ゾンビ•セルフ•ダイアリー (ゾンビのモブ)
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ゾンビオブザ・デッド

 頭がだるい。思考がにぶい。

 目が泳ぐ。全身があつい。

 

 俺、渡辺圭一(わたなべけいいち)は咄嗟に救急車を呼ぼうと携帯に手を伸ばしたが、電池が切れていた。財布を弄るが金はなかった。

 

 なんでこんなにないのかも思い出せない。

 今は何も考えたくない。

 

「うっぷ。二日酔いかあ?」

 

 酒を飲んだ覚えはない。まだ19。ギリギリ未成年だ。

 

「た、タクシーだ。タクシーを」

 

 止めようとしたが咄嗟に金がない事を思い出して、徒歩でノロノロと病院へ向かう。

 道中酷い幻覚と幻聴に見舞われた。

 

「キャ、きゃああああ。何あれ!」

「も、もんすたあ?」

「やべえあいつ死にかけてんぞ! 早く助け……あ、でもクッサ」

「見ちゃダメ! お家に帰りましょう!」

 

 たまに何人かにぶつかって転んだ。

 ぶつかった人は最初は優しく手を差しのべてきて、次にこの世とは思えない悲鳴をあげて逃げていった。三人くらい。いやでも、

 

「ど、どうでもいい。水……いや薬、薬、薬」

 

 薬を連呼して病院にむかう。

 病院までの道のりは険しく過酷だった。

 通行人たちは誰も俺を助けてくれようとはしなかった。

 

 なかにはそんな子供もいたが、親が発狂して俺から遠ざけていた。

 

 坂の多い道を登ったり降りたりしながら、何故か寺の横に立つ地元の中規模病院に辿り着く。

 

 しかし俺も馬鹿じゃない。朦朧としながらも、これまでの異常に気づいていない訳じゃなかった。

 

 直感だけで非常口から入り、ポケットから折り畳みの布バッグを取り出して、頭に被る。

 見事な不審者の完成だ。

 

 そして、ナース (と思わしき誰か)に何か言われるとサムズアップで受け答え。

 

 全然大丈夫じゃねーけど、この場合は仕方ない。

 そしてそのまま共用のトイレに引きこもった。

 

 

 

 何時間経っただろうか。身体がより熱い。業火で焼かれているようだ。呼吸が浅い。視線が定まらず、思考は海を漂うもずくのようだ。

 

 それでも一縷の光を目指す。

 生きて帰りたい。

 何となくそれだけが頭にあった。

 

 夜。暗くなった。消灯時間だ。

 俺はゆっくり動き出す。

 

 警備員のライトは遥か50メートルくらい先まで肌で感じ取れる程に光だけは、はっきり視認できる。

 

 人の動きも何故か50メートル先の人間の息遣いまでがわかる。

 

 俺はやがて、そこに辿り着いた。時計は見えなかったが、なんとなく、深夜の2時くらいだとわかった。ナースステーションにたまたま人がいないのが音でわかった。

 

 俺は大急ぎで薬を漁った。

 

 何かないか。何でもいい。ステロイドでも抗生剤でも軟膏でも座薬でも、とにかくなんでもいいから、ありったけ口に放り込み噛み砕いて唾液で、飲み下す。

 

 そして少しだけ視界が戻る。備え付けの時計をみるとまだ10分しか経っていない。

 

 俺は急ぎナースステーションから出て見つからないように病院から抜け出した。

 

「やっちまった。やっちまった……」

 

 これじゃただの泥棒と同じだ。

 明日から大学生活が待っていたはずなのに、これから警察署に行かなければならない。

 

 思うや俺は進行方向を一人暮らししてる自宅(アパート)からどこかのガードレール下に切り替えた。

 

 気分は最悪だったが、薬の影響か身体の調子は少しずつ良くなっていた。でも思考は日増しに鈍くなり、四日目には自分が何をしているのか記憶になかった。

 

 五日目からそれが徐々に楽になり、六日目で夢遊病みたいな状態からは抜け出し、落ちているゴミくらいなら拾って食えるようになった。

 

 そして七日目で俺はようやく元の俺に戻った。

 そしてその日、身繕いをしようと近所の公園に行ったら鏡を見て俺は思わず声を上げた。

 

「お前誰だ?」

 

 青白い顔、血走った目、隆起した目蓋、死体のような肌色。荒れ放題の皮膚。今にも死にそうな、いや死んでるような、

 

「ゾンビ?」

 

 それが俺が俺(ゾンビ)と出逢った始まりである。



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病気やべえ

 鏡を見つめながら顔から順に身体を触る。

 

 感覚を確かめるように顔から頭皮、首、肩、胴体と手で触診する。

 

 あの酷かった当初ほどの苦しみはない。しかしどこもかしこも身体の感覚が薄く、麻痺してるような異様さだ。まるで自分の頭で動かしていないような。

 

「病気、やべえな」

 

 声は聴覚が戻ったせいかよく聞こえた。喉が潰れて重い風邪の、いや地獄から這いあがってきた魑魅魍魎のような声だ。

 

 服に損傷はない。汚れてはいた。本物の血が身体中にべっとりと付着している。病院までの道のりで転びまくったせいかもしれない。着替えたかった。

 

「だからさーあ、あいつがさ」

 

 後方30メートル前後、20台くらいの女性の声。

 男子便所の中だが、トイレはやや古めかしく洗い場がオープンで姿を隠せるのは個室くらいだ。

 

 でも異臭がしたからあまりお近づきになりたくない。

 

 しかしやむなく個室に入った。

 

 個室は便所の落書きと茶色が付着している。放置されてだいぶ長いのか虫のユートピアと化していた。

 

「え、まじで。やべそれ。ルミコ今さっき死んだん? あのテレビタレントうちらと同世代じゃん。まじかよ。可哀想」

 

(あーあのCMによくでる。ていうか) 

 

 雑談が長い。個室に入る音はなかった。ただ入り口で話しているだけだろう。

 

 見つかったら色々と面倒だと瞬間的に判断したが、今はそもそもこれがどういった病気なのか、もう一度見ようと便器の底を覗いたが暗くて見えなかった。

 

「あ、なんか電池切れそうだから」

 

 女性が立ち去るのと俺が公園で身繕いを再開するのは同時だ。 

 

 まず、服を一枚ずつ水で洗い流し、血で汚れた身体を近くにあったバケツで水をくんで流した。

 

 頭から浴びるようにかける。しかし、

 

「やべえこれ」

 

 皮膚は割れまくり、ところどころが青あざみたいに変色した身体は水で流せない。割れた皮膚は角化していたが、全身に広がっている。

 

「おいおい」

 

 どうすれば。混乱する。こんな姿で街に繰り出したら無事では済まない。

 病気だからと親切で警察呼ばれて警察に見つかれば例の病院の薬泥棒の件がばれる。

 

 俺は深呼吸をした。

 考えろ。

 

「病気をしたら、病院に行くんだ」

 

 言うと心が興奮して涙が出そうだ。しかし出なかった。力んでも出ない。目はやたら乾いている。 

 

「ははは……折角生きてたってのに」

 

 声が潰れているのは先日、先輩達と合コンしたからだ。 

 

 先週の事をようやく思い出しながら、俺はヒューヒューと喘鳴の呼気を繰り返しながら病院に向かう。

 

 思考や頭の倦怠感は完治したが、まだ首から下が頭の命令に答えるも勝手に動いている感覚。

 言うならば離人感があった。

 

 トイレの洗面器から別れを告げて俺は携帯を開く。

 

 ネットで内科と検索すると現在地点をベースに一番近くの内科がリストアップされた。

 

「とりあえずここ行くか」

 

 いちいちゾンビみたいな声が出るのに嫌気しながら俺はもう一度あの布バッグを被った。

 

 内科は距離にして150メートル。医者だしレントゲンくらいあるだろう。

 歩道と車道がくっついた幅4メートルくらいの道路を何回か折れた。

 

 向かう最中、やはりまだ息が荒く苦しかった。ついでに身体がうまく動かなかった。失敗した。

 先に飯を食うべきだった。

 

 通行人の視線はわからないが、ちかくなると急速に足音が遠ざかっていく。

 酷くゲンナリしながら俺はその『藪沢内科』の戸を開けた。



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内科クリニック

 大きめの鈴がカラカラと鳴る、喫茶店みたいな出迎え。

 

 空調の効いた屋内に、更に扇風機二台のおまけ付き。

 

 受付を囲むようにU字を描く待合室の硬いシート。

 

 小さな吊り下げ液晶とその中で料理当てゲームをするバラエティー。

 

 先客の子供連れの会話。医療事務スタッフの「え」と言う短い疑問符に置き時計の秒針の音と換気扇の音。

 

 外にも風鈴がついていた。

 音のパラダイスだ。

 

「どうなさいました?」

 

「ちょっと風邪をひいてしまい」

 

 事務スタッフの目が懐疑的になる。バッグは歯で穴を開けてありそこから見えた。リアクションが意味するところはその布バッグは何、だろう。

 

 俺は答えた。

 

「こうしてると楽なんです」

 

 嘘は言ってない。あの姿を見られるのは苦痛でしかない。

 

「な、なるほど。初診ならではこちらに記入してあちらのお椅子へ」

 

 どんな不審者でも拒否できない日本の良心ってやつか。俺なら迷わず警察を呼んでいたかもしれない。返事をすると「あ」とだけ返す事務スタッフ。どこかぎこちない。

 

 それから待つ事数十分。

 気付くと俺は思考の海にいた。

 

 ずっと今後の展望、これからの身の振り方とこれまでの経緯について考える。

 

 俺は大学一年生だ。大学に行ったのは春学期の初めまでで、それからずっと俺は大学近くのコンビニでバイトしていた。

 

 毎日ご近所さん他大学関係者のありとあらゆる人種が集まるそこでレジ打ちしながらうすーく愛想笑い。

 

 本当は大学行きながらバイトするつもりが、いつも疲れてバイトした後帰宅していた。店長にはスマイルを毎日強制させられていたが、守れなくても時間経過とともにそのまま研修バッジが外れた。

 

 それから程なく同僚の先輩方が、大学の生徒だとわかり、でも皆さん腰が低くて礼儀をかかさない優しい人達だった。

 

 だから復学前。夏休みが始まる前に早くもお近づきになり、合コンに無理矢理紛れ込んだ。

 そしてノリと悪戯で俺は目当ての女子にカラオケで言ったのだ。

 

「好きっす! 付き合ってく」

「無理っす」

 

 最後の一音は先輩方の突っ込みとその後の爆笑で塞がれた。

 相手の名前は覚えていないが、たしか。

 

「そうたしか、彼女だ。様子が変だったのは」

 

 ハッとしたようにトリップから帰還すると、いつの間に書いたのか問診票が埋まっていた。

 見る。幾つかの項目に病名、神経症とあった。

 

 どうにも俺の無意識はIQが低いらしい。

 問診票を渡して席に戻ると、しばらくしておよびがかかった。

 

 診察室に入る前、はるかな遠くの子供のはしゃぎ声が聞こえていた。

 

 きゃっきゃきゃっと外からの子供の声がちかくなる。

 

 どうやら俺には今おおよそ50メートルくらいの異常知覚テリトリーがあるらしく、そこに入ってきた生き物が何をしているか大体全てわかってしまうらしい。

 

 例えば今の子供はスイッチを操作して恐らくアクション系のゲームをプレイしているし、手前の事務スタッフは電話でメモをとっていて、それもかなり正確だ。待合室の患者は目をいじっている。見なくとも分かるのに皆周りの状況に気づいてもいない。知覚とは本来自分の世界なのだ。

  

 

 それから診察室に呼ばれて、気付いたら診察が終わっていた。

 

「え」 

 

 医者には、思春期特有の疲れだとか言われた。

 肌荒れや顔色の悪さもその類らしい。  

 

「ほら、げんにみなよ、完璧な健康体だ」

「完璧っすね」

 

 画像は綺麗な物だった。たしかにこの若さでそんな重篤な病気にかかるわけがない。

 

「大丈夫だ。でも一応薬出しとくから」

 

 言われたらそりゃもう従うしかない。薬に感謝しつつ会計を済ませると、

 

「いや大丈夫です! 今の保険、特定の診療はただなんですよ!」

 

 疑問に思いながらも俺は仕方なく、外に出た。

 何気なく残金を見たら10円だった。

 

 

 

 

「やばいね」

「やばいですね」

 

「ただのやばさじゃないね。咄嗟に違う人の画像見せて誤魔化したけど」

 

「何かの見間違いの可能性は?」

 

「キミさ何年看護師やってたのよ。これ。この感じ。見覚えあるだろ」

 

「でも、ありえません」

「とりあえず、私は見なかった事にする」

 

「え!? 助けるとか誰かに連絡するとかじゃ?」

 

「刺激しない方がいい気がする」

「……」

 

「俺もあれ、バイ○ハザードとかで育った口だから」

 

「わかりました」

「くれぐれもね」

 

「はい……」



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雨中の憂鬱

 結局なんでもないの太鼓判を押された俺は隣の薬局にいき、処方箋と保険証を出して大して待たされずに薬を貰ってそこを後にした。

 

 外をしばらく歩いていると雨が降ってきたが、バッグを被っていたので大して濡れはしない。バッグの有能さに思わず嘆息する。

 

『これからどうする?』

 

 道を行く俺の頭に雨が降る。バッグは防水じゃないからあまり長くはもたないだろう。

 

『なんでもないって事は家に帰るか?』

 

 それしかない。警察の件は正直そこまで本気で考えていたわけじゃない。

 

 思うと俺は雨中の街中で足取りを早める。脳と身体があまり連携していないが、あくまでも感覚だけであり実際には動く。

 

 道行く人々は傘をさしていた。バッグを被っている俺を皆奇異の目で見ていくが、晴れていた時より大分ましな視線だ。

 

 俺の手は今青黒い。でも見ようによっては顔料で手を汚した変人画家に見えなくもない。

 

 そうこう考えているうちに俺は無意識に自宅(アパート)の階段を登っていた。

 アパートはスレート屋根の鉄筋で階段は手すりから何から腐食している。

 

 帰宅する。部屋に入ると、俺はすぐに何かをせずにとりあえずベッドに寝転んだ。

 そのままテレビをつけようとしたが、やめる。

 

 まただ、と耳を塞ぐ。

 異常知覚。耳を塞いでみたが、それでも聞こえる。

 まず、一階の角の大家さん。不在だが、猫が留守を預かっている。ペット禁制のはずだが、大家は別なのだろう。

 

 一階は他に三世帯。全員顔を合わせた事はないし、不在だ。

 2階がやや騒がしい。西側角部屋の俺の隣は独身のガテン仕事の男性でたまに挨拶していたが、今日は平日昼間なのに家に居てゲームをしていた。

 

 その更に隣では両親と子の高齢家族だったはずだが、喧嘩をしていて、異常知覚によりよく耳に響いた。

 

 東角部屋にはよくわからないが外国人の集団が暮らしていたが、今は皆で仲良くトランプ遊びに興じていた。笑い声が聞こえる。

 

 これら全てがまるで自分の手の届く範囲で全て聞き分けられる。

 それが今の俺の状態である。なんだか良さそうに聞こえるが、50メートルの範囲はわりと広く、耳も塞げないので地味にきつい。

 

 それでも観念してテレビを付けた。

 

『えー、○○区○○で50台前半の男が民家に刃物で押し入り、自宅で寝ていた当時20歳の男性を』

 

 付けながら携帯を弄る。そういえば、少し横になってリラックスしたせいか、心なし気分がよく体が軽い。

 病院で大丈夫と言われたからかもしれない。

 

 あの時無意識に書いた『神経症』の字面を思い出して軽く笑う。

 

『次のニュースです。昨日未明、○○山林で発生した大規模火災ですが、本日昼に無事鎮火したとの』

 

 2階の家族の喧嘩がようやくひと段落つき、ガテン系の男が便所に入り、外人が勝って雄叫びをあげていて、一階で猫が鳴く。

 

 勿論これ以外の音も聞こえるはずだが、意識的にシャットアウトしている分厚い外壁数枚を挟んだ場所は知覚を薄くできるようなのだ。突然ですがと前置きしたテレビのキャスターに俺は目線を変えた。

 

『緊急速報です。本日正午。病院で何者かが窃盗に入り、薬が盗まれるという事件が発生しました』

 

 ガバリと起き上がる。いやまて、と突っ込む。緊急でやるようなニュースじゃない、

 

『現場には警察官が駆けつけました。すぐに捜査が始まるかと思われましたが、病院はしばらく後に病院をロックダウンしました。以降一切の応答が途絶えました。現在外部の警察が中と連絡を取りあっていますが、繋がらないそうです』

 

「まじかよ」

 

 思わず声が出て、俺は立ち上がった。

 

『警察は何らかの事件が発生したと見て、現場の人数を増やして対応しています。今テレビカメラに病院の入り口付近に沢山のパトカーと救急車が止まっているのが見えますでしょうか!? まもなく機動警察隊が現場に突入するとの話です!』

 

「これ、俺、無関係……じゃねえよな」

 

 関係があってもなくても、今の病弱な自分にできる事はない。見守るばかりだ。

 でも近い。ここから病院までは距離にして十分。

 

 途中にコンビニがあるし、今は昼だ。まだご飯を食べてない。すっかり忘れていたが、金は先日の合コンで使い切り、財布にはないが携帯にまだ電子マネーが入っていた。

 

「気晴らしにいくか、コンビニ」

 

 喉がおかしいのは相変わらずだ。これで飯が喉を通過するのか疑問だがやってみるしかない。

 

 俺はタンスから服を引っ張り出して全身着替えた。

 着ていた服はまた血が滲み出していたからだ。下着を重ね着して誤魔化し、靴下も二重に。手袋もつけて、サングラスをかけた。

 

 ニット帽を被りマスクをする。

 

「完璧じゃねえか」

 

 鏡を見て震える。誰も俺が病人だって気づかないだろう。傘もさして少しるんるん気分で外に出た。雨中だが先程までの憂鬱は収まっていた。



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ネプライザー

 雨粒がナイロンの傘に当たる。

 心地良ささえ感じる音。

 

「携帯扇風機持ってくるんだった」

 

 雨で気温はやや低いが湿気が酷い。冷風機の風にあたりたい気分だ。

 

 特にこの夏場に真冬のような格好をしている。

 それでも奇異の目は避けられたので、メンタル的には正解だった。

 

 坂道を登りカーブした道。街路樹を横目にしばらく行くとバス停の前にマンションが乱立している。

 

 コンビニはその中程にあった。駐車場には車3台くらいのスペースがあり酒はあるが、時代柄かタバコの取り扱いがノーサンキューになっている。

 

 音楽とともに自動ドアを潜る。

 ブワッと冷えた空気が服の隙間を縫って入ってきた。

 

(おー生き返るー!)

 

 しばらく酔いしれる。店員さんのいらっしゃいませは耳に入らなかった。ちらっと見れば品出しをしている怪訝な顔の店主とレジのバイトの女の子はさり気なくこちらをチラチラみている。

 

 初めて来たわけじゃない。

 店主は顔見知りだし、バイトの子は何回か接客されている。ようはこの格好だろう。

 

 だが今のところこの装備のどれかに外せる余地のあるアイテムはない。

 

 俺はなるべく不審がられないように淡々と買うべき物をピックアップして、一斉にカゴに詰め込んだ。

 

 脱水対策に500mlスポーツドリンク。塩むすび二個とたらマヨのカニカマ。ついでにカップ麺と、全身の臭い対策に消臭スプレー。口臭対策用タブレットも買う。

 

 俺だって馬鹿じゃない。

 臭いと言われてからまだ風呂にも入ってないし歯磨きもまだなのだ。

 

 病院に寄った帰りに銭湯に行こう。

 店内BGMで女性ボーカルの涼しくなる歌を聴きながらそう心に決めてレジに立つと女の子が出た。

 がすぐに店主がバトンタッチした。

 

 満面の笑みでありがとうございますとバーコードをスキャンしていく。

 

「箸はお付けしますか?」

「全部お願いします」

 

 めんどくさいので客の場合はいつもこう言う。

 要望に応じて必要なものを全部入れる店主。その手際は見事だ。

 

 コンビニバイト歴三か月の俺では足元にも及ばない。しかしその表情はさっきより怪訝だった。声を出したせいか。

 

「1580円になります」

「○ペイでお願いします」

 

 ちゃちゃっとやり取りを済ませた俺は最後に何気なくバイトの女の子を見た。

 

 店主の横で携帯を手に文字を打っていた。業務中なので妙に感じたら、文字を打ちながら、

 

『……くん。その病院、今ニュースになってる。早く逃げて。屋上』

 

 と、微かにだが聞こえた。文字を打ちながら常人に聞こえないレベルまで声量を落とした小声だった。

 

 俺は品物を受け取るとすぐにそれを持ってきたバッグに詰めて、病院に向かった。

 この前と同じ道のりだが、体調が良く足取りは軽い。

 

 病院の横の寺は昔からある寂れた寺で馴染みの寺だが、近隣の井戸端会議で聞いた話だと、住職が数年前に他界して跡継ぎの息子が隣の土地を売ったそうだ。

 

 普通なら寺は土地を売らないと言われてるが、余程金銭的に困ってたのだろう。

 安く売って安く買い叩いたのがあの病院だったわけだ。

 

 寺を通過する前から周りの喧騒は耳に入っていた。近づいてようやく病院の全貌が見えた。

 

 白塗りのモルタル。五階まである病棟と、隣に四階までの別病棟があり、それぞれ分かれている。

 

 庭があるのは裏側でそれも然程広くはないヒーリングガーデンが広がっているが、問題はオモテ側だ。

 

 病棟は全ての窓がブルーシートで目張りされ、玄関や一階の窓は何か巨大な備品で封じられている。そして外ではサイレンがなり警察が非常線を張り、近所の住人が口々に不安を並べ、野次馬が駄弁っている。

 

 玄関前には噂の機動隊が横に並び、

 

「わあ!」

「おい! 見ろ!」

 

 見た。すぐにはどこかわからなかった。機動隊だ。その一人が頭を抱えうずくまり、数人が介抱している。

 

 現場が混乱していた。俺は野次馬根性を発揮して非常線のギリギリまで近づいて、

 

「あ、あれ。ネプライザー?」

 

 割れたガラスと共に上から何か落ちたのだ。みると白い頑丈なアイロンみたいな形状の機械と幾つかの部品が地面に散らばっている。

 

 俺は昔親戚が気管を病んでいた経緯から知っていた。あの本体はかなり重い。ヘルメットをしているのに、ヘルメットが割れて血が出ている。

 

 やべえなと口にした。

 直後、誰かが指を上に向けて叫び声。

 

 最上階の窓あたり。

 割れたガラスから、人が落ちてきた。

 

「うわあああああ!」

「やべえ!」

 

 幸いにも下に人がいなかった。

 しかしそれは不幸にもコンクリートとの正面衝突を意味し、地面に流れていた。大量の。

 

「これ、まじかよ」

 

 そして俺には、中の様子が、全て聴こえていた。手に取るように。

 

 人が人に何か、そうおぞましい何かをしている様子が、手に取るように聞こえていた。



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何事もなく

「ここはもうダメだろうな。にしても派手にやったな」

 

 飛び散ったガラスの破片を踏みしめる音。

 

「まあいきなり噛みつかれそうになった時は何かと思ったけどな。まさか、そんなはずはねーけど念の為だな」

 

 振り向きぺっと吐いた吸い殻が正面玄関の冷たいガラスにタッチする音。

 

「多分医者の連中は全滅だろうな。俺はさ、長年交番勤務で前年奇跡的に昇進したけどもう次はないと思ってたよ。今日まではな」

 

「看護師が何人生き残ってるかだな。お前さ、考えたことあるか? 映画がリアルになるって」

 

「あるわけねー。同期のお前や死んだあいつは昔から映画好きだったから気づくのが早かったな。あの薄気味悪いのがアレだって」

 

「今どき気づかねー方がどうかしてる。映画も漫画もアニメも小説でさえ氾濫してマンネリ化してる王道中の王道だろ。俺はここの受付が急に変な受け答えになってからだ。気付いたのは。お前は?」

 

「いーだろどっちでも」

 

「教えろよ」

 

 2人の警官の足音が静かな病院内に響き渡る。

 

「最初に患者の1人が医務室で騒ぎを起こした。あの駆け付けた時からだよ。まさかもう」

 

 苦虫を噛み潰す音。

 

「ああ、ほぼ全員感染してたなんてな」

 

「俺たちはどうだ? 俺の何かに異常はないか?」

 

「噛まれてねーだろ。でも早かったなあいつ」

 

「ああ。ヒョウみたいだった。撃ち抜いたのが頭じゃなかったら今頃俺は」

 

「外部の連中はもう気付いてるだろうな。あれからだいぶ経つし、さっきからメガホンがうるせえ。おかげで何人か逃がした。どうするよ? 外の奴らに投げるかアレ?」

 

 頬を張る音。

 

「舐めるなよ。俺たちはこれでも警察官だ。ここで食い止めたら俺達は時代に名を残す英雄だよ。弾は幾つある?」

 

「あと2発ってとこだ。そっちは?」

 

 ハンカチで汗を拭いている。

 

「……同じだよ。おい、今聞こえたか」

 

「何」

 

 直後、ぎゃあああああああ、と喉が壊れんばかりの悲鳴が轟く。

 

「来たな。最後の1人かもしれん。抜かるなよ」

 

「わかって……お、おい!?」

 

 複数。かなりの数の足音が階段を降りてくる。

 

「やべえな。どうする」

 

「逃げねーんだろ。さっきメスを持ってきた。こいつなら弾切れはねえ」

 

「あ、ああ。おい。わかってるな」

 

 溜め息が連鎖する。

 

「わかってるよ。仕方ねーよ。こうなったらな」

 

 直後凄い勢いで玄関周りの備品が次々と床に投げられていった、音がした。

 

 

 

 

「やべえ」

 

 異常知覚は全てを捉えていたが、しかし厳密に何がどうやばいのか。言葉にできない。

 

 機動隊が焦れて声を張り上げた。電信は不通なのだろう。

 

『ただいまより、最後の応答がなければそちらに強行突入する。これが最後の質問になる。そちらで何が起こっているか、迅速に!』

 

 直後だ。また例の獣の雄叫びの様な声が轟いて、ついでに男の悲鳴が数回に分けて響き渡る。

 

 外の方がむしろ静かだ。出方を伺うように、見守っていたが、やがて中も静かになった。

 

 俺はその間に裏手に回れないかと反対側を覗き込もうとしたが、建物に阻まれているうえに裏は庭に沿う様にそれなりの高さのある崖になっていたのを思いだす。

 

「俺帰るわ。飽きた」

「あたしも」

「帰って洋画でもみるわ」

 

 あくびをかきながら帰り出す野次馬もいたが、それでもまだそれ以上の数が様子を伺っている。警官ももう大分長い様で、何人かはパトカーで別の事件現場に引き上げて行ったが、それでも多い。

 

 俺は迷って、少し遠巻きに彼らを眺めることにした。

 ガードレールに手をついて、道の端ギリギリで観測する。

 

 何故みていたのか。ただの野次馬じゃない。

 無関係ではないと思った。

 泥棒の件もそうだ。しかし少し前に俺が告白した合コンの彼女。途中から様子が変だった。酒も飲んでないのにふらついて言葉が変でそのまま倒れて救急車だ。

 

 名前は覚えてない。でも別の名前なら覚えている。丁度連れて行かれたのがこの病院の名前だった気がした。

 

 思い出したのだ。あの時、俺は彼女の食いかけの食事やドリンクを。

 

 不意に顔を上げる。悲鳴。

 

 何かと思うや、機動隊が突入したらしい。

 

 しばらく眺めていたが発砲音が何度か鳴り響き、残りの警官も中に入っていく。

 

『多分大丈夫だろう。いつまでもここにいても仕方がない』

 

 俺は観測を止めて帰宅した。

 色々あり過ぎたからかもしれない。帰りの街の風景がややくすんで見えた。

 

 帰ってすぐにテレビをつけたら、ニュースであの事件の続報がやっていて、暴れていた医療従事者他患者や警備員、駆け付けた警察官の鎮圧に成功したと話していた。

 

 しかしどうにも説得が難しい程の何らかの薬物かウイルスが彼らに作用して拘束に命の危険があるとみたらしく非合法的に動物に使う麻酔銃を人間に使ったそうだ。

 

 たかが素人が暴れている程度で、とも思ったが。

 俺は携帯の暗い画面に映り込んだ自分の姿を見ながら、かぶりを振った。

 

 その日は夜になってカップラーメンを食べてそのまま死ぬように寝た。



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始まりの音

 本日PM二時二十分。重い目蓋をこじ開ける。昨日と変わらぬ曇天が不幸の前触れのように漂っている。

 

 俺は糊を剥がすようにベッドに張り付いた身を起こす。唇も縫い付けたように張り付いて隙間から辛うじて息をしていたらしい。強引に手でこじ開ける。

 

 白とビンテージウッドが基調の壁に草木が生えたこの部屋は、部屋の主の投資家が趣味全開でステッカーを貼りまくり若者風を意識したものだが、俺はわりと好きだった。

 

 起きてすぐ三歩歩いて窓を開ける。空いた手でテレビをつける。

 

 欠伸をしていると室内がテレビの音で賑やかになってきた。ニュースでは先日の病院騒動が報じられている。チャンネルはあれ一色だ。

 

 俺はすぐさまユニットバスに入り洗面台に。鏡をみると痛ましい姿がそこにある。

 

「ゾンビ」

 

 復唱する。

 

「お前はゾンビ?」

 

 顔をベタベタ触りながら、瞬き。息が荒くなり動悸。返事はない。

 

 目を閉じて数秒。祈る様にまた目を開ける。現実がそこにある。

 

 溜め息が重い。ユニットバスをでるとタイミングよく何かの広告が玄関の新聞受けに投げられた。

 

 手に取って軽く目を通す。

 

『市内病院壊滅!? 未知のウイルスか!? 最強の星読みに聞くこれからの』

 

「風呂入るか」

 

 しかし何かから目を逸らすように着衣のまま。温めた湯に浸ったつもりが、何も感じない。それでも気分は紛れる。

 

 自分の身に何が起きたのか整理する必要があった。

 

 突然の身体不調から始まってまだ日が浅い。それなのにこのとうに死んでいるような見た目。これは本当にウイルスなのか。

 

 体調に関しては今に至って良いも悪いもない。動けない程じゃないが麻痺しているし感覚が遠い。首から下に義足を着けたらこんな感じかもしれない。そして見た目的にはバッドだ。

 

 あの大量の薬が効いた可能性も考えたが確証はないし調べようがない。

 

 ウイルスの侵攻具合も見た限りではあの病院が最後にして最大で、既に事は終わってしまった。

 

 誰かが発端でウイルスを撒き散らしたのだとしても、調べるまでもなく終わった。

 

 後はお偉い研究者達が諸手を挙げて後日談として真相を解明するのだろう。

 

 その過程で俺の今の病気も軽快するなり治療法が見つかるなりするかもしれない。

 

 長く浸かっていたが湯冷めはしなかった。夏場なので服は自然乾燥に任せてまた夜になってもう一眠りした。夕方頃にはもうアパートはいつもの住民達の喧騒に包まれていた。

 

 

 

 

 そしてまた目が覚めた。うだるような暑さの中で目蓋をこじ開ける。唇をまたこじ開ける。携帯をみると、

 

「10日……」

 

 10日が過ぎていた。糊を剥がすようにまた身を起こす。暗かった。夜かと思ってみたらまだ昼の二時。太陽は隠れているが、それにしても暗い。気付けば部屋の電気が、

 

「停電か」

 

 街も停電しているのか、やたら静かだった。

 俺はとりあえず買い出しに行く事にした。

 それに後バイトを長らく休んだままだ。

 

 貯金は電子マネーと銀行に少しあるがこのままでは家賃すら払えなくなる。いつまでも休んでいるわけにはいかない。

 

 適当な靴を引っ掛けて外に出る。

 外はやはり暗い。明るいのに暗い。そして静かだった。鳥の声も虫の音もしない。

 

 息を吸うと気管に七月の暖気が入ってきた。

 



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回想

 俺は屑だ。

 

 人間なんて皆いなくなればいいと思える程に大した十字架を背負っているわけでもなくそんな痛い事を思えるくらいには屑だ。

 

 才能がなかった。

 人並みの能力もなかった。  

 

 能力なんて歳食えばいくらでも水増しできると言われたし実際俺はそのツイートにいいねをしたが激しく意味のない行為だった。

 

 自らの力の無さを露見させずに、騙して誤魔化して教師や強い生徒に無意識に胡麻すりしながら生きてきた。

 無意識だから罪の意識はない。

 

 イジメも喧嘩も厄介事全般全てスルーして生きてきた。どうせ俺がやらなくても解決するし誰かが助ける。勇気もない。気力はあっても気が向かない。

 

 そうして気付いたら我のないポキャブラリーも魅力も特技もない、ザ空気みたいな奴になっていた。

 

 だから見た人は皆俺に対してこう思う。

 つまらない人きたって。

 

 そして空気のように扱う。お義理の会釈。お義理の会話。お義理の話題振り。俺も義理で返す。

 

 本当はすぐにでもその場にコーヒーぶちまけたかった。ちゃぶ台返しがしたかった。薄ら笑って皮肉を言って、そのまま消えたかった。

 でもやらない。怖いからだ。

 

 俺のような自分がない人間は世の中にごまんと居る。

 店長に誰でもできると言われてコンビニでバイトを始めた。

 

 そこでもミスをした。マイナスを一万くらい出した。しかし俺は内引きを疑われもしなかった。印象の薄い人間というのは犯罪を疑われにくい。俺は何にイラついているかわからない心境で不足分を天引きして貰った。

 

 俺はレジでも接客でも簡単な調理でも漏れなく全部ミスをした。でもめちゃくちゃすごいミスはしない、平凡でもない。平均より劣っている。だがめちゃくちゃ劣っているわけじゃない。

 

 ドラマのような劇的な不幸も劣化もなく、テレビでよく見る耳を疑うような能力や成功談がある訳でもなく、顔もガタイも普通で『でもやっぱり劣っている』。

 

 ある日、国道を十字に横切る橋を渡りながら俺は思った。これらもいわゆる地獄(つまらない人生)なんだと。家族も健在で五体満足で金銭的苦労もなく変な病気もない。

 

 一見幸せにみえる。

 

 しかしつまらない人生を100年送って辞世の句すら見向きもされない人間の人生にどれだけの価値があるのか。

 

 俺は思った。だから思った。全部消えてしまえと。

 そしてもしこれがまあ少しは見どころのある人生ならば、面白みも小指の先くらいは辛うじてある話ならば、何かが起こるんじゃないかと。

 

 宝くじに祈るような取るに足らない心境で冗談半分に、俺は思った。結果はツンでもデレでもいい。台風でも地震でもどっちでもいい。

 

 ぬいぐるみの位置が変わって隙間から万物の霊力が漏れ出して消えた世界を直す雑展開でもなんでもいい。

 

 そしてそれら全て思考を自己紹介の代わりにそのまま合コンで口にした。最後にジョークを添えて。

 

「○○ちゃん、昨日飼い猫に噛まれたんだろ。それゾンビ映画のオープニングみたいじゃね?」

 

 笑いが起こるかと思ったが、葬式のように静かになって、

 

「うわ、さむ」

 

 俺はすぐに誤魔化した。能力はないがKYと言われた事もない。

 

 いきなり痛い自分語りを始め出したと思いきや取り繕うように空気の読めないジョーク。自業自得だ。

 

 ちょいトイレ行くわと言ってしばらく出れなかった。しかし笑い声が聞こえた。恐る恐る帰ってきたら辛うじて空気が戻っていた。

 

 一つ上の先輩メンズは気にすんなぁと言って周りも頷いていた。

 

 だからまぁいいかと俺はまた元の鞘に戻り、でも忘れていた。合コンにもたまに論外が混ざる。その時の俺は論外枠だった。

 

 怪訝な表情でみつめる女子に俺という存在を拒否ってた女子にノリと悪戯で告白してみた。

 

 当然すぐに断られた。その笑い方が苦笑いにしても苦し過ぎる笑い方だった。その後の先輩方の爆笑にもなんかぎこちなさを感じた。仮にジョークだと捉えられていても、

 

『うぜーこいつ』

 

 感のスメルを場の全員が発していて、俺はやはり劣化しているのだと、或いはワンチャン狂っているのだと自覚した。

 

 笑って誤魔化されたが、皆の顔が言っていた。

 

『お前痛過ぎ』

 

 本当にそうだったのかはわからない。

 確認したわけじゃない。

 でもそう感じた。感じたら俺も一緒に苦笑い。速攻でちょっと用事できましたと雑に退場していた。

 

 つまらない人生につまらないジョーク、つまらない人間関係にしょうもない洞察力。しょうもない毎日にしょうもない……

 

 家に帰って気付いたら、あれだ。

 

 首を吊っていた。

 そして数分後、外の全然関係ない救急車のサイレンで目を開けた。

 

『あ? なんで生きてんぐぷ。生きてんゲホッ、だよ……イミフ』

 

 当初感覚はあった。しかし首から上に血が回ってない感じ。死に物狂いで病院に向かったのはそのすぐ後だった。そして薬で一部軽快したのである。



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そして誰もいなくなっていた

 人の気配がない。

 息吹がない。自分の音以外の音がない。 

 

 何も聞こえない。

 でもあちこちでつけっぱなしになっているテレビの音。民家やマンションのそこかしこから置き去りにされた電化製品が音を立てている。

 

 カンコンカンと鉄階段を降りて行き、アパートの隣でいつも世話になっている自販機の横を通り過ぎ、

 

「とりあえずコンビニか?」

 

 他にない。他に思いつかないのは俺の頭にはいつも行き帰りの学校かバイトか食料と日用品の買い出しくらいしか詰まってなかったからだ。

 

 アパートから出てしばらくしても人通りはおろか、屋内にいる気配さえない。

 音がしない。しかし他の音はするから、異常知覚は健在だった。

 

 しかしいちいちそれらを気にかけているのも面倒で、さっさと十日ぶりくらいのコンビニに入って店員にトイレを借りようとした。歩いていて丁度思い出したのだ。行き忘れていた。

 

 出るかはわからない。しかし飯はかろうじて喉を通過した。消化されているかも謎だが、少なくとも何かが収まる空洞はある。

 

 軽快なメロディとともに自動ドアが開く。

 

「あ?」

 

 俺を待ち受けていたのは、無音だ。

 

「なんだ?」

 

 わからないが、今ここには誰もいない。それがわかった。買って知ったるコンビニだが、系列が違うし勝手にバックヤードを訪ねるわけにはいかない。

 

 気にせず商品をカゴに。

 

「お?」

 

 ない、ない、ない。おにぎりも菓子パンもカップラーメンも弁当もガムもチョコもビスケットも食料品となのつくものが全て。

 

「ない」

 

 一瞬混乱するがすぐに平静になる。辛うじて天然水が二本とミニカップラーメンとうまい棒が3本残っていた。それを手に取りついでに雑誌コーナーから暇つぶしに漫画本の最新刊をとってレジにいく。

 

「すいませーん!」

 

 応答はない。

 

「すいませーん! ん? すいませーん!」

 

 ずっと待つ、が誰も来ない。

 

 すると、しばらくして。

 

「○○くん。○○くん。うっひぎい」

 

 変な声がした。バックヤードから。俺はまた呼んだ。すると、ようやくガタりとものが動く音。

 もう一度呼びかける。

 

「あ? だれ? あなた」

 

 変な言動だなとは思ったが、気にせず、

 

「会計おねがいします。あ、袋は全部一緒でおなしゃす」

 

 すると幽霊のように近寄り突然ズサッと速くなりレジに倒れ込むと起き上がり無言で袋詰めをしていく少女。大学生くらいだ。髪型がこの前と違うが全体的に輪郭が似ているので前のバイトの子かもしれない。

 

「大丈夫すか? あ、ハシ付けて下さい。いや全部で」

 

 言った直後ぴたりと静止した少女はしばらくして、あ、はい。とだけ返事してまた詰めていく。とはいえ品がそんなにない。すぐに袋詰めがおわるやいなや、

 

「は? え? え? 何?」

 

 袋詰めはおわらない。というか空気詰めというと語弊だが、ようは何かを詰めていくフリだけ続けていた。

 

「はい。はい。○○くん。ごめんなさい」

 

 ちらっとだけ顔を、ちゃんと、見た。

 

「4500円です。あ、あ、お釣りはいりません」

 

 目の周りが落ち窪んで眼球が片方だけ陥没していた。

 手が老婆のように皺だらけで、青い血管が全て内出血を起こしたように手に広がる。

 

 先日までよく見た似たような風姿だ。

 鏡で。

 

 俺は聞かなくてもコンビニの商品くらい実際にいくらかは、暗算で大体わかる。

 俺は少し多めに450円を払ってそこを出た。

 

 帰り際に店員さんは、またきてねけんくん、と言っていた。聞き間違いじゃない。俺はけいいちだ。惜しいが別人。

 

 けんくんってのは多分、あの日病院にいると言っていた彼氏かなんかだろう。

 

 何故かそう思っていた。

 思うというより断定していた。

 

 それと人はいた。コンビニ店員が一人。

 誰もいなくなったわけじゃない。

 

 では他のやつらはどこいったのか。

 

 俺は再び次の建物に走った。

 

 自動ドアは何かに引っかかって閉まらなかった。

 よく見るとそこに白い歯みたいなものがいくつも転がって丁度開かなくなったようだった。



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そして誰もいなくなっていたⅡ

 また体調が悪くなっていた。治ったと思ったのは間違いだったらしい。

 

 あれから動いていたら何度か粘液を吐いたが、緑色をしていた。

 

 コンビニを後にした俺は以前にきた内科に再診に行った。しかし生憎鍵がかかっていて入れなかった。

 

 それからは目に付く限りの建物に入った。

 

 書店、ファーストフード、喫茶、スーパー、ホームセンター。どれももぬけの殻だ。今はホームセンターで誰かまだいないか一階と三階を再度行き来していた。

 

「ウゲぇ。ぷ」

 

 吐いた緑の粘液はしばらくして液体からスライム状に集合し、地面に張り付いている。

 

「しかし」

 

 いない。あのコンビニの彼女以外。あれっきり誰も見ない。そして商品はある一系統の物だけがごっそり消えていた。

 

 一本だけ残っていたカッターナイフを手に取る。

 手に取ったのはほんの疑惑。

 何となく何かとんでもないことになっている自覚はとうにある。

 

 しかしまだ脳がそれを拒絶している。しかし確かに自分の中にオカシイという感覚があった。

 

「ま、あとは、これとこれ」

 

 面白いことにホームセンターには包丁や工具以外は全て揃っている。なぜそれだけないのかはさておき、とある機械を見つけて俺は思わずそれを撫でた。

 

「ボイスチェンジャーってここにあるのか」

 

 比較的なんでも揃うところで一度訪ねたことはあった。その時は監視カメラコーナーがやたら強くアピールされていたが、

 

「あー、あー。あー……」

 

 駄目だ、と元の場所に戻しかけて止まる。確かに出てきた声はいわゆる少女を誘拐した犯人のそれだった。

 しかし、いまの死人のような声より幾分マシだ。いざという時に役立つかもしれないと、おれは手に取ってレジに向かい、しかし、

 

「仕方ないから失礼しますよ」

 

 俺はレジ付近のメモを取り出す。

 そこに、住所と携番と補足を書き込む。

『非常時だと認識しています。お金は後から払います。よろしくお願いします』

 出て行く時も足音一つしなかった。手動でドアを押して開けると、外気がさらに熱くなっていた。

 

 

 それから死ぬほど歩いた。誰もいない。神隠しにでも、あったように人がいない。

 鬱蒼と草木生い茂るジャングルに放り込まれたというよりは、お化け屋敷に一人取り残された気分だ。

 

 こりゃあ、と思わず溢れた言葉を聞く相手もいない。

 今倒れたらそのまま孤独死確定だろう。

 

 仕方なく歩いていたが道を誤り元来た駅前広場に戻っていた。

 どこをどう歩けば、人、に辿り着くのか皆目検討がつかない。

 

 おれは仕方なく隣駅に向かう。数分で音をキャッチした。

 いや、今更というか。遅いというか。

 

「まじかよ……」

 

 口からモワッと諦念のため息のようなものが漏れる。

 どうりで人がいないはずだと思わず得心がいく。

 

『○○区域は封鎖されています。該当区域にお住みの方でお困りの方、詳しくはお近くの役所や公民館、警察署などにお訪ね下さい。繰り返し』

 

 目の前には長い鉄道の路線に沿うように伸びるニ車線道路と、その奥にある沢山ゴミのように積まれた、

 

「廃材とバリケード」

 

 潰れた声が漏れる。バリケードは崩れたり積まれたりして騒音を奏でる。

 

 脇の民家や開け放たれたマンションの各室からは漏れ出るテレビのリポーターの鬼気迫る声と、実際にいま何かに襲われているような、悲鳴。

 

 件のバリケード近辺からは目視できないが、人々が口々に士気を上げる声を繰り返す。身構えている、ざわざわとした声。無論、本当にそうかは、断定はできない。

 

 俺は踵を返した。

 

「よし」

 

 ゆっくりと方向転換し、少し走る。情報が欲しい。何が起きているかこの目で見なければわからない。あのバリケードがある方に進むのは何か嫌な予感もあった。

 

 顔を上げるとさっき悲鳴があったマンションの一室から救難信号のようにライトが動いていた。



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エマージェンシー

「ねーねー、お父さん、あいつら行った?」

 

 マンションの高層階でドアから漏れた風が少女の髪をふわりと持ち上げる。

 

「さて、おい美穂。お父さんはこの救難サインが失敗したら今度こそ外に買い出しに行かなきゃならない。いい子で」

 

 男が言うと少女は被りを振る。

 

「いやだよ。10歳だからって舐めないで。戻って来なかったら次は私が行くだけになるよ」

 

「お母さんがまだ戻ってこないのを放っとくわけにはいかないだろう。言う事を」

 

 すると、少女は体を張って玄関を塞ぐ。

 

「怖いから、本当に怖いから。行かないで」

「それじゃお母さんはどうなる?」

 

 黙る少女。

 

「お母さんは一人だ。買い出しに行ったままだ。ほったらかしにはできない」

 

 少女が顔を伏す。

 

「じゃあ」

 

「うん?」と不思議な顔になる男、もとい少女の父。

 

 少女は、

 

「私もいく。絶対いく」

 

 父は溜め息をついた。最近の子供は我が強いとよく聞くが、少女もそうだった。

 

「子供が強いのは時代柄か。よしついて来い。俺が一人で行って戻って来れなかったらいよいよお前が一人だ。それはまずいし」

 

 父は思っていた。この騒動が始まってすぐに油断した少女の母親が出かけて10日。そろそろ戻って来てもいい頃だ。しかし戻ってこない。

 

 新種の感染症が流行り出したと報道が入ってすぐに、

 

「買い占められるかも」

 

 とこぼし、出て行った母を止めていれば良かったと後悔する。

 

 ネットにも出ていたがノラウイルスというらしい。馬鹿みたいな話だが、かかった人間がある時より働かなくなり浮浪者のように街を徘徊し始める。

 

 だけではなくどうにも噛み付いてくる。場合により食べられてしまうそうだ。既にテレビでも散々報道されているし、インターネットでは彼ら感染者の話題が尽きない。

 

 試しに地上12階の玄関から少し出て街を見下ろしたところ、それらしき輩がいた。

 

 半死人。ゾンビとでもいいたくなる風姿の人間がふらつきながら時に走り回りながら地上の人々を追いかけ回していた。

 

 父親はまず娘に絶対に外に出ないように言って玄関に鍵をかけ窓に板を打ち、バルコニーでタバコを吸った。二本目が吸い終わる頃には娘がテレビを居間で凝視し買い出しに行った母親を心配してか、

 

「お母さん! お母さんお母さんお母さんお母さんお母さん!」

 

「ああなんだろう。悪い夢にしてはリアリティがないな。大人の見る夢じゃない」

 

「お母さんお母さんお母さんお母さんお母さん!」

 

「わかったわかった。俺も丁度タバコ買いに行くところだったんだよ。待ってろ」

 

 あの輩は虎やライオンじゃない。

 噛み付いてくる人間がどれほどの脅威か。

 警察にはがいじめにされたら二秒でお縄だ。それなりに数がいたがまだなんとかなる域だ。

 

「お母さんお母さんお母さんお母さんお母さんからメール! 逃げてって!」

 

 ニュースも騒がしく、

 

『ただいま不特定多数の一般市民が一般市民を襲う犯罪行為が頻発しています。専門家はこれを特定の疾患による弊害か何らかの脳の異常と認め、警察は市外にも協力を要請し複数人でこれを』

 

 父はもう一度バルコニーでタバコを吸ってきた。半分吸ったところで隣が騒がしくなった。

 

『あんたさっきからなんか変だけど大丈夫? もう感染してない?」

 

「あ、ああそうそう。だな。うん。さっきスーパー行ったら襲われたのまじか。あ、お前さ、俺ちょっとだけおかしいから、外でてろ? な? え?」

 

「え? ねえ本当に大丈夫? ちょっと横になって!」

 

「ああ、ありが、ありがと。う、ヴヴヴヴヴヴ」

 

 静かになった直後、男の絶叫と女の悲鳴が聞こえてきた。

 

 父はバルコニーから戻ってきてすぐに言ったのだ。

 

「籠城するぞ。外には出るな。絶対だ」

 

 

 

 あれは何かのサインか。

 

 思うも当然、何かできる訳じゃない。ようやくキャッチできた人の会話?テレビじゃないやつだ。

 

(つまり、生きている、人)

 

 内心かぶりを振る。

 

 そんな事はない。全員生きてる。でも今はその前提を壊して万が一を考慮しなければならない。

 

「まいいか。近いし」

 

 言いながら歩幅を伸ばす。出鱈目に足を前に出す。

 

 程なく見えて来たマンションまでの道中でふらふらと酔っ払いのように歩く三人の男女と遭遇したが、彼らは特に何をしてくるでもなかった。

 

 ちらっとみたが、あからさまに衰弱して今にも死にそうな感じだった。無論俺は医者でもなければ健康体でもない。人を助けている余裕はない。

 

 マンションの前には新築時に植えたと思わしき植林と、庭園、駐車場。その周りの高い建物がある。

 

 それでもこの辺では一番高いのか、そのマンションは頭ひとつ抜きん出ている。

 

「入るか。あ、ライト消えた」

 

 耳を澄ますと住民の口論がしていた。

 

 そしてまた移動する音が。

 外に出る。足音。近づいてくる。

 まもなく、接触する。おれは何を思ったか、隠れた。

 

「おい、早く来なさい」

「お母さんいるかなあ?」

 

「いるよ」

「わかった」

 

 親子が正面玄関を出て足早にどこかに向かっていた。

 

 駐車場に隠れていた俺はすぐに彼らの後を追った。この格好で出れば驚かれはするが、誤魔化している。逃げられはしないだろう。

 

 しかし後をこっそり付けたらもっといい情報をくれる気がした。10日寝ていて事情を知らない俺よりも何か知っている人について行けば、何かある。或いはどこかに行けると思った。いや、()()()そう思ったのか。

 

 俺の口内からは、さっき吐いた粘液がヨダレのようにいくつも垂れてコンクリートにシミを作っていた、



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受話器

前回酷すぎたので直しました(⌒-⌒; )
※この受話器の話ではないです(⌒-⌒; )


 どこかの建物の中。

 固定電話が鳴っていた。

 留守録の再生中の表示が点灯している。

 

 しかし誰も出ない。人の気配もない。かと思いきや、誰か人影がのそりと立ち上がる。

 

 さっきまで床に吸い付くように横たわっていたその彼女はポタポタと口から赤い液体が垂れている。

 

 鳴り続ける電話。

 彼女はしばらくそれを見つめ、次の瞬間バシッと受話器を払った。ぶらんと伸び落ちる。そしてペタペタと触り親機のデジタル表示が再生中に変更される。

 

『おい、おい、おい。おい! 聞こえるか!? 逃げろ! 洒落になんねーぞ! 隔離施設が全滅した! おい、聞こえてるかよ○○○!?』

 

 伸び落ちた受話機を見つめる彼女。その目はどちらも小さく出血している。足元には誰かの身分証が転がっていたが彼女のものではない男のもので、陸上自衛隊のカード型身分証だった。

 

『全くとんでもねえ厄日だ。俺が配属されたのはまえに言った通り隔離施設のある病院の保安業務だ。例の病院の騒動だよ。あのあと生き残っていた患者を移送したが、移送中に何人に感染していたかな。しかし肝心なのはそのあとだ。同僚がトチって感染者の食事提供中に噛まれたらしい。どうやら噛まれると感染する。発症までに個人差はあるが、今回は特に早かった。同僚は元々うちの部隊ではエリートなんだ。あいつの凶行だけで僅か一日で壊滅した。おい! 聞こえるか? 返事はいい。もう感染は市街に広がってるはずだ。一応あいつは俺の手で始末したさ。しかしやばかった。感染者には個体差がある。とくに普段から鍛えている奴には注意しろよ。死後硬直がない。いや、細胞が死後再生してるやら、医者もパニクってたさ。いいか? 通常の経口感染にも気をつけろ。手はまめに洗えよ。外の物はあまり触るなよ。除菌剤は効かないと思え。手に付着したら水で流すしかない。あとはそうだな、今すぐ外出できるなら、そのまま西に向かえ。この区域はまもなく封鎖される。上層部の話だと抑えきれないようなら……だ。なあ○○○。俺たち付き合って何年目だ。そろそろいい加減一緒に』

 

 直後、鋭い回し蹴りが受話器を捉え、本体ごと宙に滑空する。電話線も引っこ抜けた。

 

 壊れた電話機は更に足で踏みつけられた。ぐしゃぐしゃにされた後、彼女はそれに噛み付いて食い始めた。

 

 彼女は笑いながら電話線に齧り付いた。

 

 そうして程なく室内にまた静寂が戻る。彼女はどこかに出かけようと、玄関に向かう。すると何かに蹴躓いて転んだ。大柄な男だった。横たわっていた。

 

 彼女が倒れると、今度は彼が呻きながら彼女に覆い被さった。



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現実直視

 隠れるまでもなく、あの二人の親子に俺の事を気にかける余裕なんざなかった。

 

 マンションを出て、敷地内も出て坂を一つ下り、角を曲がった途端にうわあと絶叫。

 

 引き返してきた親子は後退しながら道を変えるぞと、来た道を戻る。

 

 50メートル後方で様子を伺っていた俺はというとだからどうする、と言った感じである。何がしたくてここまで来たのか自分でもわからなかった。

 

 情報、ああそうだ、情報だと思うも、そんなものさっきから異常知覚で民放が散々話題にしていた。

 

 目の前に親子が迫る。

 そして俺に気づいて一瞬たじろぐ。

 しかし立ち止まるわけにはいかないと立ち向かってきた。

 

 武器は出刃包丁と子供のバッド。一方こちらはカッターナイフとボイスチェンジャーとバッグと財布。

 無論戦う気はない。

 

 おーいと手を振る。ボイスチェンジャーで声を変えた俺。真夏に全身防寒着とグラサンマスク。怪しさ全開だが、手を振るという動作に安心したらしい。

 

 武器を収めて近づいてきた。

 

「おい、生きてる人間か?」

 

 答えなかった。さっきはボイスチェンジャーを使ったが近くで使えば使っている事がばれて不審だし、言葉の代わりに子供の肩を叩いて、手を差し出す。

 

「バッドか? ああ、わかった。ほら渡してあげなさい」

 

 はーい、と少女が重いバッドをよこす。普通なら大人がバッドで子供が凶器だがリーチの関係だろうか。

 パシリと受け取り、深呼吸。

 

『君は生きているのか? 噛まれてないか? ゾンビは強いぞ。あいつらはニュースによると』

 

 言葉が残響する。わかっていた事。わかっていた言葉たち。今の現状と、今何をすべきかということ。

 それらが頭に責任や義務として雪崩れ込む。

 

 俺はなんなのか、まだわかっていない。何ができるのか、まだ知らない。もう手遅れなのか。それも謎だし、今何をすべきなのかも。

 

「わからない。でも」

 

「お、おい、風邪? 喉が」

 

 目的なんてない。真実をまず目にして、そうだ。まず知りたかった。

 

 考えている間にも奴らがゾワゾワ湧いてくる。群れで歩いてきた。中には1人だけ小走りの奴もいる。

 

 一方で立ち止まる俺と、後ろでもう逃げている親子二人。

 

「だって、あの人」

 と子供。

「いや無理だろありゃ、あぶねえよ」

 と、その親。

 

 やるべき事を考えていた。しかし答えがでない。

 やるべき事なんてない。だって。

 

「くくく。臭え」

 

 気付けば笑っていた。顔が歪んでいたかもしれない。

 なんてことない。いつものあれだ。

 

 平凡で劣っている毎日。平凡だからこういう時やっぱり早々と感染するし劣っているから、なっても半端者なのかもしれないし、或いは自分でそう思い込んでいるだけかもしれないし、とどのつまりは活躍なんてできねー人生。

 

 なんて語ってるのが臭え。

 

「いやちげえ。口臭が臭え。これガチだわ。わかってたわ」

 

 逃げていく親子。何故かそちらにばかり視線がいく。すぐ近くの『ゾンビ』は無視している。

『ゾンビ』も俺を半ば邪魔くさそうに避けていく。

 

 わかっていた。

 あの粘液は恐らく食事のサインなのだ。ゾンビにも活動限界があると何かのジョーク本で見た。

 食べないと死ぬ。その生きていた頃の本能が食べる(噛む)という行動になり、脳を満たし、生を促す。

 

『くそ!』

『きゃあ!』

 

 親子が叫んで、戦っている。しかし、ゾンビは必死だった。食べようと。食わなきゃ死ぬんじゃない。食うという行動を脳で抑制すると死ぬのだ。何故か本能でそれがわかる。ゾンビの群れに流されて俺は笑っていた。誰も俺を襲わない。代わりに何か聴こえてきた気がする。

 

 ボケっとしてるとお前も食うぞ。実際には何も聴こえてこない。しかし、何か頭に流れてきた。

 仲間は仲間だ。敵は食う。憎い奴も敵だ。お前はどっちだ。

 

 俺を避けて親子に群がっていくゾンビは皆俺など眼中にない。こんな格好をしていても見分けがつくのか。

 見分けはつくのかもしれない。でも違う。

 

「興味がねえんだ。死んでるから」

 

 さっき流れた言葉は気のせいだった。

 死人は死に興味がない。

 

『だって生きている、生き物を食わないと生き返る気がしない』

 

 何となく沸いた言葉で全てを理解した気になる。

 

 親子が捕まって騒いでいた。そこに何人も群がっていく。

 

 俺はただ立ちすくんでいた。食おうとして付けていた獲物が奪われたことに自己嫌悪していたわけじゃない。

 

 ただ己がやはり死んでしまったのだという。その一点に涙が出て止まらなかった。ゾンビの群れの中、俺(ゾンビ)は一人涙を流し止まらない。滑稽だとわかっていても、馬鹿らしくても、

 

「し、んだ。のか。俺は。まじか……おい」

 

 鏡はいらない。何度も見た。お仲間もみた。皆全てが終わったような潰れ腐って半壊した顔で彷徨うばかりだ。

 

 まだ世の中は終わってないのかもしれない。

 さっき放送で封鎖区域と言っていた、あれはようするに、押し留めているのだ。

 

 だから世の中はまだ終わらない。これからもずっと長らく続く。終わってしまうかもしれない。わからない。英雄的な人間や英雄じみた結束でこの人類史上最難関の問題を或いは突破するかもしれない。

 わからない。

 

 だが、お前は終わったのだ。

 

 諦めろ劣等種。

 

 お前はもう蚊帳の外だ。

 

 言葉が流れてきた時には涙が乾いていた。ついでに惨事は終わっていた。食事会は済んだようで、今はゾンビたちが後片付けにヨダレを垂らしている。

 

 どうやら全て食う場合と、仲間にして勢力を増やそうとする二つの意識を持っているらしい。

 詳しくは聞いてもわからないだろう。

 

 俺はただ立ち止まっていた。あれだけいたゾンビは散開し別の標的を目掛けて歩いて行った。

 

 俺はもう自分が何をしたいのかもわからなくなり、手近な女ゾンビのあとをつけていった。

 あの親子が助けを呼ぶ悲鳴が残響していた気がしたが。

 

 もう関係ないのだ。すべて。

 日が落ち暗くなる頃にはゾンビが密集する地帯にたどり着いていた。

 

 皆本能である程度は結託しているのか。

 無論俺には死ぬほどどうでも良かった。



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