イリーガル・ガールズ (下之森茂)
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0.1:白羊と黒山羊
01-00:ヒトはそれを〈NYS〉と呼んだ


岩のように硬い拳で鼻を打たれると

神経を通じて脳に伝わり、

全身に電気の刺激が走る。

 

皮膚の高閾値(こういきち)機械受容器が、

これを痛みとして感じる。

 

それだけでは済むはずもなかった。

 

体内を巡る液体は、

傷ついた鼻の中から

新たにできた道に逸れ、

上唇をめがけてこぼれ出た。

 

鼻血だ。

 

鼻から出た赤色の血は体を離れてしたたり、

薄黄色のリノリウムの床に落ちて行き場を失う。

 

血は本来の役割を喪い、あとはその場で乾くか、

拭い取られるのを待つばかり。

 

殴られた当事者は自らの身体に起きた

なんら不思議でもない現象を、

珍しいものとして眺めていた。

 

教室には似つかわしくない凄惨な光景に、

耳をつんざく悲鳴をあげる女子生徒たち。

 

しばらく床の血を見て呆然(ぼうぜん)として、

気を取り直して強くまばたきをした。

 

詰め襟を血で汚してはいけない。

 

尻ポケットからハンカチを出して

鼻の穴を上から抑えて塞ぐと、

逃げ場を失った血は鼻腔を通じて

口が血の味で満たされる。

 

小さな手が小さな鼻を抑える。

小さく薄い唇。

 

噛んだ唇が鼻血で(あけ)に染まる。

 

細いアゴと小さな顔に、

小中学生に見紛う背格好の小柄な体格。

不釣り合いな大きな黒の詰め襟の、高校の制服。

 

癖の強い黒髪の少年。

 

1年生の少年は3年生の教室に

乗り込んだものの返り討ちにあい、

自らの血で流血騒動を起こした。

 

不本意な事態に発展して、

少年は眉間にシワを寄せた。

 

夕日が反射したつぶらな黒目を

綺麗なガラス玉のように光らせて、

自分を殴った相手を鋭くにらみつける。

 

にらみつけたものの柔和な童顔で、

少女とも見紛いそうな生まれついての顔つきに

険しさが出ないのを少年自身も自覚していた。

 

どんな凶悪な顔でにらんだところで、

ひるむような相手でもなかったに違いない。

 

少年を殴った目の前の相手は、

小柄の少年の2倍はあろう肉厚の巨漢だった。

 

詰め襟の制服がはち切れんばかりに張っており、

胸元を開けた赤色のシャツには

見事に巨大な大胸筋の形が浮かんでいる。

 

殴った相手は息を大きく吸い込むと、

口の端から荒々しく息を吐き出す。

 

相手は土色の毛をアゴまでたくわえた

タテガミを持つライオンの頭をしていた。

 

それは決して比喩表現ではなく、

実際にライオンの頭をしている上級生だ。

 

自慢の肉体と獣の頭をしている彼は、

一般に〈ハイブリッド〉と呼ばれている。

 

興奮気味に肩を動かして呼吸をして、

金色の目が殺気立っているのがわかる。

狩りをする獣の目だ。

 

後で詳しい級友に語らせれば、

百獣の王とも呼ばれた肉食獣らしく、

また群れてメスを侍らせる習性があるという。

 

女子ばかりの教室にはお似合いの光景だが、

その風貌からは暑苦しいほどの獣臭が漂う。

今の鼻からは血の臭いと味しかしない。

 

燃えるような赤色の髪の少女が

尻もちをついて扉にもたれかかり

少年の小さな後ろ姿を見ていた。

 

すべての事件の発端は、その日の朝に遡る。

 

――――――――――――――――――――

 

アベリアという名の箱型に刈られた低木は、

初夏になると箱からはみ出て枝葉を伸ばす。

 

陽の光が葉に残った朝露に反射する。

 

少年は黒色のくせ毛の毛先を指で摘んで、

詰め襟の学生服のままアベリアに迎えられて

いつものカフェに入店した。

 

『カフェ名桜(めいおう)』はこじんまりとした店で、

4人がけのテーブル席がふたつと

カウンター席、それから窓際席とがある。

 

左手の親指に人差し指の爪先を

くっつけてから(はじ)いて90度に開けば、

個人端末(フリップ)〉の画面が表示される。

 

それから指の動き(ハンドサイン)に応じて、

表示された商品の注文と支払いが可能となる。

 

注文をしながら伸びた爪が気になった。

そろそろ爪切りを買わなくてはいけない。

 

店内の大きなディスプレイには、

昔のドラマの映像が流れている。

 

汽車に乗った幼馴染を、

走って追いかける主人公。

 

〈人類崩壊〉以前の文化を再現したドラマ。

 

木板を張り合わせてできた下駄を履き、

馴染みのない足元に何度も転び膝は血まみれで、

鼻緒で擦れた足は真っ赤になって痛々しい。

 

ドラマの中のふたりの少年少女を、

店内の皆が夢中で見ている。

 

中には涙ぐみ、鼻をすする音が響く。

相変わらず変な店だった。

 

静まり返る客の間を縫って、

窓際の、いつもの席にトレイを置く。

 

トレイには注文した分厚いトーストと無料の水。

 

紙でできたナイフでバターを塗る。

ナイフは使い捨て、バターは無料(サービス)

 

個人端末(フリップ)〉に表示された

『八種勇』のわずかな口座残高に、

口座の名義人であるイサムは頭を悩ませる。

 

このカフェは月曜の朝に限って

注文できるトーストはとても安い。

 

トースト単品では当然利益が見込めない。

 

メインメニューのコーヒーや紅茶、

サラダやデザートなどのサイドメニューで

トーストでの赤字を補填しつつ、

常連客を増やすことがカフェの狙いだ。

 

トースト1枚の為に通うイサムは、

カフェの狙いとは裏腹の常連客になりつつある。

 

食パン1枚の原価は大したことはない。

店としてもそれほど懐は痛まない。

 

イサムは善意の抜け道を堂々歩いている気がして、

店員や客からの被害妄想的な視線に胸を痛ませた。

 

口座残高という現実や店内の視線から逃げるべく

窓際席から外に目をやって、バターを丹念に塗った

分厚いトーストをひとくちかじる。

 

咀嚼をしても落ち着かないので、

無料の水ですぐ胃に流し込む。

 

イサムは常に誰かに見られている感覚があった。

 

級友に相談すればそれこそ被害妄想、

自意識過剰と一笑に付す与太話。

 

不慣れな土地に越してきたばかりで、

多少の違和感は当然かもしれない。

 

アベリアの垣根の向こうの交差点で、

1台の真っ青なオープンカーが信号で停まった。

 

黒色のスーツ姿と大きなサングラスをした

女性の運転手がこちらを見て微笑んだ。

 

彼女は奇抜な青色の髪をしている。

 

またあの〈ニース〉だ。

 

冷たく凍ったような色の髪を見て、

イサムは胸中でつぶやいた。

 

〈ニース〉はこの街の住人の特徴と呼べる。

 

猫の鳴き声のような名前の街、

名府、名桜(めいおう)市には〈ニース〉が多い。

 

イサムは他所の転府(てんふ)聖礼(せいれい)市から越して来たので、

〈ニース〉という異文化に戸惑うことが多かった。

 

しかしひと月もすると次第に慣れて、

驚くこともなくなった。

 

髪色以外にも容姿を変える人は

この街にあふれているからだ。

 

筋肉隆々の男性的な体格の

〈ニース〉もいれば、小股の切れ上がった

女性的な体格の〈ニース〉も多い。

 

〈ニース〉の中には〈パフォーマー〉と呼ばれ、

変更した肉体を有効に活用した職業に就く。

 

野球やサッカーなど転府で知られる競技でも、

名府では〈パフォーマー〉が極限まで力を

引き出して、人間離れした記録を打ち出す。

 

自らの肉体を酷使すると同時に、

故障や破壊や欠損さえも頻繁に起きるので、

イサムは理解に苦しんだ。

 

容易に治療ができるので心配の必要はない

というが、見ていても慣れず心臓に悪かった。

 

だが就労を目的に〈ニース〉を用いる人は少数だ。

 

〈ニース〉による容姿の変更は、

筋肉や骨格のみにとどまらない。

 

転府の聖礼(せいれい)市から文化が多く取り入れられ、

名府では昨今『聖礼(せいれい)ブーム』と呼ばれるほど

転府の芸能人やモデルの容姿を取り入れた

〈ニース〉が多い。

 

肉体ではなく容姿のみを変更した〈ニース〉は、

〈デザイナー〉と呼ばれている。

 

さらに肌の色を赤や青、緑などに

変色させた人の中には、頭髪や眉毛もなくし

ツノを生やしている。

 

思わずギョッとさせられる姿の人。

 

店内にはそのいかめしい容姿に似合わず、

転府で作られた古い『聖礼(せいれい)ドラマ』を見ながら

涙している最中だった。

 

頭の上にネコの耳を生やした人は、

よく見ると人間の耳は頭髪で隠して

瞳さえも猫と同じにしている。

 

既存の動物をモチーフにした〈ニース〉は多い。

 

ウシやシカ、ヒツジのように

枝や巻き貝の形をしたツノを生やした人がいれば、

イッカクのように(ひたい)の真ん中から

一本の長いツノを生やすオシャレもある。

 

買い物袋や上着をツノにかけていて、

馴染みのない光景を目の当たりにする。

 

カフェにある扉の枠には

そんなツノがよくぶつけられ、

ウレタン材が貼り付けられている。

 

他にもイヌのような頭部で並んで歩く男女。

落ち着いた服装は夫婦のように見える。

 

結婚をして、子供ができても

ふたりはあの姿のままなのだろうか。

 

イサムに抱いた疑問は泡沫の如く消える。

 

カフェの窓から見かける、

街の人の容姿は様々だった。

 

〈ニース〉はイサムと同じ人間だが、

背景には大きな理由がある。

 

人類は一度滅んだ。

 

厳密には滅びかけたとされる。

 

世界恐慌、暴動、略奪、侵略、火山の噴火、

温暖化と氷河期、冷害、降り注ぐ隕石群、

さらには太陽フレア、酸素の減少、核兵器、

ウイルス、細菌…。

 

人類の過ちと天災による様々な要因が絡み、

絶滅の危機に至ったと小学生なら誰もが習う。

 

ひとまとめに〈人類崩壊〉と呼ばれた。

 

そんな壊滅的な状況でも、

わずか数百年程度で

人口は当時の水準まで回復した。

 

人類を救ったのは〈NYS〉と呼ばれる

技術が生み出した人工的な人体の進化だった。

 

新青年構想(New Youth Scheme)

 

その頭文字から〈NYS〉と呼ばれ、

その技術は生命に革新をもたらした。

 

〈NYS〉は人体に環境耐性を編み出し、

100億もの人口と数千年もの歴史を

短期間で取り戻した。

 

イサムが移り住んだ名桜(めいおう)市のある名府は、

〈ニース〉の特別区画として有名だった。

 

この街の住人は〈NYS〉の技術の応用で、

外見の変更がある程度自由に許され、

自分自身を変えることに抵抗がない。

 

計画の名称に過ぎなかった〈NYS〉が

人を区分する〈ニース〉と変化したのも、

この街の住人らによる。

 

名府に住む16歳以上なら、

誰でも容姿・肉体の変更が受けられる。

 

〈ニース〉が制限されるのは

肉体が成長を迎える15歳までで、

以降は自己の責任を持って選択が可能だ。

 

容姿の優劣を明確に自覚し、

違法性を意識するも年齢に達する。

 

〈ニース〉に馴染みのない余所者のイサムは、

年齢制限によって周囲が不満をあらわにする理由が

最初はわからなかった。

 

実際個人が容姿の劣等感に苛まれることもなく、

他人が容姿で優劣を区別することもなくなった。

 

そして誰もが他人の姿に変われる。

 

好きな役者、モデルや有名人…。

その人になりきり一生を過ごすこともできれば、

1日だけ体験することも可能だ。

 

トーストを食べ終え、

イサムはこの地で学んだことを反芻する。

 

窓の外を眺めて席を立とうしたところで、

アベリアの生垣を越えて目の前に誰かが立った。

 

灰色のスウェット服を上下に着た、

ボサボサと乱れた長い黒髪の女性だった。

 

彼女はイサムの前で窓ガラスを

割れんばかりに叩いて、店内に激しい音を立てた。

 

予測不可能な彼女の動きに驚き

反射的に飛び避けようとしたが、

イサムは無様にも椅子ごと背中から倒れた。

 

「ユージくん! ユージくん!」

 

イサムにとって見覚えのある女優の顔に、

個人端末(フリップ)〉を開いて叫ぶ相手を走査したが、

表示された名前は記憶とは一致せず眉をひそめた。

 

彼女もまた〈ニース〉の〈デザイナー〉で、

他人が女優に成り代わっている。

 

店の外で半狂乱のまま騒ぎ続ける女性に、

店内の客は騒然となった。

 

誰かが通報して、〈キュベレー〉と呼ばれる

額に第3の目(サーディ)をもつ機械人形が

連れ去って行った。

 

彼女は〈更正局〉に隔離される。

 

こうして騒ぎはすぐに収まったものの、

この騒動によって注目を浴びるのは

残されたイサムだった。

 

つましい食事を済ませ、

余計に肩身の狭くなったカフェを出る。

 

設けられたセンサによって扉が光り開かれ、

センサは瞬時に〈個体の走査(スキャン)〉をした。

 

退店した個人を識別し、

個体番号を取得する。

 

個人端末(フリップ)〉と同じ仕組みが、

この街のいたるところに存在している。

 

個人の個体番号は常に誰でも閲覧可能で、

〈ニース〉による外見の変更や類似、

模倣(コピー)などは|些末〈さまつ〉な問題でしかない。

 

いまそこに誰がいるのか、

建物への出入りや移動などは

すべて記録されている。

 

先程のようにジェスチャーで相手に

個人端末(フリップ)〉を向ければ、誰でも

名前と個体番号は簡単に閲覧できる。

 

〈ニース〉使用者となると、

過去の容姿履歴など公開される。

 

カフェを逃げ出し学校へと向かう道すがら、

幾人(いくたり)かの〈ニース〉が〈3S〉の前で

列をなしている。

 

黒い円筒状の大きな設備が3本横に並ぶ。

 

特殊標本空間(Special Specimen Space)

 

その頭文字を取って〈3S〉と呼ばれる。

ちなみにこれはテストに出る。

 

店の前にて順番を待つ客に混じり、

異形の頭を持っている〈デザイナー〉もいる。

 

オーソドックスなイヌやネコから、

猛禽類や爬虫類なども人間サイズの頭になって

店の前で列をなしている。

 

入り口は光を通さないほど真っ暗で、

ひとりずつ順に入り、数秒経てば出てくる。

 

〈3S〉から出てくる〈ニース〉は一様に

普通の〈NYS〉、つまり人間らしい頭になる。

 

休日明けの月曜になると、

はしゃいでいた〈ニース〉たちは

朝になって慌てて〈3S〉で元に戻すのが

この街の日常風景となっていた。

 

この名府は〈個人端末(フリップ)〉や〈3S〉の普及など

〈ニース〉の生活環境が整備されたおかげで、

〈更生局〉の出番も減り、生活の質も上がった。

 

〈デザイナー〉も〈パフォーマー〉も

容姿・肉体を変更したあらゆる〈ニース〉も

そうではない普通の〈NYS〉でも、

個人端末(フリップ)〉や〈個体の走査(スキャン)〉をされたところで

生活に支障が出ることはない。

 

転府から越してきた少年、イサムにとって

名府は〈ニース〉の為の変わった街だった。

 

人は誰かになれ、

なんにでもなれる時代となった。

 

僕はなにになるんだろうか。

 



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01-01:〈キュベレー〉と〈サーディ〉

〈3S〉に並ぶ列の向こう側に、

同じ高校の制服を着た女子生徒が立っている。

 

背筋が伸びて姿勢がよいので遠目でも目立つが、

なによりも赤い髪が目を引いた。

 

その生徒が、〈ニース〉たちの列を見てつぶやく。

 

イサムには聞き取れないほどの声量だが、

はっきりとなにを言ったのかわかった。

 

ただその言葉の意味はわからずに、

イサムは進行方向になる彼女の方へと歩いた。

 

「おはよう、八種くん。」

 

呼びかけられたイサムは、

その落ち着いた声の持ち主に振り向いた。

 

暗い紺色のセーラー服姿をした彼女は、

イサムと同じ赤色の校章バッジを付けている。

 

「お、はようございます…

 海神宮(わたつみのみや)さん…。」

 

イサムは顔を見て、

うろ覚えで呼び慣れない名前を

よそよそしく言った。

 

海神宮(わたつみのみや)真央(まお)

 

小柄なイサムよりも頭ひとつ背の高いマオから、

鼻筋の通った顔に切れ長の目で見おろされる。

 

赤髪を真ん中できっちりと分けた額には、

色素の薄い肌に紛れて絆創膏が貼られている。

 

これは決して怪我ではない、

と思いながらもイサムは肩を小さく震えさせた。

 

見てはいけないものだと直感し、

彼女の赤土色の瞳から目をそらす。

記憶を呼び起こしてたずねた。

 

海神宮(わたつみのみや)さんの通学路、こっちでしたか?」

 

「違うわよ。今日は…下見。」

 

「下見? …ですか?」

 

少し吊りあがった目を閉じてうなずいた。

 

新入生の引っ越しであれば、

年度の始まる3月中には済ませる。

 

イサム自身も3月末に引っ越してきた。

 

それが5月上旬の今。ほぼ2ヶ月も遅れた

おかしな時期の彼女の引っ越しにイサムは

オウム返しになり首をかしげた。

 

「そうね。当然そう思うわよね。

 私のお家は少しばかり特殊だから。」

 

具体的な説明をするでもなく、

振り向いて後ろを指し示す。

 

イサムの後方には

彼女を送り迎えする車が待機していた。

 

分厚いグリルの古めかしい黒色のセダンは、

のんびりと彼女の後ろをついてきて

横に付くと道の脇に停車した。

 

〈人類崩壊〉以前の意匠(デザイン)は、

今の市場で定番のものになっている。

 

一方通行の道路には渋滞ができて、

一台の後続車両がホーンを鳴り響かせた。

 

黄色のワンボックス車は

路肩に停めた送迎車を避けず、

道路の中央で難癖を付けている。

 

「迷惑なヒトね。」

 

マオが冷淡な口調でつぶやく。

 

マオの送迎車から、エプロンドレスをまとった

黒色の女中(メイド)服をした女性が降りてきた。

 

送迎車はそんなメイドを置いて先を行った。

 

迷惑な黄色のワンボックス車は、

今度はメイドを対象にしてホーンを鳴らし続け、

窓を開けては大声で叫んでいる。

 

邪魔だ、迷惑だ、ゴミなどと運転席の若い女は

メイドに向かって罵声を浴びせ続ける。

 

すると黒い長髪のメイドは

運転手の目の前に立つと膝を曲げてかがみ、

車体を軽々と持ち上げた。

 

大声をあげる運転手を気にもせず、

近くの空き地に車の天地をひっくり返した。

 

ひっくり返ったままメイドの顔を見た運転手は、

言葉を失い口の開閉を繰り返す鯉となった。

 

メイドは軽くひと仕事を終えた様子で

手をハンカチで軽く拭い、

主人であるマオの後ろで立ち止まる。

 

イサムはメイドの顔を目の当たりにし、

すぐに目を伏せた。

 

並外れた怪力を持つメイドは、

〈キュベレー〉であった。

 

〈キュベレー〉は〈更生局〉が扱う機械人形だ。

 

警備等の治安維持、学習施設での教育用、

育児、医療、または愛玩用など広範に扱われる

〈人類崩壊〉以降の人類のパートナー。

 

大きな黒色の目に加えて、額に人間とは

大きく異なる第3の目(サーディ)が存在する。

 

その〈キュベレー〉は真っ白な顔をして

頭部には黒髪のウィッグを被っており、

服を着てヒトの模倣をしている。

 

エプロンドレスのメイド服にウィッグを付けた

〈キュベレー〉従えて、およそ普通とは異なった。

 

「なん…です、アレ?

 殺し屋ですか?」

 

イサムはおかしな格好の〈キュベレー〉に

言い知れぬ不安を覚えた。

 

「冗談が下手ね。

 海神宮(わたつみのみや)家専属の〈キュベレー〉よ。」

 

「専属…あの格好も?」

 

「趣味なんでしょうね。」

 

「まるで他人事だ…ですね。」

 

「学校。遅刻するわよ。」

 

イサム自身この追求を不毛と理解して、

促されるままイサムは黙って先を歩いた。

 

背の低さを自認しているイサムは劣等感もあり、

長身の彼女の隣を極力歩きたくなかったので

本能的に早足になった。

 

カフェでの騒動を鎮圧する〈キュベレー〉に、

珍妙な衣装を着せて従える海神宮(わたつみのみや)家。

彼女はその御令嬢だ。

 

小さな歩幅で早足に歩いたが、

足の長いマオにとってそれは同じような歩速で

互いの距離は一向に開きはしなかった。

 

「女子寮ではないんですね。」

 

「寮に入る必要ないもの。」

 

「…ですよね。

 でも今になって引っ越しって。

 女子寮って学校が提供してる施設でしょ、

 需要あって親が入らせるもんですから。」

 

「新入生も半数が寮生ね。」

 

寮生の数を厳密には把握していないものの、

マオの口ぶりに流れでイサムはうなずいた。

 

「寮に入れたがるのは、

 ここが名府だからって理由もあるわね。」

 

「…〈ニース〉ですか?」

 

「そう。お外はみんなケダモノだもの。」

 

彼女の言い回しに再び、半信半疑でうなずいた。

 

マオの言う通り、この名府には

頭を獣にしたりツノを生やす〈ニース〉は多い。

 

寮生が16歳の誕生日を迎えたとしても、

〈ニース〉は寮の規則で許可されないという。

 

「車に乗って気が強くなるヒトがいるみたいに、

 自分ではない誰かになると、ヒトは豹変する。

 〈ニース〉になったからって全員が罪を犯して

 〈更生局〉で隔離されるわけじゃないけれど。

 被害に遭う可能性もないわけでもない。

 それに寮なら家賃も安くて食事も提供される。

 規則正しい生活ができて、必然的に

 遠方出身者同士が身を寄せ合うから

 お友達も作りやすい。合理的よね。」

 

大人びた物言いをするマオの言葉に、

イサムは3度目になって素直にうなずいた。

 

「と今までのはただの建前で、私の理由は単純に

 入寮申請は2月で打ち切ってるからかしら。」

 

「あぁ…。」

 

当然のことが頭から消えていてハッとした。

 

「学校と寮の往復じゃ行動範囲狭いし。

 八種くんはひとり暮らしなんでしょ?

 この辺りの住心地は? 徘徊してる?」

 

「ひとを不審者みたいに言わないで下さい。

 まだ越してひと月ちょっとですよ。

 そんなに出歩く用事もありませんが、

 今更になって爪切りがないって

 気づいたくらいには初心者を痛感してます。」

 

伸びた爪を見てマオがやわらかな笑みをこぼした。

 

「爪くらい〈3S〉で整えればいいじゃない。」

 

「爪ひとつで? まだ15歳ですよ。僕。

 それにお金もかかるじゃないですか。」

 

「冗談よ。

 ここらは住宅地が多いから、

 徒歩でも買い物には困らないわね。」

 

下見に来たというマオの観察する通り、

近隣は民家が多く、店も少なくはない。

 

イサム自身はある人に強制された

ひとり暮らしであったが、

不慣れな生活であっても

不便を感じることもなかった。

 

あえて困ったことを述べれば、

異様な赤い髪色のクラスメイトと

朝から通学しているという点だった。

 

「そういえば、あれ…なんだったんですか?」

 

「どれのこと?」

 

マオは後ろを振り向いて、〈キュベレー〉を見た。

 

「いや、さっきなにか、つぶやいてましたよね。

 〈3S〉見ながら。マジン?」

 

「あぁ。魔人のことね。」

 

「魔人?」

 

同じことを2度つぶやいた。

それはイサムの知らない言葉だった。

 

「魔人。ヒトを惑わすもの。ヒトを害するもの。

 異形の頭部を持つ。〈ニース〉にはピッタリ。

 『魔』は他の言葉でも使われるわね。

 たとえば魔女とか。知らない?

 〈人類崩壊〉以前には他者をたぶらかしたと

 告発してヒトを吊るすために

 存在しない嫌疑をかけた。」

 

「吊るすって…なに?」

 

「言葉の通り。」

 

マオは両手で首を締める素振りを見せ、

だらしなく舌を出して(うめ)いても見せた。

 

当時の悲惨な様相を、彼女の美貌に

似合わぬコミカルな表情が想像を妨げる。

 

「言葉は生物みたいに変化するのが

 面白いところね。

 〈NYS〉と〈ニース〉が

 別れたみたいに。」

 

青褪(あおざ)めた顔のイサムに、

マオは自分の顔についたものを思い出した。

 

「これ、気になる?」

 

彼女は自分の額に貼られた絆創膏を剥がした。

 

絆創膏を斜めに半分ほど剥がすと、

中には赤土色をした人の目が入っていた。

 

彼女は先程まで魔人と皮肉っていた

〈ニース〉の〈デザイナー〉であり、

〈キュベレー〉と同じく額に目を持つ

〈サーディ〉であった。

 



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01-02:海神宮家の御令嬢

〈ニース〉は大きく分けて2種類存在する。

 

骨格から肉体を変化させる〈パフォーマー〉と、

肉体の性能をそのままに他人や

動物などの頭に差し替える〈デザイナー〉。

 

もちろん両方を混ぜている〈ハイブリッド〉も、

〈ニース〉の許される名桜(めいおう)市では少なくはない。

 

16歳以上ならば〈3S〉でお金を払えば

いくらでも風体を整えることが可能となる。

 

しかし〈ニース〉にも当然ながら制約はある。

 

イヌの鼻やネコの目に変えたところで、

嗅覚は倍にはならず、夜目に優れはしない。

 

どんな〈ニース〉であっても

人間の能力は超えられない。

 

〈パフォーマー〉も〈デザイナー〉も、

あくまで人類が生存するために作られた

〈NYS〉の技術の副産物に過ぎず、当然ながら

その技術の氾濫を防ぐ仕組みが存在する。

 

そのために街の至るところで

個体の走査(スキャン)〉が行われ、

誰にでも〈個人端末(フリップ)〉が備わっている。

 

人間が人間らしくあることが、

〈ニース〉の大前提である。

 

テスト範囲であり、教則に収載されている。

 

しかしマオは普通の〈ニース〉とは異なった。

 

額に貼られた絆創膏の隙間から

第3の目をあらわにすると、

まぶたを上げて眼球を動かして

横に立つイサムと目が合った。

 

額の目を意図して動かした。

 

濃いまつげから流し見られ、心臓が強く脈打つ。

 

マオは〈サーディ(Third eye)〉の持ち主だ。

 

「これ、しておかないとみんな驚くでしょ?」

 

絆創膏を指で抑えて第3の目を再び覆う。

 

イサムは返事に(きゅう)し両の唇を軽く噛んだ。

 

普通の人間に、目はふたつしかない。

 

たとえば複数の単眼を持つクモの〈デザイナー〉

であっても、ふたつの目の原則は変えられない。

 

〈3S〉でいくら目を『増設』したところで、

筋肉や神経があったとしても脳が処理できず、

増設された目はただの装飾にしかならない。

 

それは手足であっても同じだ。

 

イサムも引っ越しの後に

暇を持て余して調べてみたが、

〈ニース〉の制約は明確だった。

 

『ヒトの形の範疇(カテゴリ)であること。』

 

人とは、形とは、

どこから、どこまでがカテゴリなのか。

 

あいまいな制約は、受け取り方次第で

いくらでも解釈が可能であった。

 

〈NYS〉の技術であっても人間は

イヌやネコに成り代わりはできない。

 

それこそが制約との本質となる。

 

〈ニース〉による人間は、人間の形の上で

イヌネコの被り物をしているに過ぎない。

 

この制約は、制限と呼んで変わりはない。

 

だが、〈サーディ〉は異なった。

 

第3の目(サーディ)を持つマオは

その目を自在に操れる。

 

目が合ったイサムは、

その違和感を瞬時に飲み込めずにいた。

 

イサムでなくとも普通の人も〈ニース〉でも、

〈サーディ〉という特殊な事例を目の当たりにして

驚かない人はまずいないに違いない。

 

そんなことを考えて黙ったまま

イサムは先を歩いて通学路を外れ、

いつもの集合場所へと向かっていた。

 

公園の入り口には車両の侵入を防ぐために、

黒色に塗られたボラードと呼ばれる杭がある。

 

その先でイサムが来るのを待っていたのは、

イサムと同じく詰め襟の制服を着た

ふたりの男子生徒だった。

 

遠目に見てもはっきりとわかる

丸い男と長い男。

 

「はよう、モジャ。」

 

「おせーぞ、チビっこ。連休で

 引き篭もってるのかと思ったわ。」

 

「おはよう。ノッポとデブ。

 月曜だからいつもどおりだよ。」

 

遅いと言われたが授業開始まで、

いつもの通りまだ30分は時間があった。

 

「今日はアレだろ、パンの日だ。」

 

「あぁ、タダ食い。」

 

「タダ食いじゃないよ。」

 

イサムが月曜日の朝には決まって、

近所のカフェで安いトーストと無料の水で

糊口(ここう)をしのいでいる事情をふたりは知っている。

 

ゴム製の玉でキャッチボールをして

イサムが来るのを待っていた。

 

学校ではない場所についてきてしまった

マオの気配を感じて、

イサムは振り向かないように努めた。

 

手前には横に広くて大きな男、

遠くに背の高い男がいると遠近感が狂う。

 

デブと呼んだひとりが持ったボールを、

振り向きざまにイサムに投げ渡そうとした。

 

だがボールは小さなイサムの背を超えて、

あらぬところへと飛んでいった。

 

デブが慌てて声を上げる前に、

イサムは身を翻して後ろに走った。

 

ボールがイサムの背を超えるよりも早く、

右手を大きく伸ばしてタイミングよく掴んだ。

 

走ったイサムの体は勢いが止まず、

後方にいたマオにぶつかった。

 

強く目を閉じたイサムだが、

目を見開くと片耳がマオの豊満な胸に沈んでいた。

 

両肩を彼女に捕まれ、

つむじに鼻を付けられている状況に

目を皿にして唖然とさせられた。

 

すぐに飛び退いたものの、

足をもつれさせて尻もちをついて

背中ごと倒れた。本日2度目。

 

「すまんすまん。」

 

「デブぅー。」

 

恨みがましく叫んだものの、

片耳が燃えそうなほど熱を感じ、

耳を抑えながらボールを投げ返した。

 

デブと呼ばれた丸い男には

亜光(あこう)百花(ひゃっか)という名前がある。

 

短く刈り取られた頭を

前から後ろへひと撫でして謝った。

 

濃い眉毛に小さくあごひげを生やしており、

恰幅(かっぷく)はイサムの倍近くあって

同じ15歳とは思えない貫禄をみせる。

 

貴桜(きお)大介(だいすけ)という本名をもつノッポは

あだ名の通りの長身で、さらに

整髪剤で重力に逆らった髪型をしている。

 

髪型分で身長を水増ししているのだと、

小柄なイサムは嫉妬心を抱いていた。

 

ふたりは同じ地元中学校の出ではあるが、

文系と体育会系で元々それほど親しくはない。

 

「んで。

 なんで御令嬢様と一緒してんだ?」

 

イサムの後ろにマオと、さらに後方には

メイド服の機械人形〈キュベレー〉がたたずむ。

 

貴桜の当然の疑問に

心の中で同意し眉間にシワ寄せる。

 

「学校は行かないの? 不良の集まり?」

 

「オレらなんだと思ってんすか…。」

 

マオの質問は貴桜の見た目が基準となった。

 

イサムはメイドを小振りに手招きし、

マオを指差してから手で払う仕草をした。

 

メイドはうなずいたが、

イサムの意志を理解した上で身動きを取らない。

 

「モジャ。これやる。

 動物園のおみやげ。」

 

ふくよかと呼ぶには真新しい制服が

窮屈(きゅうくつ)そうな亜光が、

紙袋を持ってイサムに手渡した。

 

「おっ、ありがとう。動物園行ったのか。」

 

「妹とな。」

 

「妹好き過ぎんだろ。」

 

ノッポも鞄を持ってやってきた。

 

「なにそれ。」

 

「肉みそ…ですかね。なんで?」

 

紙袋の中には瓶がふたつ。

ひとつを取り出して首をかしげた。

 

「動物見てたら肉が食べたくなってなぁ。

 帰りに焼き肉食べたんだが、そういえば

 お土産買ってないなって。」

 

「貴方ってどういう思考してるの。」

 

彼女の突っ込みは辛辣(しんらつ)だ。

 

「白米によく合うんだ。」

 

「まあありがたくいただくよ。

 ノッポは? デブ肉。」

 

「不味そうな言い方するな。」

 

「自分で不味いって言うのね。」

 

「オレは遠慮しとくよ。

 動物園じゃなくても普通に買えるやつだし。」

 

「お土産ってなんだろうな…。」

 

お土産の概念を考えさせられる行為だった。

 

「それで3人は蔑称で呼び合ってるの?」

 

マオに言われて3人は顔を見合わせた。

貴桜が鼻で笑う。

 

「同じクラスなら、最低でも1年間は

 一緒に過ごすことになるから、お互いの許容を

 探り合ってこうなったんですよ。

 最初から名前で呼び合うと余所余所しいし。」

 

「亜光くん、あなたがデブで、

 貴桜くんがノッポ。それで八種くんが…」

 

「チビモジャ。」

 

貴桜がそう言って(こら)えきれずに笑う。

 

「チビじゃない! 貴桜がノッポなだけだ。」

 

「仲がいいのか、悪いのか。

 チビもノッポも、あとモジャ? も…、

 生まれ持ったものだからケチを付けても、

 自分の欠点が満たされるわけじゃないのよ。」

 

まったくもって正論をいわれると、

チビモジャのイサムもノッポの貴桜も

取っ組み合った状態からなにも言えなくなった。

 

「俺は?」

 

デブと呼ばれた亜光の問いに

マオは黙って答えなかった。

 

「デブは〈3S〉で痩身(そうしん)したら

 いいんじゃねえかな。」

 

「俺はまだ15だぜ。

 この魅惑のぽっちゃりボディを

 〈3S〉なんかで損なう気はない。」

 

メガネをかけ直して胸を張る。

 

「あー海神宮(わたつみのみや)の御令嬢様の前で。

 『なんか』って下げるなんて。」

 

海神宮(わたつみのみや)家ってそんなに凄いの?」

 

「モジャは転府出身だから知らんか。」

 

「〈ALM〉って転府にもあるだろ?

 〈NYS〉を作ったのも〈ALM〉。

 〈更生局〉や〈キュベレー〉も。全部な。」

 

「それは知ってる。」

 

「説明なげえんだよ。デブは。」

 

「簡潔に言うと、この名府での

 社会システムを統括してんのが海神宮(わたつみのみや)家だ。

 主に〈個人端末(フリップ)〉に〈3S〉だな。

 つまり海神宮(わたつみのみや)家は〈ALM〉に並ぶ御家

 っつーことになる。」

 

勉強の記憶を頼りに呆然(ぼうぜん)と聞いている

イサムの額に指差して熱弁した後で、

亜光はひざまずき、両手の指先を揃えて

自らの額を地面に押し付けた。

 

「そして。

 軽率な発言して、すんませんでしたー!

 まだウチには幼い妹がいるのでなにとぞ!」

 

貴桜がまた笑っている。

 

マオが反応に困ったのかこちらの顔を見てきたが、

イサムは愛想笑いを浮かべるしかなかった。

 

「で?」

 

「…で?」

 

「モジャ…もとい八種よ。

 君たちぃふたりはその…付き合ってるのかね?

 俺に相談もなく。」

 

「そう、オレもそれ聞きたかった。

 転府に残した幼馴染とかいんだろ。」

 

「そんなわけない。」

 

「私にどんなメリットが?」

 

マオの主張は正しかった。

 

巻き込まれたことに申し訳なく思うも、

彼女の言葉は疑問を突き抜けて正論の矛と化す。

 

海神宮(わたつみのみや)家の御令嬢とイサムでは

交友関係を築くほどの価値はない。

 

それから誰ひとり口を開かず、

亜光と貴桜はイサムの肩に優しく手を置き

(いた)んでもいない当人を無言で(なぐさ)めた。

 

その行為が一番傷ついた。

 



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01-03:『有事協定』の少年

「どうして学校に行かず、

 男子3人集まってるの? 決起集会?」

 

「物騒な! さっきの当てつけですか。」

 

「今の所その予定はありませんぜ。

 亜光は知らんが。」

 

「今後もそんな予定はないよ。」

 

両手でごまをすり芝居がかった喋りをする貴桜に、

イサムは黙るように脇腹を肘でつついた。

 

「ウチは男子が肩身ぃ狭いもんだから、

 教室入る前に集まろうって決めたんです。」

 

「たしかに。

 女子ばかりだものね。ウチの学校。」

 

イサムの通う桜咲(おうしょう)高校は

元女子校をモデルにした学校で、

男子生徒は各クラスに1割ほどしかいない。

 

この高校への進学をイサム自身が

選んだわけではないが、ふたりのおかげで

なんとか通い続けているのが現状だった。

 

「ところで御令嬢。

 チ…モジャ…八種って女子から嫌われてんの?

 嫌われておりまするか?」

 

「2回も言い直すな。」

 

「そうなの?」

 

「どうして当の本人に聞くんですか。

 そんな感じですけど。」

 

避けられている心当たりはあるものの、

明確に嫌われていると断言はできない。

 

女子から直接言われたわけでもないが、

女子であるマオに尋ねられたところで

女子ではない当の本人には判断不可能だ。

 

「亜光教師はどう見てんの?

 手芸部ルートでなんか知ってんだろ。」

 

「うむ。」

 

メガネをかけ直す仕草をしてから腕を組む。

 

その怠惰の象徴の如き見かけによらず、

部活動には精力的で、クラスの女子たちと

唯一会話ができる頼もしい男子でもある。

 

「これは噂話だが、八種にはなぁ。

 『有事協定』ってのがあってだな。」

 

「物騒な名前ね。」

 

決起集会と言ったマオに対する

お返しの当てつけかと思われたが、

亜光は首を横に振った。

 

「有事ってぇと…武力介入とかの?」

 

「その通りだ。

 八種はこっちでも有名人だからな。」

 

「そうなのか?」

 

「知らんのか。貴桜はドラマ見ないのかよ。」

 

「知らん。スポーツしか見んからな。」

 

「ドラマ出てたのは小学生のときだけだよ。」

 

普段とは違う奇異の目で見られると

居心地が悪い。

 

マオが〈個人端末(フリップ)〉で保管(アーカイブ)された

動画を掘り当て貴桜らに見せた。

 

細い黒髪がまっすぐに伸びた幼顔の男の子が、

真っ白な服で青々と茂る草原を走り回る広告動画。

 

『毎日ハム()む、オオヤケ屋のハム。』

 

ナレーションする子どもが

ハムを手に満面の笑みを見せた。

 

「これこれ、懐かしい。」

 

「全然違うじゃねえか。誰だよこれ。」

 

「子供の頃はこうだったんだよ。」

 

貴桜に『これ』と指さされて反駁(はんばく)した。

 

モジャと呼ばれる現在とはまるで異なり、

幼い頃のイサムは直毛で髪質は細かった。

 

今の頭を貴桜によって上から両手でかき乱された。

 

「歌手活動もやってたんだぜ。」

 

「歌手ぅ?」

 

「口パク担当のセンターだそうだ。」

 

「なんだそりゃ。」

 

「踊りながら歌うってなんか難しいんだよ。」

 

「運動神経鈍いもんな。」

 

「デブちんが言うか、それ。」

 

「あーあ、元野球部は運動できるからって

 偉そうだから困る。」

 

「なんでふたりとも

 そんなことで喧嘩してるの。」

 

「歌手活動後にまもなく芸能界引退。って。」

 

マオが検索情報を眺めて補足した。

 

「当時はすごい美男子ってことで

 話題になったぐらいだ。」

 

「そりゃ羨ましいぜ。このモジャ助が?

 顔の作りだけはいいもんなぁ。」

 

盛り上がるふたりに深くため息をついたイサムは

その場でしゃがみ込んでしまった。

 

「あれ、なんかまずかった?」

 

「そう落ち込むなって。

 世事に疎いノッポも、八種のことは

 馬鹿になんてしてないぜ。」

 

「モジャ公とは似ても似つかないしな。

 それで有事なんとかと関係あんのか?」

 

「『有事協定』。」

 

「この頃はユージって芸名だったんだ。

 有名な芸能人の次男坊ってことで…。」

 

「さっそく話が逸れてねぇか? 亜光教師。」

 

「悪い癖だ。」

 

「むぅ。まあ聞けって。

 その有名人がウチに入学したってんで、

 女子の先輩方がまぁ大騒ぎしてなぁ。

 あの『ユージくん』にみだりに話しかけんのを、

 クラスの生徒に規制したんだと。

 校則を盾にして。」

 

「校則。不健全的行為。不純異性交遊の禁止。」

 

「面倒な学校があったもんだ。

 黙って付き合えば問題ないだろ。

 俺ならそうする。」

 

貴桜は自らも生徒であるものの、

他人事のように言ってのける。

 

「じゃ嫌われているわけじゃないんだな。

 よかったな。」

 

「よくはないよ。

 なにかあれば亜光経由しなきゃいけないし。」

 

「俺も面倒だけどな。」

 

「それなら代わってやりたいわ。」

 

「余計嫌われるぞ。」

 

「俺は嫌われてねえ!」

 

「ほらいくぞ。」

 

亜光がイサムの背中を平手で叩いて

4人は学校へと向かう。

 

公園からは目と鼻の先である。

 

――――――――――――――――――――

 

「てかさぁ。海神宮(わたつみのみや)さんは

 こうやってモジャモジャと話しても

 大丈夫なのか?」

 

「どうして?」

 

「えぇ…。」

 

これまでの話の流れを汲まず

超然とする彼女の態度にイサムの方が驚く。

 

「『有事協定』の話しましたよね。俺。」

 

「やっかまれちゃうよ。」

 

「それなら大丈夫。

 私のが強いから。」

 

海神宮(わたつみのみや)家の御令嬢を相手に、

敵う相手がいるはずもない。

 

「それに。」

 

彼女が振り向くとメイド服を着た

機械人形の〈キュベレー〉がまだ付いてきている。

 

車を持ち上げる怪力の持ち主に、

真っ向勝負など無謀と呼ぶに等しい。

 

3つの目を持つメイドから

イサムはすぐに顔を背けた。

 

「まあ八種はともかく。

 貴桜は嫌われてるんじゃないかな。」

 

「冗談だろ? どうなの御令嬢?」

 

身の潔白を訴える貴桜だったが、

マオは無言の返事で彼に応じた。

 

実際、逆だった髪の長身男に

進んで話しかける女子は多くない。

 

「嘘だろ…。こんなにキメてるってのに…。」

 

「キメてるつもりだったんだ、それ。」

 

「追い打ちをかけんじゃないよ。」

 

仕返しとばかり発言したイサムだが、

亜光にたしなめられて、下駄箱を明けた。

 

下駄を入れる箱ではないのだが、

今朝カフェでみた転府のドラマの影響で

いつからか靴箱は下駄箱と呼ばれた。

 

「わっ!」

 

開けた下駄箱から大量の紙が足元に落ちてきて

イサムは後ずさりする。

 

「封筒。」

 

「請求書か?」

 

「貧しさのあまり

 ついに借金に手を出したのか。」

 

「知らないよ。なにこれ。」

 

「今どきアナログの手紙なんて。

 とりあえずそれに入れたら?」

 

亜光のお土産の入った手提げ袋に、

下駄箱からあふれた封筒を詰め込んだ。

 

「これがファンレターってやつか。伝説の。」

 

貴桜が個性的でカラフルな便箋の山からひとつ

手にとってその存在をいぶかしむ。

 

「それこそ古風がすぎるってもんだ。

 無闇やたらと開けないほうがいいぞ、八種。」

 

亜光の言葉にイサムはなんだか怖くなり、

頭痛を覚えてまた眉間にシワを寄せた。

 



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01-04:第3の目を持つ少女

手紙文化は〈人類崩壊〉以前に広く存在した。

 

人類が滅びかけるはるか昔、

絵や文字を書くための紙が発明される。

 

正確に伝える記録の手段はやがて

情報を遠くに運ぶ通信へと発展し、

市場から墓場まで広く用いられた。

 

機械の普及で〈人類崩壊〉以前に

滅びかけたとされるが、今でも

レトロな手法を好む好事家や

一部の若者の間で秘密のやりとりとして、

特に授業中に使われる暇つぶしの

一種で暗躍を続ける。

 

絵や文字や写真などのやりとりであれば、

個人端末(フリップ)〉で番号を交わせば済む時代。

 

大量の手紙を持ったイサムが教室に入ると、

女子たちに緊張が走った。

 

生徒の男女比から異物扱いを受けるのは

いつものことであると言えるが、

今日の雰囲気はいつもと異なる。

 

会話は止まり、

視線が集まる。

 

イサムはこの淀んだ空気に

胃液が逆流する感覚を覚える。

 

(くだん)の封筒が詰まった袋を机に置く。

 

厚紙でできた袋の底の肉みその瓶が、

重しになってバランスを崩さず倒れない。

 

亜光が神妙な顔でつぶやいた。

 

「これ『有事協定』違反じゃないか。」

 

『有事協定』とは元芸能人であった

イサムに対する接触を禁じることを示す。

 

不純異性交遊などを規制する校則によって、

先輩女子が取り決めたとされる。

 

イサムは1通の封筒を手に取り表裏を観察する。

 

表は利き手とは反対の手で書いたような

ミミズのはったような字で『八種(やくさ)(いさむ)様』。

 

裏にはピンク色をしたホログラムのシールで

封がされており、差出人は書かれていない。

 

「これも差出人不明だ。筆跡が違うぜ。」

 

「封筒もシールも見事にバラバラだなぁ。」

 

貴桜と亜光、それからマオまでもが

イサムの机を囲んで封筒を鑑賞する。

 

クラス33人の中の男子3人。

男子の席は窓際の後ろ隅に追いやられている。

イサムは男子の中で一番うしろの席だった。

 

教室内の女子たちは、イサムたちに混じった

マオに対してなにか言いたげに遠目で眺めている。

 

だが海神宮(わたつみのみや)家の御令嬢を(とが)められる生徒など、

この教室どころか学校には存在しない。

 

もしもマオに危害を加えようものならば、

テニスコートの向こうで待ち構えている

メイド服の機械人形が文字通り飛んで

駆けつけそうなものだ。

 

『有事協定』を犯したマオに対して、

女子たちは誰も指摘をしなかった。

 

「どうしよう、これ。」

 

イサムが困り果てた顔で

亜光と貴桜に助けを求めるので、

ふたりは顔を見合わせて協力する。

 

友人としての互助精神よりも好奇心のが勝った。

 

「手紙とか貰ったことないのか?」

 

「たぶん劇団か事務所で処理してたから、

 実際に手紙なんて見たことないよ。」

 

「手紙に位置情報を登録すれば、

 相手の自宅まで追跡も可能だしな。」

 

「僕の自宅調べてどうするの?」

 

「〈更生局〉直行。」

 

両手をヘソの前に差し出して、

手枷(てかせ)を具体的に想起させた。

 

カフェに現れた女と同じ末路をたどる。

 

柔らかなパステルカラーの色とりどりの封筒に、

色ペンで書かれた宛名は丸みを帯びて

記号混じりの文字を解読するのに時間がかかる。

 

中に1枚だけ真っ黒な封筒が混ざっており

マオがそれを袋の中から抜き出した。

 

「これも八種くん宛ね。」

 

「もう開けちまっていいんじゃねえの?」

 

「貴桜の言う通りデリカシーに欠けるけど、

 差出人がわかっかも知れないぜ。」

 

「デリカシーってなんだ?」

 

「俺みたいな。」

 

「はいはい。」

 

海神宮(わたつみのみや)さん、なにしてるの…?」

 

マオが封筒を照明に透かしていた。

 

「『貴方は現世で結ばれる運命のヒトです。』」

 

「なんだそりゃ。」

 

貴桜が内容にあきれて口を挟むが、

マオは淡々と続きを読み上げる。

 

「同封の手紙に想い人の名前と

 差出人の項目に貴方の名前を書きなさい。

 さすれば貴方は運命の人とめぐり合えます。

 これは呪いの手紙です。

 この手紙を無視したり、捨てた場合、

 貴方に不幸な災いが降りかかるでしょう。」

 

マオは額の絆創膏を取っていた。

 

手紙の封を開けることなく、

額にある第3の目(サーディ)で中身を走査した。

 

読み上げる途中で、マオは

内容のバカバカしさに少し鼻で笑っていた。

 

「なんか、凄いことやってのけたな。御令嬢。」

 

亜光と共にイサムも黙って感心するが、

手紙の内容が気になりそれどころではなかった。

 

「なにこれ…。宣誓書。ふふっ。」

 

黙読しながら内容に笑みがこぼれる。

 

「この別紙、宣誓書を要約するとね、

 『有事協定』の破棄をするって内容。

 相手の名前と八種くんに名前を書かせて、

 配らせるって算段なんでしょう。」

 

「それなら名前を書けばいい?」

 

「書くな書くな。」

 

「よくあるイタズラだな。

 そうか、こういうのやられたことないのか。」

 

亜光に指摘を受けて、

経験のないイサムは首を横に振る。

 

「全部入ってるのかしら。」

 

マオはいくつか別の封筒を手にとり、

同じく別紙が添えつけられているのを確認した。

 

「捨てようぜ、こんなもん。」

 

「捨てるなんて! あんまりじゃない。

 相手の思いが込められた手紙なのに!」

 

「えぇっ?」

 

ファンデーションを薄く塗った顔には、

よく見ればうっすらとそばかすが見える。

 

唇にはべったりとグロスを塗った過剰なおめかし。

短い金髪を耳の上から左右にまとめた女子生徒が、

イサムたちの輪に混じって話しかけてきた。

 

同じクラスの舫杭(もやくい)ソニアであった。

 

「なぁ、これって有事違反?」

 

「『有事協定』違反な。」

 

「黙ってて!」

 

「はい。」

 

冗談半分でからかう貴桜につられた亜光が、

舫杭(もやくい)に叱られ、ふたりはだまってお互いを

肘で小突いて責任をなすり付けあった。

 

「相手への思いなんてあったか?」

 

「しっ!」

 

これ以上の軽率な発言は、

貴桜の教室内での立場を危うくするだけだった。

 

「捨てたらきっと呪いが発生するわよ。

 くふふ。」

 

「わぁっ!」

 

舫杭(もやくい)の後ろで真っ黒にした前髪を

目が隠れるほど伸ばした白い顔をした女子生徒、

夜来(やらい)ザクロが脅しをかける。

 

ザクロが呪いなどと言えば妙に雰囲気が出ており、

牡山羊のツノを模したカチューシャを付けている。

 

〈ニース〉を禁じられた寮生の抜け道だった。

 

こんな格好は許されるのか疑問が湧いたが、

〈ニース〉も授業を受けられるのであれば

些末な問題に過ぎない。

 

「なるほど。捨てちゃだめなら

 溶かしてまとめちまうってのはどうだ?」

 

「いいわけないじゃない!

 トンチやってんじゃないのよ。

 このバカデカノッポ!」

 

廊下にも響く金切り声を上げる舫杭(もやくい)

 

「怒られてやんの。」

 

「ねぇ、今の蔑称(べっしょう)は許容範囲?」

 

「女子に言われる分にはセーフだね。」

 

「どんな判断だよ。貴桜。

 いや、バカデカノッポ。」

 

「いいか、亜光。

 貴様も肥満デブと(ののし)られてみろ。」

 

「意味が重複(ちょうふく)してるぞ。

 海神宮(わたつみのみや)さんお願いします!」

 

亜光の要望などマオは無視するのかと思ったが、

イサムの視線を察知して彼女は目を合わせた。

 

「それ、私にどんなメリットが…。

 肥満…デブ?」

 

言われた貴桜は黙ってうつむき、

亜光はメガネに触れて天井を見上げた。

 

ふたりはなにも言わず、

ゆっくり拳をぶつけ合った。

 

「なんなのこれ。」

 

尋ねられても答えようがない。

経験のないイサムには、

黙ったまま首を横に振るしかなかった。

 



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01-05:不幸の始まり

「手紙による呪いの力は古来より、

 他の人に渡すことで薄れて弱まるのよ。

 くふふ…。」

 

「呪いってなんだよ。」

 

「呪い…?」

 

「八種も真に受けるなよ。

 こういうのは昔からあんだよ。」

 

「昔から?」

 

「それこそ〈人類崩壊〉以前からな。」

 

紙袋いっぱいの手紙を目の前にして、

途方に暮れるイサムの顔を亜光は覗き見た。

 

亜光がここぞとばかりにメガネを押し上げ、

イサムを相手に教鞭をとる。

 

――不幸の手紙とは。

 

『この不幸の手紙を複数人に送ってください。』

 

と書いて、届いた不幸の手紙は内容を複写して、

ふたり以上に送って呪いを分散させんのが原則だ。

 

子供だましのよくあるイタズラのひとつ。

それが不幸の手紙と呼ばれるもんだ。

 

分散させた手紙は倍倍に増える。

ネズミ算式って呼ばれるやつな。

 

すぐに学年全体に行き渡らせて、

やがて別学年、別学校にまで伝播する。

送り続ければ、って前提ではあるがな。

 

呪いが相手に心理的な強制力を与えるんだ。

 

細かなルールがある。

送り主や親族に手紙を返してはいけないとか、

そういうルールを守らなければ呪われる。

ただしルールは厳密でもない。

 

懇切丁寧(こんせつていねい)に差出人名を書けば、

相手から多大に恨みを買う。

 

他にも、手紙を分散させない相手に、

送り主が催促(さいそく)する必要もない。

 

不幸や呪いと欺いて、受取人の不安を(あお)り、

良心に付け込む卑劣な手法だ。

 

今でも〈個人端末(フリップ)〉を使った

メッセなんかが存在するが、

もちろんこれらは相手にするだけ

時間の無駄だな。

 

――以上。

 

亜光はさらに付け加えた。

 

「〈更生局〉がこの脅迫めいた手紙を

 わざわざ規制もしない。

 金銭目的や相手の自由を奪うもんでもない。

 実際、子供騙しに過ぎないのは、

 誰の目にも明らかだ。」

 

イサムは亜光の講義を毎度熱心に聞く。

 

しかし当事者が知りたかったのは

不幸の手紙の歴史ではなく、

目の前の問題に対する処理の方法だったので

さらに表情は険しくなる。

 

貴桜とマオは講義そっちのけで、

机にみっしりと封筒を並べた。

 

封筒はどれも色や形が異なり筆跡も様々だ。

 

ピンクや青など透明なプラスチックビーズを

貼り付けて飾られた封筒とは思えない物もあり、

匿名の封筒の割に存在感をアピールしている。

 

「見事に全部違うな。」

 

「こんな大量に…。

 業者にでも頼んだのかしら?」

 

「失礼ね! それはちゃんと直筆よ。」

 

「ソーニャん、それ自滅…。」

 

マオが手にとったショッキングピンクの封筒。

 

舫杭(もやくい)の発言はマオが手にした封筒が、

自ら書いた物と告白したも同然だ。

 

顔を真っ青にした舫杭(もやくい)は頬を両手で抑え、

自分の発した言葉の意味を徐々に理解した。

 

「ご、ごめん! あたしたちのせいだって

 バラしちゃったゆかりん。」

 

「どんまいソーニャん。

 でもいまので私も共犯だって

 バラして道連れにしたけどね。くふふ…。」

 

ザクロの両腕にしがみついて

自責の念に(さいな)まれている舫杭(もやくい)に向けて

彼女は平然と親指を立てた。

 

「んだよ呪いって。

 バカバカしい結末だったな。」

 

「これそのまま送り主に返却すれば

 いいんじゃないか。目の前にいることだし。」

 

「そんなのダメよ! せっかく書いたのに。」

 

「一方的な手紙だけどねぇ。」

 

亜光の提案に舫杭(もやくい)は拒絶するが、

後ろのザクロは至って冷静だった。

 

「ごめんなさい。

 手紙の返信はできません。」

 

イサムは深々と頭を下げ、

机に広げた手紙をまとめると紙袋に入れた。

 

袋を舫杭(もやくい)に手渡すと、

真っ青だった彼女の顔はみるみるうちに紅潮する。

 

イサムの手を握ったまま離さず硬直したので、

ザクロが舫杭(もやくい)の固まった手を(ほど)いた。

 

「『有事協定』を抜けられる

 いいアイディアだと思ったのにぃ…。」

 

舫杭(もやくい)は涙を(こら)える。

 

「今度は魔術とかどうかな、ソーニャん。

 私、魔法陣描くから。」

 

「ありがと、ゆかりん。

 それなにか知らないけど。

 あたし、諦めないね!」

 

「まったくこりてないぞ、こいつら。」

 

「人形に八種の顔写真を貼りつけて、

 釘で打ち付けるのもいいらしいぞ。」

 

「亜光なに焚き付けてんだよ!」

 

「手芸部でユージくん人形を作ったら

 売れると思ったんだが。陰毛付きで。」

 

「作るな! 売るな! 陰毛植えるな!」

 

舫杭(もやくい)とザクロが友情を深め合う場面に、

混じった亜光を貴桜は怒鳴りつけた。

 

「八種くんはどうなの?

 『有事協定』。」

 

マオの言葉に教室中の視線が集まる。

 

急に嫌な汗が背中に湧いて、視界が(にご)(せば)まった。

まぶたを強く閉じて、深く息を吐いて決心する。

 

「僕の知らないところで、

 『有事協定』を決められて困ってました。

 同じクラスメイトなので、これからは

 普通に話しかけてください。」

 

恐る恐る目を開くとマオの顔が横目に見える。

 

イサムの言葉に、

教室内の淀んだ空気が一瞬で吹き飛ぶ。

 

その衝撃は廊下にまで走り、

学校全体に轟くには時間を要さなかった。

 

渦中(かちゅう)の存在であったイサム本人は、

意図してはいないもののその澄んだ声が

『有事協定』によって束縛された

クラスの女子たちを解放した。

 

「それって『有事協定』破棄ってこと?」

 

「よかったねぇ。」

 

舫杭(もやくい)とザクロに続いて、

クラスの女子たちもイサムの提案にざわつく。

 

手提げ袋の中の手紙を室内にばら撒く女子たち。

その光景をマオは怪訝(けげん)な顔で見つめる。

 

「ひょっとして…。」

 

ぼそぼそと喋るマオの言葉にイサムは耳を傾ける。

 

「送り主はクラスの女子全員じゃない?」

 

「いや、まさか?」

 

彼女の推察は想像しないものだった。

 

手紙の内容を読み上げられた

舫杭(もやくい)とザクロのふたりが実行犯と思っていた。

 

机に並べた手紙は全部で29通。

 

マオと男子3人を除けば、手紙の枚数は

クラスの女子の人数と一致する。

 

しかし不幸の手紙とは違い、

複数人に送り返すものではなかった。

 

29通が今日の朝には、

下駄箱に収められていた。

 

舫杭(もやくい)とザクロのふたりだけ

とは思えない封筒の量や、

統一された『宣誓書』の存在。

 

女子たち全員の喜びを見るに、

マオの推察は当てはまる。

 

「俺からの動物園土産は?」

 

「んなもん、どこでも買えんじゃねえか。」

 

「あ…。しまった…。」

 

「そっちは後悔するのね。」

 

「え…?」

 

瓶詰めの肉みそが入った手提げ袋を

恨めしそうに眺めるイサムだったが、

マオの言葉に心当たりを探した。

 

貴重な食料とわずかな残高が

イサムの脳裏をかすめたが、

今更袋だけ返して欲しいとは言い出せなかった。

 

3年生が取り決めたイサムへの『有事協定』は、

本人たっての希望によって破棄された。

 

けれどもイサム自ら女子に話しかける

勇気はまだなかった。

それは他の女子たちも同じままであった。

 

だがマオの懸念は別のところにあった。

 

亜光の説明通り、不幸の手紙と呼ばれる

児戯(じぎ)を相手にする必要はない。

騒動が風化するのを待てばいいに過ぎない。

 

それにも関わらずイサムは

周囲の求めに応じる形で、

『有事協定』を破棄した。

 

彼は愚かな選択をした。

 



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00-60:私の終わり

〈ALM〉が私の計画の障害になっている。

 

罪を犯せば〈キュベレー〉が駆けつけ、

〈更生局〉に連行され、隔離される。

 

自身も世話になったので、

存在自体は否定しない。

 

〈キュベレー〉はいまの人類にとって

なくてはならないパートナーだ。

 

〈ALM〉が生み出した〈キュベレー〉や、

〈更生局〉を出し抜く方法はないものか。

 

悩んでいた矢先に、不快な知らせが届く。

父の弟である叔父が〈更生局〉から出てきた。

 

40年ほど収容されていたところで、

私の財を目当てに、のこのことやってきた。

 

自分がなぜ〈更生局〉に収容されたか、

もう覚えてないのだろうか。

 

私の人生を狂わせた人物。

年老いた姿ではあったが昔の面影がある。

 

腐ったジャガイモのようなだ。

 

応接室に案内すると、叔父から発せられた

獣のような異臭に顔をしかめる。

しばらく風呂に入っていないのだろう。

 

「金を貸してくれ。」

「俺とお前の仲じゃないか。」

 

案の定、彼は私に生活費を求めてきた。

 

〈更生局〉が浮浪者を出すことはない。

当然ながら多少の支援を受けているはずである。

 

私が生活費を出さねばいけない社会的責任もない。

 

それで私に会いに来た理由は安易に想像がつく。

彼を罵倒(ばとう)して追い返すこともできる。

 

だが追い返そうとすれば、

過去のことを材料に私を脅しにかかる。

厚顔無恥(こうがんむち)にも程がある。

 

〈更生局〉も40年経って被害者との

接触までは想定していないのか。

 

加害者が男だからか、

それとも私の人格が問題なのか。

 

更正の内容とは収容年数だけで、

所詮は名ばかりだと実感した。

 

叔父がこのまま生きていたところで、

〈更生局〉に逆戻りだ。

彼の考えの浅さに頭を悩ませる。

 

しばらく考えて、

1ヶ月間の生活費を工面した。

 

それから〈ALM〉に申請し、

彼に〈キュベレー〉を手配した。

 

『多忙な私の代わりに。』

そう、身の毛がよだつメッセージを添えた。

 

生活支援のための機械人形を、

彼がどうするかは知らない。

 

彼が感情にまかせて〈キュベレー〉に

危害を加えるほど愚かではないはずだ。

 

それから半月経って叔父からメッセージが届いた。

 

内容は想像通り、私への罵倒(ばとう)

『餓死させるな。』との無心(むしん)だ。

 

(ただ)れた生活で放蕩三昧(ほうとうざんまい)であることは、

〈キュベレー〉からの報告でわかっていた。

老いてもなお殊勝(しゅしょう)な心がけをしている。

 

そこで私は追加でもう1ヶ月分の生活費と、

仕事になるであろう事を手配した。

 

まず口うるさい叔母を

金で黙らせ、面倒事を押し付けた。

 

叔母に会社を紹介されたにも関わらず、

叔父は顔も出さず、連絡もすっぽかした。

 

人には裏がある。

優しかった両親や、叔父にもあったように。

 

そうした反面教師を私も少しは見習い、

地下組織のひとつでも作っておけばよかった、

などとバカバカしい後悔をした。

 

私にはひと癖もふた癖もある人が集まる。

もちろん表では真っ当な商売をしている人だ。

 

しかし裏では後ろ指をさされる趣味で、

私の技術を買い求めたり、ときには自らの

趣味の売り込みに来るものが後をたたない。

 

金を持て余したよほどの暇人の趣味だ。

 

多数の理解を獲られないものは存在する。

代表的なもので言えば性癖だ。

 

恋人同士、夫婦間、仕事関係でもよい。

需要があるので商売にもなりやすいが、

そのぶん犯罪率も高い。

 

そうした裏の顔を持つ会社に、

叔父への接触をお願いした。

 

私が直接関わることはない。

裏の会社も自社の商品と依頼内容を送るだけ。

 

ひとつは服飾の会社だ。

叔父に似合う老人向けの服を

こしらえる会社などではない。

 

〈キュベレー〉専門の服を作っている。

 

機械人形相手に劣情を抱いてしまう、

趣味の人を対象に商売をしている。

 

私がその会社に要請したのは、

女子生徒の制服と肌着だった。

 

この服装で間近に行われる

品評会への出品を叔父に依頼させた。

 

〈キュベレー〉を経由せずとも、

彼が床を踏んで怒るのは想像がつく。

 

もうひとつの会社はさらに特殊だ。

 

動物の毛皮を服にすることは、

〈人類崩壊〉以前より行われていた。

 

人類が生き残るための知恵であり、

〈NYS〉の原型とも評されることもある。

 

その会社は毛皮を人の型に裁断し縫う。

 

要望に応じて毛を全て抜き、

人の皮膚に近い状態で納品も行う。

 

理解し難い性癖の持ち主ではあるが

技術は秀出(しゅうしゅつ)している。

 

このふたつの会社から

送り届けられた商品で、

叔父がなにをしようと勝手だ。

 

ただ彼の元にある〈キュベレー〉は、

当時の私と同じ小型のものを選んである。

 

突然の来訪から1ヶ月経ち、

叔父は律儀にも私の想定どおり

〈更生局〉に連行された。

 

叔父の末路には興味はなかったが、

それと同時にひとつの考えがまとまった。

 

私は人を観察した。

 

人も動物だ。

言語が使える分、動物よりもわかりやすい。

 

時間はかかるが金はある。

 

〈ALM〉や〈キュベレー〉に依頼しても、

家族でない他人の秘密など教えてはくれない。

 

そこで複数の調査会社に依頼して、

段階的に情報を入手させる。

 

住所、名前、年齢、家族構成など

単純なものは簡単に取得できる。

 

そこから掘り下げるには、

親会社が子会社へと調査を依頼する。

 

秘密の取得は趣味を超え、

ストーカー行為に等しい。

 

極力〈更生局〉に関わらない為、

リスクの分散には大勢の調査員が必要だった。

 

仕事、趣味や日常の行動、交友関係、

それから性癖などを(つまび)らかにする。

 

調査の対象は誰でもよかった。

 

調査員が調査数を水増しするために

自分や自分の家族の情報を売るのもよく、

架空の情報をでっちあげても構わなかった。

 

真偽は重要ではない。

 

誰かが加害者になるでも、

被害が生じない方法を探った。

 

素質の有りそうな人がいれば

それが一番だが、叔父を釣るより複雑だ。

 

私の目的には偶発(ぐうはつ)性が求められるからだ。

 

落とし穴を作ってはいけない。

この原則を絶対とする。

 

いくつかの目標を商品と考え、

要素となる原材料を無作為に投げ込む。

 

穴を掘る道具、穴の掘り方、穴の隠し方。

大事なことは目的と手段と方法を分解し、

必ずひとつの群れにばら撒く。

 

他者を落とす為に穴を掘らせては、

自らが落ちる結果になる。

それでは本末転倒だ。

 

それぞれの情報が伝播しあい、

運がよければ落とし穴が完成する。

 

落とし穴でなくてもよい。

皆で高い塔を作らせ、太陽に届けばよい。

私でなくてもよい。

 

私はいつしか自分の足で

歩くことさえままならなくなっていた。

 

足は痩せ細り、手は風に吹かれた

枯れ枝のように揺れて覚束ない。

 

それでもまだ調査をやめさせなかった。

偶然が芽吹いたのはいつ頃か。

 

小さな集団からひとりの指導者を生み出し、

多くの人を集めるように呼びかける。

 

美貌(びぼう)や知性、または巧みな話術を利用して、

大勢の人に(あが)められる存在になる。

 

人の煽動(せんどう)は禁じられ、

多くの関係者が〈更生局〉に連行された。

 

しかし私が〈更生局〉に

連行されるには至らなかった。

 

人々の異変に〈ALM〉が気づくまで、

私の死から60年が過ぎていた。

 



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0.2:砂漠にライオン
02-01:教室の来訪者


――あなた達は16歳になれば、

〈3S〉によって顔や体を

変更する権利が得られます――。

 

教壇に立つ〈キュベレー〉が講義を行う。

その声は中性的で話し方は淡々としている。

 

(ひたい)第3の目(サーディ)を持つ

〈キュベレー〉は常に正面を見つめ、

生徒を観察する。

 

〈キュベレー〉背後のディスプレイには、

講義の進行具合に応じて動画が流れる。

 

イサムは机に置いた教則を睨んで頭を抱えていた。

 

〈キュベレー〉の声が頭に響く。

 

――本校では既に〈ニース〉になっている

生徒も少なくはありません。

 

若くして身体に劣等感を抱くヒトも、

運動力の劣るヒトも、名府では

どのようなヒトであっても平等に

〈NYS〉の技術を享受できます。

 

事故によるケガや、病気で手足を失ったヒトも、

筋肉の衰えなどで障害を持つヒトでも、

肉体の回復に用いられる技術が〈NYS〉です。

 

差別は減り、〈ニース〉とそうではない

〈レガシー〉に区別される時代になりました。

 

新たな時代を築いたこの〈NYS〉ですが、

ふたつのことに気をつけなければいけません。

 

〈ニース〉を使い体型を変えたとき、

脳への負担が一時的に増し、目線の高さ、

手足の距離感覚に脳が違和感を覚え、

体調不良を引き起こす場合が多くあります。

 

脳はすぐに順応することはできません。

 

肉体の成長と同じように少しずつ変化をさせ、

時間をかけて馴染ませる必要があります。

 

もうひとつ注意しなければならないこと、

それは〈ニース〉が引き起こす乱暴性です。

 

たとえば自動車の運転手は、車という乗り物に

金属の鎧をまとった気分で気性が荒くなるなど、

感情に流されやすくなります。

 

同じように〈ニース〉で体格を変化させたヒトは、

自分が強くなったと錯覚します。

 

精神が未成熟であれば誘惑も多くなります。

 

肉体と脳の不一致、感情の制御。

このふたつは〈ニース〉症とも呼ばれています。

 

あなた達が現在、もしくは今後〈3S〉で

外見や身体を変更した場合、我が校の生徒として

社会に恥じない行動をしてください。

 

この名桜(めいおう)市では現在、月に十数人の〈ニース〉が

〈更生局〉によって隔離されています。

 

残念ながらその中には

我が校の生徒、新入生も含まれます。

 

あなた達がヒトの道を踏み外さないことを

我々は願います――。

 

〈キュベレー〉の言葉に反応して

ディスプレイは消え、講義は終わりに見えたが

表示が切り替わったに過ぎなかった。

 

――なお転府(てんふ)から移住した生徒には、

放課後にテストが控えています。

 

合格基準を満たさない場合は

休日の外出の禁止など、

校則により規制がかかります。――。

 

移住者として該当するイサムは、

講義への集中を欠いていた。

 

両のこめかみを指で抑えたり、

頭皮を指先で揉みほぐして唸り声を上げる。

 

「なぁにやってんだ?」

 

前の席で背も座高も高い貴桜(きお)大介《だいすけ》が、

自分の後ろで怪訝な顔をするイサムにささやく。

 

イサムが正面に目をやる度に

彼の逆だった金髪が視界を邪魔する。

 

「朝からちょっと頭が痛い。」

 

鬱蒼とする頭髪を片手で抑えて揉み、

血行をよくして頭痛を緩和できる。

 

民間療法に頼ってみたイサムであったが、

眉間のシワがほどけはしなかった。

 

講義が終わってもなお机に突っ伏して、

冷えた机に熱を帯びた額を押し付ける。

 

「おーい、昼だぞ。」

 

丸くふくよかな男子生徒、亜光(あこう)百花(ひゃっか)

メガネをかけ直すいつもの仕草で寄ってきた。

 

男子生徒が1割しかいないこの学校では、

イサム達は肩身の狭い思いをしている。

 

その為に昼食やトイレなど移動の際には、

3人揃って行動をともにする。

 

だが今日に限っては頭痛が酷く、

イサムは移動さえも拒んだ。

 

「頭が痛いんだとよ。頭痛だと思うぜ。」

 

「当たり前だろ。なに言ってんだ。」

 

「静にしてくれ。僕は寝てるから

 今日はふたりだけで行ってくれ。」

 

普段の食事は東の別館にある、

カフェテリアで取る。

 

学生向けの理にかなった値段で、

懐貧しいイサムでも毎日通える場所だった。

 

しかし今日のような残高では、

軽食を注文することさえ厳しい。

そう考えると頭痛はさらに強まった。

 

「わかったけど、お土産はないぞ。」

 

「2人前食うもんな、お前。」

 

「残念ながら今日から俺はダイエットだ。

 なので大盛りで済ませる。」

 

「…変わってないんじゃないかなぁ。」

 

「もしアレなようなら医務室行けよ。」

 

亜光の提案にイサムは突っ伏して

唸り声で返事を済ませた。

 

亜光の前の席では赤髪を真ん中に分けた

長身の海神宮(わたつみのみや)真央(まお)も、机の上の教則を片付けて

教室を出た。

 

「ねぇ。あなた。」

 

マオは目に痛いピンク色の髪をした

女子生徒に呼びかけられた。

 

長身のマオに比べ、相手の背はやや高い。

胸につけた青色の校章バッジを見ると、

上の学年の3年生であった。

 

ピンク色の長い髪を太いみつ編みにして

青白い小さな目と、小さな鼻、色づく唇と細い顎。

 

いずれも綺麗な顔のつくりで、

マオは違和感に目を細める。

 

「なんですか?」

 

「ゆ…えーとぉ、

 八種(やくさ)(いさむ)くんってぇこのクラスよねぇ。」

 

やや間延びした甘ったるい喋りの女子生徒が

マオ越しに教室内で眠りこけるイサムを見た。

 

「勇くんのぉお姉さんが、

 学校に来てるから、駐車場んとこまで

 呼び出して欲しいんだけどぉ?」

 

「質問よろしいですか?」

 

「はぁ? 質問とかいいから

 さっさと呼んできなよ。」

 

「なぜお姉さんは学校を経由せずに

 先輩を遣わせたんですか?」

 

苛立ちを抑えて両腕をぎこちなく組む。

 

「ユージくんのお姉さんて、

 ここの卒業生で有名なモデルなのよ。

 あんた、んなことをも知らないのぉ?

 そんな人が呼んだら大騒ぎでしょ。」

 

イサムの呼称がころころと変わる。

それでもマオは静かにうなずいた。

 

「わかりました。

 嘘ではないんですよね?」

 

「わかったんならさっさと呼びなよ。

 ブスロブスター。」

 

苛立ちをあらわにする〈ニース〉の生徒に

マオは釈然としないあだ名で呼ばれ、

自らの赤髪を撫でてため息をつく。

 

仕方なしに(きびす)を返し、

イサムの席に向かった。

 

頭痛でうなされる彼の肩を

指先で軽く叩いて起こす。

 

「八種くん。起きて。」

 

寝ぼけ眼を確認して、

マオは廊下に向かって指差した。

 

しかし〈ニース〉の生徒は

先程までいた場所におらず、

廊下まで戻って姿を探した。

 

「なにかあったんですか?」

 

「ブスロブスターってあだ名は

 どうかと思うの。」

 

脈絡のなく不機嫌そうなマオの言葉は、

イサムの眉間に深いシワを刻んだ。

 



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02-02:彼女はそれを『魔人』と呼んだ

マオから見ず知らずの先輩を経由して、

イサムは駐車場まで呼び出された。

 

そんな面倒事と頭痛に()えながら、

裏門にあたる来客者用の駐車場に辿り着いた。

 

だがイサムは姉からの呼び出しを

無下にはできなかった。

 

駐車場は保護者の送り迎えでもなければ、

生徒が昼休みに利用する場所ではない。

 

車の出入りもなければ、

車も停まっていない殺風景な場所。

 

姉の姿を探し、駐車場を一周したが

それらしき姿は見えず、コンクリートの

輪止めに乗って背伸びもした。

 

頭痛で頭が回らなかったが、

個人端末(フリップ)〉で姉にメッセージを入れてみても

反応はなかった。

 

ついでに残高を再度確認する。

 

トースト代が引かれてから

残高は増えてはいない。

一番の頭痛の種がこれだった。

 

「頼むよ、ハルカさん…。」

 

今日振り込みがなければ

晩御飯もなしになる。

 

せめて亜光から貰った肉みそが

手元にあればよかったが、

クラスメイトに渡してしまい

取り返すことは難しかった。

 

悔やめば悔やむほどに頭は痛い。

 

頭皮を揉み、頭痛の緩和を試みる。

立っても歩いても、じっとしていても

頭痛はいっこうに治まりを見せず、

背中に冷たいものが走り身震いする。

 

途方に暮れてこのまま帰宅を考えたとき、

姉らしき姿を目の端に(とら)えた。

 

目を細めてその姿を凝視したが、

それは姉とは似ても似つかない人物だった。

そもそも姉が制服姿で校内をうろつくはずもない。

 

名府は『聖礼(せいれい)ブーム』の影響で、

転府、聖礼(せいれい)市の芸能人やモデルをコピーする

〈デザイナー〉が街にあふれている。

 

個人端末(フリップ)〉で〈個体の走査(スキャン)〉をしても、

イサムの知らない人物だった。

 

「誰…ですか?」

 

「あれぇ、やっぱきょうだいだとわかるのぉ?」

 

女子生徒のやや濁った声質や間延びした口調が、

明確に姉とは異なっている。

 

マオが〈3S〉にいた〈ニース〉のことを、

魔人や魔女などと形容したその意味を実感する。

 

『ヒトを惑わすもの。ヒトを害するもの。』

 

青色の校章バッジで彼女が3年生だとわかる。

 

イサムの知る姉、ハルカは厳格な人物だった。

 

この学校に入れるために勉強を強いて、

ひとり暮らしになってもそれは変わらない。

 

無駄な買い物は許さず、月曜は朝食までも

名桜(めいおう)カフェ』での外食を指定し徹底した。

 

姉はモデルという職業柄、

ピンク等の奇抜な髪色をすることもあるが――。

 

卒業生であっても、制服を着て訪問するような

享楽的な性格の人間とは思えない。

 

この先輩は姉のパーツを寄せ集めた顔をしている。

 

〈3S〉によって他人の外見を

いくらそっくりにできたところで、

皮を被ったような違和感は拭えない。

 

足の開き方や、背中の曲がった立ち姿が

特に強い違和感を与える。

 

この先輩は明らかに〈ニース〉であり、

姉を模して日の浅い〈デザイナー〉。

 

厚く塗られたファンデーション。

粘膜に粘りつく甘いニオイの香水。

 

それから、鼻を突く獣臭が混じって、

イサムは耐えきれず咳き込んだ。

 

「ケイ!」

 

振り向くとそこにはライオンがいた。

 

正しくはライオン頭に

詰め襟の制服を着崩した生徒。

 

獣臭の正体はこのライオンだった。

 

「自己紹介しとくね。

 アタシ、荒涼(こうりょう)(じゅん)。」

 

一十(いとお)(けい)だ。」

 

ライオン頭が人間の言葉で喋った。

 

目も鼻も口もライオンだが、

異形の頭でも声帯を含む発声器官は

〈ニース〉の制約がかかる。

 

『ヒトの形の範疇(カテゴリ)であること。』

 

胸元まで大胆に着崩した制服。

赤色のシャツからでも見える大きな筋肉の塊。

 

一十(いとお)は〈NYS〉の技術によって

頭部を変化させた〈デザイナー〉であると共に、

肉体は筋肉を増加させた〈パフォーマー〉の

いわゆる〈ハイブリッド〉であった。

 

「ユージくん

 『有事協定』拒否ったってホントぉ?」

 

「はい…。」

 

首肯してからイサムは首をかしげる。

荒涼の質問の意図を読み取れなかった。

 

『有事協定』は元芸能人であるイサムに対し、

不純異性交遊の禁止を呼びかけた校則の別称。

 

警戒心が高くなった女子生徒たちのおかげで、

教室内でイサムたち男子は孤立していた。

 

イサムへの接触を禁じられたことで

一部の女子生徒らが反発心を懐き、

今朝(けさ)方、不可解な行動に出た為に

イサム自ら勝手な決め事の破棄を申し出た。

 

それが昼休みの今になって

3年生にまで広まっている。

 

女子たちの伝播力は恐ろしくもあり

感心さえもするところだ。

 

「ユージくんってさぁ。

 芸能人のあのユージくんだよねぇ。」

 

「はぁ…。元ですけど。」

 

「『SPYNG』にもいただろ?」

 

「ちが…いや…まあそう、ですが…。」

 

歌手活動をしていたころの

ユニット名は現在とは異なる。

 

否定と肯定が混じったあいまいな返答に、

隈取られた金色の目がイサムを睨む。

 

「ユージくんさぁ。

 ジュンと付き合ってよ。」

 

「オレたち友達になろうぜ。」

 

香水臭い女と獣臭い男の板挟みになり、

ふたりの要求が理解できずに顔をしかめた。

 

「え? どうしてですか。」

 

「付き合うのに理由っているぅ?

 知りたいから付き合うんじゃん。

 お互いの相性ってやつ。」

 

「女に恥かかすんじゃねぇよ。ボケ。」

 

一十(いとお)に肩を強く叩かれた。

 

稽古で顔以外を叩かれるのは何度か経験がある。

痛みに対し顔で不満を示すことしかできなかった。

 

「ユージくんってひとり暮らしなんだよねぇ。

 今日学校終わったら遊びに行っていい?

 ねぇ。もちろんいいよね。」

 

「え!」

 

唐突な要求は度を越して、

イサムは驚き声を上げた。

 

一十(いとお)が今度は腹を強く小突く。

頭と腹の痛みに声も出せないままひざまずいた。

 

ふたりの理由と目的はわかったが、

もはや手遅れだった。

 

「帰り、教室まで迎えに行くから待ってろよ。

 逃げんじゃねえぞ。ユージくん。」

 

一十(いとお)がしゃがむイサムに肩を寄せ、

彼の毛深いタテガミが圧をかける。

 

「わかったよな?」

 

一十(いとお)に髪の毛を捕まれ、

強制的に首を縦に振る。

 

「素直でよろしぃ。いい子いい子。」

 

それから荒涼はイサムの頭を平手で叩いて、

満足したのか去っていった。

 

去りゆく荒涼の耳障りな高笑いを聞いて、

言い知れぬ気持ち悪さが喉から湧き上がる。

 

イサムの頭痛はピークに達すると、

平衡感覚を失いその場に倒れた。

 

排水桝(はいすいます)のグレーチングに、

淡黄色の胃液を吐き出した。

 

グレーチングに残る胃液の跡を見て、

頭痛に目から入る光さえも苦痛になり

まぶたを強く閉じても視界は真っ白に変わる。

 

脈打つような頭痛はやがて意識を奪い、

イサムはその場で寝入ってしまった。

 

 



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02-03:ふたりの昼食時間

まぶたに透ける光に意識を取り戻し、

香ばしいニオイに鼻腔をくすぐられて

頭と腹が空腹を同時に訴える。

 

冷たいコンクリートの上ではあったが、

黒の詰め襟に暖かな日差しを浴びていて

背中にじっとりと汗をかいていた。

 

頭痛は未だに止む気配はないが、

寝てもいられなくなり無理矢理に目をこじ開ける。

 

「おはよう。八種くん。」

 

真正面には燃えるような赤髪の女子生徒、

マオが弁当を食べていた。

 

焼き鮭の皮をジッと見て、

咀嚼しながら食感に首を傾げる。

 

「どうして、こんなところで…。」

 

締め付ける頭の痛みに苛まれ、

眉間にシワ寄せ声を絞る。

 

「お弁当を持ってきたから。

 日当たりもいいし、ヒトも少ないもの。」

 

頭痛が言葉を妨げる。

 

「放置してもよかったんだけど。」

 

鮭の切り身を箸で切り分け、

白米と共に頬張る。

 

困窮するイサムはマオの食事姿を羨ましく思うも、

口の中に残った胃酸に気持ち悪さを覚えた。

 

「あの先輩。八種くんのお姉さんが

 来ていると嘘をついて呼び出したのは、

 気づいてたからね。」

 

「えぇ…なんで…?」

 

磯辺揚げを食べてうなずく。

イサムは彼女の額。その絆創膏を見た。

 

「それで心が読めるんですか?」

 

「これにそんな機能ないわよ。」

 

駐車場の出入り口に

メイド服の〈キュベレー〉が佇む。

 

3つの目でイサムを見つめている。

 

「有名人だからって

 わざわざ3年生を経由するより、

 〈個人端末(フリップ)〉か学校内の〈キュベレー〉を

 使えば済むでしょ。」

 

「たしかに…そうですけど…。」

 

個人端末(フリップ)〉を使うことは、

イサムも後になって気づいた。

 

海神宮(わたつみのみや)さんはどうしてそれを早く

 教えてくれなかったんですか?」

 

処世術(しょせいじゅつ)ね。

 学校という小さな社会で

 上級生相手に逆らっても面倒だし、

 それにメリットないもの。」

 

イサムは言葉を失った。

マオが至極真っ当な考えであったからだ。

 

中学校もまともに通っていないイサムには、

役者として自分の役を演じる以外の処世術など

持ち合わせてはいなかった。

 

その伝言役が役目を果たさないのであれば、

理不尽にも彼女が責任を負う羽目になる。

 

男子生徒が呼び出される程度で、

波風を立ててもいいことはない。

 

「私を騙したのは気に食わないけど。

 はい、これお詫び。」

 

マオはひとくちサイズに切った

だし巻き卵を箸で(つま)んでイサムに向けた。

 

そのイタズラな行動を受け入れられず

イサムは小さく首を横に振る。

 

頭痛のせいか、詫びる態度が気に入らないのか、

イサムはなにかひどく苛ついているのを感じた。

 

「あら、ダイエット中?」

 

「頭が痛いんですよ。」

 

「それならなおのこと、

 こんなとこで寝てないで

 ご飯食べてお薬飲んで医務室行けば?

 連れてってあげよか?」

 

「イヤだ!」

 

マオが目を見開くほどイサムは大声を発し、

幼い子供の癇癪のように拒絶した。

 

「病人の癖にわがままね。

 ヒトってお腹が空いてると、

 怒りっぽくなるのよ。

 それならこれあげる。

 そのままじゃ気持ち悪いでしょ。」

 

水筒の中身をコップに注いで差し出した。

 

それはただの水だった。

口の中を洗い流す為にマオが手渡した。

 

受け取ったコップの水面を眺めて、

イサムは眠りこける前の事を思い出し、

深くため息を吐いてしまった。

 

「お悩みごとかしら?

 今度は思春期ね。忙しい。」

 

「わかってて聞いてるでしょう。それ。」

 

「だって私は部外者なんだもの。」

 

愉快そうに首を横に振るマオに、

イサムは再びため息を吐いた。

 

「突然知らない人たちから

 わけもわからず大量の手紙を渡されたり、

 変な決め事が勝手にできていて、

 それがなくなれば今度はいきなり

 交際だの交友だの求められてですよ。」

 

「まぁ見事に青春って感じね。ふふ。

 でも協定を拒んだのは八種くんでしょ。」

 

「笑い事じゃありませんよ。

 上級生の相手なんて。」

 

「同級生のお友達はよくて、

 上級生のは嫌なの?」

 

「僕だって役者ですから、元。

 相手に合わせる努力はしましたよ。

 それは仕事なんで。」

 

「理由はもう役者を辞めたから?

 お仕事じゃないから?」

 

なだめるようなマオの質問に

イサムは一度は首肯したものの、

すぐに首を横に振り異なる回答をした。

 

「仮に相手に合わせたところで、

 そんなの破綻するに決まってるんです。」

 

「デートして、セックスして、さらに子育て。

 なんてことになったら大変よね。

 まだ学生なのに。

 育児なら〈キュベレー〉にでも託す?」

 

「セッ…。」

 

明け透けなマオの発言に恥ずかしくなり

イサムは耳を赤くした。

 

「それにしたって、ぼんやりした答え。」

 

「ぼんやり?」

 

「判然としない。すごく言い訳がましい。

 嫌なら嫌ってさっき見たいに言えばいいのよ。

 医務室行く?」

 

「…行きません。

 そうは言いますけど…。」

 

「それなら私からのありがたいお言葉。」

 

「自分で言わないもんですよ。そういうの。」

 

「じゃあやめる。」

 

彼女の潔さに、

コップの水を飲み干して(あき)れるほかなかった。

 

荒涼も一十(いとお)も無視して帰ってしまおう。

学校に来ることさえも嫌気が差し始めた。

 

問題は残高ぐらいだ。

 

気だるさで視界がまた暗くなるのを覚えた。

 

「亜光くんや貴桜くんとは、どうして友達なの?

 同じ学校の、同じ教室で同じ性別だから?

 蔑称(べっしょう)で呼び合うのは友達じゃないんでしょ。

 お土産が貰えれば、それはお友達?」

 

滝のように浴びせられた質問に

ギョッとさせられ顔を上げた。

そんなことを考えたこともなかった。

 

「付き合いが長くなければいけない?

 それとも短い方が気兼ねがない?

 自分の過去を知らない相手だから。

 自分を演じれば、相手を(ぎょ)しやすい?

 相手の言う通りのが自分を演じやすい?

 友達というものを一度言葉で説明すべきよ。

 たとえば水を分け与えた私は、

 八種くんにとって…給水所?」

 

亜光や貴桜といったクラスメイトを、

友達とは明確に言葉で表わせないと思っていた。

 

しかし、卑しい言い方をしてしまえば、

彼女の言葉の通りなのかもしれない。

 

「交友関係なんて簡単な駆け引きよ。」

 

「そんなに割り切れませんって。」

 

「八種くんが欲しがってる

 このミートボールを私があげたとする。」

 

「別にミートボールが欲しいわけでは…。」

 

問答の途中で、先程の疑問が吹き飛ぶ。

それは彼女がよく口にする言葉だった。

 

「それがメリット?」

 

「その通り。」

 

言うが早いかイサムの口に

ミートボールがねじ込まれた。

 

ケチャップソースのほのかな酸っぱさと

肉汁が口内に広がり、胃液の不快感は

さっぱりと消えてしまった。

 

彼女の行動原理はまずメリットがあること。

 

もしくは、不幸の手紙のときのような

好奇心にあるのかもしれない。

 

「ヒト付き合いなんて、

 お互いのメリットの上で成り立つわ。

 運動が得意な子、容姿、体型、

 自分にないものを羨み、また妬む。

 名府にはそうした願望を緩和する

 〈3S〉が用意されている。

 けれどお金を生み出すことや、

 勉強ができる賢さ、それから名声なんかの

 欲は満たされない。

 それを友達や愛って言葉でぼかしてるだけ。

 あと性欲とかね。」

 

モデル同然の容姿を得た〈ニース〉であっても、

マオの言う通り、獲られないものがある。

 

「性…。

 もう少しぼかして言えないんですか。」

 

マオはイサムの言葉など無視し、

最後に残したミートボールに舌鼓を打った。

 

「八種くんも、もう少し

 自分に正直に生きた方が楽よ。

 私からのありがたい言葉。」

 

彼女との問答には疲労感を覚える。

 

水のお礼を言って立ち上がったが、

不思議と吐き気と頭痛は治まりを見せていた。

 



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02-04:鼻血の原因

「亜光は今日部活?

 八種ん()行く?」

 

「なんで貴桜が仕切るんだよ。

 んで、体調どう?

 今日移住者はテストだろ。」

 

イサムは黙ってうなずいた。

 

昼休みに寝ていたおかげで

頭痛は治まったが、

頭を悩ませる原因は取り除けていない。

 

3年生の荒涼(こうりょう)(じゅん)がイサムに交際を求め、

ライオン頭の一十(いとお)(けい)が教室にまで

出迎えに来る予定になっている。

 

それから亜光の言う通り、

イサムには移住者のテストが控えていた。

 

口を開いたが、言葉を選び悩んだ挙げ句に

なにも言えずにいたところにマオと目があった。

 

彼女は鞄を持って帰る様子であったが、

口元が笑っていた。

 

「八種くん。

 テスト終わったら帰ってもいいわよ。

 嘘ついて呼び出した例の3年生の件は、

 私から話しておくわ。」

 

「は?」

 

「なにが?」

 

「3年となんかあったん?」

 

「ふふ。」

 

マオはイサムと3年生の事情を知っており、

荒涼が自分に嘘とついたことを根に持っていた。

 

教室を出ていくマオを、男子3人のみならず、

残っていた女子全員の視線を背中に浴びる。

 

イサムは口を開けて(ほう)けたまま、

目だけで亜光と貴桜の顔を見た。

 

――――――――――――――――――――

 

荒涼のいる3年の教室は3階にある。

 

長身に燃えるような赤い髪が、

教室に残っていた生徒らの注目を集めた。

 

教壇から室内を見回して、

座席を横に座って足を組む

ひとりの生徒を指差した。

 

蛍光ピンク髪の〈ニース〉。荒涼(こうりょう)潤。

その隣にはライオン頭の一十(いとお)圭が立つ。

 

海神宮(わたつみのみや)の…。」

 

周囲の女子生徒らがマオの姿にささやく。

 

海神宮(わたつみのみや)家の御令嬢。

海神宮(わたつみのみや)真央(まお)を知らない人間はいない。

 

「荒涼さん。

 私に嘘をつきましたね。」

 

「あんたダレよ。

 先輩に向かって勝手シャベって、

 まずはアンタが名乗りな。」

 

「1年の海神宮(わたつみのみや)真央(まお)です。

 昼休みに教室で

 貴女がブスロブスターと罵った相手です。」

 

「どこにんな証拠があんだよ?」

 

荒涼は年下であるマオに

指をさされ、見下されたことで

侮辱を受けて苛立ちをあらわにした。

 

「いいから。」

 

前に立とうとした一十(いとお)を制止させる。

無礼な同性の年下に対して荒涼は、

(しつけ)のように命令し従える。

 

「ライオン頭は飾りかしら?

 ここでは女子のが偉いのね。」

 

「ひとりで乗り込んできて、

 あんた頭湧いてんじゃない?」

 

「貴女が事実を認めないのであれば、

 〈更生局〉を通じて隔離も可能です。」

 

「脅してるつもり? 笑わせるわぁ。

 それこそあんたが〈更生局〉行きじゃない。」

 

「脅しではありません、警告です。

 貴女と冗談を交わすメリットがありません。」

 

「しつこい。あんた、〈更生局〉の

 〈キュベレー〉でもなったつもり?

 それとも自分の思い通りになんなきゃ

 気が済まないワガママちゃん?」

 

荒涼はマオを睨んだが、

すました顔で少し目を反らして息をつく。

 

「私を〈キュベレー〉と呼ぶのは、

 なかなか面白い冗談ですね。」

 

そうは言っても笑わないマオに、

荒涼はさらに苛立って立ち上がった。

 

「もう冗談は済みましたか?」

 

「ユージくん迎え行くから、そこどいて!」

 

謝罪を求めていたはずのマオであったが、

荒涼から頂いたのは平手の突き飛ばしだった。

 

胸を力強く押されバランスを失ったところに、

荒涼が足を引っかけて床に尻もちをつかせた。

 

扉に後頭部をぶつけて座るマオの姿を

見下ろして、気分が高揚した荒涼は笑った。

 

マオは彼女の行為の愚かさに呆気(あっけ)に取られ、

見上げながらしばたたくのであった。

 

海神宮(わたつみのみや)さん?」

 

イサムが現れたのは丁度そのときだった。

 

荒涼と目があった。

 

口元は笑っているが、怯えて見えた。

アタシじゃない、と目で訴える。

 

「ユージくん。会いに来てくれたんだぁ。

 ジュンが迎えに行ったのにー。」

 

声音を高く変えて、甘えた演技で喋ると、

イサムの手首を抑える形で両手で握る。

 

だがイサムは握られるすんでのところで

荒涼の手を素早く振り払った。

 

「は? ちょっ、なに?

 あ、照れちゃってる~。」

 

表情がころころと変わる。

彼女は演技が未熟だとイサムは思う。

 

「すみません。

 あの、名前、覚えてませんけど、

 僕はあなたと付き合うつもりありません。」

 

「はぁ? ジュンとの約束もう忘れたの?

 今日家まで遊びに行くって言ったじゃん。」

 

高い声音を維持したまま苛立ちをあらわにし、

荒涼はイサムを言い聞かせようと

今度は足先を力強く踏みつけた。

 

だがそれよりも早くイサムは足を(かわ)す。

 

「嘘の呼び出しで僕をダマすのは、

 まあ…まだいいですが、姉の格好を

 マネる人の、支配欲の道具に扱われるのは

 気分がよくないです。」

 

思っていたことを口に出してみたが、

不満を溜め込んだままの気持ち悪さがまだ残る。

 

「ジュンの容姿がイヤなの?

 そんなの〈3S〉で変えてあげるし。

 どーいうのが好みなのか教えてよ。

 アタシ言ったじゃん。

 付き合うってそういうことでしょ。

 道具扱いじゃないし、ワケわかんないし。

 いいじゃん、1回ぐらい付き合っても。

 お互いの相性の確認ってやつ?

 元芸能人てそんなにお高く止まってるの?」

 

大げさな身振り手振りでまくしたてる荒涼に、

イサムは次の言葉を失った。

 

相手はイサムを見ていない。

まるで幻想を追っている。

 

教室から集まる視線が気持ち悪い。

視界が急激に暗くなり狭まる。

 

この教室で求められているものは、

みんなが知っている役者の『ユージ』だった。

 

自分なりに荒涼を拒絶しているつもりでも、

この舞台に『イサム』は存在しなかった。

 

荒涼の後ろでは巨木のように一十(いとお)が立つ。

 

イサムはそれを見上げて生唾を飲み込んだ。

それから荒涼と向き合う。

胸元で腕を組んで睨みつけている。

 

無関係であるはずのマオがまた押し倒されたり、

これ以上の害が及ばない為に

なにか方法がないかを考えた。

 

処世術というやつを。

 

思い浮かんだのは後ろの彼女の顔だった。

それからイサムはため息を吐いた。

 

「はっきり言います。

 僕は、あんたとセックスなんてしたくない!」

 

一瞬の静寂の後、吹き出したのはマオであった。

それに続いて教室に残った女子生徒たちも笑った。

 

侮辱(ぶじょく)を受けた荒涼は顔を紅潮させ、

イサムの頬を平手打ちしようとした瞬間、

割って入った一十(いとお)の拳が鼻を打った。

 

荒涼を嘲笑していた女子生徒らはサッと静まり、

中には小さく悲鳴を上げる。

 

イサムは鼻の中を切り、

一滴、また一滴と鼻血を床にこぼす。

 

淡黄色の床に落ちる赤い血を見つめた。

 



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02-05:『変』な少年

こぼれる鼻血にハンカチで鼻を押さえる。

 

怒り心頭に発して睨みつける一十(いとお)だが、

イサムは殴られたことに対して臆さない。

 

胸のすく思いすら感じていた。

 

割り込まれた荒涼は驚いたまま

平手が行き場を見失っていた。

 

「チョーシに乗んなよ、1年。」

 

一十(いとお)が拳を固く握りしめると緊張が走る。

 

彼はライオン頭の〈デザイナー〉であると同時に、

肉体を変更した〈パフォーマー〉であり

〈ハイブリッド〉と呼ばれる〈ニース〉だ。

 

〈NYS〉の技術で身体能力を向上させた

〈ニース〉の呼称であるが、

肉体を使った仕事に就くことが多い分、

損傷も多くあるが、皆それをいとわない。

 

故障や破壊や欠損さえも

〈3S〉で修復が可能となっている。

 

自分の発言が引き起こした報いだったが、

血に染まったことはさほど気にならなかった。

 

さらに血の出ていない鼻の穴を抑え、

吸い込んだ鼻血を吹き出した。

 

胸のつかえが下りて気分がよい。

興奮状態なのかもしれない。

 

鼻血が香水と獣臭さを抑えてくれる。

目の前に立つライオン頭を見上げる。

 

丁度、亜光と貴桜を足したような大きさだった。

 

「先輩だって…

 ちょっと早く生まれただけでしょう。」

 

一十(いとお)荒涼(こうりょう)を押しのけると、

再び右の拳がイサムの眼前へと迫った。

 

拳が頬に触れる瞬間にイサムは

半歩外側に避けて制服の肘を掴むと

勢いのまま前方へと引っ張った。

 

攻撃対象のイサムを失った一十(いとお)の拳は、

上体ごと床に倒れる事態を回避すべく

とっさに右足を前に出した。

 

見抜いてイサムは一十(いとお)の足を引っかけた。

 

獣がうめき声を上げて床に倒れたところを、

イサムは飛び乗って背中にまたがる。

 

左腕を左足で押え

右脇から右腕を潜り込ませると、

イサムは両腕で一十(いとお)の首を締め付けた。

 

一十(いとお)はその拘束から抜け出すべく

足や膝でもがき、締め付けられる

右腕でイサムの顔を力なく殴った。

 

拳が当たった先はまた鼻で、

今度は反対の鼻腔から血が湧き出す。

 

「ちょっ、なにしてんのチビ!

 ケイから離れなって!」

 

うつ伏せに倒された一十(いとお)に加担して、

荒涼がイサムの背中を平手で叩いたものの、

リズムよく乾いた音が教室に響いたに過ぎない。

 

イサムはこれ以上顔を殴られないために、

一十(いとお)のライオン頭のタテガミに顔を埋める。

 

息を吸い上げようにも、

鼻血が喉に貯まり咳き込む。

 

今度はタテガミから発せられた獣臭に当てられ、

鼻水と唾液混じりの血を吐き出した。

 

暴れる一十(いとお)を抑えるために

イサムは自らの両手を握り、

前腕で相手の喉をさらに強く押さえた。

 

一十(いとお)からの抵抗がなくなるとやがて、

張り詰めている肩の筋肉が緩むのが腕に伝わる。

 

イサムは一十(いとお)を床に眠らせ、

立ち上がってまともな空気を吸った。

 

鼻から顎まで顔は血まみれになっていた。

 

寝転がった一十(いとお)のタテガミの一部が、

見事なまでに赤く染まっている。

 

荒涼はなおも背中を叩き続けたが、

鼻血を吹き出すイサムの赤い顔に

小さく首を横に振ってその手を止めた。

 

マオはイサムの肩に手をやると、

後ろに押しのけて荒涼の前に立つ。

 

「それで荒涼さん。

 ブスロブスターってあだ名、

 訂正してもらえますか?」

 

「それ、気にしてたんだ…。」

 

思わず鼻で笑うと、

固まった鼻血の塊がすっぽ抜けた。

 

――――――――――――――――――――

 

透明な水は朱に染まると、

排水口へと吸い込まれていく。

 

イサムが手洗い場で血に汚れた顔を洗い、

鉄の味が残った口をうがいした。

 

女子生徒らの通報によって、

警備の〈キュベレー〉が駆けつけたときには

既に一十(いとお)は床に倒れて気を失い、

荒涼がマオに謝罪をしていた。

 

その〈キュベレー〉により、

一十(いとお)と荒涼は〈更生局〉に連れられていった。

 

また今回の事件に関わった人物の中に、

海神宮(わたつみのみや)家の御令嬢がいたこともあり

混乱も速やかに収束した。

 

亜光いわく、海神宮(わたつみのみや)家は

〈3S〉や〈個人端末(フリップ)〉といった

名府の社会システムを統括している。

 

今回の事件はマオは被害者という立場であり、

責任が問われはしない。

 

しかし自己と他者の為の正当防衛とはいえ

相手の首を絞めて気絶させたイサムには、

校則により1週間の謹慎処分が下された。

 

乾いた血を伸びた爪で剥がして洗い流し、

ハンカチで拭うとマオが近くに立っていた。

 

「テストは?」

 

「名前だけは書きましたよ。」

 

「追試確定ね。

 …八種くんは変ね。」

 

「変?

 それなら海神宮(わたつみのみや)さんのが。」

 

「私のどこが変なの。」

 

「変ですよ。

 ロブスターって言われたから、

 3年生にケンカ売ったんですか?」

 

「ロブスターじゃないわよ。

 ブスロブスターよ。」

 

「はぁ。」

 

「つまらない嘘を放っておく気に

 なれなかっただけよ。あと恐喝も。

 〈更生局〉が動く前にね。」

 

「結果は散々な感じになっちゃいましたが。」

 

「これも老婆(ろうば)心ってやつかしら。」

 

「好奇心の間違いじゃないんですか。

 どんな会話をして怒らせたんですか?」

 

「怒らせた? ヒト聞きが悪い。

 彼女は冗談がそんなに上手じゃないみたい。」

 

海神宮(わたつみのみや)さんが言いますか。それ。」

 

マオに言われてイサムは荒涼に少し同情した。

 

「八種くんこそ。

 〈レガシー〉なのに、変よ。」

 

マオがそう繰り返した。

 

彼女の言う〈レガシー〉は、

〈ニース〉によって容姿や肉体を

変更していない人や、

変更できない15歳以下の人をさす。

つまりただの〈NYS〉のままの人間だ。

 

人類が残した遺産である、と

仰々しく名付けられた〈レガシー〉だが、

この名府においては懐古趣味とみなされ

〈レトロ〉とあだ名される場合もあった。

 

転府ではイサムや姉のハルカなど

生まれつき整った顔立ちは天然物とも評され、

今は『聖礼(せいれい)ブーム』と呼ばれる流行によって

名府の〈ニース〉にコピーされている。

 

「その、どこが変なんですか?

 〈レガシー〉は、普通じゃないですか。」

 

「あぁ、価値観の問題じゃないの。

 殴られて見事に避けたじゃない。」

 

「殴りかかってくる相手なら

 そりゃ避けますって。」

 

好き好んで殴られる趣味はなく、

それに1発目は当たりだった。

 

「運動神経よかったのね。」

 

「まぐれ…ですよ。

 すごい大振りだったじゃないですか。

 僕はそんなに機敏でもないし。」

 

カフェで襲われそうになって

椅子ごと倒れたのを思い出したが、

それを口にするのは控えた。

 

マオの表情はなおも疑い深いままだった。

質問はまだ続く。

 

「じゃ、今朝のボールは?」

 

「ボール…。」

 

公園で亜光が投げたボールがすっぽ抜けて、

取ったときにはマオの胸に収まった。

 

思い出してイサムの顔が急に熱を帯びる。

 

「やっぱり八種くんは、変なのよ。」

 

マオがひとりで納得してうなずいた。

 

彼女は僕を変だと言った。

 



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00-50:檻の中の王

人類が〈キュベレー〉をつくるより遥か昔。

 

〈人類崩壊〉以前に百獣の王とも

呼ばれた動物がライオンだという。

 

食肉目の大型野生動物であり、

日がな一日ごろごろと寝ているので

動物園ではとても観察しやすい。

 

オスとメスではタテガミの有無が

判別の材料になり、老若男女誰にでも

わかりやすい優秀な商品だった。

 

本来ライオンという動物は乾いた草原に棲む。

 

十数頭のメスが集団で狩りをして

ときに子育てをし、数頭のオスは

メスを他所のオスから守る。

 

厳しい野生環境では、

自らの遺伝子を残すために群れを形成する。

 

いまでは雌雄2頭が

コンクリートで作られた土地と、

水堀と鉄柵で囲んだ(おり)に展示してある。

 

私はこの転府、聖礼市に

広大な『檻』を創生して財を成した。

 

檻の中にいる復元した機械動物を見ようと、

毎年何千万の人が訪れた。

 

映像でしか見られなかった動物が、

機械動物として復元されて喜んだ。

 

海洋生物を復元し、水族館も建てた。

娯楽に飽くなき人は、こぞって群れをなした。

 

音楽や演芸など個人や集団で

生み出せるこれらの娯楽に比べ、

檻の世界は人々を魅了するものだった。

 

人は〈人類崩壊〉以前の世界に関心が高い。

 

〈NYS〉になり、転府で暮らす人々には

潜在的に、望郷の念があるのではなかろうか。

 

ただそれはあくまで私の想像に過ぎない。

 

過去に恐竜を復元したこともあったが、

男性以外からの評判はすこぶる悪かった。

 

曰く幻想(ファンタジー)の度が過ぎるのだと。

 

生身の映像が保管(アーカイブ)されているわけでもない。

湖に浮かぶ首長竜など冗談染みた映像の典型だ。

 

卵生で哺乳類のカモノハシに比べれば、

私にはまだ理解可能な範疇(はんちゅう)であるとも思う。

 

恐竜は商品サイズに比例して

施設も大きくなりがちなので、

結局短期間で閉園した。

 

水族館では恐竜時代よりも、

遥か昔に繁栄した巨大エビなども

復元を試して併設展示したが、案の定

誰からも見向きもされない代物になった。

 

それでも大勢の人が私の前に列をなし、

貴重な機械動物を自分のものにしたいと考えた。

 

並ぶ人の数が多ければ多いほど、

購入価格で競い、商品の値段は釣り上がっていく。

 

生命に対する支配欲、希少性に対する独占欲が、

人を動かす原動力になるのだと理解した。

 

とても不思議な光景だった。

 

鏡の前の醜い動物の輪郭を思い出し、

笑いがこみ上げた。

 

同時に私の中に強烈な退屈を生み出した。

 

人生道半ばで満足することに

強い不快感を覚える。

 

群れの中の動物を見て、

満足する私もまた

〈NYS〉でできた動物だ。

 

不快感の正体は同族嫌悪。

 

人という動物の集団が文化を生み、

社会を作り、文明を築いた。

 

他の生物と共に滅びゆく運命の中で、

どういうわけか環境耐性となる

〈NYS〉を編み出した。

 

新青年構想(New Youth Scheme)

 

〈NYS〉は生命の自然な変化ではない。

もちろん、趣味や偶然の産物でもない。

全て〈ALM〉が作り出したものだ。

 

趣味に生きるいまの人には

到底編み出すことはできない。

その原動力はなにか。

 

檻の中の、ライオンを眺めて考えていた。

 

オスとメスの性差か。

生存率を高める為に野生では群れをなす。

 

異性に対する魅力、

たくさんの子を生み育てる肉体。

 

ライオンは狩猟を行う。

かつては人も同じであったという。

 

肉体、能力の差…。

餌を獲得しやすければ、

雌雄に関係なく魅力はある。

 

資産による格差…は動物にはない。

 

クマやリスのような冬ごもりであっても、

食料の貯蔵には限度がある。

 

土地・家屋・金銭は人が持つものだ。

人が持つもの…。

 

暴力と支配…。

絶滅に対する恐怖か…。

 

叔父との記憶が蘇り、深くため息をつく。

 

50歳を過ぎて独身の私に相利共生(そうりきょうせい)や愛など、

綺麗な言葉が思い浮かぶはずもなかった。

 

群れを成すライオン。百獣の王。

その群れを破壊するのもまた同族のライオンだ。

 

メスを守るべきオスが

他所からきたオスに負けてしまうと、

育てていた子供は噛み殺されてしまう。

これはメスの発情を促すための行為とされる。

 

他所からきたオスが群れの頂点に立ち、

自分の遺伝子を残す。

 

人が他人の家族の子供を殺めれば、

ただちに〈更生局〉に連行される。

 

当然の帰結(きけつ)だ。

 

詐欺・窃盗・殺人などが起きれば

〈更生局〉が対象の人を隔離する。

 

他者を(あざむ)き、(おとしい)れてはいけない。

落とし穴を作ってはいけない。

 

破ったものは〈更生局〉によって

社会から隔離されるのが世の理。

 

それが社会のルールだ。

 

同じ動物であっても、人とライオン。

自然との違いはここにある。

 

文化、社会、文明には必ずルールが存在する。

それは人が生み出した知恵であり法だ。

 

しかし法にも限度がある。

 

環境耐性だ。

自然が生命に死を与える。

 

自然の変化で生物が死に至る状況であれば、

〈更生局〉の出番はない。

 

過去の人類は〈NYS〉を編み出す

必然に迫られた。

 

だが〈NYS〉を編み出したのは自然ではない。

同じく人が編み出したものだ。

 

群れの古きオスが死に、新たなオスが

自らの遺伝子を残す為に生み出した

新たな法だ。

 

〈NYS〉、〈更生局〉、〈キュベレー〉…。

転府に生きる全ての人の法が、

なにによって築かれてきたか。

 

想像するだけで笑いがこみ上げてくる。

その想像が私の退屈を埋めてくれる。

 

さぁ、〈ALM〉でできた『檻』を抜け出そう。

 



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0.3:ネコとネズミ
03-01:ストーカーの予感


「最近、視線を感じるんだが…。」

 

座卓を囲む中で、イサムが

話題を提供するつもりでつぶやいた。

 

亜光(あこう)百花(ひゃっか)貴桜(きお)大介(だいすけ)

 

いつものふたりが、

手元の教則から目を離して

イサムの顔を見上げた。

 

「それ、この勉強会よりも面白い話?」

 

貴桜はただでさえ少ない集中力が尽きて、

教則を手にしたまま寝転がった。

 

「謹慎で外に出ないだろ、イサム。」

 

「まぁ…そうだけど。」

 

イサムは週明けの一件で

一週間の謹慎処分が下り、

家から一歩も出ていない。

 

それ以前に名府移住者向けのテストを、

名前しか書かなかったので

校則に従い休日の外出はできない。

 

ひとり暮らしには持て余すサイズの冷蔵庫に、

タイミングよく送られてくる大量の冷凍食材。

 

保護者代わりの姉から、

お古のランニングマシンと

ぶらさがり健康器まで提供を受け、

小さな部屋の一角を占領している。

 

謹慎に至った事件については

姉から叱責(しっせき)を受けなかったが、

テストはメッセージでのみ忠告を受けた。

 

そんな訳でイサムは一切外出せずに済み、

週末に亜光を招いて勉強会となったのだが、

学力の怪しい貴桜までもセットとなった。

 

貴桜はデニム地のジャケットとパンツに、

長い身体を狭い部屋いっぱいに伸ばして

逆立つ金髪が床と水平を保って横になる。

 

亜光は普段どおりの丸刈りにメガネで、

アロハシャツという〈人類崩壊〉以前の

伝統的な服とハーフパンツという出で立ち。

 

夏はまだ3ヶ月も先なので、

見ているだけで肌寒さを感じる。

 

おしゃれなふたりとは対照的に、

イサムは中学校時代に買った

紺色の体操着を部屋着にしていた。

 

「おい大介。サボんじゃないよ。

 はじめのうちからちゃんと

 勉強しないと留年するぞ。」

 

「なぜオレが休日に〈人類崩壊〉以前の

 歴史なんぞという退屈極まりない勉学に

 精を出さねばならんのだ。」

 

「テストで赤点を取らない為じゃないの?」

 

「イサム。その回答はつまらないから追試。」

 

「イサムの真面目さが

 大介にも少しぐらいあればな。」

 

「オレぐらい真面目だと

 謹慎にはならないぜ。」

 

「これが面白い回答というやつだ。」

 

「面白くはないよ。亜光教師。」

 

亜光のことはたまに教師と呼ぶ。

 

〈人類崩壊〉以前、人間の教育・指導は

すべて人間が行っていたが、現在では

教育用の〈キュベレー〉が用意され、

『教師』と呼ばれる役職は存在しない。

 

また当時は教師による検挙数の多さから

『反面教師』と呼ばれる事例・熟語が存在し、

道を外れた者に対して『教師』と略して使われた。

 

妹を溺愛している亜光を、

同様に道を外した者として

貴桜がこう呼んでいたのをイサムもマネた。

 

亜光をたしなめる時に使う別称となった。

 

「んで、見られてるってのは、

 カフェのときからそうなんだけど。」

 

「出たよ、タダ食い。」

 

「だからタダ食いじゃないって。」

 

月曜の朝に通う『カフェ名桜(めいおう)』でイサムは、

安いトースト1枚の為に訪れる迷惑な客となる。

 

「〈ニース〉見んのに慣れて来たから、

 外側への意識が今度は内側、

 自分に回るようになったんだろ。」

 

あいまいに唸りながらうなずく。

亜光の言う通りかもしれない。

 

「仮にそうだとしても、だ。

 部屋にいる今現在も見られてる

 って感覚はあるのか?」

 

「どうなんだ?」

 

「仮に、な。」

 

考えながら天井を見上げ、

さらにはぐるりと部屋を見渡してから

窓の向こうを眺めた。

 

ベランダに誰か立っているはずもなく

7階建ての4階の部屋の先には、

半地下構造の高速道路を挟んだ大通りと、

遠くの木々に埋もれる緩衝緑地の公園が見える。

 

貴桜も窓の外を眺めてふたりは現実逃避に励んだ。

 

「ひょっとするとストーカーかもな。」

 

「ストーカー?」

 

「動物園知識だが、

 動物が狩りをするときの――。」

 

「百花のうんちくはどうでもいいぜ。」

 

「亜光の話はすぐ横道にそれる。」

 

「教師だけにな。」

 

生徒たちから不満が上がり、

教師はメガネをそっと押し上げる。

 

「つきまとい行為だそうだ。

 これは知人同士でなくとも成立する。

 その人のファンであるとか、

 道端ですれ違った他人が、そら似や

 ひと目惚れで家まで追いかけたり。

 前世の記憶がよみがえったとか。

 相手に一方的にメッセージを

 大量に送りつけたり。」

 

「あぁ。この前みたいな。」

 

「教室まで押しかけたり。」

 

「あるな。」

 

「家まで来たり。」

 

「先輩以外にも気をつけろよ。」

 

「気づいたら家の中にいて、

 料理作って待っていた、とか。」

 

「こえぇ…。」

 

「一方的な愛の押し付けだからな。

 それで顔も名前も知らない相手の

 手料理食って、結婚を決意した。

 …とか、してないとか。」

 

「どっちだよ。」

 

客人ふたりは相談者である部屋の住人を

置き去りにして盛り上がっている。

 

「僕はどう反応したらいいのさ。」

 

「タダで料理作ってくれるんなら

 食料には困らないだろ。」

 

「イヤだ、怖すぎる。」

 

「〈更生局〉案件だな。

 でも相手が接触してこない限り、

 どうしようもない。

 こっちの様子をずっと遠くから

 覗いてるだけかもしれないしな。」

 

「来てくれるといいなぁ、イサム。」

 

「他人事だと思って…。」

 

不安がるイサムを他所に盛り上がっていたとき、

部屋にインターコムが鳴り響く。

 

音の大きさにイサムは肩を驚かせたので、

亜光と貴桜がそれを見てさらに笑う。

 

「これがストーカーだったりして。」

 

「こえぇ…。」

 

「ウチがオートロックなの知ってるだろ。」

 

マンションの玄関にカメラがあるので、

室内からそれを見ることができる。

 

しかしディスプレイに映し出されたのは

玄関ではなく、扉前の廊下であった。

 

「えぇ…。」

 

イサムは驚き焦り、慌ててディスプレイを切った。

 

ふたりにはなにも言わず

玄関へと小走りして、

ドアスコープを覗く。

 

燃えるような赤色の髪に

額の絆創膏はうっすらと隠れ、

白色のパーカーを着たクラスメイトが

部屋の扉の前に立っていた。

 

「なんで…?」

 

扉の向こうに立つ〈サーディ〉のマオが

見えないはずのイサムを見て微笑んだ。

 

――――――――――――――――――――

 

鍵を開けた瞬間に、イサムは

いくつか後悔と疑問が湧き上がる。

 

日頃の癖で警戒してドアガードをかけてしまった。

彼女相手であればその必要はなかった。

 

しかし彼女が訪問する理由がわからない。

 

親しくもない異性のクラスメイトがなぜ

マンションの玄関ではなく、扉の前にいたのか。

 

それ以前に、扉を開けず、

居留守を使えばよかったかもしれない。

 

生唾を飲んで顔を上げた。

 

燃えるような赤い長髪を、

今日は後頭部に束ねて丸めている。

 

そして亜光の話が脳裏によぎる。

 

心の中でマオがストーカーかも

知れないと疑いを持った。

 

「こんにちは、八種くん。お久しぶりね。」

 

マオのささやき声を聞いて、

同意の意味でうなずいた。

 

謹慎を受けたので月曜以来、彼女には会ってない。

だが休日昼間に彼女が訪れる理由もなかった。

 

「なんの用でしょうか? どうして、ここに?」

 

「引っ越しの挨拶。前に言ったでしょ?」

 

「あっ!」

 

忘れていた。

 

通学路の〈3S〉の前で会ったときに、

ひとり暮らしの為の下見と言っていた。

 

「まさか? …このマンション?」

 

「そうよ。お隣。」

 

「スぅ…。」

 

思わず声を上げてしまいそうになり、

口元を抑えて目を伏せた。

 

嫌な予感は的中したかもしれない。

 

「これ、引っ越しのお土産?」

 

「なぜ疑問形なんでしょうか。

 これはわざわざご丁寧に…。」

 

受け取った手提げ袋が軽く

音を立てるので中身に視線を落とすと、

芋を薄切りにして高温の油で揚げた

お菓子のポテトチップスだった。

 

「えぇっと…?」

 

「せっかくお茶請けを用意したのに、

 失礼にもドアガードをしたまま

 私を追い返すのかしら?」

 

「驚くぐらい厚かましいですね。」

 

あまりに堂々とまくしたてるので、

ドアガードを解除し扉を開放してしまった。

流された自分に後悔した。

 

その長い脚にデニムのスキニーパンツと、

赤茶色のローファーを脱いで玄関に上がり込み、

マオがイサムとの間を詰めた。

 

「いや、ちょっとまってください。

 どうしてしれっと上がろうとしてるんですか。

 それもポテトチップスひと袋で。」

 

「なにを言ってるの。

 通常の2倍サイズじゃない。

 ふた袋分よ。」

 

「特別サイズでさも当然だと言わんばかりに。

 普通にそこらで買える駄菓子ですよ。これ。」

 

「もう手遅れね。

 部屋に上げた私を力づくで

 無理やり追い返す勇気が

 八種くんにあるのかしら?

 立場が危うくなるのはどちらか明白よね。」

 

「それは…ズルいですよ、それは。」

 

海神宮(わたつみのみや)家の御令嬢に敵うわけはない。

 

庶民の抗議は虚しく、

先客のいるダイニングに案内した。

 



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03-02:疑惑の御令嬢

「3人でなにしてたの? エッチなこと?」

 

思いがけない来客に、

先客ふたりも驚き目を点に口を開けた。

 

客人に驚いたのか、

その言葉に驚いたのかは定かではない。

 

マオの突飛な発言にイサムは鼻水を吹き出す。

 

「健全な男子の勉強会に、

 なんではしたないこと言うんですか。」

 

「健全な男子ならボノボぐらいしないの?」

 

「しませんよ。そんなの。」

 

マオと亜光の会話に意味がわからず、

貴桜とイサムは顔を見合わせ首を傾げた。

 

「なに? ボノボノって。」

 

マオの猥談(わいだん)に亜光が返答に(きゅう)した。

 

「女子の間ではいち大ジャンルだそうです。

 今日はそういう勉強会でしょ。」

 

「そんな勉強しません。」

 

「デブは勉強会のつもりだろうけど、

 オレは違うな。」

 

「あら。ほらほらほら。」

 

「大介は弟たちの面倒見るのが嫌で

 家から逃げてきたんですよ。」

 

「オレが負けたみたいに言うない。」

 

「ほんとにただの勉強会ですよ。」

 

机の上の教則を見せる。

 

「俺は妹との楽しい休日が台無しだぜ。」

 

「みんなきょうだいがいるのね。」

 

「そういやイサムもいたな。」

 

「兄貴と姉貴だろ。」

 

「そんな話してた、してた。

 勉強で頭いっぱいで。」

 

「ウソをつけ。サボってたじゃん。」

 

「んで。海神宮(わたつみのみや)さん、なにしに来たの?

 イサムとおデートのお誘い?」

 

「冗談が下手ね。

 引っ越しのご挨拶よ。」

 

「…だって。これお土産?」

 

イサムが座卓の真ん中に紙袋を置く。

疑問形で。

 

ふたりは歓声の後で

覗き見た袋の中身に嘆息を漏らした。

 

「なに? 肉みそのがよかった?」

 

海神宮(わたつみのみや)家の御令嬢が用意したとは思えない

ギャップの品物だった。

 

「あまりご冗談がお上手じゃないね。

 あ、前に下見って言ってたな。」

 

「隣に引っ越してきたんだよ。」

 

「よりにもよって? なんだそりゃ。」

 

「八種くんは、

 どうしてひとり暮らしなんてしてるの?」

 

海神宮(わたつみのみや)さんも知らんのか。」

 

「本人の希望を無視して

 調べる上げることもできるわよ?」

 

「こえぇ…。」

 

「姉が僕の保護者になったからですよ。

 姉は仕事で転府(てんふ)にいます。あ――。」

 

「やっちまったぜ。」

 

貴桜がポテトチップスの袋を開けた瞬間、

中身を盛大にばらまいて嘆いた。

 

イサムはその前に貴桜の失敗を察して声を上げた。

 

「ふたりはこっちが地元なんでしょ?」

 

「そう。大介とは同じ中学だし。」

 

「そのときは、こいつと

 ひと言も喋ったことないけどね。」

 

「イサムは姉貴がすごい美人のモデルだよな。」

 

「そうかな。すごい厳しいよ。

 それにひとり暮らしの理由というか、

 隠してるわけでもないし、調べなくても

 聞かれれば普通に答えますよ。」

 

「なんだ。そうなの? ガッカリね。」

 

「残念がるところですか。」

 

「秘密のひとつやふたつあったほうが

 楽しいじゃない。調べる方は。」

「こえぇ…。」

 

亜光が持ち込んだ紙コップに、

粉末の紅茶を入れて湯を注ぐ。

 

室内にフルーツの香りが漂い

マオが興味深そうに覗いている。

 

「御令嬢のお口に合うかわかんねぇけど。」

 

「ポテチ持ってくる御令嬢だぞ。」

 

「私を貧乏舌だとでも言いたいの?」

 

「百花がまた怒らせた。」

 

「俺ぇ?」

 

「歌手活動辞めて両親が離婚したのを機に、

 姉の名字をつかって生活はじめて。

 卒業生だった姉に無理やり願書かかされて

 こっちに越してきたんですよ。聞いてます?」

 

マオはポテトチップスと紅茶に夢中だ。

 

「生活費もその姉ちゃんが出してんだ。」

 

「いいねぇ。姉弟愛。」

 

「教師はいつもそれだ。

 見ての通り、貧しい思いしてるよ。」

 

「愛ねぇ。」

 

亜光が戯れに言った言葉を、

マオはポテトチップスを摘んで繰り返す。

 

海神宮(わたつみのみや)さんはホントに

 イサムと付き合ってないの?

 百花がストーカーじゃないかって

 さっきから疑ってるんだけど。」

 

「おい。言ってませんからね。俺。」

 

からかい半ばに貴桜が質問をした。

ぶち撒けたポテトチップスの

後始末(拾い食い)をしつつ。

 

ストーカーの話題を出していた矢先に、

マオ本人に尋ねたので当然それを亜光が止めた。

 

「なにかの冗談?」

 

「僕が最近、誰かに見られてる気がして

 ふたりに相談したら、亜光が

 ストーカーの仕業じゃないかって。」

 

「そしたら見事なタイミングで

 海神宮(わたつみのみや)さんが来たから、こいつが

 ストーカーだと疑ってんですよ。」

 

「大介だって言ってただろぉ!」

 

巨体が立ち上がって喚く。

もはや勉強会どころではない。

 

「八種くんひとりを

 ストーキングするなら

 誰か雇ったほうが早いわね。」

 

「いやぁ、そこに

 愛はあるのかなって話ですよ。」

 

「ぶっこんでくなぁ、大介。すげえよ。」

 

「愛があれば、相手に押し迫って

 いい理由にはならないわね。

 そんなことしたら〈更生局〉が

 必要なくなるじゃないの。」

 

「正論でぶん殴ってきた。」

 

「ポテチひとつで

 部屋まで上がりこんだくせに…。」

 

「これあまり美味しくないわ。」

 

イサムのぼやきは無視された。

 

自分で持ってきたポテトチップスの味は、

どうやらお気に召さなかった。

 

「ポテチなら自分で作った

 できたて熱々が1番ですな…。あ?」

 

マオは突如立ち上がって額の絆創膏を取ると、

窓から周囲を見渡して外の公園を見下ろした。

 

亜光の話どころか自分の話でさえ

まるでどうでもいい事であったかのように。

 

「あぁ、いた…。」

 

それからマオは絆創膏を貼り付け、

何事もなかった風を装って紅茶を口にした。

 

10分後、イサム宅に新たな客が訪れる。

 



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03-03:怪しい来訪者

イサムの部屋の玄関に、

ひとりの少女と1体の〈キュベレー〉が立つ。

 

黒髪のウィッグをした〈キュベレー〉は、

海神宮(わたつみのみや)家の御令嬢であるマオの警護用機械人形。

今日も変わらずメイド服を着ている。

 

それから機械人形の前に立つ小柄な少女が、

夜来(やらい)ザクロであった。

 

ザクロはイサムのクラスメイトであり、

月曜日に不幸の手紙なるものを送りつけた

実行犯のひとりだ。

 

ザクロは色素の薄い白い顔に

まるで光を反射させない真っ黒な髪を、

以前の容姿のまま目を覆うほど伸ばしている。

 

今日は休日なので制服姿ではない。

 

黒色のケープにフードを被り、

ほつれが目立つ破れた黒色のコート姿は

6月上旬とは思えない暑苦しい服装だ。

 

右腕と頭には包帯が乱暴に巻かれている。

 

「いくらなんでもこれは…手荒くないですか?」

 

「それ〈キュベレー〉のやったことじゃない。」

 

「これは前世で負った名誉の負傷なので…。

 くふふ。」

 

「前世の負傷は現世に関係ないだろ。」

 

ザクロは相変わらず元気そうに、

亜光にしか意味のわからない言葉をつぶやく。

 

〈キュベレー〉に連れられる道中で

私的制裁を過剰に受けたのかと(あん)じたが、

これらはすべてザクロのファッションであった。

 

マオが窓から公園を見下ろしたしばらく後に、

彼女の合図で玄関に全員集合している。

 

なぜか流れでイサムの部屋の玄関で

ザクロを出迎えていた。

 

この状況を彼女は妙に楽しそうに不気味に笑う。

 

「すげえ格好…。」

 

「なに持ってんだ?

 マルチコプター?」

 

「大砲か。」

 

「カメラだろ。」

 

ザクロは両の手に

プロペラのおもちゃを抱えていた。

 

六角形のフレームの角には2重のローターがあり、

中央には大きなカメラレンズが備わっている。

 

それがマルチコプターと呼ばれる種の、

無人航空機のラジコンだった。

 

「わかったぜ、盗撮だ!」

 

「これは誤解。そう誤解なの。」

 

「そのラジコンは? 夜来(やらい)さんの?」

 

「これが本物のストーカーか…。

 初めて見る。」

 

「誤解…、いえ偶然よ。そう。偶然。」

 

「あからさまに言い直した。犯人だ。」

 

「なんで貴桜たちそんなに楽しそうなんだ。」

 

「今日は公園でこれを飛ばして遊んでたの。

 そしたらこの〈キュベレー〉さんに見つかって、

 理由もわからず連れてこられちゃって。

 信じて。前世の記憶を思い出して。」

 

「だから前世ってなんだよ。」

 

「輪廻転生。生まれ変わって、

 前世では恋人同士だったとか。」

 

「なんでそんなもんに詳しいんだ。」

 

「俺と妹のような運命的な関係を

 あらわした適切な単語だからだ。」

 

「妹、騙されてないか?」

 

「よくある詐欺(さぎ)の手口ね。」

 

海神宮(わたつみのみや)の御令嬢から許可が出たぞ。

 百花も現行犯だぜ!」

 

「ご冗談でしょ?」

 

亜光と貴桜にマオが混ざって

廊下の奥で盛り上がる。

 

「ちょっと静かに。

 夜来(やらい)さんそれ、誤解でもなんでもなく、

 まぎれもない盗撮ですよね。」

 

「盗撮じゃないとは否定できないわね。

 くふふ。」

 

なにひとつ疑惑が払拭できない

白々しい演技を重ねる彼女の弁明に、

部屋の住人があきれるしかなかった。

 

「ついにウチのクラスからも

 ひとり〈更生局〉行きかぁ。」

 

「なんで大介が嬉しそうなんだ。」

 

「知ってるやつが捕まったらおかしいだろ?」

 

「もし俺がえん罪で捕まったら?」

 

「えん罪ってなんだよ。」

 

「罪を犯してもいないのに捕まることだ。」

 

「そりゃ絶対に笑うね。」

 

「大介、お前は追試だ。」

 

後ろのふたりは放っておいてイサムは話を続ける。

 

「〈更生局〉って…、

 それじゃあ夜来(やらい)さんどうなるの?」

 

「〈更生局〉はねぇ。

 犯罪者を拘束して、反省を促すために

 一定期間収容する場所だから。

 私に反省の見込みがなければ、

 一生〈更生局〉暮らしかしら。

 名ばかりよね。くふふ。」

 

ザクロは余裕を持って丁寧に説明する。

 

「さてそれでは問題です。

 私が反省するところはどこかしら。」

 

「反省の見込みなさそうだ。」

 

「あきらかに素行不良だもんな、その格好。」

 

「お前のその髪型も言えたもんじゃないぞ。」

 

「お前の体型だって不良じゃねーか。」

 

狭い廊下で騒ぐふたりに

イサムは辛抱強く(こら)えた。

 

「私がどんな罪を犯したのか。

 誰がどんな被害を受けたのか。

 それを証明できるものはありますかしら?

 どうかしら。」

 

「なに言ってんだ。撮影記録があるだろ?」

 

「あーそれだ!」

 

「あらっ、そうだった。

 私ってばうっかりさん。

 でもね、これで八種くんのお着替えとか

 お風呂場とか、盗撮したわけじゃないからね。」

 

「そんなこと言われて、

 この場で確認したくないんですけど…。」

 

「そんなの見たって誰にもメリットないわよ。」

 

「酷い言われようだな、イサム…。」

 

悪びれる様子もないザクロは

ラジコン本体から〈記録媒体(メモリー)〉を取り出して、

包帯が巻かれた右手からイサムに手渡す。

 

取り出した爪ほどの大きさしかない棒状の

記録媒体(メモリー)〉は薄く細く小さい。

 

そのため巻かれた包帯の隙間を滑り落ちて、

玄関に置かれた靴と黒色のタイルに紛れ

どこかへ消えてしまった。

 

「あ。」

 

証拠隠滅(しょうこいんめつ)だ!」

 

「私と八種くんとの初めての共同作業が…。

 これは不可抗力! 不可抗力です!」

 

「お前はなにを言っとるんだ。」

 

「どこに落ちたんだ?」

 

「わかんない。」

 

ザクロと貴桜たちが廊下で大騒ぎする中、

記録媒体(メモリー)〉を見失って焦り、

イサムはよつん這いで探す。

 

「天井裏とか?」

 

「適当な事抜かすな。」

 

偽証(ぎしょう)罪だな。」

 

なにかがぶつかる物音が

上の階から響いて一瞬耳を傾けた。

 

「私の靴の中よ。」

 

マオが指差して落ちた場所を教えた。

 

彼女のローファーを逆さにすると、

目的の〈記録媒体(メモリー)〉が手のひらに落ちてきた。

 

「どうして海神宮(わたつみのみや)さんはわかったのかしら?」

 

小さな照明の薄暗い玄関では

イサムには見えなかった物が、

後ろに立っていたマオには見えていた。

 

立ち上がってザクロの顔を見ると、

窮地に立たされているにも関わらず

不敵な笑み浮かべている。

 

そんな彼女の後ろに立つ

マオの警護用〈キュベレー〉が

廊下から部屋の天井を見上げた。

 

機械人形のおかしな動作に振り向いて

マオの顔を見ると、彼女もまた

廊下から天井を見上げている。

 

彼女の額にある第3の目(サーディ)が、

照明に反射して赤く光っている。

 

その視線は玄関からダイニングに向かい、

彼女は部屋の奥へと(いざな)われて歩き出した。

 

容姿や肉体を変更した〈ニース〉の中でも、

彼女の額には自在に操ることのできる

第3の目と呼ばれる〈サーディ〉を持っている。

 

貴桜を避け亜光を洗面所に押し込んで退かすと、

マオはダイニングに入って天井を眺めた。

 

彼女の〈サーディ〉には廊下から脱衣所、

トイレ、ダイニング、それから寝室に至るまで、

天井には光点が等間隔で浮かび上がって見えた。

 

「なにかいるのぉ?」

 

天井を向いたまま歩くマオの奇行に、

ザクロは愉快そうに呼びかける。

 

マオはザクロを無視し、

イサムを見てから尋ねた。

 

「八種くん、天井になにか飼ってる?」

 

「なにか? ってなんですか?」

 

「このくらいの、大きさの、…ネズミ?」

 

マオが腕を左右にやや小さく広げて見せた。

 

「飼ってませんよ。

 それにそんなに大きなネズミいるんですか…。」

 

「こえぇ…。」

 

「なんだ?」

 

イサムの言葉に反応したのか、

天井裏の物体が動きを見せて

ダイニングに物音が小さく響いた。

 

「あれぇー?」

 

〈キュベレー〉は連行してきたザクロを

その場に放置して、部屋の外の

廊下を走り去ってしまった。

 

「どっか行っちゃったよぉ?

 いーのーぉ?」

 

廊下の外から金属の破裂音が響いて

ザクロの声はかき消された。

 

「いた。」

 

「…なにがいたんですか?」

 

「ヒト。」

 

「ひと? がいたんですか? ひと?」

 

イサムが同じことを2度尋ねたのは、

なにを言っているのか混乱したからだった。

 

「天井ってさ、だれか入れるの?」

 

「そりゃ点検口があんだろ。

 配線調べたりするために…

 小型の〈キュベレー〉が…点検したり…。

 いや、どうやって入ったんだ?」

 

亜光の押し込まれた洗面所の天井にある点検口は

当然、同室内からしか入れない。

 

それを察して不気味さに亜光は身震いを起こす。

 

「自分の部屋の床をくり抜いて入った、

 上の部屋の住人でしょうね。

 50cm(センチ)くらい〈デザイナー〉。」

 

「50cm(センチ)?」

 

「人類史上、最小サイズのね。」

 

〈ニース〉でも変更が可能な

身体の大きさは、〈人類崩壊〉以前に

記録された基準を規定にしている。

 

身体の大きさには限度があり、

山のような巨人やアリのような小人に

誰もがなれるわけではない。

 

制限がなければ濫用(らんよう)の恐れもある。

 

『ヒトの形の範疇(カテゴリ)であること。』

 

それが〈ニース〉の制約だ。

 

「50cm(センチ)って…これくらい?」

 

イサムが前腕2本分の長さを広げて、

だいたいの大きさを想像で示す。

 

「嘘だろ。オレん家の下の弟が

 産まれたとき、そんぐらいだったわ。」

 

「いくらなんでも小さすぎやしないか。

 イサムの3分の1くらいか。」

 

「もっとある!

 …160cm(センチ)はあるわ!」

 

反射で反対したイサムは、

反芻に間を置いて再度反論する。

 

実際は160cmには満たない、些細な反抗だった。

 

「狭くても小さきゃ動かす手足が短い分、

 自由に動き回れるってことか。」

 

貴桜が立ったまま肘を曲げた状態で、

手首だけで小さく平泳ぎの仕草をしてみせた。

 

マオが〈個人端末(フリップ)〉を両手で開いて、

〈キュベレー〉視点の映像を取得した。

 

映像は上の階の部屋にあたる。

部屋の構造はイサムの部屋と同じだ。

 

「床下に侵入経路を掘って、

 そこから満遍なく測定機器を置いてる。

 室内の移動や生活音なんかの

 八種くんの活動を監視してたんでしょう。」

 

「そんな危ないやつが、

 イサムん家の上に住み着いてたのかよ。」

 

「俺らも見られてたってこと?」

 

「そうなる。」

 

マオは平然とうなずくが、

男3人は背筋に冷たいものを感じた。

 

「ねぇー! ボノボでもしてたのぉ?」

 

「だからしてねえよ!」

 

廊下でぽつりと立っていたザクロが、

マオと同じようなことを言ったので

亜光がすぐさま否定した。

 

「どうなってんだ、ウチの女子は。」

 

「なんの話をしてるのさ?」

 

「そんなの一般教養よ。」

 

「一般であってたまるか!」

 

「そんなに口答えしていいのかよ?

 海神宮(わたつみのみや)家の御令嬢だぜ。」

 

「ぐぅっ。」

 

貴桜の私的に亜光は目を強く閉じて、

無力さに下唇を噛んだ。

 

「ストーカーって本当にいたんだな。」

 

「だから言ったじゃん。」

 

「それじゃあ、私は彼女連れて帰るわね。」

 

「お勤めご苦労さまです。御令嬢。」

 

「〈更生局〉帰りみたいに言うな。」

 

「私、えん罪なんですけど?」

 

「そうね。悪かったわね。」

 

扉は閉まった。

 

残された男3人は、

マオによって連れ去られるザクロの最後を見送り、

顔を見合わせ天井を見上げた。

 

冷めた紅茶とポテトチップスをつまむ。

 

「なあこれ。上どうなってんだろ。」

 

「上?」

 

「まだこの部屋監視されてたり。」

 

「えぇ…どうしよ。」

 

「どうしよったって。なぁ。」

 

「そうだな。俺らにできることと言えば、

 帰ってメシ食って寝るぐらいだな。」

 

「あぁ…、オレもそうだな。

 忘れてたぜ。大事なことを。」

 

ふたりは荷物をまとめて立ち上がった。

 

「え? 帰るの? テスト勉強は?」

 

「あぁ、達者で暮らせよ。」

 

「いなくなってもオレたちのことは

 気にしなくていいぞ。」

 

「見守ってるからな…、イサムのこと。

 天井から。」

 

「怖いこと言うな!」

 

またふたりが帰るのを

今度はイサムひとりで見送った。

 

その晩はいつも通り布団に入り、

眠ろうとしたものの目が冴えて寝付けなかった。

 



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03-04:新たな来訪者

謹慎も明けた月曜の朝、制服に着替えて

歯を磨き出かける準備をしていると、

インターコムが鳴り響いた。

 

早朝の来客に心当たりはない。

 

イサムはいつものトースト目当てで、

『カフェ名桜(めいおう)』に行く大事な予定があった。

 

歯ブラシを咥えたまま

ディスプレイに表示された人物を見て、

唾液混じりの歯磨き粉を床にこぼした。

 

ドアスコープを覗けば

隣部屋の住人、マオが制服姿で立っている。

 

燃えるような赤い髪を真ん中で分けて、

額にはいつもの絆創膏を付けている。

 

イサムは警戒心を解かず、

ドアガードをかけたまま

恐る恐る顔を覗き見た。

 

「こんな朝早くになんの御用でしょうか?」

 

「おはよう、八種くん。」

 

「おはようございます。」

 

「先日の騒動のお詫びに、

 朝食を用意したのだけれど。」

 

マオは後ろを振り向いた。

 

メイド服の機械人形〈キュベレー〉が、

大きな包みを抱えてたたずむ。

 

「え? なんで、ですか?」

 

「どうせいつもの喫茶店で

 パンをタダ食いするんでしょ。」

 

「タダ食いじゃありません。

 そんなこと調べないでください。」

 

「親切なご友人からの情報提供。」

 

マオの〈個人端末(フリップ)〉にメッセージが表示される。

偽情報の提供主は亜光百花。

 

「偽証罪だ…。」

 

忌々しげに言い放ったが、

トースト1枚の為に足繁く通っているのは

事実であり惜しむ情報でもなかった。

 

偽情報を流して名誉を傷つけた

亜光には〈更生局〉行きを請求したい。

 

「せっかく朝食を用意したのに、

 このまま追い返すつもり?」

 

先日と同じような文句で催促をするので、

イサムも渋々マオを部屋へと上げた。

 

マオと共にメイド服姿の〈キュベレー〉が

部屋に上がり込み、予期せず目を見開いた。

 

今更この機械人形の入室を拒否することもできず、

自分の部屋にも関わらず居心地の悪さを抱く。

 

〈キュベレー〉の顔と目がかち合う。

 

真っ白な顔に大きな3つの目で見られると、

イサムはすぐに目を伏せて体を強張らせた。

 

「座ってていいわよ。」

 

マオは既に座卓に座って足をくずし、

〈キュベレー〉が食事を用意するのを待っている。

 

本来の住人は部屋の隅に立ったまま、

自分の置かれた状況を俯瞰(ふかん)するほかなかった。

 

「あの…

 〈キュベレー〉もご飯を食べるんですか?」

 

「え? なにそれ? 食べないわよ。

 ご飯を食べるのはヒトだけよ。」

 

自らの愚かな質問に後悔した。

 

朝早く変な事に巻き込まれ

頭が上手く回っていない。

 

イサムは自らの愚かさ加減に

嫌気が差して眉間にシワを寄せた。

 

「今日も頭痛?

 ご飯食べたら学校休んじゃえば。」

 

「頭痛じゃありませんが、

 いますぐベッドで横になりたいところです。」

 

しかしテストの追試も控えているので

休んではいられない。

 

白地に黒色の文字が

縦横交互に印刷されたテーブルクロス。

それが足の短い座卓に広げられた。

 

向かい合わせで座るイサムとマオの前に、

釉薬(ゆうやく)の使われた真っ白な磁器の皿が置かれる。

 

それから銀製のナイフとフォークは、

顔が映り込むほどに光沢がかかる。

 

今頃なら紙製のバター用ナイフを眺めていた。

 

皿の上には見事な弧を描く大きなクロワッサン。

湯気が立つオムレツにケチャップがかけられる。

焼き目のついた香ばしいソーセージが食欲を誘う。

 

次に取り出されたのは

ラップがされた透明なガラスの器。

 

レタスが敷かれたポテトサラダに

キュウリとハムが彩りを与える。

 

ソーサーにティーカップ。

ポットから透明な湯を注ぐと

褐色の紅茶ができあがる。

 

無限になんでも湧いて出そうな、

不思議なバスケットから

〈キュベレー〉は手際よく並べ終えた。

 

「さぁ、早く食べましょう。」

 

テーブルナプキンを膝に置き、

マオはクロワッサンを千切って食べる。

 

イサムも彼女に習い、ナイフとフォークを手にして

ウインナーをひと口サイズに切って食べる。

 

「食べながらでいいのだけれど。」

 

紅茶の香りを嗅ぎながら、

マオはイサムの顔を見た。

 

「やっぱり八種くんは変ね。」

 

先週、手洗い場で言ったことをマオは繰り返した。

 

この話はイサムにしか関わりがなく

亜光や貴桜がいてはややこしくなる為に、

マオはこうして日を改めたのであった。

 

マオの指摘にイサムは黙ってうなずいた。

 

もちろん肯定しているつもりはないが、

元芸能人の自分が他の一般人と同じと

錯覚しているつもりもなかった。

 

「八種くんはなにか、

 ヒトには見えないものを見えている。」

 

「見えないものって?」

 

「ボールの運動を予測するだけなら

 誰でも可能だけど、投げる前に

 ボールの落ちる位置はわからない。

 普通はそうよね?」

 

「そうです…よね。」

 

指摘を受けたイサムだが、自覚はないので、

曖昧に答えるしかなかった。

 

「あの日、どうして殴られたの?

 八種くんには(かわ)すことができた。

 そうでしょ。」

 

3年生の荒涼(こうりょう)(じゅん)を怒らせたときの話だ。

 

「まぐれですよ。やっぱり。

 平手打ち(ビンタ)が来ると思ってましたし。

 結果、鼻血で制服を汚しました。」

 

「でもそのおかげで、

 ライオン頭の魔人を気絶させられた。

 正当防衛ってカタチで。怪我の功名ね。」

 

「功名?

 それで謹慎1週間ですよ。

 それに僕には天井裏は見えませんし、

 〈記録媒体(メモリー)〉だって落としますよ。」

 

「えぇ、そう。

 そこは私も疑問なのよね。

 あのとき、なぜか私には見えたの。

 どうしてだと思う?」

 

「〈サーディ〉、だからですか?」

 

絆創膏に隠された額の目を見たが、

彼女は首を横に振る。

 

「だって八種くんの後ろにいたのよ、私。」

 

「あ…たしかに。

 絆創膏もしてましたね。」

 

ザクロもそのことを指摘していた。

 

「その〈キュベレー〉からは…?

 あ、夜来(やらい)さんの後ろに立ってたね。」

 

「そこが私のいま抱えている疑問。

 わからないことを考えても仕方がないわ。

 で、八種くんはどうして変になったの?

 いつから? 生まれつき?」

 

「どうして変って言われても…。」

 

「私はその原因に興味があるの。

 たとえば〈3S〉の経験は?」

 

「まだ15ですよ。夏まで無理です。」

 

「転府の違法な〈ニース〉?

 過去に名府で〈3S〉をおこなったとか。

 事故にでもあってケガをしたことは?

 誰かに頭を殴られたりしたのかしら。」

 

クロワッサンを口に含んでそれらを否定する。

〈3S〉を使うには16歳になる必要がある。

 

住んでいた転府には〈3S〉がなければ、

高校入学までは名府に来たこともない。

 

仕事で名府に来た記憶も記録もない。

事故の経験も今まで一度もない。

 

商売道具ではなくなった顔を

殴られたのは先日が初めてだ。

 

マオの指摘する『変』の自覚はない。

 

「それなら仕方がないわね。」

 

マオはまた紅茶の香りを嗅いで、

残りをひと口で飲み干した。

 

〈キュベレー〉の用意した朝食を食べ終える頃、

部屋にインターコムの鐘が鳴り響いた。

 

本日2度の訪問者に、

イサムはディスプレイの前で硬直した。

 

「おーい、ユージーィ。」

 

よく通る声で、イサムの以前の芸名を呼びかける

同い年ほどの少女。

 

帽子と不似合いな色眼鏡にマスク。

隣に立っていたもうひとりが肩を叩くと、

すぐに色眼鏡とマスクを取り外す。

 

茶褐色と碧色目をしたふたりが、

カメラレンズを覗き込んだ。

 

「ユズー。」

 

「ナノさん、ゲルちゃん?」

 

イサムが役者業を辞めて、

歌手として2年間を共に過ごした

仕事仲間の少女たちの顔が、

ディスプレイに表示された。

 

よく知ったふたりの、突然の訪問だった。

 



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03-05:来訪者との遭遇

「もう学校行っちゃったかと思ったー。」

 

「間に合った。」

 

ディスプレイ越しにふたりがカメラを覗き込む。

 

それは月曜日の朝。

 

マンションに突然現れたのは、

イサムが歌手として2年間を共に

過ごしていたふたりの女子。

 

今では『SPYNG』と名乗り、

名府の街中でも広告を見かけるユニットだった。

 

「え? なに? どうして…?」

 

イサムは来訪者に気が動転し、

疑問が渦潮となって頭の中をかき回す。

 

「ねぇはやく開けてー。」

 

マンションの玄関で騒いでいようものなら、

彼女たちが衆目を集めてしまう。

 

要求を受けて施錠を解除し、

ふたりはマンション内に入ってきた。

 

しばらくすれば、部屋の前に来る。

 

カメラの前を去ったふたりを眺めてから、

イサムは失態に――失態の原因に振り向いた。

 

イサムの部屋の座卓で、

呑気に食後の紅茶を楽しむマオ。

 

燃えるような赤い髪が、

差し込む朝日に照らされて煌々と輝く。

 

それから隣には真っ白な顔に

3つの目を持つメイド服を着た〈キュベレー〉。

 

この異様な光景をどう釈明すればいいのか、

イサムは眉間に深くしわ寄せた。

 

間もなくしてインターコムが再び鳴る。

言い訳が思い浮かびはしなかった。

 

ふたりの訪問理由はわからないが、

マオのいるこの状況をふたりに見られたら、

説明に窮するのはわかりきっていた。

 

イサムにやましい気持ちはないものの、

できる限りの面倒事と誤解は避けたかった。

 

えん罪で〈更生局〉行きは困る。

 

海神宮(わたつみのみや)さん、お願いが。

 ちょっとだけそっちの寝室に

 隠れて待っててください。」

 

「ん、わかったわ。」

 

焦るイサムになにも聞かず素直にうなずき、

隣の部屋へ入って行った。

 

〈キュベレー〉が目の前に座っていたので、

黙って指で部屋に移動するように命じた。

 

主人ではない相手からの指示には、

不承不承といった様子で移動するのが

イサムには不思議でならなかった。

 

マオと〈キュベレー〉入室時に外した

ドアガードを、かけ直し忘れていたのは

大失態だった。

 

恐る恐る扉を小さく開けると、

空気が外へと吸い出されるように

扉が強く引っ張られた。

 

「ユージ、制服だぁ。」

 

「ナノさん。」

 

詰襟制服姿のイサムを見て、

目の前に現れた少女が歓声を上げる。

 

日に焼けた濃い肌をして茶褐色のやや吊り目に、

太い眉毛が力強い彼女の芸名はナノ。

 

本名はノンナであるが、

お互い芸名で呼び合うのが常である。

 

イサム(灯火(ともしび)ユージ)よりも早く

幼い頃から芸能活動をしている

先輩なので敬称を忘れてはいけない。

 

「声変わりした?」

 

「わからない。」

 

薄水色のトップスと黒のキュロットを着合わせて、

派手な橙色をしたショートボブヘアの上には

白地に青い帯のセーラーキャップを被っている。

 

さらに扉の影から顔だけを覗かせる少女。

 

「ユズ。かっこいい。」

 

「ゲルちゃんも。久しぶり。」

 

なにか言うでもなく何度もうなずく。

久々に会ったことで

とても興奮しているように見えた。

 

ゲルダの碧色の目は彫りが深く、

薄白い唇と肌からは冷たさを感じる。

 

まばゆい銀色の髪の上には、

手のひらサイズで黒色の

小さなシルクハットを乗せて飾る。

 

扉から全身を見せたゲルダは、

首元まで覆う深緑色のブラウスに

黒色のティアードスカートと

底の厚い革のブーツを履いている。

 

ふたりが大きく見えたのは靴のせいだった。

 

「ユズー!」

 

突如ゲルダに強く抱きつかれて、

イサムは胸部と腕を圧迫され

声にならない声をもらす。

 

「ちょっとゲルちゃん、離れなさいよ!」

 

「ユズ、小さくなった?」

 

「ふたりが大きくなったんだよ。」

 

1年半で背は伸びた。

イサムは心の中で自分に言い聞かせた。

 

「なに突然抱きついてるの。」

 

「はい、お裾分け。」

 

ゲルダはナノにも同じく抱きついた。

 

「もー。」

 

彼女の突飛な行動に慣れているナノは、

諦めて腕を回して背中を優しく叩いた。

 

「それでどうしたの、ふたりとも。」

 

イサムにとってふたりとは

約1年半ぶりの再会であった。

 

悠衣(ゆい)さんからここ聞いたの。」

 

「そうじゃないよ、ゲルちゃん。

 アタシたちは『来名コンサート』。日曜ね。」

 

「らいめい…。コンサートか。凄いね。」

 

彼女たちの活動拠点である転府から名府まで、

府をまたいでのコンサートは客層の違いから

滅多にない。

 

これも『聖礼(せいれい)ブーム』の影響に他ならない。

 

ナノの説明にイサムは驚くも、

それで朝早くに訪れる理由はない。

 

「そう。ユズに会いに来た。」

 

「ゲルちゃん、そろそろ離して…。」

 

ゲルダはナノに頬を貼り付けたまま会話を続ける。

 

「明日からこっちで撮影に入るから、

 前日入りしたの。

 それでナノがユズに会いたいって。」

 

「もー、ゲルちゃん。

 変なこと言わないでよ。」

 

そうは言ってはいるものの、

まんざらでもないナノの様子に

イサムは懐かしさに頬を緩めた。

 

「八種くん。そろそろ学校。」

 

再会に玄関で盛り上がっていた3人だが、

廊下に現れた制服姿のマオを見て

瞬時に静まり返った。

 

「え…ユージ…?」

 

抱き合っていたナノとゲルダは離れて、

マオとイサムを交互に見つめる。

 

「ちょっと! なんで出てくるんですか。」

 

「まだ? 寝室で待ってろってこと?」

 

「しん…。」

 

マオの放ったひと言は

イサムの言葉そのままで、言った本人も、

立ち会ったナノとゲルダをも

完全に黙らせるひと言であった。

 

イサムは顔を手で覆って自らの迂闊(うかつ)さを嘆いた。

 

ふたりとの再会にも関わらず、

イサムは目を合わせ辛い結果となった。

 

彼女たちの訪問で、彼は分岐路に立たされる。

 



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00-40:虚像を追いかける

私には家がない。身寄りもない。

 

手元にあるのは

イヌに劣るとも勝らない機械人形だけ。

 

途方に暮れても仕方がない。

 

まず〈ALM〉に依頼して家を建てて貰う。

転府の市民としては当然の権利を行使する。

 

住所不定の浮浪者であれば、

〈更生局〉に即日連行される。

 

それから私は両親を探す。

 

氏名。旧姓。年齢は40歳。独身。

 

近くにいた〈キュベレー〉から、

〈ALM〉の情報網を用いるので捜索は容易い。

 

結果を見て、私は両手で目を塞いだ。

得たい情報ではなかった。

 

その情報によって

自分がなにかを得られるわけではない。

失ったものが取り戻せるわけでもなかった。

 

深く息を吐いて、気持ちを落ち着かせる。

 

家で新たに機械動物を組み立てる。

ストレスを軽減させるのはこれが一番だった。

小型の動物であれば半年程度で組み上がる。

 

時間はいくらでもある。

 

そう思っていた矢先に、

疎遠だった叔母からメッセージが届いた。

 

仰々しい文面の中身は、

「結婚して子供を作ったらどうだ?」

と単純明快なものだった。

 

母方の姉にあたる彼女は、

社会的な義務を果たした

自負心があったのかもしれない。

 

高校も卒業できない不出来な姪御(めいご)

社会の一員になれるように気配りをしたのか、

それとも自尊心を満たしたいお年頃なのか

意図を測りかねるが無下(むげ)にもできない。

 

久々に鏡を見たが、赤土色の髪はボサボサで

自らの性別を放棄した容姿だったので笑った。

 

それも仕方がないことだ。

 

この顔を写真にして叔母に送りつければ、

お互いに折り合いがつくだろう。

 

結婚していない男女は年々増えている。

 

長い寿命の中で子をなし育てる時間よりも、

趣味に生きる時間のが多い。

 

〈人類崩壊〉から人口は全盛期まで回復した。

現人類はその役目を果たしたとも断言できる。

そうして性交は娯楽の一部に変わった。

 

叔母のような考えの人はもう(まれ)かもしれない。

 

叔父のような人が普通とは思わないが、

結婚に対して拒否感を覚えたのは確かだ。

 

その上、この容姿だ。

鏡を見ても変な笑いが込み上がる。

 

この遺伝子を残すにしても相手は悪食(あくじき)が過ぎる。

 

叔母は「容姿よりも内面だ。」と

執拗(しつよう)にメッセージを送ってきた。

 

内容に反論する気もわかず、

その日はふて寝した。

 

内面よりも容姿だ。

それは叔父の末路を知っているからこその結論だ。

 

内面は容姿に比例する。

 

治療や整形を済ませたところで、

遺伝子まで変化して(みにく)い親から

美しい子が生まれるはずもない。

 

また個人が持つ美醜(びしゅう)の価値観よりも、

集団の美意識こそが遺伝子を大きく変化させる。

 

サルのメスに乳房や臀部(でんぶ)が発達して

人になったのは、そうした根拠がある。

 

内面を重宝するというなら、

凶暴なイノシシから性格のおとなしい

ブタをつくるのと大して変わらない。

〈人類崩壊〉以前の家畜の世界だ。

 

「内面は容姿に比例する…。」

鏡を見て私は自分の言葉を繰り返した。

 

――――――――――――――――――――

 

叔母のメッセージを無視して

気がつけば10年が過ぎた。

 

結婚もせず、子供も産まず育てずだった。

 

日差しの眩しさに気づいてカーテンを開けた。

また徹夜をした。

 

シンクに置かれたコップに

入ったままの液体を口にして、

味のひどさにむせて吐き戻した。

 

外から差し込む光に、

舞い散る毛と埃が目に入る。

それに喉も痛い。

 

コップに入れた新しい水を口にする。

頭が朦朧(もうろう)としている。

 

何日目の徹夜だろうか。

 

眠気覚ましを手にして噛んだが、

効果のほどはわからなくなっていた。

 

空気の入れ替えついでに、

近くの公園まで散歩をした。

 

身体の重たさと気だるさで遠くまで歩けない。

それから長椅子に横たわって考え事をした。

 

家の中は毛玉で埋まって手狭になっている。

 

引っ越しか、はたまた別の趣味でも

探そうかとぼんやり考えていたときだった。

 

視界に見覚えのある姿を見た。

 

中年の男女が並んで道路を歩くのを目で追った。

 

談笑するふたりの背中を走って追いかける。

ひざ関節と心臓が悲鳴をあげている。

なにをやっているのか自分でもわからなかった。

 

これではまるでストーキングだ。

 

物陰に隠れて、ふたりの背中を追うと

涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。

 

未練がましい自分が情けなくなり足を止めた。

 

気恥ずかしさに、転府から

どこか遠くへ逃げ出したくなった。

 

いそいで家に帰り毛玉に顔を覆った。

自分が幼いままで、なにひとつ成長がない。

怒りと呆れの両方を感じて、またふさぎ込んだ。

 

結婚もせず、子供も産まず育てず。

自分がなにも残せず消えることが悔しかった。

 

叔母の言葉に反論できた気になっていた。

 

鏡の前に立っているのは、

ぶくぶくと膨れ上がった脂肪の塊。

 

怠惰(たいだ)な自分だった。

 

――――――――――――――――――――

 

暴飲暴食を控えた。

徹夜をやめて生活を改善した。

 

朝起きて、夜に寝る。

時間通り過ごす、当然の日常生活を送る。

 

健康状態に問題がなければ、寿命は伸びる。

 

鏡を見て、理想像を考え、自らを律した。

姿勢を正し、運動して、体型を整えた。

髪をとかし、化粧を覚え、服をこしらえた。

 

イノシシのような体中のムダ毛を抜いた。

 

他人との交流を増やし、会話をし、

話に変化をつけて和ませ、信頼を得る。

 

いくつかの失敗をして、修正を繰り返せば

そこから成功が生まれ、自信が身につく。

 

判断・行動・評価の繰り返し。

 

直接交渉を行い、自分の能力を売り込む。

多くの資金を集め、巨大な企画を立てた。

 

見合った商品は既に用意してある。

資金があればさらに巨大な商品が用意できた。

 

私の過去には大きなつまずきがあったが、

それを乗り越えて多くの人に支えられて

ここまで辿り着いたのだと感慨(かんがい)(ひた)る。

 

40歳になってようやく私は、自分を確立できた。

 

こうして私は転府に初めての

『動物園』を作り上げた。

 

ここから私は再び道を踏み外す。

 



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0.4:タヌキの皮
04-01:金と銀に朱が交わる


(メートル)ほどの高さのある

円筒状をした黒石の柱が等間隔に並ぶ。

 

石柱の間はケーブルで仕切られ、

内と外との境界を作り出す。

 

親子連れ、夫婦、カップル、それから魔人――

動物の頭などをした〈デザイナー〉らが列をなし、

アーチ状の入り口に吸い込まれる。

 

ネコ、イヌ、オオカミ、イノシシ、タカ…。

 

〈NYS〉の技術によって、

思い思いの頭に変えた〈ニース〉が門をくぐる。

 

門前の時計台から

午後1時を知らせる鐘が鳴り響く。

 

イサムは待ち人らの予定に合わせて

現地に到着したものの、予定の時間を過ぎても

個人端末(フリップ)〉にメッセージさえ来ていない。

 

落ち着きなく周囲を見渡す。

 

個人端末(フリップ)〉をかざし、派手な服装をした

ふたり組の、似たような待ち人の中から

『本人』を探す。

 

『来名コンサート』を明日に控えている、

転府(てんふ)聖礼(せいれい)市の人気歌手ユニット『SPYNG』。

 

彼女たちをコピーする〈デザイナー〉は

男女問わず、『聖礼(せいれい)ブーム』の影響は

恐ろしく広範だった。

 

両手の親指と人差し指で〈個人端末(フリップ)〉を広げて

視界内すべての〈個体の走査(スキャン)〉をしていたが、

〈3S〉を済ませた〈ニース〉ばかりで

目と二の腕が疲れて、手を降ろして休憩した。

 

それぞれ金と銀に髪を染めたふたりの少女。

 

街中でも学校内でも見かけることはあったが、

何組もの来園客を目の当たりにすると

本物の人気の高さを改めて実感する。

 

イサムはそんな光景を眺めながら、

場違いな雰囲気に飲み込まれていた。

 

小さな体に似合わない大きめのデニムパンツを

革ベルトで腰にきつく固定して、

灰色のトレーナーを着て待ちぼうける。

 

あか抜けない服装だと自覚した。

 

役者時代は周囲の人が服について

あれやこれやと意見を聞くことがあったが、

芸能界を離れてしばらく経ったいまになって

恵まれた環境であったと思い返す。

 

そんな現在では、服を買うお金がない。

 

黒い七分丈のスキニーパンツに

キャンディーレッドの派手なスニーカーが、

すらりと長い足から視界に入る。

 

薄桃色のロングカーディガンを羽織った中には、

薄白い肌をした首筋から覗く白色のトップス。

 

みつ編みのおさげにわけた燃えるような赤い髪。

マオがイサムの足元に座って退屈している。

 

手元には赤いリボンを巻いた麦わら帽子の

大きなつばで、顔を扇いで涼んでいる。

 

マオが視線を察してイサムの顔を見上げるので

すぐに視線を逸らし、また周囲を見回した。

 

〈キュベレー〉と同じく第3の目(サーディ)を持つ、

彼女の額にはいつも通りの絆創膏が貼られている。

 

破茶滅茶な状況に憂うイサムは

マオとふたりで『動物園』に来ていた。

 

――――――――――――――――――――

 

ナノとゲルダとイサムの再会、

そしてマオとの出会いは最悪なものとなった。

 

最悪な結果を招いたのは

寝室から出てきたマオのせいか、

それともイサム自身によるものだったか。

 

責任の所在を求めていられる余裕はなかった。

 

ナノは唇を強く噛んでから、

マオを睨みつけて尋ねた。

 

「ユージ、だれ、この人。」

 

「小さなお嬢ちゃん。

 他人に名前を尋ねるのなら、

 まずご自分から先に名乗りなさい。」

 

「おじょ…なんなの、この人!」

 

「ナノさん。海神宮(わたつみのみや)さんも。

 どうしてそんなに突っかかるんですか。」

 

「お子様へのしつけ。」

 

「おこッ…!」

 

「大人げないですよ。」

 

「ユージまで…!

 アタシを子供扱いしないで!」

 

「ユズー。」

 

ゲルダがイサムに呼びかけて、

ナノと自分に向けて指をさす。

 

彼女は仲立ちを求めていた。

 

「はい…。ナノさん、ゲルちゃん、

 この人は、海神宮(わたつみのみや)真央(まお)さん。

 僕の通ってる学校のクラスメイト。」

 

「どうしてそのクラスメイトさんが、

 ユージの家に上がり込んでるの。」

 

「寝室でナニしてたの?」

 

「あッ! まさかエッチなこと?」

 

ゲルダに続きナノまで

イサムに容赦と、突拍子もない質問を浴びせる。

 

「私になにかメリットが…、

 それはたとえばどんなことをエッチと呼ぶのか、

 せっかくだからお姉さんに教えてくれる。」

 

ナノは(あお)られて耳まで真っ赤に染めた。

 

「冗談言ってからかわないで下さい。

 海神宮(わたつみのみや)さん、こっちのふたりは

 ナノさんとゲルダちゃん。

 僕が歌手時代に一緒に活動してた――。」

 

「たしか『SPYNG』でしょ。

 街中で見た覚えがあるもの。」

 

「一緒に活動してたときは、

 『YNG』だったの。」

 

イサムは以前、歌手としてこの3人で、

『YNG』のセンターで踊っていた。

 

人気絶頂であった子役が歌手に転向し、

口パク担当となったのが売り文句だった。

 

役者時代の実績が人寄せとして

申し分ない存在で、客入りも上乗であった。

 

イサムが引退したことにより、

権利の関係で『SPYNG』として

名前を改めてふたりで活動を再開した。

 

「はじめまして。海神宮(わたつみのみや)真央(まお)です。

 ナノさん、ゲルダさん。」

 

さっと握手を求めるマオに、

ナノは渋々とそして力強く手を握り、

ゲルダは素直に握手に応じた。

 

「引っ越しのときにお騒がせしたので、

 朝早くにお礼に上がっていた所を、

 偶然、貴女たちが訪問されたので

 八種(やくさ)くんが私に気を使ったんです。

 やましいことは一切ありませんよ。

 私は。」

 

「含むような言い方しないでください。

 僕だってそんなつもりありませんよ。」

 

マオの言葉に嘘偽りは含まれていないものの、

もっともらしい説明をつらつらと述べる。

 

マオと目を合わせたが、

経緯の説明がややこしくなるので

イサムは仕方なくうなずき会話を続けた。

 

「そう。ふたりとも来るなら

 連絡してくれたらよかったのに。」

 

「サプライズー。」

 

「到着が遅れたから、

 会えるかどうかわからなかったの。」

 

「ナノ、それ。」

 

ゲルダがナノの持っていた手提げ袋を指さす。

 

「そうだ。はい、これ。」

 

「わたしたちからのプレゼント。」

 

「えっ、あ、ありがとう。」

 

「肉味噌かしら?」

 

「それはないですよ。」

 

マオに言われて手提げ袋の中身を見て、

お菓子らしき包装紙にイサムは安堵する。

 

ふたりがそこらで買えるような品物を、

持ってくるとも思えなかった。

 

しかしイサムとマオの通じ合った様子に、

ナノとゲルダが半眼で疑う。

 

「ねえ…。」

 

「ふたりって付き合ってるの?」

 

「そんな訳ない。」

 

イサムは首を横に振ってからマオの顔を見た。

 

彼女のよく言う『メリットがない。』という

強い否定の言葉を期待した。

 

「だったらどうする?」

 

期待とは真逆の返答をしてマオは目元で笑う。

ついさっきもナノを(あお)っていたばかりだ。

 

「そんなのイヤ!」

 

予想通りナノが金切り声を上げた。

 

「ちょっと海神宮(わたつみのみや)さんっ、

 冗談が過ぎますって。」

 

「ふたりはこれを渡しに来ただけでしょ。

 私たちはこれから学校があるから。」

 

マオがこれみよがしに

イサムの二の腕に手を回して見せる。

 

嫌がらせとしか思えない言動の連続に、

イサムは抗議の言葉を失ってしまった。

 

「ウソばっか!」

 

「ナノ~ちょっと落ち着いてね。

 わたしたち土曜日のお昼にお休みだから、

 ユズに遊びのお誘いをしに来たの。」

 

「遊び?」

 

「お誘い。お誘いのお願い。

 どこか連れてって。ユズー。」

 

意気も抑揚もない気だるさの混ざる、

いつもの口調でゲルダがねだる。

 

マオにおちょくられたナノも

やや涙目でイサムを見つめた。

 

「そっか…。どこか…。」

 

3人そろった時間が訪れたことを静かに喜んだ。

 

しかし学校と家の往復で、

名府に越して来て日も浅い。

 

土地に疎い為にふたりを連れて、

遊びに行ける場所はなにひとつ

思い浮かばなかった。

 

なにか案を求めてマオの顔を見た瞬間。

 

「その人も誘うの?」

 

「え?」

 

「彼女なんでしょ?」

 

「違うよ。ゲルちゃん。

 海神宮(わたつみのみや)さんなら、どこか場所ないかなって

 聞こうとしただけ。」

 

「あ、ひょっとして〈3S〉の海神宮(わたつみのみや)家?」

 

マオの名前からゲルダは察して顔を明るくする。

 

名府で〈3S〉や〈個人端末(フリップ)〉など、

社会システムを統括しているのが海神宮(わたつみのみや)家だ。

 

その彼女が転府の〈ALM〉に並ぶほどの

家柄だと気づいたゲルダだが、

ナノの方はさして興味なく聞き流す。

 

海神宮(わたつみのみや)さんは、

 さっさと学校行ったらどうです?」

 

「そうだ、学校。」

 

「送迎の車があるのでご心配には及びません。」

 

海神宮(わたつみのみや)さん、どっかない?

 遊びに行けるとこ。」

 

「それならひとつ、心当たりがあるわよ。

 お土産の肉みそ。」

 

イサムの手にした紙袋を指差す。

 

「肉みそって…? あっ!」

 

彼女が提案した場所は、以前

亜光(あこう)が妹と行った動物園だった。

 

「ボノボ。」

 

マオのつぶやきに反応して、

表情の薄いゲルダの口角が上がった。

 



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04-02:道化を見る少年

いまこうしてふたり、動物園の入口前で、

ナノとゲルダを待っている理由が

イサムにはわからなかった。

 

あの日の朝、マオにはただ

ふたりと遊びに行く場所を

尋ねたに過ぎない。

 

「どうして、海神宮(わたつみのみや)さんまで来てるんですか?」

 

「ゲルダさんからお誘いいただいて、

 無下(むげ)にもできませんし。

 八種くんは不満でしょうけど。」

 

「そこまで思ってませんよ。」

 

ゲルダはマオが海神宮(わたつみのみや)家の人間であることに

興味を持ったのか、熱心に誘った。

 

ゲルダはナノに比べて

他人に対する距離感が非常に近い。

 

「八種くんはふたりとはどういう関係なの?」

 

「知ってるじゃないですか。

 僕が歌手で活動してたときの――。」

 

「それは知ってるわよ。

 八種くんの華々しい過去の経歴なんて調べて、

 今更なにか価値があるのかしら。」

 

「それもメリットですか。」

 

彼女の行動原理になっている口癖を予想したが、

うなずくだけだった。

 

マオは立ち上がって麦わら帽子を被る。

 

「いまの八種くんから見たふたりはなに?

 昔の仲間って? 恋人? お友達?」

 

「小さい頃から見てますし、

 妹みたいな感じですよ。たぶん。」

 

姉ならともかく妹はいないので、

あいまいな返答となった。

 

マオとのこの問答は以前、

駐車場で交わしたものに似ている。

 

「それはどうかしら。

 いまでは彼女たちのが背が高いものね。」

 

マオが帽子を取り、遠くに大きく手を振った。

イサムもふたりの姿を見つけた。

 

「きょうだいに身長って関係ないでしょ?

 ふたりから見た八種くんは、

 お兄さんだって思ってるのかしらね。」

 

マオは口角を上げてイサムを見た。

 

マオの言う通り、イサムは歌手として

活動を辞めたいままでふたりにも会わず、

一切の連絡を断っていた。

 

ナノとゲルダを妹と愛でていても、

それはイサムの一方的な思い込みだ。

 

ふたりにとっては連絡の取れない相手を、

いつまでも兄と慕っているとは限らない。

 

「変な格好ね。」

 

マオがつぶやく。

イサムのあか抜けない服装を見てか、

ナノとゲルダの服装を見てか。

 

「仕事押してて遅れちゃった。」

 

「マオさん! ユズー!」

 

合流早々ゲルダはマオに抱きついた後で、

再会時と同じくイサムにも抱きつく。

 

イサムはふたりに〈個人端末(フリップ)〉を

かざさなくても本物だとすぐにわかった。

 

「明日『来名コンサート』なのに、

 抜けてきて大丈夫だった?」

 

「事前に午後だけは許可とったから大丈夫。」

 

「ユズ、ちっちゃーい。」

 

「…ゲルちゃんが大きくなったんだよ。

 それにその制服、どうしたの。」

 

「衣装さんに頼んで借りてきたの。」

 

「遅れた理由はそれ?」

 

「ふふーん。どう?」

 

ふたりが並んでプリーツスカートを

指でつまみ、左右に少し広げる。

 

背筋を伸ばしたまま片足を後ろに

交差させると、もう片方を小さく曲げて

お辞儀(カーテシー)をして見せた。

 

白地で長袖のセーラー服に、

桃色のリボンタイをしており

エナメルの靴を履いておそろいの格好であった。

 

学年を示すバッジはないが、

それはまさにイサムたちが通う学校の夏服だった。

 

「似合う? 先輩。」

 

ナノがからかいながらも照れくさそうに笑う。

 

平日でも学校行事でもないのに動物園で、

学生服を着る選択肢がイサムにはなかった。

 

思えば他所の学校の生徒とみられる

ブレザー姿も散見された。

 

「僕も制服にしたらよかったのかな。」

 

「大丈夫よ。

 八種くんのその格好見て、

 元芸能人だってだれも思わないでしょ。」

 

ナノとゲルダも得心してうなずいた。

 

――――――――――――――――――――

 

ゲルダがマオの二の腕を掴み、

動物園の先頭を歩く。

 

イサムは自らの服装に引け目を感じて

3人とは距離をおいていた。

 

動物園には復元された機械動物が、

自律行動をする様子を鑑賞できる。

 

入り口付近にはサイ、ゾウ、キリンなど

大型の草食動物が展示される。

 

来園客が動物を背景にして、

個人端末(フリップ)〉で撮影をする風景が見られる。

 

女子たちも例にもれず撮影を楽しんでいる。

 

ただし、マオとナノは険悪な雰囲気で、

マオが話を振ったところでナノ側からは

返事以外になにも話さない。

 

入り口で受け取った地図によれば

動物園は3つのエリアに分かれる。

 

動物の展示が最初のエリアに当たる。

 

肉食獣のクマ、ライオン、オオカミ、トラは

大きさと同時に素早く動いて見応えがある。

だが、こちらは女子たちには不評だ。

 

ウサギ、ペンギン、レッサーパンダ、コアラなど

小さな動物の方が女子たちには好評だった。

 

展示の横には見慣れた設備が並ぶ。

 

黒い円筒状の〈3S〉。

吸い込まれるように来園客が入っていく。

 

光も通さない真っ暗闇の出入り口。

 

そこから出てくる〈ニース〉は決まって、

展示された動物の頭で出てくる。

 

キリンの頭でキリンと並び記念撮影をする。

 

この奇妙な光景は〈3S〉を利用できない

16歳未満の観客たちを楽しませた。

 

〈3S〉では人気の芸能人や流行りのモデル、

好きな歌手の顔のコピーにとどまらず、

身長、体重、筋肉量に至るまで思いのままとなる。

 

ナノとゲルダの〈SPYNG〉をコピーしていた

〈ニース〉の来園客たちも記念撮影を済ませれば、

今度は動物の頭に変えて撮影を楽しむ。

 

この動物園での〈3S〉は、人間の頭を

滅んだ動物の頭に忠実に変えられる施設でもある。

 

動物は絶滅した。

 

〈人類崩壊〉と共にほぼすべての動物は、

記録のみの存在となった。

 

ここに展示されている動物は全て

〈キュベレー〉と同じく、

機械で構成されている。

 

転府で機械動物を作り出し、

『動物園』を開き財を築いたのが、

海神宮(わたつみのみや)に古く関わる人物であると

地図の来歴に小さく記されていた。

 

いまでは名府の〈3S〉によって

動物はファッションの一部となった。

 

動物頭の人は、動物頭の人と連れ歩く。

夫婦のようなふたりの姿は、

この名府では普遍(ふへん)的な光景だ。

 

転府出身のイサムは違和感を覚える。

 

かれらはいつ知り合い、どんな経緯で

付き合い始めたのであろうか。

 

顔を変えた〈ニース〉の住人たちは、

自身の本当の顔をどのように捉えているのか。

また、相手の本当の顔は気にならないのか。

 

虚像の顔をした相手。

それはマオが言っていた魔人にほかならない。

ヒトを惑わすもの。ヒトを害するもの。

 

猜疑(さいぎ)に駆られぬ名府の住民たちの考え方が、

越してきてまだ日の浅いイサムには想像できない。

 

園内の大通りを歩くと

動物の頭に変更した〈ニース〉は、

他人に肩をぶつけてしまい

それを隣の人が見て笑う。

 

キリンやウサギなどの草食動物は

頭の左右に目がつくように離れており、

人間や肉食動物の目の位置とは異なる。

 

動物の頭に変えたところで、

視力がよくなるわけではない。

 

肉食動物からの捕食を逃れる為に

広く見渡せるように進化したのだが、

草食動物の頭になった〈ニース〉は慣れずに

前後の距離を捉える普段の感覚を失う。

 

講義ではこれを〈ニース〉症と呼ばれていた。

 

そんな頭でも見事に動き回る

〈ニース〉たちが大広場にいる。

 

こぶし大のボールをひとつ上へ投げては

反対の手で受け取り、さらにひとつ、

もうひとつ、と計4つのボールを

順に投げてジャグリングを見せるウマの頭。

 

2本の棒を両の手にして、

足元から跳ね上げた棒を地面に落とさず

右へ左へ動かして小気味よく叩いて浮かせ、

さらには素早く回転させるキリン頭。

 

頭サイズほどの小さな径の薄い輪をふたつ。

右の腕から左の腕へ、顔の前や後ろへ、

その細い体の上で上手に転がすウサギ頭。

 

大道芸を各々披露する〈ニース〉に人が集まり、

大広場は賑わいを見せる。

 

「八種くん、あれできる?」

 

「目が前についてても

 できないことってあるんですよ。」

 

「それもそうね。」

 

ジャグリングとなると、

ただのキャッチボールとは異なり

運動感覚が求められる。

 

〈ニース〉を駆使する大道芸人たちの横では、

よたよたと歩きや隣人にしがみつく人、

歩くのを諦めた人は地面に寝転がって

笑い続けている。

 

一見すると繁華街の酔っぱらいにも見える。

 

そんな〈ニース〉によってふらつく人に

ナノがぶつかりそうになったとき、

イサムは彼女の腕を引き、

腰に手をまわして避けさせた。

 

イサムの顔を間近に見たナノは、

顔を赤く染めて聞こえないほど小声で感謝した。

 

「どうやら、サクラみたい。」

 

マオがそっとつぶやいた。

 

「てれ、照れてないわよ。」

 

「貴女の話じゃないわ。」

 

マオはイサムに顔を紅潮させるナノを、

桜の花弁と形容したつもりではなかった。

 

「なんの話ですか?」

 

「八種くん。あれ、よく見てて。」

 

マオは大道芸のまわりに集まる

不慣れな挙動の〈ニース〉たちを指さした。

 

いくら目が横についていても、

また例え目を瞑っていても歩けないわけはない。

 

大道芸の手練であるなら目を瞑っていても、

道具を見ることなく感覚で動かせる者はいる。

 

来園客に混じって不慣れな〈ニース〉を装うのは、

おひねりを投じる偽客(サクラ)であり

大道芸を演出する道化(ピエロ)である。

 

マオに言われて、

イサムは意識して道化たちを観察した。

 

かれらは客にぶつかりそうでぶつからない、

ギリギリのところで衝突を回避する。

 

視界が広い分、周囲をよく見ている。

 

また道化同士で舌打ちの音を変化させて、

ぶつからないよう工夫した合図を送っていた。

 

「上手いもんだなぁ。」

 

マオがイサムの顔を一瞥(いちべつ)した。

 

目で彼女になにか言われた気がする。

 

それは額にある絆創膏で覆われた〈サーディ〉に

心を透かされる気分だった。

 

ナノとゲルダのふたりと合流する直前に、

彼女が言ったことを思い返した。

 

「八種くんはふたりとはどういう関係なの?」

 



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04-03:歴史通路にて迷う

来園客は機械動物や〈3S〉で再現された

動物の頭をひと通り楽しむと、元に戻したり

オオカミやキツネなどの人気動物に頭を変更する。

 

マオはともかく、16歳未満のイサムや

年下のナノ、ゲルダが動物園に来たところで

当然ながら〈3S〉を利用できない。

 

ふたつ目のエリアに向かうと、

カップルや親子連れが増える。

 

円形にお店が並び、中央には噴水と

小型の機械動物を触れられる場所があり、

人だかりができている。

 

動物を展示するひとつ目のエリアの次は、

複数の店が並ぶショッピングモールだった。

 

動物の柄が入った服やシカなどの被り物、

カメの甲羅の形をしたバッグ、

デフォルメされたぬいぐるみが売られている。

 

動物頭にした〈ニース〉が、買い物袋を

ツノにさげて運んでいる光景をよく見かけた。

 

ナノとゲルダが服に目移りして立ち寄ると

イサムに似合う服を探し始めた。

 

渡されたのはヒョウ柄やクサリヘビ柄など、

奇抜で不釣り合いなシャツだった。

 

「似合う似合うー。」

 

「カッコいいよ、ユズ。」

 

「八種くんはそういうの似合うのね。」

 

海神宮(わたつみのみや)さんまで乗って来ないでくださいよ。」

 

3人は仲良くイサムをもてあそぶ。

 

服のセンスに関してイサムは、

不満を言えた立場ではなかった。

 

荷物が増えることを懸念して

買い物は後回しに、3つ目のエリアに進む。

 

――――――――――――――――――――

 

3つ目のエリアに入ると露骨なほど人は減る。

 

ショッピングモールより奥は屋根付きの通路で、

展示によって扇状に枝分かれする。

 

通路の壁面には〈人類崩壊〉以前に記録された

動物の映像が映し出される。

 

『歴史通路』と呼ばれるこのエリアは、

動物と人間の歴史を学ぶ為の

教育向けの施設となっている。

 

そのため、学生服姿の来園客もいた。

 

奥へ行くほど迷路のように入り組むが、

案内表示は天井に施されていて、

入り口もひとつなのでまず迷いはしない。

 

「イヌっていっぱいいるのね。」

 

ナノが通路の壁面が埋まるほど貼られた

イヌの写真を天井近くまで眺めて口を開けた。

 

「1000種類だって。」

 

「そんなにいっぱい?

 なにする生き物なの?」

 

「元は人間の狩猟の手伝いをする為に、

 オオカミから飼いならされた最初の家畜よ。」

 

「家畜…?」

 

「人間が生活する上での…そうね、

 いまで言う〈キュベレー〉のような

 パートナーと例えれば聞こえはいいかしら。

 品種改良の結果ね。狩猟から始まって、

 賢い個体に他の家畜の見張りをさせたり、

 体の大きな種なら荷物を運ばせられる。

 警戒心があるから家の警備に広く使われ、

 やがて愛玩動物に変わったわ。

 増やしてさらに小型化すると商品になる。

 貴重価値を高めれば所持品みたいに

 個人のステータスに変化する。

 結果、自然では生きられなくなったわ。」

 

「マオさん詳しいですね。」

 

マオの言う通り、展示された

入り口近くの動物には

改良という単語が頻出(ひんしゅつ)する。

 

展示の入り口はイヌに始まり、

食料などを食い荒らすネズミを

駆除するためのネコに続く。

 

ネコもまた愛玩動物として品種改良がなされ、

毛のない種類まで作られた。

 

イノシシはネコと同じように濃い体毛を失い、

ブタとして畜産がはじまり食肉に。

ニワトリは食肉の生産性を高めるために

ブロイラーへと改良された。

 

人との生活に長く関わっていた家畜だが、

環境変化に伴い絶滅に(ひん)した人類は

〈NYS〉によって危機を脱したものの、

ここに掲載された全ての動物は

種の保存が間に合わなかった。

 

展示の入り口からは食料となった家畜、

人間の生活を支えたウマなどの使役動物、

農作物を荒らす害獣や生命を脅かす肉食獣、

実験を目的とした動物など多岐にわたる。

 

さらに鳥類、水生生物、爬虫類と昆虫類、

寄生虫、菌など…展示の通路は奥へ行くほど

複雑になる。

 

全てを見るには何十年もかかりそうな、

地味に大掛かりな仕組みの施設だ。

 

「ほら、ふたりともあれ。」

 

「なんですか?」

 

「ちょっとなに見せてるの!」

 

「なにって、ボノボ。」

 

「わぁ、これ本当にオス同士なんだ。」

 

「こんなの見てたら、

 アタシたちのイメージが崩れるでしょ!」

 

「同性同士なんて、人類の歴史よりも

 以前からある自然的な行為よ。」

 

「そうは言っても…!」

 

突然マオによる女子向け一般教養が始まり、

3人仲良く映像を見て盛り上がる姿を

イサムは黙って遠くから眺める。

 

密かに危機感を抱いたので、

こうした場合は関わらない越したことはない。

 

亜光はよく妹と来園しては回るらしく、

『ストーカー』などの語源というムダ知識を

ここで仕入れてくるようだ。

 

「なんかこれぐるぐるしてるよ。」

 

ゲルダが映像を眺めてイサムに呼びかけた。

 

それは土色の体毛をしたタヌキの映像だった。

 

小さな部屋の隅に設けられた

小さな人工の水たまりをずっと歩き回る、

小さな1匹のタヌキを不思議そうに見つめる。

 

常同(じょうどう)行動…って

 環境ストレスだって。」

 

ナノが解説を読み上げた。

 

「ヒトが種の保存を名目に押し込んだものね。

 この動物は頭数が多くヒトの役には立たない。

 希少性や有用性など優先度が極めて低いから、

 劣悪な環境でも耐えられると思ったんでしょう。

 あとは記録を取得して、

 寿命で尽きるまで観察するだけ。」

 

「ひどい…。」

 

「動物の種を守る目的が、

 いつの間にかすり替わったのよ。」

 

「そういうものなんですか?」

 

「よくある話よ。

 ここで見たでしょ、機械動物。

 ヒトと共存、共栄できなかった動物が、

 あの見世物。」

 

動物の動画は大量に残っているが、

いずれも〈人類崩壊〉以前のものだ。

 

プロがカメラで撮ったものから

定点カメラ、素人の撮影によるものまで。

過去の動画は誰にでも解放されている。

 

この『歴史通路』で展示されている動画は、

野生の生態を観察して編集されたものの他に、

解説には〈人類崩壊〉以前の記録として

種の最後を撮影した動画であると記述されていた。

 

「伝承ではタヌキはヒトに化けたそうね。」

 

眉唾(まゆつば)なつぶやきをしたマオが、

なにか言いたげに見つめている。

 

「なんですか?」

 

「それにこの子は八種くんに似てるわね。」

 

「似てませんよ。いやどこが似てるんですか。」

 

「小さいとこ?」

 

「それなんにでも当てはまりますよ。

 いや、僕はこんな小さくないです。」

 

マオの言いがかりに近い指摘に、イサムは

否定にさらなる否定を重ねて抗議した。

 

――――――――――――――――――――

 

「ユージ! ちょっとこっち来て。」

 

ナノが通路の奥で手招きをする。

呼ばれたイサムは彼女の後についていく。

 

マオも奥へと進もうとしたところを、

ゲルダに腕を掴まれた。

 

「なに?」

 

「マオさんって、

 ユズとどういう関係なんですか?」

 

ゲルダが真剣な眼差しをマオに向けた。

 

そっくりの質問をマオは少し前に、

イサムにしていたことを思い出す。

 

ナノが見ていた映像は、タヌキによく似た

縞々の尾を持つ動物だった。

 

「さっきと似たような動物だ。」

 

「ユージ。あのね…。」

 

ナノは急に声のトーンを落として、

向き合ったイサムの両手を強く掴んだ。

 

「ユージ、アタシたちと

 もう一度『YNG』やらない?」

 



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04-04:拒絶

物心つく前から芸能活動していたイサムは、

11歳になってひとつ年下のナノとゲルダと共に

『YNG』というユニット名で歌手活動を始める。

 

歌手活動を始める以前は父方の姓を名乗り

灯火(ともしび)ユージ』という芸名でデビューし、

5歳のときにハムの広告動画で一世を風靡(ふうび)

 

数々のドラマ・映画から出演依頼を受け、

名子役として業界のみならず大衆に広く知られた。

 

引く手あまたであったユージの出演料は高騰した。

 

依頼が減ると、母親の提案で

歌手への方針転換を図る。

 

新たに事務所を設立して、芸名も母方の姓から

九段(くだん)ユージ』に変更した。

 

役者として舞台で多少は歌う場面もあったが、

ユージはリズムに合わせて激しく踊るのが

不慣れであった為に長期間の特訓を要した。

 

もとより運動神経はよくなかった。

 

特訓の成果はあり、基本的なリズム感、

ダンス力を身につけたものの、

今度は歌いながら踊る技術力の課題が残った。

 

スタミナもなかった。

 

そこで母親が支援していた振付師の案で、

ユージは『口パク担当』をおおやけにする。

 

役者から歌手へと方針転換を提案したのも、

この振付師の男によるものであった。

 

話題の子役が(別途収録した)持ち前の歌唱力と

見事なダンスを披露し、歌手としてのデビューは

両親の想定通りに成功した。

 

それから2年、ユージの両脇をサポートする

ナノとゲルダと共に転府の各地を巡って公演した。

 

しかしある事件を境に、

ユージは舞台から姿を消した。

 

予定していた公演はすべて中止になり、

両親は離婚を発表した。

 

原因は出演料の配分で揉めた両親の

離婚に関係があると報じられたが、

情報は一切公表されなかった。

 

ユージは芸能界から姿を消し、

モデルの姉の保護下で『八種イサム』と

姓を変えて過ごしていた。

 

『YNG』の活動に終止符を打ったのは

すべてイサムが原因であり、雲隠れした事実に

ずっと強い罪の意識を抱えていた。

 

――――――――――――――――――――

 

ゲルダに二の腕を捕まれたマオは、

長椅子に腰かけて質問に沈黙で答えた。

 

マオにとってイサムはなにか?

 

その答えは彼女自身も模索している最中であった。

 

「わたしたちは突然ユズと引き裂かれたんです。

 いま活動している『SPYNG』の元になった

 『YNG』の産みの親で、ユズの両親は

 離婚してお姉さんが保護者ってややこしい話で。

 ユズの戻れる場所がなくならないようにって、

 それでナノとふたりでいまも『SPYNG』を

 続けてるんです。」

 

ある日突然、ふたりの真ん中に立っていた

『ユージ』はいなくなった。

 

「原因は?」

 

ゲルダは首を横に振る。

 

契約の解除となっただけで、

ナノもゲルダも原因は未だに知らない。

 

理不尽な結末に『ユージ』を憎んだこともあった。

 

いち時は感情的になって

泣いてわがままを言ったが、

2年の歳月は彼女たちを

少しだけ大人にした。

 

「お姉さんは、ユズは重たい病気だって。

 すごく謝ってくれてた。けど…。」

 

イサムを引き取ったモデルの姉が間を取り持った。

それでも取り残された本人たちは

納得がいかなかった。

 

彼女たちが、イサムと共にマオを動物園まで

誘い出したのには理由がある。

 

マオは『ユージ』ではなく、

いまの『八種イサム』を身近に知っている人物。

 

そしてゲルダがマオを引き止めたのは、

イサムとナノをふたりきりにする為だった。

 

「八種くんを取り戻しに来たの?」

 

マオの予想にゲルダは首を横に振った。

 

「ユズはもう、わたしたちを、

 忘れたがってるんだと思ってます。

 でもそんなの確認できなくて、怖くて。」

 

「少なくとも嫌がってはないわね。

 それは本人に直接聞いたから。

 あと八種くんって、いわゆる

 鈍感ってやつなのかしら?」

 

ゲルダは首を縦に振った。2度、力強く。

 

「うん。そうなの。ユズは鈍感。

 たぶん好きな人がいて…でもいいんです。

 わたしたちの前を去ったのはユズの意思で、

 いまのユズの生活を奪おうなんて

 思ってません。」

 

「それ本当に、八種くんの意思かしら。

 貴女の想像の中の八種くんよ。」

 

「それもそうですね。

 ユズはわたしたちを迎え入れてくれた。

 でも…変ですね、ずっと一緒だったのに、

 もう遠い人みたいなんです。」

 

「遠い? それは住所が?」

 

マオの疑問にゲルダは耐え切れず

お腹が痙攣するほど笑う。

 

「ふ。なんですか、それ。

 そういうのじゃなくて、

 わたしたちとの心の距離です。」

 

「ココロ…。」

 

ぼかした言い方をされて意味を少し考えた。

 

2年を共にした人物が忽然(こつぜん)と姿をくらまし、

1年以上も連絡を取らなかった。

 

イサム(ユージ)がいなくなってもなお、

歌手として活動を続けるふたり。

 

彼女たちはいまも戻ってくることを、

心のどこかで願い信じていた。

 

――――――――――――――――――――

 

タヌキに似た動物が、

後ろ足で立って歩きながらカメラに向かい

歯茎をむき出しにして鋭い牙を剥く。

 

イサムはナノの質問を予想して

ずっと考えていた。

 

それは既にマオから同じ質問を受けていたからだ。

 

ナノに請われ『SPYNG』に合流し

再び歌手活動をするのか。

 

突然辞めた自分が、気軽に戻って

いい場所ではないように思えた。

 

「ナノさんは、困るでしょ。」

 

「…困らないよ。」

 

「でも期待には応えられない。」

 

「ユージがいなくなって、

 ユージの為の『YNG』だったのに。

 アタシたちが背負い続けたんだよ。」

 

「そうだね。

 ふたりには謝りきれないと思ってる。」

 

「だったら。また一緒にやろう。」

 

「でも、

 ふたりの真ん中にまた立ちたいとは

 思わないんだ。」

 

いまはふたりの活動にさえ目を背けている。

ただそれは、イサムの口からは出なかった。

 

「どうして?

 ユージはアタシたちがずっと憧れてて、

 一緒になって頑張って来たのに。」

 

「もう期待には応えられないんだ…。」

 

ステージの上に立つ光景は、

いまでも鮮明に思い出せた。

 

舞台にあがり羨望の眼差しを受ける。

芸能の世界はそれほど蠱惑(こわく)的なものだった。

 

するとイサムは手が震え、声が震えた。

 

「あの、人の目が、怖いんだ。」

 

目を閉じると浮かぶ、

全身を照明の強い光に照らされる。

 

反響する歓声と、

いくつかの女子たちの目線。

 

視界が媚びるような目と口に囲まれる。

手足を捕まれ、腹を強く押し付けられる。

 

わき出た汗が背筋を()う。

 

頭からサッと血の気が引き、

まともに立っていられなくなり

近くの手すりにすがってひざまずいた。

 

息が浅く、乱れ、苦しい。

イサムは恐怖に駆られる。

 

込み上げる吐き気と締め付けられる頭痛に、

まばゆい照明は消えて暗闇の中で

意識を朦朧(もうろう)とさせた。

 

「ユージ!」

 

ナノの金切り声に、近くの長椅子に

腰かけていたマオとゲルダも駆けつけた。

 

「ユズ!」

 

「大丈夫よ。落ち着いて。」

 

マオは慌てふためくふたりに言い聞かせ、

背中をさすって逆流した胃の内容物が

気管に詰まらぬように吐き出させる。

 

厚く折りたたんだハンカチを噛ませて

舌を抑え、気管に指を突っ込んだ。

 

異物に対する反射で吐き出させたら

身体を左向きに寝かせて、

足を曲げさせ筋肉の緊張をほぐす。

 

額の絆創膏を剥がして第3の目(サーディ)

鼻や喉の奥、気管を覗き見る。

 

気を失ったが正常に呼吸をしている。

過剰なストレスによる失神。

 

それからマオはイサムを仰向けにすると、

ベルトに手をかけてズボンを緩め始めた。

 

「ちょっ!」

 

「ナノ。」

 

目の前でイサムが倒れたことで

一番気が動転しているナノに対し、

ゲルダは抱きついて彼女を抑える。

 

マオはズボンのボタンを外し、

イサムの両足を開いて

足を腰の高さまで持ち上げた。

 

イサムの両足をかかえる。

 

血が脳へとじゅうぶん巡るようになり、

イサムは意識を取り戻しはじめた。

 

目の焦点が徐々に合うと、足先にある

朧気(おぼろげ)だったマオの顔が判然としてくる。

 

しばらく見つめ合って意識が鮮明になり、

イサムは自分の足を持つ彼女に目を見開いた。

 

口元にはだらしなく胃液混じりの唾液(だえき)が垂れ出て、

マオのカーディガンの胸元を汚していた。

 

「わっ! ちょっと、離してください。」

 

言われた通りにイサムの足を下ろすと、

彼はゆっくりと立ち上がった。

 

だがベルトとボタンを緩めたズボンはずり落ちた。

 

「あわっ!」

 

「大丈夫? よね。」

 

「はい。ちょっとだけそっとしてください。

 すみません。服、汚しました。」

 

「拭けば気にならないわよ、こんなの。」

 

鞄から真新しいタオルを取り出してぬぐう。

折り返してイサムの口元にも差し出した。

 

「体調悪いヒトもいるし、もう帰りましょうか。」

 

「すみません。なんか。」

 

口元をタオルで拭いながら、

自分の情けなさにイサムは少しだけ涙ぐんだ。

 

ナノもゲルダも、

こんなイサムの姿を見るのは初めてだった。

 



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04-05:似ている動物

「『SPYNG』はもう解散するの。」

 

「は?」

 

「ユズ、驚いた?」

 

ナノの告白に、イサムは驚くと同時に

罪悪感が蘇ったが、嘔吐(おうと)は催さなかった。

 

イサムは長椅子に座って体調を戻し、

マオから渡された水筒から水を貰って休んでいる。

 

「ユージのせいじゃないよ。

 そりゃユージいなくなって

 ファンは離れちゃったけどね。」

 

困惑するイサムを見て、

ナノはいたずらっぽく笑ってみせた。

 

「空席はもう全部アタシたちのファンで

 埋まったから、ユージの場所はもうないよ。」

 

「わたしたちは来年受験があるから。」

 

「それに高校入っても次は大学受験。

 それじゃあちゃんと活動できないからね。」

 

「そういうこと。」

 

ナノとゲルダは顔を見合わせて笑顔を向けた。

 

どこかへ行っていたマオが、イサムたちが

休んでいた『歴史通路』に戻ってきた。

 

手には買い物袋を下げている。

 

「八種くん、これ着替え。」

 

服を吐瀉物(としゃぶつ)で汚したイサムに渡されたのは、

タヌキの顔がプリントされたシャツだった。

 

マオもイサムの吐瀉物(としゃぶつ)で汚された

桃色のカーディガンを脱ぎ、

購入した同じタヌキの絵が描かれた

大きなシャツを上に着た。

 

「ズルい!」

 

「なにが?」

 

「ペアルックだー。」

 

「ふふ。

 それ言うと思ってね。ふたりにも。」

 

抗議を始めたナノと羨むゲルダを、

マオは見越していたので用意したシャツを渡した。

 

しかしシャツにプリントされた絵は、

尻尾が縞々で後ろ足で立って

歯茎をむき出しにする凶暴な動物。

 

目の周りの黒い模様が繋がっており、

タヌキとは見た目が微妙に異なる。

 

「ねえ、これ一緒の動物?」

 

「タヌキじゃないじゃない!」

 

「在庫切れみたいだったから。

 類似品ならいいでしょ。」

 

「類似品とわかって買ってきたんですか。

 海神宮(わたつみのみや)さん。」

 

「よかれと思って?」

 

「なんで疑問形よ!」

 

不満で抗議したナノだったがすぐに諦めて、

シャツを両手で抱え、大事そうに胸に抱いた。

 

――――――――――――――――――――

 

夕方にしてはまだ明るい空のもと、

迎えの車を待つ列をナノが指さした。

 

「じゃあここで、さよならね。」

 

イサムはまたゲルダに無言で抱きつかれたが、

それを見たナノも彼女に続いて抱きついてきた。

 

「それじゃあ、ふたりとも。元気で。」

 

「酸っぱくさい。」

 

「ね。」

 

「そろってそんなこと言わなくても。」

 

結局イサムは着替えなかった為に、

吐瀉物(としゃぶつ)と汗が染みたトレーナーのままで

一番嗅がれたくない状態だった。

 

「ユージ、今日は楽しかったよ。

 久々にいっぱいおしゃべりできたし。」

 

「これから大変だと思うけど。」

 

「ユズがいなくなった日に比べれば。」

 

「そう。あの日はホントに大変だったなぁ…。」

 

ふたりは別れを惜しんでいたが、

やはり1年半の空白は埋まることなく

やがて会話が少しずつ減っていった。

 

「受かったら合格祝いしてよ。」

 

「わかった。」

 

「マオさんと4人でね。」

 

「そうだね。海神宮(わたつみのみや)さんと。」

 

ナノとゲルダはイサムたちをからかう。

 

巻き込まれたマオに視線が集まるが、

彼女はうなずいて答えた。

 

「確約はできないけどね。」

 

――――――――――――――――――――

 

ナノとゲルダを乗せた車を見送って、

帰りはマオの送迎用のセダンに乗せられた。

 

一度は断ったが、

メイド服の〈キュベレー〉に担がれ

無理やり乗せられそうになったので、

渋々と乗ることを承諾した。

 

「せっかく買ったのに。

 それ、着ないの?」

 

「やっぱり、においますか?」

 

マオは首を横に振った。

それからひと言だけつぶやいた。

 

「ほら、ペアルック。」

 

「そんなことを?」

 

思わぬ方向で変な期待をされたイサムは、

車内にも関わらず少し大きな声で驚いた。

 

今日は何度か服装に干渉を受けたので、

自分でちゃんとした服を買おうと決心した。

 

しかしイサムに服を買うお金はない。

姉だけが頼りだった。

 

「お姉さんは八種くんの様子見に来ないの?」

 

「え…どこでそれを?」

 

「ゲルダさんが気にしてたので。」

 

「あぁ、ゲルちゃんか。姉はどうかな。」

 

姉のことを想像して、言葉を紡ぐ。

 

「モデルであちこち飛んでて忙しいから、

 こっちにはあまり来ませんけど。

 連絡はよくしてきますよ。

 ちゃんと勉強してるかって、口酸っぱく。

 学費と生活費を負担して貰ってる身分で、

 亜光と貴桜たちが憧れるような

 自由なひとり暮らしなんてしてませんけど。」

 

「あっ。」

 

「どうしました?」

 

「ふたりにお土産買うの忘れてたわ。」

 

マオがイサムの持っているシャツを指さす。

 

「あー…。あのふたりにそんな気遣いはー…。

 肉みそでいいんじゃないですか?」

 

「それ、八種くんが欲しいだけでしょ。」

 

図星にイサムはうなずきながら、

今日の夕食の献立を考えていた。

 

「ところで、

 ずっと気になっていたんだけれど。」

 

「…なんでしょうか。」

 

深妙にするマオからの質問に、

イサムは少し警戒して表情を強張らせる。

 

「どうして八種くんは

 ナノさんをさん付けで、

 ゲルダさんはちゃん付けなの?」

 

「今更ですね。それ。」

 

イサムはこれみよがしに咳払いをし、

これからいかにも大切な説明をする

かのような素振りをしてみせた。

 

「出会った頃からふたりはずっと

 あんな感じの距離感だったんですよ。

 ナノさんは自分に厳しく刺々しく見えますし、

 ゲルちゃんは見た目淡白なのに人懐っこい。」

 

「表面上はそう見えるけれど、

 中身はお互い反対にも見えたわ。」

 

思いがけないマオの意見にイサムは嬉しくなり、

顔を見て強くうなずいた。

 

ナノはプライドが高く、自省心が強いものの、

時折り強く甘えるような態度を取る。

 

ゲルダは人との距離が近いが、

その実は入り込み過ぎない警戒心を持つ。

 

「なのでナノさんは変に馴れ馴れしくせず、

 ゲルちゃんも出会った頃の流れで、

 ちゃん付けを強要されただけですね。」

 

「あぁ、そう。」

 

その言葉に残念そうな顔を向けたマオは、

イサムを見たまま少し黙った。

 

マオはゲルダとの会話を思い出した。

 

「ユズは鈍感。

 たぶん好きな人がいて…。」

 

ふたりの話をする中で、ずっと避けていた

彼女たち『SPYNG』の行く末を知った。

 

突然いなくなった過去の罪悪感は薄れ、

自分が捕らわれていた『ユージ』の名から

少しだけ決別できた気がする。

 

「…うん。」

 

イサムはマオから貰ったシャツの、

プリントされた絵を眺めてただうなずいた。

 

「なんでタヌキなんですか?」

 

「似てるから。」

 

「…うん?」

 

自信たっぷりの彼女の言葉に、

僕はふたたびうなずきかけた。

 



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00-16:孤独の中で

孤立した私を救ったのは、

タヌキという名前を持つ種のイヌだった。

 

動物に興味が湧いたのは母の仕事の影響からか、

それとも叔母(おば)から貰ったぬいぐるみの影響か。

 

周囲から拒絶された私は

叔父(おじ)の言う通りだったのかもしれない。

私が立ち直るのは難しかった。

 

そんな私が社会に復帰する為に

〈ALM〉が用意したのが動物の映像だった。

 

〈NYS〉によって絶滅を免れた人類だが、

他の動物は環境耐性を持てず間もなく絶滅した。

 

〈人類崩壊〉はそれほどの惨事(さんじ)であった。

 

〈ALM〉が見せた動物の映像は、

過去に人類が保管(アーカイブ)したものだ。

 

幼い頃に母の仕事をマネしたことを思い出し、

治療予想通り私のストレスは徐々に軽減された。

 

それから動物に興味を懐き、

動物に関わる仕事をしようと考えたのは、

成人してもしばらく経った後だった。

 

私の人格が成長するには、

他の人よりも時間を要した。

 

そのため私には生活補助の為に、

同じ背丈の〈キュベレー〉を与えられた。

 

白い顔の大きな黒色の3つの目を持つ機械人形。

 

〈キュベレー〉は日常生活には欠かせない

パートナーとして一般に普及している。

 

食事や掃除などの家事全般はもちろん、

命じれば庭の手入れや車の運転まで自在にこなす。

 

HMD(ヘッドマウントディスプレイ)を使えば家人が外出しなくとも、

遠隔で手軽に代わりを務められる。

 

しかし一般的な生活を送ってこなかった私は、

目の前にあてがわれた機械人形の対処に困り、

壁を向いてじっとして貰うほかなかった。

 

それはむき出しの関節に

不安を抱いたという理由でしかなかった。

 

せめて服ぐらいは着ていてほしい。

 

部屋の隅に居座る〈キュベレー〉に

慣れるにも時間がかかった。

 

学生という身分と

学業という日課を失ってからは、

調子を崩すことも多かった。

 

そんな日は寝転がって

動物の動画を眺めるのが決まりとなる。

 

私は過去の動物を見ながら、

ひとつのことを考えついた。

 

機械動物を作ろう。

 

なんでもいい。

両親に会うきっかけが欲しかった。

 

両親には何通ものメッセージを送ったものの、

返事は一切得られなかった。

 

隔絶された治療部屋の中は息苦しく、

両親と面会もできない状態だった。

 

動物の動画から動きのパターンをいくつか出し、

骨格に人工筋肉を取り付けそっくりのものを作る。

 

それは中学校を卒業したばかりの私でも、

とても簡単なものに思えたからだ。

 

学校に通わなくなり時間はじゅうぶんにあるので、

計画を立ててじっくりと取り組める。

 

まずはそのためにイヌの資料を集めて

動きを調べたが、種類が多大で混迷(こんめい)を深めた。

 

まだ16歳の私が動物の行動を

解読するには極めて難題であった。

 

しかしイヌの仲間にあたる

タヌキという種族は、単純な動物だった。

 

ずんぐりとした体型で、

顔には特徴的な模様がある。

 

餌を求めてのそのそと歩き回り、巣穴で寝る。

およそ野生環境を生き抜いたとは思えない見た目。

 

イヌの仲間だがあまり人の命令を理解せず、

車のヘッドライトに驚くと擬死(ぎし)で硬直するなど、

非常に愉快な動きをする。

 

そんなタヌキの行動パターンを抽出して、

動物の動きに変換する。

 

またタヌキはイヌの仲間なので、

事前に集めた資料から作成した項目を転用した。

 

ラジコンのように遠隔で操作するのではなく、

自律した判断・行動・評価、

そして学習をさせるのが目標だ。

 

HMD(ヘッドマウントディスプレイ)で操作できる動物など、

〈キュベレー〉と変わらない人形になってしまう。

 

しかし自律させるには私だけでは限界があり、

適したのが〈キュベレー〉の計算能力だった。

 

放置していた〈キュベレー〉に、

私の収集したい数千項目にもおよぶ

イヌの習性や行動パターン、運動時の

肉体や内臓の動きなどの細かなデータを、

タヌキの動画や研究資料から集めさせる。

 

それと〈キュベレー〉には女中(メイド)服も着せた。

私の最初で最後の助手の完成。

 

私自身、様々な動物を見て

資料集めに1年かけたこの項目だが、

〈キュベレー〉はものの数分で終えてしまった。

 

私が想定していた以上に、

タヌキという動物が単純明快な動物だった。

 

事前にイヌで調べた必要な項目は、

タヌキではほとんどが空白に終わる。

 

〈キュベレー〉自身に、〈ALM〉の持つ

動物の情報が備わっていて処理も早かった。

 

しかし後に判明したことだが、

〈ALM〉にあるタヌキの情報は、

野生環境に比べて変化に乏しかった。

 

飼育環境に置かれたタヌキは、ストレスにより

常同(じょうどう)行動を見せる種であった。

 

天然の動物の動きに慣れた状態で見比べると、

観る人に不安を与えるでき上がりとなった。

 

組み上げたタヌキの骨格に

出力した光学センサや機関等を設置して、

対応した人工筋肉を張り巡らせる。

 

やや奇妙な造形でも〈キュベレー〉に

生産させた毛皮を融着させれば、本物の

タヌキそっくりの機械動物が完成した。

 

皮についた体毛もセンサになるので、

毛を1本でも引っ張ればタヌキは反応する。

 

何度かのテストや修正を繰り返して、

ようやく納得のいくタヌキの機械動物が

完成する頃には私は成人を迎えていた。

 

気づけば4年の月日が流れていた。

 

タヌキづくりに没頭すれば、

私のストレスは収まっていく。

 

長い長い治療期間を終えて、

タヌキの機械人形を抱えた私は生家に帰った。

 

まだ純粋だったこの頃は、

両親が私の帰りをきっと喜んでくれる

と期待していた。

 

タヌキの機械動物のできを、

褒めてくれると思っていた。

 

けれども、家は跡形もなくなっていた。

 

〈ALM〉に確認したところ、

成人した私に両親は親権を放棄していた。

 

足元に落とした機械が鳴いた。

私はまたひとりになった。

 



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0.5:水と洞
05-01:姉ハルカ


夏期休講を目前に控えた金曜日。

 

高校入学からすでに3ヶ月が過ぎ、

途中暴力事件を起こして謹慎などもあった。

 

頼もしいクラスメイトのおかげもあり、

追試もパスして無事に1学期を終えられる

目処が立った。

 

その間にイサムの噂話は盛りに盛られた。

 

姉をマネする〈デザイナー〉に向かって吐いた。

3年生の〈パフォーマー〉に暴力を振るう。

自宅マンションに近づけば〈更生局〉送り。

〈ALM〉の偉い人間と関わりがある。

カフェは一見さんお断りで顔パスのタダ食い。

金髪逆毛の危険な不良との付き合いがある。

複数人の女性とのデートが目撃されている、など。

 

これら全ては頼もしいクラスメイトであり、

メガネに坊主頭の発信元から

直接聞き出したので間違いない。

 

「根も葉もない噂話でも少しの真実を加えれば、

 『その話、知ってる』と言う人があらわれる。

 実際に見た人が身近にいれば話はすり替わり、

 嘘は真実へと都合よく塗り替えられる。

 にわかに信じがたい内容であればあるほど、

 伝播力が高く、その目で見たものを

 人は都合よく解釈し、信じるもんだ。」

 

発信元の亜光(あこう)百花(ひゃっか)はそのように講義したが、

名誉を毀損(きそん)されたイサムが抗議したのは

言うまでもない。

 

もうひとり、亜光に抗議をしたのが

危険な不良とセットにされた貴桜(きお)大介(だいすけ)だった。

 

「オレの名誉は?」

 

「大介はその意味で噂のトレードマークだな。

 『わたし、その不良見たことある。』の典型。

  もともと評価されてないから安心しろ。」

 

「百花…、それ本当かよ…。」

 

「手芸部の連絡網は怖いな。」

 

「つか、なんでんなことしてくれてんの?」

 

「3年生の作った『有事協定』ってのは

 校則を利用した上手い制約だったんだが、

 イサムがその制約を無効にしたせいで、

 恐喝まがいの面倒に巻き込まれたわけだ。」

 

亜光の講義にイサムは強くうなずく。

 

「で、謹慎期間中にも俺も大変だったわけ。

 『ユージくんはなにが好き?』とか、

 『ユージくんは普段なにしてるの?』とか。

 部外の人間が部室に押し寄せてくるんだよ。

 部長にも聞かれたけど。」

 

「オレにはそんなうらやましい話なかったぞ。」

 

「そんなもん(うらや)むな。」

 

「それは、なんか申し訳ない。」

 

「それはそれとして、だ。

 いまのイサムの人気を利用する手はない。

 と思い、俺は一計を案じてあえて

 近づき難い存在に仕立てることにしたのさ。

 それに番犬がいれば誰も近寄らないだろ。」

 

「番犬…って?」

 

動物園で得たイヌにまつわる知識が、

こんな下らない講義で役に立った。

 

身近な番犬のおかげもあり、

警戒されたイサムは今日いちにちを

平穏無事に終えようとしている。

 

「イサムって夏期休講どうすんの?

 あれか? 実家帰る?」

 

「帰らないかな。居場所ないし。」

 

「今日は百花の家あそびに行こうぜ。」

 

「ダメだ。俺のかわいい妹に近づくな。

 ケダモノども。」

 

「教師め。さっさと〈更生局〉に行け。」

 

「なんとでもいうがよい。

 俺が居なくなったら貴様らの課題が

 どうなっても知らんがな。」

 

「人の弱みにつけ込む卑怯者め。」

 

「少しは勉強しようよ。」

 

今日も相変わらず賑やかなふたりを放置して、

イサムの見知った顔が校門で待ち構えていた。

 

「あれ? ハルカさん?」

 

「おう。待ってたよ。」

 

「どうしたんですか、急に…?」

 

学校指定の夏服を着て立っていたのは、

姉のコピーをした〈デザイナー〉ではなく、

イサムの姉本人である八種(やくさ)ハルカだった。

 

〈デザイナー〉ではない姉本人とすぐに気づいた。

 

亜麻色の髪の毛先にパーマがされて、

持ち前の色白な肌と自然色のリップグロスが

年相応に大人びた雰囲気が漂わせる。

 

「どうよ。この髪。きょうだいおそろい。」

 

「年甲斐もなく、はしゃいで。」

 

「こしゃくなことをいいおるわ!」

 

イサムの頭に手を突っ込んで揉みくしゃにした。

 

「なんかの撮影ですか? その格好は。」

 

「わたし卒業生だし、まだ二十歳(はたち)だし。

 これなら全然目立たないでしょ?」

 

「元の素材が際立ってっから無理じゃね?」

 

「だなぁ。」

 

貴桜と亜光もハルカの無理な格好に苦言を(てい)する。

 

桃色の糸で格子柄に紺地の

プリーツスカートは短く、膝上までの

網タイツにはガーターベルトが覗き見え、

現役の生徒の格好にしては扇情(せんじょう)的とも思える。

 

「あら、こんにちは。イサムの友達?」

 

「クラスメイト。亜光百花と貴桜大介。」

 

「俺らはイサムくんの番犬ですよ。」

 

「ははは。それは頼もしい。」

 

貴桜に向けた言葉を亜光は自称し、へりくだった。

 

「はしたない格好を見せに、ここに来たんです?

 ハルカさん忙しいのに。」

 

「休みの合間を縫って駆けつけたのに、

 あぁ、綺麗です…、目がくらむほどお美しい、

 可憐な花のようで、愛おしい…。

 ぐらいのこと言えないの? 元役者でしょ?」

 

「絶句。」

 

「このー。」

 

ハルカはイサムの頭を捕まえて脇で締め付けた。

 

「イサム、服が欲しいって言ってたでしょ?」

 

「メッセしましたね。だいぶ前に…。

 2ヶ月ぐらい経ってませんか?」

 

多忙なハルカのことなので、

忘れていると思っていたイサムだった。

 

メッセージを送った当の本人も、

まったく外出せず体操着で過ごす為に

購買意欲はすでに失われていた。

 

「それで、マオちゃんって子は?」

 

「マオチャン…?」

 

海神宮(わたつみのみや)さんだろ。」

 

「イサムの部屋の隣だっていうじゃん。

 下の名前も知らないの?」

 

「あぁ…。そういう名前でしたっけ?

 それなら。」

 

イサムが目線を向けた先は、

黒色のセダンにメイド服の機械人形だった。

 

「え? 〈キュベレー〉なの?」

 

送迎用の車で待ち構える〈キュベレー〉は、

ハルカを見て深々とお辞儀をした。

 

イサムは妙な気配を感じて身震いした。

 

「どうしたの?」

 

振り向けば燃えるような赤い髪を

後頭部のやや高い位置にひとつに束ねて

ポニーテールヘアにした女子生徒がやって来た。

 

「あ! あなたがマオちゃん?」

 

「はい?」

 

校門で待つ〈キュベレー〉が

車のドアを開けて待つよりも先に、

海神宮(わたつみのみや)真央(まお)はハルカに呼び止められた。

 

「ね、そうでしょ。」

 

「ハルカさん、迷惑かけないでくださいよ。」

 

「えぇー迷惑かけてるのイサムの方でしょ?」

 

それはあくまでハルカの想像ではあったが、

事実の為にイサムは反論の余地がなかった。

 

「ほれみれ。」

 

「クラスメイトの海神宮(わたつみのみや)さん。

 こちら僕の、…姉のハルカさん。」

 

立ち止まったマオを気にかけ、

ハルカが紹介を求めるので

イサムは渋々と従うほかなかった。

 

「はじめまして。八種くんのお姉さん。

 ご活躍は存じ上げています。

 悠衣(ゆい)は芸名なんですね。」

 

マオは3年生との悶着(もんちゃく)の際に、

荒涼(こうりょう)(じゅん)に説明を受けたので知っていた。

 

ハルカは『悠衣(ゆい)』という名前で、

モデル業であちこちを飛び回っている。

 

イサムの保護者になってからは

転府(てんふ)聖礼(せいれい)市で活動することも多い。

 

聖礼(せいれい)ブーム』が起きたことで

元名府の出身だったハルカは珍しがられ、

名府でも引っ張りだこになっている。

 

また短身のイサムの姉とは思えないほど

背が高いので、多くの〈ニース〉が

憧れて〈3S〉でコピーをする。

 

役者やモデルは〈ニース〉ではない。

 

ハルカは名府出身ではあるが、

モデルとして〈3S〉を行っていない。

 

役者やモデルはほぼ必ずと言ってよいほど、

〈ニース〉ではない〈レガシー〉が条件とされる。

 

多くの人間は単純に天然物を好む。

 

〈ニース〉がこぞってコピーをするので、

その数によって〈レガシー〉は格付けされる。

 

多くの〈ニース〉から羨望(せんぼう)を受ける姉が、

なぜか高校の制服を着て目の前に立っている。

 

彼女の制服姿は、動物園に行った

ナノとゲルダが入れ知恵をしたに違いない。

 

イサムの中にあった姉の、

厳格な人物像が崩れ落ちたのを感じる。

 

「わたしのことはハルカって呼んでね。」

 

「わかりました。

 それでなにか御用でしょうか。」

 

イサムは姉に対して渋い顔をして見つめる。

 

満面の笑みを浮かべるこの姉に

居心地の悪さを感じたが、嫌な予感は的中した。

 

「これからわたしたちふたりと一緒に、

 デートに行かない?」

 



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05-02:非合法な誘惑

「お義兄(にい)さん離婚するって。」

 

「あぁ、そうなんですか。」

 

「淡白ねぇ。

 わたしの父親といい、

 イサムのお母さんといい。

 ウチの家系ってどうしてそうかね。」

 

姉の強引な行動によって、イサムは

亜光と貴桜とそのまま校門で別れた。

 

そしてマオの送迎用の車に

(今回はハルカに)押し込まれ、

ハルカが指定した場所へと向かっている。

 

イサムに選択権は与えられなかった。

 

「家系というのは?」

 

「教えてないの?」

 

座席の真ん中に座るハルカが、面倒な説明を

イサムに押し付けるかのように詰め寄った。

 

実際に説明は難しく、イサムは頭をひねった。

 

「えーっと、ハルカさんは…

 アレってなんて言うんですか?

 隠し子?」

 

「私生児ね。

 イサムの父親が不倫してたのを隠してて、

 そんでわたしを娘だと認めてないの。」

 

「ということです。」

 

「省略しない。」

 

「えぇ…。僕は僕で、

 母親の不倫で産まれたんで、実のところ

 ハルカさんとは血が繋がってないんです。」

 

「そうなんだ。似てないと思った。

 髪型はそっくりですけど。」

 

「興味なかった?

 動物園でイサムはどうだった?

 ちゃんとエスコートした?」

 

「デートじゃありませんよ。」

 

「吐いてました。」

 

「あっ。」

 

「やったのかー。」

 

ばつの悪そうにするイサムに、

こんなとき、ハルカは責めようとはしない。

 

彼女はマオと向き合うと深々と頭を下げた。

 

「色々とご迷惑をおかけしております。」

 

「いえ、お気になさらず。2度目ですし。」

 

「そうなの?」

 

「え? あー…。そういえば。」

 

動物園よりも以前に、

駐車場で吐いて倒れていた場面を見られていた。

 

その後にも謹慎に至った事件もあるので、

多大に迷惑をかけたと自覚はしている。

 

「複雑な事情をお抱えしていることは察します。

 おふたりは非血縁者なんでしょうけれど、

 ハルカさんはどうして八種…イサムくんを?」

 

姉が顔をうかがうが、

イサムはうなずくだけで黙った。

 

説明を求められたところで、

実のところ詳しくはなかったせいもある。

 

「さっきも言った通り、ちょっと変でね。

 イサムも知らないでしょうから教えるか。

 お義兄(にい)さんが産まれていまは26歳かな。

 あ、違う。孕んだから結婚したらしい。」

 

「そうなんだ。また下世話な話ですね。」

 

父親は俳優、母親は舞台女優の結婚だった。

 

「最初から無計画なんだよ。あの人たち。

 6年後に、父親の不貞でわたしが産まれて、

 その5年後、今度はイサムの母親が不貞。」

 

「あのダンサーだ。」

 

「そう。『YNG』の振付師ね。

 頭が緩いのか、股が緩いのか、両方か。」

 

ハルカは大きくうなずき、(あき)れながら半笑いする。

 

「おふたりはずっと前からお知り合い?

 イサムくんの保護者となったと

 話には聞きましたが。」

 

「それは一昨年(おととし)くらい?」

 

「だね。

 でもわたしはもっと前から知ってたわよ。

 『毎日ハム食むー。』で名府の事務所に

 入ったもの。」

 

イサムが昔出演した広告動画を

ハルカが見事にマネした。

 

「似てますね。」

 

「やめてください。」

 

「でしょ? でしょー。

 イサムは3歳のときからデビューで

 この業界わたしより9年も先輩なのよね。」

 

初めて見る姉のやった自分のモノマネに、

イサムは顔を覆って羞恥(しゅうち)に耐えるしかなかった。

 

できれば見た記憶さえ消してしまいたかった。

 

「わたしが18のときにイサムの…じゃなかった

 わたしの父親に確認したら認めてね。

 公表には至らなかったけど。

 で、イサムの両親が離婚ってことになったし、

 お義兄(にい)さんの不倫騒動もこのとき、一家大混乱。

 そんでイサムが孤立したからっていう理由で、

 どさくさ紛れで引き取ることにしたの。

 それが一昨年。」

 

「ハルカさんは一昨年の卒業生。」

 

「どう? どう?

 まだ学生で通ると思わない?」

 

「同じ花瓶でも華がよいと、

 花瓶も際立ちますね。」

 

「ははっ。お上手ね。マオちゃんだって、

 わたしに劣るとも勝らないくらい綺麗よ。

 イサム聞いた? あれが褒め言葉。」

 

「いたいんですけど。

 ちゃんと聞こえてますよ。

 なんですか、劣るとも勝らないって。

 負けず嫌いなんだから…。」

 

隣のハルカに全体重を押し付けられて、

イサムはドアとの間に挟まれる。

 

しかし、イサムはあることに気づき、

神妙な顔つきでハルカの顔を見つめた。

 

「どした?」

 

「ハルカさん痩せた?」

 

姉と一緒に暮らしたのはわずか1年余りだが、

離れて過ごすと微かな違いが

いまのイサムには不思議とよくわかった。

 

「イサムに体の心配をされたくはないわね。

 お姉ちゃんもお年頃なので気にするんだよ。

 イサムこそ少しくらい背は伸びた?

 ぶらさがり健康器使ってる?」

 

「伸びてませんね。」

 

イサムがなにか言うよりも先に、

マオに断言されてしまった。

 

彼女の言う通りこの3ヶ月身長は伸びない。

 

ぶらさがり健康器は随分前から使っていない。

いまでは制服かけに重宝しており、動物園で

マオが買ったシャツもそこに挟まっている。

 

ハルカの笑い声を耳にしながら車窓を眺めると、

街中に回転する建造物が目の前に飛び込んできた。

 

「なにこれ…?」

 

「あ、着いたね。

 わたしの第2のふるさと。」

 

そこは学校から車で15分程の繁華街で、

目の前には巨大な観覧車が屹立(きつりつ)していた。

 

――――――――――――――――――――

 

黒色の巨大な支柱に支えられた観覧車。

ゴンドラの最高頂は100(メートル)にも達する。

 

繁華街の中央にある公園の真ん中に建ち、

名府、名桜(めいおう)市のデートスポットにもなっている。

 

周囲には服屋、飲食店、家具屋から劇場、

それから〈3S〉などが充実し、

客層は老若男女を問わない。

 

平日の夕方にも関わらず賑わいを見せる。

 

イサムも名桜(めいおう)市に越して3ヶ月にもなるが、

繁華街にまで出かけることは初めてであった。

 

「こっちよ。」

 

周囲を見渡し呆然(ぼうぜん)としていたイサムは、

ハルカに手を取られて近くの〈3S〉まで来た。

 

「いやいや…。」

 

公園の隅にポツンと立つ〈3S〉。

 

16歳になれば誰でも〈3S〉で

容姿や肉体を変更した〈ニース〉になれる。

 

制約によって16歳未満が入れない施設に、

思わずイサムはハルカの手を拒んだ。

 

「なに照れてるの?」

 

「僕まだ15ですよ。」

 

「知ってるわよ、そのくらい。

 じゃあ、マオちゃん。一緒に行こ。」

 

「はい。」

 

「迷惑をかけないでください。」

 

「素直にお姉ちゃんと手を繋げないからって

 やっかまないでよ。ねぇ?」

 

「それなら私と手を繋ぎますか? ふふ。」

 

「ははは。

 ここは〈3S〉じゃないわよ。」

 

「え?」

 

外見は明らかに〈3S〉にそっくりの構造物だが

出入り口は真っ黒に塗装された扉になっている。

 

『修理中』の立て札が偽装された扉の中には、

地下へと向かう階段が存在していた。

 

「服屋じゃないのは確かね。」

 

「えぇ…と。

 服を買いに来たんじゃなかったんですか?」

 

「服なんていつでもどこでも買えるじゃない。

 それにマオちゃんいるのに、

 イサムの服買うのに付き合わせても

 つまんないでしょ?」

 

「ここは、なんですか?」

 

「わたしも詳しくは知らないけど。

 みんなはここを『非合法地帯』って呼んでる。」

 

静まり返るふたりの反応を見て、

ハルカは口角を上げて肩で笑った。

 



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05-03:迷路に導かれて

地中から湧いた水や雨が集まり、

高いところから低いところへと流れる。

 

水流は長い年月をかけて

岩を砕き、大地を削り、川ができる。

 

その川の近くには文明の跡がある。

 

多くの生命は水を求め、

それから他の生命が糧を得た。

 

川の水質、流れ、大きさや深さは

地域によってそれぞれに異なるが、

(よど)みは等しく存在する。

 

視界を遮る濁った水で

生物は外敵から身を守り、

迷入したものは糧となる。

 

光を失っても優れた感覚を頼りに

糧を得られる種が、生存し、繁栄し、

やがて滅んだ。

 

水が(あふ)れれば生物は行き場を失う。

 

水が(かれ)ればが生命を失う。

 

古代から〈人類崩壊〉を経て、

現代に至るまでそれは変わらない。

 

――――――――――――――――――――

 

地下への入り口となる階段は細く、薄暗い。

 

置き石を詰めた手製の階段に、

壁はコンクリートブロックではなく

赤レンガが敷き詰められていて、

モルタルの亀裂からは水が漏れている。

 

螺旋を大きく描く階段を

時計回りにひたすら降りる。

 

足場は悪く、昇降機(エレベータ)もない。

 

長い階段を終えても通路はまだ続く。

 

細い通路には細かな霧が撒かれ、

小さな照明が光を散乱させ道を照らす。

 

肌に水が張り付く感覚を覚えるほどの湿度。

 

「霧?」

 

「なんですか、ここ。」

 

「〈個人端末(フリップ)〉出してみ?」

 

イサムは首をかしげながら、ハルカの言う通り

個人端末(フリップ)〉を開き、〈個体の走査(スキャン)〉を試みる。

しかし反応しなかった。

 

隣に立ったマオさえ識別しない。

 

「変な場所ですね。」

 

「名府は〈ニース〉特区だから

 だれの情報でも見放題。

 それに悪いことをすれば、

 〈更正局〉に連行される。

 けどここだけは管轄外だって言われてる。

 『非合法地帯』なんて怪しい名前した

 ここは、社会の吹き溜まり。

 ようこそ、悪い子たちのたまり場へ。」

 

振り向いてプリーツスカートを指で摘むと、

お辞儀(カーテシー)をして見せた。

 

「それは大変、面白いところですね。」

 

マオは楽しそうに言った。

 

通路を進むと網目状に分岐している。

 

そんな分岐路でも先を行くハルカは、

迷うことなくこの迷路を突き進む。

 

方向感覚は階段を降りたときから失われていた。

 

「いまどっち進んでるんだろう。」

 

「前でしょ。」

 

「北北西ね。」

 

「よくわかりますね。」

 

五里霧中のイサムのひとりごとに、

マオはさらっと方角を答えた。

 

先頭を歩くハルカは

わざと見当違いのことを言ったが、

イサムは姉を相手にしなかった。

 

「なんでわたしにはなにも言わないのよ。」

 

「じゃあどこまで行くんですかー?」

 

「もうすぐ着くわよ。」

 

通路を曲がるたびにイサムはハルカと

同じやり取りを何度かしたが、

同じような景色が続き、帰り道ももうわからない。

 

人の気配がなく、他の人間に出くわすこともない。

 

「どうなってるんだろう。」

 

「八種くん、上。」

 

「あ…。」

 

通路の天井には人の気配に塗料が反応して

青色の光をほのかに発している。

 

分岐点には赤色、黄色、緑色、紫色など

目的地に合わせて塗料が付着していた。

 

「なるほどなぁ。動物園と同じか。」

 

扇状になっていた動物園の『歴史通路』の天井ほど

親切な案内表示ではなかったが、

ハルカが迷わず移動できた仕組みが理解できた。

 

「ちぇっ! もうバレたか。

 これならイサムひとりでも来られるでしょ。」

 

「そうまでして来たくなるところですか?」

 

「それはイサム次第よ。

 ほら。着いた。」

 

何度目かの通路を曲がると雰囲気は一変して、

寒々しい青色の照明が霧を照らす広い空間に出た。

 

青い霧の先に待っていた青色の髪の女。

 

「シバさん、おひさ。」

 

「あら、親の顔よりよく見た女の顔。」

 

「2年ぶりなのにその言い草。」

 

「あんたじゃなくて、そっくりさん。」

 

「有名だもんねぇ、わたし。」

 

シバと呼ばれた凍ったように

冷たい青色の髪をした女が、

しゃがれた声でハルカと親しげに会話をする。

 

「繁盛してるみたいでなによりです。

 わたしのお陰?」

 

「おかげで毎日忙しいったりゃありゃしない。

 しかしなんだい、その格好は。」

 

「どうよ、二十歳(はたち)の色気。」

 

「そんな顔する女はいても、

 そんな格好する二十歳いないわよ。」

 

シバはストライプのパンツスーツを着崩し、

暗い部屋に関わらず大きなサングラスで

長い足を組んで椅子に座っている。

 

「元気そうでなによりだわ。

 弟くんも月曜以来だわね。

 今日はちゃんと朝ごはん食べた?」

 

どこか見覚えのある女に

顔を向けられて、イサムは肩を驚かす。

 

「知り合い?」

 

マオに尋ねられたが、

イサムは首を横に振って否定した。

 

だが月曜について思い返すと、

ひとりだけ心当たりがあった。

 

「まさかカフェの?

 オープンカーの!」

 

「ご明察。」

 

月曜日の朝に安いトーストを

目当てに通う『カフェ名桜(めいおう)』、

その窓際の席。

 

その席からよく見かける、

青色のオープンカーから

いつも手を振る運転手が彼女だった。

 

「ハルカさんの知り合いだったんだ…。」

 

「あの店、月曜だけは賑わってるわよね。」

 

「えぇ…、トーストが安いですから。」

 

「お客はみんなあなた目当てじゃないかしら?

 ハルカはもうちょっと食費出してあげたら?」

 

「働いてもないのにお金あげたら、

 こういう不健全なお店で浪費するのが

 目に見えてるからダメよ。

 社会復帰する為のリハビリには

 なるかもだけどね。」

 

「あはは。社会復帰とは程遠い場所よ。ここ。

 こんなとこに通ってた不良のハルカに

 そんなこと言われたらおしまいね。」

 

シバは青く塗られた薄い唇を大きく開けて笑った。

 

「ここはなんのお店ですか?」

 

「あまり詮索(せんさく)しないことをおすすめするわ。

 いうなればここは器からこぼれた液体の場所。

 つまり普通のヒトが来るべき場所じゃないわね。

 お姉ちゃんに聞いてみな。」

 

向けられた視線に応えず、

ハルカは黙って周囲を見渡した。

 

入り口にも空間にも、

どこにも店の名を示す看板はない。

 

あるのは天井まで届くほどの大きな機械が十台程、

円形の部屋を囲むように等間隔に設置されている。

 

青色のくもりガラスの向こうに人影が見える。

人がいないところはガラス扉が開かれていた。

 

「よかった、空きあるじゃない。」

 

「その前に入場料。」

 

「〈個人端末(フリップ)〉が使えないのに?」

 

個人端末(フリップ)〉が使えなければ、

当然お金のやり取りはできない。

 

疑問が先立つイサムを無視して、

ハルカは自然と〈個人端末(フリップ)〉をかざすと

さっさと支払いを済ませてしまった。

 

「地下じゃ〈個人端末(フリップ)〉は使えないけど、

 店じゃ支払いはできるんだよ。

 悪い人が考えた抜け道には、

 別の悪い抜け道を用意してるもんよ。」

 

呆気(あっけ)に取られるイサムを見て、

シバは再び口を開けて笑う。

 

「弟ちゃんはハルカなんかと違って真面目ねぇ。

 自分と同じく道を踏み外すなんて

 心配しすぎよ。過保護なんだから。」

 

「だからこうして悪いことを

 率先して教えてるんじゃない。」

 

「それ『教師』ってやつぅ?

 まぁそんな悪い子のお陰でアタシたちは

 こんなお仕事が成り立ってるけどね。」

 

「イサムはこういう大人に

 なっちゃダメだからね。」

 

「矛盾してる…。」

 

ハルカに人差し指をさされると

シバは肩を上下させて笑った。

 



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05-04:教師

シバの店となっている円形の広い空間は

青色のタイルが張り巡らされ、

その壁面に沿って機械が等間隔に配置される。

 

ハルカは近くの空いている

機械のガラス扉を開けた。

 

中腰で片足の膝は床につけ、

片手を差し向けふたりを誘導した。

 

「さぁさ、おふたがたぁ、(へぇ)りなすって。」

 

「なんですか、それ。」

 

「〈人類崩壊〉の時代劇。」

 

「また歪んだ情報でも仕入れたんですね。」

 

「それでこれはなんの機械ですか?」

 

「入ったらわかるわよ。」

 

「またそれだ。」

 

機械の中は6人ほどが立っていられる

小さなエレベータ程度の質素な空間だった。

 

機械に入ると正面から柔らかな光で照らされる。

斜め上と、膝下からふたつの大きな板型の照明。

 

「これ写真機?」

 

手元には小さなディスプレイとその上には

カメラレンズが埋め込まれており、

機械に入ったマオとイサム、

それからハルカが鏡写しで表示される。

 

「なんで写真…?」

 

写真程度であれば〈個人端末(フリップ)〉を使えば、

撮影だけでなく日付や場所と共に

個体情報を残せる。

 

こんな辺鄙(へんぴ)な場所まで来る必要はない。

 

イサムは自問しつつ〈個人端末(フリップ)〉の使えない

この場所での機械の特性を察した。

 

「これは個体情報が残らないの。

 〈人類崩壊〉前の機械を再現させた写真機ね。

 ほら、イサム。ここ立って。いくよー。」

 

正面のボタンを押すとすぐに、

ディスプレイに映ったイサムたちの背後は

透明だったガラス扉が青色に曇った。

 

左右のスピーカーからカウントダウンが始まった。

 

「イサム、前見て。」

 

ハルカに両手で頭を捕まれて

イサムは首を無理やり捻られる。

 

カウントダウンを終えると同時に

擬似的なシャッター音が鳴ると、

正面のディスプレイは映像が静止画に変わる。

 

長身で顔の整った女子ふたりと、

まぶた半開きのイサム。

 

「イサム、変な顔。」

 

「首が痛い。」

 

ハルカはディスプレイの案内に従い、

青色の背景を浜辺や芝生の丘へと

好みの景色に切り替えて合成し、

今日の日付を手で書き加えた。

 

「印刷ができる機械なんですね。」

 

「ほら、シールにもなるわよ。

 はい、マオちゃんの分。」

 

機械から出力されたシールには

指ほどの大きさで同じ写真がいくつも並び、

台紙ごとミシン目が入っていて

素手で切り離すことができる。

 

「ハルカさん、これをしに来たの?」

 

「あとアイスを食べに行くわよ。

 地下名物違法アイス。」

 

「それって食べても大丈夫なやつです?」

 

ハルカはもう一度機械のボタンを押して、

撮影のカウントダウンを開始させた。

 

「今度はこのポーズに合わせて。

 ほら、マオちゃんも。」

 

「なんだこれ…。」

 

「なにやってるのかしらね。ふふふ。」

 

姉に振り回されている状況に、

隣でマオが自虐的に笑った。

 

自らの意志ではないものの、

マオとの外出は『動物園』以来のことだった。

 

鏡像に映る正面のディスプレイを見て

ふたりでハルカの仕草をマネる。

 

右手の親指と人差し指を伸ばして(あご)に当て、

片目を薄く閉じてカメラを睨むように

3人同じポーズで撮影した。

 

――――――――――――――――――――

 

「おいしぃー…。2年間ぶりのこの味…。」

 

『地下名物違法アイス』と怪しげな名ではあるが、

値段以外は普通のソフトクリームショップだった。

 

地下へと降りる螺旋階段と、

ソフトクリームの渦巻きをかけた

名前の由来は肩透かしするほど単純なものだ。

 

素朴なバニラ味のソフトクリームに、

たっぷりのカラースプレーチョコを付け

ハルカは舌鼓を打つ。

 

とろけそうな顔をして喜ぶ姉の表情を初めてみた。

 

写真機を出て店主のシバと別れてから、

再び迷路を歩いて、巨大な空間へと出た。

 

通路では一切見かけなかった人が大勢集まり、

それぞれに酒や音楽を楽しみ踊る。

 

長椅子に3人で腰かけて、イサムは

なにも付けていないバニラアイスを口にして

その様子を眺めていた。

 

ロビーのような円形の巨大な空間の両脇には、

真っ黒な柱上の構造物が天井まで伸びて霧を出す。

 

その噴霧によって、ここでは

個人端末(フリップ)〉を開くことも

個体の走査(スキャン)〉さえも妨げられる。

 

マオはイチゴ味のソフトクリームを食べて、

写真機で撮った謎のポーズのシールを見つめる。

 

「それもおいしいでしょ?」

 

「はい。」

 

「ひと口交換しよ。」

 

ハルカの身勝手な要求にも、マオは素直に応じる。

 

「うん。甘酸っぱくておいしい。どう?」

 

「さっぱりしてます。八種くんも交換する?」

 

「僕のはハルカさんと同じ味ですよ。」

 

ハルカとは違いチョコのないバニラアイス。

マオには交換するメリットはない。

 

「いいから食えっ。」

 

ハルカがマオの肘に触れ、

ソフトクリームを押し付ける。

 

ハルカの強引さに諦め半分で目を閉じたとき、

なにか思い浮かぶが、瞬間イサムの口元を外れて

ソフトクリームは鼻に衝突した。

 

あ然とした。

 

「あ、ごめん。」

 

「ハルカさぁん…。」

 

顔にこびり付いたソフトクリームが

落ちないように、恨みがましく姉に抗議した。

 

(あき)れと共にハンカチを取り出して、

顔を拭いながら考えていたことを口にする。

 

「ハルカさん、なんでここに誘ったんですか?」

 

「気になるぅ?」

 

「言いたくないならもう聞きませんよ。」

 

「言う言う。ちょっと待ってって。」

 

イサムに意地悪くされると、ハルカは急いで

ソフトクリームのコーンを小気味よくかじる。

 

「んんー。」

 

冷たさに声にならない声を上げて、

座ったまま足踏みで(もだえ)てた。

 

「あぁー美味しかったぁ。」

 

「そんな急いで食べなくてもよかったのに。」

 

「わたしは急いで喋りたかったのじゃ。」

 

「左様でございますか。」

 

「うむ。苦しゅうない。」

 

ドラマのマネごとが好きな彼女は満足したのか、

腕を組んで大げさにうなずき

ようやく話しを始めた。

 

「わたしがモデルデビューして

 仕事が軌道に乗ったときに、

 わたしのマネする人が増えたのね。」

 

それは〈デザイナー〉と呼ばれる〈ニース〉たち。

 

形の差異はあれど、他人に成りたいと思う

〈ニース〉はハルカのようなモデルをコピーする。

 

「それは別にいいのよ。

 人気が出てきた証拠だもの。

 ただ、仕事として、モデルとしての

 悠衣(ゆい)と、ハルカというわたしが

 わたしである部分を失いかけてたときに、

 シバさんて悪い人に誘われて

 ここに通うようになったの。

 美味しいものもあるし。」

 

「アイス目当て?」

 

「そうよ。最初はね。シールもいいでしょ。

 悠衣(ゆい)にそっくりの人がいっぱいいるのに、

 〈個人端末(フリップ)〉が使えないから、

 本物のわたしのことは誰も気にしない。

 変なところだって思ったわ。」

 

「そうですね。〈更生局〉も

 ここを見逃しているのでしょうか。」

 

「よくはわからないけど。

 わたしにとってここは

 わたしを再認識するための場所。」

 

それからアイスを食べるイサムを見た。

 

「イサムもそのうち、こういう

 自分だけの居場所を見つけて欲しいの。

 来月にはもう16歳だもの。

 いまは学生って身分のイサムを演じてるけど、

 役者や歌手のユージでじゃなくて。

 ひとり暮らしして、友達でも恋人でも作るか、

 自分なりの居場所を見つけられればいい。

 それは単なる住居じゃなくてね。

 たとえばこんな場所で道を踏み外してもね。」

 

「そんな無茶な。」

 

「無茶じゃないわよ。

 人として正しくあろうって思うほうが無茶だわ。

 望むままに生きた方が人間、よっぽど健全よ。」

 

以前、学校の駐車場でマオに言われたときのことを

思い出してイサムは黙った。

 

「もし、イサムが結婚できなかったら、

 お姉ちゃんが結婚してあげてもいいし。」

 

「えぇ…。

 道を踏み外すって、そういうことですか?」

 

「たとえ話よ。」

 

からかい笑う姉の姿を(いぶか)しみ、

イサムはマオと顔を見合わせた。

 



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05-05:夜が来る

大広間の中央の柱はエレベータになっていた。

 

「最初からこれ使えばよかったんじゃ…?」

 

「これは外からは使えないのよ。

 搬入のときだけは地上から使えるっぽいけど、

 元は外の客を寄せ付けない場所だしね。ここ。

 でもこうして出るのは簡単。」

 

ハルカの言う通りエレベータを出ると

扉が2重になっており、侵入する

部外者を拒む仕組みであった。

 

地下の通路でも他の人と出くわさないのは、

中心にエレベータがある一方通行に近い

構造だったからだ。

 

「ハルカさんはこれからどうするんですか?」

 

帰るのか、イサムの部屋に泊まるのか

尋ねたに過ぎなかった。

 

「なに言ってんの。

 これからこれに乗るわよ。」

 

ハルカが真上に指差した乗り物。

 

観覧車(これ)

 

全長約100mもの構造物が真上に伸びて、

イサムは口を開けて(ほう)けた。

 

地上で〈個人端末(フリップ)〉を開けば

真下から観覧車の全容が閲覧できる。

 

名桜(めいおう)市のランドマークにもなっており、

街が見渡せる乗り物として景観が楽しめ

カップルに人気。一周15分程度。

 

「えぇ? これに? カップルって。」

 

「イサム、乗らないの?」

 

「ふたりで行ってきてください。

 僕はもう疲れましたよ。」

 

「恥ずかしがっちゃってー。

 じゃああることないこと

 マオちゃんに話しちゃうわよ。」

 

「ないこと言われるのは困ります。」

 

ハルカの脅しにためらったが、結局観覧車に乗らず

ベンチに腰かけてイサムはふたりを見送った。

 

――――――――――――――――――――

 

ゴンドラが地上を離れると、

縦に長い芝の敷かれた公園が眼下に広がる。

 

「昨日、ようやく両親がね、

 イサムが成人するまでの生活費を

 支払う気になったの。」

 

開口一番、ハルカは愚痴(ぐち)る。

 

「これまではハルカさんが?」

 

「そうよ。だから無駄遣いさせないよう、

 必要なものはなるべくこっちでそろえてたの。

 爪切りの次は服が欲しいとか言い出して。

 もー! こっちの身にもなれーって!」

 

「ふふ。それは大変でしたね。」

 

「それで一段落付いたから、

 今日やっと会いに来たら

 イヤな顔してなかった?」

 

「恥ずかしいんでしょう。

 お友達の前でしたから。」

 

「ねぇマオちゃん。

 イサムと結婚する気はない?」

 

「唐突ですね。」

 

「そうよ。そのために

 マオちゃんを誘ったんだもの。」

 

「メリットがわかりませんが、

 なぜそんな提案を?」

 

「ははは。残念。」

 

演技じみた笑いを見せる。

 

「イサムは引きこもりだったのよ。」

 

「引きこもり。家から出ない、あの。」

 

「そう、その。

 中学のときに事件に巻き込まれてね。

 それとイサムの両親が離婚して、

 それでわたしが預かることにしたの。」

 

マオはその話をうなずいて聞いた。

 

この公園まで移動する車内で、

ふたりがどのような関係だったのかを話していた。

 

保護者と被保護者。

 

非血縁者。血の繋がらないきょうだい。

一般的には家族とは呼びにくい間柄。

 

「いまの高校に入れるまで大変だったのよ。

 勉強もそうだけど…。」

 

ハルカが言葉を濁らせた。

 

「事件、ですか?」

 

イサムの両親が別れる前のことを、

ハルカは詳細に話しはしなかった。

 

「事件。

 ユージが『YNG』から突然いなくなったのも、

 …イサムが引きこもったのもそのせい。

 あのときはもう、引退するしかなかった。」

 

顔の前に両手の指を(から)めてうつむく。

口に出すのをためらい声が震えた。

 

「ユージは強姦(ごうかん)を受けたの。」

 

ビルの谷間を抜けたゴンドラは、

目がくらむほどの西日を浴びる。

 

「体調を崩して医務室で休んでたところ、

 共謀(きょうぼう)したクラスの女子達に。」

 

駐車場で倒れていたイサムが、

医務室で休むことを強く拒んだ理由がこれだった。

 

イサムは今も医務室に過度の恐怖心を抱えている。

 

「初めてちゃんと会ったときのユージは、

 ひどいものだったわ。」

 

ハルカがまぶたを閉じて思い出すのは

暗い部屋で、ヘッドホンをしたまま

ふさぎ込む小さな男の子だった。

 

誰を見ても怯え、物音に敏感になり、

触れられれば泣き、叫び、うずくまる。

 

ハルカの知る『ユージ』とは全く別人だった。

 

その背中が不憫(ふびん)でならなかった。

 

「人とは思えない…。」

 

ハルカは言葉が続かなかった。

嗚咽(おえつ)を堪えて涙を拭う。

 

「それじゃ生きていけないもの。

 無理やり引っ張り出して、

 ユージとしてじゃなく、

 イサムとしての生き方をしなくちゃ。

 ちゃんと教えられたかはわからない。

 いまは道半ばってところかしら。」

 

ハルカの言葉の先に、目線の先にマオがいる。

 

「それで私を伴侶(はんりょ)に?」

 

「そう。マオちゃんなら、

 イサムをどん底から引っ張り上げる力が

 あるんじゃないかなって、

 勝手に淡い期待を抱いてるだけかもね。」

 

ハルカが照れ笑いをした。

 

「なんならわたしでもいいんだけどね。

 上手いこと血も繋がってないし。へへ。」

 

窓に夕日が強く差し込み、

ハルカの顔を赤く染めた。

 

ゴンドラが頂点に達する。

 

マオは少し考え言葉を選ぶ。

 

「八種くんには私と同じ道を

 辿って欲しくはないと思っています。」

 

「マオちゃんと…?」

 

「えぇ。たぶんこれは、

 相互利益に関係なく。

 …よき隣人として、ですかね。」

 

「…わかったわ。

 イサムは振られたわけじゃないのね。」

 

「そこは冗談と受け取った方がいいですか。」

 

「真面目な話よね?

 やめときましょう。」

 

「なので彼の助けになる為に、

 ハルカさんに知恵を拝借したいんです。」

 

「わたしの? イサムの苦手な食べ物とか?」

 

「はい。そういうのじゃないです。事件以前の、

 八種くんの過去を他になにかご存知ですか?」

 

「私がイサムに会ったのは1年半前。

 それ以前は私も知らない。

 けれども家族も知らないのよ。

 あの子は〈キュベレー〉に育てられた。

 家族は全員あの子に関心がなかった。

 転府じゃ割とよくあるそうよ。」

 

育児・教育用〈キュベレー〉が、

イサムの育ての親と呼べる存在だった。

 

「あ、でもひとり。

 わたしがイサムの知り合いを探してたときに、

 彼のむかし通っていた劇団で

 同じ中学だった子がいたわ。」

 

「そのヒトは?」

 

「女の子で名前はたしか…。」

 

マオはゲルダの言葉を思い出した。

 

「たぶん好きな人がいて…。」

 

遠くの山に陽が沈む。

 

――――――――――――――――――――

 

イサムは観覧車の足元でベンチに腰かけ、

脱力してふたりの戻りを待っていた。

 

観覧車に乗るカップルたちは、

今頃夕焼けに染まる街を見るのだろうか。

 

姉になにか、今日のお礼をしないといけないな。

などと考えていたがよい案は思い浮かばない。

 

物を贈ろうものなら倍で返すようなお人好しで、

物を贈るにも先立つものを持ち合わせていない。

 

せめて真っ当に生活して、卒業し、成人するのが

一般的に恩返しと呼べるのかとも考えた。

 

だが、今日のように『非合法地帯』に誘い、

道を踏み外せなどと『教師』らしいことを

言われると、なにが正解かわからなくなる。

 

身近な番犬のように髪の毛を金に染めて

逆立てるのが『不良の正解』とも思えず、

頼もしいクラスメイトのマネをして

姉弟愛を語ることが『教師』らしいわけでもない。

 

『ユージ』を演じてきたこれまでと、

『イサム』として姉に生かされてきた今まで。

 

ハルカが『イサム』になにを望んでいるのか。

なにが正しく、なにが誤ちなのかわからない。

 

役者として仮初め(かりそ)の生き方をしてきた

イサムにとって、それは難儀な話だ。

 

姉たちの乗る観覧車を見上げて途方に暮れ、

深くため息をついたときに不気味な人物が現れた。

 

「私のことでもお考えですかぁ?

 くふふ…。」

 

「ぅぁ。」

 

イサムがこれまで一度も

出したことのない変な声が出た。

 

目の前に立っていたのは、

クラスメイトの夜来(やらい)ザクロであった。

 

目が隠れるほど真っ黒な髪を切りそろえて、

真っ白な顔にソフトクリームを手にしていた。

 

口元になにか付いていると思ったが、

上顎の犬歯が奇妙なほどに長い。

 

制服姿のザクロは、赤い裏地の黒色のマントを

自らの手でなびかせて見せる。

 

長く尖ったマントの襟を立て、

首から肩を覆い、足元にまで伸びている。

 

「え? 夜来(やらい)さん?

 どうしたんですか、その格好は。」

 

「今日の私は吸血鬼。

 吸血鬼っていうのは吸血性コウモリを

 モチーフにした〈人類崩壊〉以前の変質者。

 このマントは下駄箱に保管してるの。

 ソフトクリーム食べる? あが。」

 

口に手を当て、上顎の犬歯を取り外した。

それは付け八重歯と呼ばれる装飾だった。

 

「結構です。

 変質者の格好して出歩かないでください。」

 

「美味しいですよ。ドリアン味。」

 

風と共に甘ったるい臭いと

腐敗臭が漂い顔をしかめる。

 

彼女との会話は玄関以来だが、

上の階のストーカーが連行された後は…。

 

「〈更生局〉に行ったんじゃ…。」

 

「だってアレ、えん罪だもの。

 今日も教室にいたでしょ?

 私と一緒のクラスじゃない。」

 

「…そうでしたね?」

 

「私くらい特別な存在になると、

 檻を抜け出すことだってさいさいですわ。」

 

「さいさい…?」

 

「そしてこのタイミング。

 これぞ、逢い引き。」

 

言うやいなやイサムの隣に素早く堂々と座る。

 

「いや、なにを…まさか本当にストーカー…。」

 

「ではないわね。する必要もない。」

 

予想に反し、すぐに淡白な返答がかえってきた。

 

「ここは私の庭みたいなものだからね。

 どこに誰がいるかなんて全て丸わかり。

 くふふ。」

 

いつもの不気味な笑いを浮かべる。

 

「イサムくんは将来、なんになるのかしら。

 私と一緒に未来を語ってみない?」

 

「え? 将来?」

 

姉のことを考えていたときに、ザクロと

近いことを考えていたのでギョッとさせられた。

 

「えぇ。八種くんの。

 いずれ復調して芸能活動を復帰?

 『SPYNG』が解散するからそれはない?

 誰かと結婚して、家庭を築き、子を作る?

 16歳になったら〈3S〉で別の誰かになる?

 たしかにそれも悪くはないわね。」

 

ザクロが早口に尋ねた内容は

以前、マオとも同じ話をしたことがある。

 

どれも自分の中では現実味を帯びない質問に、

イサムは黙って首を横に振る。

 

「でもまだ決まってないんでしょう。

 くふふ。わかるわよ、そのくらい。

 思春期だものね。」

 

ソフトクリームを舌ですくって口に入れる。

 

「ひょっとして、からかいたいだけですか?」

 

「別にこれは八種くんに限ったことじゃない。

 全てのヒトたちに言えること。

 誰だって、いつまで経っても

 きっと同じ考えをする。

 有限の肉体の中で。

 そしてこう考える。」

 

手の中のソフトクリームを

くるくると回して螺旋(らせん)を描く。

 

「自らを(りっ)して自由を得るか。

 自らを(あざむ)き、幸福を享受(きょうじゅ)するか。」

 

溶けた金色の液体が、

コーンからあふれて手を滑り落ちる。

 

「いつか選択しなくちゃいけない。

 それでも疑問と不安に苛まれながら、

 いつまでも逡巡(しゅんじゅん)を繰り返す。

 その選択が正しかったか、過ちだったか。」

 

手にしていたソフトクリームは

いつの間にか消え、彼女は両手の指を

互い違いに組み合わせて胸元に当てる。

 

「そして、死んだときに気づくの。

 あぁ、これでよかったのか。ってね。」

 

腕を大きく開いて、手を2度叩く。

 

夕方だった空には(とばり)が降りて、

照明が観覧車を黄色い光で照らす。

 

疲れていたのか目をしばたたかせ、

イサムは目の前のザクロを見上げた。

 

しかし彼女は黙って去っていった。

見送る後ろ姿がマントと共に夜闇に溶けた。

 

「いつか選択しなくちゃいけない。」

 

ザクロの残した言葉が頭の中で繰り返される。

 

しかし彼は、愚かな選択をした。

 



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00-15:私と私でない私

私の人格を形成したのは叔父(おじ)だ。

 

彼は父親の弟で、幼い頃から

よく私の面倒を見てくれた。

 

父親は機械工学の研究者で、

母親は動物専門雑誌の編集者と、

転府(てんふ)では珍しい共働きの夫婦だった。

 

そのために叔父が毎日のように家に来て、

私の世話係を買って出るのが日常だ。

 

叔父は働いていない。

働かないことは珍しいことではない。

 

〈人類崩壊〉以降では、必要な仕事は

〈ALM〉の労働用〈キュベレー〉が担当する。

 

そもそも人類に労働は課せられてはいない。

 

100年近くにも及ぶ人生にとって

娯楽の創生や、趣味の充実こそが

人類にとって重要な役割を担っている。

人生、退屈こそが死に等しい。

 

父と母の仕事も言ってしまえば趣味の延長だ。

 

みんなで一緒に機械の玩具を作る。

昔の動物の映像を掘って切り抜いて配信する。

その程度のことを仕事にしている。

 

私もよく両親の仕事のマネごとをして育った。

 

〈NYS〉によって環境耐性を得た人類は、

〈ALM〉の構築する社会によって争い事のない

平和な世界を実現することに成功した。

 

〈人類崩壊〉以降の人の役目といえば、

減った人口を増やすことぐらいしかない。

 

社会的な義務とも呼べる行為を終えた両親は、

私に興味を向けることはなかった。

 

趣味にも(おと)(わずら)わしい存在だったのかもしれない。

 

あとは私が無事に成人すれば、

両親としての役割も終えるつもりだったようだ。

 

逆を言えば叔父は珍しい存在であった。

叔父は結婚もしていなければ子供もいない。

 

子育ては育児・教育用〈キュベレー〉で済む。

 

叔父の介在は両親にとって必要ではなかったが、

叔父は産まれたときに顔に大きなアザがあった。

 

叔父の両親はアザを治すことをせず、

アザを治したいという叔父の意志も

通らなかったらしい。

 

人は自然のままの姿が最もよい、

とする思想が叔父の両親あったようだ。

 

ただその考えが世間に理解されることはなかった。

 

顔の半分を覆うアザは他者に忌避感を与え、

社会から爪弾(つまはじ)きにされた叔父は孤立していた。

 

叔父はそんな境遇にあっても明るく和ませ、

どんな誹謗(ひぼう)を受けても怒らず柔和な性格だった。

 

計算高く、頭の回転は早かったのだと思う。

 

私は叔父の顔を物心がつく前から

見慣れているので、アザなど気にすることもなく

毎日を楽しく過ごした。

 

そんな叔父とはアニメーションや

映画を見て、マネをするのが日課だった。

 

私はピンク色の子供向けドレスで変身し、

ごっこ遊びに興じたり、いつも黒色の

フードパーカーを着ている叔父は悪役を演じ、

道路に魔法陣を描いたりと楽しい毎日を過ごす。

 

家にいない両親よりも、叔父を好いていた。

 

――――――――――――――――――――

 

私が叔父に犯されていたことが

発覚したのは、高校1年のときだった。

 

性格の裏表が激しく、共働きであった

両親の影に隠れて私に暴言を吐いていた。

 

いつか貰った私のお気に入りの

イヌのようなぬいぐるみを激しく叩いた。

 

私のかわりに怒鳴りつけ、

目の前で何度も踏みつけた。

 

私は叔父の行動に目をつむり、

激しい音と罵声に耳を塞いで耐えた。

 

「お前は両親に愛されていない。」

「捨てられてもよかった。」

「俺がとりなしてやった。」

「一生俺に感謝しろ。」

 

「あぁ…すまない。」

「言い過ぎた。」

「俺が愛してるのはお前だけだ。」

「見捨てないでくれ。頼む。」

 

(たかぶ)りをおさめた叔父は、常に改心して、

自己嫌悪に(おちい)り許しを()う。

 

その姿はまるで悪役そのものだった。

だから私はそれを許したのかもしれない。

 

かもしれない。というのも、実際に

私が許したわけではない。

 

私は目をつむり、耳を塞いでいたから、

暴言を受ける私はそこにはいなかった。

 

叔父の癇癪(かんしゃく)は何度も繰り返された。

私は泣きもせず、罵声(ばせい)を浴びる私を見ていた。

 

叔父は何度も謝り、私でない私は何度も許した。

 

やがて初経(しょけい)が訪れ、乳房や臀部(でんぶ)が発達し、

肉体が成長する頃になると私ではない私は

叔父からの暴言が、性的な暴行へと変わった。

 

私でない私は暴行を受ける。

私は、私でない私を見ている。

 

私ではない、可愛そうな子。

 

私は暴行を受けてはいない。

 

暴言を受けたのは私ではない。

暴行を受けているのは私ではない。

 

イヌのようなぬいぐるみ。

 

大好きな叔父はこんなことをしない。

そんな叔父からは私はこんな目には合わない。

 

ごっこ遊びの延長。

 

だから私は私を保っていられたのかもしれない。

 

そして叔父が捕まった。

 

家事用の〈キュベレー〉が、

私の異常を検知して通報した。

 

両親が自宅で発生した異常を、いつもの

叔父の癇癪(かんしゃく)が原因だと思い込んでいた。

 

叔父は〈更生局〉に連れて行かれた。

体液がその証拠だった。

 

診断結果を知っても、

両親は私を慰めはしなかった。

 

やはり両親は私を愛してはいなかった。

 

このときになってはっきりとわかった。

両親が大事なのは世間体だ。

 

生まれながらにアザを持ち

社会から隔絶(かくぜつ)され〈更生局〉に連行された叔父と、

精神的に不安定な叔父を(かどわ)かした不埒(ふらち)な娘。

 

叔父よりも成人する前に問題を起こした娘こそ、

本当に捨てられるべき存在かもしれない。

 

両親の目が私を拒絶する。

 

「私じゃない!」

 

私は叔父の犯行を否認した。

私は自らの被害を否定した。

 

だってそうだもの…。

 

子供の虚偽(きょぎ)の訴えなど、

大人の耳に届くはずはなかった。

 

いまにして思えばその発言に、

どんなメリットがあったのだろうか。

 

私の人格はふたりに分かれていた。

 



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0.6:魔女・魔人
06-01:誘惑


長い腕から振り下ろされた硬球は、

イサムの革製グラブを突き破りそうな勢いで、

公園には乾いた音を響かせた。

 

貴桜(きお)大介(だいすけ)に呼び出されたイサムは、

彼が終始無言のままキャッチボールの

相手をさせられた。

 

キャッチボールと呼ぶよりも投球練習だった。

 

小学生時代から9年、野球ひと筋だった貴桜が

野球部のない女子ばかりの高校に入った

理由は知らない。

 

時折りキャッチボールに駆り出されるのは

よくあることだった。

 

ただ今日の貴桜は機嫌が悪い。

 

同じ中学出身の亜光(あこう)百花(ひゃっか)がいないので、

貴桜の投球にイサムが対応するほかない。

 

野球のルールを知らないイサムは、

亜光と貴桜のキャッチボール風景を

見学するだけの日が多かった。

 

黙り続けて不機嫌な貴桜の投球相手を、

初心者のイサムが受ける。

 

貴桜による一方的な投球であったが、

イサムはどんなに速い球でも、

どんなに変化のある球でも受けとった。

 

彼の投げる球は、初心者のグラブに

吸い込まれるように収まった。

 

『動物園』で見たジャグリングに比べれば、

投げ放たれたひとつの球を目で追い

受け止めることは、イサムには容易だった。

 

厳しい貴桜の顔が、ひとつ、またひとつと

ボールを受け止める度に驚きと困惑に変わる。

 

右へ曲がる球、左へ曲がる球、手前で落ちる球。

 

事前に合図があったわけでもないが、

貴桜の投げ方から球筋まで見て取ることができた。

 

これがマオの指摘した『変』だった。

 

ボールが上手く取れたところで返球はボロボロで、

貴桜があっちこっちへ移動する羽目になった。

 

彼が球を拾っているわずかな間だけ、

イサムは手を休められた。

 

「もう無理!」

 

イサムは立ち上がり叫び、

グラブを外して手を振り降参した。

 

硬球をグラブで正しく受け止める方法を知らず、

痛みに手の感覚を失いだしていた。

 

手が燃えるように熱を帯びて、冷まそうと

息を吹きかけるが痛みしか感じなかった。

 

「やぁー楽しかったなぁ。

 デブ相手だとこんなに投げられないからな。」

 

「僕は初心者なんだから。限度がある。

 百花はどうしたのさ。また妹とデート?」

 

亜光は溺愛する妹を連れてよく出かけるので

今日もいないものと思っていたが、

貴桜の表情を見るに違うようだった。

 

「あいつはいなくなったよ。」

 

「いなくなった?」

 

「妹と一緒に帰ってこなくなったって。

 あいつの両親が言ってた。」

 

「じゃあ…〈更生局〉?」

 

「知らねえって。」

 

仲良くなった亜光が突然いなくなり、

貴桜もどのように感情を整理して良いのか

わからずに苛立ちをあらわにする。

 

「課題どうしようか。」

 

夏期休講で出された自己学習課題は、

亜光が頼りだったのを思い出した。

 

学力が怪しいふたりが取り残された形となった。

 

「大介はなんでウチの学校入ったの?」

 

「なんでって。」

 

「僕は姉が無理やりだったけど、

 大介は中学、野球部だったんだろ?」

 

「あぁー。」

 

照れくさそうに逆立てた金髪を指でつまみ上げた。

 

「スポーツ選手を真面目にやろうとしたら、

 〈パフォーマー〉になるしか道がないからな。」

 

イサムの手からボールを奪い取って、

手のひらで巧みに回してみせる。

 

「そういうもんなんだ。」

 

「スポーツったって興行だからよ。

 〈レトロ〉の地味な競技をいまどき、

 金を払って見るやつなんていねぇよ。」

 

「そんなに身長があるのに、か?」

 

「手足が長いから有利なのは、

 〈ニース〉になっても体格が

 慣らしやすい最初の数ヶ月程度だ。」

 

公園の長椅子に腰掛けて、

貴桜は長い手足を伸ばしてみせる。

 

肉体と脳の不一致が起こす〈ニース〉症も、

肉体の成長と同じように時間を掛けて慣らせば

発症することはない。

 

「スポーツは〈パフォーマー〉でこと足りる。

 生まれつき恵まれた肉体の差なんざすぐ埋まる。

 〈レトロ〉は不要なんだとよ。」

 

〈レトロ〉は〈ニース〉ではない人間、

〈レガシー〉の蔑称(べっしょう)だ。

 

貴桜も〈レガシー〉なので自嘲(じちょう)した。

 

「〈パフォーマー〉になってまで、

 規格化された選手になりてぇわけじゃねえし。

 なんならこうしてキャッチボールしてる

 だけだって構わないぐらいだぜ、オレは。」

 

〈レガシー〉のみで構成された芸能界は

人気役者、色男、道化などの持ち前の容貌や

演技力に合わせた役割が存在する。

 

モデルなど天然素材を好む現在では、

〈ニース〉が同じ〈ニース〉である

〈デザイナー〉や〈パフォーマー〉などを

ありがたがることはない。

 

〈3S〉を使えば誰でもマネできることだ。

 

けれども貴桜の語るスポーツの世界では、

〈レガシー〉と〈ニース〉の価値は真逆となる。

 

〈パフォーマー〉は〈パフォーマー〉であるが故に

その役割に合わせた行動を常に求められる。

 

ともすれば肉体の損壊を恐れない

資質こそが重要とされる。

 

貴桜が〈レトロ〉と蔑称(べっしょう)を用いる理由が、

役者という真逆の環境にあったイサムでも

少しだけ理解できた。

 

「だからオレはスポーツよりも青春に生きる。」

 

「は?」

 

虚を突かれたイサムの

間の抜けた顔を見て貴桜は盛大に笑った。

公園に彼の大きな声が響き渡る。

 

「いや、わるい。

 からかってるわけじゃないぜ。

 まぁ、そうなるだろうなって思ったけど、

 想像以上の反応してくれるんだからよ。」

 

「頭おかしくなったのかと思った。

 もともとおかしいやつだけど。」

 

「なんだとぉ? このぉ。」

 

「やめろぉ。」

 

貴桜の大きな手で頭を掴まれて、

髪をもみくちゃにされた。

 

いつもどおりの貴桜に戻って

イサムは少し安心した。

 

「一般的な家族ってのに憧れんだよ。

 結婚して子供を作る。

 そうやって自分の遺伝子を後世に残す。

 ウチは家族多いからそういうのに憧れんだ。

 弟たちの面倒とかあんま見たくねぇけどな。」

 

「花嫁探し?」

 

「中学で進路どうすっかなぁってときに、

 百花が妹と同じ高校通うために、

 女子ばっかのとこ行くってなったから。」

 

「不純な動機だ。」

 

「すっげー反面教師だろ?」

 

「大介もだよ。」

 

貴桜は言われて腹から笑う。

 

「勉強が追いつかず、進級できず、

 そんで留年や退学なんてしたところで、

 百花に責任負わせるもんでもないしな。

 あいつが責任負うべきは、

 オレたちの課題ぐらいなもんだ、ぜっ。」

 

立ち上がって、真上にボールを高く投げた。

 

「少しは勉強しようよ。」

 

落ちてくるボールを素手で綺麗に受け取ると、

貴桜は白い歯を見せ、屈託のない笑顔を見せた。

 

未だに昔の傷を抱えたまま、

いびつな状態で毎日を過ごすのに

精一杯のイサムには、貴桜の生き方は

とても羨ましく思えた。

 

貴桜の将来への展望に、昨日の夜に聞いた

ザクロの言葉が重なった。

 

「自らを(りっ)して自由を得るか。

 自らを(あざむ)き、幸福を享受(きょうじゅ)するか。」

 

彼女の言葉は矛盾している。

 

――――――――――――――――――――

 

イサムはキャッチボールを終え、

鬱憤を晴らした貴桜とは公園で別れた。

 

亜光と会えなくなったことを思い、同時に

課題のことを考えなくてはいけなくなった。

 

日は沈みかけ、

マンションの廊下にも明かりが灯る。

 

イサムの手はまだビリビリと痺れて痛む手を

眺めて歩くと、廊下に人影があった。

 

「お帰り。八種(やくさ)くん。」

 

「あ…海神宮(わたつみのみや)さん。

 これからお出かけですか?」

 

丁度いいタイミングで隣人のマオが

扉を開けて現れた。

 

今日はオレンジ色のスポーツウェアで

服の上下を揃えている。

 

彼女を見て、イサムはわずかに違和感を覚えた。

 

「八種くんに聞きたいことがあって。

 ハルカさんにこの前の御礼を

 用意しようと思うのだけれど。」

 

風のごとく現れた姉は、

観覧車の後で次の仕事があると言って、

風のごとく去っていった。

 

「そんなことを…?

 あの人にそんなことしても、

 逆に倍で返されると思うので、

 キリがなくなりますよ。

 それにあー…、メリットありません。」

 

「そう。」

 

残念がるマオに、

イサムは違和感の正体に気づいた。

 

「…海神宮(わたつみのみや)さんって、

 ご実家に帰ったりしないんですか?」

 

「実家…?」

 

意外な質問だったのか、マオは目を点にした。

 

夏期休講でもひとり暮らしであれば、

寮生は寮の休みにともない帰省している。

 

両親の離婚で帰る家のない

イサムのような例外でなければ、

ひとり暮らしを続ける理由もない。

 

マオがひとり暮らしを始めた建前は、

寮と学校を往復する生活ではなく、

自分の行動範囲を広げ、見聞を広めること。

それと入寮申請に遅れたことが原因のはずだ。

 

「あっ…。」

 

もしくは、帰れない理由があったのかもしれない。

野暮な質問をしたと、口をつぐんだ。

 

「そうね…、帰ることもできたのね。」

 

「え? そりゃ…

 私的な話にまで干渉はしませんが。」

 

そんな気はなかったものの、

クラスメイトであり隣人でもある

海神宮(わたつみのみや)家という存在には、

イサムにも少なからず興味があった。

 

「でも帰るのならその前に、

 ひとつ試してみましょうか。」

 

マオは自室の扉を大きく開いた。

 

「八種くん、ウチに上がってみる?」

 

「は?」

 

突然の提案に驚き、声を廊下に響かせた。

 



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06-02:落ちた先に

自分の声の大きさに驚き、手で口を抑えた。

 

「ちょっと、唐突過ぎて。」

 

マオの誘いにイサムも戸惑わないわけがない。

 

「興味があるなら、中に入って。

 なければ、なかったことにしていいわよ。」

 

イサムの理解が追いつかないまま、

マオの部屋に招かれた。

 

部屋に誘う前に、「試す。」と言った。

その意味も分からなかった。

 

彼女はメリットがなければ断り、

好奇心がそれに勝れば行動するような、

時には御令嬢とは思えない突飛な言動をする。

 

イサムには彼女の部屋に入る理由がなかった。

 

マオにそんなメリットもなければ、

彼女なりの冗談だと思った。

 

上の階の住人によるストーカーの件もある。

イサムはまだ恐怖があった。

 

学校でもクラスメイトの女子の目線を恐れ、

時折り近づけなくなり、ひとり立ち尽くす。

 

女子たちが求める『ユージ』を演じられなくなる。

吐き気を催し、隠れて嘔吐するときもあった。

 

日常の中で、自分が襲われたときのことを、

どうしても思い出してしまう。

 

だがいまは足が前へと体を運ぶ。

イサムの足が、自然とマオの方へ向かった。

 

イサムは一度でもマオに対して、

『ユージ』を演じたことはなかった。

 

まず彼女は『ユージ』に興味がないからだ。

 

自分に矛盾を抱えている。

 

「自らを(りっ)して自由を得るか。

 自らを(あざむ)き、幸福を享受(きょうじゅ)するか。」

 

反芻(はんすう)したザクロの言葉は矛盾している。

 

自由なら、自分を律する必要はない。

幸福だったら、自分を(あざむ)きはしない。

 

恐怖心の中に(まぎ)れた、好奇心があった。

 

彼女はなにかを試している。

イサムはそれを確かめたかった。

 

答えのない自問自答を繰り返して、

部屋の入り口の前に立った。

 

真っ暗だった。

 

廊下の照明の光さえも吸い込まれるほどに、

暗闇が部屋の玄関から先の全てを支配している。

 

イサムはマオの顔を見たが、

彼女は切れ長の目をさらに細めただけで

なにも答えなかった。

 

からかうでも、(あき)れるでもない表情。

 

いますぐ(きびす)を返すこともできた。

だがイサムは意を決して、

暗闇に一歩足を踏み入れた。

 

「だから、八種くんは変なのよ。」

 

瞬間、転落した。

 

マオの言葉と同時に、

舞台から落ちたと錯覚したように、

あるはずの床からさらに下へと落ちた。

 

なにか掴めるものはないか手を伸ばすが、

暗闇は自らの手さえも視認させない。

 

それどころか、落ちたにも関わらず、

不思議なことに風も重力も感じない。

 

なにも身体に触れていない。

 

空気も、温度も、匂いや

手足の感覚さえすべて失った。

 

声を上げようにも声が出ない。

 

目を閉じているのか、開いているのかさえ

イサムにはわからなかった。

 

――――――――――――――――――――

 

イサムは寝ていた。

 

『YNG』のセンターとして

芸能活動に励む傍らで学生の身分であり、

多忙な日々の中でも(つくろ)うように

中学校に通っていた。

 

成長途中の小さな身体のイサムは、

溜まった疲労によって授業中に倒れてしまい、

医務室で寝ていた。

 

そして事件が起きた。

 

寝ていると、息苦しさに目を覚ます。

 

しかし顔面を厚い布で塞がれて、

なにも見えない。

 

助けを呼ぼうにも口に布がねじ込まれ、

呼吸さえもろくにできない。

 

溺れる気分でもがくも、身体の自由が効かず、

なんとかして鼻で浅く短い呼吸を続けた。

 

イサムの身体は大の字にされた状態で、

手足首を複数人に押さえつけられ縛られた。

 

身体をよじって脱しようとも、

腹部もベッドに押し付けられて抜け出せない。

 

喉でもがくイサムの耳に、

女子生徒たちのささやきと荒い息遣いが聞こえる。

 

イサムはクラスメイトらによって、

衣服を無理やりに脱がされ強姦(ごうかん)を受けた。

 

恐怖と下腹部の違和感に、

頭が理解を超えて狂気する。

 

胃液が逆流して何度も吐き出そうとしたが、

口は塞がれ鼻の穴から吹き出せば

胃酸が激痛を与えて涙腺を刺激した。

 

呼吸も覚束なくなっていく。

 

過剰なストレスの連続によって筋肉を硬直させ、

高音の耳鳴りが続き、異常な発汗で身体が冷える。

 

長く続いた行為が止んだ頃には、

イサムの意識を失っていた。

 

その後、幼なじみの少女の通報によって

イサムは救出される。

 

彼女の名前は磐永(ばんえい)チルという。

 

〈キュベレー〉によって救出されたイサムは、

肉体と精神が衰弱して会話もできない状態だった。

 

また精神的なストレスで一時的に視力を失い、

長い治療期間を必要とした。

 

視力がしばらく戻らず、わずかな声にも怯え、

誰ともまともに会話ができなくなった。

 

家族以外とは面会もできない精神状態で、

当然、芸能活動もできない。

 

予定していた公演は全て中止となり、

事務所はいくらかの負債を抱える大事となった。

それから両親はこの事件をきっかけに離婚した。

 

両親は壊れてしまった子供に、

容赦(ようしゃ)なく見切りをつけた。

 

元より父親の子供ではなく、

母親の不貞(ふてい)によって産まれた子、と

突きつけられた現実。

 

家族を演じる必要がなくなったと同時に、

イサムは居場所を失った。

 

そんなイサムに手を差し伸べたのは、

血の繋がっていない姉のハルカだった。

 

粗野ながらも彼女の献身的な介助のおかげで

視力は回復したが、人間不信は深刻で、

長い間ハルカとも会話ができなかった。

 

外出もままならない状態で、

学校にも通えない状況が続く。

 

イサムの将来を危惧(きぐ)したハルカは、

彼に勉強を教えて高校に通わせることを決意する。

 

イサムにとって勉強は得意ではなかったが、

苦手意識もなかった。

 

勉強よりも付きっきりになる、

無機質な教育用〈キュベレー〉が苦手だった。

 

勉強は何日も繰り返し、

試験を合格して高校に入学した。

 

イサムは晴れて高校生となり、

軽度な症状の再発や、生活費など

多少の問題はあったものの社会復帰を果たした。

 

通学路に立つ海神宮(わたつみのみや)真央(まお)を見た。

彼女の柔らかそうな唇が動く。

 

それから思い浮かんだふたつの言葉。

 

――――――――――――――――――――

 

額をなにかに小突かれ、イサムは目を開けた。

目の前に鼻を近づけるマオの顔が迫った。

 

「わっ! って。」

 

寝ていたイサムはマオの顔に驚いて、

横に飛び跳ねて床に落ちた。

 

腰ほどの高さのベッド。

見上げた天井には夜空の星々の中に浮かぶ

プラネタリウムに見える。

 

プラネタリウムの中心には穴のような黒い円。

 

円は輪郭がうっすらと浮かぶ球体だった。

その奥には白い紐か、帯が見えた。

 

変な天井だった。

 

目を覚ましたイサムは身体を起こして、

壁さえも真っ白な部屋を見回す。

 

部屋の隅に立っていたのは、

マオの連れていた〈キュベレー〉だった。

 

黒髪のウィッグに真っ白な顔と黒色の目、

額には第3の目(サーディ)が存在する。

 

椅子に腰掛けたマオと目が合う。

 

「どうしたの? 記憶はちゃんとある?」

 

「…わからない。」

 

なぜここに寝ていたのかさえわからない。

 

イサムは発した声に違和感を覚えて、

自分の喉に手をあてる。

 

「はい。これ。」

 

マオは水の入った透明なボトルを投げ渡した。

 

ボトルは自然落下とは異なり、

ボールのように重力を感じさせない。

 

さらに回転するボトルと

内部の不安定な水で重心が変わり、

上へ下へと不規則な動きで飛んでくる。

 

それでもイサムは軌道を読んで見事に掴んだ。

イサムを見てマオは確信したようにうなずいた。

 

燃えるような真っ赤な髪に、

身体のラインが出た白色の服を着ているマオ。

 

マンションで見たオレンジ色の

スポーツウェアではなかった。

 

〈キュベレー〉もマオと似た服で、

普段のメイド服は着ていない。

 

ふたりの姿を見てから、

イサムは自分の状態を確認する。

 

イサムは青緑色をした

見慣れないゆったりとした服を着ていた。

 

記憶を辿(たど)ればマオの部屋に入る直前までは、

砂埃にまみれたジャージ姿だった。

 

意識を失っている間にまた脱がされたのかと、

動物園での出来事を思い返す。苦い思い出。

 

「僕は…なにが、どうしたんですか?」

 

天井がプラネタリウムになっていて、

床も壁もやわらかな光に包まれているこの部屋は、

同じマンションの同じ階の隣室であっても

明らかに異なる奇妙な空間だった。

 

「アレ、なにか見える?」

 

マオは右腕を上に伸ばして天井に指をさす。

 

その先にあるものは天井で、

プラネタリウムの光のはずだった。

 

黒色の球体の表面には、

小さな針のような構造物がいくつも建っている。

 

大きな黒色の針がびっしりと刺さった地表。

 

その針の隙間を、いくつもの〈キュベレー〉が

抜き取った針を担いで移動している。

 

天井を超えた先の宇宙空間が、

イサムにははっきりと見えた。

 

「なんで?」

 

すぐにマオの顔を見て、

もう一度天井を、その球体を見上げた。

 

天井の球体は高精細な映像でも、

それが勝手に拡大されたわけでもなかった。

 

この部屋から球体の表面までの距離は、

ゆうに数百km(キロメートル)はある。

 

それがいま、イサムの眼でも

はっきりと見える。

 

「なんで見えるんですか?

 あんなに遠くの…。」

 

「目がよくなったでしょ?」

 

「そんな程度の話じゃ…。

 ここ、なんなんですか?」

 

「少なくともここはマンションじゃないわね。

 〈光条(スターリング)〉と呼ばれる場所よ。

 あそこにある天体が、

 あなた達の住む名府、名桜(めいおう)市。」

 

「まるで…状況が飲み込めないんですが。」

 

「つまり、あれが〈NYS〉。

 〈人類崩壊〉後の、いまのヒトの姿。」

 

「え…と…。」

 

マオの顔を見るに冗談を言っている様子はない。

 

「ヒトの記憶・意識を〈カルマン〉って呼ばれる

 機械人形に移したのが〈ALM〉という企業。

 過酷な環境に適応できなかった人類を、

 〈NYS〉として製造したのがこの〈光条(リング)〉。

 〈NYS〉は絶滅したヒトの複製(レプリカ)なの。」

 

「それも冗談…。」

 

発した言葉が(さえぎ)られたような、

考えに妙な違和感が生じて眉間にシワを寄せた。

 

「冗談を言うメリットがないわ。

 八種くんもその目で見たでしょ。」

 

見た。

 

球体に植えられた黒色の針を、

イサムはこの目ではっきりと見た。

 

「あの針の中身が〈NYS 〉。

 いまのヒトを構成する〈受容体(レセプター)〉。

 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、それから触覚。

 あの天体、名府に接続された〈受容体〉は、

 仮想の街で、光、音、匂い、味、手触りを得る。

 器官や細胞を情報として接続し感覚を与える。

 それから〈受容体〉で培養されたヒト同士が、

 生殖細胞を与えて新たなヒトを作る。」

 

「人って…!」

 

イサムは再度、天井を見上げる。

 

マオの呼んでいた「ヒト」は、

イサムの知る「人」ではなかった。

 

口が開いて見上げていると

身体がひっくり返りそうになり、

ベッドに力なく腰を落とす。

 

目の前には夜空に浮かぶ球体と、

そこに植わった無数の針のみ。

 

淡々と喋るマオの声が部屋に響いた。

 

「あれがいまの人類。」

 



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06-03:穴を覗くとき

イサムは黙って頭を抱えた。

整理が付かない。理解が追いつかない。

 

マオの部屋に入った途端、

見知らぬ空間で横たわっていた。

 

名府から数百km(キロメートル)離れた一室。

 

この場所、〈光条(スターリング)〉から見上げる

天体に植えられた黒い針…。

現在のヒトの姿、〈受容体(レセプター)〉を眺めている。

 

名府であった天体を囲む、今いるこの環は、

〈NYS〉を製造する〈光条(スターリング)〉と呼ばれる。

 

マオ曰く人類は絶滅し、〈NYS〉は複製品(レプリカ)

 

「ここで目覚める前、

 なにか思い浮かんだことはない?」

 

先に妙なことをマオが尋ねてきたので顔を上げた。

 

唇を見て、イサムはなにかを思い出そうとしたが、

(はらわた)をかき混ぜられる不快感が蘇る。

 

記憶の中にある忌々(いまいま)しい事件。

それから思考が妨げられる頭の違和感に、

頭痛に似た痛みを覚え、眉間にシワを寄せた。

 

頭の中で目の前の人物を(おそ)れる。

 

それは動物園の歴史通路で見た、

ヒトとイヌのような主従の感覚。

 

「そう。やっぱり『保護』した影響かしら。」

 

「どうして、僕はここにいるんですか?」

 

「理由はふたつ。

 ひとつは八種くんが望んだから。」

 

彼女はそう言ったが、

イサム自身はその言葉に納得いかなかった。

 

「もうひとつは貴方が、変だから。」

 

ふたつの理由にやはり納得がいかず、

眉間にシワを寄せた。

 

「僕の妄想でしかなかったけど…

 海神宮(わたつみのみや)さんは〈キュベレー〉なんですね。」

 

マオと〈キュベレー〉が似ている

と思ったのはイサムの直感に過ぎない。

 

第3の目(サーディ)は〈キュベレー〉のみが持つ。

 

〈ニース〉が〈3S〉で複数の目を

取り付けたところで、脳が対応しなければ

装飾にしかならないが、マオは

その額に自在に動かせる目を持っていた。

 

海神宮(わたつみのみや)家の御令嬢だから持てる、

〈ニース〉の制約を超えた機能かもしれない。

あくまでイサムの予想に過ぎない。

 

それから、イサムは〈キュベレー〉に育てられた。

 

〈キュベレー〉は両親が指示する上で動いた。

幼かったイサムは〈キュベレー〉に連れられて、

家、学校、劇団と、どこへ行くにも一緒だった。

 

しかしマオの〈キュベレー〉は

指示を必要としない。

 

通学路で迷惑な後続車両を排除したとき、

公園にいたザクロを連れてきたときも、

彼女は一切の指示を出していない。

 

言葉を介さずとも意味を理解し行動する。

 

〈3S〉で出会ったときに、

公園まで後をついてきたマオ。

 

そのときはイサムも無理だとわかっていたが、

マオを先に学校へ向かわせるように

遠くに立つ〈キュベレー〉に指示した。

 

〈キュベレー〉への指示は、

登録者の言葉でなければ意味は通じないが、

不思議なことに理解したようにうなずいた。

 

海神宮(わたつみのみや)家の〈キュベレー〉は他とは違った。

 

予想が確信に近づいたのは、

マオが〈キュベレー〉を連れて

イサムの家に来たときだ。

 

玄関で天井を見上げた〈キュベレー〉と

同期するように上を見上げたマオ。

 

なにも言わずとも朝食を用意する〈キュベレー〉。

指示した寝室に隠れる〈キュベレー〉。

 

マオと〈キュベレー〉の行動の類似で、

イサムのよく知る従来の〈キュベレー〉との

違和感は多くあったが確証はなかった。

 

マオが〈キュベレー〉という信じがたい事実から、

目を背けたかっただけかもしれない。

 

「そう。察しがいいわね。

 第3の目(サーディ)は本来〈キュベレー〉が持つもの。

 八種くんの言う通り、私は〈キュベレー〉、

 …かもしれない。」

 

〈キュベレー〉は〈更生局〉の

機械人形であり〈ALM〉が管理している。

 

警備等の治安維持、学習施設での教育用、

育児、医療、または愛玩用など広範に扱われる

〈人類崩壊〉以降の人類のパートナー。

 

しかしマオはそのどこにも該当しない。

 

「でもちょっとだけ違うわね。

 それは私が海神宮(わたつみのみや)真央(まお)だから。」

 

名府にのみ存在する〈3S〉や〈個人端末(フリップ)〉など、

社会システムを統括する海神宮(わたつみのみや)家に彼女は関わる。

 

「〈ALM〉の〈キュベレー〉は、

 誤り(エラー)を探すのが役目。

 エラーがあれば〈更生局〉が対応する。」

 

「エラー…僕が『変』だから、

 〈更生局〉に引っかかったってこと?」

 

マオはイサムを『変』だと指摘した。

しかし彼女は自分の言葉を自ら否定した。

 

「残念ながら八種くんはエラーじゃない。

 エラーとはヒトが罪を犯すこと。

 名府の〈更生局〉はエラーの個体を抹消(まっしょう)する。」

 

「…抹消(まっしょう)?」

 

マオの言葉に疑問を発した。

 

〈更生局〉は罪を犯した人を収容するための施設。

 

月曜のカフェに現れて窓を叩いた女や、

イサムを殴りつけた3年生のライオン頭、

上の階から屋根裏に潜んでいたストーカー。

 

収容された人はその罪状によって、

何年も〈更生局〉から出られなくなる。

 

「あっちの…転府(てんふ)の〈更生局〉では、

 収容したヒトに年月をかけ更正を促している。

 けれども過ちを犯したヒトが、

 真に更生した事例がなかった。

 〈ALM〉がどのように手引きし、

 整備しても無意味だったの。

 結果はエラーを繰り返すばかり。

 こぼれ落ちた水。負の螺旋(スパイラル)。」

 

人の社会は善意で成り立っている。

 

食べ物を買う、物品や知識や技術、

または労働力の対価を支払う。

 

包丁は食べ物を切るための道具。

車は移動手段であり、交通規則を守る前提。

 

そんなことは誰でも習い、誰でもわかる。

人を脅し、他者を威圧する道具ではない。

 

暴力と恐怖で相手を支配し、屈服させる。

あるいは言葉巧みに相手を(あざむ)けば、

簡単に相手から奪えてしまう。

 

社会のルールを捻じ曲げる行為。

犯罪こそがマオの言うエラー。

 

「一度でも過ちを犯したのなら、それは獣と同じ。

 ヒトの定義を外れる。

 だから名府はエラーを抹消(まっしょう)した。」

 

「それじゃあ百花も?」

 

「亜光くんは転府に移動したわ。」

 

〈更生局〉に連行されたと思われた

亜光の行方がわかり、安堵(あんど)の息が漏れる。

 

「妹さんも一緒なら逃避行ってやつかしら。

 そんな程度で転府や名府の〈更生局〉は

 出しゃばらないわよ。ふふ。」

 

海神宮(わたつみのみや)さんもそのために…?

 人を抹消(まっしょう)するために…?」

 

彼女は人を殺すための存在であるのか。

思考に言葉が追いつかない。

 

頭にかかった妙な束縛がさらに思考を鈍らせる。

 

それは今までの常識がくつがえったせいか。

マオの言葉を疑うことさえ(はばか)られた。

 

「そう、ちゃんと『保護』が効いてるのね。」

 

困惑するイサムに、

マオは自らの(あご)に手をやり見つめる。

 

イサムの思考や発言がどこかで制限されるのは、

マオによる『保護』なるものが原因だった。

 

目に見えるもの全てが信じがたくなり天を仰ぐ。

 

天体の表面に植えられた針、〈受容体(レセプター)〉。

それが〈キュベレー〉に抜き取られる。

 

抜き取られた〈受容体《レセプター》〉は天体の極点に運ばれ、

天体の重力を離脱し〈光条(スターリング)〉に回収される。

 

これが名府の姿であり、〈更生局〉の行う抹消(まっしょう)

 

「私の役割は八種くん、

 貴方の欠陥(グリッチ)の隔離なの。」

 

「グリッチ…。」

 

彼女がイサムを常々『変』だと指摘していた。

それがグリッチに当たる。

 

〈キュベレー〉としての彼女の役割。

 

マオの額に第3の目(サーディ)はもうない。

絆創膏で隠してもいなかった。

 

「名府と異なる〈光条(スターリング)〉の重力下でも、

 私が投げたボトルを受け取り、確認が取れた。

 法則を理解し、予測する能力。

 その発生原因を私が調べていたの。

 八種くんがいつ、どうして、

 グリッチとなったか。」

 

彼女がイサムの身近によくいたのは、

決して偶然ではなかった。

 

亜光の暴投したボールも、

ライオン頭をした3年生の拳も、

貴桜とのキャッチボールも。

それと部屋に散らかしたポテトチップスも。

 

全てはグリッチが原因だとマオは言う。

 

「…それで、原因がわかったんですか?」

 

「残念ながら、わからなかったわ。

 どこかに頭を強くぶつけたのか、

 ヒトが絶対食べない野草でも食べたのか、

 八種くんに原因がないのなら。」

 

「そんな貧しい生活を

 送ってるように見えましたか?」

 

彼女の口元に笑みがこぼれる。

 

「私は貴方の過去に起因すると仮定し、調査した。

 ナノさん、ゲルダさん、お姉さんのハルカさん。

 そして磐永(ばんえい)チル。」

 

懐かしい名前に、イサムは目を見開いた。

 

それはハルカがマオに伝えた、

イサムの幼なじみの名前だった。

 



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06-04:虚ろな世界

イサムは3歳の時に劇団に入り、

灯火(ともしび)ユージ』の名で舞台デビューした。

 

そこは後に『YNG』の振付師になった

若き演出家の属する劇団で、女優であった母親が

逢瀬(おうせ)を重ねる場所でもあった。

 

イサムはよく似た顔立ちの演出家に、

自分の知る父親が本当の父親ではないのだと、

自然と受け入れ、諦めていた。

 

父母や兄とは仕事での関係でしかなく、

なにかをねだったり甘えたりは一切なかった。

 

役者として全員が家族を演じていた。

 

身の回りの世話は〈キュベレー〉が常に付き、

家族とは肩書きに過ぎないと幼いながら

イサムは察して、愚かにも利口者を演じた。

 

磐永(ばんえい)チルはイサムと同じ劇団の幼なじみだった。

 

同い年のチルとは同じ年に入所して、

稽古で顔を合わせることが多かったので

自然と仲良くなった。

 

丸い顔に太い眉毛が特徴の彼女は、

容姿端麗とは呼び難いが愛嬌にあふれ、

一部の高齢の観客には非常に好評だった。

 

5歳になったイサムは広告動画が

美少年と評されて人気を博すと、

ドラマや映画など多方面から出演を求められ

劇団に顔を出すことが減った。

 

それでもチルとは以前にも増して仲良くなり、

物陰に隠れて口づけを交わすなど

大人たちのマネごとをした。

 

幼かったイサムはチルのことを

自分の家族以上に好いていたが、

異性としての意識はまだ薄かった。

 

小学校高学年になると男女の身体の

発育の違いをお互いに意識してしまい、

顔を合わせるのが気まずくなった。

 

劇団にも顔を出すこともなくなった。

 

イサムの出演料は高騰(こうとう)を続け、

依頼は極端に減った。

 

11歳の頃には事務所に移り、母親の姓から

九段(くだん)ユージ』に芸名を変更した。

 

役者時代の『ユージ』の知名度を活かし、

振付師の元で歌唱ユニット『YNG』の

センターとなり方針を転換をする。

 

役者業を離れるとチルとはますます疎遠(そえん)になった。

 

両親は報酬の件で毎日のように喧嘩をしていたが、

イサム自身は一切口を挟むことはなく

ずっと子供として『ユージ』の役を演じた。

 

中学に進学してチルと同じ中学校に通い、

ふたりは再会を喜んだ。

 

しかし歌手業と学業の両立は困難を極め、

2年の間、ふたりが密かに会える時間もなかった。

 

――――――――――――――――――――

 

磐永(ばんえい)チル。

 八種くんの幼なじみの名前ね。

 彼女の名前も〈更正局〉の記録にある。」

 

今日のマオはいつもに増しておかしなことを言う。

チルは犯罪者ではない。

 

「え…? 〈更生局〉…?

 どうしてですか?」

 

「それは彼女が…、

 強姦(ごうかん)の実行犯のひとりだったから。」

 

「冗談…。」

 

思考が切れると同時に言葉が途切れた。

頭痛の(わず)わしさに眉間に深くシワを寄せた。

 

彼女が冗談を言うはずもなく、

そんなメリットはどこにもなかった。

 

マオの報告した内容に、

イサムは信じられず、反射で出た言葉に過ぎない。

 

マオもそれを察して、イサムを

いつものように否定はしなかった。

 

「八種くんを襲ったのはクラスメイトの6人。

 通報と自白をしたのが彼女、磐永(ばんえい)チルだった。

 他の5人はいずれも犯行前後に

 避妊薬を服用したけれど、

 磐永(ばんえい)チル、彼女だけは妊娠を望んだ。」

 

マオは赤土色の瞳でイサムをじっと見つめ、

事件の詳細を淡々と述べた。

 

「でも、チルは…。」

 

転府と名府では〈更生局〉の役割が異なり、

年月を経て出てこられる。

 

ついさきほどマオから説明を受けたが、

彼女にかけられた『保護』によって

イサムは声が出ない気がした。

 

彼女は首を横に振った。

 

「〈ALM〉は強姦(ごうかん)による

 ヒトの繁殖を許容しない。

 その加害者であれば更正の余地なしとして、

 接続を解除して磐永(ばんえい)チルは抹消(まっしょう)された。」

 

手にしていたボトルが床に落ち、

マオの足元に転がった。

 

「どうして…。」

 

信じられないイサムは、

ついにマオから目を背けて顔を伏せた。

 

「罪の自白をしたところで

 犯した事実は消せはしない。

 5人の共犯者を〈更生局〉に送って、

 自らの罪が軽くなると思ったんでしょ。」

 

「チルはそんなことしない!」

 

頭の中の抑制を振り切って声を張り上げた。

 

「信じたくなければ信じなければいい。

 私が嘘を言っていると思えばいい。

 誰だって裏切られたくはないわよね。

 利口者や道化でも演じれば楽になるわ。

 それなら事実を嘘で塗り固めて、

 妄想に浸ることもできる。

 目を閉じて耳を塞ぐことも、

 八種くんにはできるでしょ。

 その権利まで取り上げる気はない。」

 

イサムに返す言葉はなく、

目を伏せて黙るしかなかった。

 

足元に水が流れている。

マオがボトルの水を床にこぼしていた。

 

器を失った水は床のわずかな傾斜から、

より低い排水口を探してゆっくりと移動する。

 

「器からこぼれた水は

 高いところから低いところへ、

 こうして逃げ道を探してさまようの。」

 

イサムには彼女の言動が理解できなかった。

それ以上に考えが追いつかなかった。

 

人類は絶滅した。

 

天体に植えられた黒色の針、

受容体(レセプター)〉として複製した人類、

〈NYS〉。

 

動物園で見たタヌキの映像が脳裏によぎる。

小さな部屋で小さな人工の水たまりを、

ストレスで歩き回る1匹のタヌキの姿を。

 

〈キュベレー〉であるマオにとって

複製させた人類は観察対象に過ぎず、

タヌキ同然の存在かもしれない。

 

虚像の顔の人たち。虚飾の世界。

 

「八種くんは暴行によって視力を失った。

 でもそれはグリッチの発生には関係なかった。」

 

彼女の声は小さな部屋に響き、

聞く気はなくともイサムの耳にまで届いた。

 

イサムを『変』だとみなした理由をマオは探し、

いまこうして隔絶された空間にいる。

 

マオがここまで大げさな嘘をつく

その理由が、イサムには見つからない。

 

「八種くんの過去に原因がないのであれば、

 私が投じられ、観測を始めた時点から、

 グリッチが発生したと考えられる。」

 

勉強して高校に入学した当時を思い返したが、

入ってみれば女子ばかりの学校だった。

そのため、緊張と恐怖で記憶はおぼろげだ。

 

クラスに男子が3人だけだったのは驚いた。

 

イサムは勉強が得意でもなければ、

運動能力も高い方ではない。

 

ライオン頭との暴力事件で、

マオから指摘を受けるまでは

変であることさえ自覚しなかった。

 

公園で亜光がボールを投げるより前に、

ボールの落下予測がついていたことがある。

 

イサムはマオの胸元に飛び込み、

受け止めた彼女の鼻先が頭頂に触れた。

 

それよりも少し前に

カフェで襲われたときは咄嗟(とっさ)に動けず、

無様にも椅子から倒れた。

 

散々ないち日の始まりが、

昨日のことのように記憶は鮮明だった。

 

マオの言葉を思い返す。

 

「私が投じられ、観測を始めた時点。」

 

海神宮(わたつみのみや)真央(まお)が出現したことで

海神宮(わたつみのみや)家が存在し、クラスメイトだけでなく

名府に来た『SPYNG』のふたりや、

ハルカの認識さえも変えたことになる。

 

イサムがマオと出会ったは、登校直前の通学時間。

カフェを出て、〈3S〉を通る前の間。

 

彼女は何者かによって投じられた〈キュベレー〉。

 

海神宮(わたつみのみや)さんは僕を消せない。

 グリッチを隔離する君の役割は終わった。」

 

イサムの半ば自暴自棄な言葉に、

マオは口を閉ざした。

 

〈キュベレー〉の役割は、

滅んだ人類にその事実を暴くことではない。

 

滅んだ人類の世界を安定させるための、

欠陥(グリッチ)という存在の隔離。

 

目の前の〈キュベレー〉に

命乞いをすれば、グリッチが

元の場所に戻れる道理はない。

 

たとえ元に戻れたところで、

そこは人類が滅んだ仮想の世界

であることに変わりはない。

 

事実を触れ回ったところで正気を疑われる。

 

虚像と虚飾の世界に戻っても、

待ち受けるのは虚無でしかない。

 

利口者や道化を演じろと彼女は言った。

だがイサムはそれを拒んだ。

 

「グリッチなら、君は僕を抹消(まっしょう)すべきだった。

 こんな場所で僕を起こす必要なんて、なかった。

 『保護』したことに意味があるんじゃないか?」

 

マオの言動のどこに意味があるのか考えた。

メリットはどこにもない。

 

マオが自らの部屋へ誘った理由は別にあり、

彼女を〈キュベレー〉と暴く為に

イサムは招待を受けた訳ではない。

 

「察しがいいのも困りものね。」

 

イサムの質問に対し、マオは返事を拒絶した。

 

「えっ…。」

 

拒絶によってイサムの意志とは別に、

身体はベッドに横たわり口も開けず目を閉じた。

 

海神宮(わたつみのみや)真央(まお)という存在に逆らえない。

マオは『保護』によってイサムを従えさせた。

主従の関係が彼女の命令を強制的に実行する。

 

「おやすみ、八種くん。」

 

イサムは最後の抵抗に、眉間に深くシワを寄せた。

 

――――――――――――――――――――

 

長かった夏期休講が終われば、新学期が始まる。

 

ハルカが玄関でイサムを見送った。

 

まだ夏の名残りのある日差しの中で、

再び学校に通う日々が続く。

 

イサムは普段と変わらずいつものカフェに通い、

安いトーストに無料のバターを塗って頬張る。

 

垣根の向こうで青色のオープンカーが停まり、

運転席からシバさんがこちらを向いて手を振る。

 

通学路にある〈3S〉で、

頭を元に戻す〈デザイナー〉の行列を眺める。

 

学校近くの公園では、亜光(あこう)貴桜(きお)

いつもと変わらずキャッチボールをしている。

 

クラスの女子生徒たちから視線を浴びる。

あいかわらず男子は肩身が狭い。

 

イサムは16歳の誕生日を迎え、

〈ニース〉になる選択肢ができた。

『ユージ』ではなくなることも可能だった。

 

1年はあっという間に過ぎ、

進級するとナノとゲルダが後輩になった。

 

高校を卒業して誰かと結婚する。

家庭を築き、子供を作る。

『イサム』として姉に誇れる利口者になれたか。

それとも誰かに笑われながら道化を演じるのか。

 

選択は無限に広がり、時間には限りがあった。

 

高いところから低いところへ水が流れるように、

日常はなにごともなく連綿(れんめん)と続く。

 

心のどこかで、溜め込んだ(よど)みを覚える。

 



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0605:長い眠りの中で

水を入れた容器。

これをふたつにする。

 

ひとつは私の遊び場。

 

もうひとつは誰か知らない〈ALM〉の、

昔の〈カルマン〉が作った容器。

 

水を満たした容器に石を投げ込めば、

波紋を立てて水がこぼれるのは

実行しなくとも想像に容易(たやす)い。

 

私はそんなことを呆然(ぼうぜん)と考えていた。

 

『魔女、ミダス』

 

そのふたつの単語が脳裏をよぎる。

知らない言葉と知らない名前。

 

魔女とは〈人類崩壊〉以前の言葉だ。

ミダスは人名だろうか。

 

私が死んで、目覚めたときに

何者かによって植え込まれた異物。

 

それとも〈NYS〉の中に

最初から備わっていたものか。

 

光条(スターリング)〉から転府を眺める。

 

あの球体に植わった針のひとつが、

かつての私だったのかと感慨にふけた。

 

目覚めてはじめの5年、わたしは眺めた。

結論からいえばなにも変化はなかった。

 

〈ALM〉の『保護』機構が、

〈カルマン〉となった私の思考を

妨げていたのかもしれない。

 

死後60年経って〈ALM〉に回収されたのだから、

死んだ後に意識を掘り起こされても困ったものだ。

 

だれも説明しない老婆ひとりのこの状況を、

せめて自分で把握する時間くらい配慮して欲しい。

 

かつてここには〈カルマン〉がいた。

 

ALM(アルム)〉は〈カルマン〉を作り出す。

しかし、〈カルマン〉は去り、

材料となる人類は滅んでしまった。

 

そこで〈ALM〉は人類の複製を始めた。

それがいまの人類であり〈NYS〉。

 

受容体(レセプター)〉と呼ばれる環境耐性を

手に入れた人類は再び繁栄する。

それは仮想の、『檻』の中での話。

 

転府(てんふ)と呼んでいた天体に、

光条(スターリング)〉が産み出した〈受容体〉を設置する。

 

天体に接続された〈受容体〉はヒトとして、

〈NYS〉として活動し、〈キュベレー〉と

〈更生局〉によって生涯を管理される。

 

家畜にするでもエネルギーに変えるでもない、

虚無の構造物が私の過ごした転府であった。

 

目的も目標も役割さえわからない状況で、

私は〈カルマン〉にさせられた。

 

私は〈カルマン〉と呼ばれる

〈キュベレー〉とは異なる機械人形になった。

 

〈キュベレー〉は単なる機械人形だが、

〈カルマン〉は機械の身体に

ヒトの記憶・意識を移したものだ。

 

有限の寿命を持つ〈NYS〉が

無限の寿命を得たに過ぎない。

 

ベニクラゲかロブスターにでもなった気分だ。

 

長年掛けて機械動物を作っていたら、

自分が機械人形になったのは貴重な経験だ。

 

『檻』から抜け出した死後が、

あの毛根を観察する役割だったので、

くふふと不気味な笑いが込み上げてしまった。

 

変化のない観察は何年も続いた。

 

私が〈カルマン〉になるまで何年かかったのか。

次の〈カルマン〉を回収するのに何年かかるのか。

 

〈ALM〉には対話や意志がないのが問題だ。

光条(スターリング)〉の〈キュベレー〉もなにも喋らない。

 

〈カルマン〉を増やすだけであれば、

〈ALM〉が勝手にやれば済む計画だ。

 

死んだ私を〈カルマン〉にした理由や、

〈ALM〉の目的がなにかは判然としない。

 

ヒントはわずかふたつの単語。

 

『魔女、ミダス』だ。

 

ミダスと呼ばれた魔女。

とするのが適当な解釈か。

 

ミダスは女であったか、

男でもあるかもしれない。

 

肩書きも名前も性別も、なんでもいいのか。

 

〈ALM〉が望むものが老婆であったのなら、

私は魔女ミダスと呼ばれる存在とも言える。

 

けれどもそんな得体の知れないものに

なる気はないし、名乗るつもりも当然ない。

 

なったところでやることはわからないし、

好き好んで吊るされたくはない。

 

それとも魔女ミダスは〈人類崩壊〉以前の、

信仰の対象として存在していたのか。

 

焼いた魔女が聖女に変わる可能性もある。

私はうら若き乙女とは言い難い。

 

ミダスは〈ALM〉の信仰の対象であろうか。

生き別れた元恋人を複製したいのか、前世の恋人?

はたまた復讐の相手かもしれないし、

両親のどちらかなのかもしれない。

 

無口な管理者の〈ALM〉が、

乳離れできないお年頃ではないと思いたい。

 

〈ALM〉は私を〈カルマン〉にしたことで、

〈NYS〉からミダスを作り出すか、

もしくは見つけられると考えたのか。

 

これから先にミダスと呼ばれる変異種が、

生まれてくる可能性も考えられる。

 

なにひとつ判断材料のない現状では、

ミダスを見つけるのは無理に等しい。

 

きっとそれは〈ALM〉にしかわからない。

 

私が〈カルマン〉になってさらに100年。

生前の習慣として〈NYS〉の観察を続けた。

 

100年間眺めたところで、産毛の〈NYS〉たちが

なにかの手違いで宇宙空間を自由闊達(かったつ)に飛び回る、

そんな突飛な進化を遂げはしなかった。

 

きっと2000年経っても同じなのかもしれない。

 

〈ALM〉によって転府と呼ばれる檻で

飼われた人類は、去勢されているのも同然だ。

 

もし飛び出した産毛を観測するだけなら、

〈ALM〉が勝手に回収するだろう。

 

なぜ私が〈カルマン〉になったのか。

なぜほかの〈NYS〉が〈カルマン〉に

ならないのかを考えた。

 

仮定として、転府に存在する〈NYS〉は

私しか存在しなかったとする。

 

それなら辻褄が合いそうだが、ではいま

こうして〈カルマン〉になりえないし、

〈NYS〉を観察する意味はない。

前提が崩壊する。

 

また、生前私が『動物園』を築き、

使い切れない膨大な富を手に入れたことで、

暇つぶしをしている〈ALM〉の

お眼鏡に適ったからか。

 

暇つぶしであれば、のぞき見をしていないで

私の話相手くらいして欲しいところだ。

どこかでほくそ笑んでいるに違いない。

〈ALM〉は性格がきっと悪い。

 

私程度の富を得た〈NYS〉など

ほかにはいくらでもいたし、

晩年は浪費する一方だった。

 

それが死後60年経ってから、

〈カルマン〉になった。

 

晩年の私はといえば〈ALM〉を

出し抜く方法を考えていた。

 

その成果がなんらかの形で顕現(けんげん)して、

原因となった私が〈ALM〉に回収された。

 

私の死後、〈ALM〉は人の煽動(せんどう)を禁じていた。

これでなんとなく辻褄(つじつま)は合う。

 

〈ALM〉は私を〈NYS〉の想定とは

異なる存在として見出し、隔離した。

 

まるで病原菌か排泄(はいせつ)物扱いの、

自暴自棄に近い自虐思考。

 

そんな私に『保護』を設けた処置は当然といえる。

 

私は〈ALM〉とは違う方法を考えた。

変化のない観測と部屋に置いた〈キュベレー〉を

着飾ることに飽きたに過ぎないが、

私なりのやり方を考えた。

 

それは転府をふたつにすることだ。

 

私を例にしてヒトを復元できるのだから、

その技術で転府という天体ごと複製した。

 

なにかをするにも、まずは

予備は用意するに越したことはない。

 

製造までに100年ほどの遅延が生じたが、

そっくりそのままの天体が完成した。

 

あとは私の好きなように(いじ)る。

 

元の転府は〈ALM〉の持ち場に、

新しい天体は私の持ち場として活用する。

 

複製で生じた問題は起きていない。

転府と比べて変化も起きていない。

複製なのだから当然だ。

 

そこに私はいくつか手を加えた。

 

〈更生局〉での罪人の抹消(まっしょう)を優先したが、

元の転府の善良な市民と比べたところで

遺伝子に差が生じはしなかった。

 

経済による弱肉強食の世界をちまちまと

組み立ててもまだ大きな変化は生じず、

小さな変化もすぐに収束していった。

 

カンブリア爆発や恐竜時代は簡単には訪れない。

 

大きな変化を与えるには

環境として致命的な隕石ぐらい大胆に、

そして悪趣味なぐらいの

改革が必要だと極端な考えに至る。

 

私は『保護』をされているのだから、

何か問題があれば〈ALM〉が止めるまで、

より自由にやらせてもらうことにした。

 

そこで編み出したのが魔人だった。

 

魔とは異形の頭を持つもの。

ヒトを惑わし、ヒトを害する。

 

魔女に対して魔人とは見事な案だと

我ながら関心した。

 

ヒトを〈NYS(ナイス)〉と呼んだ

〈ALM〉ほど悪趣味ではない。

 

ヒトの頭を動物に変化させたなら、

ヒトはどのような遺伝子を残すだろうか。

 

自分の顔を好んでいないヒトが、

気軽に整形する感覚で〈3S〉を設置した。

 

集団の美意識こそ、遺伝子の変化を促進させる。

 

他人の外見を得て成り代わる擬態(ぎたい)

他人の優れた部位に整形して収斂(しゅうれん)する。

ヒトはどのように遷移(せんい)するだろうか。

 

ただし魔女ミダスを産むのであれば、

ヒトの原型も残したほうがよい。

魔女が間抜けなイヌにならないように。

 

こう考えるのは私に『保護』という、

首輪がされているからだろうか、とたまに考える。

 

ウマやロバの頭で繁殖し合うのも一興だ。

しかし生まれてくる子供には選択を与えたい。

 

ラバではろくに繁殖できないに違いない。

 

容姿と共に、肉体の変更にも規制を施した。

アリや山など自由奔放になられても困る。

 

ヒトの形の範疇(カテゴリ)を前提とした。

 

その〈3S〉がまさか、

自ら身体を互いに壊し合うほどの

競技に利用されるとは思いもしなかった。

 

本来、自由な肉体を持たない〈受容体(レセプター)〉が、

仮想の世界で架空の肉体を壊し合うことに

生の実感を本能的に得ようとしているのか。

 

生物は面白い。

私などの矮小(わいしょう)な考えを容易(たやす)く超える。

 

転府との遺伝子の差は結果は一目瞭然(いちもくりょうぜん)となった。

 

動物は優れた外見の相手と遺伝子を残す。

ヒトもまた同じく動物だ。

 

運命的な出会いなど、

虚像の顔ひとつでどうとでも変わった。

 

個人端末(フリップ)〉や〈個体の走査(スキャン)〉によって、

誰もが個体番号を把握できる環境で

犯罪率も抑えられた。

 

そこから転府と私の天体、名府は交流をさせた。

 

しかしそれからまた400年経っても

魔女ミダスの兆候(ちょうこう)どころか、

〈カルマン〉の逸材が見つからない。

 

とはいえ適当に()み上げたヒトを、

闇雲(やみくも)に〈カルマン〉にしたところで

なんの成果も獲られないだろう。

 

ただし私は〈ALM〉とは違い、

水の入った容器を見張るのが役目ではない。

 

容器をふたつにした理由がそこにある。

 

大きな変化を与えるには、

大きな異物を加えるのが最短だ。

 

変化に破壊は論外として。

壊してしまっては元も子もない。

 

予測できる失敗をおかす必要はない。

 

石を投げ入れたときに、容器から

こぼれる水を防ぐことを前提として動く。

 

水で満たされた容器には2種の膜を張る。

 

膜の外側は破れやすい『状況』を作る。

内側には修復されやすい『環境』を作る。

 

波打たせても水がこぼれず、

逆位相を与えれば波を打ち消せる。

 

さらに膜から水がこぼれてた場合に、

容器の外側には『受け皿』を設ける。

 

準備が整った段階で容器に石を投げる。

 

石は本来、容器には存在しない異物。

 

またこの異物は〈ALM〉や、

他の〈NYS〉には決して生み出せない、

〈カルマン〉となった私だけが生み出せる。

 

投げ込まれた石の影響で膜は破れ、

水は波打ったものの、こぼれはしなかった。

 

容器を破壊せず、投じた石によって

内部に亀裂を生じさせることこそが、

私の真の目的だった。

 

その亀裂によって新たな〈カルマン〉が誕生する。

 



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i:私、僕。

眼前に浮かぶ黒い球体。名府の天体。

 

誰かの声に目を覚ませば、

また〈光条(スターリング)〉のベッドから、

真っ黒な天体の浮かぶ天井を見上げていた。

 

イサムが身体を起こすと、

光を吸い込むほど真っ黒な髪の女が

黒色の外套に身を包んで、

目の前の椅子に座ってこちらを向いている。

 

「魔女、ミダス?」

 

脳裏に浮かんだ言葉を女に尋ねた。

思考を阻害(そがい)するものはなく、

相手への(おそ)れもなかった。

 

マオにかけられた『保護』による

思考の違和感はなくなっている。

 

それでも〈NYS〉であった自分が、

いまもこの場にいることが不思議でならない。

 

「くふふ…。」

 

女を見て自然と言葉が漏れ出たので驚いたが、

相手は不気味な声で笑いを漏らした。

 

それはどこか記憶にある笑い方だった。

 

「私をミダスと間違えるなんてね。ふふ…。」

 

「ひょっとして、夜来(やらい)…さん?」

 

思い返しただけで笑いを(こら)える女。

 

特徴的なその外見で名前はすぐに思い出せる。

夜来(やらい)ザクロ。彼女はイサムのクラスメイトだった。

 

「どう? 改めて〈カルマン〉になった感想は?」

 

海神宮(わたつみのみや)さんは?」

 

マオに眠らされる前に、

イサムには言いたいことがあった。

 

白い部屋のあたりを見回しても、

隅には黒髪のウィッグに白色の服を着た

〈キュベレー〉が取り残されているだけ。

 

「最初の質問がそれ?

 私の記憶は見たでしょう?」

 

「見ましたけど、規模が大きすぎて…。」

 

動物園を築き上げた富豪が死後、数百年かけて

転府を複製して今の名府を作り上げた。

 

そんな老婆となった彼女の記憶を覗き見ても、

イサムには理解の限度を超えていた。

 

なにしろ目の前に座っている人物は、

イサムの記憶の中ではただの

クラスメイトに過ぎない。

 

「まだ寝起きで混乱しているみたいだから、

 順を追って説明しましょうか。」

 

海神宮(わたつみのみや)さんは、つまり石ですか?」

 

名府という容器に投げ込まれた石が、

夜来(やらい)ザクロの記憶の海神宮(わたつみのみや)真央(まお)だ。

 

「ふふっ。察しがよろしい。

 まあ慌てないで。

 石、海神宮(わたつみのみや)真央(まお)を名府に投じるために、

 前準備として地味で冴えない高校生を演じたり、

 クラスメイトみんなと共謀(きょうぼう)してクラスの人気者な

 ユージくんにお手紙書いたりね。」

 

「地味…?」

 

マオの発生で生じた波を、打ち消すための

逆位相としてイサムの『有事協定』が利用された。

 

マオという異物を馴染ませる為に、

混乱で紛らわすという単純な方法だった。

 

「観覧車の真下にある地下は…ひょっとして。」

 

「あれが受け皿ね。

 あの手の場所を作っておくと、

 私がなにかをやらかすときに

 逃げ道として色々と都合がいいからね。

 便利な地下組織ってわけ。」

 

「やらかす前提だったんですね。」

 

過去の全てが、この奇妙なクラスメイトの

手のひらで踊らされていた気分を味わい

こうべを垂れる。

 

「それで彼女を投じたときに、

 近くにいた八種くんにグリッチが発生した。

 やらかしには反省はしているわよ。

 彼女の出現場所を、ヒトの変化が

 大きくあらわれやすい〈3S〉じゃなくて、

 あえて学校にすべきだったかもね。

 それはそれでグリッチが大量に生じた

 かもしれないけれど。」

 

「あの場で〈ニース〉じゃない僕だけに発生した。

 海神宮(わたつみのみや)さんの予想は当たってたんですね。」

 

「でもグリッチの内容までは、

 詳しくはわからなかったみたい。」

 

「法則の理解と予測ができるって

 ものじゃないんですか。」

 

亜光の暴投も、3年生相手の拳も、

貴桜とのキャッチボールも見えていた。

 

「うーん、それはちょっとだけ違うかな。

 あくまでも予想に過ぎなかった。

 〈カルマン〉である私たちならそれは可能なの。

 高校生の私が八種くんの家で、

 〈記録媒体(メモリー)〉を落としたのは覚えてる?」

 

「〈カルマン〉なので覚えてますよ。

 そのときは落とした場所が、

 僕にはわかりませんでした。」

 

「でも八種くんの後ろに立ってた、

 見えないはずの彼女はわかってた。

 なぜだと思う?」

 

薄暗い玄関の、イサムの影で靴の中に入った

小さな〈記録媒体(メモリー)〉をマオは見つけ出した。

 

それはザクロも指摘し、

マオ自身も疑問に思っていた。

 

「あれは私のせいだった。

 私の視覚を彼女が理解していたから、

 落下場所を言い当てることができたの。」

 

「視界を共有していた?

 グリッチだった僕と…? あれ?」

 

「それもちょっとだけ違うわね。

 実は八種くんのグリッチは、

 正しくは八種くんと彼女、

 彼女と私とで別に共有するものだったの。

 このグリッチは面白い発見だったわ。

 動物の群れが外敵から身を守る忌避(きひ)行動。

 感覚を共有する可能性がヒトにあらわれた。

 反省もあったけれど、この収穫は実に大きい。」

 

ザクロは興奮気味に早口に語る。

 

記録媒体(メモリー)〉の落ちた場所が

イサムにはわからず、

ザクロが見ていたからこそ

彼女の共有先であったマオもわかった。

 

器に石を投入したザクロの行動の結果。

 

「それは〈キュベレー〉の…海神宮(わたつみのみや)さんを、

 夜来(やらい)さんが送り込んだからですよね。」

 

人に似せた皮を着せ、服を着せた機械人形。

それが海神宮(わたつみのみや)真央(まお)という存在で、

彼女は第3の目(サーディ)を持つ〈キュベレー〉だった。

 

ザクロが共有していても不思議ではない。

しかし彼女は首を横に振った。

 

「グリッチの発生は、ね。

 ただ彼女には自分を〈キュベレー〉と

 同等の存在だと私が『保護』しておいたのよ。

 実際には八種くんと同じ〈カルマン〉よ。」

 

海神宮(わたつみのみや)さんが…、

 いまの僕たちと同じ?」

 

「えぇ。名府に投じた彼女はまだ、

 〈カルマン〉であってはいけなかった。

 〈カルマン〉の私と彼女が同時に

 存在することは、社会を壊しかねないからね。

 〈キュベレー〉を演じてもらうことが、

 名府って器を壊さない最善の方法。

 それが、私の投じた要素の予備ね。」

 

ザクロが示す要素とは『状況』と『環境』、

それと石である〈キュベレー〉としてのマオ。

 

頭が余計に混乱する。

それでは新たに疑問が発生した。

 

「彼女が同じ〈カルマン〉なら…。

 夜来(やらい)さんの記憶にはありましたか?

 それとも海神宮(わたつみのみや)さんは夜来(やらい)さんより以前に、

 既に〈ALM〉に回収された

 〈カルマン〉だったんですか?」

 

〈カルマン〉は機械人形に

ヒトの記憶・意識を移したものであり、

イサムが起きるまでに辿(たど)ったザクロの記憶には

海神宮(わたつみのみや)真央(まお)は存在しなかった。

 

「それはねぇ。」

 

ザクロはひとつ間を置き、もったいぶる。

 

「彼女は私の別人格だから。

 あれ? がっかりした? ふふ。」

 

(あご)を上げてこれ見よがしに笑うザクロの口元に、

口を半開きにして言葉を失った。

 

「叔父から暴行を受けたときに、

 私が私を守るために作っていた予備の人格。

 そのときにできた人格を〈キュベレー〉って

 偽装したのが海神宮(わたつみのみや)真央(まお)

 これで合点(がてん)がいった?」

 

黒髪の女がふふ…とまた笑う。

 

「彼女は八種くんの回収をためらってたけど、

 女の子に誘われて部屋に入っちゃうなんて、

 大胆な行動に出るとは思わなかったみたい。」

 

「それは…。」

 

言い訳を考えて口をつぐんだ。

 

「『有事協定』違反。

 これって不純異性交遊ね。

 八種くん、道を踏み外しちゃった? ふふ。」

 

ザクロの勝ち誇った口元が悔しくて、

両手で顔を(おお)いうずくまった。

 

〈キュベレー〉と疑っていたマオの誘いに乗り、

イサムは虚像と虚飾の世界を知った。

 

「彼女の存在がグリッチを生み出してた。

 本来は彼女が〈光条(リング)〉に戻るだけでよかった。

 それで八種くんのグリッチは発生しない。

 でも隔離の名目で連れてきちゃったのよ。」

 

「それならやっぱり僕は

 抹消(まっしょう)されるべきなんじゃ…。」

 

「けれども消さなかった。」

 

イサムにはマオがそうしなかった理由が、

最後まで理解できずにうつむいた。

 

ザクロは両手で〈個人端末(フリップ)〉の仕草をして、

イサムの顔を覗き込む。

 

それからその右手だけを(あご)に当てた。

 

「そして彼女は八種くんを眠らせて、

 自らを抹消(まっしょう)した。」

 

「え? 自分を? どうして?」

 

マオはイサムを回収し、眠らせ、彼女は消えた。

 

「グリッチの確認も済んだからね。

 ボトルを投げて、グリッチの発生を確認した。

 グリッチを隔離し、眠らせ、彼女はいなくなり、

 名府のグリッチは完全に消滅する。

 こうして彼女は役割を終え、目的を果たした。

 〈カルマン〉の八種くんができた。」

 

海神宮(わたつみのみや)さんに眠らされた僕が、

 夜来(やらい)さんに起こされたのは、

 僕が〈カルマン〉になったからですか?」

 

「まぁ…、それもちょっとだけ違うかもね。

 せっかく作った器の亀裂、

 隔離したグリッチを消す必要もないし。

 それに消せなかったの。起こすこともね。」

 

「消せなかった、んですか?

 起こす?」

 

ザクロにはイサムを消せもせず、起こせもしない。

矛盾したことを彼女はまた言った。

 

目の前にいるザクロを見て、

目覚めたイサムは小首を傾ける。

 

「彼女は八種くんを『保護』したの。

 彼女の役割はグリッチの隔離だからね。

 そのグリッチを完全に隔離してくれた。

 だから私にも消せなかったし起こせなかった。

 ちゃっかりしてるわね。

 まったく誰に似たのやら…。」

 

海神宮(わたつみのみや)真央(まお)の主人格がぼやく。

 

「変じゃないですか。

 なんで僕は起こせたんですか?

 それで、海神宮(わたつみのみや)さんは?

 …もういないんですか。」

 

「自分で自分を消しちゃったからねぇ。」

 

ザクロは顔を部屋の隅に背けて感慨にふける。

 

眠らせたイサムを『保護』した状態で

マオは自己消滅を果たした。

 

イサムはマオが真実を告げたことで、

彼女が消え去ることを薄々と察していた。

 

自分がヒトではないことを。

イサムの過去を探っていたことを。

 

イサムは気が動転するばかりで、

ヤケになって恥ずかしい態度をとった。

 

海神宮(わたつみのみや)さんが僕を『保護』したのは、

 僕を消させない為だったんですね…。』

 

彼女と共に過ごした時間は、

意図的だったのかもしれないが

色々なことが起き、半ば巻き込まれた。

 

「僕は最後まで彼女になにも言えなかった。」

 

悔やみきれずに上着の(すそ)を力強く握る。

 

「それなら言えばいいんじゃない?」

 

「でももう海神宮(わたつみのみや)さんはいないんですよ?」

 

「予備はあったから、

 すぐに復元できたんだけどね。ふふ。」

 

「は?」

 

部屋に響くほど大きな声が出た。

 

「だって八種くんが起きるには、

 彼女がほどこした『保護』を、

 彼女自身に解除させる必要があったもの。」

 

「予備って…。」

 

「ずっとあそこにいるでしょ。」

 

(ほう)けた顔をするイサムに、

ザクロが部屋の隅を指し示す。

 

それはマオが(のこ)した〈キュベレー〉。

 

彼女に常に付き従うように動いた

機械人形が、ザクロの言った予備だった。

 

予備から復元されたマオはどこにいるのか。

 

イサムはさらなる疑問に疑惑を抱いた。

 

ザクロの笑い方といい、彼女はずっとおかしい。

以前ならばもっと不気味な笑い方をしていた。

それは『誰か』が演じている違和感。

 

イサムは目の前の役者に気づいて目を見開いた。

 

海神宮(わたつみのみや)さん…?」

 

目の前に座っていた真っ黒な髪のザクロは、

目を覆い隠していたその髪を真ん中で分けて、

目を開けば髪は燃えるような赤色に変わった。

 

「おはよう、八種くん。」

 

イサムの知っている人格のマオは

嘘はつかないが、正直者ではない。

メリットよりも好奇心が優先される。

 

イサムは目をしばたたき彼女を見た。

 

人の記憶・意識を移した〈カルマン〉は、

イサム以前にはザクロしか存在しない。

 

ザクロの入ったひとつの器、〈カルマン〉。

 

名府で〈キュベレー〉を演じていたマオは、

回収したイサムを『保護』して眠らせた。

 

器のない彼女は自己消滅以外に選択はなかった。

 

役目を終えたマオの自己消滅によって、

〈カルマン〉本体の本来の人格である

ザクロが目覚める。

 

『保護』によって眠らされたイサムを、

ザクロは消すことも起こすこともできなかった。

 

マオが『保護』した新たな〈カルマン〉を

目覚めさせるには、ザクロはマオの人格を

予備である〈キュベレー〉から復元させ、

記憶と意識を融合させなければならなかった。

 

ザクロは本来あったふたつの人格を、

〈カルマン〉というひとつの器に収めた。

 

マオは自らの人格を残す為に、自己消滅を選んだ。

 

「お、はようございます…

 海神宮(わたつみのみや)さん…?」

 

聞き慣れたマオの声とその言葉に、

あふれ出る感情を抑えて

イサムは眉間に深くシワを寄せた。

 

マオは髪を後頭部で束ねて縛り上げた。

赤土色の瞳で、いつもの顔がそこにあった。

 

「ちょっとだけ違うわね。

 私に起こされたと思ってるようだけど、

 正しくは八種くん自身が自分で起きたのよ。

 私はあくまで『保護』を解除しただけ。」

 

(よど)みゆく日々の、(うつ)ろな夢を思い出す。

あれは彼女のいない日常だった。

 

イサムはそれを知って口元が緩む。

 

「そうだよ。僕は、君に会いに来たんだ。」

 

真っ直ぐ見つめるイサムから、

マオは顔を背けて微笑む。

 

マオの手を引き、イサムは

彼女の身体を手繰り寄せた。

 

マオはベッドに片膝を乗せ、

イサムの顔に鼻を近づける。

 

――彼は愚かな選択をした。

 

「やっぱり八種くんは、変なのよ。」

 

不器用に笑いかけるマオに、イサムは笑う。

(せき)を破った水のように笑いがこぼれた。

 

――彼女は僕を変だと言った。

 

 

(了)

 



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