神よ賛えよ、我今来たる ─ウマ娘プリティーダービー─ (嵐牛)
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1話

 人間のそれとは異なる形状の耳と人間には備わっていない流麗な尾を靡かせ、1人の少女が僅かに息を乱しながら学園の廊下を駆けている。

 気品あるアイシャドウが目を惹く、凛とした麗しい顔立ちをした黒髪の少女。この学園の生徒会の一員たる彼女にしては拙速な行動のように思えるが、周囲の生徒は忙しそうだと思うだけでそれを見咎めることはない。

 なぜなら廊下の駆け足は、何の規則にも違反していないからだ。

 『()()()()()()()()()()』。

 およそ一般的な学園の校則にしては微妙に違和感のある字面だが、彼女らのような存在、とりわけこの学園に通う生徒───『走り、競う』ことを至上とする彼女らにとってそれはごく自然な文言だ。

 速やかに解決せねばならない事案が未だ解決していない。暗に全力疾走を禁じている前述の校則が足枷に感じる位には逼迫した状況下にあった。

 

 「いたか!? ブライアン!!」

 

 「いやいない! エアグルーヴそっちは!?」

 

 「こっちもだ! くそ、何という逃げ足だ。報告を聞いてからすぐに向かったというのに・・・・・・!」

 

 同じ目的で校内を走っていた、木の芽を咥えた生徒会の同輩とエントランスでかち合う。あちらも成果を得られないままだったらしい。段々と苛立ちの中に徒労感が混ざりつつあるのを感じていた時、学内のイントラネットの緊急連絡用のページに新たな書き込みが追加された。

 

 「目撃情報だ! 今度はニンジン畑だ、他の生徒と一緒に草むしりをしているらしい!」

 

 「ええい何を馴染んでいる! 会長は今どこに!?」

 

 「食堂に聞き込みに行っている、私たちが行った方が早い!」

 

 そして2人は走り出した。

 校舎の中から出た瞬間、彼女らは一気に加速した。

 学園の敷地内にある畑とはいえ、様々な訓練施設を有している学園自体がそもそも馬鹿みたいに広い。訓練したフォームと鍛え抜いた脚、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()が全力で走っても問題ないように作られた広い道を、他の生徒たちの注目を集めるのも構わず疾駆する。

 

 「私は入口から突入する、ブライアンは出口を抑えろ!」

 

 「また逃げられたらどうする!? ここまで奴が現れていない場所はどこだ!?」

 

 「後はプールだ、ここを逃したら恐らくはそこに現れる! しかしこれ以上、この学園で好き勝手に遊ばせる訳にはいかん───

 

 

 ──────()()()()()()()()()()()()!!」

 

 

     ◆

 

 

 人間とは少しだけ異なる存在───『ウマ娘』。

 時に数奇で、時に輝かしい歴史を持つ別世界の名前と共に生まれ、その魂を受け継いで走る運命を背負った少女たち。

 そしてここはそんな彼女らが他の誰よりも速くレースを駆け抜けるべく通う、"己の脚を鍛えるために日本各地に存在する学園"・・・・・・その中でも最大規模、およそ2000人超の生徒を擁する『日本ウマ娘トレーニングセンター学園』、通称『トレセン学園』。

 数多くのウマ娘が憧れ、才能を見込まれたウマ娘だけがその門戸を潜り、同じだけの数のウマ娘が夢破れて涙と共に去り─────そして一握りのウマ娘が栄光と威光を掴み取る戦場。

 己を磨き、削り、去る友を見送り、・・・・・・自らの夢を叶える脚で誰かの夢を踏みつける。

 志を同じくする友らと笑顔で謳歌する青い春に寄り添うように彼女らは闘争を日常としている。太陽の如く煌びやかな栄冠と、去る者が描いた夢の残骸。トレセン学園とは、残酷なまでに交わらないその2つを自らの内に渦巻かせ続ける光と闇の坩堝(るつぼ)である。

 

 そんなシリアスな導入をまとめて吹き飛ばすような大声が、ドップラー効果を発生させながら超高速で駆け抜けていった。

 

 「バクシンバクシンバクシーーーーーン!!!」

 

 既にセミの声がうるさい朝の8時半過ぎ。

 授業が始まるまでもう間もないこの時刻に校門を潜る生徒はいない事もないが、少なくとも今日はそういう不覚を取る生徒は彼女しかいなかったらしい。

 テストで4点というエンピツ転がした方がマシなレベルの点をもぎ取るダイナミックバカにして全生徒の模範を標榜する学級委員長・サクラバクシンオーは、マニフェスト不履行の危機に全速力で脚を回していた。

 

 「おおおおおおっ! トレーナーさんにお渡しする賞状作りで寝坊してしまうなど! 学級委員長一生の!! 不覚ッッッ!!

 ですがこの試練を背負って遅刻を回避してこそ! 私は学級委員長として更なる高みへバクシンするでしょう! 流石は! 私ッッ!! 学級委員長ッッッ!! バクシーンッッッ!!」

 

 10秒も経たない内に感情が悔恨から自画自賛に転ずる鬼のポジティブ。レースさながらの真剣な表情が満面の笑みに変わっていく様は(はた)から眺める分には非常にコミカルで面白いのだが、こういう1秒前のあれこれすら置き去る性分はやはり人を選ぶ訳で───根は真っ直ぐな彼女がクラスでへんてこりんな立ち位置にいる事を、彼女を鍛えているトレーナーは真剣に憂いている。

 なお遠くから聞こえてくるこの叫びに彼女の在籍するクラスの面々が一様に苦笑いを浮かべていた。

 既に自分の栄光を信じて疑わない彼女は、もはやレッドカーペットを歩くような心持ちで校舎へと続く道を走り─────

 

 「ちょわっっ!?」

 

 靴底を削る勢いで急ブレーキをかけた。

 視線の先にあるのは、広場の中央に立つトレセン学園の象徴でもある三女神像。それを見上げるように佇んでいる1人の少女だった。

 

 年齢は学園の高等部くらいだろうか、大きめのモッズコートを羽織った、黒いミニワンピースにデザートブーツの少女。

 頭頂付近に生えた耳とモッズコートの裾から覗く尾が、彼女もまたウマ娘である事を語っている。

 これから昼にかけて熱を上げ続ける夏の微風に鹿毛の長髪を揺らし、彼女は感慨深そうに微笑んでいた。

 

 この学園の生徒ではない。この時間に制服ではなく私服でここにいる彼女に、サクラバクシンオーは当たり前の判断を下す。

 そこからの行動は早かった。

 迷う事なく彼女に駆け寄った彼女は、いつも通り快活に語りかけた。

 

 「失礼しますっ! お客様でしょうか!?」

 

 「わあ」

 

 急に近くから聞こえた大声に、実に地味な驚き方をした鹿毛のウマ娘。

 これがドッキリの企画ならお蔵入り不可避のリアクションの後、彼女はゆったりとサクラバクシンオーの方を振り向いた。

 

 「吃驚したねえ。ここの生徒かい?」

 

 「そうですともっ! 超模範的学級委員長・サクラバクシンオーと申します! あなたは本日はどのようなご用件でいらっしゃったのでしょうか!?」

 

 「ああ、この学園がどんな所なのか見てみたくてねえ。立派な像だなあって見上げてたんさ」

 

 「そうでしょうとも! なぜならこの三女神様の像は誇りあるこの学園の象徴! この私に勝るとも劣らない生徒たちの心の支えなのですから!!」

 

 反らした胸に手を当ててバベルの塔くらい大きな事を言ったバクシンオーに、鹿毛のウマ娘は、元気な()だねえ、と目を細めて穏やかに微笑んだ。

 見た目の年齢の割には老成した反応をしていた彼女だが、続くバクシンオーの質問には僅かに目を丸くした。

 

 「ところで! 学園の見学というお話でしたが、理事長とのお話はお済みでしょうか?」

 

 「んん?」

 

 「本校の見学には情報保護の観点から、理事長との面談と許可が必要なのです。まあ学園ホームページのガイドラインなどにも書いてあるようですし、この辺の説明は無用ですかね!」

 

 ビシッ!と力強い動きと笑顔でバクシンオーは校舎の方を手で指し示す。

 

 「面談の際はご来訪の旨をエントランスの受付にお申し付け下さい! その後お許しが出れば来客用のタグを渡され、晴れてトレセン学園の見学が出来るようになりますので! その際は是非とも私があなたをご案内しましょう!」

 

 「そうかい、親切にありがとねえ。その時は是非ともお嬢さんにお願いするよ」

 

 「もちろんです! 学級委員長ですので! それでは私はこれにて失礼します!」

 

 学級委員長らしいかは分からないが、きちんと生徒の模範らしい対応が出来て上機嫌なのだろう。はっはっはっはー!と高笑いしながらシュターンシュターンと元気な歩幅で歩き去っていくが、そこで自分が遅刻寸前の身であることを思い出したらしい。「ちょわーーーーっっ!?」と悲鳴を上げながら大慌てで走り始めた。

 風すら追いつけないスピードで消えていくその背中を眺めながら、鹿毛のウマ娘は感嘆の呟きを溢す。

 

 「成程ねえ、スプリンターかい。ありゃあ大した器だ、短距離なら(ほとん)ど敵無しだろうねえ」

 

 いいものを見たと深く頷く彼女だが、やがて自分がどうにもならない問題に突き当たっている事を思い出した。

 

 「・・・・・・そうだよねえ、事前に約束しとかなきゃ駄目なのは当たり前さねぇ・・・・・・。さてどうしようか。手前勝手でもここに来て帰るなんて有り得ないし・・・・・・」

 

 うーーーーん、と空を見上げてしばし考える鹿毛のウマ娘。

 完全に無策のまま来てしまった。突然押しかけて見学させて下さいなんて真似がこの規模の組織を相手に通るとも思えない。

 しかし時間的に今から申し込んでいては間に合わない。何か解決策はないかと首を捻っていた彼女だが、やがて結論が出たらしい。

 

 「まあいいか。バレたらバレたでなるようになるさ。この季節じゃあたしの一張羅も暑いばかりだし、ついでに服も変えようかね」

 

 羽織っていたモッズコートをくるくると丸めつつ、鹿毛のウマ娘はあっさりと不法侵入を決断した。

 わーかっちゃいーるけーどやーめらーれない、と遊ぶように歌いながら彼女はバクシンオーが消えていった校舎へと向かって歩き出す。

 やかましく蝉の鳴く8月の朝。

 しばらく後に学園全てを振り回す大騒動を引き起こす元凶が今、何食わぬ顔でゲートインした。

 

 サクラバクシンオーは遅刻した。

 

 

     ◆

 

 

 授業合間の休憩時間。束の間の歓談や教室移動でざわめく学園内を、カラコロと口の中のキャンディを鳴らす男とパンツスーツ姿の女性が並んで歩いている。彼らはそれぞれこの学園でウマ娘たちのレースチームを率いている『トレーナー』だ。

 生徒たちが座学に勤しんでいる間ならトレーナーはのんびりできるというものでもない。大雑把に分けても担当ウマ娘の訓練の進め方や出場させるレースのスケジュール調整、レースの結果などの反省点のフィードバック・・・・・・細かく言えば彼女らの体調管理に栄養管理など、トレーナーが行うべき事柄は多岐に渡る。

 そんな1人分でも常人なら処理能力がパンクしそうなものを『チーム』として全員分担当する事を許されている彼らは学園内のトレーナーの中でも有数と認められた実力者なのだが、纏っている空気は随分と違っていた。

 

 「もうじき夏合宿だなあ」

 

 舌でキャンディを弄んでいた男が、隣のパンツスーツの女性にのんびりとした調子で話しかけた。

 

 「黒沼さんとこも相変わらずスパルタだし、《カノープス》だって伸び盛りみたいだし。てな訳でどう? おハナさん。《スピカ(うち)》と合同トレーニング」

 

 「馬鹿な事を言わないでちょうだい。あなた達にペースを乱されたらたまったものじゃないわ」

 

 「つれないねえ。お互いの為にもたまには協力したっていいんじゃないか? 最近じゃ《シリウス》だって一気に頭角を現してきてる。あの面子が噛み合った時の爆発力はとんでもねえぞ?」

 

 「・・・・・・あの問題児たちね。あそこまで我の強いウマ娘たちがよくチームとして成り立ったものよ・・・・・・新人なのによくまとめてるわ」

 

 おハナさんと呼ばれた女性が唸る。

 彼女の率いるチーム《リギル》は名実ともに学園のトップチームだ。合同で訓練をするといっても、生半可なメンバー相手ではペースを落とさざるを得ずチームにとっては逆効果にしかならない。

 しかし隣にいる男の率いる《スピカ》・・・・・・自由に走る事をモットーとする彼のチームメンバーの質も総じて高い。チームの方針的にメンバー間でわちゃわちゃする事も多いが、チームの空気が波に乗った時の勢いは正に飛ぶ鳥を落とす。

 そうなった《スピカ》となら自分たち相手にも一歩も退かないし、合同訓練で得られるものも多いだろう─────同じようにパワーアップを目論む他のチームもいるし、学園最強とはいえうかうかしてられない状況でもある。

 まんまと乗せられているなと自覚しつつ、女性ほやれやれと首を振った。

 

 「皆にも聞いてみるわ。ただし、うちの足を引っ張るようなら即座に解消するわよ。いいかしら」

 

 ・・・・・・返事がない。

 せっかく提案に乗ってやったのになんだと隣を見れば、そもそも男は隣にいなかった。

 どこにいるのかと周りを見れば彼がいたのは掲示板の前。

 学内の案内板を見ていた鹿毛の生徒の背後にしゃがみ込み、その脚をペタペタと触っていた。

 

 「んん?」

 

 「・・・・・・・・・・・・、・・・・・・」

 

 背後から何の断りもなく少女の脚を撫で回す成人男性。もしかしなくても事案な光景を周囲の生徒が遠巻きに眺めているが、脚を触られている当のウマ娘に気にしている様子が一切ない。

 この人は何をやっているんだろうという顔で真剣な顔で自分の脚を触る男を見下ろしている。

 思わず言葉を失っていた女性トレーナーだが、ようやく事態を飲み込んで怒鳴り声と共に男を引き剥がそうとして、

 

 「こらーーーーーーーーっ!!」

 

 「どっへぇ!?!?」

 

 別の生徒が痴漢にジョブチェンジした男性トレーナーを蹴り飛ばした。余裕で高身長の部類に収まる男の身体が軽々と宙を舞う。

 

 「トレーナーさんっ、本当にそれはやめて下さいっ! 私の時もそうでしたけどなんでまず(トモ)を触りに行くんですか!! まずは口でお願いするとかあるでしょう断られる未来しか見えませんけども!!」

 

 「だだだだだだだだっっ、スペ、悪かった、悪かったって! 折れる折れる背骨が折れるっつーの!!」

 

 スペ、と呼んだウマ娘にコブラツイストを掛けられ悲鳴を上げる男性トレーナー。ぎりぎりと軟骨か何かが軋む音がし始めた辺りでようやく彼は解放された。喘鳴と共に床に這いつくばったトレーナーを脇に放り捨て、スペ───彼女の本名『スペシャルウィーク』の愛称である───は鹿毛の生徒に深々と頭を下げた。

 

 「本当にごめんなさい! トレーナーさん悪い人ではないんですけど、その、ウマ娘の資質を見るのにまず脚を触っちゃう人で・・・・・・!!」

 

 「あー、そういう事だったんだねえ。昼間っから元気なお兄さんだと思ったよお。あたしので良けりゃあ幾らでも触ってみりゃいいさね」

 

 「ええっ!?」

 

 這いつくばったまま背中を(さす)る男性トレーナーの目の前に、鹿毛のウマ娘は鷹揚に笑いながらしゃがみ込む。

 

 「やあ助平なお兄さん。女の子に痛い目に合わされてまで触ったあたしの(トモ)はどうだったかね?」

 



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2話

 「いや別に俺はスケベって訳じゃ・・・・・・、」

 

 「? どうしたのさ、顔逸らしちゃって」

 

 「・・・・・・脚閉じろ。見えるから」

 

 ん、と男性トレーナーが指差している先を見下ろす。

 鹿毛のウマ娘の両脚の間だった。

 膝の裏にスカートを挟まず無造作にしゃがんだせいだろう、なるほど確かに隠されておくべき場所が明らかにされてしまっている。

 脚を閉じて恥じらうか或いは男性トレーナーを面罵するか、年頃の少女として取るべき選択肢はその位だろうが、彼女は悪い意味で格が違った。

 

 「何だいいきなり脚を触っといてこの程度。ほれ」

 

 「きゃーーーーーーっっ!?」

 

 言うが早いかしゃがんだまま脚を思い切り開こうとした鹿毛のウマ娘にスペシャルウィークが飛び込んできた。

 突如として開催されたお股ぱっぱか快晴レース、目ん玉ギラギラスペシャルウィークのスタートダッシュが光る。恥じらいというゲートが開ききる寸前で見事彼女の両膝を掴んで開いた脚を閉じさせた。

 

 「ななななななな何をしてるんですか!? 女の子が軽々しくそういう事しちゃダメです!!」

 

 「あっはっは、可愛いねえ。意中の(ひと)だったりしたのかい?」

 

 「いえ全然違いますが」

 

 「あ、そう・・・・・・」

 

 感情が一気に凪いでいた。活発になっていた情動が落っこちるようなスペシャルウィークの真顔に鹿毛のウマ娘もちょっと素に戻る。これについては何の罪もなかった男性トレーナーが何もしていないのにフラれた。

 ちなみに女性トレーナーの方は途中でアホ臭くなったのか既に姿を消している。

 

 「そういえば学内の地図見てましたけど、どこか分からない場所とかあったんですか?」

 

 「そうそう、図書室に行きたいんだけどねえ。今一つ場所がわからなかったんだよ。ここ広いねえ」

 

 「そうでしたか。じゃあ私が案内しましょうか?」

 

 「大丈夫大丈夫、1人で行けるよ。心配してくれてありがとねえ」

 

 礼を言いながら鹿毛のウマ娘は立ち上がり、スカートを(はた)いて皺を適当に伸ばす。

 

 「それじゃ、また会おうか。お兄さんも程々にしとくんだね」

 

 そして彼女は手を振りながら去っていった。

 鹿毛の長髪と尾を靡かせながら、()()()()()()()()()()()()()()()()軽い足取りで生徒の雑踏に消えていく。

 なんだか色々と大らかな人だったなあ、とスペシャルウィークは嵐が過ぎ去ったような心持ちでその方向を見送っていると、背骨のダメージが回復したらしい男性トレーナーがちょいちょいと自分に手招きしていた。

 何だろうと思いそちらに向かうと、彼は顔を近付けて内緒話をするトーンでスペシャルウィークに問いかけた。

 

 「スペ。あの娘とは知り合いか? 名前は?」

 

 「? いえ、初めて見ました。名前もちょっと・・・・・・。中等部では見覚えのない人でしたね。高等部の人じゃないですか?」

 

 「そうか。実は俺もあの生徒には見覚えがない」

 

 「え? ってことは転入生、って事ですか?」

 

 「多分な。そして学園の構造にも疎いあたりまだ入って日も浅いんだろう。おハナさんもノーマークみたいだったし、こいつはでけぇチャンスだぞ」

 

 バキリ、とトレーナーが口の中の飴を噛み砕く。

 彼の口元に浮かんだ笑みを見てスペシャルウィークはふと気がついた。

 脚を触った質感を堂々と口に出して品評する彼が、あの鹿毛のウマ娘の(トモ)に触れている間は一言も喋っていなかった。

 それだけ集中・・・・・・否、圧倒されていたのだ。

 己の手から伝わる、彼女のポテンシャルに。

 

 「あの娘の顔は覚えたよな? 他の奴らにもすぐに伝える。『鹿毛のウマ娘を捕まえろ』ってな。

 

 あのウマ娘────、何としても《スピカ》に加入させるぞ!!」

 

 

     ◆

 

 

 「よーマックイーン。トレーナーから連絡きた?」

 

 「来ましたわ。スカウトしたいウマ娘がいると」

 

 授業終わりのチャイムが鳴る。

 椅子に逆向きに座ったゴルシことゴールドシップが、後ろの席にいるメジロマックイーンにダラけた声で会話している。内容はもちろん、彼女らが所属するチーム《スピカ》のトレーナーから送信されてきたメッセージだ。

 

 「鹿毛のウマ娘を捕まえろ、つってもよー。そんなの学園にいくらでもいるだろ? トレーナーとスペだけ顔知ってても意味なくね?」

 

 「ですわね。私たちへの情報が大雑把すぎます。結局は顔を知っている2人と一緒に探すことになる可能性も高いでしょう」

 

 至極もっともな懸念点を口にするゴールドシップと、相変わらずどこか抜けているというか、と呆れ気味にマックイーン。

 

 「しかしそうすると急がねばなりせんね。トレーナーさんがスカウトしようという方ならば、他のトレーナーも既に目を付けているかもしれません。可及的速やかに特定しなければ」

 

 「って事は名探偵ゴルシちゃん活躍の予感!? 真実はいつも1つ? じっちゃんを熱々のご飯にかけて!? よーっし行っくぜー!」

 

 「肉親をふりかけにする名探偵は間違いなく罪を暴かれる側ですわよ」

 

 気分屋の気分が乗ったらしい。次の授業が控えている今から既に探しに行く気マンマンだった。

 自分勝手ではないが自由気ままと言うか狂気と正気の反復横跳びというか、彼女の言動はいまいち掴めない。真面目にやれば頼れる人なんだから真面目になってくれればいいのに、とマックイーンは常に思っている。

 ─────それにしても、転入生ですか。

 そういえばスペシャルウィークも転入してきたところをトレーナーに口説かれたのだったか、とマックイーンは思い出す。

 まだ開花する前の彼女の素質を一目で見抜いたトレーナーだ、その審美眼に見逃しはあるまい。それに加えてウマ娘の自由さを何よりも重んずる彼がここまで形振り構わず引き込もうとするのだ。

 純粋に興味がある。

 彼が一目で入れ上げたウマ娘がどのような人物なのか。

 そして、どのような走りを見せてくれるのか。

 

 (メッセージには『図書室に向かった』、とありましたわね)

 

 授業の合間に勧誘など出来ないが、どのみち説得するのはトレーナーなのだ、自分たちは『鹿毛のウマ娘』を探して連れてくる事のみ。

 特定の場所から見覚えのない顔を探して確認するくらいなら2人もいれば少しの時間でも充分に事足りるし、ゴールドシップ1人だと悪ければ悪質な訪問販売みたいな印象しか与えられないかもしれない。

 ならば今から向かうべきは─────

 

 「やはり図書室ですか。もう出発するつもりなのでしょう? 私も同行いたしますわ」

 

 「マック院」

 

 「誰ですのそれは」

 

 

 読むには短すぎるし借りるにも短い授業合間という時間に、図書室を訪れる者はほとんどいない。本の貸し借りを管理する図書委員会とて授業を受けている身なのだ。始業前や昼休憩、放課後以外の時間は図書室は基本的に無人である。

 故にいま図書室で本のページをめくっているのは、今朝方にスペシャルウィークらとわちゃわちゃしていた鹿毛のウマ娘だけだった。

 彼女が手にしているのは長らく誰の手にも取られていないだろう、表紙の煤けた分厚いハードカバー。

 本棚の片隅にそこそこのスペースを陣取っている、トレセン学園の歴史を綴った学園史の一冊だ。

 歴代の理事長や生徒会長、その頃のトレセン学園の様子や実績───重賞レースを勝利した当時のウマ娘の名前など───が綴られたページをぱらぱらとめくり、ある1項目でページを止めた。

 そこに書かれている当時の生徒会長の名前、および生徒会長や当時のウマ娘が残した実績にじっと目を通していく。

 

 「・・・・・・ふふ」

 

 少しだけ微笑んで彼女はハードカバーを本棚に戻す。

 次に手に取ったのは同じく学園史。目立った劣化のない、編纂された学園史の中では1番最近の歴史を記したものだ。

 彼女は手に取った最新の学園史に書いてある内容の殆どを飛ばし、いきなり最後の方に近い場所を開く。

 しばし文章を目でなぞっていた彼女だが、お目当ての記述が無かったのか嘆息しつつ本を閉じた。

 

 「流石に最近すぎて載ってないねえ。あわよくばどんな走りをしたか知りたかったんだけども・・・・・・」

 

 「会長のレースなら視聴覚室でDVD借りた方が早えーぞ」

 

 「わあ」

 

 ぬっ、と視界の横から顔が伸びてきた。

 何の脈絡もなく下から顔を覗き込んできた芦毛のウマ娘に僅かに仰け反るが、やはりリアクションの強度は薄い。

 いったい何だろうと振り向いてみれば、その後ろにもう1人、呆れ顔をしている同じく芦毛のウマ娘がいた。彼女は依然として鹿毛のウマ娘の顔を覗き続けているウマ娘を引き剥がし、申し訳なさそうに頭を下げる。

 

 「貴女、もう少し初対面なりの接し方というものがありますでしょう。突然申し訳ありません、この方は言動が少々ゴールドシップでして」

 

 「まずゴールドシップとやらの説明が欲しいねえ」

 

 「・・・・・・あれ、アタシが少々ゴルシって事は大部分ゴルシな奴が別にいる? なら今ここにいるアタシは一体・・・・・・?」

 

 「ああもうっ、アイデンティティはしっかり保って下さいませ! それよりもやるべき事があるでしょう!」

 

 分かってる分かってる、とやはり返事が適当な長身の芦毛。

 何だか分からないけれど仲良しなんだねえ、とそのやり取りを鹿毛のウマ娘が微笑ましそうに見ていると、顔を覗き込んでいた長身の芦毛は、自分とお淑やかな方の芦毛を指差して問いかけてきた。

 

 「アタシはゴールドシップ。こっちはメジロマックイーン。あんたのお名前何てーの?」

 

 

      ◆

 

 

 副会長・『女帝』エアグルーヴ。

 同じく副会長・『怪物』ナリタブライアン。

 そしてこの双璧の上に立つ生徒会長───『皇帝』シンボリルドルフ。

 理事長から学園の運営の一部すら任される彼女ら生徒会は、学園内の立ち位置で考えれば最も最高権力に近い場所。

 そこに身を置くに相応しい気位と実力を兼ね備えた3人には、並の生徒なら前に立つだけでガチガチに固まるほど弛みを許さない何かがある。

 覚悟とは何ぞや。そんな言外の問い掛けすら感じるこの傑物たちを気軽に遊びに誘う強者が、学園内に1人だけ存在した。

 

 「やっほーカイチョー! 一緒にごはん食べに行こー!」

 

 「ふふ。今日も元気だな、テイオー。愉快活発とはこの事だ」

 

 昼休憩、昼食の時間。

 弾むようにステップしながら駆け寄ってくる彼女に、シンボリルドルフは柔らかく笑う。

 その1人とはゴールドシップやメジロマックイーン、そしてスペシャルウィークと同じチーム《スピカ》が1人、トウカイテイオーである。

 彼女はトレセン学園入学前からシンボリルドルフに憧れ続けており、ルドルフもまたそんな彼女には何だかんだ甘い。

 かと言って同じ条件下で同じ真似が出来るかと言われれば大部分が否と答えるだろう。彼女の場合は生徒会室にまで遊びに来る事すらもはや日常で、ナリタブライアンに至ってはソファに寝そべったまま目線すらくれない。

 子犬みたいに尻尾を振る合間に挟まるテイオーと微笑ましげなルドルフの歓談はしばし続き、そろそろカフェテリアに向かおうとしていた時、テイオーの口からその話題は飛び出してきた。

 

 「それでねー。うちのトレーナーが新しくチームにスカウトしたい娘がいるんだって」

 

 「・・・・・・ほう?」

 

 その話題にルドルフの目の色が変わる。

 彼女の所属は学園内最強チーム《リギル》。テイオーの属する《スピカ》はライバル関係にあたる。

 ましてゴールドシップ1人しか在籍していない名ばかりチームから始まり次々と有望なウマ娘を引き入れ、その全てを開花させてきたあのトレーナーが戦力の追加を名指しで決定したのだ。警戒と興味が沸き立つのは自然というもの。

 そんな臨戦態勢とも言える彼女に一切怯まないのはテイオーの器量だろうか。ちょっと待ってね、と彼女はスマホを操作し、メッセージと共に送られてきた写真をルドルフに見せる。

 

 「鹿毛の娘だったよ。ゴールドシップからメッセージが来たんだけど、『マツカゼ』って名前なんだって。みんな見覚えのない娘だから転入生だろうって思ってるんだけど」

 

 カイチョー知ってる? と。

 ルドルフに見せた写真は、図書室にいた3人でのいわゆる自撮りというものだった。

 ゴールドシップが鹿毛のウマ娘───マツカゼの鼻の穴に指を突っ込もうとしたところをマックイーンに強めに阻止され、自らの指で自分の目を突く事になり悲鳴を上げているシーンだ。

 真顔で下手人の腕を掴むマックイーンと痛みで暴れて写りがブレまくっているゴールドシップの間に、マツカゼがきょとんとした顔で挟まっている。

 こんなIQ(アイキュー)の低い背景を7行にも渡って解説した気力を褒めて頂きたいところだが、残念ながら生徒会長が見ているのはそんな面白愉快な状況ではない。

 ルドルフは芦毛の2人に挟まれている鹿毛のウマ娘(マツカゼ)を、じっと見つめていた。

 

 「・・・・・・カイチョー? どうしたの?」

 

 「すまないテイオー、カフェテリアには先に行っていてくれ。私は少し確認する事が出来てしまった」

 

 「ええーっ!?」

 

 ぶーたれるテイオーに若干の後ろ髪を引かれつつ、ルドルフは彼女に踵を返す。

 『彼女は誰か』。あるいは『()所為(せい)か』。

 その胸に抱えた疑念と既視感の両方を明確にするべく、ルドルフは生徒会室へと早足で歩き去っていった。



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3話

 ナリタブライアン引けました!


 人間の少女と変わらない姿で人類を遥か後方に置き去るフィジカルを持つウマ娘。なおかつそれを常時フル稼働させている競争バというものは概して体格の割に大食らいだ。

 生徒によっては競争バ基準で爆盛り数人前プラス大鍋一杯の料理を前にして「足りるだろうか」と口にするエンゲル係数青天井の食費を学生の身で賄うのは到底不可能なため、トレセン学園のカフェテリアは基本無料となっている。

 溢れ返る健啖家たち相手にそれを可能にしているのは理事長の生徒らの学ぶ環境を最優先にする方針と、彼女らの人気を巧く収益に導く手腕の賜物だろう。

 そんな誰か1人のおかげではない思いやりの食卓に、例の鹿毛のウマ娘もご相伴に与っていた。

 

 「いやあ、品数もいっぱいだねえ。味もいいし店構えも()()()だし。こりゃ花丸満点だあ」

 

 「()()()・・・・・・? 方言?」

 

 「そんなとこだねえ」

 

 目を細めて幸せそうにどんぶり超山盛りの肉じゃがと超山盛りの白米を頬張るマツカゼはひどく雑な答え方をした。

 長い髪で片目を隠した黒鹿毛、ライスシャワー。カフェテリアに昼食をとりに来た彼女は注文のシステムが分からず右往左往しているマツカゼを発見。ライスシャワーから注文の方法を教えてもらい無事お腹の糧を手に入れたマツカゼは、そのお礼ついでにライスと同じテーブルで食事にありついていた。

 やはり見た目には到底合わない量を皿に盛っているマツカゼもそうだが、小柄なライスシャワーも例に漏れず超大盛りのハンバーグをザクザクと切り崩していく様は圧巻の一言である。

 

 「いやあ、ライスちゃんありがとねえ。ライスちゃんがいなきゃあたしゃお腹鳴らして膝抱えてるしかなかったよお」

 

 「う、ううん。お礼を言われるような事なんて何も・・・・・・。転入したばかりじゃ分からない事も多いよね。何か他にも知りたい事、あるかな? ライス、力になれたら嬉しいな」

 

 それじゃあ遠慮なく、とマツカゼは知りたかった事全てを質問した。ゴールドシップに言われた視聴覚室の使い方やこの学園の訓練設備、校舎裏に広大なニンジン農園があることなど。一通り知りたい事を知れた後の会話は、何より量が求められるぶん煮魚などの一品料理はメニューに並びにくいなど取り留めもない雑談に切り替わる。

 

 「しかしこの季節はどうしたって苦手さね。体質的に少食な娘もいるみたいだけど、やっぱ身体は丈夫にしとかなきゃ駄目だよお。あたし一回すごい夏負けしちゃってねえ、出ようとしてたレース見送っちまった事あんのさ」

 

 「えっ、そうなんだ・・・・・・。身体は大丈夫だった・・・・・・?」

 

 「身体は大丈夫だったけども、いや本当迂闊だったねえ。あたしもトレーナーさんも。応援してくれてる人みーんなガッカリさせちまって、ああいうポカは1度でもやっちゃ駄目なやつさ」

 

 「・・・・・・・・・・・・、」

 

 その時の無念を思い返しているらしいマツカゼの萎えきった口調に、ライスシャワーが少しだけ俯く。

 俯いたといっても変化としては目を伏せたくらいのものだったが、マツカゼはそれを見逃さなかった。

 聞こえてきたからだ。

 周囲の喧騒に紛れて微かに漏れた────"凄いなあ"、というライスシャワーの羨望の呟きが。

 

 「どしたの、ライスちゃん。あたし何か変な事言っちゃったかねえ」

 

 「あっ、う、ううん。・・・・・・何でもないの」

 

 「引っかかるんだよ。いま話したのあたしにとっちゃ結構な大ポカだからさ、それを凄いって言われるとちょっとね」

 

 聞かれていた。

 思わず漏れてしまった自分の呟きが相手への配慮に欠けていたものだったことを理解したライスがびくりと震える。

 第一印象以上に気弱な様子にマツカゼは「いや意地の悪い言い方しちまったね」と手刀を切り、ライスが「ごめんなさい」と謝る前にその続きを切り出した。

 

 「力になれるかは分かんないけど、何かあるなら教えとくれよ。暗い顔ってのは生来から好きじゃないのさ」

 

 僅かに逡巡するライスシャワー。

 マツカゼが語った失敗も勿論だが、彼女がそれを羨んだ理由も相応に重たいのだ。普通ならほぼ初対面の相手に軽々しく話すようなものではない。

 ただしそれを謝罪を遮られてから求められれば別だ。相手に対する負い目が、求められたことを謝罪の代替として口にするだろう。

 それがマツカゼの策だったのかどうかは分からない。

 しかしライスシャワーはその通りに、ぽつりぽつりと自分の過去を話し始めた。

 

 「・・・・・・ライスね。どうしても勝ちたい人がいたの」

 

 「うんうん」

 

 「トレーナーさんも皆も応援してくれて、頑張って頑張って、その人に勝てたんだ。・・・・・・だけど、喜んではもらえなくて」

 

 ぎゅっ、とライスシャワーは制服のスカートを握り締める。

 

 「あっ、も、勿論トレーナーさん達は喜んでくれたよ? ・・・・・・でも、みんなその人が勝って凄い記録を残すところを見に来てて、ライスが勝つ事を望んでる人なんて誰もいなくて。ライスが勝って、みんなガッカリしてたんだ。

 だからね。そんなふうに走るところが見れなくてガッカリしてもらえるのって、その、凄いなあ、って・・・・・・」

 

 ・・・・・・・・・、と。

 悲しそうに笑うライスシャワーをマツカゼはじっと見つめていた。

 追いかけてきた背中を追い越せた喜びと、それを望まれていなかった事を知った時。

 その寂しさや悲しみは、味わっていないものにとっては分からないような孤独だっただろう。

 『落ち込むことないよ』。『勝ったんだから胸を張ろうよ』。彼女の話を聞いた者はおおよそこのような同情的な慰めの言葉を口にするだろうし、事実マツカゼも直後に同じような事を言った。

 ただし。

 それは傷を()(さす)る手のひらではなく、患部を丸ごと切り落とす刃である。

 

 「話は分かったけども。何でそれでライスちゃんが落ち込むのかね」

 

 どすん、と。

 気遣う色など欠片も滲まない、まるで突き刺すような率直さでマツカゼはそう言った。

 

 「応援してる側の気持ちはともかくとして、なんで勝った側が肩を落とさなきゃならないんだい。どっちが悪いのかを言うならそんなの、そこまでの期待に応えられなかったあちらさんが悪いじゃないか」

 

 「ぶっ、ブルボンさんは何も・・・・・・!!」

 

 「じゃあ『勝った私が悪い』とでも言うのかい? それこそ負かした相手に対して無礼極まる台詞だと思うがねえ」

 

 「っ・・・・・・!」

 

 言い終わる前に切り返されライスが言葉を詰まらせる。

 粗暴な物言いだ。首を縦には振りづらい。

 ─────振りづらいが、()()()

 マツカゼはどんぶりに残っていたものを一気に掻き込み、乱暴に器をテーブルに置く。さっきまで美味い美味いと褒めていた料理を話の邪魔だと言わんばかりに片付けた彼女は、睨むような強さでライスシャワーを見据えた。

 

 「いいかい、()()()()()。簡単な話さ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 その『勝ちたかった人』とやらを何度でも負かせ。ため息まで追い風にして走れ。

 そうしたら周りが勝手に変わる。

 見るべき相手を間違えましたと、頼みもしねえのに向こうが勝手に───手前(てめえ)(めくら)を詫びに来る」

 

 ごくり、と喉から音が鳴る。

 それが自分が唾を飲み込んだ音だとライスシャワーは気付かない。

 注意をそこから逸らす事を許さない圧力の(もと)、マツカゼの言葉は深々とライスシャワーの胸に突き刺さった。

 

 

 「だから胸を張れ。勝ちを誇れ。なりたい自分に成るのなら。───悄気(しょげ)た背中に、陽は昇らねえのさ」

 

 

 その時、ライスシャワーは確かに呼吸を忘れた。

 マツカゼのそれはある種の理想論だ。

 心の葛藤や繊細な機微など度外視。ただただ前へ征く事のみを至上とした、純度極まる強者の理論。

 ───だからこそ、惹かれる。

 テレビの中のヒーローやお姫様に憧れる子供のように・・・・・・否、今の自分だからこそ。努力を重ねて勝利を掴み、1着の座に立つ悦びを知っているからこそ。

 だが彼女をマツカゼに釘付けたのは言葉の強さとか正しさとか、そういう理屈めいたものではない。

 胸ぐら掴んで引き寄せて、瞳から直接煮え滾る炎を燃え移らせてくるような───、マツカゼの目には、そんな問答無用に圧倒してくる何かがあった。

 

 「ら、・・・・・・ライス、は・・・・・・」

 

 「失礼するよ」

 

 「ひゃあっ!?」

 

 突然の横槍。

 惹きつけられていた意識を急激に引き戻されたライスシャワーが素っ頓狂な声を上げる。

 椅子から小さく跳ねる勢いで硬直した彼女は、慌てて呼びかけてきた方を振り向いた。

 

 「えっ・・・・・・あ、会長さん?」

 

 「すまない、驚かせてしまったな。昼食中すまないが、轍鮒之急(てっぷのきゅう)というものでね。そちらのマツカゼさんに用があるんだ」

 

 2色の鹿毛に一房の白銀の三日月。

 言わずと知れた生徒会長、シンボリルドルフだ。

 目線を向けられたマツカゼは気さくに笑う。にこやかに弧を描く眦にはもうさっきまでの狂熱はない。サクラバクシンオーやさっきまでライスシャワーと会話していた時の、穏やかな表情だ。

 

 「やあ会長さん。あたしに何か用かねえ?」

 

 「なに、特に難しい要件ではない。君はどこから来たんだ?」

 

 「自分の家からだねえ」

 

 「ふむ、では質問を変えようか。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 ぴたり、とその場の空気が止まる。

 戸惑ったのはライスシャワーだ。トレセン学園の制服を着ている理由なんてトレセン学園の生徒だからに決まっている。

 困惑してルドルフとマツカゼを交互に見るライス。そしてマツカゼはルドルフに対して、よよよ、と芝居がかった仕草で泣き真似をしてみせた。

 

 「うう、あんまりだよう会長さん。あたしだってこの学園の生徒なのに。あんなにきらきらした目で入学式にいたあたしを忘れてるなんて・・・・・・」

 

 「えっ? さっき転入してきたばかりだって・・・・・・」

 

 「あ」

 

 普通に語るに落ちていた。

 ライスシャワーの指摘に今度はマツカゼの動きが止まる。

 もはや不法侵入を白状したも同然ではあるが、そこからさらにシンボリルドルフが畳み掛けてきた。

 

 「私の知る限り転入手続きは来ていない。それに情報提供もあってね。念の為に全生徒の履歴書を確認してみたが、『マツカゼ』という生徒はどこにも存在しなかった」

 

 「ええー、見落としただけじゃないかい? だってこの学園の生徒数2000人超えてるんだよ? この短い時間じゃザッと見るのが限界だろ? それで確認しましたっていうのは・・・・・・」

 

 「顔写真を少し見れば充分だ。自慢ではないがね、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 「・・・・・・・・・・・・あらぁ」

 

 逃げ場なし。

 ゴール板まで残り200メートル地点で差されたのにもう脚が残っていない。

 この後に及んでもまだ動揺する気配がないのは凄まじい図太さだが、流石に往生際が悪すぎた。もはや勝利の女神も(チュゥ)するしかないどん詰まりを、マツカゼはコメくいたそうな顔で誤魔化そうとしている。

 これ以上の弁明はない。

 そう判断したルドルフは『侵入者』に対して通告を行なった。

 

 「詳しい話を聞かせてもらおう。生徒会室まで───」

 

 「ちょいちょいちょいちょーーーーーーい!!!」

 

 元気な叫び声が響いてきた。

 思わずルドルフとライスがそちらを見るが、その叫びはルドルフを制止するものではなかった。2人が見た叫びの発生源には、2人の芦毛のウマ娘がいる。

 

 「待て待て待てオグリンそれ精霊馬(しょうりょうま)や、タコさんウィンナー的なアレやない!! 食うたらあかん皿から戻せ!!」

 

 「むっ、確かに言われてみれば・・・・・。しかし、一度お皿に乗せたものを戻すのは行儀が悪くないだろうか?」

 

 「気にせんでええわ別に料理じゃないんやから! そっとしといたれ、ご先祖様の帰りの足食ってどうすんねん!!」

 

 オグリキャップとタマモクロスだった。

 何ら事件性のある何かではない。相変わらずのツッコミと天然ボケ、いつも通りの噛み合い方でいつも通りの騒がしさだ。

 やれやれ、とルドルフは仕方無さそうに笑い、改めてマツカゼを生徒会室まで連行しようと向き直り─────

 

 そこには誰もいなかった。

 

 「なっ・・・・・・、どこへ行った!?」

 

 「ええっ!? い、今の今までここに・・・・・・」

 

 「しまった、油断したか・・・・・・! 仕方ない、エアグルーヴとブライアンにも応援を頼まなければ!」

 

 歯噛みしつつルドルフはスマホを取り出し、呼び出しボタンをタップする。そうしながら向かう先は理事長室だ。

 この学園において生徒会の持つ権限は強い。

 しかしこの件は自分たちの判断のみではなく、学園のトップにも対応の方針を仰がねばならない。

 『学園の生徒を装った侵入者』。

 それはトレセン学園における有事の中でも、特に厳戒態勢を敷くべき緊急事態なのだから。



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4話

 トレセン学園は寮制の学園だ。

 生徒の全てを丸ごと預かる立場として、学園での生活に十全の信頼を預けられるためにあらゆる手立てを講じなければならない。

 特に例外なく見目麗しい容姿を持つウマ娘、その中でもアイドル的な側面で衆目の目を惹く競走バともなれば、『美人の宿命』だの『有名税』だのといった言葉は使いたくないが・・・・・・その手の下世話な矢印を向けられることは少なくない。

 新聞記者の無茶な付き纏い取材やゴシップ記者の無断潜入、あるいは個人的なストーカー。

 過去実際に発生したこともあるこれらの事案に、トレセン学園は過剰とすら言われるくらい強硬な姿勢を取り続けている。

 直近の事件を言えば、活躍しているウマ娘たちが好いた異性にどのくらい執着するかを憶測と妄想と共に書き殴った記事を載せた三流ゴシップ誌・・・・・・付き纏いも不法侵入もしては来なかった出版社に本気の厳重注意を勧告した、と言えば学園がどれだけ神経質になっている問題かは理解できるだろう。

 そこにおいて発生した『生徒に変装した侵入者』。

 今この瞬間にマツカゼは、学園トップの警戒アラートを最大限まで引き上げたのである。

 

 「緊急ですまないが要件は以上だ! 我々生徒会はこのまま捜索を開始、私はまず理事長とたづなさんに連絡を取る!」

 

 『分かりました! しかし2人は今日スポンサーとの折衝で外出しています、すぐに動ける者は我々しかいません!』

 

 「くっ、そうだったな・・・・・・! しかし生徒たちの不安を煽る訳にはいかん、極力私たちだけで何とかするしかない! 2人が帰ってくるまでに確保するぞ!」

 

 ・・・・・・とはいえ、どうやらまだ彼女には運があったらしい。理事長室に向かおうとしていた足の目的をそのままマツカゼの捜索に変更する。

 逃げる生徒を追いかけさせたら学園一の理事長秘書が不在、そして単純に人手の減少。

 期せずしてセキュリティレベルが下がっていた学園を相手にしたマツカゼ対生徒会の鬼ごっこが、いま幕を開けた。

 

 (しかし───)

 

 シンボリルドルフは1度見た顔を忘れない。

 故にテイオーにマツカゼの写真を見せられてから感じた既視感は、在校生のリストに彼女の顔がなかったのを確認してから勘違いであると結論づけようとした。

 だが、実際に目の前にするとどうしてもそう言い切る事が出来なくなってしまった。

 一目見た時に芽生えた疑念が、ずっと胸の奥につかえたように残り続けている。

 手元に目を落とし、携帯電話の画面を見る。そこにあるのはトウカイテイオーに送信してもらった、ゴールドシップやマックイーンと共に写っているマツカゼの写真だ。

 

 (・・・・・問い正さねばな。彼女が何者なのかを)

 

 彼女に感じた既視感を抱いたまま、シンボリルドルフはマツカゼ確保に自分の目的を1つ付け加える。

 自分とすれ違う生徒たちの顔を確認しつつ、彼女は学園の廊下を静かに駆け抜けていった。

 

 

     ◆

 

 

 ライスシャワーに聞かなければまず機械の使い方がチンプンカンプンだっただろう。『でぃーぶいでぃーってどうやって見るんだい?』と尋ねたら割と驚かれたが、しかしいざ聞いてみたらビデオテープとそう変わらない。四角が丸になっただけで随分小さくなるんだねえと感心しながらディスクをセットしたのはこれで何枚目か。

 薄暗い部屋の中イスではなく机に腰掛けたマツカゼの(かたわら)にはケースが積み上がり、目の前のスクリーンは煌々と輝く。

 彼女の目には今、競争バの歴史が塗り替えられた瞬間の記録が再生されていた。

 

 『シンボリルドルフやはり強い! 3馬身4馬身、後続を引き離す─────ゴールイン! シンボリルドルフ圧勝致しました!! 有記念優勝、シンボリルドルフ七冠達成! 前人未到の偉業! 我々は今、歴史的な瞬間を目撃しています!!』

 

 スピーカーから響いてくる観客の叫び。

 割れんばかりの歓声を浴びながら、高貴な意匠の深緑の『勝負服』を纏った彼女は微笑みと共に観客に手を振っている。

 

 「んん」

 

 マツカゼが見ていたのはこれまでのレースの映像だ。

 古いものはビデオテープの時代からGI・GII・GIIIの順に格式高い重賞レースの、特にGIレースをピックアップして過去から遡るように再生していき、そして今。現生徒会長が歴史的快挙を成し遂げた瞬間を、マツカゼは口角を持ち上げながらじっと見つめていた。

 

 「んー。ふふふ」

 

 深い笑みだ。しかし歯は見せない。吊り上がった口角に押された双眸が笑みに似た形に細まるが、そこに宿るのは鼠を見つけた猫の好奇心。

 これが映像記録ではなくリアルタイムでの観戦だったなら、もしかしたらルドルフは殺意に反応して振り向くというコミックのような経験をしたかもしれない。

 口の動きだけなら笑っているマツカゼの表情は、完全に鬼の(たぐい)だった。

 

 「いいね。いいじゃないか。いいもんを見た。ライスちゃんとゴールドシップちゃんには感謝だねえ」

 

 マツカゼは肩を揺らしながら停止ボタンを押し、ディスクを取り出す。

 余韻に浸りつつそれをケースにしまう時、自分の周りに散らかった映像記録媒体たちを見て少しだけ現実に引き戻された。

 一本ずつ片付けながら見ればよかったと若干後悔しながら片付けている時、ふとそれは目に映った。

 ────ああ、レース後の舞台かい。

 ケースの背中に書かれた文字を見てマツカゼはそう悟った。

 もっともそれは生徒たちがレース後のウイニングライブの練習に使うためにコーチが踊っている映像で、実際のライブの様子を映したものではないのだが。

 『先頭プライド』や『winning the soul』、『本能スピード』といった曲名がケースの背中に並んでいる。

 馴染みのない響きのタイトルをしばし眺めていたマツカゼだが、そこでよく分からない文字列を見つけた。

 

 「・・・・・・『うまぴょい伝説』?」

 

 馴染みのない響きのタイトルの中でも一際(ひときわ)わからない。

 「うまぴょい」? 「ぴょい」とは?

 このまま放置すれば今後ずっと頭の片隅に残り続ける疑問が発生することを確信したマツカゼは、そのディスクを手に取ってプレイヤーの中に挿入。

 ───位置について、よーい、ドン!

 謎を解き明かすべく再生ボタンを押すと、そんな前振りのような文句の後、コーチたちのダンスと共にその曲は流れ始めた。

 

 『うーーーーー(うまだっち!)』

 

 「!」

 

 『うーーーーー(うまぴょい! うまぴょい!)』

 

 「??」

 

 『うーー(すきだっち!)うーー(うまぽい!)』

 

 「・・・・・・・・・・・・、」

 

 『うまうまうみゃうみゃ 3 2 1 Fight!!』

 

 

 

 

 「疲れてるんだねえ」

 

 映像が終わり停止したスクリーンの前。

 マツカゼは、至極(しごく)真面目な顔でそう頷いた。

 

 

     ◆

 

 

 『どうだブライアン、奴は視聴覚室にいたか!?』

 

 「いや、確保に失敗した! 目撃情報どおりに使用された形跡はあるが既にもぬけの殻だった! とっくの前にどこかに移動している!」

 

 『クソッ、遅かったか!』

 

 

     ◆

 

 

 走る速度。スタミナやパワー。あるいは勝負所の粘り強さやレース運びなどの知識。

 ウマ娘たちがレースで勝つために鍛えなければならないものとその方法は多岐に渡るが、粘り強さを鍛える代表的なトレーニングとして『タイヤ引き』というものがある。

 

 「幸せはー、歩いてこーない、だーから歩いてゆーくんーだねえー」

 

 文字通り『身体に括り付けたタイヤを引っ張る』訓練だが、用いられるタイヤのサイズが尋常ではない。

 直径およそ4メートル、幅は1,4メートル。重量に至っては5トンを超える。

 人間の何倍もの膂力を有し、特に足腰に秀でたウマ娘の中でも更に鍛えている彼女らが、()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()

 

 「いーちにーち1歩、みーっかで3歩、さーんぽ進んで2歩下ーがるー」

 

 呑気そうな歌声が響く。

 トレーニングの掛け声などで騒がしいはずのグラウンドは、その周囲だけ異様に静まり返っていた。

 そこにいる全員が息を呑んでそれを見つめている。

 視線の中心にいるのは───見慣れない鹿毛のウマ娘。

 

 「じーんせーいはワン・ツー・パンチ、汗かーきベソかーき歩こうよー」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 さては重厚なのは見た目だけでメチャクチャ軽いのではないかと疑いたくなるが、タイヤが地面に刻む(わだち)の深さがそれを否定する。

 汗こそかいているがその表情は涼やかで、腰とタイヤを結ぶロープがピンと張り詰めているのが逆に滑稽に思えた。

 スタート地点から50メートルほど歩いた所で停止し、マツカゼは一息()きつつ額の汗を腕で拭う。

 

 「ふいー、いい運動だねえ。訓練じゃ車輌引いてたけど、()()がないとやっぱ負荷が違う」

 

 「す、す、す、・・・・・・っ」

 

 テンパって震えた声が近づいてくる。

 元々自分が訓練で使っていたタイヤを、あたしにもやらせておくれようとごねるマツカゼに貸し与えたウマ娘だ。

 左耳についた金色の耳飾りと同じくらいその瞳を輝かせ、後ろに括った髪を揺らしながらそのウマ娘は歓声を弾ませた。

 

 「すっげーーーーー!! そのタイヤそんな余裕で引いてる奴初めてみたぜ!? なあなあどういうトレーニングしてんだ!?」

 

 「うーん、秘訣は強く生まれる事だねえ」

 

 「かっけぇーーーーー!!」

 

 「いやアンタ、かっけーじゃないわよ。確かにとんでもない足腰だけど、まずそこじゃないでしょ」

 

 呆れたような声が近付いてくる。声の主は頭にティアラをつけた八重歯のウマ娘だ。

 ボリュームのあるツインテールを揺らし、彼女は少し胡散臭そうな目線をマツカゼに向ける。

 

 「あなたはどこのクラスの方ですか? 強かったり目立ってる生徒はチェックしてますけど、知る限りこういう事が出来る方に少し見覚えがなくて」

 

 「ああ、知らないのも無理ないねえ。あたし転入してきたんだよ。マツカゼってんだ、よろしくねえ」

 

 「おう! 俺はウオッカだ! こっちの優等生のフリしてんのはダイワスカーレット! よろしくな!」

 

 「余計なこと言ってんじゃないわよ!!」

 

 秒で顔の皮を剥がされたスカーレットがウオッカに食ってかかる。

 たった今まで注目していた存在も忘れて額と額を擦り合わせる2人を見て、マツカゼは懐かしむような面持ちでうんうんと頷く。

 

 「そっかそっか。2人は『らいばる』なんだねえ」

 

 「「誰がこんな奴と!!」」

 

 「やっぱりねえ」

 

 「「ハモってくるな!!」」

 

 またもマツカゼを放り出して取っ組み合いを始めたスカーレットとウオッカ。どちらも負けん気が強い性格のようで、何というかどちらかがどちらかを転ばすまで終わらない気がする。顔が紅潮するほどの力で手四つで睨み合う2人の間にマツカゼは挟まりにいった。

 

 「ちょいちょいお二人さん。元気なところを見れるのは眼福だけどねえ。今日だけその仲良しにあたしも混ぜてくれないかねえ」

 

 「?」

 

 「()()()()()()()()()()()。放課後の訓練の終わり際に1回でいいからさ。どうだい?」

 

 「ええ、それは全然構いませんけど・・・・・・」

 

 「おう、いいぜ! 楽しみだ!」

 

 「ようし決まりだ。ありがとねえ、ガッカリはさせないよ」

 

 それじゃまたここでねえ、と()()()()()()()()()()()()()()マツカゼは手を振りながら歩き去っていく。()()()()()()()()と重苦しい音を鳴らしながら小さくなっていく背中を見るスカーレットとウオッカの表情には少なくない緊迫があった。

 この畏怖を敵に悟られてはならない───本来レースの中でのみ働く心理がさっきまでの彼女らに笑顔を貼り付けさせていたのだ。

 唾まで飲み込むかという面持ちの中、どちらともなく口を開く。

 

 「ねえ。アンタ気付いてる?」

 

 「当たり前だろ」

 

 ちらりと2人は目線を下にやる。

 彼女が見ているのはマツカゼが履いているシューズ。より正確に言うのなら、彼女のシューズの底に取り付けられている蹄鉄だ。

 歩いているだけの僅かな高さの上下運動だったが、地面と接触した彼女の蹄鉄は()()()()と音を鳴らす。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 脚力上昇のために重い材質で作られたトレーニング用の蹄鉄は存在するが、それでもあんな音は鳴らない。

 普通のウマ娘が装着したら故障を誘発するレベルの、見るからに訓練用としても不適切な代物だった。

 

 「彼女、あんな重りを着けてあのタイヤを引き摺ってたのよ。その前はウサギ跳びもしてたし、足腰もそうだけどスタミナが異常だわ」

 

 「ああ。しかもそんだけの運動をしておいて息が乱れてねえ。・・・・・・ずっと昔から()()だったんだ。アイツにとっちゃ、あの負荷と運動は慣れっこだって事なんだろ。

 トレーニング後の併走。本気のレースのつもりでやらなきゃ、逆にガッカリさせる事になっちまうかもな」

 

 「冗談。手を抜くなんて元からありえないわ」

 

 言われるまでもなかった。

 今まで存在すら知らなかった強者との邂逅は、何よりも切磋琢磨を旨とする彼女らを大いに沸き立たせる。

 彼女は一体どんな走りを見せてくれるのか? そして自分はそれに対して、どんな走りができるのか?

 よもやトレーニングで味わうとは思わなかった武者震いを感じていた時、ふとウオッカが怪訝な顔をした。

 

 「ところでさぁ。俺なんか忘れてるような・・・・・・」

 

 「奇遇ね。実はアタシも・・・・・・」

 

 胸に生じたモヤモヤにしばし頭を捻る2人。

 やがて彼女らはその正体に行き当たった。

 ハッと目を見開き、ウオッカとスカーレットは互いに顔を見合わせて同時に叫んだ。

 

 「「トレーナーの言ってた転入生!!」」

 

 

 

 

 

 「やあ。少しいいかな?」

 

 あちこちでトレーニングに精を出すウマ娘を眺めながらマツカゼがグラウンドを去ろうとしていた時、その背中から声を掛けられた。

 振り返ってみればそこにいたのは背の高い、ジャージの上からでもわかる抜群のプロポーションをした青鹿毛のウマ娘がいる。

 

 「どうしたんだい? 今は体育の授業中だけど、体調でも悪いのかな」

 

 「そうそう少し気分が悪くなっちゃってねえ、日陰で休もうとしてたんさ。どうにもこの季節は苦手でねえ。ところでそちらは───」

 

 「フジキセキだよ。()()()()マツカゼさん」

 

 「ありゃ、あたしを知ってんのかい。転入してきたばかりなのに」

 

 「ああ、チームメイトの生徒会長から写真付きで連絡があってね。随分と剣呑な内容だったよ。何でも───『マツカゼという名前のウマ娘が転入生を偽って侵入している』、とか」

 

 「あらぁ・・・・・・」

 

 もう最初から逃げ場がなかった。

 フジキセキはやはり微塵の動揺もせずコメくいたそうな顔をするだけのマツカゼに歩み寄り、(うやうや)しくその手を取った。

 お辞儀するように腰を屈め、目線をマツカゼよりも下に落とす。

 取った手の甲にキスをするような距離感で、フジキセキは()()()()()()()()()()()()()マツカゼの心を撫でにいった。

 

 「保健室まで案内するよ。取り巻く事情は複雑だけど、今は君の身体に勝るものはないんだから。

 涼しい所で休んで、まずは元気になってほしい。

 そうしたら─────君の話を聞かせておくれよ、ポニーちゃん」

 

 男子生徒のいない学校には、同性から歓声を浴びる『王子様』が往々にして存在する。天然であれ意識的なものであれ、この学園においては彼女がそれだ。

 予想外の行動にマツカゼはきょとんとした後、やがて見開いていた目を細めて大きく口を開けて笑った。

 

 「ふ、ふふっ。あっはっはっはっは! 参ったねどうも、このあたしが小ウマかい!」

 

 はぁ、と。

 笑いの余韻を吐息に変えて、彼女は目尻に浮かんだ涙を指先で拭う。

 

 

 直後だった。

 マツカゼはフジキセキのジャージの胸ぐらを片手で掴み、踏み込みながら思い切り押した。

 仰天したフジキセキは為す術なく仰向けに倒れ、そして転ぶ前に服を掴んでいる腕に引っ張られガクンと停止する。急激な運動にフジキセキの頭が揺れた。

 位置関係が逆転した。

 足はついたまま仰向けの姿勢で腕一本で吊り下げられているフジキセキを、マツカゼは腕力で引き寄せる。

 ジャージの繊維がギチギチと軋む。

 表情は分からない。フジキセキの目に映るのは、見開かれたマツカゼの瞳だけ。

 目を白黒させる彼女の眼前で、マツカゼは低く言い放った。

 

 

 無礼(ハネ)てんじゃねえよ。駄バが」

 

 

 そしてフジキセキは解放された。

 胸ぐらを掴む手をぱっと離され、そのまま彼女は尻餅をつく。踵を返して歩き去っていくマツカゼはそんな彼女に一瞥もくれない。

 呑まれた心が戻ってくるまで、フジキセキはただ呆然とその場にへたり込んでいた。



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5話

 「む、フジキセキ。会長から共有された通りだ。一刻も早くマツカゼを確保・・・・・・、なぜ尻餅をついている?」

 

 「!! あ、いや、ははは・・・・・・ちょっと、その、ね。彼女を怒らせちゃって・・・・・・」

 

 

 ───トレーニングジム───

 

 「ちっちっち、なってないねえ。突きってのはねえ、下半身が肝要なんさ。

 いいかい? こうして体を落として、足先から腰まで一気に捻って、───(ふん)ッ!!!」

 

 「きゃあああサンドバッグが鎖ごと吹っ飛んじゃった!!!」

 

 

     ◆

 

 

 「おい。ここにマツカゼという奴はいるか!?」

 

 「あ、来てます。壊したサンドバッグ片付けて、ついさっきどこかに行っちゃいましたけど・・・・・・」

 

 「サンドバッグを壊した!?」

 

 

 ───音楽室(レッスン中)───

 

 「〜〜〜♪ 〜〜〜〜〜〜〜♪♪」

 

 「すごい・・・・・・音程が正確なのは勿論、よく通る歌声に唸るようなこぶし。まるで熟練の演歌歌手のようだわ・・・・・・!!」

 

 「ありがとねえ。歌ってみればおもしろい曲じゃないか。どうだい、一丁あたしが稽古つけてやろうか?」

 

 「「「お願いします!」」」

 

 

     ◆

 

 

 「レッスン中すまない。ここにマツカゼというウマ娘は・・・・・・、うまぴょい伝説にしては随分と節回しに特徴を持たせているな?」

 

 「マツカゼさんですか? さっきどこかに行ってしまいましたけど・・・・・・それより会長、時代は演歌ですよ!」

 

 「何故・・・・・・!?」

 

 

 ───ニンジン農園───

 

 「あーん草むしり疲れたー、腰いたいー!」

 

 「あっはっは、軟弱だねえ。まだまだこんなもんで疲れてちゃいけないよお」

 

 「うわあ、1人で私たち3人分くらい働いてる・・・・・・!」

 

 「いや確かに助かってるけどあなた誰よ!?」

 

 

 その後もマツカゼはあちこちに顔を出して集団に混ざり、一通り活動に加わったり茶々を入れたりした後にその場から消えることを繰り返した。

 生徒会も聞き込みをしたり目撃情報を募ったりと全力で捜索と追跡を行うも、あまりにも神出鬼没な彼女の尻尾すら掴めないままだった。

 そしてそんな事を繰り返していれば、当然ながら噂の火は回る。

 廊下で、グラウンドで、体育館で、様々な生徒たちがマツカゼの話を口にした。

 

 

 「ねえねえ、マツカゼさんって知ってる?」

 

 「知ってる知ってる。私の所にも来た」

 

 

 「あちこちに顔を見せてるみたいで。今まで見たことない人でしたけど、高等部の転入生なんですよね?」

 

 「え、中等部じゃないの? 高等部に転入生なんて来てないわよ」

 

 

 「会長さん達がマツカゼさんを探してるみたいなんだけど、その・・・・・・エアグルーヴさんが『侵入者を捕らえろ』って言ってて・・・・・・」

 

 「それマツカゼさんが侵入者って事? トレセン学園の制服着てたけど・・・・・・」

 

 

 実は転入生へのオリエンテーションが面倒で逃げ回っているらしい。

 実は潜入がバレた他の学園のスパイらしい。

 実は春に入学が決まった理事長の親戚で生徒会が学園を案内する事になったけど、勝手に動き回るせいで迷子になってしまい大慌てで探しているらしい。

 憶測の背鰭と尾鰭のついた噂は一気に燃え広がっていく。

 ──────マツカゼとは何者だ?

 その疑問のみを絶対の共通点として、判断材料も輪郭もない噂話は学園中に蔓延していった。

 

 

 「いやー、遊んだ遊んだあ」

 

 夕刻前、学園のトレーニングに一通り首を突っ込んだマツカゼは満足気な顔で校舎外の廊下を歩く。

 どれも楽しい時間だったが、今のマツカゼはさっき混ざった集団の中で1番将棋が強いというウマ娘を見事負かしてやった勝利の余韻に浸っている最中だった。

 言われるだけあって中々に歯応えのある対局だったが────、それでも自分の勝ちである。

 見た目は()()()いたが徹底的に理詰めで考える性質(たち)だったようなので、「こういうのは直感の勝負だねえ」と煽ってみたら噛み殺してきそうな目で睨まれたが、あれも勝者の愉悦というものだろう。

 挑んできたリベンジに応じるのも(やぶさ)かではなかったが、それをやると追手に捕まりそうだったので逃げた。

 やはり勝負は勝ち逃げに限る。

 

 (とりあえず気の済むまで遊んだし、後はどうやって生徒会にちょっかいを出するかだねえ・・・・・・)

 

 うーん、と顎に手を当てるマツカゼ。

 何とかなるの精神でここまで来たが、そろそろ何とかなる気がしなくなってきた。

 今から殴り込んだとてそもそも応じてもらえるだろうか?

 数時間単位で血眼の鬼ごっこを強いている時点で既にケンカを売っているようなものではあるのだが、マツカゼがやりたいのはそういうのではないのである。

 

 (ウオッカちゃんにスカーレットちゃんと併走する約束はしてる訳だし・・・・・・、いっそ「生徒会の皆さんもどうだい?」って気さくに誘った方が成功しそうな気もするけど・・・・・・)

 

 考えながらふと顔を上げると、歩いている道の脇に大きな看板が立ち並んでいるのを見た。

 並んでいるそれらは全て、チーム勧誘の看板だった。

 《リギル》に《カノープス》、《シリウス》など、学園内に存在するチームがそれぞれレイアウトに工夫を凝らしたデザインと謳い文句をパネルにして掲げ、無所属の戦力に我が元に集えと呼びかけている。

 

 (・・・・・・星の名前を付ける伝統は変わんないねえ)

 

 じんわりと沁みるような懐かしさを抱きつつ、マツカゼは1枚1枚それらの看板を眺めて歩く。

 デザインから見えるチームの空気や、謳い文句から見えるチームの願い。看板の向こう側にいるウマ娘たちの努力に思いを馳せているとき、それは目に映った。

 

 そのチームの名前は《スピカ》。

 メンバー募集の看板には、土に逆さまに埋め立てられ下半身だけを地上に生やした、チームメンバーであろうウマ娘たちが描かれていた。

 

 流石のマツカゼも真顔になる。

 こんなギャグ漫画の1コマでしかないデザインを提出した者とそれにGOサインを出した責任者、少なくとも2人の地雷がいるのが確定していた。

 『入部しない奴はダートに埋めるぞ』と荒々しい字体で書かれた謳い文句は、ここで頑張りたいという意気込みを面白いくらい奪っていく。

 広告は記憶に残ればそれで勝ちとはよく言われるが、ワンチャンSNSでバズるかもしれない程度の瞬間最大風速に全てを懸けた現代コンテンツの負の側面がそこにあった。

 

 「・・・・・・おぉ・・・・・・・・・」

 

 とはいえ何か知らないが迸っている謎のエネルギーに圧倒されていた時、ざり、と背後から靴底が地面を擦る音がした。

 数はざっと4人ほど。

 追いつかれたかと後ろを振り返ると、そこにいたのは考えていた人物ではなかった。

 背の高い芦毛が1人。

 白いメッシュの入った黒鹿毛が1人。

 鹿毛とツインテールの栗毛が1人ずつ。

 それぞれがマスクとサングラスで人相を隠した、正直追手の方がマシな4人組に囲まれていた。

 

 「・・・・・・えらく見覚えあるのが来たねえ」

 

 「スカーレット!ウオッカ!スペ!やっておしまい!」

 

 「名乗っちゃうんだねえ」

 

 「あ、どうも。図書室には行けましたか?」

 

 「話しかけてきちゃったねえ・・・・・・」

 

 最早これ以上の会話は不要。

 そう告げるかのように長身の芦毛が手に持っていたズタ袋を広げ、マツカゼの頭から膝下まですっぽりと被せた。

 そしてそのまま4人がかりでひょいとマツカゼを担ぎ上げ───

 

 「「「えっほ、えっほ、えっほっ」」」

 

 「ああ〜〜〜〜・・・・・・」

 

 掛け声と共に運搬していく。

 気の抜けた悲鳴の尾を引きながら、マツカゼは4人の誘拐犯の手によってどことも知らない場所へと運ばれていった。

 

 

 「今日加入する娘、マツカゼさんって言うんですよね?」

 

 チーム《スピカ》の部室の中。目に見えてワクワクしているトレーナーに、同じくメンバーの1人であるサイレンススズカは静かな声でそう問いかけた。

 知らせを受けて同じく新入り待ちをしているトウカイテイオーも椅子に座って足をぷらぷらさせている。

 

 「おう、今ゴルシ達が迎えに行ってる。今回の新人は凄えぞ、どんな走りをするのか今からワクワクしちまうな」

 

 「え゛、そこ知らないでスカウトしたの? 肝心なところを見てないのに何で凄いって言い切っちゃうのさ」

 

 「肝心なとこなら見たっつーの。これでな」

 

 そう言ってわきわきと指を動かしたトレーナーに、うへえ、と表情を歪めるテイオー。その顔には何の断りもなく脚を触られるという最悪のファーストコンタクトを味わった彼女に対する同情が滲んでいた。

 とはいえ、これが彼の才能なのだ。

 トレーナーとして有望株をスカウトするなら、選抜レースの結果のみで判断するのは後手もいいところ。

 玉石混淆の大勢のウマ娘たちをトレーニングなどの様子からフィジカルやメンタルを事前に評価───場合によってはメジロ家など家系の優秀さも考慮して、これと見込んだウマ娘に前々からアプローチをかけて他のトレーナーに先んじるのだ。

 当然その為に参照せねばならないデータは母数が増えるほど多くなるし、時にはその足で出向いて直接見て判断することもある。

 それだけ手間がかかる行程で当然すべてのウマ娘を精査する事はできないので、必然トレーナーは目をつけるウマ娘を絞る。

 それ故に発生する才能の『取りこぼし』は、トレーナーにとっては如何ともし難い問題だ。

 

 だが、彼にはそれがない。

 

 並のトレーナーがデータを集めて足を運んでやっと判断するウマ娘の資質を、彼は『見て』『触る』だけで理解してしまう。

 それがどれだけのアドバンテージになるかは語るまでもないだろう。

 事実彼は《リギル》の入部テストに受からず取りこぼされたスペシャルウィークを、見事引き入れて開花させている。

 脚を触るせいで第一印象が最悪?

 知らん。

 

 「でもトレーナーさん、そのマツカゼさんは本当に同意の上で入部するんですか? スペちゃんは同意の前に拉致してましたけど・・・・・・」

 

 「いいんだよ。同意してもらいさえすりゃあ」

 

 「つまり同意じゃないんだね?」

 

 テイオーのジト目と心なしか半目がちなスズカの視線を口笛吹いて受け流すトレーナーだが、そこでふと部室のドアに目をやった。

 部室の外から音楽が聞こえてくるのだ。

 最初は小さかったそれは段々と大きく、そして着実にこの部室に近づいてくる。

 それでトレーナーは全てを察した。

 口の中のアメを鳴らして口角を吊り上げる。

 

 「来たな」

 

 そして。

 

 流れている曲のサビが始まると同時、バン!と部室のドアが開いた。

 ゴールドシップにウオッカ、ダイワスカーレット、そしてスペシャルウィーク。

 それぞれが(くだん)のウマ娘を詰めたズタ袋を肩に乗せて支えつつ、左右にステップを踏みながら部室に入ってきた。

 ゴールドシップのポケットの中の携帯電話から流れているらしい曲名は、確か『Vicetone & Tony Igy』の『Astronomia』。

 少し前に流行ったネットミームが、マスクとサングラス付きで出現した。

 

 「連れて来たぜー」

 

 人相を隠していたマスクとサングラスを適当に脱ぎ捨てつつ、4人は荷物を地面に下ろし、そしてズタ袋を脱がす。

 中に詰められていたマツカゼが、シルクハットから鳩を出す手品くらいの気軽さで憮然とした表情で姿を現した。

 

 「あ。今朝の助平じゃないか」

 

 「なんか呼び方がグレードダウンしてねえか!?」

 

 「人攫(ひとさら)いの首魁にゃ勿体ない呼び方だねえ」

 

 「俺は連れて来てくれとしか頼んでねえ!!」

 

 やっぱり脚を触ってるんじゃないか、と数名のジト目がトレーナーに突き刺さった。

 そこから判断するに常習犯なのだろう。しかしそれでも明確な嫌悪の声が上がらないのは、そこに下心の(たぐい)が存在していないことを全員が理解しているという事だ。

 問答無用で攫われたことは別問題として、チーム内の信頼は強く結ばれているらしい。

 ───なんだ。改めて見ればいい目をしてるじゃないか。

 マツカゼを見るトレーナーの目には、確かな野心が燃えていた。

 

 「さ。新しい仲間に挨拶だ」

 

 コホンと咳払いをした後、トレーナーはチームメンバーにそう促す。

 それに応じたゴールドシップたちはマツカゼの前で横1列に並び、ニコリと笑ってお辞儀をした。

 

 「「「ようこそ! チーム《スピカ》へ!」」」

 

 「「「確保ぉぉぉおおおおっっ!!!」」」

 

 「「「えええええええええ!?!?!?」」」

 

 チーム《スピカ》がにこやかにマツカゼを歓迎すると同時。

 ドアを蹴破るような勢いで突入してきた生徒会が、全員でのしかかり潰すような力技でマツカゼを拘束した。



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6話

 にこやかに挨拶した途端、学園中枢の手によって新入り(予定)がまさかの御用。

 危険因子の排除以外の何かの感情を多分に含んだ強引な拘束の下敷きになり、マツカゼはぎゃふんと古いリアクションと共に目を回していた。

 

     ◆

 

 

 「所属は北海道の松橋訓練学校、学年は高等部。間違いはないな?」

 

 「本当だよう。嘘なんて吐いてないよう」

 

 「やかましい。嘘八百で学園中逃げ回った奴がデタラメを抜かすな」

 

 それからマツカゼは直ちに生徒会室に連行された。生徒会副会長2人の尋問を受け、ロープでぐるぐる巻きにされたマツカゼがしょんぼりと項垂れている。

 そして色々と説明を必要としていた《スピカ》もそこに同行し、シンボリルドルフから事の仔細を聞かされていた。

 マツカゼがこの学園の生徒ではないと知ったトレーナーがガックリと肩を落とす。

 

 「嘘だろぉ〜? せっかく大物連れてきたと思ったのにそりゃ無いぜ・・・・・・」

 

 「うう、悪かったよう。許しておくれよう。何でも許しておくれよう」

 

 「貴様この後に及んでなんだその図太さは!?」

 

 「マックイーンちゃんが何でもするから許しておくれよう・・・・・・」

 

 「私が背負わなければなりませんの!?」

 

 「しょーがねーなー。そこまで言うなら利き腕は封印しといてやるよ」

 

 「私の権利が謎のハンデに変わってしまいましたわ!?!?」

 

 マツカゼの小ボケに雑に乗っかるゴールドシップ。

 マックイーンの悲鳴もあって尋問の様子も随分と騒がしくなってきたが、シンボリルドルフが一歩前に出るとその喧騒も止まった。

 高級そうなカーペットを踏んで自分の前に立つ彼女を、マツカゼは正座させられたまま見上げた。

 

 「やあ、マツカゼ。随分と楽しんでいたみたいだな?」

 

 「楽しかったねえ。みんな真っ直ぐでいい子たちばっかりだあ」

 

 「評価は上々といった所かな。何の目的で来たのかも聞きたいのだが─────ところで、()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

 パキリ、とその場の空気が変わる。

 

 

 「ここは遊びの場ではないし、ましてや笑う場面でもない。制服まで用意して潜入するのは相当に悪質な行為だという事は語るまでもないはずだ。善悪の区別を付けた上でまだ白い歯を見せるというのなら私は守るべき生徒たちの長として、君を排除するべき敵と見なそう」

 

 この生徒会室は薄氷である。

 一言発せばヒビが入り、一歩踏み出せば底まで落ちる。そこに立つ者たちに出来るのはただ細心の注意を払い、動かず、発さず、辛うじて今いる場所に立ち続ける事だけ。

 ただし違う点はこの部屋を薄氷に変えているのは他ならない彼女で、誰を落とすも彼女の胸ひとつだという事。

 その威光のみで誰もが屈する。

 罪人を裁くこの場の支配者たる『皇帝』シンボリルドルフは、圧し潰すような眼差しで眼下のマツカゼを見下ろした。

 

 「ここは温かな遊び場ではない。挑まない者が立ち入るな。───あまり中央を無礼(なめ)るなよ」

 

 

 「舐める訳がないねえ」

 

 

 あまりにも、あっさり。

 かつて地方から来た『怪物』に向けられた、その対象ではない付き添いのウマ娘すら腰を抜かした圧力に、マツカゼはあまりにもあっさりと切り返した。

 神威とすら言うべきルドルフの威圧をそよ風のように受け止め彼女は立ち上がる。

 

 「競走バの歴史は中央の歴史、中央の歴史は淘汰の歴史。名も残らねえ()()()()を何千何万と埋め立てた金鍍金(めっき)の焼け野原だ。

 ちっとでもその現実を知ってる奴が、ヘラヘラ笑ってここに踏み入るとでも思ってんのかい」

 

 表情は歪まない。声も荒げない。

 所詮口だけで済ますつもりならば力む必要などないと言わんばかりに。

 それはまるで嵐の中にあっても、ただ在るだけで揺らがない泰山が如き静けさで─────

 

 「排除するってんなら動かすべきは口じゃなくてその脚だろうよ。

 挑まない者が立ち入るな?

 あたしは見ての通りねえ───

 ──────()()()()()()()()()()()

 

 明確な敵意を顕にする皇帝に対して、マツカゼは平然と宣戦布告を口にした。

 音もなく爆ぜるこの空気の震源が、絶対王者と囚われの侵入者であるなどと誰が信じられるだろう。

 穏やかで気さくな顔こそ彼女であると認識していたスカーレットたちの喉がジリジリと干上がっていく。

 細く目を研ぐルドルフと、欠片の揺らぎも見えないマツカゼ。

 両者共に最初から退く気などないという事実が先の見えない結末に対する不安を加速度的に増大させていく、その時だった。

 

 「制止ッ。試すのはその程度で良いだろう」

 

 ぎい、と生徒会室の扉が開いた。

 破れんばかりに張り詰めた空気に割り込んだのは、白い帽子に猫を乗せた少女と緑色のスーツを纏った女性。

 彼女らの姿を見たルドルフはマツカゼから少女の方へと向き直り、そして深々と頭を下げた。

 

 「戻られて早々に申し訳ありません。我々生徒会のみでの事態の収拾は叶いませんでした」

 

 「不問ッ! 治安維持に対する皆の尽力、心より感謝する!」

 

 小さな胸を大きく張り、少女は尊大な口調でルドルフたちを労った。

 明らかにルドルフよりも、というかこの場にいる誰よりも歳が幼いが、ルドルフが敬語で頭を下げる者などこの学園には目の前の2人しかいない。

 少女はルドルフのつむじから視線を外し、ロープでぐるぐる巻にされた鹿毛のウマ娘を見る。

 

 「話に聞く『マツカゼ』とは君だろうか?」

 

 「そうだねえ。そちらは?」

 

 「うむ! 何を隠そう、この私こそが─────トレセン学園理事長、秋川やよいであるッッ!!」

 

 声や表情も全てが自信に満ち溢れた所作で彼女はそう名乗る。

 理事長、つまり学園そのものを統括する立場。場の支配者はこの時を以て白い帽子の少女、秋川やよいへと移った。

 言葉と共に広げられた扇子には、なぜか『歓迎』の筆文字がデカデカと達筆で書かれていた。

 

 

 「さて。我が校の制服の入手経路など君に聞きたい事は多々あるが・・・・・・」

 

 やよいは思案するように目を閉じ、口元に扇子を当てる。

 

 「単刀直入に聞く! マツカゼ、この学園に侵入した目的を答えてほしい!」

 

 ビシッ、と閉じた扇子でマツカゼを指す秋川やよいに対して、彼女はやはり平然と答えた。

 

 「難しい事ぁ何もないよう。今に名高い『皇帝』の走りに、あたしの脚をぶつけたいんだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 まあその前に捕まっちゃったけど、と。

 あまりにも横車上等の物言いにほぼ全員が絶句した。

 あくまでも向こう側が乗った(てい)にしようとしている辺り(たち)が悪い。もしあそこで捕まっていなかったら、彼女は一体どんな殴り込み方をしたのだろう。

 目論見が失敗して詰問を受ける囚われの身でありながらここまで開き直れるその精神の太さには感動すら覚えてしまう。

 

 「ふむ。無論そちらの学校には事の仔細を話さなければならないが」

 

 そのあっけらかんとした態度を前に、やよいは目を閉じて広げた扇子で口を隠す。

 何かを真剣に考え込んでいる様子だ。

 しかし隣に立つ緑色の女性は───駿川たづなは知っている。

 扇子で隠されたその口元は楽しそうに笑っていることを。

 トレセン学園理事長のその仕草は、何か面白い事を考えついた時のものであることを。

 そしてその直後。

 彼女の予想に違わぬ、そして予想以上にぶっ飛んだ決定を、秋川やよいは満面の笑みで下してしまった。

 

 「許可ッ!! 我が校に対する挑戦状、しかと受け取った! 全ての生徒のトレーニングが終わった後、一時的にグラウンドの使用を許可する!!」

 

 当たり前だが、全員が仰天した。

 望みが叶ったはずのマツカゼすらも「ふへえ」とよく分からない声を出す。

 これに慌てたのはいつも彼女の暴走を止める、そして4割5割は失敗する駿川たづなだ。

 

 「理事長!? それは────」

 

 「窃盗や盗撮、その他悪事を働いた報告は無し! そして歌唱力においては生徒たちに新たな風を吹き込み、ニンジン農園では草むしりを手伝っていたと聞く! それを踏まえての判断だっ!」

 

 「サンドバッグを破壊したという報告も上がっておりますが・・・・・・」

 

 「必定ッ! トレーニング器具とはいつか壊れるもの! それがたまたま彼女が使った時に発生したというだけである! それに何より───」

 

 秋川やよいは溜めるように息を吸い込んだ。

 そして、言い切る。

 

 「───豪胆ッ! 敵地に単身で乗り込み、捕らえられてなお揺らがぬその意気や良し! そんな挑戦者を果たし状を受け入れる度量もまた、日本一の座に立つ我々の矜持である!!」

 

 ぱんっ!と勢いよく開かれる扇子。

 その面には『天晴(あっぱれ)』の2文字が大きく筆文字で書かれていた。何故だろう、さっきまでは『歓迎』と書かれていたはずなのに。

 下された判断はメチャクチャに聞こえる。

 しかし彼女の采配はいつだって大きな熱の()()()を呼び込むことを、彼女に近い場所にいる者は知っている。

 そんなどんでん返しの決定を受けたマツカゼは、一瞬だけ頬を吊り上げた。視聴覚室でルドルフのレースを見た時の笑みだ。

 マツカゼは刹那の間だけ浮かべた(かお)を消して、再びさっきまでのあっけらかんとした笑い顔に戻る。

 

 「いやあ、流石は理事長様だねえ。日本一のこの学園を束ねるお人ならあたしの挑戦を受けてくれるって信じてたよお。という訳であたしが会長さんと走る事に文句はないよねえ?」

 

 「え!?」

 

 「そうそう、あたしウオッカちゃんにスカーレットちゃんとも併走の約束しててねえ。折角だからもっと人数集めてレースにしちゃおうか。という訳で他の娘にも声かけとくねえ」

 

 「は!?!?」

 

 「ほらほら、急がないと遅くなっちゃうよう。あたし着替えてくるから準備よろしく。それじゃあ会長さん、また後でグラウンドでねえ」

 

 「はぁぁああ!?!? 腑に落ちん! 何故私たちがヤツに指図をされている!?」

 

 「理事長!? 本当にあれに許可を出して良かったのですか理事長!?!?」

 

 「・・・・・・・・・・・・無論ッ!! 二言はないっ!!」

 

 んじゃよろしくう、とロープも解かないまま生徒会から去っていくマツカゼの背を指差して叫ぶエアグルーヴにも秋川やよいの決定は変わらない。

 しかし手元にある開きかけの扇子からは、『審議』の2文字がチラチラと見え隠れしているのであった。

 

 

     ◆

 

 

 「全く・・・・・・理事長も遊びが過ぎるわね」

 

 実際のレース場と全く同じように作られたトレーニング用のコースを見下ろす観客席で、パンツスーツの女性トレーナーが眉間に指を当ててぼやく。

 

 「学生とはいえ、侵入者相手にこの対応。スターティングゲートまで引っ張り出して・・・・・・こんな前例を作ったと知れたら、今後それがどんな風に利用されるか分かったものじゃないわ」

 

 「ま、そいつはたづなさんがどうにかするだろ? せっかくの計らいだ、俺たちはありがたくあの娘の実力を見させてもらおうぜ」

 

 とはいえ・・・・・・、と女性トレーナーの隣に座る男性トレーナーの目には、色濃い困惑が浮かんでいる。

 今から出走するのは挑まれたシンボリルドルフと、約束のあったウオッカとダイワスカーレット───だけではない。

 会長が走るならと自ら参加を表明したトウカイテイオーに、面白そうだからと参加したゴールドシップ。

 そしてライスシャワーにフジキセキ、さらに何故かサクラバクシンオーもそこにいる。

 そこに加えて、昼間の例のトレーニングのシーンを見ていたその他実力のあるウマ娘たち。

 まだここにいないマツカゼを含めて、総勢18名。

 錚々(そうそう)たる面子がそこにいた。

 

 「よくここまで集まったなぁ。今から走るのって距離2,400の芝だろ? 日本ダービーが始まるって言われても違和感ねえ顔触れじゃねえか・・・・・・バクシンオーを除いて・・・・・・」

 

 「ここまで随分と注目を集めていたみたいね。マツカゼ、といったかしら。地方の娘では実力を見るどころか入着すら不可能なメンバーだけど、貴方から見て彼女はどうだったの?」

 

 「超一級品だ。それは間違いない」

 

 口の中の飴を弄びつつ男性トレーナーは断言する。

 

 「けど判るのは素質だけだ。どんな走りをしてどんな経験をしてきたか、それを活かすことができるのかどうかは実際に見なきゃ分からないな」

 

 「当然の話ね」

 

 「そりゃそうだろ」

 

 荒れそうだな、と男性トレーナーは空を見上げる。

 まるでこのレースの予想と波乱を示唆するかのように、夏の夕暮れ時の空を厚い雲が覆い隠していた。

 

 

 「会長。よろしかったのですか?」

 

 曇天に覆われたレース場の上、シンボリルドルフのウォームアップ後のストレッチを手伝っていたエアグルーヴがそう問いかけた。

 

 「確かに理事長はマツカゼの挑戦状を許可しましたが、そもそも応じる必要があったかは疑問です。今となっては進言のしようもありませんが、無法を道理で突き放すのも組織の勤めであったかと」

 

 「ふふ。いつになく不満そうだな、エアグルーヴ」

 

 「当然です。奴のせいであらゆる業務を放置せねばならなかったばかりか、それ以降のスケジュールまでこうして狂わされたのですから。後片付けにだけは何としても参加させるべきです」

 

 「そうだな。()(こう)矩歩(くほ)、君の抱く感情は正しい。・・・・・・しかしマツカゼはあの在り方のまま自らを理事長に認めさせ、そしてここまでのメンバーが名乗りを上げる程に注目を集めた」

 

 「・・・・・・・・・・・・、」

 

 エアグルーヴは沈黙した。

 最初から最後まで好き勝手やられている腹立たしさで考えが及んでいなかったが、まるで周囲が彼女の望みを叶えるように動いているようなここまでの経緯の特異さにそこで気付かされたのだ。

 ルドルフの言葉をさらに裏付けるように、コースの観客席には噂を聞きつけた生徒たちがガヤガヤと詰めかけている。

 豪華なメンバーが集まったこともあるだろうが、何よりも学園中を遊び回り多くに顔が割れているマツカゼが呼び込んだ話題性だろう。

 

 「従えるカリスマとも引きつける求心力とも違う。まるで全てを自分に巻き込んでしまうような、彼女にあるのはそんな力なのではないか。私はそう考えているんだ」

 

 「彼女もまた、次代を担う素質のあるウマ娘であると? 会長はそれを試すために理事長の許可を承諾したのですか?」

 

 「そうだ、と言い切りたいところだが・・・・・・実を言うとな、私自身が彼女に興味が尽きないんだ。

 彼女の話は聞いただろう? 尋常ではない重量の蹄鉄を履いたまま、訓練用タイヤを歌いながら徒歩で引き摺ったという目撃談を」

 

 「はい。大勢の者が同じ証言をしていますので事実なのでしょう。(にわか)には信じがたい話ですが・・・・・・」

 

 そこで気がつく。

 ()()。ストレッチをしているシンボリルドルフが熱を帯びている。

 あの『皇帝』が昂っているのだ。

 会話をしているのに相手の方を見ないのは、自分がいま見せられないような表情をしている自覚があるからなのか。

 稲妻が走るような鋭い空気を迸らせ、ルドルフは腹の底の熱を口から僅かに吐き出した。

 

 「エアグルーヴ。私は楽しみで仕方ない。神色自若の精神に加えて剛強無双の片鱗。今まで出会った事のない未知数を、()()()()()()()()()()()・・・・・・!」

 

 

 「やあやあ、待たせたねえ」

 

 

 そして彼女の声がした。

 とうとう舞台に上がってきた挑戦者に全員が目を向け、そして全員が一様にポカンと口を開ける。

 そんな彼女らをぐるりと見渡したマツカゼは少しだけ残念そうな顔で眉を曲げた。

 

 「ありゃ、みんな運動着かい! 綺麗に着飾った綺麗な娘たちが拝めると思ったんだけどねえ」

 

 「当たり前だろう。・・・・・・というか、貴様こそなんだ。その格好は」

 

 「ん、これかい? ()()()()()()()()()

 

 そう言ってマツカゼはひらひらと袖を揺らす。

 

 ────彼女の勝負服は一言で言えば、紋付袴(もんつきはかま)のようなデザインだった。

 深紅に染められた長着に、(たけ)を膝の半ばで切り落とされた袴。そこから露出した脚を覆うブーツには、紐や(びょう)が飾るように打ち込まれている。

 腰に巻かれているのは太い注連縄(しめなわ)の装飾。

 右肩から掛けた幅広の、赤に縁取られた黒色の(たすき)に施された5つの大きな金色の星が目を引いた。

 しかし、最も目立つのは彼女の纏う羽織(はおり)だ。

 彼女が袖を通している黒染の羽織は火の燃える如きの雲模様が描かれ、その背中には日輪を背に蓮華座に坐す御仏(みほとけ)の姿が描かれている。

 

 服に描かれた星や雲、御仏。繊細な色味のそれらは全て繊細な刺繍で描かれている。

 1人につき1着の一点物の勝負服の中でも、まずお目にかかった事のないような豪奢な装いだった。

 感心を通り越して逆に戸惑いを感じさせるそのデザインに、ダイワスカーレットが懐疑的な眼差しでマツカゼににじり寄る。

 

 「・・・・・・勝負服? えっと、確かに素晴らしい衣装だと思うんですがその、そのデザイン規定守ってますか? どこのメーカーですか?」

 

 「何言ってんだい本物だよ。ほれ」

 

 「え・・・・・・、うわっ、老舗の専門メーカーじゃないですか!? こんな方向性の勝負服デザインしてましたっけ!?」

 

 裏地に記されたブランドを見たスカーレットの驚愕の叫びに、同じような疑問を抱いていたウマ娘たちが一斉に群がった。

 レースという闘争が常であるとはいえ年頃の少女、服飾に対する興味は高い。(かしま)しい声に揉まれて笑っているマツカゼの輪から離れた場所で、しかしルドルフは1つの疑念を抱いていた。

 

 (・・・・・・()()()()()()()()()()()?)




 次回。
 マツカゼ、ゲートイン。


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7話

 ウマ娘がGIレースという国際格付けにおいて最も格式高いレースに出場する際に纏う特別な衣装───即ち『勝負服』。

 『宝塚記念』や『菊花賞』、『有記念』などそれらGIレースは全て中央が主催しており、出走するのも中央の生徒に限られる。

 中央ではない地方競バにも唯一、『東京大賞典』というGIレースは存在するが・・・・・・このレースはダートだ。これから芝を走らんとするマツカゼに砂の適性は見込めないし、そもそもそのレースの出走者にマツカゼという名を聞いたことがない。

 つまり、()()()()I()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そしてそれとは別に・・・・・・

 

 「っ、・・・・・・・・・」

 

 まただ。この既視感。

 勝負服の彼女を見た途端に強くなったデジャヴに、ルドルフの眉が歪む。

 会ったことはないが、間違いなく見たことはある。消えない既視感にルドルフは最早そう確信するに至っていた。

 しかし────どこで?

 

 「わあ、ライスちゃん。参加してくれたんだねえ」

 

 「・・・・・・うん。ライス、()()()()()

 

 「あら、良い目になったじゃないか。・・・・・・おや」

 

 嬉しそうに笑うマツカゼは、ふと自分に刺さってくる気配を感じてそちらを向く。

 自分を睨むように見つめてくるそのウマ娘を見て、少しだけ驚いていた。

 

 「あんたも来てくれたんだねえ。ええと、・・・・・・フジキセキちゃん」

 

 「ああ。マツカゼさん、あの時は済まなかったね。侮ったつもりはなかったんだけど、君に対して失礼な態度を取ってしまった。

 だけど私も・・・・・・()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 それに対してマツカゼは言葉を返さない。

 ただ彼女は、フジキセキに対して挑発的に笑う。

 喧嘩上等。それで噛み付いてくれるのであれば大歓迎。先刻ルドルフに言った通り、返答は脚で語れば充分だとばかりにマツカゼは彼女の前を通り過ぎ・・・・・・ようとして、思い出したように振り返る。

 

 「そうだ。ゲートまで用意してもらって有り難い限りだけど、ゴール板はどうするんだい?」

 

 「ああ、それなら心配しなくていいよ。薄暗くてもよく目立つ人が立ってくれてるから、その人がゴール板代わりだ」

 

 ほらあそこ、と彼女が指差す方向を見ると、マツカゼはフジキセキの言わんとする事をすぐに察する事ができた。

 2,400メートルのコース、そのゴールに位置するラインの端に男性が立っている。

 その男性が、薄暗い曇天の下で光っているのだ。

 物凄く人工的な黄緑色に。

 

 「・・・・・・あれはそういうマネキンかい?」

 

 「いいや。ゴール板の役を買って出てくれたトレーナーだよ」

 

 「光ってるのにかい?」

 

 「ああ、光っているね。それがどうかしたのかい?」

 

 しばし沈黙。

 ゴール板代わりに立っているのはトレーナー。

 マネキンではなく、人間。

 光っているけど、人間。トレーナー。

 与えられたそれらの情報を頭の中で整理してしばし考えたマツカゼは、

 

 「・・・・・・・・・・・・良し!」

 

 とりあえずそう頷いた。

 ブン投げられた理解が地面に落ちて砕ける様を眺めながら、イタズラ好きの性を満たしたフジキセキは小さく笑いを(こら)えていた。

 

 

 「オイ。お前またトレーナーに何か飲ませたろ」

 

 「ふぅン、どうやら失敗のようだね。高強度の運動負荷に耐えうる心肺機能の強化を見込んだんだが」

 

 「見込んだんだがじゃねェよ。何でロジックで組み上げた薬で身体機能に掠りもしねえ副作用が出るんだ」

 

 レンズのついた物々しい機材を担いだアグネスタキオンとエアシャカールがそんな会話をしている。あの発光現象はアグネスタキオンの仕業らしい。

 実力者たちが集うこのレースを見逃す手はないと立ち上がったウマ娘の可能性の果てを目指す化学狂いのタキオンのデータ収集を、データの共有を条件に数式狂いのシャカールが手伝わされているようだ。

 

 「戦うために乗り込んできた子を、皆が堂々と迎え撃つなんてっ・・・・・・、ゔお゛お゛ぉぉ゛ぉお゛ん゛、青゛春゛だぁぁ゛ああ゛あ゛あ゛あ゛〜〜〜っっ!!」

 

 「・・・・・・・・・うるせェなァもう・・・・・・」

 

 「そうかい? 私としてはいい刺激だと感じるが」

 

 どこからか聞こえてきた、もう慣れてきてしまったチームメイトの号泣に少しだけ辟易するエアシャカールだが、タキオンはそうではないらしい。

 発音全てに濁音のついた叫びにくつくつと喉で笑いながら、視線はゲートに向けたまま彼女はシャカールに語る。

 

 「チケット君の情動にダービーへの想い。実力を持ちながら自分への不信を抱えたライス君。トレーナー君が勧誘してきた彼女らがいなければ、レースにおける感情の有意性・・・・・・君の領分の言葉で言えば『変数』を考慮に入れる事もなかった。

 だからこそ私に劣らず気性難な君もチームを離れず、今も私を手伝ってくれているんだろう」

 

 「・・・・・・アホか。オレは直感なんてロジカルじゃねえもんに負けた数式の穴を埋めに来ただけだ」

 

 「まさにそこじゃないか。この《シリウス(チーム)》は、私達が目を向けてこなかった可能性に満ちている。───そうは思わないかね?」

 

 エアシャカールは言葉を返さない。

 それは鬱陶しさ故の無視ではなく、口で言いにくいから沈黙で語ろうとする言外の肯定に他ならなかった。

 誤魔化すようにカメラを調整するシャカールは物々しい服装でコースに姿を現したマツカゼを見て、ぼやくように隣のチームメイトに問いかける。

 

 「・・・・・・にしてもよォ。他の奴らも言ってるが、あの服どっかで見た事ねえか?」

 

 「ふむ? 私には覚えがないな。なにぶん他者に関心を払った経験が最近までほぼ無くてねえ」

 

 そんなやり取りをしている2人の、少し後ろ。

 透き通るような金色の目をした青鹿毛のウマ娘マンハッタンカフェが、思考の読めない無言でコース上の彼女をじっと見つめていた。

 

 

 三者三様、しかしどこか似通った感想を抱きつつもその時は来た。

 簡単な抽選を経て全員がゲートに入る中、マツカゼがシンボリルドルフの隣のゲートに決まったのは運命の何かしらの悪戯だろうか。

 四方を囲まれた束の間の閉塞。

 関節の調子を確かめるように身体を揺らすルドルフは、マツカゼに対する疑念を一旦全て捨て去った。

 これは重要なことではない。

 いま求めるべきは勝利。生徒たちの長の名に恥じぬ走りを以て、挑戦者の勇猛を蛮勇であると教えること。

 ─────己こそが頂点であると知らしめること。

 

 ふと横目で隣のゲートを見る。

 仕切りの上から頭だけが覗くマツカゼは、ルドルフを見てはいない。

 彼女の横顔は目の前を伸びていく芝のコースをどこか遠くを見るような、何かを懐かしむような目をしていた。

 この(みち)に何を見ているのかは窺い知れない。

 幾度も蹄鉄に捲られ茶色を露出させた緑色のコースを見て彼女は、呵々(かか)、と笑っていた。

 

 

 

 競走バのレースにスタートの合図はない。

 全員がゲートに収まり全員が出られると判断した台上のスターターが、スイッチを操作してゲートを開く事でスタートとなる。

 全てのウマ娘たちが弾倉に収まると同時、観客も出走者も全員が押し黙った。

 今の直後に訪れる『今』。

 熱狂の前の束の間の静寂。

 鎬を削る出走者とそれを観る観客、異なる世界にある両者が唯一同じ集中と緊迫を分かち合う時。

 永遠とも思える数秒の後、とうとう戦いの火蓋は切られる。

 

 ガシャンと金属の機構が稼働した。

 前方の壁は失われ、満身の力を込めたヒト型の弾丸たちが一斉に撃発される。

 その途端に弾ける歓声。

 数秒前の静謐を消し飛ばすような熱狂に叩かれ、他のウマ娘よりも何歩も前に先んじるように─────

 

 

 ──────マツカゼが大きく前に出た。

 

 

     ◆

 

 

 「(うま)い!!」

 

 ウマ娘たちがスタートした瞬間に誰よりも先に抜け出したマツカゼを見て、《スピカ》のトレーナーは思わず立ち上がりそうになった。

 先頭に出て逃げ切る作戦でいた者は前に出て好位置を取り返すためにペースを早めなければならないし、先行集団に入り機を窺おうとしていた者も当然それに引っ張られる。

 後半に差し切るか後方から追い込もうとしていた者も、仕掛けどころやペース配分などのプランの修正を強いられるだろう。

 話が大袈裟? 誇張などない。

 彼女らウマ娘の速度域では、スタートの遅れは数メートルもの差に直結するのだから。

 誰よりも早く好位置につけ、なおかつそれだけで他のウマ娘を揺さぶる。『スタートが巧い』というのはそれだけで大きな武器なのである。

 ───その点でマツカゼは恐ろしい程に抜きん出ていた。

 まるでゲートが開くと同時に飛び出したのではなく、自分の身体でゲートを押し開けたように錯覚するほどの滑らかさ。

 そして何より、飛び出しが強い。

 彼も優秀なトレーナーとして数多くのウマ娘を見てきたがこれ程の好スタートはまずお目にかかった事がない。

 まるでゲートが開くタイミングを初めから知っていたかのような、凄まじい集中力だった。

 

 「くっ・・・・・・!?」

 

 先行策や逃げを打とうとしていたダイワスカーレットなどのウマ娘たちが慌てて脚の回転を上げる。

 シンボリルドルフは冷静に己のペースを保ち中段の位置につけたものの、後方から見るマツカゼのスタートダッシュには瞠目した。

 いの一番に飛び出したマツカゼに引っ張られる形で、レースの出始めはやや縦長の形になった。

 

 「流石に予想外ね。序盤のペースは完全にあの子が掴んだわ。あんなにゲートに強いウマ娘は初めてよ」

 

 「周りの娘は未知の相手を探ろうって気持ちが裏目に出ちまったかな。無意識に後手に回ったように見える」

 

 感嘆と分析、目の前で展開されるレースにトレーナーの目線から切り込んでいく《リギル》と《スピカ》のトレーナー2人。

 普段なら冷静沈着な女性トレーナーの方は勿論、普段は軽い調子の男性トレーナーの表情からも遊びは抜け落ちている。彼らの脳内からは既に、芝を駆けるウマ娘たち以外の情報は排除されていた。

 

 「データがない以上マツカゼへの対策は打ちようがないし、あまり意識してたら他の娘に競り負けちまう。相手に振り回されずにどれだけ自分の得意な走りが出来るかにかかってくるだろうな」

 

 「あのスタートダッシュで一気に警戒させた分、簡単なようで難しいわね。だけどそれは未知数のマツカゼを相手に得意な走りを許す事にも繋がる。挑まれた側としてあくまでもトレセン学園の勝利を目指すのであれば、誰かが彼女の走りを乱して混戦に持ち込むべきだけれど・・・・・・」

 

 「全員自分が勝ちたがってるさ。分かってんだろ? おハナさん」

 

 そうね、と答える女性トレーナー。

 

 「それに、だ。あいつら全員が慎重に出方を窺うタイプって訳じゃない。トレセン学園としての勝利なんて考えなくても、血の気の強い誰かが当たりに行く。・・・・・・ほら」

 

 スタートでハナに立ったマツカゼを、1人のウマ娘が追い抜かす。

 素晴らしいバネだった。

 ゲートからいの一番に飛び出したのがマツカゼなら、2番目に飛び出したのが彼女である。

 ────見間違いかとさえ思ったが、この走りは本物さね。

 一瞬で自分を追い抜いた背中を見て、マツカゼは可笑しそうに笑った。

 

 「約束覚えてるかい? ()()()()()()()()()()()。学級委員長さん」

 

 「勿論です」

 

 遊ぶようなマツカゼの声に、先頭を走る彼女は背中越しにそう答える。

 脚のエンジンは一級品で、腹の底から笑う底抜けの元気はガソリン。赫赫と輝く太陽の如き明るさは、芝のコースで爆発に変わる。

 

 「元よりこのサクラバクシンオー────その為に参加していますとも!!!」

 

 叫び、そしてさらに強く踏み込んだ。

 分けた前髪から覗くおでこを煌めかせ、前しか向かない驀進王がフルスロットルでターフの路を突き抜ける。

 

 「嘘!? バクシンオーさん、またスピードを上げたわ!」

 

 「けどマツカゼさんも負けてない。差はつけられてるけど、後半になれば差し切れる位置につけてるよ!」

 

 序盤からかなりのハイペースで流れる展開に観客がどよめく。

 現在の順位は先頭サクラバクシンオー、5バ身ほど離れてマツカゼ。

 そこから更に6バ身ほど後ろにダイワスカーレットやフジキセキなど先行策のウマ娘が集団を形成し、中段にはウオッカやシンボリルドルフ。後方にはゴールドシップが控えている。

 各々自分が最も得意とする走りを選んだ形だ。

 バクシンオーとマツカゼの2人を先端としてウマ娘たちは全体的に縦長の六角形、槍の穂先のような形で展開している。

 

 (目を節穴にしたつもりはつもりは無かったんだけどねえ。あの走り方を見て()()は流石に予想外さね)

 

 つぅ、とマツカゼの頬に汗が伝う。

 それは運動による汗でなく、緊迫による冷や汗だ。

 背筋を上りつつある寒気から己を鼓舞するように彼女は笑う。

 自分の前を駆けるバクシンオーの背中に、マツカゼは恐ろしい可能性を見た。

 

 (それが出来るってんなら逸材もいいとこじゃないか。まさかこの娘─────、()()()()()()(),()()()()()()()()()()()()!?!?)

 

 完全なノーマーク。

 先頭に立ったままペースを落とさず誰よりも速くコースを走り抜けるという夢物語の『必勝法』。映像で見たシンボリルドルフの走りすら超えかねない者の存在を知り、マツカゼの心臓をぞくりとした高揚が包み込む。

 しかしレースはまだ序盤。

 早くも波乱の予兆を孕んだまま、ウマ娘たちは第1コーナーへと突入していった。



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8話

 切に落ち着きを持ってほしい。

 理事長秘書の駿川たづなが理事長に切に願うことはそれのみである。

 マツカゼの学校に事の仔細を話してほしいと言うが早いか、秋川やよいは真っ先にグラウンドへと走っていってしまった。

 そしてあちらの学校に連絡した結果、至急連絡せねばならない事が出来たので連絡を取ろうと思ったら向こうの喧騒か何かにコールが紛れているのか一向に電話に出る気配がない。

 しょうがないのでグラウンドのコースの観客席まで走ったところ、彼女は席には座らず、最上階の踊り場からコースを見下ろしていた。

 

 「理事長。松橋訓練学校に連絡したところ、『マツカゼというウマ娘はここには在籍していない』との・・・・・・事、で・・・・・・・・・」

 

 やよいの隣に並んだたづなの報告が、止まる。

 彼女の視線の先にはたった今スタートが切られたらしいレースのその2番手、紋付袴のような勝負服を纏い走るマツカゼがいた。

 そこで察した。

 理事長が電話に出なかったのは、あの服でコースに現れた彼女を見ていたからなのだと。

 たづなが察した通りの、そしてたづなと同じものを、秋川やよいは目を見開いて凝視していた。

 

 「・・・・・・()鹿()な」

 

 震える声で、そう(こぼ)す。

 知らず踊り場の手摺りを握り締めていた小さな両手は、ミシリと音が立つほどに力が込められていた。

 

 

     ◆

 

 

 レースは第1コーナーを回って第2コーナーに差しかかる。

 この辺りから向正面の途中までは緩やかな下り坂になっており、スタミナの消耗に気を配らなければならない。

 ハナを進むバクシンオーとそれを追うマツカゼ、レースはハイペースで流れていくと思われたが、ここでマツカゼは違和感を覚えた。

 

 (・・・・・・追ってこないねえ)

 

 ちらりと後ろを見れば、2番手につけている自分と3番手の距離は6バ身は離れている。先頭のバクシンオーから測れば10バ身もの差だ。

 無論、恐ろしいペースで走るこの先頭を無理に追えば良くて脚が残らない、悪ければ途中で潰れる可能性すらある。ある程度は速度が落ちるだろう終盤に差し切ることを事を考えれば控えておく事は正しい。

 しかし、差し切るにしても距離の限界というものがある。

 終盤には多少なり下がるだろうが(おおよ)そこのラインの速度域で逃げ切ろうとする相手に控えすぎていては、肝心の最後に交わしきれないまま終わるはずだ。

 故に相手の速度と自分の脚の残り具合を鑑みて、どの位置から抜かすにしろある程度の距離は詰めてしかるべきはずなのだが─────()()()()()()()()()()()()()()()

 スカーレットたちも追いかけてきていたはずなのだが、ここからでも行けるという自信の表れか?

 それとも・・・・・・?

 

 「む」

 

 そこで気付いた。

 前方を走るサクラバクシンオーの背中が、数秒前より近い。

 まさか自分が()()()()のか、とマツカゼは心の内で渋面を作った。

 自分のペースを保てなくなっている状態だ。

 快調に先頭を飛ばしていくバクシンオーを冷静に追っていたつもりだったが、自分は知らず知らずの内に焦っていたのかもしれない。

 マツカゼは直ちにこれを是正、やや巡航速度を落として最初のペースに戻そうとした。

 しかし速度を落としてもサクラバクシンオーの背中はどんどん近付いてくる。

 それをマツカゼが疑問に思う間もなく、バクシンオーとの距離は加速度的に縮まっていき─────

 

 「え!? 嘘だろ!? バテたのかい!?!?」

 

 「バクシン・・・・・・バクシィィィィン・・・・・・・・・」

 

 素で叫んだ。

 威圧するルドルフを前にして一切動じなかったマツカゼが素で叫んだ。

 エネルギー切れで詰みましたぁぁ、とか細い声を残しつつ逆噴射するような勢いで後ろに垂れていくバクシンオーに、表情筋が未知の動きをし始める。

 そして理解した。後続の彼女らが追ってこなかったのは、『こうなる』事を知っていたからだ。

 さっきまでの高揚と冷や汗を返せ─────

 やっぱり短距離走者(スプリンター)じゃないか。まさか自分の走りを乱すための『潰れ役』だったのかとも考えたが、アレは恐らくただバカなだけなんだと思う。

 しかしあまりズッコケてもいられない。

 潰れるのが決まっていたバクシンオーを追う事で余計なスタミナを消費してしまった。

 彼女の意図がどうあれ、自分はまんまと嵌められた事になる。

 

 (参ったねえ。あたしは逃げウマじゃないんだよ)

 

 意図しない形で先頭を走る事になってしまったマツカゼは考える。

 逃げに必要とされるのは速度(スピード)持久力(スタミナ)

 やれない事は無いだろうが・・・・・・・・・逃げる走りは慣れていない。それにこの先の第3コーナー前は急な登り坂。自分のリズムが崩れた状態で走るのは避けるべきである。

 大切な一戦、慣れない事をするよりも自分の得意な形でぶつかるべきだ。

 ならばどうリカバリーするか。

 

 「ふむ」

 

 時間にすれば数秒にも満たない思考の後、彼女は即座に動き始めた。

 とはいえ、そう難しい事をした訳ではない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 流す程度のスピードまでギアを下げてから少し後、いくつかの足音がマツカゼに近付き、そして追い抜かす。

 ダイワスカーレットやトウカイテイオーなど、先行策のウマ娘たちが横を通る瞬間、困惑を色濃く浮かべた目でマツカゼを見る。

 何故? どうしてここまで下がってきた?

 そんな目線が通り過ぎていく中、5番手まで順位を落としたマツカゼはふと隣のウマと目が合った。

 やはり真意を掴みかねているらしい彼女に気さくに笑いかけるマツカゼだが、しかし笑いかけた相手は大した反応も返さない。

 それはまるで、自分の心の動きを相手に細波すら掴ませまいと覆い隠すかのように。

 

 「──────っ」

 

 未だ輪郭の定まらない脅威を後ろに振り払うように、シンボリルドルフはマツカゼの前へと抜け出した。

 

 

 何の因果か学園でも指折りの強者たちが集ったこのレース。

 イベントとして大盛況なのは見ての通りだが、観客たちも同じ競走バ。ただお祭り騒ぎしているだけではない。

 レースの主導権を握っているのは誰か。

 走者たち一人一人の動きにどんな意味があるのか。

 そして自分があそこで走るならどう動くか、自分に不足しているものは何か。

 歓声を上げるその裏でウマ娘たちは大なり小なりレースの分析を行うものだが、とりわけエアシャカールとアグネスタキオンは分析に偏重するタイプだ。

 第1コーナーを回った集団の動きを見て、歓声も上げずにカメラを担いでいるタキオンがふと疑問を口にする。

 

 「ふむ、皆やけに外を回るね。まだ様子見の段階とはいえ、後々な仕掛けるための体力の温存を考えればもっと内を通るべきはずなんだが」

 

 「・・・・・・部屋で実験ばっかしてっから頭から抜けるんだよ。お前の脚の事情は知ってっけどよ。走らなきゃ分からねえデータなんざごまんとあるぞ」

 

 若干呆れ混じりにシャカールが解説する。

 

 「バ場が荒れてんだよ。トレーニングが終わってそのままレースだ、芝なんて捲れまくってる。

 まして通る頻度の高いインコースなんざ蹄鉄でさんざん耕されてるみてェなモンだ。あの土を蹴って走んのは骨だぞ」

 

 「成程。言われてみれば確かに。体力を温存するなら少しでも綺麗なまま残っているルートを選んだ方がいい。バクシンオー君まで外側を走っているのが解せなかったが、彼女もそれを理解していた訳だ。しかし・・・・・・」

 

 「ああ。そもそもアイツはこのレースに」

 

 脚質そのものが合ってねえんだよな、とシャカールが言おうとした直後にバクシンオーが逆噴射し始めた。

 いくら状態のいいルートを通っても、そもそも圧倒的にスタミナが足りていない。外を回り距離が伸びたせいで第2コーナーで力尽きていた。

 距離と歓声に紛れて聞こえないが、たぶんマツカゼが何か文句を言っている。

 まあそうなるよなぁ・・・・・・、という生温かい感情を沈黙で共有し、2人はレースの分析を続けていく。

 

 「・・・・・・他の奴らは知ってて控えてたが、そのデータが無えとああなる。あのペースで引き回されちまったらこっからの展開はキツいだろうなァ」

 

 「ん、待て。マツカゼ君がペースを落としたぞ」

 

 タキオンの言葉通り、向正面の先頭を走るマツカゼが一気に速度を落とす。

 ずるずると後ろに下がってきた彼女を他のウマ娘が抜かし、先頭が他のウマ娘に入れ替わった。

 まさかバクシンオーを追って潰れたかという構図だが、どうやらそうではないらしい。

 

 「フォームに乱れが無い。スタミナ切れではないようだねぇ。となると無駄に消耗させられた分は息を入れておきたいといったところかな?

 しかしあそこまで急激に速度を落としてフォームが乱れないというのは驚異的な体幹だ」

 

 「あのペースのまま先頭を走っても脚が残らねェし、判断としちゃ妥当だな。にしても判断が早えェっつーか、あそこまで落とすのは思い切りが良すぎる。・・・・・・『直感』ってか?」

 

 「その辺りはもう直接聞いた方が早いかもしれないな。ほらほら、彼女の走りは君だけでなく私の分野のアプローチにも有用なんだ。分析もいいがしっかり記録してくれたまえよ」

 

 「うっせえな。分かってるっつの・・・・・・ああクソ、身体の動きが分かり辛え! 何だってあんな仰々しい服で走ってやがんだアイツ!!」

 

 カメラを担ぎながら苛立ちを叫ぶエアシャカール。

 数式という分野なら走るフォームは大設問もいいところだからねぇ、と彼女の苛立ちに理解を示しつつ、タキオンは改めて5番手まで順位を下げたマツカゼを眺める。

 ───無駄に消耗させられた体力の回復。

 速度を落としたとしても、撹乱されたスタミナ配分のリカバリーは容易ではない。

 急激なペースダウンは大胆で的確な判断にも思えるが、『そこまでやらないと体力が保たない』という苦肉の策だったはず。

 ましてあのハイペースから急激にギアを落とせば、身体の動きと呼吸が噛み合わなくなる。苦しい状況は終わらない。

 ウマ娘の肉体を突き詰めんとするタキオンは運動生理学的な分析を得意としており、またその分析に間違いはない。

 正解を導くだけの知識と実験(けいけん)は、飽きる事もなく延々と積み重ね続けている。

 

 (渇望するものを手に入れようとする時に狂気は顔を出すものだ。・・・・・・トレセン学園そのものに勝利しようという狂気を見せた君が、さらにその先で何を覗かせてくれるのか。楽しみだよ、マツカゼ君)

 

 自分を引き入れるために毒性も副作用も何も知らない複数の薬を一気に飲み干したトレーナーの姿を思い浮かべながら、アグネスタキオンはくつくつと笑う。

 

 観客席から遠く眺める、第3コーナー前の急な登り坂に差し掛かった彼女の背中。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と知ったら、彼女がかなり苦しい状況にあると考えていたタキオンはどんな顔をしただろうか。

 

 

 

 第3コーナーを回り、第4コーナーとの間に至るまでの下り坂。

 いよいよレースの終盤、ラストスパートに向けた最後の(せめ)ぎ合いが始まる頃。幾人かがここで一気に加速して勝負を決めにかかる。

 先頭にいたダイワスカーレットはそのまま押し切る体勢に入り、中段にいたウオッカも先団を目指して加速。

 その他のウマ娘も本格的にゴール板を目指す中、マツカゼは未だ動かない。

 真の実力者たちが出揃っているこの局面、仕掛けるのが遅れれば誇張無しにそこで終わる。

 誰が見てもマツカゼは明らかに出遅れており、まして彼女の前にはシンボリルドルフがいる。少なくとも彼女より先に前に出て良い位置につけていないと、そのまま千切られて終わるだろう。

 レースを見ていた全員がそう確信していた。

 

 そしてマツカゼがスパートを掛けたのは、前寄りの位置につけていたルドルフが下り坂が終わり、第4コーナー辺りで仕掛けるのを見てからという、他のメンバーの実力から考えてもあまりにも遅すぎるタイミングで。

 

 

 そこから先に起こった事は、誰も忘れられないものになる。

 見る者全ての脳に焼き付けられたその光景は、1人の少女に未曾有の衝撃を叩き込んだ。

 それは起こり得ない現実を罵倒しているのか、それとも自分の正気を必死で確認しようとしているのか。

 目の前で確かに起こっているそれに、秋川やよいは目を剥いて叫んでいた。

 

 「()鹿()な!! ()鹿()なッッッ!!! 夢か、有り得ん、幻、ああ嘘だ、そんなはずはない!!

 いやしかしっ、あれは!! 彼女はッッッ!!!」

 

 「りっ、理事長、落ち着いて下さい! 私も目を疑っているんです! 似ているとは思っていたんです!!

 だけどいくらなんでも似ているだけです!!

 だって、だってその方はもう、20年以上も前に!!」

 

 「承知ッッ!! 分かっている、分かっているのだ! 私が余りにも飛躍したことを考えているという事は!! しかし、しかし・・・・・・・・・ッッ!!」

 

 錯乱じみた混乱をしているやよいを諫めるたづなだが、彼女もまた完全に冷静を欠いている。

 それ程までに有り得なかったのだ。

 外見だけなら他人の空似で済ませられよう。

 だけど余りにも根拠が出揃っていた。

 整理のつかない混乱と間違いなはずの確信を、トレセン学園理事長は吐き出すように叫んでいた。

 

 「しかしそれでも、そうだとしても!──────()()()()()()()()()()!! ()()()()()()()()()()()()()()ッッッ!!!」



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9話

 リズミカルな吐息の音に、蓄積しつつある疲労にも淀みなく走る脚。

 左回りの第3コーナーを過ぎた緩やかな下り坂、全員がスパートを掛けるタイミングを窺って空気がピリピリと刺すように尖り始める。

 自分の位置、これから通るべきルート、そして相手の出方。数瞬の内に全てを判断せねばならない終盤において、1番有利と言っていいのはやはり前の位置で走っているウマ娘だろう。

 

 「ここだっ!」

 

 「行くわよ・・・・・・っ!」

 

 中団のウオッカが仕掛けると同時、先頭を走るダイワスカーレットが仕掛けた。

 後続の様子を窺っていたのだ。

 コーナーを曲がっている時は列が曲がっているため、首を回さずとも横目で見るだけで後ろにいるウマ娘たちの動きが容易に確認できる。

 差しウマ筆頭のウオッカに始まり、いずれも音に聞こえた強者たちの差し足。最大限スタミナの消費を抑えつつ彼女らと距離を保つため、スカーレットは1番初めに仕掛けてきた後続のウマ娘と仕掛けのタイミングを被せたのだ。

 そこからレースは一気に加速する。

 ウオッカとダイワスカーレットを火種にして火は一気に燃え広がり、全員が勝負を決めにかかるべく動き始めた。

 荒れたバ場に捕まらない程度に内側を走り効率よく走る者やバ群に呑まれないよう外を回る者、あるいはバ群から抜け出すルートを必死で考える者など。

 先団にいる『彼女』もまた勝負を仕掛けようとしている者だった。自信に満ちた笑顔のウマ娘の額に、白い三日月が跳ねる。

 ただしそれはシンボリルドルフのものではない。

 奇しくも彼女の容姿に似た特徴を持つ、トウカイテイオーだ。

 

 テイオーの特徴は何と言ってもバネの強さと身体の柔軟性、とりわけ膝と足首の柔らかさにある。

 通常よりも高く足を振り上げる特徴的な彼女のフォームはそれにより可能となっている天与の代物であり、かの『皇帝』にすら真似できない彼女の武器。

 高く振り上げた脚は地面へ。

 地面に触れた力は足首と膝に収斂され、柔らかなそこに収斂された力は正しくバネのように後方へと解き放たれる。

 即ち彼女は、()()()()

 

 「ボクも───負けないよっっ!!」

 

 弾むような力強さでテイオーは地面を蹴った。

 弾力の効いたしなやかな走りは彼女の身体をぐいぐいと前に押し出していき、一気に先頭争いへと躍り出る。

 ─────仕掛けるならば、今。

 前寄りの位置で外目を回っていた4番手のシンボリルドルフはチラリと後ろを見る。

 速度を上げてきたウマ娘に抜かされ7番手につけているマツカゼはまだ仕掛ける気配はない。

 何かを待つように、何かを狙うように彼女は息を潜めている。

 その『何か』が何を示しているのか分からないほどルドルフは察しの悪い方ではなかった。

 後ろを見た時、目が合ったからだ。

 周囲のウマ娘たちがスパートを掛ける中、未だ後ろでペースを保っているマツカゼ。

 大きく開いて8バ身も前を走る自分の背中をじっと見つめる、彼女の双眸と。

 

 彼女の走りの全容は未だ分からない。

 しかしその目を見れば分かる。

 自分は、探られているのだ。

 喧嘩を売った学園の長はここからどんな風に走るのかと、自分が動くその時を、虎視眈々と待っている。

 

 「いいだろう。望まなくとも見せてやる」

 

 皇帝が玉座から腰を上げた。

 身体を沈めて、踏み込んだ脚に力を込める。その一瞬の()()で、電光を放つようなプレッシャーが他の走者に撒き散らされた。

 強すぎてレースがつまらない────彼女がトゥインクルシリーズでそう評されるまでに至った所以。

 最終直線に入ったシンボリルドルフが、弾丸のような勢いで加速した。

 

 

 その直後。

 

 ぞわっっっ!!!と。

 ルドルフは自分の背後で、何かが、途方もなく巨大な何かが目を醒ますのを感じた。

 

 

 

 

 シンボリルドルフが仕掛ける。

 ルドルフがちらりと背後の自分を確認したのを見たマツカゼはそう判断した。

 もう少し他のウマ娘たちが走る様子を見ていたかったが、このレベルの面子が揃っていてはこれ以上の悠長は危険。

 マツカゼの中のギアが上がる。

 刃のように研がれた瞳は真っ直ぐにルドルフの背中を貫いた。

 

 ────いざ、勝負。

 まさにスパートを掛けようとする生徒会長に合わせるようにマツカゼが重心を低く落とす。

 

 その途端、バ群の後ろから何かが迫ってきた。

 

 トレーニングで踏み荒らされた内ラチ、誰も走りたがらない不良バ場。

 捲られた土を荒海の引き波が如く蹴り上げ、進撃してくる芦毛の戦艦。

 最後方にいたはずの彼女は、条件が悪すぎてガラ空きの最短距離を力技で突破していた。

 外から見ていた観客たちには、まるで彼女が一番後ろから先団までワープでもしてきたかのように見えただろう。

 ただ1人勝負服を着たウマ娘の隣に並んできた彼女は、目を丸くしているマツカゼにニヤリと笑って問いかけた。

 

 「よう。楽しんでるかい?」

 

 誰も彼女の舵を取れない。

 走るも走らないも気の向くまま、しかし一度(ひとたび)錨を上げれば誰も彼女を止められない。

 気分が乗れば値千金の宝船(ゴールドシップ)が、一気にマツカゼを後ろへと置いていった。

 

 「─────ついてく」

 

 べたり、と纏わりつくような気配。

 思わず後ろを見たマツカゼのすぐ斜め後ろには、見覚えのある黒鹿毛がいた。

 しかし昼時に見た気弱な印象はどこにもない。

 そこにいるのは弱音や弱気を削ぎ落とした果てに姿を現した鬼。

 ・・・・・・・・・近付きたいと思った。

 ダメな子の自分に『強さ』を叩きつけたこの人に。

 彼女の『強さ』に惹かれた、なりたい自分に。

 

 その変貌は悪夢か、奇跡か。

 瞳に青い炎を宿した刺客が、祝福(ライスシャワー)の名を以て憧れに刃を突きつける。

 

 「ついてく。ついてく。マツカゼさんに─────()()()()!!!」

 

 真後ろに張り付くライスシャワー。

 マツカゼを風除けにしてスリップストリームを利用、体力を温存して最後に交わそうという動きだ。

 最初からマツカゼ1人に狙いを絞っている。

 ターゲットが先頭にならないと成立しない作戦だが、どうやらマツカゼがゴール前で先頭になる事を確信しているらしい。

 激化する先頭争いに不意打ちで先団に躍り出たゴールドシップ、自分を徹底マークするライスシャワー。

 そして今、スパートを掛けたシンボリルドルフ。

 震えがゾワゾワと背骨を上る。

 仕掛けるならばここ。勝負の刻は今。

 笑うように歪む口角を必死に抑え、改めてマツカゼはスパートの体勢をとろうとした。

 その、瞬間。

 

 「こっちだよ。()()()()()()

 

 すぐ前を走っていたフジキセキが、す、と外側にズレて内側の進路を開ける。

 それを見て、彼女の意図を理解した瞬間。

 マツカゼの中で、感情が勢いよく弾け飛んだ。

 

 

 

 情景が重なる。

 今となっては誰が覚えているだろう。

 走り続けた果て、全てのウマ娘が自分を倒そうと噛み付いてきたあのレース。

 あれ以上の栄光はないと信じていた。

 しかしどうやら、同じものがここにある。

 色褪せたフィルムが鮮やかに色づくように、蘇った歓喜と誇りが身体の隅々まで満ちていく。

 

 「・・・・・・はは」

 

 笑みが(こぼ)れた。

 闘争の最中とはかけ離れた、優しい微笑み。

 (あふ)れる感情に引き伸ばされた緩やかな刹那の間。ここにはいない友人に、マツカゼは心の中で空まで届けとばかりに叫ぶ。

 

 ───()()()()()。見てるかい。

 

 あたしらが必死で耕した土は─────こんなにも立派な花畑になったよ、と。

 

 

 

 自分の得意な走りで勝負する。

 出走者全員がその方針でいる以上、強豪たちに対する自分の位置取りと進路の確保の重要性は通常のレースよりも跳ね上がる。

 ウマ娘たちが他の走者に進路を塞がれるのを防ぐために前が開けた場所についたため、隊列は横に広がっている。

 フジキセキはそれを利用した。

 最終直前に入る第4コーナー。外側に膨らんで内側を開ける事で不良バ場に誘導しつつ広がったバ群にマツカゼを引っ掛け、なおかつ外を回って(かわ)すルートを塞ぐ。

 彼女が取ったのは自分の進路を確保した上で標的の足を引っ張る、そういう作戦だった。

 無自覚にふっかけたのは自分とはいえ、己を駄バと侮った者への反撃。

 その効果の程を知るためにフジキセキはちらりと後ろを振り返る。

 自分の左斜め後ろ。

 そこに網にかかったマツカゼがいるはずだ。

 いるはずだった。

 

 一瞬、思考が空白になる。

 そこにいるはずの彼女がいない。

 後ろにも前にも、そして横にも。

 確かに罠に嵌めたはずの彼女が、絶句しているライスシャワーを残して忽然と─────

 

 (消え──────)

 

 

 

 

 

 

 

 あの時、確かに地面が揺れた。

 後にフジキセキは、その時の事をそう語っている。

 

 

 

 ドンッッッ!!!!と。

 轟音と共に視界の外、()()()()()()()()()()()()

 そんなはずはない。フジキセキは一瞬、この現実を拒絶しそうになった。

 だってそこは左回りの外側。塞いだはずのルート。

 しかし直後、自分の前に躍り出たその背中を見て、もはや認めざるを得なくなる。

 今の轟音は彼女が地面を蹴った音なのだと。

 自分が講じた策は彼女にとって、濡れ紙ほどの障壁にもならなかったのだと───。

 

 「あーーーーっはっはっはっはっはっは!!!!」

 

 塞がれた外側の、さらに外。

 外側の(ラチ)近くを走っていたフジキセキよりもさらに外に膨らみながら加速、針穴ほどの隙間から平然と仕掛け網を突破した。

 重心は低く、歩幅を大きく。

 芝を噛んだ蹄鉄が彼女の膂力を余さず前進のエネルギーへと変換し、マツカゼは爆発するような勢いで前に出た。

 心底楽しそうな高笑いに、地鳴りのような足音を混ぜ合わせながら。

 

 

     ◆

 

 

 「あーーーーっはっはっはっはっはっは!!!!」

 

 マツカゼの追い上げが始まった。

 彼女がその常識外れの足腰を本気で使ったら、一体どれだけの速度が生まれるのか────グラウンドでの彼女の逸話を聞いた者全員が思い、心待ちにしていた光景でもある。

 わああああああああっっ!!!と大歓声が上がった。

 考えられないルートでフジキセキを抜き去ったことや地面を鳴らすほどの脚力、一瞬の内に始まった超常に全員が仰天、熱狂の叫びを上げる。

 しかし冷や汗を掻いた《スピカ》トレーナーの動揺は、ウマ娘の安全を第一とするトレーナーとしての恐怖故か。

 彼女の乗った速度域から予想できる最悪の結末に、彼は思わず叫んでいた。

 

 「ちょっとでもヨレたら外(ラチ)に触れるぞ!? どんだけ大外回してんだあいつ!!!」

 

 思わず頭を抱えそうになる。

 身一つで自動車を優に超える速度を叩き出す彼女らは、柵に軽く当たるだけで大怪我に繋がりかねない。さらにそこで転倒してしまえばどれだけ悲惨な連鎖が発生してしまうか・・・・・・

 だが彼女にそれを恐れる気配は一切ない。

 大笑いしながら地響きを引き連れ、マツカゼは一気にごぼう抜きにかかる。

 しかし当然放置する者はいない。外目を走っていたウマ娘2人が即座に妨害に動いた。

 2人は外側へとポジショニングを変更。

 進路妨害と判定されないようマツカゼの走る進路を塞ぐのではなく、狭めるような位置につけた。

 無理に通ろうとすれば外柵にぶつかる。それを嫌って進路を変えればその分スタミナとスピードは削がれるだろう。

 とはいえ疾走中の横移動により自分の体力も削れてしまうが・・・・・・やるしかない。何もしなければ抜き去られて終わるのだ。

 そして────来た。

 猛追してくるマツカゼが真っ直ぐに、曲がらず、一直線に自分たちが狭めたルートへと─────

 

 「「むっ・・・・・・無理ぃぃぃぃいいい!!!」」

 

 ()()()

 迫り来るマツカゼの圧力に屈したウマ娘たちが、妨害するための位置取りから怯えるように退く。その直後にマツカゼが横を抜き去っていった。

 機関車が真横を通ったかのように巻き起こる風に、彼女らは自分の恐怖が正しかったことを確信した。

 妨害だと? 冗談じゃない。

 あんな暴走機関車に接触でもしようものなら────()()()()()()()()!!

 最終コーナーから遅すぎるとすら思えたタイミングで仕掛け、出鼻を挫こうとした策を突破し、妨害に至っては何もしないまま退けた。

 あまりにも突き抜けたその走りに、見る者全てが息を呑んだ。

 

 ─────末脚に優れるウマ娘は、その脚を時に刃物に例えられる。

 しかしあれは刀なんて優美なものではない。

 カミソリなんて軽いものでもない。

 鋭く研がれた極大の力が、常識外れの大外からバ群を撫で切っていく。

 その様に飾り気などない。

 全ての敵を正面から、力で断ち割る武骨な刃。

 そう。あれは───

 

 まるで─────(なた)だ。

 

 

 「な・・・・・・っ!?」

 

 「い゛っっ!?」

 

 「ゔぇえ゛!?!?」

 

 後方からのプレッシャーに思わず振り返ったダイワスカーレットにゴールドシップ、トウカイテイオーが漏らした悲鳴は、シンボリルドルフが差しに来ているという分かりきった展開に対してのものではない。

 そのさらに後方から突っ込んできた挑戦者が、スパートを掛けた()()シンボリルドルフの後ろから猛追してくる異常事態を目撃してしまったからだ。

 上位3人を射程圏内に収めたルドルフ。

 3番手のテイオーより後ろにいる彼女が、迫ってくる()()に気付いていないはずがない。

 彼女の場合は振り向く必要すらなかったのだ。

 

 地鳴りが、来る。

 地面を鳴らす脚力が、脅威の源泉を運んでくる。

 背後で感じた存在感が徐々に強く、近くに。

 運動によるものとは違う種類の汗が肌に滲む。

 爆走の代償による疲労か、あるいは剥き出しの闘争心か。埒外の豪脚でここまで上がってきた彼女は今、どんな顔をしているのだろう。

 目指すべきゴール板から一瞬だけ目を外し、ちらりと視線を横に向けた。

 

 「並んじゃったねえ」

 

 残り600メートル。

 にぃ、と笑うマツカゼの顔が、シンボリルドルフに並びかけてきた。



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10話

 シンボリルドルフの凄まじい加速力のタネは、走る際の歩幅(ストライド)の広さにある。

 彼女はスパートを掛けた時の一歩で進む距離が、他のウマ娘たちの平均と比べてかなり大きいのだ。

 原理は簡単だが、その走法は彼女自身の強靭な肉体があって可能なもの。その点で言えばトウカイテイオーと同じ天賦のフォームと言えるかもしれない。

 しかし対するマツカゼはもっと簡単だ。

 フォームが正しい。足腰が有り得ないほど強い。

 それだけ。

 ルドルフの走りが特別な機構で大出力を叩き出すジェットエンジンとするのなら、マツカゼのそれは変わらない機構で基本性能を極限まで高めた大型船のエンジンと言えるだろう。

 そんな特別仕様の動力機関を搭載した2人の競り合いは、まず前を走っていた2人を呑み込んだ。

 

 スカーレットとテイオーだ。

 

 歯を食いしばって差し返そうと力を振り絞る2人だが、ルドルフとマツカゼとの差は開いていく。

 両者とも卓越した才能を持つとはいえ、まだ中等部。身体がまだ未完成という弱点が出てきた形だ。

 普通にレースをする分には問題なくとも、この2人に喰らいつくには力とスタミナが足りないのだ。

 その点、体格に優れるとはいえゴールドシップは恐るべき粘り強さでトップスピードを維持しているが・・・・・・そのトップスピードでやや負けている。

 おいおいヤベーよ、と汗の伝う笑みで疾走する彼女だが、だんだんと差を詰められていた。

 ───あたしも本気で走ってっけどよ。

 なんか会長、すげえマジじゃん。

 横を追い越していった2人をみて、ゴールドシップは口笛を吹いた。

 

 駆け引きの段階はとうに過ぎている。

 最終直線、組み立ててきたレースの総決算。

 残した脚とスタミナを全て燃やし尽くして刻む、最速の残り600メートル(上がり3ハロン)

 肩を並べた2つの弾丸が、他の誰よりも疾く駆け抜けていく。

 

 「はっ、はっ、はっ、・・・・・・っ・・・・・・ッッッ!!」

 

 テイオーとの模擬レースでも疲労を見せなかったシンボリルドルフが、鬼気迫る表情で芝を蹴る。

 もはや横目で横の彼女を確認する余裕もない。土まで揺るがすその足音に心臓の拍動が狂わされているとすら感じた。

 息が切れる。

 上体が上がりそうになる。

 いつものフォームが辛い。

 普段なら問題なく最後まで走り抜けられる第4コーナー終わりの上り坂が、途方も無く長く感じる。

 たったの200メートル足らずでごっそりと削られていた。物理的な圧すら錯覚するプレッシャーがルドルフのペースを狂わせる。

 それに対してマツカゼはこの上り坂にあっても、聞こえてくる息遣いや足音のペースに一切の乱れが無い。

 

 ただ並ばれただけならここまで消耗はしない。

 全力で走っても引き剥がせない。

 振り絞っている自分に対して、向こうは余裕綽々に笑いかけてくるだけのゆとりがあるのが精神を圧迫してくる。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 それが彼女を余計に焦燥させている。

 

 かつて居ただろうか。

 これほどの敵が。

 競り合ってきた誰よりも強く、競り合ってきた誰よりも深い。ただ隣を走っているだけで、全力を振り絞ってなお対岸が見えない広大な海を泳いでいるような疲労感。

 手足に絡みつく重たい水の正体は、間違いなく敗北へのプレッシャーで・・・・・・・・・

 そこで彼女は、ふと気付く。

 

 ─────焦燥。重圧。

 ───恐れているのか、私は。

 走る事のみにリソースを割いた脳が出力した、単純なシグナル。

 己の心に滲み出てきた感情の正体を自覚したルドルフは一瞬、その意識がレースではなく己自身に向けられた。

 

 

 

 『勝利よりたった3度の敗北を語りたくなる』。

 人々にそう言わしめる程に勝利を重ねてきた自分がその感覚を味わったのはいつ以来か。

 勝って当然というある種身勝手とすら言える期待に応え続け、いつしか『皇帝』の名を戴くまでに何度味わった感覚だったか。

 重ねた勝利に埋もれて忘れていたのだろうか?

 ・・・・・・否。忘れられるはずがない。

 ぞわりと心臓を舐める敗北への恐怖。背中から詰めてくる執念の重圧。

 己を奈落へと追い立てる追跡者たちの息遣いは、最前線からは身を引いた今も生々しく自分の背中に貼りついている。

 恐怖も、焦燥も、初めてではない。

 強者として向けられる敵意の矛の数と質は、他の誰よりも多かったという自負がある。────無論、輝きを増す栄光の裏で色濃くなっていく、期待と言う名の重圧の影も。

 

 

 では何故、自分は今この場所にいる?

 決まっている。それら全てを捻じ伏せたからだ。

 

 

 (ああ───)

 

 身体が軽い。呼吸ができる。

 知らず知らずの内についていた贅肉を削ぎ落とされていくような、そんな身軽さ。鉛のようだった脚が、飛んでいくように前へと進む。

 この感覚は知っている。

 負けられない理由。自分が走る理由。爆発する想いの全てを鍵として開く、()()()()()()()()()

 窮地に削られ剥き出しになった己の中心は、ただ1つの目的に向けて不要なもの全てを切り捨てていく。

 

 ふと可笑しく思う。

 因縁の好敵手という訳でもなく、討ち果たすべき敵というには余りにも憎めない彼女に、なぜ自分はこんなにも勝利を熱望しているのだろう。

 ─────()()()()

 その理由を探ることに意味はない、と彼女の無意識は切り捨てる。

 

 マツカゼ。君に礼を言おう。

 予想だにしなかった君の強さが私に、私自身の強さと、最高の走りを思い出させてくれた。

 全力で駆ける歓喜の礼は、勝利を以て示そうか。

 

 

 

 「さあ。『絶対』を見せてやる」

 

 

 

 そうして彼女の世界から、一切の音が消え去った。

 

 

 

 最終直線の上り坂の終わり、残り400メートル地点。平坦な路に入ったマツカゼが一瞬(ほう)ける。

 苦しそうな顔で隣を走っていた相手が瞬間移動してしまったからだ。

 彼女は前に出ている。

 その背中を見ているのは、自分。

 

 全ての楔を引き千切ったシンボリルドルフが、マツカゼを一気に後方へと置き去った。

 

 ─────時代を創るウマ娘がいる。

 そんなウマ娘が必ず至る"場所"がある。

 限界の先の先。己すら知らない己の豪脚。自分以外の全てを排した、どこまでも静かな1人だけの世界。

 

 誰がその場所をそう名付けたのかは分からない。

 

 

 ただ自らが至った別世界のようなその場所を、彼女らは"領域(ゾーン)"と呼んでいた。

 

 

 

 

 

 何も聴こえない。

 風の音や歓声、自分の足音。暴れる心臓の拍動も。

 極限の集中力がそう感じさせる、まるで世界が自分1人だけになったような感覚。

 全身に漲る力が淀みなく流れ、一歩一歩が走るのではなく飛ぶ。走ることを至上とする者が渇望して止まない境地にも心が波立つことはない。何故ならそれは奇跡ではなく、己の中にあって当然の力だからだ。

 自分の前には何もない。

 自分の周囲にも何もない。

 ただ300メートルという僅かな先に、自分が1番に超えるべきゴールラインがあるべき結末を受け入れるように横たわっている。

 

 自分が勝つ。

 願うまでもない、そんな確信。

 誰より静かに、しかし何よりも疾く。真に疾風と化したルドルフは、音に届くような速度で栄光へ至らんと駆け抜ける。

 その様には観客どころか、他の出走者すらも彼女の勝利を確信しただろう。

 あの場所に没入(はい)った皇帝に追いつける者など誰もいない事を、彼女は勝利で示し続けてきたのだから。

 

 

 時代を創るウマ娘がいる。

 そんなウマ娘が必ず至る"領域"がある。

 

 

 

 ならば。

 

 

 

 その"領域"すら侵す者は一体、何を創ったウマ娘なのだろう。

 

 

 

 どん、と小さな音が聴こえた。

 無音なはずのルドルフの世界に混ざった、ほんの僅かなノイズ。

 走ることと勝利すること、それ以外の全てを排された領域になぜそんなものが混ざったのだろう。

 しかし、どん、どん、ドン、ドン、と繰り返される音は、そんな疑問を抱く暇もなく大きくなっていく。

 大きくなっていく? 違う。

 近付いてきているのだ。

 他の全てを廃する集中力に割り込む程の、異形とすら言える存在が。

 もはや無視はできない。

 自分以外は誰もいないはずの静かな領域に、確かに彼女は割り込んできた。

 

 ─────並んだ!! マツカゼが並んできた!!!

 

 誰かがそう叫んだのが、薄らと聴こえてきた。

 

 

 そしてルドルフの領域は、地響きと共に砕かれた。

 果たして自分は何と走っているのだろう。そんな疑問がどこか他人事のように脳裏に浮かぶ。

 昇りゆく陽。(はし)る山。その存在感を言葉にするならばどんな表現が適切だろうか。

 ウマ娘が走っているのではなく、まるで『勝利』がウマ娘の形をして走っているかのような。

 彼女の横を走っているのは、そういう現象だった。

 

 

 ゴール板まで残り200メートル。

 先の先に至った怪物2匹が、ハナを争い鎬を削る。

 皇帝が無名の化物を討ち果たすか。

 無名の化物が皇帝を捩じ伏せるか。

 10秒足らずの一騎打ちが、始まる。

 

 渦巻く声の大群も、今の2人には届かない。彼女らはもう隣を確認する事も、まして後ろを見る事もなかった。

 ただ我武者羅(がむしゃら)に前へ、前へ。

 隣から鳴り響いてくる地鳴りのような足音ももう意識に入らない。

 マツカゼのプレッシャーに乱された極限の集中力は、再びゴールのみへと向けられた。

 肉体が軋むのが理解(わか)る。

 食いしばった奥歯から鉄の味が滲んできた。

 畳みかけるように襲ってくる限界の代償を、ルドルフは『だからどうした』と切り捨てた。

 挑戦者を迎え撃つ。学園の矜持を示す。勝負に臨むために並べた建前のそれら全てがどうでもいい。

 ─────吼えた。

 勝ちたい。勝ちたい。何としても。

 明日。いや1週間、いや1ヶ月。向こう数ヶ月は足腰立たなくなってもいい!

 ただこの一時(ひととき)! この瞬間!!

 己の何を代償にしてでも、彼女1人を上回るだけの力を!!!

 

 

 「はぁぁぁああああ───ッッッ!!!」

 

 「カァァァァアアアアアッッッ !!!

 

 

 

 

 

 

 残り100メートル。

 

 横に並んでいた2人のうち、片方が前に出た。

 

 抜き去られた方も負けじと脚を回すが、離された差は縮まらない。相手の背中は少しずつ、しかし着実に自分から遠ざかっていく。

 

 それでも走る。勝つために走る。

 最後まで自分の勝利を信じて、ごく僅かに残った距離を全力で駆けていく。

 

 絶対に勝ちたいと願った勝負をここまで来て諦めるなど、今まで築いた誇りと矜持が絶対に有り得ないと叫んでいるのだから。

 

 

 そして残り50メートル。

 やがて10メートル。

 起こり得た可能性が1つに収束し、間もなく全てが終わる頃。

 

 (・・・・・・ああ、そうだ。この走りは─────)

 

 

 己の前を走る背中。

 

 彼女が背負った御仏(みほとけ)の姿に、ルドルフは己の抱いていた疑念の全てが氷解した。

 

 

 

 

 

 

 そしてその時は訪れる。

 

 

 先頭を走っていた者が1番にゴールラインを通過し、1秒程の間もなく2番手が通過した。

 錚々たる面子が揃う中で1着を獲った彼女はゴールを通った瞬間にスッと力を抜き、緩やかに減速。そして誰よりも早く脚を止めて後ろを振り向いた。

 

 続けてゴールを通過し、全力疾走の勢いのままオーバーランする者。

 必死の形相で走り、今まさにゴールした者。

 着外が確定して、それでもなお全力でゴールを目指す者。

 

 誰も彼もが強く、愛おしい。

 込み上げてくる喜びにいっそ全員を抱き締めたくなるが、今はただ空に掲げよう。

 全てを蹴散らし勝ち取った、気高き栄誉と栄光を。

 

 誰よりも先を走った勝者は己の後ろに向けて、ただ真っ直ぐに握り拳を天に突き上げた。

 

 

 「─────ゴールイン!! ()()()()()()!!

 ()()()()()()ッッ!!!

 ()()()()()()()()()()──────ッ!!!」

 

 

 ゴールラインに立っていたトレーナーが叫ぶ。

 直後に爆発した熱狂の大歓声が、曇天の空を震わせて轟いた。

 彼女に遅れてゴールし悔しさを滲ませる者たちも、彼女の顔を見て思わず笑いが漏れてしまう。

 

 拳を突き上げたマツカゼは何よりも明るく力強い、太陽のような笑顔だった。

 




 次回、最終回。


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11話

 ドオオオオオオオオ!!!と突き上がる観客たちの叫びは様々な物の集まりだった。

 勝者への賞賛に応援していた出走者への労い。興奮のあまり思わず隣にいる者と抱き合って(はしゃ)いでいるウマ娘もいる。

 挑戦者の勝利とは即ち学園側の敗北になるのだが、それを気にしている者は誰もいない。全員がよもやの道場破りを成し遂げた英雄を讃えている。

 競走バの頂点、『皇帝』シンボリルドルフを倒すというのは、つまりそういう事だった。

 

 「凄い、嘘でしょ!? 会長に勝っちゃった!!」

 

 「なんて末脚。本気のあの人を交わすなんて・・・・・・!」

 

 「あの子を鍛えたトレーナーは誰!? どうしてあんなウマ娘が今まで見つからないままだったの!?」

 

 突如として現れた次世代の怪物に沸き立つのはウマ娘だけではない。彼女らを教え導く者らにとっても青天の霹靂だった。

 口の中の飴を噛み砕き、《スピカ》トレーナーは知らず知らずの内に身を乗り出していた。

 背筋に走る震えは畏怖にも似ていた。

 非の打ち所がない好スタートからの、レース中盤の大胆な息の入れ方。さらに終盤に見せた躊躇いのないコース取り。

 最初から最後まで彼女は、徹底的に自分のやりたいように走ってのけた!

 

 「何て楽しそうに・・・・・・、なんって自由に走るウマ娘なんだ・・・・・・っ!!」

 

 ・・・・・・だが当然、光があれば影もある。

 さっきも言った通り、会場の歓声は勝者のみに向けられたものではない。結果に関わらず最後まで全力で走り抜いた者への労いの声も、1つの巨大な塊となった音の中には充分に込められている。

 だがその想いは、少なくとも今は届かない。

 敗者にとって歓声というものは、自分の手が届かなかった別世界で発生した現象でしかないのだから。

 

 「ぜぇ、はっ、はぁっ・・・・・・!」

 

 全力を出し切って完全に息を切らしているシンボリルドルフ。

 膝に手をついてぜぇぜぇと喘鳴を吐くその姿に、上に立つ『皇帝』としての品格はない。そういう品格や建前、全ての外面を(なげう)って走ったのだから当然だ。

 ─────勝ちたかった。何としても。

 迎え撃つ生徒たちの長としてではなくもっと根本の、シンボリルドルフというウマ娘として。

 

 「ふぅっ─────。やあやあ何だい、()()()()()()()。随分とお疲れみたいじゃないか」

 

 聞こえてきた声に顔を上げ、そして疲労に丸めていた背中を気力で起こす。敗北を喫した身だとしても、物理的にも見下ろされるのは御免被る。

 捲れた土をざくざくと踏みつつ、にぃ、と笑うマツカゼが近寄ってきた。

 

 「恐ろしいもんだよ。流石の一言、見事な走りだった。けどあたしが思うにねえ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 「()()()()()()()()()()()()()()・・・・・・!」

 

 舐めてんじゃねえぞ、というマツカゼの婉曲な煽りをルドルフは断固として否定する。

 そもそもマツカゼがいなかったとしても気を抜けば負ける程のメンバーが揃っていたレースだ。

 断じて下に見てなどいない。挑まれた側として自分は間違いなく本気で走った。

 それでも尚、目の前のウマ娘には及ばなかったが。

 

 「やっぱ音に聞こえた皇帝様の名は伊達じゃあない。全力で走っても何バ身差とまではいかなかった。

 ・・・・・・けど! 先にゴールしちまえば! ハナ差だろうが勝ちは勝ちさね!」

 

 ・・・・・・言ってくれる。

 ふんすと鼻息を吐きつつ胸を張るマツカゼに、ルドルフは若干青筋を浮かべそうになった。

 まあ引っ叩きたくなるくらい清々しい勝ち誇り具合なのだが、それも勝者の特権だ。ルドルフの(はらわた)を煮立たせているのはそこではない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 走りきった息切れからまだ回復していない自分に対して、彼女には明確な余裕がある。

 マツカゼは確かに言葉通り全力で走ったのだろう。

 ただし────本気ではなかった。

 例えるなら7割の力で勝てる勝負に、きっちり7割だけ使って勝ったようなもの。

 互いに全てを出し切った上での決着ならもっと絆も芽生えたであろうものを、それがどれだけシンボリルドルフのプライドを抉ったかは察するに余りある。

 しかし敗北は敗北、負け惜しみなど吐かないがせめて()め付けてやろうかとマツカゼの目を見た時、ルドルフは一瞬言葉を失う。

 侵入者という色眼鏡を外し、同じ芝で競い合った者として初めて彼女の目を見た。

 

 力強い目だった。

 目力や目つきの話ではない。強い光に深さを湛えた、吸い込まれそうな瞳。

 気圧されるような惹き込まれるような、なぜ今まで何も感じなかったんだと自分に疑問を抱く程に圧倒してくる眼差し。

 ・・・・・・あるいは彼女が、()()()()(ゆかり)のある者だと確信した故の見方の変化だろうか。

 無言で見つめられ首を傾げるマツカゼに正気に戻ったルドルフは、当初の個人的な目的を思い出した。

 そうだ。

 自分は彼女にどうしても聞きたい事がある。

 

 「マツカゼ。君の────」

 

 「ああっ!」

 

 急に叫んだマツカゼがルドルフの前から走り去る。

 何があったのかとそちらを見れば、彼女が向かう先にはライスシャワーがいた。

 あの恐るべき末脚で千切られてもなお追いつこうと全力疾走したせいか、完全に体力を使い果たしてヘロヘロと歩いている。

 今にも倒れそうな様子の彼女をぶつかるような勢いで抱き締めたマツカゼは、そのままわしゃわしゃと頭を撫でつつ頬擦りを始めた。

 

 「ん〜〜〜〜〜〜〜っっ!! 何だいライスちゃんやれば出来る子なんじゃないか!!

  ああもう何って ()()なんだい!? こんないい子に想われて()()()()って子は幸せもんだあ!」

 

 「ゼぇー、ひゅぅー、ま、まつかぜ、しゃ、」

 

 「あ。()()()()()あんたまーた小ウマ呼ばわりしてくれやがったねえ。じゃあその小ウマに負けたあんたは何なんだい? ええ? どうなんだい何とか言えよこの驢馬(ろば)がよう」

 

 「・・・・・・返す言葉もないよ。挑発して負けた以上は潔く受け入れるしかないね」

 

 「いやいや、とはいえ良い発想してたよお? バ群と不良バ場の仕掛け網、前のレースであたしを負かそうとしたヤツと同じ嵌め方だ。同じやり方で初見で突破してやったのを思い出したねえ」

 

 「いや大概いい性格してるな君は・・・・・・!」

 

 胸に抱いた疲労困憊のライスシャワーをおにぎりにする勢いで愛でつつフジキセキを詰めるマツカゼに迫る沢山の影。

 言うまでもなく他の出走者たちだ。

 観客は勿論、実際に走った彼女らがここまでの走りを見せられておいて「負けちゃいました」で終わらせられる者などいるはずもなく、マツカゼはあっという間に鼻息荒くしたウマ娘たちに囲まれた。

 

 「あの、普段どんなトレーニングを!? どうやったらあんな足腰が身に付くんですか!?」

 

 「やっぱ蹄鉄か!? あの蹄鉄で鍛えてんのか!?」

 

 「ちくわ大明神」

 

 「うあーっ、カイチョーに勝つのはボクだったのにーっ! 悔しい悔しいもういっかーい!!」

 

 「あっはっは誰だい今の」

 

 ええい一列に並べい、と鹿せんべい片手に身動き取れなくなった奈良公園の観光客みたいになっているマツカゼが群がってくる他の出走者たちを整理しようとしていた。

 なおその間も彼女はライスシャワーをこねくり回し続けており、抵抗を諦めたらしい彼女がおにぎりを通り越しておもちに変貌しつつある。

 そんな騒がしい様子をルドルフは1人輪の外から眺めていた。

 ・・・・・・敗残の将とは寂しいものだな。

 そう呟いて笑う彼女の傍に靴音が1つ。そちらを見ると見慣れた気品あるアイシャドウのウマ娘が、いつものようにそこにいた。

 

 「会長、お疲れ様でした。とんでもない相手でしたね。・・・・・・どうしましたか?」

 

 「いや。何でもないよ・・・・・・そうだな、エアグルーヴ。最高の走りをして、それでも勝てなかった。本当に凄まじいウマ娘だったよ」

 

 「この結果を想像はしても、奴の器を見抜いた者はいなかったでしょう。レースに絶対はないと言いますが、あの領域に入った貴女の勝利を疑うことはありませんでした」

 

 「私もだ。夜郎自大になったつもりもなかったが・・・・・・全く、私の世界もまだまだ狭いな」

 

 願いも虚しく一列にはなってもらえないままマツカゼはウマ娘たちの中に埋もれている。

 誰も彼もが彼女に夢中だ。

 居ても立っても居られず降りてきたらしい《スピカ》トレーナーがマツカゼに抱き着かんばかりの勢いで迫り、やめんか馬鹿者とチームメンバーに引き剥がされている。

 そんな騒ぎを横目で見つつ、エアグルーヴは固い表情でルドルフに言った。

 

 「ところで会長。マツカゼについて思い当たる事が・・・・・・」

 

 「ああ。ようやく私も心当たりがついたよ」

 

 言わずとも分かる、とルドルフが首を縦に振る。

 今まで感じてきた既視感の正体がようやく明らかになったのだ。

 浮かぶように落ち着かない高揚を胸に、ルドルフは集団に埋もれるマツカゼへと歩を進めていった。

 

 ウマ娘たちを掻き分けて彼女の手を握り、俺のチームで頑張ろうぜ!!と叫んだ。マツカゼが反応するよりも先にスカーレット達に引き剥がされた。

 捲れたターフに倒されて関節技を食らっている男性トレーナーの姿に非常にデジャヴを感じつつ、マツカゼは呆れたように腰に手を当てる。

 

 「お兄さんさあ、洒落(しゃれ)(なり)してるんならオンナの口説き方くらい覚えときなよう。今朝から(さか)ってるだけじゃあないかい」

 

 「いだだだだっ、だからそういうのじゃないっつーの!」

 

 「やかましい! そもそも勧誘にしたってウチの生徒じゃなかったでしょうがっ!!」

 

 「いやいや大丈夫だって! どうせ─────」

 

 

 「すまない。通してくれ」

 

 

 その一声で全員が静まり、観客席までもが沈黙した。

 通せと言ったのが彼女だと分かった途端、ざあっと集団が2つに割れて道を作る。

 ルドルフがマツカゼとの会話を望んでいるのだ。

 高き場所で激突した両雄がどんな言葉を交わすのか。自分たちの長がマツカゼにどのような言葉を発するのか、曇天の下で俄に緊張が高まっていく。

 そして自分と彼女を繋ぐように割れた一本道を歩き、ルドルフは改めてマツカゼの前に立った。

 

 「改めておめでとう。無念だが我々の完敗だ。君は見事にこの学園を打ち負かしてのけた。・・・・・・どうだったかな、我々の走りは」

 

 「そりゃあ大満足だよ。流石は中央。みんな強くて、みんなが勝つために全力だった。久方振りに燃えたねえ・・・・・・」

 

 「久方振り、か。その様子だと君は自分の学園では敵無しのようだな」

 

 「んー、そんなとこだねえ。『誰がトレーナーでも勝てる』なんて言われた位には。いや他のみんなも強いんだけどさ、どうしてもねえ」

 

 「そうか。あるいは君がその環境に()いているのであれば・・・・・・私はそれを解決する事ができるな」

 

 「?」

 

 首を傾げるマツカゼ。

 そんな彼女にルドルフは己の手を差し出した。

 そして有無を言わせぬ強さを込めて、彼女は言う。

 

 

 「マツカゼ。─────トレセン(この)学園に来い」



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12話

 風が吹き始めた。

 夏の夕方、曇天に蒸された気温が肌を撫でる。

 ざわりと揺れる周囲。静かに見据える一部の者。

 ほらなこうなったろ!?と騒ぐトレーナーが強制的に黙らされた。

 目を丸くするマツカゼを、ルドルフは駆け引き無しの直球で口説き落としにかかる。

 

 「その力は学園に是が非でも欲しい。君ならば特待生として(ぐう)される事も容易いし、それに異を唱える者はいないだろう。君は間違いなくそれに足る実力を示してみせた」

 

 「ルドルフちゃん」

 

 「強者は君に挑み、君にあてられた者はさらに研鑽を積む。君の心を燃やすだけの勝負は保証しよう。

 それに私も、君とはもっと個人的に話したいんだ。()()()()()()()()()()()()()()()。そして、・・・・・・・・・()()()()()()()()()()()()()()

 

 マツカゼの言葉が止まり、そしてルドルフの生徒会長としての顔はそこで崩れた。

 差し出した手の指は鉤爪に、口元から覗く歯は牙に変わる。

 マツカゼを射抜く薄紫色の瞳に燃える光は、そう錯覚させるには充分な熱量だった。

 

 「悪いが選択の余地は与えない。どうやってでも君にはこちらに来てもらうぞ。君を倒さずには終われん。勝ち逃げなど許さんと私が、いや、()()()そう言っているんだ・・・・・・!!」

 

 ビリビリと刺すような気迫を放つのは彼女だけではない。

 このレースを走った者たち全てが圧倒的な力にも怯まずに闘争心を眼光に乗せてマツカゼを貫く。観客席にいるナリタブライアンなどは殺気すら放っていた。

 シンボリルドルフは猛る彼女らの代弁者であり、同時に自らもまた再戦を望む者だった。

 剥がされた皇帝の品格の下から現れた、牙を剥くような獅子の本性。

 この手を取れ、さもなくば喉笛を噛み千切る。

 マツカゼに差し出されたルドルフの手は握手ではなく、復讐の牙がずらりと並んだ虎口に手招きする修羅の誘いである。

 

 「いいねえ。そりゃ素敵なお誘いだあ」

 

 風が少し強くなった。

 踊る空気に自らの鹿毛を舞わせ、ふふ、とマツカゼは目を伏せて笑う。

 

 「ここまでの名誉はそうそう無い。自分に勝ちたい奴らに求められた場所で鍛えて、競って、走って笑う。・・・・・・そいつはどんなに楽しい事だろうねえ」

 

 そう言ってマツカゼは差し出された手に応えた。

 即ち、肯定。ルドルフの誘いに乗るという意思表示。

 同じように差し出された手がルドルフの手と重なり、結ばれようとする。

 偉大なる両雄が互いの手を握り、新たな怪物が全国に名乗りを上げるという事。張り詰めていた空気が大歓声で弾けようとする。

 

 その瞬間。

 

 ルドルフが歓喜の目で見つめていた彼女は、寂しげに笑っていた。

 

 

 

 

 「─────ああ。でも、残念。時間切れ」

 

 

 

 

 (とお)り抜けた。

 

 

 差し出された手を握ろうとしたシンボリルドルフの右手が、マツカゼの手をすり抜ける。

 

 

 あるはずの肉体に触れた感触がない。

 

 それどころかルドルフの手が通過したマツカゼの手が小さな光の粒子となって、風に吹かれた綿毛のように散ってしまった。

 

 

 脳の処理が追いつかない。

 あるべき質量が存在せず、有り得ざるべき現象が発生した。

 立体映像のような映像技術か。何とか納得のいく説明をつけようとしても、持っている知識はついさっき大地を抉って走っていた彼女に対して何ら説得力を持ってくれない。

 自分の手首に集まって何とか手の形を保とうとする光の群れを眺めつつ、マツカゼは大きく溜め息を吐いた。

 

 「お釈迦様も殺生だあ、『名前がバレたらおしまい』だなんてねえ。どうせ長くても3日程度しか居られないんだから、そのくらい融通してくれてもいいじゃないか」

 

 「なに、を、言って───・・・・・・?」

 

 「走りと勝負服を受け継いだ者ねえ。なかなかロマンチックな推測をしてくれたみたいだけど? 残念ながらそりゃ間違いだ。あたしが受け継いだんじゃない。あたしがみんなに託したのさ」

 

 「まて、説明を」

 

 「ところでどうだい、あたしと走って学ぶところはあったかい? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()、分かりませんじゃあ承知しないよう」

 

 そう話している間にも、マツカゼの身体は段々と光の粒子に置き換わっていく。

 観客たちも何か異常な現象が起きていることを理解し始めていた。戸惑うようにどよめく声がびゅうびゅうと鳴る風音に混ざる。

 バタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。

 そこにいたのは観客席から大慌てで降りてきたトレセン学園理事長とその秘書だ。

 取り乱していた理事長の目の焦点が定まっている。心の動揺は収まっていないが、いま目の前で起きている現実を受け止めた顔だ。

 口から飛び出したのは如何なる感情か、秋川やよいは体躯に似合わぬ大声を張り上げる。

 

 「傾注ーーーーーーッ!! そのウマ娘は、いや、()()()()()()()()()()()()()()()()ッッッ!!!」

 

 「ああ、理事長さんが見破ったのかい。ちびっ子は純粋だねえ。理屈で考えれば有り得ないって思ってくれると思ってたんだけど、そうはいかなかったかあ。

 ──────でも、あたしはもう満足したよ」

 

 

 「待て! では君は、()()()、まさか────」

 

 

 問おうとした口は塞がれた。

 人差し指でそれ以降の言葉を遮ったマツカゼは、そっとルドルフを抱き締めた。

 今や全身が光の粒子となって(ほど)けつつある彼女の身体からはやはりあるべき質量を感じず、重さどころか触れられている感触もない。

 しかし、確かにルドルフは感じた。

 抱き締めてくる彼女の、強く温かく包み込んでくるような、まるで母親のような温もりを。

 

 「ルドルフちゃん、これからもしっかりね。あんたみたいな娘がいるなら安心だ。立派な次の世代の担い手を、きっと育てておくれよ」

 

 「──────、」

 

 「みんなみんな立派だった。あたし達がやってきた事は無駄じゃなかったんだ。もう思い遺す事はない。

 本当はルドルフちゃんと、もっとみんなと走りたかったけど・・・・・・・・・これであたしも、安心してうちに還れるってもんだよ」

 

 そう語る声は少しだけ震えていた。

 抱き締めていた手を解いてルドルフから離れ、俯いていた顔を上げ毅然として前を向く。

 指で目尻に浮かんでいた煌めきを飛ばし、腰に手を当てて『彼女』は大きく胸を張った。

 ルドルフに。出走者たちに。ここにいる全ての人間とウマ娘たちに。

 力強い笑みを満面に浮かべた『彼女』は、これで最期だと朗々と大声を張り上げた。

 

 「さあ! 最期の言葉だ後輩共!!

 

 努々(ゆめゆめ)忘れるんじゃないよ!!!

 

 これを聞いている誰でもいい!! 走り続けたその果てで、この老骨を超えたと言わせてみせろ!!

 

 トレーナーに教師共!! あたしの走りに震えたのなら、そんな英雄をお前達の手で育ててみせろ!!

 

 燦然と輝く勝利の果てで、皆の歴史からあたしの存在を忘れさせてみせろ!!

 

 お前達ならそれが出来る!!

 

 何故なら今日、お前達が作り上げたレースにあたしの心は震えたからだ!!

 

 

 以上!!

 全幅の信頼を預け、名前を告げてあたしは還る!!

 

 今日の出来事は夢じゃない!

 あたしは確かにここにいた!!

 

 その胸と記憶にしっかり焼き付けな──────

 

 

 

 あたしの名は──────

 

 

 

 

 

  ───── 『シンザン』!!!!」

 

 

 

 

 

 

 ゴウッッッッ!!!と猛烈な烈風が吹き荒んだ。

 捲れた芝や土を派手に巻き込んだ大気のうねりが一帯を席巻、目も開けられない暴風に全員が顔を庇う。

 やがて少しずつ風は止み、恐る恐る目を開けて目の前の光景を見た。

 

 

 そこに彼女はもういなかった。

 

 影も形も、光の残滓も。

 まるで彼女の存在そのものが風に掻き消されたかのようなコースの頭上から、眩い光が薄暗い曇りの空模様に灯る。

 

 

 夕陽だ。

 

 

 空に厚く垂れ込めていた雲が割れ、顔を出した鮮やかな太陽。

 

 朱色に輝く日輪が空を赤く染め上げ、雲の隙間から地上へと光を落とす。

 

 熱戦の跡に差し込んだ、橙色の一条の光。

 それは雲が晴れるにつれ強く大きくなり、やがてはコースすべてを覆う。

 

 ─────彼女はここを昇っていったのだろうか。

 

 天から降ろされた梯子のような光の道に、そんな事を考えた。

 

 食堂での芦毛たちのやりとりをふと思い出す。

 

 

 ぞくり、と身体の芯から震えが起きた。

 恐怖ではない。ただただ、畏怖。そして高揚。あるいはそう表現できる感情の昂り。

 自分たちに降ってきた有り得ざる奇跡と胸に沸き上がる想いを表現するには、言葉というものは余りにも貧弱だった。

 

 彼女は2代目のようなものなのだと、シンボリルドルフはそう思っていた。

 

 『あの方』の教えを受け、その走りを受け継いだ者なのだと。

 持っていた才能と身に付けた実力を認められ、彼女の服を託されたのだと。顔が瓜二つなのは血縁者だからだと─────そう思っていた。

 ロマンチックな推測? そう思うのが自然だろう。

 ()()()()()()()()()()()()()

 

 「貴女の名前を歴史から忘れさせろ、か」

 

 見送るように空を仰ぐルドルフが独り()ちる。

 ─────日本の競走バの始まりにして頂点。

 『全てのウマ娘が幸せに暮らせる世を創る』。

 その生涯の目標を自分よりも先に掲げ、そして自分が目指すその世界の土台を創り上げた者。

 偉大なる先達、そして自分の憧れ。

 歴史の創始者から任された『宿題』の重さに、もはや彼女は笑う他なかった。

 

 「・・・・・・・・・無理を仰るな。まったく」

 

 

 そして、全員が理解する。

 

 

 自分たちは今日、神話を目撃し、伝説と共に走ったのだと。

 

 

 

 

 

 

 この日、マツカゼを名乗るウマ娘は消えた。

 

 ターフの上からだけではない。

 

 レースを撮影した映像や学園の監視カメラ、一緒に写ったスマートフォンの写真に至るまで、彼女の姿はどこにも残っていない。

 

 まるでそんなウマ娘など、最初から存在していなかったかのように。

 

 だけど、確かに彼女はここにいた。

 

 抉れた芝が、贈られた言葉が、目に焼き付いたその走りが、彼女の存在を示す何よりの証明。

 

 胸に刻み込まれた夏の日の奇跡の中で、今も彼女は笑いながら走り続けている。

 

 

 『神様が降りた日』。

 

 

 記録に残らないこの一幕はそんな名前の伝説として、トレセン学園の生徒たちに永く語り継がれていく事となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『シンザン』。

 

 (生)1961年4月2日 。

 (没)1996年7月13日。

 

 幼名を『松風』。

 

 まだGIII〜GIの国際的な格付けが導入されていなかった時代に皐月賞・日本ダービー・菊花賞のクラシック三冠に加え、天皇賞(秋)と有馬記念、そして宝塚記念を制覇。

 戦後日本初の三冠馬にして、八大競走の勝利数から日本競馬史上初の『五冠馬』の称号を与えられた競走馬である。

 

 天皇賞が勝ち抜け制でジャパンカップも存在しなかった当時、牡馬が出場可能だった全てのGI級レースを制し、出場するレースが無くなって引退。

 強すぎる踏み込みから自らの脚を守るために作られた、通常の2倍以上の重量を持つ蹄鉄『シンザン鉄』をレース外で常用しながら一切の故障なく競走馬を全うし、東京と京都で史上初となる2度の引退式を終えて種牡馬入りした。

 

 種牡馬となってからはスガノホマレやシルバーランドなど複数の重賞を獲得する産駒を多数送り出し、後年には菊花賞を制したミナガワマンナや、皐月賞と菊花賞、天皇賞(春)を勝利した代表産駒の二冠馬ミホシンザンを輩出。

 それによって外国産馬が持て囃され冷遇されていた内国産の種牡馬の地位を底上げし、後の内国産馬の活躍に大きく貢献した。

 

 そして1996年、日本最長寿記録を打ち立てて永眠。NHKのニュースにて「シンザンがお亡くなりになりました」と報じられる。

 戦後日本の競馬界に長く影響を与え続けた功績の大きさを讃え、『神馬』と呼ばれるようになった。

 

 そして彼の後から20年。

 日本競馬を引っ張り続けてきた「シンザンを超えろ」というスローガンは、シンボリルドルフの七冠達成により役目を終えた。

 

 『ミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアンと全ての三冠馬を見ているが、シンザンを超えた馬はいない』─────

 JRAの雑誌でそう答えた、かつてミハルカスなどの鞍上でシンザンと対決した加賀武見騎手のその言葉が真実なのかどうかは分からない。

 ただシンザンが日本ダービーで息も乱さず叩き出した記録は、後に三冠を達成するミスターシービーやシンボリルドルフを確かに上回っていた。

 

 

 『皇帝』シンボリルドルフに『英雄』ディープインパクト。

 シンザンの登場から40年、冠の数でシンザンを上回った稀代の優駿は確かに出現した。

 

 しかしてその戦績、19戦15勝───2着4回。

 

 かの神馬が打ち立てた連続連対数19回にして連対率100%という数字は、今もなお中央競馬のトップレコードに燦然と輝いている。

 

 

 

 

 

 

 【終わり】

 




 次ページ、後書きとなります。
 気が向きましたらどうぞお読みください。


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あとがき
お礼のことば


 このサイト凄いですね。

 ←この文字使えるんですよ。

 

 

 ここまでお読み下さりありがとうございます。

 『神よ賛えよ、我今来たる ─ウマ娘プリティーダービー─』、これにて完結と相成りました。

 自分はウマ娘はアプリから入った者なのですが、これを読んで下さった皆様はどのくらいの方が遊んでいるんでしょうか?

 ちなみに自分の推しウマはフジキセキです。

 勝負服が原案そのままで実装されたのは驚きました。

 ヒシアマゾンは2回も修正されたのになぜ彼女は許されたんでしょう。

 

 概要欄にも書きましたが、本当に突発的な衝動で書いた小説です。

 アプリのウマ娘を始めてからこの馬の存在を知り、その生涯に「何じゃこのバケモン・・・・・・」と圧倒されたのが始まりでした。

 これは凄い、と。

 この馬の存在は是非いろんな人に知ってもらいたいと、みんなを驚かせてやろうと、この二次創作はそんな思いで書き始めたものでした。

 

 みんなしってた。

 

 いや、それはいいんです。

 この馬は自分が思っていた以上にずっと有名な馬だったというだけですし、この小説で初めてシンザンという馬を知ったと思しき方もいらっしゃいました。

 それはとても嬉しい事です。

 

 でも2ページ目で見抜かれるのはおかしくないですか。

 

 どこでバレたんですか。タイトルですか。

 タイトルなら意図したものなのでしょうがないですが、夏負けした(くだり)で察したなら相当だと思います。

 とはいえマツカゼって書きすぎて「自分はマツカゼというオリジナルのウマ娘を書いているのでは・・・・・・?」と錯覚しつつあったので、皆様の大喜利は実はありがたかったです。

 

 そして何だかんだで完結。

 次回最終回とか言っておきながら長過ぎて二分割したりもしましたが、この短いお話でここまでの好評を頂けるとは思っていませんでした。

 シンザンを主役にした物語はこの作品含めていくつかあり、そのどれよりも早く終わってしまいましたが、この10数ページという短いお話で心ゆくまでバクシンできたと思っております。

 この小説に高評価を入れてランキングに乗せ、シンザンという馬の存在を広めようじゃありませんか。

 推薦文も書こうじゃありませんか。

 何なら挿絵も描こうじゃありませんか。

 私欲はこの位にして、最後にお礼の言葉を述べさせて頂きます。

 

 皆様、読了していただきありがとうございます。

 サイトにログインした時の皆様のご感想が何よりの励みでした。

 今後またウマ娘の話を書くかは分かりませんが、もしその時がくればまたアクセスしていただけると幸いです。

 ここまでのお付き合い、本当にありがとうございました。

 

 

 

 じゃ、自分は『愛が重バ場』タグを巡回してきますので・・・・・・。

 

 

 

 2021年7月14日 14:39



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