まちがった青春をもう一度。 (滝 )
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もう一度、初めて雪ノ下雪乃と出会う。

 あまりにも小さな手が、その手をいっぱいにして俺の小指を握っている。

 ついさっきまで顔も身体も真っ赤でまるで別の生き物みたいだとすら思っていた我が子は、雪乃の腕の中でその白い肌を映えさせながらすぅすぅと寝息を立てていた。

 

「気持ちよさそうに寝ているわね」

 

 産婦人科のロゴの入ったガウンを着た雪乃は、安らかな寝顔を見てから小さな微笑みを俺に向けた。

 たった数時間前に産み落とされた命は、確かな熱を持って俺の指を握り続ける。それが反射だと分かっていても、その感覚にさっきからずっと感動しきりで胸がいっぱいになっていた。

 

「結衣はいつ来るって?」

「明日よ。仕事を休んで来るって言っていたわ」

 

 ふさふさのその髪を撫でながら、雪乃は静かにそう答える。さっきから微笑みは、絶え間なくその寝顔に注がれ続けていた。

 

「明日か⋯⋯。俺とは入れ違いになるかも知れないな」

「大丈夫よ。結衣もせっかく休みを取って来てくれるんだし、あなたにも会いたいでしょう。引き留めておくわ」

「ああ、そうしておいてくれ」

 

 明日、俺は朝からこの子の名前を貰いに行かなくてはならない。

 俺たちの考えた何十通りという名前の中から、出生日時を元に最適な名前はどれかと助言を貰いにいくのだ。子どもの命名には姓名判断鑑定士の意見を聞きたいと、雪乃たってのお願いだった。

 生まれたその日に雪が降っていたから雪乃、という名付けに彼女は何か思うところがあったのか、それともただこの子にとっての最高の名前を与えたかったのかは敢えて聞かなかった。

 彼女がそう望むのならば、俺にはその願いを叶える義務と責任がある。それが雪ノ下雪乃と結婚した時の、俺が誰に宣言したわけでもない誓いの一つだ。

 

「そろそろ預けて来るわね」

 

 ああ、と俺が返事をすると、雪乃は優しく俺の指を握ったままのその手を解き、病室を後にする。生後間もない赤ちゃんは、新生児室にいるのが基本だ。名残惜しいが、仕方ない。

 

「そろそろ寝ましょうか。今なら目を瞑っただけで寝てしまいそう」

「ああ、本当にお疲れだったな」

 

 雪乃が部屋に戻ってくると、俺の答えを聞いてから部屋の照明を消す。

 本当に、お疲れ様というか、もう頭も何も上がらない。

 何年経っても雪乃の体力の無さは相変わらずだったから、俺は我が子の泣き声と雪乃の安心した顔を見るまで気が気ではなかった。

 

「雪乃」

 

 ソファベッドに座ったまま、本当にクタクタに疲れた様子の雪乃をじっと見詰めた。

 子を産む落とすという大変さは、その側で見ていてようやく分かるものがある。何度も気を失いながら出産を終えた雪乃の顔は、やつれたなんて言葉じゃ足りないぐらいの疲労が見て取れる。

 俺は雪乃に見つめ返されながら、深い息を吐いて、そして胸いっぱいに空気を吸い込む。

 

「ありがとうな、本当に」

「⋯⋯おかしな事を言うのね。何もお礼を言われるようなことはしていないわ」

 

 そんな訳がないだろう、とすぐにでも言ってしまいそうになるが、それを言葉にすることはやめておく事にした。長くなりそうだし、今は雪乃を休ませる事を優先するべきだ。

 

「おやすみ」

「ええ、おやすみなさい」

 

 見慣れない天井を仰ぎ、ただ目を瞑る。

 数分と経たずに耳に届く寝息の音に、俺は祈りを込めるように意識を手放した。

 

 

       *       *       *

 

 

 懐かしい景色だった。

 リノリウムの床、プリントの擦れる音、仄かに香るタールの匂い。

 気がつくと俺の目の前には、レポート用紙が突きつけられている。

 

「比企谷。この舐めた作文はなんだ。一応言い訳ぐらいは聞いてやる」

 

 鋭利なまでの視線と、刺々しくも酷く懐かしいその声。俺の記憶そのままの平塚先生は、俺の郷愁とは相対するように厳しい表情を向けてきていた。

 俺の眼前に突きつけられたそれには、「青春とは嘘であり、悪であり」とか何とか書いてある。

 この日の事は、はっきりと覚えている。俺が雪乃と会った初めての日だから、忘れられるはずもない。今でもこんな風に夢を見たって、まるで現実かのように感じるほど俺の記憶の中で鮮やかな色彩を放っていた。

 

「いや、ホント何書いてるんでしょうねこいつ」

 

 もしもこれが数年以内に書いたポエムじみた作文だったら、思いっきり恥ずかしがれた事だろう。しかしさすがに干支も一回りするほど昔の事となると、笑うしかない。

「ふむ⋯⋯分かってやっているという事は、確信犯か。よりタチが悪いな」

 平塚先生は一瞬の思案を見せた後に、ギロりと鋭く俺を睨みつけた。えぇ⋯⋯こっわ。割と怖いもの知らずだった高校生の頃ですら怖かったのに、怖いものを知ってしまった今ではより怖い。いや俺ビビリ過ぎだな。

「この忙しい時期にその悪意のある行為は、如何なる理由を持ってしても看過できない。よって君には、奉仕活動を命じる」

 まるで既定路線のような台詞に、俺は思わず吹き出してしまいそうになる。この続きは、分かっている。俺は奉仕部の部室に連行され、強制的に入部させられるのだ。

「はぁ」

「ついて来い」

 有無を言わさぬその言葉に、俺は廊下を久方ぶりの上靴で叩き歩く。その音も凛と澄んだ空気も、何もかもが懐かしい。

「君は部活には所属していなかったな?」

「ええ」

 特別棟に踏み入れながら、俺は短くそう答える。昔懐かしい奉仕部の部室まで、あともう少しだ。

 名前のない、真白なサインプレート。それを見上げて俺は、胸が痛いほどの懐かしさに満たされる。こんなにも現実味のある夢を見るほど、総武高校で過ごした日々は鮮烈に記憶に刻まれているらしい。そのリアリティは、記憶の追体験と言う他ない。

「着いたぞ」

 そう言った瞬間に、平塚先生はその扉を開く。その瞬間、一陣の風が吹き抜けた気がした。

 教室の後ろの方へ押しやられた椅子と机たち。暫く使われた様子もない黒板。窓から差し込む斜陽は、彼女の完璧な造形により深い影を落とす。

 僅かな赤みを帯びたその世界の中、佇むようにただ本へと視線を落とす彼女。世界が終わってしまった後も、きっと彼女はこのままこうしているんじゃないかと思うほどに、その光景は絵画じみていた。

 

 ──俺は彼女の名前を知っている。

 

 雪ノ下雪乃。

 俺の将来の妻であり、たとえ自分の名前を忘れようとも忘れられない名前。

「⋯⋯⋯⋯」

 ⋯⋯いや、それにしても。

 高校生のうちの奥さん、可愛すぎません? いや三十路に近い雪乃も大人の妖艶さも相待って途轍もない美人だし可愛さてんこ盛りなんてすけども、ええ。実際十代の彼女を見ると、わっかいなークソ可愛いなーとしか考えられないわけで。

「平塚先生。入る時はノックを、とお願いしていたはずですが」

 その声は耳馴染みのある声よりも、少しだけ高い。声まで可愛いですね、うちの奥さん。ほんとこの夢、最高だわ⋯⋯。

「ノックをしても、君が返事をした試しがないじゃないか」

「それは返事をする前に、先生が入ってくるからです」

 その棘のある言い方も諦めたような目も、随分と久しぶりに見るものだ。感慨深くそれを見届けていると、ふと雪乃と目が合う。

「それで、そのやたらと腐った目の奥がキラキラしている人は?」

 ああ、いけない。いくら夢とは言え、余りにも無遠慮に彼女を見詰めすぎていたようだ。

「彼は比企谷。入部希望者だ」

「⋯⋯二年F組比企谷八幡です。よろしくどうぞ」

 俺がそう答えると、平塚先生が怪訝そうに眉を顰めた。

 その表情に、この当時の事を思い出す。確か俺は、入部って何だよと抵抗したんだっけか。

「彼にはとある罰としてここでの奉仕活動を命じたところだ。目を見れば分かると思うが彼は相当に性根が腐っているものでな。人との付き合いを学べば多少はマシになるだろう。こいつを置いてやってくれるか。彼の捻くれた孤独体質の更生が私の依頼だ」

「⋯⋯お断りします。その男の獲物を狙うような目に、身の危険を感じるので」

 えぇぇ⋯⋯断っちゃうのかよ。比企谷八幡、奉仕部入部失敗。どんなバッドエンドだよ。いやそう言えば、元々こんな感じで拒否されていたっけか。

「そう言ってくれるな。こう見えて彼は阿呆ではない。下手な事をすればどうなるか、理解しているよ」

 何だか穏やかではない展開に、随分と居心地が悪くなる。

 まあ部屋に入ってくるなりキラキラした目で見てくる奴が居たら、きっと自分目当てでやってきた輩だと勘違いしても無理はない。この頃から雪乃は、自分が容姿に恵まれている事を自覚しているからこその態度だろう。

「⋯⋯それでもまだ、信用は出来ません」

「まあそれも無理もないかも知れんな。些細な事でもいい。もし何かあったら私に言いたまえ。学校から放逐する」

 いや、何だそれ。雪乃の告発ひとつで退学かよ。

 思わず突っ込んでしまいそうになるが、所詮は夢だ。もしあの時こんな風に過ごしていたら、本当に言われていたかも知れない言葉なのだろう。

「それなら⋯⋯まあ⋯⋯。分かりました」

 渋々、と言った様子で雪乃は小さく首肯する。本当嫌そうですね、雪乃さん。ぼくはこうこうじだいのあなたともういちどあえてとてもしあわせですが。まる。

「では、後の事は頼んだ」

 そう言うと平塚先生は長い髪を翻し、颯爽と奉仕部の部室を後にする。随分と懐かしい、奉仕部での雪乃との二人の時間だ。

 長机も、ペラペラの座面の椅子も、何もかもがあの頃の通り。よっこいせ、と俺は自分の席に座ると、その瞬間から雪乃に怪訝な目を向けられる。

「⋯⋯着席の許可も無しに座るだなんて、まるで躾がなっていないようね」

 えぇ⋯⋯許可制だったのかよ。こんな時、俺は彼女にどんな風に返していたっけか。

「俺はお前に『お座り』と言われないと席に座ることも許されないのかよ⋯⋯」

「お座り、という言葉の意味ができるなら、そうして上げましょうか? 犬並みの知能があればだけれど」

 ⋯⋯いや初対面でこれは強烈だな。ここまで下に見られる俺も俺だが、雪乃の態度たるや上から目線どころか雲の上から目線レベルだ。

「別に勝手に座ったっていいだろ。部員なんだし」

「⋯⋯あなた、この部活が何をするか知っているの?」

「奉仕部。依頼が来るまでひたすら暇な部活。違うか?」

 飄々と答える俺に、雪乃は思わずと言った調子で自らの身体をかき抱いた。

「⋯⋯比企谷くん。どう平塚先生に取り入ったか知らないけれど、どうしてそこまで知っているの? 私が目当てなら、今すぐ出ていって貰えるかしら」

 まあ、そんな反応になるよなぁ。雪乃にとって見ればそこまで知られているなんて、ストーキングを受けているも同然だろう。

「なんでそうなる。ここに来る道すがら、平塚先生に聞いたんだよ」

 害意はありませんよ、と知らしめるように、俺は鞄の中から文庫本を取り出す。ぱらりとそれを捲った瞬間に、どこからか流れてくるように一枚の紙が床に落ちた。

 

『救え』

 

 拾い上げたその紙には、ただそれだけが書いてある。何度も直線を書き殴りつけて作ったような字は、どこか脅迫文じみていて鬼気迫るものがあった。

 思わず雪乃の方を見るが、彼女はもう俺の方を見ておらず手元の文庫本に視線を落としている。

 これは一体、どういう事だ。

 俺の知っている出来事の中で、ただこれだけが違っていて、あまりにも異質だった。

 長い沈黙の中、文庫本を読むふりをして頭をフル回転させる。俺が忘れているだけなのだろうか。それともこの空き教室には以前の使用者が居て、悪戯にしかけた紙が何かの拍子に落ちてきただけなのか。

 夢の中だというのに妙に冴える頭で考えていると、無遠慮なまでの音を立てて入口の扉が開く。

「雪ノ下、邪魔するぞ」

「⋯⋯先生、ノックを」

「悪い悪い。ちょっと様子を見に寄ったんだが⋯⋯」

 ふむ、と平塚先生は腕組みをして俺たちを見下ろす。平塚先生⋯⋯が仕掛けたわけでもないよな。意味も動機もなさすぎる。

「雪ノ下、いきなり諦めてしまっていないか?」

「⋯⋯その男と会話を続けていいものか、非常に疑問なので」

 その男、って⋯⋯あなたの将来の旦那さまですよ? いや旦那さまなんて呼ばれた事は一度もないけれども。今度そういうプレイもありだなぁ⋯⋯。

「しかし会話が全ての始まりだ。会話がなければ、お互いの理解も進むまい」

「私は理解も馴れ合いもしたくありませんが」

「そうか。それならそれでも構わない。だが私の依頼は覚えているな?」

「それは⋯⋯はい」

 諦念と後悔の混じった表情で、雪乃は俺の方を見る。いいね、その表情。不信感もここまで露わにされるといっそ清々しいし、一周回って新鮮だ。雪乃はどんな表情をしていたって美しい。

「では、頼んだぞ」

 平塚先生は自分が居ては会話が始まらないと考えたのか、早々に部室を後にする。

 ピシャリと扉が閉まると、雪乃は「はぁ」と諦めたような吐息を一つつくと、読んでいた本を机に置いてこちらに向き合う。

 あの紙切れに書かれていた事の意味は未だ不明。だがこれは夢だ。ならば今は。

 

「自己紹介がまだだったわね。私は二年J組、雪ノ下雪乃。奉仕部へようこそ、比企谷⋯⋯三幡くん?」

「八幡だ。五幡足りてないぞ」

 

 ──ならば今は精一杯、あの頃の雪乃との会話を楽しもうではないか。

 

 

 

       *       *       *

 

 

 

 翌朝俺は、ダイニングテーブルに両肘をついたまま頭を抱えていた。

 そう、翌朝。

 夢の中なのに俺は眠りに落ち、そして目覚めた。夢の中で眠ってしまえば完全に覚醒するだろうと踏んでいたのだが、未だ焼き増しのような世界から目覚める気配もない。

 これは非常に困った事になった。俺は早く目覚めて、生まれたばかりのあの子に名前をあげなくてはならない。こんなタイムスリップごっこなんて、している場合ではないのだ。

 

「⋯⋯どしたの、お兄ちゃん」

 

 いつの間にかリビングに入ってきていた小町が、横から俺の顔を覗き込んでいた。昨日の晩にも会ったけど、十二年前の小町わっか⋯⋯。いや、今の小町が老けたとかは全然思わないけど、ついジロジロと見てしまう。

「いや、何でもない」

「ふーん⋯⋯」

 こちらの言うことを全く信じていない声色で、小町はトーストを焼き始める。

 とにもかくにも昔の彼女たちとの別れは名残惜しいが、俺は元いた世界線とも言える現実に戻らなくてはならない。その為のヒントは、きっとあの紙にあるのだろう。

『救え』

 ただそれだけが書き殴られた紙。あれだけが俺の記憶と違っていて、強烈な暗示をもたらしている。

 一体、誰を救えというのだろうか。

 思い出せば俺の高校生活には、後悔にまみれていたように思える。もっと上手くやれていれば、無用に傷つけたり勝手に傷ついたりなんてしなかった。助けるつもりでいて、救いようもない事態になってしまった事だってある。まったく、救うべき対象が多過ぎて途方に暮れるしかない。

「パン、焼けたけど」

「おぉ⋯⋯ありがと」

 俺が頭を上げると、小町が焼き上がったトーストを皿に乗せてくれる。香ばしい匂いに、沈鬱に溺れそうになっていた心も多少は軽くなった気がした。

「頂きます」

 手を合わせてそう言った俺を、小町は怪訝そうな目で俺を見る。そう言えば毎食前にこんな風に丁寧に頂きますを言うようになったのは、雪乃と一緒に暮らすようになってからだったかも知れない。

 

「お兄ちゃん、今日やっぱ何か変だよ」

 

 そう、俺は変わってしまった。

 十二年という歳月が、関わり合う人が、そして俺自身が──取り返しがつかないほどに、変えてしまったのだ。

 

 だからもし、俺がまたあのまちがった青春をもう一度過ごすとしたら。

 もう今度は、間違うわけにはいかない。

 

 

 

       *       *       *

 

 

 

「比企谷、部活の時間だ」

 

 ホームルームを終えて教室を出た俺を待ち構えていたのは、平塚先生だった。

「いや、わざわざ迎えに来なくても⋯⋯」

「ちゃんと部活に行くとでも言うのか? 口だけではどれだけでも言えるぞ」

 どうやら俺はこの当時の平塚先生には全く以て信頼されていないらしい。実際迎えが無ければ、あの時の俺なら普通に家に帰っていたと思う。

 しかし俺には成すべき事がある。だから本当に部活には向かうつもりだったし、今の俺にはそもそも雪乃に会わないという選択肢が存在しない。

「信用ゼロですね、俺」

「当たり前だ。わざわざ人の手をわずらわせる事をする奴の、何を信用できると言うんだね」

 肩を並べ、特別棟に向けて廊下を歩いて行く。今日俺が言い出す事を、彼女は何と返してくるだろうか。芳しくない答えが返ってくるのは、必定だ。

「時に比企谷。君のその腐った目に、雪ノ下雪乃はどう映る?」

 唐突な平塚先生の問いかけ。それに俺は、何と答えたんだったか。

 いや正直JKゆきのん最高マジ可愛過ぎ抱きしめたいとかバカ正直に答えようものなら、即ゲームオーバーなのは見えている。⋯⋯いや本当抱きしめちゃダメかな? ダメだわな。

「何というか⋯⋯自意識と人間不信の塊みたいなやつですね」

「そうか⋯⋯。まるで自分の事を言っているようだ、とは思わないかね?」

 それは本当に、そう思う。思うけどもうちょっと言い方あるんじゃないですかね、現国の教師なら。

 確かにそんな似た部分があったからこそ、コモンセンスの共有が容易だったのだろう。それ故に勝手に期待して、勝手に裏切られた。俺も彼女も、無用に傷ついたように思う。

「きっと君たちは、どこかでバランスを取り損ねて、狂ったままになってしまったんだろうな」

 平塚先生のヒールが床を叩く音が、黙り込んでしまった俺の耳朶を打つ。

「案外君たちは二人三脚でなら、上手く歩けるのかも知れないな」

「⋯⋯もつれて派手に転ける未来しか見えませんね」

「それだっていいさ。転ぶ時が二人一緒なら、一緒に立ち上がる事だってできるはずだよ」

 未来の事まで全て見渡してきたかのような平塚先生の言葉に、感嘆の吐息が漏れる。まさに慧眼(けいがん)だ。事実俺たちは名実ともにパートナーとなって以降、そうやって生きてきたのだから。

「さあ、着いたぞ。行ってこい」

 奉仕部の部室の入口に着くと、バンと背中を叩かれる。中にまでついてくる気はないらしく、ヒラヒラと手を振って平塚先生は踵を返した。

 扉の取っ手に手をかけると、中にいるであろう彼女を驚かせないようにゆっくりと開ける。

「うす」

「⋯⋯⋯⋯こんにちは」

 すでに部室内に居る雪乃は、俺の挨拶とも言えないような一言にたっぷりと時間を取った後にそう返す。手に持っていた本は開いたまま、僅かな時間こちらを見た後に彼女は言った。

「もう来ないかと思っていたわ。普通あれだけ言われたら、二度と行きたくないと思うはずだけれど」

「生憎面の皮が厚いもんでな。あんなぐらいじゃノーダメージだ」

 昨日は随分と辛辣で悪辣な言葉の応酬があったが、むしろ懐かしいと楽しんでいたぐらいだ。そう言って椅子に座った俺を、雪乃は何の遠慮もなく訝しむ。

「そう。⋯⋯あなたひょっとして、私の事が好きなの?」

「⋯⋯は?」

 雪乃の事が好きかどうかなんて、そんなの好き好き大好き過ぎて愛してるまであるって話だ。むしろ今すぐ抱きしめたいぐらい。いえ、抱きしめさせて下さいお願いします。

 って言ったら、一発退場レッドカードくらうんだよなぁ⋯⋯。だから取り敢えずは、あの時の俺が言いそうな事で繋いでいくしかない。

「お前、どうしたらそんな頭の中お花畑な発想になるんだ? アルプスででも生まれ育ったの? 真名ハイジじゃないの?」

「あら違うの? それなら安心ね」

 うふふ、と俺の言う事などガン無視で口元で笑みを作ったが、目は笑っていなかった。これちょっと怒っている時のやつだ。八幡知ってる。

「ああ、勝手に安心しといてくれ」

 しかしこの流れで、今日の目的を達成するのは何ともハードルが高い。けれど後になればなるほど、言い出すこと自体不自然で筋が通らなくなってくる。

 俺は「んんっ」と咳払いをすると立ち上がり、椅子を雪乃の目の前に持ってくる。そこに座り込んで相対するのは、随分珍しいシチュエーションだ。

「雪ノ下」

 俺が呼びかけると、雪乃は椅子の背もたれに身体を預けて仰反るように俺と距離を取ってくる。いや、そんなに警戒しなくても⋯⋯。

「連絡先、教えてくれ」

「絶対に嫌」

 机にバンと携帯を置いた俺に、雪乃はノータイムで拒絶を返す。ここまでは想定通りだから、問題ない。

「何でだ?」

「何で、って。あなたよくこの話の流れで連絡先を聞こうなんて思うわね。やっぱり私の事が好きなの?」

「どうしてそうなる。一応同じ部活に入ってるんだから、連絡先知っとかないと何かと不便だろ」

 思えばこんな風に、もっと早くに彼女の連絡先を聞くべきだったのだ。そうしていたら、いらぬ不安や不信は訪れなかったのかも知れない。

 もしも、この別の世界線での生活が続くのなら。

 早く元いた場所に帰りたいのは山々だが、最悪のケースも考えて置かなくてはならない。俺の言動の変容によって、すでにこの世界には変化が起き始めている。状況をコントロールする為にも、雪乃の連絡先は入手しておくべきなのだ。

「業務連絡以外、連絡しない。不適切な連絡だったら平塚先生に言えばいい。何か問題はあるか?」

「⋯⋯本当に連絡して来ないわよね? 業務連絡に(かこつ)けたメールのやり取りをしようとか考えてない?」

「だからしねぇって⋯⋯。そう感じたら無視してくれりゃいい」

「⋯⋯致し方ないわね」

 本当に渋々と言った様子で、雪乃も携帯を取り出す。

 雪乃は連絡先を交換する事に慣れていないようだし、俺も昔の携帯の操作方法を思い出しながらで少しばかり時間がかかったが、無事お互いの電話番号とメールアドレスを交換する事ができた。

「試しにメール送ってもいいか?」

「構わないけど⋯⋯セクハラと取られないように、十分注意する事ね」

 本当にこいつ、俺の事どう思ってるんだよ⋯⋯。気が抜けながらも俺はごく短い文章を新規メールの画面に打ち込む。

 

『よろしく』

 

 画面の中で紙飛行機が飛んでいくと、すぐに雪乃の携帯が鳴る。彼女はメールの文面を、心底興味が無さそうに眺めていた。

 今は、それでいい。

 もしもこの世界が続くとしても、俺の目指すところは変わらない。

 俺は絶対に、雪乃と一緒になる。その未来だけは、絶対に変えてはならないのだから。

 

 

 




お読み頂きありがとうございます。
中々こういう設定でのタイムリープは珍しいと思います。
八雪というタグで想像する話とは一味も二味も違うものになるでしょう。
最後までお付き合い頂けたら幸いです。




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由比ヶ浜結衣を諦めない。

 奉仕部の部室に、紅茶の香りはまだない。

 彼女がティーセットをここに持ち込み出したのは、一体いつ頃の事だっただろうか。

 

「⋯⋯⋯⋯」

 

 長く続く静寂の中、ページを繰る音だけが時折微かに聞こえてくる。

 今日この日の事を、俺はよく覚えていた。奉仕部が二名体制となって初めての依頼。その依頼はシンプルなようで、その実伏線じみた出来事だった。

 トントン、とこの沈黙がなければ聞き逃してしまいそうなほど弱々しいノックの音が、部室を横切っていく。

「どうぞ」

 雪乃は視線を落としていた本に栞を挟むと静かに、しかし凛とした声で扉の向こうの来訪者に告げる。

「し、失礼しまーす⋯⋯」

 緊張を隠しきれず、少しだけ上擦った声。初めてこの部屋を訪れた彼女は、いきなり「やっはろー!」なんて元気のいい挨拶をするわけもない。

 俺と雪乃の、最初の依頼者。──由比ヶ浜結衣は、いつかと同じように、キョロキョロと奉仕部の部室内で視線を彷徨わせていた。

 今朝方も教室でその姿を見ていたものの、こうして近くで、そして視線を交わす事でようやく再会したのだと実感できる。

 ティーンエイジャーの結衣は、どこからどう見ても可愛らしく素敵な女の子だ。薄く桃色がかった茶髪に、着崩された制服。そしていつものお団子頭を見て、俺は自分でもよく分からない安心感から思わず笑みを浮かべてしまいそうになる。

「な、なんでヒッキーがここにいんのよ⁉︎」

 俺と目が合うなり、急に慌てふためく結衣。思えばその反応から、様々な可能性は推測できたはずなのだ。

「いや、俺はここの部員だし」

 いつかの記憶を呼び起こしながら、可能な限りその言動をトレースする。

 俺が椅子に座ることを勧め、雪乃はフルネームで彼女を名前を言い当てる。何もかもがあの日の通りだ。

 悪態とも冗談ともつかない態度の雪乃と俺の言葉の応酬に、今日はもう一人ゲストを迎えて会話は進んでいく。

 ここでの会話は一字一句として間違いたくなかった。もし何かの間違いであの当時と齟齬があっては、俺の知りたかった事は永遠に知り得る手段がなくなってしまう。

 

「必ずしもあなたの願いが叶うわけではないけれど、可能な限りのお手伝いはするわ」

 

 雪乃のその言葉が、結衣の依頼のトリガーだ。本題に入ると結衣は急に慌て出して、早口で言う。

「ああ、あのね、クッキーを⋯⋯」

 思い出したように俺を見て、結衣は言葉を途切れさせる。思えばこれが最初で最大のヒントだ。その答えは、彼女の口から聞かない事には分からない。

「比企谷くん」

「⋯⋯ちょっと飲み物買ってくるわ」

 雪乃に促されるがままに、俺は立ち上がり廊下に出る。バンと扉が閉まる軽い音の後に、俺は室内の声が聞こえるように僅かな隙間を作った。

 まったく、盗み聞きなんて趣味が悪いし、最低な行為の一つだろう。しかしここで得られる事実は、俺にとって非常に重要な事だった。

 俺は廊下の壁に背を預けると、部室内の声に耳を澄ませる。

「それで、要件は?」

「うん⋯⋯。クッキーをね、あげたい人がいるの」

 気付けば俺は、結衣の声を聞くたびに心臓の鼓動を早くさせていた。彼女たちの表情は窺い知れないが、その声から真剣さが伝わってくる。

「あの、さっきそこにいた、ヒッキーなんだけど」

「⋯⋯比企谷くんに? 何故?」

「その⋯⋯ちょっと気になってるっていうか。⋯⋯うん。そんな感じなんだけど⋯⋯」

「由比ヶ浜さん。あなたの為に言うけれど、人を見る目を養った方がいいわよ?」

「え⁉︎ な、なんで? ヒッキー、結構よくない?」

「⋯⋯正気なの? 全く理解できない価値観ね」

 雪乃の言い草は随分なものだったが、もうそこまで聞ければ十分だ。これで今日の俺の目的は、達成された。

 廊下の壁から背中を離すと、俺は音を立てないように歩き出す。少しだけ、ゆっくりと。そうすればまた彼女たちの会話は、終わっているだろうから。

 

 

 

       *       *       *

 

 

 

 家庭科室にはバニラエッセンスの香りで満たされていた。⋯⋯のは数十分前の出来事だ。

 今この場に置いては甘ったるい匂いに焦げ臭さが混じって、何とも食欲をそそるどころか減衰させる香りが漂っている。

 

「な、なんで⋯⋯?」

 

 愕然とする結衣の姿は、今の彼女からは想像できないぐらいだ。俺の知る結衣はいつの間にやらお菓子作りが趣味になっていて、今では雪乃と比肩できるほどの腕前だ。最初ってこんなんだったんだなぁ⋯⋯と思うと、時間の流れというのをありありと感じる。

 

「おい、これマジで食うのかよ」

 

 俺は朧げな記憶の引き出しを無理やり開いては、あの当時の俺の言いそうな事を重ねていた。

 先程の彼女たちの会話から、結衣が最初に奉仕部に来た時から、俺に恋心の火種のようなものを抱えているのは分かった。俺にクッキーを渡したい、そして仲良くなりたいという結衣の思いを、雪乃は最初から知っていたのだ。

 だからこそあの高校二年の冬、雪乃は結衣に遠慮するような行動を繰り返したのだろう。いや、遠慮なんて言葉では足りない。俺の決断の甘さから、彼女たちに過剰なまでの懊悩(おうのう)を強いる事になったのだ。

 何もかもが後悔にまみれているわけじゃない。

 何もかも間違いだったなんて、思うわけもない。

 ただもっと上手くやれるはずだったと、そう思う。

 

「食べられない原材料は使っていないから問題ないわ。それに私も食べるから大丈夫よ」

 

 コソッと耳打ちしてくる雪乃に、思わず背中がそってしまいそうになる。油断したところにパーソナルスペースに入られると、それが慣れ親しんだ距離だとしても思わず反応してしまう。

 この繰り返しの世界の生き方は、俺の中でほとんど決まっていた。

 俺は最終的に雪乃と一緒になる。その目的は変わらない。そして俺は雪乃と結衣の関係性も、諦めたくはないのだ。

 結衣の恋が実らずに傷つくことは、この段階で俺が雪乃への気持ちを表明する事で回避とまでは言えないにしても、彼女の傷を最低限にする事ができるだろう。

 しかし、それではダメだ。

 俺が気持ちを明かせば、結衣はあっという間に雪乃との距離を取り、絆は育まれない。雪乃にとっての結衣は⋯⋯結衣にとっての雪乃は、生涯に一人出逢えるかどうかの親友であり、かけがえのない存在だ。

 どのぐらい二人の絆が強いかと言うと、映画のコマーシャルを見てそのうち観に行こうと約束していたのに、結衣に誘われたら俺に断りもなく観に行っちゃうレベル。いざ俺が映画に誘うと「その映画ならもう結衣と観に行ったわ」なんて事後報告されるんだぜ? いやこれは俺がぞんざいに扱われているだけだな⋯⋯。

 

「⋯⋯死なないかしら?」

 

 さっきまでクッキーを見詰めていた目に不安を滲ませて、雪乃が俺を見ている。

 とにかく俺ができる事は、彼女たちが友情を育むのを邪魔しない事だ。基本的には、記憶のある限り元いた世界線での出来事をなぞることになる。その上で、適宜まちがいを修正していく。

 その過程で結衣が俺に恋心を募らせていくのは、自惚れと言われようと分かりきっている事だ。何せあの時も相当に情けない姿を見せたし酷い事をしたというのに、最終的に結衣は俺に惹かれていた。

 故に結衣が傷つかず、雪乃との友情も諦めないのは成り立たない。だからこれは、俺の酷く自己中心的な選択なのかも知れない。あの暗示めいた紙に書かれていた『救え』という言葉への答えとして、間違っている可能性だってある。

 それでも俺はその選択において、迷いはない。結衣と雪乃は、お互いにとって必要な存在であると確信している。

 

「俺が聞きてぇよ⋯⋯」

 

 黒焦げのクッキーを見ながら、まだ食べてもいないのに口の中に苦味が広がる。

 ああ、そうだ。あの頃の事を思い出すと、苦かったりしょっぱかったり。

 だから少しでも、俺はその苦味を取り除く。

 

 

 

       *       *       *

 

 

 

 それからの日々は、目まぐるしいものだった。

 クラスで三浦に詰問される結衣を雪乃が救うというよりは後々長きに渡る禍根を残し、材木座は相変わらずのクオリティだった。材木座の依頼についてはあの時より酷くこき下ろしておいたが、まぁどうでもいい。

 つづくテニス対決では、戸塚が天使だった。今やアラサーの戸塚は俺より先に結婚して子どもまでいる。無精髭を生やしたイケメンになった戸塚を見た時の俺の絶望と新たな扉が開きそうになる姿を想像してみて欲しい。いやしなくていい。

 

 そんな繰り返しの日々の中で、あえて変化を与えている事がある。

 あの、事故に纏わる話。

 ことこの話題について俺は避けて動いていた。あの事故で借りがあるから結衣が俺に気を使っているのだと自他ともに欺き、結衣を酷く傷つけてしまった。俺は雪乃は嘘を吐く事をしないと勝手に決めつけ、勝手に失望した。

 思えば加害者だ被害者だという感覚すら、滑稽だ。怪我をしたから俺が被害者という扱いになっただけで、理由はどうあれ俺がした事は自転車という軽車両による進行中車両への進路妨害。物損事故なら俺が加害者になっていた可能性の方が高い。

 ではその変化を与えた結果、どうなるか。

 

「でさー、このお店行ってみたくって」

 

 チェーンメールの一件の後。あの時俺は職場見学の折りに、結衣に「事故の事で気を使う必要はない」と言い、傷ついた彼女は奉仕部へ来なくなった。

 それをしなかったこの世界線においては、結衣が部活を休むという事自体が無くなり、俺の知らない状況が始まったのだ。

「そう。またそのうちね」

「えー、それ断る時のやつじゃん!」

 仲良きことは美しきかな。しかし俺には漠然とした不安と、焦燥が常に付き纏っていた。

 一体俺は、いつになったら元の世界線に戻れるのか。もし時間の流量が共有されていて、戻った時には何日も経っていたとしたら?

 焦っても仕方のない事は分かっている。だが毎晩我が子の事を思い出し、出産でやつれた雪乃の姿を思い浮かべていると、会いたい気持ちは日に日に大きくなるばかりだ。

 

「ねぇヒッキー」

 

 急に声をかけられて、俺は声のした方へ視線を向ける。

 結衣はグイグイと雪乃の二の腕あたりを引っ張って、僅かな抵抗を見せる彼女を逃がさない。

「ゆきのんがつれないんだけど。なんかいい方法ない?」

 ⋯⋯本人の前で聞くことじゃねぇな、それは。

 でもそんな無防備にじゃれつく姿を見れる事だけが、この世界線に来てからの唯一の救いだ。俺が俺についた嘘で傷つけられる事のなかった結衣は、こんなにも無邪気に彼女と戯れる事ができている。

「俺が知るわけねぇだろ⋯⋯」

「そうよ、由比ヶ浜さん。比企谷くんにそんなコミュニケーション能力があれば、こんな所にはいないわ」

「こんな所って言っちゃったしよ⋯⋯。けど見くびってもらっては困るな。ネズミ講の勧誘と堕転へ(いざな)う事に関しては俺の右に出る者はいないぞ」

「そうね。人の足を引っ張ることと他人の不幸が好物のようだしね」

 昔の俺の思考回路を思い出しながら、雪乃との応酬を繰り広げる。そんなやり取りを少し引き気味で見ている結衣の姿が、どこか懐かしい。

 けれど雪乃の一言に、俺は一抹の不安を覚えていた。

『比企谷くんにそんなコミュニケーション能力があれば』

 ありさえすれば、雪乃を遊びに誘えるだろうか?

 答えは否だ。誘ったとしても、まず間違いなく断られる。今の俺への対応を見れば、それは明白だ。それはもしもの時に、かなり困る事になる。

「とりあえずはあれだな、ゴリ押し合掌土下座、三種の神器でなんとか頑張れ」

「土下座は嫌だよ⋯⋯」

「酷い神器もあったものね⋯⋯」

 非難の目を向けられながら、俺はどこ吹く風で腕を組んで鷹揚に頷く。

 結衣ならきっと、ゴリ押しだけで簡単に雪乃は陥落させる事ができるだろう。まったくそういう点は、いつまで経っても結衣には叶わない。

「ねー行こうよー。ね? いつ行く?」

「由比ヶ浜さん、会話を戻すのはやめてちょうだい。行かないと言っているわけではないでしょう?」

 ほら、この会話の流れならばもう後五分とかからないだろう。

 

 ⋯⋯いいなぁ、JK雪乃とデート⋯⋯。

 

 

 

       *       *       *

 

 

 

 不安や杞憂というのは、基本的に大当たりと大外れの二種類しかない。

 今回のケースでいくと、大当たりという事になる。

 

 週末の土曜日。

 俺と小町は東京わんにゃんショーに出かけ、会場で雪乃に会った。ここで俺が変化を与えたのは、同行する際に結衣とのニアミスを避けた点だ。

 あの時の結衣は俺と雪乃がデートしていると勘違いしていたようだし、折角彼女たちが築き上げてきた関係性に刺激を与える事は避けたかった。

 俺にとっての間違いを、正した結果。

 結衣に奉仕部に戻って来て貰うために、誕生日プレゼントを雪乃と買いに行くというイベントが消失してしまった。それは(すなわ)ち、雪ノ下陽乃との初めての邂逅を避けるという事に繋がる。あの日初めて、今では義姉となった陽乃さんに出会ったのだ。

 どんな出会い方をするか分からないという状況は、何としても避けたかった。陽乃さんの行動を読むのは余りにも困難だし、より状況がコントロールしにくくなってしまう。それに何より女子高生の雪乃とデートしたい。したいったらしたい。

 

「⋯⋯どしたの、そんな深刻な顔して」

 

 ソファに座ったまま携帯を握り締めて項垂れている俺を見て、小町は心配そうに声をかけてくる。わんにゃんショーで歩き疲れたのか、俺の隣に腰を下ろす動作がいつもより乱雑で、僅かに身体が揺れる。

「まぁ、ちょっとな⋯⋯」

 まさか将来の奥さんをデートに誘うのにどんなメールを送ろうか悩んでいる、などと正直に言えるはずもない。

 多分、余程巧妙にメールを送らないと、俺からのメールは業務連絡として扱われず奉仕部からさよならルートだろう。いや流石に即刻そんな事になるとは思っていないが、結局雪乃に取ってみたら自分目当てに奉仕部に入ってきた輩になってしまう。まあ今この状況においてはそれが真実であるわけだが。

「何、結衣さんにメール?」

「⋯⋯違うけど」

 何故そこで結衣なのだろう。まあ、側から見ていて俺と雪乃は連絡先の交換していないと勝手に思い込んでいても仕方はない。

 俺から「結衣の誕生日プレゼントを買いに行きたいんだけど、付き合ってくれないか」と提案するのも、手の一つではある。しかしそうすると、雪乃からしたら俺が結衣に気があるように映るだろう。それもあまり具合がよろしくない。

 まさか自分の奥さんにメールを送るのがこんなに難しいとは思わなかった。色々拗れすぎだろあいつ⋯⋯。いや、俺もか。

「まあまあ、メールの添削なら任せてよ。気持ち悪いかどうか判定してあげるよ」

「判定項目がおかしいんだよなぁ⋯⋯」

 俺は空っぽのメールの画面を見られないように、スリープボタンを押して画面を消灯させる。すると画面が消えたその瞬間に、ポコンと通知バナーが現れる。差出人の名前を見て、俺は思わず画面を二度見してしまった。

「あれ、ひょっとしてもうメールのやり取りしてる最中だった?」

「いや、してない。アマゾンからだ」

 俺は携帯をポケットにしまうと、トイレに行くふりをしてリビングを出た。トイレに入った瞬間、メールの画面を開くと食い入るようにその文面を目で追う。

 

『明日の比企谷くんと小町さんの予定を教えなさい』

 

 無いよ無い! むしろあっても全部キャンセルするからオールフリー!

 と思わず打ち込んでしまいそうになるが、ここは冷静にならなくてはならない。差出人の名前が『雪ノ下雪乃』と書いてあるのを何度も確かめながら、俺は深呼吸して心を落ち着かせる。

 あの頃の俺なら、どう答えただろう。自分の事だから、こんなどうしようもない事をつらつらと書いたのだろう。

 

『明日は一日中家に居て十分に休養を取るという予定でいっぱいだ』

 

 俺は震える指先で紙飛行機のアイコンを押すと、頼りない音を立てて電子手紙は飛んでいく。なんで自分の奥さんにメール送るのに、こんなに緊張してるんだか。

 それにしても、なぜ雪乃は小町に直接しないのだろうか。てっきり川崎大志からの依頼で川なんとかさんの問題を対処した時に、連絡先をやり取りしたのだと思っていたが。

 そんな事を考えていると、またメールの通知バナーが画面に現れる。

 

『明日の午前十時、千葉駅集合。必ず小町さんも連れてくるように』

 

 有無を言わさぬメールの内容に、思わず笑みが溢れる。本来俺と雪乃が連絡先を交換したのはもっとずっと後の事だったから、この頃の雪乃とメールをするとこんな感じになるのか。このツンツンしてる感じの文面も、新鮮でいい⋯⋯。

 などと感慨に浸っていると、流石にそのメールのままだと一方的過ぎると思ったのか、すぐに次のメールが届く。

 

『由比ヶ浜さんへのプレゼントを、一緒に選んで欲しいの。小町さんに』

 

 こんなメールのやり取りに、あの頃の俺ならなんて返したのだろう。きっと面倒くさがってあの手この手で逃げようとするに違いない。

 しかしまあ、そんな事をしても無駄なのを、今の俺は知っている。

 

『了解。部長』

 

 だから俺はそれだけ書いて送ると、そっと携帯をポケットにしまった。

 

 

 

       *       *       *

 

 

 

 翌日、日曜日。

 雪乃と合流した俺と小町は、電車に揺られ南船橋駅へ向かった。目的の駅に着くとららぽに向かい、そして小町は失踪した。当時の俺は何してくれとんねんと思ったものだが、今の俺なら素直に言える。ありがとう小町。八万ポイント進呈します。

 

「小町さんが居ないとなると、困ったわね⋯⋯」

 

 立ち並ぶ店と店の間を歩きながら、雪乃は悩ましげにため息を吐く。

 フェミニンなフレアスカートにカーディガンを合わせた軽やかでお嬢様然とした服装。それにツーテールというまさしく美少女という出立ちの雪乃が眩し過ぎる⋯⋯。特にこの髪型なんて結婚してから一度も見たことがないぐらい久しぶりだ。写真撮りたい。携帯の壁紙にして一生眺めていたい。

「その言い方だと俺がまるで戦力外のように聞こえるんだが⋯⋯」

「その言い方だとまるで自分が有用な人間であるかのように聞こえるのだけど」

 何ともバカにしくさった言い草と視線に、俺は苦笑を浮かべるしかない。まったく、みくびらないで貰いたいものだ。毎年雪乃の誕生日プレゼント選びにゲロ吐くほど悩んでいる俺が戦力外のわけがないだろう。

「とりあえず雑貨店だな。色々置いてあるから、それを見ながら相手の生活スタイルを想像してみて、喜ばれそうな物のジャンルを見つける」

「⋯⋯案外まともな事も言えるのね」

 心底意外そうな視線が、居心地悪いを通り越していっそ気持ちいい。本当に当時の俺、どう思われてたんだろ⋯⋯。

 手近な雑貨店に入ると、雪乃は商品を手に取るわけでもなくひたすらに多種多様な商品たちに視線を送っていた。しかし雪乃から結衣に贈るプレゼントはいいにしても、俺から結衣に贈るプレゼントはどうしたものか。

 あの時はわんにゃんショーで結衣と会った時に、サブレの着けていた首輪が壊れていたから首輪を贈ったのだが、今回はそのきっかけ自体が存在していない。

「由比ヶ浜さんって、どんな生活をしているのかしら⋯⋯」

 その言葉に俺は、顎に手をやり昔の事を思い出す。まだこの時は、雪乃と結衣の関係は深いとは言えない。お互いの家を行き来するようになるのも、まだまだ先の話だ。俺は俺である程度知っている事もあるが、それを(つまび)らかに出来るわけもない。

「まあ、ゆるふわガーリーでちょっと頭のネジが緩んでそうな生活スタイルなんじゃねぇの」

「言い方に悪意を感じるわね⋯⋯」

 確かに言い方は酷いが、あながち間違った事は言っていない。ルームフレグランスで香りを楽しんだり、ただその空間を彩る為だけにオーナメントを飾るのも、良い意味で緩んでいるからこそだ。頭がガチガチだと、身の回りには実用的でミニマルな物しかないなんてよくある話。レスイズモアとか言い出して断捨離し始めるまである。

 俺の知り得る結衣の生活を思い出していると、思いの他早く彼女へのプレゼントを思い付いた。いや、目に留まった、というのが正しいかも知れない。

「俺はこれにする」

 そう言って手に取ったのは、デフォルメされた犬がプリントされた耐熱ボウル。お菓子を作るのにも料理をするにしても、ボウルは必需品だ。

「流石にそれは、当て擦りのように思われないかしら⋯⋯」

「お前の方こそ由比ヶ浜の事をどう思ってるんだよ⋯⋯」

 半ば引き気味の雪乃に、俺は苦味の走った笑みで応えるしかない。

 だが、彼女は知らないのだから仕方がない。きっと結衣は、犬のプリントが擦り切れるまで、このボウルを使ってくれるだろう。その頃には、とんでもなく腕の良いパティシエールの誕生だ。

「あとはお前の分だな」

「ええ⋯⋯。中々難しいわね」

 頬に手をやり首を傾ける姿は大変に可愛らしい。うっかりキスしてしまいそうになるから、自重して頂きたいものである。

 真剣に悩む雪乃の横顔を見ながら、俺は彼女の選ぶプレゼントを思い描いていた。きっと彼女は、この世界線でも結衣へのプレゼントにエプロンを選ぶのだろう。

 俺の知る結衣は、一度だって違うエプロンを着けた事はないのだから。

 

 

 

       *       *       *

 

 

 

 ららぽの長い通路を歩きながら、俺はそろそろかと気を引き締めていた。

 ここから先は、陽乃さんとエンカウントする可能性がぐっと高くなる。陽乃さんと初めて会った場所は大体覚えているのだが、時間配分も寄る店もあの時とは少しばかり変わっている。ひょっとしたら今日遭遇しない可能性だってあるのだ。

 そうなったら、まあ仕方がない。何から何までコントロールできるとは、端から思っていなかった。

 俺と雪乃は適当に服屋の商品を見た後に、いつかのようにキッチン雑貨の店に入っていた。俺から結衣に贈るプレゼントに着想を得たのか、雪乃は先ほどの店よりも本格的なラインナップに目を凝らしている。

「比企谷くん」

 俺も何となしに商品を見ながら歩いていると、不意に声をかけられる。確かこの時、雪乃はエプロンを──。

「こんなのはどうかしら?」

 振り向きざまにずい、と俺の目の前に差し出されたのは、猫耳の生えたミトンだった。パクパクと猫の口を開閉させて、雪乃は俺の様子を窺っている。

 ⋯⋯っべー、尊すぎて尊死するところだった。何もかもが同じではない、という事は、こんな風に個人的なサプライズも起こり得るという事なのか。

 しかしここまで来たら、JK雪乃のエプロン姿を見てみたいゾ! と欲張ってしまうのも仕方ない事だと思う。

「⋯⋯ミトンとかはもう家にあるだろ。エプロンとかならどうだ?」

「確かにそうね」

 エプロンの売り場まで歩くと、雪乃はほとんど迷う事なく黒い薄手のエプロンを手に取る。猫の足跡のイラストがワンポイントで入ったそれを、雪乃は俺が促すまでもなくさっと羽織った。

「どうかしら?」

「いい。とても似合う。すげぇ可愛い」

 本当に、悶絶するぐらい可愛い。のたうち回りながら言わなかっただけ褒めて欲しい。

 コンマ一秒の間も許さず返された答えに、雪乃はポカンと呆気に取られたような表情を浮かべている。たしかこの時も褒めたはずなんだけど、ちょっと反応が大袈裟だったかも知れない。

「⋯⋯けど、由比ヶ浜に似合うかどうかというと、微妙だな」

「そ、そうよね⋯⋯」

 僅かに頬を朱に染めて、雪乃はさっとエプロンを脱ぐと綺麗に畳む。いつかと同じで、商品棚に戻すような事はしない。

 それに少し、安心する。このエプロンが大分くたびれてきて俺が新しい物をプレゼントするまで、大事に使ってたもんな。しかしうちの奥さん、俺に褒められたから即買いとか本当可愛らし過ぎでは? 史上最強ツンデレに素直属性とかカオス過ぎて最早キメラなんですが?

「もっと由比ヶ浜に似合う色とか柄とか、想像して選んでみたらどうだ。普段着てそうな服とかさ」

「⋯⋯比企谷くん。慣れているのね」

 含みのある言い方が、妙にひっかかる。いやこのノウハウ、あなたへのプレゼント選びで培ったものなんですが⋯⋯。

「まあ、妹がいるとな」

 俺がそう誤魔化すと、そうねと言わんばかりに雪乃は小さく頷いた。そして結局手に取ったのは、見覚えのあるピンクのエプロンだ。

「これがいいと思う」

「おお⋯⋯。悪くない」

 努めて大袈裟なリアクションはせず、静かに同意する。俺の反応に少しだけ安心したような表情をして、雪乃は二つのエプロンを胸に抱いてレジに向かう。

 その後ろ姿を見ながら、ふと思いついてしまう。けれどもう手遅れだ。

 ピンク色のエプロンも、試着して貰えばよかった⋯⋯。

 

 

 

       *       *       *

 

 

 

「あれー? 雪乃ちゃん? あ、やっぱり雪乃ちゃんだ」

 

 いつかのようにゲームセンターに寄ったあと。

 全然陽乃さんに会う気配もないし、そろそろ帰るかと通路をそぞろ歩いていると、不意にその声が耳に届く。

「姉さん⋯⋯」

 出会う場所は微妙に違うにしろ、これで予定調和は完了だ。陽乃さんは同行していた友人らしき人たちに声をかけると、嬉々としてこちらにやってくる。

「こんなところで──あ、デートか。デートだな? やるじゃん雪乃ちゃん。このこのっ」

「⋯⋯⋯⋯」

 肘で小さく雪乃を突く陽乃さんと、冷め切った表情を浮かべる彼女。あの時は随分居心地の悪い思いをしていたものだが、今この時に限っては安心しているぐらいだ。

 そんな全力不機嫌の雪乃を気遣う様子もなく、陽乃さんは矢継ぎ早に続ける。

「ねぇ、この子は雪乃ちゃんの彼氏? 彼氏なんでしょ?」

「⋯⋯違うわ。ただの同級生よ」

 いえ、将来の旦那です。

 ⋯⋯と言うのは心の中だけにして、俺は陽乃さんと雪乃やりとりを見守り続ける。相変わらず雪乃は凄い不機嫌だし怒っているぐらいだというのに、陽乃さんは嗜虐的な笑みを浮かべて楽しそうだ。

「雪乃ちゃんの姉の陽乃です。雪乃ちゃんと仲良くしてあげてね」

「⋯⋯どうも。比企谷です」

「比企谷⋯⋯へぇ」

 その表情を見て、俺はしまったと口を噤んだ。

 あの時と、全く同じ表情。俺の全身を確認するような視線。

 この視線の意味が、事故の後遺症がないかどうかを確認する意図があったとしたら?

 高速で頭の中のパズルが組み上がっていく。

 もうすぐやってくる夏休み。雪乃はほとんど軟禁状態で結衣とのメールはほとんどまともに出来ず、遊びの誘いにも応じる事は無かった。

 恐らく陽乃さんは、このやり取りによって事故で怪我をしたのは俺だと認識した。その俺と雪乃が一緒にいた事が雪ノ下家に伝わり、外部との接触を絶たれていたとは考えられないだろうか。

 少なからず雪乃は、入学式当日の事故にショックを受けていたはずだ。事故の件から接触を避けさせようとするのは、理解できる話だ。

「比企谷くんね。うん、よろしくね」

 にっこりと柔和な笑みを向けられて、俺は間違いに気付く。

 結衣からの口伝だから判然としないが、確か雪乃が連絡を取りづらくなったのは、千葉村から帰った後だったはずだ。総武高校へ戻った俺たちの前に現れたのは、あの時のハイヤーだった。事故の当時から運転手が変わってなければだが、都築と呼ばれたあの運転手から伝わった可能性の方が高いだろう。

「姉さん、もういいかしら。用がないなら私たちはもう行くわ」

「えー、用ならあるに決まってるでしょ? 雪乃ちゃんの彼氏のこと、もっと知りたいなー」

 そこまで言われて、俺は自らの口で否定していなかった事に気付く。

「⋯⋯⋯⋯いや、彼氏とかじゃないですけど」

「んんー? でも顔にもう付き合ってますって書いてあるけどなー」

 陽乃さんに詰め寄られる度に、胃の中にゴロゴロとした異物感を覚える。おかしい。あの時の俺は、こんな風に詰問されるような事はなかったはずだ。元来行動の読めない陽乃さんだが、この繰り返しの世界線に置いてもまったくその先が読めない。

「いえ、ほんとに付き合ってないです⋯⋯」

 だってもう結婚してるんだもの。しかしだからこそ、俺の態度が雪乃に慣れ過ぎていたのだろう。それを訝しんだ陽乃さんの追撃は、休むことを知らない。

「またまたー。それで? 二人はいつから付き合ってるんですかー?」

 ぐいぐいと身体を押し付けるように詰め寄ってくるその姿は、いつかの光景と同じだ。しかし今回は、陽乃さんの中に確信めいたものが見て取れる。

「姉さん、しつこいわよ。人の話を聞いてちょうだい」

「んー。まあ付き合いたての頃って恥ずかしいから一旦否定したくなっちゃうよねぇ。でもわたし、雪乃ちゃんのお姉ちゃんだよ。嘘は将来の事を考えたらお勧めしないなー」

 試すような口振り、愉悦にまみれた声が不穏に耳朶に響く。⋯⋯やっぱりこの人は苦手だ。今では多少落ち着いたからいいものの、この頃の彼女が一番厄介な手合いだったように思う。

「ねえ、これからお茶しない? お姉ちゃん、比企谷くんの事もっと知りたいなー、なんて」

「いい加減にして!」

 どこか遠くで爆発が起きたような、重い衝撃が身体を震撼させた。

 今のは一体誰の声だ? 目の前で発せられた言葉に信じられないでいると、近くを通りがかっていた人々まで何事かと俺たちの方を見てくる。見目麗し過ぎる彼女たちに、ねっとりと絡みつくような視線が注がれては、すぐに興味を失ったように剥がれ落ちていく。

 言った本人のはずの雪乃ですらその声の大きさに驚いているようで、はっとして口を押さえた。怒りを静かにしか表現しない彼女にして見れば、ブチ切れたと言っていい程の感情の発露だった。

 十二年も一緒にいる俺ですら、こんな雪乃は初めて見る。一体何が、雪乃にここまでの感情を与えたのだろう。さっきまでのやり取りだって、いつかの会話とそれほど大きな違いはなかったはずだ。

「あ⋯⋯。ご、ごめんね。お姉ちゃん、ちょっとしつこかったかな⋯⋯」

 きっと陽乃さんだって、こんな雪乃を見るのは初めてだったのだろう。俺の記憶の中でもここまで狼狽する陽乃さんなんて、初めてだ。元の世界線ではちょっと申し訳なさそうに謝るだけだったが、今のは本気の謝罪だった。

 何かが少しずつ変わっていく感覚。それがマイナスの感情を伴って現れたという事実に、妙な不安を覚える。

「じゃ、もう行くね。比企谷くん、本当に雪乃ちゃんと付き合うようになったら、お茶しようね」

 さっきまでの殊勝な態度はあっという間にどこかへ押しやったみたいに、陽乃さんは明るくそう言いバイバーイと手を振る。

 お茶、ね⋯⋯。陽乃さんとはお茶どころか、今では盆正月その他彼女の気の向くままに引き摺り出される身にとってみれば、まだ生易しい誘いだ。

「「はぁ⋯⋯」」

 思わず同時にため息をついてしまって、お互いを見る。バッチリ合った目は即座に外され、雪乃はかぶりをふりながらこめかみを押さえた。

「ごめんなさい、急に大きな声を出したりなんかして⋯⋯」

「いや⋯⋯」

 何とも微妙な空気になって、俺たちはただ床を見詰めていた。

 この後に続けるべき台詞を、俺は知っている。

 

「すげぇな、お前の姉ちゃん」

 

 俺はあの時よりも、ずっと実感を込めてそう言った。

 

 

 

       *       *       *

 

 

 

 翌日の月曜日。

 放課後になり早々に部室へ向かうと、当然のように先に来ていた雪乃と二人、結衣の到着を待っている。今日は彼女の、誕生日なのだ。

 結衣に誕生日プレゼントを渡すに当たってはサプライズでも仕掛けようかとも思ったのだが、今の雪乃とでは上手く連携が取れそうにないのでやめておいた。元の世界線では毎年サプライズをやり過ぎて最終的に今年も何かあるんでしょ? とバレバレになってしまっていたので、新鮮な結衣の反応を見たくもあったが。

 

「やっはろー!」

 

 元気よく扉を開けて、結衣は今日も謎挨拶を雄叫びが如く部室に響かせる。何とも微笑ましい光景だ。

「うす」

「こんにちは」

 結衣の「やっはろー」を十としたら三ぐらいの声量でもって返すと、結衣は何とも機嫌が良さそうに自分の席へと座る。ひょっとしたら教室で、プレゼントの一つでも貰ったのかも知れない。

 あの時結衣はおっかなびっくりと部室の外で部屋の中を窺っていたものだが、今回においてはそれがない。朗らかな表情を浮かべる結衣は、ある意味俺にとっての救いだった。

「由比ヶ浜さん」

 雪乃は読んでいた本に栞を挟むと、殊更丁寧に机に置く。鞄から綺麗にラッピングされたそれを取り出すと、んんっと咳払いしてから雪乃はそれを結衣の目の前に差し出す。

「その⋯⋯。誕生日、プレゼント⋯⋯。いつもお世話⋯⋯はしている気がするけど、お世話になってもいるとも思うから」

「ゆきのん⋯⋯」

 ゴニョゴニョと言い訳めいた言葉と共に差し出されたプレゼントを手渡されると、結衣はそれをギュッと胸に抱き締める。なんの奇の(てら)いもない渡し方だったが、雪乃からプレゼントが贈られるというだけで十分にサプライズになっているらしい。

 ふぅ、と息をついて俺は立ち上がると、後ろの机の山に隠したプレゼントを取り出した。さすがにボウルなんて大きな物を教室に持っていくわけにはいかなかったから、朝の内に隠して置いたのだ。

「ほい。おめでとう」

「え⋯⋯ヒッキーも?」

 俺からも贈られるとは思っていなかったのか、結衣は俺と雪乃を交互に見ながら目を白黒させていた。

「あなたね、もうちょっと気の利いた一言でも言い添えれないの?」

「お前の一言は気が利くどころか気を落としにかかってただろうが⋯⋯」

 雪乃にダメ出しを受けながらも、しっかりと結衣は俺からのプレゼントを受け取ってくれる。流石に抱え切れなくなって結衣はその二つのプレゼントを机に置くと、クリスマスに玩具を貰った子どものように目を輝かせていた。

「ね、開けていい?」

「どうぞ」

 雪乃からのプレゼントの包装を剥がすと「おぉっ」と結衣は反応し、続く俺からのプレゼントの正体を知ると「おおぉっ」と更に大袈裟に反応する。

 着けてみるねと言って結衣はエプロンを着ると、やはりそのピンクのエプロンは彼女によく似合っていた。

「さっそく明日何か作ってくるね!」

「いえ待ちなさいそれは私の管理監督下で行って貰う事にするわ」

「えぇ⋯⋯」

 秒で返した雪乃に、結衣は思いっきり引いていた。まあ今の説明では、結衣には伝わらないだろう。

「家庭科室の鍵を借りてあるの。それと、ケーキの材料も準備してあるわ」

「え⋯⋯?」

「自分で自分の誕生日ケーキを作るってのもおかしな話だとは思うが⋯⋯。そのボウル、早速使ってみてくれるか?」

「う、うんっ!」

 結衣はそう言うとガバッと雪乃の抱きつき、感動しきりといった様子で目に涙を浮かべながら彼女に笑いかける。割りかし雑なこの提案も、結衣にとっては思ってもみなかったサプライズ。

 ⋯⋯しかしそうは行かない事を、俺は残念ながら知っている。

 ダンダンダン! と焦ったようなノックの音が、部室に響き渡る。部室の外から聞こえてくるのは、およそ人間のものとは思えない、獣めいた(いなな)きのみ。

「⋯⋯どうぞ」

 努めて冷静に雪乃は入室を促すと、恐る恐ると言った調子で扉は開けられ、次の瞬間にその獣は突進してきた。

「うぉぉーーーん! ハチえもーん!」

 まったく、お呼びでないもいい所だ。まあこいつが空気を読んで最高のタイミングで登場したことなんざ、ただの一度もなかったが。

 

「帰ってくれねぇかなぁ⋯⋯」

 

 変わっていくもの、変わらないもの。

 それを一つ一つ選び取る事ができたら、どれだけ素晴らしい事だろうか。

 そんなありえない願望を抱きながら、俺は溜息を一つ吐き出すのだった。

 

 

 






お読み頂きありがとうございました。
少し長い話になりましたが、第二話はいかがでしたでしょうか?
僅かだったり、大きくだったり変わっていくにつれて、彼も彼女もその反応を変容させていきます。
原作との違いを確かめながら読むのもまた一興ですが、流石にそれは面倒くさいと思うので単体で楽しんで貰えるように書いているつもりです。
感想や評価を頂けると(例えそれが悪いものでも)励みになりますので、是非よろしくお願いします!




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鶴見留美を救う為に。上

 山滴る、とは俳句に於いての夏の季語だ。

 早いもので、もう夏休み。いつかのように俺たちは千葉村の駐車場に降り立ち、高原の空気を胸いっぱいに吸っていた。

 

「んーっ、気持ちいーっ」

 

 結衣は思いっきり伸びをしながら、心底といった調子でそう言う。

 これから今日を含めて三日間、つまり二泊三日をここ千葉村で過ごす事になる。奉仕部の活動としては珍しい宿泊を伴うイベントに、俺の感慨もひとしおだ。

 未だ元の世界線に戻れる気配もないが、この千葉村での出来事をどうするかが、鍵となっている可能性は大いにある。

「うわぁ、涼しいね。八幡」

「おお⋯⋯そうだな」

 高原の涼やかな風に乗って、新緑の香りが鼻腔をくすぐる。戸塚の真似をして伸びをすると、下界の暑さが嘘みたい感じるほど爽やかな風を全身に感じる事ができた。

「⋯⋯すごく肩が凝ったわ」

「ごめんってば、ゆきのん⋯⋯」

「あ、帰りは席変えます? 小町が肩を貸しますよ!」

 千葉村へ向かう道中結衣の枕にされていた雪乃が不貞腐れ、小町がフォローするみたいに言葉を挟み込む。もちろん、この千葉村で過ごすに当たって役者はまだ揃っていない。

「さあ、ここからは歩いて移動だ。荷物を下ろしたまえ」

 俺たちが平塚先生に促されるまま車から荷物を下ろしていると、タイヤノイズを引き連れて一台のワンボックスカーが駐車場に入ってくる。

 俺たちの乗ってきた車の近くにそのワンボックスは停まると、中から見知った顔ぶれがわらわらと降りてくる。

「や、ヒキタニくん」

「⋯⋯葉山」

 それから三浦と海老名さん、ついでに戸部。やはりこの世界線に置いても、この面子は変わらないらしい。そうでなくては、大分困る事になるところだった。

「全員集まったな。それでは移動する」

 颯爽と歩き出した平塚先生に続きながら、みんな口々に「今日って何で集まったんだっけ?」「キャンプ?」「泊まりがけのボランティア活動でしょ?」などと困惑を撒き散らしていた。

「おいおい⋯⋯しっかりしてくれよ。これから君たちには林間学校のサポートスタッフとして働いて貰うんだぞ」

「っべー、タダでキャンプ出来るんじゃなかったん?」

「わたしも優美子からそう聞いてたけど?」

「あーしは戸部からキャンプって⋯⋯戸部?」

「おい⋯⋯最初から説明しておいただろ」

「っべー、俺やらかした系だわ。っべー⋯⋯」

 賑々しい四人を尻目に、雪乃は先頭を歩く平塚先生にそっと疑問を呈する。

「あの、何故葉山くんたちが⋯⋯」

「ん、人手が足りなさそうだったからな。学校の掲示板で募集をかけてみたところ、彼らが名乗りを上げたというわけだ」

 その答えを聞いても、雪乃の表情は芳しくない。当然の反応だろう。この時の雪乃にとっての葉山は、因縁の相手と言ってもいいぐらいの存在だ。

「これもいい機会だ。君たちも別のコミュニティとうまくやる術を身につけた方がいい」

 まったく、平塚先生の提案には頷くしかない。これからずっと先、俺たちは厄介な人たちと関わり続ける事になるのだ。

 黙ってしまった雪乃の隣を歩きながら、俺は懐かしい顔たちを思い出して、一人郷愁に耽るのだった。

 

 

       *       *       *

 

 

 小学生たちが全員集まっての集会が終わると、詳細な説明の後にオリエンテーリングが始まる。

 そのゴール地点で弁当や飲み物を配膳すべく、俺たちは森の中で歩みを進めていた。いよいよ俺にとって、二度目の千葉村が始まったのだ。

 

「頑張れー」

「ゴールで待ってるべー」

 

 葉山たちは気のいい高校生お兄さんお姉さんよろしく、地図を片手に右往左往する小学生たちにエールを送っている。

 時折木漏れ日を浴びながら、真夏とは思えない快適な道をただ歩く。急な曲線を描く道の先に、いつかの光景が広がっていた。

「⋯⋯⋯⋯」

 小学生の集団の中でも一際目立つ女子五人組。

 かしましいその輪から、一人だけ外れた少女──鶴見留美は俺の記憶のまま、孤独を背負い歩いていた。

「あのー、ここってどう行けばいいと思いますかぁ?」

 いつかのようにそのグループの女の子たちは積極的に葉山に話しかけてくる。一緒になって歩きながらテレビや芸能人の話、はたまた中学校の話などと、コミュニケーションに長けた子たちの集団よろしく葉山たちとの会話は弾み続けていた。

「⋯⋯⋯⋯」

 その集団から二歩ほど遅れ、一切会話に入らない留美を見て、雪乃は小さな溜息を吐く。その溜息が今に向けられたものなのか、過去の自分に向けられたものなのかは分からない。

 留美が黙っていても、残る四人は気にかけもしない。もし気にするとしたら時折彼女を振り返って、クスクスと耳にまとわりつくような忍び笑いを漏らす時だけだ。

 俺がこの千葉村において達成すべき目標は大きく三つ。その内の最たるものは、鶴見留美を救うことだ。まったく救うだなんて、自分でも傲慢だとは思う。

「チェックポイント、見つかった?」

 俺の記憶よりもずっと優しく、そして残酷に葉山は留美に話しかける。言うまでもない、公平性という悪手だった。

「⋯⋯いいえ」

「そっか、じゃあみんなで探そう。名前は?」

「鶴見、留美⋯⋯」

「留美ちゃんか。俺は葉山隼人。よろしくね」

 たったそれだけの会話だというのに、かしましかった四人の会話は完全に停止している。

 集団の中にいながら排斥するという絶妙なバランスが崩されようとしている事への不安と、緊張感。しかもそれは、さっきまで気を許しお喋りに興じていたイケメンのお兄さんによってもたらされようとしている。

「⋯⋯あれ、どう思う?」

 葉山たちと距離を取りながら後ろを歩いていた俺は、隣を歩く雪乃に(たず)ねる。

「⋯⋯まあ、どこの小学校でもある事なんでしょうね」

 苦り切った表情で言う雪乃の声には、嫌悪のようなものすら聞いて取れる。

「くだらないわ」

 空気を読む、相手の意見に共感あるいは隷属し、誰かを貶めることで自分の立ち位置を固め、得られる束の間の安心感、歪んだ集団への所属欲求。

 中には社会生活に欠かせない要素であろうと、雪乃は「くだらない」と切って捨てる。それでこそ、この当時の雪乃だ。

「ああ、くだらない」

 俺は深く頷き、同意を返す。

 空を仰ぎ見ながら歩みを進めると、パラパラと降り注ぐような木漏れ日が眼を焼いた。

 

「雪ノ下」

 

 俺が呼ぶと、雪乃は返事をするでもなく怪訝そうに俺の顔を見た。後ろを振り返り、小声で話せば会話が聞き取れられないぐらいの距離が空いているのを確認すると、俺は少しだけ雪乃の耳元に口を寄せて言う。

 

「俺に協力してくれ」

 

 

 

       *       *       *

 

 

 オリエンテーリングのゴール地点につくと、俺たちは早速割り振られた業務にあたり、方々へ展開していた。

 ひとまずの俺の仕事、というか男手の主な仕事は弁当の配膳準備だ。段ボールに入った弁当たちを、えっちらおっちらと車のトランクから下ろしていく。しかしそんな作業も、あっという間に終わってしまう。

 

「なあ、葉山」

 

 葉山が一人でいる所を見計らって、俺は声をかけた。俺の方から声をかけるのが余程珍しいのか、少しだけ眉を上げた後に爽やかな笑みを浮かべる。

「どうした」

「ここに来る時に会った子たち、いただろ」

「ああ」

 俺が何を言いたいのか分からない、という顔で葉山は頷きを返す。しかし俺の表情からそれがあまりいい話題ではないというのは分かったらしい。

「休憩しがてら、話を聞くよ」

 そう言うと葉山は親指で炊事場の端を指す。確かにこんな誰が聞いているかも知れない場所、それにいくら平地より涼しいとは言え真夏の太陽の下でする話じゃない。

 俺たちは炊事場の端まで移動すると、そこに置かれたウッドベンチに腰掛ける。じっとりとかいた汗をタオルで拭うと、夏の匂いがした。

「一人だけ、除け者にされた子がいたろ」

「⋯⋯ああ」

 葉山の事だから除け者という表現にひっかかるのだろう。返事をするのに僅かな間を取った後、控えめに頷く。

「あの子に話しかけるのは、やめた方がいい」

「どうして君はそう思うんだ?」

 努めてフラットな声色で、葉山は俺に問いかける。俺の明確な否定に苛立つ様子も見せないとは、やはり流石葉山と言わざるを得ない。

「北風と太陽だよ」

 俺の回りくどい言い方でも、葉山はある程度の理解に至ったらしい。興味深そうな目で、俺の言葉の続きを促す。

「あの状態から留美に話しても、逆効果だと思う。それよりも残りの四人の方を気にかけてやるんだ」

「気にかけてやるだけか? 俺はもっと⋯⋯」

「いや、気にして声をかけるだけでいいだろ。高校生のお兄さんお姉さんが気にかけてくれているって分かったら、あの子たちも体面を気にして留美と普通に喋るようになるかも知れない。そこは自浄作用に期待だな」

「⋯⋯なるほどな」

 葉山の好きそうなキーワードを織り交ぜて説明すると、思ったよりもすんなりと俺の意見は聞き入れられる。こういう時に頭の回転の速いやつは助かる。

 俺にとって千葉村での留美の一件は、ずっと心で(わがかま)っていた事だった。

 あの時俺は葉山たちに悪役を押し付け、留美を取り巻く人間関係を崩壊させた。そして結果として、留美はそのまま孤独の道の真っ只中を歩いていく事になったのだ。

 クリスマスのイベントの時に見た留美の姿を、俺は忘れる事が出来ない。最終的にはイベントを通して周りに溶け込んでいったが、それまでの孤独が消える訳ではない。

 孤独が悪いことだなんて、今更言うつもりはない。それを決められるのは、孤独を感じている本人だけだ。

 

 だけど俺は、やはりどこかでまちがえた。

 その思いだけが今でもぐるぐると、心の一番奥底を回り続けている。

 

 

       *       *       *

 

 

 キャンプといえばカレー。カレーといえばスパイスカレーだ。

 追い求めるはターメリック、コリアンダー、クミンの黄金比。カルダモンは欠かせないし、フェンネルも多めに入れていい。だけどクローブ、あいつはダメだ。あいつの香りは強烈かつ個性的だからな⋯⋯。

 などと雪乃が妊娠中に料理スキルをメキメキ上げた俺のスパイスカレー知識と秘伝のレシピをひけらかしたい所だったが、キャンプでのカレーといえばルーカレーが基本である。

 

「どう、うまくいってる?」

 

 件の女子五人組の班。彼女たちが晩御飯となるカレーを調理している所に、葉山は俺の提案通りに声をかける。

 途端に沸き立つ四人と、覚めた表情をしたままの少女が一人。すでに鍋は火にかかっており、手持ち無沙汰な様子だ。

「⋯⋯あんな感じだ。できるか?」

 俺は隣でその様子を見ていた雪乃にそう声をかける。先に葉山が声をかければ、多少に参考になるはずだ。

「どうかしら⋯⋯。あまり自信はないわね」

 普段の自信満々な態度とは打って変わって、小学生たちの反応を見る雪乃は物憂げだ。無理もない。これから葉山が去ったら、今度は雪乃の出番だ。あんな賑やかな集団は、例え小学生が相手でも苦手意識が働くだろう。

 しかし、これは今回の俺の作戦において非常に重要な意味を持つ。例えキャラじゃなくても、実行に移してもらわなければいけない。

「頼んだぞ」

 やがて話を終えた葉山がその場を離れると、四人はキャアキャアはしゃぎ、ひとしきり盛り上がると留美の方を見る。ひそひそと言葉を交わし、侮蔑混じりの密やかな笑みが交換されていく。

 雪乃は「はぁ」と小さな溜息を一つつくと、彼女たちの方へ向かっていった。俺は雪乃が動き出すと同時に、少し坂を登った所に移動する。様子を見る為と、留美を待ち受ける為だ。

 

「何か困っている事はない?」

 

 雪乃に声をかけられ、四人は一瞬で会話を止め、惚けた様子で彼女を見た。無理もない。イケメンお兄さんに声をかけられて盛り上がっていたら、今度はまるで雑誌からモデルが出てきたみたいな美人のお姉さんに声をかけられたのだから。

 というか実際雪乃は大学の時、芸能事務所からスカウト受けてたなぁ⋯⋯。事務所を三つも断るやつなんて、俺は雪乃以外知らない。やはり俺の奥さんは美人過ぎでは? めっちゃ好き。

「あのっ、隠し味とか入れてみたいかなって思ってたんですけど」

 フリーズが解けた四人は、口々に料理について雪乃に相談をし始める。

 これで彼女たちのグループの立ち位置は、確固たるものになった。美男美女の高校生たちにも一目置かれる、カーストトップグループの完成だ。事実他のグループの小学生たちも、チラチラと雪乃たちの様子を窺っていた。

 そんな賑やかな輪の中から、そろりと抜け出す人影が一つ。いつかのように俺の佇んでいるすぐ近く、視界にギリギリ入るぐらいの所で留美は立ち止まりゴミ集積場の柵に背中を預けた。

「楽しんでるか?」

 急に俺に話しかけられて驚いたのか、留美は目を見開いてこちらを見ると、すぐに地面へと視線を戻した。

「楽しそうに見える?」

「いや、見えないな」

 少しだけ馬鹿にしてるようなニュアンスを混ぜた声で、留美は反問する。何も本気で聞いているわけがない。留美の本心に近づけるような会話であれば、何でもよかった。

「比企谷八幡だ」

 俺が名乗ると、留美は話しかけた時と同じように驚いた顔を見せる。じっと待っていると、留美も何を求められているか分かったようだ。

「⋯⋯鶴見留美」

「それでこいつが由比ヶ浜だ」

 俺と留美が話をしているのを見て何事かとこちらに向かってくる結衣の名前を紹介すると、彼女はひらひらと手を振る。

「由比ヶ浜結衣です。よろしくね、留美ちゃん」

「ん⋯⋯」

 留美が静かに頷き、それっきり会話は消え失せる。何か言おうとした結衣に俺はかぶりを振ってそれを止めると、再び留美に問いかけた。

「一人が好きなのか?」

「別に⋯⋯。でも一人でいるのも仕方ないかなって思う」

 そう言った留美の隣に、結衣はしゃがみ込んだ。留美に相対するわけでもなく、ただぼんやりと彼女と同じ方向を見る。

「どういう事か、聞かせてもらってもいい?」

 視線を交わすこともなくそう言う結衣は、無理に聞き出す意図はないとその態度で語っていた。やはり結衣は、この頃から結衣だ。底抜けに明るく、時に無遠慮で、そして誰よりも大人だった。

「⋯⋯前に、誰かをハブにして、話をしないっていうの、やってたの。そのうちちゃんと喋るようになって、また違う誰かが標的になって」

 そこで言葉を切ると、留美は小学生らしからぬ重々しい溜息を吐いた。

 孤独を良いと感じるか悪いと感じるかは、孤独を感じている本人が決める事だ。留美がそのどちらを取るかなんて、聞くまでもない話だった。

「私、そのハブにされてた子と色々喋っちゃったんだ。どうせすぐに終わるブームみたいなものだったし。⋯⋯そうしたら、今度は私の番になったっていう、ただそれだけ」

 ただそれだけ。本当にただそれだけであるならば、彼女は何故そんな悲嘆に暮れた表情をする必要があっただろうか。

 炊事場から聞こえてくる、非日常を彩る賑やかな声。大きな波のようなその声が音を小さくすると、結衣はポツリと呟いた。

 

「優しいね、留美ちゃんは」

 

 正しく彼女の方を見て、微笑む結衣。

 その哀切に満ちた表情を、俺は忘れられそうにない。

 

 

       *       *       *

 

 

 夜の帳が下りてしばしの事。

 俺たちは自炊したカレーを食べ終え、小町の淹れてくれた紅茶を啜っていた。誰に言われるでもなく率先して紅茶を淹れてくれる小町はやはり世界の妹だ。

 

「今頃、修学旅行の夜みたいな会話をしているのかな」

 

 昼間の賑々しい小学生たちを思い浮かべているのか、どこか遠くの出来事を語るみたいに葉山が言う。

「大丈夫かなぁ⋯⋯」

 その言葉の先を引き継ぐように、結衣が密やかに声を出す。それは恐らく俺に向けられたものだったように思うが、それに反応したのは平塚先生だった。

「ふむ、何か心配事かね」

「まあ、ちょっと⋯⋯。一人、孤立してしまった生徒がいたので」

「ねー、可哀想」

 三浦はそう言うけれど、どこまでが本心なのか計り知れない。元来の性格がオカンだからそれなりに心配しているのかも知れないが、何せハブられたのならまた新しく友達を作ればいいとか簡単に言ってしまうような人間だ。それほど重大視しているようには見えない。

「それで、君たちはそれを見た上でどうしたい?」

 平塚先生の問いかけに、皆一様に黙り込む。

 この場で、どれだけ留美の問題に積極的に関わっていこうとする者がいるだろうか。

 その行動には責任が伴い、それでも彼女を救うと覚悟を決めている者。そこまで強い意思がある者は、この場では恐らく一人しかいないだろう。

 

「俺は、助けたいと思ってます」

 

 不退転の意思を込めたその表明に、誰もが俺の方を見る。心配そうに、あるいは何を言っているんだという目で。

「ほう⋯⋯」

 ただ一人だけフラットな視線を送ってくるのは、平塚先生だ。腕を組み、ただ教師然と目を()める。

「何故君はそう思う?」

「その生徒⋯⋯鶴見留美と話をして、一人でいる理由を聞いたからです」

「そうか⋯⋯。差し支えなければ、聞かせてくれるか?」

 留美の個人的な話になるから、全員にその話を共有するのは若干の躊躇いがある。しかし、この場にいる人間の手助けが必要なのも確かだった。

 俺が端的に留美が置かれている状況を説明すると、皆が一様に口を噤む。きっと誰もが、どこかで見聞きした、あるいは携わった経験のある事だったのだろう。

「それで、その生徒には助けを求められているのかね?」

 平塚先生は腕を組み直すと、真っ直ぐな目で俺を見据えた。隣に座った戸塚が、横から心配そうな視線を送ってくる。

「いいえ。でも後悔している様子でした」

「⋯⋯うん。留美ちゃん、ちょっと諦めているみたいだった。だから本人から助けて欲しいなんて、言い出せないんじゃないかな⋯⋯」

 結衣の補足に、再びその場に沈黙が流れる。さわさわと高原の緑が擦れ合う音だけが、静寂をかき消していく。

「比企谷の結論に反対の者はいるかね?」

 平塚先生が反応を見るようにぐるりとその場にいる全員の顔を見ていく。幸いな事に、俺が言い出した事に否定的な人間はいないようだった。いや、言い出せる雰囲気ではないというのが正解かも知れないが。

「よろしい。ではどうすべきか、議論したまえ。私は寝る」

 平塚先生はふわと欠伸を噛み殺して伸びをすると、その場を後にする。残された俺たちの間に再び沈黙が訪れると、小町が心配そうに言う。

「お兄ちゃん⋯⋯。助けるって言ってたけど、具体的に何か考えてるの?」

「ああ」

 即答すると、テーブルを囲んだ全員の耳目が俺に集まる。少し間を置いてから、俺はその作戦を説明する。

「雪ノ下と葉山には少し話をしたが⋯⋯。留美以外の四人の子たちを、気にかけてやって欲しい。少し依怙贔屓(えこひいき)に見えるぐらいでもいいと思う」

「それで、どういう効果があるの?」

 戸塚が首を傾げて、素直に疑問を呈する。俺の説明は、葉山にしたそれと変わる事はない。

「高校生のお兄さんお姉さんが、自分たちを特別に気にかけてくれていると、彼女たちは認識する。必然的に周りから目を向けられる事も多くなるだろうし、ちゃんとしなきゃって意識が働くはずだ。自然と留美とも話すようになるかも知れない」

「いや、無理っしょ」

 即座に切って捨てたのは、あーしさんこと三浦だ。まあ、彼女ならばそう言うだろう。

「これでいいんだって思って、調子乗るだけじゃん」

「あー⋯⋯まあそう取られるかもね」

「だべ。期待薄じゃね?」

 三浦に同調する海老名さんに、即座にのっかる戸部。相変わらず戸部は戸部だった。

「そうかもな⋯⋯。けどもし駄目でも、俺に作戦がある」

 勿論こんな小細工一つで解決するとは端から考えてはいない。彼女たちの拘泥した状況に、自浄作用などもう残ってなどいないだろう。

「作戦って?」

 結衣の続きを促す声に、俺は口を引き結ぶ。

「⋯⋯それはまあ、駄目だったらの話だ。リミットは明日の夕方。それで何も変わらなければその時に話すから、協力して欲しい」

 そう言って俺は手を膝を置いて、机につきそうになるぐらい深く頭を下げた。顔を上げると、皆が一様に唖然とした顔を浮かべている。

「一つだけ聞いていい?」

 僅かな沈黙の後に口を開いたのは、意外な事に海老名さんだった。

「ヒキタニくんは、どうしてそこまでするの?」

 海老名さんが疑問に思うのは、当然の事だ。なぜ会ったばかりの少女に対してそこまで干渉しようとするのか、側から見ていて意味が分からないだろう。

「あの子を救う事が、俺を救う事にもなるから」

 その俺の答えの真意を想像できた者は、この場には誰一人としていないだろう。普段の俺の様子から勝手に過去と現在を結びつけて、みんなそれぞれ納得したような表情を浮かべていた。

「⋯⋯そろそろ部屋に戻ろうか。少し冷えてきた」

 繰り返し訪れる沈黙に耐えかねたかのように、葉山がそう声をかける。

 各々が小さな声で同意を返すと、テーブルの片付けに取り掛かった。

 

 俺が何故、そこまでするのか。まったく、酷い動機もあったものだと思う。

 何もかも全て、自分の為。俺の後悔をかき消し、雪乃と我が子の待つあの世界線に戻れる可能性が僅かでもあるなら、俺は何だってする。

 ただそれだけなのだから。

 

 

       *       *       *

 

 

 荷物を置く為に立ち寄っただけだったバンガローに戻ると、俺たちは順番に風呂に入った。

 またも着替えの途中を戸塚に見られる事になったが、まあそれはどうでもいい事だ。

 

「いいお湯だったね」

 

 最後に風呂に入っていた戸塚は戻ってくるなりそう言うと、敷いてあった布団に座り込んだ。

 まだ少し濡れている髪をしっかりとタオルで拭き取ると、ドライヤーで髪を乾かし始める。しっかし風呂上がりの戸塚、いい匂いがするなぁ⋯⋯。

「僕、もう大丈夫だけど⋯⋯」

「ああ、じゃあそろそろ寝るか」

 髪を乾かし終わった戸塚がそう言うと、葉山がそう返事をする。既に布団は引いてあるから、身の回りを少し片せばもう寝る準備は完了だ。

 パチッ、と古臭い型の照明のスイッチを切ると、裸電球は沈黙する。

「ちょーちょーこれ、なんか修学旅行の夜みたいじゃね?」

「ああ、そうかもな」

 浮き足立つ戸部の言葉に、葉山は眠気を隠そうともせず適当に返す。

「⋯⋯好きな人の話しようぜ」

「嫌だよ」

 やれやれ、と俺は誰にも聞こえないように小さく溜息を吐いた。やはりこの世界線でも、この話題になるのか。まあ戸部が戸部である限り、変わりようもないのだろう。

 戸塚はいないと答え、戸部が海老名さんの事を気になっている、と吐露した後は、必然的に葉山の番だ。

「隼人くんは?」

「俺は⋯⋯いや、やめておく」

「えー、そりゃないべー。俺言ったんだし」

 今のはお前が言いたくて言っただけだろ⋯⋯と心中突っ込みながら葉山の言葉を待つ。隣で戸塚も、息を殺しているかのように沈黙を守っていた。

「言わないって」

「いやいや、隼人くんらしくないべー。フェアじゃないっしょ」

「⋯⋯⋯⋯」

「イニシャルだけでいいから!」

 食い下がる戸部に、葉山はわざとらしく溜息を漏らしてみせる。僅かな間の後、静かに言う。

「⋯⋯、Y」

「え、Yって⋯⋯マジ?」

「もういいだろ、寝よう」

「いやいや、まだヒキタニくんの聞いてないっしょ」

「⋯⋯は?」

 ちょっと待てよ⋯⋯。俺の記憶の限りでは、こんな下りはなかったはずだ。

「いるんしょ? 好きな子」

「⋯⋯ちょっと興味があるな」

 戸部の一言に葉山が乗っかってくると、薄闇の中でこちらを見てくる戸塚と目が合った。いや、そんな目で見られても⋯⋯。

「イニシャルでいいから」

 先ほどと同じ誘い文句で、戸部は何とか答えを引き出そうとしてくる。まあ、この場で言ってしまったとしても、大きな問題はあるまい。それにさっさと寝てもらわないと、俺が困る。

「イニシャルは⋯⋯、Y」

「えっ」

 戸部は驚きの声を上げ、視界の端で戸塚の目が見開かれるのが分かった。そりゃまあ、そんな反応になるだろう。

「ひょっとして⋯⋯同じ相手とか?」

「ないな」

「ないよ」

 戸部の推測を、俺と葉山はほとんど同時に否定する。

 葉山の方から俺の事は分からないだろうが、俺は葉山の答えを知っていた。何をもって葉山は即座に否定したのかは分からないが、俺の方は断言できる。

「まあ、イニシャルがYって結構いるしなー」

 そう言う戸部に、俺は彼女たちの名前を思い浮かべる。雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣、三浦優美子、雪ノ下陽乃──。

 あとはYoshiteru Zaimokuzaなんて名前もあるが、そんな事を言い出しても海老名さんしか喜ばないからやめておこう。いや、海老名さんでさえ喜ばないな⋯⋯。

「はい、言ったぞ。もう寝ようぜ」

「だな。流石に眠い」

 俺の提案に葉山が同調すると、ようやく静かな時間が訪れる。

 余程疲れていたのか、すぅすぅと幾つかの寝息が重なるまでそれほど時間はかからなかった。

 俺は勿論、目が冴えて眠れなかったし、眠るつもりもなかった。この日の夜の出来事を覚えていれば、寝られるはずがない。

「⋯⋯⋯⋯」

 俺は寝ている戸塚たちを起こさないように、抜き足差し足でバンガローを出た。

 目指すは林の方角。そこに行けば、あの時と同じで居場所をなくした彼女と、逢えるはずだ。

 

 

 しかし俺の記憶の中にある場所に辿り着いても、雪乃の姿は無かった。

 記憶違いかと思ってぐるぐると辺りを探し歩いてみたものの、いっかなその姿を見つける事ができない。

 おいおい、マジかよ⋯⋯。せっかく雪乃と二人きりになれるチャンスだったのに。しかも合宿の夜にとか、レア中のレアだぞ。

 諦めきれずに俺は施設の敷地内をあても無く歩いていく。高原の夜は季節が一つ先に進んだかのように肌寒い。上着でも持ってきておいた方がよかったと、随分と歩みを進めてしまってから考える。

 やがて視界の大部分を占めていた木々はまばらになっていき、川のせせらぎが聞こえてきた。開けた場所に出ると、川が見えてくる。そしてその(ほと)りで座り込む二人の少女の姿も。

 なるほどな、と俺はひとりごちる。

 俺が言動を変容させた所為で、夕食の後に起きるはずだった三浦と雪乃の口論が発生していない。その変化が故に、バンガローに戻った後に三浦と口論する場面もまた、訪れなかったのだろう。

「⋯⋯よお」

「え⋯⋯。あ、ヒッキー」

「比企谷くん⋯⋯」

 驚かせないようにわざと足音を立てながら近づき声をかけると、二人は同時に振り返る。

 月光を反射する川面に照らされた雪乃と結衣の顔は、この世のものとは思えないほど静謐な美しさを湛えていた。彼女たちの空間を壊してしまった自分が大罪人に感じるほどに、それは神秘的で何物にも替え難い光景だった。

「⋯⋯何してんだよ、こんな時間に」

「ヒッキーこそ、どうしたの?」

「なんか、寝付けなくてな⋯⋯」

 座るのに丁度いい石を見つけると、俺も彼女たちの目線の高さに合うように腰掛ける。

「あたしたちも、そんなとこ」

 ね、と結衣が視線を向けると、雪乃は小さく頷いた。

「なに話してたんだ?」

「んー⋯⋯。恋バナ?」

 結衣のその一言に、どきりと心臓が跳ねる。それを聞いた雪乃も、否定をしない。

「男子の部屋は、どんな事話してたの?」

「あー⋯⋯、まあ似たようなもんだな」

 俺の答えに「ふーん」と相槌を返すだけで、結衣は追及することもなかった。まあ聞いて答えられてしまったら、今度は自分たちの事も喋らなければいけなくなるから、当然かも知れない。

 それっきり会話は途切れ、川のせせらぎだけが耳に届く。川面は月明かりを受けてキラキラと輝き、まるで地上を流れる天の川のようだった。

「比企谷くん」

 長い沈黙を破ったのは、意外にも雪乃だった。彼女は俺と目が合って声が届いているのを確認すると、青白く光る川面を見ながら話し始める。

「本当にあなたのやり方で、解決できると思ってる?」

「⋯⋯まあ、期待は薄いな」

「だったら何故⋯⋯」

 思わずと言った調子で雪乃の声音が厳しくなると、それに気付いたのか彼女は言葉を飲み込んだ。その姿を、結衣は心配そうに見守っている。

「⋯⋯ゆきのん、昔になにかあった?」

 遠慮がちにかけられる声に、今の雪乃は何と返すのだろうか。固唾を飲んで見守っていると、彼女は訥々と語りだす。

「⋯⋯昔、ちょっとね。似たような事があって」

 それを語っていいのか確かめるように、雪乃は窺うように結衣の目を見る。彼女はゆっくりした動きで、続きを促すように首を縦に振った。

「その時に、助けてくれようとした人はいたわ。⋯⋯でも駄目だった。余計に拗れて、訳がわからないぐらいに複雑になって、どうにもならなかった」

 こんな事を話すのは、雪乃にとって辛い事だと思う。思い出せば思い出すほど古傷を開くようなものだし、友だちだからと言って積極的に知っていて欲しい事でもないはずだ。相手が結衣ならば、特に。

 それでも雪乃は自分の言葉で、ただ真っ直ぐに結衣に伝えようとしている。結衣に心の一部を、明け渡そうとしているのだ。

「⋯⋯ごめんなさい。こんな話、聞きたくないわよね」

「ううん、そんな事ない」

 大きくかぶりを振ると、結衣ははっきりした口調でそう言った。浮かべた微笑みは傾慕の想いに満ちていて、どこか嬉しそうだった。

「ゆきのんがちゃんと話してくれて嬉しい。なんか、すっごく」

 すん、と僅かな音がして、結衣が僅かに目を潤ませているのが分かった。その光景に、俺は酷く安心する。彼女たちの友情は、既に確たる形を持っている。

「留美ちゃんの為に、できる事はやってこうよ。それにもし駄目でも、ヒッキーには奥の手があるんでしょ?」

「⋯⋯ああ」

 頷く俺を認めると、結衣は「ね」と小さく首を傾げ、雪乃の手を握る。

 

「ええ、私たちにできることなら」

 

 結衣の手を握り返す雪乃を見て、俺は二人に聞こえないように深く息を吐いた。

 きっと、もう大丈夫だ。

 青白い月明かりの下で微笑み合う彼女たちを見ながら、俺は強くそう思った。

 

 

 







お読み頂きありがとうございます。
千葉村編前編はいかがだったでしょうか。
後編に向けた仕込みがどのような料理に変わるのか、楽しみにして頂けたらこれ幸いです。

頂いた感想は漏れなく読ませて頂いています。ありがとうございます。




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鶴見留美を救う為に。下

 千葉村を訪れて、二日目の朝。

 以前の俺は思いっきり寝坊してしまっていたが、今回は当然そんな事をしている訳にはいかない。戸塚たちが起きるのとほとんど同時に目覚めると、早々にビジターハウスに向かった。

 食堂に入ると、頭の割れそうなほどの大音声に思わず耳を塞ぎたくなる。朝っぱらだというのに、小学生たちのテンションはすでに天井に近い。たしか今日は夜の肝試しまで自由行動だから、その予定でも話し合っているのだろう。

 

「朝食は向こうでもらうみたいだね」

 

 すぐ近くを歩いていた戸塚が、カウンターを指差しながら言う。朝食は食堂を利用するから、特に俺たちに割り振られた仕事はない。

 俺は配膳を待つ列に並ぶと、ぐるりと食堂を見回した。雪乃と結衣の姿を探すと、すぐに目に留まる。元々その恵まれた容姿で人目につきやすい上に、小学生の集団の中だとより見つけやすい。

「どうしたの、八幡」

「いや⋯⋯」

 雪乃たちの方を気にしすぎて立ち止まってしまっていた俺に、戸塚は疑問符を浮かべながら首を傾げる。

 雪乃と結衣は約束通りに例の四人の女の子と何事かを喋り、彼女たちの笑顔からその話が盛り上がっている事が見てとれた。雪乃の笑顔はまだぎこちなかったが、留美も一応といった様子でその場にいるのだから、仕方がないかも知れない。

 留美の気持ちが分かるからこそ、雪乃に頼んだ事はある意味残酷な側面を持つ。それが俺の立てた筋書きに必要な事だとしても、胸はシクシクと痛んだ。

「八幡、大丈夫?」

「え⋯⋯。ああ、すまん、ボケっとしてた」

 ふと前を見ると、列はもう随分と前の方に進んでいる。気付けば戸塚の声かけに対して、俺は気もそぞろな答えしか返せていなかった。

「寝不足か?」

 俺の後ろに並んでいた葉山は、眠気の一つだって残していない爽やかな声でそう聞いてくる。

「まあ、少しな」

「⋯⋯昨日の晩、どこに行ってたんだ?」

 戸塚には聞こえないほどの小さな声で、葉山は俺に問う。こいつ、ひょっとしたらとは思っていたが起きていたのか⋯⋯。

「別に。寝付けなかったから散歩してただけだ」

「随分長いこと散歩してたんだな」

 葉山の目を見ると、俺の瞳の奥を読み取ろうとする視線が待ち構えている。

「⋯⋯何が言いたい」

「別に、ただの感想だよ」

 はっ、と短く息を吐き出して小さくかぶりを振ると、葉山のとの会話を打ち切る。

 こいつとは後々長い付き合いになるが、やっぱりこういう部分はいけすかない。

 

 お前なんか一生陽乃さんに振り回されてろ、バーカ。

 俺は俺にしか理解できない悪態を心の中でつくと、朝食の載ったトレイを受け取った。

 

 

       *       *       *

 

 

 朝食を摂り終わった後の俺たちの仕事は、もっぱら肉体労働だった。

 キャンプファイヤーの準備の為に薪を割り、それをひらすらに積み上げていく。終わった頃には汗だくだ。だから当然、汗を流さなくてはならない。

 

「⋯⋯⋯⋯」

 

 歓声と水飛沫を上げ、水遊びに興じる結衣と小町。昨晩訪れた川辺で、俺は仁王立ちでその光景を眺めている。

 俺がこの千葉村において達成すべき目標は大きく三つ。その内の、二つ目。

 

 女子高生の雪乃とキャッキャうふふと水遊びしたい!(ドン!)

 

 いやだってJK雪乃の水着姿なんて二度と見れないだろうし? 俺が過去に千葉村で過ごした時は水着を持ってこれなかった所為で、そもそもそんな選択肢すら存在していなかった。これを後悔と言わずして何を後悔と言うのか。

「あれ、お兄ちゃん」

「おう」

 小町に声をかけられると、俺は履き替えたサンダルでじゃぶじゃぶと川の中に入っていく。

「いつの間に水着なんて持ってきてたの? 小町が準備した時には⋯⋯」

「いや、たまたまバッグに入っててな」

 勿論ばっちり準備しておいたのだが、それは俺だけが知っていればいい話だ。そんな俺の姿を、少し引き気味で眺める視線が一つ。

「⋯⋯ヒッキー、水着似合わない」

「余計なお世話だ」

 そう言う結衣は⋯⋯お世辞でも何でもなく、その水着は良く似合っていた。

 ブルーのビキニ姿は、あの頃と変わらない輝きを纏い、一瞬で視線と意識を奪う。今も昔も変わらないその抜群のプロポーションは、いつまで経っても見慣れることがない。

「⋯⋯⋯⋯ヒッキー、見過ぎだし」

 そう言って身体を覆い隠し、後ろを向いてしまった結衣にもはや何の言い訳もすまい。由比ヶ浜結衣が魅力的な女の子であるという事は、語らずとも誰もが知り得るところだ。

 俺は無遠慮に向けていた視線を川面に落とすと、そっと目を閉じた。俺の記憶のままならば、もうそろそろだ。川のせせらぎに混じって、その緩やかな流れに逆らう水音が聞こえてくる。

「比企谷くん。平塚先生との約束は忘れたのかしら?」

 その声に振り返ると、目の前に広がる光景に俺は息を呑んだ。

 透き通るように白く、降りかかる水飛沫をも弾き返す瑞々しい肌。普段ニーハイに秘匿された細く長い脚は陽光の元に晒され、川面よりもキラキラと光り輝いているように見えた。腰から美しい曲線を描くくびれを強調するようなワンピースの水着は、あの時よりも色鮮やかに彼女の魅力を引き立てている。

「私の進言次第で、あなたの学校生活の終了時期が決まるのよ?」

 黒々と深い色を湛える長い髪は、真夏の日差しの下ではっきりと天使の輪を映している。勝ち気で、柔らかな侮蔑を込めるように細められた目すら美しい。血色のいい唇が言の葉を紡ぐたびに、その甘やかな声に鼓膜が溶けて無くなってしまいそうだ。

 控えめに言おう。

 

 俺の奥さん(JK)の水着姿は、史上最高だ。

 

「⋯⋯ちょっと、何を黙っているの?」

「もはや何も言うまいて⋯⋯」

 俺はやっとの事で雪乃の水着姿から視線を上げて天を仰ぎ見ると、完全勝利に酔い知れていた。さっきから蚊帳の外にされていた小町は「うわぁ」と声に出してドン引きしている。

 意味が分からない沈黙が流れている所に、二人分の足音が近寄ってきていた。水着に着替えた三浦と海老名さんが、何事かを話しながら俺たちのいる川の(ほと)りを通り過ぎていく。

「ふっ、勝った⋯⋯」

 いつかと同じように、三浦はすれ違いざまに雪乃の胸元を見て勝ち誇った笑みを浮かべる。対する雪乃の顔には、やはり疑問符が浮かんでいた。

「⋯⋯? 何の話かしら」

 あの時の俺は、「お前の姉ちゃんがああなんだから」とか何とか慰めたんだっけか。しかし未来を知っている俺は、そんな夢を抱かせるような無責任とも言える発言は出来ない。

 結局、あんまり大きくならなかったんだよなぁ⋯⋯。俺も「おっきくなーれ♪ おっきくなーれ♪」と(たの)し⋯⋯だいぶ協力したのだが、カップサイズが一つ上がったところで打ち止めになってしまった。まあ俺としてはゆき乳であればどんなゆき乳でも愛せる自信があるから、何も問題はない。ゆき乳最高。

「⋯⋯本当に全然まったく気にする必要はないだろ外見的特徴に依って優劣は決められるものでもないしもし仮にそれによって勝敗を決するのであれば相対的評価をするべきであって全体的なバランスこそが評価対象となるべきだから何も問題はない」

「⋯⋯⋯⋯何か酷く貶されながら慰められた気分なのだけれど」

 不満そうな表情を浮かべる雪乃に向けた俺の視線には、同情めいた感情がのっていたのかも知れない。

 まあ、それはそれ。これはこれ。

 機は訪れ、役者は揃った。であれば、後は俺の目標を達成するだけだ。

「そぉい!」

 阿呆みたいな掛け声と共に、俺は川の水を掬い上げて雪乃に水をぶっかけた。

「⋯⋯⋯⋯」

 水をも弾く黒髪をふるふると震わせながら、雪乃はその瞳に炎を灯す。⋯⋯いいぞ、雪乃。その負けず嫌い根性、しかと見届けてやる。

「⋯⋯やったわね」

 バシャーンを派手な音を立てて、俺の視界は奪われた。前髪から滴る雫を見ながら、俺は不敵な笑みを浮かべ戦線布告をする。

「甘っちょろいな。それぐらいで俺が怯むと思ったか?」

 今度は両手で水をかきあげ、雪乃の顔面に直撃させる。彼女の顎から滴り落ちる水粒(みつぼ)を認めると、俺の目標の一つは達成されたのだと実感できた。

「てやっ!」

 背後から聞こえた声とともに、土砂降りの雨が俺の頭上に降り注ぐ。振り返れば結衣は勝ちを確信しているかのような笑みを浮かべ、腰に手をやり胸を反らせている。たゆんたゆん。

「ふっふっふ。ヒッキー、今の状況、分かってる?」

「我が兄とは言え、何の策もなしに敵陣に突っ込もうとは浅慮よのぉ⋯⋯」

 芝居がかった台詞を吐く結衣に、小町が追従する。いいだろう、まとめて相手をしてやる⋯⋯。

「八幡っ」

 俺がいざ行かんと戦闘体制を取ると、弾むような声が耳に届く。振り返ろうとした瞬間、背中にトンと軽い衝撃が響いた。

「助太刀するよ」

 顔だけで振り返ると、勝気な笑みが俺に向けられている。

「男子チーム結成だね」

「と、戸塚ぁ⋯⋯」

 きっと戸塚はこの素敵な笑顔で、テニス部のチームメンバーを引っ張って行っているのだろう。可愛らしい男の子が、今日ほど頼りがいがあると思った事はない。

「せいっ」

 感動に咽び泣きそうになっている所に、バシャンと頭から水を被せられる。結衣が戸塚もろとも水をぶっかけてきたらしい。

「さいちゃんがいるからって手加減しないよ」

「背中がガラ空きね」

 結衣の方を向いた瞬間、今度は後ろから冷ややかな声と共に水をかけられた。そして雪乃の方を向いた瞬間に「そいやー」と小町が川面を蹴り上げ、またまた頭からずぶ濡れになる。

「うわわっ」

「ふふふ、お兄ちゃん。身内の恥は身内で処理しないとね」

「俺がいつ恥になった⋯⋯」

 ほーんと小町ちゃんたら、冗談きついゾ☆

 俺は手をわきわきと動かすと、川に沈めた両手をクロスさせるように振り上げて雪乃と小町に水をかける。

「きゃっ⋯⋯」

 自分の方にくると思っていなかったのか、雪乃が可愛い悲鳴を漏らした。その目には水をかけられたぐらいでは消火出来ない炎が浮かんでいる。

 

「こんの⋯⋯」

「ははははは、来い雪ノ下。いくらでも相手してやる」

 

 そして視界はまた水飛沫に遮られ、掛け声と冷たい水の応酬が始まる。

 

 もう一度、控え目に言おう。

 

 JK雪乃との水遊びは最高だ!

 

 

       *       *       *

 

 

「ふぅ⋯⋯」

 

 小一時間ほど水を掛け合い、身体が冷えてきた所で俺は川辺に上がっていた。

 シャツをかけておいた木の下で、いつの間にかやって来ていた留美の姿を見つける。

 

「八幡、大人気ない」

「おお⋯⋯」

 

 シャツに手を伸ばしたところで、手厳しい指摘が入る。そうね、そう言われても仕方ないですね。しかし三十路に近くなってから小学生にそう言われてしまうと、堪えるものがあるなぁ⋯⋯。

「留美も一緒に遊ぶか?」

「いい。水着持って来てないし」

 川の方を見たまま、留美は小さくかぶりを振った。分かりきっていた答えでも、一応聞いておかなくてはいけない。

「他の奴らはどうした」

「⋯⋯朝ごはん食べてから部屋に戻って、私が外に行く準備をしている時に置いていかれた」

 そうか、と言葉もなく頷く。相変わらず、えげつない事をする。人は集団に入れば、どこまででも残酷になれるものらしい。

「⋯⋯辛いよな、そういうの」

「八幡には、分かんないでしょ」

 そう言う留美の声は冷たく、突き放すようだった。

 まあさっきまでみんなで大はしゃぎしていたのを見られていたのだから、そう言われるのも仕方ない。

「いや、分かる。小中高とずっと一人だったからな。俺はぼっちマイスターだぞ」

 冗談めかして言うと、ようやく留美はこちらを見た。当然、欠けらも信じていないって表情だ。

「でもさっきまで、みんなで遊んでた」

「まあ、部活の合宿みたいなもんだからな⋯⋯。教室ではいつも一人だ」

 留美の目はまだこちらを訝しんでいたが、俺の口調から冗談ではない事を感じ取ったらしい。さっきまでよりいくらかは、真面目に聞こうとしているように見える。

「それに大勢でいれば孤独じゃない、ってわけじゃない」

 シャツを着て、髪から滴ってくる水滴をタオルに吸い込ませる。

 孤独は状況だけを言うものじゃなく、感じるものだ。もちろん俺が今それを感じているというわけではないし、留美には分かりにくい説明だったかも知れない。

「⋯⋯八幡は今、孤独なの?」

「今この時に限って言えば、違うな」

「よく分かんない。説明下手過ぎ」

「おお⋯⋯」

 またまた手痛い指摘である。人の気持ちに寄り添い、ただそれを表明したいだけなのだが、中々どうして伝わらない。

「まあなんだ、生きてりゃ孤独な時もあるし、そうじゃない時もある」

 何だか人生語るおっさんみたいになってきたな、と思いながら俺は留美に語りかけ続ける。留美の目にはまだ、納得の色は浮かんでいない。

「⋯⋯そんな時なんて、くるのかな」

 ようやく聞けた本心からの言葉に、俺は短く息を吐いた。

「選択の問題だな」

 孤独を選ぶか、そうではないか。実は単純で、だからこそ人生というシステムは冷酷なのだ。

 どんな状況だって、全て自分の選択の結果だ。

 あいつがどうでとか、こんな事があってとか、言い訳めいた事は関係ない。それですら選択に付随する結果であり、原因ではない。鶴見留美の状況は、そこにどんな思いがあったとしても、彼女の選択の結果なのだ。

 

「留美はどっちがいいんだ?」

 

 だから今一度、問おう。

 分かりきった、彼女の答えを。

 

「孤独⋯⋯じゃない方がいい」

 

 今、鶴見留美は選択した。

 であれば後に続くのは結果だ。その先に待つのが、残酷なものであったとしても。

 

 

       *       *       *

 

 

 川辺での水遊びを終えた俺たちは、夜までの時間を使って肝試しの為の準備を進めた。

 俺と戸塚と小町で夜の肝試しのコースを下見と段取り、そして雪乃と結衣は件の四人を探し出してコンタクトを取って貰っている。俺の作戦の為の、重要な役割だ。

 すでに俺の示したリミットである夕方はとうに超え、作戦の内容は葉山たちを含め全員に説明をしてある。相変わらずみんなの反応はよろしくはなかったが、前回よりはいくらかマシな反応だったように思う。

 

「コースの確認、終わったよ。俺たちの方の準備は完了だ」

「ああ」

 

 葉山の報告に俺は頷きを返すと、すでに漆黒へと色を変えた空を仰ぎ見た。時刻は午後七時過ぎ。もうそろそろ肝試しが始まる時間だ。

 葉山たちには今回において、完全な裏方をお願いしてある。お化け役として小学生たちを驚かしつつ、鶴見留美を含むグループに対してコースの改変を行う。小町が出発の順番を指定する事で留美たちのグループが最後になるようにするのは、以前と変わらない。

「けどこの作戦、本当に上手くいくのか?」

「言っただろ。“あの子たちの良心”に期待するしかないって」

 またも葉山の好きそうなキーワードではぐらかすと、葉山は腕を組んで黙り込んだ。何か言いたげな表情だったが、彼は質問を重ねる事はなかった。

「⋯⋯それじゃ、持ち場に戻る。こっちの事は任せてくれ」

「ああ、頼んだ」

 葉山が頷くと、俺もおうむ返しのように深く頷く。葉山が森の中に消えて行くと、スタート会場から小町の声が聞こえてくる。拡声器でも使っているのか、その声は元気が良すぎて少し割れていた。

「比企谷くん」

 遠くから聞こえる悲鳴やら笑い声やらに耳を澄ませていると、不意に声をかけられる。振り返るとそこには雪女の衣装に着替えた雪乃の姿があった。

 雪乃だから、雪女。安直だけれど、和装の雪乃もいい。凄くいい。

「準備万端みたいだな」

「ええ⋯⋯」

 雪乃は肯定こそ返すものの、その声はいつも以上に元気がない。物憂げな表情と相まって、本物の雪女がそこにいるみたいだった。

「⋯⋯不安か?」

「そんなわけがないでしょう」

 俺の心配の言葉にも、即座に否定していつもの勝ち気な表情に早変わり。これだけ女優の資質があれば、まあ大丈夫だろう。

「彼女たちと普通に話すより、よっぽど気が楽だわ」

「⋯⋯それもどうなんだと思うけどな」

 俺が若干引いていると、「おーい」と背中に声がかかる。振り返ると普段着のままの結衣が、手を振りながらこちらに歩いてくる。

「うーん、遠目からでもやっぱり似合うね」

「それは褒めているのかしら⋯⋯」

 雪乃は頬に手をやり疑問に首を傾げると、結衣は肯定するようにうんうんと首を縦に振る。

 結衣の小悪魔衣装姿が見れないのは残念だが、今回は仕方ない。仮装する事によって作戦に支障が出るかも知れないなら、不安要素は潰しておくほうがいい。

「ヒッキー、もうちょっとで半分ぐらいだけど」

「ああ。そろそろスタンバイ頼む」

「うん」

 雪乃は結衣と呼吸を合わせるようにほとんど同時に頷くと、俺が動き出したのを合図に歩き始める。

 森の中に入ってしばらく歩くと、分岐に出た。ここが俺と結衣の持ち場で、最初の関所だ。

「じゃあね、ゆきのん。頑張って」

「ええ」

 雪乃は頷くと、深い黒を湛えた森の奥へと消えていく。夜闇に紛れる間際の背中は、まるで幽霊のようで少しゾッとした。こんな事を本人に伝えたら、また口を尖らすだろう。

「いよいよだね⋯⋯」

「⋯⋯ああ」

 そう言う結衣の口調からは、いつもの明るさが抜け落ちている。今日の作戦を知ってしまえば、まあそう言う反応になるだろう。

 ブブッとポケットの中で携帯電話が震えて、俺はすぐにその通知の内容を確認する。小町からは短く「最後の一組出発」とだけメールが届いていた。

「今、留美たちのグループが出発したらしい」

「うん」

 合図を送り合うように視線を交わすと、俺は元来た道を少し戻って茂みの中に身を隠した。今頃葉山たちがコースレイアウトを変え、こちらに彼女たちを誘導してくれている事だろう。

 息を殺して待っていると、やがて聞き覚えのある声たちが近づいてくる。肝試しという非日常もあってか、彼女たちの声は常よりも大きい。だから彼女たちがどのぐらい近くにいるか、そして俺の横を通り過ぎたのかどうか、よく分かる。

「留美ちゃん、こっち」

 結衣が細く小さな声で呼びかけると、四人から数歩遅れて歩いていた留美がハッと顔を上げた。留美と目が合うと結衣は「しーっ」と唇に人差し指をあてる。

「⋯⋯⋯⋯」

「こっちに来て」

 そう言う結衣を訝しげに見ながら、留美は何も言わずに俺の隠れる茂みの方へとやってくる。

 この役目は、やはり結衣にしか出来なかった。俺がもし暗闇の中から急に留美に話しかけようものなら、絶叫上げられて作戦台無しになるからな⋯⋯。

「⋯⋯なに?」

 俺の側まで来ると、留美は抱えた違和感を吐き出すように、小さな声で俺に問いかける。しかしその問いの答えは、俺ですらも知り得ない。

「まあ、見ててくれ」

 やがて四人は葉山たちに操作された道順のまま、袋小路に差し掛かる。コース順通りに来たはずなのに行き止まりになっている事に、彼女たちは口々に文句とも悪態ともつかない事を言いながら、不安を覆い隠すように声を大きくした。

 そんな彼女たちの前に、一つの人影が幻影のようにゆらりと、その帰り道を塞ぐように現れる。雪女さながらに冷たい表情の雪乃は、凍てつくような視線を彼女たちに送っていた。

 

「なんだ、雪乃さんじゃん」

「えー、登場の仕方地味ー。もっとちゃんと脅かせてよー」

 

 いつの間に彼女たちは、雪乃さんなんて名前呼びをしていたのだろう。しかしそれは、雪乃に対して心を開いている証拠。俺の作戦に置いて、非常に重要な役目を持つ。

 俺がこの千葉村において達成すべき目標は大きく三つ。その内の、三つ目。

 それは雪乃の手によって、鶴見留美を救うこと。彼女の過去を、彼女自身の手で救うことだ。

 

「貴女たち、一体どういうつもり?」

 

 真夏だというのに、氷点下の声が凛と響いた。それをしかと両の耳で聞き届けた彼女たちは、息をするのも忘れたみたいに言葉を失う。

 鶴見留美を救う為の俺の作戦は、あいも変わらず一か八か。それにコンセプトは何も変わらない。俺は彼女たちの関係を破壊する。自浄作用も何もない、腐敗した関係性は、一度壊すしかない。

「留美ちゃんは、どこに行ったの?」

「え⋯⋯っ」

 雪乃に指摘されて、彼女たちは初めて気付いたのだろう。ぐるぐると周りを見渡しても、身を隠している彼女が見つかるわけもない。

「どうして彼女を、除け者にしているの?」

「⋯⋯⋯⋯」

 あまりにも直截な質問に、すぐに答えられる者などいるわけもない。

 彼女たちにしてみれば、雪乃の言動は酷く恐ろしいものだろう。憧れ、心を許した存在からの厳しい糾弾。一人は唖然とし、一人は呆け、一人は違和感にその身を抱き、一人は恐怖を目に浮かべている。

「そんな事をして、何になるの?」

 雪乃の問いに、応える者は誰ひとりとしていない。

 私たちの何が分かるの?

 そう言わせない為に、雪乃は千葉村に来た当初から彼女たちに接触している。集団から排斥されている留美の事も認識し、その状況を黙認したように思わせながら、その裏で問題に目を向けていたという状況を作り出したのだ。

「留美ちゃんが貴女たちの集団から抜けたら、今度は貴女たちの中から誰かが標的になるだけよ」

 残酷なまでの事実を、雪乃は彼女たちに突きつける。彼女たちにすればどこかで既に分かっている事で、恐れているはずの事。なのにそれを続ける事を、俺は未だに理解する事ができない。

「そんな事を繰り返して、果たして友達と言えるのかしら」

「⋯⋯⋯⋯」

 耳が痛いほどの静寂と、張り詰めた空気。

 俺のやり方は、結局歳月が過ぎようと大差はない。斜め下の方法が、斜め上に変わったぐらいだ。

 一連のやり取りを、留美は食い入るように見詰めていた。握り込まれた手が、ぷるぷると震えている。俺がそっと留美の肩に手を置くと、少しだけその震えが収まったように思えた。

「お互いの顔を見なさい。貴女たちの中で、本当に友達だと言える人はいるの?」

 雪乃に促されて、彼女たちは遠慮がちに視線を交換しあう。その中でただ一人だけ、じっと地面を見詰め続けている少女がいた。

「違う⋯⋯」

「由香⋯⋯」

 由香と呼ばれた少女は、地表に視線を送りながら絞り出すように声を出す。その様子を、留美はまた震えるほど強い力で拳を握りながら見ていた。じっと沈黙を守っていた結衣が、さっき俺がそうしたように留美の肩に手を置く。

「そんな事ない。そんなんじゃない⋯⋯!」

 その静かで強い叫びは、一体どこから湧いて出てきたのだろうか。ひょっとしたら彼女も、今の留美のように排斥された経験があるのかも知れない。

「そ、そうだよっ。私たち、ちゃんと友達だもん」

「うん。そうだよ⋯⋯ね?」

 由香に同調しているようでいて、しかし彼女たちの言っている事は由香の意図を汲み取ったものではない。ただストレスフルな現状から逃げたいが為に、その否定に乗っただけだ。

 由香が言いたいのは、自分たちが友達同士であるという事ではない。彼女が「違う」と否定したかったのは歪んだこの集団と、その心理なのだ。

「私、探しに行ってくる」

「えっ⋯⋯ちょっと、由香⋯⋯」

 由香は駆け出すと、雪乃の横を通り抜けて元きた道を走っていく。後の事は、葉山たちに任せておけばいい。彼らにはグループからはぐれた子がいたら、ゴール地点まで誘導するように頼んである。

「⋯⋯貴女たちは行かないの?」

 由香が走り抜ける間も冷たい視線を彼女たちに送り続けていた雪乃は、殊更に冷たい声でそう言った。

「い、行こうよ」

「⋯⋯うん」

 一人が言い出すと、残る二人も頷き足早にその場を去っていく。後に残されたのは、夏の夜に憂いを浮かべた目で宵闇を仰ぎ見る雪女だけだ。

 留美は雪乃を、どう感じただろうか。四人ばかりを気にかけているようでいて、実は自分の事を救ってくれた救世主か、それとも恐ろしい断罪者か。

 これで鶴見留美の人間関係は、瓦解を始めた。以前と違うのは、そこに再構築の余地があるか否かだ。

 

「行くか」

「⋯⋯」

 

 黙って頷く留美に、結衣が寄り添って歩き出す。

 さあ、答え合わせの時間だ。

 俺は知らずに握り込んでいた拳を解くと、彼女たちの二歩後ろを歩き始めた。

 

 

       *       *       *

 

 

 一度として同じ形を取らない炎が、広場の中心で高く燃え盛っている。

 キャンプファイヤーを取り囲んだ小学生たちは輪を作り、次々と相手を替えながら二日目のイベントはフィナーレを迎えようとしていた。

 フォークダンスは自由参加なのか、輪の外で座り込んで話す留美と由香の姿を見つけた。残りの三人は、首をぐるりと回しみたが見えるところにはいないようだった。

 

「上手くいったのかしら」

「うん、多分ね」

 

 雪乃も結衣も、温かな目線を彼女たちに送り続ける。

 巨大な炎に照らされる度に由香の表情は泣いているようだったり、泣き笑いのような顔だったりと忙しない。留美は微笑みを湛えたまま何度か頷き、こちらには聞こえるはずもない言葉を紡ぐ。

 ──上手くいったのか、否か。

 今この場面だけで判断するならば、結果は上々と言っていいだろう。元より全員が関係を再構築できるなんて思ってもいない。

 重要なのは、これからだ。俺たちがやったのは、ちゃんと友達になれるかどうか、そのきっかけを作っただけに過ぎない。

 

「まあ、いいんじゃないか」

 

 残る三人にだって、やり直せる可能性は残っている。その関係の崩壊はすでに始まってしまっているが、それを止められるかどうかは、無責任だが彼女たち次第だ。もちろん、彼女たちにその気があればの話だが。

 果たして留美と由香は、本当の友達になれるだろうか。俺にはもう、そうなる事を祈るぐらいしかできない。

 願わくば雪乃と結衣のように。

 何年経っても切れない絆で、時にぶつかり合い、互いに支え合って補い合い、生涯に渡る親友になって欲しい。そうして初めて、俺と彼女は救われたと言えるのだろうから。

 由香が何事かを言うと、留美はまた頷き、彼女の手を握る。

 その光景はキャンプファイヤーの炎に照らされ、さながらハイキーで切り取られた写真のようで。

 だからきっと、眩し過ぎたのだ。

 俺がパチリと瞬きをしたのと同時に、熱い雫が頬を転がり落ちた。

 

「比企谷くん、泣いているの?」

「あ⋯⋯」

 

 慌ててシャツの袖で涙を拭おうとした俺の腕を掴むと、雪乃は意思を込めた強さで制する。ポケットからハンカチを取り出すと、そっと傷口でも拭うかのように、優しく俺の涙を拭いた。

「驚いたわ⋯⋯。あなた、ひょっとしていい人なの?」

「あはは⋯⋯。あたしも一瞬そうなのかと思っちゃった」

「⋯⋯ばっか、気付くの遅ぇよ」

 ありがと、と小さく言うと俺は思わず顔を逸らす。まったく、こういう部分は変えたくとも変えられそうもない。

「そうかも知れないわね」

 真っ赤な炎に照らされた雪乃の顔には、慈しみの込められた微笑みが浮かべられている。この世界線で来てから一番優しい表情に、うっかりどころか思いっきり惚れ直してしまう。

「もしも比企谷くんが私と同じ小学校に通っていたら、きっと色んな事が違っていたんでしょうね」

「買い被りすぎだな」

 もしもそんな状況になったとしても、俺に彼女が救えたとは思えない。きっと彼女と人生を交わらせる事すらなく、仮に知り合っていたとしても高嶺の華と路傍の石ころでは何も起こりようがないだろう。

 

「今の俺だから、できたんだ」

 

 もしもこれで、鶴見留美を救う事ができたのだとしたら。

 それはお前と、出会えたからなんだよ。

 俺はそう心中呟くと、雪乃の微笑みを目に焼き付けるように、そっと瞼を閉じた。

 

 

 







お読み頂きありがとうございます。
千葉村編後編はいかがでしたでしょうか? この展開を予想できている人がいたら私が凹みます。
結局壊してしまう所は八幡で、そこに救済の余地を残すのは大人であるが故なのかも知れません。
次の話はどの話になるのか、楽しみにお待ち頂ければと思います。




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だから比企谷八幡は、彼女を見詰めてそう言った。

 我が家にはペットが二匹いる。

 比企谷家の愛猫・カマクラと、由比ヶ浜家の愛犬・サブレである。

 

 千葉村から帰ってきてしばし。夏休みも折り返しを過ぎた頃に、結衣からサブレを預かったのだ。

 それ自体一度経験した事でもあるのだが、久しぶり過ぎてサブレのいる生活はどうにも慣れない。というか毎日のようにひゃんひゃんと足元に擦り寄って来られると、中々に心休まる暇がないのだ。

 そういやこいつ、犬種はなんだっけか。確かミニチュアダックスフント⋯⋯いや、キャバリア・キング・チャールズ・スパニエルだったか? 絶対違うな。

 

「毎日まいにち飽きないなお前」

 

 舌を出したままハッハッと俺の足元で座り込んだサブレに言うが、もちろんサブレは何も反応しない。

 千葉村から帰ってきてからというもの、俺はあの夏とほとんど同じように過ごしていた。つまり、あれから雪乃に会っていない。

 雪乃とこれほど長く会わない時間を持つ事なんて、それこそこの高校二年の夏以来ではないだろうか。故に雪乃に会う事によってのみ補給されるビタミンYが不足している。多分このままではビタミンY不足で俺は死ぬ。ゆきのん会いたいのん⋯⋯。

 そんな女々しい事を考えていると、ポコリンとメールの受信を知らせる音がする。

 

『あと五分ぐらいでつくね』

 

 差出人には、『☆★ゆい★☆』の名前が表示され、本文には短くそう書かれていた。もうすぐ彼女がサブレを引き取りに来るのだ。

 何の変哲もない夏休みの過ごし方の中でも、わずかに変わった事があった。メールの履歴には、結衣が旅行中に撮って送ってきた写真が何枚もあり、それ以上にたわいのないメッセージのやりとりが何通もある。

 これは俺の知る世界線では、無かった事だ。短い文面のやり取りは何度かしたけれど、こんな風に距離感が近いというか、仲の良い友達同士のようなメールのやり取りはしていない。

 ぼんやりとこれはどういう事なのか考えていると、ピンポンとインターホンが鳴る。どうやら結衣が到着したらしい。

 モニターでくしくしと髪型を直している結衣の姿を認めると、俺は一階まで降りる。がちゃりと扉を開けると、出し抜けに明るい声が届く。

「やっはろー! ヒッキー」

「⋯⋯おう」

 とても旅行帰りとは思えない元気な挨拶に、俺は心の中だけで「ひゃっはろー」と言い返す。

「まあ、上がっていってくれ」

「うん。お邪魔しまーす」

 流石に俺の家に来るのは二度目⋯⋯いや事故の後にも来たらしいから、三度目か。多少は慣れたのだろう、家に上がる事にも抵抗がなくなってきているように思えた。

 リビングに戻ると、飼い主の匂いを敏感に嗅ぎつけたのか扉を開けるなりサブレは結衣に飛びつく。

「おー、サブレ久しぶり〜」

 サブレはワフワフと、滞在中の出来事を喋るかのように吠えまくる。それを見ながら俺は麦茶を用意していると、ふと気付く。小町はどこに行ったのだろう。

 思い出して来てみれば、サブレを引き取りにきた時は玄関での立ち話程度だった気がする。何がきっかけかは分からないが、あの時とは少し変わってきているらしい。

「あ、これお土産ね」

「おお、ありがと」

 はい、と紙袋ごと渡されたそれを見ると、何種類かのお土産が入っていた。パッケージを見るに、定番お菓子のご当地版というやつらしい。

「預かってもらってる間、何かサブレが迷惑かけたりしなかった?」

「まあ、迷惑被ってるとしたらカマクラだな」

 サブレがうちに来たことによって一番影響を受けたのは、やはりカマクラだろう。顔を合わせば追いかけ回され、相手をしてくれるはずの小町を取られと散々な目に遭っていた。

 それをかいつまんで結衣に話すと、あははと苦笑する。

「ヒッキーには?」

「ん? いや、俺は別に。散歩で外に出るのが苦痛だっただけだな」

「散歩よりも外に出るのが嫌なんだ⋯⋯」

 結衣は麦茶の入ったコップを両手で持ちながら、ちょっと引いていた。いや当たり前でしょ⋯⋯この暑い中で外に出るなんて自殺行為じゃねぇか。

「なんかゴメンね。予定とか、色々狂わせちゃったかも」

「いや、特に予定はないからいいんだけど」

 事実、俺の夏休みの予定は何もなかった。社会人になってからというものあれだけ羨ましかった一ヶ月以上にも渡る長期連休は、いざ与えられてみると長過ぎて持て余すほどだ。まったく、贅沢な悩みではあるが。

「ふーん、予定ないんだ⋯⋯」

 結衣は手に持ったままの麦茶の水面に視線を落として、そうひとりごちた。彼女のその雰囲気から、俺は何となくその後に続く言葉が想像できてしまった。

 

「じゃあさ、今度の花火大会、一緒に行こうよ」

 

 ああ、やっぱりこうなるのか。俺は遠慮がちな結衣の視線を受けながら、次に言うべき言葉を探す。

「外に出るのが苦痛って、さっき言ったんだけど⋯⋯」

「もー、夏休みだからってそんな生活してたらだめじゃん。たまには太陽の光浴びないと、本当に目が腐っちゃうよ?」

 いや花火大会は夜だから、太陽の光関係ないんだけど⋯⋯。しかしそんな事を言っても、またその顔が不機嫌になるだけだろう。

「⋯⋯でも二人でいるところを誰かに見られたら、噂されちゃうかも」

「なにその言い方。キモい」

 女子っぽく言ってみたのだが、あっさりバッサリ切られてしまった。というか実際また花火大会に行ったら相模や陽乃さんにエンカウントする可能性もあるから、あのイベント自体は非常に億劫なのだ。

「いやでも、人ゴミがね?」

 なおも言い訳めいた事を続けていると、結衣はこちらをじっと見ながら黙ってしまう。非難するようだった視線は徐々に色を変えていき、やがて落胆のようなものを滲ませる。

「⋯⋯ヒッキーは、あたしと一緒に行くの嫌?」

 そんな風に聞かれたら、嫌だなんて答えられるわけがない。こういう時の結衣の(したた)かさというか女の子らしさというものに、やはりどうしても敵う気がしない。

「⋯⋯そんなわけないだろ」

「うん⋯⋯。はい、じゃあ決まりねっ」

 結衣は立ち上がると、テキパキとサブレを連れて帰る準備を始める。結局この世界線でも、結衣とは花火大会に行くことになるらしい。

「じゃ、また連絡する」

「おう」

 玄関まで送ると、結衣は空いた方の手を振る。

 別れの時を悟ったのかひゃんひゃんと鳴くサブレを、俺は片手を上げて見送った。

 

 

       *       *       *

 

 

 その日は午前中からぽんぽんと空の大砲のような音が鳴っていた。確かあれは、号砲花火とか言うんだったか。

 俺が結衣との待ち合わせの駅に着くと、俺は周囲を見回した。格好からして俺たちと同じ目的地であるらしい人々が、コンコースを足早に行き交っている。

 

「お待たせっ」

 

 弾むような声と同時に、浴衣姿の結衣が視界にカットインしてくる。

 いつかと同じ薄桃色の浴衣に身を包んだ結衣は、髪はいつものお団子頭ではなく一つにまとめられてアップにしている。十二年ぶりのその姿はあまりにも感慨深くて、思わず上から下までじっくり見てしまう。

「⋯⋯ねぇ、見てるんなら何か言ってよ」

「⋯⋯茶髪と浴衣は合わねぇな」

「もー! なんでそんなデリカシー無いこと言えるのっ」

 俺の答えは大変ご不満だったらしく、結衣は手に持った赤い手提げを振り回して二の腕にクリーンヒットさせてくる。手提げはモーニングスターじゃねぇぞ。

「あいったぁ⋯⋯」

 たいして痛くもなかったが、痛がらないというのも無礼というもの。二の腕をおさえる振りをしても、結衣の膨らんだ頬が萎む事はない。

「ヒッキー、もうちょっと気を使えないと女の子にモテないよ?」

「別にモテたくなんてねぇよ」

 たった一人にさえ、モテたらいい。そんな本心を口にするわけもなく、ガタガタと大きな音を立てながら現れた電車に乗り込んでいく。

 車内はレジャーシートやらパラソルやらを持った人たちで、中々の混み具合だった。俺たちを乗せた電車がゆっくりと走り始めると、不意に結衣は問いかける。

「そういえば、ヒッキーってゆきのんと連絡取ってる?」

「いや⋯⋯。千葉村から帰った後に、夏休み中にまた部活はあるのかって聞いたぐらいだな」

 残念な事に、非常に残念な事にそれが事実で、雪乃とはその一通しかやり取りしていない。しかも返信は『ないわ』の三文字である。そのあと携帯を一時間握りしめても続きが送られてくる事はなかったから、ちょっと泣いた。

 しかし俺の答えに思うところがあるらしい結衣は、顎に手をやり表情を僅かに険しくさせる。

「そっか⋯⋯。私もね、何回かメールとかしてるんだけど、電話はいっつも出れないみたいだし、メールの返信もすっごい遅くて」

 実際、俺とのメールのやり取りも返信がくるまで丸一日以上かかっていた。

 思い当たる節があるとすれば、それは雪ノ下家による隔離。あるいは、本当に家の用事で忙しいかだ。普通に考えれば後者だと思うが、前者の可能性があるのが雪ノ下家の恐ろしいところなのだ。

「まぁ、家の事が色々あるんだろ」

 千葉村から帰ったあの日、雪乃が家のハイヤーで連れ去られるように帰って行ったのは、あの時と変わらない。結衣から事故に関する出来事は遠ざけたかったが、流石にそこまでのコントロールは出来なかった。

「うん⋯⋯」

 結衣はそう返事をすると、小さく溜息を吐いた。

 あの車を見て、結衣は何を思ったのだろう。それっきり黙ってしまった結衣の横顔を盗み見ても、それが分かるはずもない。

 電車が目的の駅に滑り込むと、人波と一緒にホームへと降りる。そのまま列に流されるように進んでいくと、間も無く花火大会の会場だ。別の交通手段できた人々と合流するたびに、人口密度は上がっていく。

「だいぶ混んできたね」

 普段歩く分にはだだっ広いと思っていた歩道も、こうも混み合ってくるとただ歩くのすらも難しい。隣を歩く結衣は、徐々に増えてきた色とりどりの屋台に目を奪われていた。

 花火が始まるまで、まだ一時間以上もある。またあの時と同じように屋台をまわって時間を潰す事になりそうだ。

「まだ時間あるけど、どうする?」

「⋯⋯屋台でも見てくか」

「うん、そだね」

 今から場所取りという選択肢もあるにはあるが、人間飯を食べねば生きてはいけない。今回は小町の欲しい物を買って帰るというミッションは存在していないが、飲まず食わずというのも厳しかろう。

「あ、見てヒッキー。あの綿菓子⋯⋯」

「由比ヶ浜」

 しかし何もかも同じというわけには、いかなかった。このまま行けば、おそらく相模南と会う事になり、また結衣が不躾な興味と嘲笑の対象にされてしまう。それはなんとしても避けたい。

「悪い、こっちから見たいんだけど、いいか?」

「あ、うん⋯⋯。いいよ」

 結衣が見ている方とは反対の屋台の並びを指さすと、特に異論はないのかすんなり受け入れてくれる。表情に僅かな疑問が残っているようだったが、多少強引でもやむなしだろう。

「ねえ、何食べる?」

「まずは型抜きだな」

「食べ物じゃなかったっ⁉︎」

「いや、あれも食いもんだから」

 そんな何気ない会話も、結衣はどこか楽しそうだ。

 願わくばいつまでも、そんな風に笑っていて欲しかった。

 けれどそれは叶わない願いだ。それは他でもない俺が一番よく、知っている。

 

 

       *       *       *

 

 

 屋台を回り始めてしばらく経った頃。

 俺と結衣が道端でリンゴ飴をもしゃもしゃ食べていると、聞き覚えのあるダミ声が耳に届く。

 

「あれー、結衣とヒキタニくんじゃん。うぇーい!」

 

 そう言って手を挙げているのは戸部で、その隣には葉山の姿もある。片手に屋台で買ったものらしきビニール袋を持っているから、こちらと同じく花火前の腹ごしらえ中だろうか。

 

「あ、とべっち⋯⋯と隼人くん。こんな所で奇遇だね。うぇーい!」

 

 結衣と戸部はパリピよろしくハイタッチすると、葉山は微笑ましい光景を見ているかのように目を細めた。すっとその視線が俺の方にスライドしてくると、途端にその目に浮かぶものは慈しみから興味へと変わっていく。

「やあ」

「⋯⋯よう」

 なるほどな、と心中でひとりごちる。相模と会わないようにするという事は、こんな風にあの時会わなかった人間に会う可能性もあるわけだ。

「戸部と二人だけなんて、珍しいな」

「いや、大岡と大和もいるよ。場所取りをしてくれてるんだ」

 そう言って葉山はビニール袋を軽く持ち上げた。彼らの分も含めて、買い出し中という事らしい。

「そっちはデートか?」

「そんなんじゃねぇよ」

 即座に否定するが、まあどこからどう見てもデートだろう。しかしその否定に意味はなくとも、一応言葉にはしておかなくてはならない。

 しかしこの状況というのは、またとない機会かも知れない。俺は結衣と戸部の話が盛り上がっているのを視界の端で確認すると、葉山との話題を変える。

「ところで、ちょっと聞きたい事があるんだが⋯⋯」

 声をひそめて言う俺に、葉山は胡散らしいとでも言うような視線を返してくる。

「夏休みの間、雪ノ下が何をしているか知ってるか?」

 俺の直截で唐突な問いに、葉山は言葉を失ったように目を瞬いた。しかしそれは一瞬の事で、返される答えは素っ気ない。

「そういう事なら、本人に直接聞けばいいだろ」

「あいにくプライベートな連絡は禁止されているもんでな」

「⋯⋯一体どうしたらそうなるんだ」

 そんなの俺が聞きてぇよ。と誰にも聞こえない声で呟き漏らす。この手の話はセンシティブでドメスティックな話題過ぎて、葉山の反応は芳しくない。

「雪ノ下さんから聞いてるかも知れないけど、俺だって頻繁に連絡を取り合うような仲じゃない。だから最近の事は、全然知らないんだよ」

「過去の事なら分かるのか? 例年どうだったかとか」

「もし知っていても言えないよ。プライベートな事だからね」

「⋯⋯まあ、そうだわな」

 当たり前だろ、と肩をすくめられてしまうと、もうそれ以上の質問は意味を持たない。

 俺が結衣の方を見ると、戸部との話も終わったところらしかった。

「そろそろ行くわ」

「ああ⋯⋯」

 葉山はそう答えるが、顎に手をやり思案顔だ。そのままにして置くのも気持ち悪いので続きを待っていると、結衣には聞こえないぐらいの小さな声で言う。

 

「どっちつかずは良くないと思うぞ」

「⋯⋯だからそんなんじゃねぇって言ってんだろ」

 

 どっちかだなんて、それはもう決まっている。

 それはもうどうしようもなく、取り返しがつかない程に。

 

 

       *       *       *

 

 

 花火の打ち上げまでもう間も無くという時間になると、観覧エリアは人でごった返していた。

 当然空いているベンチなどはなく、一番見やすい場所はすでにレジャーシートや大型のブルーシートが敷かれ、二人とはいえ滑り込むようなスペースは無い。

 

「えっと、どうしよっか」

 

 結衣は浴衣だから、芝生にそのまま座るというのはよろしくない。かと言って立ち見をしようにも、観覧エリアの通路は立ち止まるのも難しいぐらいの往来である。

 しかし、そんな事は分かり切っている事だ。

「あんまいい場所は残ってないかも知れんが、レジャーシートなら持って来てる」

 俺はそう言ってたすき掛けにしていた小さめのバッグを指さすと、結衣はほえーっと間の抜けた表情をしていた。

「意外⋯⋯。あ、ううん。ヒッキーって割りと頼り甲斐あるなーって思ってたけど」

「⋯⋯微妙なフォローをどうも」

 それもこれも、こうなる事を分かっていたから準備できた事だ。何よりこのままフラフラと有料観覧エリアに近付いて陽乃さんに会うのも具合が悪い。また帰りしなに雪ノ下家の車を見る事になり、避けていた事故の話題に触れる事になるだろう。

「ここら辺でいいか」

「うん」

 芝生エリアに点々と植樹された木の下に空いているスペースを見つけると、二人がようやく座れるぐらいの小さなレジャーシートを敷く。あいにく空を見上げると枝葉が少し花火の邪魔をしてしまいそうだが、座れるだけマシだろう。

 俺たちが座り込んでしばらくすると、会場に花火大会開始のアナウンスが流れ始めた。そしてひゅるるるる、と火球が空に細い線を描くと、光の華が炸裂する。歓声に紛れてもう一発、さらにもう一発と次々に花火は打ち上げられていく。

「おぉ〜」

 結衣も控え目に歓声を上げながら、胸の前でパチパチと小さく拍手をする。本当に結衣は、どの仕草を切り取って見ても女の子らしい。

 光の輪が大きくなっていく度に、会場の歓声は大きくなっていき、どこか遠くから調子っぱずれな「たーまやー」という声が届く。

 彼女の瞳はいくつもの花火を色とりどりに映し込み、その横顔はあまりにも美妙だった。

 もしも、俺が好きになったのが結衣だったとしたら。

 俺と彼女はどんな未来を迎えていただろう。きっと俺は彼女の優しさに甘えて、酷く苦しめたり傷つけたりすると思う。あるいは俺が彼女の為に変わる努力をして、笑顔を見続ける事ができたのかも知れない。

 けれどそんな想像は、無意味だ。俺が感情によって誰かを選ぶ事は出来ても、好きになるという感情を選び取れるわけじゃない。

「ねえ、ヒッキー」

 瞬きも忘れて見入っていたのか、潤んだ瞳に花火を閉じ込めながら結衣は言う。

 

「サブレを助けてくれて、ありがとう」

 

 その一言に、俺は息をするのも忘れて結衣の顔を見詰めていた。

 結局、この話をするのは避けられないのか。あれだけ回避してきた事故の話題も、結衣の方から言われてしまっては避けようがない。

「入学式の日に、犬を助けようとして、怪我しちゃったでしょ? あの犬が、サブレだったんだ」

「⋯⋯ああ」

「あ、驚かないって事は、やっぱり小町ちゃんから聞いてたんだ」

 頷く俺を見て、結衣はまた花火を見上げる。ぱらぱら、ぱらぱらと、光と音が降り注ぐ。

「だからあの時から、ヒッキーの事は知ってたの」

 さほど遠くない話だというのに、結衣の声は遥か昔を懐旧するみたいだった。それほどまでに、俺にこの話をするのに時間がかかったという事が、その表情から読み取れる。

「お見舞い、行かなくってごめん。小町ちゃんに入院先を聞ければよかったんだけど⋯⋯。そんな事までしてくれなくてもいいって言われて、そのままにしちゃってた」

 俺を正面に捉えてぺこりと頭を下げる結衣の姿に、何故だか罪悪感すら覚える。俺が下手に事故の話題を避けなければ、こんな風にする必要もなかったはずだ。

「いや⋯⋯。謝る事なんかじゃねぇだろ。俺が勝手にやった事なんだし」

 事実あれは俺が勝手にやった事で、誰にも謝られる必要なんてない出来事だ。助けなければ良かったなどとは露ほども思わないが、結衣にそう言われることは酷く息苦しい。

「うん⋯⋯。でも入院してたから、凄く大切な時期に学校にいなかったわけじゃん? ヒッキーがいつも一人なの、あたしのせいなのかもって思ったら⋯⋯やっぱり謝りたい」

 あの時リードを離してしまったのは自分だという悔恨もあるのだろう。結衣の表情は未だ晴れず、いつしか花火を見上げる事もやめて俯いている。

「んな事気にしてたのかよ⋯⋯。俺がぼっちだったのは、この性格だからだ。元々社交性があれば、二年に上がった時に友達できてるはずだろ」

 これじゃいつかの繰り返しだ。避けても避けても訪れるというのならば、これは必要なやり取りだったのかも知れない。

 少なくとも結衣にはずっと心のどこかに(わだかま)っていた感情があって、それを吐露するのは必要なプロセスだったのだろう。彼女を傷つけない為にやっていたはずなのに、いつしかその所為で苦しめていたのかも知れない。そう考えると、自分は酷い偽善者のように思えてくる。

 

「ヒッキーは優しいね」

 

 空から降り注ぐまばらな光に合わせるようにして、ひたすらに柔らかい声色が耳朶を震わせた。

 いつの間にか俯かせていた顔を上げると、心の奥底を掬いあげるような視線が俺に注がれている。

「だから、なのかな」

 俺は彼女の、その表情を知っている。

 熱に浮かされたような、焦がれるような、確かな熱量を持った声。言葉を紡ぐ度に引き結ばれる唇。

「ヒッキー、あたしね」

 明滅を繰り返す空が、結衣の顔を幾度となく照らす。うっかりしていたら取り込まれてしまいそうなその目に、心が震えた。

「あたしね⋯⋯」

 駄目だ。

 そう強く思った。それが酷い欺瞞でも、誰の為にならないかも知れなくても、彼女にその先の言葉を言わせてはいけない。

 

「由比ヶ浜」

 

 結衣の話を遮るように、俺はその名前を呼ぶ。びくっと僅かに、彼女の肩口が揺れた。

「え⋯⋯。うん、何?」

「俺も、お前に言わなきゃいけない事がある」

 まったく、こんな時に言うなんて。デリカシーもなにもあったものじゃない、最低のタイミングだ。

 それでも、いつかは言わなければならない事だった。俺が何度この青春の時代を繰り返したとしても、不変の感情。それに伴う、残酷なお願いについて。

 

「俺、雪ノ下のことが好きなんだ」

 

 俺は気を抜けば逸らしてしまいそうになる視線を結衣に向けたまま、ただはっきりとそう言った。

 目を見開いた結衣の表情は純粋な驚き、であれば次に浮かべるのはどんな表情か。

 正直、また傷つけると思うと見ていたくなかった。それでも俺は、自身への戒めのように結衣を見詰めながら続ける。

「だから応援して欲しいとかそんな話じゃないんだけど⋯⋯。ただ知っておいて欲しいというか」

「うん⋯⋯」

「それからあいつと連絡取り辛くなってるかも知れないけど⋯⋯。また新学期が始まったら、一緒に居てやって欲しい。雪ノ下には、由比ヶ浜が必要だと思うから」

「⋯⋯なにそれ。お願いされなくても、一緒にいるよ」

 そう言う結衣の顔に張り付けられた微笑みの下にあるのは、悲壮か哀切か。その表情を見ていると、心臓が針で突かれているかのように痛んだ。

 また、彼女の優しさに甘えてしまった。悲しみさえ隠して見せる彼女の強さに、救われてしまった。

 

「ありがとう」

 

 だから俺は、結衣の目を見詰めてそう言った。

 少し前、千葉村での夜。川辺で語り合う彼女たちの姿を思い浮かべる。

 きっと彼女たちなら大丈夫だと、確信と祈りを込めて、俺はゆっくりと頭を下げた。

 

 

       *       *       *

 

 

 夏休み明けの初日。

 久しぶりの通学路は、学校が近づくにつれて数人で連れ立って歩く集団が目立つようになってくる。皆一様に夏休みの間にあった事を話し合っているのだろう。その声は夏休みの前と比べるまでも大きくかしましい。

 元の世界線で俺は、そんな光景をどんな気持ちで見ていただろうか。夏休みが終わってしまった絶望感と気怠さで背中を丸めながら登校していたような気がする。

 

「おはよっ」

 

 昇降口で靴を履き替えていると、二の腕に軽い衝撃を覚える。声のした方を見ると、結衣が片方の肩にかけた鞄を軽くぶつけてきたらしい。

「おお、おはよ」

 その声の掛け方も、声色も表情も、あまりにもいつも通りで拍子抜けしてしまう。もっとぎこちなくなったり、避けられたりしてもおかしくないというのに。

「なんか、そんなに久しぶりじゃないのに、すっごい久しぶりな気がする」

「⋯⋯まあ、そうだな」

 あの花火大会の日以来、ほとんど毎日のように来ていた結衣からのメールは、ただの一通も送られてくる事はなかった。

 そんな状況もあって結衣とどんな顔をして会えばいいか懊悩(おうのう)していたのだが、彼女はあっさりとそれをブレイクスルーした。やはり結衣は、俺の知る結衣からブレる事はない。俺なんか足元に及ばないほどに一人の人間として大きくて、その懐は深く暖かい。

「ね、今日から部活あるのかな?」

「さぁな。直接聞けば分かるだろ」

 そう言って俺と結衣は隣り合って歩き出す。やがて教室へと上がる階段へと差し掛かると、俺はいつかと同じようにその姿を見上げた。

 大きなガラス張りの窓たちが透かす、夏の厳しさを残したままの陽光。その光を受けてなお涼やかに、雪ノ下雪乃は何者をも寄せ付けない空気を身に纏っていた。

「あら、久しぶりね」

 踊り場にさしかかった彼女は、視界の端で俺たちに気付いたらしい。後光のように陽の光を背負いながら、うっかりすれば見惚れてしまいそうなほどの微笑みを浮かべていた。というか、完全に見惚れていた。

「ゆきの〜ん!」

 俺が何か言うより先に、結衣は階段をダッシュで上っていくとその勢いのまま雪乃に抱き着いた。その光景に硬直の解けた俺は、一歩一歩踏みしめるように階段を上がっていく。

「ちょっと⋯⋯。こんな所で抱きつくのはやめてちょうだい」

「だって、だってさぁ、もう!」

 よほど雪乃と会えたのが嬉しいのか、彼女の非難もどこ吹く風で結衣は抱き着いたまま離れない。その光景は、ひたすらに眩しい。

「⋯⋯今日から始めるのか。部活」

「ええ⋯⋯。そのつもりだけれど」

「了解。また後でな」

「ちょっ、ヒッキー、置いてくなし!」

 俺が雪乃たちを追い越して階段を上り始めると、結衣は文句を垂れながら追いかけてくる。

「ゆきのん、また放課後にね」

「ええ、また後で⋯⋯」

 

 その言葉と一緒にどんな表情を浮かべているかは、背を向け歩き出した俺に知る由はない。

 振り返れば、きっと見えるだろう。けれど俺は振り返らない。

 決定的に変えてしまった事を、後悔しない為に。前だけを向いて、彼女たちと向き合う為に。

 

 

 






お読み頂きありがとうございました。
花火大会編、というか結衣ちゃん編はいかがでしたでしょうか?
結衣に対する態度が正解か不正解か、おそらく八幡ですらも迷いながらの答えで、正答の無い問いであると思います。
俺ガイル原作でも結衣は重要な登場人物でしたが、この話でもそれは変わりません。
雪乃の態度だけではなく、結衣の反応の変化も注視して頂けるとより楽しめると思います。
それではまた次話で。感想もどんとこいばっちこいでお待ちしています。




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雪ノ下雪乃の悲壮はもう要らない。上

 九月は台風の季節だ。

 それはここ千葉も例外ではなく、昨晩は凄まじい風雨に見舞われた。激しい雨に大気中の埃やら何やらが洗い流されたのか、教室の窓から望む空はまさに秋晴れの空と言うべき青さだ。

 しかし今はそんな空の青ささえも疎ましい。一晩中がたがたとシャッターを揺らされ続け、お陰でかなり寝不足だ。

 

「八幡、眠そうだね」

 

 くぁ、と欠伸を噛み殺していると、戸塚は苦笑混じりにそう言った。正直、眠い。保健室に直行して仮病使って眠りこけたいぐらいに眠い。

 しかしそういう訳にもいかない。何せ次のロングホームルームでは、文化祭での係決めがある。実行委員を誰がやるか、そこで決まるのだ。

「ああ、台風の音がうるさくてな」

「確かに、凄かったね」

 そんな他愛のない会話を遮るように、チャイムが鳴る。それを合図にバラバラと散っていたクラスメイトたちは、まるでパズルゲームのようにあるべき位置へと戻っていく。

「えー、ではロングホームルームを始めます。今日の内容は文化祭での係決めです」

 眼鏡のルーム長は教室にさざめく声が収まるのを待って、遠慮がちに話し始めた。教室は完全な静寂に包まれ、彼からしてみれば相当に仕切り難い空気だろう。これから各々が持つ手練手管で面倒な役目の押し付け合いが始まるのだから、無理はない。

「まずは文化祭実行委員ですが、誰かやってもいいと言う人はいますか」

 その問い掛けに、応える者は一人としていない。それもまた当然だろう。

 実行委員になってしまえば、クラスでの役割は免除される代わりにその出し物に関わる事は難しくなる。つまり文化祭という高校時代で一番フェスティバれる時期に、クラスから離れる事になるのだ。青春を謳歌したい者ほど、回避したい役割だろう。

「えっ、と、誰かいませんか」

 そう、普通ならば、避けて通りたい道だ。けれどそれにメリットを見出せる者もいる。恐らくこの中では、ただ一人だけ。

 俺はすっと背筋を伸ばすと、無言のまま右手を挙げた。

「あ、じゃあ比企谷くんと」

 ルーム長が黒板に「文化祭実行委員 男子 比企谷」と書くのとほとんど同時に、教室中の視線が俺に集まる。俺を知らない彼ら彼女らは無関心に、俺を知る彼女らと彼らは、その顔に驚きをのせて。

「他に誰か、立候補はいますか」

 こんな行動は、まったく自分らしくないと思う。それでも俺は、果たすべき目的の為には必要だと信じている。

 文化祭実行委員になり、このイベントを通して雪乃との関わりを持つ事。それは文化祭を迎える上で、最上位のタスクだった。

「じゃあ、誰もいないようなので、文化祭実行委員の男子は比企谷くんでいいですか」

 返事をする者は誰もいない。その沈黙を了解と受け取ったルーム長は黒板に書かれた『男子』の横に『女子』と書いた。

 続いては女子の実行委員選出だが、後は俺の知っての通りの展開だ。

 結衣がその仕事は大変なのかと訊き、三浦は自分と呼び込みをする予定だからと引き留める。葉山に推された相模は大変鬱陶しい態度で、実行委員の役を引き受けた。

 あの時と違う事があるとすれば、実行委員の仕事に興味を持っていた結衣が相模に揶揄されなかった事ぐらいだ。花火大会での遭遇を回避した事が、功を奏したらしい。

 誰もが嫌がる役さえ決まってしまえば、後は早い。次々と板書されていく名前を見ながら、俺はこれから繰り広げられるであろう未来へと思いを馳せていた。

 

 

       *       *       *

 

 

「ヒッキー、どういうこと? あれ」

「あれじゃ分かんねぇよ。すぐに言葉が出てこないおじさんおばさんか」

 

 放課後になると、珍しく結衣は教室の中だと言うのに俺に話しかけてきた。まあ結衣にとっては意味不明だろうから、そう言うのも当然だ。

「もう! 分かるでしょ。実行委員の話」

「ああ⋯⋯。まぁあれだ。クラスに残っても居場所ないしな」

 俺は問い質された時の為に用意しておいた言い訳を言うが、結衣はまだ納得していない。というよりも『不満です』と顔に書いてあるし、隠そうともしない。

「別にそんなこと、ないと思うけど」

 拗ねたような態度が、なんともこの頃の結衣には似つかわしい。やたらと拗れている俺や雪乃に対して、よくしていた表情だ。

「⋯⋯部活、いくのか? 俺はあと少しで実行委員会だから、そっち行くけど」

「ううん。ゆきのんも今日は文化祭の用事で来れないから、部活はないって」

「そうか」

 だったら僕にも連絡くれませんかねぇ、連絡先知ってるんだし⋯⋯と思っていると、ポケットの中で携帯が振動する。

 画面を開くと雪乃から『文化祭関連の会合がある為、本日の部活は中止します』とだけ書いたメールが届いていた。ガチで業務連絡だなこれ。まあ結婚してからも『今日の晩ご飯はカレーにするので昼ご飯にカレーを食べないように』とだけ送ってくる事もあるし、割と素の文面なのかも知れない。それにしても昼飯にカレー食うと晩飯もカレーになる率は異常だ。

「それじゃ、そろそろ行くわ」

「あ、うん。頑張って」

 胸の前で小さく手を振る結衣に頷きを返すと、俺は教室を後にした。向かう先は文化祭実行委員会の開催場所である、会議室だ。

 普段は職員会議などに使われているらしいそこに近づく生徒は、そう多くない。廊下で合流したまばらな人の流れは、そのまま会議室の中へと吸い込まれていく。

 会議室の中に入ると、先に来ていたらしい相模の姿を見つけた。いつかと同じように、元々の知り合いと会ったらしくお喋りに花を咲かせている。

 俺は適当な席に座ると、ぼんやりと扉の方を見ていた。もうそろそろ、彼女が来るはずだ。

「⋯⋯⋯⋯」

 そうして扉を見続けていると、一人の少女が会議室に入ってくる。その瞬間、ざわざわと煩かった会話が完全に止まった。

 雪ノ下雪乃はぐるりと会議室内を見回し、俺と目が合うと頬に手をやり小首を傾げる。何故比企谷くんがここにいるのかしら、とでも言い出しそうな表情だった。

 そのやたらと可愛い仕草と視線の先に湧きたったのは男子たちだ。ひそひそと「今、俺みてた?」なんて期待に胸をときめかせている。いやどう考えても俺でしょ。っていうか人の奥さんジロジロ見んじゃねぇよ可愛いのは分かるけれども。

 そんな絡みつくような視線も空気も完全スルーで、雪乃は手近な席に座った。それを合図にしたように、再び会議室に会話の波が押し寄せる。

 やはりこういう大勢のいる場では、雪乃の異質さというか特別さがはっきりと分かる。まとまりのない有象無象の中で、雪乃は見た目から空気までが整いすぎていて、いい意味でも悪い意味でも目立つのだ。

「はい、では文化祭実行委員会を始めまーす」

 そう声に出したのは、ほとんど定刻通りにやってきた生徒会長・城廻めぐりその人である。生徒会メンバーに合図を送ると数人の生徒がプリントを配り始め、彼女たちより遅れて入ってきた平塚先生と体育教師の厚木が腕を組んでその様子を静観している。

 いや、それにしてもめぐり先輩と会うのは久しぶりだ。めぐり先輩が卒業してからというものほとんど会う事もなかったから、「わっか⋯⋯」という感想よりも懐かしいという感情の方が強い。

 

 嗚呼⋯⋯まためぐりッシュして貰いたい。ついでに「君、最低だね⋯⋯」って蔑まれたい。

 そんな阿呆な事を考えながら、俺は繰り返される光景をただ見守るのだった。

 

 

       *       *       *

 

 

 文化祭まで一月を切った。

 また本日も放課後に実行委員会があるわけだが、開始は午後四時から。それまでの時間潰しに部室へと寄り、文化祭準備期間中の部活動について話していると、コンコンと扉がノックされる。記憶のままの展開であるならば、俺は今日の客人の名前を知っている。

 

「どうぞ」

 

 雪乃はいつもと変わらぬ冷静な声音で、来訪者へ入室を許可する。ガラリと音を立てて、その引き戸は開けられた。

 

「失礼しまーす」

 

 扉を開けた生徒の名前は、相模南。

 それに実行委員で一緒になった二人の女生徒も連れ立って訪れているのも、あの時のままだ。社交辞令的な会話を交わすと、相模は早速本題に入る。

 

「雪ノ下さんも居たから知ってると思うけど、うち実行委員長やる事になったじゃん? でもぶっちゃけ何やっていいか分かんないし、できれば助けて欲しいなって」

 

 貼り付けたみたいな軽薄な笑みを浮かべたまま、軽率に彼女はそう言った。

 当たり前の事だが、相模南は何も変わっていない。囃し立てられるがままに実行委員になり、そして実行委員長にまで就任してしまった。

 俺はできる事ならば、雪乃に実行委員長をやってもらいたかった。陽乃さんから見ればまた雪乃は姉の後ろ姿を追っているように見えるかも知れないが、実行責任者として人、物、金のリソースを駆使し文化祭という事業を運営してみせる事は、経験としてこれ以上ない貴重なものだ。義母さん──雪乃の母親に彼女が認められる一助にもなるだろうし、それに相模による失敗の後始末もつけなくてよくなる。

 

「つまりあなたの補佐をすればいいという事かしら」

「そうそう」

 

 しかし現実はそう簡単ではない。いくつかの会話の後、雪乃はそう相模に問い掛ける。

 あの実行委員会の場で、雪乃を実行委員長に推すのは実現性が無さすぎた。現に体育教師の厚木が雪乃に実行委員長になる事を勧めても、彼女は固辞した。残念ながら今のところ、こと文化祭においての物事は規定路線を走り続けている。

 

「それなら、構わないわ。私も実行委員なわけだし、その範疇から外れない程度ならお手伝いするわ」

「本当に⁉︎ ありがとう、すっごい助かるっ」

 

 手放しで喜ぶ相模を、俺は半眼で見続けていた。

 このまま行けば、彼女はとんでもない判断ミスを犯し、その結果雪乃は過労に倒れる事になる。本番では目を覆いたくなるような失敗とそれに付随する行動で、多くの人を巻き込む事になるだろう。

 絶対に、そうはさせない。

 あの時俺は、雪乃の孤高を支持した。共感し、憧れてすらいたと思う。しかしその結果が、雪乃に体力の限界を知らしめる事になってしまった。

 そんなまちがいは、もう要らない。彼女たちの知らない未来で、良き隣人たちに恵まれその中心で笑う雪乃の姿を、俺は知っている。彼女がその才腕でいずれそこに至るのだとしても、まちがいを見過ごす事はできない。

 

「じゃあ、よろしくね」

 

 そう言って相模は友人と言っていいのかどうか分からない二人を引き連れて、奉仕部の部室を後にした。

 後に残されたのは、晴れ晴れとした表情の相模とは真反対の表情を浮かべた結衣と、少し疲れたような様子の雪乃。ついでに地蔵化していた俺だけだ。

「⋯⋯部活、中止するんじゃなかったの」

 問い詰めるような口調と声に、色はない。結衣のいつもと違う調子に気づいた雪乃ははっと顔を上げるが、その表情を真似するかのように彼女もどこか冷めた表情を浮かべた。

「私が個人的にやる事よ。部活動とは関係ないわ」

「ううん、違うよ。だってさがみんたちが来たのは、この部室だもん。奉仕部に、依頼に来たんだよ」

 食い下がる結衣に、俺は強烈な違和感と空恐ろしさを覚える。

 結衣らしくない、とまでは思わない。ただ俺の知る限り、結衣がこんなにも自己主張するようになるのは、もっと先。それこそ関係性が拗れまくった後だったはずだ。

「だから、あたしも手伝うよ」

「⋯⋯由比ヶ浜さんだって、クラスの方の役割があるでしょう。私ひとりで十分よ」

「クラスの方なら大丈夫。ずっとかかりっきりって事にはならないもん。それに全然、十分じゃないよ」

 語気を弱めた結衣は、その眼差しを柔らかくさせる。その表情にさっきまでの刺々しさはなく、夜露に濡れながら咲く花のようにひっそりと微笑んだ。

「たった一人で十分なんてこと、絶対ないよ」

 哲学めいた響きを持つ言葉が、雪乃の表情に変化を与える。いつしか雪乃も、その表情から険しさを取り除いていた。

「⋯⋯分かったわ。でもクラスの方を優先してちょうだい。こっちの手伝いは、手隙の時だけ。それでいいかしら」

「⋯⋯うんっ!」

 そう言って結衣は、いつだったかのように勢いよく雪乃に抱きついた。

 そんな二人を見て、ようやく俺は思い至る。

 花火大会のあの日、俺が取り付けた結衣との約束。結衣の言動は、俺の「雪乃と一緒に居てやって欲しい」というお願いそのものではないか。

「そろそろ行くか。文実」

 まったくいつになっても、どこにいても結衣には世話になりっぱなしだ。俺は二つ重なる返事を背中に聞きながら、廊下へと続く扉を開ける。

「じゃあ、あたしはクラスに戻るから。手が空いたら連絡するね」

「ええ。でも直近で手伝ってもらう事は何もないわ。お願いしたい場面が出てきたら、こちらから連絡する」

「分かった。それじゃね」

 ひらひらと手を振る結衣と別れると、雪乃と二人で会議室に向かって歩いていく。

「なあ」

 視線を前にやったまま俺がそう言うと、視界の端で雪乃は訝しげに首を傾げる。こんな事を言えば疎ましがられるのは必定だが、言っておかなくてはならない。

「あんまり前に出過ぎるなよ。たぶん相模は仕事ができるタイプじゃないけど、委員長なんだからな」

「あら、誰に向かって言っているのかしら」

 そう言って浮かべられた勝ち気な笑みこそ、雪乃に相応しい。

 魚を捕って与えるのではなく、捕り方を教える。それが奉仕部の基本理念であるはずだ。

「比企谷くん」

 やがて会議室が近づいてくると、不意に雪乃は足を止める。その顔からはさっきまでの勝ち気な笑顔が抜け落ち、代わりに僅かばかりの不安を孕んでいた。

「その⋯⋯。比企谷くんもなの?」

「はい?」

 質問の意図が分からず、思わず間の抜けた返事をしてしまう。何が言いたいんでしょう、この子。

「比企谷くんも、手伝ってくれるのかということよ」

「ああ⋯⋯」

 注意して見なければ分からないぐらいに頬を染め、気恥ずかしいのか上目遣いでそう聞いてくる。久々に見せた(いとけな)さと、庇護欲全開になってしまいそうな程の可愛さに頭がクラクラする。

 正直、抱きしめたい。苦しいわと文句を言われるまで抱きしめ、うなじをくんかくんかと嗅いで嗅覚も触覚も全て雪乃で満たされたい⋯⋯。

 やっちゃダメ? ダメだわな。うん知ってる。

 

「まあ、出来る限りでな」

 

 そんな考えているだけで学外追放級の願望を頭の中だけに押し留めながら、俺はそうとだけ答える事にした。

 

 

       *       *       *

 

 

 雪ノ下雪乃が副実行委員に就任するとお触れがあったのは、数日後の事だった。

 それからすでに何度かの実行委員会が持たれ、その度に雪乃の存在感は増していた。最初こそ俺の忠告通り雪乃は相模を委員長として立てようとしたが、それが叶うことはなかった。相模南が、リーダーとしての才覚を持ち合わせていなかったが為だ。

 そのこと自体、分かりきっていた事だった。大抵の人間はリーダーなんてやりたがらないし、その才能を持たない者の方が多い。相模もその内の一人だったというだけだ。

 だからあまり期待はしていなかったが、確実に火種は燻り始めている。承認欲求を満たし、自尊心を取り戻さんとする相模の思惑は、この世界線の上でも崩れ去ろうとしていた。

 いつぞやと、あまりにも同じ。

 誰も救えない、救われないダンスを、皆一様に踊っている。

 

「何かあったの?」

 そう言ったのは葉山で、それを受け取ったのは会議室の前に立ちその中の様子を覗き見ている一人の女子生徒だ。

 有志団体の申し込み用紙を取りに行くという葉山と一緒に向かったその先で、数人の生徒が入口を塞ぐようにして中を窺っている。

「えっと⋯⋯」

 まごまごと喋り出す彼女の言葉にはまとまりがなく、よく分かっていない事だけが伝わってくる。無論その話を最後まで聞くつもりはない。干渉すべきタイミングを逃したら、取り返しがつかなくなる。

「ちょっとごめんなさいねっと」

 俺は入口を取り囲む生徒たちに手刀を切りながら割って入ると、ガラリと音を立ててその扉を開けた。

 事件現場になっている会議室の中央には雪乃とめぐり先輩、それから陽乃さんの姿。その三人⋯⋯というより雪乃と陽乃さんが纏う近寄りがたさと電気を放つような痺れるほどの緊張感に、誰もが黙って事の成り行きを見守っている。

「姉さん。何をしに来たの」

「やだなー睨んじゃって。私は有志団体のオファーがあって来てるんだよ?」

「ご、ごめんね。私が呼んだんだ。この前、街でばったり会って⋯⋯」

 詰問する雪乃に、陽乃さんはさらりとその怒気とも言うべき言葉をいなす。めぐり先輩のフォローの言葉も、雪乃にはほとんど届いていない。

「あ、比企谷くんだ。ひゃっはろー!」

「⋯⋯うす」

「あ、隼人も一緒だったんだ」

 陽乃さんに呼び込まれるように、俺たちは返事をしながら会議室の中へと踏み込んだ。どうやら間に合ったらしい。

 その後に起こる出来事を、俺はひたすらに静観していた。

 有志団体として、管弦楽部OGを集めて出演すると言う陽乃さん。彼女は遅れてやってきた相模を試すような視線と言葉で牽制し、そして取り入れる事に成功する。役者が揃えばここまで演目もかぶるのかというぐらい、記憶のままの展開だ。

 

「みなさん、ちょっといいですかー?」

 

 雪ノ下姉妹の一悶着を終え、会議室にいつもの光景が戻ったところで相模が声を上げた。立ち上がった彼女に、いくつもの視線が向けられる。

 

「ちょっと考えたんですけど、文実もちゃんと文化祭を楽しめてこそかなって」

 

 どこかで聞いたような言い回しに、俺はひとり鼻白む。

 文化祭においてのまちがいは、ここからだ。

 相模南による、決定的な誤判断。油断と甘い考えが招く、文化祭実行委員会崩壊の始まり。

 この日を境に実行委員は人員不足へと陥り、負担は残されたメンバーへとのしかかる。そして一人は倒れ、それでもなお立ち上がろうとする。しかしその悲壮と孤高を支持する俺は、もういない。

 

「文化祭をちゃんと楽しむには、クラスの方も大事だと思います。スケジュールもかなり前倒しで進めてこれてるし、仕事のペースを少し落とす、っていうのはどうですか?」

 

 相模の提案に対し、雪乃が口を開くその一瞬前。俺は声を張り、ただ一言をはっきりと告げた。

 

「俺は反対だ」

 

 元より静まりかえっていた会議室は、耳が痛いほどの沈黙に包まれる。ペンを走らせる音すら聞こえてきそうな静寂。それをかき消すように、俺は言葉を続けた。

「前倒しならそのまま本番まで走るべきだろ。こういうイベント事には途中でイレギュラーやら横槍が入れられて遅れてくもんだし。それで直前になってあれが無いこれが無いってバタバタしだすんだ。それを防ぐ為にも、今の進行をキープすべきだろ」

 思いもよらないところからの反対意見だったのか、相模だけでなく雪乃や陽乃さんまで目を丸くしていた。

 相模による誤判断が起きた原因は、あの頃の俺には分からなかった。いや、考えてすらいなかったように思う。いくら陽乃さんに気に入られ、気が緩んでいたとは言え、不自然なぐらいの状況の誤認識と、誤判断。

 目的論で言えば、そうする事で相模にとって達成される目的がある。それすなわち、進行の前倒しを理由に自分がクラスの出し物へと参加できるようにする事。文化祭実行委員会でコンセンサスを得ているという、大義名分を獲得する事だ。

 馬鹿らしい。そんなものの為に、あの時雪乃は倒れたのか。

「でも、みんなだってクラスの方にも参加したいだろうし⋯⋯」

「クラスの方に顔を出しにくくなるのは、実行委員になった時点で分かりきってる事だろ。クラスに貢献したければ文実が始まるまでにやればいいし、文実だって毎日あるわけじゃない」

 意思の弱い者ほど、相模の提案のような甘言になびく。そしてそれ以上に、声高に主張する者の意見を受け入れてしまうものだ。会議室に弛緩と私欲が伝播する前に、こんな愚考は叩き潰さなくてはならない。

「で、でも⋯⋯」

 暴力的なまでの正論に、相模の反論はあまりに弱い。ディベートの場であればもはや死に体といった様相だが、俺に手を緩めるという選択肢はなかった。

 悪いな相模。

 お前に恨みはないが、雪乃を守る為ならなんだってやる。まちがいはもう、見過ごせない。

「委員長権限でそう判断するというのなら、勝手にすればいい。けどそれでもし遅れや問題が出てきたとしたら、責任を取ってくれるって事でいいんだよな? 相模実行委員長」

 俺の真正面からの問いかけに、相模は今度こそ完全に沈黙した。

 あまりに手厳しいとは思う。しかしここまで言われて、自分の意見を押し通そうとはしないだろう。

「⋯⋯⋯⋯各自作業に戻ってください」

 相模は長い沈黙の後、か細い声を絞りだした。緊張感に耐えかねたかのように、またざわざわと会議室内に喧騒が戻ってくる。

 ──なにあの言い方。

 ──もうちょっと言い方あるよね。

 相模の取り巻き二人の方から何やら聞こえてくるが、彼女たちは気付いているのだろうか。相模の考えは間違いだったと、そう言っている事に。

 さて、俺も仕事をするかと机に視線を戻す刹那、不穏な視線とかち合う。

 いつからそうしていたのか、陽乃さんは俺と目が合っても逸らそうとせず、内緒話でもするみたいに片頬に手をあてる。

『か・ほ・ご』

 唇でその三文字を象ると、彼女は愉快そうに笑うのだった。

 

 

       *       *       *

 

 

 会議室での一件から今日でおよそ三週間、文化祭まで一週間を切った。

 今や文実の詰所になっている会議室にはほとんどのメンバーが揃い、進み気味だったスケジュールはキープどころか更に前倒し状態。お陰で現時点でオープニングセレモニーとエンディングセレモニーのリハーサルまで出来ている。

 やはり人の数は力だ。俺の発言の所為で簡単にサボれない雰囲気が出来上がり、毎回ほぼ全員が集まるようになっていた。

 

「相模さん、こっちの書類の確認を」

「うん。ありがと」

 

 相模はというと、当たり前だが文実には毎回出席している。もう自分の発言など忘れたのか、順調過ぎるぐらいの進行具合に自信を持ってきているようだ。巻きで進んでいくにつれて、本来の委員長としての仕事を雪乃から相模へと移行していったのも大きいだろう。

 もちろん俺と相模の関係は良好とは言えず、視線を合わせようともしないし、現時点でも一切口をきいていない。後からケチがつくパクリのキャッチフレーズを潰したのが、決定的だったと思う。

 そのお陰もあるが、あの時ほど忙しくはない。キャッチフレーズ再検討での俺の風刺的な発言がなければ、俺の事を悪く言う声も少なかった。まあ、「クラスより文実優先だからなぁ〜」って当て擦りのような事を言う奴はいたが。主に相模の取り巻きに。

 

「ゆきのん、有志団体の最終リストできたよ」

「ありがとう。確認しておくわね」

 

 準備が順調な背景には、少なからず結衣の活躍もあった。外部の人間の出入りが多くなってきたタイミングで、有志団体の取りまとめを快く引き受けてくれたのだ。約束通り雪乃の手伝いが出来て、結衣も満足そうだった。

 しかしそう、外部の人間の出入りが激しいという事は、この人もまた会議室に顔を出す回数が増えたということだ。

 

「ひゃっはろー、比企谷青年。順調そうだねぇ」

 

 背中に声をかけられただけで、思わず身震いしてしまう。その声が愉快そうであればあるだけ、空恐ろしさを感じるのだ。

 俺の隣の空席に腰掛けると、机に片肘をついて横顔を見詰めてくる。

「何しに来たんですか」

「おや、雪乃ちゃんみたいなこと言うね。やっぱり付き合ってるの?」

「なんでそうなるんですかね」

 俺は頭をかきながら致し方なしと仕事の手を止める。陽乃さんの目を見ると、やはり隠そうともしない好奇が滲んでいた。

「ねえ、作戦は上手くいったみたいだね」

 そっと俺の耳を手で覆うと、揶揄(からか)うような声音が不穏に鼓膜を震わせた。何もかもを知っているとでも言うかのように、彼女の言葉には確信が満ちている。

「⋯⋯なんの話ですか」

「さあ、なんの話でしょう?」

 ふわりと俺から離れると、可笑しそうに笑ってみせる。

 ぶっちゃけ、この人と話すのやだなぁ⋯⋯。この頃の陽乃さんは埒外すぎるし聡すぎる。彼女の年齢を追い越した俺ですら、手に余る存在だ。

「ねえ、君のしたことの意味、分かってる?」

 グロスに艶めく唇が、三日月を作った。ほら、またこんな表情をするのだ、彼女は。

「試練を遠ざけたり避けているだけじゃ、駄目だよ」

 俺を見詰める目は笑っているのに、その瞳は真剣そのもの。いつの間にか背中に汗が伝っている。

 分かってるんだよ、そんな事。一体何年、雪乃と一緒に過ごしてきたと思ってるんだ。

「そのうち君に頼りっきりになっちゃうよ、雪乃ちゃんは。それがいい事だとは思わないけどなぁ」

 その指摘は余りにも的確で、やはりというか彼女たちはどうしようもなく姉妹なのだと思う。

 雪ノ下雪乃は、優秀だ。豊富な知識と辣腕で実質的にこの文化祭を運営し、現時点では順調としか言いようがない。

 しかしそれは、陽乃さんがいたから。文化祭としての正解を、彼女は知っていたからだ。

 答えのある問題の対処は出来るが、こと友情や恋愛といった正答がない人間関係の話になると、雪乃はどうしたらいいか分からない。故に模倣する。そして依存する。

 悪癖だ。この頃の雪乃には仕方のなかった事とは言え、そう思う。いずれ彼女は自分自身の力でそれを克服していく事になるが、もし俺がその為に必要なプロセスまで排除してしまっていると考えると、得体の知れない焦燥感に襲われる。

 

「ま、君が雪乃ちゃんの面倒を最後までみてくれるんなら、いいんだけどね」

 

 心にもない事を言うと、陽乃さんは「じゃ」と手を振って会議室を後にした。

 面倒ならそりゃ、一生かけてみるけれど。そういう問題じゃないのだ、これは。

 後に残された俺は頭を抱えてしまいそうになる手をどうにか机に押さえつけ、仕掛かり中の仕事へと戻る。

 泣いても笑っても、高校二年の文化祭はこれが最後で、これっきり。三度目のチャンスなど、ありはしないのだから。

 

 

 







お読み頂きありがとうございました。そしていつもたくさんのお気に入りと感想をありががとうございます。
誤字脱字報告も助かってます。何度確認しても残っているものですね⋯⋯。

文化祭編前編は楽しんでいただけたでしょうか。後編は文化祭本番という事もあり、テンション高めに行きますよ!
ログインしていなくても感想は頂けるように設定していますので、何か一言でも頂けると私が喜びます(そして筆が捗ります)。

全体の話としては、これで折り返し地点といったところです。完結までお付き合い頂けたら幸いです。




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雪ノ下雪乃の悲壮はもう要らない。下

「おまえらっ! 文化してるかー!」

「うおおおぉぉぉ!」

「千葉の名物、踊りと──⁉︎」

「祭りいいいぃぃぃぃ!」

「同じ阿呆なら──⁉︎」

「シンガッソーー──!」

 

 いつか見た光景に、俺は思わず胸を熱くさせていた。

 俺の知る、めぐり先輩の最高にフェスティバっていて輝いている瞬間だ。俺は装着したヘッドセットのマイクがオフになっているのを確認し、拳を突き上げて絶叫していた。やはりめぐり先輩はエモ過ぎる。

 

「比企谷くん? 何をしているの?」

 

 耳にしたイヤーピースの中からザッとノイズがのった後に、雪乃の冷静な声が鼓膜に届く。あー、見られてましたか。でも仕方ない。エモ中のエモを体感してしまったら、その情動に身を委ねるしかないではないか。

 

「なんでもない」

 

 マイクのスイッチを一瞬だけ入れてそう答えると、俺はステージの上を見上げた。

 総武高校の文化祭開催を告げる、オーニングセレモニー。

 めぐり先輩のコールアンドレスポンスの後に続くのは、大音量のダンスミュージックと派手な衣装を身に纏った踊り子たち。あの頃の熱量と熱狂をそのままに、華々しくそれはスタートした。

 

「──PAです。間もなく曲あけます」

「──了解。相模委員長、スタンバイオーケーです」

 

 雪乃からのインカムに、俺は口を引き結んだ。喋るのは自分ではないというのに、妙に緊張する。

 あの時の相模は、本当にダメダメだった。カンペを落とすは、カンペ見ながらでもまともに喋れないわ、あれ以上に酷い挨拶を俺は知らない。

 あの失敗の所為で相模はエンディングセレモニーをばっくれ、俺は校内中を走り回るハメになった。副産物的に雪乃たちのバンド演奏を聴くことが出来たのは、今となってはよかったと思う。

 もしこの挨拶が上手くいったらだが、ステージの上で輝く彼女たちの姿が見れなくなる。それは少し寂しい気がしたが、俺は相模が失敗しないようにする為に、スケジュールの前倒し進行を推し進めてきたのだ。そんな個人的な願望は、そっとしまっておくべきだろう。

 

「それでは続いて、文化祭実行委員長よりご挨拶です」

 

 司会進行を務めるめぐり先輩のアナウンスで、相模はステージへと歩みを進める。表情に余裕はなく、その目は真剣そのもの。しかしただの緊張とは違う、気迫めいたものを纏っているように見えた。

 キラキラと過剰なまでに飾り付けられたステージの、その真ん中。

 千人を越す生徒たちの視線を一身に受けて、ワイヤレスマイクを握る相模の手は震えている。

 すっ、と息を吸い込む音までそのマイクは拾い、アンプリファイされてスピーカーから溢れ出た。

 ──頼むぞ、本当に。

 俺は祈るような気持ちで、相模の姿を見詰め続ける。

 

「文化祭実行委員長の相模南です。今年のスローガンは──」

 

 すらすらと喋り出したのを見て、俺は思わず「はぁーっ」と大きく息を吐いた。

 なんだよ。やれば出来るんじゃねぇか。っていうか前がやってなさ過ぎなんだよ。

 リハーサルのお陰で、喋り始めからハウリングさせるなんて初歩的ミスもない。雪乃が何度も繰り返し練習させていたから、ほとんど噛む事も詰まる事もなく挨拶は進んでいく。

 

「──挨拶、もう間も無く終了です。以降、オンタイムで進行します」

 

 了解。

 俺は安堵に胸を撫で下ろしながら、どこかで見ているだろう彼女に、唇の形だけでそう言った。

 

 

       *       *       *

 

 

 

 文化祭の一日目は、校内のみの開催だ。

 二日目の一般公開日がメインだと捉えるなら、今日は本番環境での試運転日だと言える。

 

「君と俺は遊べないよ。俺は飼い慣らされていないから」

 

 俺は教室の外に(しつら)えられた受付で、パイプ椅子に背中を預けながら舞台の台詞に聞き入っていた。

 いつかと同じで、俺がクラスの出し物に協力できるのは今日だけ。明日からはがっつり文実の仕事が待っている。突然やってきたにわかには、相変わらず受付ぐらいしか出来る事はない。

「おつかれっ」

 耳に馴染んだ声が、頭上から降ってくる。俺が見上げると結衣は呼びかけたくせに目を逸らし、その手には何やら小さな包みを持っていた。

「おお、お疲れ」

 結衣は俺の隣に置いてあったパイプ椅子に腰掛けると、トン、と静かにその包みを置いた。ちょうど俺と結衣の、真ん中のあたりに。

 備品か何かだろうか。しかし今現在も海老名さん監修のミュージカルは進行中だし、机に置くというのも解せない。

「⋯⋯何これ」

「⋯⋯お弁当」

 待っていても何も言ってくれないので俺がそう訊くと、結衣は 面映(おもはゆ)そうにそう言った。

 ほう⋯⋯お弁当⋯⋯。しかし俺の記憶にある限り、この場で振る舞われたのはハニートーストと称された生クリームオンザ食パンだったはずだ。そのクオリティが衝撃すぎて、よく覚えている。

「そうか」

「うん」

 何とも中身のない会話だ。結衣がその包みを開けると、姿を現したのは弁当箱が二つ。

「これ、ヒッキーの分」

 結衣はやはり俺とは目を合わさないまま、すっと机の上で弁当箱を滑らせてくる。

 だから、気付いてしまった。

 結衣の左手。親指と人差し指に貼られた、絆創膏の存在に。

「まだパン買ってないでしょ?」

「そうだけど⋯⋯。いいのか?」

「うん。食べて貰うために作ってきたんだし」

 薄く頬を赤らめた結衣と、ようやく目があった。遠慮がちな視線がむず痒く、今度はこっちから目を逸らせてしまう。

「じゃあ、いただきます」

 手を合わせて弁当箱の蓋を開けると、そこに広がっていたのは色鮮やかなキャンバスだった。卵焼き、ブロッコリー、プチトマト、ケチャップソースのかかったハンバーグの下には少し元気を無くしたレタスが敷かれている。

 それぞれの料理は、弁当の定番中の定番だ。しかしそれぞれが手作りである事が、不揃いな見た目から分かる。昨日も遅くまで準備で残っていたはずなのに、これを早起きして作ってきてくれたのかと思うと、頭が下がる思いだった。

「⋯⋯すげぇな」

「い、いやー、あはは⋯⋯。結構ママに手伝って貰っちゃったけどね」

 ばさばさと手を振ると、結衣はそう言って先に弁当を食べ始める。

 俺もそれに続いて、まずはハンバーグを一口。流石に出来立てではないのでジューシーというわけにはいかないが、挽き肉に染み込んだ塩味とケチャップソースの酸味のバランスが絶妙だ。

「⋯⋯うまい」

「ほんと?」

 唇に箸をつけたまま、下から覗き込んでくる仕草が実年齢以上に幼く見える。ぎゅっと心臓を掴まれるような感覚は、しかし違和感へと変貌していく。

 何故結衣は、わざわざ弁当を作ってきてくれたのだろう。

 多分、考えなくても分かることだ。俺はあの花火大会で、はっきりと「雪乃が好きだ」と彼女に伝えた。それでも結衣は、諦めないという事だろう。あの時と、同じように。

「で、誰が作ったんだ?」

「や、焼いたのあたしだからっ。っていうかその顔むかつく!」

 薄っぺらな笑いを浮かべる俺に、結衣は肩をぶつけてくる。お陰でまるで恋人同士が(じゃ)れ合うみたいだなんて、余計な事を考えてしまう。

 誰かに見られやしていないだろうかと周囲を見回してみるが、注視してくるような目はどこにもない。誰もが祭りの熱に浮かされて、廊下は喧騒に満ちている。

「⋯⋯ねえ」

 僅かな沈黙の後に、結衣はくるりと表情を変えて訊いてくる。

「ゆきのんには、言った?」

「何を?」

 完全に主語を捨て去った問いに、俺はプチトマトを弁当箱の角に避けながら応える。プチがつこうが、トマトはダメだ。

「その⋯⋯。告白、したのかなって」

 余りに唐突で直裁な質問に、俺は思わず硬直してしまう。阿呆みたいにポカンと口を開けたまま、脳だけが賢明に働き続けていた。

「⋯⋯⋯⋯いや、してないけど」

「しないの?」

「今のところ、する予定はないな」

「なんで?」

「なんでって⋯⋯今言ったって、ダメだろ。多分だけど」

 矢継ぎ早な結衣の質問にできるだけ真摯に答えながら、俺は雪乃の姿を思い浮かべた。

 雪乃の俺に対する対応は、随分と柔らかくなったと思う。それこそこの時期にしては、俺の記憶にある時に比べてずっと良好だと言える。

 けれど、それだけだ。

 告白して付き合うだけではダメなのだ、きっと。

 何故なら俺はまだ誰も、“救えていない”のだから。

 

「⋯⋯そっか」

 

 俺の答えに、結衣はひっそりと安堵ともとれる息を吐いた。

 その桃色の吐息の行先を、俺はまだ知らない。

 

 

       *       *       *

 

 

 文化祭二日目になると、校内の雰囲気はがらりと変わったように思える。

 文化祭本番ともいえる今日は一般公開日という事で学外の人々の姿が数多く見え、その分ホストである生徒側のやる気も上がるというもの。昨日よりも熱量の増した呼び込みの声に、それぞれの教室から聞こえてくる歓声や叫び声。そうやって周囲が盛り上がれば盛り上がるだけ、俺は冷静になっていく。いつでも熱狂の中に、トラブルの火種はあるのだ。

 

「仕事の進捗はいかがかしら。記録係りくん」

 

 背中に投げかけられたどこか揶揄(からか)うような声に、俺は振り返る。

 左腕に文化祭実行委員の腕章を巻いた雪乃は、腕組みの上でどこかおかしそうに笑みを浮かべていた。

「仕事なら概ね順調だ」

 俺はそう言ってパシャリと、肩から下げたカメラで笑みの残る雪乃の顔を撮る。

 よし、後でこっそりデータを持ち帰ろう。それで携帯の壁紙にしよう。⋯⋯ん? でもうっかり誰かに見られたら相当気持ち悪がられるな。よし、じゃあ現像だ。現像して部屋に飾っておこう。

「ちょっと⋯⋯勝手に撮るのはマナー違反じゃないかしら?」

「人の名前を覚えないやつに言われたくないな」

 俺の皮肉に、やれやれとでも言うように雪乃はこめかみに手をやった。いいねその表情。もう一枚、いやあと百枚ぐらい撮りたい。データがいっぱいになるまで雪ノ下雪乃撮影会がしたい。なにそれ素敵。

「⋯⋯で、お前の仕事は?」

 うっかり人差し指がまたシャッターボタンを押してしまう前に、俺は分かりきった事を問い掛ける。

「私は見回りよ」

 そう言って歩き出した雪乃の隣を、いつかのように歩幅を合わせて歩く。その言葉の通りに、雪乃が教室を見る目はどこか優しいようでその奥には鋭さがあった。

「⋯⋯あのクラス、申請内容とやっている事が違うわ」

 そう言って見上げたサインプレートには、三年B組の文字。恐らくクラス名を見ただけで実際の出し物と頭の中のデータベースを照合し、その不一致に気付いたのだろう。普通に常人離れした事をやってのけるうちの奥さんがちょっと怖い。

「トロッコロッコね⋯⋯」

 見覚えのある看板を眺めていると、雪乃はすっと俺の横から離れて受付へと向かう。

「代表者の方はいらっしゃいますか。申請内容と異なっているようですが」

 雪乃がそう言った瞬間、受付の女子生徒たちが「やっば」「文実じゃん」「ばれちゃった!」とざわつき出す。後は知っての通り。勢いで誤魔化す為に俺と雪乃を無理矢理にトロッコに乗せようとする。

「ちょっ、ちょっと」

 雪乃は先輩方に両手を掴まれ背中を押され、助けを求めるように俺に視線を送ってくる。

 もちろんこの展開を知っていれば回避できる⋯⋯のだが、あえてしない。理由は言わずもがなだ。

 しかし知っているが故に、身体が変に構えてしまったのだろう。

「トロッコの旅へご案な〜い!」

「うおぉっ」

「きゃっ⋯⋯」

 先輩方に押し込まれた瞬間に、俺は雪乃とぶつかり合うのは何とか避ける事はできたが、接触は回避できなかった。というか、触っていた。俺の手が、雪乃の太ももを。ともすれば鼠径部にまで到達せんと、俺の手は雪乃のスカートに中に入っていた。

「す、すまん⋯⋯」

 咄嗟に手を引っ込め、深く首を下げて平謝り。別に初めて触るわけでもないのに、心臓は無秩序なまでに跳ねていた。

「⋯⋯⋯⋯っ」

 対する雪乃はというと当然そんな部分を異性に触れられるのは初めてなわけで。顔を紅潮させ目は潤み、口はパクパクと動くだけで言葉が出ない様子だった。なんだこの反応クソ可愛いな。

「えー、本日はコロッコロッコにご乗車頂きまして誠にありがとうございます。それでは世界の深淵、神秘の地中世界を存分にお楽しみ下さい」

 そんな俺たちの様子など知ってか知らずか、きな臭い口上の後にトロッコは動き始める。

 コースは机や鉄板、トタンを組み合わせた簡素なもの。それを人力で転がすだけなのだから、下手なジェットコースターよりも怖い。トロッコを押す黒子たちのミス一つで、それほど高さはないとはいえ机の上から落ちる可能性だってある。

「雪ノし⋯⋯」

 大丈夫かと問いかけようとした瞬間に、俺の手が温かい感触で包まれる。雪乃は前を見詰めたまま、縋るように俺の手を握ってきていた。

 こんな事、俺の知る世界線であっただろうか。あれば絶対に覚えているはずだ。

「⋯⋯」

 しかしまあ、そんな事はどうでもいい。

 俺は我ながら姑息だと思いながらも、慰撫するようにそっとその手を握り込んだ。

 

 

「それでは追加で変更の申請を出して下さい。それから利用者には説明の徹底を」

「えー、はい、まあそのぐらいなら⋯⋯」

 トロッコから降りると雪乃はおぼつかない足取りながら、しっかりと先輩方に釘を刺していた。その頬にはまだ赤みが差していて、いつもの有無を言わさぬような怜悧さが表情の影に隠れてしまっている。

 三年B組の責任者の生返事を聞き届けると、俺たちは再び廊下を歩き始めた。俺たちの間に会話は無く、代わりに先ほどまでよりも半歩ほど空いてしまった 空隙(くうげき)があるだけだ。明らかに、距離を取られている。

「⋯⋯その、すまん」

 我ながらどの事を言っているのかよく分からない謝罪だ。対する雪乃は、こちらを見ようともしない。

「⋯⋯不可抗力による事故でしょう。謝る必要はないわ」

 雪乃の頭の中にある事象は、脚を触ってしまった事であるらしい。俺でなければ気づかないほど僅かに上擦った声が、初々しい反応だ。

「⋯⋯それでも、すまん」

「⋯⋯気にしなくていいわ」

 雪乃はそう言うが、嫁入り前の女の子の、しかも大事な部分にほど近い所を触ってしまったのだ。いくら将来的にお嫁さんになってもらうとは言え、いくら謝っても謝り足りない事案だろう。

「いやでも、本当申し訳ない⋯⋯」

「⋯⋯しつこい。謝らなくてもいいと言っているの」

 思い出してきて恥ずかしくなって来たのか、その横顔にはまた赤さを取り戻してきている。

「その⋯⋯私も、触ってしまったし。⋯⋯ごめんなさい」

「ああ⋯⋯」

 今度は手を握ってきた事を思い出しているのか、雪乃は俺の手を握り込んでいた左手を右手でさする。余りにもいじらしい仕草に、頭が沸騰しそうだった。

「それなら謝る必要ないぞ。別に嫌じゃなかったし」

 前言撤回。頭沸いてた。

「それなら、私もよ」

 しかしその発言に、俺の頭は沸いているどころか瞬時に蒸発した。驚愕の表情のまま、思わずじっと雪乃の顔を見てしまう。この子、言っている意味が分かっているんだろうか。

 異性に身体を触られて、嫌じゃなかったと言ってるんだぞ? いつもみたいに両手で撫で回した上にペロペロくんかくんかしてもいいと、そう言っているんだぞ? いやそこまでは言ってねぇな。

「⋯⋯⋯⋯っ!」

 脳内でめぐり先輩に「君、最低だね⋯⋯」と蔑まれながら雪乃の顔を見つめていると、ようやく彼女は自分の発言の意味に気付いたらしい。その頬の赤さたるや、トロッコに乗っていた時の比ではない。

「かっ、勘違いしないで欲しいのだけどっ。思っていたより嫌悪感がなかったというだけの話よ。変な意味でとらえないで貰えるかしら」

 早口で言うけど、あんまり言ってる意味変わってないんだよなぁ⋯⋯。

 一瞬俺を捉えた瞳は羞恥に揺れ、その相貌は常にないほど赤く染まったままだ。

 

「⋯⋯そろそろ行くか。地域賞とかの投票結果、もう分かってる頃だろ」

「そ、そうね⋯⋯」

 

 そう言った俺と雪乃の間には、さっきから変わらない空間が空いたまま。

 別にまあ今この時に限って言えば、こんな距離感もいいのかも知れない。

 俺はポリポリと頬をかくと、こちらにまでうつってしまったらしい頬の熱さに気付かない振りをした。

 

 

       *       *       *

 

 

 

 体育館の舞台袖は、衣装や小道具、ギターやキーボードにと完全に楽屋状態だった。

 そんな雑多な空間も、雪乃が一歩足を踏み入れると空気が変わる。その僅かな変化は、舞台袖で取り巻きたちと談笑していた相模にも分かったのだろう。ちらりと彼女は、視線で雪乃の存在を認めた。

 

「相模さん。エンディングセレモニーの打ち合わせをしたいのだけど」

「あ、うん」

 

 声をかけられた相模は談笑の輪から片手を上げて外れると、雪乃の方に歩みを進めた。

「地域賞と優秀賞の結果はもう受け取った?」

「うん、ここに」

 そう言って相模はブレザーのポケットに手を突っ込み、しかしそこからは何も出てこない。

「あれ?」

「どうしたの?」

 実行委員長と副委員長の動きに気付いためぐり先輩がやってくると、相模にそう聞いた。相模はブレザーのポケットに何度も手を突っ込んだり中を開けて覗き込んだりしているが、そこに何もないのは明らかだった。

「その、地域賞と優秀賞の結果の紙をもらって、確かにここに⋯⋯」

 段々と相模の顔から、色が失われていく。

 ⋯⋯マジかよこいつ。

 自分が失踪しなくなったと思ったら、紙だけ失踪させやがった。

「では投票用紙は? まとめてあるのなら、数え直すだけで済むでしょう」

「それが⋯⋯集計が終わったので、もうゴミとしてまとめちゃってて⋯⋯」

 何事かと集まって来たいた文実メンバーの一人が、申し訳なさそうにそう言った。事実が一つ明らかになる度に、状況は更に悪くなってきている。

「再集計にかかる時間は?」

「まず投票用紙の入ったゴミ袋を見つけ出して、それを分別しながらだから⋯⋯一時間以上は」

「それだと間に合わないわね⋯⋯」

 沈痛な空気が流れ出し、誰もが口を噤む。

 非常にまずい状況だ。これではいくら相模がいたところで、折角順調に運んでいた文化祭運営に汚点を残す結果になる。

「⋯⋯探すしかないな」

「そうね」

 俺の呟きに頷きを返すと、雪乃は舞台袖の端にあったホワイトボードの前まで歩いていく。進行表の貼ってあったそれをひっくり返すと、簡単な校内マップを描いて俺たちを振り返る。

「相模さん。今日移動した範囲を教えてちょうだい」

「えっと⋯⋯」

 相模が指差すところを、雪乃は赤のマーカーペンでチェックしていく。文化祭実行委員長として、色んな所を見て回っていたのだろう。結果として校舎内のほとんど全てが、捜索対象となっていた。

「ブロック分けして、それぞれ散るか」

「ええ」

 俺が言い始めるのとほとんど同時に、雪乃は校内マップにアルファベットを割り振っていく。考える事は同じ、か。

 めぐり先輩が舞台袖にいた文実メンバーと生徒会メンバーに声をかけると、関係者が全員集まる格好になる。集まったメンバーに雪乃がテキパキと指示を出す間、相模はずっと沈黙したままだった。

「では、割り振られた範囲の捜索が終わっていなくても十五分後に集合して下さい。それで見つからなければ、もう一度未捜索範囲の捜索を」

「待て。雪ノ下は残った方がいいだろ」

 俺はホワイトボードに書かれたアルファベットと雪乃の名前を指差し、解散しそうな雰囲気を縫い留めた。

「⋯⋯何故? 私も探すわ」

「お前に体力がないからだよ。それに司令塔が残ってないと、いざ見つかった時や不測の事態が起きた時の判断者がいなくなる」

 俺の指摘は雪乃の痛いところを突いたらしく、明らかにむっとした表情になる。しかし、反論もないらしい。

「⋯⋯分かったわ。では皆さん、宜しくお願いします」

 雪乃の一言に、文実メンバーはそれぞれに散っていく。俺もそれに続きながら、舞台袖を去る間際に振り返った。雪乃は言外に「よろしく」と頷き、相模は拳を握ったまま床を見つめている。

 ──分かってる。

 俺は目だけでそう言って、彼女たちに背を向けた。

 

 

 あっという間の十五分が経ち、手書きの校内マップは無情な赤に染まっていた。つまりは捜索範囲の九割方を消化しても、結果の書かれた紙は見つけられていない。

「芳しい状況ではないわね⋯⋯」

 ホワイトボードを見る雪乃の視線は鋭さを失い、諦念すら滲んできている。状況が状況だ。希望的観測から、現実路線で物事を考える必要がある。

「⋯⋯どうする?」

 俺はあえて自分の意見は挟まず、雪乃にそう問いかける。雪乃はホワイトボードを見たまま、マーカーペンを走らせた。

「リミットはあと十分ね。見つけられれば予定通り。もし見つからなければ」

 雪乃はホワイトボードにリミットの時刻を書き入れると、そこで相模を見た。最後は相模に決断させるつもりなのか、無言で彼女の答えを待つ。

 しかし、それも難しい話だ。相模の顔からは生気が消え失せ、ろくに頭がまわっていない様子だった。

「最悪はお詫びを入れて賞の発表は後日、だろうな」

 俺の提言に、相模の肩口が僅かに揺れた。いつかのように、賞をでっちあげるなんて提案はしない。この場合の責任を誰が取るかなんて、説明するまでもない話だ。

「それでいい? 相模さん」

「⋯⋯⋯⋯うん。うちももう一回、探す」

 雪乃の問いかけに、相模は息を吹き返したみたいに、その瞳に意思を取り戻す。

 エンディングセレモニーまであと少し。使える人員も限られている。結果の書かれた紙を見つけられる可能性の方が、低い。

 それでも──僅かでも可能性があるなら、持てる手は尽くそう。相模もまだ諦めていない。であれば、大丈夫だ。根拠も何もなく、ただそう思う。

「じゃあ、十分後だな」

「ええ」

 俺がそう言って雪乃を見ると、祈りを込めるような視線とぶつかる。

 その目に込められた想いをぐっと手のひらに握りしめて、俺は再び舞台袖を後にした。

 

 

       *       *       *

 

 

 

 もう一度舞台袖に戻ってきた頃には、心拍数は上がり切っていた。

 脇腹は痛いし、肺は悲鳴でも上げるかのように大きな声で鳴いている。やはりたったの十分で体育館と校舎の往復は、相当に辛い。

 

「あ、ヒッキー⋯⋯」

 

 ホワイトボードの前には、雪乃の隣に結衣の姿もある。既に事情は聞いているのだろう。その目にはただ心配だけが浮かんでいた。

「どうだ?」

 俺の問いかけに、雪ノ下は無言でふるふると首を振った。そして俺の捜索範囲を斜線で塗りつぶすと、手書きの校舎マップは赤で埋め尽くされた。これでもう、心当たりのところは全て探し尽くした事になる。

「比企谷くん、相模さんを見なかった?」

「いや⋯⋯」

 そう言われて辺りを見回すが、当然その姿はない。

 視界に入ってきた葉山たちは、エンディングセレモニー直前のバンド演奏の準備をしている。さっきまでステージでタクトを振っていたであろう陽乃さんは、壁を背に腕を組んで俺たちの様子を見ていた。

「副委員長。プログラムの変更申請をしたい。もう一曲追加でやらせて貰えないか」

 葉山の提案に、雪乃はそんな事が可能なのかと問い返す。いつか見た、あの光景がリプレイされていく。

 これじゃ余りにも、あの時のままだ。いや、相模とあの紙がバラバラに失踪している分、より状況は悪い。

「⋯⋯比企谷くん」

 俺は黙り込んだまま、頷いて続きを促す。その先に続く台詞を、俺はもう知っている。

「あと十分、時間を作るわ。それで見つけられる?」

 雪乃の覚悟の込もった視線を受けて、俺は言葉よりも前に表情の変化で返事をする。まだ肩で息をしているせいで、片頬を吊り上げるだけの、何とも不恰好な笑みになっているだろう。

「任せとけ。絶対に見つける」

 その自信の根拠は、随分ずるいものだとは思う。紙の行方は皆目見当もつかないが、相模がどこにいるのかを、俺はもう知っている。

「⋯⋯時間稼ぎの方は、任せたからな」

「ええ、任せてちょうだい」

 そうやって取り交わす勝ち気な笑みの、なんと心強い事か。俺は踵を返すと、舞台袖を出る。目指す場所は一つ。特別棟のその上、相模がいるであろう屋上だ。

 

 体育館から校舎に続く通路を、人波に逆らって早足に進んで行く。

 大一番とも言える最後のステージを見ようと、生徒たちの姿は次々体育館に吸い込まれていっていた。反面人気のなくなった校舎は、さながら伽藍堂。

 段差を飛び越え、廊下を駆ける。階段を一段二段抜かしで駆け上がると、安心しかけていた心臓は再び尻を叩かれ早鐘を打ち出す。肺が軋むのも、額に浮かぶ汗も構わず真っ直ぐそこを目指した。

 屋上へと続く階段は、文化祭の間は荷物置き場になっているらしい。俺の行く手を阻むように置かれた備品たちを押し除け、やっとの事で鍵の壊れた扉を前にする。

 荒い呼吸を少しだけ整えて、その扉のノブに手をかけた。

 扉を開く。吹き抜けるは爽籟(そうらい)。見上げた空は蒼穹。果たしてそこに相模の姿は──。

 

 

 

 

「⋯⋯いない?」

 

 屋上に足を踏み入れ、辺りを見回す。相模どころか、人っ子一人いない。

 どういう事だ?

 背中に伝う汗に冷や汗が混じる。未だ息も思考も整わず、混乱だけがぽつねんとそこに在った。

 いやしかし、相模が屋上にいないのであればここに留まる必要はない。俺は校舎の中に戻りながら、記憶の中の心当たりを探っていく。

 あの時、俺はどうやって相模を見つけるに至ったのか。ヒントは材木座との会話だったが、もうその当ては外れている。だとすれば、何かきっかけがあるとすれば⋯⋯あそこしか残っていない。

 

 乳酸に苦しむ大腿に鞭を打って、廊下を駆けていく。やがて到達する、二年F組の教室の前。

 パイプ椅子に座るのは、青みがかった黒髪、ポニーテールの少女。川崎沙希はあの時と同じように、長い脚を組み窓越しの景色を眺めていた。

「川崎⋯⋯」

 俺の問いかけに、はっと川崎は顔を上げる。

「え⋯⋯あんた、なにぜーはー言ってんの?」

「相模、見なかったか?」

 川崎の質問には答えず、俺は不機嫌とも取れるほどぶっきらぼうにそう訊いた。もう残り時間は、それほど長くはない。

「いや、見てないけど⋯⋯」

「そうか⋯⋯」

 落胆に落とした肩が、乱れきった呼吸に上下する。

 これで、手詰まりなのか。

 相模は見つからず、結果の書かれた紙すらも見つからない。このままいけば、次長である雪乃が全生徒の前で各賞の発表を先延ばしにする事を謝罪しなければいけなくなる。それだけは、絶対に──。

「あ、そうだ」

 川崎の声に思考が中断される。ブレザーのポケットを漁った彼女の手の中にあるのは、頼りないほどよれよれになった一枚の紙。誰かに踏みつけられたのか、端の方には足跡までついている。

「これって、大事な物じゃないの?」

 川崎から受け取った紙を見て、俺は膝から崩れ落ちそうになる。

 ──あった。

 俺たちが探し求めていた、各賞の結果の書かれた、あの紙だ。

「⋯⋯これ、どこに?」

「分かんないけど。一般のお客さんがここに届けてくれて、本部に届けようと思ってたんだけど、当番があったから⋯⋯」

 俺の表情から事の重要性を読み取ったのか、川崎はバツの悪そうな顔をする。何はともあれ、ありがたい。これで最悪の事態は回避できる。

「⋯⋯比企谷?」

 黙り込んでしまった俺を怪訝に思ったのか、川崎が下から俺の顔を覗き込んでくる。しかし返事をするより先に、俺の脚は動き出していた。

 

「サンキュー川崎! 愛してるぜ!」

 

 言い捨てて、また廊下を走り出す。

 階段を駆け降り出す瞬間、もの凄い絶叫が聞こえた気がするが、俺は構わず走り続けた。

 

 

 

       *       *       *

 

 

 

 体育館に向けて走りながら、俺は一つの思い違いに気付いていた。

 まったく俺は何故、相模が屋上にいるなどと盲信していたのだろう。

 あの時とは、違う。

 それは状況だけではなく、相模自身にも言える事だったのだ。俺はすっかりその事を取りこぼして、過去の経験を頼りにし過ぎていた。

 相模は雪乃のサポートを得ながらも、確実に文化祭実行委員長としての責務を努め、オープニングセレモニーの挨拶だって成功と言っていい出来だった。

 実行委員長として、自信と実感、責任感を持った相模は、今どこにいるか。自ずとその場所は限られてくる。

 

「────」

 

 体育館の扉を開き、中に入る。途端に包まれるのは歓声と熱狂の渦。スポットライトに照らされたステージの上で、彼女たちは燦然と輝いていた。

 腹の底をひっくり返すような重低音がリズミカルに鳴り響き、ディストーションの効いたギターサウンドと絡まり合う。跳ねそうになる結衣のメロディーラインを、雪乃は三度下の音で支えハーモニーを奏でる――。

 できる事ならば、彼女たちのその姿を目に焼き付けるほどに、そのステージを観ていたかった。しかし今の俺はオーディエンスでもプレイヤーでもなく、単なるホスト。最高のフィナーレを飾る為に、その脚を止める事はできない。

 壁際に立つ観客の前を、足早に横切っていく。やがて倉庫の前に立つと、俺はそっとその扉を開けて中に入った。

 ひゅっ、と息を飲む音がする。外側に面した窓から溢れる光の中で、俺はついに最後の探しものを見つける事ができた。

 

「相模⋯⋯」

 

 倉庫の扉を閉めると、煌びやかな音塊も狂騒に満ちた歓声もどこか遠くくぐもってしまう。俺に呼ばれた相模はマットの上で体育座りになったまま、目を見開いていた。

「⋯⋯なんで、ここに」

 その問いの答えは、至ってシンプルだ。実行委員長として失敗してしまうかも知れないという絶望と逃避。そしてその結末だけは知りたいという中途半端な責任感。相模がエンディングセレモニー会場の近くにいるであろうという事は、半ば必定だったように思う。

「結果の紙、あったぞ」

 俺は相模の問いには答えず、件の紙を差し出した。しかしそれを見た相模は、首を横に振って俯いてしまう。

「⋯⋯相模」

「⋯⋯うちに発表する資格なんてない。紙、無くして、みんなに迷惑かけて、逃げちゃった」

 最低、と呟いた声は扉越しの歓声でかき消される。相模の言っている事は、半分事実で、半分は欺瞞だ。他でもない、自分に向けた大嘘だ。

「けど見つかったぞ。エンディングセレモニーにも間に合った」

「⋯⋯⋯⋯」

「聴こえてるだろ。雪ノ下たちが時間を稼いでくれてる。文化祭を、ちゃんと終わらせてくれ」

 俺の言葉に、返ってくる声は無い。相模の肩は細かく震え、嗚咽混じりの吐息が時折り耳に届くだけ。

「⋯⋯相模」

 呼びかけても、その姿勢に変化は無い。焦燥感と苛立ちが、嫌な音を立てながら忍び寄ってくる。

「頼む」

 片膝をついて、紙を差し出す。しかし俯いたままの相模は、それに気付きもしない。

 ──ふざけるなよ。

 この期に及んで逃げ続けるなんて、許さない。彼女たちの必死の努力を、真摯な想いを踏み躙ることなど、絶対に許しはしない。

「⋯⋯でも。うちにそんな資格⋯⋯」

 あるんだよ、資格じゃなくて責任が。最後はお前がやらなきゃ、どうにもならないぐらいの責任が。

 どうして人は、こんなに簡単に逃げるのか。できない、やれない、そんな資格がない。言い訳ばかり探して、被害者に擬態する。一番の加害者だというのに、声高に自分は被害者なのだと泣き咽ぶ。

 俺はそんな甘えを、許容しない。

「⋯⋯相模、立ってくれ」

 時間はもう、僅かばかりしか残されていない。立ち上がって手を差し出しても相模は見向きもせず、事態は一寸の進展もなかった。

「でも⋯⋯」

 か細い、否定の声。まだ逃げるという、ただの甘ったれた宣言。

 

「いい加減にしろ!」

 

 思わず俺は、叫ぶようにそう言っていた。

 余りにも大きな声で、言った自分ですらキンと耳鳴りがする。相模はびくっと顔を上げて、見開かれた目を瞬かせた瞬間に一筋の雫が落ちた。

 まったく、年端のいかない女の子に怒鳴るなんて大人気ないにも程があるし、その上泣かせるなんて非道の極みだ。善人ぶった悪人の有様に、我ながら嫌になる。

 

「分かってくれよ⋯⋯。雪ノ下たちが、どんな想いでお前を待ってるのか、考えてくれ」

 

 続いて出てくるのは、懇願するような情けない声だった。差し出していた手を引っ込めて、固く握り込む。

 

「頼む⋯⋯。相模実行委員長」

 

 その呼び方は以前彼女の覚悟を問い質した時と同じ。けれどその響きも意味も、今日は全て違う。

 そしてゆっくりと、相模は立ち上がった。

 すんとしゃくりあげ、真正面から俺を睨む。

 

「⋯⋯分かった」

 

 そう言って相模は俺から結果の書かれた紙をひったくるように取ると、体育館へと続く扉へ向かい歩いていく。泥のような疲れと脱力で、全身が弛緩していく。

 

「⋯⋯ごめん」

 

 相模がそう言って扉を閉めた瞬間、俺は膝を折りマットにへたり込んだ。

 ──何だよ、いい顔すんじゃねぇか。

 ばたんとマットに倒れ、天井を見上げる。

 扉の向こうからは、最後のコーラスを歌い上げる彼女たちの声。その声は自らの叫びに痺れていた鼓膜を慰めるように、いつまでも耳の中を木霊していた。

 

 

 

       *       *       *

 

 

 

 エンディングセレモニーのあと。

 未だ片付けの終わらぬステージの前で、相模を中心とした輪を作った文実メンバーが時に笑い、時に泣きそうな表情を浮かべている。

 

「驚いたわ。あの短時間で、まさか両方とも見つけてくるなんて」

 

 雪乃は腕を組み、輪の中心にいる相模を見詰めていた。相模は周囲のメンバーと握手や抱擁を交わしながら、目には薄っすらと涙を浮かべている。

 その光景を映す目に母性すら滲ませて、雪乃はひたすらに柔らかく優しい視線を送っていた。

 

「うん⋯⋯。なんか、魔法でも使ったみたいだったね」

 

 結衣は雪乃に寄り添いながらそう言うと、そうねと彼女は頷く。

 事実、エンディングセレモニーでの相模の立ち振る舞いには目を見張るしかなかった。各賞の発表を情感豊かに終えると、その後の挨拶では感極まったのか最後の最後で零す涙。彼女を励ます声には、あの時よりも確かな熱量があったように思う。

 ⋯⋯まあ、あの涙は俺が焚き付けた結果、悔しがって泣かせただけなのかも知れないけど。

「なんか全部、すごいよかった。あたしもゆきのんとステージ立てて、めっちゃ緊張したけど楽しかったし。もう一回ぐらいなら、やってもいいかな」

「⋯⋯私はごめん被りたいわね」

 結衣の提案に、雪乃は心底嫌そうな顔で肩をすくめた。まあこういうの苦手なのは知ってるけど、あんまりな反応じゃないですかね。

「⋯⋯俺はもう一回、見たいけどな」

 俺がそう言うと、雪乃も結衣も時を同じくして固まってしまう。なんだろう。何か変な事を言っただろうか。

「ヒッキー⋯⋯」

「⋯⋯見ていたの?」

「まあ、少しだけな」

 いやいや前も見てたんだしそんな驚かんでも⋯⋯とは口が裂けてもいないが、それにしたって驚き過ぎだろう。

 雪乃も結衣も俺から視線を逸らすとそれぞれの赤さで頬を染める。

 なんだこいつら⋯⋯。二人揃って可愛いの塊かよ。

「⋯⋯やっぱり、二度とごめんだわ」

「あたしも、やっぱ無理⋯⋯」

「えぇ⋯⋯」

 雪乃はともかく、結衣まで嫌なのかよ。自分でやりたいって、言ったくせに。

 でもまあ、それでもいいか。

 余分にもう一回、ほんの少しでも見られただけ 僥倖(ぎょうこう)だ。

「さ、片付けて早く帰ろうぜ」

 できればもっと、青く暖かい彼女たちを見ていたいなんて、そんな思いに後ろ髪を引かれながら。

 俺はそう言い、歩き出す。今日は余りにも色々あり過ぎたし、走り回り過ぎた。

 

「あ⋯⋯ヒッキー、打ち上げは」

「いかん」

「答えるの早⁉︎ もうちょっと考えてよ!」

 

 結衣の非難に、クスリと小さな笑い声が相槌を打つ。

 このやり直しの文化祭が成功に終わったのか、否か。

 それは彼女たちの表情だけが、知っている。

 

 

 





 お読み下さりありがとうございました。
 文化祭後編はいかがでしたでしょうか。今まで一番高いテンションの話になっていますし、書いていて非常に楽しいお話でした。
 さて、この話からは週一ぐらいの更新になりそうです。ある程度先までは書いてストックしてあるのですが、投稿する前に何度も推敲した方が質は上がりますし、ストックがなくなると性格上次々早く書こうとしてミスが増えるので……。

 前話ではたくさんの感想をありがとうございました。
 今回も感想等反応を頂けると、嬉しいです。ではまた来週、修学旅行編でお会いしましょう!




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その修学旅行は、青春ラブコメ的には正しい。

 晩秋の京都は、制服のブレザーを正しく着込んでいても少し冷える。

 いや少しの寒さで済んでいるのは、この土地柄かもしれない。かの有名な清水寺。その本堂へ、そして清水の舞台へと並ぶ生徒たちの列がなければ、きっともっと厳しい寒さに晒されていたと思う。

 

「おぉ〜」

 

 結衣は身を乗り出しそうな勢いで欄干に近寄ると、眼下の京都の町並みと紅葉に嘆声をもらした。

 まったく、何度目であっても見事なものだ。紅葉の季節は終わりかけてはいるが、だからこそより一層赤く燃えるようにその葉を染めている。

「ヒッキー、写真撮ろ! 写真!」

「お、おぉ⋯⋯」

 いつだったかもここで写真を撮ったな、なんて思い出していると、結衣は携帯のカメラをインカメラに切り替えて俺に寄り添いハイチーズ。やはり雪乃にセルフィーの撮り方を伝授したのは結衣だったか、と身を以て知る。⋯⋯っていうかガハマさん、ちょっと近くない? 絶対前より近いよね?

「あとで送っとくね」

「あぁ⋯⋯」

 妙な汗が出てきて、いったい何歳になったんだと我ながら呆れるしかない。

 写真を撮り終えると、そのまま人の流れにのって歩いて行く。その先にあるのは、恋占いの石がある地主神社だ。

「なんか、いい感じだね」

 そう言う結衣の視線の先にいるのは、海老名さんと戸部だ。俺と、俺たちの、それぞれの依頼人。

 ここ修学旅行に至るまでの奉仕部への依頼は、俺の知る青春時代をなぞっていた。葉山が戸部たちを引き連れ奉仕部を訪れ、戸部は海老名さんへの告白を手伝って欲しいと依頼する。

 何か違いがあったとすれば、戸部から「ヒキタニくんに相談はないわ〜」と言われず、結衣も怒ったりせずに済んだところぐらいだろう。文化祭の折り、相模にあの時ほど酷い事は言っていないし目撃者もいなかったお陰で、聞くに堪えない(そし)り言を耳にする事もなかった。

「やべー、これ全然分かんねぇわ。真っ直ぐでいいのこれ?」

 戸部は目を瞑った状態で、二つの岩の片方から歩き出した。およそ十メートル離れた岩へ、目を瞑ったまま辿り着ければ恋が叶う、というあれだ。

「そう、まっすぐまっすぐ」

「違う、ちょっと右」

「ちょー、右って俺から見て右? どっち?」

 何でも人のアドバイスを受けて岩に到達した場合、人の助力があればその恋は成就するらしい。

 であれば、そのジンクスは正しいのかも知れない。

 俺の知る世界線では、社会人になってからようやく二人は付き合うようになった。想いを募らせながらも諦めなかった戸部と、海老名さんの心の変容によってそれは成就したのだ。

 

『あの時、比企谷くんがお願いをきいてくれたお陰だよ』

 

 久々にあった海老名さんの、まるで何年も砂漠を彷徨った旅人がようやくオアシスを見つけたようなあの表情を、俺は忘れる事ができない。だから俺の行動は、縛り付けられてしまう。

 この修学旅行の三日目の夜、俺はまた海老名さんに虚偽の告白をするだろう。たとえ違う世界線だとしても、俺にはわざと二人の将来を壊す事などできない。

 しかしそれは、また彼女たちを傷つけるという事だ。それを回避する手段をずっと考えて、堂々巡り。未だにこれという解決策は思い浮かばず、修学旅行の最中にあってもそれは変わらない。

「ちょ、マジどっち?」

「左!」

「右!」

 困惑する戸部の姿を、海老名さんは「あはは」と小さな笑みを浮かべて見守っている。

 恋占いの石。

 さて、そのジンクスは“正しいのかも知れない”と表現したのは。

 

「っとぉ!」

「危な⋯⋯」

 

 戸部が転倒しかけて、それを葉山が助けたからだ。はや×とべ的には美味しい展開だな。

 しかしせめて、岩までは辿り着いて欲しかったところだ。

 こっちは覚悟を、決めているのだから。

 

 

       *       *       *

 

 

「知らない天井だ⋯⋯」

 

 見慣れない天井に、がばっと身を起こして周囲を見渡す。これが元いた世界線の病室であればよかったのだが、そんな事はない。俺はまだ誰も救えていないらしく、ここはホテルの一室だ。

「あ、八幡。やっと起きた?」

 どうやら俺はまた、宿について食事をとった後すぐに寝てしまっていたらしい。まあ清水寺から南禅寺に移動した後、銀閣寺までのそこそこ長い距離を歩いたのだ。朝も早かったし、寝落ちしてしまうのも致し方あるまい。

 葉山と戸部たちはジャラジャラと麻雀牌をかき混ぜ、まさに修学旅行の夜といった一幕だ。

「ああ⋯⋯。ちょっとコーヒー買ってくる」

 うん、と頷いて手を振り送り出してくれる戸塚を背に、俺は部屋を後にした。そう言えば、一日目の夜は材木座が部屋に突撃してきた気がするが、まあいいか。心優しい戸塚が相手をしてくれるだろう。

 一階に下りて、自販機の前に立つ。一応マッ缶を探すが、当然ラインナップにはなかった。認めたくない事だが、千葉以外でマッ缶は市民権を得ていないのだ。

 俺は仕方なしに、一番甘そうなカフェオレの缶を購入する。それを手にベンチを探していると、ふと見知った顔が視界に入った。雪乃と結衣が、肩を寄せ合いベンチに座っている。

「あ、ヒッキー⋯⋯」

「比企谷くん⋯⋯」

 なんなのその悪口言ってたら本人来ちゃったみたいな反応⋯⋯。

 それにしても、こんなシーンはあっただろうか。湯上がりなのか髪をアップにした雪乃の姿には見覚えがあるが、お団子頭をおろした結衣に会った覚えがない。

「⋯⋯珍しいもん飲んでんな」

 しかも二人とも、今しがた俺が買ったのと同じカフェオレの缶を握り込んでいる。こんな時間に飲んで寝れなくなっても知らねぇぞ。

「あはは⋯⋯うん」

 妙に意味深な雰囲気を醸し出しながら答えられてしまうと、これ以上訊くのも憚られる。俺はベンチの横に立って背を壁に預けると、ぷしゅっとプルタブを開けた。

「明日の相談か?」

「うーん、まあそんなところ」

 さっきから答えるの結衣ばっかりだな、と雪乃の顔をちらりと盗み見る。カフェオレの缶を握る彼女は、その表情にも動作にも強張りのようなものが感じられた。

 しばらく無言で缶を傾けていると、カツカツと音を鳴らしてまた別の人影が現れる。

 こんな夜更けだというのに、平塚先生はコートを羽織りサングラスをかけていた。

「な、何故君たちがここに⋯⋯」

 明らかに狼狽えた様子を見せる平塚先生は、記憶の通りならまた天一にラーメンでも食べに行くのだろう。いいな。久しぶりの天一のラーメン。

「いや、ただ飲み物を買いに」

「そうか⋯⋯。まあいい。口止め料を払うから、ついて来い」

 俺たちの顔を一人ひとり見た後に、平塚先生は颯爽と歩き出す。どこか開き直った様子に、思わず笑ってしまいそうになる。

「あの先生、どこに⋯⋯」

「まあ、ついて来れば分かる」

 雪乃の問いにまともに答えず、平塚先生はホテルの正面玄関から外に出た。俺たちもそれに続くと、そのまま通りの方まで歩いていく。

 平塚先生がさっと手を挙げると、すぐに一台のタクシーが路肩に停まった。

 ところでタクシーの席に座る順番というのをご存知だろうか。この場合一番目上にあたる平塚先生が運転席の後ろに座るべきだが、普通に助手席に座ってしまった。では上座から順番に俺たちが座ると、どうなるか。

「⋯⋯狭い」

 そうですね、一番下座の後部座席中央が俺の席で確定ですね。

「そんなに肩を縮こまらせるから狭く感じるのよ」

「別にそんなに避けなかったらいいだけなのに⋯⋯」

 普通に上座である運転席の後ろに座った雪乃が言い、左隣に座った結衣もそれに続く。が、お言葉に甘えられないのが俺なのだ。既に十分に近いし、風呂上がりのいい香りが鼻腔を満たして落ち着かない。

「一乗寺の天一まで」

 平塚先生がそう言うと、タクシーは滑るように走り始める。

「てんいち⋯⋯。てんかいち?」

「惜しいけど、絶対お前が思ってるのと違うぞ」

 結衣は頭の上にハテナを浮かべているが、むしろ天下一武闘会を思い浮かべるお前の方が不思議だという話だ。女の子でもドラゴンボールとか見るのだろうか。

 僅かばかりのナイトクルージングを終えると、俺たちはいつかの店の前に立つ。

「これが天下一品総本店⋯⋯」

 いや、ぶっちゃけ二回目なのだが、やはり久し振りに来ても感動する。そんな俺の感慨の理由など知る由もない雪乃と結衣は、気の抜けたような表情で看板を見上げていた。

「さあ、入るぞ」

 平塚先生に促され、店内に入る。こんな夜更けのラーメン屋に美少女二人とサングラス美女というアンマッチさは相当目立つらしく、テーブル席に座っていた男性客にジロジロと見られていた。まあ俺たちの様子じゃ、〆のラーメンって感じでもないし、この三人の見た目なら致し方ないだろう。でもやっぱ俺の奥さんジロジロ見んじゃねぇぶっ殺すぞ。

「さあ、口止め料だ。遠慮なく頼みたまえ」

 席に着くと、メニューを開きながら平塚先生はそう言った。とはいえ説明も無しにメニュー見せただけでは混乱するだろう。

「お前らはこっさりかあっさりぐらいがいいと思うぞ」

「いえ、何か見ているだけでお腹がいっぱいになるからいいわ」

「あはは⋯⋯あたしも」

 他のお客さんが食べているこってりを見た二人は、普通に引いていた。まあ、あの見た目じゃ頼むのにも勇気がいるだろう。

「ではあっさりを頼んで二人で分けて食べるといい。もし多くてもそこの育ち盛りが食べるだろう」

「⋯⋯残飯処理係の素敵な言い換えですね」

 というか普通に間接キスになり得ることを提案してくるとか、この当時の俺の自意識過剰っぷりを考えたら大分とぶっ込んだ提言だ。仮にも女性教師なのだから、もっと気にした方がいいと思いました。

 

 店員さんを呼んで注文を告げると、数分の後に着丼する。俺と平塚先生はこってり、雪乃と結衣はあっさりだ。

 いただきます、と言って食べ始めてしばらくしてから、平塚先生は麺リフトをしながら言う。

「順調に依頼をこなしているようだな」

 ちゅるる、とそう言った後に平塚先生は麺を啜る。一体それは、どの依頼の事を言っているのだろうか。

 戸部からの依頼をこの時点で知っているとは思えない。あるいは、雪乃から連絡が行くことになっているのかも知れないが。

「特に文化祭の依頼は、上手くいったな。相模も文化祭の件で、だいぶ自信をつけたようだ」

 その事か、と俺は僅かに身体に巡っていた緊張を解いた。

 文化祭以降の相模の様子を見ていると、確かに平塚先生の言うように以前のような卑屈さは感じず、自信さえ持っているように思える。文化祭を何とか成功させたお陰で、彼女の自己承認欲求と自尊心は正しく満たされたらしい。

「しかし雪ノ下。私の、彼に対しての依頼を覚えているか?」

 雪乃は平塚先生にそう問いかけられると、髪を耳にかけながらラーメンを食べようとしていた動作を止めた。すっと背筋を伸ばすと、平塚先生に向き直る。

「確か『彼の捻くれた孤独体質の更生』、でしたね」

「そうだ。自分では、どう感じている?」

 雪乃はチラと俺を見てから、顎に手をやり考える。結衣はそんな俺たちの様子を見て、食べる手を止めた。

「そんな依頼、あったんだ」

「ええ⋯⋯」

 俺の方をチラと窺う視線が、二人分に増える。そういう話、本人の前でするのやめてくれないかなぁ⋯⋯。

「⋯⋯正直、よく分かりません。依頼のこなし方は苛烈ですが、意外にまともというか⋯⋯」

 ごにょごにょ、とそこで言葉は尻すぼみになっていく。

 まとも、か。それは過大評価のように思える。千葉村での留美の件は、結局一度グループを破壊しているし、相模のサポートの件では誤判断を起こさない為に相当厳しい事を言って彼女の自尊心をズタズタにした。結果は良かったものの、まともと称するのは違和感がある。

「まあ、斜め上だよね。ヒッキーの考えること」

 結衣は雪乃の意見に同調するように、うんうんと縦に首を振った。

 その表現なら、少し納得できる。やはり結衣には、この時から色々なことが見えているのだと感心するしかない。

「では孤独体質についてはどうだ?」

 その問いに、今度は雪乃も結衣も黙りこくった。頭の中での検討が長引いているのか、二人とも僅かに首を傾げている。

「⋯⋯孤独体質というより、孤独であることをただ選んでいるだけのような気がします」

「うん⋯⋯。そんな気がする」

 そんな風に見えていたのか、と俺は自らの行いを回顧する。

 確かに基本的にはあの頃の再現をしなければ、と意図して孤独でいるようにしていた。高校生の彼ら彼女らともっとコミュニケーションを取ろうと思えば、きっとあの時よりもまともなやり取りはできていたのだろう。しかしそれでは周りから余りにも奇妙に見えるだろうし、関わる人は選ぶべきという考えは変わらない。

「そうだな。そうなのかも知れない。では、君たちとはどうだ?」

 平塚先生の言葉に、二人ははっと顔を上げた。その言葉の意味するところを反芻するのは、彼女たちには一瞬のことだったらしい。どこか居心地悪そうに、二人は視線を合わせると、そのまま小分けにされたラーメンに視線を落とした。

 ⋯⋯一体なんなの、君たちの態度。

 平塚先生の言いたい事は分かってはいるが、気付かない振りをする事にした。平塚先生の伝え方はシンプルかつストレート過ぎるし、その言葉の持つ意味は陽乃さんが時折口にする真実めいた言葉と似て強い。

 

「⋯⋯ラーメン、冷めるぞ」

 

 俺はそう一言だけ言って、箸で掴んだまま冷めてしまった麺を啜った。

 

 

       *       *       *

 

 

 修学旅行も二日目。本日最初に向かう先は、 太秦(うずまさ)映画村だ。

 紅葉シーズンで大混雑のバスでぎゅうぎゅう詰めにされつつも、何とか目的地に到着する。時代劇の撮影にも使われる江戸時代の町並みを歩き見ながら入る事になったのは、いつぞやと同じお化け屋敷だ。

 

「うわぁ⋯⋯やっぱあたしこういうの苦手⋯⋯」

 

 まるで雪乃に寄り添う時みたいに近い距離で、結衣はそう言った。

 あれ行ってみようよ、と提案したのは君なんですが⋯⋯。まあ、戸部と海老名さんをくっつける為の作戦なんだろう、というのは俺も分かっているけど。

 

「い、今なにか変な声が⋯⋯」

 

 そして俺のブレザーの左側の裾を引っ張ってくるのは、川なんとかさんだ。さっきから戸部がビビり倒す声でこっちもビビるという負の連鎖を生み出している。貴女も十分近いので、自重して頂きたい。

 

「八幡は、平気そうだね」

 

 そう訊いてくるのは戸塚で、そういう彼女──いや彼は、まったく平気そうだった。

 

「まぁな⋯⋯」

 

 だって二回目だし⋯⋯。とはもちろん言えない。俺は息遣いさえ聞こえてくる彼女たちの近さにこそばゆさを感じながら、お化け屋敷の中を歩き続ける。

 しかしまあ、川なんとかさんが怖がるのは無理もない。お化け役は本物の役者が演じているし、セットの死体は生体から模って作ったリアリティのあるものだ。二度目でなければ、俺もそこそこビビっているだろう。

「戸塚は全然平気そうだな」

「うん。僕はこういうの結構好きだから」

 リアルな死体造形と死装束の演者が? と思わず阿呆な事を考える。

 それにしたってこの二日目は、特に変化を与える予定のイベントもなく、気楽なものだ。明日の夜の事を考えると、こうやって楽しんでいられるのも今日までだろう。

 俺はちらりと、左隣の人物を窺い見た。かわ⋯⋯川⋯⋯思い出した。川崎沙希はさっきから普段の気怠げで威圧的な態度は鳴りを潜めさせ、年齢相応な少女然として怖がっている。

 それを見ていて、俺はふとひらめいた。そのフラッシュアイデアは、もし二日目に変化を与えてみるならこれしかないだろうという、確信めいたものに変わっていく。

 

「ね、ねぇ比企谷。さっき何か聞こえなかった?」

「ん? いや、何も聞こえなかったけど⋯⋯」

 

 ──嘘だ。

 俺は確かに気付いていた。今まさに俺たちを驚かそうと、僅かに動き出した人影に。

 

「ぶるぁっ!」

 

 死体に擬していた役者がそう叫び声を上げながら起き上がると、川崎はビクーン! と背筋を伸ばし、直後に無言の全力ダッシュ。

 

 俺が変化を与えるのは、ここだ。

 

「うわあああぁぁぁぁ!!」

 

 俺は川崎の無言の叫びを代弁するかのように、絶叫を上げながらその背中を追いかけ走り始めた。

 その名も『川なんとかさんはいつも怖いから、こっちから怖がらせてみよう作戦』である。

 

「──! ひっ、きっ──!」

 

 振り返った川崎は俺の姿を認めると、涙目になって走り続ける。もはや何を言っているのかも分からない。

 さほど広くもない板張りの通路を、青みがかった長髪に掴み掛からんと全力で走る。血飛沫の散った障子が、おどろおどろしい色に染められた欄間が、視界の両端へと流れていく。

 

「かぁぁわぁぁさぁぁきぃぃーーー!!」

「ひいぃっ! ひ、ひきっ、比企谷がゾンビ化したぁぁぁぁーーー!!」

 

 大変失礼な事を絶叫しながら、やがて川崎は出口の扉まで到達する。

 彼女に扉を開けている時間などない。

 そして、俺を振り返り──。

 

「死ねぇぇ!」

 

 川崎の突き出した腕に首をひっかけられ、俺は(したた)かに後頭部を打ちつけたのだった。

 

 

       *       *       *

 

 

「本当、ありえない⋯⋯。マジでありえない⋯⋯」

「あはは⋯⋯。まああれは、全面的にヒッキーが悪いよね」

 

 お化け屋敷を出たところにあった軒下のベンチで、俺は川崎の恨み節を聞きながら垂木を見上げていた。

 川崎渾身のラリアット⋯⋯というか俺が走ってきた勢いをのせた自爆ラリアットで見事にぶっ倒れ、軽い脳震盪を起こして休憩中である。

「ヒッキー、まだクラクラする?」

 俺は結衣の膝枕をして貰いながら、額には濡れハンカチが置かれ完全に被介護状態。我ながら阿呆な事をしたものだが、結衣から話を聞いた戸部と海老名さんが爆笑してくれたのだけは良かったと思う。それで二人の仲が近付いたかどうかと問われると、答えを濁すしかないが。

「ああ⋯⋯まだちょっと⋯⋯」

 俺は結衣と目が合うと、そう言って目を閉じた。

 それにしても結衣の太もも──略して結衣もも⋯⋯。雪ももも素晴らしいが、結衣ももも味わい深いな⋯⋯。

 目を閉じるのに合わせて、結衣は俺の瞼の上にそっと手を置いた。まるで寝かしつけられる子供のようで、くすぐったい。

「あんれー。ヒキタニくん、まだダメなん?」

「あ、うん。まだっぽい」

 声に目を開くと、パッと覆い被さっていた結衣の手は外され、見下ろしてくる戸部と目が合った。という事は恐らく近くに葉山もいる事だろう。奴にこんな姿を見られるのも癪なので、まだ頭がふわふわするが起き上がる事にした。

「すまん、もう大丈夫だ」

 よっこいせ、と立ち上がってみても、目眩のような症状もない。首をぐるりと回してみるが、少し痛みが残っているぐらいで問題なさそうだ。

「ヒキタニくんも、茶目っ気あるんだねぇ。隼人くんにもしてみたらいいのに」

  愚腐腐(ぐふふ)、と笑うのは、戸部と一緒に近くに来ていたらしい海老名さんだ。その提案も中々楽しそうだが、奴の場合は素で返してきてこちらがダメージを受けそうだから、絶対やらない。

「もう大丈夫なのか?」

 三浦と土産物屋の方から歩いてきた葉山は、俺を上から下まで見てからそう言った。あんな阿呆なことをしてこいつに心配されるというのは、随分居心地が悪い。ならするなって話だが。

「ああ、すまん。時間ロスったな」

「いや、どうせ土産物は見たかったし。じゃあ、そろそろ行くか」

 葉山は皆に向けてそう言うと、口々に肯定の言葉が返ってくる。次の移動先は 洛西(らくさい)エリアだ。

 

 

 俺の提案で激混みバスを回避してタクシーに乗り込むと、次の目的地である 仁和寺(にんなじ)に到着した。かの有名な徒然草の第五十二段に出てくる、古典随筆オタク的には聖地にあたる寺だ。

 確かあの話は、とある法師についての一編だ。法師が石清水八幡宮を参拝し、極楽寺や高良神社に行ってよし全部まわったぞ、と思っていたらまだ他にも参拝すべきところがあって、だから些細な事にも案内役はいて欲しいよね、って話だ。現代ならちゃんとググってから行けカスと言われてしまう案件である。

 さてでは俺はというと、もちろん案内役など必要ない。これから向かうことになる 龍安寺(りょうあんじ)で、たまたま雪乃と会ったのをよく覚えている。映画村での時間ロスはあったが、バスの待ち時間をカットしたから、大体あの時と同じスケジュールで事は進んでいるはずだ。

 拝観受付を済ませて敷地内に入ると、道に沿って歩き、石段を登っていく。やがて見えてくるのは、方丈と呼ばれるお堂だ。そこに入って見えるのは、テレビや何やらで有名な枯山水、龍安寺の石庭である。

 結衣たちは「うわぁ」と声を上げながら石庭を撮ったり、それをバックに写真を撮ったりとそれぞれに散って行く。

「⋯⋯⋯⋯」

 それじゃ雪乃さんはどこかなーと縁側を探すのだが、総武高校の制服姿はいくつか目につくものの彼女の姿はなかった。見落としているという事は、ありえない。俺のゆきのん限定千里眼はそこいらのレーダーよりも高精度なのだ。

 おいおいマジかよ。これはタイムマネジメントを失敗したか⋯⋯と絶望しかけていると、不意にトントンと肩を叩かれる。

「こんなところで奇遇ね。比企谷くん」

 振り返ると、探し人は僅かな微笑みを浮かべてそこに立っていた。真後ろにいられたら、流石に検知範囲外だ。

「なにをキョロキョロしていたの?」

「⋯⋯いや、どの角度から撮るのがいいかなと」

 お前を探してたんだよ、と言いたいところだが、勿論そんなことはしない。それにしたって予想通り会えただけで、うっきうきのルンルン気分が表情に出てしまいそうだ。京都の名所で見る雪乃の立ち姿は本当に絵になる。それある。

「そう」

 雪乃はそう言うと、周囲を見渡した。見知った顔が近くに居ないのを確認すると、雪乃は軽く俺の袖口を引っ張る。

「ちょっとこっちへ」

「へ? お、おぅ⋯⋯」

 なんだこの記憶にない展開は⋯⋯と戸惑っていると、方丈の端の方へと連れて行かれる。そう言えば、あの時同行していた雪乃のクラスメイトたちはどこに行ったのだろうか。

「その⋯⋯写真を撮って欲しくて」

 携帯を取り出した雪乃を見て、あぁなるほどと俺は頷いた。これだけ見事な枯山水なのだ。それを背景に写真を撮って欲しいというのだろう。それこそクラスメイトを見つけて撮って貰えばいいと思うのだが、頼みづらいのかも知れない。はしゃいでいると思われたりするの、嫌がりそうだし。

「ああ、いいぞ」

 貸してみ、と携帯を受け取ろうと手を伸ばすが、何故か雪乃は携帯を手放さない。

 えぇ⋯⋯なにこれ。あなたに携帯を預けるわけがないでしょう自分ので撮って送るのよ、とか言われちゃうやつ?

「そ、そうじゃなくて」

 雪乃は携帯を操作すると、インカメラを起動した。頬には朱を、眉には不安をのせ、もじもじと非常に言いにくそうに言った。

 

「その⋯⋯一緒に、撮りたいのだけれど⋯⋯」

 

 あかん。

 これあかんやつや。

 可愛過ぎて死ぬ。可愛いが致死量超えて悶死する。

 思わず関西に来ているからといって方言がうつってしまいつつ、俺は平静を装うのに必死だった。恥ずかしがりながら一緒に写真を撮りたいとおねだりしてくるゆきのん可愛いのん♪ あ、これ全然平静じゃねぇや。

「きゅ、急にどうした」

 とりあえず二つ返事でオーケーするのもこの当時の俺らしくないかと思って、そう聞いてみる事にした。

「せっかく会えたのだし⋯⋯。それに由比ヶ浜さんとは撮ったのでしょう?」

 返ってきた答えに、思わず仰け反って反応してしまいそうになる。マジっすか君たち。そんな事まで情報共有済みとか、仲良すぎでは?

「あー⋯⋯まあ、いいけど」

 俺がそう答えると、雪乃は 愁眉(しゅうび)を開く。

 言葉ではそう言うが、むしろ撮りたい。撮らせて下さいって土下座でお願いするレベルだ。JK時代の奥さんと晩秋の京都でツーショットとか最高過ぎる。

「じゃ、じゃあ」

「ああ⋯⋯」

 会話になってないな、と思いながらも俺は石庭を背に雪乃の隣に並んだ。肩同士に握り拳三つほど間を空けて、雪乃は携帯を構える。

「⋯⋯比企谷くん、もうちょっとこっちに」

「お、おぅ⋯⋯」

 別に俺からしたら初めての事でもないのに、妙に緊張してしまう。それもこれも、雪乃が自撮りに慣れていないせいだ。

 俺の記憶のある限り、雪乃はかなり慣れた様子でツーショットの写真を撮っていた。おそらくそういう機会が多くなり、慣れてきた来たのはもう少し先。たぶん一色いろはが奉仕部に入り浸るようになってからとか、そのぐらいの事なのだろう。という事は指南役はいろはか? まあ辿々しい手つきで頑張って自撮りしようとする雪乃が可愛いから、もうどっちでもいいか。

「まだ見切れてるわ」

「あ、はい⋯⋯」

 完全に肩はくっつき、枝毛の一つすらなさそうな黒髪が頬を撫でる程に近い。ふわりといつものサボンが香って、嗅ぎ慣れた匂いだというのに心臓は早鐘を打つ。

 カシャ、とシャッター音が鳴る。顔を赤くした雪乃と俺は、僅かにのぞく石庭と共に小さな画面の中に収まった。

「あ、ありがとう⋯⋯」

「おう⋯⋯」

 名残惜しさを感じながらも、肩を離して距離を取る。制服越しにも感じられた熱が、体内に染み入ってくるように熱く感じられた。

「じゃあ、戻るわ」

「⋯⋯ああ、またな」

 胸の前で小さく手を振り、まだ顔に赤さを残したまま雪乃は踵を返した。

 二歩、三歩と離れていく。半ば放心してその後ろ姿を見ていると、重大な事に気が付いた。写真を──さっき撮った写真を、送って貰わなければ。

 

「雪乃!」

 

 焦ってそう呼んだ瞬間、俺はしまったと口を押さえる。つい、地の呼び方が出てしまっていた。

 振り返った雪乃は想像もしていなかっただろう状況に瞠目し、身体ごとフリーズさせると、ぱちくりとその大きな目を瞬かせた。その頬には、また赤みが戻ってきている。

「な、なに⋯⋯?」

「その⋯⋯。後でいいから、さっき撮った写真、送っておいてくれ」

「え、ええ⋯⋯」

 そう言うと雪乃は再び背を向けて、その場を後にした。まるで逃げるように、さっきよりも早足に。

 

「はぁー⋯⋯」

 

 深く、深く息を吐き出す。何やってんだ、俺。

 方丈の端っこで、一人ぐしぐしと頭を掻きむしる。しかしどれだけ時間が経っても頬の熱さと後悔は、中々抜け落ちていかないのだった。

 

 

 






お読みいただきありがとうございました。
サブタイトルの通り、今まで一番ラブコメらしい、ほのぼのした話になりました。
さて次は修学旅行後編。八幡が憂鬱に感じているあの告白はどうなるのか。
次回も読んで貰えたら嬉しいです。毎回書いてますが、感想を頂けると更に嬉しい。
ではまた来週の土曜日にお会いしましょう。


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しかし比企谷八幡は、またまちがえる。

 ホテルに戻って夕食をとったら、後は自由時間だ。

 昨晩はどこの部屋でも麻雀大会が開かれていたらしく、今晩は各部屋対抗の麻雀大会が行われるらしい。クラスの中心人物である葉山が泊まる客室がその麻雀大会の会場になってしまうのは、必然と言えるだろう。

 当然そんなやかましい空間に身を置いていられるわけもなく、俺は一階のロビーのベンチに腰掛けていた。

 さてどうしたものか、と俺は買ったばかりのカフェオレを傾けながら考える。

 以前の修学旅行では暇つぶしに外に出て、コンビニであーしさんこと三浦に遭遇。要らんことすんじゃねぇぞオラと釘を刺されたのだ。

 当然、そんな場面を繰り返すつもりはない。歳をとっても怖いものは怖いし、あそこで彼女と話す必要があるとも思えなかった。

 そうしてボケっと縁側の老人にでもなった気分でロビーを見ていると、見覚えのある顔がエレベーターの方から現れる。

 ──相模南。

 直近でもっとも関わりを持った、赤の他人の名前だ。いやこの言い方は、矛盾しているか。

 先ほどまで風呂に入っていたのか、相模の髪はまだ僅かに湿っているように見える。ちらと一瞬目が合ったような気がするが、彼女はそのまま自販機の方まで歩いて行った。

 相模と俺の関係性は、今を以てしても良好とは言えない。例え教室で目があっても挨拶はしないし、体育祭では実行委員をやる事もなかったからそこでの絡みもなかったのだ。

 まあ、どうでもいい事だ。多分これから先、彼女と関わり合う事もない。

 そんなことをぼんやり考えていると、不意に人影が俺の目の前を通り過ぎた。相模南はわざわざ俺のすぐ目の前を通り、一人分席を空けて、俺の座るベンチに腰掛けたのだ。

 

「ん」

 

 相模はそう言うと、それぞれの手に持っていたペットボトルのうちの一本を俺の隣に置いた。オレンジ色の蓋をした、ホットのミルクティーだ。

「⋯⋯なに、これ」

「あげる」

「いや、もう飲み物あるんだけど⋯⋯」

「持って帰って、後から飲めばいいじゃん」

 相模は相変わらず俺と目を合わそうとせず、自らの手に残っているペットボトルの蓋を開けた。ちびりとそれを一口飲むと、暫しの沈黙の後に 訥々(とつとつ)と喋り始める。

「⋯⋯あのさ。文化祭でのこと、ありがと」

「⋯⋯おう」

 思いもよらなかった言葉に、俺はそんな曖昧な返事しかできなかった。まさかこいつにお礼を言われる日がくるなんて、意外すぎて理解が追い付かない。

「終わってみて考えたらさ、⋯⋯全部あんたの言った通りだった」

 ちらりと俺の方に向けられた視線は、しかし俺のそれとかち合う前に戻される。俺は「あぁ」とかまた曖昧な答えで、相模の言葉の続きを待つ。

「だから、ちゃんとお礼を言っとかないとって。それは、その気持ち」

 相模はそう言って、視線だけでミルクティーのペットボトルを指した。暖かい方を選んでくれたのは、彼女なりの優しさだろうか。

 それっきり、深く長い沈黙が訪れる。もう喋る事もないはずなのに、相模は何度かペットボトルを傾け、立ち去る様子もない。

 そんな珍しいシチュエーションに、俺はふと訊いてみたくなってしまった。もうほとんど答えを聞いているというのに、答え合わせをしたくなってしまったのだ。

「なあ、相模」

 呼びかけ、今度ははっきりと相模の方を見る。ようやく彼女と目が合うと、今度はお互いに目を逸らさない。

 

「文化祭の実行委員長、やってよかったと思うか?」

 

 俺の質問に相模は呆気にとられたみたいに目を開くと、ふっと破顔した。

 

「あったりまえじゃん」

 

 そう言った相模の表情は、本当に晴れ晴れとしていて。

 俺は後になってから、初めて相模の笑顔が向けられた事に気が付いた。

 

 

       *       *       *

 

 

 修学旅行も早いもので、もう三日目の朝である。

 俺たちはいつかと同じように、雪乃チョイスの有名コーヒーショップでモーニングをいただいていた。

 

「由比ヶ浜さん。今日のコースは伝えておいて貰えた?」

 

 雪乃は一口コーヒーを飲むと、結衣に向けてそう訊いた。

 修学旅行三日目は、完全に自由行動の日である。故に奉仕部が揃って戸部の告白に向けてバックアップできるのは今日だけ。彼らを誘導する為のおすすめコースを、雪乃は考えてくれていたのだ。

「うん、ばっちり。多分、教えた通りのコースを行くと思うよ」

 おそらくいつかと同じように、結衣から戸部にコースは伝えられ、そのままおすすめされた通りに行動するだろう。まあもし何かの変化でそうならなくても、今日に限って言えば問題ない。

 肝心なのは夜の、あの告白のシチュエーションだ。それさえあの時と違いなく再現できれば、俺への依頼は達成できる。しかしその事を考えると⋯⋯今から気が重い。

「あ、ねえ。ゆきのんが飲んでるコーヒー、あたしも飲んでみたい」

「そう? では交換しましょうか」

 しかし俺の心中など推し量れるはずもない彼女たちは、俺の記憶以上に仲がいい。この光景とその事実は、このやり直しの中での功績だと、少しは胸を張ってもいいのではないかと思う。

「⋯⋯仲いいよな、お前ら」

 その一言に雪乃と結衣の視線が俺に集まり、すぐに二人は顔を見合わせる。

「それは⋯⋯」

「ね?」

 内緒話でもするみたいに結衣は微笑み、雪乃は表情を見せまいと顔を伏せた。なんだこいつら超可愛いな。尊いの塊か?

 俺は思わず緩んできそうな頬を押さえつけながら、雪乃に向けて問いかける。

「で、今からどこ行くんだ?」

「まずは伏見稲荷。それから東福寺、その次に北野天満宮ね」

「⋯⋯すまんな」

 俺たちのやり取りに、結衣は額の上に疑問符を浮かべながら首を傾げている。まあ、よほど歴史に詳しくなければ伝わらないだろう。

「北野天満宮ってのはあれだ、学問の神さまを祀ってるんだよ」

「詳しく言うと、菅原道真公、通称天神さまね」

「あ〜、小町ちゃん受験だもんね」

 ユキぺディア情報がどこまでインプットされたかは甚だ疑問だが、その説明で小町の為ということは理解してくれたらしい。結衣は暗記系の勉強こそ苦手だが、頭の回転は早いし地頭はいいのだ。

「それから最後に嵐山ね」

 嵐山──。この修学旅行での、ターニングポイントだ。

 そのキーワードに反応してしまわないように、俺は表情筋を力ませる。白く品の良いカップに注がれたコーヒーからは、もう湯気は消えている。

 

「あー、なんか全部楽しみだなぁ」

 

 俺は努めて無表情に、無感情に。

 段々と温くなってくるコーヒーを一口飲むと、意識を逸らすように外をみやるのだった。

 

 

       *       *       *

 

 

 伏見稲荷大社と言えば、その名を聞いた事がない人の方が少ないだろうと思う。

 到着当初こそ人が多かったものの、かの有名な千本鳥居を進むほどに人影はまばらになっていく。緩やかと言い切っていいか微妙な斜度を持つ坂道を歩きながら時折雪乃の方を見ると、僅かに息が上がっているようだった。

「大丈夫か?」

「このぐらい、平気よ」

 しかしその一言ですら一息で言い切れないぐらいには、心拍数も上がっているらしい。俺が歩を緩めると、先行していた結衣の背中が少しだけ遠のく。

「戸部くんたちの様子はどう?」

「え? ああ⋯⋯まぁ、特に変わったことはない、かな。ちょっと二人でいる時間が増えたぐらいだ」

 戸部たちの様子ならとっくに結衣からも聞いていると思うが、俺の口から聞きたかったという事だろうか。

 戸部と海老名さんの様子は、雪乃に伝えた通りに進展といえるものはない。当然と言えば当然だ。いくら修学旅行とは言え、急に意識しだすことなんてまずない。それ以前に、海老名さんが自分自身に折り合いをつけられなければ、事の起こりようがないのだ。

「告白、上手くいくと思う?」

 その問い掛けに、俺は一瞬言葉に詰まる。答えなんてもう出ていて、だからこそ即答するのを戸惑ってしまう。

「⋯⋯たぶん、無理だな」

「それでも、依頼は断らないのね」

 横顔に視線を浴びながら、俺は苦笑するしかない。以前の俺なら「仕事だからな」とだけ言って、煙に巻いたことだろう。

「諦めさせるのも仕事のうちだからな」

 それを聞き届けて呆れ混じりに笑みを溢したのを、俺は視界の端で捉える。雪乃も結衣も海老名さんの告白を阻止して欲しいという暗号めいた依頼には気付いていないようだが、だとしても嘘はついていない。

「うわぁ⋯⋯。すっご。ゆきのん、ヒッキー! 早くはやく!」

 先に四ツ辻まで着いた結衣は、振り返って俺たちを手招きする。何だか子どもみたいだと思って笑みを溢すと、一陣の風が吹いた。

 真っ赤な落葉で視界が彩られ、穏やかな微笑みを浮かべた雪乃と目が合う。その表情と、我が子を初めて抱いた時の雪乃の表情が重なって、思わず胸の内が狭くなる。

「比企谷くん?」

 そう声をかけられて、思わず足を止めてしまっていた事に気付いた。

 しっかりしなければ。感傷になど浸っている場合ではないのだ。今はこの修学旅行で、彼と彼女の未来を“救う”ことが先決だ。

「すまん。ぼーっとしてた」

 そう言って俺は、止まっていた一歩を踏み出す。結衣の隣に立つと、眼下には紅葉に彩られた京都の町並みが広がっていた。

 背中にはじっとりと汗が滲んできていたが、なるほどここまで歩いてきた甲斐がある景色だ。登山を趣味にしている人の気持ちが、少し分かった気がする。

「すげぇな」

 素直にそう言う俺の隣で、雪乃は町並みではなくキョロキョロと辺りを見回していた。

「どしたの、ゆきのん」

「いえ⋯⋯。この近くに、滝行が出来る場所がある、と書いてあったから」

 滝行ねぇ⋯⋯。テレビで見かけることはよくあるが、実際に滝行しているところや、出来る場所を見た事はない。こういう霊験あらたかな場所であれば、滝行ができる場所があっても不思議ではなかった。

「滝行、やってみたいのか?」

 白装束を着て滝に打たれる雪乃の姿──は、見てみたい気もするが、相当にシュールな光景だ。そもそも滝の勢いに負けてへたり込んじゃわないかしら、この子。

「⋯⋯どんな場所なのか、少し興味があっただけよ。あなたがやってみたら?」

 俺の阿呆な想像が漏れ伝わったかのように、雪乃は少し呆れた様子でそう言った。

 滝にでも打たれれば、俺の懊悩(おうのう)も葛藤もどこかへ行ってくれるのだろうか。もしそうならば、雪乃の軽口も存外悪くない。

「いい提案だな。着替えを持ってきてたらチャレンジしていたところだ」

 同じ質量の軽口を返すと、俺ははっと短く息を吐いた。

 

 

       *       *       *

 

 

 伏見稲荷の次に向かった東福寺は、通天橋で有名な紅葉の名所だ。

 俺の記憶が確かであれば、ここで葉山たちと遭遇したはずだが──。

 

「すっげー人だな⋯⋯」

 

 流石は京都を代表する名所だけあって、シーズン終了間際と言えどもの凄い人だ。こんな人出の中で彼らの姿を探す事など、到底無理な話に思える。

「ほんと、凄い人⋯⋯。あ、あそこ空いたよ」

 通天橋を歩いていると、欄干の近くにギリギリ三人入れるぐらいのスペースが空く。そこに滑り込むと、ようやく人の頭越しではなく視界いっぱいに、爆ぜそうなほど真っ赤に色付いた紅葉を見る事ができた。

「見事なものね」

 さっきまで人の多さにげっそりしていた雪乃も、その光景にそっと息を吐いた。紅葉と雪乃の横顔の組み合わせはあまりにもフォトジェニックで、まるで精巧緻密な絵画のようだ。

「あ、ねぇ。三人で撮ろうよ」

 結衣はそう言って携帯を取り出すと、インカメラを起動させた。自然とその立ち位置のまま撮る事になるので、俺が結衣と雪乃に挟まれる形になる。

「ゆきのん、もうちょっと寄って」

「え、ええ⋯⋯」

 一気に二人との距離が縮まって、それぞれの香りが微かに鼻腔に届く。近い。なんで昔のスマホって、こんなにインカメラの画角狭いんだろ⋯⋯。

 三人の顔が入ったと思ったら紅葉があまり写り込まず四苦八苦していると、不意に正面から声がする。

「貸してみそ」

 そう言われ、取り上げられた携帯の向こうに立っていたのは──。

「って、姫菜? 偶然じゃん!」

 そう言って、イエーイと片手でハイファイブ。自分から戸部に観覧ルートを伝えておきながら、このアドリブとは恐れ入る。

「じゃ、撮るよ」

 海老名さんは手慣れた様子でフロントカメラに切り替えると、はいチーズと言って何枚か写真を撮ってくれる。もうそんなに寄る必要はないというのに、彼女たちはさっきまでの距離感のままカメラのレンズを見詰めていた。

 ふと、強烈な既視感を感じる。ここで三人で撮った記憶は、もちろんない。こうやって三人で写真を撮ったのは、いつの事だっただろうか。

「ありがとー。助かった〜」

 結衣に携帯を返した海老名さんと、引き寄せられるように目が合った。時間にしたら一秒か二秒といった短い時間。それでも彼女が言外に何を言っているか、俺にはよく分かっている。

「そっちはどんな感じ?」

「んー、もうちょっとしたら色々寄り道しながら嵐山に行く予定だよ」

 そう言って海老名さんは同行している三人を視線で指した。見れば戸部と三浦が、何やらかしましく盛り上がっている。その二人を苦笑を浮かべて見ていた葉山がこちらに気付くと、ジッと俺の方を見た。

 なんだこいつ⋯⋯。またどっちつかずは良くないとか言いたそうな顔をして。

「そうなんだ。あたしたちもちょっと寄り道しながら、嵐山に行くつもり」

「そっか、じゃあまた後で会えるかもね」

 結衣と海老名さんの会話に視線を戻すと、二人は目で会話の終了を伝えあっていた。

 それから結衣は葉山たちのところに行って一言二言話すと、すぐに俺たちの方に戻ってくる。

「もういいのか?」

「うん。向こうは東寺に寄ってから嵐山に向かうみたい」

 東寺、と言えばかの有名な五重塔のある寺だったか。歴史ジャンルはさほど情報量のないヒキペディアを検索していると、雪乃が欄干から離れる。

「ではそろそろ行きましょうか」

 それを合図に、俺たちは順路を再び歩き出した。次の目的地は、北野天満宮だ。

 

 

 北野天満宮の祭神は、天満天神さまこと菅原道真公だ。

 ユキペディア情報によると、菅原道真公は貴族の生まれで幼少の頃から学業優秀、歳をとってからは漢詩に政治に才能を発揮するという相当なチートキャラであったらしい。身近な人間で例えるなら、葉山のようなタイプの人間だろう。一気に参拝する気が失せてきた。

 とは言え世界の妹・小町の総武高校合格の祈願の為だ。俺は絵馬を書く間だけ二人と分かれ、単独で行動させてもらうことにした。絵馬になんて書くかを見られていては、(ろく)な事が書けないだろう。

 俺は学業のお守りと絵馬を買うと、あの時はなんて書いたんだっけと思い出しながら、ペンを走らせる。

 

『小町と同じ高校に通えますように』

 

 多分、こんな感じの事を書いたのではないかと思う。まあ小町が総武高校に合格するのはもう決まっている事だが、絵馬を奉納しなかったが為に神様にヘソを曲げられても困る。俺は奉納所に絵馬をかけると、雪乃たちの待つ参道へと歩き出した。

 ここ北野天満宮も紅葉の名所であるらしく、人出は凄いしそれを当てにした出店まで並んでいる。

 さて雪乃たちは、と辺りを見回しながら参道を歩いていくと、すぐにその姿を見つける事ができた。見目麗しい女の子が二人も揃っていると、無意識に視線を引き寄せられてしまう。

「すまん、待たせた」

「あ、思ったより早かったね」

 そう言う結衣の手には、食べかけの肉まん。珍しい事に、雪乃も買い食いしていたのか、やや大ぶりなコロッケをその手に持っている。他にも空のパックを持っているところを見ると、二人で腹ごしらえでもしていたらしい。朝しっかり食べたからあまり気にならなかったが、昼ご飯を食べ損ねていたのだ。

「⋯⋯そんなに食って大丈夫か。晩飯入らなくなるぞ」

「大丈夫よ、このぐらい」

 どっかで聞いたことのある台詞だなと思いながら言うが、雪乃は取り合う様子もない。

 元々食が細いのに大丈夫かしら⋯⋯と心配しながら二人が食べ終わるのを待っていると、雪乃はコロッケを半分ぐらい食べたところで急に口に運ぶペースが遅くなり、チラチラとこちらを見てくる。

 ⋯⋯分かる。分かるぞ俺には。彼女が次に何を言うのか。

「⋯⋯確かに、少し多かったみたいね」

 と、そこまでは言うが、そこから先の言葉が出てこない。まあ、雪乃の性格からしたら、残りを食べてくれとは言い出し難いのだろう。

「もしあれなら、育ち盛りという名の残飯処理係がここにいるが」

「⋯⋯そう? では処理をお願いできるかしら」

 ちょっと安心したような表情をして、雪乃は残る半分を俺に渡してくる。そしてもしゃもしゃペロリとそれを平らげている間、じっとこちらを見詰めてくる一対のお目々。

「あたしも、ちょっと多いかも⋯⋯」

 そう言うと結衣も「はい」と食べかけの肉まんを渡して来た。

 やはりこうなるか⋯⋯と思いながら、二人に見られながら肉まんも平らげる。食べ始めてみると胃が動き出したのか、意外とお腹が空いていた事に気付いた。

「ふふっ」

 不意に聞こえた笑い声に、雪乃の方を見る。思わずといった調子で溢れた笑みは柔らかく、雪乃と目が合った結衣も同じくクスリと笑った。

 あー⋯⋯また餌付けられてしまったか。なんだかむず痒いが、まあたまになら、こういうのも悪くない。

 

「⋯⋯ぼちぼち行くか、嵐山」

 

 笑みまじりの答えが二つ揃って、俺はポリポリと頭をかくことしか出来なかった。

 

 

       *       *       *

 

 

 あれから予定通り嵐山に行くと、俺たちは戸部の告白の舞台──いつかと同じ、竹林の道に目星をつけた。

 ホテルに戻り夕食をとりつつ戸部たちに話をつけると、いよいよ彼は落ち着きをなくしてくる。

 

「っべーわー。マジで緊張するわ⋯⋯。吐きそう」

「大丈夫だろ」

「っかー。ついに戸部も彼女持ちかよ」

 

 夕食を終えてホテルの部屋に戻ってくるなり、戸部はウロチョロと歩き回り、大岡と大和は彼の背中を叩く。

 彼らの言葉自体は友を思っての事なのだろうが、なんの根拠もないしいっそ空々しく感じてしまう。結末を知っているが故に、どうしてもそう思ってしまうのだ。

 いっそこの場で告白をやめさせられたら俺も気持ちが楽なのだが、そういう訳にはいかない。ちゃんと戸部を──覚悟を決めた彼を、彼女の目の前に送り届けないと。そうしなければ、その未来は変わってしまうだろう。

 

「戸部」

 

 凛とした声が、彼を呼ぶ。その声の主を、俺は部屋の端から見ていた。

 

「なに? 隼人くん、俺今マジテンパってるから」

「⋯⋯いや。頑張れって言おうと思ったけど、やっぱりやめておく」

「ひどくね⁉︎ あーでもなんか落ち着いてきたかも」

 

 側から見ていても全くそんな事はないのだが、戸部は自分に言い聞かせるように「緊張とけてきたわー」と繰り返す。

 対する葉山は、その表情を隠してそっと部屋を出て行った。俺はその背中を追って、騒々しい部屋を出る。

 ホテルを出て、川べりの道を歩いていく。まだまだ見頃と言っても良さそうな紅葉が川面に揺れ、寒いぐらいの風が頬を撫でつけていた。

 

「告白、上手くいくと思うか」

「⋯⋯さあ」

 

 俺が後ろからついて来ていることなど見なくても分かっているのだろう、葉山は振り向かずに肩をすくめた。

「質問を変える。上手くいって欲しいか?」

「上手くいくものなら、もちろんそう思うさ」

 振り返って俺を見る葉山の表情は、沈鬱と言っていい程に仄暗い。こいつと一緒というのも癪だが、葉山にだってもう結末は見えているのだろう。近くで彼と彼女を見ているからこそ、洞察する事ができてしまう。

「その言い方だと、失敗するのが決まってるみたいに聞こえるぞ」

「⋯⋯そうだよ。十中八九、上手くいかない。今の姫菜が、戸部に心を開くとは思えないからな」

 葉山は河原の石を拾い上げると、遣る方無いとでも言うかのようにそれを川に投げる。紅葉を映す川面に三つ波紋が広がり、やがて何事もなかったかのように元の姿を取り戻す。

「何度か諦めるようには言ったんだ。今じゃないって。結局耳を貸してくれなかったけど」

 俺は葉山の言葉の続きを促すように、なるべく(たいら)な石を拾い上げて、川面に滑らせるように投げた。一度だけ跳ねたそれは、すぐに元気を失って川底に沈む。久しぶり過ぎると、上手くいかないものだ。

「俺は今の状態が気に入ってるんだ。戸部も、姫菜も、みんなでいる時間が好きなんだよ」

 その言葉に俺はどう答えたのか、よく覚えている。

 

『それで壊れる関係なら、元々その程度のもんなんじゃねぇの』

 

 俺はそう言い、葉山の価値観を否定した。けれどその先の未来を知っている俺は、もう同じ事は言えない。壊さずに大切にした関係性が、やがて本物へと至る姿を見てしまったら、言えるわけがない。

「つまりお前は、何も変えたくないって事だな」

「⋯⋯ああ、そうだ」

 俺はそれだけ聞き届けると、この先の出来事を心の中に描いた。海老名さんに取り付けた約束の時間まで、もうそんなに長くはない。

「分かった。じゃあな」

 踵を返すと、ホテルに向けて歩き出す。葉山の気持ちを確認できたら、もうここに用はない。

 

「すまない⋯⋯」

「謝んじゃねぇよ。貸し一だからな」

 

 俺はそう言って、ヒラヒラと背中に回した手を振った。どうせ彼は、見てもいないだろうが。

 

 

       *       *       *

 

 

 竹林の道に、晩秋の風が吹き抜ける。

 さわさわと鳴るその中で、ぽつりぽつりと灯籠が灯っていく。

 

「っべーわ。うわ、マジで緊張する」

 

 戸部は告白の直前になっても未だ落ち着く事を知らず、その周りで葉山と大岡、大和が何も言うまいと彼を見守り続けていた。

「なんか、こっちまで緊張するね」

「なんでだよ⋯⋯」

 結衣はハラハラドキドキとでも言うように、竹林の道の先を窺い続けている。対する雪乃は、冷静沈着。興味が全くないのではと思うぐらいに、その顔に表情がない。

「そろそろ時間ね」

「ああ」

 俺は雪乃にそう答えると、そっと二人の元を離れた。一応、これだけは確認しておかないといけない。

「戸部」

 俺が呼びかけると、戸部は緊張と期待と不安が入り混じった、何とも情けない笑顔を向けてくる。

「ヒキタニくん⋯⋯。あー、やべ、ヒキタニくんの顔見たらまた緊張してきた」

 いやなんでだよ⋯⋯と思いながらも、面倒だから突っ込むのはやめておいた。それよりも俺には、訊いておかなければならない事がある。

「お前、振られたらどうするんだ?」

「また振られるの前提⁉︎ ひでーわヒキタニくん。また覚悟試してる感じ?」

「いいから早く答えろ」

 俺は目に力を込めて言うと、その真剣さに戸部は一瞬たじろぐ。しかしその答えは、すぐに返ってきた。

「⋯⋯そりゃ、諦めらんないっしょ」

「分かった」

 頷き、そっと半歩だけ後ろに下がる。戸部の全身を視界の真ん中に置いて、他の三人が聞いているのも構わず俺は言う。

 

「絶対に、諦めるなよ。絶対にだ」

「お、おお⋯⋯。モチっしょ、そんなの」

 

 一瞬俺の気迫に押されたようだったが、戸部はすぐにキリッと無駄にいい顔をして返事をした。ここまで伝えれば、もう十分だろう。

「⋯⋯ヒッキー」

「珍しい事もあったものね」

 雪乃たちの方に戻ると、二人は柔らかな表情で俺を迎えてくれた。しかしそんな表情も、これからの事を考えると胸が詰まる。

「いや、多分振られるから言っただけだ」

 そう、間違いなく振られる。“俺ごと”振られるのだ、今から。

 青々とした竹林の向こうを見ると、見慣れた制服が目についた。俺たちの待ち人──海老名姫菜は、灯籠に照られた道をゆっくりとこちらに向けて歩いてくる。

 これから先の事は、同じ事の繰り返し。

 けれど、それだけではダメな事は分かっている。虚偽の告白は避けられないにしても、俺にはまだ足掻く余地はあるはずだ。

 結局色々考えても、最善と呼べる手を考えつく事はできなかったし、これでいいかどうかも分からない。けれど間違いなく言えるのは、雪乃は俺の知る過去よりもずっと分かりやすく、俺に好意を滲ませているという事だ。昔の俺なら敢えてその心の機微に気付かない振りをしていたかも知れないが、今の俺からしたらそれは確定的だった。

 だからせめて、お互いの気持ちが分からない状態に陥ることだけは避けなければならない。

 

「雪ノ下」

 

 そう呼ぶと、竹林の向こうを見ていた二人の視線が俺に向けられる。

 まったく、こんな事を言うのには最悪のタイミングだろう。それでも、言わなければ。一か八かでも、可能性があるなら変えなくてはいけない。

 

「俺は、お前の事が好きだ」

 

 あまりに唐突に、取り違えようのない直裁な言葉で。俺は確かに、それを伝えた。

 雪乃の目は驚きに見開かれ、その隣で結衣の顔は伏せられる。結衣の前でそれを伝える事は正しい事とは思えなかったが、もうこれを逃せばタイミングはない。

 

「俺が今からする事を、誤解しないで欲しいから、今伝えておく」

 

 竹林の道の真ん中を見ると、海老名さんは立ち止まり、その真正面には緊張で身をガチガチにした戸部の姿がある。

  訥々(とつとつ)と語り出す戸部に、海老名さんは切って貼ったような無機質な笑顔を浮かべていた。そろそろ、頃合いだ。

 

「⋯⋯すまん」

 

 俺はそれだけ言って、彼女たちに背を向けた。

 

 

       *       *       *

 

 

 全てが終わって、俺は晴れない気持ちで竹林の道を引き返す。

 そりゃないわーと落胆と安堵の混じった静かに盛り上がる声も、竹林のさわさわと揺れる音すらもどこか遠くに聞こえる。

 

「⋯⋯比企谷くん」

 

 その冷たい声音に視線を上げると、問責するような目が俺を捉えていた。

 ぞくりとするほどその双眸(そうぼう)の温度は低く、宝珠のような瞳には僅かな澱みが浮かんでいた。

 

「さっきのは、いったい何? あなたは何がしたいの?」

 

 何がしたいかなんて分かりきっている事で、しかし言葉にする事はできないからこそ胸が締め付けられる。

 雪乃の冷たく鋭い視線は、あの頃よりも切れ味が増しているような気がした。それはきっと気のせいではなくて、悲しみさえ孕んだその声が俺の心の奥底まで毒のように回り込んでくる。

 一か八かの、俺の賭け。

 それに俺は負けたのだ。雪乃の反応が、その隣で沈痛な表情を浮かべる結衣の表情が、それを俺に知らしめる。

 不透明な感情というディスコミュニケーションを避ければ、分かってくれるかも知れない──という俺の考えは、見事に当てが外れたのだ。

 

「どうして、あなたが⋯⋯」

 

 雪乃は両手を握り込むと、そこまで言って言葉を途切れさせた。

 結局、彼女に分かってもらう事はできなかった。当然と言えば当然だ。海老名さんの依頼の内容を理解できていない以上、俺の行動は彼らの表面的な馴れ合いを肯定したようにしか見えないだろう。

 雪乃の憤る理由は──その感情の根底にあるものは、本来喜ぶべきものだ。俺の事を大切に思う気持ちがあるからこそ、誰かの為に傷つくのを彼女は許せない。

 だから彼女は、その先の言葉を言えないのだろう。どうして彼らの為に俺が傷つく必要があったのかと。そして『あなたのやり方は嫌い』だと、その直情を向ける事すら出来ない。その言葉の刃を自らに向けているかのように、雪乃の顔は痛苦に染められていく。

 

「⋯⋯先に戻るわ」

 

 そう言って雪乃は、俺たちに背を向けて歩き出した。この場に留まる辛さを表すかのようにその歩調は速く、俺はその背中が小さくなっていくのを見ている事しかできなかった。

 

「⋯⋯ヒッキー」

 

 結衣の声に、俺はそっとその背中から視線を外した。さっきまでの沈痛な面持ちを気力のない笑みで覆い隠して、結衣は俺を見ていた。

 

「あたしたちも、戻ろっか」

「ああ⋯⋯」

 

 そう返事をして、ゆっくりと歩き出す。

 こんな時にもその優しさを見せる結衣に、また救われているのだ、俺は。(むご)いほどに現実を突き付けた俺に、救われる価値などないというのに。

 

「ねぇ⋯⋯」

 

 灯籠に照らされた道を歩きながら、結衣は俺を見ずにそう言った。その瞬間、思わず身震いするほど冷たい風が竹林を吹き抜け、その葉は雨でも降っているみたいにサァサァと音を立てた。

 

「ヒッキーは色々考えて、ああしたんだよね」

 

 それは質問というよりも確かめるかのような響きで、わんわんと俺の頭の中を木霊する。

 ──そう、考えていた。そのはずだった。

 しかしそれは考える振りをして、結局善人ぶった生温い判断に身を委ねただけでないのかと問い質されれば、俺に弁明の余地などない。

 

「⋯⋯でもさ」

 

 小道に落とされた結衣の視線には、あの頃のように縋るような、いっそ子どもじみているとすら感じるほどの(いとけな)さはどこにもない。

 俺の行動の結果が彼女の、まだ内包していてもいいはずの素直さまでも押し殺してしまった。また彼女は、哀しい所以(ゆえん)で大人にならざるを得ないのだ。

 

「あの方法しか、無かったのかな⋯⋯」

 

 結衣のその質問の答えは、今を以てしても分からない。

 やり直していたって、分からないのだ。多分俺には、何度やり直しても分からないのだろう。

 竹林を抜け、俺は答えを探すように天を仰いだ。淡く青い光を降らせる月はまるで彼女のようだと、俺はそんな事を考えた。

 

 

 

 

 







お読みいただきありがとうございました。修学旅行編、後編でした。
敢えて結末を変えなかった事が、おそらく意外に思われるでしょう。
大人だって悩み、まちがえるのはままある事で、むしろまちがえる事が多くなっているのではと思う程です。
物語ももう終盤。このまちがいが、彼ら彼女らにどんな変化を与えるのか。
最後まで見守って頂けたら幸いです。


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一色いろはは、何度もそう言っている。

 

 修学旅行から帰ってきて、土日を挟んでの月曜日。

 まったくこの二日の休日というのは、酷い有り様だった。食事の時以外は部屋に引きこもり、延々と正答があるかどうかも分からない正解探し。

 あの竹林の、青白い夜のことを何度も頭の中でリプレイさせては自分にダメ出しして、替わりの台詞を言わせてみてもしっくり来ない。

 しかしもう、月曜日。

 俺は学校に行かなければ、そして放課後に奉仕部の部室に行かなくてはならない。いくら自分を責めたところでその時はやってくるし、彼女たちと関わらないなんて選択肢はないのだ。

 

「あ、おはよ。お兄ちゃん」

 

 しっかりと顔を洗ってからリビングに入ると、小町は朝食を用意してくれているところだった。温かいご飯と味噌汁の香りが鼻腔を満たし、少しだけ陰鬱な気持ちがやわらいだ気がした。

「おはよ」

 俺がそう言って椅子に腰掛けると、朝食の準備を終えた小町は俺の目の前に座る。いただきます、と手を合わせると、箸を手に取るわけでもなくじっと俺の目を覗き込んでくる。

「⋯⋯うん。だいぶ顔色マシになったね」

「⋯⋯そんなに酷かったか、俺」

「酷かったよー。目なんて死んでるどころか火葬まで終わってたもん」

 そうですか、そんなに灰色に濁った目をしてましたか。愛妹にも心配されるぐらいに、俺はダメダメであったらしい。

 俺はその視線から逃れるようにお椀を上げて味噌汁を啜ると、おっかなびっくりといった調子で、小町はいつかと同じ台詞を言う。

「ねぇ⋯⋯。なんかあった?」

「⋯⋯あった」

「それって、雪乃さんと結衣さんも関係ある?」

「ある。⋯⋯そんでもって全部俺が悪い」

 そう言い切って小町を見ると、はえーっと気の抜けたような表情が目の前にある。

「珍しい⋯⋯。絶対はぐらかしてくると思ったのに」

 確かに以前の俺なら、間違いなくそうしていただろう。しかしそうしたところで何の意味もないし、この時の兄妹喧嘩は随分長引いてしまった事をよく覚えている。こんなところで同じ(てつ)を踏む必要もない。

「なぁ⋯⋯」

 俺は箸を置いて居住まいを正すと、真正面に小町を見据えた。こんな事を実の妹に訊くのは兄としてどうなんだとは思うが、残念ながら適切な相談相手は小町以外に思い付かなかった。

「自分がちょっと傷つく事で、大切なものが守れるとしたら、どうする?」

「えぇ⋯⋯。抽象的すぎるんだけど⋯⋯」

 そうは言いながらも質問をしてくるわけでもなく、小町はしかつめらしい表情で腕を組んだ。うーむ、と唸ること暫し。パッと目を開けると、小町は実に軽い口調で言った。

「まあ、ちょっとぐらいなら守る、かな」

 その答えに、やはり兄妹だなと俺は少しだけ相好を崩す。だが俺の質問の本番は、これからだ。

「じゃあ、そうする事で他の誰かが傷つくとしたら?」

「これまた抽象的な⋯⋯。そんなの簡単でしょ」

 小町は箸を手に取るとピッと俺にその先を向ける。お行儀が悪い。

「守れるものか傷ついちゃう人、どっちが大切か考えて選ぶ」

 そう言って卵焼きを口に放り込んだ小町を、俺は身じろぎ一つせずに見ていた。

 そう、なんだよな。

 小町の言う通りだ。至ってシンプルで、簡単な問いかけだったはずなのだ、これは。

 俺がまちがえたのは、その選択だ。誰も彼もを救えると、その慢心がまた彼女たちを傷つける結果になってしまった。

 

「⋯⋯ありがとな」

「⋯⋯? なんでお礼言うの?」

 

 俺は小町の質問には答えずに、かぶりを振った。

 もう答えは決まった。次の選択は、まちがえない。今度こそ、絶対に。

 

 

       *       *       *

 

 

 登校してから放課後になるまで、俺はひたすらに沈黙を守り教室内を静観していた。

 誰も彼もが修学旅行の熱を残しつつも、いつも通り。葉山たちグループにもそれは当てはまり、別段変わった様子は見られない。というかそうでなければ、困る。

 ひとつ気になると言えば結衣の視線がこちらに向く事が多かったことぐらいだが、それ自体は以前と同じだ。互いの様子が気になるのは、必然だろう。

 ふらりと教室を抜け出すと、俺は特別棟には向かわず、一階の自販機コーナーへ足を運んだ。温かいマッ缶を買うと暫く手の中で転がして、その熱を奪う。

 プルタブを開けて、一口、二口と舌に絡みつく甘さを嚥下していく。そろそろ結衣も、奉仕部の部室に向かった頃だろうか。

 マッ缶が残り半分になると、俺は一息にそれを飲み干して空き缶をゴミ箱に放り込んだ。いつもと違う道を通りながら、部室へ向けて足を繰り出していく。

 部室の前まで来ると、中から密やかな声が聴こえてくる。もう彼女たちは、部室の中にいるらしい。

 

「⋯⋯⋯⋯」

 

 俺は努めていつも通りに、その扉を開ける。

 瞬間、止まる会話。廊下にまで染み出した沈黙。

 

「⋯⋯うす」

「⋯⋯こんにちは」

「ヒッキー⋯⋯」

 

 机の上にはティーコゼーの被せられたポットと、二つのティーカップ。焼き菓子と紅茶の香りがどこか懐かしく感じられる。

 扉を閉め、俺がいつもの席に座っても会話が再開する気配はない。それもまあ、無理はない事かと思う。

 いっそのこと彼女たちの真正面に立ち、俺の欺瞞(ぎまん)と慢心を詫びようかとも考えた。しかしそうする事で満たされるのは自分だけで、彼女たちにとってみれば何にもならないだろう。それにこの後の来訪者の事を考えたら、あまりイレギュラーな事を起こさない方がいいように思う。

「今日はもう、来ないかと思っていたわ」

「ああ、ちょっと寄り道しててな」

 そう言いながら、俺は何でもないとでも言うように鞄から文庫本を取り出して、読み止しのページを開いた。

 それきり、会話は生まれてこなかった。結衣も沈黙をかき消す為に話の端くれを見つけようとしなかったし、それは雪乃も一緒だった。

 ただページを繰る音と、時折カップがソーサーに置かれる音だけが部屋に響く。

 これが、俺の選択の結果なのだろう。以前よりなお沈鬱で、批難すら向けられる事のない程の隔絶。だが俺がするのは、後悔ではない。その選択を、誤らないことに集中しなければならない。

 ──コンコン、と。

 あまりにも部屋の中が静かだったから、その音はよく響いた。

「どうぞ」

 雪乃が僅かに固い声でそう言うと、ガラリと扉が開いて冷たい風が吹き込んでくる。

「邪魔するぞ」

 そう言って入ってきたのは平塚先生で、風に弄ばれる長い髪を疎ましそうに撫でつけている。

「少し頼みたい事があるんだが⋯⋯。都合が悪かったか?」

 俺たちの間に流れる沈黙に気付いたのだろう。平塚先生はそう言うと俺たちの顔を順番に見ていく。

「いや、何もないですけど」

 俺がそう言うと、平塚先生はふむと顎に手をやり頷いた。

 その質問には、俺が答えるしかない。雪乃は嘘をつけないから、その代わりを務めるのは俺の役目だろう。

「改めた方がいいか?」

 雪乃も結衣も何も言わない違和感に、やはり気付いたのだろう。平塚先生はそう言うが、俺は顔を横に振った。

「いえ、大丈夫です」

 そう言って雪乃と結衣の方を見ると、彼女たちもこくりと小さく頷いた。まあ、そうさせたようなものだが、今日のタイミングを逃されてもあまりよろしくない。

「入って来ていいぞ」

 平塚先生がそう声をかけると、廊下から姿を現したのは現生徒会長であるめぐり先輩で。

「ちょっと、相談したい事があって⋯⋯」

 そう言った彼女の後ろから一歩前に出てきたのは、亜麻色のセミロングの髪を風に揺らした、一人の女子生徒──一色いろはだ。

 エアリーな髪型にくりっと大きな目。俺と目が合うと⋯⋯おそらくは以前もそうしたのだろうが、ふわりと微笑みを向けて見せる。

 校内で見かけてもかなり遠巻きに眺める事しかなかったから、改めて近くで見ると懐かしさが込み上げてくる。あざとさ全開、甘さもスパイスもマシマシの高校一年生のいろはは、眩しい程にその魅力を全身から滲み出させていた。

「あ、いろはちゃん」

「結衣先輩、こんにちは〜」

 小さく手を振り合う彼女たちを見て、俺は人知れずほっと胸を撫で下ろしていた。よかった。ここまでは、ほとんどあの頃のままだ。

 万に一つも無いとは思うが、俺は今までの行動に様々な変容を与えてきた。バタフライ効果でこのイベントが発生しないとなると、かなり困る事になるところだった。

 

「もうすぐ生徒会選挙があるのは知ってる?」

 

 めぐり先輩のその一言から始まった奉仕部への依頼内容は、あの頃と何も変わっていない。

 遅れに遅れた生徒会選挙。会計以外の立候補も出ており、後は信任投票を待つだけだが、いろはの意図しないところで生徒会長に推されたこと。なんとかして生徒会長当選を回避したいというその依頼の中身は、あの時と寸分の違いもない。

 

「一年生だから生徒会長にはなれない、って事にはならないのかな?」

「ならないわ」

「規約には、会長は二年生に限る、みたいな事は書かれてないんだよ」

 

 結衣の質問に雪乃は即答し、めぐり先輩が補足する。

 思えばこの会話からでも、雪乃の気持ちを推し量ることは出来たように思う。生徒会の選挙規則まで把握してるとは流石ユキペディアさん、とかそんな話ではなかったのだ、これは。

 曰く記憶というのは、定着するかどうかは興味や刺激があるかによるものらしい。読んだものをそのまま覚えておくなんて、いわゆるギフテッドと呼ばれる特殊な人間以外にできる芸当じゃない。故にこの時の雪乃の発言は、生徒会に興味があるという証左に他ならなかった。

 

「つまりは信任投票で不信任になるか、新たな候補を擁立するしかないということね」

 

 状況を取りまとめた雪乃の発言に、その場の誰もが押し黙る。

 俺はもう、落選するだけなら出来るなどと大口を叩く事はしなかった。そんな事をいって軋轢(あつれき)を生むのはもうこりごりだったし、これから先の出来事になんの意味もない。

 

「不信任の線は、正直厳しいだろうな」

 

 そう言って俺は、ちらりといろはの方を見た。

 誰もが見て分かる通り、いろはとても可愛い女の子だ。応援演説が酷かろうが、選挙演説がグダグダだろうがまず信任されるだろう。当て馬候補をぶつけたところで、中途半端な人間では勝負にならない。

 仮に演説の中身や選挙公約が互角の中身だとしたら、多くの人間がこう判断するはずだ。生徒会長として“視界に入れて心地よい”のはどちらなのか?

 そんな残酷な判断基準を、誰しも心に秘めている。

「じゃあ、他に誰かやってもいいって人を探す、とか⋯⋯」

「そんな奴がいたら、とっくにもう立候補してるだろうな」

 結衣の提案を、俺はやんわりと否定する。それは結衣も分かっているのか、机に視線を落とした。雪乃は何か言いたそうに俺を見たが、開きかけた唇は元の形に戻っていく。

「何とかなりませんかね〜」

 当事者であるはずのいろはは、まるで部外者みたいに間延びした声でそう言った。その態度はこの重苦しい空気を払拭せんが為に作られたものだというのは、今の俺ならば分かる。

「正直、さっぱり良い手が思い浮かばないな」

 俺はお手上げ、とでも言うように頭の後ろで手を組んだ。それを見たいろはは貼り付けた笑顔のまま俺を見てくるが、気付かない振りをした。

「結論は出なさそうだな」

 それきり黙ってしまった俺たちを見て、平塚先生は寄りかかっていた壁から身を起こしながらそう言った。

「一色さん。また明日、改めてもらってもいいかしら」

「あ、はい」

 雪乃の凛とした声に、いろはは思わずといった様子で居住まいを正した。今日のところは、これでお開きだ。

「じゃあまた明日、よろしくお願いします」

 いろはは椅子から立ち上がると、雪乃の方を向いて慇懃(いんぎん)にお辞儀をした。まだ雪乃に対して慣れていない感じが、酷く懐かしい。

 平塚先生がめぐり先輩といろはを連れて部室を後にすると、再び俺たちの間に音の無い時間が訪れる。その沈黙には先ほどまでの会話の流れで、黙考という名前を与えてもいいのだろう。しかしそんな気休めは、今の俺には必要ない。

「⋯⋯そろそろ帰るわ」

「あ⋯⋯うん」

 俺はそう言うと立ち上がり、鞄を背負った。二人からすれば完全下校時間前に自ら率先して帰ろうとするなど、奇異に映るかも知れない。あるいはこの雰囲気に耐えられなくなって帰ろうとしていると思われてしまうかも知れないが、この機会を逃すわけにはいかない。

 俺は彼女たちを振り返ることなく──敢えて雪乃の表情を見ないようにして、奉仕部の部室を後にした。廊下に出ると、冬の気配をむき出しの頬に感じながら、早足で歩いていく。

 階段を降り、ちょうど空中廊下へと繋がる分岐に差し掛かると、誰かに手を振るいろはの姿が見えてくる。その仕草から察するに、めぐり先輩と分かれたところらしい。

「一色」

 早足で追いつくと、俺はその背中に向かって声をかけた。瞬間ビクッと天敵を察知した小動物のように身体を跳ねさせ、いろはは俺の方を振り返る。

 そういえば、彼女からしてみたら俺から名前を呼ばれるのは初めてだろう。しかもいきなり背後から呼び止められたら、驚いても無理はない。

「あ、はい⋯⋯。なんですか、先輩」

 いろはは振り返った直後こそ警戒心を露わにしたものの、俺だと分かるとすぐに急造の笑顔を装着した。

「明日、また話しに来るだろ。終わった後、時間くれるか」

「はぁ⋯⋯分かりましたけど⋯⋯」

 まだ続きそうな語尾が気になって待っていると、笑顔を引っ込めて神妙な顔付きになる。

「それって、結衣先輩たちには話せないような内容、ってことですか?」

「ああ、そうだ」

 俺は包み隠さずそう言うと、いろははうーんと廊下の壁を()め付けるように視線を外した。だがそんな反応も数瞬の事で、次に目が合った時には可憐な女の子に戻っている。

「分かりました。じゃあ、明日よろしくお願いしますね」

「ああ」

 そう言って俺は踵を返すが、廊下に響く足音は一つ。

 背中を刺すような視線にはやはり気付かない振りをして、俺は歩き続けるのだった。

 

 

       *       *       *

 

 

 翌日の放課後。

 奉仕部の部室の中で、また俺たちはそれぞれの距離感で椅子を並べ、車座になっていた。

 

「では、改めてお話を伺いましょうか」

 

 雪乃がそう言うと、いろはは「はいっ」と元気に返事をした。⋯⋯が、部室の中にはその声が僅かに響いた後、静寂に満たされる。

「あ、えっと⋯⋯。わたしは生徒会長とかやるつもりがないので、落選したい、っていう話なんですけど」

 いろはは話の端緒が渡された事に気付くと、背筋を伸ばして話し始める。

「信任投票で不信任よりも、理想は決戦投票ですね! この人には誰も勝てないよーってぐらい、凄い人に負けるのが一番いいんですけど」

 その難しさを、恐らくいろはは想像し切れていないのだろう。溌剌とした声が、プレッシャーとなって俺たちにのしかかる。

「決戦投票、ね⋯⋯」

「やっぱり立候補して、やってもいいって言ってくれる人を探すか、説得? かなぁ」

 雪乃は腕を組んで瞑目し、その隣で結衣は誰に言うでもなくそう呟いた。俺も仰々しく溜息を吐くと、殊更に気難しい顔を作る。

「もしいたとしても、そこから推薦人三十人の署名、それに選挙公約と選挙活動か⋯⋯」

 その実現性の低さを強調するように、重苦しい声でそう言った。その言葉に雪乃は(いささ)かの反応も見せず、結衣だけがそっと視線を落とした。

「やっぱり難しい感じですかねー⋯⋯」

 俺たちの反応に同調するように、いろはもすっかり肩を落とした。その難しさは、やり直しの中であっても変わらない。

「どんな手段を取るにしても、一色さんには演壇に立ってもらう必要があるわ」

「まあ、それは大丈夫ですけど⋯⋯」

 雪乃は少しの間閉じられていた目を開けると、憂いを帯びた瞳に冷めかけた紅茶を映していた。しかしいろはの方に視線を向けると、そんな態度など最初からなかったかのように、小さな灯火をその目に浮かべた。

「どちらにしても必要だと思ったから、一色さんの公約と演説内容を考えておいたわ」

「え、すご⋯⋯。雪ノ下先輩、仕事早いですね⋯⋯」

 自分の為にしてくれた事だというのに、いろははちょっと引いていた。そういうとこだぞ、いろはす。

「けど、二つだけですか?」

 雪乃から選挙公約の書かれた紙を受け取ると、内容を(あらた)めたいろはは怪訝そうな表情を浮かべる。

「いやー、あたしも少ないんじゃないって思ったんだけど」

「この場合、数が多ければいいという話ではないわ。何よりあなたは、落選したいわけでしょう?」

「それは⋯⋯はい。そうですね」

 雪乃の冷静沈着な言葉に、いろははふむふむと顎に手をやりわざとらしく反応を返す。

 俺はそんないろはの様子を、注意深く観察していた。今一状況に対して緊張感がないが、彼女は本当に生徒会長をやりたくないのだろうか。ふとそんな可能性を考えてしまって、俺はそのやり取りを静観していた。

「⋯⋯先輩は何か、いい案はないんですか?」

 すると流石に俺の視線が気になったのか、目が合うなりふわりと微笑んでそう聞いてくる。俺の腐眼で見詰められてなお笑顔で返すとは、やはり一色いろは、恐ろしい子⋯⋯。

「いや、全然だな。昨日から考えてみたが、これと言った手がない」

 その問いには、そう返すしかない。そうしなければいけない理由が、俺にはあった。

 俺がそう答えたっきり、会話は途絶え沈黙はその深さを増していく。溜息を吐く事すら億劫になるほどの重苦しい静けさに、いろはの顔にも深刻さが差してくる。

「と、とりあえずあたしは、やってくれそうな人がいないか、声をかけてみるよ」

「そうね⋯⋯。解決策を考えるのと同時並行でそちらも進めていきましょう」

 結衣の提案に雪乃がひっそりとそう言うと、ほんの数グラムだけ空気は軽くなった気がした。今日のところはこれで、お開きだろう。

「一色さん。解決策は引き続きこちらで考えてみるけれど、応援演説を誰に頼むかはお願いしていいかしら」

「あ、はい。適当な男子に頼めばやってくれるかと」

 さらりと言うけど友達の女の子、とか言わないところが闇の深いところなんだよなぁ⋯⋯。まあそれも、いろはの魅力と言っていいだろう。

「じゃあ、よろしくお願いします」

 いろはは椅子から立ち上がると、ぺこりと頭を下げる。事の進展の無さも、その所作一つとってみても、昨日から何も変わっていない。

 いろはが辞去すると、再び部室の中を静寂が支配する。会話は生まれない。すなわち何も案がないという俺の言葉を信じている、という理解でいいだろう。

「⋯⋯俺も帰るわ」

「ヒッキー⋯⋯」

 まるで昨日のリプレイのような光景に、やはり何か言いたい事はあるのだろう。結衣はそう声をかけてくるが、上手く言葉にできない様子だった。

「俺も俺で、考えてみる」

「うん⋯⋯。お願い」

 結衣にそう声をかけながら、ちらりと雪乃の方を見る。 一弾指(いちだんし)の間だけ目が合うが、顔を伏せるように俯いて彼女は瞑目した。

 思えばあの時のように互いのやり方を批判し合わないだけ、マシなのかも知れない。あるいはその逆で、言い争うというコミュニケーションすら成立していないだけかも知れないが。

 俺は部室の扉を閉めると、はぁと彼女たちに聞こえないように溜息を一つ吐くと、いろはの姿を探して廊下を歩き始めた。

 

 

       *       *       *

 

 

「それで、話ってなんですか?」

 

 昨日と同じく空中廊下への分かれ道で落ち合った俺たちは、特別棟一階の外、保健室の隣の階段に座り込んでいた。

 テニスコートからはポーンポーンとボールが跳ねる音が聞こえ、聞き慣れたそれはどこか牧歌的にすら感じられる。

「ああ、それなんだが⋯⋯。まずは連絡先を教えといてもらっていいか?」

「は?」

 いろはは一瞬素になると、すっと腰をずらして人ひとり分の間を取った。

「⋯⋯いやー、二人がいるところではちょっとってそういう意味でしたか。うーん、単に連絡先知りたいだけとかなら今好きな人がいるのでごめんなさ」

「ちげぇよ⋯⋯。生徒会長選挙の為だ」

 いろはの言葉をそう遮ると、俺は隠す事もなく嘆息した。いつもの早口が出てこないところをみると、まだまだ距離感が詰められていないようだが、それはさて置き。

「さっき解決策はないって言ったけど、一つだけある」

「はぁ⋯⋯」

 いろはは全力で訝しむような目線を送りつけてくるが、それも無理はないと思う。彼女から見たら俺の行動は意味不明すぎるし、ヤバイ人認定まであと一歩ってところだろう。

「それと連絡先の交換と、なんの関係があるんです?」

「ある、としか言えない。解決策の内容はまだ一色にも言えないからな」

 あり得ないとは思うが、いろはから雪乃と結衣に伝わってしまう可能性が少しでもあるなら今は伝えない方がいい。しかしその進め方に納得しているのは俺だけで、いろははいよいよ俺を信用できる人リストから除外しようとしていた。いや、そもそもそのリストに俺の名前が載った事があるかどうかも疑問だけど。

「具体的には、言えないと⋯⋯。夜中に変なメールとかしません?」

「しねぇっての⋯⋯」

 雪乃といい、いろはといい、俺にどんな印象を持っているのか。まあ人がいうところの犯罪者の目を持つ俺が信頼を勝ち取るには、これからの行動にかかっているという事だろう。

「一つ具体的な事が言えるとしたら、一色にも手伝ってもらう必要がある。だから連絡先を交換しておきたい」

「はぁ⋯⋯それはまぁ、生徒会長やらなくていいならいいんですけど」

 渋々と言った様子で、いろはは携帯を取り出した。

 連絡先の交換が終わると、俺はいろはの顔をじっと覗き込んだ。彼女のその意思を、本気を確かめる為に。

「一色」

 わざと硬質な声でそう呼ぶと、その声の異質さに気付いたのかいろはは居住まいを正す。くりっとした目に真剣さを灯して、いろははしっかりと俺と目を合わせていた。

 

「本当に、生徒会長になりたくないんだよな?」

 

 その質問は、どう考えても、どこから見ても、俺の為の問いだった。

 俺のこの生徒会長選挙に於いて、大きく選択を変える。理由は単純だ。これから先の事を知っている通りになぞったとしても、誰も救えない。このまま元の世界線に戻れないなんて未来は、受け入れられない。

 それにこの世界線に於いては、俺と雪乃の奉仕部における“勝負”が存在していない。故にあの頃の出来事を再現したとしても、必ずどこかで躓く。そんな不安定な未来よりも、俺は大きく様相を変えた未来の方がまだ明るいと、そう信じている。

 

「はい。やりたくないって、昨日から言ってるんですけど⋯⋯」

 

 今更何を訊くんだとでも言うような顔で、いろはは肩から背中にかけて張り巡らせていた緊張を解いた。

 これで、俺の腹も決まった。

 一色いろはは、もう生徒会長にはならない。つまりいろはの人生から高校一年生にして生徒会長という貴重な経験は抜け落ちてしまうし、元の世界線ほど俺たちと深い関わりは持たないだろう。それに関しては何とか手の打ちようはあるが、関係性が続くかどうかはいろは次第になる。

 だが今が選択の時で、間違うわけにはいかなかった。小町に言われた通りだ。“どっちが大切か選ぶ”という、その残酷で単純な行動原理によって、この世界線のいろはの学校生活は、人生は変わっていくだろう。

 

「分かった。後は任せてくれ。準備ができたら連絡する」

 

 俺はそう言って立ち上がると、鞄を背負って空を見上げる。

 茜色の空の中で鳥影が雁行している様子をひと睨みすると、俺は踵を返した。

 

 

       *       *       *

 

 

 翌日から俺は、奉仕部に顔を出す事をやめた。

 一応雪乃と結衣には「解決案を一人で考えたい」とだけ連絡して、結局その週は一度も部活に参加しなかった。

 彼女の決断を促すには、そうする必要があった。俺があの部屋にいては、少なからず俺の意見が彼女たちの考えに影響を与えてしまうだろう。

 土日が明けて、月曜日。

 いつかと同じように、上の空で午前の授業を聞き流していた。四限目は現代文で、平塚先生が担当する授業だ。

 カツカツとチョークが黒板を叩く音を聞きながら、ただひたすらに板書を写す。それが終わるとちょうどチャイムが鳴り、めいめいが教科書やノートを片付けていく。

 それでも俺は黒板の方を見続けていると、必然かのように平塚先生と目が合った。

「比企谷」

「⋯⋯はい」

 平塚先生は深い溜息を吐くと、静かに言った。

「この後、職員室に来るように」

 それだけ言って、平塚先生は教壇を降りると教室を出ていく。俺は授業道具一式を机にしまうと、教室を出て平塚先生の背中を追いかけた。昼休みの廊下は行き交う生徒たちで、いつも通りにかしましい。

 職員室に入ると、奥に設けられている応接スペースに入った。ガラス天板のテーブルと、黒い革張りのソファは、俺の中だけで郷愁を湛えてそこに存在していた。

「⋯⋯今朝、雪ノ下が話をしに来たよ」

 向かい合ってソファに座ると、平塚先生は紫煙をくゆらせた後にそう言った。

「生徒会長戦に、立候補するそうだ」

「そうですか」

 その言葉を聞いて、俺はいつの間にか肩に込められていた力を抜いた。やはりこの世界線でもその決断は変わらないぐらいに、雪乃にとって生徒会長という職は重要なのだろう。

「なんだ、驚かないな。彼女から聞いていたのか?」

「いえ。ただ雪ノ下なら、そう言い出してもおかしくないなと思って」

 おかしくない、どころか必定だったのだと、今では思う。

 雪乃は陽乃さんという存在を追い越したい。それが叶わなくても 比肩(ひけん)する存在である事を、証明したいのだ。雪ノ下家に、何より自分自身に。

 彼女のその選択は、陽乃さんから見れば後を追ってくる、いつまでも変わらない妹に見えるだろう。しかし雪乃の本当の目的は、陽乃さんになる事ではない。彼女の目的は幼い頃からの夢を追う事であって、陽乃さんの背中を追っていたのではないと、今なら分かる。

「応援演説は、葉山がするようだな」

 俺は平塚先生の言葉に返すことはせず、俺の知る世界線での出来事を反芻した。

 いろはが初めて奉仕部の部室に来た日の帰り、俺はたまたま時間潰しに入ったドーナツショップで陽乃さんと居合せた。そこに折本が加わり、葉山が呼び出されたたりと登場人物が増えていき、いつの間にかその週の金曜日にWデートっぽい事をする運びになってしまったのだ。その最中で会った雪乃と結衣の表情は、今でも忘れることが出来ない。

 当然そんなイベントを看過するはずもなく、俺はあの日の陽乃さんとの邂逅を回避していた。無用に彼女たちを傷つける必要など、どこにもなかった。

 しかしその変化は雪乃の考えに影響はなかったようで、葉山という一番手堅い、最強のカードを既に手中に収めている。葉山が雪乃の自陣に引き入れられてしまうのは少し都合が悪いが⋯⋯まあ、何とかなるだろう。無理矢理にでも、するしかない。

「それで、君はどうする?」

 タバコの火を灰皿で揉み消すと、平塚先生は俺を真っ直ぐに見た。それに対する答えは、俺の決断はもう決まっている。

「決まってます。雪ノ下の意思を尊重して、応援します」

 俺の頭の中で再生されるのは、いつかのディスティニーランドでのこと。スプライドマウンテンに乗った後に休憩しながら、彼女は『あなたも姉さんも持っていないものが欲しくなった』と言った。

 きっと彼女も、まちがえていたのだと思う。目的と手段をあべこべにしていたのだ。それでも俺は、雪乃の決断を尊重する。

 

『それがあれば、救えると思ったから』

 

 直後に彼女が言ったその救うべき誰かは、訊いてもはぐらかされてしまった。けれどそれは、きっと彼女自身のはずで、彼女を救う唯一の方法だ。

「⋯⋯そうか」

 そう言って平塚先生は、深い慈愛に満ちた目を俺に向けた。酷く(ゆか)しい光景だ。うっすらと残るタールの香りも、その透き通るような瞳も、ずっと手放したくないと思ってしまう。

「けど、それだけじゃダメなんです」

 俺は手のひらの汗をズボンで拭うと、膝の上で握り込んだ。

 

「俺からも平塚先生に話⋯⋯というか、お願いがあります」

 

 これから俺が言う事にその光景が歪められてしまうのは、とても堪えられないことだった。

 それでも俺は、言わなくてはならない。ブレザーのポケットに入ったままの、あの紙に書かれた、たったの二文字。

 

『救え』

 

 その指令に、真に応える時がきた。

 俺の一番大切な人を、救う為に。平塚先生の目を真っ直ぐ見つめて、俺は言った。

 

 

 

 

 

「奉仕部を、廃部にさせて下さい」

 

 

 

 

 

 

 







ここまでお読み下さりありがとうございました。
早いもので、次のお話で最終話になります。
今回も感想を頂けると嬉しいのですが、ついつい返信に訊かれてもない事まで答えるクセがありまして……。
最後までネタバレなしで楽しんで頂きたいので、感想には完結後に返信させて頂きます。ご了承下さい。
それでは次回、最終話でお会いしましょう。


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さようなら、奉仕部。

「⋯⋯すまない、もう一度言ってくれるか?」

「奉仕部を、廃部にしたいと言ったんです」

 

 驚きに目を見開きそうになるのをどうにか押さえつけている平塚先生に、俺は努めて冷静にそう言った。

 随分説明不足だとは思うが、話というのは結論が先に来たほうが伝わり易い。視線で続きを促してくる平塚先生に、俺は話を続けた。

 

「雪ノ下なら、選挙に問題なく勝って生徒会長になると思います。けど生徒会選挙に出るのは雪ノ下だけじゃなくて、俺も由比ヶ浜も出ます」

「⋯⋯そういう事か」

 

 俺の考えを読み取ったのか、やれやれと平塚先生はいつも雪乃がそうするように頭痛を抑えるようなポーズを取った。

 やはり平塚先生は、“俺たちの先生”だと思う。多くを語らなくても、俺の意図する事はもう全て分かってくれていると、そう盲信できる。

 

「奉仕部は無くなりますが、俺たちのやる事は変わりません。平塚先生には、もし相談事や依頼があったら生徒会に来るように斡旋して欲しいんです」

「それは構わないが⋯⋯」

 

 平塚先生はそこまで言って口を噤むと、タバコをもう一本取り出して火をつけた。その言葉の続きは、俺にも分かっているつもりだ。

 何故、奉仕部を無くすまでの事をするのか。

 奉仕部創設の経緯を聞いたことはないが、平塚先生にとっても奉仕部は特別な場所であったはずだ。俺の考えを理解するのと、奉仕部にかけた想いに折り合いをつけるのとでは、話が違う。

 しかしそれでも俺は、奉仕部は廃部にすべきだと思っている。俺たちが生徒会に入れば、奉仕部部員であるという前に生徒会役員という肩書きが、そして責任がついてくる。そうなれば生徒会の事を最優先にすることになり、実質的に奉仕部は中途半端な存在──無くなったも同然になるだろう。俺も彼女も、そんな状態に上手く馴染める自信がなかった。

 

「彼女たちは、知っているのか?」

「いえ⋯⋯。雪ノ下が会長に立候補すると言い出すことを想定して、考えていただけです」

「そうか。なら急いだ方がいい。立候補の締め切りが近いからな」

「ええ、そうします」

 

 俺は立ち上がって歩き出すと、応接スペースを出る直前に振り返る。ソファに座ったまま紫煙を吐く平塚先生に向かって、俺は深く頭を下げた。

 

「勝手なこと言って、すいません」

「なに、謝ることじゃないさ。⋯⋯それに私からの君に関しての依頼は、どうやら無事に達成できたようだしな」

 

 平塚先生はつけたばかりのタバコの火を灰皿で消すと、立ち上がって正面に俺を捉えた。平塚先生の瞳は冬の朝のように澄んでいて、だから情けない顔をした俺まで鮮鋭に映されてしまう。

 

「比企谷。ちゃんと君の口から聞かせてくれ。君は今、孤独を感じているか?」

 

 平塚先生の瞳の中の男は、その問い掛けに苦笑を浮かべていた。

 先生らしくない愚問だ。答えなんてもう、決まりきっている。けれどその問いに素直に答えられないぐらい俺は歪んでいて、想いだけが真っ直ぐだった。

 

「これで孤独だなんて言ったら、あいつらに怒られますね」

「⋯⋯それが聞けたのなら、私に思い残すところはないよ」

 

 平塚先生は俺の両肩に、そっとその両手を置いた。次の瞬間ぐるんと俺の身体を百八十度回すと、トンと背中を押す。

 

「行きたまえ。彼女たちなら部室にいるだろう。昼休みの時間は限られているぞ」

「はい」

 

 平塚先生が今どんな顔をしているか知りたい気持ちはあったが、振り返る勇気はなかった。

 背中を押された勢いをそのままに、少しだけ早足で職員室を出る。廊下に出てもまだ平塚先生の眼差しが向けられているような気がして、俺は背中を真っ直ぐに正すと、その歩みを速くさせた。

 

 

       *       *       *

 

 

 奉仕部の部室の前まで来ると、俺は少しだけ上がった息を整えた。

 顔を上げて、真っ白のサインプレートを見る。俺はあと何回この光景を目にする事ができるのだろうかと考えて、やめた。感傷に浸っている暇などない。

 

「⋯⋯⋯⋯」

 

 扉に手をかけて一気に開けると、箸を手にしたままの雪乃と結衣がポカンとこちらを見ていた。

 机の上には、小さな弁当箱が二つ。今日も彼女たちは、ここで一緒に昼食をとっていたらしい。

「雪ノ下」

 俺はいつもの椅子を掴むと、雪乃の目の前──本来なら依頼者が座るべき位置に、その椅子を置いて座る。

「さっき平塚先生から聞いた。生徒会長に立候補するんだってな」

「えっ⋯⋯」

 俺がそう言うと雪乃は目を伏せ、結衣は小さく驚きの声をもらした。やはり雪乃は、まだ結衣に立候補の事を話していなかったらしい。

「それを受けて、俺から提案がある。それと雪ノ下と由比ヶ浜、それぞれに依頼も」

 はっきりとした口調でそう言い、雪乃の目を正視する。長いまつ毛が起き上がり、その瞳が俺を捉えると、彼女は箸を置いてから口を開く。

「⋯⋯話を伺いましょう」

「まずは提案からだ」

 俺はそう言うと雪乃から視線を外して、結衣を見た。いつの間にか結衣も箸から手を離していて、いつもより背筋が伸びている。

「俺も、生徒会選挙に出る」

「え⋯⋯。ちょ、ちょっと待って。ヒッキーも生徒会長に立候補するってこと?」

「違う、そうじゃない。ここからは依頼なんだが⋯⋯」

 俺は椅子に座り直すと、今度は結衣を正面に捉える。ポカンと開けられた口と目は、次の発言を聞いたら更に開かれることだろう。

「由比ヶ浜には、副会長として立候補して欲しい。俺は書記として立候補する。全員が当選したら奉仕部は廃部にして、その活動は生徒会に移管する」

 理解が追いついていない様子の結衣は、目をパチクリさせて頭の中をフル回転させていた。

「⋯⋯待って。何故あなたたちまで生徒会に入る必要があるの? 一色さんの依頼は、生徒会長になることの回避よ。私がなれば、それは──」

「それだけじゃダメだろ」

 雪乃の言葉を遮ると、俺は真っ直ぐに彼女を見詰める。俺を見返す目に、蝋燭大の火が灯った気がした。

「奉仕部はどうなる。お前なしで奉仕部なんて名乗れるか?」

「それは⋯⋯大丈夫よ。生徒会の仕事は理解しているつもりだし、この部活だって続けられる」

「無理だな。雪ノ下は一つのことに集中するタイプだし、生徒会が忙しい時はそっちに集中して、手隙の時だけ奉仕部に参加するつもりか? それで俺たちが何も思わないとでも思ってるのかよ」

 雪乃の瞳の中の炎は揺れ、すっと長いまつ毛が再び伏せられる。

 自分でも、随分ずるい言い方をしていると思う。それでもこの場で彼女を説き伏せなければ、先はない。

「そんな事になるぐらいなら、生徒会に一本化した方が何かと都合がいい。そういう提案だ」

「⋯⋯だとしても、私の独断にあなたたちを巻き込むわけには」

「それは違うよ」

 不意にそう言ったのは、さっきまで沈黙を守っていた結衣だった。

 結衣は椅子の上で雪乃に向き直ると、今まで見たことも無いぐらい強い視線を彼女に送る。

「巻き込んでいいんだよ。今までだって、そうしてきたじゃん。あたしも、ヒッキーも、ゆきのんの側に居たいんだよ。そんな理由だけじゃ、ダメ?」

 思いも寄らなかった助力の言葉に、俺はぐっと胸が詰まった。

 思い返してみれば、結衣の言葉はいつも本質を突いていた。そしてそうであるが故に、その言葉は反論を許さない程に強い。本当にいつも、俺は彼女に助けて貰ってばっかりだ。どうすれば返せるか、見当もつかないぐらいに。

「ヒッキー」

 結衣は俺の方に向き直ると、同じ強さのままの視線がこちらに向けられる。その目は言外に、既に覚悟は決まったと言っていた。

「ヒッキーの提案に、あたしはのるよ。でも依頼は断るね」

「⋯⋯は?」

「副会長は、ヒッキーがなって」

 呆気に取られる俺に、結衣は続ける。

「だって⋯⋯言い出しっぺはヒッキーでしょ? それにヒッキーじゃなきゃダメだと思う」

 何故、と聞きたかったが、目に込められた力を抜いた結衣はその続きを言うつもりはなさそうだった。

 結衣は雪乃の目を見ながらその手を取ると、まるで(こいねが)うかのように、落ち着いた声音で言う。

「それでいい? ゆきのん」

 結衣のその手は、握り返されたのかどうか。側から見ているだけでは分からない。

「⋯⋯本気なの?」

「本気だよ。ダメって言われても、勝手に立候補しちゃうぐらい」

 さらりと言ってのける結衣に、雪乃ははっと短く息を吐く。彼女の瞳の中の炎は、もうすっかり消え去っていた。

「分かったわ。⋯⋯ごめんなさい」

「ううん、それも違うよ。こういう時は、ありがとうでいいの」

 ね、と結衣が微笑みかけると、雪乃は引き結んでいた口を解いた。

「そう、ね⋯⋯。ありがとう」

 雪乃はそう言って、右手を握ってくる結衣の手に左手を重ねた。彼女のその小さな所作が確かな雪解けを思わせて、俺はその眩しい光景に思わず目を細める。

「比企谷くん」

 俺に向き直ると、雪乃は迷いの消えた目で俺を正視した。

「あなたから私への、依頼の内容を聞かせて貰うわ」

「ああ、それなんだが⋯⋯」

 正直、この空気の中では物凄く言い出しにくい。これ、めっちゃ情けないお願いだしなぁ⋯⋯。

「葉山に応援演説を頼んだらしいけど、悪いが断ってくれ。あいつには俺の応援演説を頼みたい」

「それは構わないけれど⋯⋯。何故?」

「ぶっちゃけ、雪ノ下や由比ヶ浜なら誰が応援演説しても選挙に勝てるだろうが、俺はそうもいかない。お前らと違って無名もいいところだからな。推薦人集めも一色と葉山に手伝ってもらうつもりだ」

 なるほど、と二人は頷いてくれるが、それもそれで実に情けない話だった。しかし背に腹は代えられまい。俺だけ落選とか、本気で洒落にならない。

「⋯⋯急いだ方が良さそうね。私たち三人で、九十人分の推薦人を集めないといけないのだし」

「うん⋯⋯。でもきっと大丈夫だよ」

 結衣はそう言って、雪乃の両手で握られた左手の上に、右手を重ねる。

「今まで全部、なんとかなってきたもん。あたしも頑張るから、きっと大丈夫」

 子どもを諭すような優しい声音に、俺まですっかり安心してしまう。

 これでようやく、奉仕部としての方針は決まった。

 余程のイレギュラーがなければ、奉仕部はもうなくなる。一度なくなって、小町がまた始めてくれたような、そんな復活はあり得ない。今度こそ完全に、奉仕部は失われるのだ。

「⋯⋯じゃあ後の詳しい話は、放課後に詰めるか」

 時計を見れば、もう昼休みは十分と残されていない。すっかり昼飯を食いそびれてしまったが、不思議と空腹は感じなかった。

「ええ。ではまた後で」

「うん⋯⋯」

 俺はどこか安心したような表情を浮かべる彼女たちに頷きを返すと、立ち上がり部室を後にする。

 廊下に出て扉をピシャリと閉めると、思わず大きく息を吐いた。するとその息に重なるように、大仰な溜め息が耳に届く。

「⋯⋯いつからそこにいた」

「⋯⋯君が部屋に入った、少し後からだよ」

 壁に背を預けた葉山隼人は、俺を見ずにそう言った。

「すまない。聞くつもりはなかったんだけど、扉が少し開いていたから」

 つまりは全部が全部、葉山は聞いていたという事だろう。

 確か俺の知る世界線では廊下ですれ違うだけだったが、本来葉山は打ち合わせの為に部室へと呼ばれていたのだ。

「別にいい。説明する手間が省けたからな」

 俺が歩き出すと、葉山も歩調を合わせて歩き出す。もう彼が奉仕部の部室を訪れる理由は、何もない。

「俺への貸し(・・)を返してくれ。葉山」

「随分高くつく貸しだな」

 はっ、と喉から抜ける息の音で苦笑すると、葉山は廊下の真ん中で歩みを止める。俺も足を止めると、彼を振り返った。

「協力するのは別に構わない。ただ一つ教えてくれ」

 その目は常にないほど厳しく、ともすれば青白い炎さえも灯すほどに研ぎ澄まされていた。俺が身体ごと向き直るのを認めると、葉山は重苦しい声で問い掛ける。

「結局君は、どっちなんだ?」

 またその質問かよ、と俺は思わず天井を仰いだ。

 だが葉山の気持ちも、俺には分かる。彼には彼なりの向き合い方で、彼女たちを大切にしているのだ。であればできる限り真摯に向き合うのが、礼儀というものだろう。

「俺が好きなのは雪ノ下だ。雪ノ下の為なら、何だってする。だから生徒会選挙にも出る」

 俺が言い切ると、葉山はその勢いに気圧されたように目を(みは)った。しかしその目は瞬きの後に、違う感情へと支配されていく。

「なら結衣は⋯⋯。結衣の気持ちはどうなる? 君だって、気づいてるんだろ」

 葉山は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、細められた目は俺を睨みつけていると言っていいほどに険しい。

 その顔を見て俺は、場違いな程に安堵していた。

 結衣のまわりには、沢山の人がいる。その中に本気で彼女の事を慮ってくれる人がいてくれる事は、何よりもありがたい事だった。

「それでも、答えは変わらない。雪ノ下に必要だから、由比ヶ浜も生徒会に入ってもらう」

「それで結衣が傷つく事になるとしてもか?」

 その葉山の一言に、俺の脳裏に遥か昔の出来事が浮かぶ。東京湾へと続く河口に架かる橋の上、タバコをふかしながら、彼女は言った。

 

『誰かを大切に思うという事は、その人を傷つける覚悟をする事だよ』

 

 まるで今の俺に言い訳を与える為の言葉みたいだ。それでもその言葉は真理を突いていたし、まちがっていないと信じている。

「⋯⋯それでも俺は由比ヶ浜には、雪ノ下のそばにいて欲しい。それにこの状況で由比ヶ浜だけ生徒会に入らないって方が、傷つくだろ」

 葉山はその言葉を聞き届けると、ふと眼力を弱めた。ようやく、俺の本気は伝わったらしい。

「比企谷の気持ちは分かった。⋯⋯余計なお世話かも知れないけど、中途半端な事はしないでくれよ」

「はっ⋯⋯。お前にだけは言われたくねぇな」

 思わず鼻で笑ってしまった俺を、葉山はジロリと睨みつけてくる。その反応は図星だと言っているようなもので、 堅塁(けんるい)を誇る彼にしては珍しい反応だった。

「まったく、人に物を頼む態度とは思えないな」

「別に頼んでねぇよ。ただ貸しを返せと言ってるだけだ」

「本当にいい性格してるな、君は」

 キンコン、と予鈴が鳴る。急がなければ、五限目の授業に遅れてしまうだろう。

 俺と彼にしては、随分長く話し込んでしまったようだ。俺たちは再び歩きだすと、それっきり言葉を交わす事はなかった。

 

 

       *       *       *

 

 

 放課後になり奉仕部の部室へ向かう──前に、俺には行くべき場所がある。

 数日前と同じ、特別の一階の外。保健室の隣にポツンと三段だけある階段に座り込んで、俺は今か今かと約束した人物を待っていた。

 

「お疲れ様でーす」

 

 軽やかにそう言って現れたのは、奉仕部への依頼人である一色いろはだ。

 いろはスカートの端を膝の内に折り込みながら、俺の横に腰かける。

「解決策、教えて貰えるんですよね?」

「ああ」

 一瞬だけいろはと視線を合わせると、小さく息を吐いてアスファルトの地面を見詰めた。そして今日の昼休みの出来事を、出来るだけ分かりやすく説明する。

 雪乃が生徒会長になる事で、いろはからの依頼を達成する事。俺と結衣も生徒会に入り、奉仕部の機能は生徒会に移管する事。この解決案に対して平塚先生の了承も得ているという話を進めるたびに、いろはの目は見開かれていく。

 

「え⋯⋯。それ、本気ですか? わたしが生徒会長にならないようにする為に、そこまでやるんですか?」

「そうだ。それに雪ノ下も、やっても構わないと思っている。⋯⋯というか、やりたかったんだと思う。じゃなきゃ生徒会選挙の規約なんて、覚えてるわけないだろ」

 

 俺の答えに、いろはは何を思っているのか気の抜けたような表情をしている。いろはにしてみれば、随分と荒技的な解決策だと思えるだろう。

「それならいいんですけど⋯⋯。生徒会と奉仕部の活動の両立なんて、出来るんですかね?」

「そこは大丈夫だろ。元々暇な部活だからな」

 それにいろはが奉仕部に入り浸るようになってからというもの、ほとんど生徒会関係の仕事ばかりになったのだ。だから実績(・・)としてそれは大丈夫だと、言い切る事ができる。

「はぁ⋯⋯。ただ一つ、疑問なんですけど」

 いろははそこで言葉を切ると、俺の目を覗き込んできた。仕草や表情からも真意を見逃すまいと、瞬き一つすらせずに見詰め続けてくる。

「どうして空いている会計じゃなくて、書記に立候補するんです? 全員当選しても、一人不足するんですよ?」

 いろはの疑問はもっともで、そして実に答えにくい質問でもあった。

 小町が総武高校に入学した時には、もう奉仕部は廃部になっているだろう。元の世界線で小町が守って欲しいと願ったあの場所は、失われてしまうのだ。だからその代わりのポジションとして、席は一つ空けておきたい。

 しかしそんな想いを話せるはずもなく、俺はもう一つの理由の方だけ話す事にした。

「確かに人数が少ないのは痛手だが⋯⋯。それでも俺は、奉仕部の三人でやりたい。俺たち以外の不純物は要らないんだよ」

 そう言い切ると、いろははポカンとした表情で俺を見続けていた。

「⋯⋯なんだよ」

「いえ、⋯⋯なんでもないです」

 どう見たってなんでもなく無いのだが、これ以上追及するのはやめておいた。おそらく墓穴を掘る結果にしかならないだろう。

 いろははすっと立ち上がると、何を思ったのか俺の真正面に立つ。そして綺麗に腰を折り曲げ頭を下げると、その状態のまま言った。

「先輩たちを巻き込んじゃって、すいません。それから、ありがとうございます」

「やめてくれ」

 俺がそう制すると、いろははゆっくり頭を上げた。その目は真剣そのもので、彼女のそんな表情は随分久しぶりに見た気がする。

「なにもタダでそんな役目を引き受けるなんて言ってないぞ」

「はい⋯⋯?」

 俺の一言で、深刻ですらあったその顔は「何言い出すんだコイツ」とでも言うように訝しげな表情を浮かべていく。

「一つ約束してくれ。生徒会で困ってる時とか、人出が足りない時は手を貸して欲しい」

「⋯⋯はい。それは構いませんけど」

「本当だな?」

「ええ、もちろん。私のお願いの為に生徒会を引き受けて貰うんですから、そのぐらいはします」

「本当に本当だな?」

「いやしつこいな⋯⋯。やりますってば。先輩たちのこと、超手伝いますから!」

「よし」

 俺はそこまで聞くと立ち上がり、いろはの目の前に携帯をかざした。

 画面の中の再生ボタンを押すと、たった数十秒前の会話が再生される。いろはが俺たちの事を手伝うと、超手伝うと、小さな筐体の中からそう証言していた。

「これで言質は取ったからな。しっかり手伝ってもらうぞ、一色」

「は⋯⋯? え、マジかこの人⋯⋯えげつな⋯⋯」

 ドン引きしているいろはに向かって、俺は口角を引き上げる。

 これが俺からいろはに贈る、俺たちと関わりあう為の口実だ。もちろん理由を与えたとしても、一緒に居てくれるかどうかは彼女次第だが。

「それじゃ段取りの方は、葉山と相談しながら進めてくれ。頼んだぞ」

「はーい⋯⋯」

 肩を落として溜め息を吐くいろはの姿に俺は頬を緩めると、踵を返した。

 根は真面目ないろはの事だ。きっとあの頃のように──今度は生徒会室に入り浸ってくれるだろう。今はそう信じるしかない。

 俺は校舎に入る前に、部室のある辺りの窓を見上げた。

 さあ、今からは彼女たちに会って、選挙に向けての打ち合わせをする時間だ。そしてあの部室の光景を、俺たち三人の時間を、心に刻み込まなければ。

 俺があの部室で過ごす時間は、もうそれほど残されていないのだから。

 

 

       *       *       *

 

 

 それからは生徒会選挙に向けて、慌ただしい日々が続いた。

 生徒会選挙に向けて推薦人集めと、応援演説者の確保、それぞれの選挙公約決めに、演説の台本。万が一を防ぐための生徒会選挙規約の熟読まで、僅かな瑕疵一つ見落とさないほどの集中力と覚悟で俺たちは選挙の準備を進めてきた。

 

 そして十二月になり、ついに生徒会選挙当日。

 今日は三、四限目の授業の代わりに全生徒が体育館に集められ、生徒会選挙の演説が行われる。集まった投票用紙は即日開票され、放課後には全ての結果が明らかになっているだろう。

 俺と結衣は立候補者の待機場になっているステージ袖の前室に通され、椅子に座って出番を待っていた。プロムのプロモーション撮影の際に、着替えに使ったあの部屋だ。

 向かいの席には副会長と書記ちゃん──というのはこの世界線では語弊があるが、残念ながら本名を覚えていない二人は緊張した面持ちで同じく出番を待っていた。

 その隣に座るいろはも含めて、彼女たちの学校生活は本来送るべき日々とはまた違った日々が訪れる。俺の与えた変化によって副会長と書記ちゃんは付き合う事もなくなってしまうだろうと考えると、一番の被害者は彼らなのではないかと思うが⋯⋯それも生徒会のイベントか何かで強引に引き合わせれば何とかなるかも知れない。随分無責任だとは思うが、俺はもうこれ以上まちがい続けるわけにはいかなかった。

 

「ゆきのん、遅いね」

 

 結衣の問いに、俺は「ああ」と短く返事をした。たしかに、珍しい事のように思える。こういう時彼女は、一番にここにいそうなものなのに。

 そう考えていた所に、出入り口の扉がコンコンとノックされる。返事をすべきかどうか迷っていると、ノックから数秒の後に扉は開かれた。

 

「え⋯⋯」

 

 部屋に入ってきたのが一瞬誰か、分からなかった。

 そこに立つのさっきまで話題に上がっていた雪ノ下雪乃のはずなのに、見慣れた彼女の姿ではなかったからだ。

「ゆきのん、髪⋯⋯」

「ええ」

 強烈な違和感の正体は、彼女の髪の長さだった。雪乃のトレードマークであるはずの長い髪は肩口でばっさりと切り落とされ、赤い小さなリボンも付けていない。陽乃さんの髪の長さとよく似ているが彼女ほど髪を()いていないのか、その印象はずっと落ち着いている。

「切ったのよ」

 雪乃は髪を一房摘むと、はらりとそれを遊ばせた。事もなげに見れば分かることを言う彼女は、まるでこちらが大仰に受け止め過ぎているとでも言うかのようだった。

「その⋯⋯似合わない、かしら」

 しかし雪乃は、俺たちの反応を否定と捉えたのか、途端に自信を失ったかのような表情になる。

 似合うか似合わないかで言えば、どうしようもなく似合っている。どちらかと言えば自信なげなその表情こそが、彼女には似合わない。

「あの⋯⋯」

 さっきまで口をパクパクさせていたいろはは腰を上げようとし──俺はそれを手を(かざ)して制した。雪乃が髪を切った真意は、今この時点で正解を知る由もない。しかしいろはが何か思うところがあるとすれば、それは絶対に違うと言い切れる。

 雪乃が髪を切ったその理由は、間違いなく俺の決断によるものなのだから。

「えっ、と⋯⋯。どう、して?」

 俺が聞かずにいようとした事を、結衣は混乱を残しながらもそう訊いた。多分それは彼女しか訊けない事だと、本能で理解したように。

「⋯⋯決意表明、と言ったところかしら」

 雪乃がそう言ってしまえば、それはきっと取り違えようもない真実なのだと思う。

 雪ノ下雪乃は虚言を──嘘を吐かない。彼女が自らに課した不文律は、俺の知る限り消え失せる事はないはずだから。

 それっきり場を満たした沈黙を打ち破るように、コンコンと低いノックの音がする。返事を待たずに入ってきたのは、平塚先生だった。

「そろそろ出番だ。舞台袖にいくぞ」

 俺たちはそれぞれに返事をすると、椅子から立ち上がり真っ直ぐに出入り口の扉へと歩いていく。

 さあ、これが本当の大一番。

 新しい未来は、これから作られる。俺は自らを鼓舞するように、強く体育館の床を踏み締めた。

 

 

       *       *       *

 

 

 生徒会選挙の結果は午後より開票され、放課後一時間もしない内にその結果は確定される。

 俺たちは訪れた生徒会室の中、ホワイトボートに大きく書かれた立候補者の名前を見ていた。

 

 総武高校生徒会選挙結果──。

 

 会長・雪ノ下雪乃。

 副会長・比企谷八幡。

 書記・由比ヶ浜結衣。

 

 それぞれの名前の上には、当選を示す薔薇の代わりに大きく花丸が描かれていた。

 

「嬉しいっ。今私、すっごく嬉しいよ!」

 

 さっきからめぐり先輩は同じ事を繰り返し言っては、困惑する雪乃を抱き締め続けていた。放っておけば頬擦りでもしそうな勢いに、俺も結衣も苦笑するしかない。

「あの⋯⋯城廻先輩、そろそろ⋯⋯」

「あ、うん⋯⋯そうだね」

 ようやくめぐり先輩は抱擁を解くと、雪乃と一緒に俺たちを見た。きっとこれから、生徒会長として膨大な量の引き継ぎを受けるのだろう。

「先に帰って貰って、構わないから」

「うん」

 めぐり先輩が開けた扉の前で、振り返って雪乃はそう言った。結衣は柔和に微笑むと、バイバイと胸の前で手を振る。

 カチャンと扉が閉まると、瞬く間に生徒会室は無音に包まれた。

 過去に何度も、いろはの手伝いで訪れた生徒会室。これから奉仕部のあの部屋の代わりに俺たちはここへと集まり、また紅茶の香りが漂うのだろう。

 これでもう俺の知る世界線は、完全に途絶えた。これから先の事は、全く何も想像できないし、分からない事だらけだ。

「ねぇ、ヒッキー」

 結衣は暫く室内を眺め回していたかと思うと、パイプ椅子に腰掛け足をプラプラさせながら言う。

「⋯⋯ありがとね」

「⋯⋯なにが」

 彼女が言わんとしている事は何となく分かるのに、俺ははぐらかすようにそう言った。

「あたしたちの場所、守ってくれて」

 真っ直ぐに向けられたその微笑みは、俺には優し過ぎるように思う。

 結局俺がとった選択は、自分が後悔しないようにしたと言われたらそれまでの事だった。彼女の為だと、自分自身に(うそぶ)いていたのかも知れない。

「⋯⋯でも奉仕部はなくなるぞ」

「部活はね。でもあたしたちの場所は、なくならないよ」

 結衣の視線が眩し過ぎて、俺は思わず目を逸らした。

 きっと結衣なりに、奉仕部をなくす決断を肯定しようとしてくれているのだと思う。けれど奉仕部と永訣する事に違いはないし、小町がまた始める理由も可能性もない。

 あののんべんだらりとした、どこか牧歌的な光景は消失する。その事を思うと俺は自分で決めた事なのに、胸を抉り取られたかのような痛みを覚えていた。

「⋯⋯んっ」

 結衣は両手を上げて伸びをすると、何も言わないまま立ち上がる。

「ね、散歩しない?」

 結衣はどこかすっきりした顔で、俺を見下ろしながら言った。雪乃は待たなくていいと言ったけれど、結衣は彼女の帰りを待つつもりであるらしい。

「⋯⋯いいけど」

 どうせやる事もないし、俺はそう返事をするとパイプ椅子から立ち上がった。

 生徒会室を出ると、結衣はどこか行く当てがあるかのように、すたすたと先行する。特別棟の廊下を歩き、階段を登り、やがて校舎と特別棟を繋ぐ空中廊下に出た。四階の廊下には屋根がなく、よく風が通るそこは屋上に近い雰囲気を持っている。

 もう失ってしまったこの世界線の先では起こり得ない事だが──いつかの夕焼けの中、結衣と雪乃が涙と抱擁を交わした、あの場所だ。

「やっぱり外は気持ちいいねー」

 さらさらと髪を風に遊ばせながら、結衣は手すりに手をついて空を仰ぐ。夕陽は真っ赤な光を撒き散らしながら、体育館の屋根の向こうへと消え行こうとしていた。俺も手すりに手を置くと、それに寄りかかり黙ってその景色を眺め続ける。

 この場所で、こんな気持ちでいる事が不思議だった。選挙が上手くいって安心しているのに、先の分からない不安が僅かに混じる。けれどどちらかと言えば希望の方がずっと強く在って、まるで新たなフィールドに立った物語の主人公のような気分だ。

 ふと隣を見ると、結衣はその瞳に茜色の雲と夕陽を閉じ込めて、静かに佇んでいた。俺の視線に気付いたのか、結衣はゆっくりとこちらを向くと──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「⋯⋯好き」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──彼女は何の聞き間違いもないようにはっきりと、まるで犬や猫が好きだとでも言うように何気なく、俺にその言葉を届けた。

 

「あたし、ヒッキーのこと、好きだよ」

 

 それから彼女はもう何も取り違えないように、真っ直ぐ俺だけを見てそう言った。

 その声は常の彼女よりもいくらか低く落ち着いていて、その目は公園で遊ぶ子どもでも見守っているかのように優しい。

 まるでノーモーションからのストレートだ。花火大会の時のように予見する事も何も出来ずに、俺はその剥き出しで無防備な言葉の前に動けずにいた。

「なん、で⋯⋯」

 無理矢理ひねくり出した声も、その言葉も、およそ考えうる限り酷いものだった。その質問は、なんの意味もなさない。

「ヒッキーがゆきのんの事が好きなのは、分かってるよ。でも分かったからって、もうどうにもなんないし」

 夕陽が完全に、体育館の向こうへと消えた。

 撒き散らされた残照だけが、ぼんやりと彼女の顔を照らしている。

「諦めようって、思ったよ。でも無理だった。だってヒッキー、かっこいいんだもん」

 えへへ、とまるで恥じらうように、場違いなほど明るく彼女は笑った。俺は手すりから身を離し結衣に向き合うと、お互いを正視する。

「だから、ちゃんと言うね」

 俺の全身を視界の中に収めようとするかのように、ゆっくりと一歩だけ、結衣は後ろに下がった。

 

「比企谷八幡くん。⋯⋯あなたが好きです。お付き合いしてもらえませんか」

 

 結衣のその言葉に、ぐっと胸の内側が狭くなる。声音も、浮かべられた微笑みも、風の無い海のように穏やかだった。

 結衣の瞳の中で、鮮やかなグラデーションを描く空が、刻一刻と色を変えていく。その表情には僅かな憂愁も哀切もなく、きっとそれは──。

 

「⋯⋯すまない。俺は由比ヶ浜の気持ちに、応える事はできない」

 

 きっとそれは、俺の答えをもう、彼女は知っていたから。だからそんな風に、笑っていられたのだと思う。

「うん⋯⋯。ちゃんと答えてくれて、ありがと」

 結衣はそう言って、肩に込めた力を抜いた。ありがとうなんて言葉を受け取る資格なんて、俺にはなかった。

「すまん⋯⋯」

 いつかこうなる事は、分かっていたのに。俺は雪乃を──いつも自分の選択ばかりを優先していた。

 結衣が気持ちを止められないだろうという事も、全部分かっていた。それで傷つく事になろうとも、俺はそれですら肯定して今までやり直してきたのだ。

「どうして謝るの?」

 口元には笑みを浮かべたまま、しかし芯のある目で結衣は俺に問いかける。責めるわけでもなく、新緑を揺らすそよ風のように優しい声が、微かに鼓膜を震わせた。

「だって俺は⋯⋯。由比ヶ浜のこと、傷つけて⋯⋯」

「傷なんてどこにあるの?」

 結衣は腕を開くと、小さく首を傾げた。

「ヒッキー、たぶん勘違いしてるよ。だってあたしを傷つけられるのは、あたしだけだもん」

 当たり前でしょ、とでも言うように笑みは消えることなく俺に注がれ続けている。その表情は俺の呪縛を解こうと、祈りに満たされているかのように思えた。

「ヒッキーはゆきのんに告白して振られたとしたら、それで傷つく?」

「それは⋯⋯」

 思いも寄らなかった質問に、俺は何も答えられなかった。行き場の失った言葉の端くれが、藍色の空へと溶けていく。

「上手くいかなくて、あたしなんてダメなんだーって思うから、傷つくんだよ。でもあたしは、ダメだなんて思わない。ヒッキーのこと好きになってよかったって、本気でそう思うから」

 結衣の言葉にのった感情は、どこまでも深く俺の心の中に染み入ってくる。結衣の瞳が僅かに潤いを帯び、茜雲が形を変える。

 一体、どうして。

 結衣はどうして、そこまで強くあれるのだろう。きっとその理由を作ったのは俺で、救われるのもまた俺だった。俺は結衣のことを、一つも救えていないというのに。

「あたし、本当に本気で誰かを好きになったの、初めてだったんだ。すごく⋯⋯すごく好きで、ヒッキーのこと考えてるだけで、なんか感動して泣けてきちゃうぐらい」

 結衣の一言ひとことが俺の心の根っこの方を掴んで、彼女の目から一時足りとも目が離せない。さっきより少しだけ開かれた目は、もう見間違えようもなく濡れていた。

 

「あなたのことを好きになれて、本当によかった。だから、謝らないで」

 

 結衣が瞬きをした瞬間に、宝石のように煌めく涙が、一筋彼女の頬を伝う。

 どこまでも尊く、息を呑むほど美しい落涙。それが俺に一つの事実を、情け容赦もなく突きつける。

 ──なぜ俺は、勘違いしていたのだろう。

 結衣と俺がこうして絆を紡いでいくのがまちがいだなんて、どうして思ったのだろうか。

 噛み締め過ぎた奥歯が、ぎりりと軋む。

 嗚呼、まただ。

 どんな時も選択を(あやま)たない彼女に、また教えられてしまった。

「ね⋯⋯。すごく性格の悪いこと聞いていい?」

「⋯⋯なんだ?」

 少しだけ口調を砕けさせると、結衣はじっと俺の目を見詰めながら問いかける。

「もしも⋯⋯ゆきのんがいなかったら、ヒッキーはあたしのことを好きになってくれてたのかな?」

 祈りの込められたその問いの答えを、俺はもう持っている。とても簡単で、どうしたってまちがえようもない事実を、俺は知っていた。

「当たり前だろ。きっと⋯⋯いや、絶対好きになってた」

「⋯⋯そっか」

 安心したかのように、すっと結衣はその瞼を閉じた。俺もそれにつられるように、いつの間にかこもっていた力を目から抜いて、そっと目を瞑る。

 だから俺は、見逃してしまった。

 結衣が一歩、こちらに詰め寄ったのを。ブレザーの裾を掴む、震える手を。隠しようもない熱を持った、唇を──。

 

「────」

 

 唇に伝わった柔らかさと熱さに、俺ははっと目を見開く。

 結衣はあどけないぐらい無垢な笑顔で、俺を見ていた。

 

「まだ付き合ってないんだし、これぐらいいいよね」

 

 とん、と結衣は俺の肩口に額を押し付ける。熱い吐息が、触れ合ったそこから伝わる熱が、今はっきりと一つの真実を暴き出す。

 俺はまちがいなく結衣を──由比ヶ浜結衣という女の子を、愛していた。

 理屈や理性や思考ですら消え失せる心のずっと奥底で、それは確かに(わだかま)り、今まで静かに閉じ込められていた。そっと仕舞い込まれていたそれは、彼女の熱によって無理矢理に取り出され、あり得ないほどに俺をかき乱す。

 本当はずっと、気付かない振りをしていた。その気持ちの大きさに気付いてしまえば取り返しがつかなくて、どうしようも無くなるのは分かっていたから。その想いを、その感情を幸せな形に昇華させるのはとても難しくて、そうするには俺も彼女も不器用過ぎたから──。

 

「あたし、先に帰るね」

 

 何も言えないまま固まっている俺にそう言うと、結衣は踵を返した。小走りで遠ざかっていく背中を呆けた表情のまま見ていると、結衣は開け放たれた扉の前で振り返る。

 

 

「ヒッキー! これからもよろしくねーっ!」

 

 

 ぶんぶんと大きく両手を振って、元気のいい大音声(だいおんじょう)が耳に届く。

 結衣は扉の向こうに消えるその一瞬前に、口に手を添え、一際大きな声で言った。

 

 

 

 

「ありがとー! 大好きーっ!」

 

 

 

 

       *       *       *

 

 

 

 生徒会室に戻ると、そこに結衣の荷物はなかった。さっきそう言った通りに、彼女は先に帰ったらしい。

 パイプ椅子にどっかと座り込むと、大仰にため息を吐いた。目を閉じると脳裏にはさっきまでの光景が映しだされ、最初から最後まで流れる度にまた最初に戻る。

 そうやって何回も何回も記憶の中の映像を巻き戻していると、カチャリと入口の扉が開いた。

 

「あら、まだいたの」

 

 生徒会室に入ってきた雪乃は、そう言って僅かに微笑んだ。ようやくめぐり先輩からの引き継ぎが終わったらしい。

「先に帰ってもいいって、言ったのに」

「いや⋯⋯。まあ待つのは、部活で慣れてるからな」

 よっ、と椅子から立ち上がると、床に置いたままだった鞄を背負う。

「もう帰れるんだろ?」

「ええ」

 雪乃も鞄を肩にかけると、部屋の照明を消した。生徒会室を出ると、雪乃は静かに扉に鍵をかける。

 今日から彼女が手にするのは、奉仕部の部室の鍵ではなく、生徒会室の鍵だ。そんな小さな変化すら、変えてしまった事の大きさを俺に知らしめる。

 職員室に寄って鍵を返すと、昇降口から外に出た。一緒に帰ろう、とは一言も言っていなかったが、俺が自転車を取ってくる間、雪乃は何も言わずにに待っていてくれた。

「お待たせ」

 こくりと雪乃は小さく頷くと、自転車を押す俺の隣を歩き出す。置かれている環境は大分と違うが、合同プロムをやると言い切ったあの日と状況はよく似ていた。

 海浜公園通りをひたすら真っ直ぐ歩いて、京葉線の高架をくぐる。学校を出てからただの一言も喋りはせず、自転車から聞こえる微かなラチェット音だけが時折聞こえてくる。

「⋯⋯本当は」

 なんの前置きもなく、ポツリと雪乃はそう言った。促すように彼女の横顔を見ると、雪乃は静かに言葉を紡いでいく。

「あなたたちを、巻き込みたくなかった。私一人、生徒会に入ればいいと思っていたの」

 その言葉の意味を俺は何度も咀嚼して、そして理解する。

 きっと雪乃は、俺や結衣の力を借りることなく、本当に自分の力で事を成したかったのだと思う。やはり俺は結局のところ、本当の意味で彼女の願いを叶えてなどいないのだろう。雪乃を絶対に一人にしないなんて、俺のエゴもいいところだ。

「あなたと一緒に居るのは、とても怖いことだから」

 しかしその俺の導き出した答えはまるで違うのだと言うように、雪乃は思いも寄らなかった事を口にする。

「あなたの考えていることが、まるで分からないの。またあなたが自分を傷つけてしまうのかも知れないと思うと、本当に怖かった」

 陸橋の坂に差し掛かると、一際ゆっくりとその坂を登っていく。一歩一歩、その言葉を噛み締めるように。

「何より分からなかったのは、私の方だけど。⋯⋯あなたと一緒にいると、本当に自分が分からなくなるの」

 坂を登り切る。俺は思わず、立ち止まる。雪乃の背中が遠ざかって行くのを見ながら、自転車を停めて再び歩き出す。

「なぁ」

 俺がそう声をかけると、雪乃は立ち止まった。こちらを振り返ることはせず、ただ沈黙のまま次の言葉を促していた。

「修学旅行の夜、お前に言ったことを覚えてるか」

 別にここに来たから、と言うわけじゃない。本当はずっと前から、聞きたかった。彼女の言葉を、彼女の答えを、ずっと俺は欲していたのだ。

「⋯⋯ええ」

「俺の気持ちはあの時から、何も変わってない」

 俺がそう言っても、雪乃は振り返る事をしなかった。それでも構わない。正しく伝えられるのなら、そうする事はまちがっていないと言い切れるから、彼女に届いていてさえいれば構わない。

「俺は雪ノ下のことが、好きだ。ずっと前から、誰にも負けないぐらい、自分でも笑っちまうぐらい、好きだ」

 国道を走る車のタイヤノイズが、引いては返す波のように耳朶を撫でていく。雪乃の表情は、未だに分からない。それでも俺は、語りかけるのをやめない。

「俺のこと、ちゃんと分かるように伝えるから。怖いって言うんなら、安心できるまで側にいる。自分が分からないって言うなら、ちゃんと理解できるまで付き合うから」

 あまりに拙くて、直情的で、何の捻りのない言葉たち。それでも彼女に伝わりさえすれば、なんだってよかった。分かりやすければその分だけ、ちゃんと全部伝えられると思うから。

「だから俺は、雪ノ下を一人にはしない。俺の勝手かも知れないけど、それでも絶対に一人にしない」

 見詰め続ける背中が、微かに 戦慄(わなな)いた。

 流れるのはヘッドライトの光と、深い沈黙。後にできることは、もう何も残されていない。狂おしいほどの愛情も、張り裂けそうな胸の叫びも、どんな言葉でも足りないから、正しく伝わるのを祈るだけ。それだけしかもう、できない。

 

「比企谷くん」

 

 ゆっくりと。

 雪乃は振り返り、正面から俺を視界に捉える。

 改めて、彼女を美しいと思った。透き通るような白い肌も、一つの瑕疵もない細面も、鈴を転がしたような声も、どんな賛美の言葉を尽くしても正しく彼女を形容できない。

 血色のいい唇が形を変え、努めて冷静でなんの感情も灯さない声が、一つの問いを俺に投げかける。

「それは私と付き合いたい、ということでいいのかしら?」

 真っ直ぐな瞳の中で、赤いテールライトが瞬いた。

 思ってもなかった角度からの問いかけに一瞬戸惑いながら、俺は頷いた。

「ああ、そういう事になるな」

「そう⋯⋯」

 ふっ、と。どこか諦めるかのように、雪乃は口元を緩めた。

「ならその告白は、断るわ」

 その言葉の意味がストンと俺の胸に落ちた瞬間、俺も真似をするように力なく笑う。俺たちの間を吹き抜けた風が、雪乃の短くなった髪を揺らした。

「生徒会長と副会長が付き合っているだなんで、適切ではないでしょうし。それに⋯⋯」

 雪乃の言葉に、俺は思わず短く息を吐いた。

 こうなる事は、もうほとんどもう分かっていた。雪乃ならそう言うかも知れないと、心の片隅で想像していた。

 見詰め続ける瞳が、不意に揺れる。その事実を確かめるように、俺は一歩だけ彼女に近寄った。

「きっとあなたに、頼りきりになってしまうから。⋯⋯だからっ」

 毅然としていたはずのその声は、頼りなげに震えている。(まなじり)に溜まっていく雫が見えてしまって、俺は彼女に向けてもう一歩を踏み出す。

「だからあなたとは、付き合えない」

 手を伸ばせば届くほど近くにいるのに、俺は雪乃に触れる事を許されていない。それでも俺を満たすのは、絶望や諦念などでもなく、確かな温かさだった。

 雪乃なら、きっと大丈夫だ。

 大丈夫になった彼女を、俺はもう知っているから。自分の足で立ち、歩み、そしていつかその隣に俺が居ることを許してくれるだろうと、そう言い切れる。

「けど⋯⋯」

 雪乃は一歩俺に詰めると、袖が触れ合うほど近くなる。瞳の中に映し出された俺は、自分でも見たことがないぐらい、安堵に満たされた表情をしていた。

「⋯⋯一年、待ってほしいの。とてもずるいお願いだと思うけれど」

 その言葉に、俺はかぶりを振って応えた。ずるくても、何も構わない。

「全部終わったら、ちゃんと言うわ。私から、あなたに、ちゃんと」

 雪乃の額が、俺の肩口に押し付けられる。ブレザーの前裾が握り込まれ、俺はようやく彼女に触れる事を許されたのだと分かった。

「ああ⋯⋯それでいい。何年でも、待つから」

 彼女の腰に腕を回すと、そっとその華奢な身体を抱き寄せた。余りに細いその身体が折れてしまわないように。慈しむように、ゆっくりと力をかけていく。

 

「⋯⋯だからもう少しだけ、こうさせてくれ」

 

 すんと雪乃は鼻を鳴らし、肩口につけられた額を強く押し付けた。

 触れたところから伝わってくる熱の名前を、俺はもう知っている。

 だからその熱を少しも溢さないように、俺は彼女を抱き締め続けた──。

 

 

       *       *       *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──夢を見ていた。

 

 

 奉仕部の部室で、雪乃に笑顔を向ける結衣。

 

 

 ──彼女の顔が、悲しみと傷心で濡れていく。

 

 

 火の粉を舞わせるキャンプファイヤーの灯りに照らされ、泣き笑いの表情を浮かべる留美。

 

 

 ──彼女の顔が、諦念と孤独に沈んでいく。

 

 

 文化祭のエンディングセレモニーの後、ステージの前で人の輪に囲まれて笑う相模。

 

 

 ──彼女の顔が、心無い言葉で歪んでいく。

 

 

 陸橋の上で、夜風に吹かれながら眦に雫を溜めた雪乃。

 

 

 ──彼女の顔が、喪失と空虚に淀んでいく。

 

 

 そんな夢を、俺は見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       *       *       *

 

 

 目を開けるとそこには、見慣れない天井が広がっていた。

 カーテン越し柔らかな光が部屋を満たし、どこか懐かしい甘い香りが漂う。起き上がって辺りを見回すと、すぐに俺以外の人の姿を見つけることが出来た。

 

「やっと起きたの。随分ぐっすりと眠っていたわね」

 

 雪乃は俺と目が合うと、柔らかく微笑んだ。

 その肩には縦抱きにされた我が子の頬があてられ、細く白い手がトントンと優しくその背中を叩いていた。けぷっ、と小さなゲップの音がすると、彼女はその腕の中へと抱き直す。

 

「この子が大きな声で泣いていても起きないんだもの。ちょっと心配したわ」

 

 少しだけ大人びた声を酷く懐かしく感じながら、かけていたブランケットをめくる。その瞬間、ひらりひらりと一枚の紙が床に落ちた。拾い上げてそれを見た瞬間、どくんと心臓が跳ねる。

 

『やればできるじゃないか』

 

 殴り書きのような、見間違えのないあの特徴的な文字。それでようやく、俺は完全に理解する。

 ──戻ってきた。

 やっと。やっと俺は、彼女の元に帰ってこられたのだ。

「あぁ⋯⋯」

 返事とも呻きともつかない言葉を吐き出すと、俺はフラフラとソファーベッドから立ち上がり、思わず雪乃の腰に縋りついた。

 その腰の細さも、その匂いも、その温もりも、ずっと俺が求めていたものだった。堪らなく愛しい、命を賭してでも守り抜かなければいけない存在が──俺の全てが、そこに在った。

「ちょっと、急にどうしたの?」

 戸惑う雪乃に、俺は語る言葉を持たなかった。

 ただ今は、彼女の存在を感じていたい。俺の中を全て、彼女で満たしていたかった。

「⋯⋯なあ、この子の名前は?」

「本当にどうしたの? それを今日、訊きに行くのでしょう」

 雪乃の答えを聞いて安堵の息を吐くと、俺はそっと彼女の元を離れてソファーベッドに座る。

 ようやく、本当に長い時間をかけて、戻ってこられた。

 だが俺のさっき見た夢は、一体何だったのか。そもそも俺の過ごしたあのやり直しの時間は、どうなった?

 胸の内が騒がしくて、どうにもならない。それを知るのは、恐ろしい。けれど俺は、彼女に訊かなくてはならなかった。

「なあ。⋯⋯俺たちが高校二年の時に生徒会長になったのは、誰だった?」

「何を言い出すのかと思ったら⋯⋯。大丈夫? 悪い夢でも見た?」

 雪乃の問いかけに、俺は「いいから」と手を向けて首を振る。これだけは、ちゃんと確かめなくては。

 

「──一色いろは。あなたのよく知っている名前でしょう?」

 

 その名前を聞いた瞬間、天地がひっくり返ったような衝撃に見舞われる。

 この世界線は、あのやり直しの日々の延長線上にあるものではなかった。それが本来の姿であるはずなのに、身体がバラバラになりそうなほどの絶望に打ちひしがれる。

 俺は自らの心の均衡を保つ為に結衣を傷つけ、留美には孤独を押し付けた。相模には消えない心の傷を与え、俺の周りの人々は時に怒り、時に呆れ、時に俺を軽蔑した。そして雪乃には──たくさんの失望と失意を、与えてしまったのだ。

「⋯⋯すまん。本当に、すまない」

 がくりと項垂れるように、雪乃に向かって頭を下げた。謝っても失ったものは戻らないと分かっていても、そうしなければどうにかなってしまいそうだった。

「一体何に対して謝っているの?」

「⋯⋯夢を、見ていたんだ。高校二年の時の⋯⋯。それで色々、思い出した」

 何度もまちがって、苦しんで、苦しませて。彼女たちに与えてしまった失望や辛さは、一体どれだけのものだったのだろう。想像し切れないぐらいの事を、俺は繰り返して来たのだと思う。

「お前のこと、苦しませたなって。きっと雪乃以外も⋯⋯沢山まちがえて、すげぇ傷つけたなって⋯⋯今更だけど」

「八幡」

 気付けば雪乃は俺の目の前に立っていて、そう呼ぶなり俺の腕に我が子を抱かせた。未だ名前すらも与えられていない新しい命は、すぅすぅと微かな寝息を立てている。

「この子を見て」

 雪乃は膝立ちになると、俺の腕の中の、まだ生え揃っていない柔らかな黒髪を撫でる。

「この子は、私たちの幸せよ」

 まるで子供に言い聞かすようにゆっくりと優しい口調で言うと、雪乃は髪を撫でていた手を俺の手に重ね合わせた。

あなた(・・・)を見て」

 そう言われて俺は思わず、雪乃の目を覗き込んだ。その瞳の中には、今にも泣き出しそうな、情けない顔をした男がいた。

「あなたは私の幸せなの。今も昔も、きっと未来も、それは変わらない」

 ふわりと、まるで桜が綻び咲くように、雪乃は笑った。まるで彼女の顔にだけ日差しが差し込んだかのように眩しくて、思わず目を細める。

「あなたの周りの人を、思い出してみて。あなたの所為で泣いている人はいる? 私はそんな人、知らないわ」

 重ね合わされた手が、ぎゅっと俺の手の甲を握り込む。彼女の確信を、伝えるように。今から語る事は、全て真実なのだと言うように。

「あなたがここに居てくれるなら、きっと何もまちがってなんていなかったのよ。人を傷つけたり、悲しませたりせずに生きるなんて、不可能だから」

 視界が淡く、滲んでいく。もう何も見えていないのに、それでも俺は雪乃を見詰め続けていた。

「──だから、そんな顔をしないで。私があなたから受け取ったものは、全部宝物なの。どんな言葉も、どんな痛みでも」

 瞬きをした瞬間、ポロポロと大粒の涙を落としていた。ベビー服にいくつも滲みが広がり、止めどない嗚咽が漏れる。

 まったく、酷い父親だと思う。この子が生まれ落ちた瞬間にだって、こんなにも泣きはしなかった。

「今日のあなたは、随分と泣き虫なのね」

 滂沱(ぼうだ)の涙を流す俺の目元を、雪乃は優しく拭ってくれる。それは夏休みのあの日、泣き笑いを浮かべる留美を見て零した涙を拭ってくれた時と全く同じ優しさで──だから俺は、全てを理解した。理論も理屈も全て飛び越えた純然たる魂ともいえる場所で、俺は確信する。

 

 あのやり直しの日々は、決して夢なんかじゃなかった。

 今も俺と触れ合った彼女たちは、そして彼らは未来を歩き続けている。

 きっと笑顔で、時に泣きながら、時に孤独を抱えて、今も生き続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 嗚呼、やっと。

 

 やっと俺は、そう言える。

 

 俺の青春に、なにもまちがいなんてなかったと。

 

 十二年も経って、やり直して、彼女が教えてくれて、ようやくそう言える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 雪乃は俺の腕の中から、そっと小さな命を抱き上げる。

 彼女の腕の中で安らかな寝顔を浮かべる我が子の頭を撫でると、その温もりは俺の心の奥底まで、見えないところまで染み渡っていく。

 

「さあ、あなた。もう行かないと」

「あぁ⋯⋯」

 

 俺は受け取った温もりを胸に湛え、ゆっくりと立ち上がる。

 そして彼女は微笑むと、真っ直ぐに俺を見て言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「この子に名前をあげましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Fin.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




あとがき


 最後までお読み下さり、誠にありがとうございました。
 この長い物語も、無事完結を迎えることが出来ました。

 この話を書き始めるきっかけは、Twitterでのタイムリープ物に関する二次創作作家仲間のツイートでした。
 タイムリープという言葉から、まるで天から何か降って来たかのように一気にこの物語が構築され、気付けばプロットを叩いていました。
 例えどれだけ読んでくれる人が少なくても、これは絶対に完結まで書かなければと、毎話全身全霊で書き連ねました。結果から言うと毎話何千人という方にこの物語を届ける事ができて、本当に驚いています。

 私がこの物語を通じて伝えたかった事は、あとがきであけすけに言うのも憚れますが、ラストの雪乃の台詞に込められています。

 こういった二次創作も含めて、小説は表現する事によって成り立っています。そして表現は受け取り手がいて、初めて成り立つものだと個人的に思っています。
 だから私にとって、読んでくれたあなたが幸せそのものです。時間というリソースを使い、文庫本一冊分にもなるこの物語を最後まで読んで下さった事は、私にとってこの上ない幸せなのです。だから誰が何と言おうと、あなたがここに至るまでの経緯は何もまちがっていないと、そう言い切れます。この物語は俺ガイルという素晴らしい作品と登場人物たちに向けた愛であり、そして他でもないあなたに向けた愛なのです。



 はてさて、少し問いかけさせてください。

 この物語を通じて救われたのは、一体誰だったのでしょうか。
 救え、というメッセージを送ったのは、一体誰だったのでしょうか。




 もしよろしければ、感想や評価などでフィードバックをお願い致します。
 創作されている方なら同意して頂けると思いますが、読み手からの反応は書き手にとっての生きる糧でありますので。

 これからは過去作を加筆修正して投稿しつつ、新しいお話も投稿していく予定です。
 それではまた、新しい物語でお会いしましょう。



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