魔達、船員達の前で、ぽとりと無雑作にスラりんを投げ出す。僕もフローラを支えて急いで網を登り、完全に伸びているスラりんに駆け寄った。

「スラりん‼︎」

 船床に手をついて覗き込めば、真っ先に側につきスラりんを触診してくれたホイミンが僕達を仰いでくしゃりと相好を崩す。

「……だいじょうぶ、みたい〜〜」

 ほわりとしたその声に、ずっと続いた緊張が抜けていく。ぽつ、と髪から滴った大粒の雫がスラりんの額に落ちて、スラりんが小さく「んぅー」と呻いた。そんなささやかな安寧を、荒ぶる化け鮹の割れんばかりの奇声が引き裂く。僕達がスラりんに構っている間に罠の網は完全に切り離され、ストレンジャー号はマザーオクトから次第に距離をとっていた。

「えらい酔い狂いっぷりだな。あんたら、何盛ったんだよ」

 先ほどまでの理性は欠片もない、暴れる大鮹の千切れた肢体からはほとんど得体のしれない紫の肉塊が盛り上がり噴き出していた。けたたましい雄叫びが辺りを揺るがす中、どこか冷めた眼で大鮹を眺めていたキメラがぽつり、独り言のように呟いた。

 その様子を怪訝に思いながら、彼を見上げる。ついさっき、あんなにもはっきりと敵対していた魔物を。

「……聖水に宝石片を入れてる。あんな大物に仕掛けることになるとは思わなかったけど」

「はっ」嘲るように彼は笑ったが、つい先ほど感じた刺すような敵意は感じなかった。「まったく。人間てのはたまに末恐ろしいことをしやがる」

「なんで、助けた?」 

 間髪入れず、前のめりにキメラの台詞を遮った。やはり彼は不本意甚だしいという目つきで僕を見たけれど──どうしても、訊いてみたかった。何故彼は今の行動に至ったのか。

「……どうして」

 正直、薄々見当はついている。魔物を従えることができるという僕の特異な能力が影響しているんだろう。今まで漠然とこの力に助けられてきた、けれど、『従える』と言っても僕は一度だって彼らに従えと言ったことはない。手を差し伸べてくれるのはいつだって魔物である彼らの方だ。主人と呼んで慕ってくれるのも、力を貸してくれるのも、すべては彼らの厚意から為されていることで。

 僕は何もしていないのに。君達はいつだって、どうしてそこまでしてくれるんだ。

「知るかよ。……んな大層なことかい」

 おそらく無視を決め込もうとしたのだろうが、僕の視線をきまり悪そうに受け流した彼は暫しの沈黙の後、根負けしたらしくぶっきらぼうに答えた。

「魔が差したんだよ。悪いか」

 鳥の嘴と翼、そして蛇の胴体を持つ異形の者だが、その困惑するほど生々しく、親しみ深い表情は──僕達となんら変わらない、『生き物』でしかない。

「……いや。そっか、魔が差した、のか」

 可笑しな話だ。こみ上げる笑いを噛み殺しきれない僕を、更に怪訝な顔でキメラが見遣る。僕達が『魔』の者と呼ぶ魔物が、たかが人間に引きずられて『魔』が差したって?

 何故かそれは言い得て妙でもあった。いつからか僕自身ぼんやりと感じていたことだ。話してみればまるで人間と変わらない仲魔達。彼らを手懐ける、人間であるはずの僕は彼ら魔族から、そして人間達の目からどのように見えているのだろう。

 ────フローラの目だけは、不思議と怖れずいられるのに。

「テュール殿」

 さすがに警戒を隠さず歩み寄った船長が硬い声で呼びかけた。振り向くと「ヴィクトリア号が見えました」と短く告げられる。その視線は終始キメラに縫い止められていて、僕のすぐ隣にくたりと座り込んだフローラに害を及ぼさないか、よくよく見定めているように見えた。

「今更手出しはしねえよ。この旦那が黙ってやらせるもんかい」

 挑発めいた笑いを滲ませたキメラを、フォスター船長は尚も険しい表情で見つめる。僕が魔物遣いだと知っていても、この状況で信頼しきれるかはまた別の話だろう。生真面目な船長の物言いたげな視線は全く意に介さず、キメラは再び暴れうねる大鮹の方へと視線を投げる。

「ありゃあもう駄目だろう。屠ってやった方がいい」

「どういうことか、訊いても?」

「俺だって知らねえよ」すかさず返した僕の不躾な質問に、キメラは再び鼻白む。「俺にわかるのは、あれがまともな状態じゃねえってことだけだ。そもそもあいつはもう魔物を産めねえんだよ。とっくに壊れちまってるんだ」

 その回答に、不覚にも胸を衝かれた。さっきフローラが教えてくれた時もほんのわずかに心が軋んだ。産み育てるもの──母親なのだと言われるだけでこうも容易く心を乱されてしまうのは、母という存在への思慕の念故かもしれない。

 僕らの隣で黙って話を聞いていたフローラもまた、小さく息を呑んだ。目が合うと、遠慮がちに桜貝の唇を開く。

「元々は深海に棲むものだと、以前書物で読みました。……やはりあの魔物は、本来ここに居るべき存在ではなかった、のでしょうか」

「詳しいな。そうだよ、あいつらは海の底で一生に一度だけ大量の卵を生む。それを育てて尽きるはずの命が、あいつだけああやって生き存えてる。しかも、有り得ない図体でな。理由は訊くなよ、俺だって知らねえから」

 有り得ない図体、ということは、あの巨体も本来のものではないのか。

 いつの間にか厚ぼったい鉛色の雲からぼつぼつと大粒の雨が降り始めていた。ぼんやりとけぶる海上を縫って大型客船が姿を現す。速度を落とし近づいてくるその船を見て、キメラが露骨に顔をしかめた。

「うへぇ、怖ぇなあ。あんたら端っから俺達を仕留める気満々だったんじゃねーかよ」

「そのつもりではあったけど、さすがにここまでの大物とは思わなかったよ。三隻いても太刀打ちできるかどうか」

 三隻だと、とキメラは益々引き攣った笑いを浮かべてみせる。僕もまた苦笑いを返し、近づくヴィクトリア号の船首に佇みこちらを睨んでいるイヴァン殿に向かって手を挙げた。

 このキメラは、随分前からあの大鮹と知り合いだったのだろうか。

 ふと、そんなことを思った。先刻あの鮹足に思い切り弾き飛ばされたのに、彼はそれを恨みに思っている様子がない。斜に構えた、いっそ冷淡にも感じられる言葉の端々にはひどく、あたたかなものすら潜んでいる気が、した。

 助けようとしたのは、手を差し伸べたのは僕達にではなく、本当は────

 ほぼ隣り合う位置まで来たヴィクトリア号の老船長は、僕の側に控えたルドマン家令嬢が髪の先までびしょ濡れであることにいたく立腹した様子だったが、それ以上に過酷な戦況をすぐに理解してくれたようだった。見慣れぬキメラがこの場に加わっていることには若干呆れた目を向け、また僕達の視線の先を眺めやって、「こりゃあまた。どえらいのを釣り上げたもんだ」と寧ろ無感動に呟いた。

「マザーオクト、という鮹の魔物だそうです。何の要因でか、あのような姿に……どうやら再生能力が暴走しているようで、総攻撃で核を破壊するのが最良かと思っています。ご助力を、いただけますか」

 自我を喪い、海を揺るがす咆哮を続ける強大な魔物とそれを冷静に見つめる船長の背後、言葉を失うヴィクトリア号の船員達に向かって要請を投げた。甲板に出て複雑そうに魔物とストレンジャー号を見比べる彼らは、言葉にこそ動揺を出さないもののそれぞれが不穏な眼差しを返す。しかし老船長だけはやはり、不屈の闘志と不敵な笑みをその眼に宿し、一切の迷いを見せずに強く頷いた。

「愚問だな。総帥殿よ」

 

 

◆◆◆

 

 

 魔物を酔わせる秘薬ではなかったのか。

 引き金になったのだろうという気はした。大鮹の理性を、思考を吹っ飛ばすほどの怒り、そして聖水の罠。今も蠢いている足は三本、指輪の力で肉片にした一本と撤退前の迎撃で退けた一本、そして総攻撃で潰した四本の足があった場所はただの不気味な紫の肉塊となって盛り上がって成長を続け、今や大鮹の頭をも呑み込もうとしていた。

 残った太い鮹足は船体めがけて無秩序に振り降ろされる。すかさず数人で魔法を放って防いだ。やはり先刻の攻撃は加減されていたらしく、理性を失った一撃は比べ物にならないほど重い。メインのマストは生きていたけれど、それぞれに被害も出ていた。フォアマストを叩き折られたヴィクトリア号。船縁を数カ所抉られているストレンジャー号。フローリア号を加えた三隻とも、大鮹の放った墨を所々に喰らって異臭を放っている。幸いにも死者は出していなかったが、全く優勢と呼べる状況ではなかった。

 後方支援と称した通り、フローリア号には補助魔法の使い手が多く乗船していた。それぞれ他の船に分乗し、誘眠、軟化の魔法や味方への筋力増強術などを手分けして施してくれる。それだけ戦力を嵩増しできているはずなのに、総勢百名超による一斉攻撃でも大鮹は沈んでくれなかった。雨脚が段々と強まり、船員達の間には拭いきれない疲労が色濃く広がっていく。

「再生速度もさることながら、物理攻撃が通らなくなってきている節がある。このまま奴の再生が進めばどうなるか」

 敵を前にしてピエールが苦渋の色を示したのを正直、初めて見た。エルフ精製を銘うった魔力回復薬を既に数本飲み干していたが、彼の魔力、精神力も恐らくぎりぎりのところで保たれていた。僕もまた自分の魔力が衰えつつあるのを嫌な手応えとして感じていた。マーリンはさすがに顔色も変えず粛々と魔法を打ち続けてくれていたが、彼一人の魔力では核を破壊するところまで到底届かない。

 何より、どれだけダメージを与えてもそれごと飲み込む勢いで肉塊が再生していく。そんなものをかれこれ小一時間目の当たりにし続けて、魔力以上に精神的に負う苦さが計り知れない。

 ────今この場に、勇者がいたなら。

 考えたくないのに、苛立ちはそんな歪んだ思考ばかり吐き出す。伝説の、天空の勇者だけが使えると言う天雷の魔法なら、あいつを仕留めることなど造作もないだろうに。

 天空の剣はここに在る。実際の威力なんて知らないけど、きっと勇者の剣ならあいつに致命傷を負わせられる。魔王を斃すことも叶う剣なのだから。それなのに今、ここにいる人間には誰にも、僕にも使えない。柄を持ってただの一度薙ぐことすらできないなんて。

 何故、何故。何故正統な持ち主は未だ姿を顕さない‼︎

 幾度めかの行き場のない憤りを唇を噛んでやり過ごしたその瞬間、灰色の空を割って閃光が走った。スラりんが目を覚ましたのかと思ったけれど、そこから数拍の間をあけて、ドゴオオォン‼︎と山一つ吹っ飛んだような重たい轟音が背後から響き渡った。

 まさか、新手か⁉︎

 大鮹に集中しすぎて気づかなかった。激しく打ち付けるぬるい雨の中、振り返れば硬い表情の妻と目があった。船室で待っていてくれても構わないのに、彼女はずっと僕達の邪魔にならないよう、ずぶ濡れのまま薬を持って近くに立ってくれている。

「落雷、です。テュールさん」

「────落雷?」

 思わず聞き返した僕に、フローラは額に張り付いた前髪と顎から雨粒を滴らせつつ頷く。

「まだ、少し遠いようですが。どこかの海面に落ちたのだと思います」

 少女の凜とした声に被さって、空を覆い尽くした雲から重々しく雷鳴が轟く。

「……かみなり」

 口の中だけで反芻したそれに、フローラが気づいたかどうか。

 雷。落雷。天雷の魔法。

 自然の雷は勇者の魔法には匹敵しないかもしれないけれど。僕達の使う魔法より威力があるのではないだろうか。それこそ、生身の人間が受ければ命があるかわからない程度には。

「フォスター船長」

 意識が向くより先に船長を呼んだ。甲板へ降りて他の船員と共に大鮹と対峙していた船長がすぐに振り向く。その視線を捉まえて、性急に訴えた。

「雷……、雷を、あいつの核に落とせないでしょうか」

 船長と、周りの船員達も一斉にどよめいた。表情を見る限り簡単ではないらしい、が、それに構わず早口に言葉を続けた。一分一秒だって惜しい、そう思ったから。

「僕が行きます。あいつの額に剣を──それでうまく、落雷が来てくれたら」

「ですが、テュール殿が巻き添えになる可能性が高すぎます。剣を持ったまま落雷を受ければもちろんのこと、手を離しても近ければ雷は身体を撃つ。あの鮹に剣を突き立てて、そのあとどうやって離れますか。うまく海に逃れたとしても、顔を出した状態では恐らく雷から逃れられない。落雷の瞬間に海面に接していてはならぬのです」

 どういうことかと思わずフローラの方を振り仰いだら、そちらでブーメランに手早く布を巻き直していたアランさんが代わりに説明してくれる。

「この船はある程度、雷を逃がせるようにしてあるんで平気なんです。雷ってのは海面上で拡散してから消えるんで、嵐の時とか、うっかり海に落ちてしかも雷が落ちそうな時にはとにかく水面下に潜るんですよ。拡散は一瞬なんで、運が良ければ触れずに済む」

「そう……なんです、ね」

 雷の仕組みはよく理解できていなかった。支柱や高いところ、特に剣などの金属に落ち易いという程度の認識しかなかったから、剣を突き立てれば雷を誘引し易いのではと思ったのだけれど。口許に手を当て考え込む。確かにそれでは、かなりの確率で僕も落雷に巻き込まれてしまうだろう。──フローラの目の前で。

 今はただ、あいつを滅せる力が欲しい。それだけなのだけど、だからってこんなこと、フローラの目の前で投げやりな気持ちで言ってはいけない。わかってる。

 そんな気持ちで行っては、いけない。

「他に妙案を思いつきません。うまく雷を引き寄せられれば、核に直接当てられれば、斃せるんじゃないかって……」

 それでもやっぱり、他に方法を見つけられない。黙って僕を見つめる大きく見開いた翡翠の瞳が揺らいだ。申し訳なくて小さく微笑むくらいしかできない。結局こんな風に心配をかけるばかりで、僕は何という人でなしの夫だろうか。

 死ぬつもりなんかない。けど、絶対に大丈夫だとも言い切れなくて。安心させてあげたいのに、結局は何も言ってやれない。

「あまりに危険すぎます、としか……そもそもこれ以上船は近づけませんし、近づいたとしてもあれだけの高さ。低地へ誘導するにもあそこまで理性が飛んでいては、挑発したところで反応しないのでは」

 それは僕も考えた。例えぎりぎりまで近づいてもらって見張り台から飛んだところで、人間の跳躍力などたかが知れている。伝説みたいな立ち回りなんか出来っこない。悔しいが僕は、ただの人間に過ぎないから。

 フォスター船長はそれだけ言うと、もう提言できることなどないという風に押し黙った。彼も、僕も、フローラも皆分かっている。このまま攻撃を続けたところであいつはきっと斃れない。そして、どういう観点で見ても、時間がない。こちらの戦力、気力が尽きるのと、あいつの変化が今以上に手のつけられないものになるのと、

 ……この雷雲が、通り過ぎてしまうまでの時間と。

 狙い通りにいく可能性は極めて低い。誰も何も言わないけど、今この瞬間にも僕達のうち誰かに落ちない保証などない。それでも甲板にいる者達は誰一人退く兆しがない。その覚悟に報いたい。わずかにでも突破口があるなら、その可能性に縋れるなら。

 

「ならば、拙者が行こうか」

 

 まるで近場へ遣いにでも出ようかというように、彼はそれをいとも容易く口にした。

 思いがけぬ申し出に目を瞠る。咄嗟に言葉が出なかった僕を船縁から見上げ、僕の頼もしい相棒は微かに苦笑したようだった。

「只のヒトより雷に対する耐性はある。案ずるな。あとはどうやって奴の額を狙うか、だが」

 言いながらも、ピエールは迷いなくキメラに眼を向ける。仮面で表情は見えなくともキメラにも伝わったのだろう。さも不満げに眉間を歪めつつ答えた。

「……おい。なんで俺を見る」

「鎧兜の分多く見積もっても、あるじ殿よりは軽量のつもりだが?」

 笑い含みに軽口を叩くピエールを慌てて呼び止めた。本当にこの時、自分はただ純粋に彼の身を案じたつもりだった。真実、本心から、彼を慮っただけの気でいた──のだ。

「待った。ピエール、君一人に危険を冒させるなんて」

「いい加減になされよ。あるじ殿」

 怒気を孕んだ低い声。

 たった一言、ごくごく静かに僕を制した彼は微動だにせず、こちらを向いてすらいなかった。しかしたった今、この喉元には彼の切尖がひたりと宛てがわれている錯覚すら覚える。

 殺気じみたその気配に思わず、ごくりと唾を飲んだ。

「お一人で背負うのはさぞかし楽であろうな。そうして我々を慮る。なんともお優しいことだ。それが時として寧ろ残酷であることに、いつになれば気づいて下さるのだろうな」

 そうして初めて、彼は僕を振り返った。

 剣筋の如く、冷たく研ぎ澄まされた眼差しが鉄仮面越しに僕を貫く。

 これほど冷ややかな視線を彼に向けられたのは初めてだった。思わずたじろいだ情けない主人を彼は厳しく睨み据えたまま、容赦なく畳み掛ける。

「貴方を失うことだけは絶対にあってはならぬ。使命を、ご決意を、お父上の悲願をお忘れか。この場で易々と賭けられる命かの判断もつかぬほど、我が主は暗愚であったか」

「……そ、れは」

 何か言い繕おうとしたが出来なかった。真っ向から突きつけられた問い掛けが一瞬で僕の盾を、綺麗事の衣を剥ぎ取ってゆく。

 他の誰かに負わせたくない。傷つくところなど見たくない。

 一見思いやりにも見えるそれが、本当は誰も心から信じられてはいない己の弱さでしかないのだと。いくら愚かな僕でもここまでされて欺瞞を通せるほど頑なにはなれない。僕一人が負えば良いこと、そうやって仲間達の信頼を突き放して、これまでだって何度も身勝手に動いてきた。そのたび僕が負うべき苦悩を彼らに負わせて。その苦い笑みに甘えて、僕は僕自身の愚かしさからもうずっと長いこと、目を背け続けてきた。

 心の何処かにわだかまっている卑屈な自分がそうさせるのだということも、僕はもう薄々わかっていた。

 わかっていて、目を伏せた。奴隷だった自分。人並の生き方を知らない自分。自分に価値を見出せなくて、父の遺志だけが僕の財産で、そこに縋るしかない自分がどうしようもなく惨めで。

 そんなもの、彼らを信じない理由になどならないのに。

「果たすまで死なぬと言ったな。こんなところで軽率にも志を折りかねぬ真似をして、万一のことがあれば今度は誰にそのご遺志を継がせる気だ。奥方殿を第二の貴方にするおつもりか‼︎」

 苛烈なまでの怒号が雷鳴をも裂いて船上に響き渡る。何も言えず、黙って雨水を滴らせ目の前のスライムナイトを凝視するばかりの僕に、彼はふと眼差しを和らげて首を傾げた。

「この方ならばと剣を預けた。……拙者をこの上、幻滅させてくれるな」

 こんなにも僕を想ってくれる君の気持ちを、無碍にした。

 それでも君は、僕を主と呼んでくれる。

 ────そうか。

 やっとわかった。僕が今すべきこと。僕にだけ今、この場で為せることは、

「『魔物遣い』の矜持を見せて下され。……我らが主よ」

 そう言って笑ってくれる彼をただ信じること。僕の望みを必ず果たしてくれると、一片の曇りもなく信じて送り出すこと。

 それしか、ないんだ。

 叱責をくれたピエールへとようやく真っ直ぐに視線を返した。彼の力強い首肯を受け、改めて横で話を聞いていたキメラの方へと向き直る。見るからに嫌そうな反応をするキメラに苦笑したい気持ちを堪え、努めて穏やかに呼びかけた。

「名前を、聞いてもいいだろうか。今更だけど」

「────、……メッキー」

 不承不承名乗ったキメラに向かって、僕は深く頷き大きく一歩、進み出る。

「今回だけでも構わない。力を貸して欲しいんだ。マザーオクトの真上まで、ピエールを乗せてやってもらえないか」

 概ね予想通りだったんだろう。メッキーはやはりうんざりと顔を背けたが、僕ももう退くわけにはいかなかった。片膝をつき、深く腰を折り頭を垂れる。おい、と慌てたようにキメラが呼んだが構わず、船床に剣を置き両の拳をついた。

「……頼む。メッキー」

 伏せた頭に、首の後ろに、ばらばらと大粒の雨が打ちつける。その頭上で稲光が走り、何度目かのゴロゴロと肚まで響く重い音がこだました。

「そこまでするかよ。ほんっと……」

 ややあって、すっかり呆れ返ったキメラの声が、僕の後頭部に降る。

 顔を上げると苦虫を噛み潰したように顔を歪めきったキメラが僕を見下ろしていた。「飛ぶだけだからな。早くしろよ」と言い捨てる彼に感謝を込めて今一度頭を下げ、改めて、僕の腹心とも呼べるスライムナイトを正面から見据える。

「……ピエール」

 名を呼ぶと、彼は騎士よろしく恭しく僕に向かって剣を掲げた。時代がかった仕草だが、普段あまり言わなくとも彼がそういうことこそ大事にしていることには何となく気づいていた。

 出会ってもう二年近く、ずっと一緒に闘ってきた。

 頭から雨に打たれ、滴る雫もそのままに、密やかに告げる。

「命じるよ。……生きて、戻れ」

 初めて下された僕の命を受けたピエールは、どこか満足げな笑みを短い返答に滲ませ、深々と頭を垂れた。

「────御意」

 

 

◆◆◆

 

 

 話がまとまると、ピエールは手早く出陣の用意を整えた。

 一度船室に戻った彼は懐の中身を整理してきたらしく、薬草の類はほとんど全て置いてきていた。唯一手に持った魔力回復薬を一気に飲み干し「念には念を入れてな」と笑ってみせる。ほとんど降りたところを見たことがない緑のスライムから飛び降りては慈しみを込めて撫でやり、またマーリンや他の仲魔達を呼び止めて何事か二、三の言葉を交わしていた。

 まるでこなれた身辺整理を見ているようだ、と僕は思いながら、やはり渋い顔つきで船縁に蛇の胴体を這わせピエールを待っているキメラに声をかけた。

「さっき、今回だけでいいって言ったけど。……もし良かったら、僕達と一緒に行かないか」

 さすがにこの誘いは想定外だったらしい。丸い眼を一層光らせてまじまじと僕を凝視した後、彼は溜息交じりに首を傾げた。

「あんた、ほんっっとに変わってんな。ついさっき俺の自慢の翼を叩き斬ってくれたのは何処の誰だよ」

「そこはお互い様だろ。多勢に無勢でひやひやしたんだから」

「無勢ぃ? どこがだ。こんだけ戦える人間を積んでおいてよく言うぜ」

 そこはそれ、フローラを狙っての急襲の時の話をしたつもりだったのだけど。当初キメラに対応したのは僕とプックルだけだったし、と思ったが深く追求しても仕方ないのでその件については黙っておいた。代わりに、

「いい奴なんだろうな、って思ったんだよ。君さえ良ければ、どうだろう」

 どこがと問われて答えれば本人は否定するだろうが、そこは偽りなく本心だった。案の定メッキーは益々怪訝な目つきで僕を見る。暫し訝しげに睨んだと思ったら、急ににやりと嘴を歪めて嘯いた。

「ははぁ。セントベレスのことでも知りたいってか? 悪いが俺はろくなこと知らねえし、話すつもりもねえぞ」

「いいよ。何も話さなくて」

 成る程、そうきたか。苦笑交じりにやんわりと否定したら、メッキーは今度こそ毒気を抜かれたらしくぽかんとして僕を見た。

「君から何かを聞き出したいわけじゃないから。言いたければ話せばいいし、話したくないことは聞かない」

 僕も、そうだし。

 仲魔達に全てを話しているかといえば、多分そうじゃない。同じように僕も、彼らから言い出さないことは追及しない。討伐の際に意見を求めるくらいだ。だから、魔物遣いなんて言っても僕自身は魔物に詳しいわけじゃない。知識だけで言えば、モンスターの研究をしているあの老人会の皆様には遠く及ばない。

 だって、人間のことだってそこまで知らないのだから。決してまっとうな家庭に育ってはいない自覚はある。幸せだった子供の頃でさえ、母親がいないことにどこか空虚さを覚えていた。

 ────フローラのことだって、まだ知らないことはある。

 それすらも、それでいいんだと思っている。強がりではない、と思う。僕だって別に、隠すつもりじゃなくてもまだ話せていないことがあるだろうし。大体、結婚してまだひと月しか経ってない。いつか彼女が話してくれると──天空の盾のことを、聞かせてくれると義父も言っていたのだし。

 ……まだ、ひと月だって。

 思えば出会ってまだふた月も経っていないのか。いつの間にかもっと長く一緒にいるような気がしていた。同時に、それほどまでにかけがえのない存在になっているのだと改めて思う。彼女の知見、聡明さに、その清らかな穏やかさに、儚い見た目とは裏腹なまでの不屈の精神に、僕はどれほど救われているだろう。

 ほら、こんな風に。全てを知らなくたって関係は作っていける。信頼はちゃんと育める。話さないことなんて、壁を作る理由になんかなりはしない。

「そういえば、まだちゃんと名乗ってなかったんだっけ。──僕は、テュール」

 まだどこか唖然として僕を見つめているキメラの眼を覗き込み、小さく苦笑しながら名乗ったところで、すっかり身支度を整えたピエールが僕らの前に立った。

「お待たせ致した。メッキーよ、参ろうか」

「あ。ああ」

 やはり死地に向かうとは思えない気楽ささえ感じさせながら、ピエールは躊躇いなくキメラの背に跨る。「ちっとは遠慮しろよな」とぶつくさ言いつつ、大きく羽ばたいたメッキーが宙へ浮かび上がった。

「考えといてやるよ。精々無事を祈っとくんだな」

 一瞥と共にそんな捨て台詞を残し、もう僕達には目もくれずに、キメラは一気に高度を上げた。マストより高い場所から一息に滑空し、大鮹の頭上へと急降下する。

 その動きと共に三隻の船員達も攻撃を止めていた。彼らが飛翔するまでに、残っていた足は全て潰せるだけ潰してもらった。やはり今も再生は為されているが、鮹足に彼らが阻まれるよりはいい。もう僕らはピエールの剣に──落雷のエネルギーに賭けるしかないのだから。

 うまくいってほしい。でも何より、無事に戻ってほしい。

 飛翔は一瞬のことだったがひどく長い時間に感じられた。心臓が鷲掴まれて千切れそうにひしゃげる心地がする。何もないのに貫くような痛みを感じて、思わず左胸を抑えてしまった。何もできずにただ黙って見守る。それが、こんなにも苦痛なことだなんて。

 それでもあの幼い日、鎌を首に宛てがわれ父の最期を見届けた時とは違う。僕が信じると決めた。今度こそ、これは僕が負わなくてはならない、逃げてはならない責務なんだ。

 フローラも、仲魔達も、船長も、船員も。他の二隻も、皆。

 この瞬間全員がそれぞれに船縁を掴み、固唾を飲んで彼らの行く先を見守っていた。

 鮮やかに飛んだキメラの軌跡はマザーオクトの真上で止まった。その高さから、銀に輝く小さな鎧の騎士が落下したのが見えた。雄叫びをあげる肉塊の真上に剣から先に落ちた鎧が着地した、ように見えた、────瞬間、大気が大きく揺れた。バリバリバリ‼︎ と頭が割れるような激震と破壊音、ほとんど同時にはっきりと空を覆いつくすかの如く、大鮹の頭上に巨大な稲妻が走った。

「ピエ────────ルッッ‼︎‼︎」

 離れろ、なんて叫びすらかき消された。彼が着地した肉塊が彼ごと激しく発光し──否、爆発した。肉塊を一瞬で取り込んだ白い光が弾け、ドオオオオオン‼︎ という轟音と共に凄まじい衝撃が走った。まるで火山灰の如く千切れた肉片が降り注ぐ。船も大きく揺れ、大鮹を起点とした海面に青白い光がぶぁ、と一気に広がって消えた。

 瞬き一つしたら終わっていたというくらい、あっという間の出来事だった。

「ピエール! ピエールは……‼︎」

 もはや夢中で相棒を探す。崩れゆく肉塊の、その頂上で──彼は、しっかりと剣を足元に深々と突き立てたまま片膝をついていた。その姿を認めて息を飲むと同時に、遠いその影がぐらついた。剣に縋りつくように倒れた、その身体だけが大鮹からもげて、沈みゆく肉塊にぶつかりながら落ちていく。

 ほとんど反射的に船縁を踏んでいた。迷わず海へ飛び込んで、ただがむしゃらに水を掻く。海中を巨大な肉塊の方へと泳いで泳いで、鮹だったものの胴体に奇跡的に引っかかっていたピエールを見つける。沈みゆく鎧をすぐさま腕に抱えて再び肉塊を蹴り、上を目指した。

 水飛沫を振り撒きざばぁ! と浮上した、その場でピエールの仮面をこつこつと叩く。「ピエール。ピエール、頼む。答えてくれ、ピエール……!」何度も必死に懇願したが意識は戻らない、が、数回呼んだところでぴくりと身じろぎがあった。反応を得られたことで、張り詰め切ったものが急速に落ち着いていく。彼を支えたまま深く深く息を吐いて、急いで表面だけでも、とベホイミを施した。

「その兄さんも、すっげえなぁ……」

 ピエールを降ろした後、距離を取っていたのだろう。どこからか旋回し戻ってきたメッキーは、心底感心した様子で意識のないピエールを覗き込む。

「落雷の瞬間、自分に治癒魔法かけてたぜ。多分そのお陰で死に損なってんだろうよ。喰えねえ御仁だ」

「……そう、なんだ」

 相槌と共に、ぐったりと僕に体を預ける鎧姿の相棒を見下ろした。スライムに跨っていない彼はいつも以上に小柄に見える。今更ながら、彼の背丈は人間の子供ほどしかないのだと気がついた。どこまでも武人で、僕よりも剣技に優れた存在だったから、今まであまり気にしたこともなかったけれど。

 ────魔物、なんだ。間違いなく。

 だからって何が変わるわけではないけど、今更それを自覚したことは自分にとって少しばかり衝撃だった。そこまで魔物と人との境界線が曖昧だったことに、我ながら驚愕を覚えてしまって。

 僕達にぶつからないよう、ストレンジャー号が距離を詰めてくれる。「テュールさん、縄梯子を降ろしますよ! 急いで上がってください!」と馴染みの船員の声が聞こえて、感謝を込めてそちらを仰いだ。皆一様にほっとした様子で僕達を見守ってくれている。

「乗りかかった船だ、そっちの兄さんだけなら上まで連れてってやってもいいぜ。すぐ治療してやりたいだろ?」

 メッキーが顎をしゃくって言い、僕も小さく笑って「そっか。じゃあ、頼もうかな」と答えた。海面すれすれのところでメッキーがこちらに翼を向けて、

 

 それでやっと、

 ああ、終わったんだと思った。

 ほっとして。気が抜けて。次に何が起きたかもわからずに。

 

 

 わずかに見えた、彼の眼が、まるい眼が一瞬天を仰いで。

 え、と思う間もなかった。

 気づいたら僕はピエールを抱えたまま、再び水中深くに沈んでいた。

 慌てて海の中から仰いだ海面に、

 青い光が、光の柱が僕のすぐ真上に落ちてけたたましく爆散、した。

 

 

「──────嫌ああああああぁぁぁッ‼︎」

 海を枯らすような轟音と、壮絶なまでのフローラの絶叫が。

 激しい、激しい慟哭が、海峡の水面に無情に響き渡って。

 

 

 何が、起こったんだろう。

 光は本当に一瞬で消えた。海面に拡散して消える、と教えてくれたアランさんの言葉をぼんやりと思い出していた。ピエールは僕の腕の中、そして、もう一つ──すぐ手が届くそこに、その躰は俯せになって浮いていた。

 たった今まで言葉を交わしていた、

 鳥と蛇の、異形の。

「…………っ、あ」

 嘘だろう?

 自分の身体ではないみたいに震える。鼓動が、煩い。血が急速に逆回転しているみたいだ。思い通りに持ち上がらないその手で、目の前の、ぴくりとも動かない躰に触れた。触れた瞬間指先にビリ、と焼ける様な痛みを感じる。

 ────嘘、……だろう。

 突き飛ばされたんだ。あの瞬間、メッキーがその背で僕とピエールを海中に沈めた。そのお陰で僕達は落雷を免れて────

 メッキー。メッキーは。

 促されるまま縄梯子を手繰り、上の船員にピエールを手渡してからすぐメッキーを拾い上げて登った。すぐに甲板で待ち構えていたホイミンが触診をしてくれる。ピエールはやはり、危険な状態ながらも生き存えてくれていた、けれど。

「……ごめん、なさい。ホイミンにはむり……」

 ほとんど泣きながら告げられた答えで、全ては察せられた。

「そせい、まほう、おぼえてないもん。むりぃ……っ」

 ぼろぼろと大粒の涙を零し、ひぐ、としゃくりあげるホイミスライムの隣にフローラがそっと腰を下ろした。懸命にピエールへの治癒魔法を施そうとする、小さな魔物に寄り添って彼女もまた魔法を手に灯す。……その優しい手が、震えた。

「────ふ、……っ……」

 きっと堪えきれなかった、哀しすぎる嗚咽が彼女の細い喉から溢れる。

 肩を、身体を痛々しく震わせながら治療する二人を、僕達は何もできず見守るしかなかった。

 海をあんなにも揺るがした大鮹は、いつの間にかこの海底深くに沈んで跡形も無かった。涙雨のように降らせていた雨雲も、最後の落雷を呼んだ雲と共にいつの間にか流れて去っていた。

 まるで何事もなかったかのように海は平穏を取り戻し、緩やかに凪いでいく。

 どれだけそうしていただろうか。やがて、メッキーの亡骸がぼんやりと光を纏い、その身体が粒子のようになって空気に溶けはじめた。

 その幻想的な光景を止める術を僕は持たない。ただ与えられた刻限まで、見守って、見送ることしか。

 砂でできた置物のようにさらさらと身体を失ってゆくメッキーを、その最期の姿を、食い入るように見つめていた。

 彼を構成する魔力が全て大気に飲まれて、その身体は僕の知らない何処かへと還る。

 ただ一つ残された彼の核が、からんと音を立てて甲板に出現した。

 彼の嘴の色に似た、琥珀色の核だった。

 

 

 

 

 

 その日の夜は魔物番を終えた後も眠れず、特別船室に備え付けられた小さなデッキから一人、真っ暗な海を眺めていた。

 見張りから船室に戻った時にはとっくに日付が変わり、深夜にもなっていた。ホイミンと共にピエールの治療にあたってくれていたフローラは今はベッドに深く身体を沈み込ませ、力なく眠っていた。触れたら起こしてしまいそうな気がして少しだけ、傍に腰掛けてその寝顔を眺めた。海に入り、雨に打たれてずっとずぶ濡れだった彼女の頰には隠しきれない疲労が滲んでいて、先に眠ってくれたことにほっとしたら急速に肩の力が抜けてしまった。

 魔物番の間も、船員達は皆僕を慮ってくれていたが、確かにひどく疲れているはずなのに、目が冴えてしまって少しも休めそうになかった。

 マザーオクトとの死闘の後、船はすっかりぼろぼろで。あとの二客船は連れ立ってほぼ同じ距離のポートセルミへと戻っていった。この船だけは海峡を抜けた先のサラボナ北東の岸辺につけて、近くの小さな村を頼りに船の修復を行うことになった。それでも丸二日はかかる航路を、マザーオクト以上の敵に遭遇しないことだけ祈って、応急処置を施したストレンジャー号は一路陸を目指し海上を走っている。

 幸いにも重傷の怪我人は出なかった。唯一、ピエールを除いては。今もホイミンがつきっきりで彼に治癒魔法を施してくれている。いつも騎乗しているあの緑のスライムもずっと側についているらしかった。僕も何度か覗いたけれど、「はいっちゃだめ〜! いいから、ごしゅじんさまはおやすみするの〜〜〜!」とすぐさま彼らの船室を追い出された。ずっと付き添っていたフローラも夜には同様に部屋を追われたらしく、目が合えば微笑んでくれたものの、明らかにピエールの様子を気にして消沈していた。船の修理と掃除、そして今後の進路についての相談とで駆けずり回り、夜が更けてからは進んで魔物番を引き受けた。時折船にまとわりついてくる海の魔物達を粛々と処理して、早めに休息をとった船員と交代しここに引き篭った。

 頭が回っているのか、鈍っているのかわからない。気づけば身体は泥のように重くて、しかし思考は無駄なほど冴えている気もする。何も考えず動いている方が気楽で良かったなと思う。一人になった今、何を考えたらいいのか、自分が何を考えたいのかもよくわからなくて。結局目まぐるしく浮かぶ昼間の情景を瞼の裏側に収めながら、その時手に入れた核を掌の中、ぼんやりと眺めていた。

 昼までは確かに、キメラだったもの。

(……何が違う。僕が斬り捨てた、他のキメラ達と)

 それは後悔なのか。懺悔なのか。

 この核にも似た重苦しいしこりが、胸の深いところに入り込んで、とれない。

 身勝手だな、と我ながら思う。自分の都合で敵と味方を決めつけて線引きして、勝手に入れ込んで落ち込んで。

(でも、……もう、仲魔みたいなもの……だったから)

 そんな風に思い返すと、心を許せていない──というのは少し違うのかもしれない、と思う。

 甘えているだけなんだろう。失うことを、取り返しがつかないことを、誰よりも怖がっているのが僕だというだけで。

 目を閉じれば今も鮮明に浮かぶ、父の、最期の、──……

「テュール、さん」

 ふと、悪夢の記憶を澄んだ声が遮った。

 扉に近づいた気配に気づかなかったわけではないけど、何となく、僕は振り返らずにいた。彼女がどんな顔をしていたのかはわからない。フローラは足音も立てずにそっとデッキに降り立って、僕のすぐ背後に寄り添った。

 そのまま、どちらも何も言わないまま、波が船体に打ち付ける音だけが淡々と響く。

「──今日……、ありがとう」

 夜の潮風は肌寒く、背後の君が微かに震えた気配を感じた頃。やっと、昼間言いそびれたことを思い出して、囁いた。

 ひっそりと振り返ってみれば、なんとも言えない表情で僕を見つめる君がいる。

「僕のために、飛び込んでくれた」

 ぎこちなかったけれど、微笑みを繕ってそう言った。この気持ちは嘘ではないのに、助けられた瞬間彼女をあんなにも愛しく思ったのも本当なのに。今はもっと昏い感情に支配されていて、これ以上うまく、彼女に向き合うことができそうに、ない。

 フローラもまた、目を瞠ってから首を小さく振った。いいえ、と掠れた声で答えてまた口を噤む。

 それからまた、漣に支配された静寂だけが僕らの間に満ちて。

 今更だけど、風邪を引かせてしまうのでは。そう思って再び振り向いた瞬間、物言いたげな君と目があった。

「────メッキーさん……、ですか」

 何か別のことを言おうとしたようだったけれど、ふと僕の手元に目を留めたフローラが翡翠の瞳を大きく揺らした。

「うん。海に還そうかと思ったんだけど、……踏ん切りが、つかなくて」

 掌の、決して大きくない核に視線を落とす。少しいびつな、彼の嘴に似た琥珀色のその結晶核は、船が灯すわずかな明かりだけをほんのりと照らして光っている。

「こんな姿になってまで、僕に縛られること、ないよね……」

 思いがけず弱々しい声が出てしまって。身投げでもしそうに思われたのだろうか、繋ぎ止めるように後ろから片腕をきゅっと掴んできたフローラについ苦笑してしまう。

「大丈夫だよ。ごめん、我ながら酷い人間だなって思っただけ」

 こんなこと聞かされても気が滅入るだけだろうに。何とか笑って誤魔化そうとしたけれど、一度開いてしまった口は情けない戯言ばかり垂れ流すのを止められない。

「まだ、仲間でもなかったのにさ。僕なんか放っとくこともできたのに、手を貸したばっかりに。……メッキーがあんまりお人好しだったから、僕の酷さが余計、際立って見えるなって」

「仲間、でしたよ」

 迷いのない、凛とした声が僕の気弱な言葉を遮って響く。

 虚をつかれた僕をやはり真っ直ぐに見上げて、フローラはその強い瞳のまま重ねて言いきった。

「テュールさんが認めていらしたのですから。もう、仲間だったと思っています、私も」

 あまりの眩しさに何も言えなくなってしまって。夜の闇に融けた蒼い髪を見下ろした僕を、彼女は少しだけ哀しげに、困ったように見つめて微笑んだ。

「私の方がきっと、酷い人間です。だって、──私は、」

 ほんのわずか、吐息だけで逡巡してから。彼女は噛みしめるように、微かに声を震わせて、その続きを口にする。

「あなたが、生きていてくださることが、……嬉しい。残酷なほど、……どうしようもないほど、うれしい……」

 音にならないほど控えめに告げられたそれが、どうしてだろう。渇ききった僕の内側に、湧き水みたいに清涼に沁みていく。

「今だって。今だけでも、彼を悼んでいたいと思うのに。……もし、もしも、……私が、あなたを失ってしまったら。そう、思ったら…………」

 思いの外、その呟きは僕の胸を衝いた。

 こんな別れを経験するたび、どれほど愚かだとわかっていても、生かされたことを過ちのように感じてしまう。僕がいなければ失われなかったかもしれない命。本当は死ぬべきなのは僕の方で、僕が殺したも同然ではないのか。父を喪った日から幾度となく浮かんでは消してきた思考。僕を庇って、僕のために命を落とした存在なら、尚更。──だから。

 君が、僕の生を望んでくれることは、ひどく意味があることのような気が、した。

 きっと僕にはこれからも、本当の意味では望めない。それが僕のために命を散らした人々への裏切りでしかなくても。父にも、きっとあの神殿から逃がしてくれた衛兵にも、メッキーにも。生かしてもらったことを僕自身が手放しに感謝できる日なんてきっと一生来ない、だから、せめて。

 この醜い感情が、これ以上鬱屈したものにならないよう。

 僕を想ってくれた人達をいつか、恨みに思うような自分になってしまわないように。

 フローラを手招きし、夜風に冷えた細い肩を抱き寄せた。濡れた目許を手の甲で拭い、無言で僕を見上げた彼女にそっと微笑みを返して。今度こそ、核を握りしめた右手をデッキの外側へと差し出す。

 開いた手から結晶が零れ落ちて、とぷん、と軽い水音を立てた。夜の空気すら溶けたように真っ黒な海だから、あっさり核を呑み込んだそこにはもう何も見えない。

 こんな時にも薄情な僕の眸は乾いたまま、一滴の泪も零れやしない。

「……私も、忘れません」

 漆黒の海と、星すら見えない深い闇。たださざめく潮の音だけが返るこの場所で、葬いの如く、フローラの鈴の声だけがりんと響いて冷たい波間に沈んでいく。

「無力を思い知ることの苦しみも、喪うことのつらさも。……あなたがきっと忘れないように、私もずっと覚えています。今日のこと、あなたを守ってくれた存在があったこと。こうして一緒に見送ったこと……、絶対に、絶対、忘れませんから────」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 ────今から凡そ、

 二十年近くの昔。

 

 

 彼女はここよりずっと南の深海の底にいた。海流の温度も心地良く、その身に宿した数多の命を生み落す瞬間を待ちわびて、気分はひどく高揚していた。どんな形であれ生あるものとして、彼女はやはり次の命を遺せることに言い表せない歓びを覚えていたのだった。

 その日、偉大なる役目をひとつ終えたばかりの彼女を祝福するように、どこからか美味なる宝酒が降り注いだ。

 初めての甘美な味わいに、彼女は次第に酔いしれ我を忘れた。

 深海を彩った酒は星屑の如くきらきらと輝いて、同時に不思議なほど耐え難い空腹を感じた。

 産卵を耐えた軀は滋養を欲していた。すぐ足元に広がったつややかなそれらはいかにも芳醇で食欲をそそり、彼女はたまらず新鮮なそれに足──触手を、伸ばした。

 渦巻く水泡と自らの咀嚼の音に紛れて、どこか遠い、遠い天上から、赤ん坊の啼く声がぼんやりと響いていた。

 

 

 もう誰も知る由も無い、

 過ぎ去りし日の深海の記憶。



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#11. 誓いと祈り

 セルマー海峡を離れて二度目の日暮れ時。昏睡状態だったピエールが目を覚ました、とフローラが呼びに来た。

 恐らく命に別状はないと聞かされていても、どうしたって不安だった。目の前で一つの、同じく魔物の最期を看取ったあとだったから、余計に。急ぎフローラに伴われ、仲魔達が過ごしている甲板下の小部屋に向かった。

 鎧の下がどうなっているのかはわからないが、どうやら火傷に近い症状だったらしいと、階段を降りながらフローラが教えてくれた。

「メッキーさんが伝えてくださった通り、雷が来た瞬間ご自身にベホイミを二回、かけていらしたのだそうです。それがなければ危なかっただろうって、ホイミンちゃんもバルクさんも仰っていましたわ」

 フローラが言い添えてくれた内容に心臓がぎゅっと痛むのを堪え、うん、と頷いた。彼女も気丈にしてはいるが、その横顔には抑えきれない辛さを滲ませている。

 回復魔法の専門家であるホイミンが乗船しているから、とポートセルミにも多くはない船医の同乗は断ってあったが、先の戦闘を受けて寧ろ周囲に強く勧められ、薬師の心得がある船員にフローリア号から移乗してもらうことになった。フローラがバルクさんと呼んだのがその人だ。アランさん達とさほど変わらぬ年齢のバルクさんは医師ではないものの薬の扱いに大変明るく、聞けば昔サンタローズに住んでいた方だという。村の奥に居を構えていた薬師の親方に師事していたそうだ。思わぬ共通項を知った今朝、懐かしい故郷の昔話に花が咲いた。そういえば子供の頃サンタローズ奥の洞窟を探検していて、岩の下敷きになった男の人を助ける手伝いをしたことがあったっけ。これで薬を届けられる、と喜んでくれたことを思い出してそのことを話してみたら、「そうそう、風邪薬の材料を採りに行っててな。なかなか戻ってこないから心配したんだ。若さんが親方を助けてくれたちびっこだったとは、いや世間は狭いな」と驚かれていた。無理もない、僕もまさかと思ったし。

 当然ながらバルクさんの処方は人間が専門であり、魔物の治療には明るくない。だが寧ろ、興味深いからと言ってピエールの経過を共に見守ってくれていた。目が覚めた時のために気付け薬やら滋養づけの薬湯やら調合して下さったり、昨日に至っては雨で身体を冷やしたフローラをはじめ船員達に手際よく薬湯を配って下さったりと、その心遣いに昨日から多大に助けられている。

 懐かしい小部屋に降り立つと、見守り疲れた仲魔達が背中を丸くして小部屋の最奥を取り囲んでいるのが見えた。階段を降りる足音が聞こえたんだろう、各々ほっとした表情でこちらを向いている。昨日より随分和らいだ空気に安堵しつつ、奥に備え付けられたベッドへと歩み寄った。

「……ピエール」

 密やかに、呼びかけると微かに笑った気配がする。

「ここまで大ごとにするつもりはなかった。これは、不覚」

 掠れて、いつもより力なく聞こえた言葉ではあったが、不安を感じさせない彼らしい返事に自分でも驚くほど安堵してしまった。

「何だっていいよ。もう……生きてくれて、良かった……」

 寝台の傍らに膝をつき、天井を見上げるばかりの鎧姿の相棒を見つめる。まだ安静にするよう言われているんだろう、彼は顎ひとつ動かすことはせず、目を閉じたのか、ゆるりと息を吐きつつやわらかく囁いた。

「御命令を違えるわけにはゆかぬ」

 やはり彼らしい、どこか皮肉じみた答えだったが。その響きにいつも以上にあたたかなものを感じて、横たわる彼を覗き込みながら深く、頷いてみせた。

 疑ってなんかいない。けれど、信じきることは怖かった。

 それでも君だったから、全てを預けて送り出すことができた。

「剣、拾えなかった。大事にしていただろうに、ごめん」

「構わんよ」

 またひっそりと笑いを噛み殺す気配がする。萎縮しているつもりはなかったけれど、あんなにも苛烈な叱責をされた後だからかもしれない。気づけば握り込んだ拳の内側が酷く汗ばんでいた。しかし万全ではないものの、いつも通りの受け答えをしてくれる彼を前にして、次第に自身の緊張が解れていくのがわかった。

「もうすぐサラボナとルラフェンの間の岸に着くから、どこかで新しい剣を探そう。そのうち良い鍛治師を見つけられたら、一から鍛えてもらうのもいいかも」

 僕の提案にピエールはやっと小さく頷いて、「業物が良い。何処ぞの秘境に封じられし魔剣など、いつかは手にしてみたいものだ」などと嘯く。「呪われるようなのは御免だよ」と笑って返し、ホイミンに引き続きよく見てくれるように頼んで、再び休ませるべく立ち上がった。

 僕の後に続いたフローラが流れるように会釈をして、それを恐らく視界の端に収めたピエールがにわかに声を上げた。

「────髪を、お切りになったのか⁉︎」

 勢い余って身体を起こしかけ呻いたピエールを、彼の傍らに座り込んでいたホイミンと、当のフローラが跪き慌てて押し留める。

「切ってはおりません。結い上げているだけですわ」

 どこまでも優しい声音で微笑むフローラに、今度はピエールが脱力し、再びシーツに身体を沈めて息を吐いた。

 昨夜、メッキーの核をフローラと共に弔った後。特別船室に戻った僕は、昼間メッキーから聞いた話をようやく彼女に伝えた。

 詳細な意図はやはりわからないことを前置きして、彼ら──恐らくは光の教団が、やはり生きた人間を集めているらしいということ。

 奴隷を集めているんだと思っていたけど、どうやら何らかの身体的特徴のある人間を狙って『蒐集』している可能性があること。

 フローラも、その碧髪を理由に狙われたらしいこと。

 そういえばメッキーが大鮹に吹っ飛ばされる直前、彼女の出自について何やら憶測からの問いを投げてきていた気がしたけれど、それについては触れずにおいた。

 一通り聞き終えたフローラは難しい顔をして黙り込んだ。両手をきちんと重ねて膝の上に乗せ、きれいな姿勢で思索に耽っていた彼女に、ふと不安になり声をかけた。

「髪、……切らないよね?」

 恐る恐る訊ねたら、少し驚いたように長い睫毛を揺らした彼女が顔を上げた。肩から胸元へと流れる美しい碧い髪がさらりと衣摺れの如く音を立てる。

「それも考えましたが──切らない方が、よろしいですか?」

「だって、そんなに綺麗な髪……」

 言いかけて、言い澱む。こういうのって、言われる方は嫌だったりしないだろうか。

 そりゃ、僕は君の髪だけに惚れて求婚したわけじゃないし、フローラだってそんなのわかってくれてる。けど、だからこそ僕が今ここで切るなとか、逆に切ってもいいなんて言うのは違う気がする。今君はきっと僕らと自身の安全のために最善の方策を考えてくれていて、髪を切る、という方法もその選択肢に含まれていて、しかもさほど抵抗なく実行できてしまうらしい。魔物から髪を隠したいなら最も簡単で安全に近い手段だ。君に判断を委ねるのが一番いい。それはわかる、わかっている……けれど。

 その、輝くような碧い髪は、僕にあの曇りない青空を見せてくれた、出逢った日の象徴のような気がしていたから。

「……僕は、切らないで欲しい、けど」

 躊躇いがちにそう続けたら、フローラはまた少しだけ、微かな狼狽を視線に乗せて泳がせて、それから──ほんのりと、細めた瞳に喜びを湛えて微笑んだ。

「わかりました。……ありがとう、ございます」

 明けて今朝方、やはり僕より早く起きて全ての身支度を整えた彼女は、長い碧髪をきっちり綺麗に編み込んで、後ろで一つにまとめていた。服装は見慣れた白いロングドレスのようだが、今日はその上から暗い色味のカーディガンを羽織っている。何も言わないけれど、彼女なりの喪の服し方なのかもしれなかった。しかし色合いは違えど、夢のようだった婚礼の時にも似た品位に満ちた装いに、知らず僕の胸は高鳴ってしまう。

 耳許には先日贈ったばかりの、蒼玉に金のフリンジがついた耳飾りが揺れている。間違いなく清楚であるのに、普段は見せない彼女の白いうなじに耳飾りの濃い蒼と金色がやけに映えて見えて、その艶かしさに思わず顔ごと視線を逸らした。

 そんな僕に不安を感じたのか、「もしかして、どこか崩れてしまっているでしょうか?」などと懸命に頭の後ろを手で探る妻を慌てて止めて、綺麗にできているよ、と伝えた。彼女は遠慮がちに微笑んで、良い帽子を持ってきていなかったので村に着いたら何か買っても良いでしょうか、と訊ねてくれた。これで帽子を被れば、ぱっと見で碧髪はわからなくなるだろうから、と。

 彼女の思慮深さに心から感謝しつつ、そんなわけで今朝からフローラは髪を編み上げるという試みをしてくれている。ピエールの看護を手伝いつつ、空いた時間でマーリンの魔法講義も再開したそうだ。つくづく勤勉で働き者の妻に頭が上がらない。

 ピエールはもしかしたら昨日の戦闘中、僕とメッキーの会話を聞いていたのかもしれない。ピエールに限らず仲魔達はみな感覚に優れている。気配に聡いだけあって、多分耳も人間よりずっと良いのだから。

 それこそ不覚というように今度こそ顔を背けたピエールに軽く手を挙げ、退出の意を示した。フローラも僕に従い、階段へ続く出入り口へと向かう。一段目を踏もうかというところでピエールの、どこか厳かな声が僕を引き留めた。

「……メッキーは」

 それは既に、彼の無事を問う為の言葉ではなく。

 恐らく目覚めて僕を待つ間に事の顛末を聞いたのだろう。小さく頷き、黙って振り返った。やはり目は合わなかったが、ピエールの苦悶は否応なしに空気を塗り替えて伝わった気がした。

「昨晩、見送った。……フローラと」

 静かに告げれば、そうか、とまた吐息混じりに低く掠れた声が聞こえる。僕のすぐ後ろに立ったフローラが堪えきれず苦しげな息を吐いた。それきり沈黙が満ちた部屋を、もう振り返らずに早足で階段を上がり甲板へ出た。

 昨日と同じ湿ったぬるい潮風が頬を叩く。こうしていると、今にもあの斜に構えた物言いが聞こえてきそうだ。

 首を一つ振ったところで、フローラがそっと隣に寄り添って立った。優しい掌で、僕の肘に触れて。

 たったそれだけのことにどれほど救われているだろう。感傷も虚無感も、視線を交わしただけで君が半分背負ってくれる。

「私、厨房でお粥か何かを作らせていただいてきますね。せめて食べやすいものをご用意して差し上げたくて」

 それはさぞかし喜ぶことだろう。頷いた僕にやわらかな微笑みを一つ返し、彼女はすぐ踵を返し小走りに去って行った。その華奢な背中を見送って、すっかり藍色に染まった東の空を眺めた。

 この場所からでもよく見える、天を貫いて聳え立つ神の山の頂を黒雲が取り巻いている。正直僕には禍々しく見えるばかりだけど、あの場所を今も神の地だと信じている人々には畏敬か、神の怒りか何かのように映るのだろうか。

 竜神は、この世界が崇め祀ったかつての神は我々人間などとうに見限ったのではないか。勇者が現れないのもそういうことではないのか。

 正直、僕はとうの昔に信仰心なんて手放している。竜神の帆旗を掲げて修道院育ちであるフローラを妻としているけれど、天空信仰にこれっぽっちも期待なんかない。神の加護などなくて今更だ。母は戻らず、父はずっと昔に逝った。あの地獄から逃れられたのだって、感謝すべきはヘンリーの勇気とマリアさんの縁、ヨシュアさんの尽力であって神じゃない。

 こんな自分だから勇者も見つからないのかもしれない。我ながら失笑を禁じ得ないが、それでも縋る神など持ち合わせちゃいない。神を憎まずにいられるだけ褒めてほしいくらいだ。

 ────いや、

 投げやりな思考の中、鮮やかに僕を照らす一柱の神を視る。

 彼女だけが、僕の神だ。自由を得て尚、暗いものに囚われていた僕の世界をやさしい光で満たしてくれた。

 救いは得られた。彼女がそばにいてくれるだけで、いい。僕の神は、僕がこの手で守る。

 父が遺した希いを諦めようとはまだ、思わない。魔界に入るには伝説の勇者の力が必要だと父が手紙に書き遺した。それを疑うつもりはない、それでも、万が一勇者が見つからなかったとしても、僕は母を救い出すことを諦めたくはない。

 父の遺言である以上に、たった一人の肉親だからこそ。

 母に、魔界に通じる不思議な力があったというのなら、実の息子である僕にもそういう力が眠っている可能性はないだろうか。

 母に通じる力がもしも僕にあるならば、魔界に囚われている母の元へ行くことも不可能ではないのでは、ないだろうか。

 そこまで考えてふと、剣だこだらけでごわついた己の掌を見つめる。

 ────この、魔物が力を貸してくれる不思議な能力は、もしかしてその力の一端なのか?

 だって、父には多分そんな力はなかった。僕が知らないだけかもしれないけど、プックルを連れ帰った時も確か酷く驚いて、初めはあまりいい顔をしなかった気がする。でも、……ああ、そうだ。

『まさかお前まで、魔物と心を通わせるとはな』

 大きな掌で僕の頭をぽんと撫でて、父が苦笑混じりに呟いた。

 あの時は意味がわからなかった。かよわせる? と首を傾げた僕に、父さんは優しく笑って『いいや。大事にしてやるといい』って言ってくれたっけ。

 あの言葉はもしかしたら、母さんが今の僕のように『魔物と心を通わせる』ことが出来た、という可能性を示唆してはいないか。普通に考えて、まだ小さかったとはいえ地獄の殺し屋キラーパンサーの赤子だなんて、どんなに息子が懐いていようがあの父が警戒しなかったはずがないのだ。

 母さんの話はほとんど聞いたことがない。幼い僕を寂しがらせない為だったのかな、と今になって思う。サンタローズに残っていたわずかな人々にそれとなく聞いてみたけれど、誰も僕の母のことは知らなかった、というか、そもそも父はサンタローズ村の出身ではなかった。仮にも村長に抜擢されていた父なのに、彼がどこから来て住み着いた者なのか誰も知らなかった。サンチョもまた然りだ。父の隠れ家を秘匿してくれたお爺さんですら素性をご存知なかったのだから、徹底している。探し物が自身の妻であるということもあまり言わなかったみたいだから、これまで旅してきた中でも父の話は聞けどもその妻を知る人には未だ出会ったことがない。

 あの時父さんは、僕の中に母さんの面影を見たのかな。

 とりとめなく思考を巡らせていたら、無性に母に会ってみたくなった。マーサという名前しか知らない、父の妻であり、僕を産んでくれたひと。

 ────どんなひとだったんだろう。サンチョに聞いても、しんみり涙ぐんでは「とってもお綺麗で、お優しい方なんですよ」としか言わなかったから。

 なんというかサンチョ、フローラを見ても同じことを言いそうな気がするな。

 気の良い、優しい丸い顔を思い出して一人密かに笑ったところで、さっき厨房へ去ったばかりのフローラが深めの器と大きなバスケットを持ってこちらへ向かってくるのが見えた。お嬢様そんな、俺がお持ちします! と何人かの船員があわあわとその後ろをついてきていて、フローラはどうやら断っているようだが、船が揺れるとバスケットが振り回され、ふらついてすこぶる危なっかしい。すぐに駆け寄り、バスケットごと彼女を抱き留めた。

「あ……ありがとうございます。すみません、一人で大丈夫だと思ったのですが」

 別に謝る必要はないのに、申し訳なさそうに眉根を寄せる。ピエール一人の量じゃないから、きっと他の仲魔達の分まで運ぼうとしてくれたんだろう。そういえばそろそろ、僕らも夕食の時間だ。

「ううん、気づかなくてごめん。一緒に持っていくよ」

 さりげなくバスケットを奪い、中身をざっと確認する。割れ物や水物はなさそうで安心した。益々恐縮した様子のフローラが「ありがとうございます。あの、実はもう少し運びたいものがあって……」と厨房を振り返りつつ言葉を濁した。本当にそんなに気を遣わなくていいのに、苦笑しつつ器も受け取って一度戻るよう促す。

「そしたら、誰かにお願いして一緒に持ってくるといいよ。皆さん手伝いたそうにしてくれているし。階段が心配だから、これは僕が運ぶね」

 男手に任せなよ、と言いたい気持ちもあったが、一人で運ぼうとしたフローラの意思を尊重したかったのだ。それにしたってこのバスケットは彼女の細腕には大きすぎるし、粥が入った器は蓋されているとはいえ、階段を下りる際零して火傷でもされたらたまらない。この粥以外のものはコックが用意してくれたものなのだろうけど、確かにこれではいつもよりだいぶ少ない。あと二つくらいはバスケットがあるんだろう。何度か手弁当を作ってくれた彼女だから、仲魔達が一食にどれくらい食べるのか、彼女はよくわかっている。

 せめてこれよりフローラにも運びやすい大きさの荷があることを祈って、またはらはらと僕らの様子を見守っていた船員数名にも声をかけて厨房に戻ってもらった。フローラから預かった食事を先ほどの小部屋に運び込むと、もうみんな匂いで気づいていたらしく怪我人を差し置いて大喜びだった。慌てて、お粥はピエールのだからね? と牽制する。フローラの手製であることも言い添えたら、ピエールは肘をつき上半身を起こしながらも実に満足そうに頷いていた。

 程なく他のバスケットも到着し、小部屋は一時賑やかな食堂と化した。運んでくれた青年達もスラりん達の食いっぷりを見て笑っている。マーリンはあまりこういう雰囲気は好まないのでは、と不安になりちらりと表情を窺ったが、特に疎ましがる素振りもなく淡々と食事を取り分け口に運んでいる。いつの間にやら昼寝友達として親睦を深めているらしいプックルとガンドフは、プックルの目配せだけで的確にバスケットの中身を取り分けてやる気の利くガンドフ、という妙な世話焼きの構図を完成させていて笑ってしまった。

 つまみ食いしつつピエールに寄り添うホイミンの隣で、フローラはやはり聖母の如く、ピエールの食事をかいがいしく補佐していた。まだ匙を持てないので致し方ないが、正直ちょっとだけ羨ましい。しかもそんな僕のつまらない嫉妬心に彼は絶対気づいている。何も言わないし鉄兜面であるにもかかわらず、にやにやと僕を盗み見しているのが気配だけで見て取れる。恨めしく思う反面、あまりにもいつも通りの彼であることに本当に──泣きたいくらい、腹の底から安堵した。

 できればもう、あんな思いは味わいたくないな。

 苦い自嘲と共に湧き上がったそれを飲み下す。その望みを果たせるのは自分自身しかいないのだと言うことはもう、痛いほどよくわかった。

 僕を主としてくれることの意味を忘れるな。支えてくれる、共に戦ってくれる彼らに恥じない主人でいよう。フローラが僕の妻として凛として立っていてくれることとそれはきっと、良く似ている。

 彼らの力を借りて、今度こそ、僕が彼らを守ろう。

 闇雲に命を懸けさせるような戦い方はもう二度としたくない。

 入口際の壁に寄りかかり久々に賑やかしい室内を眺めていたら、いつの間にかバルクさんが階段の途中から小部屋の様子を窺っていた。振り仰ぐと照れ臭そうに、「鎧のあんちゃん、起きたって聞いたからさ。薬湯持ってきたんだ」と頰を掻く。有り難く頭を下げて、小部屋へと招き入れた。「おいおいおい、いい身分だなぁ。うちのかみさん、そんなんしてくれたことないぜ?」などと軽口を叩きつつ近づいていく彼の背中を見守りながら、つい笑いが零れてしまう。どこの夫婦も似たようなものだな、と言うか、たまには風邪をひいたりして甘えてみるのもいいかも、なんて寝惚けたことを思ってみたりして。いかんせん頑丈だから、フローラに世話してもらうような日は中々来なさそうだけど。

 朗らかな空気に包まれ、ふと、魔界に居る未だ見ぬ母を想う。

 僕が今こんなにも温かな友人達に恵まれているように、母の傍にも優しい友が居れば良い。

 人ならざる者達と心を通わせられる、この喜びを与えてくれたかもしれない貴女が、少しでも寂しくないと良い。

 魔物は決して恐ろしいばかりの存在ではない。魔界は恐ろしいところかもしれないけれど、そこに住まうのもまた魔物であるならば、貴女はきっと彼らと心を通わせられるんだろう。

 だって貴女は、他ならぬ父が愛した、

 僕の、母さんなのだから。

 

 

 

 幸い、セルマー海峡を離れてから後は風と天候に恵まれ、ストレンジャー号はその翌日の昼過ぎ、順調にサラボナ北東の岸へと到着した。

 近くには家が十軒もない小さな集落があるだけだそうだが、馬車を駆れば一日内に祠のある宿屋へと着く。あそこは旅の要所として馬車用の修繕物資を常備しているとのことだったので、久々にパトリシアを走らせ木材や塗料といった物資の買付けに出ることになった。

 船の修繕に詳しい船員に二人ほど馬車に乗ってもらい、翌日には戻る旨を船長をはじめ皆さんに伝える。

 今回、フローラには残ってもらうことにした。帽子を探してやりたかったけど、やはり街でないとこういったものは売っていないと思う。正直数時間だって離れ難いけど、修繕の為の買付けに非力な女性を同行させる必要性はどう好意的に見ても、ない。僕の我が儘だけで連れ出すのは気が引けた。ピエールは回復にもう少し時間を要するだろうし、フローラを必要とする仕事は船上の方が何かとあるだろう。

「一応、キメラには特に気をつけてね。できればあまり甲板には出ないで、異変を感じたらすぐに船長でも、仲魔達にでも伝えて。できるだけ早く帰ってくるから、無茶はしちゃ駄目だよ」

 出掛けに彼女の肩を捕らえ、こんこんと注意を説いたらフローラはほんの一瞬寂しげな瞳を見せて、しかしすぐに「わかりました。良く気をつけますから、安心して行ってきてくださいね」と微笑んでくれた。

 フローラを守るためにもあまり船の戦力は割きたくなかったものの、こちらを削りすぎて同行してくれる船員二人に何かあっては申し訳が立たない。悩んだ結果、プックルにだけ一緒に来てもらうことにした。マーリンにガンドフ、スラりんも傍に居ればそう易々とフローラに手出しはできないだろう。皆に采配を伝えると、特にマーリンは目をぎょろつかせて「お任せを。奥方様を狙う不埒な輩は我が炎で一瞬で消炭にしてご覧に入れます」と大変穏やかではない死刑宣告をくださった。うん、ものすごく頼もしいけど、船を焼かない程度にお願いします。更なる修繕が必要になっては目も当てられません。いつもはのほほんとしたガンドフもスラりんも、留守を預かる責任感からなのか俄然やる気を見せてくれた。本当に頼もしい。

 馬車にキラーパンサーが同乗することになり、二人の船乗りはさすがに当初青ざめていたが、幌を覗き込んだフローラが「プックルちゃん、皆さんをよろしくお願いしますね」とその首元を抱き寄せ撫でているのを見て更に茫然としていた。そんなフローラに甘える素振りこそ見せないものの、プックルも軽く喉を鳴らして大人しく了承を示す。全く恐れる様子のない少女と怯える男達の対比の図に、ついこの間もこんな光景を見たっけな、と思わず笑ってしまう。

「それでは、行って参ります。フローラと仲間達を、どうぞよろしくお願いします」 

 見送るため甲板にずらりと並んでくれた、船長と航海士の面々に深々と頭を下げる。

 心配そうに見送るフローラと仲魔達を振り返り、ちらりと微笑みを返して。キラーパンサー一匹と船乗り二人、そして僕を乗せた馬車は緩やかに加速しながら森へ向かって走り出した。



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#12. 双つの月

【side Flora】

 

 テュールさんがお傍にいないと、時間はいつもよりずっとずっと長く感じるものなのだと思い知らされる。

 慣れ過ぎてしまったのかもしれない。結婚して、一緒に過ごすようになってからまだひと月くらいしか経ってはいないのに、一緒にいることが当たり前のように感じてしまって。なんて贅沢な思考、自分の愚かしさに溜息が出る。妻にと望んでいただけただけで十分だったはずなのに、私はどんどん欲張りになってしまっている。

 いいえ、以前もっと長く彼を待ち続けたことがあった。死の火山から戻られて間もなく、水のリングを求めて旅立たれてしまった時。凡そ二週間、祈るしかできない、不安ばかりの日々を過ごした。あの時は大火傷をしたアンディをずっと看病していて、あなたまで私が知らないどこかで大怪我をされてしまったら、と思うと胸が張り裂けそうだった。思えばあの時も、彼のいない毎日がこのまま一生続いてしまうのでは、と絶望するほどに一日一日を長く感じていた。

 今、また二週間も待てと言われたら、私はきっと枯れてしまうわ。

 ふた月も前の私はあの人を知らない私だった。たった一目、あの人を知って私はこんなにも変えられてしまった。

 何も知らなかった、何も望まずにいられた平穏な頃の私にはきっともう、戻れない。

 ────しっかりしなくては。明日には帰ると、彼はちゃんと約束してくれたのだから。

 さっきからほんのちょっとした瞬間につい彼を探してしまって、自己嫌悪に陥ってばかりいる。体力が戻りはじめたピエールさんをお手伝いした直後。マーリン様の講義が終わって一息ついた瞬間。コックに頼み込み、厨房の片隅を借りて作らせてもらったリゾットが美味しくできた喜びや、本当にふと、暮れゆく空の深い藍色に淡い星の煌めきを見つけた時。

 あの人と一緒に見たいもの、お話ししたいことばかり。

 船から眺める星空は遮るものがなくとてもきれいで、乳白色の星々がきらきらと連なって零れる夏の夜空はどれだけ眺めても飽きることがない。ポートセルミを離れてから日没を迎えるたび、もう何度も見上げている。テュールさんはそんな私にいつだって優しく寄り添ってくださって。星を見つけて、はしゃいだ私が振り仰ぐと必ず、甘い微笑みをくれる。

 昼と夜が混ざり合う空を窓のこちら側から見上げながら、耳朶の飾りにそっと触れた。あの空と星のような色合いの、そしてあの人の瞳にも似た宝玉が揺れるこの耳飾りは、彼が私にと選んでくださったもの。その存在を確かめるだけで、離れていても抱きしめられているような、あなたに守られているようなあたたかな気持ちになる。

 やることがひと段落してしまうと、ぽかりと胸に穴が空いて、急に寂しさに襲われる。

 さすがに修繕作業はお邪魔できないけれど、厨房のお手伝いだったらいいかしら。お昼の時は断られてしまったけれど……

 ほんの少し、気鬱を感じてため息をつく。

 やっぱり皆さん、私には特に気を遣ってらっしゃいますよね。

 父の所有する船舶だから覚悟はしていたつもりだし、乗組員の皆さんのお気持ちは痛いほどわかる。彼らの主の娘である『私』に何かあることは絶対に許されないのだ。わかるからこそ船出からこちら、余計な行動はできるだけ慎んでいる。ただでさえこの髪の所為で魔物を呼び寄せてしまうということなのだし。

 せめて父に一言、娘を特別扱いしないでやってくれ、と言ってもらえれば少しは変わったかもしれない。本宅では父公認で厨房に入らせてもらえたのだから。

 ……でもそれって結局、父の許しがなければ何も出来ないのと同じことだわ。

 甘い考えに縋ろうとした自分が恥ずかしい。テュールさんはちゃんと、ご自身の言葉で意思を伝えていらしたのに。

 私の夫だから、ルドマン家の一人娘と婚姻を結んだ方だから。特別扱いというならきっと彼も同じだったけれど、彼はあくまでこの船の人々と対等で在ることを望み、自らの振舞いでその立場を掴み取った。

 考えれば考えるほど情けなくなってしまって、ぱちん! と頰を両手で叩いた。もう、こんな贅沢な悩みで一人落ち込むなんて。こういう時はろくな思考にならない。

 もうすぐ日が暮れる。お夕食の準備を手伝って、食事のあとはできるだけ早く眠ってしまおう。眠ってしまえば朝になる、そうすれば、少し待つだけで会えるもの。大丈夫、そう自分に言い聞かせて、特別船室の窓から外の様子を窺った。甲板に出る時は注意するようテュールさんが言ってくださったから、万が一などないように気を配っていたかったのだ。

 そうでなくともキメラの件があったから、つい空にばかり気を取られてしまう。これまでに何度も身を貫かれた嫌な視線は感じないことを確認してから、ドアノブに手をかけた。

「────きゃっ⁉︎」

 急いで出ようと扉を開けた瞬間、予期せぬ何かにぶつかった。勢い余って前のめりにくずおれてしまい、同時に「ぉわっっ」と下から舌ったらずな声がもつれて聞こえる。お仲魔のどなたかを潰してしまったかも、咄嗟にそう思った私は慌てて声の主を探して足元を見渡した。

「ご、ごめんなさい! ────、……え?」

 謝罪の言葉もそこそこに、瞳を瞬かせる。目の前にいたのは全く知らない──見覚えのない子供、だったのだ。

 いかにも漁村の子という風情の、擦り切れた半袖のシャツに海の色の膝ほどのズボンで尻餅をついたその小さな少年は、くたびれた茶色の帽子の下、少しくすんだ緑の髪を揺らし驚愕を貼りつかせた表情でこちらを見上げていた。大きく見開かれた丸い瞳から彼の動揺がありありと見て取れた。そこに慌ただしく「お嬢様⁉︎ 何かありましたか?」と近づいてくる人の気配がする。ぴゃっ、と小動物の如く反応した少年は素早く身を翻すと船員さんの姿が見えるより早く特別船室の中に逃げ込んだ。あ、と思う間もないほど、その身のこなしは早かった。

「あ、……ええと……すみません。ちょっと、入り口の縁に躓いてしまったみたいです。お騒がせいたしました」

 すぐに覗き込んでくださったのは、オラクルベリーの宿屋でお世話になったアランさんだった。彼に向けた顔に咄嗟に愛想笑いを貼り付ける。すぐに報告すべきだったのでは、とその瞬間反省したものの、またすぐに少年の驚いた顔を思い出す。まだ幼い、本当に小さい子供だったもの。どうしてこの船に入り込んだのか、まずは女の私が話を聞いたほうが良いかもしれない。

 尚も心配してくださるアランさんに微笑みで了承を促し、扉を閉める。耳をそばだて、大人の足音が遠ざかったのを確かめてからそっと、小さく小さく声を発した。

「出ていらっしゃい。ここには私しかおりませんから」

 怖がらせないよう優しく言ったつもりだったけれど、息を殺して縮こまっているのか、静まりかえった船室に答えは返らない。さっき見たのは幻だったのかしら? と首を傾げつつ、奥の部屋のテーブル下、暖炉や本棚の陰を探してみる。隠れられる場所なんてそんなにない気がするのだけど……

 ぐるりと室内を見渡したところで、ぎし、と頭上から小さな物音がした。足音を控えてそろそろと二階に上がる。そうっと寝室を覗いてみると、奥のベッドの向こうに緑の頭がぴょこっとはみ出して見えた。

「こちらに上がっていたのね。ちっとも気づかなかった」

 話しかけると身を竦めたのか、びくっと短い髪が跳ね上がる。

「大丈夫よ、怖いことはしないわ。怪我はなかった? いきなりぶつかってしまって、ごめんなさいね」

 それ以上距離をつめることはせず、あえて部屋の入口に立って見守った。少年は緊張しているのか、私の呼びかけには答えずひたすら黙って身を縮こませている。怒られると思っているのかもしれない。でも、理由如何では諭してやるのも大事なこと。褒められたことではない自覚があるなら尚更、絶対に怒らない、などと確約するのは良いことではない。そう思って、それ以上は何も言わず静かに反応を待った。

 そのまま数分、どれくらい経っただろうか。

 そろり、と緑の髪が動く。もう一度微笑みを整え直して、視線を受け止める準備をした。ベッドの向こう、ゆっくりと頭が半回転したかと思うと、二つの可愛い茶色の瞳がゆるゆると持ち上がってきてこちらを覗いた。目が合うと慌てて隠れてしまったが、すぐにこちらを窺ってまた、覗く。

「…………た、……たべちゃ、やだ……っ」

 首を軽く傾げ、柔らかく微笑んで見せると、少年は半分べそをかいたように目元を思い切り歪ませ後ずさる。

「まぁ。あなたのような勇ましい男の子、誰も食べたりしません」

 失礼かと思いつつ込み上げてしまう笑いを懸命に堪えて、膝に手をつき、身を屈めて目の高さを低めた。可愛らしい少年は益々びくりと身体を震わせ、しかしぐっと唇を噛んで首を振った。こんなにも小さいのに、その身の内に秘めた心の強さを垣間見て胸が熱くなる。

「お、おまえ、かみのてしたか? ここ、かみのふね、だろ⁉︎」

 警戒心もあらわに問いかける少年は真剣そのものだが、神の手下、などという思いがけない単語を並べられ今度こそ小さく笑ってしまう。ああ、教会からお借りした帆を見て勘違いしているのね。『人のものに手をつけるとマスタードラゴンがその手を喰らいに来る』というのは昔からよく聞く子供の躾の常套句の一つ。んん、とすぐに咳払いで誤魔化し、彼がよく見える方に一歩、足を踏み出しながら優しく問いを返した。

「神様の御船ではありませんよ。私はフローラ、普通の人間ですし、これはポートセルミから来た人間の船です。──お名前を、お聞きしてもいいかしら?」

 頭を半分出してこちらを向いたまま、きょとん、と瞳を瞬かせた彼は私の質問には答えず、ぽつりと小さく「にんげん」と呟いた。この子の目には一体どう見えていたものか、何となくわからなくもないだけに可笑しくなってしまう。けれど一瞬、彼の瞳に言いようのない寂しさが過ったような気がして、思わず笑いを呑み込んで少年を見つめた。

 まだ五、六歳くらいかしら。よく日焼けした鼻の頭にそばかすが浮かんでいる。愛嬌のある焦げ茶の瞳を見開き、緑髪の少年はぐるりと船室を見回して言う。

「でもおれ、こんなでっけえふね、みたことねえや」

「客船といって、たくさんの人を乗せて運ぶための船なのです。ご家族様は漁師をなさっているのでしょうか?」

 数年前からこの辺りの客船は運航を止めていたはずだから、無理もない。海沿いの集落だから、と思いついて問いかけたが、またまた疑問符を頭の周りに散らばした少年に「ええと。お魚を獲る、お仕事をなさっているのかしら?」と言い換えてみる。少年は素直に頷き、ついにベッドに手をかけて立ち上がると腕をいっぱいに伸ばして大きく回して見せた。

「おれのおっとう、さかないーっぱいとるし、いももとるんだ。うまいものいろいろとれるぞ!」

「それは、とても素晴らしいことですわ。漁師さんの船はこの船とはまた違って、美味しいお魚をたくさん捕まえるために造られていますから。たくさん獲っていらっしゃるということはそれだけ良い船だということですし、腕もよろしいのね。畑仕事もなさるなんて、お父様はいつもとても頑張ってくださっているのですね」

 初めて声を弾ませた少年の得意げな笑顔に、こちらまで表情が綻んでしまう。ようやくその全貌を見せてくれた少年はまじまじと私を見つめ、またぼんやりと呟いた。

「でも、ねえちゃん、ほんとにめがみさまみてえだ」

「まあ、恐れ入ります。本当に普通の人間なのですけど」

 珍しい碧髪だからだろう、昔からそんな賛辞をいただくことが多い。冗談めかして微笑むと、彼もにかっと所々生え替わりで抜けたらしい白い歯を見せて笑った。警戒を解いてくれたことを嬉しく思いながら、改めて手招きをした。

「それで、この船に何か御用でしたか? 今この船は壊れたところを直していて危ないんです。探検はお勧めできないわ」

 手前のベッドに腰を下ろして、身体だけ少年の方を向く。座って尚私より目の高さが低い小さな少年は軽く私を見上げ、瞳を再びぱちぱちさせつつ首を捻った。

「こわれたんか? なんで?」

「ここに着く途中に魔物と戦ってきたのです。この後も長く船に乗らなくてはならないので、ここで直してから行くのですよ」

「まもの⁉︎」

 聞かれたことに答えただけなのだけれど、少年は唐突に眼をキラキラ輝かせて前のめりになる。純真な好奇心に気圧されるも、少年はててっと小走りに私の膝元へ駆け寄り、益々興奮した様子で拳を握り込んだ。

「まものしってるぞ! わるいやつだろ? ねえちゃん、わるいやつやっつけたんか⁉︎」

 えっと、これは。

 返答に困ってしまった。確かにこの子にとって魔物は生活、生命をも脅かす『悪』い存在なのでしょう。いいえ、多くの人間にとっては当たり前にそうだし、私だって野に放り出されて一対一で対峙させられればそう感じるかもしれない。けれど、どうしても即答できなかった。お仲魔の皆さんのことだけじゃない。つい一昨日の、私を狙う側だったメッキーさんとのやりとりや、メッキーさんを通して感じたあの強大な魔物のこと。彼らには彼らの信念があり、生き様がある。私達とは立場が違うだけのこと。どんなにその根源に私達にとっての『悪』が根付いていようと、それはただ糾弾され葬られれば良いというものではない。

「ねえちゃん、もしかして、まけてにげてきたんか……?」

 黙り込んでしまった私を、少年は心配そうに見上げる。あらぬ誤解に息を呑み彼を見下ろすと、小さなその子は勝気な眼差しをまっすぐに私に向けて、袖を掴んで熱っぽく叫んだ。

「あんしんしろ! そいつがおっかけてきたら、おれがやっつけてやる‼︎」

 電撃のような驚きに胸を突かれ、彼を正面から見つめた。

 私の腰ほどしかないこの小さな勇者は、魔物の話に恐れを抱くことなく、わずかの迷いもなく勝利を、そして私を守ると断じてみせたのだ。

 なんて無謀で、勇敢で、頼もしい。

「ふふ。ありがとうございます。ちゃんと勝ってきましたから、大丈夫なんですよ」

「えっ! かったのか⁉︎」

 うっかり涙が滲みそうになる熱い目頭をさりげなくこすって誤魔化し、笑ってみせる。却ってがっかりされてしまうかと思いきや、少年は精気に満ちた瞳を星のごとく輝かせ、更に活き活きと声を弾ませた。

「どんなやつだった? でかかった? つよかった? どうやってやっつけた⁉︎ なあなあ、おしえて‼︎」

 先ほどまでの怯えようはどこへやら。大興奮で矢継ぎ早にまくしたてる少年を前に「あの、ちょっと、落ち着いてくださいな」と情けない声しか出ない。

 ──本当に、男の子はどんなに小さくても勇ましいものね。

 テュールさんも幼い頃お義父様にお話をねだっていたのかしら、と思ったらつい頬が緩んでしまった。そういえば修道院にいた頃、オラクルベリーの子供達の元へ読み聞かせをしに行ったことがあったけれど、やっぱり男の子達は武勇譚が好きだったのを思い出す。とりわけ、天空の勇者と魔族の王の伝承譚は、書き写していった本がばらばらに解けるまで何度も何度も読み聞かせをせがまれたものだ。

 まさか自分達の冒険を語ることになるとは思わなかったけれど、とつい最近の記憶を辿って視線を泳がせたら、窓の外が既に真っ暗なのが目に入った。いけない、すっかり陽が落ちてしまっていたのね。

「坊や、見て。夜になってしまったわ。ご家族が心配なさっているでしょうから、早くおうちに帰りましょう?」

「ええー!」いかにも不服そうに少年は唇を尖らせる。「でも、ふねなおったらねえちゃん、いっちゃうんだろ? やだよう、いまききたいよー!」

 何とも可愛らしく駄々をこねる少年を前に、ますます困り果ててしまった。私自身小さい頃から同年代の子とすらほとんど触れ合わずに育った身、子供の扱いが得意なわけでは決してない。

「まだすぐには直りませんから。でも、そう、ですね……」

 そこまで答えて暫し、口許に手を当て思案する。空いた時間にこの子とお喋りすること自体はやぶさかではないのだけれど、子供とはいえこの船に乗組員ではない人間を通すことは警備の面でも、また修繕作業の面からもよろしくない。かと言って、魔物の標的になりやすい私がふらふらと船の外に出るわけにはいかない。船の外どころか甲板へ出るのだって気をつけるよう、夫からよくよく言い含められているのだから。

 ……でしたら、明日テュールさんがお戻りになってから相談してみる、というのはどうかしら。

 フォスター船長に相談しても良いけれど、私の護衛の為だけにお忙しい皆さんの手を煩わせたくない。それに、テュールさんの知らないところで行動すること自体気が咎めてしまう。明日の夕方、お帰りになった後ほんの少しなら、テュールさんについて来ていただくことも叶うかも。

 お仲魔の皆さんに同伴をお願いすることも考えたけれど、サラボナならばまだしも、この海沿いの小さな集落で皆さんを表に立たせることは、できれば控えたかった。

 ここからそう遠くないところにあるカボチ村での一件は私も聞いている。ただでさえ世間一般的に、この純真な少年にまで『悪い奴』と称されてしまう存在である彼らに、それでも誰にでも優しすぎる彼らに、嫌な思いは欠片でもさせたくない。

 そう思うと、この子が特別船室に向かってくれて良かったとすら思える。きっと甲板に人が多かった所為なのだろうけど、先に前部甲板の階段を降りてしまっていたらどうなっていたことか。

「絶対のお約束はできませんけれど。明日の夕方、そこの砂浜で待っていていただけませんか? もしお外に出られましたら、少しお喋りを致しましょう」

「えー。やくそくは? できねえの?」

 やはり残念な気持ちを隠さない少年の頭に初めて触れて、そっと撫でる。できるだけ優しく、安心させるように笑ってみせて。

「ええ、もしかしたら出られないかもしれませんから……でも、出来るだけ行けるよう努力します。その代わり、もう黙って船に上がらないでくださいね。知らない人のお家や船に勝手に入ることは良くないこと、でしょう?」

 痛いところを突かれたらしく、少年は「うっ」と短く呻き、ばつが悪そうに俯く。目を泳がせつつ「ねえちゃんとともだちでも、だめ?」としおらしく聞かれたが、ゆるゆると首を振ってみせた。

「駄目です。特に、先ほども申し上げた通り、この船は今乗組員の皆さんが一生懸命修理をしているところですから。先ほどの私のようにあなたに気づかずぶつかって、どちらか一方でもお怪我をしてしまったらとても悲しいわ」

 幼い彼だが私の懸念は理解してくれたらしい。神妙な顔をして頷いた。ほっとして、同じ目の高さで頷きを返す。

「それでは、どなたかにお願いしてお家まで送ってもらいましょうね」

 彼もまたお説教は終わったと気が緩んでいたのだろう。「うぇっ⁉︎」と短く、大変気まずそうな声をあげた。もう一度頷いてみせると、いかにも嫌そうに眉根を寄せ、唇を尖らせてぶつぶつと呟いた。

「えええ、でも、みつかったらおこられるじゃん……」

 すっかり尻込みしてしまった少年のすぐ前にしゃがみ込んで、焦げ茶色の瞳を覗き込む。この子は、眼を逸らしているように見えても正面から見つめればちゃんと真っ直ぐ受け止めてくれる。

「あなたが無事、お家に帰ることの方がずっとずっと大切ですから。こんなに暗くなって、一人で魔物に襲われたらどうします? あなたがどんなに勇敢であろうとも、心配なのです。せめて送り手くらいつけさせてくださいまし」

 それでも少年は躊躇っている。窓の外と私を上目遣いにちらちら見比べる彼に、安心させるよう柔らかな微笑みをつくり、小さな右手を両手できゅっと包んだ。

「怒られるなら、私も一緒ですわ。あなたのことを言わずに誤魔化してしまいましたもの」

 出来るだけ優しく言い添えたらややあって、うん、と歯切れの悪い返事が返ってきた。

 階段を降り、船室の扉に続く広い廊下の途中で、私に促され数歩先を歩いていた少年が振り返って、唐突に訊ねた。

「なあ、なんでねえちゃんはすきにそと、でられねえんだ? とじこめられてんのか?」

 あまりに無邪気な、純粋な疑問に一瞬、心を貫かれた。

 いいえ。いいえ、私はずっと自由になった。

 全ての行く先、生き方を決められていた頃とは違う。テュールさんがいてくださって、私は望んで共に歩くことができる。籠の中に閉じ込められてなど、いない。なのに。

 守っていただくから、外に出られないの?

 私がもっともっと強くなれば、守られるばかりでなくなれば、もっともっとあなたと肩を並べて行けるの?

 本当は、怖い。今こうして離れているみたいに、ただ守られて隔離された私の元から、いつかあなたが手の届かないところまで行ってしまいそうな気がして。

 ────守られていたいわけでは、ないのに。

 程なく、ほとんど作り物の微笑みと共に私の口から溢れたそれは、少年への返答というよりも、自分自身に言い聞かせる戒めの言葉だった。

 まるで、自らへのまじないのように。

「……いいえ。守っていただいているのです。優しい、皆様に」

 

 

 

 少年の小さな手を繋いで特別船室を出ると、涼しい夜の風が首筋を優しく撫でていった。船室を出てすぐ左の階段手前で引き続き警備をしてくれていたアランさんが振り返り、私達を見るなり思い切りぎょっとして固まってしまった。

「あの、さっきはごめんなさい。この子、客船が気になって紛れ込んじゃったみたいなんです」

 さすがに申し訳なくて、かける声も萎んでしまう。同じくそそくさと私の後ろに隠れてしまった少年を目で示すと、アランさんもさもきまり悪そうに「いえ、俺の方こそ気づかず……えっと、船長のところへ行かれます?」と有り難いご提案をくださった。

 そのままアランさんに連れられて、すっかり暗くなった甲板へと向かう。ランプのわずかな灯りに照らされた広い甲板では今日の作業が終わったらしく、数人が道具の片付けなどをしていた。暗がりなので他の誰も少年には気づかなかったが、フォスター船長だけはさすがにこちらが近づくなり眉を顰めた。

 ことの次第を簡単に説明すると、いつも穏やかな白髭の船長もさすがに呆れ顔で「その子は間者の素質がありますな。これでは見張りの意味がない」と溜息混じりに仰った。

「いいえ、アランさんはすぐに確認しに来てくださったんです。私が子供だからと咄嗟に誤魔化してしまっただけで……申し訳ありません」

「だが、よりによって特別室の扉まで招かれざる客を通したことは事実です。警備体系の見直しをしなくてはならんな? アラン」

 低い叱責混じりの声にどきりと心臓が鳴る。もしかしたら、アランさんはここで船を降ろされてしまうのではないだろうか?

 私が、判断を誤ったせいで。

「私がちゃんと、その場でこの子のことを伝えなかったのが一番いけなかったのです。アランさんにご報告して、判断を委ねるべきでした。……本当に、ご迷惑をおかけして……申し訳ございません……」

 出来る限り、自分なりに誠実に告げて深く深く頭を下げた。船長の手前アランさんは黙っていらしたけれど、はらはらと見守ってくださる気配が頭上に降り注ぐ。私のすぐ膝の後ろからも、スカートの裾をきゅっと掴む幼い手が心配そうに見上げているのがわかった。

 今回が幸運だっただけ。もしもこの子が、何らかの理由でこの船が有数の富豪の船だと、あるいは私達が天空の武具を所持していることを知った何者かの手先だったとしたら? あの部屋のデッキから賊を呼び込むことも出来たし、そうなれば私など簡単に殺害されていただろう。子供だからなんて言い訳にならない。この子に唯一気づいた私の対応が甘かった、それこそ最も責められるべきこと。

 私はルドマンの娘だ。私を守ってくださる方々を、私が危険に晒すこともまたあってはならないことだった。

 フォスター船長は黙ったまま、容赦なく見定める鋭い目を私に向ける。促された気がして顔を上げ、その眼差しを正面から受け止めた。幾度となく父から向けられたものに似た、正しく厳しい視線。主君の娘という肩書を免罪符にしない眼差しは正直、恐ろしくも有り難いと感じた。

「お嬢様がお解りにならないはずがないと思っておきますぞ。二度目はございません。次は大旦那様にも報告させていただきます」

 父を話に出され心臓が一瞬きゅっと締まったが、深く頷いた。船長はよくわかっていらっしゃる。情けないけれど、私にとっては何よりの懲罰だ。

 ひとまず話は終わり、申し訳ないが少年を集落まで送ってあげて欲しい旨を伝えた。船長は当然とばかりに了承し、アランさんともう一人、遠巻きに私達を見守っていた船員さんに声をかける。すっかりしょんぼりしてしまった少年の目の高さに腰を下ろし、手を一度強く握って、交わった視線を微笑みで返した。

「そういえば、お名前をまだ教えてもらっていませんでした」

 少年の焦げ茶の虹彩が揺らぐ。ええ、と頷いて見せると、彼は尚も逡巡しつつ、やがて私にだけ聞こえる小さな声で「……キト」と呟いた。

 小さな小さなその身体をそっと抱きしめて、背中を軽く摩る。

「明日、また会いましょうね。キト」

 他の誰にも聞こえないよう、吐息だけでそっと、告げた。

 身体を離すと、眼を見開いたキト少年が私を見つめていた。泣き出したいのをこらえるように、唇と肩を震わせている。俯いて、また私を見て、潤んでしまう目頭を拭いもせず、言う。

「……ごめんな。ねえちゃん」

 おれのせいで、おこられちゃった。

 言葉にしなくても痛いほど伝わった。それ以上は必要ない、そう思って「お互い、気をつけましょうね」とだけ微笑んで答えた。緑の癖っ毛をさらりと梳いたら、少年も泣き笑いのような表情で首を傾げる。

 すぐにキトはアランさんに手を引かれ、左右を背の高い青年二人に挟まれて船を降りていった。彼らを見送り船縁に立つ。一度だけひょいと彼が振り返って、あちらから見えるかはわからなかったけれど微笑んで手を振った。

 すぐに三人は暗がりに溶けて見えなくなってしまい、無事家に帰り着くことを祈りつつ厨房に向かった。既に調理は終わっていて、結局私は簡単な配膳を手伝わせてもらうことしかできなかった。

「呼びに行くまでお部屋で待っていていただいて構わんのですよ? 本当に、お嬢様の手を煩わせるようなことでは」

 何があったかご存じない料理長が申し訳なさそうに私の表情を窺う。緩く首を振り、他にできることが何もないからお邪魔でなければ手伝わせて欲しい、ともう何度か伝えている懇願を繰り返した。料理長はほとほと困り果てた顔で私を見つめたが、私も退く気はなかった。

 私も自分の力で掴み取りたい。自分の役割を、与えられるまま享受するのではなく。

 『ルドマンの娘』、そして『天空の盾』。

 それだけの価値しかない女になど、なりたくはないの。

 すぐにお夕食の準備は終わり、食堂には順次人が集まってきた。まだいただく気になれなくて、混雑した食堂をそっと抜け出しお仲魔の皆さんの小部屋を覗いた。一足先に食事を終えた皆さんはそれぞれ自由に寛いでらして、私が顔を見せると真っ先にホイミンちゃんが、そしてスラりんちゃんが大喜びで飛びついてきてくれた。いつも通りじゃれついてくれるホイミンちゃん達の温かさに、張り詰めていたものが緩やかに氷解していくのがわかる。ピエールさんも今日はご自分で匙を持ち、またしっかりリゾットを完食してくださっていて安心した。

「我々はヒトよりずっと修復が早いのだから、ご心配には及ばぬ。剣があればすぐにでも身体を馴らしたいところだ。寝まされっきりでは鈍って敵わん」

 すっかりいつも通りといった調子で身体をこきこきと解すピエールさんにただただ感服するしかない。空になったお皿をバスケットにまとめていたら、その半分をガンドフさんが持ってくださった。有り難くお願いして一緒にのそのそと階段を上る。

「ありがとうございました。明日は時間があったら、皆さんの分もお食事を作りますね」

 食堂の前まで付き添ってくださったガンドフさんに感謝を述べたら、優しい瞳のビッグアイはとろりと微笑んで私の頭を撫でてくださった。

 落ち込んでいることに気づかれてしまったのね。私もまた、微笑んで首を傾けた。

 この方はお仲魔の中でもとりわけ、人の心に敏感でいらっしゃる。本当に優しい、他人想いの方。アンディの看病を共にしてくださったあの夜から、私は何度もこの優しさに救われてきた。

 ────もちろん、あの方にも。

 ゆっくりした足取りで小部屋へと帰っていく大きな背中を見送りながら、またしても思考の内に芽生えてしまった彼のあたたかな微笑みを想い、そっと耳飾りが揺れる耳朶に触れた。

 ……あのひとに、会いたい。

 

 

 

 幼い子供に特別船室への侵入を許してしまった一件で、食堂はすっかり重苦しい雰囲気になっていた。どうやらキト少年が子供なりに弄した小細工の数々がうまく嵌ったらしく、出入口から数人立っていた見張りの船員さんはことごとくその目を交わされてしまったらしい。間者の素質がある、というのも頷けるかもしれない。つまりはアランさん一人の咎ではない、ということで、今回は本当に警備の仕方をよく見直すということで決着がついたようだ。とりあえず誰も船を降ろされないと聞いて、就寝前に心からほっとしてしまった。

 テュールさんは夜間の魔物番を進んで引き受けていらっしゃるから、一人でベッドに入ること自体は初めてではない。それでも、この船のどこにもいらっしゃらないというだけで、どうしようもない寂しさに襲われてしまう。

 褒められたことではないものの、キトに出会ったお陰で、塞ぎきっていた気持ちが随分楽になったと思う。

「……あら?」

 就寝準備を整え、ランプを片手にベッドに歩み寄ったところで、ベッドの向こう側に何か落ちていることに気がついた。

 しゃがんで拾い上げると、帽子だった。つばの狭いくたりと使い込まれたその茶色い帽子は、一番初めにキトとぶつかった時に彼が被っていたものだ。

「まぁ。ちゃんと返してあげないと、キトが困るわね」

 独り言に嬉しさが滲んでしまい、慌てて頭を振る。気づいてやれなかったのは申し訳ないけれど、めでたくあの子に会う大義名分が出来てしまった。

 ベッド脇のチェストに帽子とランプをそっと置き、灯りを消して柔らかなシーツに潜り込む。真っ暗な室内に、窓の外の朧な星と、白い月の光がやわらかく満ちた。

 テュールさん達はご無事で宿に着いたかしら。明るい月夜で本当によかったわ。

 寝台から窓の外を見上げたら、ちょうど真ん中で二つに割れた月が美しく船を照らしていた。片割れがいないなんてまるで私とテュールさんのよう、などとおこがましいことを考えてしまい、思わず自嘲の笑みが零れる。

 以前の私なら心配で眠れなかっただろう。でも今は、彼が真実お強いことをわかっているからか、そこまでの不安はない。

 眠ってしまえば、この寂しさもきっと紛らわせられるもの。

 ────そういえば、キトはどうしてこの船に入り込んだのかしら?

 見慣れない大型船に対する子供の好奇心だろう。そう何気なく考えていたけれど、ふとそこに引っ掛かりを覚えた。

 私と鉢合わせた時、竜神の船だと思い込んでいたあの子。私のことを神の手下と呼び、見つかることを……いいえ、罰されることをひどく恐れていた、ように見えた。

 そんなにも怯えながら、ただ探検したいが為に来たのだろうか。人の目を盗んで、しかも、一人で。

(……わからないわ。明日、会えたら聞いてみよう……)

 マザーオクトとの死闘からずっと続いていた緊張のせいかもしれない。一度横になると抗いきれない微睡みが、泥のように私を捕らえてより深い眠りへと引き摺り込んでいく。

 とろけるような無意識と意識の狭間で、あの子の寂しげな瞳がちらりと瞼の裏を過った。

 けれどその一瞬は儚く、薄らいでゆく意識とともに私は思考を手放した。

 

 

◆◆◆

 

 

【side Tyr】

 

 祠のある宿屋、といえば、天空の盾を求めてルラフェンからサラボナへ向かった際に一泊した覚えがある。

 僕がフローラに出逢うほんの少し前、まだ富豪令嬢の結婚相手募集の噂を気にも留めていなかった頃のこと。

 そんな話を、プックルへの緊張を解けきれず小さくなって後ろの幌の中で揺られているお二方にそれとなく話したら、「へええ。無欲の勝利とはよく言ったものですねぇ」などと大仰に頷かれてしまった。

「でも、いざフローラを一目見たら家宝のことは二の次になってしまって。……勢い、みたいであれなんですけど、どうしようもなく彼女に惹かれてしまったんです」

 やはり気恥ずかしくはあったけれど、正直にそう言った。フローラに誤解された時のように、家宝の盾を目当てに結婚を申し込んだと思われるのは嫌だったから。

「いやぁ、若いっていいやね。そういう衝動は大事にした方がいい、後から後悔しても先に立たんからね」

「うっそでしょ、後悔するようなことあったんですか? テオさん」

 絶妙な間合いで頓狂な声を被せた若い方の船乗りの頭を、年長の船乗りがすかさず手加減なしではたく。青年は「いって!」と側頭部を抑えたが、兄弟子は涼しい顔だ。気心知れた様子を見ると微笑ましくてつい頬が緩んでしまう。

 ポートセルミの船乗り達は、その多くが航海士としての経験を積みつつ、何かしら専門的な役割を担っているという。もちろんアランさんのように、初めから船乗りとして修業されている方も少なくはないが、バルクさんのように前職での経験を活かす人もまた多い。この二人、テオさんと弟弟子のロニーさんも船が出ない間はずっと造船所で働いていたのだそうで。こういった船の修繕は、彼ら造船部門の出身者が中心に手がけるようになっているのだとか。

「やっぱり、怖いですよね? キラーパンサーが近くにいるのは」

 だいぶ雑談してもらえるようにはなったものの、幌の幕すぐ後ろに寝そべったプックルから綺麗に距離を取るお二人を見てつい、苦笑混じりにそんな問いを発してしまう。こればかりは致し方ない。馴れすぎている自分とは違って、普通に生活している人間にとって魔物は脅威でしかないのだから。

「いやぁ……」

 口籠もり、顔を見合わせた二人もまた、どちらからともなく曖昧な苦笑いを浮かべる。こればかりは肯定されて然るべき、と思ったが、返ってきたのは寧ろ思いがけない言葉だった。

「わかっちゃいるんだけど。こないだお嬢様を一番近くで守ってたの、そいつでしたもんね」

 微かに目を瞠り、御者台から肩越しに幌を振り返る。遠巻きではあったが、そばかす顔のやや気弱そうなロニー青年は、半ば羨望すら込めてキラーパンサーを見つめていた。

「そうさなぁ。さっきだってお嬢様、随分と心を許してらしたご様子だったしな。いや、ビビリですまんね、ははは」

 聞いているのかいないのか、愛想笑いで恐る恐る呼びかけたテオさんにもプックルは黙って一つ鼻を鳴らしただけだった。ピエール達と違って喋れないから憶測でしかないけれど、これは多分、プックルなりの照れ隠しなんだと思う。

「プックルとは子どもの頃からの付き合いなんです。アルパカで子供達に虐められていたところを拾って」

「はぁあ⁉︎ なんっつう怖いもの知らずのガキどもだ‼︎」

 テオさんの素っ頓狂な叫びに紛れて、グァウウ! とプックルの不愉快そうな吼え声が聞こえた。あまりにタイミングが良すぎて軽く噴き出してしまう。プックルにとって『虐められていた』というのは禁句だったらしい。笑いを噛み殺し、素知らぬふりをして話を続ける。

「子どもの頃なんで、プックルも小さかったんですよ。僕はずっと、変わった鳴き声の仔猫だなぁと思ってました」

「こ、こねこ…………」

 唖然としたお二方がまじまじとプックルの背を見つめ、プックルはいかにも威嚇じみたグルルル、という低い唸りを僕に向けた。余計なことは言うな、と言いたげだが、駄目押しで「すごく可愛かったですよ」と言い足しておいた。背中に剣呑な視線がちくちくと突き刺さる。もうほとんど確信しているけど、プックルはヒトの言葉を喋らないだけで絶対僕らの会話を理解していると思う。

 と、不意にプックルが身を起こし、右前脚を馭者台に掛けた。

「うん。頼む」

 言いながら緋色の鬣をとんと叩いた、瞬間プックルが天高く跳躍した。草叢から現れたグレゴールのバギマが彼の髭と毛をかすめてわずかに散らす。相変わらずの素晴らしい身のこなしに感嘆しつつ、馬車を飛び降りこちらも即座にバギマを詠んだ。

 グレゴールの背後から立ち上がってきたパペットマンこそ風魔法に弱い。風の刃に悶絶しわらわらと脚にとりつく人形達を、身を翻したプックルと共にそれぞれ斬り伏せた。その傍から再び、鋭い疾風の渦が走る。絶命寸前のグレゴールが放った最後の魔法を交わしきれず、咄嗟に頭を庇った腕にビシビシと無数の切り傷が刻まれる。

 幌の二人は何が起こったかと固まっていたが、プックルの牙に喉を抉られたグレゴールの断末魔で我に返り、慌ててブーメランを取り出し尚も立ち上がろうとする魔物達を殴りつけ沈めていった。

「はっや……、すっげえ」

 全て片がつくのに三分とかからなかった。武者震いの如く興奮気味に身体を震わせ、どこか恍惚として呟いたロニーさんが、剣を拭う僕の腕を見て息を呑んだ。

「テュールさん! 大丈夫ですか⁉︎」

「はい、これくらいなら。ホイミですぐ治ります」

 よく見れば古傷だらけの身体は少しの傷など物ともしないほど皮膚が厚く、硬く変質している。特に腕と背は鞭から自身を庇うことが多かった為か硬化が著しい。実際バギマを喰らっても、全く傷つかないわけではないがそこまで酷い出血はしていなかった。

ちょっとだけ、パペットマンの踊りを見てしまったので妙な倦怠感はあったけれど、休まなきゃいけないほどじゃない。

「ありがとうございます。お二人とも、怪我はありませんか?」

 腕の傷に回復魔法を施し、同様にバギマをくらったプックルにも労いがてらホイミをかける。荷台を振り返ると、木の床に手をついたテオさんが「や、我々は、特に危ないこともなく。ずっと中におりましたし、はは」と引き攣りつつ答えた。ほっとしてもう一人の同乗者を見遣れば、彼はすっかり熱のこもった視線でうっとりとプックルに見惚れていた。

「やべ、かっっっっっけえぇ……」

 おい、また口から頭ん中身がだだ漏れてるぞ、とテオさんに小突かれたロニーさんが、はっ! と目を瞬かせ真顔に戻ったのがなんとも可笑しかった。

 どうやらプックルの勇姿はロニーさんの琴線にいたく触れたらしい。確かに狩りの時、獲物に狙いを定めたプックルはとりわけ美しいと僕も思う。均整の取れた無駄のない筋肉としなやかな肢体、捉えて離さない強い双眸で、緋色の鬣を躍らせ舞うように敵を仕留める。魔物、というより獣として、美しい。

 ひとたび睨まれれば命はない、地獄の殺し屋の名に相応しい魔物ではあるが、友とするならこれほど心強い存在は中々ない。

「多分そうそう手こずることはないので、戦闘はなるべく僕達が引き受けます。用心棒だと思って任せてもらえたら」

 さっさと幌に引っ込んだプックルに続いて馭者台に乗り上げ、再びパトリシアの手綱を引いた。軽快に間隔を狭めていく蹄の音に紛れて「そりゃ、心強いな」とテオさんの明るい声が聞こえる。ちらりと振り返ったら、ロニーさんがやはり恍惚とした表情で、すまして寝そべるキラーパンサーを見つめていた。

 ──満更でもない顔しちゃって。

 さっき僕が茶化した分は相殺されたみたいだ。ステージ上のスターでも見つめるようなロニーさんの熱い眼差しを浴びて、どうやら気分が良くなっているプックルの様子に笑いを堪えきれず、咳払いをして誤魔化した。

 どんな形であれ、プックルをこんな風に受け入れてもらえるとは思わなかった。あたたかな感謝を胸に、僕らは再び馬車を祠の宿屋目指して走らせ始めた。

 

 

 

 それから数時間、たまに魔物と遭遇しながら早いペースでパトリシアを駆って、やがて森を抜けて平原に出た。陽はだいぶ傾いていたが、ここまで来ればあと一刻もかからず着ける距離だ。

 森を抜けてしまえば魔物もほとんど出なくなる。ほっとして地図を片手に手綱を緩めつつ、気になっていた疑問を幌の中のお二方に投げた。

「そういえば、船の修理にはどれくらい日数がかかるんでしょう?」

 双方顔を見合わせ、すぐに答えたのは年長のテオさんだった。

「マストはうまくすれば、明日帰る頃にはほぼ終わってると思いますよ。円材積んでますし、ただ船体がね。結構派手にやられちまってるもんで」

「ええ。走らせてる間にも測ったんですけど、やっぱ板の方が足りないです。そっちは帰ってから着手しますんで、早くて三日、かな」

 思ったより早くてほっとした。時間がかかるのは構わないが、今回の修復作業は僕が手伝えることがほとんどなさそうだ。その状態が続きすぎるのはちょっと嫌だな、と自分本位に思っただけなのだ。

 ただ、マザーオクトを討伐した後の海が再び荒れてこないとも限らないので、帰ったら改めて東方向の見張りをしなくては、と思ってはいるけれど。

「あと、剥離箇所も含めてメタル塗装しなきゃいけないんですよね。それが馴染むまでは出航できないと思います。それでも全部で一週間はかかりませんよ」

「メタル……塗装? ですか」

 聞き慣れない専門用語に思わず首を捻ると、「ああ、こりゃ言わん方がよかったかな?」とどこか得意げにテオさんが顎を撫でて笑った。

「最近実用化したばかりの特殊な技術でね。鍛治の技を応用して、メタル系スライム属の核から精製した塗料を使うんですわ。強度が上がるし、こないだのでいうと雷を逃すのに役に立つ」

「へええ……」

 こういう話はなかなか聞く機会がないが、面白いなと思う。砂漠用の靴を依頼した時にも思ったのだけど、人間は人間でよく魔物の特性を理解し活用しているものだと感心させられる。

「なんだテュールさん、そういうの興味あります? 鍛治とか鳶なんかだと早いうちから弟子入りするのが多いけど、うちの造船所ならいつでも歓迎しますよー」

「莫ッ迦、お前、お嬢様のお相手だぞ⁉︎ そこらの造船所なんかで雇えるわけないだろうが! ちったぁ身の程を知れ!」

 別にそんなことはない、と言おうとしたが、確かにポートセルミでフローラを妻として普通に暮らすのは中々難しそうだ。サラボナから離れているとはいえ、あそこはどうやらルドマン家の影響力がかなり強い土地だから。

「おっ、そうだ! 何ならついでにこの荷台にもメタル塗って差し上げましょうか? 頑丈になりますよ!」

「えっ、でも」

 ロニーさんの嬉々とした、しかし思いがけない提案に声が上擦ってしまった。眼を丸くしてこちらを見るお二人に慌てて笑みを繕って見せ、改めて言葉を探す。

「メタル系って、素材がすごく希少でしょう? 僕もあまり手に入れたことがなくて……お恥ずかしながら」

 考えるまでもない、希少かつ有用ならばそれだけ高くつくということだ。軽く聞いただけでも需要の多そうな技術だが、それに見合った素材の供給が容易にできるとは思えない。せめて等価交換で核を用意できれば頼みやすいが、一体どの程度必要なものか。ただでさえ、遭遇しても逃げられてばかりでろくに倒せたことがないというのに。

「ああ。あれ足速いですもんね、硬いし」

「そうそう。普通にしてたら到底集まらんよな、核なんざ」

 うんうん、とお二人とも深く頷く。どこか愉しそうに目配せしあうお二人を見つめていたら、じわじわとあらぬ疑問が湧き上がった。

「……待ってください。まさか、メタルスライム属の核をそんな……集めようと思って集められるものなんですか⁉︎」

 再び目を丸くしたお二人がまたもや顔を見合わせた。ほらぁ、テオさんの口が軽いから! とか、お前も頷いてただろうが! みたいな視線をひたすら無言で応酬し合う彼らに、疑念は呆気なく確信へと変えられる。

 嘘だろう。信じられない、僕の知る限りそんなことが簡単にできるとは思えないのに。

 やがて、否やはりと言うべきか。多少困ったような、しかし隠しきれぬにやけ顔を懸命に引き締めたテオさんがごほん! と一声、重々しく告げて首を振った。

「そればかりは、いくらテュールさんと言えどもお教えできませんわなぁ」

「うわ……そう来ますか。とんでもない秘密もあったもんだな」

 頭を抱えた僕を、テオさんとロニーさんがさも愉快そうに声を上げて笑い見遣る。

 あれか、どこかで見かけた毒針というやつか? 硬いメタルスライム属でもじわじわ削ることができると聞いた。でもそれじゃやっぱり時間がかかるんじゃないか。それにあいつら、本当に逃げ足が速いんだ。逃さないように罠を仕掛けるとか? いやでも、確かあいつは誘眠だの毒だのといった特殊な攻撃にはほぼ全てに耐性があったはず。魔法も効かないって魔物研究所の爺様が言ってたよな。仕留めるだけで修行になるぞい、なんてふごふご笑いながら言われたっけ。ああ、もしかしたら表に出回らないだけで特殊な薬があるのかもしれない。なんせあの硬体を塗料にするくらいだから。

 船舶組合だけが知る穴場があったにせよ、そこで大量のメタルスライム属を何らかの手段で狩れたにせよ、核を得るには足止めして取り出すだけの工程を踏まなくてはならない。とすれば、それなりの技量持ちでなければ話が合わないわけで。

 両肘を膝について組んだ両手に額を載せる。無意識に息を吐きつつ、情けないことにどうにも恨めしげな声が出た。

「ポートセルミの船乗りがなぜ屈強揃いなのか、わかったような気がします」

 勇者を求めて人々に話を聞く中でそこそこ情報通になったと自負していたが、当然のことながら世の中まだまだ未知のことだらけ。特にこういった専門分野に関しては、固定観念など軽々と超える発想や事象があるのだな、と己の浅学を恥じるばかりだ。世界とは想像を遥かに上回る叡智で回っているのだな、とも。

「まぁ、それでもこと戦いに関しては我々が束になっても敵わんでしょうよ。テュールさん達はやはり、お強い。実戦の場数が違うんでしょうな」

 それはさすがに褒めすぎじゃないかなぁ。テオさんの賛辞が面映く、緩んでしまう頬を隠してひょこ、と肩越しに頭を下げて応えると、今度はその隣の青年がやや遠慮がちに言う。

「俺はそんなに戦える方じゃないんで言えた義理でもないんですけど、テュールさんは……魔物と一緒に死線を潜ってきてるからですかね。なんか、呼吸が違うなって思います」

「呼吸?」

「はい。ほら、さっきからその、プックル……と、ぴったり息があってる感じ」

 少しだけ躊躇いながらも、恐ろしいであろうキラーパンサーの名を敢えて呼んだロニーさんが、どこかやわらかく眼を細めて僕とプックルを見比べた。

「もう、そういう戦い方が身についてらっしゃるんでしょうね。魔物遣いって、薬や調教で言うこと聞かせるイメージだったんですけど、テュールさん達見てたらめちゃくちゃ印象が変わりました」

 うまく言えなくて申し訳ないですけど、なんてはにかむロニーさんの不器用で優しい微笑みに、どうしようもなく胸が疼いて、熱くなってしまうのがわかる。

 凄いよ。フローラ。

 今ここに君がいたら、この満たされきった、幸せな気持ちを真っ先に分かち合えるのに。

 魔物達の力を借りながら旅を始めてもう二年、仲魔を忌避されたことなんて一度や二度じゃ済まない。そういう目で見られるのにもだいぶ慣れたつもりでいた。人目の多い街道なんかではスラりんやホイミンはともかく、他の仲魔達には馬車で大人しくしてもらうようお願いしたこともあった。

 信じてもらえなければ悲しかった。堂々と彼らを歩かせてやれないことが悔しかった。だからこそ、彼女が一度だって彼らを恐れることなく笑いかけてくれたことがたまらなく嬉しかった。

 ──ああ、そうか。

 もしかしたら、フローラの髪を隠さなきゃいけないことになった、あの夜抱いた気持ちとこれは似ているのかもしれない。

 何も悪いことなどしていない彼女が、仲魔達が、ありのままの彼らを陽の下にさらせないことがもう、僕は辛いのかもしれない。

 本当にフローラが髪を切りたいと思ったなら、いいんだ。

 でも、こんなことの為に切らないで欲しい。魔物から身を守る為だけに切る必要なんかない。そう言いたかったんだって、今やっとわかった。

 何故だか無性に彼女に会いたくなって、ざわつく胸の微かな痛みを懸命に振り払った。

「そんな風に言ってもらえるとは思いませんでした。……ありがとうございます。嬉しいです……」

 辿々しく気持ちを伝えたら、優しいロニーさんはやっぱり照れ臭そうに頷いてくれた。

「ああ、でもテュールさん。さっきのメタルの話は他言無用でお願いしますよ。私もほんと、気をつけなくちゃ」

 そわそわとこちらを覗き込み、口を抑えつつ言い添えるテオさんに笑って了承を伝える。

 因みに、宿屋に着く迄に二度ほどメタルライダーに遭遇した。こいつの核だったりしませんよね?とお二方に訊いたが、苦笑して首を振るだけだった。ピエールと同じスライムナイトを昔倒した時の核が普通のスライムのものとは全然違ったことから、騎獣に過ぎないスライムは普通に生息するものとは全然違うんだな、と思った覚えがある。今回も多分、そういうことなんだろう。

 

 

 

 そんな雑談を挟んで、すっかり陽が沈み暗く深い濃紺の空に星々が輝きはじめた頃、馬車は無事祠の宿屋へ辿り着いた。

 以前宿泊した時はサラボナへ向かう男達でごった返していたものだが、今日はそれなりに客足が落ち着いていた。僕を覚えていてくれたらしい宿のおかみさんが「おや! あんた、久しぶりだねえ。あたしゃ男前の顔はよーく覚えているんだよ」などと嬉しそうに声をかけてくれる。部屋数にも余裕があったので、今回は大部屋ではなく個室を三つお願いすることにした。出発は夜明け頃の予定なのであまりゆっくりはできないけど、久々の宿のベッドで少しでも身体を休めてもらいたかったから。

 今から休息を取らせればパトリシアも十分回復するはず。凡そ六時間の道のりをほぼ休みなく頑張ってくれた愛馬を労った。早速資材の買付けに立ち会って、お二人が選んで下さった木材を次々に荷台へと積んでいく。

 同じく馬車を繋ぎに来たらしい旅の商人が、こちらを見て目を丸くしていた。

「随分と買い込まれますな。どこかに動けない馬車でも?」

「いえ、実は船なんです。なんとか岸に着いたのですが、街は遠かったのでこうして足りないものを買い足しに来まして」

 これまた予想外の答えだったらしく、ほう、と感嘆の息を吐いて商人は僕を見た。

「船をお出しになったのですか。まだまだ荒れていて、特にこの辺りの航行は難しいと聞いていたのですが」

「ええ。でも、これから少しずつ落ち着いていくと思いますよ」

 魔物退治の件は伏せてそう答えると、商人はふむ、と首を捻り「ならばやはりポートセルミに向かってみるかな。良いことを聞きました」といかにもよそ行きの笑みを浮かべて頷いた。

「あなたは何を扱って?」

「一応武器が専門です。ご入用でしたら手持ちをお探しいたしましょうか」

 さすが、商売の機は逃さない。僕もちょうどピエールに合う剣を探したかったので、テオさんに断りを入れて少し見せてもらうことにした。

「剣でございましたら、そちらが鉄剣、こちらが鋼剣になります。それぞれ造りが異なりますので握ってみていただければ。これはスネークソードと言いまして、ルラフェンに工房を構えるドワーフの鍛治師が鍛えた逸品です。あとこちらはサラボナで買い付けたばかりでして、これまた今時なかなか見かけない代物ですよ。破邪の剣と申しまして、炎魔法を秘めているのです」

「炎魔法ですか? それはすごいな」

 鉄鋼それぞれ数本、それと変わったデザインの剣をさらに数本並べてもらい見較べた。途中説明につられ、変わった形の一振りに手を伸ばす。紅い握りに金の精巧な鍔、そして真っ直ぐの剣身の先端には鍵のような突起がついている。

「勇者の伝説の古代には多く作られた剣のようです。この剣に元々使われた核の魔物が絶滅して久しく廃れておりましたが、この数年で核の研究がずいぶん進みました。オリジナルと全く同じではありませんが、伝承に出てくる破邪の剣をよく再現されていますよ」

 流れるような口上に相槌を打ちながら、それぞれの品に目を走らせた。勇者の時代の剣だなんて面白そうだけど、先端の突起が普段使いの面でどうかな、と思わせられた。使うのは僕ではないから、本人が希望するなら迷わず破邪の剣にするのだけど。

 何度か拾い上げた彼の剣の重さを思い出しながら鋼の剣を何本か握ってみる。結局は本人に選んでもらうことになるんだけど、とにかく繋ぎで一本用意してやりたい。軽すぎると振り抜きにくいみたいだから……あとグリップがちょうど良い太さの、彼の手袋でも握りやすく滑らないもの。意外と小柄だから、細身の方が良かったんだっけ。

「お使いになるのは、お客さんではないんですね?」

 僕の様子から察したらしく、商人がちらりと僕の鞘を盗み見た。数本触って見比べていた僕は慌てて顔を上げ答える。

「あ、はい。仲間なんですけどここにはいなくて、わりと小柄なのでどれが使いやすいかな、と」

 頷き、商人は更に荷台の奥から三、四本の剣を持ち出して見せてくれる。

「鋼をお探しのようでしたので。こちらは女性でも持ちやすい型になります。やや小柄な男性で腕力が十分なら、こちらでもよろしいですね」

 その中の一本に目が止まった。ピエールが使っていたものと似た大きさだ。念のため持ってみたが軽過ぎず、見た目よりは寧ろ重い。うん、これなら彼も使いやすいかもしれない。

「いいですね。こちらをお願いできますか?」

「かしこまりました。破邪の方はいかがなさいます?」

 物腰柔らかながらも実に商魂逞しい。値段を尋ねると鋼の凡そ二倍だった。ううむ、と唸ると「二本お買い上げいただけるのでしたら、お客様の眼識に免じて六千四百ゴールドのところを五千ゴールドにまけさせていただきましょう」などと大変良い笑顔で言ってくださる。念のため炎魔法の効果を確認すると、炎帯魔法であるギラに相当するものらしい。魔道具といえばつい先日も指輪に大いに助けられたばかり、暫し悩んだ挙句ここは両方購入することにした。

「お買い上げ有難うございます。全くお客さんはお目が高い」

 ほくほくと金貨を数える武器商人が、鞘に収めた二本の剣を荷台に積み込む僕に向かってさも嬉しそうに声をかけた。

「いや、実に嬉しいものですな。破邪の剣の復活は私の悲願でしたので、今度またどこかでお会いできましたら是非使い心地を教えてください」

「そうなんですか? それはまた」

 驚いて振り返ると、彼ははじめて屈託のない、少年のような笑みを顔面いっぱいに浮かべて頷いた。

「武器商人としてはトルネコに憧れてしまいましてね。かつてこの破邪の剣を世に広めたのがトルネコと聞いて、いつか必ず復活を、と願っておりました。魔物研究所の皆様や山奥の村のドワーフの職人様方のお力を借りて、ようやくここまでこぎ着けたんです」

 一介の商人が伝説に語られる古の武器を一つ蘇らせたのか。照れ臭そうに笑う商人の瞳は僕よりずっと年上ながら、夢に溢れる無邪気な子供のように輝いて見えた。次は伝説の算盤を手にしてみたいものですなぁ、などと笑う彼はまるでベネット爺さんと同じ、飽くなき探究心と情熱の塊と呼ぶべき人種なんだろう。

「そうだ。帽子の取り扱いはありませんか? 女性用の、兜ではない普通の帽子で良いんですけど……」

 さすがにこれはないかな、と思いつつ、駄目元で訊いてみたがやはり申し訳なさそうに首を振られてしまった。苦笑し、了承と感謝の意を伝える。剣を見せてもらっている間に必要な資材の積み込みは終わっていたので、あとの交渉などはテオさんとロニーさんに任せ、パトリシアとプックルにも食事を運んで、一足先に自分の部屋に入った。

 備え付けのペンと便箋をありがたく借りて、思考をまとめつつランプの灯りを頼りに文字を走らせる。

 こればかりは心からヘンリーに感謝している。子供の頃から奴隷育ちである自分にとって、ヘンリー譲りのこの整った筆跡は今となっては数少ない、自信を持って他人に見せられる僕自身の財産なのだ。

『字ってのは書く奴の内面が出るんだよ。焦るなよ、ペンの持ち方はそう。背筋伸ばせ、落ち着いてゆっくりなぞれ。俺の字の形を覚えろ。安心しろ、これだけは俺、城でめっちゃくちゃ褒められてたから』

 彼もまた、それを忘れないことで己の存在意義を確かめていたのかもしれない。いつからか消灯前、起床後の隙間時間、見張りの目を逃れるほんのわずかな数分に、棒切れがあればそれで、なければ指で地面を濡らしながらでもヘンリーの字を元に何度も練習させられた。面白がった周囲の大人達もまたこっそりと僕達に言葉を教えてくれたりして、お陰で今、難しい綴りじゃなければ日常生活で困らない程度に読み書きはできるようになっているし、多分僕はこの筆跡のお陰で相当得をしてきている。特に名前は十年間毎日のように書き取りさせられていたから、宿帳に一筆サインするだけでそれなりの教育を受けた人間だと誤解していただけるのである。それくらいヘンリー仕込みの筆跡は整って綺麗だということだ。尤も、実際にヘンリーにペンを持たせて書かせた非常に繊細かつ美麗な字形には、紙の上でのそれを初めて目にした僕も、当時泊まった宿の方も目を丸くして言葉を失った。いかにも貴族感溢れる筆跡であのぼろぼろの身格好なものだから、宿の方なんてあれだけで僕らが訳ありの客だと察して下さったよ。

 手紙は義父であるロドリーゴ・ルドマン卿に宛てた。セルマー海峡でのマザーオクト討伐の顛末はポートセルミに戻ったイヴァン殿からも報告が届くだろうがもう一つ、余計なお世話かもしれないけれどメッキーに知らされた件を伝えておきたかった。魔物達が手先となって人間を集める勢力があること。沈んだと思われた船はやはり、恐らく丸ごと連れ去られていること。目的は不明だが翠や碧の髪といった特徴を持つ人間が特に狙われやすいらしいこと。故に、船の件とはまた別に、罪も縁もない一般人が襲われているであろうこと。それらはやはり、光の教団が関係しているであろうこと。

 あれはサラボナだっただろうか、幼い子供を連れた旅の男性が話してくれた。その子の母親は魔物に襲われ、子供を庇って死んだのだと。妻を守ってやれなかったことを今もずっと、許せずにいるのだと。

 そんな後悔、僕だってしたくないし、誰にも二度として欲しくない。

 卿に何かしてもらいたいということではないけれど、領民が危険にさらされていることだけ知っておいて欲しいと思った。伝えられる限りの情報をしたためて、一度ざっと読み返しペンを置く。インクが乾くのを待ちつつぼんやりと椅子にもたれて、深いため息をついた。

 ……ここ数日で、色々あったなぁ。

 色々、と言うならセントベレス山を逃れてからずっと波乱万丈ではあるんだけど、フローラに出会ってからは嬉しいことと辛いことの振り幅が大きい所為か、心を揺さぶられることが前よりずっと増えたような気がして。

 満たされることも、満たしたいと思うことも。己の無力を嘆くことも、失わない為により強い自分を求めたいと思えることも。

 こんな風に目を閉じて、身体よりずっと重い精神の疲労感を感じてしまうと、ふとあの甘く優しい花の香りが恋しくなる。

 半日しか経っていないのに、情けないな。

 インクが乾いたのを確かめて、丁寧に折り畳み封筒に収めた。酒場に降りたらちょうど、買付けを終えた船乗りのお二方がカウンターに座り、食事がてら一杯やっているところだった。

 ロニーさんに機嫌よく手招きされ、その隣に腰を落ち着けた。先日頼んだのと同じ芋のグラタンを注文して、マスターに手紙を預かってもらう。こういった旅の経由地では各地の商業組合などと示し合って、そこを利用する組合員の方にそれぞれの目的地宛ての郵便物を運んでもらう仕組みになっている。ルドマン卿に宛てた手紙なら、その下で働く方もこの宿を使うことが多いからすぐに届くだろう。

 宛名を確認したマスターが「おや、お客さん。サラボナの大旦那様に直接のお手紙とは」と首を捻った。

ちょっとお伝えしたいことがあって、と僕が答えるより早く、ほろ酔い顔のテオさんがさも得意げに「おやぁ? マスターご存知ないのかい? この人は今やその大旦那様の義理の息子なんだよ」と僕を指差し言った。

「えっっ⁉︎ ええ⁉︎ てことは、あの天女様、あ、いやルドマン様のお嬢様とお客さんがめでたくご、ご、ご結婚を⁉︎」

 人気もまばらな酒場に素っ頓狂なマスターの叫び声が響き渡る。何事かと注目が集まったカウンターの向こう側で、おかみさんがさも勝ち誇った風で「ほーらご覧! この人くらい男前じゃなきゃ駄目だって言っただろ⁉︎」と声高に言い放った。

 もう、恥ずかしいなんてもんじゃない。ことの顛末をご存知ない旅の方々は刺激的な話題に飢えた目でこちらを見てくるし、マスターはマスターで「ははぁ、じゃこの中にはもしや愛しの奥方様への恋文も入っていたり? ええ、間違いなくお預かりしましたよ! 全く、お客さんも隅に置けませんねぇ!」などと暴走気味の勘違いに頰を緩ませてくださる。よりによって頼んだ夕食は作るも食べるも時間のかかる熱々料理、しかもすっかり気を良くしたおかみさんの手によってかなり豪勢に変貌を遂げ提供された。お陰で小一時間ほど、僕は大変居た堪れない時間を過ごさせてもらうことになった。

 五月雨に降る質問を何とか交わしきり、熱々のグラタンのお陰ですっかり腹から温まって、酒だけは何とか辞退して客室に戻った。

 明朝は日の出と共に宿を出る。資材の重量が増えた分パトリシアは辛いだろうが頑張ってもらって、昼過ぎにはフローラ達が待つストレンジャー号に戻れるだろう。急いで湯を使い、就寝準備を整えてランプを消す。ふと見上げた窓の外には白く輝く半月と、その傍らに零れ落ちそうな星屑が無数に連なって、天の端と端を繋ぐ路を形作っているのが見えた。

 あの星の連なりは夏の夜空にだけ現れるのだと、フローラが嬉しそうに星空を見上げて教えてくれた。

 今夜は晴れて、よく星が見えるよ。フローラ。

 君も今頃、同じ空を見上げているだろうか。

 危ないことは起こっていないか。無茶な頑張り方はしていないか。僕がいなくてもあの、恐ろしい夢を見ないと良いけど。

 彼女がいない寝台に一人潜り込むと、まるであの半月のように、隣にぽっかりと穴が空いたような喪失感に襲われる。

 婚礼をあげてからは、臆病で触れられなかった夜もずっと、君の気配が傍にあることに安堵しながら眠っていた。

 想いを通わせあったあとは夜、共に寝床に入るたびに、碧い、柔らかな長い髪を胸元に落とした君が腕の中、透き通るような微笑みで僕を見上げては何度も辿々しく愛の言葉を囁いてくれた。

 

 どうしよう。

 たった今、どうしようもなく君に触れたい。

 

 君も寂しいと思ってくれていたら嬉しい。そんな身勝手な願いに苛まれ、無理矢理に瞼を閉じた。



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#13. 神の船

【side Flora】

 

 じりじりと灼けつく太陽が中天を通り、このまま何事もなく穏やかに過ぎるような気がしていた。

 

 いつも通りに起きて身支度をした。一日の始まりに、あの人と朝の挨拶を交わせないことが寂しいと感じる。あと半日待てば会えるから、と自分に言い聞かせ、ぱちん! と両手で頰を叩いて気合を入れ直した。

 外はからりと晴れた夏日で、まだ明けて間もないというのに、船員さん達が甲板と船の下に大量の洗濯物を干していた。明け方から洗濯してくださっていたと思うと言葉もない。目が合えば清々しい挨拶が飛んできて、笑顔を返しながらも、畳む時にはお手伝いしようと心に決めた。食堂に向かい、朝食の用意を手伝って、仲魔の皆さんに朝ご飯を運ぶ。ピエールさんももうすっかりお元気そうで、本当にほっとした。

 朝食をいただいたあとは、料理長に渋られながらキッチンを半分間借りして、朝食の片付けをしつつ仲魔の皆さんのお昼ご飯を用意した。これが出来上がる頃か、皆さんが食べ終わる頃にはテュールさんも帰って来られるかも。彼にも少し召し上がってもらえたら嬉しい、そんなことを考えるとつい、料理する手も浮かれて躍ってしまう。「大変見事なお手際ですがお嬢様、お手間を考えれば私がまとめてお作りしますのに……」などとバスケットを覗き込み恨めしげに言う料理長に苦笑しながらサンドイッチを詰めていた、その時。

 

「船長! 昨日のガキだ‼︎」

 

 甲板の方から確かに聞こえた。え、と思った瞬間、かなり遠くから何かが騒ぐような音が、いいえ、声が響いてきた。甲高い、不安を誘ういくつもの叫び声に背筋がぞくりと凍る。

 船室の外もにわかに騒がしくなって、料理長も青ざめながら「な、なんだ? どうした?」と耳に手を当て、階段上の喧騒に耳を澄ませた。私もまた、飛び出したい衝動を抑えて同じように意識を上に向けたけれど、やはり音だけでは何が起こっているのかさっぱりわからない。

 でも、直感はあった。魔物が襲ってきているのだと。

 外に出て確かめたい、そう思ったのとほぼ同時に、甲板から慌ただしく誰かが降りてきた。顔馴染みの船員さんがほっとした様子で「お嬢様! 良かった、こちらにいらっしゃいましたか」と声をかけてくださる。次いで「敵襲です。お嬢様は絶対にここからお出にならないで下さい」と告げ、返事も待たずに再び甲板へと駆け上がった。上からばたん! とハッチを閉じられた気配がして、喧騒が遠のいたキッチンで料理長と二人、顔を見合わせた。

 わかってる。私が行ったって、何も出来ない。

 使える魔法はベホイミだけ。勉強中のルカナン、マヌーサはまだ理論を習っただけで、実際の魔力の通し方も距離の測り方もさっぱりわからない。唯一使えるのなんてこの指輪くらい──邪魔でしかない。私なんて邪魔にしかならない。

 ……そんなこと、わかっているのに。

(昨日の、子供だって)

 そう聞こえたわ。聞き間違いじゃない。さっきの叫びを思い返すだけで胸が、心臓が切り刻まれるように痛む。

 キト。夕方って言ったのに、一体何があったの?

 怪我をしたかもしれない。こうしている今も怖い思いをしているだろうに、

 ────私だけが、安全な場所で何もしないでいるなんて。

「お嬢様⁉︎ いけません‼︎」

 料理長の金切り声が飛んだけれど、構わずハッチに手をかけた。がたがたん、と揺らして押し上げようとした時、上からの弱い重圧と共に耳慣れた、ゆったりと愛らしい声が私を呼んだ。

「ふろ〜らちゃん! ここ〜⁉︎」

 呼びかけと共にハッチが開けられ、彩度の高い光が差し込む。思わず目の上に手をかざしながら、居並ぶ皆さんの姿に胸が熱くなってしまう。

「ホイミンちゃん! 皆さんも……!」

 真っ先に視界に飛び込んできた、青い身体の可愛いホイミスライムが黄色の触手を私の指に絡めて「よかったあ〜! ふろ〜らちゃんおへやにいなくて、びっくりした〜」とふにゃりと笑ってくれる。愛くるしい笑顔が本当に眩しくて、触手をきゅっと握って応えた。

「心配かけてごめんなさい。探してくださったのね」

 有り難くて、でも申し訳なくて、それぞれのお顔を確かめながら感謝を伝えたら、マーリン様がいつものポーカーフェイスで首を緩く振り、答えて下さった。

「奥方様をお守りするのが我々の第一のお役目。我々としては動かずにいてくださるなら、このまま此処に留まって下さった方が有り難い」

 相変わらず感情が窺えないお声でマーリン様が進言して下さって。でも、私にはどうしても確かめたいことがあった。

「……あの、男の子をご存知ありませんか。緑の髪で、まだ五歳くらいの」

 マーリン様とホイミンちゃん、ガンドフさんがそれぞれ私を見つめ、次いで顔を見合わせる。何故知っている、と言いたげに彼らは視線を交わらせていたが、程なくマーリン様が重い口を開いた。

「キメラに追われている子供ならば、たった今スラりんとピエール殿が救助に向かいました」

 ひゅ、と冷たいものが喉を掠める。

 心臓が次第に脈動の速度を早めていく。いつもと変わらず淡々と告げられるマーリン様のお声がひどく、遠い。自分の動悸が耳の内側に煩いほどこだまして、手も足も何だか震えていて、心配そうに覗き込んでくれるホイミンちゃんも、ガンドフさんもどこか現実味がない、けど、

 ────現実なの。間違いなく。

 これが、夢ならどんなに。

「その子、私のお友達なんです」

 どうにも震えてしまう声で何とかそう告げる。瞠目する皆さんに縋りつき、懇願した。

「どうか、……どうか、私にも見守らせていただけませんか⁉︎ ────お願い、します……‼︎」

 

 

 

 数十メートル先の砂浜では、激しい攻防戦が繰り広げられていた。見張り台からいち早く異変に気づいた船員が叫び、それを聞いたアランさんを含む数人の船員がすぐさま甲板を飛び降りた。昨日私達の船室に忍び込んだ、あの小さな少年が今、まさに、二羽のキメラの嘴に襟を掴まれ持ち上げられるところだったのだ。

 後からアランさんに聞いたら、子供に当たらなくて本当に良かった、と苦笑いしていた。無我夢中で、ほとんど身体が勝手に、走りながらブーメランを投げていたのだと言う。

 奇跡的に届いたブーメランがキメラの横っ腹に決まったお陰で、バランスを崩した片方のキメラがキトを取り落とした。砂浜に落ちたキトが錯乱しながら懸命に這って逃れようとする。自分めがけて真っ直ぐに駆けてくる青年達に向かって、必死に叫んだ。

「たすけて……っ、たすけてえぇ────‼︎」

 その叫びに呼応するかのように、砂の上を猛スピードで転がってきた青い小さな何かが彼の懐に潜り込んだ。少年はハリネズミか何かかと思ったらしいが、同時に駆けていたアランさんにはそれが何なのかすぐに判った。

「ニフ……ら──────っっっム‼︎‼︎」

 りんごほどの大きさに見えた、その青い塊がパンの如くぶわっと膨らんだ。驚き目を瞠った次の瞬間、キトはその眼を自ら覆うことになる。全てを影にする目映い閃光が塊から解き放たれて、海岸と海と空を一瞬で真っ白に染め上げたのだ。

「……あれー⁉︎ きめら、ほとんどきえなーい‼︎」

 妖しい術を行使した張本人は光が消えた後、あわあわと取り乱している。少年よりさらに小さな、膝ほどもない生き物だったが、その生き物は勇敢にも自分を庇い、キメラとの間に立ちはだかっていた。

「え、……スライム? ────ッうわあ!」

 驚愕のあまりぼんやりしてしまった彼の襟を何者かが後ろへ引き倒す。またしても悲鳴を上げてしまった少年に「死にたいか? 小僧。助かりたくば船に向かって走れ!」とその何者かがすれ違いざまに囁いた。疾風の如く目の前の敵に突っ込んでいった、陽射しを照り返したその白銀の背をキトはようやく直視した。

「……っ、ま、まもの……っ⁉︎」

 声は大人のようだったけど、幼い自分とさほど変わらぬ背格好でスライムに跨る鎧姿の人間なんて多分いない。尻餅をついたまま後退り、なんとか立ち上がろうとしたが力が入らない。耳をつんざく奇声に顔を上げれば、キメラが更に数羽、自分達を囲むように羽ばたき上空を飛んでいた。そこに続けて、ビッグスロースやデスパロットが森の中からぞろりと現れる。示し合わせたようなタイミングに、少年を庇い立った二匹──三匹と言うべきか、魔物達がわずかに苦笑したようだった。

「麻痺は厄介だ。デスパロットだけは先に沈めるとするか」

「まっかせて!」

 自分は子供だけれど、あの魔物の群れが自分達を殺そうとしていることくらいわかる。殺気立った大群を前に張り切って跳ね上がるスライムに思わず、やめなよ、と言おうとした。無謀としか思えなかった。敢えて死にに行くとしか、彼には思えなかったのだ。

 あんなにいっぱいいるのに、無理だよ。逃げようよ。

「何やってる! 走れ‼︎」

 唐突に背中を叩き、叱咤の如く促したのは、昨日自分を家に送り届けた青年だった。

 そうだ、走らなきゃ。頷いたつもりだったけど、身体ががくがくしてうまく動かせない。青年に手首を掴まれ、引きずられるままに走ろうとしたがやはり足はろくに動かず、ああ、と泣きたくなったその時、どこからか女の声が自分を呼んだ。

「キト‼︎」

 周りは懸命に制止してくれたけれど、我慢できなかった。震える身体を叱咤して船縁から身を乗り出す。ただ必死に、腹に力を込めて、少年に届くことだけを願って声を張り上げた。

「走って。お願い‼︎」

 私の叫びが恐らく届いた、瞬間少年とアランさんが脱兎の如く駆け出した。船に向かって必死に走る彼らを追おうとするキメラ達に他の船員さんがブーメランを、ピエールさんがイオをぶつけるがすぐ体勢を立て直されてしまう。砂地は走りにくいのだろう、やっと半分というところでキトが足をもつれさせた。わっ、と叫んで転倒した少年を小脇に抱え込み、アランさんがまた走る。

 お願い、追いつかないで……‼︎

 祈りも虚しく、高く飛び上がったキメラの急降下は速かった。アランさんが一瞬、緊迫した表情で空を仰いで────すぐその身体の下に、少年を抱え込んだ。

「アラン────ッ‼︎」

 前のめりに倒れ込んだ彼の背に、キメラの嘴が襲い掛かる。あまりの残酷さに、咄嗟に目を瞑った。船長の、仲間達の怒号に似た叫びが幾つも重なって聞こえた。

 薄く開けた視界の端、ピエールさんが回復の為に引き返そうと試みている。けれどすぐに魔物の群れの中に飲まれて姿が見えなくなってしまう。共に走り、キメラを散らしていた船員達が駆け寄る様も。

 血が────砂浜に、真っ赤な血が散っていく。何度も繰り返し啄まれて、背肉を抉り取られて。アランさんはキトを抱え込んでうずくまったまま、動かない。走馬灯みたいにゆっくり、その光景は妙に緩やかに流れて見えた。

 ホイミンちゃんも動かなかった。ものすごく悩んでいるのが隣にいて伝わってくる。すぐに行ってあげて、と言いたいけれど、この上私の側を離れては守りきれないかもしれないと思っているんだろう。

 結局、私が自分を守れないから。私が、役立たずで何もできないから。

 どうして、目の前にいて手も差し伸べてあげられないの。

「お嬢様、早く中に!」

 船長の厳しい叱責の声も、もう聞こえない。

 ふと、気がつくと私のそばに控えたマーリン様が、アランさん達の周りを飛ぶキメラに向かってもう何発も、冷静にメラミを放っていらした。

 あの距離なら魔法が届く。マーリン様なら、届くんだわ。

 手を、かざす。

 この魔法なら何度も何度も使ったもの。詠唱はいらない。

 でも、手が届く距離にいる相手にしか使ったことはない。

 離れた相手に掛けられる魔法じゃない。そんなこと、出来た例がない。

 ……出来るか出来ないかなんて、今は関係ない!

 迷いを、断ち切る。かざした手に光が宿り始める。あたたかなその光を、魔力を注ぐイメージで膨らませていく。私のずっと内側から、感じたことがない力が湧き上がり、漲っていくのがわかる。届かないなら飲み込んでしまえばいい。私に、もしこんな私にもできることがあるならば、

 ────もっと、もっと強く。どうかアランさんに、届いて‼︎

 瞼を閉じて、集中したのはほんのわずかな、でも時間が止まったような、長くて短い不思議な一瞬。

 深い、深い、仄暗い精神の奥深く潜ったところで、

 翡翠の髪の、知らない誰かが居たような気がした。

 

 物心つく頃から何度も繰り返し視た、空を割って堕ちる夢。

 あの夢の始まりに、

 何度もお別れした人に似ている気がした。

 

 ──────すべては、一瞬の昂り。

「ベホイミ‼︎」

 宣誓と共に癒しの波動がゴォ‼︎ と大気を揺るがした。掌から放たれた、ベホイミに違いないその光は溢れるほどにその場に満ちて旅装の裾と髪を巻き上げ、さっきのスラりんちゃんのニフラムの如く全てを包み込んでは真っ白に染め上げ、消えていく。

 はらり、と結っていた髪がほどけて、編み上げた髪が肩に落ちて音もなく垂れた。

 隣にいたホイミンちゃんも、ガンドフさんも、たった今までメラミを撃ってらしたマーリン様も、私を厳しく見守ってらした船長も船員さん達も、みんなみんな、黙って私と、船の外のアランさんを凝視していた。

 真っ先に動いたのはキメラだった。光を交わし空高く舞い上がったキメラが再び襲撃の構えを見せたが、すぐさま気づいたマーリン様がすかさずメラミで退け、声を上げた。

「そこの方! 若者のご容体は」

 慌ててアランさんの様子を見た船員さんが、血濡れた服の隙間から肌を覗き込み、驚愕して叫ぶ。

「あ、き、傷が、ほとんど塞がってます! 奇跡だ、奇跡です‼︎」

 歓喜が滲む船員さんの返事に、膝がかくりと抜けそうになる。慌てて船縁に手をついて、崩れ落ちかけた身体を支えた。「ふろ〜らちゃん、すごい! すごいよ〜‼︎」と興奮して呼びかけてくれるホイミンちゃんに、なんとか視線だけで淡い微笑みを返した。

 ……届いた。良かった……

 アランさんは気を失っている様子だったが、その下からキトが強張った顔を覗かせた。また泣きそうに顔を歪ませた少年に向かって身を乗り出し、強張ってしまう頰をなんとか弛ませ微笑みを繕って向けた。

 それでも、彼らのいる地点からこの船までまだ十メートル強はある。キメラは依然数を減らしておらず、船員さん達は各々が持つブーメランだけでキメラを退けながら、足を取られる砂浜を、二人を抱えてここまで走らなくてはならない。

 海の魔物相手なら腕が立つ彼らだが、そもそも陸上での戦闘には慣れていない。

「信じらンねえ。こりゃ俺達、もしかして見つけちまったんじゃねえの?」

 どうしたらいいの。唇を噛んでぎゅっと船縁を掴んだその時、何とも嬉しそうな甲高い、下卑た笑い含みの声が空から響いた。

 はっとして見上げるとキメラが数羽、ばさりと緩慢に羽ばたきながら船の上を旋回している。────舐めるような、粘りつく眼で私だけを見下ろして。

「碧髪の女か。しかもさっきの妙な力だ。見逃してはやれねえ、なァ?」

「小汚ねぇガキよかその女の方がずっと上玉じゃねぇか。早くジャミ様にお見せしてェもんだぜ」

 舌舐めずりしつつ私を値踏みする。その目つきにぞわり、と背筋に冷たいものが走った。テュールさんと外の世界を歩くようになってからもう幾度となく感じた、あの視線。

 私を庇って立ってくださるマーリン様、ガンドフさんを更に囲むようにして、船員の皆さんが並び立つ。それぞれにブーメランや鞭を手にして。緊迫する空気の中、どこからともなくごくり、と唾を飲み込む音がする。

「お嬢様を狙う輩がいる、というのはやはり間違いないようだな。そう易々と渡すと思うか」

「渡す、じゃねえよ。()られるンだよ、てめえらがな!」

 フォスター船長の物々しい台詞にもキメラ達は動じなかった。ケヒヒヒヒ! とまた耳障りな笑い声が幾重にも響いて、耳の奥がキィンと貫かれる感覚に陥る。

「なぁに、ジャミ様は寛容なお方さ。お前のような珍奇な碧髪女でも可愛がってくださるだろう……よッ!」

 その言葉を皮切りに、十数羽のキメラが一斉に襲い掛かった。ほぼ同時にブーメランが飛び交ったが殆どが虚しく空を切る。私も咄嗟に指輪を向けたけれど、吹雪だけではやはり退けられない。ガンドフさんの鞭とマーリン様の炎が追い討ちをかけ一、二体と落として────船員さん達の攻撃を掻い潜った三体ほどが、低空から恐ろしく加速して間合いを詰めてきていた。

 

 だめ、避けられない!

 

 思わず目を瞑り衝撃に備えた。瞬間、ギョゲッ、と濁った呻き声と、とさりと軽い足音が意識の端に届く。

 来ると思った衝撃は来ない。それどころか、陽射しが急に遮られて影が差している気がする。「遅い」と珍しく不機嫌なマーリン様の呟きが聞こえた。恐る恐る、顔を背けたまま薄く瞼を開けて────

 真っ先に視界に飛び込んできたのは、金の体躯に緋色の鬣が美しい獣だった。ここにはいないはずの、夫の一番の親友。

 昨日首を抱きしめて見送ったその魔獣は、鋭い牙でキメラの首を噛み砕き、ぶら下げてすぐそこに立っている。

 そして、……そして。

 会いたかった。会えなくて、恋しくて寂しかった。

 誰より愛しい夫の、大きな背中が私を守ってくれていた。

 

「……ひとの妻に、軽々しく言ってくれる」

 

 濃い紫の、長い外套が翻る。

 黒曜石の漆黒の髪が紫の布地に躍った。逞しい右腕からまっすぐ伸びた剣筋は私に襲いかかったキメラの蛇腹を斜めに斬り裂き、返す切っ尖でもう一羽の喉を迷いなく貫いていた。悲鳴も上げずに絶命したその魔物を剣から引き抜き船の下、砂浜へと投げ捨てる。

 一分の隙もない身のこなしで私の一歩手前に滑り込んだ彼は、左腕で私に害が及ばないよう庇いながら、尚も飛翔するキメラ達を真っ直ぐに見据えて立った。

 

 来て、くれた。

 

 ほっとして、今度こそ力が抜けてしまう。よろめいた私をガンドフさんが柔らかい軀でそっと抱きとめてくれた。

 もう、大丈夫。彼が来てくれたから、大丈夫。

 たった一人、ただの人間でしかない彼が駆けつけてくれただけだというのに。どうしてこんなに安心してしまうんだろう。

「渡さないよ。いつまでもこんなことが上手くいくと思うな」

 静かに、しかし確かに怒りを孕んだ声音でテュールさんが鋭く言い放つ。

「お前達こそ、帰って親玉に伝えな。人間は、光の教団が自分達を攫っていることに気づき始めているってさ」

「…………、なんだと?」

 嘲笑うばかりだったキメラ達が一斉に鼻白む。テュールさんは揺らがなかった。私達を取り囲んだ残り数羽のうち、真正面に相対した一羽の視線を捉えたまま、剣を握った拳に今一度力を篭める。

「船は捕まらない。お前達の奴隷にはもうさせない。彼女も、絶対に渡さない。────伝えろよ。あの馬面野郎に、二度とお前らの好きにはさせないって」

 低く、淡々と。抑制して尚、隠しきれない苛烈な怒り。

 こんなテュールさんは初めて見る。

 身が竦むほどの覇気と怒気が。憎しみに満ちた気配が。まるで彼自身の影から立ち昇るように、その足元からじわりと滲み出て、全身へと拡がっていく。

 その背に、後ろ姿に圧倒されながら直感した。

 彼は知っているんだ。この魔物達を従える、『ジャミ』と呼ばれる何者かのことを。

「貴ッ……様ァ……‼︎」

 主への揶揄が効いたのか。憎々しげにキメラ達は歯軋りしたが、そのうちの一羽がはたとテュールさんを凝視した。

「──そうか。お前らが、マザーを殺ったのか」

 テュールさんは微動だにしない。剣先を空に突きつけ睨み据えたまま、押し殺した声で「だったらどうした」と短く答えた。

 ぞ、と昏いものが背筋から私を捕らえる。

 こ わ  い。

 どうしてそんなことを思ったのかわからない。けれど、その瞬間確かに私は、彼に対して言いようのない恐怖を覚えたのだ。

「はッ! ────だったら、全員ブッ殺しちまえばいいだろうがあァッ‼︎」

 苛立ったキメラがついに発狂し、残った十羽ほどが一斉に襲いかかった。剥き出しの殺意が恐ろしくて私はその場に凍りついてしまう、けれどテュールさんがほんのわずかに屈む方がきっと早かった。彼の間合いに達したキメラの首が、翼が、頭が次々に斬られて青黒い血飛沫が飛ぶ。彼の死角はプックルちゃんが軽やかに埋めて薙ぎ倒した。死にきれず回復を試みる者には船員さんやマーリン様が追い討ちをかけた。砂浜の向こうで魔物の群れを撹乱していたピエールさん達もいつの間にか船のそばに戻ってきていて、手が空き始めた船員さん達とマーリン様が加勢した。

 テュールさんとプックルちゃんが戻ってきた。それしか変わっていないのに、戦意の違いは余りにも歴然としている。つい先ほどまで防戦一方だった私達が、今は明らかに優勢で、敵の数をみるみる減らしていた。私は後ろに下がって、ガンドフさんに守られながらホイミンちゃんと一緒に回復を手伝うだけだったけれど、その形勢の変化に愕然とするばかりだった。

 勢いがある。全体がこの覇気に呑まれている。既に空を飛ぶキメラの姿はなく、船上とその周辺は魔物の死骸で埋め尽くされていた。あとは森からつられて這い出てきた魔物を制圧するだけ。テュールさんの剣捌きはいつもよりずっと鋭く、仲魔の皆さん達も何故か異様に殺気立って、ひどく好戦的に見える。

 ……好戦的?

 いいえ、違う。これではまるで、……まるで────

「ふろ〜らちゃん! こっち〜!」

 つい思考に気を取られてしまっていた。ホイミンちゃんの間延びする声に呼ばれて、意識がはっとこちら側に戻る。声を追って船の外を見ると、アランさんのいる場所までの道が拓かれていた。既に周囲に敵はなく、彼の周りには数人の船員が居て囲んでいる。先程から薬を片手に船内を走り回っていたバルクさんが、水の入った筒を掴んで船を飛び降りるのが見えた。私も慌てて船から降りて、アランさんを囲む輪のそばへと駆け寄った。

「アランさん! キト……‼︎」

 尚も意識のないアランさんにしがみつかれる格好でうずくまっていたキトは、私を見るなり「ねえちゃぁん……」と顔を思いきり歪ませた。涙と鼻水、そして砂埃で汚れた髪と頰を撫でたら、堰を切ったようにぼろぼろと大粒の涙が溢れた。

 ──良かった。この子が攫われなくて、本当に良かった……

 気付けの薬湯なのか、バルクさんが急いでアランさんに筒の中身を飲ませ、また、近づいたホイミンちゃんが二人の治しきれていない怪我に治癒魔法を施してくれる。薬湯が効いたのか、朦朧としていたアランさんの瞳にも次第に光が宿り、「あれ……俺、生きてら」と弱く息を吐きながら微かに笑った。

「生きていますよ、大丈夫。アランさんが守って下さったから、この子が無事だったんです……」

 目頭が熱くなる。喉にこみ上げて零れ落ちそうなものを堪えながらアランさんの手を取り、何とか口角を持ち上げて微笑んだ。

「ありがとうございます。本当に、ありがとう……」

 ホイミンちゃんの施術を受けながら私の言葉を聞いていたアランさんが、少しだけ照れ臭そうに笑って、空いた手で頰を掻いた。

「……お嬢様も、ご無事で……良かった」

 なぁんか俺役得だなぁ、なんてへらりと呟いては仲間達に軽くどつかれるアランさんを見ていたら気が抜けてしまったのか、ぽろぽろと温かい雫が頰を伝って落ちた。そんな私をキトが心配そうに見上げてくれて。思わず「大丈夫よ。ほっとしてしまっただけ……」と、頰を撫でて微笑んだ。

「キトおおおぉッ‼︎」

 そんなささやかな安寧は、どこからか響いた野太い男性の声に引き裂かれる。

 吃驚して声がした方を振り返ると、集落の人間らしき人々が数人、それぞれに武器らしきものを持って砂浜の向こうからこちらを見ていた。先頭に立った男性が顔を真っ赤にして私達を睨んでいる。ただならぬ剣幕に思わず身体を硬らせたと同時に、キトが小さく「おっとう」と呟いた。

 キトが襲われていることを知って助けに駆けつけてくださったのだろう。良かったわね、とキトに言いかけた瞬間、身が竦むほどの怒声が砂浜に響き渡ったのだ。

「貴様らあああ‼︎ キトをどこに連れてくつもりだ⁉︎」

 びくり、と身体が震えた。男性は死屍累々の砂浜を物ともせず、ずかずかと死骸を踏み躙ってこちらに来る。その背を追って近づいてくる人々も険しい表情をしていて、ただならぬ雰囲気に船員さん達が皆一様に身構えた。

「こンの悪魔どもがぁッ、俺の息子を今すぐ返せぇ‼︎」

 あまりの剣幕、言われように言葉なんて喉奥に引っ込む。あ、と声も出せずに唇を虚しく動かしたところで、父親らしき男の後ろで憤慨した様子のまた別の男が、少し離れたところで最後の魔物を沈ませたテュールさんを指差し叫んだ。

「おい、あいつだよ! 紫のマントの、旅人風の男!」

 叫び声につられて人々が一斉に、険しい──まるで憎悪に満ちた目で、テュールさんを振り返る。

 どう、して?

 キメラ達のそれは、殺意だった。害意だった。キトを、私を連れ去り、それらを知る人間すべてを消し去ろうとするおぞましい意思だった。殺される、そう思ったら恐ろしくて身がすくんだ。────では、これは何なの。

 この、存在からすべてを否定する、どこまでも酷薄でしかない視線は。

「間違いねぇ。カボチの連中が言ってた奴らだ!」

「魔物とつるんでえれぇ悪どいことしとるってな。残念だったな、全部お見通しなんだよ!」

「神さんを船に掲げておいて、その正体は魔物の一味だと? 信じらんねぇ、ぶっとい神経してやがんな!」

「罰当たりどもめが。悪魔に魂売りやがったか! 仕舞いにゃ仲間割れかよ。とことん救えねぇ奴らだぜ‼︎」

 次々に投げつけられる罵倒の数々。私だけじゃない、船員さんも皆言葉を失っていた。唐突に突きつけられた悪意の塊に為す術もない。少年だけが、よく見知っているであろう身内の豹変に戸惑い、私達の中心にへたり込んで狼狽えているようだった。

「……な、なんだ、みんな。なんでそんなおこってんだよ……」

 おろおろと大人達を見渡す少年に発言権はない。否、それ以前に集落の人々は私達に一切の弁明を許さなかった。父親だと言う大柄な漁師──恐らくアランさんとさほど歳が変わらないくらいの、真っ黒に日焼けした額に大きな傷痕を刻んだ青年が、私とホイミンちゃんをきつく睨みつける。

「青い魔女に青い魔物か。見た目にゃ騙されねぇぞ。キト! 早ようこっちに来い」

 すぐそこまで歩み寄った父親が力強い掌をぐい、と少年に向ける。しかし少年は身体を更に縮こませ、怯えたように首を振った。

「…………っ、やだ」

 ぴくり、と父親の額に浮き出た青筋が震える。じろりと息子を睨むと、キトは益々私の後ろで身を縮めるようにして隠れながら叫んだ。

「おっとう、なんかこわいもん! やだっ‼︎」

「キト……てめぇ……!」

 怒り心頭の父親の気迫に私まで畏怖を感じる。恐らく力づくで連れ出そうとして父親が近づき、反射的に私の背後に逃げ込んだキトの気配につい、身体を割り込ませてしまった。

「きゃ……っ!」

 当然ながら邪魔だと言わんばかりに突き飛ばされ、腰を浮かせた船員さん達が一斉に気色ばんだ。が、後頭部から倒れそうになった私を抱きとめたのはテュールさんの広い胸だった。戦闘を終えたばかりで駆けつけてくれた彼は、まだ早い鼓動を呼吸で落ち着けながら慎重に、穏やかな声音を保って少年の父親に話しかけた。

「落ち着いて、頂けませんか。申し訳ないが僕には話がよくわからない。ご子息が我々の戦いに巻き込まれてしまったのでしたら、心からお詫びを────」

「このッ……、化けモンが! 汚ねぇ手で触ンな‼︎」

 ばしん! と、拒絶の音が響く。

 なんとか宥めようと差し出された手は非情なまでに振り払われた。穢らわしいものを疎む眼で父親は私とテュールさんを睨みつける。思わず息を呑んだ私の肩を、テュールさんがそっと抱いた。優しく、やわらかなもので包むように。

 痛いのはあなたの方なのに。見上げたあなたは苦しみなど呑み込んでしまったみたいな、ひたすらに落ち着いた、優しさすら感じる濃紺の眼差しで父親を見つめていた。

「俺達の目ん玉が黒いうちはこれ以上悪さはさせねぇぞ! とっととどっか行っちまえ!」

 後ろで私達を見つめていた一人が足元の砂を掴んで投げつけた。それに続いて二人、三人と、再び口汚く罵りながら砂を、石を次々と投げつけてくる。咄嗟にテュールさんの腕が庇ってくれたが、それでも降り注ぐ砂が目に入りそうで額に手をかざしたところで、側にいた船員さん達が数名、ついに堪りかねて腰を浮かせた。

「いい加減にしろ‼︎ 貴様ら、この方々を誰だと────」

 叫びかけた船員さんをすかさず制止し、立ち上がる。

 庇ってくれるテュールさんの腕も振り解いて数歩、前に出た。砂と共に投石が額や身体に当たって、息を呑んだテュールさんがほとんど反射的に駆け寄ろうとしてくれた、けれど私が腕を伸ばして止めた。

 何も言って欲しくなかった。表に立たせたくなかった。

 これ以上あなたは聞かなくていい。全部私が受ければいい。

 ……もう、我慢の限界だった。

「おやめ、ください‼︎」

 どこから出たのか、腹の底から自分でも驚くほどの大きな声に、あんなにも騒ぎ立てていた人々がぴたりと動きを止めて私を見る。もうとっくに慣れたと思っていた、自分達とは違う得体の知れない何かを厭う、いびつな目をして。

 

「そのような誹りを受ける謂れはありません。……私の夫は、ここにいらっしゃる皆様は、天に恥じる行いは何一つしておりません‼︎」

 

 ただ、ただ、憤ろしかった。

 どうしても許容できなかった。

 何も知らないひとに、どうしてここまで悪し様に言われなくてはならないの。

 どんな想いで、あの子が救いを求めたか。どんな想いでアランさんがあの子を守ったか。体調が万全ではない、剣もいつものものとは違う短剣で、それでもピエールさんとスラりんちゃんがどうして、子供に拒絶される可能性を恐れず真っ先に前線へ庇いに出たのか。

 カボチの噂がなんだというの。紫の外套が、あなた方に害を為したとでも言うの。

 悔しくて、口惜しくて、握り締めた拳が震える。喉も目頭も熱くて痛くて、それでも瞬き一つできない。

 立ち尽くした私を、漁師達に楯突き彼らをまっすぐ見つめた私を、当の漁師達はいかにも気まずそうに言葉を飲み込み、私の後ろにいる少年と私とをちらちら見比べていたようだった。

 私を魔女呼ばわりすることなんて、どうだっていい。

 知っています。私だって所詮、ルドマン家の名がなければそんな風にしか見られないってこと。

 こんな青い髪、きっと誰も見たことがないもの。私だって、私以外に見たことがないのだもの。

 だから、私を忌避する人々を責めはしない。幼い頃からそうだったのだから、今更私は傷ついたりしない。……でも。

 痛かったの。すごくすごく、苦しかった。

 何も悪いことをしていない彼が、仲魔の皆さんが、ただ一方的に責められてしまうことが辛くて、耐えられなかった。

 きっと、優しい皆さんは全部飲み込んで微笑むんだろう。仕方ないよって。よくあることだよって、後できっと笑うのだろう。

 今回だって最後は結局、そうやって収まるのだろうと思う。こんな訴えで劇的に何かが変わるなんて思ってない。そこまで子供じゃない。

 わかっていても、黙ってやり過ごすなんて出来なかった。

 ────許せない、なんて、

 初めて思った。

「……もう、やめろよ。ねえちゃんも、にいちゃん達も、そこのまものだって……おれを、たすけてくれたんだよ」

 ぐしゃぐしゃの泣き顔を拭いもせず、私の後ろで項垂れていた少年は、小さな身体から私以上に憤りを滲ませた震える声を絞り出す。

「なんでおこるんだよ! おっとう、おれがしんでもよかったのかよ! おっかあみてえに……まものにやられちまっても、よかったっていうのかよ⁉︎」

 ────ああ。

 やはり、という思いが胸を掠める。キト、あなたのお母様は。

「ふ……ざ、けんな、キト‼︎ 俺ぁ、おめえをそんな餓鬼に育てた覚えはねえぞ‼︎」

 他ならぬ息子に糾弾された父親は、益々頭に血を昇らせて烈火の如く怒り狂う。居並ぶ私達を次々に睨んで、最後にキトを──怒りの中にほんのわずか、哀しみを湛えて、見つめた。

「よりによって魔物連中に誑かされるたぁ、おっかあに合わせる顔がねぇ。性根叩き直してやる! 来い!」

 私達の間を割ってずかずか近づいてくるなり、少年の腕をぐい! と捻り上げる。無理矢理片腕を引き上げられた少年が、宙ぶらりんで足をばたつかせ悲鳴を上げた。「おやめ下さい! 肩が外れてしまうわ!」と思わずその腕に追い縋ったが「触るなってんだよ、薄気味悪ぃ魔女が‼︎」とすぐさま突き飛ばされた。側にいらしたテュールさんがまたもや抱きとめて下さって、黙って私の濡れた頬を拭い、額と肩に回復魔法を施してくれる。あたたかな腕に捕まえられて私はそれ以上何もできず、引き摺られて泣く少年を唇を噛んで見つめるばかりだった。

 キトを掴み、踵を返した父親の前にフォスター船長が立ちはだかる。彼も眉間に皺を寄せ、ひどく苦い表情だったが、極々静かな声で騒ぎを起こしたことを詫び、なるべく早めに立ち去るから今は引いて欲しい、と感情を抑えて告げた。

「すぐに片付けて、場所を移しましょう。夕方にはここを離れます」

 頷いたテュールさんが、ご迷惑をおかけしてすみません、と小さく呟いた。船長が緩く首を振り、ごく微かに微笑んで彼の肩を軽く叩く。

 キトを連れた一行は船長の言葉にも一言も返さず、泣きじゃくる少年を担ぎ上げて砂浜の向こうへと歩き去ってしまっていた。

 ひどく後味の悪い雰囲気の中、それぞれが重い腰を上げて手当てと片付けのため、のろのろと船へ戻って行った。

 

 

◆◆◆

 

 

【side Tyr】

 

「……無茶、するんだから」

 ほとんど傷が癒えた、白い滑らかな額をそっとなぞった。痕が残ったらと思ってついベホイミを重ね掛けしてしまったけれど、それでも碧い生え際に尚も薄っすらと傷痕が見えてしまう気がするのは、情けない自分の負い目に依るものなんだろう。

「────ごめん、なさい」

 謝る必要なんて欠片もないのに。二人きりの船室で、椅子に腰掛けた君は膝の上に両手を揃えて俯いたまま、小さく小さく呟いた。

「どうしても、……黙って、いられなくて……」

 ほどけて、くしゃくしゃに乱れた髪が細い肩に流れてかかる。労しくて、痛ましくて、それでも綺麗に背筋を伸ばした君がたまらなく愛しくて。衝動に任せて抱きしめてしまいたいのを、爪を握り込んで必死に堪えた。

 フローラから聞いた話はこういうことだった。昨日の夕方、さっき砂浜で会った少年がこの船に入りこんできたのだそうだ。上手いこと船員の監視を逃れた少年は、この船室まで忍び込んでフローラに出会い、彼女にすっかり気を許して更なるお喋りをせがんできた。しかし遅い時間だった為、フローラは少し思案した上で、僕が一緒ならいいかと今日の夕刻再び会う約束をした。だがついさっき、砂浜で件の少年がキメラに拉致されようとしているところを見張り中の船員が発見した。その救出の為に、今回の戦闘に至ったのだと。

「……本当にごめん。言葉が足りなかった。君の碧い髪だけじゃなくて、やっぱりヘンリーも、翠の髪を理由に攫われたっていうのがあったみたいで」

 罪悪感に潰されそうになりながら、なんとかそれだけ告げる。彼女の翡翠の虹彩がわずかに揺らいで僕を見た。その真っ直ぐな眼差しに、僕の浅はかさを見透かされた気がしてひどく、居た堪れない心地になった。

 ちゃんと僕がそこまで噛み砕いて話をしていたら、フローラならばその少年もまた魔物を呼んでしまうかもしれないという推測に至れただろう。実は帽子を落として行った、という付加情報があったなら、余計に。

 セントベレス山の奴隷達がみんな変わった髪の色だったわけじゃない。純粋に労働力として拉致された人が多かったのだろう、とは思う。それでも、それとは別に間違いなく、あいつらは何らかの目的の為に『誰か』を執拗に探している。空恐ろしいことにその『誰か』の条件を、フローラは限りなく満たしているらしい。

 ────さすがに、こんなところであいつの名前を聞くことになるとは思わなかったけど。

 ジャミ。ゴンズ。ゲマ。この三者の名前は、どんなに忘れたくとも自分の中から消し去ることなど出来ない。

 無抵抗の父を手加減なしで嬲り殺しにした、あの愉悦の滲んだ醜い表情を忘れることなど出来ない。セントベレス山での十年間は姿を見ることも、名を聞くこともなかった。あの悪魔達はこの教団に関わっているんだろう、そう思うばかりで時が過ぎてしまった。

 こんな形で、奴らと教団との繋がりを再確認することになるなんて。

 こんなこと、彼女の前で気にしたくもないのに。

 振り払おうとしても尚、思い返されてしまう忌まわしい記憶をどうにか打ち消してしまいたくて、無意識のうちに彼女から目を伏せた。

 

 

 今朝は予定通りに早朝宿を発ち、船を停泊した岸へと順調に向かっていた。荷を積んだ馬車を軽やかに引くパトリシアを励まし森の中を疾走していたら、突然海岸線の方から眩い閃光が一瞬、走った。

 昼前だからなのか、往路ほど魔物に遭わなかったので妙な気はしていた。光の正体はわからなかったが、すぐに思い当たったのは先日スラりんが使っていた古代の破邪魔法、ニフラムだった。あれを用いると言うことは、今すぐにでも減らしたい敵の大群が迫っているということで。

「何か、あったんですかね」

 速度を上げ、がたごとと激しく揺られる荷台の中でロニーさんが不安げに幌の外を覗いた。

「ええ。多分」

 胸騒ぎは的中した。やっと見えてきた森の切れ目に、魔物が大挙して蠢いている。が、様子がなんだかおかしい。僕達を見て襲い掛かるかと思いきや、突撃兵が仲間であろうスモールグールを突き倒していたり、パペットマンはあらぬ方向にひたすらぐねぐねと踊っていたりする。これはまさか、と思ったところで「あーっ! ごしゅじんさまだーっ!」と能天気な声がした。

「スラりん⁉︎ 何があった? 船のみんなは?」

「奥方殿はマーリン殿らに任せた。こちらは見ての通り、撹乱中よ!」

 もうひと方、跳ね回るスラりんに向かって息を吸い込んだスモールグールを背後から襲って叫んだのは、重傷を負って休んでいたはずのスライムナイトだ。益々驚き、僕もまたプックルと共に馬車を飛び降り、加勢しながら叫び返した。

「撹乱⁉︎ 二人だけでか。身体は大丈夫なのか、ピエール⁉︎」

「得物がこいつなこと以外は問題ない! それよりあるじ殿、キメラが────」

 手に持った短剣をかざして見せたピエールを振り返った、その瞬間だった。さっきの閃光に似た真っ白な、しかしひどく温かい光が、船の方から放たれて辺りを埋め尽くしたのだ。

「────、え?」

 驚いたのは僕だけではない。ピエールも、スラりんも動きを止めて船の方を見た。生憎ここからでは船の様子はわからない、が、今の光は絶対にスラりんの魔法ではない。

「……何だ。今の……」

「早く戻られよ。あるじ殿」

 僕より早く周囲の魔物に意識を戻したピエールが鋭く叫び、即座に後方に爆破魔法を放つ。傷ついて起き上がろうとしていた魔物達が、爆風に煽られ悲鳴を上げた。

「奥方殿だけではない。子供が一人、狙われている。船の者らはどうやら、陸での戦いに不慣れのようだな」

 再び反射的に船の方を見遣って、息を呑んだ。キメラ達が十数羽、大きく旋回しながら船を取り囲もうとするのが見えた。しかし本当に大丈夫なのか、もう一度二人に問おうとしたところで「めーだっぱにーっ!」と気の抜けた詠唱が響く。ああなるほど、魔物達の様子がおかしかったわけだ。ガンドフに続きスラりんまで、いつの間に新しい技を習得していたのか。

「あちらの手が空けば逆にこやつらを誘導致す。心配は無用」

 頼もしい相棒の言に頷き、無理はするなよ、とだけ返した。馬車に駆け戻り、買ったばかりの鋼剣を急いで引き摺り出す。「ピエール!」と一声呼んで、鞘ごと投げた。

「……かたじけない!」

 にやり、と笑ったらしいのがわかった。鞘を構え、柄を握った彼はそれだけで纏う空気をがらりと変える。大丈夫そうだ。ほっとして、僕も意識を切り替えた。馬車を見渡して、真っ先に目があったテオさんの方へ身を乗り出す。

「テオさん、馬車を動かしたことはありますか?」

 気圧される形ではあったが、頷いてくれた。内心安堵しつつ視線を船へと走らせ、もう一度彼らを振り返る。

「良かった。ロニーさんと一緒に森の中を迂回して船へ戻ってもらえますか? 魔物は仲魔達が引きつけてくれているので、大丈夫だと思います」

「ええ、良いですとも。……ですが、テュールさんは?」

 不安げな彼らの視線を受けて、一瞬悩んだ。とにかく一秒でも早く船へと駆けつけたい、けど。

 これだけの魔物がひしめいている中、ただでさえ足を取られる砂地を駆け抜けるのは難しい。それは馬車でなくとも多分同じだ。ここから直線距離で飛び出したら、あっさりと足止めを喰ってしまうだろう。

「────、プックル」

 時間がない。思いきって呼びかけると、早くしろ、とばかりに数歩先をトトンと歩き、僕に背を示して振り返る。

「……ありがとう。背中、借りるね」

 初めてプックルの、意外と大きくて広い背に跨って。僕が体重を預けるなり、プックルは力強く土を蹴り、森林と海岸のぎりぎりの境界線を一瞬で駆けた。木陰から跳ぶようにもう一度走り、船の向こう側へと着地する。どうやらフローラに気を取られているキメラ達にも、船員達にも気付かれることなく、僕とプックルは船の陰に回り込むことに成功した。

 そこで僕は、あの忌まわしい名前を聞いたのだ。

 

 

 フローラだけは渡さない。

 それだけがあの時、僕の、人としての正気を留めた。

 それがなければきっとあの昏い感情に呑まれていた。十年以上、溜め込んできたどす黒い、憎悪。抑えようと思っても、考えまいとしても、一度あの名を聞いてしまったらもう無理だった。

 そんな、負の感情にほとんど呑まれるような僕だったから。その後の、まるでカボチ村のときのような、疑心で凝り固まった集落の人々の言い分にも、きっとその裏にある魔物への憎悪にも、僕には反論できるだけの薄っぺらい正義感も、意志の強さも持てなかった。

 魔物を憎んで何が悪い。ご家族を喪ったなら尚のこと、彼らが魔物と親しむ僕を憎む気持ちはよくわかる。

 誤解だ、とせめて伝えるくらいしか出来ない。その想いを否定することなど出来ない。

 ────そんな僕の、情けないほどの甘さが、

 君にまた、負わなくていい傷を刻み付けることになるんだ。

「…………、ごめん」

 絞り出した言葉は結局、やっぱりどうしようもない、意味のない謝罪でしかなかった。

 フローラがまた綺麗な双眸を持ち上げて、慈愛の込められた眼差しで僕を見る。

「いいえ。以前もちゃんと、ヘンリー殿下の件はお聞かせくださっていたのですから。思い至らなかった私が浅慮だったのです。……寂しさにかまけて、愚かでした……」

 澄んだ声でそう言って、彼女はまたドレスの裾をきゅっと握りしめる。

 寂しさに、かまけて。こんな時なのに、その一言にこんなにも心が踊ってしまう自分にまた辟易する。

 君に求婚しようと、してもいいのかと逡巡したあの時、何度も何度も打ち消した考えが、今更脳裏を過っていく。

 所詮僕には、君を幸せになんて出来やしないのだと。

 当たり前の生活なんて送らせてやれないんだ。ずっと一緒に居たいと思ったらこんな風に、君を連れ出して危険に曝すしかない。サラボナにいればしなくていいはずの苦労をさせる。する必要のない嫌な思いをさせる。わかりきっていたことじゃないか。

 恐れていた場面に直面させた。僕が原因で、彼女を矢面に立たせて、ただ茫然と見ていることしかできないなんて。

 君の心ひとつ守ってやれなくて、何が夫だ。

 こんな男に、君の隣に居る資格なんてない。

 その優しい眼差しを、愛情を受け取る資格なんてない。

「……テュール、さん……?」

 顔を上げられず、深く俯いたままの僕を訝しんだフローラが、心配そうに僕を見上げて様子を窺ってくれる。

「どこか、お怪我を、……」

 そうして白い、小さな手を僕の頰に差し伸べてくれる、たった一日ぶりに会った愛しい、優しい妻を。

 その華奢な身体にほとんど衝動的に覆い被さり、抱きしめた。

 

 

 折れそうな身体が、よろめいて僕にしがみつく。

「っ……、あ、あの」

 僕の腕にすっぽりと捕まった、君の鼓動がとくんと伝わる。

 突然の抱擁に戸惑い、彷徨わせた手で背中をそっと撫でてくれたやわらかな君の身体をもう一度固く、きつく抱き込んで。

「……サラボナに、帰る?」

 抱きしめた耳許に、吐息だけの囁きを落とす。腕の中の君がびく、と強く背中を震わせた。

 その碧い髪をもう一度、そっと梳いて、また抱きしめる。

 離したくない。離したくない、離れたくない。

 そんな、自分本位な欲求の所為でこれ以上、彼女を苦しめるくらいなら。

「今なら、帰れるよ。お屋敷の中ならきっと、ここよりずっと……安全だ」

 僕の望みなんてどうでもいい。本当に、どうだっていいんだ。

 僕に抱きすくめられたまま、君は息を殺している。背中に回した手で外套を掴んでぴくりとも動かない。まるで作り物みたいに固まってしまった彼女を暫く抱きしめ続けて────まさか強く締めつけすぎて気絶させてしまったんじゃ、などと不安になり確かめようとしたところで。

 消え入りそうな、儚い、か細い囁きが耳を打った。

 

「────重荷、でしか、ありませんか。やはり」

 

 どうして、そんなに哀しい声で、訊くの?

 心臓が一瞬、止まった気がした。恐る恐る腕をほどいて見下ろしたら、君の綺麗な、翡翠の瞳が真っ直ぐに────透明な涙を必死に堪えて、見開いたまま迷いなく、僕だけを射抜いていた。

「わ──私、わたし、は……、足手まといで、しか……ありませんか……」

「……違う」

 乾いた喉から、意図せず否定の言葉が零れ落ちて。

「違う……違う! ただ、もう、……こんな風に君を苦しませるのは、……嫌、なんだよ……‼︎」

 止まらなかった。一度言葉にしたら、溢れてしまう。ずっとずっとずっと、胸の奥底に封じ込めてきたものが。

 不安だってことからもいつしか目を背けていた。君がいてくれれば幸せだったから、それで良かったから見なくて済んだ。そうやって先延ばしにした結果が、今日だ。

「幸せにしたいんだ。誰より幸せでいて欲しいんだ。それなのに、僕には君を傷つけることしかできない。辛い思いしか、させてないじゃないか。危険な場所に連れ回して、倒れるまで魔法を使わせて、あんな思い……あんな嫌な思い、させたくて求婚したわけじゃ」

「そんなの、勝手に決めないで!」

 強い、君の声が僕の情けない独白を堰き止めた。思わずぴくりと震えた胸元を、くしゃくしゃの白い旅衣を華奢な拳が掴んで。

 濡れた眼差しが、それでも強い光を放って、僕を貫く。

「どうして。私の幸せ、願ってくださるというなら────どうして、私が今、幸せではないなんて仰るの」

 

 ────瞠目、した。

 

 そんなことを思うのはおこがましいって、

 心の何処かでずっと、思っていた。

「しあわせ、ですよ? 私は。何度もお伝えしているではありませんか。あなたに出会って、知ってしまったの。こんなにも満たしておいて、今更」

 一言、ひとこと紡ぐたび、君が少しずつ、揺らいでいく。

 涙の重みに引っ張られるみたいに、君が段々と崩折れていく。

「……私は、もう、……あなたが居なくては、立っても居られないのに……っ」

 いつだってあんなにも美しく、背筋を伸ばしている君が。

 今や君は僕の胸に縋りつき、静かに静かに泣いていた。声を殺して、華奢な白い肩を小刻みに震わせて。

 美しい翡翠の双眸から溢れた大粒の涙がぽろぽろと降り落ちて、指先を、僕の服を濡らしていく。左手の、白銀の指輪がぽわりと淡く発光して。

 

 ああ、

 もし今、魂を形にして視ることができたなら、

 きっとこれ以上ないほど、震えているのだろう。

 

 もう一度、躊躇いながら彼女の肩を抱き寄せる。

 小さくぴくりと震えた君は、嗚咽を懸命に堪えながら濡れた頬を僕の旅衣に擦り寄せてくれた。

 心許ないほど細い肩に、頭の小ささに、その甘やかな温もりと花の香りに、抑え難い愛しさが込み上げる。

 そうだ。

 はじめに秤にかけたのは僕だったじゃないか。

 彼女を望んで、彼女を不幸にするかもしれないと思うことは怖かった。けれど、それ以上にいつしか、彼女と離れることの方が辛かった。

 もう手放せない。そう、覚悟を決めて来たはずなのに。

「……ごめんね。全然、守ってあげられなかった。僕の所為であんな────あんなこと言わせて、……ごめん……」

 胸許の碧い髪を梳きながらもう一度、詫びた。手をついて、身体を起こした君がふるふると首を振り、淡く微笑む。

「いいんです。私の知らないところで、あなたが傷つく方が……もっと、ずっと辛いの」

 そうして、あたたかな掌が僕の両頰をふんわりと包み込んだ。驚き眼を見開いた僕にそっと顔を寄せた君が、とん、とわずかに触れるだけ、唇を奪って。

「半分、下さい。あなたの苦しみ、哀しみを、いつだって。あなたの辛さを、誰にも分けてあげたくない。私だけに、欲しいの。……そんな我儘を、許していただけるなら」

 そんなの、幸せすぎておかしくなる。

 首に腕を絡めた君が、きゅっと温もりを僕に押しつけた。優しい抱擁と共に、想いに満ちた声が、降る。

「おかえり、……なさい」

 鈴のような澄んだ響きが、耳に直接こだまして。

 愛してやまないあの花の香りに包まれ、まるで夢の中にいるような幸福感に抱かれて、僕はゆるやかに瞳を閉じる。

「……うん。ただいま……」

 ここだけが、僕の還る場所。

 頭を持ち上げた君の頬に手を添えて、そっと唇を塞いだ。瑞々しい果実みたいな、やわらかな君の甘さを妙に懐かしく感じる。重ねたところから君の優しさが、幸せがじんわりと広がって。くたびれきっていた心が次第にあたたかなもので満たされ、癒されていく。

 そういえばここのところ慌ただしくて、ちょっとしたキスもしていなかったかもしれない。船出からずっと、色々あって気を張っていたりしたから。

 好きだ。やっぱり、どうしようもなく君が、好きだ。

 繰り返し何度も啄んで、は、と熱っぽい吐息と共にやっと唇を離した。目が合ったら何だか気恥ずかしくなって、どちらからともなくくすくす小さく笑い合ったところで、船室の窓を誰かがトントン、と軽く叩く音がした。

「ごしゅじんさま〜。ふろ〜らちゃん、いる〜?」

 

 

 

 何故か窓から呼びに来たホイミンに連れられ、フローラの手をひいて船の外に降り立った。あんなことがあったからだろう、船員達の士気は低く、襲撃を受けてめちゃくちゃになった甲板を片付けている最中だった。船の横に戻っていた馬車を見てほっとする。テオさん達にはさっき会えたから心配はしていなかったが、改めてパトリシアの首を撫でて、その働きを労った。

 ホイミンは周りをちらちら見つつ、船の近くの岩場へと向かう。先にホイミンから耳打ちされていたフローラには目的が分かっているようだが、促されるままついてきただけの僕にはどこに向かっているのかもよくわからない。でも、なんとなく予想はしていて──程なくそれは的中した。その岩場のちょうど向こう側に、予想した通りの小さな人影がうずくまっていた。

 フローラを振り返ると、どこかほっとした表情で頷いた。手の中に握り締めた例の帽子を抱いて、そっと岩場に近づく。

「逃げ出してきてしまったの?」

 彼女の優しい呼びかけに、少年の背中がびくりと強張る。

「本当に、かくれんぼが上手ね」

 僕の胸まで熱くなるほど、フローラの声はただただ優しい。腫れ上がった痛々しい顔をこちらに向けた少年が、フローラを認めてみるみるうちに顔を歪ませた。

「ねえちゃんん……」

 涙と、打撲痕が痛ましい彼の頰をフローラが屈んでそっと撫でた。掌に淡い魔法の光が宿っている。きっと温かいその光で、彼女は目に見える傷を一つ一つ丁寧になぞり、癒していく。

「私は平気よ。ごめんなさい、あなたのお父様を怒らせてしまった……」

「ごめん……ごめん……っ」

 ついてきたホイミンも心配そうにふわふわ近寄って、フローラに追従し少年の肩や背中に治癒魔法をかけた。泣きじゃくる少年がぐしゃぐしゃの目許を懸命に擦り、二人を交互に見つめて「あ、……ありがと」と呟く。どこか緊張の面持ちだったホイミンも、そんな少年を見てふにゃりと笑った。

「他に、痛いところはない?」

 ひとしきり回復を施して、フローラが少年に訊ねた。少年はぶんぶんと首を振り、「まほうってあったかいのな。なおしてもらったの、はじめてだ」と赤い目許ではにかみながら答えた。子供らしい、屈託のない笑顔にこちらまで心が温かくなる。

「一つだけ、聞いてもいいかしら。……どうして、この船に忍び込んできたの?」

 静かなフローラの問いかけに、少年が哀しげに虹彩を揺らし、すぐに目を伏せた。

 また泣き出しそうになった彼の、ぎゅうっと握りしめた拳にそっと掌を重ねて。妻はただ黙って、どこまでも優しく見つめて、少年の答えを待っている。

 ……ざぁ、ん。と。

 暫く、海岸に打ち寄せるさざ波の音ばかりが切なく響いて。

 どれくらい経っただろうか。ぽつりと、少年が呟いた。

「おっかあ、のってるかもって……おもったから……」

 フローラが、僕が。ずっと黙って見守っていたホイミンも、ほんのわずかに息を止めた。

 

 ただ、母に会いたい、一心で。

 

「だって、おっかあ、かみさまんとこいったって、おっとうがいってたから」

 ぽつり、ぽつり、淡々と。

 たった五、六歳の稚い少年は、恋しさも、哀しさも窺わせない声で語った。

 深く俯いたその姿に、亡くした親を恋しがり泣いた、かつての自分を垣間見る。

「……そう。そう、ね……」

 小さく小さく膝を抱きしめた少年の頭を、フローラが包み込んで抱いた。彼女の腕に包まれた背中が、しゃくりあげるように震えたのが見えた。

 まるで昔の自分をもあの腕の中で慰められている気がして、締めつけられる胸を抑えて立ち尽くす。

 竜神の帆を掲げた、神の船。

 僕にとって意味などなかった。その信仰の深さ、少年にとっての意味を、今、目の当たりにして思い知る。

 この子の母親が魔物に襲われて亡くなったのか、フローラのように狙われて連れ去られたのかはわからない。

 けれど、きっとこの子を最後まで守ったんだろう。愛しい我が子のため、その身を犠牲にすることも厭わずに。

 彼女の御霊が安らかであるように。祈ることに意味がないなんてことは決してない。

「キト。ひとつ、約束してくれる?」

 うずくまった少年に優しく囁いて、フローラは座り込んだ膝の上に畳んで置いていた茶色の帽子を広げる。少年の頭には少し大きく感じられるそれを、彼女は両手でそっと持ち上げ、彼の頭に載せた。

「外に出る時、必ずこの帽子を被って欲しいの。きっとあなたを守ってくれるわ」

「ぼうし? ……あ、これ」

 頭に何か載ったのを察した少年がおでこをぺたりと撫でて、ああ、と小さく頷いた。

「そっか。おれ、ねえちゃんのとこにおとしてたんだ」

 持ち主の元に帰った帽子をまた優しく撫でて、フローラは彼の焦げ茶色の瞳を覗き込む。

「それでね、いつかきっとまた会えるから──そうしたら、たくさん冒険のお話をしましょう?」

 フローラの提案に少年はがば、と顔を上げた。彼の瞳の奥が星みたいにきらりと輝いた。それはどこか、フローラと何度か見上げた夏の夜空の煌めきに似ているような気がした。

「あえる? ほんとか?」

「ええ。あなたが私達を忘れなければ、きっと」

 フローラはまた聖母の如く微笑み、少年の両手を優しく包み込んでしっかりと握る。

「その時には、きっとキトは大きく、強くなっているわね」

 ────だから、生きてね。

 僕には、フローラの言葉がそんな風に聞こえた。

 少年がまた頷いて、にかっと人好きする笑みを浮かべた。つられてフローラもまた微笑む。優しい、穏やかなひと時に、見守る僕とホイミンも心を揺らされる。

 もう、悲しいことなど起こらないでほしい。誰もあんな風に泣くようなことにはならないでほしい。

 剣を捨てられない、魔物達と共に戦うことを選んだ僕がそんなことを願うのはそれこそ、おこがましいことだろうか。

 ふと、少年がフローラの後ろに佇んだ僕を見た。首を傾げたフローラと僕とを交互に見遣って、やがて期待と戸惑いが綯交ぜになった表情で、彼は遠慮がちに問いかける。

「……なぁ。そのひと、ゆうしゃさま?」

 子供の純真無垢な問いかけは、時に無邪気なほど残酷だ。

 父の墓前でそんな報告ができたらどんなに良かったか。

 ……残念だけど、勇者じゃないんだ。

 苦笑いし、身を屈めて僕がそう答えようとした、その前に、

 フローラがふわりと微笑んで────頷いて、答えた。

「ええ。世界で一番、強くて勇敢な……魔物遣いの、勇者様なの」

 

 

 

 アランさんをはじめとした船のみんなにも、よくよくお礼と謝罪を伝えて欲しい、と告げて、少年は帰っていった。そのまま一人で帰すのは心配だったけど、まだ明るいから大丈夫、と少年が言うので、砂浜を駆けて帰る少年を船の傍に立って見送った。

 帽子を抑えて走っていくその先に、よく日焼けした巨体が立っているのが見えた。またあの子が叱り飛ばされてしまうのではないかとひやりとしたが、遠目に見た限り父親が少年を咎めた様子はなく、ちらりと一瞬こちらを一瞥しただけで息子と合流し戻っていった。

 ────和解出来たなら良かった。母親を亡くして父と二人きりの彼に、僕が原因で仲違いなんてして欲しくはないから。

「帆も、取り替えようか。海峡は制圧したんだし……今回みたいなこと、また起こらないとも限らないし」

 夏の日差しを浴びてはためく竜神の帆も、この短期間に随分汚れてしまった。船を修理する間に下ろして洗っておくのも良いかもしれない。

 それに、やはりルドマン家の紋章を掲げている方が、厄介ごとは少なくなるのかもしれない。結局は義父の権威を借りるようで、あまり良い気はしないけど……この船の方々から見れば先ほどの言い掛かりなど、ルドマン家の人間が受けて良いものではなかっただろうから。

 そんなことを思いながらフローラを振り返ったら、彼女は何故か表情を曇らせぼんやりと帆を見上げていた。

「フローラ?」

 呼びかけると、は、と瞬きをして僕を見る。

「ごめんなさい。やっぱり、そこに戻りますよね……と思ってしまって」

 どういうことかと彼女の困ったような顔を覗き込んだら、彼女は少しばかり逡巡してから……ゆっくりと自分の胸の内を探って、きっとここ数日一人積もらせていた悩みを、ぽつぽつと話して聞かせてくれた。

 ────『ルドマン家のフローラ』ではない、私になりたかったのです。

 あなたがきっぱり、若旦那とは呼ばないでほしい、と伝えて聞き入れられたと聞いた時、とてもとても羨ましかった。

 この船に乗っている限り、私は『ルドマン家のフローラ』であることを思い知らされる。

 もう、父の威光を着るのではなく、ただ一人の私として立ちたい。皆さんにも『ルドマン家のお嬢様』ではなく、フローラ・グランとして接してほしいんです。

 だから今、一人でできることはできるだけ、一人でやりたいのだと。彼女は言った。

「お気持ちは、とても嬉しいです。でも、皆さん口々に、『お嬢様にそんなことはさせられない』と仰います。私はもう、お嬢様ではありません。……お嬢様ではない、ただ、あなたの妻でありたい……」

 得心した。だから、彼女は僕にしか甘えられないんだ。この間仲魔達の食事を運んでいた時も然り、何かと手伝いをせがんで動き回るのも然り。令嬢ではない、客分でも主人としてでもなく、自分自身に意味を見出したくて、彼女は彼女なりに足掻いている。

 確かに、僕は君を仕えるべき令嬢として扱ってはいない。夫として妻として、あくまでも僕達は対等で。家柄もしがらみも関係なく、きっと初めからお互いに、等身大の相手だけを見ている。

 それが当たり前だと思っていた。けれど君にとっては、そんな風に思い合えることがもう、特別だったんだね。

「うん。……フローラ。────きっと、この船の人達は、君が『お嬢様』でなくても手助けしてくれるよ」

 静かに囁いた、僕の手探りの言葉に。君がふっと、顔を上げた。

 そよ風が撫でたみたいに意識を僕に向けた彼女は、思いがけぬ一言に胸を衝かれた、という顔をしていた。

「きっと……僕が、君の夫でなくても。パパスの息子でなかったとしても……助けてって言ったら、手を貸してくれたと思う。────だから、大丈夫だよ」

 上っ面の綺麗事に聞こえてしまうだろうか。

 でも、フローラ。こんな僕にも、信じてみたいと思える出来事があったんだ。

 慈しみを込めて、頬を撫でる。戸惑いを瞳に映し僕を見上げる、誰より愛しい、僕の妻。

 自分はこんなことを言う人間ではなかったのに、いつの間にこんなに丸くなったものか。

「僕と違って、君は生粋のルドマン家の人間だからね。さすがにすぐには難しいかもしれない。でも、……それだけは、信じてもいいんじゃないかな。君は君として立てばいい。その気持ちがわからない人達じゃないよ」

 長い睫毛が再び伏せられて、はい、と掠れた返事が聞こえた。僕のこんな言葉で何かが変わると思ってはいないけど────彼女の気鬱を、ほんのわずかにでも軽くしてあげられたら、と心から願う。

 僕の苦しみをいつだって半分背負ってくれる君を、支えてあげられる男でありたい。君がそうであってくれるように。

「いっぱい、話したいことがあるんだ。……宿に向かってた時にね。あと、宿でも面白いことがあって」

 ふと昨夜、君が恋しかったことを思い出して。思いつくまま、言葉を並べてみる。

「ああ、ここにフローラが居たら良いのにって。何度も何度も思っちゃって……なんか、駄目だね。離れてたった半日だっていうのにさ、寝るときなんかすごく、寂しくてたまらなかった」

 言ってるうちに気恥ずかしくなってしまって。顔を逸らしたまま繋いだ手を、指を絡め直してきゅっと握ったら、君がその腕にもう一方の手を添えて、そっと額を押し当てた。

「……私……、私も、です」

 外套の端を掴み、真摯な眼差しで見上げてくれる君が可愛くて。つい緩んでしまう頰をそのままにやけた微笑みに代えて、彼女の耳許に顔を寄せる。

「今夜、魔物番から戻ったら……起こしても良い?」

 どんな顔をしたものか、俯いた彼女が一拍置いてこくり、と頷いてくれた。

 覗き込んだら、赤らんだ顔で「起きています」と言いたげに僕を見ていたので、「ちゃんと寝ていてね。隈ができちゃうよ」と揶揄い半分に、愛らしい涙袋をそっとなぞった。

 君を抱きしめて眠りたいと思ったんだ。ちゃんと『おやすみ』を言い合って、その滑らかな髪を梳いて、腕の中に閉じ込めて。

 現金なもので、彼女と他愛ない約束をひとつしただけで、さっきまでの憂鬱だった気分などあっさりと晴れてしまう。

 まだ、この船には遣る瀬無い苦しみがたゆたっているだろう。けれど、これからまた場所を改めて、船をきれいに直して。僕達は気持ちも新たにまた、旅立つことができるだろう。

 少しずつ、絆を深めた人々と手を取り合って。

 君と共に今度こそ目指そう。遥か遠い南の、砂漠の中にあると言う幻の異国に祀られた『伝説の勇者』の墓を求めて。



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#14. 砂の大陸へ

 結局、船の修理はロニーさんが算出したより少し多く、凡そ十日間を要した。キメラの再襲撃で思った以上の損壊があったのだ。

 祠の宿屋から馬車で半日の海岸を離れ、サラボナ寄りの岸に数時間かけて移動した。その頃にはすっかり日も暮れてしまったので、作業自体はその翌朝、ようやく着手されることになった。

 宿屋からサラボナへ通じる道の途中に洞窟があったが、あの洞窟のサラボナ側の出口に近いのだという。先の岸辺よりサラボナに近いこの海岸では、あのような辛辣な目で見られることもなく、またここでやっと帆を交換できたからか、近隣の住民からは概ね丁寧な歓待を受けられることとなった。

 滞在中、ナサカと言うらしいあの集落で起きた出来事について、義父宛にもう一通手紙をしたため、サラボナに運んでもらうよう手配をした。

 あれで済めば良いけれど、少年が再び襲われないとは言いきれない。もし目を配ってもらえるならお願いしたい、と書き添えた。閉鎖的な小さな村では難しいかもしれないが、外部の人間が立ち入るようになればだいぶ変わると思うから。

 修理に関しては、さすがにあまり積極的な手伝いはできなかったが、簡単な裁断や釘打ち程度なら一緒にやらせてもらえた。あとは、綺麗に修復された見張り台に上り魔物番をしたり、海岸で大規模な洗濯をしたり、空いた時間で集落の人々と話をしたりなどして過ごした。フローラは村の女性から帽子を譲ってもらえることになり、鍔広の白い帽子を嬉しそうに被っていた。その下に髪をまとめてしまえば、確かに空からはそう簡単に見つからないだろう。

 灼熱の陽射しは益々猛威を振るい、さすがの僕も紫の外套は脱がざるを得なかった。もっと薄手の肌掛けを譲ってもらい、日焼け、もとい火傷防止のため羽織って過ごす。先日のこともあり、仲魔達は概ね船の中に引き篭もっていたが、数日滞在すると退屈すぎて、日が暮れる頃を見計らってこっそり海辺に遊びに行ったりしていた。とはいえ一週間を過ぎる頃には、その存在は村人達にしっかり露見していたようだが。有難いことに殊更疎まれるということもなく、出航の前日には村の子供達とスラりん達が誘い合って海で遊ぶなど、驚くほど打ち解けた様子だった。

 フローラはそんな仲魔達、子供達の戯れを、木陰に座って幸せそうにずっと眺めていた。暑いからフローラも少し海に入ってきたら? と勧めたら、気まずそうに目を伏せ、私実は泳げないのです、と言う。数拍おいて自覚した衝撃に「えっ⁉︎」と変な声が出た。だって、泳げないのに飛び込んでくれたってことだろう。あの時は恐らく、網の切れ端を掴んでいたにしても。

「あ、あれは……夢中でしたから、よく覚えていなくて……」

 砂地についた足跡を辿るように視線を彷徨わせ、フローラはさも言いにくそうに小声で告げる。全然、ばかにするつもりなんか全くなく、寧ろ僕のためにそこまでしてくれたと感激に震えているくらいなのだけど、彼女はついに立てた両膝に額を押し当て、深い溜息と共に肩を落とした。

「修道院でも何度も教えてもらったのですが、……どうしても、怖くて。もう、情けないですよね。高いところだけじゃなく水も、怖い、と言うより何もできなくて」

「そんなことないって。助けてくれたじゃないか、フローラが飛び込んでくれなかったら今頃、僕はここにいなかったかもしれないんだよ?」

 勢い込んでそう言うと、今度はふにゃりと泣きそうな顔をして「そ、そんなこと、もしもであっても仰らないでください……」と訴えてくる。「あなたがいなかったら、なんて……私……」と僕が掴んだ手にしがみつき微かに震えるフローラを包むように抱き寄せ、幸せを噛みしめながら囁いた。

「本当にありがとう。僕はすごく、幸せ者だ……」

 でも無理はしないでね、と言い添えると共に僕もまた、彼女に無理をさせるようなことはしちゃいけないと改めて肝に命じた。ポートセルミを発つ前夜、真っ暗な海を眺めながら海が怖いと話してくれた君だったけれど、あれは船での航海だけの話ではなかったんだね。

 滲んだ涙を拭ったフローラが微笑み、海の方へと顔を向け直して、私達の子供もあんな風にお仲魔の皆さんと仲良くしてくれるのだろうなって思ったら、幸せな気持ちになってしまいました。などと言うものだから、僕はその不意打ちに思いきり動揺し、咽せてしまった。きょとんとしたフローラに「まさか、授かった?」と不躾かつ無遠慮な問いを発してしまい、これまた思いきり口篭らせてしまう。あの、そう言うわけでは……と申し訳なさそうに返ってきた答えには思いの外落胆し、そんな自分にまた驚く。ああ、知らぬ間に自分はこんなにもフローラとの子供を望んでしまっていたのかと。

 そういえば、婚礼を挙げてまだひと月くらいしか経っていなかった。いくらなんでも気が早過ぎだろう、自己嫌悪に頭を抱える。確かにひと月とは思えないほど密度の濃い一ヶ月だったけれど、居心地が良すぎる所為だろうか。もっとずっと長いこと、もう何年も、君と過ごしているような錯覚を覚えてしまって。

 たまらなくなって君の頭を抱きしめたら「今、授かってしまうのは困りますよね? さすがに。折角、勇者様のお墓に向けて旅立ったばかりですのに」と腕の中でしょんぼりして言うので、そんなことない、授かったら嬉しいよ、嬉しいに決まってる。そう熱弁したら、少し気恥ずかしげにフローラが頬を赤らめ、笑って頷いてくれた。

「私、テュールさんがお望みでしたら、何人だって産んでみせますわ」

 そんなこと言われると、歯止めが効かなくなるんだけど。

 幸せそうに囁いてから羞恥が襲ってきたらしく、耳から首まで真っ赤に染めて俯いた君をもう一度、笑いながら抱き寄せた。

 魔物の襲撃はほとんど収まっていた。ナサカより規模の大きい村が近くにあった所為かもしれないし、フローラが完全に髪を隠すことに成功した為かもしれない。船を目印に襲われる可能性も懸念したけれど、これまた帆を変えたこともあってか、キメラの集団に目をつけられることはなかった。

 そういえば、あの時の戦闘で見た白い光が何だったのか、気になってマーリンに聞いてみたところ、驚くべき答えが返ってきた。

「あれは、奥方様の魔法です」

 無感動に告げた彼は明らかに不機嫌だ。どうやら魔力の気配で僕らが近くに戻ったことに気づいたものの、すぐ加勢しなかったので腹を立てているらしい。先にピエール達の足留めの方に鉢合わせてしまったから大目に見て欲しいと思いつつ、フローラに危機が迫っていたことは否めなかったので、時間がかかったことを素直に詫びた。「まぁ、間一髪駆けつけて下さいましたので。不問に致しましょう」と有り難いお言葉を頂く。改めて、フローラの魔法だったという光について話を聞いた。

「若者の怪我を治そうと、奥方様がベホイミを使われたのです。距離があって無理だろうと思いましたが、光があれだけ拡散した為か、効果があったようで」

「ベホイミ……だったんだ。すごいね、あんなベホイミ見たことがない」

「既視感のある者などおりますまい」

 相変わらずマーリンの顔色は読めない。深く被ったフードに隠れた表情も声も、無色と言うほど何の感情も載ってはいない、が──ほんの一瞬だったが、彼の眼の奥に鋭い光が過るのを、僕は見た。

「治癒魔法で終わらせるには惜しい才だ」

 単純に才能の問題なのか。念の為もう一度訊いてみたけれど、宣誓は間違いなくベホイミであった、との返答だった。それでこの話は終わり、僕はフローラの不思議な力のことをとりあえず脳裏に刻んだ。

 その後、それなりに注意深く観察してみたけれど、フローラがいつもと違うベホイミを使うことはなかった。僕やホイミンと同じ、目の前の相手を優しく治癒する光は普段と何ら変わらない。恐らくマーリンとの講義の中でそれについての検証も為されているのだろうから、僕から彼女にあれこれ聞くことはしなかった。

 程なく、彼女は魔法使いとしての頭角を現し始める。マーリンはきっちり丁寧に基礎を教え込み、フローラはその教えを吸収して、マーリンが指示した補助魔法を次々に習得していった。はっきり言ってひと月に一つ、新しい魔法を使いこなすようになるなど普通じゃない。それどころか、時には絶妙なタイミングで異なる二種類の魔法を繰り出すこともあった。単純に、魔法を行使するだけなら適正と魔力の問題だ。だが魔法とは、往々にして対象が存在する。異なる位置にいる二つの対象にそれぞれ照準を絞り、詠唱にかかる時間まで計算して全く違う魔法を行使するのは、魔力がどうというより知性、頭の回転といった領域なのだ。フローラがどれほど聡明な女性か、これだけで唸らされるほどよくわかるというものだ。

 話を戻し、そんなわけで僕達はこの船の修理の間、思いの外ゆったりした時間を過ごさせてもらった。折角なので色々と聞き込みもしてみたけれど、さすがに勇者にまつわる話を聞くことはできなかった。こういったところに一人は居る腕の立つ方にお願いして、天空の剣の柄のみを握ってみてもらう試みもしてみたのだけれど、持ち上げられる方は一人もおらず、布で包んだ鞘入りの剣身を持った僕の方が逆に怪力呼ばわりされる始末であった。

 この後の航海中も、海岸沿いに小さな村を見つけては勇者を探し、足踏みすることの繰り返しで、テルパドールのあるアルディラ大陸に辿り着いた頃には浜辺を発ってから三ヶ月近くが経過していた。面白がった船員さん達にも、コックに至るまで全員に柄を握ってもらったが、見事玉砕した。勇者への道筋は未だ、糸屑程度にも掴めてはいない。

 

 

 

 

 

「ポートセルミやオラクルベリーとは、全然雰囲気が違うのですね……」

 アルディラ大陸の入口、モン・フィズ港の桟橋に降り立ってぐるりと風景を見渡した妻は、感慨を深く滲ませた声でそう独りごちた。

「本当だね。ああいう石造りの家は初めて見た」

 僕もまた、フローラに続いて辺りを見回した。違和感を覚えるのは緑が極端に少ないからだろうか。広く開け放たれた青い空との接地面は乾いた白い石と砂にどこまでも覆われ、屋根の低い石造りの、見慣れない建物が間隔を開けて並んでいる。その拓けた空間に、所々にテントのような天蓋が並び立つ。どうやらあれは市や店の類らしい。決して多くはないが、ストレンジャー号以外にも小さな船が数隻碇泊していた。近くに島がいくつかあるようだから、そのあたりと交易、交流があるのだろう。

「あれは、この大陸の一般的な家です。地下に部屋を設けるのですよ」

 笑いながら指差し教えてくれる船長を振り返り、感嘆とともに頷いた。

 仲魔達も気になるようで、甲板に出てはこそこそと隠れつつ街の方を見回している。ここに来る途中仲魔になったしびれくらげのしびれんも、みんなに紛れて物珍しそうに船縁から遠くを眺めていた。

「そらがおっきいねー! ごはんたのしみー!」

「れんちゃん、ここ、きたことあるの〜?」

「う、ううん、ないっ……」

 引っ込み思案なしびれくらげは女の子で、もじもじしながらホイミンの何気ない問いに答えている。スラりんとホイミンが人懐っこい分、彼女が気後れしないか少しだけ心配していたのだけど、仲良くしてくれているようでほっとした。

「小さい村には何度か寄ったけど、こんなに大きな街はしびれん、初めてじゃない?」

 わやわやとお喋りを弾ませるスライム属の後ろからひょいと覗き込むと、しびれんはぷるぷるの頭を上下に振って嬉しそうに笑った。白い帽子を被り直した妻もまた、スライム属の会話に楽しそうに加わる。

「ふふ。暑くなったらすぐに言ってくださいね。水浴びする分くらいならすぐ出せますから」

 どうやら彼女は彼らスライム属ととりわけ仲が良く、しびれんの仲魔入りも実は誰より喜んでいる。やったー‼︎ と声を上げるスラりん、ホイミンの隣でしびれんがほっとしたようにはにかんだ。その白い饅頭のような肌を、フローラは膝を折って目線を合わせ、嬉しそうに撫でていた。

 船の長旅の間に、指輪の使い方も色々と模索したのだ。というか、あまり周囲に大きな影響を与えない範囲で何が出来るかを、暇な時にフローラと一緒に色々試した。なんとなく攻撃魔法のイメージが強かったからそのように発動していただけで、石の中に水と炎を閉じ込めたそれぞれの指輪はどうやら、持ち主の望みに応じて現象のかたちを変える。石の中で漣打つ水のリングは、フローラの掌の中に冷たい清い水を生み出した。僕もまた、火熾しの必要がないくらいには簡単に小さな火を灯せるようになった。あまり頼りすぎると、火の熾し方を忘れてしまいそうだけど。

 スライム属をはじめ、暑さに強くない仲魔が多いので、水を自在に出せるというのはとても有り難い。しびれんは元々海に棲む魔物なだけに、砂漠へ連れて行くのは不安が大きかったのだが、これなら安心して旅立つことができそうだ。

 着いたばかりでいきなり出立というのもあれなので、まずは港町の市場や店を覗き、テルパドール城までの道中に必要な装備などを確認した。パトリシアの蹄鉄は盲点だった。元々荷も仲間も多いので、砂漠はゆっくり歩かなくてはならないだろうと思っていたのだが、とにかく延々続く砂漠地帯では、他の大陸と同じ蹄鉄ではかなり歩かせ難いようだ。薦めてくれた商人にそのままお願いして、すぐにこの大陸特有の丸い蹄鉄をつけてもらった。あとは街の施設を覗いてみたり、酒場で少し雑談がてら話を聞いたりなどして、この日は比較的のんびり過ごした。

 夜は、出航の前夜よろしくストレンジャー号の船員総出で、無事の到着祝いと僕達の送別を兼ねた宴が催された。これだけ大きな船が異国から着くのはこの町でも久々のことだそうで、途中からは町中の人がこの宴に加わり、さながら大きな祭礼の如く深夜まで盛り上がっていた。仲魔達も町の広場の端っこでご馳走を囲い込み、町の子供達にちょっかいを出されながらも楽しんでいるようだった。決して大きくない酒場はすっかり天手古舞だったが、ありったけの器に酒を注ぎまくっていたマスターはしばらく遊んで暮らせるとほくほくしていた。

 途中、フローラに気づいた町の女性陣が彼女を引っ張っていってしまった。

 旦那さんはここでお待ちよ! と言うので、何事かと思いつつ茶を啜って待っていたら、暫くして「古くからアルディラに伝わる伝統衣装だよ! ほら旦那さん、ご覧よ。惚れなおしちまうだろ⁉︎」と恰幅の良い女性が数名、その身体の影に彼女を隠して戻って来た。顔を上げ、危うく茶を噴きかけたのは僕だけじゃない。威勢の良い声に誘われ、振り返ってしまった船員さん達も皆大いにどよめき、次いで顔を赤くしながらそれぞれ顔を背けていた。僕に気を遣ってくれたなら正直有り難い。女性達に披露された妻は、極端に少ない布地の、なんとも艶かしい服を身に纏っていたからだ。

 ポートセルミのステージで見た踊り子達のドレスよりもっと露出が多い。上半身はほとんど胸しか覆われていないし、腰周りもほとんど細長い布が垂れて揺れているだけ。その分露出した腕や足に美しい装飾具が輝く。綺麗だけど、確かにものすごく魅力的だけど目のやり場に困るんだ‼︎

 いつもより濃いめの化粧を施され、思いきり赤面した顔から今にも倒れそうなほど湯気を噴き出したフローラが「……み、見ないでください……!」と女性陣の影に隠れた。いや、いったいこれは、何と返せば正解なのか。

「伝説の魔法使い、マーニャ様がお召しになってた装束だよ? 恥ずかしいもんかい! ほらお嬢さん、胸を張って!」

「でも叔母さん、この人にはミネア様の服の方が良かったんじゃなぁい? 踊り子の服は白い肌には合わないわよー。やっぱり健康的な褐色肌じゃなくっちゃ!」

 やいのやいの言い合う女性達の影で居た堪れなさそうにすっかり小さくなっているフローラが不憫で、なんとか側に行きたかったけれどどうにもそういう空気ではなく。「じゃ、ミネア様のドレスも試してみましょうよ! こっち来て!」と別の女性に再び有無を言わさず連行されていってしまった。はらはらしながら待つこと数分後、現れた彼女はいつもの丈に近いドレスに身を包んでいて、また少しは羞恥の方も落ち着いたようでほっとした。

「魔法使いだって言うから、マーニャ様の加護があるようにってあっちにしたのに。勿体なぁい」

「いいじゃないの、碧い髪なんて神秘的! ミネア様の占者の装束もお似合いよ」

「こんな白い肌でこの装束着てる人、初めて見たわぁ! 悪くないわよ、自信持って!」

 どうやらこの町、モン・フィズなりの歓迎方法らしかった。日射しのせいか、確かにここの住民は男女問わず美しい褐色肌の人が多い。フローラほど白い肌の人はほとんど見かけないから、正直おもちゃにしたくなる気持ちもわからなくはない。あまり弄ばれるのも複雑な心境だけどさ……

 マーニャ様とミネア様、というのは伝説の勇者と共に魔王を打ち倒した七人の仲間のうち二人だ。詩吟でも度々『モンバーバラの姉妹』として謡われる彼女達は、どうやらこの大陸に深く所縁ある存在らしい。なんでもこのアルディラ大陸がまだ混沌の大地だった頃、行き場のない御霊を鎮めて土地を拓いたのだとか。町の人達から真っ先に聞かされた昔噺である。モン・フィズとはこの地方の古い言葉で『モンバーバラの浜辺』を意味するのだそうだ。

 酒場のマスターが酒を運んだ帰りに僕を肘でつつき、お客さん達、これからテルパドール城へ向かうんでしょう? と話しかけてくれた。

「もうね、ここではず──っと昔から女性が強いんですよ。テルパドールの城主様も代々女王様でね。古い伝承ですが、テルパドールの興国の祖は伝説のマーニャ様、ミネア様両御姉妹だと言われてます。今の女王様、アイシス様と仰るのですが、その方はミネア様の占術の御力を色濃く受け継がれているそうですよ。しかし大変気さくな方ですから、運が良ければ御目通りも叶うでしょうな」

 まるで生きた伝説だ。目を瞠った僕に得意げな視線を投げかけ、マスターはカウンターへと戻っていった。なるほど、だからこの町の女性達は伝説の両姉妹に最大限の敬意を払い、こうして姉妹の姿を象って祝事などをするのか。

 やっと解放されて、占者の装束だという民族的なドレスを纏ったフローラがテーブルに戻ってきた。少し疲れた表情で微笑みを繕った彼女だったが、ほとんど衝動的に細い手首を掴んだら、小さな肩をびくりと震わせ僕を見た。

「……仕方がないけど、あんな姿、こんなところで見たくなかったな」

 こんなこと言ったら困らせる。わかっていても止められないのは、きっとさっき乾杯の時に一杯だけ飲んだ酒のせいだ。

 案の定、君はさっと顔を曇らせると、テーブルに手をついて不安げに僕を覗き込んでくれる。

「あの、私……あなたに恥をかかせてしまったのでしょうか」

「ううん」

 ああ、また。

 これまでの旅路で何度も確かめ合って、少しはおさまってきたと思ったのに。

 こんなどうしようもない妬きもち、自分に自信と余裕がないだけじゃないか。

「すごく、綺麗だったよ。……でも」

 見下ろしてくれる君の肩を掴んで引き寄せ、噛みつくように顔を寄せる。

「……僕のもの、なのに」

 囁きとともに彼女の唇を塞いだ。驚いた彼女が離れようとしたが、より深く唇を押しつけた。ん、と苦しげに喘いだ彼女を離したくなくなる、けど衆目があるからほんの二、三秒ですぐに解放した。美しく紅を引いた彼女の唇は珍しく、血のような化粧の味がした。

「……っ、こ、こんな……ところで……」

 戒めを解かれ、再び首まで真っ赤になった君が口許を押さえて飛びすさる。その後ろから煽るような無数の口笛と「いいぞー、若さん!」「よっ、ご両人!妬けるねぇ」などと冷やかしの声が飛んだ。さすがに僕も気恥ずかしかったが、妙な味の残る唇を手の甲でぐいと拭うとひとつ苦笑し、彼女のりんごみたいな肌を撫でた。びくりと固まるその耳許にもう一度だけ、囁く。

「あんな姿、見ていいのは僕だけ、だからね?」

 紅潮冷めやらぬ艶姿のフローラが、こくこくこくと小動物の如く頷く。

 その後も町の人々や船員達に散々冷やかされ、次々に勧められる酒をなんとか辞退しつつ、アルディラ大陸のでの初めての夜は和やかに更けていったのだった。

 

 

 

 

 

 海の上でもそうだが、ここは遮るものが何もないせいか、月がずっと近くに見える気がする。

 日中は十月とは思えないほど蒸し暑かった。今は気温も下がり、少し肌寒く感じられるほどだ。

 船に戻った時にはもう、日付が変わるかというほど遅い時間になっていた。宿でもよかったのだが、ここは基本的に大部屋ばかりで、男女も相部屋になるような宿しかないのだと聞いて、今夜のところは慣れた特別船室で休ませてもらうことにした。

 明日に備えて、今夜の魔物番は免除してもらっている。急いで湯を使い、二人揃って寝台に潜り込んだ。ここ数日でシーツを増やしたベッドはふわふわしていて、とても温かい。

 宴の後なので、明朝は少しゆっくりお休み頂いて結構ですよ、などと有り難い気遣いまで頂いてしまった。起きたら船室の掃除をして、改めて馬車の荷を点検して。問題なければいよいよ明日、砂漠での未知の旅が始まる。

「勇者様は……」

 暦の上でも陽が短くなり、最近は夜、なんとなく肌寒く感じて身を寄せ合うことが多くなっていた。特にひんやり感じるフローラを温めてあげたくて、腕の下に抱き込んでいたら、身動ぎしたフローラが思いついたように口にした。

「初めから勇者様の自覚を持ってお生まれになるのかしら? それとも、普通の人間として生きてこられた方がある日突然勇者の使命に目覚める、といったことがあるのでしょうか」

「どうかな。天啓でも受けるのかな、ってことだよね?」

 絡めた指先を弄びながら囁く。少しくすぐったそうに肩をすくめた君が、小さく頷いた。

「僕は、実は勇者の血族が何処かにひっそり生きていて、来たるべき時に能力を覚醒させるのかな、とか……そういう風に考えてた。でもあんまり古い話だから、自分が勇者の子孫だなんてわからなくなっているかもしれないよね」

「そういうお家があるのでしたら、勇者様がお使いになった装備品はそのお家に伝わりそうな気がいたしませんか? お義父様が剣を手に入れられたり、我が家に盾があったりしたのは何故なのでしょう」

 確かにフローラの言う通り、勇者の血統を継ぐ一族が存在するのであれば、最低限のことはその中だけで伝わりそうな気がする。父が探して手に入れられるとか、無関係のルドマン家に伝わっている方が妙なのだ。しかし何百年、いや千年単位で昔の話。まさか勇者の血筋はとっくに滅ぼされて、もしくは絶えて失われているとか。

「すごい今更だけど、ルドマン家が勇者の傍系、なんてことは……」

 シーツに横たわったフローラは密やかに苦笑し、ゆるく首を振って「残念ですが」と答えた。

 我が家の盾、と聞いて、ふと義父の言葉を思い出した。あの盾は元々フローラのものだと静かに言い切り、その場で否定しなかったフローラの、厳かな姿。

「……どうか、なさいました?」

 フローラは相変わらず僕の気配に敏感で、ほんのわずか思考に意識をとられた僕を不思議そうに見上げる。

「ううん。なんでも」

 すぐに首を振り、隣の碧い頭を優しく撫でた。本当は、本当に少しだけ、いつ話してくれるのかな、という思いがある。それが彼女への疑念に変わってしまうのが怖くて、僕はずっとそのことを忘れたふりをしている。こうやって彼女は僕と一緒に考えてくれているのだから、今の僕には必要のない情報なんだ。必ず、それが必要な時彼女は話してくれる、そう何度も自分に言い聞かせて。

「血は全然関係ないのかもしれないけどね。一番初めの勇者は、どうだったんだろう……」

 上向いて頭の下で腕を組み、天井をぼんやり仰ぎながら呟いた。胸元に寄り添ったフローラもこめかみに触れながら思案し、その頭脳に収められた文献を探っているようだ。僕がセントベレス山で過ごしたのと大差ないほどの月日を修道院で過ごしたという彼女は、恐ろしい読書量に基づいた膨大な知識をその華奢な身体に秘めている。

「以前読んだ伝承記には、遥か昔、勇者様が魔族から狙われていた為とある村で匿われ、育てられたとありました。ですから、勇者であるか否か、は初めから何らかの形で示されるのだろう、と思っておりました……が」

 フローラの言うことはよくわかる。問題は、それがどうやって示されるのかを知る人がどこにもいないということなのかも知れない。マスタードラゴンが現れてお告げを残していく、とかじゃないだろうし……そんな大掛かりなことをされたら、あっという間に僕の耳にも入ってくるだろうし。

 単に、この世界に存在しないだけなのか。まさか世界には、勇者を得るだけの悲劇が足りていないとでも言うのだろうか。

「もしかしたら勇者様は、ご自身が勇者であることに気づいてらっしゃらないのでは? ……などと、思ってしまいます。でなければ今、この世界の惨状を見ながら黙っていられるはずがありませんもの……」

 フローラの苦しげな呟きを黙ったまま聞き、小さく同意を返して瞼を閉じた。

 この四ヶ月、僕もフローラも、船旅の合間に信じ難い凄惨な光景をたくさん見てきた。

 柱に深く刻み付けられた爪痕。乾いた血痕が染みついた露台。いつからか人が住まなくなった家屋。生活感を残したまま時を止めた家もあった。住人はどうなったんだろう、いつそんな悲劇に見舞われたんだろう。多分海沿いだけじゃなく、内陸部にはもっともっとそういう集落があるのだと思う。恐らくは襲撃を逃れ、所々に点在する祠を拠り所に生きる人々にも会った。祠は竜神の加護なのか、不思議な力で魔物を寄せ付けないから。

 たまたま修道院に流れ着いて、ラインハットを経由しポートセルミへ渡った。人の多い都市が続いていたから、魔物が増えたと言われてもこんなものか、という思いが正直あった。今回通過したところがたまたま酷かっただけかもしれない。それでもサラボナから南へ進むほど、死の火山に断絶された大陸の南へと下るほど、荒廃は死の匂いをこびりつかせてそこに揺蕩っているようだった。

 勇者などいなくても、人々はそれなりに順応し折り合いをつけながら、うまくやっていくのだろう。

 前は漠然とそう思っていた。今はもう、そんなことは言えない。死と隣り合わせて絶望しながら生きろと、あんなにも必死にもがき、命を削っている人々に言えるわけがない。たった今フローラを手放せと言われて、僕が黙っていられるはずがないのと同じで。

 生まれて初めて、自分の為だけに望んだことが叶った。その喜びを知った今だからこそ、残酷さが胸に刺さるんだ。希望を、命を、理不尽な暴力に手折られることは本当に苦しい。

 それでもどうにもならない時、人は運命を嘆き、呪いながらも神に祈り、勇者に縋るのだ。

「……そう、かも。早く気づいてくれたらいいけど……僕らは今まで通り、根気よく探してみるしかないもんね」

 ぼんやりと答えた台詞は、どうにも覇気のない、情けないものでしかなかった。

 どうして勇者なんだろう。どうして神は、勇者以外の人間には一切その力を与えなかったのだろう。

 例えば伝説に語られる魔王と呼ばれる者が顕れたとして、勇者ではない、凡人の僕に為す術はきっとない。否、結局人間という個そのものに限界があるんじゃないか。それくらい魔物の力は強大だ。目の前にちらつき始めた『光の教団』の存在、そこに関係する魔族達。奴らがフローラを狙う限り、必ず再び対峙する日は来る────その時、僕もまたその時には、勇者に縋ることしかできないのか?

 誰にも委ねたくない。この手で護りたいのに。

「そういえば、知ってた? テルパドールの今の女王様は占者ミネアの力を継いでいる方なんだって。……本当に、この大陸で何か手掛かりが掴めたらいいな」

 苦すぎる憤りを呑み下し、気持ちを落ち着けてさっき聞いたばかりの話を振ると、フローラは少し驚いたようだった。目を見開いた彼女の手触りの良い髪をさらりと梳いたら、フローラは眠そうに目を細め、「ええ。そうですね、きっと……」と淡く微笑んで頷いた。

 愛らしいその表情に思わず、とくん、と心臓が震える。

 初めての土地だ。見慣れぬものばかりで、街を歩くだけでも相当疲れただろう。しかも、こんなに夜更かしをしてしまって。そう自分に言い聞かせつつ、僕のどうしようもない情欲は、抑制しても堪えられない。

 ましてやあんな、煽情的な姿を見せつけられては。

「フローラ……あの」

 寝台に肩肘をつき身を起こし、少しとろりとした瞳で僕を見上げた妻を見下ろした。灯りを落とし、月明かりに浮かび上がった彼女の碧髪に指を絡めて、祈るようにそっと押し戴く。

「……ごめん。少しだけ、しても……いいかな……」

 雰囲気だけでそうなることもあるのだけれど、自分からこうやってきっかけを探りにいくことには未だ、気恥ずかしさが勝ちすぎて慣れない。

 それでも我慢しきれないあたり、僕はつくづくフローラに対してだけは遠慮がない。

「ほんと、ごめん。疲れてるのに。明日からは暫く二人きりになれないかなって思ったら……」

「もう。謝らないでくださいまし」

 くすくす。密やかに笑ったフローラが、相変わらず華奢な指先を僕に向かって伸ばした。

「大好き、です。……テュールさん」 

 触れられたところから甘やかなときめきが広がって。一緒になって四ヶ月、もう何度も肌を重ねてきたというのに、僕は性懲りもなくこの行為を前に心を踊らせてしまっている。

「……好きだよ。誰よりも、愛してる。フローラ────」

 僕もまた、この四ヶ月何度も囁いた愛の言葉を彼女の耳許に繰り返して。

 柔らかな胸を服の上から掌に包んで優しく揉み解すと、フローラは甘く息をつきながら困ったように笑う。

 そんな彼女を身体の下に組み敷いて、僕もまた笑いかけながら、桜貝の可憐な唇を吐息ごとそっと塞いだ。




やっとテルパドールの大陸に着きまして……けどまだテルパドールには着かない。笑。原作だと立ち寄らなくても問題なくストーリーが進むくらいの場所ですのに。
執筆当時落書きした、ミネア姿のフローラをおまけとして。

【挿絵表示】

踊り子の服は公式本で着てますからね!
この他にもちょこちょこ、発掘したらくがきを活動報告の方に載せていこうと思ってます。後書きに載せられるときは載せちゃいたいのですが、どうにもシリアス展開では話の腰を折るのが嫌で……


昨日、現在書けている本編全ての予約投稿作業が終わったのですが、このまま一日二回投稿で27日に全て投稿完了予定でした。話数にして90話ちょっと。もう一度にぽいっと投げ込んだほうがいいかしら?毎日同時刻に新着に居座るのはいい加減鬱陶しいかしら、などと悩む。うーん


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#15-1. 唄う乙女(1/2)

「今夜はまた、一段と冷えるね」

 アルディラ大陸で船を降り、準備してきた馬車で緩やかに移動を始めて三日。予定通りに港町モン・フィズを出発し、次の目印となるオアシスを探して歩いているのだけど、とにかく砂、本当に一切の誇張なしに砂しかない。モン・フィズが見えなくなってからというもの、同じ景色しか見ていない。ぐるりと見渡した景色はどの方向も代わり映えしない砂景色で、地図を見てもどれくらい進んだかの判断がつかないし、目視で方角を測るのも難しい。星や太陽を頼りにすれば確かにある程度わかるのだけど、それ以上に砂丘に翻弄される。巨大な砂山が風でどんどん形状を変え、生まれては消えていく様は、壮大な幻覚を見せられているような気がしてくる。

「実は、方向を覚えるのが苦手で……」

 またしても意外な、可愛いことを言ってくれる僕の最愛の妻は、砂の幻影に魅せられつつも、早々に方角を判じることを諦めてしまったようだった。馬車は荷と仲魔達でいっぱいだからか、荷台に乗ることはせず、羅針盤を片手に地図を広げる僕の隣を、申し訳なさそうにぴょこぴょこ歩きながらついてきてくれていた。

「本当ですね。昼間はまだ暑いほどですのに」

「皆さんの言う通り、防寒着を作ってきて良かったよね。普通の外套じゃ、この寒さは凌げなかったよ」

 雨が降らないからこそこの砂漠なのだろうが、天候が崩れにくいことだけは救いだ。朔月なのに不思議と明るい砂漠の夜の空気に、温かな呼吸が一瞬だけ白い靄を作り出す。はぁ、と自らの吐息でそれぞれの手を温めて、ふと顔を見合わせ微笑みあった。

 昼と夜、あまりに寒暖の差が激しいので、どちらを移動時間に充てるのがいいかをずっと考えていた。やはりというか、日中はまだまだ暑く、強い陽射しの下熱の篭った砂の上を延々歩くのはパトリシアも辛いようだった。そこで試しに、今日は昼過ぎに一度天幕を張って休み、日が暮れてから歩いてみている。ここではさすがにキメラを見ないが、万が一またジャミの手先が現れても夜なら見つかりにくいだろうし、じっとしていても夜は寒いのだから、寧ろ動いた方が身体が暖まっていいかな、と思ったのもある。

 本当にこの寒さ、昼と同じ場所とは思えない。

「モン・フィズはここまで冷えなかったのに、砂漠はやっぱり不思議だな。海が近い方が暖かいなんてさ」

「そうですわね。夜は潮風も肌寒かったですけど、それとはまた違った寒さだと感じます。やはり乾燥しているからなのでしょうか」

 知的な考察を加えつつ相槌を打ってくれる妻にまた頷きを返し、馬車に吊るしたランプの灯りに地図を照らした。方角は合っていると思うんだけど、モン・フィズからさほど遠くはないと聞いた集落は未だ、影も形も見えない。

「うーん……迷ったかなぁ……」

 船長から案内人を雇うよう勧められていたが、時期的なものもあるのか、それを生業とする方を見つけられなかったのだ。北の大陸の海運事情が事情だったから致し方ないのだが、長いこと他所の人間が訪れることがなかったから、と言われれば納得するしかない。

 それにしたって、ゆっくり歩いて三日とかからないって言ってたんだけどな。いや、もしかしたら通り過ぎてしまっているのかも。無意識のうちに独り言が洩れてしまい、フローラが不安げに翡翠の瞳を持ち上げた。

「あ、ごめん。少し休もうか?」

 手に持った地図をくるくる巻きつつ、彼女の隣に歩幅を合わせた。彼女は困ったように首を傾げ、僕を愛らしく見上げてくる。

「まだ大丈夫ですよ。それに、ゆっくりしていたらまた、すぐに日が昇ってきてしまいそうですし」

「うん、でも……」

 二度ほど休憩はしたものの、陽が落ちてからもう数時間は歩いている。明け方に向かう深夜の砂漠はますます冷え込みを強めていく。揺れるランプの灯りを頼りに、気丈に微笑む妻の頰を撫でてその表情を窺い見た。砂の上だけを歩き続けること三日、城への道のりを思えば初めの数歩のようなものだが、慣れないアルミラージ皮の長靴で懸命に歩くフローラに負担がないはずがない。これだけ長い時間歩き続けることだって初めてだろうに。

「暗いから、気のせいかもしれないけど……あんまり顔色が良くない気がする。馭者台に乗って良いんだよ? ずっと歩くのは辛いだろ」

 言いながらふと、小さな疑念が湧いた。かぽかぽと砂を蹴るパトリシアを一度止めて、フローラを横抱きにする。「え、テュールさん? あの」と動揺する彼女に構わず幌を開き、荷台に座らせた。砂地を嫌い中でくつろいでいた仲魔達も何事かと覗いてくる。ランプをすぐ近くに置いて、躊躇う彼女に構わず靴と、靴下を脱がせると────

「……あ〜、ふろ〜らちゃんてば、なんでだまってるの〜〜」

 珍しくホイミンが不服そうな声を上げた。溜息混じりにそれを聞き、荷台に腰掛けたフローラを見上げると、彼女もまた決まり悪そうに外套を掻き抱き、顔を背ける。

 いつの間に巻いたのか、靴下に隠された彼女の素足は、更に包帯のような薄い布でくるぶしまで覆われていた。白いその布の所々に赤黒い染みが滲んでいる。暗くてわかりにくいけれど、恐らく血豆が潰れたのだろう。多分、自分で時々治癒魔法をかけていたのだろうけど、僕らの目を盗んでいたからか、ちゃんと治しきる前に歩いて悪化させてしまった。だからあんな風に、痛みを誤魔化しながらひょこひょこ歩いていたんだ。

 中々集落を見つけられない僕の焦りが伝わってしまっていたんだろう。弱音を欠片も口にせず、絶対に足を引き摺らないあたりはさすがだと思うけど、我慢強いのも玉に瑕だよ。

「んも〜! えんりょせずゆってくれればいいのに〜ぃ!」

 青いほっぺたをぷくりと膨らませ、僕の言いたいことを丸ごと代弁したホイミンは、わざとらしく怒って見せつつ早速施術に取りかかった。すぐ間近でベホマの温かな光を見守りながら、妻の冷えた手を取る。フローラは尚も困ったように眉尻を下げ、遠慮がちに僕を見下ろした。

「……フローラ。僕と一緒に、歩きたい?」

 この四ヶ月、一緒に過ごしてわかってきたことがある。

 鈍い僕でもさすがにもう理解している。真実、彼女が僕と行動を共にしたいと思ってくれているということ。僕や仲魔達が何かしている時、一人何もせずいることを良しとしない。いや、どんな瞬間だって変わらず、僕の側に居たいと思ってくれている。僕が歩くなら歩くし、僕が戦うなら共に戦う。そういう人だからこそ、彼女の気持ちを有り難く思い、尊重してきたつもりなのだけど。

 これほど悪化するまで気づけない僕が一番悪い。ただ、今は君の想いを人質にしてでも、話を聞いてもらわないと。

「僕と一緒に歩きたいなら、痛い時は痛いって言うこと」

「……は、い……」

「じゃないと、無理矢理にでも馭者台に乗せちゃうよ?」

 少し強めに重ねて言うと、僕を見下ろす澄んだ瞳が哀しげに揺らめいた。苦笑して、もう一度冷たい頬を撫でる。彼女は目を伏せ、僕の掌にそっと頭の重みを預けた。

「別に、これくらい治すのは全然手間じゃないんだから。気にせず言ってね。僕は自分が頑丈な上に鈍いから、気づかず君に無理をさせてしまう」

 無理なんて。声にこそ出さなかったけれど、フローラがきっと今考えていることは、掌に触れる微かな温もり越しに伝わった気がした。伏せられた瞳をもう一度、下から覗き込んで微笑んでみせる。

「一緒に歩けるのは嬉しい、けど、君に無理させてるって思っちゃうことがもう、辛いからさ。……僕は」

 ある意味、我が儘なんだよ。これだって。

 でも、君とはずっとずっと一緒にいたいから。せめて君の前では格好つけて気の利く男でありたいけど、そうなれないのは自分が一番よくわかっているから。

 痩せ我慢も、見栄を張るのもやめたんだ。情けなくてもいいからちゃんと言葉にする。君と僕の間で変に遠慮してぎくしゃくしたくない、真実そう思うからこそ、僕の方から包み隠さず伝えていこうって。

 掌に頰を預けたまま黙って僕の言葉を聞いていたフローラは、その透き通った瞳で僕を見つめ返すと淡い息をそぅっと吐いた。りん、と星が転がるような声を小さく発して。

「黙っていて、ごめんなさい……」

 ほんのりと吐息の温もり越しに届く、透明な囁き。

「ううん。僕の方こそ、気づかなくてごめん」

 綺麗な額に自分の額をこつんとぶつけて、碧い髪を撫でた。やっと見せてくれた穏やかな微笑みにほっとする。すっかり綺麗になった脚に靴下とブーツを履かせ直し、さっきよりもう少し緩やかな速度で再び、東を目指して歩き始めた。

 

 

 

 しかし、それはほんの始まりに過ぎなかった。

 明けて朝、日の出から一刻ほど経った頃のことだ。夜通し歩いた後なのでそろそろ休息しようと天幕を貼り、全員で朝食を摂った。思えばその時点で食が進んでいないことに気づくべきだった。普段から小食のフローラがスナック一枚で食事を終えても、さほど気にならなかったんだ。

 食事の後、匂いを嗅ぎつけ集まってきた魔物らを数匹さっくり沈めてフローラを振り返ったら、どこか青ざめて生気がない。大丈夫です、とふらふら後片付けをしようとするのを慌てて止めて、今度こそ幌の中に連れ込んで横たえた。

 外の気温が急激に上がる中、内心詫びながら手早く防寒着を脱がせて瞠目した。分厚いコートの内側が、彼女の汗でびっしょり濡れていたのだ。

「なんだか、……寒くて……」

 力なく呟く彼女の身体は震え、首許は燃えるように熱かった。とにかく飲み水を口に含ませ、手拭いを濡らして火照った身体を冷やしたが、楽になった様子は見受けられない。心配をかけてごめんなさい、と浅い呼吸の狭間に途切れ途切れに呟いて、フローラはついに呼びかけても反応してくれなくなった。

 怪我は治したけれど、傷口から良くないものが入り込んでいたのだろうか。足のことは無関係で、実はモン・フィズで病をもらっていたのかもしれない。ぐるぐる回る思考を整理したくて、隣で見守ってくれるピエールとホイミンにそれとなく相談してみたけれど、彼らはそれぞれに真剣な面持ちで首を振った。

「生憎、拙者もホイミンもヒトの体のことはわからぬ。だが、これだけ急激に悪くなるのがまずいということは解り申す。一刻も早く、ちゃんとした医者に診せた方が良いのでは」

 他のスライム属達もはらはらと覗き込み、ガンドフが冷たい息で懸命に荷台を涼ませてくれる中、ピエールの進言に一も二もなく頷いた。ホイミンは治癒魔法の名手だが、怪我ではない病を治すことはできない。とにかく今は医者のいる街か、集落を頼るしかないのだ。

 ストレンジャー号はモン・フィズに一週間ほど係留すると言っていたから、今戻れば薬師のバルクさんに診てもらえるはず。そう思ってルーラでモン・フィズの位置を探ったけれど、近くに街の気配は見つけられなかった。海が見えるところまで移動すれば海岸伝いに街へ戻れるだろう。急ぎ、天幕や調理道具を片付けて馬車を動かした。

 こうしている間にも、言いようのない恐怖に手が震える。

 どうしても街が見つからなければ、テルパドール行きは諦めてサラボナに戻る。いや、今すぐ決断すべきなんじゃないのか。判断が遅れて最悪、君を失うことになったら────

 

「あの。何かお困りのことはありません?」

 

 唐突に投げかけられた声に驚き、そちらを振り返った。

 女の子だ。フローラより少し幼い、小柄な紫の髪の少女がいつの間にか馬車の死角に佇み僕らを見ていた。毛先の跳ねた長い髪を高い位置で束ね、溌剌とした褐色の額には十字の形の頭飾りが陽の光を跳ね返して輝く。どうしてこんなところに、というより前にもっと戦慄的な驚愕が走った。これだけ見晴らしの良い場所で、数里先の魔物だって見通せるところで、その存在に気づけなかった、だって?

「……君は」

 慎重に、動揺を落ち着けて言葉を発する。この少女からおかしな気配はしないが、用心するに越したことはない。

「旅の方が困ってらっしゃるって、占いに出たのだけど。余計なお節介だったかしら?」

 こちらの警戒などお構いなく、人懐っこい笑みで告げた少女はつい先日見たような占者めいた装束を纏っている。占いに出た、ということは、この娘自身が占者であるということか。

「……近くの、集落の人かな? そうであれば助かりました。病人がいるんです。そちらの集落に病を診られる方はいるだろうか」

 とはいえ、すぐに警戒を解くことはできない。なるべくいつも通りの声音で問いかけると、少女は屈託なくこくりと頷き一歩、こちらへ歩み寄った。

「いるわ。とびっきりの名医よ。……ご病気なの? どんな症状か、お伺いしても?」

 促され、つい十数分ほど前に突然発熱し倒れたことを伝えた。いつどこから砂漠に入ったのかと問われ、モン・フィズのことと、今日で四日目であることも告げる。少女は険しい表情でもう一度頷き、すぐさま身を翻した。

「砂漠の暑気にあたったのかも。急いだ方が良さそう!」

 どこに留めていたのか、馬の手綱をくい、とひいて軽々とその背に跨った。何やら聞き取れぬ呪文を唱えると馬の足下に手をかざし、「あなたもどうぞ、馬車に乗って。その子にも走ってもらうわ」と振り向きざまに言う。怪訝に思ったが問い返している暇はない。こちらも馭者台に飛び乗ると、彼女はすぐにまた不思議な呪文を詠んでパトリシアの脚をなぞるように手をかざした。

「行くわよ。しっかりつかまって!」

 彼女の鋭い一声と共に砂埃が盛大に舞い上がった。目も開けられない砂塵の中、疾走を始めた彼女の馬を追ってパトリシアが駆け出す。慣れない砂地で、仲魔を全員載せきった重い荷台を引きながら、パトリシアはまるで普段の通り軽やかに速度を上げていく。

 ────どんな魔法だ、一体⁉︎

 マーリンの反応が知りたくて、そしてフローラの容体が気になって幌の方をちらりと振り返ったけれど、砂が入らぬよう固く閉ざされた幕の内側は窺いようもなかった。遠いかと思いきや、ものの数分でどうやら目的地が見えてくる。永遠に続くかと思われた、一面の砂を割って視界に広がり出した美しいオアシスの様相に、思わず息を呑んだ。

 乾いた白黄色に浮かび上がった鮮やかな緑。光を照り返し連なるいくつかの白い天蓋が囲む、その中央に恐らく水場がある。キラキラと陽光を反射して輝く水面が風を受けて穏やかにたゆたっている。小規模な、本当にこじんまりとした集落だった。

 こんなに近くにあって、どうして見つからなかったのか。

 目を見張る速度で先導した少女は、勢いを殺すことなく集落へと駆け込む。

 力強く砂を蹴る蹄の音に、石造りの家々から人々が飛び出してきた。その中の、一際目を惹く長い紫髪の美しい女性が少女を見咎め、厳しい声を上げた。

「リーシャ! あなた、また勝手に抜け出して‼︎」

「お小言は後で聞くわ。ご病気の方がいるの、すぐにマイヤ様を呼んで!」

 ほとんど馬から飛び降りながら少女が叫び、手綱を持ったまま軽く併走して落ち着かせる。見事としか言いようがない。僕もすぐにパトリシアの速度を落とし、馭者台の上から集落の人々に向かって軽く会釈をした。

「旅のお方がこのエピカにいらっしゃるなんて。何年ぶりかしら」

 先ほどの女性が真っ先に近づいてくる。あの少女の身内に見えるが、この方が集落の長なのだろうか。馬車を降り、改めて腰を深く折ってから話をきりだした。

「そちらのお嬢さんに助けてもらいました。連れが……妻が、急に倒れまして。突然で申し訳ないのですが、病を診てやっていただけないでしょうか」

 女性は黙って僕を見つめた。見せてみろと言うことだろう、どうやら拒絶の意は感じられないことに安堵して、視線だけで謝意を返し幌幕を開けた。ここで忌避されたらすぐにルーラでサラボナに戻る──その覚悟の上だった。開け放った馬車を覗き見た人々が一斉に息を呑み、びり、と空気が張り詰めるのを感じた。

 ────魔物が。

 警戒の色濃いひそひそ声に一瞬胸がちくりとしたが、すぐに気持ちを立て直した。彼らも僕も、第一声でそう囁かれることには慣れている。

「大丈夫です、何もしません。連れはこちらの……、人間です」

 言いながら荷台に上がり、心配そうにフローラを取り囲む仲魔達を労う。脱力したフローラの額をひとつ撫で、そっと身体を抱き上げた。慌てていてはだけたままだったので、先ほど脱がせた防寒着だけ胸に被せ、更に自分の紫の外套で包んでやる。真っ白な頰に碧い髪がはらりとかかって、いつも以上に作り物のような、まるで精巧な人形にすら見える。

 馬車を降り意識のない彼女を見せると、遠巻きに覗く住人達も、ほぅ、と仲魔達のときとは違う感嘆の息を零した。

「今朝までは元気だったんです。けど、ついさっき……本当に急に、熱を出して倒れてしまって……」

 先程ひどい汗だと思った彼女の肌は今はさらりと乾いていたけれど、抱き上げた軽い身体は間違いなく、さっき以上の熱を帯びていた。

「野次馬しておる場合か、阿呆共めが! 道を開けぬか!」

 カン! と地面を杖先で打つ音が高らかに場の空気を割って、人々がどよめき一斉に道を拓く。力強いその声の主を見れば、地面につきそうなほど長い白髪を緩く編んだ老婆だった。かくしゃくとしたその老婆の傍らから、先ほどの少女がぴょこっと顔を出した。

「もう、呼んできちゃったわよ。その方がご病気なのね? こっちこっち、早く!」

 促されるままに人々の間をすり抜け、足早に石造りの建物へと入る。思った以上に殺風景な、真っ白な壁が印象的な室内を見回す暇もなくあの少女が奥へと手招きした。くり抜かれた白壁を抜けると地下へと続く階段があり、フローラを落とさないよう、転ばないよう抱え直してそろりそろりと石段を降りた。

「……っ、え」

 さすがにもう、息を呑むことはないと思ったのだけど。

 広い、建物からは推察できなかったほど広い空間がそこに拓けていた。地下で、窓などないのに不思議と明るい。けれどランプで照らしている感じでもない。何より驚いたのは、その地下に────緑が拡がっていたことだ。

 表で見た水場へと繋がる水脈があるのだろうか。きれいに整備されたそこは、庭園か菜園のようだった。細い水路が無尽に張り巡らされ、さらさらと流れるせせらぎの間には種類の異なる幾つもの草が植えられている。ひと目見て雑草などではない、意図して栽培されている手入れされた草だとわかる。

「そこの臥榻に寝かせい。お若いの」

 耳にかかるほどすぐ側で嗄れた声がして、思わずびくりと振り返った。またしても気配をほとんど感じなかった。僕の心を読んだのか、老婆は初めてにんまりと笑い「そこそこ手練れかと思うたが。わしに背を取られるとはまだ青いの」と愉しそうに嘯く。乾いた愛想笑いを返し、杖で示された方にある寝台に妻を寝かせた。

 シーツが冷たいのか、横たえた瞬間フローラが小さく身動ぎした。すぐに手を取り両の掌にしっかりと包み込む。老婆は僕のすぐ隣に立つと掴んだ手を一瞥し、身を屈めて彼女の鎖骨から節々を触診した。

「意識が戻ったらそこの薬湯を飲ませい。虚ろな内は無理に飲ませるでないぞ、詰まらせては困るでな」

 今度はちらりともこちらを見ずそれだけ呟く。頷いて、再び骨ばかりの老婆の手を目で追った。服を脱がせていたのは好都合だったらしい。手早く太腿まで改めると、老婆はいつの間にか後ろに控えていた少女を呼び、何やら用意するよう言いつけた。

「熱砂病じゃ。熱を放れば治る。砂漠に入って四日と申したか」

「……はい」

 すぐに少女が長くて大きな葉を数枚千切って戻って来る。それを受け取り、老婆が一枚──と言うには厚みのある茎のような葉だったが、掴んだ先端を僕に示して言葉を続けた。

「身体に熱を溜め込みすぎることで罹る病じゃ。睡眠不足や疲労が発症の引き金になることもある。治る病じゃが、数日はお主が熱をとってやるのじゃな。熱溜まりにこの葉が効く。こうやって裂いて、葉肉を皮膚に貼っておやり。胸には今日だけ、首の後ろと脇、太腿には熱が取れるまで毎日貼り替えよ。乾いたら新しいものに取り替えるのじゃぞ。あとはさっき言った通り、意識がある時はなるべく水を飲ませることじゃ。熱をとるだけでは近く、渇き死ぬ」

 淡々と告げられた最後、残酷な一言にぞくりと怖気が走る。今この時、生死の秤にかけられているのが最愛の妻だなんて想像したくもない。

 しっかりしろ。今この瞬間だってフローラは頑張ってる。彼女に一番近い存在である、伴侶の僕が挫けてどうするんだ。

 本当に逃げ出したりはしないけど、いっそ発狂してしまいたい衝動を呑み込んで耐えた。老医師の言葉を喉の奥で反芻し、特に不明なことがないのを確認して頷く。満足げに僕を見つめた老婆が、よっこいせ、と杖をついて立ち上がった。

「外のお連れらも、そこの薬草を食い尽くさぬならここで過ごすと良い。何もせぬとお主も言うたことだしの」

 どうやら彼女の看病は任せてもらえるらしい。客分としてぼんやり見ているより、ずっと嬉しい処遇だった。仲魔達への寛容な提案も有り難く、自然と老婆に向かって頭が下がる。

 階段を登っていく老婆を追おうとした少女がぱたぱたと駆け寄り、腕を引いて先程の葉のある場所を教えてくれた。

「あとでご飯持って来るわね。お手洗いはあそこを使って。何かあったら枕元の紐を引いてくれたら、上で鈴がなるから。他にも寝られるところあるんだけど、あのひとの傍にいたいでしょ?」

 あどけなく訊いてくれる少女に頷き、改めて名を伝えて世話になる礼を言った。あたしはリーシャ、お大事にね! と少女は溌剌と言い残し、束ねた紫髪を揺らして軽やかに階段を駆け上っていった。

 

 

◆◆◆

 

 

 そこから三、四日は、ほとんどつきっきりでフローラの看病に明け暮れた。

 リーシャがとびきりの名医と評したマイヤ様のお言葉に甘え、仲魔達もここで過ごしている。いつもは賑やかなスライム属達も今回ばかりは大人しく、フローラの枕元にふわりと座って見守っていた。冷たい息を吐けるガンドフもまた、引き続き無理のない範囲で寝台を涼ませてくれている。大事な薬草園を駄目にしてくれるなよ、とマイヤ様に苦笑交じりの苦言を提された為、本当に控えめにではあったが。

 渇き死ぬ。マイヤ様の言葉がぐるぐると回る。意識がないうちに水を飲ませてはならない、という理屈は僕にもわかるからこそ、今はただ葉肉を貼り直し、手拭いで身体を拭いてやるしかできない。あとはひたすら彼女の手を握り、こんな時にこそ縋るべき何者かに向かって祈りを捧げ続けた。

 力を。命を。この病に打ち克つ生命力を、どうか彼女に。

 信仰などない。今でもそう言い切れる僕が祈るほど滑稽なことはない、それでも。

 祈って彼女が助かるなら、いくらだって祈ってやる。

 乾いた葉肉を四度ほど取り替えた頃、ようやくフローラが薄く目を開けてくれた。

 僕の呼びかけに弱々しく頷き、支え起こすとなんとか薬湯を飲もうとしてくれる。しかし身体がうまく受け付けなかったのか、すぐに口許を抑え噎せてしまった。

 腕に抱えた背中をさすり、ちょうど周りにリーシャとマイヤ様がいないことを確かめてから、冷えた薬湯を口に含んだ。

 薬湯は酷く苦かった。まるで海水の苦味を凝縮したような、なんとも形容し難い苦さだった。それだけ効き目も高いのだろうけど、君が苦しげにえづくのをただ見ているだけなんて嫌だった。

 僕にも君の苦しみを半分、わけて欲しい。

 君が僕の痛みを掬いあげてくれたみたいに。

 片腕に小さな頭を載せて上向かせ、唇に指を滑り込ませる。こじ開けたその隙間を自身の唇でそっと蓋して、ぬるくなった口腔の中の液体を流し込んだ。まだ熱い唇がぴくりと動いて、細い喉がこくりと飲み込む。こんなに苦いのに、彼女と唇を合わせただけでほんのりと甘味を伴って感じられるのが不思議だな、などと思考の端でぼんやり思った。

「……りが、と……ござい、ます……」

 長い睫毛を伏せ、は、と息をついた君が、少し掠れた声で囁いてくれた。軽い体重を預かって、火照った頰をそっと撫でる。

「ううん。もう少し、飲める?……」

 躊躇いがちに訊くとフローラは虚ろな視線を泳がせ、力なくこくりと頷いた。どうしたって消しきれない下心を我ながら恥ずかしく感じたけど、気を取り直して器の中身を全て口に含み直し、零さないよう口移しでゆっくり、飲ませた。んく、と小さく喉を鳴らして懸命に薬を飲み込む雛鳥のような君がいじらしくて、たまらない。

「吐かないように、しばらくこうしてるね。目が覚めたらまた飲もう?」

 横にしたら今飲んだ分を戻してしまうのでは、と不安で、全部飲み終えた彼女を胸に寄りかからせ、眠るのを待った。

 こうしていると、ほとんど眠らず懸命にアンディを看病していた君の姿を否応なしに思い出す。

 あの時の君はひどく痛々しくて、直視するのが辛かった。

 魔法ではなく、こうして手ずから病の看病をするのは初めてだけれど、ここに来る前感じた、君を失うかもしれない恐怖は今は薄れて。弱った君に、こうして誰よりも近く寄り添っていられることが、どちらかというと嬉しく感じられたりもする。

 そんな風に思えるのは、君が特別で、大切で仕方ないからなんだろう。

 ほどなく落ち着いた、静かな寝息が聞こえてきた。まだ高い体温を感じながら半刻ほどゆるく抱きしめたあと、再び寝床に彼女を横たえた。

 それを皮切りに、彼女の容体は少しずつ好転していった。浅い眠りを繰り返し、目を覚ますたび薬湯で喉を潤す。口移ししたのは初めの一度だけで、次からは支えれば器から飲めたし、もう数回繰り返す頃には自分で茶器を持って啜れるようになっていた。虚ろだった瞳にも段々と生気が戻ってきて、泣きたいほど安堵する。熱に侵された身体の修復にはまだ時間を要するものの、ここまで体力が戻れば命の危険はなかろう、と再び触診したマイヤ様からお墨付きをいただいて、ほっとしたあまり疲労がどっと肩にのしかかるのを感じた。その後は僕も床に敷いた寝袋に横になり、久々に少し深く眠ることができたのだった。

 

 

 

「よかった。顔色、すごく良くなったわね」

 地下室に入って何日経ったのだろう。食事を運んできてくれたリーシャが、眠るフローラを覗き込み頰を綻ばせた。ここには窓がないから、外の昼夜がわからない。ずっと変わらぬこの穏やかな明るさは一体、どうやって保っているのだろう。

「本当に有難う。君のお陰で助かった」

「あなたも寝た方がいいわよ。ほとんど休んでないでしょ? 熱砂病は睡眠が足りてないと罹りやすくなるんだからね!」

 びしり、と指を鼻先に突きつけられ、なんだか誰かに似てるな、などと思う。リーシャは肩から落ちた紫の髪をさらりとかき上げ、改めてフローラの寝顔を眺めた。

「綺麗なひと。空に座す女神様みたい。ね、あなたの奥様なんでしょ? こんなところまで新婚旅行?」

「新婚旅行……ああ、そうなのかな」

 今更ながら間抜けだが、問われるままに頷くとリーシャはうっとりと感嘆の息を吐いてきらきらと瞳を輝かせた。

「結婚したばかりの相手と愛を育む未知の国への新婚旅行……! いやーん、素敵っ! あ、テルパドールは初めてなんでしょ? 羨ましい〜! あたしもそんな風に、好きな人と水入らずで旅してみたいなー」

「それでこんな、倒れさせてたらしょうもないけどね。リーシャはこんな風に無理させない、もっと思慮深い人を探しなよ」

 うきうきと語るリーシャとは真逆に、込み上げる苦いものを呑み込み苦笑してみせたら、彼女は上目遣いに僕を覗き込み、二の腕に触れるほど身体を近づけて可愛らしく微笑んだ。

「そうねぇ。でも、テュールさんみたいに甲斐甲斐しく看病してくれる人が夫ならあたし、倒れてもいいわ」

 笑いながらそんなことを言う。彼女が言うと冗談か本気かわからないな、と思いつつ笑って首を振った。

「それにしてもこの薬湯、すごい効くね。味も相応だけどさ」

 ふと薬湯の入ったポットが目に入ったからぽろりと呟いただけなのだが、リーシャは驚愕に瞳を瞬かせると、再びぐいっと身を乗り出して大声で叫んだ。

「舐めたの⁉︎ やだ、それすっごーく苦かったでしょ‼︎」

 頓狂な声を上げた少女に、慌ててしぃっ! と唇に指を当て制した。リーシャもあっ、と口許を抑え飛び退いたが、フローラは僕らの会話に気づくことなく眠っている。どちらからともなくほぅっと息をつき、リーシャは褐色の頰を楽しそうに緩ませて笑った。さすがに口移しで飲ませたとは答え難く、僕も苦笑いで曖昧に頷いて誤魔化した。

「あそこにある、パデキアの根を塩水で煎じたの。熱砂病の特効薬よ。発病してる人にはそこまで苦くないんだけど、健康な人には苦すぎてちょっと飲めないと思うわ」

「そうなんだ? じゃあ、フローラにはあまり苦く感じなかったのかな」

 相槌を打ちながら少々拍子抜けしてしまう。あんなに苦いものを彼女一人に飲ませるのは、などと独りよがりな正義感であんな真似をしてしまったけど、実は全くの勘違いで意味がないことだったとか。飲むのが辛くなかったのならそれ自体は喜ばしいことだけど、今更ながら、恥ずかしさで耳まで熱くなってしまいそうな心地がする。

 幸いにもリーシャは僕の羞恥に気づかなかったらしく、指差した薬草園の一角へとすたすた歩き去っていた。まだ幼い背中を眺める僕に向かって、少女は快活な声を投げかける。

「どんなお味に感じたか、今度お目覚めになったら聞いてみれば? 何はともあれ、これが飲み辛くなればなるほど治ってきてるってことよ。……あら?」

 不意に途切れた不穏な呟きに、思わず彼女を凝視する。立ち尽くし薬草を見つめたリーシャは、顎に手を当て、首を傾げながらぽつりと漏らした。

「おっかしいなぁ。まだ育ってない……」

 聞こえたのは、その一角が割と手前にあったからだ。何があったのかと視線をやると、リーシャはいつになく真剣な面持ちで僕を振り返った。

「ちょっと、マイヤ様に言ってくるわね」

 尚も首を捻りつつ、リーシャは階段の上に消えた。ほどなくマイヤ様が足音もなく降りてきて、こちらを振り向くことなく真っ直ぐに薬草園へと向かう。問題の植物の前でぴたりと足を止め、腕を組んで何やら考え込んでいるようだ。ただならぬ雰囲気だが部外者の僕に何か分かるはずもなく、困惑しながらその様をぼんやりと眺めるしかなかった。

 パデキア、と言ったか。僕に推察できるのは、この植物によくない兆候があるらしいことくらいだ。育っていないということは、熱砂病の特効薬だというこの薬湯も作れなくなってしまうのだろうか。だいぶ持ち直してきてはいるけれど、今この薬の材料がなくなったら、フローラは。

 やがてリーシャがもう一人、女性を伴って戻ってきた。この集落に駆け込んだ日に僕らを出迎えてくれた人だ。女性もすぐに僕らに気が付き、目があったのですぐに会釈をした。彼女も軽く目礼を返してくれたが、どうやら薬草の件が火急の用らしい。足どりも忙しなくマイヤ様の元へと向かって行った。

 若い女性二人の到着を待って、マイヤ様が重々しく口を開く。

「歪みを鎮めて来なくてはならん。リーシャ、すぐに行けるか」

「うん、いいけど……どういうこと? あたし、どこで何をしてきたらいいの?」

「東の海沿いにある祠よ。あそこに封じてある宝玉を、巫女の手で浄めるの」

 答えたのは先ほどリーシャが連れてきた女性だ。静かに告げた女性に肯定を示し、マイヤ様が厳かに言葉を繋ぐ。

「力ある者であればある方が良い。リーシャ、今エピカに在りてあれを鎮める力を備えるのはそなたくらいのものじゃ。百年ほど前の似た事例が確か文献に残っておる。確認してからゆくが良い。しくじってもすぐにどうにかなることはないが、最悪この大陸がその名の通りのものになろう」

 その名の通り、とはどういう意味だろうか。僕にはやはりわからなかったが、黙ってマイラ様の言葉を聞いていた女性二人はほとんど同時に息を呑み、蒼褪めた顔を見合わせた。

「占いに出ておったろう? 望ましくない変化があるとな」

 神妙な面持ちでリーシャは頷く。しかしその傍らから、おずおずと女性が手を挙げ一歩前へ進み出た。

「ただ、マイヤ様……ちょうど今、男手が出払ってしまっているんです。もうとっくに戻っていい頃なのですけれど、こうも戻らないというのは」

「それが惑わしの霧じゃよ。ああ、全く厄介な」

 やれやれと首を振り、マイヤ様はさも苦々しげに息を吐く。困り果てた様子の女性がちらちらとリーシャを見遣るのを遠目に眺めていて、ついに僕もお節介の気がざわついてしまった。

 つくづく、自分はこういうことに進んで首を突っ込む性分ではなかったと思うんだけどな。

「────あの」

 恐る恐る、挙手しつつ声を上げた。三人の女性がそれぞれに振り向いて、視線が一気に集まるのを肌で感じる。ひとつ深呼吸をして彼女の方へと数歩、歩み寄った。

「関係ない人間がしゃしゃり出てすみません。護衛が必要なのであれば、僕がついて行きましょうか」

 真っ先にリーシャが目を見開く。次いで女性が、淑やかな仕草で口許を抑えた。マイヤ様はやや訝しげに目を細め、値踏みでもするようにじろじろと僕を見た。

「奥方が心配ではないのかえ? 持ち直してきたとはいえ、快癒には程遠いぞ」

「勿論、心配ではあります、けど……よくわかっていなくて恐縮なのですが、妻に処方していただいている薬の件でもあるんですよね?」

 ぴく、とマイヤ様がこめかみを歪ませる。代わりにリーシャが何故か、前のめりに被りついて頷いた。その仕草がどこか仔犬のようで微笑ましく、思わず緩んでしまう頰を引き締め直して提言を続けた。

「皆様のお陰で妻は自分で薬を飲めるようになってきましたし、仲間も見ていてくれます。しっかりした人ですから、あまり長期にならなければ大丈夫かと思ってます」

 ちらりとホイミンを振り返ると、任せろとばかりにくるりと回って青い胴体をえっへんと張ってみせた。頼もしくて今度こそ、淡い笑みが溢れてしまう。

 これは寧ろ、自分にこそ言い聞かせたい言葉だった。

 彼女は聡い。自分の調子は本人が一番わかっている。ここで無理を押し通す人ではないし、マイヤ様もまた、彼女が再び悪化するような施術はなさらないだろう。

 大丈夫。だから、大丈夫だ。

「一応、腕には自信があります。回復も出来ます。数匹、仲魔の同行も許していただければ、彼女一人なら十分守りきれると思います。……これだけお世話になっているのですから、僕に出来ることがあるなら協力させて欲しい」

「あたし戦えるわ! 魔法だって使えるし」

 一際明るく声を弾ませ、僕の提案に飛びついたのは他でもないリーシャだった。えっ、と一瞬身体ごと引けてしまった僕に構わず、リーシャは隣の女性の二の腕をがしっと勢いよく掴むと、さも興奮した様子で一息に捲し立てた。

「あたし、テュールさんがいい。テュールさんと二人で行きたい‼︎ ねぇ姉様、ついてきてもらってもいいでしょ? 急ぐなら人数は少ない方がいいわ。おねがぁい!」

 頭二つ分は背の低い少女に肩をガクガクと激しく揺さぶられ、長身の女性は「ちょ、ちょっと落ち着きなさい、リーシャ!」と半ば悲鳴を上げている。こう言う時僕は役に立たないことが多いんだよな、などと思いつつ、慌てて駆け寄り少女の腕を抑えて遮った。

「いや、仲魔も連れて行った方がいいんじゃないかな? 君も戦えるのかもしれないけど、戦力は多い方が」

「平気よ。あたし、一人であなたを迎えに行ったでしょ?」

 振り返りけろりと答えるリーシャに、姉らしき女性がじとりと冷たい視線を向ける。そういえば彼女はどうやら、僕達を助ける為に黙って集落を抜け出してきたんだっけ。

「リリスで駆ければ半日あれば往復できるでしょ。テュールさん、特別に一緒に乗せてあげる! あ、リリスってあたしの馬のことね。あの子もテュールさんのこと気に入ってたから、大丈夫よ!」

 それはまぁ喜ばしいんだけど。妙にうきうきと楽しそうなリーシャを見ていると、先程までの不穏な空気はなんだったのかと言う気がしてくる。

「……妹の無礼をお許しくださいね、テュールさん。私、このエピカの集落で長を務めております、レイラと申します」

 見るからに浮かれるリーシャを押し除け、溜息混じりに女性が名乗ってくれた。慌てて僕も答礼する。

「奥方様が大変な時に手を貸していただけるとのこと、言葉もございません。東の祠はリーシャの馬でしたら確かに半日もあれば往復可能な距離かと存じます。お留守の間、奥方様は私どもでしっかりとお世話致しますので、リーシャの警護をお願いしてもよろしゅうございましょうか」

 儀礼的なやり取りではあるが、族長直々に依頼したという体裁が必要なのだろう。すぐに頷き「ご安心ください。必ず無事に、妹君をお護りして戻って参ります」と答えると、レイラ様もやっと、緊張が少し緩んだように表情を和らげた。

「やったー! テュールさん、あたしお弁当作ってあげる!」

 ピクニックにでも行くかの如く大喜びの少女の頬をついに抓り上げ、レイラ様は厳しい眼差しで妹を見る。「い、いひゃい、いひゃいわ姉様」と涙目の妹に、姉はますます冷え切った声音で静かに告げた。

「遊びに行くんじゃないの。アルディラ大陸の命運があなたにかかっていること、忘れないで」

 レイラ様は随分とお年の離れた姉君だと感じるが、族長の威厳か、覇気の年季がリーシャとは違う。さすがのリーシャも神妙な顔で縮こまり、こくこくと必死に頷いていた。もう一つ小さな溜息をつき指を離したレイラ様が、改めて僕を振り返り、階段へと手をかざして移動を促した。

「では、上で少しお打ち合わせを致しましょう。リーシャ、あなたもちゃんとお浄めのやり方を確認なさい。お弁当を用意するのはその後よ」

 

 

◆◆◆

 

 

 どうやら今は朝だったらしい。久々に一度表に出て、ほったらかしにしていたパトリシアの毛並みを整えてやった。僕がフローラにつきっきりの間も、ピエール達が歩かせるなどして世話をしてくれたようだ。つくづくよく気の回る仲魔達を得たものだ、と感謝の念に堪えない。

 すぐに出発しても良かったのだが、ずっと地下に篭りきりで不規則な生活だったことを指摘された。リーシャも清めの儀式の準備をしなくてはならず、身体の調子を整えるという意味でも一度仮眠を取らせてもらって夜出発する、という流れになった。

 ここで初めて僕は地図を見せてもらい、エピカと呼ばれるこの集落が最初の目的地よりもっと先、山岳地帯の折り返し地点に位置する集落であることを知った。

 思った以上の速度で歩いていたということなのか。首を捻ったがレイラ様曰く、例の見えない霧の影響だろうとのことだった。伝承に拠れば以前にも、まるで空間がねじれたように距離がおかしくなる、といったことがあったらしい。

 打ち合わせから戻ったところで、フローラがすぐ目を覚ました。意識がしっかりして、受け答えも出来る様子に心から安堵する。薬の材料がきれてしまいそうなこと、状況改善の為に半日ほど留守にする旨を伝えると、フローラは不安そうながらも落ち着いて頷いてくれた。

「たくさん、ご迷惑とご心配をおかけしてしまいました。本当に私、あなたの足を引っ張ってばかりで。申し訳ありません……」

「そんなことないから。やっぱり、僕が無理させたのが悪い。せめてあの夜、もっと君を休ませていれば」

 項垂れるフローラのほっそりとした肩を摩って訴えていたら、「まぁ、そう気落ちするでない。熱砂病は誰でも罹る。砂漠に慣れた者でもの」と飄々としたマイヤ様の声が背中から響いた。

「二日間は昼に歩いて、夜の移動に切り替えたと? 賢明な判断じゃが、ちぃっとばかし性急じゃったの。砂漠での休息はとりすぎるくらいで丁度良いと肝に銘じることじゃ。あとお主らの上着な、大層上等な代物じゃがちと厚すぎるな。夜にしっかり熱を放らねば内側からじわじわやられるでの。まあ冷やしすぎてもいかん、塩梅が大事じゃがの」

 ひょひょ、と笑う老婆に言葉もない。フローラと二人してしおしおと肩を落としてしまったが、申し訳なさそうに睫毛を伏せるフローラを盗み見たらまたたまらなくなってしまって、滑らかな白い頰をそっとなぞった。

「と、とにかく。今はしっかり休んで治そう? 本当に焦らなくて良いから。ね」

 覗き込むと、眉尻を下げたまま優しく微笑んで頷いてくれる。マイヤ様に向かって深々と頭を下げるフローラに並んで、僕も改めて老医師に謝意を伝えた。

「パデキアは元々、生育条件の厳しい薬草でな」

 煎じたばかりでまだ温かいパデキアの薬湯をフローラに差し出し、マイヤ様がぽつぽつと話して聞かせてくれた。

「どこの土でも育つ草ではない。その代わり、条件さえ揃えれば恐ろしく成育の早い植物でもある。種を植え水をやれば翌朝には青々と葉をつける。こいつの根に薬効があってな。熱砂病だけではない、様々な病に効力を発揮する」

「へぇ……」

「旅の方にお頼みするのは少々、心苦しいが」

 言葉を切り、マイヤ様は僕達の方へと向き直った。わずかによろめきつつ頭を下げようとするマイヤ様を慌てて止め、膝をついてその手を取る。大恩あるこの老人に腰を折らせるなどできるわけがない。目で訴えると、老長老は改めて苦笑し姿勢を正された。

「祠のこともそうじゃが、くれぐれもリーシャをよろしく頼む。あの子はゆくゆく、このテルパドールを背負って立つかも知れぬ子じゃ」

 どういうことだろう。再び椅子に腰掛けてフローラと顔を見合わせ、思わず目を瞬かせる。マイヤ様は少しばかり思案したようだったが、やがて厳かに言葉を続けた。

「この国ではな、血筋ではない。力を継ぐ者が国を継ぐ」

 すぐに脳裏を過ったのはモン・フィズの酒場のマスターが話してくれた内容だった。曰く、現テルパドール女王は伝説の占者ミネアの力を濃く受け継いでいらっしゃると。

「……それは、伝説の興祖ミネアとマーニャ姉妹の?」

 問い返すと、無論とばかりに首肯なさる。

 その形式は、僕が考えていた国家の在り様とは大きくかけ離れているように思えた。こういった力は単純に遺伝するものかと思っていたけれど、女王の子が王位を継げない理由が何かあるのだろうか。

「永い時の中で結果的に国家の体を為したというだけでの。テルパドールに王族と呼ばれる血統はない。我々はただ伝説を守り、嘆きを鎮めて生きる民」

 僕の疑問などお構いなしにマイヤ様は淡々と語る。伝説、の二文字に思わず居住まいを正した。老婆は孫を見るような慈しみの篭った表情で、不思議と明るい天井をつと眺め、嗄れた声をごく静かに紡いだ。

「無論、あの子より適正ある者がいればそれで良し。よしんばあれの身に何かあったとて、問題はありはせん。……ただ、儂の目から見て、あの子が秘めた力は特に比類なきもののように思う」

 それはつまり、リーシャが今現在テルパドールにおいて最も有力な次期女王候補であるという意味なのだろう。本人も戦うと主張しているとはいえ、まだ幼くも貴いその身を僕一人で護ると約束してしまったわけだ。今更ながらとんでもないことを引き受けてしまった、と知らずのうちに冷や汗が出る。

「……これも伝承に過ぎぬがの」

 そう前置きして、マイヤ様が語ってくれた大昔の話は、もはや神話と呼べるほど霞みがかったものだった。

 この大陸がそうなのか、問題の地が沈んでしまったのかはわからない。曰く、伝説の姉妹が拓いたと言われるこの地は元々、魔界に通じていた空間のあった場所なのだと。

 勇者と七人の仲間達が魔王を討伐した、その居城が海域を含むこの一帯の何処かにあった。魔王討伐後、世界には確かに平和が訪れたがこの場所は澱み、呪われたままだった。溜まった瘴気が吹き荒れたせいで大規模な地殻変動が繰り返し起こり、植物は枯れ果て水も干上がって今の砂漠が生まれた。この呪われた土地に再び命を宿さんと姉妹は力を合わせてこの地に彷徨う御霊を鎮め、また、彼の勇者の伝説を語り継ぐ為様々に尽力したのだと言う。

 魔界と呼ばれる異空間とこの世界を繋ぐ空間を勇者が封じた際、どうしてもわずかな歪みが残ってしまった。異形が通れる穴ではないが、数百年周期でこうして異界の瘴気が漏れ出て影響を受けるのだそうだ。例えば今回のように土壌が侵されたりとか、目に見えぬ霧が方角を狂わせたりとか。僕達が中々集落を見つけられなかったのも、今この集落の男性陣の帰還が遅れていることも、歪みから発生する異界の瘴気に因るものであろう、とマイヤ様は仰った。

 その歪みは今も魔界に通じているのか。思わず食いついてしまった僕を額へのひと突きで黙らせ、マイヤ様は少しばかり怪訝な目を僕に向けた。

「なんじゃ。お主、まさか魔界の門を開けようと言うのではあるまいな」

「いや、開けようっていうか……魔界に通じる場所があるなんて初めて聞いたから」

 警戒心をあらわにするマイヤ様にこれ以上、どう話したものか迷う。あまり込み入ったことを話すのは気が引けるのだけど、確かにこれだけ聞くと魔物遣いである僕は魔界から大量の魔物を召喚し、世界を混沌に陥れようとする大罪人にも見えてしまうかもしれない。

「……その、母が」

 言葉を濁そうとしたが、しかしマイヤ様は見逃してくださらなかった。真っ直ぐ射抜いてくる厳しい眼差しに根負けし、心配そうに見守ってくれるフローラの手を繋ぎ直して深く息を吸い、ゆるゆると吐く。

「母……が、魔界に囚われているそうです。僕自身は全然、覚えてないんですけど。幼い頃亡くなった父が、僕に遺言を残してくれました。勇者を、見つけよと……彼の力を借りて魔界へ行き、母を救い出して欲しいと。テルパドール城にかつての勇者の墓がある、と聞いて、何か勇者への手掛かりを得られないかと思って……それで、ここまで来たんです」

 なんとか言い終えてそろそろと顔を上げると、老婆はいつもの鋭い瞳に薄く戸惑いを浮かべて僕を見つめていた。思いがけない反応にこちらが驚いて目を瞬かせてしまう。あの、と言いかけた僕よりほんのわずかに早く、マイヤ様のもの静かな声が場に響いた。

「……魔界とはまた、穏やかではないの」

 だから、嫌なんだ。

 こんな風に同情されるのは慣れていない。大体母そのものに今まで思い入れなんてほとんどなくて、父の遺言だから、助けなくてはいけないのだと僕はずっと自分に言い聞かせてた。フローラに出逢って、自分の感情にやっと少しは向き合えるようになって、自分にも母を恋しく思う気持ちが多少なりともあったのかもしれない、なんて思えるようになったばかりなのに。

「正直、僕も全然実感が湧かないです」

 じわりと喉元に込み上げる熱さを必死に堪えて、控えめに笑って見せる。そんな自分を悼ましげに見遣る瞳が、優しい棘のようで、痛い。

「でも、……本当に生きているかも、わかりませんけど。母が今もそこにいるなら、生きていてくれるなら……魔界だろうがなんだろうが、会いたいかな、って……」

 そんな眼差しに都合良く甘えて、感傷に浸ってしまう自分が何より浅ましくて、嫌になる。

 フローラはさっきから一言も言葉を発しなかったけれど、ずっと僕の腕に手を添えて寄り添ってくれていた。

 こんな時、君の優しさに泣きたいほど癒される。フローラの気配は、ただそこに居るだけで僕の幼稚な矮小さをまるごと抱き留めてくれる。同情なんかじゃなくて、本当にそれでいいんだって。否定せず、ただ肯定してくれる。それがとても、心地良い。

 彼女の前でだけ、僕は真実、自分に素直になれる。

「……残念じゃが、そこの歪みはあくまで『歪み』じゃ」

 ややあって、遠い目をした老長老はそうぽつりと呟いた。

「気が遠くなるほど永い時が経ち申した。歪みと言っても、その向こうは既に魔界ではないかもしれぬ。否、伝説の頃の魔界であり、お主の言う魔界と同一とは限らぬ、かの。お主の母君に繋がる可能性は極めて低いと思われるが」

「魔界とは、唯一ではない……複数存在している、ということですか?」

「どうかの。確たる答えなど誰も知らぬよ」

 そこまで言って、マイヤ様は口許にだけ穏やかな笑みを浮かべて僕を見上げた。漆黒の瞳はまるでどこかの異界に通じていそうな、不思議な奥深さをたたえている。

「お主、眼に視えるこの世の他に魔界の存在は信ずるのであろう? ならば何故、異界と呼ぶべき界がその二つだけと言い切れる?」

 ────あ。

 深い感慨とともに唐突に、記憶の蓋がひらいて弾けた。

 そうだ、僕は知ってる。幼すぎてもう朧げな記憶だけど。

 視界を埋め尽くす真っ白な雪、氷の城、誰にも見えなかった小さなともだち。今でも夢だなんて思ってない。確かに歩いたんだ、あの幻みたいな、妖精達の棲まう大地を。

 失いかけていた記憶の欠片を懐かしむ隙もなく、マイヤ様の続く言葉は僕を残酷に現実へと引き戻す。

「斯様な昔話を知っておるか? 数千年、神代の昔じゃな。魔族の侵攻から国を守らんと、更なる異界の神を召喚した王がおったそうな。だが神の怒りを買い、結局は国は滅び、民草もろとも国は呪われ、亡者達の魂は未来永劫、その次元に縛られ続けておるという。……古地図に拠れば、その国もまたこの近くにあったようじゃの」

 淡々とそこまで告げて、マイヤ様は言葉を切ると、僕をひたと正面から見据えた。

 ────不用意に異界に干渉してはならぬ。

 そう、言われた気がした。冷たいものが背筋を伝って、気づくと僕は深く頷いていた。いつのまにか速まった脈を、フローラの温かな手が落ち着かせてくれる。僕のそばで黙って話を聞いていたフローラを一瞥し、マイヤ様はくつくつとくぐもった笑いを零して立ち上がった。

「まさしく神話の類いじゃが、興味があるならテルパドール城の書庫をあたると良い。儂の名を出せばそれなりに奥の本も閲覧できるじゃろ」

 しっかり休めよ、と言い残しマイヤ様は階段に向かって去っていく。朧げに気になっていたことを訊いてみたくて、その丸い小さな背中に急いで問いを投げかけた。

「マイヤ様。差し支えなければ、教えていただけませんか。……あなたは……」

 只者ではないことはわかる。薬草の知識だけではない、まるで禁書の内容を語られた気分だ。これほど歴史にも伝説にも明るく、テルパドールの内情にも精通しているこの方は、一体。

 いよいよ階段に足をかけようとした老婆は、慇懃に振り返ってみせると歯の抜けた口許を愉快そうに弛ませて答えた。

「何、ただの老いぼれじゃ。その昔は暁の巫女姫などと呼ばれたこともあったがの」

 僕にはやはり正しくその意味を受け取ることはできなかったが、隣のフローラが小さく息を呑んだ。マイヤ様は肩を揺らしてひっそりと笑い、杖をこつこつ軽快に鳴らしながら階段の上へと消えた。



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#15-2. 唄う乙女(2/2)

『暁の巫女姫』という二つ名が、数代前のテルパドール女王を指した呼称である、とフローラから聞いて、度肝を抜かれながらもなんとか仮眠をとること数時間。

 すっかり日が暮れて気温がみるみる下がってきた頃、予定通り、リーシャと僕は連れ立ってエピカの集落を出発した。

「こんなにわくわくするの久しぶり! えへへ、よろしくね! テュールさん」

 小柄なリーシャを腕にすっぽり収める形で鞍に跨る。リーシャはその独特な力故、目に見えぬ霧が作用しづらいそうだが、僕はしっかり影響を受けてしまうから、絶対彼女とはぐれないようにとマイヤ様から繰り返し諭されてきた。

 ただでさえ彼女は大事な身の上、僕としてはやや緊張していたのだが、弾む声で僕を振り返るリーシャは無邪気な、どこにでもいる屈託のない少女でしかなくて。あまりの朗らかさに、こちらの緊張も程よくほぐれた。僕にもし妹がいたらこんな感じなのかな、なんてちょっと思ったりして。

「うん、よろしくね。実はあまり馬には乗り慣れてなくて、正直リーシャが頼りなんだけど」

「任せて! 向こうに着いたらお夜食、食べようねー」

 大事なお役目を頂いて祠に向かうとはどうにも思えない、なんとも和やかな雰囲気だ。「あ、本当に作ってきたの?」と訊いたら、得意げに斜めがけの鞄を指差された。

「着いてからのお楽しみ! ふふっ、お口に合うといいけど」

 フローラを看病している間もそれなりに言葉を交わしていたと思うんだけど、改めて話すとリーシャは若いな、などと思う。若さ故の生命力に溢れているというか、エネルギーが違う。それでいて割と話しやすいのは、彼女が普段からマイヤ様やレイラ様のような、成熟した大人達に囲まれている所為か。

 僕らを乗せた愛馬を数歩、かぽかぽと歩かせると、リーシャはやっぱり聞き取りづらいあの呪文を唱えて、愛馬の身体をそっとなぞった。

「この間も気になったんだけど、それなんて魔法? 初めて見た」

「えっとね、なんていうのかな? 古代魔法だから発音難しくて。ピョルム? ピォラム? うーん、とにかく速さを上げられる魔法なの」

 彼女は尖らせた唇の辺りをとんとんと弄りつつ、少しゆっくりと呪文を発音してくれた。確かに独特の響きというか、訛りみたいに聞こえてやっぱりよくわからない。「マイヤ様が教えてくれたの」と彼女はまた肩越しに振り返り、照れ臭そうに笑った。

「すごいね。リーシャって僕よりかなり年下だろ? 僕も魔法は使うけど、古代魔法なんてのはさっぱりだ」

「ふふーん、花の十四歳よ。若さが眩しいでしょ? おじさん」

「うわ、傷つく……僕だってまだ二十にもなってないんだけど」

 それじゃ離れているといっても精々四、五歳差だ。だというのに、まるで叔父と姪かのような物言いに思わず、恨みがましい呟きが漏れてしまう。そういや最近なんとなくだけど、小さい子供からおじさん呼ばわりされることが増えたなぁ。どこの街だったか、鬼ごっこしていた子供達から口々におじさん! と声をかけられたのは地味に堪えた。がっくりと肩を落とす僕にフローラは「だ、大丈夫ですわ。あなたがおじさんなら私もおばさんですから」と優しくフォローしてくれたけど、僕はともかくフローラの容姿でおばさんだなんて誰も思わないと思う。

「冗談よ。テュールさんてなんだか大人っぽいから、もっとずっと年上かと思ってたの」

 くすくす。褐色肌の少女は、月明かりに溶け込むような艶かしい笑いを溢す。紫の髪は束ねた上で一つに編まれ、彼女の背でゆらゆらと揺れていた。座っても尚頭ひとつ分、僕より小さい彼女を見下ろし、悔し紛れの戯言を吐き出す。

「へぇ。おじさん臭いって?」

「ううん、カッコいいってことっ!」

 朗らかに彼女は答え、勢いよく手綱を引いた。ヒヒン! とリリスが高らかに嘶き、瞬時にぐい! と加速する。あっという間に砂煙を立ち昇らせ疾走を始めたリリスに慌ててしがみつくと、僕とリリスの間で半ば潰された格好になったリーシャは肩を震わせ、可笑しそうに笑った。

「落っこちないでね。飛ばしていくわよ!」

 ……全く、調子いいんだから!

 身体を起こし、激しく吹きつける風と砂に対してなるべく抵抗が少なくなるようバランスを取り直す。凍りそうな冷たい風が、砂塵を伴って痛いほどに頰を叩きつけていく。はためく外套を彼女の前方にかざし、風の音に掻き消されないよう彼女の耳の近くで囁いた。

「寒くない?」

 思った以上に冷える。これだけ速度を出せば当然だろうが、僕の前で風を受けるリーシャが心配だった。しかしリーシャは軽く上向いてにこっと笑うと、いつもの調子で明るく答えてくれた。

「ぜーんぜん! テュールさん、すっごくあったかいもの」

 本当に平気そうな様子にほっとする。彼女も防寒着は着込んでいるし、僕よりはこの冷え込みに慣れているのかもしれない。彼女の背中は僕の前身と密着しているから、多少はそこから暖をとれてるのかな、と僕も自分を納得させた。

「この速度だったら、そんじょそこらの魔物は振り切っちゃいそうだね……」

 上下に揺さぶられる激しい振動に身を任せながら遠く前方へと目を凝らす。湿度がない澄みきった空気の砂漠は、夜でも月明かりだけで遠くまで見渡せる。砂丘が次々に近づいては流れて、視界の端へと吸い込まれ、消えていく。

「うん、そのほうが楽かなって────わっ!」

 唐突に短く叫び、リーシャが乱暴に手綱を引いた。ずっと向こうに何か蠢くものがある。迂回するのかと思った矢先に足元から何かがズン、と立ち上がった。驚いたリリスがけたたましく嘶き、前脚を激しく跳ね上げた。

「リリス、落ち着いて! ただのキングスライムよ!」

 主人を振り落とさん勢いで暴れる愛馬を懸命に宥める、リーシャの掌の上から手綱を強引に掴んだ。思いきり横に引いて軌道をずらし、着地する地面をちらりと見て息を呑む。砂地だと思った地面にいつのまにか、数体のマドルーパーが張り付いて僕らを待ち構えていた。

「────バギマ‼︎」

 咄嗟に無詠唱で風魔法を放つ。かざした手で父の剣を引き抜き、怯んだマドルーパーの額を抉った。ほとんど同時にリーシャがベギラマを放ち、まともに喰らったマドルーパー達がもんどりうってのたうち回る。そこへみるみる巨大化したスライムが、ぼよんと跳ねて飛びかかってきた。

「合図したら拾って。剣の方が早い」

 早口に言い残してリリスの背から飛び降りた。「テュールさん! 危ない!」と金切り声をあげるリーシャに構わず、着地の反動に体重を乗せ、キングスライムの足元に向かってめいっぱい剣を振り抜く。死に損なったマドルーパー達が背後からわらわらと躍りかかるが、次々に薙ぎ払った。

 ────もういないか。あとはキングスライムだけ、マドルーパーが沈んだのを確認して向き直ると同時に、身体の脇から火球が飛んできてキングスライムに直撃した。

「とどめ刺して! テュールさん!」

 ぐるりと旋回して戻ってきたリーシャが馬上から叫ぶ。ぴゃぁあ、と泣いてのたうつキングスライムを少しばかり可哀想に感じて、敢えてその頭上に向かってバギを放った。初級の風魔法は王冠だけを弾き飛ばし、その瞬間、山の如く大きかったキングスライムの身体が一瞬でばらばらと分裂して崩れ落ちる。

「リーシャ!」

 疾走する少女に向かって手を伸ばし、崩落するスライムの下敷きになる寸前で手綱を掴み、再びリリスに飛び乗った。速度を増したリリスは勢いよくその場を駆け去っていく。揺れる愛馬の背から後ろを振り返り、リーシャがはぁあと脱力して息を吐いた。

「あー……びっくりした。いきなり降りるなんて危ないわよ、もう!」

「だって、馬上からじゃ、剣がうまく……届かなくて」

 乱れた息を軽く整え応酬する。とんとん、とリリスの脇を軽く叩き働きを労ったら、僕の言いたいことが伝わったみたいで、疾走しながらも軽く首を傾げて応えてくれた。

「炎魔法、得意なんだね。いい間合いで助かったよ。最後のはちょっと、燃やされかけたけど」

 冗談も交えつつ腕前を褒めたら、リーシャもどうやら気分が良くなったらしく得意げに笑って胸を張った。

「だから戦えるって言ったでしょ。最後のだって燃やさなかったもーん」

「はいはい」

 どこかで交わしたような会話につい笑いが漏れてしまう。そうそう、レヌール城の冒険の時、ビアンカのメラに外套を燃やされそうになったんだっけ。ビアンカは僕にとって姉そのものだけど、リーシャはそれよりずっと幼いから、見た目はともかく、性格だけ見たら本当に妹みたいな気がしてしまう。

「でも、あたしはちょっと焦っちゃったけど、テュールさんは落ち着いてたね。あっという間に倒しちゃったし、頼もしかった」

 得意満面で僕の笑い声を聞いていたリーシャが、軽く肩をすくめて囁いた。なんとなく、照れているような気配を感じたものの、僕はいつもの悪癖でそんな彼女を見て見ぬ振りをしつつ、無難に茶化して誤魔化してしまった。

「見直した?」

「見直したー!」

 あはっ、と声を上げて笑った彼女が後ろにばふんと寄りかかり、甘えるように体重を僕に預けた。……過ちは繰り返すものというが、後から思えば僕はこの時、もっとちゃんと線引きをすべきだった。期待を持たせたつもりは毛頭なかったけど、彼女の好意は明らかに僕に向いていた。分別ある大人として、それくらいの意思表示はして然るべきだったのだ。

 その後、いびつな形の山があると思ったらケムケムベスの群れが熟睡していて、その横を息を殺して通り抜けたり。通りすがりのオークに槍を投げられたりと、何度か魔物との遭遇はあったがどれもうまく交わしきり、僕達は概ね予定通り、東の祠へと辿り着いた。

 

 

◆◆◆

 

 

 思ったより大きなその祠は石造りの建物ではなく、見事なテントで出来ていた。否、恐らく祠の前にテントが張られているのか。ここを管理しているであろう老人が夜更けにもかかわらず、驚きながらも僕達を出迎えてくれた。

「おや! エピカのリーシャちゃんじゃないか。大きくなったなぁ」

 蝋燭に火を灯したカンテラで僕達を照らしたご老人が顔を綻ばせた。どうやら二人は顔見知りらしく、リーシャは愛馬の背からひらりと降りて淑女らしく身を屈めると、愛想よく挨拶をする。

「お爺さん、久しぶり! 今日はあたし、姉様の代わりに祠のお浄めに来たの」

「おお、そうかそうか。そういやお浄めも十何年ぶりかね。ささ、まずは少し中で休んでおいで、お付きの方も一緒に」

 丁寧に促され、リリスを表に繋いで中に入った。思いの外しっかりと木材に支えられた天幕の内側は広々と拓けていて、いかにも民族的な誂えを施されている。暗くてよく見えなかったが、表に木が生えていたので、ここにも水場があるんだろう。老人の生活スペースの他に、旅人が羽休めしていけるような一角も備えられている。寝台はなく、代わりにハンモックが吊るされていた。落ちたりしないのかなぁ? なんて、思わず不届きなことを考えてしまった。

「さっ、一仕事の前に腹拵えしなきゃね! お爺さん、こんな夜遅くに本当にごめんね」

 老人を気遣いながらも、ちゃっかり鞄から夜食とやらを取り出す。「お爺さんも、良かったら朝にでも食べて!」と一包みを老人に押しつけ、鮮やかな朱い敷物にさっさと腰を落ち着けたリーシャが嬉しそうに僕を手招きした。

「じゃーん! リーシャ特製、ピタサンド〜っ!」

 わざわざ夜食の包みを高らかにかざし、宝箱でも見つけたかの如く声を弾ませる。なぜかその幼い仕草がツボに嵌って我慢できず、ぶはっと噴き出してしまった。「んもー、何よ! どうせ子供っぽいですよーだ!」と頰を膨らませるリーシャに笑いを堪えつつ謝って、差し出された円いサンドイッチを受け取った。

 薄く焼いたパンに、見慣れない葉野菜と大ぶりな肉を焼いて挟んである。嗅いだことのないスパイシーな香りが食欲を刺激した。かぶりつくと中から旨味たっぷりの肉汁が溢れ出て、パンにじわりと浸み込んでいく。

「美味しい。あんまり食べたことない味だけど」

 じっくり咀嚼してから飲み込んでぼそり呟くと、テーブルに肘をついて僕達を微笑ましげに眺めていたご老人が嬉しそうに言った。

「レイラちゃんも昔、何度か作って持ってきてくれたもんじゃよ。姉さんは元気にしとるかい」

「もっちろん! 来年初めての赤ちゃんが生まれるのよ。もう楽しみで楽しみで!」

 うきうきと答えたリーシャの言葉に驚いて、思わずごほっと噎せてしまう。

 レイラ様のお腹に赤ん坊がいたなんて、全然気づかなかった。

 僕の動揺には双方構わず、ご老人はきらきらと嬉しそうに笑い、リーシャの言葉に何度も頷いた。

「ほおぉ、そうかそうか! めでたいのう。レイラちゃんに似た子を授かっていると良いの」

「うん。みんな一人目はやっぱり女の子がいいねって言うけど、どっちでもいいわよね。可愛く元気に生まれてくれれば! あたし、いっぱいお世話して遊んであげようって思ってるの!」

 ご老人の瞳がほんのわずかに揺らいだが、リーシャは尚も屈託なく笑っている。何となくだが、彼らテルパドールの民に於いて、女性という性別が真実特別なものなのだろう、ということはもう察しがついた。それが恐らく、伝説の姉妹の力に由来するものであろうことも。だからといって男の性が蔑ろにされている様子はないが、この大陸に伝わる伝説を守るために必要不可欠なのが恐らく、女性だけに受け継がれ発現する力だということなのだろうな、と。

 楽しげにサンドイッチを頬張るリーシャの隣で些か複雑な心境のまま軽食を食べ終え、その横顔をぼんやり眺めていた。

 十四歳か。前にも似たようなことを考えたのを思い出した。僕とヘンリー、マリアさんが修道院に流れ着いた時、入れ違いでサラボナへと発ったフローラが丁度、十四歳だったはずなのだ。

 あの時、もう少しだけタイミングがずれて君と修道院で出会っていたら、僕の人生は今頃どんな風に変わっていただろう、と時折こうして考える。

 今より少し幼いであろう君だけど、リーシャみたいな無邪気な少女というよりは、やっぱり今みたいに落ち着いたお嬢さんだったろうな、という気がする。修道服姿のフローラも割とすんなり思い描くことができた。

 すっかり物思いに耽っていたら、リーシャがひょいと正面を覗き込んできて「ね、あたしっていいお嫁さんになりそうでしょ?」と悪戯っぽく笑う。

「そうだね。そこは保証するよ」

 笑って返すと軽く憤慨したように「ちっがーう! そこは『僕がお婿さんに立候補するよ』とか言うところでしょ!」と下手な声真似を交えつつ宣われたので、「残念だけど、立候補はもうしちゃったから」と更に笑って答えた。リーシャはその回答がお気に召さなかったらしく、女心が分かってない! などとぶつくさ呟きながら、最後の一欠片をもぐもぐ食べていた。

 フローラも以前、実はお嫁さんになるのが夢だった、とはにかみながら教えてくれた。年頃の女の子が抱く可愛い夢の一つなんだろう。夢を叶えていただきました、と微笑んだ愛らしいフローラを今も鮮明に思い返せる。歳の近い既婚者だから、リーシャから見たら憧れめいたものもあるんだろう、などと微笑ましく考えつつ、黙って食べ終えるところを見守った。

 小腹も落ち着いたところでいよいよ、浄めの儀式を行うことになった。

「僕も居合わせていいの?」と訊いたら、きょとんとして「いいんじゃないかしら。別に一人でやれとは言われてないし」と返されたので、護衛がてら、祠の隅で見せてもらうことにした。祠はやはりテントの外、水場に面して奥まった場所にあった。凍りそうに冷え込む深夜の外気に白い息を吐きつつ、老人から預かった鍵で祠の扉を開けた。

 中は本当にこぢんまりとしていて、借りてきたカンテラをかざすと小さな祭壇の中央、銀の器に白く濁った、小指の先ほどの大きさの卵型の宝玉が供えられているのが見えた。「うん、これね」とリーシャは頷き、すぐさま鞄から聖水らしき小瓶を取り出して何やら小声で唱え始める。

 何かな、とは思ったけれど、邪魔しないよう黙って見ていた。

 恭しく小瓶を押し戴いたリーシャが、その蓋を開けて宝玉の器に直接注ぐ。

 この寒さじゃあっという間に凍ってしまいそうだな、なんてまた余計なことを考えてしまう。注ぎ終わる頃、器の中で聖水に浸かった宝玉が淡い光を帯び始めた。見間違いかと目を擦ったけれど、光はじわじわと強さを増していく。

 外に光が漏れたら魔物に見つかるかも、と慌てて祠の扉を閉めた。

 その光に両手をかざして、リーシャは厳かに唄を、奏で始めた。あの古い魔法のような、僕には意味を聞き取れない、どこか哀しい響きの唄を。

 まろやかな歌声が伸びると同時に、宝玉の光が次第に、白から朱へと変わっていく。

 

 唐突に、

 異空間に投げ出された心地がした。

 

 何と表現したらいいのだろう。今までいた場所とは隔絶されて、足場がおぼつかないような、浮遊感に似た感じ。砂漠の静けさとも違う静謐な空間に、リーシャの歌声と息遣いだけがなぜか生々しく響く。

 その、まっさらな空間の中に────

 見えないのに。何も、視えないのに。

 潰されそうなほど深く重い慟哭が、どん、と幕が落ちたように一瞬で満ちてこの場を支配した。

 空気が。大気が。激しく揺さぶって感覚を全て捉える。胸が千切れそうな、苦しいほどの想いとでも呼ぶのか。怒涛の如く流れ込んで身体を、精神を砕いていく。これは怒りか。憤りか。為す術もないほどの哀しみか。痛み、問いかけ、求め恋う気持ち、落胆と絶望と虚脱と忿怒、怨恨、腸が煮えくり変えるほどの、

 ──────頭がおかしくなりそうだ。

「……っ、リーシャ……?」

 いつの間にか、彼女の歌声が聴こえなくなっていた。

 ぞ、と怖気が走って、無意識のうちに彼女が居た方へと駆け寄った。見えないその場所に手を伸ばし、何かを掴んで引き寄せる。均衡を崩しまろび落ちたその指先に、今この場を支配する朱い光の源が触れた────

 

 気がついたら、元の薄暗い祠の中だった。

 氷のような床に膝と掌をつき、脂汗を滴らせた僕が見たのは、驚愕に瞳を見開き真っ直ぐに僕を見上げるリーシャの顔だった。状況がすぐに飲み込めなくて、その瞳を見つめ返してからぎょっとした。倒れ伏したその下に、僕はリーシャを押し倒すように組み敷いていたのだ。

「うわっ‼︎ ご、ごめん‼︎」

 謝罪とともに身体を勢いよく跳ね上げ、彼女から飛び退った。ただの驚愕から、次第にほんのり頰を染めつつあったリーシャが「別に、いいけど。何よ、お化けでも見たみたいにさ」と不貞腐れて呟いた。そういうわけじゃないんだけど、今起きたことを咄嗟にうまく説明できなくて、どうにも口籠ってしまう。

 何も言えず俯いた僕に構わずリーシャは身を起こし、改めて祭壇の宝玉を浄めるべく立ち上がった。

「あ、れ?」

 上擦った声がして、今度こそ戸惑いを隠さず彼女が振り返る。僕も何事かと祭壇を覗き込んで────言葉を失った。

 さっきまで間違いなく乳白色だった。どこか古びた雰囲気すら帯びていた宝玉が、まるで研磨したての艶やかな紅玉にその姿を変えていたから。

「…………えっ、何? 何したの? テュールさん」

「え⁉︎ いや、何もしてないよ。本当に、ちょっとぐらい触ったかもしれないけど」

 真顔で話を振られ、動揺を必死に抑えて弁解した。おかしな空間に闖入して儀式を遮ってしまったことは認めるけれど、誓って僕自身が何かしたわけじゃない。

「でもあたし、こんな風になるなんて聞いてない」

 そんなこと言われても、本当に心当たりなんかない。訝しげなリーシャと今一度目があって、ぶんぶんぶんと首を振った。

「なんか、ものすごい……、辛そうな嘆きを感じたの……」

 吸い込まれそうな真紅の輝きを纏う宝玉を見つめながら、リーシャがぽつり、と小さな呟きを落とした。

 それは僕が感じたあの重苦しさと同じものだろうか。彼女の横顔を覗いて続く言葉を待っていると、彼女はゆるく息を吐いてふるふると首を振った。

「……でも、今はもう何も感じないわ」

 安堵と落胆が入り混じった言葉に黙って頷く。何事もなかったかのように、全ては夢の出来事だったみたいに、祠の空気はさっきここに入った時となんら変わらなかった。宝玉も特異な光なんて放っていない。ただその色味を大きく変えたと言うだけで。

 ……駄目だ、感覚が麻痺してる。白かった宝玉が深紅に変わったなんて、十分大層なことじゃないか。

「何だったんだろうな。さっき、光がどんどん朱に変わったと思ったら、急に……なんか、結界にでも放り込まれたみたいになって……」

「テュールさん、ねえ、さっきからどうしちゃったの? 光なんて……何も光ってないじゃない‼︎」

 悲鳴じみたリーシャの叫びに益々戦慄が走る。光って、ない?

 確かに発光していたんだ。その宝玉が、白く淡い光から血のような朱い光の渦へと変化して。リーシャには見えていなかった? まさか、今のは僕だけが視た幻だったとでも言うのか?

「え……待って。じゃあ、リーシャはさっきからずっとここで、変わらず歌ってただけなのか⁉︎」

「う、うん。あれ、テルパドールに伝わる子守唄なんだけど、浄めの儀式はあれを歌いながらありったけの魔力を宝玉に注いで来いって言われて」

「その間、僕はずっと後ろにいたよね? 黙って聴いてた?」

「と、思う……けど……」

 畳みかけるほどしどろもどろになっていく少女とまじまじと顔を見合わせた。そこそこ修羅場を潜ってきた自信があったけど、さすがにこんな奇妙な現象は初めてだし、想定外だ。

「……やだ、なんか、気味が悪いね……」

 悪寒を封じるように、リーシャが小さな肩を抱いた。ぶる、と震えたその背中を、今更ながら労いと慈しみを込めて撫でてやる。すっかり怯えた様子のリーシャが涙目で僕を見上げた。一人で来させるのもあれだったけど、僕が邪魔しなければ恙なく儀式を終えられていたのだろうから、やっぱり余計なことをした感は否めない。

「夜に来るのはやめておけば良かったかな……」

「うう……テュールさん、あたし帰り道怖くなってきた」

 静まりかえった祠は薄暗さも相まって、不気味なことこの上ない。自然、身体を寄せてきた少女の頭をもう一度撫でやり「少し休ませてもらってから、明け方に出よう。儀式……は、もう大丈夫?」と尋ねた。とりあえずここに居たくないというようにリーシャは必死に頷き、腕にべったりとしがみついた彼女を慰めながら祠を後にした。

 明るくなってからもう一度お浄めをやり直すべきか。軽く相談したけれど、宝玉の様子があまりに違ったこと、リーシャ自身がおかしな気配を感じなくなっていることから、朝もう一度だけ様子を見て、問題なければエピカに戻ろうという話になった。

 その後、テントのラグを借りてリーシャは死んだように眠ってしまい、僕もまた座ってうとうとしながら朝を待った。途中何度か浅い眠りに落ちたけれど、なぜかその度フローラの碧い髪が瞼の裏を過った。

 大丈夫かな。悪化していないといいけれど。

 翌朝、テントから見える海がようやく白らんで明るさを取り戻し始めた頃、まだ眠そうなリーシャを促して祠を出発した。

 発つ前に僕だけで祠を除いたけれど、やはりあれは夢などではなく、祭壇の中央には、昨夜はなかった真紅の宝玉が物言わぬ不思議な輝きを放ち、銀の器に収まっていた。

 

 

◆◆◆

 

 

 そこから一刻半ほど、魔物を回避しつつリリスに頑張ってもらって、エピカへと戻った。

 既にすっかり夜が明けて、集落は少しずつ朝の活気を帯び始めていた。砂塵を捲き上げつつ小さなオアシスへと駆け入ると、すぐに耳に心地の良い澄んだ声が「テュールさん!」と軽やかに僕を呼ばった。

「────フローラ⁉︎」

 聴き間違えるはずがない。声のした方を急いで探すと、朝日にきらめく湖畔の傍、伸びた椰子の木陰に座っている最愛の妻が目に止まった。仲良しの魔物達に囲まれた彼女は腰を半分浮かせ、僕と目が合うなり輝くように破顔する。たったそれだけで、僕の胸は一瞬で甘やかな幸せに満たされる。

「起きていて大丈夫? 体調はどう?」

 喜びに逸る心を抑え、水場の周りをぐるりと廻り失速するリリスの背から呼びかけた。久しぶりに太陽の下で見たフローラは、病の所為か前以上に痩せて見えたものの、花が綻ぶような春めいた微笑みはいつもの彼女そのものだった。ほんの五日ぶりのことなのに、ひどく懐かしいような気がする。行っておいでよ、と苦笑したリーシャに促され、礼を言いながらも忙しなく飛び降り、駆け寄った。

「はい、もうすっかり熱も下がって、こうしてお散歩させていただけるまでになりました。助けてくださったリーシャさんと集落の皆様、そして……あなたのお陰です」

 薄紅色の頰を撫でたら、幸せそうにやわらかな笑みを浮かべて掌へと頭をすり寄せてくれた。よくよく見れば彼女の周りには仲魔達だけでなく、集落の女性や子供達も集まっていて、物珍しげに彼女達を眺めていた。褐色肌の人々の中心に座り、背後の湖にも溶け込みそうな碧髪をなびかせ微笑む彼女は、その白さが益々際立って、この地に舞い降りた天空の女神にも見える。

 聖母の如く毒気のない穏やかさで仲魔達と戯れる、その様を見れば、彼らが人に害を為すだろうなどと思えるはずもない。現に数日前、僕がもらったような排他的な視線は今はどこからも感じなかった。

「油断するなと言うておろうが。言っておくがあと五日は最低でも様子見じゃぞ? 解熱くらいで出立の許可は出せんわ」

 とにかく元気になって良かった。そう言おうとしたところで、建物──診療所から出てきたマイヤ様が苦々しく牽制した。とは言っても老女の瞳はあくまで優しく、フローラの回復を心から喜んでくださっているのが見てとれる。

「高熱のあとは得てして肚の内がやられる。もう暫くは大人しく養生せい」

 ぶっきらぼうにも聞こえる忠告ぶりだったが、フローラはふわりと相好を崩すと、はい、と素直に頷いて主治医に向かって頭を垂れた。

 彼女のこういうところも、現地の人々の好意をいただける一因なのだろう。

 碧い髪がさらりと衣擦れめいた音を立てたところで、リーシャに手を引かれたレイラ様が現れた。こちらもほっとしたように表情を緩ませ、妹にぐいぐい引っ張られながらこちらへと歩み寄ってきた。

「お帰りなさいませ。まずはご無事で安堵致しました」

 丁寧に出迎えていただき、こちらも会釈を返す。フローラにも穏やかな視線を送り「奥様も大分お元気になられたようで。誠にようございました」と労りの言葉をかけてくださった。

 さて浄めの儀式の報告を、というところで、場所を改めることになった。込み入った話をするには衆目もあるし、戸外はぐんぐん気温を上げている。僕も既にじっとりと汗ばんでいて、病み上がりのフローラが長時間過ごして良い気候ではなかった。

 マイヤ様の屋敷でもある診療所の一階、殺風景な白壁の一室に通された。祠のテントにあったものに似たラグの上にそれぞれ腰を下ろす。フローラは部外者だからと同席を躊躇っていたが、身体が辛くないなら来るが良い、とマイヤ様に諭され、遠慮がちに僕の隣に座った。その反対側、レイラ様と僕の間にリーシャがちょこんと収まる。正面にマイヤ様がよっこらせと腰を落ち着けて、一同を見渡すとおもむろに口を開いた。

「今朝方、パデキアの成育を確認した。腐らせず済んで何よりじゃ。リーシャ、テュール殿よ。双方ご苦労だったの」

 どうやら上機嫌なマイヤ様の労いだったが、僕とリーシャは思わず顔を見合わせた。有り難いことだがどうにも釈然としない。

「テュール殿にはわからぬかもしれぬが。歪みの瘴気が消えておるじゃろう? レイラ、婿殿らも近く戻るであろうよ。安心せい」

 ほっとしたらしく柔らかな表情を浮かべたレイラ様を盗み見て、そうだ、彼女は身篭っていらっしゃるんだった、と昨夜の話を思い出した。腹部を見てもやはり子の有無はわからなかったが、どうやら伴侶……つまり赤子の父親が戻らないことを心配していらっしゃったのだろう。この件が解決して、戻る見込みが立ったのなら本当に良かった、と素直に思った。

 しかし、その隣のリーシャはまだ浮かない顔だった。ちらちらと僕と姉を見比べては、俯いて押し黙る。

 多分宝玉の件を言いたいのだと察しはついたが、僕も頭の中であの出来事を思い返しただけで黙っていた。

 だって、何をどう説明すればいいのか。結局儀式はうまくいっていたようだし、だったら別段追求する必要もない。

「どうしたの、リーシャ。何か気になることがあるなら言ってごらんなさい」

 珍しく静かな妹の様子を訝しみ、レイラ様が心配そうに隣を覗き込んで尋ねた。小さく肩を跳ねさせたリーシャが姉の瞳を見つめ返す。頷いてみせる姉に誘われ、意を決したようにそれを口にした。

「うん、あのね……姉様、マイヤ様。お浄めすると宝玉の色って変わるの?」

 僕も心密かに肯定を期待していたのだが、どうやら思いがけない問いだったらしい。レイラ様は驚いて目を瞠り、マイヤ様もまた眉間に皺を寄せてリーシャに続きを促した。

「どういうことじゃ。説明せい、リーシャ」

 こくんと頷き、リーシャは簡単に一部始終を語った。聖水にまじないをかけ、宝玉に注いだこと。祈りと魔力を篭めながら伝承の唄を奉じたこと。気がつくと、石が真紅の輝きを放っていたこと。その辺りを語った時には例の場面を思い出したのか、横顔ではあったがほんのりと耳許が赤く染まっていた。僕に中断させられた、とは決して言わない彼女に、ひたすら罪悪感が湧き上がる。

「私が以前お浄めしたときは確か、白い石でしたが……」

 レイラ様がまず不思議そうに首を傾げ、暫し思案したマイヤ様もやはり、レイラ様に同意した。

「儂が知る限り、あの祠の宝石はずっと以前から白じゃが。まことに色を変えたのか? 見間違いではあるまいな」

「今朝、祠を発つ前に僕がもう一度確認してきました。間違いありません」

 さすがにリーシャに丸投げで黙っているわけにはいかない。思い切って声を上げると、四方から視線が集まった。緊張をこくりと飲み込んで、自分が視たものを一生懸命思い返した。

 何も見えない目映い光。白から朱へ。身を裂くほどの凄まじい慟哭。聴こえなくなった唄、────そして。

「……すみません、実は僕が邪魔をしてしまって。彼女は正しい手順で儀式を行なっていたのですが、急に僕にだけ、光の幻が……見えたんです」

 よくわからない、と言うように困惑した様子のレイラ様が僕と、マイラ様の間で視線を泳がせた。リーシャは尚も不安そうに僕を肩越しに見上げ、マイラ様は黙って続きを促した。

「リーシャは光などなかったと言っていたので、僕だけそういう錯覚をしたのかなと思うんですけど。初めは白かったその光が、途中から朱に変わりました。眩しくて、いつの間にか彼女の姿を視認できなくなってしまって。それで手探りで彼女を探し当てて……その時一瞬、宝玉に触れてしまったかもしれなくて」

 そこまで言い終えて、僕は緊張しながらマイヤ様の見解を待った。

 こんな荒唐無稽な話、しかも同じ場所に居たリーシャには全く確認できなかった出来事を信じてもらえるだろうか。少なくとも、一連の僕の行いが原因でもしも宝玉に支障を来たしていたのであれば、責めをいただくのは僕であるべきだ。

「…………『儂が知る限り』、あの宝石が赤かったことはない」

 老女の沈黙は長かった。静まりかえった室内に外の子供や仲魔達が戯れる声が小さく聞こえて、しかしどうにも居た堪れなくなってきた頃、マイヤ様は旧い記憶を述懐するように、どこか遠くへと視線を馳せた。

「じゃが、遠い古の……伝承を綴った書を昔、読んだことがある。そこには異界の歪み、嘆きを鎮めんとして、『ルビーの涙』なる深紅の宝玉を奉じこれを治む、とあった」

 ルビーの、涙。

 それ自体に聞き覚えはなかったが、ああ、だからあの形か、とすんなり腑に落ちた。小さな卵に似た丸みを帯びた宝玉は確かに、涙の形にも似ていた。

「永い刻の中で、何らかの要因があって元々の宝玉は失われ、違う宝玉を奉じることになったのだろうと思うておった。……ならば、それこそがあれの本来の姿なのやも知れんの」

 しみじみと独りごちたマイヤ様は、その皺だらけの目許に、僕には思い至れぬほど深い感慨を滲ませていたのだった。この人をはじめ、テルパドールに生きる人々が守り続けてきた、この大陸に刻まれた遠い遠い古の記憶がある。その伝承の一端が昨夜、あの祠で再生を遂げた。夢みたいな話だけれどもしかしたら、僕はそんな奇跡の瞬間を目の当たりにしたのかもしれない。

「歪みはこれまでにないほど落ち着いておるよ。儀式は成功しておる。恐らくここ数百年で例を見ないほど、完璧にな」

 もう一度、力強く肯定したマイヤ様はこれ以上ないほど満ち足りた微笑みを浮かべていらした。ふと左の二の腕の温もりに惹かれてそちらを向いたら、フローラの優しい眼差しが僕を見上げてくれている。ああ、これで本当に良かったんだな。この時初めてそう思えたと共に、胸にひどく熱いものが込み上げた。

「テュールさん、あなたってほんとに一体……」

 反対側からまだ怪訝な顔をしたリーシャがまじまじと僕を見上げたが、もう一度首をぶんぶんと激しく振って否定した。

 きっとたまたまそうなっただけだ。よくわからないけど、この大陸の伝承なんて僕は本当に、全く関係ないんだし。リーシャの類い稀な力による奇跡なんだろう。寧ろ、僕の邪魔で儀式が失敗に終わらなくて本当に良かったと思わないと。

 そう自分に言い聞かせて一人勝手に胸を撫で下ろしていたら、マイヤ様が珍しくもにんまりと口角を持ち上げ、愉悦混じりに僕を見て言った。

「いや、それにしても此度はまこと恐れ入った。エルヘブンの民を常識で測ってはならぬということか」

 ……ん?

 全く聞き慣れない単語に思わずフローラを振り返ったが、彼女も心当たりはなかったらしく戸惑いつつ僕を見上げた。思わず二人して首を傾げると、老婆は皺だらけの緩い皮膚に埋もれた瞳をぱちくりと瞬かせる。

「ん? そなた、エルヘブンの民ではないのか」

「え、っと……」

 そんな当たり前のように問われるとは思っていなかった。慌てて視線を泳がせ答えを探す。と言っても、僕が答えられることなんて一つしかないけれど。

「すみません、そのエルヘブンっていうのは、わかりません。出身という意味なら、僕の故郷はサンタローズです」

 残念ながらそちらの方こそご存知ではなかったらしく、今度はマイヤ様が首を傾げた。無理もない、サンタローズはここから遠く離れた、北の国の辺境にある本当に小さな村だから。

「ラインハット王国の、西側にある小規模な村です。昔一度焼け出されましたが、最近少しずつ復興していて。……あ、でも、父はどこか違うところの出身だったのかな。詳しい事は僕にはもう、わからないんですけど」

 説明しながらふと、疑念が湧いた。僕の何をご覧になってそう思われたのかはわからないが、もしやマイヤ様は、父の故郷に何かお心当たりをお持ちなのでは。

「あの、すみません。そのエルヘブンの民、というのは」

 辿りようがないと思った父の素性への手掛かりかもしれない。思わず勢い込んで尋ねたが、マイヤ様は急に冷めた目で僕からつと視線を外すと、緩く首を振った。

「お主らにはちと喋りすぎた。これ以上のことは、必要とあれば我らが女王が語られるであろう」

 抑揚のない声に、がつんと頭を殴られた心地がする。わずかにちらついた希望の道筋を呆気なく断たれ、僕はさぞ情けない顔をしていたことだろう。縋るようにもう一度マイヤ様を見つめれば、苦笑と共に宥めるような声が降る。

「なんじゃ。謁見しに行くのではなかったか」

「……お会いできるんですか? 本当に、一介の旅人風情が」

「王家ではないと言わんかったか?」マイヤ様が呆れたように答え、再び密やかに笑う。「そう畏ることはない。女王は気安いお方じゃ。大体、勇者の墓の扉は女王にしか開けられぬ」

 そうか、そうだった。本来の目的を今更思い出し苦い息を吐く。情報が多すぎて頭の整理がついてないけど、僕達は勇者の墓を訪う為にテルパドールを目指して来たんだった。

 今更ながら、ここが異郷の地なのだと痛感する。伝説はもう、目と鼻の先なんだ。

「奥方殿、病み上がりに長々付き合わせてすまなんだな。下でゆっくり休んでおいで。テュール殿、お主も水浴びでもして休むが良い。下までは付き添いを頼むぞ」

 有り難く頷いて、フローラを支えて立ち上がろうとした矢先。視界の端に、大きな瞳を揺らめかせたリーシャが食い入るように僕を見上げているのが映った。

 ただならぬ様相に思わず膝をつき直し「どうかした? リーシャ」と尋ねる。フローラも僕のすぐ傍から、心配そうに少女を見つめていた。

 それくらい、この時のリーシャは今にも泣き出しそうに見えたのだ。

「テュールさん、お城? 行っちゃうの?」

 まるで迷子の子供みたいに、覚束ない声でリーシャは訊ね返した。ああ、寂しいのかな。随分懐いてくれたから、そんな風に思って微笑みながら淡い紫の小さな頭を撫でた。

「ああ、うん。フローラがもう少し良くなって、マイヤ様のお許しをいただけたら、ね」

 柔らかな前髪の下、睫毛を伏せた彼女がどんな顔をしているかは見えない。ただ、別れを惜しんでくれるのは純粋に嬉しかったから、もう少し身を屈め、彼女と目の高さを合わせて覗き込んだ。

 たった数日だけど、本当の妹みたいに思っていた。

「リーシャ、ありがとう。君のお陰でフローラを助けてもらえた。……儀式の邪魔、して本当にごめんね」

 君ならきっといつか、素晴らしい女王になれる。

 もう一度優しく前髪を撫でて、手を離した。改めてフローラの方を向いたら妻の真剣な眼差しはまだ真っ直ぐリーシャに縫い止められていて────あれ、と思うのと背後から微かな囁きが聞こえたのは、ほとんど同時だった。

「……っちゃ、嫌……」

 え?

 勘違いかと思うほど小さな声だった。いつも明るいリーシャらしからぬ、弱々しい響きに動きを止め、引き寄せられるように振り返る。

 ……こんな顔をする少女だったか?

「嫌よ。これでお別れなんて絶対、嫌……!」

 まだ幼いと思っていた。その瞳を溢れそうなほどの涙で潤ませて、彼女はありったけの感情を、悲痛な叫びと共に迸らせた。

 ────その瞬間、僕は自分が犯した過ちを悟ったのだ。

「行かないで。お願い、置いていかないで……! こんな気持ち初めてなの。駄目だってわかってるけど、やだ。離れたくない、離れたくないよ……!」

 紫の外套を掴んで濡れた頬を擦り付ける。初めて取り乱した姿を見せる少女を突き放すことが果たして最善なのか、良心と我欲の狭間でどうにも身動きができず固まってしまう。恐ろしくてフローラの方も見られない。応えられないと、僕自身に彼女を受け入れる気などこれっぽっちもないとわかっていて、そのくせ好意を向けられていることは、きっとこれまでに何度も自覚する機会があったのに。

 何でここまで鈍感でいられるんだ。本当に、自分の愚かさが嫌になる。絶対に誰かを傷つけざるを得ないその瞬間まで、中途半端に優しくして。

「リ、リーシャ? 突然何を言い出すの」

 きっと僕より先にフローラを気遣ってくださったレイラ様が、おろおろと妹を宥めたが、リーシャは強い眼差しで姉を見つめ返すと、揺るぎない声で告げた。

「突然じゃないわ。ここに案内した時からずっと素敵だなって思ってた。フローラさんを一生懸命看病している姿がすごく一途で、益々惹かれたわ。それで、……祠に行く時、私を守ってくれたり…………、して、もう、もう……自分を誤魔化しきれなくなっちゃったの……!」

 妹のように感じていた愛らしい褐色肌の少女は、涙に濡れた頬を赤く染め、手を固く握りしめて震えている。見たこともない女の瞳をして、姉へ、僕へとその想いを切々と訴えかける。正直なんとかして遮りたくて、でも久々に頭のてっぺんまで茹で上がってしまった僕に、気の利いた返しなど思いつけるはずもなく。

 頼む、待ってくれ。これ以上聞いてはいけない、言わせてはいけないと僕の中の警笛が全力でがんがん鳴っている。たった今自分が真っ赤なのか真っ青なのかもわからないほどだ。我ながら人でなしだと思うがこの状況、僕にとっては一番見せたくない、聞かせたくない人が今まさに隣にいるんだ。

「フローラさん、ごめんね。あたしもテュールさんが好き。大好き……新婚旅行の最中だっていうのに、こんなこと言って本当にごめんなさい……!」

 よりによって僕を挟んだ向こう側、フローラに向かって身を乗り出したリーシャは切なすぎる涙声で訴えた。いや、マイヤ様に勧められたからなんだけど、本当になんでこの場にフローラを連れてきてしまったんだろう。というか、それをフローラに言ってどうするつもりだこの子は!

 リーシャ、と何とか呼び掛けようとしたら、ぐい! と胸元に抱きつかれた。均衡を崩してそれを押し返す余裕もなく、尻餅をついた僕に乗り上げた少女はひどく興奮した様子で猛烈に懇願した。

 

「────ねえ! 結婚して下さい、テュールさん。あたしもあなたのお嫁さんにしてほしい。ずうっとあなたの側にいたいの。大丈夫、フローラさんのことは正妻としてちゃーんと尊重するわ! 古代魔法だって使えるし、まだ十四歳でこれからが食べ頃だし、なんなら女王にだってなれちゃう力の持ち主よ? 絶対絶対、絶っっっ対に後悔なんかさせないから‼︎」

 

 正妻って。食べ頃って。いったいどうしたらこのあどけない少女の口からそんな単語がぽんぽんぽんぽん出てくるんだ⁉︎

 半ば僕を押し倒した格好で、息もつかせず畳み込む。とんでもない要求に必死に言葉を探すも、情けないことにぱくぱく唇を震わせるしかできない。隣で話を聞いていたフローラも、すっかり真顔で固まっている。それは他の面々も同様で、姉であり族長のレイラ様は呆れた様子で深々と重い溜息をついたし、マイラ様もやれやれと苦笑いしながら、順繰りに僕達の顔を窺い見た。

 その表情に、不謹慎にも末恐ろしい考えが頭を過る。

 王位を継げるほど強い、占術師の力。

 先読みにも長けた彼女がこんなことを言い出すということは、

 …………まさか。

 

 

 

 ────これこそが、このアルディラ大陸で僕とフローラに降りかかった、本当の波乱の幕開けだった。



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#16. 甘くて、苦い~side Flora

 あたしも、あなたのお嫁さんにしてほしい。

 

 瑞々しい果実のように弾ける愛らしい声音で、少女は確かにそう請うた。呼吸ごと凍りついた夫の胸許に縋りつき、食い入るように彼を見上げて。

 まだ、私はあまりお話出来ていない方だけれど。私が急な発熱で人事不省に陥り、しかし集落が見つからず途方に暮れていたその時に駆けつけてくださったのだと、ずっとそばについていてくれたテュールさんが話してくださった。

 健康的な褐色の頬は熟れた桃のようにほのかに染まり、赤みを帯びた夕闇色の瞳はきれいな涙で潤む。ひたむきなその眼差しは、真っ直ぐに彼へと向かう熱く切ない想いを何より雄弁に物語っていた。

 こんな、きっと彼女にとってものすごく大事な場面に居合わせてしまって、私は一体どんな顔をしたらいいのか。

 なんとなく、だけれど。私は今、夫の心を微塵も疑ってはいない。秘密裡に彼女と通じ合うような方ではない。それくらい、私は今彼を無条件に信じていて────そんな身勝手な確信があること自体がもう、……苦しい。

 傲慢だわ。彼の心は彼自身だけのものであるべきなのに、連れ添って久しい夫婦ならいざ知らず、どうしてここまで臆面もなく、彼の気持ちが私にあり続けるなんて言えるの。

「……それは、できないよ。リーシャ」

 そんな私の愚かな期待を肯定するかのように、彼は優しく、残酷な答えを口にする。

「君も知っている通り、僕にはもう大事な人がいる。誰も彼女の代わりになんてなれないんだ。リーシャの気持ちは勿体ないくらいだけど────」

「もう。何を聞いてたの? あたし、フローラさんの代わりになりたいなんてひとっことも言ってないわ!」

 努めて穏やかに諭すテュールさんを、憤慨した様子のリーシャさんが遮った。え、と思うより先に少女がずいっとテュールさんに顔を近づけ、強張った彼の眼前で意気揚々と声を上げた。

「だからね、二番目でいいの。フローラさんが一番、あたしが二番! ねっ? だったら問題ないでしょう?」

 ……問題、ないのかしら?

 あまりにあっけらかんとした物言いに毒気を抜かれてしまう。目をぱちぱち瞬かせてから彼の横顔をそろりと見ると、すっかり困惑した様子で固まっていた。

 贔屓目を差し引いても清秀な顔立ちの夫は、その複雑な生い立ち故か、全くと言っていいほど色恋沙汰に慣れていない。……それは私も同様なのだけれど、だからこそ今のこの状況は、彼にとって酷だとすら思える。

「おやめなさい。リーシャ、お二人はテルパドールの民ではないのよ」

 レイラ様が眉間に皺寄せ厳しく苦言を呈するも、少女は少しも怯まない。あ、そっか。そうよね! と手を打つと、再び私達……否、テュールさんの方を向き直った。

「ご存じなくても無理ないわよね。北の方の大陸では普通、一人の方とだけ結婚するものなんでしょう?」

 無邪気なまでの彼女の問いかけに、固まりっぱなしの夫に代わってなんとか頷いてみせる。彼女の言葉の通り、私達の故郷では婚姻とは普通、一対の男女間で結ばれる。二番目、というと思い起こされるのは不貞や妾という形か、一人目の伴侶と離縁や死別などして結ばれる、といったケースだ。特に一つ目はあまり推奨される概念とは言えない。少なくとも、私達の日常では。

 だけど、私は以前読んだ書物で目にしたことがあった。子孫を繋ぐため、複数の伴侶を得ることを是とする部族が存在するのだと。

「テルパドールには妻を二人、三人持っちゃいけないなんてしきたりはないの。そりゃ、おうちの決まりとかでテュールさんが絶対一人しかお嫁さんを持っちゃいけない! っていうならしょうがないわ、お妾になるしかないけど。フローラさんと別れてなんて言ってないから! フローラさんは正妻。あたしは二人目。それでいいじゃない?」

 くらり、と目眩に似たものを覚えながらも彼女の言葉を反芻した。恐らく彼も同じだろう。彼女にとっては当たり前なのかもしれないけど、二番目で良い、なんてこんな前途明るいお嬢さんに言わせたくない。

 ……だからって、彼女を受け入れて差し上げて、なんて私に言えるはずもなく。

「リーシャ。いい加減になさい」

 苛立ちを隠さないレイラ様の叱責が飛んだが、やはり少女はわずかにも退かなかった。強い眼差しで姉を正面から見据え返し、きっぱりと告げる。

「嫌よ。あたし、撤回なんかしない」

 真摯なまでの横顔はとても気高い。まだ幼いはずの、何者にも惑わされない凛々しい少女の姿に思わず嘆息が漏れる。

「一度だけチャンスを頂戴って、言ったでしょ。真剣なの。どうしても駄目ならそれでいいわ。でも、すぐに結論なんて出さないで欲しい。テュールさんにもっとあたしのこと、知ってもらってから返事を聞かせて欲しいの」

 寸分の迷いも躊躇いも見せずに言い切った彼女は、言葉も出ない姉を再度一瞥してから私達の方へと向き直った。

「ねぇ、お二人は出会ってもう長いの? 初めて会ってからどれくらいで結婚したいって思った?」

 無邪気とも言える問いかけが、およそ半年前の記憶を鮮やかに呼び醒ます。

 私は、一目見た瞬間この方だって思ったわ。

 あの日、私は父に結婚相手を無理矢理決められてしまうところだった。何らかの条件を課すとはいえ、私の意思など介在しないはずだった。それでも、────それなのに、私は彼でなくては嫌だと、思ってしまった。

 結ばれた今だから運命などと言える。けれどもし、それが若さ故の愚かな思い込みに過ぎなかったとしたら。

 何より守るべき天空の盾を二の次にして、彼への想いに溺れたことを今、悔やまずにいられるのは……ただの幸運でしかないのかもしれない。

「結婚……は、多分、出会ってすぐ……」

「すぐ⁉︎ えっ、それじゃ初めましてのあとすぐにプロポーズしたってこと⁉︎」

 リーシャさんが興奮気味に声を上げたが、驚いたのは私も同じだった。慌てて声の主を振り返れば、私の反応に驚いたらしい彼が少し眼を円くしてこちらを見下ろした。「あれ、言わなかった?」と言いたげな戸惑いが濃紺の瞳に浮かんでいる。……いいえ、思い返せば確かに、そんな話もしたはずなのだけれど。

 どうしてかしら。私ばかりが一目惚れしたのだと、ずっと思い込んでいた。

「……いや。求婚自体は確か、二、三週間くらいしてから、だったよ」

 緩く息をつき、テュールさんが穏やかに答えた。そこはかとなく高揚した気配を感じてしまうのは、私が舞い上がっている所為に違いない。

 リーシャさんはそんなテュールさんを見上げながら、ふぅん、と小さく頷く。

「じゃあ、あたしにも同じだけ時間を頂戴? せめて二週間経つまで返事はしないで。ちゃんとあたしのこと見て、知ってから答えを出して欲しいの」

「その間テュールさん達にどうしていただくつもり? お二方は旅路を急がれているのよ。あなた一人のためにお引き留めするわけにはいかないの」

「だったら、あたしがお城までついていく!」

 強い口調のレイラ様より更に通る声で、リーシャさんは再び高らかに宣言した。えっ、とそれぞれに度肝を抜かれた私達を得意げに見遣り、少女は胸を張って尚も言い募る。

「旅の足を止めさせたりしないわ。マイヤ様のお許しが出たらあたしも行く。そうよ、大体二週間くらいで着くもの! ちょうどいいでしょ」

 どうやら、彼女の中では既に決定事項らしい。うきうきと予定を述べるリーシャさんと、次いで周囲の人々を今一度見渡せば、レイラ様はひたすら申し訳なさそうに肩を落としていらして。彼女の所為ではないのに胸が痛い。しかしすっかり青くなっているテュールさんを見ていると、本当に気の毒に思えてくる。さっきから焦点があっていないというか、茫然自失としていて、私の方をちらりとも見てくださらない。

「もう、本当に勝手なことばかり言って……」

「そうでもなくなったようでな。レイラよ」

 いつの間にこの場を離れていらしたのか、マイヤ様が入口の方から杖を鳴らしつつゆったりと歩いてこられた。その背後を、初めて目にする男性が付き従う。褐色の肌に銅のような明るい茶色の髪を揺らした彼は、私達の手前に佇んだレイラ様に目を留めると嬉しそうに頬を弛ませた。

「ダナン!」

「レイラ。ごめん、すっかり遅くなって」

 青年が声を発するより先にレイラ様が歓喜の声を上げる。腕を広げ、幸せそうに駆け寄るお二人を見て、ああ、この方がレイラ様が待っていらした伴侶の方なのだとすぐに察せられた。「心配かけてごめんな。身体は大丈夫?」と問う彼に、レイラ様はほんのりと頬を染めて緩く首を振って見せる。そのやり取りからなんとなくあることが察せられて、思いがけずほわりと温かな心地になった。

「問題ないわ。元気よ。良かった、あなたもご無事で……」

 喜びを滲ませて答えると、レイラ様は改めて私達の方を向き直った。

「失礼いたしました。彼はダナン、私の夫です。惑わしの霧の所為で中々戻ってこられなかったのですが、……たった今、帰ってきてくれたようで」

「うん。全然エピカが見えなくて焦ったけど、全員無事だから安心して。……そちらは、旅の方ですか? 珍しいな」

 優しげな雰囲気がどことなく、テュールさんと似ている気がした。視線を振られて、呆然としていたテュールさんが慌てて背筋を伸ばし直す。

「あ、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。お察しの通り、旅の者です。数日前、妻が突然病に倒れまして、マイヤ様の元で養生させていただいているところです」

 テュールさんの紹介に合わせて私も軽く膝を折った。久々の夫との再会で見たこともないほど柔らかな表情をなさったレイラ様が頷き、私達を掌で示してテュールさんの紹介を引き継いでくださった。

「テュールさんと、奥様のフローラさんよ。リーシャが見つけて連れてこられたの。お城に行かれる途中で、奥様が熱砂病に罹られてね」

 熱砂病の名が出た瞬間、彼はああ、といたましげに目を細めて私を見る。鏡は見ていないけれど、随分と長く寝たきりでいたからやつれてしまっていたのかしら。テュールさんの隣でみっともない姿を曝してしまっているかも、と思ったら急に恥ずかしくなり、熱くなった頰をさりげなく抑えた。

「そうか、それは間に合って本当に良かった。熱砂病は発症から一刻を争う病ですから……リーシャはお手柄だな」

 穏やかな義兄の労いに、それまで黙って聞いていたリーシャさんが「そうでしょ! 占いで見つけて、迎えにいったの」と声を弾ませた。姉婿であるダナンさんに随分と気を許している様子が窺える。

「あのね、テュールさんってすごいのよ! 剣も強いし、あたしと一緒に惑わしの霧も晴らしてくれたの。でね、今あたしとも結婚して! ってお願いしてるところなんだ!」

 先ほどからこの場で何度も繰り返されている提案だが、初めて聞いたダナンさんはぎょっとして眼を瞠った。テュールさんとリーシャさんをまじまじと交互に見つめ、恐る恐る問いかける。

「えっと、リーシャ? お二人はご夫婦なんだろう?」

「え? うん。だから、二番目の奥さんにしてって言ってるんだけど」

 相変わらずきょとんとしてリーシャさんは答えたが、ダナンさんはすっかり面食らったという表情で顔を覆った。その肩に寄り添ったレイラ様もまた溜息混じりに首を振る。私達が外の人間だからかもしれないが、彼らを見ていると既婚者に二人目の妻を薦めること自体はそこまで良くあることでもないのでは、という気がしてくる。あくまで諸事情により、そういうケースもある、ということなのかも。

「これ、リーシャ。まずはこの老いぼれに話させてくれんか」

 マイヤ様がくつくつと笑いながらもリーシャさんをやんわり宥めた。さすがのリーシャさんも老医師ばかりは尊重するものらしく、黙って頷くと大人しくラグの上に腰を下ろした。

 彼女に続いて全員がその場に座り直し、一同を満足げに見渡すと、マイヤ様は手に持った羊皮紙を広げ重々しく宣告した。

「城からのお召しじゃ。リーシャを女王従きの女官に任ずると」

 瞬間、ダナンさん以外の面々に少なからずの動揺が走る。多少の心構えはしていたのだろうが、レイラ様もリーシャさんも表情を硬くしてマイヤ様を見つめた。

「ユノ嬢の輿入れが決まったそうでな」

「ユノ様が? ……ああ、そっかぁ」

 どなたなのか、その名を聞いた途端リーシャさんがふっと力を抜いた。テュールさんが覗き込むと「女官長をなさっている方よ。むかーし、小さい頃に何度かお会いしたことがあるわ」と首を傾げて言った。

「もうすぐ新年だからね、他にも二、三人実家に戻られるそうなんだ。リーシャの他にも何人か呼ばれている。リーシャ、すぐに支度できるかい?」

 霧の所為で報せるのが遅れてしまったから、とダナンさんは申し訳なさそうに言い添えた。できるだけ早く彼女を連れて再登城しなくてはならないということなのだろう。不安そうに夫を見つめたレイラ様にすぐに気づくと、ダナンさんは妻の髪を撫で「今回はリーシャを送り届けるだけだから。一ヶ月くらいで戻るよ」と優しく言い聞かせた。

 私が思った通りなら、お一人で待つのはさぞかし心細いことだろう。まだそこまでお腹は目立っていらっしゃらないけれど。

「女王直属の女官というのはの。テルパドールに於いては、言うなれば次期女王候補じゃ」

 余所者の前でそんなことまで話していいのか、と言いたげにダナンさんがマイヤ様を凝視したけれど、マイヤ様は涼しい顔だ。

「今の女王従きも粒揃いではあるが、ユノ嬢ほどの力の持ち主はおらんでな。まぁ、順当じゃろう。どうする? リーシャ。嫌と言うならば断りの手紙を書いてやっても良いが」

 とんでもない、とまたもや青褪めたレイラ様を尻目に、リーシャさんは「んー」と小さく唸っている。少しだけ思案すると「ねえ、マイヤ様。お城に着いた時点であたしが結婚相手を決めていたら、女官のお話はご破算にしてもいいのよね?」とこれまた恐れ多いことを平然と言い放った。

「まぁ、そうなるの。決めてしまったものは致し方あるまい」

 女王様直々の任命ではないのかしら。マイヤ様は孫の我が儘でも聞くようにくつくつ笑うと「まあ、良い。手紙は二通書いておいてやるとしよう」と言い、カツカツと杖をつきながら奥の部屋へと消えていった。

 丸い、小柄な背中を茫然と見送っていたテュールさんの精悍な腕を、リーシャさんがじゃれつくように絡みついて引っ張った。

「あ。義兄さんは今回ついて来なくて大丈夫よ。あたし、テュールさんにお城に連れてってもらうから!」

 まるで恋人同士のように、目の前の夫が可愛い少女に寄り添われるのを目の当たりにして、私はなんとかして動揺を押し込めるので精一杯だった。視界が一気に灰色の感情で埋め尽くされ、ぐらついていく。

 私、いま、ちゃんと笑えているかしら。

「何よ。行き先が同じなんだから良いでしょ? もしかしたらそのままお嫁に行くかもしれないけど、そこはなるようにしかならないわよねー。それに、義兄さんはいい加減姉様の側にいてくれなきゃ。生まれてくる子にお父さんって呼んでもらえなくても知らないわよ!」

 姉夫婦は再び顔をしかめたが、リーシャさんは悪びれず言ってのける。ああ、とテュールさんも頷き「そうだ。すみません、全く気づかず……来年、とお聞きしましたが」とおずおず切り出したのを見て、彼はリーシャさんからお聞きになってご存知だったのね、と合点がいった。

「ああ、はい。予定日は年が明けてふた月くらいなので、一応間に合うかな、と思ってはいるんですけれど」

 遠慮がちなダナンさんの回答とレイラ様の不安げな眼差しを受けて、テュールさんがもう一度深く頷く。

「今から往復すると、お戻りは新年ぎりぎりになってしまうのではありませんか。確かに、身重でいらっしゃるなら余計に、ダナンさんがお側についておられた方が良いと僕も思います」

 それは私も同意見だった。初めての出産を控えていらっしゃるなら尚のこと。身重でありながらこの集落をまとめていらっしゃるレイラ様の重圧を誰より支えて差し上げられるのは、きっと夫のダナンさんの他にはいらっしゃらない。

「行き先は同じです。僕達を信頼していただけるのであれば、リーシャはテルパドール城まで責任を持ってお預かりいたします。妻を助けてくださった皆様へのご恩返しだと思っていただけたら、僕としても大変有難いです」

 やはり、さっきからこちらを見ようとはなさらないけれど、テュールさんは声音だけで私を労わりながらきっと最善と思える提案をして下さった。彼にしがみついたままのリーシャさんも「ほらぁ!」とばかりに姉君の表情を窺う。それでもレイラ様は私を慮って下さっていたようだったが、「夫が申し上げた通りですわ。今は、ご自身とお腹のお子様を大切になさることだけを考えていてくださいまし」と私からもお願いして、ようやく渋々了承していただけた。

「本当に、申し訳ありません。妹の非礼をお許しください、などと到底申し上げられたものではないのですが」

 ご夫婦揃って深々と頭を下げられ、慌てて姿勢を正すよう懇願する。ここにきてさすがのリーシャさんも興奮が落ち着いてきたようで「我が儘を押し通しちゃってごめんね。フローラさんも、本当にありがと」ともじもじしながら話しかけてくださった。

「あたし、フローラさんに嫌な思いさせないようにする! 絶対絶対、役に立っていい子にするから、安心してね‼︎」

 両手をがしりと掴まれて熱烈に訴えられれば、私はまたにこやかに頷く以外ない。

 まだ少し不安げな三者の眼差しに見守られ、思った以上の長丁場となった会合はこれにてようやくお開きとなった。

 

 

 

 抱き上げようとして下さったテュールさんを慌てて止めて、それでも階段だけは支えていただきながら地下の薬草園へと戻った。

 先にお仲魔の皆さん達も戻っていらして、私達の姿を認めたホイミンちゃんが嬉しそうに旋回する。けれどテュールさんが穏やかな微笑みで彼を制すると、すぐに何かを察してくれたらしく少し離れたところに集って興味深そうにこちらを眺めていた。

「……大丈夫?」

 過ごし慣れた、少し硬いベッドにそろりと腰を落とすと、テュールさんがどこか申し訳なさそうに私を覗き込む。

 唇を開いても言葉にはならず、せめてもと首肯して見せたけれど。思わず視線を泳がせると彼はますます気まずそうに顔を顰め、漆黒の瞳を伏せた。

「えっと、……その」

 歯切れの悪いそれはやはり会話として続かなかった。何か言おうとして下さっているのはわかる、けれど、私がどうしても目を合わせられなくて。お互い、膝の上で組んだ指ばかりを眺めながら、どちらともなく苦い息を吐く。

 暫し、この場には居た堪れない沈黙だけが満ちた。

「……やっぱり、テュールさんはどなたから見ても魅力的なんですね」

 胸の内に湧き上がる燻りを何とか押し込め、思いきって言葉を発した途端、テュールさんが激しく狼狽えて顔を上げた。

「そんなこと、ないって」

「もう。素敵ですわ、私が誰よりお慕いする方なのですから」

 軽く唇を尖らせて被せるように訴えると、彼は耳まで綺麗に赤らめ、また俯いた。こんな表情を見せて下さるのは珍しい。初々しくてお可愛らしくて、張り詰めていた緊張が少し解れたかもしれない。思わず口許を緩ませた私をそろりと見遣り、彼はまた、どこか萎れた微笑みを向けてくれた。

「うん。……懐いてくれてるな、とは思ってたんだ。兄妹みたいだなって。でも、今更だけど……もう少し距離をとっておけば良かったな、とも思って。異性、だもんね」

 ああ。

 己の内に潜む、どろりと昏い感情に足首を掴まれる。

 私、いま、どうしようもなく嬉しい。そしてそんな浅ましい自分が、どうしようもなく煩わしい。

 疑っているわけではないの。信じられないわけじゃない。なのに、あなたが私のために心を尽くして、誠意を向けて下さることが、こんなにも────

「白々しく聞こえるかもしれないけど、僕の妻は君だけだ。本当にそう、思ってるから……」

「はい」

 どうかこの、醜い本音に気づかれませんように。

 細心に、愚かな自分を蓋して。微笑みを繕い彼を見つめ返す。

「私こそ、ごめんなさい。あんなふうに言わせてしまって」

 どんなに嫉妬が燻っても。私の中にもやもやした、重苦しい黒い感情が渦巻いたとしても。

 女性に、まして親しくなった年下の女の子に冷たくあたるあなたを見て、安心するような自分にはなりたくない。

 私だけだと言って。他の誰も好きになんてならないで。

 こんな我が儘、身勝手極まりない望みを、もしもあなたに気づかれて軽蔑されてしまったら?

「大丈夫です。信じて……、いますから」

 できる限りの笑みを顔面に貼り付けたまま、そう告げた。私の緊張とは裏腹に、彼は漸く心からほっとした様子で肩を落とす。膝に肘をつき息を吐いた、そのお顔を覗き込んだら彼はひどく自嘲めいた笑みを滲ませた。……聞こえるか聞こえないかくらいの微かな囁きをぽつり、零して。

「ごめん。君に嫌われたら、どうしようって思って……」

「────嫌いになんて」

 思わずその黒曜石の瞳を覗いたら、濃紺の虹彩にいとも容易く搦めとられた。

 穏やかに揺らめく双眸と交わったが最後、惹きつけられて逸らすことなどできない。わずかに震えた私の頬を、彼の大きな掌が滑って包む。とくんと高鳴った心臓を思わず抑えたら、彼は少しだけ困ったように優しく笑った。

「こんな、情けない夫でも?」

 真っ直ぐに見つめられたら何も言葉に出来ない。

 私はきっと、真っ赤に染まってしまった顔を小さく頷かせるので精一杯だった。

 どうしようもなく、好きなの。

 嬉しそうに目を細めたテュールさんの吐息が近づく。甘やかな期待にまた鼓動が跳ねて、私は促されるまま、そっと瞼を伏せていく。

 唇が、触れそうに近づいたその瞬間、

「あーん、妬けちゃうなぁ。テュールさん、次はあたしにもしてくれる?」

 唐突にあどけない声が場を割いた。ぶわっ、と弾ける羞恥と共に勢いよく振り返ったら、ついさっき彼に熱い想いをぶつけたばかりの紫髪の少女が愛らしく小首を傾げ、私達を覗いていたのだった。ほんの四、五歩の後方から。

「リッ……リーシャ、いつからそこ……」

「ちょっと前ですぅー。んもう、本当にフローラさんのこと大好きなのね。まさかここまで気付かれないとは思わなかったわ」

 赤面したまま固まった私達を眺め、ころころと彼女は笑う。屈託ない笑顔の前で、あまりのばつの悪さに私も彼も互いから顔を背けて向き直ることもできない。

「水浴び用の浴布持ってきてあげたの! 折角下に降りたばかりで悪いけど。フローラさん、ずっと伏せってたからちゃんと汗流したほうがいいでしょ? あたしが手伝ってあげる。行こ!」

 大して気にした様子もなく、リーシャさんは私に歩み寄るとするりと腕を絡ませた。誘われるまま立ち上がり、引かれるままに階段へと向かう。ちらりと背後を振り返ったら、尚も首まで赤らめたテュールさんとどこか嬉しそうな笑みを浮かべた仲魔の皆さんが、それぞれに何やら含みのある様子で和やかに見送ってくださっていたのだった。

 

 

◆◆◆

 

 

 それから四日、私はマイヤ様の監督の下、ひたすら養生し体力の回復に努めて。

 五日目の夕刻、リーシャさんを加えた私達一行の馬車はいよいよ首都テルパドール城を目指して出発した。

 帰路には転移魔法を使うから、この集落に立ち寄ることはきっとない。お世話になった皆様に手を取られ、体調を過信しないよう念を押される毎に、胸に熱いものがこみ上げた。

 リーシャさんもまた、女官になるにしろテュールさんについていくにしろ、ここの皆様とは長いお別れになるはずなのだが、どちらかというと浮き足だった様子で馬車に乗り込んでいった。レイラ様は夫に寄り添われ、リーシャさんから預けられた愛馬と共に見送ってくださった。心配そうに何度も溜息をつき、私達の姿が見えなくなるまで長いこと、集落の出入り口に立ち尽くしていらっしゃった。

 エピカの集落から首都テルパドール城まで、普通に馬車で向かえば凡そ二週間の距離。

 リーシャさんが早駆けの魔法を使えるので、恐らくその旅路は一週間から十日程度まで縮められるだろうという話だった。あくまで早駆けであって馬には相応の負担がかかるから、道中はしっかり休息をとるようマイヤ様からきつく仰せつかった。

 病み上がりの私は特にきちんと静養していなくてはならない。戦闘に加わるなど以ての外、とにかく大人しく馬車にいるよう心がけていたけれど、ふと幌の外を覗くと馭者台に腰掛けた夫が、隣に座るリーシャさんと楽しげに談笑しているのが度々目に入った。

 まるで旧くからの友人のように気を許した様子の、時に私にはあまり見せたことのない少年のような表情で頬を赤らめる彼の横顔を、幕を隔てたこちらから眺めるたびにじくじくと胸が痛んだ。

 元はと言えば、私が体調を崩してしまったのがいけないのに。助けていただいて感謝こそすれ、こんな気持ちになるなんて、私は何という恩知らずなのだろう。

 お二人とも私を慮ってちょくちょく幌を覗いてくださったし、同じく馬車の中にいた仲魔の皆さんも何かと気遣ってくださったけれど、それがますます切なかった。

 どうやらこの大陸では『光の教団』の影響はさほどなくて、生息する魔物も自分達の縄張りを守るだけのものが殆どのようだった。軽はずみに近づきさえしなければさほど敵意もなく、早々にそのことに気付いたテュールさんは上手に魔物の群れを回避し、捌きながら馬車を走らせていた。

 リーシャさんの古代魔法のおかげで、パトリシアちゃんもこの砂地で普段のように軽やかに駆けてくれる。

 たまに戦闘にもつれこむと、回復は全てホイミンちゃんが張り切ってこなしてくれた。

 肝心の戦力も仲魔の皆さんとリーシャさんがいれば十分に事足りて、結局ここに来て、何の役にも立てずにいるのはいよいよ私だけだった。

 

 

 

「……んん〜! あまぁーいっっ!」

 何度目かの遅い昼食時、いつものスナックとジャムをぱくりと頬張ったリーシャさんが幸せそうに声を上げた。

 喜んでいただけるのは嬉しい。私も思わず微笑みを返した。二口ほどでスナックを飲み込み、次の一枚にも木苺のジャムを溢れんばかりにほくほく載せる少女の横顔を、テュールさんはまるで兄か父親の如く微笑みながら見守っている。

「フローラさん、これも美味しい! オレンジのジャムもちょっと苦味があって美味しいけど、こっちはすっごく甘酸っぱぁい!」

「ふふ、良かったです。まだまだたくさんありますから、遠慮なさらず召し上がってくださいね」

 どのみちこのままではかなり余ってしまうから、たくさん食べてもらえるのは有り難い。一ヶ月は砂漠を歩くことを想定していたので、乾物中心とは言えど食糧だけは潤沢に揃えてあった。

「りーしゃちゃん、つぎはもものじゃむたべよー! ふろーらちゃん、あけていいー⁉︎」

「ええ〜! ホイミンりんごがいい〜! りんごにしよ〜!」

「こら。二人とも」

 砂除けの天幕の隙間からさりげなく馬車に戻ろうとしたホイミンちゃんをすかさず呼び止め、テュールさんはわいわい盛り上がっているスライム属の二匹を優しく嗜める。

「食べかけのジャムが二つもあるだろ? せめて一瓶食べ切ってから」

 はぁーい、と二匹揃って元気な返事が返る。船でも言われていたことだけれど、そんな光景を見ているとなんだかテュールさんが彼らの父親のように見えてくる。微笑ましくて、ついくすくすと笑いが溢れてしまった。

「はー、いいなぁ。北の大陸にはこんな美味しい果物が山ほどあるのね……」

 二枚目に続き何枚かのスナックをぺろりと平らげたリーシャさんが、残り少なくなったマーマレードの小瓶を見つめて名残惜しげに呟いた。そんなに気に入ってもらえたのかしら。ますます嬉しくなってしまった私は、自分にしては饒舌に彼女の呟きに応えた。

「ジャムにするには向かないものや、季節柄手に入らなかったものもありますわ。私も、こちらの大陸では初めて見る食材が多くて驚きました」

「そうなんだ! 椰子って北の方にはないんでしょ? あーあ、いいなぁ。ジャム……こんなに美味しくて長保ちするならもっとアルディラに入ってくればいいのに。採れたては無理でも、これならいろんな果物を楽しめるもん! ピタパンとも合いそうだし」

 彼女の言う通り、どうやらこの大陸では果物をはじめとした既知の食材をあまり見かけなかった。モン・フィズの酒場でも香辛料を多用した食べ慣れない料理が多くを占めていた。実家のシェフは色々な食材を揃えていたものだけれど、それでもこれだけ南の大陸となると事情が違うのね、などと思う。その他の大陸ともかなり離れているし、そもそも長いこと船を出せなかったからアルディラ大陸に住まう皆さんが果物をご存知なくても仕方ない。

「でも、折角なら採れたての果物をお試しいただきたいですわ。私も昔、苺などを育てていたことがあるのですが、摘みたては特に瑞々しくて美味しいのですよ」

 修道院にいた頃を思い出してつい頬が緩む。この話をすると『ルドマンのお嬢様が土仕事だなんて!』と憤慨されることが多かったのだけれど、テュールさんはいつもにこやかに相槌を打ちながら私の話を聞いてくださる。以前同じことをお話しした時も、すごく美味しそう、いつか僕もフローラと一緒に育ててみたいな。と優しく言ってくださって、私にはそれがとても嬉しかった。

「わあ……フローラさんが育てた果物なんて、絶対美味しいに決まってるわ‼︎」

 リーシャさんもまた、両手を口許で合わせてキラキラした瞳を私に向けてくださる。

「自分で育てて食べるなんて素敵! ねね、ちゃんと手伝うから今度はあたしも」

「連れて行く気はないよ。今のところ、残念だけど」

 果実の如く甘く愛らしく、小首を傾げてリーシャさんが夫と私を交互に見上げた。しかし彼は苦笑混じりに首を振り、明らかに気のない様子を示してみせる。

「なによー! まだ最後まで言ってないじゃない!」

「何度言われても同じだってば。何週間かけたって、やっぱり答えは変わりそうにないし」

 エピカを経ってもうすぐ一週間になる。こんな風にリーシャさんが夫に迫って、彼が穏やかに拒むという光景も段々に見慣れたものとなってきた。

「多分、僕は婚姻がどういうものなのか、未だにいまいちよくわかってないんだと思う。そういうのには全く無縁のところで生きてきたからさ」

 それもどうかと思うんだけど、と彼は自嘲めいた笑みを浮かべて瞳を伏せる。お辛そうな表情こそ見せないけれど、きっとあの壮絶な生い立ちのことを思い返しているのだろう。

 リーシャさんにどこまで彼自身のことを話してらっしゃるのか、私は知らない。ちらりとリーシャさんを窺うと、真剣な面持ちでテュールさんを見つめていらした。

「事情は知らないけど、君達テルパドールの人々にとっては何人かと婚姻を結ぶ方がいいこともあるんだろう。わからないからって否定はしないよ。けど……それでも、僕が共に生きたいと思った人はやっぱり、フローラだけだから」

 ────ああ、ほら。

 この状況で心を躍らせてしまう自分が情けない。リーシャさんの告白からこちら、彼は何度も私を安心させるようにそんな言葉ばかりをくれる。

 その分、リーシャさんが傷つき俯く姿を、いやと言うほど目の当たりにしながら。

「……あたし、そんなに魅力ない?」

 しゅん、と長い睫毛を伏せたリーシャさんが寂しそうに呟いた。そんなことないのに、本当に魅力的なひとなのに。どうしたって私に何か言う資格などない気がして、結局は黙って見守るしかできない。

「違うって。リーシャにはこれから、リーシャじゃなきゃ駄目だって人が」

「ふんっ! いいですよーだ、テュールさんのえっち! どうせあたしみたいな子供にはタタナイとか言うんでしょー!」

「なっ、ちょ、こらっ! 女の子がそんなはしたないこと言うんじゃない‼︎」

 途端に首まで真っ赤に沸騰させたテュールさんが叫んで、きゃははっ! と軽やかな笑い声を上げたリーシャさんが私とガンドフさんの間に潜り込むように身を寄せた。

 彼女の快活さとは裏腹に、私はどんな顔をしたものか分からない。熱くなる頬もそのままに、思わずあらぬ方向へと視線を彷徨わせてしまった。

 意味は、なんとなくわかる。修道院でも一応そういうことは学んできたもの。いざその時に落ち着いて臨めるよう、取り乱したりしないよう。────もう何度もテュールさんとは交わりを持っているけれど、今更ながらうまく応じられている自信なんて全然ない。

「……そんな顔しないで。リーシャが勝手に言ってるだけなんだから」

 俯いてしまった私に気づいたテュールさんが、困り果てた様子で私を覗き込んだ。はい、と答えたくても恥ずかしくて顔をあげられない。そこへ、安全地帯に潜り込んだリーシャさんが傍らから更なる追い討ちをかけてくれる。

「だってテュールさん、フローラさんに子供産ませたいって言ってるも同然よ? フローラさんがいいってそういうことでしょ。ふーんだ、あたしだってあと二、三年もしたらテュールさんが後悔するくらい良い女になるんだからね!」

 べー! とリーシャさんは勢いよく舌を出してみせたが、さすがに憤慨した様子でテュールさんが立ち上がった。紅潮もそのままに歩み寄るとすっかり硬直した私の頰を一つ撫で、次いでその奥に隠れたリーシャさんの頭をわしわしと乱暴に掻き乱す。

「ちょっとぉ! 乙女の髪はもっと優しく扱ってよねっ」

 リーシャさんは唇を尖らせたけれど、対する彼はにべもない。「そういうことは、本気で僕を後悔させてから言いなよ」と些か冷たく言い捨てる。普段そんな挑発的な物言いはなさらない方だから、正直少し、驚いた。

「ごちそうさま。ピエール達と見張りを交代してくる。みんなはゆっくり食べてて」

 穏やかだけれど有無を言わさぬ口調で彼はそう告げ、砂除けの天幕を出て行った。リーシャさんは尚もむくれながら乱れた髪を直していたが、落ち着いたらスープのお代わりはいかがですか? と声をかけたら、幸いにも気を良くしてくれた。

 すぐに彼女はスライム属のみんなと再びジャム談義に花を咲かせ始め、その切り替えの早さにつくづく感嘆してしまう。

「ん〜、でもやっぱりあたしはこの木苺ジャムが一番好きっ!」

 もう一枚だけー! と嬉々としてぱくつくリーシャさんを眺めながら、お城に着いたら余ったジャムは好きなだけ差し上げても良いかしら、などと思ってしまう私もまた、人懐こく愛らしいリーシャさんに十分すぎるほど絆されてしまっているのだろう。

 皆さんの和気藹々としたお喋りに楽しく耳を傾けながら、小瓶にわずかに残った鮮やかなオレンジ色のジャムを掬い取り、スナックに載せた。しっかり下処理して苦味は取り除いたはずなのに、その日最後に口に含んだマーマレードは、なぜだかひどく苦いような気がした。

 

 

◆◆◆

 

 

「だから、僕は! 馬車で寝るから! ベッドは二人で使ってくれよ‼︎」

「なんでよー⁉︎ それじゃテュールさん、朝には凍死しちゃうかもしれないでしょ⁉︎」

 私がとりなす前にリーシャさんが抗議の声を上げる。納屋をお借りして多少の風除けになるとはいえ、屋外にある馬車はここよりずっと冷えるだろう。私も不安で、深く頷いて同調の意を示した。

 たまたま他集落の方の移動が重なったらしく、宿の空きがなかったのだ。ちょうど居合わせた祠────教会の役割を担うシスターの方が勧めて下さって、今日はその方の家でお世話になれることになったのだけれど、お借りできる客室にはベッドが並んで二つ。いつもの調子でぐいぐい詰め寄る彼女を、テュールさんが必死に宥めている。助け舟を出してあげられれば良いけれど、私もこんな調子のお二人にはなぜか入り込める気がしなくて、一抹の寂しさを愛想笑いで紛らわせつつ少し離れて見守っていた。

 少し前にも別の集落で宿をとったことがあったけれど、その時は他に泊まる人もおらず、広い寝所の端にテュールさんが陣取り私達二人はその対角線の向かいに追いやられた。リーシャさんはぶつぶつ言いながらも私の隣ですぐにぐっすり眠ったようだが、私は眠っている間にも何か起こってしまいそうな気がして、不安のあまり中々寝つけなかった。

 果たしてその予感は半分ばかり的中した。わあぁ! という些か情けない声と共に夫は明け方、リーシャさんの口づけによって起こされたからだ。ほっぺただけなのにぃ、とリーシャさんはぷりぷり憤慨していたが私には苦笑いしかできない。普段なら私もそのくらいの時間に目覚めるのだけれど、寝不足が祟って彼女が起き出したことにも全く気付けなかった。

「凍死なんかしないって。今までだって何度も野宿してるし、平気だよ」

「そういう慢心が悲劇を招くんだから。砂漠の夜を甘く見てると痛い目に遭うわよ? 臥榻気にしてるならあたしがフローラさんと一緒に寝るから! ほんとはテュールさんの懐に抱かれて寝たいけどぉ」

「そういうところが安心できないんだ! また寝込みを襲われたらたまったもんじゃないよ‼︎」

 可愛くしなをつくったリーシャさんに、テュールさんは真っ赤な顔で反論する。彼なりに私を気遣ってくださっているのだろうけれど、内容が内容なだけにどんな顔をしたものやら。恥ずかしさに頬を抑えつつ、ちらりと視線を逃して部屋の白壁を眺めた。

 何度か泊まった集落の宿は地下に広々とした空間を設けてあって、そこにいくつかの寝台が置かれていることが多かった。壁で区切られた部屋というものがなく、衝立やカーテンのようなもので仕切ることがほとんどだった。基本的に相部屋ばかりだと仰ったストレンジャー号の船長の言もなんとなく頷ける。思えばエピカの集落でお世話になったマイヤ様の診療所でも、小さく仕切られた部屋は見なかった気がする。

 ここはそういう意味では珍しく、小さめに造られた部屋だった。リーシャさん曰く、こういう部屋は普段物置だとか、貯蔵庫として使うことが多いらしい。確かにシスターも詫びていたが、部屋の隅には本や普段は使わなそうな日用品といったものが所狭しと置かれていた。

 どちらかというとこの風習の方が不思議なのだけれど、この国では主な寝室は地下にあるのが普通なのだという。砂が入りにくいようにするための工夫なのかしら。この部屋もまた地下にあって、窓がない。それなのに室内はずっと不思議な明かりで満たされている。もちろん壁には幾つものランプが掛けられていて、この灯りを吹き消せば、星空のような柔らかな明かりだけが天井に満ちる。

 何か、不思議な石でできているのかしら。この国の壁や、天井は。

「大体ね、フローラさんが心配ならテュールさん、尚更ここにいた方がいいと思う。女だけで寝泊まりして何かあったらどうするのよ」

 溜息まじりのリーシャさんの言葉は十四歳とは思えない達観しきったものを孕んでいて、その意図を否応なしに悟らされてはぎくりとする。

「言ったでしょ? テルパドールでは別に一人の相手と添い遂げなくてもいいんだってば。だからかなぁ、たまーに貞操観念が緩い人がいてねぇ」

「あ、あの……さすがに、そのようなことは起こらないのでは。こちらは小規模ながらも神の御許でございますし、このお家もシスターお一人で住んでいらっしゃるとのことでしたし」

 恐る恐る、割って入ると言うよりはリーシャさんに問いかけてみたら、彼女はけろりとして私の方を向き直る。

「うん、そうよね。でもほら、気をつけるに越したことはないじゃない? どうしたって女は非力なんだから、過剰すぎるくらいでちょうどいいの」

 あっさりと言い放たれてはそれ以上、返す言葉もない。

 すっかり言葉を失った私達の間にコンコンと軽いノックの音が響いて、シスターがくすくす笑いながら顔を覗かせた。

「正しく神の御前となりますが、隣の祠でよろしければそちらでお休み頂いても結構ですよ。夜、お祈りに来られる方はまずいらっしゃいませんし」

 シスターの提案にテュールさんは一も二もなく飛びつき、リーシャさんはますます不貞腐れ顔で唇を尖らせる。私は、やはり密かにほっとしてしまった。どうしたってこれ以上、テュールさんとリーシャさんが親しくしていらっしゃるのを目の当たりにして、平静を装いきれる自信がなくて。

 あと少し。あと少しだから。

 その晩はシスターから夕食のお招きを頂き、一宿一飯の御礼にと、ささやかながらジャムや穀類を受け取っていただいた。御馳走していただいたスパイシーな野菜や肉を挟んだサンドイッチはとても美味しく、また私のジャムも喜んでいただけてほっとした。少し食事を分けていただき、お仲魔の皆さんのところへお持ちするのも忘れずに。

 すっかり遅い時間になってしまったので、水浴び処は翌朝お借りすることにして、軽く身体を拭いて就寝した。大きなあくびを噛み殺し、リーシャさんが朗らかに「じゃあ、フローラさん! おやすみなさぁい」と声をかけてくださる。私も微笑んで挨拶を返し、ランプを吹き消した。

 星空のような天井が優しく煌く。いつもと何も変わらない、穏やかな、とても安らかな夕べだった。

 

 

 

 ふ、と真っ暗な部屋で目が覚めたのはきっと本当に偶々だ。

 夢……を、見ていたわけではないのだけど。何故だか息苦しいような気がして、自分の呼吸の音で眠りの底から引き戻されたような感覚だった。暫し、ぼんやりと天井を見つめながらうとうとと再び眠りの淵に落ちそうだったが、ふと隣の寝台が気になって頭だけ傾けそちらを見た。

 ────ベッドに居るはずの膨らみが、見えない。

「……リーシャ、さん?」

 恐る恐る小声で呼びかけたが、返事はない。そろりと寝床を出て覗くと、きちんと整えられたシーツの中はやはりもぬけの殻だった。

 ベッドから落ちた可能性も考えて周りを探したけれど、いない。寝台に触った限りそんなに時間は経っていないようだった。靴も見当たらない。思いつくところは一つしかなく、それでもふるふると頭を振って愚かな思考を追いやる。そう、単にお手洗いかもしれないのだし。

 ショールを羽織り、暫く寝台に腰掛けて待っていたけれど、リーシャさんが戻ってくる気配はなかった。

 ……やっぱり、テュールさんのところに行かれた、のかしら。

 拭いきれない疑念に唇を噛む。信じていると言った。私自身の心は偽りなくそう在ることを望んでいる、なのにどうしてまた、こんなにも重苦しい気持ちになってしまうの。

 まだ躊躇いながら鉛のような身体を起こし、そろりと床に足をつけた。

 ひやりと這い上がる寒気をこらえて手早く靴を履き、部屋を出る。建物の中とはいえ夜の砂漠はやはり、寒い。ぶる、と震える身体を叱咤して、足音を忍ばせて階段を登った。

 ……行って、どうするの?

 衝動に突き動かされる私を、微かに残った理性が押し留める。外への扉に手をかけようとしたところで、私の足はぴたりと動きを止めた。

 ────もし、

 行った先で、一番見たくない光景を見ることになったら。

 早ければ明日にもお城に着く。一緒に宿を取るのは最後かもしれない、そう思えば、リーシャさんが想いを遂げたいと思う気持ちもいっそ理解はできた。

 テュールさんが彼女を受け入れると言わない限り、彼女はお城に着いたが最後、宿命に彼女自身の自由を全て明け渡さなくてはならないのだ。

 そうやって無理矢理自分を納得させようと努めても、一度こみ上げた嫌悪感は簡単には消えなかった。

 やめて、と言えばよかったの?

 お側に行けない私の代わりに、ホイミンちゃんでもプックルちゃんでもなく、リーシャさんがずっと彼の隣にいたこと。心穏やかでいられたわけじゃない。戦闘の折、テュールさんがさりげなく彼女を庇っていたことも。

 明るくて屈託無くて、彼を慕うのと同じくらい私にも好意の目を向けてくれる。そんな彼女を、こともあろうか疎ましく思ってしまう、愚かでみっともない自分を思い知るのが怖かったのだ。物分かりの良い顔で大人ぶって、そのくせ二人が密かに通じ合うのでは、などと今更不安になって、こんなところまでこそこそと覗きに来たりして。

(────戻ろう。これ以上、惨めになりたくない……)

 必死に歯を食いしばり、寝着の裾をぎゅうっと掴んで、込み上げるものを飲み込む。あのひとの妻であるというなけなしの意地が、この場で泣くことを許さなかった。苦しさを逃すように息を吐き、急に身体を支配した脱力感とともに、今来た通路へと向き直った。

 しかし、返しかけた踵はふと、浮かんだ思考によってまたも阻まれる。

(……っ、待って)

 もし、もしもリーシャさんが、テュールさんのところにいらっしゃらなかったとしたら?

 どこにもいないなら寧ろ、一刻も早くテュールさんに知らせるべきだわ。そんな簡単なことに、どうして今まで思い至らなかったの?

 ざわざわと、踝から澱んだ不安が這い上がる。たちまち恐怖に呑まれそうになるのを懸命に深呼吸で落ち着かせ、思考を巡らせた。────リーシャさん、何度もテュールさんに一緒に泊まるよう訴えていらした。もしかしたら何か危険を察していらっしゃったのかもしれない。強い占力を秘める彼女の価値に気付いた何者かが、彼女を狙っていたかもしれない。もしくは彼女自身が夢か占いで何かを視て、自ら単独で外へ出たのかも。

 なんて、愚かな。

 側にいながらリーシャさんを一人にするなんて。彼女に何かあったら、あのひとにどう顔向けできるというの!

 今度こそ躊躇いなく外に出ると、砂混じりの乾いた夜風が容赦なく薄衣の隙間を吹き抜けていった。昼間より随分と風が強まっている気がする。祠の内扉をノックしてみたが、返事はない。眠っていらっしゃるのかしら。こんな時間だもの、と自分に言い聞かせて、内心詫びながら扉をそっと押し開いた。

「……テュール、さん……」

 扉の正面は見慣れた祭壇になっていて、その周りはランプで煌々と照らされていた。祭壇の手前にお祈り用のラグが敷かれている。その脇の端の方に、小ぢんまりと荷物が寄せられていた。彼の寝袋が彼の代わりに横たわっていて、肝心のテュールさんはどこにもいない。

 ────リーシャさんだけじゃなく、テュールさんもいらっしゃらないなんて。

 ざわり、とまた不安が立ち昇り、慌てて首を振る。嫌なことを考えちゃ駄目。疑いたくない、勝手に絶望したくない。

 ああ、……でも。

 胸の重苦しさに耐えきれず、白い溜息が溢れていく。外に出て足下に目を凝らした。まだ新しい馬車の轍が、風に吹き消されながら砂地にわずか残っている。

 仲魔の皆さんまでいらっしゃらないの?

 一体、どうして。

 ぐるりと小さな集落を見渡す。澄んだ空には金色の円い月と、無数の星がいつもと変わらずうつくしく瞬いていた。

 馬車がないということは、今はこの集落にはいらっしゃらないのかも。

 そこまで考えたところで、ふと視界の端を人の影らしきものが過ぎっていった。

 ……誰? もしかして、リーシャさん?

 すっかり暗い視界に一瞬見えただけでは、それが大人か子供かもよくわからない。もしかしたら私と同じように、テュールさんの不在に気づいて探し回っていらっしゃるのかも。とにかく追いかけてみよう、と私はショールを掻き抱き直し、唇を一度ひき結んで小走りにその影を追い始めた。

 

 軽率だった。

 その時大人しく、車輪跡だけを辿っていれば。

 

 人影は集落の建物の影を縫い、どうやら外へと出て行く。

 そこには馬車が止められていて、私達の年季の入った馬車とは見るからに違うものだった。宿に泊まっている一行の馬車かもしれない。微かな落胆と安堵と共に、私はそれだけ確認して立ち去ろうとした────刹那。

 鈍い、悲鳴のような音がか細く響いた。

 慌てて近くにあった宿屋の壁に隠れる。確かに今、あの幌の方から何か聞こえた。他に誰かいるの?

 どうしても脳裏を過ぎってしまうのは、リーシャさんの屈託ない笑顔。さっき一瞬聞こえたものが彼女の可愛らしい声だったとは思わないけれど、完全に否定できる気もしなかった。

 せめてひと目、彼女ではないことを確かめてから。

 息を殺して宿屋の影からこっそり覗いた。後から思えば、正面から堂々と尋ねに行ってはいけないと思うくらいには私はその時、この馬車を警戒していたのだろう。

 

「生き餌が良いって言ったんだがなぁ。これじゃあ三百ゴールドすら払えねぇわ」

「そ、そんな……! 幾らなんでも話が違うだろ⁉︎」

「ちゃんと伝えたさ。それともあんたが餌になるかい? だったら千五百ゴールドくらい融通してやっても良いぜ」

 

 一体、なんの話をしているの?

 唐突に聞こえてきたその会話があまりにもおぞまし過ぎて。聞いてはいけない話だと直感した。気づかれないうちにここを離れなくては、そう思うのに、座り込んでしまった下半身は地面に縫い止められたように動かない。くっ、と悔しげに呻く男性の声が聞こえた。

「ま、馬車の分色つけて、七百ゴールド出してやるよ。喰われたくなきゃとっとと宿に戻るんだな」

 ひぃっ! とまた悲鳴が聞こえて、馬車の影からやや小柄な影がまろび出た。咄嗟に身を固くして建物に寄り添ったが、満月と強風が悪い方に作用した。風に煽られた私の髪とショールが不自然な影を形作り、飛び出してきた男の目に留まってしまったのだ。

「おい、誰かいるぞ⁉︎」

 怯えた声が私を鋭く糾弾して、いよいよ身体がすくみ上がった。全身がどくどくと心臓の如く叫びだす。

 逃げなければ。せめて祠に戻れれば。力を入れているつもりなのに、腰が抜けて立ち上がることすらできない。

「どうした? お嬢さん。真夜中に散歩たぁ感心しねえな」

 すぐに私を見つけた男がこちらを真っ直ぐに見据え、きし、と砂を踏みしめて距離を詰めてくる。酷薄な笑みを浮かべた巨漢の姿はまるで、恐ろしい魔物のようだ。

「わ、私は知らんぞ。つけられるような失態をかましおって」

 尻餅をついた商人風の男が狼狽し、声を抑えて吐き捨てる。それをちらりと睨みつけて、大柄な男が低く命じた。

「面倒だ、お前は戻れ。宿の奴らを起こすなよ」

 金貨を詰めた袋をいくつかじゃらりと投げつけられ、怯えきった男はそれでも袋を全部しっかり抱え込むとひゃあ! と小さく叫んで走り去っていった。たすけて、と叫びたかったけれどやはり声は出なかった。かたかたと震えて、力が全く入らなくて。魔法を、と思っても舌すら動かせそうになかった。見上げるばかりの私を、男は薄く笑って壁際に追い詰める。

「あんた……ああ、そこの祠に泊まってた旅の男の連れか」

 まじまじと見つめられ、髪を乱暴に梳かれて、いよいよ全身に凄まじい嫌悪感と怖気が走った。

 テュールさんの手とは全く違う、どこか血生臭い冷たい掌。

 こんな弱い私なんて、簡単に捻り潰されてしまう。

「あんたの連れの馬車ならついさっき、ここを出て行ったぜ」

 ────え?

 驚き、思わず目を瞬かせた私に、男はますます愉悦を含んだ目つきでにんまりと笑った。

「ちょっと前に若い娘が出てきてな。なんか言い合ってると思ったら、男と馬車に乗って行っちまったよ」

 う そ。

 置いて行かれた、とこの男は言っているのだ。お前は捨てて行かれたのだと。冷たい薄ら笑いに嘲るような憐憫を込めて、男は凍りついた私を見下ろす。如何にも「可哀想になあ」と言わんばかりに。

 でも、私には断言できる。そんなことなさる方々じゃない。絶対に、何か事情あってのことだから。

 けれど、……わずかにも、胸が痛まないわけではなくて。

 その甘さを見抜かれたのだろう。男は私の顎を掴んで無理やり上向かせ「随分と別嬪さんだ。ただ殺すには惜しいな」などと口笛混じりに嘯いた。

 きつく睨みつければ、ますます愉しげに口角を歪ませる。

「ったく、可愛いねぇ。悪いが見られて放っといてやれるほど寛容じゃねえんだわ。……ほう?」

 力で敵うはずもないけれど、男の手を退けようと必死にもがく。そんな私の手を男が見咎めてにやりと笑った。折られるほど乱暴に左腕を引き上げられて、思わず喉から細い悲鳴が漏れる。

「えらくいい指輪だな。こいつぁ値がつきそうだ」

 ────駄目!

 咄嗟に男に組みついて、けれどすぐ強烈に頰を張られた。脳がぐちゃぐちゃになりそうな衝撃が走って、掴まれた左腕からだらりと吊された格好になる。口の中にじわじわと鉄の味が広がっていく。「暴れてもいいこたねえぜ。ほれ、手ぇ開けな」と男が促したが、絶対、絶対に掌を開ける気なんてない。

「こんな細っこい指をさぁ。俺だって良心が痛むよ?」

 態とらしく、粘つくような囁きを落としながら────全く躊躇を見せず、男は固く握り締めた私の左手から薬指を摘み上げた。ペキ、と枯れ枝を踏み折るような音を伴って。

「────ッあ、あぁあ……っ‼︎」

 耐えきれず迸った叫びは、男の大きな掌に阻まれる。

 激痛しかない。恐らく折られたであろう薬指から指輪を難なく抜き取って、男は口許を抑えつけたまま私を上機嫌で抱え上げた。「素直に渡せば痛い目見ることもなかったのになぁ。勉強になったろう?」などと嘲笑混じりに言い放ち、男は軽々と私を引き摺り馬車の馭者台に乗せようとする。このまま黙って連れて行かれるなんて絶対に嫌、けれど、今この状況を私だけでどうにかできる気がしない。抵抗すれば次に折られるのは腕か脚か、最悪命をも取られてしまうだろう。口を塞がれて呪文も唱えられず、指輪もあっさり奪われてしまった。燃えるように痛む薬指がどうなっているのか、確かめるのも恐ろしい。

 どうしたら────どうしたら、いいの。

「ふろーらちゃんを、はなしてーっっ!」

 その時だった。聞き覚えのある愛らしい声が響いて、ほとんど同時に身体を揺らす衝撃と「うぉっ⁉︎」と低い呻き声が聞こえた。朦朧とする頭をなんとか傾けて、そちらを見る。

 可愛い、小さな白い痺れ海月が男の腕に巻きついて、何とかして私を離そうとしてくれていた。

 あんなに必死に、私を。

 力を振り絞り、口を覆う男の指に思い切り噛みつく。鈍い悲鳴と共に一瞬縛めが緩んだが、即座に唱えようとした誘眠魔法は私自身の濁った声に掻き消された。鳩尾を深々と殴打されたのだ。

 ごほっ、と咳と共に苦いものと、言い表せない衝撃がこみあげた。同時に周囲の音が、意識が急速に遠ざかっていく。

「畜生! なんでこんなところに痺れ海月がいるんだよッ」

 苛立った男がしびれんちゃんを振り解いたらしいことだけわかった。最後、ふろーらちゃん、と微かな声が聞こえたことにほんの少しだけ、安堵して力が抜けた。

 お願い。しびれんちゃんは、無事でいて。

 ────身勝手な祈りと共に、程なく私は意識を失った。



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#17. 指輪の警鐘

 違和感を覚え始めたのはいつからだっただろう。

 元々この大陸に棲まう魔物達からは、総じてさほど強い敵意を感じなかった。北の大陸に比べて縄張り意識が強いのか、大体種族ごとに群れを形成している。近づかなければ襲われることも少なかった。仲魔達を見るに食の概念はあるように思うが、さて彼らはどうやって食いつないでいるのやら。などと思ったが意外にも砂漠には特有の果実が成っていたり、魔物ではない動物もそれなりに生息している。海も遠くはないし、なんとでもなるんだろう。

 そもそも何故、何のために魔物は人間を襲うのだろう。生まれた時からこの環境だったから実感はないけれど、魔物と人間が敵対しない時代なんて今までにあったのだろうか。そういえばどこでだったか、天空城が関係しているという話を聞いた気がする。昔、空に在った天空城が何らかの要因で地上に堕ちて、それから魔物が跋扈するようになったと。

 仲魔達はあまり自分のことを話したがらない。僕もまた、彼らが自ら切り出さないことはあまり聞かない。だから主人という自負はあっても、彼らを正しく理解できている自信はなかった。決して魔物だからではなく、相手が人間でもそれは同じだ。有体に言ってしまえば、僕自身に聞かれたくないことがあるからそうやって距離をとっている、ということなのかもしれない。

 ……いや、きっと今の僕なら、彼らに何を問われても答えられるんだろう。フローラになら何だって話せるのと同じで。

 ならば今、隣にいるリーシャに同じように語れるかと問われれば、それは無理だと思う。何度か世間話的に昔のことを訊かれたけれど、六歳より後の記憶はほとんど適当に誤魔化した。彼女は純粋に僕を知りたいと思ってくれたのだろうし、彼女自身のことも色々と話してくれた。けど、そこまでだった。それ以上に知りたいとも思えなければ、自分のことを知ってほしいとも、結局は思えなかったのだ。

 ────テルパドール城まで実質一昼夜の距離、もう数日とかけずに着くだろう。どう転んでもそこが答えだ。僕の気持ちはきっとこのまま揺らがないし、彼女もそれを理解している。

 だからだろう、昨日くらいからリーシャは目に見えて口数が減っていた。単に話題が尽きただけかもしれないけど。いつものように馭者台に座って、僕の隣で膝を抱えながらぼんやりと遠くを見ている。時々ちらりと盗み見る横顔は憂いの所為か、ひどく大人びて見えた。

 そんな少女の寂しげな表情に、全く胸が痛まないかと言われれば嘘になる。

 いっそそれくらい冷淡になれたなら、初めからおかしな期待を持たせることもなかっただろうに。

「今夜は特に荒れそう。早駆けの魔法かけて、お馬さんが頑張ってくれたら朝にはお城に着けるかもだけど」

 次第に強まる風を受け、宙を仰いだリーシャがぽつりと呟いた。

 ふぅん、と頷き、掌で目を覆いながら地図と羅針盤を照らし合わせる。こちらに着いてから手に入れた大陸の詳細な地図は、特殊な織布に描かれているらしく、適度に重みがあって猛烈な砂風にも耐えてくれる。

 ここ数日は今までにないほど風が強くなっていて、目も開け辛いほどだった。とはいえ、砂漠に砂嵐はつきものだと言う。今まで荒天に至らなかったのが幸運だったのだろう。膝を抱えて隣に座るリーシャはさすがに慣れているらしく、上手にフードを被り直しては砂埃を避けているようだった。

「もう少しで城の手前の集落に着くと思うんだ。今夜はそこで休んで行こうか」

 リーシャと、幌の中で寛いでいる仲魔達に向かって声を投げると、すかさずピエールから了の返答が返ってきた。中の面々に異変はないらしいことに安堵して、再び見えない砂塵の向こうを振り仰ぐ。

 みんなは気付いているだろうか。この三日ほど、ほとんど魔物と遭遇していないことに。

 多少土地柄が関係しているにしろ、エピカ周辺まではまだ姿を見ることがあった。砂嵐の所為だろうか。それとなくリーシャに訊いてみたら首を捻り「結界かなぁ……? お城にはほら、勇者様の御廟があるから、特に魔族に攻められないよう周りに結界を張ってるんだよね」と答えてくれた。それってもしかして、仲魔達は中に入れない? と慌てて問いを重ねたら「わかんない。着いたら門番さんに訊いてみようよ」とけろりとして言う。そうだよな、いくらマイヤ様の秘蔵っ子とはいえ、リーシャは一介の村の少女にすぎない。

 それにしても、これほどまでに魔物の気配を感じないのは些か不気味でもあった。ここは砂漠で、僕にとってまだまだ未知の領域だから、今までの常識では測れないこともあるんだろうけど。

 フローラやリーシャはともかく、仲魔達は何か思うところがあるかもしれない。集落に着いたらマーリンとピエールにそれとなく相談してみようか。そんなことをぼんやり考えていたら、幌の中から朗らかに談笑する声が聞こえてきた。どうやらお調子者のスラりんがみんなを笑わせているらしい。楽しげな中の様子に、リーシャがそわりとそちらへ意識を向けた。

「入ってていいよ? 何かあったら呼ぶし」

 声をかけたら、眼を見開き振り向いたリーシャがすぐに頬を薄桃色に染めてくしゃりと笑った。

「ううん、いい。ここにいていい?」

 どこか甘えた声に苦笑し、黙って頷いてみせる。

 また甘い対応をしてしまっているのかもしれない。今更優しい言葉はかけられない、けど、気持ちは痛いほどわかるから。

 ごめん。やっぱりきっと、応えられない。

 少しだけほっとした様子で、リーシャが膝を抱き直した。幌から聞こえる歓談と風の音を聞きながら、僕とリーシャはそのまま言葉もなく、お互い砂煙に霞む遥か向こうに意識を馳せつつ馬車を走らせていた。

 

 

 

 目当ての集落に着く頃には、ちょうど陽も傾いていた。砂まみれの馬車を祠の隣の納屋に入れさせてもらい、人心地つく。

 集落には比較的規模の大きな宿があったが、間の悪いことに空きがなかった。城にほど近い場所だから致し方ない。今から更に移動するのもこの風では辛いし、野宿しかないかと思案していたところ、偶々通りかかった祠のシスターが寝所を提供すると言ってくださった。悩ましいことに小さめの客室には一人用のベッドが二つのみで、そりゃそこは女性二人が使うべきだろう、僕なんかいっそ馬車で寝りゃいいんだし。と激しく固辞したものの、何故かリーシャが自分達と一緒に寝ろと粘る。見かねて間に入ってくださったシスターが、祠に寝泊まりしてはどうかと言ってくださり、これまたありがたくご厚意に甘えることにした。

 そんなわけで、シスターの夕食会にお招き頂いた後は、納屋でパトリシアを洗ってやったり、馬車の砂埃を落としたり、軽く整備したりなどして過ごした。仲魔達も祠で休むよう勧められたが、曲がりなりにも魔族の彼らに聖域は居心地良いものではないらしい。普通の魔物と違い、入れないわけではないけれど。そんなわけで仲魔達は納屋に集まり、僕は一人、神を祀った小さな祭壇の脇の方に寝袋を敷かせてもらい、荷物を小脇にまとめた。普段が賑やかなので、完全に一人というのは寂しく感じたが、たまにはこんな日があってもいいかと思い直した。

(……あ、そうだ)

 ランプの灯りの元、船から持ってきた本をぱらぱらとめくっていたら、ふと、仲魔達に相談したかったことを思い出した。

 外套を羽織り、祠のすぐ隣の納屋を覗く。数名は幌の中で休息中なのか、プックルが入り口近くの藁束の中に寝そべり、ピエールが相棒の緑のスライムと向かい合って剣を検分している以外はがらんとしていた。

 僕が入るとすぐに気づき、手入れ中の剣を鞘に収める。

「拙者らも、この辺りに満ちる妙な気配が気になってはいた」

 簡単に懸念について話すと、ピエールは鉄仮面の顎を一つ撫で神妙に頷いた。

「妙な、気配?」

「左様。確かにあるじ殿の言われる通り、ここのところ魔物の気配を感じぬ。不自然なほどにな。しかし、ほんの微かに……残り香とでも言おうか」

 残り香。

 喩え方が妙に腑に落ちた。僕は状況から違和感を覚えただけだったけれど、彼ら魔物にのみ嗅ぎ分けられる気配や臭いは恐らく確かに存在する。

「全く姿が見えぬ以上、無闇に動くわけにもゆかぬが」

 ここまでの行程で思い出せる手掛かりがないか、無意識に腕組みし思索に耽ってしまった僕の意識を、いつもの飄々とした呟きが浮上させてくれる。

「先んじて、マーリン殿がホイミンとガンドフを連れて周辺を見廻っておる。王城近くで不穏なことがあってはあるじ殿のみならず、人間達も心休まるまい」

 僕が尋ねる前に動いてくれていたのか。静まりかえった納屋の様子にも合点がいった。さらにはこの後、プックルと連れ立ってピエールも外を見てきてくれるという。つくづく、彼らの洞察力と行動力には驚嘆させられる。

「夜半お声がけするやもしれぬが、構わぬか」

「もちろん、いつでも遠慮なく起こしてくれて構わないよ。本当にありがとう。みんなもくれぐれも気をつけて」

 気遣いに感謝しつつ祠に戻り、すぐ動けるよう防寒具の上に外套を着込んだまま仮眠をとった。果たして夜も深く更けた頃、コツコツと扉を叩く音がする。飛び起きて外を窺うと、そこにはしびれんとプックル、ピエールが立っていた。

「お休みのところ申し訳ない。あるじ殿、ご同行願えるか」

 即座に頷き、手短に状況を聞いた。集落の北、岩山が連なるあたりで不自然に巨大な窪みを見つけたという。陥没跡というよりは円錐型に掘られた穴のような窪みだそうで、更に奇妙なのは、その周辺に魔物の核らしき塊が撒き散らされていたのだと。

「狩人かな? 罠を張った跡だとか」

「さぁて。そこまでして魔物を狩る必要のある土地とも思えぬが……少なくとも、拙者が嗅いだ残り香は凡そヒトのものとは思えなんだ」

 真剣な、低い囁きを聞いて、唇をぎゅっと噛み引き締めた。凝視したスライムナイトの横顔は相変わらず飄々としたまま、ごく稀にしか見せない緊張を仮面越しにも色濃く漂わせる。

「魔物、なんだね。それも只者じゃないやつ」

「変わり種には違いない。……全く、あるじ殿はつくづく奇妙な星の下にお生まれと見える」

 どこか愉悦を含ませた彼が薄く笑う。鼻白んだ僕を、今度は感嘆を篭めた眼差しで見つめ返した。

「行く先々でこうも奇怪な魔物に出くわすことになるとは。確かに貴方ならば、ヒトの身ながらいずれ魔界にも到達出来るやもしれぬな」

 賛辞なんだろう。こんな至らぬ主でも、彼をはじめ仲魔達はいつでも心から誇ってくれる。それがわかるのに、卑屈な僕にはほとんど皮肉にしか聞こえなくて、思わず黙り込み視線を逸らしてしまった。

 勇敢で、威厳も貫禄もあって。時に勇者かとさえ囁かれた父の逸話を、至るところで耳にした。

 翻って、息子である僕のなんと不甲斐ないことか。父の最期の手紙を読み返すたび、胸がつまる。

 恐らく彼自身期待しすぎないよう、また僕にも期待をもたせすぎないよう配慮して書かれたものだったが、その行間には彼の切実な願いが否応なしに滲んでいた。同じく手紙を読んだヘンリーが真っ先に僕を顧みたほどだ。だからこそ、苦しい。出来るなら僕自身が、その望みを叶えたかった。父が遺した第一の願いは遂に、叶うことはなかった。

 僕は『勇者』ではない。魔界へ渡るその術は、勇者という宿命を戴く他者に委ねなくてはならない。

「……そうだね。勇者さえ、見つかれば」

 自嘲混じりに呟いて、パトリシアを静かに先導し集落の表口まで出た。風も強いし、特に帰りはみんなで戻るなら馬車を出した方が良いと思ったのだ。仲魔達が幌に乗り込んだのを確認して馭者台に上がろうとした────刹那、背後からぐい! と外套を引っ張られた。

 驚いて振り向くと、そこには防寒具を着込んだリーシャが、紫水晶の瞳を大きく見開いて僕を見上げているではないか。

「テュールさん⁉︎ こんな夜中にどこに行くの⁉︎」

 慌ててしぃっ! と唇に指を当て、詰め寄る彼女に小声を促した。幸いにも誰かが起き出してくる気配はない。ひっそりと胸を撫で下ろしつつ、厄介なことになったな、と内心で舌打ちする。

「ちょっと気になることがあって。すぐ帰ってくるから、リーシャは寝てなよ」

「あたしも行きたい。連れてって? お願い!」

 案の定、部屋へ戻るよう促したものの、彼女は前のめりに食らいついてくる。どうしても漏れてしまう溜息をこちらも隠さず、自分なりに誠心誠意、彼女を諭してみたけれど。

「フローラを一人にするのは心配だから。ここに居てって、頼んじゃいけない?」

「フローラさんならぐっすり眠ってたわ。あたしが出てきたのにも気づいてなかったもの、平気よ」

 あっさりきっぱりとリーシャは言いきり、次いで幼くも切実な声で上目遣いに懇願した。

「お願い、連れて行って。変な胸騒ぎがするの。テュールさん達だけで行かせたくない」

「胸騒ぎって……それ、占いで?」

 怪訝に思い問うてみたが、意外にもリーシャはあっさり首を横に振った。

「半分は違う。ただの勘……最近、よく視えないんだもん」

 お城が近いからかなって思ってるんだけど、とリーシャは口籠る。正直、気は進まないけれど、こんなところで揉めるのも騒ぎになるのも御免だった。「余計な口出しは無用だよ。危ないと思ったらすぐに退くこと。約束できないなら連れて行けない」そう厳しめに告げたらしおらしく頷いた。再び溜息混じりに同乗を促して、背後の天幕を巻き上げ幌の中を覗き込む。

「ごめん。リーシャが一緒に行きたいって。誰か残って、もしフローラが起きてきたらすぐ戻るって伝えてくれないかな?」

 僕の提案に三者がそれぞれ顔を見合わせた。すぐに口を開いたのは、ピエールだった。おどおどと皆の顔を見回すしびれんに向かって、彼にしては優しい声音で呼びかける。

「伝言となるとプックルには難しかろう。拙者でも良いが、どうする? しびれん」

「し、しびれんっ、のこるっ。ちょっと、こわいし……っ」

 渡りに船とばかりにしびれんが名乗りを上げ、ふわふわと幌の外に浮かび出た。その白い月みたいなもちもちの肌を撫で遣り、優しく微笑んでみせる。

「ありがとう。祠で待っててくれればいいから、よろしくね」

 快く留守番を引き受けてくれた臆病者の痺れ海月は、馬車が見えなくなるまでその場に留まり、心配そうに見送ってくれた。

 この時、ほとんど集落の外にいたから気づかなかったのだ。僕らの目を盗むようにして、怪しい男が集落内を徘徊していたこと。それとほぼ同時刻、目を覚ましたフローラが僕達の不在に気づいて、不安を募らせていたことにも。

 

 

◆◆◆

 

 

 案内された場所は聞いた通り、集落の北に連なる山岳地帯からほど近い、馬車で十分もかからないところだった。リーシャの魔法のお陰で早く着けたと思うと少々癪ではあるが、そんな恩知らずな言い分を面に出せるはずもなく。吐く息も白く、隣で小さくなっているリーシャに手綱を預け、馭者台を降りた。

「参られたか。ご主人、こちらに」

 先んじて周囲を見張っていたマーリンがスラりんと共に手招きする。その隣にガンドフとホイミン、そして見慣れぬ小さい魔物がちょこんと座っていて、よく見るとどうやらケムケムベスの子供がガンドフにもたれかかり、うとうとしていたのだった。ガンドフが大きな目を優しく細め、まずはマーリンの方を見てくれと促してくれる。黙って頷き、闇にはためく暗い色のローブを追った。

 すごく不思議なのだけど、マーリンはこの砂地でもわりと足を取られることなくすいすい歩いていく。なんと言っていいのか、滑るようないっそ浮いているような、とにかく人間離れした歩き方なのだ。一見老人と見紛う風貌だが、こういう時、彼もまた歴とした魔族なのだと感じ入る。

「足元に気をつけられよ」

 忠告とともに指し示された先には、確かに拓けた穴というか、窪地が見てとれた。小屋一つ分もあるその緩やかな窪地には特に細かい砂が多いのか、さっきから吹き上げられる砂塵がひどい。視界も覚束ない砂地の中、月明かりを受けてきらきら光るものが見える。多分魔物の核なのだろうが、これだけ無数の核が手付かずで放置されている様は極めて異様で、不気味に見えた。

 まるで疫病か何かで、大量死でもしたみたいじゃないか。あるいは、砂漠が彼らを喰らい尽くして核だけ吐き出したような。

 こみ上げるおぞましさを無理矢理飲み下した時、隣にピエールが立った。どこで拾ってきたのか、彼の頭ほどの石を無言で放る。思った以上の急勾配だ。窪みに向かって転がった石はすぐに砂の下に落ち込んで見えなくなってしまう。

「底無しの可能性も、ある」

 石を飲み込んだ後の滑らかな砂地から視線を逸らさず、ピエールが低く告げた。厚く着込んだ防寒着の下、嫌な汗がじわりと肝を冷やしていく。

「こんな……、集落の近くで」

 魔物の死因は恐らくこれだけではないのだろうが、もし人間がここに落ちれば助からない可能性が高い。人為的なものか、自然発生的なものか、何一つわからないのが更に薄気味悪いことこの上ない。

「恐らく形成されてからさほど時間も経ってはおらぬ。このような噂は今までに聞かなんだな?」

「あったらどこかで注意喚起されてると思う。心配だな、同じようなのが他の場所にないとも言い切れないね」

 知らずに馬車が突っ込んだら大惨事だ。幸か不幸か、この周辺は岩山だらけで人が来るところではなかった。こういった岩に穿たれた洞を寝ぐらにする魔物は多い。まして数日前から強まっているこの風、岩肌を吹き下ろし砂嵐を起こす風の中を危険を顧みず近寄る人間はそうそういない。

 ────だからこそ『ここ』を狩場に選んだのだろうか。この窪地を作った主は。

 いつの間にか馬車を置いてリーシャが側に来ていた。僕の肩越しに恐る恐る覗き込むが、心当たりがある表情ではない。「こういうのって、自然に出来るもの?」と訊いたがやはり首を振った。

「砂漠に底無し穴なんて、聞いたことないわ。最近行方不明になった人なんていないといいんだけど」

 ぶるりと身体を震わせ、リーシャが呟く。城の方に伝えればある程度対処してもらえるだろうが、それまでに事故が起こりかねないことが恐ろしい。「とにかく、夜が明けたらなるべく早く王城に向かおう。集落の方にも近寄らないよう伝えて、すぐに埋まってくれれば心配いらないんだけどね」と神妙な面持ちの仲間達を見比べ声をかけた。

「その点はある意味心配無用やもしれぬ。あ奴らがずっと張りついておるからな」

 そう答えて、ピエールが窪みの向こう側を指差す。つられてそちらを眺めると暗がりでひどく判別し難いものの、魔物らしき影が数匹連れ立ってこちらを見ていた。よくよく凝視するとどうやら槍を携えたオーク達で、敵意以上に戸惑い、警戒した様子で僕達を見守っている。

「ご案じなさるな。人質というわけではない」

 別に仲魔達の行動を疑ったりしないけど、ガンドフが寝かせていた仔ケムケムベスと関係あるのだろうか。そう思いつき、振り返った僕をピエールが制し苦笑した。

「勝手に懐いたまでだ。あれの意図を正しく汲んでやれたのがガンドフだけだったのでな」

 ああ、なるほど。そういうことか。

 仲魔達の多くが人語を理解してくれるのでつい失念してしまうが、同種属間でのみ通じる意思疎通法を持つ魔物は少なくない。ガンドフだって言葉を扱うのは決して得意ではなく、恐らくビックアイが片言でも僕らの言葉を話してくれること自体極めて稀なのだ。そのケムケムベスはまだ幼いから尚更だろう。

「コのナカに、かぞク、イる」

 辿々しく告げる中に哀しみが満ちて。ガンドフは自らに体重を預けこくりこくりと舟を漕ぐ小さな眷属を慈しむように撫でた。

「群れで眠っていたところを襲われたようです。これはたまたま目覚めて離れていたらしい。親を追ってここに近づこうとするのをあのオークらが止めているところに、我々が行き合った」

 足が遅いのが幸いした、とマーリンが静かに付け加える。重苦しい気持ちで彼の言葉を聞いた。この小さな青い魔物も目の前で親を喪ったのかと思ったら、かつての自分を否応なしに思い出してしまい胸が締めつけられる。

「オーク達によれば、夕刻この辺りでヒトを見たと」

「人間? 間違いなく?」

「そのようですが」相変わらず、顔色一つ変えず淡々とマーリンは頷く。「ヒト一匹ではあったが、何故か同時にヒトならぬ気配も感じ、咄嗟に身を隠したと。その後、あの仔を見つけたそうな。状況を見てすぐ惨劇を察したとのこと。尤も、彼らが見つけたときこれらはまだ遺体だったとも」

 話の血生臭さに思わず眉を顰め、腕を組み暫して思考を整理した。魔物に遭遇しなくなったのはほんの二、三日前から。道中特に怪しい者の話は聞かなかったが、ピエール達はうっすら残る魔物の気配に勘づいていた。

 恐らくこの数日前から人知れず、この周辺で狩りをしている人間、もしくは魔物がいるのだろう。周到に人目を避けていたのが、狩り尽くして痕跡を残したか。問題の魔物を狩るため人間が動いている、という見方もできる。敵か味方かもわからないが、無差別に魔物を狩っているようにも見えるあたり、あまりまともな目的ではなさそうだ。

 幼いケムケムベスの寝姿をぼんやりと眺めながら考えていたら、マーリンがおもむろに問うた。

「保護なさるか。ご主人ならばあれも手懐けられるであろう」

「────いや」

 首を振り、寄り添う二匹の一つ目の魔物達を見遣った。その傍らにいつの間にかプックルが近づいていて、クゥウ、と珍しい喉声を出す。小さなケムケムベスに何故か、見覚えはないはずの孤独なベビーパンサーの姿が重なった。

 当時まだ幼獣だった君は、僕達が必ず帰ってくると信じて、父の剣をただ守って、僕達のことをずっと探し回ってくれたんだろう。生きてるものは食べちゃ駄目だよ、という物知らずの子供と交わした莫迦げた約束を律儀に守って。

 忠義めいた篤い友情を嬉しく思うと同時に、愚かな子供だった僕が長い間、君を無為に縛り続けてしまったのでは、とも思う。

 選ぶのは、この子であるべきだ。そして、本人の意思で選ばせるにはこの魔物はあまりにも幼すぎる。

「……連れて行かない方がいいと思う。そこに家族がいるってわかっているなら、余計に」

 人間を基準に考えてはならない。彼らは魔物で、魔物には魔物の理がある。

 黙って聞いていたリーシャが一瞬動揺したが、対するガンドフは僕の結論を聞き届けると仔ケムケムベスを抱いてのそりと立ち上がった。その肩にスラりんを乗せて、窪みを迂回しオーク達の元へ歩いて行く。その背をふよふよとホイミンが追って行った。恐らく、他種属だけれどあの子が他の群れに会えるまで様子を見てやってもらえないか、頼んでくれるつもりなのだろう。

 もちろん、通りすがりの彼らにそこまでしてやる義理はない。親を追って窪みに落ちるかもしれない。他の魔物や人間に狩られるかもしれない。けれど、それらは元々この悲劇の有る無しにかかわらず、砂漠に生きる彼らの摂理の内の出来事でしかない。

「ピエールも言ってたよね。人ならざるものの気配だって」

 暗闇に溶け込んだガンドフ達の背を見送りながら、相棒に跨り側に侍るスライムナイトへと声をかけた。ふむ、と一つ軽く唸り、ピエールは鉄仮面の顎を撫でて考え込む仕草をしてみせる。

 心なしか、共に過ごすうちに彼の振る舞いは段々と人間じみてきているような気がする。

「我々はそう見ておる。人間の件は知らぬが、得体の知れぬ魔物は確かに居る。ヒトに擬態した魔族の可能性もあろうが、微かとはいえ、これだけ気配を残す魔物をオーク共が見間違えるとも思えぬ」

 ピエールの話からラインハット王国を脅かした偽太后が思い出されて、思わず深く頷いた。なるほど、あれはそれなりに力の有る魔物だったのだな、と改めて思う。あの時もピエールとスラりんは共に戦ってくれたが、二人並んだ太后のうちどちらが本物でどちらが偽物かは、神の塔に祀られていた宝具の鏡を使わないとやはり判別できなかった。

「案外、あるじ殿の御同業かもしれんな」

「────魔物、……遣い?」

 思わぬ提言に傍らの仲魔達を振り返る。魔物遣い。名乗ればどこでも通じる程度には認知された肩書きのはずだが、実際そう呼ばれる人間に、僕は出会ったことがない。

 どうやら彼としてもなかなかに絶妙な閃きだったらしく、相変わらずの澄まし顔で佇むマーリンを満足げに見上げたピエールが、さも愉しそうに言葉を続ける。

「生業としてなら有り得るかと思ったまで。本質で言うなら、あるじ殿と同様にことを為せる者などそうおるまい」

 ピエールがまたくつくつと笑いを噛み殺し、マーリンが静かに頷き同意した。どういう意味だと二人に問い返そうとした、その時だった。

 

「────────ッッ、熱っ‼︎」

 

 唐突に、左手を猛火のような灼熱が襲った。骨まで焼くほどに熱を帯びた薬指をたまらず抑えて蹲る。

 乾いた砂の上にぽたぽたと脂汗が滴った。ホイミンが真っ先に近づいて覗き込んでくれたが、顔を上げて応える余裕もない。歯を食い縛り異変に耐える僕を、リーシャと他の仲魔達はただただ訝しげに見つめている。

 唯一、フードの奥をぎらつかせたマーリンだけが、おもむろに一歩進み出て僕を促した。

「指輪を。ご主人」

 は、はぁ、と自分の呼吸がやけに生々しく鼓膜を打つ。恐る恐る、右手を退けて熱源を見下ろした。焔を閉じ込めた丸い紅玉が鈍く赤い光を放っている。ちらちらと揺らめくその石の中を、炎が龍の如く激しくぶつかり旋回している。

 まるで、何かを知らせんとするように。

 すぐ思い至るのはたったひとつ、

 ────この指輪と、対の。

「……戻る」

 痛む左手を抑え立ち上がった。軽いどよめきの中から、真っ先に声をあげたのはやはりリーシャだった。

「テュールさん? 一体どうし」

「プックル!」

 鋭く遮った僕に呼応してプックルがととんと歩み出た。乗れとばかりに背を向けてくれた親友の毛並みをひとつ撫で、険しい表情の少女を振り返る。

「リーシャ。プックルに早駆けの魔法を頼めないか。……多分、馬車で戻るより早いから」

 言いながら手早く気配を探ったけれど、やはりルーラでは掴めない。まるでこの大陸の集落全てに鍵がかけられているみたいだった。もう何度も試してきたことで、今はそこに落胆している場合じゃない。

「……っ、嫌よ」

 そして、もうほとんど予測できた、彼女の返答にも。

「ちゃんと理由を言わなきゃ、かけてあげない! 一体どうしたの? あたし達をここに置いて行かなきゃいけないことなの? 大体テュールさん、いっつも肝心なこと」

「フローラが」

 急く心を必死に落ち着けて最低限の言葉を繕う。こうしている間にも、フローラが。

「フローラに何かあったんだ。もしくは指輪に。そうでなきゃ、炎のリングがこんな反応するはずない」

 今度こそ息を呑んだリーシャと仲魔達に背を向けて、黙って僕を待っていてくれたキラーパンサーを促す。

 もう、魔法がかかるまでの一秒すら惜しい。

「行こう。プックル」

 声かけと共に大きな背に跨った、瞬間プックルが勢いよく砂を蹴り加速した。取り残されたリーシャの「……もうっ!」と憤った声がみるみる遠ざかる。横殴りの風は昼間よりずっと強く、月明かりさえ砂塵に霞む。ひっきりなしに打ちつける砂粒を物ともせず、僕を乗せたプックルは暗闇の中を怯むことなく疾走していく。

 じんじんと痛む左薬指は絶えず、淡い光を灯し続けていた。

 脈動の如く赤い点滅を繰り返す様はまるで、彼女自身の命の灯火だとでもいうようで、

 ────消させるものか。

 

 

◆◆◆

 

 

 プックルが集落に駆け込むのと、速度魔法をかけ直し飛ばしてきた馬車が追いついたのはほとんど同時だった。

「あたしっ、祠見てくる!」

 減速もそこそこに、馬車から飛び降りたリーシャが叫び駆け出した。一人じゃ危ない、と注意を投げる隙もない。次いでスラりんとホイミンが幌から飛び出し、暗闇へと呑み込まれていく。手綱を操るピエールがこちらを見ながら些か気落ちした様子で言った。

「しびれんはすれ違ってしまったのか。せめて彼女は無事であって欲しいが」

「……そうだね」

 プックルの背から一度降り、静まり返った夜中の集落を見渡して相槌を打った。薄情だが、実を言えば探っているのはしびれんの気配じゃない。

(やっぱり、いない)

 密かに唇を噛んだ。いつぞや滝の洞窟で神経を研ぎ澄ました感覚を思い起こす。あの清涼な波動をすぐ近くに感じられない。きっと彼女はもう、この近辺にはいない。

「ごしゅじんさま! こっち、きてー!」

 更に深く気配を追おうとした瞬間、スラりんが向こうの小道から僕を呼んだ。ピエールが先んじて動き、僕も急いで後を追う。小走りについて行くといつの間に降りていたのか、マーリンやガンドフも集まって、集落の端の地面を囲んでいるのが見えた。輪の中央からホイミンのあたたかな魔法の光が漏れている。そっと近づき、彼らの傍らに膝をついた。右の掌に同じく治癒魔法を喚び起こして。

「────、しびれん」

 ゼリーみたいな白肌を淡い光でそっとなぞったら、微かに呻いていたしびれんがうっすらと瞼を開けた。

「ご、……しゅ、じん……さま……っ」

 とりあえず意識が戻ったことにほっとする。焦点を合わせた黒い瞳に僕が映り込んで、黙って頷いてみせると、透明な涙をいっぱいに溢れさせた。

「へんな、おとこが、……っふ、ふろーらちゃ……、まもれ、な……っ」

 後半はもう言葉にならなかった。ほのかな潮の香りと共に、大粒の涙がぼろぼろと砂地に降り注ぐ。途切れ途切れの独白の中に引っ掛かりを感じて、しゃくり上げるしびれんを覗き込んだ。

「男? 人間だったのか、しびれん」

 ううっく、と痛々しい嗚咽を堪えながらしびれんが頷く。まさか先ほど聞いた、怪しい人間と関係があるのだろうか。疑念がちらついた矢先、何か大きな布を咥えたプックルが低く唸って寄ってきた。長い牙に掛からないよう拾い上げられた、妖精の羽のような薄手のそれに心当たりがあった。

 繊細なレース編みを施された白いショールが月明かりの下、強風に翻る。先刻の夕餉の席で彼女の細い肩を包んでいたものだからよく覚えている。およそ防寒には適さない、部屋着でしかないそれがここに落ちているという事実は、彼女が長く外に居るつもりがなかったであろうことを如実に示していた。

 ────間が悪すぎたのか。僕達が出かけた時、その不審な男はこの集落か近辺に潜んでいたはずなんだ。

「うん……ごめんね。一人にして、心細かったろう」

 受け取ったショールを握りしめ、もう一度、しびれんの泣き濡れた頬を拭った。ほとんど傷の癒えた身体に柔らかなショールをかけてやる。先ほどからふかふかの身体にしびれんを抱いてくれていたガンドフと目が合うと、僕まで気持ちがほぐれる優しい瞳で頷いてくれた。

「この程度で済んで本当に良かった。あとは僕達に任せて。絶対に連れて帰るから」

 最後に触手を一度握って立ち上がる。いつの間にか起き出してきた住人達が、ランプの灯りを片手にこちらを囲んで見ていた。昼間も顔を合わせてはいたが、暗闇の中魔物達と話す僕への眼差しは警戒の色が強い。気にせず、仲魔達の顔をぐるりと見渡した。

 たった今采配を誤ったばかり、うまく指示できる自信なんてない。だが今は、迷っている暇こそないんだ。

 信じろ。みんなを、己の判断を。

「スラりんは僕と一緒に。プックル、悪いけどもう一度乗せてくれないか」

 呼ばれたスラりんが真っ先に跳ね上がり、僕の肩へと飛びついた。懐に入れば落ちることもないだろう。プックルも当然とばかりに鋭く呼応した。目配せだけで確かめ、次いで片腕ともいえる鎧の騎士を振り返る。

「出来ればピエールの力も借りたい。ついて来られる?」

「何とか。可能なら、例の早駆けを頂けると助かる」

「それは寧ろ、プックルにこそ掛けてもらいたいよ」

 怒りで沸騰しそうな今だからこそ、軽口がありがたい。ひとつ息を吐いて、まだ名を呼んでいない仲魔達を向き直った。いずれも緊張の漂う表情で僕の指示を待っている。

 全幅の信頼を寄せてくれているのがわかる、僕の頼もしい、かけがえない仲魔達。

「マーリン、ガンドフ。申し訳ないけどしびれんとリーシャを頼みたい。ホイミンも、しびれんの側にいてあげて。祠で待っていてもらっていいんだけど、暴漢の仲間がいないとも限らないから、念のため、常に周辺を警戒して欲しい。例の魔物のこともある。トヘロスと聖水をこまめに撒いて、何かあったら集落の人達を守ることを最優先にして」

「御意」

「オマ、カセ!」

 一通りの指示を下し終わると同時に、ほとんど食い気味に両者が答えた。一通りしびれんの施術を終えたホイミンも「まっかせて〜! ぜっっったいにふろ〜らちゃん、とりかえしてきてね〜〜‼︎」と彼にしては力強い激励をくれた。

「グランさん。これは……一体」

 人だかりを掻き分け、リーシャに連れられたシスターがまろび出る。既に事情は聞かされているのだろう。すっかり取り乱した様子で「奥様、奥様は」と繰り返す彼女と正面から相対した。

「落ち着いてください。あなたに非は一切ない。たまたま夜中に表に出て、運悪く賊と行き合ったようなのです」

「あたしが気になることがあって、先に外に出たの。……それで」

 倒れんばかりに息を呑んだシスターの肩を支え、ひどく萎れたリーシャが気まずそうに言い添えた。しびれんにかけたショールをちらりと見遣り目を伏せる。その仕草には何も答えず、慌てて駆け寄ってきた住民達に崩折れたシスターを任せた。改めて場を見渡し、猜疑の眼で僕らを取り囲む人々へと告げる。

「お騒がせして申し訳ありません。少々、不穏なことが起こっているようです。僕達が戻るまでどうか家屋から出ず、しっかり戸締りなさっていてください。戦える方はすぐ応じられるよう準備を。仲間の魔物を何匹か残して行きますが、彼らは善良です。皆さんに危害は加えません」

 半信半疑といった体で人々がざわめき出す。端からすんなり信じてもらえるとは思ってない。言うべきことは言った、あとはシスターが皆さんを説得してくれることを期待して、仲魔を促し集落を出ようとした瞬間、リーシャの懇願が背後に響いた。

「待って!」

 夜半の喧騒を一瞬で掻き消す、揺るぎなく響く若い声。

 それを振り返った僕は多分、ひどく冷ややかな目をしていたんじゃないだろうか。

「あたしも行く。連れて行って、お願い」

 さっきと同じ台詞だが、しかし媚びた色はない。ただ真っ直ぐ、真摯に僕を見つめる紫水晶の瞳から先に視線を外してしまったのは、居た堪れなさに負けた僕の方だった。

「……別に、リーシャの所為だなんて思ってないよ」

 白々しい。欺瞞めいた言い方に反吐が出る。

 誰の所為だ。少しの間だから、眠っているから、しびれんを残して行くから。もしものことを何一つ想定できていなかったのは僕だ。そのわずかの間に、目を覚ましてもし部屋にリーシャがいなければ、心配した君はきっと僕を頼って外に出る。そんなの、そんなこと、ちょっと頭を働かせればわかりきったことだったじゃないか。

 その上、非力でおよそ戦闘に向かないしびれん一人にこの場を任せた。力如何ではなく、フローラと親しいからという理由で。完全に僕の采配ミスだ。

「…………っ、でも」

 それでも。リーシャは己への憤りを、押し殺した声と共に絞り出す。

「でも、……あたしが無理やり着いて行かなかったら、きっとフローラさん、外に出ることなかったでしょ⁉︎」

 叩きつけられた忿怒は、彼女自身へ向かうもの。

 わかってる。ここにいる誰もが後悔している。きっと僕が一番、自分自身を許せずにいる。この苛立ちを彼女に向けていい理由はない。そもそも守りたいなら一緒に休めって、これじゃ本当にリーシャの言った通りでしかないのに。

 悔しい。悔しい。これ以上何も否定してやれない。せめて今は、己の非を責めることしか。

「今回ばかりは守ってあげられないかもしれない。正直、ここに居てくれたほうが僕はずっとありがたいけど」

 愛想の欠片もない僕の返答にも、彼女は強い眼差しで頷く。

「守ってくれなくていい。自分の身は自分で守るわ」

 力強く言いきって、もう彼女は僕の答えを待たず野次馬を振り返った。遠巻きに訝しむ人々を見渡し、一度深く息を吸う。強風に煽られて赤紫の長い髪がぶわりと待った。アメジスト色の風の中、彼女は石の如く響く高い声を張り上げた。

「皆さん、お願い! テュールさんを信じて。あたしは今度、新しく女王様にお仕えすることになった巫女です。この人達は、そこの魔物さんも、あたしをお城まで送り届けてくださってる最中なの」

 まるで神託の如く、彼女の宣言が集落内に響き渡る。女王に仕える、という言葉の意味を知らぬ者などここにはいない。不審感に満ちていた人々の視線がみるみるうちに畏敬へと変わっていく。エピカで見た、フローラを取り巻いていた空気とも違う、憧れと尊敬に溢れた眼差しを浴びて、リーシャは聴衆に向かってにこりと艶やかに笑うと更に高らかに叫んだ。

「非力な女性が暴漢に攫われたのよ? 助けるのは当然でしょ! アイシス様の御膝下で、暁の再来と謳われたこのあたしが行かなくてどうするのよ‼︎」

 相変わらず強気だ。自身の価値を武器にする彼女をこの時初めて見たように思う。ずっと普通の少女だと感じていたのが、ああ、この子は本当に力を継ぐ人間だったのだと思い知る。

 もうとっくに、その覚悟を決めていたのだということも。

 年配の方々が数名、おお、とどよめいた。数代前の女王、暁の巫女姫を知る人々なのだろう。この上ない名分を高らかに掲げたリーシャがさっさと僕を押し除け、プックルに抱きつくように乗り上げた。その小さな背を包むように後ろから跨る。あ、とリーシャが小さく呟き、すぐ後ろの僕を仰ぎ見た。

「でもテュールさん、手掛かりは? もう少しここの人達に話を訊いてみた方が」

「要らないよ」

 そっけなく答えたのと、プックルが駆け出したのはほぼ同時だった。首を叩いて方角を示すと、すぐに僕の意図を理解したプックルがそちらを向いて速度を上げる。慌ててリーシャが緋色の鬣にしがみ付きながら、キラーパンサーと必死に並走する緑のスライムへ手を伸ばし早駆けの魔法をかけた。

 指輪はもう点滅していなかった。けれど、じわじわと薬指から伝わる鈍い熱が、僕を彼女の居場所へと駆り立てる。

「指輪が教えてくれる。……絶対に」



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#18. 血を喰む禍神~side Flora

 硬い床板に叩きつけられる衝撃と、ひっきりなしに肌を抉る砂粒の痛みで、たまらず意識が鮮明になる。

 身動ぎした瞬間、胃の奥から嫌なものがこみ上げて、咄嗟に呻き声ごと押し殺した。燃えるように痛む掌は縄で後ろ手に括られていて、口には猿轡を噛まされている。どうやら私は、馭者台に程近い馬車の荷台に転がされているらしかった。

 激しい揺れに身体が跳ねるたび、左肩から先が全て砕け散りそうな激痛が走る。折られたのは指一本だけ、なのに肩まで痛みと熱で痺れて動かせない。薄く開いた視界の中、周囲に何やら大きなものが堆く積まれていて────異臭が酷かった。一度気づいてしまうと、あとは吐き気との戦いだ。

 乱暴に馬車を駆る大きな背中の主はもちろん、夫ではない。

「おう。起きたか」

 まるで馴染みの人間に対する口調で、男は気安く呼びかける。当然嫌悪感しか湧かないけれど、今の私には睨み返す余裕すらない。歯を食いしばって激痛と異臭に耐える私をちらりと振り返り、男は低く、くぐもった笑いを溢す。

「死体だらけで悪いな。若いお嬢さんには気味悪かろうが、もうちっとで片付くからよ」

 ────死体⁉︎

 ぞわ、と怖気が一瞬で背筋を駆け抜けて、喉から上擦った悲鳴が漏れた。這いずった私をまた一瞥し、男は「ああ、人間じゃねえよ。魔物だ魔物」とこともなげに言う。

 細切れの記憶と男の言葉を必死に辿った。この異臭、これらは全て魔物の死体だということ? おぞましさに飛びそうな意識を必死に保ち、幌の中を見回した。暗くてよくわからないけれど、無造作に積まれたそれはケムケムベスのようにも見えた。毛むくじゃらの心優しいビックアイを思い出し息が詰まる。生きていないのなら今すぐ襲われることはない? いいえ、いいえ、安心したくても恐怖が勝って、意味のない思考ばかりぐるぐる回る。落ち着いて、何とかして心を落ち着かせて。

(……しびれん、ちゃん)

 唐突に、連れ去られる間際追い縋ってくれた小さな痺れ海月の姿を思い出した。血液が逆流するが如く一瞬で血の気がひいて、己の脈動がずくん、と重く響く。

 夥しい死体の中に彼女がいないことを確かめたくて、必死に頭を持ち上げたその瞬間、忌々しげな男の呟きが耳許をかすめた。

「あーくそ、どうせならあの痺れ海月も連れてきて餌にしちまえば良かったんだ。麻痺させられ損だぜ、畜生め」

 どうやら先ほどしびれんちゃんが絡みついた時、彼の利き手に麻痺毒が回っていたらしい。荒い走らせ方も、左手一つで手綱を捌いている所為らしかった。ぶらりと垂れた右手を振っては、あいにく満月草をきらしちまってンだよなぁ、とぶつくさ呟く男の独り言に耳を傾け、私は深い安堵に四肢が脱力していくのを感じていた。

 しびれんちゃんは捕まらなかった。きっと、無事。

 ────……良かった。

「さぁて、そろそろお目見えか」

 急に手綱を引かれて馬が高らかに嘶き、失速の衝撃で身体を何度も床板に叩きつけられた。死体が崩れれば下敷きになる。恐怖のあまりぎゅっと瞼を瞑っていたら、猿轡の後頭部を髪ごと無理矢理掴まれ、引きずり出された。よろよろと馬車を降りると今度は冷たい砂の上に放り出され、凍るような夜半の風に、薄衣ひとつの身体が今更がちがちと震えだす。

 辺りには花の形に似た鉱石がいくつも転がっていて、月明かりを受けて星の如くちかちかと瞬く様がひどく幻想的だった。きれいな場所だけど、残念ながら景色を楽しむ余裕はない。男は私を放置して幌へと戻り、馬を外して少し離れた細い木の幹に繋ぎなおしていた。一体何をするつもりなのか、凝視した私を彼は鼻で嗤ってみせる。

「見たいか? 気持ちのいいもんじゃねぇよ」

 慌てて目を逸らす。そう、さっき生き餌が良いと言っていた。あれは死体だそうだけれど、この人はきっと山と積まれた魔物を何かに喰らわせるつもりなのだ。

 程なく男の向こうからシュウウゥと空気を細くしたような唸り声と、何かがけたたましく破壊される音がした。馬車ごと壊しているのだろうか、だから馬を離したのだろうか。

「魔力を帯びた体液を吸うんだと。いやぁ、ここまで育てンのに苦労したぜ」

 隣に退がってきた男が得意げに嘯いた。俯いていたから気づかれなかっただろうけど、ほんのわずかな引っ掛かりを覚えて急いで記憶をまさぐった。

 私の夫は魔物遣いだ。不思議な力で魔物達と心を通わせ、彼らを縛る理から解き放つ。夫が行動を共にしている仲魔の皆さんはそれぞれが魔物としての矜持を持ちつつ、私達に寄り添った在り方をしてくださる。食生活に関しても少なくとも皆さん、人間と変わらない食事を喜ばれていると思う。魔力を含んだ体液を必要とされているところなんて、私は見たことがない。

 ましてやテュールさんといえど、魔物を甲斐甲斐しく世話して『育て』ることはなさってない。

 父親らしい振る舞いと感じることはあるけれど、それはあくまで家族さながらの距離感からくる印象に過ぎなくて。魔物でも生まれたてならまた違うのかしら。

 そもそも、この人は夫と同じように魔物を従え、使役できる人なの?

 テュールさんのあの力は優しい、浄化のようなもの。どういう理由か、辛い何かに苛まれていたというしびれんちゃんやスラりんちゃん達を光の中に拾い上げた。彼は力や餌で使役しない。強い信頼が彼らを結んでいるからだと、まだ出会って間もなかった頃の私にもちゃんとわかった。

 同じだなんて思えない。今、目の前にいるこの人と。

 

「それが、新たな砂漠の神ですか」

 

 この場に似合わぬ、玲瓏たる響きに思わず振り返った。いつからこの場にいたのか、見るからに高貴なローブを纏った細身の女性が少し離れた後方に佇んでいた。

 首からくるぶしまで大陸特有のドレスで覆い、露出は多くないがどこか艶かしい色香が漏れる。後ろから「兄貴、お待たせっす! お連れしました!」とまた知らない男性の声がして、どうやら賊の仲間が取引相手を案内してきたらしかった。

「時間きっかりだな。お偉いさんはさすがだねぇ」

 見るからにご機嫌とりの台詞に女性は何も反応を返さず、猿轡を噛まされて座り込む私を一瞥すると「その方は?」と静かに問うた。

「取引現場を見られちまってな。なかなかの上玉だろ? 連れ帰ってオークションにかけてやろうかと思ってよ」

 女性の後ろから好奇心丸出しで覗いていた青年がひゅう、と口笛を吹く。とりあえずすぐ殺される予定ではなかったらしいことと、これから知らない土地で売られるという事実に安堵と絶望が交錯する。んん、と言葉を発せずもがいた私を、彼女は意外にも憐れみ深い眼差しで見つめた。

「……そういう野蛮な扱いは好みません」

 女性の返答が気に入らなかったのか、男はいかにも不服そうに眉根を寄せる。

「非力だろうが油断はできん。魔法使うかもしれねえしな」

「ならば、封じておきましょうか。念のため」

 言うなり、女性は何事かを唱え身を屈めた。胸に手を当てられると、肺の奥にぐっと重石を詰められる如くの圧を感じる。身体の中の何かが循環することをやめたような、どこか気持ちの悪い感覚だった。何度か魔物との戦闘でこんな状態になったことがある。恐らく今、魔封じの魔法をかけられたのだろう。

 屈んだ彼女がそのまま首の後ろに両腕を伸ばし、猿轡を解いてくれる。

「あ、りがと……ござい、ます」

 やっと吐き出した息が白い。ひりついた喉からやっと声を発すると、女性は目許だけわずかに緩ませて淡々と告げた。

「貴女も軽率な行動はなさらないことです。私が見ている限り、無体な真似はさせません」

 おい、と苦笑いした男を冷淡に見遣り、女性は乾いた息を吐く。

「本当……殿方って、女を人とも思わない方が多いのね」

(……?)

 少し、不思議に思った。この大陸ではどちらかというと、女性こそ大切に扱われている印象が強かったから。

 非難めいた一言も男は意に介さない。手下の青年から恐らく満月草の軟膏を受け取り、丹念に利き腕へと塗り込みながら、彼は月明かりの下、酷く濁った笑いを浮かべる。

「男だろうが子供だろうが関係ねえ。金になるかならねえか、だよ」

 下卑た笑いは彼の真理であり正義だ。彼にとって、値がつくかどうかだけが意味のあることなのだろう。女性は眼差しにますます軽蔑を込め、さりげなく私を庇い立つと冷たく言い放つ。

「競売に出されるおつもりなら、もう少し商材を大事になさったら。このままでは買い手がつく前に凍え死んでしまわれてよ」

 男が舌打ちし、子分らしき人に顎をしゃくった。慌てて彼は身の回りをばたばたと探り、腰に巻いていた大判の布をほどいて私に羽織らせる。決して厚手とは言えなかったけれど、寝着一枚で夜風に煽られ続けた身体には、ほんのわずかな温もりすら滲みた。

「おっと、まずはそっちだ。例の遺品とやらはどこにある」

 出し抜けに男が問いを投げたが、女性ははじめて表情を翳らせると、視線を外して口籠った。

「……王城の、勇者様の御廟に」

 歯切れ悪い返答に、男が顔をしかめる。『勇者様』と聞こえて、私も思わず耳をそばだてた。

「話が違うな。後金をユウシャサマの兜とやらで贖うんじゃなかったか」

「申し訳ありませんけれど、それの力を借りないと御廟を開けられそうにありませんの。御開帳の暁には、御廟に納めてある他の宝具も好きなだけお持ちになればよろしいでしょう」

 ────勇者の……、『天空』の、兜⁉︎

 耳を疑った。遺品って、まさか勇者本人が遺したものが伝わっているの?

 盾は私がずっと持っていたけれど、兜がここにあるなんて知らなかった。恐る恐る、女性の横顔を盗み見るが彼女は先ほどと変わらぬ冷たい面差しのまま、すっきりと背筋を伸ばして佇んでいる。

 もしかして、この方はアイシス女王なのでは。

 でも、だったら何故天空の兜を取引材料に? いいえ、女王ならきっと御廟など簡単に開けられる。そもそも何を取引しようとしているのか、何もかも不確かな状態では推察もろくにできない。

「なんだかようわからんが、しゃーねぇな。城に一度出向けってことか」

「恐れ入ります。ご足労をおかけして申し訳ありません」

 取り乱して見えたのは一瞬で、女性はすぐに澄まし顔を繕うとしなやかに腰を折って見せた。ふん、と鼻を鳴らした男が子分に向かってひらひらと手の甲を振る。

「お前はそこのお嬢さん連れて船戻ってろ。勝手に手ェつけんなよ、大事な商品だからな」

「うぇ? 兄貴一人で大丈夫なんです?」

「お前阿呆か? こっちには神サマがついてんだよ」

 尚も子分は心配そうに兄貴分の様子を窺うが、男はにやりと笑い腰に下げた袋を示してみせる。あんなところに魔物を収めているのかしら。よく見たくて思わず身を乗り出したけれど、背後に立った子分はそこには気づかずやれやれと息を吐くと、手首の縄をぐいっと引き上げ立つように促した。

「んじゃ、別嬪さんにはちっと歩いてもらうかねぇ」

「あの」

 連れて行かれる。その前にと、ほとんど反射的に声が出た。

 聞きたいことは山ほどある。まともに答えてもらえるとは思わないけれど、今、真っ先に尋ねるべきは天空の武具のこと。例の勇者の墓所に祀られているのが、かの伝説の勇者が遺した兜であると────夫が探し求めるその方への道標が、この国に納められているのかどうか。

 訊かなくては。そう、思うのに。

「指輪……指輪だけ、返してくださいませんか。お願い、です」

 やっと紡いだのは伝説などかけらも関係ない、先ほど奪われた指輪のことだった。

 私の懇願に女性は眉を潜め、男はうへぇと辟易した様子で目を逸らす。

「指輪ぁ? 兄貴まさか、一人でくすねる気だったんじゃあ」

 子分の男が恨めしげに男を見上げて不平を垂れる。男も忌々しげに舌打ちし「うっせぇな。ちったぁ分け前やるつもりだったよ」と唇を尖らせた。

 水のリングなら魔法を封じられていても使える。そんな下心もわずかにあった。けれど、指輪の力だけでこの局面を打開できるほど、甘くはないこともわかっていた。

 以前の私なら潔く死を望んだかもしれない。あのひとに出会う前の私なら。

 連れて行かれるのだって嫌だけど、今ここで殺されるよりずっといい。彼が黙って耐えた十年を思い出し唇を噛んだ。

 あの人なら諦めない。そう思えることが震える私を叱咤する。どんな目に遭うかわからない、女の私は彼に見せられない身体になってしまうかもしれない。でも、それでも、生きてさえいれば。いつか彼に……もう一目だけでも、会うことが叶うかもしれないから。

 だから、……だから、御守が欲しい。決して強くない私が、その時まで生きることを諦めてしまわないように。

「お願いです。もう、抵抗したりしませんから。どうか返して、あの指輪だけは」

 冷めた目で私を見つめる二人に追い縋る。どんな目で見られてもいい。彼が命懸けで手に入れてくれた、私と彼を繋ぐたったひとつの、あの指輪だけは手放したくない。

「とても大切なものなんです。結婚指輪なの。どこへ連れて行ってもいい、私ごと売り飛ばしたって構いませんから、それだけ……それだけ、持たせて頂くことは許されませんか」

 

「────そんなに、縛られているのは楽?」

 

 訴えるのに必死で気付かなかった。いつしか、女性の雰囲気がまるで生気を感じられないほど硬く、無機質なものに変化していたことに。

「あの男も、私に指輪を寄越したわ」

 美しい能面が紡いだ呟きからは微かにも感情を読み取れなかった、けれど。

 何故かしら。

 胸が、張り裂けそうな心地がした。

 苦しくて苦しくて、何故か、大きな手に喉を絞められているような────奇妙な感覚が意識の片隅を駆け抜ける。

 茫然と見つめる私に、彼女は口角を妖しく持ち上げ……にこりと、作りものめいた笑みを見せた。

「所在不明になるのがお嫌なら、私が買い取って差し上げます」

「な……!」

 残酷な提案に言葉が出ない。ちがうの。ただ、肌身離さず持っていたいだけなのに。

 硬直し瞠目する私を眺め、彼女はさえずるように言葉を紡ぐ。

「憐れな方。従属することに慣れ過ぎて、こんな指輪一つで縛られていることにもお気づきにならないのね。私が解き放って差し上げましょう。貴女はこれから奴隷の身に堕ちるかもしれないけれど、今よりずっと自由になられてよ」

 どうして、そんなことを仰るの?

 この状況下で漠然と、彼女は味方のような気がしていたのだ。目を見開いたまま動けない私を尻目に、彼女は男に指輪を渡すよう促す。男はますます苦虫を噛み潰した顔で「おい、墓所のお宝とやらがろくなもんなかったら後できっちり支払えよ! 俺の見立てじゃ、こいつぁ数万……十数万ゴールドだってくだらねぇんだからな!」と怒鳴りつつ、渋々指輪を取り出した。

「……美しい指輪ね。貴女によくお似合い」

 褒め言葉なのに、どうしてこんなに寒々と響くの。

「どうせ頂くならこんな指輪が良かったわ。……趣味の悪い殿方は嫌いよ」

 右手に白銀の輪を摘み、彼女はうっとりと目を細める。しなやかな指先を誘われるようにリングへ向けて。

 ────いや。嫌!

 止めたいのに、必死にもがいているのに、縛られた腕を掴まれて動けない。「この、大人しくしろって!」と背中から体重をかけられ、無様にも地に伏した。疼いていた左手を再び激痛が襲って、言葉もなく耐える私を見下ろし、女性は優しく、妖しく笑う。

 ……ここまで必死に隠してきた醜い自分が、溢れる。

 私だけがいい。私だけに許して。あなたのものである証を、他の誰にも譲りたくない。他の誰にも許したくはない。

 リーシャさんにも、ビアンカさんにも、この方にも、本当は誰にも、絶対に渡したくなかった。

 とらないで。私の一番大切なものを、私から奪わないで。

「やめて、……返して……‼︎」

 後頭部から砂の上に抑えつけられ、もう見上げることすら叶わない。次に聞こえるのはきっと、愉悦だと思った。聞きたくない。どうしても駄目なら、どうか耳を塞がせて。

「…………っ、どうして」

 けれど、

 ────聴こえたのは、初めて生じた彼女の激昂。

「どうして通らないの! どうなってるのよ、この指輪は‼︎」

 力が緩んだ隙に首を傾けて、愕然とした。既にリングを嵌めたと思った女性は、否、まさに指を挿し入れようとしたその姿勢のまま立ちすくんでいたのだった。目を凝らして見れば、ちょうど輪のところで爪先が止まっていて────器用に止めているわけじゃないのは震える腕を見ればわかる。

 確かに開いているはずの穴が、結界の如く不思議な力で指の侵入を阻んでいる。

「……おったまげた。結婚指輪にしちゃあ随分とけったいな代物じゃねぇか」

 男がどこか呆れたように呟いて、次いで私を捕らえた子分の男がひどく怯えて私を覗き込んだ。

「あ、あんた、ありゃあ呪われてんのか? んなもんつけてて平気だったのか? なんであの方の指には擦りもしないんだよ⁉︎」

「し、知らな……知りません、私」

 気圧されるままに頭を振った。だって、本当にわからない。今まで疑問に思ったこともなかった。普通に身につけていたし、魔道具であることも伝承の指輪だからと何となく受け入れていた。そう、結婚式で彼に嵌めてもらってから今までずっと────

 

「その指輪は貴女には嵌められない。僕の妻のものだから」

 

 唐突に、凛とした青年の声が夜風を裂いた。

 ずっと聴きたかった、声。穏やかだけれど理不尽に屈さない強さに満ちた声が、砂ばかりの一面に響き渡る。

 必死に頭を持ち上げて、声のした方を振り返った。まだ濃い闇が横たわる砂塵から、金の毛並みが美しい魔獣が咆哮し躍り出た。失速したその背から黒い影が転がるように飛び降りる。黒く見えたのは、彼の外套も濃い紫だから。被り物も、風になびく黒髪も溶け込むように夜に馴染む。

 けれど────その瞳の輝きだけは、闇に埋れはしない。

「……テュール、さん」

 思わず零れた呼びかけはあまりに朧げで、彼の耳に届くはずもなかった。けれど、地面に降り立ちこちらを見渡した彼とすぐに目があった。険しい表情だった彼は、しかしほんの一瞬、私を安心させるかのように張り詰めたものを優しく優しく弛ませる。

「ちっ。そこの女と駆け落ちしたんじゃなかったのかよ」

 大柄の男が忌々しげに舌打ちした。唇を噛んでそちらを上向いた瞬間、隣の女性が美しい眉をひどく歪めたのが見えた。

「なんておぞましいこと。呪を施した指輪で女を縛るなんて」

 ぽつり、艶やかな唇から零れ落ちた声はあまりにも────身体を芯から震わせるほどに、冷ややかだった。

 息を呑んだ私を、彼女はいっそ慈愛に満ちた微笑みで見下ろした。透明な眼差しでするりと視線を搦め捕って。

 陶器のような長い指先がつと、私の顎をなぞっていく。

「ねぇ。心底身勝手だと思わなくて? 御主人は貴女を所有した証に、呪いの指輪を与えたのですって。こんな薄気味悪い指輪一つで飼われてらしたのよ、貴女。そこまでして繋がれていなくてはならないなんて、本当に哀れで、お気の毒な方」

 そんなこと。

 抗議を叫ぶより早く、テュールさんのひどく穏やかな声がいたわるように私を包んだ。

「僕が何かしたわけじゃない。指輪が、彼女を選んだんだ。貴女に理解してもらう必要はないけれど」

 突然の闖入者に気分を害したのは女性も同様らしかった。もう一度ちらりと私を一瞥し、侮蔑と非難を込めてテュールさんをきつく睨みつける。

「安易に拉致を許したくせに、随分と余裕でいらっしゃるのね」

 この一言には彼も唇を噛んだようだった。悔恨が滲む表情に息が詰まる。テュールさんは何も悪くないのに。

 それでも彼は賢明だった。ゆるく息を吐いて、ナサカの集落で住人達に激昂されたときのような深い濃紺の凪の瞳で烈しい視線を受け止める。わずかも怯むことなく、彼はすらりと剣を抜いた。────女性と、私を捕らえた男達を見据えて。

 人に剣を向けるテュールさんを初めて見た。

 魔物ではなく人間、それも女性に対して彼が剣を構えている。絶望に似た怖気がぞろりと私を蝕んだ。吐く息も白い寒さなのに、緊張のあまりぬるい滴が喉許を伝う。対峙した彼が剥き出しにしたものは殺意ではなかったけれど、それ以上に静かな怒りが全身から滲み出ているのを感じた。

「何のつもりか知らないが、返してくれ。妻も、指輪も」

 感情を押し殺した、ごく低い声音で彼が告げる。

 剣を構えたテュールさんの背後から、リーシャさんが恐る恐る顔を覗かせた。私を認めると痛ましげに顔を歪めて────その隣の女性を目にした瞬間、強張って息を呑む。

「……ユノ、さま?」

 女性がまた不快気に眉をひそめた。女王ではないらしいことにほっとしながらも、同時にどこかで聞いた名だとも思った。その答えはすぐにリーシャさん自身からもたらされる。

 握り締めた拳をわななかせ、彼女は真っ向から純粋な問いを投げつけた。

「ユノ様。ユノ様でしょ? 女王従きの女官長様がこんなところで、一体何をなさっているんですか⁉︎」

 

 ──── 女官長をなさっている方よ。むかーし、小さい頃に何度かお会いしたことがあるわ。

 

 そう、屈託なく告げた彼女の言葉には『ユノ様』への敬愛が滲んでいた。話題に上ったのはあの一度きりだったけれど、きっとその邂逅はリーシャさんにとって大切な、思い出深い出来事だっただろうことが容易に想像できた。

 ユノ様、と呼ばれた女性は怪訝そうに少女を見る。冷たい眼差しにも怯まず、リーシャさんは顔を上げるとはっきりとした声で名乗った。

「エピカ村の、リーシャ・ガロンです。六、七年くらい前、私がもっと幼かった頃に何度かお会いしたことがあります」

 聞き覚えがあったのか、女官長が微かに眼を瞠った。初めて真っ直ぐ少女を見つめ返した彼女は、記憶を反芻するように次第にその瞼を細めていく。

「……そう。アイシス様は、全てお見通しだったというのね」

 暫しの沈黙の後、彼女はまた抑揚のない呟きを零す。その隣で手持ち無沙汰に待っていた男が突然、慌てた声をあげた。彼女が後ろ手に腕を差し伸べて、何かを促す仕草をしたから。

「おい、あんた────」

「朝になればテルパドールの民は皆、それの供物となるのです」

 供物……、なに?

 言葉の意味を、飲み込むことを頭が拒絶する。わずかにも表情を揺らがせることなく、女官長はただ淡々と告げた。

「ほんの数刻早くとも同じこと。……そうでしょう」

 もういっそ、現実感がなさすぎて。

 本当はずっと、私は星のように天井が瞬くあの祠の地下室で、醒めない悪い夢を見ているだけなんじゃないだろうか。

 そんな莫迦げたことを思うくらい、恐ろしかった。淡々と語る彼女からは生気も覇気も感じられない。どうしてここまで己を殺しきることができるの。そして、彼女自身自分が何を語っているのか理解しているのかしら。

 もう数刻で日が昇る。そんな当たり前の日常の一遍のように口にしているその内容が示す残虐が、彼女に解らないはずないのに。

「何のために手懐けて、ここまで魔物だけ喰らわせて来たと思ってンだよ。知らねえぞ、一度人間に味を占めたら」

「────すべて、喰らい尽くしてくださると?」

 

 ごく薄く、笑ったように見えたその表情は、

 ただ破滅を望むひとの顔だった。

 

「どう、して、そんな」

 届かないとわかっていても、言わずにはいられなかった。

「お城に、放つおつもりなのですか。城内と城下に、何百という人々がお住まいなのではないのですか。……テルパドール城は、勇者様の墓を祀るが故に強固な結界で守られていると聞きました。その聖域に、女王に次ぐ力を持つお方が、得体の知れない恐ろしい魔物を敢えて招き入れようと仰るのですか⁉︎」

 ほら。この方は私の訴えになどかけらも揺らいでくれない。言葉を尽くしたところで眉一つ動かしてはくれず、絶望と虚しさに押し潰れるばかり。だって全部承知の上で、彼女は初めから王城を血に染めるつもりでいたのだ。

「何で、そんなこと……ユノ様、お輿入れが決まったって。だからご実家に戻られるんでしょう? あたしも、直接お祝いをお伝えできると思って、すごく楽しみにしてきたのに」

 リーシャさんが狼狽えて、純真な眼差しを女官長に向けた。疑うことを全力で拒んでいる無垢な少女に、女性は冷たく、どこか哀愁を帯びた一瞥だけを返す。

「それが望まぬ婚姻だとは、露ほども思わないのね」

 ────胸を、衝かれた。

 私の意思なんて関係なかった。結婚とは全て、父と婚姻相手との間で為されていく契約に過ぎないはずで、父がどんな過酷な条件を課そうとも、どれほどの犠牲が払われようとも、私にできることなど祈ること以外何もなかった。

 抗えない虚しさを、私も知っている。

「どうしたの? 見られては困るのでしょう。あれだけの人を全員捕まえて競売にかけるおつもり?」

 再び無機質な声に促され、男が一層忌々しげに舌打ちした。腰の袋に手をかけると袋口を留めていた金の輪を引き抜き、中身を勢いよく放る。次の瞬間、不穏な地響きと共に、猛烈な砂煙が視界を阻んだ。

 

 

「……やっぱりか」

 薄れていく砂塵の中、テュールさんの低い声が不思議と鮮明に響く。

 眼前に拓けた砂の海に異変が生じていた。ぽっかりと地面がなくなって、いいえ、私達の足元からさらさらと砂時計のように地面が流れ落ちていく。唐突に出現した、滝壺のような巨大な溝へと。

 その、中央に何かいる。

「下がれよ。死にてえのか」

 苛立った様子で、男が乱暴に私を後ろへと引き寄せた。振り払うことは出来なかったけど、それでも精一杯逆らって前のめりに身を乗り出す。

 無数の礫が溝の中から流星の如く噴き上がる。────その淵から盾で庇いつつ真下を窺って、スライムに跨った勇ましい鎧の騎士が、今にも中に飛び込まんと剣柄を握り呼吸を整えているのが、見えた。

「ピエールさん‼︎」

 無我夢中で叫んだ。お願い、届いて‼︎

「スラりんちゃん、プックルちゃんも下がってください‼︎ これは魔物を狙って────」

 続けて叫ぶより早く、呼応するが如く中の魔物が吼えた。

 クオォォォォン‼︎ と響く唸り声と共に砂を巻き上げ、再び視界が遮られる。私の声もきっとかき消されてしまったけど、それでももう一度、鳩尾に力を篭めて思いきり声を張り上げた。

「魔物の、体液を吸うのだと! どうか近づきすぎないで……‼︎」

「……なるほどね」

 矢の如く飛んでくる砂礫を外套で防ぎ、私の警告を苦々しく受け取ったテュールさんが魔物を見下ろし独りごちた。

「みんなは一度下がって。……足場が厄介だね。マザーオクトといい、やばい奴は直接殴りにくいのが面倒だな」

「あの男が主ならば、捕らえて再び封じさせては如何か」

「それで二度と使えなく出来るならね。万が一にもあんなものを住人のいるところに放たれたら、ただじゃ済まない」

 鋭くこちらを見遣ったピエールさんを、彼は静かに嗜める。真剣な面差しの中にどこか憐みめいたものを感じるのは、彼が『魔物遣い』である所以だろうか。

「……斃せるなら、斃してしまったほうがいいと思うけど」

 距離があって、ピエールさんと何を話しているのかこちらまではっきりとは聞こえてこない。けれど、浮かない様子から彼の逡巡が痛いほど伝わってきた。

 テュールさんはきっと、仲魔の皆さんに人を襲わせない。

 私を取り返すため、それを魔物が阻むなら皆さんをぶつけることもするだろうけど、プックルちゃんにこの人達を害させることはきっとなさらない。

 ……私が命を落とすことがあれば、その限りではないけれど。

 だから、彼はきっと単身こちらに向かおうと考えているのだろう。けれどあの魔物が障壁となるから、結局は対処せざるを得ない。それでも仲魔の皆さんを近づけるのは悪手で、だからって彼一人でなんとかできる局面でもなくて。

 せめて、私が魔法を封じられていなければ。

 この人達を眠らせて、自力でここを離れられれば、少しは彼の足手まといにならずに済むのに。

「莫迦が、死ぬっつってんだろこのアマ!」

 無意識のうちに迫り出していたらしい。頭ごなしに怒声をぶつけられ、ぎょっとした子分が慌てて腕を捻り直した。折れた指からまた激痛が走ってうずくまりかけたけれど、歯を食いしばって顔を上げた。

 こんな痛み、何もできない辛さに比べたら何てことない。

「あ、兄貴ぃ、大丈夫なんすか? 俺達も巻き込まれません?」

 おどおどと子分が問うた。完全に腰が引けている青年を一瞥し、壮年の兄貴分は素っ気なく言い捨てる。

「お前はそいつ連れてとっとと行け。俺はともかく、お前は巻き添え喰ったらおっ死ぬだろうからな」

 ひぇッ! と震えた子分が私を捕らえたまま後ずさった。引きずられたたらを踏みながら、相対した巨漢を見上げ真っ直ぐに睨みつける。

「……あなただって、同じではないの?」

「飼い主には従順なんだよ」

 低く笑い、男はいかつい掌をかざして見せた。いつの間に身につけたのか、中指に太い金の輪を嵌めている。さっき魔物を封じていた袋を留めていた輪だ。この金の輪で魔物を服従させているのだろうか。

 ────なんておぞましいこと。呪を施した指輪で女を縛るなんて。

 先ほどの女官長の言葉が何故か、脳裏をよぎった。

 どん、と唐突に地面が揺れた。離れたところから魔法とブーメランを仕掛け始めたテュールさん達に業を煮やしたのか、魔物が激昂し更に溝を拡げたのだ。蟲が放つ砂の衝撃で足場が脆く弛み、ざぁっと音を立てて崩れていく。みるみる後退する砂の縁に飛び退いた男達とは対照的に、女官長はさっきと変わらぬすきっと立った姿勢のまま、砂の中の魔物を真っ直ぐに見下ろしていた。

 

 どうして?

 

 躱そうともしない。頬をかすめる砂礫にも撃ち抜けとばかりに動じない。崩れ出した地面からも、一歩も動こうとしなかった。

 まるで、己自身が供物であるというように。

 どうしてなのかわからない。なぜ動いたのか、何故そう思ったのかも。ただ身体が勝手に動いていた。手を離し逃げ出した子分とは逆方向に、転がるように駆けた。女官長の足下が音を立てて崩落した、その頂きで体勢を崩した彼女に、頭から思いきりぶつかって突き飛ばした。

 

 このひと、死んでもいいと思ってる。

 彼女はそれで良かったのに、どうして私はこの時、そんなの駄目なんて傲慢なことを思ったのか。

 この瞬間のことを後から時折思い返してみるけれど、未だ納得できる答えには辿り着けない。

 

 浮遊感の一瞬の後、右半身を激しく叩きつけながらすり鉢の底に落下した。砂を雪山のように巻き込んで崩れて、身体が半分埋まってしまう。

「フローラ⁉︎」

「フローラさんッ‼︎」

 悲愴な声が二つ飛んで、縛られたままの左手が悲鳴を上げた。けほけほと咳き込みつつ激痛に痺れる身体を起こしかけたその瞬間、背後の気配にぎくりと血が凍りつく。

 先程まで上から見下ろすばかりだった蟲の魔物が、私のすぐ後ろにいる。

 恐ろしくて、息もできない。見上げた砂壁は見るからに脆くて全く登れる気がしない。振り返るより早く、ずくん‼︎ と鋭い痛みが背後から腹部を貫いた。

「フロー……ラあぁッッ‼︎」

 本能を剥き出しにした、獣のようなテュールさんの咆哮が私を呼ぶ。

「……っ、ぁ」

 熱い。痛い。どうして。

 ごほ、と咽せたら口から血が散った。恐る恐る振り向くと、あの蟲が這ったまま至近距離で私を見つめていた。ぞ、と強烈な悪寒が脳天を割って駆け抜ける。蟲の大顎とでも呼ぶのか、角のようなその一つが右の脇腹を貫いていた。全身にこだまする脈動と共に熱いものがどくどく溢れて、濡れた砂と薄衣がじっとりと肌に貼りついていく。

 駄目、かもしれない。

 力が抜ける。崩折れかけた矢先、ズズ、と濁った音がして突き立てられたそこが急速に重みを増した。違う、吸われてるの、血と体液を魔力ごと────

「や────嫌、テュール、さ……!」

 

 たすけ て。

 

 刹那、

 紫の外套が翻り頬を凪いだ。

 脇目も振らず飛び込んだテュールさんとすれ違った瞬間、触れても視線を交わしてもいなかったけれど、まるで抱きしめられたような温もりを感じた。

 絶命しそうな激痛の中、ほんの一瞬、恍惚すら覚えた。

 跳躍の勢いと体重を全て載せて、彼は渾身の一撃を巨蟲へと打ち下ろす。けれど大顎を砕くことは出来ず、当の魔物は鬱陶しげに頭を揺すった。

「あ、や、痛っ……あぁ、あッ‼︎」

 貫かれたままよろめいた軀を振り回されて、堪えたくても身体の内側から絞られるように絶叫がほとばしる。少し動かれただけで腰から真っ二つに裂かれそうで。大顎を身体全部で押し留め、彼も必死に動きを止めてくれたけれど、この隙にも血を吸われて意識がぐらりと混濁した。

 今意識を手放したら、二度と目覚められないかもしれない。

 どん、と唐突に衝撃が走った。仲魔の皆さんがいつの間にか降りてきて、蟲に向かって一斉に体当たりしてくれている。「ふろーらちゃん、しっかりー!」気丈なスラりんちゃんの励ましが朦朧とした頭に響く。彼らの狙いを瞬時に理解した彼が私を支え起こし、正面から抱きしめて蟲に喰いつかれた腰を強く抑えた。「無理にでも抜くよ。少しだけ我慢して!」囁くと同時に仲魔の皆さん達がもう一度体当たりをして、同時にテュールさんが私の身体を後方へと一気に引き倒した。

 ずるりと大顎が抜けた傷口から、熱い液体がおびただしく流れて散っていく。

 治癒魔法で止血しつつテュールさんが私を抱き寄せ、勢い余って折り重なり倒れ込んだ。すぐさま上体を起こした彼が抱きかかえてくれる。その周りをプックルちゃんが、ピエールさんが、スラりんちゃんが盾の如く取り囲んで護って。

 

【挿絵表示】

 

 憤慨した蟲が退けとばかりに唸り、じりじりと間合いを詰めてくる。

「……跳ぶのは難しい? プックル」

 身構えたプックルちゃんが蟲を見据えたままグゥ、と低く応えて、その意図を的確に読み取ったテュールさんはどこか自嘲めいた苦笑いを溢した。

「だよね。フローラ一人なら、とも思ったんだけど」

 それ以上彼は口にしない。一目瞭然、こんな状態の私では自力でしがみつけないから。紐で括りつけるなりしないとすぐに落ちてしまうし、足場はいつもと違って脆い砂土。そもそもこの高さではきっと、プックルちゃんだけ脱出するのも厳しい。

「わりと絶体絶命、かな? ……これは」

 口調はいつも通り、軽口のようでいて、早まった鼓動からじわりと緊張が伝わってくる。

 ……いつだったか、彼に告げた。

『私がいることで危険が増してしまう時は、すぐにでもその場に置いていってください』

 そんなことできるひとじゃない。初めからわかっていた。わかっていて、残酷な願いを伝えた。見捨てるはずがない。それを望むことで彼を苦しめてしまうことも、当たり前にわかりきっていたことなのに。

 手を伸ばしてしまった。助けてと、あなたに縋ってしまった。

 ────絶望的な状況なのに、今、あなたが寄り添ってくださることがこんなにも、嬉しくて。

「奥方殿の血は余程甘美だったとみえる。執拗な」

「へえ? そう聞くとますます許し難いな。何がなんでも負けられない気がしてきた」

 ピエールさんと不敵な応酬を交わしつつ、抱き寄せる腕に力が篭る。今にも沈みそうな意識を、彼を感じることで必死に繋ぎ止めた。

 死にたくない。

 この温もり、鼓動、声を、匂いも。失いたくない。

 側にいたいの。これからも、ずっとずっと側にいたいの。

『────シャアアアァァ‼︎』

 甲高い雄叫びが響いた、その瞬間地面が揺れた。

 低い地響きを伴った振動が足元の、壁面の砂を揺らしてざらざらと崩していく。否、この大きな穴の中央に向かって、ものすごい勢いで滑り落ちていく。真っ先に異変を察して声を張り上げたのはテュールさんだった。

「あいつを足場にしろ! 呑まれる‼︎」

 そう、朦朧とした頭でもわかる。底が抜けたように足下が弛んで、私達は重力に任せて地面の中へと沈み込んでいたのだ。リーシャさんの取り乱した叫びが遠く聞こえる。プックルちゃん達はすぐさま蟲へと飛びつきその死角に乗り上げたけれど、きっと私を抱いている所為で、テュールさんはあっという間に膝まで砂に呑まれてしまう。

「あるじ殿!」「ふろーらちゃあぁんっ!」

 仲魔の皆さん達と別たれて、その距離はほんの数メートルだったけれど、今の私達には決して越えられない深い溝のように感じた。更には魔物がこちらを見据えて大顎を構える。身動きが取れない私達を襲うつもりだろうか。

「んがーんもおぉ! るかなああぁん! ごしゅじんさま達にさわるなぁぁばかああぁー‼︎」

 額に居座ったスラりんちゃんが癇癪を起こしたようにぷよんぷよんと激しく跳ね、軟化魔法を唱えたその口の鋼牙でそこかしこにがぶがぶ噛みつき回る。さすがに不快らしい蟲が再び奇声を上げて大量の足をくねらせた。「スラりん、落ち着け! これをあるじ殿から離しては本末転倒であろうが‼︎」と奇声の合間にもピエールさんの鋭い叱責が飛ぶ。

「は、はな、して」

 全然力が入らない右肩で懸命に彼の胸を押し返そうとしたけれど彼は答えず、唇を食いしばって私を抱える腕に力を込め直すばかりだった。

 お願い。お願い。あなただけは。

 どうしてこんな時まで、私はお荷物でしかいられないの。

 私なんて捨てていい。あなた一人ならあそこまで辿り着けるかもしれないのに。必死の願いも虚しく、彼は私の髪に顔を埋めるようにしてぎゅっと抱きしめる。「もっと怪我させたら、ごめん」と耳許に囁いて、既に腰にも到達しそうな地面に直接右手を当てた。

「────バギマ‼︎」

 ぶあ‼︎ と風圧で砂が舞い上がり目を開けられない。ぎゅっと瞑ったその隙に反動で身を運んだテュールさんが一歩、もう一歩と歩みを進めたけれど、砂はあっという間に彼の鳩尾まで呑み込んでしまう。

 魔物の攻撃がこちらに向かないよう牽制しつつ、あるじ殿! と尚も呼ぶピエールさんに向かって彼は「フローラを頼む、ピエール!」とだけ叫び返した。やめて。私だけ助かりたくない、一緒じゃなきゃ嫌だと、喉まで出かかった我が儘を飲み込んだ血まみれの私を肩に担ぎ直し、テュールさんは更なる風魔法を放って前進しようとする。そうこうしているうちに彼の鎖骨にも砂が迫って。

「もう、いいの、……はなして……っ」

 ぼろぼろと溢れた涙が砂に滲んでは消えていく。

 泣いてなんになるの。こうしている間にも、テュールさんは頭まで沈んでしまいそうなのに。

 せめて、せめて、この砂時計のような流動を止められたら。

 魔法の風圧で全部は吹き飛ばせない。頭を持ち上げ必死にもがく彼に泣いて懇願するしかできないなんて。いっそもっと泣いて泣いて、涙でこの砂を泥に変えてしまえたらいい。今ここに雨が降ってくれたら。いいえ、私があの時、ちゃんと指輪を取り返せていたら────

 

(今ここに、水を)

 左手の薬指に、今そこにはない指輪に強く強く念じた。春の雨のように、すべてを等しく濡れそぼらせるやわらかな水滴をイメージして。

 

 ──── 一閃、

 青い光が私達の頭上に走った。

 彗星の如く鮮烈な輝きを放ったそれは、ぬるいやわらかな水を私達の頭上にばらばらと降り撒いていく。さながら恵みの雨、大粒の水滴があっという間に砂に浸み込んで、私達と魔物ごと窪地全体を湿らせて。

「水の……、リング」

 私を抱え上げたまま、肩から上を必死に持ち上げ瞠目したテュールさんがぽつり、ちいさく呟いた。

 水のリングが。さっき呆気なく手放してしまったこの世で一番大切な指輪が今、ほのかに青い光を放ち私の眼前に浮遊している。受け止めたくても腕はまだ後ろ手に繋がれていて、気づいたテュールさんが急いで縄を引きちぎってくださった。縛めを解かれたことに心の中で感謝しながら、自由になった右腕をそっと、指輪へと差し伸べた。

 応えてくれるの。こんな、無力なばかりの私に。

 光の下に手を添えれば、青い輝きがすんなりと掌に転がり落ちた。不思議なほど馴染むぬるい波動。手の中に戻ったばかりの指輪を愛しく胸に抱いて、今一度指輪に祈る。

 ……お願い。もう少しだけ、力を貸して。

 降りしきる水が程よく濡れた砂を留めて、あの流動はいつの間にか止まっていた。何故か蟲の魔物も雫を浴びながら、砂に少し下方を埋めたまま動かなかった。地面を掻き分け、ほとんど首まで埋まった身体をどうにかして引き摺り出そうとするテュールさんの傍らへ、プックルちゃんがいち早く駆け寄り周辺を掘る。ピエールさんもスラりんちゃんも急いで降りてきて脱出を手伝ってくれた。

「あ奴が気を取られておる今が好機。早う!」

 ピエールさんに促され、頷いたテュールさんがまた私を抱き上げる。「あっちにも水を撒ける? フローラ」性急な問いかけに急いで頷くと、テュールさんが指し示した砂壁をピエールさんがイオで崩した。ドォン‼︎ と爆発音が響いて、爆風に煽られた魔物がこちらに意識を向ける。

 こんな時なのに、すごく嬉しい。私にも出来ることがある。まだ、あなたと一緒に戦うことが出来るなんて。

 逆上した大蟲をバギマとイオラが迎え撃つ。プックルちゃんとスラりんちゃんが蟲の脇を次々に掻い潜り撹乱して、彼らを追った大顎に隕石の如く火球が直撃した。上で見守るリーシャさんが、立て続けにメラミを放ってくれていた。

 キシイィィ‼︎ と耳障りな奇声を轟かせ、巨体をくねらせた魔物が頭を地面に突っ込んだ。地中から来る気なのか。私ごとテュールさんが身構えた次の瞬間、息を呑んで咄嗟に半歩退いた。そのほんの鼻先を、紅蓮の火球がちり、と掠めて眼前に現れた蟲の足を一気に焼いた。

「もぉッ、テュールさん達に触んないで! あっち行ってよ‼︎」

 焦げた蟲の異臭が立ち込める中、錯乱気味の金切り声が頭上から響く。「あっぶな……どっちを燃やす気、だか!」苦笑交じりに呟いたテュールさんが剣を砂地に思いきり突き立て、刹那届きかけた大顎はぎりぎりのところで剣の盾にめり込んだ。逆手に持った剣を払い上げると同時にスラりんちゃんが懐に飛び込み、「めーだっぱにいぃー‼︎」と叫ぶ。どうやら効いたらしく、魔物の動きが再び鈍る。

 一連の戦況を彼に抱かれて見守りながら、私はひたすら指輪に念じて砂の傾斜に水を降らせていた。寄り掛かった胸板がとくとくと速く脈打って、それだけで不思議なほど意識が集中するのがわかる。

 流れるほど降らせてはだめ。でも崩れるほど少なくてもだめ。慎重に、慎重に。

 右手に包んだ水のリングから澄んだ気配を絶え間なく感じる。

 頑張れと、励ましてくれている。

「……あれくらいならいけるか、プックル!」

 テュールさんの鋭い声が飛んだ。問いではなく、確認だった。グァウ‼︎ と一声勇しく吼えたプックルちゃんが稲妻のように駆け、湿った砂を踏み均す。振り返った瞬間ぐんと速度を上げて真っ直ぐこちらに疾走してきた、その背にテュールさんが私ごと軽やかに身を預けた。大の人間二人を乗せてしなやかに駆けたキラーパンサーは、その勢いのまま方向を転じて力強く跳躍した。



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#19. 藍の暁光

「────フローラ‼︎」

 強引に窪地を飛び出し、勢い余ってプックルの背から転落した。咄嗟にフローラを抱き込み転がって、止まったところで手をつきがばっと見下ろす。

 痛々しい。さっき貫かれた腰だけじゃなく、殴られたのか頬も腫れている。急ぎホイミを唱えて頬を撫でた。彼女が降らせた水はぬるかったが、夜明け前の砂漠は殊更寒い。なぞった頬は生きた人間とは思えないほどひんやりしていた。

 それもそのはず、彼女はきっと昨夜眠りについたときの薄絹の寝衣姿のままだった。ただでさえ冷え込む真冬の深夜の砂漠に、こんな薄着で。自分の外套も濡れてしまっていたけれど、たまらなくなって上体を抱き起こし、華奢な身体を腕に包んだ。力を篭めると弱々しい吐息が首筋にかかる。微かにでも、その身体が脈打っていることを確かめたかった。

 僕達に続き脱出してきた仲魔達と、待ち構えていたリーシャがそれぞれまろびながら駆けてくる。涙で顔をぐしゃぐしゃにしてフローラを呼ぶ彼女に構わず、身体を傾け血まみれの寝衣をたくし上げた。薄く痕を残していたものの右脇腹の傷はとりあえず塞がっていて、ようやく息をつきながら、改めて回復魔法を施した。

「ごめんね、フローラさん。ごめんなさい……!」

 しゃくり上げるリーシャを見上げ「ぶじで、よかった、です」とフローラが辿々しく答えて微笑む。背後でピエールが爆破魔法を数発放っている音が聞こえる。気休めでも時間稼ぎに、僕らが作ったあの傾斜を崩してくれているんだろう。

 温めてあげたいけど、僕の外套も湿って冷たい。シャツもフローラの血に濡れて使い物になりそうになかった。吐血で汚れた妻の口許を指の腹で拭ったところで、リーシャが自分の外套を脱いだ。「もうすぐ日が昇るから、きっとすぐに乾くわ」そう言って、また泣きそうな笑顔を繕いながらフローラに掛けてくれる。案の定フローラは心配そうに首を傾げたけれど、もう一度微笑んだリーシャがふるふると首を振った。

「大丈夫よ、あたし寒くないもの。ほんとよ」

 きっと励まそうとして、リーシャは防寒着の上からフローラの手を包んで握る。と、フローラがほんのわずかに顔をしかめた。

「……待って。フローラ? まだどこか痛い?」

 満身創痍だっていうのに、どこまで我慢強いんだろう。慌ててリーシャが手を離す。上着を捲って妻の腕を見下ろした瞬間、雷に打たれたような衝撃が全身を貫いた。

 指輪をしていた左手の、薬指だけが異様に太く腫れている。

 フローラの繊細な指とは思えない。膨れ上がったそれに恐る恐る触れると、ひどく熱を持っていた。……多分、折れてる。明るくなれば、皮膚の内に滲み出た血でさぞ青黒く見えるだろう。

 もう、一目見ただけでわかってしまった。さっき炎のリングが強烈に反応した理由も。きっと君は、指輪を奪われまいと必死に抵抗して────

「誰が、やったの」

 こぽ、……と、

 肚の奥で血が、沸騰した音を立てた。

「さっきの男? それとも、あのひと」

 怖がらせてしまう。リーシャもすっかり強張って僕らを見ている。落ち着かないと、そう思っても今はこんな言い方しかできない。

 小枝みたいな細い指だ。殆ど抵抗も出来なかったはずなんだ。

 憤り、制御できない怒りが、憎しみが、押し殺しても肚の奥から噴き上げて。この身の内を激しく渦巻いて、止まらない。

 許さない。許せるものか。なんで、彼女にこんなこと。

 さっき魔物と対峙した時はフローラを生かすことで精一杯だった。怒りを覚えてもまだ冷静でいられた。今は、駄目だ。間違いなくこれは人間の仕業で、どう見ても故意に傷つけられていて、こんなにもか弱い彼女に躊躇なく手を下した奴がいて。

 そいつの手足の指と腕と脚、全部へし折っても全然足りない。

 周りをちらりと見回すと、さっきの女が焦点の合わない瞳でこちらを眺めてへたり込んでいた。フローラを捕らえていた賊達はいつの間にか姿を隠している。何処へ逃げたか、あの魔物を放置してそう遠くには行かないだろう。僕の苛立ちに敢えて答えず、フローラは腫れ上がった左手をゆっくり、顔の横へと持ち上げた。細腕に刻まれた縄の痕が月明かりに浮かび上がる。胸の上に置いた、右手の中の指輪をそっと握り直して。

「ゆびわ、入らない……でしょうか」

 その囁きがひたすらに切ないばかりで、僕は今にも胸がぎゅうっと押し潰される心地になる。

 どうして、そんな顔ができるの。

 僕のやり場のない怒りまでまるごと全部受け止めて。

 とても冷静とは呼べない幼稚な自分が心の奥で慟哭する。

 こんな目に合わせたくなかった。

 君だけは、こんなふうに傷ついて欲しくなかったんだよ。

 傍らに膝をつき直し、脈打つ彼女の左手を両掌にやわらかく包んだ。静かに、静かに、ゆるく息を吐きながら、頭に叩き込んだ魔導書の発動手順を思い出してなぞる。

 詠唱の真言は母なる精霊へ奉ずる祈りと誓約。躰を巡る魔力を臍の深いところへと落とし込む。────唐突に、内側から何かをもぎ取られそうな心地がしたけれどぐっと唇を噛んで堪えた。いつもここで、この衝動が空振りになって失敗する。何度か一人で試してみたけど、一度もうまくいかなかった。

 集中しろ。成功するイメージ以外、今は要らない。

 眼を閉じて、深く息を吸う。吐く息に詠唱と魔力を封じて。

「────、……『ベホマ』」

 最後の詠呪と共に、篭めた力を彼女へと一気に流し込んだ。何か不思議な抵抗があってひやりとしたが、止まらないでくれとただひたすらに祈る。手元から広がった温かな光はフローラの身体を取り巻き、やがて華奢な掌から灼くような強烈な熱が返り、ふっと消失した。

 フローラは肘をついてわずかに上体を起こし、目を大きく開いて僕を見ていた。他のみんなも見守ってくれていた。……光と熱が消えて、ずっと詰めていた残りの息をようやく吐いて。包んでいた両手をゆっくり、開いた。思った以上に消耗したけど、それ以上に────魔法の効果を確かめた瞬間、安堵のあまりすっかり気が抜けてしまった。

「……やっ、た」

 笑いかけたいけど、一度怒りに凌駕された所為か、表情筋をうまく動かせない。

「多分、治せた。フローラ」

 もう一度、そっと触れた指先から儚い気配が伝わった。

 掌を退けたそこには、ついさっきまでの丸々膨れ上がった指はなかった。斑らに痣を残してはいたものの、他の指とほぼ同じ細さの薬指がすらりと伸びているだけだ。この暗がりで見る限りは、ほとんど何事もなかったかのように。

 単回復の最上位魔法である『全快魔法』ベホマ。

 ちゃんと、できた。成功したんだ。……初めて。

「あ、でも指輪はまだつけない方がいいよね。ちゃんと治せてるかしんぱ」

 い、と言いかけた僕を、優しい感触が遮った。

 魔法を施した無骨な手に、治したばかりの華奢な左手が添えられていた。恐る恐る、手の甲を包み込んだ彼女はほんの少しの力を篭めて握る。

 碧いやわらかな髪が微かに震えて、伏せた睫毛からぬるい雫が滴り落ちた。軽い額を肩に受け止めればその愛おしさに心臓が甘く高鳴る。もう一度、きゅっと僕の手を握りしめた彼女の愛しい掌を、空いた手で大切に包み込んで。

「……っう、────……」

 言葉にならない嗚咽が、フローラの喉から零れていく。

 さっき僕の中を埋め尽くした憎悪はいつの間にか、彼女の泪に跡形もなく融かされ、消えてしまっていた。

 僕の側に、君が居てくれる。

 それだけでもう、他の一切はどうだっていい。

「あるじ殿」

 ずっと魔物を見張ってくれていたピエールが、険しい声で僕を呼ぶ。大蟲はついさっきまでの暴れようが嘘のように静かで、混乱魔法が効いたとはいえ意識の隅で警戒していた。砂土を操れる魔物のようだし、正気に返れば僕らがいる地面ごと再び陥とされてしまうかもしれない。

「どうやら、あれで幼虫だったらしい」

 苦々しげに鉄仮面が振り返り、つられて見下ろし愕然とする。少し前まで落とし穴の中心で蟲が蠢いていたはずなのに、今そこにあるのは金の卵────否、淡い星明かりの下、玉虫色に輝く巨大なさなぎだったから。

 砂に沈まず、よく見ればわずかに浮いて見えるそれは今にも孵化しそうな様相で、表面はぱきぱきとひび割れつつある。

「リーシャ」

 鼓膜に響く早鐘を聴きながら意識を前方へと研ぎ澄まし、背に隠した少女を短く呼んだ。こうしている間にも、いつか大鮹と対峙した時のような嫌な瘴気が辺りに充満していく。

「フローラを頼む。……二人とも、なるべく伏せていて」

 頷く気配が返る。浅くなる息を、落ち着けながらゆっくり吐いた。肩にひょいと登ったスラりんが硬化の防御魔法を唱えた。皮膚を取り巻いた見えない膜、これは魔力の鎧のようなものだ。鋼鉄とまではいかないが、多少衝撃に強くなる。

 ────来る‼︎

 殻が弾けた。玉虫色のさなぎからほとばしった金の光はその源を飲み込み、砂漠の闇をまばゆく照らした。直視できない光の中心から瞬間、烈風が放たれる。砂嵐から目を庇った一拍後、パリパリと薄い翅を広げながらそいつは姿を現した。

 水晶玉に似た円い眼を二つ、細い胴体の頂点にある頭部に載せて。

 透明な蟲の翅はしなやかに長く、双剣の如く胴体から左右二枚ずつ伸びる。

 大きな満月の眼がぎょろりと回転して、僕の背後に居るフローラを真っ直ぐに見定めた。蟲にしてはやはり巨大な、蜻蛉によく似た魔物だった。身を寄せ合った二人の少女がぞくりと身体を震わせる。人や仲魔達と違い表情は全く窺えない魔物だったが、何故かこの時だけは、こいつはひどく無邪気に────歓喜、したように見えたのだ。

 

 

 

 翅があるせいか、速い。ぎりぎりまで間合いを詰めてもひらりひらりと交わされてしまう。さっきまでの丸く硬かった図体とはえらい違いだ。フローラ達から離れたらすぐ滑り込まれそうで、迂闊に前に出られない。

「プックル、撃たせるな!」

 上空に逃れた大蜻蛉がキイィン! と大気を揺らし魔力を集中させていく。あまり動けない僕らには奴の風魔法、恐らくバギマを防ぎきる手段がない。相殺したくとも、さっきの全快魔法で枯渇したようでろくに魔法が撃てなかった。ブーメランを投げつけると同時にプックルが臓腑を揺るがす雄叫びを発して、怯んだ大蜻蛉の動きが止まる。

 何度も同じ手は通じないだろう。気を散らすことはできても飛ばれると厄介だ。どうする。

 緊張から来る脂汗が額から顎へと滴り落ちる。早く方をつけないと、回復もままならない状況では長引くほど不利になる。

 ピエールもさっきから剣撃のみに切り替えていた。内心舌打ちしつつ、攻撃の合間に極力平静を装い問いを投げる。

「ピエール、尽きてる?」

「いや。回復があと三、四度というところか」

「上々だ。────なら、使いきる前に沈めないとね!」

 虚勢でいい。勝つ気で臨まなきゃ勝機も見えない。魔法が撃てないなら斃れるまで殴るだけだ。

 魔物と僕らが近すぎるからリーシャも魔法で援護ができない。フローラもまた、さっきから何度も手をかざしているようだったが何もできそうになかった。手負いで魔力も吸い取られているんだから大人しく守られてくれて構わないのに、それでも戦おうとする健気な姿に全身が奮い立つ。

 負けられない。本能がそう叫ぶ。絶対に守る!

 魔物も恐らく苛立っていた。フローラを渡せと威嚇し、頭上すれすれの低空飛行を繰り返す。

 その腹を狙って攻撃を数度仕掛けたが、飛びかかったプックルがやがて首から肩をやられた。槍の穂先に似た鋭い尾の先に貫かれ、一瞬呻いたプックルは地表に激しく叩きつけられる。

「プックルちゃん‼︎」

 駆け寄ろうとしたフローラをリーシャが押し留めた。代わりにピエールが近づいて傷を検め治癒魔法を施す。「魔物の体液というが、拙者らは眼中にないな」などと苦笑いし、施術を終えた彼は再び剣を携え大蜻蛉を迎撃する。

 あの翅がまるで剣なのだ。近づけば躱さざるを得ない。翅だけじゃない、槍のような尖鋭な尾も、口元に隠した針の舌も、まるで全身が武器のようだ。

 ひらり、離れた大蜻蛉がまたもや魔法を放った。今度は遮りきれず、正面からまともに喰らってしまう。皮膚を刻む風の刃から必死に女性達を庇って顔を上げた次の瞬間、額の上から魔物が突っ込んでくるのが見えた。

「テュールさんッ‼︎」

「大丈夫!」

 短く叫び返し思いきり薙ぎ払う。ヒュ、と翅がこめかみをかすめて少し血が舞ったが、同じく僕の剣がかすめた大蜻蛉も均衡を崩した。すかさずプックルが蹴り倒し、スラりんの牙が透明な翅を穿つ。すぐの斬り返しにスラりんとプックルが同時に跳び退いたがその時、空を切った翅からピキ、と微かに軋む音がした。

 ────割れるかもしれない。剣より薄い、硬質の翅。

「左翅。折れれば飛べなくなるかも」

 剣を握り直して密かに告げれば、仲魔達は僕の意図を瞬時に理解し呼吸を整える。

 再び一息に突っ込んできた大蜻蛉をピエールと共にぎりぎり受け止め、その隙に左翅だけを狙ってスラりんとプックルが飛びかかった。ピシリと更にひび割れる音がする。いける、そう直感してピエールとほとんど同時に大蜻蛉を抑えた剣を払った。返す刃に渾身の力を込め、またもやピエールと同時の斬撃を翅の一点目がけて叩き込んだ。

 パリン、と薄い音がして、粉々になった翅の破片が舞い散る。まず一枚、と言おうとしたが、口にすることは叶わなかった。その代わり出たのは────絶望に酷似した落胆。

「くそ。……なんでだ⁉︎」

 さすがに苛立ちが漏れる。たった今砕いたはずの左翅は、顔を上げたときには既に透明な輝きを帯び、みるみる再生を始めていたのだ。

 嫌な予感ほど当たる。いつぞやの大蛸に似た気配だと思ったのは間違いではなかったのか。付け根から新たな翅が形作られ、先ほどと同じくパリパリと開く音がする。今の攻撃が徒労だったと思うと脱力したくなるが、歯を食いしばってなんとか己を奮い立たせた。

 ……だったら、生えきる前に破壊してやる!

 歯を食いしばり、ブーメランを思いきり投げつけたが光を纏うそれを割るまでは行かなかった。俊敏に躱してそのまま宙へ舞い上がった大蜻蛉は翅を一息に広げきる。また振り出しか。さすがに戦意が挫けかけた、その時だった。

 

「────銀のタロット。塔‼︎」

 

 鋭利な声が黎明の藍を裂いて、晴れた夜空を突如響いた雷鳴と暗雲が覆った。いきなり何だ。把握しようと顔を上げたその瞬間、高く浮上した大蜻蛉に雷が直撃した。強烈な雷光と大気を揺るがし響き渡った轟音に、数ヶ月前海上で見守った落雷の記憶が瞬時に蘇って身がすくむ。

「旅の御方よ、感謝いたします。あなた方のお陰で異形をこの地で食い止められる!」

 恐らく味方なのだろうが、明け方前の空を背負った人々の顔はよく見えない。だが先頭に立ち片手を高く掲げる声の主はやはり、女性だった。暁の月を照り返す黄金のサークレットが彩る肩までの深い色の髪を風に流し、十数名ほどの小隊を率いた彼女は高らかに叫んだ。

「防壁、二拍で詠唱、炎‼︎」

 号令を受けて、後ろに並んだ数名の魔導士らしき人々が一斉に術式を展開する。生まれたての翅を歪ませ、魔物は一瞬砂に堕ちてよろめいたように見えたが、すぐにその身から強烈な風を放ってこちらまでたたらを踏んだ。魔法の風刃は彼女達の前に張られた複数の魔法障壁によって半減もしくは跳ね返される。しかし魔物も退かない。己の放った風魔法に身体を刻まれながら高く飛翔し、彼女らの軍勢へと突っ込んだ。数名が炎魔法で迎撃したが、さすがに防ぎきれず陣形が崩れる。朦々と立ち込める砂煙の中から複数の悲鳴、呻き声が聞こえる。

 助けに行く余裕はない。あいつはきっとまだ、フローラを諦めていないから。

 ゆらり、大蜻蛉がこちらを振り向いた。二人ほど針の舌で貫いていたが、フローラに焦点が合うなり吸いかけの獲物を無造作に放る。理由はわからないが、あいつは本当にフローラの血だけに味をしめたらしい。舌打ちと同時に魔物との距離が一気に詰まった。滑空した魔物に咄嗟に──もう考えるより早く指輪をかざす。小規模の爆発で勢いを削ぎ、そこに仲魔達が襲いかかって次々に肉を抉り、抉られる。巨大な翅がわずかにも砕けると破片が雹の如く皮膚を刻んだ。背後の少女達を庇おうと外套を拡げた瞬間、再び鋭く「防壁、重ねて!」と指示が飛んだ。さっきより間近に響いた声の傍らから、幾重にも防護魔法がかけられて僕らを包む。

「あ、アイシス……女王、陛下!」

 数枚の魔法膜に守られた中から、リーシャが畏敬を篭めて女性の名を叫んだ。

 大陸に着いてからもう何度も聞いた名だが、今は気にしていられない。胸の中で感謝だけ告げて、折れた片翅を再びぼんやりと光らせる魔物と至近距離で対峙する。

「ユノ」

 集中しきった視界の外側に、厳粛な声が響く。

「……陛下」

「稀人の前でこの上、醜態を曝すのですか」

 覇気のない瞳で虚ろに見上げたが、跪いた女官長はしかし、主君の問いに答えなかった。もとより回答を期待してもいなかったのだろう。特に反応を示さず、彼女自身の右腕を見下ろし女王は命じる。

「お立ちなさい。貴女はただ、貴女の望むまま戦えば良い」

 ……誰も、

 表立って異議を唱える者はいなかったけれど。

「貴女は女王従きを統べる長です。この悠久のテルパドールに有りて、伝説を守る私の片翼。けれど、それ以前に貴女はユノ・シューレンだった。……いいえ、貴女はずっと『ユノ』でした。貴女が何を望み、何を叶えたいと思ってもそれは自由だったのです」

 後ろに控えた人々の間に、微かな動揺が波紋となって薄く広がっていく。彼らにとって上官と言えど罪人に対し、主君の言葉は信じ難いものだったろう。

 己への反逆すら、いっそ肯定するかのように。

 毅然としながらどこか哀しみを帯びた声で、女王はただ真摯に告げた。憐憫でも叱責でもなく、否、悔恨だったかもしれなかった。犯してしまったものが罪なら、止められなかったこともまた、彼女にとって咎なのだろうか。

 恐らくこの場で誰より孤独な、唯一無二の彼女の友人の為に。

「それがテルパドールに仇なす結果になるならば、この手で止めてみせましょう。それが私の望む在り方です。ユノ!」

 ────キュオオオオォォ‼︎

 強く言い切った女王の科白をも呑み込み、痺れを切らした大蜻蛉が吼えた。針の口を振り乱しフローラに向かって愚直に突っ込んでくる、その勢いを剣で弾いてピエールの斬撃と共に押し返す。プックルも尾に喰らいつき、自身も脇腹を抉られながら更に後方へ退けた。傷が浅いのを見届けて剣を構え直したその時、飛来した鋭い何かが魔物の鼻先をかすめた。

 蝶のように花のように、鮮やかに舞った赤銅色が女王の手元に返る。ブーメランか? そのコントロールの巧みさに感嘆するも束の間、

「異形よ、そなたの相手はこちらです。その方が欲しくば我々を倒してからになさい!」

 彼女の周囲もぎょっとしてどよめいた。女王自ら挑発するなんて前代未聞だ。当然大蜻蛉はそ知らぬ顔、キィン! と再び耳障りな音を立て僕らに風魔法を放つ構えをとったが、発動より先に赤銅の蝶が視界の端を舞った。鮮やかに旋回したそれは槍の穂先に似た魔物の尾先を一息に斬り落とす。ゴァオオ‼︎ と地響きとも咆哮ともつかない重低音が辺りに木霊した。

「よそ見をしていると、次こそ首をいただきますよ!」

 鋭く言い放つ女王を振り仰ぎ、大蜻蛉がついに逆上した。荒々しく吠え猛り広げた翅からバギマが走る────と思われたが魔法は現出しなかった。ずっと放心していたあの女性が、咄嗟に腰を浮かせて魔封じの呪を投げたから。

「マホトーン‼︎」

 反射的に叫んだらしい女官長をちらりと盗み見た女王は一瞬、どこか強かな笑みを口端に零す。

「アイシスの名に於いて希います。風精霊シルフィーダ、汝の聖刃を此処に顕せ」

 かき消えた魔物の術に成り代り、真言を伴う詠唱が響き渡る。シルフィーダは風の高位精霊、その尊称。祝福を許された人間にしか真実唱えることを許されない、神聖な真名だ。

 ……驚いた。僕以外で風魔法を使う人間に、僕はこれまでに会ったことがない。しかも、これは。

「火精竜サラマンドラ。我が罪過を種火とし業火と為せ」

 アイシス女王に重ねて、女官長が厳かに呪言を唱え始めた。サラマンドラもまた焔の高位精霊、ということは────

「火竜の焔、灼炎の盾となれ! ……ベギラ、ゴン‼︎」

「────バギクロス‼︎」

 突如、魔物の眼前を猛火の壁が奔る。更に女王がきった十字印から渦巻く突風が放たれて炎を追った。竜巻に煽られ、火蜥蜴の如くうねる炎が魔物を取り巻いて火力を増す。ベギラマやメラミの比ではない、天まで届きそうな炎の渦が風と合わさりゴォ‼︎ と砂を焼いて熱旋風を起こす。

「すご、い」

 炎に照らされたリーシャが茫然と呟いた。さすがにこれは、こんな凄まじい魔法の競演は僕だって見たことない。

 英雄譚の賑やかしに語られる最上位魔法、炎帯魔法『ベギラゴン』と竜巻魔法『バギクロス』。どちらも恐らく、世界に片手で数えられるほどしか使い手はいない。まさかそれらをこの目で直に、しかも二つ同時に見られるとは。

「呆けているのは誰⁉︎ 構えなさい‼︎」

 女王の叱責が飛んで、すぐに魔導士達が腕をかざし口々に詠唱を始めた。メラミ、ベギラマ、イオ、無数の魔法が入り乱れて炎の渦へと叩き込まれていく。

 凍るほど冷え込んだ明け方の砂漠が一瞬で灼熱に包まれた。立っているだけで肺まで火傷しそうな熱が充満して、爆発と共に地面が何度も揺れて。連鎖する爆風にあわや吹き飛ばされかける。立て続けに打ち込まれる魔法の爆心地は真っ白に発光し続け、砂塵に砂礫もあいまって目も開けられない。

 普通の魔物ならこれだけ一斉に魔法を喰らえば跡形もないだろう。普通の魔物なら。

「まだ再生するか……!」

 さすがにピエールの口から焦燥が漏れた。視界を遮る白煙を、あの玉虫色の光が内側から貫いたのだ。

「あれで……斃れないって、嘘だろ⁉︎ 今のがほとんど効いてないっていうのか⁉︎」

 魔物を囲んだ魔導士達から絶望の呻きが聞こえて、僕も動揺せずにいられなかった。光の中心、さすがに衰弱を感じるものの、禍々しい気配は変わらず砂塵の中蠢いているのがわかる。

 いや、おかしいだろ。大蛸の時も再生能力に苦戦させられたけど、いくらなんでもここまで耐えるなんて。まるで伝承に語られる魔王を相手にしている気分だ。

 まさか、フローラの血の……魔力の所為、なのか?

 唐突にそんな考えが脳裏を過った。確かマーリンも以前、フローラの魔力は特殊だと言っていた。天稟だ、と。

 …………クオォォォォオオン‼︎

 大気をびりびりと揺るがし、大蜻蛉が再び激しく咆哮した。再生途中の翅を拡げ、風を捕まえた魔物が煽られて高く舞い上がった、そこからまたしてもフローラだけを狙って一直線に滑空する。その間ほんの一呼吸、再び妻の前に立ちはだかり切っ先を天に向けて構え立った。

 逃がす余裕もない。見誤れば諸共死ぬ。

「テュールさん!」

 ほとんど死に直面したこの瞬間に、

 助けを請う悲鳴でも、無謀を諫める声でもない。

 ただ僕を信じてくれる、儚くも強い呼び声が背中を押した。

 

 あたたかい。

 背中に触れるほど近く、妻の気配がそこに有る。

 振り向かなくてもわかる。君が手を伸ばしている。潰されそうに強大な魔力を前に、あたたかくてやさしい君の存在が、僕を背中からただ力強く支えてくれる。

「……れらが創造主、精霊、ルビス」

 そんな中、耳に直接、凛と響き渡るフローラの真言。

「この異形を、打ち破る力を……彼にお与えください!」

 喉を震わせた透明な音が、最後の祈りを紡いだ瞬間。

 

 全身の細胞が叫ぶように血が、

 沸いた。

 

 ────力が、

 爪の先まで漲って。

 握った柄の掌と膝と、腰から背筋へと、噴き上げていく熱が一気に流れ込んで身体中を駆け巡って。

 思わずほとばしった雄叫びと共に、狙い定めた蟲の額、その一点を、父の剣が迷うことなく貫いた。

 深々と。硝子玉の眼と眼の間を割った魔物の肉感。喰い込んだ手応え以上に重く深い魔物の内部を、核から溢れた凄まじい魔力が暴走して爆発する。柄を握った腕に痺れるほどの衝撃が伝わって、真っ直ぐ交わった視線の先、一瞬金の光が眩く走った。

 瞬きも、できなかった。鼻筋を伝い落ちる汗を感じながら、穿った剣身に尚も力を篭めてその最期を見届けた。

 刃を突き立てた魔物の頭がじわじわとひび割れていく。渇いた泥人形のように、あんなに硬かった翅もぼろぼろと朽ちて崩れて散ってゆく。

 その様を、僕のすぐ後ろで同じように、息を詰めて見守っている人が居た。

 華奢な白腕を思いきり僕へと伸ばし、彼女がぎりぎりで詠唱したその魔法は、傷を癒すいつものベホイミでも、魔物を眠らせる為のラリホーでもなく。

 大蜻蛉の額を、核を貫く力を僕に与えた筋力増強補助魔法、

 ────『バイキルト』だった。

 

 

◆◆◆

 

 

 まるで灰塵の如く、魔物が砂に還るまでさほど時間はかからなかった。

 降りしきる残骸の中から、亀裂の入った黄金の核が音もなく現れ足元に落ちた。それを見届けて無意識に息を吐いたところで、背後からとさりと小さく砂を打つ気配がした。重みが消失した剣を慌てて背の鞘に納め、振り返る。ぼろぼろに乱れた碧髪を額に零れさせ、フローラは張り詰めた糸が切れたように、透明な瞳で茫然と僕と、その肩口の向こうを見上げていた。

「終わったよ。……もう、大丈夫」

 膝をついて二の腕を支えれば、ごくごく微かに震えていた。隣でフローラを庇い膝立ちしていたリーシャも気が抜けたように座り込んでいる。二人の少女の頭を代わる代わる撫でやってから、集まってきた仲魔達を改めて振り返った。

「お疲れさま。みんな、怪我はしてない?」

 労いの言葉をかけると真っ先にプックルがフン、と鼻を鳴らし澄まし顔をする。その隣でピエールがくつくつと笑いながら「最後のベホイミはプックルの尻にかけてやり申した。気つけに一杯、エルフの妙薬を呷りたいものよ」などと飄々と宣った。芝居がかったその台詞にほとんど被せるように、地面に牙を放り出したスラりんが女性達めがけて飛びついた。

「うわーん! ふろーらちゃん、りーしゃちゃんも、みんなぶじでよかったよぅぅぅー‼︎」

 無邪気なスラりんの純朴すぎる歓喜の声に、フローラもリーシャもみるみるその目許を潤ませていく。声もなく抱き合い、喜びを分かち合う少女二人とスライムを見ていると、こちらまで目頭が熱くなる心地がする。

「見事な戦いぶりでございました。旅の御方」

 勝利の余韻に浸って、うっかり気が緩んでしまっていた。

 凛とした女の声に、はっと状況を思い出し振り返る。そこには、さっきまで暗がりでよく見えなかった、肩ほどの黒髪に金のサークレットを冠した細身の女性が立っていた。目鼻立ちのはっきりした美貌は更に濃い色の化粧に彩られ、身体のラインに沿ったこの大陸特有の丈の長いドレスを纏っている。気づけば彼女の背後左右には数名の女性達が控えていて、敵意はないがこの瞬間にも襲撃に応じられる隙のなさを感じた。その中心にあって、赤銅色の扇を手に持ち佇む姿は言葉で言い尽くせないほど気高く、威厳に満ちている。

 間違いなく、テルパドールを統べる女王アイシス、その人であった。

「ほとんど魔法を使わずあそこまで異形と渡りあわれるとは、まこと感服いたしました。……失礼ながら、お名前をお聞かせ願いましてもよろしゅうございましょうか」

 額を覆う長い前髪の下、女王は美しく染め上げた瞼を細める。ぼんやりしている場合じゃない、慌てて剣を鞘ごと下ろし、片膝と片拳を地についた。

「申し遅れまして、大変失礼いたしました。アイシス女王陛下」

 慌しかったとはいえ、女王の御前で加勢の礼すら伝えていなかったとは。突如襲った緊張に頭の中がぐるぐると混乱したが、とにかく必死に、僕なりに貧相な語彙を引っ張り出し、謝辞と名乗りを告げていく。

「先ほどは皆様でのご助力、誠にありがとうございました。テュール・グランと申します。こちらは妻にございますが、先の戦闘で負傷しております故、このまま挨拶を差し上げる無礼をお許しください」

 万全ではないのだから無理に礼を取らなくていいよ。そう言外に伝えたつもりだったが、後ろに控えたフローラは僕の拙い口上を聞き届けると、血だらけの寝衣を手早く整え直し、綺麗な姿勢で跪いて碧い頭を垂れた。

「同じく、お初にお目もじ仕ります。魔物遣いテュール・グランが妻、フローラ・グランと申します。このような見苦しい姿で陛下の御前を汚しますこと、何卒お許しくださいませ」

 鈴を鳴らした清涼な声が控えめに響く。飾り気のない、真摯で丁寧な彼女の言葉を背中に聞いているだけで胸が熱くなってしまう。物静かだがどこか誇らしげに、僕のことを『魔物遣い』と言い添えてくれたこともまた嬉しかった。

「そのようになさる必要はございません。お二方とも、どうぞ面をお上げください」

 穏やかに促されるも体勢を崩す勇気が出ず、どうしたものかと面伏せたまま周囲を窺ったが、女王は親しげに微笑むと、いつの間にか僕らに倣って大人しくしていた仲魔達にも手招きし声をかけた。

「魔物の皆様もお楽になさいませ。あなた方はテルパドールをお救いくださった、英雄でいらっしゃるのですから」

 それはちょっと大仰な気がする。僕達はたまたま巻き込まれただけだと思うのだが。返答に詰まった僕らを見遣り、女王は研ぎ澄まされた美しい眦に視線を載せると、ふと口許をやわらかく緩めた。流れるように開いた扇で艶やかな唇を隠し、彼女は楽器の如く流麗に言葉を奏でる。

「本来ならば我々が未然に防がねばならなかったこと。……少し前から不穏な予兆があり内々に調べておりましたが、お恥ずかしながら我々は今宵、女官長が城を出たことすら知らずにおりました。あなた方が戦端を開いてくださったことで異変に気づくことができた。討伐に出遅れたことを何よりお詫びせねばなりません。皆様がここで魔物を留めていてくださらなかったら、この朝焼けは今頃、血染めの城を照らしていたかもしれなかった」

 あまりの内容に思わず息を飲む。ただの偶然とは言え、先に仲魔達があいつの気配に気づいていたこと。不幸にもフローラが賊と行き合い、連れ去られてしまったこと。正直、女王の軍に加勢していただけたことも、それなくして勝てた自信は全くない。全てが『偶々』重なり合い起きたこの一連の出来事は、別の側面から見れば、テルパドールの命運をも左右した奇跡でもあったのか。

「此度のこと、女官長の心中を測りきれなかったのは全て私の不徳の致すところ。あなた方のご尽力には言葉もございません。心より、深謝申し上げます」

 綺麗に切り揃えられた真っ直ぐな黒髪を微かに揺らし、女王は自ら腰を折った。狼狽える僕らに慈悲深い眼差しを一度向け、彼女はつと、兵士に囲まれた女官長の背を見遣る。

 どこか、女王に似ている気がした。冷たく研ぎ澄まされた気配はこちらへはもう向かない。罪を負って尚、凛とした佇まいに彼女の覚悟を感じる。恐らくはその配下であろう女官達は、畏れなのか憐みなのか、誰もが何とも言えない表情で自分達の長を遠巻きに見守っていた。

「巧く、占術を撹乱する術を得ていたのですね。さすがはテルパドール随一の術士、と手前味噌ながらも申し上げたいところですが」

 その、形容し難い空気を眺めながら、女王がぽつりと呟いた。

 裏切りに対する憎しみも、憤りも感じられなかった。

 寧ろそれは、僕が普段仲魔達に抱いているような、親しみだったり、信頼だったり。そういうものばかりが滲んだ横顔だったように、感じられた。

 ……だからこそ、彼女は次に悔恨を露わにする。大切な存在であればこそ、過つことを止められなかった苦しさはきっと筆舌に尽くし難い。

「結果、大切な客人に犠牲を強いてしまいました。心よりお詫び申し上げます。……ご無事で、本当にようございました」

 再び深く頭を垂れた女王に、僕達は何も言えずただ見つめ返すことしかできなかった。

 そうして女王と言葉を交わしている間にも、二十数名の男女が後ろで忙しなく動いていた。ある人は負傷した仲間を治療し、ある人は近くの破壊された馬車の荷台を検分する。また数名が周辺を代わる代わる偵察し、戻ってくることを繰り返していた。ふと思い至り、次の兵士が女王に耳打ちして離れたところで声をかけた。

「先ほどの魔物、盗賊らしい男二人が何かに封じて連れていました。ないとは思いますが、他にも隠し持っている可能性が。戦いの最中、いつの間にか姿を隠していたようで……大事な手飼いでしょうから、完全に放り出して逃げるとも思えないのですが」

 女王は表情を変えずに頷き、側にいた兵士に目配せをする。意を汲んだらしい男が同じく配下の人々に何かを伝えに行った。すぐに彼らは幾つかの二人組に分かれ、それぞれ違う方角へと散っていく。

「こちらへ向かう際にも沿岸に兵を数卒向かわせました。警備の手薄なところはある程度絞られます」

 遠ざかる彼らの背を見送りながら女王が答えた。断言はされなかったが、捕らえる見込みがあるということだろう。フローラを傷つけた分、優しく言っても半殺しにしてやりたい私情はあったが、これ以上は僕が介入していい場面でもない気がしたので黙って頷いた。

 女王が数歩、歩み寄りフローラの傍らに膝をつく。突然のことに動揺する僕らを尻目に、彼女は患部を見せるよう促してきた。治癒魔法は数度施してあるが、しかし、妻は血痕まみれの寝衣を女王に曝すことも厭っている。更には大分明るくなってきていて、衆目もある。尚も躊躇していると、女王はつと腕を伸ばしフローラの腹の上に手をかざした。ほんのり輝く魔法を掌に灯し、どうやら熱反応から傷の有無を探っているらしかった。

「見事な回復術です。内部の損傷まできれいに治っていらっしゃる。ですが、失った血は貴女自身の生命力でしか戻りません。どうか十分に休養をお取りくださいますよう」

 丁寧な労いを頂戴した上、僕まで肩に治癒魔法をいただいてしまった。すっかり勝利の余韻に高揚していて気づかなかったが、とどめを刺した時、翅か脚が上腕に喰い込んでいたようだ。僕もフローラも恐縮して再び頭を下げた。

「リーシャ・ガロン嬢」

 名乗りそびれていたはずの名をアイシス女王直々に呼ばれ、慌ててリーシャがその場に叩頭する。しかし女王は目を細めて微笑み、顔を上げるよう再び優しく促した。

「私達はこれから大きな家族になるのですから、楽になさい。……占にも魔にも長けた娘がエピカにいると、以前から噂は聞いておりました。貴女の到着を心待ちにしていたのですよ」

 女王を見上げたリーシャの瞳が感極まって揺れている。畏れを知らない印象の強い彼女だが、尊敬や憧れはまた別物らしい。そんな少女を優しく見遣ってから、女王が僕へと向き直った。

「グラン殿がよろしければ、彼女はこの場でお預かりいたします。皆様もご一緒にお招きしたいところですが、一度ラクスにお戻りになる必要がありますでしょう」

 女王の言葉に、ラクスと呼ばれた城近くの集落に置いてきた仲魔達のことを思い出し深く頷いた。馬車も荷物もそのままだから、僕達はまだ城へは行けない。

 しびれんは回復しただろうか。逃げた賊やその仲間達に集落が襲われてはいないだろうか。

 そんな不安がちらりと過ったけれど、僕らを穏やかに見つめる女王の眼差しに不思議と安堵感を覚えて、肩の力が緩々抜けた。

 万が一集落に危機があったなら、まずこの方がお気づきになるだろう。

「どうする? リーシャ」

「あ、うん。……えっと」

 リーシャが困惑顔で視線を彷徨わせた。僕と、女王を恐る恐る何度も見比べて、彼女はついに意を決して口を開く。

「……その前に、少しお話させてくださいませんか。この人と、大事な約束をしたんです」

 全て見透かしたように女王は微笑む。それを肯定と受け取って、縮こまりながらもリーシャが立った。真っ直ぐに僕へと向き直り、紫の綺麗な瞳で相対する。

「────本当、ありがとね。テュールさん」

 何を言おうか、随分と長く逡巡したようだった。

「色々、困らせてごめんね。短い間だったけど、すっごく楽しかった」

 そう、告げた彼女は朝日みたいに笑った。黎明の藍の光がやわらかく彼女を包んで、俯きがちに弧を描いた長い睫毛がちらりと煌めく。泣いているのかもしれない。そう思ったらなんだか直視できなかった。彼女の鎖骨のあたりをぼんやりと眺めながら、曖昧に首肯する。

 朝の気配のする風が、さぁっと砂地をさらっていく。昨夜この辺一帯を荒らした砂嵐は、いつの間にか穏やかなものに変わっていた。薔薇の花びらの如く、あちこちに砕けた朱い鉱石が、さっきの魔物の翅の破片とともに砂に埋まり、散らばっている。退廃的でありながら、どこか幻想的なその光景を背にしたリーシャが、ひどく大人びた声音で、最後の問いを口にした。

「……ね。あたしを、お嫁さんにしてくれる?」

 ────二週間近く、幾度となく繰り返したやりとり。

 何度も確かめてくれた。何度も、何度も、君のお陰で、自分の気持ちをいやと言うほど思い知った。

「ううん。……ごめんね」

 そうしてやっと、正面から少女の眼差しを受け止めて。僕もまた、精一杯の慈しみと親愛、誠意を込めて答える。

 迷いなく。揺るぎなく。

 この心が向かう先はたった一人。それ以外に、僕自身が欲するものなどないから。

 予想していた通り、リーシャは切なく微笑んだまま小首を傾げるばかりだった。息を呑むことも、ショックを受けた様子もない。最初からわかりきっていたこと、それでも彼女は、奉公前の最後のわがままを見事貫いてみせたのだ。

「リーシャは何にだってなれるよ。素敵な奥さんにも、いつかそのうち……女王様にだって、きっと」

「そうね。そう、かも」

 現女王の前で告げるのは不敬が過ぎるかと思ったが、本心からの励ましを伝えたくてそう言った。意外にもリーシャは当然とばかりにあっさり頷く。自信家だな、と思わず笑った僕を見て、リーシャはまた嬉しそうに、でもやっぱり切なげに、眩いほどの笑みを見せてくれた。

「なりたかったなぁ。あなたの、奥さん」

 ────本当に、その瞬間今更に、

 ああ、この子もたったひとつに縋っていたのだ、と思った。

 それがどこまで唯一の真実だったか、他人の僕には測れない。それでもきっと、僕がたった一人を望んでやまないように、リーシャもまた運命に流されゆく中でたったひとつ、僕達を通して、彼女自身が欲した何かを見つけてくれていたのかもしれない、と。

 応えられなくてごめん。

 望んでくれて、ありがとう。

「フローラさん、お城に着いたらお茶しようね。約束!」

 話したいことがいっぱいあるんだ、ともう一度笑ったリーシャはすっかりいつもの彼女だった。フローラもまた、眼を細めて優しく頷く。

「荷物は後で持っていくよ。頑張って」

「ありがと。無理させちゃだめよ? あたしの荷物なんか、全然急がなくていいんだからね!」

 服や雑貨はともかく、マイヤ様から預かった大事な手紙もあったんじゃなかったっけ。なんてちらりと思ったけれど、余計なことは言わず、頷いてひらりと手を振ってみせた。

 きっと初めから必要なかったんだ。だって彼女達は、女王陛下も含めて、代々力を継いできた先読みの一族だから。

 いつの間にか離れたところに魔法陣が描かれていた。大人数で転移するため用意したものだろうが、ふと気になって、間近で見守っていた女王に恐縮しつつ声をかけた。

「……キメラの翼は使えるのですか? あの、実は僕は転移魔法を習得しているのですが、この大陸では何故かうまく発動しないみたいで」

 女王が漆黒の瞳を微かに見開いた。「転移魔法とは、また稀有な」と呟いて、彼女は次に卒なく頷き、手元の扇で表情を隠すように声を潜めた。

「御廟をお護りする為、空間転移には限られた者以外制限をかけております。宜しければ城に着かれました後、改めてお話いたしましょう。……そう」

 そこまで言うと暫し思案し、女王は扇をぱちりと閉じた。シンプルながらも美しい装飾を施されたそれを眼前に差し出し、女王は告げる。

「こちらをお持ちください。彼女が戻らないことで不審に思う者もおりましょうから、わたくしが庇護したことの証になれば」

 益々恐縮しつつ、両手で扇を受け取った。見た目よりずっと重く、掌にずしりと沈み込む。親骨に繊細な薔薇が彫られた見事な品だが、これはいわゆる鉄扇というものかもしれなかった。そういえば先の戦闘中にもこれがブーメランの如く華麗に舞っていた。魔物の鋭い尾を見事刎ねたのは確かに、この扇だった。

 恐らくは愛用の武器を、赤の他人に預ける意味がわからぬほど莫迦ではない。

「ありがたく、お預かりいたします。後日拝謁の際、必ずお返しいたします」

 女王はまた微かに笑みを浮かべると「楽しみにお待ちしております」とだけ答え、踵を返した。

 既に魔法陣には女官と思しき女性達、兵士と思しき男性達が整然と集っていた。その中心に、捕らわれるというよりは自由だけを制限された格好で、あの女官長が静かに佇んでいた。俯き、抵抗する様子も見受けられなかったが、女王がその陣に向かうとどこか鬱屈とした瞳で主君をちらりと仰ぎ見た。そのまま視線だけを僕の後ろ、フローラへと移す。

 初めて、何か言いたげに妻をじっと見ていたが、やがて唇を噛んでまた瞼を伏せた。

 そんな女官長を、魔法陣の端で待っていたリーシャはひどく悲しげに盗み見ていたが、いよいよ転移というところでこちらを振り向いた。人懐っこく微笑み、ぱたぱたと手を振る。足元でぴょんぴょん跳ねて元気よく見送るスラりんにつられて、僕もフローラの肩を抱き寄せ手をあげた。

 ちらりと振り返った女王が満足げに笑みを零し、女官に手渡されたキメラの翼を天高く放る。

 瞬間、魔法陣から強烈な風が立ち昇った。砂を一気に巻き上げる風圧にたたらを踏み、外套で妻の頭を包んで砂塵から庇う。砂嵐がおさまり目を開けたときには、あれだけ大勢いた女王一行の姿はどこにもなかった。全ては砂嵐が見せた幻だったと言うように、取り残された僕らの目の前には、滑らかな砂丘に埋まった薔薇のような鉱石がきらきらと輝くばかりだった。

 

 

◆◆◆

 

 

 深い蒼が染め上げていた砂漠に少しずつ、朝の白い光が満ちてゆく。

 リーシャを伴ったアイシス女王一行を見送った後、僕達は一度、前泊したラクス集落に戻るためひたすら砂漠を歩いていた。やはり転移魔法は使えなかった、故に帰路はプックルの鼻だけが頼りだ。スラりんを背中に乗せ、迷いなく進んでいく緋色の背中は相変わらず頼もしい。

 振り返らず、しかし迷いなく僕の歩幅に合わせて進むプックルをピエールを乗せた緑のスライムが追う。そのすぐ後ろを、フローラを抱き上げた僕が歩いていた。

 傷は治しても、血も魔力も吸い取られた彼女の身体はぼろぼろだった。ひと一人抱いて歩くのはこの砂漠では容易ではなく、プックルに乗せてもらっても良かった、けれど。

 僕が、離れたくなかったんだ。片時でも、わずかにも。

 少しずつ体温を取り戻してはいたけれど、乱れた寝衣一枚で砂漠の夜風に曝された身体はやっぱりひどく凍えていて、せめて温めてやりたかった。明るくなるごとに露になる血痕がひどく痛々しい。外套でできるだけ彼女を覆い、己の体温を移すように肌を寄せる。

 ずっと聞こえていた微かな嗚咽がいつの間にか止んでいる。眠ってくれて良かったのだけど、彼女はどうやらしっかりと意識を保ったまま、身体を預けてくれているらしかった。

 ちらりと、胸に添えられた手を見遣る。いつもと変わらぬ細い指に今、あの可憐な指輪はない。覚えたての全快魔法で治癒したばかりだから、まだ通さないほうがいいかと思って、念のため僕が懐に預かっている。

 治せたのに。もういつもと変わらない、彼女も大丈夫だと言ってくれた。それなのに、その指をただ目に留めただけでこんなにも胸が苦しい。

 ああ、でも、もっと明るくなったら他におかしなところがないか、もう一度ちゃんと確認しないと。城に着いたら医師に頼んで、診てもらったほうがいいかもしれない。指も腰も、骨が変なくっつき方をしたり、後遺症が残ったりしたら大変だから。

「…………、テュール、さん」

 どうしても落ちていってしまう思考をつらつらと巡らせていたら、懐からぽつり、僕を呼ぶ声がした。

 見下ろせば最愛の君が、ひどく申し訳なさそうに、泣き腫らした目を懸命に持ち上げてこちらを見ている。

「来て、くださって……たすけてくださって、本当に、ありがとう、ございました」

 目が合うと、碧い頭を前に傾けて真摯な謝辞をくれた。

「ううん。僕の方こそ……一人にして本当にごめん。こんな、酷い目に合わせてしまって」

 思いの外沈んだ声が出てしまい、フローラが困惑に満ちた瞳を泳がせた。急いで微笑みを繕ったつもりだけど、多分僕はひどく情けない顔をしていたと思う。

「ちょっとの慢心も命取りになるね。今更すごい、痛感してる」

 黙ってはいたが、前方を行くピエールも頷くのが見えた。自分が残れば良かったと考えているんだろう。確かに、あの時点で問題の場所に大物が出る可能性は否定しきれなかった。けれど今回ばかりは、実質戦えないフローラとしびれんだけを置いてきたことこそ最大の過ちだった。

 集落だから。祠だから。眠っているから。一つとして安心材料にはならなかった。魔物が簡単に近づけないからって、危険なのは魔物だけではなかったのに。

 けど、皮肉なものだ。フローラが連れ去られ、僕達が彼女を追わなければ、あの盗賊達と女官長は今頃、王城に恐ろしい蟲の魔物を仕掛けていたかもしれなかったのだ。ちょうど僕達が城に着く頃には大惨事になっていただろう。結果的には多くの民を巻き込むことなく、企みは未然に挫かれた。本当にこんなの、僕らには不幸な事故でしかなかったけれど。

 間に合って良かった。君を取り戻せて本当に、良かった。

「……あの、しびれんちゃん、は」

 ずっと気がかりだったのか、おずおずと問うたフローラに、すぐに微笑んで頷いてみせた。

「ホイミン達が祠で見てくれてる。大きな怪我はしてなさそうだったし、多分大丈夫だと思う」

 返事を聞いて、フローラが張り詰めた息を緩めた。ここに向かう直前、大粒の涙を零しながらフローラを気遣っていた、小さな身体を思い出す。

「みんな、フローラをすごく心配してた。……早く顔見せて、安心させてあげないとね」

 抱き上げた腕に力を入れ直して囁いたら、君は睫毛を伏せたまま、はい、と遠慮がちに頷いてくれた。

 表情はよく見えなかったけれど、短い返事にも安堵の色を感じて、僕もまたほっとして頬を弛ませる。

 ────本当は、

 こうやって、君とまた言葉を交わしあえるだけで。たったそれだけのことが、すごくすごく嬉しい。

 他に何もいらない。僕には、君がいればいい。

 そんなふうに思うのは愚かかもしれない。簡単に投げ出せるほど、諦めてしまえるほど今まで抱えてきたものは軽くない。そんなのはわかっている。けれど、……それでも。

 それからしばらくは、無音の砂漠に響く鳥の音と、僕達の砂を踏む音だけを聴きながら、黙々と歩いていた。

「──……わたし……、砂漠に入ってこのひと月、なんにもお役に立てていなくて」

 どれくらい黙っていただろう。風の音に紛れてしまいそうな、密やかな独白が胸許から聞こえてきた。

 そっと見下ろすと、彼女はぽつぽつと言葉を選びながら、何かを懸命に伝えようとしているようだった。

 言いたいのに、言えずにいた何かを、必死に手繰っているようだった。

「折角教わった魔法も、全然使えていませんし。やっと大陸に着いたと思ったら、すぐに体調を崩してしまいました。目が、覚めたら……あなたの隣には、リーシャさんがいて。若輩の私よりもっとお若い方でした、けど、私などよりずっとずっと頼りになって。屈託なくてお可愛らしくて、しっかりした考えをお持ちで、本当に素敵なお嬢さんでした。まるでビアンカさんみたい、砂漠を照らす太陽のように、眩しくて明るい……」

 そんなこと、ない。急いで言い差そうとしたけれど、思いがけず聴こえた幼馴染の名に言葉を呑み込んだ。

 誤解が解けて久しいが、フローラにとって彼女の存在は未だ特別なものらしかった。まるで正反対の気質を持つ僕の姉貴分を、フローラもまた実の姉のように慕ってくれていることを知っている。

「あなたが私を気遣ってくださるたび、嬉しくて、辛かった。いつだって私のために心を尽くしてくださるのがわかるのに、迷いなく信じていられたのに……それでも身勝手に、リーシャさんを疎ましく……思ってしまう、自分がものすごく、嫌でした」

 え?

 一瞬、頭が真っ白になる。今、嫌だったって言った?

 僕が不安になるたび、優しく笑って大丈夫だと言ってくれた。信じていると、嫌いになんてならないと。この旅にほとんど無理矢理割り込んできたリーシャにも、君はいつだって変わらず、穏やかに接しているように見えた。

 …………本当に、少しだけ、

 たまにはやきもちを焼いてくれたりしないのかな。

 身勝手にそんなことを思っては、寂しくなったりもしていた。

「こんな、愚かな────たしの所為で……皆さんに、あんな危険まで冒させて」

「いや、だったの?」

 思わず、被せるように問うてしまった。消えそうな声で告げていた君がびくりと震えて、驚きの眼差しを僕に向ける。そこを追及されるとは露ほども思っていなかったという顔だった。構わず、いつも以上に勢い込んで畳み掛けた。

「ちゃんと言って。……嫌だった? 僕がリーシャと話したり、一緒に戦ったりしていた時?」

 何度も何度も確かめあってきたのに、どうしてだろう。

 いつの間にか、僕だけが、君への想いを募らせているような気がしていた。

 腕の中の頬が、目許がかぁっと一瞬で紅く染まる。碧い瞳を見開き、あからさまに狼狽した彼女は慌てて華奢な手を眼前にかざした。その動揺を隠すように、懸命に顔を背けて。

「…………っ、ごめん、なさ」

 謝ることなど何もないのに、彼女は首まで真っ赤にして必死に詫びる。

 気づかせてくれない。心配させてくれない人だ。気にならないわけじゃなかったんだ。寧ろ、普段通りの振る舞いの裏で君は一人、どれほどの息苦しさに耐えてくれていたのか。

「────そ、……それ、でも」

 尚も言い募りたい僕を懇願の瞳で制し、彼女は意を決したように言葉を続けた。

 

「それでも、私……わたしは、あなたの────ただ、一人の妻で、ありたい……」

 

 ざぁ、と砂粒を運んで輝く朝の風が幻想的な空間を創り上げていく。目に入らぬよう咄嗟に外套で彼女を覆って、そうしてすぐ間近に抱え込んだ頭から、本当に微かな、泣き出しそうな声がした。

「ごめんなさい。こんな、迷惑ばかりかけているのに。まだ何一つ、期待に応えられてもいないのに。役立たずで、足手まといで困らせてばかりで、それなのに、それでも、私は────あなたが」

「……本当に?」

 やっぱり、どこかで交わしたやりとりに似ている気がして、衝動のまま彼女の言葉を遮った。歩みを止めた気配に気づいたプックル達が振り向いたけれど、誰も何も言わなかった。彼女を砂の上にゆっくり下ろして向かい合い、身を屈めて、翡翠の瞳を正面から覗き込む。

「本当に、……『僕で、いいの』?」

 君ならきっと、わかってくれる。

 ひたひたと潤んだ瞳が見開かれる。空に深い翠を溶かしたような虹彩に、逆さまに映り込んだ僕の影は今にも崩れそうなほど揺れている。

 今、お互いの瞳の中、僕達だけの時間が静かに静かに流れている。

 あの日。たった半年ほど前のことなのに、どうしてこんなに遠く感じるんだろう。君の実家の応接間で、君と僕が交わしたたった二言、三言だ。君に結婚を請うたあのとき、尽くしきれなかった言葉がその後、君をひどく苦しめた。

 今、きっと同じ言葉が僕達の寂しさを埋めてくれる。

 ────君さえ、覚えていてくれるなら。

 大粒の翡翠が長い睫毛に隠され、ぽろぽろと雫が伝って頬を濡らした。ほとんど同時に深く頷いた君が、華奢な腕を僕の首にぎゅっと絡めて抱きつく。

「──……っ、『あなたが、いい』の」

 腕を、肩を震わせて。いつかみたいに君が儚く泣いてる。

 玻璃細工みたいに繊細で壊れそうな君の身体を、粉々にしてしまわないよう恐る恐る抱き寄せた。

 僕がたった今欲した答えを、消えてしまいそうなか細い声が紡ぎ出す。

 僕達だけがわかる、

 僕達にしかわからない、

 僕達二人の、秘密の合言葉みたいに。

 

「あなたで、なくちゃ、……だめなの……っ」

 

 嗚咽混じりに、懸命に声を絞り出す腕の中の君はほんのりとあたたかくて、切ない。うん、と何度も頷きながら愛しい碧髪を繰り返し撫でた。

 同じだよ。僕ももう、君じゃなきゃ駄目だって思ってる。

 君がいいって言った、あの日の言葉に一寸の偽りもない。

 ただ臆病だっただけだ。僕に何ができる、君に辛い想いしかさせられないんじゃないかって。君を不幸にしたくない、君の幸せの為ならいっそ手を放したっていい……そんな綺麗事じゃ誤魔化せないほど、想いはいつの間にか強く、鮮明になっていたのに。

「死にたく、ないって、思ったの」

 まるで幼い子供みたいに、感情を曝け出して泣きじゃくる君が、辿々しく言葉を紡いでいく。

「ごめん、なさい。見捨ててくださいって言ったのに。そばに、いたい。これからもずっと、あなたの側にいたいの。戦うのも助かるのも、一緒じゃなきゃ」

「……僕だって!」

 嫌、ときっと言おうとした彼女を再び遮って、今度こそ力の限り彼女を抱き潰した。んっ! と腕の中の君が苦しげに呻いたけど構わず、小さな頭をぐっと抑えてその存在を確かめる。

 儚くて強い、なんて、愛しい。

「怖かったよ。めちゃくちゃ怖かった。君が、血まみれの君がものすごく冷たくて、このまま死んだらどうしようって。怪我を見落として、手遅れになったらどうしようって。もう、……もう、こんなの嫌だよ。君を失うかもしれないなんて、もう二度と考えたくない。耐えられない」

 ぴったり抱きしめた腕の中から、とくり、とくりと微かに胸を打つ音がする。必死にしがみついたその温かさに、ようやく僕は生を実感する。狂った後の夢じゃない。哀れな願望に精神を浸しているわけではないんだと。

 あんな凄惨な目にあったのに、君はどこまでも女神のようで。

 安らかな微笑みを見るたび心臓が潰れた。今だって、いや、熱砂病で倒れた時だってそうだ。大丈夫と微笑んだまま天に召されてしまうんじゃないか。瞼を閉じたらもう目を覚まさないんじゃないかって、怖くて怖くてたまらなかった。

 死の気配が君を脅かすたび、本気で狂いそうだった。

「どこにも行かせない。逃がさない。……離さないから」 

 あまりに自分勝手な呪詛めいた囁きにも、君はこくんと頷き、また碧い頭を擦りつける。

 ふと、女官長が忌々しげに口にした言葉が頭を過ぎった。

 僕自身が呪いだ。君にとって、君を捕えて縛める。苦しめるとわかっても手放せない。それでいいと言ってくれるから、君まで僕だけだなんて言ってくれるから、僕は調子に乗ってどんどん我が儘になる。さっきは指輪が選んだって言ったけど、多分半分は合ってる気がするけど、あとの半分は違う。君を手に入れる資格が欲しかっただけで、正直僕は、指輪という条件を都合よく利用したに過ぎない。

 どうしたって、こんなにも君ばかり恋しい。

「……炎と水のリングはね。持ち主を選ぶんだって」

 息を吐いて、君をどうにかしてしまいたい衝動をやっと落ち着けた。腕をゆるめて、泣き濡れた君を覗き込む。左手を拾い上げて、そっとなぞった。痛がる様子がないことを確かめてから、懐に収めた指輪をおもむろに取り出す。

「炎の指輪が僕を選んで、水の指輪が君を選んだ。多分、僕が指輪を授かった時にもう持ち主は決まっていた。……君しか身につけられなかったんだと思う。初めから」

 淡々と告げながら、華奢な指にリングを充てがった。清廉な蒼の石を宿した白銀の輪が、吸い寄せられるように君の指を呑み込み付け根へと滑り込んでいく。

 指輪を手にしたあの瞬間、僕は間違いなく君だけを想っていた。特に、水のリングの時。まるで指輪から飛び出した君を抱きしめたような錯覚に襲われた、あの甘く切ない感覚を、今も生々しく思い出せる。

 水のリングを護る、滝の洞窟に満ちた君の気配。清涼な、静謐な、今も君自身から感じる清浄の蒼。どういうことなのか、僕にも真実はわからない。そう感じたというだけで根拠なんてない。何もかも不確かだ、けど、あの瞬間はっきりと感じたんだ。この指輪は、君という主に迎えられる日をあの場所でずっとずっと待っていたんだって。僕が炎の指輪に認められたからこそ、あの場で預かったにすぎないんだって。

 運命と恋、本当はどちらが先だったのか。

「でも、……君を望んだのは間違いなく、僕自身の意志だよ」

 再び彼女の手に戻った指輪を右の掌に包み込み、僕の言葉を噛み締めるように、フローラは黙って泣き腫らした瞳を伏せる。

 これは、僕が君のものである証。

 そして君が、僕だけの伴侶である証。

 傲慢だって、身勝手だと言われたって構わない。これが呪いだというなら僕だってとっくに囚われている。指輪に選ばれたからじゃない。天空の盾の為でもない。あの日、君と視線を交えたあの瞬間から、僕の心は君という呪にすっかり根を張られてしまったのだから。

 なんて幸せで、逃れがたい呪いだろうか。

「……本当にもう、二度と御免だ。こんなの」

 もう一度、彼女の軽すぎる重みを確かめて繰り返し碧髪を梳いていたら、溜息に紛れて思わず本音が溢れてしまった。ぶっきらぼうな物言いだったからだろう、君が不安げに顔を傾げる。揺れる双眸を真上から覗き込み、たった今思いついた台詞を耳許に落とした。

「こんな恋、一度すれば十分過ぎるよ。心臓がもたない」

 我ながら気障ったらしい言い回しに思えたから、冗談めかして言うつもりがどんどん気恥ずかしくなってしまった。心拍数が勝手に上がり、首から上がひどく熱をもつ。フローラは赤い目をぱちぱちと丸くし、次いでふふ、と小さく笑ってくれた。どうにもまだ照れ臭かったけど、やっと見せてくれた朗らかな笑顔はとても愛らしくて、愛しくてたまらなかった。

「さ。本当に、早く帰ろう?」

 何も言わず、しかし生ぬるい眼差しで見守ってくれている仲魔達の手前、勢いよく抱き上げて羞恥心を紛らわせた。僕に再び体重を預けた君が、胸板にそっと額を埋めて、大好きです、と囁いてくれる。優しい声がじわりと胸に染みて、彼女が触れたところから言いようのない幸福が拡がっていく。

「そうだ。さっき、ありがとう」

 ふと思い出して告げると、フローラは不思議そうに小首を傾げて僕を見た。

「最後のバイキルト。めちゃくちゃ絶妙だった。……さすが、僕の自慢の奥さん」

 顔を近づけ、可愛い小さな耳を食んで囁く。目を瞠った彼女が、白いうなじをまたほんのり桜色に染めた。恥ずかしげに俯く君を追って覗き込み、やわらかな唇を素早く奪う。不意打ちに驚いた君はぴくんと震えたけれど、すぐ甘やかな吐息で応えてくれる。

 身体ごと抱え込み、もっと深く口づけて。心地よい花の香りと蜜の味を繰り返し確かめた。とろける唇の心地よさに、またくすぐったい充足感が湧き上がって癒される。そうして、久々のフローラをじっくり味わった後、相変わらずにやにやと眺めてくれるみんなを赤面顔で促して、北東の集落へと再び歩き始めた。

 乾いた風に、ほろほろと崩れゆくいくつもの砂山が朝日を浴びて輝く。振り返れば砂塵の向こう、まだ少し藍色を残す朝焼けの空の下に、荘厳な城影が浮かび上がった。蜃気楼の如く遥か彼方に鎮座したそれはもちろん、幻などではなく。

 共に生きたいと願った人と、初めて越えてきた旅路。

 父に託された旅の目的を果たすため船に乗り、この遥か遠い南の大陸を目指した。途中初めての海戦も経験した。衝突して、求め合って、いくつかの出会いと別れをも越えて。それでも、この手だけは離さないと、何度も何度も誓いあった。

 互いの存在を、想いを、より強く胸に刻みながら僕達は進む。

 ────この砂世界の果てに待つ、かつての『勇者』の痕跡に触れる時まで、あとわずか。

 

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#20-1. テルパドール城(1/2)

 集落に帰り着いた頃にはすっかり夜が明けていた。

 男性が数人、武器を片手に周辺を守ってくれていて、僕達を見つけると慌てふためき人を呼びに行った。僕もフローラも一見すれば血みどろの重傷者だから致し方ない。少し離れたところから見張っていたマーリンもすぐに気づいて、小さく会釈をすると集落の中へと戻っていった。他の仲魔達に僕らの帰還を報せてくれるつもりなのだろう。

「あ、あんた達だけか? あの巫女様はどうなすった⁉︎」

 駆けつけた年配の族長はそれでも真っ先にリーシャの安否を問うたが、これもまた致し方ないことだろう。

「はい、実は女王陛下が直々に御助力くださいまして……賊が魔物を使役していたのですが、無事核に還すことができました。リーシャは陛下がその場でお召しになり、先ほど登城しました。集落の皆様には心労をかけてすまないと、陛下よりこちらをお預かりして参りました」

 やっと眠った妻を抱いて両腕とも塞がっていたため、説明がてら目配せをすると、気の利く相方がすぐに僕の道具袋から一本の扇を取り出してくれた。女王直々の預かり物と聞いて、族長は更に顔色を変える。騎士よろしく恭しく差し出された扇を、震える手で受け取った。

「間違いございません。陛下の砂薔薇扇じゃ」

 親骨を改め、老人が感慨深く僕と扇を見比べる。今更ながら、女王の御物をぞんざいに扱ってしまったことに気づき、焦ってついつまらない言い訳を羅列してしまう。

「粗末な袋に入れてきてしまって、申し訳ありません。せめて懐に収められれば良かったんですけど、血がついてしまうかもと思って」

 ベルトに挟んで落としたら困ると思ったのも事実なのだ。何せずしりと重い扇だから、革袋でも破れるんじゃないかと少し不安で。さっき青褪めた族長は髪の薄い頭に再び血を昇らせ、「そ、そうじゃ、あんた達酷い怪我じゃ……! ご無事なのかね、そちらの方は」と食い気味にまくしたてた。

「大丈夫です、生きてます。……傷は治したのですが、出血が多くて。念のためよくよく身体を休めてから城に上がるよう、陛下からもお言葉を賜りました」

 落ち着かせるべく、他所行きの笑みを繕いゆっくり答えれば、老人もやっと胸を撫で下ろす。その頃には祠のシスターも迎えに出てきて、フローラを見て再びよろめいたものの、気丈に案内をしてくれた。

「ふ、ふろーら、ちゃあっっ」

 しびれんとホイミンは、祠の寝袋の上で僕達を待っていた。しびれんは元々そんなにひどい怪我ではなかったけれど、思いの外元気な様子でほっとした。泣きそうな顔で飛びつこうとする二匹をそっと制して屈み込み、脱力したフローラの顔を傾けて見せる。衣服は破れて血塗れだが苦しげな様子はなく、落ち着いて眠る彼女を見たら彼らもやっと安堵したらしい。二匹揃ってふにゃりと相好を崩した。

「ちゃーんと、とりかえしてきたよーぅ!」

 プックルの背から僕の肩へ、ぴょこんと跳ね上がったスラりんも小声ながら得意げに笑う。

「フローラもしびれんのこと、とても心配していたよ。目を覚ましたらお帰りって言ってあげて」

 ぷにぷに肌を撫でて囁いたら、感極まった様子でこくこくこくと頷いた。思わずこちらまで頰を綻ばせつつ、まずはゆっくり休むようシスターに勧めてもらって地下の寝室へと降りる。女性二人が休んでいた小部屋のベッドにフローラを横たえたら自分も急激に眠気が襲ってきて、狭い寝台の上、彼女を包み込むようにして寄り添った。フローラのほのかな花の香りを嗅ぐのも、なんだかすごく久々な気がする。心地良さのあまり、そのまま彼女を抱き枕にして、陽が傾く時間までぐっすり熟睡してしまった。

 眠っている間に城から遣いの方が来て、滋養の薬を差し入れてくださったり、例の魔物が作った溝の後始末に奔走してくださったりしたらしい。住民宛てに、改めて陛下からの親書も渡されたらしく、戻って尚半信半疑だった集落の人々は、僕達が次に目を覚ましたときにはうってかわって、親身に世話を焼いてくれた。

 僕は夕刻の少し前に起きたけれど、フローラはその後もうとうとと眠り続けて。ちゃんと目を覚ましたのは、陽が沈んでだいぶ経った頃だった。また水も飲めず病気になったら、と心配だったから、瞼が開いて視線が交わった時には心底ほっとしてしまった。

「もう大丈夫。集落の祠だよ」

 抱き起こし、傍らに置いた水を支えて飲ませる。茶器に指を添えた彼女がふと、自分の手を見つめた。眠っているうちに少し身体を拭かせてもらったから、そこにあるのはいつもと変わらない滑らかな白い腕だ。

「うん。跡は、残ってないかな」

 初めてにしては上出来だ。舞い上がる気持ちを抑えて、指輪を通した左手を上から包んだら、彼女は満ち足りたやわらかな表情でそれを眺めた。

 もう歩けるというので、宿屋に連れて行き湯浴み場をお借りして、数日ぶりに身を清めてから、スープをいただき夕食にした。食堂の一角で人心地ついたところで、フローラが記憶を頼りにおずおずと切り出した。

「一日経ってしまっていますから、もういらっしゃらないとは思うのですが……」

 そう言って、フローラは自身が拉致されるきっかけとなった深夜の密会のことを話してくれたのだった。すぐに宿の主人に確認したが案の定、賊の取引相手と思しき商人は、騒ぎが落ち着いた昼前には逃げるように集落を出ていってしまっていた。妻の話では賊の一味ということもなさそうだし、さすがに今から自分達で追うわけにもいかなくて、念のため族長にその旨を伝えるに留めた。手掛かりには違いないので、何とかして城の方にも伝達してもらえればと思う。

「もう、何があっても一人で夜、外に出たりしないでね。僕はちゃんと帰ってくるから。置いて行ったりしないから」

 情けないけど、今更不安がこみ上げてきて。祠に帰宅後、寝台に身を起こしたフローラを固く抱いて繰り返し訴えた。フローラも涙ぐみ、何度も頷いては僕の背に腕を回し、抱きしめ返してくれた。

 そうしてその夜もまた、フローラを腕の中に閉じ込めて一緒に眠って。

 翌朝、いつも通り早い時間に目覚めたフローラと相談して、いよいよ王城へ向かうことに決めた。もっとゆっくり休ませるべきか悩んだけど、やっぱり少しでも早く医者に診せたくて。残念ながらこの集落には、あまり傷病の経過に詳しい人がいなかった。王都に近いこともあり、大きな怪我や病気はやはりそちらを頼るのが無難なようだ。

 リーシャの手荷物含めて持ち物を改めて確認し、天空の剣と盾が揃っていることも確かめて、ほっと息をついた。

 会ったこともない、しかも人の神とも崇められる『勇者様』に対して、こんな不敬で捩じくれた感情を持つ人間なんて僕ぐらいのものだろう。それでいて今、この世の誰より勇者の力を必要としているのもまた僕なのかもしれない。そんなことをふと思い、つい失笑してしまう。

 こんな歪んだ自分、妻には絶対に見せられないな。

 物言わず馬車の片隅に鎮座する一対の剣と盾を眺めていると、腹の底で何かが燻る。これは嫉妬か、羨望か。

 早く探しに来い。お前が持つべきものは今、僕達がここに預かっているのだから。

 世話になった祠のシスターと、族長までもがわざわざ見送りに出てくれた。幌の中に寝袋を重ねてフローラを休ませる場所を作り、張り切る仲魔達が周りを囲む。しびれんなどはもう、フローラにぴったりくっついて離れそうにない。申し訳なさそうに身体を横たえる妻の傍らに陣取り「では奥方様、久々に集中講義と参りましょうか」と相変わらず無表情なマーリンが呼びかけた。僕達がやり合った魔物の話を聞きたくてずっとうずうずしていたようで、隙あらばとタイミングを窺っていたから、ああ見えてもの凄く気分が高揚しているんだろう。狭い幌から追い出され、馭者台の隣に腰掛けたガンドフと顔を見合わせてくつくつ笑った。

 あの賊の魔物の所為か、王城の結界とやらの影響かはわからないが、やはり道中、魔物に遭うことはほとんどなかった。

 落ち着いて馬車を走らせること半日、傾きかけた太陽が砂丘を朱く染め上げ始めた頃、僕達はようやくテルパドール王城の城下町へと辿り着いた。

 

 

 

 

 

 昼の店は閉まり始める頃合いだから、謁見は明日になるだろうなと漠然と考えていたのだが、そこかしこに配置された衛兵達には僕らのことが既に伝わっていたらしい。馭者台から降りて早々、声をかけていただいた。

 あの大蜻蛉討伐への労いに始まり、曰く、女王はいつ何時でもお会いくださる用意ができていらっしゃるということ。滞在先として是非、城の貴賓室を利用してもらいたいということ。また、必要なものがあればなんなりと伝えてほしいということ。

 妻の体調を考慮した上で決めてもらって構わないとのことだったが、砂が吹き荒れる道程を越えてきたばかりで服も髪も埃だらけ。さすがにこの状態では陛下の御前に上がれない。貴賓室なるものを使わせていただくほどのことをしたとも思っていないし、しかし扇だけは一刻も早くお返しした方が良いように思われたので、とにかく一度、城下の宿に落ち着いてから登城する約束をした。

 仲魔達も問題なく城下に入ることができてほっとする。やはり本来制約があるものらしいが、軽い検問の際、僕と仲魔達それぞれに何らかの魔法を施された。今のは? と訊けば、僕に従属する魔物を悪意なきものと見做すための処置らしい。大昔にはもっと魔物と共存していた時代もあったが、今は人間に敵意を持つ魔物が増え過ぎてしまったため、やむなく城に結界を張っているのだとも。

「皆々様のご活躍は陛下よりお聞きしております。魔物遣いでいらっしゃる旨、グラン殿がお連れの魔物殿は種属を問わず丁重にお通しせよとの通達も戴いております」

 丁重すぎて、却ってこちらが恐縮してしまう。宿も場所さえわかれば自分で手続きするつもりが、わざわざ衛兵が付いてきて宿の方に口添えまでしてくださる始末。しかも宿の入口で待っていてくださるというので、否、僕らを女王の御前まで案内してくださる心算なのかもしれないが、支度の間お待たせするのはあまりにも心苦しい。取り急ぎ一刻後、こちらから城門前に出向くことを伝えて、衛兵にはリーシャの荷物を預かってもらい、一度戻っていただくことにした。

 拓けたテントの納屋に馬車を入れさせてもらって、仲魔達にはここで待つよう伝える。

 その上で、大急ぎで荷を部屋に運んだ。いつもと同じ相部屋ではあるが、今回は大きな衝立に隠れた特に広い一角、一際大きい上等なベッドを充てがわれており、またまた恐縮してしまう。それから各々急いで身支度をし、綺麗に化粧を整え直した妻の手を取って表に出た。

 

 

 

 予想していた通り……いや、巨大な石造りの城構えを遠くから眺めながら、色々と想像はしていたのだけど。

「お城の中、とっても綺麗にしてありますのね。砂もほとんど落ちていませんわ……」

 分厚い扉を三枚潜り、取り次ぎのため場を離れた衛兵を見送って、フローラと僕は城内を見渡してはしみじみと感嘆していた。

 外は相変わらず砂塵が舞って目も開けづらい程だというのに、城の中はラインハット城にも引けをとらない荘厳さと清潔感に溢れていた。フローラの言う通り、赤い絨毯がひかれた広い廊下は隅々まで綺麗に掃かれていて、砂が溜まったところもない。

 左手奥にあるのは鍛錬場だろうか。こんな時間にも、威勢の良い男達の掛け声と剣撃の音が響いている。出入りする兵士達がちらちらとこちらに視線を遣っているのがわかる。

 拓けた通路のちょうど中央、僕らの目の前には大層立派な階段が伸びていて、上下をこれまた屈強な兵士達が守っていた。さっきの衛兵もそちらへ上がって行ったから、恐らく上に玉座の間があるのだろう。

 事前に面識を得ているとはいえ、改まっての謁見はやはり緊張する。

 握り締めた手にじわじわと汗が滲み出すのを、フローラの優しい手がそっと包んで励ましてくれた。遠慮がちに掌を開くと、湿り気も厭わず指を絡めて応えてくれる。

「大変お待たせ致しました。陛下の処へご案内申し上げます」

 衛兵に代わり女官が三人、階段を降りてきてたおやかに腰を折った。引き返して上がるのかと思ったら、彼女達はするりと僕らの傍らを通り抜け、階段奥の通路へと促す。

「我らが主はただ今、地下の緑園にて過ごされております。グラン様ご夫妻にも是非、お運びいただくようにとの仰せです」

 地下の庭園というなら、マイヤ様の薬草園に似た感じだろうか。そんなことを漠然と思いつつ、女官の一人に鞘を預けて地下へと続く階段を降りた。

 そこで僕はまたしても、衝撃的なまでに期待を裏切られることとなったのだった。

「……まぁ、なんて素晴らしいお庭なのでしょう!」

 僕に続いて降りてきたフローラも、感激のあまり息を呑む。

 天上と呼ばれる世界が本当にあるなら、こんな場所なのではないだろうか。

 白い御影石で組まれた階段は澄んだ水の上に浮かび、飛石の通路には銀の小波が静かに寄せて煌めいていた。その白い道の先に、夢のような緑園がどこまでも続く。美しく手入れされた芝生は露に光り、その至る所に赤、黄、白といった色とりどりの花が咲いている。花々の邪魔にならない絶妙なところに石畳が敷き詰められていて、ここを散策したら、まさに天上に昇ったと錯覚してしまいそうだ。

 花だけではない、砂漠ではまず見かけなかった樹々も数多く植えられている。冬の入りだというのにひらひらと蝶も舞って、なんなら鳥のさえずりまで心地よく響く。地下だというのに不思議な明るさに満ちた空間は、マイヤ様の診療所で見た地下の天井よりさらにあたたかく、常春の如く朗らかな気配がした。

 こんな美しい光景は、緑豊かなルラフェンやサラボナ地方でも見たことがない。

「あの、こちらの像は、精霊ルビス……像、でしょうか」

 静かな水をたたえるオアシスの、その水面から立ち上がった巨大な女神像を見上げてフローラが問う。

「左様でございます。と申しましてもこちらは大変古いもので、我々の始祖たる伝説の姉妹を模したとの説もございます。正しい題材は残念ながら伝わっておりません」

 妻の疑問を拾い上げた女官の一人が丁寧に説明してくれた。黄金のティアラを冠し、ゆったりと両手を広げ立つ白亜の女神像は目映いほどに神々しく、その慈悲深い表情に、僕は不思議と妻の面影を見る。

 かつて敬虔な修道女であったフローラは自然と胸の前で手を組み、碧髪をさらりと揺らして、厳かに首を垂れた。

「信心深くていらっしゃるのですね」

 聴き覚えのある落ち着いた声が響く。女神像に語りかけられたのかと一瞬錯覚しそうになったが、すぐに身を翻し、声の主を仰いでその場に膝をついた。

「妻は修道院に長く居たことがありまして。……到着が遅れましたことを心よりお詫び申し上げます。アイシス女王陛下」

 フローラもまた、僕に続いて音もなく叩頭する。両脇で礼を取った女官達へ目配せをし、剣を預かった一人を残して静かに下がらせながら、女王は温かな親愛と、信頼を込めて僕らを呼んだ。

「お着きになって早々、お呼び立てしたのはこちらです。どうぞお顔をおあげくださいませ」

 今度こそ、お言葉に甘えて顔をあげれば、目の醒めるような濃い美貌の女性が艶かしく笑んでこちらを見下ろす。

「ようこそ、砂の国テルパドールへ。テュール・グラン殿、そしてフローラ・グラン殿」

 

 

◆◆◆

 

 

「改めまして先日のこと、心より御礼申し上げます。あなた方のお陰で、民に無用の混乱を招くことなく済みました」

 庭園の一角に設えられた東屋に女王自らご案内くださり、ますます緊張しながら勧められた椅子に座った。赤銅色の扇を受け取った女王が目を細め、向かいに並んだ僕ら夫婦へ自ら謝意を示してくださる。

「いえ、そんな……どうか本当に気になさらないでください。僕達の方こそ助かりました。数々の魔法でご助力いただいて」

 狼狽しつつ謝辞を返すと、女王はすぐ艶やかに微笑んだ。

「残念ながら、あまり効いていなかったようでしたが。急所を的確に貫かれた御手前、まことにお見事でした」と耳にくすぐったい褒め言葉を頂戴し、益々恐縮してしまった。さらには「ご滞在中、我が兵らをご指導いただくことは叶いませんか?」などと冗談めかして仰るものだから、僕はもう緊張のあまり呂律も回らず「いえ、とんでもございません。まだまだ未熟者ですから、今後一層精進致す所存で」としどろもどろ返事するので精一杯だった。

 すっかりがちがちになってしまった僕を、傍らのフローラが心配そうに覗く。そんな僕らを女王は何故か微笑ましげに見つめ、テーブルの上の茶器を指して勧めてくれた。

「この庭園で採れる香草を芳茶に致しました。お口に合うと良いのですが」

 妻と一度視線を交わし合い、有り難く頭を下げてからお茶をいただいた。気持ちぬるめに淹れられたその芳茶の中には紅い花びらが二枚、ひらひらと漂っている。湯気は意外にも甘酸っぱいような、心地良い香りがした。

 こくりと一口飲み込めば、ちょうどいい熱さの液体がまろやかに喉もとを下っていく。

「初めていただきましたが、大変美味しゅうございますね。この香り、心がとても和らぎますわ」

 同じく芳茶を味わったフローラが頰を綻ばせ呟いて、女王もまた満足気に微笑んだ。

「褒賞、などと申し上げるのは大変おこがましいのですが、テルパドールをお救いくださったあなた方に何か御礼をと考えております。必要なものや、お探しのものなどはございませんか」

 そう言われても、本当に何も受け取るつもりはないんだけど……困惑してちらりとフローラを窺い見たところで、思いついたものがあった。せっかくならこの機にと、到着を急いだ理由のひとつを、躊躇いつつも口にした。

「本当に大したことはしていませんし、いただきたいもの、というのも特にないのですが……あの、もしよろしければお医者様をご紹介いただけないでしょうか? 妻の傷を、念のため診ていただきたくて」

 自分で探そうと思っていたけど今日はもう遅いし、腕のいい方に早く診てもらえるならそれに越したことはない。フローラは狼狽えたようだったが、女王は表情を変えることなく穏やかに頷くと「すぐに侍医をお呼びいたします」と背後を振り返り、離れて立つ女官を呼んだ。

「これでは御礼になりませんね。配慮が行き届かず大変失礼いたしました。……お二人とも、本当に無欲でいらっしゃる」

 恐縮のあまり、フローラと二人ぶんぶんぶんと首を振る。女王はそんな僕達にまた目を細めてから、芳茶の茶器を揺らし上品に口をつけた。

「────失礼ながら、お二人は勇者様を求めて我が国をお訪ねになったとか」

 長い睫毛を伏せた女王が、おもむろに問いかける。

 唐突に核心を突かれ、殊の外動揺した。ああそうか、リーシャが話してくれたのかもしれない。そんなことを思いながら、必死に思考を巡らせて訊きたかったことをまとめる。

 女王の扇も、フローラの体調も大事だったけれど、僕がここに来た一番の理由は。

「そ、そうです。伝説の勇者にまつわる国だと聞いて……あの、僕がどうしても、勇者の力を借りなくてはならなくて」

 女王は落ち着き払った様子で僕の拙い言葉を聞いていた。神秘的な眼差しが話の続きを促す。一度息をつき、心を落ち着かせてから……本題を、切り出した。

「この国には、かつての勇者の墓が祀られていると聞きました。伝説の七人のうちの二人、モンバーバラの姉妹が創られた国だとも。……父が、ずっと勇者を探していました。僕が幼い頃命を落としたのですが、代わりに必ず勇者を見つけるよう、最期に託されました。ですが、勇者が現れたという話はどこに行っても、露ほども聞けなくて。もし何か、勇者への手がかりをご存知ならば是非、お聞かせいただきたいのです」

 些細なことでも構わない。何かヒントを得られるなら。

 膝の上で両の拳を握りしめ、女王の返答を待った。彼女は真剣な面持ちのまま、扇で口許を隠し何事か考えているようだった。漆黒の虹彩が正面から僕らを捉えて、内側まで見透かされる心地がする。

 長く、長く思案して、彼女は一度美しい睫毛を伏せた。

「少しですが、私は、人の心を読むことができます。……いえ、魂を感じる、と申しましょうか」

 人の心を、読む?

 驚きや畏れを覚えるより、よく意味がわからなかった。目を瞬かせた僕とフローラを穏やかに見遣り、女王は音もなく椅子を引いて立ち上がる。

「先日、初めてお会いした時から、あなた方から強く感じているものがありました。それが何なのか、私も確かめたく思います。……どうぞ、私についていらしてください」

 細い、しなやかな腕を蝶の如くひらりと舞わせて、女王は艶かしい眼差しで僕らを誘う。

「御廟へご案内します。内殿に祀るものを、どうぞあなた方ご自身の目でお確かめください」

 

 

 

 

 

 階段を上がり、緋色の絨毯と重い扉を抜けて屋外へ出る。

 外はすっかり暗く、相変わらずの強風が外套をはためかせていったが、目を庇うほどの砂塵ではなかった。

「普段はこちらで礼拝していただいております。どなたにも参じていただけますが、内殿へお通しすることは基本的にございません」

 石造りの渡り廊下を曲がったつきあたりに、祠に似た小さな建物があった。正面に立派な祭壇が設けられ、その両脇をプックルに似た勇ましい獅子の像が物言わず護っている。

 竜神の印が刻まれた緋色の幕の前には聖杯が並び、また花や宝石、菓子といった様々な供物が捧げられていた。

 きっと街の人々が墓を詣でて、供えていくのだろう。

 祭壇の脇に小さな扉があり、そちらへ案内してもらう。女官は扉の外で立ち止まり、中には女王と僕ら夫婦だけが通された。

 人の気配が全くない扉の内側はひやりと寒く、足を踏み入れただけで凍りそうな心地がする。

 重く、静謐な雰囲気だったが、なぜか僕はこの空気を良く知っている気がした。

「王家を名乗ってはおりますが、我々はかつての英雄達の伝説と御意志を永く弔ってきた、いわば墓守の一族」

 カツン、と硬いヒールの音が御影石の床と壁に反響し飲み込まれてゆく。スリットの入った長いドレスの裾を揺らめかせ、女王はゆっくりと歩みながら静かに告げた。

「只人には扱えぬ強大な御力です。竜帝が授けたと言われる『天空の武具』は、古の昔には武に秀でた賢人達が用いていたものだと申します。永きに渡り強大な異形を封じてきたそれら武具のうち、天帝たる竜神が剣、盾、鎧、そして兜をそれぞれお選びになり、血を分けた愛し子のため更なる加護を与え鍛え直された────そう、伝えられております」

 天空の、武具。

 何故そのことをいきなり話されたのか、唐突な話題ではあったが不思議とさほど驚きはなかった。

 事前にフローラが教えてくれた為でもある。ユノ女官長が示唆したという、勇者の兜がここに祀られているということ。

 この重苦しい空気をよく知っている気がするのも、きっと僕らが剣と盾を預かっているから。

「この仕組みも見直さなくてはなりませんね。乱心する者が長でないとは限らない」

 部屋の中央、下り階段の前で女王が立ち止まり、ぽつりと呟きを零した。

 そうして彼女は真っ直ぐに手をかざす。足下から淡い紫の光が迸り室内を満たして、女王はその幻想的な光の中にするりと足を踏み入れた。

「我々は墓守。そして、女王とは言葉通りの『鍵』です」

 手招きされ、女王の後に続いて恐る恐る階段を下りた。長い階段は踊り場を経てさらなる階段へ、そして都度、女王は足を止め階段に向かって手をかざしていく。

 幾重にも結界が張られている、ということなんだろう。それを解除できるのは女王だけ、否、女王が『鍵穴』に在る時のみ通過できるということなのか。肩越しに女王がちらりと笑み「ご推察の通りです」と囁いた。本当に思考を読まれているのか、と密かに驚愕する。

 長い長い回廊を下りきり、先ほどの庭園に似た場所に出た。

 風もないのに周辺には手入れされた草花が揺れ、その上に階段から伸びる緋色の絨毯が歪みなく敷かれている。小さな庭園を囲んで澄んだ水路がたゆたう。同じような緑、同じような明るさなのに、さっきの場所よりずっと狭く整然として、どこか作りものめいて感じた。異界をも思わせる、清浄で、異質な。

 物音一つしないこの空間に、アイシス女王の通る声だけが厳かに響く。

「勇者様を祀る御廟ではありますが……実のところ、ここは勇者様の御墓ではございません。魔王を討ち果たし、世界をお救いになった後。勇者様がどこへ赴き、どのように生涯を終えられたのか……どこにも、何一つ伝わってはいないのです」

 ゆっくり、祭壇前の階段に足をかけた彼女が両脇の燭台へと手を伸ばした。元々明るい空間だが、燭台は女王に応えて音もなく火を灯し、壇上に安置されたものを静かに静かに照らし出す。

 フローラの持つ盾によく似た、白銀と翠の竜翼を左右に宿す。千年以上の時を経ても尚くすまぬ黄金の細工に、竜眼の如く大きな碧のオーブをひとつ、その額に埋め込んである。

 ────天空の兜。勇者が遺した。

「ですが、我らが始祖……マーニャ様とミネア様は勇者様の証のひとつ、兜を勇者様より託されました。他の『伝説の七人』もまた、それぞれが勇者様の天空の武具を預かられ、地上へとお戻りになりました。勇者様の行方は誰も知らぬまま。故に我々は、次代の勇者様が天空の武具を求められるその日まで、この御廟にて天空の兜をお預かりしているのです」

 淡々と告げる女王は、兜を捧げた台座を通り過ぎその奥の石碑の前に立つ。僕らの船に掲げたものと同じ、この御廟の入口に置かれたものと同じ、竜神の印を刻んだ滑らかな石の表面に、丹念に彫り込まれた文字がある。

 ────闇が世界を覆う時、再び勇者来たらん。

 天空信仰の決まり文句だ。今までに何度も聞かされたし、目にしてきた。それでも、勇者が現れたのはもう千年以上昔の話じゃないか。それから今まで闇は一度も世界を覆わなかったのか。人の国がいくつも滅ぼされ、生存を脅かされる世界は闇に覆われているとは呼べないっていうのか。

 そんな行き場のない憤りを覚えてしまったからだろう。目の前に天空の兜があるというのに、僕は感慨も何もなくただ立ち尽くしていた。睨んでしまっていたかもしれない。……女王はそんな僕を振り返り、ほんの少しだけ、深い漆黒の虹彩を揺らめかせた。

 見透かされただろうか。僕の本音、勇者にすべての負の感情をぶつけてしまいたい、いっそ憎悪にも似た衝動を。

 だが彼女はそのことについては何も触れず、石碑の前に祀られた伝説の兜を示し、端的に告げた。

「被ってみて、いただけますか」

 でも、

 ────僕には無理なんです。

 必死に目で訴えたが、女王は拒絶を許さぬ鋭い眼差しで再度僕を促した。どうあっても辞退出来ない圧を感じ取り、諦め混じりの溜息を一つ吐いて、のろのろと祭壇に近づく。

 兜と呼ぶには繊細な意匠のサークレット、その中央にあしらわれた碧の宝玉が冷たく僕を見定める。

 自分の頭にそれがしっくり嵌るところなんて、どうしても想像がつかない。

 ターバンを脱ぐとすぐにフローラが受け取ってくれる。彼女の温もりに励まされ、思いきって兜の縁を握った。ちらりと顔を上げると、女王が真剣な面差しで唇を引き結び、僕と兜をただ真っ直ぐに見つめている。

 ────もう、なるようになれだ!

 絶対に弾かれる。首が折れないことを祈りつつ勢いに任せて頭に載せた、瞬間、ズン‼︎ と頭全体に支えきれない衝撃が走った。退けたくても重すぎてびくともしない、持ち上がらない。

「ぁ、ぐ……ッ‼︎」

 みし、と首の後ろが軋んで、たまらず呻くと同時にフローラの両手が兜を支えた。あの重圧が嘘のように彼女は軽々と兜を退かし「テュールさん……! 大丈夫、ですか」と心配そうに僕を覗き込む。なんとか息をつき彼女を見上げたら、この一瞬に噴き出た脂汗がこめかみから首筋を伝い落ちていった。

「……ありがと。頸がやられるかと思った」

 華奢な肩にもたれかかりなんとか答えると、やわらかく安堵した気配が返る。

 一連の事象を見守った女王は今も真剣な表情を崩していない。失望も落胆も見せず、彼女は視線をほんのわずか横にずらして今度は妻を鋭く見据えた。

「奥方様も、是非」

 僕も、フローラも、女王の静かな一言にたじろいだ。

 あんな重さにもなるこれを、フローラにも被らせるっていうのか。

 強烈な躊躇いの片隅に、淡い淡い疑念があることを否定できなかった。結婚して凡そ半年、僕はまだ、フローラが天空の武具を持ったところを見ていない。盾の持ち手を、剣の柄を、彼女が僕の目の前で持って見せたことは一度もない。

 彼女自身が『勇者』である可能性を、否定しきれない。

 身につけられるか否か、本人が一番よくわかっているはずだ。拒否したっていい。けれどフローラはきゅっと唇を噛み締めると、僕にターバンを返し祭壇に向き直った。一度壇上に戻した兜を震える細腕に持ち直し、そっと掲げる。首を傾け、小さな碧い頭にその金の冠を恐る恐る、載せて────

「……ッ、う……‼︎」

 一瞬で肩が落ちた。がくん、と膝から崩折れたフローラを咄嗟に抱きとめる。必死に頭を支えようとするも前を向くこともできず、フローラは兜の重みに引き摺られ前のめりに倒れ伏す。よろめいたはずみに兜が投げ出され、かつん、と硬い音を立てて地面に転がり落ちた。片手で難なくそれを拾い上げ、女王は今度こそ深い失意を表情に滲ませる。

「……あなた方なら、と思ったのですが。申し訳ありません。私の思い違いだったようです」

 圧し殺した声が、この閉じた空間に残酷に響いてゆく。

 いつか父の手紙を読んだ時にも苛まれた、あの無力感にまた、心臓を握り潰されそうになる。

 持ちたかったよ。父さんだってきっとそうだった。僕だって、この手で父の悲願を果たす資格を得たかった。

 叶うなら、自分の力で母さんを救いたいんだ。勇者だろうが何だろうが、軽率に頼ってまるごと任せるつもりなんかないんだ。

 なのに、それなのに、何もしないうちから現実を突きつけられて。それを可能とする勇者はどこにもいなくて、こんな世界、見捨てたとでも言うように全く姿を表さなくて。

 どうしようもない憤りを誤魔化そうと視線を泳がせたその時、たった今跪いた妻が、両手をついたその地面をじっと見つめていることに気がついた。

 泣いているのかと、思った。赤らんだ瞳はわずかに潤んでいたが、涙を滴らせることはなかった。眼を見開き唇を噛みしめて、彼女は瞬き一つせず、何もないその地面の一点を食い入るようにただ、見つめていた。

 ────考えもしなかった。僕と同じくらい、もしかしたらそれ以上に、フローラは天空の盾を扱えない自分をこれまでずっと責め続けてきたんじゃないのか。

 あの盾が彼女のものだというなら、尚更。

 僕の視線に気づいたフローラがはっと顔を上げ、ばつが悪そうに顔を背けた。それからふと、兜を取り落としたことを思い出したのだろう。黙って見守っていた女王を見上げ、震える声で詫びた。

「申し訳、ございません……陛下。大事な兜を……」

「いいえ」ゆるく首を振り、女王は優しく口許を緩ませる。

「曲がりなりにも天空の兜。落としたくらいで歪むことはありません。ご安心ください」

 それもそうか。雑に扱われて安心したというわけではないが、少しくらい問題ないと女王が言ってくださったことで幾分気が楽になった。フローラはやはり気落ちしているようだったが「ああ言ってくださったし、きっと大丈夫だよ。立てる?」と手を差し出したら遠慮がちに応じてくれた。軽い体重を引き上げて立ち上がると、女王は一つ頷いてすぐに踵を返す。

 そのまま黙って祭壇を後にした。来た時と同じ長い回廊を、静かな足音を伴ってゆっくりと昇っていく。

「天空の武具を、お持ちなのですね」

 途中の踊り場を過ぎる時、女王がすれ違いざま静かに問うた。

「……はい。妻が、盾を。剣は、亡くなった父が見つけて、僕に遺してくれていて」

 行きより階段の下がよく見える。高所恐怖症ですっかり及び腰のフローラを支えながら答えた。どこまで読まれていたものか、さすがに複数は想定外だったらしく、女王が微かに目を瞠る。

「驚きました。まさか、二つもお持ちだったとは」

 どうしよう。もし今、この祭壇で預かると言い出されたら。

 思わず警戒してしまったが、女王がそれを提案することはなかった。その方が安全だと自分でも思う、そして我ながら理解し難いとも思うけれど、あの剣と盾をどうしても手元から離したくない。そんなことを、思ってしまって。

 愚かだと思う。あれは決して、僕のものにはならないのに。

 それきり天空の武具の話は途切れ、彼女は押し黙ったまま僕らを地上へと導き、先ほどの庭園まで先導していった。

 庭園に戻ると、さっきの東屋に医師らしき女性が女官と共に待ち構えていた。芝生の端に敷物まで敷かれており、フローラはすぐにそちらへ呼ばれ、診察していただくことになった。

「問題ございません。きれいに治っていらっしゃるとお見受けします。ただしばらくは傷が開きやすい状態ですから、激しい動きは出来るだけ慎んでくださいませ」

 具体的には走ったり跳ねたり、大きく腰を捻るような動きは控えた方が良いとのことだった。ちょうど貫かれたあたりの近くに、子を為すのに必要な器官があるのだという。幸い傷痕が触れてはいないが、治したところが引き攣れてそちらに影響を及ぼしては良くない。一週間も経てば心配要らない程度に戻るだろう、と言っていただき、心からほっとした。

 それにしてもあの時、ほんの少し大顎がずれていたら、フローラは一生子を望めない身体になったかもしれないのか。

 不幸中の幸いだが、つくづくぞっとする話だ。大事に至らなくて本当に、良かった。

 昨日の朝には鬱血の痕がうっすら見えていた左手の薬指も、特に異常なく、きれいに修復されているとのことだった。

 初めてベホマが成功したんです、と言ったら女医が目を円くしていた。これは自分でも頑張ったと思うんだけど、最上位魔法なだけあって、旅人の身でベホマを使う人はそういない。普通は神の道を修め、長く修行を積んでやっと覚えるものだから。

 何はともあれ、これでようやく本当に安心できる。フローラと二人、医師に何度も礼を言い、どちらからともなく安堵の微笑みを交わした。

「明晩は城にてささやかながら感謝の宴を設けます故、是非おいでくださいませ。魔物の皆様もご一緒に。ご滞在中、お力になれることがございましたらなんなりとお申し付けください。……ああ、そうでした」

 診察を終えてそろそろお暇しようかという頃、女王からそんなお誘いをいただいた。またも恐縮しつつ承諾したところで、はたと女王が目を瞬かせる。

「確か、転移魔法をお使いになられるのでしたね? この城のみの効力になりますが、グラン殿には今後自由にお渡りいただけるよう、印をお授けいたしましょう」

 それは願ってもないお申し出だ。有り難く頭を下げた僕に女王は手を出すよう促し、差し出した武骨な掌を両手で包み呪言を唱えた。ふっ、と指先から身体の芯を風精霊の気配が突き抜けていく感じがして、すぐに冷たい手が放される。

「念のため、ご出立の前に城壁の外から転移をお試しくださいませ。我々の都合で再び制限をかけることがあるやもしれませんが、その点ご了承いただけますと幸いです」

「もちろんです。とても大切なものを祀られているのですから。……ご厚情に心より感謝いたします、アイシス女王陛下」

 跪き、深々と叩頭して謝辞を告げた。決して常識的とは言えない時間に伺ったにもかかわらず良くしてくださり、僕らを信用して御廟の内殿までも案内してくださった。その上転移魔法のお許しまで。どれだけ感謝してもし足りない。

 庭園の階段までお見送りいただき、改めて今日の御礼と、明日の約束を交わした。

「そうだ。お城に書庫があると伺ったのですが、後日、本を見せていただくことは叶いますか? 勇者についての伝承など、調べられたらと思っていまして」

 別れ際にふと思い出し、書庫について尋ねてみた。マイヤ様は自分の名を出してもいいと言ってくださったけど、御伽噺めいた太古の神話を知りたいわけではないから、その必要はなさそうだ。

 ああ、でもここは伝説を継ぐ国。マイヤ様が言われた異界──かつての魔界の話もどこかに記されているだろうか。

「もちろん、ご自由にご覧いただいて構いません。正門の右手に図書館を設けております。そちらは民が自由に出入りできる場所ですので、どうぞお気兼ねなく」

 快くお許しをいただきほっとする。フローラと二人、深々と頭を垂れてその場を辞した。

 城を出るとさすがにとっぷりと暮れている。いつもは新しい土地に着くと情報収集のため酒場に立ち寄るのだが、今夜はもうそんな気力もなかった。夕方からの短時間のうちに色々ありすぎて、緊張で精神力を使い果たしてしまった。

 宿へ向かう道の途中、屋台で軽食を買い込み、納屋で待っているみんなへの差し入れにした。僕らも手早く夕食を済ませて急いで湯を使い、既に就寝している人もいる中こそこそと奥のベッドへ向かう。

 ……疲れたな。でも、まだ女王にお会いしただけだ。明日からしっかり城と街の中を歩いて、人々の話を聞いてみなくては。

 フローラもすっかり眠そうにしていて、とろんとした目つきで髪を梳いている。今日のことを少し話したい気もしたけれど、他人と相部屋でお喋りというのも憚られる。細い腰を抱き寄せ、心地よい体温を感じながら横になった。「おやすみ、なさい。テュールさん」と、ほんのり微笑んでくれる君がやっぱりとても愛おしい。

「おやすみ。……フローラ」

 枕元の灯りを消して、星空のようにぼんやり光る天井の下、口づけた妻の額は果実みたいな甘い香りがした。



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#20-2. テルパドール城(2/2)

 テルパドールに着いた翌日の朝。

 砂嵐がおさまり、外はからりと晴れている。宿の外が何やら賑やかで、今日は朝から市が立つのだと教えてもらった。

 早速城の図書館に行こうかと思っていたけど、それなら、と今日はまずのんびり買い物しようという話になった。

 仲魔達にも朝食を届けて、夕方まで自由にしていて良い旨を伝えた。さすがに市中を堂々うろついては何も知らない人々に恐れられてしまいそうだが、ここは幸い街の外れにあるし、衛兵の目が届くところなら変に咎められることもないはず。

 あまり褒められたことではないが、僕に連なる印ももらってあるから、彼らだけで門の出入りをすることも一応は可能ということになっている。

「テュールさん。見てください、これ、とっても綺麗です」

 宿を出て少し歩くと、オアシスに続く広い道にまばらにテントが張られているのが見えた。気の向くままに覗いていた最中、宝石に似た雑貨が並ぶ軒先でフローラが足を止めた。

「この間砂漠にたくさん散らばっていたやつだね? すごい、本当に花に見えるね。これ全部石でできてるんだ?」

「テルパドールでしか見られない希少な鉱石ですよ。お客さん」

 テントの中で荷の整理をしていた、恰幅の良い男性が愛想よく身を乗り出してきた。褐色の額に白いターバンをくるりと巻いた、いかにも砂漠の商人という雰囲気の彼は、淀みない謳い文句を流れるように披露してくれる。

「我々は砂漠の薔薇と呼んでおります。砂漠の特異な気候下でのみ生成される石でして、これは全て自然にできておるんですよ」

 へぇ、と相槌を打ちその石を眺めた。人の手を加えずこの形になるとは、自然が生み出す奇跡に驚嘆させられる。そういえば女王の扇も砂薔薇扇と呼ばれていたっけ。この美しさを象るまでにどれほどの月日を要するのか、そう思うとこの鉱石は正しくテルパドールの象徴と呼べるのかもしれない。

「こちらは特に質の良い砂漠の薔薇を選びまして、磨いた石を葉に見立て台座にいたしました。割れやすいものですので加工には向かないのですが、こうして置物にして飾ると災厄を退けると昔から言われておりまして」

 店主がいくつかの置物を選び、目の前に並べてくれる。質の良いものと言うだけあってとりわけ見事な造形で、本当に石で精巧に作られた薔薇の花にしか見えない。

「欲しい?」

 熱心に眺める妻の姿に興を引かれ、華奢な肩を抱き込み声をかけた。鉱石の一つや二つ、さらりと買ってやれる漢気を見せたいという下心も大いにある。唐突に僕の重みをその背に受け止めた彼女は軽く目を見開いて振り返ったが、すぐにほろりとはにかむと、気恥ずかしそうに肩をすくめて答えた。

「あ……いえ。ビアンカさんに何かお土産をお渡ししたいな、と思いまして。これでしたら綺麗ですし、珍しいものだから喜んでいただけるかしら」

 そう言ってほんのり、嬉しそうに微笑む彼女を目の当たりにして、僕の邪な下心は正直粉々に砕け散りそうだった。ええ、お土産でしたらこれがぴったりですとも! と盛り上がる店主とにこやかに頷くフローラの後ろ姿に、微笑ましくももやもや湧き出た黒い感情がつい滲み出てしまう。

「前から思ってたけど、なんか、妬ける……」

「え?」

 独り言のつもりだったのが、君はしっかり耳に留めて振り向いてくれる。先日改めて想いを確かめ合ったばかりで、甘えもあったかもしれない。僕を気遣ってくれるその表情を見ていたら、無意識のうちに腹の内側に溜め込んできたものがつい、噴き出してしまって。

「だってフローラ、絶対ビアンカ好きだろ。初対面の時からものすごーくビアンカに拘ってない? 求婚の時も式の後も僕よりビアンカのこと気にしてたし、こないだだっていきなりビアンカのこと言い出すしさ。何だかんだで一緒に温泉入るくらい仲良いし、今だって真っ先にお土産、とか……ほんっと、妬ける」

 そう、考えてみたら僕は、フローラから手元に残る贈り物をもらったことがない。その代わりに美味しい手料理をたくさん作ってもらっているし、実は彼女が、僕の破れた外套やシャツをこっそり繕ってくれていることも知っている。彼女に不満なんてない、けど何というか、僕より先にビアンカが贈り物をもらえるのかと思ったらつい、もやっとしてしまって。

 黙って聞いていた君の頰がじわじわ赤く染まっていく。困らせてるのはわかる、でも、どう見てもフローラは、僕よりビアンカを気にかけている気がするんだ。繊細で優しい君がとてもとても好きだけど、その十分の一でもいいから僕の恋心も理解してくれたら、なんてわがままなことも思う。

「そ、そんな……あの、確かにビアンカさんはとっても素敵な方ですが、テュールさんより、だなんてことは」

 僕が贈った瑠璃と金の耳飾りをしゃらりと揺らし、フローラは眉尻を下げて懸命に訴える。必死な君がまた可愛くて、困らせておいてそんなふうに思ってしまう罪悪感と、僕のために心を尽くしてもらえる悦びが綯交ぜになって、胸の中で激しく氾濫する。

 僕を好きだって、あんなに何度も伝えてくれているのにね。余裕がなくて本当に、ごめん。

「だって、本当に素敵なんですもの。大人っぽくてお綺麗で、笑顔がとても眩しくて、お側にいるとこちらまで明るい気持ちになれますでしょう? それに、……同じ、ひとを、好きになった方……です、し……」

 一生懸命言い募っていた君だけれど、恥ずかしいんだろう。野苺みたいに瑞々しい赤で白い首筋を染め上げ、フローラはついに消え入りそうな小声で囁き俯いた。いや、これは僕もかなり恥ずかしい……自業自得にも程があるが、赤の他人である店主はさっきから目を丸く見開き、このしょうもない痴話喧嘩──喧嘩ってわけでもないけど──をそわそわと見守っている。

「今まで親しいお友達も居なかったものですから、舞い上がってしまって……その、お気を悪くされていたなら、ごめんなさい」

 終いにはすっかり萎れたフローラにそんなことまで言わせてしまって、自己嫌悪と羞恥のあまり熱くなる頰を隠し、嘆息しながら小さく詫びた。

「…………ごめん。心が狭すぎた」

 そうだよな。考えてみれば君は筋金入りの箱入り娘で、長いこと修道院で過ごしていたような人なんだ。同世代の女友達と気軽に遊ぶような機会も、縁もきっとなかった。幼馴染のアンディですら、連れ立って出かけたことはなかったようだし。そこはつい安堵してしまうけれど、彼女がやっと得た友人にまで嫉妬してしまうなんて、狭量にも程がある。

「そうよーぉ。心せまーい、テュールさん」

 唐突に懐の脇から声をかけられ、不意打ちすぎて一瞬すくみあがってしまった。思わずそちらを睨みつければ、真新しい女官の衣服に身を包んだリーシャがくすくす笑いながら膝を抱えて座り込み、こちらを見上げている。

「しっ、心臓に悪い声のかけ方するなよ、リーシャ‼︎」

「気付かない方が悪いんでしょー。おっはよ、フローラさん! もう身体は大丈夫?」

 けろりと僕をあしらうと、リーシャはすぐフローラに明るく挨拶を投げかけた。穏やかに微笑み頷く妻を見て、ほっとしたように頰を緩ませる。

 それにしても、ここまで何度も気配に気づけないっていうのは……多分これ、何らかの魔法を使われているんだろうな。きっとまた古代秘術の類なんだろう。リーシャといいマイヤ様といい、この大陸の女性達はつくづく油断ならない。

「……どこから聞いてたの。立ち聞きとか趣味悪い」

「えっとねぇ、ビアンカさんて人の話をし始めたあたりから? 何々、テュールさんの恋敵⁉︎ そんな面白そうな話、隠してたなんてずるーい!」

 愉しげに笑いながらリーシャが僕を小突き、次いで腕を絡めてぐいぐい引っ張る。ああ、うん、こういうところやっぱり似てるかもしれない。「いえ、どちらかというと、私の……で、ですよね?」とフローラは遠慮がちに申し出てくれたが、いや、そうなんだけどそうなのか? なんだかどんどん頭が混乱してくる。

「なんだかややこしいのねぇ。あ、そうそう荷物ありがと! ちゃーんと問題なく受け取りましたっ」

「そっか。そりゃ良かった」

 びし! と額に手を添えて兵士の如く敬礼してみせるリーシャが可笑しくて、つい笑ってしまう。フローラと二人、くすくす肩を震わせていたら、僕らの様子を眺めていた鉱石売りの店主も楽し気に声をかけてきた。

「そちらは新入りの巫女さんかな? 可愛いお嬢さん」

「そうなの。叙任式はまだ先なんだけどね! ふふっ、これからよろしくね、おじさん」

 笑われてぷぅっと頬を膨らませていたリーシャだったが、店主の言葉に気を良くしたらしい。ころっと弾けるあどけない笑みを、惜しげもなく彼に向けた。

「叙任式? って、いつやるの?」

「新年の祭祀の時よ。見ていってもらえたら嬉しいけど、さすがにその頃二人はいないよね」

 うーん、と軽く唸り「そうだね。残念だけど」と返した。

 年が明けるまで凡そ一ヶ月、次の目的地はまだはっきり決まっていないけど、多分その頃にはストレンジャー号もサラボナに戻っているだろうし。

「いつになるかわからないけど、落ち着いたらまた顔を見にくるよ。真面目に女官してるリーシャも見てみたいしね」

 せっかく女王から空間転移の許可もいただいたのだから、使わない手はない。小さな頭をぽんぽんと軽く撫でたら、リーシャは暫し驚いたように目を見開いていたが「うんっ。楽しみにしてる!」とすぐにまた屈託ない笑顔を向けてくれた。

「ねね、まだすぐには帰らないんでしょ? フローラさんとお茶したーい! いつだったら誘っていい?」

「いつだったらって……逆に、リーシャはいつならいいのさ。その服着てるってことはもうお務め始まってるんだろ? ていうか、僕は混ぜてくれないのか?」

 さも当然のように除外されてるのが悔しくて、余計な一言を添えたのが運の尽きだった。店主とフローラの目の前で、僕は年下の少女から憐憫に満ちた痛ましい眼差しを注がれるという屈辱を味わう羽目になったのだった。

「テュールさん、女の集いに混ざりたいの……? 女装でもしてくる?」

 まじまじと見つめながらとんでもないことを言い出すし。「何それ。テルパドールじゃお茶する時は女装しなきゃいけない決まりでもあるわけ?」となんとか反撃したが、口達者な年頃の少女に僕が口で勝てるわけがない。

「そうじゃなくて、女の子だけできゃっきゃしたい時があるの! 好きな人のこと話したり、お洒落の相談したりね。そういう場に女の子として参戦したいの? って聞いたんですけど⁉︎」

 知らないよそんな文化。詳しいことを話せない僕も悪いけど、こちとらまっとうな人付き合いもろくにせず、今日まで生きてきたんだから。極め付けに「あー、でもテュールさんはどうせフローラさんの惚気話しかしないだろうからやっぱ来なくていいわ。もーお腹いっぱい」などとぼやかれて、僕は憤慨し、フローラは恥じらいのあまり、それぞれが耳まで真っ赤にして口籠ってしまった。

「ま、でも優しいテュールさんは反対なんかしないもんね。奥さんが友達とお茶するのも嫌だなんて、心せっまーいこと言わないわよねー?」

 ほんっと、よくもまあこれだけ小気味良く、ぽんぽんぽんぽん人をおちょくれるもんだと思うよ。

 げんなりしつつも気を取り直し、「言わないよ……フローラが行きたいならもちろん、いつでも行ってきていいから」とおろおろ見守っている妻に優しく声をかけた。あたしと態度が違いすぎる! とリーシャはまたもやぷりぷり怒っていたが、仕方ないじゃないか。どうしたって僕にとって、フローラと他の女性なんてそもそも、比ぶべくもないのだ。

「明日あたりから図書館で調べ物するつもりだから、暇な時誘いにきたらいいよ。今日は散策と買い物して、夕方はまたお呼ばれしてるしさ」

「知ってる。あたしもこれから準備、手伝ってくるんだー」

 例の魔物や女官長の一件はまだ公にはされていないようで、そこは弁えているらしく、リーシャも店主の前で詳しいことは口にしなかった。代わりに「ふっふーん。度肝抜いてやるから覚悟しておきなさいよ! やっぱ結婚しとけば良かった、なんて後悔したって遅いんだからねー!」などと意味不明かつ居丈高な台詞を投げてくる。呆気にとられた僕らを尻目に、リーシャは得意げに胸を張るとぴょこんと跳ねて立ち上がった。

「じゃっ、二人とも。またあとでねー!」

 その慌ただしさたるや、春の嵐の如くである。軽やかに声を上げ駆け去っていく背中を見つめ、僕は思わず疲れた息を吐いた。

「いやぁ、元気な新入りさんだ! 賑やかになって良いねぇ」

 声を上げて笑う鉱石屋の店主に苦笑いを返し、改めて商品を見せてもらった。僕とリーシャがやりあっている間にもフローラはちらちらと置物を眺めていたらしく、さほど時間をかけることなくビアンカへの土産品を選んで顔を綻ばせていた。……いや、うん、これ以上狭量なことは言うまい。幼馴染の男への贈り物でないだけずっとましだと思うべきだ。

 ────どれだけ心が狭いのか、僕は。

「ありがとうございます、テュールさん」

 壊れないよう綿入りの箱に念入りに包んでもらい、フローラは嬉しそうに僕を振り仰ぐ。そんなに幸せそうにされては、微妙な顔などできようはずもない。「喜んでくれるといいね」と微笑みを繕い答えたら、彼女はまた愛らしく笑い頷いていた。

 ……そうやって今、君を微笑ませているのは僕じゃなくてビアンカなんだよなぁ。なんて思っちゃうことが僕はもう切ないんだけど。こんなにも好きで仕方がないんだってこと、いつになったら君にちゃんと伝わるだろう?

 

 

 

 その後もつらつらと市のテントを回り、珍しい魔道具や武具を買い込んだり、見慣れない軽食に舌鼓を打ったりしているうちに、あっという間に時間が経ってしまった。

 テルパドールの人々は秘術の扱いに長けた民族なのかもしれない。北の大陸では見たことのない魔道具をたくさん見つけた。特に、混乱した者を正気に戻す鈴は初めて見た。仲間が狂乱すると抑える方も辛いし、正気に戻った本人も気落ちすることが多い。お守り代わりに持っておいてもいいかな、と思い多めに買っておくことにした。

 武具といえば、この時もちょっとした口論になった。

「でも、先日のように魔法が使えない状態になれば、私は何もできなくなってしまいます。剣は無理でも、せめて自分の身を守れれば……」

「だったら指輪で十分じゃない? ちゃんとみんなでフォローするから、フローラがそこまで気にしなくていいんだよ。確かにこれならフローラも叩けるようになるかもしれないけど、そのために前に出るような真似はして欲しくない」

 魔力を少し使って腕力に変える、という不思議な杖をフローラが見つけたのだ。今まで武器らしいものは何も持たせていなかったけれど、自分も何か持ちたいと彼女の方から言い出した。

 気持ちはすごく嬉しいけど、攻撃を届かせるってことはそれだけ相手の間合いに入るってことだ。折角マーリンから魔法を習っているのだから僕としてはそれで十分だと思うし、元々非力な彼女にどれだけの打撃を期待できるのか。もっと本音を言えば、彼女を敵の間合いになんて一歩だって入れたくない。

「魔法が効かない、ということもありますでしょう? 詠唱には少なからず時間がかかってしまいますし、指輪の魔力だけでは敵を討つに至りません。それに、まだ……攻撃魔法は、教わっておりませんから……」

 段々と尻すぼみになり、フローラはついにしゅん、と項垂れてしまった。身躱しの服にさらりとかかった碧髪を掬い上げ、小さな頭を優しく撫でてやる。

「十分すぎるほど助かってるんだよ。本当に。フローラは判断が的確で早いし、この間だってフローラのバイキルトがなかったら倒せてなかったと思う。ほら、マーリンだって特に武器は持ってないだろ? フローラに攻撃が及ぶかもって思ったら僕が集中して戦えないし、君には今まで通り、なるべく後ろから援護して欲しいな」

 そう諭してみたもののどうにも釈然としない様子のフローラだったが、何か買うにしてもとにかくこの場で決めないで、もう少しよく話し合ってからにしよう? と提案して、何とか頷いてもらった。とは言っても、これに関して譲るつもりは毛頭ない。

 その店の隣に出ていた、女性向けの装備品を扱うテントにはこれ見よがしに色っぽい……いやどうみても女性用下着にしか見えない、ビスチェと呼ばれる装具が軒先に吊るされていた。うっかり視界に入れてしまった僕は大陸に着いた日のことを思い出し、めいっぱい赤面してしまう。

 魔力を封じた特殊な加工で見た目以上の防御力を秘めるというが、正直あんな性的に唆られるものを白昼堂々外に置かないでほしい。目のやり場に困る。多分この辺では慣れたものなんだろう、通り過ぎる男達の視線が舐めるような……いかにも目の保養といった感じでにやにや通り過ぎていくのが、妻の前でまた居た堪れない。

 強度を高める工夫ができるならもっと身躱しの服のような、普段着らしい装具に仕立ててくれればいいのに。

「わ、わわ、私、防具はこれで十分ですから」

 僕の様子からフローラも気づいたらしく、ビスチェから顔を背けあわあわと言い繕う。

「下着みたいだし、中に着るって手もあるかもよ?」と言ってみたが、それでも真っ赤な顔をぶんぶん横に振っていた。心配しなくても人前であんな格好させないから……ああ、ほんっと莫迦な考えが頭を過る。

 これを言ったら軽蔑されるよなぁ。脱がせていいなら僕の前でだけ着て欲しい、なんてさ。

 陽が中天を過ぎる頃からぼちぼちと店仕舞いが始まり、僕らも軽く昼食をとったあと、宿に戻った。

 夜は女王にお招きいただいているから、少し時間に余裕を持ってそれぞれ身支度をする。僕はすぐに終わってしまったので、早めに湯をつかったフローラの髪を乾かすのを手伝った。タオルで丹念に水気を取り、温めた石に長い髪をあてながら梳かして乾かしていく。碧髪の間から覗く白いうなじがうっすら桃色に染まって、唇を添わせたい衝動を懸命に堪えた。

 こうしている間にも、心地よい花の香りが広い室内にほんのりと漂う。衝立の向こうで微かなざわめきを感じて、今すぐ可憐な妻を自慢してしまいたいような、やっぱり隠しておきたいような相反する欲求に駆られる。

 見慣れた白い上品なドレスに着替えて髪を整え、薄化粧を施した妻は普段以上に清楚で、輝いて見えた。いつもながらここは周りが褐色肌の人ばかりだから、彼女の白さが余計に際立つ。太陽が西の地平に近づいていく頃、すれ違う人々の注目を嫌というほど浴びながら、異国の姫君か、女神とも見紛う妻の手を引いて城へと向かった。

 出掛けに馬車を覗いたが、夕方待ち合わせたはずの仲魔達は誰も戻っていなかった。みんなも招待していただいてるんだけどなぁ、と首を捻りつつ、遅れては申し訳ないので先を急いだが、実際遅かったのは僕達の方だった。城門に辿り着くと衛兵達が早速僕らを取り囲み、「お待ちしておりました。ただ今、お仲間の皆様には城の者達がご指導をいただいておりまして」とにこやかに言う。は? と思いきや、正門を潜ると左手から響く激しい剣撃の音と共に、耳慣れた掛け声が聞こえるではないか。

「ひゃあっほー! ぴえーるかぁっこいーっ! そこだーっ、いけいけーっっ!」

 ノリノリではしゃいでいる、これはスラりんの声だ。多分他の仲魔達もその近くで応援している。うおォ‼︎ と壁をも揺るがす野太い咆哮を斬るように「その踏み込みや良し!」と叫んだのは正しくピエールで、瞬間キィン! と鋭い金属音が響き渡った。慌てて鍛錬場に駆け込めば「勝負有り! ピエール殿、まことお見事でございました!」と両者の間で仰々しく判定を下す兵士あり、がくんと跪いては「くっ、力及ばず……無念!」と真剣に悔やむ体格の良い兵士あり、同じく鎧達の歓声に囲まれ「重みの効いた良い剣でござった。右脇がやや甘いようだ、気をつけられよ」などと偉そうに講釈を垂れるスライムナイトの姿あり。

「何やってんの、みんな……」

 がっくりと肩を落としつつ声をかけると「かような情けない顔をされては色男が台無しですなぁ、あるじ殿」と快活に笑い飛ばされた。機嫌がよろしくて結構なことで。

 暇を持て余し、街を出ようとしたところで衛兵達に誘われたらしい。外に魔物が少ないことはわかっていたし、人間と手合わせする機会などこれまで皆無に等しかった彼らは大いに興味をそそられたようだ。結局みんな連れ立って鍛錬場にお邪魔して、兵士達の訓練に混ぜてもらっていたのだと。

 魔物相手で変に萎縮されていないか不安に思ったけれど、観戦席に紛れ込んだスライム属達がわきゃわきゃ盛り上げたお陰で警戒心もどこへやら。あの夜ピエールやプックルの活躍を見ていた兵士も何人かいて、是非手合わせを! と意気込まれて今に至るそうだ。

「皆さん、活き活きしてらっしゃいますわね。とっても楽しそうで、なんだか羨ましくなってしまいます」

 いつもの綺麗な立ち姿で微笑ましげに皆を眺めていた妻だが、実は彼女自身に熱い視線を注がれていることには全く気づいていない。あれは天女か⁉︎ とこそこそ囁きあう声が聞こえて、思わず不必要なほど彼女の近くに立ち周囲を牽制してしまった。

 疑問符を浮かべながら振り返った彼女に愛想笑いを向けて、そろそろ行こうと促しかけた矢先、耳聡く聞きつけて寄ってきたスライム属達が嬉々としてフローラを取り囲んだ。

「えっ、うらやましい⁉︎ ふろ〜らちゃんもやってみる〜⁉︎」

「おりゃー! きえー! ってやるの、たのしかったー! スラりんももっかいやりたーい!」

「待って、みんなしてフローラに変なこと教え込まないで⁉︎」

 なんとも他愛無い、可愛いお誘いにすぎないが思わず本気で止めてしまった。だって、ついさっき武器のことで揉めたばかりだってのに、ここぞとばかりに打撃練習をしたいなんて言い出したらたまったもんじゃない。

 果たして、僕の妻は茶目っ気たっぷりな人でもあったことを失念していた。

 ぐっと両腕をのばし、素振りの真似事をしたかと思えば、彼女は唐突に「オリャー! キェーっ!」という愛らしくも勇ましい奇声を高々と上げたのであった。突然の妻の奇行にあんぐり口を開けたしびれんと、逆にやんやと大喝采のホイミン達に向かってフローラは「うふふ、本当ですのね。思いきり声を出すと楽しいですわ!」と花も綻ぶ満開の笑顔を向けた。

 待って、本当に腹筋がやばい。我慢したくても、以前ストレンジャー号で君が見せてくれた可愛すぎる叱咤激励まで思い出して、こみあげる笑いを抑えきれなくなってしまう。ああもう、本当に君ってひとは。

 ぶっくくく、と背中を震わせ笑う僕を振り返り、フローラは実に不本意そうに唇を尖らせたが、遠巻きに見つめる兵士達の唖然とした様子にようやく気づいたらしい。「淑やかなばかりでないことは、あなたが一番よくご存知ですわよね」と気恥ずかしげに肩をすくめてみせた。

 うん、知ってる。でもあんまりそういうところ、他人には見せないでね。可愛すぎて気が気じゃないから。

 ご滞在中はいつでもどうぞ! だの、今度は是非ご主人様とお手合わせを! だの口々に請われつつ、ピエール達を引っ張りようやくその場を後にした。もっと遊びたかったー! とぶつくさ文句を言う仲魔達の中、にこにこ大人しくついてきてくれるガンドフについ癒されてしまうのも致し方あるまい。

 そういえばマーリンがいないな、と思ったら案の定、鍛錬場とは反対方向にある図書館で黙々と本を読んでいた。君達自由気ままに過ごせて良かったね。本当に。

 

 

◆◆◆

 

 

 そんなこんなで仲魔達を回収し、女官に取り次いでもらって案内いただいた先は、昨日も訪れた地下庭園だった。

 階段を降りるところから独特に雅な音楽が聴こえて、フローラがうっとりと瞳を細める。

 降り立った美しい緑園でまず目に入ったのは数名の女官による楽団、真ん中をくり抜いて拓けた庭園の端々にご馳走を載せたテーブルが置かれる。スパイシーな香りがここまで漂ってきて食欲をそそる。昨日も通された東屋の近くには豪奢な敷物が敷かれており、仲魔達はそこで自由に寛いで良いらしい。早速ごちそうを皿いっぱいに盛りつけ大喜びでかぶりついていた。

 遠慮を知らない仲魔達の振る舞いに肝を冷やしつつ、促されるままに東屋の席につく。申し訳ないがあまり酒に強くないことを伝えると、ごくごく軽い祝い用の酒を注いでくれた。

「この度はまことにありがとうございます。このような素晴らしい宴にお招きいただき、恐れ多くも幸せに思います」

 すぐに降りてきてくださったアイシス女王を目にして立ち上がり、フローラと並んで礼をとった。まっすぐこちらへと歩を進めながら、女王は落ち着いた美しい微笑みを返してくださる。

「本来ならば、城下の民に皆様をお披露目したいくらいなのですが。まだ事の処遇を決めかねております故、内々の席を設けるしかできず申し訳なく思います。どうぞごゆるりと、羽を伸ばして行かれませ」

 そんなことされたらもう街を歩けない。ご沙汰が決まってもお披露目だけは何卒ご勘弁願いたい。

 ダンスはいかがですか? と尋ねられたが、僕はあいにくそっち方面はからっきしだ。単に物知らずなのもあるけど、多分絶望的にセンスがない。踊りや音楽の才能に恵まれた方が些か羨ましい。その分、父から多少剣技の才を継ぐことができているのだろうから文句はないけど。

 フローラは多分踊れるのだろうが、僕に合わせてか、勧められてもやはり微笑んでは首を振っていた。

 主賓が役立たずなので、余興として女官による演舞が披露された。東屋前の拓けた舞台に、色とりどりの衣装に身を包んだ女性達が次々舞い込んでくる。先ほどの民族的な音楽に合わせて蝶の如くひらひらと舞う様はなんとも幻想的で、どこか神の存在をも思わせる。

 次は真っ白なローブを身にまとった女性達が、細い笛の音に合わせて優雅に踊ってくれた。儀式などで神々に奉納するために舞う神聖なものらしい。初めの舞よりさらに神秘的な空気に満ちたその空間に、僕もフローラも思わず言葉を失くして見惚れた。

 続けて音楽が聴き覚えのある旋律に変わる。どこで聴いたか、不思議な感覚に身を固くしていたら、新たに三人の女官が前に進み出た。と思ったら、そのうちの一人がリーシャだった。目が合うと気恥ずかしげにはにかんでみせ、他の二人と同時に息を吸い、歌い出す。

 ああ、これ、あの時の歌だ。

 独特の音階に彩られた歌声に覚えがある。夜中にリーシャと訪れた祠で、儀式をやった時の歌だ。あの時は変な感覚に凌駕されて、じっくり聴く余裕がなかった。

「大変古くより、子守唄として歌い継がれてきた歌です。……そういえばグラン殿は、東の祠の潔めもお手伝いくださったとか」

 隣に腰かけた女王から静かに問いかけられ「いえ、僕は、リーシャの伴をしただけで」とあわあわ首を振った。惑わしの霧と言ったか、結構な大事だったようだしリーシャが報告したのかもしれないが、あの儀式で寧ろ余計なことしかしなかった僕は、お咎めをいただくのではと気が気でない。

 舞や歌をご披露いただく間にも、東屋には次々に見慣れない料理が運ばれてきていた。有り難く摘ませていただきながらちらりと仲魔達を盗み見れば、全くペースが衰えていない。相変わらず遠慮なくご馳走を頬張っては、繰り広げられる演舞に触手でぱちぱち拍手したりして楽しそうに見入っている。どうやら彼らの分の料理も十分ご用意くださっているのは見てとれたが、頼むから調子に乗って早々食い尽くしてくれるなよ、とひやひやする。

 女王から二杯目を勧められ、恐縮しつつも昨日の芳茶をいただけないかとお願いしたところ、快く頷いていただけた。芳茶を気に入っていたフローラも同様に盃を頂戴し、花びらが踊る温かい芳茶を嬉しそうに味わっていた。

 贅沢なひと時を楽しんでいて、すっかり油断していた。

 次の一団が舞い込んできた瞬間、あやうくお茶を噴き出しかける。港町モン・フィズの宴でフローラが着せられた、布地の少ない衣装の人々が踊り始めたのである。いや確かに踊り子マーニャを模した服だと聞いてはいたけど‼︎ 実際にこの衣装で踊られると視覚的破壊力がものすごい‼︎

「マーニャ様はあの出で立ちで魔王を倒されたと伝えられております」とすました声で告げられ、思わず目を剥く。あんな格好で戦ったのか、怪我をしろと言わんばかりじゃないか。とにかく露出が多い、立っているだけで裸を見ている気分になる。ひらりひらりと舞うたび際どいところが目に入って、もうどこを見ればいいのかわからない。しかも否応なしにあの夜の艶かしかった妻を思い出してしまう。もっと純粋に演し物として観られればいいんだろうけど、耐性がなさすぎて。

「あ、あなた。ポートセルミで見た踊りに少し、似ている気がいたしませんこと?」

 ぽぽぽ、と音がしそうなほど茹だった頰を両手で抑え、一生懸命鎮めんとするフローラが努めて明るく言ってくれた。僕も気を紛れさせたくて必死だ。「そ、そうかな、そうかもね」と目を泳がせつつ、しどろもどろ答える。

 ほんとそういうセンスがないから、似てるなんて発想にも至れない、というかポートセルミのステージ、全然覚えてない。舞台はあったけど、どんな演目をやってたか皆目見当もつかない。初めて辿り着いたときは船の揺れが身体に残ってぐらぐらしてたし、思いがけず父らしき人の噂を聞いて高揚してたし、そうそう、カボチの人が絡まれてたのを助けたりっていうそっちの記憶しかなくて……結婚直後だって、船出の準備でばたばたしてたしさ。単に直視し辛くてよく見てなかったのもあるけど。

 フローラが似てるっていうならきっと間違いないのだろうけど、逆によく覚えているなと感心する。

「もしよろしければ、一着用意させましょうか?」

 くすくすと女王に笑われ、僕らの赤面は最高潮に達する。

 いいえ、私には全く似合いませんから! と両手を突き出し必死に固辞するフローラを、硬直した僕の向こうから女王が愉しげに見遣った。だめだ、この空気でちょっと欲しいかもなんて絶対言えない。昼間感じたどうしようもない欲求が、腹のあたりでむずむずと燻ってしまう。

 さらに音楽が変わり、今度は占者の装いの女性達が進み出て歌い始めた。端の方にリーシャがいて、楽しげにのびのびと歌っている。その歌に合わせて、左右に分かれた先ほどの艶かしい踊り子達が掛け合うように舞い踊る。一際若いその一団は見習い女官達なのだろう、さすがにあまり整った動きではないけど、瑞々しく勢いのある踊りはとても魅力的だ。

「伝説の戦いを歌い継ぐ舞でございます。テルパドールの民は昔からこの歌劇を大変好みますゆえ、どの集落でも祭りの際は必ずこれを踊ります」

 目を細め説明してくださる女王に、はい、と覚束ない首肯しか返せない。なるほど、魔王との決戦の伝承を舞にしているのか。

 これ見よがしに得意げな視線を送ってくるリーシャを羞恥に耐えつつ軽く睨み返していたら、フローラがきゅっと僕の服の脇を掴み、小声でぼそり、呟いた。

「よそ見、しないでくださいね……」

 するわけないってば。

 真っ赤な顔で遠慮がちに僕を見上げてくるのも可愛いし、ちょっとしたやきもちを面に出してくれたのが嬉しくてたまらない。顔を近づけ「しないよ。フローラのあの姿、思い出してただけ」と小さな耳許に囁き返したら、ぼんっ! と聞こえそうなくらい頭のてっぺんまで一気に火照った。ああ、ほんと可愛い。

 ますます真っ赤になって俯くフローラをにこにこ見下ろしていたら、微笑ましげにこちらを眺めていた女王がおもむろに声をかけてきた。

「つかぬことをお伺いしますが、────グラン殿」

 フローラのお陰で大分赤面が落ち着いてきた僕は「はい、何でしょうか」と女王に向き直った。思いの外真剣な眼差しが真正面から僕を捉える。例の魔物との戦闘のことで、何か気になることでもあったのかな。そんなことを思いながら視線を受け止め、首を傾げた。

 果たして、彼女の口から紡がれたのは……、全く予想もしなかった問いかけ、だった。

 

 

「グラン殿のお父上はもしや……、パパス、というお名前ではありませんでしたか」

 

 

 ────血が、

 一瞬、巡るのを止めた気がした。

 低い、物静かな女王の声が脳内に遠く反響する。唐突すぎてすぐに言葉も出なかった。唇だけ虚ろに戦慄かせた僕を、女王はただ真摯に見つめて逸らさない。

「…………っ、どうして、それを」

 真っ白な頭からそれだけを絞り出す。瞬きを忘れた瞳孔が目の前の女王を映し返した。その嫋やかな二の腕を掴んで揺さぶりたい衝動を堪えて、もう必死に抑えながら前のめりに詰め寄った。

「父を……っ、ご存知なのですか⁉︎ 父も、僕と同じようにかつて、勇者を求めてここを訪れたのでしょうか‼︎」

 やっと迸った問いも、彼女の黒く深い瞳に溶けて消える。

 何故言い当てられた? 昨日、僕は父の名を告げていない。父が亡くなったことは確かに言った。心を読むことで知ったのか、一体何をどこまで読んで父が『パパス』という人だと思われたのか、まるでその人に心当たりがあるような問いかけの意味は。

 よくよく考えれば、恐らく女王は父が亡くなった時にも成人していらっしゃらない。見た目で女性の年齢を測る芸当は僕にはできないが、目の前のこの妙齢の佳人がポートセルミの船長達ほどお年を召していないことくらい僕にもわかる。

 さらにラインハット地方は遙か遠い北の地、そこで十年以上前に亡くなった人間と面識があるはずも、あったところで凡そ十五年は昔の話を覚えていらっしゃるかも定かではない。

 しかし、ここは勇者の墓として伝えられる聖地。父の目的は勇者を探すこと。もしかして、もしかしたら、いつか僕や彼の願いを知る誰かがここに辿り着くことを予見して、父が痕跡を残したということもあるのではないだろうか。

 目まぐるしく思考が回る。ほとんど腰を浮かせて息を詰めた僕を、女王はわずかな動揺も見せず、漆黒の双眸で静かに覗き込んだ。

「面識はございません。我が国にご来訪があったかどうかも定かではございません、が……私が昔、宮仕えを始めたばかりの頃、城内でまことしやかに囁かれた噂話がありました」

 僕の瞳の奥の奥、彼女から見える何かにひたすら目を凝らすように。女王はその眼差しを揺らすことなく、ゆっくりと告げる。

「もう十七、八年も前のことです。とある東方の国の武勇の王が、生まれたばかりの王子を伴い自ら旅に出られたと。────魔族に連れ去られた、かの方の王妃を救うために」

 

 

「………………、王?」

 

 

 何か、いきなり関係ない話をされたような。父の境遇とよく似た話のような気はするが、僕の父は王ではないし、母は王妃などではない。

 少しだけ頭が冷えた。意図をよく呑み込めず、ようやく目を瞬かせた僕を、アイシス女王はひどく真剣な眼差しで再び真っ直ぐに見つめ返した。

「遥か東、南大海を超えた大陸の峡谷奥地に、グランバニアという国がございます。建国七百年余の歴史を誇る大国ですが、三、四十年ほど前……いえ、当時はちょうど各地で魔族との紛争が激化し、いくつかの国々がこの世界から姿を消した頃でした。かの地でも大規模な衝突が度々起こり、かなり深刻な痛手を被られたようです。その影響から他国との親交もほぼ途絶えていたものと思われます」

「は、はい……あの、それが僕の父と、どう」

 関係あるのか、と問おうとしたが女王の気迫にまた押された。

 研ぎ澄まされた女王の瞳が鋭く僕を射抜く。ただ見つめられているだけなのに息もできない。何故か膝をつき、腰を屈めて……頭を低めてから、アイシス様が僕の手を取り恭しく、見上げた。

 勇者でもない僕に、まるで、臣下が礼をとるように。

「申し訳ございません。昨夜から書庫を調べさせましたが、残念ながら詳しい記録は残っておりませんでした。我が国が保管できておりましたのは今から凡そ二十年前、パパス・パンクラーツ・グランバニア新王陛下のご即位に関する報せと、そのご成婚を報せる文を頂いた時の記録のみでございました」

 

 ────パパス・パンクラーツ・グランバニア新王陛下。

 

 鈍い僕でも女王の言いたいことがなんとなくわかってきた。いや、わかったというか、あくまで話の筋が理解できてきたということであって、実感は全く伴っていない。絵空事の、お伽噺を聴いてるみたいな。あれ、今のこれって本当は夢だったりしないか?

 なんて不敬な、畏れ多い夢を見ているんだろう。

「ここからは当時を知る者達の与太話ではありますが、お聞きくださいますか。めでたい報せを頂いて数年と経たぬ頃、グランバニア王国にて重大な変事有りとの報告がもたらされました。曰く、パパス王が妃、マーサ妃殿下が王太子ご出産の直後、魔族の手によって拐かされ姿を消したと。パパス王は御自ら王妃を救い出すため、王弟殿下に王位を預け出奔なさった……そのように伝え聞いております。まだ赤子であった、彼の御子息を伴って」

 

 彼女が一言、ひとこと、言葉を紡ぐたびに、

 自身の脈動が耳障りな衝動に変わっていく。

 

「…………、マーサ」

 

 嘘、だろう。

 耳の中が煩い。ちゃんと話を聞かないと、でも自分の動悸が両の鼓膜をずっと打ち鳴らしていて酷く煩い。何度も胸を温めたその名が、今は何故か借り物みたいにひどくよそよそしく響く。

 何で。嘘だ。怖いほどの偶然だ。そんなはず、あるわけない。

「お聞き覚えが、おありですか」

 どれだけ自分を制しても、冷静になれと諭しても。女王の問いかけを誤魔化すことが、できない。

「……母の、名です。……そんな」

 恐る恐る、口にしたその時初めて、手や唇が小刻みに震えていることに気がついた。女王の冷たい手に包まれたままの右手がひどく汗をかいている。なんと不敬な、わずかな正気で思ったけれど、まるで自分のものではないというように強張った身体は腕を引くことすら許してくれない。

「堅牢たるグランバニア王城から王妃が拐かされたとあって、我が国も大変に震撼いたしました。女王、ひいては天空の兜を奪われるわけには参りません。若輩の身でありましたが、当時の緊迫した空気は私もよく覚えております」

 それまでずっと僕の瞳を捉えていた女王が、ふと痛々しげに眉根を寄せ、視線を膝へと落とした。

「……そうですか。消息不明のまま十数年、大陸を越えて勇猛果敢で知られた御方が……亡くなられていらしたとは」

 頭がぐらつく。女王の呟きがひどく、遠い。耳の奥で雑多な音がわんわんと木霊して。

 夢か現かも判じられない気持ちの悪い感覚の中、女王のいたわしげな声が「お父上は、いつ」と問う。ほとんどまともに回らない思考を叱咤して「六歳、の時、です」とだけ答えた。

 父の最期、蒼白い肌の魔族と業火の残像が瞼の裏をかすめる。今も鼓膜にこびりついて消えない断末魔。命を振り絞り僕を呼んだ、壮絶な父の声。

 僕を覗き込む女王に今、この光景は視えているのだろうか。

 祈るように僕の掌を押し戴いていた女王が、長い沈黙の後、そっと手を放して低く告げた。

「あなたがもしも、パパス王がお連れになった幼子である可能性がおありなら────グランバニアに、向かわれるのが宜しいかと存じます」

 それきり、女王は唇を引き結ぶと音も立てずに立ち上がった。椅子の背に両手を添え、きっとあの美しい立ち姿で僕を見下ろしているのだろう。

 僕の反応を待っているのかもしれない。けど、今は地面をただ睨むことしかできない。顔を上げることももう、できなくて。

「────…………、あなた」

 ずっと僕の後ろで静かに話を聞いていたフローラが、強張った背中をそっと撫でて、吐息だけで優しく僕を呼んでくれる。

 その鈴の声を聞くだけでほんの少し、張り詰めていたものが弛んだ。けれどまだ頭はごちゃごちゃしたままで、黙って僕の返答を待っている女王にとにかく何か答えなければと、渇ききった喉を無理矢理に開く。

「すみません、……ちょっと……まだ、気持ちの、整理が」

 深く俯いたままなんとか告げれば、また哀しげに僕を見下ろした女王が頷いて腕をすっと泳がせた。と同時に、じわりと周囲の喧騒が戻ってくる。今までなんらかの結界を貼られていたのかもしれない。気づけば演舞は終わり、先ほどより人数を減らした楽団が弦楽器を静かに奏でていた。歌っていたリーシャ達ももういない。宴の終わりを告げる穏やかな雰囲気に、強張りきった身体と意識が少しずつほぐれていく。

 女王が東屋を離れ、それと同時にフローラの温かな手が何度も優しく背をさすってくれる。

「────ごめん……」

 情けないほど弱々しい声が出た。思わず口許を抑えたけれど、フローラはふるふると柔らかく首を振り僕を覗き込んでくれる。

「無理も、ありませんわ……」

 どこまでも優しい、澄んだ声に慰められると、喉が何か熱いもので詰まる心地がして、どうしようもなく苦しくなる。

 何度も息を吐き、やっと身体の震えが落ち着いてきた頃、仲魔達もまた心配そうにこちらを見ていることに気がついた。少し離れたところに敷かれたラグの上、大人しく集まった彼らはそれぞれが首を傾げつつ、ただならぬ僕達の様子を黙って見守ってくれているらしかった。

 ……グランバニア。多分本当に初めて耳にした国の名前。

 朧な記憶を懸命に手繰ったが、父か、サンチョがその国の名を口にしたことがあったどうか、どうしても思い出せなかった。

「グラン殿」

 どれくらい茫然としてしまっていたのだろう。改めて名を呼ばれて顔を上げた。近衛兵らしき兵士を二人、側に控えさせたアイシス女王が、すっきりと背筋を伸ばして佇んでいる。

 そろそろお開きなのだろう。いつまでも居座ってはご迷惑だ。ぼろぼろの胸中を叱咤し、なんとか笑みを繕って立ち上がった。

「申し訳ありません。すっかり取り乱してしまって……貴重な、お話を。ありがとうございました」

 ずっと寄り添ってくれていた妻の手を握って並び、深々と頭を下げた。まだ不安そうだったフローラも僕に続いて首を垂れる。敬意と謝意をこめて長く礼をとり、顔を上げると、女王はまだ神妙な顔つきで僕達の、胸のあたりをじっと見つめていた。

「本当に、今宵はこのような席を設けていただき恐悦至極です。僕達も、仲魔達にとっても、大変楽しい時間でした」

 重ねて謝辞を伝えれば、女王の表情がまた痛々しく翳る。

 ……気を病ませてしまっただろうか。真偽はともあれ、僕のため心を砕いてくださったことには違いないのに。

 思えばこんな重大な、且つ突拍子もないことを、何の確信もなくただの旅人に話されるだろうか。昨夜からわざわざ書庫をひっくり返して調べてくださったことを思い出す。きっと今も、お話ししながら僕の内面を読むことで、その信憑性を確かめてくださったに違いないのだ。

 せめてもう少しましな言葉をと口を開こうとした、その時。先ほどよりずっと重苦しく、アイシス女王が僕の呼吸を遮った。

「……このようなお願いを申し上げる資格がないことは承知しております。しかも先刻、あのようなお話までしておいて……まことに、心より申し訳なく思います。ですが」

 真摯な響きは変わらない。だが、さっきは瞳から逸らされることのなかった漆黒の眼差しが、今は僕達の顔より下方を心許なく揺らめいている。

 お会いしてから今、初めて、アイシス女王は自身の躊躇いを隠すことなく僕らに相対している。

「一つだけ、お聞き届けいただきたいことが。テルパドール国主としてではなく、ただのアイシス・フォルセティとして……お二人に、いえ。奥方様に、お願いがございます」

 隣から微かに息を呑む音がした。雛鳥の羽音のようなその空気の振動を、僕も女王も黙って感じとる。

 美しく切り揃えられた黒髪をさらりと揺らして、女王はついに深々と腰を折った。側に控えた兵士達も、もちろん僕らも、ぎょっとして声をかけようとしたがその衝動は強い声音に遮られる。

 切実な、痛みすら伴った彼女の『頼み』が、音の消えた常春の庭園に静かに響く。

「会ってやって、いただきたいのです。赦せとは申しません、ただ────あの子の言葉を、あの子がもし……何か話せたなら、どうか聞いてやって欲しい」

 あの子、というのは、きっと。

 ちらりと隣を盗み見れば、翡翠の瞳を思い切り見開いた君が一心に女王を見つめている。

 それがどんな理由であっても君は断らないだろう。救いを求められて、それが誰であり誰のためであったとしても、手を差し伸べない選択肢など君の中にはきっと存在すらしない。

 濃い宵闇の漆黒と、春空の水碧の瞳が交錯する。

「お願いです。奥方様……フローラ・グラン殿。我が友、ユノ・シューレンに────どうか、お慈悲をいただけませんか」

 その眼差しに、深い憂いと祈りを滲ませて。

 砂の国を治める神秘の女王がそう、請うた。




オリャー!キエー!
↑は原作ネタですから‼︎笑。ライバルズで花澤さんフローラがこれ叫んでくれたのほんっと最高でした……しかも確か相手は味方ヘンリー。最高すぎるよ……!


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#20.5 呪いの伝承~side Juno

【side Juno】

 

 そもそも、確実に継承できるのが男子だけだった。

 通常の魔力とは違い、伝説の姉妹の力────特に先を視通す占の力は女にのみ発露する。だが、女の力は必ずしも子に遺伝しない。母子間では凡そ三割程度の確率で稀少な力が削ぎ落とされる。永く血を守ってきたテルパドールの民はその事実に気づいていた。更に女は妊娠すると遺伝に因るものか、一時的、もしくは永久にその力を失う。だからこそ国は女王が守るが、その実子が直に玉座を継ぐことはあり得ない。女が重用されることの多いテルパドールだが、長い目で見れば、最も守るべきは最古の血統を継ぐと言われる家系に生まれた男子なのであった。

 実際テルパドールには継承力の高い旧い家系が多数存在する。血の近しい者同士で繋いでいった結果、子が奇病を患い夭折することも多かった。そういった子らを忌み子と呼び、淘汰した時代もある。一説には強すぎる力を受けきれず器が『変形』するのだとも言われる。王家に血筋を限定しない理由の一つでもあった。

 力の現出の仕方にもばらつきがありすぎた。例えば力ある母、優良な因子を持つ父を双方同じくする、血を分けた姉妹であっても、その力が発現するか否かは神の気まぐれに委ねるしかない。

 安易に血を絶やしてはならぬ。呪いとも呼ぶべきその力を、この大陸の民は愚直に繋いできた。モンバーバラの姉妹達の遺志を継ぐ者として。

 シューレン家はテルパドールに於ける中流階級の家柄だ。祖先に多少力の強い者を輩出したこともあったが、両親は至って普通、特筆すべき能力はなかった。ゆくゆく女官長として女王を支えることになるユノはこの家で第二子として生を受けた。他に歳の離れた姉と、王城に出仕した後誕生した身体の弱い弟がいる。

 彼女は生まれつき、類稀なる魔力の持ち主だった。占術は並みの技量だったが、伝説の竜の魔術師マーニャを彷彿とさせる強力な炎魔法を操り、わずか十歳にして集落を襲った魔物の群れをほとんど一人で壊滅させた。大人数人いれば問題ない程度の脅威だったとは言え、十になったばかりの少女が一人で魔物を殲滅したという噂は心ばかりの畏敬、それと好奇と畏怖を伴って、たちどころに近隣に広がった。

 程なく、当時既に高齢であった前女王の女官従きとして召し上げられるが、彼女の能力を買ったある名家がシューレン家に縁組の打診をした。既にユノの出仕が決まっていたシューレン家は一度は断ったが、相手方の熱意に負けて代わりに適齢期の姉を輿入れさせた。姉には他に結婚を望む相手がいたとかいないとか、両親がユノに直接話したことはなかったが、聡い彼女の耳にはそういった聞きたくない話もぽろぽろと漏れ聞こえたものだった。

 姉が嫁いで数年後、生まれたばかりの子と共に若き命を散らしたと、王城に仕えるユノの下に報せが入った。

 この時初めて姉の夫という男が訪ねてきて、舐めるような眼で自分を品定めしていったことをユノは覚えている。両親は姉の死について以外何も伝えて来なかったが、男は、もしもユノが近い将来王位を得られなければ官を辞して嫁ぎに来い、と平然と言い放った。元々お前が欲しかった。子を産めるうちに決断しろと。

 莫迦莫迦しい。ユノは一蹴したが、姉と赤子の葬儀が終わってしばらく経った後、両親からひどく歯切れの悪い打診が届いた。そこでユノはやっと、全てを理解したのだった。自分達姉妹はその男に買い叩かれ、姉が負債をただ一人その身に負って嫁いだのだということ。ユノに証明された力を次代に遺せる可能性が高い『弟』を生き存えらせるため、その治療費をシューレン家の私財、ユノの給金だけでなく、姉の結納金をも注ぎ込んで賄っていたということ。姉亡き今も継続して援助してもらっていること、姉が嫁いだ後も二人目の妻としてユノを寄越すよう執拗に求められていたこと。────姉が、忌み子を産んだが故に無惨にも縊られたかもしれないこと。

 絶対に受け入れられないと思った。この婚姻を回避するには、女王の座を手にする以外ないのだと思った。

 それから二年、女王崩御により次代女王の選定が為された。果たして選ばれたのはユノ、ではなかった。黄金のサークレットと銀のタロットを戴き、新たな砂漠の守護者となったのは、彼女より数年早く城に上がった先達であり、彼女に何かと目をかけてくれていた四歳年上の占術師の娘────アイシス・フォルセティだった。

 

 

 

 

 

 夢のような地下庭園の、その更に地下へと長く続く階段を下りきったところに牢獄がある。

 宴の音も届かない、御廟と同じく深く潜った先にある、寒々しい地下の檻。

 二日、三日。凡そそれくらいの時間が無為に過ぎているが、今のユノにとっては心底どうでもいい。

 神という名の異形を飼うことを持ちかけた、あの男達が近い牢に入れられた気配はなかった。敢えて遠い牢に繋がれたのかもしれない。彼らは狡猾なようだったから、うまく逃げ果せたのかもしれない。

 つまらぬ生の終焉を待つだけの自分には関係のないこと。

 天空の兜を護る、その使命すら煩わしかったのは本当だ。

 正直何もかも呪ってやりたかった。否、ユノは間違いなく呪っていただろう。魔王も、魔族の脅威も、偉大な祖先が託したものすら何もかもどうだっていい。何千年と地上に現れていない『勇者』だって然り。そいつらの為に、たかだか人間の……赤の他人の生きる場所を守るためだけに、何故こんな犠牲を強いられなくてはならない。ただの身勝手を、神話の御伽噺を大義名分に掲げて正当化するような輩のために。

 いっそあの兜があるからこそ、自分達のような苦しみが永遠に終わらないのだと。

 この憎しみが覆ることはない。だからこそ、もうどうだっていいのだ。処刑して欲しい。躊躇わず厳罰に処して欲しい。女王に仇なした者を無罪放免にするなど赦されない。配慮も手心も無用だ。わかっているはず、結果シューレン家が断絶したとして些末なことだ。元々体が弱かったあの子を、無理に生かそうとしたことがまず歪みの始まりだったのだ。

 だからアイシス、情けなど要らない。

 貴女の英断を信じている。

 かつん、と遠くから硬い靴音が聞こえた。何人かが連れ立って階段を降りてくる気配がする。巡回にしては人数が多いから、いよいよ処遇が決まったのかもしれない。

 そう思うと、不思議と心が落ち着いた。思ったより早くて良かった。解放の瞬間に焦がれながらも眼を閉じて待っていると、足音が二つ、次いでもう一つ分、階段を降りたあたりで止まった。尚も近づいてくるのは小さく響く一人分と、重く床を踏みしめるもう一人分。

「……貴女、だったの」

 そう、最期の期待だったのだから。胡乱げに瞼を上げた瞬間、うっかり落胆が溜め息ごと漏れてしまったところで、責められることではないと思いたい。

 牢と外を隔てる格子から二歩分ほど、距離を保って自分を見つめていたのは、目の醒めるような碧髪が可憐な乙女だった。あの夜、賊が捕らえていた人物だとすぐにわかった。前に見た時とは違い、薄く上品な化粧を施した彼女は、あの晩のあどけなさとは違う不思議な色香を漂わせていたものの、少し不安げに揺らめく瞳や花びらのような儚い唇はよくよく見覚えのあるものだった。

 思ったよりも若かったらしい。もう少し、大人びた人だったような気がしていた。

 彼女の後ろには深い紫の外套をまとった黒髪の青年がぴたりと付き添っている。やはりあの夜と同じであまり感情を露わにする様子はなかったが、少女を見遣ったときちらりと視線が交錯した。その不思議と深い瞳に、本当に微かに、険しい色がかすめたことに驚くほど安堵した。

 少女の瞳に、自分を責める色が欠片も見えないことがひどく、居心地悪かった。

「……ユノ、女官長、様」

「もう女官長ではないと思うのだけれど」

 淡々と言い捨てれば、格子の向こうから呼びかけた純朴な少女は睫毛を伏せて黙り込む。

 何をしに来たのだろう。誰を寄越そうと、誰にも何も話すことなどないというのに。

 早く見切りをつけて立ち去ってしまえばいいのに、碧い少女は黙りこくったまま鉄格子を握りしめて自分から一寸も目を離さなかった。男の方も気が利かない。早く彼女を連れて去ねと罵ってやりたくなる。あまりに無垢な眼差しが肌に刺さる砂のようにちくちく痛くて、これはこれで拷問だと密かに思う。

 目を向けてやるつもりもなかったが、は、と空気を震わせた微かな吐息につられて顔を上げてしまった。刹那、翡翠の澄んだ瞳とぶつかってしまい、逸らすに逸らせなくなる。

 一生懸命、何か言おうとしては言葉を呑み込む彼女を見ていたら、薄気味悪い沈黙にじわじわ耐えきれなくなって、つい、自分から声を発してしまった。

「何故、私を助けたの」

 びく、と極々小さく彼女が震えた。先に話しかけられるとは思わなかったのだろう。いっそ恐れを抱いてくれればと思ったが、同時にこの娘は自分を怖がらないであろうことも、頭のどこかで確信していた。

「………わかりません……」

 返ってきた答えは随分と弱気な、自分を苛立たせるだけのものだった。いっそ、的外れな正義感で神経を逆撫でしてくれるくらいでちょうど良いのに。

 正面から睨んだ彼女は、まるで本当に悪いことをしてしまったかのように、贖罪を孕んだ哀しげな眼をしていた。

「貴女の魔法を封じたわ。結婚指輪も奪おうとした」

 自嘲含みの独白に、傍らに立った青年が微かに身動ぎする。

 気づかなかったの? 随分と関心が薄いのね。声には出さなかったが、口端には底意地悪い笑みが滲んでしまっていただろう。少女からちらりと視線を移せば、動揺を隠せず彼女を見つめる青年がいた。痛々しげに眉根を寄せた彼を振り返ることなく、清廉な少女はひたすらユノから目を逸らさずにぽつぽつと告げる。

「でも、それと引き換えにいましめを解いてくださいました。……あの男性達からも、庇ってくださった」

 腹が立つほど澄んだ声で、一切の責めも憤りも見せず、彼女はただ、私を慈しみ尊重するだけの言葉を、紡いだ。

「貴女だけが、あの場で、私の身を案じて……くださいました」

 やめて。

 感謝されることなど一つもない。私はただ、私の苦しみから逃れたかっただけだ。見るからに無関係の、ただ巻き込まれただけの貴女を救おうともしなかった。

「……碧い髪、だったのね」

 ここも薄暗くて、はっきりとは見えないけれど。

 あの朝、夜が明けかけた薄明かりの空の下、私を見つめた貴女はさながら、暁の空から舞い降りた天女のように見えた。

 薄れかけた記憶の中の姉とも違う、神々しい光を帯びて。

 ────救われたかった、わけではなかった。

「お行きなさい。ここは貴女が来て良いところじゃない」

 冷たく言い放てば、彼女は鉄格子に触れた白い手を小さく小さく震わせる。

 落胆すればいい。幻滅すればいい。最悪な女だったと詰って、いっそ忘れてくれればいい。

 まっとうな幸いを知る貴女を。罪深い私を見て尚汚れない純粋な貴女をこれ以上、薄暗いこちら側に置いておきたくない。

 もう、帰って。

「……今、この場で、貴女が断罪してくれるというのなら、私はそれでも良いのだけれど」

 薄く笑って投げやりに言えば、翡翠の眼差しはまた哀しみに淡く揺れる。

 それでいい。それでいいの。

 もう一言、何か言おうと少女が空気を吸い込んだ。けれど何ひとつ声にはならず、喉から漏れた虚しい吐息だけが儚く耳に届いた。ユノももう、俯いたきり顔を上げることはしなかった。

 長い沈黙の末、最後に鉄格子をぎゅっと握りしめて、苦い息を零した少女がそっと牢から離れていく。

 コツ、と軽い足音が未練を残しながら遠ざかって、黙って側に立っていた青年がその後を追った。一瞬こちらを見られた気がしたけれど、さっき彼の目に過ぎった憎しみがもしも薄れていたらと思うと恐ろしくて、やはり顔はあげられなかった。

 終わりが欲しい。自分にとって唯一の安息を。

 望んでいいなら、今はそれだけ。

 再び残酷な静謐を取り戻しつつある地下牢の片隅で、女官長であったユノ・シューレンは、椅子に腰掛けた膝の上で初めて拳をきつく握りしめた。そうして、真綿のような優しく苦しい邂逅からようやく解放された安堵を感じて、静かに息をつき脱力したのだった。

 

 

 

 貴女は知らなくていい。

 最後に会った姉はちょうど、貴女と同じくらいの歳だった。

 髪が、長くて。穏やかで従順だった姉に、貴女はひどく似ている気がした。

 解放を拒んで、自身を縛る伴侶にひどく固執する貴女を見て、少なからず苛立ちを覚えた。

 身を挺して私を庇った貴女の姿に、

 何も知らず守られていた幼かった自分を、

 その愚かしさを、思い知らされた気がしたの。

 

 初めから、貴女には何一つ関係なかったことだから。

 だから、どうか……

 私が知り得ぬその幸せを、どうか決して、手離すことなく。




ここらでテルパドール女傑の振り返りをば。

【挿絵表示】

お馴染みアイシス様は、PS版のイメージで書いておりました。アンディは圧倒的にSFC版のイメージなのですが、何故かアイシス様は黒髪が好き。


【挿絵表示】

こちらは完全にオリジナルキャラのユノ女官長です。別にジェンダー的なこととか最近流行りの男女平等云々を突っ込みたかったわけでは断じてないのですが、単に、表に語られないこういう歴史もあったのではないかな、という妄想を書いてみたかったのです。
当家テルパドール編のサブヒロインを張ってくれたリーシャには、もうちょっとだけ大事なエピソードが残っているので、そちらの投稿と同時に載せますね。

この二幕は全体的に、原作にないキャラも展開も多くて、読み難く感じられることが多かったかもしれません。お付き合いくださっている方には感謝しかない……三幕は更に加速度的に解釈がねじ曲がっていくことと思います。ごめんなさい。


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#21-1. 運命と、決意~side Flora(1/2)

「……魔法、封じられてたなんて……気づかなかった」

 階段手前で待つアイシス様達の元へ辿り着く直前、テュールさんがぽつりと、力なく呟いた。

 思わず振り返り、俯いた彼を見上げて優しく微笑みかける。

「魔力を吸い取られたのも本当ですから。いつ魔封じが解けたのかは、私にもわかりません」

 一般に状態異常と呼ばれる、正常な行動を妨げる魔法や奇術は時間の経過と共に効力を失ってゆく。混乱だって幻惑だって、時間が経てば自然に解ける。どれくらい持続するかは術者の力量と被施術者の精神力の強さに因る。ユノ様ほどのお力の持ち主に封じられたなら、小一時間は効果が続いてもおかしくはなかったと思う。

 ────もしかしたら、元々緩くかけてくださっていたのかもしれない。効果が長引かず、解呪されやすいように。……御本人はきっと、否定なさるのでしょうけれど。

 それでもあそこで魔物に血を吸われなければ、後の戦いでももう少し役に立てたのでは、と思えてならない。やはりほとんど魔力は残っていなくて、身体の底から絞り出して最後の最後、一度きり魔法を行使するので精一杯だった。

「お疲れ様でございました。お身体に響いてはいませんか」

 見張りの衛兵の隣に佇んだアイシス女王が穏やかにねぎらってくださり、恐縮して首を垂れた。それから来た時と同じように再び、アイシス様に続いて残りの階段を上った。

「何も、お話できませんでした。お力になれず、本当に申し訳ありません……」

 何かできると驕ったつもりはなかったけど、あまりにも何の役にも立てなかった。無力すぎて情けなさすぎて、俯いてしまった私にアイシス様は優しくお声をかけてくださる。

「いいえ。感謝しております。貴女のお陰で、少しだけ……ユノの胸中が、視えました」

 そのお言葉に瞠目し顔をあげれば、先ほどの憂いを帯びた表情とは違う、達観しきった穏やかなお顔が私を見つめていた。

 本当に何も聞けなかった。きっとユノ様の気に障っただけだった。けれど、恐らく心を読まれるアイシス様の前では、ユノ様はもっと心を閉ざしていらしたのだろう。

 私にはわからない、何も出来なかった気しかしないけれど、ユノ様のお心を測るお手伝いが少しでも出来たのなら良かったと、心の底から思う。

 あの方は死を望んでいらした。今もきっとそれは変わらない。無関係の私が何か言うのも、願うこともおこがましくて、これ以上この方々に深く立ち入ることなどできない。────けれど、死に縋る以上に心を満たせる何かを、あの方が求めてくださったなら。そんな身勝手なことばかり、どうしても願わずにいられなくて。

 あの方は決して冷酷ではない。言うなれば不器用な、けれど確かに彼女の優しさに触れたと思うからこそ、これ以上悲愴な結末を望んで欲しくない。『もう遅い』ことなどないと、信じていたいのだ。愚かな、稚拙な考えだとわかっていても。

 誰も何も言わないまま、二人の兵士に守られ城門へ出た。仲魔の皆さんも黙ってテュールさんの後に付き従う。静かに私達を見比べて、アイシス様はもう一度深く頭を下げてくださった。国主であるアイシス様に二度も頭を下げさせて、しかも今度は城門の外、どなたの目にも留まってしまう。兵士さんも含め、その場にいた皆さん揃って思い切り狼狽えてしまったけれど、顔を上げたアイシス様はただただ穏やかに微笑まれるばかりだった。

「本当に、ありがとうございました。……皆様は、まだ何日かはこの城下にご滞在になられますか」

 別れ際、アイシス様にそう問われ、横に並び立ったテュールさんをそっと見上げた。それまで睫毛を伏せて思索にふけっていた彼だったが、すぐに顔を上げると落ち着いた声で答えた。

「はい。明日からしばらく、図書館を利用させていただこうと思っています。まだあまり、街の中もゆっくり見られていませんし……住民の皆様からも、色々お話を伺えればと」

 さっきよりずっとしっかりした、真っ直ぐなお声だった。

 女王様のお話を聞いてから今も、ひどく戸惑われているはずなのに……私の旦那様は本当に、心の強い方だと思う。

 けれどそれはやはり気丈に努めてらっしゃったからであって、二言三言の挨拶を交わしてお暇した後、テュールさんは再び物思いの底に沈んでしまわれた。手は引いてくださるけれど、地面のずっと先に落とした視線は誰の方にも向かない。

 ホイミンちゃんとしびれんちゃんが心配そうに彼の周りを旋回して、その時だけは覇気のない微笑みを繕っていらした。

 あの時の話はピエールさん達に聴こえていたのだろうか。何となく、皆さんはご存知ないのではという気がした。

 アイシス様がお話を終わられた時、遮断された空間から唐突に引き戻されたような────奇妙な感覚があったから。

 テュールさんの前で彼らにそれを問う勇気もなく、また仲魔の皆さんもこちらを気にしつつ何も聞けない様子で、重く沈んだ空気のまま宿に着いた。

 お城で宴という今夜の予定が宿の方に伝わっていなくて本当に良かったと思う。晴れやかな席を終えてこんなに沈んだ顔をしていると思われたら、あらぬ不興を招いてしまったかもしれない。

 それぞれ手早く就寝準備をしたけれど、やはりテュールさんは悄然としたままだった。

 仕方のないことだと思う。私だって、もし今更血の繋がった両親の存在を示唆されたら、きっと冷静ではいられない。

 ベッドに入る時、いつもよりずっと元気のない微笑みで「おやすみ」と囁いてくれた。痛々しくてたまらなくて、思わずその首にしがみついた。ぎゅうっ、と力を込めて抱きしめたら、彼は驚いたようにはじめ固まっていたけれど、ゆっくり長く息を吐き出すとようやく、温かな手で私の背中をぽんぽんと撫でてくれる。

「心配かけて、ごめんね。……明日にはきっと、もう少し、ましになるから」

 そんなこと、気にしなくていい。思いきり悩んで、考えてくださって構わないの。

 他ならぬあなたの、生まれ故郷のことなのだから。

 そう、言いたかったけれど、かすれた低い声の前では何故か言葉にならなくて。黙って彼の広い胸に顔を埋めた。

 本当は半分、背負わせてと言いたい。以前伝えた言葉に嘘偽りはない。でも、言えなかった。あなたの、やっとあなたが掴みかけた本当のご両親への手掛かりに、私が横から軽率に触れてはいけない気がして。

 その悩み、苦しみ、葛藤も、あなただけのものだもの。

 結局何一つ言葉を返せず、抱きついては頬を擦りつけるしかできない子供のような私に、彼は苦笑するでもなくもう一度優しく頭を撫でると、おやすみ、とひっそり告げた。

 

 砂の王都テルパドールの二日目の夜が、切なく温かい腕の中、ゆっくりと更けていく。

 

 

◆◆◆

 

 

 砂漠と言えど、真冬の朝は寒い。

 思えばもうひと月もすれば新年だ。故郷のサラボナでもそろそろ、年越し準備が始まる頃だろうか。実は、ちゃんと年越しを実家で過ごしたのは昨年が初めてで、珍しく雪で白く染まった街が柊やヤドリギに彩られていく様には胸が弾んだものだった。

 それまでの長い月日を過ごしていた、商業都市オラクルベリーにほど近い修道院では、この頃から年越しの祭礼や聖餐式の準備があってとても慌ただしかった。……院をお暇する頃にはラインハット城から一切の祭礼を禁止する通達があって、それでも年の瀬は礼拝の方の訪問が後を絶たなかったから、罰を覚悟で時間を決めてこっそり受け入れることもしていた。ラインハットが平定された今はきっと、あの修道院も例年通りの冬支度に追われていることだろう。

 普段はそんなに一般の方が礼拝に来られることはないのだけれど、一年の行いを顧みるこの時期だけは別だ。

 もしマスタードラゴン様や、精霊ルビス様が本当にこの世界にいらっしゃったら、きっとこの時期は世界中のあちこちでお祈りを受けるお役目をなさるのだろう。神様とはいえとっても大変そう、なんて不届きなことを思ってしまう。

 着替えた上から防寒具を着込み、まだ大部分が寝静まっている大部屋をそっと抜け出した。テュールさんもまだぐっすり眠っている。私が動き始めると一緒に起きられることも多い方だけれど、昨夜は色々考え事をなさっていて、遅くまで寝つけなかったのかもしれない。

 外は東から少しずつ白み始める頃だった。朝の食堂準備で慌ただしい調理場をお借りするのは気が引けて、宿の裏手に回ると期待通り、使用人の方が火を熾してらした。泊まり客のための湯を用意するというその方にお願いして、水汲みのお手伝いがてら、私も借り物の鍋に湯を沸かさせてもらった。あらかじめ用意してきた乾いた穀類と野菜を入れて軽く煮込み、調味料で味を整える。

 いい匂いですね、と覗き込んできた使用人の方への御礼に一杯取り分けて勧めてから、溢さないよう蓋して布巾で鍋の取手を掴み、よろよろと納屋へと運んだ。

 自分で言うのもなんだけれど、この半年弱でだいぶ腕力もついてきたと思う。修道院暮らしが長かった分、正直、体力には多少の自信があった。けれど実際旅に出てみたら、私なんて本当に非力なだけのただの女で……テュールさん達と過ごすようになってからというもの、自分の未熟さを痛感してばかりいる。

「皆さん、おはようございます」

 納屋の中で誰かが動いている気配に、ほっとしながら天幕を持ち上げた。「おはよ〜〜、ふろ〜らちゃ〜ん」と真っ先に寄ってきてくれたホイミンちゃんに笑顔を返すと、それぞれ挨拶を口にしながらピエールさんとガンドフさんも寄ってこられる。「わざわざ温かいものをお持ちくださったのか。いや、有り難い」と鍋を引き取ったピエールさんが嬉しそうに労ってくださり、私も胸がほっと温かくなるのを感じた。

「簡単なもので、申し訳ありません」と頭を下げたが、皆さん口を揃えて「いやいや。朝から奥方殿の手料理をいただけることを思えば」「スラりん、ふろーらちゃんのりぞっとだいすきー!」「し、しびれんもっっ」と和気藹々言ってくださった。

 本当に皆さん、とってもお優しくて感激してしまう。

「我があるじはゆるりと休まれているようで、何より」

 冷めないうちにと急いで木皿に即席の雑穀粥をよそい、皆様にお配りした。いつもどうやって召し上がっているのか、鉄仮面をつけたまま器用に汁を啜ったピエールさんが笑い含みにぽつりと呟く。

 昨夜の様子から、テュールさんが悩んで眠れないかもしれないことを察していらしたのだろう。そんな温かさがこもった呟きだった。……やっぱり、気になる。お食事中の皆さんの顔を見渡して、昨夜から燻っていた疑問を恐る恐る口にした。

「あの、皆さんには、昨日……女王様のお話は聞こえていらっしゃったのでしょうか?」

 こんなふうに訊くのは、テュールさんの目を盗むようで居心地が悪い。私の質問に皆さんそれぞれ顔を見合わせたあと、ふるりと首を横に振られた。やはり皆さん、お話の内容はご存知なかったのだ。

「我々が宴に興じている間に、気づけばご主人が酷く気落ちされていた。詳しいことはわかりかねる」

 ズズ、と音を立てて粥を吸ったマーリン様がごく静かに答えられる。小さく頷くと、ピエールさんもまた淡々と言い添えた。

「必要とあれば本人が話される。奥方殿が我々のことまで慮り、気を揉まれる必要はない」

 はい、と思わず沈んだ声が出た。わかってはいたけれど、私にできることなど本当に何もない。

 テュールさんと仲魔の皆さんの絆はとても強い。時々ものすごく羨ましく感じてしまうほど。彼らは主人を心から信頼し、敬愛している。不明なことがあってもそれすら信じられるから、心配はしても不安に思うことなどないのだろう。

 それでも、普段と変わりなく見えるものの、皆さんどこか元気がないようにも思える。

 それ以上言うべきことが見つからず押し黙ってしまったところで、すぐにテュールさんが納屋を覗いた。「フローラ。ここにいたんだ」と、ほっと胸を撫で下ろしたテュールさんは、昨日よりだいぶお元気そうに見えた。

「おはようございます。今日から図書館に行くと言ってらしたので、早めに皆さんの朝食をと思って」

「うん、ありがとう。一人で用意させちゃってごめん。わざわざ作ってくれたんだね」

 頬を撫でて労ってくださり、くすぐったい心地になる。私達の朝食はそろそろ食堂に用意されるはず、そう言うとテュールさんは微笑んであっさり首を振った。

「僕もフローラのリゾットを食べたいな。まだ残ってる?」

 そう言っていただけるのは嬉しいけれど、かなり冷めてしまっているし、量もそんなに作っていない。慌てて皆さんのお代わり用にとスナックとジャムを取り出すと、納屋の中はすっかり露営の時のような、和やかな雰囲気に包まれた。

 いつも通りに振る舞ってくださっているのがわかる。テュールさんがそうだから、皆さんも敢えて何も聞かないのだ。そんな中で私が不躾に蒸し返せるはずもない。

 ……信じよう。私も、彼がその葛藤を呑み込んで、真実顔を上げてくださるその時まで。

 私はただ、彼の側に居る。

 どんな結論に至ったとしても、彼の一番の支えでありたい気持ちに変わりはない。

 鍋がすっかり空になった頃、集めた木皿を中に入れて彼が立ち上がった。急いで後を追って立つと、何もしてないんだから片付けくらいさせてよ、とあなたはまた困ったように笑う。

 微笑んで首を振り、そのすぐ隣に並び歩いた。

 たった今胸に誓ったそれを、確かめるように。

 

 

◆◆◆

 

 

 食堂にご用意いただいた朝食を無事食べ終えた後、予定通りテュールさんと連れ立って図書館に向かった。仲魔の皆さんは、今日は思い思いに過ごされるという。

 マーリン様も後ほど図書館に来られると言っていたけれど、「こちらはこちらで励みますゆえ、一切お構いなく」と素っ気なく告げられた。昨日呼びに行った時も集中して本を読んでいらした。古い魔法の伝承も多く伝えられている国だから、きっと興味深い文献がたくさんあったのだろう。

 城の中の図書館だからか、思ったより人がいない。

 本を読むためのテーブルも数卓置かれているけれど、学者様らしい方が一人、書き物をなさっているだけだった。

 司書の方にもお聞きして、早速何冊かの本を借りた。テュールさんと隣り合わせで席を取り、それぞれ数冊ずつ積んで読み始める。ほとんどが勇者様の伝承記だ。かつて冒険を共にした仲間達が記したと言われる日記の写しや、勇者様を見送った人々の口伝を収めてある。

 こういった本を中心に読んできた私には既知の内容がほとんどだったけれど、時々、目を瞠るような情報も記されていた。

「天空人……と呼ばれる方々が、本当にいるのでしょうか」

 思わず口にしてしまい、テュールさんもつられて顔を上げる。

「天空人?」

「はい。あの、ここに……勇者様は天空人の血をひいていらした、と書かれていて」

 読んでいた頁の向きを彼の方に直して差し出すと、彼はすぐ指差した部分に目を走らせる。息を詰めてそれを読んだ後、彼は口許を指で抑え暫し考え込む仕草をした。

「血を分けた愛し子って、そういうことなのか……?」

 私もこくりと頷いた。確かに、アイシス様も一昨日そのように仰っていた。

 天空人という単語を聞いたことがないわけではない。だが、それは竜帝マスタードラゴンや精霊ルビスと同じ、あくまで伝説上の存在に過ぎなかった。天空と呼ばれる遥かな空の上、私達の世界に似た異界があるという。竜帝が治めるその世界に住う人々は私達とは異質の力と大きな翼を持ち、長い寿命を得る……

「勇者様は天空人、ということなのでしょうか。それではお生まれになったとしても、私達の世界にいらっしゃるとは……」

「失礼。それでしたら、正しくは『半分』です。奥様」

 唐突に声をかけられ振り返ると、先ほど向こうのテーブルで一心不乱に書き物をしていた学者様が良い笑顔でこちらを覗き込んでいた。

「勇者様についての書物を編纂しておる者です。勇者様は、空から堕ちた天女と一介の木こりの間にお生まれになったと伝わっておりますね」

「天女……ですか?」

「ええ」片眼鏡の奥に人好きする笑みを浮かべ、壮年の彼はにこりと頷く。「勇者様の伝承をお探しですか? 旅のお方」と親しげに問われ、今度はテュールさんが「はい。こちらには言い伝えがたくさん残されていると聞いて、遥々海を越えてやって参りました。よろしければ先程のお話、詳しくご教授願えませんか」と穏やかに請うた。

 学者様は満足げに頷き、こほんと小さな咳払いをするとおもむろに語り出した。

「その昔、天空より舞い降りし一人の美しき乙女が木こりと恋に落ちました。二人は結ばれ子をもうけましたが、竜帝がそれをお許しにならなかった。乙女は天空界に連れ戻され幽閉、木こりは竜帝の怒りの雷に裁かれ絶命したと申します。残された子供は、山奥の小さな村で存在を秘匿されて育ちました」

「それが、勇者様……、なのですか?」

 左様でございます、と首肯する学者様に、私を挟んでテュールさんが疑問を投げた。

「それって天女伝説ですよね? よく舞台や吟誦で語られる。……まさか、勇者の両親の話だったなんて」

 テュールさんの呟きで私も得心した。どこかで聞いた気がしたのは、勇者様の武勇譚と同じくらいよく取り上げられる題材だからだ。尤も勇者様の話は伝記として語られるが、天女伝説は基本的に御伽話の切ないロマンスとして扱われる。私も今まで、この物語を勇者様と結びつけて考えたことなんてなかった。

 母親は何処へか、遠く手の届かぬところに連れ去られ、父親は強大な力を前に命を落とす。

 まるでご自身をなぞるかのような勇者様の生い立ちを、彼は瞬き一つせず、ひたすら真剣な面持ちで聞いていた。

「天空界……、天空人とは伝説に過ぎないと思っておりました。学者様は、天空人と呼ばれる方々が実際に存在されているとお考えですか」

「私自身は、かつては存在したと考えております。が、今も絶えず生存されているかというと、どうでしょう」

 率直な疑問を口にすると、学者様もまた首を捻った。どういうことかと見上げると、彼は私達が机に積んだ本の中から一冊を選んで抜き出し、ぱらぱらとめくってとあるページを示す。

「例えば、……これは導かれし七人の関係者が遺したと言われる日記の一遍ですが、一時期勇者様御一行が有翼の天空人女性と同行したことが書かれています。こういった記述は実は、古い文献には決して珍しくはないのです。人に交じってエルフが暮らしていた、という話もあるほどです」

 どれもお伽話だと思っていた話だわ。内心ひどく驚きながら相槌を打った。

 天空人や妖精、エルフ族。遥か昔はこの地上に現れていた彼らはどこへ行ってしまったのかしら。やはり魔族との抗争があって、滅びてしまったのかしら。

 ……修道院に入るより前の小さかった頃、妖精さんと遊んだ記憶があるのだけれど。なんて言ったらさすがに引いてしまわれるかしら。あまりに幼い頃の記憶だから、本当にあったことなのかも判然としない。

「この地上には元々、人間以外の種族が溢れていたのかもしれません。と言いましても数千年、数万年か……我々からすれば途方もなく昔の話です。少なくともここ千数百年ほどは、天空人を見たとの記録はございませんね。尤もここ数百年は我々にとっても多くの国が滅び、数々の記録も失われてしまいました。現存する国々との交流も絶えて久しい。まして天空神話の象徴たる城が落ちたと言われ、その上で世界のどこかに天空人の子孫が生き存えていたとしたら……それはもう、奇跡に他なりません」

「……それは例えば、かつては異界……との行き来が、今よりずっと容易であった、とも言えるのでしょうか」

 ずっと黙って聞いていたテュールさんが静かに問いを発した。意外な発言だったのか、学者様は目を見開くとほう、と感嘆の声を漏らした。

「ああ。確かに、その可能性は大いにあります。とすれば、今、この世界はそれぞれの異界から扉を閉じられているだけなのやもしれません」

 これは検証の必要があります、と嬉しそうに頷く学者様に、私も訊いてみたいことがあった。目で請うとすぐに気づいてくださり、何か? と首を捻る。あまり時間を取らせては申し訳ないから、急いで疑問を口にした。

「もう一つ、よろしいですか?その、勇者様が秘匿された村……というのは」

 勇者様の血がどれほど稀有なものか、勇者様のお血筋が残っている可能性は極めて低いということもわかった。けれど私達は落胆しているわけにはいかないのだ。せめてどの辺りの話なのかがわかればと思って訊いたものが、まさかこんな答えが返ってくるとは思いもしなかった。

「さて……勇者様を狙う魔王軍に襲われ、跡形もなく焼かれてなくなったそうです。地図にもない名もなき村だったようで、世界のどこにその村があったのかは未だ不明のままです。我々も長いこと研究し、探し求めているところでして」

 ────確かに、魔族から身を隠していたと聞いたことはあったけれど。

 いくらなんでも、ここまで似通った境遇だなんて。

 思わず息を呑み、傍らの夫を見上げた。悼ましい記憶を呼び醒ましているのか、彼の濃紺の眼差しはいつか見たようにとても深く、混沌としている。

 また何かあればお声がけください、と会釈して去る学者様に頭を下げて、無意識のうちに溜息をついた。忘れないうちに今お聞きしたことをメモしておかなくては。手元に置いたバッグから手帳を取り出したその時、吐息に紛れて消えそうなテュールさんの囁きが耳に届いた。

「────……たい、だな」

 聞き間違いかと思うほど微かな呟きで、思わず振り返ってお顔を覗くと、何故か彼はどこか慌てた様子で首を振ってみせた。

「あ、いや。何でもない。ごめん」

 なんとなく気になりつつも頷き、それからしばらくは、お互いまた無言で本を読み耽った。先に私が読み終え、次の本を探しに席を立つ。本棚を眺めながらちらりと彼の背中を窺うと、時折頁を捲る手を止めては溜息をついたり、ぼんやりと遠くを眺めては首を振ったり。やはり、あまり集中できないご様子だった。

 今更ながら、離れた席にマーリン様が座っていらして、山積みの本をものすごいスピードで読んでいらっしゃる。

 新たに三冊ほど選んでテーブルに戻ったところで、お城の外から正午を告げる鐘の音が鳴り響いた。テュールさんもきりの良いところまで読了されたらしく、司書さんに断って本はテーブルに置かせていただき、昼食と情報収集のために一旦外へ出た。

 いつもは勇者様らしき方がいないか、よくよく目を配りながら街を周るのだけれど、ここは伝説の国テルパドール。勇者のために兜を守り、彼の人の到来を待ちわびる国。

 テュールさん自身この大陸に着いた時からそのことは弁えていて、だからこそ勇者様の手掛かりになりそうな話がないか、今まで周ってきた土地に見落としはなかったか、そういう観点から人々の話に耳をすましている。

 けれど残念ながらこの昼時は、先ほど図書館で聞いたような目新しい情報を聞くことはできなかった。嘘か真か、耳に飛び込んできたのは「そこの旅人さん、どうだい? 勇者様ご一行も好まれたテルパドールの伝統料理、駱駝の串焼きはウチの店が一番旨いんだよっ‼︎」という呼び込みの常套句くらいのもの。テュールさんと顔を見合わせ苦笑しつつ、今日のお昼は香ばしい匂いが漂うその店でいただくことにしたのだった。

 

 

◆◆◆

 

 

 昼食を終え、図書館に戻るとすぐに、リーシャさんが私を誘いに来てくださった。

「二人とも、昨日は楽しんでくれた? ねぇねぇ、あたしの歌良かったでしょー! 歌にはちょっと自信あるんだからぁ」

 読書中にも構わず上機嫌で覗いてくるリーシャさんに、テュールさんはいつもの苦笑いを返す。そんな夫の肩越しから「本当に綺麗な歌声でしたわ。占者の衣装もよく似合っていて、とっても素敵でした」と心からの称賛を口にすれば、リーシャさんはえへへ、と嬉しそうにはにかんだ。

「ありがと、フローラさん。今大丈夫? 約束通りお茶行こっ!」

 声を弾ませ私の腕を引っ張るリーシャさんに、再び本へと視線を落としたテュールさんが小声で注意を促す。

「リーシャ。ここでは静かに」

「わかってるー! フローラさん借りるね、テュールさん!」

 わかっていると言いながらも声のトーンを抑えないリーシャさんに再び苦笑しつつ、テュールさんがひらりと手を振った。ほとんど引っ張られるまま図書館を出たところで、リーシャさんは今度こそ声をひそめて私に囁きかける。

「テュールさん、どうしたの……? 元気ないね」

 思わず目を瞠った。すぐ気づいたリーシャさんの鋭さに驚き、たった今明るく振る舞ってくださったのもテュールさんを慮ってのことだったと得心する。確か昨夜、あの場で歌っていらした彼女だけれど、何があったかまではご存じないらしい。静かに頷き、答えられる範囲で慎重に言葉を選んだ。

「昨夜、陛下から……大事なお話をいただいたものですから。お一人で考える時間が必要なのだと思います。……ですから、今日、誘っていただけてよかったです」

 そう伝えると、リーシャさんはほっと息をついて微笑む。

「そっか。じゃあ、タイミング良かったのね、あたし」

 私も安心してもらえるよう、微笑みと首肯を返して。

 案内されるままに城の奥へと進み、通路のずっと奥に並んだお部屋の一つに入った。綺麗に整えられたそこは女官の皆様の私室になるらしい。奥には美しい天蓋と衝立で仕切られたベッドが三つ、お城勤めをされる方のプライベートエリアに私のような無関係の者が入っていいのか不安になったけれど、リーシャさんはあっさりしたもので「平気よ。ここ三人部屋だけど、他の二人はお務めがあって夕方まで戻らないから!」と平然と言ってのけた。

「こっち、座って! 今お茶の用意するね」

 勧められるまま椅子に腰掛けて、くるりと室内を見渡した。

 大きめの家具以外、私物らしきものはほとんど見当たらない、綺麗に整えられた部屋だった。女王従きの皆様のお部屋なだけあって、豪奢ではないが家具は上等なものばかりが並んでいる。

 今日の御礼にと持参したジャムの瓶を幾つか取り出して並べると、リーシャさんの頬が愛らしく緩んだ。「お部屋の皆様と召し上がってくださいね」と言い添えれば、嬉しそうにこくこく頷く。

 やがて良い香りのお茶を淹れていただき、向かいの椅子に腰掛けたところで……リーシャさんはおもむろに、私に向かって深く深く頭を下げた。

「フローラさん。……この間は、ユノ様が酷いことしちゃって、本当にごめんなさい」

「そんな。酷いことなんて、私は何もされておりませんよ」

 深々と頭を垂れた少女の謝罪を遮り、思わず声を上げる。

 テーブルに手をつき前のめりになった私を、リーシャさんは眼を丸くしてまじまじと見つめ返した。

 誓って彼女に傷つけられてなどいない。指輪を取られると思った時だけは気が動転してしまったけれど、彼女が内に秘めた苦しみの一端を知ってしまったらもう、そんなことも言えなくなってしまった。

 望まぬ婚姻。どんなに覚悟していたとしても、その痛みに耐えられるかどうかなんて、その方にしか分からないことだもの。

「でも、王城の女官長ともあろう方が賊と共謀したのよ。まさかお城にあんな恐ろしい魔物をけしかけようだなんて。しかも、全然関係ないフローラさんまで傷つけて……テルパドールの民として、お詫びせずにはいられないわ」

「連れて行かれたのも偶然ですし、指を折ったのも、魔物を出したのも違う方です。寧ろ、ユノ様は私を大変気にかけてくださいました。御本人はお認めにならないかもしれませんが、布を噛まされて話せずにいたのを解いてくださったのも、私が凍えているのに気づいて暖かくさせるよう言ってくださったのもユノ様なのですよ」

 一つ一つ、確かめながら告げるたび、リーシャさんの目が次第に大きく見開いていく。

「それ、本当?」

 力強く頷いてみせると、リーシャさんは張り詰めたお顔からゆるゆると力を抜いた。

「そう、なんだ……」

 ほんの少しだけ安堵の色を滲ませて、深く息をつく。そうしてひと呼吸置いてから「ね。今の話、アイシス様にお伝えしてもいい?」と問うてくれた。

 躊躇いなく頷くと、今度こそほっとしたように微笑む。ありがと、と眉尻を落として囁いたリーシャさんはいつもの快活な彼女とは別人のように悄然として見えて、ずきりと胸が痛んだ。

 何も言えず彼女をただ見つめてしまった私の手を握って、リーシャさんは丸めた肩を小さく小さく震わせる。

 ほのかに赤らんだ目許がくしゃりと歪んで、今にも泣き出しそうで、痛々しくて。

 ────けれど、彼女の口から溢れたのは、悲嘆に暮れた沈痛な叫びなどではなく。

 

「……ほんとに、ありがと。フローラさんが、ユノ様を恨まないでいてくれて────こんなこと言うのは駄目かもだけど、あたし、今、すっごく嬉しい……!」

 

 膨らんで、弾けるような。

 溢れんばかりの彼女の歓びが、洪水のように流れ込んで私を満たした。

 思わず瞠目してしまった私に、リーシャさんはえへへ、と泣き笑いを誤魔化すように笑った。きっと大事に温めてきた、彼女自身の想い出の欠片をぽつぽつ語って聞かせてくれる。

「小さい頃にね、魔法を教えていただいたことがあるの。姉様とマイヤ様から占いは教わってたけど、炎魔法は使ったことなくてね。すっごく優しく教えてくれて、あたしにも絶対出来るって何度も励ましてくださって」

 とっても嬉しそうに話されるリーシャさんのご様子に、こちらまで思わず頬が緩む。微笑んで続きを促すと、彼女は益々声を弾ませ身を乗り出した。

「ユノ様は子供の頃から占いより魔法の方が得意だったんですって。マーニャ様の生まれ変わりじゃないかとまで言われているのよ。炎の最高位魔法、凄かったよね!」

「ええ。びっくりしました、本当に見事な魔法で。詠唱も淀みなく、二つを掛け合わせての相乗効果は本当に素晴らしかったです。お二方の深い信頼がなければ為し得ない技ですよね」

 まさかの最高位魔法の競演を思い出しうっとりと口にすると、リーシャさんも満足げに何度も頷いた。

 魔道を志す者ならば、あの領域への憧れを抱かずにはいられない。マーリン様の座学にも実はベギラゴンの話が出てきたことがある。信じ難いことだけれど、マーリン様は私がいつかは最高位魔法をも詠みこなせるようになると見込んでくださっているらしい。

 初級魔法のメラですら放てたことのない自分が攻撃魔法を詠む姿など、未だ想像もつかないのだけれど。

 少し気分が上向いた様子のリーシャさんがテーブルの上のお菓子をいくつかぱくりと摘み、私にも目で促してくれる。

 ご厚意に甘えて私も焼き菓子をいただいた。気づくとリーシャさんはもぐもぐと咀嚼しながらも私の鎖骨のあたりをぼんやり眺め、手の中のカップを延々揺らして弄んでいる。

 さっきから何となく、彼女が何かを言いたそうにしているように見えて、私から話さなくてはならない話も特になかったので、お茶をいただきつつ、黙って彼女の言葉を待っていた。

「……女王様の子が跡を継がないの、変わってるでしょ。これはテルパドールの民だけじゃないと思うんだけど……赤ちゃんを授かると、力が失われちゃうことが多いんだよね」

 やがて切り出された話題に、ああ、と頷いて同意を示す。特に私達、女の魔力は大なり小なり、月の満ち欠けに左右される。同じように月が関係すると言われる女性特有のあの症状も、そして懐妊そのものも、魔力に影響することは少なくない。遺伝のためなのか、子を産むことで魔力そのものを失ってしまった人の話も何度か聞いたことがある。

「正確には、変質するっていうか……あたし達はそれが特に顕著で。占いがね、妊娠すると出来なくなっちゃうんだよね。ミネア様由来って言われてるこの占いは、女の人にしか出来ないんだ。姉様も、やっぱり赤ちゃん身篭ってから占い出来なくなっちゃったもん。無事に生まれたらまた出来るのかもだけど、こればっかりは生まれてみないとわからないかなぁ」

 遺伝も、確実にするわけじゃないしね。と独り言のようにリーシャさんが呟いた。あの御廟でアイシス様がご自身を鍵だと仰っていたように、占い師が持つ特殊な力で結界を張り巡らし護るのが女王にしか出来ない役割ならば、女王の懐妊は確かに国家の根幹にも関わってしまう。

 だからこそ、女王は在位中新たに子を為せない。未婚なら婚姻もしないし、子が欲しければ次代を選び譲位する。恐らく、経産婦でも変わらぬ占力を保つことができれば王位を得ることがあるのだろう。昔読んだテルパドールの史書で代替わりの間隔が極端であることに驚いた記憶があるけれど、そういう理由なら合点がいった。

「……なんかね。ちゃんと聞いた話じゃないから、こういうこと勝手に話すのは、本当はよくないんだろうけど」

 リーシャさんには珍しい、歯切れの悪い物言いだ。ここだけの話と了承して、私も黙って小さく頷き、なんとなく身を屈めた。私の意図をすぐに汲んでくださったリーシャさんが少し安堵した様子で微笑み、また手の中のカップに力なく視線を落とす。

「ずーっと前から、ユノ様に求婚してた人がいたんだって。その方との間に何があったかは知らないけど、ユノ様は全然、お嫁に行く気はなかったらしいのね」

 ぽつ、ぽつりと語り出したリーシャさんから、否応なしに痛々しいものを感じてしまう。黙って相槌を打つと、リーシャさんはずっと掌に納めていたカップをテーブルに置いた。

 そうして、重苦しい息をひとつ、気持ちを落ち着けるようにゆっくり吐いて。

「でも、その人が数年前……お城に来たんだって。いつになったら嫁にくる気だ、ってユノ様に詰め寄って……その時居合わせたっていう先輩が教えてくれたの。いくら魔力が強くても、占いに秀でていないお前が女王になれるはずがない、だから俺が占にも長けた子を産ませてやる……なんて言ってたって! すっっっごい、やな感じ‼︎」

 だんっ‼︎ と憤慨したリーシャさんが茶器の載ったテーブルを思いきり叩いた。小さな両手は怒りのあまり固く握り締められ、小刻みに震えている。

 彼女が怒るのも当然だ。部外者の私だって、嫌悪を抱かず聞ける話じゃない。

「確かにユノ様、占いはそこまで得意じゃないらしい、けど! 炎魔法で右に出る人はいないのに‼︎ ……でも、結局ご実家からも嫁ぐように言われて、断れなくて、先輩達も心配して聞いたんだけど多分その人で間違いないって。それが原因で今回のことになったんじゃないかって……その人、ユノ様のことをずっと好きだったのかもしれないけど、ユノ様はきっと一人でずぅっと辛い思いを抱えてらして、それで」

「────はい」

 気づいたら強く、頷いていた。一生懸命言い募っていたリーシャさんが目を見開いてこちらを見た、その正面から、胸を締めつける苦しい衝動を抑えてなんとか、微笑んだ。

「どうしようも、ありませんよね。自分で決めることも、選ぶことも許されないこと……、あります、よね……」

 同じように選択肢がない状況だったとしても、初めから運命ときちんと対峙して受け止めていらしたリーシャさんからしてみたら、それはもしかしたら少し、違う感覚なのかもしれないけれど。

 リーシャさんはきっと、今の境遇を誰の所為にもしていない。ご自身の意思で迷いなく、進むべき道を選んで、歩んでこられた方だから。

「少し……少しだけ、わかるような気が、するんです」

 膝の上でスカートをぎゅっと掴み、言葉を探す。

 無駄だとわかっていながら父に反論した。気が遠くなりそうな人集りを前に、指輪など探さないでほしいと叫んだ。────彼がその人だと確信しながら、けれどこんなの、愚かな恋情に流されているだけかもしれないとも思えてしまって。ビアンカさんの想いに気づいてしまったら、益々、私の恋心なんてなかったことにした方が良いのだと……あの時はどうしても、そんな風に思えてならなかった。

「私も、結婚に私の意向なんて関係なかった。元々は父が私の結婚相手を広く募って、その中から決めるというお話でしたから」

「……え⁉︎」驚いたリーシャさんが私を振り向く。「じゃ、まさか駆け落ちなの⁉︎ だって二人とも出会ってすぐって」

「ち、違うんです。それは、その……父が出した条件を、テュールさんが満たしてくださったから」

 慌てて首と両手を同時に振った。期せずして彼と揃いの指輪が互いの目に留まり、リーシャさんが何となく、ああ、と頷いて息を吐いた。私も、白銀の指輪を、左手ごとそっと右手に包んで胸に抱き直す。

 彼が私を選んでくれた、何より愛しい、私達の証。

「父が、持参金として家宝の盾を譲ると言いました。彼にはその盾が必要なのだと、ある方から伺って……ああ、だから求婚してくださったのだと、思っていました。────ですから、私はただ幸運だったのです。私だってテュールさんにお会いしていなかったら、……彼が、盾を……望んでくださらなかったら……」

 ────だって、あんなに素敵な方だっていたのに。

 今でも信じられないの。いいえ、信じているけれど、それとは違う別のところで、今も夢みたいだと思っているの。

 こうしてお側にいられる今が身に余る幸せなのだと、私が一番良く、わかっているの。

「……良かったね。テュールさんがフローラさんと出逢ってくれて」

 いつの間にか深く俯いてしまっていた。しみじみと呟かれた、微かな声につられて顔を上げる。

 頬杖をついて微笑んだリーシャさんの、淡い紫の瞳が優しく私を見つめていた。

「あ、全然皮肉とかじゃないのよ? だって見てればわかるもの」

 どこか嬉しそうに、柔らかな表情でリーシャさんが笑う。

 どういう意味……かしら。よく分からなくて小首を傾げると、彼女はまた愉しげに肩を揺らした。くすくすと悪戯っぽく笑って私を見上げ、揶揄うように顔を寄せる。

「やだ、まさかフローラさん、今もそんなふうに思ってたりしないでしょ? その盾のために求婚されたなんて、ずぅっと思い込んでたらさすがにテュールさんが可哀想」

 ────かぁっ、と髪の先まで甘い熱が走った気がした。

 きっと頬を赤らめた私を眺めながら、ひとしきりリーシャさんが笑って。……ふぅ、と疲れた息をついたところで、彼女は私の向こうの窓の外、どこか遠いところへ意識を馳せる。

「ユノ様は極刑を望んでいらっしゃるって。……もう、どうしようもないのかな……」

 淡々とした囁きが唐突に、昨夜の記憶を呼び覚ました。

 突き放されただけだった。断罪を望むユノ様に、何ひとつかける言葉を見つけられなかった。

 天空の勇者を祀り、天空神を信仰するテルパドールで、異形を神と崇める行為が許されるわけがない。どんな理由であっても、ましてやその異形に破滅を望んだとあれば。

「テルパドールの法が決めること、ですものね……」

 力なく呟くと、目の前のリーシャさんががばっと顔を上げた。「でも」と、さっきまでの落胆が嘘のように、彼女は意志の強い眼差しで私を見つめると強い声音で言葉を続ける。

「でも、フローラさんがせっかく、命懸けで助けたお命なのに」

 虚を、衝かれる。

 前のめりに言い切ったあと、彼女は自分の言葉に驚いたように目を見開いた。ばつが悪そうに視線を泳がせ、もう一言、口籠もりながら言い添える。

「……なんか……そういうのまで、粗末にされてるみたいで……ちょっと」

 そんなこと、気になさらなくていいのに。

 胸に温かなものが灯るのを感じながら、あの瞬間を思い出して瞼を伏せる。

 決して褒められたことをしたつもりはない。あんなものは自己満足に過ぎなくて、ユノ様自身、助かりたかったわけでもなんでもなくて。

 ただ、私が嫌だと思っただけ。

 あんなところで、あんな形が最後だなんて嫌だと思っただけ。

 ────もしもあの時、崩落から助けられず彼女が落ちて魔物に喰われてしまっていたら、それを目にしたリーシャさんはきっと、酷く嘆き苦しむことになっただろう。

 余計なことしかできなかったけど、でも、あの時足掻いたことで、リーシャさんのお心をほんの少しでも軽くすることが、今、叶っているのなら。

「ありがとう……ございます。私のことまで慮ってくださって」

 精一杯の微笑みを繕いそう答えたら、リーシャさんは何故か少し、困ったように目を伏せた。

 すっかり冷めたお茶を飲み干し、リーシャさんは目配せをして席を立つ。しばらくぼんやり待っていたら、ティーポットに新しいお茶を淹れて戻ってきてくださった。私も急いで飲み干して注ぎ直していただいた。

「……アイシス様、お二人に何か占いのこと、お話されてた?」

 問われて、一昨日と昨日の謁見の様子を思い返す。お話ししたのは兜のことと勇者の伝説にまつわること、それから夫自身の生い立ちに関すること。占いに関することは何も仰っていなかった気がする。ふるふると首を振ると、向かいの席に座り直したリーシャさんは、ふにゃりと眉尻を下げて視線を泳がせた。

 何か、話して良いのか迷っているようだった。

「うーん……そっかぁ……そうだよね」

 濃い紅の化粧を施し、独特な民族衣装に身を包んだリーシャさんはいつもより随分と大人びて見える。つん、と唇を突出し暫し思案していたが、何度もううん、と言い澱んだ末、意を決したように顔を上げ、改めて私を真っ直ぐ見つめた。

「あのね。あたし本当に、二人の仲を引き裂きたくて無理矢理ついてきたわけじゃないのよ」

「もちろん、わかっておりますとも。テュールさんを心から慕っていらしたから、でしょう?」

 真剣なご様子のリーシャさんに、私も小首を傾げて返した。

 そんなに必死なお顔をなさらなくても、今更彼への恋心を疑ったりなんてしないのに。

「同じ人を好きになった方ですもの。お気持ちは、わかります」

「……それは、そう、……なんだけど」

 どうしてか、リーシャさんはまたもや言いにくそうに口籠る。何か、おかしなことを言ってしまっただろうか。不安になってじっと彼女を見つめると、彼女はついに観念したとでも言うように……本当に躊躇いがちに、迷いながらも口を、開いた。

「本当は、言うべきじゃないかもしれないけど。フローラさん」

 ……そわり、と、

 意識のごくごく端の方を、何か、嫌な予感が過ぎっていった。

「占いって、決して決まった未来がひとつ見えるわけじゃない。今、私達のいる時間は次の瞬間からたくさんたくさん枝分かれしていて、私達はその時間のかけらを幾つも覗いてこの先起こることの可能性を占うの。……だから、今から言うことも、一つの可能性に過ぎないから」

 その感覚を裏付けるように、

 どこか厳かな、リーシャさんの声が。

 私達の吐息以外、音のないこの部屋に、

 神託の如く、不思議と響いて場を満たす。

 

「絶対じゃ、ない。……それだけは、わかっていて欲しい」

 

 ────こんな風に告げられるのが、悦ばしいことではないことくらい、私にもわかる。

「……あのひとに、何か……良くないことが起こるの、ですか」

 どうしてそれを、道中ずっと側に居たあのひとではなく、私に教えてくださるのでしょうか。

 思いつける理由が一つしかない。おそろしさで、背筋が強く硬って、動かなくなっていく。

 せめて息だけは止めないよう、必死に心臓を抑えつけて。

 恐る恐る返した問いに、リーシャさんは残酷なほどゆるく、静かに首を振った。

「そういう未来視も、あったわ。でもね、あたしがどうしても伝えたいと思ったのは……それよりもっとずっと、可能性が高い未来のこと、なんだ」

 そうして、リーシャさんは尚も逡巡しながら……私の耳に顔を近づけて、吐息だけで密やかに、告げた。

 私達夫婦を待つという、

 今、最も可能性が高い、

 ひどく恐ろしい未来の、

 

 

 

 悪夢を。



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#21-2. 運命と、決意~side Flora(2/2)

「……大丈夫?」

 

 心配してくださるリーシャさんの静かな声が、遠い。

 一生懸命語りかけて下さっているのに、すぐ隣にいるのに、膜一枚隔てたような違和感。その内側で、どくん、どくんと自分の心臓の音ばかりが響いている。無意識に抑えようとした指先が冷たい。きっと私、今、血の気がひいて真っ青な顔をしている。

 テュールさんも昨日、もしかしたら、こんな心地だったのかもしれない。

「……っ、でも」

 溺れて、空気を求めてもがくように、苦し紛れに吐き出したのはひどく愚かな、浅はかな言葉だった。

「でも……、あのひとは、大丈夫、なんです……よね」

 良くないこと。とても、良くないことだと、わかる。

 怖気がする。それが現実になった時、彼にもたらされる絶望がどれ程悲惨なものになるのか。どれほど彼が苦しむことになるのか、手に取るようにわかってしまう。

 でも。

「『そのとき』も、彼は、きっとご無事で……生きて、いらっしゃる……の、です、よね?」

 唇が勝手に動いて、呟いた言葉と共にきっとひどくぎこちない……作り物のような微笑みが、零れ出た。

 否定も、肯定もされなかったけれど、リーシャさんの紫水晶の瞳を見つめていたら、ああ、そうなんだとすんなり理解できてしまった。

「────か……った……」

 良いはずがない。

 良かった、なんて。言ってはいけない。

 けれど、そうでもしないと、今はこの恐怖に心を壊されてしまいそうな気がした。

 幼くして、何もかも喪って。

 長い間、絶望ばかりに曝されて。

 お義父様のご遺志に縋って、自分の望みは何一つ持たずに生きていらした。そんな彼を、今初めて幸せを知ったと笑ってくださるあの人を、今度こそ絶望の奈落へと突き落としてしまうのが、

 

 

 ────────私かもしれない、

 なんて。

 

 

「わからないわ。あくまで、あたしが視た幾筋かの話でしかないし。……うん、でも、そう。テュールさんは、多分」

 よほど告げることを躊躇ってしまうのか、それほどまでに恐ろしいことが起ころうとしているのか。

 睫毛を伏せたリーシャさんは、大人びた、深い憂いを帯びた表情で静かに言い澱む。

 見たこともない、『占い師』の顔をして。

「何度占ってみても、テュールさんの側にあたしがいる未来は視えなかった。……だからこそ、無理やりついていくことに意味があるかなって思ったんだけど」

 寂しそうに微笑まれて、胸が張り裂けそうなほど痛い。彼女の想いが本当に痛いほど優しくて、刺さって、辛い。

 一体いつからこの方は、私達のために悩み、考えてくださっていたのだろう。

「……まさか、リーシャさんはその先読みを歪めるために」

「違うわ!」

 狼狽えた私より大きな声でリーシャさんが遮った。腰を浮かせて叫んだ彼女は、あの日夫に告白したときのように褐色の頬を薔薇色に染めて、どこか泣きそうな顔で訴えた。

「違うの。ちゃんと本気で好きだった。テュールさんの花嫁になれたらどんなに幸せだろうって思ったし、フローラさんが羨ましくてたまらなかったわ」

 ひどく切ない瞳が真正面から私を捉える。すっかり気圧されてしまった私に、リーシャさんはまた、泣きたいくらい優しい笑顔を向けてくれた。

「お嫁さんにね、なりたかったんだ。元々出仕することになるかもって話はマイヤ様達としてたんだけど、あたしはどうしても姉様みたいに好きな人と……結婚して、幸せになるって夢も諦めきれなくて」

 そしたらテュールさんに出会っちゃったんだよね、とリーシャさんは肩をすくめて恥ずかしそうに笑う。

「フローラさんのことすごく大事なんだって、あたしが入る隙なんかないって最初からわかってた。それでも、ううん、だからかなぁ? 看病してる姿見てたらつい目で追っちゃって、時々お喋りできるだけで嬉しくて。一緒に祠に行った時はどきどきして楽しくって……これでお別れなんだって思ったら、すっごく悲しくなっちゃって」

 静かに、頷いた。あの時、瑞々しく頬を染めて訴えた彼女の恋が、演技だったなんて思わない。

 他ならぬ彼への恋心を、私だけは疑わない。

「人の気も知らないで優しくするし、そのくせ全然靡いてくれないし……女として見てもらえてないからだって、わかってたけど」

 さっきからずっと、きっと私を安心させようとしてリーシャさんが微笑むたび、切なくて、言葉で表しきれない苦しさで胸がいっぱいになる。

 ビアンカさんの時と私達、きっと同じ、なんですね。

 私達の恋に優劣などないのだもの。好きな気持ちに違いなんてない。相手がいようが、叶わなかろうが、出逢うのが早かろうが遅かろうが、芽生えてしまった想いを無理やりなかったことになんてできない。

 好きなんだもの。その人の幸せをただ、願いたいんだもの。

「優しくて、話しやすくて、強くて格好良くて……フローラさんを一途に想うあのひとが、好きよ。やっぱり優しくて、いつだって女神様みたいに笑うフローラさんも、好き。そうやってお互いを大切に想いあっている二人が、大好き」

 また切ない微笑みを浮かべたリーシャさんが、茶器を包んだまま動けずにいる私の手を包んで摩る。

 やわらかな声が、耳の内側に優しく浸透していく。

「離れたくないって、あなた達と行きたいって気持ちに嘘はないわ。……信じて」

 胸がいっぱいすぎて何も言葉にならない代わりに、一生懸命頷いてみせた。張り詰めたものをほっと緩めたリーシャさんが、紫水晶の瞳を揺らして少し困ったように微笑む。

「少し、不安なの。テュールさんってすっごく……フローラさんじゃないと、駄目なんだもん」

 くしゃり、もう一度今にも泣き出しそうに笑ったリーシャさんに心が震えた。

 答えたいのに。こみ上げた感情が喉につかえて、何ひとつ言葉にならない。

 熱い目頭から涙が溢れるその前に、リーシャさんのあどけない腕が私の肩を思いきり引き寄せた。

 茶器が揺れて、ぬるいお茶がほんの少しだけ、指先とテーブルを濡らす。

 

 ────強く抱き締めてくれた、

 少女の小柄な身体が、極々微かに、震えていた。

 

「……頑張ってね。フローラさん。こんな未来なんか、思いっきり吹っ飛ばしちゃって」

 弱々しい囁きに反して、震える腕は私の背をこの上なく強く、しっかりと包んでくれる。

 もう、我慢できなくて。

 限界を超えた感情が決壊する。視界がみるみる潤んで歪んで、はい、と絞り出した声もほとんど音にならなかった。頰をつたい落ちる熱い雫がとめどなく少女の肩を濡らしていく。嗚咽を必死にこらえながら腕を回して、彼女の小さな身体を精一杯受け止めた。

 ────あのひとにも、知ってもらえたらいいのに。

 こんなにも大切に想っていただけているのだと。こんなにも心を砕いて、私達の運命を案じてくださる方がいるのだと。

「あたしも、頑張る。女王になるかなんてわかんない、けど、あたしなりにこの国のこと、世界のこと、二人のことも……色々考えて、頑張ってみる。だから、……だから、いつか絶対みんな一緒に、大人になったあたしに会いに来て」

 幼い、涙混じりの声が耳にやさしく響いて、心地いい。

 今は夢物語みたい。どこか遠くて現実味のない……けれど、どこまでも真摯な彼女の願いを、何度も何度も頷きながら聞いた。

 絶対。絶対に、会いに来ます。

 いつか、素敵な大人の女性になったこの方と再会する時、私の大切な方々が誰一人欠けることなく、会いに来られますように。

 その時きっと、良かったねって。幸せだねって。

 心から笑いあえることだけを、今はただ、希っていたい。

 

 ……優しさが沁み渡った心に、リーシャさんの切ないお声が、どこまでも深く、かなしく、響いてゆく。

 

「お願いよ、フローラさん。

 絶対、ぜったい、一人にしないであげて。

 あの優しいひとに、寂しい想い……させないで────」

 

 

 

 

 

 涙で崩れた化粧を少しだけ整えさせてもらってから、テュールさんのところに戻った。

 離席した時と変わらず、彼は数冊の本を傍らに積んでは黙々と読書に没頭していた。本を読むようになったのはここ一、二年のことだと仰るけれど、乾いた土のように彼は本を読み、貪欲に知識を吸収していく。旅の途中、私が勧めた本も既にほとんどを読破してしまっていた。

「ただいま戻りました」

 いつも通りの微笑みを繕って声をかければ、テュールさんは優しく微笑んで顔を上げる。

「お帰り。楽しかった?」

「はい、とっても。美味しいお茶をいただいて、ついお喋りが弾んでしまいました」

「そっか。良かった、砂漠では二人が喋ってるとこ、そんなに見なかったから」

 言われてみれば、リーシャさんはずっとテュールさんのお側にいらしたから、私とはあまりお話していなかったかもしれない。最後の晩もすぐに寝てしまったし……その後はあんなことがあって、慌ただしく見送ることになってしまったし。

「どんなこと話したの。僕の悪口でも言ってたんじゃない?」

 雑談の内容を問われてどきりと胸が鳴ったけれど、冗談めかした物言いにつられて笑ってみせることができた。

「もう。悪口なんて言いません。テュールさんのどんなところが素敵か、二人でたくさん数えあってきたんですから」

 つい緩んでしまう口許を誤魔化すためにわざと尖らせて見せれば、テュールさんは目を軽く瞬かせた後、溜息混じりに机に突っ伏し頭を抱える。

「数えるほどないって……そんなの」

 腕に埋めた頭からちらりと覗く赤い耳たぶがお可愛らしい。ふふ、と思わず笑みが零れてしまって、テュールさんはそんな私をちらりと睨めつけると「……いいけどね。フローラが楽しかったなら、それで」と照れ臭そうに小さく笑った。

 私の大好きな微笑みを独り占めしている。幸せで、ただそれだけで私の胸は何度でもぎゅっと切なく、甘く痛む。

 絶対に悟らせない。動揺はもう、心の奥底に隠したから。

「いかがです? ……何か、気になるお話は見つかりましたか」

 さりげなく椅子を引いて隣に座ると、テュールさんはばつが悪そうにそっと手元の本を隠した。

 気になさらなくていいのに。彼の逞しい掌の下には、遙か東の大陸の地図が大きく描かれている。

「ごめん。勇者のこと調べに来たのに、つい……」

「テュールさんご自身のことなのですから、当然ですわ。……私も一緒に探してみますね」

 昼食の前に持ってきた本がそのままだったけれど、テュールさんのお気持ちの方がずっとずっと大切だから。すぐに立ち上がり、改めて各地の歴史に詳しい本棚を探した。見つけた本棚には今はもう地図にない国名や、呼ばれることのなくなった大陸名がずらりと並んでいる。

 エストア大陸。東国、改め東獄とも評されるそこには峻険で過酷な大峡谷が大陸の東西を分断し走る。その最奥地に、人を寄せ付けず建つ堅牢な王城があるという。

 国名は知っていた。けれど、そこの出身だという方にお会いしたことはなかった。いくつかの史料に目を通していくと、およそ五十年ほど前の暦に併記して、当時の戦いについての記述があった。

 曰く、魔族の激しい侵攻の折、時の王族が我が身かわいさに城と民を捨てて逃げ、城は朽ちて今や亡霊の居城と成り果てたと。

 五十年前ということは、彼のお爺様か、曾お爺様の頃の話だろう。そこで滅んでいたなら、お義父様のご即位の報せがテルパドールに届くはずもないのに。

 正直、自分が今までに読んだ本でもこれと大差ないことが書かれていた。勇者様の武具が伝わるという話もなかったし、だからこそこれまでグランバニアという国を特段気に留めたことがなかったのだ。何も知らない人間が書くものなんて、本当に無責任だと思わされる。アイシス様が国の記録を基に調べてくださっていなければ、敢えて訪ねようとも思えないような情報ばかりだ。

 彼が読んでいる本にこんなこと、書かれてないといいけれど。

 やっぱり、こういう本は八割疑って読むくらいでちょうどいいのね。微かな落胆と共にそんなことを思いながら、六冊目の本を手に取った。

 さっきの本より少し古びているけれど、内容は割と新しい。凡そ三百年から数十年前までの、各国の王や戦士の武勇譚を集めた伝記本のようだった。目次を見るとグランバニアの方のお話もいくつか納められている。先ほどの戦いについても何か書いてあるかもしれない。逸る心を抑え、また、まともな内容であることを祈ってページをめくった。

 ────字面を追う前に、肖像画に添えられた一枠の挿絵が目に留まる。

 何代前の王様かしら。立派な眉と口髭を蓄えたその方は、あまりテュールさんに似ていなかった。優しい印象のテュールさんとは違って、厳つい、いかにも武勇の方であるのが見てとれる。星形に似た特徴的な王冠を被り、強健な眼差しで絵のこちら側を射抜いている。

 その方の、肖像の隣に描かれた紋章に見覚えがある気がした。

 どこかしら。どこかで、ううん、私はこれをとてもよく見て、知っている────

「…………っ、これ……!」

 ぱちん、と記憶の錠前が開いた。慌てて本を戻して席に戻り、読書中のテュールさんの肩をとんとん叩く。すぐ振り向いてくれた彼の腕を黙って引っ張り、たった今本を仕舞った本棚のところまで来てもらった。机で見せなかったのは何となく、人目につかない方がいい気がしたからだ。

「いきなりごめんなさい。あの、この紋章」

 ともすれば震えてしまう手を必死に落ち着けて、さっきの本を引っ張り出す。

 焦ってしまってうまく本を開けない。やっとさっきの、威厳のある国王様の絵が載ったページを開いて彼に見せた。

「テュールさんの、……お義父様の剣と同じ、ですよね……」

 先日功績を挙げたばかりの客分の彼は、宴の日から城内での帯剣を許されている。食い入るようにその紋章を見つめた彼は、すぐに鞘から剣を引き出して確認した。

 剣鍔に刻まれた紋章は確かに、本の中の図柄と一致する。

「その、剣の紋章も、以前どこかで見たことがあるような気がしていたのです。でも、中々思い出せなくて……」

 言い訳がましい私の呟きを聞きながら、テュールさんの肩がだんだん、力なく下がっていく。

 本棚の奥の壁に背を預け、片手で額を覆って……重苦しい溜息をついた彼が、ほとんど吐息だけで低く、呻いた。

「……本当、なのかな……」

 親とはぐれた、迷い子のよう。

 あなたらしくない、ひどく心許ない囁きが心臓を締めつけて、きゅうっと息が苦しくなる。

 きっと表情を歪めてしまった私を見遣って、テュールさんが弱々しく微笑んだ。

「ごめん。……アイシス様の仰ったことが信じられないとか、そういう意味じゃないんだ」

 またすぐに、足元に伸びる暗い影へと視線を落として。

 昨夜からずっと苛まれていたご自身の葛藤を。彼は少しずつ、言葉に代えて吐き出していく。

 ここまで、私に言うことが出来るようになるまで、彼は一人で何度も考えて、考えて、悩み抜かれたのだろう。

 黙って続きを促せば、彼は縋るような瞳を一度私に向けた。小さく微笑みだけを返して、いつでも手が届くその距離で、ただ彼が伝えてくれるのを待つ。

 大丈夫ですよ。

 結論が出ていなくても、葛藤に押し潰されそうでも。

 どんなあなたでもいい。誰より近くで、寄り添わせて欲しい。

「……なんて、いうか……グランバニアなんて国、僕はずっと知らなかったから。僕の故郷はずっとサンタローズだったし、そこが本当の故郷かも、なんて言われても正直……全然、実感が湧かなくて」

 深く、お顔を伏せたテュールさんの独白は、本当に苦しげで。

 叱責を恐れて隠し事をした子供が懺悔でもするみたいに、痛々しくて、小さくて。

 それでも彼は、やっと形にし始めたそれを、一生懸命……誠実に、紡ぐ。

「わかってるんだよ。知ったからって、僕の何が変わるわけじゃない。それでも……怖いんだ。知ったらもう戻れなくなる。これが自分だと思いこんできたものが壊れてしまう、そんな気が、して。……行きたくないわけじゃない。けど、────怖い。情けないけど」

 

 ああ。

 私、たった今、

 あなたを抱きしめたくてたまらない。

 

 胸の内側に広がって抑えきれない、温かなものを代わりに抱きしめて。

 溢れる想いをただ込めて、私はあなたを呼ぶ。

 誰より恋しい『あなた』というひとを、何度でも。

「あなたが、誰であろうとも。例え、あなたのお名前が今と違うものになったとしても、私はあなたを恋い慕う、ただ一人の女でしかありません」

 深く俯せた彼の、黒い睫毛が微かに揺れた。

 それだけで、ちゃんと届いていることに安堵して。伝えたいこと、こうしているだけで溢れ出してしまうものを、一生懸命言葉に代えていく。

 あなたがしてくれたように、私も、想いを込めて紡いでいく。

「お仲魔の皆さんも同じです。私も、皆さんも、あなたという方を心からお慕いしているからこそ、ここにいるのです。……いいえ、私達だけじゃありません。ヘンリー殿下も、マリア妃殿下も、リーシャさんやビアンカさんだって」

 恐る恐る、顔を上げたあなたはどこか泣きそうな表情で目を瞠っていた。

 零れそうに揺らめく黒曜石の瞳に、私に出来る精一杯の、愛しさと優しさを思いきり込めた微笑みを、向ける。

「怖くてもいいんです。ちっとも情けなくなどありません。半分ください、と申しましたでしょう? どんな時でもずっと私がお側におります。……あなたが、私を連れていってくださるなら」

 今、告白するべきなのでは。

 愛しい気持ちの片隅を、微かに理性が過ぎって戒めていった。

 リーシャさんが語ってくれた、私達にとって忌むべき未来。それを私は、自分自身の科白の勢いに押し隠して飲み込んだ。

 ほんのわずか、躊躇したそれに彼は気づかなかったようで、「フローラが来てくれなかったら、一人でなんて行けないよ。……ありがとう」と、控えめな微笑みと共に肯定してくださった。

 気づかれなかった。ほっとして、思わず緩んでしまった頬を彼に向ける。今度こそ欠片も偽りない、私自身の想いをそっと、口にして。

「それに、あなたが今、ご自身の意思で故郷を、ご両親のことを知りたいと思われたのなら……お義父様も、魔界のお義母様も、そのことはきっと、とても喜んでくださると思うのです」

 実の息子が、彼自身の力で、両親を────彼に連なるものを見つけてくれる。

 そんなつもりはなかったけれど、私はいつの間にか、自分自身の知り得ぬ郷愁を彼と重ねていたのかもしれない。

 本当の親を知らない私と、ご両親を失ったあなた。

 だからこそ今、こんなにも嬉しくて、羨ましくて……眩しく、感じるのかもしれない。

「────────、……うん」

 私の言葉を深いところに落とし込んで、ゆっくりと咀嚼した彼が、意志の漲る強い眼差しで顔を上げた。

 窓の向こう、遥か遠い、日出ずる方角の彼方を見据えて。

「知りたい。父さんと、……母さんのこと」

 窓の外は少しずつ、青から藍色に染まりつつあった。北東に面した図書室に西日は入らない。遠く東の果てを見つめたあなたの凛々しい横顔に束の間、我を忘れて見惚れる。

 あの日、サラボナの街中であなたを一目見た瞬間から、その深い濃紺の双眸にどうしようもなく惹きつけられた。

「赤ん坊なんて、足手まといでしかなかっただろうに……それでも、父さんがどうして僕を連れて旅に出たのか。母さんはどんな人なのか、僕が生まれた時、二人に何があったのか……全然、人違いかもしれないけど。両親に繋がるかもしれないことなら、やっぱり知りたい。どんな些細なことだって」

 強い眼差しの内側をほんのわずか、ご両親を想い、切なく慕う幼い少年の面影が揺れて、かすめていく。

 けれど、あなたは自身の郷愁に流されない。寂しさも、痛みも、苦しみも、哀しみも、何度だって飲み込んでは立ち上がる力に換えて来られた方だから。

 そんなあなただから、力になりたいと思うの。

 その希みが叶う瞬間を、一緒に見たいと思ったの。

「行きましょう? あなたにきっと縁ある土地、グランバニアへ」

 まだ見ぬ故郷に想いを馳せる彼の隣に寄り添って立ち、その手に指をそっと絡めた。炎を秘めた指輪に触れるときゅっと握って応えてくれる。もう一方の武骨な掌が長い髪を一条掬い取り、そのまま頬を包んで優しくなぞる。

「……一緒に、来てくれる? フローラが一緒なら僕は……何処へだって行ける」

 優しく、揺るぎないあなたの誘いに、私も顔を上げて微笑み、迷いなく頷いた。

 躊躇いなんてない。運命だって、怖くない。

 どんな困難も試練も、あなたと一緒なら越えていける。

 言葉の代わりに、そっと彼に身体を寄せた。広い胸に額を押しつければ、彼もまたふわりと微笑んで頭を撫でてくれる。とくとく、温かな鼓動を感じて、甘やかな幸せを噛みしめながら逞しい背中に腕を回した。しがみついた私を、彼も優しく両腕で包んで力強く抱きしめてくれる。

「────ありがとう。……愛してる……」

 耳に落とされた吐息だけの低い囁きは、眩暈にも似た陶酔、恍惚を呼び醒ます。

 黄昏時の図書室、背の高い本棚の間に埋もれるように。影を一つに溶かして抱き合った私達は、誰にも知られず密やかに、互いの吐息をそっと重ねた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここはどこ? ……夢?

 

 見渡した世界に光はなく、音もない。純度の高い孤独の闇。そばにいると誓った、あの人の気配もない。

 いいえ、いいえ。彼はきっと近くにいるはず。だって、離れないってあんなに強く誓ったのだから。

 ふと、腹部を抑えた。まだ何も宿っていないはずなのに、とても大切なものがそこに在る気がした。ぬるり、座り込んだ下半身から何かが流れ出ていく。残酷な赤が闇の中、広がっていく。ああ、駄目。待って、行っては駄目。逝っては、駄目。

 まだ、なの。まだ彼に言っていない。とても大切なことなのに、ちゃんと伝えたいのに言えない。だって、こんな風に失ってしまったら。それを本当のことにしてしまったら。

 真実になんてさせない。

 絶望なんて絶対、させない。

 誰よりも大切なあなたを、私が絶対、独りにはしない。

 

 

 

「フローラ」

 闇を掴んで振り払ってしまいたくて、宛てもなく彷徨わせた掌を暖かな指が捕まえてくれた。

 ……ああ、良かった。そこにいらしたのね。

 ぼんやりと光を取り戻していく視界の中、深い黒曜石の瞳が真上から、心配そうに私を覗き込んでいる。

「うなされてた。大丈夫? 久々にあの、落ちる夢を見た、とか」

 声をひそめて私を気遣ってくれる彼の姿にやっと、ああ、ここは宿だったのだと思い出した。目尻にそっと温かな指が触れて、零れ落ちたしずくを優しく優しく拭ってくれる。

「……泣いてる」

 言われて初めて、自分が微かに震えていたことに気がついた。

「すみま……せん。こわい、夢、見ちゃったみたい」

 慌てて自分の腰の下をまさぐった。シーツを汚していたらとぞっとしたけれど、ひとまず濡れてはおらずほっとして脱力する。こっそりと股にも触れてみたけれど、つい昨日始まったばかりの月のものが漏れた感触もなかった。

 きっと、月のものの所為であんな夢を見たんだわ。そう自分に言い聞かせ、ようやくゆるく息を吐く。

 どんな夢だったか、もうはっきりとは思い出せないけれど。

 ひどく寂しくて、哀しい、虚ろな夢だった。

「でも、もう平気────」

 言いかけた私を、力強い腕が抱き寄せて遮った。

 逞しい両腕の中に私を捕まえたテュールさんが、愛しげに私の髪を梳いて、何度も優しく撫でてくれる。

「僕が、抱きしめて寝たいだけ。……おやすみ」

 優しく、やわらかく微笑んだ彼は、すぐに瞼を落とすとほどなく規則正しい寝息を立てはじめる。

 まだ速い鼓動が、少しずつ彼の静かな呼吸に溶けていく。背中に滲んだ嫌な汗も、彼の腕の温もりを感じていたら気にならないほどになって。その代わりに、たまらなく泣きたい気持ちがとめどなく喉にこみ上げた。

 好き。好きです。本当にあなたが、大好き。

 一緒に行きたいの。どうしてもあなたと、離れたくないの。

 本当は、本当に一緒に行っていいのか、警戒すべきことをちゃんと相談して、二人でよく話して決めるべきなのかもしれない。ううん、そうすべきなんだろう。……けど。

(……ごめん、なさい)

 ごめんなさい。

 愛しすぎる寝顔に向かって、何度も何度も、声に出さずに繰り返し囁いた。

 あなたじゃないと駄目なのは私の方。

 あなたの隣にいられなくなったらきっと、私は寂しくて悲しくて、あっという間に枯れ果ててしまう。

 怖いの。本当は、怖くてたまらない。誰よりもあなたに聞いて欲しい。大丈夫だよって抱きしめて欲しい。でも、あなたがこのことを知らなければ、悲劇は悲劇ではなくなるのかもしれない。知らなければ、もしかしたら絶望することもないかもしれない。……リーシャさんが考えてくださったことより全然幼稚な、こんなのはただのまやかしに過ぎないと我ながら思う、けれど。

 リーシャさんが教えてくださった先読みの内容を思い返して、何となく、彼女にはまだ、私を慮って告げられなかった暗示があるのだろうなと、思った。

 本当はもっとはっきり、『暗示』が視えていたのではないかしら。……私がこれ以上動揺しないように、言葉を選んでくださった結果があの内容だったというだけで。

 そう思うと、本当は彼女が何を視ていたのか。考えるだけで恐ろしくて、隣に彼がいるのに身体がすくんで強張ってしまう。

 死にたくない。死なせたくない。……一人に、したくない。

 息が詰まる。そんな葛藤と相反して、淡い高揚感にじわり、心が浸っていくのも否応なしに感じてしまって。

(テュールさんと、私の、こども……)

 敢えて考えないようにしていた『それ』に思考を寄せると、彼の胸許に埋めた頰がほんのりと熱を持つ。

 喜んではいけないような、でもやっぱり、心躍らせるこの情動はどうしたって止められない。

 浮ついていると思われたくなくて、なるべく表に出さないようにしていた。けど、本当はすごくすごく欲しかった。彼と私の血を半分ずつ継いで生まれてきてくれる、子供。肉親を知らない私には、生まれて初めて血の繋がりを持つ家族になる。それがテュールさんとの子だなんて、素敵過ぎて夢のよう。まだ旅を始めて半年、この後はもっと遠い異国を目指すのだから、懐妊なんてまだその時ではないとも思うのだけれど。

 彼との子供を授かれるかもしれない。そう思うだけで、この不安な気持ちに拮抗するほど、甘くて幸せな気持ちが湧き上がって胸がいっぱいになってしまう。

 ……ああ、

 早く、グランバニアに着けるように頑張ろう。私も。

 そう考えてやっと、この重苦しさが少し和らいだ気がした。

 どうしたって恐怖は消えないけれど、いつ身篭れるのだろう。性別はどっちだろう。どちらに似た子になるだろう。そんなことを考え始めたら、気持ちはすっかりそわそわする方に向いた。

 大丈夫。大丈夫よ。リーシャさんだって、絶対じゃないって言ってくださったじゃない。

 心の中で強く己に言い聞かせ、テュールさんの腕の中から枕元のチェストを仰ぎ見る。そこには今日の別れ際、リーシャさんがくださった御守り袋を置いてあった。

『フローラさんはテルパドールの民ではないから、私達の秘術を教えてあげることは出来ないけど……これ、あげる。マイヤ様からもらってきたんだ』

 そう言って彼女が差し出したのは、隠匿の古代魔法を秘めた御守りだった。一度きり、中の石を取り出して念じれば誰でも、あらゆるものから身を隠してくれる御守りだから。と彼女は大事なそれを私に握らせ、託してくれた。

 本当はこんなもの、使う機会ないのが一番いいよね。困ったように笑ったリーシャさんの姿が今も瞼の裏に焼きついている。

 ゆきずりの旅人達に心を砕いてくださった。そのお気持ちに必ず報います。

 絶望なんて、させません。

 強い、強い決意を胸に抱き直して。愛しい夫の吐息を間近に感じながら、私はようやく再び、生ぬるい微睡みの中にゆるゆると意識を落としていった。

 

 

 

 ……◇…◇…◇…◇……

 

 

 

 ────────結局、

 よく事情は知らないんだけど。

 お二人はこれからも、伝説の勇者様を探して旅を続けるおつもりなんでしょう?

 

 あのね。

 彼に、家族……

 ごくごく近しいひとを失う、暗示が出てる。

 

 よく聞いて。

 多分、これからフローラさんは身篭るんだと思う。

 懐妊の暗示も出てるから。

 でも、お子さんが無事生まれるのかがはっきりしない。そこだけがどうしても視えないの。

 

 きっと、そこが運命の分岐点なんじゃないかって、

 あたしは思うの。

 

 失われる『家族』が、

 フローラさんなのか、お子さんの方なのか、

 或いは、両方なのかもわからない。

 占いは、どちらの可能性も示してる。

 お腹にいる間に、命を落とすことになるのかもしれない。

 出産は命懸けっていうし、それが理由なのかもしれない。

 ……でも、もし、

 もしそうなってしまったら、

 きっと彼は今までにないほどの耐え難い絶望と苦痛、

 昏い昏い、常しえの孤独を味わうことになる。

 

 

 

 

 

 

 




テルパドール女傑三人目。サブヒロインお疲れ様、のオリジナルキャラ、リーシャ・ガロン嬢。

【挿絵表示】

絵に書いてある通り、フローラに思いっきりやきもちを妬かせてみたかったが為に生み出された子なのですが、説得力のない横恋慕は書きたくなくてごちゃごちゃ練り練りした結果が↑。
やきもち妬かせる計画ってだけだったのに、何でこうなった一連の魔物騒動。
何度も思い知ります、ほんと物語って生き物(筆者の意とは別に動く)ですよね……

ここでやっと実質二幕の最終話なのですが、まだ10万字くらいの終章が残っていたりして。概ね読み飛ばして構わない10万字です。実は何度かアドバイスをいただいているのだけど全く活かせず、折角ご指摘くださった方には申し訳なく思います……いらんこと書きすぎなんだとわかっちゃいるのだけど、削るのが下手で読み辛い文章を改められず、本当に申し訳ない。


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#21.5 蒼穹の未来【終章0】

「あっ……という間だったなー……」

 雲ひとつない、高い冬の空を見上げてリーシャは呟いた。

 たった今まで目の前にいた、馬車と客人達はもういない。魔物らしからぬ親しみやすさに溢れた奇妙な一団と可憐な少女一人を納めて、馬車の主である青年が海の向こうの土地へと一瞬で転移させた。砂地には一方通行の轍跡だけが、名残惜しくも残されている。

「転移魔法をお使いになるって、本当だったのねぇ。キメラの翼なしで転移出来るなんて」

 同室の先輩女官も感嘆交じりに呟く。そうですねぇ、とリーシャも首肯を返した。

 キメラの翼は、最後に立ち寄った街へ瞬時に移動できる魔道具だが、任意の街へ転移することはできない。大昔には魔法で自在に街々を行き来できた、という逸話もあるし、きっと自分達が使う古代魔法のような類の秘術なのだろう。

 風に由来する転移魔法は、魔道具においてさえ、テルパドールを擁するこの大陸内では使用をほとんど禁じられている。リーシャもキメラの翼自体、自分では使ったことがない。使えるのは女王と一部の女官や長老、兵団長のみだが、たった今見送ったばかりの彼はつい先日、王都近郊で起こった魔物との戦闘において多大な功績を納めた。その褒賞として、一介の旅人の身でありながら、このテルパドール王都においてのみ、転移魔法を行使することを許されたのだった。

 それにしても便利な術、とリーシャもしみじみと思う。そんな魔法が使えるなら、再び会える日もそう遠くはないだろう。……彼女が懸念するような事態さえ起こらなければ。

 というか、それならちょっとくらい、あたしも連れ出してくれたらいいのに。などと、自分本意なことも思う。お休みの日にはあの夫婦と一緒に、転移魔法で遠くの国に遊びに行くの。ものすごーく楽しそう!

 思うだけなら自由よね、と少女はひっそり笑う。まだ十四歳、遊びたい盛りなんだもの。

 客人の一行は、これからずっと遠い東の国を目指すらしい。

 その前に船と落ち合うため、一度北のサラボナという街へ戻るのだそうだ。若い夫妻の、奥方の故郷だと言っていた。あの天女のような女性を育んだ街とは一体、どんなところなのだろう。

「リーシャ。この度はまことにご苦労でした」

 ぼんやりと空の向こうに想いを馳せていたら、唐突に女王陛下から声をかけられた。はいぃ! と思わず背筋をぴんと伸ばして向き直る。

 もう何度も女王とほとんど一対一で話しているリーシャだけれど、先入観の所為か、この気安さには未だ慣れない。

 そんなリーシャを見て、先輩女官達がくすくす笑った。城に来たばかりのリーシャには考えも及ばないが、そもそも女王を取り巻く女官や兵士の半数以上は、元々彼女と同僚だった者達だ。今ではもちろん最上位の敬意を持って接するが、公の場以外での女王アイシスが、家臣である彼らとこれまで通り、肩肘張らず接したいと思っていることも承知している。何も知らぬ無作法者が無礼を働くことまで許しはしないが、彼女が『大きな家族』と呼んだ、特に女官従きの末の妹にあたるリーシャが少々礼を失したところで、目くじらを立てることはしない。

「占いで、熱砂病にかかられた奥方様を見つけたそうですね。あなたのその行いがテルパドールと彼らの運命を大きく変えてくれました。私からも、礼を申します」

「ややややめてください! アイシス様に頭を下げられたりしたらあたし、しばらく食堂でご飯食べられなくなっちゃいますっ‼︎」

 身を屈めようとした女王を大慌てで制する。あわあわと両手を振り乱すリーシャに、女王はやや怪訝な顔を向けたが、周囲の女官に目で問うと、傍で見守っていた勝気そうな女官が苦笑いしながら首を振り答えた。

「嫌だわ、新入りを虐めたりしてません。それよりリーシャ、そろそろあのご夫婦のお話を聞かせてくれてもいいんじゃない? あなた、あの方に求婚してたって聞いたわよ」

 えぇっ⁉︎ なんですって⁉︎ と一斉に場がどよめき、あちゃあ、とリーシャは辟易する。どこから漏れたのやら、こんな風に追求されるのが怖くて公言はしていなかったのだ。大体、入城の前にきっちりけじめはつけてきたのだから、赤の他人にあれこれ詮索される謂れなどない。

 これは、女王から頭を下げられようが下げられまいが、しばらく食堂で落ち着いて食事をいただくことは難しそうだ。

「求婚……ってどういうこと⁉︎ ちょっと、詳しく聞かせなさい、リーシャ‼︎」

「あんなお綺麗な奥様がいらっしゃる方によくやるわね……! 確かに、すっごく恰好いい方だったけど」

「ほんっと恰好良かったわ! 魔物と対峙した時なんて剣神かと思ったもの。あんな素敵な殿方に守られていたなんて、んもう、リーシャったら羨ましい! 許せない‼︎」

 にわかに殺気立った先輩達に囲まれて揉まれ倒し、リーシャは内心叫び出したい気持ちでいっぱいだった。

 ああ、もう、テュールさん! やっぱりあたしも連れてってー‼︎

 きゃあきゃあと黄色い声を上げて自分を揉みくちゃにする女官達の後ろで、あー、あれが例の……と兵士達が囁いているのが聞こえる。ああなるほど、噂の出所はもしや鍛錬場ね? テュールさん達が図書館に篭っている間、魔物さん達は鍛錬場の顔馴染みになってたみたいだし。大方人懐っこいスライム属のうちの誰かがぺろっと話したのだろう。さすがにそこまで口止めを考えていなかったリーシャは苦く息を吐く。

 こほん、とわざとらしい咳払いが響いた。女王の鶴の一声、いや一息である。お陰で、場を埋め尽くす甲高い声がようやく止んだ。

「我々も、今宵はささやかながら宴を楽しみましょう。先日の祝勝もまだでしたから。皆、後輩を可愛がるのはその時になさいね」

 女王が穏やかに告げれば、さっきまでリーシャを問い詰めていた女官達がきゃあ! と再び嬉しそうに声を弾ませた。これは、逃げ道を絶たれたかしら。苦く笑うリーシャを尻目に、兵士達もまた表情を緩ませ、それぞれに浮き足立っている。

 実は、この城でもてなし以外の『宴』といえば、城に働く者誰もが参加し楽しめる、無礼講を指すものなのだ。当然、給仕や警護に回る下働きの者達が宴を楽しむことはできないが、彼らには後日、女王から別途労いを与えられるのが常となっている。

「城内の皆に、あなた達の顔見せもしたかったのですよ。今まで中々、落ち着いて紹介できなかったけれど」

 リーシャをはじめ、入ったばかりの見習い女官達の顔を一人一人確かめて、女王が艶やかに微笑んだ。本来なら歓迎の宴と称するところ、そうできない理由があることは、ここにいる誰もが承知している。

 昨日、ついに次期女官長位に関する内示が出された。────ユノ・シューレンは正式に、女官長ではなくなった。

 結局あの事件は公になっていない。女王と、普段表に出てこられない奥の院の方々による審判がどのように下されたのか、リーシャも他の女官達も何も知らないし、詮索できる雰囲気でもなかった。自分達に出来ることはそれとなく減刑を願い、呟くことばかり。

「さぁ、宴を楽しみたいなら早く仕事を終わらせなくてはね。皆、見送りご苦労様でした。持ち場に戻って、夕刻には宴を始めますよ」

 元気に呼応した者達が城内に戻っていく。女王の周りに残るのはこの時間、彼女の周辺を護り公務の補佐をする女官と近衛だけだ。奇しくもリーシャは、夕方まで公務従きの見習いに充てられていた。

 柔らかく微笑み、仕事に戻っていく家臣達を眺める女王を傍らから見上げて、リーシャは昨夜から燻っていた疑問を恐る恐る口にしてみた。

「あ、あのぅ……ところで、アイシス様」

 微笑みを崩さず首を傾げた女王に、話してごらんなさい。と無言で促され、少女は思いきって言葉を続ける。

「昨夜、もう一度占ってみたら……あの、今までほとんど視たことなかった未来が、視えたんです、けど」

 そこまで言って、ちらりとアイシスの瞳を窺ったが、やはり彼女は微かにも表情を変えない。寧ろ、リーシャの動揺をどこか楽しんでいるようにも見える。

 だって。有り得ない、こんな短期間にここまで予知の光景が変わるなんて。────しかも、何だろう? あれは。

 どこかの王城、だった気がする。テルパドール城にも引けをとらない、とても立派なお城だった。二人がこれから向かうところだろうか? あんなところ、今までの未来視に出てきたことがなかった。テュール……見送ったばかりの青年が、見慣れた紫の旅装束姿ではなく、異国の正装めいた服を着ていた。嬉しそうに微笑んで彼が駆け寄った、その先には碧いあの髪以外、よく視えなかったけれど。

「……一体、二人に何をお話しになったんですか、アイシス様⁉︎」

 自分もうっかり彼の妻に未来視を話したことを棚において、リーシャはつい頓狂な声を上げる。

 本来、リーシャのような一介の占者が、個人の独断で本人に予知を伝えることなどご法度だ。占の力は未来を動かす力をも持つもの。現実において予知の影響力は計り知れず、リーシャも物心ついた頃から、その旨をきっちり戒められてきた。

 女王アイシスが心を読み取れるという噂は知っている。自分が青年の妻にほとんど直接予知の内容を語ってしまったことを気づかれ、咎められるかもしれない。思わず身を固くしたが、女王はふわりと妖艶に笑むと、赤銅の扇で口許を隠し、落ち着いた声で静かに問い返した。

「『それ』は、あなたにとって好ましい未来でしたか?」

 訊かれて、リーシャは昨夜の未来視を思い返す。懸念しているうちの一つ、彼らの赤児については何も視えなかった。けど。

 碧い髪が、視えたということは、────きっと。

「まだ、わかりません。……でも」

 でも。胸の内側で反芻し、リーシャは昨夜視た彼の表情にあたたかく想いを馳せる。

 笑っていた。きっとこれまでの未来視の中で初めて視た、彼の心からの笑顔だった。

 あの未来視一つで、すべての懸念が払拭されたとは思わない。昨夜予知した光景の後にも、想定外の出来事が待っているのかもしれない。

 それでも。

「誰も失われない未来の可能性が、ほんの少しでも高くなるなら……あたし、まだ、望みを捨てたくないです」

 凛と響く少女の答えを聞き、女王は満足そうに目を細めた。

 砂を含んだ乾いた風が凪いで、女官達の髪と、綺麗に切り揃えられた女王の黒髪を揺らしていく。

「……あなたがそうして、お二人のために動いたこと。きっと良い方向に作用するでしょう。お二人が我々や、女官長のため動いてくださったことも。……知るはずのない話を知ったことも、未だ知らずにいることも。些細な出来事が重なり合い絡み合って、きっと未来はもう、私達が数日前に視たものとは違っている」

 その漆黒の眼差しはここにはない、誰も知り得ぬ未来だけを、女王はその眼ではっきりと見据えている。

「信じられると、断言できます。あのお二方ならば最良の未来を……必ず、手にすることができると」

 静かだが力強い女王の言葉に、リーシャも迷わず頷いた。

 リーシャも信じている。あの二人の絆は、簡単に壊れたり挫けたりするものではないのだと。

「我々もこれからですよ。世界を覆う暗雲の暗示は晴れてはいない。けれど、遠からず光は差します。来るべき方をお迎えするため、その時のために、私達は必ずやテルパドールを護り通さなくてはなりません」

 はい、とリーシャだけでなく、周囲に控えていた女官と兵士達も一斉に力強く唱和した。彼らを頼もしげに見遣り、女王アイシスは今一度、客人一行が飛んだであろう空の果てを遠く見つめる。

 ────その『光』をもたらすであろう、あの二人の行末に、どうか、神々のご加護があるようにと。

 誰にも聴こえぬ祈りを、女王は己の内側で密やかに零した。

 

 幸運を、お祈りいたします。

 ……グランバニア次期国王陛下。



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#22. 帰郷【終章1】

 ────まるで、罪人みたいだな。

 テルパドール王城の図書館である学者が語った、かつての勇者の生い立ちだ。

 両親は恐らく戒律を犯して罰せられ、残された子どもは、まるで神の審判を逃れるように身を隠して育つ。

 父親が雷で落命したという話も、もしや幼い我が子を庇ったのではないか、とつい自分になぞらえて考えてしまう。命を奪った相手こそ魔族と竜神では天と地ほども違うが、彼らの罪の証に他ならないその子供を愛し子呼ばわりすることも気になった。

 そう、血を分けた愛し子というのも、後世の人間が充てがった解釈に過ぎないのではないか。もしかしたら、勇者とは元々生まれてはならない存在だったのかもしれない。交わってはならない二人から生まれた、ある種の異形だ。

 うっかり口にしかけた言葉に聡い妻が気づきかけたが、何とか誤魔化せたと思う。こんなことを僕が口走ったりしたら、信心深い妻にきっと悲しい顔をさせてしまう。

 ずっと、絶対的な存在なのだと思っていた。人智を超えた存在だと。だからこそ期待したし、落胆もするし、密かに怨恨の念を抱くことだって出来たのだ。

 学者の話を聞いて、この概念が少しだけ……揺らいだ。

 初めて、同情めいた感情を『勇者』に対して、覚えた。

 生まれに関して、勇者に罪があるのか。ただ、天の者と地の者が求めあっただけじゃないか。

 その伝承が本当なら、彼はまるで烙印のように与えられた己の力をどう思っただろう。魔王討伐の使命だって、こうやって聞くと血に課せられた贖罪みたいだ。何という重い罰だろうか。

 ……違う。僕は重ねてしまっているんだ。連れ去られた母、殺された父。二人が一体何をした? 裁きだとか罪だとか、死という現象にいちいち理由をつけるなら、僕の父があんな業火に焼かれなくてはならなかったのは何故だ。

 そうされる理由があったと、もしもこうやって赤の他人に評されることがあれば言われるのか? 例えばヘンリーを……一国の王子を誑かした罪だと?

 他の誰が何を言おうと関係ない。僕が、納得していたいだけだ。胸を張って、父さんの最期は立派だったと言いたいだけだ。それでも後世、つまらない他人の憶測から『死んで当然』みたいな言い方をされたら、僕はきっと許せない。何でもない顔をして流せるほど、僕はまだ大人じゃない。

 ────そんな憤怒が燻っていたせいだろう。臆病にも女王の話に慄いていた僕だけれど、どうしても意識がそちらに向いた。僕の祖国だという、グランバニア。ずっと側に寄り添ってくれていたフローラもまた、悩める僕の背中をそっと優しく押してくれた。

 ────行きましょう? あなたにきっと縁ある国、グランバニアへ。

 怖れを完全に克服できたわけじゃない。でも、彼女が側にいると言ってくれたから。

 それから一週間、暦は十二月半ばに差し掛かる頃。

 途中、軽く体調に支障の出た妻を慮りながら、日夜図書館通いと情報収集に明け暮れた。そうして、フローラの手帖が新たな情報を記したメモでいっぱいになったところで、僕達はいよいよ、サラボナへ一時帰郷することに決めた。

 

 

 

 久々のルーラでサラボナに帰還し、ルドマン家の本邸に挨拶をした後は、別宅の鍵を借り受けてそちらに引き篭った。やはり、と言うか街に入った瞬間、一気に注目を浴びてしまった。今、迂闊に外に出ると、住民の皆さんに捕まって何もできなくなりそうだ。

 およそ半年ぶりに会った義母が、涙を滲ませながらも僕達の無事を喜んでくれて、何だか面映い心地がした。

 義父であるルドマン卿は視察のためあいにく不在だったが、近日中にはお戻りになると言っていただけた。

 色々と行きたいところはあるけれど、今夜は本宅のディナーにお招きいただいている。久々に愛娘と色々語り合いたいのだろう。フローラだってたまには母親とゆっくり過ごしたいかもしれない。何なら今夜は本宅に泊まってきてもいいんだよ? と言ってみたが、彼女はやはり優しく微笑んでは首を横に振るばかりだった。

 わずかな時間も僕を優先してくれている。そう思えるのは素直に、嬉しい。

 今頃、ストレンジャー号もサラボナに向かっているはずだ。迎えの船員達とこの街で合流するまではゆっくりできるし、それまではフローラにも両親との時間を過ごさせてあげられるだろう。

 そんなわけで、今は別宅で荷物を解きながら一休みしている。天空の盾と剣を寝室に運び込み、その脇に、先ほど手に入れたばかりのあるものを置こうとして、ふと、フローラに声をかけた。

「最後にすごいものもらっちゃったね。これ、ずっと前にマーリンが言ってた、杖ってやつじゃないか」

 後ろから旅行鞄を運んできたフローラが神妙な面持ちで頷く。

『天罰の杖』と呼ばれるこの秘宝は、テルパドールを去る直前、女王陛下から下賜されたものだ。

 結局何も御礼出来なかったからと、宝物庫を探してご用意くださったらしい。ルーラで行き来できるようにしてくださっただけでも十分すぎるというのに。

 魔法が使えない者でも初級の風魔法であるバギを発動できる上、鈍器として使っても良いそうだ。確かに、先端に雷を抱く天使像を戴いたこの杖は手触りで確かめた限り、そこそこの強度もある。

 馬車の中では大変興味深そうに眺めていたマーリンだったが、使うかと聞いたらあっさり不要と返された。なまじ使える魔道具を手元に持つと気を散らされそうだと。魔法を発動する感覚は魔道具を使うのとは全然違うから、まあ、気持ちはわかる。実力主義の彼らしい考えだ。

「……フローラ、使う?」

「え」

 せっかくいただいたのだから活用したいけど、僕とピエールには持つ余裕がないし。さすがにプックルに杖は機動力を奪うだけ、スライム属達にも大きすぎると思う。もちろん、手が届くところに置いておいて誰が使ってくれてもいい、というようにしてもいいのだけど。

 そうするとガンドフかフローラになるのだが、鞭を持ってるガンドフに対してフローラは今のところそんなに物を持たないから、剣の要領で背中に杖を固定するようなベルトを身につければかなり扱い易くなるんじゃないかな。武器を持ちたいって言ってたし、これならきっと打撃より先に風魔法の発動を考えてくれるだろうし。

「……良いのですか?」

 そんなに思いがけない提案だったのか、君は碧い瞳をめいっぱい見開いて、躊躇いがちに僕を見た。

「うん。と言っても前に言った通り、なるべく後方支援を頼みたいのは変わらないよ? 一人で魔物を倒そうなんて考えないで。……でも、確かに水のリングだけだと、全く効かなかった時なんかは困っちゃうもんね」

 例えば、逃げたり躱したりする隙を作れるだけでもいいんだ。危険に曝さないために彼女の手足を縛る真似をするのは、さすがに本末転倒が過ぎる。きっと、先日自分のためにしびれんが傷ついたことも、彼女が自衛を気にするようになった理由の一つなんだろうから。

 鞄の中身を整理していた妻を手招きし、きれいに整えられたベッドに腰掛けた。おずおずと隣に座る彼女に杖を握らせると、フローラは込み上げる感情を堪えるように唇を噛みしめ、手の中の杖をじっと見つめた。

 ふといたずら心が芽生えて、その耳許にそっと顔を寄せる。

「僕の背中は任せるって言ったの、忘れた?」

「っ……忘れて、ません……!」

 瞬間、ぶわっと彼女の頰が紅く染まる。結婚して半年経つのにこんなにも初々しい妻が愛しくて、思わず笑いながら華奢な肩を抱き寄せた。

「ありがとう、ございます。もっともっと、あなたのお役に立てるよう頑張ります、私」

「今だって十分過ぎるほど力になってくれてるのに。でも、……ありがとう。嬉しい」

 綺麗な心根も半年前から変わらない。ポートセルミの埠頭でそんな話をしたことを思い出した。あの頃はまだ回復魔法以外使えなかったのが、たった半年で君は数種類の補助魔法を使いこなすようになり、今や立派に僕のサポートをしてくれている。

「フローラがくれる支援魔法は、僕には特によく効くから」

 また頰を赤らめ俯いた可愛い妻を見下ろし、くすくす笑いながら木苺みたいな耳朶をそっと撫でた。瑠璃玉と金のフリンジの耳飾りが、彼女の吐息みたいに微かな音を立てて揺れる。

 お世辞じゃなく、フローラの魔法は少なくとも僕にとっては特効薬みたいなものだ。他の仲魔達がどうかはわからないが。普段の回復も然り、この間のバイキルトは信じられないくらい力が漲ったのを感じた。相変わらず判断もとても早い。本当に、彼女がいてくれるだけで普段の戦闘が随分楽になってる。

「これからも、よろしくね。頼りにしてる」

 碧い髪を掬い取り、細い肩を後ろから固く抱きすくめた。僕の腕に収まったフローラはそんな僕を見上げてほんのり微笑み、控えめに頷いてくれる。

「もちろんです。ずっと……連れて行って、くださいね」

 愛らしい声が耳にくすぐったい。腕の中の温もりを確かめて、甘酸っぱい幸せを噛みしめた。そうしてしばらく彼女を抱きしめたあと、すぐそこにある桜貝の唇をこちらに向かせて、儚く漏れる淡い吐息ごとそっと塞いだ。

 

 

 

 真冬のサラボナはうっすら雪化粧を伴ってとても綺麗だった。

 深く積もるほど降ってはいないが、人があまり歩かない庭や木の上には粉雪が薄く積もっている。木々や民家の扉、壁が葉っぱやリボンで飾りつけられ、夏に見た光景とは違う雰囲気を漂わせていた。年明けまでこうして飾りつけて新年を祝うのだそうだ。所々に飾られた赤い実は竜神への捧げ物らしい。

 本宅のディナーへ向かう途中、短い道のりだったが、粉雪が舞うサラボナの夜景をフローラと一緒に楽しんだ。いや、仲魔達も一緒だったのだけど、にやにや笑う彼らはわざとらしく、僕らから一定の距離をとって後ろからついてくる。そのくせ後ろで何やらこそこそ囁き合っているものだから、良い雰囲気も君達のその配慮のお陰である意味ぶち壊しである。

 アウローラ様はさすがルドマン卿の奥方、お一人で僕らを気持ちよくもてなしてくださった。婚礼の後の宴以外では酒の席に同席したことはなかったはずだが、さりげなくあの蜂蜜酒を勧められて驚いた。

「家に残っているボトルがなくなる前にこれに似た蜂蜜酒を作らせようって、主人が随分と張り切っていましたわ」

 くすくす笑う義母はどこかフローラに似た少女の面影を宿している。僕と一緒にそれを聞いたフローラはまたもや呆れたように軽く溜息をついた。やはりというか、フローラは義父にどこか手厳しい。

 娘から事前に聞いてくださっていたのか、仲魔達にもご馳走が用意されていた。フローラの手料理の腕前はこの家のコック仕込み、ということは彼らの舌に合わないはずがない。大喜びで領主邸の料理を堪能していた。

「今夜は賑やかで楽しいわ。主人がいないと普段の食事はリリアンと二人きりだから、寂しくって」

 そう言って切なく笑う義母を見てしまうと、時々はサラボナに帰るようにしなくては、と強く思う。

 そんなふうに思えることもまたくすぐったい。フローラだけでなく僕にとっても、ここはもう帰るべき場所なんだなって。

 和やかな晩餐を楽しんで、だいぶ夜も更けた頃、僕とフローラは仲魔達を連れて再び別宅へと戻った。

 

 

 

 ────その夜は久々に、フローラと肌を重ねた。

 砂漠へ旅立つ前夜以来の交わりだった。結婚してから初めて、止められない激しい情欲に身を任せた。軽いとはいえ二人とも酒も入っていて、フローラはいつも以上に身体を火照らせていて、熱くて蕩けてものすごく気持ち良くて。湿った髪から漂う心地よい花の香りに酔い痴れ、何度も何度も、夢中で彼女を貪った。

 今までにないほど互いに深く欲しがりあって、底知れぬ幸せにどこまでも溺れ尽くした。

 それだけに飽き足らず、翌朝にもつい彼女を求めてしまったのだけど。

 今から凡そ二十日後、いよいよグランバニアへと旅立つその日まで、僕達は今まで縁のあった土地を渡り歩くとともに、この別宅に帰るたび何度も愛し合い、求め合い、互いの想い、昂りを繰り返し確かめ合ったのだった。

 

 

◆◆◆

 

 

 翌日、ほとんど正午という遅い時間にやっと昼食を終えた僕達は、昨夜のお礼を伝えるため本宅に立ち寄った。

 義父はまだ帰っておらず、ならばどこへ行こうかとフローラと相談し合う。ひとまず昨夜、名前の上がったアンディ宅に挨拶に行って、次の出立までの間にラインハットと、ポートセルミ。オラクルベリーにもまた買い出しに行きたいし、長旅になるだろうからダンカンさんとビアンカにも挨拶しておきたい。フローラも、せっかく買った土産を早く渡したいだろうし。

 余裕があったら、もっといろんなところに行ってみたい。天空人というお伽話めいたヒントも得たのだし。もしかしたら、勇者より天女の痕跡の方がずっと追いやすいかもしれない。あの伝承を信じるなら、天空人がこの世界のどこかに存在すれば、勇者が存在する可能性もまた残されているってことなんだ。

 ひとまずその日はアンディ宅を訪問した。最後に会った彼は病み上がりで随分とやつれていたが、今はすっかり体力も戻り、彼の職分である装飾細工の仕事も再開しているという。

 そう、今まで彼のことをほとんど知らなかったのだけど、父のノルン氏は鍛冶師を、息子のアンディは鍛冶を学びつつ、手先の器用さを生かして装具の細工を手掛けているのだそうだ。若いながらも感性の光る彼の細工は好評で、アンディに宝飾品を手掛けてもらうためにノルン氏の元に魔物核の錬成を持ち込まれるようなことも多いらしい。線の細い繊細な、彼らしい仕事だ。

 フローラの婚姻騒ぎの前には、父子揃ってとある剣のデザインを手掛けたのだと話してくれた。よくよく聞くとその剣こそ、以前サラボナへ至る途中にある宿屋で旅の武器屋から購入した破邪の剣だった。彼ら親子とあの武器屋、そしてフローラのヴェールを手掛けた萬屋のドワーフ達が協力しあって、この世に再び破邪の剣が生み出されたのだ。

 僕が買い手の一人であったことは少なからず驚かれた。勿体無いのもあってまだあまり活用できていないけど、必ず使わせてもらいます、と意気込んでいうと二人とも嬉しそうに頷いてくれた。

 息子がまたいい仕事をするようになって嬉しい。失恋の痛手を乗り越えて少し逞しくすらなったようだ、と父親は朗らかに笑っていた。

 母親は遠慮がちにキッチンに篭っていて、やはりどこかもの言いたげな雰囲気ではあったけれど、表向きは親しげに振る舞ってくれた。決して僕を許したわけではないのだろうが、幸せそうで良かったよ、と僕らの肩を叩いて笑ってくれたときは少し、胸が熱くなってしまった。

「フローラがいい顔をしてくれていて、安心しました。本当に悔しいけど……今日の彼女が今までで一番、可愛い」

 アンディがこっそりと耳打ちしたそんな台詞に、僕は頰が紅潮し緩んでしまうのを必死で耐えた。アンディもまたうっすらと頬を染め、不服そうに眉根を寄せている。

 自惚れていいだろうか。彼女がますます可愛くなったのは、僕と一緒にいるからだって。

「次は僕が、彼女くらい可愛い嫁さんを見つけてみせますよ。……フローラはもう、大丈夫でしょうから」

 最後の一言は、幼馴染の、彼女の『兄』としての矜持だったのだろう。

 夏の出発前、最後にゆっくり挨拶に来た時は、彼女と気持ちを通じ合わせる直前だった。あの時のフローラはひどく気落ちしていて、そんな彼女を見送るのは彼も辛かったと思う。

 言いたいことは山ほどあっただろうに、僕を信用して送り出してくれた。そう思うと、事あるごとに嫉妬を拗らせてしまっていた自分の狭量が本当に恥ずかしくなる。

「あ。あの……時間に余裕があればでいいんですけど、ちょっとご相談したいことが」

 ふと思いつき、アンディとその父親に一つ相談をした。黙って隣に座っていたフローラも、その内容を聞いてやわらかく表情を綻ばせる。

「あんたはアンディの命の恩人だ。喜んで鍛えさせてもらおう」

「水くさいな、テュールさん。なんならそっちの剣も、出発までに持ってきてくれれば調整しますからね? 研ぐくらいなら僕にも出来るんだから」

 職人親子二人から口々に申し出をいただいて、思いきり恐縮してしまう。最初の要件をもう少し丁寧に説明すると、ノルンさんは皺が深く刻まれた温和な顔に一瞬、闘気と見紛う強気な笑みを浮かべた。

「それはますます、気を抜けない。手放すのが惜しいと言わせる一振りを鍛えなくては」

 こんな顔もなさるのか。

 鍛冶職という戦場に生きる一人の男として、老いて尚これだけの覇気を纏われるとは。全く似ても似つかぬ方なのに、この時初めて、ノルン氏の眼差しに、雄々しかった自分の父親を思い浮かべた。

「ルドマン様には父の代から懇意にしていただいておる。フローラさんの旦那の依頼を他の鍛冶師に譲っちゃあ、ノルンの名が廃るってもんだ。なぁ、アンディ」

 普段の温和さが別人のように、血の逸った様子で息子の背を叩く。フローラはさすがに戸惑った様子だったが、アンディの方は慣れているらしく「ああ、久々に親父のやる気に火がついたな。期待してやってください、テュールさん」と爽やかに苦笑している。

 ……僕はもしかしたら、とんでもない方に依頼を投げてしまったのかもしれない。

 

 

◆◆◆

 

 

 結局、ノルン家を出る頃には陽が傾き始める頃合いになっていた。これ以上の遠出はやめることにして別宅に帰り、今後の予定を改めて話し合った。

 ヘンリーも年の瀬で多忙だろうから、ラインハットには早めに謁見の申し入れをしておきたい。常識外れな訪問ばかりになってしまっているのは密かに気にしていた。と言っても、あちらに伺うといつも問答無用で奥へと通されちゃうんだけど……

 近々、朝一番でラインハットの城門を訪ねてみて、通されてしまったらそれはそれ。ヘンリーが不在なら別の日取りをとりつけて、その日は違う場所を周ることに使おう、と提案して、フローラにも頷いてもらえた。サンタローズやオラクルベリー、行きたいところはたくさんある。フローラは何も言わないけれど、オラクルベリーに行くなら修道院にも足を伸ばしてあげたい。彼女にとっては、第二の生家のような場所だろうから。

 ビアンカが住む山奥の温泉村は、定期船の片道だけで二日かかる。朝の便で出て翌日夕方到着する計算だ。今回は時間に余裕があるし、宿に一泊することになるだろうから、訪問にかかる日数は三日。もちろん出立までには行くつもりだけど、フローラには申し訳ないが正直、優先度は低い。最低三日空けてしまうことを考えると、せめて義父の帰宅を待ってからにしたい。

 絶対に外せないのはポートセルミだ。大鮹討伐で力を貸してくださった船乗りの皆さんに、無事の報告とあの時の感謝を改めて伝えたい。ストレンジャー号の到着がまだだから、彼らを待ちたい気持ちもあるけれど、特に心配とご迷惑ををかけたイヴァン元船長達には早く挨拶に行きたいと思う。

 その後、海の様子はどうだろうか。船が沈まされることはなくなっただろうか。

 大体話を詰められたところで本宅から遣いの方が来て、よろしければまた夕食をご一緒に、と義母の言伝を伝えてくれた。快諾し、支度をして小一時間後には本宅を訪問した。食事時はいつも寂しいけれど、皆がいると賑やかで楽しい……そう嬉しそうに言っていた義母を思い出すと、サラボナに滞在している間の誘いはなるべく断りたくない、という思いがひしひしと湧いてくる。

 義母は今夜も上機嫌で僕らをもてなしてくれた。僕でも飲める口当たりの軽い上等なお酒と料理を絶妙なタイミングで勧めてくれる。

「テュールさんみたいな素敵な息子ができて、本当に嬉しいわ。本当の母親と思って甘えていいのよ」

 母性溢れる優しい声でそんなことを言われると、甘酸っぱいような気恥ずかしいような、くすぐったい気持ちになる。

 更には「あなたのお母様もきっと、あなたに会える日を待ち焦がれていらっしゃるわね」と囁かれ、つい熱いものが胸に込み上げてしまった。

「フローラ、あなたもますます身体には気をつけて。元気な赤ちゃんを産まなくちゃね」

 不意打ちの一言に、ばくん‼︎ と心臓が飛び出しかける。フローラも恥ずかしそうに頬を染め「もう、お母様ったら……」と俯いた。まさか、いやしつこいかと思いつつ「フローラ、もしかして……?」と耳打ちしたが、真っ赤な顔でぶんぶん首を横に振られてしまう。そういうことじゃないのか、残念。実は授かっていて、真っ先に母親に相談したのかと早合点してしまった。

 和やかな歓談の最中、館の主が帰宅したとメイドさんが伝えに来た。奥方が先頭に立ち、全員揃って表で義父を出迎える。

 半年ぶりの義父は相変わらず恰幅がよく、噴水広場の橋を渡ってこちらへ向かっていたときには少し険しい顔をしていたが、僕達を目にした途端、一気に表情を和らげた。

「おお、戻っていたか! 二人とも無事で何よりだ」

 小走りに駆け寄り、満面の笑みで僕とフローラの背をばんばん叩く。僕はともかく、フローラの肌が傷つかないか心配になる。その後ろには、以前お世話になった航海士のクラウスさんも控えていて、ああ、船での視察だったのだな、と納得した。さりげなく目礼を送ったら、クラウスさんも嬉しそうに目配せを返してくれた。

 大広間に戻ると既に義父の席が用意されていた。グラスに酒を注ぎ直され、僕達と義父それぞれの帰還を歓び乾杯をする。さっきの難しい顔が嘘のような上機嫌で、義父は早速身を乗り出すと、例の海戦について話し始めた。

「セルマー海峡に巣食っておったのは船より巨大な鮹の魔物ということだったな。よくぞ見事、仕留めてくれた。お仲間の魔物殿がその身を賭けてとどめを刺してくれたと、イヴァン達から聞いたが」

「はい、それでしたら……彼です。かなりの損傷を負いましたが、無事治癒しまして、今はもう恙無く」

 屋敷の主人が戻ったため、広間の隅で大人しく料理を摘んでいた仲魔達の中からピエールを手招きして呼んだ。話は聞こえていたのだろう、すぐに緑のスライムを従え僕の横に並ぶと、スライムとともに恭しく首を垂れた。こういう振る舞いを見ると、彼はつくづく誰より騎士らしい騎士だと感じる。

 切羽詰まったあの場で僕を厳しく叱責し、命じた役割を完璧に遂行してくれた。功績は正しく評価されるべきだ。

「父君の御前にて恐れ入る。スライムナイトのピエールと申す」

 跪き、手短に名乗った小柄なスライムナイトを見下ろして、義父は威厳たっぷりの低い声で彼を呼んだ。

「顔を、あげてくれんか。死の火山で負傷したノルンの息子を、いち早くこの街へと運んでくれたのはそなたらであろう」

 はっきりとは答えなかったが、恐らく肯定の意志を込めてピエールが頭を上げた。つるんとした鉄仮面を満足げに見遣り、義父はどこか嬉しそうに言葉を続ける。

「有り体に申せば、儂には魔物であるそなたらの胸中は測りかねる。だが、さすがはテュール……我が息子が信を置く仲間達であると。今儂は、心から感服しておるよ」

 そんなふうに、言っていただけるとは。

 たった今初めて僕を呼び捨てで────息子と、呼んでくれた義父は、目の前の鉄仮面をまじまじと見つめ、おもむろにこう付け加えた。

「何か望みがあれば言うがいい。出来る限りのことはしよう」

「ふむ。そうですなぁ……」

 辞退するものと思ったが、意外にもピエールは興味深そうに軽く唸ると、鉄仮面の顎を撫でながら何やら思案し始めた。

 剣が欲しい、と言われたらどうしようか。内心ひっそり汗をかく。というのも、さっきノルンさんに依頼したのは正しく、ピエールのための剣なのだ。宿屋で買った出来合い品の鋼の剣を文句一つ言わず使ってくれている彼だが、普段の働きを労いたい気持ちも込めて、特別な一振りを持たせてやりたかった。

 アンディを助けた時は僕の代わりに仲魔達を指揮して戻り、家に運び込んだ後はホイミンと協力し合ってアンディに治癒魔法をかけ続けてくれた。その姿はノルンさんも見ていて知っている。だからこそ、彼が剣を失った話をした時、ノルンさんは目の色を変えたのだ。

「……既に、許しを得ているものとは思うが」

 やがて、長い沈黙の後。ピエールは落ち着き払った様子で切り出した。うむ、と促すルドマン卿の前に改めて膝をつき、彼は低く、厳かに告げる。

 

「これから先、如何なることがあろうとも、奥方殿があるじ殿のお側を離れぬことを……改めて、お許し願いたい」

 

 ──────え。

 弾かれたように、顔を上げる。フローラもほとんど同時にピエールを凝視した。僕も驚いたけれど、フローラの驚愕はそれ以上だった。

 息を止めたように呑み、翡翠の瞳を大きく揺らめかせる。

 吸い込まれた細い息は彼女の動揺を生々しく伝えていた。

 そんな僕らをちらりと見遣り、ピエールはふ、と空気を揺らして苦笑を露わにする。

 多分、君はこの後義両親に打ち明けるつもりでいた『あの話』に関して、先手を打ってくれたのだろう。それについてはもう少し、落ち着いてからお二人に切り出すつもりだった。フローラがどうこうではなく、僕自身の出自に関する話として。

 仲魔達にはテルパドールを発つ前夜、僕から話をした。

 普段あまり動じない皆にもそれぞれに驚きがあったようだが、グランバニアを目指すと告げて、異論を唱える者はいなかった。

 フローラは卿の一人娘だ。普通なら彼女は卿の跡取りで、僕は入婿ということになる。けど、卿は僕が後継に縛られることがないよう、そういった取り決めをしないでくれている。結婚してフローラの同行を許されたとき、僕の旅の目的についてもちゃんと打ち明けた。父の遺言を果たし、魔族に攫われた母を取り戻したいのだと。いつか全てを終わらせた暁にはきっと家族揃って暮らそう、そう言っていただいたこともある。だが、もしもこの先、グランバニア……でなくとも、僕がどこか別の場所に骨を埋めようと思ったら、卿の跡を継ぐことは確実に出来なくなる。まして僕の父パパスが万が一、本当にグランバニアの国王であったなら────僕の立場がどうであれ、大陸も隔てた遠いサラボナに居を構える可能性はきっと、限りなくゼロに近くなってしまう。

 ルドマン夫妻の大事な大事な一人娘。僕のために実の親から一生、遠い地に引き離してしまうかもしれないと思うと心苦しい。今まではほとんど故郷のない、根なし草みたいなものだったから良かったのだ。フローラのお陰で、僕にとっても今やサラボナは、サンタローズの次に自身の故郷とも思える場所になっているのだから。

「奥方殿はあるじ殿に必要な方である。……これは我々、あるじ殿が配下一同の総意でもある」

 淡々と響くピエールの声を聞きながら、僕もまた感極まってしまうのを堪えられなかった。

 フローラが加わることに難色を示した仲魔はいない。けれど、皆が皆、初めから彼女を共に戦う仲間として迎え入れたわけでもなかった。

 まだ何も出来ない。戦力には数えられない。

 それはフローラに限ったことじゃないし、だからこそ彼らは彼らなりに自然に受け入れてくれたのだとも思うけれど、どうしたって庇護される『客分』に過ぎない居心地の悪さはフローラもずっと感じていただろうと思う。

 結婚する前から、仲魔達を恐れず接してくれた。旅を始めてからは自ら役割を得たいと言って学び、力を高め、励み、自分に出来ることを常に模索しながら共に歩んできてくれた。

 そんな彼女を、他ならぬ仲魔達が、僕の片腕でもあるピエールが、いつの間にかこんなにも認めてくれていたのだと。

 そう思えることがあまりにも、嬉しかったのだ。

「……君達にそこまで言ってもらえる我が娘を、心から誇りに思う。フローラ」

 やがて、義父の太い静かな声が、包み込むように娘を呼んだ。

「しっかりやりなさい。夫と、彼らをこれからもよく支えるように」

 

 ……思えば、義父はいつだってフローラに厳しかった。

 僕にはいつだって甘い方だけれど、娘に対してこれほど優しく声をかけているところを見たのは、多分これが初めてだった。

 

 フローラはもう、翡翠の双眸を大きく見開いたまま、瞬きも忘れてピエールと父親、そしてその向こうの仲魔達を見つめていた。一つ目をほんわか細めて見守るガンドフに抱かれ、スライム属達が励ますようににこにこ笑っては跳ねたり、触手をくねくね振ったりしている。プックルは相変わらず頓着しない様子で寛ぎ、深くローブを被ったマーリンはさも当然と言いたげにすました顔で静かに座っていた。ピエールからももう一度困ったように笑った気配がして、彼女はついに両手で顔を覆った。俯き、何度も頷いては、はい、ありがとうございます、と懸命に声を絞り出す。

 指の間にじわりと涙が滲んで、そうして必死に嗚咽をこらえるフローラをそっと抱き寄せ、震える背中を繰り返し撫でた。

 ……ずっと、

 実家に関わるたびにそれとなく感じていた、フローラの萎縮めいた緊張が、彼女の涙と共に少しだけ解れていくような。

 そんな気が、した。

 

 

 

 フローラの嗚咽がおさまった頃、改めて義両親に向き合い、アイシス女王からお聞きしたグランバニアの話を切り出した。

 と言っても、王位云々まで話すのはなんだか気が引けて。

 単に父が、祖国の王様と同じ名を頂いただけかもしれない、そういう名付けはよくあるだろうし。と自分に言い聞かせ、その辺は濁して、自分の父がそこの出身であるらしいということだけお話しすると、意外にも卿はさほど驚いた様子はなく、ふむ、と軽く頷きながら顎髭を撫でた。

「君の剣にグランバニアの国章が刻まれていることには前々から気づいていた。黙っていてすまなんだな」

「────そう、だったのですか?」

 少なからずの動揺が声に出てしまった。僕に向かって軽く首を傾げ、義父は好々爺の如く優しく目許を緩ませた。

「以前、お父上の形見だと言っていただろう? しかし君はサンタローズの出身だと言っていた。ならば父君は恐らく、グランバニアの名のある戦士の家柄だったのだろうと思っておった。幼くして父君を失った君は自らの出自を知り得なかったのだろう、と」

 淡々と紡がれる義父の声は、寄る辺なき孤独な子供を労るように温かい。

 かつて失くしてしまった宝物を、そっと手渡されるような。

「……だから、旅の宛てがなくなれば儂から提案してやろうと思っていたのだが。先を越されたな」

 ひっそりと義父が苦笑して、ああ、と僕も頷いた。だから義父は僕にまず、勇者の墓のことだけ伝えたのだ。グランバニアは遥か遠く、テルパドールの方が確実に勇者に……、僕の目的に繋がる情報だったから。

 納得した様子の僕を見て義父は目を細め、次いで椅子の傍に立てかけた剣鞘をじっと見た。

「その剣、鍛治師ではない儂にもわかる。そんな大層な剣はグランバニア王家から直々に賜るか、王族でもなければ持ち得まい」

 さらりと告げられたその言葉に内心、緊張が走る。少し早まった鼓動を落ち着けながら卿の表情を窺った。

 一体この方は、何をどこまで勘づいていらっしゃるのだろう。

 僕の焦燥を気にも留めず、卿は濃い酒を舐めて唇を湿らせるとグラスを置き、すっかり暗い窓の向こうを遠く見遣った。

「イヴァンから聞いた。幼かった君とお父上に、儂は会ったことがあるそうだな。フローラも」

 唐突に話が変わって、戸惑いながらも頷いた。フローラもまた隣で小さく同意する。

「言われるまで思い出せんとは、儂も耄碌したものだ。確かに昔、ビスタ港でうちの船に乗り込んだ時、入れ違いに降りていった客人がいた。屈強で、不思議と風格のある御仁だったよ。フローラと同じくらいの少年を連れていた。……あれが、君だったのだな」

「はい。……あ、でも、僕もストレンジャー号の甲板に立って初めて、思い出したので」

 少し狼狽えながら答えると、卿はまたひっそりと笑いグラスを揺らした。一息に煽れば奥方がさりげなく酒瓶を傾け、琥珀色の液体を上品に注ぐ。

「グランバニアは遠い。非常に峻険な峡谷に抱かれるように建つ国でな。君ぐらい若い頃、あちらの大陸を少し放浪したことがあるが、いや大変だった。いくつかの村を渡り歩いたが、当時ですら廃村となった処が少なくなかった。とにかく険しい崖道が多い、魔物も跋扈していてな。……王城を一目拝みたかったが、結局随分離れた村から木々に埋れ建つ城の頂を見ただけで諦めてしまった」

 義父の話に耳を傾けながら、以前酒を酌み交わしながら聞いた内容を思い出していた。

 山奥深くの秘境に建つ城とは、グランバニア城のことだったのか。

「もう二十年以上経つから、少しは通りやすくなっておると良いのだが。船で三ヶ月、山越えに何ヶ月かかるかな。高山では空気が薄く、それで命を落とす者もある。苛酷だぞ。フローラ、お前は数ヶ月の野外生活に耐えられるのか」

「はい」

 鋭い卿の問いかけにも、フローラは揺るぎなく即答した。

「テュールさん達の足を止めさせることは致しません。ご安心ください」

 背筋を伸ばし、凛として宣言する妻は本当に頼もしく、美しい。この繊細な風貌のどこにそんな覇気を宿しているのかと思う。半年前、この場で出立を許された時の力ない様子は見る影もない。「やる気だけで越えられれば苦労はせんのだぞ。まったく」と卿は尚もぼやいたが、つい嬉しさを隠せず彼女を見つめてしまった僕をはたと見てとると、ごほん! とひとつ咳払いをして誤魔化した。

「君の生い立ちに関する話だ。その目で確かめてくるといい」

 よくよく準備を整えて行くのだぞ、と言い置いて、義父は一度言葉を切った。オラクルベリーに行く前に必要なものを洗い出さなきゃね、とフローラと小声で話していると、彼はいつの間にか随分と神妙な面持ちで、押し黙ったままじっと僕らを見つめていた。

 目が合うと、その眼差しに重い悔恨の色が過る。

「……君達に詫びねばならんことがある」

 何かを伝えようとしてくださっているんだろう。卿の正面へと向き直り、唇をひき結んでしばらく待つと、義父は再び溜息をつき、眉間を指で揉んでから、視線をテーブルの上に落とした。グラスの中、少なくなった液体が照り返す洋燈の灯りをぼんやりと眺めて、彼はようやく重い口を開く。

「手紙を受け取ってすぐ、ナサカに人を手配した。だが……」

 苦く言葉を濁され、すぐに意図するところを察した。僕達が去った後恐らく、ナサカはすぐ、あの魔物達に────

 隣のフローラが僕の二の腕をきゅっと掴む。動揺は伝わったが、彼女は今度こそ気丈に顔を上げて父親を見つめていた。

「半数以上の住民が殺害、もしくは拉致されたそうだ。……行ってみるかね」

 言葉とは裏腹に、卿はひどく気が進まない様子だった。大事な一人娘をわざわざ、惨劇のあった土地になど行かせたくはないだろう。だが、他ならぬフローラが真摯に頷いた。視界の端でそれを確認して、僕も「はい」と肯定すると、卿は疲れた表情で深く溜息をついた。

「念のため三人ほど、あの周辺に駐留させている。……葬儀は済ませた。詳しいことはあちらの者から聞くといい」

 重々しい通告を受けてまた頷く。何から何まで対処していただき言葉もない。ちらりと娘の表情を確かめ、また一層辛そうに卿が言い澱んだ。

「生き残った者が数名、カボチに移った。話を聞きに行っても良いが────フローラ。お前は今回、行かんほうがいいだろう」

 何故、とフローラは切実な瞳で訴えたが、義父も真剣な眼差しを返す。

「青髪の女を出せと、襲撃してきた魔物に問われたそうだ。お前を逆恨みしておるかもしれん。……この上、つまらん諍いの種を撒いてくれるな」

 びくり、フローラが肩を縮こませ小さく震えた。同じく黙って話を聞いていた義母も、哀しげな瞳を娘に向けた。

 それはまるで、彼女の所為で集落が襲われたと言っているも同然で。

 ナサカの浜で僕達を責め立てた人々の顔を思い返せば、僕とフローラが今どれだけ恨まれているか、聞かなくともわかってしまった。僕も正直、あんな酷薄な視線の中に二度とフローラを曝したくない。

 あの少年がもしも無事なら、フローラも馬車に隠して連れて行こう。でも、カボチにいなければ、卿の言う通りわざわざ火に油を注ぐこともない。

 犠牲者が出てしまった。取り返しはつかない。それでも……あの少年が、約束を違えず生きていてくれることを願ってしまう。

 まだ相談したいことはあったけれど、大分遅い時間になってしまった。四、五日後に戻ることを言い置いて、邸を辞した。卿はカボチの生存者を見舞ったのか、その方達の特徴がわかれば教えてもらえないかと別れ際に問うたところ、子供はいなかったはずだと返され、ますます肩を落として帰路に着く。

 サラボナからナサカの集落まで、普通に向かえば馬車で五日。パトリシアの頑張り次第で少し早められるだろうか。夜のうちに手早く出発準備を整えて、その夜はすっかり消沈したフローラを抱きしめながら就寝した。

 短い睡眠を取ったあと、まだ陽が昇る前の薄暗い時間帯に、僕達はひっそりとサラボナを発った。

 

 

◆◆◆

 

 

 もう五ヶ月近く前のこと。懸念がなかったわけではない。

 今だって心のどこかで、ああやっぱり、という思いがある。

 残党がいたんだろう。とどめを刺しきれなかった魔物があの後報告して、報復した。怒りのあまり挑発したことが今更悔やまれる。フローラの存在も気取られている。あれからかなり時間が経っているから、そうそう襲われはしないだろうけど。

 気づかれたら危ない。極力外に出さないようにしないと。

「以前、テュールさんは……魔族、その教団が、誰かを探しているようだって、仰っていましたよね」

 ほとんど休みなく馬車を走らせてすっかり陽が傾いた頃、洞窟の手前、旅人の多い小さな祠近くで休息を取った。結い上げた髪を帽子で隠したフローラが、いつもの雑穀粥を器に注ぎながらぽつりと呟いた。

「……もしかしたら、勇者様を……探しているのでは、ないでしょうか。彼らも」

 ────そうかもしれない。

 今まで全く考えなかったわけではないけど、彼女が静かに告げた一言は、何故だかすとんと腑に落ちた。

 あいつらがどこまで情報を持っているかはわからない。けど、もし奴らが、勇者が天空人の血を引く存在だってことを知っていたら? あの時の不思議なベホイミだって、その血の所為だと誤認されたんだろうか。いい迷惑だ。

 そういえば確か以前どこかで誰かが、大昔に天空城が落ちたって言ってなかったか。それから、人間に悪意を持つ魔物が跋扈するようになったんだって。

 勇者が生まれないよう、先んじて天空界を滅ぼして。それでも勇者が現れる予兆は消えなくて、だからこそ奴らは今、人間界をしらみ潰しに探している。

 ……だとしたら、やっぱり神なんていないんだ。

 皮肉すぎて笑ってしまう。神はかつて世界に勇者を与えたかもしれないが、同時に侵略の火種をも産んでいる。それでいて、真実この世界を救えるのは、それほどまでに魔族から恐れられる存在とは、もしかしたら天空界もすべて含めて、人と天空の血を合わせた『勇者』だけなのかもしれない。

 神は既に人間の庇護者ではない。人間を守れるのは人間でしかない。天空の血が入っていようが、彼はきっとこちら側の人間だ。だからこそ『勇者』と呼ばれるのだ。

「だとしたら、ある意味希望はあるよね。多分、まだ『見つかってない』ってことだろう?」

 集めた薪を少しずつ焼べながら、静かに答えた。焚火の赤い光に照らされた妻が頬を傾けて、透明な瞳をこちらに向ける。

「子供ばかり狙うのも、もしかしたら。アイシス女王の予知みたいなことが、魔族にだって出来るのかもしれない。……何十年も前から、勇者が生まれる予兆があるのかもしれないよ。子供のうちにその芽を摘もうとしてこの現状なら、逆に言えばまだ、希望はある」

 淡々と言い切るとフローラはそっと頷き、膝の上で粥を啜りながら見上げるしびれんを優しく撫でた。そうしてまた、ぱちぱちと炎が爆ぜる様をぼんやりと見つめた。

 能天気な考えだと、我ながら思う。勇者の卵がとっくに狩られている可能性も否定はしない。でも、ここまでなりふり構わず子供を、変わった髪色の人間を狙ってくるなら────恐らく、奴らもまだ手応えは得られていない。屠るためか、自分達の手中に落とすためかは知らないけど、探し物を見つけるために、こんなにも躍起になってる。

 見つけてやる。必ず、奴らより先に。フローラだって絶対に、渡さない。

 そのまま交代で仮眠をとり、まだ明け方にもならない頃、サラボナ北の長い洞窟に入った。出没する魔物は以前とさして変わらない顔触れだが、どうしてもキメラだけは警戒してしまう。髪を隠したとはいえ、一度でも見咎められて奴らの中枢部に知られたら。

 とにかくフローラは幌の奥に隠して一切外に出さず、戦闘も全部僕と仲魔達で切り抜けた。何もさせてもらえないのは辛いだろう。女王から戴いた杖を得て、僕の力になりたいと言ってくれたばかりの君だから、余計に。

 それでも、文句ひとつ言わず馬車に閉じこもる君の様子から、父親に戒められたのが相当応えていることも痛いほどわかった。

 君は何も悪くない。今はただ、あいつらの標的になってしまっているだけなんだ。

 洞窟を抜けてしまえばあと二日ちょっと、やっとパトリシアを走らせられる。そこからはもう、トヘロス頼みで魔物を振り切りながら馬車を飛ばした。所々に見える雪景色を楽しむ余裕もない。休息もそこそこに先を急いで、三度目の日付も変わろうという頃、旅人で賑わうあの辺境の宿屋に駆け込んだ。突如現れたサラボナの白薔薇を見て驚く人々に構わず、一部屋確保してやっと息を吐く。パトリシアの脚と首もよくよく冷やし、腹帯を替えるなどしてここまでの頑張りを労った。

 朝になればもう一息、森を抜けて昼にはナサカの浜に着くだろう。墓標が少ないことばかりを心密かに祈りながら、フローラと僕は束の間の眠りについた。

 

 

◆◆◆

 

 

 人気のない砂浜に、フローラとホイミン、ピエールを伴い静かに降り立つ。

 壊れかけた大きな客船がないこと以外、ほとんどあの日のままだった。波が寄せては返すだけの砂浜には足跡ひとつない。風が、海岸の奥の森を涼やかに通り抜けて、さわさわと木々が鳴る音がした。あとはもう、波の音だけ。

 哀しいほど静かで────本当に誰も、いなくて。

「あっちの方かな……、集落」

 ぽそりと呟いたら、真っ先にピエールを乗せた緑のスライムがぽよんと跳ねた。彼に続いてホイミンが呼応するように、僕らの周りをくるりと飛んでトヘロスを施してくれる。

 帽子を深く被り、防寒具に身を包んだフローラの手を引いて、さくり、と砂を踏みしめ歩き出した。

 十五分ほど歩いたところで、ぼろぼろに朽ちた藁葺き屋根がいくつか見えてきた。

 もう昼時だけれど、どこからも煙は上がっていない。放ったらかしの畑に作物は残っておらず、誰かが持って行ったのかと思ったけれど、少し行った先におびただしい墓標が立てられており、そこにいくつかの野菜や果物が供えられていて────生き残った方か、ここに駐留している方々が置いたのかもしれない。

「失礼いたします。ルドマン様御息女フローラ様と、若旦那様でいらっしゃいますか」

 集落の入り口と思しき大きな岩の前には、鎧を着た壮年の男性が立っていた。僕達を見つけるとすぐに声をかけてくれる。

「はい、ルドマン家の者です。寒い中こうして見張っていただき……本当に感謝しております」

「そんな、恐縮です。あの、この度は……本当に残念なことで」

 フローラが帽子を押さえながらしなやかに腰を折り、僕も彼女に倣った。彼女こそ碧髪の乙女であることを把握しているであろう男性は、少しばかり狼狽えながら弔詞を告げたあと、僕達を集落の中へと案内してくれた。

 ホイミンとピエールはそこに残った。魔物が来た時すぐに対応できるよう、衛士の方の代わりに見張ってくれるつもりなんだと思う。

 二日、三日ごとに交代で、ここと周辺の集落を巡回してくださっているのだという。他の漁村に被害はないと聞かされ心底安堵した。もっと内地、サラボナ寄りの小さな村に実家があるというその男性は、卿の呼集を受けて駆けつけた時のことを丁寧に話してくれた。

「我々が到着した時には魔物は退いたあとでした。恐らく抗戦したものと見ていますが、生存していたのは四人のみ、……死者が十名ほど。こちらが、生存者の言を元に書きつけた住民のリストになります」

 集落の中にいたもう一人の衛士から数枚の紙を手渡され、フローラと共にざっと眺める。一枚の紙には名前が四つ、あと二枚の紙にずらりと、もういない人々の名前が羅列されてあった。

「名の下に線を引いたものが女子、頭に印を入れたものが子供です。当時集落にいた子供は三人、すべて連れ去られたようで死体が見つかっていません。生きたまま拉致されたという保証もないのですが」

 ……泣いてしまうかと、思ったけれど。

 赤く染まる目をそれでも気丈に見開いて、妻はまっすぐ顔を上げた。凛とした眼差しで前を見据えた彼女は二人の衛士を見比べ、願いをはっきりと口にする。

「お墓を、見せていただいてもよろしいですか」

 折れそうに華奢な佇まいからは考えられないほど強い、彼女の声に気圧されつつ、男性達が頷いた。久々に大公令嬢として立つ彼女の横顔を見て、思わず嘆息する。

 そうして先導していただき、今来た道を戻って行った。血の匂いこそしなかったが、漁村にはもうなんの生活臭も感じられなかった。所々に散る黒い血痕を遺して、壊れたまま、割れたまま直されていない戸や窓が惨劇を物語っている。

 さっき通り過ぎた墓地に辿り着くと、「この一角が、今回の犠牲者の墓になります」と衛士の一人が示してくれた。使い込まれた飾り気のない十字架を胸許から取り出し、フローラはまだ綺麗なその墓標ひとつひとつに向かって丁寧に祈りを捧げた。僕もまた清い水を汲んで備えられたものと入れ替え、フローラに並んで指を組み深く祈りを捧げていく。

「……あの時の……お父様、亡くなられたのですね」

 ゆっくり手を合わせながら墓場を周っていたフローラが、その内の一基の前で足を止めた。

 僕もまた、黙って彼女の肩を支えて隣に立つ。

 さっき見たリストにも、キト少年と同じ姓はこの方だけだったから間違い無いだろう。

 ナグ・マハト。……漁師らしい、屈強な体つきの方だった。黒く日焼けした身体は筋骨隆々としていて。フローラを突き飛ばしかけたり、看過できない瞬間はあったけれど、彼が息子を……家族を、とても大切に想っているのだということだけは、はっきりと伝わってきた。

 あんな騒ぎがあって、結局こんなことになって。彼にとって僕とフローラは正しく、悪魔の遣いとしか思えなかっただろう。

 激昂した顔しか思い出せないけれど、彼もまた、息子を守るため魔物と戦ったのだろうか。

 長く、静かに黙祷を捧げたあと、フローラは傍らに佇んだ男性の方を向き直り、後ほどこちらのマハトさんという方のお宅に案内していただけますか、と請うた。承諾をいただいてからまだ祈りを捧げていない墓標を順番に周り、十基すべてを清めたところで改めて、集落の中に戻った。

 マハト氏の家は集落の入り口に程近い、井戸のすぐそばにあった。井戸の外壁にべったりと黒い染みがついていて、ここで惨劇に見舞われたことが推察できた。

「ここで、銛を握りしめて息絶えておられました。すぐそばにご子息のものと思われる靴と、帽子が……」

 それを聞いた瞬間、フローラが弾かれたように顔を上げた。目で訴えるとすぐに、こちらです、とすぐ近くの民家の玄関口に案内される。扉付近にある棚の上、それらしいものが置かれているのが見えた。見覚えのある帽子と、小さな茶色の靴が片方。

 失われるにはあまりに小さい、あどけない生の証だった。

 深く俯いたあと顔を上げた妻は、その二つの忘れ形見を貰い受けたいと申し出た。いつか返してあげたいから、と告げる妻の真意を測りかねた男性達はひどく戸惑っていたようだったが、少し相談しあったあとその二つを渡してくれた。

 小さな帽子と靴を、汚れも厭わず抱きしめた妻の背中は、いつもよりずっと儚く、悲しく見えた。

 

 

◆◆◆

 

 

 ささやかな弔いを終えて、四日ぶりにサラボナへ戻った。

 本宅で休んでいた義父を訪い、結局ナサカの集落だけ見舞ったことを報告した。悼ましく顔を歪めた義父だったが、労い以外のことは口にしなかった。強行軍で漁村までの道のりを走破してくれたパトリシアと仲魔達を労い、その日の夜は久々に、別宅でフローラと夕食を用意した。

 お互い、気持ちがどうしても喪に服してしまう。いつもなら弾む会話もなく、淡々と食事を終えて、それぞれ湯浴みをして。明日以降の予定も何も話せず、粛々と就寝準備を進めた。

 ……ああ、そうだ。ラインハットに行って、謁見の申し入れをしておかないと。

 濡れた髪を拭きながらぼんやりとそんなことを思う。早めにしなきゃと思っていたのに、ナサカのことで頭がいっぱいで、すっかり忘れていた。

 ベッドに入っても、今日はやっぱり睦み合うような雰囲気にはならなくて。でもいつも以上に離れ難いような気もして、相手の吐息が感じられるくらいの距離で手だけゆるく繋ぎ、真っ暗な部屋の中から窓の外の雪明かりをぼんやりと眺めていた。

 夜半から降り始めた雪は、地上に着く前に消えてなくなりそうな淡い粉雪で、白い小さな欠片が街の灯りを照り返して輝く様がひどく幻想的だった。

 フローラもやっぱり眠れないみたいで、静かな呼吸だけ繰り返しながら、シーツの中で小さくうずくまっていた。

 ────もしも、拉致されたっていう彼らが生きたまま、神殿に連れて行かれていたとしたら。

 絶対とは言えないけど、きっと大丈夫だよ。

 苛酷っちゃ苛酷だったけど、僕でも十年、命を落とさず過ごせたんだから。何だかんだであいつら、人が死に過ぎないよううまく使ってたし。子供になら優しい人も多かったよ。キトや、他の子供達も、彼らが諦めなければきっと生き延びられる。いつかきっと、また会える。

 ……勇者に会えれば。勇者ならきっと、彼らのことも助け出してくれる。

 頭の中で、妻に語りかけたい言葉をいくつもいくつも考えたけれど、どれもこれも、あまりに無神経な物言いでしかないように思えて、結局何も言えなかった。

「……きて、いると、思いますか」

 そうやって意味もない思考をひたすら巡らせていたら、唐突にフローラの鈴の声が、静謐な闇をそっと震わせた。

 雛の羽音みたいだと、いつか思った。とても密やかな君の声。

「……生きていると、思うよ。僕は」

 願望なんかじゃなく、はっきりと答えた。約束したからなんて甘いことを言うつもりはない。船の掌握に失敗している今、新たな労働力は喉から手が出るほど欲しいだろうから。

 そう言う意味でも、育ち盛りの人間の子供をうまく生け捕りにできたなら、奴らはそう簡単に殺しはしない。

 使って使って、動かなくなるまで使い潰してから、だよ。あいつらなら。

 懐に寄り添った、ほんのり温かい頭をそっと撫でた。額からゆっくり頰へと滑らせたところで、その指の先がじわりと濡れていることにようやく気づく。

 ────いつから、泣いていたのだろう。

 身体を強張らせて、息も殺して。ただ溢れる哀情に、白い頰を静かに湿らせて。

 フローラはもうずっと泣いていた。深く埋めた顔の下、柔らかい敷布に涙も音も全部吸わせて誤魔化しながら……泣いていた。

 気づかなかったなんて。こんなにも近くにいて、一人で泣かせてしまっていたなんて。

「っ……ごめ、…………なさ、い……」

 僕に気づかれて、彼女がやっと深く息を吸った。ひぃっく、としゃくりあげた声があまりにも痛くて。ずくんと心臓を穿たれたような痛みを覚えた、刹那。

 胸が張り裂けそうな、彼女の、

 か細すぎる叫びが耳を貫いた。

 

「わたし、が……っ、私が、あの子を……あんな目に、遭わせたのだと……あの時、もし私が捕まってさえ、いれば……!」

 

 数日前、義父にナサカの件を聞かされてからきっと、ずっとずっとずっと耐え続けてきたものが。

 堰を切ったように溢れ出る痛々しい彼女のそれを、薄明かりの中、ただ息を呑んで見下ろした。

 それを口にするのが、君を守ろうとした人達の想いを蔑ろにするようなものだと。君はよく理解っている。

 それでももう、吐き出さずにはいられないんだってことも。

 君の所為じゃない。初めに少年が襲われたのは船とは関係なかったはず。君がその身を犠牲にしていれば良かっただなんてこと、絶対、絶対にないから。

 そう、言ってやりたくても。

 奴らが気づいて奪いそびれた『碧髪の女』の存在が、更なる襲撃を招いたことは事実で。

 少なくとも、被害者である彼らから見たら何も変わらない。こちらの事情なんて関係ない。

 報復に巻き込まれ、最悪の悲劇に見舞われたのは彼らであって、僕達じゃなかったのだから。

 罪深いよ。君の温もりを確かめながら思う。震える肩を抱きながら思う。だって、それでも僕は。

「……前にさ。メッキー、一緒に見送っただろ。真夜中の、船のデッキで」

 小さな頭を胸に埋め、声を殺して泣く君の耳許に低く、独白を落とした。心許ない君を壊してしまわないよう、優しく、包むように抱き寄せて。

「今になって、君の気持ちがすごい、わかる……」

 愚かだ。残酷だ。そう言った君の気持ちも、痛いほど。

 だって、僕も同じだ。今だけはあの人達を悼んでいたい。キト少年の無事だけを案じていたい。そう思うのに。

「フローラが無事で……ここに、いてくれて……僕のそばにいてくれることが、こんなにも、嬉しいって……!」

 もう、抑えきれなくて。

 ぎゅうっと力を込めて、ほとばしる衝動に任せて、腕の中にか弱い君を閉じ込めた。ふ、と小さく呻いたフローラが苦しげに身動ぎする。呼吸もままならないほどきつくきつく抱きしめて、もう必死に、頭に浮かんだ言葉をそのまま紡いだ。

「僕は今回のこと、フローラの所為だなんて思わない。全然、自分を責めなくたっていいって思う、けど」

 伝わって。いつも拙くて、全然うまく伝えられない僕だけど。

 今だけはどうか、ちゃんと伝わって。これだけは。

「君が罪だと思うなら、僕も負いたい。同じ苦しみが欲しい。半分じゃなくていいよ。全部だって望むところだよ。……泣いていいから。僕の前でだけは我慢しないで、思いっきり泣いていいから────」

 どうか、生きて。

 どんなに自分を許せなくとも、誰が君を許さなくても。存在することまで否定して、絶望してしまわないで。

 今にも粉々に壊れそうなほど泣きじゃくる君を、抱きしめても抱きしめても足りなくて。上半身を起こして、彼女の涙で湿りきった自分のシャツを脱ぎ捨てた。拒絶しない君のやわらかな寝衣もたくしあげて剥ぎ取って、滑らかな白い素肌を僕の固い身体で覆い隠す。

 ……とくん、とくん。

 生身の、ぬるい肌と肌をぴたりとくっつけ合えば、君の心音と体温が心地よく、僕の奥まで浸透して。この心をどこまでも切なく、震わせていく。

 安心する。言葉にできないくらい、君の存在が僕をこんなにも落ち着かせてくれる。

 こうしていないと耐えられない。互いの温もりで傷を塞がないと、無数に刻まれた心の傷が苦しみに曝されて壊されてしまう。君の涙がどこまでもしみて、身を引き裂くほどの激痛に変わってしまう。そんな気が、して。

 それ以上、何も言葉は要らなかった。濡れた睫毛に胸板を押し当てて、何度も何度も頬を拭った。儚い吐息が魂を震わせる。碧い美しい髪の毛も、繰り返し優しく梳いて。

 慈しみ、穏やかに愛し合いながら、僕らはただ寄り添いあい、癒しあって、その長く苦しい夜を越えたのだった。




天罰の杖は本来グランバニア洞窟にあるものですが、今この世界観で道端にぽいっと宝箱があるっていうのがそぐわない気がしてこのようにしてしまった。死の火山の魔封じの杖は単に取れていない想定です。あとあれ見てくれがちょっと、テュールはこれ妻に持たせないだろうなと思って。髑髏の杖やねん。
本当はモーニングスター振り回させるのが正解なんですが、うちのフローラさんは身内に事故る気しかしないのでなんとなく持たせなかった。笑。でも実際の私のセーブデータでは、結婚した日から彼女はグリンガムの遣い手です。
SFC版当時は何故か、理力の杖を持たせてたイメージが強いです。何故だろうな。

この帰郷時期の夫婦の営みをじっくり書きたくて、pixivの方にR18の別シリーズを設けています。と告知だけ。Bright Azureは全編自分がフローラといちゃいちゃしたくて書いてるだけの妄想小説です‼︎‼︎‼︎


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#23-1. 手繰り綾なす【終章2】(1/2)

 久々に訪れたラインハットは雪が深かった。

 きりきりと骨まで響く冷え込みが古傷に堪える。二年ほど前にもオラクルベリーに長く滞在していたが、ここまでの雪は見なかった。尤もサンタローズやアルカパの方には山が多く、平野部にあるオラクルベリーに比べると雪が積もっていた印象がある。文字通り、橋を越えれば別世界だった。

 サンタローズ村は僕にとって確かに故郷と呼べる場所だけど、幼少の頃のことはやはりあまりよく思い出せない。

「やっぱり留守だったね。……でも、良かった。出発までに会えないと、次はいつ会えるかわからないもんね」

 重厚な造りの城門を出て一息つくと、碧い髪を白い暖かな帽子に納めた妻もほっとした様子で同意してくれた。

 城門の入口で顔見知りの衛兵を捕まえた時、案の定いつものように城内へと案内されそうになったが、聞けばヘンリーは遠くレヌール城の方まで視察に出ており、不在だと言う。

 レヌール城はアルカパの北西に位置する、僕が生まれた時には既に魔族に滅ぼされていた古城だ。古くはサンタローズの辺りまでがレヌールの統治下にあったという。周辺の村々は今は自治区という名目で、ラインハットの庇護下に置かれている。

 僕がまだ幼い頃、レヌール城はお化け屋敷として周辺の住民達からひどく恐れられていた。実際、レヌールは当時ゴースト達の根城になっていて、それを一掃したのは実は幼い僕とビアンカだったりする。今思うとよくそんなことできたな、というか、もしかしたらあの城に縛られていた王と王妃の魂の力添えがあったんじゃないかなとも思う。幽霊と化したお二人を、僕らの幼さ故に視ることが出来たからこそ、加護に近いものを得られたのかもしれない。

 多分、今も手入れのされていない古い廃城だが、最近あの辺りに旅人が住み着き始めたとかで、今はもう治める者のない城だからこそ、ヘンリーなりに気を回しているんだろう。

「王兄妃殿下が国王陛下と共に留守を守られておりますので、宜しければ!」「グラン殿のご訪問でしたら、御二方とも喜ばれます!」などと衛兵達は口々に言ってくれたが、年末でご多忙な時期だとわかっているのにそんな傍迷惑なお邪魔の仕方はできない。ましてや僕は要人でも何でもない、ただの旅人なのだから。

 後日の謁見を平身低頭頼み込んで、それでもマリアさんのところへ案内してくださろうとするのを必死に止めて、なんとか約束を取り付けてもらった。この押し問答にかかった時間、凡そ二時間。

「……まだちょっと早いけど、お昼食べてから移動しようか? ここに来ると、何でかお腹が空いちゃうな」

 半分くらいは気疲れだと思うんだけど。ぐったりと肩にのしかかる疲労感を紛らわせながらぼやいたら、健気な妻はすぐ隣で嬉しそうに頷き「そうですね。私、先日行ったお店でまたいただきたいなと思っていたのです」と優しく微笑みかけてくれた。

 ああ、この笑顔を見るだけで本当に癒される。

 つい最近まで遥か南の大陸に居たことを思うと、この気温差は同じ世界とは思えない。向こうも夜は寒かったけど、空気がからからに乾いていたし、雪なんてもちろん降らなかった。

 白い息を吐きながら微笑みあい、冷えた小さな手を握る。

 そうして僕達は連れ立って、開いたばかりでまだ客足の少ない食堂へと向かった。

 

 

 

 今朝、目覚めて挨拶を交わしたときには、すっかり落ち着きを取り戻していた君だけれど、目許に浮かんだ赤みは正直だ。化粧で綺麗に隠してくれたから、ぱっと見はわからない……ことが今になって本当に恐ろしい。僕は今までどれだけ、このひとの化粧術に慰められてきたのだろう。

 早く船長達に会いに行きたいのは山々だが、フローラが控えめに難色を示した。

「あの、ポートセルミに行くのは、明日……でも宜しいでしょうか」

 遠慮しつつ問われて、否とは言えない。若い船乗り達はともかく、フローラと馴染みのある年配の方々には、昨晩泣いたことを勘付かれてしまうかもしれない。繊細な君はそう考えたんだろう。

「もちろん、いいよ。僕も今日は、ゆっくりしたいって思ってたんだ」

 優しく答えて頬を撫でれば、フローラは微笑んでやわらかく息をつく。ちゃんと意図を汲めたらしいことが嬉しい。皿の底に残ったシチューをパンで拭ったところで「あ」と間抜けな声が出た。正面で目を瞬かせたフローラに苦笑を返し、僕はたった今思いついたデートコースを提案した。

「そうだ、じゃあ……このあとサンタローズに寄っていい? お爺さんと、父さんの墓にも、これからのことを報告しておきたくて」

 そのあと、時間があったら少しオラクルベリーを廻って、出来たら修道院にも寄って礼拝して。夜しか営業してないオラクル屋も覗きたいな。そんなふうに誘ってみたら、フローラは花も綻ぶ愛らしい笑みで頷いてくれた。

「私も、サンタローズには是非行きたいと思っていましたから、嬉しいです。あなたと一緒なら何処だって……嬉しい」

 頬を瑞々しい野薔薇色に染めてはにかむ妻が、ただひたすらに可愛くてたまらない。

 何となく、サラボナに帰ってきてからフローラとの距離が縮まった気がする。別に今までがぎごちなかったというわけではないんだけど、大切に想うが故に、気を遣い合う感じがどうしても拭えなかった。久々に肌を重ねたからだろうか。一緒にいることを今まで以上に当たり前に感じて、少しの不安も抱かず彼女の想いを信じていられて。ここ数日も色々あったけれど、フローラ相手に変に緊張して息を詰めるようなことはひとつもない。

 居心地がいい。君の隣以外の場所でどんなふうに呼吸をしていたのか、思い出せないくらいに。

 相変わらず綺麗にカトラリーを使う妻に見惚れながら食事を終えて、雑貨屋に足を運び手土産を見繕う。

 そこから街の外れの人気の無いところを選び、ルーラでサンタローズへと飛んだ。

 

 

 

 

 

 凡そ半年ぶりの帰郷を、以前と変わらぬ顔触れが出迎えてくれた。以前薬師の親方が住んでいた崖下の家には家を失った夫婦が居を構えており、時折訪れる旅人を泊めることもあるという。まだ小さい息子さんはさすがに僕達を覚えていなかったが、村に入るなり「またおきゃくさんだー!」と飛び跳ねて住人達に知らせに行ってくれた。

 鄙びた教会に残った神父とシスターも変わりなかった。洞窟付近の小屋に住むお爺さんも相変わらずかくしゃくとしていて、寧ろ前よりお元気そうでほっとする。

「今日は賑やかじゃのう。少し前に、ほれ、坊の友達がの」

 友と言われて思いつくのは一人しかいない。フローラと顔を見合わせたところで、耳慣れた青年の声が僕を呼んだ。

「テュールじゃないか! 帰ってきてたんだな」

 振り返れば村の外れから近づいてくる翠の髪。懐かしく感じるのは後ろで一つにまとめているからだろう。屈託なく笑いかけるその人を、僕が見間違えるはずがない。

「ヘンリー!? その格好……!」

 驚愕し思わず叫んでしまった僕に、ヘンリーは彼らしい悪戯っぽい笑みを浮かべ、ひらひらと手を振ってみせる。

 彼が着ているのは二年前、放浪の真似事を始めた頃に古着屋で揃えたくたびれた服だった。まだ処分していなかったのか。あの頃より手入れされてしなやかになった翠髪を無造作に引っ詰め、彼は肩に担いだ薪割り用の斧を丁寧に地面に下ろした。

 慣れた様子のヘンリーを、フローラが茫然と見ていた。

「たまに来て、雑用させてもらってるんだ。お前達が元気そうでほっとしたよ」

 なんとなく事情を感じ取り、相槌を打った。さすがにこれは、フローラには信じ難い光景かもしれない。

 二年前、オラクルベリーの外れに粗末な小屋を借りて、一緒に暮らしていた頃の彼はこんな感じだった。手分けして薪を割り、下手くそな粥を拵えては分け合って食べる。当初は風呂なんてなかったので、冬場は特に辛かった。僕よりヘンリーの方が手先が器用で、料理もましだったなぁ……なんてことを思い出すと、今更ながらちょっと情けない。

 あの神殿での日々を思えば、質素すぎる暮らしぶりにも文句などなかった。

 それにしても、まさかここで会うとは。レヌール方面に発ったのは十日ほど前だと聞いたが、これまた随分と強行軍だ。隣のフローラが立ち上がり、淑女の礼を取ろうとしたが、ヘンリーはやはり苦笑いしつつそれを止めた。

「ああ、いい。そういうのはナシな」

 白い息を風に流し、屈託なく言うヘンリーを少し困ったようにフローラが見つめる。そんな彼女にまたゆるく首を振って、ヘンリーは押し切るように頷いてみせる。

「俺、ここではただの『パパスさんの息子の友人』だから。パパスさんに昔世話になった餓鬼の一人でもあるかな。だからさ、普通にしててくれよ」

 それでも尚戸惑い、僕をちらりと窺ったフローラに優しく肯定を返した。やっと納得したらしい彼女を見て目を細め、ヘンリーはさっき運んできた木材の上に腰を下ろす。

「……まだ、怖くてさ。俺の素性知ったら、村に入れてくれなくなりそうじゃん?」

 声を顰めて囁いて、ヘンリーはまた自嘲気味に笑った。半年前デール様から伺った話を思い出し、無意識のうちに視線が地面の影をなぞる。定期的にラインハットに訪れている神父だけはヘンリーの正体を知っているが、いつも黙って迎えてくれているのだそうだ。

「いや、でも……危なくないか? ヘンリーに何かあったら」

「大丈夫だって。お前ほどじゃないが、俺だって鍛錬は欠かしちゃいない。それに、一応話のわかる奴は連れてきてる」

 供もつけずに、とはさすがに濁して言ったが、ヘンリーが目配せした先を見れば、視界から大分外れたところに中背の男性が立っていた。目が合うと、顔を伏せて腰を折る。

「……あ」

 こちらも町民らしい私服をまとっているが、そばかすだらけの面差しに見覚えがある。成長したヘンリーを見て感極まってらした……ああそうだ、以前関所を守っていた方だ。

「トム。覚えてるだろ? お前の大先輩だ。俺の筆頭子分のテュールな」

 どういう言われようだか。苦笑いを噛み殺しつつ近づいて握手を求めると、彼はくすんだ茶色の髪を揺らし、丁寧に応じてくれた。

「忘れるはずもございません。その節は、我が国をお救いいただき誠にありがとうございました」と深々頭を下げてくださる。

「他の兵士と馬車は、少し離れたところで待ってもらってる。あんまり大勢で来ても警戒されるだろうしさ」

 そう言って、ヘンリーは村の外に鬱蒼と広がる森を見遣った。

 サンタローズは、山を背にして周辺を森に囲まれた村だ。サンタローズが焼き討ちに遭い、当時森まではさほど延焼しなかったものの、その後長く人が立ち入らない場所になってしまった。そうすると今度は、これまで人里付近には現れなかった魔物が棲みつく。サンタローズに戻ったばかりの頃、昔は見かけなかった魔物が村のすぐ側まで来ていて驚いた。

 おそらくヘンリーとデール様は、村の周辺をさりげなく警護してくれているんだろう。劇的に、というわけではないけれど、サンタローズに来るたび魔物の気配が薄れている気がする。

「今はまだ、自己満足なんだ。俺の手でやれるだけのことをしたい。ここだけに拘ってる場合じゃないってのも、良くわかってるんだよ」

 木材の上に座り込み、己の両掌をじっと見つめてヘンリーが呟いた。何か言って欲しくて零した言葉じゃないのがわかるから、僕も黙って視線だけを返した。

 沈黙だけが過ぎる中、灰色の空からはらはらと粉雪が舞い始める。ヘンリーの翠の髪に触れるとあっという間に消えてしまう、ひどく儚い細雪。

 感傷が過ぎるかもしれないけれど、ここでかつて犠牲になった人々が降らせた癒しの雪なのではないかと、僕には思えた。

「そういや、あれ……お前が作ったんだって?」

 ふと、ヘンリーが顔を上げた。目配せの先、村を流れる小川の向こうに並ぶ墓標のひとつを示して彼が問う。半年前、ポートセルミを出港する前にフローラと一緒に作った、遺骨も遺品も眠ってはいない形ばかりの父の墓標が、風化した他の墓碑に並んで静かに佇んでいる。

「うん、フローラとね。僕もすっかり考えが及ばなくて……父さんのお墓、どこにもなかったよなぁって今更、思ってさ」

 言いながら、ふと思う。グランバニアのことはヘンリーにもちゃんと話してから行きたいと思ってる、けど、何からどう話せばいい?

 迂闊な言い方をすれば、彼はきっと自分を責めてしまう。いや、責めるなんて生易しいもので済めば良いけど。ヘンリーのみならず、デール国王をもひどく悩ませてしまうに違いない。

 その後、父の死がラインハットでどう処理されたのか僕にもわからない。疑惑は無事晴れたと聞いたけれど、それはあくまでサンタローズの悲劇に紛れて数えられているだけだろう、と思う。

 ヘンリーはきっと、パパス・グランが自身の誘拐事件に関与したと公に認めない。いっそ僕以上に父に心酔している彼だ。彼の英雄……父の名誉を守るため、パパスほどの男が自分の為に犬死にしたなどと、彼は誰にも言わせたくないのだ。だからこそ第一王子の件は関係なく、サンタローズの村長はあの日ラインハットの非道に抵抗し、村を守って命を散らしたのだと。言われなき冤罪に過ぎず、グラン氏は王太子の誘拐に全く関わっていなかったのだと、対外的には、そういうことで決着させているだろうと思われる。

 ただ、最近になってもやもやと考える。当時のラインハット王は何故、只の村人に過ぎなかった父を招集したのだろうかと。

 いくら気難しい王子だからって、子守のためだけに近隣の村長を呼びつけるか? 状況からして子守というより護衛目的に違いないが、それだって普通は自国の、信をおける兵士に任せるだろう。只の村長を腹心以上に重んじる理由がない。だがもし父が一国の王族であり、ヘンリーの父王とも以前から面識があったとしたら────説明がついてしまう。ヘンリーの件さえあくまで表層にすぎず、別の謀略に巻き込まれた可能性も。

「そう考えると、余裕なかったよなぁ。俺達」

 僕の思考を知る由もなく、ヘンリーはのんびりと呟いた。

 気取られないよういつもの顔でやんわり頷き、もう幾度となく口にした慰めの言葉を吐息に乗せる。

「でも、……是正できたことは、父さんも、ヘンリーのお父上もきっと、喜んでいらっしゃると思うよ」

 欺瞞ではない。真実、やっと一つ父に報いたと思っている。

 ヘンリーも、フローラも。黙って聞いていたトムさんも唇を引き結び、深く頷いてくれた。

 暫しの沈黙の後、ひとつ息を吐いてヘンリーが立ち上がった。一拍置かずトムさんも彼に従う。つられて立った妻の手を取りヘンリーの後を追うと、彼は粉雪の中朽ちかけた橋の袂に立ち、その向こうに広がる、かつては畑だった澱んだ大地をじっと見つめていた。

「春には少し、改善できるといいんだけどな……」

 ぽつりと呟かれたそれに首を傾げると、ヘンリーは曖昧に笑って視線を泳がせる。

 曰く、毒素を含んだ土を浄化する方法を探しているのだと。橋を隔てた畑地とかつての僕の自宅、そして村の入り口一帯が広範囲に渡って汚染されている。ただの焼き討ちでこうはならない、おそらくあの偽太后率いる魔物達が何か撒いたか、それらの死体の影響でこうなっているのではないかと。

 穢れた土を他所へ運ぼうとしたが、廃棄場所がない。少し掘るだけで毒に冒される為、長時間の作業も難しく、せめて侵食を抑えるために毒地帯の外側に浅い壕を掘り、聖水で清めているのだそうだ。掘った土は厳重に持ち帰り、毒素の分解を試みる。

「少し離れたところを耕してみたが、水が遠いんだ。土もあまり良くないから、やっぱりこの畑を早く使えるようにしたいな。あと、汚染されてるところをちびが踏み抜いたら大変だろ? 雪がもっと根付く前に目印をつけてやりたくて」

 最後は僕の自宅跡を振り向き、ヘンリーが静かに言った。確かに、無防備に毒地を曝しておくのはよくない。必要なところを柵や縄で囲って、あっちの畑跡はあまりにも広範囲だし、冬の間は特に使い物にならない土地だから、いっそ橋を外しておこうかと言う。

 神父に了承を得るためヘンリーが一度教会へと向かって、僕もせめてもと、旧自宅周りの柵囲いを請け負うことにした。

「こういうのは男手に任せて。フローラには、村の皆さんの話し相手をお願いしていい?」

 僕を手伝おうとついて来てくれたフローラに声をかけると、彼女は遠慮がちに頷いた。そうしておもむろに、今来た道を振り返る。その翡翠の瞳が映すのは、ヘンリー達が早速作業を始めた堀の辺りだ。

「私……、ヘンリー殿下があんなに気さくな方だとは存じ上げませんでした」

「あれ、イメージ違った? そっか、フローラは王族らしいヘンリーしか見たことがなかったかもね」

 自分自身のことは話したけれど、そういえばヘンリーについてはあまり話していなかったかもしれない。僕としては正直、ヘンリーといえども他の男に興味を持たれるのは面白くないので、今後もさほど詳しく話すつもりはないけど。

 自宅周りを早々に終えてヘンリー達に合流し、入り口一帯にも柵を打ち込む。昼過ぎから始まった簡易柵の設置作業は、陽が傾く前に無事終わった。自覚するのも嫌だけど、僕もヘンリーも多分、身体に染みついてしまっているんだ。ずっとこういう力仕事ばかりやってきたから。

「良いタイミングで来てくれて助かった。さすがに、泊まりでやらないと間に合わないかと思ったよ」とヘンリーが労ってくれたが、それはこちらの台詞だ。ここまで細やかに気にかけてくれているとは思わなかった。

 先を急ぐからと、ヘンリーはほとんど休みも取らず村を出るという。ルーラで送ろうか? と提案したが、あっさり断られた。元々日程を組んであるし、まだ見て回りたいところがあるから、とのことだった。見送りがてら、後日謁見を申し入れたことをこっそり告げると、ヘンリーは眼を円くした。

「お前がまともに予定を入れてくるとは驚いた。少しは常識が身についたじゃないか」

 うるさいな。今までだって申し訳ないと思ってたよ。

 数日後の再会を約束し、フローラと共にヘンリーとトムさんを見送ったあと、次の出立までにもう一度来訪する旨を村の人々に告げて、僕達もオラクルベリーへと飛んだ。

 

 

◆◆◆

 

 

 商業都市、オラクルベリー。

 市場を中心とした日中の賑わいは、夜になると少しだけ表情を変える。

 この時間になると周辺に自警団が立ち、彼らに見守られて、郊外の家に帰る人達がまばらに街を出て行く。逆に仕事帰りの人や、宿で休息を取りたい旅人、カジノに向かう人などは煌びやかな喧騒へと吸い込まれていった。僕達は街の外側、あまり人が居ないところを狙って転移した。辺りはすっかり日没の頃合いで、オラクルベリー郊外から見える夕焼けを暫し、二人で楽しんだ。

 海から少し内陸にある街なのでここから海は見えないが、地平を燃やす緋色とそれらを覆う藍が織りなすこの時間帯だけの幻想は、僕達の少し疲れた心を優しく癒してくれた。

「修道院には鐘楼がありまして。交代で鐘を鳴らすのですが、さほど高くない見晴らし台でもやはり私には怖かったのです。それでも、特に明け暮れ時の空と海は格別に美しく、毎回見惚れていたのを覚えています」

 白い息を夕闇に溶かしつつ、フローラが嬉しそうに話してくれる。今日は遅くなってしまったけれど、今度修道院にも挨拶に行こう。抱き寄せてそう囁けば、彼女は穏やかな笑みと共に頷いた。

 もう一度空を仰ぎ見て、その視界を左に辿れば嫌でも目に入る巨大な嶺。荘厳なはずのその頂は分厚い雲と稲妻を纏い、いかにも禍々しい気配を放っている。

 この絶景にありて、あの一箇所だけが異様だ。まるで、神が怒りを露わにしているような。

 気を取り直して、街に入った。ここはいつ訪れても活気に満ちていて、自分を知らない喧騒の中にいるということが何故だかすごくほっとする。自由を手に入れて、初めて踏み入れたごく一般的な人間の街がここだったから、かもしれない。修道院を出てオラクルベリーに入った時、たった今、この一歩から真実、僕の人生が始まるのだと震えたことは忘れない。

 仕事を終えた人々で賑わい始めた歓楽通りを覗き、まずは食事処を探した。ほどなく香ばしい匂いが漂う大衆酒場的な店を見繕い、フローラを誘って入る。

 本当はもっと格式高いレストランに連れて行くべきなのだろうが、まず僕がそういうマナーを全く知らない。恥ずかしながら。ついでに情けないことに財布に余裕もない。更には言い訳がましいけれど、当のフローラが心から楽しんで食事しているのがわかるから、つい甘えてしまうのだ。いつも綺麗な姿勢でカトラリーを用いる妻だが、最近では僕を真似て、素手で小さめの骨つき肉にかぶりつき、恥ずかしそうに笑ってくれることもある。そんな辿々しさが一層愛しい。

 のんびり歓談しつつ楽しい夕食を終えた後は、手を繋いで夜の街をぶらぶら散策した。教会近くの辻で道ゆく人をじっと見ていたお婆さんに「そこの色男、なかなか面白い相が見える。ひとつ占ってやろうかえ?」と声をかけられたが、愛想笑いで躱した。また変なことを言われて落ち込みたくないし、占いはアイシス様からいただいた助言で間に合ってる。あの内容……グランバニアにまつわるようなことを言い当てられても正直、困る。

 一つだけ、勇者について何か占いでわかることがあればと思って訊いてみたけれど「時が満ちれば、としか言えんな」とあしらわれてしまった。それって、まだ時機じゃないってことなのか? 今は探しても無駄だってことなんだろうか。

「そんなことより、わしはお前さんを占いたいんじゃがのぉ。実に面白い運命を持つお人じゃ」としつこく絡んでくるお婆さんに先刻分の代金を握らせ、そそくさと辻を離れた。

 散歩の最後に、馴染みのオラクル屋を覗きに行った。夜しか開かないその店は、いつもならそろそろやっている頃合いだが、今日は少しだけ様子が違った。灯りはついているものの、見慣れたのれんがない。いや、看板が出ているし、営業はしているみたいなのだけど。

「あら? ホイミンちゃんそっくりの、あの可愛いのれんはどうなさったのでしょう……」

 案の定、期待に足どりも軽やかだったフローラはしょんぼりと眉尻を下げている。「単に出し忘れているだけかもしれないよ。入ってみようか」と妻を促し、扉を開けた。

 果たして中の店主はいつもと変わらず「よう、いらっしゃい! しばらくぶり」と気安く声をかけてくれた。何かめぼしいものはあるかと早速問うと、店主は些か申し訳なさそうな顔つきで頭を掻く。

「悪いな。ここのところ、面白い品が入ってこなくてさ……絵画とか壺とかそんなんばかりでよ。だが、お得意さんを手ぶらで返しちゃオラクル屋の名折れだ! ちょい待ちな」

 言うなり、がさごそとカウンターの中を漁り始めた店主に、そういえば外ののれんは? と雑談がてら訊いてみた。相当意外だったらしく、店主はぱちぱちと睫毛を瞬かせたが、すぐにフローラに気付いてああ、と大きく頷く。

「あー、あののれん。だいぶ長いこと出してたんでボロくなってさ、修理に出そうと思って下げてんだ。そういや奥さん、あれをえらく気に入ってくれてたな」

 僕より先にフローラがこくこくと頷いて、僕も苦笑しつつ同意した。店主も朗らかに笑ったが、ふと真顔になり僕の顔をまじまじと見てくる。え、何で僕?

 変な汗が背中に滲むほどじっと見つめられ、そろそろ視線に耐えきれなくなってきた頃、ふむ、と店主が一つ大きく頷いた。

「……うん。あんたなら寧ろ、お誂え向きかもしれん。世界にただ一つ、この街名物オラクル屋ののれん! 買ってみないか?」

「は?」

 思わず間抜けな声が出た。まさかののれん分け!? と頓珍漢な思考がぐるぐる回る。いやそもそも僕は商人じゃないんだけど!

 思わず妻を振り返ると、僕と同じく言葉を失って目を円くしている。ああ、違う。これは感極まっている顔だ。無理もない、彼女が移住してでも毎日拝みたいと言っていた、あののれんを手に出来る千載一遇の好機が今、目の前に降って湧いたのだから。

「のれんにしちまっていたが、実はこれで立派な魔防具なんだ。昔とある魔物遣いがお仲魔に使わせた代物でな。うん、灯台下暗しってこういうことだな」

 魔防具という響きについ身体が反応してしまう。喋りながらも件ののれんを引っ張り出し、店主がカウンターの上に広げてみせた。ほぅ、とフローラがまた熱っぽい感嘆の息をつく。声に出さなくとも「可愛い……!」という呟きが聞こえてくるようだ。

「スライム属にあわせた魔法処置が為されてる。具体的には疲労回復、傷の治りも早くなるんだったかね? 但しスライム属にしか効かん。近年じゃ魔物遣いもとんと見なくなったんで、こうして飾るくらいしかなかったんだが……あんたなら活用できそうじゃないかい」

 ……確かに。

 身につけただけで生命力を補う魔防具とは恐れ入った。但し、これを一体どうやって装備するのか、全く想像がつかないが。のれんに使われているホイミスライムのモチーフは実際のスラりん達に比べれば小さいのだが、それが三体分となると中々の幅を誇る。サイズ的にはキングスライム用の防具なんだろうか。スラりんにしろホイミンにしろ、巻きつけて使うと逆に動き辛そうな気がするんだけど。

 面白い代物ではある。凡そ市場では見たことがないし。先の魔物遣いが遺したものだと聞くと正直、すごく興味が湧く。

「ただまぁ、一応護魔布なんで修復に時間をもらわにゃならん。手間賃含めて、そうさな、一万ゴールドでどうだい?」

「護魔布の縫製でしたら、私、多少出来ます!」

 ぐっ、高い!

 思わず及び腰になった僕の脇から、ほとんど同時にフローラが身を乗り出し声を上げた。驚いて振り返れば、彼女の澄んだ両眼にはいつになく力が漲り、きらきらと輝いている。

「修道院で何度も手掛けておりました。私でも直せるものでしょうか?」

 護魔布というのはその名の通り、精霊の加護を得るため魔力を施して加工された布地のことだ。加護布とも呼ばれる。見えない鎧の如く皮膚の脆さを補ったり、生命力を高めたりすることが出来る貴重な品である。確かドワーフ族に伝わるという秘法で、これを織れるのはドワーフやエルフといった人ならざる民のみだが、護魔布の効力を十分に発揮するための特殊な縫製術は人間にも伝えられているのだそうだ。多分、テルパドールの市で見かけたビスチェなんかは相当上等な護魔布を使っていると思う。

 かなり専門的な分野だと思うのだけど、さすがは神に仕える修道院というか。僕の奥さんはやっぱり只者じゃない。

「ああ、奥さん、修道院のお人だったのか。そんなら問題ない」と店主も感心して頷いた。ついでに「いい嫁さんをもらったもんだ。羨ましいね」とにやにや冷やかされて、湧き上がる悦びに顔が熱くなってしまった。

「ちょっとほれ、こいつらを繋いでる触手が取れかけてるんでそこをちょちょいっとな。ついでに手の先がどれもよれちまってるから、出来たら直してもらって。その辺自分でやってくれるなら……うん、まけにまけて、五千ゴールドで譲ろうじゃないか」

 おお、半額。というか、ここまで話が進んで買わない選択肢はなかった。

 護魔布用の特殊な糸が必要ということで、取り扱いのある店を教えてもらった。妻も何度かお遣いに来たことがある、馴染み深い店だそうだ。「本職の方には敵いませんが、修道院で作る衣服に加護布を使うことが多かったのです。本当に、おまじない程度のものしか作ったことはないのですけれど」と謙遜しつつ教えてくれた。いやいや、十分すごいと思う。僕にはそういう生産的な能力がないから、余計に。

「本当に、本当に夢みたいです。まさかこののれんを手にすることができるなんて……!」

 店を出てからも、フローラはずっと幸せそうにのれんを抱きしめていた。いかにもホイミンな見てくれのそれに何度も頬擦りする彼女に対して若干もやもやしつつ、嬉しそうな様子を見ると、こちらまで顔が綻んでしまう。何より、幸せが溢れ出ているフローラの笑顔は年相応にあどけなく、可愛くてたまらないのだ。

 ああ、やばいな。今夜もまた、君に触れたくて仕方がなくなってる。

 幸い僕にはルーラがある。思い立ったらすぐ移動できることがこんなに有難いことだとは。もう遅いし今日は帰ろう、と下心たっぷりに誘おうとしたその時、「もし、ルドマン様ではございませんか!?」と唐突に呼び止められた。

 ぎょっとして振り返れば、そこは航海士アランさんのご実家、宿処マクベル亭の前であった。屈強な体躯のアランさんの兄君が、番頭のお爺さんと共に興奮気味に駆け寄ってくる。正確には僕達は『ルドマン様』ではないんだけど、もうこの勢いだけで何も言えず気圧されてしまう。

「いやぁ、なんと! オラクルベリーにおいででしたとは! ご健勝で何よりでございまして。や、よもや他の宿にお決まりだなどと仰いませんよね!? まぁまぁまぁこのような遅い時間まで、誠にお疲れ様でございます!!」

 そもそも宿泊の予定など何も相談していなかった僕達は、亭主の揉み手と流れるような口上芸に乗せられ、あれよあれよとマクベル亭へと連行されてしまった。そうだよな、転移魔法なんて普通の人は使わない。夜に地元でもない街に居る時点で、どこかに泊まるのが当たり前だ。少々強引ではあるが、縁ある顧客を他所の宿に取られまいとする心情は理解できる。

「愚弟がご迷惑をおかけしておりませんでしょうか。以前お泊まりいただいた時、船旅の供をするなどと申しておりましたが」

「迷惑だなんて、大変助けてもらっています。魔物に遭遇した時も恐れず前に出てくださって……とても勇敢で、頼り甲斐のある方です」

 アランさんについてそわそわと尋ねられ、船上での出来事を思い出しながら答えた。船乗りの中でも早いうちから打ち解けたアランさんと話す機会は多かった。感覚的に、歳も近くてまるで親戚の兄といった感じで。ナサカの浜辺では子供を庇って負傷してしまわれたけれど、すぐにフローラの魔法で治癒して、その後も後遺症はなく元気に仕事していらしたのだった。

 ね、と妻に同意を求めれば、フローラも頷いて隣から優しく言い添える。

「アランさんには何度助けていただいたかわかりません。お人柄も親しみ深くて、責任感があって。共に船を護っていただけて、心強く思っておりますわ」

 そんな僕達の言葉を聞いて、ご亭主も、奥から出てきた御隠居一同も感極まった風で目頭を抑えていらした。

 通された客室は半年前と同じ、四階建ての最上階。部屋の窓からカジノを中心に夜の灯りがよく見える。ワンフロアまるごと贅沢に使用した客室に少ない荷物を下ろし、フローラが注いでくれた水を呷ってやっと一息ついた。

 予算……うん、念のため多めに持ち歩いていて良かった。一泊なら大丈夫だろう。義父にいただいた貯金もあるけど、あれにはあまり手をつけたくない。次の出立前にまた小金を稼いでおかないと。

 折角だし、明日は少し市場を廻って帰ろうかな。早く起きれば修道院の朝の礼拝にも行けるかもしれない。

 ……でも、今は。

 窓際のテーブルでは妻がさっきののれんを広げ、触手部分をつまんで持ち上げたりしてにこにこ嬉しそうに眺めている。

「少し身体、動かしてくるね。フローラは先に湯を使ってて。……まだ、眠くない?」

 肩越しに振り返った妻はまだ化粧を落としていないけれど、どことなく幼く、あどけない雰囲気を醸している。のれんが嬉しくてはしゃいでいるのだろうな、と微笑ましく思う。

 それだけで終われば良いのに、最近君ともっと近づけたような気がする僕はすっかり我慢が効かなくなってしまった。

 触れたい。抱きたい。こうやって二人きり、あとは寝るだけという状況になってしまったら。

「あまり声は出せないけど……寝る前に、ちょっとだけ」

 それだけで、僕の邪な意図を理解してくれたフローラはほんのり頬を染め、こくんと小さく頷く。

 悦びに弛む唇を彼女の額にそっと押しつけて、剣を携え部屋を出た。人気のない郊外のさらに外れに出て一、二時間、時折寄ってくる魔物を蹴散らしつつ鍛錬をする。雪は止んでいたが、足場がどうしても滑りやすい。逆に足捌きの訓練にいいかと思って、ぬかるんだところを選んでやっていたら、すっかり靴が汚れてしまった。別宅に戻ったら綺麗にしないと。

 一通り日課を終わらせたところで、フローラが待つ宿に戻って湯浴みをした。

 着替えなど一切持っていなかったから、フローラは部屋に備えられた白いローブを着て髪を乾かしている。

 前を重ね合わせたローブに碧髪が散らされた様は、まだ少女らしい彼女の雰囲気に相反して、妙に艶めいた色香を醸す。

 疲れたんだろう。少しうとうと肩が揺れているフローラをそっと抱き上げ、寝台に運んだ。ありがとうございます、と君が気恥ずかしそうに微笑む。それだけでもう胸がいっぱいになってしまって、約束通り少しだけ、湯上りでぽかぽか温かい妻とローブをはだけて抱き合った。

 やっぱり、この瞬間が一番、心が解ける心地がする。

 可愛い声が漏れないよう、口づけで優しく蓋をして。

 いつもより緩慢に、じっくりと彼女を味わった。甘い花の香とぬるま湯に揺蕩うような心地よい幸福感の中、満たされあった僕達はやがて、どちらからともなく眼を閉じた。

 

 

◆◆◆

 

 

 翌朝、まだ暗いうちに目覚めて支度をする。最近は僕も、フローラが化粧を始める頃には起きられるようになってきた。

 普段は朝食の時間まで早朝稽古で身体を温めるのだけど、今日は修道院の礼拝に向かう為、早めに朝食をいただいて宿を出た。

 ちょうど朝焼けが美しい時間帯だ。昨日降った雪のお陰で、空気がとても澄んでいる。凍りそうな寒風から妻を庇いつつ、南の修道院を目指して歩いた。舗装された森の脇道を抜けると、足下に降りた霜がしゃくしゃくと音を立てる。そのまま潮の香に誘われて南下すれば、やがて朝の光を瞬かせた水平線が見えてくる。

 日が昇ってくると、そこかしこの民家から礼拝に向かうであろう人が増えてきた。

 リーンゴーン、と重い鐘の音が潮風に紛れて響いてくる。森と海に挟まれた街道が海岸線にぶつかる頃、ようやく修道院に辿り着いた。門に立って礼拝者の案内をしていたシスターが僕達に気づき、嬉しそうに手招きしてくださる。

「まぁ、お二方がおいでくださるなんて。今日は何と佳い日なのでしょう! ご無事で何よりですわ。朝早くからまことに、ご苦労様でございました」

 積もる話もあろうが、もうすぐお祈りが始まる。礼拝堂に通してもらい、長椅子の端にフローラと並んで腰を下ろした。

 少し後ろから「お兄ちゃん! お姉ちゃんもー!」とこそこそ呼ぶ声がして、すぐにフローラが顔を綻ばせて振り返った。二列ほど後ろの席から、修道院に住み込みで下働きをしている母娘が、揃って手を振ってくれていた。

 昔、フローラが修道院を離れた時、少女はまだ幼かった。それ故に半年前、少女は再会した元シスターのことを覚えておらず、フローラは少なからず落胆していたのだった。もちろん当然のことと割り切って優しく接していた妻だが、それだけに今回、少女の方から呼んでもらえたのは、彼女にとってたまらなく嬉しいことだったろう。

 やがて、壇上に上がったマザーの厳かな声が福音を高らかに唱え始め、僕達は揃って指を組み、首を垂れた。竜帝へ捧げる感謝の祈りはやがて、シスター達による聖歌の斉唱に変わり、その頃には礼拝堂に集まった人々もそれぞれ起立し、唱和していた。

 僕も釣られて立ったものの、歌詞なんてすっかり忘れてしまった。ここでお世話になった頃はそれなりに耳にしたというのに不甲斐ない。隣のフローラの澄んだ歌声に耳をすましながら、あの船旅の中で触れた、天空信仰にまつわる出来事にぼんやりと想いを馳せていた。

 神の御許で死ぬ。信心深い人間には似合いの死に様だと揶揄した、酷薄だったはずのキメラの最期の生き様。

 竜神の紋章の帆に神への淡い期待を抱いて、稚い願いを必死に叶えようとした、強い心を持つ少年。

 今は、あの緑髪の少年が生き存えてくれているように。

 神が存在するというなら、どうか、まだ幼すぎたあの子に、我らが天空神……マスタードラゴンの御加護があるようにと。

 やがて礼拝が終わり、人々はそれぞれの生活に戻っていく。

 聖堂を出る参列者達を見送った後、シスターや母娘達と改めて再会を喜びあった。皆さん口々にフローラが綺麗になったと褒めてくださり、妻はひどく恐縮していたが、幸せなのですね、と微笑んだマザーの言葉にはとても嬉しそうに頷いていた。

「そうして結い上げていらっしゃるのを見ると、ここで過ごされていた日々を思い出しますわ。お懐かしいこと」

 親しげに声をかけてくるシスター達に囲まれ、フローラは楽しそうに思い出話に花を咲かせている。そんな彼女を微笑ましく見遣りながら、同じく彼女達を眺めているマザーに声をかけた。改めてこれまでのご厚意への感謝と、これからグランバニアという国を目指そうと思っていることを告げると、それまで穏やかに僕の言葉を聞いていたマザーが表情を曇らせた。

「グランバニア。良からぬ噂が蔓延ってその後、表舞台から姿を消した国ですね」

「噂……ですか? どのようなものなのか、良かったらお聞かせいただけませんか」

 テルパドール城の図書館でも幾らか調べてきたので、心の準備は出来ている。残念だけれど、どの本にもあまり良い話は書かれていなかった。

「全ては噂に過ぎないのですよ。もう何十年昔のことでしたか、時の国王が────民を、魔族に売り渡したと」

 それも読んだ本の中に書いてあった。父が王族かもしれない、と思うと信じたくない話ではあるけれど。思わず神妙に頷くと、「私が年端もいかなかった頃の話ですよ」とマザーが優しく言い添えた。とすると、もう五十年は昔の出来事なのだろうか。

「真偽はわかりません。それでもかつて数百年間、グランバニアは東の大陸一帯を支配し続けた大国でありました。ここ百年ほどで魔族との紛争が激化し、更には内乱の後、数多の国と同じく亡国となったとも。命辛々逃れてきた難民から端を発した噂だったと聞いています。その後、グランバニアの名を耳にすることはなくなりました。今はどうなっているものか」

 言葉を切り、マザーは灰色の瞳を壁の向こう、神の塔のある方角に向ける。いつの間にかフローラも僕の隣に戻り、黙ってマザーの話に耳を傾けていた。

「ここから遥か南東に座す大陸にありますが、神々の地が近い所為か、海路で通じることは難しいとされています。元々険しい山岳の難所に囲まれた、閉ざされた地です。……苛酷な旅路になりましょう」

「彼のご両親が、グランバニアの方だったかもしれないのです」

 尚も僕らを案じてくれるマザーの呟きを、フローラの凛とした声が引き継いだ。

 マザーと、周りに残ったシスター達の視線が一斉に妻へと注がれる。否、僕もまた驚愕と、憐みを含んだ眼で見られていた。言葉はなくとも彼女達の目が物語る。滅びたとも言われるグランバニア、ではこの青年の両親は元難民だったのか、と。

 だが、アイシス女王は仰った。凡そ二十年前、テルパドールはグランバニアから新王即位の報せを受けたのだ。

 噂が全て流言飛語だとは言わない。だが、女王を信じるならその報せを出した当時、両親は確実にそこで生きていた。そして僕が生まれた……それだけで、僕がグランバニアを目指したい理由は事足りる。

 大昔のことは二の次でいい。僕は今、僕に連なる両親のことを知りたいだけなのだ。

「難しい旅かもしれませんが……私にも、彼のルーツを探る為のお手伝いを少しでもできたら、と思っております」

 強い意志を秘めた澄んだ声が、静かな聖堂に響き渡る。

 皆、不安そうに僕達を見比べていたけれど。やがて緩く息を吐いたマザーが、真剣な面持ちでフローラを正面から見据えた。

「大丈夫、なのですね」

 真っ直ぐに問われて、僕の妻は揺るぎなく首肯する。

 もう一度、微笑んで彼女を見つめ返したマザーは、正に慈愛に満ちた母のように大らかに、フローラへ激励をくださった。

「貴女が譲らぬ心の持ち主であることはよく存じています。シスター・フローラ。くれぐれも、気をつけて行くのですよ」

 かつての彼女の呼び名で呼ばれ、フローラは「はい」と力強く応えた。マザーは眩しそうに目を細め、次いでフローラだけを見つめたその視線を緩やかに下方へと流す。

「そう……御身を、特に大切に。ね」

 思わせぶりなその言い方が、無意識のどこかに引っかかる。ほんの微かな違和感だったけれど、愛弟子とも言えるフローラの身を案じてくださっていると思えばそこまで気にならず、僕らはシスター達の慈悲と献身に感謝しながら修道院を後にした。

「……全ては、この目で確かめてから。ですよね」

 転移魔法を使う為、人目につかない物陰へと移動しながら、フローラが極々小さく囁いた。

「うん。噂が本当でも……昔のことだよ。父さんがまだ、生まれる前の話かもしれないんだし」

 僕も歩きながら頷いた。やっぱり、フローラもあの時そういう情報を読んできたんだ。僕を気遣って、今まで一度も話題にしないでいてくれた。

 世界からほとんど隔絶された国。真実は、その身中に飛び込んでみないとわからない。

 修道院での挨拶を終えた後はオラクルベリーに戻って、少しだけ買い物をした。例の糸を間違い無く買い求め、ルーラでサラボナに戻る。別邸の庭で仔犬と遊んでいたスライム属達が「あっ、ふろ〜らちゃん!」「ごしゅじんさまも、おかえりなさーい!」と真っ先に声をかけてくれた。

 フローラが珍しく小走りで彼らに駆け寄り、大事に抱きしめていたのれんをいち早く披露した。うわぁ! と歓喜の声を上げ覗き込むスラりん達に囲まれ、幸せそうな妻を眺めやり、こっちまでにやけながら別宅に入る。フローラは早くのれんを直したいだろうから、たまには僕が昼飯を作ろうかな、なんて思いながら。

 さて何を作ろうか。悩むほどレパートリーはないけれど。

 手早く着替えをして調理の準備をしつつ、遅れて入ってきた妻に昼食は自分が作る旨を告げると、彼女は申し訳なさそうに一度頷いたが、すぐにエプロンをつけて厨房に入ってきてくれた。

「のれんはあとでゆっくり直しますわ。私もあなたと一緒にお料理したいです。……良いですか?」

 はにかみながらそう言われて、やっぱり我慢が効かない僕は、衝動的に妻を力いっぱい抱きしめてしまった。

 腕の中であわあわと体温を上げる妻を見下ろし、ごめんね、やっぱりすごく好きだなぁと思って。とにやけ顔で言い訳する。恥ずかしそうに眉尻を下げて見上げてくる様もまた可愛い。

 そんなこんなで、僕達はパントリーを覗きつつ、今日のランチメニューについてようやく相談を始めたのだった。




蛇足ですが、ちょうどこれを書いていたときに落書きしたものを。
バカップルですよ悪いか!

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#23-2. 手繰り綾なす【終章2】(2/2)

 昼飯を食べて少し休憩したあとは、帰宅の挨拶のため本宅の義両親を訪ねた。夕方はいよいよ、ポートセルミの海運漁業組合を訪問する予定だ。

 僕らの帰還の時期について、船乗りの皆さんにはざっくり伝えてあったし、早く顔を見せに行こうと思ってはいたものの、サラボナに戻ってから既に一週間経過してしまっていた。ポートセルミに行くなら義父もお誘いした方がいいかもしれない、と思ったのもある。以前の宴の席で、義父と船長達から盟友と呼ぶべき堅い絆を感じたから。

 果たして、在宅中の義父は夕刻の予定を聞いて大層喜んだ。お茶をいただき、義母を交えて暫し歓談した後、上機嫌の義父を伴いポートセルミへと転移した。

 暮れなずむ港湾の一帯は、着いたばかりの船から荷下ろしをする人や船舶の整備をする人、明朝の準備をする人々などでごった返していた。近海にやっと少しずつ、魚が戻って来ているのだそうだ。もちろん、最近沈没したポートセルミ籍の船はないという。

 魔物が全く出なくなったわけではないし、日々の警戒の賜物ではあるけれど、ほとんど船を出せず歯噛みしていた頃に比べたらずっといい。少しずつ安全を確保して、今は二、三週間に一度はビスタ港との往復も出来るようになったとか。

 忙しなく働く人足達の間を縫って、ルドマン卿は防波堤へと続く狭い道を悠々歩いていく。すれ違った人々は皆驚いたが、同時に威勢のいい挨拶がそこかしこから飛び交った。その背後に僕ら夫婦の姿を見つけると、船乗り達が大いにどよめいた。すぐさま人を呼びに数人が走り出し、こちらが係船場に到着する頃には、顔見知りの船乗りが一同総出で出迎えてくれた。

 ストレンジャー号の老練の前船長、イヴァン殿。まだ年若い黒髪のデニス船長。出航前の会議で顔を合わせた副船長達、航海士達。ストレンジャー号の乗組員以外、あの日共に戦った船乗り達がその後ろにずらりと並び、僕達の帰還を喜んでくれていた。

 イヴァン前船長……否、現組合長とお呼びするべきか。彼はまず主であるルドマン卿とフローラに対し深々と礼をとったが、次いで僕を目すると怖い顔のままずかずか歩み寄ってきた。船上での緊迫した遣り取りを思い出し、咄嗟に身を固くする。すわ殴られるかと身構えたが、果たして彼は僕の首に太く焼けた腕を回し、広い胸元にターバンを押し付ける如く乱暴に引き寄せた。

「おう、生きてやがったな! しぶとい小僧だ。そうでなきゃお嬢様の伴侶は務まらん!」

 褒めているのか貶されているのか、厳つい表情のままターバンをぐりぐり掻き乱される。まるで舎弟にするような仕草に気恥ずかしさを覚えながら「あ、ありがとうございます。その節はご理解と、多大なるご助力をいただきまして」としどろもどろに答えた。

 冬でも褐色に日焼けした逞しい老船長は僕の辿々しい謝辞を聞き、ニヤリと口端を歪ませる。

「地獄は免れたな。大見得で終わらせなかったのは褒めてやる」

 ……そういや後続の船が来るまで持ち堪えるって豪語した時、地獄の果てまで追いかけてやるとか物騒なこと言われたな。やられるつもりはもちろんなかったけど、この方なら本気で地獄だろうが魔界だろうが追いかけてきそうだ。

 それから一刻ほど待って、仕事を終えた皆さんと連れ立って、街で一番大きないつもの酒場に足を運んだ。ポートセルミの酒場はこの時間になると大賑わいになる。今日はルドマン卿もいらっしゃるので尚更だ。ステージには花形の踊り子が集められ、正面の特等席に卿とイヴァン船長が陣取った。いつの間に呼ばれたのか、イヴァン殿の奥方をはじめ、船乗り達の細君と思しき女性達も所々席についている。僕達も相席を勧められたが、義父達と同じ席はどうにも落ち着かない気がして、カウンターの反対側にある少し離れたテーブルを選んで、フローラと共に座った。

「やっぱり、テルパドールの宴で見た踊りに似ている気がしますわ。ほら、ご衣装も」とフローラがステージ上のダンサーを遠目に示す。衣装はともかく踊りの質はやっぱりわからないが、よくよく見ると中央で踊っている女性は確かに、あちらでよく見かけた褐色肌をしているらしかった。

 程なくイヴァン船長の仕切りで酒宴が始まった。開幕一声、今日一日の働きを力強く労われると、グラスを高く掲げた男達がオォ!! と海鳴りの如く呼応した。それを皮切りに硝子がぶつかり合う音が忙しなく響き、あちらこちらからオーダーを呼ぶ声と応じる声とが交錯する。

 少し落ち着いてから、こちらから皆さんにご挨拶に行こうと思っていたのだけれど。僕が立ち上がるより早く、名前も知らない船員さん達が代わる代わるテーブルを訪れてくれた。軽く乾杯しては、一人一人と短い言葉を交わす。無事で良かった、見事な戦いだった、あれを討てるとは思えなかった。海に散った客船の人々の魂もきっと浮かばれる。お嬢様に何事もなく安堵した。最後にとどめを刺した、あの仲間の魔物は無事か。

 僕やフローラだけでなく、仲魔達をも気遣ってくれる人が少なからずいて、胸が熱くなるのを感じながら、健在である旨を伝えた。次の出航前にはストレンジャー号の乗組員達も可能な限りここにお連れするつもりだったが、その時には仲魔達も連れて来ます、と言い添えると、皆さん揃って満足そうに頷いて下さった。

「大人気だな。青年」

 かれこれ二時間近く、絶え間なく挨拶を続けてようやく人が途切れたところで、ふぅと息をついたら背後から声をかけられた。物静かなその声の主は、例の海戦で後方支援を担当した新型客船フローリア号の船長、デニスさんだった。フローラにも卒なく紳士的な挨拶をすると、彼は温かい茶が注がれたカップを二つ、僕達の目の前にさりげなく置いてくれた。

 僕ら夫婦があまり酒を呑まないことに気づいてくださっていたんだろう。こういう心配りのできる人間になりたいと切に思う。

「恙無く……と言うには申し訳ない気がするんだが。有難いことに、我々船員に大きな被害はなかった。そちらの、その……魔物の方は、どうだい」

 自らは水割りをからりと鳴らして。僕を挟んでフローラと反対側の椅子を引いて腰を下ろし、デニス船長がおもむろに切り出した。

 彼もまた、ピエール達を気にかけてくれる。

 あの戦いで大きな損傷を負ったのは、結果として仲魔達の方だった。共に戦った仲間として、そのことをきちんと認識してくださっていると思うとひどく、面映い。

「あの時のスライムナイトは、すぐ持ち直して今は全く変わりありません。他のみんなも、元気です。……キメラは……そもそも、敵だった者なので」

 最後は言葉を濁して答えると、彼は軽く目を瞠ったあと、そうか、と小さく呟き手の中のグラスを呷った。

「魔物遣い────不思議な力で魔物を服従させ使役する者、か。伝説じみた存在と思っていたが」

 誰にともなく、ぽつりと独りごちて。

 何か、瞼の裏に思い返しているようだった。少しの間のあと、些か逡巡しながら彼は静かに呟いた。

 酒場の喧騒に反して、それはひどく鮮明に耳に届く。

「魔物だけじゃないな。君はまるで、ある種の……神のようだ」

「神…………、です、か?」

 呆気にとられ、思わず鸚鵡返しに訊き返したが、彼は答えず眼を伏せたまま暫しグラスを覗いて思案した。やがて険しい顔つきで面を上げたと思えば、また違った問いを投げてくる。

「あの時のキメラはもしかして、君達が会議の時に話していた奴らの残党か?」

 無視された回答が気になったが、とりあえず感情を整理し頷いた。あの戦闘の総括は後日、フォスター船長の帰還を待ってすることになっているのだが。

「残党……というか、そうですね。襲撃してきたうちの一羽でした。たまたまやりあった時に少し話をして、その後危ないところを助けてくれて」

 最期を思い出すと今も胸が軋む。同時に何故、あんなにも手助けしてくれたのだろうとも思う。

 スラりんを救って、ピエールを乗せて、最後は僕らを庇ってくれた。もう、その真意を直接訊くことはできないけれど。

「全然、楽しい話はしてないですよ。ただの尋問です。船を供物にするつもりかとか、何故フローラを狙うのかとか」

「お嬢様を?」

 しまった。フォスター船長はともかく、フローラが狙い定められていることは他の船長には伝えていなかったのだ。失言を鋭く聞き咎め、デニス船長は眉をひそめたが、すかさず答えたのは僕の隣で背筋を伸ばし、静かに話を聞いていたフローラだった。

「お父様にはテュールさんから報告してくださっています。ずっと昔から、世界中で特に、女子供が魔物に拐われるという事件が続いていることをご存知でしょうか。その被害者の要件がどうやら、私のように『変わった髪色』といった身体的特徴を持つ人間なのではないかと」

 美しく背筋を伸ばした彼女から、あの船上会議の時と同じ威厳が滲み出る。

 デニス船長もどこか畏った様子で、フローラの発言に耳を傾けていた。

「テュールさんはそのことを確認してくださったのです。……残念ながらその後、ナサカの悲劇は防ぎきれませんでしたが……」

 フローラが睫毛を伏せ、デニス船長も悼ましげに俯いた。ナサカの報告は当然ここにも届いていたのだろう。「ああ、それでお嬢様も……で、間違いなかったんだな」と低く問われて、黙って控えめに首肯した。

 外野の喧騒の中、暫し、氷がからんとグラスの中を踊る音だけがこのテーブルの上に響いて。

「……俺が『神のようだ』と言ったのはね。あの場で誰も、誰一人、君を疑う者がいなかったからだ」

 重く、低い囁きが、沈黙を割った。

 蒸し返されると思っていなかった僕は思わず目を剥いてしまった。それが可笑しかったのか、デニスさんはほんのわずか、笑うように口端を弛ませる。だがすぐばつが悪そうに目を逸らし、グラスを弄びながら言葉を選んだ。

「気を悪くさせたらすまない。正直、俺だけは今も少し……疑っている。疑おうとしている」

 ……隣で身動ぎ一つせず聞いていたフローラの肩が、初めて、ぴくんと揺れた。

 黒曜石の視線が交錯する。デニスさんの深い灰緑の虹彩が、僕の深いところを捉えようとしてくる。何かを試すような眼差しだと思った。真正面から僕を見据えた彼はやがて、おもむろに口を開く。

「どんなに従属していると言われても、魔物だ。手放しに信用できるものじゃない。普通ならね。ましてや敵も魔物を遣ってきていて、もしかしたらその教団自体が魔族の謀り事かもしれないんだろう? 君が使役する魔物達がそちらに通じていてもおかしくはない。寧ろ、こちらの味方だと盲信する方が危険だと思わないか」

 そこまで言うとデニスさんは一旦こちらを窺い見たが、逆に僕があっさり同意したことに戸惑ったようだった。何を驚くことがある、人間という一種族として魔物の存在原理を疑うことは誰にも咎められない。実際、多くは自分達に害を成す生き物なのだから。

 僕は仲間である彼らのことが好きだし、出来ることならこの先も共存を望むけれど、受け入れられない人を非難するつもりは毛頭ない。そんなの当たり前だと思ってる。

 ただ、そこにあるのが種族の隔たりだけだと思いたくない、それだけのことだ。

 心があって、意思の疎通が図れた時、種族なんてあまりに些末な問題だと思うだけだ。魔物だろうが人間だろうが、ドワーフだろうがエルフだろうが。相手を尊重し慮ることが出来る相手になら、僕の接し方は誰に対してでもきっと変わらない。それだけが、今の僕が持てる最大限誠実な答えだから。

 特に反論のない僕に怪訝そうな眼をして、デニスさんは更に躊躇いながらも続きを口にする。

「他ならぬお嬢様の伴侶であり、ルドマン様の後推しもあった。その上で俺もイヴァン船長も、ある程度の裏切りは想定していた。だが、実際戦場に出た時────やっぱり微塵も疑わなかったな。君や、君の魔物達があそこで反旗を翻すだろうだなんて思わなかった」

 わりと今、とんでもないことを言われてはいるんだけど。

 何故か僕は頭が冷え切ったままで、多分やはり表情を寸分も変えないまま、黙ってデニスさんの言を聞いていた。

 寧ろ、憤ったのはフローラの方だった。息を呑んだ彼女の手をすぐに包み、落ち着かせるようぎゅっと握り締める。

 僕が、フローラを人質にしていたのではないかと。そういう予測を立てていたと、この人は言っているんだ。

「……だから、今になって疑おうとしてるんだ。これでも昔から、猜疑心だけは強くてね」

 言葉とは裏腹に、彼は困惑を示すようにくしゃりと笑った。僕も別段警戒しているわけではなかったから、無難な愛想笑いだけ繕って頷く。

 少なくとも、この人は『敵』ではなかった。

 腹に一物抱えられるより、こうやって直接言ってもらえる方がずっといい。普通の人間にとって、魔物の力を借りるということが真っ当なやり方でないことくらい、承知している。

 外面はきっちり繕ったつもりだったが、いつしかデニス船長はなんとも言えない表情で僕の眼を真っ直ぐ見つめていた。何か、と首を傾げると、尚も逡巡しながら重い口を開く。

「わかるかい。……信じさせる力があるんだよ、君には」

 気のせいだ。そんなもの。

 咄嗟に吐き捨てそうになってしまった。肚の奥から迸りかけた衝動は、僕を見据える深い黒曜石の瞳に鎮められた。深い翠を帯びた黒い両眼が、真剣な色だけを纏って正面から僕を射抜く。

「頼ってやれ、って言っただろう? あの日、君はそんな視点を超越した、全然違うところに立っていた気がするんだ。どんなに疑いを抱いていても、受け入れ難い状況でも、いざ目にすれば信じざるを得ない。……まるで暗示だ。神懸かった、強烈な信仰のようだった」

 ────よりによって、自分が最も毛嫌いしているものに喩えて言われるとは。

 我ながら失笑を禁じ得ない。フローラの手前、惨めな自分を必死に隠して、眼を伏せたまま首を振った。どんな反応を期待していたものか、デニス船長は微かに溜息をついたが、すぐに肩の力を抜いて硬かった面持ちも崩した。

 喉を鳴らして一息に水割りを飲み干した彼は、もうすっかり普段と変わらぬ様子だった。

「ま、魔物遣いってこういうことなのか、と思ったって戯言さ。君が悪人じゃなくて本当に良かった」

「……わかりませんよ。いつか、酷い悪事を働くかも」

 知ったように言われるのが悔しかったのかもしれない。考えるより先に、そんな悪態が口をついて出た。

 何だろうな。決して嫌な人ではないのに、何がこんなに鼻につくのか。妙に神経に障るというか、自分と近しい黒髪黒眼の所為だろうか。

「お嬢様が悲しむことを、望んでする男には見えないがね」

 案の定見透かしたように微笑んで、デニスさんは氷だけになったグラスを持ち席を立った。ひらりと掌を返し、あちらで盛り上がっている船員達の集いに混ざっていく。

 その背をぼんやり見つめながら、僕はまとまらない思考の中、たった今もらった言葉の数々を何度も何度も反芻していた。

 デニス船長の言ったことは正直、概念的で僕にはいまいちよくわからなかった。

 信じざるを得ないなんて言われても。それって僕が本当に、仲魔に恵まれているってだけじゃないのか? そりゃピエールにしろスラりん達にしろ、彼らをちゃんと知れば疑う人なんていないだろう。本当に気の良い、仲間思いの魔物達なのだ。大体そういう……洗脳じみた、すごい影響力が僕にあったなら、ナサカの皆さんにあそこまで責め立てられることもなかったのでは。

 なんだろう。詐欺師にでも向いてるってことかな。

 ひねくれた考えに走るのは悪い癖だ。ふるふると首を振り頭を上げて、改めて、ついさっき言葉を交わした人々が集っている酒場の風景を眺めた。

 僕よりずっと年配の方が多い。アランさんくらいの若手達は少し離れたところで、楽しそうに肩を寄せ合い談笑している。時々目があうと、照れ臭そうに目配せで挨拶してくれた。それぞれ和気藹々と今日の仕事を労いあい、ふざけたり語り合ったりしている。

 あの人達はきっとみんな、仕事に精を出して、時々好物を食べたり、やりたいことのために金を貯めたりして、一日が終わるとこうして、気心知れた人達と酒を酌み交わすのを楽しみにしているんだろう。

 色んな人がいる。知っている人、知らない人。それでも共に戦い、命を賭けた人。覚えていてくれる人、怒ってくれる人、心配してくれる人、疑ってくれる人も。

 ああやって日々を一生懸命生きている人達に、僕は一生関わることがない人種なのだと思っていた。

 彼らの輪に加わることなんて、絶対にないと思っていた。

「────テュール、さん?」

 いつの間にか、フローラの手を握ったままぼうっとしてしまっていた。慌てて手を解き、拙い言葉を必死に繕う。

「……いや。いつの間に、僕の周りにはこんなに『人』がいたんだな、って……」

 あの牢獄から逃れて。修道院の方々に救われて命が繋がって。

 やっと自分自身の人生を手に入れたあの頃、僕はすごく孤独だった。側にいてくれたのはヘンリーだけだった。やっと戻った故郷はぼろぼろに朽ちていて、落ち着けるところなんてどこにもなくて。いっそ父の遺言など忘れて普通に暮らしたいと思ったことも正直、あった。けれど、じっとしていると気が急いて、父の懇願に急き立てられる感じがして。普通の人に紛れて生活することも、次第に息苦しく感じるようになっていた。母の居る生活というものをうっかり夢に見てしまったことも、何度かあった。

 ラインハットの政変を経て、ずっと共に過ごしてきたヘンリーと別れて。気づけば僕の居場所と呼べるのは、馬車と仲魔達の側だけになっていた。

 放浪は性に合った。当り障りない遣り取りばかり巧くなった。一期一会の人々なんて、他人以上の関係にはならないと思っていた。

 今だって他人には違いない。けれど、違う。前よりずっと、相手の生きた意思みたいなものを尊重できるようになった。その命の営みを大切だと思えるようになった。僕と知り合ってくれたことを、感謝できるようになった。

 ヘンリーだって、きっとそうだ。多分僕はあの時、諦めてしまったんだ。これでお別れだと思った時、ヘンリーとは別々の道を往くと決めた時、彼との縁はここで一度途切れてしまうのだと。十年分の腐れ縁なんて彼にはもう重いだけ、二度と同じ関係には戻れないのだろうと。

 全部、僕の勝手な思い込みだった。

 彼が僕を見放すはずがなかった。離れても尚変わらず、彼は僕の親分だった。今や彼は、彼にしか出来ない形で、ああやって手を尽くして僕の力になろうとしてくれているのだ。

「こんなふうに、誰かと過ごすようになるなんて思わなかった。親しい人なんて出来っこないって……そう思うと、僕は随分と薄情だったんだなぁって」

「そんなこと、ありませんよ」

 自嘲ばかりの情けない呟きを、フローラの澄んだ声が遮った。

 顔をあげれば、いつもの慈愛に満ちたあたたかい微笑みが、頼りないばかりの僕を優しく肯定してくれる。

「薄情なんてこと、ないと思います。大切にしたい、そう思えるご縁が増えたのでしたら……それがあなたにとってご不快でないなら、とても、素敵なことだと思いますし」

 ひとつ、ひとつの単語を大切に選びながら、彼女は誠実に言葉を紡いでくれる。

 君がそうしてくれることがとても素敵だと、僕には思える。

 君が言うと、本当にそうなんだって気がしてくる。

「大切にすることは、怖い、ことでもあります……ものね」

 どきん、と心臓が鳴った。矮小な自分を思いがけず、言い当てられてしまった気がした。

 微かな後ろめたさを感じたものの、フローラはそんな僕をもやはり、慈しみ深い瞳で穏やかに見上げていた。

 そこには、憐みや嘲りなんて欠片もなくて。

「私も、あなたに恋をして……一緒に過ごして、旅をして、知らなかった世界をたくさん知りました。大切にしたいものも、増えました。……強さなんだと思います。大切にする勇気を、持てるようになったの」

 静かに呟いた彼女は、小さな両掌をそっと広げ見つめる。

 空っぽのその手の中に今、彼女は何を宿し、視ているんだろう。

「以前の私なら、手を伸ばすことも尻込みしてしまったと思うから。……大切なものが増えることは、怖いです。失うかもしれないことが怖い。まして、私には守れる力などまだ、これっぽっちもなくて」

 どこか心許なさげに眉尻を落として。その手をきゅ、と握りしめ、彼女は揺るぎない眼差しを持ち上げてやわらかく微笑んだ。

 強く、儚い。まるで暁に微笑む、女神ルビスのように。

「それでも、私はあなたの側に居たい。そう、願うことが私に、勇気を……望むための強さを、与えてくれているような気が、するんです」

 いつか船上や、この街の夜の港で二人、テトラポットを眺めながら話した時を思い出す。

 彼女が密かに零した優しい優しい独白は、じわりと温かな熱を伴って僕の心に浸透した。

 僕が今感じている『これ』も、きっとそういうことなんだ。

 人を知って、また別れることが怖かった。幼い頃の僕はただ父やサンチョが大好きで、けれど別離は唐突に、理不尽に突きつけられるものだと思い知った。割り切らなければ生きることが辛過ぎた。だからこそ、大切に想うことから逃げたんだ。感傷なんていらない、ただ目的を果たすだけ、父の遺言に従って生きようってひたすら自分に言い聞かせて。

 それなのに、君は臆病だった僕の殻を一瞬で破壊した。失う怖さより、永遠に手に入らない恐怖の方が呆気なく勝った。世界が鮮明になったあの日から、僕を取り巻く人の綾はずっと温かく、近しくて、複雑になった。

 そんなしがらみが、今ではとても愛しく思えて。

「……すごく、わかる気がする。大切に思う、勇気……」

 それを彼女が『強さ』と表現してくれたことが、嬉しい。

 剣や魔法の腕では測れない。力の優劣でもない。

 大切だと思えた何かを、自分の手で大切にしていけるということ。それを望む勇気を持てること。

 それはきっと、孤独で臆病だった僕がずっと欲してきた心の強さ、そのものだった。

「テュールさん」

 指輪ごと白い手を包んだ武骨な掌に、もう一方の華奢な指がそっと添えられる。

 握り返して顔をあげれば、透き通る翡翠の双眸が愛しげに、僕を見上げてくれていて。

「……大好き、です。心から」

 耳に甘く、幸せを滲ませた君の微かな囁きが、届く。

 とくん、と。心臓がまた、悦びに震えて。

「僕も、誰よりも君を愛してる。本当に僕は、幸せ者だ……」

 何度でも、何度だって、僕達はこうして恋い慕い、欲し合う歓びを確かめる。

 やわらかな髪を、花の香薫る頭を抱き寄せ、腕の中に閉じ込めた。空色の髪から淡い珊瑚に色づいた頬を覗かせて、僕の大切な奥さんは、甘酸っぱい微笑みを僕だけに向けてくれる。

 手を離さない勇気を持てたのは、君が隣に居てくれたから。

 こんな薄情者の僕が善人だと言うなら、そこから踏み外さずにいられるのは紛れもなく、君がそのきれいな感情を惜しげもなく注いでくれるからだ。

「ったく、今時の若いもんは。人目も憚らず惚気やがって」

 白髪のイヴァン元船長が手元に残ったエールを飲み干し、忌々しげに舌打ちした。そういや義父を含めた公衆の面前だった。いつの間にかしっかり衆目を集めてしまっていて、今更羞恥に頬を染めたフローラが離れようとしたが、ここまで見られたら今更だろう。腕の中の妻に微笑みを落とし、離すどころかぎゅっと腰を引き寄せ抱き直した。フローラの顔が耳までみるみる真っ赤に染まって、同時にヒュウ! とそこかしこから冷やかしの口笛が飛び交う。

「良いんですかい、お義父様。あんなもん見せつけられて、内心穏やかじゃないんでは?」

「さぁて。イヴァンが初めて奥方をこの酒場に連れてきたのはもう三十年ほど昔だったかな? 鼻の下を伸ばしたお前さんに散々惚気られたもんだ」

「あら嫌だ、ルドマン様ったら。初めてお会いした時にはあたしなんてもう随分と年増でしたわよ。ルドマン様には子供達にまで本当によくしていただいて」

 昔の話を持ち出しての意趣返しに当の奥方本人が同調し、イヴァン殿はこれでもかと渋い顔をした。奥方は何か思い出したように瞳を潤ませている。そんな友人夫妻を笑って見遣り、義父は手の中のグラスをからんと揺らして、しみじみと満足げな顔をした。

「儂は嬉しいよ。あの子にこんな、平穏な幸せを望んでやれる日が来ようとは」

 ────それは、彼女が天空の盾の持ち主だから、だろうか。

 ぱっと思い当たるのはそれしかなくて、恐らく何も事情をご存知ない船員達は目を瞬かせて卿を見た。とは言え、僕もまだ何も知らない。どうしてフローラが『元々の』盾の所有者だと言われたのか。彼女自身がその使い手ではないことくらいしか、知らない。

「……負わせるばかりで、何も報いてやれなんだ」

 少し離れた座席に座っていた僕には、その独り言は残念ながら良く聞こえなかったけれど。同じく耳を澄ましていたフローラは何故か、泣きたいみたいにくしゃりと目許を歪ませた。

 完全に卿にあしらわれ、目論見外れたイヴァン殿が面白くなさそうに立ち上がった。カウンターで新しいエールを注がせると、その足で何故かこちらのテーブルに向かってくる。

「おい、坊主。いつまでお嬢様を独り占めしとるつもりだ」

 それなりに酔っていらっしゃるのか、軽口と同時に僕の背もたれにドカッ! と強烈な蹴りをくれた。いや、卿といいこの方といい、腕力脚力が半端ないな! 咄嗟に平静を装ったものの、臀部にびりっと衝撃が来た。

 船上での戦闘や、出航前の宝石集めでもフローラを危険に曝したことを、イヴァン元船長はしっかり根に持っている。この上テルパドールでの出来事を知られたら半殺しにされかねない、が、一度本音でやりあったからか、僕はつい太々しい返しをして彼の神経を逆撫でしてしまった。

「お言葉ですがイヴァン殿、フローラは『僕の』妻なので」

「ほおおぉ、言うようになったじゃねぇか。儂に口答えする度胸があるならこれッくらい、一息でいけるンだろうな?」

 近くのテーブルを乱暴に引き寄せ、僕を見下ろす形で腰掛けたと思えば、イヴァン元船長は口をつけたばかりの、まだなみなみとエールが入ったジョッキをだん! とこちらのテーブルに叩きつけた。

 げっ、これを一気飲み!? 下戸には難易度が高過ぎる!!

「およしったら! 全く、ジジイの僻み酒なんざみっともないよ」

 さーっと血の気がひいた僕の様子を察して奥方が止めてくれたが、この場の最高権力者たる義父は何やら涼しげに笑んで酒を舐めるばかり。その背後から、好奇と哀れみが入り混じった船員達の視線が幾重にも注がれる。なんだろう、これはもしや、いわゆる洗礼とかいうやつでは?

 フローラも、不安そうに僕とイヴァン殿を見比べている。

 なんとか断る方法をと思考を巡らせている最中にも、ほれ、と鼻先までジョッキを押しつけられる。下手すりゃ頭から浴びせられかねない剣幕に、恐る恐る酒を受け取った。独特の酒の匂いがつんと鼻の奥を突く。ジョッキと彼とをまじまじと見つめれば「儂とあんたの仲だろう、総帥殿」とニヤリと詰め寄られ、いよいよ後がなくなる。

 ────神よ、御加護を!

 人間なんて調子いいものである。普段微塵も縋らぬ神を念じ、一息にジョッキを呷った。一口、喉をまろび落ちたその一瞬でものの見事に食道が焼け、呷った体勢のままブホッ! と咽せてしまう。そのままげほごほと激しく咳き込み、口から鼻からとアルコールを噴き出してしまった。

「テュールさん!」

「あらら、若さんは強くないんだねぇ。大丈夫かい?」

 悲鳴を上げたフローラがすぐさま水を注いでくれて、空になったピッチャーを駆け寄ったイヴァン殿の奥方が取り替える。慣れたもので、手拭いに水を浸して額に充てがってくれた。そうこうしつつ若い船員を捕まえて、たらいを持ってくるよう言いつける。

 ばたばたと介抱してくれる人達に囲まれて、僕はひとしきり咽せて吐き出した後、木の椅子にぐったり身体をもたれてだらしなく宙を仰いでいた。酒が逆流した所為で顔中の穴という穴が痛い。瞼の裏に火花が散って、顔面というか身体が燃えるように熱くて、こめかみの血管ががんがん鳴り響く。おかしいな、ただのエールじゃなかったのか? ちょっと動かすだけで更に吐いてしまいそうで、怖くて体勢を変えられない。

 何度か酒の席をこなして、少しは強くなったと思ったけど。まだ全然駄目みたいだ。悔しいなぁ。

「酒の弱さは親父譲りのようだな。坊主」

 愉悦混じりにくつくつ笑うイヴァン殿の声が遠ざかっていく。あれ、何だか今、ものすごく気になることを言われたような。しかしすっかり朦朧とした頭では、理解が全然追いつかない。

「あのひと、孫が帰ってきたみたいで嬉しいんだわ。ちょうど若さんくらいの歳でねぇ。絡み方がそーっくりだもの」

「ジーラ! 余計なこと抜かしてんじゃねぇぞ」

 しれっと次のエールを注文しに行ったイヴァン殿が、カウンターからの大声で奥方に横槍を入れた。苦笑しつつ近づいてきたデニス船長が僕の脇の下に肩を差し込み、ひっそりと囁く。

「あの人のエールは特別なんだよ。度数の高い蒸留酒を割ってるんだ。知らずに飲まされるとキツいよな」

 ……そこはもうちょっと、早く教えて欲しかったな……

 思えば義父も相当の酒豪だった。同気相求むということか。

 たった一口で使い物にならなくなった僕はデニス船長と若い船員さんに支えられ、酒場二階の宿の一室に押し込まれた。寝台に横たえられ、少し遠くから「そんな状態では転移魔法も難しかろう。気にせず今夜はゆっくり休みなさい」と義父の声が聞こえる。くつくつと笑い含みに響くその声に、ひぁい、と呂律の回らぬ返事をして、そこからの記憶はない。

 翌朝目が覚めると、綺麗に身支度した妻が心配そうに僕を覗き込んでいた。起きてからずっとそうしていてくれたのだろうか。まだ頭はずきずきと痛かったが、ほんのりと鼻腔をくすぐる花の香りが昨夜、意識を飛ばした僕に寄り添い一緒に眠ってくれたであろうことを教えてくれて、ほわりと温かい気持ちになった。

「本当に、ありがとうね。酒臭くなかった?」

 水をもらって飲み干し、謝辞と共に滑らかな頬を撫でれば優しく微笑んで首を振る。「全然、気になりませんでしたよ」と答えてくれる聖母のような彼女に、それでもやっぱり臭っただろうなと思いつつ一度だけ、遠慮がちに口づけをした。

 珊瑚色の唇をそっと食めば、桃みたいに甘く蕩ける。

 ほとんど触れただけの幸せな口づけのあと、頬を薄桃色に染めはにかんだフローラが、急にしゅんと眉尻を下げて俯いた。

「昨晩は側に居ながらお止めできなくて、本当に申し訳ありませんでした」

「フローラが謝ることは何もないよ。僕がちゃんと断れば良かったんだ。みっともないところを見せて、本当にごめん」

 さらりとシーツに碧髪が流れて、慌てて顔を上げさせた。

 自分でもあれはないと思う。確か、思いきり咽せて……うん、絶対ひどい有様だった。あんな姿を見た上で幻滅しないでいてくれるフローラは、やはり女神としか思えない。

 落ち込ませてしまったかと思ったが、意外にも顔を上げた彼女は瞳に強い意思を宿して真っ直ぐに僕を見た。

「相手の事情を汲みもせず強引に呑ませるなんて、やっぱり良くありません。ましてやお酒は、人によって許容量が違って当然ですのに。イヴァン様には私からも良くお話ししておきましたから」

 正面を睨み、きっぱりと言い切ったフローラの表情は、義父絡みの話の際に時折見せる険しいもので、背筋が凍るような戦慄を覚えた僕は思わず、こくりと唾を飲んだ。

 それこそ孫娘のようなフローラに、こんこんとお説教される屈強な体躯の老船長か。申し訳ないけど是非見たかった。

 それから凡そ二週間後、僕達は再びこの酒場で二度目の壮行の宴を開くことになるのだが、その時のイヴァン殿は何故だかやけに大人しかった。フローラの『お話』が効いたのだろうか。口では相変わらず絡むが、若い船乗りに無理矢理呑ませようとする姿は見られない。久々に会ったフォスター船長も「どうしたんです、イヴァン船長。随分と人がまるくなって」と驚くほどだった。……時折イヴァン殿が戦々恐々という風にこちらを盗み見ていて、ん? と振り返ると、その視線の先には都度、フローラがにこやかに微笑んでいたのだった。一体彼女はどんな『お話』をしたのだろう。

 昨晩の吐瀉物で汚れた顔や身体は、意識が飛んでいる間に綺麗に拭いてもらってあって、シャツもすっかり剥ぎ取られていた。記憶が曖昧だが、多分デニス船長が処置して下さったんだろう。何もかも世話してもらったことに恐縮しつつシャワーを使い、洗い替えを借りて着替える。そういや昨晩は酒を吐いたのもあるし、そもそもずっと人と話していたからほとんど何も食べていなかったんだ。思い出したら急に空腹が辛くなってきた。

 そうして僕は小さくなりながらフローラと共に酒場に降り、豪快に笑い飛ばしてくれた義父と共に朝食をたらふくいただいたあと、ようやくサラボナへと帰還したのだった。



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#24-1. 光の標【終章3】~side Tyr(1/2)

 サラボナに戻り別宅で僕を休ませたあと、フローラはぱたぱたと忙しなく家事をこなしていたが、やがて洗濯がひと段落すると、裁縫道具を持って二階に上がってきてくれた。

 僕の様子を確かめ、酔い覚ましの薬湯をカップに注ぎ直す。

 それから、露台近くのテーブルに愛用の手帖とのれんを広げて、ようやくフローラは腰を落ち着けた。

 気になってちらりと手帖を覗くと、綺麗な筆跡と図で縫い方がいくつか記されてるようだった。修道院時代に書きつけたものなのだろう。

 冬の朝の、淡い陽光が広い露台から窓辺へと降り注ぐ。

 静謐な陽だまりの中、穏やかに縫い物をする妻の姿は不思議と母性に溢れて、とても尊く見えた。

 ぼろぼろに切れた糸を綺麗に始末し、ひと針ひと針丁寧に縫い上げていく。すごく集中していたようだったから、邪魔にならないよう僕も静かにしていた。だいぶ頭痛も落ち着いたので、暇つぶしに本を読む。義父からお借りした、彼が昔参考にしたというグランバニアについて書かれた本と、そこに挟み込まれた古い地図だ。

 ルドマン家のご先祖様が書いたのだろうか。地図にはなかなか几帳面な文字で集落名がいくつか書き込まれている。それらを打ち消す印が文字より多く刻まれていることが物哀しい。かつて義父が訪ったとき、すでに廃村になっていた場所かもしれない。

 本の内容は、修道院のマザーから聞いたものよりさらに古い時代の話だった。七百年の大昔、その地に巣食っていた魔物を殲滅したある男が国を建てたところから記述は始まる。

 さすがに勇者というわけではなかったようだが、彼はその地に強大な邪悪を封じることに成功した。その封印と彼の血を守る為、グランバニアは代々、正当な王を不思議な力で定めるという継承の儀を行ってきた。どうやら正当な王は人が決めるものではなく、王家の証と呼ばれる何かが代々選定するらしい。

 なんとなく、妻のものと対を為す、僕達の結婚指輪と重なった。僕とフローラ以外、恐らく誰も身につけることの出来ない、不思議な指輪。

 もし、父さんが本当にグランバニアの『正当な』国王だったとしたら、彼が亡き今、空の玉座は一体どうなっているんだろう。

「────出来ました!」

 いつの間にか本と思考に没頭してしまっていた。最後の糸を慎重に切ったフローラが、嬉しそうに声を弾ませる。

 反射的に顔をあげれば、彼女もいそいそと立ち上がり、完成したのれんを広げて見せてくれた。

 改めて見ると確かに、少し変わった縫い目だとわかった。

 すごく細かくて気づき難いけど、多分、縫い目自体が魔法陣みたいな文様になっているのだ。なるほど、こんなふうに魔力を付与……というのか、織布が持つ力を安定させているんだな。

「すごく綺麗だね。こんな細かいこと、僕には出来る気がしないよ」

 いつか硬い革袋を必死に縫ったことを思い出し、思わず感嘆して呟くと、妻は少し恥ずかしそうに、愛らしく微笑んでくれた。

 庭の仲魔達に見せるため、のれんを抱いたフローラが階下へと降りて行く。僕も行きたかったけど、さすがにまだ本調子とは言い難い。大人しく本を開き直し、彼女が戻ってくるのを待った。

 ……こんな穏やかな幸せに浸れるなんて、夢みたいだ。

 それは、戦いも旅も縁遠い、どこにでもいる普通の夫婦が普通の日々を過ごしているような、ちょっとくすぐったい感覚で。

 露台から溢れる日差しがシーツまで届いて、暖められた空気は抗い難い眠気を誘う。

 文字を追っていたはずなのに、いつしか僕は手の中から借り物の本を取り落とし、うとうと微睡んでしまっていた。

 

 

 

 ────テュールさん。

 

 浅い眠りの中で、夢を見る。

 まっさらな光に包まれて、君の優しい、透明な声が僕を導く。

 姿は見えない。光が満ちて眩しいばかりの空間だけれど、不安はなかった。懐かしい、あたたかな気配に抱かれて、このまま身を任せて大丈夫だという不思議な安心感があった。

 何故だろう。鈴を転がす綺麗な声がいつしか、未だ顔も、声も知らない母親と重なった。

 ──────かあ、さん?

 喉から発したつもりの音はこぽ、と水の膜に阻まれて消える。溺れている、泳いでいる? このぬるい水の一部になったみたいに揺蕩っている。ゆらゆら、眩しい。……心地いい。

 ああ、これはあなたなのだろうか。

 知らないうちに、こんなにも恋しく思っていたのだろうか。

 

 

 

「あ! ごしゅじんさま、おーきた!」

 ぷにぶにした感触が次第に現実味を帯びる。やわらかな水に包まれた気がしたのはどうやら、生温い軟体に頰を押し潰されていただけみたいだ。

 ああ、僕、寝ちゃってたのか。

 なんだかすごく甘い、いい匂いがする。下でフローラが食事の準備をしてくれているのかもしれない。

「……スラりん? あれ、どしたの……」

「あのね〜、みんなでおひるたべるの〜。ふろ〜らちゃんがおべんと、つくってくれるって〜!」

 寝惚けてぼんやり問うた僕に、スラりんの隣からにょっきり顔を出したホイミンが声を弾ませて答えた。眼を擦って眠気をさましていたら、エプロン姿のフローラが軽い足音を立てて寝室へ上がってくる。その華奢な肩にはしびれんがぴったりくっついていて、随分フローラに懐いたものだとしみじみ思う。

 目が合うと、ほっと息を吐いて薄紅の頬を緩ませた。

「起こしてしまいましたね。体調はいかがですか?」

「うん、ちょっと寝たらだいぶ良くなった。全部任せっきりで本当にごめんね」

 僕としては心から申し訳なく思ったのでそう言ったのだけど、フローラはやはり優しく微笑むと首を振り「お疲れもあるのでしょうから、たまには存分に甘えてくださいまし」と答えてくれた。聖母にも程がある。

「皆さんがお弁当をと言ってくださったのですが、外は寒いですし、雪で濡れてしまいますから……今日はお家の中で、行楽気分を味わえたらと思いまして。テュールさんはいかがなさいますか? お辛いようでしたら別のものを」

「いる。もちろん食べる」

 間髪入れずに即答したら、フローラは目を円くした。吐き気は朝から全然ないんだ、頭が痛いだけで。それも昼寝したらだいぶ良くなった。

 ホイミン達にまとわりつかれながら一階に降りると、他の仲魔達もちゃっかりお揃いだった。プックルとピエールは朝の帰宅時には見かけなかったはずだが、昼飯を見越して戻ってきたようだ。いい勘をしている。

 行楽気分ということなので、テーブルは端に寄せて敷布を敷く。外は窓から見える景色だけだけれど、久々にみんなでバスケットを囲むと、半年前、ポートセルミでのんびり昼食を取った晴れた日のことが思い出される。

 あの日から一匹だけ、家族が増えた。旅の途中で仲魔に加わったしびれんは今、フローラの膝の上で、嬉しそうにもぐもぐサンドイッチを食んでいる。その左右にスラりんとホイミンが陣取り、彼らの好きなおかずを我先にと勧めているようだ。マーリンは相変わらず無表情だが、どうやら彼は野菜を好むらしい。蒸した野菜を近くに引き寄せ、黙々と食べている。時折こくこく頷いているのは無意識だろうか、なんとなく笑ってしまう。ピエールの緑のスライム……名前を聞いたけれど特に呼び名はないのだという。つけないの? と問えば必要がないと答えられたが、これはこれで彼らの絆の表れなのだと思う。その相棒のスライムに甲斐甲斐しく芋を食わせてやりながら、ピエールは卵に肉にサンドイッチを次々鉄仮面の下へと消し去っていく。どうやって食べているんだろう。プックルとガンドフはこれまた相変わらず、不思議と仲良くしている。二匹とも特に喋るわけではないが、ガンドフは自分に取り分けるついでにプックルにも置いてやり、二匹同時にそれをぺろんと平らげては満足げな顔をする、という謎の遣り取りを繰り返している。

 スラりん、このおにくがいちばんすきー! と元気いっぱいにスラりんが叫べば、フローラはくすくす笑って小ぶりな揚げ鶏を摘み、スラりんの口許へと差し出した。う、羨ましい、なんて思っちゃいけないけど正直羨ましい。僕だってフローラの揚げ鶏は大好物なのに。でれっと嬉しそうに青い頬を緩ませたスラりんが遠慮なくぱくついて、それを見たホイミンが自分も~! とせがみだす。

 つまらぬ嫉妬といえばそれまでだが、ふと悪戯心が疼いた。

 サンドイッチをひとつ手に持ち、妻の前にそっと差し出す。きょとんと首を傾げる君に「みんなに食べさせてばかりで、フローラが全然食べてないよ」とあえて甘く囁いた。君が拒めないよう優しい微笑みを貼りつけて、口を開けてと目配せで促す。程なく意図を察した君は、みるみる頬を真っ赤に染めてサンドイッチと僕とを見比べたが、笑みを深めてじっと待っている僕の様子に、ついに覚悟を決めたらしい。碧髪を揺らして、ぱくん! とサンドイッチの端っこにかじりついた。

 うっ、やばい。

 可愛すぎて心臓止まるかと思った。自分で仕掛けておいてなんだけど、今のはフローラが小動物みたいで可愛すぎてやばい。変な扉が開いた気がする。やばい。

「……テュ、テュールさん。何だかすごく、恥ずかしい……の、ですが……」

「う、うん。なんか、その……ごめんね」

 熟した苺みたいに真っ赤なまま、もぐもぐ小さく咀嚼する唇を両手で隠す妻を見ていると、可愛くて蕩けそうになる反面、ひどくいかがわしいことをしてしまった気がして申し訳なくなってくる。ていうか、何その小さい口。一口でそれしか食べてないの? 可愛過ぎない?

 食べかけのサンドイッチを受け取り、今度こそ一人で綺麗に食べ終えたフローラが、もう一度大きめの揚げ鶏を選んで僕の目の前に差し出した。

 一生懸命上目遣いで睨んでくるけれど、可愛いだけで威圧感は全くない。

「お返し、です」

 仕返しって言いたかったんだろうけど、ご褒美にしかなってないよ、それ。

 遠慮なく食いついて、脂のついた妻の指までしっかり舐めとる。結局また真っ赤になったフローラに思いきり笑いかけて、そんな風に過ごしていたら楽しいひとときはあっという間に過ぎた。ピエールをはじめ生温い視線ににやにや見守られ、気づけばバスケットの中身が空になっている。名残惜しい気持ちに苛まれつつ片付けをしていたら、実はクッキーを焼いたのです、と彼女が食後のおやつを持ってきてくれた。さっき寝惚けて嗅いだ匂いはこれだったのか。苺のジャムを宝石のように載せて焼いたクッキーは絶品で、きゃーっ! と歓声を上げた仲魔達と奪い合って食べた。

 あまりに平穏で、楽しくて、幸せだから。これはまだ夢の続きなんじゃないかと思ってしまう。

 お陰で体調も落ち着いたので、午後は馬車や旅で使ったものをきれいに整備したり、足りないものの洗い出しをしたり、アンディの家に立ち寄って依頼の進捗を確認したりなどして過ごした。

 因みに、あののれんは誰が使うことになったんだろうと気になっていたのだが、庭に出たところで得心した。くたびれた馬車の庇にいつの間にか、愛らしいホイミスライム三連ののれんが堂々飾られていたのであった。「あのねー! これ、ここにあるとなんかげんきでるー!」「ホイミンもなんだかつかれとれる〜!」とスライム属達が異口同音に言い募るので、笑ってそのまま飾ることを承諾した。贅沢な使い方だなと思うし、やたら目立つようにもなったけど、他の仲魔達が不快じゃないならまぁいいかと思って。

 更に余談だがその後、この馬車を見た人から「おや、そののれんはオラクル屋さん? 行商でも始めたのかね」と声をかけられることが増えた。驚いたことに、ルラフェンでもそうやって話しかけてきた人がいたのである。知る人ぞ知る隠れた店という印象だったが、実はオラクル屋は、あれで相当世界に名を知られた店だったのかもしれない。

 

 

◆◆◆

 

 

 別宅でゆっくり過ごした次の日から、船と徒歩で凡そ一日半かけて、ビアンカが住む山奥の村を訪ねた。

 二日酔いの後なのでフローラは心配してくれたけれど、この半年のうち半分くらいはずっと船で過ごしていたから、船体の揺れはそんなに辛くない。同じくビアンカに会いたいと言ったスラりんと、ふろ〜らちゃんがいくならホイミンも〜! と声を上げたホイミン、さらに触手を上げて賛同したしびれん。ビアンカの昔馴染みでもあるプックルも連れて、今回は夫婦二人に仲魔四匹同伴でのお出掛けだ。

 定期船や連絡船といった公共の船の類では普段、魔物連れはどうしても肩身が狭くて、いつもはデッキの隅の方で大人しくしているのだけど。今回はサラボナ発の定期船の客で、フローラを全く知らない人の方が少ない。思いがけぬ邂逅に、サラボナの白薔薇を一目見ようと、どの客も遠巻きにしながらそわそわこちらを窺っていた。そんな中、彼女が親しげに仲魔達と話していれば、それだけで場の空気が嘘のように和らぐのである。さすがに地獄の殺し屋キラーパンサーを撫でていた時には畏怖ともつかない感嘆が漏れ聞こえていたが、当の彼女はどこ吹く風だ。

「ふわー、さむいけどきもちいねー、ふろーらちゃん!」

 船縁の手摺りにひっついて、ぷるぷる身体を震わせ笑うスラりん達を見上げて、フローラは優しく頷いては何度もプックルの毛並みを撫でていた。

 翌朝、いつもの水門近くの船着場で降りて、雪が積もった山道を登って行った。夏に来た時よりずっと歩き難かったが、仲魔達はもちろんフローラもさほど遅れることはなかった。

 この調子で行ければ、想定より早くグランバニアに着けるかもしれない。同じ山道でもあちらの方が大変だろうとは思うけど。

「ふふ、グランバニアはもっとずっと険しいのでしょうけど。私も少しは体力がついてきたと思いませんか?」

 フローラも同じことを考えていたようで、わずかに息が上がりながらも嬉しそうに笑いかけてくれる。うん、と微笑んで頷き返したが、彼女はふと真顔になると己を戒めるように肩を落として溜息をついた。

「こんな浮ついたことを言っていては、またお父様に怒られてしまいますわね。気を引き締めていかないと」

「大丈夫だよ。フローラがどんなに頼もしいか、僕らがちゃんとわかっているから」

 僕の言葉に、仲魔達もにこにこ頷く。「しびれんも、もっともっとがんばるのっ。ずーっとずーっと、みんなといっしょにいきたいもんっっ」としびれんがはにかみながら言い添えれば、フローラもまた幸せそうに微笑んで「ええ、一緒に頑張りましょうね。しびれんちゃんが一緒ならとても心強いわ」と優しく語りかける。

 そこから半日、小休憩を挟みながら歩き続けて、ようやく山奥の村に辿り着いた。

 冬なので陽が落ちるのが早い。そんなにペースを崩したつもりはないけれど、村に着く頃にはとっぷり暗くなってしまった。実は今回、ノルンさん達から一つ頼まれごとをしているため、明朝萬屋が開くのを絶対に待たなくてはならない。つまり、ルーラで夜のうちに帰ることが出来ないわけで、村に入ってすぐ大急ぎで宿を確保しに行った。

「あら! テュール、今着いたの?」

 挨拶もなしにいきなり声をかけられたと思ったら。宿のカウンターで話し込んでいた金髪の女性が、こちらに気づくなり蒼い眼を見開いた。一応半年ぶりだというのに、まるで朝見送って今出迎えたようなビアンカの言い様がなんだか可笑しくて、思わず口許を緩ませながら手を挙げて答えた。

「久しぶり。うん、たった今」

「やだもう、こんな寒くて暗いのに……足元悪い中、わざわざ来てくれたのよね。二人ともありがとうね。フローラさん、大丈夫だった?」

 僕の背後からフローラがにこやかに会釈して、しかしビアンカは心配そうに妻の側に駆け寄った。靴や衣服こそ多少汚れていたものの、フローラは疲れた様子を見せることなく「はい。以前より体力がついて、余裕を持って歩けたように思います。お気遣いありがとうございます、ビアンカさん」と嬉しそうに首を傾げた。

「ふふっ。なかなか逞しいじゃない、フローラさん」

 妻の気丈な返答を聞いて、ビアンカも安堵して笑う。一泊したい旨を告げると、ビアンカが仲介にたって部屋の手配をしてくれた。今回、馬車は置いてきたので、仲魔達にどこで過ごしてもらうかだけが悩みどころだったのだけど、それもビアンカが掛け合ってくれて無事、納屋の一角を借りられることになった。

「この人、私の弟みたいなものなのよ。魔物さんもみんないい子達だから、姐さんに迷惑はかけないわ」

 一人でももちろん交渉できるけど、村の一員であるビアンカの口添えは大きい。自分達の家ならいざ知らず、宿の室内にキラーパンサーを入れるのはさすがに気が引けるから、納屋をお借りできるのはとてもありがたかった。以前ヴェールを取りに来たときはまだ初夏で過ごしやすかったので、プックルには村の外で一夜を明かしてもらったのだ。

 それでも及び腰で、納屋への案内の為ついて来てくださった女将だったが、ビアンカが大喜びでプックルに抱きつくのを見て、引き攣りつつも納得したようだった。フローラにしろビアンカにしろ、魔物に寛容な彼女達にはつくづく頭が上がらない。

 無事部屋に荷物を置き、腰を落ち着けた後は、ビアンカに誘われて宿屋の地下にある酒場で夕食をとった。マスターや村の方々がしきりに地酒を勧めてくれたが、つい先日大失態をかましたばかりなので、なんとか笑って断りきった。ビアンカは何故だか神妙な顔をしていたが、下戸なんだってば、と伝えたら合点がいったらしく、ああ……と憐みの篭った目で見つめられた。

 いや言ったよね? ビアンカが別宅に泊まっていた晩に。うっかり言ってなかったにしてもその後、婚礼の後の宴でもあれだけ醜態を曝したんだからそこは察してほしい。酩酊状態の僕を嗤ったことは忘れてないぞ。

 でもまぁせっかくだから乾杯くらいしましょ、とビアンカが軽い食前酒を選んでくれて、フローラも同じものを掲げて、ささやかに再会を祝いあった。

 ルドマン家の上質な品揃えに慣れてしまうと、申し訳ないが若干物足りない味わいに思えてしまう。これにはレモンが合うんだよ、とマスターが搾り汁を持ってきてくれて、たっぷり入れたら柑橘の酸味でかなり飲みやすくなった。

「ねぇ、それでどうだったの? 船で極南の大陸に行って来たんでしょ。収穫はあった?」

「ううん、残念ながら。あ、でも、勇者の兜は見てきたよ」

 熱々の腸詰を慣れた手つきで切り分けながらビアンカが問う。僕もフローラと一緒に皿を配りつつ答えた。邪魔にならない絶妙なタイミングで、酒場のマスターが次々料理を置いて行ってくれる。時々宿や酒場の手伝いをしているというビアンカは、店の方々にかなり可愛がられているようだった。

「色々あって、女王様に御目通りが叶ってさ。成り行きで二人とも被らせてもらったんだけど、もう全然駄目だった」

「女王様に!? へえぇ、すごいじゃない! その兜とかって、勇者じゃないとそもそも被れないんでしょう?」

「はい。ですから、私達に扱えないことはわかっていたのですけれど」

 ビアンカが食い気味に身を乗り出したところに、フローラが穏やかに頷いて答える。

 あの時は僕以上に落胆を滲ませていた君だけど、今はそんな素振りはおくびにも出さず、落ち着いた振る舞いを見せている。

「勇者って随分のんびり屋ね。恥ずかしがり屋なのかしら? こんなに探している人がいるのに出てこないんだもの」

 早くもグラスを空にしたビアンカが、頬杖と溜息を同時についた。すかさずマスターが新しいグラスと、赤い液体が入ったピッチャーを置いていく。綺麗な色合いに興を引かれて覗き込むと、ビアンカは小さく笑ってベリーのお酒だと教えてくれた。本当は甘口の果実酒が好物なのだと。

「まだ生まれてないだけだったりして。……考えたくないけど、幼いうちに魔族の手にかかるってこともあるかもしれないし」

「わっかんないわよぉ。これで勇者がよぼよぼのお爺ちゃんだったらどうする? 惚けちゃって勇者の使命も忘れちゃってたりしてさ。悪いけど私なら百遍はっ倒すわね!」

 酒が入っていよいよ饒舌になってきた幼馴染みが、ぱん! と勢い良く拳を掌に打ちつけた。なんとも男らし……いや、雄々しい仕草である。その喩え話、彼女なら間違いなく行動に移すだろう。そう思うとつい苦く笑ってしまう。

「それは……僕もさすがに一言言いたいかも」

 僕だけならまだしも、父があんなにも探し求めた相手なのだ。真相がそれでは笑って流せない。まして自覚がありながら姿を隠したままだとしたら、勇者も人間といえどもあまりに釈然としない。

 力を与えられた者に勝手に望みを託すことは無粋なのか。

 元より人間の手で解決が可能なものならば、何故神は人間に勇者という存在を示し給うたのか。

 もう何度も堂々巡りを繰り返している思考に嵌りかけ、頭を振って追い落とした。考えたって始まらないだろう。そうだ、グランバニアに行けばもしかしたら、父が勇者を求めた理由をもう少し詳細に知ることも出来るかもしれない。魔界のこととか、母が連れ去られた理由とか。

「それで、いつまでサラボナにいるのよ。少しはゆっくりできそうなの?」

「今正にゆっくりしてるとこ。僕達だけ転移魔法で帰ってきたから、もう少ししたら、戻ってきた船と落ち合う予定なんだ」

「ああ、なるほど。ほんとその魔法便利よねぇ。それで、またどこかに行くのね?」

 何と答えようか、暫し逡巡する。黙り込んだ僕をビアンカは不思議そうに見上げたが、訝しむ様子はなかった。静かに続きを待ってくれる気配に安堵して、話す内容を頭の中で組み上げてからゆっくり、口を開いた。

「……父さんの素性がね。わかったかもしれなくて」

 軽く首を傾げた幼馴染みを真っ直ぐ見つめ返し、深い蒼の瞳に問いかける。

「グランバニア、って聞いたことある?」

 やはり彼女は首を振った。本当に忘れられた国なのだな、と落胆に似た重苦しいものを覚える。気を取り直し、まだ酒が残るグラスを手の中に弄びながら続けた。

「父さんの昔の噂を知っている人がいて。多分父さんはその国の出身じゃないかって、教えてもらったんだ。だから、次はそこに行ってみようと思ってる」

「……そう。パパスおじさまの……」

 しんみりと呟き、ビアンカは長い金の睫毛を伏せる。

 祈るようにグラスを両手に包み、息を吐いた後、彼女はようやく穏やかに微笑んで顔を上げた。

「何か、わかるといいわね。気をつけて行きなさいよ」

「ありがとう。かなり遠いみたいだから、次にいつ戻れるかはわからないけど……落ち着いたらまた、里帰りするからさ」

 その時はこの村にもまた寄るよ、と言い添えたら、ビアンカはまるで血を分けた家族を慈しむような、とてもやわらかな微笑みを浮かべて頬杖をつき直し、首を傾げた。

「ふふっ。帰るところがいっぱいあって大変ね、テュール」

 ────良かったねぇ。

 優しさに満ちたその囁きが、そんなふうに僕を労ってくれている気がして。

 ほとんど無意識に里帰りという単語を使っていたことに今更気づき、胸がなんだかほんのり温かくなる。

 不思議だね。あんなに孤独、だったのに。

「サンタローズにも行ってるんでしょ。少しは復興した?」

「ううん、あれはなかなか……時間かかるね。でも、ヘンリーもすごい気にかけてくれてるから、あまり心配はしてないかな」

 ヘンリーの名前が出た途端ビアンカが何故か変な顔をしたが、思わず見つめ返すと「なんでもないわ」と首を振られた。

 なんだろう、二人に面識あったっけ? ああ、結婚式で少し話したりしたのかな。

「ちょっとぉフローラさん、何だか遠慮してない? 私ばっかり呑んで喋っちゃってるじゃないの」

 僕らの遣り取りを微笑ましげに見つめている妻を振り返り、ビアンカはずいっと身を乗り出す。ほらほら! と勝手に果実酒を注ぎ足そうとするのを見て慌てて止めた。フローラは僕ほど酒に弱くないんだろうけど、好んで呑んでいるところは見たことがない。

「お酒入るといつも以上に舌が回るからね、ビアンカは。ほんと一生勝てる気がしない」

「やらしー言い方やめてくれない? 自分の未熟を棚に上げてわかったような口きいちゃって。子供の頃は私よりちっちゃかったくせに、ほーんと偉くなったものよねぇ」

「やらしいって……あのさぁ。いつ僕が偉そうにしたの」

「その態度でしょ。弟分のくせに、口で私に勝とうなんて百万年早いって言ってるのよ」

 ちょっと茶化すと即、万倍で返ってくるんだもんな。瞬殺され、憮然とした僕を見上げてフローラがくすくす笑った。目が合うと少し申し訳なさそうに「あ、ごめんなさい。笑ったりして」と詫びたが、すぐにまたほわりとあたたかな微笑みを浮かべる。

「やっぱり、幼馴染みって素敵ですよね。いえ、お二人がお話ししているところを見ていますと、とっても楽しくって」

 嬉しそうに首を傾げたフローラをビアンカと二人並んで覗き込み、つい人の目も忘れてうっとりしてしまった。ああ、なんでこんなに無垢で素直で可愛いんだろう、このひとは。と思いきや。

「あぁんもう、可愛いっ! やっぱりこの子、テュールには勿体ないわよ。私にちょうだい! 絶対絶対幸せにするから!!」

「冗ッッッ談じゃない!! 断固お断りします、フローラは僕と一緒にグランバニアに行くんです!!」

 がばっ!! とフローラに抱きついたビアンカがとんでもないことを言い出して、僕も思わず大慌てで奪い返して言い返した。だって、フローラもビアンカに好意を持っているのが丸わかりだっていうのに! 好意の種類はともかく!!

 子供の喧嘩か。気がつくと僕らはめいっぱい衆目を浴び、居合わせた村のお客さん達に豪快に笑われていたのだった。

「何だ何だ。ビアンカちゃんはそこのお嬢さんにお熱なのか?」

「そうよー、旦那のガードが堅くてねぇ。減るもんじゃなし、ちょっとくらい良いじゃない、ねぇ」

 ちっっっっっとも良くない。大体『ちょうだい』のどこがちょっとなんだよ。いやもう、本当にビアンカが男じゃなくて良かったと心底思う。

 何やら周りの席から、そっちかよとか女に負けたとか、項垂れた声が幾つか聞こえた気がしたが。あらぬ誤解を振りまいているみたいだけど、良いんだろうか。ひとの心配をよそに、ビアンカはすっかり上機嫌で周りを巻き込み、ころころと楽しそうに笑っている。

 ……もてるんだろうに。さっぱりした世話焼き気質に人並外れた美貌、普通に考えて男が放っておかないと思うのだけど。この酒場の中にも、ビアンカを慕っている人が何人もいるんだろうな。さっきから妙に視線が痛いし。

「まっ、いいわ。ねぇねぇフローラさん! 寝る前にまた一緒に温泉入らない? 冬の温泉も乙なものなのよ!」

 そら見ろ。周りの男性客がざっ!! と一斉に色めきたって振り返った。もちろん当の本人は全くお構いなし。無頓着なのか警戒心が薄いのか、僕が言うのもなんだけど餌撒きすぎだよビアンカ!

「もちろん貸切でね。天下のルドマン様の一人娘、サラボナの白薔薇に何かあったら大変だもの。ねっ、マスター?」

 周囲の動揺に目もくれず、愉しげに脅し文句を嘯くビアンカ。ああこれ、わざとだ。案の定、卿の名を耳にした面々が次々に青褪め出した。噂は知っていても、この村の人々はさすがに領主令嬢の顔までは知らなかったらしい。僕が出る幕もない、鮮やかな牽制だった。これで少なくとも、フローラに直接無体を働こうとする者はいるまい。

 思わぬ賓客であったことを知らされたマスターがすっかり縮み上がってしまったが、フローラは狼狽しながらも「今夜の私は一介の宿泊客ですから、どうかお気になさらないでください。本当に父は関係ありませんから」と懸命に訴えていた。

 気を取り直し、さすがに今からじゃ寒くない? と訊いたが「わかってないわねぇ、それがいいんじゃない!」「そうですよ若旦那様! 冷たい山の空気に抱かれて入る温泉は最ッ高なんですから。これぞ露天風呂の醍醐味でしょ!」と、ビアンカと酒場のマスター双方から物凄い剣幕で詰め寄られる。また若旦那とか呼ばれてるし。しかし自分も勧めてもらったことで、ほんの少し気を良くしてしまった。今夜は思いがけず、他人の目を気にすることなく念願の温泉を楽しむことができるかもしれない。

 何はともあれ、貸切のご厚意には感謝せねばなるまい。

 そんなに呑んでいなかったはずだが、場の空気に酔ったとでもいうのか。確かにビアンカはその時、フローラに対して「一緒に入ろう」と言っていたのだが、僕は何故か自分に都合の良いところ以外すこんと耳から抜けてしまった。否、断じて三人で入るなどと不埒なことを思い込んだわけではない。それだけは明言しておく。

 料理を全部平らげたあと、改めてビアンカが宿の方に話をつけてくれて、僕とフローラは屋外の温泉に入るための準備を整え、いそいそと脱衣場へ向かった。

 

 

 

 うん。夜だから、ご自慢の絶景が見えないのは残念だけど。

 念願叶って貸切温泉。澄んだ冬の星空に湯気が吸い込まれていく中、少し熱めの湯に浸かるというのは確かになかなか趣がある。ビアンカの思いつきのお陰で、現在僕は混浴であるはずのこの湯殿を独り占め出来ている。

 あー……気持ちいい。本当に疲れが湯の中に溶け出していくようだ。何という贅沢、一人で、この広い湯殿を堪能するなんて。

 ────否。なんで僕はここに来て一人で温泉に入っているんでしょうか。一人で! 貸切ならそれこそフローラと夫婦水入らずでゆっくり浸かりたいんですけど!?

 そりゃ正直なところ理性を抑えきれる自信はないけど、それでも密かに楽しみにしていたのだ。僕が知る限り、こういう温泉ってここしかないし。で、そのフローラはどうしているかというと、僕が入る前にビアンカと二人で入浴を済ませてしまった。その間僕は見張りを任され小一時間、脱衣場の前でお預けを喰らっていたのであった。血迷った男性客が乱入しても困るから、見張り自体は別にいいんだけど。当然僕も覗き見厳禁である。

「フローラさんは私が責任持って部屋まで送っておくから、テュールは秘湯をゆっくり堪能してらっしゃいな。暗いから足元に気をつけて、滑るわよ。誰か入ってくるかもしれないけど、さすがにこの時間に女性は入ってこないと思うから安心して!」

 地元民のくせに、僕を差し置いてフローラと温泉を満喫したビアンカが実にうきうきそう言ってのけた。左様ですか。

 というわけで、一人置いていかれた僕は些か悶々としつつ、駄々広い湯殿でしっかり身体を温め、宿の方に礼を言ってから部屋に戻ったのであった。扉を数回ノックして声をかけると、先に就寝準備をしていたフローラが出迎えてくれた。

「お帰りなさいませ。温泉、いかがでした?」

 屈託なく愛らしい微笑みを向けてくれる妻が何故か、すぐ側にいるのにひどく恋しく感じられてしまう。思わず肩を掴んで強引に抱き寄せた。やわらかい薄絹に包まれて、まだ温かい君がかぁっと首筋を色づかせる。

「テュ、テュールさん」

「……感謝したいような恨み言のひとつも言いたいような……や、いいけどね。一緒に入ってたら絶対箍が外れてたし」

 こうやって抱きしめるとしみじみ痛感してしまう。おかしいくらいフローラが愛しくて、最近本当に我慢が効かないんだよね。だから一緒に入らなくて正解だったのだと、頭ではわかっている。こんな発情期の獣みたいな僕が今、君と二人きりで温泉に入ったりしたら、僕の申し訳程度の理性なんかあっさり消し飛んでしまうだろう。

「ビアンカとのお風呂、楽しかった?」

 いつもの花の香りにすこし、やわらかな匂いが混ざる。温泉の匂いかもしれない。薄紅の滑らかな頬をなぞり問いかければ、君は花開くような可憐な微笑みで頷いてくれた。

「以前ご一緒した時は緊張もあったと思うのですが、今日はもっと気持ちが解れて、いろんなお話ができました。お化け退治に、宝探しのお話とか……ビアンカさん、小さい頃から冒険がお好きだったのですってね」

 頬をほんのり染めて嬉しそうに語る。君が楽しそうにしているのを見るのはすごく好きだけど、可愛くてたまらないのだけど、今はその笑顔を見るのが少し、辛い。

 寂しい気持ちに気づいてほしくて、ついどうしようもない戯言を口にしてしまった。

「……そのうち、僕とも入ってくれる?」

 頭ではわかっていても、気持ちの整理は別なんだ。

 突然の我が儘に君は驚いたようで、翡翠色の瞳を開いて一生懸命見上げてきた。愛しい彼女を真っ直ぐ見下ろせば、やかて困惑した様子で赤らめた顔を俯かせる。もじもじと視線を彷徨わせ、彼女は辿々しく言葉を紡いだ。

「テュールさんとは、あの、……別宅で、何度も入って……ます、が……」

 そうだね。うん、そうなんだけどそうじゃなくて。

 やっぱり今は邪な衝動を抑えきれる気がしないから、そこは今後の課題だけど。それはそれとしてやっぱり僕も、フローラと二人で旅先で温泉を楽しむっていう非日常感というか、思い出が欲しいわけで。空気がきれいな山の景色を眺めながら風呂に入るのってやっぱり気持ち良さそうで、フローラも温泉は好きだと言ってて、だったら僕もその心地よさを彼女と分かち合いたいのになんだかんだ機会を逃してて、毎回ちゃっかり彼女を独占してるビアンカがこの上なく羨ましくて。

 きれいなもの、素敵なものは全部君と見たいんだ。どんな世界もきっと幸せそうに見つめる君を、いつだって隣で見ていたい。

 遠慮がちに、胸許に頬を擦り寄せた君が、僕にだけ聞こえる微かな囁きをそっと、零した。

「……いつか、……二人きりで、入りましょう。……ね」

 耳の端まで真っ赤に染めて、可愛い誘惑みたいなそれを、彼女は恥じらいながらも精一杯口にしてくれる。

 ────ああ。

 嬉しい。すごく、嬉しい。

 こんな幼稚な呟きにも、一番欲しかった答えを迷いなくくれる君が、たまらなく愛しい。

 君がそうやって、僕だけの我が儘じゃないって思わせてくれることがもう、たまらなく、嬉しい。

「うん。……うん。いつかね」

 さっきまでの心許ない寂しさとは打って変わって、満ち足りた気持ちで改めて、華奢な妻を腕の中に包み込んだ。

 細い腕が背中を滑って、きゅっと儚く抱きしめ返してくれる。

 僕の情けない本音を、ちゃんと受け止めてそう言ってくれた。それだけで今はもう、十分だよ。

 その夜はなんだか身体の芯から眠気がきて、フローラを抱きしめて深く眠った。

 温泉の効能もあるかもしれない。久々の山歩きで、疲れていたのもあったかもしれない。

 一度も夢を見ないで、朝までぐっすり眠れたのは久々だった。

 

 

◆◆◆

 

 

 翌朝、開店直後のドワーフの萬屋に足を運び、ノルンさんに頼まれた荷を受け取った。片眼鏡の店主に結婚式のヴェールの御礼を伝えると「おう。領主殿の」と言葉少なに頷かれた。

「なぁ、あれつけたか!?」

 年若い方が傍からわくわく問うてきて、小花のブートニアのことを思い出し微笑んで頷くと、彼は喜色満面の笑みを惜しげもなく向けてくれた。

「本当に、素敵なヴェールを手掛けてくださり、ありがとうございました。あんまり素晴らしくて、私、今でも時々取り出して眺めているんです」

 僕に寄り添い幸せそうに告げたフローラの言葉には、普段鉄壁の無表情を誇る名工も微かに目許を和らげた。若い方のドワーフはすっかり相好を崩し、咲き綻ぶように微笑む妻にうっとりと見入っている。

「うわぁ……なんか、妖精の姫さんみたいなお人だ。こんな人が嫁さんだなんて幸せもんだな、あんた」

 手放しの賛辞に僕はつい頬を緩ませ、フローラは恐縮してほんのりと頬を染めていた。

 萬屋を辞去した後は、ビアンカの家を訪ねた。昨夜挨拶できなかったダンカンさんを見舞うと、多少咳き込みながらも朗らかに迎えてくれた。

「大丈夫ですか? あの、休んでいてくださいね。確か寒いと身体に障るって」

「はは、ありがとうな。今日はだいぶ調子がいいんだよ。坊達が顔を見せに来てくれたからかな」

 望みに応えられなかったのに、ダンカンさんはまるで、我が子か孫にするように優しく接してくれる。

 昼食をご一緒してからサラボナに帰ることになり、女性二人は一緒に料理をすると言って、連れ立ってキッチンへ消えていった。その間、僕はダンカンさんの枕元に陣取り、昔話に花を咲かせた。以前泊まった時は僕のことばかり訊かれたけれど、今日はなんと、彼と父が知り合った時の話を聞かせてもらえた。まだ僕がろくに喋れないほど幼かった頃、たまたま立ち寄った宿で僕がひどく夜泣きしてしまい、サンチョもおらず困り果てていたところに手を貸したのが、宿の主人であったダンカン夫妻だったのだそうだ。ビアンカの子育てで慣れていた女将さんが僕を見事に泣き止ませてくれて、以来父は二人に頭が上がらなかったのだとか。

「あの小さかった坊がすっかり大人の男になって、可愛い嫁さんをもらうんだもんなぁ。私も歳をとるはずだよ」

 眩しく見つめてくる瞳がくすぐったくて、思わず視線を泳がせてしまう。ふと、ずっと聞きそびれてしまっていたことを思い出し問うと、ダンカンさんは痛ましげに眉間を抑えて瞼を閉じた。

「サンチョさん、あの時うちの街に逃げてきた人の中にはいなかったみたいなんだ。当時はとにかく混乱していてね。サンタローズには長いことラインハットの兵士以外立ち入れなくて……どこかで元気にしてくれているといいんだがね」

 悲痛な回答をいただいて、はい、と俯き答えた。当事者のサンタローズの方々すら彼の消息を知らなかったのだ。ラインハットに囚われた可能性が最も高い気がしたけれど、あの城の地下牢に彼はいなかった。とうの昔に処刑されたのかもしれない……それでも、生きていることを願ってしまう。ビアンカのように、いつかどこかで会えるのではという期待を捨てきれない。

 寝室まで良い匂いが漂ってきてしばらく経った頃、ビアンカが呼びに来た。ダンカンさんを支えて居間へ行くと、テーブルの他にもピクニックよろしく床に敷布が敷かれていて、そちらにもいくつかバスケットが用意されている。が、何故かフローラの姿がない。聞けば昼食に仲魔達を招くため、家の裏で待っているみんなを呼びにいったらしい。

 果たしてフローラが連れてきた一行を目にしたダンカンさんは、きゃっ! と可愛らしい悲鳴をあげて飛び退いた。

「場所がないから、魔物さん達は地べたでごめんね。折角だからプックル達とも一緒に食べたくて! 父さん、覚えてる? 昔テュールと一緒に助けた猫ちゃんよ!」

「いやいやいや、ビアンカ! どう見ても猫じゃなくないかい!?」

 僕の背に隠れたダンカンさんが情けない叫び声を上げたのが可笑しくて、申し訳ないながらも噴き出してしまった。ビアンカも高らかに声を上げて笑っている。仲魔達を伴って戻ってきたフローラは目を瞬かせて僕らを見比べていたが、怯えた様子のダンカンさんを見て得心したらしい。

「大丈夫、ちっとも怖くありませんよ。とても優しい魔物さん達なんです」と妻がプックルの喉を撫でて極上の微笑みを見せれば、ダンカンさんも引き攣った愛想笑いで頷いた。

「あ、あ、あの時の仔猫、仔猫ね……いやいくらなんでもあれは猫じゃあ……」

「ちょっと父さん、独り言が煩いわよ。みんな、今日のランチはフローラさんと一緒に作ったから、たくさん食べていってね!」

 ぱちん! とビアンカが両手を打ち鳴らせば、賑やかしいスライム属の三匹……特に青い二匹がわーっ! と歓声を上げ、我先にと料理に群がった。気後れしたしびれんもホイミンが触手で敷布へと引っ張り込む。その後ろからのそりとプックルが回り込み、料理をくんくん嗅いでは気に入ったものを牙で器用につまみ始めた。その様子を見て、女性二人は顔を見合わせ楽しそうに笑っている。

 ────仲良くなったなぁ。

 これまで、二人が親しくしているのを見るたび、妙な嫉妬に苛まれてばかりいたのが、今はそんな二人が不思議なほど、微笑ましく感じられた。

 いつの間に渡したのか、居間の戸棚にテルパドール土産の砂漠の薔薇が飾られている。フローラも気づいたようで、目が合うと「昨夜、部屋に送っていただいた時にお渡ししたのです」とはにかんで答えた。

「すごいわよねぇ、どこから見てもちゃんと薔薇よ。宝石みたいにも見えるし、砂から自然に出来たなんて信じられない。こんな素敵なものをありがとうね、二人とも」

 選んだのも、買っていきたいって言ったのもフローラなんだけど。隣の妻がとても嬉しそうに肩を揺らしたのがわかったので、余計なことは言わないことにした。代わりに「テルパドールでは厄除けのお守りとして飾るんだってさ。二人に悪いことが起こらないように」と言い添えたら、ダンカンさんが照れ臭そうに「それで調子がいいのかもしれんね。ありがとうな」と微笑んで頷いた。

 賑やかな昼食会のあとは暫し歓談に興じて、山の西側に太陽がかかり始めた頃、いよいよサラボナに帰還することにした。

 思ったより長居してしまった。ダンカンさんにまたそのうち訪問する旨を伝えて、今僕らはビアンカの家の裏手側、さっき仲魔達を待たせていた人気のない村外れに来ている。

「すっごく楽しかったわ! フローラさん、また一緒にお料理しましょうね。次は違うレシピを教えてちょうだい!」

 ビアンカがフローラの細い腕をとり、きらきら輝く興奮気味の笑顔で上下にぶんぶん振っている。もちろんです、と春風の如く表情を綻ばせた妻の両掌に、ビアンカはポケットから何かを取り出し、そっと握らせた。

「素敵なお花をいただいちゃったから、何かお返しにと思ったんだけど……良かったらこれ、持っていって」

 ビアンカの手が退けられて、同時にフローラが翡翠の瞳を大きく見開く。妻の肩越しにその手の中を覗き込むと、手に余るほどの大きさの玻璃の瓶に、白くてふわふわしたものがたっぷり入っているのが見えた。

「私達は秘湯の花って呼んでるの。温泉の成分が固まったものでね、お湯に溶かすと、ここの温泉みたいになるのよ。疲れも取れるし、お肌にすっごく良いから、是非使ってね」

「ありがとうございます……! 実物を見るのは初めてですわ。とっても綺麗なのですね」

 白い花びらか、羽が詰められているみたいだ。フローラが瓶を傾けて夕陽に透かすと粉雪みたいにふわりと舞った。すこぶる気に入ったらしく、妻はそれを何度も眺めては幸せそうな微笑みを浮かべていた。

「そんな顔してもらえると贈り甲斐があるわ。同じ富豪でも、どこかの誰かとは大違い」

 何の話だろう。首を傾げた僕とフローラに、苦笑しながらビアンカが説明してくれた。

「良く知らないけど、数年前から秘湯の花を買い占めてる金持ちがいるんですって。もちろんルドマン様じゃないわよ? 買ってくれるのは有り難いけど、宿で売る分まで持ってかれちゃね。買い付けに来る商人もあまり感じがよくないし……そんなに温泉が好きなら、いっそこの辺に別荘でも建てればいいのに」

「ああ……でもそれこそ、泉源を独占されたら困らない? 自由に入れる風潮がいいっていうのもあるよね」

 まぁ混浴は客を選ぶけどね、とは胸の中だけで呟く。聡いビアンカは僕が言いたかったことに気付いたようだが、黙って軽く睨めつけるに留めた。「まぁ、そうね。新しく掘るにしても簡単じゃないし」と独りごち、小さく息を吐いてフローラの方を向き直った。

「そんな貴重なものを……ありがとうございます。大事に使わせていただきますわ」

「ええ、またこっそり溜めておくわね。そのひと瓶で二回くらいは入れると思うの」

 もう一度、喜び弾ける微笑みで感謝を伝えたフローラに、ビアンカもくすぐったそうににっこり笑ってみせた。

 名残惜しいが、再会を誓い合って今度こそ別れを告げ、蒼い瞳に見送られながらルーラを唱える。

 目を開ければもうサラボナに降り立っていた。この魔法にもだいぶ慣れて、最近は多少なら狙った場所の周辺に転移できるようになった。転移が可能な街には転移者を引き寄せる標のような場所があり、概ね入口がそうなのだけど、何度もルーラを行使するうち標からの座標のずれを体感で測れるようになってきたのだ。無論、隣町のように標からあまりにも離れたところに転移することはできないけれど、街の中くらいの距離なら調整できる。

 今回は無事義実家の敷地内、別宅の庭の隅に転移した。噴水の上に出たらと少し不安だったけど、上手くいってほっとする。

 秘湯の花の瓶を大事に抱きしめていたフローラが、ふふ、と小さく笑って碧い頭を僕の肩に預けた。そのまま少しだけ背伸びをして、僕の耳にそっと吐息を近づける。

「屋外ではありませんし、本物の温泉には敵いませんけれど。宜しければ今度、ご一緒に……いかが、ですか? あなた」

 悪戯っぽく微笑んだ君に、思わず心臓がとくんと弾む。

 艶やかな薄紅の頬を、恥ずかしそうに緩ませて。

 見慣れた街が君ごと黄昏色に染まる。耳許に密やかに落とされたそれはひどく甘く、可愛すぎる誘惑だった。



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#24-2. 光の標【終章3】~side Tyr(2/2)

 山奥の村から帰って数日は、雑用や買い物をこなしながらのんびり過ごした。

 新年の祝祭が近づいている。どの街もそわそわ浮き足立って見えた。その前には降誕祭、遠い古に世界を救った勇者を称え、その生誕を感謝する祭りが各地で行われる。祭りといっても華々しいものではなく、教会やそれぞれの家庭で慎ましやかに祈りを捧げるだけのものだ。正直今までまともに祝ったことはないが、今年の降誕祭は義父夫妻にお誘いをいただいている。

 これから厳しい寒冷地に赴くので、その準備は特に念入りに進めた。砂漠用に仕立てた防寒用の上着や靴がそのまま使えそうなのは有り難い。凍った山道を歩くには靴裏に滑り止めを履かねばならず、これを作れる職人を探すのに少し骨が折れた。薬はその道に明るい道具屋の店主に相談して、必要なものを見繕った。中には手に入れにくいものもあり、条件によっては直接採取しに出掛けた。

 以前より魔物が外をうろついているので、普通の人が守り手なしで遠出するのは難しい。困り果てている人を見かけるとつい声をかけてしまい、移動ついでにちょこちょこ手助けしていたら、いつの間にか謝礼で結構な小金が貯まっていた。

 人と関わりたがる性分ではなかったのに、以前より他人が目に留まるのは、隣に居るフローラの目線のお陰かもしれない。

 彼女は人一倍、誰かの寂しさや辛さに敏感だから。

「ありがとうございます、テュールさん。……お力になれたなら、本当に良かったです」

 見ず知らずの方の悩みに手を貸して、晴々とした顔を見るたび、フローラは心を許しきった笑顔を僕に向けてくれた。労ってもらえるのがくすぐったくもある。僕にとっては、君が喜んでくれることが何より嬉しいご褒美だから。

 別宅に戻って三日後、船長をはじめとしたストレンジャー号の乗組員一行がサラボナに到着した。

 皆さん特にお変わりなく、本当にほっとした。無事の到着を労いあい、早速義父も交えて簡単に近況を報告し合う。次はグランバニアを目指したい旨を告げると、フォスター船長はやや難しい表情で黙り込んだが、少し思案したあと、穏やかな眼差しで顔を上げた。

「承知いたしました。エストア大陸に針路を定めるにあたり、航路や昨今の状況を確認したいと思います。私を含め、数名をポートセルミへお送りいただくことは叶いますでしょうか」

 もちろん、即時承諾した。元々船長は帰還次第、ポートセルミにお連れすることになっていた。数人増えたところで全く手間じゃないし、なんならポートセルミの物資をここに転移させることもやぶさかじゃない。

 ここにいる半数は今夜、サラボナである程度の物資を補給したあと、明日にはストレンジャー号に向かって発つという。今もアランさんを含む、残りの乗船員達が留守を守ってくださっているそうだ。

 新年明けた祝祭の日に街にいると身動きが取れないだろうから、その前にサラボナを発とうという話になった。凡そ一週間後だ。祭りを楽しんでからでも、と船長は言ってくださったが、その間も船を守っている人がいることを思えば、自分達だけ楽しむ気にはなれない。

 結局、皆さんは休みなく次の航海になってしまうのだが、誰もが心配ないと笑ってくださる。僕の方が申し訳なくて、肩をすぼめてしまうほどだ。

「休みもまあ、いいですけど、俺達はなんだかんだで船が好きですからね。陸に降りると酔っちまうくらいですよ」

 今だってもうストレンジャー号が恋しくてね、と笑う船乗り達が本当に頼もしい。下船していたのはたった二ヶ月だけれど、すごく懐かしく感じた。またよろしくお願いします、と頭を下げれば、皆さん揃って気の良い笑顔を返してくれた。

 ……やっぱり不思議だ。半年前、大鮹と戦った頃はまだ、あの船に身の置き場がないように感じていた。フローラにするように皆さんを信頼している自分なんて、これっぽっちも想像できなかったのに。

 いつの間に、ここまで絆されていたのか。

 その日は、船に戻られる方以外をポートセルミに送り届け、代わりに物資を幾らか預かって戻った。船まで馬車で二日弱、今夜宿を取る船員達は明日、ルドマン家の馬車で船に戻り、数日後再びサラボナへ戻ってくる。その往復をもう一度繰り返した後に僕らも合流して馬車に荷を積み、いよいよ遙か南東の大陸を目指して出航することになる。

 夕方は降誕祭。本宅での晩餐の前に義両親に連れられ、街の教会で礼拝に参列した。

 かつて勇者を戴いた奇跡に感謝し、同時にその再臨を神に祈念する。厳かな聖堂でフローラと並んで指を組み、いつもならば捻じ曲がった思考に心を委ねるところ、少しばかり謙虚な気持ちで静かに祈った。

 もしかしたらたった今、この世界のどこかで、あなたは自分の素性を与り知らぬまま、降誕の祈りを捧げているのだろうか。

 僕は、最近、前より人の温かさを知って。

 前より少しだけ、あなたを信じたい気持ちになった。

 あなたが我々のために起つならば、それを望む全ての魂があなたの力になるだろう。

 かつて勇者に七人の仲間がいたように、戦うあなたの傍にはきっと、もっと多くの光が共にあるだろう。

 

 羨望と、少しの嫉心。どうしようもない憧憬。

 もっと幼く純粋な僕ならば、きっとあなたに憧れた。

 その光を見届けたい。伝説となるあなたを、父の分まで。

 

 

 

 降誕祭の翌々日は、ヘンリーとの約束の日だ。

 いつもの旅装束ではなく、フローラに見立ててもらって誂えた他所行きの服を着込んで、再びラインハットへ赴いた。こういう服はどうにも着慣れないけど、もう大人なのだから少しずつでも場に合わせた服を着るようにした方がいいのかなと思って。

 普段が普段なので、服に着られてる感はあるけど、上品な装いのフローラと並んだ姿はこちらの方がしっくりくる気がして、我ながら悪くない。

 デール王にお会いして挨拶した後、案内されたのは応接室ではなく、城の最上階にある王兄夫妻の私室だった。

 かつての太后殿であり、偽の彼女を斃した場所でもある。

「お、来たな! なんだよ、珍しい格好してるじゃん」

 以前ほど豪奢ではないが王室らしい威厳を残したその部屋で、いっそ似つかわしくないほど朗らかな笑顔の親友が出迎えてくれた。王族然とした立派な装束に身を包んでも相変わらずのヘンリーに、軽く苦笑しながら自分も胸を張ってみせる。

「こういう格好の方が、登城って感じがしない?」

「いつもの格好の方が、あーお前が来たって感じはするけどな。うん、いいんじゃないか? 男前だぜ」

 本当かなぁ。ヘンリーに褒められるとなんだか面映い。へらりと笑ってみせたら意外にも真面目に頷かれてしまって、妙な気恥ずかしさが倍増してしまった。

 案内された先は思いっきり寝室で、旧知の仲とはいえ私的な空間だと思うとどうにも落ち着かない。奥の寝台には肩掛けをまとったマリアさんが上半身を起こしていた。僕達を認めるとふわりとやわらかく微笑み、軽く会釈してくれる。

「こっちに来てもらって悪いな。動けないこともないんだが、できれば安静にさせたくてさ。お前達なら快く許してくれるだろうと思って」

「許すも何もないけど、え、どうしたんですマリアさん。どこかお加減が?」

 客人をわざわざ褥から迎えるなんて相当だ。敬称をつけることも忘れ慌てて目の前の女性を慮ると、マリアさんはどこか困ったように睫毛を伏せたあと、傍らのヘンリーを見上げた。

「いえ、その……」

 言い澱む彼女を見て、余程難しい病状なのかと思わず身を硬くする。いや、でもそれならヘンリーがこんなに陽気なはずがない、そう思ったところで、僕の背後に控えていたフローラが口許を両手で抑え、大きな翡翠の目を見開いて呟いた。

「────もしかして、おめでたでいらっしゃいますか?」

「さっすが、フローラさん」

 え?

 理解が追いつかない僕の目の前でヘンリーが得意げに指を鳴らし、その傍らのマリアさんが恥ずかしそうに、ものすごく幸せそうに頷いた。

 陶器の頬を花の如く淡く色づかせた、春めいた微笑みを前にして、僕は暫し思考を失くす。

 おめでたって、ヘンリーに……子供? え? マリアさんが?

「まぁ……! おめでとうございます!」

 呆けてしまった僕の代わりにフローラが声を弾ませた。ヘンリーも照れ臭そうに笑うと、どこか浮ついた様子で饒舌に答える。

「まだ、城の極一部の人間しか知らないんだ。外にはいつ報せようか考え中なんだけど、妊娠初期は何があってもおかしくないっていうから、安定期まで待とうかって言ってて」

 こないだ会った時も、言いたかったのを必死に我慢したんだぜ? と笑うヘンリー達の会話を茫然と聞きながら、脳天を駆け抜けた衝撃がじわじわと感慨に変わっていくのを感じていた。

 嘘みたいだ。夢みたいだ。

 二人の子が今、本当に、マリアさんのお腹の中にいるなんて。

「おめでとう……ございます。ヘンリー、マリアさんも……身体に気をつけて、元気な御子様を産んでくださいね」

 なんだか無性に感極まってしまって、じわりと熱くこみ上げる目頭を指で抑えて誤魔化した。案の定、ヘンリーはすっかり困ったように目尻を下げ、笑いながら僕の肩を叩く。

「ばっか、何しんみりしてんの。俺達の親父か、お前は」

「……だってさぁ……」

 掌で顔を覆い俯いてしまった僕を見て、マリアさんも少し困ったように微笑んで首を傾げた。

 この場で名を出すことは控えたが、あの日暗い牢獄で、僕達にマリアさんを託した時の兵士の悲痛な顔が思い出されてならなかった。

 ヨシュアさん。妹さんの隣に今、ヘンリーがいます。

 あなたが助けた命が、次代へと繋がっています。

 二人とも、とても、幸せそうにしています────

「ご出産はいつ頃のご予定なのですか?」

「順調にいけば七月だって。六月後半から七月半ばかなぁ」

「七月? 来年の?」

「ああ」

 ぼんやり聞いていたフローラとヘンリーの遣り取りに引っかかりを覚えて、思わず変な声が出てしまった。幸いにも怪訝な顔を見せることなくヘンリーは頷く。

「その頃、お前達はまだ旅路かな。来られそうなら見に来てくれるか?」

 七月。その頃にはさすがに、グランバニアの王都に辿り着けているだろうか。

 フローラと一度顔を見合わせ、どちらともなく頷きあった。確約はできないけれど、もちろん可能な限り祝いに馳せ参じたいと思う。

「当然だよ。出来るだけ早く顔を見にくるから」

 意気込んで答えたらほっとしたらしく、ヘンリーが緩く脱力した微笑みを浮かべて「ん。待ってるからな」と頷いた。

「さて、そんじゃ積もる話もあることだし、場所移そうか。マリアは休んでな。二人が帰る前にまた連れてくるよ」

「あの、ヘンリー様。少しよろしいでしょうか?」

 話がひと段落ついたところで、ヘンリーが僕らを促し別室へと移動しようとした。確かに、妊婦さんの枕元で騒がしくしないほうがいいだろう。フローラの手を引いて後について行こうとしたが、そこへすかさずマリアさんが声を上げて、先頭に立つ夫を呼び止めた。

 視線を一度に集めた彼女は僕らの一番後ろ、彼女の近くに立っていたフローラを見上げ、少し遠慮がちに告げる。

「実は、私……フローラさんと、二人でお話してみたくて」

 名指しされたフローラをはじめ、全員が目を瞠った。穏やかな微笑みを浮かべたマリアさんが更にと言葉を重ねていく。

「フローラさんは長年、オラクルベリー南の修道院でお過ごしだったと伺いました。それこそご幼少の頃からと……実は以前マザーから少しだけ、シスター・フローラのお話を伺ったことがありまして。テュールさんのお相手がサラボナのルドマン嬢だとお聞きして、お会いできるのを大変楽しみにしておりましたのです。ご婚礼の折は慌ただしくてあまりお話できませんでしたから、是非この機会に歓談の時間をいただきたいな、と。宜しければテュールさんがヘンリー様とお話なさっている間、奥様を少しだけお借りすることは叶いますでしょうか」

 何だろう、リーシャといいビアンカといい、最近フローラが引っ張りだこな気がするな。

 マリアさんの申し出はとても嬉しいのだけど、わずかな時間でもフローラと離れるのは僕が寂しい。顔に出てしまったんだろう、ヘンリーが思いきり苦笑して肩を叩いた。

「ったく、そんな顔すんなって。どのみちマリアは少ししたら休ませたいから、しばらくしたらフローラさんだけ迎えに来るよ。それならいいか?」

 フローラも心配そうに首を傾げて僕を見ている。どれだけ情けない顔をしてしまったのだろう。慌てて笑顔を繕い頷いた。

「わかった。僕もヘンリーに相談したいことがあったから、ちょうど良かったかも」

 嘘じゃない。元々グランバニアのことを話そうと思っていたのだけど、できればフローラのいないところで訊きたいことがもう一つできてしまった。それを思えば渡りに船だ。

 というわけで、フローラをマリアさんの元に残し僕とヘンリーだけ移動することになった。部屋を出る直前「マリアをよろしく頼む、グラン夫人」とヘンリーが声をかけると、フローラはドレスの裾を摘んで恭しく綺麗な答礼を返した。

 ああそうか、そういう肩書になるんだよな……と今更ながら思う。僕の姓でフローラが呼ばれることにはだんだん慣れてきたけど、不意打ちで畏まった呼び方をされるとつい変な緊張が走る。

 碧い髪が蜂蜜色の黄金と並んで、視界の端で揺れる。

 穏やかに微笑んで見送ってくれる妻達に僕も目礼だけを返し、ヘンリーの背を追って、陽だまりのような暖かな部屋を出た。

 

 

 

 

 

「……べた惚れだな」

 閉じられた扉を背に、螺旋階段を降りようとしたところで、ヘンリーが冷やかし笑いを浮かべつつ振り返った。

「何さ。悪い?」

「なんで喧嘩腰なんだよ。安心してんの、お前がちゃんと夫やってるから」

 面と向かって言われればやはり気恥ずかしい。衛兵にだって聴こえているだろうに。熱くなった頰を誤魔化しついでに軽く睨むと、ヘンリーはいつものようにへらりと笑ったが、ふっと真顔になって正面に目線を戻し、僕に背を向けたまま独り言のような呟きをぽつりと零した。

「……あんまり、必要とされてる感なかったしな。俺」

 そんなこと、ない。

 思わず息を呑んだが、それきりヘンリーはこちらを振り向くことなく、黙って長い階段を下って行った。

 淡白だった、薄情だったという自覚はある。それにしたって、あんなに親身にしてくれたヘンリーに、そんなことを思わせてしまっていたなんて。

 唯一の友だった彼に、しかし帰るところを持つ彼に依存し過ぎるのが嫌で、ずっと変わらないなんて信じるのが怖くて、マリアさんと行動を共にするようになってからはその思い込みがますます強くなって。すれ違いというほどではなかったけれど、当時増え始めた仲魔達の世話にかこつけて、距離を置いてしまったことは否めない。

 今更ながらつくづく、自分の至らなさを思い知らされる。

「違うからな。そんな理由で国に残ったわけじゃない」

 同じく黙り込んでしまった僕に気付いて、扉の前で立ち止まった彼が静かに苦笑して言った。

 ────ああ、ほんと、気を遣わせてばかりだなぁ。

 やっぱり気の利いた返事はできる気がしなくて、黙って微笑みを繕い頷いた。それだけで言いたいことを汲んでくれる優しい幼馴染みは、満足そうに一度頷くと、目的の部屋の扉をおもむろに開けた。

 

 

 

 連れてこられたのは、以前も何度か通された応接間だった。

 室内に待機していた侍女の方々が、手際良くお茶の用意をしてくれる。ヘンリーに促されてふかふかの椅子に腰を下ろすと、ほとんど間をおかずに良い香りのカップと茶菓子をテーブルに置いてくださった。

「で、相談って何? テルパドールだっけ。あそこで勇者のこと、何かわかったのか? 俺に協力できることがあるなら何でも言ってくれよな」

 早速人払いしてくれたヘンリーが身を乗り出してきて、一瞬答えに窮してしまう。そのことも話したかったんだけど、目下相談したい事柄は実は、勇者とは全く関係ない話なのだ。

「あ……えっと、それはちょっと、おいといて」

「はぁ?」

 何からどう質問したものか。背筋を伸ばし、こほん、とわざとらしく咳をしてから改めて親友を見つめる。さっぱり見当がつかないという顔で、ヘンリーは肩に流れるまっすぐな翠髪をさらりと揺らし、不思議そうに首を傾げた。

「マリアさん、懐妊おめでとう」

「ん? ああ。なんだ、改まって」

 ますます困惑を深め、ヘンリーはぱちぱちと睫毛を瞬かせる。

 だめだ、反応が読めない。怖気付く自分を叱咤し、話の糸口を必死に探す。今しか訊けないんだから、躊躇ってる場合じゃない。

「────その、予定日って来年の……七月、って言ってたっけ」

「ああ。どんなに遅くとも七月末には生まれると思う」

 恐る恐る問いを発すると、ヘンリーは見たことがないくらいやわらかな、大人びた微笑みを浮かべて頷いた。

 ああ、こんな顔もするのか。

 付き合いの長い彼だけれど、すっかり大人の男らしい顔つきをした親友を前にしてひっそりと驚く。

「難しいかもしれないけどさ、遠慮せず絶対見に来いよ。八の月がいいかな。あれだろ、キメラの翼で立ち寄れる街に入れば来られるんだろ? お前だったら別に、いつ来ても構わないから。お産の真っ最中はさすがに相手出来ないだろうけど」

「あー……うん。ありがとう」

 そこまで配慮してもらえるのは有難いが、ここから先をどう切り出すかということでいっぱいいっぱいだった僕は、つい気の入らない生返事をしてしまった。期待通りの返答を得られなかったのであろう、当然面白くなさそうに顔を顰めたヘンリーが、据わった目でじとりと僕を睨んでくる。

「なんだよその奥歯に物挟まったみたいな言い方。親分の慶事を祝ってやろうって気はないのか?」

「違うって! ……こ、こんなこと、ヘンリーにしか訊けないから……なんて言ったらいいのか」

 迂闊だった。いよいよ逃れられなくなり、尚も睨めつけてくる幼馴染みから必死に目を逸らし、あらぬ方向へ視線を泳がせたが、ついに観念して燻っていた疑問を絞り出す。

「そんなに…………長いの? 子供が生まれる、までって」

 

 

 ばっちり防音を施され、外界から隔離された静謐な応接間に、更に居た堪れない沈黙が流れる。

 

 

「……………………へ?」

「だから、その、……だって、まだ半年以上先なのかって、びっくりして」

 縮こまりつつ眼だけでこっそり表情を窺えば、ヘンリーは蒼い瞳をますます円くしたまま、ぽかんと口を開けている。

 そこはもうちょっとさらっと流してくれよ、何でそこまで驚くのさ。と訊いておいてなんとも理不尽なことを思ったが、彼はぱちぱち睫毛を瞬かせると再びまじまじ僕を見つめ、テーブルに腕をついて、ずずいっと身を乗り出した。何この圧迫感。

「え……マジ? 念のため訊くが、ナニをしたら子供を授かるってのは理解してんだよな?」

「教わった覚えはないけど、奴隷してた時分にいつの間にか心得ていたとしか」

「うぇっ、風情も何もねぇ。お前まさかフローラさんと致したらすぐ子供が生まれるとか思ってねーだろうな!?」

「思っ……てない! ないけど、ただ、最近旅先でも妊婦さんに会ったんだけど、見た目じゃ全くわからなかったんだよ。その人も確か二、三ヶ月後が予定日だって言ってて、だから赤ちゃんってわりとすぐ生まれてくるもんだとばかり!」

 浅はかな胸中をずばり言い当てられ、あわあわと必死に言い繕う。荘厳なるラインハット城の応接間で男二人、何の話をしているやら。いやでも正直なところ、三ヶ月でも十分長いなと思ったばかりなのだ。妊婦さんは腹が大きいものだという固定観念があって、ということはリーシャの姉君、レイラ様はまだ身篭ったばかりだったんだろう、などと勝手に思い込んでいた。

「お産までは十月十日って、聞いたことないか?」

 聞いたことがあるような、やっぱり知らないような。首を捻ってみせると、ヘンリーはいよいよ呆れと憐みに満ちた表情でこれみよがしな溜め息を零し、頭を抱えた。

「あー……そっか、お前、お袋さん知らないんだもんな。兄弟もいないし、そりゃ知らないかぁ……」

 冷たい汗がじわりと背に滲む。……自分はどれだけひどい思い違いをしているんだろう。

 眉間に皺寄せ唸る親友を前にして、恐る恐る、純粋極まりない愚問を投げかける。

「それ、単に長い時間って意味じゃ……ないの……?」

「莫迦。そのまんまだ、つうかそれこそ母親が子を腹に宿す期間のことだ。実際は数日から数週間、前後することもあるというが」

 ということは、十ヶ月と少し? そんなに?

 向かいの席で眉間を抑えているヘンリー同様、僕も思わず頭を抱えた。それってほとんど一年じゃないか。妊婦は皆、そんなにも長い間、赤ん坊を腹の中で育てているっていうのか?

 あまりの認識の違いに愕然としている。いやまあ言われてみれば、いきなり抱っこできる大きさの赤ん坊が腹の中に来るはずないよね。そりゃそうだ。てことは逆算するとあの時、レイラ様は子を宿してからそれなりに長く経っていたってことで……そんな中でのあのご心労。うわぁ、無知はつくづく罪だ。こんな状態で授かってしまったら、僕の無神経な発言や行動は妻をほとほと困らせてしまうことになるだろう。

 そりゃ、半年も前には考えもしなかったことだけど、今の僕はわりと真剣に、父親になるのも悪くないと思ってる。未だ絵空事に近い感覚だけれど、フローラとの子供ならいつか腕に抱いてみたいと素直に思える。だからこそ、真剣に望むなら絵空事じゃ駄目なんだ。大切な妻に子を宿して欲しければ、僕もちゃんとその神秘について知っておかなくては。

「いや。よくわかった。そりゃ確かに、俺以外に聞いてやれる奴いないわ」

「恩に着ます……」

 しおしおと小さくなった僕の背を叩いて慰め、ヘンリーはすっかり憐れみ深い眼差しでこちらを見ている。

 あの尊大だった王子が、よくぞこんな世話焼きになったものだ。尤も彼からしてみれば何も出来ない子供が長年くっついていて、不可抗力の意味合いもあったのかも知れないが。

 意外にも面倒見の良かった彼が、あの牢獄で教えてくれたものは計り知れない。そうして今でもこうして見捨てず、頼れる親友で居てくれる。

「そういうこと訊いてくるってのは、あれか? もしかして、フローラさんもおめでたの可能性があるのか」

「ううん、ないとは言ってたけど……そういうの、本人にはわかるものなんだよね? 正直、今のマリアさんも見た目は前と変わらないから、言われないと気付かないよ」

「へぇ。ないとは、ねぇ」急ににやついたヘンリーが肘で僕の肩を小突いた。「やることはやってるわけだ。奥手すぎて手を出せないんじゃないかって、正直心配だったんだよ」などと揶揄われ、羞恥のあまり全身がかぁっと熱を帯びる。男同士だからこういう下世話な冷やかしは昔からままあるが、妻を絡めて当て擦られるのは良い気がしない。「ヘンリーだって、しっかりやってるから授かってるんだろ。変なところで茶化すなよ」と憮然として言い返すと、彼は笑って両掌を振り、こほんと一つ咳払いをした後、改めて話を切り出した。

「腹が大きくなるのは臨月って言ってさ、わりと生まれる直前まではそこまで大きくならないらしいんだよな。自覚……どうかな、うちも侍医が初めに気づいたからなぁ。ああでも、悪阻で気づくかな? マリアも今、メシの匂いで気持ち悪くなるってんで大変なんだ。赤ん坊のためって言って、本人は頑張って食ってるけどさ」

 悪阻ってわかるか? と問われて、聞き覚えはあるものの、やはり自信がなかったので正直に首を振ると、ヘンリーは困ったように笑ってから丁寧に教えてくれた。

 曰く、妊娠すると母体に現れる症状のことらしい。人によって症状も程度も違うが、マリアさんの場合、食べ物の匂いに苦手なものが多く難儀しているそうだ。食事のたび吐き気を催していては確かに辛いだろう。悪阻が全くない人も居るというが、自覚というならこれが一番わかりやすいんじゃないか、とヘンリーは言った。

「仕方ないな。このヘンリー様が直々に、初めて子を授かった父親の心構えってやつをしっかり伝授してやるよ! 有り難ーく拝聴していけ!」

 何やら偉そうに腕組みをし踏ん反り返る。こういう彼らしさが健在であることが嬉しくて、思わずふはっと笑ってしまった。

 それから小一時間、彼の特別講義が終わってやっと本題であるグランバニアの件を切り出すまで、僕はずっと前のめりの体勢で、ヘンリーの説明に耳を傾け続けたのだった。




またまた蛇足ですが。
これ書いてる時に描いたらくがき漫画です。

【挿絵表示】

こういう、原作に出てくる台詞から膨らませるの大好きです!(小説にもちょこちょこ入れているのですよー)


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#24-3. 光の標【終章3】~side Flora(1/2)

 殿方二人を見送った重厚な扉が、音もなく閉められる。

 大きな窓から昼過ぎのやさしい光が差し込んで、室内は春めいた暖かさに満ちる。外の冬枯れの寒気が嘘のよう。

 ラインハット城、正殿の最上階。

 恐れ多くも王兄殿下ご夫妻の御殿にて、私は今、ご懐妊なさったばかりのマリア王兄妃殿下のお側に侍り、束の間の歓談相手という大役を仰せつかっている。

「お引き留めして申し訳ありません。お時間をくださり、ありがとうございます」

「いいえ、私の方こそ……こうしてゆっくりお話しさせていただけて光栄です。お疲れの時は遠慮なくお申し付けくださいね」

 蜂蜜のような金髪がふんわり揺らめく。胸許まで伸びたそれは菫色のドレスの肩口に踊り、淡い薔薇色の唇が金糸の睫毛とともに緩やかに弧を描いた。王兄殿下の寵妃のなんとも愛らしい様に目を細め、思わず微笑みを返す。

 室内には侍女の方々が控えていらっしゃるから、完全に二人きりではないのだけれど。互いの伴侶抜きでマリア様とお話をするのは、婚礼の日のわずかな時間以来だ。私と同じ修道院にいらした方だと伺ったけれど、初めてお会いした時には既に王家の一員でいらしたから、どうしても緊張が先に立ってしまう。

「お身体に、何か障りはございませんか?」

「そうですね。少し悪阻があるくらいで……実は一週間ほど前、軽くですが出血があったものですから。念のため、こうして休ませていただいている次第です」

 念のためとは言うが、それではほとんど寝たきりを余儀なくされている状態なのでは。

「少々、失礼いたしますね」

 断りを入れて、彼女の傍に置かれたもう一つの枕を引き寄せた。王兄殿下がお使いになるものだろうと思うと余計に緊張してしまうが、静かに息を吐いて気持ちを落ち着け、マリア様のお背中にそっと宛てがって身体を預けるよう促した。

 マリア様の枕に重なって生まれた微かな傾斜が、胃の中のものの逆流をわずかながらも防いでくれる。少しだけ前傾したこの姿勢は眠気を誘うのにも良い。気休めではあるけれど、これも修道院で培った知識の一つ。

「やはり、よくご存知でいらっしゃいますね。とても楽です」

「修道院で何度か妊婦さんのお世話をしたことが。赤児を取り上げたことはありませんが……あ、私、香油をつけてしまっているのですが、匂いがお辛くはありませんか」

「大丈夫です。とても良い花の香りですのね」

 微笑んで答えたマリア様がふぅ、と脱力し息をつく。

 投げ出された手がなんだか心許なげに見えて、思わず上から両手に包んだ。掌はそこまでではないのに、白い指先だけが凍るように冷たい。マリア様は少し驚いてたじろいだようだったけれど、すぐに恥ずかしそうにふわりと微笑んだ。

「ありがとうございます。……そうしていただいていると、何だか安心します」

「お楽になさっていてくださいね。眠くなったらお眠りくださって構いませんから」

 はい、とまたマリア様が柔らかな微笑みを浮かべて頷く。穏やかで静かな時間が流れる中、ふと、枕元に侍ってずっと見守っていたあの日のことを思い出した。

 あの時は、寝台に昏倒した夫が眠っていた。

 今と同じように彼の手を握っていた私の背後に、マリア様が黙って佇んでいらして。

「婚礼の時の……ご恩返しにもなりませんが」

 ぽつり、呟くと、マリア様が哀しげに瞠目し私を振り仰いだ。

 恐れ多くも準備の段階から何かとお気遣いをいただいた上、テュールさんを共に見守ってくださったというのに、そういえばあの時は気持ちに余裕がなさすぎて、ろくなおもてなしもできなかった。

 今更ながら、なんと失礼なことをしてしまったのか。

「テュールさんがお倒れになっていた間、ずっと傍についていてくださいましたでしょう? 当日は満足に御礼も申し上げられず、大変失礼致しました」

「そんな。私も、あの時は色々と考え事をしておりましたから」

 遅ればせながらも深謝の念を込めて深々頭を下げれば、マリア様は何故かひどく狼狽えて、顔を上げるよう懸命に私を促す。

 却って困らせてしまったようでますます恐縮しつつ、もう一度だけ謝辞を述べた。

「本当に心強うございました。ありがとうございました」

「……いいえ。何か、できたわけではありませんでしたが」

 そう仰ったマリア様は、やはりどこか哀しげに私を見つめている。御礼をお伝えしなくてはと思ったものの、タイミングを誤ったかもしれない。重くなってしまった空気をなんとかしたくて口を開きかけた瞬間、────

「何も、ご存知なかったのですよね……?」

 りん、と響く、マリア様のお声が。

 憐れみを感じる眼差しが、少し、つきりと心に刺さって。

 あのことを仰っているのだと、すぐにわかった。ヘンリー殿下にテュールさんのことをどれだけ知っているのか問われた時。私は愚かにも、最も愚昧な返答しか持ち合わせておらず、あの場に居合わせた方々を深く呆れさせてしまった。

 思わず目を伏せてしまうと、マリア様は緩く重い息をつき、少しだけ逡巡なさってから……薄紅の唇を開いた。

「ヘンリー様は、今でこそ気兼ねなく色々話してくださいます、が……お二人の婚礼に参列するまではやはり、何でも、とまではいかなかったように思います」

 私達の……結婚式?

 あの日、私達が与り知らぬところで何かあったのだろうか。不安を覚えてマリア様を窺い見ると、彼女はどこかお辛そうにやわらかな微笑みを歪ませる。

 その、次の瞬間。私は軽率に続きを聞いてしまったことを心底後悔した。

「私も、奴隷でしたの。ヘンリー様とテュールさんが働いていたあの場所に入れられてすぐ、ある失敗をしてその場で鞭打ちの刑に処せられました。死を覚悟した時、庇ってくださったのがお二人で────」

 マリア様の細い、鈴のような声が遠ざかっていく心地がする。

 ────そんな。

 マリア様も。マリア様まで、テュールさん達と同じ……だったなんて。

 かつての神々の居処と呼ばれる地で、教団に隷属し、苦役に従事させられた人々のうちのお一人だったなんて。

 考えもしなかった。テュールさんとヘンリー様、お二人といつから親しくしていらしたのか。お二人がセントべレス山を逃れ修道院に流れ着いて、そのご縁で知り合われたものとばかり。

「こんな話は、なさっていないのではありませんか。テュールさんは」

「……はい……」

 なんと言っていいかわからなくて、無意識にドレスの裾をぎゅうっと握りしめた。俯いてしまった視界には磨き上げられた床と緋色のラグ、そして寝台から流れ落ちた上質なシーツばかりが映り込む。

 ああ、本当に、私は何も知らない世間知らずだった。

 資産家の父母に拾われ、修道院の壁の中、真綿に包まれ何不自由なく育ってきたのだ。

 皆さんの苦しみを本当に理解することなどきっとできない。故郷を焼け出されたことも、親を目の前で殺されたことも、理不尽に鞭で打たれたこともないのだから。

「どうか気に病まないでくださいましね。きっと私達の旦那様は、私達を悲しませたくなくてお話なさらないだけなのです」

 身勝手に消沈し、顔を上げられなくなってしまった情けない私を、マリア様は慈しみ深く言葉を尽くして励ましてくださった。

 あまりに申し訳なくてそろりと瞳を持ち上げれば、深い優しさを湛えた瞳がやわらかく私を受け止めてくださる。

「フローラさんが、まだ出会って間もないと仰った時……他人事とは思えませんでした。私だって、テュールさんと比べたら。あの神殿で、奴隷としてお会いしていなければ、ヘンリー様に見初めていただくことだってなかったかもしれないのですから」

 そう言って、マリア様はまた切なく、綺麗に微笑む。

 こんなにもお優しく、清らかな心を持つお方が、奴隷として理不尽な辛さを背負われたのかと思うと。

 テュールさんのお話を聞いた時にも感じた憤りや悲しみが、行き場のない衝動となって身体の奥を駆け巡る。

「ありがとう……ございます。申し訳ありません。こんな、お辛いことを」

「大丈夫だからお話ししたのですよ。寧ろ、こんな話をされてもお困りなだけでしょうに、身勝手に押しつけて……私の方こそ、申し訳ございませんでした」

 込み上げる喉奥の苦しさを押し込めて詫びれば、心優しい王兄妃殿下は寧ろ、ご自身が悪いことを言ってしまったというように、懸命に言い募る。

 ああ、この方は、心から私を心配してくださっているのだ。

 だからマリア様は、ご自身の悲痛な過去を示してまで、こうして元気づけてくださっているのだ。

 恥ずかしい。ずっと、自分のことでいっぱいで。そのお心遣いに、今のいままで気づけなかったなんて。

 背筋を伸ばし、妃殿下に真っ直ぐ向き直った。頂いた真心への感謝を込めて、精一杯の微笑みを繕い、ようやく答える。

「お気遣い、誠に痛み入ります。……婚礼のあと、ちゃんとお互いのことを話す時間を持てました。私達も、もう話せないことなどないと、互いに……思っております」

 私が隠し通すと決めた、あのこと以外は。

 ふと後ろめたいものがざわりと背を撫でていった。もう一つ、私は彼に話していないことがある。

 天空の盾のこと。私自身の、本当の出自のこと。

 話さなくては。これ以上隠し事はしたくない。サラボナを発つまであと一週間もない。二人きりでいられる今のうちに話をするべきだと、わかっている。

 けれど、本当に束の間、旅から離れて彼と過ごすこの日々が、とても優しくて、愛しくて、幸せだったから。

 あと数日。せめて旅立つその日までは、憂いごとを考えることなく今の幸せに身を浸していたいなどと、わがままなことを願ってしまう。

 彼の出自も、私の出自も関係なく、今だけはどこにでもいるただの夫婦として、心穏やかに過ごしていたいと。

「良かったですわ。……お二人で、お話されたのですね」

 そんな、私の矮小な葛藤に気づかれることなく、マリア様はゆるく安堵の息を吐かれた。

 少し肩の力が抜けたご様子で、親しみを込めた表情で彼女は語る。

「ヘンリー様は、今でこそご自身のことはどんなことでも話してくださいますし、テュールさんと二人で過ごされた頃のお話も聞かせてくださいます。ですが、テュールさん個人のお話をしてくださったことはないと思います。あ、いえ」

 そこまで言って、マリア様はふと言葉を飲み込んだ。私が首を傾げると、小さく苦笑して頭を振ってみせる。

「聞きたいかと問われたことはあるんです。私がお断りしただけで。だって、あの方……私が、本当はテュールさんをお慕いしていた、なんて思い込んでらっしゃるんですよ」

 思わず目を瞠ると、蜜色の髪の乙女は困ったように肩をすくめ、また微笑んだ。

「テュールさんはもちろん、とても素敵な方ですわ。けれど、私が惹かれたのはいつでも私を真っ先に守ってくださった、あの方の大きなお背中なのです。……悔しいから申し上げませんけれど。無事に生まれたら、教えて差し上げてもいいかも」

 優しい手つきでお腹を撫でて、その指先をそっと唇に押し当てる。内緒話をするように密やかに、マリア様はきれいな微笑みでくすくす笑った。

「もう、動くのが分かりますか?」

「残念ながら、まだ。早く胎動を感じてみたいですわ」

 両手でお腹を大事に包み込み、幸せそうに頷いたマリア様が突然「あ」と声をあげ、何か思いついたご様子で瞳を輝かせた。

「良かったら、触ってみていただけませんか?」

 思わぬお申し出に目を円くする。え、と口籠る私に向かってマリア様は身を乗り出し、手を出すよう促してくださった。

「よろしいのですか?」

「ええ。是非、フローラさんからもこの子を励ましてあげてくださいませ」

 あくまで迷信だけれど、妊婦の腹に触れると子を授かりやすくなるという言い伝えがある。リーシャさんの未来視が戒めるように脳裏をかすめて、けれど欲求には抗えず、誘われるままそろりと腕を伸ばした。

 マリア様に手を引かれ、寝着の上から恐る恐る掌を載せたそこは、優しくて温かい、けれどまだ華奢なだけの腹部だった。

 この中で今、小さな命が育まれている。

「本音を申しますと、年の近いお友達に恵まれたら素敵だと思いまして。……ヘンリー様とテュールさんのような」

 あまり馴れ馴れしく撫でるのも憚られて、手を当てたままその温もりを確かめていたら、どこか悪戯っぽいマリア様のお声が密やかに響いた。

 やはり子授けの迷信のことを示唆されていたのだと思ったら、何となく可笑しくなって、自然と笑みが溢れ出る。

「それは、とても素敵ですね」

「でしょう?」

 くすくす、くす。

 どちらからともなく、あどけない笑い声を零しあって。

 本当に、とても素敵だと思ってしまった。

 こんなふうに、親しい相手と笑い合う子供達。

 そんな未来を繋いであげたい。幸せに、何も憂うことなく大きく育って。

「何か……不安なことがお有りですか?」

 笑い声がぽかりと途絶えたあと、ぼんやりとそんなことを考えていたら、ひどく心配そうにお声をかけられた。

「いえ────、いいえ」

 慌てて焦点を合わせてマリア様を見上げる。テルパドールを離れてからというもの、ふとした瞬間にこうやって物思いに沈むことが増えてしまっていた。

「何も……、ございません。申し訳ありません、次の出立が近いせいか、妙に緊張してしまって……」

 しどろもどろに、当たり障りない言い訳をする。マリア様は然もありなんと頬に手を当てて何度も頷き、「そうですよね、また旅に出られるのですもの。そういえば私も、サラボナに向かうと決まった時には色々考えすぎて、あまりよく眠れませんでしたわ。船も初めてでしたし……海の魔物も、全く居なくなったわけではありませんものね。ご心配ですわよね」としみじみ呟かれた。

 そうして暫し考え事をなさっていたが、「嫌だわ、私までぼうっとしてしまって」と頭を軽く振ると、気持ちも新たに明るいお声で違う話題を切り出された。

「これからのお話も良いですが、よろしければ是非、フローラさんが修道院にいた頃のお話を聞かせてくださいませんか。私は結局あまり長く居られなかったのですが、とても良くしていただいたので時々ひどく恋しく思われてしまって」

 そのお気持ちはよくわかる。頷いて、私も修道院時代に思いを馳せた。規律正しく過ごす日々の中で様々なことを学ばせていただいた。知識だけでなく実際に手を動かす経験を多く為せたことは、今の私の生きる力に繋がっている。

「私がおりましたのは、六歳から十四歳までの八年間です。大変幼くしてお世話になりましたが、できることから少しずつ……役割を振っていただき、色々なことを学べたと思います。身の回りのことは一通りこなせるようになりましたし、衣服の仕立てに彫り物、土弄りまでさせていただけるとは思いませんでした」

「そうですよね。畑も自分達で手入れしていたのは驚きましたわ。採れたてのお野菜があんなに甘いなんて、初めて知りました」

「ふふ、私もです。海が近いので土のお手入れが大変でしたわ。作付けの前には、地域の皆さまも総出で塩抜きをしたものです。マザーをはじめ、シスターも近隣の方々も大変お優しい、頼もしい方ばかりで」

 思い返すと懐かしい。質素倹約、自給自足を旨とする修道院では、何をするにも人力が必要だった。非力な私達を助けてくださる多くの方々がいて、少しずつ手を差し伸べあって、あの生活が成り立っていた。

 もちろん、父をはじめ、各地の資産家による修道院への支援があってこそ維持できたものもある。ラインハット王家による代々のご寄付が打ち切られた折には、マザーから内々に父への感謝の言葉を預かった。偽の為政者を打ち倒し、修道女を王族の妃に迎えた今ならば、もうその心配もないだろう。

「本当に、そうですわ。あの浜辺に流れ着いたことこそが精霊ルビスの思し召しだったと、私、今でも思いますもの。……異教徒だった私をも、そうして寛大にお救いくださる……」

 そう呟いて、マリア様は厳かに印をきり、両の指を組む。

 見慣れた仕草に懐かしさを感じつつ、私もそれに倣って静かに神へと祈りを捧げた。

 枕元で長い黙祷を捧げた後、顔を上げたマリア様がふと思い出したように私に問いかけられた。

「そういえば、フローラさんは私達とほとんど入れ違いに、修道院を発たれていたのでしたか」

「はい。夏に再訪しました折、私が修道院を発った数日後に皆様が流れ着かれたのだと……教えていただきました」

 このことを思うたび、あまりの間の悪さに泣きたくなる。

 どうして、たったあと数日。出立が一週間遅ければ、私も皆さんを多少なりともお助けできたのに。

「本当に、お気になさらないで。フローラさんには、フローラさんにしか成し得ないお役目がお有りでしたでしょう?」

 再び俯いてしまった私の肩を、マリア様はそっと撫でては優しく慰めてくださった。

「そう……、でしょうか」

「ええ。天空の盾を守るというお役目が」

 思わず目を見開き固まってしまった私を見て、マリア様が不思議そうに首を傾げた。

「違いましたか?」

 ────そうだわ。マリア様もあの時、一緒に盾をご覧になったから。

 ぎごちなく頷くと、彼女は穏やかに、星空のような深い藍色の眼を細めた。

「詳しいことは存じ上げませんが。ルドマン家が天空の盾を継承していらっしゃったことこそ、フローラさんとテュールさんのご縁を何より深く示すものだとは思われませんか」

 けれどその盾は、本当は、我が家に伝わっていたものではないのです。

 正確ではない事実でそんなふうに思わせてしまうことが後ろめたくて、しかし訂正もできず目を伏せてしまった。視線を合わせない私を責めることなく見遣り、マリア様はあくまでも優しく、嬉しそうに頬を緩ませる。

「ふふ。こんなことを言ったら不謹慎かもしれませんけれど、運命の恋、ってこういうことを言うのかしら、と思って」

 

 運命の、恋。

 

 昔、まだ物の道理も知らなかった幼い頃、両親に連れられて参列した結婚式で、幸せそうな新郎新婦を祝福したことがある。

 目映いほどの幸福に包まれたお二人を見て、いつか私も、私だけの素敵な王子様に巡り逢えたらと幼心に夢を抱いた。

 逆だと思っていたの。運命的だったのはビアンカさんの方で、せっかく再会できたお二人を私が引き裂いてしまったのだと。

 今も彼を信じられないわけじゃない。嬉しかった。それでも、私以外の方からすればそんなふうに見えて当然なのだと、それはずっと戒めとして心の内にあった。

 だから、────だから。

 マリア様の言葉は、心の奥底に眠らせた幼く無防備な私をほんの少し、揺さぶった。

 ずっと逢いたかった、私だけの王子様。

 あのひとに恋をする瞬間を、ずっとずっと待ち焦がれていた。

 この恋は私にとって間違いなく、運命の恋だった。

 何より得難い、たったひとつの。

『こんな恋、一度すれば十分過ぎるよ。心臓がもたない』

 ふと、夜明けの砂漠で聞いた、砂塵にかき消えそうだった愛しい囁きが、音もなく胸を凪いでいく。

 嬉しくて、胸がまた少しだけ、苦しくなる。

「……マリア様とヘンリー様こそ、とてもロマンチックで運命的なお二人ではございませんか。白馬に乗った王子様が迎えに来られたと、修道院のルーシィちゃんが教えてくれました。お話を聞きながら、うっとりしてしまいましたもの」

「ま、まぁ、そんな。お恥ずかしい限りです……」

 ぽぽ、と頰に紅を灯らせたマリア様を微笑ましく見つめた。彼女も気恥ずかしげに微笑んで、改めて修道院の話題を口にする。

「最近も修道院に行かれたのですか? テュールさんとご一緒に、色々なところを廻られているとお聞きしましたが」

「ええ。先日、テュールさんが朝の礼拝に連れて行ってくださいました。皆さんお元気そうにしてらっしゃいましたよ。マリア様のご懐妊が伝わりましたら、皆さん絶対に喜ばれますわ」

「そうですね、春にはきっと……無事に生まれて落ち着いたら、この子を連れてお顔を見せに行きたいですわ。ヘンリー様にお願いしてみようかしら」

 嬉しそうにもう一度、お腹を撫でるマリア様の仕草に笑みが零れる。そんな他愛ない話をしているうち、マリア様の蜂蜜色に彩られた星屑の瞳が次第にとろんと落ちてこられた。

「ごめん、なさい。やっぱり最近、どうしても眠くなることが多くて……」

「どうぞ、おやすみになってくださいまし。ヘンリー殿下がいらっしゃるまで、こうしてお側におりますから」

 きゅ、と手を握り直すと、安堵した微笑みと吐息が返る。

 程なく、金の睫毛が帳を下ろして。

 静謐でうららかな陽だまりの中、穏やかに響く規則正しい微かな寝息を、その傍らに侍ってただ静かに聴いていた。

 

 

 

 マリア様が眠りに落ちたのを見計らって、衝立の向こうに控えていた侍女の方がそっと声を掛けてくださった。

 良かったらあちらのソファでお茶を、と申し出てくださったけれど、緩く首を振ってお断りして。マリア様の手を包んだまま、しばらく寝顔を見守っていた。

 ────年の近い友人に恵まれたら、素敵だと思いまして。

 マリア様の嬉しそうな囁きを思い出すと、つい顔が緩んでしまう。そうなれたら本当に素敵だと思う。リーシャさんの予言は恐ろしいけれど、その部分だけは実現してくれたら、なんて都合の良いことを願ってみたり。

 ああ、でも、身篭ってしまったらきっともう気は抜けない。リーシャさんが仰った未来視の悲劇まで幾許もなくなる。何が起こるか分からない、けれど何としても助からなくてはならないのだ。

 いつかお腹に宿る子も、私自身も。

 テュールさんに、再び身内を失う悲しみなんて、絶対に味わせたくないもの。

 両手に包んだマリア様の温もりを額に押し戴き、深く祈りを捧げてからどれくらい経っただろうか。扉の方で誰かが話している気配がした。そのままじっと待っていると、緋色の長い被布を纏った王兄殿下が、そっと衝立からこちらを覗かれた。

 目礼を返すと、静かに頷いて足音を立てずに歩み寄る。

「よく寝てる。ありがとうな、ずっとついていてくれて」

 身を屈めて低く告げられた労いに、やはり黙って微笑みだけを返した。

 安らかな寝顔に今一度、愛しげな眼差しを落として。ヘンリー様が私についてくるよう促し、踵を返す。黙って承諾し立ち上がった。恭しく腰を折る侍女達に見守られ、殿下の背中に付き従って部屋を出る。

 螺旋階段を降りる間、ヘンリー様は終始無言だった。

 ……私も、敢えてお話しすることはないと思ったから、気分を害することがないようただ静かに後をついて歩いた。

 仕方のないこと。テュールさんとヘンリー様は特別親しい間柄でいらっしゃるけれど、私はテュールさんの付随品に過ぎない。ましてヘンリー様には、私は決して覚えめでたくない印象を持たれている自覚がある。

 結婚式の日、私は一度この方から失望された。

 直接非難されたわけではないけれど、何より、殿下の眼差しが全てを物語っていらした。

 テュールさんの生い立ちについて問われて、何も知らないと答えた。そんな大事なことも式の前に打ち明けられないような女が花嫁だなんて、さぞ落胆されたことだろう。

 ましてやあの場には、テュールさんがずっと探されていたビアンカさんもいらしたのだから。

 あの時の失望を払拭できたなんて思っていない。だから、束の間とはいえ殿下と二人きりで歩くことは正直、少し怖かった。

「……そんなに硬くならないでくれ。テュールに知られたら張り飛ばされそうだ」

 それでも怯えを表に出したつもりはなかったのだけど、先導するヘンリー殿下が苦笑いを醸しつつ、翠の髪の向こうからちらりとこちらを振り向いた。

 答えるべき言葉が見つからず、せめて視線が交わらぬよう瞳を伏せると、前方から更に困ったように小さく笑う気配がする。

「いや、自業自得なんだけど。わかってるけどさ」

 自業自得?

 そう言われても、私には殿下にそこまで言わせてしまう理由が思い当たらない。どうしてテュールさんが、ヘンリー殿下を?

 私が緊張している所為かしら。少なくともテュールさんは殿下を張り飛ばすなんてこと、なさらないと思いますけれど……

 心の中だけでそんなことを巡らせながら、察せられたいわけでもないのに萎縮するのは失礼だと思い直し、背筋をしゃんと伸ばした。その気配を察してか、殿下が少しだけ歩幅を緩ませる。半歩斜め前を歩く形になった殿下の横顔が視界に映り込んだ。

「……悪かった」

「え?」

 思わず訊き返してしまい、軽率な返答を一瞬で悔いた。聞き間違いかと思ったのだ。恐る恐る見上げると、ばつが悪そうなお顔の殿下が申し訳なさそうにこちらを見下ろしていた。

「不躾なこと、言った。婚礼の時」

 もう一度、はっきりと言われて、あの時のことかと得心する。

 謝罪を受けるようなことはなかったと言おうとしたけれど、更に重ねられた言葉に口を噤んだ。

「ビアンカさんだっけ。あいつの幼馴染の……あの人にも怒られたし、マリアにも後でたしなめられた。顔に出てたって」

 ────そういえば先程も、マリア様がそのことを随分と気にかけてくださっていた。

 まさかビアンカさんまで。あの場に居て、何も知らなかった私など軽蔑されて当然なのに、そんなにも皆様からお気遣いをいただいてしまっていたなんて。

「……どうか、お気になさらないでくださいまし」

 胸がいっぱいになる心地を懸命に堪え、精一杯、誠意を込めてお返事を口にした。

 眉尻を下げて私を見たヘンリー殿下に、どうか安心して欲しくて、にこりと笑みを繕ってみせる。

「ヘンリー様がテュールさんを、とても大切に想っていらっしゃること、よく存じておりますもの。……ご心配、でしたよね」

 見ず知らずの女に、大切な親友を任せることは。

 言葉にはしなかったけれど、ヘンリー様は私の返事を聞いて苦い顔をなさった。翠の美しい髪をさらりと掻き上げ、しみじみと嘆息する。

「……マリアといい貴女といい、修道院出の女性は出来が良すぎて肩身が狭いよ、俺は」

「勿体ないお言葉です」

 淑女の微笑を貼りつけ、慎み深く腰を折る。

 この方は夫の大切なご友人。けれど私からすればお互いに、それ以上でもそれ以下でもない。

 決して心証のよくない私がここまで気にかけていただいただけでも、畏れ多いことなのだ。

 話はそこで途切れ、殿下は謁見の間を抜けて更に奥の階段へと向かう。目礼を下さった玉座の国王陛下にきちんと礼を取り、距離の空いたヘンリー様の背中を少しだけ早足で追いかける。階段の手前でお待ちくださった殿下が、今度は私に手を差し伸べてくださった。

 紳士が礼を尽くしてくださっているのを無碍にはできない。戸惑いながら右手を預けると、ヘンリー様は「あいつの大事な奥方に、何かあったら大変だからな」と誤魔化すように笑った。

「前に来てもらった時にさ。神の塔の話したの、覚えてるか?」

「……あの、床が見えなかった塔のお話……でしょうか」

「うん」

 再び、少し近しい距離になったところで、ヘンリー様が声を顰めて私の頭上に囁いた。

 高い塔の最上階で、テュールさんと王兄殿下ご夫妻が目に見えない道……吹き抜けを歩いて渡られたという話だ。高いところが苦手な私は、思い出すだけでまるでその場にいるかのように、ぞくりと身体がすくんでしまう。

 幸いにも殿下には気づかれなかった。私を支えてゆっくり階段を降りながら、噛みしめるようにじっくり言葉を選ばれる。

「俺、あいつにもうちょっと配慮しろって怒ったじゃん? でも、本音はちょっと違くてさ」

「────……?」

 思わず首を傾げたが、そういやあいつ、本当にフローラさんに無茶なことさせてないか? と逆に問われて、慌てて首を振った。

 危険なところには近づかなかったし、長い階段などの苦手なところではいつも身体ごと支えてくださった。寧ろ、過保護なほど大事にしていただいて、いつも申し訳なく思っているのに。

 狼狽えた私を見てヘンリー様は微かに笑ったけれど、また少しだけ黙り込んで……言おうか、言うまいか逡巡なさって、ひどく、たくさん躊躇ってから、ついにそれを口にした。

「なんて、いうか……あいつ、恐怖って感覚が麻痺してるんじゃないかな、って」

 

 ────────好戦的?

 いいえ、違う。これでは まるで────

 

 どう し て。

 唐突に、鮮明に脳裏に浮かび上がったのは、ナサカの浜でのキメラ達との戦闘の記憶。

 怒りに満ちたテュールさんの気配。いつもより鋭く、激しかった斬撃。次々に敵を斬り伏せ薙ぎ倒していく、テュールさんも、仲魔の皆さんも、鬼神の如く容赦なく、残酷なまでの殺気を放って。

 何故、こわい などと、思ったの?

 あんなにも優しい皆さんなのに。

 あんなにも、あの瞬間だけ、

 別人のように感じた、だなんて。

「だってさ、おかしくないか? 床見えないんだぜ。歩けるってわかってても普通はびびるもんだろ。お袋の時だってそうだ、あんな……あんな魔物を前にして、なんで平然としてられるんだか」

 ヘンリー様の呟きを黙って聞きながら、私も、これまでの戦いに於ける彼の様子を必死に思い返していた。

 死を賭すような場面で、強大な敵を前にして、彼が怖気付いたり狼狽えたりしたことは……なかったと思う。私が巨大な幼蟲の顎に貫かれた時でさえ、きっと冷静に思考し対処なさっていた。キメラに囲まれた時も。大鮹と対峙した時も。

 ヘンリー様が言わんとしていることは、よく理解る。

 テュールさんはきっと、本能的な恐怖を意図的に封じている。

 恐怖は時に自我にも勝る。制御しようとしてできるものじゃない。私だってテュールさんと旅に出てから、怖くて動けないことが何回もあったもの。彼も恐怖を覚えるからこそ、無意識に抑制してらっしゃるのかもしれない。動けないことがないよう、己の激情に呑まれないよう────ああ、そうだわ。

 私は知っている。本当は、あの方の奥底にはいつだって、途方もない激情が渦巻いていることを。

「フローラさんはうちの義母のこと、聞いてるか? 魔物が化けて入れ替わってたのをテュールと一緒になんとか斃したんだけどさ……強かったよ。今までやりあった魔物の中で一番でかかったし、強かった。俺なんか膝が嗤ってたね、こりゃ無理だろって思ったけど、……あいつは顔色一つ変えなくてさ」

 淡々と殿下は告げたが、それが却って死闘の凄まじさを思わせる。

 ラインハット王国の横暴の噂は当時、修道院に居た私にも聞こえていた。オラクルベリーとラインハット地方の間に長い橋が懸けられたのはいつだったか。岸辺で舟渡りをしていた人々がいつの間にかいなくなり、しばらく往来が途絶えたのだけれど、気がつくと両岸が埋め立てられ、そこに堅固な橋が建設されていた。それからはオラクルベリーの人々も、いつ自分達にも火の粉がかかるかと、遠い王城を睨みながら戦々恐々として日々を過ごしていた。

 大きな声ではいえないけれど、当時罪に問われて必死に逃れてきた人々を、修道院の奥で匿ったことも何度かあった。

 テュールさんは、当時仲間だったピエールさんとスラりんちゃんとも力を合わせてヘンリー様の手伝いをした、ということしか仰っていなかった気がする。前王の後妻……殿下の義理のお母様に魔物が成り代わっていたことは聞いた。一国を牛耳っていた魔物なのだから、さぞかし強敵だったのだろうとは思ったけれど。

「何だこいつって思ったよ。ま、そのお陰でぎりぎり踏ん張れたんだけど。……多分、あん時テュールは……死ぬのが本当に、怖くなかったんだろうな」

 あまりに物騒な単語を聞き逃せず、弾かれたようにヘンリー様を見上げれば、殿下は困ったように笑みを繕い溜息を溢した。

「そりゃ、あいつには親父さんの遺志を継ぐっていう目的があるけど。それがなかったらあいつ、生きてる意味なんてとっくに失くしてたんだよ。あいつの中では多分、親父さんが死んだ時あいつも死んだんだ。そういう感じ。……たった今死に直面したとしても、もしかしたらあいつはああなのかもしれない。事切れる瞬間まで冷静にしていそうだ。でも、……フローラさんのことはまた、別だろ」

「────私……、ですか」

 隣を歩くヘンリー様の横顔を遠慮がちに仰ぎ見ると、殿下は端正な面立ちをやわらかく崩して頷いた。

 こんなふうに、私にまで気を許したような笑みを向けていただけるとは思わなかった。

「初めて見たんだ。こんなに長い付き合いなのにな。ああやって誰かに寄り添ったり……甘えたり、するテュールは」

 さっきだって、あんな情けない顔したりさ。思い出して再び苦笑混じりに肩をすくめ、ヘンリー様は────ふと、真剣な眼差しで前方の虚空を見つめる。

 きっと私の知らない、記憶の中だけのお二人の姿を追って。

「俺は、知らない。あんな顔して笑うテュールを……知らない」

 私もまた、微かに見える横顔に見入りながら、言葉よりずっと強く痛感する。

 今まで、この方がずっと、誰より深く彼のことを理解していらしたのだと。

 ご自身の辛苦もあったはず。それでも、目の前でお義父様を亡くされた幼いテュールさんの精神を、誰より近くで守り通してこられたのは、ヘンリー様だった。

「貴女に出逢って、テュールは今、もう一度生き直してる。そんな気がする。すごく嬉しいんだよ。 ……でも、俺は同時に恐ろしくも思う。いつか、あいつに」

 そこまで一息に口にした殿下が、不自然なほど唐突に言葉を飲み込んだ。

 止まりかけた足取りに合わせて歩調を緩め、黙って続く言葉を待つ。

 俯き、吐息だけで絞り出された、今にも霧散しそうなその呟きは、きっとすぐ隣に立った私にしか聞こえない。

「……耐えきれないような、恐ろしいことが起こったら……今度こそ、あいつはどうなっちまうんだろう、って……」

 

 ────────ああ、

 この方もまた、誰にも言えなかったのではないだろうか。

 言えるはずがない。マリア様にも、やっと兄君を取り戻したばかりのデール国王にも。

 

 これは悔恨だ。ヘンリー様もまた悩み、苦しまれていたのだ。テュールさんを一人、送り出す選択をなさったことを。

 それが真実、殿下が選ぶべき最善の途だったのだとしても。

「……勝手だなぁ。俺、あいつには誰より幸せになって欲しかったのにさ」

 きっと努めて明るい声を出されたヘンリー様は、そんな口調と相反して、今にも泣き出しそうに見えた。

 堪えて、堪えて、苦いものを飲み下して。

「幸せになったらなったで、今度は、いつかそれがあいつを壊すんじゃないか、なんて。……不毛だよなぁ……」

 想いが、溢れる。

 自嘲めいた笑みを滲ませたヘンリー殿下の呟きが、痛いほどぎゅっと胸を締めつける。

 テュールさんはご自身を薄情だと仰るけれど、こんなにも大切に想われていることに対して、盲目になれる方ではないと思う。

 お辛かったでしょう。大切に想うことと同じくらい、受け取る勇気を持てなかったことは。

 憶測に過ぎないそれを直接お伝えすることは憚られて、胸の中だけで密やかに、目の前を行く緋色の被布へと語りかける。

 ────……殿下。

 テュールさんはきっと今、ようやく、殿下の深慮、想いに向き合う勇気を持たれたのだと思います。

 お二人が越えて来られた十余年の歳月、その重みを理解できるなどと、おこがましいことは申しません。

 それでも、貴方が永く守ってこられた大切なものを、私にとっても何より大切なそれを、今度は私が全力で守り抜きたい。

 私の意思がある限り、彼のお側を離れないと、誓います。

 音にならない私の誓いを受け取ったように、ヘンリー様の哀しいお声が密やかに耳に届いた。

「頼むよ、フローラさん」

 きっと私にだけ聞こえている、三歩分のこの距離に響く願い。

 振り向かずに発せられる静かな声が、私の誓いを力強く後押ししてくれる。

「あいつの側に居てやってくれ。テュールを……一番近くで見ていてやってくれ。捕まえていてやってくれ」

 ────何度も何度も、そう在ることだけを願ってきた。

 あの方を一人にしない。孤独になんてさせない。

 あの方を絶望の水底にただ一人、突き落としはしない。

 お側にいる限り、私が絶対に捕まえていますから。

 青い扉の前に立ち、もう一度苦しげな吐息を漏らして、

 ヘンリー様が最後に一言、喉の奥から絞り出した。

「……貴女にしか、頼めない……」

 

 

◆◆◆

 

 

 すっかり重苦しい空気になってしまったのを無理矢理深呼吸して気持ちを入れ替え、ヘンリー殿下に続いて扉を潜った。

 案内された場所は、一階の奥まった場所にある書庫だった。

 普段は開放されていない場所なのか、あまり人が出入りした形跡がない。図書館には大抵司書が居るものだが、城内であるにも関わらず、中には衛兵一人いなかった。

 しん、と冷えた空気の中、隙間なくきっちり並んだ古びた本が整然とこちらを見つめている。

「──────、フローラ」

 その奥で、テーブルに向かって何かを黙読していた夫が顔を上げ、私を認めて表情を綻ばせた。

「お待たせいたしました、テュールさん」

「遅くなったな。マリアを寝かせてくれていたんだ。すっかり気を許したみたいで、夫人に相手をしてもらえて良かったよ」

「恐縮です。私の方こそ、マリア様に何度も気持ちを和らげていただきました。斯様な機会をいただけたこと、心から感謝いたします」

 深々と腰を折ったあと、満足げに笑った殿下に促されて私も席についた。「どうだった?」と気安く問いながらヘンリー殿下も椅子を引く。さすがに内容までは見えなかったけれど、テュールさんはうん、と言葉を濁しながら、紐で綴じられた分厚い紙束を見下ろした。何か、調べ物をなさっていたことが容易に察せられた。

「やっぱり、少なくとも数十年前までは何かしら記録があるみたいだ。多少なりとも親交があったんだろうね」

「こっちももっと記録をあたってみる。あー、隠居の爺なら何か知ってるかな。出発前にもう一度顔出せるか?」

「ありがとう……じゃ四日、いや、三日後でもいい? 慌ただしくて申し訳ないけど」

「申し訳ないのはこっちの台詞だろ。それが真実なら……とんでもない話だってこと、解ってるか?」

 テュールさんが黙って苦笑して、ヘンリー様はそれを肯定と見たらしく、重苦しい息を吐いた。会話の流れから恐らく、テュールさんがグランバニアのことをお話しになったのだろう。ヘンリー様のご様子を見るに、王室の件についても伏せることなく、そのまま話されたようだ。

 お義父様がグランバニア王国の国主であらせられたかもしれない、という、テルパドールの女王からもたらされた情報を、彼は私の両親や船員さん達、ビアンカさんに話さなかった。

 お義父様が亡くなられた経緯は、以前テュールさんが話してくださった範囲で知っている。村人だと思われていた護衛役が、実は一国の王だったとしたら。その方がラインハット領内で命を落としていたことが、今になって判明したら……とんでもないなんて話ではきっと済まされない。

 けれど相手は、今や亡国とも噂される極東の国。

 私達が生まれてこのかた、こちらの大陸では全く名前を聞かなくなった、閉ざされた王国。

「うん。こんなこと言っておいてなんだけど……あまり思いつめないで欲しい。今のいままでそんな話出なかったってことはやっぱり違うのかもしれないし、本当だったとしても、本人が全く仄めかさなかったのには理由があるんだろうしさ」

「それで済むような問題かよ。ああでも、お前が変な気を回して、俺に黙って行かなかったことだけは感謝してる」

「……そりゃどうも」

 とても深刻な話なのだけれど、お二方がいつもと変わらぬ調子でお話ししていらっしゃるのを見るとなんだかほっとする。

 長く、身分に関係なく親しんでこられたお二人だからこそ、ヘンリー様のみならず、もしかしたらテュールさんにまでしがらみが生まれてしまうかも知れないこの状況は、決して喜ばしいものでは無いように思われる。

 変わらないでほしい。出来ればいつまでも、ヘンリー様とテュールさんには気を許しあえる仲であり続けて欲しい。

 それから程なく、再訪についての打ち合わせを手短に終えて、私達はお暇することになった。最上階の殿下の私室に戻り、まだ微睡の中にいるマリア様にお声をかけてご挨拶をする。とろりと眠そうな瞼を持ち上げ、マリア様は柔らかく笑んで私達を見送ってくださった。

「すっかり眠ってしまってごめんなさい。お話できて嬉しかったですわ。今度はもう少し、ゆっくりお喋りさせてくださいね」

「私の方こそ、楽しい時間を過ごさせていただきました。どうぞお健やかにお過ごしくださいませ。可愛いお子様にお目にかかれる日を、心から楽しみにしておりますわ」

 数日後の再訪の際、私は同行しないことになったから。次にお会いできるのはきっとご出産の後だと思って、もう一度マリア様の手を取り、励ましの言葉を一生懸命選んで伝えた。

 寝台の中で身を起こしたマリア様が、優しくお腹を撫でながら蜂蜜色の髪を揺らして微笑む様は、まるで一枚の宗教画のように尊く感じられた。



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#24-4. 光の標【終章3】~side Flora(2/2)

「……あー、びっくりした。あの二人に子供、かぁ……」

 転移魔法でサラボナへ帰還し別宅に入るなり、テュールさんが深々と息を吐いた。無意識なのか、早速頸元のシャツの釦を一、二個緩めていらっしゃる。慣れぬ衣服と話題に緊張していらしたのだろう。……彼自身の祖国かも知れない国のことも、お話しされたのだと思うし。

 子を望む気持ちは相変わらずあるのだけれど、例の未来視をいただいてしまったが故に、どんな顔をしてその話題に応じていいかわからない。曖昧に微笑んで頷くと、テュールさんは少しそわそわとした面持ちでこちらを覗き込んだ。

「フローラは?」

「え?」

「子供……欲しくない?」

 思いきり率直に核心を突かれ、一瞬頭が真っ白になる。まるで心を覗かれたような。同時に何故か強烈な羞恥に襲われて、落ち着きを失った頭を必死に宥めながらなんとかお返事を絞り出した。

「……ほ、欲しい、です。けど、今は、ちょっと……グランバニアに行くことの方が、大事だと、思いますし……」

 すっかりどぎまぎしながら答えると、テュールさんは何故か一瞬大きく目を見開いた。放心したようにも見えたが、すぐに目を逸らすと口許を掌で覆って言葉を濁す。

「んー……ううん。なんでもない。そうだよね」

 ばつが悪そうに口籠った彼を見上げて、一つの可能性に思い当たる。私の思い上がりでないのなら、

 ────落胆、してしまわれたのかしら。もしかして。

 熱をもった頰を抑えながら懸命に考える。この話を続けるのは藪蛇かもしれない。けれどまさか、彼も期待してくださっていたのかと思うと、嬉しさの方が勝ってしまって。

 ちょっとだけ、なら、いいかしら。

 私達の、少し未来の、希望に満ちた話をしても。

「テュールさんは、男の子と女の子、どちらが欲しいですか?」

「えっ? えっと、……ええ、悩むなぁ。女の子だったら、フローラに似て可愛い娘になるだろうとは思うんだけど」

 思いきって訊いてみると、彼は珍しく狼狽えてから真剣に思案し始めた。指で隠した隙間から赤らんだ耳朶に緩んだ口許まで見えて、こちらまで微笑ましく、嬉しくなってしまう。

 小さく唸りながらひとしきり考えあぐねた後、彼はどうにも弱りきった様子で首を振った。

「駄目だ、お嫁にやれない。泣くかも。お義父さんすごいね、僕に恨み言のひとつも言わないで」

 この短い間に、一体どこまで想像を膨らませていらしたのかしら。そんなにも考えてもらえて嬉しく思う反面、大事なことを打ち明けられない狡い自分を突きつけられて、胸が軋む。

 それは、私が父の、実の娘ではないからだと思うのです。

 ……そう、今なら言えるかも知れない。旅立つ前にお話しするなら今しかない、かも。

 にわかにこみ上げる緊張を手の中にぎゅっと握りしめて、けれど私が切り出すよりも早く、突如勢いよく顔を上げたテュールさんが食い入るように私を見つめた。

「それって、どっちが欲しいって思って決められるものなの!?」

 ────え?

 質問の意味が理解できず、しかし記憶から会話を辿ってじわじわと把握する。ああ、私が「どちらが欲しい?」と訊いたから、希望する性別の子を産むことが可能なのかと思われたのね。

 答える代わり、抑えきれない衝動がお腹の底から込み上げる。ついに肩を震わせてしまった私をじとりと睨んで、テュールさんが軽く唇を尖らせた。

「……決められないんだね。そこまで笑うってことは」

「ご、ごめんなさい……ふふっ。授かりものですから、こればっかりは神様の思し召し、で……っふふ」

 笑ってはいけないと思うのに、止められない。どうして私の旦那様はこんなにも、お可愛らしい方なのかしら。

 無知を嗤ったつもりはなく、純粋な好奇心が微笑ましかった。それに思い至った瞬間のきらきらした瞳は、昔オラクルベリーの緑園で読み聞かせをした少年達のものとよく似ていて。

 暫し不貞腐れていたテュールさんだったけれど、また何か思いついたらしい。ふわりと表情を和らげ、窓の外の、雪がちらつき始めた冷たい冬空を遠く見つめた。

「ああ、でも男の子なら、父さんがしてくれたみたいに剣の稽古をつけてあげることもできるかな。うん、それも楽しそうだ」

 その声がとてもやさしくて、慈しみに満ちていたから、悲しくないのに何故か泣きたいような心地になる。

 彼の目が映すあの空の下にはきっと、かつての緑豊かだったサンタローズ村の風景が広がっている。深い雪に埋もれた小さな村に、大好きな父親と二人。彼の記憶の中に生きる、まだ何も知らない少年の姿と、彼を見つめる逞しい父の優しい眼差しだけがあるのだ。

 ────だいすき。

 大好きです。本当に、そんなあなたが。

 失ったものも、今あなたのそばにあるものも、きっとこれから出逢うものも。そうやってどこまでも大切にできるあなたが。

 あなたとなら、どんな未来も楽しみだと思える。

 どんな子を授かっても、きっと素敵な毎日にしかならない。

「すごく小さい頃からお稽古してくださっていたのですね。今の剣筋も、お義父様の?」

「うん、さすがにうろ覚えだし、全然違うかもだけど。父さんに教わったものだから忘れたくなくて、セントべレスでもこっそり……ほんとにこっそりおさらいしてたんだよね。何か持つたび柄の握り方をいちいち真似たり、重心を意識したりしてさ」

 喋りながらも、テュールさんはがっしりと筋肉のついた両腕を伸ばして剣を持つ真似をして見せてくださる。素手なのに、握り込んだだけでお義父様の剣が見えるよう。

 最近、テュールさんはこうやって、お義父様の話をよく聞かせてくださるようになった。

 どうしても辛い思い出がついてくるのではと、私から話を振ることが中々出来ずにいた。けれど思いきって聞いてみれば、テュールさんはとても嬉しそうに、時には得意げに、昔のお話を聞かせてくださった。

 普段は落ち着いた、大人びた表情が多いテュールさんが、お義父様の話をする時だけは英雄に憧れる少年のように、無邪気なお顔を見せてくださる。それが嬉しくて、くすぐったい。

 本当にお義父様が大好きなのだな、と思うと同時に、また一つあなたを知れた喜びに、心が温かなものを灯していく。

「父さんの剣は本当に凄かったんだ。とにかく速くて、瞬きする間に斬り刻んでしまう。今もずっと憧れだよ。父さんが教えてくれたのはすごく基本的なことばかりだけど、今ならなんでそれが大事なのかわかる。だから、構え方は一応父さん直伝って言ってもいいかな? 剣筋は見様見真似で、わりとピエールに矯正してもらったかも」

「是非、お義父様と手合わせなさるところを見たかったですわ。ピエールさんもお強いですものね。スラりんちゃんもそうですけれど、スライム属ってあんなに俊敏なのかと驚きました」

「だよね。ピエールなんてあんながっちりした鎧つけてるのに。新しい剣を持ったらますます強くなるんだろうな……うん、父さんの剣で遅れをとるわけにはいかないよね」

 話の流れからピエールさんの話題になり、テュールさんがまた楽しそうに笑う。そういえばそろそろ、ノルンのおじさまに依頼した剣が出来上がる頃なのね。

 仲間として、剣士として常に切磋琢磨しあえるお相手であるピエールさんに、特別な一振りを贈れることはテュールさんにとってもすごく嬉しいことなんだろう。不敵な呟きを零したあと、彼は傍に置いたお義父様の鞘を引き寄せ、しみじみと大切そうに撫でていた。

 そして、その時は早々に訪れた。翌日の夕方、テュールさんが約束していた時間に連れ立ってノルン家を訪れると、すっかり準備を整えたおじさまとアンディがその二階で待ち構えていた。

 かつてアンディがずっと療養していた部屋は、寝台以外すっかり職人の道具に埋もれて様変わりしている。「一応軽く掃除したけど、埃っぽくてごめん」と両手を合わせて眉尻を下げた私の幼馴染みは、半年前のどこか尖った彼とは別人のように穏やかに見えた。

 私が良く知っている、幼い頃私の面倒を見てくれた、兄のような人がそこにいた。

「初めに言っておくが、鍛造代は要らん」

 テーブルに置かれたその剣の上にわざわざ布を掛け、お披露目を前にしておじさまが鋭く釘を刺した。

「え。いえ、相当額はちゃんとお支払いします。こちらからお願いしたんですから寧ろ、依頼料をしっかり上乗せしてもらわないと」

「そう言うけどテュールさん、こいつの素材聞いたら驚くと思うよ。まあ、見てやって」

 ここに来る前にかなりの金額を包んできたテュールさんだったけれど、予想外の申し出にすっかり困惑なさっている。

 苦笑するアンディに勧められるまま布を取り、目の前に現れた流麗な形状に夫婦揃って息を呑んだ。

 ご自身の出立準備がてら、テュールさんはノルンさんに頼まれ色々と素材の手配を手伝っていたようなのだが、それが何かまでは聞いていなかったらしい。自慢げに披露された剣の詳細を聞きながらどんどん表情が凍りついていった。剣身は最も硬質な金属と言われるメタリウム────はぐれメタルやメタルキングの核から精製される特殊な金属を用い、ピエールさんの体格に合わせて薄く細身に仕上げてある。隼の剣と呼ばれる究極的に軽い名剣を参考にしたという。連続攻撃を可能にするかどうかは使い手の技量次第、但しそれを補うために、身軽さを補う魔石を鍔に埋め込んである。これは身躱しの服にも使われている鉛丹色の宝石を加工したものらしい。美しく磨き上げられたその石は、今にも動き出しそうな小さな可愛いスライムの形をしている。

 正しく、疾風のような剣捌きを得意とするピエールさんに相応しい一振りだと感じられた。

「いや、あの……せめて、材料費だけでも受け取っていただけませんか。まさかここまで希少な素材で鍛えていただけるとは思っていなくて」

 すっかり狼狽えたテュールさんが力なく訴えたけれど、ノルンのおじさまは断固として首を振るばかりだった。

「こいつは値をつけられるもんじゃない。儂の気持ちだ。そこを汲んで、黙って納めていただきたい」

「ノルンさん……でも」

 尚も食い下がったテュールさんに、おじさまは更に真摯な眼差しを正面からぶつける。

「あの日、若さん達に助けられなければ存在すらしなかった剣だ。意匠は全てアンディが手掛けた。柄と鍔はもちろん、剣身と鞘の図案もな」

「え⁉︎ これ全部……彼が、一人で⁉︎」

 驚いたテュールさんがすかさずアンディを振り返った。腰まで伸びた金髪を無造作にひっつめた若き宝飾職人は荒れた指先で頰を掻きつつ「さすがに全部一人で作ったわけじゃないよ。鞘は特に、殆ど萬屋の親方に頼んだようなものだし」と照れ隠しの苦笑いを浮かべている。

「とにかく、まずはこの剣の主に握ってみてもらいたいな。スライムナイトのための剣は初めて造ったしさ」

 是非本人の反応を見たいと言った、アンディとノルンのおじさまを伴って別宅へ赴いた。夕刻だったので、ピエールさんも散策から戻っている。テュールさんが早速呼び止めて、改めてアンディとおじさまを紹介した後、彼らが鍛えてくれた剣を見せた。

 立派な鞘に納められた剣の柄を握った瞬間、鉄仮面の下の表情がすっと変わった気がした。剣身を抜き、角度を変えつつ眺めながらピエールさんはしきりに「ほぉ」「ふむ」と絶えず独り言ちている。剣のことはわからないけれど、小柄なピエールさんにもちょうど良い大きさに見える。やがて利き手に柄を握り、数回軽く薙いでから主人の方を向き直った。

「……そこの樹を斬り倒しては障りがあるかな?」

「この敷地内、っていうか街中では控えてほしいかな。試し斬りは外でやってね」

 苦笑しつつテュールさんが答える。やっぱり仮面で見えないけれど、ふぅむ、と唸ったピエールさんのお声は少し浮かれていらっしゃるようにも聞こえて、満更ではなさそう。大事そうに剣を鞘に収めてから、ピエールさんはテュールさんに相対し恭しく敬礼した。

「これほどの業物を賜るとはまこと幸甚の至り。必ずや、これまで以上にお役に立ってみせよう」

「うん。いつも本当にありがとう。これからも頼りにしてる」

 テュールさんもほっとしたように表情を弛ませている。良かった、本当に気に入ってもらえたみたい。少し距離をおいて眺めていたノルン親子も安堵の息を吐いた。彼らへもその場から丁寧な黙礼を送り、緑のスライムから降りたピエールさんが片膝と拳を地についた。

「あるじ殿。よろしければ今一度、従属の誓いを」

 相棒のスライムと共に深く頭を垂れたスライムナイトを、テュールさんはとてもやわらかな微笑みで見下ろした。

 親愛と、限りなく深い信頼が込められた、妬いてしまいそうな笑みだった。

「ほんと、ピエールはどんな騎士より騎士らしいよね」

 それだけ答えると、彼は受け取った鞘を両手でそっと戴いてから、抜き身の平をすっと下ろしてピエールさんの肩口に当てた。

 剣で三度肩を打つ、時折お芝居で見る騎士の誓いの場面だとすぐにわかった。きっと以前にもピエールさんに同様のことを請われて応じたことがあるのだろう。

「我が剣と終生の忠誠を、あるじ殿に」

 厳かに告げられ、テュールさんがまた微かに笑う。

「絶対先に逝くと思うんだけどな。寿命が違う」

「なればこそ。あるじ殿の宿願が為に生きて散ることこそ我が本懐であり、最上の誉れである」

 堂々と言い放つピエールさんは一寸の揺らぎもない。却ってテュールさんの方が渋い顔をした。少し逡巡したあと、彼は躊躇いがちに、目の前に跪く小さな騎士に釘を刺した。

「……犠牲は望んでないからね」

「心得ておる」

「そっか。ならいい」

 淡々とした遣り取りのあと、立ち上がったピエールさんにテュールさんが再度剣を渡した。主従の一連の誓約を見届けたノルンのおじさまはやけに感極まっている。「良いものを見せてもらった。鍛治師冥利に尽きる」としみじみ感慨に浸っていたが、その隣で見守っていたアンディはどこか固い表情でテュールさんの背中を凝視していた。

 こちらを向き直り、改めて親子に深々頭を下げて謝意を示したテュールさんに、アンディがおずおずと問いかける。

「あの、訊いてもいいかな。テュールさんの宿願って……」

 躊躇いがちに呼びかけられて、テュールさんはどこか無機質な……感情を映さない瞳でアンディを見つめ返した。

 ────恐怖って感覚が、麻痺してんじゃないかなって。

 お辛そうなヘンリー様のお顔が、その時の言葉が、哀しく脳裏をかすめていく。

「……母を、取り戻すことです。亡くなった父に託された……僕の唯一の、生きる目的なんです」

 押し殺した低い声音で、淡々と。

 伏せた睫毛に影を落としたテュールさんがそう、告げた。

 

 

 

 

 

 その晩は珍しく、アンディがテュールさんを誘って、二人で酒場へ出掛けて行った。

 殿方同士、私には入れないお話もあるのだろう。たまたま立ち寄った本宅で母にそんな話をしたところ、では今夜は実家で食事をして行かないかと誘われた。仲魔の皆さんもお誘いして、今夜は初めてテュールさん抜きで本宅の夕食の席に招かれている。

 そういえば私も、両親とこうして食事をするのは、結婚式の前々夜が最後だった。

「ところで、彼には話したのかね」

 賑やかな夕食が終わり、デザートも平らげた仲魔の皆さんは、すっかり暗くなった庭でリリアンと戯れている。食後のお酒を少しだけいただきながら両親と歓談していた時、父がおもむろに切り出した。

 それ以上聞かずともわかる。天空の盾と、私の素性のことだ。

 結婚してもう半年経つというのに、まだ話せていないと言ったら呆れられてしまうだろうか。緊張を必死に押し殺し答えを捻り出す。兜を被って見せたから、私が盾の正当な主でないことだけは彼に知られているけれど。

「グランバニアに行けば、彼の出自がはっきりするでしょうから……それまでには、お伝えしようと。盾の、ことも」

 なんとか無難な回答を口にすると、想定の内だったらしく父は顔色ひとつ変えずに頷いた。母が注いだブランデーを掌に温め、静かながらも威厳のある太い声で更に問う。

「お前はどう見る。父君の遺剣に刻まれた国章を」

 ────今度こそ、心臓が止まるかと思った。

 父は恐らく、勘づいている。

 いつから見当をつけていたのかわからないけれど、あの剣がグランバニア王家に間違いなく連なるであろうこと。その持ち主も極めて王家に近しい者であろうことに、気づいている。

 テュールさんならなんと答えるかしら。彼が伝えなかったそのことについて、私はどう応じたら。

「……その解は、彼の国の仕来りが示すのではないでしょうか」

「違いない」

 迷いなく断じ、グラスの中の酒を舐める。誤った回答でなかったらしいことにほっとして力を抜いた。仕来りとは、グランバニアに伝わるという継承の儀のことだ。

 今、王座がどうなっているか知る由はないが、彼の国の王は王家の証が選定する。いつ、どのタイミングで選定が為されるのかは知らない。空位になればすぐにでも次の王が選ばれそうなものだけれど、父の書庫で調べた限りはアイシス様が仰った通りで、パパス・パングラーツ王の次に誰かが即位したという話は伝わっていなかった。

 弟君に王位を預けた、と仰っていなかったかしら。その方の名が未だこちらに伝わっていない。つまり、パパス王が本当に崩御なされていた場合……テュールさんのお父様が間違いなくその方であった場合、彼の真の後継者は弟君とは違う方である可能性が高い、ということで。

 ────考えたって仕方がないのに。きちんと知ることは大事なこと、そう思うのに、妙な胸騒ぎが消えない。

「何が起ころうとも、私達があなたの親であることに変わりはありません。……忘れないで」

 優しく背を撫でてくれる母もまた、今の話をきっと承知している。恐らく父から概ねの推論を聞かされているのだろう。

「ありがとう、ございます……」

 つい消沈が声に出てしまって、父が耳聡く片眉を顰めた。

「何だ。随分と気弱ではないか」

 雄々しい声につられ顔を上げて、恨みがましく父を見遣ると、彼は全てを見透かしたような飄々とした表情で薄く笑った。

「お仲間にも、夫にもあれだけ望まれているのだ。自信を持て。本来の出自など、お前の価値を些かも貶めはしない」

 ……褒めて、くださっているの?

 意味を理解しかねて呆けてしまった私に構わず、父はどこか満足げな様子で、グラスを揺らしながら言葉を続けた。

「どこの王の御前に出しても恥ずかしくない娘に育ってくれた。それでも万一のことがあれば、いつでもサラボナに帰って来るがいい」

「もう、あなたったら。そんな万が一はなくて結構でしてよ」

 母がちょっと怒った様子で父をたしなめて、次いで茫然としている私の肩をもう一度優しく抱き寄せる。

 励まして、くださっているのだろうか。

 私にはずっと厳しいお顔しか見せたことがない、あのお父様が。

 覚悟はしている。もちろん自分から離れるつもりはない、けれど、もしかしたら────彼の本当のご身分によっては、お側にいられなくなることがあるかもしれないと。

 それでも、浅ましくても、今と変わらず愛し合っていけることを望んでやまない。

 もしも今、彼の愛を失ってしまったら。そう思うだけで、心が凍りついて、砕け散ってしまいそう。

 ふと過った恐ろしさにぞくりと身をすくませたところで、心底心外そうに父が苦言を呈した。

「何も儂は離縁されるなんぞ言っとらんだろうが。お前の目には、彼がフローラを手放すような男に見えとるのか」

 え、と抱き合った母と共に思わず父を見つめると、彼はすました顔でなみなみ注がれた酒を一息に呑み干した。

 そうしていかにも不敵な笑みを浮かべ、告げる。

「娘夫婦と何十匹かの仲間達くらい、囲えると言っている」

 ────たとえ、一国を敵に回しても。

 遥か海の向こうの大陸だ。それでもかつては非常に大きな影響力を誇っていた、覇権国家とも呼ぶべき国だった。

 サラボナをはじめとするこの大陸の民は今、決まった主人を戴かない。百年に満たない昔、ルラフェンの南にあったエルンハイム城が魔物によって跡形もなく滅ぼされてのち、民を統治する者はいなくなった。

 父が領主という名目でこの一帯をまとめているのは、ひとえに代々この地を預かってきたルドマン家の矜持によるものだ。

「お……父、様……」

 感極まって、声が震えた。手放しに味方すると言ってくださったことも、テュールさんが私を選ぶと迷いなく断じてくださったことも。急いで目許を拭って込み上げたものを誤魔化し、空になった父のグラスにお酒を注ぐ。

 覚束ない手つきで酌をする私を見つめながら、私の前では珍しく、父が声を上げて愉しそうに笑った。

「ああ、その頃には小さいのがもう何人か増えるかもしれんな」

「〜〜〜〜っ、お、お父様っ!」

 思いもよらぬ冷やかしに、頭のてっぺんまでかぁっと熱が走った。上擦った私の叫び声に、更に嬉々とした母の声が重なる。

「まぁまぁ、それならお部屋を増築しておかなくちゃ! お洋服もたくさん仕立てなくてはね。楽しみだわ。私、早くおばあちゃまと呼ばれてみたいのよ」

「もう、お母様まで……」

 顔から火が出そうな羞恥に耐えながら、うきうきと声を弾ませるお二人を見ていたら、何故だかじわりと目頭が熱くなって、視界がだんだん潤んできてしまう。

 こんな、本当の親子のような会話は、今までほとんどしたことがなかったから。反抗したことも、親子喧嘩をしたことも一度もなかったけれど、今になってこんなにも痛感する。

 愛してもらっていたんだって。

 血の繋がりがなくとも、お二人はこんなにも精一杯、私に愛情を注いでくださっていた。

 ────テュールさんに出逢ってから、私、本当に涙腺が緩くなりすぎだと思うわ。

「忘れないでね。私達は、貴女の親になれて幸せだったわ」

 ついに堪えきれなくなった泪が膝へと零れ落ちて。ドレスを握りしめ俯いた私の手を、温かい母の手が優しく包み込んだ。

 長く触れていなかったお母様の手は思った以上に萎びていて、離れていた年月の長さを否応なしに感じさせる。

「幸せになってちょうだい。それだけが、私達への親孝行よ。私達の、可愛いフローラ」

「いいや、孫の顔を拝ませてこそだ。期待しとるぞ、フローラ」

 せっかくお母様が素敵な言葉をくださっているのに、お父様の妙に得意げな言い様が被さってきて、泣きながら思わず笑ってしまう。そんな遠慮のなさも、今だけはとても愛おしく思えた。

 これからでも、なれるでしょうか。

 もっともっと、あなた達と本当の親子になりたい。困った時には相談して、子を授かれば喜び合って。疲れた時には時々甘えて、そんな当たり前の親子らしいことを、今からでも、少しずつ。

 そう、私が訊いたなら、きっとお二人は笑ってこう言ってくださるのだろう。

『お前は我々の娘だ。初めて授かったあの日から、ずっと』

 

 

 

 

 

 年の瀬の最後の夜に、ポートセルミの酒場で盛大な忘年と壮行の宴が行われた、次の日の朝。

 テュールさんと両親と共に新年の訪れを祝いあったあと、私は久々に本宅の自室で出立の準備をした。

 また暫くは戻らない部屋。この家の娘になってから、この部屋で過ごした日の方が実はずっと少ない。

 元々持ち物もそんなにないけれど、忘れ物がないようにクローゼットと鏡台の引き出しを確かめる。ベッドの下に隠していた盾は、半年前から馬車の奥。先日、オラクルベリーに赴いた時に、愛用の香油を買い足させてもらった。以前から使っている残り少ないひと瓶を、ほとんど無意識に鏡台の引き出しにしまう。

「フローラ。準備でき……」

 ノックと共に寝室の扉を開けた旅装姿のテュールさんが、こちらを見つめたまま暫し茫然と固まった。どこかおかしなところがあったかしらと慌てて頭や服を確かめると、彼はぱちぱちと瞬きをしたあと、心なしか頬をほんのりと染めて、はにかむように笑った。

「……あ、ごめん。すごい綺麗で見惚れちゃった。これ、本当に寒くない?」

「ええ。不思議なのですけど……なんといいますか、スライムちゃん達に似た柔らかさがあるのですが、冷たくありませんし、とても滑らかで着心地が良いのです」

 こんなに上質な護魔布は初めて見る。裾を摘むと水の如く指の間から逃げていきそうな心地がしたが、意外にも指はちゃんと布端を拾い上げた。そのままくるりと広げて見せると、テュールさんはますます笑みを深めて「うん、とても似合ってるよ。すごく可愛い」と褒めてくださった。

 褒めていただけるのはいつだって面映いことだけれど、やっぱり、テュールさんに喜んでもらえたと思うと、どうしようもなく嬉しくなってしまう。

 今日のために父が用意してくれた新しい旅装。滴る水滴を月の光で清めながら紡いだという、『雨露の糸』を使って織り上げられたこの水の羽衣は、水のリングの魔石のように裾がさらさらと漣を打ち、着ていると全身から水煙が立ち昇る。

 糸に込められた魔力は、炎を弱める効果を持つのだという。

 とても綺麗で不思議な素材だけれど、この真冬に着ていても寒さは全く感じない。

 一つにまとめて結い上げた髪には、白い帽子を被る。外は冷えるだろうから、お気に入りの薄紅色のケープを肩に掛けて。

 あなたと揃いの指輪を嵌めた手には、アイシス女王からいただいた天罰の杖。

 差し出された大きな手に炎の指輪の金環が光った。その上に、空いた手をそっと預けて。

「行こうか」

 愛しげに瞳を細めた彼に微笑みを返し、逞しい腕に誘われるまま、その部屋を後にした。

 

 

 怖くても、大丈夫。

 あなたの隣に居られるなら、どんな運命も厭わない。

 

 

 

 

……◇…◇…◇……

 

 

 

 ふ、と。

 硫黄の匂いが立ち込める秘境の村で、一陣の風がビアンカの鼻先をくすぐった。

 こんな小さな村でも、新年の祝いはそれなりに行われる。小康状態が続いている父を支えて教会に行き、お祈りの後は道端で顔馴染みの木こり達が見世物をしているのを眺めた。店番以外で滅多に人前に姿を見せない萬屋のドワーフも、この日ばかりは村人に混じって踊っている。さすがに年配の気難しげなお爺さんドワーフは踊りの輪の中にいなかったが、店番も兼ねてか、洞窟の前でバザーを開いているのが見えた。手先がとても器用な彼らが作るアクセサリーは、村のお土産としても評判がいい。

 そんな、賑やかでめでたくて、とても楽しげな光景なのに。

 その風が妙に、生ぬるく感じられた所為だろうか。

 重苦しい不安が唐突に、ビアンカの胸をざわつかせた。

「やぁね。気のせいよ、気のせい」

 独りごちた娘に、父親が訝しげな目を向ける。何でもないわ、と首を振り、父を休ませる為に一度自宅へ戻った。久々に出歩いて疲れたらしい父は軽く咳き込みながら寝台へ戻り、もう一度出かける前に温かいミルクを用意しようと、ビアンカはその足でキッチンへと向かう。

「あら? ……やだ、何で割れちゃってるのかしら」

 ミルクを運ぼうとしたその時、居間に飾ったばかりのある置物に異変が生じていることに気づく。

 石のみで薔薇の花びらを見事に模したその置物は、つい先日仲の良い幼馴染みとその妻が置いていったものだ。その一番下の大きな花びらが真っ二つに割れて、戸棚の上にごとりと転がっていた。

 ────確か、厄除けになるって……

 さっきざわついた不安がまた心臓をかすめる。縁起でもないこと考えちゃ駄目。頭を振って、漠然としたそれをもう一度追い払った。

 洞窟のドワーフに頼んだら、直してもらえるかもしれない。

 そう思って、急いで父にカップを渡し、置物を持ち出す準備をした。それ以上割れないよう柔らかい布に包んで籠に移し入れながら、ふと贈り主の若夫婦を想う。

 もうサラボナを出た頃かしら。────あの子達に、危ないことがないといいけど。

 

 

 日常の狭間に消えていくだけの、ほんのわずかな違和感に過ぎないはずだった。

 まさか、次に会えるのが十年も先になるなんて、

 この時のビアンカにどうして予想できただろう。

 

 

 忘れないで。

 あなた達の無事を、ずっとずっと願ってる。




 ここまでご覧くださった皆様。
 お付き合い下さり、本当に有難うございます!

 恐らく今、この文章をご覧の方は、何度か拙作を覗いてくださっている方だと思います。
 見つけてくださり、読んでくださって、本当に有難うございました。
 何より、筆者の自己満足の塊に過ぎないこの物語に出会って頂けたことが嬉しいです。
 途中、お気に入りに入れてくださった方。評価をくださった方。「ここすき」を残してくださった方。そして、ご感想をお聞かせくださった方。
 ひとつひとつの反応から、返し切れないほどの励ましをいただいていました。
 拙作をご覧くださった全ての方に、心から感謝申し上げます。

 毎朝毎夕お騒がせ致しまして、第二幕、ようやく全話投稿完了です。
 一話番外編を挟んで、次回からはほぼ一〜三ヶ月に一度程度の随時更新になります(三幕の一話目だけ、書きあがっているので明日明後日で投稿します)。
 冗長な旅路でありますが、この先の彼らも引き続き、時折見守って頂けたらとても嬉しく思います。


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第二幕・幕間
ある冬の雨の日


 窓際の棚に並べられた薬草を見定めていた時、ふと、窓をばらばらと打つ雨音に気がついた。

「おや。いつの間に、結構降り出しましたね」

 顔馴染みの道具屋の店主が、カウンターの向こうでごりごりとすり鉢を扱いつつ、気怠げに窓の外を見遣った。

「今日はもう降らないと思ったんだけどな」

「ま、こればかりは神の思し召しで。お客さん、雨具はお持ちですか」

「いや、持ってないです。困ったな、確かその薬は濡れると駄目なんですよね?」

 カウンターの上には調合を依頼したばかりの薬草類が数種並んでいる。これらを使える薬に仕立てるのは薬師の修行を積んだ方にしかできない難業である。これから数ヶ月かけて標高のある寒冷地に赴くということで、今日は凍傷に効く塗り薬と、体温を上げる薬効のある薬湯の調合を依頼したところだった。

「急ぎでないなら、明日のお渡しでも構わんがね」

「ああ、そうか。じゃ、止まなそうなら明日、改めて貰いに来ます」

 無愛想な店主は手元のすり鉢に視線を落としたまま、「はいよ」と気の無い返事をしてくれる。

 ここの道具屋の主人は調薬が専門らしく、雨具といった日用品の類は扱っていないらしかった。そうこうしているうちに外は本降り、今出たら全身ずぶ濡れになってしまうだろう。

「少し雨宿り、かな……」

 物憂い雨音がざぁ、と響くのをぼんやりと聞きながら独り言ちる。今は旅の狭間の束の間の休息、妻が久々に使い慣れた別宅のキッチンでパイを焼いてくれるのだと言っていた。もうそろそろ焼き上がった頃だろうか。妻の手料理に目がない仲魔達も今日は室内にいるだろうから、帰ったら欠片も残っていないかもしれない。

「……お客さん、今度はどこに行かれるんで?」

 すり潰した草や根の汁に手際よく粉薬を練りこみながら、店主がぽつりと問いを口にした。

 僕の妻は名前も顔もよく知られたひとで、特にこの街で知らない人はいない。サラボナの白薔薇とも謳われた彼女は、この街を収め、地方全体をも収める西の大公と呼ばれるルドマン卿の一人娘だ。

 半年ほど前に彼女の婚姻相手の座を巡って、この街がちょっとしたお祭り騒ぎになったことがあり、その中で僕も顔が知れることとなったので、この人もおそらく僕の素性を覚えていらしたのだろう。

「ええと……東の、ずっと遠方の国へ行ってみようと思っています」

「東、っていうと、ラインハットの方ですか」

「いえ。もっと東南の……海を周って、かなり険しい山脈を越えなくてはならないそうで。半年はかかるかな。グランバニア、という国です」

 ごり、と響く低い音が一瞬止まって、店主が目を上げてちらりとこちらを見た。

「それは、また……難儀なところへ」

 奥歯に物の挟まった言い方に、思わず苦笑が漏れる。

「ええ、本当に。山脈途中の村などは、一年中雪が消えないところにあるのだそうです。そんなところに白薔薇の君を連れて行こうというんですから、無謀もいいところですよね」

 フローラを少なからず知っているであろう彼に、苦笑いを含めつつ首をすくめて見せると、彼はますますなんとも言えない顔で僕を見た。

 本当に、よく泣き言一つ言わずについて来てくれていると思う。紛うことなき深窓の令嬢であった彼女と夫婦の契りを交わして半年、新婚旅行と呼ぶにはあまりに過酷な旅路だった。三ヶ月超に渡る船旅と、そこから一ヶ月近くかかった砂漠越え。不自由も多く辛いことだってあっただろうに、彼女は常に微笑みを絶やさず、僕と仲魔達に寄り添っていてくれた。そうして辿り着いたテルパドールで女王アイシスから聞かされた衝撃的な内容にも、彼女は冷静に話を咀嚼し、彼女なりに導き出した結論を聞かせてくれた。

 ────行きましょう? あなたにきっと縁ある土地、グランバニアへ。

 怖じ気づく僕の背を、そんなやわらかな一言でそっと押してくれたのも彼女だった。

 雨は止むどころか、ますます勢いを増している。身体の頑丈さにだけは自信があるから濡れて帰ること自体はやぶさかではないが、義父の厚意でお借りしている別宅を汚してしまうかもしれない。何より、彼女に要らぬ心配をかけてしまいそうで嫌だな、と思ってしまった。

 自分より、他の誰より、僕の身を案じてくれるひとだから。真冬の雨に打たれて帰ればひどく心配させてしまうだろう。共に過ごして半年、彼女の性格は以前よりよく理解しているつもりだ。

 数日後にはまた船に乗るため、この街を出なくてはならない。足場が悪いと馬車も思うように動かないから、早く晴れて、少しでも地面が乾いてくれると良いのだけれど。

 そんなことをつらつら考えながら、ぼんやりと窓の外を見ていたら、視界に見慣れた碧色がちらりと映った。

 ────あ。

 目を凝らすと同時に、傘をさしてきょろ、と周りを見渡す妻が窓の向こうの通りに現れたのが見えた。あたりに並ぶ店先を確かめているのだろうか。思わず扉を押し開けて店の外に出ると、すぐに妻がこちらに気づいてほっとその表情を緩めた。

「あなた。良かった、雨具はお持ちでなかったと思ったから」

「うん、ちょうど困ってたんだ。迎えに来てくれたの?」

 状況的に疑いようはないのだけれど、嬉しくてつい頰が緩んでしまう。白い息を吐きつつ近づいてくる妻に声を投げたら、彼女は優しい微笑みを向けて頷いてくれた。暖かなコートに身を包んだ彼女を良く見ると、その肩には仲良しのしびれくらげが乗っている。

「私一人で行かせるのは心配だって、寒い中こうしてついてきてくれたんですよ」としびれんを優しく振り返るフローラに、しびれんもはにかみながら「しびれん、さむいのへいきっ。あめも、すきだしっっ」と答えた。

「はは。確かに、元々海にいたんだもんね」

 指先で白い身体をくすぐってやると、しびれんは嬉しそうに触手を捩らせた。そんな様を、フローラは綺麗に背筋を伸ばした立ち姿のまま、微笑ましげに見守っている。

 店の中に視線を戻すと、店主が目を丸くしてフローラを見ていた。僕ではなく彼女が魔物を連れているのが不思議だったのだろう、またしてもつい笑えてしまうのを我慢しながら扉を開けて店主に声をかけた。

「妻が迎えにきてくれましたので、明日の朝改めて取りに伺います。代金はその時でも?」

「……ああ、もちろん。明日ね、お待ちしとります」

 頷き答えた店主の皺が刻まれた目許は、珍しいことにどこか柔らかく笑んでいるようにも見えた。

 窓の外から店主に会釈したフローラが、片手を僕に差し出すと同時に「あ」と息を呑んだ。

「……ご、ごめんなさい。傘を、忘れてきてしまいました……」

 一瞬意味がわからず目を瞬いたが、宛もなく空を凪いだフローラの手を見て理解し、つい噴き出した。迎えに来ることで頭がいっぱいだったのか、確かに傘は彼女が差しているもの一つしかなかった。

 はぁ、と見るからに息を吐いて落胆している彼女を心優しいしびれくらげが「だ、だいじょうぶ、いっぽんはあるもんっっ」と必死に励ましているが、逆にその励ましこそが面白く思えてきて、ますます笑いがこみ上げてしまう。

「……そんなに笑われますと、私も些か傷つきます。テュールさん」

「ご、ごめん。だってなんか、フローラらしくて」

 さも恨めしげに僕を見上げる彼女を前に、咳払いでもして必死に笑いを堪えようとするがどうにも誤魔化しきれない。基本はしっかり者なのに、稀にこういう抜けたところを見せるのが本当に可愛い。

「すぐに取ってきますから、中でお待ちに────」

「いいよ。こうやって帰れば」

 慌てて別宅への道を戻ろうとした彼女の肩を後ろから捕まえて、腕の中へ抱き込んだ。傘から雫が降り落ちて、わずかに湿って冷えた碧い髪が頰に触れる。真冬の凍りそうな雨の中、僕を迎えにわざわざ外に出てきてくれたのだと思うと、一層の愛しさがこみ上げてしまう。

「こ、これでは歩けません!」

「うーん。じゃ、これならいい?」

 言いながらさりげなく傘を彼女の手から取り、しびれんを間に納めて肩を抱いた。二人が傘に収まるように差しかけて帰宅を促すと、フローラはますます納得いかないと言いたげに軽く唇を尖らせた。

「そんな風になさっては、あなたが濡れてしまいますから……」

 ちらりと傘から外れた方の肩を覗きながら、遠慮がちにそんなことを言う。少しくらい、外套があるから構わないのに。

 僕とフローラの間ではわはわと緊張しているしびれんの様子が可笑しくて、そして何を言っても不服そうなフローラがまた可愛くて。思わず溢れてしまう笑みをそのままに、僕は最愛の妻の肩をもっと強く引き寄せた。

「いいんだ。……濡れたら、暖まればいいんだし」

 服なんか着替えればいい。別宅はさすが富豪の屋敷なだけあって全く寒くないし、仲魔のみんなもいるから暖炉には火が入ったままだろう。温かいお茶を飲んで、すぐに湯を使ってもいいのだし────君と抱き合ったらきっともっと、温かい。

 何なら本当に、君が温めてくれてもいいのだけど。

 僕の意図に気づいたのか、耳朶を少し赤らめたフローラが、つと目線を外して呟いた。

「雨が降り出したからお迎えに来ましたのに。あなたがそのように濡れてしまっては、本末転倒ですわ」

「いいんだって、本当に。こうしているだけで、一人で帰るよりずっと暖かいんだからさ」

 ね? と間に挟まれたしびれんに同意を求めれば、困ったように愛らしい目を泳がせ頷く。「しびれんも、ふたりといると、あったかいっっ」と囁いてくれて、その言葉にやっとフローラが口端を緩めて微笑んだ。

「ありがとう。二人とも、迎えに来てくれて」

 改めて妻の手を取ったら、やはりしっとり湿って冷えていた。ずっと室内にいた僕の手の方がまだましなような気がして握りこんだら「あなたの手、温かいのですね」と彼女が微笑んでくれる。

 多分体質もあると思うんだけど、彼女は線が細い所為か、抱きしめるとひんやり感じることが多いから。

 ────ああ、やっぱり、今日は帰ったらたくさん温めてあげたいな。

「そういえば、パイはもう出来た?」

 ふと思い出して道すがら聞いてみたら、フローラは一度しびれんと顔を見合わせ、楽しそうに首を振る。

「あとは焼くだけなんです。やっぱり、焼きたてをあなたと一緒にいただきたいなと思って。……ですから、早く帰りましょう?」

「そっか、すっかり待たせちゃってごめん。それならお詫びに、お茶は僕が淹れようかな」

 くすくすと小さく笑いながらフローラは「お願いします」と頷き、しびれんもまた「はやく、たべたいなっ。すっごく、すっごくおいしそうだったっ」と声を弾ませた。

 雨は憂鬱だけど、君といるだけで悪くない時間に変わる。

 君と結婚して過ごしてきたこの半年間、未知の大陸への旅は決して順調なばかりではなかったけれど、それでも君が笑って隣にいてくれるだけで僕は毎日満たされてばかりだった。

 暑い日も、嵐の日も、雪の日も。一人では退屈なだけの日々も、君が隣にいてくれれば、いつだって、それだけで。

 

 

 

 ────次の旅も、

 きっと楽しいものになるだろう。




2019.6.24 短編
「雨が降って困っていたら妻が傘差して迎えに来てくれたんだけど素でお迎え分の傘忘れてきた可愛い」という妄想が気に入って、そのままSSにしたものです。
 書いたのがテルパドール編書き始めたばかりの頃だったのですが、しっかりこうして収束していくあたりが私だなぁと思います。このほかの番外編も、そこに合わせるように物語が収束していくんですよね…不思議…


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【第三幕】グランバニア篇
#1. 門出


ここからは第三幕、グランバニアを目指す章になります。
第一話から先は随時更新になります。
pixivとハーメルン、今後はどちらも同時に投稿してまいりますので、読みやすいほうでお付き合いいただけたら幸せです!



 新年のいちばん初めの日は、家族や親しい人達とゆっくり祝うものらしい。

 ルドマン家の本邸にて義両親に新年の挨拶をした後、フローラは身支度を整える為、二階のかつての自室に篭った。

 いわゆる験担ぎだが、新年は門出に良いとされている。旅だけでなく引越しだったり、新たな商売を始めるにも良いのだとか。

 昔から、年の瀬は大工が忙しくなると言われるのはこの所以なのだそうだ。

 祝祭は通例、年が明けた翌日か三日目に行われる。要は世界各地で行われる街をあげてのお祭りなのだけれど、僕にはこの催しに関する記憶がほとんどない。子供の頃のことはあまり覚えていないし、神殿を逃れてからは勝手な疎外感から賑やかなところは避けていた。精々オラクルベリー郊外のぼろ家の中で、ヘンリーとささやかに祝いあったくらいのものだ。

 今年は妻と祭りを楽しむこともできる。けど、こうしている間にも船を守ってくださっている船員さん達がいると思うと、必要以上に遊ぶ気にはなれない。船長達と相談し、ポートセルミのいつもの酒場で、年末の慰労を兼ねた壮行会だけ開いていただいた。その翌日、新年明けたばかりの今日に僕達はいよいよ、グランバニアを目指してサラボナを発つ。

 ポートセルミに一泊して戻った今朝、既に別宅は引き払う用意を済ませてあったけれど、フローラと一緒にもう一度邸内の片付けをした。

 荷物の一部は先に船へ運んでもらってあって、馬車も準備万端だ。

 今回の旅立ちに際し、義父がフローラにと特別な魔防具を買い求めてくれていた。

 彼女がそれに着替える間、すっかり旅装を整えた僕はルドマン家のいつもの大広間で、お茶をいただきながら待っている。

「感慨深いな。この階段で初めて、君を目にした時を思い出す」

 何かを取りに自ら席を立った義父が、二階へ続く螺旋階段の上から姿を現した。真ん中のあたりで足を止め、そこからしみじみとこちらを見下ろす。

「あれだけの人がいた中、お気づきくださったのですか?」

「フローラがあの場で唯一、目を留めた男だったからな」

 笑い含みにそんなことを言われては、自然とにやけてしまう口端を誤魔化すので精一杯だ。本当に義父は、僕を悦ばせるのが上手い。

「儂からの餞別だ」

 おもむろに渡されたのは、ルドマン家の紋章が美しくあしらわれたペンダントだった。

 磨き上げられたダークマンモスの牙の白に、鮮やかな濃紺と金の塗料で描かれた紋章が浮かび上がる。ストレンジャー号の甲板で何度も見上げた帆と同じ意匠だ。鎖よりも細く編み上げられた金縁の細かさが、これを手がけた宝飾工の手腕を物語る。

「あちらの大陸でどれだけ意味を持てるかはわからんがな。身元を問われたら出しなさい。まぁ、古い人間なら思い当たるであろう程度には、こちらも由緒ある家柄だ」

 恐縮しつつペンダントを受け取った。鶏の卵ほどもある大ぶりのペンダントを早速首から下げ、外套の中に収める。ひやりと冷たい感触を感じながら、万一の時の為に石は懐にかかるよう忍ばせた。

 謝辞を述べれば、卿は少しばかりの苦笑を交えて小さく首を振る。

「いきなりその剣を見せては、動揺する者もあるだろう」

 ……ああ、そうか。

 そこまで思考が回っていなかったことに今更気がつき、思わず情けない溜息が漏れた。道中はともかく、向こうの大陸に入ったら父の剣は極力人の目から隠した方がいいかもしれない、のか。

 同時に、やはり義父は父の素性について察していらっしゃるのだろうと思う。一言も何も尋ねず疑念も気取らせず、僕の背中を押してくださる寛容さにただただ感服するしかない。

「ご深慮、本当にいたみいります。大変心強いです」

 もう一度、心からの感謝を口にすると、義父は大いに満足そうに相好を崩した。

 船員さん達からいつでも出られるとの報告をいただき、フローラを迎えに二階へ上がる。扉を開けたその先、義父の餞別のローブを纏った妻を目にした僕は思わず、すっかり息を呑んで固まってしまった。

 

 ──────なんて、青い。

 

 目の醒めるような蒼に包まれた、清らかな乙女がそこにいる。

 僕の入室に気付き、ちょうど髪を結い上げたばかりのフローラが後れ毛を気にしながら振り返った。水のリングを護っていたあの洞窟に似た、清涼な気配が部屋中に霧の如く立ち込める。青い魔法衣から幻想的な水煙が揺らめいて、よく見ればその裾には白い飛沫が雲のように浮かんでちらつく。両の手甲からたなびく帯はきっと、伝説の天女の羽衣を模したものだ。一体どんな不思議か、これもまた蒼い光を纏いながら陽の光に透けて輝く。

 なんと神秘的な光景だろう。見返り姿の君は、空から堕ちた天女かと思いきや、水の守護を得た聖女のようにも思われて。

 街に滞在するようになって、最近また腰まで流していた長い髪は綺麗に編み上げられ、真っ白なうなじを曝して小さな頭を丸く象っていた。耳朶には瑠璃色の小さな石が揺れる。

 金の細いフリンジがその動きにつられて、唄うようにしゃらりと音を立てた。

「……ど、どこか変、でしたか……?」

 茫然と魅入られた僕を見つめ返し、フローラは心配そうに鏡台を覗き込む。ううん、つい見惚れちゃったんだと慌てて伝えたら、彼女はまた恥ずかしそうに微笑んだ。軽やかに立ち上がり、裾を摘んでくるりと回って見せてくれる。その仕草も、愛らしくてたまらない。

 本当にものすごく似合っていて、そんな彼女を一番に見られるのはとても嬉しい。けど、今更ながら自分の甲斐性の無さというか、こんな風に今、彼女を美しく着飾らせているのが義父の伝手と財力であり、センスであるということにちょっとだけ悔しさを覚えた。芸術性からっきしの僕が義父を超える日は来ないかもしれないが、いつか僕だってフローラに似合うドレスを贈ってやりたい。

 青もいいけど、白も似合うな。婚礼の時のドレスみたいなやつ。彼女の指輪みたいに、銀糸で刺繍して蒼い石を散りばめたり……普段着ではあまり見ないけど、フローラはピンクも似合う。この間の薄桃色の寝衣もすごく可愛かった。うん、ラベンダー色もいいかも。いっそ、僕の外套とお揃いで紫のワンピースなんてどうだろう。

 幸せな妄想をしてにやけた僕を、フローラが不思議そうに見上げた。

 苦笑いで誤魔化し、武骨な掌を差し出す。やわらかな微笑みと共に、白い美しい手がつと添えられた。

 腰を抱き寄せ、透き通った眼差しと一瞬だけ、視線を愛しく絡ませ合って。

 何処までも行こう。ずっと、ずっと手を繋いで。

 声もなく、互いの誓いを確かめる。そうして二人、同じ歩幅でこの静かな部屋に別れを告げた。

 

 

 

 

 

 凡そ二ヶ月ぶりの再会を、ストレンジャー号の面々は大いに喜んで出迎えてくれた。

「テュールさん、お嬢様! お帰りなさい!」

 係留した甲板から身を乗り出し、アランさんをはじめとした乗組員達が手を振り声を上げて歓待してくれる。中には仲魔達の名前を呼んでくれた人もいた。ふにゃりと嬉しそうに緩んだ顔で、ホイミン達もおぉ〜い、やっほー! と叫び返す。そんな光景を目にして、不覚にも胸が熱くなってしまった。

 サラボナから岸までの道が思った以上に悪くて、馬車が通れるかはらはらしたけれど、無事に着けてほっとした。

 安心して気が抜けたのだろうか。ものすごく珍しいことに、船に着いて数日経ったある日、僕は風邪をひいて寝込んでしまった。

 と言ってもしんどかったのはほんの二、三日で、わりとすぐに快復したのだけれど、普段本当に体調を崩すことなんてないから、自分でも驚いた。

 発熱したその日は、いち早く僕の異変に気づいた妻と心配してくれる船員さん達に甘えて、特別船室で丸一日、ひたすら寝かせてもらうことになった。

「テルパドールからずっと、気を張ってらっしゃいましたもの。この船がテュールさんにとって安らげる場所になれているのでしたら、私もとても嬉しいです」

 乗船早々、看病のためにデッキを何往復もする羽目になった妻は、しかし自身の疲労はおくびにも出さず、どこまでも優しく労ってくれた。

 甲斐甲斐しく世話してくれる妻を眺めていると、申し訳ない気持ち半分、どうしても面映くて口許が緩んでしまう。

「しばらくは船に揺られるばかりですから、ゆっくり安静になさってくださいね。少しお眠りになりますか?」

「うん。そうする……ありがと。頑張って早く治すからね」

 重力を増していく瞼に抗えず、うとうとしながら答えると、ひんやり冷たい手がまだ熱い額をそっと抑えた。

「もう。こんな時くらい、頑張らなくともよろしいのですよ」

 優しい声が泣きたいほど心に染み渡る。ああもう、天使か僕の妻は。しんどさとは違った意味で昇天しそうだ。尊い。

 

【挿絵表示】

 

 こんな風に寝込むのは、あの修道院で助けられて以来だろうか。熱の所為か頭がぼうっとして、身体の節々が重く軋む。

 今、眠って夢を見ているのか、朦朧としたまま考え事をしているのか。意識の境界が曖昧だ。

 そういや父さんも僕が小さい頃、そうそう、旅から帰ってすぐビアンカとおばさんをアルカパに送って行った時に、風邪をひいて寝込んじゃったんだよね。あれはダンカンさんから貰ったんだっけ? でもやっぱり、気が抜けたのもあったんじゃないかなぁ。久しぶりにサンチョに会って、ダンカンさん一家にも会ったから。

 宿屋に泊まりっぱなしで、サンチョが待つ家にも中々帰れなくて。暇だった僕は昼夜を問わず、ビアンカにあちこち連れ回されたのだった。うん、何か色々と思い出してきた。

 サンチョ、今頃どうしているだろう。きっと僕達を探してくれただろうな。ダンカンさんみたいに病気になったりしてないといいけど、などと性懲りも無く考える。

 ……どうしてこんなにも彼の生存を諦められないのか、自分でもわからない。ほとんど絶望的だとわかっているのに。

 ただ、光明が見えたのだ。

 サラボナを発つまでの数日間に、自身の拉致事件とその周辺の出来事について改めて探っていた親友が、先日再訪した折の別れ際に教えてくれた。

 繋いでくれた。たった一条、彼に連なるかもしれない光を。

 いつの間にか寝入ってしまっていて、ふと目を覚ましたらシーツとシャツが寝汗でびっしょりだった。絶妙なタイミングで様子を覗いてくれたフローラが手際良く湯桶を用意し、着替えを手伝ってくれる。

 夫婦になって半年以上経つが、こうして世話をしてもらうのはどうしたって気恥ずかしい。けれど、こんな自分を赤裸々に見せられる人が出来たのだと思うと。ほんのり恥じらいながらも懸命に身体を拭いてくれる妻を、今すぐ抱きしめたい衝動に駆られながらひたすら耐えた。

 時折、仲魔達や船員さん達も様子を見に来てくれた。

 フローラは再び洗濯や厨房の手伝いなどで忙しなく動き回っていたが、手が空いた時は必ず僕の枕元に来て、汗を拭いたり水を飲ませてくれたりと、こまめに世話をしてくれた。変な夢を見てうなされていた僕を優しい手で起こしてくれて、そのあとは綺麗な声で子守唄を歌ってくれたりもした。

 不謹慎だけど、やっぱりものすごく嬉しい。君がアンディを看病していたあの時、どうしたって羨ましくてたまらなかった。

 献身的なフローラの看病のおかげで熱は一日で下がり、しかし症状が完全に治まったわけではなかったので、大事をとってもう一日、ゆっくり養生させてもらってから魔物番を再開した。

「律儀ですよね、テュールさん。もっと休んでくれて構わないのに」

 交代の船員はみんなそうやって気遣ってくれるが、僕が役に立てることなんてはっきり言ってこれしかないのだから、さぼってなどいられない。

 以前と同じ流れで二、三日過ごしていたら、倦怠感やくしゃみは大方消え失せたが、今度はフローラが体調を崩した。

 僕の風邪がうつってしまったのかもしれない。やはり熱は一日でひいたものの、彼女の風邪は胃腸に来てしまったらしく、吐き気の所為で食事もままならないようだった。

「久々の船で、酔っちまってるのかもしれませんよね……」

 心配そうに囁き合う船員達に同意する。ここ数日はセントべレス山から吹き下ろす寒気の所為か、海がいつも以上に荒れて、揺れも酷かったから。

 本人はそれでも動こうとしていたが、砂漠でのこともある。よくよく話をして、厨房の手伝いはしばらく食後の片付けだけにしてもらった。

「ここじゃちゃんとした医者にかかれないから、また別の病気になったら大変だよ。ほら、僕がうつしちゃったのなら他の人にも拡がっちゃうかもしれないし。お願いだから、ちゃんと休んで」

 発生源な上、病み上がり早々動き回っている僕に説得力など皆無だが、懸命に懇願したらフローラも神妙な顔で頷いてくれた。また吐き気を催していたのかもしれない。

「少しはましになったと思いましたのに、またこんなご迷惑をおかけして……本当に、申し訳ありません」

「迷惑なんて、全然ないからね。エストアに着くのはまだずっと先だし、着いてから元気に歩ける方がいいじゃない? その為だと思って、今はのんびりしておこう」

 しょんぼり項垂れるフローラを何度も慰めた。責任感が強い彼女だから、自分で請け負った役割を全うできないことは辛いだろう。僕もそこまで言ったからにはと、日中の魔物番は他の人に暫く代わってもらい、出来るだけフローラの側で過ごすようにした。

 やはり船酔いもあるかもしれない。小康状態を保ちながら、それから十日たってもフローラはさほど快復したように見えなかった。実は何かの病気ではないかと薬師のバルクさんにも相談してみたけれど、風邪で消耗した所為で船酔いが続いてしまってるんじゃないか、と彼も首を捻るばかりだった。とにかく何も気にせず休むのが一番なんだけど、気疲れというか、お嬢様は真面目な方のようだから、気が抜けなくて症状が治まらないのかもしれないね、と。

 船出早々風邪を引いて彼女に気を揉ませたのは他ならぬ僕である。もしや、看病疲れがすべての原因なのでは。その可能性に思い当たった瞬間、全身からさーっと血の気が引く心地がした。大体、僕とフローラではそもそもの体力が違う。看病してもらえるのが嬉しくて舞い上がって、またしても彼女の疲労や体調を慮れていなかったのでは。

 また熱砂病の時のようになるのは御免だ。あの時だって、僕が彼女の体力を慮れなかった所為であんな惨事になったのだ。

 酔い止めの薬湯を飲ませると多少落ち着くようだが、それでも部屋の隅で壁に向かい、ひたすら黙って吐き気に耐えている。食も元々細いのが、ここ最近はほとんど食べておらず、可哀想で見ていられない。

 気分転換に甲板に出してやりたくても、あの魔族の手下共に見つかったらと思うと気が進まない。本人とも相談の上で、陽が傾いてから夜の間だけ、必ず側に付き添ってデッキに出るようにした。

 潮風に当たると少しは気が紛れるようだった。真冬の夜の海は凍りそうなほど寒いから、ほんの数分しか出してあげられなかったけれど。

 せめてもと背後から外套に包んで抱きしめれば、ありがとうございます、と気恥ずかしげに振り返り微笑んでくれた。

 あまりに船酔いがひどいなら、次の停泊地では少し長めに滞在することも考えた。けれど、サラボナを離れてひと月が過ぎる頃、ようやくフローラの体調が好転してきた。少しずつ固形物を摂れるようになり、えずくことも減った。

 ぶり返してはいけないから、それでも油断せず体力の回復に努めてもらって。

 本人ももう大丈夫ですと言ってくれたので、当初の予定通り、物資の補充の為に三日間だけモン・フィズに立ち寄った。

 

 

 

 

 

 すっかり船の揺れに慣れた身体は、陸地を歩くと足下がふわふわ覚束ない。

 旅装である水の羽衣ではなく、いつもの見慣れた白いワンピースに着替えたフローラの手を引いて、凡そ三ヶ月ぶりに訪れた砂の国の白い港町をのんびりと楽しんだ。

 僕らのことを覚えてくれていた人達もいて、今度こそお土産に持っておいき! とあの装束をいただいてしまった。そう、モンバーバラの姉妹の装束である。しかも両方! 見た瞬間、僕の頰はきっとこの上なくだらしなく緩んでしまっていたことだろう。

「わ、私、着ませんから。もうあんな恥ずかしい思いはしたくないです……」

「うん、まだちょっと寒いもんね。僕もあんなフローラ、絶対他の誰にも見せたくないし。また今度、だね」

 必死に固辞する妻を見つめ、真顔で深々頷いた。我ながら気が大きくなったというか、最近性格が悪くなった気がするな。面食らった様子のフローラが「こ、今度、ですか? いえ、そうではなくて……あの」としどろもどろに呟いていたが、しれっと聞こえないふりをした。

 それを着ないなんてとんでもない。濃い化粧は要らないから、僕の前だけで恥じらいながらあの姿を曝して欲しいのだ。駄目だ、考えただけで興奮する。もっと温かくなって、二人きりのときならいいかな。いいよね。などと邪な思考がどこまでも頭をちらつく。ほんと僕って……

 南の国だけあってここは日中ほとんど寒さを感じないけど、ついこの間まで体調不良だった妻の負担になることはしたくないので今は我慢する。そもそもこの街の宿、みんな相部屋だしね。

 以前もお邪魔した酒場に入り、昼食をとった。その際、世間話ついでに目的地を聞かれた。グランバニアに行きたいのだと告げると、ぎょっとしたお客さんが数人、グラスを片手に群がってきた。

 少し詳しく聞いたところ、かの大陸は西岸ならまだ外界に開かれているものの、王都に通じる山道はかなり荒れて道が悪いだろうと言う。

 訪問したことがあるのかと問えば、商人と思しき客の一人はあっさりと首を振った。

「あそこは世界有数の鉱床地帯だからな。宝石とか、希少な鉱物が昔から多く採れた。だから今でもたまにエストアを探索したがる奴がいて、そういう話がこっちにも流れてくる」

 以前読んだ文献にも確か、グランバニアは鉱物の産地だと書かれていた。父が魔物を酔わせる宝石の特性を知っていたのも土地柄だったのかもしれない。

 相槌を打ったら、その隣からこちらを覗き込んでいた無精髭の男性が苦笑いしつつ言った。

「恥ずかしながら、そのお宝に目が眩んだ一人でね。昔、仲間と連れ立って行ったことがあるんだが……入れるところは粗方掘り尽くされちまってたよ。削られすぎて崩落してるとこも多かったな」

「あ、山に入られたことがあるんですね。良かったらもう少し、詳しく聞かせてもらえませんか?」

 どうやら僕らのことも、一攫千金を狙う冒険者だと思われたらしい。悪くない理由だと思ったので、ちゃっかり話を合わせてみることにした。

 遅い昼食のつもりで入った店で、客が少なかったのが幸いだった。居合わせた数人の客に気前よく酒を奢り、父の遺品の中にあった地図を開いて見せる。サンタローズの隠れ家で見つけた古い地図だ。今指し示したその場所から、二十年近く前に父さんが僕を連れて旅立ったのかと思うと、ひどく不思議な感慨に襲われる。

 先程、山に入ったと話してくれた髭面の男性がまず、斜向かいに椅子を引き寄せて座った。続け様に、三人ほどの男性客が僕達夫婦の目の前に並んで腰を下ろす。

「グランウォール山脈。その名の通り、南北に伸びて大陸をもろ縦断してる。壁みてぇな絶壁が多くて、吹き降ろしも強い」

 無精髭を撫でつけ、いかにも職人らしい使い込まれた太い指が地図を示した。そこから西側の境界線をなぞり、彼は言葉を続けた。

「ここから船で行くとこの辺に着くと思う。その辺りじゃネッドの宿がでかいから寄るといい。巨木が目印だ」

「あんま北には行くなよ。そっちは古戦場跡で、今も何が出るかわからんのだとさ」

「出るって……え、魔物ですか? まさか幽霊とか」

「さあな。大昔にやべえ魔物の根城があったって噂だぜ。塔になんかが封印されてたとか、魔物が湧く泉があるとか、そういう」

「兄さんが生まれるよりずーっと前の話さ。ひどい戦だったんだと。そりゃあ、浮かばれん魂もあるだろうよ」

 次々と地図を指さし、それぞれに相槌を打ち合っては淡々と会話していたが、僕の隣に静かに座っているフローラがひっそり息を詰めた気配が伝わってきた。古戦場の話で僕がうっかり幽霊などと口走ってしまったためだろう。

 魔物は僕らにとって現実の脅威だが、幽霊と呼ばれるものはすべての生き物の命が終わった後の姿と言われているものだ。目撃情報は時折聞こえるものの、それを実証することは困難で、実際にはデーモンが見せる幻ではないかとも言われている。

 僕は子供の頃、幽霊と思しきレヌール城の幻影と話したことがあるから今もなんとなく信じているのだけど、フローラはどうやらこの手の話が苦手らしい。膝の上でぎゅっと拳を握ったまま俯いてしまった。強張った肩を抱き寄せたら、それを見咎めた男の一人が心配そうに声をかけてきた。

「そんな線の細いお嬢さん連れて宝玉掘りかい? やめとけ。相当奥に入らんと質のいいのは採れないよ」

 思わずフローラと顔を見合わせる。申し訳なさそうに眉尻を下げ、フローラは懸命に「私は大丈夫です」と目で訴えてくれたが、男達は構わず異口同音に懸念と制止の言葉をくれた。

「俺も同感だな。何かあっても助けが来る場所じゃない」

「何が目当てか知らんが、あんま期待しないほうがいい。さっきも言ったが、こっち側は採掘され尽くしとるだろうし……掘るなら山脈の向こう側か、北の古戦場近くになっちまう。危なすぎる」

「集落だってどれだけ残っとるやら。何日野宿になるかわからんぞ。この親父達の言う通り、そんな育ちの良さそうなお嬢さんには荷が重かろう」

 息もつかせず降る言葉は僕達を心配してくれてのもの。それがわかるから、フローラも恐縮して小さくなるしかない。

 これはちゃんと事情を伝えたほうが良さそうだ。意を決して、改めて目的をきちんと告げた。

「あの、本当は……グランバニアの王都に行きたいんです。早くに亡くなった父がそこの出身だったと聞いたので、もしかしてまだ身内がいるんじゃないかと」

 男性達がそれぞれに目を見開く。まさか端から山を越える気とは思わなかったという顔だ。本気か、と言いたげに顔を覗き込まれたが、真剣な面持ちで一つ深く頷いてみせると、男の一人が重く息を吐きながら憐れむように言った。

「おやっさん、難民だったのかい? そうか……云十年前には結構見かけたな」

「難民かどうかはわからないんですけど、僕を連れて旅をしている途中、魔物に。まだ子供だったので、父の事情はあまりよく知らされていなくて」

 グランバニアのことを知ったのも最近なんです、と付け加えると、男性達はその眼差しに深い同情を映し、僕とフローラとを交互に見比べた。

「彼女は、妻です。彼女が背中を押してくれて、やっと故郷を見てみたいと思えたから……どうしても、連れて行きたくて」

 心許なさげに寄り添うフローラを労りながら続ければ、ああ、と男性達がまた顔を見合わせ頷く。

「そうか……兄さん、グランバニアって初めに言ってたな。すまねえ、早合点したわ」

 申し訳なさそうに頭を掻く男性に慌てて首を振った。否定しなかったのはこちらなのだから。へへ、と笑った男性に愛想笑いを返して視線を戻すと、他の皆さんと酒場のマスターまでもが、すっかり眉尻を下げた哀愁漂う顔つきで僕達を見つめていた。

「お身内、ねぇ。ま、絶対にいないとは言いきれない以上、兄さんが訪ねたいと思う気持ちはわからんでもないわな……」

「旅人さんじゃあ余計にな。帰る場所ってのは、さすらい人にとっちゃあ特別なもんだろう?」

 思わず、深く頷く。帰る場所────確かにそうだ。故郷という拠り所を持つヘンリーがずっと羨ましかった。今の僕には「お帰り」と言ってくれる人が少なからずいて、それで十分だという気持ちに偽りはないのだけれど。

 ずっと昔に途切れてしまった肉親との縁を、霞みたいなそれをどうにかして掴みたい。そんな衝動をどうしても捨てられない。

 父さんに。母さんに。もしかしたら、行方知れずのままのサンチョに繋がるかもしれない、微かな縁を。

「上陸、できないわけではないんですよね? 北の大陸でも色々聞いてきたんですが、今はどこもエストア大陸との往来がないって皆さんに言われていて」

 気を取り直して、もう一度だけ尋ねてみた。はっきり訊くのはどうしても憚られるけれど、何が起こっているのか全容を知ることは無理でも、せめてこれだけ肯定してもらいたかった。

 ポートセルミの船長達でさえ、エストアの近海で父さんと行き合ったという二十年前も上陸はしていない。義父以外であの大陸へ行けると明言してくれた人は、今のところ一人もいない。

 ……だから、次にあっさり返された言葉には、ほっとしたあまり思わず力が抜けた。

「そりゃ、出来なくはないさ。現に俺達は時々ネッドに物品を卸してる。あっちからも石やら草やら、多少買い付けることがあるしな」

 固唾を飲んで見守っていたフローラも、僕と同じようにほう、と緩く息を吐く。何となくお互いに視線を通わせ、密やかに微笑み合った。

 少しだけ、不安だったんだ。あの、まともに立ち入ることができないっていう『神の地』にもほど近い……この大陸もだけど、そういう場所だから。数ヶ月前、このアルディラ大陸で見舞われた不思議な霧と似た現象がもしエストアを覆っていたとしたら、どんなに頑張っても王都にたどり着けない可能性が出てきてしまう。

 逆に言えば、上陸できるならあとはこちらの体力次第。どれだけ苛酷だろうと、人の力が及ぶ場所ならなんとでもできる。

「但し、行っても年に一、二回だ。ネッド以外はほぼ交易が途絶えてるし、物見遊山で行くにはわりと博打な場所なんでな。特に山の方にゃ今、どういう魔物が出るかわからん。まず山越えしようって奴がいないから、情報もない。ネッドの奴らも長いこと王都との行き来はしてないっていうしさ」

 ……とか無理矢理自分に発破をかけたところで、これ。さすがに愕然とした。そのネッドとやらも、山脈を隔てただけのグランバニア領に違いないのでは無かったのか?

 つまり、現状グランウォール山脈の外側には王国の権力がほとんど及んでいないということで。

 実は本当に滅んでいたらどうしよう。最悪の想定が頭をかすめていく。なんだかもう、そこまで閉じられていて王都の人々はどうやって生活しているのか、逆にそちらを不安に思ってしまうぐらいだ。

 僕の動揺を察してくれたのだろう。「いや、たまに王都から人が降りてくるとは聞いたぜ? どれくらいの頻度かは知らんが」と苦笑混じりに言われて、とりあえず王都が機能しているらしいことに再び安堵した。

「山間の集落もかなり潰れちまってるだろうし……最悪、王都まで野宿も覚悟せにゃならんが」

「それも、承知しています」

 隣のフローラも、僕に同調してしっかりと首肯する。男性達はいよいよ困ったように顔を見合わせたが、誰ともなく「そうかい」と呟くと、やがてそれぞれが小さく苦笑混じりに息を吐いた。

「険しい道だが、山脈さえ越えれば王都はきっと目の前だ。ネッドに行けば山道のことも多少聞けるだろうさ。おい、てこたぁここが最後の準備処じゃないか? 何か入り用なら相談に乗るぜ」

 親身に話を聞いてくれた商人風の男性が懐から何やら紙を取り出し、ばらばらとめくり出す。他の男性客も「その前に海図を見てやれよ。確か半年くらい前にネッドから帰った奴、いただろ? ありゃカミーユだったか?」と立ち上がり、心当たりがあるらしい一人が足早に酒場を出て行った。あれよと言う間に消えゆく背中を目で追っていたら、残った男性の一人が「奢られて喜んでる場合じゃねえや。おいマスター、景気付けだ! こいつでこのご夫婦に腕を振るってやってくんな」と小銭入りの小袋をカウンターへと投げてくれる。すっかり恐縮する僕達夫婦を尻目に、男達は広げた書き付けを囲み、エストア大陸への海路について意見を交わし合っている。

「そういや前に、あの近海で幽霊船を見たって奴がいたよ。随分前だし、それきり聞かねえから見間違いだとは思うが」

 ある男がそんなことを呟いて、フローラがまたびくりと青褪めた。怯える彼女を見た別の男が「奥さんは旦那に守ってもらいな。中々腕が立ちそうな御仁じゃねえか」と笑って揶揄う。

「それにしても、若いのによく鍛えてんな。羨ましい」

 外套から覗く太い腕に視線が集まり、あはは、と乾いた笑いを返す。……鍛錬を欠かしていないのももちろんあるけど、こんなになったのは十年の苦役がかなり大きいんだよね。硬く育った上腕をさりげなく撫でて、苦いものを飲み下す。

「あんた見てると、なんか若い頃を思い出すんだ。俺も昔は大概無茶をやったが、グランウォールに比べりゃ海越えなんざ可愛いもんさ。まあ、頑張んな」

 どこかイヴァン元船長を思い出させる、厳つい初老の男性が僕の背中を力強く叩く。よくよく見れば、筋肉質の浅黒い身体には幾筋もの古疵が見えた。

 俄に湧いた喧騒の中、無精髭の男性がグラスを舐めながらぽつり、呟いた。

「……それにしても、誰が掘ってるンだろうなぁ……?」

 

 

◆◆◆

 

 

 サラボナを発つ二日前。

 その日は、僕だけで再びラインハットを訪った。

 約束した通り、ヘンリーはもう少し突っ込んだところを調べてくれていた。難しい調査だったに違いない。たった数日しか経っていなかったが、彼の微笑みには色濃い疲労、いや憔悴が滲んでいた。

「……何から、話せばいいのかな」

 前回利用させてもらった禁書庫の方がいいだろうと、いや部外者が何度も借りていい場所じゃないと思うのだけど……勧められて通された書庫の中で、ヘンリーはひどく神妙な顔つきで口籠もった。

 しかしそれは一瞬のことで、すぐさま顔を上げると「申し訳なかった」と頭を下げる。

「何がさ。その話はもういいんだって」

「良いわけあるか」

 すぐに険しい顔で睨まれたが、目が合えば途端に心許なげに表情が歪む。わずかに言い澱んだが、ヘンリーは眼に力を込め直すと、その続きをしっかりと口にした。

「いや、違うんだ……頼む。これから向かう先を聞かれても、この国ではまだ、誰にも答えないでほしい」

 あまりに真剣な物言いに思わず身構える。一度、息を吐いて心を落ち着けてから、恐る恐る尋ね返した。

「……因縁が、ある?」

 やはり真摯な面持ちの親友はわずかに睫毛を伏せ、深く頷く。

「断絶している。五十八年前、盟約が裂かれたと」

 五十八年前。

 多くの文献、人々の話ぶりから、グランバニアに異変が起こったのがちょうどその頃だ。

 にしても、思った以上に状況が悪いのか。思わず口許を覆って考え込んだ。旧くから親交があったはずのラインハットとグランバニアが国交断絶、だなんて。城はともかく、神の塔を擁するノルトノース大陸の最南端は地図で見る限り、極めてエストア大陸に近い。この地を介して過去、両国に行き来があったとしても不思議はないくらいなのだ。

 でも。

「ただ、……親父ん時の宰相の書斎を調べさせてもらった。当人は鬼籍だから、正確なことはわからない。そこは了承してくれ」

 そう、断りを入れてから、ヘンリーはいよいよ僕達の疑念の核心に触れる。

「恐らく、親父と宰相は、パパスさんの素性を知っていた」

 推測半分。それでも彼は、きっぱりとそう断じた。

 目を向けて続きを促すと彼はひとつ重く頷いて、懐から何やら手紙らしきものを取り出す。

 所々折跡のある薄い紙を広げると、青みがかった黒インクの文字が鮮やかに姿を表す。

「こいつがパパスさんを召喚した時の書簡。パパス・グランじゃなくて、パンクラーツ公って書いてるだろ。多分これ、パパスさんもわかってて応じてたよ」

 目の前に広げられた、少しだけ黄ばんだその紙をまじまじと見つめた。擦れた跡も滲みもない、流麗な筆跡で書かれた手紙の宛名は確かに『パパス・パンクラーツ公』と記されている。

「公」という尊称は一定の身分、特に最上位に準ずる地位を持つ相手に対して用いられる。さすがに王とは称せないから苦肉の策としての敬称だったのか。無教養の僕が何でそんなこと知ってるかというと、以前ラインハットを発つ際ヘンリーに叩き込まれた。処世術として知っといて損はないからと教えてもらった上流階級の知識は、確かに旅の途中で僕を大いに助けてくれた。ほら、義父と初めて話をした時とか。ハッタリは大事である。

 僕は卿と称したが、ラインハット王族であるヘンリーが義父をルドマン公と呼ぶのは、実質彼がかの大陸における統治者であるからだ。

 厳密な使い分けをする尊称ではないが、ただの村人相手に用いるものでは絶対にない。

「何のために親父がパパスさんを呼び出したのか、本当のところはわからん。まさか本気でガキのお守りだけが理由でもなかっただろうし。結局、本人達があの世まで持っていっちまったな」

 静かな部屋に、押し殺したヘンリーの低い声が密やかに響く。黙って耳を傾けながら、僕もまた無意識に顎を撫でつつ思考を巡らせた。

 かつての事件の真相はさておき、この時点で、僕が持ち込んだ情報の真偽がほぼ確定したことになる。

 父さんは正しく、パパス・パンクラーツその人であった。父の遺剣と、ラインハット王家の書簡がその裏付けだ。アイシス女王に教えられたかつてのグランバニア王の名とも符合する。……とすれば、僕が偽りなく彼の息子であるならば……僕もまた彼の、王家の血を継いでいる────

 何だかな。まだ、実感が全然湧かないんだけど。

「お袋は多分、今も知らないと思う。事がことなんでデールにだけは話した。……ったく、つくづくとんでもないことしてくれたもんだよ。魔物に成り代わったと言っても、あん時のお袋は間違いなく本人だったんだからな」

 苦々しく呟くヘンリーに、ほとんど上の空でうん、とだけ返しながら、下ろした鞘の剣柄を眺める。

 先日から文献で読み漁ってきた事柄が、次々脳裏に閃いては消えゆく様をぼんやりと見送った。

 心のどこかで、他人事だと思おうとしていた。たまたま境遇が似ていた、父に似た名を持つ誰かの話を重ねられているのだと。

 未だ名前しか知らぬ母を想うときに似た郷愁が、じわじわと胸を侵食するのを感じる。

 帰りたいと、感じているんだろうか。それとも。

「太后様は……ヘクトル王が崩御された時はまだ、成り代わられてはいなかったんだよね?」

 感慨に押し流されそうな内心を必死に鎮めて、そう問うた。ヘクトル王はヘンリーの御尊父だ。確か拉致事件の一年ほど後に病死なさったと……本当にご病気だったのかはわからないけど。ヘンリーの失踪にサンタローズ事変が重なって、お心を酷く痛められたことは間違いないだろう。

 ことの経緯は確かに太后様ご本人の口から聞いたけど、この事件は色んな人の認識がごちゃ混ぜだったり、そもそも偽物が暗躍していた所為で曖昧なところが多くて。

「まあ、疑って当然だ。本人は、サンタローズ村の焼き討ちも自分の指示じゃないって言ってる。いつの間にやら自分の功績扱いになっていて当時は気にも留めなかったが、実際に関与したのは俺を拉致させたところだけだって」

 だが、サンタローズの生き残りの人々は聞いている。あの日村を襲った兵士達が、王妃の命令を絶賛していた声を。

 正気でなかった兵士達、恐らく大半を占めた魔物達。

 誰があの惨劇を指示したのか、被害者である彼らはその耳で直に聞いていたのだ。

「……つまり、あの頃から偽の太后様に化けられる魔物が城近くに潜んでいた。……てことだよね」

 否、いっそ城内にいたかもしれない。あいつは恐らく、誰にでも化けられたのだから。兵士か女官か、もっと王に近しい何者かに成り代わることも容易かったはずだ。

 だから、父さんが呼ばれたんじゃないか。城に巣食う何者かを炙り出すために。────太后様の企みは決して計画的なものではなかった。王太子の誘拐など、正直稚拙なほど杜撰な顛末だったと思う。水路のある裏口から真っ昼間に賊を引き入れる愚行、彼女が直に手引きするつもりだったのかと今更ながら疑問が湧く。けれど、その一見杜撰な謀こそがきっと、国王様の予見を狂わせたのだ。彼女の目論見を利用して父と王様を陥れ、サンタローズを焼き滅ぼして、ラインハット王国の実権を掌握した……

 無意識に腕を組み、そんな思考をつらつらと巡らせていたが、ふと気がつくと、ヘンリーの青い眼がなんとも言えない感情を揺蕩わせてじっとこちらを見ていた。

 目を向けると、申し訳なさそうに睫毛を伏せる。

「お前にはこの国の誰もが感謝している。顔見せるだけで城に上がれて、良いんだよ。……いずれは避けて通れないことかもしれないけどさ、今はまだ、ここではただの『テュール』でいてくれ」

 どこか切なげに言葉を選ぶヘンリーを見ていたら、ひと月前、テルパドール王城の図書館で、妻がくれた言葉が耳に還った。

 ────ああ、フローラ。君が言ってくれた通りだった。

「……僕は、テュールだよ。どこに行こうと、誰になろうと」

 緩やかに瞼を閉じて、零れ出たのは、己の存在を確かめるための言葉。

 ヘンリーにも安心して欲しくて、縋るような瞳をした彼に向かってやわらかく微笑んでみせた。

「フローラが言ってくれた。例え僕の名前が変わっても、僕は僕でしかないって。……何も変わらないんだって」

 ただ、変わらず僕を慕ってくれるだけだって。

 彼女の純粋な想いが、信じられる幸せが、僕にどんな苦難も越える勇気を与えてくれる。

 たった今ヘンリーが伝えてくれた、切実な願いも。例えばあの、太陽みたいな姉貴分の存在も。

 君達を知らなければ僕は今頃、もっと怖気づいていただろう。女王の話も聞かなかったことにしたかもしれない。オラクルベリーに引き篭もっていた頃のように、全て投げ出して小さくなっていたかも。

 信じられる人がいる。きっと何があっても変わらず僕を見守ってくれる、待っていてくれる、信じてくれる。そう思えることが、今、どれほど僕を奮い立たせていることか。

「ヘンリーだって、この国に戻ってからも変わらず親しくしてくれてるだろ? 同じだよ。僕もそう在りたいし、それ以外になんてなれないと思う」

 気休めかもしれない。それでもそれが、僕の一番の本心だから。また切なげに僕を見たヘンリーに、もう一度小さく笑ってみせた。

 ヘンリーが望んでくれるそれは恐らく、フローラが言ってくれたことよりずっと難しい。

 名前が変わる、立場が変わる。今みたいに気安く城門を通してもらうこともきっと無くなる。最悪、父さんの件が引き金となって、両国の間にどんな溝が生まれるかもわからない。

 それでも、否、だからこそ、僕は君といつまでも親友で在りたいと、心から願っている。

 変わりたくない。変わらないでほしい。ずっと気高き人であった君が、幼かったあの日から一度たりとも僕を見放さずにいてくれたように。

「……ほんと、良かったよ。お前がいい奥さんに恵まれてくれてさ」

 張り詰めた表情をくしゃりと崩して、ヘンリーが控えめに微笑んだ。いい友にも恵まれてるんだよ、なんて思いながら、フローラを褒められたことが嬉しくてつい頬が弛む。しかしまた揶揄われてはと敢えて唇を引き結び、わざと重々しく答えた。

「うん、僕にはつくづく勿体ない奥さんだと思う。本当に。もし愛想尽かされたら絶対、人生終わる」

「終わらせんな阿呆が!」

 真顔で頷いたらすかさず突っ込まれた。絶妙な合いの手に心から砕けた笑みが弾ける。一緒になって気の抜けた顔をしたヘンリーとひとしきり肩を震わせた後、ぽかりと生まれた空白にそれぞれ思いを馳せて。やがて、先にヘンリーが小さく呟いた。

 禁書庫の本棚の奥、特別な鍵で封じられた見えない扉の向こうをじっと見遣って。

「本当は、あれの他にもう一つ、旅の扉があったんだって。グランバニアに通じていたそうだが……今は、力が枯れて使い物にならない」

 旅の扉、とヘンリーが口にするのを、わずかな驚きを押し殺しながら聞いた。────今やそのほとんどが神話の彼方に消えてしまった、神々の遺産と呼ばれる古代の転移陣だ。

 この城の奥には原始的な旅の扉がひとつだけ現存している。多分、ラインハットでも相当高位の人間にしか知らされていない。どういう理由か、それはあの海辺の修道院からさらに遠く離れた南の森の中、ひっそりと隠された祠に通じていて、僕達はかつてその旅の扉を潜り、この国の秘宝『ラーの鏡』を取りに神の塔へと赴いたのだ。

 いつからか、誰も潜れなくなったもう一つの『旅の扉』跡は神なる力の暴走を恐れ、強力な結界で封じてあるのだと。俺が生まれるより随分と前の話だ、と彼は淡々と教えてくれた。

「何があったのかな。五十八年、か。……何にせよ、もう少し調べてみる。悪いことにならなきゃいいな」

 うん、と頷いたところで、さっきから何となく引っかかっていたものがふと、鮮明になった。

 立ち上がり踵を返しかけた親友を、静かに呼び留める。

「…………、ヘンリー」

 何気なく振り向く翠髪を、その眼を正面から捕まえて。

「なんで、父さんに出した手紙がここにあるの? あの時、全部燃えたはずじゃ」

 大した疑念じゃないんだ。ふと、本当にふと気になっただけ。

 しかしヘンリーは問うた瞬間、蒼い眼を大きく見開き僕を見つめた。触れない方が良かったか。慌てて明るい声を繕い、当たり障りない回答を僕の方から提案した、が。

「あ、父さんが持ってきたのか。ヘクトル王にお目通りした時、お返ししてたのかな?」

 この推察ならおかしくないと思ったのだが、残念ながら外れらしい。蒼の虹彩をゆっくり緩め、ヘンリーは溜息混じりに、ごく微かに笑う。

「お前もさ、変なところで鋭いよな……」

 言いにくいなら、『そういうこと』にしちゃっていいのに。

 まだ少し逡巡しながら、彼は僕に身体ごと向き直った。どう話そうか考えあぐねている顔で、視線を泳がせながらも消沈したように眉尻を下げる。

 ヘンリーは、少なくとも僕に対してはいつだって誠実だ。

 口先で誤魔化さず、精一杯の誠意を尽くしてくれる。

 

「お前の家で働いてたっていう、ごめん、名前はわからないんだけど」

 

 ────予期せぬ存在を示唆されて、唐突に、どくりと心臓が爆ぜた。

 あの家を守って、働いていて。

 幼い僕と父さんを出迎えてくれたのは、ただ一人。

「…………、サン、チョ?」

 無意識のうちに、その名を呟いていた。

 僕はどんな顔をしていただろう。正面から僕を見つめ返すヘンリーの慈しみ深い眼差しがひどく、痛い。

「名前は、わからなかったんだ」呟いて、ヘンリーはゆるく首を振った。「……グラン家の使用人を名乗る男が持参したようだ。地下牢に一時期捕らえていたらしく、その男が最終的にどうなったのかはわからん」

 知らない。他にいない、あの家にいたひとなんて。

 サンチョだ。間違いなく彼だと高揚する気持ちと、今更消息を知る恐怖が、自分の中に湧き上がって綯い交ぜになる。知りたい、知りたくない、知りたい。やっぱり生死はわからないのかと落胆する反面、曖昧なままでいたい、薄っぺらい希望に縋っていたいと思う苦さと。

 思い返せば、浮かぶのは人の良い、陽だまりの笑顔ばかり。

 丸い頬で、いつだって大らかに、僕の成長を喜んでくれた。

 生きていてくれればいい。願うことはそれだけで。

 ────だから、

 

 彼が続きを、静かに告げた瞬間。

 不覚にも、泣きたいほど安堵、した。

 

「ただ、逃がせ、と」

 短い一言の後、ちらりとヘンリーが僕を窺い見る。

 どんな顔をしていただろう。情けなく崩れたであろう顔面になんとか笑みを繕って続きを促すと、ヘンリーは一瞬、ひどく辛そうに表情を歪めた。

「王の……親父の密命だった。彼を逃がせと……それだけ、当時の宰相が管理してた書簡に遺されてて。本当にそれ以降のことはわからないんだ。その後すぐ、宰相は死んじまったみたいだから」

 低く、淡々と呟いて、それきりヘンリーは叱られた子供のように力無く肩を落とす。

 知らなくて当然だ。思えば僕はこの十二年間、一度もヘンリーにサンチョの話をしたことがなかった。

 事件前の、父と過ごしていた頃の想い出話は、総じて彼に贖罪意識を刻みつけることにしかならない気がして無意識に避けていた。サンタローズの惨劇を知ってからは、益々口にすることが憚られた。船旅の話や、ビアンカのことならまだ時々話せていたのだけれど。

 結果として、サンチョを話題に出すこともなかった。幼心にあの頃、ヘンリーはもう十分すぎるほど打ちのめされているように見えたから。あんなに自戒し続けるヘンリーを見て、この上思い出させるようなことを言えるわけないじゃないか。

 今だって、ほら。

 こうやって一生懸命、伝えてくれているヘンリーの方が、僕よりずっと苦しそうだっていうのに。

「もうちょっとちゃんと調べてから言うつもりだった。隠すつもりじゃなかったんだ。すまん」

「謝らなくていいよ。そんな、ラインハットにまた面倒事を持ち込んじゃって……こっちこそ、ごめん」

 潔い謝罪を繰り返す親友をそれ以上追及したくない。とにかく顔を上げるよう、懸命に促した。

 本音を言えば、もっと詳しく聞きたい。消息不明のサンチョの痕跡にたった今、初めて触れられたのだから。けれど聞いた限り、これらはすべて僕の父について調べるために、当時の宰相様の書斎を探って初めてわかったことなんだろうから。

 でも、そこまで分かったなら、少なくとも処刑された可能性は低いんじゃないかな。そう思うと少し、怖れが紛れる心地がした。ヘクトル王がご存命の頃の話みたいだし、せめて友の遣いだけでも、と懸命に逃がしてくださったのではないだろうか。

 そうまでして生き延びたなら────生き延びてくれているなら。サンチョならきっと、父と僕をぎりぎりまで探し求めて、最後は祖国に戻ることを選ぶだろう。

 サンチョが持ち込んだというその手紙をもう一度、ぼんやり眺める。経年劣化で若干黄ばんでいるが、綺麗に畳まれた上質な紙。よくよく見れば、ラインハットの国章と思しき薄い透かしが入っている。これほど大事な文を父が自分で持たず、サンチョに預けて行ったことにも何らかの意味があったんだろうな。

 あの騒乱の中、サンチョはどんな思いでこれを懐に収めてラインハット城を訪ねたのか。

「……字、綺麗だね。さすが宰相様」

 ぽつりと呟くと、ヘンリーはちょっと困ったように眉根を寄せて、ぎごちなく笑った。

「稀代の書家と呼ばれた人だったからな。回り回って、お前も結構助けられてるだろ?」

 冗談めかした、しかしわずかに悔恨が滲む声音に思わず顔を上げる。意味がわからず首を傾げれば、ヘンリーはもう一度、苦く笑って首をすくめた。

「俺の字は彼直伝だ。くそ忙しい中、癇癪王子の読み書きの世話なんぞという貧乏くじを引かされた……すこぶる有能で口煩い、哀れな爺さんだったのさ」




テュールの風邪エピソードは、昨年の主フロの日に描いた漫画「風邪をひいた日。」(https://www.pixiv.net/artworks/81861873)と連動しています。
良かったら、覗いてやってください!


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#2. 懐妊〜side Flora

 月の障りは周期的に、多くは月の満ち欠けに通じて訪れるものだけれど、発育途中の十代においてはその限りではない。

 元々、予定日より数日から一、二ヶ月の周期揺れは普段から頻繁にあった。たった二週間で次が始まることもあれば、テュールさんと出会う前には、三ヶ月以上来ないことだってあったもの。

 考えすぎかもしれないけれど、それでも前回の障りからちょうどひと月になる今日、私はひどく安堵していた。門出の日に始まってしまったらと、些か不安だったのだ。

 歩かなくてはならない時と、出血のひどい日が重なってしまうのは、やっぱり少し辛いから。

 旅立ちの日は残念ながら、少し濁った曇り空だった。サラボナ周辺は比較的整備された道が続くが、ルラフェンへと延びる石畳を逸れた途端に地面が悪くなる。年の瀬はずっと小雨が続いていたから、雪も解けて更に歩き難い状態だった。

 とにかくぬかるみに車輪を取られないよう、時々馬車をみんなで押しながら歩く。

 障りが近いのか、下腹部にじわりと重い気配が続いていた。どうか船に着くまで始まらないで、と心の中で何度も祈る。つい口数少なくなってしまう私を皆さん慮ってくださり、馬車に乗るよう口々に勧めてくださったけれど、積荷が多いのに私一人乗せていただくわけにはいかない。

「まったく、血は争えん。あのお嬢様がすっかり、冒険家のお顔をなさっておいでじゃないか」

 付き添いでいらしたイヴァン様が苦い笑みを浮かべる。彼と、他にも数名の航海士さんが、ここまで荷を運んだルドマン家の馬車を街へ戻す為について来てくださっていた。本当のこと────血の繋がりがないことはさすがにこの場で言えなかったけれど、わずかでも父の面影を見出していただけたなら嬉しい、と素直に思った。

 そんなふうに思えるのはきっと、出立前にゆっくり、親子の時間をいただくことができたから。

 両親とは昨日、サラボナ東の橋の前でお別れした。

 ああやって見送られること自体は初めてではない。それでも、父に寄り添った母がひたすらに慈愛に満ちた眼差しで見つめてくれていたこと。母に抱かれたリリアンが、ずっと身を乗り出して私達を見送ってくれていたこと。

 相変わらず威厳に満ちた父の瞳だけが何故か、少しだけ、心許なく揺らめいていたこと。

 そんな二人の姿が、不思議なほど強く、瞼の裏に焼きついた。

 お歳のせいなのか、遠ざかる影は心細いほど小さく見えて。

 テルパドールへ向かったときは、帰還が前提の旅だった。

 もっとずっと昔、記憶も朧げな幼い頃、父に連れられて旅をした時も。修道院に向かった時も。

 いつかはこの街に……サラボナに、戻ることを約束された旅だった。

 ここに居合わせている皆さんにとっても、それは変わらないのでしょう。いつも通り、帰ってくることまで含めた旅路。けれど、私とテュールさんにとっては、違う。……いいえ、厳密に言うなら、テュールさんにとって『だけ』は、違う。

 今度のこの旅は、一度すべてを失くした彼が、真実、帰るべき場所を見つけるための旅なのだから。

「フローラ」

 つい考え事に没入してしまっていた。先ほどまでパトリシアちゃんを先導していた夫がいつの間にか後退して、ぼんやり歩く私の隣に並び、覗き込んでくれている。

 慌ててしゃんと背筋を伸ばし、笑顔を繕って彼に向けた。

「ご、ごめんなさい。何かありましたか?」

「ううん。ちょっと疲れちゃったかなと思って。大丈夫?」

 いつもと変わらず、穏やかに話しかけてくださる。砂漠に入ったばかりの頃、黙って無理をしてしまったから気を遣わせているのかもしれない。申し訳なく思いながらも微笑み、頷いてみせた。

「ご心配をおかけしてしまったでしょうか。大丈夫です、元気ですわ。歩いていたらつい、物思いに耽ってしまって」

 正直に告げたら、ふ、と小さく空気を揺らしてテュールさんがやわらかく微笑んだ。

 ────大人びた、穏やかなその表情を目にしただけで、私の心臓はとくんと甘く跳ね上がる。

「わかる。僕も時々、思考に没頭しちゃうことがある」

 密やかに囁かれた、そんな何気ないお返事にも、頰がほんのり熱を持つ。

 もう結婚してだいぶ経つのに、そうやって微笑まれるたび、私はまた彼に恋をしてしまう。何度も、何度も。

 またどきどきしたと伝えたら、呆れて笑われてしまうかしら。

「何か、悩んでる? 言いたくなったらいつでも話してね」

 一瞬うっとり惚けてしまった私を、心配そうに覗いてくれる。その優しさが愛しくて、でもぼんやりした顔を見られたのは何だか気恥ずかしくて、急いで首を振った。何か答えようとして、さっき取りとめなく巡らせていた思考をぽろりと口にする。

「悩みと言うほどのことではないのです。ただ──皆さんとは、帰る先が違う旅なのだな、と思って」

 言ってしまってから、あ、と口を噤んだ。今の言い方では、船員の皆さんと一緒に帰れないことが嫌だという風に聞こえてしまったかも。

 果たして、夫は軽く目を瞠ってから、どこか申し訳なさそうに眉尻を落とした。

「……寂しい?」

 力無く呟く彼を、地面に落とされた視線を遡って振り仰ぐ。

 私の前でだけ、寂しがり屋のテュールさん。人前でも臆さず、そんなお顔をするようになったのはいつからだろう。

 何も躊躇うことはない。溢れる想いをそのまま、偽りのない笑顔に込めて。

「テュールさんと同じところに帰れるなら、寂しいことなんて何ひとつありません」

 明るく、迷いなく答えれば、テュールさんはほっと頬を緩めて、照れ臭そうに微笑んだ。

 誰かと、大切な方と同じ場所に、一緒に『帰る』ことが、こんなにも幸せだなんて知らなかった。

 あなたが教えてくださったの。こんな、切ないほどの歓びのすべてを。

「あの、前に戻られなくてよろしいのですか? 私は本当に大丈夫ですから」

「パトリシアはガンドフとピエールが見てくれてるから、平気だよ。僕がフローラの側に居たいんだけど、だめ?」

 優しく囁かれて、胸にまたほわりと温かなものが灯る。嬉しい気持ちをそのまま微笑みに変えて向けたら、テュールさんもまた、幸せそうに目を細めてくださった。

 最近の私達は、視線を交わすだけでこんな風に通じ合えることが増えた気がする。

 幸せに浸っていたからか、いつからか背後を歩くイヴァン様にじっと見つめられていたことにも気づかなかった。さりげなく掬い取られた手が彼の温かい掌に包まれて、どちらからともなく指を絡め合う。甘やかな幸せにもう一度はにかんだ、次の瞬間。

「……お前ら、よくこの甘ったるい空気に耐えられるな‼︎」

 雷の如く厳つい怒号が唐突に響き渡り、思わずびくりとすくみあがってしまった。足元のぬかるみもあってうっかり転びかけたところを、テュールさんがすぐに抱き留めてくれる。慌てて御礼を言おうとしたが、更なるイヴァン様の追撃に、私の声はあっさりかき消されてしまった。

「おい小僧。お嬢様に向かってえらく浮ついた台詞を吐いとるようだが、他の女もそうやって口説いちゃいねえだろうな⁉︎」

「なっ……僕がこんな風にするのはフローラにだけです‼︎」

 瞬時に首まで真っ赤になったテュールさんが、間髪入れずに叫び返した。え、と驚いて顔を上げれば、周囲の船員さん達がそれぞれお顔を緩ませながらこちらを見たり、敢えて背けたりと、なんとも生温い空気を醸していたのだった。前方では手綱を持ったピエールさんが、にやにや顔を緩ませたスラりんちゃん達と一緒に肩を震わせていらっしゃる。そんなに恥ずかしい遣り取りはなかった気がするものの、今までずっとそんな目で見られていたのかと思ったら────

 激しい羞恥がぶわっ! と頭の天辺まで駆け上がった。

「俺らが知る限り、テュールさんがお嬢様以外の女子に色目を使ってるとこなんて見たことありませんて」

 船員さんの一人がどこか呆れたように笑って応じたが、そりゃあの船に他に女は乗っとらんからな、とイヴァン様は尚も苦虫を噛み潰したお顔をなさっている。

「イヴァン様。……テュールさんは私を、とても大切にしてくださって……います、から……」

 恥ずかしさのあまり頬を抑え、ぼそぼそとなんとかそれだけ伝えたけれど、イヴァン様は寧ろ射抜くような眼でぎん! と私達を睨み据えた。思わずびくりと背筋を伸ばした私に、彼は至極丁寧な口調に凄みを篭めて告げる。

「お嬢様。もしこの男に泣かされることがあれば、すぐお父上か我々に。全力で制裁してご覧に入れますからな」

「勘弁してください……それ、ほんとに命がいくつあっても足りない……」

 心当たりがあると言ったお顔でテュールさんは頭を抱え、イヴァン様はますます眼光を鋭く光らせる。泣かされるなんて、と思ったが、ふと思い返せば結婚してこのかた、涙腺が緩みっぱなしの私は彼の前で何度も泣いてしまっている。もう赤らんでいるのか青褪めているのか、自分でもわからないままに両手で顔を覆った。

「お嬢様? どうなすった。おい貴様、まさか本気でお嬢様が言葉にも出来んことを……」

「ち、違います! テュールさんは本当に、何も酷いことなんてなさっていませんからっ!」

 血の気の引いたお顔で視線を彷徨わせるテュールさんに代わり必死に声を上げたら、イヴァン様は夫の横顔をじろりと睨んだあと、小さく舌打ちをして後方へと離れて行った。

 ……この遠慮のない遣り取りは、やはりあの大鮹討伐があってのことなのでしょうか。大人げないなんて言ったら失礼だけれど、イヴァン様がまるで子供のようにああして戯れてらっしゃるのを見ると、何だか不思議な気分になる。私がずっと幼い頃から、とても頼り甲斐のある大人のおじさまだった方だから。

 それにしても、養父であるルドマンより、イヴァン様の方がなんだか私の父親らしいような。いいえ、どちらかといえば祖父と孫娘に近い感覚なのかしら? 父よりイヴァン様の方が、ずっと過保護な気がするもの。

「やはり儂がストレンジャー号に乗る方が良い気がしてきたな。おい、船長代わるか、フォスター」

「現役に返り咲かれるのは結構ですが、組合の事業がやっと軌道に乗り始めたとか仰ってませんでしたか。海運漁連の要が、そんな簡単にシマを空けるもんじゃありませんよ」

 すかさずフォスター船長から冷や水を浴びせられ、憮然とするイヴァン様を見て、今まで黙って見守っていた船員さん達がついに噴き出した。それでも船長達の手前、必死に笑いを堪えていたようだが、集団に伝播した衝動は簡単には収まらない。

「……お前ら、帰って来たらたっぷり可愛がってやるから、精々楽しみにしておけよ……?」

 魔神の如く怒気を漲らせ、イヴァン様は腹の底から凄みを帯びた声を発する。今笑った奴は覚えたと言わんばかりに船員さん達を睨みつけて、不幸にも目が合った数人はあからさまに震え上がってしまったのだけれど。

「……っふ、ふふ……」

 申し訳ないと思いながらも、そんな皆さんを見ていたら、ついに私も堪えきれなくなってしまって。

 込み上げる笑いを何とかして抑えたいのに、テュールさんまで小刻みに背中を震わせ始めた。ちらりと隣を見上げれば、真っ赤なお耳を背けて大きな手で口許を覆い隠す。今、絶対笑いを噛み殺していらっしゃる。

「おい、小僧────」

「観念したらどうです。お嬢様の笑いを戴いた時点で勝負有り、ですよ」

 額にぴくぴく青筋を浮き上がらせたイヴァン様が、テュールさんの背を再び睨みつける。が、それをたしなめたフォスター船長もまた、さも可笑しそうに口許を歪めていた。空は相変わらずの鈍色だったが、ストレンジャー号の船長が陥落したことで、数台の馬車を囲んだ一行は一転、曇天をも晴らす和やかな笑いに包まれた。

「……ったく。いいからお前ら、全員無事に帰って来い」

 はぁ、と毒気を抜かれた溜息を吐き、がしがしと乱暴に頭を掻いて、イヴァン様がそっけなく言い捨てる。

 ばつが悪そうなその表情からは、恐らくこのまま一年以上、ポートセルミに帰れないであろう船乗り達を案じていらっしゃるご様子が見てとれて。

 やっぱり、お強くて優しい、素敵な方です。私達の船長様は。

 どうにも地面が悪くて、予定よりずいぶん時間がかかってしまっている。結局もう一晩、この大所帯で野営をしてから翌日、船に乗ることになった。

 下腹部の鈍い痛みはまだ重く揺蕩っていたものの、皆さんの朗らかな雰囲気に紛れて、いつの間にか、ほとんど気にならなくなっていた。

 

 

◆◆◆

 

 

 翌日、無事ストレンジャー号に到着した私達は、イヴァン様と街に戻る皆さんに見送られ、ようやくサラボナ北東の岸を離れた。

 ここは本来、船を係留するのも難しい浅瀬だそうで、昨年の婚礼前、父の依頼を受けてポートセルミの皆さんや周辺にお住まいの大工さん達が短期間にも長い桟橋を造り、小さな船着き場の体裁を整えてくださったのだと言う。元々ラインハット王国の賓客を迎える故の火急の措置だったそうだが、今回は更に私達のために、馬車を載せることまで見越して、岩だらけの地面もある程度均してくださっていた。本当に、いくら感謝してもしきれない。

 モン・フィズの港でストレンジャー号を降りたのが、昨年の十月末のこと。

 それからたった二ヶ月しか経っていないけれど、この船の上に居ることがひどく、懐かしく感じられた。

 乗船して早々、テュールさんはお仲魔の皆さんと共に魔物番を請け負い始めて。私も再び料理長にお願いして、厨房の手伝いをさせてもらえることになった。

「お嬢様がいらっしゃると、私の手抜きがバレちまうもんで……お嬢様が丁寧な分、粗が目立つんですなぁ」

 そう言って料理長は苦笑いなさるけれど、私が見た限り、別段手抜きなさっているとは思えない。特にこの方の包丁捌きは見事なもので、釣りたてのお魚がこの方の手にかかるとあっという間に見事なご馳走に変わる。淡白なお魚を薄く切って、軽く炙っては手際良く、花びらのように盛り付ける。酸味の効いたソースを回しかければ、舌でとろける極上の逸品の完成だ。蓮の花のような美しい盛り付けが、私達の目をも楽しませてくれる。

 街で食べるお魚はよく火を通すのが普通だから、さほど火を通さなくても食べられる方法があるなんて全然知らなかった。

「火加減も絶妙ですけど、こんな薄さによく下ろせますわね……素晴らしいです。まだまだ修行が足りません、私」

「そりゃ、これでも私は三十年近く船の上で魚を捌いておりますからな! いくらお嬢様といえど、そう簡単に習得されては私の立つ瀬がございません」

 ナイフの扱いだけはどうにも苦手なのだ。昔、指を大きく切ってしまってからというもの、その時の恐怖を未だ払拭しきれなくて。思わずしょんぼり肩を落とした私を見て、料理長と、その補佐をしている船員さん達は揃っておおらかに笑う。

「ですが、お嬢様はなかなかどうして、料理に関しても造詣が深くていらっしゃる。エストアに着かれるまでに、我々も大いに学ばせていただきたいもんです」

 そうは言っても、私の知識は修道院で学んだ基本的なことと、ルドマン家のシェフに教わったものだけ。それでも、基礎が出来ていると判じて頂けたなら嬉しいと思う。「日々研鑽を積まれている皆様にそう仰って頂けて、大変有り難いことです。お邪魔にならないよう努めますので、何卒よくよくご指導くださいませ」と頭を下げれば、皆さん困ったように苦笑しながら顔を見合わせていらした。

 やっぱりお邪魔かしら、とちくりと胸が痛んだけれど、それ以上皆様から何か含みある言葉をいただくことはなく。

 いつも通り数品のメニューを任せていただいたり、盛り付けや配膳を手伝ったり。意見を請われて私なりの提案をお返ししたりと、そんな風に順調に、厨房の雰囲気に溶け込んでいっていた。受け入れていただけていた、と思う。

 テルパドールでは、未知の未来をあんなにも恐れていたと言うのに。順風満帆、旅立ちからほんの数日の私は、穏やかな日々の始まりにすっかり気を緩めてしまっていた。

 

 

 

 サラボナの岸辺を発って五、六日経った頃。

 テュールさんが熱を出してしまわれた。

 その晩は酷い冷え込みで、明け方、魔物番から戻った彼は船室に戻るなりくしゃみを連発した。いつも通り早く目を覚ましていて本当に良かったと思う。この時間はさすがに冷えるね、と笑った彼は全身すごく凍えていたけれど、額に手を当てると明らかに尋常ではない熱をもっていた。慌てて薪を運び入れ、室内を暖める。シーツに潜り込んだ彼の冷たい手足に温石をあてて熱が上がりきるのを待ち、その後はうとうと眠る彼の隣に侍って汗を拭くなどしていた。

「ごしゅじんさま、ぐあいわるいのー?」

 朝の挨拶がてら、看病の合間にスラりんちゃん達がぴょこぴょこ覗きに来てくれる。「今朝方のあるじ殿はやや鈍ったかのように見受けられたが、ふうむ、なるほど。これがカゼというものか」と寝顔をしげしげ覗き込むピエールさんは何故か妙に興味深そうにしてらして、その枕元でガンドフさんがこくこく頷いてらっしゃった。

 お二人もご一緒に魔物番をなさっていたのね。そういえば、ピエールさんはテュールさんから贈られた剣をとても喜んで、いつも以上に張り切って魔物番をしてくださっていると、先日テュールさんが笑いながら教えてくださったのだった。

 砂漠では私が体調を崩してしまって、ご迷惑をかけ通してしまったから。悪い病だったらどうしよう、という不安はもちろんあったのだけれど、リーシャさんの先読みで彼に危険は少ないと聞かされていたからだろうか。そこまで病状に怯えることもなく、寧ろようやく妻らしいことが出来た私は、恥ずかしながらも相当浮かれてしまっていたと思う。

 テュールさんは慣れぬ高熱にうなされながら、ちょくちょく目を覚ましていらした。とろんとした目つきで寝台から見上げてくる様は、逞しい体躯とは裏腹に、母親に甘える幼子のようでお可愛らしい。誰よりお側で看病できることが嬉しくて、つい甲斐甲斐しく世話を焼いてしまった。

「あんな幸せそうに走り回られてちゃ、手伝います、なんて軽々しく言えないよなぁ……」

 ああくそ、俺もあんな献身的な嫁さんが欲しい! などと船員さん達に噂されていたとは露知らず、その日はずっとテュールさんのためだけに駆けずり回っていた。薪をもらって運んで、消化の良いリゾットを作って、汗をかくたび着替えを手伝って。時折船員さんが交替を申し出てくださったけど、皆さんは私と違ってお仕事を抱えていらっしゃるのだからと御礼だけ言ってお断りした。シャツの洗い替えが足りなくならないよう、テュールさんが眠っている隙に急いで洗って干すことの繰り返し。忙しい一日だったけれど、全て愛しい夫のためと思えば何も苦にならない。

 仲魔の皆さんに教えていただいて、普段テュールさんがなさっているパトリシアちゃんのお世話にも挑戦した。本来、馬は船の揺れにとても弱く、またきちんと歩かせないと体を悪くしてしまう。私の覚束ない手つきでは不安だったでしょうに、おとなしい気質のパトリシアちゃんは嬉しそうに鬣を梳かせてくれたし、ピエールさんに補助してもらいながら少しだけ、船室内のお散歩もさせてくれた。階段をあんなに上手に登り降りできるなんて全く知らなくて、びっくりしてしまった。

 まだまだ知らない、見えていなかったことばかり。改めて、彼が普段から色々な方面に気を配っていることを知らされる。

 その晩にはもう、テュールさんのお熱はほとんど下がってぶり返すこともなかった。夕食のリゾットをきれいに平らげた彼が「寒気もないし、もう大丈夫そう。本当にありがとう、フローラ」とはにかみながら言ってくださる。念のため今夜はベッドを離した方が良くない? と心配してくださったけれど笑って首を振り、いつも通り彼の側に寄り添って、優しい鼓動を感じながら眠りについた。

 夜半、何度か彼の様子を確かめたけれど、苦しげにしていることはなく、本当に安堵した。

 やっぱり、鍛えてらっしゃる方は回復がとても早くて感嘆してしまう。翌朝、普段と同じ時間に目覚めた彼は少しくしゃみが出る以外、本当にいつも通りのテュールさんだった。

 すぐにでも動けると彼は言ったけれど、バルクさんをはじめ他の船員さん達の勧めもあって、念のためもう一日、この部屋でゆっくり過ごされることになった。

 皆様には申し訳ないけれど、思いがけず夫婦の時間をいただけたことは嬉しい。前日よりのんびりと彼のお世話をしながら、補佐的な雑用はなるべく多くこなせるよう夜まで奔走した。

 しかし、張り切りすぎたつけは程なく、倍返しで己に降りかかることになる。

 発熱から三日目、夫はすっかり普段通りの生活に戻った。

 日中の魔物番を引き受けた彼をいつものように見送った私は、何となく鳩尾と下腹が重いような、言いようのない不快感を覚えていた。

 ────きっと、テュールさんのお風邪がうつってしまっていたのね。船の中でもっと広がったら大変、今日は出来るだけ大人しくしていよう。

 テュールさんはえずいてなかった気がするけれど、タイミング的にそうとしか思えなかったのだ。その時点では本当に微妙な違和感でしかなかったけれど、不安に思った私はフォスター船長と料理長にだけ、自らの不調を告げた。お二方とも無理をしないよう言ってくださり、お言葉に甘えて、不調の間は厨房の仕事も控えるお約束をした。

 まさかそれが、こんなにも長く続いてしまうなんて。

 軽い症状だから、休んでいればすぐに治まるだろう。そう思って、部屋の中でできる繕い物などを引き受けて大人しくしていたけれど、お腹の不快感はなかなかすっきり解消してくれなかった。気分転換にお気に入りの芳茶を淹れてみても、今は湯気を嗅ぐだけで、なんとも言えない嘔吐感が増してしまう。

 テュールさんが良くなられて、ほっとして気が抜けてしまったのね。意識の緩みが身体に出たんだわ。もう、本当にまだまだ未熟なんだから。

 誰もいない船室に一人、閉じ篭っていたことも沈む気持ちに拍車をかけた。二日間たっぷり独り占めしたのだから、我が儘を言っては駄目。病み上がりのテュールさんにこの上、要らぬ心配をかけたくない。

 昼食も食べられる気がしなくて辞退したけれど、幸い、夕方には胸のむかつきが幾分落ち着いてきて、務めを終えた夫をいつも通り出迎えることができた。

「フローラ、体調良くないんだって? 気づかなくてごめん。僕がうつしちゃったんだよね」

 戻り際に船長から伝えられたらしく、テュールさんは酷く申し訳なさそうに私の頬を撫でてくれた。

「心配させてしまってごめんなさい。本当に、大したことはないんです。もっと拡がってはいけないと思って、念のため、一日お休みをいただいていたの」

「うん、無理しないでくれて良かった。夕飯は入りそう? 今日はお昼も食べてないって聞いたよ。なんだったら、こっちに少しもらってこようか」

 フローラみたいに僕が作れれば良いんだけど、とテュールさんが口籠もった。お料理は不得手だと仰る彼が、そうやって気遣ってくださることが嬉しくて、自然と相好が崩れる。

「ありがとう、ございます。……では、あの、スープだけ、お願いしてもよろしいですか?」

 素直に甘えてみたら、彼も嬉しそうに表情を弛ませた。

「もちろん。僕の分も貰ってくるから、ここで一緒にゆっくり食べよう」と嬉しいお誘いを残し、たった今来たばかりの扉の向こうへとテュールさんが消えていく。

 ストレンジャー号の皆さんは楽しい方々ばかりで、皆さんと賑やかに過ごすのもとても好きなのだけれど、やっぱり私は、大好きな夫と二人きりで過ごせる時間が何よりも嬉しい。どんなに短い時間でも。

 程なく、バスケットと小さな手鍋を携えた夫が戻ってきた。特別船室一階のテーブルにお料理を広げていたら、また少しだけ吐き気を催してしまう。ゆっくり、息を吐いて、自分のスープ以外はさりげなく、対面の彼の席に寄せて置いた。飲み物の準備をしていた彼は幸い私の不調に気づかなかったようで、その背中を盗み見ながら、内心ひどくほっとした。

「他にも欲しいものがあったら、遠慮なく言って? 無い袖は触れないけど」

 船上だからという意味で言ってくださったのはわかったのだけれど、優しくしていただけて嬉しい私は、図々しくもつい我が儘を零してしまう。

「あの、外に出たい……です。ずっと閉じ篭っていたので気が滅入ってしまって。でも、一人でデッキに出るのはまだ不安で」

 おずおず訴えると、テュールさんはまた穏やかに笑って頷く。

「じゃあ夕食の後、暖かくして少しだけデッキに出よう。今夜は久しぶりに晴れてて、星が良く見えそうなんだ。あの星屑の路、冬には本当に見えないものなんだね」

「そうですね……ええ、私たちのいる場所によって星の見え方が大きく変わるのだと、昔聞いたことがあります。アルディラ大陸に近づいたら見えるかもしれませんよね。私も星の位置までは、詳しくはないのですけど」

 他愛無い話で紛らわせていただけるのが嬉しい。彼の手が触れたところから、昼間続いていた吐き気が少しだけ、薄れていく心地がした。

 テュールさんと同じ。安静にすればすぐに治まる。

 半ばまじないのように自分に言い聞かせていたけれど、残念ながら翌朝も体調はさほど上向かず、また引き篭もっている閉塞感からか、調子は悪くなるばかりだった。吐き気とは別に、何故か節々がしくしく痛む。日が昇るごとに妙な怠さも増してきて、終いには起きているのも辛くなってしまった私は、まだお昼だけど少しだけ、と自分に言い訳をしながら寝台に潜り込んだ。

 結局それを皮切りに、私は再び、砂漠以来の高熱を出して寝込んでしまったのだった。

 

 

 

 ……そういえば、月の障りがまだだったわ。

 熱でぼんやりする思考の中、ふと思い出したそれは、浮かんだ瞬間流れて泡沫の如く消えていく。

 忘れていいの、とまた、狡い私がそっと囁く。

 ────あの可能性に、全く思い至れなかったわけではなかった。

 それでも私は、きっとまだ直視したくない愚かしさのあまり、無意識裡に思考を蓋して、気づかない振りをした。

 覚悟は十分すぎるほどしてきたのに、いざとなったらどうしても、…………怖くて。

 その恐怖感を、朦朧としたまま思い込みに換えた。

 障りの周期が狂うほどの体調不良だなんて、情けないわ。足手まといにならないと言い切ったくせに、またこんなご迷惑をおかけするなんて。テュールさんのように早く、早く治すの。治らなかったら、途中で下船することになったり、やっぱり身体が心配で連れて行けないなんて言われたら。

 そんな焦りで、自分自身を埋め尽くした。なんて不安定、不健全な状態だっただろう。

 焦るばかりの私を、テュールさんはひたすら心配して見守ってくれていた。折角良くなったばかりなのに、再開したばかりの魔物番も他の人と交替して。

「気にしないで。僕が側で見ていたいんだから。僕もこの間フローラがずっとついていてくれて、すごく励まされていたし」

 これでも少しは看病に慣れたと思うよ、なんて戯けて言ってくださる。そんなことに慣れさせてしまったと思うと申し訳なくて、けど、落ち込んだ顔は見せたくない。これ以上心配をかけることはしちゃいけない。

 穏やかなテュールさんとは裏腹に、先日はどこか楽しげにテュールさんを見舞っていらした仲魔の皆さんが、今はひどく心配そうなお顔で、私を覗いてくださっていた。

「おっきしちゃ、だめよっ。ちゃんと、ねんねしてっっ」

 お見舞いの御礼を言いたくて、身体を起こそうとした私をしびれんちゃんが優しく諌める。額にぺとりと当てられた触手がひんやり気持ちいい。「ふろ〜らちゃん、おでこあつぅいぃ〜〜」ホイミンちゃんがふにゃりと泣きそうな声をあげれば、今度は反対側から「んじゃスラりんがひやしてあげるー!」と明るいスラりんちゃんの声が耳許に響く。

 ああ、私、なんて幸せなのかしら。

 大好きな皆さんに、こんなに気にかけていただいて。勿体なくて、畏れ多くて、────しあわせ。

「ああ、顔はほら、危ないから……スラりん、こっちにおいで。首とか、脇とかを冷やすといいんだってさ」

「わかったー!」

 熱いのは苦手なのに。きっと窒息を心配したテュールさんがスラりんちゃんを誘導してくださり、枕元に降りたスラりんちゃんが、ぷるぷるの軟らかな身体を首にぺたりとくっつけてくれた。

「……つめたくて、きもちい、です。ありがとう、スラリンちゃん。……はやく、治します、ね」

「ほら、フローラも。こういう時くらい頑張らなくていいんじゃなかった?」

 くすくす、どこか悪戯っぽい声と共に頭をそっと撫でられる。優しさが摩耗した心に沁みて、またどうしようもなく、泣きたい気持ちになってしまう。

 すき。大好き。

 全部言ってしまえたら。弱い自分が心の底で泣き言を訴える。未来視のこと、隠し通すと決めたこと、盾のことも、私自身のことだって。

 こわいの。何が起こってしまうかわからなくて。何もかも知って欲しいのに、あなたにだけはすべてを知っていて欲しいのに。あなたを欺くことになってしまうのが、つらい。いつまで言わずにいられるのか、心が折れてしまわないか、こわくてこわくてたまらないの。

 ────それでも、あなたの絶望が意識の淵をよぎるたび、少しだけ冷静になる。

 まだ、負けない。もっと、守り抜くために、強く。

 いつの間にかうなされていたらしい。ふと、温かい大きな掌が私の手を握ってくれていることに気がついた。ぼんやり瞼を持ち上げると、掌の主はとびきりやわらかく微笑んで私を覗き込む。

「ずっとこうしてるから。安心して、眠ってていいよ」

 ああ。

 優しすぎるその声を聴くと、全身を支配したあのおぞましさが緩やかに解けていく心地がする。

 そばに、いて。

 あなたが居てくださるなら、どんな悪夢にも耐えられるから。

「うん、大丈夫。ここに居るから」

 実際声にした感覚はなかったけど、うわ言が表に出てしまったのだろう。テュールさんがまた優しく、空いた手で額を撫でてくれた。それだけで私は安心して、少しだけ浮上した意識を再び、泥のような混沌の底へと落としていった。

 

 

 

 その後もうとうと眠り続けて、次の日の昼にはだいぶ楽になっていた。

 熱は下がったけど、鳩尾の不快感は消えてない。薬湯を飲もうとしただけでどうしてもえずいてしまう。折角バルクさんが調薬してくださったのだから、ちゃんと飲まないと。息を止めて、一気に飲み下した。

 喉を通し切ってそっと呼吸した瞬間、今飲んだものが込み上げて咄嗟に口を抑える。

「大丈夫?」

 吐かないよう必死に堪える私を、テュールさんが抱きとめて何度も背中を撫でてくれた。

「…………、すみませ……」

「いいって。横になるより、こうしてる方が楽だよね? 力抜いてて大丈夫だから」

 穏やかな声を聞いているとすごく安心する。彼の匂いがする胸許にくたりと体重を預けて、子供にするみたいに優しく肩を撫でてもらった。

「昨晩からまた揺れが強くなってるから、その所為もあるのかもね。マーリンも、下でまた潰れてる」

 可笑しそうに告げられて、つられて私もくすりと小さく笑う。

 神の地から吹き下ろす風が高波を呼んで、海は荒れているようだった。サラボナ側の海流は北へ向かって流れているが、その時とった航路沿いにさらに南へ行かせまいとする強い潮流が生まれていて、ストレンジャー号は流れに激しく抗いながら航行していたのだった。これを回避しようとするとセントべレス山に近づく他なく、テュールさんが強く反対したのだという。

「テュールさん。すみません、応援頼めますか?」

 そんな話をした数分後、船員さんが申し訳なさそうに夫を呼びにきた。頷いて、彼はすぐに私を寝台へ横たえる。「すぐに戻るから、休んでいてね。無理しちゃだめだよ」と優しく言いおいてから、剣を掴むと素早く船室を出て行った。

 扉を閉めてしまえば外の気配はほとんど伝わらない。思わず溜息が漏れた。皆さんが戦っていらっしゃる時に何もせず寝ているだけだなんて。父に知れたら、きっとまた呆れられてしまうわ。

 今は昼間のはずだけれど、船室に備え付けられた窓の外は、澱んだ分厚い雲のせいでひどく暗く見えた。

 まるで今の私の心のよう、或いは、私達の先行きを暗示しているような。

 頭を振って、思考を振り切った。今はとにかく、良くなることだけを考えなくちゃ。

 黙って思索に耽ったらまた嫌なことばかり考えてしまいそうで、楽しかったサラボナでの日々を思い出したりして必死に気を紛らわせた。私達の旅路を呪うような窓の外の暗雲はその日、ついに晴れることはなかった。

 

 

 

 さすがに、数日経てば治ると思っていたのだけど。

 潮流の所為なのか、それから暫くストレンジャー号の航路は極めて不安定なままだった。私には皆さん何も仰らないけれど、昼夜を問わず度々テュールさんが駆り出されていくのを見ていれば、魔物の群れと頻繁に遭遇していることもわかる。気が急くからか、テュールさんの言う通り船酔いが慢性化してしまったのか、私の吐き気もなかなかすっきり治ってくれない。

 それでも二、三週間経つ頃ようやく、発作的な吐き気がじわじわと収まってきた。油断するとぶり返してしまうから引き金になりそうな食べ物や匂いはなるべく避けて、けれど本当に少しずつ、いつも通りの生活が戻ってくる。ああ、一日吐きそうにならずに過ごせることが、こんなに有難いことだなんて。

 ほとんど一ヶ月ぶりに厨房に入れた時には感激してしまった。といっても調理や配膳の手伝いではなく、食後の皿洗いなら出来るかと、無理を言って入れてもらっただけなのだけれど。

 もう立っていられないほどの体調不良はないし、大丈夫だと思ったけれど、長く胃の不調が続いてしまった私をフォスター船長はじめ皆様が慮ってくださって。引き続き、繕い物や洗濯物の片付けなど、無理のないところで仕事を譲っていただけることになった。

 本当は何もせずゆっくりしていただいて構わないのですよ、と困ったように言われてしまって、寧ろ気を遣わせていることが申し訳なくなってしまう。

 もうこんなことがないよう、今後はますます、きちんと体調管理をしていかないと。

 だいぶ復調してきた頃、アルディラ大陸の入り口、モン・フィズ港に辿り着いた。まだ春にも遠い暦だけれどここは日中、過ごしやすいくらいに暖かい。テュールさんと手を繋ぎ、一面の砂と白い石造りの住居が並ぶ異国の景観を楽しんだ。久しぶりに、遠くまで旅してきたのだという充足感を得る。

 現地の方の中には、グランバニアを擁するエストア大陸についてご存知の方もいて、色々と興味深い話を聞くこともできた。

 少しずつ、現実味を帯びていく。夫の故郷。今や幻の、峡谷の奥地に眠る王国。

 船が物資の補充を終えるまでの三日間、常春の楽園のようなこの白い港町で、私は束の間、不安なことも気鬱なこともすべて忘れて、大好きな皆さんと共に穏やかな時を過ごしたのだった。

 

 

◆◆◆

 

 

 それからはだいぶ体調も落ち着いて、表向きは本当に普段通りに過ごせるようになった。これなら山越えも問題ないかしら、とほっとする。

 エストア大陸まで凡そ二週間ほどとなった、ある朝のこと。

 遭遇した深海竜の一群を問題なく退けて、私達はそれぞれが後片付けや朝の仕事準備に邁進していた。セントべレス山からだいぶ離れて、最近は私も甲板に長く出してもらえるようになった。もちろん一人では出ないようにしているし、帽子で頭を隠してはいるけれど。

「ねえ、ねえ。ふろ〜らちゃん」

 ひと段落ついて一度船室に戻ろうとしたところで、ふよふよとホイミンちゃんが近づいてきた。

 首を傾げて振り返ると、早速肩にちょこんと捕まり、ホイミンちゃんは可愛い声をこそっと潜める。

「あのね、……からだ、えっと、だいじょうぶ?」

 思わず、目を瞠った。臥せっていたのは数週間前のことだけれど、まだ調子が悪そうに見えたのかしら?

 本当はすっきり全快とは言えなかったけど、いつまでも心配をかけたくなかったし、一時期に比べたら全然我慢できる状態だったから。そこまで辛そうな顔はしていないつもりだった。

「はい、だいぶ良くなりましたよ。ごめんなさい、心配してくださっていたのね」

 身を屈めて、覗き込む。何か言いたそうにむにむにとお口を歪めるけれど、ホイミンちゃんはそれ以上何も言わない。

 少し不思議に思いながら、特別船室の扉を開けてホイミンちゃんを招き入れた。何か、他の人には聞かれたくない話があるのかしら、と思って。

「先程も、わざわざベホイミをかけに来てくれて。本当にありがとう、ホイミンちゃん。お陰で傷一つありません」

 こんな風に御礼を言うと、いつもなら得意げに旋回して見せてくれたりするのだけれど。やっぱりなんだか様子がおかしい。もじもじ、触手同士を絡ませながら、ホイミンちゃんはいかにも言い難そうに言い澱む。

「ん〜……うん、んっとね〜」

 何かしら。ホイミンちゃんは回復の名手だけれど、病気がわかるということはないはず。……もしかしてさっきの戦闘で、私が何か良くない動きをしてしまっていたのかしら?

 ホイミンちゃんは優しいから、私が恥をかく前にこっそり教えに来てくれたのかもしれない。そんな、独り善がりな早合点をしつつ告白を待っていた私の耳に近づいて────ふわふわ、優しいホイミスライムは、吐息だけの消え入りそうな囁きを密やかに、落とした。

 

「あのね。……さっき、ふろ〜らちゃんにまほう、かけたとき。ふろ〜らちゃんじゃない、なにかが……なかにいたような、きがしたの……」

 

 ────────どくん、と、

 喜びより先に、動揺が全身の血を逆立てる。

 漠然と、目を背け続けてきたものが。

 唐突に鼻先に突きつけられて、思考が目まぐるしく渦を巻く。

 だめ。だめ、落ち着かなくちゃ。今はまだ、駄目。

「……それは……、魔法を使う方なら、どなたにもわかってしまうものでしょうか。────テュールさんにも」

「ん〜ん!」

 震えてしまう声を叱咤して何とかそれだけ問いかけると、ホイミンちゃんはくるんっと宙を旋回した。触手をくねくね躍らせて、屈託なく否定の意を示す。

「マーリンなら、もしかしたらわかるかもだけど。ごしゅじんさまには、わかんないとおもう〜。すご〜く、ものすっっっ……ご〜〜〜くちっちゃい、なにかだったから!」

 ────っ、…………良かった。

 思わず、ほっとして肩を落としてしまう。深い安堵と同時にじわりと、言いようのない嫌悪感が体の奥底から湧き上がった。

 どうして、喜べないの。あんなに望んでいたくせに。

「あのね、あのね。ふろ〜らちゃん、もしかして……」

 そわそわと覗き込んでくれるホイミンちゃんから高揚した気配を感じて。彼の歓びに水を差さないよう、精一杯の微笑みを繕って向けた。

「……はい。そう、かもしれません、ね」

 ぱぁっ、とホイミンちゃんのお顔が輝いた。うわあぁ〜い‼︎ と今にも躍り上がりそうなホイミンちゃんを慌てて止めて、ばくばく弾けそうな心臓を必死に落ち着かせる。

 そうして、真剣に真っ直ぐに、ホイミンちゃんの眼だけを見つめて。

 ただ一つの懇願を、口にした。

 

「お願いが、あるのです。このことは……まだ、どなたにも内緒にしていただけませんか?」

 

 溢れんばかりの歓びにすっかり破顔していたホイミンちゃんは、一転、ぷくぅと青い頬を膨らませ、いかにも不服そうに小さな唇を尖らせた。

 普段あまり見せないその表情がとても可愛くて、真顔で覗き込んだ私の頬も思わず弛んでしまう。

「なんで〜? だれにも〜?」

「はい」

 もう一度、はっきりと頷くと、ホイミンちゃんはやっぱり納得いかない様子で、「でも〜〜」と口籠った。

「もう少し、時機を見て……私からお伝えしたいので。やっぱり、お医者様にきちんと診ていただいてからの方が、良いと思いますし」

 珍しく不愉快な顔を隠さないホイミンちゃんに、一生懸命言い繕う。無邪気に粘られるのは正直、辛い。私がとりわけホイミンちゃんに弱いことを、彼はちゃんと理解しているのだ。

「まだ、ちゃんと育つかどうかもわかりませんから。がっかり、させたく……ないんです。お願い、します」

 無意識に指を組み、祈るように訴える。必死だった。まだ、気が動転している。筋の通らないお願いをしていると、自分でもわかっている。

 んむぅ〜、と唸って辺りをふわふわ漂っていたホイミンちゃんが、こてんと青い頭を傾けて私を振り返った。どきりとまた心臓が叫んで、深く組んだ掌が汗ばむ。緊張のあまり、私は硬い微笑みを貼り付けたまま、黙って続く言葉を待った。

「にんげんは、そだつの、そんなにむずかしいの〜?」

「そう、ですね。魔物さんがどんなふうに育つのかはよく存じ上げませんが、人間は他の動物に比べてもかなり、時間を要するので。もう大丈夫、と言えるまでは数ヶ月……ええと、多分今から、サラボナにあった雪が全部溶けて、暑くなるくらいまでは……かかってしまうと思います」

 人間が扱う単位は魔物さんに伝わらないことが多いから、噛み砕いて話したつもりが大袈裟になってしまったかも。驚いたホイミンちゃんが愛らしい目をますます円くする。いえ、でもそれくらいかかりますよね。もし今授かったばかりだとしたら生まれるのは秋か晩夏でしょうし、マリア王兄妃殿下が確か七月と仰っていたから……

 そんな計算を、眩暈がするほど頭を回らせて弾き出す。そこまで大きな誤差はないはず、苦笑を返してもう一度、ホイミンちゃんのきれいな瞳を覗き込んだ。

「大丈夫ですよ。これまで以上に気をつけますから。王都に着けばきちんと診てもらえますし、そうしたら皆さんにもちゃんとご報告しますね」

 真摯に、落ち着いて伝えたつもりだったけれど。

 やっぱりホイミンちゃんには、取ってつけた言い訳など通用しなかった。

 

「んん〜……それならよけいに、みんなにいったほうがいいとおもうの。これからおやま、いくんでしょう〜? みんなできをつけたほうが、いいんじゃないの〜〜?」

 

「……、えっと」

 ホイミンちゃんは鋭い。いつもほわほわして幼い雰囲気に見えるけれど、実は状況を読む力にも、洞察力にも長けている。小手先の理屈など、こうしてあっさり看破されてしまう。

 どうしたら。なんて説明したら、いいの。

「…………テュールさんは、とても、お優しいから……このことを知ったら、グランバニアに行かれることを諦めてしまわれるかもしれません、よね」

 藁にもすがる思いで、苦し紛れに吐き出した言葉だったが、それがやけに腑に落ちたようで。ホイミンちゃんが「あ〜」としみじみ溜息を漏らした。それがあまりに無遠慮に聞こえて、思わず笑ってしまいそうになる。

 共感をいただけたことで気が大きくなって、もう勢いで、思いつくまま捲し立てた。

「もし、間違いなく授かっていたとして。今ならまだお腹も大きくなりません。今なら、今しか、山脈を越えられないと思うんです。もし本当に生まれる直前だったら、私もこんな我が儘は言いません。それに、……それに、もし先延ばしにして、無事生まれたとして……赤児を連れて山を越えることの方がずっと、難しいのではないでしょうか」

 ────パパス王は、生まれたばかりの御子息を連れて国を出られたと仰っていたわ。

 ふと、アイシス様のお話が脳裏を過ったけれど、気づかないふりをした。赤児のテュールさんお一人だけでもお連れになるのは楽じゃなかったでしょうに、身重の私が自重しないのは愚かだ。そんなこと、言われなくてもわかってる。

 置いていかれる。どのタイミングで知られても、いつか私は待つだけの女になる。そんな直感が、恐怖が、私を激しく慄かせた。嫌、我が儘だと言われても絶対に嫌。ずっと一緒に居られると思ったのに、今更離れ離れになるなんて耐えられない。数ヶ月もの間、彼が迎えに来てくれる日を赤ちゃんと二人で待つだけの日々。それが正しい選択だと、どんなに頭ではわかっていても。

 ……子供は、欲しいの。彼の赤ちゃんが欲しい気持ちに偽りはないの。

 ふむ〜、とまたホイミンちゃんが唸った。そんな横顔を眺めながら、私の頭は今、焦りながらもあらゆる可能性を壊しては組み立てることを目まぐるしく繰り返している。

 あくまでこれは、一つの仮説。

 もし、リーシャさんの先読みを知らなかったら。赤ちゃんを授かって、私達はその後、きっとどうしてた?

 アイシス様の助言をいただいて、テュールさんがグランバニアを目指さないことなど考えられない。当初は躊躇っていらしたけれど、父ルドマンもいつかは示唆するつもりでいたのだから、結局は遠からず、今のように故郷へ向かったと思う。けど、その途中で私の妊娠がわかって。私はそのことを、テュールさんに伝えるだろうか?

 ……伝えたと思う。何も知らなければ、多少悩んだとしても私はテュールさんに伝えるだろう。今よりもっと早く月のものが止まっていることに気づいて、モン・フィズでお医者様に診ていただいたかもしれない。二人の子だもの、隠そうなんてきっと思わない。ヘンリー殿下ご夫妻の慶事のこともあって、テュールさんも子を望んでくださっていると、ちゃんと確認しあってきたのだから。

 では、彼に伝えた、その後は?

 妊娠がわかれば、彼はきっと私に山越えをさせない。私もそれは承知の上で伝えるだろう。ごくごく普通に考えれば、旅を優先させてお腹の子を流すなんてこと、あってはならないもの。身重の妻という爆弾を抱えてグランバニアを目指すなんてこと、聡明なテュールさんはきっとなさらない。

 少なくとも私は、どこかで出産を待つことになる。……考えれば考えるほど、生まれた後も連れて行っていただける気がしない。一緒に行こうと言ってくださったテュールさんがやはり私を置いて王都を目指すのか、それとも私と子供が本当に動けるようになるまで数年先延ばしにしてくださるのかはわからない。けれどルーラがあるから、やっぱり、私達は待つことになるのではないかしら。

 リーシャさんは、子供が生まれるかどうかが視えない、と仰っていた。

 畢竟、リーシャさんが語ってくださった『悲劇』は、妊娠した私の滞在先……恐らくはサラボナ、もしくはエストア大陸のグランドウォール山脈に入る前の村。そのどちらかで起こる可能性が極めて高い。

 違いますか。リーシャさん。

 彼女が視た未来視と、今の私達の違いは、その先読みを私が知っているか、否か。

 彼ではなく『私』に知らせることで、残酷な未来を変えられる可能性を、わずかにでも見出していただけたのなら。

「生まれてしまったら……いえ、妊娠したことが知られれば、私はもう、連れていっていただけなくなるかもしれない。……サラボナに、戻らなくてはならないかもしれない。これが、皆さんと一緒に旅できる、最後の機会かもしれないんです……」

 今、サラボナに戻るわけにはいかない。絶対に。

 情に訴えてでも踏みとどまらなくては。もう、必死だった。それでも尚、ホイミンちゃんは心配そうに私を見つめて何度も「うう〜〜〜ん」と唸ってくれていたけれど、駄目押しで口にした最後の願いが、ついに彼の信念を動かしたようだった。

「……叶うなら、彼の故郷で……産んであげたいのです。この子の、お父さんが……生まれたところで」

 言葉にしながら初めて、不思議な感慨が湧き上がる。

 一瞬過ぎった切なく温かい衝動に引きずられて、思わず愛しく腹部を撫でた。それと同時に、ホイミンちゃんがまんまるの目を大きく見開いた。ぱちぱち、何度か瞬きして、私のお腹と顔を交互に見遣る。

 やがて、長くゆるい息を吐いて。ホイミンちゃんが私の周りをくるくると舞った。

「ほんとに、ほんと〜〜……に、だいじょ〜ぶ?」

 ふよふよ、尚も逡巡しながら、神妙な顔つきで問うてくれるホイミンちゃんに、力強く首肯を返した。

 もう一度、弱い溜息を零して。にへ、と困ったようにホイミンちゃんが笑う。

 泣きたくなるような、よく知っている誰かに似た、とても優しい微笑みだった。

「じゃ、いまはホイミンとふろ〜らちゃんだけの、ひみつ?」

「……はい。秘密、です」

 安堵した所為かしら。張り詰めた感情が脆く、ほつれてしまいそうになる。ふわふわの黄色い触手を手に包み込んで、そっと握った。今にも溢れそうな涙を、唇を噛みしめて飲み込んで。

「ありがとう。ホイミンちゃん……」

 やっと、辿々しく御礼を伝えたら、ホイミンちゃんはいつもと同じ可愛い笑顔を作って、努めて明るく私をたしなめてくれた。

「んも〜、むりしたらごしゅじんさまにいっちゃうからね! だからぜったい、むりしないでね〜!」

 どうして、そんなにも優しいの。

 不器用な微笑みを繕って頷くばかりの私に、ホイミンちゃんはもう一度、照れ臭そうに笑ってくれた。

 それから、握った手を解いて、逆にたくさんの触手でぎゅうっと握り返してくれる。

「……ホイミンも、まもってあげる〜〜!」

 触手が離れていくと同時に、ちょっと恥ずかしそうに、ぽつりと小さく呟いて。

 えへへ、と今度こそ晴れた空のように鮮やかに笑ったホイミスライムは、くるりと室内を旋回した後、器用に開けた窓の隙間から音もなく出て行った。

 

 

 

 ホイミンちゃんを見送って、一人になったら少しだけ泣けてしまった。濡れた瞼を拭い、改めて、すっかり混乱してしまった頭の中をひとつずつ、ゆっくりゆっくり整理する。

 時間が経って実感が湧くどころか、未だ全く現実味がなかった。本当に、今、私の中に?

 へなへなと座り込み、お腹を摩る。ついに始まってしまったという思いと、実感を持てない情けなさと、ほんのわずかな高揚感────そう、高揚と。

 前回の月の障りは、テルパドール王都に着いた頃。十二の月の初頭だった。

 今は、二月。二の月が後少しで終わる頃。

 いつもみたいに、単に遅れているだけかもしれないけど。

 ……いいえ。だったらわざわざ、ホイミンちゃんが教えに来てくれた道理がない。回復魔法を行使した時、その術に特化したホイミンちゃんだからこそ気づいたのだ。私の中に、私のものではない生命反応があることに。

 テュールさんが風邪を引かれて、お世話をして。その後私も体調を崩して、熱が下がった後も吐き気が治まらなくなってしまった。風邪がお腹に降りてしまったのか、それとも今更船酔いだろうかと落胆しつつ、皆さんに心配ばかりかけながらも、今日までなんとかやり過ごしてきた。

 思えば、だいぶ落ち着いた今でも食べ物の匂いが引き金で吐き気を催すことが多い。単にお腹の不調の所為だろうと思い込んでいた、けれど。

 

「……本当に……ここに、いるの?……」

 

 恐る恐る、両手で抑えて呼びかける。

 まだぺちゃんこの、貧相なお腹からはもちろん、返る声などなかった。

【挿絵表示】

 

 それから数日後、船室でマーリン様の魔法講義の準備を整えていたところに、束の間見張りを抜けてきたというテュールさんがひょっこり顔を出した。

「あのさ。変なこと訊くけど……月のあれ、ちゃんときてる?」

 躊躇いがちに告げられたその問いに、一瞬心臓が凍りつく。

 落ち着いて。まだ、ホイミンちゃん以外に知っているひとはいない。ホイミンちゃんは言わないと約束してくれた。テュールさんはご存知ない、はず。

 動揺が、表に出ていないだろうか。冷えゆく内心をひたすら叱咤しながら、いつもの顔を装って、首を傾げた。

「はい、来て、おりますが……それが、どうかなさいました?」

 白々しい己の声が、耳の中、残酷に反響する。

 ……こんな声で、嘘をつける人間だったの?

 私は。

「そっか。いや、フォスター船長にさっき、もしかしてご懐妊では、って言われたんだ。ほら、妊娠すると悪阻があるっていうし、フローラもずっと吐き気が続いてたみたいだから」

 純粋なあなたは、私に今、嘘をつかれたなんて思いもしない。拍子抜けした様子で頭を掻いて、どこかばつが悪そうに目を逸らす。

 そんな仕草にほっとしてしまう自分が、浅ましくて、腹立たしい。

「……お詳しいのですね。殿方はそういったこと、あまりよくご存知ない方が多いのだと思っていました」

「あ、うん。いや、思いついたのは船長なんだけどね? 僕はついこないだヘンリーに少しだけ教えてもらって、ほら、あの時マリアさんの話もしてたから、言われてみればって」

 何故かしどろもどろ、理由を述べてくださる夫を微笑ましく見つめた。本当にお可愛らしい方。きっとあなたは、いつか子を授かるかもしれない私の身を慮って、あの日殿下に教えを乞うてくださったのだろう。

 そんな純粋な誠意を、私は今、偽りの微笑みで無情に踏み躙っている。

「残念ながら、違うと思います。吐き気も、もう治まっていますし。……やはり、風邪だったのだろうと」

 これも嘘。ひと月前ほど酷くはないけれど、本当は今も、ちょっとした瞬間に嘔吐感が込み上げる。顔に出さず、誤魔化すことに慣れてきただけで。

 最近は眠気も強くて、昼間一人でいると、椅子に腰掛けたままうたた寝してしまったりする。せっかく一緒にベッドに入れても、テュールさんの入眠を待たずに寝入ってしまうことばかりで。

 ────気づかないで。どうか、それ以上踏み込まないで。

「お気遣い、ありがとうございます。もしそのような変化がありましたら、真っ先にテュールさんにお話ししますね」

 ……今、私はどんな醜い笑みを、彼に向けているのだろう。

 有無を言わせず微笑んで、強引に話を終わらせた私を、テュールさんがほんのわずかに悲しげな顔で見つめる。……本当に一瞬のことで、彼もまた、いつもの穏やかな微笑みで頷いてくれた。

「ん、わかった。……変なこと訊いてごめんね」

 勉強頑張って、と最後に私を優しく労って、テュールさんが去っていく。閉じられた扉を茫然と見つめながら、私は込み上げる遣る瀬なさを、唇をきつく、きつく噛み締めてやり過ごそうとしていた。

 

 わたしも、楽しみだったの。

 あなたの赤ちゃんを授かれること。その奇跡を、歓びを、あなたと二人で分かち合えること。

 すごく、すごく、ものすごく……楽しみにして、きたのに。

 

(……ごめん、なさい……!)

 胸を掻き毟って。言葉にできない、ひたすら苦しいばかりの謝罪を、心の奥に葬るように、何度も何度も繰り返す。

 寂しいお顔をさせた。

 一番喜んで欲しいひとに、嘘をついた。

 こんな気持ちで授かりたくなかった。

 本当は婚礼だって、あんな気持ちで挙げたくはなかったのに。どうして、私、こんなことばかり。

 考えたって仕方ないのに、そんな鬱屈したものが目まぐるしく自分の中に渦巻いて止まらなかった。幸せなのに、幸せだから、幸せを幸せのまま享受できない苦しさが積もって積もって、少しずつ私を、息もできない毒の底へと沈めていく。

 溢れそうな感情をぐっと堪えて、周りに誰もいないことをよく確かめてから、そっと、かすれた声で自分のお腹に呼びかけた。

「……ごめんなさい、ね。せっかく……来てくれたのに」

 淡い淡い囁きはもちろん、ただの私の独り言でしかなく。

 応えるひとなどいない。私だけの広い部屋に、呟きはあっという間に霧散して消えていく。

 自覚なんて、まだ全然出来てない。足りない、けど。

「こんな、弱気じゃ……駄目よね。あなたの、お母さんなのだから」

 何も感じない下腹部を撫でてもう一度、優しく囁きかけたら、少しだけ、気持ちが強くなった気がした。

 そう。私には、塞ぎ込んでいる暇なんてない。

 強くならなくては。今より、もっと。自分の身を守れるよう、この小さな命を失わずにいられるよう。

 愛しい人のそばで生きていける、この幸せな日々が、無情に断ち切られることのないように。

 テルパドールを離れた日、アイシス様は何もかも見透かす微笑みで私達を見送ってくださった。

 最後に目が合った時、すべてわかっていると言うように深く、頷いていらした。

 リーシャさんが私だけに、未来視を語った理由。

 アイシス様からそのことについてのお話はなかったけれど、あの方が何もお気づきでなかったはずがない。

 それが、すべて。誓いを、今一度この胸に反芻して、独りぎゅっと、お腹を抱く。抱きしめる。

 何のために託されたの。

 あなたに、どんなに嘘をついても。

 不幸にはさせない。絶望は私が遠ざける。守り抜いてから喜べばいい。糾弾されたって構わない、この子も、テュールさんも、私が守る。絶対に────

 

 

 

 あなたを、

 私が独りにしない。



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#3. 春来

「うわ。いきなりこれか」

 グランバニア王国を擁する峻険な大地が目前に迫った朝、エストア大陸は桶をひっくり返したような豪雨に見舞われていた。

「ひっどい雨ですねぇ……雷も鳴ってら」

 甲板を、海面を。重い雨粒が抉るように叩きつける。石礫のような雨の勢いが凄まじくて、おいそれと外に出られない。

「せめて、もう少し天候が落ち着いてからお発ちください。皆様に何かあってはと思うと、気が気じゃございません」

 こんな荒れ模様にあっても落ち着いた、フォスター船長の低い声が心地良い。暗い窓の外から室内へと視線を移すと、同じく外の様子を窺っていた船長もまた、白い髭を撫でつけながら僕を見た。

「本当に、戻ってよろしいのですね?」

「ええ、僕には転移魔法がありますし。それより、帰路もどうかお気をつけて……こんな遠くまでお送りくださり、本当にありがとうございました」

 深く頭を下げれば、微笑んで首を振ってくれる。「テュール殿の伴をしたお陰でアルディラに二度も寄ることができましたし、ポートセルミ籍の船がエストアに辿り着いたのは大旦那様の若き日以来の快挙です。全く、ストレンジャー号は今や、世の船乗り達の羨望の的ですよ」と、冗談めかした世辞をくれた。

 帰りの航路はどうするのか訊くと、このまま内海を一周する方向で考えているという。

「通れるかはわかりませんが、一度オラクルベリーの方に抜けてみようかと思っております。昔、このすぐ北のあたりに手のつけられん魔物が棲んでおりましてな。パパス殿とストレンジャー号が行き合ったのがちょうど、この辺りでして」

 オラクルベリーと聞いて、居合わせた数名が嬉しそうに顔を見合わせた。その中には以前、かの街への一時帰省をお手伝いした面々も含まれている。

 ビスタ港は少し遠いが、もう少し近郊に船を留められれば多少長く滞在することも可能だ。アルディラで仕入れた珍しい物品を元手に、交易に繋げることもできる。

「年数も経ちましたし、今の乗組員は当時よりずっと強い。あの海域を拓ければポートセルミの連中への良い手土産になります。もちろん、危険ならばすぐに回避しますとも」

 悠々構えた船長の言は相変わらず頼もしく、頷き合う船員達もまた得意げな顔つきをしている。これまで何度も共に戦い海の魔物を散らしてきた人達だからこそ、その判断に間違いはないだろうと素直に思えた。

「どうかお気をつけて。ご武運をお祈りいたします」

「それはこちらの台詞です。何卒、ご無事で王都に着かれますように」

 肯定の代わりに激励を返せば、力強い握手で応じてくれた。

「落ち着かれたら是非、組合に顔を出してやってください。私を含め、暇な年寄りの数少ない楽しみでございますから」

 それはまさか、屈強なる元船長を指して言っているのか。

 ご老体には違いないが、殺しても死ななそうなあの御仁を年寄りと称するのは違和感しかない。しかも、僕は正直、彼の気に障ることしかしていないと思うのだが。

 だが、舎弟めいた親しみの目を向けてもらえたように感じたのもまた事実だった。気安く接してもらえることも、決して不愉快ではない。

 フォスター船長の遠慮のない物言いに笑いを噛み殺しつつ、船長室に集まっていた面々に一度挨拶をして場を離れた。向かった先は、愛しい妻が待つ特別船室。

「フローラ」

 ずぶ濡れの雨着は船室の手前で脱ぎ、軽くノックしてから扉を開ける。椅子に腰掛けてぼんやりと窓の外を眺めていたフローラがつと顔をこちらに向け、やわらかく微笑んだ。

「寒くない? 天候が落ち着くまで待つことになったよ。なんだか出鼻、挫かれちゃったね」

 細い肩に腕を回し、きれいな睫毛を至近距離で覗き込んだ。綺麗に身支度を整えた妻が可愛すぎて、性懲りもなくどきどきしてしまう。この蒼の魔法衣、似合いすぎて反則だ。

 既に出立の準備は済ませてあるから、あとはこの春嵐が収まるまでのんびりするだけ。

 にこりと愛らしく微笑んで、彼女はおもむろに、視線を窓の外へと戻した。

「春雷、ですね」

 閉めきった窓の向こうで遠く、黒雲が唸る音がする。多分山脈の方なので稲光は見えない。まだ結構遠いかな、なんて思いながら頷いたら、透明な声が静かに空気を揺らして耳に届いた。

「ご存知ですか? 昔、春雷のことを『春来たる』と詠んだ詩人がいたそうですよ」

 博識な妻は古典にも詳しい。なかなか洒落めかした言い回しだ。相槌を打つと、フローラの蒼い瞳が蛍のように宙を薙いだ。

「きっと、春の訪れ、ですね」

 僕を捉えた、その双眸で。

 淡い春桜が花開くように、ほんのりと微笑んでみせて。

 思わず見惚れた僕に、フローラは再び、外を見るようそっと促した。暦は三月の初頭、外套を脱ぎ捨てるにはまだ寒く、窓の外は尚も痛いほどの雨がひっきりなしに玻璃を叩いている。砂礫混じりの嵐が幌を殴りつける時にも似た、ばらばらと激しい音が分厚い窓越しにこちらにも伝わる。

 そんな音以外、何もかもが雨に吸われたような静けさの中。

「──まるで、テュールさんのご帰還を歓ぶ涙雨のようだと……思われませんか?」

 静かに言い添えられたその言葉に、微かに目を瞠った。

 何度も読んでは聞いた、暗く澱むグランバニアの過去の物語。

 今や王を失い、その内情がどうなっているのか誰にもわからない。民がどんな想いで、一日一日を越えているかも。もしかしたらすっかり廃墟で、王都などとっくの昔に滅んでしまっているのかもしれない。

 でも。

「おかえり」と、誰かが言ってくれたら。

 そんな、淡く心許ない期待を捨てきれなくて。父さんの生きた痕跡が、ここにはあるかもしれなくて。名前しか知らない母のことを、知っている人がいるかもしれなくて。

 

 ────お帰りなさい、坊ちゃん。

 

 遠い日、まだ凍える寒さの残る初春の日。

 いい匂いのする暖かい家で、僕と父さんを出迎えてくれた。

 あれはサンタローズであって、こことはきっと、全然違う場所だったけれど。

「……うん。暖かいところだと、いいよね。父さんの国……かもしれないんだから」

「きっと素敵な処ですわ。あなたが生まれた国なのですもの」

 ふと襲われた郷愁に胸を抑え、ぽつり、零した独り言にすかさず、鈴の声が重なった。

 思わず顔を上げれば、春の木漏れ日のような温かい微笑みが僕を見ている。

「気が早いとお思いになりますか。けれど、私、心のどこかでもう確信しているんです」

 真っ直ぐに伸びた、綺麗な姿勢で。

 相変わらず、悔しいほど凛とした響きで僕の背中をも支えて。

 癒すように慈しみ深く。そぼ降る雨の如くやわらかく。

 彼女はそうやっていつだって、僕が欲する言葉を惜しみなく、降らせてくれるのだ。

「ここが、あなたのふるさとだって。……ようやく、帰って来られたのだって」

 ……もう、何度も言ってもらっているのに。

 どうして、彼女がくれる言葉はこんなにも僕を、泣きたい気持ちにさせるんだろう。

 一人で考えているとどうしても不安になる。聞くに耐えない噂話ばかりで、到底まともな国とは思えなくて。そんなこと僕が考えちゃ駄目だって、何度も何度も自分を叱咤して、無理矢理思考を打ち消すけれどやっぱり怖くて、また悩んで。

 けど、君が言ってくれる。絶対大丈夫、素敵なところに違いない。間違いなく、帰っていいところなんだって。

 たったそれだけで、僕は前を向いていられるから。

「……っ、ありがとう……」

 なんだかたまらなくなって、妻を背中から抱きしめた。鼻先を埋めた碧髪から花のいい匂いがする。くすぐったそうに小さく笑って、僕の可愛い奥さんは精一杯首を傾けて僕を振り返り、その肩越しに僕を見上げてくれた。

「……帰りましょうね。一緒に、あなたの故郷へ」

 言葉にならない、万感の想いを込めて頷く。

 絡めた腕を大切そうに撫でてくれるフローラは、ただただ、曇りなく、優しい。

 ────それがとても温かくて、まるで、

 未だ知らぬ母の腕に抱かれ、囁きかけられているような。

 

 そんな気が、した。

 

 

 

 激しい雨で濃霧のようになっていたから、巨大な峰がすぐ眼前に聳え立っていたことにも気づかなかった。

「これを、越えてゆくのですね……」

 覚悟はしていたのだろうが、船から降り立ったフローラがめいっぱい首を上向かせ、放心したように呟く。

 無理もない。僕も思わず、つられて天を仰ぎながら深々と感嘆の息を漏らした。

 山というより、実はこの大陸そのものが巨大な竜の背なんじゃないか。そんな風に思わされる。ここまで大きな、終わりの見えない峰の連なりは。

 分厚い雲に覆われて全容は見えないが、ここから一番距離の近い頂でさえ、今にもこちらに襲いかかってきそうに見える。否、山に見えないほど近いのだ。更にそこから折り重なって北へと連なる壮大な山影はまるで、伝説に語られるドラゴンの尾のようだ。

 自然、居合わせた誰もが深く嘆息する。サラボナにも火山はあるが、ここまで圧倒される規模のものではなかった。アルディラ大陸を横断する岩肌の山脈も。

 数ヶ月前、テルパドールを目指した時とは全く違う。

 ここにいる誰もが、この大陸のことを知らないから。

「何卒、……何卒、お気をつけください。お嬢様」

 いよいよ船を離れるその時、フォスター船長が皺深い大きな両手でフローラの手を包み、祈るように額へ押し戴いた姿が、ひどく鮮明に、僕の目に焼きついた。

「ありがとうございます。船長、皆様も、本当に。……必ず、無事グランバニア王都に辿り着いて、ご報告に参りますわ」

「お約束、しかと承りました。イヴァン殿のみならず、私をはじめポートセルミの者一同……お嬢様とテュール殿を、もはや家族同然に思っております。お二方のご無事を願い、一日も早く再会できますことを……その日を心から、お待ちしております」

 そんな切実な、送別の言葉を絞り出したフォスター船長の目尻は見たことのない涙で潤んでいたのだった。なんとなく直視してはいけない気がして、僕は急いで二人から視線を引き剥がした。

 他の仲魔達も、この船旅の間に仲良くなった船員さん達と名残惜しく別れの挨拶を交わしていた。オラクルベリーへの帰省から親しくなったアランさんは、屈託なく仲魔達の肩を叩いては「なぁガンドフ、またストレンジャー号に乗りに来いよ。次は俺がもーっと出世して、操舵室に入れてやるからさ!」などと朗らかに笑っている。船という乗り物がとりわけお気に入りらしいガンドフは、魔物番のたびにこにこしながら舵や帆を眺めていたから、この誘いにも嬉しそうに頷いていた。すっかり戦力の一員であったピエールにマーリン、乗船早々マスコットの地位を確立し、皆さんとの潤滑油になってくれたスラりんとホイミン。なんなら、船旅の途中で仲魔入りしたしびれんも。誰も彼もが今この時、慣れ親しんだ皆さんとの別れを惜しんでいた。

 そんな中、一匹だけ全く輪に加わらない者がいる。プックルだけはいつもと変わらず、パトリシアの横に寝そべって、賑やかな送別の喧騒にも関心を示さずにいる。

 さすがにキラーパンサーと親しもうとする猛者はいないか。無理もない、彼は曲がりなりにも地獄の殺し屋の異名を持つ、世にも恐ろしい魔獣なのだから。

 そんなことを思いながらだらけた寝姿を眺めていると、ふと、以前資材の買い出しに同行してくれた気弱な修理士のロニーさんが、馬車の陰からじっとプックルを見ていることに気がついた。

 そういえばロニーさんはあの時、プックルのこともすごくあたたかく受け入れてくれたんだっけ。

 短い馬車旅を懐かしく思い返していたら、そのロニーさんが今度はびくびくしながらプックルに近づいていった。えっ、本気か。別にプックルが噛むとか思っちゃいないんだけど、あんなに怯えられるとフォローした方がいいのかなという気になってくる。現に彼の挙動に気づいた兄弟子のテオさんは、おろおろしながら遠巻きに止めようとしているし。

「えと、……えっと、……ナサカの森では……ありがとう。俺達、全然出る幕なかった」

 腰が引けつつ、ロニーさんは何やら一生懸命プックルに語りかけているようだ。聞いているのかいないのか、地獄の殺し屋は相変わらずの澄まし顔で寝たふりを決め込んでいるが。せっかくロニーさんが話しかけてくれているって言うのに……とはいえプックルに言葉で意思の疎通は図れないし、やはりここはお節介を焼くべきかと一歩、そちらに近づきかけたところで。

「お、……お、お嬢様を……頼むよ。『プックル』」

 か細く聞こえたその一言が、僕の足を縫いとめた。

 一見ひどく怯えていたようだったけど、名を呼んだロニーさんのそばかす顔は確かに、少しだけ……得意げというか、どこかはにかんでいるように見えたのだ。

 呼ばれた瞬間、プックルがぴくりと耳をそばだて身を起こした。覗き込むロニーさんと真っ直ぐ目が合って、そのままのっそりと頭を持ち上げ立ち上がる。一瞬びくりと身体を強張らせたロニーさんだったが、どうやら意を決して手を差し出した。鬣を撫でようとしたのか、しかしプックルは次の瞬間、噛みつかんばかりの勢いで己の額をロニーさんめがけて突き出して、──……

 それって、頭突きって言わないか?

 ゴッ! と甲の関節に当たった鈍い音がして、さすがに本人と、はらはら見守っていた周りの人々までびっくりして固まった。ちょ、プックルはともかく今の、ロニーさんの手は大丈夫か。大事な修理工の手を壊したら洒落にならない。

 そんな僕らの緊張をよそに、フン、と荒く鼻息を鳴らしたプックルは、軽やかに身を翻して彼の側を離れていく。

 一連の出来事を目にしてしまった船員さんと同じく、ロニーさんは暫し茫然としていたけれど、やがてぱちぱち瞬きをするとプックルに頭突きされた拳をひとつ撫で、ふへへ、と脱力して笑った。

「……ほんと、心強いや。すっっっげぇ」

 おい、手は、手は大丈夫かロニー⁉︎ とおろおろ飛びついた兄弟子のテオさんに、全然平気ですよぉ、とロニーさんが笑いながら答えるのを見て、ようやく安堵が湧いてきた。涼しい顔で僕の側へと戻ってきたプックルに「心臓に悪いよ……加減はしたんだろうけど、ロニーさんは僕やみんなとは違うんだから」とこそっと苦情を申し立てたが、当の本人はしれっと聞き流したようだ。

 ていうかプックル、フローラにはいつも大人しく撫でられているくせに。プックルに限らず、以前より仲魔達のふてぶてしさが増している気がするのは、主人である僕の所為でもあるのだろうか。

「名残惜しいけど、そろそろ行こうか。また海が荒れてきたら船を出しづらくなるし」

 フローラも挨拶を終えて僕の側に戻ってきてくれたので、未だ盛り上がるスライム属達に声をかけ、全員の荷物を確認した。忘れ物はない? 引き出しもちゃんと見た? と、スラりん達の顔を順番に覗き込み確かめる。

 それを見た船長が何故か、眉尻を下げて軽く笑った。

 最後に、長く世話になったフォスター船長と正面から相対し、しっかりと手を握りあった。

 義父のルドマン卿然り、イヴァン元船長然り。

 父を喪ったあの日から時を止めていた僕の、僕すら知り得なかった幼い内面をゆっくり表へと導いてくださったのは、実はこの方々だったのではないかと思う。

 もう追うことの出来ない、父の背の代わりに。

 フローラがその母性で、僕の渇きを癒してくれるように。

 この手もまた、未だいびつな僕を一個の人間として認め、何度も背中を押してくれた。立たせてくれた。

「お嬢様を、よろしくお願い致します。……皆様に竜神の加護があらんことを」

 かたく握った掌はじわりと湿って、温かかった。

「ありがとうございます。────行って、参ります」

 込み上げる熱は、深く強い首肯に代えて。

 灰褐色の眼を見つめ返したあと、手を解き、手綱を取る。

 湿った空気がまとわりつく中、全員の準備が整っていることをもう一度確認して。いよいよ僕達は、グランバニア王都へ向けて一歩、エストアの大地を踏み出した。

 

 

 

 船を降りてすぐ、頂の見えない山の手前には鬱蒼とした森が広がっていた。地図を確かめると、確かにこの森の奥に宿屋があるらしい。

 海側の平地を迂回して行ってもいいが、この雨で潮位がだいぶ増している。歩きにくさは同等か。船から見た限り崖になっていたから足場は確保できるだろうけど、森の方が地盤が安心かなと思う。それと、幽霊船の噂を信じるわけじゃないのだけど、海側には少し思うところもあって。

 悩んだ結果、やはり森の中を突っ切ることに決めた。

「お、おっきい『き』って、あっちのあれかもっ……」

 僕が道を悩んでいた間にも、上から偵察してくれたしびれんとホイミンがいそいそと教えに来てくれた。

「おっきくて、おもそ〜なまものがいる〜〜! のっしのっししてる〜〜〜!」

 興奮気味のホイミンの説明はいまいち要領を得ない。「えっとねっ、さらぼなにいたのに、にてるっ。はながながくて、きばがあるまものっっ」としびれんが補足してくれて、ダークマンモスかその眷属かな、と当たりをつけた。

 果たして森の中には確かにダークマンモスに似た、薄桃色の牙を持った更に巨体の魔物が徘徊していた。いつも以上に緊張をみなぎらせた妻と仲魔達が、いち早く魔物の気配を察知してくれる。ズシン、と内臓を揺さぶってくる足音からこれは容易に存在を察せられたが、存外に動きが早いその魔物はこちらを捕捉するなり突進して間合いを詰めてくる。特に体重の軽い仲魔達は呆気なく張り飛ばされてしまう。馬車を壊されないよう、慎重に囲いながら捌いていった。

 船旅の途中、テオさん達のご厚意で荷台をかなり頑丈にしてもらったのだけど、今ここで壊されたら自力で直せる自信がない。

 マンモスの魔物にばかり気を取られていたら、今度は木陰から次々炎を放たれた。見れば巻貝を頭に乗せた老人のような魔物が、茂みの中でぼそぼそ炎帯魔法を詠んでいる。プックルが咆哮をあげて襲いかかると、鄙びた巻貝爺達は泡を食って逃げ出した。

 他に近づいてくる魔物がいないことを確かめてから、久々の地上での戦闘に高揚している仲間達の様子を見て回る。

 エストア大陸では初の戦闘であり、実はフローラにとって新しい武器……『天罰の杖』の初陣みたいなものだったから、張り切りすぎてうっかり前に出過ぎてしまわないか少し不安だった。そんな浅はかな懸念が真実杞憂に終わって、深々と安堵してしまう。つい不安になってしまうけれど、彼女は僕が思うよりずっと思慮深いひとなのだ。

 仲魔達の怪我を手分けして治癒し、落ち着いたところで改めて、宿屋を目指して進み始めた。

 森がいよいよ深くなり、濡れた霧が立ち込める。羅針盤と地図を頼りにひたすらパトリシアを歩かせた。長く船底に閉じ込められた挙句、久々の行軍がこんな足場の悪いところで、馬なりにいよいよストレスを溜めてるんじゃないかと思うと心底申し訳ない気持ちになる。

「ごめん。思いきり走らせてやれるのは、もうしばらく後になりそうだ」

 暇を持て余したスラりん達の手で艶やかに整えられた、美しい毛並みを撫でてやれば、パトリシアはぶるると鼻を鳴らして応えてくれた。

 気配を察知されているのか、わりと頻繁に魔物に遭遇する。さっきは見なかった竜肌の異形が数体、茂みの中から奇声を上げて襲いかかってきた。受け流したところへすかさず仲魔達が追撃を浴びせる。さすが、ピエールの剣は抜群の切れ味だ。異形の哀れな断末魔が森の中こだまして、周辺の気配がまたしても不穏になる。

 そこそこ数はいるけど、どうやら目的を持って統率されている様子は見受けられない。

「うん、今のところ……人を攫いそうな奴はいないね」

 うっかり独り言がこぼれた。隣に控えたフローラが瞠目し、弾かれたように僕を見上げる。

 不安にさせてしまっただろうか。びっくりした顔が可愛くて、思わず苦笑した。我ながら考えすぎかなと思うけど、フローラの件を差し引いても……僕には光の教団が、そう簡単に人の領域から手を引くとは思えなくて。

 船を捕らえ難くなった。サラボナもラインハットも、教団への警戒を強めている。テルパドールは大陸全体が古い伝承の力で守られている。多分、あそこは女王の護りもあって、教団の力を及ぼすことができない。少なくとも今は、まだ。

 そんな中漏れ聞いた、この近海での幽霊船の目撃情報。

 グランバニアは外界とほとんど接触が断たれていて、何か起こっても噂になりにくい。『幽霊船』を恐れて更に人が寄りつかなくなるかもしれず、それも奴らには好都合だろう。鉱床が豊富なここから、神殿の建設資材を運ばせている可能性もある。魔族が動かす船なら、甲板に人の気配がなくてもおかしくないし。

 だから正直、『幽霊船』に出くわすのは御免だった。海側を通りたくない第一の理由がそれだ。船長達に何かあっても困るけれど、ストレンジャー号が引き受けてくれるならそれに越したことはない。

「でも、何が起こるか分からないから。王都までは極力、髪を出さないようにしていてね」

 異形の叫びが引き寄せた魔物を続けて迎え討ち、こちらに損害が出ていないことを確認する。落ち着いたところで改めて注意を促すと、蒼の装束を纏った乙女はこくりと頷き、白い帽子を深く被り直した。

 ああ、早く碧天の下、君の長い髪がなびく様を見たいな。

 そんなことを思いながら、一息つき終わった仲魔達に順に声をかけて、僕らは更に先を急いだのだった。

 

 

 

 それから一度休憩を挟んで、三、四時間ほど歩いただろうか。

 少しずつ陽が傾き始めた頃、永遠に続くかと思われた森の光景の奥に、明らかに周囲と異なる大木が見えてきた。

「巨木……ってあれ、だよね?」

 聞くまでもない、明らかに異質な大樹だった。船から降りて山を臨んだ時も圧倒されたけど、あの木の大きさはあまりにも周りの木と違う。着実に歩を進めているのに、歩いても歩いても距離が縮まった気がしない。

 けれどさすがに、もう十数分も行くうちに、段々と大樹の全貌が見えてきた。

 天をも貫きそうな梢。両手を広げた枝葉はまるで、それだけで豪邸の巨大な屋根のようである。よくよく見比べて、さっきから引っかかっていた違和感の原因にようやく気がついた。この辺りの木は軒並み針葉樹だが、あの木だけが他とは違い、横に大きく、青々と茂っている。生命力みなぎる、巨大な広葉樹だ。

 気のせいかもしれないが、大樹に近づくごとに森の音が変わっていく。

 さっきからぱらぱらと小雨が降っているのだが、ずっと不揃いに幹を打っていたその雨音が、次第にからりころりと歌うような軽い音に変化していっている。……気がする。

 それはあの、大きな葉の集まりが為せる奇跡なのか。雨音が奏でる唄に迎えられる、それはひどく不思議な感覚だった。

「ただの大きな樹だと思ってた。ここまでだなんて……なんか、御伽噺の小人にでもなった気分……」

「ええ……本当に。まるで、数千年続く神話の世界に入り込んだような心地がしますわ」

 あまりに神秘的な光景に、フローラや仲魔達も、ほぅ、と感嘆の息を零した。

 不思議な雨音も相まって、森の奥深くに隠された、木々の秘密の祭礼を覗いているような。

 その主神である大樹に、よくよく見ると建物が備えつけられている。変な言い方かもしれないが、本当に家らしき建造物が木の一部になっているのだ。太い幹をぐるりと取り巻く階段もある。モン・フィズの酒場でいろいろ教えてくれた人達がすぐわかるって言っていたから、巨木の宿屋というのはやはり、ここのことなんだろう。

「ツリーハウス……と言うものでしょうか。この木の上に宿屋を造ろうと思われた方の発想が凄い、です」

「お褒めに預かり光栄だねぇ。なんとまぁ、今日はどうしたことだい」

 唐突に、しわがれた声が会話を遮った。

 振り向くとそこには、背景の木立に溶け込むように誰かが立っている。薄靄に佇んだその人影の正体は、ひどく小柄な、線の細い一人の老婆だ。

 こんなところに、お婆さんが一人で?

 思わず警戒したが、無造作に枝を抱えて立つ老婆に怪しげな気配は見られない。

 さりげなく剣を外套に引き込んで隠しながら、恐る恐る「あなたは……?」と尋ねてみたが。

「安心おし。この辺りは昔、大きな街だったところさ。今も精霊様の御加護が残ってるみたいで、魔物はそうそう寄ってこない。それにね」

 つまらぬ質問とばかりに一蹴された。淡々と告げ、老婆は僕らを押しのけて巨木の脇にがらん、と枝を放り出す。それから改めて、茫然と見ている僕らの方を向いた。

「あたしゃしがない婆だが、魔物の数匹凌げなくて、こんなところで宿屋はやれないよ」

 くつくつと忍び笑う老女になんと返せばいいのかわからない。相当ご年配のようだが、見た目以上にかくしゃくとしていらっしゃる。ふと気づくと、マーリンのフードの奥の目が興味深そうに爛々と光っていた。ということはやはり、この方も魔法においてはかなりの手練れか。

「おっどろいたねぇ、まだこんな僻地に来ようなんて物好きがいたとは。道理でさっきから、森がやたらとやかましいわけだ」

「は、はい。結構魔物が多くて驚きました。この辺りはいつもこんな感じなのですか」

「今日は特別だろうさ。見ない顔に釣られて、あちこちから湧いて出てるよ」

 やはり卒なく答え、老婆は改めてまじまじと僕達の顔を眺めた。特に仲魔達を忌避する様子もなく、一通り全員を確認した彼女は軽く首を捻り、宿業にしては不躾とも取れる問いを吐く。

「行商……? ってわけでもなさそうだね。どこから来たんだい」

「あ、えっと……サラボナ、という街です。神の地の向こうの、ずっと西の大陸から」

 何故か威圧めいたものを感じながら訊かれるままに答えると、老婆はいよいよ不思議そうに首を傾げた。

「はて、テルパドールにそんな街があったかねぇ」

「テルパドールではなく、その北にある大陸の街ですわ。旧くはエルンハイム王国が治めておりました」

 僕に代わって、澄んだ鈴の声でフローラが答えた。吸い寄せられるように背後へと視線を移した老婆が、妻を見つめてわずかに眦を緩ませる。

「あれま。本当にずいぶん遠くから来なさったもんだ」

 その一言をきっかけに、老婆の雰囲気がやわらかいものに変わった。「すまなかったね。すっかり耄碌しちまって」と付け加えると滑らかな足取りでこちらに近づき、骨張った手を差し出して、パトリシアを動かすよう目で促す。

「何しに来たのか知らんが、歓迎するよ。外の旅人さんをもてなすのは何十年ぶりだろうねぇ。しかも、魔物遣いときたもんだ」

 案内に従って、大樹の陰に馬車を牽く。大きな木陰の下には雫もほとんど降らない。代わりにさやめく風の音と、ぽろぽろ響く軽快な雨音ばかりが、折り重なった葉と葉のさざなみから木漏れ日のように零れてくる。

 どこのステージより壮大な、荘厳な大自然の舞台の真ん中で。

 賢者然した老婆が階段を指し示し、はじめて、他所行きの顔でにっこりと笑った。

「ネッドの宿屋へようこそ、お客人。長い船旅ご苦労さん。ここでゆるりと休んでおいき」

 

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パースも何もない絵ですみません。あくまで自己満足
宿屋の看板にはアストルティア語で「ネッド」って書いといたよ!(でもⅩは未履修)


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#4. ネッドの宿屋

 こぢんまりとした宿屋だが、意外にも中はゆったりとした造りだった。

「お部屋でも本物の樹を見られるのって、とても素敵ですね。気持ちが安らぎますわ」

 ベッド脇を貫いて伸びる大木をそっと撫で、フローラがやわらかく微笑んで呟いた。

 通されたのは大きな相部屋の宿だった。他に誰もいないかと思ったが、お婆さんの息子さんご夫婦が番頭をしていて出迎えてくださったり、近くの村から来たという先客もいて、思ったより賑やかだ。宿の隣には小さな教会が併設されている。この一帯の祭礼は、そこの神父さんがとりまとめていらっしゃるとのこと。

 普通に旅人さんがお泊まりになるなんて! と大喜びの番頭さんが、何やら手製のペナントをお土産にくれた。旅の思い出に、宿泊客に渡す日を夢見て作っていたのだという。残念ながら常連のお客さんには突っ返されてばかりで、大層切なかったのだとか……

 仲魔達は今夜、宿屋の床下でのんびり過ごすようだ。ちょっと覗かせてもらったが、これまた意外にも広々としていた。物置でもあるらしく、そこらの道具を壊さないようあらかじめ注意はいただいたが。

 外観で察せられた通り、この建物は壁面に大樹が食い込んだ状態で建てられている。

 雨漏りしないのかとちょっと不思議に思ったが、ちょうど太い幹のそばにベッドが置かれている。どちらも濡れた様子はないということは多分、うまいこと雨除けが出来ているんだろう。

「森の香りがするね」

 深呼吸したらフローラも僕に倣い、目を閉じて深く息を吸い込んだ。

「はい。とても心地いいです。樹の息吹が感じられますね」

 二人一緒に清涼な自然の空気を感じて、微笑みを交わし合う。

 思わぬ良宿に、久々に土の上を歩いた疲れが癒やされていく。

「へ? 王都に行くんですか。そりゃあまた」

 人心地ついたところで、恰幅の良い中年の番頭さんが、僕達に温かいお茶を淹れて持ってきてくれた。聞かれるままに行き先を告げると、彼はすっかり目を円くして瞬きを繰り返した。

「はい。幼い頃亡くなった父がグランバニアの出身だったらしくて。故郷ならもしかしたら親族がいたりするのかもって……妻を連れて、遥々海を越えてきたんです」

「へーぇ。失礼ですが、お父上の御家名を伺っても? グランバニアを出られる方の多くはここを通られますから、うちの婆さんなら覚えてるかもしれませんよ。もしかしたら、領地の当てくらいはつけられるかも」

 何気なく問われて、はたと気がつく。いけない、もしかしてもう偽名を使った方が良かった?

 うっかり宿帳にグラン姓を書いてしまった、ていうか名前もそのまま書いてた……いやいやパパス王の息子の名前がテュールとは限らない、実は違う真名の可能性もあるよね。とはいえ今、父さんの名をそのまま出すのはさすがにまずい。

 猛烈に焦りながら、数秒の間に頭をフル回転させた結果。

「…………グラン……へ、ヘクトル・グラン、です。すごく小さい頃、亡くなったので……詳しいことはわからない、です、けど」

 頭の中で翠髪の親友に手を合わせ、若干どもりながら答えた。ごめん、亡くなった父繋がりでぱっと思い浮かんだのがヘンリーの父王陛下だったんだ……恐れ多いことこの上ないと我ながら思う。

「……えっ、もしかして、ずいぶん大層な御家の方です? グラン家なんて名乗れるの、王家に縁のある方なんじゃないかって思うんですけど……」

「い、いや、さすがにそれはないんじゃないかな。多分父は故郷の名を冠しただけで、本当の姓は僕が覚えてない、だけだと……多分」

 ずいぶん恐れ多い名乗りだったんですね、と乾いた笑いで誤魔化した。誤魔化せたかな。はぁ、家名がわからないと難しいかもですけど、縁戚の方に会えるといいですねぇ。とのんびり頷いて、人の良い番頭さんはカウンターの方へと戻っていった。

 独り言が聞こえないくらい遠ざかったことを確かめて、はぁ、とつい重苦しい溜息を漏らしてしまう。

「……今度から、ルドマン姓を名乗った方がいいね。いきなりしくじったなぁ……」

「ここで確認できてよかったですわ。王都近くで知れたら、もっと騒ぎになっていたかも知れませんもの」

 フローラが優しく慰めてくれて、少しだけ気持ちが上向いた。うん、そうだよね。それにしても父さん、もうちょっと名前を捻ろうと思わなかったのかな。改めて思うとパパス・グランて、わかる人が聞けば一発で身元がバレたんじゃないのか。

 ……でも、こんなことがあると、ああやっぱり父さんなんだろうなって思うのもまた事実で。

 形見の剣の紋様。ヘンリーが調べてくれた手紙。何より、アイシス女王の啓示。

 状況に駄目押しされて、更にグラン姓まで。もう覚悟は十分してきたつもりだけど、やっぱり王家なんてものは、僕の想像が及ばないくらい重いものだから。ここに来てまだ、尻込みしてしまう自分がいる。

 ふる、と首を振って立ち上がった。つられて僕を仰いだフローラに微笑みかけて、枕元に立てかけた剣を取る。今、この鞘に収めているのは父さんの形見の剣ではなく、以前祠のある宿屋で行商人から買った破邪の剣である。

「少し、この辺りを見てこようかな。行けそうなら明日から山に入りたいし。フローラは、ここで休んで待っていて」

 申し訳なさそうに頷く妻を残して、広い客室を後にした。ついでに少し鍛錬しておきたいな、なんて思いながら番頭さんに声をかけ、いざ外へ出ようとしたところで。

「おお、魔物遣いの兄さんか。ちょうどええ」

 やはり何やらきびきび動いている老婆……宿の主人にばったり出くわした。ネッドと名乗ったこのお婆さんは僕を見るなり何か思いついたらしく、きらきらと瞳を輝かせる。えっ、何。ついさっき外でお目にかかった時とは全然反応が違うんだけど。

 ついでに肩から下げた鞘を見て、更ににんまり笑みを深める。何なんだ一体。やや及び腰になった僕に、ネッドさんは否と言わせぬ一方的な食材狩りの開始を宣言したのだった。

「ちぃとこの老人を手伝ってくれんかえ? 珍しいお客人にとっときの馳走を食わしてやりたいのさ。何だい、いつになく魔物が湧いとる森に婆ぁを一人放り込むつもりかい? そうと決まればちゃっちゃか動いとくれ。日が暮れる前に終わらせるよ」

 

 

◆◆◆

 

 

 母さんいきなりお客さんに無茶言うなよ……と口籠る番頭さんに愛想笑いを返し、押し切られるまま連行されたのは、宿からほど近い森の外れの一角。

 魔物が寄りつかなくなる、森とかつての街の境界にあたるこの周辺には、束の間の安寧を求めて、小動物が特に多く集まってくるのだという。

「ほー、こりゃええわ。お陰さんで活きのいいのが大量じゃあ」

 老婆がほくほく顔で、捕まえたばかりの兎を次々荷台へ積み込んでいく。

 ガンドフを連れてきてよかった。彼の、睡魔を誘う甘い息をバギで風下に流してやると、そこらに隠れている野兎や野鳥がぱたぱたと地に伏していく。これ、普段の食材調達にも使えるな。春が近いこの時期は兎が食べ頃なのだと、ネッドさんが上機嫌で教えてくれた。

 なぜか今、この場には僕とガンドフ、ネッドさんと、先刻彼女に興味を示したらしいマーリンが無言で着いてきている。殺気とまでは言わないけど、背後から威嚇するのはやめてほしい……ネッドさんが気にしてないみたいだからまだいいけど。

「あんたら、グランウォールを越えるつもりだって? 物好きにも程があるねぇ。まぁ無事山頂に着けたらひとつ、村長の息子んとこによろしく言っとくれ。孫娘があちらに嫁いどるんだ」

 成果は上々だったらしく早々に狩場を撤収し、今度は何故か、大木の脇にある井戸で血抜きを手伝わされている。僕一応客ですよね……いやもう何も言うまい。鳥や兎を捌いた経験はそれなりにあるけど、猟師さんがやっていたのを盗み見てはヘンリーと見よう見まねでやっていた素人仕事だったものだから、改めてやり方を学べること自体は、実はとても有り難いことだったりする。

 それにしたって、生け捕りにした兎を捌くっていうのは、フローラにはあまり見せたくない光景だな。

 何となく以前、故郷の洞窟で半死状態のアルミラージを乱獲したことを思い出した。

「お孫さんですか? え、山の中の村に嫁がれたんですか。かなり険しい道だって聞きましたけど」

 素直に驚きを口にすると、ネッドさんはやれやれと溜息をつき苦笑した。

「こうと決めたら聞かない子でねぇ……チゾット村って、ちょうど王都の手前の山道にある村なんだけどね。昔は村の奴らがよくこっちに降りてきてたんだよ。そん時村長の倅に惚れたらしくてね。まぁったく、色気づくのが早すぎだっての」

 言葉はやや辛辣だが、口調はとても温かい。血の繋がったお孫さんを大切に思っていらっしゃるのが伝わってくる。

 実は僕にも、祖父母がいたりするのかな。

 ちょっとむず痒い心地になったけど、同時に気鬱も感じて頭を振った。父さんの縁者って言ったら、悪名高い民殺しの王なんて言われる人かもしれないし。そんな人の血も継いでいるかもしれないと思うと、ひどく気が重くなる。

 父さんは、何を思って王位を継いだんだろう。本当に母さんの為だけに、そのすべてを祖国に置いてきたんだろうか。

 どうして僕は、連れて行ってくれたんだろう。

「ま、何だかんだ元気にやってるようだし。ひ孫がね、まだ小さくて降りてこられないのが残念だけど。会えたら婆ぁが寂しがってたって、伝えてやっとくれ」

 器用に皮を剥ぎながらのんびりと呟く老婆に「わかりました。お会いできたら、必ず」と答えると、さも嬉しそうに「ティナって言うんだ。あたしに似て別嬪だが、惚れるんじゃあないよ」などと宣われた。うん、どんな美人さんでも問題ないです。僕には誰より大事な、最愛の妻がいますから。

 それからしばらくは、山に棲む魔物のことだとか山道のことだとか、他愛のない雑談をしながら手を動かしていたが、ふとお婆さんが顔をしかめて、井戸の向こうに視線をやった。

「ああ。そういや、山に行くのはいいんだけどさ」

 つられて僕も顔をあげる。視線の先には若い木立と、その向こうに聳え立つ山影が見えるだけだ。苦く笑って、ネッドさんが教えてくれた。曰く、登山口の手前の草地が瘴気に汚染され、毒沼と化してしまっている。時折橋を作るのだが、すぐ腐り落ちてしまうのだそうだ。ちょうど今、橋を渡せる職人がこの近くにいないので、すぐに渡りたかったら沼に入るしかなさそうだ、とも。

「数年前からじわじわ広がっちまって。今じゃそこの沼を踏み越えないと、山に入れないんだよねぇ……」

「解毒と回復は覚えているので、何とかなるとは思うんですが……深いですか」

「膝丈くらいかね。ぼろ布で良かったらあとでわけてやるよ。靴を駄目にしたら大変だろ」

 思わぬ提案に、迷わずこくりと頷いた。さりげないご厚意が本当にありがたい。重ねて礼を言うと「今時王都に行こうなんて命知らずを見ると、お節介を焼きたくなるんだよ」とからからと笑われてしまった。

 でも、毒沼がこんなところにも。変わり果てたサンタローズ村の様子が目に浮かぶ。あそこも村の入り口や畑が侵食されてしまって、未だ耕作もままならないのだ。

 もしもその毒沼の汚染が今以上に広がって、この大樹まで腐ってしまったら。

 ふと不安がよぎり、ネッドさんに訊いたが「大丈夫じゃないかね。この木は特に、不思議な魔力を帯びてるから」とやんわり回答を返された。

「魔力? ……あの、樹齢何歳くらいなんですか。この樹は」

「はて、何百歳だろね。グランバニアが建国された頃には既に、だいぶ長寿の樹だったようだけど」

「そんなに昔から⁉︎ だって、グランバニア暦ってもう七百年くらい……じゃなかったですか」

 驚きのあまり、思わず腰を浮かせて梢の先を仰ぎ見た。確かに軽く千年以上は生きていそうな大きさだけど。まさかこの大樹は、古の勇者の時代からずっとここに存在しているものなんだろうか。

「詳しいじゃないか。尤も、今もグランバニア暦として数えて良いもんかどうかは疑問だけどね」

 いつの間にやら剥いだ兎の下拵えを終えた老婆が、苦い笑みを浮かべた。言葉の意味を飲み込むより早く、遣る瀬無い呟きが重く耳を打つ。

「王様がご不在になって、長いからね。この国は」

 ……父さんのこと、だよね。

 その『王様』がずっと昔に落命している事実を思うと、つきりと胸が痛む。当然そんなことは言えなくて、当たり障りなく濁した相槌しか返せないけれど。

「戻って、来られると……いいですね。王様」

 どの口が言うか。

 誰の所為だと、自分の中の何かが叫んで我ながら情けなくなる。それと同時に、今まで感じたことがなかった、壮絶な感情が突如として湧いた。

 父の死は今まで、ずっと僕個人の悲しみだった。どこまでも、僕だけが抱く絶望でしかなかった。

 僕以外の全ての人にとって、彼の死は他人事に過ぎなかった。

 

 ────あの日起こった一部始終をこの人達が知ったら、

 どんな反応が返るだろう。

 

 怖いと思った。そう思う自分を、卑怯だと思った。

 祖国という、漠然と大きな存在に対して。この時僕は初めて、言いようのない恐怖を覚えたのだ。

「どうだろうねぇ。……信じたい、気持ちはあるけど。さすがにこれだけ長く、音沙汰ないっていうのは、ねぇ……」

 そんな僕の暗い内心など知る由もなく、お婆さんはしみじみと、遠い空を見つめて呟いた。

「それにしても、あれだね。あんたの親は祖国のこと、あまり悪く言いなさらんかったんだね」

 暫しの沈黙の後。何気なく振り返った老婆がさほど感情の窺えない、無色の声で問うた。首を傾げると、老婆はまたどこか自嘲気味に笑って、潮風が運ばれてくる方角を遠く眺める。

「昔は随分、逃げて行ったがね。戻って来た奴なんざ一握りさ」

 それは、僕への答えなのか。ただの独り言だったのか。

 このお婆さんが見送ってきた、たくさんの同胞達の……祖国を捨てることを選ばざるを得なかった人達の苦しみ、みたいなものが。

 否応なしに滲んだ一言のように、僕には聞こえた。

 多分、妻を求めて出て行った父さんとは全然違うのだろうけど。例えばこの街が街としての体を為さなくなるほどに、人々が祖国を見限ってしまった。去っていく人々を、どんな想いで見送ってきたんだろう。きっと今、外で伝えられているグランバニアの噂話も、全く根拠がないことではなくて。

 だからこそ、グランバニアの袂であるここに宿屋を造ったのかもしれない。この人は。

「……そうですね。早くに、亡くなりましたから……父から直接、故郷の話を聞いたことはないんですけど」

 そんな方に僕の言うことなんて、きっと何の慰めにもならない。慰めたいわけじゃない、意味のないことかもしれないけど。

「でも、多分。いつかは戻るつもりだったんじゃないかって……思います。志半ばで、絶えてしまっただけで……」

 現に、僕は帰ってきたから。

 遅かれ早かれ、ここが故郷なのかもって知ったなら、やっぱりどんな状況であっても、帰らない選択肢はなかったと思うから。

 幼かった僕に、父さんは何も言わなかった。

 母さんを取り戻して、いつかあのサンタローズの暖かい家で一緒に暮らす。そんな幻想を、僕も夢見たことがあった、けど。

 ちゃんと帰るところがあった。弟君に王座を預けたというアイシス様のお話が本当なら、父さんはやっぱり、自分の国を完全に捨てたわけじゃなかったんだ。いつかは戻るつもりだったんだよ。息子の僕だからこそ、そう思う。

 ヘンリーだって捨てきれなかった。その重さを、今、身を以て思い知る。

「……どんな、方だったんですか。その、行方不明の王様」

 聞かない方がいい。理性が懸命に僕を制止する。

 それでも少しだけ、という欲が勝った。遠慮がちに問いかけた僕に、ネッドさんはどこか疲れた笑みを向けた。

「さすがにお会いしたことはないがね。義を失ったこの国に、正道を取り戻してくださった方だって……パパス王の治世になってようやく争乱がおさまって、跡継ぎもお生まれになって。やっとグランバニアに安寧が訪れたんだって、誰もが思っていたもんさ」

 まったく、なんでこうなっちまったかねぇ。

 絞り出されたその一言を最後に、それ以上は僕も、何も言えなかった。再びぽつぽつと葉の屋根を鳴らし始めた小雨の唄を聴きながら、ネッドさんも僕も、使った道具の後片付けをただ黙々と進めたのだった。

 

 

 

 動物を捌いた後だから匂いがついているかも。全ての片付けを終えたあと、せめてもと冷たい井戸水で念入りに手を洗っていたら「もうそのまま湯を使っておいき。沸いてるから」と思いきり苦笑された。お言葉に甘えて、僭越ながら一番風呂をお借りすることになった。

 すっかり鍛錬し損ねちゃったな。夜、寝る前に少し、ピエールに付き合ってもらおうか。

 そんなことを思いながら外の湯浴み場から戻ろうとしたところで「ご主人。少々奥方様にお目通りを願いたい」とマーリンに呼び止められた。居合わせたホイミンも一緒について行きたいらしく、マーリンの後ろでそわそわしている。番頭さんに彼らが仲間である旨を告げて、快く中に通してもらった。

 遅くなってごめん、と言いかけた声は尻切れにすぼむ。

 

【挿絵表示】

 

「あ〜、ふろ〜らちゃん、おひるねちゅうだ〜!」

 僕の消えかけた呼びかけとは真逆に、ホイミンが頭上ではしゃいだ声を上げた。慌てて振り仰ぎ、しぃっ、と指を唇に当てる。

 ベッドの脇の大きな幹にもたれかかって、蒼の乙女が静かに寝息を立てている。

 さらさら、木々を揺するさわめきのような、水の羽衣特有の衣擦れの音がする。腰掛けたスカートの裾が白く泡立ち、絶えず波打っている。手首に巻きついた羽衣はふわりと彼女を包んで、大樹の脈動に同調するように揺らめいていた。

 白と蒼の荘厳なコントラストの中、淡い息を零す珊瑚色の唇だけが、やけに生々しい人間らしさを醸している。

 少しだけ崩れた碧い後れ毛が、細い首を無造作に滑り落ちた。

 もう何度も見惚れているっていうのに。束の間、その清涼な雰囲気に、僕は容易く意識をもぎ取られてしまう。

 無防備に眠る彼女を誰にも見せたくない。あの姿を全部、僕で覆い隠して。誰の目も届かないどこかに閉じ込めてしまえたら。

「いやぁ、お美しい方ですね。なんとも清廉な、天空の御遣いかと思いました。あんな天女のような奥様がいらっしゃるなんて、実に羨ましい」

 不用意に近づかないよう、若女将さんに牽制されつつ遠巻きに寝顔を眺めていたらしい男性客が、うっとりと鼻の下を伸ばしながら僕に耳打ちした。そうしている間もふわふわ漂うホイミスライムが珍しいのか、興味深げに目で追っている。

 うう、どんな顔をしたものだろうか。露骨に邪険にもできず曖昧に笑い返したところで、フローラが微かに身じろぎした。

「……、ん」

 ────だからその、いちいち儚げな声は反則だって!

 僕の下らない葛藤など何のその。ひっそり滾った興奮を必死に鎮める僕を尻目に、ホイミンが「ふろ〜らちゃん! お〜はよっ」と彼女に近づいてくるくる回った。ぼんやり瞼を持ち上げたフローラが翡翠の瞳をぱちぱちと瞬かせ、僕達の顔を代わる代わる見比べる。やっと状況を把握したらしく、白い頬をかぁっと野薔薇色に染めて俯いた。

「嫌だわ、私ったら……うたた寝してしまって。ごめんなさい、テュールさん。マーリン様、ホイミンちゃんも」

 何とも愛らしい鈴の声。見知らぬお客さんがまたもや、ほぅ、と感嘆の息を吐いた。そちらには気づかぬふりをして微笑みを顔に貼りつけ、間に割り込むようにしてさりげなく、彼女の側へと歩み寄る。

「久々に歩いたもんね。そりゃ疲れるよ。明日から本格的に山登りだから、今日はできるだけ早めに休もう」

 隣に腰を下ろし、軽く跡がついて赤らんだ頬を優しく撫でたら嬉しそうに微笑んでくれた。ああもう、ほんと可愛いって。最近あまり彼女に触れられていない僕は、この程度のことでもつい舞い上がってしまう。

「ご主人の仰せの通り、今は鋭気を養うのがよろしいかと」

 今度は僕の後ろに静かに控えていたマーリンが、淡々と同意を口にする。何の用かと思ったら、これまで学んできた魔法理論のおさらいをしたかったらしい。船上という限られた空間ではあまり大きな魔法は試せなかったから、マーリンとしてはいよいよこの山越えの中で、本格的に魔法を習得させていく心算らしいのだ。

「学びの成果をいよいよ実践に移していけます。奥方様の攻撃魔法、実に楽しみだ」

 珍しく薄く笑んで呟くマーリンを、フローラがどこか不安そうに見つめながら頷いた。

 それにしたって、つい半年ほど前にはベホイミ以外唱えたことがなかったフローラが。フローラの魔法教育はマーリンに任せきりだったが、以前習得順をどのように考えているのか尋ねたところ、初級魔法をすっ飛ばしていきなり中級の炎魔法を詠ませるつもりだと言われて驚いたことがある。

 普通の人の習得間隔はわからないが、僕だって魔法を使い始めた頃は初級のバギが精々で、バギマを詠めるようになったのは成長し独り立ちしてだいぶ経った頃だ。ビアンカだって、あれで十年は炎魔法を詠んできている。確かにフローラは驚くほど習得が早いけれど、たった半年でメラミを詠むなんて、フローラの心身に負担がかかりすぎるのではないだろうか。

 ましてフローラは、魔物を直接手にかけたことが未だない。

「少し、気を張りすぎてるんじゃない? 船の上でも体調悪いのに一生懸命勉強してたし……二人とも、船酔いしながらさ」

 純粋に心配になったからそう言ったのだけど、船底でむっつりしていたマーリンを思い出したらちょっと可笑しくなってしまった。うっかり笑ってしまい、フローラとマーリンが揃って不服そうな顔をした。

 マーリンは仲魔達の中でも特に船酔いしやすいみたいだ。元々寡黙だし無表情な御仁なのだけど、揺れが酷くなるたび趣味の読書を封印しては部屋の隅にうずくまり、落ち着くまでひたすら壁を睨むことを繰り返していた。わかりやすい。

 当然似ても似つかない二人だが、生真面目な気質が元来近しいのかもしれない。最近見せてくれるようになった、フローラのそういうむっとした顔なんかは明らかにマーリンに寄ってきている気がする。

「私のこれは、性分でございます故」

「マーリン様、実はお辛かったのでしょうか。申し訳ありません、私の配慮が行き届かず」

 船酔いを揶揄されて一瞬むくれた妻だが、すぐにマーリンを気遣う素振りを見せる。いや、君だって辛そうにしてたんだから仕方ないと思うよ。対するマーリンは全く無感動に首を振り、にべもない口調できっぱりと断じた。

「私への配慮など一切不要。奥方様はご主人の片腕となられる御方、私に尽くせる力があるならば、今後も全霊をかけてご助力致しましょう」

 なんとも涙ぐましい師弟愛ではないか。「そのお気持ちに応えられるよう、一層精進いたします」と決意を新たにするフローラと黙って頷くマーリン、彼女をやんやと励ますホイミン達を微笑ましく見守っていたのだが、ふとそんな、傍観者みたいな立ち位置になっている自分に対して疑念が湧いた。

「……? どうか、なさいました?」

「あ、いや。なんか、本当に僕って魔物遣いなのかなぁって。だって最近、フローラの方がみんなと仲良い気がするし」

 思ったことをそのまま口にしたら、フローラとホイミンがそれぞれきょとんと顔を見合わせた。

 そこまで変なこと言ったかな。実際問題、最近スライム属のみんなが僕より先にフローラに飛びついていくなぁというのは感じていた。特に引っ込み思案なしびれんは、女の人であるフローラの方が僕より安心するのか、暇な時はすっかり彼女にくっついて離れないし。

「そんな、こと……ないと思いますよ。皆さんに良くしていただけるのは、私があなたの妻だから……ですよね? お二人とも」

「ホイミン、ふろ〜らちゃんだいすき〜! でもホイミンは、ごしゅじんさまのなかまだから〜!」

 うん、ホイミンやっぱり要領を得ない。でもありがとう、なんとなく言いたいことは伝わった。

 この、魔物遣いの力っていうものがどういうものなのか、未だにいまいち把握しきれてないんだよね。魔物研究所のお爺さんからは邪気を払う瞳だ、みたいに言われたことがあるけど、そもそも邪気ってなんだろう。異様な闘争心だとか興奮を鎮める作用があるのかな、とは思うんだけど。

 彼らは、僕だから従属していると口々に言う。本当にあまり主従という感覚ではないのだけど、確かに彼らと自分が繋がっているのかな、と感じることはある。例えば僕が調子悪いと、みんなのキレも悪くなる気がする。双方の意思にかかわらず何らかの契約で繋がってしまっている状態なのだとしたら、逆に言えば彼らの意思に関係なく、一度従属した魔物は主の支配下から逃れることができないんだろうか?

 例えば今みたいに、邪気が落ちた彼らが僕以外の誰かにすごく懐いたとして。その誰かを害することであっても、僕が命じれば、彼らは遂行してしまうんだろうか。

 魔物遣いの、強制的な従属力によって。

 それは、考えようによってはひどく、恐ろしいことのように思われた。

「全く、何を仰るかと思えば。我々が何故ご主人に大人しく繋がれておるのか、とんとご理解いただけていないと見える」

 もやもや展開したろくでもない思考を打ち払ってくれたのは、常に沈着冷静な、学者肌の魔法使い。

「我々にとって、その御力は唯一無二。主と戴く存在は、貴殿をおいて他にはおられぬ」

 ……本当に、そんな大層な身分でもないと思うんだけど。

 でも、やっぱりそう言ってもらえるのは……嬉しい。面映いし、そんな強い誠意に応えられる自分でありたいと思う。

『主』と呼ばれて恥じない、自分で。

「うん。……なんか、変なこと言ってごめん。いつも本当に、ありがとう」

 まだ、何も覚束ない僕だけど。精一杯気持ちを込めてそう言ったら、フローラもホイミンもほっとしたように表情を緩めて笑ってくれた。もちろんマーリンも、無表情のまま一度だけ深く頷く。

 僕はどこまで、間違わずにいられるだろう。

 せめて、僕自身が正しいと思うことのためだけに。妙な力を傲るのではなく、彼らの厚意で力を借りているのだと、その意識だけは失わずにいたい。

「私も、皆さんと同じ、ですから」

 僕を仰いであどけなく笑うフローラを見下ろしたら、たまらない愛しさが込み上げた。少し躊躇いながら碧髪を撫でれば、またほんのりと幸せそうに微笑む。そんな表情に、僕は恐ろしいほど安堵する。

 どうか変わらないで。ずっとそうして、僕の側で笑っていて。

 表に出せない密やかな葛藤を押し殺し、祈る。

 初めて降り立った故郷の夜が、そうしてゆっくりと更けていく。

 

 

 

 その晩は食堂で大きなテーブルを囲み、宿屋のご家族の皆さんとお客さんも一緒に、賑やかな夕食をいただいた。

 メインの料理は、夕刻獲って捌いたばかりの兎の香草焼きとシチュー。あっさりした肉の旨味を、よくすり込まれた塩が引き立てる。素朴な味わいのパンにもよく合った。今頃この床下でも、ご馳走を囲んで仲魔達がわちゃわちゃ盛り上がっていることだろう。

 狩りから下準備まで手伝ったことを話したら、敬虔なフローラは僕と宿の皆様に感謝の言葉を告げ、印を切っていつも通り深く祈りを捧げてから、カトラリーを手に取った。

「あらまぁ、だよねぇ。あんたも隅におけないじゃないか」

 到着した時にも会っているだろうに、改めて皆さんに妻を紹介したところ、やたらにやにやと顔を緩ませたネッドさんに脇腹を小突かれた。何だと思ってたんだろう。まさか兄妹だと思われていたとか?

「大変な旅路でしょうに、ご主人についてここまで来られるなんて。本当に大したものですよ。愛ですねぇ……」

 先刻フローラの寝顔に見惚れていたお客さんが、湯上がりで髪が湿ったままのフローラをうっとり見つめて話しかけてくる。恥じらって目を伏せたフローラはとても可憐だ。

「なんだっけね、遠い西の大陸からおいでになったんだって。旦那の故郷参りの為にはるばる、奥さんの故郷から? 見るからにいいとこのお嬢さんをこんなところまで連れて来ちまうんだから、あんたも大概愛が重いよねぇ」

 そこら辺は自覚があるんで、ほっといてくださいね。込み上げる羞恥は一心不乱に肉を噛んで誤魔化した。黙々と料理を頬張り老婆の冷やかしを受け流していたら、隣のフローラが優しくフォローしてくれた。

「私も、彼の故郷を是非見たいと思ったのです。ずっと昔に、私の父がこちらの王都を目指したことがあったそうで。その時は辿り着けなかったそうですが、彼と一緒ならきっと、この険しい山も越えられる気がします」

 うっ、天使かこのひとは。さっきまで僕を揶揄っていたネッドさんも何やら窪んだ目を潤ませては「泣かせるねぇ……なかなか大変な道だと思うが、頑張んなよ」などと優しく声をかけている。待って、僕とフローラで激しく態度が違う気がするんですがそれは。もしやお孫さんとフローラを重ねてない? 年齢が結構近かったりとかするんだろうか。

「ティナちゃんがお嫁に行く時も大変だったねぇ、ネッドさん。もう六年かい? 月日が経つのは早いもんだ」

 そんなことを思ったところで、ちょうどよく話題がそちらに逸れた。不思議そうに瞬きして顔を上げたフローラに、番頭さんご夫婦が丁寧に説明してくれる。

「娘が、ここの山奥にある村に嫁いでおりましてね。輿入れの時は向こうが男手確保して迎えにきてくれたんで、まだ安心して行かせられましたけど……文をもらうまでもう、不安で不安で」

「ええ、そうなんです。お嫁に行ったのがちょうど、そちらの奥様と同じくらいの歳の頃だったかしら? それから一年くらいで孫が産まれたのよね」

 この歳でお婆ちゃんになるなんて変な感じだわ、と若女将さんがそわそわ言うと、お前達も早かったじゃないか、とネッドさんが冷やかし混じりに笑う。他愛無い、ただの微笑ましいご家族の会話なのだけれど、何故か今は身の置き場がない心地がした。

 孫、だって。フローラ。

 ちらり、フローラの様子を窺うと、さっきと変わらず穏やかな微笑みを浮かべて相槌を打っている。僕の方を見ないまま。

 ……なんだろ。何でこんな気分になるんだろう。何か、違う。いつものフローラとはこう、いつもなら……こんなの、彼女らしくない。何で、意図して、何でもない顔してるみたいな────

 

 ()()()()()()

 

 やっぱり、変だ。

 少し前までのフローラは、子供の話題にもっと……過剰なほど反応してた。授かった? と訊くたびに真っ赤になってぶんぶん首を振ったり、子供がいる未来を想像しては幸せそうに話してくれたり。

 話の流れで、こんな風に子供の話が出た時なんかは、いつもちょっとだけはにかみながら、僕と視線を交わらせてくれた。

 そういう素振りを微笑ましく感じればこそ、他人行儀に思ったことなんてなかったのに。

 はっきりと違和感を覚えたのは、やっぱりきっとあの時だ。その瞬間を思い出し、胸がぎゅっと苦しくなるのを無意識に抑えてやり過ごした。

 だからこそ、訊けない。もうこういうことは、僕からは絶対に訊かないって決めたから。

 今更、悔やんでも悔やみきれないけど。

 ああ、…………そんなにも、

 君を失望させてしまったんだろうか。僕は。

 

 

◆◆◆

 

 

 サラボナを発って、エストア大陸に着くまでかかった日数はおよそ二ヶ月半。

 この長い航海の間、僕は全く意図せず禁欲生活を強いられた。年頃の若造なので察して欲しい……しかも傍には最愛の妻がいるというのに。

 半年前の航海ではまだ時々交わりを持っていたし、出立前のサラボナでは蜜月というべき濃密な日々を過ごしてきたから、人目があるとは言え僕としては正直、その機会に恵まれることをものすごく期待していた。うん、恥ずかしながら僕はこの二ヶ月半、相当欲求不満気味だったと思う。

 乗船して程なく、僕ら夫婦はそれぞれが体調を崩してしまった。

 どちらも単なる風邪のようだったけど、特にフローラは吐き気を伴った症状がなかなか治まらなくて、長いこと、ひどく辛そうにしていた。

 さすがに一ヶ月も経てばだいぶ良くなったように見えたけど、よくよく見ているとまだ不調なのか、腹部を撫でていることも多かった。更にフローラは毎晩、ベッドに潜り込むなりこときれたように眠るようになった。就寝前はいつもちょっとしたお喋りを楽しんでいたのだけど、最近はそんな機会もめっきり減ってしまって、でも寂しいとは何となく言い出せずにいた。一緒に眠っていることには変わらないのだから、そんなこと言っても困らせるだけじゃないかと思って。

 やっぱりまだ、本調子じゃないんだろうな。そう思って夜、やっぱり誘いたいのをずっと我慢していた。

 せめて、愛らしい寝顔をぼんやり眺めては、己の欲求をなんとか紛らわせて。

 前、砂漠に降りた時には、下船の前夜に僕が我が儘を言ったせいで、彼女をしっかり休ませてやれなかった。

 また同じ轍を踏むのは嫌で、そう思うと、いよいよ大陸が近づくごとに余計に言い出せなくなっていた。

 そんな中、あの小さな事件は起きたのだ。

 

 

 

 あれは、フローラに月のものが変わらず来ているかと問い質した日のこと。

 フローラが過ごす特別船室を訪ねた後、僕は込み上げる羞恥とか後悔とかで頭の中をぐちゃぐちゃにしながら、仲魔達の憩いの場である地下の小部屋に駆け込んだ。

「おや、あるじ殿。今は後部の番のはずでは」

 もはや彼の一部と言える、緑のスライムを拭いてやっていたピエールがのほほんと顔を上げる。今この船室にいるのはピエールとマーリンのみ。ガンドフとプックルは魔物番をしていて、今はサボり中の僕の分まで後部甲板を守っている。スライム属のみんなは最近、暇になると医療班として船員さん達の周りをうろちょろしたり、甲板の空いたところでスライム属流の鍛錬に精を出しているらしい。

「ちょっと、懺悔させて……!」

 駆け込みざま奇声をあげてがつん‼︎ と壁に頭を打ちつけた僕を見て、ピエールは早速「魔物に懺悔とは、これまた珍妙なことを仰る」などと可笑しそうに揶揄ってくれた。じとりと睨んでから、口早にことの顛末を説明する。別に話さなくても良かった気はするが、その時の僕はどうにも、どこかにこの胸の内をぶちまけないと人前に戻れない有様だったのだ。

 フローラの前では平静を装いきったつもりだったが、本当はもう、今すぐ頭を掻き毟って身悶えたくて仕方なかった。ここが海の上じゃなかったら、今頃僕は地中深くまで穴を掘って埋まっていたことだろう。

「ほおぉ。つまり奥方殿の胎に仔がいるやもと聞いて、居ても立ってもいられず」

 慌てふためいた僕の要領を得ない説明でも、さすがピエール。簡潔に要点をまとめあげ、わざとらしく深々頷きながらこちらを覗き込んでくる。

「いやさすがに、今回は呆れられたと思う……あー! ほんとなんであんな風に訊いちゃったかな僕は‼︎」

 思い出すだけで顔から火が出そうだ。ほんの半刻ほど前、魔物番をしていたところにフォスター船長が顔を出した。初めは他愛ない雑談をしていたのだが、ややあって相談したいことがあると言われ、持ち場を離れて一度船長室に入った。他の船員にあまり聞かれたくないと前置きした彼は、ひどく遠慮がちに、彼の抱いた疑念について話してくれた。

 曰く、お嬢様は実はご懐妊なさっているのでは、と。

 何故今までその可能性に思い至れなかったのか。言われてみれば、確かにヘンリーから聞いた悪阻の症状に似ている気がする。吐き気は慢性的に続いていたようだが、特定の食べ物とやらに反応する様子がなかったから見逃してしまったのか。体調を崩したのも、ちょうど僕が風邪をひいた直後だったから、その所為なんだろうと思い込んでいた。

 もしかしたら本人も気づいていないかもしれない。意外と気付きにくいものだってヘンリーも言ってたし。さすがにお嬢様に直接お訊きすることは憚られる、と言葉を濁した船長に、すぐに確認してきますと豪語して船長室を飛び出した。

 そう、まさに居ても立っても居られずだったが、結果は残念ながら、否。

 しかも土壇場でいい確認方法を思いつかなくて、そういえば妊娠すると月のものが止まるって言ってた、くらいの思いつきでひどく不躾な聞き方をしてしまった。あんなの呆れられて当然だ……! なんてデリカシーのない夫だと、今度こそ幻滅されても文句は言えない。

 思慮深い船長がああやって躊躇するくらいだ。夫婦であっても簡単に踏み込んでいい領域じゃない。だからフローラだって普段、僕にいちいち月のものの報告なんてしないのだろうし。いやそもそも、そういうものじゃないんだろうし……

 ヘンリー夫妻の懐妊を聞いて浮かれたのもあって、サラボナに帰ったあたりからわりとしつこく聞いちゃってたもんな。毎回申し訳なさそうに否定してくれていたのが、今回ほどはっきり、妻に呆れられたと感じたことはない。

 それでも微笑みを絶やさず、優しく諭してくれた妻に本気で頭が上がらない。あああもう、埋まれる穴はどこですかここですか‼︎

「そう石頭で乱打して、船底に穴が空いたら如何する。少し落ち着きなされ」

 苦笑いで止めてくれたピエールに思わず恨みがましい目を向けて、がっくりと項垂れた。はああぁ、と口から勝手に盛大な溜息が漏れる。

 ……決めた。もう僕から不躾なことは訊かない。特にこういう、デリケートなことは。フローラだってあんなに苦笑しながらも、変わったことがあったら初めに教えてくれるって約束してくれたんだから。

「その愉快な姿をお曝しになれば、奥方殿も絆されるかもしれんよ。ただでさえあの方はあるじ殿に『くびったけ』なのであろうから」

 ────首っ丈、って。

 全く調子いいもので、愛妻の好意を匂わされた僕はピエールの意のまま、そろそろと顔を上げてしまう。万年片想いの如く、僕の方が愛が重い自覚があるから、そういう言葉につい縋ってしまうのだ。絶対にその鉄仮面の下でにやにやと僕を冷やかしているであろう相棒を睨み、せめてもと口答えを試みたが。

「……ほんと、どこで覚えてくるの。そういう言葉」

「船乗り達が噂しておった。まぁその時は組合せが逆であったかな? 暁の見張りはなかなかに暇で」

 逆って何。しかもいつの間に、船員さん達とそこまで親睦深めてたわけ? それなりに目を配ってたつもりだけど全然知らなかったぞ。

 まぁ、皆さんと仲良くしてもらえるのは嬉しいけどさ。

「……船長に報告してこよ……戻るよ。聞いてくれてありがとね」

 ピエールと話していたらなんだか脱力してしまって、のろのろと重い腰を持ち上げた。もう小一時間持ち場を離れてしまっている。騒ぎは聞こえてこないから今のところ戦闘はなさそうだけど、早く戻って船員さん達にも休憩をとってもらわなくちゃ。

 はぁ、と最後にもう一つ気鬱な溜息を漏らした僕の背に、見送りの挨拶とばかりに愉悦混じりの呟きを投げられた。

「まったく、ヒトのオキモチとは実に度し難いものよ。斯様なあるじ殿を拝む分には愉快極まりないが」

「貴殿も魔物にしては大概好事家の部類かと。奇怪過ぎて、私には理解する気が端から起こらぬ」

「拙者とて恐らく一生、理解が及ぶ気はせんよ。なればこそ面白い、はてこれは崇高なるヒトへの探究の一端か、或いはある種の怖いもの見たさか……」

 僕が言い返すより早く、今まで会話に加わらず魔導書を黙々読んでいたマーリンが無関心表明ともとれる合いの手を入れてくれる。魔物である彼が意外にも船酔いしやすいのは、ああやって空き時間にひたすら本を読んでるからじゃないのかな、と思ったりする。

 どこか老獪な雰囲気が漂う者同士、意見を交わし合っているのはちょくちょく見かけるが、実のところ仲が良いのか悪いのか良くわからない。つれない一言だったがピエールが気を悪くした様子はなく、寧ろますます愉しげに好き勝手言ってのけては一人忍び笑っている。

 ……でも、そっか。傍から見て、そう見えるんだ。

 首っ丈、だってさ。

 自信のなさをこんなことで補うのは不毛な気がするけど、嬉しいものは仕方がない。にやける頬を叩いて誤魔化しながら、小部屋の階段を急いで上がった。

 ほんと、一度満たされたらずっと変わらずいられれば良いのにな。我ながら贅沢な生き物だと思うよ。……どんなに満ち足りても、次の瞬間にはもっと、って思っちゃうんだから。

 

 ────絶対に変わらない、なんて、

 誓い合うことは出来ないんだろうか。

 ちょっと前にはもう、何も不安になることはないと思ってた。

 あんなにも信じていられた。今だって、僕自身は何も変わっていない。同じだと、思うけど。

 ただ、幸せすぎたから。欲張りになっただけ、なのかな。

 僕も、もっと時間が経ったら、今のこの気持ちが変わってしまったりするんだろうか。

 穏やかに。緩やかに。

 想いの熱量が、前より増したと感じても。冷めたと思うことなんて未だないのに。

 

 温度差、みたいなもの。

 それはごく微かな違和感に過ぎなかったから、僕は頭を強く振って、そのもやもやを振り切った。

 

 前に、何人でも産むって言ってくれてすごく嬉しかった。

 フローラも子供が欲しいって言ってくれたし。男の子と女の子、どっちが欲しいですか? なんて君が問い返してくれた時にはすっかり舞い上がってしまった。……僕がはしゃいで訊いたものだから、話を合わせてくれただけかもしれないけど。

 君と一緒に『親』になれるなら、とても素敵だと思ったんだ。

 ちゃんと、僕達の想いは通じ合ってて。だからこんなの、考えすぎだってわかってる。僕が卑屈になってるだけだって。

 彼女が僕のために、今はグランバニアに行くことを最優先に考えてくれていることも、ちゃんと、解っている。

 だからこんなの、ただの、僕の甘えにすぎない。

 

 

「……フローラは、そこまで……欲しくない、のかな……」

 




本日、二幕・三幕の章整理を行いました。これまで7000字目安で分割していた話を2.5万字程度を上限に統合しています。第二幕以降で栞を挟んでくださっていた皆様、話数がずれ込んでしまい申し訳ございません。
今後はこのように動かすことはないと思います。冗長な物語ですが、少しでもお楽しみいただけたなら幸せです。


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#5. 幼竜二匹

 久々に、けたたましい鶏の声で目が覚めた。

 

 おんどりの鳴き声など数えるほどしか聴いたことはないが、妙に懐かしい心地がした。ずっと船の上で過ごしていたから余計に新鮮に思える。

 恥ずかしながらそこまで寝起きが良い方ではないが、この日は不思議と様子が違った。

「…………え、何これ。すごい気力が有り余ってる感じ」

 ぱちりと瞼が開いた、その時にはもう眠気がすっきり晴れていた。掌を握って開いて、覚醒しきった身体感覚を確かめる。指先まで生命力がみなぎっているような。いつも重くまどろみの淵に引きずりこもうとしてくるあの寝起きの倦怠感を、今朝は全く感じられない。

「だから言ったろ。この樹には魔力があるって」

 いつから起き出していたのか、昨晩と全く変わらぬ様子のネッドさんが、挨拶もそこそこにひょいと顔を出した。

 と、思いきや「朝飯はいつでも出せるよ。支度したら女将に声かけな」と言いおいてまた外へ行ってしまった。朝焼けも見えないくらいの時間なのだけど、さすが、きびきびしてるなぁ……

「私も、とっても調子がいいです。今日はたくさん登れそうな気がしますわ」

 ほとんど僕と同時に目が覚めたらしいフローラも、そう言って咲き綻ぶような笑顔を見せてくれた。首を傾げた瞬間晴天の碧髪が細い肩にさらりと落ちて、何気ない仕草にどきりとする。

 朝一番に君のそんな表情を見られるなんて、今日は本当に良い旅の幕開けになりそうな気がしてくる。

 最愛の妻の可愛い笑顔を独り占めと思いきや、昨夜相部屋で休んだもう一人の男性客が、僕の背後のベッドから羨ましそうに彼女に見惚れていた。昨夜は髪を結い上げていたから、下ろした姿が新鮮なのだろう。わかります、可愛いですよね。でも、嗚呼女神様、などとうっとり呟く声が聞こえてしまうと、ほんと狭量だけど僕としては面白くない。彼女のそんな無防備な姿を見ていいのは夫である僕だけだと、本当は声を大にして言いたいのだ。

 何となく目を離したくなくて洗顔にもちゃっかりついていき、また衝立を借りて支度をする間も、自分の支度をしながらさりげなく見守っていた。

 普段なら朝食までの空き時間を使って、身体を動かしに行くところだ。過保護な僕を彼女は不思議そうに見上げていたが、有無を言わせぬ笑顔で押しきった。嫉妬深いと笑わば笑え。

「綺麗な髪なのに、結っちまうんですねぇ。何だか勿体無い」

 支度を終えて衝立から出てきたフローラを眺めて、お客さんがしみじみと零した。「この方が動きやすいのです。短くすることも考えましたが、……主人が……切らない方が良いと、言ってくれましたので」と、後半恥ずかしそうに口籠もりながらフローラが答えた時には心臓を撃ち抜かれたかと思った。何今の。主人ってちょっと、フローラに言われると仲魔達とは全然違うっていうか、可愛さが臨界点突破して正直今すぐ悶絶したい。

「朝からなんちゅう顔してんだい。そら、そろそろ飯にするよ」

 朝食をいただく前に仲魔達の様子を見る為下に降りたら、またもや通りかかったネッドさんに笑われてしまった。あの後僕が思いっきり赤面してしまったものだから、フローラまでぽぽ、と頬を薔薇色に染めて俯いていたのだった。ああ、駄目だ、幸せで口許が弛む。細かいことは聞かれなかったものの、朝の挨拶を交わした仲魔達も、皆一様ににまにまと生温い笑みを浮かべていた。

 朝食は産みたての新鮮な卵の料理と、昨日の残りのシチューをたっぷりといただいた。寝覚めの良い身体に温かい食事がしみて、活力に変わっていくのがわかる。

 食事の後は昨晩に引き続き、グランウォールやこの先の村の話、山に巣食う魔物についてなど、旅の助けになる情報を色々と教えていただいた。

「お客さんは大所帯ですし、冬の間は山を越す人間がいませんでしたから。魔物共も飢えとります。本当に、よぉく気をつけてくださいよ」

 宿の方という以上に、親身にアドバイスをくださる番頭さんの人の良さに感動すら覚えながら、何度も頭を下げて礼を言った。

 最後は隣の教会に立ち寄り、旅の安全を祈願してもらった。お祈りを終えた僕達を心配そうに見送ってくれた修道女が別れ際、扉の外側でひっそりと、声を殺して伝えてくれた。

「私は王都から参った者です。陛下が出奔なさった凡そ二十年前から、あの都は年々澱んでいっているように思います。何故でしょうか、私が発った頃にはひどく嫌な感じに満ちていて……優しい目をした旅のお方、王都にゆかれるのでしたら、どうぞくれぐれもお気をつけ下さいまし」

「……それは、どういう……一体、何があったのですか」

 ただならぬ警告に息を呑む。問い返したが、彼女はただ悲しそうに顔を歪めて首を振った。

「王都しか知らぬ者にとっては、異変ですらなかったのかもしれません。あの城塞の内側は、ある種の楽園でした。……きっと、囚われてしまえば幸せな、監獄」

 能力は高いが取り立てて地位を持たなかった彼女は、元々頻繁に王都周辺の村を支援しに訪れていたのだという。村人達と触れ合う中で、彼女は次第に違和感を強めていった。異様な選民意識、外界への無関心、時を止めたように遠い目で昔を懐かしむばかりの人々。周辺の村が必死に営んでいる当たり前の日常が少しずつ、王都から失われていく。閉じた世界を一度嫌悪してしまったら、それが形のない恐怖に変わるまで幾許もなかった。

 何が起こっているんだろう。思わずフローラと顔を見合わせたが、これまで得た情報を思い返しても、これと言ってヒントになりそうなことはなかった。

「ひとつ……伺ってもいいでしょうか。グランバニアの国教は、今も天空信仰に違いありませんか?」

 ふと気になったのは、やはり光の教団だ。ポートセルミで、ナサカで、船旅の途中で、忌まわしい痕跡を見届けてきたから。ラインハットも、今も昔も教団にじわじわ侵食されている。ヘンリー達がしっかりしているから、今度は十余年前のようにはならないと思いたいけど。

 遥か昔、もっとたくさんの国家が存在していた頃は天空神以外の神を奉る民もあったと言うが、大きな国が三国しかない現在はごく一部の部族を除いて、基本的にどこも竜神を主神として祀っている。精霊ルビス信仰は自然崇拝の類で、竜帝がこの界の守護者となるより遥か以前から存在する、万物の母と呼ばれる偉大なる創造柱だ。

 確か、国の成り立ちからして、これらの信仰体系はグランバニアも例外ではないと思う。

「国教は……ええ、もちろん竜帝を祀る天空信仰です、が……」

 驚いたシスターが瞠目し、僕とフローラを見比べた。話が早くて助かる。すぐに意図を拾ってくれたシスターに黙って首肯し続きを促すと、彼女は震える手で小さく肩を掻き抱き、懸命に言葉を紡ぎ出した。

「王都の、教会内部では……もう随分前から、異教を重んじて信仰する者が増えていたように思います。私も、何度も勧められて……それも、苦痛で」

 長年転属を願い出ておりました、と彼女は怯えきった様子で呟いた。辛いことを聞いてしまっただろうか。フローラがそっと側に寄り、震える肩を優しく支えて立つ。

 魔物がはびこる山越えは無論恐ろしかったが、それ以上に王都に居続けることが怖かったのだと彼女は言った。道中、魔物に喰われて落命するかもしれない恐怖よりも。

「申し訳ありません。お辛いことを思い出させてしまったみたいで……もう一つだけ伺いたいのですが、その異教は『光の教団』と呼ばれるものではなかったでしょうか」

 異教と聞いて思いつくのは一つしかない。ほとんど確信した上での問いだったが、意外にも修道女は少し驚いたように顔を上げた。記憶の淵を探って何度も首を傾げ、彼女はさも自信なさげに、その答えを捻り出す。

「……いえ。違います、確か……『イブール教』と言ったかと、思います」

 

 

 

 昨夜まで続いていた雨はすっかり上がって、今は爽やかな朝風が木々を揺らしていた。穏やかな春の始まりの日だった。まだ肌寒く、少し地面は湿っているようだが、これから陽が昇れば馬車も動かしやすくなるだろう。

 出発の準備を全て整えると、宿の皆さんが総出で見送りに出てきてくださった。

「ここはキメラの翼が使えるから、どうにもならなくなったら死ぬ前に戻っといで」

 餞別だよ、と言ってネッドさんがキメラの翼を渡してくれた。ルーラが使えるから町標があることさえわかれば十分なのだけど、そのお気持ちが嬉しいので、ここは素直に受け取っておくことにした。

「有難うございます。使う機会はない方がいいですけど、もしもの時の為にいただいて行きますね」

「素直なのは良いこった。気をつけるんだよ。いつかまた、こっちにも顔見せにきておくれ」

 あたしが死ぬ前にね、などと縁起でもないことを言われて顔が引き攣る。素直な奴は嫌いじゃないよ、とネッドさんがまたからから笑った。

「道中お気をつけて。お客さんのご親族にご縁があります様に」

「娘に会えましたら、何卒、よろしくお願いいたします」

 お世話になった番頭さん夫婦も声をかけてくださり、フローラと並んで頭を下げた。もしチゾット村でお嬢さんにお会いできたら渡せるよう、お二人から手紙を預かっている。こういう機会でもないと、この地では手紙のやり取りもままならないから。

 この大陸で初めて出会った人達が、この方々で良かったな。

 ざわざわと胸を侵食していた故郷への不安が、素朴で温かいもてなしのお陰で薄らいだ。

 最後、教会で聞いた『イブール教』だけが引っかかったけど。イブールという名に聞き覚えはないし、シスターも光の教団のことはご存知ないようだったから、ひとまず今は、記憶の片隅に置いておくことにする。

 もしかして、光の教団の他にも怪しい宗教が増えていたりするのかな。天空信仰の要である天空城が地上のどこかに落ちて久しく、代わりに信奉するものが求められてるってことなんだろうか。外との関わりが断たれているグランバニアだから、それこそ王都内で興った独自の宗教なのかもしれない。シスターをあんなに怯えさせる教義なんて、どのみちろくなもんじゃなさそうだけど……

 宿の皆さんと教会の神父さん、シスターに並んで、一晩屋根を共にしただけのお客さんもひらひら手を振って見送ってくれた。

 もう一度、深く頭を下げてから。手綱を引いて、僕達は木漏れ日の降る優しい場所を後にした。

 

 

◆◆◆

 

 

「山の頂上が霞んで見えませんわ。ここを越えて行くのね……」

 大樹の宿を後にし、森を抜けた僕達が見たものは、灰色の雲に飲み込まれていくように聳え立つ巨大な山影だった。

「昔は皆さん、この山をひと月もかからず越えていたんだって。すごい健脚だよね」

 茫然と山を仰ぐフローラの隣に立ち、同じく目いっぱい首を上向けた。

 どれだけ見上げても空との境目が見えない。この雲の中に人の住む村があるなんて、ひどく不思議な感じだ。

 ああ、でも、天空人と呼ばれている人達がもし本当にいるのなら、きっともっと、雲より高いところに住んでいるのだろう。

「ええ。私達も、負けていられませんわね」

 今更ながら、フローラは高いところがひどく苦手だ。怖いのではと少し不安に思ったが、意外にもフローラは力強く答えると、僕を振り返って気丈な微笑みを見せてくれた。

 ほえー、と同じく口を開けて山を見上げているスラりん達を笑って促し、しばらく歩くと程なく、つんと鼻孔の奥を突く異臭が漂い始めた。

 宿で教えてもらった、山道を塞いで広がる澱んだ毒の沼だ。

 汚染は思った以上に広範囲に渡っていた。向こう岸まで直線距離で、歩いて十歩と言ったところか。周辺の木々が毒を吸い上げ、半端に溶けたように朽ちた姿が見られる。ネッドさんはああ言ったけれど、やはりいつかはあの大樹にも被害が及んでしまうのでは、と心配になる。

 枝を差し入れて深さを測った感じ、確かに僕のふくらはぎまであるようだ。中の方はもっと深いかもしれない。

「ブーツだとぎりぎり中に泥が入っちゃいそうだね。やっぱり、布を巻いて通るのが一番良いか……」

 濁った緑に澱む沼を見つめて独りごちる。隣で覗きこんでいるフローラも、きゅっと唇をかみしめて何やら考え事をしていた。

 素足じゃ多少怪我するかもしれないけど、渡ってしまえば治癒できる。フローラと、体重が軽い仲間達には馬車に乗ってもらって、僕とプックル、ガンドフでパトリシアを先導しながら越えればまだダメージを抑えられるんじゃないだろうか。必要に応じて解毒しながら、とにかく沼を渡る面々が途中で倒れないよう気を配る。これが最善手のように思われた。

「……うん、最悪解毒しながら進むしかないかな。フローラとスラりん、ピエール、あとマーリンも馬車に乗って────」

「あの、テュールさん。ここは私にお任せくださいませんか」

 そうと決まれば手早く済ませてしまいたい。仲間達に指示を振る僕を、どこか硬い声が遮った。

「フローラ?」

 驚いて振り返ると、妻がひどく緊張した面持ちで両手を握りしめ、食い入るように僕を見ていた。思わず気圧され息を飲む。その緊張を何とか弛めるように、フローラは僕に向かってぎごちなく微笑んでみせた。

「いつかお役に立つのではと、勉強していた魔法があるのです。結界魔法の一種で、トラマナというのですが」

 トラマナ?

 初めて聞く魔法だ。名称だけでは全然効果がわからない。

 ちらりとマーリンを見遣ったが、彼は愛弟子の隠し玉を把握しているのか否か、相変わらずのすまし顔で僕の縋る視線を黙殺した。

 結界魔法とは通常、内外どちらかの干渉力を制限する魔法を指す。スラりんが使う硬化魔法のスクルトだとか、魔法壁を生成するマホカンタ、逆に他者の魔力を内に封じ込めるマホトーンなどもこれの類だ。でも、毒に有効な結界魔法なんてあっただろうか。解毒魔法なら僕も習得しているが、それを常時結界として漲らせるような技は持っていない。

「……あの、初めてなので……ちょっと、試させてくださいね」

 こくり、息を整えたフローラが、ひどく心許ない声でそんな伺いを立てた。試すって、一体。問い返そうとしたが彼女は僕の返事を待たず、瘴気が立ち込める禍々しい沼の前に背筋を伸ばして佇んだ。

 ふぅ、と息を整えて指を組み、よどみなく真言を唱えて魔力を集中させ始める。彼女の春空の髪に似た、青翠の光がぽわりと掌に灯った。靴を履くように彼女が自らのくるぶしをなぞれば、光はみるみるきれいな脚を包みこんでいく。

「! フローラ、待っ────」

 思わず制止したのと、彼女がブーツを脱ぎ、その華奢な足を沼へと差し入れたのがちょうど同時だった。

 細い足が汚泥に飲まれて、濁った瘴気がぼこぼこと浮かんでは割れる。咄嗟に掴んだ細い肩を、もう身体ごと沼地から引き寄せて攫った。どのみちこれから渡るにしても、すぐ死に至る毒ではないとわかっていても、妻の美しい足が毒沼に沈んでいくのを黙って見てはいられなかったのだ。

「ホイミン! フローラの足を」

「大丈夫、です。テュールさん」

 思わず叫びながら解毒魔法を灯した僕を、フローラが安堵の声で呼んだ。

 改めて視線を足に落として、目を瞠る。確かに毒の汚泥に突っ込んだその足は、さっきフローラが作り出した翠の光膜に守られてそこにあった。多少泥はついていたが、指輪の水で流したら簡単に落ちた。何より、肌が毒に侵された様子がない。血の巡りが悪くなったり、鬱血した様子も。

「フローラ、……これ」

「ごめんなさい、きっとそんなに長くは保たないので……順番にかけますから、かけたらすぐに渡っていただけますか?」

 固い表情で僕を遮り、フローラはそう真摯に訴えた。思わず言葉を呑み込んだ僕から目を逸らし、彼女は労うように丹念に、まずパトリシアの脚から結界魔法を施していった。

「全身に結界をかけるのはちょっと難しいので、太腿から上はなるべく沼に触れないようにしてくださいね。プックルちゃんとガンドフさんには、何とか頑張ってみます」

 荷台ができるだけ軽くなるよう、パトリシアの負担が少なくなるよう考えてくれているのだ。その意図がすぐ察せられたから、黙って深く頷いた。続けて施術してもらい、小柄なスラりんとピエールだけ馬車に乗ってもらって、パトリシアを先導し素足で沼を越えた。何を踏んでいるやら、沼底の感触がにちゃにちゃして気持ち悪いが仕方ない。しびれんとホイミンがふわふわ見守る中、残った仲魔達が次々魔法をもらい沼を渡って来た。まだ光が消え切らないことを確かめてから、最後に沼に踏み込んだフローラの手を取りに急いで戻った。

「……すごいよ。フローラ、いつの間に────」

 フローラが出してくれた指輪の清らかな水でそれぞれが足を洗い、全員で毒消しの薬を飲む。瘴気が呼気と共に体内に入るとじわじわ冒されてしまうから、念の為だ。それにしても、時にはあっという間に皮膚を腐らせてしまうような毒に触れたにもかかわらず、特に処置の必要がないほど守られているとは。この光を纏った部分に関しては、完全に毒を無効化しているように見える。

 改めて、この結界魔法についてマーリンとフローラに説明を求めたら、施術者であるフローラが遠慮がちに切り出した。

「以前、火山で溶岩の沼を走って渡られたと……仰っていたでしょう? またそんな状況になったらと思って、勉強していたのです。わずかな間ですが、毒気や過度の高温、冷気が身体に作用するのを防いでくれます」

 ────それ、炎のリングを取りに行った時の……!

 遠慮がちに語られるそれは僕の急所を的確に突く痛い記憶で、途端に顔から火を噴きそうになる。以前ホイミンがバラしたあの黒歴史を、そんなにも気にしてくれていたとは。思わぬところで蒸し返されたことは思いっきり恥ずかしいけれど、同時にフローラらしい心遣いだなと思ったら、たまらなく愛しい気持ちが溢れ出た。

「お役に立てたなら、よかった……です」

 とどめにそんな、遠慮がちにはにかんだ笑顔を向けられてしまったら。

 もう、衝動に任せて思いきり抱きしめたかったし、キスもしたくて仕方なかったけど。まだほんの一歩目なんだ。山道に入る為の初めの関門を越えたに過ぎなくて、いよいよこれから険しい山を登って行こうというところで。仲魔達も、終始にやにやとこちらを眺めているものだから。

 理性、理性とひたすら自分に言い聞かせる。落ち着け。うん、今夜休む前にこっそり、みんなの目を盗んでちょっとだけ甘えよう。そうしよう。

「フローラのお陰で、初っ端から消耗しなくて済んだ。……本当に、ありがとう」

 なんとか自制しきって、精一杯の想いを込めて滑らかな頬を撫でた。さすがに消耗したんだろう、空気は冷えているのにフローラの額はしっとり汗ばんでいる。無骨な手になぞられ、くすぐったそうに、首をすくめて微笑んだ。

 愛くるしい君の存在が、何度でも僕に幸せを知らしめる。

 誰より大切な君が、こうして困難を共に越えてくれることが、どれだけ僕に、前に進む力を与えてくれているか。

 もう一度、愛しく視線を交わし合ってから、僕達は改めて王都に向けて、未知の山道を歩き出した。

 

 

◆◆◆

 

 

 出だし好調と思えたものの、グランウォール越えはやはり決して楽ではなかった。

 毒沼を越えた向こうは美しい渓谷になっていた。崖下を流れるせせらぎの音は場所にそぐわないほど心地良いが、澄んだ響きを打ち消すように彼方此方から魔物の唸り声がする。

 案の定、歩き出して十分もしないうちに周りを囲まれ、そのまま長丁場の戦闘に突入した。

 斬り伏せる間に次々他の魔物が寄ってきて、逃げ場もない狭い山道では態勢を立て直すのがやっとだった。事前に聞いていた魔物の特性もどれがどれだか、思うように捌けなくて何度か追い込まれたりもした。特性といえば以前オラクル屋で買った魔物図鑑があったな、と思い出したが、ゆっくり眺めている余裕もない。

 フローラの結界魔法のお陰で、毒の処置に力を割かずに済んで良かった。それにしても、ここまで湧いているとは。以前からこうなのか、この辺りの人々はどうやってこの山を行き来していたのだろう。

 結局、群れを捌ききった頃には仲間の大部分が消耗してしまっていて、休憩を挟みながらその日はもう半日だけ歩いた。起床時にはあんなに元気だったのに、なんとも情けないことである。

 出発する前、ネッドさんに頼んでざっくりと山道の地図を書いてもらっていたが、崩れて通れなかったり馬車を通すのは難しい道だったりで、都度、迂回路を探すのにも手間取った。

 四、五日ほど登ったところに、山頂へと続く長い洞窟の入口があるという。昔は採掘に使われたという、山を所々貫いて掘られた坑道だ。そこからは地図も頼れなくなるが、順調に進めればひと月もしないうちに山頂のチゾット村に着くだろう、とのことだった。昔はその途中にもいくつか集落があったが、今はどこも廃村になっているとも。

 ひとまずはその洞窟を目指して、僕達は黙々と山道を登り続けている。

「山道って、大変、ですのね。私、さっきからずぅっと、斜めになっている気が、して、きました」

 登り始めて三日目、ようやく渓谷を抜けて深い山の中に入った。伸びっぱなしの草を掻き分け、すっかり息が上がった様子のフローラが呟く。彼女らしい物言いに思わず気持ちがほぐれる。斜面に抗って前のめりになり、遅れないよう懸命に歩く彼女にさりげなく歩調を合わせて頷いた。

「そうだね。結構登ってきたかな? ほら、ネッドさんのところの大樹があんなに小さく見える」

 視線を遥か下に流すと、見晴らしの良い山肌の麓、広い空と海の手前に森が見える。よくよく見ないとどれが大樹かわからないが、宿屋の煙突から上がる微かな煙がその場所を教えてくれる。

「あ、ごめん。見下ろさなくていいよ」

 うっかり促してしまったが、フローラは筋金入りの高所恐怖症だ。遠景を眺めて少し青褪めた彼女を抱き寄せ、ぽんぽんと肩を叩いた。腕の中に捕まえられたことで安心したのか、僕を見上げたフローラが微笑んで頷いた。

 が、ぎごちない微笑みは次の瞬間、ふっと色を失いよろめく。

 ラリホーだ。眠りに落ちたフローラを抱き留め「プックル、ピエール!」と叫んだ。呼び終わる前に幌から二匹が勢いよく飛び出す。ほとんど同時に、薄気味悪い細い声をあげながらダックカイトが数匹滑空してきた。

「小賢しいよな、飛んでてくれればこっちもすぐ気づけるのに……さ!」

 視線を走らせると、ホイミンもぺしゃりと眠ってガンドフに拾われている。術を免れた面々に安堵しつつ、力一杯剣を振り抜いた。飛膜を一閃で裂かれ、ギャア‼︎ と叫んで旋回した魔物をマーリンの炎が無情に焼いた。

 やっぱり、父さんの剣が一番しっくり手に馴染む。

 この山には空にも魔物がいる。ダックカイトというアヒル頭にムササビの飛膜を持つ魔物と、リントブルムという蛇の舌を持つコウモリの魔物だ。この二種族はそこそこ大きな体躯で木々の隙間を縫うように飛んでいるが、たまにこうして木陰に潜んでは奇襲をかけてくる。嫌なことに、ダックカイトはこうして誘眠魔法を使う。突然強烈な睡魔を感じたら、大体こいつが近くにいる。

 不意の誘眠で全滅しないよう、交代で馬車に控えさせておいたのが功を奏した。群れを成して現れた魔物達から馬車を庇い応戦する。ガンドフとしびれんが息の技で足止めしてくれた隙に、馭者台にフローラを横たえた。小回りの効く仲魔達が地上の魔物を蹴散らしてくれるが、同じだけ援軍が湧いて出る。埒があかないな。唇を噛んだ瞬間、リントブルムが三匹、上空から突っ込んでくる。二匹落として一発喰らう、瞬時に剣筋を弾き出し叩き落とした僕の傍から突如、疾風の刃がぶわ‼︎ と舞って魔物を煽った。

 驚いて振り返ると、肘をついて上体を起こしたフローラが天罰の杖を掴み、リントブルムに鋭く差し向けている。

「……す、みま、せん」

「フローラ! 無理しなくていいから」

 魔法で眠らされた後は頭がひどく重くなる。無理に覚醒させたら辛いだろうに、懸命に頭を持ち上げた彼女は至近距離の僕に掌を向け、口早に呪文を唱えた。被術者に無比の力を付与する、筋力増強の補助魔法。

「────助かる!」

 バイキルトがかかった瞬間、全ての血が湧き立った。フローラが退けた一匹を素早く斬り捨て、一気に敵前へ躍り出る。

 詠唱中の魔法爺は俊敏な仲魔が薙ぎ倒し、駆けつけてきたオークはマーリンのベギラマが焼き払った。振り返ったところにドラゴンマッドが二匹、高らかに吼えながら鋭い爪を翳して待ち構えている。振り下ろされたそれを間一髪交わし、横っ腹に体重ごと剣柄を叩き込む。呻いたそいつを蹴り飛ばし、もう一匹の狂ったギョロ目を見据えた。激昂した魔物が雄叫びを上げながら再び前脚を振り上げたが、瞬時に滑り込んだプックルの体当たりで均衡を崩し、ズシンと重く地に伏せた。

 息のあった連携でみるみる数を減らし、残った魔物は次々泡を食って逃げ出していった。

「……もういいかな。お疲れ、みんな」

 ようやく剣を納め、仲魔達を労う。それなりに負傷した者もいたが、士気を保っていることにほっとした。いや寧ろ、ピエールやプックルに至っては戦闘を重ねるたび活き活きしてきているような。戦闘生物とも言うべき魔物の性なのだろうか、狭い船内に閉じ込められて鬱憤が溜まっていた分、やはり制約なく伸び伸び戦えるのは楽しいのだろう。縦横無尽に暴れ回る彼らを見ているとそんなことを思う。

「テュールさん、申し訳ありませんでした。……また、ご迷惑をおかけしてしまって」

 馭者台にはいつの間にか目覚めたホイミンに寄り添われ、フローラが力無く座りこんで僕を見つめていた。残留する魔力の所為でうまく動けないようだ。急いで駆け寄ると目を伏せ、痛々しく謝罪を口にした。

「全然迷惑じゃないよ? あんなの運みたいなものだから。それより、援護ありがとう。お陰で一気に片がついた」

 項垂れたフローラの頭をそっと撫でる。本当に全く、気にすることないんだけどな。そろりと上目遣いに視線を返してくれた妻に、つい苦笑しながら言葉を続けた。

「僕だって何度か寝落ちてるし、お互い様だって。ダックカイトはなるべく先に倒すようにしてるけど、万が一全員眠らされたらたまったもんじゃないからね……」

 そう、それが一番怖い。殴られて目覚めればいいけど、重ねがけされてもっと深く眠ってしまうこともある。眠らされてる間に全員惨殺なんて、そんな死に方、絶対にごめんだ。

 魔法が効かない体質の仲魔はさすがにいないから、まとめてやられないよう分散して歩くとか、先程のように主力を幌の中に隠しておくくらいしか対策を取れない。あとはもう、ひたすら運に頼るしか。

 実際、誰かが眠らされると必然的にそちらを庇いながら戦うことになるから、眠ってしまって居た堪れない気持ちはものすごくよくわかる。

「ホイミンもねちゃったか〜ら〜、きにしな〜い!」

 幸いというか、同じく眠らされたホイミンが明るくフォローしてくれて、フローラの硬い笑顔がほんの少し柔らかくなった。

 杖も、咄嗟に使ったんだろうけど。良いタイミングだったと思うよ。

 そう声をかけようかと思ったが、やめた。現に一撃はもらうつもりで動いていたから、その一体を的確に狙った杖の威嚇はものすごく有効だった。けど、何となくフローラは、攻撃手段を杖や指輪に頼るしか出来ないことを気にしているように見えたから。

 いよいよ攻撃魔法の実践に移る、と話していたフローラが一向にそれを試す気配がないことに、何となく気付いてはいた。思ったより山登りで負担がかかっているとか、周辺の魔物が強くて詠唱する余裕がないのかなと勝手に思っている。

 初めて魔法を行使する時は、きちんと精霊と契約するためにも特に正確に真言を唱えなくてはならない。ここで『ご機嫌を損ねる』と習得を足踏みする。慣習で何となくそう呼んでいるが、要は本人の修練不足だったり、単に感覚が掴めてないとか、適性が思ったほどない場合が多いんじゃないかなと思う。

 そもそも精霊が本当にいるのかも僕は知らない。マーリンに訊いたらばっさり切り捨てられそうだ。実感としては、大気の中から特定の属性の魔力を身の内に共鳴させる感覚を『精霊』と呼ぶんじゃないかな、なんて思ったりしている。

 意外にもマーリンが急かす様子もないし、僕自身、フローラには補助魔法で援護してもらえれば十分だと感じているから、正直現状に不満はないのだ。寧ろ、無理しないでいてくれる方がずっと有難い。さっきだってバイキルトをもらった途端、あっという間に片がついたんだしさ。

「いけない。のんびりしてたら、さっき逃げた奴らが戻って来るかもね」

 回復魔法が行き渡ったところで、核化してゆく魔物の残骸を拾っていた仲魔達に声をかけた。

 ピエールには散々甘いと諌められているが、逃げる魔物まで追いたくないし、倒れた敵にいちいちとどめを刺したいとも思わないのだ。そりゃフローラを狙うような明確な敵に温情は要らないけど、この辺りの魔物は恐らく、本当に教団の手先ではない。この山を根倉にし、極偶に手に入る人間の荷に味をしめただけの、ごろつきみたいなものだ。

 それが人間なら同種族のルールで裁く道理もあるが、単にグランウォールに棲む魔物の生態なのだと思えば、彼らの生活を徒に乱すこともしたくない。あちらから見たら異物は僕の方なのだから。人間を脅かすからって、じゃあ正義感一つでこの山の魔物全てを掃討できるのかと言ったら、絶対に無理なわけで。

 精々神経を逆立てないよう、けど譲れないところは譲らずに。極力穏便に突破するのみである。

 ……結局、なんだかんだと戦闘にもつれ込んでるけどさ。

 全員を馬車の前に集め、今度はガンドフとマーリン、フローラに中に乗るよう促した。ようやく感覚が戻ってきたらしいフローラは歩きたそうな顔をして僕を見上げたが、魔法の影響は自覚以上に身体に残るものだ。特に彼女は昼食の後からずっと歩き通しなこともあり、少しでも休ませてやりたかった。

 改めて、荷台に乗って欲しい旨を伝えると、杖を握りしめたフローラが渋々頷いた。

 荷台に乗り込む彼女を見守っていた、その時だった。

 

 馬車の向こうの叢の中、青い山がむくりと盛り上がった。

 

 真っ先にそれを目にしたフローラが「きゃっ」と短く叫んで硬直する。怯えた彼女を咄嗟に引き寄せ、背に庇い立って息を殺した。仲魔達も静かに武器を構える。さっき気絶させた魔物が目を覚ましたのだろう。

 四つの角がついた、大きな頭を持ち上げた青い竜肌の魔物は、僕と目が合うなりグアオォン! と驚いたように吼えた。その声に呼応して、隣で昏倒していた一匹も前足をついて起き上がる。剥き出しの白眼が四つ、空を塞いで並び立ち、威嚇するように唸りながら見下ろしてくる。ドラゴンマッドを初めて間近に見たフローラは僕の背中に縋りつき、すっかり震え上がってしまった。

 無理もない。普段は絶対前に出さないよう、後方に留まらせて守っているから。

「フローラ、大丈夫。……襲うつもりはないみたい」

 肩を軽く叩いて落ち着かせながら、思わず苦笑した。

 これは、違う。

「……いいよ、行って。他の仲間は逃げたと思うよ」

 言葉が通じる気はしなかったが、努めて穏やかに語りかけた。

 ドラゴンマッドと呼ばれる青い竜肌のこの魔物は、総じて知性があるとは言い難い。魔法は一切使わず、手当たり次第に掴んで投げ飛ばしたり、その鋭い爪の前足で殴り込むといった暴れ方をする。その凶暴性は目鼻立ちといった造作にも非常に良く表れていて、名に冠した『狂気』とは特に、彼らの表情から呼ばれたものではないかと思う。

 とにかく焦点の合わない白眼が狂気的、猟奇的にしか見えないのだ。ここに彼らの感情を見出すのは確かに難しい、けど。

「────行かないの?」

 見開かれた瞳に、澱みは全く見えなくて。

 わかっているのかいないのか、二匹とも首を左右に傾げながらこちらを見下ろしている。時折グオゥ、と唸るが、まるで喋るみたいに意向を問うような響きであって、剣呑な色はどこにも見えない。

 先刻、襲撃のとき瞳に宿っていた狂気の光も、今はない。

「……んー。とりあえず、僕らは移動しようか」

 暫し、見つめあったまま考えを巡らせたけど、すぐには決断できなくて。固唾を飲んで見守るみんなを振り返り、改めて先を促した。

「良いので?」

「うん、話せないみたいだし。気になるならついてくるんじゃないかな、多分」

 念の為ガンドフに手綱を任せて、僕は馬車のすぐ後方についた。荷台に乗せたフローラがわずかに幌を開け、心配そうにこちらを見守っている。同じく気にしてくれたらしいピエールも、僕の隣に並んで進み始めた。

 果たして、ドラゴンマッド達はのそりと立ち上がると、迷わず僕らを追ってきた。歩幅は大きいが、追い越さないくらいの速度でゆっくり、休みながらついてくる。何となく雑談は消えて、妙な緊張感を漂わせながら、僕達は山登りを再開した。

 これまでも時折、僕の力が作用して魔物が戦意を喪失することはあったのだけれど、最近はその地に思い入れがある者が多かったのか、特に魔物がついてくることはなかった。僕としてはそれで全然構わなくて、邪気の消えた彼らがスラりんの言う「楽」な気持ちで過ごしてくれたら良いな、と思っていたぐらいだったのだけど。

「ピエールはさ。どうして、僕と来ようと思ってくれたの?」

 ズン、ズズン、とゆったり重い足音が後方からまばらに響く。意外にも一定の距離を保ったままついてくる二匹の竜属を盗み見ながら、傍らを跳ねるスライムナイトに声をかけた。

 鉄仮面の頭を傾く夕陽にきらめかせ、彼はふむ、と小さく唸ってから答える。

「はて、何故かな。……当時のことは曖昧ゆえ、拙者にも正直わかりかねる」

 ピエールがそういう物言いをするのは珍しく、へぇ、と思わず相槌を打った。わりと何でも見通す慧眼の持ち主だから、普段そうやって濁した言い方をすることは少ない。

 続きを期待して尚も覗き込んだ僕を見上げて、ピエールがふ、と苦笑する。

「あるじ殿がどう理解なされているかはわからぬが、少なくとも拙者という魔物は、ヒトよりずっと空虚な存在である」

 そう、かな?

 そんなふうに思ったことはないけど。僕の反応は想定内だったらしく、ピエールはまたくつくつと少しだけ笑った。僕の歩幅に合わせて跳ねる緑のスライムの上で揺られながら、彼は暫し記憶を追うように遠くを見つめる。

 

「……初めて、あるじ殿と剣を交わらせた折。あれは……何と言おうか。執着、と呼ぶものか」

 

 ヒュウ、と吹き抜ける風音に紛れて消えてしまいそうな、彼の独白に耳を澄ませた。

 達観しきった彼がこうして、微かにも戸惑いを口にする様は本当に珍しく、毒気を抜かれたような心地になる。

「あれを生と呼ぶのなら、そこから離れることはすなわち、死に他ならぬ。強いて言うならば、それが答えでござろうな」

 隣を歩く僕にしかわからない、静かな静かな呟きだった。

 やはりひどく抽象的なピエールの回答は、僕には全然正しい意味を飲み込めなかった。けれど。

 そう呟いた彼の声が殊の外、嬉しそうに聴こえて、それだけで僕は言葉を失くした。

 帰りたいと思うことはあるか、訊こうと思ったのに。それすらも出来なくなった。

 初めて僕と打ち合った時、彼は一体何を見たんだろう。

 ……執着、か。

 足を止め、同じ速度でついてくる魔物達を振り返った。すぐに目が合うのは彼らがずっと、僕の背だけを追っていたからだ。

 パトリシアも歩みを止めて、馬車の中から恐々、フローラと仲魔達が顔を出した。腕一本の間合いで魔物達の正面に立った僕を見て、フローラが小さく息を呑む。

 

「……僕らと一緒に行ったら、この山にはもう、戻って来られないかもしれないよ」

 

 ゆっくり、木々の間を吹き抜ける風にのせて。

 見下ろす白眼を真っ直ぐ見つめ返しながら、告げた。

 意味が伝わらなかったのか、ドラゴンマッド達は軽く頭を傾げたようだった。視線はちゃんと交わせているのだろうか、フグゥ……と唸って首を捻り合う様はなんとも可笑しくて、つい笑ってしまった。

 寂しかったんだ。はっきり自覚するのが嫌で、考えないようにしていたけれど。どこにも居場所がなかった惨めな僕は、みんなが共に来てくれる意味もあまり深く考えず、彼らの厚意に甘えるばかりで、こんなところまで来てしまった。

 フローラに恋をして、僕の世界が鮮やかに色づいて。やっと自分を直視できるようになった。そうして彼女が、故郷をも捨てて一緒に来てくれて初めて、その決意が意味するところをまざまざと思い知った。

 みんなには住処があったのに。且て居場所があった彼らを連れ出してきたことを、今になってあまりにも身勝手だったのではないかと今更、悔やんで。

 何が起こるかわからない。ここは僕の祖国かもしれない場所だから、帰れないなんてことはないかもしれない。けど、それでもいつどこで命を落とすかわからないし、万が一僕が死んだら、ついてきてくれたみんなへの責任を負いきれなくなる。君達にとってはここを離れなければしなくていい苦労が、これから先、きっとたくさんあるのだろう。

 ────それでも、

 今、目の前にいる君達が、僕に『執着』を、覚えてくれているのなら。

 

「それでも……、来る?」

 

 静かな決意をみなぎらせ、四つの瞳に問いかける。

 二匹のドラゴンマッドはさしたる躊躇いも見せず、身体を思いきり屈めると、斜視のようなギョロ目を僕の目の高さに合わせて覗き込んできた。

 初めからそのつもりだと、言ってくれているように見えた。

「……そっか。そうだね」

 鼻先に近づいた二匹の額を撫でる。クォン、と初めて、甘えるような声でドラゴンマッド達が答えた。

 いつだって先に心を開いてくれるのは、君達の方だ。

「試すような真似をしてごめん。一緒に行きたくて、ついてきてくれたんだね」

 本当に、人の言葉を理解しているのかはわからないけど。

 僕の言葉を聞き届けた二匹が、まるで恭しく、身を屈めて僕の前に頭を垂れた。

 いつかピエールが従属を誓ってくれた時のような、

 真っ直ぐな信頼と、承服と引き換えに、

 ────今、この時から。僕が君達の存在を預かる。

「テュールさん……それでは」

「うん。一緒に来るって」

 恐る恐る声をかけてくれたフローラを振り返って、張り詰めていたものを緩ませた。同じく緊張しながら見守っていたスライム属達が、おおー、と揃って声を上げる。

 他の仲魔達も、どこかほっとした様子で僕達を見守ってくれていた。

 ようやく訪れた和やかな雰囲気が、何故か、泣きたいほど優しく、愛おしく感じられた。

 

 

◆◆◆

 

 

 それから程なく、今夜の露営地を見繕う為、僕達は夕暮れに差し掛かる山の中をうろつき始めた。

「でも、そっか。言葉喋れないんだよね。名前、どうしようか」

 歩きながらううん、と首を捻る。今までの仲魔達はプックル以外は片言でも喋れたから、本人達から名前を聞けばそれで済んだ。プックルの時はどうだったっけ、と記憶を弄ったが、確かビアンカがお気に入りの絵本から名前を羅列してくれて、その中から選んだような気がする。うん、今の僕にはあまり参考にならない。

 あ、じゃあフローラにいくつか候補を挙げてもらったらどうだろう? 博識な彼女なら好きな本の登場人物とか、尊敬する偉人の名前がいくらでも出てきそうだし。んん、でも、ドラゴンマッドか。どちらかというと武人からとった方がいいのかな。いやでも、勇者や剣士の名前っていうのもなんだかなぁ……

「ドラゴン、マッド……」

 予想外の難題に直面し、つらつら思考を巡らせながら種族名をぽつり、呟いた。字面を反芻する以外、本当に何の意もなかったのだが、ほとんど口の中だけで呟いたそれに二匹がそれぞれ鋭く反応した。

 え、とそちらを見ると、やや目を見開いたふくよかな方がさっきの語尾に反応して、ひたすら尻尾を振っている。

「え、マッド? マッド、がいいの? もしかして」

 まさかと思いながら繰り返すと、それだ! とばかりに飛びついてくる。うわわ、と襟元を引っ張られながら必死に宥めた。マッドが引いたと思ったら、もう一方のドラゴンマッドも急かすように頭を突っ込んできた。こちらはわずかだったが、「ドラゴン」の方の単語に角をピクリと震わせていたのだ。

「うわ、待って。でもドラゴンってそのまんま竜じゃ……え、ドラゴン? じゃない、ラゴン?」

 違う違うそっち! と言いたげにグァオと鳴いては頭を振る。ようやく言い当てると、満足したように鼻息をふんすと噴き出した。ああ、ひとの頭の上で暴れるから、ターバンがぐちゃぐちゃ。

「ラゴン。……君は、ラゴン? それでいい? 本当に?」

 乱れてすっかりずり落ちたターバンを外しながら問うと、どうやら気に入ったらしいラゴンは僕の黒い頭のてっぺんに顎を乗せて、グァウー! と機嫌良く吠えた。本当にそれでいいんだ。ちょっと複雑な気分だけど……ていうか、重い。

「……言ってはなんだが、あるじ殿の名付けはなかなか……」

「え、僕⁉︎ だって今、明らかに返事してたよね⁉︎」

 隣で聞いていたピエールがひたすら笑いを噛み殺している。なにそれ不本意‼︎ 今の、僕が名付けたことになるの⁉︎

 ただこの二匹が、僕が呟いたタイミングで反応して、それが良いって言いたげにしていたから確認しただけなんですけど……!

 確かに僕だってどうかと思うよ。ラゴンにマッドって、ほんとに何の捻りもないじゃん。いや当人達が満足げにしてるし、捻りがあればいいってもんでもないけどさ!

「お二方の仔の名付けは、奥方殿が今からよくよく練られた方が宜しいのでは」

「ピ、ピエールさん……っ!」

 名付けを出しにさらりと茶化され、赤面し狼狽えたフローラを見た瞬間、頭にかっと血が昇った。嬉しいとか恥ずかしいとかいう以前に、いち早くピエールを遮った彼女にまた、子供のことを言われるのは嫌だなんて思われてしまったら────

「余計なこと言わなくて良いから‼︎ …………っ、とにかく、ここから一緒に行くよ。みんなも色々教えてあげて」

 ほとんど反射的に声を荒げてしまい、咄嗟に息を飲んだ。

 何やってる、八つ当たりじゃないかこんなの。足下から駆け上った恐怖を一瞬制御しきれなかったことに酷く動揺したが、言われたピエールはさほど気にした様子はなく、僕の言葉を飄々と受け流しておもむろにドラゴンマッド達に近づいた。彼とは凡そ四、五倍ほども体格の違う二匹をしげしげと見上げながら「ほう、これは。走らせたらどちらが速いかな」などと嘯いている。

 流してもらって、安堵するくらいなら言うな。心の中で激しく己を叱咤し顔を上げた。他の仲魔達もどうやら気にした様子はなかったが、ただ一人、フローラだけが少し心配そうに、眉尻を下げて僕を見つめていた。

 やっぱり、君には気付かれてしまうんだな。

 情けない、申し訳ない気持ちを飲み込み、緩く首を振って微笑んで見せる。それでも目を合わせるのは怖くて、彼女の足下の地面に何となく視線を逃した。久々に重い自己嫌悪を覚えて小さく溜息を零したその時、「きゃっ⁉︎」とフローラのひどく驚いた声が聞こえた。

 ぱっと顔を上げると、いつの間にかマッドとラゴンが、何故かフローラを囲んで見下ろしている。

 怯えた妻との間に慌てて割って入り、匂いを嗅ごうとするラゴンを掌で制した。グォ? と不思議そうに僕らを見下ろす二匹をまっすぐ見つめて、心を落ち着かせ、できるだけ穏やかに話しかける。

「いきなり近づいたら、びっくりしちゃうんだ。特にここにいるみんなは、僕も含めて、君達をまだよく知らないから。……でも、ちゃんとみんな、仲良くしたいって思ってるからね」

 勝手に代弁してしまったが、背後のフローラが尚も緊張しながら頷いたのがわかった。その気配にほっとして、言葉を続ける。

「だから、ゆっくり仲良くなっていこう? ……大丈夫」

 とりあえず今は、いきなり顔を近づけるのはやめた方がいいと思うよ。伝わったかはわからないが、丁寧に二匹を諭してから妻を振り返った。「大丈夫?」と問うと、若干血の気が失せた顔でこくりと頷く。心配したスライム属達がぽよぽよと近づいてきて、慰めているのか、何やら口々にフローラに話しかけている。

 囲まれた時に落としたのだろう、彼女の足元に白い帽子が落ちていた。拾い上げて軽く砂埃をはたき、結い上げられた碧髪にそっと載せてやる。

「いきなり覗き込まれると、びっくりしちゃうよね。どっちも身体、大きいし。……なんか、仲良いよね。あの二匹」

 強張ったままのフローラに代わって、周りの軟体三匹がうんうんと勢いよく頷いた。さりげなくマッドとラゴンを誘導し離れてくれたピエールに感謝しつつ、ドラゴンらしさを漂わせる背中の翼を眺める。あれ、飛べるのかな。飾りみたいに小さな翼だから、少なくとも今は無理そうだけど。

 彼らは、兄弟なんだろうか。実は双子だったりして。

「……それにしても、さっきからフローラのことばかり気にしてるね。あれかな、ドラゴンマッドって何となく、幼い感じがするから」

 二匹とも、離れても尚ちらちらとフローラを覗いている。

 何がそんなに気になるのか、さすがのフローラも自分の倍ほども大きい魔物は怖いようで、ホイミン達に囲まれながら遠巻きにそちらを見ていた。僕のふとした思いつきを聞き咎め、不思議そうに首を傾げる。

 ほら、ドラゴンってすごく大きそうな気がしない? ただの主観だし実際に見たことはないけど、本物のドラゴンは僕より頭二つ分なんて大きさじゃないと思うんだよね。動きを見ていても何となく、幼い感じがする。習性なのだろうけど、知性より本能や好奇心で動いているような感じ。

 図鑑を見る限り、ドラゴンマッドが何かの幼竜だとは書いていなかったはずだけど。今度、魔物研究所に寄ることがあったら聞いてみようか。

「あ……あの、それが私と、どう」

「え? だから、フローラをお母さんだと思ってて、甘えたいのかなぁって」

 何気なく返した言葉に、フローラが音もなく固まった。

 あ、いつものフローラだ。なんて思ったらものすごく嬉しくなった。久々に耳や首まで真っ赤にして、フローラは何も言えず、目を泳がせて俯いてしまう。そこへ空気を読めないスラりんのナイスフォローが底抜けに明るく響いた。

「あっ、わっかるー! ふろーらちゃんってなんだかすっごく、あまえたくなるもんねー!」

 うんうんうんっ! と頭がもげそうなほどぷるぷる頷いたのはしびれんで、ホイミンは何やらほわほわ嬉しそうにフローラの周りを漂っている。対するフローラは頬を紅潮させたまま、困惑を隠せずにいた。大好きなスライム属達にそう言われるのは満更でもないらしい。

「そ、……そう、なの、ですか?」

 真っ赤な頬を両手で包み、フローラはおずおずスライム属達を見回した。視線を受けた青い軟体達は三者三様に喜色満面の笑みを見せ、頭をぷるぷる上下に振ってみせる。

「まえからやさしくてー、いいにおいだけどー。なんだかこのごろ、もーっといいにおいがしててねー! だーいすきー!」

 えっへへぇ、と笑顔を蕩けさせ、ぴょんと跳ねたスラりんがちゃっかりフローラの胸に飛びついた。……ああああちょっと⁉︎ 役得だなスラりん‼︎

「あ〜っ! ずる〜〜いスラりん!」「し、し、しびれんがっ、いちばん、なのっっ!」

 慌てたフローラが青い軟体を抱き止めて、気色ばんだ他のスライム属達も一斉に彼女に群がった。やいのやいの盛り上がる彼らに釣られ、四つのぎょろ目でそちらを注視していたラゴンとマッドも青い集団を再びのそのそ取り囲む。いや、青い絵面だな。狼狽えるフローラに構わず、自分達も撫でろと言わんばかりに両者ともぐいぐい頭を押しつけあっている。

 何これ、何が起きてんの。唖然とする僕をピエールがぽんぽんと叩いた。鉄壁の鉄仮面なのに、向けられているのが憐れみに満ちたぬるい笑みだとわかるのは何故だろう。いやもうほんっと腹立たしい。

 ……僕だって、彼女と睦み合いたいのをここ数ヶ月、めっっっちゃくちゃ我慢してるんだよ⁉︎

「ストップ、待った! そういうのはせめて野営の時にして‼︎」

 もみくちゃにされかけた妻を仲魔達から奪い返し、どさくさ紛れにぎゅっと抱きしめた。え、あの、とフローラはますます困惑したが、素知らぬ顔でもっと強く抱き込む。ぶーぶー文句を垂れるスライム属達はまるっと無視して、フローラを捕まえたまま幼竜二匹と相対した。僕より頭二つ分大きい二匹はどちらもすっかり興奮して、ギャウギャウ唸りながら白い眼球を忙しなく動かしている。

「このひとは、僕の、奥さんです。僕の! 優しいひとだからって無理に迫ったら絶対だめ! 君達の方が身体、大きいから! スライムみたいに飛びついたら潰れちゃうからね⁉︎」

 ドラゴンマッド達の喚き声に負けじと、つい語気も荒く叫んでしまった。私情が混じったのは否定しない。どこまで意味が通じたかはわからないが、言いたいことは伝わったようだ。しかし普段あまり強く言わないからか、他の仲魔達も今度こそ呆気に取られて僕を見ている。さっき反省したばかりであることをはたと思い出し、思わず臍を噛んだ。

 ……莫迦! 言い過ぎだ、子供みたいだなって微笑ましく思ったくせに。二匹とも言えばちゃんとわかってくれるのに、あんな言い方することなかったじゃないか。

 あれほど興奮していた二匹が見るからにしょんぼり大人しくなってしまい、ますます居た堪れなさが加速していく。ああもう、どうして僕はさっきからこうなのか。

「…………あの、驚いてしまって、ごめんなさい」

 やっぱり謝ろう。口を開きかけたその時、そろりと僕の腕の中から顔を出したフローラが、幼竜二匹を見上げて遠慮がちに声を発した。

 りりん、と澄んだ鈴のようなその響きが、気まずい空気を嘘のように押し流していく。

「テュールさんが仰った通り、お友達が増えてとっても嬉しいです。よろしくお願いしますね。マッドちゃん、ラゴンちゃん」

 ふわり、やわらかく微笑んで。フローラが手をそっと伸ばした。恐る恐る、ざらついた竜肌の鼻筋に優しく触れると、さっきまでの興奮が嘘のように二匹とも落ち着きを取り戻す。グルルゥ、ゴアーゥ、とそれぞれ甘えるような喉声を鳴らして、白い華奢な手に大きな鼻先を擦りつけたり、ぺろぺろ舐めたりしている。

 噛まないか心配だったけど、大丈夫そうだ。くすぐったそうに笑うフローラを尚も抱きしめて見下ろしていたら、つい先日も過った疑問がうっかり、口から零れ出た。

「……これでも本当に、()が魔物遣いなんだと思う?」

 この情けない問いに返ってきたのは、各々が吐息に意味を含ませた沈黙であった。マーリンはこれ見よがしに溜息をついたし、プックルは呆れて荒々しく鼻を鳴らした。困惑し、宙を仰いだフローラの視線を受け止めたのはガンドフで、穏やかに頷くその脇に集まっていたスライム属達は円い目をぱちぱち瞬かせ、不思議そうにこちらを見ている。

 また失言だったらしい。慌てて取り繕おうとした僕を、ピエールの低い、包み込むような声がやわらかく押し留めた。

 

「主があるじ殿であればこそ、我々は奥方殿に親しむことが出来る。……ご案じ召さるな」

 

 みんながそうやって言ってくれるたび、嬉しいのと同じくらい、どうしてそれが僕なんだろうって戸惑う自分がいて。

 ただ、そんな想いに報いたいと思う心だけが本物だと。今の僕にはそれしか、自信を持って言えることがなくて。

 まるで僕の胸中を読んだかのように彼はふ、と小さく笑い「揺らがずに居てくだされば良い。他は望まぬ」と付け加えた。

 黙って淡く微笑みを返し、頷く。

 僕が僕で在るだけで良いと、君達はそう言ってくれるのだ。

 ただ主従としてあるだけでなく、友として居てくれることが嬉しい。僕だけでなく、他の人間に良くしてくれることも。こちら側にはかけらも居場所がなかったはずの君達が、いつの間にか存在感を得て活き活き過ごしている様が。そんな輪が、本当に少しずつ、広がってきていることが。

 僕と視線を交え、こうして心まで交えてくれた奇跡。

 それを守ることもまた、主人である僕に出来る、大切な務めなのだと。

 喜んで守ろう。不快ではないと、笑ってこの関係を築いてくれる君達を。魔物である君達だけれど、今の在り方が真実彼ららしいものなのだと、彼ら自身が望み、選んでくれたものであると。それを誰より、僕が肯定していられるように。

 情けない溜息を吐いて腕を緩め、ようやく妻を解放した。早速鼻息も荒く妻に甘えを乞う図体のでかい二体を見上げて、僕もそっと、青い竜肌に手を伸ばす。

「さっきはごめん。きつく言いすぎた」

 硬い首筋を撫でると、グァウ、とマッドが嬉しそうに鳴いた。誘われるようにラゴンも身を屈め、ざらつく舌でべろりと頬を舐めてくる。

 こういうスキンシップにもすっかり慣れちゃったあたり、我ながら骨の髄まで魔物遣いだなぁ、としみじみ思う。

「うん。これから、よろしくね」

 呼びかければ二匹とも、応えるように髭を振って、青い鼻を代わる代わる僕の掌に擦りつけてきた。

 ここに居るみんなとも、こんな始まり方だったかな。

 顔を擦り寄せ、親愛の情を伝えてくるドラゴンマッド二匹の首を両腕に抱き寄せて、ぽんぽんと優しく撫で返してやる。

 いつの間にか、遠く眼下の森奥に広がる海と空の境界線を、沈みかけた夕陽が鮮やかに染めていた。

 やわらかく燃えるその光が、この一瞬を鮮やかに照らし出す。

 体格の割に小振りな彼らの翼を、その背を。

 僕と、馬車と、見守ってくれる大切な仲間達を。

 誓いの時を刻むように、すべての影が一つに溶けた。

 

 

◆◆◆

 

 

 因みに、その晩の野営中は僕がさりげなくフローラの隣に落ち着こうとするたび「やえいのときにしてっていったー!」「いくら奥方殿がお優しい方だからと言って、夜な夜な迫られるのはどうかと」などと仲魔達に言質を取られて散々阻まれ、またおちょくり倒された。憮然としている間に彼女の両脇は新入りのマッドとラゴンに、膝と肩はスライム属達に占領されて、すっかり割り入る隙がない。

 頭に血が上った時ほど発言には気をつけた方がいい。そんな当たり前の教訓を僕はこの日、嫌というほど噛みしめたのだった。




今回は挿絵はお休みして、落書きをひとつぺたりと。

【挿絵表示】

テュール視点ですと語れない、赤面した時のフローラの内心です。お互いちゃんと想い合っているし、気持ちの方向性は同じなのにすれ違っていく。そういう切なさが好きなの。
両想いなのにいつまでも片想い同士みたいな二人。作中の時間では、あと二ヶ月でようやく、出逢って一年になりますね。

今回二匹仲間入りしたのは、執筆中に進めた冒険の書でたまたま二戦連続ドラゴンマッドが起き上がったからです。ほぼ同時とか美味しい!とそのままネタに変換しました。関係性はご想像にお任せします。双子フラグも美味しいですねー。


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#6. 怨敵襲来

【side Tyr】

 

「あんなに親切な方を怖がるなんて……、私、まだまだ人としての修行が足りませんわ」

 まだどこか怯えた様子のフローラが、今来た道を振り返り、しみじみと呟いた。

 殊勝な彼女には申し訳ないが、昨晩の宿には思うところがありすぎる。ん、と曖昧に相槌を打ち、尚も後方を気にする妻の手を掴んで引き寄せた。驚いた彼女が青翠色の瞳を大きく見開いたが、苦笑いで誤魔化した。

 昨夜はこうやって手を取りたくても、一服盛られて身動きできなかったからね。実際、とんでもない大失態である。

 時は少し遡って、マッドとラゴンが仲間入りした翌日の夕方。

 グランウォールを更に登った山の奥深くで、僕達は怪しいお婆さんが隠れ住む洞穴を見つけた。否、正確にはすっかり道に迷ってしまって、彷徨っているうちに日が暮れてしまったのだ。途中までは道なりだったし、時々坑道への目印と思しき石塚も見かけたから、そこまで大きく外れてはいなかったと思うんだけど……

 山の天気は変わりやすい。その日は昼過ぎから雨が降ったり止んだりを繰り返していた。もう四日登っていたから早く坑道に着ければと期待していたが、歩けども歩けどもそれらしき洞窟は見当たらない。駄目もとでマッド達に心当たりがないか聞いたところ、奇声をあげて踊りあがった二匹が大股で走り出した。慌てて馬車を駆り追いかけて、結果、見つけたのがその奇妙な洞穴である。

 坑道……、ではなさそうだ。馬車を引いて中を窺うとすぐ下に掘られた階段があり、どうやらずいぶんと拓けた空間になっている。が、暗い。じめじめして、何だかすえたような嫌な匂いもする。薄気味悪いが、外はいよいよ本降りになっていて、敢えてここで雨宿りする以外の選択肢が見当たらない。

「誰か住んでいるのかな。魔物の巣じゃないといいけど」

 独りごちつつプックルの首を撫でたが、彼が警戒を強める様子はない。ということはひとまず、安心していいのだろうか。

 空間があるとはいえ、全員で暴れるには狭すぎる。プックルとピエールにだけついてきてもらい、下層の偵察をすることにした。

 果たして、僕達はその奥で、実に怪しげなお婆さんに出会ったのだった。

「まぁ、なんだかんだ親切だったんだとは思うし。悪い人じゃなかったのかもしれないけど……」

 昨晩の出来事を思い出し、苦いものを噛み潰す。たまたまあのお婆さんが僕らを害さなかったというだけで、あれが悪意ある魔物やならず者の類だったらと思うと。今更肝が冷えるばかりだ。

 何があったかというと、前述した通り、薬を盛られた。疲れているだろうからと泊まっていくよう強引に勧められた挙句、睡眠薬の類だろうか。恐らく夕飯の粥か何かに入れられたのだと思う。よく眠って疲れが取れるようにの、と老婆は悪びれず言ってのけたが、深夜たまたま目を覚ましたフローラと僕は金縛りにあったように身体を動かせず、正直精神疲労が倍増した。しかも、無音のはずの洞穴には何やら刃物を研ぐような音が静かに響き渡っていて、気味が悪いことこの上なかった。そういえば洞穴を降りてくる途中、おびただしい骨が打ち捨てられているのを見た気がする。

 必死に呻き声をあげる僕らに気づいたらしい老婆が降りてきて、ニタリと薄気味悪い笑みを浮かべて言い放ったのが、言い訳じみたさっきのあれ。

 その上、研いでいた刃物の正体が、いつの間にか掠め取られていた父の剣だったと知って背筋が凍った。寝台のすぐ脇に、咄嗟に掴めるよう置いておいたものなのに。

「やっぱり、父さんの剣を勝手に触られるのは嫌だよ。僕は」

 どうにもざわざわする、腹の中を落ち着かせながらそれだけ言うと、フローラはやるせない表情で僕を振り仰ぎ、小さく小さく頷いた。

 そもそもあの人、本当に人間だったのかな。あんなところに変わり者の老婆が住みついているなら、ネッドさん達が教えてくれていそうなものだけど。仲魔達が全く警戒していない様子を見るに、どうやら本当に悪意はなかったようなのだが。

 不思議なことに、正しい山道はその洞穴を出て程なく見つかった。見覚えのある石塚を辿り登っていくと、割とすぐに坑道の入り口に出た。

 昨夜は雨だったし、暗かったから見落としてしまったのかもしれない。大きくくり抜かれた岩棚にはざっくりと、見慣れない地名がいくつか掘りつけてあった。その中に、これから通過するであろうチゾット村の表記を見つけて安堵する。

 最後に食糧とみんなの体調を確認して、いよいよ坑道に入った。ここからはまた数日、時折分かれ道を確認しながら長い洞窟を進んでいく。

 一本道かと思ったが、そうでもなかった。天井は思いのほか高く、途中途中に広く掘り抜かれた空間が点在している。

 削りすぎて崩落したところや、時折人が亡くなった跡を見かけたりもした。小さな墓標を見つけるたび、フローラが足を止めて祈りを捧げていた。

 魔物に襲われたのか、数人分の白骨が、雑多な荷物と共に散乱していたこともある。

 あまりに痛ましいその光景を、見て見ぬ振りは出来なかった。フローラと、手伝ってくれる仲魔達と共に簡単に亡骸を供養した後、形を残した荷物を拾って包んだ。最近山を降りてきた人がいないってことは、この先の村か王都に、持ち主の縁者がいるのだろうなと思ったから。

 魔物は、それなりに巣食っていた。洞窟内だと言うのに飛空魔も相変わらず飛び交っている。それと、骸骨の魔物がよく出た。まるで地獄の底から這い出てきたかのように、低く唸りながら僕達を追ってくる。幽霊の類が苦手なフローラや臆病なしびれんは特に、この骸の魔物達に対して怯えを隠せずにいる。

 どうしても灯りを要するこの場では、カンテラを持ち歩く僕らは恰好の的だった。

 坑道に潜り始めてから、体感としては三、四日目。

 睡眠のため、少し長めの休息を交代で数回取って、その間にも魔物の群れに何度か遭遇した。場所が場所なので派手に魔法を使うことは憚られて、仲魔達との連携を頼りに、慎重に敵を捌いていく。

 スライム属達をはじめ、何匹かの仲魔達は洞窟内が狭いこともあり、移動中は馬車の中に引き篭っていた。結界魔法をかけ直すため、ホイミンだけが時折幌から出てきて辺りを旋回する。最後尾には疲れ知らずのドラゴンマッド二匹、先頭をプックルに守ってもらって、パトリシアの手綱を引く僕と荷台の隣を歩くフローラの五名が、今、馬車の外に出ている面々だった。

「外が見えないと、時間が全然わかんないね。疲れたら早めに教えて? 本当に、気を遣わなくていいから」

 前回の休憩から一刻は経っただろうか。もはや腹時計が唯一の頼りだ。体の大きいマッドに追い立てられるようにして、懸命に歩くフローラを振り返った。

 だいぶ暗闇に目が慣れたとはいえ、ここでは彼女の様子をしっかり見てやることができない。口数が少なくなっていたフローラだが、返ってきた声はすこぶる元気そうでほっとした。

「まだ、大丈夫ですよ。テュールさんは本当に体力がお有りなのですね」

「男と女じゃやっぱり違うよ。特に僕は、歩くのも戦うのも、人よりずっと慣れてると思うし」

 実際、今も僕はさほど疲労を感じていない。ホイミンのトヘロスとフローラの支援魔法のお陰で、遭遇した魔物は総じて難なく退けられている。仲間になった当初は力任せに暴れるばかりだったラゴンとマッドも、フローラや馬車を守って戦うことに少しずつ慣れてきている。戦い方さえ落ち着いてくれば、効率良く体力を温存していける。

 僕や仲魔達はそれでいいけど、線の細いフローラが同じようについてくるのはきっと、僕らが思うよりずっと大変なことだ。

 特に彼女はこういう時、自分から休みたいとは中々言ってくれない。僕らの歩みに合わせて、一生懸命ついてきてくれるから。

「フローラに体力で負けたら、僕の立つ瀬がない。だから、本当に遠慮せず、休みたい時は言ってね。あ、足痛くない?」

 前にもこんな会話をした気がするが、妻の我慢強さはもう嫌というほど知っている。しつこく繰り返す僕に鬱陶しがる素振りも見せず、彼女は「大丈夫です。やっぱり、テュールさんはとてもお優しいですね」とくすくす、珊瑚の唇に白指を添えて愛らしく笑った。

「十分すぎるほど気にかけていただいていますよ。でも、ありがとうございます。嬉しいです」

 そんなふうに言ってもらうと、単純だけど褒められた子供みたいな、面映い心地になる。

 優しいのはフローラの方だよ。絶対、僕の方が気遣ってもらってると思う。

 けれどそのあと、続けて呟かれた言葉がほんの少し心許ないように聴こえて、思わず身体ごと彼女を振り返った。

「本当は、洞窟に入れてほっとしました。……ちょっと、高いところが怖く、なってきていました、から……」

 肩をきゅっとすくませ、それでもきっと精一杯、平気な顔を繕って、君は微笑む。

 微かな自嘲を含ませたそれは、また僕に迷惑をかけまいと気を張ってくれているが故だろう。

 頼って欲しい。たまには泣き言を言ったっていいのに。みんなより多く休憩したって構わない、高いところが怖くたって、足手まといでも何でもないのに。

 それでも、たった今零した独白が、何でも一人で乗り越えようとする君の、精一杯の弱音なんだってわかるから。

 労しい、切ない想いが込み上げて、パトリシアと僕の間を少しだけ空けて手招きした。不思議そうに首を傾げたフローラが歩み寄る。その細い指の隙間に、掌をするりと差し込んだ。

 肩を震わせた彼女が、白い吐息を零して僕を見上げる。

 相変わらず儚い君の手は滑らかで、氷みたいに冷たかった。

「こうしていると、安心しない?」

 耳許に問いかければ、恥じらうように俯いた君が、遠慮がちにきゅっと握り返してくれる。

「……安心、します」

「僕も。……なるべく、離さないようにするからね」

 気休めに過ぎないとお互いわかっていたけれど、フローラはほんのり、嬉しそうに微笑んで頷いてくれた。

 魔物が出れば、どのみち手を離して彼女を後ろに隠さなくてはならない。けどせめて、こうして歩いている間くらいは。

 それきり会話は絶えたけれど、さっきより温もりを取り戻しつつあるフローラと手を繋いでいると、余計な思考が削ぎ落とされて、精神が静かに凪いでいく心地がした。

 ────そう、言った通りにすれば良かったんだ。

 状況が許さないことは多々あるし、それでどうにかなることなんて、現実にはそう多くはない。

 けど、どうにもならなかったとしても、あの時だけは手を取りあっていたかった。離さなければ良かったって。

 時間が経って思い返すほど、後悔は飲み下せない、苦い味に変わるのだ。

 

 

◆◆◆

 

 

 途中、幾つもの分岐に迷いつつ、正確には何度も袋小路に突き当たっては来た道を戻ることを繰り返して、更に歩くこと数日。

 狭い坑道を抜けた先に、よく磨かれた滑らかな大岩がいくつも乱立する、少し広い場所に出た。

 天井も高い。どうやらここから先はまた、山道のような急勾配になっていくようだ。鉱物を多く含んでいるのか、岩壁がカンテラの灯をきらきらと反射して、なんとも神秘的な、仄かな明るさを保っていた。

 これが、鉱床というものか。

「……きれい……」

 夏の夜にだけ見える、星の河にも似た細かな光を仰いで、フローラが感嘆を滲ませた。

「うん。夜空みたい、だよね……」

 僕もまた、天に見惚れる仲魔達と共にしみじみと見上げる。

 祭壇みたいだな、とちょっと思った。今まで来た道とは違い、壁面を無造作に彫られた形跡がないのだ。この辺りは何か、地元の人々にとって特別な場所なのだろうか。

 とはいえ、魔物が出ることに変わりはないらしい。

 大岩の陰から三、四体の骸達がぞろりと顔を覗かせた。僕達を見咎めると、法衣を纏った骸骨の低い唸りを受けて、槍を構えた骸骨達が一斉に襲いかかる。

「無粋な輩だ。映す眼なくば詮なきことか、哀れな!」

 暗黒の眼窩を睨み据え、ピエールとプックルが真っ先に飛び出した。何度かはその身に雷と穂先をかすらせながら、しかし息のあった連携で次々に敵を打ち伏せる。ここ数日、骸骨とばかりやり合ってきた仲魔達の迎撃ぶりは見事なもので、あっという間に方がついた。

 魔物の気配が消えたことを確認して、星屑の広間のようなその場所で全員、半日ほど休憩した。今まで歩いてきた狭い坑道より明るい為か、さほど魔物に煩わされることもなく、交代で睡眠を取ることができた。

「結構歩いたから、もうすぐ山頂の村に着けるんじゃないかな? そろそろ宿でゆっくり休みたいよね」

 坑道に入って何日経ったのか、もうずっとまともに湯浴みをしていない。旅をしていれば当たり前のことだけど、今はフローラがいるから、やっぱり出来ることなら清潔にしたいと思う。

 高い山では体調を崩すことが多いと聞いていたので、ここまでの道のりはなるべく無理をせず、急ぎ過ぎず来たつもりだった。だからこそ、頷いたフローラが元気そうにしていてほっとした。

 その後も何度か魔物に遭遇しては打ち倒し、きつい傾斜では馬車をラゴン達に押してもらって。

 きらきら輝く高い天井を仰ぎながら進んでいくと、切り立った岩の上方に吊り橋が架かっているのが見えてきた。

 傾斜の続く方向を見るに、あそこを渡ることになりそうだ。

「怖かったら、馬車の中にいていいんだよ?」

 さほど高くはないものの、下から仰いだだけでフローラはすっかり青褪めて硬直してしまった。彼女にとって吊り橋は、最も苦手なものの一つだ。馬車が一番吊り橋に負荷をかけることを考えればなるべく重くしない方がいいけど、まぁ、フローラ一人くらいなら。

 覗き込むと、彼女はぐっと唇を引き結んで僕の顔を見上げ、ふるふると首を振った。

「て、手を……繋いでいて、いただけるなら」

 そんなの、お安い御用だって。

 だらしなく緩む頬を懸命に引き締め、小さな手を握る。きっと無意識に、腕に縋りついてくる彼女が可愛くてたまらない。

「支えていてあげるから、フローラは上だけ見てたらいいよ。下が見えると怖いもんね」

 つい弾んでしまう声音を落ち着けて、そう囁いた。強張りながらもフローラが何とか頷くと、彼女を気にしたホイミンとしびれんもふわふわと頭上を旋回して「ホイミンのてにつかまっててもい〜よ〜!」とはしゃいだ声をあげる。仲の良いスライム属達のフォローのお陰で、フローラの緊張も幾ばくか和らいだようだった。

 それからおよそ一刻、急勾配を登り続けて、ようやく吊り橋に辿り着いた。

 強度を確認してまず軽い仲魔達を通し、続いて馬車と大柄な仲魔達を順次渡らせてから、いよいよフローラを迎えに行った。がくがく震えて足を動かせない妻を宥めて肩を抱き、スライム属達の応援をもらいながらも何とか渡りきる。

 不幸なことに吊り橋はその先にもう一箇所あり、フローラは安心したところで再び、命が縮む思いをしなくてはならなかった。

 僕はしかし、役得である。珍しく半泣きでしがみつくフローラを、ほとんど抱きしめながら吊り橋を渡った。

 何故かいつも以上に瑞々しく薫る花の香りに思わず、とくんと胸が高鳴る。

 先に渡りきった仲魔達のぬるい眼差しを浴びながら、苦笑いを噛み殺して少しずつ歩く。半分も過ぎたところでふと、彼らの向こう側に揺らめく小柄な影が目に入った。

「みんな、後ろ!」

 思わず叫んだ。腕の中のフローラがびくりと強張り、一瞬緊張が走ったが、仲魔達の背後から響いたひどく厳かな声が、張り詰めた空気を打ち消す。

 

「お待ちください。私は、魔物ではございません」

 

 殺気もなく、そもそも仲魔達が警戒していなかったのだから恐れる理由もなかったが。思わず身構えたのは、その方が纏っていた装束がここ数日、何度も目にしたものに似ていたからだ。

 神父──司祭の、法衣。

「大変、失礼しました。神父様がこのようなところにいらっしゃるとは思わず」

「驚かれるのはご尤もでございます。お気になさいませんよう、旅の方」

 急いで吊り橋を渡りきり、フローラと並んで腰を折る。

 御年六、七十前後だろうか。物腰柔らかなその老司祭は、濃い笑い皺を刻みながらおっとりと微笑んだ。

「私も驚きました。旅の方にお会いするのは実に久しいもので。ずいぶんと珍しい魔物をお連れですね。魔物遣いとは、またお懐かしい」

 確かに、ドラゴンマッド以外はこの辺じゃ見ない魔物ばかりかもしれない。けど、懐かしいってなんだろう?

 思わず首を捻ると「遥か昔の話でございますが、我が国の王妃殿下が魔物遣いの特性をお持ちでいらっしゃいました」と静かな答えが返った。

 母さんだ。直感してどきりと心臓が跳ねた。魔物と親しむこの能力が、やっぱり母さん譲りのものだったかもと思うとつい気持ちが昂るが、過去の話として語られることにはやはり、一抹の寂しさを覚えてしまう。

 仕方ない。この国は僕の歳と同じだけの年月、王と王妃を失って時が過ぎたのだから。

「はて、しかし鉱石をお探しでしょうか。残念ながらこの辺りはあらかた掘り尽くされておりまして」

「あ、えっと……そうではないんです。昔亡くなった父の故郷が、こちらではないかと教えてくださった方がいまして。是非一度見てみたいと思って、西の、大陸からやって参りました」

 背負った剣を、こっそり隠しながら言葉を選ぶ。

 これだけご年配の、恐らくは地位のある方であれば、両親と何らかの面識をお持ちかもしれない。だが、それを問うのはまず、王都で父の素性をきちんと確認してからだ。

 果たして老司祭は、驚愕も露わに眼を瞠る。

「……本当に旅の方でいらしたとは。これは、失礼を」

 苦笑を交わしあう僕らを見遣り、彼はおもむろに、更なる問いを投げてくる。

「どちらの村をお探しですか。もう小半刻も歩けば、この先にチゾットという村がございますよ」

 チゾット。目標にしていた中継地点の村だ。もう数十分も歩けばこの坑道を抜けられるらしいと聞いて、自然とみんなの顔も明るくなる。僕もまた、胸に広がる安堵を噛みしめながら老司祭に向き直った。

「良かった。実は僕達、グランバニアの王都に行ってみたくてここまで来たんです」

「王都、でございますか」

 しかし、老司祭の反応は芳しくなかった。見るからに表情を曇らせ黙り込んだ老人の様子に、一抹の不安が過る。

「もしかして、他所者が都へ入るのは難しい……ですか?」

 恐る恐る問うと、彼は灰色の眼を軽く瞬かせて首を傾げた。

 何と答えたものか、考えあぐねている様子だ。

 入れないなら、周りの村から周ってみるしかないかな。そのうち伝手を見つけて街に入れるかもしれないし。困惑させたことを詫びようと口を開きかけたところで、努めて穏やかな声音で神父が答えた。

「……いいえ、失礼致しました。長いこと、旅の方のご来訪がなかった国でございますから。恐らく城門で検問がありましょう。我が王都は、城塞の中に街を囲っておりますので」

「ああ、本当に。本で読んだ通りなんですね」

 思わず頷くと、司祭は表情をふっと和らげて僕を見た。

「チゾット村に吊り橋が架かっております。そこから、城影がよく見えましょう」

 ──そう教えられると、途端に気持ちが逸ってしまう。

 高揚を隠しきれない僕を見てとった司祭が、ふふ、と密やかに微笑んだ。子供を見守るような温かい視線に気恥ずかしさを覚えたが、着実に故郷に近づいているのだと思うと、やはり胸が躍る心地は抑え難い。

 こんなにも自分は期待していたのかと、しみじみ思うほどだ。

 ちらりと肩越しに振り返ると、妻も嬉しそうに表情を綻ばせ、僕を見つめてくれていた。

「私がご紹介して差し上げられれば良いのですが、あいにく今、王都の教会から籍を外れた身でございまして。御力になれず、誠に申し訳ございません」

「いえ、そんな、お気持ちだけで十分です。……あなた様のような徳の高い方と行き会えましたことこそ、何よりの幸運です」

 頭を下げられ、寧ろ慌てて言い繕った。不信心極まりない僕としては若干後ろめたい心地だったが、さぞ修養を積まれたであろうこの年配の神職者は、人を癒す微笑みを浮かべて僕ら一行を改めて眺めやった。

「せめて、旅の安全をご祈念致しましょう。チゾット村より先はますます、険しい道のりが続きますゆえ」

 言い終わると同時にとん、と杖を地に打ちつけて鳴らし、厳かに印を切る。疲労回復の魔法をかけてくださっているのか、じわじわと活力が身体の内側に満ちてくる。

 敬虔なフローラも彼に呼応して指を組み、神父様と共に、深く祈りを捧げていた。

「神父様は、どちらかの村へおいでになる途中でいらっしゃいましたか?」

 祈りを終えた司祭に深々謝辞を示した後、改めて問うた。

 王都から登ってこられたのなら、山の反対側へ降りるおつもりなのだろうと思って出た疑問だったが、やや怪訝な顔をされてしまった。

 土地勘がないはずの旅人がこんなこと聞いたら確かに、探りを入れているようにしか聞こえないか。

「あの、麓の……大樹のある教会でお会いしたシスターも、王都から来られたと仰っていたものですから」

 首を傾げていた司祭が微かに瞠目する。「ツリーハウスのような。宿屋に併設されている教会なのですが、ご存知ですか」と言い添えれば、彼はようやく息を吐き、肩の力を抜いた。

「そうですか。彼女は無事、ネッドに……」

 しみじみと呟かれたそれには、確かに安堵と、深い喜びが満ちていて。

 ああ、お知り合いだったのか。

 腑に落ちると同時に、この日この場で彼女の身を案じる人にその無事を伝えられたことは、まるで神の……人智を超えた何者かの采配のように感じられたのだった。未だ、神の奇跡なんて信じちゃいないけど。きっとたった今、この方にとってこれは必要なことだったんだって。

 ……どうして、今、必要なんだ?

 突如、ざわりと────言葉にできない重苦しい予感が胸の中を駆け抜けた。息が詰まる心地がしてふと喉元を抑えた、その刹那。

「目的を申し上げるなら、ここがそうです。私は、この坑道を目指して参りました」

 強い意思が込められた、覚悟すら滲むその声につられて顔を上げる。目が合うと、神父様はわずかに哀しげに、灰色の瞳を細めた。

「ここ数年、この近辺に骸の魔物が多く現れるようになりまして……個人的に、大変気にかかっていたのです」

 ああ、と思わず頷く。同じく僕も、何とはなしに気になっていたことだったから。

 坑道に入ってから見かける魔物がほとんど、骸姿の魔物ばかりだったのだ。あの厄介な飛空魔も飛び交っているが、数はさほど多くない。どちらかと言えば、法衣を纏った魔物が雷魔法を浴びせてくることの方が多かった。雷と言っても勇者由来の天雷魔法ではないようだ。魔道具らしき杖から発せられる弱い稲光を合図に、どこからか骸骨兵が湧いては錆びた槍で猛攻を仕掛けてくる。

 初めは淡々と打ち伏せていたのが、数日間相手をするうちにじわじわと疑念に変わってきた。

 それでも、まさかと思っていた。

「以前は出なかったのですか? あの、骸骨の魔物は」

「ここ四、五年ほどのことでございます。以前は鉱夫も多うございましたから、骸のみならず、ここまで魔物が出るという話はございませんでした」

「そうなのですね……地元の皆様はさぞご不安なことでしょう」

 相槌を打つと、フローラもまた僕の隣でこくりと頷く。

 山を越えようとする人間が減るわけだ。ネッドさんのお孫さんが輿入れしたのも確か、五年くらい前じゃなかったっけ。こうも骸骨がうようよしていては、相当の腕利きが二人三人いないと、ここまで登ってくるのも辛いだろう。

「ご覧になりましたか。あの骸達、多くが兵を、我々のような司祭の法衣をまとった者が指揮しておりましょう」

 雷を放つ、杖を持った骸を思い出し頷くと、淡々と告げる司祭の瞳に苦しげな色が過った。

「先の大戦で、命を落とした方々やもしれませぬ。魔族に利用されたか、朽ちて尚、安らかなることを許されないのであれば……少しでも、浄化してやれないものかと」

 それでここ数日、チゾット村に滞在して魔物退治をしていたのだと、彼は言った。

 神職らしい、立派なお志だと思う。でも、こんなご年配の方がお一人でだなんて。問題が上がっているなら組織として対応するのが筋だろうに、そういえばさっき、王都の教会から籍を外れているって仰っていなかったか。

『異教』が幅を利かせているらしいことと、何か関係があるんだろうか。

 宗教というだけでどうにも警戒してしまっていけない。つい考え込んだところで「皆様がいらした麓側には、骸の魔物は多く出ましたか」と問われた。意識の照準を司祭に戻して、つい昨日までの坑道の様子を思い起こす。

「そう……、ですね。この奥の、狭い坑道の方がもっと多く出たような気がします。神父様が鎮めてくださったから、この辺りには少ないのでしょうか」

 頷く彼に、これは少々気まずく感じながらも言い添えた。

「途中、何度か旅の方と思しき亡骸を弔いました」

 そういう話を聞いてしまうと、僕らが弔ったあの亡骸も、もしや魔物になってしまうのではと不安になってしまう。遺品だけでなく遺骨も、せめて山頂の村まで運んだほうがよかっただろうか。

「……ありがとうございます。大変有意義なお話を拝聴いたしました」

 目を閉じて、何やら思案していた司祭が重々しく息を吐いた。深い嘆きを灰色の瞳の奥に押し隠した彼は、穏やかながらも強い意志を嘆きの代わりに宿し、顔をあげる。

「皆様が来られたばかりですので、しばらくは何も出ないやもしれませんが。少し、奥を見て参りましょう。夜にはチゾットに戻りますから、またお目にかかれるかと存じます」

「お一人で? よろしければ護衛しましょうか。せっかく行き合ったのですから、多少なりともお力になれれば」

「いえ、ここまでの道のりも一人で参りましたから。ご心配には及びません。奥様もいらっしゃるのですから皆様はどうぞ、お先に村へ」

 僕の申し出をやんわりと退け、しかし司祭は、和やかな瞳に一抹の寂しさを滲ませた。

「……ですが、皆様を見ておりますと、賑やかな旅路も悪くないと思えますね。一人旅はどうしても、心細いものでした」

 今夜の宿泊予定を問われ、当然迷わず首肯した。久々に宿が賑やかで皆が喜びます、と神父様が微笑んでくださる。この洞窟にお一人で、と思うとどうにも不安だが、またお会いできると思えば、何故かざわつく胸の内が少しだけ落ち着く気がした。

「それでは先に行って、お戻りをお待ちしております。どうぞお気をつけください。神父様」

「ええ。皆様もどうか、ご無事で」

 軽く腰を折り、杖を握り直した司祭はしっかりした足取りで吊り橋を渡っていった。カンテラの光が届く範囲を外れると、その背中はすぐ洞窟の闇に溶けて見えなくなってしまう。

「……きっと、私も一人だったら……旅に出ることもありませんでしたわ」

 隣で見送っていたフローラがぽつりと呟いた。きっと本当に独り言のつもりだったんだろう。覗き込むと、少しだけ驚いたように瞠目してから恥ずかしそうに肩をすくめ、吐息だけで囁く。

「あなたと一緒だから、私は……」

「……うん」

 肩を抱き寄せ、こつんと頭を寄せる。白い帽子がくすぐったそうに僕を仰いだ。

 ずっと前に、言ってたもんね。大切な人と、世界中を自由に旅するのが夢だったんだって。

 こんな、苦労させてばかりの旅路だけど。僕のわがままは君の望みを叶えることに、少しでも繋がっているだろうか。

 僕の考えていることがわかったのか、フローラが微かに笑う。「これでも私、昨年よりずっとましになりましたでしょう?」などと首を傾げて得意げに言うのが可愛くて、我慢できずにすぐそばにあるこめかみに口づけた。途端にぼんっ! と顔に火を灯したフローラが額を抑え、勢いよく飛び退く。

 残念、久しぶりだからもっと触れたかったんだけどな。

 仲魔達のにやついた視線を再び浴びつつ、なんとなく、神父様の気配を感じなくなるまでその場で見送ってから、ようやくみんなの方を向き直った。

「とりあえず、良かったね。もうすぐチゾットだって。折り返しには来てるから、あとは山を降りるだけ」

 ──……だね。

 言いかけた言葉は、にわかに届いた喧騒に掻き消される。

 洞の奥、今来たばかりの吊り橋の先だ。神父様が消えていった暗闇から不穏な怨嗟が幾重にも響く。老人の険しい声が、何らかの詠唱を試みたその声が、不自然に途切れた。

「────プックル‼︎」

 僕が叫ぶより早く、プックルが地を蹴った。数が多い、いつの間に!

 瞬時に遠ざかる緋色の背中をピエールとスラりんが追って駆け出す。その後をマッドとラゴン、マーリン達が続いた。こんな大群、そう簡単に一人で捌けるもんじゃない。無事でいてくださることをひたすら願って、僕も身を翻した。

「すぐ戻るから、ホイミンは念の為トヘロスかけ直して。フローラは治癒の準備を!」

 ほとんど駆け出しながら、馬車に寄り添う二人にそれだけ言い残して。頷く妻の気配を信じて振り返らず駆けた。馬車を起点にトヘロスを発動してもらっているから、万が一魔物が来ても簡単には二人に近づけない、はず。

 カンテラを掲げて飛び込んだ岩壁の向こうは、言いようのない混沌が広がっていた。

 血の匂い。幽霊の如く揺らめく黒い影は骸達だ。今まで遭遇した中で、最も多い群れに違いなかった。それらが取り囲む中央、仲魔達が庇う地面に誰かが倒れ伏している。

 薙ぎ払われた骸の魔物達のものに似た、司祭の服。

 ついさっきまで、本当にちょっと前まで、僕達と朗らかに話をしていた。あの方が。

 

 何故、喉を、錆びた槍に貫かれ倒れ伏しているのか。

 

「よくぞ耐えられた。今、お助け申す」

 それだけ呟き、跪いたピエールが魔力を集中させ始める。司祭を狙っているのか、骸骨どもが襲いかかるが仲魔達に阻まれ次々に崩れ落ちた。その背後から僕も斬って掻き分け、ピエールの横に滑り込む。

 奇跡と言って良いのか、槍の穂が引っかかってすぐ抜かれなかったことが幸いしたのだ。即死でもおかしくなかったが息があった。ピエールを補佐し、彼のベホマが発動すると同時に思いきり槍を引き抜いた。治癒の光が辺りに満ちて、どぷりと血にまみれる疵口が塞がっていく。が、その最中にも飛空魔が滑空してきた。間の悪いことに誘眠魔法が辺りに充満し、正面から受けたラゴンと、施術真っ最中のピエールがよろめく。

「ガンドフ、マッド! ラゴンを守って!」

 素早く叫び、懐のブーメランをダックカイト目掛けて投げつけた。同時に脇から放たれたマーリンのメラミが飛膜を焼く。ゲェエ、と呻いてダックカイトは落ちたが、その間にも骸骨の兵と司祭が闇の中から湧いて出た。

 ────いや、違う。

 そこかしこに散らばった骨が、少し経つとキングスライムの如く一箇所に集まり、再び正しい位置に組み上げられていく。

 目を疑う暇もなく、一度崩れた骸骨が再び形をとって襲いかかった。斬撃を重ねればまた骨はばらばらになるが、数分と待たず、骸達は次々元の姿に戻ってゆく。

 新たに湧いているのもあるかもしれない。でも、実際に蘇る骸をこの目で見てしまったら。

「……またか……!」

 この気配、覚えがある。砂漠で、海で、異様な再生力を誇る魔物達とやり合ってきた。

 今まで斃してきた骸骨達と明らかに違うのは、何らかの強化を施されているのだろう。それでも、今まで戦ってきた化け物共に比べれば、こいつらはそこまで脅威じゃない。

「きっちり核を取ろう。そうすれば復活しなくなる!」

「うー、でもこいつら、どこにかくあるかわかんないよー!」

 急いで傷を改め、血が止まっていることだけ確かめて。傷ついた司祭を抱き上げるなり、怨念めいた咆哮が木霊した。苛立ちながらも威嚇し返すスラりんの覇気は奴らに負けていない。彼を守るようにひらひら飛び回るしびれんもまた、臆病な彼女に似合わぬ果敢な表情で骸達を睨み返した。

 いつの間にこんな、守る者の顔をするようになったんだろう。

 しびれんの息は効くようだ。僕らを巻き込まないよう、さっきから注意深く、骸だけに麻痺の息を浴びせてくれている。タイミングよく数体の動きが鈍ったところで声を上げた。

「三分止めてて、すぐ戻る。プックル!」

 踊り出たプックルの背に司祭ごと跨って、道を塞ぐ骸達に指輪を向けた。炎に弱いくせに、爆発をものともせず立ち塞がる骸を蹴散らし血路を開く。伸ばされる白骨の腕を次々斬り弾き、マーリン達の援護を受けた隙をついて、一気にその場を離脱した。

 眠って動けないラゴン達には見向きもせず、神父様だけを狙ってくる。当然追おうとしたようだが、手隙の仲魔達が阻んでくれた。感謝しつつ吊り橋を越えると、不安そうにこちらを見守るフローラとホイミンの姿が見えた。

 トヘロスが効いているのだろう。馬車の周りにはひとまずおかしな気配がなくほっとする。司祭を降ろし、治癒をホイミンとフローラに任せて僕だけ戦場へ駆け戻った。どうしても不安だから、プックルにはそのまま彼らを守ってもらうことにする。

 骨の一本だって、この吊り橋は通さないから。

「かような時に寝入るとは、不覚の極み」

「不可抗力だよ。無理するな、ピエール!」

 再び戦場に飛び込めば、ちょうど眠りから覚めたピエールが骸の懐に斬り込んだところだった。一際大きいマッドが吊り橋の前に立って、骸骨どもの進路を阻んでくれている。ラゴンも起き出したらしく、眠気を振り払いながら地面の骨を次々踏み砕いていた。なるほど、粉砕すれば時間稼ぎになるか。でも。

「頭蓋骨を砕いても駄目なのか。もういっそ、全部の骨を砕ききるくらいじゃないと無理かな……」

 それでもうっすら金の光を帯びて、じわじわ修復していく骨を見れば舌打ちせずにはいられない。飛空魔は全部片付いたが、主力の骸が一向に減らない。

「心の臓があるようには見えぬな。核があるとすれば恐らく、骨のいずれか」

「喉、では」

 ピエールの呟きをマーリンが遮った。目配せで理由を問えば、彼はしわがれた低い声ではっきりと告げる。

「司祭殿も、喉の一点を狙われておりましたので。同じヒト型なれば、この者共の狙いにも意味があるやもと」

 ……なるほど。

 神父様もさっき、こいつらが元々人間なのではと仰っていた。同種属とみなして急所を狙ったなら、逆に言えばこの骸達の急所こそ喉なのかも。

 人体には急所と呼ばれる部位がいくつもあるが、特に喉の骨には魂の核が宿ると昔、聞いたことがある。あれは修道院だっただろうか。僕らが流れ着いた後、身を寄せる間にも浜辺に打ち上がった遺体を供養していたシスターが教えてくれたのだ。

「狙えるか? マーリン!」

 既にメラミの詠唱に入っていたマーリンは、答える代わりに素晴らしいコントロールで見事、骸の喉元を撃ち抜いた。

 ただ高火力なだけではない。人にしろ魔物にしろ、これだけの精度の高さを誇る魔法の使い手は非常に稀有だ。

 炎が直撃し、オオオンと濁った絶叫が骨の隙間から漏れる。そのたった今、赤々と燃え上がる喉から金色のまるい光が浮かび上がった。禍々しいその輝きに思わず、息を呑んだ。

 砂漠で。玉虫色のさなぎが弾けた時、あんな光がほとばしったのをこの目で見た。

 今のそれは、あの時よりずっと弱い光ではあるけれど。

 珍しく、マーリンが苦々しく舌打ちした。横目に盗み見て忍び笑ったピエールが、剣を抜きざま加速しながら叫ぶ。

「焔だけでは焼ききれぬか。スラりん、援護を!」

「まっかせてー!」

 ピエール達が駆け出したその時、炎を放つマーリンを狙って別方向から槍が飛んできた。僕が穂先を払ったのと、ガンドフがその柄を掴み取ったのがほぼ同時。動きを止めた骸の首をマッドの爪が抉り取る。呻いた頭蓋骨がぐらりと落ち、尚も力を込めたマッドの怪力で喉骨が粉々に砕け散った。フン、と前足を振ったマッドの爪ほどしかない黄金の核が、骨粉に紛れて闇に散り落ちた。

「ガンドフ、平気?」

 それなりのスピードの槍を素手で止めてくれたガンドフを労えば、力強く笑んで頷いてくれた。彼もベホイミを詠めるから、戦闘に支障があれば自ら回復してくれる。

「いけるね。この調子でこいつら全部沈めて────」

 

 

 異変が起こったのは、その時だった。

 

 

 キィ……────────ン、と、

 ひどく耳障りな波動が、頭の芯を貫く。

 薄気味悪い冷気が音もなく伝播して、洞窟中に充満する。

 気配の元は吊り橋の向こう。たった今フローラ達が司祭を治療しているその場所からだ。他に誰もいなかった、聖結界魔法の効力で、滅多な敵は近づけないはずではなかったか。

 

 

 

 まさか。でも。

 重苦しい。抑えて尚滲む威圧感、存在感。禍々しい、今にもこちらを死の淵へと引き摺り込む、圧倒的な、闇の力。

 なんで。だって、たった今戻った時は確かに、なんの気配もなかったのに。

 全身が逆立つ。魂がたった一点、遥か忌まわしいあの一瞬を、記憶の底から投影する。

 

 忘れない。

 あの日、首に当てられた鎌の冷ややかさを。

 

「────、……ゲマ……?」

 

 身動ぎ一つできなかった。一瞬で迫った熱源に、父の最期が脳裏を駆け抜ける。刹那、巨大な焔が吊り橋上の天井に直撃した。けたたましい爆煙をあげて、強固な岩盤は呆気なく崩落した。

 

 

◆◆◆

 

 

【side Flora】

 

 呪詛めいた叫び声がいくつも響いて、思わず身を硬くする。

 ついさっき行き合った神父様が魔物に襲われているのだと、すぐにわかった。私達が来たばかりの道だったから、油断なさっていたのかもしれない。

「プックル‼︎」

 テュールさんが叫ぶより早く、プックルちゃんが駆けた。その背を追ってピエールさんとスラりんちゃんが走り出し、他の仲魔の皆さん達も流れるように追従していく。

「すぐ戻るから、ホイミンは念の為トへロスかけ直して。フローラは治癒の準備を!」と口早に言い残し、駆け出したテュールさんの背が洞窟の奥に飲み込まれていった。

 少し離れた場所から、ひっきりなしに怒号が響いている。グェエと鳴くダックカイトの断末魔、皆さんの雄叫びに紛れて、指示を飛ばすテュールさんの力強い声が聞こえると少しだけ気持ちが強くなる。髑髏達の槍が爆ぜる音、言葉にならない怨嗟。次々に空気を焼く杖の雷とカンテラの灯りが、揉み合う彼らの影ばかりを壁に映し出す。震えてしまう肩を叱咤し、指を組んでひたすら彼らを待った。ほんの三、四分のことだったけれど、この世が終わるのではと思うほど長い時間だったと思う。

 やがて、血塗れの神父様を抱えたテュールさんを乗せて、プックルちゃんが闇の中から飛び出し、こちらに駆け戻ってきた。

「……酷い……!」

 滑らかに減速したプックルちゃんの背からテュールさんが降りて、すぐさま神父様を横たえる。その惨状に、息を呑んだ。

 喉を、鋭いもので抉られた痕。

 つい先ほどお話しした時には優しげに微笑まれていたお顔が、今は苦悶に歪んでいた。杖を握りしめた腕も不自然に捻れて、腹部に頭部、いいえ、もう全身に傷を負っているようだった。呼吸も微かに胸が上下していなければ、既に事切れているようにしか見えない。

 直視するには痛々しすぎる、けれど、こみ上げる恐怖を必死にこらえて顔を上げた。

 テュールさんもところどころ傷ついていらっしゃったけれど、頬の傷を拭っただけですぐに身を翻す。

「喉だけ軽く処置した。あとは二人に任せていい? プックルはこのまま、ここでみんなを守っていて」

 手短な説明を聞きながら頷く間にも、ホイミンちゃんは触手に眩しいベホマの光を灯し始める。私も気を引き締めて、腹部の損傷から治癒すべく手を翳した。

 集中して。今は、自分に出来ることをやるだけ。

「絶対、あそこで止めるから。頼む!」

 私達が施術に取り掛かったのを見て、短く言い置いたテュールさんが再び戦場へ駆け戻っていった。もう背中を見送る余裕もない。掌に熱く跳ね返る魔法の反動を感じ取りながら、満遍なく丁寧に、ベホイミをかけていく。

 お助けします。絶対に。

 ホイミンちゃんも目を閉じて集中している。小さな身体から眩く放たれる全快魔法の光が、みるみるうちに喉の、額の刺創を修復していく。

 治癒魔法が全身に行き渡るごとに、止まりかけていた浅い呼吸が少しずつ、穏やかで深いものに変わっていくのがわかった。

 間に合うわ。きっとこれなら、大丈夫。

 ほっとして、同時に微かな不安が過った。小さく頭を振って嫌な予感を振り払う。良くないこと、考えちゃ駄目。こういう時ほど、良いことを思い浮かべるの。

 悪い予感は、大抵、当たってしまうものだから。

 

 突如、

 プックルちゃんの低い咆哮が、洞窟の天井に響き渡った。

 

 顔を上げず、集中を切らないようそろりと意識を外に向ける。

 この気配は、何?

 テュールさん達じゃない。何か、ものすごく嫌な、恐ろしいものが、影のように揺らめいてこちらを見ている────

「まったく。なんてことを、してくれるんです……?」

 見てはいけない。

 どうしてなのか、本能が拒絶した。逃げ場などその時点でとっくになかったのに。ぞわぞわと、粘りつくようなおぞましい声が、まるで耳に直接囁きかけるようにまとわりついてくる。

「この私が直々に才を買って差し上げたというのに。折角きれいに空けた穴を、塞がれては困ります」

 聞き分けのない子供をあやすように、その何者かは、まろやかな言葉遣いに薄い嘲笑を含ませ嘯く。

 なんて酷い言い様だとさすがに鼻白みかけたけれど、軽率に言い返す気概が今の私にあるはずもなく。

 どうしたらやり過ごせるの。見えないふり、聞こえないふりをする以外に。

 思わず、下腹部をそっと抑えた。プックルちゃんが私達を守って威嚇するも、その者は全く意に介した様子がない。黙って回復術に集中する私達を……いいえ、神父様を見つめて、それ(・・)はおもむろに口を、開く。

「返してもらおう。それは、我々の獲物だ」

 

 刹那。

 

 凄まじい圧に、吹き飛ばされた。

 岩壁にめり込むほど叩きつけられ、かは、とかすれた呻きが気道から漏れる。軋む身体がずるりと滑り落ちて────私よりずっと小さなホイミンちゃんが、木の葉の如くぽとりと、壁から地面へと落ちた。

 魔法なのか、ただの風圧だったのかもわからない。

 駄目。駄目。駄目。駄目。

 誰も勝てない。こんな、一瞬で圧倒されてしまう相手なんて。

 ……来ては駄目。来ないで。お願い。

 咄嗟に過ったのは、愛しい夫の顔だった。神父様を救い出したあと、尚も蔓延する魔物を一掃するため、戦場へと駆け戻った夫。

 今来ては、駄目です。勝てない。

「……ほぅ?」

 何が目に留まったのか、魔族がぴたりと動きを止めた。目を合わせたらいよいよ逃げ場がなくなる気がして、必死に顔を逸らし神父様を探す。数歩先に倒れ臥したその方を、せめて守ろうと腕を伸ばした瞬間。

「っ……!」

 空気中を転移したかの如く、ほんの一呼吸のうちに私の眼前に現れたその魔族は、そう認識した時には既に、私の髪を掴んで見下ろしていた。

 背中を踏み躙られ、縫いとめられた身体が悲鳴をあげる。

 結い上げた髪を、千切れそうなほどきつく引っ張られて。

 瞬きもできない。吸った息を吐くことすら。

 御者台に吊るしたランプが煌々と灯る。その淡い光に照らされて、冷たい眸をすっと細めた魔族は、地獄の底から這い摺り出た呪いの如く……呟きをゆっくり、ひとこと、絞り出した。

 

「……碧、髪」

 

 見下ろしてくるその顔はひどく、蒼い。

 私の髪とも、ホイミンちゃんやラゴンちゃん達の深い青とも違う。禍々しい、澱んだ、暗い蒼。

 その恐ろしい顔が、溢れんばかりの愉悦にニイィと歪んだ。

「こぉんなところに居たのですか。道理で、見つからないはずですよ」

 

 ……臓腑が、

 凍りつく。

 

「貴女にお会いしたくて、配下の者がずぅっとお探ししていたのですがね。とんだ無駄足だったようで」

 離して。

 帽子が、いつの間にかどこかに落ちてしまっていたのだ。呼吸が、喉が貼りついたみたいに、声が、出ない。ほほ、と慇懃に笑いを漏らし、髪を掴んだ魔族の爪が一房、乱れた髪を引き抜いていく。

「それにしても、反吐が出るほど輝かしい……、碧だ」

 さらりと軽い衣擦れの音を立てて、解かれた髪が、魔族の指から地面へと落ちた。

「…………っ、な、して」

 駄目。

 殺される。本能がひたすら警鐘を鳴らす。『これ』は、危険。今すぐに、離れないと。

 たった今、この瞬間にも、私とここにいる皆さんをまとめて捻り潰せるだけの力を持つ魔族。

 どうして、なぜ、いきなりこんなところに。

 グォア‼︎ と鋭く吼えたプックルちゃんが次の瞬間飛びかかり、だが触れる前に吹き飛ばされた。ギャウと鳴き声が聞こえた気がした。どこかの壁が音を立てて崩れて、プックルちゃんの声はそれきりもう聞こえなくなる。

「ほ、……ほほ。ほっほほほほほほほ!」

 たった今跳ね除けたキラーパンサーに目もくれず、この魔族は私だけを見つめて────さも、可笑しげに笑った。

「何故、このような高位の魔族が? ……と、顔に書いてありますよ。格の違いがわかるとは、聡い仔は嫌いじゃありません」

 ねっとりと、舌舐めずりをして。

 赤紫色のローブをはためかせ、ふわりと宙に浮いた魔族が腕を大きく開く。

 その掌の上、小さな金環がぼんやりと浮かび上がった。神秘の光を放つそれをさも大切そうにくるりと撫でると、俯せに倒れていた神父様の身体までもふわりと浮き上がり、仰向けになる。

 何をする、つもりなの。

 止めたいのに。強張った身体は言うことを聞かない。

「いいでしょう。見せてあげます」

 まるで、旅芸人の見世物の幕開けのように。

 私という、たった一人の観客を前に、蔑みに満ちた歓喜を全身から溢れさせて────魔族が、告げた。

「憐れな人間が、貴き魔物に進化する様を……ね‼︎」

 

 広げた爪から雷の如く、どす黒い魔力がほとばしった。

 

 意識を失っていた神父様ががくんと唐突に仰け反る。白目を剥き、苦しげに喉を、掻き毟って。

 ぐぁア、と悶絶する、その声を、聴いてしまったら────

「や……めて、やめてえッ‼︎」

 恐怖を振り切り、夢中で掌を魔族に向けた。まだ行使したことのない攻撃魔法を身の内に喚び出して。

 先日、たまたま馬車の中でマーリン様とホイミンちゃんの三者だけになった時、意を決してお話しした。妊娠していて魔力が不安定なこと。使い慣れた補助魔法なら落ち着いて行使できているけれど、未習得の攻撃魔法を扱うのは、今はまだ、不安が大きいこと。

 考えてなんていられない。ほとんど無詠唱で、何度も習った発動手順を拙速になぞる。凝縮した魔力を支えきれず掌から零しかけた。初めて生み出した炎帯魔法を撃とうとした、瞬間、わずかな躊躇が意識を過った。

 

 ────神父様を巻き込んでしまう。

 

 その一瞬に、放てば良かったのだ。戸惑いを飲み下す前に魔族が鋭い爪を差し向けた。ぱちりと爪弾いた途端、私の炎が手の中で勢いよく弾けた。

 反動で炎に煽られ、頭を庇うも、ごほごほと濁った咳が出る。

 魔封じでもなく、発動しかけた魔法を、……

 相殺、された?

「炎の出し方も知らないと見える。哀れですねぇ! それほどの魔力を持ちながら、ろくに扱い方を知らないとは」

 茫然とする私を、魔族はさも可笑しくてたまらないというように嘲笑った。耳障りな、甲高い笑い声を響かせた後、ふと厭らしく声を低める。

「こうやって、出すんですよ?」

 猫撫で声で、囁いて。

 再び手をかざす。大気が蠢いて凝縮し始める。魔族の、長い爪を開いた先に魔素が集中する。膨大な魔力は瞬く間に、天を焦がす巨大な火球へと変貌を遂げてゆく。

 あんなもの、かすめただけで跡形もなくなる────

「選ばせてあげましょう。今日の私は気分が良い」

 凍りつく私を見下ろして、見たこともない炎を片腕にまとった魔族が恍惚と、唄うように誘いかけた。

 選ぶって何。意味がわからず、でも知りたいとも思えなくて、ただ目の前の灼熱に震え、慄くばかり。

 圧倒的優位で私を眺める蒼黒い顔の悪魔が、紅い眼を細めてくつくつと笑った。

「どうします? そこの老人を生きたまま焼きますか。それともそっちのホイミスライム? ああ、キラーパンサーもいましたかね。ずいぶん変わった顔触れですが」

 なんて、ことを……!

 聞くに堪えない提案に吐き気が込み上げる。ただただ激しい憤りが胸の中渦を巻く。どうしてそんな非道を、顔色ひとつ変えずに言えてしまうの。そういう存在もあるのだと、わかっていたつもりだったけど。

 命を踏み躙って何とも思わない相手は、種族を問わずいくらでもいる。けれど、現実として目の前に突きつけられたら酷い嫌悪を感じずにいられないものなのだと、たった今思い知る。

 涼しい顔で指折り対象を並べていた魔族が、はたと、得心したように頷いた。

「こういう時はまず、統べる者から消すのが順当でしたね」

 冷たい双眸がつと、吊り橋の向こうを示す。

 この時の私は、いったい、どんな顔をしていただろう。

 目の前の魔族が、ゆるゆると振り返った。この上なく嬉しそうに……面長の蒼い口端を、にんまりと持ち上げて。

 

「あァ……! 良いですねぇ。好きですよ。かけがえないものであればあるほど絶望に歪む、その、顔」

 

 ────させるわけ、ないでしょう⁉︎

 遮り、腕に飛びつく。不意を突かれた魔族が初めて、驚愕を露わに私を突き飛ばした。その弾みに火球が悪魔の手を離れて、息を呑んだ一拍後────吊り橋の真上に火球が直撃し、岩天井が崩落した。

 けたたましい、爆音。

 炎が弾けて、黒煙が噴き上げる。息苦しい。がらがらと耳を割り続ける轟音に生きた心地がしない。祈るしか出来ない、巻き込まれないでいて、お願い、お願い……

 怖くて、怖くて、彼が下敷きになっていたらと思うと気が狂いそうで。震える指を組み、一心不乱にただ、祈る。

 生きていて。お願い、無事でいて……!

「下種が。この私に、触れただと?」

 片や、魔族は激昂していた。さっきまでの余裕は見えず、腹の底からわなわなと声を震わせる。

 ……ここまで、でしょうか。

 本気を出されれば私など一瞬で殺される。付け焼き刃の魔法は呆気なく無効化された。弱い私にこれ以上、何が出来るというの。

 ごめんね。何も、出来なくて。

 ほとんど無意識にお腹を抑えて、半ば投げやりな気持ちで胡乱な目を持ち上げた、その時。

 崩壊した岩の残骸の向こうから、何かに遮られたような、ひどく篭った音がした。

 

 ……ああ。

 足元から、安堵がじわじわ這い上がる。

 崩落のせいで反響がおかしいのか、よく聞こえない。けど。

 呼んでる。

 崩れた岩壁の向こうから、彼が何度も何度も叫んでいる。

 声を枯らして、岩を殴って、

 繰り返し、何度も必死に、私を呼んで。

 

 ────今、行くから、フローラ‼︎

 

「テュール、さ……、テュールさんッッ‼︎」

 気づいた時には、吼えるように叫んでいた。

 生きてる。

 胸が熱い。私も、生きてる。まだ大丈夫。大丈夫。

 とめどなく頬を濡らす雫を拭う。挫けそうな膝を叱咤して立ち上がり、紅い視線を真正面から受け止めた。

 どんなに怖くても、負けない。

 勝ち目なんてない。弱い私が敵うはずがない。そんなの当たり前で、それでも、気持ちで負けたりしない。

「させ、ません」

 私は、あの人の妻だから。

 あの人を守れるなら、何も、怖いことなんてないから。

「あなたの思い通りには、ならない。────もう誰も、傷つけさせません!」

 

 身体を盾にして、神父様達を庇い立った私に。

 怒りを飲み下したらしい魔族が、冷淡な視線を返した。

 

「無様ですねぇ。愚昧、蒙昧。もう少し賢しいかと思ったら」

 莫迦にされて吐き棄てられたって、もう何とも思わない。

 愚かだから、何なの?

 無謀でも、意味がなくても、抗うことまで諦めたくない。

「所詮はお前もただのヒトの仔。残念です」

 無機質な眼差しと交錯する。睨み合っているだけで潰れそう。意地でしかなくても、目を逸らしたら負けだと思った。

 ……くつ、と喉の奥で、魔族が笑う。

「だが、その瞳はいい。折り甲斐がある」

 ぞくり、と悪寒が這い上がる。怖気づきたい全身を必死に叱咤し、押し留めてもう一度、睨み返した。

 そう簡単に折れてやるものですか。あなたの思い通りには死んでやらない。

 暫し、双方息を殺していたけれど、ふと魔族が紅い眼に妖しい光を点し、下卑た笑いを浮かべた。

「────ああ! 良いことを思いつきました」

 ぽん、と手を打ちさも楽しそうに宣う、その明るさが神経を逆撫でする。身構えた私に、魔族がすっと声を低めた。

「あなた、胎に仔がいますね? せっかくのご縁です。ささやかながら私からひとつ、贈り物をしてあげましょう」

 

 ……気づかれて、いますよね。

 

 顔に出さないよう堪えながら、落胆を抑えきれない。これだけの力を持つ魔族だもの、一目で見抜かれてもおかしくない。けど叶うなら、このまま気取られずやり過ごしてしまいたかった。

 リーシャさんの未来視に、この光景はあったのでしょうか。

 じり、と魔族がにじり寄る。薄い笑いを浮かべて、あの小さな金環を再び、音もなく掌に現出させた。よく見ればそれは、以前砂漠で私を攫った男が持っていたものに似ている気がする。

 あれが鍵、なの?

 だったら、なんとかしてあれを奪えれば、この場はやり過ごせるのでは。いえ、触るのは危険だわ、失くしてしまうなり封じることが出来れば一番いい。呪いを封じる魔法、どうして探しておかなかったの……!

 確証はなくとも、幻の魔法に縋りたい気持ちになる。じりじりと壁に追い詰められ、お腹を掻き抱きながら蒼い顔をひたすら見据える。

 何が出来る? 何、だったら。

「そこの老いぼれより……楽しませて、くださいよ?」

 ニィ、と更に深い笑みを刻んで。

 あの、瘴気のような黒い魔力が、魔族の皮膚からぶわ‼︎ と立ち昇った。咄嗟に手をかざし、指輪の吹雪を楯に自らを庇った、けれど。

(苦、し……!)

 魔族の力が強大すぎて。

 敵わない。精一杯念じても、魔力の侵食はわずかにも止められない。皮膚を、神経を通じて、私のものではない異質な力が注ぎ込まれて氾濫する。苦しい。支配されないよう、必死にお腹を庇い身体を捩った。とにかく体内に少しでも作用する魔法をと、ひたすらお腹にベホイミを当て続ける。

 弄んでいるのだろう、神父様の時とは違って、魔族は明らかに私の反応を愉しみながら加減している。

 唇を噛み、必死に呼吸を繰り返して、それでも己の息を止めない私に業を煮やしたのか。黒い靄を割いて、赤紫のローブがふわりと眼前に舞い降りた。

「そんなに頑張らなくとも。今、埋め込んであげますよ」

 粘りつく囁きと共に、お腹に直接手を当てられかける。かざしただけなのに、ずにゅ、と何かが表面から侵食してくる心地がした。もう無我夢中で、それを阻むためだけに腹部に手を捩じ込む。

 止めなくちゃ。

 いま、止めなくちゃ、この子が……‼︎

 

「……ふろ〜ら、ちゃんに」

 

 まさかその瞬間、足元から、触手が伸びてくるなんて。

 金の触手が凄まじい勢いで魔族の手首に巻き付く。

 小さな身体で、果敢に力を振り絞って。

「ホイミン、ちゃ……!」

「さわるな〜〜〜〜〜〜っっ‼︎」

 

 かつん、かん、かん…………

 ホイミンちゃんの絶叫に紛れて、何か軽いものが、地面を打ちつけて反響した。

「……スライム属如きが、邪魔だてすると」

「その子に手を出さないで‼︎」

 咄嗟に身体ごと腕を伸ばした、けど、魔族の方が早い。

 触手が捕らえた方とは反対の掌が、爪が、青い柔らかい肌を貫いた。握り潰される、私が息を吐くより早く、あの指は容易くホイミンちゃんの命をもぎ取ってしまう────

 

 刹那。

 何かが目まぐるしく駆け抜けた。見たことない情景が滝のように流れて落ちて、脳裏に映し出されては消えてゆく。

 底無しの青い空。雲の向こうにそびえる白亜の城。絵画のような美しい情景は血に濡れる。瓦解、落下、それから。

 ああ、また。

 泡沫に似たその情景の奥底に、翡翠の髪。

 これは何。

 あなたは、誰なの。

 どうして、私に力をくれるの。

 

「……があッ⁉︎」

 

 突如、もんどりうって額を抑えたのは、魔族の方だった。

 真っ白な、光。

 気がつけば、辺り一面が目映い光に染まっていた。

 以前ナサカの浜で、ベホイミを使った時のような。あの時と違うのは、私の身体から何故か、その不思議な光が絶えず放たれ続けているということ。

 煌々と光る渦の真ん中に佇んで初めて、腕の中にホイミンちゃんがくたりと沈んでいることに気づく。

 動かない、柔らかな身体に頬を擦り寄せ、そっと抱き直した。だらりと垂れた触手があまりに痛々しい。

「ぐ、ぅ……ッ、この力、やはり」

 その光に眼を潰され、気圧されたように見えながら、妙に嬉しそうに魔族が顔を、歪めた。

「ほ、ほっほほほほほ! これはまことに、嬉しい誤算でした!」

 何がそんなに嬉しいの。狂ったように笑う魔族とは対照的に、私は凄まじい勢いで自らが疲弊していくのを感じていた。

 早く、はやく、諦めて。

 耐えきれない。身体中の力が蒸発するみたいに、力がどんどん抜けていく。まるで命そのものが燃えて、尽きていくように、きっともういくらも保たない、枯渇、して、立って、られない。もう、……意識、も────

「とは、いえ……貴女も、限界のよう、ですねえ」

 頭から、崩れる。

 ぎりぎりで膝をついて、片腕もついたけど自分すら支えられなくて。残った腕で精一杯、ホイミンちゃんを庇って倒れ込んだ。

 ────だめ。もう、ほん、と、に、…………

 朦朧としながら、視界の中に魔族を探す。眼を開けていたつもり、だったけど。その時にはもう、見えていたのかも判然としない。

「つくづく貴女は運が、いい。その血と胎の仔に免じて、今日のところは、痛み分けとして、あげましょう」

 音が、遠ざかっていく。

 魔族の、声も……遠い。けど、身を震わせたあの恐ろしい覇気は、今は感じられなかった。一瞬、お腹が熱くなった気がしたけれど、今の私にはもう、何も、確かめる術がない。

 魔力を使い果たして空っぽの身体に、心なしか、優しくてあたたかいものが、お腹のなかから満ちていく。

「もうしばらく、泳がせてさしあげますよ。……天空の、姫君」

 てんくうの、

 ……何?

「────っ、ぅ……」

 最後、薄れゆく意識の中で何かを聞いた気がした。けれど。

 ふつりと意識が途切れてしまった私には、その言葉を理解することも……記憶に残すことすらも、結局は、叶わなかったのだった。

 

「せいぜい、大きく育てなさい。貴女の胎からどんな化け物が産まれるのか……、実に、たのしみ、です」

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「────ラ。フローラ、フローラ‼︎」

 あたたかい、よく知った感覚が体の表面をなぞっていく。

 同時に、余裕のない男性の声が私を呼んだ。

 この声。恋しくて、守りたくてたまらなかった、大好きなあなたの声。

「…………、ル、さん……?」

「フローラ……ごめん、──ごめん。来るのが遅くなって」

 抱き起した大きな手が、震えていた。彼の腕。その中に、肩をすっぽり抱かれている。そう気づいた時、全身を脅かした恐怖がゆるやかに溶けていくのを感じた。

 ……よく、わからない、けど。

 どうなったの。あの、魔族は。

「君が無事で、……良かった……!」

 どうして。連れ去られることも、殺されることもなかったのかわからない。けど。

 ────助かった、の?

 あなただってぼろぼろなのに。傷だらけの腕に、それでもきつく抱きしめられたらほっとして、喉に熱いものが込み上げた。

 もう、大丈夫。大丈夫なの。

 束の間、固く固く抱き合って。子供みたいにすすり泣いて、身体中を支配する恐怖が少しずつ薄れてきた頃、やっと、自分以外の皆さんのことに思い至った。

 そうだわ。神父様、ホイミンちゃんとプックルちゃんは?

「……み、皆さん……は」

「今、確認してる。とにかく急いでチゾットに入ろう。目を覚ましたの、まだフローラだけなんだ」

 口早に告げられた返答に、言いようのない戦慄が走った。

 ホイミンちゃんは、私の傍らにうつ伏せで倒れていたらしい。テュールさんが私を抱き起こしていた間にピエールさんが馬車へ運び込み、同じく昏睡状態の神父様の隣に並べて治療を試みている。

 プックルちゃんは、ずいぶん離れた岩壁の、崩れた残骸の下から助け出された。息はあるもののやはり意識がなく、彼と親しいガンドフさんが心配そうに幌を覗いていた。

 私も馬車に乗るよう諭されたけれど、頑として固辞した。

 人事不省の皆様を介抱なさっているところに、私が座り込む場所なんてない。せめて手伝えたならまだしも、目覚めた私はすっかり魔力が尽きてしまっていて、回復魔法すら使える状態ではなかった。こんな時まで、どこまでも役立たずでしかない自分が情けなくて、泣きたくなる。

 今は、回復魔法を使えるピエールさんとガンドフさんが馬車に乗り、手分けして治療に当たってくださっている。

 何があったか、道すがら少しだけお話ししたけれど、肝心なことをほとんど覚えていなくて。落胆を微笑みで覆い隠し、謝罪と励ましを繰り返すテュールさんのお姿に、苦く言葉を飲み込むことしかできなかった。

 ……怖い、魔族でした。それは覚えている。でも何故か、どんな姿だったか、何を話したのかの記憶がひどく曖昧で────

 ただ、最後。何かをお腹に埋め込まれそうになったことだけは何となく、覚えていた。

 いつかのベホイミのような、不思議な光で阻んだこと。私を庇ってホイミンちゃんが殺されかけた、ことも。

 だから、言えない。そのことだけが言えない。妊娠を魔族に気づかれた。必死に抗って、最後は気を失ったから、結局何がどうなったのかわからない。あの魔族の名を、押し殺した声で彼に問われたけれど、ゲマという名前にはまったく覚えがなくて、首を振るしかできなかった。

 ああ、でも、そうだわ。この碧髪も、知られたのではなかったかしら。探していたと、言われた気がする。

 それだけでも、テュールさんに伝えないと────

 呼びかけようと顔を上げた矢先、長い坑道の終着を告げる外の光が差し込んできた。もうすぐなのね。洞に吹き込む冷たい風が白い息をさらっていく。安堵と同時に、何故かざぁっと、全身から血の気が引く心地がした。

 

 ────貧血?

 嘘。どうして、こんな時に。

 

 早速人影を見つけたテュールさんが、一足先に駆けていく。さっき崩落した時の音が聴こえていたのだろう、数人の村人らしき人達が不安そうに洞を覗き込んでいた。

 きっと今、テュールさんが状況を説明して協力を仰いでいる。

 邪魔したくない。この上、心配をかけるようなことは。今は何よりも神父様と、ホイミンちゃん達を早く、安全な場所へ連れて行かなくてはならないのだから。

 吐き気が酷い。肌を刺すような寒さなのに、全身から噴き出る脂汗が旅装を湿らせていく。震え出した身体を抱きしめ、幌にもたれて待っていると、話を終えたテュールさんが急ぎ駆け戻ってきた。

 ぼんやり見上げたそのお顔がひどく、心許なげに歪む。

 まっすぐ、駆け寄って。私の両肩を荒々しく、掴んで。

 どうしてそんな、泣きそうなお顔をなさっているの?

「なんでも、ありません。少しだけ、気分が……」

 大丈夫ですから。皆さんを早く。

 そう答えたつもりだったけれど、うまく呂律が回らない。

「しんぱい、しないで。あ、な……た…………」

 

 ぐらり、

 混濁する。空が、真っ白な景色が遠ざかる中、

 名前を呼ばれた気がした。

 でも。

 あなたの声が、聴こえない。

 

 心配しないで。

 声にならない声で、何度も何度も訴えた。

 ────私はこれからも、絶対に、

 

 

 

 あなたの、

 お側にいますから。




祝・DQⅤ29th!
今年もまったくめでたくない話運びになりました。まぁでも毎年重要どころを通過してきてる気はするの。

冗長だし空行ないし、web小説の中でも大変読み辛いであろう拙作をご覧くださっている皆様には感謝以外ありません。
これで二年半書いて参りましたが、自己満足の欲求は依然衰えず。まだまだこの二人に会いたいし読みたいし、彼らを取り巻く色々なものを綴っていきたいと思っています。
改めて、今後ともよろしくお願い致します。

※さりげなーく、pixivの同エントリにて29thひっそり企画としてリクエストを募っております。さすがに他嫁は無理ですが、何かありましたらこそっと伝えてやってくださいませ!作品はポイピクに投稿後、そのうちpixivにまとめます。
※次回投稿分、少しばかりグロ表現含みます。苦手な方は凡そ前半まるっと読み飛ばしてくださいませ。R-15G程度(一応アシタカさんレベルだと思ってる。文字だし)と思っていますがこれはあかんと思われましたら是非そっと教えてやってください……よろしくお願いします。


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#7. 悪夢〜side Flora

『みぃ──……んな、お前の所為で、死んだ』

 青白い顔が冷たく私を睨み据え、おどろおどろしく笑う。

 ……『わたし』は、別邸で過ごしていたはずでは。

 妊娠、したの。テュールさんと何度も話した、ずっとずっと楽しみにしていた、私達の大切な、赤ちゃん。僕達も早く授かれるといいねって、年の瀬ラインハットから戻って嬉しそうに話していたあなたは、私が妊娠したことを打ち明けたらとても喜んでくれた。少し涙ぐんで、両手をかたく握りしめて、何度もありがとうって言ってくださって。グランバニアに向かう船旅の途中のことだったけど、それなら一度実家に戻った方がいいよねって、船長達にもすぐ相談してくださった。

 とんぼ帰りになってしまうことは申し訳なく思ったけれど、ストレンジャー号の皆さんは心から祝福してくださった。もちろん、仲魔の皆さんも。真っ先に妊娠に気づいてくれたホイミンちゃんは特に大喜びで、私の周りを何度もふわふわ飛び回ってはとろける笑顔を見せてくれた。

 馬車に荷物をまとめ直して、船上からルーラでサラボナへ帰郷した。お父様もお母様も、懐妊の報告をとても喜んでくださったわ。なんならしばらく孫を預かるとも言われた。さすがの私も、今回ばかりは置いていかれる覚悟をしていたのたけれど、彼は、グランバニアにはやはり私と、生まれた我が子も一緒に連れて行きたいと言ってくださった。そうして思いがけず、サラボナの別宅で、もうしばらく新婚生活を続けられることになったのだ。

 発育は順調で、秋口には生まれるでしょうとお医者様も言ってくださった。テュールさんと出会ってちょうど一年が経つ頃、初めての胎動を感じた。一度目の結婚記念日を迎える頃には、お腹の上から触ったテュールさんにも、ぽこんと軽い胎動を感じてもらえるようになった。

『ほんとに、ここにいるんだね。僕達の赤ちゃん』

 そう言って頬を綻ばせ、何度もお腹を撫でていたテュールさんの幸せそうなお顔は、きっと一生忘れられない。

 動けるうちにラインハットを再訪して、ヘンリー様ご夫妻の御子様と歳の近い子が生まれそうだとご報告したら、国王陛下も、王兄殿下ご夫妻も、まるでご嫡子の弟妹が生まれるかのように大喜びで祝福してくださった。

 もう臨月のマリア様と労いあい、生まれて落ち着いた暁には、お互い赤子を抱きながらゆっくり語らいましょう、と嬉しいお約束までさせていただいた。

 とても幸せだった。幸せでしかないと、思っていた。

 ────私が招いてしまった悲劇を思えば、そんな幸せ、許されるはずがなかったのだ。

 

 

 

『これだからお偉い様は、下々のことなんざなぁんも考えちゃいねぇ』

 また、吐き捨てる男性の声が、ひとつ。

『ルドマン様も哀れなもんだ。まさか娘が、こんな魔女に生まれついちまうとは』

『呪われちまってるんだろう。あそこのご先祖はむかぁし、えれぇ魔物を封じたって言うぜ。祟りってやつだよ。あんな気味の悪い、青い髪の女が生まれる家なんぞ、とっくにまともな血筋じゃねえのさ』

 嘲笑う声が、二つ、三つと増えていく。

 違う、私はルドマン公の本当の娘じゃない。お父様は関係ないの、何も悪くないのに。

 どこかもわからない真っ暗なその場所で、恐怖に肩を抱いた私を、いつしか人魂のような蒼い焔がぐるりと取り囲んでいた。

『だが、────ル様の贄にゃ、お誂え向きだろう』

 浮かび上がった火を照り返す、細い何かが……闇を一瞬、裂いて煌めいた。

『家内と息子が殺された。あんただけのうのうと生きて、好いた男の餓鬼を産むのか』

『ナグも倅も、お前にさえ関わらなきゃ、あんなことにゃならなかったろうに』

 キトと、そのお父様のことを示唆されて、またびくりと身体が強張る。

 忘れたことなんてない。キトはきっと生きているって、信じてる。信じていたいの。必ずまた会うって、約束したもの。あの子が生きていたからって、私が赦されるわけではないけれど。

 でも、でも、ナサカの件とこの子は全く、何ら関わりがない。罰するならどうか、私だけに。

『おめぇが隠れてたお陰で、どんだけの命が摘まれたと思ってる。てんで足らねぇが、その汚ねぇ魂で今度こそ、贖ってもらおうか』

 気づけば両腕の自由はなく、もがく私を誰かが捕まえている。この先起こることが察せられて、あまりの恐怖に息も出来ない。切先が、迫る。着衣を無惨に破かれて、剥き出しにされた丸いお腹に。必死に身体を捻って、逃れようとしたけれど。

 このこ、だけは。ゆるして。おねがい。

 喉が破れるほど、どれだけ声を枯らして叫んでも、自分の声だけが何故か、まったく聴こえなかった。

 

 

 ────────りに、しないで。

 知らないはずの、

 リーシャさんの甘く、哀しい声が、脳裏を過って。

 

 

 膨らんだお腹に、

 パンを切る如く、白銀の刃が吸い込まれる。

 その剣は容赦なく、私の鳩尾から股までを真っ直ぐに裂いた。血の、匂い。びしゃりと頬に浴びた、自分の返り血が妙に温かかった。

 ああ、……駄目。

 霞む視界、生々しい痛みの中。ぬらぬらとおびただしい赤が地面を染めていく。死の匂い。血塗れの肉に腕を捩じ込まれ、臓器ごと掴み取られる。やめて、やめておねがいごめんなさいもうゆるして。血を吐いて、どんなに必死に懇願しても私の声は誰の耳にもとまらない。胎の中身がただ無造作に引き摺り出されてゆく。うごいてる、まだてのひらほどの大きさもない、のに、一度も哭くことなく

 ────わたしの、だいじな、  こ が

 

 

 

「フローラ!」

 強い声が私を引き戻して、びくん‼︎ と生身の身体が強烈に跳ねた。

 血が、巡る。

 どくどくいってる。鼓動と呼気が激しく鼓膜を打ち鳴らして、息をしていることに今更、ひどく驚く。

 ………………、なに が、起きたの。

「しっかりして。すごいうなされてたよ。……目、覚めてる?」

 ただ私を気遣ってくれるあなたの声が、真摯に響いて。

 少しずつ、現実に焦点があってくる。ああ夢を見ていたのだ、と思った。ぬるい脂汗が額からこめかみへと伝い落ちた。

 暗い天井をよくよく眺めれば、そこはサラボナの別宅でもいつもの馬車の幌でもなく、宿らしき、見慣れぬ建物の中だった。

 ……そう、だった。私、この村に着くなり倒れてしまったんだったわ。

 山奥の、万年雪が重く根付く、チゾットと呼ばれる村だった。これほどの規模の村は今や、王都近くにも数えるほどしかないのだという。

 この村に着く前……長い洞窟を抜ける直前に、魔族が現れた。蒼い顔を酷薄に歪めて嗤ったその魔族は、旅の神父様を突然魔物に変えようとして────

 今、私達が生きていられるのは奇跡でしかない。気が変わったと告げた魔族が、私に何らかの術を施そうとして……気づいたら消えていた。それから、神父様と倒れた皆さんを馬車に乗せて、急いでこの村に入って、それで…………

 

 こわ、かった。

 

 おぞましい夢を見ていた。恐ろしくて、酷く悲しい、夢を。

 あんなに怖かったのに、目が覚めた今は夢の中で何を見たのか、何があったのか、これっぽっちも思い出せない。

 思い出せないのに。────死の匂いを嗅いだ気がすることだけは、何故か鮮烈に覚えていた。

 ふと、前にもそんな夢を見た気がした。あの時も、テュールさんが悪夢から救い出してくれた。ぞわりと背筋を這う悪寒を感じて咄嗟にお腹に触れたけれど、未だ変化のわからないそこからはやっぱり、まだ何も感じられなかった。

「……ありがとう、ござい、ます。……大丈、夫……っ」

「そんな顔して。どこが大丈夫なのさ」

 硬直しきった身体がかたかたと震えて、気づいたら涙が溢れていた。鼻筋から耳へと流れ込む涙を拭おうとして、テュールさんの温かい手に手首を取られる。肩を支えて抱き起こしたテュールさんが、苦しくないようにゆるく、でも温かく、背をさすりながら抱きしめてくれた。

 何も聞かず、黙って寄り添ってくださることが、嬉しい。

 自らのシャツに涙と嗚咽を吸わせて、テュールさんは私の頭と背を繰り返し撫でる。やがて、私が落ち着いてきた頃を見計らって、ぽつぽつと密やかに、囁き始めた。

「……今は、夜だよ。フローラ、倒れてから今までずっと、眠っていたんだ」

 静かに目を瞠る。どれくらい眠ってしまったのか、首を傾げて問うとテュールさんは微かに苦笑しながら「着いたときは、まだ昼過ぎだったみたい」と教えてくれた。

 眠っていないのだろう。私がこんな状態なのに、彼が落ち着いて眠れるはずがない。テュールさんだって、絶対、ひどく疲れているのに。

 室内はすっかり暗くて、寝台の脇に置かれた小さな洋燈だけが枕元を照らしていた。寝静まっているのか、テュールさんの声以外はほとんど物音もしない。きっと随分、遅い時間なのだろう。

「高山病じゃないかって、ここの人達が言ってた。魔族に襲われた所為も絶対あると思うんだけど……この辺は空気が薄いから、フローラみたいに倒れちゃう人が多いんだってさ」

 頭を優しく包み込む、大きな手が心地いい。濡れた瞳でテュールさんを見上げると、彼はとろけるように微笑んで、そっと目尻を拭ってくれた。

「眩暈がしたり、頭痛がひどくなったり……眠れなくなることもあるんだって。それで変な夢を見たのかもね。頭、痛くない?」

 そういえば少し、頭が重い感じがする。正直に伝えると、テュールさんは緊張をほんの少し緩めて息を吐いた。

「お義父さんが言っていた通りだな。本当に、あの方は見識が広いね」

 強引な父には思うところがある私でも、それは否定できない。思わず口籠もったが「いいお父さんだよね。フローラのこと、いつでもすごく良く考えてくださってる」と子供みたいに頭を撫でられて、ついまた小さく頷いてしまった。

 それからしばらく、私達の吐息以外聴こえなくなった。

 空間を静寂が満たす。ゆっくり、黙って頭を撫でてくださるテュールさんの体温だけが心地よくて、ほっとする。

「…………ホイミン、きっと……大丈夫だから」

 そう、だわ。ホイミンちゃん。

 今、一番大事なことだというのに。たかが悪夢くらいで、ホイミンちゃんのことが頭から飛んでしまっていた自分が腹立たしくて、嫌になる。

 ホイミンちゃんはあの時、魔族から私を庇って……倒れてしまった。それきり意識が戻らなかった。テュールさんの口ぶりからして、今も変わらないのだろう。目覚めていればきっと、真っ先に教えてくださるもの。

 あの朗らかな笑顔に、二度と会えなくなってしまったら。

 嫌な想像が瞼の裏を過って、心底、ぞっとする。

「なんて、言うのかな。仮死状態って言うか」

 ぽつり、ぽつりと。吐息に紛れ込ませるように、テュールさんは低く、静かに、囁く。

「魔力の巡りは止まってる。でも、核に戻らない。いつ核になってもおかしくないらしいんだけど……魔力は変わらずホイミンの身体に留まっていて、尽きる兆候も、今のところない、みたい。すごく深く、眠ってるのに近い……のかな」

 いつもと変わらない、凪のような、穏やかな表情で。

 いっそ他人事のように、あなたは語る。何も感じていないのかと錯覚してしまうほど、淡々と。

 悲しみを欠片も見せないあなたを見ていると、胸が苦しくてたまらなくなる。

 主人であるテュールさんが、一番お辛いと思うのに。

 ふと、ヘンリー殿下のお言葉を思い出した。誰よりもテュールさんと親しいあの方は彼を称して、恐怖という感覚が麻痺しているようだと仰っていた。

 大切な存在を喪うということは、失い続けてこられたテュールさんにとって、どれほど恐ろしいことだろう。

「ここでは何も出来ないけど、王都の教会なら助けられるかもしれないって。取り返しがつかなくなる前に着きたいから……できれば早めに、ここを発ちたいと思ってる」

 今度は正面から、宵闇のような、濃紺の虹彩に見つめられた。

 当然、間を置かずに深く頷く。はっきりと首肯した私にテュールさんは苦い溜息をひとつ零して、玻璃にでも触れるように、頬へとそっと手を伸ばした。

「絶対に、体調が悪くなったらすぐに言ってね。倒れるまで無理しないで」

 痛々しげな囁きに、どこまでも胸が締めつけられる。

 テュールさん達が駆けつけてくださった時、蒼い顔の魔族は既に去った後だった。私を含め、その場にいた皆さんは全員気を失っていて、何があったかゆっくり説明する間もなかった。神父様はもちろん、ホイミンちゃんも微動だにしなくて。プックルちゃんは馬車の中で意識を取り戻したのだけど、回復が追いつかなくて、外にも出て来られなかった。

 地獄の殺し屋と謳われるキラーパンサーのプックルちゃんでさえ、まったく歯が立たなかった相手。

 今回、テュールさんがあの魔族と直接対峙せずに済んで、私、すごくほっとしている。きっと彼にとっては不本意でしかなく、そのことを今、ひどく悔やんでいらっしゃるだろうとも思うけれど。

 頬を包む、テュールさんの手に自らのそれを重ねた。

 力強い、大きな手。……生きていることを確かめられる、やさしい温もり。

 この掌に、どれだけ守られてきたのかと思うと。

「……やっぱり、無理させてばかりだ。本当にごめん……」

「違います」

 それだけは。

 即座に否定して、大きく見開かれたあなたの瞳を覗き込んだ。

 そんな顔をさせたいわけじゃない。言えない私のわがままに、あなたを付き合わせているだけなのに。

「私が、お側にいたくて……それだけ、なの……」

 辿々しく伝えているうちに、泣きたい気持ちでいっぱいになってしまって。無性に縋りつきたかったけれど、困らせてしまう気がして目を逸らした。その視線を追うように伸ばされた大きな手が、伏せた私の額にかかった碧髪をさらりと梳く。

 

「抱きしめても、いい?」

 

 ……心を読まれたのかと、思った。

「ちょっとだけ、肌に触れたい」と遠慮がちに言い添えたテュールさんに、少しだけ躊躇ったあと、小さく頷いた。「他には何もしないから」と言ってくださったのもあるけど、何よりも私が、彼と肌を重ねたかったから。

 それでもここは寒いから、表面に水煙を湛えた羽衣は脱いで、借り物の少し暖かい寝衣に着替える。その胸元を少しだけはだけて、肌着を脱いで前開きのシャツを羽織ったテュールさんと、正面から抱き合った。

 こんなふうに直接肌を触れ合わせるのは、サラボナで過ごした年の瀬以来かもしれない。

「あたたかいね。やっぱり、フローラとこうしてるとすごく、安心する」

 肩まで深く毛布をかけてくださったテュールさんが、ひどく愛しげに髪を梳いた。

 久しぶりだからかしら。肌を触れ合わせているだけなのに温かくて、ものすごくどきどきする。

 だいすきな、テュールさんの体温と、匂い。

 後頭部を何度も撫でてもらっているうちに、とろりとした眠気が喚び起こされて、次第にうとうとし始めた。

「またうなされたら、起こしてあげる」

 優しくて穏やかな、低い声が心地いい。

「……テュール、さんも、眠って……ください、ね……」

「もちろん。フローラがいてくれたら僕は眠れるから、大丈夫」

 そう、かしら。

 微睡んだ頭では思考が形にならない。けど、前にも辛い夢を見なくなったって言ってらしたもの。きっと、大丈夫……

 わたしも。あなたがこうして、守ってくださるのだから。

 もう、あんな夢は見ないわ。

 逞しい背中に腕を回して、黙ってぎゅっと抱きついた。微かに驚きを見せたテュールさんが、すぐに力強く抱きしめ返してくれる。

 お腹の底から、ぬるい眠気が波紋のように広がっていく。

 まるでやわらかなお湯の中にいるみたいに、彼の腕に捕まえられる安心感を噛みしめて。

 ようやく私は、再び、深い深い眠りの底へと意識を委ねていったのだった。

 

 

◆◆◆

 

 

 ────……ふわりと、

 頬を撫でられた気がした。

 

 温かい、優しい手つきにほっとして、未だ抜け出し難い微睡みの中、小さく身動ぎをする。

 もっと、いつまでも眠っていたい。そんな甘い誘惑に必死に抗い、重たい瞼を懸命に持ち上げた。

 朝の光をとりこんだ眩しい視界に、艶やかな黒髪と、宵闇色の瞳が映り込む。

「おはよ。フローラ」

 腕をつき、至近距離で見下ろす彼は胸を思いきりはだけたままで。逞しい胸筋を目にした瞬間、昨夜の記憶が一気に蘇る。

「お、はよう……ございます」

 かぁっと頰に熱が走った。開いた襟を両手で抑えて、何とか朝の挨拶を絞り出す。

「あの、お、お寒く、ありませんか」

「うん、僕は全然大丈夫。気分はどう?」

 もしかして、ずっと見られていたのかしら。

 昨夜と変わらぬ優しい眼差しに、ふと不安になった。結局あの後、休んでいらっしゃらないのではと思ってしまって。

 恐る恐る、上目遣いに彼を見た。視線を交えると、彼はきょとりと不思議そうに首を傾げる。

「ほ、本当に……眠られ、ました?」

「寝たよ。大丈夫、フローラのお陰ですごく元気になった」

 さも当然のように仰るけれど、昨夜だって、意識のない私をずっと見守っていてくださったのに。思わず口籠もった私に、彼は少し気恥ずかしそうに、小さく肩をすくめて言い添えた。

「フローラ、温かかったし。フローラの……その、いい香りもすごく久々だったから。びっくりするほど今、元気」

 照れ臭そうに微笑まれると、恥ずかしいのと同じくらい舞い上がってしまって、それ以上何も言えなくなる。

 また迷惑をかけてしまった私だけど、昨夜も、抱き合って眠らせてもらっただけなのだけど。

 少しでも、あなたの力になれたなら、すごく、嬉しい。

「朝食の前に着替えて、みんなに顔を見せに行こうか? 昨晩はすっかりピエールに任せっきりにしちゃった、から」

 立ち上がりかけて、何気なく振り返ったテュールさんが、何故か一瞬、ひどく険しいお顔になった。

 え、と怯んだ私に、彼は鋭く問いかける。

 

「フローラ、どこか怪我してない?」

 

 意味がわからず、ぱちぱちと瞬いて彼を見上げた。

 突然走った緊張感が心許なくて、思わず肩を抱く。

「腰の、あたり……? それ、血痕じゃない?」

 

 ……、血痕?

 

 うそ。

 弾かれたように立ち上がり、たった今まで寝ていた寝台を振り返った。

 うっすら滲んだ色に息が止まる。

 しわが残る白いシーツに、微かに赤い、染みが……

 息すら忘れて固まった私を覗き込み、彼もまた小さく息を呑んだ。ちらりと私の下半身を見て、何故かばつが悪そうに目を逸らす。

「あ、……そっか、月のあれか。寝ている間に始まっちゃったのかな。ごめん、もう、つくづく無神経で」

 長い指で顔を覆い嘆息する彼の言葉が……何も、ひとつも頭に入ってこない。

 月の、障り?

 ちがう。昨年末、サラボナに帰る前にあった障りが最後。今年は一度もきていないの。もう四ヶ月、一度も出血はなかった。遅れていただけ、妊娠を知ってからは順調なんだって安心していて。

 助けて。

 ホイミンちゃん、お腹を、お腹を診て。お願い──……

「本当に血が出るんだ。痛くない? 宿の人に言って薬もらってこようか。あ、その前に着替えなくちゃだよね」

 茫然とする私の分まで、彼はあわあわと動こうとしてくれる。けれど一向に反応しない妻を怪訝に思ったのか、テュールさんが正面からこちらを覗き込んだ。

「……フローラ?」

 返事、しなきゃ。

 凍りついた指先に力を込めて、こくりと動揺を嚥下する。

 黒曜石の瞳にほとんど惹き寄せられるように、固まりきった瞳孔を動かした。

 まだ、溢れ、ないで。

「…………あ、の、ごめん、なさい。汚して、しまって」

「そんなの、僕が洗っておくから気にしないで。何したらいい? お湯借りる?」

「は、はい。いえ、まずは、お手洗い、に」

「あ、ああ、そっか。ごめん、なんか気が動転して」

 だめ。だめ、これ以上動揺を見せては。

 必要なものを聞かれて、経血止めの綿布を少しだけ、宿の方に分けていただきたい旨をテュールさんにお願いした。待つ間、血が流れ出る感覚はなかった。見間違いじゃないかと思うほど。これは血痕じゃなくて、元々シーツについていたただの染みなんじゃないかと思うほど。

 それでも、まだ鮮やかに近い赤褐色の染みは、ついてからさほど時間が経っていないことを、その色が示していて。

 悪い想像が、頭から離れない。

 程なく、持ってきていただいた布と替えの下着を抱え、寝衣の上に長めのカーディガンを羽織って部屋を出た。

 顔色良くない、一人で本当に大丈夫? とテュールさんはひどく心配そうに訊いてくださったけれど、厠だからと付き添いは辞退して、精一杯、いつもの顔を装って頷いた。

 どうして。……どう、して。

 よろめきながら廊下を渡り、教えてもらった厠に飛び込む。暦の上では春なのに、宿の水場は霜が降りたように冷えていた。

 確かめなくてはと、思うのに、

 手が、……震えて──……

 力が入らない両手で寝衣をたくしあげ、懸命に下着を下ろす。気のせいであってほしい。知らないうちに服に血がついていただけ、どこかに小さな傷があって、少し擦れてしまっただけ。

 ────果たしてそこには、下着と、寝衣の裾にぽつりと落ちた赤い汚れが、ただ無情に残されていた。

 

 まるであの、夢のような。

 

 ……夢。どんな夢だったのか。何も思い出せない。

 思い出せない、のに。

 そう、ね。わたし、きっとまだ夢を見ているんだわ。

 怖い夢。取り返しがつかない、夢。

 恐る恐る、股を拭う。微かだけれど赤いものが指についた。そこから流れたものだと、もう疑いようがなかった。

 妊娠、していたことが、夢だったのかもしれない。

 恐ろしいのは、今までが幸せだったから。幸せな夢を見た分、辛い気がしているだけ。そう、思えばいいだけかもしれない。

 私と、ホイミンちゃん、マーリン様しか知らないことだもの。

 全部、幻。今は、皆さんが助かることの方がずっと大事。

 そう、誰も知らない、この子のことなんて────

 

「………………っ、……、ぅ」

 

 熱い、涙が。

 頬を伝って、伝って、止まらない。

 

「ご、め…………ッ、嫌、……ぁぁ……‼︎」

 

 守れなかった。

 命に変えても守りたかった。

 あの時、……あの時、私が、

 あの不思議な力を、ちゃんと使いこなせていたなら。

 あんなふうに、手を、押し当てられたりしなければ。

 失神なんか、しなければ。

 

 その場にうずくまり、腕をきつく、きつく噛んで、嗚咽をひたすら飲み込んだ。

 テュールさんが様子を窺いに来たら、絶対に気づかれる。

 泣きやめ。泣くな、止めなさい、フローラ・グラン!

 まだ、まだわからないわ。出血しただけ、流産と決まったわけじゃないから。

 それでも、どんなに言い聞かせても、着衣を汚した赤はどこまでも残酷に私の罪をなじる。

 どうして、もっともっと気を配らなかったの。

 今思えば、過剰なほど気にしなくてはならなかった。赤ちゃんがいるのに。ここに、いたのに。自覚がなくても、まだ何も感じられなくても、ちゃんとここで、この子は生きて、頑張ってくれていたのに。

 ごめんなさい。

 あなたの存在に甘えていた。精一杯頑張れば何とかなる、なんて甘え以外の何者でもない。それでも、奇跡が起こるような気がしていたの。根拠も何もなく、一生懸命、誠実に生きていれば絶対、悪いことにはならないって。

 ……碧髪の私が狙われていることなんて、ずっと前から、何度も何度も言われていたのに。

 テュールさん達はずっと気遣ってくださっていたのに、幸いにも何とかなってしまっていたから。ここに来て、気の緩みがなかったといえば嘘になる。

 私が悪い。私の所為、私の甘さ、愚かさがこうやって、取り返しのつかない事態を招いてしまった────

 

 それでも。

 テュールさんには、言えない。

 

 この期に及んで、真っ先に保身を考えた自分に吐き気がする。

 伝えなくてはいけないと、本当はわかってる。いつまでも隠し通せることじゃない。彼の子供を、授かっていたことを、知らせなければ苦しめることもないと思ったのに。

 今になって、自分の醜さを思い知る。

 

 わたし、……私。

 我が子を悼む権利すら奪っている。彼から。

 父親に見送ってすらもらえない、この子は、……

 

 言うのが、怖い。

 未来視なんて関係なく、言いたくない。幻滅されたくない、そんなつまらない矜持と罪悪感がせめぎ合う。でも、でも。

 耐えられない。これ以上、自分の狡さを思い知ることに。

 嘘を重ねることに。

 私達の元に来てくれたこの子に、まっすぐ顔向けできないような母親でいることにも。

 ……今、もう、何もかもが手遅れであっても。

 雫を、頬を濡らす涙をようやく拭う。のろのろと下着を処置して、手を洗って……冷たい水を、思いきり顔に打ちつけた。

 あなたの『母親』で在りたいの。

 あの人の妻に相応しい自分で在りたいと、いつか、強く願ったのと同じように。

 きっと、ここでは何もできない。恐らくどなたか、倒れた私を診てくださった方がいたのだろう。その上で、テュールさんが今も妊娠に気づかれてないということは……この村にそういうことがわかるお医者様はきっといらっしゃらない。

 一刻も早く、王都に入るしかないのだ。ホイミンちゃんが助かる可能性はそれしかないって。

 今にも消えてしまいそうな、小さな、灯火めいた決意を奮い立たせる。

 

 ホイミンちゃんを助けたい。助けなくちゃ。

 今はそのために、出来ることだけ考えよう。

 私に尽くせる力を、精一杯尽くしていこう。

 

 王都に着いて、ホイミンちゃん達の容体が落ち着いたら。

 私も今度こそ、お医者様に診てもらおう。

 そして、テュールさんにすべてを打ち明けよう。

 落胆されるだろう。見放されてしまうかもしれない。こんな大事なことを、私の独断で隠し通したこと。許してもらえなくて当然だと思う。

 離縁、されるかもしれない。けど。

 どのみち、このことをずっと黙ったまま、夫婦関係を続けることはきっともう、無理だから。

 私がもう、限界、だから。

「……う、少しだけ……、ゆるして」

 誰にともなく、贖罪を繰り返した。

 お腹の中の大事な子に。そして、誰より愛しいあのひとに。

 私なりに今度こそ、出来る限りの誠意を尽くすから。

 たとえ赦されなくても、その時にはすべてを受け入れる。

 どんなに悲しい結末でも、誰も恨んだりしない。だから。

 

 だから、お願い。

 今だけ、もう少しだけ、このまま……

 黙ってあなたの側に、居させて、ください。

 

 

◆◆◆

 

 

 お腹に力を入れるのが何となく怖くて、転ばないよう細心の注意を払いながら厠を出た。

 部屋に辿り着く前に、廊下を通りかかった女性が、私を目に留めるなり足早に駆け寄って来る。

「大変だったわね。だめよ、障りがあるのに無理をしちゃ」

 宿の方なのか、私より少し年上に見えるその女性は、どこか懐かしい朗らかさで、気安く話しかけてくださった。

「でも良かったわ、起き上がる元気があって。旦那さん、今シーツを洗ってくれてるから、今のうちに湯浴みしちゃいましょ! 着替え、用意できる?」

 きびきびと促されるものの、どうにも状況がよくわからない。「あ、あの、出血が……あるので、お湯は」とおずおず言うと、女性は明るく微笑み、首を傾げた。

「浸かるのは無理でも、汗は流しましょうよ。ずっと野宿だったんでしょ。ああ、それとも先に食事の方が良いかしら? 浴場で倒れたら大変だものね」

 言われてみれば、大樹の宿を発ってから一度も湯を使っていない。こんな不衛生な状態で彼と抱き合ったなんて。急に恥ずかしさが込み上げてしまい、勧められるまま湯をお借りすることにした。

 この方がいてくださって良かった。一人でいたら、余計なことばかり考えてしまうもの。

 湯浴み場へ案内してもらう途中で、宿の主である年配のご夫婦にご挨拶をした。お世話になったことの謝辞と、シーツを汚してしまったことを詫びると、二人とも首を振り、口々に励ましの言葉をくださった。

「湯浴み場で気分が悪くなったら鈴を鳴らすんだよ。すぐ見に行くからね」と女将さんに優しく言われて、弱った心がまた嗚咽しそうになる。

 貸切の浴場で手早く湯を使い、身体と髪を洗った。ランプをつけなくても十分明るい朝の湯浴み場は清々しい心地がする。

 洗っている最中、床にひとすじの血が流れていくのを、重苦しい心地で見送った。

 ……もう、どうしようもないのかしら。私にできることは何もないのかしら……

 妊娠症状に魔法は効かない。原因を探ることがまず難しく、相当の使い手でないと意味のある施術は出来ない。分かっていても、無意識に手を当ててしまう。あたたかい魔法の波動が指輪に共鳴して、お腹にじわりと染み渡った。

 まだ、奇跡に縋ってしまう。きっと無理だと思っても、手遅れかもしれなくても。

 苦しい溜息を飲み下し、最後に寝衣を洗って浴場を出た。

 冷えた廊下を通って部屋に戻ると、テュールさんが室内の小さなテーブルに食事の用意をして待っていてくださった。

 今までゆっくり話す暇がなかったから、食事がてら、昨日のことを話したいということだろう。頭の中を整理しつつ、御礼を言って席に着いた。

 テュールさん達はあの時、火球の衝撃は免れたものの、天井が崩落し吊り橋が燃え落ちてしまったのだそうだ。足元も崩れて、テュールさんをはじめ何匹かの仲魔の皆さんが崖下に落ちた。幸い大きな怪我をした方はおらず、試行錯誤の末崩れた岩棚をなんとか登ったが、駆けつけた時には全てが終わった後だった。

 私が聴いた彼の声は、崖下から必死にあげた叫びだった。

 私も、皆さんの様子をよくよく思い起こしながら話をした。神父様を治療していた最中に突然、あの魔族が介入してきたこと。神父様を渡すよう言われて、阻もうとしたプックルちゃんが弾き飛ばされたこと。私の碧髪に気づかれたこと、魔族が私を探させていたらしいこと。連れて行かれずに済んだのは、不思議な白い光のお陰かもしれないこと。

 魔族が私に手を伸ばした時、ホイミンちゃんが庇って間に立ちはだかってくれた。その際魔族の爪に抉られて、彼は未だに目を覚まさない────

「白い、光……」

 最後に伝えたそれを、テュールさんが静かに反芻した。

 瞼を伏せ、記憶の中の情景を探る彼を黙って見守る。

 崖下に落ちた彼の元にも、あの光は届いただろうか。

「ナサカの浜に戻った時、船の方で強く光ったのが見えた。その時のことはマーリンに聞いたけど……同じものなのかな」

「だと、思います。私自身、何故そんな光を発したのか、まったくわからなくて……ただ、あの魔族の力は一時的に削がれたようでした」

 ふぅん、と彼は微かに唸って眉を寄せる。私も説明しながらあの時の感覚を思い出そうとしたけれど、視たと思った情景は、今ではやっぱり朧げで。

 何かが見えた気がするの。以前も、妙に懐かしい誰かが。

 覚えていないのに、知っている気がするのは、どうして。

「聖魔法……スラりんのニフラムに似てるね。でも、ナサカのときのはベホイミだったって」

「ええ、あの日詠唱したのは、いつもと同じベホイミです。他に聖魔法は習得していないはずなのですが……昨日は、ただ、ホイミンちゃんを失いたくない一心で……」

 頭を振り、それ以外のことはよく覚えていませんと申し訳程度に言い添えると、テュールさんは神妙な面持ちで指を組み、口許を抑えて考え込んだ。

 思考の邪魔をしないよう、私は私で食事に集中することにした。冷めかけたスープに固いパンを浸し、ゆっくりと咀嚼する。

 懐かしい気配が、自分の中にあった気がする。けど、それがなんなのか、時間が経ってしまった今はまったく思い出せない。それが人なのか、場所なのか、夢なのかも。

 あの、白い光を放つ直前……何かを視た気がするのに。

 空っぽのお腹が少しずつ満たされてきた頃、ずっと思索に耽っていたテュールさんが、ぽつりと低く、呟いた。

「多分ね。フローラが会った奴、父さんの仇だと思う」

 思わず、固まる。

 息も忘れて視線を返すと、テュールさんはひどく苦々しい感情で口許を歪ませて……微かに、笑った。

 もう、そんな顔しかできないのだと、わかってしまう表情で。

「プックルも覚えてたから、多分。……あの日、プックルも一緒だったんだ」

 きっと何気なく発されたその一言で、私の知り得ない、私には共有できないものがあるのだと思い知る。

 あなたとプックルちゃんにとって、あの魔族との邂逅がどんな意味を持っていたのか。

 彼は昨日、あの魔族を見ていない。けれど、確信しているのだろう。もう十数年、彼の内に燻り続けた凄惨な記憶が、彼にあの魔族の正体を知らしめている。

 見なくともわかる。あの気配を、間違えはしないと。

「……間に合わなくて、ごめん……」

 だからこそ、あなたはそうしてご自身を追い詰める。項垂れた首の奥に、重すぎる感情を沈めて。

 そんなこと、言わなくていい。何一つ謝る必要はないの。

 対面したのが私で良かった。あなたが会わずに済んで、本当に良かったの。心からそう思うのに、『私にそう思われる』ことがもう、あなたにとってどれほど残酷か────

「あと、あいつら……神父様を襲った奴らね。骸骨の大群だったんだけど、手応えが少しおかしかった」

 それでも、あなたの中に渦巻く苛立ちのすべてを飲み込んで。テュールさんはやはり理性的に、物静かに伝えてくれる。

「再生、したんだ。斃しても斃しても。まるで前にやり合った蟲とか、鮹……マザーみたいな感じ」

 もう一度、小さく息を呑んだ私を見つめて、テュールさんはさっきより少しだけ、やわらかく微笑んだ。

「あそこまで強敵ではなかったんだよ。今回は核も、割と簡単に抜けたし」

 頭を振った彼はもう、いつもの彼に見えた。けれど深い紺の虹彩の奥に、ちらりと澱んだものが揺れた気がして。

 浅はかな考えがふと、思考の端をよぎる。

 彼の測り知れない情念は、いつか彼自身を押し潰してしまうのではないか。

 抑えても抑えても滲み出る、憎悪の炎。目の前で最愛の父を燃やした猛火は今も彼の中、その火勢を衰えさせない。

 目の前の穏やかな青年に、唐突に、六歳の心許ない幼な子の姿が重なった。

 私には何も出来ないのかしら。彼のその苦しみを、彼を焼き尽くしそうな艱難を、私も負うことが出来ればいいのに。

 組んだ左手の薬指、紅い石が、彼の強い意志を象徴して燃えるようにじんわり灯る。

 でも、とほんの微かな吐息に織り交ぜて、彼が本当に小さく、呟いた。

 その名を低く、彼が口にした瞬間、ぞくりと背筋が凍りつく。

「……でも、そうか。『ゲマ』が、繋がっているんだね」

 

 

◆◆◆

 

 

 それ以上は何も話せることがなくて、黙々と食事を終えた。

 食器をお返しした後、テュールさんに連れられて仲魔の皆さんに会いに行った。ホイミンちゃんはやはり目覚めていなかったけれど、プックルちゃんは歩き回れるほどに快復していて、本当にほっとした。

 私の姿を見たしびれんちゃんが泣きながら真っ先に飛びついてきて、思わずじわりと目頭が熱くなる。他の皆さんも、口々に心配し、労ってくださった。

 昼過ぎを目処に支度を整え出発する旨を告げて、テュールさんに促され表に出た。

「少しは落ち着いた?」

 納屋を出たところで、背後から声をかけられる。振り返ると、先ほど宿でお話しした女性が佇んでいた。傍らには小さな男の子がいて、見ず知らずの旅人を警戒しているのか、女性の陰に隠れてじっとこちらを見ている。

「フローラ。この方、ネッドさんのお孫さんなんだって」

 ご挨拶する前にテュールさんが紹介してくださって、思わず目を瞠る。釣られて母親を見上げた坊やの頭を撫でて、女性がにこやかに会釈した。

「改めまして、ティナです。こっちは息子のニール。うちの実家がお世話になったみたいで、あら、お世話した方かしら? 手紙ありがとう、さっき旦那さんが渡してくれたわ」

 宿の方かと勘違いしてしまったが、珍しく宿泊客が多かったので手伝いをしていただけなのだそうだ。物怖じしない気質はお婆さま譲りだろうか。お顔は、ネッドのお宿の女将さんに似ているかも。私も丁寧に挨拶を返すと、ティナさんはほっとしたように目許を細めた。

「そうそう、綿布、良かったらもっと持っていってね。旅が長いと足りなくなっちゃうでしょう?」

 それは、ご好意に甘えすぎなのでは。確かに船旅の途中で妊娠に気づいたから、サラボナから持ってきた綿布は大部分を船に置いてきてしまった。いただけるのはありがたいけれど……とまごまごしていたら、テュールさんが気まずそうに口を挟んだ。

「やっぱりそれ……、女性は辛いものなんですか。妻は我慢強いから、なかなか泣き言を言ってくれなくて」

「そりゃあ、血が出るんだもの。人によるけど、こうやって貧血になったりもするし。奥さんの場合、慣れない山歩きで無理が祟ったのもあるんじゃないかしら」

 小気味良く返されて、テュールさんが言葉に詰まった。慌てて彼を仰ぎ見れば、叱られた仔犬の如く、すっかり消沈してしまっている。

 テルパドールで月経について知ってから、デリケートなこの話題について、彼は過剰なほど気を遣ってくださっている。だからこそ、船で問われたあの時、答えを嘘に変えたのだ。

「テュールさんはいつだって、十分すぎるほど私を慮ってくださっていますよ……?」

「いや。身につまされる……本当にごめん、フローラ」

 落ち込まなくていい、彼は何も悪くないのに。項垂れた彼をはらはらと見上げていたら、ティナさんが朗らかに言葉を重ねた。

「旦那さん、グランバニア人なんですって? 奥さんを連れて帰ってきたはいいけど、こんな険しい山を越えることになるとは思わなかったんじゃない?」

 それは一応、覚悟してきたつもりだった、けれど……

 目が合うと、不意に慈しむような眼差しを投げられる。

「こんな育ちの良さそうなひと、見たことないもの。絵本に出てくるお嬢様みたい。もしかして、駆け落ち?」

 母親の言葉に反応したのか、傍らの息子さんが大きな瞳を煌めかせた。かたや私はテュールさんと顔を見合わせ、同時にぶんぶん首を振る。

 きっと揃って真っ赤になってしまった私達を見て、ティナさんが可笑しそうにくすくす笑った。坊やが不思議そうに首を傾げ、「ママ?」と問いかける。「何でもないよ」とまた頭を撫でて、彼女は再び私達の方に向き直った。

「やっぱり、環境を大きく変える側の方が大変だと思うのよ、結婚って。旦那さんがどうかはわからないけど、主導権を持つ方は基本的に、相手が誰でもそんなに大きく人生変わらないと思うし」

 黙ってティナさんの言葉を聞いていた、テュールさんのお顔がどんどん翳っていく。

 着いて行きたいと言ったのは私なんです。私が、あなたの側にいたかった。離れて待つなんて、もう二度としたくないって思ったから、だから。

「あなた。そんなお顔なさらないで」

 思わず、その逞しい肩に縋りついた。項垂れたあなたが、悲しげに視線を持ち上げる。

 私のわがままが今になって、あなたをそんなにも曇らせてしまうなんて思いもしなかった。

 微笑って欲しいの。あなたを誰より幸せにしたい。誰よりも、私と一緒になって良かったと思って欲しい。

「私は、あなたと結ばれて、本当に幸せだと思っていますわ。……これからも、一緒よ。あなた」

 一生懸命、もう無我夢中で伝えた言葉に、彼が軽く瞠目した。

 せめてもと手を握れば、ぎゅっと握り返してくれる。ありがとう、と耳許に切なく囁かれた瞬間、身体の奥に燃えるような痺れを感じた。

「私も麓から嫁いだ身だもの。奥さんの気持ちはわかるわ。いっぱい大切にしてあげてよね、旅人さん」

 綿布はあとで部屋に届けるわね、と言い添えて、ティナさんは手を繋いだ息子さんと共に去って行った。お子さんと並んで歩く姿を微笑ましく思う反面、失ったかもしれない生命を思ってずきりと胸が痛む。

 私が諦めちゃ駄目だと、何度思っても絶望を拭えない。

 その後、未だ意識の戻らない神父様を見舞いに教会を訪れた。怪我は治癒できたが、流し込まれた魔力の所為か、神父様はあれからずっと目を覚まされないのだと言う。

 元々チゾットの洞窟が目的だったようだから、体調が落ち着かれたならこのまま療養していただいても良いかもしれない。けれど、あの魔族達の狙いが神父様だったことを踏まえると、彼の立場がどうであれ、王都へお連れした方が良いのではとの結論になった。

 村のすぐ側で起こった襲撃事件に、村民の皆さんもぴりぴりしていらっしゃるのがわかる。この村が狙われないとは言いきれない。私達が神父様をお連れすることが決まると、皆さんばつが悪そうなお顔で、ひっそりと安堵の息を漏らしていらした。

 出立の準備のため戻ろうとしたところで、同じく神父様を見舞っていた学者様に呼びとめられた。神父様のご友人らしく、救命についての謝辞を告げられる。

「不思議と、気持ちが和らぐ瞳をなさっている。懐かしい方を思い出したな」

 テュールさんと視線を交わした学者様が、まじまじと彼を見上げた。夫が首を傾げると、学者様は目を逸らして俯き、自戒じみた溜息を深々と吐き出す。

「いや。魔物遣いだと仰ったか、その所為かもしれん。畏れ多くも我が国の王妃殿下、マーサ様がそなたと良く似た瞳をお持ちであったことを思い出してしまってな。王妃殿下も大変美しい、宵闇色の瞳をお持ちであらせられた」

「そう、……なんですか」

 応えた彼の声が、ほんの少しだけ震えた。

 学者様は気づかなかったらしく、一瞬遠い記憶に想いを馳せていらしたようだったが、軽く首を振ると、改めてテュールさんに掌を差し出した。

「……ユリウスをお頼み申す。生真面目だけが取り柄の爺だが、逝かせるにはまだ早い」

 今更ながら、それが神父様のお名前であることを知る。深く頷き、テュールさんが学者様の骨張った手を力強く握り返した。

「最善を尽くします。皆様にも、何事もありませんように」

 後ほど神父様を迎えにくる旨を告げて、教会を退出した。

 扉を後ろ手に閉めたところで、はぁ、とテュールさんが重く白い息を吐く。

「剣、ばれてないよね?」

「ええ、多分」

 声を潜め、そろりと背中の剣を確かめてから、もう一度彼が息をついた。思いがけずお義母様の話が出て緊張したのだろう。先ほど学者様がしていたように、彼を見上げた。深い、夜空のような濃紺の虹彩がわずかにたじろいだ。

「あなたのそのお優しい瞳は、お母様からいただいたものだったのですね……」

「フローラ」

 気恥ずかしいのか、ほんのり耳を赤くして彼が狼狽える。

 そんな様子もお可愛らしくて、思わずくすくす笑みが零れた。

 ああ、でも。

「私にも、そんな瞳があれば……あなたを和ませて差し上げられるのに────」

 ふと、そんな情けない独白が口を突いて出た。聞こえてしまったかしら。急に恥ずかしくなり、慌てて宿へと踏み出した私を、テュールさんの腕が引き留めた。

 

「……何言ってるの。フローラにしか出来ないよ」

 

 ふわり、

 背中から、やわらかく抱きしめられて。

 均衡を崩した身体を、テュールさんの広い胸が受け止めてくれる。ぬるい吐息が髪にかかって、どきりと心臓が跳ね上がった。

「君がいなかったら、こんな、落ち着いてられないよ……」

 羽で包み込むような優しすぎる抱擁に、何故か、痛いほど胸が締めつけられてゆく。

 ああ────

 このひとが、好き。

 泣きたいほど、愛しい。あなたのすべてを護りたい。いつ終わるともわからないその苦しみを、少しでも、私に和らげて差し上げることができるなら。

 もう、何も怖いことはないのに。

「ありがとう。側に、居てくれて」

 耳に流れ込む低い声が心地いい。とくとく、重なって響く心音を聴きながら、触れる二の腕に頬をそっと擦りつけた。

 私も、同じ。あなたが居るから越えていけるの。

 凍てついた風が頬を刺す。村の方の好奇の視線を浴びながら、私達は暫し、教会の前で寄り添いあい、お互いを労りあっていたのだった。

 

 

 

 王都方面への出入り口には、立派な吊り橋が横たわっていた。神父様が教えてくださった橋だ。想像以上に大きく長いその橋を前に、高所恐怖症の私はすっかりすくみ上がってしまった。「フローラ一人くらい、対して重さは変わらないんだから。気にせず乗って」と苦笑するテュールさんに促され、恐る恐る、荷台に乗せてもらうことになった。

 馬車に乗り込む直前、ほんの一瞬、吊り橋の袂から王城を見下ろした。

 荘厳な、青い城影が遥か下に映し出される。峡谷の木立に潜んで聳え立つ城は、その周りを重厚な城塞に護られていた。

 街が見えないせいか、どこか寒々しく、寂しい感じがする。

 あれが、彼の故郷。私達を待つ運命の都。

 微かな胸騒ぎを振り払い、もう何も振り返らず幌に乗った。荷物を整理し場所を作ったそこにはあの神父様と、ホイミンちゃんが横たえられている。碧髪のことも知られてしまったから、ここから先は私も極力表に出ない。王都に着くまで、この荷台の中でお二人の容態を見守ることになる。

 どうかこれ以上、何も起きませんように。

 消しきれないざわめきを祈りで必死に落ち着ける。パトリシアちゃんの元気ないななきが幌越しに届いた。それを合図に、私達を乗せた馬車が、長い吊り橋をゆっくりと渡り始めた。

 

 

◇◇◇

 

 

 びっくりして、飛び起きた。

 

 酷い汗だった。水でも浴びせられたみたいに頭から背中まで、寝衣とシーツがじっとり濡れている。

 耳の奥を打つ激しい動悸を聞きながら、息を吐いて必死に己を静めた。

 これはただの、夢。未来視じゃないわ。

 繰り返し自分に言い聞かせ、やっと実感が湧いてくる。

 夢、だから。こんなの、予知夢でもなんでもない。

 ……いつか見てしまった、未来視のひとつだ。幾筋もの未来があって、そのうちのひとつ。最も残虐で、信じたくない、どうしてもまぬがれてほしいと願った未来。

 禁忌を犯すとわかっていても、伝えずにいられなかった。

 月のない、夜のようだった。それがどこなのか、誰が、何人いたのかもわからない。人集りの中央に、碧髪の乙女が座り込んでいた。彼女の腹部は臨月ほどに大きく、真っ暗な中、まるで月のように白く浮かび上がっていた。

 その腹が、無情にも暴かれた。

 助け出そうとして間に合わず、最後こときれていく妻子を見てしまったテュールが。その後憎悪に狂い堕ちていく様は、ただの未来視だとわかっていてもあまりにつらくて、リーシャにはその先すべてを見届ける事ができなかった。

 あの助言だけで何とかなる確証はなかった、けれど、藁にもすがる思いで彼女に伝えた。それからこの情景を視ることはなくなっていた。────たった、今まで。

 もう、回避できていると思いたいけど。あの人に直接伝えて、ここに及ぶ可能性はすごく下がったはずだけど。

 なんでかな。胸騒ぎが、消えない。

「無事で、いてね。……フローラさん」

 深く指を組み、リーシャは窓の外の月に向かってそっと祈る。

 二人を見送ってそろそろ五ヶ月。テルパドールにはあれから、普段と全く変わらぬ日常が流れている。

 結局、ユノ女官長がどうなったのか、誰も知らない。

 ……もう、子供は授かっただろうか。

 今も二人は、ちゃんと一緒にいるだろうか。

 恐ろしい未来視はこれだけじゃない。一歩踏み外せば奈落に落ちるように、彼らの運命は常に混沌としている。……それでも。

 あの二人なら。手を離さなければ、越えていけるから。

「────とりに、しないで……」

 彼をどうか、ひとりにしないで。

 そして、出来るならどうか、ひとりで苦しまないで。

 

 二人で、居てね。

 あなた達同士でなければ、

 叶わない未来なのだから。



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#8. 邂逅

 暗い、隘路が続いていく。

 数日前まで賑やかだったのが嘘みたいだ。人数で言えば、今、馬車の外を歩く仲魔は登っていた時よりずっと多い。静かなのはもちろん、疲労の所為ばかりじゃない。

 馬車の中には、傷を負って目覚めぬ者が二人。否、正しくは一人と一匹だ。喉を貫かれた旅の司祭と、妻を庇って昏倒した仲魔のホイミン。どちらもチゾット手前の坑道で倒れたきり、意識が戻らない。

 いつものホイミンの、明るい声が聴こえない。たったそれだけで、僕らの士気は信じられないほど落ちていた。いつも煩いほど陽気なスラりんも、親友の負傷は殊更堪えているらしい。敵に遭遇した時以外は、僕の懐深くに潜り込んで出て来なかった。

 荷台に乗るのが嫌なんだろう。目覚めないホイミンを見るのが、彼はきっと辛いのだ。

 こんな時はきっとフローラに甘えたいだろうに、そのフローラも今は荷台に籠りきりだ。恐ろしくて表に出せない。彼女自身の体調のこともあるが、それ以上に、あの坑道での出来事に対する不安が大きかった。

 彼女の輝くような碧髪を。あの『ゲマ』がフローラを探していた張本人であることを、知ってしまったから。

 何故退いたのかわからない。わからないけど、知られた以上いつ再び襲われてもおかしくない。神父様を狙った奴らの思惑もある。あとはこの洞窟を抜けるだけだと思っても、何事もなく山を降りられる気がしない。

「ああ、くそ。また行き止まりだ」

 わかっていても、普段以上に苛立ちが募る。小さく舌打ちし、プックルの背を一つ撫でて道を戻った。

 馬車がやっと通れるほど狭い道では、こうして手分けして道の先を調べる。魔物が溜まっていることも多いし、離れた隙に馬車が襲われることもある。神経を張り詰めすぎて、チゾットを出てから気を緩めた瞬間がほとんどない。

「崩落で道が潰れたようだな。外壁を降りるほかなさそうだが、あるじ殿は如何思われる」

 反対側を偵察したピエールが、戻ってくるなりそう告げた。

 掘削のしすぎで山が所々崩落しているとは聞いていたが、ここまで酷いなんて。確かに、それしか道はなさそうだ。縄を掛けたままの崩落跡もいくつかあった。

 目的以外を度外視するなら、すぐにでも決断すべきだ。僕ら全員が、身一つでも王都へ向かうと言い切れるなら。

「馬車がね……どうしようか。司祭様は僕が運ぶとして」

 胸に燻る逡巡を口にした途端、塞ぎ込みっぱなしの仲魔達がいよいよ黙り込んだ。

 馬車を買ったあの日から、馬を変えたことはない。ずっとずっと一緒に旅してきたのは仲魔だけじゃない。馬車を、パトリシアを、僕達に捨てて行けるはずがないのだ。

「……縄を掛けて降ろせますまいか。力ある者達で、支えながら降ろせれば」

 珍しくマーリンが申し出てくれて、気が進まないのを飲み込み頷いた。

 悩んでいる暇はない。一刻も早く、王都に着かなくては。

 重さを増すばかりの気鬱を引き摺りながら、僕達は改めて、この洞窟を下る道を探し始めたのだった。

 

 

 

 縄がかかっている岩壁を一箇所選び、下方を削る。崖下は幸いにも拓けた岩棚になっていた。先に身軽な仲魔達を降ろし、周辺の瓦礫を退けてもらってから、いよいよ馬車を降ろしていく。

 まずはパトリシアの胴に命綱を括りつけた。不快だろうに、パトリシアは僕の言葉がわかると言いたげに大人しくしてくれる。手持ちの丈夫な縄を岩にしっかりと固定してから、そろそろと愛馬を降ろしていった。

 暴れることなく着地したパトリシアを、下で待っていたピエール達が受け止めてくれる。

 縄が解かれるのを待って、次はマッドとラゴンに荷台を持ってもらった。驚いたことに、ラゴン達の背中の羽がここで良い仕事をしてくれた。彼らの羽はほんのわずか、あの巨体を浮かせることができたのだ。滑空に近いようで高く羽ばたくことは出来ないが、衝撃を和らげられるのは非常に大きい。

 重い荷馬車を抱えて、息もぴったりに飛び降りた二匹の竜は、羽をぱたぱた動かして上手に減速しながら無事着地を果たした。

 あとは護衛に残しているプックルと、僕が、司祭とフローラを連れて降りるだけ。

「自分で降りてみる?」

 先に神父様を背負い、落ちないよう紐で身体に括りつけていたところで、フローラが恐る恐る崖下を覗いているのに気付いて声をかけた。

 彼女は高所恐怖症だが、こういう場面で負担になることを良しとしないひとだ。頑張ろうと思ってくれたなら、夫として精一杯支えてやりたい。

 それに、護衛にプックルをつけているとはいえ、フローラをここに残して降りるのは正直恐ろしい。先に降りてくれるなら、その方が絶対にいい。

「もちろん無理はしなくていいよ。怖いなら、もう少しだけ待っててくれれば迎えにくるから」

 プックルの黄金の毛に寄り添い、強張った彼女が小さく頷く。「が、んばって、みます」と辿々しく答えたフローラを一度だけ、ぎゅっと優しく抱きしめた。

 先に妻を下ろす旨を仲魔達に伝え、羽衣の帯を縄に括りつける。マッド達に手伝ってもらいかったけど再び登るのはさすがに難しそうで、縄の下で待っていてもらうことにした。

 絶対に縄から手を離さぬよう言い含めて、上から少しずつ縄を手繰り、彼女を降ろしていく。

 細心の注意を払ったお陰で、数メートル下の岩棚に無事、フローラを降ろすことに成功した。安堵しつつ縄から帯が解かれるのを待っていたが、緊張の糸が切れたんだろう。ようやく立ちあがろうとしたフローラが、「きゃっ」と短い悲鳴をあげて、尻餅をついてしまった。

「フローラ⁉︎」

 思わず身を乗り出し、声を張り上げる。仲魔達が一斉に駆け寄り、話している内容は聞こえなかったが、手早く状況を検めたピエールが苦笑しながら返事を投げてくれた。

「腰が抜けてしまわれたようで。ご安心なされ、あるじ殿」

 再びほっと胸を撫で下ろし、僕も急いで縄を伝い降りる。神父様を負ぶったままフローラに駆け寄ると、妻は真っ青な顔を僕に向けて、震えながら小さく詫びた。

「す、すみません。力、入らなくて、お尻をぶつけてしまって」

「ううん、よく頑張ったね。お尻だけ? そういえばフローラ、まだ月のものが終わってないんじゃ」

 チゾットを出てやっと二日目。以前、障りは一週間ほど続くと言っていたから、まだ出血は続いているんだろう。せめてぶつけたところを治癒しようと、回復魔法を灯した僕の掌を、フローラの小さな手がすかさずぱしりと弾いた。

 

 ────拒絶、された……気が、した。

 

「じ、自分で、できます……から」

 一瞬、翠の瞳を大きく見開いたフローラが息を呑んだが、すぐ気まずそうに視線を逸らし、身体を引く。

 それは、手を伸ばさないと触れられない、遠くはないけど決して近くもない距離で。

「……っ、ごめん。そうだよね、下半身は……ほんと、ごめん」

 しどろもどろに謝罪を口にしたけれど、フローラは深く俯き、力なく首を振るばかりだった。

 黙り込んでしまったフローラをガンドフに任せて、神父様を再び横たえに行った。先に降ろしてあったホイミンと並べて荷台に寝かせたところで、すっかり気落ちした様子のフローラが乗り込んできたが、やはり僕とは目も合わせてくれず、泣きそうな顔で膝を抱いて背を向ける。

 僕が悪かった。そう自分に言い聞かせないと、もやもや燻る苛立ちめいたものに、今にも呑まれてしまいそうな気がした。

 全然、わからない。どうやって慮るのが正しいのか。

 洞の中を軽く偵察して、再び馬車を動かした。崖を降りたのが気分転換になったのか、仲魔達の表情が少しだけ明るくなったのが救いだった。

 フローラはあれから塞ぎ込んだままだったが、のちの休憩時に一度だけ、さっきはごめんなさい、と謝られた。それでも尚、こちらを見てくれない哀しい彼女に、僕はぎごちない笑みを繕うことしかできなかった。

 

◇◇◇

 

 残念ながらあれで終わりとはいかず、その後も度々崩落跡に出くわした。

 床が陥没していたり、階段が崩れていたりして、降りるのにかなり難儀したところもあった。

 それでも、かつてこの洞窟には何かが祀られていたのだろう。時折、大きな鳥の紋章が描かれた広間に行き当たることがあった。

 ……これ、グランバニアの国章だ。

 何度目かの休憩中、広間の地面に刻まれた紋章をぼんやり眺めた。父さんの剣と同じ意匠。覚悟は十分してきたつもりだけど、どうしても未だ、実感が湧かなかった。

 自分が、古い王家の血をひいている、だなんて。

 詩吟で好まれそうな題材だ。さすがに、筋金入りの奴隷王子の噺が唄われたことはないだろうけど。

 ふと、出奔した国王父子をグランバニアの人々がどう思っているのか、どう思われてしまうのか、以前空恐ろしく感じたことを思い出した。考えれば考えるほど、恨まれこそすれ歓迎されるとは到底思えない。あまつさえ奴隷なんて、王族の品位を地に落としたと糾弾されてもおかしくないんじゃ。

 ここまで来たのは軽率だったんじゃないのか。僕のみならいざ知らず、妻や仲魔達にまで累が及んだらどうしたらいい。

 祖国を目前にして、今更ながら、冷えた汗が背中をじわりとつたう。

「テュールさん」

 思考の泥底に沈み切っていた僕を、荷台にいたフローラが遠慮がちに呼んだ。手招きされて幌幕の中へ入ると、ホイミンと並んでずっと眠ったままだった老司祭が、ごく薄く、瞼を開けているのが見えた。

 どこか虚ろな眼差しで、暗い幌の天井をぼんやり眺めているようだった。

「たった今、目を覚まされました。……お声が出ないようで……」

 押し殺した声で妻が告げる。黙って頷き、チゾットの教会で聞いた彼の役職を呼んだ。

「ユリウス司教様」

 傍らに腰掛け、老司祭のやつれた顔を覗く。

 洋燈が照らし出した彼の表情は、何故か、たった今まで虚ろに見えていたそれとは違う、驚愕に満ちたものだった。

 微かな違和感を覚えながらも、心を落ち着けて語りかける。

「良かった、お耳は聞こえますね。先日、チゾット近くの坑道でお会いした旅の者です。覚えていらっしゃいますか」

 ゆっくり、聞き取りやすいよう単語を丁寧に発したつもりだったが、彼は瞠目したきり反応しなかった。肯定も否定もせず、ただ、こくりと微かに唾を嚥下した気配がした。そうして見つめられる理由は何となく察せられたが、未だ直視することを恐れた僕は、彼の視線に気付かぬふりをして淡々と言葉を続けた。

「あのあと魔物の襲撃があって、勝手ながらお助け致しました。今はグランバニア王都へ向かっています。我々も仲間が負傷したので、叶うなら王都で治療を受けさせたいと思っていて」

 骨張った手が、宙を薙いで遮る。

 身を起こそうとしたようだった。慌ててその肩を抑え、安静にするよう促したが老人は止めない。上半身を無理矢理持ち上げて、灰色の目を大きく見開き、苦しげに呻いた彼は一度深く、息を吸い込んだ。

 音を発せない乾いた唇が、ゆっくりと動く。

 

 ──……マーサ様。

 

 そう、薄い唇が紡いだ気がして。

 茫然と見つめる僕の代わりに、フローラが身を屈めて彼を支えた。微かな破裂音を頼りに囁きを解読して、妻は少しだけ躊躇を滲ませながら僕へと向き直る。

「お名前を、……と、仰っています」

 ────今度こそ、心臓が止まるかと思った。

 それはもう、ほとんど確信だった。気づかれた。どういうわけか、この方は再会してたったこれだけのやりとりで、僕の素性を見事見抜いてみせたのだ。

 王都は目と鼻の先。あと少し、隠しておくべきかもしれない。今の名前は本当の名前じゃないかもしれないのだし、言っても意味はないかもしれない。けど、このひとに知ってほしい、気づいてほしいという、どこか疚しい気持ちが湧いてしまうのも否定できなくて。

 ここが、僕の故郷なんだと。

 受け入れてほしいのだと。

 ……重い逡巡を、我欲がついに凌駕した。剣帯を外し、彼の目の前に父の剣を鞘ごと置いた。息を止め、震える手で鳥の紋様をなぞった司祭を見下ろして────

 喉につかえた己の名を、密やかに、告げる。

 

「…………、テュール、と、申します」

 

 彼はもう、何も言わなかった。

 ただ静かに、背中を小さく小さく丸め、咽び泣いていた。

 こんなにも年配の方が感極まって泣く様を、僕は初めて見たと思う。

 傍らでは瞳を潤ませたフローラが、やつれた司祭の肩を支え、時折咳き込む震える背中を、ずっと優しく撫でていた。

 

 

 

 ひとしきり嗚咽したあと、ユリウス司教は再び眠りについた。

 まだ安心はできないが、意識が戻って本当に良かった。引き続きフローラに世話を頼んで、仲魔達を鼓舞し、先を急いだ。

 この洞窟はもともと王国が管理していたのだろうが、妙に変わった魔物達が棲みついている。特に、箱やら壺やらに擬態した魔物が多い。擬態というより、ヤドカリに近い習性なのだろうか? 宝物庫かと言いたくなるほど宝箱を見つけたが、不用意に近づいたスラりんが何度かミミックに喰われかけ、都度しびれんが発狂していた。箱の中身を検知する鑑定魔法、インパスがここまで役立ったことは未だかつてない。

 骸達の再襲撃を危惧していたが、チゾット村を離れて程なく、骸骨の魔物を見ることはなくなった。

『王都に着きましたら、是非お会いいただきたい者がおります』

 あれから何度目かの覚醒で、しっかりとした顔つきを取り戻した老司教が僕に告げた。

 初めて彼が目を覚ましてから三日ほど経った。今は、チゾットを出て一週間くらいだろうか。早く王都に着きたいのに、ままならなくて気ばかり焦る。

 あれから彼は時折目を覚ましては、フローラの介助を受けて少しずつ生気を取り戻していた。喉から音を出すことは叶わなかったが、微かな囁きと、体力が戻りつつある今は指で文字を示すなどしながら、ぽつぽつと意思疎通を図ることが増えていた。

 未だ目覚めないホイミンも診てくださり、彼を癒すには貴重な薬が必要かもしれないこと、すぐに容体が変わる可能性は低いことを伝えてくださる。その上で、王都に着いたら信のおける方に口添えいただけることもお約束くださった。

 老体で、あれだけの傷を負われて、更には国王の喪失を伝えられて。立ち直れぬほど気落ちしてもおかしくない。そうさせない理由は、僕を見つめる気迫に満ちた眼差しの内に十二分に示されていた。

 長らく行方不明であった王の嫡子と思しき僕を、間違いなく王都へ辿り着かせる為に。この方は今、精神を奮い立たせていらっしゃるのだ。

 もしやサンチョをご存じないか。ふと思いつき問うたが、彼は肯定も否定もしない代わり、とある姓を静かに告げた。

 ──ヴェントレ、という者にお心当たりは。

 まったく覚えがなく首を傾げた僕に、彼はわずかに落胆したようだった。暫し、物思いに耽っていらしたが、やがて何かを呑み込んだ様子で、先述の願いを指文字で伝えてくださったのだった。

 ──殿下がお戻りあそばされた後、宮中は混沌とするでありましょう。

 パパス王が永く御不在となられ、今は王弟であらせられるオジロン様が玉座を守っておいでです。宮中には様々な思惑が交錯しております。畏れながら、殿下のお戻りを歓ぶ者ばかりではないやもしれませぬ。それでも……

 言葉を選びながら指文字をゆっくり綴っていた司祭が唐突に顔を上げ、正面からひたりと僕を見据えた。

 ゆめお忘れになりますな。貴方様のご帰還を、何より待ち望んでいた者がおりますことを。

 御身をお守りすることも、お力になることも、この不具の身では叶わぬかも知れませぬ。ですが、お信じください。私、ユリウス・エベックとヴェントレ卿は、あなたが本物のテュール王太子殿下であらせられます限り、誓って裏切ることは致しませぬ。このことを何卒、お心にお留め置きくださいませ。……

『殿下』なんて呼ばれると、ヘンリーと取り違えられているみたいですごく変な気分になる。

 訊きたいことはたくさんあった。父さんのこと、祖国のこと、母マーサのこと。目覚めた時、僕の顔を見て母さんの名を口走ろうとした理由。

 声を出せない司教に負担をかけたくなくて、僕は何度も、喉から出そうになる我が儘を無理矢理呑み込んだ。

 証明として示せるものは父さんの剣だけだ。どこぞでグランバニアの話を聞きつけなりすましに来た不埒者かもしれないのに、どうしてこの方は、僕をここまで疑わずにいられるのだろう。

 ……疑われたかったのか。そこまで考えて、あまりの情けなさに乾いた笑いが漏れた。

 贖罪かもしれない。いっそ責められた方が楽だと、心のどこかで思っていたのかも知れない。

 山を下る長い洞窟の途中、何度か洞の外の道を通った。どうやら下に行けば行くほど、山肌に設けられた山道が整備された状態で残っている。

 遠く木々に埋もれるばかりだった青い城影が少しずつ、進むたびに近く、大きくなっていく。

 もう少しで洞窟を抜けられるだろうか。期待と畏怖、言い表せない感情が胸に重く渦を巻く。正直、城が近づく毎にどんどん気が滅入ってしまっていたが、目下の目的を思い出すことでなんとか気鬱を振り払った。

 司教様を無事送り届けて、ホイミンを診てもらうんだ。僕のことはその後でいい。ユリウス様が勧める、ヴェントレ卿にもお会いしないと。

 ……心の整理はとっくの昔についたと思っていたのに。どうして今更、恋しいなんて思ってしまうんだろう。

 目を閉じて、夢想する。逞しい父が幼い僕を肩車して、ここから城を眺めている。叶わなかった帰還。この虚無だけは、他の誰にも埋められない。

 もし今、この瞬間に、父さんが側に居てくれたなら。

 僕はこんなにも、寂しい気持ちにならなかっただろうと。

 

◇◇◇

 

 更に麓が近づいた山道で休息をとった後、洞窟の探索を再開した。

 妙なことに、一本道の先はずっと上り傾斜が続いている。

「あれ、また迷った? さっきからずっと登ってるね」

 変わり映えしない岩壁を見回し呟いたが、仲魔達は揃って首を捻るばかりで、答えてくれる者はいなかった。早ければ今日にも洞窟を抜けられると思ったのにな。馬車を押してくれる仲魔達も、牽いてくれるパトリシアもさすがの体力だが、次第に空気が薄くなる感覚に些か怖気を覚える。

 ……まさかこれ、またチゾットに戻って行ってるんじゃ。

 あちらこちらをぐるぐる回って、もうどれが正しい道なのかさっぱりわからない。知らないうちにチゾットへの近道に迷い込んでいたりして、引き返してたら嫌だなぁ。そう思った矢先、数歩先を行くプックルが突如グァオ! と鋭く吼えた。

「ガンドフ、ラゴンとマッドも馬車を抑えて! マーリン、ピエール!」

「承知!」

 呼びかけと同時にピエールが飛び出した。剣撃がプックルを追い、その背から焔玉が追撃する。刹那、前方からも焔玉が飛んできた。マーリンのメラミと交錯しながら飛来したそれは僕らの頭上をすり抜け、馬車と周囲の仲魔達に降り注ぐ。煙と呻き声がそこかしこから上がり、鬣を燃やされたパトリシアは激昂して前脚を蹴り上げた。

「わーーーっ、だめー! おちついてー!」

 スラりんの必死の叫びを聞きつけ、幌から飛び出したフローラが急いで治癒と反射の呪文をかけてくれた。手綱を引いて落ち着かせたはいいが、戦況が芳しくない。どうやらミニデーモンが大挙して暴れ回っているらしく、仲魔達がひどく手を焼いているようなのだ。

 子猿の如くキャッキャと駆けずり回り、武器を構えた仲魔達にも怯まず奇声を上げてくる。先ほどのメラミの雨もこいつらが放ったらしい。出会い頭にプックルが威嚇したが、さほど逃げ出してくれなかったようだ。げんなりした様子のピエールが「稚児の相手は出来かねる」とぼやいた。殊更うんざりしているのはマーリンで、彼の熟練のメラミが小悪魔達の琴線に触れたのだろうか。数えきれないほどのミニデーモンが彼を取り囲み、熱い視線を向けている。

 いおなじゅ、めらどまー! と口々に叫んでいるのは、魔法を見せろと言っているのか。表情の欠片もないマーリンが首を振った。そうして小悪魔達に淡々とマホトーンを施す魔術師の姿は、申し訳ないがなんともシュールであった。

「なんとか気を逸らせればいいんだけど……困ったな。この道があってるとも限らないんだよね」

 以前踊る宝石を狩った時も思ったが、害意のない相手ほどたちの悪いものはない。こんなに居たんじゃ馬車もろくに動かせないし。強行突破してもいいが、道が間違っていて引き返さなくてはならない場合、もう一度小悪魔の大群に揉まれるのはマーリン達も御免だろう。

 いっそ一息に蹴散らしてしまいたいだろうに、甘い主人に倣って手を出さずにいてくれるみんなはつくづく根が優しい。

「そこの餓鬼どもを追い払ってくれるなら、道を教えてやらんこともない」

 唐突に、雄の声がした。抑揚のない、人ならざる者の声。

 振り向いた途端、意図せず心臓が凍りつく。

 岩陰に佇んでいたのは、これまでも幾度か遭遇したことがある『メッサーラ』と呼ばれる魔族だった。

 羊の角、蝙蝠の翼を備えた、紅い身体を持つ嵌合体の魔物。知性が高く、他種族の魔物をよく統率する様が見られる。マーリンのように魔封じと炎魔法を使いこなし、謎の毒々しい光を放つ。あれが何なのか、何度か浴びせられたが効果がいまひとつわからない。

 魔法に特化しているようで、よく締まった筋肉質な身体は鉱夫のようでもある。まるでこの洞窟の主の如く君臨しているが、妙に捉えどころのない、不気味な魔物だ。

 何より、あの顔が。

(──……、落ち着け)

 まっすぐ視線を交えたまま、ゆっくり息を吐く。落ち着け。この魔族は、違う。

「人間が頭目とはな。それで? 行先は上か、下か」

 言葉のわりには無感慨に、眉ひとつ動かさず魔族が問うた。首を振り、麓へ急ぎたい旨を短く告げる。

 上半身とその顔が、まるで馬なのだ。面長の赤い顔に、左右を睨む鋭い眼。そういう顔つきに覚えがあって────あまりに鮮烈に、目蓋の裏を過ってしまうものだから。

 あいつは、『ジャミ』は、ここまで感情を出さない魔物ではなかった。別人だ。

 否、違う意味で警戒は解けない。ゲマの襲撃があった直後だ。このメッサーラだって、光の教団の配下かもしれないのだし。

 僕の緊張を気にも留めず、赤い馬面の魔族はつと小悪魔の群れに目を向けた。促された気がしてそちらを向くと、やはり抑揚のない声で魔族が告げる。

「爆弾岩の欠片を持っているか。こいつらはあれを好む。坂の下にでも転がしてやれば、簡単に気をひける」

「爆弾岩の……欠片?」

「知らんのか」

 淡々とした声に初めて感情らしい、微かな嘲りが混じった。冷めた目でこちらを一瞥し、やや居丈高に言い放つ。

「以前、人間どもがよくこの辺りで使っていたぞ。煩くて敵わなかった。持ち込んだのはお前達の仲間だと思ったが」

 いや、いきなりそんなこと言われても。僕はただの旅人だし、残念ながら仲魔に爆弾岩はいない。使うって、僕みたいな魔物遣いが爆弾岩を使役してたってこと?

 意味がわからず問い返そうとしたところで、道具袋をごそごそ漁っていたピエールが、何やら黒い塊を取り出した。

「はて、岩っころというと、こういうものかな」

 石炭ほど黒くない、どこにでも転がっていそうな石だ。何の変哲もないそれを見るなり、紅い魔族は「なんだ。持っているならすぐ寄越せ」と不機嫌そうに呟き、ひょいと奪って行ってしまった。小悪魔の群れをずんずん突っ切って行く背中を見送りつつ、なんとなく声量を抑えて、ピエールとこそこそ囁き合った。

「いつ拾ったの? あれ、まったく見覚えなかったけど」

「昨夜、壊れた階段下の洞で見つけた宝箱の中に。ご覧の通り屑石であったが故、報告はせなんだが」

「屑石だったのに、何で道具袋に入れてんの……?」

 よくわからないが、あれが爆弾岩の欠片だったのか。がっくりする僕を尻目に、小柄なこの騎士は実に涼しい顔だ。

 その辺、わりと普段からなあなあにしちゃってるの、良くないよな。拾い物に関しては僕もみんなも価値がわからないことが多いから、特に宝箱の中身は、とりあえず持ち帰って街で鑑定してもらうのが慣わしになっているのだ。

 だからって、みんなの持ち物を僕がまったく把握していないのはまずい。呪われた品物だったら困るし……などと思った瞬間、今来た道の向こうから突如、ドン‼︎ と轟音が鳴り響いた。

 は?

 一拍、完全に理解が遅れる。あれだけ居たミニデーモン達はいつの間にかいなくなり、坂の下からどこかすっきりした顔つきのメッサーラが歩いてきた。茫然とする僕を一瞥し、「あいつらが戻ってくる前に動け。麓だな」とつまらなそうに言う。

 爆弾岩の、欠片。……今の、あの石が爆発した音だったのか⁉︎

「いや、めっっっちゃくちゃ危ないじゃん! 良かったよ、今の今まで爆発しなくて!」

「ほおほお、なるほど。確かに、非力なヒトが採掘するにはうってつけの石でござるなあ」

 ピエールはのほほんと頷いているが、僕は落ち着いていられない。メッサーラが石を放った方には今も、馬車が滑落しないよう支えてくれている仲魔達と、不安に耐えて僕を待つフローラがいるのだ。

「フローラ、皆! 大丈夫⁉︎」

 最悪の事態が過り、大慌てで駆け戻った。幸い馬車に被害は及ばなかったようで、ガンドフ達が笑って安心させてくれた。幌の中を守るフローラも、司教とホイミンに大事がないことを教えてくれる。

「突然、騒がしくなった後に大きな音が聞こえたので、びっくりしましたわ。あなたがご無事でほっとしました。何があったのですか? もしかして、魔物さんがお仲間に?」

「うん、僕もほっとした。なんかね、道を教えてくれるってさ。メッサーラが」

 手短すぎて、なんとも要領を得ない回答になってしまった。司教様とフローラが不思議そうに顔を見合わせる。碧い小さな頭をこてんと傾けた妻が思いがけず可愛くて、つい口許がにやけてしまう。

「フローラ、ユリウス様もこのまま中にいてくださいね。とりあえず着いて行ってみる。多分、大丈夫だと思う」

 魔物には鼻がきくからさ。言外にそう伝えて、急いでパトリシアを先導した。気難しいメッサーラの顔色を窺いつつ、結局は登り坂の上に向かって歩き出す。

 ……ちゃんとさっき、麓って言ったよね。

 些か悶々としたが、「城のある方だろう。今、最短距離で向かっている」とぶっきらぼうに言われてしまえば、それ以上訊くに訊けない。

 どうやらこのメッサーラは静寂を好むらしい。相変わらずの無表情だが、ミニデーモン達を追い払ったことで満足そうにしているのがうっすらと見てとれる。

 とはいえ黙って延々登り続けて、十分近く沈黙を守り続けたところで耐えきれなくなった。僕が、というよりスラりんとしびれんが萎縮してしまっているのだ。ホイミンの件で落ち込んでいるとはいえ、元々お喋り好きな彼らが、息を殺して縮こまっているのを見るのは忍びない。

 このメッサーラは仲魔ではない。人懐っこいスラりんだが、さすがに身内とそうでないものとの接し方は弁えている。

「……あのさ、良かったらひとつ訊きたいことが」

「悪いが話は後にしてくれ」

 瞬殺された。ガンドフの影に隠れたスラりん達がはわわわと震え上がり、その隣を跳ねるピエールは、場の空気を変え損ねた不甲斐ない主人を、鉄仮面越しの生ぬるい目でじっとりと見つめた。

 使えない主で悪かったな。若干不貞腐れつつ、さりげなくメッサーラの斜め後ろに並んだ。こっそり盗み見ると、彼は歩きながらも何やら考え事に没頭しているようだった。

 最短距離と言っていたし、この複雑な洞窟の地形を頭の中で洗い出してくれているのかもしれない。

「…………、何だ」

 そのまましばらく彼の横顔を眺めていたが、いよいよ視線が気になったのか、若干鼻白んだ様子でメッサーラが視線を寄越した。

「いや、興味があるだけ。メッサーラとちゃんと話すの、これが初めてだから」

 探りを入れる腹はないので、思ったまま口にする。考え事を邪魔してたらごめん、と言い添えたら、彼は微かに眼を瞠ったようだった。もしや気に障ったかとひやりとしたが、返る言葉が意外にもやわらかく聴こえて、驚いた。

「俺は、二度目だ」

 因縁の魔族、ジャミを思い出させるいかつい馬面だが、気質がまったく違うからか、しばらく共に過ごした今は不快感を感じない。二度目って、人間と話すのがってことだよね。一人目も魔物遣いだったのかな。そういう存在は話に聞く母さんしか知らなくて、僕は何となく首を振り、その思考を追い払った。

 浮かれてるんだと思う。名前しか知らなかった母『マーサ』の話を、ここに来て聞かされることが増えたから。

 あまり僕から話しかけない方がいい気がして、ふぅん、と小さく相槌だけ打った。そこからまた沈黙が続いて、しばらく道なりに登っていくと、天井の高い拓けた場所に出る。

 カンテラでぐるりと辺りを照らすと、傾斜はまだどこかに続いているようだ。ぬるい風が吹き抜けて、どうやらこの階層に、真っ暗な大穴が空いていることがわかった。

 がらんどうのその広間に、どこか得意げにも聞こえるメッサーラの声が響き渡る。

 

「ここを降りればすぐ出口だ。間違いなく最短距離だな」

 

 いやいやいやいやいや‼︎

「待った。ここを飛び降りろって⁉︎」

 思いっきり声を荒げたが、腹が立つことにメッサーラはやはり、眉ひとつ動かさない。

「急ぎたいと言ったのはお前だろう。ここから降りれば、百数える間に外に出られる」

「だからって……!」

 全力で反論したいが、出来ない理由を並べる前に状況を精査すべきだ。口から飛び出しかけた文句をぐっと飲み込み、風が吹き上げる大穴の淵に膝をついた。

 見下ろした深淵はどこまでも暗く、地面がまったく見えない。試しにそこらの石をいくつか放ってみたが、それなりに大きめの石でもほとんど音がしなかった。場所を変えても同じ。恐らく、途中に足場をとれるところもない。

「高さがありすぎる。綱じゃ長さも、強度も無理だ。ラゴンとマッドに馬車を持ってもらうにしても、往復は出来ないし……どうしようか」

 ドラゴンマッド達のそれは飛翔ではなく滑空だから、一度降りたら戻ってこられない。畢竟、全員が無事に降りるためには、飛べない面々を一人残らず馬車に押し込めなくてはならない……と思う。パトリシアも含めて。そこまで積んで、荷台が耐えられるだろうか。城が近いから、最悪、食糧などの消耗品はここで捨てても構わないのだけど。

 マッド達の羽で多少抵抗を殺せたとして、この高さだ。全員、すべてが無傷ではきっと降りられない。

「君は飛べる? ……といっても、手伝ってはもらえないよね。さすがに」

 隣に佇むメッサーラの表情を窺ったが、約束は果たしたということだろう。肯定も否定もせず、僕の問いを受け流した。

 考えろ。どうしたら、全員揃って先へ進める?

 せっかく連れてきてもらったが、正直、引き返して他の道を探すしかないと思う。くまなく見てきたつもりだけど……今までの道に見落としがあったかもしれないのだし。

 いっそ壁に穴を開けて進めないだろうか。この大穴に面する、もっと低い階層には行けないのか。

「他に、この大穴に通じている場所はない? もっと下の方で。多少遠回りになっても構わないんだけど」

「ないな。ここが下に繋がる唯一の結界だ」

 あっさり言い放たれ、唇を噛む。この場所しか使えないなら、やっぱり誰一人欠けてほしくない僕は、大穴から降りることを諦めるしかない。

 城は目前なのに。あと少しで、外に出られるのに。

 

 ────…………、

 結界?

 

 ふと、メッサーラの答えが思考の端に引っかかった。

 結界。下に繋がる、最短距離。ここだけが、唯一の。

 唐突に思い浮かんだのは神の塔だ。目に映らぬ、道なき道。清らかな乙女の祈りがなくては開かない扉。幻の、父と『誰か』を見せられた、神秘に満ちた謎の庭。

 まるで人の手が加わっていないように見える、崩れかけた洞窟の所々に刻まれた、鳥の紋章。

 あの時感じた奇妙な不快感が蘇る。人智を超えた何者かに試されているような、ひどく居心地の悪い空間。

 黙って縄を出し、ある程度の長さで掴んで鞭のようにふるってみた。歩きながら何度か確かめたが、深淵に向かって投げた綱はどこにもぶつかることなく、穴の縁からずるりと垂れ下がる。

「……道なき道はないようだが」

 察しのいいピエールが呟いたが、想定の内だ。縄を引き戻してもう一度、今度は予備のランプをゆるく繋いで投げ入れた。灯火が漆黒に細く弧線を描き、闇に飲み込まれる途中、ふっと不自然に消失した。

 火が消えただけかもしれない。けど。

「ユリウス様。この洞窟の中に、例えば……特定の場所に転移する魔法陣が、張られていたりしませんか」

 目を凝らしても影は見えないし、音もしない。手繰り寄せた綱の先にランプはない。その綱の端も、焼き切れたり引き千切られたりといった様子はなかった。結び目だけが、そもそも何もなかったというように綺麗になくなっている。それらをすべて確認してから、幌の隙間からこちらを見守る司教様に声をかけた。すぐに彼は首を振り、寄り添ったフローラが指文字で彼の言葉を解読してくれる。

「お心当たりはないそうですが……、テュール、さん?」

 そりゃそうだ。そんな便利な抜け道をご存知なら、もっと早く僕に伝えてくださったと思うし。

 及び腰で馬車を降りて、司祭の言葉を伝えてくれたフローラに向かって頷いた。落胆してない、念のため確認しただけだ。推論を否定する材料は見つからなかった。それでも今、この状況で、この可能性に縋ろうとする莫迦は僕くらいのものだろうけど。

 ────僕は『魔物遣い』だから。

 もう一度、紅い悪魔を正面から見据える。ほとんど確証を得た上だったが、彼もまた、僕の思惑を見透かしたように満足げに目を細めた。

「信じるか否かは貴様次第だ。魔物遣いの人間よ」

 信じるさ。

 彼にどんな思惑があって、僕達をここへ誘導したのかは知らない。すべては罠かもしれない。行った先に、彼の仲間が待ち構えているかもしれない。そしてそれが光の教団である可能性も、絶対に否定はできない。

 それでも、たった今、彼が示唆したそれ自体に『嘘はない』。

 それがすべてで、僕が魔物遣いたる所以だ。彼が嘘を織り交ぜたなら、僕にはその真偽だけがわかる。たった今彼が告げた言葉に、一言一句、偽りはなかったと断言できる。

 恐らくここは本当に、洞窟の出入口に最も早く辿り着ける場所なのだ。近いとは言ってない。最短だと言っている。ここからは推論だけど、多分この大穴に巨大な魔法陣が張られていて、落ちたものを洞窟の入口付近に送る仕組みになっているのだ。そしてその転移陣は、この場所から大穴を通過する過程でないと発動しない。

 但し、僕はそれで納得できるが、みんなは別だ。

 失敗できない。僕は良くてもみんなを巻き込むことにまだ抵抗がある。先に僕が降りてもいいが、もしも着地点がばらばらだった場合、みんなと逸れてしまうかもしれない。というか、無事に降りたことをこの場所に知らせられない。やはりみんなを説き伏せて、馬車ごと一斉に身投げするしかなさそうだ。

 大博打だな。特にフローラには耐え難い恐怖だろう。

 いつだったか、ヘンリーに散々釘を刺されたことを思い出す。お前は良くても奥さんには無理なことがあるだろうがって、かなりきつく咎められたっけ。それを思うと強要はしたくない。やっぱり回り道を探すべきかな。あと少しで出口なら、もう一度外壁を伝って道を探してみるとか。

 何はともあれ、一度フローラにこの見解を話してみよう。そう思って彼女を招き寄せた瞬間、どこからか『僕』の声が響き渡った。

 

「よし、いくぞ! 飛べー!」

 

 妙に間伸びした『僕』の声。当然だが僕は一言も発してない。

「今の、何……ッ、パトリシア⁉︎」

 止める間も無くパトリシアが激しくいななき、大穴に向かって飛び出した。馬と荷台ががくりと縁から落下して、取り残されたフローラの絶叫が響き渡る。

 釣られて落ちかけた僕を引き戻し「あるじ殿は奥方殿を!」と叫んだピエールとプックルが、後を追って深淵へと飛び込んだ。

 闇に吸い込まれたパトリシアの鳴き声がふつりと途絶える。残された全員、思わず身を固くして数拍待ったが、彼らと馬車が地面に叩きつけられる音はいつまで経っても聞こえてこなかった。

「ぴ、ピエール……えっ? どういうことー⁉︎」

「そういうことだよ。この穴はただの吹き抜けじゃない」

 僕と、状況を察していたらしいマーリンが深淵を覗き込んだ。スラりんとしびれんは残った仲魔達にしがみつき、すっかり震え上がっている。フローラに至っては、腰を抜かしてその場にへたり込んでしまっていた。

 動けない彼女の脇を支えて抱き上げて、その場に残った全員に宣告する。

「僕達も行くよ。これは穴じゃない、旅の扉みたいなものだ。多分、本当に出口近くに転移できるようになってる」

 どのみち、こうなっては行かない選択肢がない。

 ユリウス様とホイミンを乗せた馬車もそうだし、プックル達だって心配だ。言いたくないけど、あの馬車の中には天空の武具だって置いたままなんだ。

 さっきの声は何だったんだろう。気になるけど、のんびり考えている余裕も今はない。

「ガンドフ、スラりん達が飛ばされないようしっかり抱いてあげてくれる? マッドとラゴンも先に行って。僕はフローラを連れて行く。マーリンは一人でも大丈夫?」

 線の細い魔法使いが頷いたかと思うと、次の瞬間にはローブをはためかせ、大穴に身を投じていた。気持ちいいほど躊躇がないな。他の仲魔達も僕とメッサーラをちらりと見届けた後、次々穴へと飛び込んでいった。ぴええぇぇ、と重なって響く二匹のスライム属の声もすぐに掻き消える。

 多少臆病なところもあるが、仲間達は高いところをそこまで苦手としていない。全員が転移したのを見届けて、ようやく息をつき振り返った。残されたのはフローラと僕、そしてメッサーラと、手に掴んだ縄だけだ。

「え、……あの、テュ、ル、さ」

 可哀想に、フローラは暗がりでもわかるほど青褪めている。強張った身体をもう一度強く抱き寄せて、縄で互いの上半身同士をきつく縛り上げた。間違っても離れてしまわないように。

「目を閉じて、僕に掴まっていて。絶対に離さないから」

 もう、震えすぎて頷くこともできないようだったが、承諾の代わりにフローラが僕の胸に顔を埋めた。ぎゅう、と懸命にしがみつく彼女を外套の中にしっかりと包み込む。

「下に着くとすぐ、外に通じる崖がある。そちらは大した高さではないから問題ないだろう。地上に降りたら、その脇の洞に入れ。左に歩けば出入口だ」

 手短な説明を脳裏に刻みつけて礼を言った。これにも彼は特に反応を返さなかったのだが、ふと、何かを思い出したように虚空を仰いだ。

「ああ、そういえば。訊きたいこととは何だ」

 いやそれ、今訊く⁉︎

 がちがちに強張ったフローラを抱きしめながらメッサーラを睨みつけたが、相手はやはり魔族。今まさに義理を果たしていると言わんばかりに平然と言ってのける。

「後にしろと言っただろう。だから今答えてやる」

 ああ、まったく。君達はほんっと、意地でも自分のペースを崩さないよね!

 訊きたいことは他にもあったが、悔し紛れに、最もどうでもいい問いを投げつけた。戦闘のたびもやもやしていた、彼らの妖しい技のこと。

「……メッサーラって時々、変な赤い光を発するじゃん。あれ、何の魔法? 何されてるのかわかんなくて、気味が悪い」

 本当は名前を聞きたかったんだけど。半ば悪態じみた僕の問いに、それまで無表情を貫いていたメッサーラがふ、と口許を歪めた。

 悪魔そのもの、どこか凄みを帯びた笑み。

 正面からその貌を見てしまったフローラが、こくりと息を呑んだのがわかった。

「魔法抵抗力を奪う光だ。次に同胞に遭った時は、魔法に気をつけるんだな」

 ────なに。

 問い返すことは叶わなかった。唐突に、視界を覆い尽くす赤い閃光が眩く走る。咄嗟に目を伏せたところで肩を衝かれた。突き飛ばされ、均衡を崩した身体は抱きしめた妻ごと、漆黒の奈落へと勢いよく落下していった。

 

 ────次に遭った時は。

 何故か、最後に聞こえたその言葉だけが、鼓膜の奥で何度も奇妙に反響していた。

 

◆◆◆

 

 衝撃はこない。唐突に重力が消失し浮かび上がって、背中が平らなところに触れた。それだけだった。

 柔らかな身体を抱きすくめ、固く閉じた眼を恐る恐る開ける。

「なかなかどうして、刺激的な座興でござったな」

 軽快に第一声をくれたのはやはりピエールだ。他の仲魔達、パトリシアも馬車も、目の前にずらりと並んでいた。ユリウス様まで表に出て、心配そうにこちらを見つめていらっしゃる。

 見渡すと、どこかの神殿のように見えた。薄暗い空間には立派な柱が四本、この台座を囲むように伸びている。天井は意外にも低く、明らかにそこから落ちてきた感じがしない。

 全員、無事だ。……良かった。

「……、フローラ」

 上半身を起こし、腕の中の妻を呼んだ。僕にしがみついた状態で、フローラはすっかり気を失ってしまっている。当然だよね。高所恐怖症の妻にひどい負担をかけてしまったことを申し訳なく思いながら綱を解き、軽い身体を横抱きに支え直した。

 くたりと脱力した妻の目尻が濡れている。こんな目に遭わせてしまったのに、久々に抱き上げた彼女が愛しくて、離れ難くてたまらない。

「みんな、変わったところはない? そこを出て、洞を左に行くと出口に行けるってさ。行こう」

 どさくさに紛れてフローラを抱いたまま、みんなを促した。プックルが冷やかし混じりにこちらを見上げたが、気づかないふりで誤魔化す。パトリシアの手綱をガンドフに預けたところで、スラりんがきょろきょろ辺りを見回した。

「あれー? あのこはー?」

 スラりんの言葉に、僕も今更ながらはたと記憶が蘇る。

 そうだ、もう一人。さっきおかしな声かけをして、パトリシアを興奮させた張本人は?

 その時だった。しびれんのなんとも弱々しい声が、幌の中から漏れ聞こえてきたのは。

「だっ、だめっ! かってにたべちゃ、だめなの……っ!」

 両手が塞がった僕の代わりに、ピエールがすぐさま幌幕を開け放つ。果たしてそこには招かれざる第三者……さっき大暴れしていたミニデーモンのうちの一匹が、堂々鎮座していたのだった。どうやらこっそり荷台に忍び込んだらしく、携帯食のスナックをガリガリかじっている。物が散乱しているのはさっきの落下もあるのだろうが、それだけが理由ではないだろう。

 ホイミンの安否が気にかかったが、ユリウス様が抱いてくださっていた。ほっとしたところで改めて、この小さな不法侵入者に向き直る。

「さっきの声、もしかして……君が?」

 ふつふつ湧く苛立ちをフローラの香りで紛らわせ、努めて優しく声をかけた。食べかすだらけの顔を持ち上げた小悪魔がにかっと笑い、「うん! ぼくがー!」とまったく悪びれず言い放つ。

 うわぁ、声だけなら本当に僕にそっくり。ていうかこれ、そういう特技なんだろうね。そういえば何度か戦った時も、こいつらは仲魔達の声真似をして撹乱しようとする向きがあった。

 とは言っても、だ。

「とんッでもない悪戯をしてくれたよね……! 転移陣じゃなかったら、みんな揃ってあの世行きだった!」

 思いっきり厳めしく叱りつければ、ぴえっ! と泣き声を上げてミニデーモンが飛び退った。これが素の声なんだろう、今の悲鳴は僕とは似ても似つかない。しかもなんだか、ぼそぼそ呟く言葉はどれも舌ったらずだ。声真似すると滑舌も良くなるのかな?

「仲間はどうしたの。着いてきちゃって、心配しない?」

「いおなじゅー、むー」

 気を取り直して、フローラごと荷台の縁に腰掛け訊いてみた。通じたのかどうか、小悪魔は指をちゅぱちゅぱ吸いながら辺りを見回している。なんとなく意図が察せられて、ああ、とその返答を噛み砕いた。

「あの石ならもう持ってないよ。そっか、魔法を使いたいの?」

 どうやらこの魔物達は、大魔法を使いたがっているように見えたから。戦闘中も不発の大魔法を何度か詠唱していたし、爆弾岩の欠片がお気に入りなのも、爆破魔法を使っている気分を味わえるからじゃないかと思う。随分と危険な玩具だけど。

 案の定、魔法という単語に反応したミニデーモンはぱっと顔を輝かせ、「まほ! まほ!」と連呼して飛び上がった。

 ちらりとマーリンを盗み見ると、いつにも増して無表情で遠くを見ている。フードを目深に被り顔を逸らしたその姿からは、こちらに話を振ってくれるなという強固な意志が滲み出る。

 参ったな。多分だけど、このミニデーモンは仲魔のみんなと同じだ。いつ作用したのか、僕の力が及んだんだと思う。元々凶暴化した印象が薄い魔物だが、今、目の前にいるこの子からは、禍々しい気配をまったくと言っていいほど感じない。

 ああいう悪戯は困るけど、悪意のないこの魔物を無碍にする気にはなれない。それに、群れから逸れたこの子を一人置いていくのは、非常に良心が咎める……というか────

 

「……ぱーぱ!」

 

 うん?

 思わず眼を瞬かせたのと、ぶっふぉ! とピエールが噴き出したのがまったく同時だった。

「こ、これは。確かに良く、似ておられる、ふ、はははッ」

「…………ッ、ピエール‼︎」

 確かに、確かにね。ミニデーモンの体毛も紫だけど!

 思わず叫んでしまったが、当然ピエールはそれで収まる御仁ではない。紫の小悪魔と僕の旅装を見比べては緑のスライムごとぼよんぼよん跳ね回り、腹を抱えて笑い転げる。他の面々は笑って良いものか顔色を窺いあっているが、スラりんは爆笑寸前だ。青い頬をぷるぷる赤らめ、今にも笑い出したいのを必死にこらえている。

「ま、まあ、今更あるじ殿も捨ておけまいて。それにほれ、奥方殿も満更ではなさそうで。ぶっ、くくくく」

 失礼なまでに笑いつつ、ピエールが顎をしゃくった。満更も何も、フローラは失神してるじゃん。今だけは気を失っていてくれて良かった……などと不埒なことを思いつつ、何気なく見下ろした瞬間、予期せぬ状況に凍りつく。

 いつの間に目覚めたのか、むしろどこから聞いていたのか。気を失っていたはずの妻は今や、真っ赤な顔を懸命に俯かせ、僕の腕の中ですっかり縮こまっていたのだった。

「フ、フローラ……、いつ、から……?」

「え、と……」

 しどろもどろに問うと、フローラは恥ずかしそうに視線を泳がせ口籠る。

「つい、さっき……です……」

 ────いつもだったらすぐ気づくのに‼︎

 頭に血が昇って、妻の覚醒に気づけなかった。あまりの失態に目の前が暗くなりつつ「あの……嫌じゃなかった?」と訊くと、フローラはきょとんと目を瞬かせた。次いで真っ赤な顔でこくこくと頷いてくれる。その表情に嫌悪は見えず、ほっとして力が抜けた。

 子供の話を振られるのが嫌なのかなって、ここのところずっと不安を拭えずにいたから。時折こうして以前と変わらぬ恥じらいを見せてくれるたび、僕は情けなくも、心底安堵してしまうのだ。

「さっきはごめんね。怖い思いさせちゃって」

 きれいな額に軽く口づけて、荷台の床に彼女を下ろした。目を瞬かせつつ、ミニデーモンと僕を心配そうに見比べるフローラに微笑みかけて、改めて、小さな悪魔と相対する。

「……一緒に、来るかい?」

 父親じゃないけど。君の父親にはなれないけど。

 精一杯の誠意をこめて呼びかける。そういう役割がなくても『家族』になれることを、僕はもう知っている。

「僕は君のパパじゃないから、パパとは呼ばないこと。それと、あんまりひどい悪戯をしたら叱るよ? それでもいいなら一緒においで」

 んむ? と不思議そうに僕を見上げるミニデーモンに、そっと手を差し伸べて。

「魔法、覚えたいんだろ? 一緒に覚えようよ。僕もまだまだ勉強中だから。このひと……僕の奥さんも、魔法を勉強している最中なんだ。君と同じ」

 言いながら軽く目配せをすれば、フローラは慈愛に満ちた微笑みで頷く。淡く愛らしい、その笑顔に背中を押されて。

「僕は、テュール。君は?」

「……みにもン」

「ミニモン。そっか」

 手を差し出したままやわらかく頷いてみせたら、もじもじはにかんだミニモンが、そぅっと手を伸ばしてきた。

 無骨な指先を、くすんだ肌色の小さな手がきゅっと掴む。

「ちゅー、る?」

 舌ったらずに僕の名を反芻し、えへ、と笑う。

 この表情に、魔物も人間も動物も、なんの違いがあるものか。

「うん、よろしく。ミニモン」

 馴染み深い紫色の、滑らかな毛を撫でて抱き上げた。ミニモンは少し慌てたようだったが、視界が拓けたことには気を良くして、辺りをきょろきょろ眺めては「ちゅーる、ちゅーる」と嬉しそうにしがみついてくる。

 こうなることは予測していたんだろう。マーリンは終始渋い顔だったが、側に連れて行くと諦めたように息を吐いた。やはりというか、ミニモンはこのローブ姿の魔術師に見惚れていたようだ。「まほ! まほー!」と彼に向かって一生懸命手を伸ばすミニモンをなんとか宥め、フローラに預けた。

「あのメッサーラにしてやられた感が無きにしも非ず。そうは思わぬか、マーリン殿」

 尚も愉しそうに嘯くピエールに、珍しくマーリンが積極的な同意を見せている。まぁ確かに、メッサーラはミニモンが馬車……恐らく馭者台へ忍び込んでいたことに気づいていたんだろうな。結託していたとまでは思わないが、体よく小悪魔を追い払った今はさぞ気分良くしていることだろう。

 一部始終を見届けたユリウス司教は、大層興味深そうに仲魔達を観察していた。ずっと荷台で療養していたから、彼はフローラとホイミン以外の仲間達に馴染みがない。ミニモンを仲間に招き入れた最後は、妙に尊敬のこもった表情で目を細め、じっと僕を見つめていらした。

「み、ミニモン、きになるから……しびれんも、なかにいるっ」

 仲魔入りして早くも三つめの季節を迎えた、今やホイミンと同じくらいフローラと仲良しのしびれんが、ずっと避けていた幌の中に自ら進んで入っていった。生真面目なしびれんは、幼いミニモンがフローラを困らせるのではと不安なのだろう。「す、スラりんも……はいるー!」と、これまた気にしていたらしいスラりんが、勢い込んで後に続く。

 本当に、目と鼻の先だよ。あと数時間で城に着ける。ホイミンも、助けてやれる。

 恐れは、飲み込め。言葉にできない感情がいくつも渦巻いて、踏み出す足を鈍らせる。その全てをなけなしの理性で抑え込み、ついに僕は洞窟を抜ける最後の道を歩き始めたのだった。

 

◇◇◇

 

 別れ際にメッサーラが教えてくれた通り、ほとんど百も数えないくらいの短時間で呆気なく表に出た。

 獅子の彫像が三基ずつ睨み合う石畳を通り抜けてしばらく往くと、目の前に鬱蒼とした森が現れる。この森を二刻ほど、時折魔物を退けながら休まず進んで、日が暮れる前には赤い石造りの堅牢な城壁に辿り着いた。

 正門の上に掲げられた鳥の紋章を仰ぎ見る。無意識のうちに剣鞘を外套の内側に隠し、息を深く吐いて緊張を紛らわしながら、城門を守る兵士達に声をかけた。

「恐れ入ります。旅の者ですが、城下の滞在許可をいただくことはできますか」

 見慣れぬ馬車に、中に入れない大柄の魔物が数匹。近づく前から思い切り警戒されていたが、愛想笑いを張り付け低姿勢で頭を下げると、槍の穂先をようやく下げてこちらをじろじろ検分してきた。

「魔物遣いか……」

「はい。西の大陸の、サラボナという街から参りました。怪我をしている者がおります。早急に教会へ連れていきたいのですが」

 義父からもらったペンダントを身分証代わりにかざし、あとは黙って返答を待った。二人並んだ屈強な兵士達が、こちらをちらちらと盗み見ながら何やら相談事をしている。

 実はあの山からここに至る数時間の間に、ユリウス様からもちかけられた話がある。

 曰く、自分が帰還したことは城の人間に知られぬようにしたい。そう、司教様がひっそりと僕に伝えて来たのだ。

 それでは司教様の治療が出来ない。フローラと思わず顔を見合わせたが、彼は穏やかに頷いて喉に触れた。やはりちゃんとした音にはならなかったが、馬車に居る間に治癒と発語練習を繰り返した彼は、吐息ばかりのかすれた声なら発することができるようになっていた。

 これ以上の快癒はありますまい。殿下と奥方様、そしてお仲魔の皆々様のお陰。この歳で喉を突かれて、生き永らえたこと自体が奇跡でございますよ。そう囁いて、彼は初めて会った時のように優しく笑った。

 詳しいことはまだ話せないが、と前置きして。

 自宅は城下にあるが、今は郊外の別宅で療養していることになっている。教会から籍を外れたことは言ったと思うが、王都の教会には今、自分をよく思わない者が多くいる。チゾットへ赴いたのは身を隠す意味でもあったのだという。

 唯一、手放しに信をおけるのがヴェントレ卿である。自分の身も僕達の身柄も、彼ならば決して悪いようにしない。そう、司教様が告げた。

 彼にとって、僕がそのヴェントレ卿と会うこと自体に何らかの意味があるのだろう。その理由はなんとなく察せられたが、期待しすぎることは恐ろしい。黙って引き続き、彼の言葉に耳を傾けた。

 ヴェントレ卿は城外にお住まいです。正確には、城自体が堅牢な城塞になっておりまして、卿はその外側、城塞と城壁の境目に住まわれておるのです。ですから、訪問は比較的容易だと思われます。但し、検問は免れませんでしょう。

 現在、グランバニアは魔物の入城を許しておりませぬ。お仲魔様のみを城壁の外でお待たせするのは現実的でない。恐らくは門前払いとなりましょうが、その際ヴェントレ卿への言付けがあるとお伝えいただきたい。城内に入らぬ前提であれば、馬車の中を検められることもなかろうと思います。あとは氏の邸宅を訪ねていただければ。

 ユリウス様の目した通り、兵士はもっともらしく首を振ると、厳かに宣言した。

「こんな奥地までよく来た、と言いたいところだが、残念ながら魔物を城壁の中に入れることは出来ん」

 ああ、やっぱり。受け入れてもらえないとわかっていても、気落ちしてしまうのは否めない。俯く僕に、もう一人の人の良さそうな兵士がやや同情を交えて言った。

「数が多いし、でかいな。そいつらはお前さんにしか従わんのだろう?」

 首肯すると、溜め息混じりに頭を振られる。

「近くに小さな村がいくつかあるからそっちを頼ってくれ。ま、どの村でも嫌がられるかもしれんがな……待ってろ、今一筆書いてやる」

 礼を言うべき、なんだろうな。厄介な訪ね人に対し、彼らはきっと誠実に応対してくれている。けれどやはり、僕にとってかけがえのない仲間達を目の前で忌まれることは、どうしたって抉られるほどに辛い。

 それにしても、これほどまでに魔物と、魔物遣いが嫌忌されるなんて。チゾットではそこまで厭われている気はしなかった。

「……グランバニアの王妃様は、魔物遣いでいらしたとお聞きしました。魔物の処置もここなら叶うのではと、一縷の望みを繋いで参ったのですが」

「滅多なことを言うんじゃない」

 ついこぼしてしまった恨み節をぴしゃりと遮られ、息を呑む。

 さっきより剣呑な表情で、大柄な兵士が僕を睨みつけていた。

「だからこそだ。旅人なら知らんのも無理はないが、ここでその話はしない方がいい。そこの魔物達を咎められたくないなら、余計にな」

 有無を言わさぬ物言いを前に、大人しく頷くしかない。こんなところで変に揉めて、騒ぎになるのは御免だ。何か思うところがあったらしいピエールが珍しく僕を振り仰いだが、首を振って誤魔化した。

 ややあって、先ほど門の脇の小部屋に入った兵士が戻ってきた。村に便宜を図る手紙と、地図も書いてくれたらしい。徒労に終わるであろう彼の労力に内心詫びつつ、手紙を懐に恭しく収めて見せながら、最後の筋書きを演じるため彼らに向き直った。

「ありがとうございます。あの、もう一つ。移動する前に、ヴェントレ卿の邸宅へ伺いたいのですが」

 再び怪訝な顔をした兵士達に問い返される前に、チゾットでお会いした学者様の名を引き合いに出す。ユリウス様の知己であり、僕の目を見てマーサ王妃を思い出すと言ってくださった方だ。

「チゾット村の、クランツ博士よりヴェントレ卿へのお言伝を預かって参りました。直接伝えて欲しいと申しつかっております。王城に入らずとも訪ねられる場所だと聞いていたのですが」

 見事な口から出まかせだが、さすが、ユリウス様考案の言い訳には説得力がある。兵士達は再び眉をひそめ顔を見合わせたが、「すぐに済みますので、なんでしたら衛兵の方をつけていただければ」と言い添えたところ、すぐさま一人が城内に駆け込んでもう二人ほど連れてきた。まぁ、ドラゴンマッドが二匹にビックアイ、見慣れぬであろうスライムナイトその他の魔物達が一斉に暴れ出したら、お一人ではさぞ心許ないことだろう。

 馬車を衛兵二人に挟まれ、肩身の狭い思いをしながら誘導に従って中庭に入った。高い城壁と外壁の狭間に、冷たい風が勢いよく吹き抜けていく。細まった庭をしばらく行くと、壁伝いに曲がったその先、存外小ぢんまりとした白煉瓦造りの一軒家が見えてきた。

 少し離れた木陰に馬車を停めるよう言われ、幌の中に待たせていた妻を呼び出した。白いコートを着込んだ乙女がしゃなりと降りて来るなり、兵士達が目を瞠り頬を赤らめる。気品漂う彼女に愛らしく微笑みかけられ、すっかり鼻の下を伸ばした二人を作り物の笑みで見守ったが、愛想笑いであっても許容しきれないあたり、つくづく僕は狭量な夫である。

「妻です。彼女も仲魔達を見ていてくれますから、ご安心ください」

 締まりのない顔で彼女に見惚れる兵士達の前に凍った笑みで立ちはだかり、取り次ぎを促した。僕と目が合うとばつが悪そうに咳払いして、先頭の一人がおもむろに扉を叩く。

「失礼致します。ヴェントレ様、旅の者が貴殿にお目通りを願いたいとのことです」

 扉を開けて、初めに顔を覗かせたのは物腰柔らかなシスターだった。「あら、旅の方とは随分とお珍しいこと。それでは、私はこれにてお暇いたしますね」と屋敷の奥を振り返り、僕達にも軽く頭を下げて、彼女が出て行く。

 間が悪かったかな。兵士の後ろでシスターを見送った僕の耳に、ひどく懐かしい声が響いた。

 

「はて? どちら様ですかな」

 

 少し高い、まろい声。

 刺々しく怒る彼の声は聞いたことがなかった。いつだって優しくて、陽だまりのように暖かかった。どこまでも深い慈愛で、僕の幼い心を守り、育ててくれた。

 ──……変わってない。

 立ち上がり、こちらに歩み寄ろうとした彼が、視線を縫いとめられたように固まった。

 まっすぐ見つめ合う僕達の間で、案内しようとした兵士が立ち尽くし、途方に暮れたように眼を瞬かせている。

「……まさか、…………もしや。いえ、」

 かすかに潤んだつぶらな瞳を見開いて、目の前の彼が声を詰まらせる。

 感慨か、歓びか。肩を震わせ頬を紅潮させる彼を、切ないような、妙な喪失感を伴って見下ろした。

 ああ。会わないうちに、僕はあなたの背をも追い越してしまっていたのか。

「……いいえ。見間違うものですか。…………あなたは、……」

 きっともう、確信を持って。彼はあの日と同じ、曇りない優しい微笑みを向けてくれた。

 

 変わらない。……本当に。

 まさか、一目でわかってしまう、なんて。

 

 

 ────ラインハット城から遣いがきて、お出かけすることになったんです。すぐ追いかければ間に合いますよ。

 さあ、坊っちゃん!

 

 

 それは、蜂蜜色の、遠い遠い過去の記憶。

 春を取り戻したばかりのサンタローズ村で。妖精との冒険から戻ったばかりの僕に洗いたてのターバンを巻いて、慌ただしく送り出してくれた。

 父とも、母とも違うけれど、僕にとってかけがえのない『家族』だったひと。

 

「──……、サンチョ」



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#9. 真理と真実

【side Flora】

 

 ────ご懐妊なさっておいでですか。

 唐突に問われて、びくりと肩が跳ねた。司祭様が目覚めて数日経った馬車の中。怖々顔を上げると、老いた司祭様が優しく微笑んでくださる。

『不躾に、失礼致しました』

 続けて指文字を刻まれ、動悸を必死に落ち着けた。

「……は、い。まだ、きちんと診断をいただいたことはないのですけれど」

 覚束ない答えだったが、ユリウス様は全て見透かしたように優しく頷く。目尻の下がった表情は未だ目覚めないホイミンちゃんの、とろんとした笑顔を不思議と想起させる。

 そう、きっと聖魔法に精通された方だからこそお気づきになったのだわ。授かってまだ間もなかった頃、ホイミンちゃんが施術の際、私の中のもう一つの命に気付いてくれたように。

 ……ということは、もしかして……赤ちゃんは────

『彼の方は、ご存じないのですね』

 ふと思いついた可能性に一瞬舞い上がってしまったが、続く問いかけが私を現実へと引き戻した。真剣なお顔で私を見上げる彼に、贖いを込めて深く、頷く。

「気付いたのが、こちらに向かっている途中でしたので……彼の足を止めさせたくなかったのです。甘い考えだということは、重々承知しておりました」

 殊勝な言葉を口にしながら、罪悪感に押し潰される。

 私のために帰郷を諦めてしまうかも、なんて嘘。彼だけ帰ってくる方がきっと容易かった。その方がこの国の皆様にとっても、きっと望ましいことだった。

 ──……一緒に、来てくれる?

 長く影を落としたテルパドール城の図書館で、密やかに請うてくれた彼をふと思い出す。

 私に勇気をくれるのはいつも、彼の深い、純粋な愛情。あのまっすぐな想いに恥じない自分でありたいと思うと、自然、背筋がしゃんと伸びる。

「あの……もしや、司教様には、胎児の状態がお分かりになりますか?」

 だから、まだ、諦めちゃだめ。

 思いきって声をひそめ、ユリウス様に尋ねた。微かに目を瞠る司教様をまっすぐ覗き込み、馬車の外に漏れ聞こえぬよう、細心の注意を払う。

「出血が、止まらないのです。あの時……チゾットで、魔族に襲われた日から────」

 訴えながら、下腹部を撫でた。喉の奥からまた、じわりと苦しいものが込み上げる。

 ごく、微量の出血なのだ。これだけで流産の判断は出来ない。胎児らしき血塊は出ていない、けれど、決して楽観視できる状態でもない。

 毎朝、目覚めた時。用を足す時。綿布を汚す血痕に何度も何度も落胆しながら、それでも、淡い期待を捨てきれずにいる。

『……残念ながら、状態までは判りかねます』

 だいぶ逡巡してから伝えられた指文字に、そうなのですね、と力なく返す。仕方ないことだわ。『胎動を感じられたことは?』と問われ、これにもすぐ首を振った。

 馬車に揺られ続けているせいかもしれないけれど、それらしい変化はない。

 普通は何ヶ月くらいから動くものなのかしら。昔……修道院でお世話した妊婦さん達がいつ頃から胎動を喜んでいらしたか、いまひとつ記憶にない。ええと、確か、つわりが落ち着いてしばらくしてからの方が多かったような。ならそろそろ、動く頃ではないかと思う、の、だけど……

 再び消沈してしまった私を、司教様がそっと慰めてくださる。

『お信じになってください。きっと、御子は今も貴女様の中で、精一杯頑張っておいでです』

 はい、と笑みを繕い頷いた。司教様の仰る通りだわ。どんなに思い悩んだところで、今は信じる以外何も出来ないのだから。

 長くお話しさせてしまった。身体を拭き清め、床ずれしないよう治癒魔法とマッサージを施す。お世話している間、彼は何かを堪えるように、宙の低いところをじっと見つめていた。

 一通り終わって再び毛布をかけようとしたところで、司教様が躊躇いがちに手招きした。

 不思議に思いながら掌を差し出すと、彼は私とは反対側、小さなホイミスライムが横たえられた敷布を目で示す。

『……こちらのホイミスライム殿の、魔力は』

 ホイミンちゃん?

 思わず身を乗り出した。彼を救う手立てなら、どんな小さな可能性でも知りたい。隣で数日過ごすうちに、何かおわかりになったのだろうか。

 果たして、彼が指文字で語ったのは、これまでまったく考えもしなかった内容だった。

『貴女様の胎児と、繋がっているようにお見受けします』

 

 ──……え?

 

 思わず、ホイミンちゃんと老司教様を見比べた。落ち着いた灰色の瞳が、私の腹部をまっすぐに見つめている。

『大変細く、余人の目には見えんでしょうが。ホイミスライム殿と御子達の間で、ほんのわずかに力が循環しておるようです。まるで子宮の働きを補っておるような。このような症例は他に存じません。目覚める保証は出来かねます、が』

 ゆっくり、ゆっくり綴られるそれを、瞬きもできず咀嚼した。

 ホイミンちゃんの、魔力が。

 私のお腹と……赤ちゃんと、繋がっている。循環、している?

 あれからずっと出血してる。止まらないそれは、本当はホイミンちゃんが抑えてくれていたの? だから、ほんのわずかな出血で済んでいるの? これ以上悪化しないよう、赤ちゃんが流れてしまわないように。だとしたら。

 熱いものが込み上げて、胸の内側を埋め尽くしていく。

 あの日、身を挺して守ってくれたホイミンちゃんが、今も。

『御出産がきっかけとなられるやもしれませぬ。逆に申し上げれば、胎児と繋がっている限り変化は起こらぬ可能性も。……いずれにせよ、今は奥方様からできるだけ離さぬことです。どちらがどちらの命綱となっておられるのか、これだけでは判別できかねます』

 こぼれかけた涙をぐっとこらえて頷いた。そう思うと今、私がホイミンちゃんと共にこうして身を隠すことになった顛末も、不幸中の幸いだった気がしてくる。

 チゾットでは一晩離れて休んだけど、繋がりは切れていない。そうなったきっかけはきっと、あの時。ホイミンちゃんが庇ってくれて、私の中の何かが光を放った。あの時、お腹が不思議と温かくなった気がした。

『正直に申し上げますと、目覚めてからというもの、目がよう見えんのです』

 さらりと綴られた内容に、一瞬、思考がついていかなかった。

 そんな、と悲愴な声を上げてしまった私に、司教様は深い皺を刻んで苦く笑う。

『元々歳で衰えておりましたから、ご心配には及びません。見え難いだけで、完全にめくらというわけでもございませんし。ただ、魔力の巡りを感じ取ることはできますが、身の内には未だ、あの澱んだ魔力が残っているようで……思うように、力を使うことができませなんだ』

 骨張った手を握りしめて、彼の灰色の瞳は何を映しているのだろう。黙り込んだ彼はいつしか、ぼんやりと光が差し込む幌の向こうを眺めていた。

『なぜ坑道でお会いした時気づけなかったのか。見え難くなって初めて、彼の方がまとわれる気配が、マーサ様……行方不明になられた王妃殿下に、極めて似ていらっしゃることに気がつきました』

 馬車の外から数人が微かに話し合う声がする。テュールさんの穏やかな問いかけに、ピエールさん達がいつも通り応じている。

 時折談笑を交えた、人間同士と変わらぬ他愛ないやりとりに暫し、耳を傾けて。

『あのお色は、マーサ様の紫紺の虹彩と同じ。お声は、若かりし頃のパパス王に似ておられましょうか。いえ、同じ頃のお父上は更に豪気であらせられましたが』

 テュールさんが聞いたらはにかんでしまいそう。そんな彼を思うと心がほわりと温かくなる。懐かしく、想いを馳せる目をして、司教様はゆっくり綴ってくださった。

 きっとこの方は、両陛下……テュールさんのご両親のことをよくご存知で、また、心から慕っていらしたに違いない。

『あの日、陛下がお連れになった赤児が、まことご立派にお育ちになられた。パパス様の剛勇と、マーサ様の慈愛を受け継がれた王子殿下が御自ら、この地へとお戻りくださったのです。……私めはただ、望外の歓びに震えるばかりでございます。本当に、早う皆に知らせてやりたい……』

 そこまで綴ると彼は皺だらけの手で顔を覆い、ずっ、と音を立てて鼻を啜った。

 それほどにも、彼の帰還はこの国の人々にとって、大きな希望なのだと知らされる。

 だからこそ、思う。何とか足を引っ張ることなく、ここまで来られて本当に良かったと。

 あと少し。きっと、あと数日で着きますから。

 胸いっぱいの感慨を噛み締めたあと、司教様の向こうに眠る、ホイミンちゃんの枕元に近づいた。

 ────ホイミンも、まもってあげる〜〜!

 耳に還るのは、いつだって屈託なく響く明るい声。

 たしなめてくれた。私の愚かな選択を、みんなで気をつけるべきだって。それでも私の我が儘を汲んで、身勝手すぎる隠し事にも黙って協力してくれた。

 あんなことになったのに、命懸けで守ってくれた。今も。

「…………っ、りが、と……」

 堪えていた涙が、ついにぼろりと溢れて落ちた。

 司教様がそっと面伏せ、気づかないふりをしてくださる。

 その優しさに声もなく感謝して、幌幕に背を向け、ホイミンちゃんのやわらかなお顔を繰り返し撫でた。

 もう、信じる以外にないの。不安も絶望も黙って耐えるしかない。そうすることを選んだのは、望んだのは、紛れもなく私自身なのだから。

 頑張って。どうか、負けないで。きっと目覚めて、あの優しい笑顔をまた、たくさん見せてください。

 ──……あなたも。

 お腹を撫でて、祈る。

 元気で、いてね。身勝手な願いを許して。

 無事でいて。どうか、流れてしまわないで。小さく稚いあなたを、この手に抱いて確かめたいの。私の生きた証であるあなたを、愛しいあのひとと血を合わせて授かったあなたを、私と同じく肉親との縁を断たれて生きてきた、あなたのお父さんと一緒に。

 

 

◇◇◇

 

 

「サンチョ、本当にサンチョなんだね。生きていてくれて良かった……!」

「それは私の台詞でございますよ。ああ、坊ちゃん、テュール坊ちゃん。どうかサンチョめにもう一度、ようくお顔を見せてくださいまし。まことご立派になられて……!」

 付き添いの兵士さん達に退出してもらい、邸内に屋敷の主とテュールさん、私の三人だけになったところで、夫が自らの名を告げた。それだけでもうお二人は感極まって、どちらからともなく手を取り合い、再会を喜び合った。

 サンチョさんは昔、テュールさんがサンタローズ村にお住まいだった頃、お屋敷を守られていた方だったと聞いている。

 お母様を知らない彼にとって、男性ながらに母親代わりとなってくださった方でもあったと。

 本当に良かったわ。ご無事で、こうして再び巡り逢うことが叶って。

 きっと、お会いしたことのないお義父様とお義母様、そして聖霊ルビス様がお導きくださった気がして、私はいつしか自然と指を組み、深く首を垂れて感謝の祈りを捧げていた。

「坊ちゃん、あのぅ、こちらのお方は……?」

 グスンと目許を潤ませて、サンチョさんの円い瞳がこちらを向いた。慌てて姿勢を正し、彼の背後に控える。愛しげに私を振り返ったテュールさんが、どこか照れ臭そうに答えた。

「うん、僕の……奥さん。昨年結婚して、一緒に来てくれたんだ。フローラ、前に話したよね? サンタローズの家で……えっと、使用人をしてくれてた、サンチョ」

「使用人、ですか。ふふ、左様でございますねえ」

 良い言い方を思いつかなかったのだろう。わずかに言い淀んだテュールさんを見て、サンチョさんが微笑ましげにお顔を綻ばせた。まるで、孫か幼子を眺めるお爺さまのような、温かい眼差しで。

 家族にも等しい方だと、いつか恋しげに聞かせてくださったテュールさんの横顔が眼裏に浮かぶ。

「仕方ないじゃん、あの頃のサンチョは『いつでも家に居てくれるひと』だったんだから。サンチョが居てくれたから、僕は母親を知らなくても寂しくなかったんだ」

 想い出を噛みしめていらっしゃるのか、くすぐったそうにテュールさんが微笑んだ。けれど、それを聞いたサンチョさんのお顔には、ひどくやるせない哀愁がちらりと過った。

「初めてお目にかかります、サンチョさん。フローラ・グランと申します」

 羽衣の、水煙の裾を摘んで膝を折る。感じ入ったように目を細め、サンチョさんは私に合わせるように流麗に腰を折ってくださった。

 この所作ひとつで、彼が真実育ちの良い方であることが察せられる。

「サンチョ・ヴェントレでございます。ああ、今宵はなんという夜なのでしょう。あんなにお小さかったテュール坊ちゃんが、こんなに愛らしい奥様を連れてお戻りになるなんて」

 感極まった様子のサンチョさんが、潤んだ目許を綺麗なハンカチで抑える。月並みな社交辞令だと思ったけど、隣で見守っていたテュールさんがひどく嬉しそうにはにかむのが見えてしまった。瞬間、首から上がぼっと火照る。彼が大切に扱ってくださる、それ以上に幸せなことはない。

「失礼ながら、奥様はどちらのご出身で?」

「サラボナだよ。あの辺り一帯を治めていらっしゃる、ロドリーゴ・ルドマン卿の御令嬢だ」

 正直に伝えてしまって良いものかしら。熱い頬を抑えつつちらりとテュールさんを見上げると、彼は得たりと頷き、私の代わりに説明してくださった。父の名を告げられ、サンチョさんは円い目をいよいよまるくして私達の顔を見比べる。

「ルドマン殿の? なんと奇遇な、昔ルドマン殿ご所有の客船に乗せていただいたことがあったんですよ。そうそう、赤児だった坊ちゃんもご一緒でした。まことお懐かしい、縁とは不思議なものでございますねぇ」

「ああ、やっぱりそれ、サンチョ達だったんだね。その時の船長がよく覚えてらして、父さんの話を聞かせてくださったんだ」

 そうでした。お義父様達が昔、窮地に陥っていたストレンジャー号をお援けくださったのです。フォスター船長をはじめとした船員の皆様がお義父様の武勇譚を繰り返し語ってくださって、テュールさんはそのたび、瞳を少年のように輝かせて聴き入っていらした。

 そのご縁のお陰で、幼い私もまた、臆病に打ち克つおまじないをいただいたの。他ならぬ、小さなテュールさんから。

 私と同じく、お二人もそれぞれ懐かしい記憶に思いを馳せていらっしゃったのだろう。暫しの沈黙のあと、居住まいを正したサンチョさんがおもむろに口を開いた。

「既にご存知のことと思いますが、坊ちゃん……いえ、テュール様のお父上は、このグランバニアの国主でいらっしゃいました」

 ──……パパス・パンクラーツ・グランバニア国王陛下。

 初めてその名を耳にしたテルパドールで、彼はひどく動揺していた。思考の海深くに意識を落として、アイシス様のお言葉を何度も何度も反芻して。

 今、彼は、時折見せる凪のような濃藍の眼差しで、サンチョさんの言葉を正面から受け止めている。

「うん。……と言いたいところだけど、正直、全然実感ない」

「殿下」

 咎めるように敬称で呼ばれ、テュールさんが苦く笑った。

「実感ないけど、そうなんだろうと思ってるよ。……父さんと母さんのこと、ちゃんと知りたいと思ったからここに来たんだ。あの頃の僕は幼すぎて、本当に何も知らなかったから」

 自戒のような、淡々と零される独白。

 目の前でお義父様を亡くされた後、彼がもし自身の手がかりを欠片でも記憶していたら。ここに至るまでの道筋も彼自身の生き方も、きっと今とはまったく違うものになったのだろう。

 私達がお互い知り合うことも、なかったかもしれない。自由を得たその足で、彼は迷わず故郷に戻れたかもしれなくて。

 痛々しげに見つめるサンチョさんに視線を向けて、彼はもう一度、自嘲気味に笑ってみせた。

「この間、テルパドールの女王陛下にお目通りして……グランバニアのお話を伺ってきた。僕の、本当の故郷ではないかって」

 突然の異国の話題に、サンチョさんは少し驚いたようだった。静かに頷くテュールさんを見つめ、哀しげに息を吐く。

「パパス様は、やはり……」

「うん。ヘンリー……ラインハットの王太子が攫われてね」

 俯いたサンチョさんが、今度はこめかみをぴくりと震わせた。

 丸めた肩から一瞬、酷く剣呑なものを感じた気がしたけれど、テュールさんは特に気に留めた様子もなく「長い話だから、後でちゃんと話すよ」と告げるに留めた。

「サンチョは知ってたんだよね? 父さんの旅の目的。伝説の勇者に会うために、天空の装備品を集めていたって」

 今度は夫が疑問を口にして、サンチョさんが深く頷いた。優しい瞳をそっと伏せ、古い記憶を噛み締めるように訥々と語る。

「勇者様に助力を請うべく、我が君はエストア大陸をお出になられました。すべてはマーサ妃殿下……魔物に攫われた、坊ちゃんの実のお母様をお救いするため。それが叶うのは天空神の加護を戴く勇者様だけであると、判ぜられたのでございます」

 そこまで告げると、サンチョさんは恐いほど真剣な面持ちで私達を見つめた。

「テュール殿下がお戻りになった今、一刻も早く現王にことの次第を奏上せねばなりませぬ。お二方とも、この後わたくしめにお時間をくださいませんか。オジロン様……パパス陛下の弟君であり、坊ちゃんの叔父上様にあたるお方でございますね。その方にお会いいただきたい。今すぐにでも」

 有無を言わせぬ要請に、私も、テュールさんも思わず顔を見合わせた。

 謁見の覚悟はしていたが、これほどすぐにとは思っていなかったのだ。ついさっき城門に着いて、門前払いされたばかり。急なことで、どうにも思考が追いつかない。

「……え、今から? 汗と埃まみれだよ。湯もずっと使ってないし、この格好じゃさすがに……せめて一度宿を取らせてもらってから、あ、でもそもそも僕らは中に入れてもらえないんじゃないかな」

 くん、と自らのシャツを嗅ぎテュールさんが顔をしかめたが、サンチョさんはむしろ最後の呟きを聞き咎めたようで「坊ちゃんが中に入れない、ですって? 誰がそんなことを」と気色ばんだ。当て擦るつもりはなかったのだろう、テュールさんが慌ててかぶりを振る。

「いや、僕が魔物遣いだから。この城に魔物は入れないんじゃなかった? 理由は聞いてないけど」

 小さな両目が思いきり見開かれる。ぱちぱちと瞬いた後、サンチョさんが躊躇いがちに反芻した。

「魔物、遣い……で、ございますか? 坊ちゃんが?」

「うん、そう。今も仲魔達をこの家の外に待たせてる。大丈夫だよ、皆すごくいい魔物だから。僕に断りなく誰かを襲うことは絶対にない」

 尚も一生懸命言い募る夫に気圧され、サンチョさんが恐る恐る頷いた。お義母様と同じ魔物遣いと聞いて驚かれたのかもしれない。この機にと、テュールさんがもう一歩身を乗り出した。

「もう一つ、先に話しておきたいことがある。ユリウス・エベックという司祭様を知ってる?」

 矢継ぎ早に問われ、サンチョさんがまたも眼をくりくりと瞬かせた。

「ユリウス司教様でしたら、先日暇を得て城を出られたと伺っておりますが……坊ちゃん、いったいどちらで」

「今、表の馬車の中にいらっしゃる。サンチョに保護してもらいたいんだ。チゾットの坑道で、魔物に襲われていたのをお助けした。一命は取り留めたけれど、今はほとんどお声が出ない」

 ほとんど被せて伝えられた情報に、サンチョさんのお顔が再び険しくなった。円い焦茶の虹彩をじっと見つめて、テュールさんは密やかに声を低める。

「お城の人には、ここにいることを知られたくないそうなんだ。理由は知らない。僕が見張りの兵士に警戒されてるから難しいかもしれないけど、彼らの目をうまく躱して中に入れてもらえないか」

 暫し、サンチョさんは黙って瞳を伏せていた。深く思索していらっしゃるのか、どこか焦点の合わない彼をテュールさんも黙って見つめている。

 数分そうして沈黙を保った後、私達に視線を戻した彼は、覇気にも似た強い意志を全身に漲らせていた。

「……わかりました。私がすべて、お引き受けいたしましょう」

 

 

 それからのサンチョさんの行動は迅速だった。私達に屋敷の湯を使うよう勧めてくださり、身支度を整える間にぱたぱたとご用事をこなしていく。表に出ると、遠巻きにこちらを見張っていた兵士さんが姿勢を正した。何故城壁の外にお住まいなのかわからないけれど、ヴェントレ卿という方は一介の兵から見てもやはり、貴いご身分の方なのだろう。

「訳あって、この方々の身柄を数日、このヴェントレめが預かることになりました。このあと陛下に急ぎ奏上したい儀がございます故、この文を先触れとして届けてもらえますまいか」

「は、あの……しかし、魔物が」

 冷たい鎧を着込んだ生真面目そうな兵士さんが、大柄の魔物達に囲まれた馬車へちらりと視線をやり、弱りきった声を溢す。

 いつの間にかすっかり陽が落ちて、城の裏庭は真冬の如く冷え込みを増している。山の中ももちろん寒かったけれど、強風に煽られることは不思議と少なかった。城壁の間を寒風が吹き抜けるたび、身体の芯がきゅうっと叫び声を上げる。

「あの魔物らでしたら、そなたが戻るまで客人と共に見ております。全ての責は私が負いましょう。よろしくお頼み申しますぞ」

 朗らかながらも強く言いきられてしまえば、兵士さんに拒む権利はないらしい。

 小走りに去る背中を見送って幌を開ける。暗い荷台の奥、ありったけの毛布にくるまった司教様を見つけた瞬間、サンチョさんが困惑と安堵の息を吐いた。きっと兵士さんは詰所で交代して戻って来られるからと、体格の良いガンドフさんにも手伝ってもらって、大急ぎで屋敷の中に運び込んだ。

 そこからのお世話は任せてもらい、テュールさんとサンチョさんが再び外に赴く。声がかかるまでの束の間、屋敷の奥に用意された部屋でユリウス様の身の回りを整えた。

「この後、国王様への謁見を申し入れていただいたそうです。しばらく留守にいたしますが、司教様はこちらで自由にお過ごしいただくようサンチョさんから申しつかっております。屋敷の外に兵士さんが立たれていますので、窓から見えないようお気をつけくださいね」

 ふかふかの寝台に彼を座らせ、これまたサンチョさんが用意してくださった温かいスープを脇のテーブルに置いて、手短に説明をした。

 胸がざわめく。これから私達の処遇がどうなるかわからないから、かもしれない。サンチョさんにお会いした限り、テュールさんに無体をなさる王様ではないように思う。……けれど。

 サンチョさんはテュールさんの身上について告げるだろう。その為にお城へ上がるのだもの。けれど、パパス王の忘れ形見である彼に、その後どれだけの自由が許されるだろうか。

 一緒に来てほしいと彼に請われたから、私も王様の御前に上がる。でも本当は、必要とされているのは彼だけ。

 引き離されてしまったらどうしよう。私も、そして明らかに歓迎されていない仲魔の皆さんも。

 不安のあまり黙り込んでしまったところで、司教様が枕元に置かれたペンに手を伸ばした。

 さらさらと書きつけられた紙を差し出され、覗き込む。

 

『グランバニアを、何卒よろしくお願い申し上げます。

 御二方に幸多からんことを』

 

 目を瞠った私とは対照的に、老司教様の表情は穏やかだった。

 流麗な文字はどこか物悲しく、まるでこの別離が永遠のものとなることを示唆しているよう。

 明るい場所で見た司教様のお顔が急に老いたように感じられて、思わず、骨張った手を紙ごと握った。

「サンチョさんの処にいらっしゃれば、必ずまたお会いできますわ。ユリウス様も、どうぞご自愛くださいまし」

 奥方様こそ、御身を大切に。

 ユリウス様が囁いたところで、こつこつと扉が叩かれた。「フローラ。そろそろ行こうか」と、すぐにテュールさんがお顔を覗かせる。

 登城のため、彼はいつかラインハット王国を訪問した際に着た他所行きの服を纏っている。改めて彼を眺めた司教様が、ほう、と感嘆の息を吐いた。

 歩み寄って膝をつき、私の手に逞しい掌を重ね合わせて。夫が司祭様を見上げ、語りかける。

「お一人にしてしまって申し訳ありません。外は衛兵が見張っていますが、仲魔達にもこの館を守ってもらっています。サンチョ以外の誰かが訪ねてきたら目を逸らさせるよう、人語を扱える者達に伝えておきました。ひとまず、サンチョが戻るまではここでお休みになっていてください」

 ユリウス様が目を細め、満足げに頷いた。握り合った手に額をそっと寄せ、声にならない謝辞と祈りを伝えてくださる。その仕草をすべて見届けたテュールさんが、ふわりと優しく相好を崩した。

「ありがとうございます。あなたのお陰で、ずっと探していた大切な『家族』に……会えました」

 どうにも、サンチョ殿が羨ましくてなりません。

 そう吐息だけで呟いて、司教様もまた微笑む。

 ほんのひと時、閉じられた小さな部屋の片隅で。お二人の温もりに触れながら、私は何故か、泣きたいほどの優しさを胸いっぱいに噛み締めていた。

 もう、悲しいことが起こりませんように。

 ただ、希う。テルパドールを出てから幾度となく願ってしまう切実な想い。大切な人達が手を取り合い、労わり合い、微笑みあっていられる。それだけでいい。望むのは、守りたいのはいつだってそれだけなの。

 

 

 

 テュールさんに連れられ外へ出ると、ピエールさんがさも親しげに見張りの方とお話しをしていた。

「騎士の誇りにかけて、剣をお渡しすることは出来ぬ。この一振りは拙者の命にも等しいもの。だが無用に騒ぎたてるつもりもござらぬのでな、ひと勝負して拙者を負かしたなら、暫し馬車に剣を納めるとしよう。それで手打ちにしてくださらんか」

「いや、そんなこと言われても……困るよ、王城のお膝元で魔物に武器を持たせておくわけにはいかないんだって」

 やけに朗らかな雰囲気で戸惑ってしまったが、どうやら衛兵さんが仲魔の皆さんに武器を渡すよう要求したらしい。古めかしい言葉遣いで流暢に話すスライムナイトを前にして、兵士さんはすっかり面喰らっているご様子だ。

 おろおろ見守るサンチョさんの前に進み出たテュールさんが、溜め息混じりに声をかけた。

「ピエール。『真剣』勝負は駄目だよ」

「心得ておる。魔法も禁止、加勢も禁止。獲物はスラりんが拾ってくれたこやつで十分よ」

 ピエールさんがかざして見せたのは、どうやら太めの木枝だ。木剣として使うということなのだろうが、テュールさんはやれやれと言いたげに息を吐く。「目とか、急所を狙うのも禁止だよ。わかってるだろうけど、怪我させるようなことはしないでね」と念押ししてから、及び腰の兵士さんに向き直った。

「スライムナイトは俊敏なので、脇を取られないようお気をつけください。まあ、腕慣らしのつもりでお相手いただければ。彼なら全快魔法も習得していますし、大事に至ることはないかと存じます。僕の許しなく、本気で危害を加えることは有りません」

 兵士さんがますますひきつったが、目配せされたピエールさんは無論とばかりに頷く。相変わらず飄々としている腹心を見遣って、テュールさんがやわらかく微笑んだ。

 その、鮮烈なほどの信頼に、嫉妬してしまいそうになる。

「ご理解ください。彼にとって、その剣は本当に命そのものなのです」

 ああ、なんて眩しいのだろう。

 主人から贈られた剣を己が命と呼ぶピエールさんも、その想いを黙って汲むテュールさんも。

 種族の違いなんて本当に些末なことなのだと思う。この揺るぎない絆の前には、妻である私でさえ立ち入れない。

 だからこそ、そんなお二人を前にしてのその提案が、殊更無粋に感じられてしまうのだろう。

「なぁ、あんたから武器を渡すよう言うことはできんか? 主なんだろう」

「ご容赦ください。代わりにヴェントレ殿の御前で、彼らが僕の指示なくグランバニアに剣を向けることは絶対にないとお約束します」

 一切の敵意は見せず、しかし最悪の場合抵抗も辞さないと暗に含めて、彼が静かに告げた。

 意図は正しく伝わったようで、兵士さんがサンチョさんに縋るような眼差しを向ける。あくまで一介の旅人である以上仕方ないとはいえ、兵士さんのやや横柄な態度に顔をしかめていらしたサンチョさんだったが、唐突に名を出され、慌てて表情を取り繕った。

「もちろんです。私の名に於いてこちらの客人を含め、その魔物達に叛意がないことを認めます」

 頼みの綱であるサンチョさんに駄目押しされて、ついに兵士さんが口をつぐんだ。

 悔しげに引いた彼に「おや、手合わせはもう良いので?」とピエールさんが笑い含みに揶揄する。「ピエールも茶化さないで。僕らが戻るまでは大人しくしててよ」とたしなめ、もう一度テュールさんが兵士さんに頭を下げた。サンチョさんを先頭に、私達はいよいよ王城へと歩き出した。

 テュールさんの背中を追いながらなんとなく、ちらりと背後を振り返った。温かな明かりを灯すサンチョさんのお邸の傍らで、仲魔の皆さんがひらひらと羽や触手を振り、穏やかに微笑んで見送ってくださっている。

 この時を最後に、私は長らく皆さんと離れてしまうことになった。再びお目にかかれるのは今から凡そ十年後、けれどこの時の私達には、そんな運命が待つことなどどうしたって知る由もなかったのだ。

 

◆◆◆

 

 重厚な扉の向こうは、意外にも活気に満ちていた。

 街がある。天井がある、作りものの空がある。テルパドールの星屑のような天井とも、あの王城地下に広がる美しい庭園とも違う。これだけの喧騒を、どうやって壁の中に押し込めていたのだろう。

 入ってすぐのところに大きな階段があり、ぐるりと壁に囲まれたそこは小さな広間になっている。喧騒は壁の向こうから聞こえる。すぐそこに食堂があるのか、威勢よい客引きの声と共に何やらよい香りが漂ってくる。覗いてみたかったけど、勝手に動ける雰囲気でもなく大人しく殿方に付き従う。

 階段の脇に立っていた衛兵さんが、サンチョさんを見るなり綺麗に敬礼してみせた。

「緊張してる?」

 立ち止まったサンチョさんが衛兵と話し始めた。背筋を伸ばして立つ私の耳許に、テュールさんがこそりと囁く。

「……はい。テュールさんはそこまで緊張なさっていませんか? いつもとお変わりないように見えます」

「はったりだよ。本当は心臓がばくばくいってる」

 そう言って微笑むテュールさんは大人びて、台詞に反してとても落ち着いて見える。

 まだ、この場ではサンチョさんしか知らない。この方がグランバニア王家の、正当なお血筋の方であることを。

 髪を梳り、特注の一張羅に身を包んだ彼は、威厳とはまた違う、どこか高貴で厳粛な雰囲気を漂わせている。

 私も、精一杯品良くありたい。この方の隣に立つにふさわしい女だと、どなたにも思っていただけるように。

「私、あなたに恥をかかせないよう、頑張りますね」

「恥なんてかくもんか。いつだってフローラは完璧なのに」

 湧き上がる決意を鼓舞したくてそう呟いたら、テュールさんが照れ臭そうに微笑んだ。

 程なくサンチョさんのお話が終わり、武器の有無を確認された後、階段の先へと通された。長い階段を登ると、さっきとはまた違った雄々しい喧騒が溢れる。「一階が城下街になっておりまして、こちらは兵士達の詰所や、政務に携わる者達の執務室がございます。後ほどご案内致しましょうね」とにこやかにサンチョさんが説明してくださったが、二階の階段口を守る兵士さんはひどく怪訝な目を私達に向けた。

 そちらに構わず、今度は左右に伸びた階段の一方を登っていく。薄暗い、やや拓けた踊り場から外へ出ると、冷たい夜風が鋭く肌を刺した。

 どうやらここは、外に面したテラスのような回廊らしい。もう夜だから地面を見なくて済むのは良いけれど、逆に足元も暗くてよく見えない。吊り橋になっているわけでもないのに、少し前に渡ったチゾットの橋を思い出して、勝手に足がすくんでしまう。

「ちゃんと壁があるから大丈夫だよ。僕に捕まって」

 強張った私をテュールさんが支えてくださった。恐怖と気恥ずかしさでいっぱいいっぱいになりながら、彼の手を握りなんとか足を踏み出す。

「おや、フローラさん? 大丈夫ですか」

「フローラ、高いところが苦手なんだ。ゆっくり行くね」

 ああ、嫌だわ。情けない。

 何度も何度も克服しようと思っているのに、どうしてこれだけはいつまで経っても治せないのだろう。いつ足下がなくなるかわからない、体重まるごと落下してしまいそうな恐怖はどうしたって拭えない。

 歩調を合わせてくださるテュールさんにしがみつき、長い回廊を渡り終えるとサンチョさんが何やら揉めていた。衛兵さんが数人、大きな扉の前に仁王立ちしている。

「……ですから、夕刻到着した魔物遣いだと報告が上がっております! サンチョ殿のご申告といえ、得体の知れない者を陛下の御前に上げるわけにはゆきませぬ。しかも人払いを、などと」

「なんと不遜な……この方々は、サラボナ地方を治めるルドマン家に縁の皆様です。ルドマン公はかつて海上で立ち往生したパパス様と私をお助けくださった、大恩ある方ですぞ。この方々を愚弄することは、パパス陛下を愚弄するも同じことです」

 助けてくださったのは寧ろ、お義父様の方だったと思うのだけど。不思議に思ったものの、サンチョさんとテュールさんの間で示し合わせたことがあるのかもしれない。そう思い黙って控えていると、サンチョさんが険しい顔つきでこちらを振り返った。

「若旦那様。御印をお持ちでしたらお見せいただけますか」

 頷き、テュールさんが首から下げたペンダントを取り出した。出立の日に父が彼に渡した、大振りの象牙石にルドマン家の紋章を彫り込んだペンダントだ。

 家紋を示し、サンチョさんが高らかに叫ぶ。

「サラボナ大公、ルドマン卿が御息女夫妻でいらっしゃいます。先触れはお通ししたはず、すぐにここを通されたい!」

 強いお声が薄暗い回廊に響き渡って。衛兵さん達は尚も逡巡していたが、大きな扉が内側から開いた。同じく困惑顔の兵士さんが中から顔を覗かせ「お通しせよ、とのことです」と告げる。軽く会釈をして、サンチョさんが堂々と入って行く。その背に従うテュールさんを慌てて追いかけた。

 何かしら。少し、胃の辺りが気持ち悪いような。ゆるく息を吐いて不快感を落ち着かせた。大丈夫、大丈夫。

 不意に振り返ったテュールさんと目があった、瞬間、彼が大きく瞠目した。

「……サンチョ、待っ──……」

 彼の声が届くより早く、サンチョさんが迷いなく広間に歩み出た。赤い絨毯が広々と敷かれたそこに膝をつき、中央の玉座に向かって恭しく声を上げる。

「サンチョ・ヴェントレが参上仕りました。陛下に至急、ご奏上申し上げたき儀がございます!」

 テュールさんと私もすかさず叩頭する。低く控えた私達の頭上に、幾分覇気の感じられないお声が響いた。

「楽に致せ。そなたらがサラボナの客人か」

 テュールさんと二人、その場でより深く頭を下げる。ほとんど床近くに額づいていたため様子はわからなかったが、サンチョさんが訝しげに問うのが聞こえた。

「陛下、恐れながら……御人払いをとお願いいたしました」

 どなたに向けられたものか、やや離れたところからほほ、と雅な笑い声がする。

「宰相であるわたくしにも席を外せと仰る。異国の客人をお招きなさるとあれば、わたくしめも是非ご紹介いただきたいものですな。サンチョ殿」

 宰相様。お声だけ胸に刻んで、やりとりに耳を澄ませる。

 私の前で跪くテュールさんは、やはり身を起こさない。

 わざわざ御人払いを願い出ていらっしゃるし、ユリウス様にも素性を悟られてしまった彼だから、今はなるべくお顔を見られないようなさっているのかもしれない。

「すまぬ、宰相よ。やはり一時外してもらえぬか。そなたには後日改めて紹介してつかわそう」

 ひどく申し訳なさそうな王様のお声が聞こえてから暫しの沈黙の後、かつん、かつんと足音が近づいてきた。慇懃なほど値踏みする視線を投げかけ、誰かが傍らをゆっくり通り過ぎてゆく。緊張でじわりと寒気すら覚えた。その足音に続いて数人が、規則正しい足音を立てて扉へと向かう。人の気配が消失した頃、「待たせたな。面を上げよ」と壇上から優しく呼びかけられた。

 テュールさんが背筋を伸ばした気配を感じ取り、私も顔を上げる。

 美しい緋色の絨毯が続く先、息を呑むほど重厚な細工に彩られた玉座がある。その中央に、やや小柄な中年の男性が深々と腰掛けていらした。テュールさんより明るい黒髪に焦茶の瞳、どちらかと言うと色白な方で、浅黒い肌つきのテュールさんとはあまり似ていらっしゃらない。星形に輝く王冠はテルパドールの図書館で見た挿絵のものとよく似ていて、しかしあの絵よりずっと大きく見える。

 この方が、グランバニア王国の現国王様。

「そなたは……いや、まさか」

 顔を上げた彼を、王様が食い入るように見つめた。その深い森のような瞳に、目の前の青年はどう映っているのだろう。

「さ、坊ちゃん」とサンチョさんに優しく促されてテュールさんが立ちあがり、恭しく礼をとった。

「拝謁をお許しいただき、心より感謝いたします。テュール・グランと申します。ノルトルース大陸ラインハット領、サンタローズ村にて幼少時、父と、家人のサンチョと共に過ごしておりました。父の名は、パパス・グランと申します」

 

 穏やかな声が、静まり返った玉座の間に吸い込まれていく。

 

 三、四呼吸の後、空気を震わせたのは、歓喜に満ちた陛下のお声だった。

「……まことか。そなた、テュールであると申すか!」

 興奮したご様子の陛下が腰を浮かせた。わずかにたじろぐテュールさんに構わず、手招きして壇上へと彼を誘う。

「良い、近う寄れ。立派に育ったそなたの顔をよぅく見せておくれ。……なんと深い紫紺の瞳か。お懐かしい、義姉上によう似ておるではないか。のう、サンチョよ」

「左様でございましょう。この瞳に泣かれてしまっては、旦那様が坊ちゃんを置いてゆけなかったのも深く頷けるというものです」

 王様のみならず、サンチョさんもしみじみと頷いた。鼻頭を真っ赤にして、嬉しそうに彼を見守っている。困惑したテュールさんがサンチョさんを振り返ったが、双方から手招きされ押し出され、おずおずと玉座に歩み寄った。

 王様のお側にテュールさんが並ぶと、彼の体格の良さがますます浮き彫りになる。

「既に聞き及んでおろうが、儂はそなたの叔父にあたる。パパスは儂の実兄だ。あまり似ておらん兄弟で、落胆させたやもしれんな」

 目元を潤ませ、くしゃりと微笑み彼を見上げる王様は、本当にお優しそうな方で。

 突然現れた王族を疎んずる方ではなさそうなことに、身勝手にも安堵した。

「お信じ、くださるのですか。僕は何一つ、この国の……グランバニアのことを知りません。覚えているのは自分のことと父のこと、あとはサンチョのことだけなんです」

 尚も心許なげにテュールさんが問うたが、王様は鷹揚に笑う。

「その瞳を見て疑うものがあろうか。そうか、そなたは義姉上のお顔を知らなんだな。まことよく似ておるぞ。後ほど姿絵を見せてやろう」

 嬉しそうに目を細め、王様がテュールさんの肩を叩いた。きっと今、彼は照れ臭い気持ちを懸命に抑えていらっしゃることだろう。普段あまり口になさらないけれど、彼が母親という存在に無比の憧れを抱いていることは言わずとも伝わってくる。だが続けて「して、兄上の消息は……覚えておることがあるなら何なりと申せ、テュール」と問われると、ぐっと唇を噛んで辛いものを呑み下した。

「……父は、魔族との戦いで命を落としました。今から十四年前、僕が、六歳の時です」

 瞳を伏せ、テュールさんが苦しげに絞り出す。当然覚悟なさっていたのだろうが、うむ、と王様も重い相槌を打つ。

「詳しいことは、後ほどお話しいたします。……サンチョ」

 テュールさんが目配せし、頷いたサンチョさんが彼に剣鞘を手渡した。客分のテュールさんが剣を持ち込むことはできないから、代わりにサンチョさんにお義父様の剣を帯剣してもらってこの場に臨んだのだ。

 あの剣を衛兵に検められたら、恐らくその場で騒ぎになる。

 サンチョさんがついているとはいえ、盗品扱いされる可能性もあった。無用の混乱は避けるに越したことはない。

 その、お義父様の形見の剣を、彼は両腕で掲げて王様に差し出した。「父が最後に使っていた剣です。昔馴染みの魔物……僕の親友が、預かっていてくれました」と頭を低める。

 魔物と聞いて、王様は一瞬躊躇した様子だった。まっすぐ献上されたそれを恐る恐る手に取り、剣柄を引き抜いてその意匠を確かめる。続けて剣身までじっくり見つめた後、深い溜め息を吐いて、再び剣を鞘に収めた。

「間違いなく、我が国の宝剣である。よくぞ持ち帰ってくれた」

 低く呟き、王様がまた目頭を押さえた。サンチョさんも、顔を真っ赤にして涙をこらえていらっしゃる。

「ともあれ、よくぞ戻った。そなたさえ良ければこの後、上に夕食を用意させよう。ゆっくり話を聞かせてくれ。サンチョ、そなたも参るがよい。積もる話があろう」

「ええ、もちろんです。お言葉に甘えてわたくしもご一緒させてくださいましね。ああ、それと陛下、ご報告が遅れました。坊ちゃんはご結婚なさっているそうで、今日は大変愛らしい奥方もご一緒にお連れくださっているのですよ」

「奥方、だと? ……なんと」

 ずっと優しげに話されていたのに、サンチョさんの報告を聞き咎めたそのお声だけが、すっと冷えた硬い音だった。

 咄嗟に、床につくほど深く叩頭する。お叱りがあったわけでもないのに、心臓が壊れそうなほどどくどくいってる。やはり外から連れてきた女など、ご不興でしかないのだろうか。

 必死に思考を逸らそうとして、ふと、鼻先を埋め尽くす敷布の緋色に気を取られた。

 ……赤。どこかで、こんな一面の赤を見た、ような。

「あいすまぬ、甥の帰還にすっかり浮かれてしまったな。テュールよ、儂にそなたの大切な奥方を紹介してもらえぬか」

「あ、はい。もちろんです」

 ややぎごちない王様とは対照的に、テュールさんの声がわずかに弾んだ。緊張しすぎているのか、さっきから自分の動悸がうるさくて皆様の声がよく聴こえない。朦朧とした違和感の中、テュールさんの声だけがやけに鮮明に響く。

「妻の、フローラです。西の旧セントエルム大陸、サラボナ地方を治めるルドマン公が息女にございます」

 ほう、と王様の感嘆が遠く聴こえる。ご挨拶しなくちゃ。そう思うのに、立ちあがろうとした身体はろくに力が入らなかった。

「…………、フローラ?」

 怪訝そうに名を呼ばれ、焦りが脂汗となって大量に噴き出す。腕も、膝も、自分のものではないみたいにがくがく震えて。

 この感じ、覚えがある。チゾットに着いた時と同じ。

 大事な時なの。こんな時に、倒れるわけにはいかないの。

「……お初に、お目もじ仕り、ます、陛下。……フローラ、グラン、と──……」

 なんとか奮い立たせて跪礼した、瞬間、全身から一斉に血が抜け落ちた。

 

 寒い。

 

 わかったのはそれだけ。氷の室に突然落とされたような極寒。真っ暗、ひどく遠いところから誰かに呼ばれた気がした、けれどそれもすぐに聞こえなくなった。唐突に閉ざされた常闇の中、身じろぎも出来ずうずくまる。

 ああ、私、ちゃんとしなくてはならないのに。

 彼の隣で、きちんとできるところをお見せしたい。あなたの妻に相応しい女だと認めていただきたい、そう、思ってここまできたのに。

 

 お願いです。

 お側に居させて。

 私から、この子から、このひとを────

 

 テュールさんを、

 奪わないで、ください。

 


 

【side Tyr】

 

 どうしてここまで悪くなるまで気づけなかったんだろう。

 抱き起こしたフローラの顔色は酷いものだった。痛々しいほど真っ青で、額には脂汗が滲む。桜貝の唇は青白く変色し、わずかに開いた隙間から浅く息が零れていた。

 チゾットの時と同じだ。僕が村人と話をしていたわずかな間に倒れてしまった。ああして高地で人が倒れるのはよくあることだと言われ、また魔族の襲撃の直後だったから、そこまで深く考えなかった。ホイミンのこと、ゲマのことで頭がいっぱいだったのもあると思う。

 何かの発作なのか。悪い病気ではないのか。

 思えば砂漠を旅したあの時、熱砂病で倒れた時にもこんな兆候があったかもしれない。あの頃には既に何らかの病魔を抱えていたのかもしれない。船上での体調不良だってそうだ。もっと早い段階で診てもらっていれば、グランバニアに向かう前に気づけたかもしれないのに。

 僕が、自分のことしか考えてなかったから。

 僕の為なら、君は多少の不調なんて覆い隠してしまう。わかっていたんだ。よく、わかっていたつもりだったのに。

 忙しなく誘導されて、どこをどう歩いたかも覚えていない。一等立派な扉の前で、気づけば僕はサンチョに寄り添われ茫然と座り込んでいた。フローラを中に運び込んだところで、診察するからとサンチョ共々追い出されたのだ。退出間際に色々訊かれた気がするが、情けないことに僕にはほとんど何も答えられなかったと思う。

 とにかく血が足りていない、いつから貧血気味だったのかなんて、こっちが聞きたい。

「……坊ちゃん」

 衛兵に聞こえないくらい密やかに、サンチョが僕を呼んだ。昔してくれたように僕の前に跪き、目の高さから労しげに覗き込んでくれる。

「大丈夫ですよ、すぐに侍医が診ましたからね。グランウォールを越えて来られたのでしょう? きっと疲労が祟られたんです。ゆっくりお休みになれば、すぐお元気になりますとも」

 項垂れた僕の耳に、懐かしい声が降る。

 善意で言ってくれてるのはわかる。それでも。

「……でも、これで三度め……なんだよ」

 やっと絞り出した返答は、サンチョを絶句させることにしかならなかった。どんな表情で見つめられているのか、確かめるのも怖くてますます深く俯く。

 結婚してもうすぐ一年。その間、今日を含めてフローラが倒れたのは三度だ。持病があるとは聞いていない。昨年末サラボナに帰った時も、義両親が特段フローラを心配する様子はなかったと思う。

 チゾットで同じように倒れたことは言ったけれど、そういえばアルディラ大陸でも高熱で臥せったことを侍医に伝えそびれた。あの熱砂病は、今回の症状と関係あるんだろうか。

 今すぐテルパドールへ飛んでいきたい。マイヤ様を訪ねて、彼女の病状をもう一度詳しく聞きたい。特効薬、あの時処方してもらったパデキアの薬湯は今のフローラには効かないだろうか。僕が無理させた所為で悪化したのかもしれない、だとしたら。

 ……万が一、手の施しようがない病、だったら────

 

 唐突に、

 黒い孔が身体の中央に開いた気がした。

 

 途方もない喪失感。思い出したくもない。ほとんど本能でその感覚を拒絶する。

 炎の中で苦悶する父さんの姿が、閉じた瞼の闇に浮かんだ。その灼熱の奥に何故か、碧い髪がちらつく。

「坊ちゃん。……入って良いようですよ」

 恐ろしい、昏い幻影に呑まれかけたところで、サンチョに優しく促された。

 消沈したまま部屋に入ると、大きな寝台に青白い肌のフローラが横たえられていた。傍には老年の侍医と年嵩の女官が立ち並び、それぞれ妻を見守っている。椅子が一脚、寝台の脇に置かれており、そこに腰掛けるよう促された。遠慮がちに座ったところで苦い表情の女官が深々と溜め息をつき、険しい目つきで僕を見る。

「まったく……こんなお身体で、よくあの山を越えてこられたものです。聞けばチゾット村でも一度、お倒れになったそうじゃありませんか」

 言葉もない。弁解の余地もなく、苦しい心地のままそっと視線を落とした。広い寝台の上、死んだように眠る最愛の妻は吐息の気配すらあまりに微かだ。精巧な蝋人形だと言われれば、信じてしまいそうなほど。

「ヘラ女官長、ぼ……こちらの旦那様は十分、ご自身を責めておいでです。どうかこれ以上のお叱りは」

「サンチョ殿はお黙りください。わたくしはこの方にお話ししているのです」

 ぴしゃりと言い糺され、さすがのサンチョも口を噤んだ。憐れみをこめて振り返った彼に、緩く首を振って応える。

 当然、夫である僕の咎だ。それにもう、僕はサンチョに庇ってもらうような子供じゃない。

 情けなく俯く僕を睨めつけ、彼女は語気も荒く叱責する。

「もしものことがあったらどうなさるおつもりだったのです。あなた様お一人の旅路ではなかったのですよ。ましてここまで血の足りない状態の奥様をお連れで、長旅の間全くお気づきにならなかったなんて」

 この方の言う通りだ。

 洞窟が暗かった。ずっと馬車に閉じ込めていた。顔を合わせる機会自体減っていて、その上司祭様とホイミンの世話を彼女にすべて任せっきりにしていた。彼女自身のことは二の次で。

 チゾットに村医者がいなかったこともそうだけど、そもそもグランウォールを登り始める前にもっと彼女を慮れば良かった。船上でもあんなに具合悪そうにしていたのだから。転移魔法で街に戻ることも、僕なら時を選ばず出来たのだ。

 思えば、だからこそ麓の宿屋のお婆さんは、宿を発つ時、キメラの翼を譲ってくださったのかもしれない。

「……仰る通りです。僕が甘えてしまった。妻は、僕の為に……今はグランバニアに行くことが一番、大事だからって……」

 そうだよ。何度も言ってくれたのに。

 膝上の拳を痛いほど握り直して顔を上げる。厳しい視線を正面から受け止め、胸に燻る重い懸念を思いきって口にした。

「教えてください。妻は、重い病に冒されているのですか? チゾットだけじゃない、半年ほど前に砂漠を旅した時にも一度高熱で倒れました。その直後、巨大な蟲の魔物に下腹を貫かれる大怪我もしています。そうだ、あの時かなり血を吸われて……今の症状に関係あると思われますか。まだ、まだ間に合うなら、どんなことでもします。彼女を助けてください。お願いします……!」

 一度、口にしたら止まらなかった。次々顕になるとんでもない既往歴に一同は絶句し、僕と妻を代わる代わる凝視する。言い募るうちに声量を抑えられなくなり、耳元で騒がれたフローラがひゅ、と大きく身じろぎして息を吸った。

「…………、な、……た……」

「ごめん。フローラ、本当に……ごめん……!」

 意識を取り戻したばかりの儚い手のひらを、分厚い両手でぎゅっと握る。喉が詰まって、熱いものが今にも溢れそうだ。うっすら瞼を開けたフローラが、碧い髪をそっと揺らして首を振ってみせた。何故かひどく悲しげに、翡翠の目許を歪ませて。

「今は、急な貧血でお倒れになっただけでございます。安静になさっていれば、当面命に別状はございません」

「当面、って……!」

 そんな、一時凌ぎの安心に何の意味がある。彼女を失ってしまうかもしれない、そう思うだけで心が壊れそうなのに。

「どう、したらいいですか? 血を増やす薬が必要なら、何としてでも探します。テルパドール、オラクルベリーとポートセルミ、あとルラフェンにも伝手があります。薬師の方も何人か知り合いが……必要なものがあるなら教えてください、どうか」

「落ち着いてくださいませ。まったく、これだから殿方は」

 昏い絶望が再びざわりとまとわりつく。訴えていないと、何かしないと今にもこの恐怖にすべてを掬われてしまいそうで。取り乱した僕を女官長様が再び強く叱責する。言葉を呑めば、彼女は意外にも穏やかに微笑んだ。

 

「おめでたで、ございます」

 

 …………今、なんて。

 言われた言葉が全然頭に入ってこなくて、必死にそれを反芻した。おめでた。おめでたって、数ヶ月前フローラがヘンリー夫妻に言ってた、あの。

 子供が。彼女の腹に、赤児が、────

 ふと気づけば、たった今まであれほど苛烈に僕を責めていた女官が、母親の如く慈愛に満ちた目でこちらを見つめていた。

「おめでとうございます。あなた様はもうご父君でいらっしゃるのですよ。──テュール・シエル・グランバニア第一王子殿下」

 厳かに跪いた彼女に続いて、医師もまた静かに叩頭する。

 まるで臣下の礼をとる二人を前にして、虚ろな思考の片隅で間抜けなことを思う。

 ……そんな名前だったんだ、って。

 祝辞も妙に大仰な名前も、どこか他人事のよう。黙りこんだ僕に構わず緋色の床に額づき、年嵩の女官が淡々と続けた。

「お戻りを、心よりお待ち申し上げておりました」

『お帰り』と、言ってもらいたかったはずなのに。

 何も言えない。何も答えられなかった。覚悟と自覚は全く別物だったらしい。サンチョにもユリウス様にも、先程はオジロン王にまで認めてもらったというのに、僕という容れ物がたった今この瞬間、違うものになった心地さえする。

 僕ではない『僕』を、求められている気がして身がすくむ。

 サンチョも驚いた様子で彼らを見ていた。僕らの顔を何度も見比べた後、おずおずと口を開く。

「……ヘラ女官長。お気づき、でしたか……」

「当然でございます」跪いたまま、女官長と呼ばれた女性が凛とした声を発する。「サンチョ殿も同じでございましょう。見間違えるはずがございません。お生まれになったばかりの殿下に産湯を差し上げたのは、このわたくしなのですから」

 どきりと心臓が跳ねた。自分が生まれた日のことを、こうして聞くのは初めてだった。

 そっと顔を上げた女官長様が、僕の瞳をまっすぐ見上げて感慨深く目を細める。

「マーサ様に、本当に良く……似ておいでですわ」

 ────もう何回も言ってもらった。オジロン様にもサンチョにも、ユリウス様からも。なのに、その言葉に性懲りも無く、じわりと歓びを覚えてしまうのは。

 母さんの子なんだって。

 父さんが愛したひとの、二人の子供なんだって。僕は。

 氾濫する情緒に嬲られながらようやく頷くと、女官長は僕からフローラへと視線を移した。寝台の脇に跪き、目の高さを合わせて、驚くほど優しい声音で問いかける。

「奥様。……最後に月の障りがあったのは、いつ頃でいらっしゃいましたか」

 全員の視線が集中し、フローラが苦しげに目を伏せた。

 暫し、僕らの表情を窺いながら躊躇っていたが、女官長に促され、ついに辿々しく、桜貝の唇を開く。

 

「……昨年……、十二の月の、はじめ、です……」

 

 ────昨年?

 だって、船の上で訊いた。あれは今年の二、三月頃だったと思う。船長に懐妊を示唆されて、でもフローラは、変わらず月のものが来ているって。

 昨年の十二月といえば、テルパドールの王都に着いた頃。確かに障りが来たと話していた。元々彼女はそういうデリケートな話をしない。あれだって僕が夜、彼女を求めたから教えてくれたまでだ。それ以降については把握してない。故郷へ向かう船上で問い質した、一度きり。

 あの時から? あの時にはもう、彼女は自覚していて──……

 

「……待って。フローラ、そういえば出血して……⁉︎」

 

 はたと思い至り、一気に血の気が引いた。

 そうだ。チゾットで、シーツに血痕を見つけたんだ。ちょうど下半身の、彼女の股のあたり。

 あの時も彼女は黙って青褪めていたが、宿のシーツを汚してしまった罪悪感からだと思っていた。月のものだろうと勝手に納得して、それ以上話を聞きもしないで。

 障りじゃない。妊娠して、既に数ヶ月経っていたのなら。

「ごめ、なさ」

 弱々しく呟いて、フローラが手で顔を覆い僕から背けた。

 その細腕を退けようと思わず腕を伸ばしたが、ほとんど同時に身体を割り込ませた女官長とサンチョに止められる。

「とにかく、落ち着きなさいませ! そのことについても侍医からご説明申し上げますから」

「坊ちゃん、大丈夫ですから。まずはネルソン様……お医者様の話を聞きましょう、ね?」

 左右から口々に宥められ、なんとか興奮を抑え込む。サンチョの肩越しに見下ろしたフローラは碧い頭頂を僕に向け、細い肩を抱いて俯いている。

 震える様子から嫌と言うほど怯えが伝わって、愚かにもようやく、彼女を威圧してしまったことに気がついた。

 ────何、やってるんだよ、本当に……!

 怖がらせたかったわけじゃない。心を解いて、安心してほしかっただけだ。そこに思考が至った瞬間、どす黒いものが胸の内に渦を巻いて噴き出した。

 なんで、言ってくれなかったの。

 教えてくれるって言った。そうだよ。何か変わったことがあったら、真っ先に僕に言うって言ってくれたのに。

 ……違う。あの時には彼女は、もう────

 止まらない。思い出したくないのに。心当たりがありすぎて、怒りと憤りで目の前が真っ暗だ。フローラにぶつけてしまいそうなそれを、己の中に必死に押し留めた。落ち着け。落ち着け。

 僕が悪い。僕に言えないと、君に思わせた自分が悪い。憎いのは彼女じゃない、絶対に違う。こんな感情向けたくない。何も知らず、何も慮れずに彼女を追い詰めて、こんなになるまで追い込んだくせに。

 結局、僕は何一つ、成長しちゃいなかった。

 食いちぎるほど唇を噛み、再び腰を下ろす。なんとか激昂を落ち着けようとする僕と裏腹に、目の前の医師は淡々とそれを口にした。

 頭は勝手に最悪の事態を想定していたし、医師も女官長もずっと深妙な顔つきでいらしたから、彼が告げた内容をまたもや理解しそびれた。

 

「女官長が検められた際、御出血が認められましたので軽く処置いたしました。胎児に対して子宮がまだ狭く、圧迫されて出血が起こっているようにお見受けします。現状、他に流産に繋がる兆候は見られませんが、張りが続いていらっしゃいますので、やはり楽観視せず、極力安静にお過ごしいただくのがよろしいかと存じます」

 

 静まり返った空気をそっと波打たせたのは、愛しい妻の、硝子のような澄んだ声。

「…………、あの」

 侍医様が視線を持ち上げる。翡翠の瞳をこぼしそうなほど見開いて、フローラが辿々しく言葉を紡いだ。

「赤ちゃん……、は、…………生きて……」

「はい。順調でいらっしゃいます」

 ひどく心許ない問いかけだったが、侍医ははっきりとそう断じた。息を呑んだフローラを見つめ返し、ふと表情を和らげる。

「恐らく、この所見も間違いないかと思いますのでお伝えいたします。……お二人、授かっておいでですよ。胎内の圧迫は、双生児故に起こっているものでございましょう」

 食い入るように医師を見つめていたフローラの横顔が、その長い睫毛が揺らめいた。

 薄く開いた唇から吐息を零して、もはや茫然と見つめるばかりの妻に、……侍医様が、ひどくあたたかな微笑みを向けた。

 

「どちらも、大変健やかにお育ちです」

 

 初めてじゃない。彼女が、泣くのは。

 どんな時も、声を殺して泣くばかりだった。初めて気持ちをぶつけてくれた時。僕の為に海中に飛び込んでくれた時。サラボナに帰るか訊いた時。折られた指を治癒した時、義父に優しく労われた時も。

 ナサカの悲劇を聞かされた夜でさえ、僕にも気付かれないように、嗚咽をすべて枕に吸わせてひっそりと泣いていた。

 その、君が。

 今、細い声を上げて泣いている。

 言葉にならない、押し込めても溢れる彼女の感情が痛いほど室内に満ちてゆく。砂のように崩れてなくなりそうな、小さな肩を今度こそ優しく抱き寄せた。しゃくり上げつつも、君は素直に体重を預けてくれる。泣き声に混じって微かに、ごめんなさい、ありがとうと繰り返す声が聞こえた。……気がした。

 なんで、君が謝るの。

「──……り、がと……」

 何も気づけなかった。ずっと、守ってもらうばかりで。

「……ありがとう。フローラ……!」

 それしか言えない。腕の中に閉じ込めたフローラを強く、固く抱きしめた。女官長ももう、僕を止めることはしなかった。

 フローラの小さな手が僕の首にしがみつく。離れまい、放すまいと懸命に襟を掴む君が愛しくて、本当にどうしようもなくて、もう一度だけ腕に力を篭めた。

 好きだ。フローラ。

 ありがとう。フローラ。

 君と僕の子が、ずっとずっと欲しくてたまらなかった。

 切なく泣き続けるフローラを、そうしてしばらく抱きしめていた。そんな僕達を、皆さんも黙って見守ってくれていた。優しさが満ちるこの部屋に、フローラの安堵の涙が漣のように染みていた。

 

 

 

 妻が落ち着くのを待って、改めて侍医の話を聞いた。取り乱してしまい申し訳ありません、と頭を下げようとしたフローラに首を振り、侍医と女官長がそっと彼女を寝台へと押し戻す。

「お子様を想うなら、どうぞ第一に安静になさってくださいまし。わたくしどもにわざわざ腰を折る必要などございません」

 女官長に優しく諭され、フローラはやや狼狽えたようだったが、すぐに納得したらしく、遠慮がちに謝意を伝えていた。

「城の階段は長うございますから、お上がりになったことで早産の傾向が強まったのでございましょう。今もお腹が張っていらっしゃいますが、最善を尽くします。つきましては、奥様にはこれ以降ご出産まで極力出歩かず、安静にしていただきたく存じます」

 何とも心強いが、同時に不安に駆られる。完全に安心できる状態ではなく、またこの状況は子を宿している限り続くということか。確かヘンリーが出産に要する日数は十月十日だと言っていたが、昨年の十二月を起点とするなら、フローラのそれはまだ折り返しにも満たないのでは。

「あの……産まれるのはいつ頃になるのでしょうか。それまでずっと安静にしていた方が良いということですよね?」

「さようでございますね。双生児ですので、通常より早めのお産になるかと思われます。八月の末頃ほどにもなれば十分お育ちになるかと」

 八月。覚悟はしていたが、やはりそれなりに長くかかるものなのだ。「因みに、今日って何日?」とこっそりサンチョに訊くと「四月の二十日でございます。あと四ヶ月でございますか、楽しみですねぇ」と丸い頬を綻ばせた。

「先ほど殿下が仰った下腹のお怪我の件、古傷の位置は確認いたしましたが、念の為、後ほど詳しくお聞かせください。今夜はこのままお休みいただいて、明日改めて診察致しましょう」

 殿下って僕のことだよね。慣れない敬称になんとか頷き、ふと気になったことをそのまま口にした。

「安静にということでしたが、湯を使うのも無理、ですか? お恥ずかしながら、チゾットを出てからろくに身体を洗えていないんです。特に、頭髪が」

 今更ながら、なんと不衛生な状態で謁見に望んだやら。フローラも申し訳なさげに首をすくめる。さっきサンチョの屋敷で湯を借りたけれど、時間がなくしっかり洗う余裕はなかった。お互い軽く汗を流し、濡れた浴布で髪を拭ったくらいで。

「わたくしが御身を清めましょう。すぐにご用意いたします。殿方はご退出くださいまし」

 頷いた女官長に追い立てられ、男三人はあっという間に部屋を追い出された。「坊ちゃんも湯殿に参りましょうか。城内の湯殿はどれも広うございますから、ゆっくりお疲れをとっていただけますよ」と、先程の修羅場はどこへやら。サンチョがにこにこと満面の笑みをたたえて言ってくれる。

「そういえば……フローラは今夜このまま、さっきの部屋をお借りしていいんだよね。僕はどこに泊まったらいいんだろう。今からでも宿をとった方がいい? それとも、サンチョの家に泊めてもらえる?」

 今一つ自分の立ち位置がわからない。表向きサラボナの客人として扱ってもらったようだし、僕も正直その方が気が楽だな。なんて思いながら訊くと、サンチョとお医者様が顔を見合わせ、くつくつ笑った。

「なんとも気安いお方ですね、ヴェントレ殿」

「ええ、そりゃもう。お小さい頃から屈託なくいらして、私もパパス様も坊ちゃんに癒されてばかりでございました」

 懐かしげに見つめられると、幼子に戻ったみたいで気恥ずかしい。でも同時にくすぐったいような、決して不快ではないものも込み上げた。じわりと熱を持つ頬を押さえて視線を逃せば、サンチョはまた好々爺の如く目許を緩ませる。

 こうやって僕に甘いところ、サンチョだなぁとしみじみ思う。

「もちろん坊ちゃんも、同じお部屋でおやすみになれますとも。後ほどヘラ様に確認しましょうね」

 良かった、フローラと一緒に眠れるんだ。胸を撫で下ろしていると、サンチョの隣のお医者様も深々と頷き同意を示した。

「先ほどのお部屋は、パパス国王陛下とマーサ妃殿下が使われていたご寝所でございます。王子殿下がお生まれになったお部屋もご寝所でございました」

 ……そうなんだ。

 瞠目すれば、彼もまた表情を和らげ続けてくれた。

「両陛下、王子殿下がご不在の間、オジロン様は決してこの部屋をお使いになりませんでした」

 すっかり言葉を失い立ち止まった僕の背をくいっと押して、サンチョが僕の分まで明るく声を上げる。

「さぁ、今のうちにお身体を磨いて、オジロン様の元へ参りましょうか。お話も途中でしたし、何より、めでたい報告を致しませんと」

 

◆◆◆

 

 それから数刻後、大きな湯殿をお借りしたあとオジロン様達との会食を終えて、フローラが眠る部屋に戻った。

 湯浴みの際女官は必要かと問われ、意味がわからず首を傾げたら笑われてしまった。まさか入浴を手伝ってくれるつもりだったとか、冗談じゃない。偉い人にはそういうお世話をする人がいるものだと何となく聞いてはいたが、正直作り話だと思ってた。

 だだっ広い浴槽には贅沢に湯が張られており、恐縮しながらゆったりと使わせてもらった。

 結局その後は城の外に出る機会を得られず、サンチョに仲魔達への言伝を頼んだ。みんな寒さに強いからそこまで心配はしてないけど、ここでは決して歓迎されない魔物達である。今は、事情を知らない兵士から無体を働かれないことを祈るばかりだ。

 改めてお話しした実の叔父は、あまり父に似ていない、物腰の柔らかな方だった。否、そう感じるのは体格が違うせいかもしれない。父さんはいかにも屈強な戦士といった人だったが、実弟のオジロン様は剣より魔法が似合いそうな、どちらかというと文官や学者に近い印象の方だ。だが、瞳は似ている。彼が僕を見つめて微笑むたび、懐かしさに胸がぎゅっとなった。

 会食は僕の帰還と、妻の懐妊を慶ぶオジロン様の言葉で始まった。成り行きで僕の素性を知った侍医のネルソン卿と、サンチョもずっと同席してくれた。さすがにこの状況で過去のあれこれをまったく話さないわけにはいかず、せめてもとラインハットでの経緯は極力かいつまんで話し、奴隷として過ごした十年間については思いきりぼかしておいた。サンチョの反応が特に、思い詰めたようで怖いほどだったのだ。

 詳しい話は後日、ゆっくり時間をとっていただくことにして、暗い話は手短に切り上げた。

 ひとしきり歓談した後、オジロン様が若干そわそわしながら切り出した。

「それで、今後のことだが……テュール、そなたはこれから如何するつもりか?」

 それは僕も気になっていた。結局僕はどういう立ち位置でここに居ればいいのだろう。成り行きでフローラを看護してもらって、それは心から感謝しているが、このまま産まれるまで甘えてしまうのはどうなんだろう。見た限りオジロン様はよく国を治めていらっしゃるようだし、そもそも僕はグランバニアに忌避される魔物遣いなのだ。王族だからって、仲魔達を城に招き入れて良いものか。

「そう……、ですね。とりあえず、妻が無事に子を産んで落ち着くまでは、ここに留まりたいと思っています。できれば、郊外に家を借りられるのが一番いいんじゃないかと思うんですが」

 素直に答えたところ、何故だか全員から変な顔をされた。え、そういうことじゃなかった?

「坊ちゃん、まさかまた旅立たれるおつもりなんですか。ようやくグランバニアにお戻りくださったというのに」

 真っ先に悲痛な声を上げたのはサンチョだ。高級な食器を割らん勢いで立ち上がり、僕の肩を掴んで揺さぶる。こちらもまた、慌ててカトラリーを置いて彼を宥めたが。

「そりゃ、まだ何も目的を果たせてないし。故郷を知りたいと思ったのは本当だけど、旅をやめるつもりは端からないよ。父さんにだって顔向けできない」

「で、でも、フローラさんとお子様方はどうなさるんです。お連れになるんですか? 大体家を借りると仰いますが、坊ちゃんは紛れもなく王家の御方なんですよ。王宮にお住みになればよろしいじゃありませんか。ねえ、オジロン様」

 話を振られたオジロン様が無論とばかりに強く頷く。王を味方につけて、サンチョがますます勢い込んだ。

「パパス様が坊ちゃんをお連れになった時だって、本当は、みんな反対したんです。せめて王子殿下だけは、と……その坊ちゃんがようやく、お戻りくださいましたのに……」

 最後はしょんぼり、肩を落としてサンチョが呟く。

 サンチョの気持ちがわからないわけじゃない。でも、僕はこれまで父さんの悲願を第一に生きてきた。今も、否、フローラと一緒になった今だからこそ、僕自身の意志でこれだけは成し遂げたいと思っている。父が何が何でも守りたかったものを知りたくて、父の代わりに取り返したくて。彼の願いを、僕がこの手で果たしたい一心でここまできた。

 それに、これまで培ってきた『僕』の矜持があるからこそ、譲れないものもある。

「でも、仲魔……魔物達もいるから。みんなを放っておけないし、とりあえず安静にするだけならここじゃなくても出来るかなって。魔物が近くにいたら皆さんの気も休まらないだろ? そもそも魔物を城に入れないのには理由がある……ん、ですよね?」

 尻すぼみに皆様の顔を見渡したが、どなたも歯切れ悪く視線を外すばかりだった。そんなにも都合が悪いことなのか、魔物遣いである僕には余程言いづらい理由があるのか。

「……医師としては、奥方様のお住まいを移すこと自体賛同できかねます。安静とは文字通り、最低限の生活行動以外は何もせずお身体を休めていただくという意味です。王宮でしたら女官が常時ついておりますし、何かあれば私がすぐ診察することもできます、が……」

 ネルソン卿が静かに告げて、また居心地悪い沈黙が場を支配した。食器の触れ合う音だけが静かに響く中、僕も何となく味がわからないまま料理を口に運ぶ。やがてゆるく息を吐いたサンチョがカトラリーを置き、改めて僕へと向き直った。

「坊ちゃん、何も遠慮なさることはないんですよ。坊ちゃんは紛れもなく、パパス様の血を引く唯一の御方です。そしてフローラさんが身籠られたお子様方もまた、大切な次代の王位継承候補者様なのです。我々にとってかけがえのない御方に、どうして郊外など勧められましょうか」

「……だからって、この城に魔物を滞在させられる? 例えば、さっきの部屋に、とかさ」

 優しいサンチョに告げるのは良心が痛む。けれどこれだけは譲れないから、思ったままに答えればサンチョもそれ以上何も言えず、気まずそうに口籠った。

 多分、多分だけど。オジロン様やサンチョは、僕が仲魔達と縁を切ることを望んでいる。正統な王の息子が、国が禁じた魔物を連れているのは相当外聞が悪いのだろう。王宮に留まるとは、つまりそういうことだ。少なくとも主である僕の目が常に届くところでなければ、仲魔達の居場所は確保できない。そしてそれは恐らく、この城内に於いて絶対に叶わないといえる。

 せめて、産まれるまでサラボナに滞在してはどうだろうか。義父に頼んで、別宅を半年ほどお借りするとか。サンチョ達には申し訳ないがあそこならきっと安全だし、仲魔達も護衛がてら庭で過ごさせてやれる。フローラも実家なら安心だろう。だが、恐らくこの方々には許容できない。やっと戻った王の嫡子が、母国を選ばず他国の有力者を頼るなど。

 パパスの息子であり、魔物遣いでもある。

 その二つは当たり前に両立できることのはずなのに、そもそも秤にかけたこともないのに。サンチョが仲魔達への言及を避けて王族としての正統性を優しく説くたび、今までの僕が否定され、削られていく心地がする。

 優先すべきはどちらの僕か。無言で、承諾を迫られているような。

 母さんはどうだったんだろう。この城に輿入れして、どんなふうに過ごしていたのだろう。そんな疑問がふと、湧いた。

「そなたには受け入れ難いやもしれぬが、恐らく、王家の証はそなたを示すことになる」

 いつの間にか食事を終えていたオジロン様が、グラスに注がれた食後酒を揺らしながらおもむろに呟いた。僕も勧められたが酒は丁寧に辞退して、姿勢を正し言葉を待つ。

「グランバニア王を選ぶのは民でも、王家でもない。証による選定のみで七百年存続してきた。随分と特異なならわしだがな」

 義父から借りた本に書いてあった内容だ。思い出しながら頷くと、叔父は不思議そうに僕を見つめたあと説明を続けてくれた。

「これまで証に選ばれた者は全員、王家の血族に相違なかった。選定の条件は諸説あってな、例外もあるで一概には言えぬのだが、基本的には王の長子が継承することが多い。……そなたら親子の消息が絶えたのち、やむを得ず選定の儀を数度おこなったが、証が儂を選ぶことはなかったよ」

 落胆も露わな目許には深い皺が刻まれている。父さんの弟ということはそこまでのお年ではないはずだけれど、恐らく年齢よりずっと老けて見える叔父の長年の心労を考えると、ひどく胸が痛む心地がした。

 父さんが国を出てから、ずっと玉座を預かって下さった。証を持たない彼が十数年、国を支え続けるにはどれだけの労苦があったことだろう。

「儂には娘が一人おる。そなたより六歳下だ。慣例より早く選定の儀に同席させたが、証は娘にも王位を示さなかった」

 これにも驚いて目を瞠る。娘ということは、僕に従妹がいるんだ。実の娘が選ばれなかったことはさぞや無念だったのではと思ったが、意外にもオジロン様は力の抜けた、柔らかな微笑みを浮かべていらした。

 古から続くグランバニアの慣習。これまで先王パパスに最も近しかったオジロン様とそのご令嬢に天啓は無かった。神託を得る可能性はパパスの実子である僕が最も高い、それはわかる。でも。

「……王家の血を引いていたとしても、僕はとても王族とは呼べない人間です。魔物遣い、ですし。何より、二十年も祖国を顧みなかった僕ら親子より、実際に国を守ってこられた叔父上の方がずっと王に相応しいと、僕は思う。……思います」

「それを決めるのは我々ではないのだ。テュールよ」

 宥めるように遮られ、いよいよ言葉を失う。俯き拳を握りしめた僕に、オジロン様が優しく語りかけた。

「まだ出産まで日がある。そなたは祖国と、母君のことを知る為に戻ってくれたのだろう。ならばじっくり見て学び、知ってくれれば良い。そなたの祖父と父が救い建て直した、グランバニアという国を」

 

 

 第一王子の生存をすぐ国民に知らせるべきか。オジロン様は明日にでも告示をと仰ったが、許されるなら数日待ってほしいと伝えた。王族としてではなく、まずはただの旅人の、平民の男としてグランバニアを歩いてみたいのだと。幸いにもサンチョとネルソン卿の賛同を得ることができ、ひとまず明日はサンチョと一緒なら城内を自由に歩いて良いとのお許しをいただけた。

 今後はそうそう身軽に動けないのかと思うと、根無草の身分が早くも恋しくなってくる。というか、否応なしに『王族』以外の何者でもなくなってゆく自分に恐怖を覚えてしまっているのか。

 そういえば、ホイミンを早く診てもらいたかったのだ。いつ核に戻ってしまうかもわからない小さな友人を診ることが可能かどうか、ネルソン様に問うたが色よい返答はもらえなかった。しかし、母マーサの昔馴染みで魔物に詳しい方が今も城にいると教えていただいた。高齢だが、その方なら魔物を診ることもできるだろうということで、明日引き合わせていただく約束をした。

 結局チゾットで倒れてから、ホイミンが目覚めることはついぞなかった。この件については、明日の診察で良い方向に向かうことを祈るしかない。

 

 

 妻が眠る寝台の端に腰を下ろし、今日あったことをつらつらと思い返していたら、思わず重すぎる溜め息が漏れた。

 ようやく山を越えて、城に着いて。サンチョとの再会を喜んだのも束の間、異様なほど魔物に排他的な祖国に驚かされた。叔父王との謁見、自身の素性、フローラの懐妊。考えたいことがたくさんありすぎて、何一つ思考がまとまらない。

 何をどうするべきなんだろうね。フローラ。

 ぴくりとも動かない、美しい寝顔をぼんやり眺めた。鳩尾に置かれた手の甲をなぞり、ちゃんと眠っていることに安堵する。さっきから妙な既視感を覚えていた理由がやっとわかった。ああ、そうだ、初めて彼女の自室に入ったあの夜。

 さっき真っ白だった頬はほんのり赤みを帯びているが、消えそうな儚さは変わらない。

 無性に切なくなって、そっと顔を近づけた。長い睫毛を、整った白い鼻筋を触れそうなほど近くで見つめる。いつもとは少しだけ違う、甘くて優しい花の香りが鼻腔をくすぐった。

 前に香油だって言っていたけど、やっぱりこれ、フローラ自身の香りなんじゃないかな。髪だけじゃなくうなじとか、肌そのものから薫ってる気がする。すごく心地良い、心をほぐしてくれる香り。

「あ、……ごめん。起こしちゃった」

 嗅ぐだけでは飽き足らずつい額に口づけてしまったところで、フローラがぼんやり目を開けた。まだとろんと夢心地の、可愛い妻の頬をそうっと撫でる。

「僕ももう寝るから、眠っていていいよ。何か要る? 水とか。あ、お腹は空いてない?」

 いつもと変わらず優しく呼びかけたつもりだったが、翡翠の瞳はみるみる悲哀に染まっていった。せっかく薄れかけたさっきの憤りが、鳩尾のあたりで鈍く疼く。

 そんな瞳で見ないで。もういい。いいから。

「……めん、なさい……」

 僕の本心など知りもしない君は、力なく、けれど心からの謝罪を口にする。

「ずっと……、黙って、いて……」

 いいよ。もう。

 そうやって謝られたら思い出してしまう。こんな澱んだ感情、君にぶつけたくなんかないのに。

 いっそ聞こえないふりをしたかったけど、ここで誤魔化したらずっと消えないわだかまりが残ってしまいそうで。

「いつから、気づいてたの」

 不要な感情はできる限り排したつもりだったが、フローラの緊張は縮こまった全身から嫌というほど伝わった。少しだけ間を置いてから、フローラが消えそうな小声で答える。

「初めは、遅れているだけだと……思ったんです。周期の乱れ自体はさほど珍しいことではありませんから。……でも、ホイミンちゃん、が」

「ホイミン?」

 まったく予期せぬ名前が飛び出して、思わず聞き返した。

 それが僕の気に障ったと思ったのか、フローラは勢いよく顔を上げると、泣きそうな顔で一息に言い募る。

「私が、お願いしたんです。誰にも言わないでほしいって。ホイミンちゃんは、あなたにちゃんと伝えたほうがいいって言ってくれました。みんなで大事にしようって。でも、今授かったと知ったらきっとあなたはグランバニアへ行くのを辞めてしまう、もしくは身重の私だけ、置いていかれてしまうかも、って……そんな、身勝手なことを思った、ら、……」

 失速する弁解の言葉を、どこか冷めた心地で聞いていた。

 ホイミンは知っていた。その事実が、惨めな気持ちにますます拍車をかけていく。

 ああ、駄目だ。こんなんじゃまた、君を萎縮させてしまうってわかってるのに。

「僕が訊いたあの時には、もう、気づいてた?」

 上半身を起こしかけた彼女を寝台へ押し戻し、そのまま脇に手をつき見下ろした。閉じ込め押し倒す格好になった僕を彼女は息を呑んで見上げ、すぐに顔を横に背ける。

 耳まで赤くしているくせに、頑なに僕を見ようとしない彼女に苛ついたのもあったかもしれない。

「……嘘、ついたの?」

 喉から零れたそれは、凡そ妻に向けたことがない冷えた音で。

 フローラは微動だにしなかった。ただ逸らした顔に手を被せ、僕に見せまいとしていた。肯定せずとも、せめて否定しないことが彼女の精一杯の誠意であるかのように。

 怖がらないで。

 ぎし、と体重をかけてシーツを軋ませる。顔を背けた君が肩をびくりと強張らせた。いつも以上に小さく感じるその身体を、包み込むように己が身を覆い被せて。

「ごめん。少しだけ、こうさせて」

 赤らんだ耳許に囁きを落とせば、は、と押し殺した吐息の淡い気配がする。ぞくりと恍惚を覚えつつ細い手首を掴んで退かし、頰を擦りつけた。うっすら肌が濡れた感触と、そこにぬるい雫がとめどなく滲みてきて、ああ、また泣かせてしまっていたのだと今更悟った。

 きっと必死に嗚咽をこらえていたフローラが、深く息を吸い込んだ。喉に詰まった苦しいそれを、恐る恐る解き放って。

「わ……たし……っ、まだ、あなたのお側に、居て……いい、ですか……」

「────当たり前だろ!」

 もう、優しくなんて考える余裕もなくて。

 彼女の容体にも構わず、包み込んだ腕に思いきり力を篭めた。んぅ、と儚く呻いたフローラをきつくきつく抱きしめる。胎の中の赤児ごと抱き潰してしまう、そう思っても緩めることなどできなかった。

「離れるなんて、許さない」

 ……僕に嘘、ついたことも。

 みっともない。何をここまで落ち込んで、勝手に傷ついて不貞腐れたりして。でも、自分じゃどうしようもないんだ。彼女が僕に嘘をつくはずないって、心のどこかで思い込んでた。

 どこまでお気楽野郎だったんだろう。僕は。

 今だって自分のことばかりじゃないか。フローラだって不安だった。きっと、一人でずっと、ものすごく苦しんでいたのに。

「一生、赦さないから。……僕の側に居なきゃ、だめだよ」

 何より、こんな勝手な物言いしかできない自分に腹が立つ。

 濡れた顔を僕の胸深く埋めた君が、辿々しく何度も頷いた。

「……わたし、もう、我が儘は言いません。からだ、気をつけ、ます。……産みたい、の。あなたの、赤ちゃ…………!」

 

 ああ。

 知るたびに胸を灼く衝動。

 切なさ、深く刺し貫く痛みすら、狂おしいほど愛おしい。

 

 きっと君は解ってない。僕がどんなに君に執着しているか。

 どんなことがあっても、もう手放せるわけないってことも。

 何度も泣かせて、それでも僕は君じゃなきゃ駄目で。この空虚だけはどうしても、君以外の誰にも埋められなくて。

「……うん。産んでよ。僕も、フローラじゃなきゃ……嫌だよ」

 低い囁きが、君をますます震わせていく。激しくしゃくりあげるフローラを抱きしめて、碧髪を何度も何度も梳いた。

 愛しい温もりが溶けあって、尖っていた心が少しずつ安らいでいく。癒されていく。

 これが愛じゃないというなら、僕は一生そんなもの知らなくていい。

 この想いだけが、僕の真実であればいい。

 必死に頷くフローラの頬を口づけで拭う。溢れてくる涙を繰り返し啄んで、腫れた目許を指でなぞった。どうしようもなく迫り上がる甘い疼きを噛み締め、吐息を塞いで呑み込む。

 たった今、君を抱きたい。君の一番深いところで、その温もりを感じたい。

 昂る劣情を、理性で必死に押しとどめた。代わりにもう一度、腕の中に彼女を優しく閉じ込める。

 上質すぎるベッドに揃って身を沈めれば、穏やかな安息が僕達をじわりと包んでいく。

 ……二人だけじゃない。今、ここに、新しい命がふたつ、宿っている。

 彼女が守り通した、僕とフローラの命の連なりが。

 初めて、それをちゃんと実感できた気がした。まだ幸せとは呼べない曖昧な感慨に満たされて、縋るように瞼を閉じた。




この場をお借りして、ご報告させてください。

5/26主フロの日に、Bright Azureサラボナ篇の本を発行しました!
526ページの文庫本です。webには推敲したものを反映できていませんが、内容はwebで公開している通りです。
完全に、紙でも欲しいと思ってくださる方向けの代物ですが、お手元にお迎えいただけたなら嬉しく思います。

boothにて頒布しております。よろしくお願いします!
https://sakurairo523.booth.pm/items/3893433


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#10. 王城、初日

 両親が昔過ごしたというグランバニア城の御寝所で、泣き濡れるフローラを抱きしめ眠った、その翌朝。

 いつもの時間に目覚めた彼女と、いつもと変わらぬ挨拶を交わした。淡く微笑む妻がひどく愛らしい。すっかり腫れた目許を冷やしがてら撫でていたところに、見計らったかの如く女官長が入室してきた。

 早朝から官服をぴしりと着こなした彼女は、僕達の起床に気づくや否や美しく一礼する。背後に控えたもう一人の女官もそれに倣った。

「おはようございます。昨夜は突然のことにもかかわらず親切にしてくださり、本当にありがとうございました」

 長々と頭を下げるお二人に慌てて声をかければ、ようやく真顔で顔を上げてくださった。これ、僕らが何か言わないとずっとあのまま控えているおつもりだったんだろうか。心臓に悪い。

 後ろの方がどこまでご存知かわからないのでぼかして感謝を告げると、ヘラ女官長がふふ、と気取った笑いを見せた。

「良い朝に口煩いことは申し上げないでおきましょう。おはようございます。ご気分はいかがでございますか」

 優しい視線は僕を通り越して、まっすぐ妻に向けられる。

「おはようございます。大変すっきりとした寝覚めでございました。昨晩から本当に良くしていただき、言葉もございません」

 やわらかく笑んで答える妻の仕草は寝台の上にあっても優美そのもので、僕なんかよりずっと高貴だ。

「大変ようございました。早速ですが若様、お召替えの前に御手水を。御朝食はお二人でおとりになりますか? 陛下よりお好きな場所でお上がりいただくよう申しつかっております。お望みでしたら、若様のお食事は昨夜と同じ広間にご用意することも可能でございますが」

 若様、などと突然呼ばれて思いきり面食らう。いつ息継ぎをしたのかと思うほど能弁に促され、更には上等な着替えにふかふかの浴布を差し出されてますます狼狽えた。若様って僕のことかと納得する頭と受け入れきれない頭が混乱して、思うように言葉を紡げない。

「え、えっと。朝食……そう、ですね。妻と一緒にいただけるなら、お願い、します」

 しどろもどろに、なんとかそれだけ答えた。これだけ世話になっておいて食事まで甘えるのは気が引ける、だがそれを口にするのが愚かなことくらいさすがにわかる。

 わかるからこそ、苦しい。僕はまだ、王族としてここで何も為していない。

「視察も結構ですが、若様はまず、皆様とよくよくお話しあいになられるべきかと」

 今日の予定まで把握しているらしい女官長が、目を細めて悠然と微笑んだ。

 折角用意してくださった衣服だが、ただ街を歩くのにこんな上等な服を着る旅人はいない。なんとか頼み込んで、昨日の謁見の時の服を着させてもらった。といっても、これも他所行きの一張羅なんだけど。サンチョに頼んで早くいつもの旅装に着替えなきゃ、などと思いつつ寝台脇に用意してもらった朝食をいただいた。

 ふかふかのパンに朝から贅沢な卵料理と肉料理、フローラにはきれいに盛り付けられた温野菜のスープ。庶民の粗末な麦粥とは大違いだ。当然ながら、ルドマン邸でいただく食事にも引けを取らない。

 昨夜もそうだったが、相変わらずろくにマナーを知らない僕は緊張して味がわからない。フローラの綺麗な仕草を見慣れたお陰で、カトラリーを多少使えるのが救いだ。

 言葉少なになんとか食べ終え、下に降りる支度をする。実はサンチョがずっと部屋の外に控えていて、僕が出てくるのを待っていてくれたのであった。フローラに気を遣ったらしいが、言ってくれればもっと急いだのに。

「お気をつけて行ってらっしゃいまし。お帰りになりましたら、街の様子をお聞かせくださいね」

 僕に心配をかけまいと、にこやかに送り出してくれる妻の心根がいじらしい。

 今まで片時も離れず過ごしていたから、このあと夜までフローラに会えないかもしれないと思うと離れ難くてたまらない。名残惜しく頬を撫で、踵を返したその直後。

「あ」

 フローラが声を発して、同時に僕の袖を掴んだ。何事かと振り返ると、彼女は思い詰めた様子で視線を彷徨わせる。それだけで察したらしく、女官達がすっと壁際に下がってくれた。

 膝を折り、聞き漏らさぬよう顔を近づければ、フローラが儚く唇を震わせた。

「……大変なことを、伝えそびれていました。ホイミンちゃんのことです」

 動揺しているんだろう。伏せた睫毛の奥、深い翠の虹彩が美しく揺らめく。「ホイミンだったら、今日お城の方に診てもらえるようお願いしてるけど……どうかした?」とそっと問い返すと、少しだけ逡巡したフローラが、遠慮がちに言葉を続けた。

「ユリウス様が、仰っていたのです。ホイミンちゃんの魔力が私のお腹と繋がっているようだと。完全に止まっているように見えて、実はほんの微弱な魔力が、胎児と彼との間で循環しているように見えると……どちらが命綱かわからないから、今は出来るだけホイミンちゃんの側を離れない方が良い、とも」

 それは、ある意味すごくホイミンらしい事象だと思った。

 ゲマと対峙した際にもフローラを庇ってくれたという彼なら。

 まったく予期せぬ内容だったが、妙に冷静に納得してしまう自分がいる。というか、意識はつい明後日の方へ向く。フローラが妊娠していたこと、ユリウス様もお気づきだったんだなって。

 数日馬車で一緒だったとはいえ、僕の方がずっとフローラに近しい人間だというのに。

 昨夜から幾度も突きつけられる己の不甲斐なさに、胸がまたつきりと痛んだ。だが消沈したフローラは僕の落胆に気づくことなく、視線を膝に落として悲痛な声で詫びる。

「本当に申し訳ありません。こんな、大切なことを……お伝えし忘れるなんて」

「仕方ないよ。昨夜は慌ただしかったし」

 ささくれる気持ちを何とか落ち着かせ、春空色の瞳を覗き込んだ。見慣れた綺麗な虹彩が、胸の内に広がるもやもやをゆるやかに解きほぐしてくれる。

 安心したい。安心させたい。目線を合わせて、出来るだけ優しく見上げて。

「なるべく早く引き合わせてもらえるよう頼んでみるね。そういうことなら、ホイミンもこの部屋に連れてきたいな。一緒に過ごせるといいよね」

 密やかに告げて頬を撫でた。滑らかな肌を僕の掌に預けたフローラが、控えめな微笑みを浮かべて頷く。

 緊張していたつもりはなかったけど、いつも通り接することができて、不覚にもほっとしてしまった。

 最後にもう一度、頬に軽く口づけて寝所を出た。名残惜しく僕を見送る彼女の視線が、なぜか背中に焼きつくようだった。

 

◆◆◆

 

 ゆっくり城下を回れると思ったが、この日は思いの外時間をとれなかった。サンチョに連れられまず向かったのは、玉座の間を通り過ぎてその階下にある執務室だ。

 中には早朝にもかかわらず相当前から詰めていらした様子のオジロン王と、昨夜大広間で一瞬だけまみえた宰相様が、巻物と紙束の山に埋もれて座っていらした。

「坊ちゃんがお戻りくださったので、急ぎ内々で話しておきたいことがあったのです。坊ちゃんは長旅でお疲れだったのですから、ゆっくりお休みいただいてよろしかったんですよ」

 縮こまる僕とは対照的にサンチョが朗らかに言ってのけたが、部外者かつ張本人というややこしい立場で最も遅く参じた僕は居た堪れないことこの上ない。

「おお、テュールよ。どうだ、よく眠れたか?」

 僕の入室に気づいたオジロン様が眦を緩ませ、その脇に佇む老人はひどく複雑な表情でこちらを見た。

 なんとも言えない雰囲気を感じ取りながらも、とにかく挨拶をと腰を折る。

「おはようございます。はい、お陰様でゆっくり休ませていただきました。妻も今朝はつつがなく」

「それは何よりだ。ジーヴス、昨日は席を外させてすまなかったな。改めて紹介させてくれ」

 促された方へ視線を向けると、既に話は通っていたのだろう。お顔を見るより早く、老宰相が立派な召し物を床につき首を垂れた。

「テュール、殿下」

 昨日の刺すような視線は一体なんだったのか。

 丁寧に臣下の礼を取る老人に毒気を抜かれた。正直、最底辺を生きてきた自覚がある僕には酷く居心地が悪かったが、僕の動揺を気に留める者はその場になく、誰もが黙って、続く王の言葉に耳を傾けていた。

「我が国の宰相だ。そなたの祖父王の代から勤めてくれておる」

 オジロン様は変わらず穏やかだったが、跪いた御仁から発せられた声は凡そ、感情の篭らない無機質なものだった。

「……お初にお目にかかります。宰相の任を拝命しております、ジーヴス・ヴァーミリオンにございます」

 低くしわがれたその声は緊張を走らせるのに十分で、思わず背筋を伸ばした僕を、姿勢を正した宰相が真っ直ぐ見上げた。

 温度を感じられない鋭い眼差しがどことなくヘビコウモリに似ているなんて言ったら、絶対怒られるだろうな。

「まこと、信じられませぬ。先王がお連れになったあの赤子が、かようにご立派な青年にお育ちとは」

「そうであろう。義姉上に瓜二つではないか」

 僕の失礼な思考など知る由もなく、宰相閣下が当たり障りない感想を淡々と告げた。オジロン様の嬉しそうな賛辞にも黙って頷き、今一度僕をじっくり眺めてから、彼が再び深く腰を折る。

「殿下の無事なるご帰還、心よりお慶び申し上げる」

 妙な温度差は感じるものの、一応は本物として扱ってくれるらしい。僕も頷き、こくりと緊張を呑み下して口を開いた。

「長く所在不明でご心配をおかけしました。テュール・グラン、です。父パパスがグランバニアの出身ではないかと人伝に聞き及び、この度帰郷いたしました」

 名乗りを受けた宰相が、やや訝しげに眉根を寄せる。

 別に含みはない。まだ自分の本名を覚えていないだけだ。昨日一度聞いたきりだし、というか『テュール』が本名であったことに内心驚いているくらいで。

「ああ、そうです、お懐かしい。他国へお出ましの間、パパス様は確かにグラン姓を名乗っておいででしたね」

 僕をフォローすべくサンチョが声を弾ませたが、宰相はそんな彼をぎろりと厳しく睨めつけた。

「お忍び中とはいえ一国の王子殿下に、最低限のご教養をお伝えするのは貴殿の務めではなかったか。変事の頃まで赤子でいらしたわけでもなかろうに」

「陛下の御方針でございましたからね。城を離れる間はせめて、のびのびお育てになりたいと仰せで」

 重鎮を前にサンチョは涼しい顔だが、僕が粗忽すぎて彼の肩身を狭くしていやしないか。「無知な身の上で、まったく面目ありません。正直、ここに居るのも場違いな感が否めなくて……」と縮こまって言うと、宰相は鋭くこちらを一瞥し、これ見よがしな溜め息を深く漏らした。

「ご気性は、先代陛下と大分異なられるようで」

 うっ。なんとなく自覚していたが、父さんに似てないと言われるのは結構ぐさっとくる。まあ、ここに来てから圧倒的に母親に言及されてばかりだし、父さんのような威厳が僕にないのは重々承知の上だけど。

「これテュール、そう落ち込むでない。儂を見よ。あの兄の弟だと言うのに、覇気も威光もありはせん」

「今代は鷹揚が過ぎる。どうやら我が国は、グランソラスの穂先を何処ぞで手折ってしまったようですな」

「不敬が過ぎますぞ、ヴァーミリオン卿」

 初めて、サンチョが怒りも露わに宰相殿を睨みつけた。サンチョの方が随分と若輩に思えるが、この二人は反りが合わないのだろうか。対するオジロン様は苦笑するばかり、老宰相はさも不愉快そうに一瞥するだけだった。

 ああ、それにしても何という居心地の悪さ……早くもフローラの隣が恋しい。

 二言目には意味深な物言いの応酬に辟易してしまう。物知らずの僕には宰相様の皮肉を半分も理解できないし。そんな微妙な空気に一石を投じたのは、オジロン様が何気なく放った一言だった。

「グランソラスならテュールが持ち帰った。案ずるな、損なわれてはおらぬよ。ジーヴス」

 持ち帰ったって父さんの剣のことだよね。そんな立派な銘があったんだ、などと呑気に耳を傾けていたが、宰相様はひどく驚いたご様子だった。勢いよく振り返り、険しいお顔でこちらを凝視する。

「……まさか、陛下の」

「あ、えっと……はい。父が最期に使っていた剣です。僕の仲間の魔物がずっと大切に、守ってくれていて」

 ただならぬ形相に気圧され、口篭りながらも答えると、すぐ隣で見守ってくれていたサンチョが静かに助け舟を出してくれた。

「私もこの目で確認いたしました。宝剣『グランソラス』に相違ないと存じます」

 振り返って目が合うと、サンチョの真剣な眼差しがふわりと緩む。懐かしいサンタローズのあの家で、彼がいつも浮かべていた表情だ。それだけでなんとなくほっとして頷くと、今度はオジロン様が顎髭を摩りつつ興味深げに問うた。

「テュールもあの剣を扱えるのであろう。剣技はどこで?」

「ほとんど我流です。幼い頃少しだけ、父に教わって……オラクルベリーのギルドで半年ほど手習いしまして、あとは実戦で」

 過去の経緯は、昨日ディナーに居合わせた皆様には簡単に説明したのだけど、宰相様はどこまでお聞きになったのだろう。さすがにパパス王の戦死は伝わっただろうが、不審に思われているのが無言の重圧から伝わってくる。情けなくも俯いたところ、オジロン様が「十年ほど、魔族の牢獄に囚われていたのだそうだ」と静かに言い添えてくださった。

 父の剣を扱えるかと問われたことも少し気になった。あの剣も伝説の勇者の武具のように、主を選ぶ性質のものなんだろうか?

 そういやあの剣、このままお返しすることになるのかな。

 国宝なら仕方ないけど、剣がないのはちょっと困る。以前買った破邪の剣は結局ほとんど使っておらず、全然手に馴染んでない。魔法を帯びる為なのか、ちょっと変わった剣先になっているんだよね。鋭い突きが不得手で、僕の剣筋には残念ながら合わないのだ。

 あとでサンチョに武器屋を教えてもらおう。仲魔達の防具も、長旅で大分くたびれてしまっているし……ああ、でも、ここじゃ魔物用には調整してもらえないかもしれない。暇を見てどこかの街に行かないとだめかも。

「して、民への言触れはいつほどに」

「早く報せたいが、テュールは心の用意が伴わぬようだ。ひとまずサラボナの賓客として寝宮に滞在させ、我が国の諸々を学んでもらってはどうだろう」

 半ば現実逃避していた間に、話は今後の処遇にまで及んでいたようだ。呼ばれた気がして顔を上げたが気の所為だったらしく、重苦しい執務の間に宰相の深い嘆息が響いた。

「異国の客人のご身分で、奥の宮をお許しに? ご冗談を。民も納得いたしますまい」

 奥の宮とは、昨夜過ごさせてもらった場所のことだろうか。

 オジロン様さえお使いにならなかった両親の居室。一介の旅人を寝泊まりさせていい場所じゃない。滞在を知る極一部の家臣達は、僕をパパスの息子だと信じてくれたからこんなにも良くしてくれるのだろうけれど。

 つと宰相様から疑いの滲む視線を向けられ、それが当然なのだと感じた。他ならぬ僕がどうしても実感を持てずにいるのに、どうして疑念を張らせるだろう。

「公言しなければ良い話だろう。不当というならヴェントレの邸を仮宿とすれば良い。何にせよ、奥方の御身は当面我々が預からねばならぬ。グランバニアが長年切望した次代が、彼女の身に宿っておるのだから」

 ────それを聞いた瞬間、宰相様が両目を見開き勢い良くこちらを向いた。

 思わずたじろぐほどの威圧感。咽喉元を何故か冷たいものが伝い落ちた。全身からほとばしる憤りに似た彼の気配は、確かに形容し難い動揺に満ちている。

「……はい。実は昨晩、謁見の折に体調を崩しまして。診察いただいた結果、妊娠していると……今、城の一室をお借りして療養しております」

 萎縮する必要はないのに、何故か叱られた子供みたいな気分になってしまう。しどろもどろにお答えして様子を窺った。尚もジーヴス卿は僕を凝視していたが、情けなく見つめ返すとようやく呼吸を正し、改めて深く腰を折った。

「それは、まこと、めでたきことにございます。……差し出がましい進言をいたしました」

 両腕を顔前にかざし、深々と叩頭した宰相の表情は見えない。

「ふむ、テュールよ。そなた、しばらくは王族であることを明かさず城下を巡りたいと申したな」

 確かに昨晩そういう話をした。頷くと、オジロン様は目元の皺をくしゃりと緩ませ、微かに悪戯っぽい笑みを僕に向ける。

「一つ、儂に妙案が有るのだが。試してみぬか?」

 

◆◆◆

 

 重苦しい会合が終わる頃にはすっかり陽が傾いていた。

 あれから昼食を挟んで僕の半生を根掘り葉掘り聞かれ、言い難かったことも全部白状させられた。覚えている限り一番古い頃の記憶から、ラインハットの王子拉致事件のこと、その後魔族に捕まって奴隷として十年ほど働いていたこと。奇跡的に神殿を脱出した後は、共に逃れたヘンリーと共にラインハットの政変に関わったことまで。

 父さんの死を目の当たりにしたことも、この時初めてサンチョに伝えた。両眼を真っ赤に潤ませ、彼はぐずぐず鼻を啜りながら僕の話を聞いていた。

「……その瞬間まで、僕は母さんが生きているって知らなくて。それからはただ、父の悲願を果たしたい、母に会いたいその一心で……辛くも生き永らえてまいりました」

 忘れたことなどない。父の表情も叫びも、今でも鮮明に思い出せる。でもだからこそ、こうして改めて口にすることは覚悟した以上に重い。

 この記憶が、父との誓いに僕の精神を縛り続ける。

 宰相とオジロン様はやはりお忙しいらしく、ちょくちょく席を外されていた。お二人が不在の間は聞き取りを中断し、代わりにサンチョが色々と話してくれるのを聞いていた。サンタローズが焼き討ちされたその後のことや、この国の歴史について。僕が生まれる前、国王であった頃の父さんの話も。

 ようやく解放された頃にはもう夕刻だった。城下はまた明日か、すっかり消沈しつつ城郭の裏手に出た。街の様子を見たかったけれど、ホイミンの診察だけはどうしても今日中に済ませてしまいたい。

 ヴェントレ邸の周辺は相変わらず厳戒態勢といった様子で、昨夜と同じ位置に停まった馬車を四人の衛兵が険しい表情で監視していた。馬車の周りには中に入れない大型魔獣や竜属が居心地悪そうに陣取り、その周りを古参のピエールやスラりん達がうろちょろしては明るく振る舞っている。

 そういえば、恐らく彼らはまる一日食事を摂っていない。

 馬車にスナックが残っているから、最悪それで凌げただろうけど。魔物は空腹の感じ方も人間とは異なるというが、自分は上等な食事にありついた手前、やはりどうしても申し訳なく感じる。フローラが旅に加わってからは、食事の時間を殊更楽しみにしていた彼らだから、尚のこと。

「あ! ごしゅじんさまー! おかえりなさいっっ」

 溌剌とした声が中庭に響いた。びくりと気合を入れ直した兵士を尻目に、ピエールが慇懃なほど丁寧な礼で僕を迎え入れる。

「ごめんね、結局ずっと戻ってこられなくて。みんなは大丈夫だった? 寒かっただろ」

 極端な熱や冷気は忌避しても、通常の外気が彼等に作用することは少ない。とはいえ峡谷奥地に在るこの城を取り巻く寒さは想像を絶する。洞窟の中の方がやや湿っぽい所為か、まだ温かく感じたくらいだ。

 僕なりの労いに、スラりんが元気よく肩に飛びついて応じた。

「たいへんだったんだよー。ミニモンがすーぐどこかいっちゃいそうになるからー!」

「い、いまはおひるねしてるからっ、だいじょうぶっっ!」

 あわあわ報告してくれる二匹の頭を、感謝を込めて代わる代わる撫でた。そうだ、ミニモンはつい昨日仲魔になったばかりだったんだ。まだ幼いあの子を監督し教えるのは僕の役目だっていうのに、のっけから先輩である仲魔達におんぶに抱っことは、申し訳ない限りである。

「本当に、ごめんね……ありがとう。みんなが居てくれて、本当に助かった」

 改めて言葉にすれば、スラりんもしびれんもえへへと得意げに表情を綻ばせた。

 無邪気に笑う彼らを、固唾を呑んで見守るサンチョや兵士達の表情は硬い。否、兵士の中には殺意めいた敵意を滲ませている者もいる。

「サ……ヴェントレ卿。申し訳ないが、もう少しだけ軒先をお借りしても良いだろうか?」

 兵士達の手前、他人行儀に意を計った。僕が乞えばサンチョは無碍に出来ない、わかっていながら酷な問い掛けをしていると思う。案の定、サンチョは馬車をちらりと見遣ると、やや疲れた愛想笑いで頷いた。

 重い溜め息を吐いたところで、重大なニュースを思い出した。そうだ、これだけはみんなに伝えておかないと。

「そうそう、ひとつみんなに良い報せがあるよ。フローラがね、身籠っているんだって」

 努めて明るく告げたものの、スライム属達には意味が良くわからなかったようだ。「みごもってって??」と丸い頭を傾げ合うスラりん達に苦笑しつつ、お腹に赤ちゃんがいるんだと言い直した。途端に軟体二匹の表情がぱぁっと明るくなる。

「えっ⁉︎ ふろーらちゃん、あかちゃんできたのー⁉︎」

 声をひそめた意味がないじゃないか。スラりんの素っ頓狂な叫びに思わず噴き出してしまった。ここに来て、衝動的に笑ったのはこれが初めてかもしれない。

「いっ、いつ? いつ、うまれるのっっ?」

「えっとね、あと四ヶ月くらい……まだまだ先だね。サラボナからここまで来たくらいの時間がかかりそう」

「うわ──っ! あかちゃん、たのしみー!」

 しびれんが声を弾ませ、スラりんは興奮しぴょいぴょい跳ね回る。全身で喜びを表してくれるのが嬉しい。だが、続く言葉にはさすがの彼らも消沈せざるを得なかった。

「ただ、ここまで来るのに無理させちゃったから……生まれるまで身体を休めてないといけないんだって。だから、フローラはしばらくこっちに降りて来られないと思う」

 暗く言ったつもりはなかったけど、スラりんはしゅるると萎みそうなほど一気に消沈し、しびれんは大きな瞳をみるみる潤ませた。

「ふろーらちゃんに、あえないのっ? さみしい……っ」

 裏表のない、純粋な悲しみに胸を締めつけられる。

 僕だって、寂しい。今だって隣にいないのが不思議なくらい。結婚してからずっと、誰より近くで過ごしてきたのに。

「ん。寂しいよね……ごめん。みんなも連れて行ってあげられたらいいんだけど」

「若様」

 すかさずサンチョに諌められた。黙って頷き、一度邸内に入れてもらう。手早く着替えてユリウス司教にも軽く挨拶をし、無事オジロン陛下に御目通りが叶ったことだけ告げて表に出た。

「一度、ホイミンを連れて行くね。魔物に馴染みのある方がいらっしゃるって言うから、診察してもらってくる」

 馬車の中に上がり、寝かせていたホイミンを毛布ごと抱き上げた。魔力を帯びているのか、柔らかい身体は温かくも冷たくもない。すごく不思議な感じだ。

 長居するならここの荷物も運ばないと。天空の剣と盾、いつもの着替えと……彼らも、ずっとこのままにはしておけない。

 ちゃんと決めなくてはならない。僕が、主人なのだから。

 心配そうに見守る仲魔達に微笑みを返したが、監視の兵士達は魔物を抱えた僕を警戒し一斉に気色ばんだ。隣にぴったり付き従ったサンチョが彼らを一瞥し、去り際鋭く言い放つ。

「陛下と宰相閣下もご承知のことでございます。おわかりと思いますが、ここで見聞きすることは他言無用で頼みますぞ」

 サンチョらしからぬ厳しい物言いにこちらまで気圧されてしまった。まあでも、オジロン陛下ご公認の旅人なのだと思っていただけたら少しは気が楽かな。物言いがどうにも、悪党のそれなんだけど。

 冷ややかな視線を浴びつつ、今来た裏手の道を戻った。途中考え事をしていたのか、ぼんやりした様子でサンチョがぽつりと呟いた。

「お心を、許してらっしゃるのですね」

 さっきの仲魔達のことだろう。うん、と深く頷き、外套の下に隠したホイミンをそっと撫でる。

「……そうだね。皆もう長いこと一緒にいるし……信頼してる」

 一番初めに仲魔になったのはスラりんだ。次がピエール。プックルはカボチ村の畑を荒らしていた張本人だったが、それでも幼少時の僕との約束を律儀に守って、人間は絶対に襲わない優しい成獣に成長していた。

 ホイミンは、確かポートセルミの周辺で仲魔になった。鎧の魔物が喚び出したうちの一匹で、鎧が斃れた後、もじもじこちらを見ていたのが彼との出会いだった。

「このホイミスライムもね。フローラを命懸けで守ってくれたんだ。ユリウス様が襲われていた時に」

 懇意の司祭の名を出されたサンチョが、そうですか、と小さく呟き俯いた。

 坑道でゲマに遭ったことは、なんとなく言わなかった。

 この目で見てもいない、心許ない推測だ。向こうも名乗ったわけじゃない。何より、父の仇が近辺に出没しているかもしれないとサンチョが知ってしまったら、なりふり構わず探しに出てしまう気がして。

 並みの人間では敵わない。下っ端の魔族達とは格が違う。

 あの圧倒的な焔を前に、当時の父さんですら互角に渡り合えたかどうか。

 僕を、人質に取られなくとも。

「随分お待たせしちゃったよね。その方、母さんを良くご存じなんだろう? 何かしらお話を聞けたら嬉しいな」

 また沈んでしまった気持ちを誤魔化したくて、明るく言った。ええ、とサンチョが安堵したように微笑む。

 フローラの主治医であるネルソン様にもお願いして、ホイミンの診察に立ち会っていただくことになっている。城の四方を支えるように細い塔がそびえており、その一角にかの人が住んでおられるという。外から入れれば楽なんだけど、そうはいかないのがこのグランバニア城である。

 オジロン様の許可は得てあったし仮死状態ではあるが、やはり衛兵達は魔物を入れることに難色を示した。口々に叱責され、その都度憤るサンチョをなんとか宥めて、ようやく魔物に詳しい方が待つ東の塔を訪問した。

 

◆◆◆

 

 気を張り続けてすっかり疲れ果ててしまった。

 帰郷して一日目、濃い日程を消化し終えて、ようやくフローラの待つ奥の宮の寝所へと戻った。

 遅くなってしまったので、妻には先に食事を済ませてもらうよう途中で言伝を頼んだ。今朝、ヘラ女官長と共に部屋を訪れたクロエという侍女はサンチョの縁者らしく、彼の側仕えとしても働いているという。信頼できる数少ない人物ということで、今後は女官長と共にフローラの世話を引き受けてくださることになっている。

 眠って良かったのに、フローラは寝台に横たわり僕の帰りを待っていてくれた。暇つぶしに借りたのだろうか、見覚えのない小さな本を広げている。遅い帰宅を詫び、いそいそと湯浴みの準備をする僕を、フローラは優しく見守ってくれる。

 昨夜は賓客用の大きな湯場を借りたけれど、なんとこの寝所には備え付けの立派な浴室がある。ここだけで小さな邸宅と遜色ない造りだ。

「お疲れ様でした。いかがでした? 初めてのグランバニアは」

「ん? んー……結局、忙しくて街の方は全然回れなかった。明日はゆっくり行けたらいいんだけどな」

 街を回る前に、グランバニアの皆さんの心証がどん底になりそう。思いっきり愚痴を吐きたくなったがぐっと堪えた。僕を心から案じてくれる妻に、要らぬ気苦労を与えたくない。

「オジロン様達とお話ししたり、宰相様にご挨拶したりね。仲魔達は元気にしてたよ。みんなフローラに会いたいって、寂しそうにしてた」

 他愛無い報告に収め、寂しげに頷くフローラを眺める。ベッドの脇に腰を下ろし、彼女から朝告げられた問題の答えを探した。正直、あまり思わしい結果は得られていない。

「ホイミンのこと、だけど」

 暫し、今日の出来事をぼんやり思い起こしてから、おもむろに切り出した。暗くならないよう気をつけたつもりだったが、思った以上に落ち込んだ声になってしまったらしい。フローラが不安気に僕を仰ぐ。無理矢理に笑みを貼り付け首を振って、努めて明るく言葉を続けた。

「結局、はっきりしたことはわからなくて……この宮には魔物を入れちゃ駄目なんだって。ネルソン様もフローラからホイミンの魔力を感じるって言ってくださってるし、何か良い方法を思いつければいいんだけど」

 こうしている間にも、微弱な魔力はホイミンとフローラを繋いでいるんだろう。何度か離れて過ごしたけれど、今のところ繋がりは切れていないという。僕には全く見えないし、感じられない……だからこそ不安なんだけど。

 ホイミンの魔力がフローラを守っているのか、逆に胎児達の魔力がホイミンの命を繋いでいるのか。

 あまりに微弱でそれすら判然としない。フローラに自覚がないわけだから、ホイミンと胎児間の問題で間違い無いんだろうけど。途絶えたことはないのだし離れても問題ないかもしれない、けど前代未聞のことだからこそ、できる限りの最善策を講じなくては気が済まない。このまま二人を引き離して万が一のことがあったら、僕は絶対に、自分も祖国も許せなくなってしまうだろう。

 夕刻、サンチョと共に訪れた東の塔で聞いた話を思い返す。ホイミンを診てもらったついでに、妻の側にホイミンを連れて行って容態を見守りたいと告げたところ、ネルソン医師をはじめ居合わせた全員が大いに表情を曇らせた。

『奥の宮には人ならざる者を阻む陣を施してございます。マーサ妃の拉致を許して以来、主不在の宮をおよそ二十年守り続けてまいりました』

 魔物を寄せつけない、街や祠を守る聖なる力と同じものだという。僕の仲魔達はどういうわけか、聖なる気配をそこまで厭わない。さほど問題なく入れるのではと思ったが、ネルソン様とサンチョはこの提案に揃って首を振った。

『魔物が侵入した場合、各所へ報せが伝わるようになっております。先王陛下ご夫妻の一件で我らが陛下はお心を深く痛められ、宮の警備を強化するよう再三申し付けられました。御即位の折には、唯一の王女殿下も宮へお入りになられましたので』

 ああ、確かに。オジロン様の御息女が過ごす宮殿に脅威など許されない。ということは、従妹殿も奥の宮の近くに住んでいるんだろうか?

 疑問に思いサンチョに訊くと『当初は奥の宮にお部屋をご用意したのですが、お気に召されなかったご様子で。程なくオジロン様が新宮を誂えられまして、今はそちらでお過ごしになっていらっしゃいます』と教えてくれた。

 何だかんだでまだ従妹姫にはお目にかかれていない。歳の近い近縁者は初めてだから、ちょっとそわそわする。

 それはそうと、先ほどの説明には少し引っかかりを覚えた。

『魔物を入れない結界があるのに、入ったかどうかはわかるんだね。過去に機能した例はあるの?』

『かなり昔、こやつが奥の宮に入り込んだことならあります。あれは先王陛下が旅立たれて間もない頃だったか』

 ここ数年はすっかりこの塔に引き篭っておりますがね。続く言葉を口髭に篭らせ、お爺さんがスライムの頭を撫でた。

 母マーサの馴染みであったというこのスライムは人見知りなのか、お爺さんの陰に引っ込んでなかなかこちらに来ようとしない。さっきから恐る恐る僕とホイミンを見比べては、ぴゃっと隠れる仕草を幾度となく繰り返していた。

『すぐさま兵が駆けつけたもんで、それ以来怯えちまってよう近づかん。昔は随分とマーサ様を恋しがっておったんですが……』

 やるせなく呟き、彼は枯れた瞳に深い憐憫を映す。

 ゼンと名乗ったこの老人は、長くこの城で魔物の生態について研究してこられた方だそうだ。これまで立ち寄った街でも学者肌の方には度々お会いしたが、魔生学と呼ばれる学問が世界的に確立しているというのは初めて知った。魔物遣いと呼ばれる一族とは性質が違うがその知見を活かし、マーサ妃が入内した折、彼女が連れてきたこのスライムの世話を買って出たのだとか。

 そんな彼だから、やはり僕を見て一目で気づいたようだ。

『失礼ながら、貴方様はマーサ様に縁あるお方か』と問われ、僕の代わりにサンチョが手短に説明してくれた。しかしそれ以上言及されることはなく、よくぞお戻りになられた、とだけ静かに告げられた。

 どうやら寡黙な方らしい。母のことを気軽に聞ける雰囲気ではなかったが、これから少しずつ打ち解けることはできるだろうか。わりと純粋に、魔生学っていうのにも興味があるし。

『正直に申し上げますと、奥方様の現象については私にもわかりかねます。下腹部から白い魔力が絶えず細く、漏れ出ているようにお見受けします。安静をお願い申し上げた理由の一つでもありますが……漏れ出ているのではなく何処ぞと繋がっていらっしゃったのであれば、多少得心できます』

 一通りの診察を終えて、ネルソン医師が所見を伝えてくれる。意識のないホイミンを目の当たりにした彼は、魔力の性質が間違いなくフローラの腹に帯びたものと同一であるとはっきり断じた。

『そちらのホイミスライムから滲み出る気配と、確かに同じものです』

 一体それがどう互いに作用しているのか。確かなのは、流れたと思った胎児達が無事だったこと。魔族に抉られたはずのホイミンの命が尽きていないこと。フローラもあの時身体を強く打ったと言っていて、母子共に無事だったのが奇跡で、今も常時安静にしなくてはならない状態だ。──……だとしたら。

『ホイミスライムは癒しの力を持つスライムです。フローラの、胎児達と影響を及ぼしあっているなら余計に、彼女から離さない方がいいと思う。……というより、離したくない』

 やっぱり、そういうことだと思う。少なくともフローラが無事出産を終えるまでは、できるだけ近くで過ごさせた方がいいんじゃないか。

 どうしても譲れないのは、大切な仲魔と子供達の命の問題だから。フローラの身体も関わってくるから、それでもサンチョは返事を濁して頷いてくれなかった。あんなにも僕に甘い彼が一向に理解を示してくれないことに、遣る瀬無い苛立ちを感じてしまったのもあると思う。

『四ヶ月、生まれるまでの話なんだよね。その間だけ結界を緩めることはできない?』

『坊ちゃん!』

 すかさず鋭く諌められ、縋るように残る二人を見渡した。

 ネルソン卿もゼンさんもばつが悪そうに目を背けたが、その横顔に食らいつき言い募る。

『フローラからホイミンを引き離して、もし腹の子達に何かあったら? それともやっぱり、フローラを他の場所に移そうか。とにかく彼女を、しっかり安静にさせられればいいんですよね?』

 必死に訴えたけれど、やはりこの場に僕の望む答えをくれる人は誰一人としていなかった。

 正直、ゲマという気掛かりはある。碧髪の乙女をいつまた狙ってくるかもわからない。ただ、護るだけなら効果のはっきりしない結界に頼る必要はないんじゃないか。僕も仲魔達も腕に覚えがあるし、僕達に防げない脅威を結界が退けられるとも思えない。城ごと巻き込んでしまうことも本意じゃない、それより今は、確実にフローラの腹と繋がっているホイミンの魔力を断たれる方が恐ろしい。

 いっそ妻の故郷であるサラボナで療養させた方がいいんじゃ。思いつきを勢いで口にしかけて、かろうじて押し留めた。

 転移魔法は切り札だ。僕がいつでも、自分の意思で一瞬でこの城から出ていけることを、この人達にはまだ知られたくない。

 どうしてなのか、そんなふうに思ってしまった。そう思う自分を酷くみっともなく、情けなく感じた。僕を心から心配してくれている、あんなに会いたかったサンチョまで欺いているようで。

 結局その場では結論を出せず、馬車よりは宮に近いということで、ホイミンはひとまずゼン爺さんに預かってもらうことになった。明日またしつこく足を運んでみるつもりでいるけれど、これ以上の打開策が見つかるかどうか。

 ……今日はもう、考えても仕方ないか。

「うん。それでさ」

 上質な浴布のお陰で髪の乾きが早い。まだ湿った毛先を拭い、首を振ってフローラを振り返った。不思議そうに僕を見上げる可愛い頬をそっと撫でる。

 サンチョ達には言いづらいけど、フローラには話してもいいよね。他ならぬ僕らのことなんだから。

 どんなに良くしてもらっても、ここは知らない王宮だ。ルーツがある僕でさえ気疲れが絶えないのに、異邦人であるフローラの疎外感は如何ばかりか。

 そういうの、胎教に良くないってヘンリーも言っていた。

庶民、まして一時奴隷の身であったマリアさんを好意的に見ない家臣もいるから、本当はもっと気を休められるよう里帰りみたいなことをさせてやりたい。いっそ修道院で産ませるべきか悩んでるって。

 フローラには故郷がある。裕福な両親が健在で、手放しに僕らの味方になってくれる。これまでだって心強かったけど、義実家の存在を今ほど有難いと思ったことはない。

「いっそのこと、サラボナで産むのはどうだろう。実家の方がフローラも安心できるんじゃないかな? ルーラで移動すれば危険なこともないし」

「それは」

 いい考えだと思ったんだ。僕はともかく、妊娠している君までここで息苦しさに耐える必要はない。

 でも、返ってきたのは予想だにしない声だった。強く遮られ言葉を呑むと、僕を見上げる翡翠の瞳が怯えを宿して揺れていた。

 すぐに口許を抑えた君は、心なしか青褪めているようだった。

「……ごめんなさい。大きな声を出して」

「ううん、全然。僕のことなら気にしなくていいんだよ? それにサラボナの方が、仲魔達も気兼ねなく君の側にいられるしさ」

 ここではひどく疎まれてしまうようだし。喉から零れかけた恨み言を、すんでのところで飲み込んだ。

 この状況を息苦しく感じているのは、僕だ。

 フローラの体調にかこつけて、せめてみんなをもっと気楽なところに移したいと思っている。彼女だって故郷の方が過ごしやすいだろうと決めつけて、フローラに会えなくて寂しいと言ったしびれんの言葉を都合よく曲解している。人間に忌避されることくらい、仲魔になった瞬間から彼らは当然覚悟してくれているのに。

 僕が、受け入れられていないだけ。僕の故郷にまさか、こんなにも拒絶されるなんて思わなくて。

「わたし……、テュールさんのお側に、居たいんです」

 シャツの裾をきゅっと掴んだフローラが、泣きそうな声で訴えた。

「あなたがグランバニアに留まるなら、私も……」

「フローラ」

「ごめんなさい。遠ざけないで」

 必死に縋りつく妻を抱き留めるしかできない。小さな肩が痛々しく震えている。ああ、僕はなんてことを言ったんだろう。

 離さないって昨夜、言ったばかりなのに。

 しつこく繰り返す僕の過ちを、君の潤んだ眼差しが問い質す。

「ここで、ちゃんと大人しくしていますから。もう我儘も言いませんし、絶対に無理、しませんから……サラボナに帰れなんて仰らないで。お側に居させてください、お願い」

 唐突に、だいぶ前の記憶が蘇った。

 あれはテルパドールへ行く前の、ナサカの浜でのこと。僕の所為で君を辛い目に遭わせて、サラボナへ帰そうか思い悩んで、他ならぬ君から強く拒絶された日。

 自分は十分幸せだって。僕が居ないと立ってもいられないって泣き崩れてくれた、あの日。

「ごめん。そういうつもりで言ったんじゃないんだ……サラボナに帰りたいかなんて、もう二度と訊かない。言わないから」

 ああ、本当に。つくづく僕は学習しないな。

 勝手な思い込みで、また君達を振り回すところだった。みんなの為、フローラの為って言い訳して。フローラも仲魔達も、僕と一緒にいたいってこんなにも言ってくれているのに。

「そうだよね。一生懸命ここまできたのに、今更放り出して戻れないよね……軽率だった。ほんとに、ごめん」

 上半身を起こしたフローラをそっと寝台へ押し戻す。まだ不安げな瞳を見下ろし、碧い髪をさらりと掬った。もう絶対に余計なことは言うまいと、固く心に誓って。

「あ。そういえば」

 僕の所為でまた変な空気になってしまった。話題を変えようとして、ふと昼間あった出来事を思い出す。

 朝、オジロン様の執務室でお話をしたあと、昼食に招かれ移動した。その広間に飾られていた、大きな額縁。

「父さんと母さんのね、肖像画を見せてもらったんだ」

 フローラが微かに目を瞠る。高揚が滲むその表情に、昼間感じた歓びが再び胸にじわりと灯る。

「正直、びっくりするくらい似てたよ。ああこれは母親似だなって自分でも思った」

 気恥ずかしくも言い添えると、フローラが益々嬉しそうにふわりと頬を綻ばせた。

 二人とも豊かな黒髪で、父さんは琥珀の虹彩に深い焦茶の瞳。母さんは僕と同じ、黒曜石の瞳を紫紺の虹彩が彩っていた。なんというか、眉と目許のバランスがそっくりだなと思う。

 父さんは、幼い僕から見て巨岩みたいに大きな人だった。逞しい面立ちによく締まった筋肉質な身体。僕は浅黒い肌以外、父に似たところがない。背はあるけどあそこまでがっしりした体躯でもないし、自分でもあまり覇気のない顔つきだなと思ってる。旅の途中、父さんを知る人に何人か会ったけど、似てると言われたことはなかった。こんな僕でももう十数年もすれば、父さんのように威厳ある風貌になれるんだろうか。

 絵の中の父に寄り添う女性はすごく優しげだった。大きな掌に肩を抱かれて、幸せそうに微笑んでいた。今のフローラとそんなに変わらない年齢に見えた。記憶よりずっと若い父さんの傍らに腰掛けて、慈愛に満ちた眼差しでこちらを見ていた。

 あのひとが、僕の母さん。

「それで……トンヌラ、だって」

 ふと頭を抱え苦笑いする僕に、フローラは少し不思議そうに首を傾げてみせる。

「偽名をね。さすがに『テュール』じゃ、すぐお偉方に気付かれてしまうから」

 オジロン様が提案してくださった『妙案』がこれだ。しばらく素性を隠したいなら名を変えておいた方が良いだろうって。

 寧ろどうして偽名にしなかったのか、問えるものなら父に問いたい。息子の僕どころか、国王であった彼さえ本名を隠そうとしなかった。単に無頓着だっただけなのか。

 偽名だが、わかる者にはすぐわかる。というのもこれは僕が生まれた時、父パパスが嬉々として提案した名付けらしいのだ。が、最終的には父が譲り、母の希望した名に決まった。これらは産褥の枕元で交わされた王と王妃の私的なやり取りであり、父の意向を知っていたのは当時、その場に居合わせた信の篤い家臣だけ。否、父が名付けを相談した相手ならば覚えているかもしれないが、だからこそ『トンヌラ』がパパス王の忘れ形見であることを確信できるのは、城内の限られた人間のみと言える。

 ちなみに、父の中では娘だったら『サトチー』なる名が筆頭候補だったらしい。なんとも奇抜なセンスである。父の無骨な面だけは否応なく継いでいる自覚がある僕としては、名付けはやはりフローラに一任したほうが良いような気がしてくる。

 ──……トンヌラ、だってさ。

 かつて父が自分に授けようとした名を、今になって名乗ると思うとひどく面映い。

「ふふ。勇ましいお名前ですけど、私はやっぱり『テュールさん』の方が似合っていらっしゃると思います」

 くすくす。フローラが楽しそうに笑ってくれて、それだけで胸に燻る憂鬱が少し晴れた気がした。

「そう? だから、当分はこの部屋の中だけ。僕が本当の名前をうっかり忘れないように、ちゃんと呼んでね」

「はい。テュール、さん」

 愛らしく微笑み応えるフローラの仕草に、昨日抑えこんだ情欲が肚の内側にふつ、と湧いた。

 ああ、駄目だって。君を今、乱しては絶対にいけない。でもせめて、少し口づけるくらいなら。

「もっと、呼んで」

 頬を掬って密やかにねだれば、君は嬉しそうに瞳を細める。

「……テュールさん」

 そうして、儚く優しい鈴の声で呼んでくれる。

 そういえば初めてサラボナで出会ったあの時、素敵な名前だって褒めてくれたっけ。いつだって僕の名を大切に呼んでくれた。確か初めて呼ばれたのはアンディの見舞いの時で、あんな状況でもものすごくどきどきして、耳も心臓も蕩けてしまいそうだった。

「だいすき……」

 儚い告白にいざなわれ、そっと身を屈めて唇を重ねた。

 初めは軽く、受け入れてくれたことに調子づいて二度目はもっと深く。こうして口づけを交わすのも久しぶりな気がする。甘くとろける唇を食み、いつもの花の香を嗅げば、今日一日の疲労がじわりと癒えていくのがわかる。

 何度も髪を梳いてから、そうっと彼女の輪郭を辿った。華奢な肩、腕をなぞったところで、妻の腰の辺りに畳んだ毛布と枕が敷かれていることに気がついた。

「お尻の位置を高くした方が良いそうなんです。赤ちゃん達が下に降りてこないように」

 名残惜しく唇を離したフローラが教えてくれて、なるほどなぁと相槌を打った。あまり詳しいことはわからないけど、双子だし気を遣うことが多いんだろう。でもこれ、腰痛くならないのかな。寝返りもろくに打てなさそう。ケアしてもらってるんだろうけど、僕としては子供だけじゃなく、フローラの身体も心配なんだ。

 なんだか卵を守る母鳥みたいだ。柔らかくて簡単に潰れてしまいそうな華奢な身体で、その身に宿した小さな命を守っている。それも、ふたつも。

「ごめんなさい、寝づらいですよね」

「そんなことないって。でもそうだな、寝ている間に潰しちゃいそうでそっちの方が怖いかも。あそこのソファ、勝手に動かしたら怒られるかなぁ」

 畳んだ毛布を蹴り飛ばしたら事だし。せめてソファを横につけて寝られないか、顎に手をやり考えていたら、くいくいと背中からシャツの裾を引かれた。

「私は、テュールさんと一緒に眠りたい、……です」

 ちょっと、それは反則すぎる。

 位置関係的に当然なのだが、恥ずかしそうに上目遣いで訴えてくるのが可愛すぎてたまらない。今したばかりなのにまたキスしたくなってしまう。普段フローラの方から甘えてくれることはあまりないから。

「テュールさんが寝相悪かったことなんてありませんから……ですから、あの、ここで」

「……フローラ」

 ああ。どうして君は、こんなにも健気で愛しいのだろう。

 思いきりきつく抱きしめたい、けれどそれだけのことがそら恐ろしい。碧い小さな頭をそっと腕に包めば、鳩尾の奥から愛しさが再び湧き上がった。

「ありがとう……」

 抑えきれない想いは無意識に言葉となって溢れる。

 ランプを消して隣に潜り込み、ぎゅうっと抱き寄せた耳許に吐息だけで囁いた。よく聞こえなかったらしいフローラが、綺麗な瞳を瞬かせ首を傾げた。

「……?」

「ううん。頑張るね」

 日中抱えていた葛藤が、緩やかに解けていく。

 やっぱり我慢できなくて、もう一度だけ唇を啄んだ。重ね合わせた唇の動きで、フローラがふわりと微笑んだのがわかった。

「おやすみなさい、テュールさん」と優しく囁かれ、うん、と額を当てて答える。

 君さえ側に居てくれるなら。君が僕を望んでくれるなら、僕はどんな息苦しさにも負けずにいられるから。

 側に居て。僕の女神。

「赤ちゃん、楽しみ、だね……」

 ずっと怖くて触れられずにいた、妻の腹部を怖々撫でて呟く。

 やっぱり胎動らしきものは感じられなかったけど、フローラが頷いてくれたから。それだけで僕はすっかり安心して、どろりと重く全身を支配する眠気に意識を委ねていったのだった。



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#11. 刻一刻と

 グランバニアに着いて数日が過ぎた。

 宰相様にお会いした翌日から、あれよと言う間に僕の予定が分刻みで埋められていた。午前中は基礎的な学問から王族の心得、大陸の歴史に政務、マナー講義その他諸々の学習にみっちり充てられている。こういうの、ちゃんと学んだことがないから初めはわくわくしたけど、数日も経つと頭が疲れてついていけなくなった。出来の悪い生徒で、貴重な時間を割かせている文官のデッセル卿には申し訳なく思う。

 午後は多少自由時間を得られたが、サンチョ同伴で街を少しずつ周るくらいしかできていない。散策が終わればまた勉強か、家臣の方について郭内を視察するか、時々兵士に混ざって郭外の見廻りに加わるなどした。

 オジロン様は訓練場で鍛錬する程度を想定していらしたようだが、蓋を開ければ宰相様の采配で主に外回りを任されることになっていた。わざわざ坊ちゃんに押しつけずとも、とサンチョはいたく憤慨している。やっぱりお二人は仲が悪いみたいだ。得意分野だし、身体を動かしていた方が気が紛れるから僕は一向に構わないんだけど。

 異国から突然遊学の体で転がり込んできた怪しい若造を、兵士達はやや遠巻きにしている。

 噂話が広がっているのか、街に降りてもやや奇異の目で見られる。そも旅人の往来がほぼない国で、見慣れぬ人間が魔物遣いであることは着いた翌日には街中に広まってしまっていた。気さくなサンチョは元々城下の人々に慕われていたのだが、至る処で僕の世話を焼いたが為にあらぬ憶測を招いてしまったようだ。中でも面白かったのはサンチョの隠し子疑惑で、こないだ一人でこっそり酒場を訪ねたら、サンチョの息子さん設定でないことないこと噂されていた。なんでも僕はサンチョと流浪の踊り子との間に授かった子で、パパス王に付き従っていたサンチョは所帯を持つことができず、踊り子が女手一つで僕を育てたが過日流行病で亡くなったので、実の父が置いていったグランバニアの国章を頼りに訪ねてきた、らしいよ。仲魔達は母の形見なんだって。絶妙に間違っていて面白い。

 そんな感じで城下ではやや煙たがられていたが、城に上がると雰囲気は一変した。二十年も経てば王妃と直接面識ない人の方が多いわけだが、彼女の肖像画は政務に関わる人間なら必ず目にしている。故にか、僕の顔を見て固まる方が少なからずいた。偽名を用いたお陰か、もしくはオジロン様直々に身元を保証してくださったからか、はてまたサンチョが盾になってくれていたからか、ひとまず面と向かって出自を問うてくる人はいなかったけど。大変気まずそうに「トンヌラ殿は……」と話しかけてくる年嵩の文官達に、申し訳ない気持ちを抑え愛想笑いで応対した。

 そうしてなし崩しに故郷での生活が始まっている。重々しい城門をくぐるまで当たり前だった放浪生活は、慌ただしい日々に押し流されあっという間に過去の一篇へと塗り替えられていく。変わりたいわけではないのに、否応なしに変化を求められる毎、それらは次第に苦い諦めに変わる。

 城に上がって三日目の夕刻、サンチョ邸前の馬車を訪ねた。相変わらず放ったらかしの仲魔達に詫びる為だったが、僕の顔を見るなりピエールは厳かに膝をつき、限りなく声をひそめて囁いた。

 

「……拙者らは一度、この城を離れようと思う」

 

 考えるのが怖くて、ずっと曖昧にしていた。

 このままではいられない。わかっていたのに、その最善を彼らに提示することがつらくて。

「────っ、ごめ」

「あるじ殿」

 僕の謝罪を素早く制して、ピエールの鉄仮面が真っ直ぐにこちらを向いた。

「我々魔物にヒトの如きココロの機微はない。気に病まれるな」

 隣に並んだマーリンとガンドフが深く頷いたが、嘘つけ。

 だったらなんでみんな、そんな寂しそうに笑ってるんだよ。

「あるじ殿のお立場、よく心得ているつもりでござる」

 言葉が出ない。僕より僕をわかっている顔のみんなを前にして。しばらく身を隠してくれって、本当は僕が頭を下げなくちゃいけなかった。この庭先でどんなに粘ったところで国の方針は変わらない。大切な仲魔達の心証を悪くするばかりで、それならば尚のこと。

 今、この国にとって、僕は異物に他ならない。

 何も出来ない。オジロン様が仰る通りに王位を継いだところで、今の僕には何の力もない。彼らの為に強権を振りかざすこともできないし、するつもりもない。精々逃げ出すことしかできない、けれどここには何より大事な、僕の子達を宿してくれているフローラが居て。

 幾度となく感じる息苦しさが、首を絞めるように僕をがんじがらめにしていく。

「ご案じ召さるな。あるじ殿が必要となさる時、我々は必ずお側に馳せ参じる。真なるあるじとの従属の絆は魂にも等しいもの」

「側にって……どうやってさ。伝える術もないのに」

 心底申し訳ないと思うのに、苛立ちを抑えられない。情けなく唇を尖らせれば、ピエールがくつ、と可笑しげに喉を鳴らした。

「これまでの道中、拙者らがあるじ殿を見失ったことがあり申したか?」

 不敵に言い切られ、再び言葉を失う。

 そりゃ、君達と完全にはぐれたことは今までなかったと思うけど。咄嗟に旅の記憶を探り始めた僕に、今度はマーリンが嗄れた声で告げた。

「ご主人はただお望みになれば良い。真実契りを交わした者であれば、あなた様の喚びかけに必ず気づきます」

 一人では何もできないヒトの仔でもあるまいし。

 いつだったか、マーリンにさらりと皮肉られた言葉が蘇った。気を遣いすぎだと諭してくれた、僕は契約者であり庇護者ではないのだと気づかせてくれた、あの言葉。

 そういや彼らは普段から、空いた時間を思い思いに過ごしていたんだった。旅先でも、露営の時も、サラボナの別宅でも。ここグランバニアでは行動を制限されていたから、僕の立場を慮り従っていたに過ぎない。

 依存しているのは僕の方。君達に頼ることがいつの間にか当たり前になっていた。フローラと居るのとはまた違う、ただ信じられる仲間達と心を許して過ごせることを、いつからこんなにも心強く感じるようになっていたんだろう。

 それに、とピエールが揶揄い交じりに首をすくめる。

「奥方殿が身動きとれぬのであれば、当面は旨い飯もお預けであろうしな。こればかりはやや惜しい」

「……悪かったな。すっかり舌が肥えちゃってさ、まったく」

「いやいや。食を楽しむことはあるじ殿の供にて初めて知り申したが、なかなかどうして、悪くない」

 サラボナ以前はそんなこと言わなかったくせに。いつの間にやら妻にすっかり胃袋を掴まれたこの魔物達は、ほくほくと食の楽しみとやらを語ってくれる。空気を読んで数歩下がり待っていたサンチョが、にわかに盛り上がった僕らを見て訝しげに眉をひそめた。

「スラりん、こんどぴくにっくしたーい! ふろーらちゃんげんきになったらおべんとつくってもらいたーい!」

「しっ、しびれんも、いきたい……っ!」

 明るく飛びつき甘えてきたスライム属二匹の頭を代わる代わる撫でる。「わかった。伝えとく」と応えれば、二匹ともすぐはにかみあって僕から離れた。兵士達の目を気にしたのかもしれないが、殊更寂しく感じてしまうのは僕ばかりではないと思いたい。

 あらかじめまとめてあったのか、少しの荷物を手に仲魔達がぞろぞろと馬車を出て行く。ミニモン達新入りも、古参のみんなが行動を共にしてくれるらしい。魔物達が城を離れる旨を説明すると、兵士達は顔を見合わせた後、どこか安堵した様子で城門を開けた。

 去り際、丁寧に礼を取ったピエールの真摯な声が、見送る僕の胸を穿つように深く響いた。

「……ホイミンを、よろしくお頼み申す」

 

◇◇◇

 

 何とかしなくちゃ。

 仲魔達を見送った後、どこかやり切れない顔で僕を見つめるサンチョをそのまま家に入らせ、一人で東の塔に向かった。妻が待つ寝所へ早く帰りたかったけど、その前にどうしてもホイミンの様子を確かめたくて。

 前日にも同じ時間に訪ったので、ゼンさんはさほど驚くことなく僕を迎え入れてくれた。ホイミンに変化がないことを言葉少なに告げ、しばらく文献をあたるから用があれば書庫に来るよう言い置いて老人が階段を降りていく。薄暗い客間には、僕から数歩距離を置いた一匹のスライムと僕だけが取り残された。

 昨日教えてもらった、このスライムの名はスーラ。人を怖がる性分らしく、なかなか僕に近寄ろうとしない。正気の魔物にここまで怯えられたのは初めてだが、この城に長く住んでいれば無理もない気がした。一昨日の話からしても、ゼンさん以外に彼を受け入れる人間はほとんどいなかったのだろうから。

 怖がらせたいわけじゃない。距離を保ったまま立ち上がった。ホイミンの顔を見ようと踵を返しかけたところで、おずおずと気弱な声が足元から聞こえてきた。

 

「きみ、マーサのこども……? なの?」

 

 ────びっくりした。

 母の友だというこのスライムに、僕はずっと避けられているのだと感じていたから。

「……うん、そうだと思う。どうしてそう思ったの?」

 膝をつき、身体を屈めて優しく問いかける。スラりんよりやや小ぶりなそのスライムが、くすぐったそうに身体を震わせた。

「だって、きみ、マーサとおんなじいろ」

 ああ、そっか。髪と瞳が同じだから。

 昨日肖像画で見た母さんの姿を思い浮かべた。スライムから見ても母さんに似ているのかなと思うと、つい頰が緩むのを抑えられない。

「怖がられてるのかと思ってた」

「……みたことないニンゲン、だったから」

 ずっとゼンさんの影に隠れてたもんね。自嘲気味に呟くと、スーラはばつが悪そうに身体をくねらせる。

「こわいかもっておもったけど、こわくない。みたい」

 一生懸命言葉を返してくれるスライムに、ふと、あの肖像画の中の母親が優しく語りかけている情景を垣間見た気がした。

 きっとこんなふうにお喋りを楽しんでいたんだろう。互いに名前で呼び合っていたのかな。僕の仲魔達はみんなご主人様って呼んでくれるけど、そういうのもいいなと思う。

「撫でてもいい?」

 答える代わりにスーラがぷるんと頬を震わせた。スライム属が了承の意を示す時の仕草だ。そうっと手を伸ばし冷たい肌に触れると、スーラは嬉しそうに青い身体を揺らしてみせた。

「ねー、マーサは? まだかえってこないの?」

 ひとしきり撫でさせてもらった後、いっそ無邪気にスーラが問いを発した。他意のない問いであるのはわかったが、それ故に、心臓を鋭く突かれた心地がした。

「……うん。ごめんね。本当は連れて帰りたかった、けど」

 想定内の答えだったのだろう、哀しく納得した表情を見せる。当たり前だ。母さんが帰ってきたなら、親しい君に会いに来ないはずがない。

「もう少し待ってて。ちゃんと、探しているからね」

 もう一度頭を撫でると、ぷるんと寂しげに身体を震わせ頷いてくれた。

「ホイミンは、どーしてずうっとねてるの?」

 満足したらしいスーラが、今度はホイミンの居る籠を仰ぎ見た。この一画にゼンさん以外立ち入る人間はいないが、スーラ以外の魔物が居ると知れたら騒ぎになりかねない。今は深い籠に毛布をかけて隠し、高い棚の上に置いてもらっている。

 せめてできるだけ、奥の宮近くに居られるようにと。

「僕の、奥さんがね。お腹に赤ちゃんがいるんだけど、その子達とホイミンが魔力で繋がっているらしくて。生まれるまでこのままかもしれないんだって……本当は彼女の側に連れていきたいけど、魔物は宮の中に入れちゃ駄目だって言うから、どうするのが一番いいのか考えているところ」

 扉から見えないよう、身体で隠しながら籠を下ろした。スーラも一緒になって中を覗き込む。相変わらず微動だにしないホイミスライムが、人形の如く横たわっている。

 もう二週間以上、あの朗らかな笑い声を聴いていない。

 何もできないからこそ、やれることは何だってしてやりたいのに。

「……死んだら駄目だよ。ホイミン」

 多分、ホイミンが倒れてから初めて、弱音交じりの独り言を零してしまった。

 聞こえているかな。わからないや。君達は時々、僕の想像なんか易々と超えていってしまうから。

 どっちでもいい。なんだっていいよ。君も胎児達も命が尽きていない、それだけでいい。そのまま何とかしがみついていて。僕に出来ること、助ける方法を一刻も早く探すから。

 ゼン老師にお願いして、僕もここの書物を見せてもらおうか。棚に籠を戻し、書庫の奥へ向かうべく立ち上がった。しかしドアノブに手をかけた瞬間、細くて高い、しかしこれまでとは明確に違う呼びかけが僕の足を止めた。

「スーラ、いったげる」

 振り向けば先ほどまでの怯えた様子は見る影もなく、小さなスライムの強い眼差しがまっすぐ僕を射抜いていた。意図を測りかね思わず怪訝に見つめ返す。仲魔になってくれるってこと? いや、そういうニュアンスではない気がする。

「行くって? どこへ……」

「マーサのおへや」

 間髪入れずにスーラが答えた。ぴょいんと棚から飛び降り、虚を衝かれた僕を見上げて「でしょ?」と迷いなく問い返す。

 でも、魔物が入ったらすぐわかってしまうんだろう? 以前も君は兵士に追い立てられて、怖い思いを────

 そこまで考えて、鈍い僕はようやく、スーラの言わんとしているところを悟ったのだった。

「……スーラがホイミン、いれてあげる」

 

 

 

 広い回廊に、僕の硬い足音だけが冷たく響く。

 この階段を使う人間はほとんどいない。謁見の間の幕裏に隠された通路を通り抜ければ、その先の階段はオジロン様が信を置く家臣のみが護る奥の宮へと続く。

 その信頼を、僕は今から裏切ろうとしている。

「わるいまものはここ、はいったらいたいとおもう」

「……そうなんだ」

「ホイミンはいいスライムでしょ? だったらだいじょぶ」

 謁見の間を通り過ぎて、懐に隠れた青い軟体をそっと撫でた。こくりと唾を飲んだ僕を励ますようにスーラが揺れる。

 作戦は、正面突破だ。スーラを外套に隠して奥の宮に入る。気づかれたらスーラに出てきてもらい、母に縁あるこのスライムをこの宮に連れてきてやりたかったのだとしらを切り通す。ホイミンは懐のもっと奥深くに隠したまま。

 報せがいくとは言ったが、何が何匹侵入したかまではわからないだろう。スーラも以前入った時、結界自体は特に彼を拒まなかったと言っている。実際感知されたかどうかもよくわからなかったそうだが、兵士に見つかり追い出されたのは事実。

 どこからが結界なんだろう。もう陣の中に入っているかも。緊張で足取りが乱れそうになる。落ち着け、せっかくスーラが体を張ってくれているのに、僕がホイミンを取り落としたら洒落にならない。

 いよいよ奥の宮が近づいてきた。いつも通りの顔を装い、顔見知りの衛兵達に目礼する。二人とも黙って綺麗な敬礼を返して、それっきり、特に何か言われることもなく素通りして宮中の広い廊下に出た。

 ────気づかれてない?

 いや、報せが行くのは別の場所なのかも。兵舎か執務エリアの可能性が高いかな。だったら今は急いで寝所に行かなくては。兵士が駆けつけてくる前に、ホイミンを隠した方がいい。

 宮を護る近衛兵は十人程度。グランバニア城の最上階に位置する王の奥宮は広いが、住人が長く不在だったが故に人員を大幅に割かれている。今は、僕の素性を最低限の人にだけ知っておいてもらう為にも更に数を減らしていた。僕以外にここに出入りするのは基本的に女官長と専属の侍女が一人、サンチョと侍医、そして交代で警護してくれる衛兵達だけだ。

 廊下に並ぶ衛兵に会釈し、豪奢な扉を押し開く。間の悪いことに、ちょうどフローラが夕食前の診察を受けている最中だった。「殿下。ご入室の際はノックをお忘れなく」目ざとく女官長に注意されたが、僕は内心それどころじゃない。ばくばくする心臓を何とか抑えて平静を装った。

「申し訳ありません、早く妻に会いたくて気が急きました」

 なんとか答えると女官長は苦笑いで頷いたが、その奥のネルソン医師はひどく複雑な表情で僕を凝視していた。

 一度ホイミンを診て下さった彼だから、魔力の流れから何か勘づかれたのかもしれない。

 背筋を冷たいものが伝う。「すぐお夕食を用意致します。今夜は殿下もご一緒に召し上がれるようで、ようございましたわね」女官長がフローラと朗らかに言葉を交わし、立ち尽くす僕の脇を侍女が一礼して出て行った。ネルソン卿は尚も黙って僕を見つめている。「あなた、お帰りなさいまし」と寝台からフローラが優しく呼びかけてくれて、ようやく僕自身の呼吸が戻ってきた心地がした。

「……うん。ただいま、フローラ」

「大丈夫ですか……? お疲れでいらっしゃいますのね」

 やっぱり君にはわかってしまうんだ。心配そうに見上げる妻にぎごちなく笑みを返しかけた瞬間、遮るように背後から「失礼致します!」と太い声が響き渡った。びくりと心臓が跳ね、同じく僕を見上げていたフローラも身体をすくませる。

「なんです、騒々しい。貴い方の御前で」

 ヘラ女官長が入口に凛として立ちはだかり、叱責を受けた若い近衛兵はしどろもどろに答えた。

「いえ、あの……申し訳ございません。こちらの宮殿にて微弱な魔物の感知があったようで、念の為確認に参りました。これより表を検めますので、皆様は暫しこちらでお待ち頂けますでしょうか」

 

 ────来た!

 

 結界はちゃんと機能していたらしい。にわかに這い上がる緊張を拳を握って抑えた。スーラが不興を買わないよう、うまく説得しなくては。ひっそりと息を吐き、吸い込んだその瞬間。

 何故か足元、それも僕の後方から。

 懐にいたはずのスライムの、怯えた声がか細く聞こえた。

 

「あ、あの、ね」

 

 思わず、振り向く。その名が口から出そうになったが、重ねて響いたスライムのか細い声が愚かな衝動を押し留めた。

「ごめんね。スーラがかってに、ついてきちゃったの……」

 僕が説明するよって言って、頷いてくれたじゃないか。

 驚愕した僕はさぞ間抜け面だったろう。申し訳なさげに口端を緩めてみせてから、スーラはまっすぐ女官長を見上げた。僕と同じく、驚きで言葉を失っている様子の老女を。

「……あなた、……」

 ヘラ女官長の表情は、ただ魔物を目にしたというそれではなかった。感慨か、哀惜か。スーラも今は怯えた様子はなく、円い目をヘラ様に向けて逸らさない。

 僕が生まれた時、ヘラ様は母さんに仕えていたと言ってらしたから、きっとお互い面識があっての反応なんだろう、けど。

「このこといっしょなら、マーサのおへやにはいってもだいじょぶかなって……ごめんなさい」

 意外にもしっかりした口調でスーラが詫びた。警戒した兵士が数歩、スーラに向かって踏み出したが女官長が制止する。だがそれ以上動くことも言葉を発することもなく、寝所にはずしりと重苦しい空気が満ちた。

「テュ……トンヌラ、さん。あの、その子は……?」

「あ……えっと、王妃様の友達のスライム、らしくって」

 奥の宮と言えどどこまで僕の素性が伝わっているかわからない。こっそり袖を引いたフローラが、しかし兵士達の手前、覚束なげに名を言い換えてくれた。僕もなんとか無難に返事したが、頭の中は罪悪感やら後ろ暗い心地でいっぱいだった。

 このままじゃ、スーラだけが悪者になる。

 身代わりを申し出てもらって、軽率に甘えた僕が悪い。せめて何か言おうとしたけど、察したスーラに遮られる方が早かった。

「ごめんね、どーしてもここにきたくって。びっくりした? やっぱよくないみたいだから、スーラ、もーかえる」

「っ……待って。一人じゃ戻れないだろ? 僕が連れて行くよ」

 ぴょいんと跳ねたスライムを思わず呼びとめ、息を呑んだ。今、外に出てしまったら懐のホイミンはどうなる?

 僕は莫迦か。ここまできたのに、せっかくスーラが身体を張ってくれたのに、僕が台無しにしてしまう。スーラのお陰でネルソン様以外には疑われていないみたいだけど、このままじゃホイミンまであの塔に逆戻りだし、最悪身体を検められればホイミンを無断で連れ込んだことがこの場で露見してしまう。

 どうすれば。どうしたらいい。

 思考が奔流して、嫌な汗が全身から噴き出した。スーラとネルソン様は何か言いたげにこちらを見上げ、ヘラ女官長と若い兵士は邪気のないスライムの横顔を食い入るように見つめている。

 誰も何も言い出せない、気まずい膠着状態をそっとほぐしてくれたのは、何も知らない妻の一言だった。

 

「……あの、スーラちゃん、でしたか? 今夜一晩、ここで過ごしてもらうことはできませんか。トンヌラ、様も魔物遣いですから皆様もご安心でしょうし、王妃様のお友達でしたら、滅多なことは起こらないと思うのです」

 

 ────ああ、フローラ。君ってひとは……!

 何かを勘付いたとは思わない。助け舟を出したつもりもなかっただろうけど、彼女の提案は正に神が差し伸べたる救済の御手だった。感極まる僕の内心など露知らず、彼女はいつもと同じ穏やかな声で更なる駄目押しをくれる。

「もちろん、ずっと話し相手になってもらえたら嬉しいですけれど。それは難しいのでしょうから、せめて今夜だけでも……スーラちゃんに、王妃様のお話を聞かせてもらいたいのです。だめ、ですか?」

 居合わせた面々が困惑も露わに顔を見合わせた。思わぬ展開にスーラは目を大きく見開き、不思議そうにぷるぷる揺れながらフローラを見上げている。

「このこもなんとなくにてるねえ」

「え?」

「マーサに。うん、マーサににてるの!」

 ぷるんとひときわ嬉しそうにスーラが声を上げて、フローラが一瞬目を瞠った。同じく目を見開いた女官長が再び言葉を失う。暫し、神妙な顔つきで何かを考え込んだあと、ひっそりと息を吐いた彼女が近衛兵に向き直った。

「陛下と宰相閣下のご裁可を頂いていらっしゃい。マーサ様のスライムと言えばおわかりになります」

 しかし、と狼狽える近衛兵に「後ほどわたくしも説明に参ります」と言い添え問答無用で追い出す。呆気に取られた僕らを一瞥し、ヘラ女官長が綺麗な角度で腰を折った。

「小皿の用意を申しつけて参ります。……マーサ様はいつも、その子を交えたお食事を楽しみになさっておいででした」

 

 

 

 兵士と女官長が立ち去り、ネルソン卿も黙って会釈し退室していった。彼らが戻る前にと、急いでホイミンを手近なチェストに隠す。瞬時に状況を理解したフローラが動揺を見せたが、あとでちゃんと説明すると言ってひとまず聞かないでいてもらった。

 程なく、夕餉と共に侍女と女官長が戻ってきて、スーラの滞在について許しを得たと伝えてくれた。意外とあっさり認められて拍子抜けする。次いで豪華な食材を惜しみなく使った料理が、ベッドの脇につけられたテーブルに所狭しと並べられていった。

 侍女のクロエ嬢は毎回必ず毒見をしてくれる。有難いが、フローラ一人の時ならともかく、解毒魔法を使える僕がいる時はそこまで気を遣わなくて良いのに、と思う。

 配膳と毒味が終わると、女官達はすぐ退出した。さっき女官長が仄めかした母マーサとスーラのエピソードをお聞きすることは叶わなかったが、恐る恐る料理を口にしたスーラは黒い瞳をみるみる潤ませた。

「スーラちゃん? 大丈夫ですか。熱かったですか?」

 ヘッドボードに体重を預けたフローラがおろおろ声をあげる。食事時ですら彼女は身体を垂直に起こすことを許されていない。もきゅもきゅ咀嚼し、息を吐いたスーラがへにゃと表情を緩ませた。

「だ、いじょぶ。えへ、ひさしぶりのあじ」

 凡そ二十年前と全く同じということはないと思うが、この部屋で食事するシチュエーションが故だろうか。ずっと塔に篭っていたのだろうし、あまりよい食べ物は与えられていなかったのかもしれない。

 もっとこの部屋にいられるよう頼んでみようか? と問うと、スーラは少し考えたあと、ぷるぷると身体を振った。

「ゼンがさみしくなっちゃうでしょ。あした、かえる」

 物問いたげなフローラに、スーラを保護してくれている魔生学者である旨を伝える。魔物に厳しい姿勢のこの城で、二十年もの間この子を匿うことは簡単ではなかっただろう。ふと疑念が湧いて尋ねると、スーラは再び遠い記憶に思いを馳せた後、おもむろに答えた。

「マーサがいなくなってから、ちょっとだけひとりでいて、それからはずーっとゼンがいっしょ」

 そっか、と相槌を打った。決して愛想の良い方ではないけど、長く苦楽を共にしたスーラだからこそ感じることもあるんだろう。「ゼン、もーおじいちゃんだから、スーラがそばにいたげないと」とスーラがどこか達観した様子で呟いて、思わず笑いそうになったがふと不謹慎に思えて飲み込んだ。

 魔物の寿命は僕達とは全然違う。このスライムからしてみれば、ゼンさんも母さんも僕も等しく稚い命に過ぎないのかもしれない。

「ねー。そいえばきみ、トンヌラっていうの?」

 他愛無い会話と食事を楽しむ中、唐突にスーラが問うた。

 言ってなかったっけ? ああ、今日までのスーラは怯えて隠れていたし、自己紹介もろくに出来てなかったかも。

「実はそれ、本当の名前じゃないんだ。ちょっと事情があって……本当は、テュールっていうんだよ」

 パンをちぎって身を屈め、ふるふる揺れる軟体の口許に差し出した。こうして食べ物を口に運んでやっていると、ほんの少し前のことなのに、仲魔達と旅をしていた頃がひどく懐かしく思い出される。

 そうだ、ついさっきみんな城を出ていってしまったんだ。そのこともフローラに言わないと。

「だよね。そーだよねえ」

 どうしようもない喪失感に一瞬、つきりと胸が痛んだ。そんな僕と相反するように、何も知らないスーラはぱっと嬉しそうに顔をあげる。

「ふふ。やっぱり、『テュール』」

 とろける笑顔で僕の名を反芻した。そんな顔で呼ばれるとなんだかこっちが気恥ずかしい。フローラと首を捻りあったところで、尚もくふくふ笑うスーラが嬉しそうに告げた。

「それねえ、マーサがかんがえたんだよ。エルヘブンのふるういことばでね、ほんとうのこと、っていみなの」

 

◇◇◇

 

 グランバニアは建国七百年余の大国だ。

 世間から忘れ去られた国だが、数代前はそれなりに名の知れた大国だった。当時の主だった国々は魔族との戦乱の最中にそのいくつもが滅んでしまった。グランバニアと勢力を二分した西の宗教国家聖エルム教国、千年もの長きに渡り交易の中心地であったエンドール連邦国群。レヌール王国も数十年前、一夜にして廃城と化した。隆盛を誇った魔王軍……便宜上そう呼ぶが、その攻勢が落ち着いているように見えるのは、今や滅びた国や異界の人々が力を合わせ、魔界の扉を封じた結果だと言われている。

 セントベレス山を逃れ放浪するようになってから、伝聞とはいえ人々から話を集めてそこそこ情報通になったつもりだったけど、世代が変わるほど昔の話にはまだまだ知識が及ばないのだと知った。というか、どの国にも表に出せない歴史の一つや二つあるってことかもしれない。ラインハットの偽太后の一件は当事者にとって葬りたい過去だろうし、グランバニアだって、凶王の治世については未だ口を閉ざされることばかりなんだ。

 僕の祖父や曽祖父にあたる方の頃の話だそうだ。曽祖父、つまり父さんとオジロン様の祖父は王族ではなかった。北の辺境を守っていたパンクラーツ家の当主だったが、ある時王家の証が彼を示した。……こと自体が不出の出来事だと言う。

 曽祖父の名は歴代王に連ねられていない。なんならその実父も王ではなかった。成人を待たず夭逝した第一王子にまさか落胤が存在したなど誰も想像しなかったのである。相手は世話役の侍女と推察されているが、それも曽祖父の件があって初めて知れたことだ。何某かの縁あって、生まれた男児はパンクラーツ家の嫡男として育った。高祖父母にあたるご夫妻はほとんど何も遺さず亡くなられたから、その辺の仔細は今も何も判明していない。

 王位は歳の離れた弟王子が継いでいたが、この頃から証による選定が止まっていた。弟君が仮王──証に選ばれぬ王であったことは未だ公にされていない。この弟王こそ『凶王』ギルヴィである。今判明している事実は、民の目を盗みひっそり試されてきた選定の儀に曽祖父が護衛として同行したこと、その場で証が彼を王と示したらしいこと、ギルヴィ王が凶王と化しグランバニアを滅ぼそうとしたこと。それだけなのだ。

 何があったか知ろうにも当事者が軒並み他界しており、そも大っぴらにできる事情じゃなかった。曽祖父自身も己の真の素性は知らなかったらしい。曽祖父はその場で捕まり殺害されたが、息子は何とか追手を逃れた。父さんの父親であり、僕の祖父であるルイジ様だ。その後王統狩りの内乱が勃発し、ルイジ様は命を狙われながらもレジスタンスを結成して、数年かけて父の仇、ギルヴィ王を討ったのだった。

 詳細な理由はわからないが、ラインハットと国交を断絶したのもこの一連の時系列のことなんだろう。

 裏で色々と帳尻を合わせ、ルイジ様は王籍となった。ようやく正統な王を戴いたグランバニアだったが、内乱で負った傷が元でルイジ王も早々にこの世を去った。そうして若くして次代に選ばれたのが僕の父、パパス王だ。

 己の出自に関することだからと教えられたこれらの情報をうまく咀嚼しきれず、僕は数日密かに唸り続けることになった。だって、誰にも言っちゃいけないってめちゃくちゃ念を押されて。フローラにまで隠す気はなかったけど、内容があまりにショッキングすぎた。ようやく安定した妊娠中の妻にこんなこと話せないよ。

 オジロン様がなんとなく腫れ物に触るように扱われていることにも合点がいった。よくも悪くも凡庸、宰相の傀儡と囁かれる叔父王であったが、ことの次第を把握している重鎮達には叔父上の立ち位置が凶王と重なるんだ。勿論、父さんから直々に王位を預かったオジロン様がギルヴィ王と同じはずがないんだけど。

 仮王であったギルヴィが本物の主君を弑したことは、城下の民達には知られていない。子宝に恵まれなかったギルヴィ王が正統な後継を得られず、他家に証が現れたが故に狂乱したのだろうと伝えられている。まぁ、……うん、明らかにできない理由があるんだろう。ギルヴィ王には娘が一人いたが、戦乱の最中に行方知れずとなっている。

 証があってもそれだけ揉めるんなら、いっそ選定の制度自体を辞めたらいいのに。そう教師に問うたことがあるが、優れた師であるデッセル卿は無表情の眉を微かに動かしただけでごく言葉少なに告げた。

 ──……遠からずご説明申し上げます。次代の選定が正しく為された暁に。

 ふと、父さんは全てを知っていただろうことに思い至った。やはり証は王の嫡子を示すことが多いのだそうだ。後継である可能性が高かった僕をああして外の世界で育ててくれたことが、不思議な感慨となって自分の中に満ちてくる。

 結果だけ見れば、王子だけは城に残して欲しいと懇願した皆様の主張が正しかったわけだけど。

 こういう事情を知らされて、いざ証に選ばれたら辞退できる気がしない。流されるまま忙殺されて、気づけばグランバニアに着いて凡そひと月が経過していた。最近は出仕のたびに譲位の話を振られる。蒙昧な僕を慮り民への告下を送らせてくださっているが、今もパパス王の身を案じる国民に真実を伝えることは本来急務だし、僕の素性もいつまでも偽っておけない。

 三、四ヶ月後には子供も生まれる。その前に、どう転んでも覚悟を決めなくてはならない。母さんを諦めるつもりはないが、再び旅立つにしたってちゃんと一度けじめをつけたいとは思ってる。

 仲魔達には、結局あれから全く会っていない。ほとんど毎日城外を回ってはいるけど、数人の兵と隊列を組んで歩くので呼び出すこともままならない。僕も、彼らを召喚する理由を頭の中で色々考えていたものの、寂寥如きで呼ぶのは違う気がして、結局現状に甘んじるしか出来なかった。

 縋るように、就寝前にはチェストに隠したホイミンを覗き込むのが日課になっていた。せめて彼の存在を確かめないと、魔物遣いとして過ごした日々こそ夢だったのではないかと錯覚しそうになるから。

 ここに来れば自分に関わる色々なことが明瞭になると思った。知る機会は少しずつ得られても、本当に知りたかったことはまだほとんど聞けてない。僕が生まれた頃のこと、父さんのこと、母さんのこと。サンチョに聞いても何やかやはぐらかされるばかりで、あまり詳細なことは話してもらえなかった。叔父上か宰相から止められているのかもしれない。

 

 

 

「戻られたばかりで申し訳ないが、トンヌラ殿。陛下が白竜の間でお待ちです」

 グランバニアの山々にようやく新緑が芽吹いた五月の終わり、出会い頭デッセル卿に淡々と告げられた。反射的に愛想笑いを繕う表情筋が恨めしい。

 季節柄なのか、ここ数日は魔物がちらほら出没していて、昨夜も近郊の村で一悶着あったらしい。さすがにここでは夜中に呼び出されることはないが、代わりに朝から事後処理へと駆り出された。主に城から派遣される神官たちの護衛だとか、薬や生活必需品を運んだりとか、ゼンさんの報告書に従って魔物の動向を探るなどする。

 昼もだいぶ過ぎ、一緒に戻った兵士達はぞろぞろと飯屋に移動していく。あちらに混ざりたい気持ちを抑え、大急ぎで着衣を着替えてオジロン様の元へ向かった。午後から重鎮らとの会議が予定されているから昼食抜きを覚悟して行ったが、呼ばれた先には幸いにも食事の用意があった。

「おお、間に合ったな。どうだった? ヒース村は」

「はい。警備範囲を広げていたお陰で、これといった損害はなかったようです。ご用意いただいたのに、到着が遅れまして申し訳ございません」

 真っ先にオジロン様が労ってくださり、その向こうに座る少女が不機嫌そうに会釈した。この一ヶ月間、何度か食事を共にしている僕の従妹、ドリス姫だ。

 既に終盤といった様相だが、彼らの向かいの席には冷めかけの料理がきっちり並べられている。がっつきたいのを堪えて大人しくカトラリーを持った。緊張しつつ食事を始めた僕をオジロン様はにこにこ嬉しそうに眺め、その隣のドリスはうんざりといった様子で顔を背ける。

 六歳下のこの従妹殿は、どうにも僕に対して敬遠というか、警戒を隠さない。リーシャのように慕ってくれたらまだ話しやすいのだけど。いやでも、あの時みたいに要らぬ誤解を招きたくはない。互いに距離をとるくらいでちょうどいいのだろう。

 会議までもう半刻もない。オジロン様のお喋りを相槌と愛想笑いで受け流しつつ、急いで食べきった。大きな粗相もなく食事を終えナプキンを置いたタイミングで、計ったように宰相閣下が入室して来た。今日の会議に参加する諸侯が概ね集まったことを、宰相自ら報せに来たのだ。

「ドリス姫はおいでにならないので?」

 入れ違いに席を立ち、ぞんざいな膝折礼ひとつで去ろうとした孫娘を宰相が呼び止めた。祖父と孫と呼ぶには些か他人行儀なお二人だが、聞けば、早世なさったオジロン様の奥方が宰相閣下の娘御だったのだそうだ。

「私が居る必要なんてないでしょ? その人がパパス前王陛下のご嫡男だって報告するだけなんだから」

 つっけんどんに言い捨てると、ドリスは宰相が言い連ねるより早く出ていってしまった。呆気に取られたオジロン様と、とってつけたように苦い笑いを交わし合う。

「思春期だからな。難しい年頃だ」

 ふぅ、とくたびれた息を吐きオジロン様が立ち上がった。慌てて追従し広間を出る。王の脇を護って歩く宰相が、叔父上の呟きを受けて満足げに薄く笑った。

「これほどご立派な御方が突然従兄としてまみえられたのですから、姫君はさぞ気もそぞろなことでございましょう」

「ええ、いや、嫌われているようにしか思えませんけど……」

 もう何度も仄めかされているので意味はわかるが、いくらなんでも好意的に解釈しすぎだ。週に一、二回は食事に呼ばれて彼女とも同席しているが、親しく言葉を交わしたことも、友好的な笑みを向けられたためしもない。

 寧ろ、僕何かしました? ってくらい冷たくあしらわれてる。本当に何かしたかな、父さんにも叔父上にもあまり似てないから、実は従兄なんて嘘だろって嫌悪感を持たれているとか?

「年頃の御令嬢が、憧れの殿方を前に口重になるのはよくあることです。こと殿下はなかなか美丈夫であらせられる」

「テュールよ、本当に誤解しないでおくれ。ドリスは間違ってもそなたを嫌ってなどおらぬから」

 方や含み笑いで封殺、方や有無を言わせぬ勢いでお二人同時に詰め寄られれば、気の小さい新参の若人にはそれ以上何も言えない。

 そりゃ、歳の近い身内なのだから、仲良くできるならその方がいい。けど、叔父上や宰相が望む方面の期待に応えられる日は来ない。きっと。

「陛下、坊ちゃん。お待ち申し上げておりました」

 玉座の間の真下に誂えられた一際大きな広間で、がやがやと年配の方々が歓談する中、入り口で僕らを出迎えたサンチョはにこやかに敬礼する。オジロン様の後ろに噂の客人が付き従うのを見て、扉付近にいた数名の殿方がざわついた。「オジロン陛下、ご入場!」との掛け声に場内は一度静まり返ったが、上座に設えた玉座の脇、宰相より高いところに僕が座るよう促され、背中に視線がちくちく刺さるのをひどく居心地悪く感じながら席に着いた。

 ──この会議を境に、僕は『トンヌラ』ではなくなるのだ。

「皆、多忙な中よくぞ集まってくれた。今日はグランバニアの新たなる未来について語りたいと思っておる。その前に、先んじて伝えることが二つほどある。まずは、皆も長らく気にしていたであろう。そこな黒髪の若者について、紹介させてもらおうか」

 

◇◇◇

 

「……お疲れですか? テュールさん」

 その夜、いつものようにホイミンを覗いていたが、気づくとまたぼんやりしてしまっていた。フローラと過ごせるのは朝と、すべての課業を終えた夜だけだっていうのに。慌てて笑みを繕い、チェストを戻して彼女が横たわる寝台に腰掛けた。安心させたくて、心配そうに見上げる可愛い額を撫でる。

「ううん、大丈夫だよ。フローラは体調どう? 今日は何をして過ごしたの?」

「今日も縫い物をして、それから、また新しい本を……お借りしました。たくさんお昼寝しましたから、元気ですよ」

 にこやかに頷き、フローラが寝台の傍に置いた白い布地を見せてくれる。診察とマッサージは毎日受けているものの、ずっと寝たきりだからどうしたって心配になってしまう。最近はお腹も少し大きくなってきて、時々足を攣るらしく、黙ってふくらはぎをさすっていることもある。

 裁縫は、半月ほど前から始めた。赤子達の肌着を作ってあげたいんだって。横になって縫い物をするって、色々危なっかしい気がしてすごく不安だったのだけど、絶対に女官がいる時だけやること、また針の管理は侍女がするという条件で容認することになった。読書以外出来ることがなかったから、少しでも手を動かせることは良い気分転換になっているようだ。

 と、フローラがふと慈しみ深く腹に触れた。

 僕もつられて手を伸ばす。横になっているからそこまで目立たないけど、相変わらず華奢な体つきの中、腹部だけが少し盛り上がっている。

「今日はまた、すごい動いてない?」

「ふふ。あなたの声が聞こえると喜ぶんですよ、この子達」

 腹を撫でたらフローラが声を弾ませた。このひとときが癒しだなぁとしみじみ思う。花咲く笑顔が眩しくて、つい身を乗り出し頬に軽く口づけた。唐突なスキンシップにフローラは目許を赤らめ、恥ずかしそうに微笑む。

 お腹の中で暴れられるのってどんな感じなんだろう。しかも二人分。

 今動いたかもしれません、初めてそう言われた時は触っても全然わからなかった。この部屋にスーラが泊まった、あの夜だ。夕食を終えてのんびりくつろいでいたらフローラが急にそわそわし出して、ん? と覗き込んだ僕らに高揚した様子で教えてくれたのだ。あんなに嬉しそうなフローラを見たのはすごく久しぶりだった。

 中から蹴られて痛くないのか不安になるけど、幸せそうにお腹を撫でる妻を眺めていると余計な心配かなと思う。

「……お義父様の件、近々公表されるそうですね」

 ふと目許に影を落とし、フローラが呟いた。女官達から何か聞いたんだろう。ん、と頷き、小さな碧い頭をそっと撫でた。

「いつまでも黙ってるわけにはいかないしね。……今日、重鎮の皆様には打ち明けたよ。父さんの最期と、僕のこと」

 そう、午後の会議の内容がこれだ。叔父上達の説得についに根負けし、今日から順次公表していくことに決めた。まずは諸侯らを集めて伝えて、次に文官、兵士、最後に国全体への告示を行う手筈になっている。

 尤も、一ヶ月も素性を誤魔化した結果がこれかと余計に顰蹙を買ったかもしれないけど。

「今更だけど今度、父さんの慰魂の儀をやるって。それでようやく国務に携わる方々からお伝えしたんだけど、大変だった」

 怒号の嵐だった。僕は気後れするばかりだった。

 非難は主にサンチョに集中した。数年前の帰国時、彼が伝えた以上にパパス王の最期が凄惨だったからだ。生死不明で遺体も残らなかったのだから仕方ない、そう訴える僕の言葉など誰の耳にも届かなかった気がする。

 ラインハットを弾劾せよと主張する声もあった。咽び泣く老人達の声が室内に木霊した。国を捨てるように出奔した父はもっと恨まれていてもおかしくないと思っていた。こんなにも家臣達に慕われていたなんて、思いもしなかった。

「そう、それでね。次の僕の誕生日は、大々的に祝ってくれるって」

 首を振って気を取り直し、これまた先ほど得たばかりの情報を披露した。不安げだった妻の瞳がとくりと綺麗に揺らめく。

「びっくりだよね。誕生日を知らなかったって言ったら、サンチョも驚いてた。実際は幼すぎて覚えてなかったんだけど……九月のね、二十七日なんだって」

 六歳では覚えてなくても無理はない。二歳年上のヘンリーはさすがに自分の生まれた日を覚えていたようだったが、僕を気遣ってかその話題は一切出さなかった。何かの折に問われても「さぁ? 覚えてないよな。歳は今年で十二だっけ?」などと惚けてばかりいた。

 だから、記憶に残る範囲で誕生日を祝った覚えがないのだ。六歳……のときも、恐らく父との旅の中でその日を迎えたのだろう。あまりに朧げな記憶だけれど、確かラインハットを訪ったのは初夏だった気がする。春を取り戻すための冒険をしたすぐ後の出来事だったから、サンタローズの小さな家に戻ったのがその少し前、多分六歳の春だ。

「誕生日なんて知らなかったから、年が明けるごとに数えていたんだ。本当は、次の誕生日で二十歳になるんだってさ」

 自分の生まれた日を今更知るとはなんとも面映い。しみじみと感慨に耽っていたら、ふと、横たわった妻が神妙な顔つきで天井を見つめていることに気がついた。

「……あ! うわ、今更すぎるな。僕、フローラの誕生日も聞いてなかったよね?」

 唐突に思い至り、無意識に腰を浮かせその手を握る。なんてことだ。自分にその習慣がなかったからって、最愛のひとが生まれた大切な日を、今の今まで失念していたなんて。

「あ、いえ、……その」

 いきなり手をとられ、フローラは弱りきった声を出した。

 もしかして、今までずっと僕の境遇を慮ってその話はしないでいてくれたのだろうか。思慮深い彼女を思えばそれが正解のように思えて、ますます自分の至らなさが情けなくなる。

「本当にごめん。誓ってどうでも良かったわけじゃないから……ああもう、知ってたら今までもちゃんとお祝いできたのに。ごめんね、無神経な男で」

「ち、違うんです。そうじゃなくて」

 平謝りする僕を、真剣な声が遮った。

 目を円くして見下ろすと、フローラは妙な緊張で身を固くし、まだ迷いを見せながらも懸命に独白を試みている。

「……わ……私、……私も、あなたにお話ししなくてはならないことが……あるんです」

「──天空の、盾のこと?」

 思わず口にしてしまって、妻が殊の外動揺した様子を見せた。あれ、違うのかな。結婚してからずっと密かに気にしていたことだったから、気が逸ってしまった。

「前に、お義父さんが言っていたから……いつかフローラから話してくれるって」

 起き上がりかけた細い肩を抑えて寝台へ押し戻す。無意識だったんだろう、微かに驚いた妻に首を振ってみせると、彼女は少し戸惑った様子で視線を泳がせた。

「そう、ですね。──はい、……そのことも」

 かそけく呟き、君は一度言葉を切った。室内に束の間静謐が戻る。何から話そうか考えているんだろう。思索に耽る君の手に触れたら、何故だかいつもよりずっとひんやりしているように感じた。

「ずっと、いつお話しようかと考えていたんですけど、すっかりタイミングを失ってしまって。でも、あなたの出自がはっきりしたなら、今度こそちゃんとお話しなくてはって……」

 そこまで言って、フローラは姿勢を正す代わりに、華奢な両手を腹の上にきちんと揃えて重ねる。

 数回息を吐いて整え、目を閉じて……シーツをきゅっと握りしめた君が、僕を見ないまま、意を決して唇を開いた。

 

「私、…………ルドマンの、本当の娘ではない……の、です」

 

 ────さすがに、全く予想もしなかった内容で。

 瞠目した僕を見向きもせず、深く俯いたフローラはぽつ、ぽつりと密やかに言葉を紡ぐ。独り言を呟くみたいに。

「捨て子、なのです。あの盾の内側に入れられて、森の中で一人泣いていた赤ん坊を父と母が見つけたのだそうです。旅先のことで、母は子を望めない身体でした。お二人はそのまま私を、実の子として育ててくださいました」

 本当に君の話か。他の誰かと違えてはいないか。

 感情を交えず淡々と語る、その姿がどこか、ルドマン邸で見たかつての君と重なった。

 街中でビアンカと鉢合わせてしまった時。そして、僕らを自宅へ連れて行った時の。

「書類の上では実子です。出生証明もあります。……ルドマン家ならば証明書くらい、どうとでもなりますもの。当時サラボナでもいくらか噂になったようでしたが、このことを事実としてご存知なのは両親と我が家の家令、修道院のマザーと、数年前亡くなられた前マザーのみです」

 まるで他人事の如くそこまで告げたフローラが、ようやく僕の方を見た。じっと手元を見つめていた瞳は、今、恐れとも悔恨ともつかない暗い色を漂わせている。

「こんな、すごく大事なことを、ずっと黙っていて……本当に、ごめんなさい……」

 項垂れたフローラの掌を包み、顔を傾けて瞳を覗くと、君は今にも泣き出しそうに翠の虹彩を揺らしていた。

 仕方のないことだ。サラボナ公の娘が養女、しかも伝説の盾に護られた孤児だったなんて。

 公にしない方が良いことくらい、僕にだってわかる。彼女の言う通り、あれだけ馴染みの深い船長達ですらご存知ないことだ。ルドマン家の船の上で軽率にできる話ではなかったし、砂漠に入ってからは何かとトラブル続きだった。

 やっと辿り着いたテルパドール城では僕自身の出自について匂わされて、その時告げられてもきっと混乱するばかりでよくよく咀嚼できなかっただろう。

 もしかしたら君は、この事実がどこからか漏れて、義父や僕の立場が危うくなることまで心配してくれていたのかもしれない。

 フローラと結婚して、それまで身寄りのない一介の旅人に過ぎなかった僕は、ルドマン家という大きな後ろ盾を得た。もちろんフローラが側にいてくれたことが一番の支えだったけれど、時折フローラがルドマン家息女として進んで振る舞ってくれたこと。豪華客船をお借りして、頼もしい船員たちの信頼をいただけたこと。宿に困らなくなったこと、言ってしまえば商人のギルドや銀行ですら僕への態度が変わったこと。その名が負う権威の凄まじさを実感しないわけがない。

 驕らぬようにと努めても、テュール・グランは婚礼を挙げたあの日から、ただの根無し草ではなくなった。

 それだけの力を持つルドマン家が、拾った赤子の出自を詳細に調べないはずがあるだろうか。当然周辺の村々と噂は全て確認しただろうし、盾についても同様だ。結果不明であったのか、本人にだけ告げられていないのかはわからないが、大富豪ルドマン卿の一人娘が実は孤児だと知れれば、少し知恵のついた物乞いたちがこぞって名乗りをあげることだって考えられる。

 確かに、ルドマン卿は一人娘であるフローラに手厳しかったが、その真意は限りなく深い男親の愛情だ。盃をいただき、指輪を献じた時の卿を見た僕だから言いきれる。大切な愛娘を一人前に育て上げ、彼女に相応しい伴侶を選び添わせたい。その想いに嘘はなかったはずだ。そしてフローラは万人にそう思わせるに足る資質を持った、どこに出しても恥ずかしくない立派な大公令嬢なのだ。

 ふと、ビアンカをもらってくれないかと言った時のダンカンさんを思い出した。そう言えば、ビアンカとダンカンさんも本当は血が繋がってないんだっけ……

 やっぱり、血の繋がりなんて関係ない。義父もダンカンさんも、娘を思いやる時は同じ瞳をしていた。──それでも、勝手な憶測で好き放題囃し立てる人間や、偽りや騙すことを恥じず陥れようとする輩は少なからずいるから。

「お義父さん、言ってたね。天空の盾は元々フローラのものだって」

 以前義父から告げられた言葉を反芻すると、フローラも頷き、憂いを帯びた瞳を遠く逸らした。

「どうして盾が私と共にあったのか、なのに私自身に扱うことが出来ないのか……今も何もわかりません。拾われたのはラインハット城とサンタローズ村の狭間の森林地帯だったといいます。風変わりな意匠の盾は、持ち手に触れれば鉛よりも重くなり、共にいた赤子は盾から離すと酷く泣いたので、そのまま盾を寝床代わりにするしかなかったそうです。……物心ついた頃、父が懇意にしていた占者様の勧めで、盾を持って修道院に入りました」

 唐突に懐かしい村の名を聞き、再び言葉を失った。

 今から凡そ十六、七年前? その頃の僕はサンタローズにいたんだろうか。もしかして、赤ん坊の君とすれ違ったこともあったんだろうか。

 そんなにも近くに天空の盾が出現していたこと、勇者の武具を探していた父さんが知ったらどんな顔をしただろう。

 長年の執心の所為か、ついそんなことを考えてしまったところで、目の前で項垂れるフローラに意識を引き戻された。否、彼女が続けて呟いた言葉が、あまりにも聞き捨てならなかったから。

「あなたが真実、グランバニア前国王の血を継ぐ御方だと判った今……私のような、どこの血の者ともわからぬ女は枷にしかなりません」

「なんで、そんな……! ならないよ、君は歴としたルドマン大公の」

 思わず大声で遮った僕に、フローラは哀しげな瞳を向けると力なく首を振ってみせる。

「少し調べればわかることです。両親とは似ても似つかぬ風貌に髪の色、しかも旅行中だったとはいえ十八年前、ルドマン夫人が身篭った姿を見た者はいないのですから。重鎮の皆様はきっと、身元不詳の……拾われ子の私を妃とすることに反対なさるでしょう。いいえ、もう既に、他のご令嬢との婚姻を打診されていらっしゃるのではありませんか」

 最後の問いかけにぎくりと心臓が鳴った。瞳を持ち上げた君と目が合ってしまって、確信してしまったのだろう。君はまた悲しげに吐息を漏らし、俯いてしまう。

 即位の暁にはドリスを王妃に。城に上がって顔合わせをさせられてから、実はもう幾度となく提案されている話だ。勧めてくるのは宰相だが叔父上もどうやら乗り気で、なんならサンチョも賛成しているらしい。さっきの会議でも外堀を埋めるが如くさらりとそこに触れられた。

 妻が不安定な状態なので赤子のことは言えなかったが、他国から妻を連れ帰っていることはその場で伝えた。結果は再び凍りついた場の空気と、しかし従兄妹同士であるドリスなら血筋も身分も十分釣り合いが取れるという謎の訴え、その奥方とやらは妾妃にでもなさればよろしいという胸糞悪い提案を異口同音に聞かされる、という最悪の顛末だった。

 減った王族を増やしたいなら、僕とドリスは別々に家を立てた方がいいじゃないか。大体、血が近すぎるのは良くないって聞いたことがある。

 そう主張するも、こちらにはより位の高い姫君がいらっしゃるのに道理が通らぬと譲らない。何だよその道理って。ではせめてご正妃には我が国の令嬢をお召しに、と重鎮達に詰め寄られたところを今日はサンチョが散らしてくれたが、そんな変な話のお陰で会議の後も次々見合いの話を持って来られて大変だったのだ。

 当然だけど、僕自身にそんなつもりは毛頭ない。

 君と一緒に生きていけないなら、祖国なんて必要ない。

「……フローラを妻として認めないって言うなら、すぐにだってここを出ていくけど。僕は」

 できるだけ落ち着いて告げたかったけれど、どうしても棘を孕んでしまう。驚き、翡翠の虹彩を大きく揺らめかせた君が窘めるように僕を呼んだ。

「テュールさん」

「当然だろ。なんでそこまで干渉されなきゃいけない? 王位を継ぎたくてこの国に来たわけじゃない。両親のことを少しでも知ることができれば、そう思っただけだ。大体、フローラは僕の子を身篭ってくれているのに……だったらもう、みんなに言うよ。血筋がそこまで大事だっていうなら、今まさに直系の赤子を授かっているフローラの方が僕よりずっと大事だって。違う?」

「それでも、皆様から見ればあなたとの血縁を証明できるものは何一つありませんもの。ましてや私は本来、親を知らずに育つはずだった捨て子。ことは一国の存続に関わること、要らぬ火種を避けたとして、どなたをも責められることではありません」

 僕の憤りを鎮めるべく、フローラはゆっくり、誠実に言葉を選ぶ。だからってそんな、悲しいことを君の口から聞きたくない。言わせたくない。

 君の言うことはある意味、恐ろしく正しい。さっきの老人達にこのことが知れたら、フローラがどう処断されるか本当にわからない。今更ながら肝がぞっと冷えた。僕の意思なんて関係なく、サラボナ公がグランバニア王室を欺いたなどと叫び出すかもしれない。さっき父のことで、ラインハット王国をあんなにも激しく責め立てたように。

「あなたの身上はサンチョさんがはっきりと判じてくださいました。王位継承の試練も、あなたなら難なくこなされるでしょう。けれど、私が産む子がグランバニア王家に正しく連なるかどうかは、成長して同じ試練を受けてみないと確たるものとはならないのです」

「身に覚えがあるの? 僕の子じゃないって」

「そんなこと!」

 静かに問いかけた僕に、妻が珍しく声を荒げた。間髪入れず否定してくれたことが嬉しくて、僕を見上げた君の頬を掬いとる。

「……それで、いいんじゃない」

 翡翠の瞳が、綺麗に見開かれて僕を映す。

 陶器のような白磁の頬が、触れたところから紅を灯して。

「僕が君を信じる。それだけじゃ足りない?」

 その滑らかな肌を今一度、愛しく撫でる。震える翡翠を彩る睫毛に、指先だけで優しく触れた。

「誰に何を言われても関係ない。君はフローラ・グランで、誰よりも大切な、たった一人の僕の妻だ。お腹の子だって、間違いなく僕の子だよ。……あれ、正しくはフローラ・ルドマン・グランバニア、になるのかな? なんか締まらないね、正式な名前って慣れなくて」

 くすりと小さく笑みを零したら、答える代わりに、頬を包んだ掌に温かなものが伝い落ちた。

 濡れた睫毛をぎゅっと瞑って懸命にこらえようとする彼女に、その耳朶を食むように顔を近づけて。

「僕の妻は君だけだって、ずっと前にも言っただろ」

 囁けば、フローラはこくこくと必死に頷いてくれる。

 僕のためにって。いつだって何より僕を優先して、僕に必要なことを精一杯考えてくれる君だけど、僕が一番必要としているのは君そのものなんだって、いつになったら本当の意味でわかってもらえるだろうか。

「フローラはしっかり者だけど、僕の前でだけ泣き虫だよね」

「……っごめ、な……さ……」

「いいんだよ。寧ろ、嬉しい」

 ぽろぽろと泣き崩れた妻に覆い被さり、そっと背中をさする。指を噛んで嗚咽を堪えるフローラがいたわしくて、愛おしくて。甘い香りの髪を梳きながら「ほら、そんなふうに泣いたらお腹の子たちが心配するよ。お母さんどうしちゃったんだろうねって」と声をかけた。頷き、涙を拭おうとする歯形のついた君の指を掴み取り、治癒魔法を唱えながら第二関節に口づける。

「そういえば、名前って考えてる? 最近、暇があるとつい考えちゃうんだけどさ。双子なら男女二つずつ、用意しておいた方がいいのかなって」

 何度も背中をさすってようやく落ち着いた頃、このところ思案していた名付けの話を振ってみた。やはり考えていたものがあるらしく、すぐ頷いたフローラはやわらかな笑みと共にひとつの案を披露する。

「……そう、ですね。男の子でしたら、リオ、なんてどうかしらって。旧い神話の、太陽の神様の愛称なんです」

 まだ睫毛を濡らしたまま微笑んだ彼女は、幸せそうに「あなたみたいに、太陽のようなあたたかい光で、誰かを導く存在になってくれたら」と付け足してくれた。

 僕には勿体無い由来に胸が熱くなる。「太陽、かぁ……」と恥ずかしさを紛らわせて呟いたら、ふともう一つ、対になる名前を閃いた。

「じゃあ、女の子だったらルナがいいな。確か月神だよね。どんな暗闇からも、月が完全に消えることはない。呑まれたと思っても必ずまた蘇る。そんな希望を、思い出させてくれるから」

 リオ。ルナ。

 まだ性別もわからないのに、何故かひどくしっくりきた。

 妻も同じだったようで、二人で出し合ったそのふたつの名前を大切そうに呟くと、優しい手つきでまたお腹を撫でていた。

「────やっぱり、天女なんじゃないかなぁ」

 母性溢れる微笑みと仕草を眺めていたら、ふとそんな独り言が喉からこぼれた。

「……、え?」

「ううん。もしかしたら、フローラの本当のご両親は天空人だったんじゃないかな、って思っただけ」

 寧ろ、何で今までそう思わなかったんだろう。

 不思議そうに見上げる可愛い君を見下ろして、その繊細な碧髪を一房、左手に掬った。なめらかな髪が水のように指の間をさらさら流れ落ちていく。ルドマン卿の実の娘だと思っていたのだから当然だけど、彼女の口から真実を聞いたあと閃いたイメージは何故だか妙に腑に落ちた。

「こんなきれいな空色の髪、フローラ以外に見たことないし」

 いつだったか、やっぱりこんなことを君に言った気がする。遮るもののない真っ青な空の下で。

 君が話してくれた、幼い頃から君を苦しめてきた悪夢が……まるで翼を失い堕ちてくる天女みたいな彼女の幻が、いつかの虚空の果てに視えた気がした。

「ああ。でも、嫌だな。空に連れて帰るなんて言われても、僕は絶対君を手放せない。雷に打たれたって離すもんか」

 今だって側にいるくせに。どうしようもなく寂しくなってしまって、思わずフローラに寄り添い抱きしめた。半ば潰される形だったが彼女は押し返すことはせず、代わりに細い両腕を硬い背にそっと這わせてくれた。

「離さないで、くださいね……」

 暫し、無言で抱きしめあって。胸許から届いたのは、ひどく儚い、切実な声だった。

「ごめんなさい。最近なんだか、怖いの。何か良くないことが起こってしまいそうで」

 身を起こして覗き込むと、彼女は不安に瞳を揺らしながらも力無く笑う。

「きっと、身篭っているからですね。妊娠中は良くないことばかり考えてしまうものだと、女官長様も仰っていましたもの」

「楽しいことをたくさん考えよう? 無事に生まれて少し落ち着いたら、ピクニックなんてどうかな。みんなもフローラに会えなくて、すごく寂しそうにしてたんだ」

 仲魔達のことを口にした瞬間、ずっとわだかまってるあの寂寥が胸を抉った気がした。城を離れたことは伝えたけれど、その後彼らに全く会えていないことはフローラに言えていない。

 何気なく腹に触れれば、ととんと応えるように胎動が返った。子供達も行きたいって言ってるのかな。仲魔達と家族みんなでピクニック、うん、すごく楽しそうだ。

 君もまた、ここに来る前と少しも変わらぬ親しみを滲ませて微笑み、頷く。

「私も、会いたいです。とても」

 そうやって君が彼らに変わらぬ親愛を傾けてくれることが、どれほど今、僕の心を支えてくれているか。

 彼らと行動を共にするようになった当初から、彼女が仲魔達を疎んじたことは一度もない。

 そうだよ、わかってくれる人はいる。フローラだけじゃない、この一年で僕自身が経験してきたことじゃないか。

「……うん。やっぱり、諦めちゃいけないよね。みんなを受け入れてもらえるようもっと考えないと。何か、この国の役に立てるようなことがあれば、皆さんの魔物を見る目も変わると思うんだけどな」

 ストレンジャー号の船員達だって、初めはあんなに警戒してたんだ。そわそわ考え始めた僕をフローラが微笑ましげに見つめる。何も聞かずに見守っていてくれた君は、実は全部お見通しだったのかもしれない。

 何かヒントがないか、顎に手をやりこれまでの旅路をつらつら思い返していたが、ふと引っかかりを覚えてフローラの方を向き直った。

「もしかして、テルパドールでグランバニアの話を聞いた時から……ずっと悩ませてた?」

 生い立ちのこと、盾のこと。妊娠のことだってそうだ。生真面目な君はいつ話そうか相当悩んでくれただろうに、いきなり降って湧いた僕の出自、故郷を優先させて、そのタイミングを失わせて。

 挙句、さっきもあんなに緊張しながら告白させてしまった。

「ごめん。何もかも、僕が不甲斐ないのがいけなかった。フローラ一人に悩ませて、相談もさせてやれないで……とことん駄目な夫だな、僕は」

「違うんです。違うの……」

 独り善がりな謝罪を聞いても、君は微塵も僕を責めない。

 ふるふると哀しげに首を振り、フローラが僕の厳つい掌をきゅっと握った。

 つられて再び抱き寄せれば、彼女は懸命に胸板へと頰を擦り寄せる。

「不安でも、大丈夫だったんです。だって……いつだって、あなたがたくさん愛してくださったから」

 微かに揺れる細い声。触れた指輪から滲む清涼な気配は、君の真摯な想いを何よりまっすぐに伝えてくれる。

「愛しています。テュールさんを、誰よりも。私に守れるものなら何だって守ります。だから……だから、今は何も聞かず、お側にいさせてください」

 黙って聞いていた僕の肩に、小さな額がとん、と触れた。

「今は、なんて言わないで。僕はずっと君の側に居るよ」

 できるだけ優しく、碧い髪を撫でてそう囁いたけれど。フローラは黙って一つ小さく頷くと、苦しげな……ひどく痛々しい独白を、誓いを、吐息に溶かして胸に落とした。

「あなたを一人にしません。……絶対に、ひとりにはしませんから────」

折れそうな腕を僕に縋りつかせて、彼女は嗚咽を押し殺し、静かに、静かに泣いていた。

 その時の彼女の言葉の意味は、僕には良くわからなかった。

 けれど、消えそうな囁きがあまりにも切実で、僕はもう黙って抱きしめ返すことしかできなかった。

 その誓いにこめられた本当の意味を理解したのは、

 ……本当に、情けないことに、

 それから八年も、時が経ってからのことだった。




㊗️DQⅤ31th‼︎ 
あまり動きのない回で申し訳ない。次の次くらいでデモタワ回突入します。嫁ロスに耐えられるのか…今から不安…


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#12. 欠けては満ちる

「……マジでか! 双子? つか懐妊⁉︎」

 年の瀬ぶりに再訪したラインハット王城の最上階で、王兄ヘンリーは話し始めて早々、前のめりに肘をつき頓狂な声を上げた。

 王兄夫妻の寝所として使われているこの正殿は陽当たりが特にいい。昨年末、木枯らしを遮り陽光を取り込んでいた大きな窓は、今は薄いカーテンをたなびかせ、適度に日光を遮りながら心地よい風を絶えず取り込んでいる。

「うん……や、ヘンリー、ちょっと大袈裟」

「いや、だって、なぁ。いきなりそんなめでたい報告聞くとか思わねーじゃん。そうかぁ、おめでとうな。なんか信じられないわ、お前が人の親になるなんてさ」

「それ、今ヘンリーが言う? マリアさんだってもうすぐ生まれるっていうのにさ」

 ヘンリーが嬉しそうに隣の細君を振り返り、僕もソファにもたれたマリアさんへ視線を向けた。男二人に見つめられ、マリアさんは臨月の腹を撫でながら「おめでとうございます、テュールさん。この子に歳の近いお友達が出来るなんて本当に嬉しいですわ。しかも、二人も」と朗らかに応える。

「ありがとうございます。順調そうで僕も安心しました。お腹、すごい大きくなりましたね」

 同じく腹の膨らんだ妻を思い出しながら労えば、マリアさんは幸せそうにおっとりと頷く。ヘンリーも嬉しそうに頬を掻いた。

「何にせよ、良い方に向かってるみたいで何よりだ。親父さんとお前の素性もはっきりしたんだろ」

 香り高いカップを揺らし、ヘンリーが静かな安堵を滲ませた。ここでそれを口にすると言うことは、マリアさんも全てを承知しているということだ。

 どうなんだと青い目で問われ、黙って頷き肯定した。僕の父さんが真実、グランバニアの前国王であったことを。

「……さすがに、もう全部伝わってるよな。ラインハットはいつなりとも貴国の申し入れを受け入れる。それだけはわかっていてくれ」

 気丈にしていたヘンリーが深々首を垂れて、その横顔をマリアさんがおろおろ覗き込んだ。僕も、グランバニアで責め立てられたばかりだったからすぐ否定してやれなくて。三者三様に項垂れたあと、申し訳なさそうにヘンリーが顔を上げた。

「ごめんな、俺の一存じゃすぐにどうこうできなくて」

「いいって。十年以上前の話で、今のラインハットを統治してるのは当時のことに直接関わりない方ばかりなんだから。グランバニアも……皆、知らされたばかりだから、頭を冷やす時間が必要だと思うよ」

 言葉を選びつつ今度こそ首を振る。きっと僕が関わり続ける限り、ヘンリーの悔恨が終わる日は来ないんだろう。

 わかっていながら酷だと思う。それでも尚、友として接してくれることを心から有難く感じる。

 素性を公表してから、城内での僕の扱いが少し変わった。

 順次国民に知らせていくという話だったが、結局まだ文官止まりになってる。というのも当然ながら、出自を疑う声が出た。正確には、王家の証による証明を求められたのだ。

 坊ちゃんを疑うとは不敬の極みとサンチョは憤慨していたが、正直僕自身も憶測だけで王族扱いされたくない。証の選定も当然受けるつもりでいた。但し、本来この儀式は新年に行うものだそうだ。さすがにそこまで待てないということで今回は慣例に従わず吉日を選ぶことになって、それが次の満月の日に予定されている。

 しかも、フローラの出産予定日が凡そ二ヶ月後に控えている。僕の誕生日がそのまた一ヶ月後で、慶事続きの流れに立太子の儀をも捩じ込むのであれば先にパパス前国王陛下の慰霊を為すべきとの議論が紛糾し、結果、先の数ヶ月間は甚だ無茶な予定が詰め込まれた。何事もなく済めばいいけど、なんとなく不安ばかり募る。

 ともあれ諸侯の態度は変わり、兵士達も空気を読んでか前より丁寧に接してくるようになった。必然的にこれまで詰め込まれていた予定が緩和され、干渉されない自分の時間を捻出できるようになった。それで何かと理由をつけてはこの半月、あちらこちらを渡り歩いているのである。

「そんで、いつ頃生まれるんだ? 年の瀬かな、いやもう少し先か?」

 話題を変えてくれたのは嬉しいが、その話は正直地雷である。曖昧に相槌を打つと、ヘンリーは得意げに腕と脚を組み、わざとらしく尊大な態度を見せた。

「あん時俺の話聞いといて良かっただろうが。やぁっぱ、持つべきものは頼り甲斐のある親分様だよな」

「あー……うん。そう、だね」

 いつもの軽口に違いないが、本当に洒落にならないんだ。

 思わず目を泳がせたが、頬に頭にヘンリーの視線がちくちく刺さる。ここまで言って誤魔化せるわけもなく。

「……ごめん。本当はあんまり役立てらんなかった。結局妊娠に気づかず山越え、まで……させちゃったし」

 勇気を振り絞り、ついに白状したものの余りに居た堪れずテーブルに着かんばかりに首を垂れてしまった。怖くて、特にマリアさんの顔を見られない。

 今まさに優雅に茶を飲もうとしていたヘンリーは、衝撃のあまりその姿勢のまま固まっていた。危うくこぼれかけた紅茶を、マリアさんが慌ててカップごと支えてくれる。

「って、え、……お前、…………え?」

 あああ。ほんと有り得ないよね。身篭らせておきながら、能天気にも険しい山を登らせただなんて。

「グランバニアに着いたらもう、絶対安静でさ……」

 そろりそろりと言い添えれば、二人とも完全に絶句した。そりゃそうだよ。直前に、妊娠して安静にしていたマリアさんに会ってたっていうのに。我ながら本当に酷い話をしてると思う。

「双子だから早く産まれる可能性が高いそうだけど、それでもその……八月末くらいの予定。こないだ年の瀬に一度来たじゃん、ちょうどあの頃授かってたみたいで」

 はち、がつ。

 最早茫然とヘンリーが呟き、再び居心地悪い沈黙が満ちた。僕だってまさかこんなことになるとは、半年前ヘンリーの説教を聞いた時には想像もしなかった。いや、実感には程遠かったというか……漠然と、僕も欲しいなって思っただけだったんだな、と。無責任にも程がある。

「…………いや、まぁ、男にゃわからんからな……そうか、大事なくて良かったが……いや、なかった……のか……?」

「本人は途中で気づいてたらしいんだけど、途中魔族に襲われたりして、お産まで村に留まれる状況でもなくてさ。村にはお医者様もいなかったし」

 出血しちゃったから、余計に言えなかったみたいだと。躊躇いながら伝えたら、二人とも再び唖然としていた。僕は僕で月のものだと勘違いする愚を犯したし、あの時フローラはもう流れたと思いこんですごく落ち込んでいて、だからこそ侍医に赤ん坊が無事だと伝えられた時には安堵のあまり泣き崩れていた。

「早くグランバニアにって、その一心で……頑張って、くれて」

 そこまで告げたらもう、こみあげるものに耐えきれなくなった。卓に肘つき、額を抑えて重く息を吐く。

「……あー、もう。駄目だね。自分の至らなさがとことん嫌になる……」

 普段余裕がないのもあって考えないようにしていたけど、つくづくとんだ人でなしだ。ヘンリーも何やら「いや、それなんつーか……お前らってほんとさぁ……」とぶつぶつ呟いていたが、それ以上言及することは諦めたらしく、溜め息をついて隣の妻を振り返った。

「なあマリア、何かアドバイスがあったら言ってやってくれよ。妊婦じゃないとわからんこともあるだろう?」

「あ、そう、ですね……」

 急に話を振られた王兄妃が再び狼狽える。昔馴染みとはいえ、臨月の大変な時にこんなろくでなしの相手をさせて誠に申し訳ない。暫し思案していたマリアさんが、では、と遠慮がちに口を開いた。

「双子については知見がないので、大したことは申せませんが……乳母はもうお探しになりましたか?」

「乳母、ですか?」

 存在は知っているけど、なんとなく別世界の人というイメージで考えたこともなかった。思わず復唱すれば、マリアさんは生真面目な表情のままこくりと頷き、続ける。

「私も、私の代わりに授乳……赤ちゃんにお乳をあげられる方を探してもらってあります。一年以内にご出産された方で、お乳の出が良い方に手伝っていただくんです。フローラさんは双子ということなので、乳母がお一人では足りないのではないかなと思いまして」

 ああ、確かに母子像みたいな絵は見たことある。母親が赤子に乳を吸わせているやつ。なんとなく直視し辛かったのだけど、ああいう記憶が恐らく全くない僕は、女性に対する気恥ずかしさと母性に対する羨ましさを拗らせてしまっているのかもしれない。

 指摘してくれたマリアさんの観察眼に心底感謝しつつ、そういう話を何も聞いてないことに落胆した。探してもらってあるかもしれないけど、確かに夫である僕が確認しないといけないことだし、妻子がお世話になるであろう方々のことは寧ろちゃんと知っておきたい。

「双子ということは、お乳も二人分必要になりますでしょう? 私がご心配申し上げることではないと思いますが、念のため、お帰りになりましたら確認してさしあげてくださいまし」

「ありがとう、ございます。そうですよね、全然考えていませんでした……僕の時は赤ん坊の時分に父が旅に連れ出したと聞いていたから、なんというか。そっか、赤ん坊ってお乳が必要なんですよね。なるほどなぁ……」

 うん、本当に勉強になる。これならフローラの役にも立てそうだし。思わず本音を漏らし感慨に浸っていたが、気づけばヘンリーとマリアさんが憐れみに満ちた目で僕を見つめていた。どうやらまた失言していたらしい。

「そういえば、ヘンリー。こんな時に聞くのもあれだけど……光の教団って今、どうなってる?」

 話題転換ついでに、気になっていたことを訊いてみた。今や国防を進んで担っているヘンリーが、瞬時に表情を引き締める。

「うちの領内のってことだよな? いくつかの村に入り込んでたのを潰してやったが。しつこいんだよ、あいつら」

 険しい表情で吐き棄てたヘンリーだったが、心配そうに見上げる奥方の金の髪を優しく撫で、すぐ穏やかに微笑んでみせた。

「うちはまぁ、修道院があるから。南の方は特に信心深いし、心配はいらないさ」

 流れ着いた時は知らなかったが、あの海辺の修道院は世界有数の規模を誇っている。神の塔と呼ばれる建造物然り、ラインハットは今や天空教の中心地と呼んで過言ではなかった。太后に成り代わった魔族が城を掌握しても揺るがなかった神の使徒である。当然、周辺の住民、特にオラクルベリー以南は天空信仰が強い。確かにヘンリーの言う通り、異教が入り込む隙はなかろうと思われる。

 かつて宗教国家として隆盛を誇った聖エルム教国をはじめ、各地に点在していた天空教の聖堂はそのほとんどが魔族によって滅ぼされ、今では祠として慎ましく竜神を祀るばかりとなっているのだった。小さくとも祠は現存する貴重な聖域である。悪しき魔物を近づけないのはさすが、神の力というべきか。

「……まさか、グランバニアでも?」

 やはり彼は鋭い。ずばり核心をついた親友に、何と説明したものか考えあぐねる。僕が一人で怪しんでいるだけで、今のところ何かおかしなことが起こっているわけではないのだけど。

「わからない。光の教団とは聞いてないんだ。ただ……随分前から、天空教じゃない別の宗派が幅を利かせてるらしくて」

 ふむ、とヘンリーが顔を顰め、マリアさんもまた不安そうに肩を震わせる。もしかして、ラインハットをじわじわ侵食している奴らと何かしらの繋がりがあるんじゃ、と思ったんだ。光の教団だって一枚岩じゃないかもしれない。

 できるだけ偏見と憶測で話さないよう、少ない情報を精査しながら伝える。

「国教はもちろん天空教だよ。ただ、天帝よりもっと古い神への信仰を説いている宗派が教会の中にあるんだって。その人達は自分達の教義を『イブール教』って呼んでるらしい」

「イブール……」

「マリア?」

 黙って聞いていたマリアさんが神妙な顔つきで口籠り、ヘンリーがその横顔を覗き込んだ。蜂蜜色の髪を柔らかく揺らし、王兄の寵妃は困ったように眉尻を下げる。

「ええ…….その、どこかで聞いたような気がしたのですが、思い出せなくて」

 ごめんなさい、きっと気のせいですわと言い添えたマリアさんの背中を優しく撫でて、ヘンリーが改めて気鬱な息を吐いた。膝に肘をつき、整った翠の髪を手荒く掻き上げる。

「関係ないことを祈るしかないよなぁ。光の教団だけでも面倒だってのに、なんなんだよ……」

「竜城が地上へ降りられたというお噂はまことなのでしょうか。これももう随分昔のお話ですよね?」

 一時期修道女を務めたマリアさんはフローラに劣らず敬虔だ。不尊な言い回しを避けた妃に、ヘンリーが疲れた相槌を返す。

「それも状況から推察できるってだけだ。まぁ、見た人間がいたとしても、もう百数十年は前の話さ」

 その話、テルパドールでもう少し調べてくれば良かった。

 ラインハット城の学者も長く研究しているが、詳しいことは今もわかっていないらしい。昔、天空城が空から堕ちたという話。といっても落下する城そのものを見たものはおらず、主には大規模な天変地異の口伝が残っているだけなのだが。

 ある時太陽と月が闇に隠れ、嵐が世界を蹂躙した。長きに渡り昼が消え失せ、人々は常夜を怯えて過ごした。やがて地面は激しく震撼し、津波が各地を呑み込んだ。世界を覆った暗雲は徐々に晴れたが、代わりにそれまで見ることのなかった恐ろしい魔物が地上を跋扈するようになったのだそうだ。

 まるで竜の唸り声のようであったと、大災厄を生き延びた方々が伝えている。天空城は天空の血を引く者でなければ入れないという。勇者を見送って千年余、天空城の所在を確かめた者はいない。それでこの不敬な噂がまことしやかに囁かれるようになったのだ。

 天帝神竜は魔族に討たれ、天空城は堕ちたのではないか、と。

「天空に座す竜がこの世を護り、その加護で魔の者が封じられていた。何か起こったが故に世界は一度闇に覆われたわけで、だったら勇者来たらんって予言はどうなんだって話なんだよな……」

「──……本当にね」

 何気なく頷いたつもりが、目の前の二人がぎょっとしてこちらを見た。また怨みがましい感情が滲んでしまったんだろうか。弁解する前に、ヘンリーがすかさず腕を伸ばし僕の肩を叩く。

「ま、そう言うな。これから父親になろうってやつがしていい目じゃねーぞ、それ」

「言ったのはヘンリーだけど」

「うっさいわ。とりあえずこっちは目を光らせとくから、お前も気をつけろよ。なんかあったら遠慮なく俺を頼れ」

 さらりと告げられ虚を衝かれた。瞬きした僕を可笑しそうに見遣り、ヘンリーがまた不敵に笑う。

「一人で抱え込むなっつってんの。親友だろ」

 本当に、ヘンリーは僕に心を砕きすぎだ。胸が熱くなったが、ふと彼の向こうの柱時計が視界に入り、大慌てで立ち上がった。

「ああ、ごめん。もう帰らないと」

 あっという間に小一時間過ぎてしまった。結局転移魔法のことは城の誰にも言っておらず、今日も行き先を告げずに来たのだ。郊外の見廻りと言って誤魔化したけど、いちいち詮索されたら厄介だから。

 サンチョ達の目を盗んで行動することは難しくないが、心労が溜まる。先日もサラボナにほんの短時間、義両親へ懐妊の報告をするため帰郷した。グランバニアでの出来事をひどく掻い摘みながらお話ししたところ、義父はやはり僕の出自に見当をつけていらしたご様子だった。父さんの話もしていたし、会ったことがあるとも言ってらしたから当然かもしれない。

 お二人とも愛娘を直接見舞えないことを残念がっていたが、産後落ち着いたら必ず孫を連れて訪問すると約束した。義母は孫の服を作って待っていると嬉しそうに言ってくださり、こういうところ、血は繋がらなくともやっぱり母娘なんだよなぁなどとしみじみ思ったのだった。

 城を去った仲魔にも、凡そひと月半ぶりに会うことができた。だが再会を歓ぶ暇はなく、密かに頼んであったユリウス司教様の護衛の報告を手短に受け、またこちらの事情を説明するに留めた。ユリウス様はその後、僕の馬車を移動させる名目でご実家のある村へと移送されたが、ゲマと思しき魔族の狙いは彼だったようだから、ピエールをはじめ数匹の仲魔達に可能な範囲で守ってもらうよう指示してあったのだ。

 村に入ったこともあり直接張りついての護衛はできないが、今のところ問題なさそうだと聞いてほっとした。数日毎にマーリンが知人を装い訪ねてくれているそうだ。僕よりよっぽど世慣れた仲魔達の機転に、つくづく感謝の念が絶えない。

 そんなこんなで城の人に気づかれず行動するため、最近は無駄に神経を使っている。変に疑いを持たれて折角の自由時間を削られることは避けたい。

 明らかに挙動不審だっただろうが、二人とも快く見送ってくれた。その場でマリアさんに別れを告げ、ヘンリーはわざわざ城門の外まで付き添ってくれる。

 ここまででいいからと、跳ね橋の袂で振り返ったところで、ヘンリーが衛兵に背を向け声をひそめた。

 

「……参列、させてくれないか。親父さんの慰魂の儀」

 

 これを言いたくてついてきたのか。瞠目した僕を苦笑いで見遣り、ヘンリーはひらりと掌を振ってみせる。

「もちろん一般人としてだよ。俺が、個人的に行きたいだけだ」

 それは、そうだ。今ラインハットから国賓を迎えるなんてことできるはずがないし。いや、庶民に混じるのも厳しいと思う。グランウォールと城郭に護られたグランバニアは、旅人の来訪もほとんどなかった孤立した国だから。

「町人に混じって祈るのも難しいか?」

 顎に手をやり考え込むと、ヘンリーが遠慮がちに覗きこんだ。あまり気負わせないよう言葉を選ぶ。難しいっちゃどう頑張っても難しいんだけど。日程的にも、人員的にも。

「いや……どっちかというと、往復の方が。今日も人目を避けて来たからさ」

「? なんだそりゃ。軟禁状態ってか?」

 ヘンリーは軽く茶化してくれたが、わりと的を射ているのが嫌だ。情けなく笑う僕を見てまた眉尻を落とし、ヘンリーが一歩退いて肩を縮めた。

「悪い。無理ならいいよ。困らせたかったわけじゃないんだ」

「そんなことないって。ヘンリーが来てくれたら、父さんだって絶対喜ぶ」

 あの時、頬を打ってまでして諌めた王子がこんなにも立派に育ったんだ。父さんならめちゃくちゃ喜ぶに決まってる。それだけは、幼い記憶ながらも自信をもって言える。

「……来て欲しいよ。親分が居てくれたら僕も心強い。父さんの祭儀だから、僕が一般の席に行くことはできないけど」

「んなもん当たり前だろ。忙しいのに無理を通して申し訳なく思ってる。……本当に、ありがとうな。テュール」

 慰霊の儀の日取りを告げると、ヘンリーは真顔で深く頷き「前日から空けておく。お前の都合がいい時に迎えに来てくれるか」と答えた。

 城下の人々には訝しまれるかもしれないけど、パパス王の慰霊の儀となれば国全体に言触れがいく。既に報せを各地に出しているはずだ。遠方の村から来たとでも言ってもらえばいいかな、そのように提案すると、ヘンリーは一も二もなく頷いた。村人らしい衣服を用意しておくとまで言ってくれる。

 それ以上のことは、今は何もわからないから。できれば当日、迎えに来る旨を改めて約束して、名残惜しく祖国へと戻ったのだった。

 

 

 

 そういえば、至チゾットの洞窟で遭遇した魔族のことをヘンリーに伝えそびれてしまった。ゲマかもしれない、フローラ達を襲った、強大で凶悪な魔の者。

 フローラのことで頭がいっぱいで、そのことにも一瞬触れたのに抜け落ちてしまったのだ。そう思い至った瞬間、何とも言えない感慨が己の胸を駆け抜けた。長年燻らせ続けた憎悪を失念できるほど、僕は今、フローラのことが大切でたまらないんだって。

 いよいよ選定の儀を間近に控えた六月下旬の午後、城に早馬が届いた。近郊の村で病気療養していたとある司祭の訃報だった。報告書を見た瞬間、顔に出さぬよう衝撃を必死に封じ込めた。その報せには故人として、ユリウス・エベックの名が記されていたから。

 何故? 仲魔達が見張ってくれていたのに。すぐに会って話を聞けないのがもどかしい。サンチョも見舞ってくれていたはず、捕まえたかったが折悪しく彼はしばらくの間不在だった。後で知ったが、お身内の少ないユリウス様の葬儀の世話を一手に引き受けていたのだそうだ。僕も行きたかったけれど、公にユリウス様と面識がない身では参列すら無理だった。

 僕に言わなかったのは負い目を感じたからだろうか。不信感なんて抱きたくないのに、全てが終わるまで教えてくれなかったサンチョに苛立ちを感じてますます自己嫌悪する。

 この訃報があって、元々ぎりぎりで組まれていた予定がさらに変更されることになった。その次の満月、なんと慰霊の儀の前々日に選定の延期日を捩じ込まれたのである。憤懣やるかたないが、教会に突っぱねられてはどうしようもない。

 イブール教とやらがのさばる現教会の重鎮達は、政務から独立した存在として随分な権威を誇っているようだった。

 教会にも何度か足を運んでみたが、天空教を祀る聖堂に堂々、イブール教のものと思しき絵が数枚飾られている。女の絵に見えるがまさか聖霊ルビスだろうか。他所で見たものとは表情も違うし、闇に浮かぶ女性が纏う着衣は黒で塗り潰されていて、今まで見たルビス像に比べひどく重苦しい雰囲気が漂う。修道女に聞いたところ、創世神話が描かれているとのことだった。混沌の闇に満ちた太古に光を生み出した神を描いているそうだ。

 僕の偏見が過ぎるんだろうが、どうしてもイブール教とやらがまともな宗教と思えない。否、宗教というものに対して懐疑が過ぎるのかもしれないけど。そもそもまともな宗教って何だ?

 父が死んだ日も、奴隷として過ごした日々も、サンタローズが焼き討ちされたり船がいくつも沈んだりしたことも、未だ勇者が姿を現さないことも。

 足掻くことでしか越えてこられなかったから、手を差し伸べてくれるのはいつだってヘンリーやフローラ、仲魔達と周りの人々だったから。それは光の教団やイブール教に限った話じゃない。

 ……それでも神に縋らずいられないのは、人間の哀しき業なのか。己の力が及ばぬ領域を前に僕らは無力だ。

 その日は新月の雨の夜だった。全ての政務を終えて寝所へ戻ると、フローラが微妙に浮かない顔をしていた。大きく膨らんだ腹を両手で包み、大丈夫です、と微笑んでいたが、室内の浴室で湯浴みをして戻ると妻が寝台の上で背を丸め、ひどく青褪めていたのだ。

「……少し、張っているのか……痛い気がして……」

 こんな状態で少しの我慢もしないでくれ。大慌てでネルソン様を呼び、その晩は不安でほとんど眠れなかった。原因はわからないが、腹の張りが強く陣痛に繋がってしまいそうだということ。予定日まであと二ヶ月、今産まれてしまうと何らかの異常を来す可能性が高いと言われて、最早神に祈る以外僕に何が出来ただろう。夜間テラスを打ち続けた雨が止み、ひとまず落ち着いたようですと明け方ネルソン様に告げられるまで生きた心地がしなかった。

「ご心配、おかけして申し訳ありません。あなたの大事な時ですのに……」

「フローラより大事なことなんてないから。本当に良かった……今日も絶対に無理しちゃだめだよ。少しでもおかしいと思ったら、気のせいでもいいから先生を呼んで」

 こんな状態の妻を置いて仕事に向かわねばならないなんて。ヘラ女官長とクロエさんにフローラのことをよくよく頼み、執務室へ向かった。寝不足と安堵の緩みもあり、その日は勉強にも執務の補佐にも全く身が入らなかった。

 どこで聞きつけたか、教会の幹部が珍しく声をかけてきた。僕の素性を知るお偉方の一人だが、この人達がフローラの見舞いに来たことはない。早産を懸念するとともに無事なる出産を祈ると語り、商人のように愛想笑いしながら一冊の本を手渡してきた。竜神は我々を見放されたが、我が神は殿下を見守っておられますのでご安心を。あからさまな宗旨替えを促され、思わず笑いそうになってしまう。

 本は気になったので受け取ったが、少し開いたら気分が悪くなったのでそのまま執務室に放置してしまった。光という単語が頻出するあたり光の教団の経典とも取れるし、無関係の創世神話を元にした教義であるとも読める。イブールって神様の名前なのかな。そのうちラインハットに持って行ってヘンリー達にも見てもらおう。

 その三日後、昼間の執務中珍しく奥の宮へと呼ばれた。それとなく聞いておいた、乳母を務めてくださる方々との顔合わせだった。僕の素性はまだお偉い様しかご存知ないので、人選は大変難航したらしい。ただでさえ慌ただしい中、申し訳ない限りである。

 紹介された婦人はお二人、どちらもふっくらした身体つきの、優しそうな方だった。落ち着いた雰囲気のご婦人はある兵士長の奥方だそうで、三月ほど前に出産なさったばかり。歳の離れた二人目で、上に八歳の兄が居るらしい。もうお一人は一人目のお子さんを、半年前にお産みになったそうだ。

 国民の混乱を懸念し、慰霊の儀までは素性を明かせない、恐らくお二人がご想像の通りであるとだけ伝えられている。乳母のお勤めに関しても他言無用という極めて不誠実な依頼……実質は王家命令で断れなかっただけかもしれないが、お二人とも快く引き受けてくれた。寝台からひたすら申し訳なさそうにしているフローラを、ご婦人らが口々に元気づけてくださる。

 ただ、双子である旨を告げた瞬間、婦人方の顔が一瞬翳った。

 その表情の意味はわからなかったが、フローラの手前もあり、明言を避けた彼女達に訊く勇気はなかった。その意図をはっきりと知らされたのは、以降グランバニア史に長く伝えられることになる忌まわしい事件が起きた、その翌日のことである。

 

◇◇◇

 

 その日のグランバニアは怖いほどの快晴だった。昼過ぎの太陽は心なしかいつもより近く、緑繁る山腹の城を容赦なく照りつける。

 いよいよ今夜は満月、仕切り直しとなった選定の日である。ここ数代は洞窟内にも供を連れてゆくのが慣わしだったが、元々は候補者が一人で受ける王位継承の試練であると教えられた。祭礼を控えて人員も割けないし、パパス王も一人でこなしたと言われれば単独で挑まぬ道理はない。サンチョ他数人の家臣に見送られ、見届け役の神官と兵士を二人だけ連れて、人目の少ない城の裏手から出立することになった。

「前例がないという意味ではございますが、魔物の使役は禁じられておりませぬ。手が必要ならば、お好きに」

 含みある言い方で宰相に告げられたが、変に手を借りて不正を疑われたくない。一人で大丈夫ですと答えた。ここで僕が資格を示せなければ、慰霊の儀はともかくその後の立太子の儀はお流れになる。王位なんてどうでもいいけど、父さんの子と認めてもらえなかったらやはり虚しい。

「証の間までの道にはますます魔物が増えていると聞いた。気をつけて行くのだぞ、テュール」

 剣を扱えないオジロン様は護衛に守られながら何度か選定の儀を行なっている。ドリスも一度連れて行ったそうだ。実は一度、下見に行かせてもらったので中の様子は把握している。あの程度の魔物なら僕一人でなんとかなるだろう。

 出立直前に一度、フローラに会いたくて奥の宮へ戻った。

 明後日は慰霊の儀だが、身重のフローラは引き続き寝所で安静にしてもらうことになっている。

 これについても重鎮達があれやこれやと苦言を呈して、ヘラ様やネルソン様と共に説得するのが大変だった。曰く、もうすぐ臨月にもなるのであれば少しくらい動けるのではないか、先王陛下の葬儀に後継者の伴侶が列席されないのはいかがなものかと。未だ姿を見せぬ妻を公の場に引っ張り出したいのが見え見えだ。立太子の儀には必ず顔見せすると言って納得させたが、そもそもなんでここまで言わないとわかってもらえないのか。その人達は見舞いに来たこともないのだ。

「どうかお気をつけくださいね。あなたに何かあったら、私も、この子達も……」

 また不安になっているのか、部屋を出る直前フローラがか細い声で訴えた。きゅっと腹を抱えたフローラに寄り添い、白い額を優しく撫でる。

「君の夫は結構強い方だと思うよ。忘れた?」

 こう見えて、城の兵士達との打ち合いでは負け知らずなんだ。皆まだ僕の素性を知らないから、気を遣われていることもないはず。寧ろ余所者なので、手加減無用でかかってこられてすごくいい鍛錬になってる。まぁ、さすがに兵士長クラスとやりあったことはないけど。

 人と打ち合いをすること自体、昔オラクルベリーでヘンリーと稽古していた頃以来で、ピエールと研磨しあった日々が効いているのかなと思う。

「ちゃんと帰ってくるから安心して。フローラこそ、本当に気をつけるんだよ。子供達をよろしくね」

 腹の子達にも行ってきますと告げて、桜貝の唇に一度だけ軽く口づける。涙混じりの祈りを受け取り寝所を出た。これだけで力が湧いてくるんだから、我ながら単純だ。

 試練の洞窟は城の東、森の中。

 預かった地図を頼りに借りた馬を走らせた。森には魔物がよく棲みつくが、日中はあまり表に出てこないし、馬で駆け抜ける分には追い縋られることも少ない。予定通り、日没間際に到着できた。洞窟には陽が完全に落ちてから入るよう言われていたので、ここまで走り通した馬を労ったり、付き人達が待つ場所を整えたり、繋いだ木の周辺に聖水を撒くなどして暫し時間を潰した。

 この神官と兵士、職務柄仕方ないのかもしれないが、どこか温度を感じないと言うか……終始淡々としていて、申し訳ないが薄気味悪いものを感じる。

 持参のスナックで腹拵えした後、神官から聖水の禊を受けて、いよいよ洞窟に入った。

 胞子の光がちらつく洞に足を踏み入れると、時の感覚が狂ったような不思議な感じがした。なんだろう、旅の扉を潜った時に似た、重力がおぼつかない感じ。

 この前下見に来たときは、こんな雰囲気じゃなかった気がするけど。

 あまり整備されてないようで、巨大な木の根が左右の壁を突き破り伸びている。その表面に光るキノコがびっしりと生えていた。樹根を踏み越え奥へ進むと、すぐに古い石板の台座が見えてきた。持ってきたランプをかざして石板を照らし、掘られた文字を指で辿る。

 ──王たるべき者、決して争いを許すべからず。

 互いに背を向ける者あらば、王自ら出向きて正しく向かい合わせるべし。

「すべては紋章の導くままに、か……」

 のっけから気鬱な内容に思わず溜め息が漏れた。何も知らない石板にいきなり諌められた気がしたからだ。なんだこれ、仲違いしてる人がいたら仲裁しろってこと?

 僕はそこまで人格者じゃない。争い……ぱっと思いつくのは仲魔達を頑として認めない城の人達だ。別に仲魔達が嫌厭しているわけではないのだから、互いにというのは正しくない。

 それはともかく、石板の奥に四つの扉が放射状に並んでいる。次の道はこの扉のどれかなんだろうか。

 石板の周りを調べたが他に変わったところはなく、とりあえず一番近い真ん中の扉を開けてみた。中は小部屋になっていて、額に赤い石を嵌め込んだ鳥の像が二つ、鋭い眼と嘴をこちらに向けて佇んでいる。彫像に仕掛けがあるのかと思ったが特にめぼしいものはない。首を捻りつつ小部屋を出たところで、ふと床に何か描かれていることに気がついた。

 ──国章の、鳥の紋様だ。それも、かなり精巧な。

 僕が立っているところから斜向かい、一番左側の扉の前に大きなレリーフが埋まっている。足元は暗いし、石板の影になっていて気づかなかった。ランプで照らしてみたが、他の扉前に鳥の紋様は見当たらない。

 紋章の導くままに。さっき読んだ一節が頭をよぎる。まさかなと思いつつ、その紋章のある扉に入ってみた。中にはやはり二つの鳥の彫像が、今度はそれぞれ全く別の方を向いて鎮座していた。念のためまた小部屋の中をぐるぐる歩いていたら、その最奥の床に外の地面とは違うレリーフを見つけた。

 四角い装飾の中心に小さな青い石が埋まっている。フローラの瞳のようなその石に引き寄せられ触れた瞬間、ゴゴ、と重い石が擦れる音がした。すわ魔物かと構えたが、石から手を離した瞬間振動は消える。

 顔を上げた先に魔物の影はなく、ただ中央に鎮座した鳥の双像が──たった今まで互い違いの方向を向いていた鳥達が、綺麗に背中合わせで並んでいたのだった。また石板の一節が意識の淵をかすめて、無意識にこくりと喉が鳴る。

 互いに背を向ける者あらば、王自ら出向きて正しく向かい合わせるべし……

 もう、鳥像から目を離さず青石に再び触れた。ゴゴゴと台座が地響きを鳴らし、ゆっくり回転を始める。程なく台座は半周ずつ回りきり、額の赤石を互いに正面から見据える格好になった。

 こういうこと、か?

 訝しみつつ小部屋を出ようとして、気づいた。地面の鳥のレリーフがなくなってる。

 ぞ、と初めて戦慄めいたものが背筋を走った。石板はある、文字もさっきと変わらない。でも何だろう、さっきまでとは空気が違う。来た道を振り返りランプで照らすと、越えてきたはずの樹根がどこにもなかった。奥は外につながっているはずなのに、淡く差し込む太陽の光も胞子もいつの間にか見えない。

 そういえば今まで、一度も魔物に遭遇していない。

 気を落ち着けて再度、石板の周辺を眺めると、さっき入って何もなかった扉の前に国章のレリーフが出現していた。

 もうなるようになれだ。中に入り、最奥の壁際にやはり青い石を見つける。同じように石に触れ、二羽の鳥像を向き合わせた。再び小部屋を出て────言葉を失った。たった今まで存在していた石板と扉は消え失せ、中央に四本の柱と、あの鳥のレリーフが地面に大きく掘られただけの空間に変貌していたのだ。

 入口へ続いていた樹根だらけの道は石造りの暗い通路に変わっている。こくりと喉を鳴らし、一切の気配がしない暗闇に足を踏み入れた。ランプの灯火を頼りに進むと、やがて下へ続く階段が現れた。他に道がないことを確認し、慎重に階下へ降りる。

 まるで結界を抜けたかのように、さっきまで感じていた不思議な感覚が消失した。代わりに視界が拓けて、石壁がほんのり青白く発光しているように見える。入ったばかりのところで見たような、石壁を侵食する樹根や茸、雑草がところどころに伸びている。上では感じなかったが、ここには微かに風が流れているようだ。

 辺りを見回しながら数歩行くと、自分のものではない足音と息遣いがひたひた近づいてくる気配がした。咄嗟に息を殺し、背の剣柄を握る。父さんの剣は祭礼に備えて預けたままだから、今持っているのは城下で買った代用の剣だ。

 現れたのはぶよぶよと白い身体を弛ませた魔物だった。そちらも驚いたらしく出会い頭に瘴気を噴き出したが跳び退いて躱し、体勢を崩したそいつの足元を斬り払う。ぼよんと地面に倒れ込み、ぶあぁん! と喚いた魔物を放置し駆け出した。以前似た魔物と戦ったことがあって、下手に懐に入ると毒か痺れか、とにかく瘴気にやられる可能性が高いと思ったから。

 悲鳴に呼ばれて魔物が集まってくる。踊り子の魔物達は踊る前に斬りかかり、呪いの仮面を体当たりで押し退け口を貫いて、倒れた魔物達で道を塞ぎ先へ進んだ。再び動くか灰燼に帰すか、無力化できればそれでいい。今更だけど、フローラみたいに誘眠魔法を覚えておいたほうが楽かも。

 幸いそんなに入り組んでおらず、来た道を戻ることなく拓けた空間に辿り着いた。

 石段の下は横に広がる砂地に、大きな岩とさっきも見た地面の青い石がひとつ。右手には鋼鉄製の巨大な壁があって、左手には崩落したのか、大きな穴が空いている。青石ということはまた何か仕掛けがあるんだろうが、先ほどの鳥像のような怪しい物は見当たらない。

 岩の下に何かあるのかと思ったけど、押してずらせど残念ながら何もなかった。

 とすると、そこの青石に触れてみるしかないわけだけど……

 何となく嫌な予感がして辺りを見回し、細い通路に気づいたがその先にも特に気になるものはなかった。階段と、その先に水場があったくらいだ。首を捻りつつ上に戻り、壁手前の床の青石に触れた、瞬間。

 叫ぶ暇もなかった。青石のすぐそばの壁が音を立てて下がり、屈んだ僕の頭上に大量の水の塊が降ってきたのだ。凄まじい水圧で一気に流され、慌てて何かに捕まろうとしたが無理だった。濁流に呑まれ、水の悪夢が走馬灯の如く過っていく。臭い樽に入って神殿から逃れた時、船上で大鮹と戦った時。水のリングを取りに行った時の壮大な滝壺。

 もがいた腕の先で、炎の指輪がじわりと熱をもつ。

 流されたのは一瞬で、地面にどさりと投げ出された衝撃で我に返った。気管に入った水をげほげほ吐いてようやく理解する。さっきの、細い通路の階下にあった水場だ。どこに繋がっているのか、大量の水はそこの水路にうまいこと流れたらしかった。

 水を吸った外套を固く絞り、軽くはたいて上に上がった。もう全身びしょ濡れだしどうだっていいや。つまりは水門であった、鉄壁だった部分がぽっかり開いて、その先に階段と扉、手前には妙に大きな宝箱が仰々しく置かれている。いかにも罠くさいし、こんなところに証があるとも思えず無視して通り過ぎようとしたが、突如背後から聞き覚えのある声がした。

「取らんのか。いいものが入っているかもしれんぞ」

 勢いよく振り向くと、さっき来た方の通路に馬面の魔物が佇んでいる。馬面と言っても憎い父の仇ではない。数ヶ月前、王都を目指してグランウォールを彷徨っていたとき、反則級の近道を教えてくれたのがこの紅いメッサーラだった。

「え……君、どうして」

「こちらの台詞だが。碧髪のつがいと手下共はどうした。ついに見放されたか?」

 薄く笑ったメッサーラにむっとして「そんなんじゃないよ。一人で来るものだって言うから来ただけ」と言い返し、扉を開けた。しかし、言葉を交わしてしまうと放って行くのはなんとなくきまりが悪い。しかも彼は何故かさっきから、僕とそこの宝箱をじっと凝視している。

 何か意味があるのかな。そもそも彼はどうして試練の洞窟の、こんな深部にいるんだろう。

 溜め息をつき、水が滴る宝箱に向き直る。身を屈めて判定魔法をかけ、魔物ではないことを確認して手をかけた。

「ずいぶん立派な……鎧? だよね、これ」

 中には一見武器と見紛う、大きな刃を肩に誂えた装備品が格納されていた。左右に切先を向けた刃と、胸元や肩当てに埋め込まれた棘が触れることを躊躇させる。よく見れば胸当てに鳥の紋章が刻まれている辺り、王家に伝わる宝物の一つなのかもしれない。

「刃の鎧と呼ばれるものだ。なかなか年季が入っているな」

 いつの間にか近づいてきたメッサーラが、興味深げに脇から覗き込んだ。ふむ、と鼻を鳴らす横顔に凡そ悪意は感じられない。

「見ての通り、肉弾戦に於いて敵に相応の傷を負わせる。見ろ、硬度も耐久も一級品だ。数百年使われていなかったようだが、刃毀れも見られん」

「詳しいんだね。鎧に興味がある?」

 大して意味のない問いだったが、彼は気を悪くした様子もなく「元々宝物庫番をしていた」とだけ静かに答えた。

 メッサーラと呼ばれる紅い悪魔は、忠誠心が非常に高い種族なのだと魔生学の本で読んだ。かつて世界を脅かした魔王に忠実に仕えた彼らは、魔王亡き今も唯一の主人を死ぬまで信奉しているのだと。

 だから、彼が僕に従属することはないんだろうと、漠然と思っていた。

「……扱えるなら、持って行く?」

 ふと思いついて口にする。こんな大きいもの持っては行けないしどうせならと思っただけだが、メッサーラは珍しくも酷く驚いた様子で僕を見た。

「これは、下賜か?」

「いや、そんな大層なものじゃないけど……君に似合いそうじゃない?」

 僕もまた、彼の表情に驚きつつ答えた。金の肩当てに鋭い刃、深緑の革帯は彼の紅く逞しい肉体によく映えそうじゃないか。胸元の金の鳥はやや主張が強い気もするが、これまた下地が彼の翼の藍色と同じで悪くないと思う。棘に触れないよう持って彼に合わせてみた。うん、大きさも良さそう。

 うずうず鎧を見つめる彼に着用を勧め、装着を手伝った。思った通り大きさも色味もしっくり合う。肩の刃が顔に当たらないか心配だったが、首周りのふかふかな毛がちょうど良い緩衝材になってる。山羊のような大きな双角と相まって、鎧を身につけた姿はさながら威厳ある将軍のようだ。

「案内の対価としては割りに合わんな。借りが出来すぎだ」

 どうやら満更でもないらしいメッサーラが、纏った鎧を見下ろし呟いた。対価は一応、あの時ミニデーモン達を追い払ったことで済んでなかったっけ。冗談めかして「これだと迂闊に肩や背中を叩けないけどね」と言ったら、彼はまた変な顔をして僕を見る。

「あ。じゃあ、名前を教えてくれない? この前聞きそびれたから気になってて」

 あの時は飄々といなすこの寡黙な悪魔に半ば言い返しただけの形になってしまったから、やっぱり名前を聞いておけばよかったと後で後悔したんだ。ものすごく世話になったのは事実だし。

 少しだけ逡巡して、メッサーラがぽつりと低く呟いた。

 まだ証を手に入れたわけではないけど、彼が言い添えたそれはきっと、グランバニアの後継者という意味なんだろう。

「……『サーラ』だ。新たなる若き王よ」

 

 

 そろそろ行くね、と声をかけその場を後にしたが、何故かサーラが澄まし顔でついてきた。数歩後ろから階段を降りてくる彼は相変わらず寡黙で、一緒に行くとも仲魔になるとも言わない。

 邪魔する意図はないようだから、僕もそれ以上何も言わず放っておいた。

 なんとなく、キメラのメッキーを思い出す。折角心が通ったと思ったのに、明確な返事はついにもらえなかった。口の悪い、しかし身体を張って僕らを助けてくれた、敵であった魔物。

 階段を降りた先は閉塞的な小部屋で、扉は見当たらない。提燈で照らすと床に青石が二つある。ここで水攻めは怖いなと身構えたが「ただの隠し通路だ」と背後でサーラが呟いた。苦笑で誤魔化し、青石を順番に作動させる。部屋の両端の壁がそれぞれゴゴゴと音を立てて遠ざかった。

 何故サーラはこんなに詳しいんだろう。不思議に思いつつ、拡張した壁下から現れた階段へ進んだ。降り立ったそこは重厚な柱がそびえ立ち、さっきも見た鳥の彫像が正面に置かれた、ここまでで最も神聖な気配が漂う遺跡めいた場所だった。

 よく見れば鳥像前の床にはまたもや青石が二つ。ということは、これに触れて像を動かせということなんだろう。念の為ぐるりと歩いてみると、広間の両翼にも二つずつ青石が配置されている。

「誰が作ったんだろうね。これ、随分と大層な仕掛けだと思わない?」

 試しに左の青石に触れると、彫像が左に滑って奥に通路が現れた。右の石に触れると触れただけ右に動くから、つまり石の並びと同じ方向に動くんだろう。通路の奥にも鳥の像が鎮座していて、どうやらそれを退かさないと進めそうにない。

「成り立ちまでは知らんが、その青石は満月の日、紫の血の者でなければ動かせん。水門までなら誰でも来られようが、この祭壇には近づくこともできんさ」

「紫の血って……グランバニア王家のことだよね?」

 広間の両翼にあった石で動かせるかも。引き返す僕に、入り口の階段近くで待っているサーラが淡々と返答を投げて寄越した。

 紫の血という言い回し自体は座学で習ったので間違いなく、ということは、少なくとも僕の血筋についてはここまでの道のりで証明されてるってことだ。

「誰でもって、途中の変な石板のところも王族じゃないと越えられないんじゃないの? あの鳥の像、結構ややこしかったよ」

 ひとまず左端に行ってみて、石に触れたがどうやら彫像は動かない。右翼の石を見てみると、配置が他と微妙に違う。他は左右に並んでいるが、ここだけ前後に置かれているんだ。ということは、こっちは手前と奥に向かって動くのかも。試しに一度、奥の石に触れて通路に戻ってみると、思った通り彫像は柱一本分向こうへ動いていた。あと少しずらせば通れそうだ。

 この謎解きの間もサーラは特に手助けせず見ているだけだったが、先程の僕の愚問には律儀に返事をくれた。

「この祭壇が異界にでも存在すると思ったか? ヒントをやろうか。水はどこを流れた?」

 ああ、なるほど。的確な指摘に思わず唸った。溜まらず流れ去ったということは、水路が外に通じているということだ。なんなら、水門に溜まるほどの水の在処も。

 つまりあの石板はほとんど意味がなかったわけだが、だからこそここが『試練の洞窟』と呼ばれる所以なんだろう。

「……そして、最後の試練は真の王でなくば顕現しない」

 すっと鋭さを増した彼の言に、思わずこくりと喉が鳴る。

 通路の先の鳥像の陰から赤い光が漏れている。巨大な燭台に反射する、緋色の敷物と灯火の色だった。彫像を動かしてできた隙間から奥へ通ると、燭台が並ぶ長い緋色の絨毯の先に立派な祭壇が建っていた。壇上には手鏡大の、グランバニア王家の鳥の紋章が刻まれた丸い金牌が安置され、中心に埋め込まれた翠の宝石が重々しい光を放っている。

 意外にもサーラはついてこなかった。祭壇の前に一人、ほとんど無意識に片膝をつき頭を垂れる。教わった作法ではなく身体が自然に動いてそうした。暫し、まるで王に服する忠臣の如く敬意を払ってから、厳かに階段を登った。

 祭壇中央に祀られた金牌に一礼し、指をかけた瞬間。

 意識が、飛んだ。触れたところから強烈な何かが流れ込んだ。僕の中で氾濫し、そして僕の中の何かを根こそぎ吸い取ろうとする。抗えない力の狭間で何かを見た。ここに、この祭壇のずっとずっとずっと下に、得体の知れない何かが眠っているのを。

 あれは、何だ?

 言葉では形容し難い、超然とした何かだ。神なのか、果たして魔王と呼ばれる類のものなのか。ものすごく太い、最早樹と呼んでいいのかもわからないものに包まれて、それすらも今や枯れようとしている。これがグランバニアなのか、と意味もわからず直感した。まるでエストアの大地そのものが、不可思議で超然たる生き物の背であるかのような。

 ────のしるしを継ぐ者よ。

 唐突に語りかけられ、瞬間意識がこの場に戻った。静寂の中ちりちりと灯火が燃える音だけが微かに響く。たった今、何者かに低く呼びかけられたのが幻覚のようだ。ここは試練の洞窟の祭壇の前、手の中には国章の金牌。何気なく見下ろして、今度こそ固まった。

 テュール、シエル、グランバニア。

 さっきまで鳥の紋章しかなかったはず。その円い金枠の縁に、古い綴りで僕の正式な名がはっきりと刻まれていたのである。座学で習った、今ではほぼ使われることのない古語の綴りで。

 ……これが証の選定か。

 金牌を握り直し、のろのろと祭壇を降りた。

 間違いなく、僕が後継者だった。グランバニアの奥深くに息づく何者かの意思に触れた。僕はこれから改めて、父さんの跡を継ぐことになる。母さんを魔界から救い出しグランバニアへ連れ帰る、その目的と王冠、どちらを優先すべきなのか──……

「選ばれたか。王よ」

 通路を出た正面で待っていたサーラが身を起こした。うん、と頷き手に入れたばかりの金牌を見せる。「真理、真実の王か。悪くない」と彫られた名を読み上げられて、今更ながら凄まじい気恥ずかしさに襲われた。

「ところで、サーラはなんでこんなにここのこと詳しいわけ? お城の文官よりよく知ってる気がするよ」

 熱くなった頬を落ち着け、さっきから気になっていた話を振ってみると、サーラはあの小憎らしいほどの真顔で首を捻り、しれっと答えた。

「宝物庫番だと言っただろう。お前達が通ってきたあの山は元々、王家直轄の宝物庫でもあった」

「もしかして、ここに繋がってる?」

 どうやら沈黙は彼にとっての肯定らしい。済ました横顔から察したが、そもそも何故魔物が王家の宝物庫番をしてるんだ?

 そう言えば前、人と話すのは二度目だって言ってなかったか。

 そわりと好奇心が頭をもたげる。ここまで詳細に知っているからには、彼は王家の人間と関わりがあったんだろう。けど、二度目ってことはそんなに接点もなかったはず。一体何があったんだろう。聞いてみようと口を開きかけた、その時だった。

 

「悪いが、そいつを持って行かせるわけにはいかねえなぁ」

 

 野太い男の声が響いて、入り口を凝視する。

 階段から降りてきたのは身の丈に合わぬ巨大な斧を持った筋肉質の男と、頑丈そうな盾を二つ構えたカバの頭の魔物。

 男の方はグランバニアの兵士が身につける鎧を着ている。但しそんな大斧は見たことがなく、眉を顰めると、鎧男の後ろに付き従ったカバ頭が目敏く見咎め「あんたが王になるのを嫌がる者もいるってことよ」とせせら嗤った。すぐさま前の男に脇腹を突かれ呻くことになったが。

「莫迦が、余計なことを言うな」

 手下らしきカバ頭を鋭く制した男が、懐から円いものを取り出した。少しくすんだ金色の、中央に緑色の石。鳥の紋章を模して彫られたそれは、どうみても僕が持つ王家の証のレプリカだ。

「安心しな、手土産は持たせてやるさ。……それとも、あんたもここで死んでいくか? 曾祖父さんみてぇによぉ」

 何故それを。サーラですら知らないはずの機密事項を仄めかされ一斉に血の気が引いた。知っているのは本当に数人の重鎮だけのはずだ。

「ま、殺してもいいって言われてるし、なぁ」

 カバ頭と額をつきあい、男がにやにやとこちらを眺める。明らかに舐められている。どうやら勝った気でいるように見えるのは、こいつが王宮にいて僕の実力を見知っているということか。

 黙って剣を構えた僕の背後で、サーラが何か囁いた気がした。瞬間、空気がざわりと不穏に揺らぐ。咄嗟に神経を研ぎ澄ましたのと、目の前のカバ頭が突如泡を吹いて倒れたのはほぼ同時のことだった。

 

「な、おい……ヒッポ⁉︎ てめえら、何しやがった‼︎」

 

 割れるような地響きと共に盾とカバの巨体が崩れ落ちた。

 何って、僕にもわからない。瞠目し言葉を失う僕を尻目に、刃に包まれた山羊角の悪魔が一歩、前に進み出る。

「この程度の死術に耐えられんとはな。人間の真似事もいいが、鍛錬が足りていないのではないか」

 死術、────……

 それは、禁術と言われる死の魔法だった。生命活動の一切を強制的に停止する、ザキと呼ばれる恐ろしい魔法。

 実際に見るのは初めてだ。彼に対して感じたことのない畏怖が急速に湧き起こる。なんの躊躇もなく、サーラは言霊ひとつであのカバ頭を死に至らしめたのだ。

「貴ッ……様ぁ……!」

 ぶるぶる震える男の肩がむくりと膨らんだ。両腕、胸とぐんぐん厚みを増した肉体は金属製の鎧を弾き飛ばし、その肌は泥のような茶色に変わっていく。改めて仁王立ちしたそいつは体格も背も僕よりずっと大きかった。やはりこいつも魔物だったのか。

「まとめてあの世へ送ってやる。覚悟、しろッ‼︎」

 片手で振り上げた大斧が一瞬で下ろされる。すんでのところで躱したが、更に刃を返され外套が巻き込まれた。しまったと思った時には遅く、バランスを崩した頭上に再び斧が迫った。咄嗟に太腕を蹴り上げ、がら空きの腹部に斬撃を加える。だが見た目通り硬いこの斧男には、そう易々とダメージが通らない。舌打ちした瞬間、斧男の顔に火球が直撃した。死角からサーラが放った炎魔法、メラミだ。

「てンめぇ……熱いだろうがァ……ッ!」

 怒りのあまり、焼け焦げた片眼をぎょろりと光らせて斧男がサーラに狙いを定めた。尚も冷静にサーラが魔法を撃つが、奴は火球をものともせず斧を片手に近づいていく。三、二、一。間合いが詰まって大斧を振り上げた、その隙を狙って後ろから首目掛けて斬りかかった。苛立ち振り向いた斧男の頭にブーメランが直撃する。こっそり仕込んで投げた、よく研いだ刃つきのブーメランだ。

「雑魚どもが、ふざけやがって……」

 サーラもうまく躱してくれたが、斧男が腕を振り回す方が早かった。刃が山羊角に掠めて欠け飛び、剛斧が周りの壁を抉る。こちらに意識を向けたいが、怒り心頭の斧男は猛獣の如く手当たり次第に柱を砕いていく。僕の斬撃も中々致命傷を与えるまで至らず、終いには斧を受け流した剣も砕けて折れた。

「邪魔だぁッ!」

「サーラ‼︎」

 怒号と悲鳴が交錯した。サーラの頭上を大斧が勢いよく薙ぎ払う。ごきりと嫌な音がしたが、ぐぁ、と呻いたのは斧男の方だ。

 こともあろうか、角を斬らせて懐に潜り込んだサーラがその筋肉質な腕を斧男の胴体に巻き付かせたのだ。装着したばかりの鎧の刃がみしみしと喰い込み、斧男がついに斧を取り落として苦悶の声を上げる。

「一度刺さるとなかなか抜けんぞ。早く離れろ」

 角から青い血を流し、わずかに顔をしかめるも薄く笑ったサーラが捕えた腕に更に力を篭める。なんという捨て身の攻撃か。

 振り払おうとしたが叶わず、斧男がサーラを蹴り飛ばそうとした。その隙にもう一度、太い首の付け根に折れた剣を捩じ込む。緑の血が飛沫をあげ、よろめいた斧男が尻餅をついて、やっとサーラが離れたところにブーメランの刃を直接、見えている片眼に突き立てた。いよいよふらついた魔物が取り落とした斧を拾い、獣の咆哮を上げて僕らに掴みかかる。

 腕を振り上げたその瞬間にサーラと共に飛びかかった。僕の思考を読んだような鮮やかな共闘だった。勢いで頭の上に乗り上げ、そのまま腕ごと全体重で魔物を押し倒す。斧の刃が頭を割るよう、全力で下へと押し込めて。

 そうしてやっと、この祭壇前の死闘が終わった。

 床に広がっていく緑色の血溜まりを見届け、ようやく息を吐いた。そこかしこに青緑の血が飛散し、僕もいつの間にか数箇所抉られている。あの猛攻をよく躱せたと思う。

 斧男が斃れてすぐ、サーラに駆け寄り全快魔法を施した。欠けた部分までは無理だったが、青い血を流していた山羊角は幸い完全に折れてはいなかったようで、無事魔法でくっついた。

「もう良い。王よ、そろそろ行った方がいい」

 手持ちの水で顔の血を拭ってやり、他の創傷も大方治癒したところで、サーラの方から施術を止めた。

「あの城には数代前から、ヒトに変幻して惑わす魔物が入り込んでいるぞ。いや、正しくは秘宝を使われていると言うべきか」

「秘宝?」

 問い返すと、彼は神妙な顔つきで頷く。

「変幻の杖だ。解呪の鏡があれば術を解けるが、生憎あれはこの大陸にない」

 鏡ってまさか。思いきり心当たりがあるのだが、聞き返す間もなく再度サーラに背を押された。誰もいない進路を尚も警戒しつつ、彼が口早に告げる。

「早く戻れと言いたいところだが、念の為この辺りの青石の護りは全て元に戻していけ。入り込むこと自体が容易なのはよく解っただろう」

「……サーラは、一緒に来ないのか?」

 祭壇周りの彫像を動かし、階段を上がって小部屋の壁も元の位置に戻した。水門を閉じたところで地上に戻るようサーラに急かされる。石板の間は、上から入れば全てがまた元の位置から始まるので大丈夫なんだそうだ。

「俺の手が必要なようには見えんが、使いたければ喚べ。今しばらくは祭壇の護りを引き受けてやる」

 それってもう、仲魔になってくれてるってことかな。

 さっきの共闘も然り、ちゃんと訊きたかったけれどそれも野暮な気がして、また本当に急いだ方が良いらしいこともわかったから、もう一度だけ礼を言ってその場で脱出魔法を唱えた。今度、落ち着いたらちゃんと迎えに来よう。そう心の中で誓いながら。

 洞窟の外はとっぷり暗く、満月が煌々と森を照らしていた。月の高さからして日付を回ったあたりだろうか。何故かひどい死臭がして、ぼんやり抱いていた疑念が真実に近いものであると知る。繋いでいた馬はその場で惨殺されていた。魔物に食い荒らされたのか、ほとんど原型を留めていない。表で待っているはずの神官も兵士もどこにも見当たらない。

 さっきの斧男とカバ頭が、城から同伴してきた二人だったんじゃないか。

 それが意味するところに少しだけ思いを馳せたあと首を振り、王家の証をもう一度確かめてからルーラを唱えた。

 酷く不穏なことが起こっている。正統な王が王位に就くことを阻もうとする者がいる。早く戻らなくては、足元を掬われる前に。帰ったらすぐ叔父上とサンチョに話そう、そう思った僕を待っていたのは、寝静まった城の奥深く、激しく騒然とする奥の宮の面々だった。

 

◇◇◇

 

「……夜は城に入れない? 僕の顔、わかりますよね?」

 ルーラで飛んで戻って十数分。何故か僕は城門で延々押し問答をしていた。鉄壁のガードで夜明けを待てと主張するのは顔見知りの衛兵達だ。

「あー、だから、宰相様のお達しなんだ。最近夜は物騒だから、日が暮れたら絶対に門を開けるなって」

「でも、急ぎの遣いだったんです。早く報告しなくちゃいけないんで、せめて取り次いでもらえませんか?」

「そうは言っても……もう夜中の二時だぞ。今夜はヴェントレ卿のお屋敷に泊めてもらいな。あんたお知り合いなんだろう?」

 一般の兵達は僕の素性も選定の儀のことも知らないので説明のしようもないが、そのサンチョ宅を訪ねても留守だったのだ。とにかくごね倒して城内までサンチョを呼びに行ってもらった。降りてきたサンチョは凄まじく憤慨していて、罪のない衛兵達に怒鳴りかけたところを慌てて抑えた。中に入るなり手首を掴まれぐいぐいと上に連行される。

「ああ良かった、坊ちゃんがお戻りくださって……大変なんです、坊ちゃん。あああ、その前によくぞご無事で! 選定の儀はつつがなくお済みになりましたか?」

「うん、ちゃんと証も取ってきたよ。それより、大変って何があった?」

 懐に忍ばせた金牌をちらりと見せると、サンチョは小さな瞳をみるみる潤ませた。だがすぐ表情を引き締め直し、湿った目許もそのままに声をひそめる。

「ご就寝前に、フローラさんが破水して……ああ、えっと破水というのは、お子様方を包む膜が破れてしまったそうなんです。なので今急いでお産の準備をしていて、もう、大変なんですよ!」

 想像以上に最悪な事態で一気に血の気が引いた。大急ぎでオジロン陛下に帰還の報告をして、魔物の返り血に驚かれるのも構わず奥の宮の寝所に駆けつけた。もう、試練の洞窟の中で起こった一部始終も、同伴していった神官達が行方不明であることも頭から吹っ飛んでしまっていた。すぐさま寝所に飛び込みたかったが、帰還の報せを受けて待ち構えていたネルソン様が扉の前で僕を止めた。今正にお産が始まっているから、入室は控えてほしいというのだ。

 どうやらかなり良くない状態らしい。場合によっては、腹を切り開いて赤子を取り出す必要さえあるという。

「元々早くお生まれになるだろうとは申し上げておりましたが、正直に申しますと想定よりだいぶお小さくていらっしゃいます。本来ならもう少し長く、お腹に留まってくださるのが望ましかったのですが……」

 半月前にも聞いた説明が現実感を伴って耳を通り抜けていく。そんな、あの時はなんとか収まってくれたのに。けれど侍医の話では、一度破水してしまったらもう産む以外に方法がないという。破れた孔から悪い病が入り込んでしまうと、母体も、赤児も救えない可能性が高まると。

「とにかく、産声を聴けるかどうかが分かれ目になるかと」

「産声、…………」

 まだそうなったわけではないのに、絶望感で目の前が真っ暗になる。

 どうして。あんなにも安静にして、自分の自由は全て封じて、子供の為に頑張ってくれていたのに。

 これも僕の所為なんじゃないか。押し込めていた後悔が僕の思考を支配しぐるぐる回りだす。僕が気づかず、妊娠初期に無理をさせてしまったから。山歩きをさせて、出血にも気づかなかったから。凄まじい力を持つ魔族と対峙させたから、排他的な祖国で要らぬ心労までかけたりしたから。

「呼吸を司る器官が未熟ですと、お生まれになってすぐ……」

 ネルソン様が言葉を尽くしてくださる説明も、うまく頭に入ってこない。

 きっと僕は酷く情けなく項垂れていたに違いない。辛うじて頷くと、ネルソン様が深い息をつき一礼した。これ以上話せることもないということだろう。

「最善を尽くします。殿下はどうか、皆様と共に本殿にてお待ちください」

「外、で」

 扉の中に戻ろうとした侍医を呼び止めたのは、もう本当に、本能的な衝動だった。

「あの……せめてここで、この、部屋の外で待っていてはいけませんか」

 思わず腕を掴んでしまい、ネルソン様が目を円くする。サンチョも驚いたようで、ぼっちゃん、と僕を嗜めてくれた。

 わかってる、今彼を引き止めることはお産の妨げにしかならない。説明は聞いたのだからあとは指示通り待った方がいいって。

 でも。

「すみません、やっぱり、落ち着いていられなくて……」

 ああ、くそ。今は全く自分を律することができない。

 本当は。本当は、すぐ側で手を握っていてやりたい。出血したなら精一杯治癒魔法をかけて、痛むなら共に耐えたい。

 けど何の知識もない、素人の僕が中にいても邪魔なだけだって、必要な処置がそれで遅れたら大変だって、それくらいのことはわかるから。

 君の一番近くで、祈ることだけ許してほしい。お願いだから。

「……ほんの少しでよろしければ、お会いになられますか」

 凛とした婦人の声が僕の背を押した。顔をあげると、ヘラ女官長が静かに寝所から出て来られたところだった。入れ替わりにネルソン様が頭を下げ、中へ入っていく。お帰りなさいまし、と一度綺麗な礼を見せた後、彼女は僕の返事など聞かずともわかるというようにきびきびと指示をくれた。

「少し落ち着かれて、その次の陣痛が強まるまでですよ。さ、そちらの服はお着替えなさって、御身も清めていらっしゃいまし。我々には何ともなくとも、御子様方には少しの病も毒なのです」

 

 

 それから近くの客間で急ぎ湯を使い、清潔な服を用意してもらって、再び寝所へと戻った。

 口許に人差し指を当て、女官長が静かにと目配せする。頷き、開けてもらった扉の隙間に滑り込んだ。いつもの広い寝台の上、微かに呻きながらフローラが横たわり懸命に息を吐いている。その傍らに産婆を勤めてくださる高齢の修道女と、クロエさんが居て何やらぼそぼそ声を掛け合っていた。全員がほぼ同時にこちらに気づき、修道女とクロエさんが頭を下げてくれた。フローラは腹を抱えた体勢のまま、懸命に頭を持ち上げほっと表情を緩ませる。

「……ああ、テュール、さん……良かった……」

 あんなにも苦悶していたというのに、僕の顔を見た瞬間安堵の涙を浮かべた妻に、他に何を感じられるというんだろう。

 愛しいよ。愛しい気持ちが溢れてどうしようもない。何もしてあげられない自分が情けなくて、歯痒くて仕方ない。

「ど、どこも、怪我してません、か」

「僕のことなんていいんだよ。フローラ……頑張って。これしか言えないけど、頑張って……!」

 精一杯頑張ってくれてる妻にこれしか言えないなんて。思わず駆け寄り手を取って、縋りついてくる華奢な君に頬擦りした。一瞬だけぎゅうっと抱きしめてすぐ放す。腕の中、額に脂汗を滲ませた君が、あまりにも健気に微笑んだ。

「は、い」

 やわらかく花開く微笑みが眩し過ぎて、言葉を失う。

 この一瞬、まるでその儚い命を燃やし、しなやかに咲き誇っているようで。

「もうすぐ、あえ、ますね。待っていて、ください、ね……」

 気丈にそこまで囁いて、フローラがふっと息を詰め背中を丸めた。微かに震える腰をクロエさんが摩り、女官長はいつの間にか側に立って「そう、お上手ですよ。ゆっくり息を吐いて、力を抜いて……」と優しく声をかけている。ふー、ふー……と細い息が静かに響き渡って、その間僕は完全に邪魔者でしかなかった。

 これから産道の開き具合を見るからと、表で待つよう修道女に促された。「まだ三割ほどしか開いていませんので、数時間はかかると思われます」とのことだった。あとはもう僕に出来ることなどなく、フローラを囲む皆様に黙って頭を下げ、静かに部屋の外に出た。

 僕が出ていくのを見計らっての会話だったので、そのやりとりが耳に入ることはなかったのだけど。

「……証はテュール様を認められたとのことです。お一人で、ご立派に為されましたよ」

 じわじわ強まる陣痛の波に耐えたフローラに女官長がかけた一言が、彼女を奮い立たせたことを僕は知らない。

「でしたら、今度は私が頑張る番……、ですね」

 

◆◆◆

 

 それから何時間が経っただろう。

 城に着いた時はまだ深夜だった。寝所の中は何度か騒然とし、その度腰を浮かせて扉の外から聞き耳を立てることの繰り返しだった。やがて空が白らみ、静まり返る廊下に朝の訪れを告げる鳥の声が遠く響く。

 途中サンチョが軽食を持ってきてくれたり、隣で風を扇いでくれたり、僕の気を紛らわそうと話しかけてくれたりしたけど、あまりよく覚えていない。ただひたすら、神なのか精霊なのか、人ならざる何かに縋り祈りを捧げ続けた気がする。

 明日が父の慰霊の儀なので何かと呼ばれていたようだが、今は大事だからとサンチョとオジロン様が止めてくれていたらしい。合間に少しでも寝るよう勧められ、実際座っているとうとうとすることもあったがその度眠気を振り払った。フローラだってきっと眠れていないのに、たった今も頑張ってくれているのに、僕一人休めるわけがない。

 守ってくれよ。頼むから一度くらい、僕の大切なもの達をどうか慈しんでくれ。

 見ず知らずの薄情な神に何百回目かの祈りを捧げたところで、一際高い音が扉の内側から響いてきた。

 ……ぁ、ああああん、あ──、あ────……

 初めは微かだったそれが、次第に大きく強くなっていく。込み上げる熱いものを必死に飲み下し、指を組んで祈り続けた。産声が聞けるかどうかが分かれ目だって言ってたけど、まだ一人目なんだろうから。

 どうか、どうか、どうか二人とも無事で……!

 それからの十数分、僕にとっては永遠の如く長い時間だった。ようやく寝所の扉が開いて、衝動的に立ち上がり現れる人を待つ。果たして顔を覗かせたのは、すっかりくたびれた様子の、しかしその顔は大変晴れやかなネルソン侍医だった。

「奇跡です。殿下、あのホイミスライムが、奇跡を……!」

 感極まった様子のネルソン様が、血のついた白衣もそのままに叫んだ。部屋の中からは絞り出すような赤児の泣き声に重なってもう一つ、ふぎゃふぎゃとか弱い音が聴こえてくる。もう、促されるまま茫然と中に入った。寝台の上、掛布をかけられ脱力していたフローラが僕に気づいて優しく笑った。

 

「……テュール、さん」

 

 愛しい、愛しい鈴の声。

 たった一言呼ばれただけで、ずっと落ち着かなかった胸の奥が不思議なほど凪いでいく。

 敷布には長い碧髪が海のように広がる。彼女の傍らには産まれたばかりの命がふたつ、そして、チェストに隠していたホイミンも何故か一緒に寝かされていた。僕の目にもはっきりわかる。眠るホイミンから放たれる癒しの光が、双子達をほんのり包んで繋がっているのが。

「おめでとうございます。大変お健やかな、男女の双子のご兄妹であらせられます」

 ヘラ女官長が恭しく礼をとり、寝台に寝かされた双子を示してくれる。真っ赤な顔にちぎったパンのような小さな手。ほとんど同じ大きさで双方そっくりだけど、髪の色だけが微妙に違った。片方は僕とフローラの髪を混ぜたような少し暗めの蒼色で、もう片方は母親譲りの明るい碧色だ。

「先にお生まれのお子様が、王子殿下でございます。次にお生まれになったのが王女殿下でございますね。お二人ともお小さくていらっしゃいますが、大変健やかでございますよ」

 上機嫌なヘラ様が満面の笑みで説明してくださり、その傍から覗いたネルソン様は珍しく早口で捲し立てた。

「ご覧の通り、ホイミスライムの魔力が今もお子様方を守っておられます。早産でございましたので、お身体の発達が間に合わなかった部分を補っているものかと。お出ましの当初はお泣きにならず、我々も覚悟したのですがその瞬間、部屋に光が満ちました。チェストの中にいたホイミスライムから癒しの光が発せられましたのです。慌てて表に出し隣に寝かせましたところ、王子殿下がついに大きな産声をあげられたのでございます。まこと奇跡の瞬間でございました……!」

 息継ぎもせず大声で語る侍医の興奮が伝わったのか、赤子達がふぁあん、あ──! と揃って身震いし泣き出した。ヘラ様がネルソン卿をやんわりたしなめたが、いいえ奇跡なのです、このような御業をこの目で見届ける栄に浴するとは! と彼は尚も言い募る。いよいよ強制的に侍医を黙らせたヘラ女官長が、美しく腰を折った。

「フローラ様もお子様方も、またホイミスライム殿も、誠によくお努めになられました。大変ご立派なお産でございました」

 ホイミン。本当に、ずっと守ってくれていたんだ。

 長いこと停滞していたホイミンの魔力が巡っている。子供達がお腹の中にいた時より、あの懐かしい生命力をはっきり感じる。ただ、なんとも言えない違和感がぼんやりあった。首を振り、思考を振り切る。今は考えない、きっとホイミンは、赤子達が十分に育てば目を覚ますだろうから。

 ありがとう。君と話したいことがたくさんあるよ。

 女官長の脇にクロエさんと修道女が控え、それぞれ深いお辞儀と祝辞を述べてくれた。胸がいっぱいの僕は言葉にならず、黙って深く頭を下げるしかできなかった。ようやく頭を上げると、皆様一様に弱りきったお顔をなさっている。そうしてぎごちなく愛想笑いを浮かべては、各々残った処置や片付けへと戻っていった。

 改めて妻の方を向き、緊張と共に彼女を呼んだ。

「……、フローラ」

 声に出して初めて、自分が泣いていたことに気づく。

 なんだ、ちゃんと泣けるじゃないか。父さんを喪ってからほとんど枯れたきりだった涙が幾筋も頬をつたっていく。喉を灼く熱い感情の塊に翻弄され、跪いて妻の手を握った。フローラも目尻に涙を滲ませ、慈しみ深く僕を見上げる。

「私、あなたにふさわしい女に……なれましたでしょうか」

 そんなの、僕には勿体ないひとだって何度も言ってるのに。

 答える代わりに身を屈める。そっと額に掌を戴き「僕の方が不安で仕方ないよ。君に相応しい男になんて、王冠くらいじゃ全然足りる気がしない」と囁くとフローラが困ったように微笑んだ。その表情があまりにいじらしくて、華奢な手の甲と、我慢できず身を乗り出して唇にも深く口づける。

 淡くさざめく蒼の指輪が、清らかな光を仄かに灯らせた。

「さ、お父様。少し抱いてご覧になりませんこと?」

 人目も憚らず睦み合う僕らに苦笑をこぼし、女官長がそっと息子を抱き上げた。頭をしっかり支えるよう教えられ、その通りに腕を形作って、ヘラ様から恐る恐る息子を預かる。

 小さい。ものすごく、小さい。フローラが手ずから縫った産衣が大きすぎるくらいだ。スラりんと同じくらい小さくて軽くて、うっかり強風に煽られたら飛ばされそう。

「……こんなに小さいんですか……」

「ええ、早くお生まれになりましたから。ですが、あっという間に大きくなられますとも」

 女官長は当たり前のように笑って言うが、この子達が僕らみたいに大きくなる姿が全く想像つかない。それでも、腕の中の息子は小さな体をこれでもかと脈動させ、確かな鼓動と温もりを伝えてくる。

 今度は娘を抱いたクロエさんに促され、息子をそっとフローラの胸に乗せた。うつ伏せで抱かれた彼はふぎゃあと一声強く泣いたが、母に撫でられると大きく口を開け、ふわぁあと気持ちよさそうに欠伸した。その一部始終を見てしまい、フローラと共に思わず噴き出す。

「なんか、大物になりそう」

 呟くと、フローラも心から幸せそうに頷いた。

「お名前はもうお決まりですか?」

 空いた腕に今度は娘を抱かせてもらって、赤いほっぺを優しく撫でていたら、女官長が名付けを問うてくれた。

「……はい」

 フローラと僕、どちらからともなく微笑みを交わし、以前出し合ったあの名前を迷いなく口にする。

「テュールさんの温かさと優しさ、強さ、そして導きの光を太陽神になぞらえて、男の子には『リオ』と」

「彼女が教えてくれた、絶望の暗闇でも決して消えない希望を月神になぞらえて、女の子には『ルナ』と」

 練習したわけじゃないのに口上がぴったり嵌った。また朗らかに笑い合った僕らを見つめて、女官長がしみじみと目許を拭う。

「……今のこの瞬間を、パパス様とマーサ様のお目にかけとうございました……」

 いつの間にか部屋の隅に居たサンチョも、ハンカチをびしょびしょに濡らしながら激しく頷いている。

 どうやら無事産まれた報せを受けて駆けつけてくれたらしい。オジロン様にご報告だけ致しましょう、そしたら少しお休みになって構いませんからねと、なんとか涙を拭ったサンチョが僕を謁見の間に引きずっていく。待ち構えていたオジロン様に無事出産を終えた旨を報告し、慶びのお言葉と労いをいただいて、少しだけ明日のことを打ち合わせたあと寝所へ戻った。詳しいことはこのあとネルソン様と女官長がお話しくださるそうだ。ありがたい。

 部屋の中には新たに赤子用のベッドが設えられ、そちらに双子とホイミンが寝かされていた。フローラもやっと立ち上がれるようになったらしく、ベッドの柵にもたれて幸せそうに眺めている。その背を後ろからそっと包み込み、二人で歓びを噛み締めながら子供達の寝顔を見守った。

 ホイミンの柔らかい触手を左右から赤子が握っている。生まれたばかりなのにこうやって握れるんだな。小さい指にちょんと触れるとぴくっと震えて握り直したりして、なんとも可愛く稚い。

「本当にありがとう。お疲れ様」

 抱きしめて頬擦りしたら、至近距離の君が腕の中から僕を振り仰いだ。「さっき、ルナが少し目を開けたんです。あなたにそっくりな、深い黒と紫紺の瞳で……嬉しくなってしまいました」と、少しはにかみながら伝えてくれるフローラが本当に愛しくてたまらない。

「ずっとご覧になっていたいお気持ちはわかりますが、少しでもお休みいただきませんと。殿下からも勧めて差し上げてくださいまし。産後の母親はこれからが大変なのですから」

 それもそうだ、これからいくらでも見られるんだから。今は出産という大仕事を終えたばかりの妻を労らないと。今更ながら妻をふわりと横抱きにし、寝台へ向かった。驚いたフローラが咄嗟に僕の首に抱きつく。ああ、幸せ過ぎる。

「実は僕も寝てないから、フローラと一緒に夕方まで休んでいいって」

 ついさっきまでお産が行われていたベッドで眠るのも変な気がするけど、フローラと寝られるなら場所なんてどこだっていい。報告に降りている間に全部入れ替えてくれたらしく、寝台には洗いたてのシーツと掛布が引かれている。そこに再び妻を横たえ、自分もちゃっかり隣に潜り込んだ。

 思いがけないご褒美と言わんばかりにフローラは目を見開き、次いで喜び溢れる鮮やかな笑顔を見せてくれた。

「わたくしとクロエのどちらかが常におりますので、お二方とも安心してごゆっくりお休みくださいまし。特に殿下は、明日慰霊の儀を控えていらっしゃいますから」

 女官長のお言葉にありがたく甘え、愛しい妻を腕に閉じ込め目を瞑る。

 思った以上に疲れていたらしく、その直後の記憶はない。

 ただ、その日の彼女は懐かしくも優しい花の香に少しだけ独特な母親の香りが混ざって、深い眠りの中、まるで赤子に還って揺蕩うような安らぎを僕に与えてくれたのだった。

 

 グランバニア暦七一五年七月廿五日、午下。

 運命の双子が、グランバニア王城にて産声を上げた。



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#13. 十七夜急転

 王家の証を持ち帰るなり妻の早産を言い渡され、緊迫した中で迎えた慰霊の儀前日。

 無事出産を終えた最愛の妻と抱き合い、日中は陽が傾くまでぐっすり寝かせてもらった。夕刻、目覚めた僕を待っていたのは保留していた祭儀の前日確認と打ち合わせの数々。生まれたばかりの我が子らを愛でる暇も妻を労う間もなく、泣く泣くサンチョに連行され、日付が変わるまで拘束された。

 城下も寝静まる夜更けに寝所へ戻り、当然眠っているものと思って静かに扉を開けたが、予想に反しフローラは女官長と共に起きていた。というか扉の前に珍しく衝立が置かれていて、不思議に思いながら退けたところ、フローラが今まさに胸部を曝け出したところだったのである。

「あ、お、おかえりなさいまし、テュールさん」

 慌てて胸を隠したフローラが呼びかけてくれたが、この状況を飲み込めない僕はうん、と作り笑いで固まってしまう。彼女の前に跪いた女官長が肩越しに振り向き、冷ややかに黙礼した。

「あ、あの……ここで授乳しても大丈夫でしょうか?」

「え、もちろん。ごめん、僕も何か手伝えることある?」

 寧ろこちらが狼狽えてしまったが、フローラは久々に真っ赤な顔でぶんぶん首を振る。可愛い。ついでにヘラ様の目が据わっている。怖い。

「フローラ様がお気になさらないのでしたら……」

 ゆらりと立ち上がった女官長は腕に赤子を抱いている。もしやと思うより早く一際鋭く睨まれた。あ、これは久々のお叱りだ。

「こちらの御寝所はお二人でお使いいただいております。奥様は常日頃こちらでお召替えなどなさっておいでですから、以前からご入室の際はノックを戴けるよう重々お願い申し上げております。それとも殿下は、フローラ様に別室にてせよと仰せでございますか」

 ここぞとばかりに懇切丁寧、慇懃に諭される。寝所の扉には真鍮製のノッカーがちゃんとついているのだが、どうにもそっちを鳴らす習慣がなく……つい手の甲で軽くココンと叩いて開けてしまうのだ。城の扉はどれも分厚く、手でノックしたくらいじゃ音が死んで聞こえない。返事も当然聞こえない。つまり、まずノッカーで都合を窺い、中から開けてもらうのを待つのがこの場合の正解なのである。

 いや、寝てると思ったんだ……などという言い訳がこの場で通用するはずもなく。

「申し訳ありません。以後本当に気をつけます」

「まず衝立をお戻しいただいて」

「あっはい」

 なるほど授乳の為だったのか。確かに乳を出している状態でいきなり開けたらまずいよね……というか、僕の無神経は織り込み済みだったんですね。ノックなしで入って更には衝立まで退かすとか、どこまでも要らんことしかしない夫である。不甲斐ない。

「何度も吸っていただくことで、少しずつ母乳が出るようになってまいります。お母様もお子様も初めてでいらっしゃるのですから、まずは気負わず、お互い存分に練習をなさいませ」

 夫は空気と言わんばかりに目もくれず、女官長がフローラに授乳指南している。どきどきしながらつい盗み見てしまうが、妻公認のお陰かそれ以上叱られることはなさそうだ。どうやらうまく飲ませられないらしく、フローラが自らの乳を持ってリオの唇にちょんちょん当てている。口に入れてもすぐ離れてしまい、仕舞いにはほぎゃあ、ほぎゃあと大声で泣き始めた。釣られてルナまで泣き出して、ぎゃんぎゃんこだまする赤児達の叫びを聞きながら、フローラは肩を落とし自信なさげに呟く。

「私のは小さいですし、ほとんど表に出ていませんから、この子達もうまく吸えないのではないでしょうか」

「これからでございますよ。お早く産まれた分、体力がついていらっしゃらないのかもしれませんね。初めからたっぷり飲めるお子様はおられません。お乳の方も、しばらくすればびっくりするほど吸いやすい形になってまいりますから、ご覚悟なさいまし」

 ちょっとそれは聞き捨てならない。いや興奮してる場合じゃないけど……真剣な女性陣を前に何を考えてるんだ僕は。しかも、フローラは思いっきり項垂れてるというのに。

 罪悪感からそそくさと背を向けた僕に、女官長が目敏く声をかけてくる。

「テュール様もお早く寝衣にお着替えあそばして。先におやすみくださって構いませんが、いかがなさいます?」

 この二重唱を聴きながら寝ろと仰る。それはそうと、初めから戦力外通告されるのもなんだか悔しい。「何か手伝えること、あります?」と問うと少し驚いた顔をされたが「おいおいお願いすることに致しましょう。明日に備えて、今宵は早くおやすみなさいまし」と逆に就寝を促されてしまった。

 フローラも、今度はルナに一生懸命乳を咥えさせていたが、あとは任せて寝るよう諭され、申し訳なさそうに頷いた。

 赤児の育て方については事前に聞いていたけど、本当に時間を問わず授乳するんだな。この後も二、三時間ごとに乳をやらなくてはならないらしい。産後の母親は大変だと言った女官長の言葉が、重く意味を持ってのしかかってくる。

「以前お話ししました通り、お乳が落ち着かれるまではお子様方もこちらでおやすみいただきます。夜半たびたび泣かれるかと思いますが、フローラ様はご無理のないようお付き合いくださいまし。別室に乳母も待機しておりますのでご安心を。とにかくこまめに授乳することが、お乳をよく出す秘訣でございますから」

 どんな神業か、女官長は説明しながら鮮やかに双子を寝かしつけている。頼もしすぎる。僕も抱っこしたかったけど、寝た子を起こすなと睨まれたので大人しく寝る。明日の朝、少しだけ抱かせてもらおう。

 昼と同じく、女官長はこのままずっとついていてくださるという。一体いつ寝ていらっしゃるんだろう……とふと不安になったが、クロエさんやサンチョとも交代しながら休息をとられると聞き安堵した。乳母だけでなく、この部屋に入れる女官を数人増やす予定だとも。

 産まれたら終わりじゃない。まだちょっと実感が薄いけど、もう子育ては始まってるんだ。僕ももう『父親』なんだよね。

 なんだか変な感じがする。ふわふわ覚束ないというか、夢見心地というか。これまでの人生が一区切りして、何かが大きく書き換わっていく感じ。僕自身の血に連なる存在を得て、僕が僕だけの主であった日々は真実終わりを告げたのだ。

 フローラと結婚した時感じた、自分一人ではなくなる実感。初めてサラボナの別宅で目覚めた夕刻、左手に指輪を見つけた瞬間湧き上がった感慨はきっと一生忘れない。

 部屋の隅に陣取ったヘラ様はすっかり気配を消していらして、僕も疲れがとりきれてなかったから、フローラと寝台に潜り込んだらすぐ眠りに落ちてしまった。その後、夜中に数回双子が泣いて都度フローラは起き出していたそうだが、大変情けないことに、僕は一切気づくことなく朝まで爆睡してしまったのだった。

 

◆◆◆

 

 生まれたばかりの我が子達と初めて眠った夜が明けて、いよいよ今日は父さんの慰霊の儀が行われる。

 城下にある教会の聖堂に、今日は父の肖像画が飾られている。僕が見たことのない、王家の礼装に星形の王冠を身につけた威厳ある国王の姿だ。今日の為に新たに描かれたものだというが、彼は僕が一歳にもならない頃出奔してしまったから、この絵の父さんは記憶より随分若々しい。

 赤ん坊の僕を連れて旅歩いて、さぞ苦労したことだろう。

 その立派な絵の前に祭壇が設けられ、今日は城の外から集まった人々が朝から続々と献花に訪れている。

 前王パパスの戦死が伝えられ、国民は一様に喪に服した。

 国中に掲示されていた、父さんと僕の安否を求める貼り紙も撤去された。城下の道具屋前の壁には王妃に関する貼り紙だけが虚しく残されている。魔界に連れ去られたという父の遺言を信じるなら、彼の消息より母さんの手がかりを得ることの方が雲を掴むような話だろうが。

 儀式は午後、夜の入り頃から執り行われる。その為に昼過ぎから身繕いを……数時間かけて……行わねばならないらしい。入浴の手伝いやら全身の手入れやら、全力で固辞したのだけど今日ばかりは見逃してもらえなかった。王族として初めてまともに国民の前に立つのだ。わかっちゃいるけど気が重い。

 祭儀を控え午前中は忙しかったが、昼食は妻と一緒に摂って良いとのお許しが出た。そのわずかな隙間時間を縫って、ヘンリーの迎えの為こっそりラインハットへ飛んだ。城門の兵士に教えられて宿屋へ向かうと、既にくたびれた旅装にひっつめ髪のヘンリーが待ち構えていた。

「あんま時間ないって言ってただろ。上はさ、今赤ん坊の世話で慌ただしいから」

「ああ、そうだよね。おめでとう、どっちだった?」

 拙い祝辞にヘンリーははにかみ、男だったと教えてくれた。うちの双子より十日ほど早く生まれたそうだ。こっちも昨日生まれたばかりだと伝えたらさすがに目を剥いたが、フローラは儀式に参加せず休ませると説明してようやく安堵したようだった。

「ほんっとお前も落ち着かねーな。なんつーか、大変なことって立て続けにくるよな」

「そうそう。一昨日もひとつ課題をやったばかりなんだよ。いろいろあって、その日しかできないって言われてさ」

 何の気なしに頷いたところ、呆れ半分哀れみ半分のぬるい視線を返された。言いたいことはわかるけど、こればかりは僕がどうにかできるものでもない。

「あ、そうだ。ちょっと訊いてもいい? ラーの鏡ってもう神の塔に戻したよね」

 忘れないうちに聞いておかないと。いきなりの不躾な問いにもヘンリーは嫌な顔ひとつせず「そりゃまぁ。お前が発ってすぐ、マリアを城に迎える前に塔に奉納したけど」と答えたが、すぐに険しく表情を引き締め声をひそめた。

「入り用なのか? まさか、グランバニアにも変幻する魔物が」

「そうみたいで……出来たら今度貸してもらえないかな。何度も塔を開けさせるの、申し訳ないんだけど」

 一昨日サーラが言っていた「解呪の鏡」はきっとラーの鏡のことだ。ここラインハット王国に伝わる、まやかしを破り真実を映す秘宝。普段は清らなる乙女にしか開けられない『神の塔』に祀られていて、三年ほど前、この城で王太后に成り代わっていた魔族の正体を暴く為に僕達が持ち出した。

 試練の洞窟に現れた斧男とカバ頭が、お目付け役として城から同行してきた兵士と神官の正体だったのではないか。現状遺体がなく行方不明というだけで確証にはならないが、サーラの言葉に偽りがあったとも思わない。二人の身元は確認してもらっているが、奇妙なことにどちらも身寄りがないとのことだった。

「やっぱ持たせてやれば良かったよな。どうしたって必要な場面はお前の方が多いだろうに」

「ただの旅人がおいそれと国宝を預かれないよ。今日は本当に時間がないから、今度借りに来るね。できたら、修道院に話だけ通しておいてもらえたら」

 ヘンリーも真顔で言うから怖い。国の窮地を救った宝を、どこで野垂れ死ぬかもわからない旅人に容易く貸しちゃ駄目だろ。多忙な彼の手を煩わせたくないのでそう願い出たのだが、世話焼きの親分はさも当然とばかりに首を振った。

「俺が取りに行くよ。来週あたり、城に来てもらえれば渡せるようにしておく」

 それはさすがに申し訳ない。来週ってことは、ヘンリーはグランバニアから戻り次第塔に向かうつもりなのだ。

「お前さ、わかってるか? 今はお前の方がよっぽど多忙なんだぞ」

「……子供が生まれたばかりなのはそっちも同じじゃん」

「立太子の儀もあんだろ。ついでにこっちは一人だが、そっちは二人だからな。俺はいいの、役立たずな親父が毎日追い出されてるだけだし」

 その物言いには身に覚えがあって、二人で顔を見合わせ情けなく笑い合った。「こっちは乳母達がコリンズを引っ張りだこさ。朝晩にちょろっと抱くしかできん。ま、親父の本分は国を育てることだからな、大人しく役割を全うするさ」とヘンリーが大人びた目で呟いて、それがなんとなく胸に刺さって、足早に街を出ていく彼を横から覗き込んだ。ルーラはキメラの翼と違う挙動をするから、騒ぎにならないよう人目のないところに出てから使うようにしているのだ。

「……マリアが身篭って、父親になるんだと思ったら。俺はこいつに何を見せてやれるだろうって思った」

 やっと街の外、街道からもだいぶ外れたところまで来て、ヘンリーは目を細め自らの国土を見つめた。昔父と越えた関所、その上を流れる川面が遠く煌めく。彼の背に負う王城ではなく、青い山が聳え、緑の木々が続いてゆく豊かな大地を。

「子供に胸張って見せられない国にはしたくないよな。デールはいずれコリンズに王位を継がせると言ってる。自分の子は持ちたくないんだと。……んなもん、コリンズにまで納得させちまったら嫌じゃん」

 ヘンリーが語ったそれは、僕が今正に立っている岐路の、一つの回答になり得る気がした。

 正直ずっと悩んでいる。父さんの悲願を諦めたくなくて、でも腰を落ち着けてほしがるサンチョやオジロン様の気持ちも痛いほどわかって。フローラとの子を授かったことはすごく嬉しい、けど同時に枷のようにも感じていた。父さんみたいに赤子の二人を連れ歩くことはきっと出来ない。まだ身体機能も覚束ない双子を安全な場所で無事に育てあげることは、親である僕らの責務だ。

 まだまだ未熟な僕だけど、胸を張れない父親にはなりたくないな。

「コリンズか。洒落た名前だね」

「勝利の子って意味な。ま、あいつは俺達が祖国を取り戻した、勝利の証みたいなもんだからさ。そっちの名付けは?」

 促されて、リオとルナの名を告げれば意外とまともじゃんと笑う。わざとらしく鼻根に皺寄せたあと、親友の肩に手を置き転移魔法を唱えた。光の粒子が僕達を包み、次の瞬間、ヘンリーと僕はグランバニアの城門から少し離れた木立の中に佇んでいた。うん、位置調整にもかなり慣れたかも。

 さすがに、いつになく人の出入りが多い。恐らく宿をとれなかった人々が城から離れたところに露営地を設えている。サンチョ邸がある中庭も開放すると聞いた。近隣の村々から人が集まる故、今日は衛兵を総動員して警備に当たらなくてはならない。ああ、だから一昨夜、中に入れてもらえなかったのか。

 城塞に囲まれた王城を興味深げに眺めたあと、ヘンリーは僕に早く戻るよう言ってくれた。自分は人の流れに乗じて入城するし、グランバニアの城下をのんびり見て周りたいからって。

 器用な彼ならうまいこと村人を装って入るだろう。有難く承諾し、あとで迎えにくる旨を約束してその場で別れた。急いで城内に戻り、顔見知りの衛兵達に挨拶しながら上へ向かう。彼らはまだ僕の正体を知らされていない。

 こうして気安く挨拶できるのも、今日が最後かもしれないな。

 根無し草が板につきすぎてるから、これからを思うとどうにも憂鬱になる。首を振って重い懸念を振り払った。

 証に選ばれた。子供達も無事産まれた。何も知らない流浪の民であった僕は、それでも父から受け継いだ国宝の剣にずっと助けられてきた。グランバニア王家の末裔として、今、その在り方を問われているのだ。

 

◆◆◆

 

 奥の宮に戻り、今度はちゃんとノックをしてしばらく待つと、クロエさんが内側から開けてくれた。珍しくまともに入室した僕を不思議そうに迎え入れる。ちょうど授乳を終えたばかりだったらしく、少しずつ飲んでもらえるようになってきたとフローラが教えてくれた。まだ小さいから本当にちょっとで大丈夫なんだって。お腹いっぱいで眠る我が子達を眺めながら、妻と二人でゆっくり昼食を愉しんだ。

 昼食が終わると、ネルソン様が回診にいらっしゃった。

 曰く、双子は腹の中で育ちきる前に生まれたので、未だ身体が完成していない。普通なら昨日、腹の外に出た時点で天に召されておかしくない状態だったそうだ。改めて聞かされると本当にぞっとする。

 現状もホイミンが命綱であることに変わりはなく、離してしまうと何が起こるかわからない。但しホイミンが側にいて魔力が繋がっている限り、命に関わる症状が出ることはないだろうと言ってくださった。

 僕がホイミンを連れ込んだことは、この実績を以て不問としてくださっているらしい。深く突っ込まれないのは正直有り難い。妻も産後の戻りは順調ということで、大きな問題はなさそうで心から安堵する。

 お話を聞き終わったタイミングでクロエさんに促され、式典の支度にかかった。城に着いた日に一度だけ入った大浴場へ連行され、女官……だけはどうにかと懇願した結果、サンチョが代わりに湯殿まで入ってきて、たっぷりの泡で隅々まで丁寧に磨き上げてくれた。……恥ずかしい……‼︎ いい大人が他人の手で洗ってもらうとか‼︎ やっぱり今後は何がなんでも断ろうと固く誓った僕であった。

 湯浴みの後はいつもと違う部屋に連れて行かれ、精油やら何やらを頭から爪先まで塗り込まれた。時間がなかったとは言え結婚式でもここまでしなかったぞ。その間にもサンチョは、身体中の傷痕を見咎めてはぐずぐずと涙ぐんでいた。幼い頃ホイミで治しきれなかった古い傷は皮膚の一部として身体が覚えてしまっている。背中は特に鞭の痕だらけだろうから、今更ながら女官ではなくサンチョが世話してくれて良かったと思う。こんなのフローラやサンチョ以外に見せたくない。

 本当に自分の肌かと思うほど全身つやつやに仕上げてもらい、僕の一張羅の何倍も値が張りそうな上等な下着を身につけたところで、女官達が入室してきた。高地にあるグランバニアはそこまで暑くないとはいえ、きっちりした長袖揃いの衣服に若干の戦慄が走る。シャツにベスト、紐飾りやら帯やらを幾つも重ねられ、動くに動けず緊張したまま棒立ちで完成を待った。最早気分はカボチ村の案山子である。髪もまた、これでもかと丁寧に梳られ、いつもより上品にまとめられていく。

「本当に殿下はマーサ様によく似ておいでですこと。紫紺の被布が大変お似合いです」

 途中から入ってこられたヘラ女官長が満足げに呟き、反対に出たり入ったりを忙しなく繰り返しているサンチョがその一言を偶々耳にしては感極まり頷きまくっていた。

 なんだか恥ずかしいな。こんな凝った格好したことない。

 いつもの襤褸布とは違う上質な外套、被布というのが正しいみたいだけど、これは恐らく特殊な糸で織られたものだ。しっかりしているのにすごく軽い。黒に近い深い紫地に銀糸で控えめな刺繍が施されている。これを肩に巻いて金細工のフィブラで留める。国章の鳥を模った立派なものだ。

 被布の下は、国葬なので黒の礼装だ。これほどしっかり染め上げられた黒い生地は見たことない、鴉みたいな漆黒で上下を整え、ジャケットから覗く真っ白なシャツの袖には剣モチーフの銀のカフスを添える。腰には光沢が美しい黒革の剣帯を着け、被布のフィブラと剣帯、胸許にも黒と銀、紫の紐飾りがかけられた。同じ組紐で髪も結われているようだ。

 ものすごく重ね着してるんだけど、不思議と暑くはない。軽いし、風を通す素材なんだろう。シャツがひんやりしているあたり、雨露の糸みたいなものを使っているのかも。

 着付けが終わり、促されてぎくしゃくと姿見の前に立てば、そこには普段ヘンリーが着ているような服を身に纏った黒髪の男が、ひどく固い表情でこちらを見ていたのだった。

 いやもう別人なんだけど。何これ? 王城の人達すごくない⁉︎

 緊張を落ち着けながらいざ出陣直前、めかしこんだ自分を妻にも見てもらおうと寝所を訪った。先導するヘラ様がノックをし、内側からクロエさんが開ける。得意げなサンチョ叔父と、その後ろに立つ僕を見上げて微かに瞠目したクロエさんは、粛々と道を開けて会釈してくれた。

 その向こう、赤子を抱いて寝台に腰掛けていたフローラは、息をするのも忘れて茫然と僕を見つめている。

「……どう? すごいよね、自分じゃないみたい」

 気恥ずかしくて思わず頬を掻くと、フローラもかぁっと恥じらい俯いた。碧髪が肩からこぼれ落ちて白いうなじが露わになる。薄絹の白いネグリジェが映えるほど、これだけ磨いてもらった自分の姿容すら霞むほど、自らの薄紅を顔と首筋に鮮やかに咲かせて。

「とっても、素敵です。……びっくりしました。本当に、昔吟遊詩人の方が吟じていた、物語の王子様みたいで」

 なんて勿体無い褒め言葉だろう。お世辞には慣れてるけど、彼女のそれは不思議と心からの賛辞だと思える。いつだって君の心を欲する僕の願望がそうさせるんだろうか。

 子を産んだからか、彼女の芳香がいつも以上に瑞々しく芳る。まるで熟れた桃の実のよう、入口に佇む僕までその香りで虜にする。

「いいえ、本物の王子様なんですよね。もう十分わかっておりますのに、不思議な心地で。初めてサラボナで出逢ったあの日からずっと、あなたは私の王子様、でしたから……」

 そんな、自分の方こそ、御伽噺の姫君みたいなひとなのに。

 長い睫毛を伏せた君が切なく儚げで、抱きしめたくてたまらなくなった。君のいい香りに全身を投じて、その柔らかさを肌で感じたい。甘い情動を、手間暇かけられた装いと家臣達の視線がかろうじて踏み留まらせる。そんな邪念をつゆ知らず、健気な妻は尚も誠実に、僕を悦ばせる言葉を紡ぐのだ。

「もう、私だけの王子様ではないのだと……少しだけ……その」

「待って。今聞いたら我慢できなくなりそう」

 ああ、最早これは新手の拷問だ。

 足早に寄って身を屈め、淡い唇に指を押し当て遮って、翡翠の瞳を瞬かせたフローラの額に素早く口づけを落とした。

 ぼっ、と更に顔を赤らめたフローラに反して背後の空気は一瞬で凍りつく。背筋が寒い。

「続きは帰ってから聞かせて? 今のこの格好じゃ思いっきり抱きしめられなくて、却って辛い」

 苦笑しつつ立ち上がると、真っ赤なフローラが額を抑えてこくこくこくと頷いた。息を詰めた女官達もほっと胸を撫で下ろす。信用ないなぁ。サンチョだけがうるうると瞳に水をたたえ「まこと深き、麗しきご寵愛! パパス様とマーサ様を思い出しますぞ!」などと声を躍らせているが、ヘラ様は真反対の低い声で「殿下、フローラ様のお身体のことで後ほどお話ししたいことがございます」と僕に釘を刺した。

 そんな、心配しなくても無体な真似はしません。閨事は床上げまで駄目だってちゃんとネルソン様から聞かされてるから! そのくらい弁えてますから!

 名残惜しいが儀式の時間が迫っている。残ってくださるクロエさんに妻と子供達をお任せし、オジロン様のもとへ急いだ。果たして玉座では普段よりもっと威厳ある装いのオジロン王が待ち構えていた。緋色の被布の下には僕が着せてもらったのと同じような黒の礼装を纏い、星形の王冠を頭に冠している。気難しい顔つきで頬杖をつき遠くを眺めていらしたが、僕を見るなり表情を綻ばせた。

 サンチョが厳かに「テュール・シエル・グランバニア王子殿下、御成り!」と声を張り、広間を護る衛兵達が一斉に敬礼する。さすがにもう奥の宮ばかりでなく、この場を護る兵士達にも全ての事情が伝わっているようだ。

「テュールよ、見違えたな。義姉上によく似ておると思ったが、こうして見ると兄の凛々しさも継いでいるようではあるまいか」

 左様でございましょう! とサンチョも嬉しそうに頷いた。にこにこと僕を見つめていた叔父が、次いで申し訳なさそうに眉根を下げる。

「すまなんだな、この冠も玉座も、本来そなたのものだと言うのに」

「何を仰るのですか。父が国を空けていた間、お護りくださったのは叔父上です。叔父上こそ王に相応しいと思う僕の考えは今も変わりません」

 白々しく思われようと、これが僕の本心だ。もう何度目かの主張をきっぱり告げると、叔父は力無く微笑み首を振った。

 少し遅れて、ドリス王女が広間に入場してきた。真っ黒なレースのドレスに小粒の真珠をあしらったシックな装いだ。十四歳の彼女に似合う、ふわりと広がった形が可愛らしい。いつもながら無愛想ではあったが、僕と目が合うと珍しくドリスの方から頭を下げた。

「お子様方のご誕生、誠におめでとうございます」

「あ、うん。ありがとう」

 普段が普段だから、話しかけられたことに驚いてしまった。というか僕に構ってくることはなかろうと思い込み、不躾にドレスを眺めてしまっていた。いや、フローラだったらもっとしっとりした雰囲気がいいかなぁなんて思ってしまって。裾を広げず、身体のラインに沿って流して……元修道女の彼女だから、落ち着いたデザインの黒いドレスはさぞ似合うことだろう。

「……今度、お顔を見に行ってもいいですか」

 えっと、子供のってことかな? ドリスなら血縁なんだし、僕に気兼ねなく見にきてくれたら嬉しい。だが、恐らく宰相をはじめ彼女を取り巻く勢力がそれを許さないのだろう。

 実は僕が不在の時に一度、叔父上と共に妊娠中のフローラを見舞ってくれたらしい。後でフローラとヘラ様から聞いた。とても可愛らしいお姫様が会いに来てくださったのだと、フローラが嬉しそうにしていたっけ。

「もちろん。双子達も、フローラも喜ぶよ」

 同じく小声で囁くと、ドリスが初めて、微かな歓びを目許に浮かべた。

 もしかしたらドリスと僕は、わりと気質が似てるのかもしれない。従兄妹だし。言葉がやや足りないとことか、面倒ごとを敬遠するところとか。

 それで話は終わるかと思ったが、一同揃って教会へ移動する途中、ドリスが再びこっそり話しかけてきた。

「奥様のお加減は?」

「元気にしてるよ。双子だから世話が大変みたい」

 序列の順で、オジロン様を先頭に僕とドリスが続く。前後左右をサンチョと兵士達が護って、宰相閣下は一番前を先導している。その誰にも聞き取れないほど、僕にしか聞こえないくらい微かな声でドリスが囁いた。

「……よく見てあげてください。産後は色々大変らしいから」

 言うだけ言って彼女はさっさと後方へ離れてしまったが、一方的に届けられたその囁きは、何故か胸の奥の方に、棘のように深く刺さった。

 そういえばドリスの母君は、彼女を産んだ後体調が戻らず亡くなられてしまったんだっけ。

 彼女は六歳年下だから、ちょうど僕達親子がラインハットの事件に巻き込まれた頃の話だ。そう思うと、今日の慰霊の儀は父さんだけのものではないような気がした。

 形は違えど愛する妻を失った王弟が、それでも兄王の留守を預かり国を護ってくださった。きっと彼の支えであった見ず知らずの王弟夫人にも、心からの祈りを捧げたいと思ったのだ。

 

 

 

 西の山並みが緋色に燃える夕刻、城下の奥に開かれた教会で、先王パパス・パンクラーツ・グランバニアの慰霊の儀がしめやかに執り行われた。

 朝から続いていた献花で、肖像画を掲げた祭壇前には白い花が咲き乱れている。僕が持ち帰った宝剣グランソラスは長く国王代理を務めた王弟オジロン公が遺品として供え、大司教が王の御霊を慰める長い経典を滔々と読み上げた。先王の治世はもう二十年も前のことだと言うのに、祭儀の間中、城下の民達からは啜り泣く音が絶えず聞こえていた。

 骨の一片、髪の一房すら還らなかった武勇の王は、凡そ十四年の時を経て、その最期を国民に伝えられることとなった。

 

◆◆◆

 

 厳粛な儀礼式典のあとは、国を挙げての追悼宴だ。

 以前ポートセルミの酒場でやった賑やかな酒宴とは違い、故人を偲び、昔語りをしながら盃を酌み交わす。

 聖堂の祭壇にグラスが捧げられたあと、王家が供する弔い酒が王宮内と城下に振る舞われていった。二階の大広間には城の料理人が腕をふるったご馳走が並べられ、城下では町民達が各家庭でこしらえた料理を外に持ち寄り分け合っている。子供の無邪気な声も微かに聞こえて、楽しそうなんて思うのは不謹慎なのだけど、なんとなくそわそわする。

 当然のように大人達は酒を注ぎあっているが、重度の下戸である僕はうっかり呑まないよう水の入ったグラスを握りしめていた。ごめん父さん、空気の読めない息子で。こういうきちんとした場で、しかも父さんの為の宴で酔って倒れるなんて絶対に嫌だ。

 オジロン様は盃を片手に重鎮に囲まれ難しい話をしていたが、僕が居心地悪そうにしていたので気を遣って下さったようだ。早めに着替えて、何なら先に休んでも良いとの有り難い言葉を賜り、逃げるように場を辞してきた。そういえばドリスは祭儀が終わってから姿を見ていない。早々に切り上げて新宮に戻ったのかもしれない。

 サンチョに手伝ってもらい急いで普段着に着替えたあと、少しだけ城下を見て周りたいからと強引に別れた。彼は僕専属の侍従みたいなものだけど、実際はパパス王の腹心だったひとだから、さすがに慰霊の儀ともなると色々引き受けることがあって忙しそうだった。僕を連れ出す直前にも、弔い酒が足りないとかでばたばたしていたし。

 途中、顔見知りの兵士達に何度か仰々しく挨拶されながら街に降りてヘンリーを探すと、彼は酒場の奥でちびちびグラスを舐めながら人々を眺めていた。目立たないカウンターの隅に陣取り、時折マスターに話しかけられては卒なく応じている。王族のくせに、彼はこういう退廃的な雰囲気がやけに似合う。

「今日はありがとうな。宴の真っ只中に送らせちまってすまん」

 心底申し訳なさそうに繰り返す彼を裏庭へ連れて行き、急いでルーラを唱えた。人々は酔って話し込んでいたし、衛兵も偶々外してくれていて助かった。

 見違えるほど磨いてもらっていたお陰か、どうやら街の人々にはまだ、紫の外套の男が王子だと認識されていないらしい。ヘンリーにも「あの人達、お前がさっきの王子だってわかってなかったみたいだな。まぁこれと同一人物とは普通思わないか、なかなか様になってたぜ」などと茶化された。

 父の子だと知ってもらえることは嬉しいけど、今後は軽率に街に降りられなくなると思うと憂鬱だ。

 と、ヘンリーが珍しく、大きな欠伸を噛み殺した。

「……緊張が切れたかな。急に眠気が……悪い」

「ずっと気を張ってただろ。もう夜も遅いし、当然だよ」

 今更ながら、彼も父親になったばかりだ。環境の変化による疲労も当然あるだろう。気遣うつもりで親友を振り返れば、存外にも険しい表情をしていた。

 父さんの逝去についてオジロン様から話があった時、死没地としてラインハットの名ももちろん出た。それは仕方ないことだけど、どうしたってヘンリーにはきつかったと思う。

 自分の所為だと思わないで欲しい。あくまで事実を、国民に伝えただけのことだから。

 そう言おうと思ったのに、彼が次に口にしたのはいつもの詫びの文句ではなく、僕の祖国に対する思いもよらない苦言だった。

 

「こんなこと言いたかないけど……久々に吐き気がしたよ。なんだ、あの空気────」

 

 瞠目する僕から苦々しげに顔を伏せ、重く息を吐く。

 単なる国の雰囲気ではないだろう。黙って汲むことを是とされていた、国王代理のオジロン様にこれまで無遠慮に向けられていたものだ。同時に、数十年停滞し続けた王政への失望か、諦めか。

 祭礼の中でオジロン王が先代パパス王逝去の詳細を告げたあと、前王の息子として国民に僕をお披露目くださった。選定の儀もつつがなく終え、ゆくゆく譲位に向けて王太子と定める旨を伝えられたが、僕に向けられた目は凡そ王子の帰還を歓ぶものではなかった。

 父に似ていないからか、それとも長く国を空けた不義理な王族への不信感か。

 既に事情を知る重鎮達は些か軽んじた表情を隠さず、今日初めて聞かされた兵士や神官達の間からは、値踏みする視線やどこか白けた空気、投げやりな溜め息があちらこちらから上がって諌める声もなかった。覚悟はしていたが息が詰まった。かつてユリウス司教が泣いて歓迎してくださったのが夢ではなかったかと思うほど。

 救いと思えるのは、父さんを悼んでいらっしゃる方が本当に多かったことだ。城下でそれとなく話を聞いた時もそうだったけど、多くの敬愛を集めた王だったことがわかる。尤もそれ故かオジロン様への評価は極めて厳しく、それは今日、僕に注がれた視線にも通じると思っている。

「お前、よくあんなところで……」言いかけて、すぐヘンリーが口籠る。「いや。わかるよ、故郷って……そういうもんだよな」

 ん、と控えめに頷いた。グランバニアに着いてからの三ヶ月、正直言って気が休まる日はほとんどなかった。僕なりに精一杯向き合ってきたつもりだけれど、国民からしてみれば数ヶ月前に帰還していた王子がここまで存在を秘匿された意味もわからないだろうし、不審に思われて当然だと思う。

 国政なんて何もわからない。国を継げと言われても何もできる気がしない。せめてこれから誕生日までの二ヶ月、立太子の儀までに最低限のことを学ばないと。

 せっかく産まれた子供達も、お披露目はもう少し育ってからと言われてる。そりゃこの国の体質を思えば、ホイミスライムから離れられない赤児なんて絶対見せられないよね。

 ヘンリーも僕が知らないところで色々あったんだろう。尤も彼の場合、拉致される前の方が居心地悪かったかもしれないけど。

「……デール様はもっとお辛かったんだろうな」

 思わず呟いてしまって、ヘンリーがまた痛々しく顔を歪めた。改めて考えるととんでもないことだ。僕より歳下のデール王は幼少にして父王と異母兄を突然失った後、十年もの間荒んだラインハットを直視せざるを得なかったのだから。

「僕は大丈夫。サンチョも……いるから。フローラだって、無事にお産が終わったんだし」

「産後の肥立ってのもあるんだよ。……いや、でも良かった。とにかく無事に生まれたみたいで」

 赤ん坊達を見られなかったのは残念だが、とヘンリーがようやく少し表情を和らげた。だがすぐにまた目を伏せ、酷く苦しげに絞り出す。

「……はっきり言って、あんなとこに帰したくないくらいだ」

「ヘンリー」

 僕の心中を読んだように、そう言ってくれたことが嬉しくて。少しだけ胸がすく思いで微笑んだ。

 生まれながらに国を背負い、その立場が煌びやかなものだけではないと良く知っている君だから。

 君もここで戦っている。こうして共感し、心配してくれるだけで、僕ももう少し頑張ろうと思える。

「今日は本当にありがとう。……鏡の件も、無理言ってごめん。次はコリンズにも会えるかな? 落ち着いたら、今度は双子の顔も見に来てやって」

「ああ、もちろん」

 さっきよりだいぶほぐれた笑顔に、心からほっとする。

 生い立ちも性格も環境も、真逆なほど違う僕らだったのに。苦節の十年を共に過ごして、気づけば共に父となり、一国を背負う立場になってる。

 他ならぬ君が変わらず親友でいてくれることを、こんなにも嬉しく、心強く思う。

「潰れる前に、愚痴くらいいつでも吐きに来いよ」

「うん。ありがとう」

 どこまでも心を砕いてくれるヘンリーに、もう何度目かの謝辞を伝えて。ラインハット王城の堀に架けられた跳ね橋は夜間は通れぬよう上げられているが、王兄殿下の帰還を受けて静かに戻されていった。慣れているのか、町民姿の王兄にも衛兵は動じない。跳ね橋が下がっていくのを彼と並んで待ち、渡れるようになったところで名残惜しく数歩退がった。

「じゃあ、また」

 お互いいつも通りに手を振り、翠の髪が橋を渡りきるのを見届ける。人目がない場所まで小走りで移動して、急いでルーラを唱えた。祖国のあれこれを思うとどうしたって気は重かったけど、いつの間に芽生えていた郷愁が気鬱を押し退けた。

 帰らなきゃと思えるのはフローラと、今は子供達も居てくれるから、かもしれない。

 ヘンリーだってここに残ることを決めた時、きっと温かく迎えられるばかりじゃなかったはずだ。けれど彼自身の努力や働きかけの結果、今では家臣達の確固たる信頼を勝ち得ている。

 僕もそう在りたいと思う。潰れぬ気概を持ちたいと思う。

 国民や重鎮達の顔色を窺うのではなく、僕が帰るべき場所であるグランバニアを真実愛せるように。母からもらった『テュール』の名に、恥じることがないように。

 駆け去る僕を見送ったヘンリーが最後に呟いたそれは、誰の耳にも留まることはなかった。

「……負けんなよ。親友」

 

 

 

 僕も、ヘンリーも、この別れの直後あんなことが起こるなんてゆめ思わなかったのだ。

 この時の「また」が、紆余曲折を経て遥か数年後になってしまうことも。

 

◆◆◆

 

 ほんの二、三十分、話をして戻ってきただけのはずなんだ。

 ついさっきまで追悼の宴をしていた城下が静まり返っている。元々賑やかではなかったしもう深夜に近い時間だが、この静けさには違和感がありすぎた。外に立っているはずの衛兵は見当たらず、訝しみつつ城内へ戻るといきなり衛兵が二人、扉の前に転がっていてぎょっとした。息はある。警戒しつつ見渡せば、教会へ続く街路と広場にも人が累々と倒れている。

 毒かと思い咄嗟に袖口で鼻を抑えたが、あちこちからいびきと寝息が聞こえてくる。ということは皆、気絶というより眠っている状態なのか。そろりと腕を下ろし匂いを嗅ぐと、妙に甘ったるい酒臭さが充満していた。

 起きている者の気配はない。換気と退路確保の為に正面の扉を開け放った後、倒れた人々を確かめて回った。全員生きてる。ほっとしたけど、こんな寝方明らかに尋常じゃない。酒場を覗くと、さっきまでパパス王を偲び泣いていた人々がその姿のまま眠っていた。ヘンリーと話していた酒場のマスターも、ひと休みの体勢で椅子に座って脱力している。

 一体、何が起きてるんだ。

 ざっと城下を見て回ったあと二階へ上がった。床に転がる杯と瓶、むわりと立ち込める濃い酒の香り。匂いだけで酔いそうだ。

 その広い空間に屈強な兵士達と、政務官も貴族達も神官も、テーブルに床にと突っ伏し熟睡していた。大広間の奥にオジロン様達がいるはず、大急ぎでそちらに向かう。果たしてそこにはサンチョにオジロン様、重鎮の皆様まで、先ほどややこしい話をしていた顔触れが円卓に突っ伏し、深い眠りに落ちていたのであった。

「サンチョ! 起きて、何があった?」

 軽く頬を叩くも「ううん、ぼっちゃ……よかったですねぇ。むにゃむにゃ」と幸せそうに寝言を言うばかりで埒があかない。叔父王も強めに揺すってみたが、酩酊状態でやはり起きない。

 酒だけでこんなになるか? 誘眠魔法ならかなり厄介だ。それにしても、これだけの人が全員一斉に眠ってしまうなんて。

 誰が、いったい何のために、────……

 瞬間、唐突に何かが思考を突き抜けた。考える前に駆け出す、警鐘、これは砂漠でフローラを連れ去られたあの時に似ている。燃えるような指輪の熱はないけれど。

 気のせいであってほしい。大丈夫だと笑ってほしい。なんならここにいる皆のように、眠っていてくれて構わない。

 玉座の間へ続く外廊に駆け上がった瞬間、何かが飛び去る羽音がした。見渡すもちょうど月が翳って辺りがよく見えない。舌打ちし、再び全力で石床を蹴った。

 杞憂であってくれ。無事でいてくれ、どうか!

 王の間を護る衛兵達すらその場に昏倒していた。この周辺にも甘い匂いが立ち込めている。鼻口を塞ぎつつ階段を駆け上がり、音のしない廊下を一心不乱に走った。奥の宮を守る衛兵達が立っていた場所そのままに崩れ落ちている。嫌な予感がどくどく全身を蹂躙していく。

 勢いよく開け放った扉の先に、妻の姿はなかった。

「……っ、フローラ……?」

 どく、どくん。

 己の鼓動が直接耳に響く。割れそうな脈動を無意識に抑えつけて室内に踏み入った。南側のテラスの扉が開いて、ぬるい夜風がゆるく吹き込んでいる。他に荒らされた形跡はないが、寝台の掛布がやや床にずり落ちていた。

 シーツに触れれば、まだほんのりと温かい。

 ずっと寝たきりで、昨日双子の出産を終えたばかりの君が一人で出歩くだろうか。赤ん坊達は? 慰霊の儀の前はここでホイミンと一緒に寝かされていたはず。小さな、横に広い赤子用の寝台にも影はない。

「────フローラ!」

「でん、か」

 テラスに駆け寄り思わず声を張り上げた、その瞬間後方からか細い声がした。咄嗟に寝台の敷布をたくし上げれば、その下のわずかな空間にうずくまる人影が。

「……クロエ、さん⁉︎」

「申し訳、ありません。……申し訳……ッ」

 それは、この三ヶ月間献身的に仕えてくれていたサンチョの縁戚の令嬢だった。身動ぎひとつせず寝台下に隠れていた彼女は、僕が覗き込んだ瞬間堰を切ったように悲愴な悔恨を溢れさせた。どうやら身体が強張って出られないらしい。両肘をつき丸まったその背の内側を、クロエ女史が震えながら必死に示し懇願した。

「おた、すけ、ください。こちらに……わたくし、お二人を、お守りする、しか……」

 そこまで言われてようやく気づいた。彼女の身体の下に、生まれたばかりの赤子達とホイミンが隠されていたのだ。急いで一人ずつ抱き上げ、ふにゃあと泣き出した双子達を寝台に横たえた。今までよくぞ泣かなかったと思う。ホイミンも双子の間に寝かせ、最後にがくがく震えるクロエさんを引き出して、尚も平伏しようとするのを止めて問うた。

「フローラは。いつ頃、どこへ行ったかわかりますか?」

 とても平常心ではないところ申し訳ないが、ご存じなのはこの人しかいない。真っ青な顔を覗き込むと、クロエさんは尚もかたかた口許を震わせながら辿々しく呟いた。

「……、魔族、で、ございます。そうだと、思います」

 恐怖にすくみあがるクロエさんの背を不躾にさすった。驚き、彼女が焦茶の瞳を大きく見開いたが、その視線を捉えて強く頷く。却って萎縮させてしまったかもしれない。僕の虹彩をまっすぐ見つめ返したクロエさんが、回らぬ舌を懸命に動かし語り始めた。

 ──いち早く、フローラ様が異変にお気づきになりました。

 今、部屋を出るのは危ないと、お子様方を託され、すぐ隠れるようお命じになられました。訳もわからずこちらに潜って、その直後のことでございます。酷く禍々しい気配の魔族が──……

 私はもう、震えながら耳を澄ましておりました。フローラ様は気丈にその者らと対峙なさり、お話しぶりからは既知の相手のようにも感じられました。お子様を迎えに来たとその者が申して、……フローラ様は、あなたの所為で死産したのだと。初めて聴く厳しいお声で、きっぱりとそう言い切られました。

 それから、フローラ様の、お身体を、調べると言って。揉み合う気配がした後、すぐにテラスの方から音がいたしました。……それからどれくらい経ったかわかりません。数分か、十数分か、もっと長いことこうしていたのか……

 クロエ女史の話を聞きながら思わず唇をきつく噛む。さっきここへ来る途中、確かに何かの羽音を聞いた。あれこそフローラが連れ去られたその時だったのでは。それなら時間も概ね、彼女の説明と合致する。

 あと少し、あとほんの数分早く帰って駆け上がっていれば。

「申し訳ございません。申し訳ございません……フローラ様にこそお隠れいただくべきでしたのに、私、如きが」

「そんなこと、ないですから」

 もう真っ青な顔で僕と目を合わせず呟くクロエさんの両肩を抑え、強い口調で言いきった。

「貴女は彼女の頼みを聞いて、子供達を守ってくれた。今は是非を問うても詮無いことです。ここからは僕が。必ず、妻を取り戻してきますから」

 半ば自分に言い聞かせたい言葉だった。ふつふつ湧き上がる憤りを懸命に鎮める。まさか堂々母の拉致を再現してくるとは、二十年前の事件にも関わっていると自供したようなものじゃないか?

 お前らなのか。母さんを攫い、父さんを殺し、それに飽き足らずフローラまで連れ去ったのは。

「……それは?」

 ふと、クロエさんが震えながらも何かを握りしめていることに気がついた。指差し示すと、クロエさんはぎごちなく掌を広げて見せてくれる。

「フローラ様からお預かりした、ものです。身を隠す御守りだから、握って、集中しているようにと」

 ただの黒い石に見える、けど独特な魔力を含んでいる。それも強烈に圧縮されていて、ものすごい密度だ。よく見ると石の表面には何らかの紋が刻まれている。御守りと言っても気休めじゃない、れっきとした魔道具と言っていいだろう。ぱっと見じゃわからないけどこの魔力、どこかで触れたことがある。

 こんなもの、いつ手に入れたんだろう?

「確かに、効き目があるかもしれない。僕も全然気づかなかったし……人を呼んでくるから、念のためこのまま持っていてくれますか。子供達をお願いします」

 御守りを返すとクロエさんがあからさまに震え上がった。一人で待つのは心許ないだろう。半開きだったテラスの扉を閉めながら、できるだけ優しく、安心させるようゆっくり告げる。

「さっきここにくる途中、何かが飛び立つ音を聞きました。ここはもう、多分……大丈夫、だから」

 それ即ち、手遅れだということ。恐らくフローラは既にここにはいないということ。

 全然大丈夫じゃない。怒りでどうにかなりそうだ、それでも、子供達を守ってくれたこの人が今、少しでも安心できるなら。

「魔法か何かで、城中の人が眠らされたみたいなんです。まずはそこの衛兵を起こしてきます。それから、サンチョを連れてきますね」

 尚も怯えながら頷くクロエさんを残し一度出て、寝所の前の衛兵達を起こした。よほど深く眠りに落ちているのか中々意識が戻らなかったが、厨房から持ってきた濡れ布巾を何度か顔に当てて目覚めてもらった。幸い症状は誘眠だけのようでほっとする。解毒魔法があるとはいえ、撒かれたのが毒だったら僕一人じゃ間に合わなかったかもしれない。

 ふらつく彼らに手短に事情を話し、一人を寝所に引き入れ内外から守ってもらう。僕は引き続き水桶と手拭い片手に廊下の窓を次々開け放ち、王の間に倒れている兵士達を順番に起こしていった。甘ったるい匂いが薄れた頃、サンチョがよろめきながら上がってきた。ふと目が覚めたら皆眠っていて、どうにも嫌な予感がして僕を探しにきたのだと。少し遅かったみたいだよと思わず皮肉を言うと、一気に青褪め寝所へ駆け込んでいった。

 サンチョが起きてきたなら、僕はもうあとのことは彼に全部任せてフローラを探すつもりでいた。とにかく一刻も早く手掛かりが欲しかった、けどこんな時に坊ちゃんお一人で行かせられましょうか‼︎ と激しく止められ結局その晩は王宮に留め置かれることとなった。苛立ちを無心で誤魔化し、その夜は目覚めた人々と共に未だ眠る人々をひたすら介抱して回った。少し休めと言われても全く眠れる気がしなかった。

 もう、生まれたばかりの子供達のことも頭からほとんど抜け落ちてしまっていた。

 朝になったら何がなんでもフローラを探しに出よう。そう自分に言い聞かせてなんとか仮眠をとったのに、夜が明けても僕は解放してもらえなかった。いつから不在なのか、フローラだけでなく宰相の姿が王城のどこにも見当たらない。彼を探し求める人々の声に僕の訴えは黙殺され、しかし黙って抜け出そうにもサンチョやオジロン様達にがっちり捕まえられて叶わなかった。

 味のしない朝食を流し込んだあと、行方不明の宰相とフローラの捜索に向けて対策会議が開かれた。その話し合いの中で僕は、人生で最も憤ろしい、不快な場面に直面することになる。

 

◆◆◆

 

 近隣を捜索中の兵達から頻繁に連絡が入る。もう夕刻になろうというのに何の手がかりも得られていない。ヴァーミリオン一族が治める領地にも彼が戻った形跡はなく、宰相の行方不明を伝えられた家人が急ぎこちらに向かっているそうだ。

 いつものお偉方が大広間に集い、円卓を前に踏ん反り返って大して意味のない議論を交わしている。違うのは、主導権を握っているのが宰相ではないこと。だが今、音頭をとっているのは王でもない。傀儡と呼ばれた仮王は上座にこそ座っていたが妙に縮こまり、何故か教会の老いた大司教が宰相に代わってこの座を取り仕切っていた。

 今まででわかったことは、昨夜振る舞われた弔い酒に眠り薬が仕込まれていたらしいことくらいだ。でも、あの眠り方は薬だけのそれじゃない。絶対に魔法も使われていると思うのだけど、実際侵入者があったかどうか定かではないとされ、今のところそれ以上の調査は見込めていなかった。誰がどうやって混入させたのかも何故か議題に上がらない。人員を割けないのもあるし、目撃者がどうしても出てこないのだと言う。

 寝所への侵入者に関してはサンチョの縁戚であるクロエさんがあんなに生々しく証言してくれたのに、この重鎮方はとりつくしまもない。

「魔族に連れ去られたとの証言も、女官一人のものに過ぎませぬゆえ」

 そう言ってフローラより宰相の捜索を優先しようとする。聞こえてくるのも宰相が主体の報告ばかり、僕一人が行くより大人数で探した方が良いと言うからぐっと堪えてお任せしているのに、顔馴染みの兵士長まで「畏れながら、我々は奥様のご尊顔を存じ上げませんので……」と言葉を濁す始末だ。

「ですから、僕が行きます。皆さんは引き続きヴァーミリオン宰相閣下の捜索と、周辺の調査を」

「なりませぬ。殿下は何卒城内でお待ちを」

 朝からもう何度も何度も繰り返されたやりとりである。司祭の一人にぴしりと突っぱねられ、今にも爆発しそうな憤りを必死に鎮めた。か弱い赤子達も城にいる今、下手にこの人達を刺激したくない。

「……ヴェントレ卿よ。マーサ妃のこと、殿下に何もお伝えしておらぬのか?」

 はぁ、と気怠い溜め息を漏らし、大司教に侍るまた違う司教がサンチョをじろりと睨めつけた。何のことだろう。隣に座るサンチョを振り返ると、彼は酷くばつが悪そうに俯く。

「前王妃殿下は魔物遣いでいらっしゃいました。テュール殿下」

 答えないサンチョの代わりに話し始めたのは、ユリウス様と同じ司祭服を纏った司教の一人。

 澄ました顔で肘をつき聴き入る老大司教をちらりと見遣り、どこか緩んだ顔つきで──壮年の司祭が、告げた。

「お聞き及びではございませんか。二十年前、あなた様がお生まれになった直後起こりましたあの出来事は、王妃殿下がご自身で城に魔物を招き入れたものではなかったかと」

 

 ────……、は?

 

 突拍子もない戯言を聞かされ、頭が全くついていかない。

 知らないけど。僕が生まれた直後に魔物に攫われたとしか。今のフローラと同じ状況だってことしか聞いてない。

「パパス様が発たれた後、何度も検証いたしましてその可能性が最も高いとの結論に至りました。我々の警備に何ら問題はなく、魔物が現れたのは御寝所のみ。そしてあの日、姿を消されたのもまたマーサ妃のみでございます」

 確信した様子で淡々と告げる司祭が憎らしい。連れ去られた本人がなんで、諸悪の根源みたいに言われてるんだ。

「……母は魔界へ連れ去られたと、父が言っていましたが。だったら誰がそれを父に伝えたと言うんです?」

「さて、妃が直々に言伝を残されたのではないですか。我々には妃のお心など知る由もございません」

「ここで僕を産んで、その直後に魔物を招いて? 意図した失踪であったなら、産んだ子供をわざわざ残していった理由がわかりません。子供が魔族に狙われていたという話なら聞いたことがありますけど……」

「魔物遣いの血を王家に入れる為、やもしれませんぞ。もしくはグランバニア王家の血を得る為か。……ですから我々は反対申し上げたのです。エルヘブンの巫女は元々魔界の扉の番人。それを妃に据えるなどおやめくださいと」

 魔界の扉の、……番人⁉︎

 どうしてそんな大事なことを、今まで誰も教えてくれなかったんだ。僕の母親の話だぞ。父さんもサンチョも知らないはずがない、というか母さんが攫われた原因なんてほとんどそれなんじゃないのか⁉︎

「大事なのは当時、マーサ妃だけが難なく魔物を招き入れられたと言うことです。王太子殿下」

 否、それすら彼女の罪の名分にすり替える。そんな言い分に納得できるか。全てを母さんの所為にして終わらせる為だけの、辻褄合わせの勝手な憶測に。

 子供を、探していたはずだ。高貴な子供、或いは変わった身体的特徴のある子供を。だから僕を攫いにきたと言うならわかる、レヌール城だって確かそんな理由で滅ぼされたのだし、幼いヘンリーが狙われたのも元は同じ理由からだった。そこにラインハット王妃の思惑が嵌っただけのこと。

 そのことと、母さんが魔界に囚われていることは全く別の話なんじゃないのか。

「殿下も、奥の宮に魔物を連れ込んでいらしたとか」

 じりじり昂る憤りを、不意に振られた話で折られる。連れ込むなど人聞きの悪い、と悪態を吐きたくなるがそこは正直探られると痛い腹でしかない。必死に心を落ち着け、面に虚勢を貼りつける。

「あのホイミスライムは腹の子供の生命線でした。咎められることをしたとは思っていません」

「此度、奥の宮に魔物の侵入を許したという話でございますが、結界は一切作動していなかったと報告を受けております。こちらについて、殿下は如何お考えでございますか?」

 開き直るも立て続けに問われ、必死に頭を回転させた。言った通りそこまで悪いことをしたとは思っていないが、僕が先にルールを破ったことは事実。

「結界の仕組みには触れていません。それについては、僕は何も知りません」

 後ろめたさを必死に誤魔化し答えた。スーラに助けてもらってホイミンを連れ込んだのは僕だから、そこを突かれると何も言えない。でも、ホイミンを入れたあの日は間違いなく、結界は機能していたはずなんだ。

「元より女官の虚言とするなら、結界が動作するはずもないわけでございますが……」

 白々しく顎髭を撫で、薄く笑って司祭が嘯く。後見人であるサンチョがこの場にいるというのに、クロエさんの意見は聞く値もないと言う。ひいては、疑っている。フローラが連れ去られたと言う証言そのものを。

「畏れながら、殿下は一度スライムを寝宮へお連れになられたとも聞いております」

「それはわしが許可したものだ。義姉上のスライムがテュールに懐いたと聞いたのでな」

 肘をついた手で額を支え、疲れた様子でオジロン様が呟いた。すかさず頷き、叔父に同意する形で弁明したが。

「はい、僕に懐いてくれて……その時は衛兵が駆けつけたので僕も気づいたんです。あの日、結界はちゃんと動いていたと思います。何か細工されたのならその後かと」

「結界の精度を探る意図で、弱い魔物を潜らせるくらいは誰でも思いつきましょうぞ」

 まるで僕が何か仕掛けたとでも言いたげだ。結界の管理方法なんて全く知らない、けどホイミンの件を説明するのは藪蛇でしかない気がして黙り込むと、思わぬ角度から更なる追及を浴びせられた。

「先日訃報があったエベック元司教についても、疑わしい報告が上がっております。何でも元司教の家を、怪しい人物が度々訪ねていたと」

 僕に全く関係ないはずのユリウス様の話を挙げてきたのは揺さぶりのつもりか。変に気取られたくないから隣のサンチョに目配せもできない。今は素知らぬ顔で頷くしか。

「近隣で見慣れぬ魔物を見たとの報告もありました。あれは、殿下が以前中庭にお連れになっていた魔物だったのでは?」

「どういうことです。殿下が元司教とご面識があったとは思えませんが」

「エベックという司教様とはお会いしたこともなかったので……すみません、何の話か」

 なんだかもう、狐の化かし合いみたいだよ。どこまで本物の報告なんだか、よくこれだけ挙げ連ねられるなと感心する。実際神職の方とは城にいる方でさえほとんど話したことがないから、しらを切ればそれ以上追及されなかった。ほっとしたのも束の間、材料はまだまだ尽きないらしい。

「昨夜は民の末端に至るまで皆眠っておったようですが、殿下は魔法を使われたとお考えのようだ。どうやってその襲撃とやらを免れたのですかな。その場に居合わせたのであれば、凶徒についても何かご覧になっていらしたのでは。重要な参考情報にございます、是非お聞かせいただきたいのですが」

「あの」

 ちくちく続く詰問を遮り手を挙げた。ざっと集まる剣呑な視線に負けじと、腹に力を篭め強く声を出す。

「僕をお疑いなのはよくわかりますが、今は一刻も早く妻を取り戻したいんです。もう一日近く経過しています。これ以上時間を無駄にしたくない」

「何故、奥方を取り戻す必要が?」

 ……何を言われたのか、一瞬理解できなかった。

 頭から血の気が引いていく。気持ち悪い、視界が暗く澱む心地がする。頬杖をつき僕を見つめる人々の表情はひどく冷たく、人でないみたいに味気ない。

 僕の動揺に気づいてか、オジロン様が「口を慎め。サラボナ公よりお預かりしたご令嬢であるぞ」と不快げに諌めたが、司祭はやれやれと溜め息をついただけだった。

「畏れながら。奥方様は王太子妃として入内されたわけではございませぬ、殿下」

 聞き分けのない子供に言い聞かせるように、ねっとりと囁かれるそれは、僕にとってただただ不快なものでしかなかった。

「異国の、得体の知れない碧髪の。ご帰国早々お子を授かられていたとは結構なことですが、お生まれになったのはこれまた碧髪の、男女の双子であらせられたそうで」

「双子……なんということだ。しかも男女とは、紛れもなく忌み子ではございませんか!」

 芝居がかった悲痛な叫び、非難の声がそこかしこから上がる。何だ、男女の双子だと何か都合が悪いのか?

 眉をひそめ人々を見回したが、哀れみと蔑みの視線が綯交ぜになって広間中から刺さるだけだった。──唐突に、記憶の淵をある場面が過った。乳母と初めて顔合わせした日、彼女達が一瞬見せたあの表情。

「男女の双子は忌むべき魂と言われております、王太子殿下。前世で赦されざる罪を犯した者達に神が与えられた、この世で最も罪深き器にございますぞ」

 尤もらしい説明の中身もふざけたもので、そんな世迷言をいい大人が信じ込んでいるのかと眩暈すら覚える。

 双子だと判じてくれたネルソン医師にだってそんなこと、一度も言われたことないよ。

「しかも、かなりの早産でいらしたそうではないか。お二人とも本来なら死産であったところ、魔物の魔力で辛くも生き存えていらっしゃるとお聞き申した」

「なんと忌まわしい……これを禍つものとせず何とする⁉︎」

「言い伝えの真を証明したも同義。斯様に不吉な赤子もその母君も、民の前には到底出せますまい」

 僕が応えないのをいいことに、重鎮達は言いたい放題だ。余程根強い迷信なのか、オジロン様もサンチョもそれ以上何も言ってくれない。だが次いで聴こえた「幸い一方は王子であられたようですから、姫の方はこのまま死産となさるのがよろしかろう」との物言いにはさすがに黙っていられなかった。一言言い返そうと立ち上がりかけた、その時。

 指を組み、白熱する詰問を黙って聞いていた大司教が、一際豪奢な司祭服を揺すり、口を開いた。

 

「我が国にはドリス様がおられる。元よりご正妃にはドリス様をとお勧めしておりました。何の支障がございますか。それより、宰相閣下はご無事なのかどうか……ヴァーミリオン卿がいらっしゃらねば、グランバニアは数日回りますまいて」

 

 ────もう、いいだろう。

 僕の求める答えは得られない。この人達もまた僕自身を必要としているわけじゃない。僕が持つ、王座に最も近い血統が、あるに越したことはないというだけ。

 妻も、子供も尊重する気がないなら、初めから引き留めなければよかったのに。

「……坊ちゃん?」

 浮かせた腰をそのまま持ち上げる。目の前の卓に手をつき立ち上がった僕を、サンチョが心配そうに見上げた。首を深く落としたまま「少し、出てくる」とだけ告げて席を離れた。

「お早くお願いいたします。お話は終わっておりませぬぞ」と背に投げかけられる司祭らの叱責を無視して広間を出る。

 入口に立つ衛兵が不思議そうに僕を見たが、そちらに構わず階段を降りて、街路を奥へとまっすぐ向かった。昨日の謎の睡眠事件を受けてか、城下はいつもより静まり返っている。近隣の村から集まった人々は早々に帰路につき、城内に住まう人々も民家の扉を固く閉めて、中から恐る恐る衛兵達の様子を窺っている。

 そりゃ怯えるよね。安全を考えて城壁の内側に街が作られたのに、その街まるごと眠らされたんだ。

 昨日からの騒動で放ったらかしの教会に入り、祭壇に奉じた父さんの剣を鞘ごと掴んだ。警備の神官達に咎められたがそれも無視した。断りなく国宝の剣を持ち出した僕を神官と衛兵達が止めようとしたが、ぽっと出とはいえ面と向かって王族に楯突く気概はないみたいだ。狼狽え人を呼びにいく彼らに構わず、足早に出口へと向かう。

 もっと早く、朝起きたときにこうすれば良かった。

「坊ちゃん!」

 いざ扉に手をかけたその瞬間、懐かしい呼びかけが僕の動きを遮った。

 十四年前、僕を送り出した時と同じ、慈しみに満ちた声。

 けれどその主は、今、どこか怯えた目をして懸命に僕を引き留めようとしている。

「どこへ、行かれるんですか。まさか……フローラ様を、探しに行かれるおつもりじゃあ」

 上にあがった兵士達と入れ替わりに降りてきたサンチョが、階段途中で足を止め、食い入るように僕を見る。

「なりません! お気持ちはわかりますが、ここは堪えて兵士達にお任せください。どうか」

 町民にも馴染み深いサンチョが必死に声を上げている。家の中から様子を窺っていた人々がそろそろと表に顔を出した。彼らはただ眠らされたというだけで、まだこの国で何が起こっているのか知らされていないのだ。

「生まれたばかりのお子様方もいらっしゃるではありませんか。この上お父上まで離れられては、お子様方があまりに不憫です。……どうか、お願いです。どうか……」

「フローラの側には、誰もいないよ。サンチョ」

 覇気のない返答が、続く訴えを呑み込ませた。

 サンチョと僕以外、きっとこの場の誰も知らない赤子の存在を示唆されて、遠巻きに見守る兵士と街の人達がそれぞれにざわめいた。そのいずれもが今、僕とサンチョの会話に耳をそばだてている。

「僕からも、生まれたばかりのリオ達からも引き離されて。フローラ、苦しい時はいつも一人で泣くんだ」

 気づかれないよう。息を殺して。

 僕がすぐ隣にいるときでさえ、敷布に涙と嗚咽を吸わせて。

 半分くださいなんて言いながら、僕にはいつだって幸せしかくれなかった。狡いひとだ。離さないでって、置いていかないでってあんなに何度も言ってくれたのに。

 手放す気なんかなかったのに、…………

「……もう、一人で泣かせるのは、嫌だよ……」

 それだけ絞り出し、重い扉をついに押した。ギ、と鈍い音を立てて城門へ続く扉が開く。外に立つ衛兵達が困惑して振り返ったが、彼らに目もくれず城門へと向かう。

 宵闇に沈むグランバニア城を、冷ややかな霧が取り巻く。

 サンチョも、僕の言葉を聞いた兵士も、街の人々も、開いた扉の内外で固唾を呑んで僕の背を見守っていた。

 階段の上からさっき聴こえなかった喧騒が届く。そろそろ重鎮達が追いかけてくるかもしれない。城門から数歩遠ざかったところで、湿った夜風に煽られ、おもむろに喉を開いた。

 

「──……ピエール」

 

 静かに、呼ぶ。ここで見送ってから数ヶ月、呼ぶのを躊躇し続けた仲魔の名を。自分達のうち誰かが呼ばれたと思ったのか、追ってきた重鎮と兵士達が足を止め顔を見合わせた。

 伝播する戸惑いに構わず、闇に向かって呼びかけを繰り返す。

 

「スラりん。マーリン、ガンドフ、しびれん」

 

 もう数年のつきあいになる。僕を信じ、支えてくれる仲魔達。

 十七夜の歪んだ月に雲がかかって、辺りがよく見えない。

 不穏な気配を感じとった聴衆がざわめき始めた。魔物の名であることに気づいたのか、背後でサンチョが力なく、坊ちゃん、と呟いた。

 必ず来ると言った。僕が喚んだらすぐに気づくと。

 

「マッド、ラゴン。ミニモン」

 

 グランウォールを越える途中で仲魔になった三匹。共に過ごした時間は短いが、通わせた絆は他の仲魔達と何ら変わりない。

 

「…………、プックル」

 ────オオオオオォォォォン!

 

 そうして最後、無二の親友の名を呼んだ瞬間、大地を揺るがす咆哮がどこからともなく響き渡った。

 恐れ、どよめく人々が後退りながらも宵闇に目を凝らす。

 次第に晴れゆく月の下、異形達の影がぼんやり浮かび上がる。それがなんなのか、悟った人々が次々悲鳴を上げ逃げ出した。阿鼻叫喚、恐怖がその場を支配する。城内へ駆け込む人々、震えながらも場を守ろうと剣を構える人々。そのいずれにも構わず、影に向かって踏み出した。

「フローラが連れ去られた」

 緋色の鬣が夜風に揺れる。プックルを筆頭に、その場に現れた仲魔達と視線を交わした。別れたあの日と全く変わらない風貌の彼らは、何が起こったか大体把握しているというように動じることなく各々が頷く。

「助けに行く。力を貸してくれないか」

「なりませぬ!」

 まっすぐ乞うた僕を遮ったのは、背後の群衆からまろび出た老候の一人だった。憤りに唇をわななかせ、僕と魔物達を睨みつけて彼が叫ぶ。

「あ、あなた様が真実、王家の証の主だと仰るなら。この上過ちを繰り返すことはおやめくだされ。グランバニアをお見捨てになられますな!」

「僕の妻は、見捨ててもいいのか」

 間髪入れずに言葉を返す。居丈高だった重鎮達が息を呑みたじろいだ。

 さっき言われっぱなしだったからって、オジロン様が反論しないからって。僕も簡単に言い包められると思ったか。

「僕の母は。父以外の誰が当時、探したのですか」

 重ねて問えば、彼らは苦々しく顔を突き合わせ口籠る。

「……お探し、しました、とも」

「それで自作自演だと? 母が自ら仕組んだ茶番劇だと。父に、その父の遺志を継ぎ母を探し続けてきた僕に、あなた方はさっきなんと仰いましたか」

「殿下こそ最もよくご存知ではないのですか!」

 俯いた老人を庇い進み出た鎧姿の逞しい御仁が、苛立ちも露わに声を上げた。

「王妃もまた魔物遣いだったのですぞ! そして王妃が去って以来、魔物如きに我が国が脅かされた例はございませぬ!」

「その言葉の通りだとすれば、妻を攫わせたのは僕、ということになりますね」

 もはや憤りを隠さず押し殺した声で問い質せば、お偉方は酷く青褪め後ずさる。

 マーサ妃の血を引く魔物遣いは僕であって、妻じゃない。

 僕が、自分の妻を利用して、母親の拉致を再現したって?

「──……ッ、ふざけるな」

 握りしめた拳の内側に爪が食い込む。炎の指輪がちり、と燃えるように熱を帯びた。もっと、もっと強い痛みで自分を抑えないと、腹の底でふつふつ沸る怒りに焼き尽くされそうで。

 何の意味がある。そもそも母が父さんを欺き、自ら身を隠しただけだと? 妻を隠したのも妻か、僕の仕業だと? 悪意でグランバニアを陥れる為に? 一連の事件は全て、マーサ王妃が主導し裏で密かに通じた僕らが共謀した結果だって?

 一体どの口で父の帰りを待っていたというのか。僕の帰還を真実喜んでくれたのはサンチョとユリウス様、ヘラ女官長様と、オジロン王だけだろう。僕や父さんの不在より、お前達にとってはヴァーミリオン宰相閣下の不在の穴の方がずっとずっと大きいのだから。

 これは、呪詛だ。

 言うべきではない。父もきっと耐えたのだから。言えば、この人達に大義を与えることになる。

 それでも。

 

「僕が、父が居ないだけで滅びるというなら、滅びてしまえ。こんな国」

 

 吐き棄てた瞬間、居合わせた全員が呼吸を止めた。

 沈黙の水面がざわつく。無数の憤りが昂まり、膨張していく。

「……なんと、いうことを……!」

 わなわな震える家臣達を、冷めきった目で流し見た。

 ぽっと出の若造に許される放言ではない、だが撤回する気もない。唯々諾々と従うつもりも、そもそも滅私奉公で国に仕えるつもりも僕にはなかった。

 これ以上耐えられるものか。全ての罪を、原因をマーサ王妃になすりつけて二十年間変わらなかった。この人達にこの上、何を理解せよと言えるのか。

 父さんが僕に一切祖国のことを話さなかったのも、もしかしたらそういうことなのかもしれない。

 ちらりとサンチョを見遣れば、彼は顔をくしゃくしゃにし、丸い瞳を真っ赤に潤ませて僕を見つめていた。

 皆と同じく僕に失望しているのか、それとも何かを悔いているのか、一瞥しただけではわからなかった。

「主の御乱心をお諌めするのは家臣の務め。お止めせよ! これ以上の暴挙を見過ごすわけにはゆかぬ」

「何と無礼な……大司教‼︎」

 叫んだのはサンチョだ。たった今まで気落ちしていた彼とは思えない、腹に響く怒りの声。だが大司教は全く意に介さず、その場にいる人々すべてに高らかに言い渡す。

「第二の凶王となられるやもしれぬ。先程のお言葉、皆もしかと聞いたであろう」

 さながら王の如く振り撒かれる呼び掛けに人々がざわつく。怯えた目で僕と仲魔達をちらちら盗み見て。

「魔物を率いる王など言語道断! オジロン陛下。今すぐこの方の過ちを糺されませ!」

「黙れ、痴れ者が! 正統なる王太子殿下への暴言、誰が許してもこのヴェントレが許さぬぞ‼︎」

 怒りで顔を真っ赤に茹で上げたサンチョが荒々しく叫び、僕を庇って立ちはだかった。その背を無感動に見下ろす。どうでもいい。怒りも、正論もどうでもいい。

「糺したければ糺せばいい。元より王位に興味はない」

 他の家臣ばかりでなく、サンチョも真っ青になり振り返った。殿下、と弱々しく囁く彼にも構わず、膝下に集った仲魔達だけをまっすぐに見つめて告げる。

「こうしている間に一日無駄にした。行こう。フローラはまだ出産したばかりなんだ」

 誰より忠実な魔物達が一も二もなく頷いて、サンチョがますます言葉を失くした。代わりに投げかけられたのは、ひどくしわがれた低い声。

「この期に及んで身勝手なことを仰る。王太子殿下は暫し、頭を冷やされた方がよろしいようですな」

 何故か薄く笑った大司教の指揮の下、槍を構えた神官達が一斉に僕らを取り囲んだ。聖職者のわりに統率されてる。グルルと唸るプックルの首を軽く叩いて宥めながら、そんな冷めたことをぼんやり考えていた。

 ああ。もう、面倒だな。

 一切をかなぐり捨てて、ここで神官達を斬って逃げたら、僕も今度こそ凶王と並ぶ愚王として語られるだろうか。

「殿下が向かわれたところで、魔物の手中で産褥の娘御がいつまで生き存えるとお思いか。全く無駄な労力というもの」

「貴様ら……不敬にも程があろうが……!」

 怒りにぶるぶる震えるサンチョが頭に血を昇らせ、出産の事実を知らされていない兵士達はどういうことかと更にざわめく。この大司教にもオジロン様は何も言えないご様子だ。だったら自分でどうにかするしかない。強行突破か、そう思った瞬間だった。

 

 突如、深い闇を切り裂き辺りに真っ白な光が満ちた。

 

 丸い顔を目一杯上向け、サンチョが茫然と呟く。

「あれは……、パパス様がお求めになられていた……!」

 どうして、ここに。

「──……天空の、剣」

 父さんが僕に託した伝説の剣。何度もその力を求めたが、希みが叶ったことは一度もなかった。

 勇者一行の絵画は教会に飾られていることが多いから、見知った者は多いだろう。神竜の鱗と翼を模った荘厳な剣、それが今、グランバニア城上空に音もなく浮遊していた。さながら審判者の如く、眩い光を振り撒きこの場に集う人々を見下ろして。

 何故、と思った矢先、ある可能性が脳裏を過ぎった。まさか、この場に勇者がいるのか⁉︎

「……莫迦な! 貴様にそれを扱えるわけ、が……ぐぁあッ‼︎」

 無我夢中で群衆に視線を走らせた瞬間、大司教と彼に従う数名の司教、神官達が奇声を上げてもんどりうった。凡そ半数以上の神官に変化はなく、突然苦しみ出した同僚達と天空の武具を狼狽えつつ見比べている。介抱しようと身を屈めた神官が、ひっ! と悲鳴をあげ後ずさった。

「な、なっ……」

「うわあぁっ! 大司教様⁉︎」

 いびつな魔力が満ちる。さっきまで人の顔があったそこには仄暗い深淵が揺らめく。老いた大司教が、敬虔なる神官達が僧服の袖で深淵を掻きむしると、やがて光の見えないそこにぼんやり何かが浮かび上がった。

 骨だ。ずっと昔に朽ちた者の、肉を失った白い骸。

「────落ち着いて」

 尻をつき逃げ惑う神官の首が鷲掴まれた、その骨の腕にプックルが噛みつき力任せに砕いた。よろめいた骸の首を、懐に飛び込んだピエールが一閃する。電光石火の鮮やかな攻勢だった。呼吸ひとつで主人の意のまま動いてくれた彼らに感謝しつつ、僕も鋭く剣を薙ぐ。

「それらはもう、あなた方が知る相手じゃない。喉を狙って。魔法を使える方は後方から援護を!」

 声をかけつつ襲いくる骸を斬撃で退け、続け様に喉を割った。よろめいた骸骨の喉骨をすかさずマーリンの炎が焼ききる。「どなたか、オジロン様を頼みます!」と振り返り叫べば、家臣達は顔を強張らせながらも槍を握り直し頷いた。腰を抜かしたオジロン様がサンチョと兵士達に支えられ城門まで後退する。それでいい、だいぶ暴れやすくなった。

 たった今まで彼らの同僚だったものを次々斬り捨て捩じ伏せる。ピエールの剣にプックルの牙、スライム属の援護とマッド達の怪力。マーリンにくっついて炎を撒き散らす幼いミニモンの手綱はガンドフが握っているようだ。

 傍目には同士討ちにしか見えないかもしれない。そんなことを思い、ふと失笑する。

 冷淡、残酷な後継だと、失望するならすればいい。僕にとってのあなた方こそ、今はこの魔の骸も人も大差ない。

『……ゲマ様もお人が悪い。お知らせくださればもっと早く献上できたものを』

 骨が擦れる音を立てて、先刻まで大司教だったものが不気味に笑った。吸い込まれそうな漆黒の眼窩を怯むことなく睨み返す。

「こんなところで答え合わせをくれるとはね」

 握り慣れた父さんの剣を改めて構え、戦意高揚する仲魔達を背後に従えて、骸の魔物達と相対する。

 久々だ。この感覚。

 戦いを前にこれほど高揚を覚えるとは、僕も大概、神経が鈍っていたみたいだ。

「足止めを喰らってる暇はない。……すぐ終わらせるよ」

 

 

 

 夜半の戦闘は意外と呆気なく決着がついた。骸達が迷いなく僕を狙ってくれたお陰で逆に仕留め易かった。兵士達は及び腰だったが、それでも民や、戦えない人々に被害が及ばないよう奮闘してくれた。

 正直、ユリウス様のお姿がこの骸達の中に見当たらなくてほっとした。訃報があった直後なのだからここに居なくて当然だが、せめて彼の御霊が安らかであることを願ってやまない。

 何故天空の剣が現れたのか、大司教達の変幻が解けたのか……何もわからない。わからないが、あの光がラーの鏡と同じように魔物達の術を無効化したのだと思う。これで全部片付いたと思いたいけど。

 空に浮かんだ天空の剣はいつの間にか消えていた。

 人々は気づいているだろうか。さっき天空の武具が放った光で悪しき魔物達は本来の姿を露わにした。同時に居合わせた僕の仲魔達が、一匹たりとも苦しまずこの場に立っていることに。

「坊ちゃん」

 鞘に父さんの剣を納め辺りを見回したところで、サンチョがじっとこちらを見つめていることに気がついた。小さな丸い目をめいっぱい見開いたサンチョは、やがてしおしおと瞼を伏せ首を垂れる。

「大変、ご立派な戦いぶりでございました。これほどまでにお強く……修練を、積んでいらしたとは……」

「サンチョ」

 口籠る彼を遮って、ただ一つ、今託したい願いを口にした。

「子供達を頼む。ホイミンも……きっともうすぐ、目覚めると思う」

 また泣きそうな顔で見上げたサンチョと視線を交わらせ、静かに頷いてみせる。

 わかるよ。サンチョが真実僕を慮って、母さんの話をしなかったこと。

 ドリスとの婚姻を勧めた理由も、今だって僕を第一に考えてくれていることも、わかってる。

 そんなサンチョだからこそ。僕が今、何を譲れないのかもわかってくれているんだろう?

 神官達に代わり、何度も共に見廻りに出た兵士達が周囲にざっと跪いた。つい先日まで同僚として接していた彼らが、慇懃なまでの敬意を露わにする。

「王太子殿下への度重なるご無礼、我々一同、心より深くお詫び申し上げます」

 誰一人顔を上げぬ中、野太い声を響かせたのは兵士長だった。その妻は乳母として、フローラ不在の今も子供達の世話をしてくれているお一人でもある。

「我々はグランバニア王家にお仕えする者! 何卒、今一度王太子妃殿下の救出をお命じ下さい!」

 先ほどまでの狼狽が嘘のように、城前の道を埋め尽くす人数の兵士が一様に膝をついている。同じ角度で顔を伏せた彼らの表情は全く見えない。その陰にあるのは畏れか、それとも胸に潜めた嘲りか。

 手放しに信じられない自分が嫌になる、けど。

「……皆さんがご覧になった通り、この国にも魔族の手が及んでいます」

 燻る内心を落ち着かせ、無難に言葉を選ぶ。どんなに思うところがあっても、今は反発すべきじゃない。

 ここにもまだ、護って欲しいものがあるから。

「天空の武具の加護で、教会内部にとり憑いた魔物が炙り出されました。でも多分、これだけじゃない。……かつて、父が落命したラインハット王国でも、魔族が当時の王妃殿下に成り代わっていたんです」

 王妃殿下と言った瞬間聴衆が再びざわめいた。自国の……マーサ妃と重ねたのだろうが、長年の刷り込みは簡単に覆らないのだといっそ虚しくなる。

 僕を産んだ直後に姿を消したんだろう? なんで、それでマーサ妃も魔物だったのではなんて思えるんだ。……ああ、でも、そうかもしれない。この人達から見れば魔物遣いなんて異質な存在、そう思って当然なのかもしれない。

 僕もまた、魔物の子に見えると。そういうことなんだ。

「民を、守ってください。あなた方も生きてください。父が皆さんに託したのは……そういうことなんだと思います」

 精一杯の理性で抑えた綺麗事を口にし、顔を背ける。

 だって、今ここでフローラを救いたいのは、本当に助けたいと思っているのは僕だけじゃないか。僕以外の誰が彼女を救えるというのか。あなた方はグランバニアを守るためにここに居るのであって、本当に守るべき相手は僕らではないのだ。

「失礼ながら、先ほどの……神器が顕現されましたのは」

 恐る恐る尋ねられて、憂鬱に拍車がかかる。畏怖の奥に垣間見える期待がひどく重苦しい。

 もう何度落胆し、絶望し、己に失望しただろう。

「……僕じゃありません。僕は、勇者じゃありません」

 先王パパスが真実求めた存在は僕じゃない。

 またそんな目で見られるのが嫌で、彼らを見ずに背を向けた。仲魔達へ向かって一歩踏み出したその時、人だかりを掻き分けまろび出た者がある。

「……王太子、殿下。テュール様!」

 その場にいた誰とも違う、僕を知る人の呼びかけに思わず振り返った。王太子妃の拉致を証言しながら冷遇されていたサンチョの縁戚、寝宮従き筆頭女官のクロエさんが、乱れた呼吸で何かを握り締め佇んでいた。どよめく兵士達に構わず進み出て、冷えた地面に跪く。

「こちらを、どうか。お召しください。残るはお仕上げのみでございます」

 立ち上がるよう促そうとしたが、強く遮り彼女が両手を差し出した。黒っぽいそれは月明かりのみではなんなのかよくわからない。ようやく息を整えたクロエ女史が、苦しげに声を震わせて告げる。

「フローラ様が、この一ヶ月半……お床にて手がけていらした、テュール様の為の剣帯でございます。来たる立太子の儀に間に合いますよう、少しでも御身をお守りすることが叶えばと、毎日懸命に針を刺しておいででした」

 ────フローラが。

 綺麗に巻かれた革帯を受け取り、表面を指でなぞる。見覚えのある繊細な縫い目は以前妻がホイミスライムを模ったのれんを修復していた、あの時と同じもの。まるで元々描かれていたかのように、国章の意匠が硬い革面に見事縫い上げられていた。両の翼を雄々しく広げた漆黒の鳥は金糸で縁取られ、傍らに僕の正式な名が美しく刻まれている。それらを紫の蔓の刺繍が上品に彩っていて、連綿と続いてきたグランバニア王家の歴史を記しているようにも見える。

 ……何、やってるのさ。こんな硬くて細いもの、さぞ大変だっただろう。子供達の産着を作ってあげたいって、それだけだと思ってたのに。

 初めて君が贈ってくれたものを、こんな形で受け取るなんて。

「待って!」

 熱くなった目頭を抑え、剣鞘に革帯を手早く繋いだところで一際高い声がした。場に似合わぬ幼い声の主を振り返れば、彼女はドレスの裾を汚し、息を切らしてこちらを見ている。

 ……、ドリス?

 またもや意外な人物の登場に思考が止まった。つかつか歩み寄った少女は初めて見る真摯な顔をして、臆さずまっすぐ僕を見上げる。

「お祖父様が、飛んでいったわ。昨夜のことよ。ううん、昨夜だけじゃない。前にもこの城から飛び立つのを見たもの」

 宰相が?

 妻と同じく昨晩から行方知れずの重鎮の目撃証言に、固唾を飲んで見守っていた家臣達が再びざわめき始めた。

「ド、ドリスや? 一体何を言い出すん」

「この靴を履いてたの!」

 ずい、と突如鼻先に押しつけられたのは、羽飾りがついた不思議な形状の、一足の靴だ。

「お祖父様の部屋で見つけたの。手掛かりになるかもしれないでしょ? ……奥様を助けに行くんでしょ、違うの⁉︎」

 そのまま少女から靴を受け取り、謝辞の代わりに深く頷いた。爪先はオレンジに塗られ、それが鼻というように目玉の装飾を両脇につけている。一見するとそういう魔物だと見紛いそうだ。踵の左右にキメラの翼の装飾があり、どうやらルーラと同じ、風の魔力を帯びている。靴の内側に何か記されているが、古語なのか僕には全く読めない。

 造りからして、座標を指定して飛ぶ類の魔道具に違いなさそうだが。

「司教らの飛び靴ではないか。何故宰相が持っておる?」

 ついさっきまで狼狽えていたオジロン様が、怪訝なお顔で靴を見ている。どういうことかと目で問うと、彼はうむ、と口髭を摩り説明してくれた。

「国内各地の教会へ飛ぶ為の魔道具だと聞いた。靴底に転移点を刻み、内側にその行き先が書かれておるそうだ。……大司教をはじめ教会の限られた役職の者だけが使うものと聞いておったが、……その者らの正体がまさか、あれとは……」

 そんな便利な魔道具を、この物言いだと教会が独占していたというようにとれる。だから早々判別できないよう古語で書かれているのか。

 いったいいつから、この国の教会は魔物の手に堕ちていたのだろう。

 仲魔達に目配せすると、マーリンが音もなく進み出た。月明かりも碌にないこの闇の中、僕の手元を覗き込んだマーリンの眼はそこに記された文字を的確に読み取る。

「北、と書いてございます。ご主人」

 オジロン様だけでなく、兵士達も皆一様に動きを止めた。

 本来下級の魔物に数えられるマーリンが人語を、しかも敬意に満ちた言葉を自然に扱ったことが衝撃だったらしい。そんなことに驚くくらい、ここの人達は魔物と触れ合うことがなかったんだな。

 人間が区分した等級に何の意味がある。人だろうが魔物だろうが、触れてみなくてはその本質を知りようもないのに。

「宰相が飛んだ先がその靴と同じとは限らぬが……」と尚も及び腰ながら前置きした上で、叔父上はこの靴が行き着く先について話してくれた。「北とはこの城の北西にある、小さな教会だ。橋を架け難い立地ゆえ、船でゆくのだがこの時期は流れが悪い。そこから北に進むと、塔がある」

「塔?」

 この周辺は視察で随分周ったが、船に乗ったことはない。問い返すとオジロン様はうむ、と唸り、髭を弄りつつ答えた。

「かつては神の塔と呼ばれておった。凶王が最期、御籠りになった地でな……以来魔物が増えて、今では悪魔の塔と呼ばれておるよ。北の教会はそちらの管理も兼ねておるのだ」

 神の塔、だって?

 単なる偶然だろうか。ラインハットの南にも同じく神の塔と呼ばれる建造物がある。まさか、海を超えてあの塔のことを指していたりしないだろうか。実は地続きだとか、思った以上に近いとか?

 僕の動揺をよそに、オジロン様は不思議そうに首をひねる。

「だが、何故宰相が教会に……? 今宵は兄上の慰霊の席であったというのに」

 その呟きがどこか呑気に聞こえてしまうのは、僕の気がひどく急いている所為だろう。

「いいや、行こう。違ったら戻ってくればいい」

 僕の呟きを聞いた仲魔達が各々頷き、オジロン様とサンチョは青褪めた。地面に雑な魔法陣を描き、仲魔達と共に輪の中に収まる。慌てたオジロン様が待て、と制したが「北の教会には僕達が行きます。皆さんは他の教会を当たってください」とだけ告げて迷わず靴に足を差し入れた。

 両足に履いた瞬間、思念を挟む間もなく転移魔法が発動する。

 

 坊ちゃん、と。

 遠ざかる空間の向こう、サンチョの悲痛な呼びかけが聴こえた気がした。



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