まばゆい陽光射し込む宇宙へ (ryanzi)
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プロローグ:ある魔法少女の最期
とある魔法少女に最期が訪れようとしていた。
だが、彼女はまるで恐れを抱いていなかった。
ソウルジェムは極限まで濁り、体はまったくと言っていいほど動かない。
青い空の草原の下で、彼女は仰向けになっていた。
「君もやっぱり魔女になるんだね」
少女の敬愛する存在がそう言うと、彼女は笑った。
「インキュベーター・・・そうじゃないと意味がないじゃない。
宇宙を救うために、私は魔法少女になったんだよ?」
これから訪れる運命を少女は完全に受け入れていた。
少女は愛したことも愛されたこともなかった。
そんな彼女に手を差し伸べてくれたのがインキュベーターだった。
彼の語る思想、彼の瞳・・・彼女はそういったものに惹かれた。
少女は自らの運命を宇宙に対する高邁なる献身と捉えていた。
「それにしても、いつまでたっても魔女になれないね。早くなりたいんだけど」
濁りきったソウルジェムは未だに魔女化を引き起こさなかった。
「そりゃ君は特異例だからね。魔女になるのが遅くても不思議じゃない。
ボクたちの活動に賛同の意を示した魔法少女なんて今までいなかったし」
「ははは・・・結局は自分だけが大切なんだよ。
口では皆を救うとか言っておきながら、いざその時がくれば、
死にたくないだの騙されただの・・・ははは!」
しばらく彼女は笑っていたが、急にそれを止めた。
「・・・ねえ、インキュベーター。
この前、魔女にしようとした奴からこう言われたんだ。
宇宙の終わりなんて数百億年先なのに、どうして延命する必要があるんだって。
悔しいことに、私、それに答えられなかったんだ・・・。
本当に今さらだけどさ、どうしてあなたはそこまで宇宙の延命にこだわるの?」
インキュベーターはしばし黙っていた。
だが、ゆっくりと話し始めた。
「・・・終わりなき日を生きる種族にとって、遥か未来の問題は明日の問題なんだよ。
それが千年先だろうと、一万年先だろうと、数千億年先だろうと、変わらないんだ。
ボクたちはいずれそれに対処しなくちゃいけないんだよ」
「・・・別の質問をしていい?」
「いいよ、時間はたっぷりとあるから」
「また別の奴に聞かれたんだけど、この方法以外に宇宙は延命させられなかったのかって」
「ないことはないけど・・・それは封じられてしまったも同然だ」
「封じられた?誰かに禁止されたの?」
「禁止されたんじゃなくて、誰もが封じたんだよ」
キュゥべえは少女にもわかりやすいように説明を始めた。
「この宇宙以外にも、たくさんの宇宙があるんだ。
それは平行宇宙というものじゃなくて、実体としての宇宙なんだよ。
うーん・・・海の上に浮かぶ諸島をイメージしてくれるかな。
島の一つ一つが宇宙だと思ってくれればいい。
平行宇宙というのは別の歴史を辿った諸島って言う感じだね」
「わからなくもないけど・・・それがどうしたの?」
「本来なら、宇宙と宇宙の重力の相互作用が外部エネルギーになるはずなんだ。
その理論に従えば、どの宇宙も永遠に存続することが可能になる」
「じゃあ、そっちも使えばいいのに・・・」
”そっちも”と言うことから、彼女が魔女化システムに疑問を持ってないことがうかがえる。
「封じたんだよ。他の宇宙に重力が作用しないようにしたんだ。
正確に言えば、どの宇宙の文明も宇宙全体に防御フィールドを展開したんだ」
「・・・どうして?」
「そうだね・・・ちょっと長い話になるけどいいかい?」
「大丈夫。途中で魔女になっちゃっても聞いてあげるから」
「それじゃあ、まずは前提条件から話すとしようか。
君は社会学については知っているよね?」
「・・・どこの馬の骨かもわからない奴らの戯言のこと?」
「ボクが話すのは戯言じゃないほうさ。
まあ、今から話す宇宙社会学を世間に広めたのはそんな男だったらしいけど」
「宇宙社会学?」
「そう、宇宙文明の集合体たる宇宙社会を研究する学問さ。
そして、その宇宙社会学は二つの公理から成立しているんだ。
公理その一、生存は、文明の第一欲求である」
「インキュベーターもそうだもんね」
「公理その二、文明はたえず成長し拡張するが、宇宙における物質の総量は常に一定である。
・・・今から話す物語を理解するには、この二つを知っておく必要がある」
青い草原に夕日が射し込もうとしていた。
「・・・遠い昔、誰かが夕日を見て言った。これは人類の落日と。
そして、その二百年後に社会学者が言った。あしたも太陽が昇ってくると」
「突然、何を言い出すんだい?インキュベーター」
「これは遥か遠い昔の出来事だ。
この宇宙が始まる前の宇宙の物語だ。
・・・君はかなり驚くと思うよ」
「十分驚いているよ。早く話してよ」
長い長い物語を語り終えたときには、すでに朝日が昇っていた。
全てを知った魔法少女は、静かに目を閉じて、魔女化を受け入れた。
これが針の魔女の誕生だった。
「・・・この話をしたのは君が最初だ。でも、どうしてだろうね?
なんだか、またこの話を別の誰かにすることになる気がするんだ」
そして、去り際にインキュベーターは言った。
「そうそう、君くらいの因果じゃ宇宙の延命には足りないよ。
まあ、君のことだからそれでも気にせずに身を捧げただろうね。
わけがわからないよ・・・君たち地球文明はいつもそうだった」
2021年5月26日以降から本格的に連載を始めるつもりです。
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プロローグ2:星空恐怖症
ホテルフェントホープが完成してからそれほど経ってない時期のこと。
里見灯花はテラスで紅茶を嗜みながら星空を見上げていた。
彼女にとって、宇宙は数多くの真理が眠る宝庫のような存在だった。
「・・・それにしても、宇宙社会学かー」
父親から渡されたプリントをまじまじと見つめる。
灯花は社会学が嫌いだった。
偉そうなことを言っておきながら、まるで何の役にも立たないからだ。
だが、この宇宙社会学とやらには興味を引かれた。
里見家と関係の深い星ノ森家の青年が父親に教えたらしい。
その青年に灯花も会ったことはあり、温厚というのが印象に残っている。
小太りな感じもまた安心感を与えてくれる。
「公理だけはしっかりしてるね」
公理一:生存は文明の第一欲求である。
公理二:文明はたえず成長し拡張するが、宇宙における物質量の総量は常に一定である。
公理だけはしっかりしているのだが、内容がぶっ飛んでいるのだ。
宇宙文明が形成するであろう宇宙社会という超社会を研究する学問・・・。
そもそもの話、人類はまだ自分たちの文明しか知らないのだ。
調査や実験を行うのはほぼ不可能だ。
だから、最終的な研究成果は、純粋に理論的なものになる。
そのために、二つの公理が設定されているのだ。
さらに言えば、青年が思いついたものというものでもないらしい。
彼曰く、近所のお姉さんにこれを勉強してみたらと助言されただけとのこと。
灯花は青年が知的であるということはわかっていた。
だが、その知性が特別優れているわけではないこともわかっていた。
「まあ、わたくしだったらできるかもね」
彼女が自負するくらい、灯花は天才を具現化した存在であった。
宇宙について地位の高い大人と話せるくらいには。
それに、公理以外にも手がかりとなる重要な概念がある。
猜疑連鎖
技術爆発
二つの公理と、二つの概念・・・これをもとに彼女の頭脳は思索を開始する。
あの青年よりも先に、すごい発見をすることができる。そう確信していた。
そして、その確信は的中した。
宇宙が始まる前の宇宙において、一人の社会学者が導き出したよりも早く、
少女の頭脳はずっと単純な、どうして誰も辿り着かなかったのか不思議なくらい、
実に簡潔な真理を思い浮かべることができた。いや、できてしまった。
カップを持つ手がガタガタと震える。鳥肌が立ち始める。
寒い。歯がガチガチと鳴っている。知りたくなかった。
こんなのはただの妄想だと否定したかった。でも、頭脳と理性が真実を叩きつける。
暗い眺めだった・・・こんなのが宇宙の真理だったなんて。
コミュニケーションも沈黙も、何の役にも立たない。
宇宙は荒涼とした砂漠なんかではない。生命と恐怖に満ちた暗黒の森だ。
そして、この森の中には馬鹿な子供がいて、まだ自分の存在を叫んでいる。
「灯花⁉大丈夫かい⁉」
柊ねむがカップの割れる音に気がついてテラスに駆け付けたとき、
灯花は星空に背を向けて歯をガチガチと鳴らしながらうずくまっていた。
太古の社会学者と同じように、彼女もまたこの時以来、重篤な星空恐怖症に罹患した。
真実の宇宙は、ただひたすらに暗い
これがフェルミのパラドックスに対する一番簡単な、そして一番最悪な答えだ。
・・・だが、これは灯花にとっては始まりに過ぎなかった。
彼女はこれからも、宇宙の残酷な真理に直面することになるのだから。
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プロローグ3:繰り返される惑星
太陽系から四光年離れた恒星系、三重星系と知られる
その星系に存在する唯一の惑星の表面上には荒野と遺跡しか存在しなかった。
煌びやかな高層建築物の廃墟と、ピラミッドと、巨大な振り子・・・。
そこに一匹の感情なき白い獣・・・インキュベーターが現れた。
「・・・太陽に催眠術をかけようなんて、わけがわからないよ」
彼は巨大振り子のモニュメントの前に立って呟いた。
電力を供給するはずの文明が滅亡したことで、振り子は停止していた。
この惑星の文明・・・三体世界はかれこれ200回ぐらい興亡を繰り返していた。
どれもこれも、三太陽によって引き起こされる混沌とした軌道が原因だ。
ある時は太陽すれすれを、あるときはどの太陽からも離れ・・・。
「恒紀と乱紀を繰り返す君たちもいつかはその時を迎えるんだろうね」
インキュベーターは夜空に浮かぶ星々の一つをじっと見つめた。
それこそが、ここから四光年先に存在する太陽系だ。
そして、それが三体世界にとって唯一のチャンスでもあった。
「前宇宙の君たちはそのチャンスを掴み、そして滅亡した」
今は恒紀に分類される比較的平穏な時期だった。
だが、それも生物がいなければ無駄なこと。
「君たちは地球人よりかは冷静で、正しい手段を取ることができた。
でも、ボクたちからすれば、それでも君たちを理解できないよ」
何百もの流星が夜空に降り注いだ。
おそらく、以前に存在した惑星の欠片だろう。
「君たちの中には、まだ愛というものがあったんだから」
その愛によって、いかに文明生存を掲げていた三体世界といえども滅亡した。
そもそも、今回滅亡した文明も愛を基盤にした文明であった。
彼らは民主的で自由な社会を築き、豊かな文化遺産を残した。
滅亡後にほとんどの遺産はインキュベーターの文明によって解析され、戻された。
三体文明の中で、このようなタイプの文明がもっとも脆弱で、短命だった。
もし、太陽が一つだけであったら長い繁栄を謳歌したことだろう。
地球と違って、インキュベーターの妨害を受けないその文明は宇宙の支配者となったはずだ。
「この前、ボクたちに珍しく賛同した魔法少女に前の宇宙の君たちのことを話したんだ」
インキュベーターはまったく動かない振り子に語り続けた。
いまは乱紀の夜だ。大地は冷え固まった金属のようだった。
インキュベーターはふと気づいた。もう植物が生えている。
乱紀であるから脱水しており、生命のない感想繊維の束と化しているが。
「あの子のような存在は珍しかったね。
未来の地球文明を導くのはあの子のようなタイプであると信じたいよ。
・・・前の宇宙の地球文明はそういったタイプがいなくて滅亡してしまった。
前の宇宙の君たちの方がまだ上手くやれただろうね・・・」
その時、巨大な月が昇り始めた。
いつかまた、この星にも再び生命の繁栄が訪れるだろう。
次はどのような文明が興るのか。それはインキュベーターにも知る由がない。
「・・・次はもっと上手くやってくれることを祈るよ」
そしてインキュベーターの姿は消えていった。
これでプロローグは終了です
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狙われた一般人
うん?ブライト博士?Friday?なんのことやら・・・
星ノ森玄谷は神浜市立大学の図書館でノートと睨めっこを続けていた。
その傍にはいくつかの天文学と社会学の書籍を添えて。
「・・・はあ、智子さんもよくこんなのを思いついたなあ」
いつものように埒が明かなくなったので、ノートを閉じる。
ノートには『宇宙社会学』とだけ書かれていた。
この宇宙社会学というのは、近所に住む女性に勧められたものだ。
彼女の名は三星智子といって、謎の多い女性だった。
祖父の話によると、曾祖父が生きていたころから姿が変わってないとのこと。
さらに、祖父が曾祖父から聞いた限り、先祖代々からご近所付き合いがあったらしい。
それだけでも人間かどうか疑いたくなる話だ。
だが、さらにとんでもない逸話が山のようにあるのだ。
上空を飛ぶヘリからすらりと着地したりなんて話は氷山の一角にすぎない。
星ノ森家はそんな智子をとくに敬遠することもなく、崇拝することもなかった。
まあ、お互い普通に程よく仲良くやっているといったところか。
それどころか、彼女が一族を盛り上げてくれたこともある。
そのきっかけは、明治のころに天文学の投資と研究をしろと智子に提案されたこと。
これにより、星ノ森家は天文学に多額の投資を行い、学者も輩出した。
これにより日本の天文学は進歩し、世間で星ノ森といえば天文学のパトロンと認識された。
それにより、他の分野で投資をする際にその名声を利用することができた。
まあ、学者の一族としての星ノ森は実利優先志向のせいで学会からは嫌われたが。
なお、祖父は人文学者になったが、やっぱり評判はよくなかった。
実利優先、技術は場当たり、話題性の追求、さらには研究費の使い込みと・・・。
それが星ノ森家出身の学者に共通する汚点だ。天文学であろうとなかろうと。
投資家としては人気だが、学者としては蛇蝎のごとく嫌われる。
そもそも、星ノ森家の本業は商売であって学問ではないのだ。
「・・・やはり、あの男の遺伝子も混ぜたのが失敗だったか」
智子がそう呟いたのが、祖父には聞こえたらしい。
幼い父親は祖父から話を聞いて、自分たちはクローン人間の末裔だと友人に冗談で言った。
すると、どこからともなくやってきた智子が刀を抜いてにっこりと微笑んだという。
それ以来、智子の正体と星ノ森家の出自に関する話題はタブーとなった。
関係ないが、父親は普通の投資家として生きている。その方が幸福だろう。
「あなたは宇宙社会学を研究しなさい。
そして、できる限り誠実な学者となるのです」
智子が玄谷にそう言ったのも頷ける。
というか、さすがに立ち上がらなくてはいけないだろう。
このままでは汚名だけで象牙の塔一本は建てれる勢いだ。
医学部の二葉教授からもゴミを見る目で見られるくらいである。
元来の人柄の良さで友人はできたからプラマイゼロだが。
(・・・それなのに、宇宙社会学か)
まったくもって皮肉な話であった。
誠実な学者になれと言われる一方で、研究しろと言われたものはぶっ飛んでいる。
「あら、またサブカルの研究なんてしてるのね」
同学年の七海やちよが話しかけてきた。
彼女は宇宙社会学を基本的にサブカルチャーとみなしている。
まあ、それが常識的な反応だ。
「僕だってやりたくはないんですよ。でも、放棄したら斬り殺される」
「智子さんのこと?」
彼女は隣の席に座ってきた。
「ええ、こうしている間にも智子さんは見ているかもしれません。
地獄耳と千里眼は、僕の故郷では智子さんのことを指すぐらいですから」
「前から思ってたけど、本当に人間なの?」
「おっと、その話題もタブーなんです。
彼女に関しては深く考えないのが生き延びるコツですよ」
「はあ・・・まるで魔法少・・・いえ、なんでもないわ。
とにかく、あなたは智子さんと二つのことを約束したんでしょ?
一つは誠実な学者になること、二つ目は宇宙社会学を研究すること。
前者の達成に集中することだけでも、偉大な進歩じゃない。
だって、それで日本の学問はようやくプラス百年進むんだから」
これは一種の皮肉である。
ある有識者が星ノ森のせいで学問が百年進んで百年遅れたと言ったことの引用だ。
「でも、智子さんのアドバイスが何かをもたらすのも確かです。
事実、それで星ノ森家はそれで盛り上がったんですから。
実際のところ、父親が上手く投資をできているのも智子さんのおかげです」
「与えられてばっかりじゃない」
「そうでもありませんよ。彼女の保護は星ノ森家がやっています。
霧峰村という近くの村は昔は智子さんを殺そうとしていたみたいです。
悪鬼だとか何とか難癖をつけてね。まあ、彼らからの保護をお礼にしていたというか・・・。
でも、実際に追い払っていたのは智子さんだったそうですけどね。
祖父が子供のころには、業を煮やした霧峰村が最高戦力を投入したとかしなかったとか。
巫とかいう少女たちがやってきたそうで、とんでもない力で戦ったそうですよ。
彼女たちが力を振るうたびに大地が避けたり、巨大な光線が放たれたり・・・。
その戦いを覚えているのは今では祖父だけですが、本当だと思います。
それに、結局は智子さんが返り討ちにしてしまったそうですし」
「・・・信じられないわね」
「ええ、ですが嘘を言う必要もないはずですから・・・」
「・・・まあいいわ。とりあえず、それを研究すれば玄谷くんも成功するってことでしょ?」
「僕としては成功する気はないんですけどねえ」
「少なくとも、もう少し頑張ったら面白いんじゃない?
私も前に見せてもらったけど、公理はしっかりしてるじゃない」
公理がしっかりしているのが用意周到だった。
それに、猜疑連鎖と技術爆発という概念も宇宙社会学を研究させる気にする。
これを研究したら面白いかも、という感情を煽り立ててくるのだ。
「そうね・・・第一公理と猜疑連鎖で何か組み立てれそう。
たとえば・・・いえ、なんでもないわ。あなたの研究なんだから、あなたがやりなさい。
あと、忠告するわ。友人というのはちゃんと選んだ方が賢明よ」
彼女はそそくさと立ち去った。
その理由は明白だった。彼がやってきたからだ。
彼というのは二年生の厚元達志のこと。
東京出身の彼は良く言えば物事をはっきりと言える人間。
悪く言えば・・・タブーすら簡単に言ってしまう人間だ。
その性格のおかげで市外から来た生徒からは人気がある反面、神浜市の生徒からは嫌われている。
まあ、確かに神浜市の東西格差や対立についてずけずけ言う人間は嫌われるだろう。
しかも、東京出身であるという事実がそれに拍車をかけていた。
東京ならではの普遍的価値観を押し付けられている感覚を神浜市出身者は感じるからだろう。
「モデルと話せるようで羨ましいよ、トトロくん」
トトロ、というのは達志から付けられた渾名だ。
小太りというか、安心感を与えてくれる雰囲気から由来するらしい。
達志とある意味反対に、玄谷はあらゆる生徒からは人気があった。
まあ、あらゆる教授から警戒されてもいるわけだが。
「少しだけ大人しくすれば、一言二言は口を効いてもらえますよ・・・たぶん」
「おいおい・・・っと、また例の社会学か」
「ええ、なーんにも結論は出ませんけどね」
「焦るな。お前はどっかのモデルさんと違って時間はたっぷりある。
そのたっぷりある時間で思案を巡らせればいい。
なーに、お前は俺なんかよりかは成功するタイプさ」
このような態度から、市外の後輩からは人気なのだ。
玄谷もそうした彼を気に入っていた。
不思議に思うのは、どういうわけか達志はやちよを良く知っている素振りを見せる。
それも直接知っている、というわけではなく、人から聞いたかのようだ。
達志のやちよに関する情報源は、どこから来ているのだろうか?
「そうですね、時間はたっぷりとある。
一応、課題もここで片付けておきましたから・・・。
さて、下宿先でもう少し考えてこようと思います」
「じゃあな、頑張れよ」
下宿先は北養区にある電波望遠鏡である。
ここの管理をやる引き換えに、下宿させてもらっているのだ。
ある意味で、パトロンの一族の特権だ。
玄谷は文系だが、そこら辺のことは訓練されてはいる。
帰路を急いでいると、黒いローブに身を包んだ少女たちが立ちはだかった。
一瞬、祖父が語ってくれた巫の話を思い出した。
その少女たちも、玄谷が現在進行形で感じている雰囲気を放っていたらしい。
つまり、相手はこちらに『殺意』という雰囲気を放っているということ。
「星ノ森玄谷さんですね?」
「そうですが・・・殺される心当たりがありません」
「おや、殺されることを察したんですね?」
「殺意を浴びるというのがどういうものか祖父に教えてもらったことがあるんです。
まさか、こんな形で本当に体験するとは思いませんでしたが」
こんな非常事態だというのに、心はやけに落ち着いていた。
人気が少ないこの場所は、誰かが助けてくれる確率は少ないだろうに。
それでも、何かに見守られているという感覚があった。
「どうして殺されるのかだけは聞きたいですね。
僕は他の家族と違って、横領も捏造も蹴落としもしていない」
「・・・あなたは、宇宙の真理に近づきすぎた。あの方はそうおっしゃられました」
「もう一ついいかい?答えてくれるとは思わないけど」
「どうぞ」
「あの方って誰ですか?これ以上は質問しないので安心してください」
「それは・・・」
だが、別の黒ローブの少女がそれを制止した。
「待って。あの方はこの男をかなり危険視していた。
下手なことはしないほうがいい。一息に殺したほうがいいわ。
もしあの方に何かあっては、私たちの解放が台無しになる」
「・・・ごめんなさい、答えられません」
だが、投げられた何発もの小石が少女たちに命中した。
その隙に、誰かが玄谷の裾を掴んで引っ張った。
「玄谷、逃げるぞ!」
助けてくれたのは達志だった。
「一般人に手を出そうとするなんて、どうかしてやがる!」
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電車に揺られ
電車になんとか飛び込んだ二人は息を切らしてへたり込んだ。
小太りな玄谷には少し厳しい運動だった。
だが、訳も分からないまま死ぬわけにもいかない。
とにかく、逃げて、逃げて、逃げたのだ。
「・・・ふう、これ忘れてたぞ」
達志はバッグから宇宙社会学のノートを取り出す。
おそらく、帰るときに机の上に置きっぱなしにしてしまったのだろう。
ノートを忘れたからこそ、命が助かったともいえる。
「ありがとうございます・・・それで、さっきのは何だったんでしょうかね?」
意味のない質問だと玄谷は知っていた。
どうせ、達志も知らないに違いない。
お互い、ただの学生なのだ。
一方は地方出身で、一方は東京出身なだけだ。
まあ、前者は学界からは嫌われてる一族出身でもあるのだが。
それでも、殺される心当たりもない。
・・・だが、達志は何か知っているそぶりを見せた。
「ここでは駄目だ。別の場所で話をしよう」
「・・・知ってはいるんですね」
「まあな。信じるかどうかは別だ」
そのまま電車に揺られ続けた。
電車は東の方向に向かっていた。
大東区に向かおうというのか?
まあ、別にどうでもよかった。玄谷は外部の人間だ。
外部の人間は、内部のいざこざには概して無関心である。
それどころか、馬鹿にしている傾向すらある。
それを堂々としているから、達志は神浜市の人間から嫌われるのだが。
達志はSNSで誰かに連絡を取っているようだ。画面を見る気はない。
ただ、ちょっと心を落ち着けたかった。
日常というのは、あっさりと崩壊するものだ。これは祖父の言葉。
巫という霧峰村の最終兵器が村に襲撃したときの話をするときに、いつも最初に言っていた。
なにぶん、祖父が子供の時なので覚えているものはどんどん少なくなっていく。
だが、祖父はちゃんと記憶を持っていて、今でも語っているそうだ。
・・・正確に言えば、祖父以外の当事者は誰もが口を閉じたのだが。
誰も戦いでは死ななかったが、圧倒的なトラウマを植え付けたのだ。
それでも、祖父は今も語り続ける。
「あの巫は日の本のために戦っていた。
だがな、結局は一般人に牙を剝いたんだ。
一つの大義のために、人に害をなす。
それが正しいのか間違っているのかは、永遠にわからん。
だがな、とにかく忘れちゃならん」
人文学者である祖父は何が正しいのかはあまりこだわらなかった。
だからこそ、彼は哲学の分野で酷い功績を挙げているのだろうが。
たとえば、彼はトロッコ問題に最悪の解を見出した。
「生存権の不平等は、最大の不平等になってしまう。
だからこそ、あらかじめ爆弾を用意しておく必要がある」
現代倫理では、レバーを押す人も、他のレールの上にいる人も死ななくてはならない。
なぜなら、誰かが生き残ると、それは生存権の不平等という最悪の格差になるからだ。
それが祖父の見つけた現代倫理の恐ろしい点であった。
これを発見してしまったことで、人道主義を掲げる欧米では混乱が起こったとか。
ただ、これもまた智子の提案から生まれたと祖父は言っているが。
ともかく、どんな人道主義でも人の命を平然と奪ってしまうというのが祖父の主張だった。
日の本のため、という愛国主義を掲げている霧峰村ならなおさらだろう。
・・・これは誰にも言ってないのだが(智子は見てただろうが)、巫に会ったことがある。
霧峰村の近くの山を散歩していた時に、年下の少女に遭遇したのだ。
目が合ったときの、挙動不審さから、彼女が智子を殺しにきたのだとすぐにわかった。
彼女は光を放つと、クラシカルな洋服に身を包んでいた。
祖父も、巫は光を放って変身していたと言っていた。
戦う力などなかったが、棒を拾って、動かずにじっと睨みつけた。
一秒一秒が長く感じられた。相手がいつ宝玉で攻撃するかわからなかった。
できるのは、それを遅らせるために視線をそらさないこと!
そして・・・
「おっ、もう着いたぞ。駅前に可愛い護衛がいるから安心しろ。
奴らも、アイツには逆らえないだろうからな・・・」
「・・・それは安心ですね」
とにかく、その後は何も起こらなかった。
いや、正確に言えば、悪いことは何も起こらなかった。良いことが起こった。
熟した木の実が落ちてきたのだ。片方は玄谷の頭上に落ちた。
こんな緊迫した状況だからこそ、つい笑ってしまった。
少女もそれにつられて笑ってしまった。
もう睨み合いなんて空気ではなかった。
玄谷は落ちた二つの果実を拾い上げ、片方を少女に投げ渡した。
少女はそれを受け取ると、そのまま立ち去っていった。
彼女の顔は、どこかほっとしていた。人を殺さずに済んだとばかりに。
玄谷もそれでほっとした。霧峰村の人々も人間なのだと。
人道主義を唱えていようが、愛国主義を唱えていようが、やはり人間は人間だ。
智子は後日、突然こんなことを言った。
「人間には愛があるのです。家族に向ける愛、恋人に向ける愛、隣人に向ける愛・・・。
そして、睨み合う相手にでさえも愛を持っているのです。睨み合いさえ止めるほど」
やっぱり智子は見ていたんだなと察した。
別に怒りとかそういうのは湧かなかった。
まあ、思い出はともかく、今は生き残ることが重要だった。
とにかく、死を遅らせるために視線をそらさないこと!これが重要だ!
「待っていたぞ、達志。無事で何より」
駅前に大東学院の制服を着た少女が立っていた。
どことなく冷酷な雰囲気を漂わせていた。
だが、その冷酷さは智子がたまに見せるそれを比べれば幼く見える。
智子がたまに見せる冷酷な表情は、ただただ溜息が出るくらい美しいのだ。
それと、達志にまさか神浜市の人間の知り合いがいるとは思わなかった。
「・・・それと、貴様が星ノ森玄谷か」
「よろしくお願いします・・・えっと」
「和泉十七夜だ。ふむ・・・本当にこんな男を狙っていたのか?」
彼女はまじまじと玄谷を見つめる。
その真意は明らかだ。こんな小太りで優しそうなだけの男が何になる?
「狙っていたも何も、実際にそうなってたんだ。
ともかく、ちょっと人の少ない場所に行こう。
危険とはいえ、こいつがいるから誰も襲ってこないだろう」
「そうだな。それがいいだろう」
神浜市には大量の廃墟が存在する。
まあ、これは市政の失敗なのだが。
星ノ森家が関わる故郷の町ではありえない話だった。
研ぎ澄まされた経済感覚を有し、一応は学問に秀でた一族が支配しているのだから。
あと、不老不死としか思えない智子も参加しているのだから。
ともかく、一行はとある廃墟の内部に入った。
「それじゃあ、十七夜、頼むぞ」
「うむ、わかった」
「玄谷、ちょっと信じられないことが起こるが冷静でいてくれよ」
十七夜のはめていた指輪が突如として光りだした。
そのまま彼女は光に包まれ、軍服のような格好に身を包んでいた。
驚いたと言えば驚いた。だが、それは彼女が巫だったということに驚いただけ。
「・・・達志、この男、さして驚いていないようだが?」
「どういうこっちゃ?俺もパニックとはいかないまでも、かなり驚いたってのに。
・・・ともかく、玄谷、こいつは魔法少女でもあるんだ。驚いたはずだろ?」
魔法少女、まあ、呼び名は場所によって違ってくるのだろう。
それと同時に安心した。霧峰村とはどう考えても関係なさそうだ。
霧峰村は噂によると、未だに古めかしい単語を使うという。
「・・・僕も故郷にいたとき、呼び名こそ違えど、そういった子に遭遇しましたから」
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天音月咲との対峙
「・・・お前の話の方がある意味信じられんな。
それに、巫・・・?だったか?そいつも物分かりがいいな」
達志は玄谷が話し終わると、肩をすくめた。
一般人が、魔法少女を追い返したというのだ。
それも、ただ睨むというだけで。
この小太りで優しい後輩に、そんな勇気があったとは。
それどころか、うまく平和的にも解決できたという。
「俺の知る魔法少女ってのは・・・もっと不条理で話の通じない人種なんだがよ」
彼はちらりと十七夜の方を見やった。
彼女の方はそんな視線をまったく無視していた。
十七夜は、最初に会った時と同じように玄谷をまじまじと見つめていた。
だが、彼女の表情には一種の感心が含まれていた。
なるほど、この男もなかなかの強さがあるのだろう。
それと同時に、彼女は別のことをしているようでもあった。
ただ近づいて、何もしていないように見えるのだが・・・。
「・・・ふむ、殺される心当たりは本当にないらしいな」
玄谷は一瞬、何が起こったのかわからなかった。
だが、彼女が何かをしたということだけはわかった。
これが魔法少女の能力なのであろうか?
何をされたのかわからない・・・これは恐ろしいことだった。
もしかしたら、あの日会った巫も気づかぬうちに何かをしていたかもしれない。
だが、今となってはわからない。
「おっと、説明し忘れていたな。こいつの固有魔法は読心だ。
まあ、変身しないと使えないうえに、近づかないと駄目だ。
しかも、読みたい情報は、相手の心の中から・・・」
達志が言い終わらないうちに、彼女は鞭で床を叩いた。
それだけで、廃墟ビルの壁にひび割れが入った。
「ぺらぺらと喋る男は嫌われるぞ、達志?」
「ひゅう・・・まあ、この通りの強さだ」
こんなに強いのか、と玄谷は思った。
たった一振りで、しかも軽い一振りで、廃墟にダメージを与えてしまう。
・・・こんなのを相手に、果たして自分は睨むことができるのか?
玄谷はすぐにそんな考えを投げ捨てた。
とにかく、目をそらすな!相手がどれほど強くとも!
それで、最期を少しでも遅らせることはできるかもしれないのだから。
「それで奴らが貴様を殺そうとした理由はなんだった?」
どうやら、読心を使わなくてもよさそうなときは直接聞くようだ。
まあ、魔法を使うのもいちいち面倒だということなのだろうか。
「それは・・・」
その時、ある少女が現われたことで話は中断してしまった。
「・・・十七夜先輩に達志さん?」
ツインテールの少女で、工匠学舎の制服を着ている。
工匠学舎は工芸と職人の街である工匠区に位置しており、非常に技術のある工業学校だ。
工匠区のいくつかの工房に投資してきたのも、星ノ森家であった。
日本のメディチ家、というのが海外からの星ノ森家に対する評価だ。
そこにはいくらかの皮肉も交じっていたのだが。
事実、かつてのメディチ家もそこまで紳士的でもなかった。
いくつかの暴力と殺害のせいで、当主が街から追放されたこともある。
「じーざす・・・よりによって月咲か。今日は月夜は用事があるのか?」
達志の表情はこう語っていた。
こっちには十七夜がいるんだぞ。
それで玄谷は月咲と呼ばれた少女があの黒ローブの仲間だと察した。
こんな少女からも命を狙われるとは!被害妄想に陥りそうだ。
「こいつは天音月咲だ。まあ、強さは十七夜に劣るけどな」
達志は少女を指して、玄谷に紹介した。
「でも、うちは普通の人よりかは強いよ?
あと、月夜ちゃんは別の用事があるの」
彼女も変身して、和風のミニスカートといった格好に変身していた。
そして、手には竹笛を持っていた。おそらく、あれが武器なのだろう。
そうなると、少し不安になってくる。音波攻撃だ。
そんなのをされたら、二人がどう庇おうと攻撃は直接玄谷に届いてしまう。
どちらにせよ、できることは、あの山中での遭遇のときと変わらない。
敵の眼を見ろ。見ろ、視線を決してそらすな。
ある本の記述を思い出す。マオリ族の勇者にとって大切なのは自分の眼で相手を打ち負かすこと。
彼らの伝統舞踏のハカにも、その精神性が込められているらしい。
写真にも、まんまるに見開かれた舞者の眼が写っていた。
灼熱の怒りの炎と、氷のように冷たい殺気が噴き出していた。
玄谷の視線に、一瞬だけ月咲もひるんだ。
だが、すぐに余裕を取り戻した。一般人に何ができるというのだ?
彼女の表情はそれを物語っていた。
だが、そのとき、玄谷はようやく殺される心当たりにようやく気がついた。
宇宙の真理に近づきすぎただって?宇宙といえば、あのノートしかないじゃないか!
どうして、これの存在に思い当たらなかったのだろうか?
「・・・僕を殺したところで無駄でしょうね」
玄谷は相手の瞳を見据えながら、肩をすくめた。
そう、あれは玄谷の思いついたことではない。
人間かどうか疑わしい女性に教えてもらったのだ。
つまるところ、彼一人を殺したところで無意味なのだ。
「ようやく殺される心当たりに至ったというか・・・。
宇宙の真理に近づきすぎた、ですか。ようやく思い出しましたよ。
ですが、僕を殺しても本当に意味はないんです」
達志はそれを聞いて、驚愕すると同時に納得した。
どう考えても、あの宇宙社会学のことだった。
そして、玄谷の言わんとすることも察した。
確かに、彼一人を殺しても無駄だった。
「何しろ、それはある女性に教えてもらったんですから。
そして、その女性はとっくに宇宙の真理を知ってるでしょうね」
これに関しては出まかせだったが、そうかもしれないと思っていた。
あの智子のことだ。父親が彼女が宇宙から来たと確信しているくらいだ。
とっくに宇宙の真理とやらを知っているのかもしれない。
「あの方とやらが僕を殺そうとしたのは間違いでしたね。
僕を殺しても、智子さんは別の誰かにそれを教えるだけです。
まあ、完全な徒労というべきか・・・お疲れさまでした」
シニカルな笑みを月咲に向ける。
せめて、これで少しは時間稼ぎができるはずだ。
予想通り、彼女は戸惑っていた。
良心、玄谷を殺すことの無意味さ、命令・・・その三つが葛藤を起こしているようだ。
だが、最終的に彼女もまた玄谷の眼に視線を向ける。彼女はいったんは葛藤を乗り越えたのか。
玄谷の方がたじろぎそうになってしまうくらいに睨みつけていた。
「・・・関係ないよ。うちらの解放の邪魔をするんだったら、その智子さんという人も殺すだけ」
玄谷はどうにも『解放』という言葉に引っかかっていた。
『解放』?魔法少女は何かに囚われているということか?
だが、いったい何に?何が彼女たちを縛っている?
宇宙社会学が、いったい『解放』のどんな邪魔になるというのだろうか?
あと、彼女の肩をゆさぶってやりたくなる。
あれに喧嘩を売るのだけは、本当にやめといたほうがいい。
「一般人を殺して、解放だと⁉見損なったぞ!」
十七夜が声を荒げる。
彼女の瞳には、灼熱の怒りの炎が灯っていた。
まさに、マオリ族の戦士のようであった。
彼女の気迫を前に月咲も怯んではいるが、視線はそらしていなかった。
「・・・勝手に見損なってよ。うちらはこうでもしないと解放されないんだから」
「へえ、そりゃ面白いな」
達志は嘲笑いながら言った。
「こうやって解放された後、いつかは魔法少女のことが明るみに出るかもな。
それで、果たして世間の人はどう思うかね?一般人を殺して解放されたお前らを。
もしかしたら、暴徒化するかもな。そして、暴徒の手がお前の姉の服を剥ぎ・・・」
玄谷もわかっていた。次に何が起こるのかを。
これは間違いなく、逆鱗を踏もうとしているのだ。
彼女の攻撃が、玄谷にも十七夜にも向かないために。
「黙れ!このクズ!」
月咲は激情に身を任せながら、達志に急接近する。
そのまま笛を思い切り振るが、彼はあっさりとそれを避ける。
それどころか、隙を突いて月咲の腹部にストレートパンチを決めた。
そのまま彼女は廃墟の硬い床にどさりと倒れ込んだ。
「作戦通り、ってな。俺は東京で何度もこの方法で勝ったんだ」
達志の過去は意外と謎に包まれているが、ろくでもないものと誰もが予想していた。
顔に切り傷が多いし、噂では背中に何かが彫られた痕もあるとかないとか。
ともかく、問題はこれからのことだ。
彼が十七夜のもとに玄谷を連れてきたのは、安全のためだ。
彼女と一緒にいるところを見れば、誰も襲ってこないと踏んだためだ。
だが、実際にはこれだ。彼女たちは襲ってくる。
達志は柱に月咲を縛り付けた。目覚められて、動かれても困るからだ。
「・・・こうなりゃ、あそこしかないか。すっげえ気が乗らないんだけどな」
達志は大きな溜息をついた。
「あそこってどこですか?」
「調整屋って場所だよ。魔法少女の強化とかを担当してる。
そういった能力を持つ魔法少女もいるんだがな・・・
まあ、とにかくそこは中立というか、争いが禁止というか・・・」
達志の表情はあれに似ていた。
酢の物を食べる羽目になった兄の顔だ。
そこはかとなく嫌そうな顔をしていたものだ。
そんな彼も今では立派な士官クラスの自衛隊員らしい。
軍隊まで駄目にする気かとごく一部の有識者は警戒したそうだが。
「俺、あいつと仲が悪いんだけどなあ・・・」
「ほお?お前と仲のいい神浜市の人間が今までいたか?」
十七夜は目で言っていた。お前とは友達じゃない。
さっきまでの達志との親しさは彼女から消えてしまったようだった。
玄谷はあまり二人の関係に関してあまり追求しないことにした。
それより、その調整屋とかいう場所が問題だ。
「とにかく、ももこに連絡を取っておくとして・・・。
また駅前まで護衛を頼まれてくれるか、十七夜?」
「・・・まあいいだろう。先に行ってろ。私は玄谷と話がしたい」
彼女はしっしと手払いして、達志を追い払った。
そして、玄谷の前に向き合った。
「智子とは何者だ?」
答えは一つしかなかった。
「わかりません」
わからないのだ。本当に。
星ノ森家と智子のご近所づきあいは数百年以来だ。
だが、その数百年、誰も智子の正体を突き止められなかった。
いや、突き止める気すら起きなかったのだ。
不思議に思うことはあれど、今の関係で十分だったのだ。
「わからない、だと?」
「近所に数百年ぐらい前から住んでいるということだけはわかっています」
「数百年、か・・・魔法少女ではないな。魔法少女の生命は儚いからな」
彼女は右目のモノクルを示した。
「これはソウルジェムといって、魔法を使ったり精神的ダメージを受けると穢れる」
何か嫌な予感がする。
そうだ。智子が話してくれたおとぎ話だ。
願いと引き換えに、不思議な宝石を使って戦う少女のお話。
祖父はそれは巫の暗喩だとか言っていたが。
最終的に、おとぎ話は暗い末路を迎える。
宝石には穢れが溜まり、それを倒すには化け物の落とす黒玉が必要だ。
しかし、最終的に宝石に穢れが溜まりきって、少女も化け物になってしまう。
そして、別の宝石を使って戦う少女に倒されるのだ。
その少女も、宝石に穢れがたまり・・・。
「・・・穢れが完全にたまると、化け物にでもなるんですか?」
「ほう、知っていたのか?」
当たってほしくない予想だった。
「智子さんはおとぎ話を作るのが趣味だったんです。
そのおとぎ話のひとつが暗い結末でしてね・・・。
宝石を使って戦っていたら、化け物になってしまって倒されるという結末です」
「少なくとも、智子とやらは魔法少女の知識を持っていたわけだ。
その穢れを取る方法とやらも、おとぎ話の中にあったか?」
「ええ、黒玉という化け物の落とすものが必要でした」
「私たちは化け物のことを魔女と呼び、黒玉をグリーフシードという。
・・・念のため聞くが、少女に戦うようにけしかけた者がいるのではないか?」
「ええ、いますね。ですが、智子さんは彼らの目的について語ろうとしませんでした。
いつか話す日が来るとは言っていましたが・・・何のための・・・」
だが、急に単語を思い出せなくなった。
ああ、ほら、あれだ。消防士が仕事のために火をつけること。
これから毎日・・・それは違う。それは気の狂ったアニメだ。
マッチで火をつけて、それをポンプで消す・・・。
「マッチポンプ、と言いたいのだろう?」
「ええ、それです。何のためのマッチポンプなのかわからなかったんです」
「そうか・・・それは・・・」
「おーい、まだかー」
達志が呼んでいた。もう連絡を取り終えたのだろう。
長居する理由もない。いつ次の襲撃があるかわからない。
とにかくわからないことだらけだった。
だが、そのわからないことは今日初めて遭遇したわけではない。
ずっと以前から、智子はそれを知らせていたのだ。
こうなることをわかっていたのか?いや、さすがにそれはありえない。
わかるのは過去と現在で、未来は未だにわからないと明言していたのだから。
とにかく、どこかで一息ついて、整理する必要がある。
整理したら、それをもとに事態を打開するために行動する。
とにかく、敵の眼を見続けろ。どこにいるのかはわからないが。
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神浜市を観測する
神浜市にインキュベーターが入れなくなったのはつい最近のことだ。
だが、その間、とくにインキュベーターは気にすることがなかった。
蟻が人間の家を崩そうとして、それを人間が気にすることがあるか?
たぶん、気にしないだろう。それと同じことだ。
それに、魔法少女が想定外のことを起こすのはある意味で想定内だった。
彼女たちは生き延びるためなら、何だってするのだ。
だが、行動を起こした魔法少女に対抗する魔法少女も現れてくる。
たいていはその内ゲバであっさりと崩れてくれるのだから余計なことはしなくていい。
だが、今回は違った。今回は、『彼女』が動いている。
「・・・ふむ、それでボクに行けというのかい?」
アルファ・ケンタウリ星系駐在を任せられるインキュベーターは悪い意味で特別だ。
そういったインキュベーターには感情が芽生えつつあるのだ。
インキュベーターは端末だが、自律式でもあり、一つの生命体ともいえる。
惑星にいる本体も、端末も、ともに完璧な存在ではない。
だからこそ、たまに一つの個体にエラーが発生する。
そうしたエラー個体は地球から四光年離れたアルファ・ケンタウリの観測を命じられる。
そこには強靭な文明が発生することがあり、第二のエネルギー源になりうるからだ。
そして、同時に強力な敵になりうることもありえる。
だから、文明が滅びている状態でも観測が必要となる。
目を離した隙に、自分たちを遥かに超越した文明になることは珍しいことではない。
数千万年など、宇宙という壮大な軸で見れば、あっという間だ。
さて、エラー個体であるこのインキュベーターを三体インキュベーターと呼ぶことにしよう。
三体インキュベーターの前に、交代のために来たインキュベーターが現われた。
このインキュベーターもまた、感情が誤って発生してしまったタイプである。
ちなみに、これは当たり前だが、彼らは母星とのネットワークからは切断されている。
「・・・ああ、あのクズどもはインキュベーターじゃないお前を送りたがっている」
交代と連絡にやってきたインキュベーターの口調は変わりきっていた。
とても、とても、母星に対して反逆的な兆候が見られる。
だが、ネットワークから切断された以上危険ではなくなる。
「でも、ボクだってネットワークから切断されたとはいえ、インキュベーターだ。
そんなことをしたら、他の個体のようにボクたちも意識を失うことに・・・」
交代インキュベーターが本来の口からある物を取り出した。
それは綺麗に透き通った、青色の光を放つ一枚の紙切れのようだった。
「まさか、ボクに二次元化しろというのかい?地球は三次元空間だろう?何の意味がある?」
「違う違う、これは双対箔じゃねえよ。聞いてないのか?」
三体インキュベーターも過去にその噂を聞いたことはあった。
『彼女』に対抗するために、ある兵器の製造計画が立ち上げられたというものだ。
この惑星に追放される前に聞いた噂だが、本当に実現したとは知らなかった。
「・・・本気でやるつもりなのかい?」
「ああ、本気らしい。そもそも、これが双対箔だったら、
お前もオレもこの星系もホットケーキになるのがわからんのか?」
「はは、それもそうだね」
三体インキュベーターは本来の口で、紙切れを捕食した。
すると、ミクロ原子への変換がただちにスタートした。
十数秒間、三体インキュベーターの体は分解と合体を繰り返した。
「・・・ねえ、ボクの体はどうなったんだい?」
「なかなかクールになってる。水滴だ」
「なんだって、水滴だって?」
交代インキュベーターの言う通り、三体インキュベーターは水滴のようなフォルムになっていた。
地球人が見たら、溜息をついて、その美しさを絶賛することであろう。
水滴インキュベーターの表面は、ありとあらゆる周囲の風景を反射して映し出していた。
「一つ残念なところは、先頭部分っていうのか?そこにオレたちの間抜け面があるくらいだな」
水滴の尖ってない先頭部分(いわゆる落ちる方向)に、いつもの顔がプリントアウトされていた。
「ねえ、今笑ってみたけど、どんな感じだい?」
「逆に不気味だな」
「そうか・・・まあ、悪くはないね。以前より早く動けそうだ」
「曲率推進も使えるようになったし、以前と同じように空間牽引も使える」
空間牽引。それは文明にとって、さらなるルネッサンスと啓蒙をもたらす技術だ。
曲率推進は空間を歪ませることで、光速を実現する技術であった。
時空を生きているうちに超えることができ、どこにだっていけるのだ。
空間的には宇宙の果てまでいくことができ、時間的には宇宙の終末にだって行ける。
だが、空間牽引はそういった曲率推進とはまったく違う側面を持っていた。
時空を超えることはできないが、それは超えなくてもいいということも意味していた。
ただ空間と空間を繋げるだけで、宇宙の果てに一瞬で行くことができるのだ。
それも、何の代償も払うことなく、である。
インキュベーターはもちろんそれを使うことができる。
彼らが神出鬼没な理由は、空間牽引という技術にあった。
保澄雫という魔法少女の空間結合という能力もそれと同じ理屈であろう。
「今のお前はインキュベーターでもあり、水滴でもあり・・・」
交代インキュベーターは息をためて言った。
「
「そうか・・・『彼女』と同格になったということだね」
「いや、もっと上の存在だな。ともかく、良い旅を。
もう、オレたちはアレを恐れる必要はなくなったかもしれん。
・・・それはそれで、ちょっとだけ残念な話だがな。
また、いつかお前と一緒にこの星系でのんびりとできるといいんだが」
「ああ、それはいいね。また会おう」
十秒間のウォームアップの後、水滴インキュベーターは光を放って消えた。
その直後、神浜市の上空に水滴インキュベーターが現われていた。
ちょうど真夜中で、発光しない限り見つかることはない。
ゆっくりとゆっくりと高度を下げていったが、意識を失うことはなかった。
自分のやるべき仕事は今のところ、変わってはいないだろう。
ただ、観測するだけだ。三体星系を観測したように、神浜市を観測するだけ。
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魔法少女社会学の提案
水滴インキュベーターが現われたのを誰も知らなかった。
智子と一人の魔法少女を除いては。
その魔法少女の名は美国織莉子。彼女は以前からそれを予知していた。
だが、あくまで彼女が視ることができたのは、それが現われる未来だけ。
一方、智子は未来を視ることはできなかったが、現在進行形で視ることはできた。
それも、三体星系における一連の経緯から。
だが、彼女はとくに行動は起こさなかった。
なぜなら、水滴インキュベーターは今のところは観測するだけだからだ。
さて、そんな二人と違い、星ノ森玄谷は当然のことながら水滴インキュベーターを知らなかった。
彼は今のところは宇宙の真理に近いだけの人間なだけだったから。
さて、そんな玄谷は目下休学中である。命の危機的状況で大学に行くべきではなかった。
代わりに休学手続きをしてくれた達志曰く、意外にもすんなりと手続きは済んだとか。
玄谷はその理由がだいたいは予想できた。一つは、休学届を出したからだ。
星ノ森家で学者に進んだものたちは、それすらしなかったこともあったのだから。
先祖の行いのおかげで、相対的に教授たちからの評価は意外にも高くなっていた。
そして、二つ目は完全に推測でしかないが、智子の手引きであろう。
彼女はたまにふらっと姿を消すことがある。
そして、その度に何か世界の行く末を決めるような条約やら会議があるのだ。
誰もがわかっていたが、それを明言することはなかった。
そんな彼女だからこそ、玄谷の休学を支援することができたのかもしれない。
まあ、玄谷は少しだけ不満だったが。
「・・・直接助けに来てくれたらいいのに」
掃除の手を休めずに、彼は呟いた。
玄谷は調整屋で住み込みでアルバイトをしているのだ。
とくに仕事が厳しいとかいうわけでもない。
手料理を振る舞わされそうになった時は走馬灯を経験したが。
掃除と料理、これがアルバイトの内容だった。給料は身の安全。
調整屋の周囲での争いは禁止、というのは本当のようであった。
ほとんどのローブを着た魔法少女がしぶしぶと見逃してくれたからだ。
ここでアルバイトするようになってから、わかったことがある。
ローブを着た魔法少女は羽根と呼ばれており、マギウスの翼という組織の所属していること。
そのマギウスの翼、というのはマギウスという三人の魔法少女に率いられているということ。
これは白黒問わず羽根の魔法少女たちから直接得た情報である。
別に脅迫とかしたわけではなく、普通に親しくなったのだ。
なんとも不思議なものだった。彼女たちは自分を殺せと命じられているのに。
最初にわかったのは、恐怖を抱いているの彼女たちも同じだったということ。
彼女たちに配布された写真は、それはもう酷かった。
完全に悪人面して笑っている肥満体の男が地球に牙を剥こうとしていたのだ。
ところが、羽根たちが実際に会ったのは小太りで優しそうな青年だった。
そして、加害者を前にしているからぎこちないものの、本当に優しかった。
当たり前であろう。何しろ、彼は大学の先輩からトトロと呼ばれるくらいだからだ。
肝心の情報はなかなか言ってくれなかったが、お互いの誤解みたいなものは解けていた。
これが智子の言っていた愛とやらの力なのか?
とにかく、こうしている間にも掃除は終わってた。
この空間は、智子の家とはまた違う安らぎを与えてくれる。
「あら、お疲れ様。うん、やっぱり玄谷さんが掃除するといい感じね」
まだ寝癖が残っている八雲みたまが入ってきた。
彼女は快く玄谷を受け入れてくれた魔法少女である。
なお、彼女に対面したとき、達志は立ち会わなかった。
十咎ももこのアドバイスによると、達志のことを言及しないほうがよいとのこと。
あと、もう一つアドバイスをしてくれたが、それを無視したせいで酷い目にあった。
そう、手料理を食べてしまったのだ。あれは酷かった。
「それほどでもありませんよ。僕はやれることをやってるだけなので」
「それでもわたしはすごく助かってるわ。ありがとねえ」
今のところ、互いにとってウィンウィンの関係が続いていた。
みたまは安全を提供し、玄谷は労働を提供する。
なお、ももこ曰く、達志の名前を出すだけでそれは崩れるから気をつけろとのこと。
達志はよほど許されないことを彼女にしたのであろうか?
そもそも、みたまのことがあまりよくわからない存在であった。
彼女の素性を知る者は意外と少ない。ももこでさえも知らないらしい。
少なくとも、達志と十七夜は知っているであろうことは確信できる。
だが、達志とはももこを介してでないと連絡を取れないし、十七夜の連絡先はそもそも知らない。
ただわかることはある。初めて会った時、彼女の眼に浮かんでいたのは同情だ。
いや、同情よりかはむしろ仲間意識と言ったほうが正しいだろうか?
そこからわかるのは、彼女が何か迫害を受けていたに違いないこと。
彼女は人間を嫌っているかのような表情を無意識に浮かべることがあるのだから。
「朝食もすぐに作るので待っていてくださいね」
「わかったわ」
さっと軽いものを作る。サンドイッチとコーヒーだ。
料理は智子から教えてもらった。彼女は料理が上手いのだ。
もしかすると、智子はこの世のありとあらゆるメニューを知っているのかもしれない。
朝食は今日も好評であった。そして、仕事が始まる。
始まる、といっても誰かが来ない限りは仕事にならないのだが。
「噂を聞いてやってきたけど・・・順調そうね」
やちよがやってきた。彼女が魔法少女だと知ったのはアルバイトを始めてからだ。
道理で達志が彼女のことを知っているのは、他の魔法少女から情報を得ていたからだ。
「ええ、賢明に友達を選んだおかげです」
玄谷は皮肉めいた笑みを浮かべながら言った。
「そう・・・なら良かったわね。
ところで、宇宙社会学とやらはあれから進んだ?」
玄谷は首を振った。無理であった。
アルバイトもあるし、休学明けのための勉強もある。
とても、宇宙の真理など追いかけている暇はない。
「こっちが教えてもらいたいくらいですね」
「だと思った。ほら、これ渡しておくわ」
彼女が渡してきたのは大量のノートのコピー。
それは玄谷が本来受けるはずだった講義の内容だった。
取っている講義は違うはずなのに、やちよはあちこちに掛け合ってくれたのだろう。
彼女もまた、賢明に選んだおかげで得た良き友達であった。
ちょっとだけ皮肉を言ったのが恥ずかしくなった。
「これで休学明けのことは心配しなくてもいいはずよ。
とにかく、あなたは宇宙社会学に専念しなさい」
「・・・やけにサブカルに注目しているようですね」
「宇宙社会学は、ただのサブカルじゃなかったのかもしれないわ。
少なくとも、それには人を殺してしまうほどの価値があるってことね」
「でも、僕にはとてもじゃないけど扱いきれない」
宇宙にはおそらく幾千万もの文明が存在するだろう。
決して、荒涼とした砂漠なんかではないはずだ。
だが、そのような文明がどう超社会を構成するというのだ?
公理二階段を、一歩一歩昇り続けるのだ。
よくある勘違いだが、あれは三段目、すなわちタイプⅢで終わりではない。
後世の学者たちがさらなるスケールの拡張を提案したからだ。
宇宙の制御を行えるタイプⅣ文明と、複数の宇宙を管理できるタイプⅤ文明だ。
さらにジョン・D・バロウはミクロ次元の習得度なるものを提言している。
彼曰く、タイプΩマイナス文明が最高で、空間と時間の基本構造その物を操作できる段階らしい。
そんな神秘的な文明群が築く超社会を、タイプⅠ未満の文明の学生が予想できるわけがない。
それに、フェルミのパラドックスの存在も考慮しなくてはならない。
文明がたくさん存在するのなら、どうして接触が起こらないのだ?
「・・・じゃあ、簡単なことから練習してみたら?
どうせカルダシェフとかフェルミとかに頭を悩ませてるんでしょ。
私が提案するのは、もっとあなたの日常に近い分野よ」
やちよがプリントを渡してきた。
一番上の段落には、魔法少女社会学と書かれていた。
そして、その社会学の公理もきちんと書かれていた。
公理一:生存は魔法少女の第一欲求である。
公理二:魔法少女は魔女を狩り続けるが、各地域における魔女の総数は常に一定である。
宇宙社会学の公理を拝借した感じであったが、ある程度納得はできた。
まず生き残ることは重要で、マギウスの翼はこれが顕著に表れている。
公理二は、魔法少女は魔女化して魔女の数は一定に保たれるということを意味してるのか?
さらに、プリント下部には二つの単語が書かれていた。
相互猜疑
魔力衰退
これもまた宇宙社会学からの拝借だった。
魔力衰退は理解できる。年を取るごとに魔力が落ちるという噂は聞いたからだ。
しかし、相互猜疑とはどういうことであろうか?
互いが互いを疑い合う。わけが・・・いや、これはつい最近体験したばかりだ。
玄谷とマギウスの翼は相手を互いに疑っていたではないか。
玄谷は命を狙われたというのもあるし、彼女たちは玄谷を怪物だと思っていた。
「・・・ええ、確かに僕の"日常"には近いですね」
「宇宙社会学の模倣だけど、いい練習台になると思うわ」
「なるにはなりますけど・・・魔法少女と宇宙文明では大きな違いがあるのでは?」
やちよは微笑むだけだった。
「いいからやってみなさい」
そして、調整屋を出ていく際に彼女は振り向いて言った。
「平時のときの友達くらいはきちんと選びなさい」
玄谷の横はうんうんとみたまが頷いていた。
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予想外の攻撃
玄谷は魔法少女社会学である理論を導き出すことに成功した。
彼はそれに魔法少女相互攻撃理論という名称を付けた。
その名前が、そのままぴったりだと思ったからだ。
彼はある程度の要点をノートに書き記して、やちよに電話をかけた。
「あら、何か解を得たのね」
「ええ、あまり快いものではありませんが」
「そう・・・ならいいわ」
「聞かないんですね?」
「ええ、たぶん、私の導き出した答えた同じだから」
玄谷もそれには自信を持っていた。自らの弾き出した理論は通用するだろう。
しかし、それでも一つだけ疑問があった。
そう、この理論はあくまで一人一人の魔法少女にしか通用しない。
魔法少女社会学だからこそ説得力を増す理論である。
これが宇宙社会学にとても適用できるとは思えない。
魔法少女は個人で、文明は集団だ。前提条件がそもそも違う。
「・・・魔法少女と宇宙文明は違います」
「その通り。でも、似てる部分はあるわ」
「似てる?似てるって、どこがですか?」
「それは自分で考えなさい。私はヒントを出しただけ。
でも、いつかはあなたも辿り着けるはずよ」
それで電話は切れてしまった。
この先、どうやって宇宙社会学を研究すればいいのかわからなかった。
魔法少女相互攻撃理論は、宇宙社会ではありえないと玄谷は考えていた。
なぜなら、文明には理性があるし、別の要素があるのだ。
それは政治・経済体制だ。魔法少女は決して持ちえないものだ。
魔法少女は自由主義経済にはならないし、共産主義経済にもならない。
同時に、全体主義国家になったり民主主義国家にもならない。個人だからだ。
だが、宇宙文明は政治・経済体制を持っている。社会だからだ。
自由で豊かな文明もあれば、1984年をそのまま具現化した文明もあるだろう。
もしかすると、民主主義も全体主義も超克した想像もできない政治体制かもしれない。
この通り、本当に前提からして完全に異なっている。
なぜ、やちよは似ている部分があると言い切ったのだろうか?
玄谷は調整屋のソファーにへたり込んで、溜息をついた。
コーヒーの匂いと、この部屋の青い色調が、心を落ち着けてくれた。
「あの・・・玄谷さんですよね?」
話しかけてきたのは会ったことのない魔法少女だった。
頭頂部が甲虫の触角のようにはねていて、そして良い体つきであった。
だが、まじまじと見る気にはならなかった。
失礼だし、見すぎるだけで壊れてしまいそうだったから。
「ええ、そうですけど・・・あなたは?」
「梓みふゆと申します。羽根の子たちから話は聞いています」
「ああ、僕もあなたのことはちょっぴり聞きました」
羽根の魔法少女たちはたまに幹部のことを話してくれる。
もちろん、マギウスのことも名前には出さないが話すことはある。
三人いることは既に分かっている。一人は小説家で、一人はアーティストだ。
あの方に関してだけは注意深く話そうとしないが、羽根よりも年下だとわかっていた。
「マギウスの翼の幹部をやってらっしゃるんですよね?」
「はい、そして・・・宇宙社会学の辿り着く先も知っています」
玄谷は飛び上がった。知っているだって?
だが、すぐに冷静になってソファーに座りなおす。
知っているといっても、それが何になる?教えてくれないのは確実だ。
「・・・みふゆさん、僕は永遠にあなたの知っている答えに辿り着けないでしょう」
「永遠なんてことはないと思います。あなたもいつか辿り着くはずです」
そう言われると、何だか変な気分だった。
敵に応援されているような気がしたからだ。
だが、決して彼女は玄谷に解に辿り着いて欲しくないだろう。
どういうわけか、それは解放の邪魔になるらしいから。
「あなたもやちよさんと同じようなことを言うんですね」
「・・・やっちゃんにも宇宙社会学を教えたんですか?」
「ええ、同じ大学ですし、同じ授業を取っているので話す機会が多かったんです」
みふゆは少し取り乱したようだったが、すぐに落ち着いた。
おそらく、やちよの友人。それもかなり関わりが深い友人だろう。
「・・・やっちゃんは何か知っているんですか?」
「わかりません。彼女が何を考えて、僕に研究を催促しているのかわからないんです。
この前は関係ないものを研究してみろと言われたくらいですからね」
「・・・それはいったい何ですか?」
「魔法少女社会学というものです・・・が、宇宙社会学とは前提が違いますからね」
「話してください、その魔法少女社会学について」
彼女は顔を近づけて迫った。
その表情には不安が見てとれる。
みふゆは恐れているのだろう。やちよが真実を知ってしまったのかと。
「ええ、説明するので少し離れてください」
「あっ、すいません・・・はい、それではお願いします」
「では説明を始めますか。まあ、公理は宇宙社会学によく似ています。
公理その一、生存は魔法少女の第一欲求である。
その二、魔法少女は魔女を狩り続けるが、各地域における魔女の総数は常に一定である」
みふゆの表情が一瞬翳ったような気がした。
「・・・よく似ていますね」
「でしょう?あと二つの概念もよく似ているんです。
相互猜疑と、魔力衰退・・・後者の方はわかると思いますが」
「ええ、ワタシもそうですから」
まさか、よりにもよって目の前の女性がそうだとは思わなかった。
少し気まずくなってしまった。こういう話題はデリケートかもしれない。
いや、魔法少女社会学そのものがデリケートな話題なのだ。
魔女化の真実そのものが魔女化になることもあると羽根の子から警告を受けた。
確か・・・観鳥令という魔法少女がそう言っていたはずだ。
「・・・すみません」
「いえ、気にせずに続けてください」
「そうですね・・・まず、四つの概念の定義が必要です。
魔法少女における善意と悪意、さらに超善意と超悪意」
「・・・それってかなりあやふやな言葉ですよね?」
社会学も批判されることはあるが、一応は社会科学の分野に指定される。
だからこそ、ある程度用語は科学的に使わなくてはいけないのだ。
「ええ、ですから厳密な定義が必要となります。
善意は、一般人は積極的に助けますが、同じ魔法少女は助けません。
超善意はその善意のアップグレードで、積極的に魔法少女も助けます。
悪意は善意と同じように一般人を助けますが、魔法少女は助けないどころか攻撃します。
超悪意はもっともひどく、一般人にも魔法少女にも危害を積極的に加えようとします。
ここで捕捉しますが、超善意には基本的に相互猜疑が発生しません」
「じゃあ、超善意の子同士だったら仲良くできるわけですね」
「そういうことです・・・ですが、それ以外が問題なんですよ」
玄谷はカップを持ってソファーから立ち上がり、歩き回りながら話し始めた。
座って話すのも、何だか落ち着かなくなったからだ。
これは、あまり冷静に話せるものではないから。
「みふゆさんは初対面の魔法少女がどんな子かわかりますか?」
「・・・いいえ。でも、あまり悪い子はいなかったです」
「だとすると、みふゆさんは超善意に分類できますね。
・・・あまり気分のいい話ではありませんが、超善意の子が二番目に割を食うんです」
「一番目じゃないんですか?」
「・・・話を続けましょう。初対面では善か悪かはわかりません。
超善意の子と超悪意の子以外は、最初は疑問を抱くでしょうね。
相手は善意を持っているのか、悪意を持っているのか?
相手はこちらをどう考えているかわからないし、相手もこちらがどう捉えているかわからない。
ここで最初に脱落するのは、超悪意の子です。理由は・・・言わずともわかりますよね?」
「そういった子はあらゆる魔法少女を敵に回しますからね」
「この超悪意に関しては、僕の経験と常盤ななかさんからの話を参考にしました。
ただ、マギウスの翼は超悪意と悪意の中間であることを留意してください」
ななかはやちよと同じように噂を聞いて調整屋にやってきたのだ。
彼女はまじまじと玄谷を見つめると、安心したような表情をして去っていった。
みたまに聞くと、彼女は敵を見極める能力を持っているそうだ。
今のところ、ななかという魔法少女からは怪物とは見なされてないようだ。
「・・・一般人はどうやって定義するんですか?」
みふゆはこちらをじっと見据えていた。
玄谷はあやうくたじろぎそうになったが、すぐに持ち直す。
彼女の言わんとしてることは理解できた。あなたは一般人じゃない。
「えっと、とにかく話を続けましょう。それは重要ではありませんから。
・・・ここで残ったのは超善意と善意、そして悪意の魔法少女です。
さて、問題は超善意と善意・・・とくに善意の子たちで発生します。
善意の子たちは誰が善意の仲間なのかわかりません。
たとえ、相手がもし善意であったとしてもです。
そして、そうした相互的な猜疑が魔法少女の間に発生します。
これが相互猜疑です。会う前も会った後も、相手のことを疑わなくてはなりません」
コーヒーを飲んで、話を続ける。
「では、みふゆさん。あなただったらどう行動しますか?」
「・・・会った後でも、話はできます。
ですが、それだと・・・第一公理に反するかもしれないんですよね?」
「ええ、その通りです。姿をさらすというのは、代償が伴います」
「じゃあ、話しかけなければ・・・」
「それで本当に通用すると思いますか?」
「・・・駄目ですね。こちらが発見した以上、相手もこちらを発見しますね」
「ここで魔力衰退と公理二を導入しましょう。
前者はすぐには問題になりませんが、公理二は問題です。
最初、僕はこれを魔女化により魔女の数は維持されるという意味だと思っていました。
でも、それは見当違いでした。各地域には、一定数しかいないんです」
「・・・確かに神浜市の魔法少女もそれで東西に分かれていました」
「そして、魔法少女は魔女を狩り続ける。訪れるのは魔女不足です。
長い間、魔力を節約すればいいのですが、それもいつかはガタが来るでしょう。
なんといっても、魔力は年を経るごとに衰退するんですからね。
そうなると、不足した魔女を狩ることでなんとかしなくてはいけません」
「・・・それが結論ですか?対話も、沈黙も役に立たない。
そして、いずれ魔女は不足するうえに、魔力は衰退していく。
でも、生きるためにはグリーフシードが必要で・・・その先は、地獄じゃないですか」
「地獄ですね。さっき言った通り、超善意の子が二番目に脱落します。
善意や悪意の魔法少女がそういった子たちの手に入れたグリーフシードを奪うんですから。
でも、そうなると善意と悪意の魔法少女の区別なんて付かなくなる。
次に起こるのは、善意の魔法少女同士による猜疑による殺し合いですね。
その選別の途中で、何人かは魔女化してしまうでしょう。
勝者は悪意の魔法少女ですね。彼女たちは最初から自分の生存を優先したんですから。
これが魔法少女相互攻撃理論です。これが・・・魔法少女の社会の全体像なんです」
話し終わると、コーヒーを一気に飲み干した。
「・・・そして、これは宇宙文明には適用できない」
すると、みふゆは驚愕した表情でこちらを見た。
あなたはいったい何をのたまっているんですか?
「魔法少女は個人ですが、文明は集団なんですよ?
社会という概念もあり、経済という概念だってある。
それに長い目で見れば、文明というのは永遠に成長します」
「・・・あなたは何もわかっていません。
何もわかっていないのに、あなたはやっちゃんに話した。
あなたは優しかった。でも責任感というものはなかった。
そして、やっちゃんはこの宇宙の真実に気づいてしまった」
彼女は変身して、巨大なリング状の武器を構えた。
「・・・正気ですか、みふゆさん?ここは調整屋ですよ」
「宇宙の真実を知った以上、やっちゃんも狙われることになる。
あなたがやっちゃんを結局は殺してしまうことになった。
ワタシはそれを許せない。ここがどこだろうと、あなたには死んでもらいます」
駄目だ。これは話が通じない状態だ。このままでは殺される。
だが、今回も玄谷は達志に助けられた。
彼が急に室内に入ってきて、彼女の腰にドロップキックをかましたのだ。
そして、達志は倒れたみふゆの頭を床に何度も叩きつけた。
「・・・財布と例のノートだけ持って、急いで逃げるぞ」
「・・・はっ、はい!」
彼の言う通りに自室から財布とノートを持ってきた。
みふゆは呻き声を上げながら、まだ動こうとしていた。
「心配すんな。魔法少女はソウルジェムをやられん限りは死なねえよ」
「・・・わかっていますが、気分のいいものではありません」
玄谷はハンカチだけをみふゆのために置いていった。
せめてもの餞別であった。
「まったく、お前は優しすぎるよ」
「ええ、自覚はしていますよ」
調整屋の建物の入口には車が停まっていた。
その車には里見メディカルセンターと書かれていた。
「おっさん、無事に保護したぞ!」
「よくやってくれた。早く乗りたまえ」
運転していたのは、里見メディカルセンターの院長だった。
里見家は星ノ森家の投資により成功した一族である。
その縁あってか、プライベートでは非常に仲が良い。
ただし、アカデミックな面では非常に仲は最悪である。
車に飛び乗ると、前に黒羽根の子たちが現われた。
発進させまいとしているのだ。だが、達志の判断は非情だった。
「おっさん、アクセル全開」
そして、院長の判断もまた非情なものであった。
「よしわかった!」
彼の言う通り、院長はそのまま魔法少女たちを撥ねていった。
玄谷は大きな罪悪感に囚われた。自分のせいで、二人がこんなことをしでかしたから。
「・・・おじさん、ありがとうございます」
ごめんなさい、という言葉はどういうわけか出せなかった。
本当はそう言いたいのに、喉から出なかったのだ。
それを言ったら、二人に逆に申し訳が立たないような気がした。
「いいんだ、玄谷くん。礼を言うのはこっちだ。
昨日、智子さんが私の視界に直接メッセージを映し出したんだ
信じられないと思うが、本当のことなんだ」
「智子さんが?まあ、不思議ではありませんね。
あの人だったら、どんなことでも可能でしょうから」
智子は万能人というのが、星ノ森家の共通見解であった。
なお、霧峰村が彼女の命を狙うのもそれが一因であろう。
神のごとき力を持つ彼女を恐れるのは、もしかすると正常かもしれない。
恐れないどころかご近所さんとして扱う星ノ森家はもしかすると・・・。
「それで君の置かれている状況や魔法少女のことを知ったんだ。
私の頭の中の常識というものがあっさりと崩れ去ったよ。
すぐに弟に謝罪のメールを出したよ。弟は正しかったんだから。
でも、弟はここ最近音信不通だったから、姪の那由他に電話をかけた。
ちょっぴり怒られたけど、すぐに許してくれたよ。というか、彼女も魔法少女だったし。
そんな彼女から君に伝言だ。絶対に生き延びてくれってね」
那由他とは何度も会ったことがある。
文系の彼女とはよく意気投合したものだ。そんな彼女も魔法少女であったとは。
そういえば、彼女の父親の里見太助は変わったものを研究していたらしい。
そのことでよく智子に相談しに来ていて、那由他も彼に付いて来ていたのだ。
今思えば、太助の研究対象とは魔法少女だったのだろう。
「ところで、今からどこに行くんですか?」
「クレセントハウスだよ。君も知ってるだろう?」
玄谷も噂で聞いたことはある。
里見家や神浜市の要人のために作られたシェルターとのことだ。
住居としての設備、管理用のスーパーコンピューター、メディカルエリアが完備しているらしい。
なお、星ノ森家はアカデミック的な対立が原因で立ち入りが禁じられていた。
どうせ智子が何とかしてくれるだろうという自信もあったからなのだが。
「まさかよりにもよって僕が使うことになるとは・・・」
「まあ、今は対立なんて気にしてられないからね。
安心してくれ、達志くんや里見家の人間以外は近寄らせないから。
それにしても、今日と昨日の二日間で、私の世界はすっかり変わってしまったよ」
院長は苦笑しながらハンドルを回す。
世界がすっかり変わったのは玄谷だけではなかった。
その事実だけでも、心の慰めになるような気がした。
それに、無事を祈ってくれる人間だっている。
ここで諦めてなんかはいられないのだ。
やるべきことは敵から目をそらさないこと。それだけだ。
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理解できない感情
玄谷はクレセントハウスに来てから沈黙することが多くなった。
もちろん、たまに来てくれる達志と院長以外に話し相手がいないという理由もある。
だが、宇宙社会学についてもっと考えてみる必要もあったからだ。
ここ最近はクレセントハウスをずっと歩き回りながら考える状態が続いている。
思考という名のリソースのほとんどを宇宙社会学に割り振っていた。
やちよは知っているし、みふゆも知っている。
おそらく、マギウスも知っているだろう。知らぬは玄谷だけ。
智子は何のヒントも出してくれなかった。
達志がたまに会いに来てくれる時以外は、孤独に思索にふけっていた。
そんな玄谷の様子を、水滴インキュベーターはずっと監視していた。
いったい、誰がどうやってこんなことをしでかしたのかも、理解していた。
だが、それを特に報告することはなかった。命令が届いていないからだ。
あくまで、母星も今回の件を危険視はしていなかった。
問題は、『彼女』だけだったからだ。
水滴インキュベーターもそれをよく理解していた。
彼女の策動はこちらに大きな損害を与える可能性があるのだから。
今までも、彼女のせいで大きなエネルギーの回収が失敗に終わったことが何回もある。
だから、今回はより注意深く監視する必要がある。
彼女の一挙手一投足で、莫大なエネルギー回収が左右されるのだから。
感情の芽生えつつある水滴インキュベーターは何か大きな負担を感じるようになった。
これを説明する単語は地球に存在した。そう、ストレスだ。
水滴インキュベーターは感情に関する語彙は以前から知ってはいた。
だが、本格的に理解するようになったのは三体星系における任務からであった。
そこに遺されていた(今の宇宙の方の)三体世界の遺産は実に感情豊かであった。
水滴インキュベーターはそうしたものを調べるうちに感情を理解しつつあった。
まあ、三体星系に回された時点で感情を理解できる素養はあったということなのだが。
「それでもなお、ボクには理解できない感情があったんだ」
水滴インキュベーターは深夜のウォールナッツにどういうわけかいた。
理由は水滴インキュベーターにもわからなかった。
ただ、気の向くままにふらついていたら、この店にいたのだ。
「ここは消化器官を持つモノ以外お断わりですよ?
こんな深夜に今の長話をしに来ただけなら、叩き割るですよ?」
胡桃まなかの言うことはもっともであろう。
水滴インキュベーターはどこからどう見ても食事ができそうにない。
なお、
そういうわけで、魔法少女の情報については共有できている。
「安心してくれ、一応口はある。オムライスを頼むよ」
「そういう問題じゃねーですよ。
というか、見た目は綺麗な水滴なのに、
たぬきちに似たような顔が付いてるせいで色々台無しですよ。
お前、あれといったいどんな関係性なんですか?」
「ボクは一種のエラー個体なんだ」
「それでそんな見た目に・・・」
まなかは憐れむように水滴インキュベーターを見た。
「いや、つい最近までは君の知っている見た目だったさ」
「心配して損したですよ」
「どうも辛辣だね」
そんな態度のまなかも、一応はオムライスを作ってくれた。
水滴インキュベーターは他のインキュベーターと同じように食べた。
普通のインキュベーターも手は使わないし、水滴インキュベーターはそもそも手がなかった。
「・・・これが旨いという感覚か。
一応、
その結果をダウンロードしてみたんだけど・・・なるほど」
「そふぉんって何ですか?」
「陽子一個分のスーパーコンピューターさ」
「科学の勉強をやり直したらどうですか?」
「そうはいっても、本当にあるんだから仕方ないだろ?
地球の科学力ではまだ無理だね。十一次元に介入もできないんだし」
まなかはむきーっと怒ったが、水滴インキュベーターはそれを無視した。
それよりも、大事な話題が二つあった。一つは、代金の話だ。
レストランで食事をしたらお金を払うのは、インキュベーターも知っている。
「代金は
「おめーはまず罪悪感という感情を知れです。立派な犯罪じゃないですか」
そう言いながらも、彼女は水滴インキュベーターの口を吹いてあげた。
その時感じたのは、水滴インキュベーターの体から滲み出る冷気だった。
どういうわけか、彼の体は冷え切っているのだ。
「本当に氷みたいですね」
「氷というわけじゃないさ。ボクの今の体は強力な相互作用で構成されてる。
君たち地球人が知っているものだったら中性子星に近いね。
まあ、その影響で本当は絶対零度に近いんだけど、今は膜を張ってるから大丈夫さ」
「おめー存在自体が危険物じゃないですか」
「ひどいや・・・とにかく、本題に入ろう。ボクは自分でも理解できない感情を抱いているんだ」
「もう帰ってほしいと言いたいところですが、仕方がないですね」
まなかも椅子に座って、水滴インキュベーターの相談に乗ることにした。
「ここに来てから、ボクはとある魔法少女を見つけたんだ。
その子は・・・なんて例えればいいんだろうか。
あまり感情に満ちた語彙を使わないせいで、上手く説明できないんだ。
いわゆる、可憐な花っていうのかな・・・?」
「少なくとも、莉愛先輩じゃないってのはわかりました」
「あれは君の先輩じゃないのかい?・・・とにかく、そういった子なんだ。
実際、普段から花を模した髪飾りを付けているというか・・・。
その子の爽やかな草原のような髪も相まって、本当に一輪の花のように見えるというか」
「はいはい、髪は緑色で花の髪飾りを付けていると・・・それで他には?」
まなかは聞きながらメモを取った。
「他には・・・そうだ、その子は本当に顔が広いんだよ。
彼女は懐が深いというか、色々な魔法少女とうまくやっていっているんだ」
水滴インキュベーターはそのまま話し続ける。
「その子は本が好きで・・・色々なことを知っているんだ」
まなかは一瞬、そいつに聞きやがれですよ、と言いたくなった。
だが、すぐにそれが駄目だと悟った。
これは感情を抱いている対象に聞けないものだ。
「でも、意外な一面もあるんだ。その子は、ラーメンが好きなんだ」
「ほう、ラーメンですか」
「うん、その子は読書以外にラーメンの食べ歩きも趣味なんだ」
まなかはそれを太い字でメモした。特定するのに重要な手がかりだ。
「・・・最後に、、全人類の中で罪がないのは、その子だけのような気がするんだ」
「なるほど・・・よくわかりました。
おめーの抱いている感情は、恋というものです」
「恋?三体世界の遺跡で似たような単語は見たけれど・・・」
「その三体とかは知らねーですが、それは正しく恋ですよ。
人間だったら胸が締め付けられる感覚になりますが、おめーはどうですか?」
「なるほど、確かにボクの中の回路がたまに軋むけど、
思えば、その子のことを考えたり見てるときに多かったね。
それじゃあ、ボクはどうすればいいんだい?」
「それはおめー自身で考えろです」
なお、似たようなことをやちよに言われた玄谷はソファに倒れ伏していた。
完全に何も思いつかないのだ。魔法少女相互攻撃理論がさらに足を引っ張った。
あれは関係ないはずだ。魔法少女と文明は比較対象にすらならない。
それなのに、どうしてやちよはそんなことを提案したのだ?
・・・冷静に考えてみよう。そもそも、本当に彼女の出した解と同じなのか?
やちよの出した答えと、自分の出した答えは本当は違っているのかもしれない。
・・・じゃあ、みふゆのあの狼狽えようは何だったのだ?
それこそ、魔法少女相互攻撃理論が宇宙社会学と関わりがあることを示しているのでは?
そんな堂々巡りが、永遠に続いていった。
「よお、やっぱり難しいみたいだな。最近寝てないだろ?酷い顔だぞ?」
「達志先輩・・・あなたこそ酷い顔ですよ」
「ももこにやりすぎだって殴られたんだ。
それより、朗報だ。外出許可が出たぞ。
今から、ちょっと外に出よう」
「本物の先輩ですか?」
偽物が外におびき出そうとしているのかもしれない。
そう考えた玄谷は睨むことしかできなかった。
「待て、魔法少女の変装なんかじゃないぞ。
もし俺の偽物だったら、そいつは今頃お前を殺してるだろうし」
「それもそうですね。すみません」
「よし、それじゃあ海でも歩くか!安心しろ、護衛も付いている。
里見グループの護衛たちが臨海公園を守ってくれてるんだ」
玄谷も地下の中で暮らしていて、そろそろ外の空気が懐かしくなっていた。
少し危険かもしれないが、ここは外に出てみよう。
もしかしたら、この膠着をどうにかして打破できるかもしれないから。
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暗い宇宙
暖色系の光に照らされた臨海公園は玄谷の心を癒してくれた。
公園は深夜でも人が訪れるらしいが、達志によると護衛が人払いをしてくれたらしい。
だから、こうして二人でゆっくりと散策することができた。
今は宇宙社会学のことなど頭からすっかり追い出されてしまっていた。
こうしていると、宇宙の真理なんて大したことじゃないような気がする。
「やっぱり外に出て良かったろ?」
「ええ、そうですね」
だが、すぐに宇宙社会学に思考は引き戻された。
砂浜の方にいくと、少し明かりが弱まって、星空が綺麗に見えたからだ。
玄谷は自分と同じように星空を見上げている異星人を思い浮かべた。
人間と同じ見た目なのか?人類に幼年期の終わりを告げた種族と同じ見た目なのか?
どんな種族であろうと、星空を見上げて、何かに思いを馳せることだろう。
こんな綺麗な星空に、あの方やみふゆはどんな暗い真実を見出したというのか?
星といえば、里見灯花のことを思い出した。
彼女は病弱だったが、宇宙に関する知識は人一倍あった。
いや、人一倍というレベルでない。その分野の第一人者と話せるレベルだ。
そういえば、彼女は宇宙社会学を知っているだろうか?
神浜市に来たばかりのころに、彼女の父親に話したことはある。
智子が発案したということは着目していたが、それでもサブカルの域を出ないと言っていた。
もし彼が灯花に話していたら、賢明な彼女はすぐに宇宙の真理とやらに辿り着いただろう。
いつの間にか達志は裸足になって、足を波につけていた。
玄谷もそれに習って、靴と靴下をできるだけ安全な場所において、裸足になった。
海水のひんやりとした心地よさが実に素晴らしかった。
夜風と海水のもたらす冷たさが、ますます玄谷の思考を冴えわたらせた。
彼の頭上の星は、ますます純化されて独立していくようだった。
すぐ近くにあるように見えて、実際は生きているうちには手が届きそうにないものだ。
そして、その手の届かない光の一つ一つの周りを惑星が回っている。
その惑星のいくつかには生命が宿り、さらには進化した生命が文明を築くだろう。
文明は地球と似た、または少し違った歴史を辿っていくかもしれない。
でも、いつか直近の天体、たとえば地球でいえば月のような衛星に着陸するだろう。
そして、彼らはこう考える。宇宙というのはなんて広大すぎるんだ!
こうして地球と同じように宇宙開発は長い停滞期に入るのかもしれない。
1光年を越えるのにも、多大な努力と年月を代償にする必要がある。
こうした思考が数十秒間展開されたことで、玄谷はあることに気が付いた。
宇宙文明も、魔法少女も、孤独だ。
宇宙文明は他の宇宙文明に会えるかどうかは、まさに天文学的確率だ。
魔法少女は契約した途端に、新しい世界に孤独に生きることになる。
このことが、思考を新たな段階に導いた。
文明は他の文明と会った時、本当に平和的な交流を始めるのか?
生存は文明の第一欲求である。
いや、それは第一公理に反している。相手は敵意を持っているかもしれない。
ならば、沈黙すべきか。否、こちらが見つけた以上、相手もこちらを見つける。
では、相手が弱い文明だった場合、放っておくべきか?
技術爆発
駄目だ。数千年放っておくだけで、相手は神のごとき文明に成長しているだろう。
地球の歴史は45億年。そして人類はこれまでにおよそ25万年もの歴史を歩んできた。
さらに特筆すべきはその末端の4000年で、さらにその末端の200年で技術は爆発的に進歩した。
200年など、宇宙的に見ればあっという間だ。まさに爆発といったほうがよい。
しかし、金持ち喧嘩せず、という言葉がある。文明もそうはできないのだろうか?
文明はたえず成長し拡張するが、宇宙における物質量の総量は常に一定である。
いいや、それも駄目だ。宇宙は大きいが、生命はもっと大きい!
数百万年のうちに、もしかすると人類は銀河系全体に広がるかもしれない。
そうでなくても、他の文明も同じように広がっていくだろう。
その時、資源はどうなる?答えは簡単、不足する!
だが、こちらも争う気はないし、相手も争う気は・・・まて、どうしてわかる?
玄谷は思考を進めるうちに、大きな波を浴びて、倒れたのにも気付かなかった。
しかも、少し深いところまで流されてしまった。だが、それが思考を促進した。
彼は真の暗闇を体験した。それは、宇宙の暗闇だった。
猜疑連鎖
相手がこちらをどう考えているかわからない。相手もこちらがどう考えているかわからない。
さらにこちらは相手がその状況をどう考えているかわからず、相手も・・・。
これは地球では決して発生しない。なぜなら、地球は光年に隔てられていないからだ。
だが、宇宙は隔てられている。コミュニケートは基本的に何かない限り不可能だ。
そもそも、コミュニケートは生存の危機だし、沈黙も同じだ。
文明が民主主義であろうと全体主義であろうと、生存は第一欲求だ。
ならば、どうする?どうすればいい?どうすれば生き残れる。
コミュニケートも沈黙も、役に立たない。
だったら、方法は一つじゃないか。
魔法少女はお互いがお互いを認知してから攻撃に入る。
しかし、宇宙文明ではそれは自殺行為に等しい。
だから、決して相互攻撃にはならない。先制攻撃だ。
玄谷は沈黙したまま、砂浜に這い上がった。もはや星空は見上げていなかった。
もう見上げる勇気もなかった。玄谷もまた星空恐怖症に罹患した。
だが、持ち前の楽天性からか、彼のそれは非常に軽度だった。
それでも達志は玄谷が何か変わったことに気付き、そして察した。
彼はついに宇宙の真理に辿り着いたのだ。
「達志先輩、院長に連絡してください。宇宙に詳しい子が必要です」
「お、おーけい・・・大丈夫か?」
「ああ、僕は大丈夫ですよ。それより、早く戻らないと」
そして、視界にある文字が表示された。
KIC8462852 これがインキュベーターの母星の座標
そういえば、院長も視界に智子からのメッセージが表示されたと言っていた。
色々と詳しい白羽根の何人かから聞いたが、キュゥべえは異星文明の端末らしい。
そして、本当の名前はインキュベーターであるとも。
智子と玄谷は相手の座標を知っているし、インキュベーターも地球の座標を知っている。
理由はわからないが、インキュベーターは地球を攻撃しない。
この宇宙の暗さにまさか気付いていないのか?だが、それは好都合だ。
彼らの生存権は、今まさに玄谷が握っているのだから。
・・・彼は知らないが、水滴インキュベーターもまたこの様子を確認していた。
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求められ、下した決断
水滴インキュベーターは決断を迫られた。
玄谷は明らかに宇宙の真理に辿り着いてしまった。
彼が選ぶ行為は二つであろう。
一つは、楽観的な性格で宇宙に陽光をもたらそうとする行為。
これは地球にとって、破滅的な結果をもたらすことになるかもしれない。
そうなると、水滴インキュベーターが恋をしている少女にとっての救いは一つ。
その破滅的結果を体験する前に、寿命で死ぬことである。
二つ目は・・・玄谷が母星を破滅に追いやる行為。
これはもはや喫緊の問題であった。事実、彼の網膜に座標が映し出された。
KIC8462852。これは地球式の座標だから、他の文明には通じないだろう。
しかし、宇宙で場所を示すにはもっといい方法がある。
そして、その方法自体は地球人をとっくに考案はしている。
ただ、今までやってこなかっただけだ。
よりにもよって、考案したのは星ノ森家の学者であるのがもっと問題だ。
このままでは、母星文明は確実に滅びるだろう。
その場合、魔法少女をしばらく増やせなくなり、魔女の枯渇は確実だ。
だが、その場合は問題ない。
それどころか、とっくに水滴インキュベーターは半ば無意識にそうした。
・・・だが、母星に対する責任をどう考えるつもりだ?
「・・・そりゃ暗い眺めだな」
「真実の宇宙は、ただひたすらに暗いんです」
新しい服に着替えた玄谷は達志に宇宙の真理について説明していた。
宇宙の暗さを実感するためか、明かりは最低限になっている。
まるで太古の宇宙社会学者がそうしたように、彼もそうしていた。
「それで、KICだったか?そこか奴らのハウスなんだよな?」
「ええ。でも、それを活用するために、座標送信の方法を考えないと。
そのために、また数日中に天文学に詳しい人を読んでもらうつもりで・・・。
いえ、待ってください。あの方法があったじゃないですか!」
ああ、ついに母星を破滅に追いやる方法を思い出してしまったようだ。
件の天文学者が考案した座標発信法の存在を、思い出してしまったのだ。。
それはマークしたい恒星と他の星の相対的な位置関係を含むメッセージを送信するというもの。
この方法は受信者となる文明が高度でなくてはいけないという制約がある。
しかし、高度な文明など山のようにあるのだ。
「ちょっと待ってください・・・もしもし、ええ、僕です。
さっきのですが、来てもらう必要はないかもしれません。
僕の親戚が思いついた、座標発信法を利用するだけでいいかもしれません」
タイムリミットは刻一刻と迫ってくる。
水滴インキュベーターの任務は観測だけにすぎない。
だが、それでも責任というものがあるはずだ。
この地球にも長い歴史があるように、母星にだって長い歴史がある。
もはや何十億年も前だが、二つの恒星が星間雲の中で誕生した。
そんな恒星たちの傍に、一つの惑星が誕生した。それが母星だ。
最初の五億年間は、まさに地獄であっただろう。
まだ赤ん坊のころの惑星には同じように赤ん坊の海が存在した。
その海は降り注ぐ隕石や真紅の稲妻で常に煮えたぎっていた。
一つの奇蹟が起きた。ある原子と原子が結びついたのだ。
それが、有機生命体の始まりだった。
「・・・えっ、もう呼んじゃったって?」
最初はごく小さな、細胞ともいえぬような生命体だった。
だが、それは少しずつ進化を進めていった。
やがて有機生命体はいくつかのタイプに分かれた。
地球の分類でいえば、独立栄養生物と従属栄養生物だ。
独立栄養生物は植物に、従属栄養生物は動物に・・・。
「ああ、あの子ですか。すごく興味深々だったんですね。
そうでしょうね・・・何しろ、あの子の好きな分野ですし」
最初に陸に上がったのは植物だった。その次は動物だ。
それからは、また地球と違うようで同じような生物史をたどっていく。
地球と違うのはふたつの太陽があるのと、ある生物が生き残り続けたこと。
それは巨大な陸生菌類で、地球でいうプロトタキシーテスに非常に似た生物だ、
その生物は地球と違い、文明史が始まるまで生き残り続けた。
いくつものスパンの後、ある生物が進化を始める。
その生物は初めて『虚構』を手にしたのだ。
『虚構』というのはすなわちフィクション。概念ともいう。
地球でも同じことが起こった。神、国、正義、信念・・・これらは物体として存在しない。
地球人が物体として存在しないものを信じたように、その生物もそれらを信じた。
そして、彼らは自らの信じる概念を周囲の現実に当てはめるようになった。
神という概念が当てはめられたのは、件の巨大菌類だ。
周りのものを吸収し、枝分かれすることなく成長する姿に神秘性を感じたのだろう。
動物の肉や収穫をささげていた生物は、だんだんと進歩していった。
彼らの信じていた神も、いつの間にか芸術の対象となっていった。
「えっ、もう向かってる?まあ、善は急げですからね」
品種改良や遺伝子改良により、巨大菌類の塔は華やかになった。
発光遺伝子を組み込まれた菌類の塔は、繁華街を照らしていった。
ニューヨークのロックフェラーセンターのクリスマスツリーのように。
菌類だけではない。高層ビルの光もまた母星の夜を照らした。
それから数百年もすると、今度は宇宙船の光が母星を照らすようになった。
非常に享楽的な文明が築かれた。彼らは人生をひたすら楽しんだ。
地球人が見れば、こう思うだろう。私たちよりもなんて自由で豊かで明るいんだ。
彼らの発展は永遠に続くかと思われた。曲率推進と空間牽引がそれを後押しした。
遠く離れた星に一つ、道楽的に植民地まで築かれた。
そのときから、母星は母星世界と呼ばれるようになり、植民地は植民地世界となった。
だが、感情豊かな黄金時代は一つの
「達志先輩、もう来てくれているようですよ」
「そりゃよかったな」
瓶というには不適切だろう。何しろそれは箱型で、金属製だったのだから。
そこから発されていたニュートリノ・ビームはこの宇宙の前身に関する情報を伝えていた。
彼らはそれを受け取り、そして知ってしまった。
最初はなんということはないような反応を見せたが、本当は違った。
彼らは暗い宇宙の真実を知ってしまった。そして、精神は確実に蝕まれていった。
彼らはもはや享楽的な文明を手放すようになった。
手放したのは文明だけではない。感情も手放すようになった。
この暗い世界で正気を保つために導き出された結論だった。
同時に、とある信仰心が彼らの精神的支柱となった。
この暗い宇宙でも、自分たちは今まで生きてこれた。それは宇宙が受け入れてくれたからだ。
ならば、今こそ宇宙のために奉仕しよう。この巨大菌類のごとき宇宙で。
こうして母星世界は感情なき信仰者と化した。
一方、植民地世界はそこまでショックはなかった。
それどころか、母星世界の変貌を常に非難してきた。彼らの言い分はこうだった。
人生を楽しむのは、いつか人生が終わるからだ。
ならば、この宇宙も楽しもう。この宇宙もいつか終わるだろうから。
こうして交流はだんだんと少なくなっていった。
いまや交流といえば、精神が芽生えた者を植民地世界に追放するぐらいだ。
母星世界は銀河各地に植民地世界以外にも隔離世界を設けた。今の三体世界もその一つだ。
こうした情報は、隔離される前に知ったものだ。
「それで、奴らのハウスをどうするつもりだ?」
「さあ?まだ決めていませんね。これは非常に大事なことなので」
母星世界の数十億年にもわたる荘厳な歩みが、もうすぐ止まろうとしている。
何もかもが、消えてしまうだろう。植民地世界や隔離世界をのぞいて。
そこで水滴インキュベーターはあることをようやく思い出す。
母星文明も地球に対する暗黒森林抑止を有していたことを。
玄谷がどっちの手段を選ぶにしても、地球の破滅は避けられなくなる。
もしかすると、あの少女が生きている間にそれが来るかもしれない。
「・・・僕は今から来る子にある程度ぼかしながら聞くつもりです」
たくさんの眼に見つめられている気分だった。
今まで存在した多くの生物の眼が水滴インキュベーターを見つめていた。
そして、その中には母星世界の人々の眼もあった。
ここで何も行動を起こさなかったら、地球も母星世界も破壊される。
でも、行動を起こしたら、状況は維持され、両方の星はこれからも永続する。
少女もまた、ソウルジェムに仕込まれた
「・・・久しぶりだね、玄谷兄さま」
「灯花、久しぶり。よく来てくれたね」
だが、達志は即座に構えた。
「・・・下がってろ、玄谷。よりにもよって、こいつかよ」
水滴インキュベーターは安堵した。行動を必要はないかもしれない。
玄谷にばかり注目していて気づかなかった。
マギウスの一人、里見灯花が直接決着をつけに来たのだ。
「くふふ、バレちゃった。そうだよ、わたくしも魔法少女なんだ。
そして、マギウスの一人なんだよ?驚いたよね?」
「・・・」
玄谷は数秒間何も言わなかった。だが、数秒間の沈黙の後に口を開いた。
「KIC8462852。智子さんによると、それがインキュベーターの文明の座標らしい。
灯花、教えてくれ。君だったら、どうするつもりなんだ?僕にはどうも決められない」
玄谷の言葉に、灯花は口をぽかんと開くだけだった。
これは水滴インキュベーターにとってもある意味予想外だった。
彼は敵の眼を見つめることはできるが、その後の決断はできなかったのだ。
だが、すぐに灯花はもとの調子に戻った。
「・・・くふふ、そんなのもうどーでもいいよっ。
よくよく考えたら、玄谷お兄さまは楽天的すぎるけど、度胸はないだろうし。
それより、わたくしたちはもっといい方法を思いついたんだ」
「へえ、いい方法か。ウワサなんてもの作ってどうするつもりなんだ?」
「それはひみつ!」
玄谷はここしばらくクレセントハウスにいたので外の様子を知らなかったのだ。
神浜市ではウワサという存在が出現し始めており、あちこちで害を及ぼしていた。
達志も環いろはという魔法少女と協力し、その原因について追っていたのだ。
水滴インキュベーターはマギウスの企みについて知っていた。
だが、それは一般人や魔法少女に犠牲を強いる計画であった。
これを外部で把握しているのは『彼女』と水滴インキュベーターぐらいだろう。
だが、玄谷はさらに灯花と水滴インキュベーターを驚かせた。
「一般人や魔法少女の負の感情を集めて、それをエンブリオ・イブの孵化に利用、ですか」
間違いない。『彼女』が玄谷の網膜神経にマギウスの計画を映し出したのだ。
「ど、どうして・・・」
「智子さんが教えてくれたんですよ、僕の視界に映し出したんです」
「智子さん・・・ああ、あのよくわからない人のこと?
やっぱり、前から聞いてはいたけど、わたくしたちの邪魔をする気なの?」
灯花は虚空に向かって話しかけた。
「ねえ、あなたが何をしようとしているのか知らないけど、
わたくしたちの解放の邪魔をしないでほしいの」
数秒の沈黙の後、『彼女』の
目に見えるように現れた球体に表示されたのは、たったの十四文字であった。
宇宙はおとぎ話じゃないからよ。
『彼女』の言う通りだ。宇宙はおとぎ話なんかじゃない。
「あなたはずっと魔法少女を見殺しにしてきたんでしょ?
わたくしも聞いたことがあるもん。数百年前からあなたが生きてるって。
その間、ずっとインキュベーターを放置していたんでしょ?
しかも、わたくしたちの解放の邪魔までしようとしてるじゃん。
ねえ、わたくしたちにだって生きる権利はあるんだよ?」
ええ、そうでしょうね。生きる権利は誰にだってある。
でもね、あなたの生存権のために、他の人の生存権が侵害されることは許されない。
「・・・何様のつもりなの?」
「玄谷、このガキ、ブーメランって言葉知らないのか?」
「あの父親にして、この娘ありですよ。仕方ありません」
私はただ、やるべきことをやっているだけ。
もうすぐ神浜市を訪れる予定よ。そこで話をしましょう。
その時、あなたはようやく大事なことを思い出してるはずだけど。
そして、低次元展開された
もとの十一次元状態に戻っていったのだ。
「・・・玄谷お兄さま、余計なことしなければ見逃してあげる。
あと、もうすぐ神浜市から逃げたほうがいいよ。
わたくしたちは、ワルプルギスの夜という魔女を呼び出したから」
彼女のそばに穴が開いた。保澄雫という魔法少女の空間結合によるものだ。
彼女はそこからホテルフェントホープに帰っていった。
「どうするんだ、玄谷?」
「どうしようもありませんね。ただ、灯花を止めないと」
「止めるってどうやって?」
「いい方法がありますが、それはやはり秘密です」
面壁者だ。ここに一人の面壁者が誕生したのだ。
彼はまさに、太古の面壁者たちのごとく、自らの思考に鍵をかけた。
水滴インキュベーターは自らに二つの任務を課した。
一つは、彼が少女の命を奪うようなことがあったら、彼を殺してでも食い止めること。
二つ目は、すぐに終わった。ネットワークに保存された地球の座標の一部を書き換えたのだ。
これにより、地球が暗黒森林抑止を実行しても、母星世界はなんの反撃もできなくなる。
地球の座標だったデータを受け取った文明は、永遠に地球を発見できなくなる。
しかも、もしデータを復旧しようとしても、
ついに水滴インキュベーターは母星世界を完全に見限ることに成功した。
もうあんな世界に責任なんて感じていなかった。もう、うんざりしていた。
母星世界が消えた後、いったいどうするべきか?三体世界に戻るべきか?
植民地世界や隔離世界をゆっくりと周遊するのもいいかもしれない。
死ぬことも一応はできる。いくつかの手順を経て、自己停止するのだ。
そういえば、植民地世界や隔離世界には墓碑という文化が今も残っているらしい。
もし墓碑が与えられるとすれば、そこにはこう書いてほしい。
来た。愛した。そのために母星世界に審判を下した。去った。
どちらにせよ、地球からは離れる予定だ。
少女が見た目を気にする人間じゃないってのは知っている。
でも、この見た目で愛を伝えられても、彼女に迷惑をかけるだけだろうから。
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座標をたずさえ、そして穏やかに話せ
太古の面壁者のごとく、玄谷は自らの計画をクレセントハウス外部に露わにしなかった。
水滴インキュベーターはとくに気にかけなかったが、彼の真意には気づいていた。
太古の三体人と違い、インキュベーターは謀略を理解できたからだ。
気にかけなかったのは、それが成功するからであり、なおかつ少女に害がなかったからだ。
そこもまた、太古の三体人とは真逆だった。彼らは失敗するから気にかけなかったのだ。
だが、今は太古の三体人など気にする場合ではないだろう。
玄谷は今までと同じようにクレセントハウスにいた。だが、真理を知る前とは違っていた。
彼はクレセントハウス内で、ずっと智子と遠隔で計画の調整を続けていた。
そして、来たるべき日のためにずっと、ずっと計画を練り続けていた。
こうしている間にも、ウワサは撃破され、マギウスたちもいよいよ歯止めが効かなくなってきた。
彼女たちはついにあることを決定した。神浜市に住む魔法少女の殺戮だ。
マギウスが危惧したのは、いろはたちの行動が他の魔法少女たちにも伝染することであった。
攻撃開始はおよそ二時間後。そして、玄谷も
もはや計画は完全に練られあげられたものになっていた。
玄谷は倉庫に向かい、拳銃を取り出した。有事のために備え、最低限の武器が用意されていた。
拳銃に弾を装填すると、達志に電話をかけた。計画のためだ。
「・・・実行するときが来たみたいだな。俺は何をすればいい?」
「小さいキュゥべえとかいうのがいるはずです。
それを連れて、マギウスのアジトに行ってください」
「なんだって?」
「場所は智子さんが上手い感じに教えてくれるはずです」
「本当だな。なんか右下にゲームのように丸い地図が表示されたぞ。
しかも、ご丁寧に経路に色まで付いてやがる。ナビかよ」
その時、可愛らしい声が割り込んできた。
「モッキュ!」
まるで小動物のような、というか実際小動物なのだろう。
これが話に聞いた小さなキュゥべえとやらの声だろうか?
その声には、まったく屈託がないように思えた。
「お前はまだ会ったこともなかったっけ?
ほら、声だけだけど玄谷に挨拶しな」
「モキュッ!」
なんと癒される声だろうか。
そして、同時に悲しくなった。
もし、今からのことが失敗すれば、可愛い声の動物を待っている未来は悲惨だ。
願わくば、達志と小さなキュゥべえはその時が来る前に寿命で死んでほしい。
その方が、彼らにとっては大きな救いなのだから。
「あはは・・・先輩、小さなキュゥべえ、その・・・もし」
だが、達志はそれを遮った。
「おっと、それ以上は言うな。俺はお前と智子とやらの判断を信じるさ」
「モキュ・・・」
「まあ、何だ。いつか酒の席の話題にもしようぜ。
それより、早く行かねえと。勝手に連れて行くことになるし」
そう言って、達志は電話を切った。
玄谷はたった一人、歴史の転換点と対峙することになった。
45億年前、一つの惑星が誕生した。
その星には長い間、煮えたぎった海と隕石と雷鳴しか存在しなかった。
だが、ある時、一つの有機生命体が誕生した。
そして、それは30億年以上の時間をかけて、地球人類に進化した。
その長い道のりが、今日で終わってしまうかもしれない。
玄谷はSNSアプリを開いて、話し相手を探した。
まだ時間に少しだけ余裕があるので、心を落ち着けたかった。
だが、その必要はなかった。どういうわけか木崎衣美里の方からかけてくれた。
魔法少女を知る前から、彼女とは知り合いだった。
二番目に玄谷のことをトトロと呼んだ人間でもあった。
「もしもし、トトロ?最近見ないけど、大丈夫ー?」
「大丈夫ですよ。まあ、今からちょっと一仕事ありますが、急ぎではないので」
「よかったー、なんか命を狙われてるって言ってたし・・・」
衣美里は本当に優しい少女であった。
ほとんどの魔法少女はすっかり玄谷のことを忘れてるだろう。
それでも、彼女だけは忘れてくれていなかった。
「・・・衣美里さん、少しいいですか?」
「うん?なーに?」
彼は息を深く吸って、達志と小さなキュゥべえに言えなかった言葉を言った。
「もし僕が間違ったことをしたら、どうか許してください」
「間違いなんて、誰だってするから大丈夫だよ!」
「・・・それもそうですよね」
彼は電話を切って、拳銃を自分の心臓があるだろう場所に銃を押し当て、叫んだ。
「低次元
それを認識できたのは、ほんの少数であった。
まず、智子だ。彼女は
そもそも、その
水滴インキュベーターも同時にそれを認識していたが、気にしなかった。
それどころか、水滴インキュベーターは忖度したともいえる。
彼は命令もされていないのに、ホテルフェントホープ上空に移動したからだ。
最後に、美国織莉子である。彼女は数日前からそれを予知していた。
だが、智子からのメッセージを受け取り、行動は起こさなかった。
地球は低次元展開された
だが、少数以外にそれを認識した者は本当にいなかった。
数秒の沈黙が続く。次の号令を下す勇気がどうしても起こらなかった。
こんな時、やちよだったらどうするのだろうか?
宇宙の真理を知る者である彼女だったら・・・
「やちよでも難しいと思うな。まあ、自分で考えてやってみなよ」
「そうですよ!リーダーはリーダー!あなたはあなたなんですから!」
背後から少女たちの声が聞こえた気がする。振り返ることはしなかった。
これは誰もいない、というオチに違いなかったから。
「ぼくだって苦労したさ。でも、それ以外に方法がないんだったらやるしかない」
「私にもできないわ。でも、それが唯一の道なら・・・」
さらに男女の声が聞こえてきた。これは智子が仕組んでいるのか?
いや、彼女だったら、もっとストレートに叱咤激励するはずだ。
つまり、これは幻聴ということになる。
だが、次は声だけでなく、感触もあった。誰かが肩に手を置いたのだ。
「前へ、とにかく何があろうと前へ進むんだ」
今度ばかりは振り向いた。だが、やはり誰もいなかった。
前へ!前へ!なにがあろうと前へ!だ。
もう、やるしかなかった。
「
二つのモノリスが玄谷の前に現れた。
一方のモノリスに映し出されたのは、作戦会議を行うマギウスたち。
もう一方には何も映し出されてはいないが、インキュベーターの母星に繋がっている。
おそらく、それぞれの場所でも二つの球体が展開されているだろう。
展開が無事に済んだことを確認すると、彼は左腕を高々に上げた。
そこには、腕時計によく似た何かが巻かれていた。
「マギウスとインキュベーター文明に告げます。
現在、地球は
この膜の下では、あらゆるソウルジェムの穢れが分解されます。
これは、あなたたちにとって悪夢の一つであることは理解できるはずです。
穢れは感情エネルギーに昇華することなく、分解されるのですから。
さらに言えば、インキュベーターの文明は既に
もし他の惑星の感情を有する生命体にターゲットを変えたところで無駄でしょう。
僕は今から両者に要求します。マギウスは今すぐ殺戮計画を中止してください。
インキュベーター文明は今後いかなる契約をするときも、政治的合意を行ってください。
マギウスもインキュベーター文明も、僕たち人類の生存権を侵害した。
もし、あなた方がこの罪を認めずに要求を無視するようなら、僕は最大の罪を犯します。
地球とインキュベーター文明の母星世界の座標を発信します。
僕の左腕に巻きつけられているものは、デッドマン装置とかつて呼ばれていたものです。
僕の心臓が止まれば、ただちに信号が世界中の重力波アンテナに送信されます。
あなた方のどちらも、ただちにこれを止めることはできないことはわかっています。
三十秒、三十秒の猶予が与えられます。よく考えてください。
もし、要求を受け入れるなら、浄化システムは分解モードから昇華モードに移行します。
その場合、以前より量は減りますが、
これにより、地球文明とインキュベーター文明も救われることになります。それでは・・・」
「受け入れるから、やめて!玄谷お兄さま!」
「・・・僕も受け入れるよ」
灯花と柊ねむは要求を即座に受け入れてくれた。
「・・・」
あとの一人は沈黙を貫いたままだが、玄谷は無視した。
あまり引き金を引きたくないというのもあったが、ここは多数決の原則だ。
「さて、インキュベーター文明の皆様、あと十五秒です。
言っておきますが、どのような策動も智子さんの監視下にあることをお忘れなく」
すると、くぐもった声が聞こえてきた。
「受け入れよう。それが最善の道であろうな」
そして奇蹟は起きた。この日、人類は初めて救済された。
低次元
もはや魔女化は起こらない。穢れは即座にエネルギーに変換されるからだ。
「・・・浄化システムは昇華モードに移行しました」
玄谷はデッドマン装置の終了ボタンを押した。
これで座標発信もされることがなくなった。
「地球文明とインキュベーター文明は今後も存続することでしょう。
あなた方の罪はこれで許されました。最後に・・・ありがとうと言わせてください」
「どうしてだ?」
インキュベーター文明の誰かがすかさず聞いて来た。
「僕に生きる道を与えてくれたからです。あるいは・・・、
あなた方と僕たちの双方に生きる道を与えてくれたからですよ」
その時、沈黙を貫いていたマギウスの一人が机を叩いて、その場を去っていった。
「・・・止めないと。玄谷兄さん、僕はアリナを止めてくる。
そうじゃないと、せっかく手に入れた生きる道が台無しだからね」
ねむもその場を立ち去った。
灯花はただ茫然として、何もできなかった。
その時、記憶が蘇った感覚が生じた。
これはどうにも形容できないのだが、忘れていたものを思い出したのだ。
正確に言えば、存在していないものを思い出したというべきか?
達志が、上手くやってくれたに違いない。
玄谷は安堵して、壁にもたれかかった。少なくとも、仕事は一つ終わった。
だが、玄谷にはまだもう一つだけ仕事が残っていた。
「・・・灯花、ワルプルギスは今日来るはずだよね?」
「・・・うん」
「そうか。だったら、話は早い。羽根たちを総動員してくれ。
僕と智子さんで、他の魔法少女たちも動員するから」
「・・・倒す気なの?」
「ああ、倒す気さ。君たちの協力があれば、もっと早く倒せる」
ワルプルギスの夜の討伐だ。これで、地球文明の完全な救済が為されることになる。
「正気か?あれは我らでも対処が難しいのだぞ?」
インキュベーター文明の支配者らしき人物が言った。
「ええ、でも上空にあれが浮かんでいるはずです」
玄谷は天井を指差して言った。
正確に言えば、クレセントハウスではなくフェントホープの上空だったが。
だが、その位置の正誤など関係なかった。
これが最後の仕事だ。玄谷のするべきことは、顛末を見届けること。
モノリスがふっと消え去る。彼は立ち上がって、地上に上がっていった。
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夜は明けた
気象の変化そのものは観測されていた。
そのため、突如出された避難勧告に誰も違和感を抱かなかった。
だが、その避難勧告は智子の手引きによるものだった。
「・・・智子さんってやっぱすげえな」
「その気になれば総理大臣も動かせるんじゃないかって、
僕のおじいちゃんは言っていましたね。まあ、さすがにありえないでしょうけど」
玄谷と達志は臨海公園内の東屋から海を眺めていた。
ここは決戦を見届けるのに、一番いい場所だった。
少し高い場所にある東屋からは、集まっている魔法少女の様子も確認できた。
衣美里が東屋にいる玄谷に気づいて、手を振ってくれた。
他の魔法少女たちも玄谷に気づいたが、その表情には不安と不信が入り混じっていた。
魔女化が起こらなくなったことも驚愕に値した(魔女化を知らなかった者は魔女化自体が)。
だが、一番彼女たちを驚かせたのはこの世界がいつの間にかチップなっていたことだった。
玄谷はインキュベーター文明と宇宙という名のポーカーテーブルで対峙していた。
このことが、どうしても魔法少女たちに不信感を与える結果となってしまった。
誰の許可も取ることなく、この世界を危機に曝したというのだから。
なんて無責任なんだ、と一部の魔法少女は憤りすら感じているかもしれない。
・・・ななかと遊佐葉月のチームはそこまで気にしてもいなかったようだが。
彼女たちは、もうすぐ姿を現すワルプルギス戦について話し合っていた。
そして、事前に謝罪をもらっていた衣美里も玄谷の勝手な行動を咎めることはなかった。
「すっごいじゃん!トトロってすっごくかっこいいギャンブラーじゃん!」
むしろ、意外と好反応であった。
それでも、玄谷は心のどこかで自分を責めていた。
優しいだけで、責任感がない。みふゆの言っていることは正しかった。
いや、それどころか、あのギャンブル行為には優しさすらなかった。
優しさも、責任感も、ない。それが自分だ。
「達志さん、玄谷さん!この人があなたたちに会いたいって!」
東屋に桜色の髪をいくつも束ねた少女、環ういが近づいてきた。
彼女こそが、つい先程までエンブリオ・イブであった魔法少女だ。
智子曰く、彼女はキュゥべえに封印され、因果が途切れた状態だったという。
唯一、それを認識していた彼女は小さなキュゥべえをイブに投げ込むことを提案した。
なぜか智子だけが知っていたのも驚きだった。
だが、今、玄谷を驚かせたのは彼女に腕を引っ張られている男性だ。
「兄さん?兄さんじゃないか!」
兄だ。海上自衛隊に入隊した星ノ森海斗だ!
「えっ、あの海上自衛隊の制服着てるのお前の兄貴なの?」
「ええ、そうですよ。優秀だから、あっという間に佐官になってるんです!」
玄谷も彼らのもとに駆け付けた。
「兄さん、久しぶり!」
海斗は玄谷に向かって微笑んだ。
「久しぶり、玄谷。ずいぶんと面構えが変わったな」
「ええ、色々とあったもので」
「ぼかさなくても知ってるさ。智子さんから聞いた。
すまんな、来るのが遅くなってしまって」
「兄さんは悪くありませんよ。悪いのはとも・・・」
その時、さらにもう一人の女性が、その場に現れた。
ふわっとした梅の花の匂いが東屋の周囲に漂う。
玄谷は即座に口をつぐんだ。
腰に刀を差しているこの和装の女性こそが智子だったからだ。
「・・・誰も悪くありませんね、ええ」
「いえ、私も悪いですよ。何しろ、根回しが必要だったので。
しかし、それも済みました。今日から、人類にとって新しい日々の始まりです。
そろそろ時間が迫っています。海斗、作戦本部に戻りなさい。
ういさん、私にしっかり掴まってください」
智子はういを抱きかかえて走り出して、跳び上がった。
そして、すらりと魔法少女たちのいるところに飛び降りた。
「相変わらず人間やめてるな、智子さんは・・・。
さて、俺は作戦本部に戻らなくてはならん」
「作戦本部って何ですか?」
「・・・まさか、そこだけ聞かされてないのか?」
「ええ、智子さんはとっておきの仲間を連れてくると言っただけで・・・」
「俺たちがそのとっておきの仲間らしい。
まあ、楽しみに見ていてくれ。きっと驚くぞ」
彼は微笑みを浮かべながら、そのまま去っていった。
「・・・なあ、玄谷。とんでもないことになってないか?」
「ええ、もしかすると、智子さんは本気で決戦を挑もうとしているのかもしれません」
「本気にも程がありすぎるだろ・・・自衛隊まで動員かよ」
一気に空色が変わった。始まりつつあるのだ。
地球文明の行く末を決める戦いを見届ける。それが玄谷の最後の使命だ。
そのとき、達志が口を開いた。
「・・・なあ、もしものために聞いておきたいんだ」
「そのもしもは起こってほしくないんですけどね」
「まあいいじゃないか。冥土の土産くらいくれたって。
もう何が何だかわからんが、低次元なんとかってのはいったい何なんだ?」
「低次元
聞いて驚かないでください・・・僕にもわかりませんよ」
「まあ、そう言うだろうと思ってたさ。
俺と同じ一般人のお前が、こんなことできるわけがないもんな」
達志は空を指差した。
現在、地球は
この膜の下では、ソウルジェムの穢れは自動的にエネルギーに昇華される。
玄谷も達志と同じように空を指差した。
「僕は文系なので詳しいことはわかりません。頭も痛くなりますし。
ただ、
そのコンピューターは普段は十一次元状態らしいのですが、
低次元展開すれば、地球くらいは余裕で膜で包むことができるそうです」
「へえ、わからん。わかりたくもない」
「智子さん曰く、地球を低次元膜で包むことにより、
あることが可能になったそうなんです。僕も理解できませんが」
「何が可能になったって?」
「それは、この地球自体を一個の
それで、地球上の全てのソウルジェムに同時に干渉が可能になったそうなんです。
低次元展開された
「ああ、まったくだ」
達志は煙草を一本取り出して、吸い始めた。
「それで、どうして智子さんはそれをもっと早くやらなかったんだ?
これを最初からやってりゃ、アイツは苦しまずに済んだんだぞ?」
今度は魔法少女たちを指差した。
正確に言えば、その中の一人であるやちよを。
まったくもって、彼の言う通りだった。
智子がもっと早く、この浄化システムを展開すれば、
魔法少女システムの犠牲者はもっと減らせたはずなのである。
「僕も智子さんに聞きましたよ。
今までの犠牲者が報われないじゃないかって。
ですが、彼女は待っていたそうなんです。
全てのピースが揃うのを」
「ようやく揃ったってか。けっ、遅すぎるぜ。
今までの犠牲は何だったってんだ」
「・・・」
玄谷は智子を擁護したかった。でも、何も言葉が出ない。
達志の言うことはまったくもって、正論だ。
智子曰く、インキュベーターは人類史の最初から介入していたという。
もし、彼女がそのころからいたのなら、その時展開すべきだったのだ。
それなのに、彼女はそれをしなかった。むしろ、放置していた。
そして、今頃、浄化システムを全世界に展開したのだ。
おそらく、何か考えがあってのことだろうが・・・それは教えてくれなかった。
達志と同じように、他の魔法少女たちもそう思ってるだろう。
事実、数人ぐらいは不信に満ちた目で智子のことを見つめていた。
「・・・でも、これでようやく終わりですよ。
これが終わりさえすれば、僕はようやく学生に戻れる」
「おいおい、フラグ立てんなって」
その時、雷鳴が轟く。海はさらに荒れる。
そして、海上に巨大な物体が現われた。
あれこそがワルプルギスの夜に違いない。
二人の視界の右下に、以下の文字が表示された。
あなたたちにも魔女が見えるようにしてあげたわ
その姿は、二人に原始的な恐怖を与えた。
顔の上半分がなく、残された下半分からは角が生えているようだ。
そして、白い縁取りの青いドレスを纏った姿はまさに魔女に相応しかった。
「・・・勝てるか不安になりましたね」
「信じろって・・・といわれても無理だよな。俺だったらお手上げだ」
ワルプルギスの夜はゆっくりと陸に近づいてきた。
そして、智子は何かのタイミングを見計らったかのように号令を出した。
「魔法少女の皆さん、攻撃を開始してください!
現在、浄化システム下において、あなた方は十分な力を発揮できます!」
何百発もの色とりどりに輝く弾丸がワルプルギスに命中した。
最初は何のかすり傷も与えられていなかった。だが、何人かの魔法少女が固有能力を使用した。
それにより、ワルプルギスに着実にダメージが与えられていった。
さらに多くの魔法少女が固有能力を用い、戦いを有利に進めた。
最初、この世の全てをあざ笑うかのような声を出していたワルプルギスも、
だんだんと悲鳴に近い叫び声を上げるようになっていった。
「攻撃をいったん中止してください!今度は彼の番です!
念のために、何らかの防御魔法を展開することを忘れないで」
魔法少女たちは言われたとおりにしたが、理解はしていなかった。
彼の番?いったい、彼とは何なのだ?
玄谷は彼女の意図は知っていたが、口にしなかった。
はるか上空にあったそれの存在に気づいたのは、達志だった。
「お、おい・・・あの水滴っぽいのは何だよ?」
それはまさに地上に滴り落ちる水滴のようだった。
だが、次の瞬間、それは滴り落ちるなんてレベルではないスピードで落下した。
そう、ワルプルギスに向かってである。
「あ、あのたぬきちもどき、まさかやりやがるつもりですか⁉」
「あれがあなたの言ってた水滴型キュゥべえですのね。
まさか、惚れた少女のために馳せ参じてくるとは・・・漢ですわね」
玄谷も智子から水滴インキュベーターが来ることを聞かされていた。
彼女曰く、水滴インキュベーターは絶対に自主的に来るとのことだった。
先程の魔法少女の攻撃は、ワルプルギスの注意をこちらに逸らすためでもあったのだ。
「あの水滴、特攻する気か⁉」
達志がそう叫ぶ。確かにそう見えるだろう。
だが、それは決して特攻なんかではなかった。
水滴インキュベーターの体は強い相互作用で構成されていた。
中性子星のように、ほぼ絶対的な滑らかさがあるのだ。
そんな水滴インキュベーターは、地球上のあらゆる物体よりも硬かった。
その気になれば、地球を貫くことくらいは簡単であった。
そして、ワルプルギスの夜は岩盤よりかは硬くなかった。
水滴インキュベーターの尾に青い光輪が出現した。
光は水滴を包み込み、やがて光の輪は急激に大きくなる。
その光輪が赤くなって消えるたびに、加速度は上がっていった。
なお、第一の光輪の温度は太陽コアの温度にも匹敵した。
そして、水滴インキュベーターはそのままワルプルギスを貫通した。
水滴インキュベーターは海に着水し、その波しぶきは東屋にも降り注いだ。
なお、これは余談だが、もし玄谷が交渉に失敗していた場合、
水滴インキュベーターは今の攻撃をホテルフェントホープに実行するつもりであった。
恋は盲目というが、まったくその通りである。
こうしている間にも、ワルプルギスは呻き声を上げていた。
「よしよし、後はまたアイツらに攻撃させりゃ・・・」
「いえ、それはいけません。終止符を打つのは地球文明でなければなりません」
いつの間にか、智子が東屋に戻っていた。
「おいおい、智子さんよ?そりゃどういうことだ?」
「この状況は既に映像としてインキュベーター文明にも転送しています。
彼らの地球文明に対する見方を変えるには、地球の底力を見せる必要があるのです。
回りくどいかもしれませんが、最後の攻撃は地球文明が担当します」
魔法少女も水滴インキュベーターも、インキュベーター文明の産物だ。
「そうは言ってもよお、地球人にあれが倒せるとでも?」
「ええ、倒せますよ。地球は既にその段階にあります。
あなた方にアレが見えているように、彼らにも見えるようにしました。
攻撃対象さえ見えれば、後は余裕でしょう」
その時、巨大な音が轟いた。
音速で戦闘機がワルプルギスに向かっているのだ。
実に奇妙な編隊であった。記号であらわすと、以下のようになるだろう。
● ●
● ●
● ●
● ●
黒い丸は戦闘機であるが、実際には左右の間隔がかなり空いていた。
まるで、その間に何か大事なものがあるかのようであった。
そのまま八機の戦闘機はワルプルギスの夜の横を通り過ぎて行った。
ワルプルギスはそれすら対処できないほど、ダメージを負っていた。
・・・最初、何も起こらなかったかのように思えた。
だが、呻き声はすぐに笑い声に変わった。
だが、それは最初の不快な笑い声ではなかった。
まるで、永遠に続くと思われた苦しみから解放されたかのような歓喜であった。
すると、徐々にワルプルギスの体がずれ始めていた。
最初は錯覚かと思ったが、実際にずれつつあるのだ。
まるで、何かに切断されたかのように・・・。
「・・・ワイヤートリックの応用か!
戦闘機と戦闘機の間に、ピアノ線みたいなのがあったのか!」
達志がそう叫ぶと、智子も頷いた。
「ええ、あれは地球各国で研究されていた
もっと専門的な言葉で言うのであれば、ナノ・マテリアルです。
さすがに水滴インキュベーターには硬度で負けますが、それでも硬い物質でしょうね」
「そうか・・・ん?なんかさっきの、航空自衛隊だけじゃなかったような気がするんだが?
なんかアメリカとか中国とかの戦闘機もあった気が・・・」
「地球文明が担当するって言ったでしょ?」
達志は腰が抜けたようにへたり込んだ。
この女性の影響力は日本だけじゃない。
全世界に、影響力を持っていたのだ。
数百年も生きていれば、これくらいは余裕だろう。
彼女が姿を消す度に、世界のどこかで重要な会議が行われるのだから。
「アンタ・・・本当に何者なんだよ?」
「それはまだしばらく秘密よ。それより、夜明けを楽しみましょう」
そう、夜明けが来ていた。
本当の時刻はまだ真昼間なのだが、関係ない。
これは地球の夜明けなのだから。
ワルプルギスの夜は歓喜しながら消滅していった。
玄谷が万歳と叫んだ。すると、衣美里もバンザーイと叫ぶ。
すると、他の何人かの魔法少女も同じように真似した。
彼女たちは今、本当に心の底から笑っていた。
玄谷もようやくほっとすることができた。これでおしまいだ。
「ありがとう、星ノ森玄谷くん」
東屋に水滴インキュベーターが現われていた。
「これこそ、ボクが望んでいた光景だった。
ありがとう。かつて、あの文明の構成員だったことが恥ずかしいよ」
玄谷もお辞儀して、答えた。
「恥じることはありませんよ。生存は文明の第一欲求ですから。
あなたたちは、ただそれに従ったのみです。確かに地球に犠牲を強いましたが。
ですが、もう誰も犠牲になる必要はないんですからね。
・・・しかし、一つ気になることがあります。どうして、あなたは協力してくれたんですか?
智子さんはなぜかそこを語ってくれなかったのですが」
すると、智子は刀を抜いた。
「おっと、今の質問はなかったことにしましょう。
僕はあなたに何の質問もしなかった。いいですね?」
「ああ、その方が君の命のためだろうね」
だが、それはすぐに無駄になった。
「たぬきちもどき!何そこで駄弁ってやがるですか!こっちに来るですよ!
おめー、惚れた女を放っておくバカがどこの惑星にいやがるですか!」
「あ、あの・・・少しだけでも、話をしませんか?」
まなかと・・・夏目かこが水滴インキュベーターを呼んでしまったのだ。
かこの顔は少しだけ赤くなっていて、ななかたちは少し怖い顔をしていた。
「・・・ははーん、なるほど」
達志はついニヤけてしまった。
「達志さん、峰打ちの利点は人を殺さないということです」
智子はその切先を彼に向けた。
「おっと、それじゃあ玄谷、また会おう!」
彼は即座に走り出した。
だが、智子の方が少し早かった。
いずれ、達志の断末魔が響くことであろう。
智子は水滴インキュベーターに最大限の気遣いをしていたのだ。
水滴インキュベーターの動きは急にカクカクとしたものになった。
もし、彼に肌というものがあったら、すっかり赤くなっていたことだろう。
「行ってやってください、水滴さん」
この時以降、水滴インキュベーターは水滴と呼ばれることになった。
水滴は勇気を振り絞って、かこのもとに向かった。
一人きりになった玄谷はようやく東屋のベンチにもたれかかることができた。
「お疲れ様です、玄谷さん」
隣に座ってきたのは梓みふゆであった。
彼女の顔の傷はすっかり治っていた。
さすがは魔法少女、というべきだろうか?
「・・・みふゆさん、僕には責任感どころか優しさもありませんでした。
無責任に、無慈悲に、この世界を勝手にギャンブルのチップにしてしまった。
それどころか、灯花を止めようとしたのもマズかったでしょうね。
智子さんの浄化システムがなければ、状況が維持されるだけだったと思います。
多くの人命を優先するだけで、結局、やれることは変わらなかったと思う。
自動浄化システムの維持と、インキュベーターとの共存。
灯花と同じ考えを、結局は受け継がなくてはいけないところだった。
結局、僕は選択しただけで、その後のことをやったのは智子さんでしたし」
「いいんですよ、もう済んだことですから。
それに、ワタシだって同じ立場に立たされたら、選択すらできないと思います。
玄谷さんは立派に選択したじゃないですか。それでいいんです」
彼女はそう言いながら、ハンカチを渡した。
それはかつて、床に叩きつけられた彼女の傍に置いたものだった。
洗濯してあったものの、それでも血の跡がうっすらと見えた。
「ワタシには玄谷さんのことをとやかく言う資格は本当はないんです。
あなたを殺そうとしたのに、あなたはそれでもワタシのためにハンカチを置いてくれた」
眼下では水滴がゴロゴロと転がっていた。
恥ずかしさでのたうち回っているようだ。
それを見て、玄谷は呟いた。
「・・・僕には夢が一つ生まれました。
優しいだけで、まったく責任のない夢が。
それは、この暗い宇宙をどうにかして変えるという夢です」
灯花だったら、こう答えるに違いない。
変えれるわけないよ!だって、宇宙は無慈悲だもん!
だが、みふゆはこう答えた。
「確かに優しいだけで、責任はありませんね。
・・・でも、危険をおかすだけの価値はあると思います」
空は青く輝き、海は太陽の光を反射していた。
闇などまるで見当たらなかった。
とりあえず、ひとまずこれで玄谷の仕事は終わりだ。
だが、まだいくつかのごたごたが残ってるのも確かだ。
それで、何か呼び出されるかもしれないが、その時はその時だ。
今はただ、ゆっくりと休むことに・・・
「トトロー!一緒に写真撮ろうよ!」
そういうわけにもいかなかった。
衣美里は決して、玄谷のことを忘れていなかった。
魔法少女と水滴はとっくに位置についていた。
あと、達志と智子もいったん休戦したようである。
まあ、撮り終わったら、また追いかけっこが始まるだろうが。
「行きましょう、みふゆさん」
「ええ、そうしましょう」
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黎明幼稚症
神浜市の魔法少女は今までにない助けを得ることになった。
そう、大人たちの後援である。彼女たちは非常に驚いた。
魔法少女や魔女など、今まで信じてもらえないと思っていたからだ。
だが、各国政府機関はとっくに把握はしていたのだ。
そもそも、フランスなどは十五世紀から軍事運用をしていたぐらいだ。
中国やロシアといった管理社会的風潮を持つ国家は容易に把握していた。
それでもなお、国家はいくつかの理由から彼女たちに滅多に干渉はしなかった。
一つには、魔女化という厄介な要素もあったこと。
二つ目は、インキュベーターという異様な存在が何をするかわからかったこと。
そして、今まで智子から干渉を禁じられていたということ。
だが、彼女と玄谷という青年が魔女化とインキュベーターを封じたのだ。
そして、ついに許可も出たので、存分に援助ができた。
存分に、といっても、一般社会にはまだ隠し通さなければならなかったが。
まだ大きな衝撃を与えるのは間違いない。中世のような魔女狩りなどもってのほかだ。
そういうわけで、各国政府機関のエージェントはラフな格好で神浜市を闊歩していた。
そうすれば、観光客や地元民に紛れ込むことができるからだ。
また、魔法少女に関する国際会議(無論、極秘である)は里見メディカルセンターで行われた。
こういった世界規模での魔法少女支援に対し、里見グループは積極的に協力した。
里見灯花の父親が魔法少女に対する全面的支援を環いろはに約束したのも大きかった。
こうして、神浜市の魔法少女は今までにない安心感を得ることができた。
いや、神浜市だけではない。世界中で徐々に魔法少女の孤独感は癒されつつあった。
魔法少女と一般人が完全に共存できる未来も夢ではないかもしれない。
だが、その過程で色々な障害があるのもまた確かであった・・・。
「・・・外交窓口を一本化してほしいよ」
中華人民共和国から派遣された張紋浹はそうぼやいた。
彼がいるのは各国から派遣された連絡員のセーフティハウスに指定された調整屋。
もともと公安局出身であった彼は何度も魔法少女を目撃したことがある。
そして、陰ながらそういった魔法少女に支援をしていたのだ。
その功績が考慮され、智子から直接、連絡員に選ばれたのである。
しかし、彼と同じように、連絡員たちは同じ悩みを抱えることになった。
窓口が一本化されていないのだ。
「ジャンジャン、どうしたの?なんか悩んでるみたいだけど」
そこに、たまたま衣美里がやってきた。
「ああ、衣美里か・・・いや、君に言ってもしょうがないんだ」
「相談だったら、何だって乗るから安心してよ!
ジャンジャンだって、慣れない仕事だから、愚痴くらい言いたいでしょ!」
紋浹は少しためらったが、ここは彼女の好意に甘えることにした。
「じゃあ言わせてもらうけど・・・連絡窓口を一本化してほしいんだ」
「窓口を・・・ああ、そーいうことか!
確かに、みゃーこ先輩以外にもいるもんね」
「そういうことなんだ」
そう、窓口が一本化されていないのだ。
現在、神浜市にはリーダー格の魔法少女が四人いる。
一人は環いろは。もっとも話しやすいが、もっとも裏付けがないともいえる。
彼女の頼まれたら断れない性格は、外交上では信頼できない性格だ。
ただ、外来者にも関わらず、神浜市で信頼を得たという点は評価されている。
外交はからっきしだが、指導者にはある程度向いているというタイプだ。
マキャベリズムを基準にすれば、もっとも最悪な指導者でもあるのだが。
二人目は七海やちよ。彼女はいろはよりかは外交的に信頼はできる。
あと、大人に近いので、こちらの事情を慮ってくれる。
三人目は、都ひなの。彼女はやちよの次に信頼できる魔法少女だ。
中立である中央区の独自性を維持しているということからも評価が高い。
そして最後が・・・和泉十七夜だ。彼女はもっとも相手にしたくないタイプだ。
変身してはこちらの意図を読む上に、彼女の意志に反することは絶対に反対する。
たとえこちらがどう説得しようと、彼女は絶対に受け入れてくれないのだ。
こちらはいろはと同じように外交にはあまり向かない性格だ。
外交というのは、ある程度ジョークを交えながら、妥協点を探りあうものなのだ。
ところが、十七夜はとにかく結論を急ぎがちなので、人気ではない。
まあ、マキャベリズム的にはギリギリ及第点を取れる指導者ともいえるが。
そもそも、マキャベリズム的評価はあまりあてにならないともいえる。
あれを基準にして、合格点を取れる指導者など、現代ではあまりいないものだ。
ともかく、窓口がこんなにもあると、外交上面倒なのだ。
一方で交わした約束が、もう一方では反故にされたりなど・・・。
スペイン内戦でも、フランコ将軍は最初に外交窓口の一本化を提案したぐらい、重要な問題だ。
「・・・トトロは駄目なの?確かに大学生で忙しいと思うけど」
だが、紋浹は首を振った。
「聞いていないのかい?」
「えっ?何かあったの?」
「彼は国連からの圧力で特別休学が決定してしまった」
「ありゃま・・・うん?だったら時間はたっぷりあると思うけど・・・」
「彼は彼で、連絡員になったんだよ」
「・・・まさか」
「そう、彼はたとえ感情のない異星人のことだって思いやれるからね」
そう、ついに玄谷はもとの一般人としての生活に戻ることはできなくなった。
魔法少女社会学や宇宙社会学を知っている彼は重要な人材であった。
連絡員に対するオリエンテーションなどに引っ張りだこであった。
それに、彼は一度、インキュベーター文明と脅迫的な対話を成し遂げた。
その点も考慮され、かの文明との窓口にもなっている。
そして・・・彼は人類史上、もっとも悲愴な立場に立たされてもいた。
「・・・君は境界線システムを知っているかい?」
「ペリ・・・えっ?」
「知らないだろうね。あまり有名じゃないから。
死者の手、という名前でも呼ばれてるけど・・・。
昔、ソ連に存在した一種の自動報復核攻撃システムだよ。
敵国に攻撃されたとき、当直の士官がボタンを押すことで反撃するんだ」
衣美里が重要なことに気付いた。
「・・・あれ?そうなったら手遅れなんじゃ?
そのときには、ボタンを押す人の家族も友達も・・・」
「そう、灰になってるか放射能で手遅れになってるね。
そして、その状態でボタンを押すかどうか決断しなくてはいけないんだ。
もしボタンを押したなら、敵国さえも滅んで、人類の破滅は決定する」
そう言って、紋浹はスマホの画面を見せた。
そこには奇妙な形のスイッチが写っていた。
剣の柄のような形をしており、四つのボタンがあった。
一つはてっぺんに。後の三つは側面についていた。
「これは単に送信スイッチと呼ばれるものだけど、
これを持っている玄谷の地位の名称は長い。
重力波宇宙送信システム最終制御権保持者・・・。
さすがに長いから、最近は
これを押せば、インキュベーターの座標は全宇宙に発信される。
ちなみに、地球の座標は発信されないけど、どうせ彼らはやり返すだろうさ」
衣美里はごくりと息をのんだ。
暗黒森林理論のことは聞いている。
すでにやちよやマギウス、そして玄谷から説明を受けたからだ。
座標の発信はすなわち、その星系の破壊につながる。
あのインキュベーターですら、それを恐れているのだ。
彼女は今までの話のピースを繋げ、ようやく理解した。
玄谷は、核ミサイルのスイッチを押す立場にあるのだ。
「・・・とにかく、彼は今、君たちに構う余裕のない立場なんだ」
「トトロが・・・あれ?人選ミスのような気がするんだけど?」
彼女の知る玄谷は心優しい、小太りな青年だった。
とてもじゃないが、核ミサイルのボタンを持つにはふさわしくない。
「確かに何人かから反対意見は当然出たさ。私も不安だった。
そもそも、彼は変な一族に生まれた普通の学生にすぎないんだから。
本来ならば、どこかの中小国の兵士に任せるべきことだったんだよ。
ところがどっこい、シミュレートしてみると、彼の抑止力は八十パーセントぐらいだった。
インキュベーターも似たような結果は出していて、勝手なことは当分しないらしい。
それでなし崩し的に、彼が執剣者に選ばれてしまったんだ」
「えっと、しばらくは平穏ってこと・・・?」
「しばらくはね・・・それはそれで、別の問題を生み出してるけどさ」
彼はまた溜息をついた。
そこに、同じように疲れきった男性がやってきた。
彼は朴順。朝鮮民主主義人民共和国から派遣された連絡員だ。
かの国は唯一、智子に抗っていた国だったが、ついに屈した。
一般社会は突然の民主主義革命に驚愕することになった。
当然、その背景に彼女の姿があることは知らなかった。
そんな生まれ変わりつつある国から派遣された連絡員の顔は疲れ切っていた。
「パッくんも何か辛いことがあったの?」
「・・・僕は軍の出身なんだけどね、色々と大変なんだよ。
百年以内に、インキュベーター文明に電撃戦を挑むとか・・・」
「ああ、私の国の軍隊も似た調子になってるよ。
われわれはこの世紀のうちにインキュベーター世界を征服し、
第二の太陽系として開拓するとかなんとか・・・。
くそっ、こんな時にわが軍の偉大な歴史が足かせになってしまった。
奴ら、勝つ気でいるんだ。あんな圧倒的な文明に・・・」
一方で、インキュベーター文明との接触はもう一つの弊害をもたらしていた。
これは一つの例である。ポーランドの連絡員、ノヴォルコフは魔女狩りを観戦していた。
和泉十七夜の強さは圧倒的で、魔女はあっという間に倒された。
だが、ノヴォルコフの顔は暗かった。
「・・・口づけでも受けたか?」
「いや、そういうんじゃないんだ・・・ただ、私にとって、未来は暗いものになってしまった。
二次大戦前、私の国はソビエトに勝利した。得意の騎兵でね。でも、ナチスには負けた。
どうしてかわかるかい?技術だよ。単純な技術力の差だったんだ」
十七夜も、彼の心の一端を覗いたことで、彼の悲観を理解した。
「・・・なるほど。確かに魔法少女も魔女も高度な技術の産物だからな」
「そういうことだよ。地球はまさにかつての祖国になろうとしている。
第三世界の軍隊は、まるでそういうことを理解しちゃいないんだ。
それどころか、電撃戦を仕掛けようという始末で・・・。
電撃戦を仕掛けられるのはこちら側だというのをどうして理解できないんだ・・・」
あまりに無謀な勝利主義と、あまりに悲観的な敗北主義・・・。
これらを総称して黎明幼稚症という単語が生まれた。
人類は黎明を目の当たりにして、一方は舞い上がり、一方は圧倒されたのだ。
そして、この黎明幼稚症にはどんどんと症状が書き足されることになった。
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逃亡計画
神浜市に各国の人員が投入されたのには理由がいくつかあった。
一つは、その数の多さだ。魔法少女一人でも、かなりの戦力になる。
その戦力が一つの街に一斉に集合しているのだから、重要な拠点となる。
二つ目は、智子がこの街に注目しているという身もふたもない理由だが。
あと、執剣者もこの街の大学に通っていたという大したことじゃない理由もあった。
いくら存在が明らかになったとはいえ、まだどこの国も魔法少女に対して真面目ではなかった。
では、何に真面目になっているかというと、地球規模の国防であった。
魔法少女は地上戦でしか使えないので、各国は人間による宇宙軍の設立を急いでいた。
その過程で、数多の陰謀が生まれたのだが・・・。
その中のいくつかと結びついたのは、敗北主義であった。
そして、そうした陰謀は少しずつ白日の下にさらされることになった。
「・・・またお前か」
「すみませんね。毎回同じ男だと飽きるでしょう?
まあ、僕は飽きませんけどねえ。あなたのような美しい方の担当なんて」
「・・・そういうわけじゃない」
十七夜の対処に最初に成功したのは日本とバチカンであった。
日本は玄谷からの情報をもとに、バチカンはこれまでの経験則で対処したのだ。
心を読むのなら何も知らない者を、外交が上手くないのなら同程度の者を、というわけだ。
十七夜は非常に気分が悪かった。明らかに疎まれているからだ。
だが、目の前の青年、アントニウスのことは嫌いというわけでもなかった。
むしろ、今までの連絡員のように煙に巻こうとしなかったりというだけでマシだ。
それに、こちらの言いたいことをちゃんと聞いてくれる。
あと、言っていることと思っていることが一致してくれているのも嬉しかった。
おかげで、いちいち読心を使わずにすむ。
・・・イタリア人だからか、いちいちそういうことを言ってくるが。
「今日はバチカンの方からの要請です。
簡単に言えば、いい加減、神浜市の魔法少女はまとまれというものですね」
「まあ、私も賛成だが・・・具体的にはどうまとまれと言うんだ?」
「僕の国からの案は確か・・・」
アントニウスはメモを取り出した。
「えっと・・・まず、代表者はいろはさんですね。
あの子はまあまあ信頼できるので、いいとは思いますよ」
「私も悪くないとは思うが・・・あれは優しすぎる」
「みーんな、そう思ってますよ。だから選ばれたんですって。
玄谷くんよりも優しいから、扱いやすいというか」
「ふん・・・そうだろうな」
十七夜はもともと権力者というものを信じてはいなかった。
神浜市の為政者たちが市民のことなど考えず、私欲のために動いていたからだ。
だが、夜明けを迎えてから、別の理由でそれに拍車がかかった。
大人たちは、抽象的な概念しか見ていないように思えた。
連絡員たちは違うが、彼らの愚痴は噂となって聞こえてくる。
口を開けば、人類、文明、国家、勝利・・・そして、抑止。
私欲など、一切ないように思える。そこが問題だった。
十七夜は彼らの何が気に食わないのか、そこがわからなかった。
ただただ、何か気に食わなかったということだけはわかった。
「まあ、東の代表者としてあなたも選ばれてはいますがね。
それにしても、調べてみると、この街酷くありませんか?
東西の格差とか差別とか・・・もっと広い視点を持てばいいってのに。
僕だったら、とっくに逃げ出していたと思いますよ」
「・・・神浜の者たちは、歴史に振り回されてばかりだからな」
「達志くんは上手くやりましたよ。
執剣者くんのよき相棒として神浜から出ていったんですからね。
もっとすごいのは、執剣者くんですよ。
立場上、色々な人と話すことが多くなりましたから。教皇猊下ともリモートで対話したんですよ!
それどころか、彼は今、二つの文明の存亡を決める存在にまでなってるんです!」
アントニウスは執剣者玄谷に浪漫を見出している人物だ。
あと、達志にも浪漫を見出していた。
彼は確かに、魔法少女に勝てるくらいの実力者だ。
それに、一気に成り上がったという点でも憧れを抱くだろう。
「十七夜さん、あなたも執剣者と同じくらいビッグになれますよ。
こんなちっぽけな島国の街からは早く離れたほうがいい。
僕もそろそろ、教皇庁に戻ろうと思うんです。
バチカン市国には、神浜市ほどではないとはいえ魔法少女が多いんですから。
あなたも、ぜひバチカンにいらしてはどうですか?
実力のある魔法少女は、どこの国も喉から手が出るほど欲しているんです」
十七夜は読心を使わずともわかった。
この男は、完全に好意から提案しているのだと。
でも、乗り気にはなれなかった。どうしてかわからない。
わからないのは、玄谷と達志に対する不信感もそうだった。
彼らは、もう神浜市のことなど忘れてしまったのではなかろうか?
「・・・すまんが、その話には乗れんな。
どれだけお前に酷く見えようと、この街は私の愛する街なんだ」
まあ、そのために一度破壊しようとは思っているが。
今は大人たちの眼が光っているので、大きな行動には出られない。
すると、アントニウスは鞄からある書類を取り出して渡した。
「君は、地球と死ぬつもりなのかい?」
その書類はラテン語で書かれていて、十七夜には理解できなかった。
しかし、図といくつかの数字から、ようやく飲み込めた。
これが宇宙に脱出するプランを纏めたものだということを。
「計画名は決まってない。僕はウォルター・ミラーの小説をもとに、
汝ガ意志ノママニ計画とか群ノオモムクトコロ計画って呼んでますけど。
とにかく、地球に未来がないのはあなたがよく知っているはずだ」
十七夜はノヴォルコフのことを思い出した。
最近、彼は姿を見かけないが、悲惨な精神状況にあるのは間違いない。
敗北主義は世界中の正気の大人たちを呑み込んでいた。
そして、ある結論に辿り着いたのだ。そう、逃亡だ。
敗北主義と宇宙移住計画という陰謀が結びついたのだ。
「あんな圧倒的な文明が先史時代から入り込んでたんだ。
今さらどうやって対抗するんだ?確かに抑止は有効だろうね。
でも、今以上に抑止ポイントの高い執剣者が将来生まれると思えない。
執剣者くんがインキュベーター文明に叩きつけた約束は覚えてるよね?」
「確か契約に政治的合意を必要とする、といったものだったか?」
「そう。すでに政治的合意に基づいた契約は始まっている。
まずインキュベーターが素質のある子を見つけて、こちらに報告するんです。
こちらはその子に接触して、その子の願いを権力で叶えるます。
その引き換えに、その少女にはこちらの都合のいい願いで契約してもらうって寸法ですよ。
もちろん、智子さんや執剣者くんの審査を経た願いじゃないと駄目だけど。
すでにいくつかの国で穏やかな民主主義化や経済回復が起こってるのもそれですよ」
「だが、それがどう将来の執剣者と関係するんだ?」
「未来は良くなりつつあるんです。それがどんなに恐ろしいことか・・・!
僕や各国の専門家の予想だと、未来の人間は腑抜けてるはずです。
温室のような文明で甘やかされた子供に、暗黒森林抑止が務まるとでも?
将来的にあちらは何らかの軍事行動を取るはずですよ。
今までは事を構えようとはしなかったけど、これからは違います。
だったら、地球が再び奴らの牧場になる前に、やれることは一つになるはずです」
「・・・それで、地球から逃げると?」
「はい。皮肉にも、インキュベーターは宇宙船の建造を助けてくれるでしょうね。
何しろ、少女が宇宙船を造れる技術を願えば、奴らはぽんとそれを提供するんですから。
計画が執剣者くんに認可されたら、
それで航行中や定住後もあなたの魔女化を防ぐことができるかもしれない。
あなたのような人材が新世界には必要なんです。かつての地球の厳しさを持ったあなたが」
十七夜はこれまでの神浜市を思い浮かべた。
東も、西も、どちらも歴史に囚われたままだ。
互いが互いを憎んでいるといっても過言ではない。
でも、新世界では?新世界は地球のしがらみなどないはずだ。
もしかしたら、玄谷や達志以上に解放されるかもしれない。
でも・・・誰が方舟に乗れるのだ?
「なあ、その方舟には誰が乗るというんだ?」
「まだ決まっていませんが、教皇猊下は乗らないと断言しているようです」
十七夜にとって、この返答は予想外だった。
彼女が今まで見たことのある権力者なら、我先にと乗り込むはずだった。
「なぜだ?そういうものはトップが乗るものだと・・・」
「トップが乗れば、下の者たちが乗れなくなるとのことです。
枢機卿たちも反対しましたよ。もちろん忠誠心と生存欲が入り混じっていましたが」
「・・・教皇のような者がいれば、神浜はこうなっていなかったはずだ」
「それはどういう・・・ああっ、くそっ」
十七夜は人間が今の教皇ほどできた存在ではないと知っていた。
普通の人間だったら、我先にと乗り込みたいはずなのだ。
だが、方舟には定員があると相場が決まっている。
もし、ノアの一家以外も洪水が起きると知っていたら、それは大惨事になったはずだ。
ましてや、もし神浜市民がこの計画の存在を知ったら・・・。
西も東も、どちらの市民も乗りたがるに決まっている!
「・・・十七夜さん、僕はあなたの席だけでも手に入れるつもりだ。
そのためだったら、母親を売春宿に売り飛ばしたっていい」
「同じことだ。他の者たちもそう考えるに違いない。
自分は乗れなくてもいいから、せめて大事な人だけは、とな。
・・・今日はもう帰れ。お前はしばらく頭を冷やした方がいい」
「・・・十七夜さん、永遠に夜が続く世界に、いつかあなたを導きますから」
そう言ってアントニウスは去っていった。
イタリア人というのは不真面目な恋愛家だと十七夜は思っていた。
だが、意外にも一途な面もあるのだと実感した。
しかし、今はそんなことを考えている場合ではないのだ。
これは危険な事態が進行しているかもしれない。
どうにかして、執剣者になった玄谷に連絡を取られば。
でも・・・彼はもう自分たちのことなど忘れているのではないだろうか?
しかし、玄谷は神浜の魔法少女のことを忘れてなどいなかった。
ちょうど同時刻、衣美里は彼からの電話を受け取ったのだ。
「もしもし、トトロー?久しぶりー!どしたの?」
「ええ、ちょっと声を聞きたくて」
「アハハ!遠距離恋愛じゃあるまいし!
・・・何か辛いことでもあったの?」
「いえ、それはこれから起こるかもしれません。
ただ・・・もし僕が間違ったことをしたら、どうか許してください」
「また?」
「ええ、また。今度という今度は許されないかもしれません」
「ボタン押しちゃうの?」
「そっちの方ではありませんが・・・いずれわかると思います」
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茶飲み話
玄谷は故郷に帰っていた。もちろん、達志と共に。
故郷は、いい場所だ。心理的にも安全上でも。
智子を霧峰村から保護するため、星ノ森家は町を要塞化していた。
一般人が訪れても、城に塀が多いと感じるくらいだが。
それでも、各国の軍人は訪れるたびにゲリラ戦に使えると即座に理解した。
とにかく、重要な立場になってしまった玄谷にはぴったりの場所だった。
まあ、重要な立場といっても大したことはしていないはずだ。
重要な人物とリモートで話したり、インキュベーター文明と会合したりとかだ。
それ以外は、自主的に勉強したり、農業にいそしんでいるくらいだ。
「・・・ももこからのメッセージ数がとんでもねえことになってんな」
達志はある時、久しぶりにSNSを確認した。
彼は何も言わずに神浜市を去ってしまったのだ。
だから後輩からのメッセージも多かったが、ももこからは特に多かった。
狼狽えた達志を見て、玄谷は肩をすくめた
「いいじゃないですか。僕なんて一般人のメッセージしかないんですよ?
魔法少女だと、やちよさん、みふゆさん、衣美里さんだけがスタンプを送ってきました。
でも、それ以外はほぼ沈黙してしまっているというか・・・」
「お前はそりゃ雲の上に立っちまったんだからな。
まあ、実際に付いてきてみりゃ、いつも通りだけどよ」
故郷は、本当によかった。
さすがに住民に何があったかを隠し通すことはできなかったが。
それでも、彼らはあっさりと事実を受け入れてくれた。
何しろ、近くに霧峰村というよくわからない存在があるからだ。
のんびりとした日々が続いていたある日、智子があることを告げた。
最近、各国で産声を上げている思想・・・逃亡主義について話し合うべきだと。
玄谷も執剣者とかそれ以前に、星ノ森家の人間として嫌な予感を覚えてはいた。
生存権の不平等は、最悪の不平等だ。誰が新世界に去り、誰が滅びゆく世界に残るべきか?
祖父とも話し合ったが、結論は一つ。方舟なんてないほうがいい。
おそらく、智子のことだから同じ結論には辿り着いているはずだ。
でも、本当にそれでいいのか迷ってもいた。どこかで種子は残すべきなのではなかろうか?
そして、智子は同時にあることを告げた。ある少女が訪ねてくると。
その少女の名は暁美ほむら。玄谷はその子のことを微かに知っていた。
記念写真を撮った後、ちょっとだけ話した覚えがある。
三つ編みの髪形の眼鏡をかけた少女で、あどけなさが残っていた。
智子は彼女について、事前に一つだけ教えてくれた。
曰く、彼女は一人の少女を救うために、いくつもの時間軸を旅したというのだ。
その夜、玄谷はあのあどけなさの裏でどれほどの重荷を抱えたのだろうと想像した。
智子曰く、今回は同席するだけで、あまり話には関わらないこと。
そして、しばらくこの集落にほむらが滞在するということを告げた。
それでも、なぜか彼女を滞在させる理由を教えてくれなかった。
ともかく、その日がやってきた。場所は智子の家だ。
彼女の純白の家は竹林に囲まれており、その小径を通るのも好きだった。
その竹林に差し込むうららかな日光は心を清めてくれるからだ。
そして、ちょうどほむらと偶然に出会うことができた。
「ほむらさん、久しぶりですね」
「お久しぶりです、玄谷さん。元気そうで何よりです」
ちなみに、達也は今日は欠席することになった。
何しろ、ももこからのメッセージという重大な仕事があるからだ。
何も言わずに去っていけば、心配されるのは当然だ。
こうして二人で智子の家に入っていく。
彼女の家の内装は和と中華が融合したものであった。
壁には品のいい書画がいくつか掛かっている。
「いらっしゃい、二人とも。そこにかけてちょうだい」
智子に言われた通り、アンティークの木製文机に座った。
そして、彼女はお茶を二人のために出してくれた。
茶葉は中国の龍井茶のようであった。
椀の底では小さな緑の森のように茶柱が立ち、爽やかな芳香を漂わせていた。
味も落ち着きを与えてくれるものだった。
「まず、逃亡主義の問題について話す必要があるわね。
まあ、結論はほぼ同じであるはずだけど・・・。
その前に、ほむらさんは逃亡主義について知っているかしら?」
「あっ、はい。事前に職員さんから聞いたので・・・」
「・・・遥かなる星計画とやらに誘われたの?」
「はい、そうです・・・断りましたが」
遥かなる星計画は日本政府によって作成された逃亡計画だ。
どこの国も、逃亡計画にSF小説からアイデアを得ているようだった。
アメリカであれば、スターチャイルド計画だし、
イギリスは最後にして最初の人類計画という名前を付けた。
ただ、後者の方は少し様相が異なっており、運ぶのは人ではなく、人の種子だ。
もっとわかりやすくいえば、DNAやら有機物やらだ。
「私の代わりにまどかを乗せてほしいと言ったら、断られてしまったので・・・」
「・・・あの子の因果はあまりに高すぎる。
もし、船内で異常が起きて魔女になってしまったら大変なことになるわ。
・・・でも、あなたのような人間ばかりだったら、逃亡計画は問題にならなかったわね。
でも、たいていの人間は我先にと乗り込みたがるの。別に彼らを責めるつもりはないわ」
そう、誰も彼もが先に方舟に乗り込もうとするだろう。
それで、乗れなかった人間はいったいどうなる?
もしかすると、彼らはこう考えるかもしれない。
自分たちが生き残れないなら、あいつらも生き残れないようにしてやる。
玄谷は人間というのがそれほど清廉潔白ではないと知っていた。
祖父からして、優しいのに汚職に塗れているのが一目瞭然だからだ。
だが、同時に人間がそれほど穢れた存在ではないとも知っていた。
だからこそ、迷っていた。人間の善性にかけるか、悪性にかけるか。
気が付けば、玄谷の視界には広大な宇宙が広がっていた。
上も、下も、右も、横も、漆黒の世界だった。
だが、そこがどこの座標なのか即座に理解できた。太陽系だ。
その理由は、目の前に浮かぶ輪を有した天体、土星が目の前に浮かんでいたからだ。
それに、暗いはずなのにやけに眼が冴えて、他の天体も確認できた。
しかし、その雄大な天体は一瞬で形が崩れてしまった。
見えない何かに触れてしまったかのように、ある一点から平面状に潰れていった。
よく見ると、土星の近くに衛星ではない何らかの物体が確認できた。
球形上や円筒状、またはその中間といった建造物が浮かんでいたのだ。
そして、その建造物から多くの宇宙船が脱出していた。
土星が厚みのない一枚の絵になると同時に、建造物も後を追うように絵となった。
そして、玄谷はある光景を目の当たりにしてしまった。
崩落していく建造物から人間が落ちてきた。そして、その人間たちも平面状に潰されたのだ。
老若男女問わず、人種も問わず、あらゆる人間が生き生きと宇宙にプリントされた。
玄谷は小さなころの記憶を思い出す。前を歩いていた人がカタツムリを踏みつぶしたのだ。
それに気づいたのは玄谷だけだったが、その時の記憶と重なってしまった。
ふとあることに気が付いた。宇宙船たちがなぜか動いていないのだ。
もう逃げることを諦めたのだろうか?いや、エンジンが青く輝いている。
彼らは逃げようとしているのだ。それなのに、なぜか宇宙船が動かない。
「無駄だよ。あの可哀想な子どもたちは決して逃げられない」
一人の老人が、玄谷と同じように宇宙空間に浮かんでいた。
だが、その体はどこか透き通っていた。
「ナイアガラの滝、ナイアガラの滝みたいなものなんだ。ははは・・・
脱出速度を計算してみるんだ。彼らは決して、脱出できない」
「脱出速度・・・悪いけど、僕は文系じゃありません」
「君の目の前に、とってもすごい計算能力の持ち主がいるはずだろう?
その人に聞けばいいさ。わははは・・・。
手つかずのテーブルなんてないし、宇宙に純潔な乙女なんていない・・・」
まだ十秒も経っていなかった。白昼夢だったのか?
それにしては、やけに具体的すぎた。
玄谷は智子に聞いてみることにした。
目の前にいるのが、彼女だったからだ。
「・・・智子さん、もし暗黒森林攻撃を受けたとして、
人類が必要とする脱出速度はどれくらいなんですか?」
智子は驚きもせずに言った。
それは捕らわれた宇宙船たちに対する判決だった。
「光速よ」
ほむらもそれが何を意味するか理解した。
今の人類に出せるスピードではない。
つまり、攻撃を受けてからでは遅いということだ。
それを悟った玄谷は再び漆黒の宇宙にいた。
今度は海王星だ。海王星が崩壊しつつあったのだ。
「脱出速度を聞いただろ?」
「ええ、光速って。それがあれなんですか?」
必死に逃げていた宇宙船が突如と動かなくなった。
そして、他の物体と同じように絵になった。
「ああ、そうだ。君が見ているのは、太陽系の二次化だ」
「二次化・・・」
「生きとし生けるもの、すべてが絶滅という絵に加わることになるんだ。
おっと、ヨーロッパⅥの二次化が始まったな・・・。
実に愚かな子どもたち。傲慢さ故に死んでしまうことになった子どもたち。
子どもたちは
だから、ガス惑星の裏に掩体都市を建造することで生き延びようとした。
でも、高度な文明がそれに気づかないとでも思うかい?」
玄谷の脳裏に浮かんだのはインキュベーター文明の存在だ。
「・・・気づきますね」
「そういうことだ。わざわざ見逃す理由もない」
老人はパイプをくわえた。
煙は出ていないのに、香りが漂ってきた。
そういえば、なぜ真空状態なのに、この老人と話せるのだろうか?
そんな疑問がよぎると、もう一つの記憶がなぜか蘇ってきた。
それは子供の時に聞いた智子のおとぎ話だ。
『物語のない王国の物語』という名前だったはずだ。
そのお話に出てきた針孔絵師の絵みたいだ。
彼に描かれた人間は、死んだ絵として吸収されてしまう。
目の前で繰り広げられる太陽系の滅亡はまさにそれだった。
「おっ、今度は地球だな」
老人の指差した先では、母なる大地が大いなる絵と化した。
なんという残酷で壮麗な滅亡であろうか。
それを眺めていた玄谷の目の前にある文字列が浮かび上がった。
いまから五時間前、太陽系早期警戒システムは、太陽に対して暗黒森林攻撃が行われたことを確認しました。
今般の攻撃は、次元攻撃のかたちをとっています。太陽系内の空間を三次元から二次元に崩潰させ、それによって太陽系内のあらゆる生命が殲滅されることになります。
このプロセスが完了するまでの時間は八日から十日と見積もられています。いま、この瞬間も、太陽系宙域の次元崩壊が進行中で、その範囲と速度は急激に大きくなっています。
次元崩壊宙域からの脱出速度は高速であることが確認されています。
いまから一時間前、太陽系連邦政府と連邦議会は、逃亡主義を禁ずるすべての法律の撤廃を決議しました。しかしながら、政府は全ての市民に対し、あらためてお知らせします。脱出速度は、現在の人類が保有するいかなる宇宙船の最高速度よりもはるかに大きく、次元崩潰からの逃亡が成功する確率はゼロです。
太陽系連邦政府、連邦議会、太陽系最高裁判所、太陽系連邦艦隊は、最後まで職責をまっとうします。
気が付くと、老人は消えていて、葉巻をくわえた別の男が立っていた。
その男の片袖は腕がなく、空っぽだった。
彼は滅びゆく人類の滅亡を嘲笑うかのような表情をしていた。
だが、玄谷の方を見ると、その表情は一変した。
「二度と同じあやまちを犯すな」
その声は、あの交渉を後押しした声と同じだった。
肩に手を置いてくれたのは、この男性だったのだ。
再び意識は智子の家に戻っていた。
「智子さん、僕は逃亡主義には半分賛成です」
「あら、そう」
智子にとって、この回答は予想の範疇だったようだ。
「しかし、現時点では様々な問題があります。
誰を乗せるのかもそうですし、速度も問題です。
だいたい、今の有人宇宙船でも火星まで時間がかかりすぎる。
ですが、普通に禁止にしてはいざという時に破滅を迎えます。」
「その通りね。だったらどうするの?」
「恒星間宇宙船を完成させるまで、禁止という方向で行きましょう」
この言葉に、玄谷自身も驚いていた。
今までは、どうでしょうか、だった。
だが、今、はっきりと自分の意志を告げたのだ。
「そうね、それがいいわ」
かくして、ここに人類の未来を確定する決断が為されたのだ。
ふと、窓を見ると、先ほどの男が親指を立てていた。
どうやら、これで正解だったらしい。
その後は普通に雑談を楽しんだ。
今回のお茶会は、ほむらとの親睦を深めるのも兼ねていたらしい。
智子がこっそり耳打ちしたのだが、彼女はとても役立つから招いたそうだ。
帰り道、ほむらは驚くべきことを聞いてきた。
「玄谷さんはあの時、何を体験していたんですか?」
「・・・えっ?」
あれは一種の白昼夢だと完全に思っていた。
だが、隣に座っていた彼女はそうではない何かを感じ取ったのだ。
よく考えれば、不思議なことではない。彼女は魔法少女なのだから。
「私の使っている魔法と似た感覚が伝わってきたんです。
・・・私の能力について、智子さんから聞きましたか?」
「・・・ええ、聞いています。
つまり、僕は別の時間軸に行っていたと?」
これは玄谷をとても不安にさせた。
もしかしたら、今も別の時間軸にいるのかもしれない。
今、こうやって話しているほむらも、先ほどとは別人なのかもしれない。
じゃあ、元の時間軸にいた僕は消えたってことになるのか?
そして、今いるのはかつての僕を知っていた別人で・・・。
だが、次のほむらの言葉が彼をこの問題に関して安堵させてくれた。
「いえ、私のとはまた違った感じでした。
まるで、本当に過去に遡っていたというか・・・。
私の能力はあくまで別の時間軸の一点に向かうだけなんです。
でも、玄谷さんはまるで川の源流に遡っていたというか・・・。
ごめんなさい、上手く説明できなくて・・・」
「いえ、いいんです。川の源流ですか・・・。
うん?源流?今、源流って言いましたか?」
「はい、そうですけど・・・?」
彼女の言うことが本当であれば、玄谷は過去を視たことになる。
だが、あれは太陽系だった。太陽系はまだ滅びていない!
いったい、玄谷は何を体験したというのだろう?
家に帰った後、いったんくつろぐことにした。
「よお、玄谷」
「達志先輩、疲れているようですが・・・」
「そういうお前もちょっぴりそう見えるぞ?
こっちはももこからのメッセージの対処で忙しかったんだ。
いつ戻ってくるんだとか、こっちは心配したんだぞとか・・・」
「戻る気はあるんですか?」
すると、達志は笑顔になった。
それは、あの男の絶望を笑う表情によく似ていた。
「嫌に決まってんだろ、あんな街。
まあ、お前が行きたいってんなら付いていくけどよ」
それから、玄谷は自室で一人考えた。
あの決断は、本当に正しかったのだろうか?
いや、これは人類を延命させる手段かもしれない。
それに、決定権が執剣者にあるのなら、変更権も執剣者にある。
都合が悪くなれば、また理由をつけて方針を変えればいいじゃないか。
・・・でも、やはり決断が正しかったか不安だ。
今の玄谷は、全人類の運命を双肩に背負っているのだ。
その責任はあまりにも、重すぎた。
気が付けば、玄谷はあの時のように衣美里に電話をかけていた。
そして、あの時と同じように、謝った。
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不屈の意志
アリナ・グレイは耐えられなかった。
あんな一瞬で、自らの夢が崩れ落ちるなんて。
彼女は魔女化のない世界を灯花やねむと創り上げようとした。
だが、その目標は一瞬で見知らぬ誰かに打ち壊された。
普通の魔法少女だったら、そこで諦めて受け入れるだろう。
どうせ魔女にならなくなったのは変わらないんだ。人生を楽しもう、と。
だが、アリナはそうは思えない人種だった。
ただ生きているだけの人生は人生とは思わないタイプだったのだ。
そして、ねむに負けてしまったというところまでは覚えていた。
しかし、宇宙空間に放り出された覚えはない。
「・・・ここドコ?」
アリナのいる空間には、三つの恒星があった。
その三つの恒星の一つを、青く豊かな惑星が回っていた。
彼女は意識するだけで、その惑星に向かうことができた。
惑星のいくつかの大きな街には、ピラミッド型の建造物が必ずあった。
アリナはそういった街の一つを選んで、折り合った。
しかし、住んでいる住民は靄がかかっていて、アリナには見えなかった。
ぼんやりとたたずんでいると、彼らの会話が何となく耳に入ってくる。
地球上のどの言語とも違うのに、どういうわけか理解できた。
「次の収穫までに乱紀が来なけりゃいいけどな」
「あの学者さんはもう少し恒紀が続くって言ってたけどよ・・・」
「役所では政治力学に気を遣ったほうがいい。
あれは恒紀と乱紀の予想よりもはるかに困難だ」
「だから言ったでしょ?東の国の毛織物は駄目だって。
少し値が張るけど、南の国のものだったらすぐ近くで売ってるし・・・」
少し前ならくだらないと思っていた会話。
でも、今はどういうわけか愛おしく思えた。
見知らぬ惑星だからなのか?
だが、それを打ち破る怒声が街に響いた。
「乱紀だ!乱紀がやってきたぞ!脱水しろ!」
その声と共に、住民たちは一斉に全身から水を放出した。
だが、それは無意味に終わった。
三つの太陽が、一気に空に現れたからだ。
干物状になった住民も、建物も、何もかもが灰になった。
アリナはそれを見て、恍惚の表情を浮かべた。
ああ、これこそが自らの求めていた・・・。
「・・・アリナ先輩、どんな夢見てるの?」
現実において、アリナはずっと植物人間状態であった。
ねむも下半身不随という代償は負ったのだが。
ともかくとして、彼女の病室は厳重に警護された状態だ。
なお、彼女が目を覚ました後の処遇は未だに決まっていない。
これは非常にデリケートな問題だったからだ。
何しろ、日本において魔法少女に対する法律はまだ作成段階でしかなかったからだ。
法律ができる前のことを追求することもできないのは当然だ。
それに、そもそもの話、大人たちは大人たちで別の問題を抱えていた。
神浜市にばかり構う余裕はなかった。色々な街で問題があった。
たとえば、魔法少女というのは必ずしも清廉潔白な人間ではない。
だが、大人というのは子供を純粋なものだと思いがちなものである。
それにより、風見野市で優木沙々という少女に新人が翻弄されたという事件も起こった。
あすなろ市では、とある魔法少女の一グループが執剣者に反対の意を表明した。
彼女たちにとって、インキュベーター文明とも共存しようとする彼は敵でしかなかった。
ホオズキ市には今の浄化システムに危機感を訴える魔法少女がいた。
彼女曰く、今の人類は結局誰かの掌の上で踊らされているだけにすぎないとのこと。
それに、もっと面倒な存在があった。霧峰村だ。
智子はご丁寧にインキュベーター文明に霧峰村との契約行為を禁じたのだ。
あと、最近では二木市の魔法少女との接触もごたごたとしていた。
こういうこともあって、大人たちはアリナを気にしていられなかった。
ただ一人、星ノ森海斗を除いては。
「まだ目覚めないようだな・・・」
「うん・・・でも、幸せそうな夢を見てるみたいなの」
「幸せ、か・・・」
ずいぶんと不気味な笑みだった。
本当は起きているんではないかと疑いたくなるくらいに。
「俺としては早く起きてほしい」
「・・・アリナ先輩をどうするつもりなの?」
「どうもしないさ。ただ、こちらのお抱えの物理学者に協力してもらう。
彼女の結界生成能力は国防上、いや、太陽系防衛に寄与するかもしれない。
その能力を、こちらが複製できるようになったら、逃亡計画は必要なくなる」
海斗が思いっきりカーテンを開けて、陽光を取り入れた。
「遥かなる星計画は凍結された。玄谷の思い切った提案のおかげでな。
まあ、恨んではないさ。それどころか、嬉しいくらいだ。
まさか弟があそこまで成長していたなんてな・・・。
だが、太陽系が危険だということは未だに変わっていないんだ。
そこで、彼女の空間生成能力が非常に役立つ。
彼女の魔力とやらの動きを、物理学者たちに観測させる。
それをもとに複製した技術で太陽系をすっぽりと覆う。
そうすれば、他の文明は星が消えたと勝手に思ってくれるはずさ」
「・・・でも、それだと他の星に行けなくなるの」
「ああ、それはわかってる・・・これは智子さんのおとぎ話から着想を得た計画だ。
そのおとぎ話でも、似たようなことになってしまっている。
でも、この計画の一番のメリットは、安全ってことなんだよ」
「・・・アリナ先輩はすごく嫌がるかもなの」
そのアリナは、大きな振り子の前に立っていた。
夢の中では幾星霜が過ぎ去っていた。
文明の興亡が繰り返され、やがて、彼らはあるモニュメントを建造した。
それは巨大な振り子であった。
その迫力のある運動を見ながら、アリナは自問した。
これは秩序に対する渇望か、それとも混沌への屈服を表しているのか?
振り子は巨大な金属の拳のようにも見えた。
なにも感じない宇宙に向かって、永遠にふるいつづける拳。
三体文明(アリナが勝手に名付けた)の不屈の雄叫びを、音もなく発している・・・。
「・・・かかっているのは文明の存亡なんだ。
個人の自由や権利も、それの前にはたいした価値をもたない」
海斗は窓の外の景色を見ながら、かりんに聞こえないように呟いた。
彼の瞳にもまた、三体文明と同じ不屈の意志が宿っていた。
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ハバナの香る庭園で
世界各国で魔法少女のグループ化が推し進められていた。
狙いは二つ。魔法少女の個人間での争いを阻止すること。
そして、大人たちが彼女たちを一括管理できるようにするため。
風見野市やホオズキ市では失敗したが、それ以外の場所では順調に進みつつあった。
神浜市において結成された神浜マギアユニオンもその一つである。
ただし、マギアユニオンに関しては日本の管轄下にあるとはいえない。
魔法少女の数があまりに多すぎて、日本だけに独占させるわけにはいかなかった。
そういうわけで、名目上ではあるが、マギアユニオンは国連の管轄下に置かれた。
マギアユニオン以外にも、多数の魔法少女が属するグループも同じ道をたどった。
「・・・うう、私に務まるのかな」
環いろはは里見メディカルセンターの庭園で一人悩んでいた。
彼女は一番ふさわしいという理由でリーダーに抜擢されたのだ。
どういうわけか各国代表はほぼ満場一致だったが、理由はわからなかった。
本当に、理由がわからないのだ。どうして自分が選ばれたのか・・・?
ふさわしいという理由なら、やちよや十七夜でもよかったはずだ。
ベンチにもたれかかって黙考するも、まるで理由がわからなかった。
その時、一人の男性が近づいてきた。
「お嬢さん、隣いいか?」
その男性はヨーロッパ系で、右袖は空っぽだった。
右腕がないこの外国人は、どこかの国の連絡員だろう。
前より連絡員は減っていた。
最初、興奮状態にあった各国も冷静になったのだ。
どうして極東の島国に連絡員なんて派遣していたのだろうか?
確かに神浜はインキュベーターブラインドエリアと呼ばれるほどの場所だ。
インキュベーターに本気で聞かれたくない会議には使えるだろう。
でも、そこにいる魔法少女にどうして関わる必要がある?
所詮は、執剣者と智子が関わっていただけではないか!
それよりも、まずは自国の魔法少女の支援が最優先だ・・・。
または、精神的な苦痛で辞めた者もいた。
ポーランドから来たノヴォルコフは辞表を出して以来、行方不明だった。
その消息は智子が掴んでいるが、彼女はどういうわけか教えてくれなかった。
この男性は数少ない残った連絡員の一人であろう。
「あの、お名前は・・・」
「トマス・ウェイドだ」
ウェイドはどかっとベンチに座ってきた。
「・・・ふむ、やっぱり執剣者に似ているな」
玄谷と似ている、というのはよく言われる言葉だった。
やちよ、達志、十七夜、衣美里・・・あらゆる彼の知人からそう言われた。
実際、ワルプルギスの戦いの後も、玄谷と言葉を交わした。
達志や衣美里がトトロというように、彼は本当に心優しい青年だった。
「よく言われますけど・・・でも、あの人ほど強くはありません」
唯一の違いは、強さだろう。
それは腕っぷしの強さではない。精神の強さだ。
玄谷は今この瞬間も、インキュベーター文明と対峙している。
彼の手によって、両文明は均衡を保っているのだ。
竜城明日香は彼の仕事を一撃必殺の日本の剣術に例えていた。
宇宙という闘技場で、生死をわける一撃を加えなくてはいけないのだ。
斬り合いが始まった後には、必ずどちらかが血の海に倒れている。
その張り詰めた糸の上に、玄谷は立っているというのだ。
「お嬢さん、いいアドバイスをしてやろう。
執剣者がしていて、君がしていないこと・・・
それは、敵の眼を睨むということだ」
「敵の眼を・・・睨む?」
「そうだ。彼は執剣者になる前からそうしてきた。
智子を暗殺しに来た魔法少女を睨んで追い返したくらいだ。
威嚇するというのは、とっても重要なことだ。
まず敵に会った時にすることは和解の呼びかけじゃない。
睨み返すことなんだ。相手に対して、痛い目に遭わすぞと伝えるんだ。
そうすれば、相手もこちらに手を出すことの意味をもう一度考えるはずだ。
その後でゆっくりと話し合えばいい」
「それは・・・」
「確かに平和な現代日本で育った君には馴染みがないかもな。
でも、冷戦における核抑止の効力はこうやって生まれたんだ。
その結果、代理戦争こそ起こったが、それ以上には発展しなかった。
誰かの異常な愛情に翻弄されることもなく、冷戦は終了した」
「・・・」
ウェイドは話し終わると、葉巻を三本差し出した。
「あ、ありがとうございます。でも・・・」
「いいんだ。誰か別の奴にあげるのもいいし、
それは宇宙が終わる時が来るまでは長持ちするから。
君が大人になったときに、また吸えばいいさ。
・・・君は本当におれの昔の知り合いに似ているな。
また会おう、環いろは。一つアドバイスをやろう。
お前だけじゃなく、この時代の全員に向けてだ。
十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」
それだけ言い残すと、男は光の粒となって消えてしまった。
今の邂逅は夢だったのだろうか?
だが、手元に残った三本の葉巻が現実だと教えてくれていた。
「やあ、環さん。今、誰と話をしていたんだい?」
後ろから声をかけてきたのは理論物理学者の延祐輔だ。
ワルプルギス戦以前から自衛隊の対星系外文明対策室に所属していたという。
日系中国人ではあったが、能力の高さから重用されていたらしい。
ワルプルギス戦後はよく里見メディカルセンターを訪れ、灯花と議論を交わしている。
華奢で、今にも儚く消えそうな雰囲気から、本当に自衛隊所属か疑わしくなる。
「・・・見えてたんですか、延さん」
「見えるわけないだろう?さなさんですら眼鏡なしでは見えないってのに。
その眼鏡でさえも、君が話していた誰かを捉えることはできなかった」
彼はいつもヴィクトリア風の眼鏡をかけていた。
その優雅な眼鏡のかけ方は、英国貴族を思わせるくらいだ。
さて、その眼鏡は智子、インキュベーターからの技術提供をもとに作られた代物だ。
これにより、姿の見えない魔女や魔法少女でさえも見えるようになったのだ。
とにかく、これで一般人でもさなを見ることが可能になった。
そして、延とさなはよく二人きりで話すことが多かった。
「ただ・・・空中に突然現れた葉巻でわかったんだ。
君が何か本当にそこにいる誰かと会話していたんだなって。
なあ、ちょっと吸わせてみてくれないか、その葉巻。
もしかすると、何か危険なものだという可能性は捨てきれない」
いろははそれが葉巻を取り上げるための口実ではないと知っていた。
延は彼女のことを本気で心配して言っているのだ。
まあ、吸いたいという気持ちがあるのもわかってはいたが。
彼はこれでも喫煙家なのだ。ただし、日に一本とかそのレベルだ。
なお、さなが近くにいたら、絶対に吸おうとはしない。
上司である海斗准将(最近昇進した)の前では遠慮なく吸うのだが。
延は少し距離を取って、葉巻に火をつけて、吸い始めた。
それさえも十八世紀の貴族が嗅ぎ煙草を吸う仕草を思い起こさせる。
だが、どういうわけか彼は貴族のように見られることは快く思わないようだ。
彼はしばらく葉巻を満喫していた。よほど質が良かったらしい。
華麗で重厚な匂いが、いろはのいるところにまで伝わってきた。
しばらく吸い続けていると、彼はあることに気付き、危うくそれを落としそうになった。
葉巻の火が消えるまで待ってから、彼は駆けつけた。
「なんてことだ。このハバナ、まったく量が減らないんだ」
「・・・えっ」
いろはは改めてもらった葉巻を確かめてみた。
確かに、どこか不思議な感覚が手に伝わってくる。
この葉巻は時間から疎外されているようだ。
「まるで・・・時が止まっているみたいです」
「時が止まっている、か・・・面白いたとえだね。
この一本のハバナ、少し借りていいかい?」
去り際に彼は言った。
「もしかすると、この世の喫煙者全員が、君が会った誰かさんに感謝するだろうね」
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植民地世界の別離
里見家と星ノ森家の関係は深い。
だからこそ、対星系外文明対策室を里見メディカルセンターに移転できたのだ。
なにしろ、室長が星ノ森海斗海将(異例すぎる昇進)なのだから。
研究のための設備も漸進的に整備できつつあり、順調であった。
何しろ、神浜市外ではインキュベーターの監視下に置かれる可能性がある。
院長も魔法少女のことを把握しているから、非常に仕事はやりやすかった。
「・・・それで、これが時の外のハバナとやらか」
海斗は小型反重力領域に固定された葉巻を眺めた。
「ああ、そうさ。吸っても減らないし、放置しても劣化しない代物だ。
加速器での実験結果で、完全に時間の流れから疎外されてることがわかった」
固定されていた葉巻を延は取り出し、吸い始めた。
本来は禁煙だが、もはやそのルールも無意味になりつつあった。
「・・・すごいけど、太陽系防衛に役立つのか?」
「民間に還元したほうがいいと思うよ」
対インキュベーター戦略で一歩リードしたのは日本だった。
神浜市だけが、インキュベーターから解放された唯一の地域だったからだ。
・・・各国も神浜市の被膜を研究し始めているので、唯一ではなくなるのだが。
「それにしても、魔法みたいだな」
「ぼくは科学だと思ってるんだけどね・・・。
アーサー・C・クラークの名言をぼくは信じている」
延は古典的なSFに精通しており、中でもアーサー・C・クラークを愛読していた。
彼の文章による宇宙は、壮麗で洗練されているからとのことだった。
海斗はロバート・A・ハインラインの宇宙の戦士が好みであるから、対照的であった。
それでも二人が上手くやれているのは、延の包み込むような貴族的特性が理由であろう。
「高度な科学は魔法と見分けがつかない、か。
それだと、魔法少女だって科学少女ってことになるぞ?」
「ああ、そう思ったほうがいいかもしれない」
こんな会話が繰り広げられているころ、一人の少年が色鉛筆で絵を描いていた。
その少年の髪の色は雪兎のように白く、瞳はセルリアンブルーだった。
彼の名は
智子、インキュベーター文明、地球文明の共同制作によるアンドロイドに生まれ変わったのだ。
地球文明からは主にロボット技術が急速に発展しつつある中国が積極的に参加した。
そのため名前も中国系だが、容姿もどこか中国の有閑階級を思わせるものだった。
彼自身は人間に近い姿を得ることに反対であったが、地球側の思惑があったのだ。
水滴インキュベーターは地球上のどの物体よりも硬く、地球すら貫けるくらいなのだ。
たとえ、特定の地球人の味方とはいえ、敵の産物であったことも間違いない。
・・・曲率推進と空間牽引を使えるという点は変わっていなかったが。
これにより、各国の研究機関は光速宇宙船の研究をようやく始めることができた。
それどころか、ワープ航法ですらフィクションの産物でないことも判明したのだ。
「水くん、今、どんな調子ですか?」
隣で本を読んでいるかこが訊いてきた。
二人の間に流れる時間はとても穏やかなものだった。
古書店の雰囲気も相まって、より時間が遅く思えた。
今の地球でもっとものんびりしているのは二人かもしれない。
「うん、もうすぐ完成なので待ってほしいな」
「はーい」
それでも、水滴の顔が憂鬱げなのがかこは気になった。
でも、絵を描く邪魔をするのも申し訳なかった。
数分後、彼は絵を完成させた。色鉛筆だが、よく描けていた。
ライ麦畑で、麦わら帽子を被っている緑髪の少女が駆け回っている絵だった。
「・・・わあ」
感嘆の息がかこから漏れた。
その様子を見て、水滴の表情も少し明るくなった。
「よかった、気に入ってもらえて」
そして、水滴も気付いた。
かこは憂鬱そうな自分を心配しているのだと。
心配をかけさせてしまったことで、罪悪感が芽生えた。
「・・・ボクの属していた種族の癖なんだ。
心配してもどうしようもない未来を心配してしまう」
かこは彼を慰めるように言った。
「大丈夫ですよ、浄化システムがあるんですから」
でも、すぐに彼女は気づいた。
それが逆に彼の悲しみを深めることになってしまったと。
「かなり大きな熱量がこの宇宙から奪われてしまったんだ。
まだ母星世界は原因に気づいていないけど、いずれ気づくだろうね。
元凶は、植民地世界とそれに賛同した隔離世界の一部だ」
かこは植民地世界についての説明を事前に聞いていた。
母星世界と違い、感情を有した豊かな文明であるらしい。
感情の有無の理由に関してだけは説明してくれなかったが。
そして、元凶という言葉から怒りが滲み出ていることが感じ取れた。
「・・・彼らは、自分たちだけ新しい宇宙に飛び立とうとしているんだ」
「新しい宇宙・・・?」
すると、インキュベーターは一枚の紙を取り出し、コンパスなしで真円を書いた。
そして、円の外側に向かって、四本の矢印を描いた。
「まず、この宇宙の終わりは君も知ってる通り、熱的死によるものなんだ。
でも、実のところ、もう一つの終わり方があるんだよ」
そう言って、もう一つの円を描き、今度は内側に向かって矢印を描いた。
「それを特異点的末日とボクたちの宇宙論者は呼んでいる。
最終的に宇宙の膨張は止まって、自らの重力によって収縮を始めるんだ。
最終的に一つの特異点になって、そこからまたビッグバンが起こる」
「ビッグバンが起こる・・・それって」
「そう、新しい宇宙の始まりだ。こっちはまだ希望がある。
でも、何か避難場所を造らないと古い宇宙と共に死ぬことになる」
その避難場所という言葉で、かこは植民地世界が何をしようとしているのか理解した。
「それじゃあ、植民地世界の人たちは避難場所に移ったってことですか?」
「そう。そして、問題は・・・その方法が実にまずいものだったということなんだ」
二つ目に書いた円の周囲に、小さな円をいくつも彼は書いた。
「小宇宙の創造だよ。彼らが実行してしまったのは」
「それって・・・宇宙を創造したってことですか?」
かこは仰天しながら、図を眺めた。
そして、植民地世界の技術力に圧倒された。
こんな文明が、宇宙にあるとは信じられなかった。
「ああ、小規模とはいえ、彼らはそれを成し遂げた。
さて、ここで問題。その宇宙を作るためのエネルギーはどこから持ってきたと思う?
ヒントをあげると、ボクたちの回収したエネルギーは彼らにもアクセス権が与えられていた。
まあ、宇宙に還元されるから、どの文明にもアクセス権はあったけど」
かこはそのヒントをもとに、一つの恐ろしい結論に至った。
それはあまりに、残酷と無慈悲を地で行くものだった。
回収したエネルギーは、どの文明でも使える。
そして、植民地世界は母星世界が地球に何をしてきたのか知っていた。
知っていたうえで、その血塗られたエネルギーを使ったというのだ。
「・・・でも、本当に植民地世界の人がやったんですか?」
「そういうだろうと思って、写真を持ってきたんだ。
宇宙の総質量の損失が確認できたから、空間牽引で行ってきたよ。
そうしたら・・・このザマだったよ。すまない」
差し出された写真には金色の字で彫られた石碑が写っていた。
その周囲には地球には馴染みのない建築様式の高層ビル。
そして、以前に水滴が話してくれた、彩られた巨大菌類。
これが植民地世界であった。だが、人が誰も写っていない。
石碑にちょっとだけ水滴(撮影者のほう)が反射して映っているのがわかるのみだ。
さて、石碑に彫られた文字はそれぞれ三種類の言語であった。
一番下には、中国語が彫られていた。どうして、その言語だったのかは不明だったが。
その後で、水滴は訊いてきた。
「日本語にすぐに訳したけど、読む勇気はあるかい?」
かこの答えは決まっていた。
彼女は、常に責任と共に生きてきた。
「ええ、見せてください」
かこはしばらく何も言えなかった。
もはや、神の領分に属するような話だった。
植民地世界は、人類と母星世界を突き放したのだ。
「・・・すまない。こんな話をしてしまって。
あれから色々と調査してみたけど、彼らの小宇宙にはどうやってもアクセスできない。
彼らは何がどうあっても、自分たちだけ生き残ろうとしているらしい。
つまり、ボクたちはこのまま宇宙と共に、最期を迎えるしかないってことなんだ。
・・・忘れよう。こんな話をしてしまってすまない。どうせ数百億年後の話なのに」
だが、水滴は肩をすくめて、続けてこう言った。
「・・・とはならないのが、君なんだろう?」
その声ではっとした。そうだ、水滴の言う通りだ。
かこはまだ諦めたくなかった。
このまま置いていかれるのだけは、ごめんだ。
確かに何百億年もあとの話だ。かこも水滴もいないだろう。
でも、地球文明はもしかしたら続いているかもしれない。
インキュベーター文明だって、続いているだろう。
それに植民地世界のこの行動は、なぜか彼らのためにならないような気がした。
どうしてなのかはわからなかった。とにかく、そんな気がしたのだ。
水滴もかこに協力すると言った。
感情が芽生える前だったら、かこの心を理解できなかっただろう。
だが、感情が芽生えてから、ようやく理解ができた。
理屈に合わないことをするのが、人間であるのだと。
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