ターフの魔術師 (スーミン・アルデンテ)
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銀河英雄伝説を知らない方のために(ネタバレ控えめ)

個人的には昔のアニメ版が好きです。中学のとき、TSUTAYAで借りて面白かったので、そのまま親にせがんでBlu-rayを買ってもらいました。
当時の貯金が全て弾け飛び、しばらくお小遣いを止められましたが、後悔はしていないです。


 全宇宙の支配者を自称するルドルフ・フォン・ゴールデンバウムのもとに専制を敷く『銀河帝国』は500年前、民衆の圧倒的な支持によって成立した。その銃口が自らに向くとも知らずに……。

 以降、帝国の支配を覆さんとする試みは全て潰え、反対者は流刑に処された。彼らは劣悪な環境に苦しむ中、『長航一万光年』と称される果てしない旅路を経て、圧政から逃れることに成功する。『自由惑星同盟』はこうして誕生した。

 その後100年の時は流れ、両者は接触した。以来100年を超える戦乱が続いている。

 帝国側は自らを唯一の政体としているため同盟を認めず、一方の同盟側も民主共和政こそが最高であると謳って憚らない。

 両者とも建国から長い時がたっているためか、建国当初の溌剌としたエネルギーは面影もなく、ゆるがない腐敗とゆるやかな衰退を両脇に抱えるようになっていた。そのような両者が争うのだから、自然戦いも惰性的なものに成り下がらざるを得ない。

 終着点を見出せない泥沼の戦争を終わりへと導いたのは、帝国の一人の天才だった。彼は幼くして母を亡くし、父からは手酷く扱われた。そんな彼に唯一愛を注いでくれた姉も後宮へ連れて行かれ、彼は世の中のままならなさを思い知らされる。門閥貴族の蔓延る上流階級の中で赤毛の親友と共に栄達を目指した彼はついに、帝国元帥にまで上り詰め、帝国を代表する指揮官となる。

 一方、同盟側にも時を同じくして一人の若者が頭角を表した。名をヤン・ウェンリー。父を亡くし、大学へ通うだけの経済力のなかった彼は、『タダ』で通えるという理由から士官学校の門戸を叩いた。不本意な選択が連続し、偶然の後押しもあり、彼は一個艦隊の指揮官として『提督』と呼ばれる立場になった。しかし、彼は軍人という因果な稼業につねに辟易しており、辞めたいという衝動にしばしば駆られることになる。ところが、情勢はそれを許さず、むしろ彼の負担は大きくなり、ついには一国の興亡を背負うことになる。

 勝つべくして勝ち、常に敵を圧倒した『常勝の天才』ラインハルト・フォン・ローエングラム。

 常にしがらみに囚われながらも、奇跡のような勝利を演出する『不敗の魔術師』ヤン・ウェンリー。

 彼らを中心としながら帝国と同盟の争い、そして第三勢力の蠢動が描かれた作品です。

 

小説は創元SF文庫(本伝:全10巻 外伝:全5巻)

アニメ化は2回されており、1回目は1988〜2000年にOVA形式で制作、2回目は2018年から『Die Neue These』として制作されています。




ウマ娘プリティダービーに関しては読者層のほとんどがアプリをやっているかアニメを見ていると想定されること、世界観や設定などを僕があまり把握していないこともあり、現時点ではこのような解説の場を設けることは考えていません。
 作品中での独自の設定などが多くなったら、また機会を頂くと思います。
 これどうなってるの?と思ったら伝えて頂ければ幸いです。


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誕生!ヤン・ウェンリー“トレーナー”
第1話:新しい風


初投稿です。お手柔らかにお願いします。


 その日、トレセン学園は1人の新人トレーナーを獲得した。名はヤン・ウェンリー。

 理事長による突然の決定にトレーナー陣からは深刻な懸念が表明された。曰く、実績も経験もなく、そもそもライセンスを持たない者をトレーナーとして採用するなど言語道断である、と。

 そして、同様の懸念は生徒会からも表明され、会長のシンボリルドルフはその意を質すべく、理事長室へと足を運んだ。

 

「失礼します。シンボリルドルフです」

 

 なかなかに険を含んだ声であった。立場上、彼女が理事長室に立ち入るのはこれが初めてではない。しかし、これほどまでに感情を露わにしている姿はかつてなかった。

 

「待望! かけたまえ」

 

 一方の理事長はいつもと変わらず、扇子に書かれた熟語で来客を歓迎し、ソファを勧めた。が、訪問客は手を振ってそれを断り、理事長の机に詰め寄った。

 

「無礼を承知で申し上げます。私達トレセン学園生徒会はヤン氏のトレーナー就任について正式に抗議し、この撤回を求めます。ウマ娘に通じておらぬ者が我々の育成に携わるなど、言語道断です」

 

 前置き無しに本題に入ったのは、常日頃から鷹揚に構えている彼女らしからぬ態度である。それもそのはずで、ヤンの就任が知らされてからすでに一週間経っているが、その間学園中に不穏な空気が蔓延し、ウマ娘達はトレーニングに身が入らず、トレーナー達も育成に集中しきれていないのだ。

 

「承知! 私も昨今の諸君の状況を憂慮している。たしかに、彼のような者が続々と我が学園のトレーナーとなれば、ベテラントレーナーは自らの立場が危ぶまれると考えるだろうし、ウマ娘達も適切な指導を得られないと思うのは当然なことだ」

「では! 」

「畢竟!彼の指導力は卓絶しており、私が理事長権限で『特例』として就任させた」

「一体なにを根拠にそんなことを…… 。彼は未だ一人のウマ娘も育成していないではありませんか! 」

 

 自然と強くなった語気に自分のことながら驚いたのか、ルドルフは一息入れ、咳払いをした。

 

「とにかく、少なくとも私はヤン氏のトレーナー就任に賛成できません。これだけは申し上げておきます」

 

 それだけ言うと、彼女は踵を返した。扉に手をかけ退出しようとすると、

「慰留! 会長、これを見たまえ」

 

 差し出されたのは一通の封書であった。ルドルフは渋々といった様子で受け取った。裏面を見ても差出人は書かれていない。困惑して理事長を見ると、目を通すよう促された。半ば呆れて中身を広げる。

 

『会長、これを読むということは貴殿は彼のヤン・ウェンリーがトレーナーとして我らの学園に足を踏み入れるのが気に食わないらしい。その判断を当然のものと私は思う。

 しかし、こればかりは横車を押させてもらおう。何を隠そう、彼を推薦したのは私だ。トレーナーとしての能力および識見は未知数であり、経験は無いと言っていいが、この私が君のトレーナーを務めあげているのだから、彼ならば、おそらくそれと同等のことはこなせるだろう。なにしろ、私に幾度となく敗北の苦渋を舐めさせたのだ。その手腕の妙は私が最もよく知っている。

 繰り返そう、私はヤン・ウェンリーをトレセン学園のトレーナーとして推薦する。将帥としては勝ち逃げされたが、幸運にもトレーナーとして切磋琢磨する機会を得た。これも大神オーディンの加護あってこそだ。私は彼の育成するウマ娘を見たい、そして私の育成したウマ娘たちと良い相互作用を起こしてくれることを期待する。まさか皇帝たる者がおめおめと逃げるわけにも行くまい。

 重ねて問おう、会長、いやシンボリルドルフ。

 不敗の魔術師ヤン・ウェンリーは相手にとって不足か? 

          貴殿の良き理解者 ラインハルト』

 

 雷に穿たれたが如く衝撃がルドルフの身体を貫いた。ラインハルトはトレーナーとして、また先達としてウマ娘と生徒会長の両側面にわたって彼女を支え続けている。彼は彼女の内面をその蒼氷色の瞳で的確に見抜いていたのだ。

 

「ライバルが欲しい」

 

 これは彼女が生徒会長として働き始めてからの渇望だった。走れば一着、抜きん出て並ぶものなし。結果には満足していたものの、その栄誉はどこか虚しかった。着順ではなく、魂が削られるほどの限界を超えた死闘を欲していた。いつからか彼女はレースから遠のいている。トレーニングは欠かさず行なっているし、G1レースにも請われれば出場していたが、自ら進んで出走したことはここ一年例がない。彼女は高等部2年生、残された年月があまりないことから、このまま隠居のように学生生活に幕を下ろすのではないか、と考えていた。

 彼女は自らの両手で頰を叩く。理事長が突如のことに動揺するが、そんなことはお構いなしだ。

 

(私はとんでもない大バカだ。いつ牙を抜かれた!)

 

 数瞬、瞑目した後息を大きく吐き出した。

 

「理事長、先の抗議を取り下げさせてもらいます。そして、改めて我がトレセン学園生徒会の意向を述べさせて頂きたく思います」

「承知、聞かせてもらおう! シンボリルドルフ君」

「我々生徒会はヤン・ウェンリー氏のトレーナー就任を心より歓迎します。優秀なトレーナーが増えることは優秀なウマ娘が増えることであり、ひいてはこの学園に良い刺激をもたらすことに繋がります。そのような変化を好ましく思わずにいられるでしょうか」

 

 理事長は勢いよく扇子を広げ、声をあげて喜色を顕わにした。

 

「了解! これでヤン氏の就任は滞りなく進められるようになった。会長、君の決断を私は祝福する」

「理事長、一つよろしいでしょうか? 」

「歓迎! 遠慮せずに言いたまえ」

「ヤン氏に伝言を。早くかかってこい、と」

 

 抜き身の刃を託して、ルドルフは踵を返した。その足取りは2年前のように軽やかなものだったという。

 生徒会の意向が後押しになり、3日後にヤン・ウェンリー『トレーナー』が誕生した。トレセン学園のトレーナー達はある一人を除いた全員が反対を示していたため、この結果を不服とした。彼の就任挨拶ではわざとらしく咳払いをしたり、鼻を鳴らしたりする者が多かった。それを制した目が蒼氷色の双眸であったことは言うまでもない…。

 そのトレーナーは自室に戻ると、彼を待っていたウマ娘たちの前で、

 

「天狗どもの鼻っ柱が折られるのはいつになることやら……。早ければ明日だな」

 

 ひどく冷たく、乾いた笑みを浮かべた。この時はチームの誰一人として、その意味するところがわからなかったが、後に戦慄を以って思い知らされることになる。




ウマ娘の物語がまた一ページ。


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第2話:5秒スピーチ

誤字修正しました。指摘してくださった方ありがとうございます。


「最後に、今年度よりトレセン学園のトレーナーに就任したヤン・ウェンリー氏に挨拶してもらう。ヤントレーナー、こちらへ」

「ヤン・ウェンリーです。よろしく」

「貴様、まさかそれだけか」

 

 わずか5秒でマイクを返されたエアグルーヴは思わず問い返してしまった。

 肩透かしを食らった生徒たちは思わず笑みをこぼす。トレーナー達と打って変わって生徒たちは彼を好意的に受け入れたようである。それもそのはずで、容姿に関しては背が高く、顔はイケメンとも言えなくともない。さらに、始業式の時間を短縮した!悪印象を抱く要素は見当たらなかった。

 しかし、それはあくまで人としての印象で、トレーナーとしての実力を皆そろって計りかねていた。理事長と生徒会長がその就任を後押しした、という噂は広く聞こえていたが、なにしろ彼の経歴は一切不明であるため、自然な成り行きとして誰もがその立ち振る舞いから彼の力量を推察しようとしていた。

 深い緑のジャケットにアイボリー・ホワイトのスラックス、さらに上着と同じ色のベレー帽。服装は良くも悪くも目立っており、スーツを着たトレーナーに交じると一層目につく格好である。

 もっとも、目立つ格好をした人物はもう一人おり、彼の方は黒を基調とし、所々に銀を配色した機能的な服の上に白いマントを身につけている。しかし、こちらは現生徒会長を育て上げ、無敗の三冠ウマ娘、さらには『皇帝』を冠するまでに仕立て上げた立役者である。さらに、当初出回っていた「担当ウマ娘の力量にかまけた御輿」という評価を跳ね除けるように『女帝』エアグルーヴ、『スーパーカー』マルゼンスキー、『怪物』グラスワンダーなど数々の名ウマ娘を育て上げ、去年トウカイテイオーをその末席に迎え入れている。彼女らの実力と人気ぶりは歴然たる事実として受け入れられており、それに不満を抱く者は学園にいない。今や彼のチームがトレセン学園の顔であり、皆の憧れである。彼を揶揄する者がいるはずがなかった。

 さすがに見兼ねたのか、ルドルフがマイクを貰い受け、ヤンの紹介を引き継いだ。

 

「彼は今回、特例招聘されたトレーナーだ。私の知る限り、この制度が適用されたのは学園創立以来2回目で、どちらも私の在学中というから何か縁を感じずにはいられない。ヤントレーナーには前例の者を超える手腕を是非とも発揮してもらいたいと思う」

 

 言葉を切った瞬間、講堂は拍手で、生徒たちはざわめきに支配された。彼女の言う前例とは、つまり彼女のトレーナー、ラインハルト・フォン・ローエングラムその人なのである。それを超えろ、というのはつまり……。皆の視線は一様に新トレーナーに注がれた。当の本人は帽子をうちわ代わりにしてあおいでいる。気取った様子がないとも、頼りないとも、受け取り手によって感想はまちまちだった。

 鳴り物入りを果たしたヤンだったが、すぐにチーム結成依頼がやってきたわけではない。生徒のほとんどが彼の指導を受けてみたい、とまでは思ってもいないのだ。

 理由としては主に2つあげられる。一つは、彼をよく思わない学園のトレーナーたちの流した噂。もう一つは、すでに正統派ウマ娘チームの頂点としてラインハルトのチームがあり、駆け出しのヤンのもとに飛び込む物好きなウマ娘がいなかったことにある。

 実際、彼のチームが頭角を表す以前に彼の門戸を叩いたものはいわゆる気性に難がある者、こだわりが強い者など、扱いづらい者が多く、『イレギュラーズ』とも揶揄された。彼女らはむしろ、それを誇っているようだったが…。

 




ついにトレーナーとして勤務を始めたヤン。
担当するウマ娘はメジロマックイーン。
初の顔合わせの行方は如何に。
次回、ウマ娘英雄伝説『始動』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第3話:始動

「それでは、ヤンさん。しばらくは一人のウマ娘にかかりきりになる『専属トレーナー』としてよろしくお願いします」

 

 理事長秘書で、当初から何かと世話を焼いてもらっている駿川たづなに案内されトレーナー棟へ向かうと、当てがわれた部屋の前で別れた。

 30分後にこの部屋で担当するウマ娘と顔合わせの予定である。名はメジロマックイーン。中等部2年生の生徒らしい。先程手渡された資料を次々とめくっていく。どうやらウマ娘界隈では名の知れた家の出身で、天皇賞制覇を目標に掲げ一年目から積極的にレースに出ている。中等部、特に一年生は出走可能なレースが少なく、G1の勝利こそないものの、G2で1勝、G3で3勝しており、かなり優れた成績を残している。

 順調に勝利を積み重ねつつ2年目に突入するはずが、担当していた年配のベテラントレーナーが持病の悪化に伴い退職。残されたマックイーンが宙に浮いた状態だったところ、ヤンに白羽の矢が立ったわけである。

 

「こりゃあ、厄介事の臭いがプンプンするぞ」

 

 ヤンは一人つぶやく。

 

(そもそも、前トレーナーが外れたあとにすぐ後任を決めなかった理由はなんだ。そんなに優秀なら貰い手に困らないだろう。この中途半端な6月までフリーでいるなんて、よほどアクの強い子なのか? )

「資料のどこにも彼女を悪く言う部分はなし、と。まあ、それもそうか。軍に保存されていた私のプロフィールにも “片付けが下手” とは書かれていなかった。こういうのに悪口を書くやつらの神経は理解できないが、良いところばかり挙げる作成者の熱心ぶりにも辟易するね……と」

 

 資料の最後に前トレーナーからの連絡事項などが書いてある。得意なメニューと苦手なメニュー、彼女の脚質など。随分マメな性格らしく、項目ごとに詳細に書かれている。その最後に、

 

『彼女は非常に優秀なウマ娘で努力を惜しまず、トレーナーとしては文句のつけどころが無い。しかし、実家の名を深く背負いすぎているのか、自分を締め上げる傾向がある。なので、次に彼女を担当する者には以下のことに留意してもらいたい。適度に息抜きさせること、コミュニケーションを綿密にすること、そして最後に、レースの度に褒めてあげること』

 

 と手書きの文章が添えてあった。随分大事にされていたようだ。

 さらに読み進めようとしたところ、トレーナー室の扉がノックされた。はっきりとした音が室内に響く。どうぞ、と声をかけると一人の少女がおずおずと入室する。後ろ手に扉を閉めると、しげしげとヤンの顔を見た。

 

「はじめまして、今日から君のトレーナーをさせてもらうヤン・ウェンリーだ。よろしく頼むよ」

 

 ヤンの声で我に返ったのか、目の前の少女は不躾な態度をごまかすように咳払いをして、

 

「メジロマックイーンと申します。未熟者ですが、何卒ご指導のほどよろしくお願いいたしますわ」

 

 と、優雅に一礼した。

 名家出身というのは本当らしい。ヤンが感心していると、マックイーンはソファに腰を下ろした。

 

「コーヒーか紅茶なら、どっちが良い? 」

「紅茶をお願いしますわ」

「砂糖とミルクは? 」

「砂糖は要りません。ミルクをたっぷりと入れて下さいませ」

 

 ティーバックを入れた2つのカップにお湯を注ぎ、マックイーンのもとに行く。こちらの世界に来て早々に紅茶党を見つけ、ヤンは上機嫌気味だった。

 

「マックイーン。練習は明日からだが、なにか希望はあるかい? 基本的に前トレーナーの方針を踏襲するつもりだが」

「特にはありませんわ。強いて言うなら次のレースを見繕って下されば。トレーナーのいないウマ娘はたとえpre-OPであっても出走できない決まりですので」

「了解、この時期だとG3の七夕賞だ。準備期間は一ヶ月でいけるかい? 」

「十分ですわ、完璧な仕上がりで臨んでみせます」

「そんなに気負わなくても良いさ、君はレース勘を取り戻すぐらいの感じで構わない。あとは僕への挨拶みたいなものかな」

 

 ウィンクをして笑いかけると、マックイーンも顔を綻ばせた。

 

「では、なおさら磨きをかけなくては。メジロのウマ娘として貴方に最初の勝利を差し上げます」

 

 彼女は一口紅茶を含むと、目の前の男を観察する。はじめはどんな男かと思っていたが、どちらかと言えば好印象で、マックイーンからすれば無問題だった。なにしろ、久しぶりのレースが決まったからである。

 

(やっと、遅れを取り戻せます。秋の天皇賞は10月後半、あと3ヶ月と少し。やって見せます。メジロ家のウマ娘として! )

 

 走りたい気持ちが湧き上がる。足がウズウズする。鎮めるために紅茶に繰り返し口をつけていると、もうすでに中身はなかった。

 

「あの、今日少し練習して帰ってもよろしいでしょうか?」

「ああ、それなら第一練習場を使っても良いと言われているから、行こうか」

「ちょっと待ってくださいまし! 」

「どうした? いきなり大きな声を出して」

 

 マックイーンは声が出なかった。拍子抜けなほど簡単に言ったが、第一練習場は学園NO.1のチームが使うものと決まっている。つまり、今はチーム『ギャラクシー』、ラインハルトのチームの拠点なのだ。

 

「大丈夫なのですか? 勝手に使わせてもらって」

 

 マックイーンは戦々恐々だった。なにしろ、そのトラックには皇帝、女帝、怪物、恐ろしい二つ名のついた優駿がいる。さすがの彼女も引け目を感じ、遠慮したい。

 

「許可はもらっているって言ったろ? それに向こうも顔を見せに来いってうるさくてね。こういう用事は早めに済ませたいんだ」

 

 練習すると言い出したのは自分のはずなのに、半ば引きずられる形で第一トラックに向かった彼女を待ち受けていたのは、この学園最高の施設だった。周囲の道から一段低く構えられた空間は中央にダートコースを備え付けた照明付きトラックが2本、専用テラス、さらに奥には屋内プールが見える。まさに至れり尽せりの設備。あれだけ怖がっていたのも忘れ、目の前の光景に思わず心を奪われる。

 

(私もいつかここで)

「コイツは圧巻だ。読書にはこれ以上ない適地だな」

 

 呆けているマックイーンの横で、これまた馬鹿げた感想を漏らすヤン。

 この二人を迎えた生徒副会長エアグルーヴは早速こめかみを押さえた。

 

「たわけが、貴様もトレーナーならウマ娘を見るべきだろう」

 

 ラインハルトから二人をもてなすように言われたのだが、投げ出そうかと考えないでもなかった。チームメンバー全員がレース出走翌日で自由練習のため、邪魔とまではいかなかったが、本来使うべきではない者たちである。少しは殊勝な態度でいてもらいたい。

 

「お疲れ様です。エアグルーヴ先輩。突然お邪魔して申し訳ありません」

「構わないさ、閣下が許可されたのだから。それに会長とテイオーは外出、グラスは図書館でエルの勉強相手をしている。使うのは私しかいないから、寂しかったところだ」

 

 たしかに、この設備を一人で使うとなるといささか持て余すだろう。

 

「それじゃ、ご厚意に甘えて手前のトラックを使わせてもらうよ。マックイーン、アップをしておいてくれ。2400を2回走って欲しい」

 

 笑顔で頷くとマックイーンは小走りでトラックへ向かった。足取りは軽く、調子は良さそうだ。彼女の後を追ってスタート地点へ向う途中、エアグルーヴが並んでくる。

 

「なぜ2400なのだ? 秋の天皇賞ならば2000、春なら3200だ。どっちつかずなのはどうかと思うが…」

「別にそこだけを意識しているわけじゃないさ。ただ、前任者がやたらと2400と3000のタイムを測定していたから、何か意味があると思ってね」

「貴様は意外と堅実なのだな。てっきり、自己流で全てやってしまうのではないか、と思っていたぞ」

 

 おそらく始業式の際の印象が尾を引いているのだろう。ヤンは肩をすくめて見せた。

 

「先人の努力をフイにすることはポリシーに反するんだ。私は過去を通して物事を見るタイプの人間でね」

 

 言い終わるや否や、ヤンはスタート地点近くの芝に無造作に腰を下ろす。なれた様子であぐらをかき、じっとコースを見つめる。エアグルーヴは彼の横に立ち、アップで飛んだり跳ねたりしているマックイーンを見やった。

 

(さて、お手並み拝見といくか)

 

 エアグルーヴとマックイーンはどちらも中距離に適正があるため、去年、一度だけ同じレースに出走している。その時の印象は才能の原石だった。

 2000mの校内レースで彼女と同じ先行策を取っていたが、第四コーナーまで一切ペースを乱さずにいた。結局マックイーンは終盤の伸びが足りず、ギリギリ入着という結果に終わったが、育成一年目の彼女が後ろにつけているという状況が驚嘆すべきことだった。

 それ以来、彼女と共に走ったことはないが、あのまま順調に行っていれば、前の皐月賞は一着争いに加わっていたであろうことは想像に難くない。

 

(そうなればテイオーの目標は砕け散っていただろう……)

 

 マックイーンが手を挙げ、準備ができたことを知らせる。

 

「いくぞ、芝2400よーい、ドン! 」

 

 ゲートが開くとともに勢いよくスタートを切る。緩やかに速度を上げていき、第一コーナーを曲がり切る頃にはスピードに乗った。そのまま中盤を終え、第四コーナーに差し掛かる。

 前トレーナーの記録では2400m走の際、2000から100mごとに細かくまとめていた。ヤンの手元のタブレットにコース上の装置から100mごと、つまり6秒強ごとにタイムが送られてくる。

 2100、2分13秒45。

 2200、2分19秒70。

 2300、2分26秒12。

 2400、2分32秒55。

 マックイーンはゴールした後、しばらく流し、クールダウンを兼ねて駆け足でヤンの下へ向かった。

 近づくにつれて見えたのは、難しい顔をしているエアグルーヴと、何やらタブレットを忙しなく操作するヤンの姿だった。

 

(なにか不味かったのかしら? )

 

 感触としては悪くない。最初からスピードに乗り、そのまま緩めることなく駆け抜けた。タイムもそう悪くないはず。たしかにギャラクシーの面々と比べると見劣りするかもしれないが……。

 

「トレーナーどうでしたか? 私の走り」

 

 ヤンは目線を上げ、マックイーンを見ると柔らかく微笑んだ。

 

「良いタイムだ。前のトレーナーが計測した時よりも1秒も上がっている。素質としては十分だ」

「ありがとうございます。もう一本走るということでしたが、何か気をつけることはあるでしょうか?それとも同じようにすればよろしいかしら? 」

 

 マックイーンの目は力強い。このままいける、と言わんばかりだ。

 

「特に注文はつけないよ。ただ、少し条件が変わる」

 

 ヤンは目線をマックイーンからエアグルーヴに移す。女帝は彼が何を言うのかを察したようで、観念したように一つ息を吐いた。

 

「私も走れば良いのだろう? 距離的には問題ない」

「話が早くて助かる。マックイーン、先にゲートに入っておいてくれ。僕は彼女に耳打ちすることがあるから」

「ええ、わかりましたわ」

 

 マックイーンは頷くと、手で耳を覆って歩いていった。尻尾は歩調に合わせて左右に揺れており、先程の手応えの良さが見て取れる。

 

「さて、エアグルーヴ。僕のトレーナーとしての最初のアドバイスだ。心して聞いて欲しい」

 

 ヤンの戯れに対して鼻を鳴らして答えた副会長だったが、続いて出された指示には納得しかねた。

 

「貴様、本当にそれで良いのか? その程度のことであの走りに何か変化があるとは思えんが」

「僕の予想が正しければ、効果は抜群のはずさ。まあ、君には効かない手だろうね」

 

 納得しかねる表情をしたまま、エアグルーヴは先客の横に並んだ。

 

「二人とも準備は良いかい? 」

「ええ」

「ああ」

「じゃあ行くぞ。よーい、ドン」

 

 2人は同時に駆け出した。スタートはマックイーンに分がある。そのまま加速し、ペースを作る。エアグルーヴはなぞるように後ろを進む。

 

(エアグルーヴ先輩の得意な形は差し気味の先行策。私の後をつけてくるのは想定通り)

 

 そのまま第4コーナーまで行き、最後の直線に入ろうかという所でエアグルーヴが前を狙う。グングン伸びる彼女に対して、マックイーンはスパートをかけれないでいた。

 

(あと少し、あと少しですのに!)

 

 結局、彼女は3バ身の着差をつけられ、敗北を喫したのだった。

 エアグルーヴはゴール地点で項垂れる後輩に声をかけられないでいた。それは自分が打ちまかした相手に対する遠慮からではない。目は真っ直ぐにヤンの方を見ていた。

 

(過去の資料とたった一度の計測で担当ウマ娘の弱点を見抜いたのだ。化け物め)

 

 彼女の知る限り、そのような芸当が可能な人物は一人しかいない。先日、彼の言った言葉が思い出された。

 

(最初に鼻っ柱を折られたのは私だ。私は閣下に育て上げられたことに驕っていた。彼以上のトレーナーなどいないだろう、と。愚か者だ。目の前に現れたではないか。恐るべき対抗者が)

 

 握った拳がわなわなと震える。情けないやら、申し訳ないやらで背筋がひりつく。

 そんな女帝にはお構いなしに、ヤンはマックイーンに近づいた。

 

「お疲れ様。今日はこれで終わりだ。明日から練習を始めるから、放課後、第二共用練習場に来てくれ」

 

 それだけ告げて踵を返したヤンはトラックを後にし、自室に戻った。その背中を見つめるのはマックイーンだけではない。蒼氷色の双眸がテラスから全てを見下ろしている。夕焼けが黄金色の彼の髪に宝石を散りばめていた。




新しい環境は得てして戸惑いを生む。
それはヤンとマックイーンの間にも。
次回、ウマ娘英雄伝説『雨の匂い』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第4話:雨の匂い

感想、改善点等を寄せてくださると、励みになります。
何卒、よろしくお願いします。


 次の日、マックイーンは朝から心ここに在らずだった。授業中、ノートと教科書こそ机の上に出しているものの、そこに書かれているのは板書ではない。昨日の自分のタイムだ。あの後、彼女のスマホにヤンから送られてきたデータに目を通すと、意外な事実が浮き彫りになった。

 タイムにそれほどの差がなかったのだ。彼女の感覚では少なくとも1秒の開きがあるように思われたが、実際はその10分の1以下で、大きな変化はなかった。

 では、何が原因だったのか。それを探るため、彼女はノートに100mごとのタイムを書き写している。その増減を調べると、一本目はコンスタントに時間を刻み、最後に少しタイムを落としている。一方の二本目では中盤から終盤手前までのタイムが早く、最後の落ちがより顕著になっている。

 同じ2400mだが、内容が大きく異なっているのだ。自分の中のペース配分が実現できなかった原因は一つしかない。エアグルーヴの後追いである。

 

(まさか、後ろにつけられるだけでこんなに…)

 

 マックイーンの動揺は少なくなかった。これでタイムに差が出ていたならば、まだ納得もできただろう。しかし、タイムとしては全く変わらないのだ。

 

(悲嘆に暮れている暇はありません。トレーニングをして、乱されない集中力を身につけなくては)

 

 その日、彼女は集中力を高めるためのアイデアを出してはボツに、出してはボツにを繰り返したものの、満足のいく思いつきを得られないでいた。

 モヤモヤとした気持ちを携えながら更衣室へと行くと、同じメジロ家に所属するメジロライアンと出会った。

 

「マックイーン! 聞いたよ。ついにトレーナーがついたんだって。これでレースに出れるね!」

 

 彼女は我が事のように喜び、抱きつかんばかりに肩を叩く。

 

「ええ、今日から本格的な練習を始めますの。まだメニューを受け取ってませんが、ワクワクしますわ」

「うんうん! がんばってね! マックイーン、じゃあお先にー」

 

 手を振りながら更衣室を後にするライアンの足取りは相変わらず軽快で、颯爽と駆けていった。彼女と共に陽気も幾分か去ってしまったのか、静けさが際立つ。

 マックイーンは着替えをテキパキと済ますと、時間を確認した。15時45分。トレーニング開始まで30分残されている。ベンチに腰を下ろし、制カバンからノートを取り出す。

 今日もう何度開いたか分からなかった。タイムを見たからといって変わるわけもなく、歯痒さが減るわけでもない。

 

(秋の天皇賞まであと3ヶ月。このまま燻るわけにはいきません)

 

 まだ隠された原因があるかも知れない、とマックイーンはタイムを指でなぞる。

 と、その時、勢いよくドアが開かれる音が彼女を現実へと引き戻した。

 

「やっほー! お疲れ様ーッ! あれ、マックイーンじゃん」

 

 伸びやかな声と共に更衣室へと入ってきたのは、トウカイテイオー。彼女とは同学年であり、得意とする距離も似通っていることから、一年目は同じレースに出走することもしばしばあった。しかし、今やテイオーはジュニアの皐月賞・日本ダービーを制した二冠ウマ娘であり、これまでの戦績は6戦6勝。常勝のウマ娘として高い人気を誇るようになっている。

 マックイーンは彼女を羨ましくも、恨めしくも思う。もし、前トレーナーが健康だったならば…。詮ないことだが、思わずにはいられない。

 うちに渦巻く複雑な感情とは裏腹にマックイーンは美しい微笑みを投げかけた。

 

「あら、テイオー。お疲れ様ですわ。あなたもこれからトレーニングかしら? 」

「そうだよー、次の菊花賞をとれば会長以来の無敗の三冠ウマ娘だからね! マックイーンもようやくレースに出れるんでしょ。また一緒に走ろうね! 」

 テイオーは純粋無垢な笑顔で応えつつ、手早く準備を終え、更衣室を後にした。

 

 マックイーンは更衣室にまた一人となった。

 手持ち無沙汰になってしまった彼女は再びノートを見るのも気が乗らず、ゆっくりと練習場に向かうことにした。

 ヤンをトレーナーとして迎えてはじめての練習である。彼には前歴がないため、どのような方針でメニューを立てるのか、彼女は見当がつかないでいた。

 周囲は、やれ海外の天才だの、やれたづなさんの親戚だの、出どころの確かではない噂を並び立てて彼を評価しようとしている。なお悪いことに、彼が醸し出す捉え所のないオーラがまたそれに拍車をかけており、最近は凱旋門賞のウマ娘の育成にかかわったと囁かれ始めた。

 野次馬としては対岸の火事のため、それで良いかもしれないが、教えを受ける当の本人からすれば、もっと確からしい情報が欲しかった。

 

(そういえば、ラインハルトトレーナーも最初は何も情報がなく、さる帝国の皇太子ではないか、と噂されたこともありましたわ)

 

 それが今や学園が誇る天才トレーナーである。

 自分を担当するヤンもそうなるだろうか。俗な考えが頭をよぎったが、すぐに首を振って思考の片隅に追い込む。

 ヤンに失礼な気がしたのだ。まだ担当と決まってから2日目で、実力の片鱗すら見せていない彼をラインハルトと比較するのは、まるでギャラクシーに入ることが自己の栄達につながると思い込んでいるようで、そんな自分もまた醜い。

 

(メジロ家のウマ娘として、そのような不義は固く戒めねば)

 

 不安と昂揚感でないまぜになりつつ、マックイーンは指定された練習場に向かった。

 灰色の空が低くのしかかっている。

 




昂った感情、戸惑い、不安、全ては発露へ向かっていく。
若いマックイーンに抑える術があるはずもなく…。
次回、ウマ娘英雄伝説『重荷』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第5話:重荷

表記揺れ等あるかも知れないです。
申し訳ない。
ウイスキー→ブランデーに修正しました。
指摘してくださった方ありがとうございます!
完全に勘違いしてました…。


「これだけ、ですの? 」

 

 それが練習終わりの彼女の感想である。アップから最後まで目新しいことはなかった。特筆すべき点といえば、体幹を中心としてメニューが組まれていたこと、練習の最後に500m走10本を行ったことぐらいであった。

 

「1日に10,000m走ったからと言って、すぐに実力がつくわけじゃないさ。さて、このあと時間はあるかい? これからのトレーニングメニューの予定を伝えたい」

「ええ、構いませんわよ。でも、長引くと困りますわ。ご飯の後、自主トレの走り込みをする予定なので」

 

 自主トレ、という言葉にピクリとヤンが反応し、こちらを向いた。

 

「それは、困る」

「はい? 今なんと? 」

 

 予想外の言葉にマックイーンは思わずヤンを睨みつける。

 彼の方は別段ひるむ素振りも見せず、頭をかきながら、

 

「困るんだよ」

 

 と、繰り返した。

 ベレー帽を脱ぎ、形を整え頭に戻す。

 

「その点も含めて、トレーナー室で話をしよう」

「ええ分かりましたわ」

 

 マックイーンはもはや自重するでもなく、口を尖らせて返事をした。先を行くヤンの後ろをついていく道中も、彼女の腹はぐつぐつと煮えている。

 トレーナー室に入ると、普段より荒々しく扉を閉め、音を立ててパイプ椅子に腰を下ろした。 

 

「紅茶は何が良い? オレンジペコーとダージリンがあるよ」

「ペコーをお願いします」

 やかんを火をかけると、ヤンはマックイーンの向かいに座った。

「さて、どう話したものか…」

「自主トレが禁止とはどういうことでしょう」

 

 ヤンの煮えきらない態度に腹を立てたのか、マックイーンの方から問いを発した。彼女の紫水晶の目はヤンの目をじっと見つめている。

 

「何もずっと禁止というわけじゃない。トレーニングの後に自主トレをすることはダメって言ったんだ」

「ですから! それはどうして」

「自主トレはいつも何をしているんだい? 」

 

 感情的になるのを抑えきれない自分に対して、落ち着きはらっているヤンが、マックイーンにとって得体の知れないもののように感じられた。まるで、海に漂うあいだは果てが見えないように、彼の腹が読めない。

 

「主に走り込みです。10kmほど行って帰ってきます。門限に遅れたことはありませんわ」

「それはずっと続けているのかい? 」

「いえ、先生、前のトレーナーさんがお辞めになってから、つまり去年の年明けからです」

「なるほど、つまり半年以上続けている」

「その通りですわ。効果も徐々にですが現れています。昨日のタイムも悪くなかったはずです」

「ああ、悪くなかった。しかし、そのあとの内容は正直なところ、良くはない」

「それは、私の力不足によるもので、次は必ず! 」

 

 勢いたつマックイーンに合わせるように、やかんの笛が鳴った。ヤンは再びキッチンに立ち、二つのカップにお湯を注ぎ、テーブルに置く。

 

「安直に力不足と決めつけるのはいかがなものかと思うよ、マックイーン」

 

 今度はヤンがマックイーンの目を見る番だった。黒い瞳が覗き込む。凄みを効かせているわけではないのに、知らず知らず気圧されている自分にマックイーンは驚いた。

 

「どういう、ことですの? 」

 

 振り絞るように声を出す。先ほどまでの言葉のキレはなりを潜めていた。

 

「まず、昨日の敗因は力不足というよりは経験不足によるものだ。君は後ろをつけるエアグルーヴの圧力に耐えかねて掛かってしまい、最後のノビを欠いた。しかし、これはあくまで表面的な原因に過ぎない。もっと君の深いところに根ざした原因があるんだが。分かるかい? 」

「その前に、少しよろしいでしょうか? 」

 

 ティーカップの縁を指で軽く叩くと、ヤンは目で話の先を促す。

 

「最後のノビを欠いた、というのはどういうことでしょう? 一本目と二本目はタイムがほとんど変わらなかったはずですが」

 

 ヤンは目を丸くしたあと、タブレットを操作して、ホワイトボードに画面を投影した。

 映し出されたのはマックイーンのタイムだ。昨日から嫌というほど見た。

 

「相対的なノビの話さ。一般的に、最初から最後まで全速力で走れる者はいない。短距離レースと言われるものでも、1200m。ウマ娘がトップスピードを維持できるのは600mほどだから、短距離レースでさえ、皆どこかで調整している。その調整の仕方が最初に飛ばしてその勢いのまま行くか、それとも最後まで温存しておいて一気に抜き去るか、この違いが作戦の違いだ。

 一方、君の特長は走りが洗練されていて、ムラがないことだ。エアグルーヴもタイプとしては似ているが、彼女の方は距離ごとのタイムが若干増減している。これをペースの乱れと指摘するのは可哀想だが、身体からすれば、立派な乱れだ。なにしろ、負荷が行ったり来たりするんだから。ただ、彼女の場合は最後の400mに関しては下振れがない。ペースとしては上がっていっているんだ。つまり、スパートをかけているわけだ。翻って君を見ると、2本目最後の400mは見事に下振れを起こしている。足を残している他のウマ娘からすれば、失速したと感じられるだろう」

「なるほど、理屈はわかりましたわ。しかし、それと自主トレの禁止とがどのように繋がるのでしょう? 」

「まさに、その自主トレこそが今回の結果を招いた最大の要因だからさ」

 

 血が沸騰するのをマックイーンは肌で感じた。今までの半年におよぶ努力をすべて否定されたようで、憤りを感じずにはいられなかった。

 

「それはあんまりではないですか! 私にアドバイスをしてくれる人はいませんでした! それでも盲目的に頑張ってきましたのに……。それをいざアドバイスを貰えるようになったら、無駄だから辞めろ? 冗談じゃありませんわ! 」

 

 今にも掴みかからんばかりの勢いで机を叩いてまくしたてる。言葉を吐き出すたび、陶磁器のカップが音をたてて跳ねる。ヤンは自分の分を持ち上げ、難から逃していた。

 

「無駄だなんて、とんでもない。むしろそれは長所を形づくっているよ」

「では! なぜそれを続けることがダメなのですか!その長所を伸ばすことが勝利に繋がるのではありませんか!」

 

 ヤンはカップを机の上に戻し、ティーバックを取り出した。マックイーンもそれに倣う。少し濃いめの液体の中にひとかけらの茶葉が舞っている。波打つ水面に映る自分がひどくちっぽけで、小さなカップに吸い込まれるような気がした。

 

「すこし脇道に逸れたけど、本題にもどっても良いかい?」

「本題と言うと? 」

 

 マックイーンは熱くなって、そもそもの話を忘れたことに赤面し、耐えかねていた。メジロ家のウマ娘として、気品ある振る舞いを貫かんとする彼女は、ヤンに隠れて内腿をつねる。感情に任せて話の脈絡を見失うなど、あってはならないことであった。

 

「君が昨日の2本目のタイム測定で最後のノビを欠いた本質的な原因さ」

 

 ヤンは席を立ち、カウンターから酒瓶を携えもどってきた。

「それは何ですの? お酒のように見えるのですが」

 

 ヤンは照れ臭そうな笑みを浮かべた。言おうか言うまいか逡巡したようだが、すぐに開き直り、ラベルを見せてきた。

 それはどこでも買えるようなブランデーの瓶だった。

 

「紅茶に入れるんですの? 」

「まあ、そうさ。それで、本質的な原因だが、レース勘が鈍っていることさ」

 

 ヤンはブランデーを少々入れ、香りを楽しんでいる。マックイーンの目線は酒瓶に注がれるが、ヤンは大事な娘を隠すように後ろに置いた。

 

「ダメだよ、お酒は成人してからだ」

「ケチですわね。まあ、今は良いですわ。レースからはここ半年たしかに遠のいていますが、それとこれと関係がありますの? 」

「大アリさ。まず、誰かと走るということはそれだけで体力を使う。気にするな、と言ってもどだい無理な話だ。徒競走とレースは違う」

 

 諭すように懇々と説明していく。マックイーンは不思議と不快感を感じなかった。反発するでもなく、肯定するでもなく、じっくりと耳を傾けている。

 ヤンはトラックの模型を机の下から取り出し、2つのウマ娘の駒と共に卓上へ置いた。

 

「ここでふと考えて欲しい。最終コーナーに入るときの速さを1とする。そして、最後の直線でこの1の速さで走りながら1.1の速さの相手を抜くのと、1.1の速さで走りながら1の速さの相手を抜くのを比べたとき、簡単なのは後者だろう」

 

 マックイーンは頷く。ヤンは紅茶で口の渇きを癒やし、さらに続ける。

 

「ウマ娘のレースにおいて常に1の速さで走って良いのは逃げの場合のみだ。2番手以降に大差をつければ駆け引きもなにも無くなるからね。だが、君の先行策の場合、終盤に抜きん出るための駆け引きが必ず生まれる。これに打ち勝つためには3つの要素がカギになる。なにか分かるかい?」

「速さと位置取りでしょうか?あと一つは分かりませんわ」

 

 カップの縁をなぞりながら、彼女は答えた。ヤンは指を鳴らした。

 

「その通り! あと一つは展開さ」

「それは、位置取りとは違うのですか? 」

「ああ、ここでは少し別のものと考えよう。位置取りはコース取りの問題、展開はレース全体の問題さ」

 

 マックイーンは得心がいった。エアグルーヴに競り負けたのは最後の直線でも1のままだったからだ。

 

「話はわかりました。その上で質問をさせていただきます。私は勝てるのでしょうか?」

 

 キョトンと首を傾げるヤンを見て、マックイーンは慌てて言葉をつなぐ。

 

「決して変な意味ではなく! それでしたら私は走れば必ず負けると言っても過言ではないのでは? 」

 

 自身が1の速さでしか走り続けられないとなれば、スパートで1.1の速さで上がってくる後続をかわすのは不可能なのではないか、彼女のなかで懸念がむくむくと首をもたげてくる。

 ヤンは優しく微笑む。

 

「そうならないための作戦、それを全うするためのレース勘、そして、そのための経験だ」

 

 マックイーンは紅茶を飲む。あまり飲み込めていない様子を見たヤンはさらに続ける。

 

「頭が硬いよ、マックイーン。今までの話はあくまで比喩だよ。実際のレースではそれぞれの1が違う。それに、君もちゃんと最後にスパートをかけられるんだ。そのための駆け引きは学ばないといけないがね」

 

 ヤンは言い終わると、紅茶の残りを一気に喉に流しこんだ。

 

「さて、まだ何かあるかい? 」

「いいえ、ありませんわ」

 

 マックイーンもカップの残りを一気に飲み干した。しかし、茶葉が喉に引っかかってしまい、盛大にむせてしまう。

 

「大丈夫かい?」

「ええ、ゴホッ、お構いなく」

 

 咳が落ち着くと、彼女は大きく2回深呼吸をした。

 マックイーンは立ち上がり、向かいに座っていたヤンの下へと歩み寄った。ヤンも彼女に合わせて立ち上がる。

 

「ヤン・ウェンリートレーナー」

「なんだい? 」

 

 マックイーンは右手を差し出した。

 

「これからもトレーナーとしてよろしくお願いいたしますわ。私の片翼として、良き指導者として私に盾を手にさせてくださいまし」

 

 ヤンはその手を握りかえす。儚く、小さな手だった。かつて握手を交わした面々とは違う、無垢なままの紫水晶色の瞳が黒い瞳をのぞきこむ。

 

「ああ、末永く頼むよ」

 

 マックイーンは左手をさらに添えた。ヤンは驚き、手を引っ込めようとしたが、ウマ娘の力は思いのほか強い。結局、彼女が満足するまでそのままだった。




衝突は繰り返すもの。
しかし、そのたびに相手を知り関係はより強固になる。
次回、ウマ娘英雄伝説『会食』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第6話:会食

独自設定として
中等部→ジュニア・トゥインクルシリーズに出走
高等部→トゥインクルシリーズに出走
となっています。
ラインハルトの育てた会長とあたったら無理ゲーなので、分けさせて頂きました。
なお、日常回の予告はいつものナレーションだと重苦しすぎると感じたので、試しにあのウマ娘にやってもらいます。
彼女の出番はもしかすると、予告だけかもしれません。
その予告もいつものナレーターの方に取られてしまうかもしれませんが…。
編集箇所
高等部からとはいえ→一から
に変更しました。



「それでは、ヤンさん。お休みなさい。また明日」

 

 マックイーンはそう言い残し、トレーナー室を後にした。すっかり夕焼けも終わり暗くなった夜のもと、軽い足取りで更衣室へ向かう。制服に着替え、食堂へ向かう段階になって、恥ずかしさがじわじわと迫り上がってきた。

 

(私、一時のテンションでなーにを言ってるんですの? あれでは、まるで、まるで! 嗚呼はしたない! 淑女たるもの! 優雅に気品あふれる姿を貫かなければ! そう、メジロのウマ娘として)

 

 すれ違う他の生徒たちは皆、ほんのりと紅潮した彼女の横顔に魅入っていた。本格的な練習を再開し満足感を噛み締めているのだろう、と都合よく受け取ってくれていたが、本人はその実しょうもないことで思い悩んでいた。

 食堂で夜のメニューをもらい、空いている席を探していると、

 

「マックイーンちゃん、こっちこっち! 」

 

 奥からマヤノトップガンが声をかけてきた。彼女はテイオーの同室で、これまた得意な距離が似通っているので、顔見知りである。

 

「夕ご飯これからでしょ。私たちも今来たところなんだー」

 

 そう言って、彼女はトレーを置き席についた。マックイーンもそれに続く。

 

「それにしても! また新人のトレーナーちゃんが来てくれるなんて、マヤ嬉しいなぁ。今回は落ち着いていて大人って感じ。前に来た超絶カッコいいトレーナーちゃんとはタイプ全然違うよね」

「は、はあ。マヤノは選べるとしたら、どちらのトレーナーさんの下で走りたいですか? 」

 

 マヤノは指を顎に当てながら、少し間を置く。一瞬、目を見開くが、また唸りだす。

 

「なになに、面白そうな話してるじゃないですか。ネイチャさんも混ぜてよ」

「あ、ネイチャ。今ね、最近来た2人のトレーナーちゃんのどっちに指導してもらいたいかって話してたの! 」

「なるほど、悩みますなぁ。テイオーのトレーナーとマックイーンのトレーナーか」

 

 片や一から現会長を育て上げてチームを組み、さらに最近加入したテイオーも順調に成長させている。片や担当しているウマ娘はマックイーンのみで、実績もなにもない。傍から見れば、ちょっと可哀想なほどの歴然たる差があった。

 

「マックイーンちゃんから見たらヤントレーナーはどうなの? 」

「どう、と言われましても…」

 

 まだ彼が担当トレーナーになってから一週間と経っていない。学園の中では間違いなく接点がある方ではあったが、付き合いが深いわけではない。

 先ほどのやりとりを思い出して、マックイーンは思わず顔を赤らめた。

 

「たしかに、すこし頼りなく映るかもしれませんが、ウマ娘の話に耳を傾け、真摯に向き合ってくださる方ですわ」

「たった一日やそこらで絆されちゃって、もしかしてアンタのトレーナー、タラシの才能あるんじゃない?」

 

 刹那、マックイーンは椅子を蹴って立ち、机に身を乗り出した。紫水晶の双眸が発言者を射抜いている。

 

「そんなことはありません! 決して! ただ親切なだけですわ」

「ムキになっちゃって、可愛いんだから」

 

 ネイチャの呆れ半分のからかいに返す言葉もなかった。だが、自分でも自分がよく分からない。

 

(今の私は何に対して怒りを覚えたのでしょう? 一日でゾッコンになるような軽い女と思われたからでしょうか? それとも…)

 

 揺蕩う彼女の思考を摘み取ったのは新たな客人だった。

 

「ごめん、マヤノ。遅くなっちゃって」

 

 ジャージ姿のままのテイオーが夜の定食を持ってマックイーンの向かいに座る。

 茶碗を見ると、いつもより多めにご飯をよそっていた。食事制限を自分に課している影響か、まわりの食事量には人一倍敏感なマックイーンである。

 

「テイオー、あなたそんなに食べる方でしたか?」

「最近、お腹減っちゃってさー。食べないと持たないんだよね。閣下がスパルタだからかな」

 

 そう言って手早くおかず、ご飯、お味噌汁、ご飯、おかずと食べ進んでいく。他3人はそれぞれ半分ほど食べているが、それに追いつきそうな勢いであった。

 

「テイオーは次の菊花賞を獲れば、クラシック三冠の偉業だもんね。 ジュニア・トゥインクルとはいえ、大したもんですよホント」

「そんなに持ち上げないでよー。その気になっちゃうじゃないか」

「ねえねえ! みんなで今度遊びに行かない? 最近レース続きで忙しそうだったもん。マックイーンちゃんの次のレースっていつだっけ? 」

「夏合宿前の七夕賞ですわ。まずはGⅢで慣らしてみようと思いまして」

「1ヶ月後かー。それなら、今週末にでも遊びに行こうよ」

「賛成! ボクもうクタクタだよ。どこに行く? 」

「私はどこでも構いませんわ。季節柄、雨が多いですから、屋内の方がよろしいかと思いますが」

「それならさ、私こういうのもらっちゃったんだよね」

 

 そう言ってネイチャは制服のポケットから4枚のチケットを取り出した。

 

「あー! リニューアルオープンしたばっかの室内アスレチック場のやつじゃん!」

「ホントだ。でも、ネイチャどうやって手に入れたのコレ」

 

 ネイチャは少し照れ笑いをしながら話し始めた。

 今日、昼ごはんの買い出しに商店街に出かけたところ、親切な八百屋のおじちゃんから貰ったらしい。

 

「いいって言ってるのに、ほとんど毎回なにかくれるんだよね。こっちが申し訳なくなっちゃう」

「また買い物に行って差し上げればよろしいのでは? 向こうも良かれと思ってやってるのでしょうから」

「そだねー。また今度お裾分けするよ。一人で大根3つとか使いきれないからね」

「とにかく! 貰ったものは使わなきゃ損だよ、ネイチャ。ここに行こう!」

 

 マヤノの提案に他の三者は異議なし、と口を揃えた。




ピース!ピース!
みんな元気にしてるか!
ゴルシちゃんだぞ!
6月といえば北海道だよな。梅雨なし、台風なし。
カラッと乾いた空気はとっても過ごしやすいぜ。
海鮮丼も良いよな。ウニ、イクラ、サーモン、ジンギスカン。
私の心はいつでもあの大草原を蒼き狼と共に走ってるぜ。
次回、ウマ娘英雄伝説『羽休め』
ウマ娘の歴史にこのゴールドシップ様の名を刻めぇ!


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第7話:羽休め

 4人とも同じ寮のため、待ち合わせはするまでもなく朝の寮食堂で落ちあい、そのまま向かう予定だった。しかしマヤノとテイオーが来ず、2人は待ちぼうけを食らっていた。

 時刻は9時半。目的のアスレチック場までは学園の最寄り駅からバスがあり、午前中は30分に1本来る直通便で20分ほどだから、替えがきかないわけではない。

 しかし、おそらく寝坊しているであろう彼女らを待つ理由も2人には見当たらなかった。

 

「まったく、あの2人は何をしているんですか。寝坊するなら、すると言っておいてくれたらこちらも考えますのに」

「分かっていたら苦労がないんだな、これが。で、マックイーン、どうする? 」

「叩き起こします」

「は? ちょちょ待ちなよ、まず私がもう一回電話かけて見るからさ。その反応を待とうよ」

「いいえ、待ちません。夢の世界から連れ戻すには横っ面を引っ叩くのが1番ですわ」

 

 言うや否や、マックイーンは腕まくりをして席を立った。ネイチャはケータイを耳にあてながらついてくる。残念ながら予想通り応答はないらしく、コール音だけがかすかに聞こえる。

 テイオーたちの部屋の前に来ると、中からは着信音が虚しく響いてくるのみだった。外にまで聞こえる音量をものともせずに夢の世界を楽しんでいるようである。

 

(大した根性ですわ。それとも、疲れがたまっているのでしょうか? )

 

 ふと後ろを見やり、ネイチャと目を合わせる。彼女は小さく頷いた。

 着信音にあわせてマックイーンの尻尾がリズムをとっている。

 何も知らずに彼女たちの後ろを通っていた者たちは友達を起こしに来たのだろう、と微笑ましく思った。だからこそ、次にマックイーンのとった行動は完全に予想外だった。しかし、当の本人からすれば、それは予定通りの行動である。なぜなら、彼女はテイオーらを『叩き』起こしに来たのである。

 それは集約されたエネルギーのなせる技だった。優雅に右手はドアの前に、刹那閃き、鋭くドアを捉えた。続いて一発。さらにもう一発。

 お手本のようなノックである。力加減を除いて、の話だが。

 中からもぞもぞと動く気配がする。おそらく、夢と現実の境界線上にいるのだろう。

 

「テイオー! マヤノ! 早く起きてくださいまし。置いていきますわよ! 」

「お二人さん〜、疲れてるんならまたの機会でも良いよ。でも、そろそろ起きないと朝ごはんなくなっちゃうよ」

 

 布団を跳ね上げる音がした。さらに、鍵を開ける音。ドアがゆっくりと開く。その隙間からテイオーがおそるおそる顔を出した。

 彼女が起き抜けに見たものはお手本のような笑顔であった。しかし、笑顔は必ずしも内心を表すものではない。テイオーには自分が犯した失態も相手の気持ちも分かりきっている。

 

「おはようございます。テイオー、よく眠れまして? 」

「お、おはよー、ございます。すぐ用意します」

「大丈夫? 疲れてるんなら、今度でもいけるよ」

「いや、今日で大丈夫! たっぷり寝かしてもらったから、元気ハツラツだよー」

「あら、それでは私たちは食堂で待っていますわ。朝ごはんは取っておいた方がよろしいかしら? 」

「よろしく、マックイーン。ボクはトーストと果物だけで良いよ。マヤノは? 」

「マヤは、フルーツゥ……」

「んもう! マヤノ、しっかりして」

 

 いまだ寝ぼけているマヤノをゆすりながら、テイオーは白いパーカーとカーキのショートパンツに手早く着替える。マヤノも眠たそうな声を発しているものの、着替え終わったようで、ブラウンのカットソー、クリーム色のショートパンツに身を包んでいた。

 マヤノの腕を引き食堂までやってくると、2人はテイオー達の分を取り、紅茶とコーヒーをそれぞれ楽しんでいた。

 用意してくれた分を牛乳で流し込む。だが、それをテイオーはすぐに後悔することになる。

 きっかけはマックイーンの何気ない一言だった。

 

「走れば次のバスに間に合いますわね。食後の運動にちょうど良いですし、走って駅まで急ぎましょう」

 

 そう言うや否や有無を言わせる暇すらなく、席を立った。ネイチャもマヤノもそれに続く。テイオー自身も走ることは吝かではなかったから、提案に乗った。

 だが、ロータリーで彼女は腸の動きが活発になるのを感じていた。辛うじて逆流を防いだものの、今の状態は非常によろしくない。

 このことがあったからか、アスレチック場でのテイオーは嗜虐心のかたまりと化した。

 当初、マックイーンが先頭だったが、彼女は恐れるばかりでなかなか前に進まない。途中の休憩ポイントで交代し、先頭を代わった。そこからは暴君としか言いようのない行いである。

 足元と両脇の手すり代わりの計3本の縄だけで構成された橋に差し掛かった際には颯爽と進み、後ろのマックイーンが渡り始めるのを確認すると、思いっきり跳ねて揺らし始めた。マックイーンは悲鳴をあげる。落ちれば助かるのだが、命綱がそれを許さない。ギブアップするのは友人の手前プライドが邪魔をする。途中からはマヤノも後ろから参戦し、縄はさらに揺れた。ぎゃあぎゃあ言いつつもマックイーンは渡り終え、テイオーを睨んだ。

 

「末代まで呪いますわ。必ず、天罰がくだります」

「うん、楽しみにしてるよ♪ ひとまず、まだ半分きたところだから、期待してるね。マックイーン」

 

 来るまでの浮かない顔はどこへやら、テイオーはすっかり上機嫌だった。

 コースを終えた頃にはマックイーンはヘロヘロになっていた。よほど地面が恋しかったのか、膝をつき、頬ずりせんばかりである。

 

「私は生き抜きましたわ。お母様、私は生きています」

 

 彼女らは程よく疲れた身体を近くのイタリアンレストランへと運び、遅めのランチと洒落込んでいた。

 テラス席で各々パスタを頼み、一枚のピザを分け合った。

 6月にしては珍しく晴れ渡った空のもとゆるやかな時が流れている。いつもは芝の上でコンマ一秒を争っている彼女らも陽気には勝てない。

 

「このあとどうするー? 」

「まだ時間あるよね、寮に帰る前にちょっと寄り道して行かない? このまま帰るのはマヤ反対」

「なら、商店街はどう? チケット譲ってくれたおじちゃんにお礼言いに行こうさ」

「良いですわね、たっぷり楽しめましたし、是非感謝の意を伝えましょう」

 

 この後の予定が大まかに決まったところで、デザートとハーブティーが運ばれてきた。全員の目の前に並べられると、ネイチャは意外そうな顔でマックイーンを見る。

 

「あれ? マックイーン、今日スイーツの日だっけ?」

 

 マックイーンが厳しい体重管理をしていることは彼女の近くにいる者にとって周知の事実であった。多くても週に一回しか口にせず、レース前などは完全に絶つ。その習慣はレースに出られない間も続いてたので、人前でスイーツを食べるのはたしかに珍しい。

 

「ええ、ヤントレーナーに言われまして、次のレースまでの間、少し管理を緩めていますの」

「マックイーンが素直に言うことを聞くなんて、明日は雨かも?」

「失礼なことを言わないでください。それに、あんな言い方をされたら誰だってこうしますわ」

「へー、どんな言い方されたの? 」

「そ、それはこの際どうでも良いのでは……」

「いや! マヤは気になるよ。マックイーンの心を動かした文句を聞いてみたいな」

 

 マックイーンは躊躇いを見せた。紫水晶の目が揺れ動いている。心なしか彼女の顔が紅潮しているように見えた。

 咳払いを一つ、そのあと彼女は声色をやや低くした。

 

「マックイーン、我慢は良くない。人間は欲望に打ち勝つようにはできていないんだ。ましてや君は成長期。レースに勝つための強い身体づくりにも努めなければならない。スイーツ一つで鈍るほど君の脚はなまくらではないだろ?」

 

 言い終わった瞬間、ネイチャは吹き出した。テイオーは手を叩いて喜び、マヤノは手を口に当てて笑いを噛み殺している。

 

「それでそれで、マックイーンちゃんは何て返したの?」

「我慢するからこそ高みを望める場合もある、と。それをあのトレーナーときたら、首を振って否定するばかりで…」

「じゃあ、やられっぱなしで終わったわけ? 」

「そんなことあり得ませんわ。今年、私が秋の天皇賞で3着以内に入らなければ、ブランデーを没収すると伝えました」

「わお、過激だねぇ。さすがマックイーン」

「当然のことをしただけですわ。私の苦しみの片鱗でも味わえば良いのです」

 

 彼女のきかん気は友人の3人にとってはいつものことだが、それがトレーナーに対しても通常運転で動くとは思っても見なかった。だが、彼女の節制は友人である彼女らが贔屓目に見ても過度なものであり、それをどのような形であろうとも、たしなめてくれたヤンに3人は心中ひそかに感謝した。




休息も束の間、久々のレースに向けて準備をするマックイーン。
一方のヤンはウマ娘について詳しく知るため、ある人物のもとを訪れていた。
次回、ウマ娘英雄伝説『地固め』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第8話:地固め

これから少し投稿ペース落ちるかもしれません。
最低でも、週2本は守りたいです。
また、アンケートですが、非常に拮抗しているためしばらく様子を見ます。
次の日常回予告の際に参考にする予定です。
どうぞよろしくお願いします。
追記:タキオンの一人称を完全に間違えていました。指摘してくださった方ありがとうございます! 流石にやってはいけないミスだと思います…。
その他の誤字報告に関しても、その都度目を通し、適切に対処しています。
いつもありがとうございますm(__)m
拙いながらも書き進めていこうと思いますので、よろしくお願いします。


「さて、マックイーン。七夕賞まで残り3週間だ。ここからの練習はレースを意識したものになる」

 

そう言ってヤンはホワイトボードに七夕賞のレース情報を投影し始めた。

 

「芝2000m・右回り、場所は福島レース場。このコースの特徴は独特の起伏と第3コーナーから第4コーナーにかけてスパイラルカーブと呼ばれる形が採用されていることだ。これらについて何か知ってるかい? 」

「ええ、スタートからいきなり下りと上りが交互に2回ずつあります。特に直線から第二コーナーにかけての下り坂はキツい傾斜ではありませんが、長い坂が続きます。あとはゴール前のアップダウンですわ。一つ一つの坂は大したものではありませんが、全体としては侮れません。

 スパイラルカーブに関しては授業で習いましたわ。なんでも、スピードを落とさずに入れる、と」

「その通り。コースを一周する間に2度もアップダウンをするのは、この福島レース場の特筆すべき特徴だ。坂を苦としない技術が求められるだろうね。一方のスパイラルカーブだが、こちらはコーナリングが難しい。というより、よほど慣れてもいない限り曲がり切るのは不可能に近い」

 

 そこまで言うとヤンは先程お湯を注いだカップからティーバックを取り出し、ブランデーを垂らした。カップを顔に近づけ香りを楽しんでから、瞑目して一口飲む。

 その隙に、マックイーンは酒瓶をひったくり、ヤンの手が届かないところに遠ざけた。

 

「手癖が悪いよ、マックイーン。勘弁してくれ。いつまで飲めるか分からないんだから」

「そんなに大事なら、しっかりトレーナーとして励めばよろしいのでは? そもそも今は勤務中です。お酒は自室でお楽しみくださいまし。

 それで、七夕賞に向けてどのようなメニューを作られたのですか? 」

 

 ヤンは口を尖らせながらファイルを手繰り、一枚の紙を差し出した。

 先日組まれたメニューと変わりばえせず、異なる点といえば、最後が坂道ダッシュになったことぐらいだった。

 

「まず、これからは坂道に慣れるための練習をメインにする。スパイラルコーナーに関しては自主課題ということでお願いするよ。好みがあるからね」

「ということは、自主トレは今まで通りトレーニングのない日ならば、やっても構いませんのね」

「ああ、ただメニューを一つ指定させてもらう。裏の神社の階段駆けだ。あそこは学園のものだから、トレーニングに使っても問題ないだろう」

 

 マックイーンは露骨に顔をしかめて見せた。神社の階段駆けは学園で最も過酷なメニューの一つである。その原因は悪意しか感じられない設計にあった。踏面わずか20cm、蹴上30cmという寸法は爪先で駆け上がることを強いる上、計1000段と長いためスタミナも要する。

 

「坂道ダッシュではダメなのですか? 」

「ダメ」

 

 一刀両断。取りつく島もない。

 マックイーンにもその理由は推察できる。同じトレーニングを続けていると、刺激の鮮度が落ちる。そのため効果が期待できないのだ。だが、それを差し置いてでも、マックイーンは階段駆けだけは遠慮したい。

 

「他のトレーニングで代替することは……」

「ダメったら、ダメ」

 

 この攻防は理論に基づいているヤンに分がある。

 マックイーンは駄々をこねるのを諦め、未来の自分を労った。その自分はここで引き下がったことを恨むだろう。しかし、そこまで悲観的に捉える必要はなかった。彼女はスイーツ管理を緩めて以来、疲労の回復が極めて速くなったことを感じていたのである。体幹トレーニングの効果も出始め、最近はコーナリングもメキメキと上達し始めた。

 内心、ヤンのトレーナーとしての力量には舌を巻かざるを得ない。彼自身の談によれば、就任以前はウマ娘を見たことすらなかったらしいが、これは疑わしかった。出す指示のひとつひとつが的確で、理由を訊けばスラスラと答えてくれる。外連味のない練習法は熟練トレーナーのそれでもあった。

 マックイーンは自分が右肩上がりに成長していることを実感しており、レースに出ていないがために他のウマ娘たちへ抱いていた隔意とは縁が薄くなっている。まるで翼を得たように身体は軽く、毎日が煌めいていた。

 その彼女にも坂道を主眼に据えたメニューはこたえたらしい。珍しく肩で息をしながら練習場を後にし、寮での食事のあとは自室で正体もなく寝入った。

 マックイーンが夢の世界でスイーツを両手にタップダンスを踊っていた頃、ヤンはトレーナー棟で書類に向き合っていた。新しく作ったメニューを見て彼はため息をつく。前々からの懸念が現実の問題として立ちはだかる気配を見せたのだ。

 

(ウマ娘について知らなさすぎる…)

 

 彼の知の泉は源泉があってこそ真価を発揮するものである。ラインハルト率いる帝国との戦いでは古今東西の歴史が彼の背中を支えたし、トレセン学園では前任者のファイルが彼の頭脳労働を容易ならしめた。

 しかし、マックイーンが自分を高めるにしたがって過去のデータに基づいたファイルの輝きは褪せていく。決して失われはしないものの、自分に期待されている役割を十全に果たすためには、源泉から湯を引き入れる必要がある。こればかりは彼一人の努力では不可能だった。

 次の日、ヤンの行動は迅速をきわめた。

 朝早く登校する生徒たちを尻目に理事長室へと向かい、彼の雇い主のもとを訪ねたのだ。

 

「申し訳ありません、理事長は午前いっぱい席を外しておりまして、どのような用向きでしょうか? 」

 

 珍しく太陽に従って起きたため、秘書のたづなの言葉はヤンをひどく気落ちさせた。が、立ち止まっているわけにもいかずに事情を話すと、力になれるかもしれない、と言って案内を申し出てくれた。

 二人が向かったのは旧校舎だった。30年前に建てられたものでまだまだ現役だったが、生徒数の激増に伴い、生徒の収容という役割を新校舎に譲り、図書室や実験室などの限られた機能が残されているのみである。

 最上階の突き当たりに大きな実験室がある。

 たづながノックすると、中からどうぞ、と気の抜けた声がした。

 

「失礼します。アグネスタキオンさん、お久しぶりです」

「これはこれはたづな女史。3週間2日と16時間とんで54秒ぶりじゃないか、しかもお連れさんまで」

 

 部屋主は白衣に身を包んだウマ娘だった。ダークブラウンの髪は跳ねてはいるものの、手入れはされているらしく、ツヤを失ってはいない。しかし、眼はどこか仄暗く、斜に構えた態度がツンツン漂ってきていた。

 

「ヤンさん、こちらはアグネスタキオン。高校生ながらウマ娘生理学の研究に精を出していまして、特別に実験室の一つを与えられているのです」

「やあやあ、こんな辺鄙なところだが、キミの噂はかねてから聞いているよ。ウェンリー君。頭の固いトレーナーたちから派手に嫌われているらしいじゃないか。同じ境遇の者同士、通じ合えるといいね」

 

 そう言ってタキオンは白衣で拭った右手を差し出した。握手に応じると、彼女は意外そうに口元を歪める。

 

「私に初対面で握手をしてくれたのは理事長とたづな女史を含めて4人目だよ。君はなかなかに奇特な人物のようだ」

 

 そう言うと、黒いカーテンの奥へと姿を隠した。

 丸椅子に2人して腰を下ろすと、たづなは声をひそめて、

 

「悪く思わないでください、ヤンさん。彼女は一種の奇人でして……」

「ええ、僕もその類は見慣れたと思っていましたが、どうやら新種に出くわしたらしい。彼女もこの学園の生徒ということは、レースの合間を縫って研究を進めているのですか? 」

 

 たづなは首を振った。

 

「では、研究だけで身を立てているのですか? 」

 

 再びたづなは首を振った。やがて奥を見やると視線を戻し、目を伏せた。口元は何事かを紡ごうとしているが、空気を震わすには至っていない。

 

「もちろんだとも!」

 

 答えは再び姿を現したタキオンから寄せられた。手には紅茶たっぷりのビーカーが2つ。どうやら来客用らしい。

 

「少なくとも私はそのつもりさ! それをここのトレーナーときたら、走れ走れの一点張り。理由を尋ねれば、キミには素晴らしい素質がある。ハッ! 全く、新規性のかけらも窺えない。頑迷なトレーナー諸君から逃げ、引きこもって研究に没頭していたら、今度は走らないウマ娘は要らないと囀り、挙句は理事長を突き上げて僕を追い出さんとする。そうだろう、たづな女史。今度はどんな条件を持ってきたんだい? 」

 

 視線を向けられた彼女は懐から三つ折りの書面を取り出した。躊躇いがちにタキオンの前に差し出すと、彼女はひったくり、勢いよく広げた。

 

「なんだって!? 次の校内レースに出なければ、退学ゥ? どういうことだい? 今までは停学で済んでいたじゃないか」

「理事長や生徒会長をもってしても庇いきれないのです。この学校はトゥインクル・シリーズ、さらにはドリームトロフィー・リーグへ出走するウマ娘の育成を主目的とする機関です。数多のウマ娘が編入を望むなか、貴女はその貴重な一枠を握ったまま無為に時を過ごしている、と判断されたのです」

「それをどうにかするのが、キミたちの役目だろう。何とかならないのかい? 」

「どうにも……。もう理事会で決定されてしまいました。生徒会長でも踏み込めない次元の話です」

 

 タキオンは大きく息を吐いた。がっくりと項垂れる。

 

「私はどうすれば良いんだ」

「どうしても、レースに出たくないのかい? 」

「そうさ! レースに出るぐらいならトレーナーにでもなった方がマシというものだ。幸い海外のトレーナー免許なら持っている。たづな女史、その方向で話を進めてくれないだろうか?」

「それも、できません。理事長はトレーナー委員会と大揉めに揉めたばかりです。ほとぼりの冷めないまま次の横車を押すことは不可能です」

 

 その恩恵に浴しているヤンとしては耳の痛い話である。皺寄せを彼女が一身に受けるのはあまりに哀れに思えた。

 

「良かったら、僕のチームに入るかい? 」

 

 言った瞬間タキオンの目は輝き、たづなの目は見開かれた。

 

「それは良い! キミのとこなら上手くやっていけそうだ。なにより、あの煙たい連中に媚びなくて済む」

「いけません! ヤントレーナー! あなたはまだ免許を持っておらず、いくら特例だとしても、チームを持つことまでは許されていません」

「たしか夏休みにある試験に受かれば、正式にトレーナーになれるんだろう。そこまで待ってくれても良いじゃないか。そこで僕が残念な結果に終われば、その時はその時で考えれば良い」

「たしかに……執行猶予なら通るかもしれません」

「そうか! その手があったか! いやあ、助かるよウェンリー君。キミは悪知恵が働くみたいだ」

「褒め言葉として、受け取っておくよ。だが、僕も君に頼み事をしたいんだ」

「いいとも! 何が欲しい? 即効性かつ後に残らない睡眠薬かい? それとも、目が冴えて一マイル先まで見通せる点眼薬かい? 要望があれば実現しよう! なあに、任せておくと良い」

「いや、そういう怪しげな薬じゃなくて、ウマ娘について教えて欲しいんだ」

 

 タキオンは目を点にした。自分の作品が怪しげ、と決めつけられたことなど、頭から消え去っている。

 

「ちょっと待ってくれ、キミは今、学園でトレーナーをしているんだよな」

「そうさ、メジロマックイーンという娘を預かっているよ」

「名前はこの際のことだから脇に置いておく。とにかく! ウマ娘のトレーナーをしているということで間違いないかい? 」

 

 ヤンは力強くうなずき、紅茶に口をつける。容器がビーカーであることで味が幾分か削がれているが、それでもなおティーバックの数段上を行っていた。

 

「キミは今まで一体どうやってウマ娘の面倒を見てきたんだ!?」

「有能な前任者と優秀な担当ウマ娘のおかげさ」

 

 ヤンはビーカーに口をつけながら、茶目っ気たっぷりにウィンクをした。

 タキオンは思わず同伴の理事長秘書を見る。口元に微笑をたたえて微動だにしていない。

 追い詰められていた白衣のウマ娘は前門の虎後門の狼とはよく言ったものだ、と人知れず感心していた。

 

「すこし、考えさせてくれ」

 

 彼女はようやく、それだけ捻り出すと来客を帰した。

 すっかり時間が経ち、西日が実験室に差し込んでいる。




降り頻る雨は止み、木々の緑は深みを増す。
たった10日。
非情な時計は着々と針を進める。
次回、ウマ娘英雄伝説『追い切り』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第9話:追い切り

 七夕賞まで残り10日を数えたこの日、梅雨は後ろ髪をひかれることなく去ったと発表された。明けは例年より早く、雲のない快晴でもって文月は始まりを告げる。

 高く上った太陽は足下をギラギラと照りつけ、この日の最高気温は30℃を記録した。トレーニングには厳しい季節である。拭ったそばから汗が噴き出し、目蓋を流れ落ちては視界を邪魔する。

 マックイーンは今日、3回目の手水を行なっていた。冷たい水は火照った身体に覿面で、濡らした手を首筋にあてると、天にも昇るような心地良さに包まれた。幾分か暑さを和らげると、拝殿へと足を運ぶ。彼女は設備を使うだけ使って寮に帰るほど図太くはなかったし、なにより神仏を疎かにしたせいで久々のレースに負けた、と後から思うのは沽券にかかわる。

 生憎、賽銭をするのはいつも最初の一回のみだったが、願う気持ちは人一倍強いという自負があった。

 

(万事つつがなく済みますように)

 

 祈ることはいつも同じであった。自分のことだけではない。対象には彼女のトレーナーであるヤンも含まれている。彼も最近は奔走しているらしく、練習が終わると足早に去る。さらには時たま商店街で見かけることもあった。本屋に入り浸っているようで、

 

「一度に10冊も本を買ったらしいけど、大丈夫? おたくのトレーナー、今さらアンタを放ったらかして読書に夢中になってたり? 」

 

 と、ネイチャから非難めいた報告を受けた。本のジャンルを尋ねると、ウマ娘についての基本的な知識が書かれた一般向けのものが多い。

 

「ヤントレーナーなりに頑張っていらっしゃるのですわ。最近は私のトレーニングのあとも部屋に残って作業しているようですから」

 

 当事者が弁護にまわったからか、ネイチャはそれ以上追及してこなかった。しかし、彼女の生来の心配性は治らないらしく、機会を見ては自主トレを共にすることを提案した。マックイーンはやんわり断るつもりだったが、ネイチャの押しの強さを前に粘りきれず、結局は負けた。

 が、やはり断っておくべきだったかもしれない。この階段は初心者に優しくなく、ネイチャは5本目の途中から明らかに足が鈍っていた。

 

「はあ、やっと着いた。休憩」

 

 ようやくの思いで6回目の登頂を果たしたネイチャは石畳にヘタレ込んだ。ボトルを手に取り、麦茶を流し込むものの、真夏日の空気の下に放置していたからか、彼女の喉の渇きは満たされなかった。

 一方のマックイーンは参拝を終え、息が整ったところで、ちょうどネイチャと入れ違いになるように下りの途につこうとしていた。

 

「では、お先にネイチャ」

「うん、すぐに追いつくよ」

 

 マックイーンを見送って、ネイチャは大樹に身を寄せた。湿度が高いからか、木陰は彼女の期待したほどの心地良さではない。

 

(マックイーンはこの階段を自主トレの度に10本もやるんだ。すごいなぁ…)

 

 去年のジュニア・トゥインクルで彼女は重賞4勝。前トレーナーさえ壮健であれば、一年生ながらGⅠ を獲っていたかもしれない。一方のネイチャはGⅢに3回出場し、いつも良いところまで行くものの、まだ勝利はなかった。

 

(やっぱり役者が違うのかな……)

 

 石畳に目をやると、先ほど下っていったマックイーンの姿が浮かんだ。名家の教育が抑え込んでいるが、彼女の本質は猪突猛進で、そのくせこれと決めたらテコでも動かぬ芯の強さがあった。かつてのスイーツ管理が良い傍証だろう。彼女は我慢すれば報われる、と無邪気に信じてヤンに促されるまでのあいだ徹底して止めようとすらしなかった。

 その偏執ぶりが今はトレーニングに向いている。一途に努力を重ね、七夕賞の勝利、そしてさらにその先の天皇賞制覇を見据えている。彼女にとっては毎日が目的達成の手段であり、それに対して自己を最大限沿わせてきた。

 

(私はそこまでして、負けてたっけ? )

 

 答えは否である。勝利を望んでいたものの、それは消極的な選択の結果だった。どうせ出るのなら、勝った方がいい。その程度のものであった。

 

「もういっちょ頑張ってみますか」

 

 疲れた身体に鞭打ってネイチャは先ほど来た道を戻り始めた。マックイーンはすでに一つ目の踊り場を過ぎている。

 

「今行くよ、マックイーン」

 

 誰に聞かせるわけでもなく、一人呟き自らを奮い立たせた。

 が、気持ちの強さは疲労とは相関しないらしい。マックイーンと更衣室の前で別れたあと、彼女は一心にトレーナー棟を目指していた。目当ての部屋の前まで来ると、ノックもおざなりに扉を開ける。

 

「どうかしましたか? ネイチャ」

 

 優しく声をかけて来たのは彼女のトレーナー、南坂。去年は専属トレーナーだったが、今年になって彼のスカウトに応じるウマ娘がちらほら出てきたため、今はチーム『カノープス』のトレーナーとなっている。その指導の堅実さには定評があり、ネイチャが負けるとも劣らなかったのは彼のおかげによるところが大きかった。

 

「別に、湿布取りに来ただけです。ハリキリ過ぎちゃって」

 

 そう言って物置と化したレターケースから袋を引っ張り出し、ジャージのポッケに入れる。

 

「しっかり疲れをとって下さい。明日のトレーニングに影響が出ないように」

「はーい、わかってますってば」

 

 気だるげな返事を残して部屋を後にした。もう2年目になるのに、まだ関係はぎこちない。コンビを組んでからまだ一ヶ月ほどなのに息のあったヤンとマックイーンが羨ましく感じる。

 当のヤンは南坂のとなりに部屋を構えているのだが、今は不在のようで、明かりはついていない。

 鉄階段を下り、寮へと向かおうと歩き出すと、珍しい顔に出くわした。

 

「どうしたんですか、会長さん」

「ああ、ナイスネイチャ。いや、ヤントレーナーから頼まれていた遠征届に判を押したから、渡しに行こうと思ってね」

「ヤントレーナーなら、トレーナー棟にはいませんでしたよ」

「そうか、ありがとう。これで無駄足をせずに済んだよ」

「いえいえ、お礼なんて。お安い御用ですよ」

 

 照れ笑いをする彼女に改めて感謝を伝えると、ルドルフは心当たりがあったため、旧校舎へと足を向けた。

 最上階の奥まった一室、タキオンの実験室へ入る。薬液の独特のにおいが鼻をつく。生憎、ヤンの姿は見当たらなかった。

 

「失礼する。アグネスタキオン、いるかい」

 

 わずかな静寂の後、黒いカーテンの奥から返事が聞こえた。

 

「やあやあ、会長。どうしたんだい? 旧校舎くんだりまでやって来て。まさか、レースに出ろとせっつきに来たわけではあるまいな」

「残念ながら、今日は別件だ。ヤントレーナーを探していてね。ここにいると踏んでいたんだが、アテが外れたようだ」

 

 大げさに肩をすくめて見せる。取り繕わない彼女の姿は学園内においては珍しい。だが、タキオンからすれば、ルドルフはいつもこの調子であったため、気には留めなかった。

 

「ん〜、なら私が渡しておいてあげよう」

「いや、それは遠慮するよ。これは大事な書類だからね。できれば直接渡したい」

「そういうことなら、電話して呼びつけようか?」

「頼めるかい?」

「もちろんだとも! 」

 

 言うや否や、白衣のポケットから電話を取り出し、耳に当てる。

 コール音が数回流れた後、

 

「やあやあウェンリー君、今会長が来ているんだがね。どうやらキミに渡したいものがあるそうだ。そうさ、悪いが直接渡したいらしいのでね、今すぐに来るか、それとも会長のアポを取るかしてもらいたい」

 

 いくらかのやり取りを通して、どうやらヤンがこちらに来ることで話がまとまったらしい。

 

「感謝するよ、タキオン。ところで、話は変わるんだが」

 

 その瞬間、彼女のダークブラウンの瞳が鈍った。耳を閉じなかったのは相手がルドルフで、人の心を踏み荒らす輩ではないからである。

 ルドルフは続ける。

 

「君の脚は、そんなに酷いのかい? 」

「酷いとも。走れるのはせいぜいあと一、ニ回だろう」

 

 タキオンの脚は難病に侵されている。病名は『先天性走行時筋肉硬化症』。ウマ娘特有の疾患で、急激な負荷をかけると筋肉が硬直し、力を発揮することができなくなる。この病気は別名、悪魔の病気とも呼ばれていた。それは走れば走るほど悪化するという性質からであった。さらに輪をかけて醜悪なのは、悪化すれば、その症状が全身に広がることである。根治療法は現在のところなく、対症療法が辛うじてあったが、それも気休めでしかなく、根本的な解決法はただ一つ、走らないことであった。

 それはウマ娘にとって拷問に等しい。この不条理を跳ね返すべく、タキオンは研究に身を投じた。ウマ娘について深く知るために留学し、現地でトレーナー免許も取得した。しかし、その努力虚しく解決の糸口は皆目見当がつかなかった。

 彼女はトレセン学園入学以来ターフに立ったことがない。選抜レースにも出走せず、留学して時間稼ぎをしたものの、もはや手は尽き、今に至る。

 先日のヤンの提案によって延命されたものの、チームに入れば、結局は走らねばならない。彼女の現状は贄の羊にも似ていた。いつかは分からないが、この学園にいる限り走れなくなるのは免れ得ないのだ。

 

「会長、私はもうここにいない方が良いのかもしれない」

「滅多なことを言うな、らしくないぞ」

「時々思うんだ、私は袋小路にハマっているのではないか、とね。目の前の壁があまりにも高い」

「なら、君は走りたくないのかい? 」

「そうは言っていない。私は走りたくてここに来たんだ。でも、足が言うことを聞いてくれないんだ。あんなに好きだった芝が今は私を引き摺り込む沼にしか見えない。私は…」

 

 震える彼女は拳を握りしめ、白衣にシワを刻む。

 ルドルフは胸ポケットからペンを取り出し、書類に一つ書き加えた。

 

「何をしているんだい、キミは」

「タキオン、その目で見てくると良い。実際のレースを、そしてヤン・ウェンリーの教え子の走りを。

 そして決めるんだ。自分の去就をな」

 

 静寂が空間を支配する。

 タキオンもルドルフも一言も発しない。

 ヤンがやって来るまで空気が人為的に震わされることはついぞ無かった。

 もはや言葉は尽くされたのである。




マックイーンの仕上げは上々。
アグネスタキオンを臨時のサブトレーナーとして迎え、万全の体制を整えたヤン一行は東北へ向かう。
次回、ウマ娘英雄伝説『7枠13番』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第10話:7枠13番

 旧校舎での用を終えたルドルフは生徒会室へ戻らず、第一練習場へと足を向けた。学校は夏休み前で生徒会としての業務は一段落ついており、彼女が特にいなければならない用はない。

 夏とはいえ西日がさす時間帯だったが、練習場にはトレーニングに励むウマ娘たちが見える。そしてそれを見つめるトレーナーも。

 

「会長、どうした? 今日は生徒会に顔を出すと聞いていたが」

「ええ、用のついでなので、お構いなく」

 

 ルドルフが断りをいれると、ラインハルトはその整った顔を正面に戻した。目前にレースを控えた者がいないため、彼が出張る必要はさほど無かったが、彼女らの若き閣下は練習している者を見かければ、それが自主トレであっても、姿を見せるのが常だった。

 トラックを流していたマルゼンスキーがこちらに気づいた。

 

「グラス、テイオー、集合よー! 」

 

 声をかけられた2人の行動は早かった。特にグラスは一目散に駆け出し、マルゼンスキーをかわした後ラインハルトの前に一番に到着するなり、優雅に一礼した。

 

「お疲れ様です、閣下。会長も」

 

 空色の瞳をうっとりとさせ、グラスはラインハルトだけを見ていた。が、熱烈な視線に当てられた当の本人は意に介していない。

 その美しい彫刻を思わせる相貌をわずかに綻ばせて、蒼氷色の瞳をグラスに向ける。

 

「ああ、疲労は残っていないようだな」

「ええ、おかげさまで気持ちよく勝つことができましたので、身体も浮かれているのでしょう」

「お前には宝塚すら役不足だったか」

「スペちゃんやエルが出てくれてたら良かったのですけれど、合宿前なので仕方ありませんね」

 

 マルゼンスキー、テイオーも揃うと、彼女らはラインハルトの前に整列した。これはギャラクシーにおいて慣習と化している。誰が始めたかは定かではないが、このような肩肘張った形でもないと双方とも会話に困るのがチームの現状だった。原因の大半はラインハルトに帰される。このギリシャ彫刻を思わせる完璧に整った美貌をもつトレーナーは他人との会話が絶望的に下手なのである。初年度にルドルフを担当した際にはあまりに会話がないため、彼女はなんとかきっかけを作ろうと懸命にユーモアを磨き、改善に取り組んだという。

 もっとも試みは無駄に終わった。ラインハルトが興味を示す話題といえばウマ娘のこと、レースのことぐらいのもので、ルドルフのジョークは一顧だにされなかった。彼女は生徒会長になって初めて自身のギャグが日の目を見る機会を得た、と喜びを表していたが……。

 結局、彼女とラインハルトの間に私語が交わされ始めたのは、コンビを組んで半年経ってからで、ジュニア・トゥインクルにおいて皐月賞を獲ったときのことであった。第三者から見れば他愛のないやりとりだったが、当人たちからすれば大きな進歩と言える。その後夏休みを経て、編入生のマルゼンスキーを迎え新たにチームを組んでからのラインハルトにはやや改善の姿勢が見られた。しかし、未だ硬さが抜けきらない。

 

「テイオーはどうだ? 菊花賞まで先は長い。今から背伸びするのは考えものだぞ」

「んもー、そんなことは分かってますってば」

 

 テイオーは口を尖らせる。が、ラインハルトの心配も無理はなかった。皐月賞、ダービーは間隔が短く、調整が間に合ったとはいえ、かなりの負担が脚にかかったはずである。当初はダービーから夏合宿までの間の自主トレ禁止を言い渡されていたはずだが、そんなことはお構いなしにテイオーは放課後練習場に顔を出し続けており、ラインハルトも根負けしたのか、最近は何も言わなくなっている。

 彼女の熱心さにはルドルフもオーバーワークを懸念せざるを得ないが、当の本人が楽しそうに走っている姿を見ると、ついつい小言を引っ込めてしまうのであった。

 

「ねえねえ、私は? 私には何かないのかしら? 」

「貴様は言うことがないからな」

 

 彼が言葉を切ると、マルゼンスキーは露骨に肩を落とし、瞳を潤ませながらトレーナーの顔を覗き込んだ。彼は一つ鼻を鳴らすと、嘆息しつつ、

 

「調子はどうだ」

 

 と、問うた。

 その瞬間、マルゼンスキーの顔はみるみる笑顔に満ち溢れ、

 

「もちろん、チョベリグよ。マルゼンちゃん観測史上この上ナッシング」

 

 両手の親指を立て、ラインハルトへと突き出した。

 

「問題はないようだ。それでは、今日はこれで解散とする。各々ケアを怠らないように。特にテイオー、貴様には夏合宿までの自主トレ禁止を改めて厳命する」

「はーい!分かったよぉ」

 

 不承不承の様子を隠そうともせずにテイオーは練習場をあとにする。ルドルフは軽い怒りを感じた。グラスなどは後輩の後ろ姿に視線を突き立てていたが、ラインハルトらの手前、声色は平静を装ってその場を辞した。

 

「若いって良いわよねー。ついつい無理しちゃうのよ」

「笑っている場合か! あの態度は見過ごせんぞ」

「そう目鯨をたてるな、会長。ヤツには敵が足りぬのだ」

 

 目を細めながら彼は小さくなったテイオーの後ろ姿にかつての自分を重ね合わせていた。

 

(早く来い、ヤン・ウェンリー。ここに飢えた狼が3匹もいる。貴様は今度こそ余から逃げることなく立ちはだかってくれるだろうな)

 

❇︎❇︎❇︎

 

 ヤンは大きなくしゃみをした。

 マックイーンが悲鳴を漏らす。

 

「もう、驚かさないでくださいまし! 風邪でもひいたのですか? 」

「残念ながら、健康を保っているよ。冷房を効かせ過ぎたかな? それとも慣れない仕事に疲れているのかもしれないな」

「ならば! 私が開発した栄養剤を試してみないかい? 頭が透き通ること間違いなしさ」

「よろしく検討しておくよ」

 

 タキオンの宣伝をいなしつつ、ヤンは手元のスイッチをいじくって冷房を送風に切り替えた。夏が表立ってきたとはいえ、日が沈むと多少は冷えるらしい。ミーティングが長引いている理由は練習中に副会長が持ち込んだ一枚の紙だった。

 

「それにしても7枠13番とは…随分な外れくじを引かされたもんだね、マックイーン君」

「全くですわ。小回りの多い福島レース場で外とは」

「嘆いても仕方ない。とにかく作戦を考えよう」

 

 そう言ってヤンはホワイトボードにコースの全体図を投影した。

 

「マックイーンは承知の通り、七夕賞のコースは直線が短めな上に、その僅かな直線にも傾斜がつけられていて仕掛けには向かない。だからこそ、前につける先行策をとる、という方針に変わりはないんだが…」

「問題は枠番だね、外につけてのスパイラルカーブは圧倒的に不利だ」

「では、内につけばよろしいのではないですか?」

 

 ヤンは舌を鳴らし指を振る。紅茶を一口飲み、勿体ぶって言葉を発した。

 

「皆んなそう考えているのさ。そして、ポジションの奪い合いになる。幾分か体幹は鍛えたとはいえ、今のマックイーンが混ざることは危険を伴うだろう」

「そうとも、線の細いマックイーン君には柳に風のスタンスがお似合いさ」

「でも、それでは私は不利な大外で余分な距離を進まなくてはいけませんの? 」

 

 その後、門限ギリギリまですり合わせた結果、作戦のようなものができあがった。しかし、マックイーンの胸のうちには不安が募るばかりで、次の日の目覚めは決して良いとはいえなかった。

 眠たい目を擦りながらネイチャら3人と共に登校すると、下足室を出てすぐの掲示板に七夕賞の出走表が貼り出されていた。

 ネイチャが握った手をマックイーンの目の前に差し出す。マイクのつもりらしい。

 

「マックイーン、久しぶりのレースに向けて意気込みをどうぞ」

「ヤントレーナーに最初の勝利をプレゼントして差し上げますわ」

「おー、大層な自信ですね」

「当然ですわ。メジロのウマ娘として、ここでつまずくわけにはいきません」

 

 彼女が答え終わると、テイオーとマヤノは拍手でたたえた。

 

「ヤントレーナーは幸せ者だね。こんなにもトレーナー想いのウマ娘を持って」

「ホントだよ! マックイーンちゃん、私はその恋路を応援するよ! 」

「もう! 揶揄わないでくださいまし! 」

 

 彼女らがくだらない話に興じていると、割って入る声があった。

 

「ふ、不吉です!マックイーンさん! 13は凶を呼び込みます! 」

 

 声の主は足音高らかにマックイーンの前にヘッドスライディングすると、跳ね起き、懐から水晶玉を出した。

 

「ふんにゃか、はんにゃか〜、ご覧あれ! 」

 

 彼女が見せてきた水晶玉には「凶」の一文字が刻まれていた。

 

「やらせじゃないですか! なにが占いなんですか、まったく」

 

 取り付く島もなく、フクキタルは今にも泣き出しそうな顔になった。が、彼女は諦めない。マックイーンの足にしがみつき、身を挺して引き留める。

 見かねたテイオーが嗜めた。

 

「フクキタルさ、いつもラッキーセブン!って言ってるじゃんか。それなのに13のことばっかり。レース前のマックイーンに変なこと吹き込まないでよー」

「いいえ! 違うのです! あの7を以ってしても打ち消しきれない負のオーラを13は持っているのです。1000万を超える怨霊が憑いているのです! 」

「それは流石に私も信じられないかな。たかが占いだし…。ほら、行こう」

 

 と、マックイーンの袖を掴んでフクキタルから引き離した。ネイチャらのなすがまま教室へと連れてこられた紫陽花色の髪の少女は先程のフクキタルの言葉になにか引っかかるものを感じていた。

 

「マックイーンちゃん! 気にしちゃダメだよ。占いは当たるも八卦、当たらぬも八卦って言うもん。大丈夫だよ、マヤたちが運気をわけて守ってあげるから! 」

「マヤノ、ええ、ありがとうございます。心配ありませんわ。13はヤントレーナーにも縁のある数字だそうで」

「マジかー、それなら大丈夫そう…かな。テイオーのトレーナーなら安心できるんだけどな…」

「たしかに、閣下ならその手で跳ね除けてそうだね! 」

 

 その後占いの件は再び話題にのぼることなく授業が終わった。更衣室に行く3人を見送ってマックイーンはトレーナー棟に向かう。

 土曜日のため外に食べに行くウマ娘が多いのか、トレーナー棟までの道は人影がまばらであった。

 ヤンの部屋に入ると、タキオンが先客として紅茶を嗜んでいた。

 

「お疲れ様です。タキオン先輩」

「ああ、マックイーン君。よく来たね。じゃあ、さっそく始めようか」

 

 彼女らがトレーナー棟に来た目的は、ズバリ遠征の荷造りであった。彼女らの分ではなく、トレーナーの分であった。

 昨日、帰りがけにタキオンはヤンたちに同行する旨を伝えた。その際に、宿泊の準備のことを聞くと、その新米トレーナーは首をかしげていた。すっかり忘れていたようである。すでに出発が翌日、つまり今日に迫っていたこともあり、タキオンは開いた口が塞がらなかった。兎にも角にも、優秀な理事長秘書を頼るように言い含め、今に至る。

 

「全く、抜けているにもほどがある! 手続きを忘れるとは。彼は私たちを野宿させるつもりだったのかい? 」

「どうでしょう、ヤントレーナーのことですから、レースに夢中になって、つい抜け落ちていたのではないでしょうか」

「ふーん、キミに首っ丈だったわけだ」

「その言い方は辞めてください! あらぬ誤解を生みますわ 」

 

 準備も終わり、あとはヤン自身に着替えを入れてもらうだけの段階になったところで当人が帰ってきた。疲労の色が強く窺える。

 

「全く、参ったよ。こんな事務手続きがあったとは…」

「それで、宿はとれたのかい? 」

「ああ、2部屋予約できた。僕の分と、君たちの部屋だ」

「それは良かったですわ」

「ただ…」

「ただ、なんですの? 」

「新幹線はグリーン車しか空いていないし、ビジネスホテルにも空室がなかったから、レース場近くの四つ星ホテルを取るハメになった…」

「おやおや、災難だったね」

「給料から天引きだとさ…」

「そんなことより、キミの荷物はほぼ出来上がったよ。着替えは自分で入れてくれたまえ。それじゃ、15分後に正門前で」

 

 それだけ言い残すと、タキオンは部屋を後にした。マックイーンは項垂れるヤンを急かし、着替えも詰め、荷物作りが完成したのを見届けてから寮の自室に戻る。たった一泊二日のため、荷物自体は小さなキャリーケースに収まった。着替えの他に蹄鉄、ハンマー、学園指定の体操服。

 全てが久しぶりだった。

 ふと、部屋に吊るしてある勝負服を見やる。斜めにストライプの入ったトップスに黒のスカート、さらに金で装飾された黒いアウター。身に纏う日はそう遠くない。留め置かれてまもなく4ヶ月。

 彼女は明日の勝利を自らの一張羅に誓った。




復帰レースを前に気持ちが昂り、なかなか寝付くことができないマックイーン。
ベッドから抜け出した彼女は何気なくヤンの部屋へと向かう。
次回、ウマ娘英雄伝説『出走』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第11話:出走

 東北の地に降り立ったヤンは駅を出ると、肌に粘りつく空気に包まれた。思ったより暑いな、というのが最初の感想だった。

 それもそのはずで、東北はまだ梅雨明けしていない。南の太平洋高気圧がもたらす暖かく湿った空気が流れ込むため、一年で最も雨量の多い時期の真っ只中である。

幸いなことに今日と明日は天気が保つため、芝の状態はマックイーンにとって有利に働きそうだった。

 ふと、担当のウマ娘を見やると、明日のレースよりも額にへばりついた前髪の方が気になるらしく、格闘している。

 ホテルのロビーに入ると、気持ちの良い風が頬を撫でた。たった1分と少しのあいだ外気に触れただけだったが、生き返るような心地がした。

 フロント係は組み合わせを見て、後ろの2人が明日のレースの参加者だと察したらしい。

 部屋のカードキーを渡す際に、

 

「お二人とも、頑張ってくださいね」

 

 と、温かい言葉をかけてくれた。

 2人の反応は対照的で、マックイーンは感謝の言葉を口にして喜びを表したが、タキオンは形式上の礼をするに留まり、どこかやるせない表情だった。

 が、夕ご飯の頃にはすっかり両者の表情が入れ替わっていた。

 マックイーンの眉間には深い谷が刻まれている。それだけでなく、箸の動きがひどく鈍い。

 

「どうしたんだい? マックイーン、食べないのかい」

「ええ、少し緊張してしまって、喉を通らないのです」

「それは一大事だ。マックイーン君、今日は食べておいた方が良いよ。何せ明日はレースだろ。腹は減っては戦はできぬ、とも言うじゃないか」 

 

 食べておかねばならない、と頭ではわかっているようで、先ほどから彼女は肉豆腐に何度か箸を伸ばしているが、半分も減っていない。

 

「別に無理して食べるものじゃないさ、最後にデザートだけ食べておしまい、それなら喉を通るかもしれないから」

「ええ、そうですね。これぐらいならば」

 

 そう言ってマックイーンはラズベリーのムースに口をつけた。

 

「これならいくらでもいけそうですわ」

「なら、僕のも食べるかい? 」

「ええ……、頂きますわ」

 

 顔を赤らめて器を受け取った。サッパリとした後味だからか、先程と比べて手の動きが軽やかだった。

 が、彼女は頼んだものを食べ切れず、残りはタキオンが平らげた。

 

「さて、帰りに少し売店に寄らせてもらって良いかな? 少しお酒が欲しくてね」

 

 言った瞬間、タキオンが顔をしかめた。

 

「ウェンリー君、それは大丈夫かい? 二日酔いで寝坊などということは、よしてくれたまえよ」

「安心してくれて良いよ。幸い、僕は酒に飲まれたことはなくてね」

「それなら良いが、保険としてルームキーを一枚預かっておこう」

「ああ、助かるよ」

 

 その後、ウマ娘たちはトレーナーと別れてホテルへ向かった。

 

「申し訳ありません、タキオン先輩。ご迷惑をおかけして」

「何言ってるんだい、キミは明日の出走者だろ。むしろレースに集中して、他のことは私なりウェンリー君なりに寄りかかれば良いのさ」

「そう、ですわね。少し思い詰めてしまったようです」

 

 そのまま部屋に戻るまで会話は絶えてなかった。マックイーンはシャワーを浴びるなり、布団をかぶって寝入ってしまった。随分と神経をすり減らしているらしい。

 タキオンは先程飲み込んだ言葉を反芻していた。

 

(レースに出れるだけ幸福だよ、か。つまらない慰めだ。そんなに羨ましいのか、ターフに立つことが。私だって足が何ともなければ……)

 

 シャワーを浴びると、幾分かむしゃくしゃも共に流れ落ちていった。ドライヤーで乾かしている間に、スマホが通知を表示する。ヤンからのメッセージだった。

 

『マックイーンの調子はどうだい』

『もう寝たよ、かなり参っているらしい』

『そうか』

 

 やり取りはそれだけであった。タキオンは呆れた。担当ウマ娘の不調だと言うのに、扱いが軽すぎる。

 浴室を出て、ベットに腰を下ろす。

 向かいのベットに沈むあじさい色の髪の少女に目をやった。

 

「キミはちょっと不運だな、ウェンリー君がもう少し頼りがいが有れば良いのだが…」

 

 目を閉じながらタキオンのぼやきを聞いていた少女は心の中で否定した。

 

(違うのです。私が悪いのです。私がもっと強ければ。メジロのウマ娘としてもっとふさわしければ、このような事態にはならなかったでしょうに…)

 

 しばらくすると、ライトが消えた。タキオンも寝たようだった。

 が、マックイーンは意識を手放せないでいた。目を開けても、暗闇が彼女の視界を塗りつぶしている。慣れてくると、次第に情報が増えてきた。といっても、白いシーツとテーブルの木目が見えるぐらいのもので、特に目新しいものはない。

 

(私は何をしているのでしょう…)

 

 マックイーンは布団を頭からかぶった。外の世界と薄い布で隔てられ、少し落ち着いた。が、眠りに落ちるには至らなかった。

 担当ウマ娘が現実世界で悶々としている頃、ヤンは夢の世界にいた。それはこちらの世界に来て初めて見る夢で、およそ一ヶ月前には現実であり、自分もその中にいた。

 懐かしい匂いがする。アドレナリンと機械が発する電子臭とを還元酸素を混ぜ合わせた匂い。

 ディスプレイには彼我の艦隊の状況がリアルタイムで映し出されている。

 

「ヤン提督、敵艦隊は凹形陣を取ったまま前進してきます」

「よし、主砲三連斉射、全艦全速前進」

 

 号令と共にそれぞれのビームが集約され、大きなエネルギーの奔流となって敵の只中を駆け抜けた。瞬間、めくるめく閃光に視界が覆われ、目が眩んだ。

 視界が回復すると、目の前を阻む艦艇は皆無だった。抉れた傷口にキリで追い討ちをかけるように、自軍が殺到する。

 

「どうやら、私たちが勝ったようですわね」

 

 常ならぬ副官の口調にヤンは振り向く。そこにいたのは金褐色の頭髪でもヘイゼルの瞳でもなく、あじさい色の長い髪と紫水晶の瞳をもつウマ娘であった。

 

「マックイーン、どうしてここに……」

「貴方がトレーナーだからです。何を今更おっしゃるのですか」

 

 心底呆れ返った声色であった。整った眉がはねあがっている。

 

「さあ、行きますわよ。時間がありません」

「しかし、私は……」

 

 躊躇うヤンの視界に鈍く光るものが映った。

 続いてブラスターの発射音。

 次の瞬間、マックイーンはよろめいてヤンの腕にしなだれかかった。ヤンの軍服に顔を押し当て、肩を震わせる。

 

「お恨み申し上げますわ」

 

 それは驚くほど低い声だった。短いながらもヤンの心を締め付けるには十分である。

 

「貴方のせいで、何千万もの将兵が帰らぬ人となりました。貴方のせいで、多くの孤児と未亡人が生み出されました。貴方のせいで、私は……」

 

 言葉は途切れ、マックイーンの姿は消えた。

 赤く染まったヤンの両手がなによりも雄弁に今の出来事を語っている。

 

(『私』に彼女たちの側にいる資格があるのだろうか? 『私』は……)

 

 彼は跳ね起きた。時刻は1時すぎ。まだ寝入ってそれほど時間は経っていない。が、拭いきれない不快感が寝汗と共に彼の身にまとわりついている。

 

(トレセン学園に来て以来、あちらの世界の夢を見ることはなかったんだが…)

 

 担当ウマ娘のレース前で、柄にもなく緊張しているようだった。なにしろ、艦隊戦とはワケが違う。が、その違いが救いでもあった。

 

(もう、命を奪わなくて済む……)

 

 艦隊司令になって以来、終生解放されることのなかった自責の念。命の奪い合いと無縁になってからは取り立てるように彼の心の中を占め続けていた。

 暗い感情が再びむくむくと頭をもたげてきた瞬間、扉がノックされた。

 

(火事でも起こったかな?)

 

 真っ先に思い浮かんだのは穏やかではないものだったが、それにしては静かに過ぎる。

 果たして、尋ね人は彼の担当ウマ娘であった。

 

「ちょっとよろしいですか、眠れなくて…」

「ああ、拒む扉を僕は持ち合わせていないよ」

 

 マックイーンは顔をわずかに綻ばせ、おずおずとヤンの後に続き、ベットに腰掛けた。

 

「ミネラルウォーターでも飲むかい? 」

「ええ、お願いしますわ」

 

 そう言ってヤンは冷蔵庫からミネラルウォーターを2本取り出した。

 

「どうしたんだい、マックイーン」

「明日のレースが怖いのです」

 

 そこにいたのは、等身大の彼女であった。夜の不思議な魔力がメジロのウマ娘であることを忘れさせたのかもしれない。

 マックイーンは明日がおよそ3ヶ月ぶりのレースであった。先のエアグルーヴとの競争でレース感の風化は疑いようのない事実として目の当たりにしている。

 

「マックイーン、君は久しぶりのレースに緊張しているのかい? 」

 

 彼女はまじまじとトレーナーの顔をみた。自明のことであった。

 

「はい、そう、だと思います」

「ならよかった」

 

 驚いて目をあげた。ヤンはミネラルウォーターを呷る。唇を潤すと、さらに続ける。

 

「それはちゃんと練習してきたからさ」

「そう、なのですか」

「ああ、人間、準備をするとその結果が出るまでハラハラするものだ。なぜなら、その努力が報われる場合も有れば、その逆もまたありうる。その狭間にいるとき、まさにY字路を目の前にしたとき、我々は両極端の未来が見えるからこそ、緊張する」

「私は今、2つの未来を見ているのですか…」

「ああ、一着の未来とそうでない未来。この一月の努力が報われるか否か。どうだい、マックイーン」

「その通りです。私は……」

 

 言い淀むマックイーンの背をヤンはさすった。優しい振動が全身に伝播し、なんとも言えない温かさが込み上げてくる。

 

「私は天皇賞を制したいのです。ですから、このようなところで躓くわけにはいかないのです。それでも、いやだからこそ怖いのです」

「心配しなくて良いさ。やれるだけのことはやったから、あとは走るだけだ」

 

 マックイーンは頷くと、意識を手放した。

 ヤンは毛布をかけてやる。かつては一個艦隊を率いていた彼だが、今世話をしているのは目の前の少女ただ1人だった。

 

(私は揺れ動いてばかりだ)

 

 彼は精神安定剤を服用し、ソファで眠りの園へ旅立った。

 次に彼を起こしたのはカーテンから差し込む朝の光の片割れだった。

 ソファで寝たからか、身体の節々が痛む。立ち上がり、伸びをする。停滞していた血の巡りが回復し、頭が冴え始めた。

 時計を見ると、朝の8時。レースが12時からであることを考えると、まだ時間に余裕があった。

 ベットを見やると、マックイーンの姿はなく、整えられたシーツだけがそこにあった。

 彼女らの自室を訪ねると、外に出てきたタキオンが随分と非難のまなざしを向けてきた。

 

「ウェンリー君、一つ言っておくが、ウマ娘は繊細だ。キミもトレーナーならば、レース前は担当ウマ娘のケアに心を砕くべきだ」

「ああ、ちょっと視野が狭くなっていたようだ。これからは気をつけるよ」

「なら、今回は良しとしよう」

 

 着替えを終えたマックイーンも合流し、朝食の会場へと向かった。

 彼女は昨日の分を取り戻すかのようにトーストに齧り付いている。

 

「マックイーン、あまり食べすぎてはいけないよ」

「わかってますわ。ですが、その、お腹が空いていまして……」

「誰も横取りはしないさ。ゆっくりお食べ」

「ウェンリー君の言う通りだとも。今日の主役はキミなのだから」

「わかりましたわ」

 

 トースト一枚、ハム二枚、スクランブルエッグ、そして牛乳がこの日の朝食だった。

 問題なく平らげた後、マックイーンは再び寝床に入り、一時間ほど横になった。

 起床後、一行は福島駅からバスに乗ってレース場に向かった。マックイーンの心臓は早鐘を鳴らす。

 たが、控え室に入り、パドックに立った頃にはすでに落ち着いていた。

 

「さあ、7枠13番、メジロマックイーン。1番人気です。レースに出るのはおよそ3ヶ月ぶりです。人気に応えることはできるのでしょうか? 」

「久しぶりのレースとはいえ、弥生賞を獲ったウマ娘ですから、実力は折り紙つきです。良いレースを期待したいですね」

 

 観客席に向かって手を振っていると、ヤンの黒い瞳と目があった。初めてパドックを見るからか、その目は忙しく動きまわっている。

 紹介が終わった者からターフへ向かう。

 今日対決する面々を見渡す。皆、緊張した面持ちでアップに取り組んでいる。マックイーンも例に漏れず、グルグルと腕を回したりその場でジャンプを繰り返す。

 

(お帰りなさい、私)

 

 会場にファンファーレが鳴り響く。

 マックイーンは初めにゲートへと歩み入った。

 他の15人も続々とそれぞれのゲートに入る。その中の誰一人として負けるつもりの者はいない。だが、勝つのはただ一人。決着には3分も要さない。

 最後の一人がゲートに入った。

 それはつまり、スタートまで秒読みの段階に入ったことを示す。

 静寂が空気を圧する。固唾を飲む音ですら聞こえそうだった。

 わずか数秒、されど数秒。

 今、道が開かれた。

 16人のウマ娘たちが一斉に走り出す。




次回、ウマ娘英雄伝説『七夕賞』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第12話:七夕賞

***七夕賞***
会場:福島レース場
場:芝・稍重
距離:2000m

〜出走ウマ娘一覧〜
1枠 1番 サンライズリリー 
  2番 グレイパール   
2枠 3番 カメリアホアホン 
  4番 ポピーライラック 
3枠 5番 エバーホワイト  
  6番 インディゴサンフラワー 
4枠 7番 イキャッタ  
  8番 オーキッドリング 
5枠 9番 ペンデュラムテール 
  10番ドスコイアンタレス 
6枠 11番トラベル     
  12番スノーホワイト  
7枠 13番メジロマックイーン 
  14番ゼントート  
8枠 15番コネクト  
  16番ハルシオン 

以上16名



 マックイーンは良いスタートを切った。その勢いのままハナを掴まんとする。幸先が良い。

 序盤から先頭に立たんとするは、エバーホワイトとインディゴサンフラワーの2人だった。ペースを上げ、マックイーンを追い抜かす。その後、互いに争いながら前に抜け出した。

 マックイーンは3番手。後ろにグレイパール、ポピーライラック、カメリアホアホンと並ぶ。前との差はあるが、想定内の範疇に収まっていた。

 目立った動きのないまま第1コーナーに差し掛かる。ここから、ゆるやかな下り坂が始まるのだった。

 一般的に下り坂は傾斜が味方し、スピードが上がる。が、それは甘美な罠でもある。身体はそのスピードを危険と無意識のうちに断じ、後傾姿勢をとってしまうのだ。この姿勢の欠点は2つある。一つは、ストライドが大きくなり踏み込みが強くなるため、脚に大きな負担がかかること。もう一つは、重心が後ろにあるため踏み込むたびにブレーキがかかってしまうこと。つまり、脚に負担がかかる上にペースが落ちるという、まさに百害あって一利なしの姿勢である。

 この姿勢を回避するために行うべきは何か?

 前傾姿勢と刻む走法である。

 

(そう、私はこのために体幹と階段駆けをやったのですわ)

 

 小刻みに、リズミカルに蹄鉄から振動が伝わる。

 が、耳に入る音は不協和音を醸し出していた。

 後ろの3人が並び、第1コーナーに入るころには完全に前に出る。さらに続けてスノーホワイト、オーキッドリングが並んできた。

 3位集団、つまり先行組のペースが全体的に上がっているようだった。マックイーンはずるずると順位を落とし、第一コーナーを終えるころには7位となっていた。背後から差しウマ娘の鼻息が聞こえる。逃げた2人以外は団子状態らしい。

 第2コーナーに差し掛かるころには坂の傾斜が手の平を返す。今度は上り坂だ。

 上り坂ではスピードが落ちる。が、ここでペースを上げる必要はない。あくまで細かく、軽やかに、淡々とマックイーンは脚を運ぶ。

 第2コーナーを終えると、傾斜がさらにキツくなる。下り坂のペースのまま行っているマックイーン以外の先行組、そしてそれに釣られた背後の差しウマ娘は下り坂のペースを維持したまま、向正面を駆け抜けんとする。

 

「さあ、向正面に入ってまいりました。先頭はエバーホワイト、その後ろにインディゴサンフラワー。3バ身後ろ、ポピーライラック、グレイパール、スノーホワイト、オーキッドリング。さらに続いてハルシオン、コネクト。メジロマックイーン現在9番手、復帰戦は厳しいか、やや後方に下がっているぞ。向正面を過ぎて第3コーナー! スパイラルカーブがウマ娘たちを迎えます」

 

 実況に遅れること数瞬、向正面を半ば過ぎたとき、マックイーンはペースを上げ群の外側に躍り出た。

 そのままハルシオン、コネクトを尻目に前のウマ娘を追いかける。明らかに先頭のスピードは鈍っていた。これ幸いとまた2人、3人と抜かして、第4コーナーに入る。

 スピードに乗って突っ込んだからか、多少外にふくらんでいた。が、マックイーンは手を緩めることなく、最後の直線へと向かっていく。内でもなく、かといって大外でもない絶妙なポジション。ヤンに指示された通りにコーナーを抜け、先頭を駆けていた2人に迫る。

 後ろでは群がバラけたのか、内から外から差し切らんとする者の気配で充満していた。

 

「最後の直線だ! 先頭になったのはメジロマックイーン! 逃げを打った2人をかわし、ゴールを目指す。イキャッタが追う、追う。離されまいと懸命に駆ける! おおっと、ペンデュラムテール、外からすごい脚で上がってきた! 最後方から6番手まで上がってきたぞ! まだわからない、まだわからない! 」

 

 実況の言葉通り、イキャッタは2身差につけていたし、ペンデュラムテールもまだ前を狙っていた。

 が、残り200mになったとき、彼女らは引導を渡された。マックイーンのピッチが上がったのだ。上り坂でペースが上がり、差が広がる。彼女らは食い下がろうと芝を踏みしめたが、もはや余力はなく、離されるままとなった。

 終わってみれば、後続に5身差をつけていた。危なげのない勝利であった。

 

(底知れぬ手腕ですわ)

 

 ゴール後にコースを流しながら、マックイーンは只々そら恐ろしかった。

 彼女は常に先手を打ち、相手に選択を強いるという方針でレース全体を支配した。徹頭徹尾、レースを支配したのはマックイーンだった。だが、彼女はただ脚本通りに行ったに過ぎない。その書き手はたった一ヶ月前に流星のごとく現れた一人の冴えない男である。観客席にいるその男は悪戯の成功した子供のように喜色を顕わにしていた。




ヤンの指導の元、七夕賞を制したマックイーン。
その勝利はある一人のウマ娘の心を動かした。
次回、ウマ娘英雄伝説『決断』
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結成! “チーム”フリープラネッツ
第13話:決断


皆様のおかげを持ちまして、お気に入りが800件を超えました!
めちゃくちゃ嬉しいです。
これからも拙いながらも書き進めていこうと思いますので、どうぞよろしくお願いしますm(__)m


 観客の興奮未だ冷めやまぬ中、タキオンは傍らのトレーナーの袖を引っ張り、席をあとにした。

 

「タキオン、一体どうしたんだ? 」

「どうしたって、何がだい?」

「レースは終わったじゃないか、急ぐ用事でもあるのかい?」

「まさか、知らないのか?」

「知らないって、何の話だい?」

 

 タキオンは天を仰いだ。トレーナーでウイニングライブの存在すら知らないものが地上に何人いるだろうか。ヤンはまさしくその一人であった。彼はレースに関する知識については学園が所蔵する文献を読み漁ることで吸収したのだが、肝心のライブについては無知そのものだった。

 兎にも角にも、ライブの舞台へ上がる前にトレーナーによるチェックを受ける必要がある。はやくヤンの身を控え室に持っていかねばならなかった。

 階段を下り、控え室へと続く廊下に出た。

 負けたウマ娘たちが次から次に戻ってくる。彼女たちもバックダンサーとして舞台に上がらねばならない。それぞれのトレーナーの下に行き、2、3言葉を交わしている。中には、ヤンを睨みつける者もいた。

 レース場の拍手が一際大きくなり、本日のセンターウマ娘に決まったマックイーンがやってきた。彼女はヤンたちの姿を認めた瞬間、さっきまで全力疾走していたのが嘘のような速さで駆け寄る。

 

「ヤントレーナー! 見てくださいましたか、私の走り、やっと復活を果たせましたわ」

 

 と、トレーナーの手を取り、跳ね回って喜びをはち切れさせた。ヤンは抗うこともできず、振り回されるままである。

 このままでは彼らがずっと喜びを分かちあうのではないかと疑ったからか、それとも周囲の人との軋轢を懸念したからかは定かではないが、タキオンは咳払いをして二人の間に水を差した。

 

「あまり無駄な時間を過ごすものじゃないよ、二人とも。応援してくれた観客は首を長くし待っているし、ほかのウマ娘を待たせても恨まれるだけだからね」

 

 マックイーンはすぐさま手を離し、赤面しながらそそくさと控え室へ入っていった。

 ヤンは先程まで掴まれていた手をさすっている。思ったよりも力が強くて驚いたのだろう。本当にウマ娘についてはほとんど知らないようだった。だが、1ヶ月でウマ娘を勝利へと導いたその手腕は認めざるを得ない。もっとも担当したウマ娘の素質が良かった、といえばそれまでだが…。

 

「ウェンリー君。私は決めたよ」

「何をだい? 」

「キミがチームを結成したら、即刻加入届を出すことをさ」

 

 そうか、と口で答えたヤンはどこか上の空だった。彼の頭の中ではすでに次のレースに向けて思考を巡らせているようである。その横顔はたしかに頼もしい。が、タキオンは彼の知識の欠如がなによりも懸念材料だった。このままでは4本足の方が負担が少ないんだから、手も使えば良いじゃないか、とでも言い出しそうである。餅は餅屋というように、知識の面は自分が担当すれば良い。今ついている臨時の文字を消しても構わない、とさえ思った。

 なにより、ヤンの側は居心地が良かった。研究一筋で、中等部へはついに一度も顔を出さなかった彼女は紛れもない異端児であり、学園内の話し相手も生徒会のメンバーとマンハッタンカフェ、そして今年入学してきたダイワスカーレットぐらいのものであった。どこかのチームに所属すれば今の窮状もいくらかマシだったであろうが、そもそも話の通じるトレーナーが少ない。そしてその数少ない話の通じるトレーナーのチームはもれなく枠が埋まっていた。

 天佑、という言葉が脳裏にチラつく。科学者をもって自認する彼女にとってはあまり使いたくないが、今回のケースはそうとしか言い表せない。トレーナーだけでなく担当ウマ娘も隔意なく接してくれる。今を逃せば次の機会はいつやって来るか分からなかった。

 

 

 

 控え室の扉が開き、学園指定のライブ衣装へ着替えたマックイーンが姿を現した。

 

「それでは、行ってまいりますわ」

 

 見送ったヤンはそのままレース場を後にしようとした。すかさずタキオンが彼の首根っこを押さえる。

 

「どこに行くんだい? ウェンリー君」

「いや、僕の仕事は終わったから後は控え室で待っておこう、と思ったんだが…」

「なにを言っているんだい、キミは。ライブは応援してくれる人々に感謝を伝える場だ。そして、彼女が最も深い感謝を伝えたいのはキミだ。その当人がいなくては何も始まらないじゃないか」

 

 そのまま観客席までズルズルと引きずって行き、最前列の特等席に座った。

 ステージにライトが当たり、今日出走した16名が続々と登場してくる。曲が始まった。曲がりなりにも1500年以上も後の世の人間であるヤンからすれば、それは準古典の部類に属するメロディであり、意外性のあるものではない。だが、激しく心を打つものがあった。

 

「このライブは良いものだね」

「だろ、GⅢだからこの規模で収まっているが、GⅠともなれば、歓声も演出もこの比ではないぞ」

「センターのウマ娘は感無量だろう。バックダンサーの子たちは、ちょっと恨むだろうが」

「それは仕方ない。敗者がいるからこそ勝者がいるのさ。結果は必ず出るものだ。が、これはあくまでスポーツだろ。たかがスポーツ、されどスポーツ。勝敗にこだわるのも結構だが、なによりも大切なのは勝者を認め、さらなる研鑽を積むことさ。それが敗者の責任というものじゃないのかね」

 

 ヤンは少々意外な思いがして、タキオンの顔をまじまじと見た。彼女は研究だけに没頭するタイプではなかったのである。

 

「なにか失礼なことを考えているだろう、キミ。私だってトレセン学園の生徒の端くれさ。レースに対して少なからず思い入れはある」

 

 なるほど、とヤンは苦笑した。また一つウマ娘についての知識が増えたらしい。

 この時のやりとりをヤンは帰りの新幹線の中で繰り返し思い出していた。

 彼にとって勝利とは常に敵味方双方の血によって供されるものであった。砲火が交わされれば、その規模の大小にかかわらず犠牲は出る。それが相手側に多いか、味方側に多いか、その差が勝敗の一つの基準と言ってもよかった。もっと穿った言い方をすれば、いかにして自軍の出した犠牲を作戦目標に沿う犠牲、つまり理にかなった犠牲だけに留められるかが重要である。ヤンの用兵家としての仕事はそこにあった。因果な商売とはこのことである。

 翻って、マックイーンの勝利は確かに敗者あってこそのものではあったものの、それは敗者の存在を消し去ってしまうものではない。つまるところ、マックイーンの、そしてトレーナーであるヤンの勝利は自らの努力で得たものであって、なんら恥ずべき点はない。

 この一点をもってしてもヤンの心は平静が保たれた。緊張が解けたのか、彼はケータイの電源を切り、ベレー帽を顔に被せて眠りについた。

 

「すぐに寝てしまわれましたわね」

「相当無理をしたんだろう。なにしろ、初の担当ウマ娘の復帰戦だ。トレーナーになって一月の新米がやる量じゃない」

「本当にウマ娘に関わったことすらないのでしょうか? 」

「私も半信半疑だったが、おそらくなかったと思うね。ウイニングライブのことを知らなかったのだから」

「それは、世間知らずにも程がありますわ。生きていれば、一度ぐらい小耳に挟むでしょうに…」

「全くどこのド田舎から来たんだか」

 

 タキオンらがヤンの出自をあれこれと想像している時、突如として彼女らのケータイが一斉に通知をもたらした。

 差出人はトレセン学園理事会。

 内容を見てタキオンは怒りが込み上げるのを我慢できなかった。それはあまりにタイミングが悪く、彼女にとっては死刑宣告に等しかった。

 

『我々日本トレーニングセンター学園理事会は今回新しくチームへの加入条件として選抜レースへの出走義務化、そして選抜レース前の勧誘禁止を定めた。違反した場合、生徒は停学処分、チームは活動停止等の措置を講ずるため、注意されたし。

 なお、今回の改訂は一部のトレーナーによる青田買いを防止するものである。我が校に在籍するトレーナー諸兄および生徒諸君におかれては、添付された書類を熟読した上、よろしく了承願いたい。

 我々理事会は今後も本学の発展に尽力する所存である』

 




それは突然の決定だった。
七夕賞の前日、トレセン学園ではトレーナー陣を含めた臨時会議が開催されていた。
次回、ウマ娘英雄伝説『誰がための悪意』
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第14話:誰がための悪意

これから少しシリアスが続きます。
しばらくお付き合いください。



 遡ること半日、まさにヤンらが福島レース場へ向かっているころ、ラインハルトとシンボリルドルフは前日に告知された臨時の理事会へ参考人として出席していた。一人は首席トレーナーとして、また一人は生徒会長として、それぞれ意見を述べるためである。

 定刻5分前である。理事長をのぞいた理事会メンバー6名が長机に向かい合って座っている。左奥の桐生院副理事長、そしてその斜向かいに座る秋山前首席トレーナー以外は皆ラインハルトを大なり小なり厭っている者たちであり、これからの苦労が想像できた。

 どうにもやりにくい、とラインハルトは嫌悪感を隠さないでいた。彼はかつては一国を統べる主導者であり、自己の意志がすなわち国の意志であった。

 

(かつてヤン・ウェンリーが査問会に呼び出された時は、このような気分だったのだろうか…)

 

 まだ学園で言葉を交わしたことのない好敵手を想起せざるを得ない。飲み慣れぬ水は腹を壊す。彼の言葉の意味が今更ながら理解できたのである。

 11時になろうかという時、会議室の扉が開き、若き理事長が入室した。全員が起立して迎え、彼女の着席に続いて再び席につく。

 副理事長が口を開いた。頭髪はすでに灰色になっているが、年齢に似合わぬ鋭い眼光は居並ぶ面々を睨みつけている。

 

「今回の議題は夏休み明けに行われる選抜レースについてにございます。伊地知理事より説明をお願い致します」

 

 丁寧ながらも、やや冷淡な口調であった。彼が熱意を欠いている理由に思い当たるのは、黄金色の髪の若者には容易なことだった。

 一方、指名された伊地知理事はキレの良い返事をすると威勢よく立ち上がった。だらしない腹の前でジャケットのボタンを一つ留める。脂ぎった顔は汗にまみれていた。

 

「はい! この度、私めが提出いたしました案は生徒のチーム加入条件としての選抜レース出走義務化と選抜レース前の勧誘を禁止する内容のものでございます。これは近年、二学期を前にしてチーム加入を決める生徒に増加傾向が見られるからであります。

 まず、5年前のデータをご覧ください。選抜レース前にチーム加入願を提出したものは、全体の1割ほどに過ぎませんでした。しかし、去年はおよそ3割もの生徒がチーム加入願を提出しているのです。

 なお悪いことに、希望が受け入れられなかった生徒の一部がいわゆる選抜浪人をし、彼らの健全な成長の芽を自ら摘んでしまっているのです。

 これは非常に憂慮すべき事態にございます。なぜなら、選に漏れて浪人した生徒は次年度の生徒の枠を圧迫し、そのシワ寄せを受けて希望チームに入ることのできない生徒が見受けられてしまうのです。

 そこで、一部の優秀なトレーナーのチームに希望が集中することを避けるべく、この度の発案に至ったわけにございます」

 

 唾を飛ばしながら一息に言い切ると同時にラインハルトの方へその丸々とした顔を向け、憤然と音を立てて着席した。

 秋山理事が挙手をし、二、三の質問を投げかける。

 

「つまり、君はこの案によって何を是正しようと試みるのかな? 要点を言いたまえ」

 

 淡々とした言葉である。この色白で剽悍な前首席トレーナーはかつてMr.シンプルの名で知られた極端な目的思考型の人間であった。実際、ラインハルトが彼に師事した際、担当するウマ娘に出していたメニューは「坂ダッシュ5本の後に300m走を連続で行うことによってレース終盤の末脚を鍛える」というように内容と目的が短く書かれていた。

 流石の伊地知も秋山の発言を無視するほど面の皮が脂肪で分厚くなってはいない。が、回答は期待に沿ったものではなかった。

 

「ですから! 先ほども申した通り、一部の優秀なトレーナーによる寡占を防ぐため、選抜レースへの出走義務化を定めることによって……」

 

 聞きながらラインハルトは傍らの会長を見やった。彼女は姿勢を正し、真剣に会話に聞き入っている体を前面に押し出している。が、耳はペタンと閉じて情報を拒絶しており、尻尾は荒ぶっていた。

 

「では、実際のトレーナーの意見も聞いてみようではないか。ローエングラムトレーナー、昨日君には前もってトレーナー会議を招集してもらい、その意見をまとめて貰った。その結果を聞きたい」

 

 副理事長から突然の指名を受けたラインハルトだが、すぐさま立ち上がると、資料を見るように面々に促した。

 

「まず、選抜レース前の勧誘禁止については全会一致で賛成。

 次に義務化に関しては60%が賛成を表明。反対したのは東条、沖野、南坂、桐生院、黒沼。残りの数名は修正を求めており、出走をした場合に優先して加入を認める、『優先加入権』を導入することが提案された」

「ほう、つまりは選抜レース前の勧誘については、これを禁止する、ということに異論はないのかな」

「その通りだ」

「ふむ、では、議論は主に出走義務化について行うとしよう。皆様よろしいですかな」

 

 副理事長は出席者を見渡した。異議なし、と声が上がる。

 

「それでは、生徒の実際の意見を聞いてみましょう。シンボリルドルフ君、生徒会長として、また一生徒として、意見を聞かせてもらっても良いかな」

「承知しました。

 生徒会長といたしましては、義務化には反対を表明させていただきます。現状、選抜レースは年に一回しかなく、これを義務化することは怪我や調整不足の生徒たちが不利益を被ることに繋がり兼ねません。

 しかし、私一個人としましては、選抜レースに積極的に参加してもらう仕組みが必要であるかと感じます。先ほど伊地知理事がおっしゃられた通り、ここ数年のあいだに、レースを始める前にチームを決める者が増加しており、選抜レースが形骸化している節があります。ですので、先程ローエングラムトレーナーの報告にございました、代替案の『優先加入権』は魅力的であると思います」

 

 伊地知理事はルドルフの発言中、2回顔色を変えるという忙しいことをやってのけた。そして、彼女の発言が終わるや否や、言葉を継いだ。

 

「いや、まさにその通り! 最近は選抜レースに参加せずにチームへ加入する生徒が多くて困る! 選抜レースは当初、入学して半年が経った新入生のお披露目の意味で設けられた。それが次第にチームへのアピールの場となった。であるのに今や…。私は非常に悲しい! 」

 

 彼の発言には彼の支持母体がトレーナーOB会と学園の中堅トレーナーであることに関係していた。彼らは優秀なウマ娘が新参者のラインハルトらに先んじて取られたことを根に持っている。直近ではメジロマックイーンがヤンに、その前にはトウカイテイオーがラインハルトに、事実はどうであれ、それぞれ奪い取られた。次の新入生が同様の目に遭う前になんとか対策を、と突き上げられていたのである。

 感情豊かな演説を一笑に付した秋山が選抜レースの回数を増やすことを回数制限と共に提案すると、伊地知は案外すんなりと受け入れた。

 その後2時間をかけて詳細が詰められ、採決が執り行われた。

 結果は4対2で可決。賛成が3分の2以上だったため、理事長は拒否権を行使することができなかった。

 ここに選抜レースへの出走がチームの加入条件として追加され、レース前の勧誘の禁止が定められた。さらに秋山理事の意見が容れられ、学期ごとに選抜レースが行われることが決定した。

 次の選抜レースは9月。これは例年通り行われるものである。

 

(すまない、タキオン…)

 

 その日、ルドルフは一人生徒会室に閉じこもり、ひどく慟哭した。扉の外に漏れ聞こえてくる嗚咽はエアグルーヴらの心を締め上げた。

 夏合宿までしばらくの間ギャラクシーは火の消えたように沈黙し、マルゼンスキーは彼女らを励ますためにドライブに連れ出したり、ショッピングに付き合わせて気分転換を図ったが、苦心はどれも無駄に終わった。結局は夏合宿の運営という仕事が再び彼女らに規律を与えたのである。

 

(これが多数決か…)

 

 ラインハルトはかつての銀河の対極で行われていた物の決め方を思い知らされていた。

 結果よりも費やされた労力が身体に堪えたのである。

 秋山理事から酒席に誘われていたため、彼は重たい腰を上げた。その席上において彼は今回の提案がなされた経緯を聞き、激怒のあまりグラスを叩き割った。その経緯だけではなく、その結果として生み落とされた提案の杜撰さに何より憤りを覚えていた。




夏は深まり、蝉時雨が彼らを包む。
飛躍するにせよ、雌伏するにせよ、欠かすべからざる日々が始まった。
次回、ウマ娘英雄伝説『三者三様(前編)』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第15話:三者三様(前編)

 福島から帰ってきた翌日、マックイーンは慌ただしく登校した。1ヶ月半にもおよぶ合宿の荷物をいれたキャリーケースと共に。

 今年はクラゲの異常発生によって行き先が長野の高原に変更されている。反応はさまざまであった。

テイオーは海に行けないことを嘆き、一方のマヤノは空に近くなることを喜んだ。ネイチャとマックイーンはどちらでもなく、虫よけを大量に買い込んだことが唯一の反応と言えた。

 

「テイオー、酔い止めちゃんと飲んだ? 」

「もっちろん! 昨日はよく寝たし、体調も万全だよー」

「とか言って、去年みたいにダウンしたらダメだよ。膝枕するマックイーンちゃんも大変だったんだから」

「うぅ、その節はお世話になりました」

「ええ、別に構いませんわ。困ったときはお互い様ですもの」

 

 去年の行き先は茨城の海岸であった。所要時間は2時間ほど。あまり長い時間ではなかったが、テイオーはひどい車酔いに襲われた。本来なら前方の席へ行くべきだったが、引率の東条トレーナーを苦手としている彼女は移動しようとはしなかった。結局、3人の友人に介抱されるという事態に陥り、何とも情けない姿を晒してしまったのである。

 今回、長野までは5時間かかる。途中のSAで休憩をとるとはいえ、去年の2倍はバスに乗るので、彼女が耐えられるかはきわめて怪しかった。

 駐車場へ行くと、すでにバスが揃っており、各バスに引率のトレーナーがクリップボード片手に待ち構えている。彼女らの今年の引率は沖野であった。チーム“ベガ”のトレーナーであり、現在高1のナリタタイシンを筆頭にG1勝利を毎年つかむその手腕には定評がある。

 

「やっほー、沖野トレーナー! 今日はよろしくね」

「おおテイオー。と、いつメンか。禁止品は持ってきてないな? 」

「もっちろん! マヤたちはしおりを遵守してるよ」

「そう言って去年浮き輪に包んで花火持ってきたのは、どこの誰だっけか? 」

「マヤは生まれ変わったんだよ! もう悪いことはしないもん! 花火は危ないから持ってきてないに決まってるじゃん」

「去年もそれぐらい聞き分けが良かったら、おハナさんに絞られずに済んだのにな」

 

 マヤノを含めた4人に苦い思い出がよみがえる。同じ部屋だったこともあり、合宿10日目の晩ご飯後に砂浜へ出て花火に興じた。が、発見されないわけもなく、宿舎に戻るとトレーナーの中で最も厳しい東条ハナに叱責を受け、一週間を通して配膳当番を務めるよう言い渡された。思えば、あれ以来仲が深まり、絶対にトウィンクルシリーズで活躍してやろう、と誓い合いあったのであった。

 荷物を置くと、マックイーンはバスを出てトレーナー棟へ向かった。ヤンに出立の挨拶をするためである。彼はトレーナー免許取得のために東京に残るので、今回の合宿は不参加であった。

 

「マックイーンなら、僕がいなくても大丈夫さ。ローエングラムトレーナーに君の面倒を頼んでおいたから、向こうで不自由することはないだろう」

「ええ、それは良いのですが、タキオン先輩は合宿に参加なさらないのですね…」

「何か事情があるに違いない。だが、彼女が僕たちにそれを明かさない以上、こちらからは踏み込みようがない…」

 

 もしこの2人がタキオンの病気のことを知っていれば、おそらく夏合宿やトレーナー免許どころではなかっただろう。しかし、ヤンはこちらの世界でも決して全知たりえなかったし、マックイーンもやはり自分のことに気を取られていた。

 その事情を知る数少ないウマ娘であるルドルフは旧校舎を訪ねていた。目的は言うまでもない。彼女の選抜レース出走を回避するためである。

 

「タキオン、いい加減に君の病気を公表しないか? そうすれば、私と理事長だけで君を庇うこともないだろう」

「いやだ」

「そう言わずに、意地を張っている場合じゃない」

「いやだったら、いやなんだ」

 

 このやり取りは過去にも交わされたことがある。その都度、タキオンは一顧だにしなかった。

 

「どうしてだ!? 公表すれば、少なくとも今度の選抜レースに出ることは免れるだろう! 」

「その後はどうする? トゥインクルシリーズに参加できる特進科から英数科に移るのかい? それとも技術科か? 会長、勘違いしないでもらいたいね。前にも言った通り、私は走りたいからここに入学したんだ。その思いは今も変わっていない。ただ、予定が早まっただけだ」

 

 その思いはルドルフにも痛いほど分かっていた。タキオンが水泳を欠かさずに行い、筋肉を維持していることはよく知っている。その他にも2人で足に衝撃を与えないメニューを考えたこともある。おそらく、最もタキオンに走って欲しいと思っているのは彼女だった。走りさえできれば、このダークブラウンの髪の少女は良きライバルとなり得る存在であったはずである。現に、入学当初の評判はタキオンの方が良く、数多のスカウトを受けていた。結局、彼女はその全てを突き放したが…。

 当時は疑問に思っていたが、事情を聞いたのは昨年度のはじめ、彼女が帰国してしばらくした時のことだった。あの時の衝撃は忘れられない。待ちのぞんでいたライバルが音もなく崩れ去ったのである。他に病気のことを知るのは理事長とその秘書だけで、それ以外の者には決して口外してくれるな、と本人からきつく釘を刺された。なぜ、と問い返せば、もうすぐ走れるようになるから、と答えるのみだった。

 

「走ると言っても、君の脚では100mすら走れないじゃないか! もう…勘弁してくれ…。頼む…。これ以上苦しまないでくれ…」

「できるのは一度きりだが、方法がないことはない」

 

 そう言って彼女は2つのアンプルを取り出した。

ルドルフはそのうちの一つを手に取る。光に透かしてもあまり変化はない。

 

「これは何の薬品だ? 」

「私にとっての救世主さ。父からの誕生日プレゼントと言った方が良いかもしれない」

 

 ルドルフは息を呑んだ。タキオンの父は国立栗東大学医学部の教授でウマ娘の先天性疾患、特に『先天性走行時筋肉硬化症(CoRMS)』研究の第一人者であった。最新の論文ではついに原因物質を突き止めたと発表し、ウマ娘界を賑わせている。

 

「それを打てば、治るのか? 」

「残念ながら、これはそういう魔法の薬ではない。予防薬ってやつだ。打つと5分間症状をブロックする。どうしても走らねばならない時のために持たされた」

 

 父親からは暴漢などに襲われた際に使うように、とキツく言い含められていた。効果時間は5分、わずか300秒。だが、それだけあれば、たとえ長距離レースであっても終わる。

 ルドルフは悟らざるを得なかった。目の前の少女の鋼の意志はすでに散り際を定めている。

 

(なにが全てのウマ娘の幸福だ…)

 

 ルドルフは目を伏せた。床には薬品によって焼かれた痕が所々に見られた。それはタキオンが自らの不条理から逃れるために足掻いた証左でもある。

 

「なぁ、会長、一つ頼まれてくれないか」

 

 科学者にしては珍しく迂遠な物言いだった。

 

「“私のチーム”のマックイーン君を良くしてやってくれ」

 

 ルドルフは首肯した。もう出発まで幾ばくもない。これ以上の議論の余地はなかった。彼女はタキオンの友人であると同時に学園の生徒、それも生徒会長という立場があった。

 彼女が閉めていった扉をタキオンはしばらく眺めていた。

 その扉をくぐって来た者は、秋川理事長、駿川たづな、シンボリルドルフ、マルゼンスキー、エアグルーヴ、マンハッタンカフェ、ダイワスカーレット。そして、ヤン・ウェンリーとメジロマックイーン。

 ルドルフは生徒会長として帰国早々に訪ねて来た。マルゼンスキーとエアグルーヴはその随員として。カフェは静かな場所を求めて忍び込んでいた。ダイワスカーレットは従姉妹としての挨拶に。ヤン・ウェンリーはウマ娘の知識を仕入れに。メジロマックイーンはビーカー入りの紅茶を一目見ようと。

 

(帰国後一年半で随分と縁故を結んだようだ。こんな私だが、物好きはどこにでもいるらしい)

 

 ふと席を立ち、窓を開けてみる。これから合宿へ向かう生徒たちのざわめきが聞こえてきた。

 彼女らは今年も来年も走る。その一方で自身は次のレースが学園における最初で最後の機会だった。なればこそ、示さねばならない。入学以来の4年半は決して無駄ではなかったことを…。




こゑはせで 身をのみこがす 蛍こそ
いふよりまさる 思ひなるらめ
次回、ウマ娘英雄伝説『三者三様(後編)』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第16話:三者三様(後編)

少し暗めの展開が続いているので、この次に日常回を挟んでリフレッシュを図ります。
また、日常回の予告に関するアンケートですが、5月22日11:00時点で169対216という結果になり、ゴルシの得票数が上回ったため、今後は通常回をナレーター風、日常回をゴルシでやっていこうと思います
投票してくださった皆様、ご協力いただきありがとうございます。
今後ともよろしくお願いしますm(__)m


 その日、日本トレーナー委員会ビルにヤンは足を踏み入れた。いつもの軍服ではなく、スーツ姿である。どうにも慣れないが、これが正装らしい。

 試験の科目は3つある。学科、模擬指導、面接。まず、学科を二日間行う。これはウマ娘とトレーナーについての知識を問うものである。中央ライセンスをとる場合、つまりヤンの場合は約9割の得点が必要であった。

 これがヤンにとっては頭痛の種である。彼の脳みそは33年の使用歴があり、吸収力という点では、いささか劣っていた。

 

「なんで、この歳になってまで試験勉強をせにゃならんのだ」

 

 言って変わるわけではなかったが、言わずにはいられなかった。彼の受けた試験は士官学校でのものが最後である。以降10年あまりは常に現実が答案用紙であり、相対する敵軍が採点者だった。紙とペンの試験とはわけが違う。採点者の使うペンの色は同じだったが…。

 兎にも角にも、この試験にパスしないことにはこちらの世界での給料の源泉が絶たれてしまうし、何よりタキオンにチームを組むと言った手前、もはや引っ込みがつかない。

 結局のところ彼は自分の外に動機を求める人間だった、と言うことができるかもしれない。最初は給料に、次は彼を慕う部下に、そして今は受け持つウマ娘に。

 1日目の試験はまずまずの手応えで、彼は充足感のまま本屋へ向かった。さすが一国の中心都市で、本屋だけのビルというものがある。レンガ造の洒脱な外観で、ハイネセンやイゼルローンではあまり見ない意匠だった。中に入ると、紙とインクの匂いが充満している。電子書籍が主流で、紙の本、特に文庫本がなかった時代のヤンにとっては宝の山であった。本人からすれば、あくまで購買意欲を控えめに抑えつつ、5冊の本を買うと、夜が更けるのも構わず読み進めた。

 

「しまった! 明日も試験じゃないか…」

 

 ヤンは続きを惜しみつつ、寝床についた。先約にも関わらず、存在そのものに対して不満をぶつけられた試験の方こそ良い面の皮である。

 睡眠時間のハンデを背負ったものの、2日目の試験も無事に終えた。彼の脳細胞はまだ捨てたものでもないらしい。

 その後、昼食を挟んで模擬指導が行われた。指導、と言っても相手は棋、ウマ娘のコマである。

 試験官が10個ほどの棋を並べ、レースのある段階を机上に再現する。そして、受験生の一人を選んで、貴方ならこの娘にどうアドバイスしますか、レースの反省点としてなにを挙げますか、など様々な角度から質問を投げかける。

 ヤンの番がやってきた。8つの棋が団子になっている。試験官は群の中ほどに位置する一つを指して問うた。

 

「これは第3コーナーでの状況です。貴方はこの娘が終盤どのような経過をたどり、何位になると思いますか」

 

 はじめてのパターンだった。が、それは幸いだったかもしれない。この手の予想は彼の最も得意とする所であった。

 

「このまま沈んで、6位ぐらいでしょう」

「ほう、その心は? 」

 

 試験官と目があった。興味深そうな光が覗き込んでくる。

 

「まず、先頭のウマ娘は最後の第4コーナーでもこの位置をキープするでしょう。外にいる2人は直線に入って並びかけてきます。一方で内のウマ娘たちにはチャンスがありません。このまま互いに潰しあって終わると思います」

「なるほど」

 

 試験官の示した反応はそれだけであった。バインダーにペンで寸評を書きつけていく。

 この試験から一次合格者が発表されるまで、およそ10日である。その間、彼は食事と睡眠のほかはガラス張りで外を望めるカフェに陣取り、読書に熱中した。彼にとって、久方ぶりの休暇であった。

 

 

 

 同じ空の下、マックイーンは地面と睨み合っていた。膝に手をつき、なんとか座り込むのを押しとどめている。

 彼女は今、公式にはヤンの担当ウマ娘だが、合宿中の立場は“ギャラクシー”の居候であった。が、ラインハルトの組むメニューは容赦がない。それは傍にいたテイオーから見ても、ちょっと可哀想なぐらいであった。

 もともとスタミナが自慢のマックイーンだったが、これには参った。最初の一週間は毎日筋肉痛に襲われ、食べる量も明らかに増えた。特に朝食はご飯ならお茶碗一杯とお味噌汁一杯をおかわり、パンなら追加でトースト二枚、といつもの彼女からすれば一人前増えている。

 一人であれば挫けていたかもしれない。彼女を支えたものはライバルであるテイオーの存在が大きい。好敵手の前では恥ずかしい姿は見せられなかった。

 今ひとつはマルゼンスキーが息抜きで連れて行ってくれるジェラート屋であった。練習場から車で10分ほどのところにあり、10種類ほどの味がある。午後の練習の合間に訪れ、帰りの車の中で味わうのが常になっていた。もちろん、自分と他の3人が夜に楽しむ分は別にテイクアウトしてある。彼女らは3日と間を置かずにジェラート屋へ足を向けた。

 そんな生活にもようやく慣れ、筋肉痛と縁遠くなったものの、練習自体が楽になったわけではない。日が沈む頃にはいつも肩で息をしていた。

 ようやく息を落ち着かせると、ルドルフが声をかけてきた。

 

「マックイーン、併せをしないか」

 

 突然だった。ルドルフは有無を言わせぬ様子でそのままコースに立つ。

 マックイーンが並んでスタート位置につくと、テイオーがスタートの笛を吹く。

 ルドルフはいきなり前に出て、引き離しにかかる。が、マックイーンは離されない。あじさい色の髪の少女は負けることが何よりも嫌いだった。相手がたとえ絶対的強者であっても…。

 半周終えたところでルドルフはチラリと後ろを振り返った。マックイーンは歯を食いしばりながらついてきている。漏れ出る息のリズムは早い。

 

(もう少し、ペースを上げるか)

 

 彼女は全力疾走に入った。このスピードで走るのは一年ぶりである。ついてこられるのは今やマルゼンスキーのみ。そのはずだった。蹄鉄の音が背後で刻まれている。マックイーンは未だ彼女の背中を捉えている。先程から少しも離されず、そのまま走っていた。

 一周を終えた頃、ルドルフはコースを外れた。

 

「もう一周行ってこい」

 

 マックイーンは頷くとまたコーナーに入っていった。ルドルフが前にいたときのスピードには及ばないものの、十二分に速い。

 テイオーはライバルの姿を目で追う。それは羨望の眼差しだった。

 

(ボクだって会長と併せがしたい)

 

 提案は幾度となくしたが、その都度また今度、と断られていた。ラインハルトに頼んでも、今は基礎固めの時だ、と一顧だにされなかった。

 

(なんで、マックイーンだけ…)

 

 ドス黒い感情がむくむくと首をもたげてくる。ライバルの姿を正視できない。彼女は天皇賞に出るため、自身の目標であるクラシックレースには出ないはずである。確かめたわけではない。それは願望に近かった。

 ポン、と肩に手を置かれる。顔を上げると、黄金色の髪のトレーナーがいた。

 

「どうしたの、閣下? 」

「会長がお前と併せをしないのは、クラシックでの負担の大きさを思いやってのことだ。お前の思うような理由ではない」

「そう、なんだ…」

「それと、人生の先輩として忠告するならば、友人は大切にするべきだ。失ってからでは遅いからな…」

 

 テイオーは弾かれたようにトレーナーの顔を見た。蒼氷色の瞳はどこか遠くを見ている。その心は窺い知ることができなかった。

 

(閣下はどこから来たんだろう? )

 

 彼女らのトレーナーの出自は会長や副会長、マルゼンスキーがすでに聞いているらしかったが、他のメンバーには一切知らされていなかった。

 ただ、時々何とも言えない顔をする。空を見上げ、手を伸ばし、何かを掴もうとするのを何回か見かけた。ヤントレーナーが来てからはその頻度が減った。が、テイオーらに対する態度が変わったわけではない。

 

(ヤントレーナーは閣下にとっての何なの? )

 

 ラインハルトはこの一ヶ月間つねに彼を意識している。テイオーらが七夕賞をTV中継で見ている時にふとやって来て、まだスタートもしていないのに、

 

「あの男の指導するウマ娘が負けるわけがあるまい」

 

 と、だけ言い残していったのは記憶に新しい。

 

(もし、ボクとマックイーンが同じレースに出走したら、閣下はボクが勝つって言ってくれるのかな…?)




ピース!ピース!
みんなのアイドル、ゴルシちゃんだぞ!
夏もたけなわ、クールビズ!
聳ゆる山はいや高く!
明日は明日の風が吹く!
次回、ウマ娘英雄伝説『星々の行方』
ウマ娘の歴史にこのゴールドシップ様の名を刻めぇ!


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第17話:星々の行方

 合宿も終わりに差し掛かり、最後の夜を迎えた。この日、月はなく、生徒たちの組み上げた井の字型の囲いの中で火柱がさかんにその存在を主張している。

 伝統のキャンプファイヤーであった。長く過酷な合宿に耐えきった同胞と互いに称えあう、というのは建前で、実際のところは羽目を外して誰彼構わず騒ぎまわるイベントである。

 すでに生徒たちは飲み物片手に生徒会長の開会宣言を待つばかり。ルドルフが壇上に上がると割れんばかりの拍手で迎えられた。

 

「皆、一か月半よく耐え抜いた。この山紫水明の地での日々が銘々の糧となり、粒々辛苦の意の如く、目指す勝利に結びつくことを願うや切である。

さて、固い話はここまでにして――待ちきれない者もいるようだからな。

みんなコップは持ったな!

今日ばかりは門限なしだ! 思う存分楽しんでくれ!

乾杯! 」

 

 ルドルフがコップを高々と掲げると、生徒たちもそれに応え、宴の中に身を投じた。

 たいていのウマ娘がとった行動は空腹を満たすことである。紙皿を持って好みの料理を取り、談笑の輪を広げていく。中には両手を器用に使い四枚もの皿に料理を盛る者がいた。一方で、ハンドリングに自信がないのか、一枚の皿に山盛りの料理を積み上げる者が見られた。スペシャルウィークもその一人である。彼女は人参のローストビーフ巻きをこれでもかというほど分捕り、友人らの輪に交じりに行った。

 最初の波が落ち着いた頃、マックイーンは一通りメニューを見てコースを組み立て、列にならんだ。

 待つあいだ、彼女に声をかける者がいた。2つ上の学年で“リゲル”に所属するビワハヤヒデである。

 

「ほう、生野菜から手を付けるとは、大したものだな。巷のデータによれば、食事のはじめに生野菜を食べることは血糖値の急激な上昇を防ぐらしく、広く推奨されているようだ。さすが、復活してなお負け知らずのメジロマックイーンと言ったところか。自己管理を怠らないとは…」

 

 ええ、とマックイーンは曖昧に応じた。なにしろ彼女はハヤヒデとの面識がないのである。相手の真意を掴みかね、怪訝な眼差しを向けた。ボリュームのある灰色の髪の少女も気付いたようで、非礼を謝した。

 

「復帰早々に勝利を収めたウマ娘に興味があってな。なにかヒントを得られれば、と思ったのだ。私はまだトゥインクルのクラシックで一冠も獲れていないからな…」

 

 マックイーンは得心がいった。現在の高1の代は皐月賞をナリタタイシンが、ダービーをウイニングチケットがそれぞれ制覇し、二強の呼び声が高くなっていた。無論、彼女もその二つのレースで有力候補には挙がっていたものの、敗者の座をあてがわれたことが不満らしい。

 

「あー!こんなところにいた!ハヤヒデー、あっちにバナナチーズトーストがあったよ。一緒に食べようよ」

「なんだ、ヒデ、後輩に説教垂れてたの?あまりせっかちだと煙たがれるよ」

「そういうのではないさ。ただ、感心していただけだよ。邪魔したな、マックイーン」

 

 友人に連れられ、去っていくハヤヒデの体格は他の二人より大きく、競り合えば劣るはずが無いように思われた。が、彼女の身近にも体格で劣るものの、常に勝利し続けるウマ娘がいる。マックイーンは改めてレースの勝敗を左右する要因の雑多なことに思いを馳せた。

 

***

 

 宴もたけなわになった頃、マックイーンを含めたいつもの4人は会場からの脱走のタイミングを見計らっていた。行先は10分ほど行ったところにある湖のほとりである。雑誌の『高原の絶景特集』に魅かれたマヤノが先導した。見事に闇にまぎれ森に入ると、そのまま突っ切ってキャンプ場に出た。

 彼女らを出迎えたのは満天の星々だった。

 目前には雪の帽子をかぶった山脈が連なっており、その稜線は無数の星々によって淡く照らし出されている。そして、凪いだ湖面に星も山も余すところなく映り込んでいた。

 4人ともこの光景に声が出ないでいる。

 まさかこれほどとは、提案したマヤノですら思いもよらなかったらしい。

 沈黙を破ったのは4人の誰でもなかった。マックイーンのポケットから着信音が流れる。画面を見ると、相手はヤンだった。なにか急を要する事態でも起きたのか、といささか慌てて電話に出る。電話口の向こうからは少々間の抜けた声が聞こえてきた。

 

「もしもし、マックイーンかい?」

「ヤントレーナー!何かあったんですの?」

「いや、んー、あったと言えばあったよ。トレーナー試験に合格したんだ」

 

 ヤンがさも何でもないように言ったからか、それともマックイーンが浮かれていて聴覚情報を処理しきれなかったからかは定かではないが、二人の間をきっちり三拍の沈黙が支配した。

 

「マックイーン?電波が悪いのかな?」

「いえ、聞こえていますわ。合格された、のですよね。おめでとうございます」

「ありがとう、これでチームを受け持つことができる。タキオンの選抜レースをくぐり抜ける策も思いついたことだし、心配事もしばらくないだろう。我が心、まさにこの夜空のごとし、さ」

「そちらも晴れているのですか?」

「ああ、ビデオをつけるかい?」

「よろしくお願いしますわ」

 

 マックイーンはケータイを耳から離し、スピーカーモードに切り替えた。画面にはヤンが先ほどまで見ていた夜空が表示された。そして、ヤンもこちら側の星空が見えたようで、感嘆の吐息をもらした。

 

「へえ、地に足をつけてじっくり星を見るのは初めてだが、こんなにも数があるんだね…」

「そちらは都心ですものね。一等星がギリギリ見えるぐらいですか?」

「ああ、そうだな。これはこれで趣がある。とまあ、合格を伝えたかっただけさ。邪魔したみたいだし、これで切るよ。おやすみ、マックイーン」

 

 そう言ってヤンは画面から消えた。

 今まで息を潜めていた三人が目で訴えかけてくる。彼女らにサムズアップで応えると、わっと駆け寄ってくる。

 

「やったね、マックイーンちゃん!」

「これでトレーナー再交代っていう最悪な事態は避けられたねー。めでたしめでたし」

 

 テイオーは後手に持っていた瓶を差し出した。中身はりんごジュースらしい。

 

「乾杯しよう!ヤントレーナーの合格を祝って!」

「ええ、ですがコップがありませんわ。会場まで戻りませんと」

 

 テイオーは意外そうにまじまじと紫水晶の瞳を覗き込んだ。

 

「なに言ってんの、直飲みだよ」

 

 ペットボトル以外の飲料容器に口をつけることはおよそ人生で初めてのマックイーンは文化の違いに愕然とした。

 

「ええ!?そ、それは…」

「じゃあ、マックイーンが最初で良いよ」

 

 あじさい色の髪の少女は促されるままに口をつけた。すっきりとした甘みが口いっぱいに広がる。続いてネイチャ、マヤノ、そして最後にテイオーが一息で飲み干した。

 口元を拭いながら、笑みをこぼす。

 

「みんな、ボクは菊花賞を獲るよ。そして、ジュニア・トゥインクルでクラシック三冠を達成する。そんでもって、常勝を貫いてトゥインクルでもクラシック三冠を獲るよ」

「おおっと、それは聞き捨てなりませんな。私だっていつまでも後ろで控えていませんよ。虎視眈々と差す機会を窺っていることをお忘れなく」

「マヤだって長距離だったら負けないよ。絶対に一着でゴールして見せるもん!あとで吠え面かいても知らないからね!」

「私とて、負けるつもりは毛頭ありませんわ。メジロのステイヤーとしての意地があります。それに三つは欲張り過ぎですわ。一つぐらい他に譲ってはいかが」

「絶対にイヤだね!勝つのはボクさ」

 

 四人は互いに互いを睨みあった。

 やがて、誰かは定かではないが、一人が噴出し、それにつられて他も声をあげて笑った。

 

「とりあえず、誰も負ける気はないってこと?」

「そうゆうこと。まあ、私たち全員が揃うのは次の菊花賞だね。そこで白黒ハッキリつけようじゃないさ」

「賛成!誰が勝っても恨みっこなしだからね!」

「ええ、勝った暁には勝者の特権として慰め会を開いて差し上げますわ」

 

 四人は再び互いの顔を見合った。

 空色、翡翠、琥珀色、紫水晶、四対八つの瞳がキラリと光る。

 二度目の緊張を解いたのは、あらぬ方向からの呼び声だった。

 

「熱くなるのも良いが、勝手にどこかに行くのは感心しないな。ポニーちゃん達」

 

 声の主は栗東寮の寮長、フジキセキであった。ジュニア・トゥインクルにおいて朝日杯フェアリーステークス、弥生賞などで四戦全勝し、クラシックでのルドルフとの対決が期待されたが、病のため一線を退いた。その経緯から『皇帝の影の立役者』、『黒子』と一部の心無い者から揶揄されたこともある。再起不能となってからは英数科に転向し、高等部進学と同時に副寮長に就任、今年度寮長に昇格した。その整った顔立ちと立ち振る舞いで学園内では根強い人気がある。

 

「全く、去年に続いて二回目、常習犯だね。まあ、今日のところは見逃してあげるさ。帰るよ、四人とも」

 

 有無を言わせぬ寮長に連れられ、元の会場に戻った。

 既に半分ほどのキャンプファイヤーが燃えつきているが、喧噪の勢いは衰える気配がない。

 別れ際、フジキセキはマックイーンの耳元で囁いた。

 

「もし、元気があったら、早朝同じところに行くと良い。明日も雲ひとつないだろう」

 

 聞き返す間もなく、彼女は去っていった。

 

***

 

 翌朝、日の出と共に湖のほとりに向かった。森を抜けると、朝靄を破って雪にきらめく山嶺が姿を現した。昨夜とは違って山容のすべてがくっきりと見える。鮮やかな深緑が裾野を埋め尽くし、峰の白さをより際立たせていた。

 合宿が終わり、クラシック後半戦が始まる。

 




彼女は、入学以来はじめてターフに立つ。
それは再現性なき実験の第一歩であった。
次回、ウマ娘英雄伝説『悪魔の証明』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第18話:悪魔の証明

ごめん、タキオン……


 マックイーンに合格を伝えた後、ヤンはタキオンにも電話をかけた。3コールほど待つと、科学者の気怠げな声が電話口の向こうから聞こえる。

 

「なんだい、ウェンリー君、こんな時間に」

「やあ、一つ良い知らせを、と思ってね」

「ふうん、聞こうじゃないか」

「無事に試験を終えて、正式にトレーナーになることができたんだ。そこで一つ提案なんだが––––– 選抜レースについて少し話をしよう。明日、昼にでもどうだい?」

「良いとも、私も話しておきたいことがあるんでね。場所はそちらで決めてくれ」

 

 そう言うとタキオンは電話を切った。

 翌日、ヤンは学園に戻ると、真っ先に理事長室を訪れた。表向きの用件は無論のことながら、合格の報告である。

 扉を開くと、革張りのソファに身を預けていた少女が椅子から飛び降り、勢いよく駆け寄ってきた。

 

「祝賀! 良くやってくれたヤントレーナー。これで君は正式にこの学園の常勤トレーナーとなった。これからもよろしく頼むぞ! 」

 

 理事長はポケットからバッジを取り出した。鳶色の地に星を含んだ銀の蹄。これを身につける者は、すなわち中央でトレーナーを名乗ることを許された者である。その責任は重大で、担当ウマ娘・チームの盛衰が双肩にかかっていると言っても過言ではない。

 左の襟元につけてある一つ星の階級章を外し、代わりに蹄のバッジをつける。

 名実共にヤン元帥がヤントレーナーとなった瞬間である。九割九分まで変わり映えしないが……。

 

「感激! 意外とバッジが似合っているではないか! それで、ヤントレーナー、チームをもつ意向はあるかね? 」

「はい、それで一つご相談なのですが、タキオンのことです」

 

 理事長は頷くとヤンにソファを勧めた。

たづなが紅茶のカップを二人の前に用意する。

 ヤンは一口飲み、その茶葉の上質なるを実感した。こちらの世界に来て以降、数多く消費したティーバッグが寄ってたかっても敵わない上品な香りが鼻腔を通り抜けていく。

 しばしの間、カップの上には無言の時が流れた。理事長は背を伸ばしヤンの口が開かれる時を待っている。一方のヤンは、どう質問を切り出すべきかを思い悩んでいた。しばしの沈黙の後、ティースプーンで飲み口を叩くと、視線を向けた。

 

「彼女は一体何を抱えているのですか? どうにも彼女が今の苦境に立たされているのは、彼女の奇矯な態度のみに帰されるようには思えないのです」

「明察! その通りだ。ヤントレーナー、今から話すことは私とたづな君、そして会長しか知らん。君で四人目だ。くれぐれも内密にしてもらいたい。

–––– アグネスタキオンは不治の病にかかっている。ウマ娘にのみ発病するもので、病名を“先天性走行時筋肉硬化症”という。結論から言うと、彼女は走るべきではない」

「では、なぜ止めないのですか。ましてや、あのような規則を新設して」

「痛恨! 君の言うことはもっともだ。責任は長たる私にある。あの規則はもう少し慎重に協議された後に提出されるはずだった……。元より選抜レースの出走を促進する必要性に関してはたびたび論じられてきたからな。

しかし、ある理事と一部のトレーナーたちが圧力をかけて、体裁を整え、理事会に提出させたのだ。強硬な案をな。結果として理事の過半数が賛成し、可決されてしまった。

だが、ヤントレーナー、一つだけ言い訳をさせてくれ。彼女には再三にわたって英数科への転向を勧めてきたのだ。前例がないわけではないし、能力の面から見ても彼女は十分に値する。だが、首を縦に振らない。もはや出走を回避することは退学を意味するのだ。あの案さえなければ、チームに入り、療養中と称すこともできたのだが……」

「理事長、それでは、選抜レースを病欠した場合はどうなるのでしょう? 」

「振替! その場合は、首席トレーナーの立ち会いの下、タイム計測のみ行う。結果の如何に関わらず、チームへの加入を認められるだろう」

「では、レースで手を抜いた場合は? 」

「厳罰! レースへの侮辱行為は、一部の例外を除き等しく退学処分だ。怪我をしていた、などの事情があれば、その限りではないがな」

「それだけ分かれば十分です。何とかして見せますよ」

 

 ヤンは立ち上がり、おさまりの悪い黒髪を手櫛でといてからベレー帽を被り直した。

 

 

 

***

 

 

 

 ノックもおざなりに実験室へ入ると、部屋の主人は実験を脇におき、読書に熱中していた。目線をあげ来客の姿を認めると、一度奥へ隠れ、いつも通りビーカー入りの紅茶を提供した。

「それで、話とは何だい?」

 

 わかり切っているはずだが、シラを切って見せている。口調もきわめて穏やかで、これから起こることなど露ほども知らないようだった。

 選抜レースの件だよ、とヤンが何事もないかのように伝えると、タキオンは整った眉をひそめた。

 ヤンは構わずに言葉を継ぐ。

 

「出走する、という考えに変わりはないかい?」

「もちろんだとも。私は走るために学園に来たのだ。その意志を曲げたことはないよ」

「今回のレースを回避して、次の機会に望みを繋ぐ、というのは?」

 

 タキオンは紅茶を飲み、一つため息を漏らした。やや荒く天板へ置かれたビーカーが非難がましい音を鳴らす。彼女は自由となった両手の指を絡め合わせ、人差し指の爪で二度三度皮膚を掻くと、ゆっくりとヤンを見据えた。ダークブラウンの瞳は硬質的な輝きを発している。

 

「あまり迂遠な言い回しは好まないよ。ウェンリー君、何が言いたいのかな?」

「つまりだね、選抜レースを走らずに済ます、という考えはないかい?」

「聞き間違いかな、もう一度言ってくれるかい?」

「そんなに選抜レースに出走したいのかい? 君の脚を犠牲にしてまで」

 

 その瞬間、タキオンは大きく目を見開いた。動揺が空気を介してヤンにまで伝わってくるかのようである。

 が、やがて全てを悟ったのか、流し目で窓の外を見やった。視線の先には名も知らぬチームの練習場がある。芝の上で走っている姿はいつかの自分が夢見たものであったし、慣れないダートに足を取られて砂に塗れる姿は誰しも一度は経験するものであった。彼女らを叱咤激励するトレーナーに対する独語も一度や二度ではない。ガラス窓越しに聞こえるはずもないのに……。

彼女は徐に立ち上がると、デスクの引き出しから一枚の書類を取り出した。軽く叩いて埃を払ってから、ヤンの前に差し出す。それは加入届だった。チーム名以外の欄は全て記入済みである。書かれてから年月を経ているからか、インクがやや褪せており、紙の色味も既に元のそれではなかった。

 

「君に預けておくよ。チーム名が決まったら、埋めておいてくれ」

 

 それきり彼女は貝のように心を閉し、口を開くことはなかった。拒絶されたヤンとしては、これ以上長居することも憚られた。彼は物言わぬ相手に向かって、出走をしても走らないための策をいくつか授けたが、反応はない。暖簾に腕押し、ぬかに釘とはこのことであった。

 

 

 

***

 

 

 

 八月二十六日。

選抜レース当日、トレセン学園は好天に恵まれた。燦然と輝く太陽の光を受け、青々とした芝がコースに広がっている。馬場状態は良。この上ない舞台であった。

会場となる第一共用練習場には多くの生徒が駆けつけている。出走予定のものは体操着に着替えていた。中等部のウマ娘が圧倒的に多い。その中にはダイワスカーレットの姿もある。彼女はあたりを見渡し、従姉の姿を探した。つい昨日、枠順と共に出走者の名前が学内掲示板に張り出されると、彼女は思わず目を疑ってしまった。尊敬する従姉の名前が含まれていたのである。右を見渡し、次に左に目をやると、見覚えのあるダークブラウンの髪が視界に入る。

タキオン先輩、と言って駆け寄る。

 

「やあ、スカーレット君。どうしたんだい? 」

「先輩こそ、どうして出走者に名を連ねているんですか? もう高2ですよね」

「ああ、ちょっとタイミングが悪くてね。去年の選抜レースに出走し損なってしまったんだよ」

「それは、災難でしたね。留学って大変です」

「全くだよ。やっとレースに出られる」

 

 スピーカーから呼び出し音が流れ、高等部の出走者に招集がかけられる。頑張ってください、とエールを送るスカーレットを尻目に、タキオンは大会本部に向かう。テントの下では運営にあたっている生徒会の面々が忙しなく動き回っている。インカムをつけて連絡をとっているルドルフとかすかに目があった。コンマ数秒の間、手を止めた会長はすぐに職務に思考を戻す。私情を限りなく頭の片隅に追い遣ろうとしているようだった。

 タキオンが出るのは、五つある高等部のレースのうち二つ目である。

 エアグルーヴによって注意事項が読み上げられると、第一レースの出走者以外はラチの内側に整列した。

 レースは2,000メートル。短めの中距離である。スタートからフィニッシュまで要する時間は薬の効果時間内に充分収まる。

 第一レースのゲート入りが行われていく。高等部で選抜レースに出走するものは大半が地方の学園出身であり、これらの流れには慣れていた。

 全員がゲートインを終えたところで、グラスが白い手旗を上げた。それを見てルドルフはボタンを押す。瞬間、ゲートが開いた。出遅れた者はおらず、新進気鋭のウマ娘たちが先頭を争い、駆けていく。だが、ルドルフはその様子に目もくれず、ゲートから視線を動かせないでいた。次にボタンを押す時が、タキオンが走り出す時。友人に引導を渡す時であった。

目をこらすと、彼女は両脚に注射を打っていた。走るつもりなのだ、とルドルフは察した。ダークブラウンの髪のウマ娘は、全てを賭してレースに臨んでいる。

心臓が早鐘を打つ。

一組目が最終直線に差し掛かったところで方々から歓声が上がった。もつれにもつれ、最後は四頭が並ぶ大接戦であった。スタート地点では、前の組が全員ゴールしたのを確認し、先程と同様にゲートインが滞りなく進んでいる。

白旗が、上がった。

生徒会長はボタンを押すや否や、椅子を蹴って立ち上がった。

 

「エアグルーヴ! 担架だ! 急げ‼︎ 」

 

 突然の出来事に面食らった副会長であったが、すぐに救護テントに指示を出すと、会長と共にゴール地点へ向かう。

 途中、トラックを横目に見ると、レースは思わぬ展開を見せていた。

 先頭はタキオンだった。逃げを打ったらしい。しかも、作戦としての逃げではなかった。速すぎるがゆえの結果としての逃げである。第二コーナーに入って早くも後続に三身の差をつけていた。それはじわじわと広がっている。コーナー間の直線に入った時、エアグルーヴは表示をチラリと見た。

 59秒08。

 彼女は目を疑った。レースの中間地点でこのタイム。そのペースはルドルフが持つコースレコード2分00秒10を上回る。

 二番手以降はタキオンのハイペースについていけず、もはやバテてしまい、差がなかった。観衆の注目は、自然とタキオンに集まる。このまま行っての記録更新を誰もが期待していた。もしそうなれば、間接的にではあるが、『皇帝』に初めて土が付くのである。

 応援の声がどこからともなく湧き上がり、大きな波となり会場全体が興奮のるつぼと化した。マックイーンもその一助を担っている。最前列で拳を振り上げ、檄を飛ばしていた。

が、彼女のトレーナーは素直に喜べないでいた。聞いた話では、走るのは不可能だったはずである。彼は目敏くルドルフたちの走る姿を認め、事態の尋常ならざるを悟り、人波をかき分け、一人ゴール地点に向かった。

タキオンの脚は衰えることを知らないようだった。第3コーナー、そして第4コーナーを曲がりきり、最後の直線に入る。流石に厳しいようで、顔を歪めていた。

終わってみれば、記録は1分59秒31。かつてのコースレコードを1秒近く縮め、初の1分台に乗せた大記録である。

流していると、ヤンが駆け寄ってきた。

 

「タキオン! 脚は大丈夫かい? 痛んだりは? 」

「やあ、()()()()()君。()()何ともないさ。それよりも、見ていてくれたかい? これが『私』さ」

 

 タキオンは歯を見せて笑みを浮かべた。後を振り返り、自らの駆け抜けた跡を見やる。あっと言う間であった。長いようで、終わってみれば、何とも呆気ない。

 自分の名が呼ばれた。その声は震えている。声の主が抱く感情が怒りかそれとも悲しみか、いずれであるかタキオンには測りかねた。ただ、その声の方へ足を踏み出す。一歩また一歩と確かめながら向かっていく。

 取り立ては唐突にやってきた。

 筋肉が強ばり、前へつんのめる。ルドルフはあわやの所で彼女を抱きかかえ、何とか転倒を阻止した。そのまま担架にのせ、エアグルーヴとヤンに保健室まで運ばせた。その後をマックイーンが追っていく。

 彼女らを見送ると、ルドルフはテントへと踵を返そうとした。その時、心ない一言が彼女の耳朶に届いた。

 

「なんだ、走れるじゃないか」

 

 声の主は果たして伊地知であった。ルドルフは自身の頭が急速に煮えたぎるのを冷静に分析していた。血走った双眸が発言者を射抜く。敵意が全身に満ち満ちて、害意として発露する直前、彼女の肩は押さえられた。

 

「マルゼンスキー……」

「ルドルフ、貴方にはまだ運営の仕事が残っているでしょ」

「そう、だな。すまない」

 

 ルドルフは言葉少なに伊地知に背を向けた。

 事なきを得た理事は救世主に礼を言おうとすると、機先を制して投げかけられたのは軽蔑の眼差しだった。が、それもほんの一瞬のことで、マルゼンスキーはすぐにいつもの人好きのする笑みをたたえている。

 




走ることが情熱の矛先を向ける唯一の対象だった。
彼女の病は不幸か、はたまた宿命か。
次回、ウマ娘英雄伝説『アグネスタキオン』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第19話:アグネスタキオン

一人称に初めて挑戦してみました。
かなり難しかったです…。
もうしません


 私は物心ついた頃から走ることが好きだった。

 ――何が良いのか

 と、聞かれたら、困ってしまう。そこに深い理由は見出せない。だが、強いて挙げるのならば、駆け抜ける時の、この世の全てを置き去りにして目の前の景色がその意に反して私に勢いよく接する、というその瞬間が何とも言えぬ征服感をもたらし、幼心に快かったのだろう。

 私が生まれた地区は北海道の西南部、千歳市で、澄んだ水に育まれた豊かな自然に囲まれている。西の山岳地帯の裾野に面した所に家があり、子供の感覚からすると限りなく広がる、裏の草原が遊び場だった。

 母はウマ娘で、来る日も来る日も私に付き合って草原を駆けた。流石にトゥインクルでオークスを獲った脚は錆び付いておらず、私はいつも大差で負け、負けてはもう一回と頼み込み、ついには母が根負けして最後の一勝を譲るのが常だった。

 父は医師で、道内の大学で生理学教室を束ねる少壮の教授であった。寝ても覚めても研究一筋であり、家の外にいる時は大学にいる、と自他ともに認めていた。が、私の見たところ、結構な子煩悩だったのではないか、と思う。

 休日の縁側で父はたいてい囲碁かチェスの本を片手に盤に向き合っている。そこへ私がトコトコ歩み寄ると、父は必ず、やってみるか、と誘いをかけた。

最初はいかにも難しそうで、

 

「外で走った方が楽しいに決まっている」

 

 と断っていたが、ちょうど小学校に上がった頃、梅雨のないはずの北海道であまりに長く雨が続き、暇を持て余していたのだろう。父と対局してみることにした。

 後から思えば、これが私のトレセン学園入学を決定づける、ある出会いの呼び水であった。

 しかし、未来予知者ではない私はそのようなこなど露ほども知らず、父との対局に熱中した。最初、私がズブの素人も良い所だったので、九子の置き碁とクイーン落ちというハンデ戦だったが、そのうちメキメキと上達し、夏休みには五子とルーク落ちに、年の暮れには三子とポーン落ちにまで迫った。年が明け、いざ平手に打ち込んでやるぞ、と意気込んでいたが、ちょうど父の研究が佳境を迎え、にわかに父との対局の機会が減った。

 相手に飢えていた私はほんの気まぐれに東京で行われる子供チェス大会にエントリーした。順調に決勝まで勝ち進んだところで、あのウマ娘と出会うことになる。彼女の名はシンボリルドルフ。大会の決勝戦として、これほど珍妙な組み合わせは後にも先にも絶えてなかったに違いない。何しろ大会における最年少である小学校ニ年生のウマ娘対決なのだから。私の手番が黒で、後攻に決まった。チェスでは白番が有利で、序盤、随分とポーンがやられ、ナイトとルークを交換する羽目になった。が、中盤にビショップでクイーンを取り、道をこじ開けたところから流れが傾き始める。これを軸にクイーンを膠着していた戦線から一挙に逆サイドへ動かす。機動力においてクイーンに対抗できる駒は無く、盤面は攻守相乱れる展開となった。

 終盤はお互いに詰めきれず、引き分けに終わり、同時優勝となった。対局後に握手を交わした際、その手に妙に力が入っていたのが印象に残っている。

 次に出会ったのは道内の小学生囲碁大会で、同じく決勝戦でぶつかった。

 席についた時、彼女が微笑むのが見てとれた。どうやら、胸中は私と同じであったらしい。大会ルールでは六目半のコミが設けられている。つまり、必ず勝敗がつく仕組みであった。

 結局はちょうど百手で終局を迎え、半目差で私の勝利に終わった。勝負が決した後、相手はしばらくその場を動かなかった。敗戦がよほど悔しかったらしい。表彰式の後、自分の電話番号を紙に書いて渡してきた。

 その日の夜にかけてみると、開口一番に再戦の日取りを催促された。幸い、お互いの家は車で一時間ほどの距離にあったので、私が彼女の家を訪ねることになった。それを聞いた両親の顔ときたら、今でも鮮明に思い出せる。父は普段は全く見せることのない動揺を露にし、髪を櫛で整えてから行くようにアドバイスした。母も失礼のないようにと、私を百貨店まで連れて行き、他所行き用の服を二、三着購入した。その時は面倒だ、と不平不満を垂れていたが、彼女の家が近づくにつれてその意味するところを悟った。

 彼女の家は邸宅と言った方が相応しく、正門を抜けると、大きな庭があり、中央を石畳の道が貫いている。中に入ると、床は大理石が敷き詰められているわ、天井にはシャンデリアが吊るしているわで、住む世界が違うとひしひしと感じた。

 一室に招き入れられると、今まで触ったこともないような革張りのソファを勧められた。供された紅茶も白地に鮮やかな青の模様があしらわれたカップに入っている。何から何まで家と勝手が違い、戸惑ってしまう。膝に乗せた拳の震えが治らなかった。

 私の緊張をほぐすためか、それとも会話の糸口に困ったからか、少女はチェス盤を持ってきた。お互いに無言で駒を並べ、そのまま一局指し始めた。手が進むにつれて私たちの口は滑らかになっていく。

 

「なあ、タキオン。走ることは好きか」

「ああ、もちろん好きだとも」

 

 その後、私たちはその一局を指し掛けにして、裏庭に出た。

 以降、私たちは三年に渡って交流を続ける。それは充実した時間だった。よほどウマがあったらしく、私は彼女のことを愛称で呼ぶようになった。帰国後はなんだか遠く感じられて、ずっと役職名で呼び続けたが……。

 この関係に終わりを告げたのは、父の研究に授けられた世界的に権威のある賞である。受賞理由は『CoMRSの機序およびその治療法に関する研究』。その成果を以って、父は栗東大学の教授に推薦された。家族総出で引っ越す運びとなり、私は生まれ故郷を離れた。

 が、その後もルナとのやりとりは変わらず続き、全国ウマ娘陸上記録会において再会を果たした際、トレセン学園に誘われた。

 

「私は君とまだまだ競い合いたい。ともに高みを目指そうじゃないか」

 

 それが彼女の誘い文句だった。私は、当然のことながら、二つ返事で承諾した。

 トレセン学園に入学したい、と希望を述べると、両親は特に反対することもなく、むしろ後押しをしてくれた。滋賀に引っ越してこのかたチェスも囲碁も脇に置き、レースに打ち込んだことがプラスに働いたらしい。

 入学試験は四科目の筆記試験とタイム測定の実技試験であった。

 結果はルナと紙一重の次席合格。が、これは彼女が筆記試験において満点を取ったからに他ならない。タイム測定は五分五分だった。思えば、ともに走ったのは、それが最後である。

 試験後、脚に違和感を覚えた私は、疲労が原因とたかを括っていたが、父は何か思い当たる節があったらしい。翌日、大学で採血と遺伝子検査を受けた。結果を言い渡す際の父の顔は今も鮮明に思い出される。私はよりにもよって父の専門分野の疾患を発症したのである。まだ幼かった私はその事実を受け入れることができなかった。そして、未だに受け入れきれていない自分がいる。

 が、もはや受け入れるしかあるまい。

 次また走れば、今度は脚以外にも症状が及ぶおそれがある。

 私はもう二度と走れないのだ。視界が滲み、涙が溢れてくる。それは努力虚しくこぼれ落ち、真っ白なシーツに点々とシミを刻んでいった。

 扉が開かれ、来客を知らせる。客人は椅子に腰掛けると、サイドテーブル上に折りたたみのチェスセットを置き、駒を並べた。

 が、彼女は目を伏せ、微動だにしない。今日ばかりは駒たちに潤滑剤の役割が期待できなかった。

 私は目の前の少女に構わず、白黒両色の駒を進める。配置し終え、ふと彼女に語りかける。

 

「なあ、()()、私はまだ走るのが好きだよ」

 

 項垂れていた彼女がハッと目を上げた。彼女の視界に入ったのは、いつの日か差し掛けに終わった対局である。ルナはそれらの駒を押し除け、私の胸に顔を埋めた。嗚咽を漏らし、肩が震えている。

 

「すまない、タキオン。守れなかった……。私のせいで、私のせいで……」

「何もキミのせいじゃないだろう。私は走りたくて走ったんだ。そのことに関して、微塵も後悔はしていないよ」

 

 彼女がようやく落ち着き、言葉を発せるようになった頃、外から歓声が上がった。

 

「今は、高等部の最後の組が走っているはずだが」

 

 この時の彼女らには知るよしもなかった。つい一時間前に樹立されたタキオンのレコードが破られたのだ。新たに記録保持者の座についたウマ娘の名は、オグリキャップ。笠松トレセン学園からの編入生である。




あり得べからざる事態が起こってしまった。
それぞれの思惑の交錯する中、学園は説明に追われ、ついに記者会見を開く。
次回、ウマ娘英雄伝説『奔走』
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第20話:奔走

 タキオンの故障は学園内外に大きな衝撃を与えた。

 学園内においては、ケガ予防の意識が高まり、近年類を見ない数の生徒が健診、或いはトレーナーとの相談という形で不安の払拭に努めた。ウマ娘は最高時速七〇キロでターフを駆ける。日常生活には支障のない異常であっても、それがレース中の転倒に繋がり、さらには選手生命を絶つ可能性は十分に考えられ、当然の反応と言えた。次に担架で運ばれる者が自分ではない、と言い切ることは誰にもできなかった。

 ヤンの担当するメジロマックイーンもその一人であった。彼女は菊花賞、そして自身の目標である天皇賞・秋と連続して大舞台に挑む計画を胸中に秘めている。が、その二つのレースは合間が1週間しかない上、マックイーンは実績が足りず、それぞれのトライアルレースに出走する必要があった。もしこのプランを敢行するならば、ハードスケジュールの誹りは免れることができない。

 だからこそ、ヤンの反応はトレーナーとしては至極もっともであり、彼女の予想の範疇であった。

 

「それはさすがに無茶じゃないかな、マックイーン」

「無茶は承知の上です。私はジュニア・クラシックでテイオーたちとの決着をつけておかねばなりません」

 

 ヤンには、それがどれほどの重要性を持つのか測りかねた。対決は何も今回に限った話ではない。同学年である以上、同一レースに出走する機会はこの先いくらでもあるはずであった。

 しかし、マックイーンにすれば、菊花賞で対決することに意味があった。菊花賞はクラシック三冠の中で最も距離が長く、ステイヤーの素質のある彼女にとって打って付けであった。そして何より、自分の得意分野を余人に踏み荒らされてたまるものか、という強烈な対抗心が渦巻いている。

 

「ひとまず、タキオンと相談してみる。僕も君の意思をなるべく尊重したいからね」

 

 マックイーンは一礼してその場を辞した。

 トレーナー室の外で待つエアグルーヴと合流し、寮へ向かう。正門を出た瞬間、幾重にも焚かれたフラッシュがマックイーンを怯ませた。

記者たちの出待ちである。

 これが学園外における反作用であった。当初、学園は最低限の説明を行なった後に緘口令を敷き、情報を外部に漏らすことを嫌った。しかし、人の口に戸は立てられない。噂はあっと言う間に広まり、記者たちにとっては格好の的となった。ガラスの脚を圧して出走した悲劇のウマ娘と、それを強要した学園という、構造は非常に明快で、幅広い読者の興味を掻き立てるに十分であった。ヒロインの大役に仕立てられた当のウマ娘は二言ほど文句を垂れるだろうが。

 

「マックイーンさん! アグネスタキオンさんの状態のついて教えてください! 」

「出走を強制されたというのは本当ですか⁉︎ 」

「強権的な姿勢で生徒を虐げる理事会に一言お願いします! 」

 

 エアグルーヴがすかさず一歩前に進み出て、マックイーンの盾となる。後輩を半身で庇いながら、寮へと進む。

 マックイーンも無言を貫くようキツく言い含められており、その点はよく心得ていた。少しでもコメントをすれば、彼らは鬼の首をとったかのように記事に落とし込み、面白おかしく書き立てるのは必定で、それは望ましくない。

 が、次の質問は彼女の堪忍袋の緒を一刀のもとに断ち切った。

 

「新たにアグネスタキオンのトレーナーとなったヤン・ウェンリーなる輩が、自らのチームに引き入れるために彼女を使嗾した、というのは事実ですか⁉︎ 」

 

 マックイーンは紫水晶の瞳で以って発言者を射抜いた。彼は一瞬怯んだが、コメントを引き出すため、カメラを向けた。好機を察したテレビクルーが大きなマイクを彼女に向ける。彼らは少女の口から漏れ出る吐息さえも聞き漏らさないであろう。大量の視線に囲まれて初めて、マックイーンは己の失態を恥じた。顔の紅潮を抑えながら、彼女は記者たちへ優雅な一礼をし、この場を去らんと試みる。

 

「逃げるんですか⁉︎ 」

 

 記者たちは詰め寄った。もう一押し、と感じたのだろう。容赦なく距離を詰めた。

 副会長がマックイーンと記者たちの間に入る。

次の瞬間、鈍い音が全員の耳に届いた。

 

「エアグルーヴ先輩! 」

 

 それは悲鳴とも非難とも取れた。

 エアグルーヴは、こめかみにマイクをぶつけられたようで、少しよろめく。しかし、女帝は両の脚でしっかりと踏ん張り、力強い目で記者たちを制した。

 

「学園の規則に基づき、生徒のメディアへの露出は生徒会が許可を出した場合のみ、と定められております。今日のところはお引き取りください。マイクの痕がついたウマ娘を映すことは、あなた方ジャーナリストのポリシーに反することでしょうから」

 

 面食らった記者たちをかき分け、彼女らはようやく寮へついた。部屋に入るまで油断はできないものの、先ほどのように囲まれる心配はもうない。

 

「先輩、私の部屋に寄って行きませんか? 手当てをしようと思うのですが」

「構わなくて良いぞ。これも生徒会の仕事だからな」

「いえ、私を庇ってケガをされたのですから、処置ぐらいはさせてくださいまし。ここで何もせず帰すほど、私の面の皮は厚くありません」

「なら、お言葉に甘えるとしよう」

 

 

 

***

 

 

 

 同じ頃、ヤンはある理事から呼び出されていた。ノックをして入ると、正面に部屋の主である伊地知はやや持て余し気味の大きな身体をソファに沈めている。

 

「ようこそ、ヤントレーナー。まずはライセンス取得おめでとう」

 

 初対面の相手からの祝辞を素直に受け取るほど、ヤンは殊勝ではない。型通りの礼を言い、用件を尋ねた。

 

「まあ、座りたまえ。いや、なに、難しい話をするつもりはない。君は近々、チームを作るそうだね」

 

 それは周知の事実であった。すでにマックイーンとタキオンから加入届を預かっている。まだチーム創設に踏み切っていないのは、ひとえにチームの名となる星が見当たらないからである。地球から見える恒星の数々はかつて銀河を股にかけたヤンには馴染みがない。

 

「ええ、まあ。そろそろ申請します」

「なるべく早く頼むよ。新しいチームの誕生は新たな競争を生み、停滞を跳ね除けてくれるからな」

 だが、と伊地知は言葉を切った。それまで顔に貼り付けていた笑顔が影を潜める。

 

「あまりに突出した力を持つチームが生まれては、健全な競争が阻害される。君はそこのところをよくよく含んで、身を処すように心がけてもらいたい」

「おっしゃる意味を掴みかねます」

「君はものわかりの悪い男のようだね。つまり、メジロマックイーンという逸材を育てることに集中して欲しいのだよ」

「他のウマ娘を勧誘するな、ということでしょうか」

「いやいや、そこまでは言っていない。ただ、欲をかいて二人も三人も原石を抱え込まないよう、アドバイスをしているんだよ。いくら優れた職人であっても、その腕は二本しかないからね。周囲との協調を重んじ、自分の手の届く範囲の職務をキッチリと果たす。これが大人として必要な態度なのだ」

「なるほど、それは大切ですね」

「だろう、君はまだ話のわかるトレーナーで良かった。ローエングラムトレーナーは最後まで私の忠告を無視したよ。今は学園一のチームを作り上げているが、それがこの先も続くとは限らない。長い目で物事を考えることも、また大人として重要だ。良いかい、ヤン君、忘れてはいけないよ。長い目で考えて、周囲との協調を図る。これが大人である君に求められていることなのだ」

「わかりました。相手が大人である限りは、私も和を乱さぬよう微力を尽くします」

「それは、どういうことかね。ヤン君」

「なに、ひよっこの戯言です。大人の態度でお許しください」

 

 ヤンはそう言い残して部屋を去った。

 入れ違いで、秘書が入ってくる。彼女がもたらした報せに伊地知は自らの勝利を確信した。それは今回の事態の説明を行う記者会見の開催が決定したことを知らせるものだった。

 

(これで首席トレーナーの名に傷がつく。さらには、理事長も何らかの責任を追及されるだろう。そこを私が間に入り、メディア側と話をつけることで、発言力が増す。そうなれば)

 

 彼にとって今回の件は慮外の幸運とも言うべき事態だった。もともとは、OB会の意向を背にじわじわと勢力を広げるつもりであったが、理事長を矢面に立たせるチャンスを逃すべきではない。

 少なくとも、彼はそう思っていた。

 

 

 

***

 

 

「本日はお集まり頂き、誠にありがとうございます。

 ただいまより、弊学において、さる八月二十六日に行われた選抜レース中に発生した、ある生徒――以降生徒Aと呼ばせて頂きますーー当該ウマ娘の故障について、説明させていただきます。

 申し遅れました。私、本日の司会を務めさせて頂きます、副理事長の桐生院と申します。

 それでは、始めに今回の事態について説明をさせて頂きます。理事長、よろしくお願いします」

「まず、生徒Aは弊学高等部に在籍しており、現在2年生。トゥインクルシリーズのレースへの出走経験はございません。同様に学内の模擬レースおよび選抜レースへの出走経験もありません。しかし、それはやむを得ない事情があったからであって、決して彼女の怠慢ではないことを彼女に代わって明言しておきます。

 我々理事会としては、再三彼女に特進科からの移籍を勧めて参りましたが、彼女が受け入れなかったため、やむなく退学勧告を出すに至りました。書面のコピーをお手元の資料に添付してありますので、ご一読ください」

 

 会場のあちらこちらで記者が紙を繰る。移籍または校内レースへの出走要請に応じない場合、退学に処す、というごく短い文面だった。意味の取り違えようがない。

 

「判断を迫られた彼女はあるトレーナーのチームへ加入することで、退学を回避しようとしましたが、それも理事会によって新しく定められた規則に阻まれ、最終的に出走を選び、今回の故障に繋がった次第です、経緯としては、以上であります」

 

 小柄な理事長はいつにない丁寧な口調で説明を終えた。

 フラッシュが続々と焚かれる。

 

「それでは、質問をお受けします。質問を希望される記者の方は挙手をお願いします。こちらで指名させて頂きますので、指名された方はお近くのマイクへ進んでいただいて、お名前、所属を名乗られた上で、質問してください。なお、勝手ではございますが、質問はお一人につき一件まで、とさせて頂きます」

 

 一斉に手が挙がり、桐生院は誰を指名するか逡巡した。今回の件に対する注目度の高さがうかがえる。兎にも角にも順にやっていくしかない、と観念し、左手の記者から指名していく。

 

「ニュースナインティーンの島村と申します。よろしくお願いします。理事長にお伺いします。生徒Aの抱える事情とは、何だったのでしょうか? 」

「具体的に申し上げることは差し控えさせて頂きますが、レース出走に際して非常に困難を伴う疾患です。その事情を知る者は限られており、選抜レース前の時点で知っていた者は理事会では、私のみです」

「毎週ウォッチウマ娘の橘です。学内では理事長のみが知っておられた、ということですか? だとすれば、生徒に関わる情報を広く共有しなかったのは何故でしょうか? 」

「学内では彼女を除いて四人。私と秘書、生徒会長、そして先の話に出た、あるトレーナー、以上が知っておりました。最後の一人は今年の八月下旬に知りましたが、ほかの3人は入学時から把握しておりました。それを共有しなかったのは、本人の希望によるものです」

「週刊ビビッと! ダービーの白井です。新しく定められた規則とは、どのような内容だったのでしょうか? 」

「選抜レースへの出走義務化を定めたもので、違反すれば、生徒は退学処分というものです」

「それはいささか厳しすぎるように思われるのですが」

「確かに厳しいです。理事会において退学処分を明文化した規則が定められたのは初めてでした」

「月刊トゥインクルの安原です。今回の件を受けて、学園としてどのような対応をとるおつもりでしょうか? 」

「まず、私を含めた理事全員は今後1年間の給与を返上することが決定しております。さらに、再発防止のために、ウマ娘の疾患に通暁した者を招聘し、特別委員会を設置、対策マニュアルを作成する予定となっております」

 

 記者会見が終わり、理事長と副理事長は学園に戻ると、二人して深いため息をついた。ふと顔を見合わせる。お互いに相手の疲れ切った様子に笑いが込み上げた。

 

「慰労! 何とか収束させることができそうだな」

「そうですな、あと一つや二つの不祥事なら、私のクビで収まりましょう。そうならないことを祈るとします」

 

 彼女らは皮張りのソファに身を沈め、テレビを点ける。先ほどまで会見を行っていたホールが映し出されていた。ふと外を見やると、すでに日は沈みかけ、紺色の空がじわじわと夕焼けを侵食するのが見えるのみである。

ドタドタと、ゆっくりと動く風景に似つかぬ慌ただしい足音が廊下から響く。

副理事長は瞼を閉じ、耳を澄ました。

 

「このリズムは秘書殿ですな、吉報だと良いのですが……」

 

 次の瞬間、勢いよく扉が開かれた。

 緑一色に身を包むたづなが息を切らせて入室する。

 

「理事長! 大変です。伊地知理事が先の理事会で提案を行った際、その見返りとして金銭を受け取っていたことが発覚しました」

 

 桐生院は憮然たる面持ちで天井を見上げた。まさか、この短時間で新たな不祥事が明るみに出るなど、思いもよらなかったのである。

 

 

 

***

 

 

 

 翌日、伊地知は副理事長室に向かっていた。緊急の呼び出しを受けたのである。用件は察しがついていた。おそらく、桐生院が自分に副理事長の座を譲るのだろう。能力を見込んでのことではない。次の秋山までの繋ぎとして、白羽の矢が立ったのだ。しかし、彼にとってはそれで良かった。労せずして役職が手に入る。そのことを思っただけで雀躍りしたくなる。

 しかし、彼の野望は副理事長室の扉を開けるとともに、朝露のごとく消え失せた。

 目の前に座るは桐生院ではなく、秋山であった。秋山がただ座っている。

彼は伊地知の入室に特に反応を示さず、目を伏せたままである。机上には一枚の書類があるが、伏せてあるため、その内容までは窺い知れない。

 

「秋山理事、私は何用で呼び出されたのでしょう? 」

 

秋山は初めて、伊地知を視界に入れた。その黒い瞳は真っ直ぐに来客を射抜いている。彼の形相は憤怒と失望が分け合っていた。その対象は目の前の小太りの男だけでない。彼と仕事を共にした自分をも含んでいる。

 

「……本当に分からないのか、それとも分からないフリをしているのか」

「私には何が何だか、わかりません! 」

 

 ならば教えてやる、と言わんばかりに秋山はいきり立った。伏せてあった書類を裏返し、机の上を滑らせる。

 それは伊地知の口座記録だった。七月末日に大金が振り込まれている。振込人の欄にはOB会役員の名があった。会議が行われたのが七月十日頃であったことを考えると、やや日付をずらすという小細工をしているあたり、卑怯な性根が見え隠れする。

 

「弁明があれば聞こう」

 

 この期に及んで言い逃れはするまいな、という言外のメッセージを伊地知は過不足なく受け取った。

 彼を支えていた大地は一瞬にして崩れ去った。口は言葉を紡ごうとするが、努力が結実する気配は微塵もなく、かろうじて空気を震わせるのみであった。

 呆然と立ち尽くす伊地知に対して秋山の怒りが迸った。その激情を一身に受けたのは伊地知ではなく、もっとも秋山に近い木目調のデスクである。

 

「貴様は、こうだ‼︎ 」

 

 振り下ろされた拳固は天板を叩き割り、粗大ゴミをこの世に産み落とした。

 伊地知の顔から血の気が引いた。が、脚からも血の気が引いたようで、一歩たりとも踏み出すことができない。対照的に血を頭に上らせた秋山は今にも残骸を乗り越え、掴みかからんとしていた。辛うじて彼を押し留めたのは、副理事長としての立場が彼に要求した理性のかけらである。

 

「現時刻を以て貴様を罷免する。さっさと出て行け‼︎ 」

 

 伊地知元理事は弾かれるように部屋を辞した。つい先刻まで彼を祝福していた廊下は今や影も形もない。理事ではない彼を受け入れるほどトレセン学園は広くないのだ。




メジロマックイーン、そしてアグネスタキオン。
二人のウマ娘と共に、ついにヤンのチームが発足する。
初めに門戸を叩いたのは……。
次回、ウマ娘英雄伝説『勧誘』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第21話:勧誘(前編)

遅くなってしまい申し訳ありません。
長くなってしまったので、急遽前後編に分けます。


 「会わせたいウマ娘がいる」

 

 と、タキオンから聞いていた。名前はダイワスカーレット。タキオンの従妹で、今年の新入生の中では一、二を争う素質の持ち主らしい。

 ヤンとしては、有力なウマ娘の情報を仕入れるネットワークが確立しておらず、こういった個人的な伝手に頼るしかないのが現状である。

 放課後、トレーナー室に連れられてきた。

 身長はタキオンよりもやや高く、体格は良い。何よりも特徴的なのは、彼女の髪だった。毛量豊かな真紅の髪を二つに結び、左右に分けてある。その先が膝にかかるほどに長い。

 彼女は真紅の毛束を揺らしながら部屋に進み入る。指の先までピンと伸ばした所作は見ているヤンの方が窮屈に感じるほどだった。

 

「初めまして。ヤントレーナー。私はダイワスカーレットと言います。今日はタキオン先輩の紹介でこちらに伺いました」

「ああ、初めまして。来てもらったのはね、チームの説明を聞いてもらおうと思ったんだ」

 

 予想通り、とスカーレットは上機嫌だった。彼女は先日の選抜レースで勝利を収めており、今年の注目株である。こうした内々の誘いが来るのは当然の帰結であった。一つ不満があるとすれば、『唯一』の注目株ではないことである。

 新入生トップの座を分け合った相手はウオッカ。寮の同室で、近しい仲だけに彼女の才能を身近に感じざるを得ない。スカーレットは今回の選抜レースで白黒ハッキリさせる腹づもりであった。が、結果は二人してずば抜けた走りを見せつけ、今年の一年生の代はこの二人、という印象を与えてしまった。

 真紅の髪の少女にとって、この上ない屈辱である。彼女は人後に落ちること、そして並び称されることが我慢ならない。その感情は激しく、選抜レースの夜、自室において癇癪を起こしては地団駄を踏み、ついには床を蹴破ってしまった。

 彼女にとって目標は一番であり、それも何者も及ばない絶対的な一番であった。ある意味では、トレセン学園の校訓を最も意識している生徒と言うことができるかもしれない。ルドルフは鼻で笑うだろうが。

内に渦巻く激情とは裏腹に、外気に接するスカーレットは常に優等生たらんと振る舞っている。この時も例に漏れず、実に模範的な返答をした。

 

「申し訳ありませんが、他の方からも同様に声をかけてもらっています。どれも魅力的ですので、しばらく悩ませて頂けませんか」

 

 本音を言うと、スカーレットはあまり乗り気ではなかった。まだ名前すら未定の新参チームはお呼びではない。本来ならば、訪ねることすら丁重に断るところである。それを曲げたのは、ひとえに紹介者の面目を保つためで、それ以上の理由はなかった。

 

「大いに悩んでくれ。ところで、第一希望はどこなのかな?」

「ギャラクシーです」

 

 即答だった。

 おやおや、とヤンは頭をかく。銀河一のハンサムは学園においても健在らしい。

 失礼します、と一礼してスカーレットは辞した。

 部屋に残された二人は目を合わせ、しばしの沈黙のあと破顔した。

 

「見事にフラれたな、ウェンリー君」

「参ったな、タキオンが紹介できる子は彼女以外にいるかい?」

 

 ダークブラウンの頭が左右に振られた。彼女も顔が広い方ではない。話す仲で新入生あるいは編入生となると、スカーレットぐらいのものである。

マックイーンもその方面では力になれず、歯痒い思いをしている。その代わり、チーム名を決めることに関しては精力的に働いた。

 天体に関する書籍を図書室でいくつか見繕い、ヤンに薦めていた。さらに、ヤンがそれらに目を通すどころか、机の片隅に追いやっているのを見るや、縁起の良い星をピックアップして付箋に書きつけている。その数も既に十を超そうとしていたが、反応ははかばかしくない。

 

「何か腹案がおありなのでしょうか?」

 

 と、尋ねてみても、唸るばかりである。

 堪りかねたマックイーンがヤンに詰め寄ると、彼は軍用ベレーを遊ばせながら、思うところを語り始めた。

 

「候補は一つあるんだ」

「ならば、それにすればよろしいのでは?」

「そう簡単にはいかないんだよ。この名前は、僕のエゴみたいになってしまう」

「とりあえず、その名前を教えてくれたまえ。聞かないことには判断のしようが無い」

「フリープラネッツ、という名前さ」

「――自由な惑星たち。良いではありませんか。チーム名の基準には抵触しませんし、下手にあれこれ迷っても埒が明きません。もう決まりにしませんこと?」

「私も特に異存はないよ」

 

 二人があっさり承知したので、ヤンは言い出すタイミングを逃した。

 自由惑星同盟(フリープラネッツ)。それはかつて彼が忠誠を尽くした給料の払い主であり、またラインハルトの侵略から守りきれず、崩壊を看取った国家の名でもある。

 ヤンは再び同じ名前を背負うことになった。

 この世界では、果たして…。

 

 

 

***

 

 

 

 チーム名が決まると、あとは坂を下るように簡単だった。

 エンブレムはヤンの艦隊章――黄色のYにとぐろを巻く龍の意匠ーーを採用し、ISELRONE GARRISON FLEET の代わりにTRAINING CENTER SCHOOL の文字が入れられた。

 ここに新たなチームの設立が認められ、メンバー募集のポスターが学内掲示板に貼り出された。当初、ヤンら3人はこのポスターによって見学希望者が少しは増えるだろう、という程度の期待しかしていなかった。

 しかし、思わぬ釣果があがった。翌朝、あるウマ娘が加入届を携えて部屋を訪れたのである。彼女の名はウオッカ。スカーレットと共に一年生のホープと目されているウマ娘であった。

 

「チームに入ります! これからよろしくお願いします」

 

 開口一番に彼女は宣言し、ヤンを面食らわせた。タキオンも同様で、まだ来客用の紅茶すら出していない。

 マックイーンが二人の心中を代弁する。

 

「なぜ、昨日の今日で加入を決断したのですか?」

「エンブレムがイカしてたからです」

 

 即答だった。

 エメラルドの瞳は輝き、真っ直ぐにヤンを見ている。軍人だった頃に数多く味わった、苦手な目線だった。

 

「まあ、理由は人それぞれだ。とやかく言うつもりはないよ」

 

 ウオッカは踊るような足取りで部屋を去った。同室のスカーレットに倣って早起きした甲斐あって、無事加入に漕ぎつけた。

 教室までの道中、様々な将来像が去来する。

 無名のチームに入り、ひたすらに邁進する自分。

 満員のレース場で大歓声に迎えられながら一着でゴールする自分。

 ウイニングライブでセンターを務める自分。

 綺羅星のごとく輝かしい幻想に酔いしれながら、ウオッカは教室に入った。瞬間、現実に引きもどされる。原因は中央の机で沈んでいるスカーレットだった。寝ているわけではなく、その証拠に目が開いている。しかし、眉間には深いシワが刻まれており、どこか虚ろだった。

 

「おい、お前どうしたんだ、腹でも痛いのか?」

「別に、大した問題じゃないわ」

 

 真紅の彼女はいつも通りの強がりを見せた。が、その瞳は今にも泣き出しそうである。今朝、何かあったことは明白であった。

 ウオッカはスカーレットを連れ出し、共用練習場前の自販機までやってきた。いつも通りであれば、素直についてくることは天地が逆立ちしてもありえないが、今日はされるがままである。

 メッシュの入った黒髪のウマ娘は、ますます不審に思った。

 

「何があったんだ? お前がそんなに落ち込むなんて、らしくないぞ」

「登校前に、ローエングラムトレーナーのところに行ったのよ。ギャラクシーに入りたいです、って言ったら、今はメンバーを増やすつもりはないって」

 

 一度断られたが、スカーレットは諦めきれなかったらしい。自分はギャラクシーに入るに足る存在である、と力説した。

 

「そこまで言うならば、見せてもらおうではないか」

 

 ラインハルトが用意したのは、テイオーとの一騎打ちだった。スカーレットが勝てば加入を認める、という条件を提示され、スカーレットは一二もなく飛びついた。

 ジャージに着替えてターフに出ると、相手は既にスタート位置にいた。

 

「キミがウチに入りたい新入生?」

 

 空色の瞳が頭の天辺から足の爪先までじっくりと見定める。その視線がこそばかった。

 テイオーの内心を窺い知ることはできないが、スカーレットは彼女と初めて対面して、意外と小さい、と拍子抜けした。

 テイオーの背はスカーレットよりだいぶ低く、体格も劣っている。目の前のウマ娘がジュニア・トゥインクルにおいてクラシック三冠を有力視されている、とは俄には信じがたい。

 

「さっさと済ませちゃおうよ、朝の時間は貴重なんだから」

 

 負けることなど、露ほども考えていない口調である。

 当然ながら、スカーレットの癇に障った。

 

「ええ、先輩の胸を借りるつもりで挑ませていただきます」

 

 距離は2,000。

 二人がスタート位置に着くと、ラインハルトが手を挙げた。掛け声と共に振り下ろす。それを合図に共に駆け出した。

 スタートはスカーレットがやや有利。ぴったりと内につけ,最初のコーナーに入る。

 テイオーの足音はさほど離れていない。どうやら、終盤までは後ろに尾ける作戦を取ったようである。

 第二コーナーから直線にかけて、スカーレットはペースを上げ、突き放しにかかる。が、いまだにテイオーの位置は変わらない。

 第三コーナーに差し掛かり、息が乱れ始め、スカーレットは焦りを隠せなくなった。テイオーの息遣いは依然としてリズミカルで、疲れた様子はない。このままでは、競り負ける。

最終コーナー、テイオーが息を吐き出し、大きく吸い込んだ。

 音の発生源が外に動き、影がスカーレットの足元に重なる。ここから、一気に追い抜くつもりらしい。

 そうはさせまい、とスカーレットも外に膨らむ。決してテイオーの進路には出ない。しかし、抜かすためには一歩外を通る必要がある。テイオーがより外に進路を取るのに合わせてスカーレットも外に寄せる。

 延翼という手口であった。相手の進路を脅かすことで両者が外へ内へと繰り返すうちに疲弊し、ついには相手のスタミナと根気を奪ってしまう。この戦術の要諦は相手の進路を視覚以外で察知することにある。足音、息遣い、匂い。それらを感じ取るセンスがスカーレットには天性豊かに備わっていた。

テイオーが今度は内に踏み出す。しかし、スカーレットのやることは変わらない。内へ。

 身体を傾けた瞬間、視界に影が映り込んだ。テイオーは外から追い抜かさんとしている。訳もわからず再び外へ。その時、影が消えた。

 

「こっちだよ♪ 新入生」

 

 並んでいる。それも一瞬のことで、テイオーの背中が見え、小さくなっていく。差し返す脚も残っておらず、ただ見送るのみであった。

 スカーレットはレース中にも関わらず、寒気を覚えた。今まで延翼を真正面から突破したウマ娘はいなかった。だからこそ、この戦法に自信を持ってテイオーにぶつけたのである。それが悠々と躱された。

 タイムの差は1秒。馬身に換算すると、約五身。決して小さな差ではない。しかし、実際はそれ以上の重みがスカーレットにのしかかる。

 思わず、膝をつく。心身共に打ちのめされていた。勝てるビジョンが思い浮かばない。圧倒的なまでの実力を見せつけられたのである。

 

「キミ、大丈夫?」

 

 空色の瞳がスカーレットを覗き込んだ。その顔には余裕が見てとれる。せめて、少しは顔を歪めていれば、相手の敗北感も幾らか和らげられたに違いない。が、そうはならなかった。

 さらに、ラインハルトの一言が彼女のなけなしのプライドにとどめを刺した。

 

「最初から相手に合わせて作戦を練るウマ娘に興味はない。私のチームに入りたければ、誰にも負けない武器を持って来るが良い」

 

 真紅の瞳が見開かれた。その言葉は彼女の心を抉るのに十分である。

 スカーレットは一番に憧れ、一番を追い求め、一番たろうとしているが、それはあくまで総合的な実力の話である。スピードはウオッカに劣る。スタミナもパワーも秀でてはいるものの、ずば抜けてはいない。唯一、負けん気のみが他のウマ娘と比べて大層強い。しかし、その気持ちの強さはハナ差を詰めるのに役立ったとしても、身をひっくり返すことは叶わない。

 スカーレットは一礼して去った。その背中がひどく小さい。

 

「閣下、何もあそこまで言う必要はなかったんじゃないですか? せっかく入ってくれそうだったのに」

「彼女には悪いが、今の私は会長とグラス、そしてお前の仕上げで手一杯だ。流石にこれ以上は構いきれん」

「そんなこと言ってると、またマルゼン先輩がヤキモチ焼きますよ」

「ヤツは手がかからんからな。つい放置してしまう。それはそれとして、だ。テイオー、貴様はレースまで先が長い。あまり根を詰めると後に響く。朝トレは許可したが、放課後の自主トレは引き続き禁ずる。いいな」

 

 テイオーは首肯した。ラインハルトの言う通り、焦る必要はない。彼女は賞金面での出走条件はクリアしており、菊花賞、秋の天皇賞ともにトライアルレースを経ずに挑むことができる。その点では彼女のライバルよりも圧倒的に有利なのは誰の目にも明らかだった。だが、テイオーの中で拭い去れない焦燥感が常に燻っている。その原因もまた明らかであった。

 

「……マックイーン」

 

 ライバルの名を呟くと、テイオーは更衣室へ向かった。ふと視線を上げると、黄金獅子旗(ゴールデン・ルーヴェ)が彼女を見下ろしていた。旗は風を受け、その全容を顕にしている。黄金に縁取られた真紅の中央で獅子が天に向かって己を誇示していた。

 残り一ヶ月。それを思うだけで彼女の心臓は高鳴った。




勧誘も大詰めを迎え、生徒会の主催するランチ交流会に参加するヤンらフリープラネッツ。
次回、ウマ娘英雄伝説『勧誘(後編)』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第22話:勧誘(後編)

拙作も息が長く、第二章も残りわずかとなりました。
読者の皆様のおかげです。
これからも読んで頂ければ、幸いです。
感想、ありがとうございます。楽しんで読ませて頂いております。皆様の余韻を尊重するため、最近は返信を控えておりますが、モチベーションとなっています。
誤字報告、いつも大変助かっております。自分では気づかない場合も多く、お世話になりっぱなしです。

【アンケートについて】
改行した場合の行頭の扱いについて、アンケートを新規作成しました。
皆様の忌憚なき意見をお寄せください。
よろしくお願いします。


 ニッと歯を見せ、鏡に映った自分を見る。どうにも愛嬌がない。

 両の口角を指で押し上げ、しばらく止める。顔に対する白の占める割合が増したのみで、笑顔としては及第点にすら程遠い。指を離すと、いつもの気怠さが定位置に処を得る。

 

(上手く行かないものだな…)

 

 タキオンは朝早くから自らの虚像と格闘していた。今のところ戦績は全敗。そもそも笑顔と定義される顔を作れているのかさえ怪しかった。

 三面鏡のそれぞれに映し出される彼女の似姿はどれも表情筋乏しく、3対の瞳が実在の彼女をじっと見つめている。自分の姿を長く見るのは彼女にとってあまり愉快ではない。

 だが、今日の彼女はここで引き下がるわけにはいかなかった。なんとしても、笑顔のコツを掴まねばならぬ。

 それと言うのも、今日の昼に予定されている交流会のためだった。トレーナーにとっては勧誘の場であり、新入生にとっては憧れの先輩ないしトレーナーとお近づきになる機会であった。

 タキオンが所属するチーム、フリープラネッツも参加する。無論、冷やかしではない。新メンバー獲得のためである。

 笑顔の一つや二つ振りまけないようでは、サービスに欠けるのではないか、と思い、告知されてから毎日こっそりと練習している。が、それが実を結ぶ気配は未だ感じられない。

 時刻は6時20分。

 そろそろルームメイトの意識が浮上する頃合いだった。

 最後に、雑誌を繰って、とあるページを開いた。この1週間幾度となく目を通した見開きである。

 

『現役ウマスタグラマー“カレンチャン”に聞く! 〜周囲を魅了する笑顔の作り方編〜』

 

 我ながら似合わぬことをする、と彼女は自嘲を禁じえなかった。

 が、これもチームの、ひいては彼女のトレーナーのためである。

 

『まずは口角を上げよう! カワイイ笑顔は口元から。表情筋を鍛えて常にアップするように意識! 』

 

 出来たのなら、こんなに苦労はしない。

 表情筋の筋トレはそもそもが難しい。どこの誰が口を開け放ったままでいられると言うのか。回遊魚じゃあるまいし…。

 

『次に、歯を見せてキレイを演出! 真っ白な歯はマメなお手入れの証拠。上辺だけじゃないカワイイアピールを忘れずに! 』

 

 自慢ではないが、歯は丈夫である。生まれてこの方虫歯になったことがない。

 口を横に広げ、歯を鏡に映す。

 立派な歯だ。欠けることなく、また歪むことなく生え揃っている。しかし、悲しいかな、見せるだけではダメらしい。検診じゃあるまいし…。

 

『最後に、目尻を下げて笑顔の完成! 笑顔は顔全体で作るもの。目が笑っていないとせっかくのカワイイが台無しに! 』

 

 目尻を下げる。ただそれだけのはずなのに、試行を重ねること数回、やっとの思いで理想に近づいた。

 が、改めて見ると、ただ目を細めているだけである。老眼じゃあるまいし…。

 深く嘆息して雑誌に目を落とす。

 書かれていることの数分の一すらできていない。笑顔に至るまで残り千里、と言ったところか…。

 ふと、目線が遮られた。背後から手で覆われたらしい。

 ルームメイトの息遣いが聞こえる。タキオンが鏡から目を離した一瞬に忍び寄ったようである。

 

「ふふ、だーれだ」

 

 答えは分かりきっていた。つい最近半ば強引にルームメイトとなったウマ娘である。

 

「—— シンボリルドルフ」

「ルナ。だろ?」

「はいはい、ルナ。おはよう」

 

 おはよう、と言ってルドルフは洗面所へ姿を消した。

 彼女がタキオンのルームメイトとなったのには、ちょっとした経緯がある。

 留学によって友人の少ないタキオンはもともと一人で部屋を使っていた。が、選抜レースの日の夜、保健室から帰ると見知らぬ荷物があった。

 —— 誰のだろう?

 と、当然のことながら疑問に思った。

 所有者はすぐに知れた。トレセン学園生徒会長ことシンボリルドルフである。

 彼女は戸惑うタキオンの目の前にパジャマ姿で現れるや、

 

「お風呂は先に入らせてもらったぞ」

 

 と、のたまった。

 訳を聞くと、どうやら幼馴染が心配で居ても立ってもいられず、押しかけたらしい。彼女の制止を振り切って出走したタキオンとしては、無碍にもできず、1週間という期間限定で彼女をルームメイトとして認めた。

 それから早十日。彼女は今や完全に根を張り、期間限定など知らぬ存ぜぬの体で部屋に居座り続けている。一度は寮長のフジキセキに抗議したものの、不発に終わった。

 

「フツーは寮でのことは生徒会の管轄なんだよね。特に部屋替えとかは会長の許可があって初めてできるワケで…。わかるよね? 」

 

 その時、彼女は全てを悟った。ルドルフを追い出す手段など何一つ存在しないことを。

 一応、本人にも苦情を申し立てたが、

 

「足に爆弾を抱える君が一人でいることは非常に危なっかしい。誰かが同室人として側で見守るのが至極当然というものだ」

 

 と、生徒会長の正論でもって封殺された。

 しかし、タキオンは一度では諦めなかった。一人に慣れていた彼女はルームメイトがいる、という状況が落ち着かなかったし、相手が幼馴染だと余計にむず痒かった。

 

「それは確かにそうだが、キミの元ルームメイトに申し訳ないよ。やっぱり、元に戻すべきじゃないかな」

「安心したまえ。マルゼンスキーはこれを機会に一人暮らしを始めた。それに、戻ろうにも前の部屋はもうクリーニングが完了して来年の新入生を待っている。つまり、私はここにしか居場所がないわけだ。君もまさか、そんな私を追い出したりはすまい」

 

 お手上げだった。初めからそのつもりだったのだ。その時のルドルフのしてやったりの表情が忘れられない。背中の一つでも蹴っ飛ばしてやりたかった。

 彼女の名誉のために言っておくと、ルドルフは普段から生徒会長の職務を疎かにしているわけではない。

 例えば、今日の昼休みに催される交流会は彼女の肝煎りイベントであり、第二回を迎える。四月に行われた前回と異なり、今回はチームへの勧誘が主眼に置かれていた。そのため、トレーナーの参加も認められている。

 ビュッフェ形式が採用されており、気になるチームのテーブルでご飯を共にし、雰囲気であったり為人であったりを見定める。移動は自由で、そのままのテーブルで歓談に時を移すもよし、他のチームのテーブルで新たに話に花を咲かせるもよし、はたまた食堂を後にしてもよし。

 勧誘される側に委ねられている部分が多いのが特徴である。

 が、それに伴う問題も発生しており、席順もその一つだった。

 今回の会場はトレーナー用食堂なのだが、出入り口が一ヶ所しかない。自然、奥のテーブルは輪から外され、新入生の足が遠のいてしまう。そればかりは、どうしようもないことである。

 ルドルフが席を決めるにあたって採用したのは不変の平等性を持つ決定法、くじ引きだった。それが今日の朝から行われる。引くのはチームの代表ウマ娘一名。フリープラネッツからはタキオンが参加する。

 

「さてさて、私は良いクジを引き当てることができるかな」

「そればかりは私にもわからん。神のみぞ知る、というやつさ」

 

 

 

***

 

 

 

 結局、良いクジは引けなかった。良いクジどころか、最悪のクジに当たってしまったのである。

 開始まで10分と迫ったが、まだ新入生は一人としてフリープラネッツのテーブルにいない。

 どうやら自分の出番はないらしい、と察したヤンは食堂に面した庭に出て、昼寝を決め込んでいる。人工池の側の木陰は彼に安息の地を提供していた。

 

「おやおやー、まさか先約がいるとは。私の神聖な昼寝スポットの良さに気づく人が増えたようで何より」

 

 目線を上げると、千草色の髪に紺碧の瞳、やや小柄なウマ娘が佇んでいる。

 名はセイウンスカイ。学年は中等部三年で、スペシャルウィークらと同学年である。粒揃い、と称された学年で、去年のクラシック三冠を争うレースでは3つ全てが接戦となり、入着したウマ娘が全て首位と1馬身差以内に収まったという。

 スカイはその熾烈なレースを勝ち抜き、皐月賞と菊花賞の二冠を達成している。それにも関わらず彼女が学年最強の名を手にしていないことからも、他のウマ娘の実力の高さが窺い知れる。

 

「君も惰眠を貪りに来たクチかい? 」

「いやだねー、人のことを昼行灯(ひるあんどん)みたいに。私は次のレースの戦術に考えを巡らせに来たわけで。サボりの方がよっぽどじゃない? 」

「僕も戦術のクチさ。相も変わらず、悪辣なペテンばかり考えている」

「ホントかなー。それにしては結構楽しそうだけどね。もしかして、私と同じ釣り愛好家? 」

「残念ながら、釣りは上手くなくてね。いつも逃げられてばかりさ」

 

 その時、二人の間に硬質的な声が割り込んだ。

 

「代わりに、釣られるのはお上手なようですわね? 」

 

 首を伸ばしてスカイの後ろに目をやると、あじさい色の髪の少女が呆れを含んだ眼差しでヤンを見つめていた。

 用件は聞くまでもないことだったが、ヤンは敢えて尋ねた。

 

「どうしたんだい、マックイーン。もしかして誰か新入生がやって来たのかな」

「残念ながら、誰一人として来ておりませんわ。ですが、そろそろ会長から開会の辞がありますので、お戻りください」

 

 戻ると、食堂は人が盛んだったが、唯一フリープラネッツのテーブルだけが寂しい。

 タキオンが一人寂しく紅茶を啜っている。ヤンの分はマックイーンが自らの分と併せて持ってきた。

 これではトレーナー室で談話しているのと変わらない。

 このまま帰ってしまおうか、と無粋な考えが頭を過った刹那、エアグルーヴがわざとらしく咳き(しわぶき)を響かせた。ヤンの煩悩だけでなく、食堂中の無秩序なざわめきが制される。

 やがてたち起こった細波のようにまばらな拍手が呼び水となり、次第に音量を増した。

 起立したルドルフは拍手に応えつつ、食堂を見渡す。それだけで、皆彼女の声に耳を傾けた。

 

「本日はお集まり頂き、誠に感謝に堪えない。チーム選択というものは、新入生にとって、以降の学園生活を左右する重要な選択だ。一期一会の言葉が茶道にあるように、全ての出会いを大切にしてほしい。それでは、始めようか」

 

 瞬間、生徒たちは一斉に大皿へ向かう。昼食ということで豪華さには欠けるものの、和洋問わず様々な料理が供されている。皆思い思いに皿にとりわけ、元のテーブルに戻っていった。

 人の波が一段落つくと、ヤンら3人も料理を取りに行った。ほとんどの新入生は食より実の方に食いついていたので、大皿の周りは人がまばらである。

 ヤンがビーフシチューを注いでいた時、彼は信じがたい光景を目にした。

 灰白色の髪のウマ娘が小皿にこれでもか、というほど皿うどんの麺を盛り付けている。うず高く積み上がった麺の頂上部を優しくかき分け、凹みを作ると、そこに餡を流し込む。

 が、あたりを見渡すと、困り顔を作った。

 ヤンは思わず傍のマックイーンに質す。

 

「あれは、何だ」

「ああ、皿うどんという料理ですわ。揚げた麺に野菜や海鮮、豚肉の入った餡をかけて食べますの」

「そうじゃなくて、ウマ娘の方だよ」

「オグリキャップ先輩ですわ。今年の夏休み明けに編入生として入学され、ついこの前の選抜レースでレコードを打ち立てておられます」

 

 ヤンが話を聞くと、彼女は山盛りの料理を抱えて席に戻ることに気恥ずかしさを覚えたらしい。

 

「なら、僕たちのチームの机に来ると良い。幸い誰もいないから、遠慮する必要はないよ」

「そうか、助かる。ええと……」

「ヤン。ヤン・ウェンリー。こちらはメジロマックイーン」

 

 紹介されたマックイーンはスカートの裾をつまみ、優雅に挨拶をした。

 

「これはこれは、ご丁寧に」

 

 オグリは軽く頭で会釈を返す。ささやかな動きではあったが、皿うどんの山は揺らぎ、その均衡が危ぶまれた。

 兎にも角にも机まで案内し、難を逃れた。

 手を合わせるや否や、オグリは一心不乱に料理を口に運んだ。あっという間に半分になり、次第に山の体を成さなくなり、ついには一欠片も残すこともなく彼女の胃袋に収まった。

 

「感謝する。おかげで腹の虫が大人しくなった。お礼と言っては何だが、話を聞こうじゃないか」

「そいつは有難い。このまま説明せずに終わるところだった。何が聞きたい? 」

「まずはチームの方針だな。特にトレーニングについて知りたい」

「ウチは基本的にはメンバーとの対話を重視している。目指すレースに合わせたトレーニングを提案したり、逆に鍛えたい項目を提案してもらったり、」

「なるほど、何か強みはあるか」

 

 ヤンは一瞬答えに詰まった。何しろ新設のチームであり、公式戦を経験していない。他のチームならば、毎年G1 において勝利を挙げている、などのアピールポイントがあるものだが…。

 

「ひとつ挙げるなら、専門家がいる」

 

 ほう、とオグリが身を乗り出した。

 先ほどまでの形式的な興味だけではなく、自然発生したものが混じり出している。

 ヤンはタキオンをとなりの席に差し招くと、彼女をウマ娘生理学に通暁した博士である、と紹介した。

 灰白色のウマ娘はかねてより抱いていた疑問について教えを乞うた。

 

「私は……その…食べ過ぎなのだろうか?」

「確かに、食べる量は多いだろうが、今まで何も不便はしなかったのだろう? 」

 

 オグリは首肯する。

 

「それに、編入時に精密検査を受けたはずだ。そこで異常がなければ、太鼓判を押されたことになる。少なくとも、20になるまでは大丈夫だろうさ」

「なるほど…」

 

 しばらく黙った後、彼女は徐に立ち上がった。

 帰ってきた彼女の皿にはフルーツが所狭しと並んでいる。着席すると、ひとつひとつ丁寧に味わい、食し、時たまヤンとタキオンを見やった。彼らはオグリの視線に反応はするものの、それ以上のリアクションは無い。

 彼女は決心した。ヤンのチームへ入る、と。理由はひとえに食事制限を前面に押し出さなかったことである。




勧誘期間が終わりに差しかかり、学園は落ち着きを取り戻し始める。
しかし、それは嵐の前の静けさというべきである。
次回、ウマ娘英雄伝説『長月半ばにして』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第23話:長月半ばにして

段落下げを行った方が読みやすい、という方が多数を占めたため、そのように書いていきたいと思います。
アンケートに参加してくださった皆様、ご協力頂きありがとうございました。


 ヤンのチーム、フリープラネッツに与えられたのは、新設された第十八練習場である。

 トラックはやや幅広で、ダートコースを備えつけている。一周は二千メートル。外周には勾配のあるコースが併設されており、特筆すべきは上り坂が二種類用意されていることである。内には緩やかな坂、外には急な坂とトレーニングに応じて使い分けられるように工夫されていた。

 設備としては、他に二階建てのチームハウスがあるぐらいのもので、決して豪華とは言えない。が、ここがフリープラネッツのいわば牙城である。

 その主は相変わらずおさまりの悪い黒髪をベレーで隠しながら、芝の上であぐらをかいている。隣には折りたたみ式の椅子に腰を下ろし、杖を抱え込んでいるタキオン。初のチーム練習というのにギア全開でマイペースぶりを発揮する二人に対して新参者のベルノライトは茜差すトパーズの瞳を白黒させて、ただただ当惑するばかりであった。

 彼女はカサマツ出身で、オグリと共に中央へ転入を果たした。学年は高一。所属は技術科。その用具類の知識をヤンに見込まれ、オグリを通じて勧誘を受け、加入に至る。

 ヤンの下へ挨拶に赴いた際、

 

「トレーニング用具に関しては君に一任しようと思っているから、そのつもりでいてくれ」

 

 と、言い渡され、事実その通りになった。

 彼女がこの日に用意したのはメンバーの蹄鉄と三本のラダー、そして丈夫な箱である。箱に関しては、ウマ娘が跳び乗っても壊れないものを要望されたが、市販されていなかったため自作した。ボックスジャンプ用である。

 ボックスジャンプは、プライオメトリクストレーニングの一種で、動作としては非常に単純なものである。膝を軽く曲げて跳び、箱の上に着地する。主に瞬発力の向上を目的としており、その効果はシンプルな動きからは想像もつかないほど大きい。が、反面身体が出来上がっていない者が行うと、怪我のリスクが高いため、チーム内で行える者は高等部のオグリのみである。

 アップが終わり、ストレッチも済んだ面々は黙々とラダーへと向かう。このメニューを最初に行うことで、フォームやその日の調子をチェックすることができ、また顔を上げて視野を広く保つ練習にもなるため、バカにはできない。トレーニングをしている当人たちからすれば、これほど地味で面白みに欠けるメニューも少ないが…。

 ラダーも一段落つくと、集合がかけられた。

 

「さて、身体も温まったところで、追い抜き走を始めようか」

 

 三人はスタート位置に縦一列に並ぶ。先頭からマックイーン、オグリ、ウオッカの順である。ヤンの手が振り下ろされると同時にスタートし、軽く息切れする程度のスピードで進む。第一コーナーに差し掛かったところで、ウオッカが外へ抜け出し、ダッシュでマックイーンを追い抜かす。余裕を持って先頭につけた。その頃合いを見計らって、今度はオグリの豪脚が低く唸る。灰白色の長髪が風に当てられ鋭く靡き、思わず見惚れるほど美しい尾を引いた。

 最後尾から先頭まで繰り返し繰り返し疾走し、ポジションを入れ替え続ける。追うもの、追われる者、精神に降りかかる奔流は絶えずその形を変え、あの手この手で彼女たちを駆り立てた。

このトレーニングの目的は二つ。

 一つは抜かし慣れること。もう一つは抜かされ慣れることである。追い抜きはレースの最も重要な要素であるにも関わらず、その練習はおざなりになりがちである。理由として挙げられるのは、そもそも練習の段階から全力で走りつつ駆け引きをするなど危険極まりなく、またそれよりも能力を鍛えた方が良い、という定説である。

 が、ヤンは二つの事実からこの定説を無視した。一つは次元の高い話で、同条件の争いならば、よく訓練された兵を持つ側がより多くの勝利を享受したという歴史的事実。もう一つは次元の低い話で、練習で出来もしないこと —— 例えば射撃や近接格闘など —— がいざ本番になってみて突然できるようになるなど、夢物語であったという個人的事実である。

 無論、彼は形而下の能力を蔑ろにしていたわけではない。むしろその信奉者であったと言っていい。その証拠に、彼がチームメンバーそれぞれに課した個別のトレーニングメニューには彼の信条が強く滲み出ていた。

 マックイーンは緩やかな坂での坂ダッシュを通して、より多くのスタミナを。

 オグリはボックスジャンプによる瞬発力向上。

 ウオッカはラダーでフォームチェックを行ってからトラックを流すの繰り返しで基礎固め。

 と、目的ごとにトレーニングを配分し、それぞれにお目付役をつけた。マックイーンにはベルノ、、オグリにはタキオン、ウオッカにはヤン自らといった具合である。

 

 

 

***

 

 

 

 マックイーンが手を挙げ、数瞬の後に駆け出す。一息に上り切ると、すぐに荒れた呼吸を整えて小走りに下って行く。そのスパンはタイムを記録しているベルノを驚嘆せしめた。生半可な肺活量ではない。加えて、十本を終えてなおタイムが翳る気配すら感じられなかった。

 —— 生粋のステイヤーとしての素質を有す。

 と、メンバーファイルに記されていた一文が脳裏に浮かぶ。

(まだ中等部なのに、この傑出した実力。やっぱり中央のレベルは高い。でも、オグリちゃんならついていけるはず…)

 

 そのオグリはボックスジャンプ相手に苦戦を強いられていた。

 両足を揃えて軽くしゃがみ体勢を整える。あとは全身を使って跳躍し、箱の上に両足で着地するだけである。が、また物言いがついた。

 

「重心が後ろにある。そのままだと不必要な負荷がかかって故障の原因になるぞ」

 

 四度目の指摘に流石のオグリも困り眉を作った。

 

「ダメだったのか。今度こそ上手くいった、と思ったのだが…」

 

 タキオンは三脚に取り付けていたタブレットを外し、撮った動画にペンでいくつか書きつける。今回は着地の瞬間だった。

 

「持ち前の柔軟性を活かした無意識の修正がうまくいっているが、それは負担を他の部位に押し付けているに過ぎない。もう少し、重心を前めに意識してくれ」

 

 不承不承ながらオグリは頷いた。二人の間に降りた剣呑なカーテンの存在を当人たちが最も痛切に感じている。言ってしまえば、彼女らは考え方がまるで違う。理論派のタキオンに対して感覚派のオグリ。

 今の指摘にしても、オグリは言葉のみでの説明では理解しかねる。重心のことなど、今まで考えたこともなかったのだ。唐突に求められても、すんなりと受け入れることは不可能に近い。が、彼女は実践を好む者の常套句だけは決して口には出さなかった。いや、出せなかった。

 

「なら自分でやってみろ」

 

 と、脚を壊し、用心のためとはいえ杖を日頃からついている者に対して言い放つことは、まともな神経の持ち主であれば須く躊躇すべきである。

 が、本心は得てして顔の端々に顕在化する。

 タキオンはオグリのそういう気配を敏感に感じ取った。

 

「オグリ君、一度限界まで背伸びをしてくれ。そう、そのまま。いいかい、ゆっくりと踵を下ろすんだ」

 

 言われるがままに行い、踵が接地する直前、ストップがかけられた。

 

「今、キミはどこに力を入れている? 」

「お腹の少し下、おへそのあたりだ」

「そこを丹田と言う。そして、今キミの重心はほぼ親指の付け根にある。理想の位置だ」

「なるほど、ここか」

 

 納得と共に、腹の底のわだかまりがそよ風と共に去っていった。

 

「ほっほっひっふー」

「どうしたんだい、急に? 」

「丹田の位置を覚えておこうと思っただけだが? 」

「なるほど、キミはそういうウマ娘か」

 

 タキオンは苦笑せざるを得ない。理論だけでは、人は動かないのだ。他ならない彼女自身がそうであったのに、他人に物分かりの良さを求めるなど、虫が良すぎるというものだった。

 二人の様子を遠目に気にかけていたヤンは、胸を撫で下ろした。

 どうやら、決定的なすれ違いは避けられたようである。

 が、黒髪のウマ娘は自分を見てくれないことが面白くないらしい。汗ばんだ額を手の甲でぬぐいつつヤンを詰った。

 

「トレーナー! 余所見すんなよー」

 

 単調な動きに()んでいたからか、口調がやや強い。ようやく十本を終え、休憩に入る。型の反復のみで、飲み込みの早い彼女にとっては無用のトレーニングのように思われた。

 が、ヤンは引き続きラダーを使ったメニューを言い渡した。今度はラダー上をジグザグに動くよう指示されたものの、それは彼女にしてみれば文庫と新書ぐらいの違いであり、本を読まない者には同じように感じられる。

 

「ちょっと水飲んで来ます…」

 

 むしゃくしゃした気持ちを落ち着けるには距離をとるのが一番だった。

 蛇口を捻り、顔を洗ったあと、水筒から麦茶を流し込む。ふと見上げると、彼女らを見つめるスカーレットの姿が目に入った。あちらも気づいたのか、スカートの裾を翻し、足早に立ち去る。

 その顔に翳りが見られた原因は、日が傾いたことにのみ帰せられるようには思えない。

 らしくないルームメイトの姿だったが、同時にウオッカの中の対抗意識に油が注がれた。スカーレットの自己への峻烈な態度は同室の彼女が最もよく知るところである。真紅の瞳は、この程度のトレーニングで輝きを失うことなどあり得ない。

 

「よっしゃ! もういっちょやるか」

 

 喝を入れるため、両腿を二度叩いた。乾いた音が夕暮れに染まった空に溶けていく。

 

 

 

 

 




強烈な自己顕示は深刻な劣等感と表裏を共にする。
彼女は何において他に勝るのか。
次回、ウマ娘英雄伝説『緋色の涙』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第24話:緋色の涙

 結局、練習は日が沈むまで続いた。

 ヤンから終了が宣言されると、皆のそりのそりとチームハウスの更衣室を目指す。脚がひどく重い。原因は全員が正確に把握していた。最後に行った坂道ダッシュの影響である。たった十本と云えど、練習で消耗している身体には充分堪えた。あのマックイーンですら、まだ息が整わないでいる。

 だが、彼女らは自らに鞭打って着替えを済ませなければならない。この後にヤンから自主練の方針について説明を受けることになっていたし、何より、食堂の営業時間には限りがある。ことは一分一秒を争った。

 階段を上がり、ミーティングルームへ入る。

 二つの長机の向こう、ホワイトボードを背にヤンは腰を下ろしていた。脇にはベルノ。二人ともカップから立ち昇る湯気を顔で受け止めている。どうやら、先に紅茶を嗜んでいるらしい。

 

「やあ、お疲れ様。みんなの分もあるよ」

 

 もちろんのことながら、淹れたのは彼ではない。

ヤンの右手奥に併設されたキッチンからタキオンが顔を覗かせた。

 

「蜂蜜とレモンが嫌いな者はいるかい? 」

 

 三人が三人とも首を振ると、ダークブラウンの髪のサブトレーナーは鼻歌交じりにそれぞれの前にカップを置いていった。縁にレモンが添えられており、中の液体がほのかに明るい。かすかな湯気が彼女らの鼻腔をくすぐった。

 マックイーンが口をつけると、柔らかな甘さが口の中に広がる。レモンのおかげか、後味もしつこくない。

 ホッと一息つく。

 ふと傍らを見やると、ウオッカはスプーンでちびちび飲んでいる。味が好みにあったらしく、カップを両手で持ち上げ、喉に流し込んでいる。オグリは紅茶には目もくれず、レモンに齧りついていた。

 彼女らの所作は淑女たる者としては看過し得ぬものであったが、不思議と悪感情は湧かない。それはかつての自分からすれば他愛もないこの空間が『メジロ』という、ときに重くのしかかる華やかな家名の(くびき)を地平の彼方へ押しやってくれるからだった。メジロ家に充満した格式高い芳香の中から、この奔放な雰囲気を嗅ぎ取るのはいささか無理がある。

 その奔放な、悪く言えば野放しのウマ娘たちを一つ処に留め置いて、チームとして機能せしめている恒星がヤン・ウェンリーであることは紛れもない事実である。

—— それにしても、出世のお早いこと

 と、マックイーンは回想のページをめくらずにはいられない。彼女のトレーナーはつい三ヶ月半前に唐突に現れ、ウマ娘の()()()も知らぬままにレースに臨み、初陣を勝利で飾った。さらには、ライセンス取得後まもなくチームを率いるまでに至ったのである。破竹の勢いと言って良い。

 が、不思議なことにヤン自身に浮ついた様子は見られなかった。これはマックイーンの脳内尺度の一つの限界である。彼がかつて宇宙一の智将と称せられ、一つの国、そして一つの灯火の守護者となり、銀河に吹き荒れる暴風から守り通さんとしたことなど、あじさい色の髪の少女の関知するところではなかった。彼女の目に映るヤンは、常にちょっとだらしのない柔和なトレーナーである。

 

「オグリは今日のトレーニングで脚部へ大きな負荷がかかっている。自主練では筋トレを軸に上半身のパワーアップと体幹の強化に努めてくれ。来月あたりにダートレースに出走してもらう」

「了解だ」

「次にウオッカ。君はここに来てくれ。デビュー戦までに残された時間が少ない。タイムを測っておこう」

「ラジャー! 」

「マックイーンは過密ローテを控えているから、あまり脚に負荷をかけるわけにはいかない。自主練は主に水泳を行なってもらう。タキオンに練習を見てもらってくれ」

「ええ、分かりましたわ」

「任されようじゃないか」

 

 今回は追い切りを行わない。正確には行えない。一回走って終わりではないのだ。

 すす、とマックイーンは目を伏せた。

 菊花賞、そして秋の天皇賞への出走を確実にするためには、それぞれのトライアルレースにおいて連対、つまり二着以内が必須である。よしんば連対を逃したとしても、入着しなければ話にもならない。その枠を狙うのがマックイーンだけであるはずがなかった。

 そのとき、腹の虫が鳴った。マックイーンは思わずお腹を押さえた。オグリ、ウオッカも同様である。三人とも発生源は自分と信じた。

 ヤンはあまりの音量にしばし呆然としていたが、事態を把握すると、すぐに微笑が取って代わった。

 

「じゃあ、今日はこれまで。遅くなってすまなかったね」

 

 刹那、全員がバックを持って立ち上がった。一路食堂へと向かう。

 この際、目の前の空腹が何にも増して重要だった。

 

 

 

***

 

 

 

 

 食後ウオッカが自室へ帰ると、めずらしく灯りが点いていなかった。この時間帯、彼女のルームメイトはいつも机に向かい、予習復習に勤しんでいる。

 不審に思ったが、すぐに彼女は見当がついた。

 

(どうせ自主トレだろ)

 

 門限までには帰ってくるに違いなかった。真紅の髪の少女はおそらく、

 

「良い汗かいたわ」

 

 と、機嫌良く第一声を放つだろう。

 

(オマエだけが時間を有意義に使うと思うなよっての)

 

 ウオッカは湯船が満たされていくのを横目で眺めながら、動画サイトでルドルフの走りに魅入る。

 序盤からしなやかに肢体を躍動させ、好位置を一貫してキープする。ベースは先行だが、最終コーナーを回ってもなお控えている。皇帝の本領が発揮されるのは、いつも直線に入ってからであった。

 明らかに、空間が歪んだ。

 一歩一歩踏み出す度に一人、また一人とかわしていく。トップスピードに乗った彼女が先頭に立つまでほんのわずかだった。あとは、まるでそれが当然のように悠然とゴールを果たす。

 後続は、もはや彼女を見ていない。追いつく術がないことを知っているのだ。

 相手に一縷の希望すら許さない勝利。ルドルフが『皇帝』と言われる所以である。

 ウオッカには参考にすべき箇所が数多くあった。

 まず、位置取り。トゥインクルシリーズではルドルフは常に厳しいマークに曝されれる中、必ず彼女の得意とする間合いの勝負に持ち込む。そのコントロールはレース全体に及んでおり、全ては掌の上と言って良かった。流石にそのレベルは現時点では望むべくもないが、トゥインクルシリーズ最高峰のアプローチは盗む価値がある。

 次に、スパートをかける前の足運び。彼女のスパートの特徴は迷いなく脚を進めることにある。それを可能にしているのは最終コーナーから加速までの僅かの間に刻まれる数歩であった。そのたった数歩がゴールまでの青々とした絨毯を拓き、彼女に勝利の道筋を指し示す。差しを得意とするウマ娘として、このテクニックは喉から手が出るほどの代物である。

 最後に、その圧倒的な差し脚の速さ。こればかりは才能の果たす役割も大きい。極論を言えば、差し脚のキレがあればあとは努力で何とでも賄えるのだ。

 自分にはその才能が余人より豊かに備わっている。が、『皇帝』と比べて遜色がない、とは口が裂けても言えない。

 

(ま、オレはまだ中一。いきなり完璧を目指さなくても、何とかなるさ)

 

 浴槽の水位が基準に達した。

 ウオッカは動画サイトを閉じ、音楽アプリに切り替えた。アップテンポの曲が湯気を揺らす。

 湯に浸かりながら、目を閉じる。今日のラダーでの感覚がまだ身体の芯に残っていた。脳内でラダーを繰り返す。目線は下げず、頭を動かさない。理想とイメージが重なった。

 

「やりーッ! 」

 

 拳を握り、水面を叩く。

 あとはこの感覚を身体に覚え込ませるだけである。それは遠くないうちに達成されるだろう。ウオッカは無邪気にそう信じた。彼女の思考には何より楽天家の気質に由来する部分が多い。

 この点、スカーレットの精神構造と対をなす。彼女は良く言えば丁寧な、悪く言えば神経質な完璧主義者であった。そして、その性格の例に漏れず、常に自分の長所よりも短所に、周囲の足らざるよりも優れたるに気を取られていた。例えば、彼女の強みは長くもつスパートと有り余る根性にある。が、スタミナはそれほどではない。ゆえに彼女がとるべき戦法は、早めに前につける先行策である。それを彼女は逃げにこだわるあまりスタミナ切れを起こし、最終局面で競り負けてばかりいる。

 キチンと反省をすれば、戦法が自分に適していないことが明らかなのだが、彼女の発想は常に補うことに主眼を置く。最近のトレーニングはランニングマシンの傾斜を強め、走らねば頭から転げ落ちるような姿勢で走り続けている。

 

(私がスタミナで負けるわけがないじゃない! )

 

 この思い込みは彼女の小学校時代に起因する。彼女は身体の発達が早く、体格が一回り大きかった。そのため、何をしようと負けようがなく、幼さゆえの全能感を植え付けられてしまったのである。だが、次第に周囲の同級生の成長が追いつき、彼女と肩を並べるようになり、彼女のリードは小さくなった。余裕は焦燥に取って代わられ、トレーニングの量も徐々に増えていった。その甲斐あって選抜レースでは良い結果を残すことができ、スカウトも少なくなかった。

 が、結局はその全てを袖にし、唯一自ら望んだチームからは拒絶された。残るは選抜浪人だが、それは今年一年ジュニア・トゥインクルシリーズに参戦しないことを意味する。

 

「私はどうすれば…」

 

 汗を拭いながら、彼女は自問する。

 ふと、背後に人の気配が感じられた。真紅の毛束と共に鋭く振り向く。

 

「やあ、ダイワスカーレット君」

 

 立っていたのは、かつて誘いをやんわりと断った黒髪のトレーナーであった。スカーレットの目尻が吊り上がる。先ほどの独語を耳に入れられたかもしれない。

 ヤンとしては、寮の門限が近いため、見回り当番として帰寮を促しに来ただけである。彼女に対して含むところはない。

 が、スカーレットはそうは見なさなかった。ヤンがあえて自身のトレーニングを邪魔したように感じられたのである。結果を出せない苛立ちも相まって、つい煮えたぎった感情が口をついて出た。

 

「アンタに何が分かんのよ⁉︎ 」

 

 決壊した心の堰はもはや持ち直すことが叶わなかった。

 

「アタシは一番にならなきゃいけないの。アイツに勝つだけじゃない。私を負かした気でいるテイオー先輩やラインハルトトレーナー、全員を見返さないと気がすまない! だから、もっとトレーニングしなきゃダメなんだから! だから放っておいて! 」

(でも貴女(アタシ)は一番じゃないわ。何よ偉そうに。そういうの何て言うか知ってる? 負け犬の遠吠えって言うのよ。惨めよね、ホントに)

 

 頭の中には冷静な意見が駆け巡っていた。感情が昂るほど、脳内の声の舌鋒は鋭さを増す。

 

(実は構って欲しいだけじゃないの? 今だってそう、相手が来た途端、トレーニングをほったらかして八つ当たり。そんなんだから、一番になれないのよ)

 

「違う! 」

 

 あまりの声量にヤンの肩は微かに跳ね上がった。

 スカーレットは歩を進め、アイボリーのスカーフを掴む。

 

「アタシは! 一番にならなきゃいけないの! そう誓ったんだから! だから、邪魔しないでよ! アタシが苦しむのを黙って見ててよ。一番になれない…アタシが悪いんだから…」

 

 涙で視界が滲んだ。鼻水も一気に滴り落ちる。

 彼女は情けない姿を見られまい、とヤンの胸に頭を押し付け下を向いた。自らの目と鼻から垂れ落ちる液体が一つ、また一つとシミになっていく。止めようとするも逆効果で、感情の波は寄せるばかり。ついには言葉すら発せず、しゃくりあげて喚くのみである。

 その全てをヤンは受け止めた。

 彼女の感情の昂りがピークを超えると、ベンチに座らせ、落ち着くまで背中をさする。その掌は大きく、そして温かい。彼女はトレセン学園入学以来、初めて人の体温に接したかもしれなかった。

 

「一番になる、という君の夢を否定するわけじゃないが、あまりに壮大な目標を見たままだと、足元を掬われてしまう。もう少し現実的な通過点が欲しいな。例えば、クラシック三冠だとか」

「……クラシック三冠は夢物語って笑われないのかしら? 」

「笑われるだろうね、一冠を獲るまでは」

「一冠を獲っても、そのあとで失敗したら…」

「頭をかいて誤魔化すのさ」

「結局は笑われるじゃない」

「そう、どの道笑われる。ならせめて、最善の準備をして勝てるようにしたら良い。勝負の結果を貶されるのは実力を否定されるだけで済むが、勝負に向けた努力を貶されるのは自分自身を否定されることと同義だからね。それに耐えられるのは余程の恥知らずか、あるいはお気楽者さ」

「アタシはどっちでもないわ」

「見れば分かるよ」

「ねえ、仮にアンタがアタシなら、クラシック三冠とトリプルティアラのどっちを目標に据えるかしら? 」

「それはトリプルティアラだよ」

「クラシックじゃなくて? 」

「君は、あれだ、短気だろう」

「ぶっ飛ばすわよ」

「とにかく、気質的に中距離の方が向いている。そういう意味では、全て中距離のティアラ路線の方が勝算が高い」

 

 ふーん、と相槌を打ちながらスカーレットは立ち上がった。

 すでに気持ちは落ち着きを取り戻している。

 寮に戻ると、ウオッカは目元の赤みで察したのか、いつになく優しかった。

 ルームメイトに謝意を示しつつ、スカーレットはさらりと告げる。

 

「アタシ、ヤントレーナーのチームに入るから」

 

 告げられた側はそっと受け取れる内容ではなかった。

 当然理由を問いただすが、なかなか打ち明けてくれない。

 

「なあ、オレにだけ。絶対に漏らさないから」

「ダメよ。秘密は知っている人数が少ない方が良いもの。一度でも手から離れたら、どうなる分かりきってるわ。そんなに知りたいなら、自力で暴いてみることね」

 

 文句を垂れるウオッカの横でスカーレットは八重歯をのぞかし、笑いを噛み殺した。

 まさか「泣き顔を見られたから」なんて答えに辿り着くはずがないし、自分から言うわけがなかった。ライバルが頭を抱える姿が容易に想像できる。

 




チームに加入して落ち着く間もなく初戦を迎えるウオッカとスカーレット。
レースの女神が微笑むのは…。
次回、ウマ娘英雄伝説『響け! ファンファーレ』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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白熱! ジュニア・トゥインクル
第25話:響け! ファンファーレ


 空がすっかり青さを取り戻し、人々のまばらな生活音が明け方の終わりを告げる頃、マックイーンの意識が現実の淵へと立たされた。しばらくの間まどろみの中で浮かび漂い、ようやく身体に力を込めると、彼女は重たい瞼を擦りながら洗面台までたどり着く。

 毎度のごとく布団に後ろ髪を引かれたが、今日は後輩との朝のジョギングが先約のためその誘惑を振り払い、軽く身支度を整えると寮の入り口へ向かった。

 すでにスカーレットは靴まで履き替えて外へ出ていた。

 

「ごめんなさい、待たせてしまったかしら? 」

「いえ、お気になさらず。アタシもさっき来たところですから」

 

 ウソかホントか判断のつきかねる返答に曖昧に応じると、マックイーンは準備運動を始める。

 

「今日はどこまで行きます? 」

「そうですわね、この前は学園をぐるりと一周しただけでしたから、今日は北に足を伸ばして、公園まで行って見ませんこと? 」

「良いですね、それじゃあ早速行きましょう」

 

 二人は肩を並べて走り出した。もちろん、ペースはゆっくりと。

 方や大きなレースを控えており、方や程々というものを知らないため、ヤンは彼女らが朝ジョグをすると言った当初あまり良い顔をしなかった。が、目的がトレーニングではなく汗を流すことであると知ると、彼は理解できないと顔には書いてあったものの、とりあえず許可は出してくれた。

 時候の挨拶が残暑に切り替わってからしばらく経ち、日中はともかく朝は涼しい。頬を撫でる風を感じつつ、スカーレットは傍らの紫水晶の瞳の少女に問いかける。

 

「そういえば、先輩のデビュー戦ってどんな感じでしたか? 」

「酷いものでしたわ」

 

 と、マックイーンは振り返る。

 選抜レースを終え、ステイヤーとしての素質はピカイチと評された彼女だったが、育成当初は主にメンタル面の弱さに悩まされることが多く、当日は常に腹痛と闘わねばならなかった。場面場面にお手洗いに立つ記憶が挟まっており、特にパドックから引き返して駆け込んだことは実家で今も笑いの種になっている。

 

「それでも、ターフに立つと落ち着きましたわ。お陰様で初戦を勝利で飾りましたし、ライブではセンターに立つことが叶いました」

 

 初めてのウイニングライブは今でも鮮明に思い出せる。(すぼ)まった喉からなんとか捻り出した声は無事に観客席へと届き、彼らは新しい星の誕生を祝った。

 

「不思議なことに、レースを終えた後の方が記憶に残っていますわ」

 

 そう言うと、マックイーンはころころと笑う。

 終わってみれば全てが滑稽に思えるのだろう。たかが一年ではあるが、歴然とした差が二人の間にあった。ゼロは何をしてもそのままなのである。

 

「アタシ、チームに合流して一週間も経っていないのにデビューだなんて…」

「あら、緊張しているのかしら? 」

「そうですよ、流石に無茶がすぎると思いませんか…」

「いくら渋っても、後回しになるだけのことなのですから、思い切って飛び込んでみるべきですわ。それに…」

 

 スカーレットは目を輝かせて先を促す。

 

「緊張は努力の裏付けのようなものですわ。それが報われるか否かの分水嶺に立たされて初めて人は不安に駆られるのですから」

 

 ほうほう、と彼女は真紅の毛束を揺らして感心する。思ったよりも実のある返答が得られたため、その瞳の奥に尊敬の念が垣間見えた。

 慌ててマックイーンは付け加える。

 

「まあ、今のはほとんどヤントレーナーからの受け売りですわ。メンタルケアの腕といい、トレーナーとしての采配といい、類稀な才をお持ちのようです」

 

 マックイーンのヤン評を聞いたスカーレットは意外の念を隠せない。

 彼の温かな包容力は激発した彼女自身を宥めすかしたことから明らかであったが、それは年齢に起因するもので、トレーナーとしての彼の力量に関しては頭から疑ってかかっていた。加入以来一週間、ヤンが彼女に課したメニューはフォームを調整するためのものが多く、負荷が足りないように感じられることも彼女の中におけるヤンの印象を形成するのに一役買っている。

 

「そうですか? アタシはそろそろラダーを卒業したいです。なんであんなに繰り返してやるんだか…。しかも練習の初めと真ん中と終わりの三回も」

 

 確かに、ヤンは執拗なまでに基礎トレを重視しており、それは翌日の練習でも変わらなかった。スカーレットに課されたのはラダー、追い抜き走、ラダー、体幹トレーニング、インターバル走、坂道ダッシュ、ラダートラックであり、例に漏れずラダーが三つのメニューに組み込まれていた。

 

「ホントにあり得ない。何を考えてるのかしらアイツは? 」

 

 トラックを流しながら彼女は声を潜めて独語する。ラダーを通してフォームを確認し、その感触が残ったままトラックを走ることは理にかなっている。理屈の上ではわかっているのだ。しかし、それが今の自分に必要であるとは到底思えなかった。

 彼女が荒む感情を御し得ているのは、前回の反省からくる自制とライバルの言葉による抑止力の影響が大きい。彼女の予想に反して、ウオッカは不満を一つも抱かずにトレーニングと向き合っていたのである。

 昨夜、寮にて遠回しにラダーばかりの練習に辟易していることを伝えると、彼女は目を丸くした後不器用ながらもスカーレットを励ました。

 

「お前の言う通りラダーはつまんねーかもしれねえけど、デビュー戦前にあれこれ手ぇ出して失敗するよりはよっぽどマシなんじゃねーか?」

 

 これにはスカーレットも頷かざるを得ない。つい先日も自らを追い込み、精神に不調をきたした彼女である。もう二度とあのような醜態を晒すつもりはなかった。

 それに、とウオッカが付け加える。

 

「特別なメニューを組まないってことは、オレ達ならそんなことをしなくても勝てるって信頼の証じゃねーの」

 

 緋色の瞳が見開かれた。彼女には無い視点からの意見だったのである。素直にルームメイトのことを見直していると、メッシュの入った黒髪のウマ娘は言わずでものことを口走り、高騰した株を墜落させた。

 

「ま、オレ達は同じレースに出るから、どっちかは負けるんだけどな! 」

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 練習後、マックイーンは食堂へ向かうと、テイオーらと合流しテーブルを囲んだ。話題はもっぱら今週末のウオッカとスカーレットのデビュー戦のことについてである。

 ギャラクシーとカノープスには一年生がおらず、マヤノを担当する桐生院 葵はそもそも専属トレーナーであるため、チームを組んでいない。必然的に身近な後輩というとフリープラネッツの一年生ということになり、三人は彼女らに透明な同情を寄せていた。

 

「んで、正直なところどうなのさ、マックイーンの後輩達、勝てそう? 」

「そうですわね。何事もなければ、どちらかが勝利を収めると思いますわ」

「どっちか片方が負けるってとこが先輩としては辛いよね! マヤはどっちにも勝って欲しいなー」

「ボクとしては、この前ウチに入ろうとした勇敢な後輩に勝利を飾ってもらいたいね。そのぐらいの意地は見せてもらわないと」

「もう、二人とも勝手なんだからー」

「そういうネイチャはどちらに勝って欲しいんですの? やはり髪の色繋がりでスカーレットでしょうか? 」

「マックイーンまで…」

 

 その時、食堂の出入り口が俄かに騒がしくなった。ふと見やると、人だかりができている。彼女らは散るどころか新たに人数を加え、集団は膨れ上がっていった。

 四人とも野次馬根性を抑えきれずに席を立つ。

 衆目の向く方へ目を凝らすと、掲示板に明日のデビュー戦の出走表が確認できた。

 

 

 

メイクデビュー戦:於 東京レース・芝1,600m

 

1枠1 番 ネクロシスター

2枠2 番 ウオッカ

3枠3 番 ダイワスカーレット

4枠4 番 イデア

5枠5 番 ハニカホップ

6枠6 番 フラワーシード

7枠7 番 ロサリベンジャー

  8 番 ミアスマキレート

8枠9 番 タタラボーシスト

  10番 ポルデマッコンキー

                  以上10名。

 

 

 

 

 

 同時刻、ヤンのトレーナー室にも同じ物が届けられた。

 部屋にはヤンとタキオンのみで、何をするでもなく紅茶を嗜んでいるだけであったため、机の上を手早く片付けるとベルノお手製の東京レース場ミニチュアが置かれた。

 ヤンが封を切り、枠順を読み上げる。

 タキオンはそれをホワイトボードへ書きつけていく。作業を終えると、どちらからともなく苦笑を浮かべた。

 

「どうやら、二人とも楽には勝てなさそうだ」

「そのようだね。最後の直線が400mもあるから有利なのは差しが得意のウオッカ君だが、内枠なのがネックだね。人数が少ないのがまだ救いか」

「一方のスカーレットは有利な要素が見当たらない。距離が短いから、初っ端から飛ばしていくのもアリか」

 

 ヤンは棋を一つ前に進める。

 が、タキオンがすぐに二つの棋を外から回り込ませた。

 

「コーナーは緩やかでスピードを乗せやすい。末脚の具合次第だね」

 

 見ものだな、とヤンは指を唇に当てる。

 彼にしてみれば、このレースは勝利を目指すものではなく、むしろ彼女らが大舞台を前にどのような行動を取るかを観察する場である。

 二人の研究者の影は夜更けまで窓に映し出されていた。

 

 

 

***

 

 

 

 スカーレットが体操服に袖を通すと、出走を目前に控えている現状が厳然たる事実として双肩にのしかかってきた。

 唾を飲み込み、深呼吸を一つ。

 マックイーンの言葉を反芻し、ただただ歩を進める。

 地下道は薄暗く、出口から射し込む光が彼女らを出迎えた。

 

「全員揃いましたね。では、パドックへ向かってください」

 

 案内に従って光に身を晒す。瞬間、歓声の雨が初めて彼女らに降り注いだ。数人の肩が跳ね上がり、両手で自身を抱えて自衛する者もいる。観客の声援に応えられる者は誰一人としていない。

 ツルツル滑る時間が流れ、気がつけばゲートの前に立っていた。

 ファンファーレが鳴り響き、彼女らに心の準備を迫る。

 

「緊張は…努力の裏付け…! 」

 

 マックイーンの言葉を一つ念仏のように唱えてスカーレットは枠に入る。

 遅れてウオッカも収まった。流石の彼女も緊張と無縁のままではいられなかったようで、額を拭い、無い汗を振り払った。

 永遠と称すには程遠く、一瞬と称すにはあまりにも長い。

 ゲートが開け放たれた。

 10名のウマ娘が我先にと飛び出す。彼女たちのジュニア・トゥインクルが狼煙をあげた。

 

「ちょっとバラけたスタートになったでしょうか。出遅れたのはダイワスカーレット! ここから巻き返すのは難しいぞ」

 

 心の中で実況に対して舌を鳴らしつつ、スカーレットはペースを上げた。

 当初の予定では、逃げウマ娘の後にピッタリと尾けて最後の直線で勝負をかけるつもりであったが、もはや叶わない。ならば、と集団の半ばあたりを横目に外側から追走する。

 ウオッカは周囲に流されるまま、直線を行き、第三コーナーへ入る。彼女も勝負を仕掛けるのは最終コーナーを曲がり終え、馬群が散ってからと決めていた。

 先頭のイデアが第三コーナーに入る。一身差を離されてハニカホップ、ミアスマキレート、さらに蹄を高鳴らしつつ後続が追う。

 第三コーナーを越え、第四コーナーに差し掛かるあたりでスカーレットはようやく二位集団の外につけ、先頭を狙える位置に出た。

 

「さあ、大欅を越えて直線に入る。先頭はイデア、続いてダイワスカーレット、ハニカホップ。まだ直線が残っている。虎視眈々と先頭を狙っているぞ! 」

 

 最初に異変に気づいたのは誰だったのか。観客だったかもしれない。あるいはレースに参加していたウマ娘の内の一人だったかもしれない。しかし、その全員が実況の声によって展開を否応なしに理解させられ、目を疑った。群の前方がバラけていないのである。

 その状況を作り出したのは真紅の毛束を揺らしながら群の先頭を外から抑えているスカーレットである。。彼女を抜くならば、その外を進まなければならない。内から抜けば二着は可能だろう。しかし、イデアが前を塞いでいるために先頭は狙えない。彼女の位置どりは一着への道筋と後方の妨害を両立させている点で、絶妙と言える。(たが)嵌めという戦法であった。

 イデアが力尽き、速度が鈍った。

 スカーレットが代わって先頭に立つと、気力も尽きたのか、イデアはみるみる後方に下がり、群に呑み込まれた。まるで、彼女が起爆剤になったかのように他の8人は思い思いの進路をとる。

 ついに、バラけた。

 ウオッカは巧みにその間を縫いに縫い、集団を抜け出した。スカーレットとの差は縮まっている。

 が、手が届きそうな距離に迫った瞬間、真紅のウマ娘が一歩遠のいた。根性で再度スパートをかけたのである。それは最後の足掻き以外に形容の仕様がない。しかし、勝敗を分けるには充分であった。

 ウオッカはクビ差で敗北した。




その一門はウマ娘界屈指の名家である。
彼女らは使命を帯びてトゥインクルシリーズに臨む。
求められているのは、ただ勝つことではない。
その先の栄光である。
次回、ウマ娘英雄伝説『メジロの人々』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第26話:メジロの人々

お待たせしました!

【訂正箇所】
次回予告に誤解を招く表現があったため、編集しました。


 月曜日の昼下がり。マックイーンはこの時を毎週待ち望んでいる。中等部2年生・3年生のみが五時間目で授業が終わり、自由時間が与えられていた。さらに、ヤンは例の如く昼寝に出かけているため、一時間にも満たないわずかな時間ではあるものの、チームの談話室を独占できるのだ。

 カップにティーストレーナーを沈め、ウォーターサーバーからお湯を注ぎ、机に置く。待つあいだにケータイからステレオに音楽を飛ばし、再生を始めた。曲はバレエ《白鳥の湖》より『情景』。優美な旋律が部屋に溶け込み、空間を彩る。それに合わせてマックイーンは大きな伸びを一つ。

 そのままカウチソファに根を張ろうとするが、ヤンから申しつけられていた仕事があるため重たい腰をあげ、プロジェクターとパソコンを繋げる。ホワイトボード一面に一昨日のデビュー戦が映し出され、そのまま再生が始まった。

ゲートが開き、スカーレットが出遅れた。先行型の彼女にとってその差は致命的である。同じ脚質のマックイーンには身に沁みて感じられた。

 私ならば、と彼女は自問する。おそらく最初の直線で先頭が見える位置まで駆け上がり、勢いそのままに最終コーナーまで持ち込むだろう。出遅れると体力的にはやや厳しいが、コーナーなどで息をつく瞬間はいくつかある。あくまで彼女の主戦場である中長距離であったならば、の話だが…。

 今回の舞台は距離としてはマイルに分類される。スタミナを回復させるほどの余裕は存在しない。出遅れた真紅の髪の後輩がどのようにして勝利を収めたのか、興味をそそられた。本来は全員集合してから振り返りを行う予定であったが、彼女は構わず動画を続けた。

 最終コーナーを回って最後の直線に入る。

 マックイーンは紫水晶の瞳を見開いた。スカーレットが取った戦法はかつて彼女が七夕賞で取ったものと酷似している。だが、状況としては全く異なっていた。まず、この戦法は自分が脚を残した状態でこそ真価を発揮する。外から馬群を抑えることで後続を牽制し、先手をとってスパートを仕掛けることが要諦なのだ。

 

(スカーレットはそうではありません。最後の直線で早くも一杯に陥っていますわ)

 

 結局はクビ差で一着を手にした。

 が、実力に裏打ちされた勝利と言い切れる結果ではない。相手の稚拙さが彼女を相対的な勝者の位置へと後押ししただけである。

 ヤンがどう評するのか、気になるところであった。それは間もなく明らかになるだろう。

 機器が正常に作動するのを確認すると、彼女は今度こそソファに沈み込み、足を投げ出す。メジロのウマ娘として、また一人の淑女(レディ)としてあるまじき、あられもない姿に成り果てた彼女だったが、誰も見ていないのを良いことにそのままカップを引き寄せ、茶葉を取り出す。

 ミルクを入れると、透き通った茶褐色の液体がみるみるうちに亜麻色へと姿を変えた。

 口をつけ、弛緩する全身の筋肉に命の水を行き届かせる。

そのまま目を瞑って一眠りしようと考えないではなかったが、彼女はレースが近い。分析を怠るべきではなかった。

 制カバンからノートを取り出し、ページを繰っていく。京都レース場のページに行き着いた。分析といっても、構造は非常に単純である。ほぼ平坦なコースの中、向正面から第3コーナーにかけてアイロンのような形をした丘がある。目立つ特徴はそれが唯一であり、地力の差が出やすいレース場と言っても良い。故に菊花賞は「一番強いウマ娘が勝つ」と称せられていた。

 菊花賞における最大の難関はコースの形状ではなく、むしろ距離であった。3000mという、およそ公式戦で体験したことのない長丁場となる。彼女のステイヤーとしての真価が問われるレースであることは誰の目にも明白であったし、事実上マックイーンとテイオーの対決であることは暗黙のうちに認められていた。

 ステイヤー VS 帝王。

 名前負けも甚だしい。マックイーンは苦笑する。

 いずれにせよ、彼女のやるべきことは以前と変わらない。

 

(練習あるのみ! ですわ)

 

 指導を受ける側としてはそれで良いのだが、授ける側のヤンとしては一筋縄というわけにはいかない。

 トレーナー用食堂に面した池のほとりのベンチに寝そべる彼はベレーを顔に被せて思案に耽っていた。

 現在、マックイーンにはスタミナ強化を指示しており、彼女はそれをよく守っている。が、正直なところテイオーに対する勝ち目は四分六分というところである。トレーナーとしては何とか五分五に持っていってやらねばならない。

 ヤンは空に向かって問うた。

 

「何か妙案は無いものかな」

「おやおや、お困りかな。昼行灯さん」

 

 ヤンは緩慢な動作でベレーを外す。視界一杯に千草色の髪のウマ娘が映り込んだ。

 

「どうして、君がこんなところに? 勧誘ならとっくに打ち切ったよ」

「やだなー。一応、私チーム入ってるんで、失礼しちゃいますね、まったく。そ・れ・に、ここ私のお気に入り昼寝スポットだって言わなかったっけ? 」

「そいつは初耳だった。寝床を横取りしてすまなかったね」

「許しましょう。空よりも広い私の心に免じて。そして、海よりも情け深いスカイさんに話してごらんよ、君の悩みってやつをさ。これでも去年の菊花賞勝ってるんだよ? 」

 

 見事に内心を看破されたヤンだったが、驚く素振りすら見せず上体を起こす。

 ベレーの形を整えると、帽子としてあるべき位置に戻した。

 

「君の時はたしか逃げを打っていたね。あの会長のレコードに迫る好タイムだったとか」

 

 スカイの耳がぴくりと跳ね上がった。会長云々のくだりはあまり触れられたくない話題らしい。

 紺碧の瞳を水面に移し、一年前の記憶を滔々と語りだす。

 

「私にとってジュニアの菊花賞は初めての長距離だったんだ。当たり前なんだけどペース分かんなくて練習も空回ってばっかりで…。沖野トレーナーにも心配されちゃったな。んで、煮詰まった挙句、発想を逆転させたんだよ。

 私に分かんないんだから、誰も分かりっこないってね。

 結局、作戦はハイペースの逃げ。全員を諸共に巻き込んでやった。あの時のスペちゃんの反応は傑作だったなー。『ええ! セイちゃん逃げるの⁉︎ 』って顔してさ。同じチームなんだからメニューで色々察せるだろうに」

 

 大口を開けてモノマネをした後、彼女は笑いを噛み殺す。

 

「どう? 参考になった? 」

「ああ、充分に」

 

 ヤンは立ち上がると、スラックスについた塵を払い落とした。

 トレーナー室の方に足を進め、後ろ手にスカイに別れを告げる。

 千草色のウマ娘はそのしなやかな指を銃に見立てて、去りゆくヤンの背中に狙いを定めた。

 

「あんまり隙を見せてると、撃っちゃうぞ」

 

 口で銃声を模しながら指を跳ね上げる。無い煙を吹き消し、誰に聞かせるでもなくポツリと呟いた。

 池の水面の細波が彼女の瞳の中できらりと妖しい光をたたえている。

 

 

 

***

 

 

 

 ヤンがチームの談話室のドアを開けると、部屋は緻密に計算され尽くした旋律で満たされていた。選曲者はソファに身を預け、意識は留守にしているらしかった。

 ジャンパーを上から掛けてやり、冷房の風を弱める。

 ティーバッグをカップへ滑り込ませ、湯を注ぐ。頃合いになると袋を取り出し、ゴミ箱に放った。芳しい湯気がヤンの鼻腔をくすぐる。

 半分ほど飲むと、スカーレットとウオッカが肩を並べて扉をくぐった。しばしの間を置いてベルノとオグリが連れ立って部屋に入る。さらに遅れてタキオンがやって来て、全員が揃った。

 

「これから見てもらうのは一昨日のデビュー戦だ。出走した二人は勿論のことながら、他のメンバーにも意見を聞くから、各々そのつもりでいてくれ」

 

 そう言ってヤンは再生ボタンを押す。

 スカーレットとウオッカの脳裏にはその光景が鮮明に刻まれている。記憶と記録の食い違いにわずかな違和感を覚えつつ、二人は映像に集中した。

 再生が終わると、ヤンが感想戦の口火を切る。

 

「さて、どうしたものか。

ウオッカは仕掛けのタイミング、コース選択については悪くなかった、と思うよ。ただ、スピードが足りなかった。そこが今後の課題だな。

 スカーレットは結果については申し分ない。が、内容の方はちょっと不味い。出遅れたがために随分とペースを乱された。今度はもっと楽に勝てるように、スタートの練習を取り入れてみよう。他にも言いたいことはあるが、今はそれだけだ」

 

 ウオッカはふと傍のウマ娘を見やる。不意に視線が交錯した。記憶の中のライバルならば、ヤンに対して反駁すると思われたのだが…。

 以降もメンバーからの指摘は相次ぎ、そのたびに彼女は真紅の毛束を揺らし頷く。驚くべきことに、手帳を取り出してそれらを書き留めてすらいた。

 練習へ向かう途中、ウオッカはスカーレットに対して問うた。

 

「どういう心境の変化だよ。お前が素直にアドバイスを容れるなんて…」

「別に、アタシを見てくれてるからこその助言でしょ。理由も納得がいったし。そっちこそ、どういうつもりよ。まるでアタシがいっつも反抗的な態度をとってるみたいじゃない。失礼しちゃうわ」

「オレの知ってるスカーレットさんだったら、出遅れた分を取り返すだけよ! って、マッハ3で撥ね付けるぜ」

 

 言った瞬間、ウオッカはすでにトラックへと駆け出している。

 スカーレットはその背中を追いかけた。

 二人の後ろ姿を見送りつつ、マックイーンは安堵の息を吐く。後輩たちは驕りや僻みとは別次元を走っているらしかった。それら他者に依存する負の感情ほど正常な成長を妨げるものはない。

 

「どうやら、最も懸念していた事態は避けられたようですわね。これで安心して実家に行けるというものです」

 

 過密スケジュールを控え、彼女は精密検査を受けるため実家から一時帰宅を要請されている。知らぬうちに燻っていた火種が燃え上がっては困るのだ。

 目の前の戦いに集中するために。

 

「テイオー…」

 

 決戦の日は着々と迫っている。

 

 

 

***

 

 

 

 三女神の噴水前、一人の少女が佇んでいる。名をメジロドーベル。マックイーンと同じくメジロ家の生まれで、彼女もまたトゥインクルシリーズでの活躍が期待されている。

 されている、というのは表現に正確さを欠くかもしれない。彼女に言わせれば、『かつてはされていた』である。

 なぜなら、彼女の同世代にトウカイテイオーが存在し、常に頭を押さえつけられているからだ。学内の選抜レースでの対決を緒戦とし、以来四度の敗北を喫している。その全てが完敗であった。プライドを賭けて臨んだホープフルステークスは五馬身差をつけられ、次こそは、と練習に励む彼女を嘲笑うようにーー彼女はそう感じたことを今もなお恥じているーーマックイーンが頭角を顕し、ジュニア・クラシックは彼女らの一騎打ちの様相を呈すかに思われた。ドーベルはそこに分け入る隙を見出せず、トレーナーである東条ハナの勧めもあり、ティアラ路線を選んだ。結局は桜花賞・オークスと二冠を達成しているが、元はと言えば逃避から始まっており、世間の注目がテイオーに向いているからか、ドーベルはその半分も評価されなかった。

 ついたあだ名は「影の女王」。

 本人からすれば、皮肉のスパイスが効き過ぎているように感じられた。

 艶やかな緑の黒髪、憂いを帯びた藍色の瞳。深窓の令嬢に似つかわしい面貌をしたウマ娘はその脆さゆえの寡黙も相まって学内に多くのファンを抱えている。年長からは気難しい妹として、年少からは物静かな強者として、見守られつつ憧れられている。

 特に高等部、ルドルフに心を踏み躙られた者らはドーベルが第二の自分に身を落とさぬよう、細心の注意を払っていた。リギルのマネージャーを務めるエイシンフラッシュがその筆頭格である。今日の検査に際しても、

 

「絶対に受けるべきです。私のように失意のどん底に沈みながら再起不能を告げられることがどれだけ辛いか…。あのような思いを貴女にはして欲しくありません」

 

 と、検査を行う必要性を懇々と説いた。

 細菌性屈腱炎のために競技人生を諦めざるを得なかった先輩の言葉は軽くはない。

 彼女は折れた。

 

(怪我をするぐらい根を詰めた方が良いのに…)

 

 ドーベルは常日頃からそう思っている。が、決して口には出さない。以前東条トレーナーの目の前で同じ内容のことを無意識のうちに漏らしたところ、逆鱗に触れた。彼女の剣幕は地を裂き、天を割るほどの凄まじさで、

 

「自分を追い込むことは自らを壊すことではない! 覚悟を履き違えるな! 」

 

 と、叱責を受けた。

 道理はトレーナーらにある。それは誰の目からも明らかであり、他ならぬドーベルがよく分かっていた。

 

(それでも、私は……)

 

 水面に映る自分はひどく頼りなげで、今にも消えてしまいそうであった。

 負の連鎖に従って自己嫌悪の波に沈む彼女を現実へ引き戻したのは彼女の双子の姉、メジロライアンの声だった。

 

「ドーベル! 遅れてごめん」

 

 短く切っ癖っ毛、暁闇を溶かし込んだ瞳。そして何よりも彼女を彼女たらしめているのは、抜けるような清々しい性格である。

 ドーベルの姿を認めるや否や走った彼女の額にはうっすらと汗が滲んでいた。

 

「あれ? マックイーンは? あの子が時間に遅れるなんて、珍しい」

「さっき連絡があったわ。感想戦、長引いてるみたい」

「確かに、一年生のデビュー戦だもんね。指摘はいっぱいあるか」

 

 しばらく経って、マックイーンはやってきた。その表情には鬼気迫るものがあり、周囲の生徒を無言のうちに押しのけている。

 

「申し訳ありません。すっかり待たせてしまって…」

「良いって、良いって。私たちもついさっき来たところだったから」

「そうでしたか、それなら良いのですが…」

 

 マックイーンは怪訝な眼差しを二人に向けた。

 顔に出やすいライアンの目が泳いでいる。

 ドーベルは手を叩き、彼女らの思考を打ち切った。

 

「はいはい、車がもう正門前に来ているから、行くよ二人とも」

 

 トゥインクルシリーズ創設以来の名門であるメジロ家の令嬢たちが肩を並べると、威厳が増し、彼女ら一人一人が醸し出す音色からは想像もつかぬほど重厚な三重奏が奏でられる。

 フリープラネッツのキャプテン、マックイーン。

 週に8回ジムに顔を出すトレーニングジャンキー、ライアン。

 最も過酷なチームと名高いリギルのメンバー、ドーベル。

 それら強烈な個性、或いは肩書きがメジロ家というだけで、付属品となる。

 本家、分家のいずれかのウマ娘が必ずトレセン学園に在籍し、重賞レースで勝利せざるはなし、という驚異的な系譜の出であるがために、彼女らは色眼鏡から逃れる術を持たない。

 例え申し分のない成績を残していたとしても…。

 

 

 

***

 

 

 

「結果は皆様揃って異常なし。まことに重畳でございます。特にマックイーンお嬢様に関しましては、トレーナーが型破りな肩書きですので一層の注意を払いましたが、杞憂だったようです。菊花賞ではライアンお嬢様、そしてテイオー様との良い勝負が見られるでしょう」

 

 メジロ家の主治医が検査の結果を報告している。彼が言葉を区切るたび、対面の老ウマ娘は満足そうに頷く。

 相手は現メジロ家当主、マックイーンら3人の祖母にあたる。

 彼女はシワの刻まれた手で報告書のページを繰っていく。

 

 

「結構、結構。ウマ娘は身体が資本。何かあってからでは遅いですからね。

 ところでドクター。細菌性屈腱炎の研究の進捗はどうですか? 」

 

 細菌性屈腱炎。

 それは原因が判明している唯一の屈腱炎である。病原菌はStreptococcus Ungula。個々の菌体が蹄型に並んだ鎖状の配列を作ることが特徴的で、ペニシリンにのみ感受性を示す。ペニシリンが薬効を示せば、元の生活に戻れるが、耐性菌であった場合、脚が侵され二度と走ることは叶わない。

 メジロのウマ娘では当主である彼女の娘の一人、マックイーンの母が発症し、引退を余儀なくされている。罹患率と家系の関連性も指摘されているため、メジロ家が管轄する研究所では菌についての研究が強力に推し進められていた。

 

「菌の生態すら未だ解明すること能わず。また、病態生理についても未だ多くの謎が残されております。なぜ、筋膜炎ではなく、屈腱炎なのか、目下研究中であります」

「何も詫びることはありません。基礎研究に10年、20年を要するのは世の常です。ましてや努力が結実することなく、成果としてただ行き止まりが一つ見つかっただけ、ということも珍しくありません。臆せず研究を続けてください」

「かしこまりました」

 

 主治医が一礼して部屋を辞した。

 当主は執事を呼び、マックイーンを呼ぶように申しつけた。

 

「よろしいのですか? この後、来客がございますが…」

「待たせておきなさい。何事にも優先事項があります」

 

 本来ならば、メジロの品格を貶める行為である。だが、執事は今回ばかりは敢えて素直に従った。

 

「お婆様、マックイーン、ただいま参りましたわ」

 

 呼び出された理由が思い当たらないからか、彼女はスカートの裾を握って静かに入室した。

 

「マックイーン、貴女に伝えておかねばならないことがあります。が、その前に……今回のハードスケジュール、提案したのはヤントレーナーですか? 」

「いいえ、違います。私がお願いしたのです。あの方はむしろ難色を示しておいででした」

「天皇賞を制すため、ですか? 」

「その通りですわ」

「一つ言っておきます。天皇賞を秋に制そうが、春に制そうが、私たちは構いはしません。だから、無理だけはしないで頂戴」

「分かっております。ヤントレーナーからも重々申しつけられておりますので、ご心配なく」

 

 当主はマックイーンの言葉を聞いて、納得したわけではない。孫の性格を彼女はよく知っていた。

 が、これ以上は逆効果のように思われたため、マックイーンを下がらせた。

深いため息が部屋に吸い込まれる。

 過去と現在と未来、全てが彼女にそうさせた。

 特に、未来の果たした役割が大きいだろう。

 その未来が、姿を見せた。

 

「お初にお目にかかります。トレセン学園元理事、今はトレーナー委員会特別委員を勤めさせて頂いております。伊地知と申します。ご機嫌いかがですかな? 当主様」

 

 よくものうのうと顔を出せたものだ、と彼女は心の中で毒づいた。

 自身が耄碌していなければ、目の前の人物は杜撰な提案によって生徒に不利益を強いた挙句、収賄を理由に理事の座を追われたはずであった。

 が、彼によれば、誤解があるらしい。

 

「まず、そのどちらにも私が関与していたことは事実として認めましょう。しかし、私も被害者なのです。嵌められたのですよ」

「初めて耳にしますわね。例の事件に黒幕がいただなんて」

「そうでしょうとも。しかし、この真犯人の名は聞いたことがおありでしょう。――ヤン・ウェンリーというトレーナーの名を」

 

 伊地知の言うところによれば、ヤンはトレセン学園トレーナーOB会との個人的な繋がりがあった。そのコネを利用して無免許ながらトレーナーとして学園に職を得るや、彼は影響力の拡大を図るため、理事長秘書と通じ、才能豊かなマックイーンが担当ウマ娘となるように手配し、実現した。

 彼が次に目をつけたのは諸事情によりレース参加を拒んでいたアグネスタキオンであった。言葉巧みに彼女を誘導し、選抜レースへの出走を強制。その結果、彼女を悲劇が襲った。現在、彼女は療養の傍ら、ヤンのチームのサブトレーナーを務めている。その真意は彼の毒牙によって選手生命を絶たれるウマ娘をこれ以上生み出さないためである。

 が、彼女の努力虚しく、新たに数人のウマ娘がヤンのチームに参加した。

 

「これは非常に由々しき事態でございます。放置しておけば、後日禍いを引き起こしますぞ」

「それに私の孫も巻き込まれる、と」

「ご明察の通りにございます。一刻も早く手を打たなければ! 」

「妄言を基に動くほど私は暇ではありません。お引き取りください」

「妄言⁉︎ 一体何をもって私の言葉を疑われるのか! 」

「第一に証拠がなく、第二にその説を提唱している者は貴方ただ一人という事実があり、第三にヤントレーナーのお人柄から推察するに、そのような手の込んだ悪事を為すようには思えません」

「ご安心ください。証拠がございます」

「ほう、ではここで見せて頂きましょう」

「それは出来かねます」

「理由を聞いても? 」

「行動を起こすには時機というものがございます。適切な時機に動かぬ証拠を突きつけることで、彼の悪事を快刀乱麻を断つがごとく尽く暴いてご覧に入れましょう」

「その時機というのは、いつでしょうか? 」

「今ではない、とだけ申しておきます。つきましては、その時まで援助をお願いしたいのですが…」

「貴方の言葉が正しい、と証明された暁には協力を惜しみません」

「その言葉、努々お忘れなきよう」

 

 脂汗が絨毯に落下し、シミとなった。

 当主は隠すことなく渋面を顔に貼り付ける。

 伊地知は意に介していない。




チームを担当してしばらく、書類に忙殺されるヤン。
一方のマックイーンは誓いを果たすため、過酷なローテに身を投じる。
次回、ウマ娘英雄伝説『激動』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第27話:激動

更新を怠り、誠に申し訳ありません。
本業の方がやや落ち着きを見せたので、投稿を再開します。
感覚が戻りきっていない部分もありますが、ご容赦ください。
お待たせしました。


「捉えられない、追い縋ることさえ許さない! 今、ゴールイン! 七馬身差。圧勝です。メジロマックイーン、帝王への挑戦権を手にしました。二着はナイスネイチャ」

「このまま逃げ切るのか⁉︎ 後続をグングン突き放して…! 歳の差をモノともせず、先頭を駆け抜けた! メジロ最高傑作、メジロマックイーン、盾を射程距離に見据えます。二着はマヤノトップガン」

 

 破竹の勢い、という言い回しがある。

 九月下旬から十月上旬にかけて、この言葉はマックイーンのためにあるかのようだった。

 菊花賞と秋の天皇賞、両レースのトライアルレースに出場し、見事勝利を収めた彼女は、連続出走の疲れを見せることなく練習場に姿を表した。その様子は鬼気迫るものではなく、かといって安定とは程遠い。

 ただ、異様であった。

 一つの蕾みが開花期を迎えようとしている。

 今の彼女は、例えて言うならば、小石によって生じた波紋が衰えることなく水面を行き来しているかのようである。ある時点で切り取って見てみれば、何の変哲もない。実際のところ、彼女のメニューはそれまでのモノと比べて目新しいものではなかった。しかし、タイムなど数値で示される指標とは別のところで、彼女はめざましい進歩を遂げている。

 それを肌身で感じているのは、チーム内のメンバーではなかった。ヤンをはじめとするフリープラネッツの面々が特別鈍かったわけではない。変化があまりに些細なために、以前のマックイーンを知る者でなければ気づかないのである。

 あじさい色の髪のウマ娘の上に揺蕩う潮流を最も鋭敏な嗅覚でもって捉えていたのは、おそらくマヤノトップガンであろう。

 先日の神戸新聞杯。マヤノはマックイーンと同じく逃げを打った。しかし、結果は二着。肩を並べる瞬間すらなかった。

 菊花賞はマックイーンとテイオーの対決となる。

 それは揺らぐことのない観測であり、マヤノ自身も重々承知している。

 が、そこに割り込んでこそ、幸か不幸か彼女らと同学年に生まれたウマ娘の意地を見せられるというものだった。

 トレーナーの葵も担当ウマ娘を献身的に支えている。

 彼女の生家、桐生院家に蓄積されたノウハウを以ってメニューを組み立て、マヤノの要求に応え続けた。琥珀色の瞳をギラつかせる彼女は間違いなく最高の仕上がりであったし、並の相手ならば百戦百勝することは疑うべくもない。

 が、相手はそこらのウマ娘とは別格の存在であった。

 トップスピードではテイオーに及ばず、スタミナではマックイーンに劣る。

 相手がテイオーだけであれば、序盤から大きく突き離す「逃げ」の作戦が有効である。また、マックイーンのみを意識するならば、徹底マークをした上で最後の直線で抜き去る「差し」の作戦が有効である。

 

(ならば、その二人を同時に相手取るための作戦は…)

 

 葵が最も苦悩している点はそこにあった。

 さらに輪をかけて彼女を懊悩に追いやっているのは、選択肢の多さである。マヤノはどんな作戦でも卒なくこなす。逃げ、先行、差し、追込。彼女が苦手とする作戦は無く、格下相手であれば当日の気分で走り方を変えるほどである。作戦を絞れるはずが無かった。

 

(理想を言えば、最後の直線に入った時点でマックイーンさんがバテている。そして、テイオーさんが追いつけない位置についておきたい。でも、そんな方法…)

 

「葵ちゃん、どうしたの? 怖い顔。よく寝ないと、せっかくの美人が台無しだよ」

「マ、マヤノ⁉︎ すいません、ボーッとしちゃってて」

「もー、しっかりしてよね。葵ちゃんが倒れちゃったら、マヤはレースどころじゃないんだからね」

 

 苦笑して琥珀色の瞳を見る。彼女は怒るわけでも呆れるわけでもなく、ただ純粋にトレーナーを気遣っていた。その親切が有り難くもあり、同時に情けない。レース前のウマ娘の集中を削ぐなどあってはならなかった。

 もし、と何度心中で呟いたか分からない。

 自身がもっと完璧なトレーナーであったならば…。

 彼の首席トレーナーのように、華麗な采配で担当ウマ娘を勝利に導くことができたならば…。

 彼の新人トレーナーのように、粘り強く担当ウマ娘と向き合い、コンディションを好調に保つことができたならば…。

 

「大丈夫です。今日もちゃんと寝ましたし」

「ホントかな? 嘘だったら、今夜はしっかり休んでね」

「そういえばマヤノ、併走はいつも通りリギルの方と行う形で良いですか? 」

「ノープロブレムだよ。でも、どうして今さら聞くの? 」

「いえ、疲労が溜まっているようなら違うメニューにしよう、と思いまして。ほら、併走トレーニングって結構疲れ……」

 

 葵はそこで言葉を区切った。

 マヤノは二の句を待つも、一向にその気配はない。彼女のトレーナーは心ここにあらずといった様子で、ただ遠くを眺めている。

 呼びかけてみても反応が全くない。

 マヤノは大きく息を吐いた。

 医務室へ運ぼうと葵を背負う。

 位置を整え、踏み出した瞬間だった。

 

「マヤノ!」

 

 いきなり両肩を掴まれた。不意のことで動転してしまい、彼女はトレーナーごと仰向けに倒れ込む。葵がクッションになったからか、さほど痛くはない。マヤノは飛び退くと、下敷きになった彼女のトレーナーを覗き込んだ。

 その目はまっすぐと担当ウマ娘を見ていた。

 

「思いつきましたよ。あの二人に対して勝利をおさめる方法を…! 」

 

 葵は空に手を伸ばし、太陽を掴み取った。

 

 

 

***

 

 

 

「一生の不覚だわ、トホホ…」

 

 夕暮れ時。それは仕事帰り、あるいは部活帰りの人々の雑踏が商店街にひしめく時。

 暦上での夏が過ぎ、秋分まで幾日と迫ったからか、日がやや短く、太陽はすでに地平線と約半日ぶりの接吻を交わそうとしていた。

 空気が澄み、アーケードの奥に馴染みの球体が赤々と燃えている。雑踏の演出者たちは誰一人として振り向かない。

 彼ら彼女らにはそれぞれ急がねばならない理由がある。

 

(あんなにキレイなのに…)

 

 久方ぶりに商店街に顔を出したネイチャには、アーケードの奥に沈んでいく夕日が一層際立った印象を与えた。そして、その美しい夕陽に足を止めている者が自分一人のみ、という事実にささやかな優越感が湧いてくる。直視するには少し眩しすぎるが…。

 

「ネイちゃん、どうしたんだい? 道のど真ん中で黄昏れて。もうすぐレースだろうに…」

 

 ハッとして声の主を見やる。いつも顔を出す青果店の店主だった。禿げあがった頭が容赦なく照らされている。

 

「おじさん、いやー、卵切らしちゃってさ。レース前はポーチドエッグって相場が決まってるのに…」

「珍しいこともあるもんだな。ま、それだけ練習をがんばってるってことさ。

しっかし、ついにネイちゃんもクラシック三冠レース全てに出場か。くーぅ、鼻が高いぜ」

「いやいや、出場だけでそんなに喜ばれても困るし。そもそも、なんでおじさんの鼻が高くなるのさ…」

「そりゃあオメエ、お得意様のウマ娘がG1 出れるってのは自慢じゃねえか。ウチらの誇りって言っても過言じゃあるめえよ」

「なにそれ…」

 

 変なの、と付け加え彼女は笑みをこぼす。

 久しぶりに微笑んだ気がした。

 ありがと、と口の中で呟く。あまり、今の顔を見られたくはなかった。きっと酷い顔をしている。

 彼女の内心を知ってか知らずか、店主はよく通る声を響かせた。

 

「そうだそうだ。ネイちゃんに渡すものがあるんだった」

 

 そう言って店主は奥に引っ込んだ。

 再び姿を現すと、彼は片手に半透明のビニール袋を引っ提げていた。

中には檸檬が十個ほど。袋越しにその鮮やかであろう自身の色彩を主張している。

 

「ありがとう、おじさん。でも、なんでレモン?」

「あぁ、これから練習いっぱいするんだろ? そしたら、疲れる。で、そんな時にゃぁコイツの蜂蜜漬けが一番よ」

「それは、そうだけど…。こんなに食べきれないでしょ」

「何言ってんだ。お友達の分に決まってんだろ。ほら、いつも一緒にいるあの3人。あの娘たちにも作ってやんな」

 

 一つ頷くと、ネイチャは控えめな面持ちで袋を受け取った。軽く礼を伝えて、店を後にする。歩く先は、ちょうど夕陽に向かって。

 右手に持つ檸檬は少し重い。ウマ娘にとっては軽いはずだが、トレーニングで疲れが溜まっているからか、彼女はその質量をしっかりと感じていた。

 

「友達か、そう見えていたんだね」

 

 先ほどの店主の言葉を反芻する。

 と、も、だ、ち。一音一音区切って呟いても、元の言葉そのものは変わらない。

 確かに、気づいたら一緒にいるかもしれない。でも、全員チームはバラバラで。得意な作戦もちょっとずつ違う。

 逃げ切り先行型。

 追い抜き先行型。

 自由奔放な天才。

 そして、私。

 テイオーとマックイーンの二人は入学前から注目されていた。それも当然のことで、方やあのルドルフ以来の逸材と評されており、方やあのメジロ家における最高の才能と噂されていた。学園のトレーナーで彼女らの獲得を一度でも望まなかった者はいなかったであろう。同様に、彼女らを凹ましてやろう、という健全な対抗心を燃やしていたウマ娘も少なくなかった。ネイチャもその例に漏れない。が、彼女らの走りを実際に見てからは諦観が心の内に広がった。それはみるみる内に学年中に伝播し、今では彼女らに挑もうとする気概のあるウマ娘の方が珍しい。そして、一度は折れたものの、もう一度彼女らに挑戦しようとするウマ娘はおそらくネイチャただ一人であろう。

 心を折ったのが彼女らであるなら、立ち直らせたのも彼女らであった。

 

「ボクも最後まで気が抜けないよ。だってネイチャの末脚は怖いんだ」

「後ろが見えない、というのは楽かもしれませんが、同時に厄介でもあります。思わぬ伏兵がやって来るものですから。貴女のような、ね」

 

 中・長距離路線を選ぶウマ娘の多くが挑む登竜門 —— ホープフルステークスを目前に控えたある日、彼女らは確かにそう言ったのだ。

 振り返ってみれば、友人としてのリップサービスだった可能性もなきにしもあらずだが、その何気ない一言にネイチャは感化された。以来ネイチャは彼女らの脅威たらんと励んでいる。

 その年の暮れ、帰省したネイチャの口から右のような経緯を聞くと、彼女の母は辛辣な論評を下した。

 曰く、豚も(おだ)てりゃ木に登る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

『ここで臨時ニュースをお伝えします。本日午後、日本トレーニングセンター学園に在籍するトウカイテイオー選手が練習中に発生した脚部の違和感のため、病院に救急搬送されていたことが学園の広報部より明らかにされました。発表された内容によりますと、その後の検査によってテイオー選手は…右脚の骨折が判明し、今週末に出走を予定していた菊花賞を断念する、とのことです。———— 繰り返しお伝えします……』

 

 

 




突然の凶報に動揺を隠せないマックイーンら。
役者が出揃わぬままジュニア・クラシック最後の一冠をめぐるレースが始まった。
次回、ウマ娘英雄伝説『菊花賞』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第28話:菊花賞

 秋もすっかり深まり、季節は一路冬へと向かっている。その証拠に、最高気温は25度を下回ることが常となっていた。人にとっても、ウマ娘にとっても過ごしやすい季節である。

 この季節特有の天高く吹き抜ける空には幾朶(いくだ)もの白い雲が並び、快晴とは言い難い。が、少なくともここ数日は雨がなく、場は良く整っているであろうことが予想された。それはつまり、後方からスパートをかけるウマ娘たちにも十二分にチャンスがある、ということを示している。

 鼻につく強烈な臭気につられて、マックイーンはバスの車窓からふと外を見やった。

 道沿いに立ち並ぶイチョウの樹々は皆一様に色づき、散るまでいくばくも無い葉に透かされた陽の光が優しく彼女の顔を撫でた。

 コロリ、とひとつの銀杏が道に転がり落ちる。鳩も雀も見向きもせず、打ち捨てられた木の実は彼女の乗るバスによって轢き潰された。一層強い腐酸臭が彼女の乗るバスに流れ込む。

 あじさい色の髪の少女は勢いよく窓を閉めた。とても耐えられるものではない。せっかくの鋭い鼻がねじ曲がってしまいそうな程である。ふと前のウマ娘と目が合った。彼女も銀杏の臭いに閉口していたらしい。互いに微笑を交わす。それは1秒にも満たない束の間の交流であったが、マックイーンは相手が自らと同じレースに出走することを悟った。だけでなく、相手のウマ娘も自分と同様のことを無意識のうちに感じ取ったであろう、とほぼ確信に近い結論を直感的に得た。

 横に座るマックイーンのトレーナーは何一つとして気づいてはいまい。彼はベレーを顔に被せて不動の姿勢をとっているのである。神経がワイヤーロープで出来ているに違いなかった。でもなければ、菊花賞を前にしてこのような豪胆な振る舞いをするはずがない。

 マックイーンは制服の胸ポケットから四つ折りになった今日の出走表を取り出す。

 

 

 

ジュニア・トゥインクルシリーズ 菊花賞:於 京都レース場・芝3,000m

 

1枠 1番 ドットロビン

   2番 キノボリジェニー

2枠 3番 ナイスネイチャ

   4番 エバーホワイト

3枠 5番 アウラコスタンゾ

   6番 アイリス

4枠 7番 メジロマックイーン

   8番 ヘリオロンタン

5枠 9番 マリアネッター

  10番 マヤノトップガン

6枠11番 ハニカリッパー

  12番 アクアサンライズ

7枠13番 クララガンシア

  14番 メジロライアン

8枠15番 ピアニーペネ

  16番 サルビアエントナー

  17番 オペロンフレーリー

 

                     以上17名

 

 ウマ番は真ん中やや内側。今日の作戦から行けば、理想は最も内側の1枠のどちらかであったが、こればかりは言っても仕方がない。各々が希望通りの配置になることは決してないのだ。

 その作戦のことである。

 逃げ・先行・差し・追込に大別すれば、間違いなく逃げに分類される。

 まず、初めにトップスピードで先頭に出て、後続と差をつける。菊花賞のような長距離レースで逃げを打つウマ娘は少ない。おそらくハナに立つのは容易だろう。次に中盤にかけて徐々にスピードを緩めていき、秘密裏にスローペースへ持ち込む。そうすることで、最後の直線でスパートをかける余力を残しておく、という寸法だった。

 やや巧緻に過ぎるのではないか、というのが初めにマックイーンが抱いた感想だった。相手が全員手の平の上で踊ってくれれば良い。しかし、こちらの思惑が外れれば、彼女は余計な体力を消費した状態で終盤に臨まなくてはならない。

 作戦を聞いて間もなくヤンに懸念を伝えると、彼は穏やかな微笑で報いた。

 

「たしかに、その恐れはあるだろうね。ジュニアではなく普通のトゥインクルの菊花賞であれば、君の言う通り裏をかかれるかもしれない」

 

 そう言って彼は言葉を区切り、紅茶で口を潤した。

 

「けれども、今回ばかりは心配ないよ、マックイーン。君の相手は経験の浅いウマ娘ばかりだし、何よりも注目されている。全員が君を意識しているわけだ。これを利用しない手はないだろう? 」

 

 事実、テイオーが欠場を決めてからというもの、菊花賞の最有力候補はマックイーンただ一人となった。月刊トゥインクル内において同レースの特集が組まれた際も、彼女に割かれた分量は群を抜いている。

 

『帝王無きターフにもはや敵なし』

 

 そう大きく銘打たれた記事は、見た瞬間に逃げ出したくなるほど気恥ずかしかったが…。

 全てはスタートから最初の丘を下り終えるまでに懸かっている。ここで、いかに他のウマ娘の注意を向けさせるか、が重要であった。

 バスが停車し、ブザーと共に扉が開いた。レース場に到着したようだった。

 傍らの夢うつつなトレーナーを揺すると、彼は欠伸をしながら伸びをし、

 

「もう着いたのかい? 」

 

 と、ひどく残念そうに漏らした。

 

「はい、すぐに控室で着替え。その後はパドックですわ。ほら、急いでくださいまし」

 

 ヤンの背を押し、バスを降りる。

 これまでのレースとは異なり、不思議と足取りは軽く、程良い昂揚感が身を包んでいた。復帰してから3度のレースを経てようやく感覚が戻ってきたらしい。

 

「調子は良さそうだね」

「ええ、すこぶる快調です。今日のレースでは天まで駆けてご覧に入れて差し上げますわ」

「そりゃあ結構。怪我なく地上へ帰ってきておくれ」

 

 あじさい色の髪の少女はわざと頬を膨らませて見せた。もう少しロマンのある回答を期待していたのである。

 

 

 

***

 

 

 

 マックイーンを控室へ送り出した後、ヤンはオグリと落ち合い、観客席へと向かった。今回の同行は彼女の方から言い出したことである。

 灰白色の髪のウマ娘のお目当てはチームの後輩が出走するレースではない。その後の高等部、トゥインクルシリーズの菊花賞であった。

 やがて競い合うことになる相手を一目見ておきたいのだろう。彼女の興味の的は明らかであった。ビワハヤヒデ、ナリタタイシン、ウイニングチケット、BNWと総称されるウマ娘たちである。

 クラシック三冠最後の一角を制するのは、BNWの3人のいずれかである、というのはほぼ定説になっている。これまでにタイシンが皐月賞を、チケットが日本ダービーをそれぞれ獲っている。一方のハヤヒデは不遇が続いている。両レースで二着に敗れ、実力は認められているものの、未だにG1の勝利はなかった。

 最前列に陣取ると、二人はレース場を見渡した。ターフは未だ無人で、日光に照らされた芝が一面に青々と広がっている。

 近いようで、遠い。

 数えるほどしかレース場に足を運んだことのないヤンにも、その距離はありありと感じられる。

 不意に静寂が破られた。

 パドックでのパフォーマンスが一通り終わり、観客がどっと押し寄せてきたのだ。

 彼らに遅れること十数分、ウマ娘たちが続々と姿を現した。

 マックイーンも足取り確かにターフへ進む。流石にG1、最高峰のレースだけあって、観客の数、熱気は七夕賞と比べものにならない。

 ファンファーレがよく晴れた秋空に高鳴った。

 彼女らは一人、また一人とゲートに収まっていく。

 オグリは手のひらが僅かに汗ばむのを感じた。

 空間が引き絞られ、水を打ったように会場が静まり返る。先ほどまでの喧騒が嘘のようであった。

 ガコン、という音と共にゲートが開いた。

 三冠の栄誉を手にするため、ウマ娘たちは相争う。

 スタートから先頭に立たんといち早く加速するはマックイーンともう一人、マヤノトップガン。二人並んで第三コーナーに入った。京都レース場の特徴的な丘が彼女らを待ち構えている。

 細かく刻みながら坂を上る。コーナーを回りながら、紫水晶の瞳の端で後ろを伺うと、マヤノがピッタリとくっついていた。

 

「7番メジロマックイーン、ペースを上げてハナを進む。2番手はマヤノトップガン! 他は譲り気味か、先頭はもう3身先、いや、まだ差は広がっているぞ」

 

 観客が悲鳴まじりにどよめいた。

 彼らの反応は至極もっともである。3,000mのペースではないのだ。このままでは、確実に潰れる。

 後続のウマ娘もまた同じことを思い、内心ほくそ笑んだ。最有力ウマ娘が勝手に脱落してくれたのである。距離をとって控えておき、終盤で一気に抜き去ってやれば良い。

 その群れの中にあって、ただ一人疑念を抱く者がいた。赤銅色の髪のウマ娘、ナイスネイチャである。ある時は親友として、またある時はライバルとして、彼女はマックイーンのスタミナを目の当たりにしてきた。

 

(ひょっとして、最後まで持っちゃったりします…? )

 

 否定はできない。が、全体としてのペースが速いため、無理に動くのは得策ではなかった。

 下り坂でもマックイーンの勢いは全く衰えない。むしろ、まだまだ加速しているように思われた。

 

「第四コーナー終わって、先頭は7番メジロマックイーン! 続いて10番マヤノトップガン! 一周目のホームストレッチに入ります。序盤は二人のランデブー状態、後続は6身から7身後ろ、スーッと長く伸びています」

 

 観客たちは目の前でマックイーンの走りを見て、驚きを通り越して呆れてしまった。

 いくらメジロ最強のステイヤーの呼び声の高い彼女であっても、最終コーナーを前にして力尽きるに違いない。

 一様に嘆く群衆の中、葵はひそかに喜びを噛み締めていた。徹底マーク作戦が功を奏し、最大の脅威であるマックイーンが掛かったのだ。その証拠に200mのラップタイムは11秒。かなりのハイペースであった。

 

(その調子ですよ、マヤノ! )

 

 当のマヤノもたしかな手応えを感じていた。前を行くあじさい色の髪の少女の後ろにピッタリと付けている。スリップストリームを利用しているため、ペースの割には楽であったが、流石にゴールまでは持たない。

 あとは、いつマックイーンのスタミナが切れるかである。このまま行けば、遅くとも最後の直線で足が鈍るはずであった。

 が、彼女は第1コーナーで巧みに減速し、素知らぬ顔で次のコーナーを回った。そのままのスピードで直線を駆ける。背後のマヤノはペースの変化には気づかなかった。徹底マーク作戦が裏目に出たのだ。マックイーンの姿にばかり気を取られ、肝心の彼女のペースには気が回らなかった。いや、平素のマヤノであれば難なく悟ったかもしれない。しかし、この時、いくら前を行くウマ娘にプレッシャーを与えるためとはいえ、無理なペースを自らに強いてきた。ここらで一息ついておかねば、マックイーンと諸共に潰れてしまう。

 

(もう、充分…だよね! )

 

 マヤノはマークを外し、距離を取った。スタミナのきれたウマ娘が後ろに退がる際に巻き込まれないようにするためである。

 

「向こう正面に入って先頭は7番メジロマックイーン! 1身離れて10番マヤノトップガン。さらに2身、3身、4番エバーホワイト。その5身後ろ6番アイリス、9番マリアネッター。後ろの娘たちは差し返せるのか」

 

 先頭が徐々に減速するに従って、後続も無意識のうちにペースを緩めた。距離は未だ2000を過ぎたあたり。彼女らからすれば、自分たちの方が速いペースに釣られて飛び出してしまった、と考える方が自然であった。

 が、ペースを落とさなかったウマ娘が二人いた。

 そのうち一人はメジロライアン。メジロの英才教育と日々のトレーニングによって培われた体内時計が些細なペースの変化に敏感に反応した。そして、その変化の張本人は彼女と同門である。幼少期から共に過ごしていただけあって、彼女の粘り強さはよく知っている。マックイーンがこのまま引き下がるとは思えなかった。

 いま一人はナイスネイチャ。彼女が知る紫水晶の瞳のウマ娘は無茶をしても無謀はしない。周囲が期待するような自滅の可能性をネイチャは考慮すらしていなかった。勝負は最後の直線、とスタートの前から決めている。差し切るためにも、何としても直線で距離を詰めておきたかった。

 最初にその異常に気づいたのは誰だったのかは定かではない。

 もしかしたら、疑問に思っただけかもしれず、次の瞬間には煙のように消えてしまって気にも留めなかったかもしれない。

 実況の声が、それらの疑念を確信へと変えた。

 

「第3コーナーカーブ。全体的にペースが落ちたが、相変わらず先頭はメジロマックイーン! 3身後ろ、2番手マヤノトップガン。さらにその後ろ、4番エバーホワイト、9番マリアネッター、6番アイリス。3番ナイスネイチャ、14番メジロライアン、ここで上がってまいりました。この隙に位置を押し上げようという魂胆でしょうか」

 

 周囲と同様、葵の頭に疑問符が浮かぶ。ストップウオッチでマックイーンのタイムを計測をしてみると、200mを13秒。序盤とは比べるまでもないスローペースであり、長距離レースとしても遅めであった。

 葵の顔から血の気が引いた。

 先頭を行くマックイーンは掛かってなどいなかった。意図的にペースを釣り上げていたのだ。作戦の根底が音を立てて崩れる。もともと、スタミナを切らしたマックイーンを最後の直線で抜き去る予定だった。が、今のままではそれは叶わない。徹底マークによってマヤノも疲弊している。ここまで大胆に息を入れられてしまっては、到底勝ち目はない。

 

「第4コーナーカーブ、最初に仕掛けたのはマヤノトップガン! マックイーンはまだ4身先、追いつけるのか⁉︎ 」

 

 マヤノに続いて、ネイチャ、ライアンも速度を上げる。目標はただ一人、先頭をひた走るあじさい色の髪を靡かせるウマ娘であった。

 コーナーを曲がりきり、マヤノは前にあと1身と迫った。次の瞬間、その背中が遠のく。マックイーンが温存していたスタミナを惜しみなく解放し始めたのだ。足を踏み出せど踏み出せど、差が一向に縮まらない。

 外から赤銅色の影が飛んできた。並ぶ瞬間すらない。

 やや遅れて、もう一人のメジロがマヤノを抜き去っていく。

 

「残り400! 先陣を切ったのは7番メジロマックイーン。食い下がるメジロライアン。ナイスネイチャここまでか。先頭はメジロ一騎討ち! 」

 

 ついにライアンが2番手に躍り出た。先頭までは半バ身。射程圏内である。

 余力は最早ない。

 それはマックイーンとて同様であった。

 残りは約1ハロン。

 ここまで来ればモノを言うのは才能でも機転でもない。

 根性勝負である。

 

「200を通過! 先頭はメジロマックイーン。並びかけてくる、メジロライアン。譲らない。今ゴール! 」

 

 場内は静寂に包まれた。どちらが一着か容易に判断できなかったのである。

 観客は一様に電光掲示板へと目を注いだ。

 灰白色のウマ娘は傍らのトレーナーに陳腐な質問を投げかけた。

 

「なあ、一体どっちが勝ったんだ…。私としては、マックイーンが一着だと思うのだが…」

「彼女のトレーナーとしては、そうであって欲しいね。ただ、今更結果は変えられない。発表を待つとしよう」

 

 オグリは頷くと、掲示板に向き直った。

 やがて順位が発表された。

 

1着: 7番 メジロマックイーン

2着:14番 メジロライアン

3着: 3番 ナイスネイチャ

4着:10番 マヤノトップガン

5着: 1番 ドットロビン

 

 

「マックイーンだ。マックイーンだ! 勝ったのは、メジロでもマックイーンの方だ! 」

 

 場内は喝采で包まれ、歓声が勝者に降り注いだ。

 奇しくも、ここにはいないあるウマ娘の走る姿が全員の頭をよぎる。

 もし彼女が予定通り出走していたならば、結果はどうなっていただろう。




ライバルの勝利の裏で、テイオーの目標は一朝の露となって消え失せた。
が、彼女に俯く暇はない。
憧れは未だ走り続けている。
彼女の脳裏に焼きついたままの姿で。
次回、ウマ娘英雄伝説『星屑の夢』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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第29話:星屑の夢

 帰りの新幹線に揺られるものの、オグリはなかなか意識を手放せないでいた。たしかな昂揚とささやかな焦燥が心の中でせめぎ合って、およそ止まるところを知らなかった。

 ひとつには、つい一時間前に目の当たりにしたトゥインクル・シリーズの菊花賞を見て同学年の −− 特にBNWと称せられる3人の −− 実力を目の当たりにしたことが原因である。結果としてはビワハヤヒデが制したが、他二人とは半バ身も差がついていない。紙一重の勝利と言ってよかった。が、勝利は勝利である。BNWは本意にしろそうでないにしろ、仲良くクラシック三冠を分け合うかたちとなった。

 が、世間の採点は彼女らに対してひどく辛い。

 いわく、『皇帝』ルドルフの前では井の中の蛙。

 いわく、クラシックまでの運命。

 改めて学園のトップに君臨するウマ娘の抜きん出た実力を思い知らされた。一概に比べるのはいささか見当外れではあるが、クラシック三レースを総ナメし、三冠を果たした彼女はBNWが束になってようやく対抗できる存在なのだ。

 そのルドルフの存在がオグリの心を掻き乱す。

 生徒会長にしてトゥインクル・シリーズ史上最強のウマ娘。クラシック三冠、秋シニア三冠・春シニア三冠をすでに達成し、二年連続の秋シニア三冠をもはや確実視されている絶対強者。ジュニア・トゥインクルから足掛け四年もの間、全戦全勝。

 相手にとって不足はなかった。そのような絶対的強者がいるからこそ、遠くカサマツの地から移って来たのだ。オグリがかつてのトレーナーから聞いていた通り、いやそれ以上に中央のレベルは高い。それはシンボリルドルフのような強者が引っ張り上げているのか、それとも……。

 ふと傍らでスヤスヤと寝息を立てているマックイーンを見やった。久方ぶりに立つG1の舞台でほかのウマ娘たちを欺く大芝居を打ったのだ。精魂尽き果てていてもおかしくはない。

 音を立てずに窓外の景色が途絶えた。わずかな間をおいて無機質な明かりがプログラム通りに車内の闇を追い払う。トンネルに入ったようだった。

 はめ込まれたガラスに充実した寝顔が映し出された。同じチームのメンバーとしてオグリは彼女の追い込みを間近で見ていた。それだけに、報われてよかったと思う。だが、彼女がウイニングライブを終えたあとに見せたあの表情。勝利の余韻とそれにともなう一抹の寂しさからにじみ出す影との調和がとれた騙し絵のような二面性。それはオグリには身に覚えのあるものだった。

 競い合うライバルがレースにいない。マックイーンはあまりにもあっさりと勝ってしまったのだ。ヤンの作戦勝ちで、それ自体は褒められるべきだろう。が、あじさい色の髪のウマ娘からすればいささか物足りない。レース中にしのぎを削る、あるいは身をすり減らすようなギリギリの戦いを心のどこかで渇望していた。

 これはトレセン学園に所属するウマ娘たちの本能とも言うべきであった。大なり小なりの隔たりはあれど、彼女らは皆すべからく好戦的で偏執的である。さもなければ、レースにおいて勝ち残ることはできない。

 トンネルを抜けた。

 車窓から差しこむ夕陽が申し訳なさそうに彼女を照らし、色白の肌を黄金色に染めあげた。あじさい色の髪がわずかに揺れうごく。オグリは腰を浮かせて窓に手を伸ばし、ブラインドを下げてやる。マックイーンが器用に寝返りをうって身体を壁にもたせかけた。

 オグリは制カバンの中からケータイをとりだす。留守役であるサブトレーナーにメッセージを送るためであった。

 

『タキオン、帰ってからすこし練習したいのだが良いだろうか? 』

『構わないが、ウェンリー君の許可はとってあるかい? 』

『ヤントレーナーは寝ている…』

『そうかそうか。それなら練習する旨をグループの方で言っておいてくれ。後で説明する手間が省ける』

『了解だ』

 

すすっと画面を切り替え、フリープラネッツのグループチャットに連絡すると、間髪置かずに既読が2ついた。

 

『先輩、アタシもご一緒させて頂いてもよろしいでしょうか? 』

『先輩、オレも一緒に練習したいです! 』

 

 ほぼ同時であった。意識してのことかはオグリの与り知らぬことだが、彼女らは文面でも互いに先を争っているらしい。

 

 

 

***

 

 

 

 学園に戻り、オグリとヤンが練習場に向かうのを見送ると、マックイーンは寮に向かった。肩にかけた旅行カバンがひどく重く感じる。

 空は紫紺に染まり、わずかに地平線から夕日の残り香が滲みだしているのみだった。

 自室に入り勝負服のクリーニングを申請すると、彼女はひとつ息を吐いた。長かった一日がようやく終わりを迎えようとしている。あとは夕食と入浴、そして就寝を残すのみであった。早速そのひとつ目を済ませてしまおう、とドアノブに手をかけるや否や向こうからノックの音が響いた。控えめにドアを開きつつ顔を覗かせると、ノックの主は果たしてナイスネイチャであった。

 

「一緒にご飯たべない? 」

 

 との申し出をマックイーンは二つ返事で快諾した。

 食堂に向かうと、すでにマヤノが席をとっており、ブンブン手を振って場所を知らせてくれた。テイオーもいる。ネイチャとマックイーンの姿を認めると、にわかに顔を輝かせた。

 四人が夜のメニューを受けとり席につくと、テイオーが咳払いをした。3人の視線があつまったのを認めると、スープカップを掲げ、

 

「マックイーン、菊花賞おめでとう! 」

 

 と、音頭をとり、ネイチャとマヤノもそれに和した。

 マックイーンは突然のことにとまどい、紫水晶の瞳を白黒させている。一方の空色の瞳には茶目っけがたっぷりと蓄えられていた。

 テイオーがこらえきれずに笑みをはじけさせ、事情を説明した。

 

「ごめんね、マックイーン。やっぱりボク達が最初にお祝いしたくて」

 

 あじさい色の髪のウマ娘はようやく思考リズムを取りもどす。皐月賞のときも、そしてダービーのときも彼女ら3人は真っ先にテイオーへ祝意をつたえていた。そのお返しのつもりらしい。

 

「ありがとうございます、3人とも…」

「まあね、これぐらい友達として当然のことをしたってだけで…」

 

 それよりもさ、とネイチャが身を乗り出す。

 

「今日の作戦、アンタが考えたの? すっかり手のひらの上で転がされちゃったんだけど」

「あ、それマヤも聴きたい! 葵ちゃんも言ってたもん。こんな作戦を実行にうつすなんてって」

「あれは、ヤントレーナーの入れ知恵ですわ。勝つためには最良の作戦だと…」

 

 やっぱり、とテイオーは心の中でつぶやいた。彼女自身に予感があったわけではない。ただ、トレーナー室で中継を見ていた際にラインハルトが突如イスを蹴って立ち上がったのだ。その整った顔は紅潮しており、口元には不敵な笑みを浮かべていた。

 

「そうだ、そう来なくてはな」

 

 というつぶやきをその場にいた全員が耳にした。彼の語りかけた相手がウマ娘でないことは誰の目にも明らかであった。

 

 

 

***

 

 

 

 レースの直後ということもあり、祝勝会はほどなくして終わりを迎えた。

 

「今日は本当にありがとうございました。お陰様でゆっくり眠れそうですわ」

「そんじゃ、私もお暇させてもらうとしますか。明日からまた授業だしねー」

 

 マックイーンもネイチャも先に自室へと帰った。さすがに疲労とは無縁でいられないらしい。

テイオーは同室のウマ娘に先に部屋にもどって入浴することを勧めた。

 

「ありがとう! テイオーちゃんも気をつけて帰ってきてね。まだ怪我してから日が経っていないんだから」

「わかってるよ、もー、あんまり子供扱いしないでよね」

 

 マヤノは手を振って走り去っていった。琥珀色の瞳のウマ娘のみはまだ元気があまっているようである。

 テイオーは二本の松葉杖を引き寄せ、立ち上がった。この動作にもだいぶ慣れてきた。初めのころは無意識に怪我をした足を使ってしまい、周囲をハラハラさせていたが…。

 カシャンカシャンと規則的に金属の音が響く。すっかり耳に馴染んだ音だ。

 階段では降りるときは松葉杖を先に下ろす。昇るときはその逆。今や自然と杖をあつかうことができる。

 さしたる苦労もなくテイオーは寮の自室に戻ることができた。

 ドアを開けると、シャワーの音が聞こえた。隠しきれないすすり泣きの声も。空色の瞳のウマ娘はこの時ばかりは自らの耳の鋭さを恨んだ。

 松葉杖を机に立てかけ、ベッドに腰掛ける。壁にかけたコルクボードが嫌でも目に入る。

 

『無敗の三冠ウマ娘』

 

 かつての彼女の目標である。怪我さえなければ、達成される可能性はあった。万全の状態で臨むことができたら、少なくとも互角のたたかいを演じたであろう。が、それらは所詮たらればであり、菊花賞はあじさい色の髪のウマ娘が勝ちとった。

 テイオーは油性ペンを取り出し、二本の直線で「三冠」の文字に大きくバツをつけた。

 皐月賞も日本ダービーも制した彼女の手はたしかに夢へ届こうとしていた。が、そうはならなかった。ならなかったのだ。

 彼女は争うことすら許されなかった。




ついにその時がきた。
東京レース場をあじさい色の風が駆け抜ける。
次回、ウマ娘英雄伝説『連戦』
ウマ娘の歴史がまた一ページ。


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打ち切りのお知らせ

前略

 読者の皆様へ

 当作品を永らく読んでいただき、まことにありがとうございます。

 この度、勝手ではございますが、打ち切らせて頂くことに決定いたしました。

 更新を楽しみにして頂いていた方に感謝すると共に、裏切ってしまったことを心よりお詫びいたします。

 理由といたしましては、まず本業が忙しいことが挙げられます。これまでは隙間の時間を縫って着想を得、執筆に励んでおりました。しかし、7月より役職を任せられ、多忙の身となって以来、更新が滞ることが度々となり、恥ずかしながら執筆を負担と感じることが増えて参りました。このような心理状況の中で良い二次創作を望むべくもなく、クオリティが目に見えて落ちていく様は非常に堪えました。

 次に、レースの描写が手に余ったことが挙げられます。

 小説に限らずスポーツ物の宿命ではあると思うのですが、試合が常に物語の一翼を担います。しかし、文字だけで動きを全て表現することは不可能であり、また競馬を見たことがないためにパターンの引き出しが少ないことも災いし、結果として描写が単調になってしまっていた感があります。物語上でこの後予定していたレースは少なくとも10はあり、前途を楽観視できない状況でした。

 さらに理由を求めるならば、構成力の欠如が主要因であると思われます。この物語は登場キャラ間の対立軸が乱立し、物語を徹頭徹尾つらぬく主軸の求心力が弱く、方向性を見失いつつありました。

 一つに、ラインハルトとヤン。

 一つに、テイオーとマックイーン。

 一つに、ルドルフとタキオンおよびオグリ。

 一つに、スカーレットとウオッカ。

 四つもの軸を小説という表現形式で描ききることは至難のことで、僕の力が及ぶところではありませんでした。

 本来であれば、この後ジュニア・クラシックの天皇賞・秋をマックイーンが制し、天皇賞・春で降着、そしてその後屈腱様炎が発見されるプロットを練っていました。

 オグリに関しては有馬記念でルドルフに負けたのち、一年の時を経て初めてルドルフが敗北する予定でした。

 スカーレットはホープフルステークスの後にギャラクシーに移籍する予定でした。

 全て書かずに終わるのは、悔しくもあり、恥ずかしくもあります。しかし、自分の底がありありと晒される羽目にならなかったのも幸いでした。

 ターフの魔術師は最初は5話ほど投稿し、ひっそりと消えるつもりでした。しかし、皆様の反応がとても嬉しく、それを励みに、空白期間を挟みつつも半年もの間連載を続けられたのは、我ながら信じられない思いがします。

 当作品で初めて物語を書きましたが、非常に楽しく、これからも続けていこうと思います。もしかすると、このサイトにまた投稿をすることもあるかもしれません。

 最後になりましたが、本作品の原作である『ウマ娘プリティーダービー』および『銀河英雄伝説』に敬意を評して、打ち切りの報告を終えさせて頂こうと思います。

 

 



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