転生トレーナー~君に祝福を捧ぐ~ (カナイガワ)
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第1話 淀に散る

 死のう。黒沢米子(くろさわまいこ)は21歳にしてそう思った。

 

 くだらない人生だった。体が小さく気弱で人見知りな彼女は子供のころから「米粒コメコ」と馬鹿にされ執拗ないじめを受けていた。勉強も運動もできる方ではなく、両親は出来のいい兄にかかりっぱなし。高卒で就職した会社でも内気な性格が災いし、友人も作れず上司からパワハラやセクハラを受ける毎日。会社の同期に無理矢理参加させられた合コンで意気投合して付き合い始めた彼氏が唯一心のよりどころだったが、米子の誕生日を前にして浮気をしていたことが発覚した。

 

 もう、生き続ける理由が見いだせなかった。せめて最後、少ない給料をためつづけた貯金で豪遊してから死のう。そう思って貯金全額を引き出した。しかし、食事ものどを通らないような精神状態の米子は、金の使い道に検討もつかなかった。ふらふらと一晩中当てもなく歩いていると、いつの間にかひときわ大きな建物の前にたどり着いていた。

 

 京都競馬場。今まで競馬なんて一片の興味もなかった彼女だったが、どうせなら最後に一度くらいギャンブルをしてみるのも悪くないと考え、おぼつかない足取りのまま足を運んだ。建物内は11月の涼しさを埋め尽くすほどの人の熱気で溢れかえっていた。米子はとりあえず出走する馬の名前が表示されているモニターに目を向ける。なんだかなんだかよくわからない名前が並ぶ中、米子の目はある一つの名前で止まった。

 

 2番人気・8番・ライスシャワー。

 

 ライス。米。自分と同じ名前を持つ馬。米子にはもうその名前しか見えなかった。気づけば全財産をつぎ込んだライスシャワーの馬券を握りしめていた。レース場に出ると、そこには溢れんばかりの人、人、人。とても前の席には行けそうになかった米子は人ごみの最後尾で、必死に背伸びしてレース場の巨大モニターを見る。せめて自分の人生を駆けた馬の姿くらいは見てみたかった。

 

 そして、実況がライスシャワーの名前を呼び、モニターに8番の番号を背につけた黒い馬が映る。その瞬間、米子は背伸びをやめため息をついた。ライスシャワーの体は、明らかに他の競走馬たちに比べて小さかった。競馬初心者の米子にとってはその馬がとても強くは見えず、ひどく落胆した。

 

 しかし、そのレース―――菊花賞の終盤、米子はその光景に釘付けになっていた。

 

『――― 外からライスシャワー! ライスシャワーかわしたか!?』

 

 ライスシャワーが、小っちゃかったあの馬が、大きい馬たちを置き去りにして駆け抜けていき、先頭争いをしている。米子は人ごみに突っ込む。怒号を浴びせられながらも人の波をかき分け、なんとかレースが直接観える位置にたどり着いた。

 

「―――行けぇえええええっ!!」

 

 今まで出したことのない大声が、自分の口から飛び出す。口の端が切れ、喉の奥から鉄の味がしても、米子は叫び続けた。

 

「―――走れぇっ!ライスシャワァアアアアアアッ!!」

 

 

『―――ライスシャワー先頭に立った! ミホノブルボンは三冠にならず!ライスシャワーです!!』

 

 そしてライスシャワーが一位でゴールした瞬間、米子は興奮して大声で歓声を上げた。そして気づけば大粒の涙を流していた。こんなに心から何かを応援したことなんてなかった。周りの反応なんて気にならないほど、米子の中の何かが弾けて、満たされていた。「君も戦っていいんだ」と、そんなメッセージを受け取った気がした。

 

 その日から、米子の生活は一変した。上司に退職願を叩きつけ、彼氏に罵詈雑言を浴びせて引っぱたいてから別れ、菊花賞で得た配当金を資金に子供のころの夢だった花屋を開業した。一年としないうちにフラワー装飾技能士の資格も取り、自殺を考えていたのが嘘のように充実した日々を送っていた。

 

 その間も、米子は競馬場に度々足を運んでいた。ただしギャンブルが目的ではなく、ただライスシャワーのレースを見るために。苦しい時や悲しい時、ライスシャワーのレースを見るだけで、彼女は頑張ろうと思えた。米子にとって、ライスシャワーはまさにヒーローだった。

 

 だが、その日は突然訪れた―――。

 

『―――おぉっと!? 一頭落馬! 一頭落馬!! これは何が落馬したのでしょうか!? ライスシャワー落馬! ライスシャワー落馬であります!!』

 

 何が起きたのか、理解するのに時間がかかった。ただいつものようにライスシャワーを目で追っていたら、馬群の中からその漆黒の姿が急に消えた。

 

 頭が真っ白になった。悲鳴のような声が、まるで分厚いガラス越しに聞こえてくるような感覚。もう米子にとってレースの勝敗はどうでもよくて、ただレース場の後方で痛々しい様子で立ち上がるライスシャワーを凝視していた。その美しい漆黒の足から、“何か”が突き出ているのが遠目にもわかった。それの正体を理解した瞬間。米子の視界が真っ黒になった。

 

 ライスシャワーが死んだ。その事実が受け止められず、米子はふさぎ込んでしまった。店を休み、競馬新聞を買い集めて作ったライスシャワーのスクラップをひたすら眺める日々。あの日立ち直ったはずの心が、再び音を立てて壊れていくようだった。ふと、つけっぱなしのテレビから、ライスシャワーの慰霊碑が立てられたことを報じていた。

 

 せめて、花を添えてあげたい。そう思い、米子は外に出る。淀駅を降りてから、花屋のくせに献花を用意してなかったことに気付いた。花屋で献花を買い、再び京都競馬場を目指す。その日、空はどんよりと曇っていた。

 

 米子は、数日間飲まず食わずな上、睡眠もまったくとっていなかった。そんな状態の彼女だったが、その時の歩行者用信号は、確かに青だった。それなのに、なぜ大型のトラックが自分に向かって突っ込んできているのか。そんな疑問を抱く間もなく、米子の身体は花びらと共に宙を舞った―――。

 

 

******

 

 

 西宮ソラはあまりの寝苦しさに目を覚ました。見慣れない天井を視界に確認し、ゆっくりと体を起こす。バキバキとあちこちの関節が音を立てた。ぼやける頭で周りを確認すると、そこは自室のベッドの上でなく、トレーナー室のソファの上だった。そうだ、昨日はチームのメンバーのリストを更新する作業をしていたはずだ。それが終わったころには終電も終わってしまい、しかたなく始発までトレーナー室で眠ることにしたことを思い出した。

 

 スマホの画面を開くと、セットしたアラームの10分前の時間が表示される。まだ少し眠気はあるが、二度寝するにしては時間が短すぎる。寝汗で湿るスーツの感触に顔をしかめながら、ソラは洗面台に向かい、顔を洗う。鏡の中では目の下にクマを作った不機嫌そうな自分が睨みつけていた。

 

「……また、あの夢か……」

 

 喉からこぼれたか細い言葉が、水と一緒に流れていく。生まれたころから持っていた前世の記憶。まさに悪夢と言えるその記憶をまた夢に見た理由は、きっと寝苦しさからだけではない。

 

 タオルで顔を拭きながら、スマホの画面を操作し、「トレーナー向けのお知らせ。選抜レース開催に際してのご連絡」と書かれたメールを開く。メールが届いてからたぶん数百回は見直した。見間違いではないかと、何度も目を擦っては一文字ずつ確認した。なのに、今でもその名前を見ると心臓が飛び出すのではと思うほど強く跳ね上がる。

 

「ライスシャワー……」

 

 今日の選抜レースの出走登録表に、確かにその名前が記されていた。

 

 




―――世界(とき)をこえ、二人は出会う。

  



☆次回、7月10日午前9時!


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第2話 今度は私が

 平凡なにんじん農家の一人娘、それが西宮ソラという少女だった。立って歩くのも、言葉をしゃべるのも周りより少し早かったけれど、どこにでもいる普通の女の子。少なくともソラの両親はそう思っているが、彼女には誰にも言っていない秘密がある。それは、前世「黒沢米子」としての記憶をもっているということ。病院で産声を上げた瞬間から、それは明確にソラの頭の中にあった。ソラは最初、現実を受け止められずにいた。しかし時間が経つにつれ、その意識も変わっていく。どうせならこの本当の意味でのセカンドライフを楽しもうと思った。

 

 ソラは前世で、転生した人間が剣と魔法の世界で戦うという内容の本を読んだことがある。しかし転生した世界は、物理現象を無視した魔法やスライムみたいな魔物なんてものは存在せず、ほとんどが前世の世界と同じだった。しかし、一つだけ前世との違いがある。それが、“ウマ娘”と呼ばれる少女たちの存在だ。

 

 この世界には、所謂ウマ目ウマ科であるところの「馬」という動物は存在しない。代わりに馬と同等の身体能力をもつ少女。それがウマ娘だ。

 

 曰く、「彼女たちは別世界の名前と共に生まれ、その魂を受け継ぎ、走るために生まれてくる」とされている。別世界、というのはソラの前世の世界のことだろう。事実、前世の世界で聞いたことのある名前のウマ娘をいくつか見かけたことがあった。

 

 可愛い女の子たちが競馬よろしくターフを駆ける姿と言うものは、実際の競馬を知っているソラにとってなかなかシュールな光景だった。しかし競馬と違い、人間の姿をしている彼女たちの勝利して歓喜する姿や、敗北して涙を流す姿に、彼女は心を打たれてしまった。

 

 ウマ娘のトレーナーになりたい。彼女がそう思うのに時間はかからなかった。黒沢米子が、ライスシャワーに勇気をもらったように、誰かの生きる希望となれるようなウマ娘を育てたい、と。

 

 世界中で注目されるウマ娘。そのトレーナーになるためには、専門のライセンスを取得する必要があるのだが、それを取るのには相当な学力が必要だった。しかし前世の記憶、つまりは知識をまるまる持っていたソラは小・中・高校生の時間をほぼ勉強に費やし、最難関とされるシリーズのライセンスを23歳という若さで取得した。

 

 そして日本ウマ娘トレーニングセンター学園、通称トレセン学園に所属する強豪チーム、『レグルス』のサブトレーナーとなる。そして2ヶ月が経過したある日のこと、ソラはレグルスのメイントレーナーの田芝(たしば)に呼び出された。

 

「そろそろ担当ウマ娘を持ってみる?」

 

 まるで夕食にでも誘うような気軽さの言葉に、ソラは言葉を失う。通常サブトレーナーが担当のウマ娘を持つまで、最低でも1年は経験を積む必要があるといわれている。ソラもそのつもりで日々の雑用やトレーナー業の補佐を続けてきたつもりだった。それをたったの2ヶ月で、しかも「彼女の指導は鬼も裸足で逃げ出す」と噂されるほど厳しい田芝トレーナーからのまさかの提案に、ソラはなんとか声を絞り出す。

 

「……そのっ、はや、すぎません? だって、まだ私は……」

 

「この2ヶ月間あなたの仕事ぶりを見て、1年も必要ないと判断したわ。仕事は完璧にこなしてくれているし、早いうちにもうワンランク上の経験を積んだ方がいいと思ったの」

 

 意外だった。田芝がまさか自分をそこまで評価してくれていたとは。ウマ娘のトレーニングよりも厳しいパワハラぎりぎりの指導に何度引っぱたいてやろうかと思ったことか。そのたびに負けるもんかと奮起し、努力を続けた。田芝はそんな自分をしっかりと見てくれていたのだ。その事実にソラは目頭が熱くなる。泣き虫なのは転生しても変わっていなかった。

 

「っ……やります! やらせてくださいっ!!」

 

 その期待に応えたい。瞳を潤ませながらも力強く返事を返すソラに、田芝はめったに見せない笑顔を返す。

 

 数か月後に海外からレグルスに移籍してくるウマ娘の担当になることが決まり、家でその娘のデータをまとめていた時、“それ”は届いた。数日後に開催される選抜レースに関するメール。サブトレーナーには独断でウマ娘をスカウトする権限はないが、ソラは毎回勉強と人脈を広げるためになるべく足を運ぶようにはしていた。しかし今回は業務が重なっているため行くのは難しいかもしれない。そんなことを思いながらも、なんとなく出走登録表を確認する。出走登録表に目を通した瞬間、ソラは後ろにひっくり返った。

 

 そこには、ソラの前世に多大な影響を与えた馬、ライスシャワーの名前が記されていた。

 

 

 *****

 

 

 選抜レース当日。の、夜。

 

 トレーナー室で仕事をしながら、昼間のことを思い出す。ソラはライスシャワーの姿を目にすることができなかった。行かなかったわけではない。むしろレース開始の2時間前に先頭を陣取っていたのだが、選抜レースにライスシャワーが現れなかったのだ。

 

「……ライスシャワー、とうとう選抜レースまでボイコットか。資質としてはいいものを持っている子なんだがなぁ」

 

「そもそもレースに出たがらないのでは……資質以前の問題ですね」

 

「あ、あのっ、それってどういうことですか?」

 

 近くで話していたトレーナーの会話に割り込む。どうやらライスシャワーがレースをボイコットしたのはこれが初めてではないらしい。授業の模擬レースですら何度も欠席しているようだった。ライスシャワーを知っているトレーナーからの評価は『非常に臆病でレースに出る勇気がないウマ娘』というものだった。

 

 ―――そんなわけない。

 

 ソラは頭の中でその評価を真っ向から否定する。それは生前、別の世界でのライスシャワーを知っている彼女だからこその結論だった。

 

(臆病なもんか。ライスシャワーは、どんな強敵にだって立ち向かっていく、強い馬だった……!)

 

 今でも脳裏に焼き付いている、初めてライスシャワーをみたレース。雄々しく猛々しい競走馬たちの中を、小さい体で駆け抜けるあの姿を。だから、きっと何か理由があるはずなんだ。一片の疑いも持たずそう信じきっているソラ。選抜レースは今回だけではない。きっとまたライスシャワーと会える機会はあるだろう。そう思いながら今日の分の仕事を終わらせ、暗くなった学園内を歩いていたその時だった。

 

「ぐすっ、ふえぇ……うぇぇぇぇーん!!」

 

 少女の泣き声が廊下にこだまする。ソラは一瞬幽霊かと思い体を強張らせるが、その声は外から聞こえてきていた。窓の外に目を移すと、中庭の切り株で誰かがうずくまっている。頭の上に耳があることから、ウマ娘であることがわかった。もしかしてなにか怪我でもしたのだろうか。廊下を走り、渡り廊下から外へ出てそのウマ娘へと駆けよる。

 

「ねぇ、あなた大丈夫?」

 

「ふぇっ……!?」

 

 少女は涙でぬれた顔をソラに向ける。その瞬間、ソラの心臓が大きく跳ねた。ウマ娘の中でも小柄な体。腰まで伸びた黒髪に青い薔薇の髪飾り。その顔は学園の生徒にしてはすこし幼く見える。

 

 なぜ、そう思ったのかはソラ自身にもわからない。しかし月明かりに照らされた彼女を見た瞬間、直観がそうだと告げていた。

 

「ライス、シャワー……?」

 

 思わず口からこぼれたその言葉に、その娘はきょとんと首を傾げる。

 

「えっ……どうしてライスの名前を……?」

 

 雷に打たれたような衝撃がソラに走った。まさかこんな形で、こんな唐突に、ウマ娘としてのライスシャワーに会えるなんて思っても見なかった。頭の中が軽くパニックに陥る。固まったソラをライスは不思議そうな顔で見つめるが、ソラの胸元に飾られたバッジに目を向ける。

 

「あっ……そのバッジ、もしかして学園のトレーナーさん……?」

 

 ソラはハッと我に返る。返事をしようとするが、喉が渇いて上手く声が出ない。代わりに風を切る音が聞こえるほど勢いよく何度も首を振って肯定の意を示した。檻に繋がれた凶暴な獣のように、心臓が暴れ回る。なんとか声を絞り出すが、口から出てきたのは「あ、う。お……」という声とも呼べない妙な音。

 

 ソラは更にテンパる。まずい、このままではライスシャワーに変な奴だと思われてしまう。早く、何か話さなければ!しかしその焦りが更にソラの言葉を封じてしまう。声が全く出せない彼女はせめてライスを安心させようと必死に笑顔を作りながらジリジリと距離を詰める。

 

「ぐすっ……うぅ。あの、ごめんなさい……それ以上、こっちに来ないで……?」

 

 何かにおびえたように体を震わせるライスシャワー。ガツゥーンッ!と後頭部をハンマーで叩かれたような衝撃がソラを襲う。遅かった。もうライスの中でソラは近寄られたくもないほどの変質者に認定されてしまった。露骨にショックを受けた顔をするソラに、しかしライスは慌てたように両手をブンブンと振った。

 

「あっ! ごめんなさい違うんです! そういう意味じゃなくって……ライスの傍にいたら、迷惑かけちゃうから……」

 

 ライスの言葉尻と共に、頭の上の細長い耳が枯れた花のように垂れる。さっきまでパニック状態だったソラの脳内は、そんなライスの状態を見て冷静になる。

 

「迷惑って、どういうこと……?」

 

「……ライスはすぐみんなを不幸にしちゃう、ダメな子だから……」

 

 その姿も、声も、儚く弱々しい。これがあのライスシャワー?前世の自分を絶望の淵から救い出してくれた、あのヒーローの姿だというのか。ソラはただ茫然とライスを見つめていた。

 

「ライスも、ダメじゃないライスになりたかったけど……がんばろうって、レースに出ようって思ったけど、結局……!」

 

 涙を流すライスシャワー。その姿に、ソラは足元が急に消え、奈落の底に落ちていくような感覚に襲われた。それは、失望にも似た感情。噂は本当だった。彼女は臆病で、こんなにも弱くて―――。

 

 自分に、自信がない。それはまるで、前世の自分のようだった。前世で、ライスシャワーに出会う前の、すべてに絶望していた自分に。弱い自分が、泣き虫な自分が大っ嫌いな黒沢米子。なんで自分はこんなにダメなんだろう。惨めで情けなくて……。自分のヒーローと同じ名前の少女が……その魂を受け継いでいるはずの少女が、前世の自分(黒沢米子)と重なって見える。

 

「うぅ……ぐすっ。やっぱり……やっぱり、ライスなんか……!」

 

 眼に涙を浮かべ、何かにおびえるように体を震わせるライスシャワー。まるで声と一緒に、存在ごと消えてしまいそうで……。

 

 ―――ダメだ。その言葉の先を言わせてはいけないっ!

 

「―――ライスシャワー、あなたをスカウトさせて!」

 

 閑散とした中庭に、ソラの声が響き渡る。目を見開き、ライスシャワーはソラを見つめている。しかしそれ以上に、ソラは自分の口から飛び出した言葉に驚いていた。考えて言ったわけではない。ただこれ以上、彼女を放っておくわけにはいかないと思った。それは同情か、はたまた憐憫か。しかし胸の内に湧き上がるこの熱い想いは、そのどちらでもないと断言できる。そしてきっとこの想いこそが、この決意こそが、自分がこの世界に現れた意味なのだと理解した。

 

 ―――私が教えてあげればいいんだ。貴女はすごいウマ娘なんだって。

 

「あなたは、人を不幸にする存在なんかじゃない」

 

 ―――あの日、私に生きる希望を与えてくれたライスシャワーのように、今度は私が……!

 

「人を絶望の底から救い出して、その名前のように人を幸せにできるような、そんなヒーローみたいなウマ娘にきっと……絶対、なれるっ!」

 

 それはただの励ましのための虚言じゃない。少なくともここに一人、救われた人間がいるのだから。

 

「それを、私が教えてあげる。だから、私をあなたのトレーナーにしてっ!」

 

 さっきまで緊張で固まっていたのが嘘のように、ソラは自然にライスシャワーに歩み寄り手を差し出す。ライスシャワーにとって、ソラの言葉はただの根拠のない自信に過ぎない。けれど、まるでライスがそうなることを一片も疑わないその瞳に、笑顔に、ライスは引き寄せられた。

 

 ―――『お姉さま』みたいだ。と思った。子供のころから大好きな絵本『しあわせの青いバラ』。人々から気味悪がられ、しおれていく青いバラを、その笑顔で救ってくれたお姉様。ダメな自分に手を差し伸べてくれるソラの姿が、絵本の『お姉さま』と重なる。

 

 この人の隣なら、きっとライスも青いバラのように咲ける。そんな確信にも似た想いが、ライスの胸で花開いた。

 

 雲一つない晴天の夜空。宝石を散りばめたような星々の中心の三日月が、二人を照らしている。ライスシャワーはおそるおそる、差し出された手を取った。

 

 

 

 

 この時、ソラは気づかなかった。前世の、違う世界のライスシャワーを知ってなお、ウマ娘のライスシャワーのトレーナーになる、その意味を。

 

 ソラは今、とても強大なものを敵に回したのだということを―――。

 

 




―――運命が今、駆けだす。

  




☆次回、7月26日、午前9時!


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第3話 なりたい私

「……本気で言っているの?」

 

 その静かな問いかけに、トレーナー室の空気が凍りつく。まるでこめかみに銃口を突きつけられているかのような緊張感にソラはごくりと生唾を飲み込んだ。目の前には田芝が鬼の形相で彼女を睨みつけている。噴火寸前の火山のように、怒りがマグマのごとく田芝の中で煮えたぎっているのがわかる。ここまで彼女が怒りを露わにした表情を見せるのは初めてだった。しかし、そうなることも承知の上で、ソラは震える口を開く。

 

「……はい。私はレグルスを抜けて……ライスシャワーのトレーナーになります」

 

「……理解に苦しむわね。私には、この娘にあなたがそこまでする価値があるように思えない」

 

 呆れたようにため息をつきながら、田芝は手元の資料を一瞥する。そこにはソラがまとめたライスシャワーのデータが載っていた。ウマ娘のチームの入団決定権はメイントレーナーにある。いくらサブトレーナーが目を付けても、メイントレーナーが許可しなければウマ娘の入団は認められない。今まで模擬レースにもまともに出たことがないライスシャワーの入団を、田芝は許可しなかった。

 

「……バカなことしてることは百も承知です。けれど、これは私が……いや、きっと私にしかできないことなんです……!」

 

 そう言って、ソラは頭を下げる。本当なら、今すぐ土下座して謝罪したいくらいだが、もしも誰かに見られたら問題になってしまう。田芝にはトレーナーとしていろんなことを教わってきた。厳しい指導も激しい叱責も、全ては自分を一人前のトレーナーにするためのものだと理解もしている。ようやく担当をもたせられるまで認めてもらった矢先にチームを辞めるなんて、大恩を仇で返す行為に他ならない。

 

 けれど、それでも―――

 

「―――どうか、お願いしますっ……!」

 

 ソラは譲れなかった。田芝に縁を切られることも覚悟の上で懇願する。数秒間の沈黙。田芝のため息がそれを破った。

 

「……わかったわ。手続きはこっちでやっておくから」

 

「えっ……!?」

 

 意外にもあっさりと許諾され、ソラは驚いて顔を上げる。一瞬だけ田芝が微笑んでいたように見えたが、おそらく気のせいだろう。田芝は席を立つと、ソラに背を向け窓の外を眺める。

 

「言っておくけど、一度抜けたらもう戻ることは許されないわ。もし上手くいかなくても、このチームにはあなたの居場所はない」

 

「……はい。わかってます」

 

「他のサブトレーナーには私から伝えておくわ。引き継ぎもあるし、最低でもあと2週間はいてもらうわよ。それから、チームの娘たちにもちゃんと挨拶しておきなさい。貴女、けっこう人気あったんだから」

 

「は、はい……」

 

 まるで子供を優しく諭すような口調が逆に怖い。さっきまでの態度はどこへやら、ソラはビクビクしながら扉に手をかけたところで、田芝に呼び止められた。

 

「―――困ったことがあったら、なんでも相談に来なさい。チームを辞めても、貴女が私の後輩であることに、変わりないわ」

 

 その言葉に、ソラは目頭が熱くなる。少しだけ、決意が揺らいでしまった。けれど今更撤回なんてできない。ソラは踵を返し、背を向けたままの田芝に深々と頭を下げる。

 

「―――今まで、大変お世話になりましたっ!」

 

 かちゃんっ。扉を閉める音が冷たく響く。一人になったトレーナー室で、田芝はデスクの一番上の引き出しを開け、一枚の写真を取り出す。そこには涙で顔をグシャグシャにした癖毛の若いトレーナーと、栗色の髪を腰まで伸ばしたウマ娘が目に涙を溜めて困ったように笑っている姿が映っていた。

 

「私にしかできないこと、か……」

 

 まさかね。と、田芝は自分の考えに呆れたような笑みをもらす。写真をまるで宝物のように引き出しにしまったところで、デスクの上の携帯が鳴った。そこに表示された名前を見て少し動揺した田芝は、目元まで伸びた癖毛を指先でいじりながら通話をタップする。

 

「……もしもし? いえ、大丈夫。丁度私も電話しようと思ってたところよ―――」

 

 ふと、鏡に自分の姿が映り、田芝は慌てて部屋の隅へ移動する。今の自分の顔を万が一チームの者に見られては、メイントレーナーとしての威厳が崩壊してしまうと思った。真面目な顔を保とうとしても、電話口から聞こえる優しい声を聞くたびに田芝は相好を崩してしまう。まるで内緒話をしているかのような電話は、夜が明けるまで続いた。

 

 

 ******

 

 その日、新潟競馬場は連日の猛暑をモノともしないほどの活気にあふれていた。本日三つ目に行われている新バ(デビュー)戦。観客たちは未来のスターウマ娘たちに向かって、胸を躍らせながら笑顔で歓声を送っている。しかし、ゼッケンを胸にターフを駆ける10人のウマ娘たちの中に、笑顔を見せる者は1人としていない。誰もが死に物狂いで勝利を目指している。先頭集団が最後のコーナーを抜けたところで、実況の明坂美聡の興奮をはらんだ声が響き渡った。

 

『―――残り200mを切りまして、先頭に立ったのはライスシャワー!! 最後の直線、2番手ダイサンリユモンと熾烈な争いです!』

 

(―――トレーナーの嘘つき野郎(うそひいごろ)っ!!)

 

 先頭集団の一人、ダイサンリユモンは必死に足を動かしながら、レース前にトレーナーに言われたことを思い出していた。

 

『ライスシャワー、このウマ娘は気にすることはない。選抜レースにも怯えて出られない落ちこぼれだ。トレーナーも歴一年未満の新人。お前の敵にはなりえないだろう』

 

(そう()ちょったんに、なんでライスが先頭におっとな!?)

 

 漆黒の髪を靡かせるその小さい体に必死に追いすがる。差は半バ身、いやアタマ差もないほど。しかしどれだけ地面を強く蹴っても、どれだけ足を速く動かしても、そのわずかな差が縮まらない。なんで? 今日のデビュー戦に向けて、たくさん練習してきた。強くてかっこいいウマ娘にあこがれて、自分もそうなるために必死に頑張ってきた! 

 

(こげんところで、負くっわけにはいかんっ……!)

 

「だらぁああああああああっ!」

 

 挫けそうになる心に鞭を打つ。諦めてたまるかっ! 憧れを捨ててたまるかっ!! 己を奮い立たせ、ダイサンユリモンは地面を強く蹴る。

 

「っ……やぁああああああああっ!」

 

 だが、ライスシャワーも譲らない。初めてのレースでの緊張に加え対戦相手達の圧力(プレッシャー)で、練習通りになんて全然走れていない。今自分が何番手なのかもわからないほど、心も体も疲弊し切っている。しかしその瞳は潤みながらも、まっすぐゴールを目指していた。数日前切り株の前で泣きじゃくっていた情けない少女の面影はない。レースを走る一人のウマ娘の姿が、そこにはあった。

 

(―――怖かった。レースに出るのが、『青いバラには絶対なれない』と、わかってしまうのが……)

 

 こんなダメダメな自分がレースに出ても、誰も幸せにできない。この先ずうっと、ダメな自分のままだと、わかってしまうのが怖かった。そう思ったら、怖くて震えが止まらなくて、まるで暗くて冷たい沼のそこに沈んでいくようだった。

 

「―――走れぇーーっ! ライスゥーー!!!」

 

 声が聞こえた。暗闇の中から自分を見つけ、救い上げてくれた人の声。見なくてもわかる。彼女は今きっと観客席の先頭で、柵から身を乗り出して精一杯自分を応援してくれているのだろう。

 

『あなたは、人を不幸にする存在なんかじゃないっ!』

 

『人を絶望の底から救い出して、その名前のように人を幸せにできるような、そんなヒーローみたいなウマ娘にきっと……絶対、なれるっ!』

 

 三日月の夜、手を差し伸べてくれたソラの言葉が、ライスの背中を押す。辛くて止まってしまいそうな自分の心を、励ましてくれる。重たい足を、一歩、また一歩と前に進ませてくれる。

 

(勝ちたいっ、ライスを見つけてくれたトレーナーさんのためにっ! ダメなライスじゃないことを、証明するためにっ!)

 

『残り100m! 果たして最後に制するのは―――!』

 

「私はっ―――」

 

 皆を幸せにする、青いバラ(ヒーロー)に―――

 

「―――なりたい私に、なるんだぁああああああ!!」

 

 限界を超えた決死のスパート。ゴール目前にして、差が1バ身ほど開く。「無理ぃーーー!!」というやけくそ気味のダイサンリユモンの叫びが、誰に届くことなくターフを駆ける風に飲み込まれていく。

 

『ゴォォォオオールッ!! 勝利を手にしたのは、ライスシャワー!! 激しい争いの末、最後に意地を見せましたっ!!』

 

 歓声が晴天に響き渡る。自分が1着だったことに、ライスはゴールしてから気づいた。

 

「いいぞっ、ライスシャワーっ!! 素晴らしいレースだったぞー!!」

 

「ワクワクしちゃった!! また次も観に行くからねーっ!!」

 

「わぁ、っ……!!」

 

 自分を讃えてくれる声が、レースの疲れを吹き飛ばしてしまうようだった。自分が誰かを少しでも幸せにできた実感が胸の中でふくらみ、涙となってあふれ出る。けれど、それ以上に号泣しているソラを見て、ライスは思わず笑ってしまった。涙と鼻水でぐしゃぐしゃのソラの顔が可笑しかったわけではない。彼女のその涙が、喜びからくるものだとわかったから。ソラがこのレース場の誰よりもライスの勝利を喜んでくれることがうれしくて、ライスは笑顔でソラに駆け寄る。

 

「トレーナーさん……見てて、くれた……?」

 

「っ……う゛んっ! 見でだっ……!」

 

 嗚咽のせいで短い返事しかできないソラ。ハンカチで鼻をかむ彼女を見ながら、ライスは体をもじもじとくねらせる。言うべきか言わないべきか。しかし数日前よりすこしだけ身も心も強くなった彼女は、覚悟を決めて一歩ソラへと踏み出す。

 

「……あのね、いっこ、わがまま言ってもいい……?」

 

「グスッ……わがまま?」

 

「……うん、あの、あのね……?」

 

 ドクン、ドクンと心臓が早鐘を打つ。もしかしたらレースの時よりも緊張しているかもしれない。グッと拳に力をいれて、ライスは潤んだ瞳でソラの顔を見上げた。

 

「トレーナーさんのこと……『お姉さま』……って呼びたいの。だめ、かな……?」

 

 一瞬、ソラの体が凍りついたように見えた。やっぱりおかしいかな、嫌われたかな、そんな不安が胸によぎる。ソラは数秒間固まった後、「あ、その。えっと……ぉ」と目に見えて挙動が不審になる。上を見たり下を見たり、頭を掻いたり首を触ったり。一通り動揺の様子を見せてから、咳払いして背筋をシャンと伸ばす。

 

「ライスがそうしたいなら……その、いい、のでは、ないでしょうか……?」

 

「いいの!? じゃ、じゃあ……!」

 

 震える声で引きつった笑みを見せるソラ。涙も鼻水もすでに引っ込み、耳を真っ赤にさせ、目はあっちこっちに泳いでいる。しかしライスは気にしない。というより、受け入れてくれたことに舞い上がり、ソラが死ぬほど動揺していることに気が付いていない。ライスは胸に手を当ててソラを見つめる。

 

「これからも……よろしくお願いしますっ―――お姉さま!」

 

 そう言って、ライスは笑った。花が咲いたような笑顔だった。これから先この笑顔をもっとずっと咲かせられるように、自分も強くなろう。そう心に誓った。

 

 

 

 そんな二人の様子を少し離れたところで見ていたアグネスデジタルが気を失っていた。それ以降、ソラとライスシャワーがアグネスのネタリストに加わったことは、また別の話である。

 

 




 
―――またデジタル殿が死んでおられるぞ。


☆次回、8月21日午前9時!


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番外編 

西宮ソラのプロフィール

年齢:25歳
身長:158㎝

肩甲骨ぐらいまで伸びたセミロングの茶髪を一つ結びにしている。
気分の浮き沈みが激しい。普段は負けん気の強い母親の血を継いでいるからか、明るく活発で負けず嫌いだが、一度落ち込むと黒沢米子のネガティブな性格が顔をだし、とことん落ち込んでしまう。
幼いころからにんじん農家の両親のマッサージをしていたためか、マッサージが非常に上手い。「ソラのマッサージを受けるとレースに勝てる」という勝利の女神的な噂が立っていたが、ソラ自身はその噂について知らない。そのためレグルスにいた頃は練習後に彼女にマッサージしてもらいたいウマ娘が殺到していた。
実はライスシャワーにゾッコンLOVE。表情や態度には出さないようにしているが、アグネスデジタルには見抜かれており、妄想(同人誌)のネタ(もちろん無許可)にされている。
胸の成長が乏しいことを密かに気にしている。


「んっ……はぁっ……!」

 

 嬌声が、トレーナー室の中で響く。まるで自分のものとは思えない声に、ライスは顔を真っ赤にして口を塞ぐ。そんなライスの様子にソラはクスッと笑みをこぼしながらも、手を休めることはしない。

 

「……ライス、我慢しなくていいから、私に任せて」

 

 安心させるように小さな頭を撫でる。ドクンッと、ライスは胸が高鳴るのを感じた。気恥ずかしさでいっぱいだった頭の中が、ゆっくりと解されていくように落ち着いていく。

 

「お、お姉さま……ら、ライス、その……初めて、だから……!」

 

「大丈夫、優しくしてあげる……」

 

 そう言ってソラは、ベッドに仰向けに寝るライスの細い太ももに手を添え──グッ、グッと力を入れてふくらはぎの方まで揉んでいく。

 

「ふにゃあああぁぁぁぁ……」

 

 まるで猫みたいな声を上げながら脱力するライス。しっかりと輪郭に沿うようなソラのマッサージは、練習後の疲労を溶かしていくようだった。

 

「お姉さまのマッサージすごい上手……足がおかゆみたいに溶けちゃいそう……」

 

 なんでおかゆ? その発言に疑問を浮かべるソラだが、すぐにライスなりのジョークだということに気づき、胸がキュンッとする。しかし平静を保ちながらマッサージを続けていくと、あることに気付いた。

 

「……ねぇライス。昨日自主トレーニングした?」

 

「ふぇっ!? え、えぇっと、その……」

 

 その問いかけに、あからさまに動揺するライス。思った通りとソラは小さく嘆息し、手を止める。レグルスにいた頃も、チーム内のウマ娘にマッサージを施してきたソラだが、ライスの足は一度オーバーワークで倒れてしまったウマ娘の足と同じように凝り固まっていた。

 

「まったく、自主トレーニングはいいけど、やりすぎは逆効果だって言ったでしょ?」

 

「は、はい……ごめんなさい……」

 

 シュンと耳がうなだれてしまうライスを見ると、むしろこっちが謝らなければいけないような気になってしまう。ソラは両頬を叩いて自分に喝を入れる。ここで甘やかしてはライスのためにならない。今にもライスを抱きしめてあげたい衝動をグッとこらえ、そっと頭を撫でる。

 

「私がしっかりあなたに合ったトレーニングを考えてあげるから、お願いだから無理はしないで。ねっ?」

 

「……うん。ごめんね、お姉さま」

 

 涙目で見上げてくるライスに、ソラは左胸を抑える。そうしなければマンガみたいに心臓がハートの形で飛び出してしまいそうだった。しかし、手のひらで直接鼓動を感じられるほどの薄い自分の胸に冷静さを取り戻す。ベッドの上で起き上がるライスと目線を合わせる。

 

「それじゃあ、はいっ! 指切りねっ!」

 

「……うんっ!」

 

 パァッとライスは明るく笑い、ソラの小指に自分の小指を絡ませた。

 

 

 

 ──一方、トレーナー室の窓の外

 

 

「……ひょえ~っ! なんですかあの尊すぎる光景はぁ~!! し、写真写真……!」

 

「ね、ねぇ、あの子中覗いてるけど、先生呼んできた方がいいかな?」

 

「いや、別にいいんじゃない? いつものことだし」

 

「はぁあっ! め、メモリーがすでにいっぱい……! でも、どれも消せないっ……!」

 

 トレセン学園は今日も平和だった。

 

 




☆次回、9月25日午前9時!


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第4話 不沈艦の襲撃

 桜も散り、新緑が実り始める五月の半ば。爽やかな風が吹きすさぶトレセン学園。ウマ娘たちがトレーニングに励み活気にあふれるグラウンドとは正反対に、トレーナー室は陰鬱な雰囲気が漂っていた。

 

「―――はぁ~~~~~~~~~~…………」

 

 ソラは長く、長く息を吐く。肺の中の空気が空っぽになっても、鬱屈とした気分は胸の中に残ったままだった。1人しかいないだだっ広い部屋に、かすれた声が反響する。それがまた彼女の気分とやる気を低下させた。悪い夢から覚めるかのように一度目を強く閉じてからゆっくりと開ける。しかし目の前の資料に乗っている数字が変化することはない。

 

「……スプリングステークス4着、皐月賞8着、NHK杯8着……」

 

 それはここ数か月のライスシャワーの出走レースと着順だった。口に出したことで体が机の中に沈んでいくような気分に陥る。

 

 デビュー戦からおよそ半年以上の月日が流れている。デビュー戦こそ華々しく飾ったものの、それ以降の成績はお世辞にも良いとは言えなかった。前世に見たライスシャワーも勝てない時期は確かにあった。そのたびに黒沢米子は涙を流しながらも、次に勝てることを信じて奮起していた。だが、西宮ソラは違う。トレーナーである彼女にとって、ライスシャワーの勝敗の責任は自分にある。日々の業務に一切手は抜いていない。しかしだからこそ、ライスを勝たせてやれない自分が情けない。

 

 もし自分がもっと経験を積んだトレーナーだったら、ライスはもっと勝てるのだろうか。そんな考えと、負けるたびに悲しそうな顔をするライスの姿が脳内でいっぱいになる。

 

「……ごめんね」

 

 いったい誰に向けての、なんのための謝罪なのかもわからない言葉がこぼれる。やっぱり、デネブに残って経験を積むべきだったのだろうか。そんな考えが脳裏に浮かんだ時、扉をノックする音が響いた。

 

「―――お姉様、ちょっといい?」

 

 遠慮がちに開く扉から、ライスシャワーの顔がのぞく。ソラは瞬時に体を起こしてノートパソコンに手を添え、いかにも「仕事していました」風を装う。トレーナーとして、ライスに落ち込んでいる姿を見せるわけにはいかなかった。それはソラに負けず劣らずネガティブなライスに心配をかけたいためでもあるが、「トレーナーたるもの、常に毅然とするべし」という田芝からの教えでもあった。なんでもないように「こんにちは」と挨拶するソラに、ライスももじもじしながら返す。

 

「どうしたの? 今日はウララやロブロイと遊ぶ予定だって聞いたけど……」

 

「うん。あ、あのね……実は今日、三人でクッキーを作ってたの。それで……お姉様にも食べてほしくって……いつも、ライスのために頑張ってくれるお礼に……」

 

 おずおずと、ライスは鞄から取り出した花柄の袋をソラに差し出す。ソラは驚愕で目を丸くしたまま、壊れ物を扱うようにその袋を受け取った。

 

「本当は、もっと早く渡したかったんだけど、失敗ばっかりで……それで今日、二人と一緒に作ったら、美味しくできたと、思うから、その……」

 

 ごにょごにょと真っ赤な顔で話すライスを見ていると、先ほどまで沈んでいたのが嘘のように、胸の内が暖かくなるようだった。

 

「……ありがと、ライス。仕事が終わったら、いただくね」

 

「え、えっと……その、一つだけでも、今食べてほしいんだけど……だめ、かな?」

 

 たぶんソラはこれを口にすれば、嬉しさのあまりだらしなく笑ってしまうと思い、一人の時に食べようと考えた。しかし、潤んだ瞳で見つめてくるライスシャワーの願いを断れる人類がこの世に存在するだろうか? 秒で「わかった」とうなずくと封を開け、クッキーを一枚取り出す。手のひらに収まるサイズのそれは、三日月の形をしていた。黄色いコーティングから黄色い光沢を放つコーティングからレモンの香りがする。ソラにはそれがまるで黄金のような輝きを放っているように見えた。

 

「お姉様、覚えてる? ライスをスカウトしてくれたあの日も、三日月だったこと」

 

 忘れるわけがない。今でもソラはあの日のことを鮮明に覚えている。泣きじゃくるライスの姿に失望し、彼女をあのライスシャワーのように強くすると宣言したこと。クッキーを口に放り込む。噛むたびに砂糖の甘みが広がると同時に、爽やかなレモンの香りが鼻から抜ける。それを飲み込むと、チリチリと小さな火種と化していたあの時の決意が、再び燃え上がるのを感じた。

 

「……すっごい美味しい。なんかめちゃくちゃ元気出てきたよっ!」

 

「よかったっ! ……あのねお姉様、ライス頑張るから。 次こそ、一着でゴールするとこ、お姉様に見せられるように、いっぱいいっぱい頑張るから」

 

 胸に手を当て、真っ直ぐと見つめてくるライスの瞳には、強い光が宿っていた。そこには続く敗北に屈しないという強い意志のようなものが見える。強くなったね。と、ソラは心の中で思う。このクッキーもきっと、お裾分けだけが理由じゃないはずだ。きっとライス自身より落ち込んでいたソラを励ますつもりで作ったに違いない。まったく、担当ウマ娘に余計な気を遣わせてどうするんだ。自分への情けなさとライスの優しさに目頭が熱くなるのをグッとこらえ、ソラは笑ってみせる。

 

「―――ありがとう、ライス。私も頑張るよっ! 絶対ライスを、すごいウマ娘にしてみせるっ!」

 

「うんっ! えっと……じゃあ、門限があるから……ライスは帰るね」

 

 ライスはまだなにか言いたそうだったが、時計を見ると慌てて部屋を出ようとする。おやすみなさい。と小さく手を振りながら扉を閉めるライスにソラも手を振りかえした。扉が閉まると、背もたれに大きく寄りかかり天井を仰ぎ、熱を持つ顔を両手で押さえバタバタともだえる。

 

 ―――ああーーーーーもう可愛すぎかよっ!! 

 

 今すぐ窓を開けてライスの可愛さを全世界に向けて叫びたい気持ちを何とかこらえる。心の栄養剤を注入され、元気いっぱいになったソラはその後、夢中で仕事に取り組んだ。

 

 

 

 ☆☆☆☆☆☆

 

 

 

「うわっ、もう真っ暗……」

 

 事務作業に没頭してしまい、気づけば時刻は深夜二時を回ろうとしていた。今夜はトレーナー室に泊まることを決め、こんなこともあろうかと用意していた寝袋をクローゼットから取り出す。服を着替えようとシャツのボタンに手をかけたところで、腹の虫が鳴った。夕食からかなり時間が経っているし、当然と言えば当然だ。最近腰回りが気になる身としてはクッキーで腹を満たすことは避けたい。仕方なく財布を手に持ち、近くのコンビニでサラダでも買おうと学園の外に出た。

 

 夜空はうっすらと雲がかかり、うすら笑いのような三日月がぼんやりと見える。最近買った新品の電動自転車を漕ぎながら、ソラは道を間違えたと後悔していた。普段コンビニに向かう道。明るいうちは気づかなかったが、街灯が少なく道沿いに並ぶ高い針葉樹が月明かりを遮っている。風が強いわけでもないのに木々はさわさわと囁くような音を立て、薄気味悪い雰囲気を放っていた。

 

「~~~ララララーラーラーラーっ! ララララーララーラーラー!」

 

 雰囲気にのまれないよう、大声で歌いながらペダルを全力で漕ぐ。その声は小さく震え、更にソラは無自覚だがかなり音痴で音が外れまくっているため、はたから見れば女性が競輪選手ばりに自転車を漕ぎながら呪いの歌を歌っているという、都市伝説になりそうな光景になっていた。しかし当の本人はそんなこともつゆ知らず、アシストのパワーも全開にしてひたすらコンビニを目指す。

 

「ララララララーララー! ララーらぁっ!!?」

 

 あと少し先の角を曲がれば到着するというところで、ソラはブレーキを強く握りしめた。そこそこのスピードで走っていた車体は急ブレーキにより後輪がすこし浮き上がる。キュキュッと甲高い音を立てて自転車が止まると、ソラは舗道の奥の茂みにおそるおそる目を向けた。

 

 間違いなく、茂みが不自然に動いた。反射的にブレーキを握ってしまったのが運のつき、いそいでペダルに足をかけた瞬間―――。

 

「―――だりゃあああああああああ!!」

 

 巨大な影が茂みから飛び出し、ミサイルよろしくソラに突進してきた。

 

「ぎょええええええええええ!!??」

 

 とても20代女性が出すものとは思えない叫び声を上げ、自転車と共にソラはひっくりかえる。影はソラの上を飛びこえると、ちょうど街灯の下に軽やかな音を立てて道路に着地した。

 

 キラキラと光を反射する長い芦毛。頭の上にある細長い耳からウマ娘であることがわかる。その影はふりむき、地面にあおむけに転がっているソラをみるとため息をついた。

 

「なぁんだソラじゃねぇか。おどかすなよ~」

 

「驚いたのはこっちよ! ってかこんな時間に何してんのよゴルシ!!」

 

 少ない街灯の光がスポットライトのように彼女に集中しているように思えるほどの存在感を放ちながら、そのウマ娘―――ゴルシことゴールドシップは、ソラに怒鳴られてなお平然とした顔で口を開く。

 

「決まってんだろ。野良ツチノコを探してるんだよ!」

 

「……は???」

 

「やつらは主にこの時間帯に活性化するんだ。そこをゴルシちゃんがドロップキックで仕留めて、動物園に売ればお金がガッポガッポ―――」

 

 ……やばい、めんどくさい時のゴルシだ。こういう場合、相手にしないほうが身のためだとソラは悟り、無言で自転車に跨る。

 

「おーいソラ。どこ行くんだよ?」

 

「コンビニ。ちょっと小腹が空いたから、なんか買ってこようかなって」

 

「マジ? そんじゃあアタシも行く! なんか奢ってくれよー!」

 

「はぁ? なんであたしが! ってかツチノコはいいの?」

 

「ツチノコ? なんだそれ。わけわかんねーこと言ってねーでレッツゴー!」

 

 横乗りで荷台に飛び乗り、前方を指さすゴールドシップ。あまりにも傍若無人な振る舞いに、しかしソラはそれ以上文句を口にすることはなく、ペダルをこぎ始めた。こういう時のゴールドシップに反抗するだけ無駄なことは、たった数ヶ月の付き合いだがソラにとって義務教育並みの常識になりつつある。ご機嫌なゴールドシップの鼻歌をBGMに、ソラは足を動かす。自然と口元が緩んでいることに、彼女は気づかない。不思議とさっきよりも道が明るく感じられた。

 

 

 




―――それは、煩わしくも心地よく……

☆次回、11月6日午前9時!


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