『遠く時の環の接する処で』【完結】 (OKAMEPON)
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『遠く時の環の接する処で』
『復讐者』


◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 叶えてはならない『想い』と言うモノがある事を、私は彼に出逢ってから初めて知った。

 

 遠い遠い……まだ幼く幸せであった頃の微睡む様な日々の中、夢見る幼子の為の寝物語の中で知ったその『言葉』が、息すら儘ならぬ程の苦しみを伴うものであると知っていれば。

 彼にそんな『想い』を抱く事も無かったのだろうか……。

 幼い頃に憧れたそれは、多くの人々から祝福される様な、奇跡だって起こしてしまえる様な素晴らしいものである筈だった。

 それがどうして、こんな……。

 

 何時か、大切なお父様を殺す人を。

 何時か、彼を信頼する全ての人を裏切る人を。

 何時か、この世界を『絶望の未来』へと導く人を。

 遠い『未来』の何時かで、私のお父様を殺した『彼』を。

 そして、必ず私がこの手で殺さねばならぬ人を。

 

 何故、私は──

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 『絶望の未来』を変える為に『過去』へと渡った時。

 ルキナが過去の『お父様』──クロムと最初の接触を果たした時点で、彼は既にクロムの傍に居た。

 

 何時か必ずクロムの命を奪う裏切り者である事は『知って』いたけれど、だからと言って即座に斬り殺して排除する事は出来ない程に、彼は『これから』のイーリスには無くてはならぬ存在である事もルキナは『知って』いた。

 彼の存在無くしてはイーリスは最初の大波であるペレジアとの戦争すらも乗り越えられなかったであろうとは、あの『未来』でも言われ続けていたし、実際彼と同等の知略を発揮出来る人間は今この時のイーリスには存在しないだろう。

 だからこそ、彼の存在が『絶望の未来』への分岐点であるとは承知していながらもその場で排除する事は出来なかった。

 少なくとも、ペレジアとの戦争とヴァルムからの侵攻。

 この二つの大波を乗り切らせるまでは、彼の首は繋げておく必要がある。

 また、その二つを乗り越えさせるまでは彼にイーリスを裏切らせる訳にはいかない。

 だからこそルキナは、これからの未来が自分が知る『歴史』から大きく外れない程度の干渉に留めなくてはならなかった。

 先ず第一に目指すべきは、『聖王エメリナの暗殺』の阻止だ。

 彼女が暗殺され国が混乱していた最中で始まったペレジアとの戦争は、長期に渡る泥沼の消耗戦へと発展してしまった。

 そんな中でも、クロムやあの裏切り者の活躍によって、何とか戦争はイーリスの勝利に終わったのだが……。

 しかし戦争の傷痕は深く、戦後復興も思うように進まぬ内に今度はヴァルムからの侵攻が始まってしまった。

 その二つの大波の所為で大陸全土が疲弊してしまっていたからこそ、ギムレーが蘇った後で急速に世界は滅びへの道を辿る事になってしまったのだ。

 『聖王エメリナ』が生存する事で、その『絶望の未来』へと至る道が少しでも変化する筈である。

 ……勿論、『聖王エメリナ』が生存すると言う事は、決して小さな改変ではない。

 ルキナが知る『未来』でエメリナの跡を継いで聖王となりイーリスを纏め上げたのは父クロムではあるが、エメリナが生存するならば当然その必要はなく。

 それによる変化によっては、どうかすれば『ルキナ』と言う存在が産まれる道すらをも絶つ可能性もある。

 ……その危険性は、既に承知している。

 

 この世界に産まれる可能性があった『ルキナ』を、存在そのものすら消し去る事になるのだとしても。

 

 それが、『絶望の未来』を防ぐ為の代償となるのならば、ルキナは支払わなければならない。

 その咎が、誰が知るものでは無いのだとしてもルキナの胸に一生刻まれる事になるのだとしても。

 

 ……それに、エメリナを生かそうとするのにはある種の打算的な目論見もあった。

 エメリナの生存は、二つの大波のその根本には強く干渉する事は無いからだ。

 エメリナ暗殺が起こったのはペレジアとの開戦直後であるし、聖王が誰であろうとヴァルム大陸からの侵略は起きる。

 戦争と言う二つの大波が変わらないなら、大局的に見ればルキナが知る未来と大きくは変わらない道を辿る可能性は高い。

 聖王であろうとなかろうとクロムの傍を彼は裏切るその瞬間までは離れる事は無いだろうし、その能力を遺憾無く発揮して戦争を勝利へと導いてくれる筈だ。

 それに。

 

 彼の目的が『聖王』であるのならば、彼がその命を奪おうとするのはクロムではなく聖王エメリナになるのかもしれない。

 そうでなくとも、ファルシオンを扱えるクロムが命を狙われる可能性は少しでも下がるであろう。

 クロムが生きていれば、そしてその手にファルシオンがあれば。

 きっと、『絶望の未来』に至る事は無い筈だ。

 結局の所、ルキナがエメリナの命を救おうとするのは、それがクロムの生涯に渡る悔恨であったからなどではなく、そうする事でクロムが死ぬ未来が少しでも遠ざかる可能性があるからである。

 幾ら繰り返し繰り返しクロムの口からその非業の死を語られ続けてきた伯母なのだとしても、ルキナにとっては生まれる前に既に故人であった人でしかない。

 父親よりも優先される人間には決して成り得なかった。

 クロムを死なせない。

この世界を『絶望の未来』になど至らせない。

 それが、ルキナの目的の全てである。

 その為ならば、『死んでいた者』をも利用するし、裏切り者を有効活用する為に泳がせておく事もする。

 自分のそう言った判断は、決して誉められたモノではない事はルキナも重々承知している。

 そもそも今のルキナの行動は、所詮は己れの世界を守り切る事が出来なかった敗者が、過去を改変すると言う禁じ手を行ってでも自らの望む結果を手にしようとしている……そんな悪足掻きでしかないのだろう。

 自分ではギムレーを倒せないからとあの未来から逃げ出して、『過去』の父達にその解決を委ねようとしているのと、本質的には大した違いはないのかもしれない。

 だが、ルキナはそれでも良かった。

 どんな言葉で飾り立てようとも、そもそも『過去』を変えると言う行為とは何処までいってもエゴ以外の何物でもないのだから。

 そう、ルキナは幼い頃に喪ってしまった父を助けたかった、あんな破滅的な未来をどうにかしたかった。

 詰まる所、それだけなのだ。

 だからこそ、ルキナはその為に全てを賭けるのだし、その為ならばどんな咎を背負う事になるのだとしても躊躇わない。

 例え、生まれる筈だった誰かを『存在しない者』にしてしまうのだとしても。

 例え、何れ『絶望の未来』へと辿り着くのだとしてもそこに確かにあったであろう数多の『幸せ』や『願い』を踏み躙り『無かった事』にしてしまうのだとしても。

 ……………………それでも。

 

 …………守られるだけであった無力な幼子であったあの日に喪ってしまった『父』が、生きていてくれるのなら。

 ……父亡き後の国を必死に支え我が子を守る為にその身を捧げてしまった『母』が、生きていてくれるのなら。

 例えそれが、『ルキナ』の親ではないのだとしても、ルキナが変えてしまった『未来』ではそもそも二人が結ばれる事はなくなってしまうのかもしれなくとも。

 ルキナには、ただただそれだけで良いのだ。

 

 それは剰りにも独善的で傲慢にも過ぎる想いなのであろう。

 咎人となる覚悟は既に定まってはいるが、そもそもその罪もその罰も、一体誰が正しく裁けると言うのだろうか。

 咎を背負う覚悟ですら、あまりにも自惚れた考えであるのかもしれない。

 しかしかと言って。

 世界を救う為なのだから、ギムレーがもたらす滅びからこの世を守る為なのだから、と。

 そう自分の行為を正当化する事は出来ない程度には、ルキナは傲慢には成りきれなかった。

 

 だが、決して自らを正当化出来ないのだとしても。

 最早ルキナは既に選択し、ここまで来てしまっている。

 今更、後戻りなど出来はしない。

 戻った所で一体何が出来るのか。

 全ての命が燃え尽きた滅びの大地で、自らの無力を嘆きながら無意味に死ぬのか? 

 そんなものは何の価値もない自己憐憫であろう。

 後悔に心が引き裂かれようとも、自分への憎悪と無力感に死を望みたくなろうとも。

 それでも、『過去』に戻り自分の傲慢を貫く事を選んだのは、  ルキナ自身である。

 それだけは、忘れてはならない。

 

 だからこそ、ルキナは何を対価とするのだとしても、『未来』を変えなければならないのだ。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 『聖王エメリナの暗殺』は阻止する事に成功したが、エメリナを生き延びさせる事は出来なかった。

 一度は救えた筈のその命は、ルキナの足掻きを嘲笑うかの如く、悪意の荒波の中へと沈み消えてしまった。

 暗殺で命を落とすか、敵国であるペレジアで自ら身を投げたかの違いはあるが。

 ルキナの行動は、エメリナの死期をほんの僅かに延ばしただけに過ぎなかった。

 その違いに、ルキナが足掻いた『意味』は、世界を救う為の変化への『兆し』があるのかは、今のルキナには分からない。

 結局の所、一つ一つの出来事や選択の〈善し悪し〉と言うモノは、歴史を大局的に見られる後世になってからでないと判別するのは難しい。

 例え『未来』を知る者であるのだとしても、当事者として精一杯に生きて足掻き続けるしかないルキナには、そう言った大局的なモノの見方など出来はしないのだから。

 

 エメリナの死に、彼が関ったのかはルキナには分からなかった。

 身を潜めながらも彼の動向には常に注意していたのだが、少なくとも、内通や何らかの裏切り行為を働いている様には見えなかったのだ。

 しかし、裏切り者である事は確定されているのだから、完全に白とも言い難い。

 ……まあ、彼が狙っているのはあくまでもクロムの命であり、『その時』までは忠実な軍師で在り続けるのかもしれないが。

 何にせよ、エメリナは死に、細部こそ異なれど、大局的な歴史としては概ねルキナが知る『歴史』とは大きくは外れてはいないのだろう。

 エメリナの死が少しだけ変わった影響からなのか、ルキナが知る『歴史』よりも早くにペレジアとの戦争は終結し、イーリスは早期から復興に取り掛かる事が出来ている。

 フェリア兵の損耗も、ルキナが知る『歴史』よりは少ない。

 凡そ二年後にヴァルム帝国が侵略してくる未来は変わらないのだとしても、復興により力を蓄えたイーリスと兵力の損耗を抑えられたフェリアなら、ルキナが知る『歴史』よりもよりイーリス側に優位に戦局を運べるのかもしれない。

 万が一に備えて各地に散らばっているであろう『宝玉』の位置を確認しておくべきではあるが、それでも、イーリスの手の内に『炎の台座』と『白炎』がある事を考えると、ルキナの知る『歴史』よりも遥かに状況は良いと言えよう。

 

 その差は一体何なのであろうか。

 『聖王エメリナの暗殺』を阻止した事によるのだろうか。

 それは、分からないけれど。

 しかし、もしもそうならば。

 エメリナ自身の死の運命は変えられなかったのだとしても。

 そうやって、ほんの僅かでも世界の状況を『良い』状態に変えられたのならば、少しでも『絶望の未来』を遠ざけられたのなら。

 …………ルキナが、『過去』にやって来て足掻いている『意味』はあったのだと、そう思えるのだろう。

 

 ルキナの知る『未来』と同じくこの世界でも父と母は結ばれた。

 そうなれば、この世界にも『ルキナ』が産まれてくる可能性は高いのであろう。

 この世界の『ルキナ』を『存在しない者』にする覚悟は既に決めていたけれど、それでも…………父と母の元へ『ルキナ』が娘として産まれる事が出来るのならば、それ以上に嬉しい事はない。

 そこに居るのがルキナ自身でなくとも、『ルキナ』が両親から愛されていれば、ほんの僅かにでも救われた気持ちになれる。

 その『幸せ』を守る為に『未来』を変えようと、この胸に抱いた決意を新たに出来る。

 

 ルキナの本当の願いは、決して叶う事はない。

 例えこの世界の父を救いギムレーの復活を阻止した所で、ルキナの『お父様』は還っては来ない。

 いや、あの置き去りにしてしまった『未来』で、過去を変えた事によって死者が生き返る様な事が起こり得るのだとしても。

 ルキナが喪ってしまった時間は決して戻りはしない。

 幸せだった子供の頃に戻る術など、存在しない。

 何度過去へ戻ろうと、どんな神に縋っても。

 今ここに存在するルキナが。

 『絶望の未来』で希望なんて抱けないままに足掻いて抗い続け、そして悪足掻きの様に『過去』へとやって来たルキナが。

 『あの日々』に帰る事は、出来はしないのだ。

 

 だからこそそれは、一番の願いは決して叶わないと分かっているが故の、ルキナの自己満足でしかないのだろう。

 ルキナは『ルキナ』に己を重ね、両親から愛されている『ルキナ』を通して、もう二度とは手に入らない『両親』からの愛を幻視しようとしているだけなのかもしれない。

 それは、この世の何処にも存在し得ないものへの、決して取り戻せぬと知りながらも諦める事など出来はしない強い強い『憧れ』の様なものなのだろう。

 そんな歪な『願い』を抱いていれば、何時か『ルキナ』へと歪んだ感情を向けてしまう事になるのかもしれない。

 まだ存在してすらも居ない『自分』へそんな恐れを抱くなんて、馬鹿げてもいるが。

 

 

 国を挙げての盛大な婚礼の儀式を執り行う両親の姿を遠目に見詰め、ルキナは静かにその場を離れるのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 踏み込みながら、斬り捨てる様に一撃。

 抵抗する為に剣を抜こうとするならば利き腕を潰し、魔法を行使しようとするならば発動する前に喉を潰す。

 蹴り倒すようにして拘束して、首を刎ねる……。

 

 前を歩く彼──何時かクロムを裏切り殺す大罪を犯す事になるルフレのその一挙一動に注視しながら、ルキナはルフレを殺す為の手順を何度も頭の中で描いていく。

 ルフレの細かな重心のかけ方の違いや咄嗟の動きを分析しては適宜修正して、ルフレを殺す為の『最適』な手順を探していた。

 

 勿論、ルキナは『まだ』ルフレを殺すつもりはない。

 ヴァルム帝国との戦争が始まった今、ルフレの力は無くてはならないものだ。

 ルフレが裏切るのはヴァルム帝国との戦争が終結してからの事。

 ならば、この大波を乗り切るまでは、ルフレには生かしておくべき『価値』がある。

 

 あの『絶望の未来』で裏切り者の名を知ってからずっと殺意を研ぎ澄ませてきたルキナであったが、当人を前にしている状況でそれを晒け出す程愚かでもない。

 能天気にもルキナを前にして無防備なこの裏切り者は、ルキナがそれに気付いているとはまだ分かっていないのだろう。

 いや、薄々感じていてそれを探る為に、ルキナと接触する機会を多く持とうとしているのかもしれないが。

 もしそうならば、大した役者である。

 ルフレを知る誰もが騙されたのも頷けよう。

 人畜無害そうな顔で他人の心に自然と入り込み、信頼出来る雰囲気を纏う事にかけてこの男の右に出る者は居ないのだろう。

 だがそれは、この男が裏切り者であると最初から知っているルキナには何の意味も無い。

 人畜無害なその顔の下にどんな醜悪な本性が隠されているのか、彼を信じる者達全員の前で暴き立ててやりたくなる程だ。

 まあ、それはもう暫し先の事になるだろうが。

 

 紆余曲折あったがルキナはクロムと行動を共にする事になった。

 それにはやはり、この裏切り者を最適なタイミングで始末する為と言う理由が大いにある。

 その目的を思えば、こうしてルフレが度々向こうから共に過ごそうとしてくるのはルキナにとっては都合が良かった。

 別にこの裏切り者を絆そうなどと言う意図は無い。

 そんなものが有効であるのならば、そもそもクロムを裏切る事も無かったであろうから。

 『半身』とすら呼び合う程の信頼を得ていたのに、それでもこの裏切り者は結局の所クロムの命を奪う事を選ぶのだ。

 そんな相手にマトモな『情』を期待するだけ無駄と言うものであろう。

 

 しかし、こうしてより近くで監視する機会を得られると言うのは思いの外良い収穫であった。

 観察する機会があればある程、相手の動きを読み易くなる。

 卑劣な手を用いたのだとしても、あのクロムを殺した男だ。

 剣の腕ではルキナでもルフレに遅れを取る事はない様に思えるが、この底の見えない男が果たして何処まで自分の実力を見せているのかは分からない。

 武器になるものは一つでも多い方が良い。

 

 

 

「──ここまでで何か分からない事はあったかい?」

 

 物資の補給などの行軍の際に必要な手続きについて歩きながら説明していたルフレが、振り返りながらルキナに尋ねてくる。

 思考は別の所に囚われていたとは言え、聞き逃した様な事もなく、ルフレの説明が理解し易かった事もあって、重ねて訊ねなければならぬ事もない。

 

 

「いえ、大丈夫です。お心遣い、感謝します」

 

「え、ああ別にそんな気にしなくても……。

 僕が好きでやってる事なんだし……。

 それに、内部の混乱を避ける為に一将兵の扱いをしているとは言え、本来の立場で言えば君は僕が仕えるべき相手だからね。

 寧ろ、これ位は当然の事だと思うよ」

 

 

 そう言ってルフレは人好きのする笑みを浮かべた。

 だが、どうせその笑顔の仮面の下では、悍ましい本性のままに裏切りの算段を立て続けているのだろう。

 

 

「常に忙しい筈なのにこうして私を気に掛けてくれるだけで、私には十分です」

 

「いやいや、こうやって誰かと話すのは良い気分転換になるよ。

 それに……君が人知れず僕達を助けてくれていた事への恩返しもしたいんだ。

 ……『未来』でも、そして今も、僕達が力及ばなかった所為で、君にはとても辛い想いをさせてしまっていただろうから」

 

 

 悲しみの様な、寂しさの様な、そんな感情に僅かに表情を歪め、ルフレは少し俯く。

 自分の裏切りの所為でその様な未来になるのだろうと理解しているだろうに。

 

 例えそれがルキナを騙す為の演技なのだとしても、その表情はルキナの神経を逆撫でするだけだ。

 反射的にその首を絞めたくなるのを何とか抑えて、ルキナは努めて平静を装った。

 

 

「それは……。……いえ、良いんです。

 この世界をあんな『絶望の未来』にさせない。

 それが、私の使命なので。

 その為に、必要な事をしただけです」

 

 

 そう、『世界を救う』事こそが、世界の理をねじ曲げて時をも越えてしまったルキナに課せられた、絶対の使命である。

 その為ならばルキナは何でもするのだ。

 この憎い仇を生かし利用する事も、その為にこうして憎悪している彼に近付く事だって。

 全ては、『世界を救う』為だけに。

 何時か訪れるその時を、ここで待ち続けるのである。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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『戦乱』

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 圧倒的に不利で絶望的な状況に、ルキナは既に慣れきっていた。

 物資の補給も儘ならず援軍などやって来る筈もなく、狼の大群に成す術もなく食い殺される羊の様な、そんな誰にもどうする事も出来ない様な絶望的な戦場で、戦い続けてきたのだから。

 

 が、しかし。不利な戦況、絶望的な状況、と言うものには慣れてはいたけれども、それはあくまでも屍兵を相手にしての話。

 属するものが異なる人と人同士が血に狂う様に殺し合う戦争には慣れてはいなかった。

 そもそも、ルキナが剣を手に取れる様になった頃には最早人間には『戦争』なんて起こせる様な余力が存在しなかったので、人同士の戦争に慣れる機会などある筈も無かったのであるが。

 と言っても、戦場において敵である人間の命を奪う事を躊躇している訳ではない。

 戦争には慣れていなくとも、ルキナの手は既に血で汚れていた。

 あの『未来』でどうやっても助けられない命を少しでも早く苦痛から解放してやる為にその胸に剣を突き立ててやった事は何度もあったし、この『過去』に来てからは傭兵の様に暮らしていた事もあって戦いの中で既に幾人もの命を奪っている。

 生きる為に、何時しかこの手は汚れ切っていたのだ。

 今更綺麗事でその事実から目を反らすつもりも無いし、それはルキナの矜持が許さない。

 しかし、剣を握る手や向ける切っ先に躊躇いは無いのだとしても、それでもやはり命を奪う苦しみは消える事など無かった。

 

 ルキナにとって、人間は全て等しく守るべき対象であった。

 あの『絶望の未来』では、生き残っていたのはその多くはイーリスの民であったとは言え、国を問わず様々な人々がイーリスの地を最後の生存圏として必死に生き延びようとしていたのだ。

 それを殺さねばらなぬ苦痛は、筆舌に尽くし難いものがあった。

 更には、ギムレーと言う人間ではどうする事も出来ない『絶望』その物を知っているだけに、こうして人間同士で相争いお互いを殺し合う戦争に意味など見出だせなかった事も大きいのであろう。

 ギムレーが甦ってしまえばこうして戦う者達も全て等しく死んでしまうと言うのに、そしてそのギムレーの復活はそう遠くは無いと言うのに。それでも、その事実を知らぬ人々は互いの命を貪り食らおうとする事を止めはしない。それが余りにも苦しかった。

 

 人馬の悲鳴が響き渡り血と泥が混ざった様な戦場を一迅の疾風の様に駆け抜けながら、ルキナはヴァルム兵達を斬り捨ててゆく。

 まるで壁の様に押し寄せてくるヴァルムの兵に対し、イーリスとフェリアの兵はそもそも数からして圧倒的に不足している。

 イーリスから遠く離れた大陸で、当然の如く地の利は相手側にあり、補給線を維持する事すら儘ならず、腹に二物も三物も抱えた南部諸国からの援助が生命線の一つ。

 不利なんて言葉では片付けられないこの状況で、どうにか勝ち続けていられるのはやはりルフレの力が大きいのだろう。

 イーリスの力を値踏みする様な南部諸国との交渉にも尽力し彼等から物資を引き出して軍を維持し、 ヴァルムが誇る騎馬隊などがその真価を発揮出来ない様な戦場を用意して策の力でヴァルム兵の暴威を殺ぐ。そうやって何とか勝ちを拾い続けていた。

 勿論ルフレ一人で軍を支えている訳ではないのだけれど、彼無くしてとてもでは無いがこの戦争に勝利する事は出来ないだろう。

『未来』に於いてイーリス側が勝つと言う結果を知っているルキナですら、いざこうして共に戦場に身を投じていると、今よりも遥かにイーリスが置かれていた状況が過酷だったあの『未来』でもヴァルム帝国相手にイーリスが勝てた事が信じ難い程だ。

『ルフレ』の存在の大きさを、ルキナは肌で直接感じていた。

 だからこそ、ルキナは『ルフレ』を許し難いのだ。

 クロムを裏切り殺した事がその最たる理由ではあるが、それだけではない。もし彼が裏切る事なくクロムの『半身』で在り続けていたのなら、ギムレーが甦ろうともあんな『絶望の未来』にはならなかったのではないかと。

 ルキナでは手に入らなかった世界を救えるかも知れない様な力を持ちながら、世界を『絶望の未来』に突き落とした事が。

 それは剰りにも罪深い事の様にルキナには思えるのだ。

 

 しかしそれと同時に、ルフレの傍に居る事で自分が知る『彼』の姿とはまた別に見えてきたものもあった。

 皆を死なせない為に何夜も徹して、まさに己が身を顧みずその命を削る様にして策を練り続ける姿も。

 兵力的に厳しいイーリスを支える為に、軍師でありながらも戦士として戦場に立ち、戦況を支え時に不利な戦局を自ら覆す姿も。

 それらは、ルキナが知る『彼』の姿には無かったものであった。

 そうしたルフレの姿を見ていると、何故彼がクロムを裏切り殺したのかが益々分からなくなってくる。

 

 それら全てが演技だと言ってしまえばそれまでなのだろう。

 だが、演技なのだとしたら逆に不自然な程にルフレは皆の為に一生懸命であった。文字通り自らの命を捧げる様にして、仲間をクロムを守る様に戦い続けているのだ。最初からクロムを裏切り殺すつもりだけであるなら、果たしてそこまでするのだろうか? 

 信頼させる為の演技、と言う可能性は否定は出来ない。

 しかし、信頼を勝ち取る為であるにしてはその献身は過剰と言えるだろう。だからこそ、時々。

 もしかして、ルフレは本当に心の底からクロム達を守ろうとしているのではないか、と思ってしまうのだ。

 ルフレが裏切り者であると言う、純然たる事実を知りながら。

 

 それこそが、ルキナにとっては何よりも恐ろしい事であった。

 

『その時』に確実に殺す為、ルフレの傍を離れる訳にいかない。

 だがこのままルフレの傍に居続けて彼の事を知っていった時。

 この手は迷い無くその首を刎ねる事が出来るのだろうか……。

 

 ルキナの胸の内に絶える事無く渦巻き続けていた復讐心に落とされたほんの一滴の迷いは、自分でも気付けない程静かにその波紋を広げていたのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

『未来』を『知っている』と言ってもルキナ自身がそれを体験した訳ではなく、人伝の話の中で得た知識でしかない。

 結局の所自らの血肉となった訳では無いそれらは、細かく歯が欠けてしまった櫛の様に不完全なものとしか言いようが無いものであった。だからこそ、取り零してしまったものは剰りにも多い。

『過去』に強く干渉してでも『未来』を変えようと決意して、こうして共に戦う事を選んでも、それで何処まで『未来』を変えられているのかは分からない。

 その結末を『知っていた』筈なのに助ける事が叶わなかった命があった。何も出来ずに卑劣な敵の策略により身内で喰らい合わせてしまった命があった。

 今更それを『もっとよく知っていれば変えられたのに』と無闇に嘆く程、ルキナの心に余裕がある訳でもない。

 本来人間が手を出す事など赦されぬ『やり直し』を選んでしまった自分には、嘆き立ち止まる事など赦される筈もなかった。

 自分が無力である事も、無知である事も、それは誰に言われずとも痛い程に分かっている。

 自分ならば思うがまま『過去』を変えて全てを救えるなどと、神をも恐れぬ自惚れを抱く事など、最初から出来る訳もない。

 ルキナの手は、何もその手では守れないのではないかと自分を疑ってしまう程に剰りにも小さい。

 そして、ルキナが掬い上げたいものは、剰りにも多く大きい。

 だからこそ一つ一つ天秤に掛けては、どうしても諦められないもの以外の全てを血を吐く様な想いで切り捨ててきた。それでも。

 それを止める事が出来なかったのは、ルキナが無力ながらもその身の程を弁えられぬ程に強欲で傲慢であったからであろう。

 

 そして、その傲慢さを貫き通したからなのか、ルキナはこうしてこの戦争の終末へと辿り着こうとしていた。

 伝聞でしか『知らなかった』戦争へと身を投じて、父とその仲間と……そして誰よりも憎い筈の人と共に戦場を駆け抜けて。

 決して少なくなど無い血を流しながら、ヴァルム帝国本土にまで乗り込み、そして覇王とまで称された皇帝ヴァルハルトをヴァルム城まで撤退させる事に成功した。

 最早戦争の趨勢は決し、帝都を幾重にも包囲されたヴァルハルトが戦況を引っくり返す目などある筈もなく。

 しかしそれでも、ヴァルハルトただ一人となろうとも、彼の皇帝さえ健在ならば、何れ程の劣勢でも打ち砕き、そして自らの覇を貫き通してしまえそうな……そんな圧倒的な覇気が彼の皇帝にはあった。

 だからこそ、彼の皇帝が降伏を選ぶ事など有り得ず、ヴァルハルトを討つ以外にこの戦争を終結させる術など無い。

 

 良くも悪くもヴァルハルトの圧倒的なカリスマ性を持つ覇道の下にヴァルム大陸の勢力図が支えられていた分、彼の皇帝が討たれた後にこの大陸に吹き荒れるであろう混乱を思うと、その選択はきっと最善の道ではないのだろう。

『未来』でのヴァルム大陸の政情はルキナには全く分からない事ではあったが、精強な軍勢を多く抱えていた筈のこの大陸がイーリスよりも遥かに早くにギムレーの手の内に陥落してしまったのは、戦争による軍の損耗と、その後に起こった政治的な混乱などがその要因となってしまったのではないかと、ルキナは今になってそう思う。

 

 ヴァルハルト自身は世界に混乱を撒き散らしたかった訳ではなく、彼は彼なりの信念信条に従って、自らの覇の下に成り立つ平等と平和を実現させたかったのだろう。

 その為に起こされた侵略戦争と、そこで流された血を思えば彼の皇帝の行為を是とする事は出来ない。

 しかし、ヴァルハルト自身としても、自分の信念に従って起こした戦争の結果がギムレーによる世界の破滅を後押ししてしまった事は、決して望む所では無かったであろう。

 ヴァルハルト自身が掲げていた信念が、『神に依らぬ人間による人間の為の統治』であったからこそ、尚の事。

 それを思うと、人の世の儘ならなさは本当に残酷なものである。

 人の世を想って為した行動が、結果としてギムレーと言う神の如き存在による世界の滅びへと結び付いてしまったのだから。

 

 ヴァルハルトが掲げる信念の良し悪しはルキナが判断する様なものではない。

 ルキナ自身は神竜ナーガを神として祀るイーリスに生を受けてそしてそこで育ってきた。

 神を信じ神に祈る事自体に疑問など持つ事もなく、ルキナは今日まで生きている。

 神竜ナーガは実体としてこの世に存在するのであるし、ルキナが時を超えた事も彼の竜の御業によるものだ。

 だがしかしそれと同時に、神竜ナーガが決して全知全能なる存在ではなく、また人が祈り望む程には人の世に干渉出来る様な存在ではない事も知っている。

 結局、人の世を支え動かせるのは神ではなく人自身だ。

 心の安寧の拠り所として『神』があるのだとしても、『神』に世界を明け渡してしまってはそこはもう人が生きる世ではなくなってしまうのかもしれない。

 神などと呼ぼうとは到底思えない程に邪悪な存在であったとは言え、ギムレーもまた『神』として祀られし存在だ。

 彼の邪竜を甦らせたのはギムレー教団であるらしいが、彼等が『神』に世界を明け渡してしまったからこそ、『未来』はああなってしまったのかもしれない。

 そんな『未来』は、ヴァルハルトにとっては最も否定しなければならない世界であっただろうに。

 ……もし何かの歯車が掛け違っていれば、もしヴァルハルトがフェリアへと侵攻しようとするのをもう少し遅らせていれば。

 甦ったギムレーに対して、聖王と覇王が手を取り合って立ち向かう様な……そんな可能性もあったのかもしれない。

 しかしそれは今となっては有り得ぬ夢物語だ。

 誰もが望まぬ結末へと進み行こうとするこの世界を止める為には、何を差し置いてもこの戦争をイーリスの勝利に終わらせなければならない。

 

 クロムの号令を合図に、イーリス・フェリア連合軍は雪崩れ込む様にしてヴァルム城へと突撃した。

 固く閉ざされた城門も瞬く間に破城槌と魔道士達の魔法の前に破られ、城内で待ち構えていたヴァルム兵達と激突する。

 ヴァルム側の勝ち目などもう無いこの戦闘でも、ヴァルハルトと死の運命を共にする覚悟に満ちた兵士達だ。

 その士気は恐ろしく高く、あの覇王が決戦の死地と定めたこの城を離れるなど殆ど有り得はしないだろうが、万が一にも退却し形勢を立て直す事を選ぶのだとすれば、誰もが捨て奸へと志願する事を厭わないであろう。

 ここまでの圧倒的な忠誠を兵達から得ている時点で、あの覇王は決して残虐な侵略者と言うだけの人物などではない事が分かる。

 彼の覇王もまた、時代に強い輝きを齎し人々を導く巨星であったのだ。

 それでも、互いに譲る事など出来ぬ信念と正義がぶつかってしまった以上は、どちらかを屈服させるまでは終われない。

 それこそが、戦争と言う人の業なのだろう。

 

 ルキナは先陣を切って敵陣へと切り込んで行く。

 一体何れ程斬り捨ててきたのかは途中から数える事を放棄してしまったので分からない。

 神竜の牙は扱う人を選ぶが、決してその切れ味が落ちる事などは無い事がとても有り難い。

 遥か古より連綿と続く長い歴史を物語るかの様にその威容を見せ付けていたであろうヴァルム城は、今や血の臭いで噎せ返りそうな程の狂乱の宴の場となっていた。

 ヴァルムの兵達は一人でも多くのイーリス兵を道連れにする事で主君への忠節を示そうと、文字通り命を捨てて襲ってくる。

 倒れた戦友の屍を厭わず踏み砕きながら迫るその姿には、戦場の悪魔が乗り移ったかの様である。

 しかし、そんな決死のヴァルム兵達でも、ルフレの策に守られたイーリスとフェリアの兵達に大きな損害は与えられない。

 あれ程までに分厚く行く手を遮っていた人の壁が、気が付けばいつの間にか薄くなっていた。伏兵も尽く排除して、少しずつ前線は城の奥へ奥へと押し込まれていく。

 

 その立場を考慮すれば本来ならば本陣で待機するべきなのであろうクロムやルフレも、前線に程近い所で指示を飛ばしながら道を切り開いていた。

 クロムがこうして出てきたのは、ヴァルハルトと完全なる『決着』を付ける為だ。

 生き残ったヴァルム兵に降伏を促す為には、自らの武の力で覇王となったヴァルハルトに、自らの力で相対せねばならない。

 そうでなければ、ヴァルム兵が本当の意味でこの戦争の終わりを受け入れられない。

 イーリス軍が去った後のこの地の事は、イーリスが口を差し挟める様なものではないけれど。

 それでも、一つの大陸を支配していたと言っても過言ではない偉大なる皇帝を討ち取ると言う事には、それ相応の責任と覚悟が必要であるのだ。

 しかし、ヴァルハルトは強い。

 数多の強者を見てきたルキナにとっても、あれ程までに一個人で完成された『武』と言うものは初めてだ。

 単純な武力とその研鑽と言う意味でなら、今のこの世にはヴァルハルトに比肩する様な者は片手で数える程居るかどうか。

 ルキナが知る最も偉大な剣の使い手であるクロムであっても、ヴァルハルトを相手にすれば勝てるかどうかの保証はない。

 

 しかし、元より個で完結するのではなく、仲間と共に力を合わせより大きな力と成す事を是とするクロムが独りでヴァルハルトと立ち向かう必要もない。

 これは、クロムとヴァルハルトの信念の戦いでもあるのだ。

 そして、クロムはその聖王と覇王の戦いを共にする者として、ルフレを選んでいた。イーリス軍の中で最もクロムを理解しクロムの力を引き出す事に長け、自らと力を合わせる事でその力を何倍にも引き出せるのは、間違いなくルフレである。

『半身』とすら呼ばれるその関係性は、決して伊達や誇張などでは無いのだ。

 自分では決して得る事は出来ないであろう類いの『信頼』をそこに見て、ルキナの胸は痛む。

 

 ルキナが『知る』『未来』でも、クロムとルフレは共に力を合わせてヴァルハルトを討ち取る事に成功した。

 だから、戦いの結末を心配していると言う訳では余りない。

 ……だけれども。ヴァルハルトを討ち、この戦争が終わると言う事は。

『その時』が。ルフレがクロムを裏切り殺す瞬間が、迫ってきていると言う事でもある。

 

 ペレジアにある『竜の祭壇』。

 そこに赴いたきり二人ともイーリスに帰ってくる事はなかった。

 帰ってきたのは父の手に最期まで在った筈のファルシオンだけ。

 クロムが誰よりも信頼していた者に裏切り殺された事を知ったのは、それから随分と後になっての事であった。

 …………少なくとも、そこに至るまでには。

 ルフレを、殺さなければならない。

 この手で、その命を断ち切らねばならない。

 待ち望んでいた筈の瞬間がもう間も無く訪れようとしているのに、ルキナの心は復讐を果たせるドス黒い喜びではなく、何故か重く苦しい痛みを訴える。

 

 二人で肩を並べる様にして強大なヴァルハルトに立ち向かう姿は、まるで英雄譚として語り継がれてきた場面であるかの様な錯覚すらルキナは感じた。

 三人の戦いはこの場の誰もが手出しを出来ぬ聖域の様でもあり、先程まではあれ程に死に物狂いでイーリス軍をヴァルハルトへと近付けまいと戦っていたヴァルム兵も、そして玉座の間に雪崩れ込んだイーリス兵もフェリア兵も、まるで痺れた様に三人の戦いを見守っていた。

 ルキナは、どのヴァルム兵達よりも近くで三人の戦いを見守る。

 無論、ルキナにその戦いに手出ししようなどと言う意図はない。

 元よりルキナ自身は『本来はそこに居てはならない者』だ。

 こんな、後世にまで語り継がれる様な戦いに加わる訳にはいかないのだから。

 純粋に、先陣を切っていた結果この玉座の間に飛び込むのが早かっただけでしかない。

 だが、そんな事情を知らぬ者にとって、誰よりも戦いの近くに佇み武器を手にしているイーリス軍の者はどう見えているのかは、ルキナの頭からは失念していた。

 

 

「ルキナっ! 後ろだ!!」

 

 

 まるで英雄譚の一幕の様な三人の戦いに思わず魅入られていた中で、まるで叫び声の様な切羽詰まったルフレの声がルキナの耳朶を打ち、ルキナは咄嗟に身を捻る。

 後ろから突き出された槍の穂は辛うじて避ける事が出来たが、如何せん体勢が悪い。

 返す様に振り払われる刃先を完全に避ける事は出来そうにない。

 剣を持つ利き腕だけは死守する様にして、腕一本を犠牲にしてどうにかその一撃を凌ごうとしたが。

 振り払われるその槍の切っ先がルキナの身を裂くよりも遥かに速く、後方から空を切る様に走った一条の雷撃が槍を振るうヴァルム兵の身を穿ち、大きく後方へと吹き飛ばす。

 ルキナを救ったその雷撃の元を辿ろうと、振り返ったそこには。

 

 ルキナの方へと行使した魔法の残滓の様な小さく弾ける雷を僅かに纏わり付かせた手を伸ばしていたルフレの無防備な背を狙って、ヴァルハルトが斧の一撃を振り下ろした光景があった。

 

 肉を叩き割り骨を砕いた音が響き、ルフレの身体はまるで紙屑の様に吹き飛ばされる。

 血を撒き散らしながら床に転がったルフレは、受け身を取る事も出来ずに床に叩き付けられた瞬間に衝撃に息を詰まらせ、咳き込む様にして荒く息をした。

 本当にギリギリの所で身を捻り致命的な部分からは攻撃を反らす事に成功していたが、それでももうヴァルハルトと対峙出来る様な状態ではない。

 即座に命に関わる状態ではなくとも、それでも早急に治療の杖で傷口を塞がなければ命を落とす危険性もあるだろう。

 

 

「ルフレ!!」

 

「僕の事は、良い!

 クロム、今は、君が成すべき事を!!」

 

 

 思わずと言った様に声を上げたクロムを、苦し気ながらも空かさずルフレは制す。

 ヴァルハルトはルフレの事に気を取られながら戦って勝てる様な相手ではない。

 ルフレの意思を汲んだクロムは唇を強く噛み締めながら、ヴァルハルトと相対した。

 

 一刻も早くルフレに治療を施さねばならぬからこそ、ルフレを救いたいならばヴァルハルトは少しでも早く倒さねばらない。

 ヴァルハルトの方は最早無力化したと言っても過言ではない状態のルフレに追撃を加えるつもりは無いらしく、もしそうだとしてもルフレの方へと気を向ければ直ぐ様クロムの剣がその胸を貫くであろうからどの道ルフレに止めを刺す事は難しい。

 しかし、この戦いの最中にイーリスの者がルフレへと治療を施そうとすれば、直ぐ様ルフレを殺すだろう。

 戦いに決着が着くまでは、誰も手を出す事は許されない。

 

 倒れたルフレを立ち竦む様に見詰めるルキナは、その指先一つ凍り付いてしまったかの様に動かす事が出来なかった。

 混乱の極みにあるその思考を支配するのは、『何故?』『どうして?』の言葉のみ。

 音として言葉にはならない乱雑な思考が、出口を失って意味もなく巡り続けていた。

 

 どうして、ヴァルハルトとの戦いよりもルキナの事などを優先したのか。どうして、自らの命を投げ棄てる様な真似をしてまでルキナを助けたのか。

 あのルフレが、ヴァルハルトと対峙する最中にあんな隙を見せればどうなるのかなど分かっていない筈がない。

 それに、ルフレが負傷すればその分クロムが不利になるのだ。

 クロムよりもルキナを優先したと言うのか……? 

 そんな、まさか……。

 万が一ルフレが本当に親愛の情をルキナに対して懐いているのだとしても、それでもルフレにとってクロムよりも優先されるなんて、そんな事が有り得るのであろうか? 

 ルキナは燃え滾る憎悪と殺意を研ぎ澄ませながらルフレの傍に居たと言うのに。

 自分を殺そうする相手を助けて、自分を死の危険に曝すなんて。

 それでは、剰りにも……。

 

 意味の無い疑問だけが後から後から湧いてくる。

 その疑問の答えは、ルフレにしか分からないと言うのに。

 それでも、今この場に於いては、ルキナは考える事しか出来なかった。

 倒れ伏したルフレの姿と、床を静かに汚していく赤い命の雫が、ルキナの目を捉えて離さない。

 名を呼び掛ける事すら出来なかった。

 きっと、今何か言葉を発しようとしたら、きっと意味の通らない程に混乱した音の羅列にしかならないだろうから。

 

 床に倒れるルフレを庇う様にして背にし、クロムはヴァルハルトと斬り結ぶ。

 ヴァルハルトの豪腕から繰り出される一撃一撃の重さは尋常ではなく、膂力には優れているクロムでさえほんの少しでも力を弛めればその攻撃を受け止め続けているファルシオンは弾き飛ばされてしまうだろう。

 歯を喰い縛りながら、クロムは必死に触れるだけでも即死に等しい攻撃を捌いていく。

 何とか繰り出した攻撃も、ヴァルハルトの堅牢な鎧に阻まれてしまい中々有効打とは成り得なかった。

 戦況としては追い詰められているのは間違いなくヴァルハルトである筈なのに、クロムを相手に一歩も引かない所か圧倒すらしてみせるヴァルハルトは、まさに覇王たる風格に満ち溢れていた。

 忠誠を捧げている主君の、まさに神話の英雄であるかの様な勇姿と鮮烈な戦いに、ヴァルム兵達は皆陶酔した様に絶対なる皇帝の姿を目に焼き付けている。

 

 

「どうした聖王を継ぐ者、『神』に選ばれし『英雄』よ! 

 軍師を喪った程度でその体たらくなのか? 

 その程度で我が覇道を破ろうなどと笑止! 

 所詮、貴様も『神』などと言う不純物無くしては何も成せぬ愚物であると言う事か!」

 

 

 吼えるヴァルハルトのその言葉には、彼の生き様その物の重みが籠められていた。

『神』の存在に縛られ己れを見失う人々の為に、自ら『神』をも超える覇王となって神を討ち、その覇道の下に人の為の世を作ろうとしているヴァルハルトの、信念そのものである。

 他を認めた上で自らの信念を貫き通し続けてきたその言葉は、例えその信念の為に夥しい程の血を流しているのだとしても、誰の心にも鮮烈な『何か』を残す強さがあった。

 それでも、クロムは自らの信念を貫く為にも、ヴァルハルトの覇道を受け入れる事は出来ない。

 

 

「いいや、『神』など関係無い! 

 俺は俺の意志でこの場に立ち、お前を討つ! 

 お前の覇道によって切り捨てられ様としている多くのものの為に、無辜の人々の願いの為に! 

 俺は、お前の覇道を受け入れる訳にはいかない!!」

 

「その意志や善し! 

 さあ、人の王よ、聖王を継ぐ者よ! 

 その信念が我が覇道に勝るかどうか、その力で示してみよ!」

 

 

 問答の直後、激しさを増した斬擊の応酬が玉座の間を揺らす。

 クロム達が勝ったと言う『未来』は知ってはいるが、果たして再びそうなるのかはルキナには分からないし保証など出来ない。

 この場にルキナが居た所為でルフレが倒れた事が、本来なら有り得なかったであろう筈の事が、何れ程この戦いの結末へ影響を与えるのかは未知数である。

 この場でルキナに許されているのは、戦いの結末を見守る事だけでしかなかった。

 

 幾合も打ち合い、その度に剣華を散らし。

 斬り結ぶその様は、一つ一つの動作の流れが絡み合ってまるで一つの舞を共に舞っているかの様ですらある。

 剣と戦斧の一撃一撃が大気を切り裂き、その激しい衝突の余波がビリビリと肌を震わせる程に強く伝わってくる。

 燃え盛る炎よりも尚激しく燃える二人の熱が伝わってくるかの様で、息をする事すらももどかしい。

 そんな中、もう幾度目かも分からない打ち合いで。

 ヴァルハルトが横薙ぎに左から振り払ったその一撃を、クロムはファルシオンの腹で受け止めた。

 が、少し受けた時の角度が悪く、衝撃を受け流し切れずにクロムは僅かに体勢を崩してしまう。

 その隙を逃さずに、ヴァルハルトは斬り上げる様にしてクロムの脇を狙おうとする。

 

 が、ヴァルハルトの刃がクロムの身に届くよりも先に、轟く様な雷鳴と共に強烈な雷の一撃がヴァルハルトを襲った。

 

 咄嗟に空いた腕を盾にしたヴァルハルトであったが、強力な電撃はそれでは防ぎ切れず、鎧を伝う様にしてヴァルハルトの全身を食らう。

 肉が焦げる様な臭いと共に鎧の隙間から白煙を上げたヴァルハルトであったが、それで強烈な闘志が潰える様な事もなくあれ程の衝撃を受けてさえも武器を手放す事はなかった。

 そしてヴァルハルトのギラギラと燃える鋭い眼光が、床に転がっているルフレへと射抜く様に向けられる。

 血溜まりの中に倒れ伏していた筈のルフレは、僅かに身体をもたげてその眼光を恐れる事無く見返す。

 そして、苦し気に咳き込みながらも、その名を叫んだ。

 

 

「クロ、ム──!!」

 

 

 大怪我を負い身動きすら儘ならなくなってすらも、逆転の一撃を与える機会を窺い続けていた軍師の、その努力と執念は今その瞬間に成った。

 裂帛の気合と共に斜めに斬り下げたファルシオンの一撃は、痺れた身体で迎え撃とうとしたヴァルハルトの武器を鎧諸共に砕きその下にある堅牢な肉体を深く切り裂く。

 そして続けざまに横薙ぎに振るわれた一撃は、ヴァルハルトの腰を叩き折り致命的な一撃を与えた。

 

 さしものヴァルハルトも、ルフレの雷擊によって既に内臓にまで大きなダメージを受けていた事もあって、クロムの二連擊によって崩れる様に仰向けに倒れ伏す。

 そして、自らの死を前にして、ヴァルハルトは己れの敗北を受け入れた。

 

 

 

「我が覇道を破るか……。見事なり、聖王を継ぐ者よ……そして……その精強なる兵たちよ……。

 我が覇道…………ここに尽きたり!!」

 

 

 

 怨みを述べるでもなく、唯々己れを打ち破る程の力を見せたクロムと、そして彼の仲間たちへの称賛を口にして。

 偉大なる覇王は、覇道に生きたその生涯の幕を閉じた。

 ここに一つの英雄の物語が、終わりを迎えたのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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『揺れる天秤』

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 戦勝を祝う宴は、宴と言う枠を越えて最早祭りと言っても良い程のものになっていた。イーリス兵もフェリア兵も南部諸国の兵もレジスタンスの兵も集まった義勇兵も。

 皆己れの所属などお構い無しに、生き残った喜びと戦いの日々からの解放の喜びと、そして散っていた戦友達への弔いを胸に、飲めや歌えやの大騒ぎを起こしている。

 

 彼等の混沌とした騒ぎには混ざりきれないルキナは、喧騒から離れた所からそんな兵達の様子を見ていた。

 この場には、ルキナの居場所は無い。

 が、かと言ってここ以外に行く場所もない。

 

 クロムは各国の長達との折衝で忙しいし、そちらの宴に招かれているだろうからこの場に居る筈もなく。

 先の戦闘で大怪我を負ったルフレはと言うと、イーリスきっての癒し手達の惜しみ無い杖の行使によって傷は跡形もなく消え去り、今は傷病兵用に用意された個室で眠っている筈だ。

 

 戦争が無事にイーリス側の勝利に終わった事は、純粋に喜ばしい事である。しかし、ここまで『知っている』通りに歴史が動いてきた以上、ルキナが『知る』様に、クロムがその命を落とす事になる戦いが………………ルフレがクロムを裏切る瞬間は、刻一刻と近付いてきている筈である。

 この世界の未来を、『絶望の未来』にする訳にはいかない。

 その為には、ルフレの裏切りを阻止する必要がある。

 だけれども……そもそも何故ルフレがクロムを裏切ったのか、裏切る事になるのか、その理由に皆目見当が付かなかった。

 

 ここに来ては、ルキナもルフレがクロムを心から信頼し大切にしている事を認めざるを得なかった。

 あれが全て演技だと言うのならば、親から子への愛ですら欺瞞に満ち溢れているものでしかないと疑わなくてはならない程に、この世から信じられるものなど無くなってしまうだろう。

 

 何にせよ、その点に於いてルフレを疑う事をルキナは諦めた。

 しかしだからと言ってそれで問題が解決する訳でもなく。

 寧ろ、ルフレの裏切りの理由の謎が深まるばかりとなった。

 ルフレは記憶を喪っているそうなので、その消え去った記憶にその手懸かりがあるのだろうか……? 

 だがクロム達が手を尽くしても、ルフレの身元は……記憶を喪う前のその足取りは、何一つとして掴めなかった。

 まるで、クロムが出逢う直前に忽然と現れたかの様である。

 無論そんな筈はないので、単純に記憶を喪う前の『ルフレ』がまるで『そこに居ない者』であるかの如く……まさに透明な人間であるかの様に生きていたのだろう。

 誰の記憶にも留まらず、人目を忍ぶ様にして。

 何故そんな生き方をしていたのか、何故その必要があったのか。

 それはルキナには分からないし、今のルフレに問うた所で分からないだろう。

 喪われたルフレの記憶。そこに全ての謎の答えが隠されているのかもしれないし、そうではないのかもしれない。

 当のルフレ本人は、喪われた記憶の事を多少は気に掛けつつも戻らないものであろうと割り切っている様ではあるけれども。

 ……ルキナとしては、もしその喪われた記憶が戻った事が裏切りへと繋がったのであれば、それはもうそのまま永遠に喪われていて欲しいと思ってしまう。

 喪われた記憶が戻った時に、ルフレがルキナ達が知るルフレではなくなってしまうのならば。

 ルフレが、……クロムや仲間達に囲まれて幸せそうに笑っている彼が、消えてしまうのならば。

 それが『ルフレ』自身にとっては残酷な事になるのだとしても、ルキナはそれを望まない。

 

 ルキナはルフレについて多くの事は知らなかった。

 あの『未来』に居た筈の彼の事は既に記憶の彼方であり、ルフレが記憶を喪っていたと言う事ですらルキナは知りもしなかった。

 

 だけれども、こうして共に時を過ごし、共に戦い、その傍で見続けてきた今は違う。

 まだまだ知らない事は多いであろうけれど、それでも確実にルキナはルフレを知っていっていた。

 それが良い事なのかそうでないのかは、まだルキナには判別し切れない。

 ルフレの事を知らなかった時と違い、今のルキナには迷いが生じてしまっているからだ。

 ……こうして、『ルフレを殺さなくても良い理由』を、探してしまう程に。

 

 迷えば迷う程、決断が遅れれば遅れる程、世界は『絶望の未来』へと向かってしまう。

 戦争が終わり、軍師としての役目を果たしたルフレを『殺してはならない理由』は無くなった。

 万全を期す為ならば裏切りの芽は完全に摘むべきであるのだし、その為にルフレを殺す覚悟はもう決めていた筈だった。

『ルフレ』が『父の仇』である以上、躊躇う理由など無い……筈だったのに。

 それでも──

 

 

 

「こんな所で考え事か? ルキナ」

 

 

 優しく大好きな懐かしい声が聞こえる。

 少し驚いて振り向くと、そこにはやはりクロムが立っていて。

 今は各国の長達との宴に招かれている筈のクロムがここに居る事に戸惑ってしまう。

 

 

「ん? ああ、あっちの宴の方はさっき抜けてきた所なんだ。

 どうにもああ言う場は好かん。

 これからのヴァルム大陸の利権争いに巻き込まれるのはごめん被りたいしな。

 ヴァルハルトとの死闘の疲れを癒す為……とか言っておけばあちらもそう強くは引き止められなかったみたいだ」

 

 

 そう言って肩を竦めたクロムは少し遠い目をして、兵達の宴を見やった。

 宴の席で中々の量の酒を飲まされたのか、横に立てば分かる程の酒精の匂いが漂ってくる。

 クロムは酒にはそこそこに強いのでまだ完全に酔っている訳ではないだろうが、所謂ほろ酔い状態ではあるのだろう。

 だからこそ、恐らく普段は語る事などないであろう想いを、ルキナへと溢す。

 

 

「……一つの戦争が終わり、今度こ『平和』をと願っていても、こうして直ぐにまた別の戦が起こってしまう……。

 過去の過ちと消えない憎しみから始まってしまった先の戦争も、そしてヴァルハルトの覇道が引き起こしたこの戦争も……。

 武器と武器を手に殺し合うのではなく、先ずは対話と理解による『平和』をと望んでいても、その対話ですら儘ならない。

 姉さんが描いていた理想は、まだ剰りにも遠い。

 ……それでも、俺はその理想を諦められないんだ。

 ……だが、ヴァルハルトがその覇道の下に多くの血を流した様に、俺もまた理想の下に多くの血を流すのかもしれない……」

 

 

 それを望んでいたのではなくとも『国』や『世界』と言った大きなモノが動く時に血が流れてしまう事は剰りにも多い。

 良かれと願い成した事が本当に『正しい道』であるのかは、それを選択するその時にその行く末の全てが分かるものでもない。

 過去に『正義』や『理想』といった大義の名の下に繰り返されてきた人の業。

 それを自分だけは犯さぬなどと自惚れられる程の傲慢さは持ち合わせていない。

 

 ポツリポツリとそう語るクロムの姿は、幼い頃に見上げ憧れていた絶対的な存在ではなく、悩み苦しみながらも精一杯に世界を『良く』しようと足掻き続ける……そんな一人の人間であった。

『未来』でも、こうして『父』は悩み苦しんでいたのだろうか。

 そしてその上で、聖王として国を守り人々を率いたのだろうか。

 最早遠い遠い記憶となってしまったその背中にそっと問い掛けるが、記憶の中からは答えなど返ってはこない。

 もしも、あの『未来』で父が死ぬ事もギムレーが甦る事も無ければ、何時か有り得たのかもしれない未来の先で、そこでもこうして絶対だと幼心に信じていた父も悩み迷う一人の人間である事を……その姿を、知る事が出来ていたのだろうか? 

 今となってはそれが決して叶わぬ事が、こうして遠い「あの日々」を想うルキナには何故だかとても無性に寂しく感じた。

 

 

「でも……お父様には、お母様やルフレさん達が居ます。

 お父様が間違えてしまいそうになった時は、きっとそれを止めてくれると……私は思います」

 

「……そう、だな。俺は、多くの仲間達に支えられてきた……。

 それは、きっとこれからも。俺は独りでは無い。

 ヴァルハルトと俺に決定的な違いがあるなら、そこなんだろう」

 

 

 ヴァルハルトは強かった。

 故に人々を強く惹き付け、民を導いてきた。

 それが血塗られた覇道であるのだとしても、そこにある強さと輝きは紛れもない本物であった。

 だが……ヴァルハルトの強さは、何処まで突き詰めても『個』でしかなかった。

 ヴァルハルトに絶対の忠誠を誓う臣下は大勢居ても、ヴァルハルトと肩を並べ共に歩み立つ者は居なかったし、ヴァルハルト自身もそれを求める事は無かった。

 本来は圧倒的な勝者側であった筈のヴァルハルトに敗因があるとすれば、恐らくはそこなのだろう。

 

 クロムはヴァルハルトとは違う。

 関係性としては主君と臣下であるのだとしても、仲間達はクロムにとっては肩を並べ共に戦う戦友であるし、何より互いを『半身』と認め合うルフレが居る。

 何れ程の光を放っていようとも孤独な巨星でしかなかったヴァルハルトとは違い、クロムは多くの星々を統べる巨星であり、一つ一つの輝きはヴァルハルトよりも小さくともクロムを中心として皆が集えば何よりも明るく輝き人々を導いてくれる。

 そして独りではないからこそ、共に道を行く者が過ちを犯そうとした時にはそれを止める事が出来る。

 それは、何よりも得難い繋がり……絆である。

 そして、その要に居るのは、恐らく……。

 

 

「そうだ、ルフレの見舞いにはもう行ったか?」

 

 

 突然のその言葉に、無意識にルキナの肩が跳ねる。

 ヴァルハルトとの戦いを終えてルフレが衛生兵達に運ばれて行ってからは一度もルフレの姿を見ていない。

 傷がすっかり治った事も、傷病兵用の部屋で寝ている事も、全て人伝に聞いた事だった。

 ルキナを庇った所為でルフレは負傷したのだから、お見舞に行くべきだとは思ってはいるけれど、どんな言葉を掛けるべきなのか迷い、中々足が向かなかったのだ。

 

 

「いえ、実はまだです……」

 

「そうか。出来れば、一度顔を見せに行ってやって欲しい。

 あいつの方が負傷していると言うのに、しきりにルキナの事を気にしていてな」

 

「私の事を、ですか?」

 

「まあ、そう言うヤツなんだ。

 一度顔を見せてやれば、あいつも安心するだろう。

 ルフレが寝てる部屋は分かるか?」

 

 

 クロムに言われ、ルキナは頷く。

 

 場所は既に、ルキナに気を利かせたつもりであったのだろう者達から聞いていた。

 それでも、中々踏ん切りが着かなかったのであるけれど。

 こうしてクロムに背を押された今、行かない訳にもいかない。

 ……それでも、どんな顔をして会えばいいのか迷ってしまう。

 そんなルキナに優しい眼差しを向けたクロムは、一度何かを考えるかの様に少しの間目を閉じる。

 

 

「そうか。

 …………なあ、ルキナ。

 たった一度で良い。

 どんな事があっても、ルフレを信じてやって欲しい」

 

「え……? それは、一体どう言う……」

 

 

 クロムの意図が掴めず、その言葉にルキナは戸惑った。

 クロムの目から見て、ルキナはルフレを信頼していない様に見えていたのだろうか。

 確かに、ルキナはルフレへの殺意をその胸に秘め続けてはきたけれど、少なくとも『その時』まではそれを隠し通せると思っていたし、現に軍の人々は誰もそれに気付いていなかったのに。

 困惑するルキナを置いて、クロムは言葉を続けた。

 

 

「ルフレは……俺や仲間達の事を何よりも大切にしている。

 だが……俺には時折、あいつは自分自身の命を度外視している様に見えるんだ。

 それはきっと、俺達でも触れる事が出来ない『何か』が、あいつの心を縛っているからなんだろう……。

 だがルキナ、お前ならもしかしたら、あいつの心を縛る『何か』を変えられるかもしれない。

 だから、頼む」

 

「そんな……。お父様にも出来ないのに、私がなんて……」

 

 

『半身』であるクロムに出来ない事を、どうしてルキナが出来ると言うのだろうか。

 それに、ルキナはルフレを殺そうとしている人間だ。

 そんな人間が、一体何を変えてやれると言うのか。

 だが、そんな事を言える訳がない。

 

 

「いや、ルキナだからこそ、出来るかもしれないんだ」

 

 

 何を根拠にそんな事を信じているのかはルキナには分からないけれど。

 しかし、クロムのその眼差しには「否」とは言わせない何かがあった。

 クロムがルフレの中に何を見出だしているのか、ルキナに何を託そうとしているのか。

 それは、『絶望の未来』を変える為の鍵になるのか。

 何一つとして、今のルキナには分かりようも無い事であった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 緊張で震えそうになる手を何とか抑えて、ルキナは控え目に扉を叩いた。

 傷病兵用に割り当てられた区画の奥の方にある少し上等なこの個室に、ルフレは寝かされている筈である。

 起きていなくては到底聞こえやしないであろう小さなその音に、部屋の中から返事が返ってきた。

 あれ程の深手を負っていたのだから、きっと眠っているだろうと思っていたルキナの思惑は早くも外れて。

 こうして返事まで返ってきてしまった以上は、今更立ち去るなんて出来やしない。

 だから、ルキナは遠慮がちに扉をそっと開けて中に入った。

 

 中に入って先ず目に付いたのは、ベッドサイドのテーブルの上に溢れんばかりに置かれた様々な物だ。

 いや、恐らくはそこに収まりきらなかったのだろう分が、備え付けの棚にもぎっしりと詰められている。

 果物や菓子と言った食べ物や、やたらと分厚い本やら手編みの肩掛けやら、何とも統一感が無い。

 そして、そんな様々な物に囲まれながら、ベッドの上で身を起こしたルフレは手慣れた手付きで林檎の皮を向いていた。

 

 

「やっぱり、ルキナだったんだね。

 こんばんは、と言ったところかな。

 良かったらそこに座ってね」

 

 

 そう言ってルフレはベッドサイドに置かれた椅子を指す。

 断る理由もなかったので言われるままにルキナはその椅子に座るが、椅子に座った状態だとベッドの上で身体を起こしているルフレと目線が同じになる事にふと気が付いてしまい、どうしてだか気まずさの様な居心地の悪さの様な、何処と無くフワフワと浮わついた感じがしてしまう。

 だからと言って急に席を立ってもルフレに不審に思われるだけなのだが。

 仕方無くルキナは、ルフレから視線を外してその手の中で皮を剥かれている林檎に目を向ける。

 

 

「ああ、これかい? ソールがくれたんだ。

 他にも皆から沢山貰っていてね、一人では食べきれない位だから、良かったらルキナも一緒に食べてくれると嬉しいな」

 

 

 綺麗に切り分けた林檎を、恐らくはお見舞いに来た誰かが置いていったのだろう皿に乗せ、ルフレは穏やかに微笑みながらルキナに差し出してきた。

 一つ取って口にすると、瑞々しく優しい甘さが口に広がる。

 程好く熟れた上質な林檎だったのだろう。

 ルフレも、一口食べては綻ぶ様な笑顔を浮かべる。

 

 

「うん、とても美味しい林檎だ、後でソールにお礼を言わなくちゃ」

 

 

 幸せそうに林檎を食べるルフレに、ルキナは遠慮がちに訊ねた。

 

 

「あの、怪我の方はもう大丈夫なのですか……?」

 

「うん、リズとマリアベルとリベラが治してくれたからね。

 元々、僕ってこう見えて頑丈な事が取り柄の一つだし、あれ位じゃ死んだりしないさ。

 だから、心配しないでね。

 で、傷口はすっかり塞がったんだけど、二・三日はこのままベッドで寝てろってリズ達に言われてしまったんだ。

 戦争は終わったとは言え事後処理は山積みだから色々と片付けておきたかったんだけど……、ベッドから抜け出した所を運悪くフレデリクに見付かって、ベッドに叩き込まれてしまってね。

 その後でリズ達からお説教を貰ってしまったよ」

 

 

 そう言いながらも、ルフレは嬉しそうに微笑みを浮かべていた。

 仲間達の事を語る時のルフレの目は、一等優しさに溢れていて。

 ルフレが何れ程彼等の事を大切に想っているのかを、まざまざとルキナに見せ付けるのだ。

 

 ルフレの目を見ていると何だか落ち着かなくて、ルキナはベッドサイドテーブルに積まれた品々へと目を向けた。

 すると、ルフレが優しい笑みを浮かべて、積み上げられたそれらへと一つ一つ優しく撫でる様に触れていく。

 

 

「皆、心配性なんだよね。

 次から次にお見舞いに来ては、色々と置いていくし。

 大体は果物とかお菓子なんだけど……流石に僕一人じゃこんな量を食べきれないのにね。

 フレデリクなんて、手編みの肩掛けをくれたんだよ。

 クロムとリズだけじゃなくて、僕にまで世話を焼き始めるつもりなのかな?  皆がひっきりなしに来るから、寝るのが惜しくって全然眠れてないんだよね。

 きっと、リズ達に見付かったらまた怒られてしまうだろうけど」

 

 

 まるで大切な宝物の様に仲間達の事を語るルフレのその表情が、そして彼等がルフレを想う心の形が表れた様な贈り物が、酷くルキナの心を揺らした。

 ルフレを殺すと言う事は、彼等からルフレを未来永劫奪うと言う事なのだと、それを改めて思い知らされるかの様で。

 そこにどんな大義名分があろうとも、大切な何かを奪われる苦しみは変わらないであろう。

 

『世界』を救う為だと訴えた所で、それに何の意味があろうか。

 例えクロムを救う為であっても、クロム自身がそれを赦すまい。

 

 だが、それでも…………。

 クロムを裏切り殺す前にルフレを殺す以外に、どうすれば『絶望の未来』を回避出来るのか、ルキナには分からないのだ。

 いや、そもそもルフレを殺したからと言って、それで『絶望の未来』を回避出来ると言う保証もなかった。

 それなのにルフレを殺す事に拘ってしまうのは、父を奪われた事への復讐の念からなのだろうか。

 その憎悪がルキナの眼を曇らせ、『正しい答え』に辿り着けなくさせているのだろうか。

 しかし、ならば他にどうすれば良いと言うのだろう。

 全知の神ならぬ人の子でしかないルキナには、全ての因果の糸を見通し解き解す事など出来よう筈もない。

 ルキナが知り得るのは、あの『未来』でルフレがクロムを裏切り殺し、ギムレーが甦り世界が滅んだと言う、ただそれだけだ。

 

 ギムレーが甦った事の原因はルキナには分からない。

 かつて初代聖王が施した封印が何らかの要因で解けてしまったからなのか、或いはまた何か別の要因があったのか。

 何かを仕出かした者が居るのだとすれば、それは間違いなくギムレー教団の者であろうけれども。

 当時は幼く、ギムレー教団の内情を知る者など周りには居らず。

 ギムレー復活の立役者があの教団に居るのだとしても、それが誰かなのは全く分からない。

 ギムレー教団に潜入し教団員一人一人を調べ回って怪しいと目した相手を殺していくのだとして、ギムレー復活に関わる者を全員始末するのに何れ程の時間が掛かるのか見当も付かないし、例え教団員を皆殺しにしたとしてそれでギムレーの復活を防げるのかも分からない。

 

 時を跳躍し遡っても、ルキナに残されている時間は有限で。

 だからこそ、ルキナは自分が考え付く、『絶望の未来』へと至る分岐点を……クロムの死を変えようと思ったのだ。

 そこには『父』を死なせたくなかった、『父』に生きていて欲しかったと言う、ルキナ自身の最早叶わぬ願望も含まれてはいるのだけれど。

 

 その為には、裏切者であるルフレを殺す。殺さねばならない。

 ルフレの裏切りの理由が分からないルキナには、ルフレに裏切らせない方法が分からない。

 故に、取れる手立ては一つだけだ。

 

 しかし、今のルキナにルフレを殺せるのだろうか。

 例えば、今、この瞬間。

 ルキナを前にして無防備にベッドから身体を起こしているルフレのその首を落とす事は、きっと造作も無いのだろう。

 

 だが、実際にそれを実行する自分と言うものをルキナは思い描けないし、やろうとすら思えない。

 殺す機会を得る為にルフレに近付いたと言うのに、その所為で却ってルフレを殺せなくなってしまっていた。

 何も知らなければ。

 ルフレを、憎んだままで居られたのなら。

 きっと、何も迷わずに済んだと言うのに。

 

 まるで出口の無い迷宮に迷い込み、光を探し求めて彷徨っているかの様であった。

 もし、ルフレを殺さずにクロムを救い世界を救う方法が何者かから提示されたのなら、きっとルキナは直ぐ様それに飛び付いてしまうだろう。

 しかし、『正しい答え』を教えてくれる様な、そんな都合の良い存在は居ない。

 ナーガは今この瞬間もこの世を、聖王の血に連なる者達を見守っているのかもしれないが、その苦悩を取り除く為の『神託』を下す事は無い。

 

 苦悩に沈んだまま、ルキナは少し視線を彷徨わせた。

 そして、ルフレの胸元に僅かに見える包帯に気が付いてしまう。

 負傷したのは背中だから、その痕跡は服に隠されていてその殆どは見えないけれども。

 それでも、とても深く大きな傷だったのだ。

 あの時の光景が、ヴァルハルトの戦斧がルフレの背中を抉った瞬間が、一瞬だけだがルキナの視界に甦ったかの様で。

 思わず、息をするのを忘れてしまう。

 再び脳裏を過るのは、『どうして?』と言う疑問。

 それは、今度は喉を震わせて音となって溢れ落ちる。

 

 

「…………どうして」

 

「? どうかした?」

 

「……どうして、ルフレさんは私を庇ったりしたんですか? 

 あんな事をしなければ、あなたは負傷する事も無かったのに。

 ……死ぬかもしれなかった様な、大怪我をせずに済んだのに。

 どうして、私なんかを……」

 

 

 どうして、自分を殺そうとしている者を命を張ってまで助けようとしたのか、と。

 言葉には出来ない想いは、押し殺して。

 ルキナは、問わずにはいられなかった。

 

 ルフレはその言葉に驚いた様に幾度か瞬いて、それから、ふわりと優しい微笑みを浮かべた。

 

 

「どうして、か。

 それは、うーん……ちょっと説明し難いんだけど。

 ルキナが危ないって、思ったからかな。

 そう思ったら、身体が勝手に動いてた」

 

「でも、あの時ルフレさんはヴァルハルトと戦っていて」

 

「うん、そうだね。

 でも、きっと僕は大怪我をすると分かっていたとしても、同じ事をしたよ。

 どんな結果が待っていたとしても、何度やり直したってあの瞬間に僕は同じ事をする。

 だからね、ルキナはもう気にしなくて良いんだよ」

 

 

 その思いがけない言葉に、その言葉の意味を問う事も忘れてルキナはルフレを見る。

 ルフレの、優しいけれど何処か底の知れない、全てを見通しているかの様な目が、ルキナを静かに見詰めていた。

 

 

「ずっと、気にしていたんだろう? 

 だから、治療が終わっても中々ここには来なかったし、ここに来てからはずっと僕の目を見ようとはしない。

 普段のルキナなら、直ぐにやって来ただろうし、もっと僕の目を真っ直ぐ見てくるからね。

 罪悪感か、それに近い後ろめたい気持ちを感じていたのかな。

 でもね、ルキナが気にする様な事じゃないんだ。

 僕が怪我をしたのは、あの場にルキナが居たからじゃない。

 僕が勝手に自分の好きな様に選んで行動したその結果だ。

 君の所為じゃない」

 

 

 ルキナが何も言えないままでいると、ルフレは柔らかく笑って、サイドテーブルに置かれた果物籠から新しく果物を取り出した。

 

 

「……と、言う訳で、この話はここでお仕舞い。

 所で、お腹空いてたりする?

 だったら、もうちょっと色々と一緒に食べて貰えると助かるんだけど」

 

 

 ルフレがそう言うのも仕方がない程に、果物だけでもかなりの量がある。

 日持ちしないものだけでもこれだけあるのだ。

 幾らよく食べる方であるルフレでも、これには流石に困っているのだろう。

 断る事も出来ず、ルキナはルフレと二人して、その大量の果物を分け合って食べたのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 戦争が終わり、イーリスへと帰還して。

 しかしそれで全てが終わったと言う訳ではなく、寧ろここからが運命の分水嶺となるのだ。

 ギムレーの復活を阻止する為。

 そして、それに対抗する為に『覚醒の儀』を行う為に。

 ルキナ達は日夜情報収集に追われているのであった。

 

『覚醒の儀』に必要な『炎の紋章』。

 それを構成する、『炎の台座』と五つの『宝玉』。

 それらの内、台座と四つの宝玉はクロムの手にある。

『絶望の未来』へと至ってしまったかつてのあの『未来』では、ヴァルム帝国との戦争が終わった時点でイーリスには『台座』も『宝玉』も存在していなかった。イーリスに伝わっていた『炎の台座』と『白炎』は、聖王エメリナが暗殺された時に賊に奪われ。

 この度フェリアに伝わっていた事が判明した『緋炎』も、ヴァルム大陸に伝わっていた『蒼炎』も『碧炎』も、戦争の混乱の最中に杳として行方が分からなくなっていたのだった。

 今この瞬間に、あの『未来』では失われていたそれらがイーリスの手の内にある事が、『絶望の未来』への回避に何れ程意味がある事なのかは分からないが。

 

 少なくとも悪い方へと進んでいるのではないのだと、信じたい。

 しかし、残された最後の『宝玉』──『黒炎』。

 その行方は、イーリスとフェリアが手を尽くしていても、未だに掴めないままであった。

 

 運命の瞬間が近付きつつある事に焦りを感じつつも、ルキナが出来る事は剰りにも限られていた。

『黒炎』の行方を捜索するにしても、イーリスとフェリアが国を挙げて合同で行っている為、ルキナが出る幕は無い。

 クロムの死や、ギムレーの復活。

 そして、その後に訪れる『絶望の未来』。

 伝えるべき事は既に全てクロムに伝えてしまっている。

 

『絶望の未来』を回避し世界を救うその瞬間まで、ルキナの使命は終わらないし戦いも終わらない。

 使命を成し遂げる上でルフレの命を奪う必要があるのなら、ルキナは何があろうともそれを成し遂げなければならない。

 世界と、ルフレ一人の命。

 そのどちらが重いのかなど、秤に掛けるまでも無いだろう。

 否、躊躇わずに選ばねばならないのだ。

 あの『未来』を見捨て、既に一つの世界を見殺しにしたルキナには、そもそも『選ぶ』だなんて事が赦されている筈もない。

『過去』に飛び、本来有ってはならぬ『やり直し』をしてしまっている以上、何を犠牲にしても、何を対価としても、ルキナは必ず世界を救わなければならないのだから。

 

 自分の命を捧げる必要があるのだとしても、ルキナはそれを迷わない、迷ってはならない。

 仲間の命を奪う必要があるのだとしても、成し遂げなくてはならない。

 ほんの僅かにでも天秤が揺れる事など、あってはならぬのだ。

 ……ルフレを殺せるのかは、その時が来なくては分からない。

 それでも、その時が来てしまったら、きっと──

 

 

 

「何か思い詰めているのかい?」

 

 

 突然に声を掛けられて、無意識にルキナの肩が僅かに跳ねた。

 横を歩いていたルフレが自然な動作でルキナの顔を覗き込む様に見てきていて、思考が中断されて初めてそれに気が付いたルキナは思わず息を飲む。

 少し気遣わしそうな目でルキナを見るルフレのその声音は、紛れもなく心底ルキナを気遣っていて。

 直前に考えていた事が、そしてその迷いと後ろめたさが。

 余計にルキナの心を責め立てる様に波立たせる。

 ルフレに気遣われる資格など、ルキナには無いのに。

 だが、それを止めてくれとも、言える訳もない。

 

 

 

「ここ最近、前よりも難しい顔をしている事が増えたよね。

『絶望の未来』の事かい?

 ……でもそれなら、ルキナが一人でそう思い詰めなくても大丈夫なんだよ? 

 ここには、クロムも居るし、皆も……僕だって居るんだから。

 君一人で何もかもを背負わなくたって良いんだ。

 世界を救うと言う『使命』があるのだとしても、ずっとそうやって張り詰めていたら、ルキナの心が先に壊れてしまうよ。

 時にはゆっくりと心を休める事も、大切な事さ」

 

「……ですが、今この瞬間も、この世界はあの『未来』に近付いているのかもしれなくて。

 それなのに、私は何も…………。

 私には、何を置いても成し遂げなくてはならない『使命』があるのに……」

 

 

 あなたを本当に殺せるのか、迷っているのだと。

 そんな事を言える筈もなくて。ルキナは言葉を濁す様に答えた。

 

 ヴァルムとの戦争が終わり、イーリスに帰った今、この先暫くは戦いになる事はない。

 それでも、何故かルフレとルキナは何かと行動を共にする事が多かった。

 何時か殺さなくてはならない相手であるとは言え、その一点を除けばルフレは本当に良い人で。

 時の異邦人であり本来ならばこの世界に居るべきではない、居場所など存在しないルキナが、不自由をしない様に何かと心を砕いてくれている。

 ルキナの事情を完璧に理解した上で、こうもそれを気遣ってくれるのは本当に有り難い事だった。

 ルキナにとっても、ルフレは大切な仲間であり、何時しか失ってはならぬ人となっていた。

 だからこそ余計に、ルフレを殺さなければならない事が、ルキナを苛んでしまう。

 

 

「そうか……。でも、そんな事は無いよ。

 ルキナのお陰で、沢山の事が変わっている、変わった筈だ。

 それは直接的には目に触れる形ではないのだとしても、確実に。

 こうして僕と君が出会って共に戦っている事だって、君が諦めずに戦ってきた結果だろう?  大丈夫。

 クロムも、僕も、この世界の未来を『絶望の未来』になんてさせやしない。

 君が、こうして『過去』にまで渡ってきて戦い続けてきてくれたその結果を、無駄になんかしたりはしない、必ずこの世界の未来を繋げて見せるから。

 でもそうやってチャンスを得る事が出来たのも、君がこうして戦ってきてくれたからだ。

 それだけの事を既に成し遂げてくれているんだ。

 君は、もう少しだけ自分の事を認めてあげるべきだと思うよ」

 

 

 ルフレはそう言って、優しく微笑んだ。

 ……ルフレにそんな言葉を掛けてもらう資格なんてないのに。

 それでも、その言葉がどうしても嬉しくて。

 だからこそ、何処までも哀しく苦しく、心を切り付けられたかの様な痛みを感じてしまう。

 

 

「私は……」

 

 

 だが、それ以上の言葉は続かず。どうしたら良いのか途方に暮れてしまったかの様に、その場に立ち竦んでしまう。

 私は、どうだと言うのだろう。

 こんなにも優しい人を殺して、そうまでして『未来』を変えようとしている。

 未来の為、世界の為、使命の為。

 そう、その為に『過去』にまでやって来た。

 でも、もしその『大義』の為にクロムの──父の命を捧げなければならないとしたら、果たしてそれを許容出来るのだろうか? 

 それは……どれ程考えても、「否」としか言えなかった。

 

 結局の所、ルキナは『世界』を大義名分として、ルフレの命を切り捨ててクロムを救う事を選ぼうとしているだけなのだ。

 それを承知の上で、ルキナは『過去』へと来た筈だったのに。

 

 ルフレが憎い仇のままならば、ルキナが憎悪し復讐するに値する様な存在であったのなら。

 きっと、こうも悩む事は無かったのだろう。

 例え誰に憎まれたのだとしても、父から赦されなくとも、それでもルキナは自分自身を、その行いを、肯定出来たのだろう。

 

 でも、こうして出逢い繋がりを育み、そうして理解していったルフレと言う存在は、何処までも優しくて温かくて。

 きっともう、ルフレを殺した事で世界を本当に救えたのだとしても、ルキナは一生涯自分を認める事も赦す事も出来ない。

 それでも、ルキナはやらなくてはならないのだ。その先にあるのが、終わる事の無い後悔と懺悔の日々になるのだとしても。

 

 黙ってしまったルキナを見て、ルフレは何処か「しょうがないなぁ……」とでも言いた気な、少し困った様な優しい顔をした。

 その眼差しがあまりにも優しくて、だからこそ尚の事それを受け入れられない、受け入れてはならない。

 何時か『その時』には、自分なんかに向けられたその優しさすらも、殺さなくてはならないのだから。

 

 

「あのね、ルキナ。君がどんな道を選んでも、君が自分の意志で決めた事ならば、僕はそれを肯定するよ。

 例え、この世界の誰もがその選択を否定しても。

 だって君は、何時だって悩んで苦しんで、足掻いてもがいて、絶望なんて生温い程の地獄を見てきて、それでも戦い続ける事を選んだ凄い人だ。誰よりも強い意志で、誰よりも真っ直ぐに『運命』に向かい合って勝とうとしている。

 ……でも、だからこそ。

 君が背負うモノで、誰かと共に背負う事が出来るモノがあるのなら、それを僕にも背負わせて欲しい。

 君が『過去』へ来た事を罪であると思うのなら、その罪を。

 君が選んだ道の先で咎人になるのだとしたら、その咎を。

 僕にも、背負わせて欲しい。……君が、背負ったモノの重さに押し潰されてしまわない様に、どうか」

 

「……どうして、そこまで……」

 

 

 ルフレの言葉は余りにも優しくて、傷付き果て今も痛みと苦しみに悲鳴を上げるルキナの心をそっと包み込む様で。

 だからこそ、ルキナには耐え難い、耐えられないのだ。

 

 

「どうして? ……それはね、ルキナ。

 これは僕にとっては、罪滅ぼしの様なものなんだよ。

 君の居た『未来』で、『僕』は皆を……クロム達を守れなかった。

 世界を、君の未来も守れなかった。

『僕』は、守るべきものを何一つ守れなかったんだ。

『僕』は軍師として、皆を守り勝利へと導く為の存在なのに。

 だから、全部『僕』の所為だ。

 ……それは僕じゃないだろうって? ……そうだね。

 でも、それでも『僕』の責任だ。だからね、ルキナ。

 君が世界を守る為に……使命を果たす為に負う罪も咎も、全部僕のモノでもある。

 だから、そんなに苦しまなくても良いんだ。

 罪も何もかも、君の手ではどうしようも無かった事は、全部僕に押し付けてしまえば良い。

 それで君が自分を許してあげられるのなら、僕はそれで良い。

 君は、誰よりも幸せになっても良いんだよ。

 だからどうか、幸せになる事を、自分に許してあげてね」

 

 

 ルフレは、何処までも優しくて。

 それ故にその言葉は、ルキナの心を本当の意味で救う事は出来ず、余計にルキナを苛み傷付ける。

 ルフレの優しさは、今のルキナには心を殺す猛毒の様ですらあった。

 だが……離れなければより傷付くと分かっていて尚、ルキナはルフレの傍を離れる事は出来なかった。

 殺さなくてはならない瞬間を見逃さない為であるのか、それとももっと違う理由であるからなのか。

 それは、ルキナ自身にも、最早理解しようの無い事であったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 最後の宝玉である『黒炎』の行方が判明したのは、それから少し経ってからの事であった。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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『選択』

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 その光景を見た時、そしてその意味を理解した時。

 ルキナは、全部夢だったら良いのに、と剰りにも非現実的な事を思ってしまった。

 

 でも、何れ程認めたくなくとも、現実は何処までも非情で。

 ルフレが何故クロムを裏切り殺したのか、と言うその答えが。

 何処までも残酷に突き付けられていた。

 

 それは、ルフレ自身の意志では決して無くて。

 ……あの『未来』でもそうだったのだろうし、ルフレの心は決してクロム達を裏切ったりはしていなかったのだけれど。

 だが、だからこそそれはもうどうしようも無い程に残酷で、何処までも無慈悲な結末へと行き着いてしまったのだろう。

 ルフレの裏切りがもっと他の理由にあったのなら、何かもっと別の手が打てたのかも知れないけれども。

 ルフレが、『ファウダーの実の息子である』と言うただそれだけで、意志も何もかもを踏み潰されて操り人形にされるのなら。

 ファウダーを殺すより他にルフレの裏切りを阻止する術は無い。

 だが、今のファウダーが座すのは遥か彼方にある『竜の祭壇』であり、幾重にも厳重な警護が敷かれているそこに突撃してその首を取るのは剰りにも実現性が無さ過ぎる。

 

 無論、そこに奪われた『炎の紋章』が存在する以上、何があろうとも『竜の祭壇』に赴かねばならないが。

 そこにルフレを連れていけば、あの『未来』と同じ結末を辿るであろう事は想像に難くない。

 ならばルフレだけクロム達と引き離せば良いのかと言うと、それもまた違う。

 ファウダーが空間転移の魔法すら会得している程の卓越した呪術の使い手である以上、何処に逃げようともルフレにとって安全な場所は無い。

 血縁であると言う繋がりは、幾度も邂逅した事によってより強固な繋がりとなっていて。

 それを縁として辿っていけば何処に居ようとも見付け出す事が出来てしまうのだと、イーリスきっての呪術の専門家であるサーリャとヘンリーが述べていた。

 呪術的な事は全くの門外漢であるルキナにとって、あの二人ですら手に負えないと言う時点で、ルフレを呪術的に守る術は喪われたも同然であった。

 

 何処に逃がしても必ず見付かり、そしてその傀儡にされてしまうのだとすれば。

 ルフレと言う存在は、最早生かしておくだけでも何時全てを崩壊させてしまいかねない程の、埋伏の毒となってしまっている。

 ルフレ自身の意志とは全く無関係に、『絶望の未来』を招く要因となってしまったのであった。ならば。

『絶望の未来』を防ぐ為に。

『使命』を果たす為に、ルキナが為すべきは……。

 

 

 ルフレを野営地から離れた人気の無い場所に呼び出すと、ルフレは疑う事もなくやって来た。

 物思いに沈むその表情は、暗い。

 怨敵の首魁とも言えるファウダーとの血縁関係や、そして自分の意志を喪いファウダーの傀儡にされた呪術の存在。

 そして、その呪術の所為で、ファウダーへと『炎の紋章』を渡してしまった失態。

 それら全てが、ルフレの心に深い翳りを落としているのだろう。

 それが手に取る様に分かるからこそ、ルキナは苦痛から悲鳴を上げそうになる心を圧し殺して、ルフレへと語り掛けた。

 

 

「こんな所にまで呼び出してしまいすみません、ルフレさん。

 内密に、お話しせねばならない事があったのです」

 

「いや、気にしなくても良いよ。

 それより、クロムにじゃなくて、僕に話って……?」

 

 

 随分と傾き地平へと飲み込まれていきそうな日の光に照らされて、世界は赤く燃える様な炎の色に染まっていて。

 茜色の光に照らし出されたルフレのその表情は、光の加減によって少し捉え辛くなっている。

 

 

「……お父様の事で、まだお話ししていない事がありました。

 お父様は世界の命運を左右する為の戦いの最中に、裏切りによって命を落としたと……以前に既にお話ししたと思います」

 

「ちゃんと覚えているよ。

 ……確か、クロムが命を落とす事になったのは、ペレジアにある『竜の祭壇』での戦い、だったよね」

 

「ええ、そうです。お父様は、そこで帰らぬ人となった……。

 帰ってきたのは、このファルシオンだけ……。

 ……私は、ずっと不思議だったんです。

 どうして、お父様が裏切られてしまったのか、と。

 どうしてその人はお父様を裏切ったのか、と。

 …………今日、その全てが分かりました、……分かって、しまったんです」

 

 

 握り締めた手の平に爪が食い込み、剣を持ち続けて分厚く硬くなった皮膚を薄く食い破って、ポタポタと僅かに血を滴らせる。

 だがそんな痛みなど、千々に引き裂かれてしまいそうなこの胸の痛みに比べれば、取るに足らない程のモノでしかなくて。

 何もかもを投げ出してただ喚き叫びたくなってしまうのを何とか堪えて、ルキナはファルシオンの柄に手を掛けた。

 不思議と、涙は出ていない。

 それは、涙を流した所でどうにもならぬ事なのだと、心が理解して諦めてしまったからなのだろう。

 

 自分は今から、ルフレを殺す。

 未来の為、世界の為と、そんな大義名分の下。

『絶望の未来』を回避する為に障害となると言うたったそれだけの理由で、命を奪われるに足る様な罪をまだ何一つとして犯していない……大切な仲間を、殺すのだ。

 それは何をしても償う事も出来ず赦される事もない大罪で。

 ……だが、それ以外にルキナには、『絶望の未来』へと至る運命を変える術が無かった。

 全てから目を反らし、ルフレがファウダーの支配に打ち克てるなんて淡い幻想に縋る事も、あの『絶望の未来』をその目で見詰め続け戦い抜いてきたルキナには、出来ない。

 例え、ルフレが本当に呪術に打ち克てる可能性が僅かにでもあるのだとしても、その僅かな可能性に賭ける事は出来ないのだ。

 それは、ルキナがルフレを信じていないと言う訳ではなくて、それ程までに『絶望の未来』がルキナの心に刻んだ傷痕は深く大きいと言う事であった。

 あんな『未来』を回避する為ならば、幾らでも自分の心なんて殺せるし、……大切な仲間であっても殺せる位に。

 

 

「私の知る『未来』で、お父様を殺したのはルフレさん……『あなた』です。

『あなた』が、裏切り者だったんです。

 ……今はもう、それが『あなた』の意志では無かった事は分かっています。

 ……でも、あなたの意志が何処にあったとしても、あなたはファウダーの支配には抗えない。

 あの『未来』でお父様を殺し……そしてこの世界でも、お父様をその手で殺すのは、あなたなんです……ルフレさん……」

 

 

 だから、と。

 鞘から抜き放ったファルシオンを構え、ルキナはルフレの喉元を狙ってそれを突き付けた。

 もう後には退けない事の恐ろしさで、僅かにでも気を抜けば切っ先は震えてしまう。

 だが……。

 ルフレは……自らの命を奪おうとする切っ先には目を向けず、逃げようとも庇おうともするも無く、ただただ静かにルキナを真っ直ぐに見詰め、その言葉の続きを待っていた。

 そんなルフレの態度が、余計にルキナを追い詰める。

 ここで少しでも抵抗の意志を見せてくれれば、ほんの一時の錯覚であったとしても、思い切る事が出来たのに。

 ルフレは、それすらもルキナに許してはくれない。

 

 

「私は……私はっ、この世界の未来を、運命を変えなくてはならないんです……! 

 あんな『未来』には……死と絶望に支配された、滅び行く世界になんて……! 

 私は、今度こそ、この世界を守らなければ、ならないんです。

 だから……、私には、もう……こうするしか……。

 あなたを殺すしか、方法がないんです……。

 ……っ。ごめんなさい、ルフレさん。

 どうか、私の事を恨んで下さい……。

 せめて……苦しまない様にします。

 抵抗、しないで下さい……、ルフレさん……」

 

 

 無意識の内にファルシオンを握る手に、力が籠る。

 せめて苦しませない様に送る為に抵抗しないで欲しいと思う気持ちと、こんな理不尽な死なんて受け入れずに足掻いて欲しいと思う気持ちが、ルキナの内で鬩ぎ合っていた。

 ルフレを殺さなくてはならないと自分を急き立て追い詰める心と、ルフレを殺したくないとそれに抗う様に声を上げる感情。

 どちらがより『正しい』のかなんて分かりきっている筈だった。

『価値』を量る天秤は、僅かでも揺らいではならないのだから。

 それなのに、今。

 ルキナはそのどちらも選べずに、ルフレへと選択肢を委ねてしまっていた。

 

 本来ならば、有無を言わさずにルフレを殺すべきであった。

 どんな御託を並べようと、どんな大義名分を述べようと。

 ルキナが行おうとしているのは人殺し……それも仲間殺しだ。

 確かに、『未来』のルフレは結果的にクロムを裏切り殺す事になったのだとしても、今目の前にいるこのルフレは裏切り者でも何でもない……大切な仲間である。

 その罪も罰も、全てルキナ自身が一人で負わねばならないのだ。

 それなのに、ルフレから同情や同意を乞おうとするかの様に、言い訳の様な動機を並べ立てるのは、剰りにも卑怯な行いである様にルキナには思えてしまう。

 そう思っていても、ルキナは自分を止められなかった。

 

 ルキナの言葉をただ静かに聞いていたルフレは、優しい眼差しでルキナを見詰め、一つ一つ言葉を探す様にゆっくりと答える。

 

 

「……ごめんね、ルキナ。

 僕の所為で、君をそこまで苦しめてしまって。

 …………とても悩んで苦しんで考えて、どうにか他の道が無いのかと、探し続けてくれたんだろう……? 

 ……君の顔を見たら、分かるよ」

 

 

 そう言ってルフレはそっと手をルキナの頬へと伸ばそうとして、何かに気が付いたかの様に、少し悲しそうな……寂しそうな表情を浮かべ、その手を途中で下ろした。

 ルキナには、自分がどんな顔をしているのかなんて分からない。

 分かるのは、涙は溢していないと言う、ただそれだけだ。

 ルフレは、そんなルキナを見て、寂しそうな微笑みを浮かべた。

 その目は、ただただ何処までも優しい温かさに満ちている。

 

 

「…………僕の死が、ルキナの望む未来に繋がるのなら、僕はそれを受け入れる。

 ……でも、ルキナ。

 僕を殺したその先の未来で、君は笑えるかい? 

 君はそこで……『幸せ』になってくれるかい? 

 それだけが、どうしても僕は気掛かりなんだ」

 

 

 優しいその言葉は、ルキナを想う気持ちに満ちていて。

 だからこそ、ルキナには到底受け入れ難いものであった。

 

 

「そんなの……。

 ルフレさんを、大切な仲間を、こんな風に殺しておいて、私が幸せになるなんて、許される筈が無いじゃないですか。

 それでも、『絶望の未来』は変えなくてはならないんです」

 

「……そうか。……ルキナらしいね。

 でも、前にも言ったよね。

 僕は、ルキナが自分の意志で選んだ道は、それが何であっても肯定するって。

 君の罪も咎も罰も何もかも、僕が背負っていくって。

 それに僕が死ななくてはならないのは君の所為なんかじゃない。

 だから、僕の事なんて忘れてしまえば良いんだ。

 幸せになれないと、許されないとそう言うのなら、僕が許すよ。

 僕は、君がこの先の未来で、沢山笑って、精一杯生きて、幸せになってくれれば、それで十分なんだ」

 

「そんな……そんなの……」

 

 

 自分の死をそんな風に扱ってまでルキナの事を想うルフレに、どう言えば良いのか、ルキナには分からない。

 殺されようとしているのに、ルフレは何処までも穏やかで。

 とっくに、死を受け入れてしまっている様にすら思えてしまう。

 この人を……ルフレを殺すなんて、間違っていると。

 そう思うのに、そうルキナの心は叫んでいるのに。

 ルフレの喉元を狙うファルシオンを下ろす事は出来なかった。

 葛藤を続けるルキナを見て、ルフレは何かを決めた様に、腰に佩いた剣に手を掛けそれを抜く。

 やはり抵抗するつもりなのかとルキナは一瞬身を固くしたが、その切っ先がルキナに向けられる事は無かった。

 ルフレが逆手に持ったその剣の切っ先を向けたのは自分の胸だ。

 ファルシオンに比べると遥かに小振りなその剣は、ルフレの服を切り裂き、そして軽く胸を傷付けているのか、その服に僅かな血の染みを広げていく。

 

 

「ルフレさんっ、何を……っ!」

 

「……ルキナは、優し過ぎるから……。

 僕を手に掛けてしまえば、僕が何を言ったとしても、きっと君自身を許せないんだろう……? 

 ……僕は、もうこれ以上僕の所為で君を苦しめたくないんだ。

 これは、君の所為じゃないよ。

 僕が、自分で選んで、勝手に決めた事なんだから。

 そこに、君が責任を感じる必要なんて無い。

 僕自身の手で、自分の責任に始末を付けるだけだ」

 

 

 そう言って、ルフレは躊躇なく剣を握る手に力を込めた。

 心臓を確実に潰す位置を狙った切っ先は、確実にルフレの命を奪うであろう。

 ルフレが自らの意志で死を選んでくれるのなら、それを止めるなんて有ってはならない筈なのに。

 ルキナはファルシオンから投げ捨てる様に手を離し、ルフレのその手を掴んで止めてしまった。

 それと同時に、「ルフレっ!!」と、焦った様に叫ぶクロムの声が辺りに響く。

 

 

「ルキナ……それにクロムまで……」

 

 

 驚いた様に、自分の腕を掴むルキナと、そして駆け寄ってくるクロムとを交互に見て、ルフレは呟いた。

 剣から意識が外れたのを見計らって、ルキナはそれを力尽くで取り上げて。

 それと同時に、クロムは驚きから反応が鈍ったルフレを取り押さえる。取り押さえられる間際にチラリと見えた傷口は、肋の骨が見える程に切り裂かれ、そこからボタボタと滴り落ちる血が服を赤く汚していた。

 

 

「クロム、どうして……」

 

「どうしたもこうしたもあるものか! 

 野営地にお前の姿が見えないから探していたら、まさかこんな事をしでかそうとしていたとはな!」

 

 

 怒り心頭とでも言うべきそのクロムの様子に、ルキナは気圧されながらも思わず声を上げようとする。

 

 

「あの、それは私が……」

 

「いや、これはルキナの責任じゃない。

 こいつが、生きる事を勝手に諦めようとしていただけだ。

 ルキナを苦しめたくない? 自分の責任に始末を付ける? 

 お前は馬鹿か! 

 遺される者の苦しみをお前は目の前で見てきたと言うのに、何故その苦しみをルキナに押し付けようとするんだ!! 

 それに、お前の命はもう、お前一人で責任を負いきれるものなんかじゃないだろう! 

 お前を必要とする者が、何れ程居るのか分かっていてそんな戯れ言を吐くのか?」

 

 

 クロムは、かつて無い程にルフレに対して怒っていた。

 クロムは遺される哀しみも苦しみも知っている。

 ルフレとエメリナでは状況も何もかもが違うが、自分以外の誰かの為にその命を擲とうとした事は同じだ。

 その苦しみを、ルフレもまた見てきた筈なのに。

 生きて足掻く事を早々に諦めたルフレは、ルキナの為と嘯きながら自ら命を断とうとまでしたのだ。

 ルフレのその行いは、どんな経緯があろうともクロムにとっては到底許せる事では無かった。

 

 

「それは……。でも僕は、こうして生きている限り、ファウダーに操られてクロムを殺してしまうかもしれないんだ……。

 今この瞬間でさえも、アイツの操り人形にされるかもしれない。

 そんな危険な存在を、クロムの傍に置く訳にはいかないんだ」

 

「だから死を選ぶと? 

 何故最初から諦める。

 ファウダーの支配を打ち破れないと決まった訳でもないのに、どうして抗う前から諦めてしまうんだ?」

 

「それは……。現に僕は、『炎の紋章』をアイツに渡してしまった。

 次は、クロムの命を奪ってしまうのかもしれない。

 ……僕は、君を殺したくなんてないんだ。

 そんな事になる位なら、迷わず僕は死を選ぶよ」

 

 

 ルフレは、自分の意志を曲げようとはしなかった。

 自らの命を『死ぬべき』と定めてしまっている。

 クロムは、そう言い続けるルフレの胸元を強く掴み揺さぶった。

 

 

「二度目なら、今度こそ抗えるかもしれないじゃないか! 

 サーリャとヘンリーに頼んで、何らかの対策だって講じる時間はある! 

 お前は、『運命』から逃げているだけだ! 

 ルキナが知る『未来』と戦うのではなく、諦めて死ぬ事で逃げようとしているだけじゃないか! 

 抗えっ! 戦えっ! 最後まで生きようと足掻いてみせろ! 

 俺の『半身』ならば、生きる事を諦める事など、断じて許さんっ!」

 

 

 語気も荒くそう言い切ったクロムにルフレは何も返さなかった。

 その目は凪いだ湖面の様に静かで、何を考えているのかはルキナには窺い知る事も出来ない。

 クロムはそんなルフレを見て一つ大きな溜め息を吐くと、ルフレを担ぐ様にして拘束した。衛生兵の所へ運ぶつもりなのだろう。

 投げ捨てられていたルフレの剣を回収して、クロムはルキナへと向き直る。

 

 

「すまない、ルキナ。

 ……俺は、お前の苦しみを分かっていなかったのかもしれない。

 その所為で、お前を独りで戦わせてしまっていた。

 気付いてやれなくて、すまない」

 

「それは……お父様の責任では……」

 

「いや、謝らせてくれ。

 もっと早くに気付いてやっていれば、ルキナにこんな事をさせずに済んでいた筈だからな。

 …………『絶望の未来』をその身を以て知っているお前には、信じきれないのかも知れないが。

 俺は、ルフレとの絆を信じている。

 ファウダーとの血の繋がりなんかよりも、ずっと強く『価値』がある絆が、俺達にはあるんだ。

 その血が『運命』であると言うのなら、俺はそんな『運命』なんかよりも、ルフレとの絆を信じる。

 それに、ルキナ……お前との絆もだ。

 お前が諦めずに戦い続けた事で生まれたこの絆には、必ず『運命』を打ち破る力がある。

 だから、諦めるな」

 

 

 そう言ってクロムはルキナの頭を優しく撫でて、ルフレを連れてその場を立ち去った。

 後に残されたルキナは、取り落としてしまった自分のファルシオンを拾い上げて鞘に納め、そして立ち尽くしてしまう。

 今のグチャグチャとした気持ちのままでは、野営地に戻る事も出来そうになくて。少しの間でも、こうして一人になりたかった。

 ふと手を見ると、今更になって小さく震えてしまっている。

 

 ルフレが自害しようとした瞬間、ルキナの心を支配したのは、底が見えない程に深い『恐怖』であった。

 ルフレを失ってしまう恐怖、ルフレに死を選ばせた恐怖。

 ルフレを殺そうとしていたのは、他でもないルキナ自身であると言うのに。

 それでも、ルフレが死ぬ事には、その恐ろしさには耐えられなかったのだ。

 …………『使命』と言う虚飾で心を覆って目を反らす事でどうにか保っていたのに、あの瞬間にそれらは全て剥ぎ取られてしまった。

 

 一度自分の本当の心を自覚してしまった以上、もうルキナはルフレを殺せない。二度と剣を向ける事は出来ない。

 例え、その所為でこの世界が『絶望の未来』になると分かっていたとしても。

 

 ルキナは、決して選んではならない方を、選んでしまっていた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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『向き合う時』

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 結局の所、ルフレを殺さなくとも『運命』は変わった。

 ルキナもクロムも知らぬ所で、ルフレは既に策を講じていて。

 それが結果的にファウダーの企みを打ち破り、操られたルフレがクロムを殺すと言う……ルキナが知る『未来』を見事に変えた。

 ルキナがルフレを殺そうと剣を向けた時には既に、ルフレは『運命』を変える為の策を実行に移していて。

 それなのに、あの時あの瞬間、ルフレを自らの死を受け入れる所か、その命を自ら断とうとまでしていた。

 何故? とは思うがその真意をルフレに問う事は出来なかった。

 

 いや、そもそも。あの日からずっと、ルキナはルフレに話し掛ける事すら出来ていなかった。

 ルキナが無意識に避けているのか、それともルフレの方からルキナを意図的に避けているのかは分からないけれど。

 あれ程までに共に行動する事が多かったのに、不自然な程ルフレに出会う事すら無くて。

 戦闘の際に遠目にその姿を確認出来た事は幾度もあったけれど、野営地に戻ったらすれ違う事すらも無くて。

 今はとてもではないがルキナに関わっている暇など無いと言う事なのかもしれないけれど、ルフレと話す機会すら持てていない所為で、未だにあの日の事を謝る事すら出来ていなかった。

 

 ルフレがクロムを殺すと言う『運命』は、確かに変わった。

 しかし、ギムレーが甦ると言う『結果』は変えられなかった。

 いや、細かく見てみれば、変わってはいる。

 あの『未来』で、『ギムレー』として甦ったのは、……『ギムレー』へと成り果ててしまったのは、『ルフレ』であったのだから。

 しかしこの世界のルフレはギムレーになってはいない。

 この世界のギムレーとして甦ったのは、ルキナが居た『未来』からルキナと同様に時を遡ってやって来ていた『ギムレー』だったのだから。

 

 時を超えた影響でその力の多くを喪った『ギムレー』は、再び力を取り戻し、この世界のギムレー──つまりはルフレと一つになる事で更なる力を得ようと画策していて。

 その為に、『ギムレー』の知る『未来』をなぞる様に、この世界を動かしていた。

 暗殺から救った筈のエメリナがそう時を置かずに死ぬ事になったのも、『ギムレー』の仕業であったのだ。

『絶望の未来』を変えようとするルキナと、『絶望の未来』へと進ませようとする『ギムレー』。

 ルキナはそうとは知らぬ内に『ギムレー』と戦っていたのだ。

 

 ルフレと一つになり更なる力を得る事を目的としていた『ギムレー』であったが、ルフレが『運命』を変えた事やギムレーと成り果てる事を頑なに拒絶した事を受けて、ギムレーの……ルフレの為に『竜の祭壇』に集められていた力を取り込んで、再びあの強大な竜の姿を取り戻してしまった。

 今はまだ力を取り戻して間もないからか、その力を十全には奮えない様ではあるけれど。

 そう遠くない内に力を完全に取り込んで、あの絶対的な暴威を奮うであろう事は想像に難くない。

 そうなってしまえば、あの『絶望の未来』が訪れてしまう。

 だから、何としてでもその前にナーガの『覚醒の儀』を遂げて、ファルシオンに千年前の初代聖王がギムレーを討つ為に奮った神竜の力を甦らせなければならない。

 その『覚醒の儀』を行う為に、ルキナ達はイーリスの東にある『虹の降る山』を一路目指しているのであった。

 

 その為に軍師としてルフレが日々忙殺されているのは容易に想像出来るし、ルキナとてルフレの邪魔をしたい訳ではない。

 しかし、ルフレの事情を口実にして、ルフレと話し合う事から逃げているのではないか? とも思ってしまう。

 例え死を受け入れ、あまつさえ自害すらしようとしたルフレではあるけれども。だからと言って、ルキナがルフレを殺そうとした事が許された訳ではない。

 ルフレに合わせる顔が無い、と言うのもあるけれど、ルフレから拒絶されたら……と言う考えが、ルキナの行動を縛っていた。

 現に、ルフレはまるでルキナを避けるかの様であって、それがよりルキナのその後ろ向きな考えを後押ししてしまう。

『虹の降る山』までは、そう遠くは無い。

 何故だか、そこに辿り着くまでにルフレと話さなくてはならない気がする。その機会を逃してしまえば、もう二度とルフレと話す事は出来なくなる様な気がするのだ。

 それは勘としか言い様の無い直感的な感覚ではあるのだけれど、だからこそ急き立てる様にルキナの胸を焦がしていた。

 そして、そんなルキナを見かねたのだろう。

 明日には『虹の降る山』の麓に辿り着けると言う所まで行軍した日の夜に、ルキナはクロムから呼び出しを受けた。

 特に疑問を感じる事もなく呼び出された場所へと向かうと、そこにはクロムだけではなくルフレの姿もあって。

 ルキナと目が合った途端に、ルフレは僅かに動揺した様にその指先をピクリと一度震わせた。

 それを認めてしまったルキナの心にも動揺が走る。

 やはりルフレに避けられていたのでは……ルフレに拒絶されているのでは、と。悪い想像は何処までも膨らむ一方で。

 それでも何とかその場に踏み留まったのは、クロムがその場に居ると言う事もあったけれど、それ以上に、もしこの機を逃せばルフレと二度と話せなくなりそうな予感があったからだ。

 ルフレはと言うと、ほんの少しの動揺を見せた後は、いっそ不自然な程に何時も通りの平静さを保っているが、ルフレが平静を装っているだけなのかどうかまではルキナには分からなかった。

 暫し、どちらも何一つとして話さないと言う、そんな奇妙な沈黙の時間が流れる。

 

 そんな二人を暫く黙って見ていたクロムだが、突如大きな溜め息を吐き、それにルキナが驚いた様に目を向けたのを合図として、漸くこの場に於ける初めての言葉を発した。

 

 

「お前達が何を考え何をしたいのか……俺は一々詮索はせん。

 だが、ルキナもルフレも、お互いに掛けるべき言葉が、語るべき事があるなら、ちゃんとそれは行動に移せ。

 話したい……伝えたいと思っても、それが永遠に叶わない事なんて幾らでもある。それを、その時になって後悔しても遅い。

 ……俺は、その辛さをよく知っている」

 

 

 大切な最愛の家族へ伝えられなかった言の葉を今も沢山抱え続けているクロムは、そう言った。

 家族でも、恋人でも、仲間でも、友人でも。

 永遠に傍に居る事は決して……それこそ神であっても叶わない、どんな形であっても別れは必ず来る。

 そうやって伝える機会を逸した言葉は、もう永遠に相手に届く事は無い。何れだけ伝えたくても、何れ程大切な言葉で……想いであったのだとしても。

 それ故に言葉は、想いは、伝えられる時を逃してはならない。

 それを、クロムは良く知っていた。

 だからこそ、ルキナとルフレを見ていられなかったのである。

 そこにどんな事情があろうと殺し殺されようとした関係であった為、互いに冷静になる時間は必要ではあったのだろう。

 だから、クロムも当初二人が互いを避ける様に行動していてもそこまで問題視はしていなかった。

 だが、ルフレが明らかにルキナを避け、ルキナもルフレに会おうとしつつも尻込みしている様な状況を見て。

 このまま拗れてはきっと二人の間に生涯に渡る蟠りが生まれてしまうと感じた。それを打破する為に、多少強引ではあるけれどもクロムはこうして二人を引き合わせたのであった。

 謝るにしろ赦すにしろ或いは自らの胸の内を明かすにしろ、先ずは互いの顔を見て話す事から始めなければ何も進まない。

 この荒治療の様な強引な手で、二人が互いに納得がいく形に納まるのかは分からないが、少なくともこのままズルズルと拗れていくよりはマシである。

 大切な『愛娘』と、自らの『半身』である友。どちらもクロムにとって大切な存在であるからこその、『お節介』であった。

 

 そして、クロムのその『お節介』の結果……。

 クロムの言葉を聞いたルキナの目が、確かに変わった。

 決意、或いは覚悟。

 そう言った感情が灯った眼差しで、ルキナはルフレを見詰める。

 一方、ルフレは変わらず静かな目でルキナを見詰め返していた。

 だが『半身』であるクロムは、ルフレのその眼差しの中に、ルフレの心を縛り続けている『何か』の影を見付ける。

 クロムではどうしてやる事も出来なかったその『何か』ではあるが、ルキナがやって来て……そして行動を共にする様になってからは、その『何か』は確実に変わっていった。

 それが望ましい変化であるのかはクロムには分からない。

 先日の件を見る限りでは、自己犠牲的な面は変わらないか寧ろ悪化しているのかもしれない。

 だが、クロムには、その『何か』からルフレの心を解放するも、或いはより強固に縛り付けるも、それはルキナに鍵があるのではと思うのだ。共に戦う様になって、ルキナが大きく変わった様に、ルフレもまた変わっていっていたのだから。

 

 

「後は二人に任せるが……。

 互いに言わなくてはならない事があるなら、全部言っておけよ。

 想いは、言葉と行動にして初めて伝わるものだ。

 どちらが欠けても正しくは伝わらず、それは何時かの未来で後悔になるからな」

 

 

 そう言い残し、クロムは二人の為に用意した天幕を後にする。

 心配が無い訳ではないがそれよりも二人を信じる事を決め、立ち聞きなどはしない上に天幕の近くからは人払いもしておいた。

 だからこそ、クロムはその天幕の中でどんな話し合いが行われていたのかを知る由は無いのであった。

 クロムが去り、再び静寂が満ちそうになる天幕の中で、先に沈黙を破ったのはルキナであった。

 

 

「ルフレさん、すみませんでした」

 

 

 先ずはそう謝罪し、しっかりと頭を下げる。

 それには、クロムの言葉を聞いている時も冷静そのものであったルフレも驚き慌てだす。

 

 

「え、いや、そんな事をしなくても……! 

 だってあれは僕が──」

 

「いいえ、ルフレさんの意思がどうであったとしても、私がやろうとしていた事も、そしてその罪の重さも変わりません。

 だからこそ、謝らせて下さい。

 赦しを乞う為ではなく、貴方と、ちゃんと向き合う為に」

 

 

 そうまで言うと、ルフレもルキナが謝罪する事を拒否出来ないと悟ったのだろう。

 ルキナが謝るその言葉を、ただ黙って聞いていた。

 そして、ルキナは更にもっと謝らねばならぬ事を……。

 元々、ルフレを殺すその為だけにルフレの傍に居ようとした事も明かし、謝った。

 

 あの『未来』で、『クロム』を裏切り殺したのが『ルフレ』であったと最初から知っていた事。その為、『絶望の未来』を回避する為であると同時に復讐の為にその命を奪おうとしていた事。

 

 しかし、ルフレの人柄を知り、あの『未来』での裏切りの真実を知った今では、もうルフレへの復讐心など無く、ルフレを殺そうと言う意思はもう欠片も無い事を、一つ一つルフレへと伝えた。

 

 相槌を打つ事も無くただ黙ってルキナの言葉を聞き続けていたルフレであるが、ルキナが全てを伝え終えてからの僅かな沈黙の後に、漸く口を開いた。

 

 

「ルキナ……僕は、君が僕を殺そうとしていたのには、最初から気付いていたんだ」

 

 

 思いもよらぬその言葉に、既に如何なる言葉をぶつけられる事も覚悟していた筈のルキナでも、思わず呆気に取られてしまった。

 意味も、意図も。その何もかもが理解出来ない。

 自分を殺そうとしていると分かっていたのなら、何故──

 

 

「一応僕も軍師として、人を見る目はちゃんとあるよ。

 ……ルキナは上手く殺意を隠していた方だったけど。

 君と初めて出会った時……君が『マルス』の名を名乗っていた時から、君の殺意には気が付いていた。

 クロムも多分、君が僕たちと一緒に戦う様になってから気が付いていたとは思う。

 ……それで、何度かクロムから心配されていたからね。

 でも、僕にはそれで良かったんだ」

 

 

 だって、と続けようとした所を、ルフレは急にその言葉を呑み込んだ。

 そして一度迷う様な表情を浮かべるが、数秒ほどの沈黙の後に再び口を開いた。

 

 

 

 

「僕は、君に殺される為に、傍に居たんだから」

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇



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『彼の願い』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ルフレには、記憶が無い。クロムと出逢う前、あの草原で目覚める迄の、それまでの一切をルフレは喪失していた。

 自分が何処の誰であるのか、何をして生きていたのか、何をしようとしていたのか。

 自分の名前以外に、それまでの自分を辿る為の縁となるものは何一つとして無くて。

 それを辛いとか哀しいとか思える様な感傷も、そう想起する為の最低限の記憶や経験ですら、ルフレは全て喪ってしまっていた。

 

 何も無かったからこそ。

 ルフレにとって、クロムとの、クロムとの出逢いによって生まれた仲間達との数多の絆は、何よりも掛替えの無いもので。

 自分が生きる意味、命の『価値』にまで、なっていた。

 それも当然であろう。空っぽだったルフレに居場所を、役割を、存在理由をくれたのは、クロム達なのだから。

 だからこそ、ルフレにとってクロムは、そして仲間達は何よりも大切な存在で。

 自らよりも優先させるべき、優先する事が当然の存在であった。

 

 それなのに、ルフレは『夢』を見るのだ。

 眠りに落ちる度に、ルフレは変わらずに同じ『夢』を見続ける。

 クロムをこの手で殺す……そんな夢を。

 

 何度止めようとしても、何度足掻いても、何一つ変わらない。

 ルフレはクロムを殺す。

 クロムを穿った雷の名残がその手に纏わり付いている感覚も、人の肉が焦げ付く臭いも、抱き起こしたクロムから命の砂が止める事も叶わず零れ落ちていくその感覚も。

 何もかも、本当にその場で実際に経験したかの様に、ルフレの中に焼き付いていて。

 狂ってしまいそうな程の後悔や絶望、自分への憎悪や破壊衝動。

 感じるそのどれもが、自分自身のものであった。

 何処までも現実である様な、確たる『質量』を伴ったその『夢』。

 それは己の芯となるべきものすらも喪失していたルフレの心の奥深くに撃ち込まれ、ルフレの認識をまるで鎖の様に縛り始めた。

 

 今となっては、記憶が喪われたのはこの世界に『未来のギムレー』が辿り着いた際に、ルフレと『ギムレー』が『同じ』存在であるが故に互いに混ざり合い、流れ込んできた『ギムレー』の力によって記憶が消し飛んでしまったからであると言う事も。

 繰り返し見続けていた『夢』は、『未来のルフレ』の身に実際に起きていた事で、ルフレと『ギムレー』が混ざった際に『未来のルフレ』の記憶が僅かながら流れ込んでいたからだと言う事も。

 そのどちらをもルフレは理解しているけれど。

 しかし、クロムと出会った当初にそんな事は知る由も無くて。

 ルフレの思考は、自分に対する捉え方は、『夢』と喪失によって歪んでしまっていった。

 

 ルフレにとって、クロムや仲間達は絶対の存在である。

 クロム達の為ならば死ぬ事など惜しくも恐ろしくも無い。

 だが、ルフレを必要としてくれるクロム達を哀しませない為にも、自分の身を大切にしなくてはならないとも思っていた。

 そして、ルフレは軍師としての才覚を奮う事でクロム達の役に立つ事を、自分の『存在価値』であると心から思っている。

 しかし同時に、終わりの見えない繰り返しを続ける『夢』が、ルフレの心を蝕んでいた。

 

 クロム達から必要とされている限り、ルフレは何としてでも生き延びようとするだろう。だが、もしも。

 ルフレの存在がクロム達にとって禍にしかならないのであれば、何れ程クロム達から必要とされてようとも、ルフレは死を選ぶのは間違いない。

 況してや、『夢』の様にクロムを裏切り殺すなど、ルフレにとっては自らの命を躊躇わずに擲ってでも阻止しなくてはならない事である。

 ただ……。自分の死を厭わない様に心が歪に縛られているルフレではあるけれども、それ以上にルフレの胸を満たすのは、『クロム達の役に立ちたい』と言う思いであった。

 その欲求は、時に冷静な判断を狂わせてでも、ルフレに「生きていたい」と思わせてしまうものであった。

 

 だからこそ。ルフレは、自分が『死ななければならない時』に死ねなくなる事を恐れた。

 死に時を見失う事を、そしてその所為でクロム達を害し……殺してしまう事を、何よりも恐れていた。

 だから、ルフレは常に『必要な時に自分を殺してくれる』誰かを求めていた。

 

 最初は、フレデリクなら適任だと、そんな事を思っていたのだ。

 フレデリクならば、クロムに害となるならば、迷わずにルフレの命を断ってくれるだろう……と。

 だけれども、当初こそルフレを警戒していたフレデリクも、何時しかルフレに心を許していて。

 堅物であるが情に厚い彼に、一度懐に入れてしまった相手を殺す事は出来ないであろう。

 例え、そうする事が最善であり、主君であるクロムを守る事になるのだとしても。いや、出来たとしても、それはフレデリクの心を何処までも苦しめてしまう。

 ルフレにとって、フレデリクも掛替えの無い大切な仲間であり、そんなフレデリクを苦しめる事など当然出来る筈もなくて。

 だからこそルフレは、自分を殺しても苦しまず、そして『殺さなくてはならない時』を逃さないでいてくれる人を、ずっと探していた。そんな中で現れたのが、ルキナだったのだ。

 

 当時は『マルス』を名乗っていたルキナと初めて出会った時は、まだルフレはクロムに拾われた直後の空っぽに等しい状態で。

 だからこそ、彼女が密かに自分に向けていた殺意には、戸惑うしか無かった。

 その後も『マルス』を名乗る彼女とは二度・三度顔を合わせる機会はあったのだが、『マルス』がルフレに向ける殺意には僅か程の揺らぎも無いのに、それでいて自分を襲おうとする素振りすら見せないのが不思議で仕方が無かった。

 

 だが、ヴァルム帝国との戦争が始まった直後、ルキナがクロムの前に現れてその本当の身の上を語ったその時。

 ルフレは、彼女の殺意の理由を全て悟った。

 そして、ルキナならば、と……。そう、思ったのだ。

 

 ルキナがルフレへと強い殺意を向け続けているのは、ルフレが彼女の父であるクロムを殺した怨敵であるから。

 だが、親の仇である筈なのに、ルフレを早々に始末しようとはしないのは、ルフレにまだ『利用価値』がある事を……ルフレがクロム達の役に立つ事を知っているからだ。

『未来』を知っているルキナならば、ルフレに『利用価値』が無くなりクロム達の害になる時を知っているのであろうし。

 ルフレを殺し本懐を遂げた所で心を痛める事などあるまい。

 

 ルフレへの情に流され、判断を間違える事も無く。

 そしてルフレを殺す事でそれに心を痛める事も無い。

 ルフレにとって、ルキナは何処までも好都合な人物であった。

 だからこそ、ルフレはルキナが常に自分の傍に居る様にした。

 何時でも、必要な時にルキナが自分を殺せる様に。

 ……ルキナがルフレに並々ならぬ『何か』を抱いている事をうっすらとだが感じ取ったクロムからは、酷く心配された事もあったけれど。『必要な事』なのだとルフレはクロムを説き伏せて、ルキナの傍に居続けた。

 勿論、嘘は言ってない。

 ルフレにとって、ルキナは何よりも大切な存在だ。

 他でも無いクロム達を守る為に、絶対に喪ってはいけない存在であった。

 

 …………だけれども、結局ルフレはルキナを見誤っていたのだ。

 ルキナはルフレを憎悪しているのだから、ルフレを殺す事を躊躇う筈など無いと、そう思ってしまっていた。

 ……ルキナが、クロムと同じかそれ以上に、情が厚く根が誠実で善良である事に、ルフレは最初の内は気付かなかった。

 気付いても、それが何になるのだろうと思ってしまったのだ。

 ルフレが大切な親の仇である事は間違いないのだから、何を迷う事があるのだろうと。

 ……だがルキナは……ルフレが親の仇と知っていても尚、ルフレへの憎しみを持ち続ける事が出来なかったのだ。

 必要な時に殺される為にと、傍に居続けた事が。

 そして共に過ごした時間が、結果として裏目に出てしまった。

 憎悪を喪ってしまったルキナは『使命』以外に自分の行為を正当化出来るものを、持っていなかったのだ。

 それは、一度懐に入れてしまったものを切り捨てられない程情に厚いルキナを、却って酷く苦しめる事になってしまった。

 

 殺して貰う為にルキナの傍に居たルフレではあるけれど、ルフレにとってルキナも大切な仲間である事には変わり無い。

 ルキナの幸せを願う気持ちは本当だし、自分の身勝手な目的の為にルキナを利用している自覚があったからこそ、せめて『その時』が来るまでは、自分が出来る精一杯の事をルキナにしなくてはならないとも思っていた。

 ルキナに伝えた言葉は、何れも紛れもない本心である。

 ……結局はその所為で、ルキナはルフレを憎めなくなってしまったのだけれど。

 ルキナがルフレへの憎悪を喪ってしまったのには薄々気が付いていたのだけれども、それが何れ程残酷な事を強いてしまったのかをルフレがハッキリと理解出来たのは、よりにもよって『その時』が来てしまってからであった。

 

 良心の呵責と『使命』との板挟みになり、今にも壊れてしまいそうになりながらも必死にファルシオンをルフレの喉元に突き付けるルキナを見て、そこでやっとルフレは自分がしてしまった事を後悔した。

 あの時のルキナは、ルフレを殺してしまった後に心を壊してしまいかねなかった。

 いや、そうでなくとも一生自分を赦せなくなっていただろう。

 ……そんな事すら事前に見抜く事が出来なかった自分の浅はかさを、あの時程呪った事は無い。

 

 だから、ルフレはせめて自分の手で決着を着けようとしたのだ。

 元々、ルキナの手で殺させようとしていたのは、ルキナがルフレを憎んでいたからで。

 せめて仇討ちを果たさせてあげなくてはと思ったからであった。

『死ななければならない時』さえ見失わずにすむのなら、なにも他者の手を煩わせる必要もない。自死を選べば良いだけだ。

 ……だけれどもそれは他でもないルキナに止められてしまって。

 そして、クロムの心をも傷付けてしまった。

 ルフレは、クロムとの絆を信じていない訳ではない。

 寧ろ、この世の何よりも強くそれを信じているし、それこそがルフレの生きる意味なのだ。

 勿論、あの『夢』を現実にさせない為に打てる手は全て打ってきていた。

 ……それでも、この世に『絶対』などなくて。

 クロムを自分の意思とは関係無く殺してしまう可能性が、決して完全には無くならないからこそ、自分は死ぬべきだと……そう思っていた。

 しかしその思いが、ルキナを深く傷付けてしまった。

 身勝手な願望で、ルキナの心の柔らかな場所に消えぬ傷を刻んでしまった。その罪は、『運命』を変えても償える事ではない。

 

 ……だから、ルフレはルキナから距離を置いた。

 せめて、これ以上ルキナを傷付けない為に。

 それが、ルキナにしてやれる最善だと、そう思っていたのだ。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ルフレが静かに語ったその胸に秘めて続けていた想いを、ルキナは掛ける言葉も喪いながら聞いていた。

 

 ルキナは、知らなかった。

 ルフレがその微笑みの下に隠し続けていた苦しみを、その心を戒め続けていた呪詛の様な枷を。

 ……何一つとして、知りはしなかったのだ。

 

 ルフレの苦悩を知る由は無かったとは言え、ルキナがルフレに向けていた殺意は、そして剣を向けてしまった事実は、彼を更に追い詰めてしまっていたのだろう。

 ルキナは、苦悩の海の中で独り溺れて声無き声で助けを求めていたルフレの心を、知らぬ内に切り捨ててしまっていたのだ。

 誰よりも仲間を、クロムを大切にしているルフレにとって、眠りと共に夜毎に訪れるその『悪夢』は、何れ程その心を抉っていたのだろうか。

 

 ルフレは、ずっと追い詰められ続けていたのだ。

 そして、優しく仲間思いであったからこそ、ルフレは自らを責め苛む鎖に囚われて歪んでいってしまった。

『自分は生きていれば何時か必ず仲間を殺してしまう。

 仲間の為に死ぬべきである』と、自らの死を厭う事が出来ない処かそれを望んでしまう程に。

 クロム達の『役に立つ』と言う『価値』がなければ、「生きたい」と……ただそう思う事すら出来なくなってしまう程に。

 

 ルフレ自身はそれを『歪み』とは思っていないのだろう。

 それ程までに、深い場所に刷り込まれたそれは、最早無意識下での信念に近しくなっていた。

 ……クロム達ですら、その鎖を断ち切ってやれない程に。

 

 

「僕は、君を酷く傷付けてしまった。僕の身勝手な願いの所為で。

 君に、僕なんかの『命』を、それを奪う重みを、背負わせようと……。……君が、何れ程僕を憎んでいたのだとしても、僕を殺してしまえば罪の意識を感じずにはいられない程に優しい人だと、知っていたのに。僕は、君になんて酷い事を……」

 

 

 その深い苦悩がそのままそこに表れているかの様にその瞳に深い翳りを写しながら、ルフレはそう力無く呟く。

 何処までも優しいルフレは、より傷付いているのは彼の方だと言うのにも関わらず、ルキナの事ばかりを気に掛ける。

 その心を縛り付ける鎖の所為なのか、ルフレは自身を勘定に入れる事が出来ないのだ。

 何れ程傷付いていても、何れ程苦しくても、それを自覚していたとしても自分を顧みる事が出来ない。

 それは、あまりにも……。

 

 

「だから、ルキナ。

 君が僕に謝る必要なんて、何処にも無いんだ。

 ……赦しを乞わねばならないのは、僕の方だ。

 いや、僕にはそんな資格すら無い……」

 

「資格だなんて、そんなの……」

 

「無いさ、有る訳がない。

 僕は……『僕』がクロムを殺し、ルキナが本来は生きるべきだった世界を滅ぼし、君が享受するべきだった幸せを、何もかも奪い壊してしまった……。

 それどころか、『過去』を変えさせまいと……『僕』は、本当なら助けられていた筈の命を……エメリナ様の命を奪った。

 ……いや、そもそも……。

 ペレジアとの戦争も、ヴァルムとの戦争も、全てその裏で、ギムレーを蘇らせようとしていたギムレー教団と『僕』が糸を引いていたんだ。

 あの戦争で喪われた全ての命が、元を辿ればギムレーの……僕の所為で奪われた様なものだ……。

 それでどうして、よりにもよって君に赦しが乞える?」

 

 

 生きている事そのものが、その存在自体が、罪であると。

 まるで自分がこの世の何者よりも罪深い咎人であるかの様に、ルフレは言う。

 

 ルフレは、何よりも自分自身を、その存在を赦せないのだろう。

 決して悲劇を直接的に引き起こしたのが自分自身ではなく、またそんな意思はなかったのだとしても、その悲劇を引き起こす引き金になってしまっていた事を、そしてそれを知らずに生きていた事を、赦せないのだ。

 

 

「ですが、ルフレさん……。

 それは、あなたの所為じゃないです。

 あなたは何も知らなかったし、そこにあなたの意思も無かった。

 ……操られてお父様を殺したのはあの『ルフレ』さんだったのは確かですけれど、でも、今ここに居るルフレさんは運命を変えたじゃないですか。

 あなたは、お父様を殺していないし、ギムレーになっていない。

 それなのに、自分を赦せないのですか?」

 

「……『知らなかった』なんて、何の言い訳にもならないよ。

 それどころか、無知であった事こそが罪だ。

 僕がクロムを殺さずに済んだ事も、この身がギムレーに成り果ててはいない事も、全ては君がこうして過去にやって来てくれたからに過ぎない。

 それに……僕がこうして生きている事自体が、君やクロム達にとって大きなリスクになっている。

 僕の意思一つでギムレーに成り果てる事を拒めるなら、そもそも君が居た『未来』でもギムレーは甦ってなんていない。

 ギムレーの『覚醒の儀』を誰かに行われるだけで、僕の意思の所在とは無関係に僕はギムレーになる。

 僕がギムレーと化すのを免れたのは、僕がそれを拒めたからと言うよりは、あの『僕』……いや、『ギムレー』にとっては、僕を取り込み更なる力を得る際に意識の主導権を得る為には、僕をギムレーに『覚醒』させない方が都合が良かったからだ」

 

 

 餌に『力』を持たせる意味は無いから、とルフレはそう零す。

 その心に在るのは、変える事が出来ぬ事実への絶望か。

 ルフレ自身は何一つとしてそんな事は望んではいないと言うのに、生まれながらに絡み付いた宿命は、ルフレがルフレであり続ける事を赦さない。

 

 

「……それでも、ルフレさんはルフレさんです。

 例えギムレーの器なのだとしても、あなたはギムレーとは違う。

 優しくて、仲間想いで、私では想像もつかない程に賢くて、戦術で皆を守り続けてくれて、自分が傷付く事を厭わずに誰かを守る事が出来て、この世界を……人々の営みを慈しんでいる。

 私達の、大切な……仲間です。私は、あなたを……ルフレさんがルフレさんであり続ける事を、信じます。

 今度は、絶対に……何があろうとも、最後まで」

 

 

 ルフレが生まれ持ってしまった宿命を変えてやる事はルキナには出来ない。

 それでも、ルフレを信じる事ならば出来る。

 今目の前にいるこのルフレは、ギムレーなどに成り果てないと。

 どんな悪意が、どんな祈りが、ルフレの身を邪竜へと堕とそうとするのだとしても。

 ルキナは……否、ルキナ達は、絶対にルフレの手を離さない、信じ続ける。

 ルフレがルフレであり続けられる様に、悪意の祈りに絡め取られてしまわない様に。

 

 大局的に見れば、その決意は間違っているのかもしれない。

 ルフレは生きている限りギムレーとなる可能性が無くなる事はないのであれば、リスクを完全に排除する為にはルフレは生きていてはいけないのだろう。

 だが、そんな『もしも』やら『可能性』に何の意味があると言うのだろうか。

 

 ルキナはもう、世界の為であろうともルフレの命を奪う事など出来ない事には気付いてしまっているのに。

 ルフレが『ギムレーの器』であると……ある意味でギムレーその物であると知っても尚、ルキナがルフレに対して嫌悪感や忌避感を懐く事は無くて。

 ルキナがルフレに向ける想いは、微塵も揺るがなかった。

 

 いや、それはルキナに限った話ではない。

 クロムも、そして共に戦い続けてきた仲間達も。

 ルフレと確かな絆を得ていた者達は、その身の上の全てが明かされた後でも誰一人としてルフレを拒絶する事は無かったのだ。

 イーリスにとって怨敵の子であるのだとしても、邪竜の血族であるのだとしても、ある意味で邪竜その物であるのだとしても。

 それでも、ルフレは決して邪竜などではないのだと、ルフレはルフレなのだと、仲間の誰もが受け入れていた。

 だが、ルキナ達は誰一人として拒んでいないのだとしても、ルフレ自身が自分を拒絶しようとしている。

 今のルフレには、自分自身が悍ましく恐ろしい化け物である様に思えてしまっているのだろう。

 自分の手で仲間を殺してしまうのかもしれない『何時か』を恐れて、だからこそ、死を選ぶ免罪符を得る為に、ルキナから拒絶されようとして、自らがさも全ての悪の根源であったかの様に語っているのだろう。

 いや、ルフレ自身の心の中では、彼は「諸悪の根源」であり、死ぬ事こそが「世界の望み」である存在なのだろう。

 心が生み出した絶望の泥濘を、彼自身は振り払えない。

 …………彼は、自らが生み出した『地獄』に囚われている。

 

 その全てを思い込みだと否定する事は、ルキナにも出来ない。

「真実」もまた、そこに僅かなりとも存在するだろうから。

 だが、だから何だと言うのだ。そんな言葉を吐露された程度で、今更この気持ちが揺らぐとでも本気で思っているのだろうか。

 それは剰りにも『読みが浅い』と言わざるを得ない。

 神軍師とも讃えられているルフレには、有り得べからざる程の失敗であろう。

 

 今となっては少し遠く感じるヴァルムとの戦争が終わったあの日の夜のクロムの言葉が脳裏に過る。

 一度だけでも良いから何があってもルフレを信じて欲しい、と言うその願いは、ルフレを信じられずに剣を向けてしまった自分には叶える資格など無いと思っていたけれど。

 きっとあの言葉は、今この時の為にあったのだ。

 自ら離れようとするルフレの手を、離さない様に掴む為に。

 

 

「ルフレさん……あなたは私にとって大切な人なんです。

 あなたに剣を向けてしまったあの日に、やっと気付きました。

 例え世界の為であるのだとしても、いえ……何の為であるのだとしても。

 私は……ルフレさんの命を奪えないと、ルフレさんの命の方が大切であるのだと。

 何時の間にか、『使命』とであっても秤に掛けられない程に、私にとってあなたが掛替えの無い存在になっていて……。

 ……だから、私はあなたを信じます。あなたを、守ります。

 悪意が誰かの祈りが、ルフレさんをギムレーにするのであれば、その祈りから。誰かの恐怖があなたを排するなら、その恐怖から。

 この命ある限り、私があなたを守ります。

 だからルフレさん。

 どうか、自ら死を選ぼうとなんてしないで下さい。

 生きて下さい。生きようと、生きたいと……そう、願って──」

 

 

 言葉にするよりも先に想いが溢れ出してしまって、そこから先はもう言葉には出来ず、ただ唇を震わせるだけだった。

 言葉よりも先に心があるのだから、感情の全てを言葉にする事など到底不可能で。この胸を満たす想いを、一体どんな言葉に託して伝えられると言うのだろう。

 それでも、視線だけは決してルフレから離さない。

 言葉で表す事が出来なかった想いが、質量と熱を伴って視線に混ざっていく様な錯覚すら感じる。

 ルフレもまた、ルキナから視線を逸らさなかった。

 

 熱さと激しさが秘められたルキナのそれとは対称的な深い海の底を覗く様な眼差しが、瞬きすら惜しむ様にルキナを見詰め返して。

 何かを言おうとルフレは口を開くが、言葉がまだ見付からなかったかの様に、静かな吐息が幾度かその唇を僅かに震わせる。

 そして、ほんの僅かにその視線がルキナから逸らされた。

 

 

「……僕は、……。

 ……『僕』が、君の『お父様』を殺したんだよ……? 

 ……『僕』の所為で、君の未来は『絶望の未来』になってしまった……。

『僕』は……僕が、君に……」

 

 

 赦される訳など無いのだ、と。

 そう力無く呟かれたそれは、ルキナには心の悲鳴に聞こえた。

 その心を縛り続ける枷に阻まれて、自ら助けを求める事が出来ないルフレが、必死にあげた悲鳴なのだと。

 だから、ルキナは。

 

 

「……ルフレさん。

 私を、自分を責め続ける言い訳にするのは、もう止めましょう。

 確かに、『未来』の『あなた』はお父様の仇なのでしょう。

 あの『ギムレー』が私達の未来を奪ったのも、事実です。

 でもそれは、今私の目の前に居るあなたではないんです。

 同じ『ルフレ』と言う存在であっても、あの『ギムレー』とあなたは、もう違う存在です。

 ……私と、この世界で産まれた小さな『ルキナ』が、決して同じになる事は無いように」

 

 

 そう、ルキナはそれを誰よりもよく知っている。

 例え『同じ』存在であったとしても、ルキナはあの幼子ではない、同じになれる筈もない。

 今のルキナを形作るものも、あの『未来』で喪ったものも、何れ一つとして、同じにはならないのだ。

 魂の双子と呼べる存在なのだとしても、それは全くの同一と言う意味にはならない。

 それは勿論、ルフレとあの『ギムレー』にも当てはまる。

 

 

「あなたには、最初から誰からの赦しなど必要ないんです。

 いえ、『生きる事』に赦しが要る者など、この世には居ません。

 それは、あの『ギムレー』であったとしても。

 ……それでも、赦されなければ生きられないと、死ななければならないのだと、そうルフレさんが思うのならば。

 私が、赦します。

 あなたがギムレーの器である事も、あなたの何もかもを、あの『絶望の未来』を経た上で、私は受け入れ赦します。

 だから、ルフレさん。もう、良いんです……」

 

 

 赦しなど、本当は必要ないのだけれども。

 もし、それでもルフレの心を縛る枷を破る為にそれが必要であるのならば。

 それを与えるに於いて、ルキナよりも適した者は居ないだろう。

 父を奪われ……何もかもを『ギムレー』に奪われて、あの『絶望の未来』をこの目で見詰め続け『使命』を抱えてここまでやって来たルキナだからこそ、そこにある赦しには意味がある。

 逆に、その赦しを得て尚も自らを傷付け続けられる程、ルフレは愚かしくも無い。

 ルキナの言葉にルフレは僅かに目を見開き、小さく息を吸った。

 そして感情を無理に抑えようとした様な戦慄く様な声で訊ねる。

 

 

「……僕、は……。

 ここに居ても、皆の傍に、君の傍に居ても、良いんだろうか。

 ……僕なんかが、生きていても、本当に良いんだろうか……。

 僕が、何時か皆を、君を傷付けてしまうかも、殺してしまうかもしれないのに……。

 僕の所為で、皆が傷付いてしまうかもしれないのに……。

 ……それでも。

 ……皆と、君と、『生きていたい』と……傍に居たいと。

 思う事は、願う事が……赦されるのなら……、僕は……」

 

 

 しかしそこで、急に言葉が詰まってしまったかの様にルフレは黙ってしまった。

 何かを言おうとしては、何かを躊躇う様に吐息だけを溢す。

 ただ、その手が微かに震え、何かに触れようとしているかの様に僅かに開かれているのを見て。

 ルキナは、そっとその手に己の手を重ねた。

 驚いた様にルキナを見るルフレに、何も言わずに。ただ。

 その言葉の続きを促す様に、その心を戒め縛り付ける鎖をそっと緩めようとするかの様に、重ねたその手を優しく包み込む。

 すると、目の端に僅かに光る滴を浮かべたルフレは、今度はそこにある感情を隠そうともせずに、涙声に近い震える声を上げた。

 

 

 

「僕は、生きたい……生きていたい……っ! 

 君と、クロムと、皆と……、生きたいんだ。

 笑って、泣いて、共に……ずっと、生きて……。

 僕は……っ」

 

 

 

 そこで溢れる想いを堪えきれなくなった様に、ルフレの頬を光る滴が後から後から溢れ落ちていった。

 身を震わせて泣くルフレの身体を、ルキナはそっと全てを包み込む様にして抱き締める。

 今漸く心を戒める鎖を断ち切ってその想いを涙と共に溢す事が出来たルフレに、思う存分に泣かせてやりたかった。

 今まで何れ程苦しくても辛くても泣く事が出来なかったルフレの、誰にも知られる事無く飲み込み続けてきた涙が全て溢れ出ようとしているかの様に、その涙は止まる事を知らない。

 震える手でルキナに縋り付く様に抱き締め返してくるルフレの、その温もりを感じながら。

 ルキナは、やっとルフレが心の望みを見付けられた事に、満たされた様な幸せを感じていた。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『遠く時の環の接する場所で』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

『生きたい』と言う願いは、想いは、それは生きとし生ける全てが根源的に懐く祈りであるのだろう。

 耐え難い苦痛に、終わりの無い絶望に、それから逃避する為に『死』を望む事があるのだとしても。

『死』を望む瞬間であってすらこの身に命を刻む鼓動が止まる事はなく、それが無意識にであっても、『命』と言うものは『終わり』が訪れるその瞬間まで『生きよう』と足掻き続けるのだ。

 

 でもそんな根源的な祈りですら、僕はそれを罪深い事であると、赦されざる大罪であると、無意識の内にでも思ってしまっていた。

 そうやって僕が『生きたい』と望み足掻いた果てに辿り着くのが、ギムレーへと成り果てる未来でしかないのなら。

 そして、狂った邪竜に堕ちたこの身が、何よりも……この命よりも大切な人達の命を奪うのであれば。

 僕は、生きていはならないと、死ぬべきだと、死を選ばなくてはならないのだと、そんな考えに囚われ続けていた。

 ……それはきっと、『ギムレー』へと成り果ててしまった……かつては『ルフレ』であった『僕』の、果てのない後悔と罪の意識から魂にまで染み付いた呪詛だったのだろう。

 もし僕があの『僕』と同じ様に、ギムレーへと墜とされて全てを壊してしまったならば、同じ呪詛をこの魂に刻むだろうから。

『生きたい』だなんて望むなんて、『僕』は決して赦さない。

 ……ギムレーへと成り果て、赦されざる大罪を犯した『僕』に出来る唯一の……せめてもの贖罪は、自分そのものの存在を否定する事なのだろうから。

 

 …………でもそれは、結局の所は逃避でしかない。

 何をしても、何を願っても、何に祈りを捧げるのだとしても。

 起きてしまった事を、自分にとっての過去を、本当の意味で『無かった事』には出来ないのだから。

 

 ……僕は、無意識の内に『僕』と僕を剰りにも同一視し過ぎてしまっていたのだろう。

 それにはやはり、自分を形作るべき記憶を全て喪ってしまった事も大いに関係している。

 僕の内に流れ込んできた『僕』の想いに、『僕』の絶望に、『僕』の憎悪に引き摺られて、『僕』と僕の境界を見失っていた。

 しかし、何れ程同一視し、混同してしまったのだとしても、やはり僕は『僕』ではない。

 僕はもう、『僕』とは違う道を歩き、『僕』とは違う出逢いをそして繋がりを重ねてきた。

『僕』が『彼のクロム達』を想う心と僕がクロム達を想う心は、同じ様でいてやはり異なるし、何よりも。

 僕がルキナを想う心と、『僕』がルキナへと向けていた想いは、当然の事ながら全くの別物だろう。

 

 本質的に共有する過去が同じであるのだとしても、最早僕は『僕』には成り得ないのだ。

 それにはきっと、最初から気付いていたのだけれど。

 それでも、認めたくはなかったのだ。

 僕に流れ込んだ『僕』の心の欠片から、僕の内に鏡像の様に生み出された『僕』の虚像は。

 絶望に狂い、自分への尽きぬ憎悪に叫び、果てのない罪の意識に苛まれ、涙すら枯れ果てた慟哭の中に沈んでいる、僕の内に居る『僕』の心には、もうそれだけしか望みは無いのだから。

 

 ……だが、何れ程『僕』が死を望もうと、僕自身の望みを完全に踏み潰す事は出来なかった。それもそうだ。

 僕の望みは、クロム達と共に生きる事なのだ。

 それは『僕』にとっても、本当は叶えたかった最早叶わず想う事すら赦されない望みなのだから、それを完全に消し去る事は出来ない。

 だからこそ、生を否定し死を望む一方で、無意識の下では何よりも強く共に生きたいなどと望む様な、そんな矛盾を抱え続けてしまっていた。

 だけれども、今はもう違う。

 ルキナから赦しを得たあの瞬間、僕の内にあった『僕』の虚像は消えた。

 ルキナから赦されたのは僕であって『僕』ではなかったけれど、それでも。僕が作り上げてしまった虚像の『僕』を壊すには、十分過ぎる程のものであったのだ。

 そも、その虚像自体、僕が無意識の内に作り上げてしまった『僕』でしかなく、『僕』自身ではないのだから当然だろう。

 詰まる所、僕自身が僕の心を殺そうとしていたのだ。

 だがそれも、全てルキナが壊してくれた。

 そしてだからこそ、『皆と一緒に生きていたい』と言う願いとはまた別の、もう一つの僕の想いにもやっと気付く事が出来たのだ。

 

 ……僕はずっとルキナに負い目があった。

『僕』が犯してしまった罪の事、僕がルキナを利用しようとしていた事、僕の所為でルキナを傷付けてしまった事。

 それら全てが、ルキナに対してその想いを懐く事を、そしてそれを自覚する事を、赦そうとはしなかったのだ。

 それでも、例え赦されなくても、その想いは少しずつ少しずつこの胸の中に降り積もってゆき、そして小さな芽を出した。

 幾度否定して踏み潰されても、それでも決して消せやしなかったその想いは、その心は。

 きっと、『恋』と……『愛』と呼ぶものであるのだろう。

 クロムに対しての想いとも、リズやフレデリク……他の仲間達に対しての想いとも、その何れとも違うその想い。

 初めて感じたその想いに付ける名があるのだとすれば、それはきっと『恋』と近しい『愛』だ。

 どうしてルキナに対してその様な想いを懐いたのかは、僕にも分からない。

 それでも、この胸を満たすそれは、間違いなく僕自身の想いであった。

 

 そして、誰よりもルキナを愛しいと想うからこそ、僕は。

 この命を、ルキナの為に……ルキナが心から笑って幸せになれる『未来』の為に使おうと、そう決めた。

 

 

 豪々と耳元で唸る風の音に混じって、激しい戦闘の音が絶え間無く聞こえ続けている。

 倒れた無数の屍兵達の骸は、塵に還るなり直ぐ様風に浚われて後には何も残さない。

 風を切って悠々と大空を泳ぐ巨大な竜、邪竜ギムレーのその背の上が、人々とギムレーとの、生存を賭けた決戦の舞台であった。

 尽きる事無く呼び出され、大波の様に押し寄せ続ける屍兵の群れを何とか捌きながら、竜の首の付け根の辺りに悠然と佇み必死に抗う人々の姿を睥睨しながら待ち構えている邪竜の写し身……もう一人の『僕』へと向かって前進する。

 未だに僕を取り込み更なる力を得る事に拘っているギムレーは、ここで僕を殺し排除する事が出来ない。

 故に、この乱戦の中では僕を巻き込みかねない様なあの圧倒的な破壊の力は振るえないし、況してやその背中から僕たちを振り落とす事も出来ない。

 だからこそそこに、ギムレーに比べれば本当にちっぽけな力しか持ち得ぬ人間が付け入る隙があるのだ。

 クロム達を人質として僕自らの意思でギムレーに取り込まれる事を選ばせようともしていたが、それは人質としていたクロム達自身とナーガによって阻まれて。

 あくまでも抵抗を続ける僕たちを忌々し気に睨み続けているギムレーのその姿には、『僕』の心の面影はどこにも無かった。

 

 ……いや、そもそも、今のギムレーには、『僕』の意思など何処にも存在しないのだろう。

 

 ギムレーと成り果てた時に『僕』の心や魂までもが完全に変質してしまったのか、或いはその内に囚われて永劫の地獄の中で苦しみ続けているのかは分からないが……。

 どちらにしろ、あのギムレーは、『僕』ではありえないのだ。

 もしも『僕』であるならば、そして本当に僕を取り込もうとしているのならば、クロム達を人質に取って脅迫して屈服させる様な真似はしなかったであろう。

 もっと、何重にも罠を張り巡らせ、僕自身が本心からギムレーと同一となる事を望む様な、そんな絶望的な状況に落としていたであろうから。

 僕自身、僕をそう言う状況に陥れる為の策なんて幾らでも思い付けるのだ。

 ルキナの話を聞くに、『僕』が僕と同じ様に軍師として生きていた事は間違いないのだから、僕が思い付く様な策が『僕』に分からない筈もない。

 

 ならば、何故それを選ばないのか。

 いや、選ばないのではなく、選べないのだ。

 あの邪竜は、『僕』であって『僕』ではない。

 圧倒的な力で踏み潰し屈服させ、そして思うがままに操る術しか、ギムレーは知らないのだ。

 いや、考え付かないと言った方が良いのかも知れない。

 自分の力を如何に強め、そしてそれを振るい世界を破壊するか。

 そこにしか意識が向かないギムレーには、『策』など必要ないし、考え付かない。

 実際に、ギムレーと人間とでは較べるまでもなく力の差は圧倒的で、人間が何かを実現させようと足掻く為生きる為に必死に生み出す『策』の力などギムレーには不要なのだろう。

 そして、ギムレーは人間とそしてそれに力を貸している神竜ナーガには自分を真の意味で殺す術など無い事を知っている。

 千年の眠りを与える封印こそあっても、それは死ではなく。

 故に、ギムレーは『死の恐怖』を知らず、それを避ける為に命懸けで『策』を講じ、『生きたい』と必死に足掻く事もないのだ。

 だから、クロムがナーガの『覚醒の儀』を行う事を死に物狂いで止めようとはしなかった。

 もしギムレーが本気で自分を害する全てを排除しようとしていたならば、そもそも僕たちは今ここに立ってなどいない。

 奴にとっては、この戦いですら単なる余興程度なのだ。

 

 だが、だからこそ、ギムレーには付け入る隙が存在する。

 ギムレーは、今この場に、自分に真の意味で『死』を与え得る手段が存在している事を知らない。

 そして、その手段を与えたのが、他でもない自分自身である事も。

 

 ナーガの力によって眩しい程の輝きを放つクロムのファルシオンを憎悪の眼差しで見詰めるギムレーには、忌々しさと憎悪以外にも僅かながら侮りが存在していた。

 ギムレーとしては再び千年の眠りを与えられるのは耐え難い屈辱以外の何物でもなく、何としても避けねばならぬ事ではあるが。

 それと同時に、例え神竜の牙であろうとその魂を滅ぼす事は出来ず、死を与える事は出来ない事もよく知っているからだ。

 例え幾度封じられようとも、この世界が滅び果てるその時まで幾度でも甦り、世界を滅ぼせるのだから。

 その事実を知りながらたかが千年の平穏を得る為だけに神竜に縋り続ける人間を、哀れな虫けらとしかギムレーは思っていない。

 

 ギムレーは『死』を知らず、ギムレーには『死』が存在しない。

 

 だからこそ、『生きたい』と必死に足掻く命の輝きを、何時か喪われるからこそ愛しく尊いものを、ギムレーは理解し得ないのだ。

 …………それは少しばかり憐れな存在である様な、そんな哀れみの様な感傷を僕は感じてしまう。

 憎むべき、赦されざる存在ではあるけれど。

 それでも、ギムレーは、僕の胸を満たすこの熱を、仲間を想い愛しい人を想うこの心の温かさを、知らないのだと思うと。

 絶望と滅びを他者に与える事しか知らぬこの邪竜は、ある意味でこの世の何よりも憐れな存在であるのかもしれないと、そう思ってしまうのだ。

 

 クロムと、そしてルキナと。

 彼らの二振りのファルシオンが織り成す剣技の前に、終にギムレーは膝をついた。

 人世の武器では到底傷付ける事の叶わぬ邪竜の鱗も力を得た神竜の牙には切り裂かれ、反撃しようにも僕の存在が邪魔をして十全にその力を振るう事は叶わない。

 命懸けの戦いの果てに先にギムレーの写し身が膝をついたのも、ある意味では当然の事であったのかもしれない。

 最後の一撃を与え、千年の封印を施すべくクロムが振り上げたファルシオンを見詰めるギムレーのその目には、憎悪と同時に人間への侮蔑がありありと浮かんでいた。

 どんな綺麗事を述べるのだとしても、所詮クロム達がやろうとしているのは問題の先送りだ。

 千年の眠りの中で更なる憎悪を育て力を蓄えて、今度こそクロム達の末裔共々この世を滅ぼしてやるのだと、そうその眼は雄弁に語っていた。

 それが分かっているからこそ、クロムもそして僕の傍らに立つルキナのその目も、何処か苦々しい。

 だからこそ、僕は。

 

 

「クロム、待ってくれ」

 

 

 クロムがファルシオンを振り下ろすのを、止めた。

 

 クロムが、ルキナが、そしてギムレーが。

 驚いた様に僕を見る。

 困惑、驚き、そして疑念。

 それらを一身に浴びながら、僕は一歩一歩踏み締める様に、ギムレーの写し身へと歩み寄った。

 抵抗する力も奪われ、ルキナのファルシオンでその手を竜体の背に縫い止められているギムレーが、歩み寄ってくる僕を得体の知れないものを見る目で見詰めてくる。

 今更僕を取り込む力など無いだろうが、念の為にほんの少しだけ距離を空けた所で立ち止まって、僕はギムレーを見下ろした。

 

 

「ギムレー、僕はお前を赦せない。

 お前のした事は、赦される事ではない。

 ……だけど、お前は『僕』であり、僕の有り得た未来の一つだ。

 だから、その責は、僕も負わねばならない。

 ……お前が『僕』である事、僕がお前と『同じ』存在である事。

 そして、お前がこうしてここに、『過去』へと渡ってきた事。

 今は、感謝しているよ。

 ……こうして、僕の大切な人達の為に、使える命がここにあるんだから」

 

 

 そして僕は、僕自身が最初から持ち合わせていた、無意識の内に目を背け否定し続けてきた、目の前にいるこの邪竜とは較べるまでもなく小さな……だけど紛れもない僕自身のギムレーの力を使い、ギムレーのその胸に刃を突き立てた。

 

 ギムレー自身の力で、『ギムレー』自身を否定する。

 ギムレーが、『ギムレー』を殺す。

 それは『死』を知らず『死』を望む事など有り得る筈など無いギムレーの身に起こり得ない事。

 同じ世界に僕と『ギムレー』が同時に存在すると言う『時の歪み』が産み出した矛盾。

 ギムレー自身による、自分の存在の、『生』の否定。

 乃ち、『自殺』。それに他ならない。

 

 漸くギムレーは自身の身に何が起きたのか、そして自分がどうなるのか、それを理解し、驚愕と共に恐怖の表情を浮かべた。

 そう、これは千年の眠りなどではない。

 未来永劫醒める事の無い眠り、自我と存在の消滅、有り得る筈の無い『終わり』──『死』だ。

『死』を知らなかった筈のギムレーは、初めて自分に訪れるそれを、そしてその恐怖へと直面する。

 散々自分が他者に与えてきたそれも、いざ自分の身に降りかかるともなれば、その恐ろしさは何れ程のものであろうか。

 だが、何れ程恐怖しようと、絶望しようと、最早既に後戻りは出来ず、それから逃れる術など無い。

 まるで砂で作られた城が風に浚われて壊れて消えていくかの様に、ギムレーの身体は崩れ薄れ、そして消えていく。

 そしてそれは、僕の身にも同じ事が起きていた。

 

 

「……僕はお前でもあるんだ。

 ……だから、一緒に逝ってあげるよ」

 

 

 絶対の消滅の恐怖に、最後まで消えぬ恐怖にその顔を歪めながら、ギムレーはこの世から完全に消滅した。

 その魂に行く先があるのか、そしてあったのだろう『僕』の魂に還る場所があるのかは、僕には分からない。

 でも、もしも少しだけでも祈る事が赦されるのであればせめて、やっとギムレーから解放された『僕』には、完全に消え去る最後の一瞬だけであるのだとしても『彼のクロム達』に再び巡り合えればと、そう願っている。

『僕』の意思がどうであったにしろ、『僕』から流れてきたその記憶には助けられたと言っても良いのだし、何よりも。

 例えそれが僕が勝手に生み出していた虚像であるのだとしても、僕の中には確かに『僕』が居たのだから。

 例え『僕』自身がそれを赦さず望まないのだとしても、ほんの少しほんの一滴であっても、その魂に救いの光が射し込んでも良いと、それが赦されても良いのだと、思ってやりたい。

 僕以外には最早誰も『僕』を知らず、想う事は無いのだから。

 せめて、僕だけでも。

 

 

「ルフレ、お前──!」 「ルフレさん、どうして……」

 

 

 振り返ると、驚愕と共に怒りの様な哀しみの様な、そんな複雑な感情を浮かべているクロムと。そして、今にも泣き出してしまいそうな、絶望と苦しみを湛えたルキナの姿が、そこにあった。

 この道を選べば、彼らには、皆にはそんな顔をさせてしまうのが分かっていた。

 それは覚悟の上で、僕はこうしてギムレーを真に消滅させる道を選んだのだけれど、やはり大切な友と愛しい人が傷付いた顔をしているのを見るのは、心が痛む。

 それでも、後悔してはいないのは、やはり僕がとても我が儘で身勝手だからなのだろうか。

 

 ギムレーは既に消滅したのに、僕にはまだほんの少しだけ時間が残されている様だった。

 それは、僕はまだギムレーとしては覚醒しておらず、人間としての僕の部分が多かったからなのかもしれないし。

 或いは、『神様』とやらのちょっとした粋な計らいであるのかもしれない。

 何にせよ、お別れを言う時間がちゃんと与えられているのは、望外の喜びであった。

 

 

「クロム、ルキナ、ごめんね。

 でも、僕は…………皆を守りたかった。

 僕の大切な人達の為に、そしてその先に連綿と続いていく沢山の大切な人達の為に、皆の幸せと笑顔の為に。

 そして、皆と出逢えた大切で愛しいこの世界が、明日も明後日も、千年後の未来でもずっとずっと、続いていける様に。

 僕は、この命を使いたかったんだ。

 ……黙って決めてしまって、すまないと……そう思っている」

 

 

『覚醒の儀』の後でナーガが言っていた事。

 もしもギムレーが本当に死を迎えるのであれば、それはギムレー自身の手によるもの……自殺であろうと。

 ……それは有り得ない事ではあったけれど、あの時僕は、それが今この世界でなら有り得るかもしれない事に気付いてしまった。

 僕はルフレと言う名の一人の人間ではあるけれど。

 それと同時に、ギムレーでもある。

 覚醒しているかしていないかの違いはあるけれど、しかしそもそも僕は一度あの『ギムレー』と混ざり合っていたのだ。

 だからこそ僕の記憶は全て喪われ、僕の内に『僕』の欠片が流れ込んできたのだから。

 ならば僕が『ギムレー』を殺せば。それはギムレーが『ギムレー』を殺す事に、ギムレーが自殺した事になるのではないか、と。

 そう僕は仮説を立てた。

 

 ……しかし、僕はその仮説を誰にも明かさなかった。

 もしも、その仮説が本当に正しかったとして、そしてその手段でギムレーを消滅させられるのだとしても。

 ……それは、僕自身にとっても自殺に外ならず、僕の消滅をも意味していた。

 そうなれば、皆誰一人としてそんな道を認めないだろう。

 クロムは勿論の事、誰よりもギムレーの恐ろしさを知るルキナですら。

 ギムレーを完全に消滅させるよりも、僕の命を……きっと皆は望んでしまう。

 それは、そしてそれを確信出来る事は、僕にとって何にも代え難い幸せで。

 そして、皆と生きられる明日は、何よりも幸せな願いだった。

 ……だけれども、その先にある未来ではきっと何度でもルキナの笑顔は翳ってしまうだろう。

 ギムレーを消滅させられなかった事は、例え仕方がない事であったとしても間違いなくルキナにとって悔いとして残る。

 そして、千年の後の世界で。

 僕やルキナはもうとうに死んでいるのだとしても、そこにはきっと皆の命の繋がりの先にある数多の命がそこに生きていて。

 そして、そんな大切な人達が、ギムレーによって絶望する事を、ルキナは善しとは出来ないだろうし、僕としてもそれを『仕方がない事』と諦める事は出来なかった。

 だからこそ、僕はこれが僕の我が儘であるのだとしても、この命を対価にする事を選んだ。

 

 未練は沢山ある。

 叶えていない願いも、まだ伝えられていない想いも沢山ある。

 でも、だからこそ、後悔はしていないのだ。

 

 沢山哀しませてしまうかもしれない。

 沢山悔いを残させてしまうかもしれない。

 沢山苦しめてしまうかもしれない。

 

 皆はとても優しくて、繋がりの先にいる僕の事を大切に想ってくれているからこそ。でも。

 

『命』には何時か終わりが来る。

 何れ程『生きたい』と望んでいても。

『生きてほしい』と願っていても。

 何時かは必ず『死』と言う別れが訪れる。

 それが早いか遅いかの差はあるけれど、『死』の無い命はこの世には存在しないのだ。

 それは、あのギムレーにだってそうだったのだから。

 

 でも、『死』は別れではあって決して終わりではない。

 死したエメリナ様の想いや思い出が、クロムやリズ達の中に確かに息づいている様に。

 その別れが何れ程苦しくても辛くても、生きている人々の中に、関わりの中で生まれていたものや受け取ってきたものが必ず遺されている。

 ……だからこそ、人はどんなに大切な人の死が訪れたとしても、生きていく事が出来るのだ。

 

 今日は皆を泣かせてしまうかもしれない。

 明日も、明後日も泣かせてしまうかもしれない。

 でもきっと、何時か必ず、哀しみ以外の何かに変わる日が、必ずやって来る。

 それは時の流れの中で感情や記憶が風化してしまうと事とも言えるし、それを哀しいと、残酷だと言う人も居るだろう。

 でも、僕はそれを哀しいとは思わない。

 生きるとは、そう言う事だ。

 それに、忘れてしまっても、思い出せなくなっても、決して『無かった事』にはならないし、何れ程の時が過ぎ去ってもきっと。

 記憶の片隅に、心の片隅に、遺されるものは必ずある。

 

 だからこそ、何時かきっと心から笑える日が来る。

 僕との思い出を、幸せだけと一緒に語れる日が、必ず来る。

 愛しい人が、大切な友が、そうして笑える日が。

 何時かの遠い未来に訪れる絶望を想って苦しまずに済む明日が来るのなら。

 僕にとって、それは何よりも幸せな事なのだ。

 

 

「私たちと、生きていたいと、そう、望んでいたんじゃないんですか……? 

 なのに、どうして……」

 

 

 ポロポロと光る滴を溢し続けるルキナのその姿は、見惚れる程に美しくて。

 泣かせてしまった事を心苦しく思う一方で、身勝手な事にどうしようもなく愛しさが込み上げてくる。

 今にも叫びだしてしまいそうな感情を必死に抑えようとしている様に、ルキナはその手を固く握り締めて。

 それでも抑えきれなかった想いが、涙として風に浚われていく。

 

 

「そうだね、それは今もそうだ。

 僕は、生きていたいよ。

 皆と、クロムと、君と。

 一緒に笑って、一緒に泣いて、そうやって生きていたい。

 でも僕は、その『願い』よりももっと大切な事を、もっと欲しいものを、叶えたい事を、見付けてしまったんだ。

 だから、これは僕の我が儘だ。

 ごめんね、ルキナ」

 

 

 僕の言葉に、ルキナは唇を噛んで何かを堪える様な顔をする。

 言いたい言葉が沢山あるのだろうけれど、今この瞬間にそれを言ってもどうしようもない事を悟ったのか。

 ルキナはその言葉を必死に殺そうとしているのだろう。

 愛する人にそんな想いをさせてしまっている事が胸を刺す様に苦しいけれど、それでもそれを選んだのは僕なのだ。

 だからこそ、「ごめん」と言う言葉には、僕の心を全て託した。

 

 

「ルフレ、お前は俺の『半身』だと、あの日そう言っただろう? 

 なのに、お前は勝手に逝くつもりなのか?」

 

 

 クロムの目も、やはり苦しみを耐える様な色になっていた。

 エメリナ様の時と、そして今と。

 僕は、二度もクロムに喪失の苦しみを与えてしまっている。

 それがどうしても申し訳なくあった。

 

 

「ごめん、クロム。

 でも、君はもうエメリナ様を喪ったあの日の様な『半人前』じゃないよ。

『半身』が居なくても、君は一人で立派に立って歩いていける。

 僕じゃなくても、君を支えてくれる人は沢山いるんだ。

 だから、大丈夫だよ、きっと。

 ……我が儘を言ってしまって、すまない」

 

 

 もう、身体の殆どが消えそうになっている。

 足の辺りなんて、存在しているのかしていないのか分からない程に薄くなってしまっていた。

 恐らく、もう時間がないのだろう。

 本当はもっとゆっくりとお別れを言いたかったけれど、元々何も言えずに消える事も覚悟していただけに、寧ろ十分過ぎる程時間は与えられていた。

 

 

「……俺の『半身』は……! 

 お前ただ一人だ、ルフレ。

 どんなに時が流れても、お前しか居ない。

 だから……!」

 

 

 苦しさの中で、そう絞り出す様に叫んだクロムに、その想いに、僕は自然と微笑みを浮かべていた。

 

 

「有り難う、クロム。

 その想いが、僕にとっては何よりも嬉しい。

 僕にとっても、君は何よりも大切な『半身』だ。

 今までも、そしてこれからも。

 この身が消えても、絶対に変わらない」

 

 

 そして、クロムとルキナから少し離れた所で戦っていた皆の顔を、ゆっくりとこの心に刻み付ける様に見回した。

 皆苦しそうな顔をして、中には泣き出している者も居る。

「いかないで」と、そう啜り泣く様に言う者も。

 ……どうにも身勝手な事かもしれないけれど、それが本当に嬉しかった。

 

 

「ありがとう、クロム……。ありがとう、皆……。

 もし、叶うなら。また、逢いたいな……」

 

 

 最後に、とルキナを見詰めた。

 もう身体は殆ど残ってない。

 何か言葉を残す事も、もう叶わないだろう。

 それでも。

 

 また逢えるのならば。

 そんな奇跡が叶うのならば。

 

 伝えたい事が沢山ある。

 言いたい想いが沢山ある。

 もし叶うのならば。

 僕は、君に──

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ルフレが、彼を形作っていた全てが、夕暮れの空へと融ける様に消えていくのを、ルキナは……そしてその場の誰もが、言葉を失いながら見ている事しか出来なかった。

 

 最後にルキナを見詰めていたルフレは、ルキナを見て何か唇を動かしていた。

 音にならなかったそれは、そこに込められていた想いが何であったのか、ルキナに知る由はない。

 だけれども、あの瞬間、何もかも忘れて、消え行くルフレを繋ぎ止めようと、抱き締めて止めたくなる衝動に駆られた。

 しかし、ルキナが一歩踏み出すよりも、その指先を伸ばすよりも僅かに速く、ルフレの身体は完全に消滅してしまった。

 届かなかった手は、何も掴めなかったまま力なく下ろされて。

 苦しみと哀しみから、その場に崩れ落ちてしまいそうになる。

 ギムレーの写し身が消滅した事で崩壊を始めた竜の背の上から、ナーガの力によって安全な場所へと転移されてからも、誰も皆何も言えなかった。

 目の前でルフレが消えてしまったその事実を、そして自分達が消え行くルフレに何も出来なかった事実を、受け止め難かったからだ。

 

 

「神竜ナーガ! 応えてくれ! 

 あいつは、ルフレは……!!」

 

 

 クロムが声を張り上げて神竜ナーガを呼ぶ。

 それは、まるでクロムの悲鳴の様にすら、ルキナには聞こえた。

 自らの覚醒の儀を果たし力を与えたクロムからの呼び掛けに、神竜は正しく応えその姿を現した。

 相変わらず茫洋として読めぬ表情を浮かべた神竜は、クロムの問いに憂いを湛えた声で答える。

 

 

「あのギムレーの血を継ぐ者……未だ目覚めぬギムレーは、自らの命と引き換えにギムレーに真なる滅びを与えたのでしょう。

 今この世界にギムレーは存在していません。

 未来永劫、甦る事は無く……完全に消滅しました」

 

「それは……だが、どうして、何故ルフレがそれを」

 

「以前、ギムレーが真に滅びを迎える事があるとすれば、それは自分自身の手によるものであると、私はあなた達に伝えました。

 そして、ギムレーが自ら命を絶つ事は有り得ない事であるとも。

 ……しかし、この世界には、ギムレーと存在を同じくする者が、あのギムレーの血を継ぐ者が存在していました。

 彼の者がギムレーを討てば、それはギムレーが自らを討つ事と同じ……。

 故に、ギムレーは真に滅びを迎えたのです。

 あの者は恐らく、それに気付いていたのでしょう」

 

 

 そして、気付いていたからこそ、その命を捧げる事を選んだのだと、神竜は述べる。

 

 

「でも、自殺させると言うなら、ルフレさんも……」

 

「……自らの身を捧げる事は、覚悟の上であったのでしょう」

 

 

 覚悟の上の自己犠牲であったと、そう頷いた神竜の言葉に、ルキナは思わず涙を溢した。

 どうして、選ばせてしまったのかと。

 どうして、止めてやれなかったのかと。

 生きたいと、あんなにも言っていたのに。

 やっと、その本心の願いを、ルフレは見付ける事が出来たのに。

 それなのに、ルフレは自らの死を選んでしまった。

 

 

「ルフレは、もう……本当に消えてしまったのか? 

 もう、二度と帰っては来れないのか? 

 答えてくれ、ナーガ。

 あいつを取り戻す方法は、本当に無いのか?」

 

「……方法は、私にも分かりません。

 ……ですが、あの者はギムレーであると同時に、あなた達と出会い絆を育み共に生きた人間でもある。

 もしも、その人間としての心が、ギムレーとしての心に、そしてそれが齎す消滅の定めに打ち克つ事が出来るのならば。

 ……あの者がこの世界に留まれる可能性は、あるのでしょう。

 ですが、それは到底起こり得ない程にほんの僅かな可能性です。

 それに、もしこの世界に留まる事が出来たとしても、還ってきた時に何れ程の時間のズレが生じているかも、分かりません」

 

 

 ルフレの生還は絶望的であると、そして再びルキナ達が生きて彼に再会出来る可能性もまた絶望的であると。神竜はそう告げる。

 だが、その言葉に打ち拉がれる様なクロムではなかった。

 寧ろ、希望を見付けた様に、その目に確かな輝きが灯る。

 

 

「想いが、絆が、あいつを繋ぎ止められるなら。

 ルフレは、絶対に生きている、絶対に帰ってくる。

 何年何十年と掛かろうとも、俺は必ずあいつを見付けてみせる」

 

 

 クロムの力強い静かな言葉に打ち拉がれていた皆が顔を上げた。

 そして、自分もと口々にルフレの生還を信じる言葉を零した。

 ルフレと紡いだ絆が、再びこの世にルフレを連れて帰る事を信じる様に。

 自分達が繋いだ絆が、例え消滅の定めであっても覆せる事を疑わない。

 帰ってこいと、待っていると、そう口にする皆の顔に、もう絶望は無かった。

 

 そんな人々の様子を見守っていた神竜は、ほんの僅かながら慈しむ様な微笑みを浮かべ、そして現れた時と同じく不意に虚空へと消えた。

 それを見送ったルキナは、零れ落ちていた涙を少し乱暴に拭って、そして前を見る。

 

 ルフレが融ける様に消えていった夕暮れの空は哀しくなる程に美しく、沈み行く太陽はルフレだけが居ない世界を言祝ぐ様に皆を美しく照らしている。

 それが、どうしようもなく寂しく哀しくて。

 でももう、涙を溢すのはもう終わりだ。

 

 次に泣くのは、ルフレを見付けた時だと、再び出逢えたその時だと、そう決めた。

 

 それが何時になるのかは分からない。

 もしかしたら、ルキナがうんと歳を取り、お婆ちゃんと呼ばれる様な頃にやっと叶うのかもしれない。

 それでも、良い。ルキナは、ルフレを信じている。

 ルフレが帰ってくる事を、それがどんなに遠い日の事になるのだとしても、その日を待ち続けようと。

 そう、決めたのだ。

 

 沢山伝えたい事がある。

 まだルフレに伝えられなかった言葉が、伝えたい想いが、伝えるべきものが沢山残されている。

 好きだと、愛していると。

 ルフレに、伝えたい、伝えなくてはならないのだ。

 

 だから、生きよう。

 何時か、この願いが、そして必然の奇跡が果たされるその日を、ルフレとルキナの時の環が再び巡り逢うその時を迎える為に。

 どんなに苦しくても、寂しくても、哀しくても。

 ルフレが守ったこの世界を、ルフレだけが……ルキナの最愛の人だけが居ない、この世界を。

 

 ルキナの『使命』は、この身に課せられた『希望』は、既に果たされた。

 最早ギムレーが甦る事は永劫の未来の果てでも起こり得ず、ルキナの戦いは終わり、漸くルキナは『ルキナ』と言うただ一人の人間として生きていく事を許された。

 ルキナの身を、その心を、縛るものはもう何も無い。

 

 だからこそ、この心に生まれたこの願いを、祈りを、最後まで抱き締めてこの世界で生きていく。

 ここが本来はルキナが生きる世界でないのだとしても、ルキナがこの世界にとって歓迎されない異物であるのだとしても。

 

 もう一度、ルフレに出逢う為に。

 そして、今度こそ、共に生きる為に。

 

 何時か必ずその願いが叶う事を信じて。

 優しくも残酷な時の流れが全てを変えてしまうのだとしても、せめてこの祈りだけは、この命が尽きるその時まで喪いたくない、絶対に手離さない。

 何度でも何度でも、その名を呼ぼう、その姿を思い描こう。

 決してあなたを『過去』には、したくないから。

 

 

 

「ルフレさん、私は、あなたに──」

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆




『遠く時の環の接する処で』はこれにて完結です。
少しだけ後日談?的なものも投下します。


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『黎明に誓う』
『再会の祈り』


◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 目を閉じれば、何時だって鮮やかな程に彼の……ルフレの姿がそこに浮かぶ。

 意志の焔が揺らめく様に秘められた、その穏やかながらも真っ直ぐな眼差しも。戦場で共に戦った時の頼もしいその背中も。ルキナの名を呼ぶその優しい声音も。手を触れ合わせた時のその温もりも。

 忘れる事なんて決して出来ないその何もかもが。

 思い出と呼ぶには剰りにも色鮮やかな質感を伴って、ルキナの心に深く刻み込まれていた。

 

 優しい……とても優しい人だった。

 何れ程傷付き苦しんだとしても仲間を慈しむ事を忘れず、その身の全てを擲ってでも友の為に尽くしていた。

 優しいからこそ、犯してもいない『自分』の罪への呵責に、その心を追い詰めて。

 ……殺される為に、ルキナの傍に居てくれた。

 そして……ルキナの手に掛けられる結末を望んでいたのに、何処までもルキナの心に寄り添おうとしてくれた。

 ……『生きていても良い』と願う事すら、自分に赦そうとは出来ない人だったけれども。

 それでも、その心は何時だって本当は、『共に生きていたい』と叫んでいた。

 ……優しい人だった。

 だからこそ、自分の全てを捧げて、折角手に出来た『共に生きる』と言う願いを手離してまで、『皆の為に』、その憂いを取り除く事を選んでしまったのだろう。

 ……誰一人として、彼に死んで欲しいなどと、その身を犠牲にしてまで「災厄」を討って欲しいとは、願っていなかった事を、彼自身が誰よりも理解した上で。

 そこまでいけば、優しいと言うよりは「身勝手」やら「強情」やらと言っても良いのかもしれないけれども。

 ……いや、やはり彼が優しかったからこそなのだろう。

 

 その選択の先に『死』……或いは『消滅』と言う結末が待つ事を、きっと彼は誰よりも理解していた筈だ。

『生きたい』と、あんなにも涙を流しながらルキナにそう答えた彼は……それなのに誰にも打ち明ける事無く、自身の『命の使い方』を決めてしまっていた。

 そして、己の命の終わりを見据えてすら、彼の意志は僅かたりとも揺らぐ事は無かった。

 それどころか、その身が消えていく中で彼が浮かべていたのは、恐怖でも哀しみでもなくて、僅かな寂しさと痛みと……そしてそれ以上の『幸せ』や『喜び』が混ざりあった穏やかな笑顔であった。

 あの笑顔を思い出す度にルキナは、胸が抉られる様な「あの日」の絶望と哀しみも……思い出してしまう。

 

 愛する人の消え行く間際にすら何も出来ずに、ただそれを見送るしか出来無かった事への無力感。一筋の髪すらも遺さず、この世から最愛の人が消失した事への絶望感。もっと前にルキナが何かを出来ていればあんな選択をさせずに済んだのではないのかと言う後悔と自責の念。

 それらが沸き起こるのを、どうしても止められない。

 

 ルフレ自身の意思で、その結末をも受け入れた上でそれを自ら選び取ったのだと言う事は理解しているのだ。

 しかしどうしても、自分の所為でその道を「選ばせて」しまったのでは、と言う思いは拭いきれない。

『生きたい』と、あんなにもそう願っていたのに。

 それでも自らの身を犠牲にする道を選んでしまったのは、その心を縛り続けていた枷をルキナが解く事が出来なかったからなのではないかと……そう思ってしまう。

 自分を責め続けるその心のまま、その命を捧げる事を選んでしまったのなら…………。

 

 ……それは、覚悟と共にその道を選んだルフレの想いを、侮辱するかの様な考えであるのかもしれない。

 しかし、そう思わずには居られないのである。

 それは、『もしかしたらもっと何か、彼の為に出来たのでは』と言う、そんな思いからなのだろう。

 実際そんな可能性など無いのだとしても……。

 いや、そうであるならばこそ余計に、ルキナは自分を責めずには居られない。

 

 ……『死』と言うものは、何も特別なものではない。

 誰にでも必ず訪れる『終わり』であり『別れ』だ。

 ルフレが自ら選び取ったそれですら、この世界にとっては何て事も無いものであるのだろう。

 ルフレがギムレーと共に消滅しても、夜明けは変わらず訪れ、時は止まる事も戻る事も……ルキナ達の悲しみに寄り添う事も無く、ルフレを『過去』へと残して進む。

 ギムレーによる後の世の終焉が未来永劫に渡って完全に回避された……そんなこの世界にとって限り無い「祝福」が訪れてすら、今日と言う日は何も変わらない。

 

 間違いなく「世界を救った」ルフレが、未来永劫に渡り英雄として讃えられるのだとしても。

 この世界の「明日」が輝かしいものだとしても。

 そんな事よりもただ……、ルキナ達は。

 ルフレに生きていて欲しかったのだ、共に生きたかったのだ。

 何時か必ず『死』と言う別れが訪れるのだとしても、それはずっと先の事であって欲しいと、そう思っていた。

 

 それでもルフレは『死』を選び、そして後にはルフレだけが居ない世界のみが残されたのだ。

 

 ……時は等しく、全てを過去へと連れていく。

 あの日時を止めたルフレと、今もその時の針を動かし続けるルキナ達の時間は離れていくばかりなのであろう。

 ルキナ達に唯一遺された『記憶』と言う形の彼との縁ですら、優しくも残酷で平等な時の流れの中で、少しずつ薄れ行き、何時か彼を『過去』にしてしまうのだろう。

 それは、耐え難い哀しみであると共に、『忘却』と言う名の残酷な「救い」の形であるのかもしれない。

 その「救い」に身と心を委ねて忘れていく事もまた、一つの生き方ではあるのは間違いない。

 人は優しい忘却の中に、大切な人との別離の苦しみを置いて……だからこそ生きていけるのだから。

 ……それでも。

 

 ルキナには、どうしてもルフレに伝えたい事がある。

 伝えたい想いが、伝えたい言葉が、この両手では抱えきれない程に残されている。

 だからこそ、ルフレと繋いだ『絆』が、何時か奇跡を起こす事を信じて。

 それが、何年、何十年と先の「未来」であるのだとしても、その「未来」に届ける為に。

 ルキナは、ルフレに再び巡り逢える「未来」を信じて。

 ルフレだけが居ない残酷な「今日」を、生きていた。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ルフレがギムレーと共にこの世から消滅して、既に凡そ三年の時が過ぎていた。

 三年の月日とは決して短いものではなく、まだ歩く事もままならなかった赤子が一人で立派に立ち跳ね回る様になる程の時の流れではあるのだ。

 人は皆が多かれ少なかれ時の流れの中で変わっていく。

 ……それは「あの日」からずっと心の時の針を押し留め続けているルキナであっても、例外ではないのだろう。

 

 あの日ギムレーとの決戦の為に集っていた仲間達、は各々自らの居場所へと戻り各地へ散っていた。

 ルキナはと言うと、最初の一年は主にイーリスに……クロムの傍に留まり彼を待ち続けていたのだが。

 二年が過ぎた頃から、ルフレと共に過ごしたその旅路を辿るかの様に、各地を旅していた。

 初めて出会ったイーリスの森から始まり、フェリア、ペレジア、ヴァルムと、その足跡を辿っていく。

 ……戦いばかりの日々であったけれども、そんな日々ですら思い返せばルフレと過ごした時間は愛しくて。

 何れも、宝物の様な『思い出』であった。

 

 ルフレと共に過ごしてきたその『記憶』の足跡を辿り始めた事に、深い理由は特には無かった。

 当初は、ルフレの事を忘れたりしない様に思い出す為、とか……そんな目的であったと思う。

 しかし、旅を続けていく内に。

 この旅路を行けば、その先の何時か何処かで、ルフレに再び巡り逢える様な……そんな気になり始めていた。

 各地を巡りながら、あの戦いを共にした仲間達を訪ね、そして彼等と共にルフレの話をする。

 そうする事で、少しでも早く。この世界から消えてしまったルフレを、仲間達と繋いできた『絆』が手繰りよせてくれるのではないかと……そう思うのだ。

 

 ルキナは、例え何年でも何十年でも、この命ある限りルフレを待ち続けようと決めていた。

 あの日の覚悟は、その決意は、今も全く変わらない。

 この世に不変のものなど存在し得ないけれど、きっとこの想いは限りなく『永遠』に近いものであるのだ。

 そして、願い信じて待つだけの日々であっても、それは決して『不幸せ』と言う訳でもなくて。

 寧ろルフレを想う事が出来る事は、ルキナにとっては『幸い』な事でもあった。

 

 それでも時々、訳も無く胸が締め付けられるように、声を上げて泣き出してしまいたくなる程に哀しくなる。

 涙を零すのはルフレに再び巡り逢えたその時だと決めたから、何れ程哀しくても決して涙を流す事は無いけど。

 それでも、どうしようもなく逢いたくて、寂しくて。

 無性に哀しくなる瞬間は、まるで引いては打ち寄せてくる波の様に、静かに幾度と無く訪れるのだ。

 

 

 

「……ルフレさん……、逢いたいです、また……」

 

 

 

 ポツリと呟かれたその言葉を耳にする者は居ない。

 

 また、逢いたい。

 もう一度、あの優しい微笑みに巡り逢いたい。

 そして今度こそ……『共に生きたい』と言う……彼のその優しく切実な願いを、叶えたいのだ。

 

 それは途方もない「奇跡」の果てにしか叶わない事で。

 ……それでも何時か必ず叶うと、ルキナは信じている。

 

 何故ならば、ルフレは確かに『生きたい』と願っていた、『また逢いたい』と……最後にそう想っていたのだ。

 例え自ら命を捧げる道を選んだのだとしても、その想いが最後まであったのなら。ルキナ達へ向かう想いの糸があるのなら、『未練』と言う名の『希望』があるのなら。

 きっとそれを手繰る様に、ルフレは再びこの世界へと帰って来れるるのではないかと……そうルキナは想う。

 

 ルキナがルフレに出来る事は、信じる事と、想う事。

 ……そして、決して忘れない事しかない。

 こうも想い続けてしまうのは、きっとどうしようもなくルフレの事を『愛している』からこそで、故にただそれだけの事に、ここまでも執着し願ってしまうのだろう。

 そこに『愛』が、『絆』が、『想い』があっても。

 どうにもならぬ事など幾らでもあるのだろうけれど。

 それでも、この願いだけは……その果てに訪れるであろう「奇跡」だけは、必ず叶うと信じていたい。

 何時かの未来、遠くない明日に。

 大切な人に「おはよう」と言える日が、この手の中にその温もりを確かめられるその時が、必ず来るのだと。

 それは叶うとしても、ルキナがうんと歳を取り、もう余命幾許も無いような老婆になる頃にやっと叶うのかもしれないような「奇跡」であるのかもしれないけれど。

 

 それでも、願わくは。

 二人で一緒に歳を重ねていける様に……。

 優しい彼が誰かに置いて逝かれる悲しみに……そして独り残される苦しみを少しでも味わう事の無い様に。

 二人の時間がこれ以上引き裂かれる事の無い様に。

 ……少しでも早く帰って来て欲しいと、そう願う。

 

 だからその日を少しでも早くに手繰り寄せる為にも、今日もルキナはルフレを想うのだ。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 結局の所、それは自分の我が儘にしかならないのだろうと言う事は十分に理解していた。

 皆を苦しめる事を、悲しませる事を……。誰よりも大切な存在であるルキナに、絶望を与えてしまった事を。

 どんな言い訳を並べ立てるのだとしても、それを正当化する事など出来る筈もない。

 ギムレーを完全に滅ぼして千年先へと禍根を残さない為にとは言え、その千年先の為に、「今」何よりも大切な存在達の心を傷付ける様な道を選んでしまったのだ。

 例え誰にその選択を肯定されるのだとしても、ルフレ自身だけは、絶対にその選択を赦してはならない。

 

 ルキナ達と共に生きて、そして同じ時の流れの中で共に死ぬ未来も確かに在った筈なのだ。

 それなのに、その全てを投げ棄てるかの様に、ギムレーを討つ事を選んでしまった。

 それを選んだ理由もまた、我が儘なものでしかない。

 

 遠い未来の破滅の所為でルキナの笑顔を曇らせたくないと言うその選択は、余りにも矛盾に満ちていて。

 もっと直接的な悲しみを、ルキナに与えてしまった。

 何時かルキナ達ならば、『死』の離別の苦しみや哀しみを乗り越えられるからと、そう思ってはいたけれど。

 その思い自体が酷く傲慢なものであるのだろう。

 悲しみを乗り越えられるのか否か、或いはその方法すら、人は其々違うのだから。

 乗り越えてくれると言う『期待』……いや傲慢な『過信』は、結果として大切な皆に、取り返しの付かない苦しみと傷を与えてしまっただけであるのかもしれない。

 

 それでも……ルフレは選んだのだ。

 その先の結末も、自らに訪れる終わりも、全て見据えて納得して受け入れた上で。

 

 ルキナによって心の呪縛からは解き放たれていたけど。

 それでもやはり、ギムレーの存在に、その行いには、ルフレ自らが果たさねばならない責務というものがあり。

 同時に、この世でただ一人。

 それこそ過去未来全てに至って唯一かもしれない程の奇跡の様な可能性の果てに。ルフレの手にはこの世の「在り方」を一つ決定付けられる力が与えられていたのだ。

 千年先の未来が必ず滅びると決まった訳ではない。

 しかし、逆に言えば滅びないと断言する事も出来ない。

 そうでなくとも、千年毎に訪れる『滅び』の何処かでは、ギムレーによって何も出来ないままに完全に世界が滅ぼし尽くされてしまう事も有り得るのだろう。

 未来は未確定だからこそ、その可能性を否定出来ない。

 

 無論、千年の繰り返しの何処かで、ギムレーとは全く関係無い要因によって、あっさりとこの世界が滅びてしまう事もあるのかもしれない。

 ギムレーの復活とは全く無関係に、戦争を繰り返しては互いに相手を殺し合う事を止めなかった人々ならば、ギムレー以外の要因で滅びの運命を辿る事も、そう有り得ない話でも無い様に思える。

 それでもやはり、「自分自身」ともいえるギムレーの手でこの世界が滅びるのは、ルフレにとっては到底承服し難い程に耐えられない事であったのだ。

 しかし、それを自分自身で選んだ筈なのに。

 ルフレにはどうしても最後まで捨てきれなかった想い、……『未練』と呼ぶべきモノがあった。

 

 愛する人と……ルキナと、共に生きたいと言う願い。

 ルキナに伝えたい言葉が……伝えなくてはならない『想い』が、まだ沢山あったのだとう言う『後悔』。

 そして……もう一度巡り逢いたいと言う……そんな途方もない願いが、最後までこの胸の中に残っている。

 

 もう、自分は消滅するのを待つだけの身であるけれど。

 それでもこの想いが叶うなら、この願いが届くなら。

 もう一度…………──

 

 消えゆく意識の片隅で。

 蒼く輝く蝶が、何かを導く様に舞ったのを目にして。

 最早「意識だけ」の存在であった筈のルフレは。

 それでも言葉に出来ぬ『何か』に突き動かされる様に。

 その蒼く輝く蝶へと、静かに手を伸ばした──

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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『黎明に誓う』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ルフレが、『帰って来た』と。

 ある日、そう早馬でルキナへと伝令がやって来た。

 

 この世界に『帰って来ていた』彼を最初に発見したのは、クロムとリズであった、らしい。

 何時かの出逢いを焼き直したかの様に、始まりの草原にルフレは倒れていたのだと、彼等からの手紙は言う。

 

 ルフレは、三年と言う時の流れの外からやって来たかの様に、何もかもが『あの日』のままで。

 そしてその記憶は……かつての出逢いとは異なり。

『あの日』のまま、保たれていたのだと言う。

 クロムに保護されたルフレは今、王城に居る。

 

 その伝令を受け取るや否や、ルキナは逸る気持ちすら置き去りにする様に、直ぐ様イーリスへと向かった。

 偶々逗留していたのがかつての戦友であるヴィオールの領地であるロザンヌであった為、同じく戦友でありヴィオールの臣下であるセルジュにその愛竜ミネルヴァの背に乗せて貰う形での。まさにこの世で一・二を争う程の全速力であった。

 

 ルキナが王城に辿り着いた時、辺りは草木も眠る様な夜明け前の静けさに包まれていて。

 途中で幾度か休憩を挟みつつやっと王城に辿り着いたルキナは、一瞬でも時間が惜しいとばかりに駆け出した。

 息が切れそうになっっているのは、全力で走ったからだろうか……それとも隠し切れない不安の所為だろうか。

 ルフレが療養中だと言うその部屋に、ルキナは息を整える事もそこそこに飛び込む。

 そこには──

 

 あれ程までに焦がれ想い続けていた人が、『あの日』から何一つ変わらないままの姿で、そこに居た。

 飛び込んできたルキナの勢いに気圧されたかの様に少し目を丸くするその表情の一つ一つが、何よりも愛しい。

 

 

「──── !」

 

 

 最早言葉は喉から零れ出る事は無く、ルキナは心の衝動のままにルフレへと飛び付く様にその体を抱きしめる。

 ……三年の月日を飛び超えて、漸くこの手に戻ってきた温もりがそこにあった。

 自分が見ている幻なのではないかと言う不安は一瞬にして晴れて。ただただ、愛しい温もりをもう二度と離すまいと、彼を抱きしめる手の力を強める。

 

 

「ルフレ……さん……。

本当の、本当に、ルフレさんなんですよね……?

 この手を離したら、一瞬で幻の様に消えてしまったりなんかしないですよね……?

 ルフレさんは、確かにこの手の中に居るんですよね?」

 

 

 言葉にならない程の愛しさが込み上げて来て、ルキナは震える声で何度も何度もその名前を呼ぶ。

 ああ……最愛の人の温もりがこの手にある事の、何と素晴らしい事であろう。

 こうしてその名前を呼べる事の、何と『幸せ』な事か。

 ただこうしているだけで、そこに横たわっている筈の三年の月日を、全て飛び越えてしまえる様な気すらする。

 

 ポロポロと……あの日以来流す事の無かった涙が、ルキナの頬をそっと伝って零れ落ちていく。

 その時、ルキナに抱き締められるがままであったルフレも、ルキナをゆっくりと抱き締め返した。

 最初はそっと優しく、そして次第に強く。

 

 

「ルキナ……ただいま。……遅くなって、ごめんね」

 

「……っ! 良いんです……。

 ルフレさんが、こうして帰って来てくれたのなら。

 それだけで私は……!」

 

 

 そっと零されたその声には、苦悩の影があった。

 だけれども、ルキナにとってはこうして再び巡り逢う事が叶ったと言うそれだけで、全てが満たされるのだ。

 しかしルフレは、そっと首を横に振る。

 

 

「……僕はどうしても君に謝らなければならない。

 ……僕は、君を苦しめてしまう事を……君を傷付ける事を承知の上で『あの日』、ギムレーを討った……。

 その事には、身勝手かもしれないけど後悔していない。

 けれど僕が……『あの日』君に何も言えなかった所為で、君を三年もの間、僕に縛り付け続けてしまっていた。

 クロムから、聞いたよ。

 この三年間、ずっと僕を探して……旅をしてくれていたんだろう……?」

 

 

 そう言って、ルフレはルキナの手を取った。

 剣を振るが故に、女性らしい柔らかさに乏しい手だ。

 今はそこに加えて、長くに渡る旅暮らしの影響で、様々な所に肌荒れなどが生じている。

 その手を労わる様に、ルフレは己の手で柔らかく包む。

 

 

「いえ、あの……皆さんとても私に良くして下さいましたし……そんなに辛かった事なんて無かったですよ。

 必ず帰って来るって……。そう信じられましたから」

 

 

 その言葉に、ルフレは後ろめたそうな表情をする。

 

 

「……いいや、ルキナ。それでも僕は君に謝るべきだ。

 「奇跡」でも起きなければ、こうして帰って来る事など叶わなかったのに……。

 僕は身勝手にも、君の手を離せなかったんだ……」

 

「そんな事は……」

 

「僕がもっと、ちゃんと君に話していれば……。

 或いは、別れの言葉を告げる事が出来ていたならば。

 こうして君が僕に縛られ続ける事も無かった筈なんだ。

 三年も、君の時間を奪ってしまった。

 いや、こうして三年で帰って来る事が叶ったのは、本当に有り得ない程の「奇跡」なんだ。

 十何年、数十年……。それこそもう二度と帰れない可能性だってあったのに……僕は……」

 

「待ちますよ」

 

「え……?」

 

 

 苦し気にそう零すルフレに、ルキナはきっぱりとそう言い切ってやった。

 

 

「例え何年何十年掛かっても、私がお婆さんになっても、……生きている内に再び逢う事が叶わないのだとしても。

 私は、ずっとルフレさんを待っていました。

 それはルフレさんに縛り付けられているからじゃない。

 私自身の意思で、ルフレさんと共に生きる明日の為に。

 それを信じて、ずっと待っていたんです」

 

 

 例えルフレであっても、その思いを否定させやしない。

 この想いは、正真正銘ルキナ自身のものなのだから。

 

 

「ずっと、ルフレさんに言いたい言葉があったんです、伝えたい想いがあったんです。

 愛していると、この世の誰よりも大切なのだと……。

『世界』を天秤に掛けてすら、貴方を喪えないと……。そう思う程、ルフレさんは何よりも大切な存在です。

 こうして再び巡り逢う奇跡が叶った今だからこそ……。

 どうか、私と一緒に生きて下さい。……今度こそ」

 

 

 今度こそ、もう二度と。この先に何があろうとも。

 絶対に貴方を離さないのだと、そう強く抱き締めた。

 暫しの沈黙の後ルフレはルキナの頬へと手を添える。

 そして、ほんの少し触れるだけの……しかし唇と唇が優しく触れ合うキスを、そこに落とした。

 初めてのその行為に、ルキナは思わず頬を朱に染める。

 

 

「る、ルフレさん……何を……」

 

「僕は、余りにも身勝手に君を傷付けてしまった……。

 勝手に選んで、そしてその結果を受け入れて……。

 それなのにどうしても。『ルキナと共に生きたい』と言う願いだけは、最後まで捨てる事は出来なかったんだ。

 ……そんな僕でも良いと、本当にそう思うのかい?」

 

「ええ、身勝手でも、我が儘でも……。

 それでも、誰より優しいルフレさんだからこそ……」

 

 

ルフレの身勝手なその『願い』を肯定するルキナのその言葉に、軽く瞑目するかの様にルフレは目を閉じる。

 

 

「……あの時の、消える間際に現れたあの蒼い蝶……。

 あれはきっと、君の……そして皆の……『想い』そのものだったんだね……。

 あれに触れた瞬間、僕を呼ぶ皆の声が聞こえた……。

 そして気が付いたらあの草原に居たんだ……。

 中でも、一番大きな声として聞こえたのは。

 ルキナ……君が僕を呼ぶ声だった……。

 僕は、君に導かれてこの世界に帰って来れた……。

 ……だから本当は、君のその想いも、知っていたんだ。

 それでも、その想いに答える資格が、僕なんかにに有るのか分からなくて……。すまない、ルキナ……。

 そして僕からも言わせて欲しい。ルキナ……どうか。

 僕と一緒に、生きて欲しい。この先の未来を、共に。

 今度こそ、僕はもうこの手を絶対に離さないから……」

 

 

 誓う様に、ルフレはルキナのその手を取った。

 その手は、温かく、その存在を証明し続けている。

 その眼差しは、『死』では無く、その先に在った『生』への輝きが灯されていた。それが無性に嬉しいのだ。

 ルフレの方がこの世界でも年上で会った筈なのに。

三年の月日を経る内に、何時の間にか。

ルフレよりもルキナの方が少しだけ歳を重ねていた。

 

 それでも、今この瞬間からは共に同じ時間を生きて、そして共に歳を重ねていける。

 ゆっくりと、二人並んで歩く様に。

 それは……途方も無い程に、『幸せ』な事であった。

 

 

 

「ええ、ルフレさん。

今度こそ……ずっと、一緒に……」

 

 

 

 誓う様に、今度はルキナから口付ける。

 

 何時の間にか、窓の外は深く透き通る様な蒼に彩られた夜明けの空へと変わっていて。

 昇りゆくその太陽と、黎明の空だけが、二人の誓いを静かに見守っているのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆




これにて『遠く時の環の接する処で』は完結です。
評価・感想などを頂けるととても助かります。


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