その後のエステル (アニメ勢の者)
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その後のエステル

いつの間にか手が勝手に動いて書いていたのでここになげておく


 まずエステルを始めに襲ったのは、鉛のように重い、どうしようもない虚無感だった。

 どくどくと傷口からは血が流れていても気にも止めずにただ木製の椅子に座り、頭をうなだれる。

 その姿はまるで、糸の切れた操り人形のよう。

 一緒にいた灰色の髪の……確かイレイナという魔女はとっくの前にどこかへ消えてしまった。

 あの人はなぜ私と一緒にいたのだろう。

 しだいに冷たくなっていく自分の身体。

 床は血色に染められ、靴の皮底が水分を吸う。

 あらゆる生への渇望が消えているよう。だから身体はぴくりとも動こうとしないのか。

 いや。

 それとも精神的にではなく、肉体的にも死にかけているのか。

 エステルはぎこちない動きで、いつの間にか何かに貫かれていた腹部に目をやる。

 ……全然、身に覚えがない。

 恐らく刃物で刺されたのだと推測する。

 誰に? どうして?

 まったくわからない。

 もしかして、あの魔女に刺された?

 いや……いや。

 それは違う。

 言葉では説明できない、妙な確信がエステルの中にはあった。

 刺すとしても中途半端にではなく、確実に殺すはずだ。

 患部に触れるとねっとりとした血が付着する。

 ひとまず、傷を治さなければ。

 なぜか極限まで減っていた魔力を消費して最低限の処置を済ませたエステルは、座ったまま眠りに落ちてしまった。

 

 寝覚めたのは夜だった。

 身体が震えるほど寒い。

 すでに傷は塞がっている。

 しかし流れた血が多すぎた。

 手足にうまく力が入らない。

 床の血はすでに固まり、鉄臭い。

 エステルはふらりと立ち上がるが、バランスを崩して前に倒れ込んでしまう。

 

「うっ……」

 

 みっともない。

 正直、もう動きたくない。

 このまま腐ってしまいたい。

 そんな負の感情がエステルの背中を撫でる。

 それでもなんとかして立ち上がったエステルは異変に気づく。

 

「なに……これ?」

 

 この部屋は……何だ?

 知らない物で溢れている。

 棚に初めて見る書物や薬液などで埋め尽くされ、何かについて研究していたのが容易に想像できる。

 蝋燭に火を灯してそれらをよく見ると、どうやら時間遡行に関する内容が全てだった。

 そして極めつけは、先程まで座っていた椅子の後ろで静かながらも強烈な存在感を放つ大釜だ。

 疑問は膨れ上がるばかりだ。中を覗き込んでみるが、空っぽ。

 大釜の上部に濾過装置のようなものをあるがそれも空。しかし微かに血の匂いがする。

 何の用途で設置されたものなのかエステルにはまるでわからなかった。

 

「……服、気持ち悪い」

 

 血に濡れた服が肌に張り付いて不愉快だ。

 刺し後のあるこの外套と服は仕立て直してもらわなければならないだろう。

 エステルは、さっさとこの奇妙な部屋から出て湯浴みをしようと非常にゆっくりした動きで歩き始める。

 ドアはイレイナが開けっ放しにしたままだ。

 部屋を出たエステルを待ち受けていたのは、さらに自身の知らない応接室だった。

 壁中に知らない写真がピンで留められているのだ。

 基本的にふたりの楽しそうな写真ばかり。

 花畑で抱きしめ合う写真。

 追いかけっこをしている写真。

 一緒におやつを食べている写真。

 仲良く同じベッドですやすや寝ている写真。

 などなど。

 片方は幼い頃の自分であることはわかるが、もう片方の瑠璃色の長髪の少女はいったい誰だ?

 ……痛い。

 わからない。

 ……痛い。

 頭が割れるように……痛い。

 写真を凝視していたエステルはギュッと目を瞑り、片手で額を押さえながら荒い呼吸を繰り返す。

 口を大きく開き、空気を貪るように吸い込む。

 ズキズキと脳が痛む。神経を針で直接刺されているかのように痛い。

 苦しい。

 胸がヘドロを溜め込んだように重い。

 この明らかな体調異常は、どう考えても怪我だけが理由ではないと思われる。

 壁に手を当てながら応接室を後にしたエステルは湯浴みをして、夕食も取らずに寝ることにした。

 何も考えることができない。むしろ考えたくない。

 ベッドに潜り込み、布団を深くかぶる。

 枕に顔を深く埋めて虚無のままに眠るエステルの両目に熱い雫が溜まったが、その理由もエステルにはわからなかった。

  

 ◆

 

 どのようなことが起きようとも太陽は上がり、眩い朝は訪れる。星は巡り、人の営みを見守る。

 普遍にて、不変。

 善人だろうと悪人だろうと、こればかりは平等だ。 

 当然、薫衣の魔女エステルも例外ではない。

 幾分か気分が楽になったエステルはまず、自己の状況……あるいは部屋の状況を理解することにした。

 ネグリジェ姿のエステルは大きなあくびをひとつして応接室へ向かう。

 昨夜は暗かったからわからなかったが、卓上には過去の新聞記事や自分で作ったであろうチラシ、さらにまたまたこれでもかと言わんばかりに積み上げられた研究書物があった。

 まだ立ちくらみなどには時折襲われるが、それでもなんとかこの部屋にある物をだいたい理解することができた。

 どうやら、自分は写真に一緒に写っている知らない少女――セレナと幼馴染だったらしい。

 証拠品は目の前にある。

 とはいえまだ観察が不十分であるため、はいそうですかと簡単に頷くことはできない。

 それほどエステルは安い女ではない。まだ確信には至っていない。

 そして気になるのがもうひとつ。

 

「何、このお金」

 

 金貨を大量に詰め込んだ麻袋。

 それが床に落ちたのか、中身がばら撒かれている。

 しばらくは生活に不自由しない金額だ。なぜこんな大金を用意している。

 脳裏にピリッ、と微弱な電撃が走り、卓上にあったチラシの束から一枚を手に取る。その内容は、魔女に対しての短期バイトの募集だった。

 点と点が繋がる。

 この金貨は恐らくバイトの報酬として用意されていたものなのだろう。

 しかし現にここにある。

 ということは即ち、何かしらのトラブルがあってイレイナは受け取らなかったか受け取れなかったことになる。

 エステルも致命傷を受けていたし、何かがあったことは間違いない。

 深く沈みこもうとする思考は、唐突に鳴り響いた時計塔の九時を知らせる鐘の音だった。

 鈍い音を一定のリズムで響かせるそれに、エステルの意識は瞬時に切り替わる。

 そう、エステルは無職ではない。

 魔女であるというステータスだけで生きていけるわけではない。ゆえに当然働かなければならないわけであり、その時刻になったのだ。

 

「やばっ」

 

 大急ぎで朝食を済ませたエステルはふらつく足で外へ飛び出し、箒に跨って勤務地へ向かう。

 魔女という肩書きはこの国、時計郷ロストルフでも非常にありがたい恩恵を受けることができる。

 何かと融通してもらえたり、ちょっとした無茶も通すことができる。

 就職の面接でも、魔女であると伝えるだけで目の色が変わったのを覚えている。

 エステルはロストルフの警備隊に所属している。

 ふわりと警備施設の正門前に降り立ったエステルは、門兵に軽く挨拶をして顔パスで中に入る。

 施設の内部に特徴といったものはなく、三階建てで敷地面積もそこまで広くはない。

 エステルに与えられた仕事場は二階の他の職員たちが集まるような大部屋ではなく、その隣にある専用の部屋だ。

 要は特別扱いである。

 魔法を使えるというのは警備隊にとってはとても重宝される人材であり、なおかつ魔女となればその貴重さは言うまでもない。

 給料だって弾むし、生活に不自由はない。

 専用の個室に入ったエステルは、手慣れた動きで本の積み上げられた机の横に鞄をかけ、踵を返してすぐさま部屋を出た。

 

「あれ? 私、何をしようとしていたんだっけ?」

 

 動きを急停止し、ぽつりと呟く。

 身体の向きを反転させて個室に戻ったエステルは事務作業に移ろうとした。とりあえず卓上の本やらは全て邪魔だから端に寄せ、今日のタスクを粛々を処理し始める。

 数時間ほど経った頃、誰かがドアをノックする音が聞こえた。

 

「どうぞ」

 

 部屋に入ってきたのは、三十代後半の男性だ。

 ひょろりと高い身長ながら、服の上からでも筋肉質な身体つきであることは容易に想像できる。

 顔立ちはやや整っていて、穏やかな鮫のような印象を抱かせる。

 男は目を少しばかり見開いて言った。

 

「おや。エステル君にしては珍しい」

 

 落ち着きのある低い声に、エステルは首を傾げた。

 男はエステルの直属の上司だ。魔女であってもこの組織のトップに君臨しているわけではない。ある程度優遇されているものの、ただの職員の一人でしかないのだ。

 

「そうですか?」

 

「ああ珍しいよ」

 

 そう返し、ちらりと本の山に目をやる。

 

「この時間だったらいつも蔵書庫に籠もっているじゃないか。もしかしてもう調べものが終わったのかな?」

 

「え?」

 

「その本だってあそこから借りっぱなしだし。……ああ、もしかしてもう果たせたのか」

 

 自己完結する男に、エステルの疑問は深まるばかりだ。

 さっきから何を言っているのか皆目検討もつかない。

 男はズボンのポケットからくしゃくしゃになった一枚の紙をこちらに見せつけてきた。

 

「昨日街でこのチラシを拾ってね。この字は間違いなく君のだろう? ほら、ずっと前から言ってたじゃないか。とうとう準備が整ったってことだ。それで? どうだった? 時間遡行の結果は?」

 

 ぐいぐいと迫ってくる男の顔は興味津々といった具合だ。

 彼も一応魔法を少しは扱える身だから、こういう魔法に関する話になると目がない。

 エステルは常々から魔法ではなく筋肉で生きたほうがいいのではと思っている。

 しかしながら会話の歯車がまるで合わない。話が進まない。

 

「ちょ、ちょっと、何のことを言っているのかわからないです。時間遡行? 何の為にそんなことわざわざしないといけないんですか?」

 

 すると男はきょとんとした顔でエステルを見つめた。

 その表情は豆鉄砲を食らった鳩のようで、瞬く間に心配そうなものへと変わった。

 きゅっ、と結ばれた口をゆっくりと開くと、男は確かめるように言った。

 

「だって君、ずっと前から幼馴染のセレナを助けるんだって……そのために時間遡行をする研究と準備をしているって言ってたじゃないか」

 

「………………え?」

 

 そんなこと、言ってない。

 時間遡行? ――なぜ。

 セレナ。 ――知らない。

 研究? ――なんだそれは。 

 脳裏に否定の言葉を浮かべ、重ねる度に、エステルの胸の内にぽっかり空いた虚無の穴が自己を主張する。

 そこに知らない情報が転がり落ちていく。

 落ちて――落ちて――どこまでも落ちて――二度と取り出せないほど深くへと落ちていく。

 急な目眩に襲われたエステルは頭を抱える。

 まだ身体の調子が良くないようだ。

 今日は欠勤すればよかった。

 ……男の言うことが事実であることは認めざるを得ない。なぜならエステルの記憶は虫食いのように欠落している部分があまりにも目立っているからだ。

 それが今教えてもらったことに帰結していると考えるならばすべて合点がいく。

 

「来たばかりで悪いですけど……今日はもう帰ってもいいですか?」

 

 目を伏せつつ、エステルは掠れ声で尋ねた。 

 そのただならぬ様子に微かに喉を鳴らした男は快諾した。

 考えのまとまらない頭のまま施設を出たエステルは、歩行者より遅い速度で箒の乗って帰る。

 家に戻ってきたエステルが何よりも先に実行に移したのは、今一度あの応接室と大釜の部屋を徹底的に調べあげることだ。

 片っ端から資料を読み上げるエステル。

 そもそもエステルは聡明であるため、これだけの物的証拠が揃っていれば限りなく真相に辿り着けるのはもはや時間の問題だった。

 すべてを理解したのは夕日が沈みかけるころだった。

 喉はすっかり砂漠のように乾燥して、目には披露が蓄積している。

 うめき声に似たため息を吐いたエステルは椅子にだらりと座り込んだ。

 

「なるほど……ね」

 

 ……記憶喪失に陥っている。

 それもセレナという少女に関する記憶、またこれに関わるものもすべて。綺麗さっぱり抜け落ちている。

 セレナを救うために家に書物をかき集めて研究に没頭し、サポーターとして短期バイト扱いで魔女を雇用。そして大釜にたっぷり蓄えた魔力を使って術式を編み、十年前へ飛んだ。

 という認識まで至った。

 おそらく滞在時間は多く見積もって二時間……いや一時間程度だったはずだ。ゆえにスムーズにセレナを救えるように、綿密な計画を立てていたに違いない。

 もし殺人鬼からセレナの両親を救えたとしても、今時分のいる平行世界には何の影響も及ぼさない。

 ただの自己満足に過ぎないエゴの衝動。

 それでもいいと思っていたのだ。だから実行に移した。

 それほどエステルはセレナのことを想っていた。

 しかし――。

 

「わからないよ」

 

 その想いはすでに失われ。

 その意味を見い出せず。

 力なく過去の新聞記事を机に置き、空を仰ぐ。

 

「だとしても……」

 

 なぜ自身に記憶喪失が起こっている?

 それだけがどうしてもわからない。

 記憶喪失になる要因としてはふたつ。

 ひとつは、イレイナに何かされた。

 ふたつは、過剰な魔法行使の代償として捧げた。

 どちらも十分にありえる。

 依頼内容より報酬金額のほうを先に聞き出そうとした彼女だ、報酬を受け取らずに消えるというのは些か腑に落ちない。

 記憶を失ったエステルを適当に騙して報酬を受け取ることだってできはずだ。

 なのにそれをしなかった。

 さらに、結局エステルがセレナを救えたかどうかすら覚えていない。

 もやもやは晴れない。

 鍵を握るのはイレイナだ。

 イレイナに話を聞かなければならない。

 旅人だと語っていたから居場所を絞り込むことは非常に困難だ。

 行動に移るまではすぐだった。

 魔法統括協会に依頼を出すことにした。

 イレイナ宛てに手紙を書き、これを届けてほしいというもの。

 きっとそう簡単には見つけ出せないだろうから、報酬は少し高めに設定しておく。高ければ高いほどあちら側も真剣になってくれる。

 郵便局へ向かったエステルは必要な事務処理を済ませ、報酬金をセットにして依頼を出した。

 できる手はこれでうった。

 エステルは気分が少しだけ楽になったのを実感した。外へ出るとすでに夜の帳は降りていて、家々の灯りのみが仄かに街のアウトラインを浮かび上がらせる。

 今日の夕食は、精のつく肉をたくさん食べよう。

 そう決意しながら、エステルは自宅へと向かったのだった。

 

 ◆

 

 返事が返ってきたのは、それから一ヶ月経った頃のことだった。

 実のところ、依頼を出したことを忘れかけていた。ゆえにエステルが突然の来訪者に驚いたことは言うまでもない。

 仕事から帰ると、家の前で見知らぬ少女がぼけーっとしながら地面に座り込んでいた。

 特徴的な三角帽。黒のローブ。

 こちらに気づいた少女はぱあっと顔を明るくして立ち上がり、ローブについた土埃をはらった。

 その胸には、月を象った魔女のブローチ。

 

「あなたがエステルさん……ですね?」

 

 中性的で、あまり見かけない艶のある黒髪。

 少女は小動物のようにぴょこぴょことエステルに近づいてそう尋ねてきた。

 

「ええ……そうよ。君は魔法統括協会の人……だね?」

 

「はい! ボクは魔法統括協会に所属する、炭の魔女サヤです! 依頼内容の履行に参りました!」

 

 威勢良く答えたサヤは自分の懐に手を突っ込みながら言った。

 

「イレイナさんを探すのは本当に苦労したんですよ〜? あの人、ホントどこをぶらぶらしてるのかわからないんで。ボクじゃなければ間違いなく半年はかかったと思いますね!」

 

 妙に自信満々にサムズアップしながら語るサヤに対し、エステルは「あ、そうなのね」としか返せない。

 

「ま、別にいいですけどね! イレイナさんの甘くて、でもほんのちょっぴりだけほろ苦い匂いを頼りに足跡を追うのは、ボクとしてはとても充実した時間でしたから!」

 

「匂いって……何か探索用の魔法とか使ったの?」

 

「いえ、普通に自分の鼻でですけど?」

 

「君、前世は犬だったんじゃない?」

 

 するとサヤは真顔で答えた。

 

「違います。ボクの前世は前世のイレイナさんの伴侶です」

 

「えぇ……」

 

 この魔女、結構ぶっとんでいることは間違いなさそうだ。

 しかしエステル自身、旅人であるイレイナをたった一ヶ月で探し出した実績は認めなければならない。

 サヤの愛はおそらく一方的なものだと思われるが、それにしても重い。

 

「そ、れ、で……はい! これがイレイナさんからのお返事の手紙です!」

 

 サヤが差し出したのは、汚れの一切ない真っ白な封筒だった。

 随分と長旅だったはずなのに、どれだけ大切に保管していたのかが伺い知れる。

 表面には丁寧に『薫衣の魔女エステルさんへ』と、裏面は『灰の魔女イレイナより』と綺麗な字で書かれていた。

 

「ここまでわざわざお疲れ様。ありがとうね」

 

 この封筒の中にあの日の真実が記されている。

 エステルは特別な気持ちになったりするようなことはなかった。

 これはただの事実確認であり、それ以上でもそれ以下でもない。

 受け取ろうと封筒に触れ、手元に寄せようとするエステルだが、なぜかサヤが離そうとしない。

 

「サヤさん?」

 

「ああいえ、すみません。イレイナさんの匂いの染み付いたこれを手放すのはす〜〜っごく名残惜しくてつい……ここに来るまでの間、いったいどれだけお世話になったことか……」

 

 やけに恍惚な顔で封筒に視線を落として語るサヤにエステルは本気で引いた。

 

「え、きも」

 

 そんな純粋な呟きは幸い、完全に恋する乙女モードに突入したサヤの耳には入らなかったようだ。

 

「絶対にぞんざいに扱わないでくださいね! イレイナさんから手紙なんてこれ以上ない幸せなんですから!」

 

「そんな大げさな」

 

「大げさじゃないですよ! ボクなんて一度ももらったことないんですから! うらや……! けしか……! ボクもほし……! 羨ましい……!」

 

 何度か言い直そうとして、結局初めの心の声を吐き出した。

 イレイナも苦労人だなぁと考えつつ、改めて封筒を受け取る。

 すんすんと封筒を顔に近づけて嗅いでみるも、サヤの言う匂いというのは感じられない。

「匂い、わかりますよね⁉」と文字を顔面に貼り付けたようなサヤを無視してエステルは依頼終了を伝えた。

 

「ありがとうサヤさん。君のおかげでとても早く返事を受け取ることができたよ」

 

「はい! もしまたイレイナさん関係の依頼があるなら、魔法統括協会、炭の魔女サヤに任せてください!!」

 

 その言葉だけは文句無しで信じられそうだ。

「それでは、さよならー!」と箒に跨って元気に飛び去っていくサヤを見送ったエステルは、ようやく家の中に入った。

 ぽん、と封筒ともども荷物を机の上に起き、さっさと部屋着に着替える。

 夕食を済ませ、ぐだぐだしているうちに寝る時間になってしまった。

 ベッドに潜りこもうとしたエステルはギリギリのところで封筒のことを思い出した。

 少し眠りのスイッチが入ったまま、封を開いて中身を取り出した。

 中に入っていたのは二枚の手紙だった。片方にはなぜか文字が一切書かれていない。

 とりあえず書かれてある方を読むことにした。

 その内容としてはまず、怪我をしたエステルを放置したまま出ていったことへの謝罪から始まっていた。

 そしてあの日の出来事の詳細を知っていて、もし知る覚悟があるのなら、何も書かれていない方の紙を読んでほしいとある。魔力を込めれば文字が浮かび上がる仕組みになっているそうだ。

 そして、どうしても面と向かって話がしたければもう一度依頼を出して頂けば、と。依頼料はこちらがもつとまである。

 随分とへりくだった文章から、相当エステルに対して引け目を感じているのがわかる。

 

「ふーん」

 

 別に怒りなどといった感情はない。

 当時のイレイナにはそれほど心に余裕がなかったのだろう。

 それを責めはしない。きっとこの手紙を書くのにも神経をすり減らしていたかもしれない。

 躊躇いや葛藤はこれといってなかった。

 白紙の手紙に魔力を込め始める。

 ぽう、と紙が仄かに光を放ち、インクが染みるように次々と文字が浮かび上がってくる。

 深淵を覗く?

 違う。

 覚悟を示す?

 違う。

 事実を確認するだけだ。

 あの日からずっと胸のうちに抱えていたもやもや。これを完全に晴らすことができるというのが何よりの収穫なのである。

 ゆらりとろうそくの炎が揺らめく。

 部屋をほんのりと淡く照らす。

 ゆらゆらと。

 ゆらゆらと。

 セレナが満面に微笑む写真も照らしている。

 

 ◆

 

 翌朝、エステルは大きな荷物籠を抱えてロストルフの郊外へと足を運んでいた。

 人々が何度も歩くことによって硬くなり、雑草の生えなくなった地面に籠ごと置く。

 中にはたくさんの写真。

 主にセレナの写った写真のすべて。

 右手を前に突き出せば杖が現れて手に収まる。

 無言で籠を見つめ――。

 小さく息を吐きだして――。

 拳大ほどのサイズの炎を籠に向けて放った。

 勢いよく燃え始めた籠は、パチパチと火の粉を吐き出しながら瞬く間に赤黒く変色する。

 その様子をエステルは何の感慨もなく見下ろす。

 きっと、あの時もこんな感じに記憶が灼けていったのだろうか。

 事実を知ったところでエステルは何の感情も湧き上がらなかった。

 悲しみや怒り、無念といった負の要素が欠片たりとも。

 他人の辿った歴史を教科書で読んでいるかのような感覚だった。

 実はすでに狂っていたセレナに刺され、怒りに我を失った自分がセレナとの記憶を代償にして殺した。

 首を断った、と。

 読み終えた後、ある思考が過ぎった。

 ならば、十年よりもう少し前にまた遡ればセレナが狂う元凶である毒親から救い出せるのではないか。

 しかしエステルはこれを実行に移す気など毛頭なかった。

 

 なぜなら。

 エステルはセレナに対する興味を完全に失っているからだ。

 

 興味のないものを写した写真は邪魔でしかない。

 だからこうして燃やして捨てる。

 時間遡行に関する研究資料だけは今後も有用である可能性が高いから残しておく。後々魔術論文でも書くときに使えるかもしれない。

 再びセレナを救うために時間遡行をする?

 とんでもない。

 なぜ知らない少女のためにそこまでしなければならない。それに用意をするのも馬鹿にできないコストがかかる。

 さらに言うと、救ったところでエステルの世界にセレナが復活するわけでもない。

 実質的なリターンはゼロ。

 得られるのはエステル自身の精神的な救い。

 しかしそんなものは求めていない。

 だから何もしない。

 エステルは魔女である。

 万人を無償で救う博愛主義者ではない。

 セレナという少女を知る者はこの世から一人もいなくなった。

 人はエステルの行為を理解できないと糾弾するかもしれない。

 燃やすまでしなくとも、どこかに保管なりすればいいのに、と。

 何年かすれば、セレナという名前は風化してエステルの中からも消え去るだろう。そしていつしか荷物の整理をしている時に写真を見つけ出すかもしれない。

 だがそこに記憶は付随しない。

 ただの荷物として完結してしまう。

 そんな半端なことはしたくない。

 だからこそ、今ここでけじめを――別れを済ませるのだ。

 すでに写真は籠とともに全て燃え尽きていた。

 優しい朝風に晒され、黒ずんだ燃えカスがどこかへ飛ばされていく。

 知らない誰か。

 ずっと……ずっと昔から、文字通り血という命を削ってでも救おうとした誰か。

 愛しい誰か。

 もう二度と思い出せない誰か。

 何の感情も抱けない誰か。

 でも。それでも。

 無関心だからできることはある。

 エステルはセレナに向けて最初で最後の言葉を、穏やかな笑みを浮かべながら囁いた。

 

「――さようなら、セレナ」




ハッピーでも、バッドでもない
聖人はどこにもいない


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