物を見ては真を写す (Iteration:6)
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妖怪の山


どうも初めまして。
少女が幻想郷中の秘境を訪ね、写真を撮ってはガールズトークをする、そんなお話しです。幻想郷を幻視できるよう目を眇めて執筆していく所存でございます。


 川辺の草葉(くさば)(かげ)から、雲を貫く(おごそ)かな山を見た。木々は鮮やかに紅葉し風景を彩っている。清流の澄んだ空気が心地良い。此処には人間の痕跡がない。妖怪が怖くて誰も寄り付かないからだ。秘境とは正にこのような場所を呼ぶのだろう。神秘、まさに神が秘したような趣だ。

 

「綺麗な景色ですね霊夢さん」

「写真に収めたらとっとと帰るわよ。あんまり長居すると面倒な奴らに見つかるから」

 

 私、雲見 明香(くもみ めいか)は霊夢さんに付き添われながら妖怪の山の(ふもと)物見遊山(ものみゆさん)している。霊夢さんは刺々しい雰囲気だ。いつ妖怪に襲われるとも分からない場所で呑気(のんき)に写真を撮ろうとしているのが我慢ならないのだろう。

 

「もう少しゆっくりしていきたいのです。写真も何枚か撮っておきたくて」

「無理ね。妖怪の山の哨戒天狗(しょうかいてんぐ)は眼が良いのよ。勘だけど、千里眼で私たちが此処にいることはバレてる気がする」

「もう少し山の奥まで立ち入れないでしょうか?」

「ここから先は本格的に天狗たちの領域(テリトリー)。私が目を一瞬でも離せば、天狗が貴女を搔っ攫うでしょうね」

 

 霊夢さんの言葉には有無を言わさない迫力があった。やむを得ず、できる限り丁寧かつ迅速に見晴らしをカメラに写し、名残(なごり)惜しくもその場を後にするべく(きびす)を返す。

 

 

 

 

 

「これが約束の代金です。きっちり前金と同じだけ、お確かめください」

「ご丁寧にどうも。儲かる話ならいつでも歓迎よ、これからも気軽に頼って頂戴。とはいえあんたも物好きね。あんな草と木と妖怪しかないような場所に何の価値があるのかしら」

 

 長閑(のどか)で薄雲の(まば)らに浮かんだ秋模様の空の下で、霊夢さんは緑茶に口をつけて(くつろ)いでいる。早朝の博麗神社は閑散(かんさん)としているが、虫たちの音が鎮守(ちんじゅ)の森から流れていた。博麗神社は幻想郷を一望できるため、秋一面の幻想郷を見晴るかせる。こんな場所でお茶を呑みながらゆっくりできる霊夢さんを少し羨ましいと思った。ここはまるで仙境か何かのようだ。

 

「それに態々(わざわざ)あんたが博麗神社まで来なくても、代金なら私が人間の里まで受け取りに行くわよ? 見晴らしの悪い獣道を辿ってここまで来るなんて危険だし」

 

 霊夢さんの言葉に、それは結構ですとだけ答えた。博麗神社が好きですからと理由を口に出すと、変人扱いされてしまった。

 

「この寂れた神社が好きだなんて、よっぽどね」

「美しいじゃないですか」

「博麗神社が美しい?」

「博麗神社という建物が、ではありませんよ。勿論それもありますが、博麗神社という言葉が指し示す領域、土地、建造物、人、意味、それら全てが統合された概念の構造体を美しいと思うのです」

「ストップ。あんたが何を言ってるかサッパリ分からないわ」

 

 霊夢さんは両の手をひらひらとさせて肩を(すく)めて見せた。受け取り方によってはかなり大胆な告白でもあったのだが、彼女には気付かれなかったようだ。

 

「それで、あんたはどうして妖怪の山の写真を撮りたいだなんて頼みに来たの?」

「私の夢なんです。幻想郷中の人間が立ち入らない秘境に押し入るのが。写真を撮るのはその記念みたいなものです」

 

 風呂敷に包んでいたアルバムを霊夢さんの前に開いた。

 

「写真をとって一枚ずつ収めるんです。私が其処に居たことがあるという証として」

「何故そんなことを?」

 

 心底不思議そうに首を傾げた霊夢さんに、私はただ一言で答える。

 

「浪漫ですから」

「浪漫……」

「そうです。私は沢山の経験と情報を処理すればより優れた人間性と知性を得られるだろうと信じている類いの人間なんですよ」

「だから沢山の場所に行きたいってこと? 本でも読めば良いじゃない。情報と経験の塊よあれは」

「記憶と記録は違いますよ霊夢さん。確かに書物は私に経験と知識を与えてくれますが、体験は与えてくれないのです。知識は真実を覆い隠すためにあり、体験なき情報には実体がありません。私はこの手で掴める情報が欲しいのです」

「あんたと話してると頭が痛くなるわ」

「ならば全て忘れて下さいな、経験と情報を処理するということは、それらを覚えておくという意味ではありませんから」

 

 頭を掻いている霊夢さんは、私を奇妙なものを視る眼で見た。

 

「経験と情報を処理するということは、それらを集約して無数の情報を破棄する事を言うのです。寺子屋で学ぶ算数と一緒ですよ」

「算数と一緒?」

「1 + 1 = この数式の答えは何でしょうか?」

「2よ」

「そうです。1 + 1 = 2です。貴方は答案用紙に2と答えを書きます。ほら、途中の計算式も数式も破棄してたった一つの数字だけに集約したでしょう? これが情報を処理するという事ですよ」

「なるほど、まさに『処理』ね。確かに情報を捨ててるわ」

 

 僅かばかり理解の(きざ)しを見せた霊夢さんは、自ずから私の意見を再解釈してくれたようだった。

 

「つまりあんたは幻想郷中の秘境を巡って、非日常的な無数の価値ある情報・経験・体験を処理したがっている?」

(しわ)くちゃのお婆ちゃんになった時に想起できる美しい思い出を作っておきたいのです」

「若いわねぇ」

「若いですよ。子供ですから」

 

 にやにやとした霊夢さんに頬をつつかれた。

 

「で、次は何処に行くの? 場所によっては代金は高くつくわよ」

「はい! 次はですね、魔法の森に行ってみたいのです」

 

「ああ、それなら私の知り合いを紹介するわね。ちなみに紹介料はこれだけよ」

 

 算盤(そろばん)を叩いた霊夢さんは、その謎の計算の結果だけを私に突き付けた。私のお小遣い二月分はありそうなそれを見て、思わず言葉が漏れる。

 

「あの~ちょっとその計算の過程を」

「もう処理しちゃったから忘れたわ」

 

 (したた)かである。まったく彼女には敵わない。

 



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魔法の森

茸の判別は、その道で論文をしたためる専門家が図鑑を片手に睨めっこしても間違えることがある、なんて都市伝説を耳にします。

茸は見るものであり食べるものではないのです。

ダメ、キノコ、絶対。


 深い森の中にいた。木漏れ日に照らされた木々の陰影が際立つ。真昼間だと言うのに、木々や岩場の影には夜よりも暗い闇がある。一方、紅葉した落ち葉が地面一面に散乱しており、色彩豊かな(きのこ)たちがそこかしこから顔を覗かせていた。

 

「カラフルだろ? ここは茸の群生地で私もよく足を運ぶんだ。土が良くて、腐敗した落ち葉や木々が多く、湿度も絶妙で茸が良く育つんだぜ」

「魔法の森にこんな場所があったなんて。てっきり暗くて湿気(しけ)てて瘴気(しょうき)(まみ)れた不浄な森だと思ってましたよ」

 

 魔理沙さんは物色した茸をバスケットに()みながら答えた。

 

「そういう場所もあるにはある。だがそれが全てじゃない。魔法の森はとても多様な面を持ってる。この森に暮らしてる私も、まだ見ぬ風景に出くわしたりだってするんだぜ」

 

 霊夢さんから紹介されたのは、普通の魔法使いこと霧雨魔理沙さんだった。私は霊夢さんに紹介料を支払い、そのうちのいくらかが魔理沙さんにも渡った。魔法の森の案内料というやつらしい。

 

「霊夢から聞いたが、写真を撮るんだってな。撮りたい場所は『人跡未踏(じんせきみとう)の地』だそうだが、間違いないか?」

「はい。人間が誰も見たことが無い場所で写真を撮りたいのです」

 

 考え込んだ魔理沙さんは、(しばら)くして懐から古びた手帳を取り出した。

 

「ふむ、そうなると私も見たことが無い場所だな。実は魔法の森をある程度マッピングしているんだ。まあ、自分が住んでいる場所の地理を把握しておくのは当然のことだからな」

 

 魔理沙さんの隣から手帳を覗き見た。霧雨魔法店を中心として、各方位毎に雑多な文字と数字が記されている。

 

「地図というよりはメモに近いがな。私の店からどの方位にどれだけ進めばどんな場所があるか、という具合だ」

 

 方位磁石を手に、魔理沙さんはしばらく手帳と睨めっこを繰り返し、意を決したようだった。

 

「そもそも魔法の森は瘴気と胞子の所為(せい)で妖怪さえ寄り付かない秘境ではある。だが人跡未踏であることに万全を期すなら……ここだな」

 

 魔理沙さんが指さした場所には、ただ一文字が記されていた。

 

「谷だ。深い谷がある。化け物茸が盛大に繁茂していて、一目見て引き返した。だが丁度良い機会だ。一緒に谷底を拝みに行こうぜ」

 

 

 

 

 

 魔理沙さんと一緒に霧雨魔法店に引き返し、装備を整えてから谷へと向かった。スカーフのように口元に巻けと言われた布はどうにも息苦しいが、絶対に外しては駄目らしい。

 

「化け物茸の胞子や瘴気を吸い込まないための魔法の布だぜ。ちゃんと鼻まで隠せよ。それからこのゴーグルもだ」

「魔理沙さんは?」

「私は魔法使いだから、そんな道具は必要ないのさ。それにしても、降りられる場所が中々見つからないな」

 

 谷に沿って暫く歩いていたが、斜面には私の背丈と同じぐらいの巨大な化け物茸がびっしりで、胞子を濃霧のように散布している。無風であることも相まって胞子が停滞しており、谷底をハッキリと見通すことができない。

 

「まるで胞子のヴェールだ。それに見てみろ、絵に描いたようなV字谷だぜ。斜面が険しいったらありゃしない」

「魔理沙さんなら飛んで降りられませんか?」

「できなくもないが、お前を抱えては無理だな。それに見通しが悪すぎる。あんまりこういう場所で飛びたくはない、危険だからな。だが、仕方ない」

 

 魔理沙さんは外套(がいとう)(ひるがえ)した。手招きされたので近づいてみると、きつく抱きしめられる。

 

「あ、あの……」

「仕方がないから、ゆっくり落ちよう」

「えっ…ひゃあっ!」

 

 次の瞬間、魔理沙さんは私を抱いたまま谷底へ飛び降りた。足が地を失い、心臓が身体の中で浮いているような感覚を味わう。私に出来たことは、目を固く閉じて必死に魔理沙さんに抱き付くことだけだった。

 

 

 

 

 

「明香、もう目を開けて大丈夫だぜ」

 

 恐る恐る目を開けると、魔理沙さんの顔が目の前にあった。

 

「よし、次は周りを見てみろ。凄い景色だ。カメラは壊れてないよな? 2枚ぐらい撮ってくれ、私も一枚欲しいんだ」

 

 周囲を見回して息を呑む。

 

 

「茸の森……」

 

 

 誓って、私の背丈の3〜5倍はある程の巨大な茸が、その傘を広げながら木々のように林立していた。

 

「信じられないだろ。私もだ。ここまで巨大な茸は見たことがない」

 

 空を見た。胞子のヴェールが太陽光を滅茶苦茶に散乱させていて、ぼんやりと白けた光が差し込んでいる。そしてそれは、霧雨のように降り注ぎ、地面は積雪したかのようにフワフワだ。

 確かめるように胞子の雪を何度か踏みしめてから、私はシャッターを二回切る。茸に夢中の魔理沙さんもまた、その風景の一部として収まった。

 

 

 

 

 

「うん、似合ってるぜ。サイズの合う服が見つかって良かった」

 

 霧雨魔法店に帰り着いた私たちはまず、服を捨てて風呂に入った。胞子に塗れた服は庭で魔理沙さんが焼いてくれた。その他の装備については、私のカメラも含めて暫く天日干しして様子を見るらしい。

 

「私が子供の頃に着てた服だ、貰ってくれ。大事にしてくれよな。思い入れがある品なんだ」

「はい、ありがとうございます」

 

 部屋着の魔理沙さんは、ホットミルクが入ったマグカップを口につけて寛いでいる。

 

「幻想郷で茸の森を見つけたとか言う話は聞いたことがない。きっと誰に言っても信じられないだろうがな。切り立った崖から谷底へ胞子のヴェールを突っ切って飛び降りた奴らだけが目に出来る光景って訳だ」

 

 胞子の詰まった小瓶が置かれた。恐らくはあの化け物茸の胞子だろう。それをどうするつもりなのかと問うと、予想外の答えが返ってきた。

 

「あの馬鹿でかい化け物茸って食えないかなって思ったんだぜ。一先ず胞子から育ててみようと思うんだ」

「毒茸かもしれませんよ?」

「食ってみるまでは分からん。心配するな、先ずは捕まえた鼠に食わせてから試すさ。それに、永遠亭印の解毒薬もあるからな」

 

 毒に効きます! そんな謳い文句と可愛らしい兎のロゴが印字された救急セットが目に入った。

 

「明香はどうする? その写真を阿求のとこにでも持ってくのか?」

「いえ、アルバムに閉じておきます。自分の秘密を他人に知らしめる趣味はないですから」

「そうだな。研究成果も知識も情報も、秘密にすると価値を持つんだ。神秘なことを見つけた端から喧伝(けんでん)だの周知だのしてたら、世の中全部陳腐(ちんぷ)で安っぽくなっちまう」

 

 神秘の秘匿(ひとく)ってやつだと、魔理沙さんは魔女のように微笑んだ。

 

「次は何処に行くつもりなんだ?」

「無縁塚に行きたいと思ってるんです」

「それなら詳しい奴を二人ほど紹介できるな。で、どちらを紹介するべきか判断する為の質問なんだが」

 

 間を開けて魔理沙さんは口を開いた。

 

 

「墓暴きはするか?」



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無縁塚

骨は埋めておこう。


「僕としては気が乗らないね」

 

 無縁塚に行きたいと聞いた時、森近さんは私を見てそう断言した。魔理沙さんはツケで頼むと口に出したが、完全に無視されている。

 

「だけど、もうお彼岸の時期だ。この時期にはいつも無縁塚に用事があるんだ。手伝ってくれるなら君を案内してあげても良い。結構な重労働なんだが、構わないかね?」

「さすが香霖、話が分かると思ってたぜ」

 

 私は頷いて同意を示した。もとよりお小遣いは底をついていたので、対価が金銭でないのは渡りに船だ。

 

「分かった。なら明日の早朝にまた香霖堂を訪ねてくれ。準備に少し時間が欲しい。それと、動きやすい格好で来てくれ。それ以外は僕が全て用意するから、心配無用だよ」

 

 

 

 

 

「僕はこれを背負う。君はそっちを頼む」

 

 翌日の早朝に香霖堂を訪ねると、まず無縁塚までの荷物運びを頼まれた。森近さんが指さしたのは、(むしろ)が積めるだけ積み込まれた背負子(しょいこ)だ。一方、彼の背負子にはスコップと木箱が積み込まれていた。

 森近さんが背負子を背に負うと、仄かな香りが鼻に届く。線香の匂いだ。なぜ線香なんて持っていくのだろうか。それに敷物としてなら一枚で事足りるはずなのに、大量の筵も奇妙だ。

 

「さて、出発しようか。昼までには無縁塚に着いておきたい。僕が先導するから、付いてきてくれ」

 

 森近さんは、魔法の森の外周を辿るように歩を進めていった。かなりの道のりだ。彼は全くペースが変わらないが、私は30分毎に足を止めないと息が上がってしまう。

 

「すいません、体力不足なもので」

「いや、半人半妖の僕の体力が異常なだけだよ。気にしてくれなくて構わない」

 

 一時間と少し程ひたすらに歩いていくと、辺り一面が彼岸花に囲われた平野に出た。真っ赤だ。急な風景の転換に面食らってしまう。

 

「驚いたかい。ここが再思の道だよ。彼岸花に覆われてしまっていて分かり辛いかもしれないが、ほら、ここに道の痕跡があるだろう」

 

 風に(そよ)いでいる彼岸花をじっと見ていると、不思議と胸がざわめいた。

 

「これはちょっとした蘊蓄(うんちく)なのだが、この道が再思の道と呼ばれている由縁は、死を望むものが思い直し生きる気力を得ることから来ている」

「生きる気力を得る、ですか?」

「彼岸花を見るうちにね。彼岸花とは書いて字の如く彼岸の花だ。そうした強く死を思わせる花が視界一面に映ることで、彼岸の対でもある此岸(しがん)を思わされるのだろう」

「葉が華を(おも)い、華が葉を惟うようにですか?」

 

 私の言葉を聞いた森近さんは、その通りだと上機嫌に相槌を打ってくれた。私は彼岸の花が咲き誇る風景を今一度見た。

 

 きっとこの仄かな死臭は写真には写らないのだろうな。そんな風なことを思いながら、シャッターを切る。

 

 

 

 

 

「お疲れ様、到着だよ。此処が無縁塚だ」

 

 異質な場所、それが第一印象だった。周囲は木々で囲まれており、彼岸花は季節柄場所を選ばす節操なしに咲き乱れている。青空が見えていて日が差しているのに、なぜか薄暗く感じる。

 

「君はここで昼食を食べていてくれ。この博麗のお札を渡しておこう。それと鈴もだ。お札は君を守ってくれる。鈴は何かあったら鳴らすんだ。僕が駆けつけよう」

 

 森近さんからお札と鈴、それからお結びと水筒を手渡された。筵は一枚を残して彼が運んで行ったので、最後の一枚を敷いて腰を下ろす。

 昼食を取りながら周囲を更によく見回すと、外来品も目に入る。奇天烈な形をした品が多いが、その機能も役割も知らない私から見ればただのオブジェクトでしかない。

 

「おや、君は外来人かい? いや、格好を見るに里の人間かな? こんな所で生きている人間と出会うなんて珍しいね」

「あなたは……ネズミさん?」

 

 茂みから現れたのは大きなネズミの耳を持った少女だった。明らかに人間ではない。だが、彼女は至って平常な様子のまま話を続けた。

 

「そうだよ。妖怪ネズミのナズーリンという。君は?」

「私は里の人間です。名は雲見明香といいます」

「ふむふむ、それで君は何故こんな場所でお結びを食べているのかね。ここは無縁塚だ。まさか危険を知らない訳ではないだろう」

「ここには写真を撮りに来たのです」

「無縁塚の写真を? それだけの為に此処に?」

「うん」

「ははは、そうか。君は中々ユニークな人間のようだね」

 

 乾いた笑みだ。呆れられているのだろうか。

 

「ここは外来品が多く、外の世界と重なり合っている。おまけに墓地でもあるが故に冥界とも近い。つまりだ、幻想郷、外の世界、冥界の三つの世界と重ね合わされた領域なんだ」

「へぇ、なら良い撮影スポットとかありますか?」

 

 私の反応を見て、彼女は暫く無言になってから答えてくれた。

 

「春ならば世にも珍しい紫の桜が見られる。だが何分と今は秋だからね」

 

 昼食を取りながら雑談を続けた。隣に腰を下ろした彼女には、敵意も害意も無いようだ。するうち、煙が狼煙のように立ち登るのが目に映った。

 

「気になるかい? あれは香霖堂の店主の仕業だよ。彼が無縁の仏さんを火葬しているんだ。人間の遺体は放置していると妖怪になったりと物騒だからね、ああやって処理するんだ」

「処理……」

「言い方が悪かったね。獣や妖怪の腹の中ではなく、せめて土に還れるようにと埋葬して弔ってるのさ。何の見返りもないだろうに、殊勝なことだよ」

 

 線香にスコップ、成る程そういう訳だったのか。筵もきっと遺体を包むのに使ったのだろう。火葬にするならば、一緒に燃やしてしまえるのも利点だ。

 

「私の手下のネズミ達は不満を漏らしてるんだ。折角のご馳走が灰に……いや、失言だったね、忘れてくれ。待ちたまえ、そんなあからさまに距離を取らないでくれ」

 

 ナズーリンさんへの警戒度を一段階上げる。博麗のお札を握りしめた。正に神頼みである。

 

「弁明させてもらうとだね、何をそう恐れることがあるのだい。例え妖怪や化物でなくとも、人間を食べる動物なんて山ほどいるだろう。それに比べたらネズミなど可愛いものじゃないか」

「……確かにそう聞くとそんな気もしますが」

「でも、ネズミを甘く見てると、死ぬよ」

 

 

 私は鈴を勢いよく振りまわした。

 

 

 

 

 

「君は……いつぞやの妖怪ネズミ君じゃないか」

「これはこれは香霖堂の店主殿、いつぞやは随分と吹っかけてくれたな」

「随分と根に持っているんだね。それで彼女に手を出したのか。私に含む所があるならば直接言いに来れば良いのに、流石はネズミだ、心までちっぽけなようだ」

 

 なかなか険悪な雰囲気であるが、嫌悪の情は感じない。口汚く言い合っているが、何処か親しげでもあった。

 

「見たまえ、博麗の札だ。手など出せていないよ。ただ少し口を出して楽しく会話していただけさ。怖がらせ過ぎてしまったようで済まないね。いやはや、愉快だったよ」

「まったく君は……」

「あの〜お二人は知り合いなんですか?」

「知らない仲ではない。彼女が探していたものが私の店で見つかった事があってね。その際の値段交渉にどうも納得を頂けていないようなんだ」

「もう過ぎたことさ、私は気にしていないよ」

「ならば結構、話は終わりだ。彼女にはちょっかいをかけないでくれ。今日の私の助手なんだ」

「そうなのかい? てっきり写真家か何かかと思ったんだが」

「そうですよ! 写真が撮れるスポットを探してるんです」

 

 なんだか話がちょっぴり噛み合わないが、兎も角未だにビビッと来るシャッターチャンスが見つかっていない。これはちょっと困った事態だ。

 

「なら私が手伝おう。探し物は得意なんだ。怖がらせてしまったお返しさ」

 

 ナズーリンさんは、ダウジングロッドを両手に周囲を見回して歩き始めた。

 

「ほら、ついてきたまえ。こっちだ」

 

 

 

 

 

 ナズーリンさんに付き従うこと暫く。私たちは大きな桜の木の下に出た。驚くべき事に、花が開いている。

 

「秋なのに桜が…」

「ふむ、これはちょっとした蘊蓄なんだが、これは恐らく四季桜だね。春と、それから秋にも咲く桜だ。毎年お彼岸の時期に無縁塚を訪れていたが、初めて見たよ。今年は暖かい日が多かったからか、開花の時期が多少早まったんだろう。見事な満開じゃないか」

「どうだい、私のダウジングは凄いだろう」

 

 私は息を呑んだ。彼岸花と紫の四季桜の組み合わせなど、言葉を失うほかない。これではまるで、葉と華(決して出会わないもの)が出会ったようではないか。時に推いは通じもするのだろうか。

 

 私は即座にシャッターを切った。

 

 

 

 

 

「それで君は、次は何処を目指すのかい?」

 

 埋葬された無縁仏に手を合わしている森近さんを他所に、ナズーリンさんは興味津々と言った様子で私に問いかけてきた。

 

「三途の川に行きたいのです」

「止めはしないが、まだ若い身空だろうに」

「違います」

 

 何か勘違いをされている気がする。

 

「違います」

 

 強く、断言しておく。



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三途の川

夏の川は虫の山、冬の山は雪の海。


「なんとも物寂しい風景ですね」

「そりゃそうさ。なんたって三途の川だからね。それともなんだい、雅であわれな川でも期待していたのかい?」

 

 小野塚小町さんは、呆れた様子で肩を竦めた。三途の川をいざ目の前にしてしまうと、それはなんとも殺風景だ。美麗さに関して言えば妖怪の山の清流の方が何倍も素晴らしいだろう。

 だが、この川はどうしようもなく強く私の心を揺さぶった。生と死の境界の象徴が正に目の前にあるという事実がそうさせたのだ。

 

「小町さん、少し船に乗せてくれませんか?」

「だめだよ。川を渡れば戻って来れなくなる」

「ですが、三途の川には絶滅してしまった魚の幽霊が潜んでいると聞きます。それを写真に撮りたいのです」

「あたいの船は遊覧船じゃないんだけどねぇ。そんなに乗りたいなら条件があるよ。三文銭を支払うこと。タダ働きはできないんだ。これでもあたいは船頭だからね」

「分かりました。よろしくお願いします」

 

 

 

 

 

 唐突だが、私の父には口癖があった。『世界はクソだ。俺たちはクソに(たか)る蛆虫だ』父はそう口にして(はばか)らなかった。汚い言葉遣いだと思ったし、世界はクソなんかじゃないと私は思っている。

 

「どうだい、川岸が見えないでしょ。間違って向こう岸に着かないように、あたいの能力で三途の川の距離を引き伸ばしたのさ」

「幻想郷で死んだ人はみんなこの川を渡るんですか?」

「そうだよ。船頭はあたい一人ってわけじゃないが、幻想郷の死人が渡る三途の川は此処一つさ」

 

 そうなると、父もまたこの風景を見たのだろう。三途の川のどこまでも殺風景な有り様に、きっと父はやはりと手を打ったに違いない。

 私は父とは違い、人間の里を飛び出して幻想郷中を巡っている。今のところ幻想郷は美しい。一つずつ集めていくのだ。自分が生きている世界が好きだと胸を張って言えるように。

 

「あんた、死人を視る目をしてるね。職業柄そういう目はよく見るんだよ。あたいはあんまり好きじゃない、湿っぽい目だ。死者を想うのは程々にするのが一番だ」

「私はそうは思いません。死者は此処にいます。私の頭の中にね」

「へぇ?」

 

 死人の魂を運ぶ死神からすれば、死者が頭の中にいるなんてのは聞き捨てならないだろう。けれど私にはそうとしか思えないのだ。

 

「死ねば身体は土に還り、魂は彼岸へ向かいます。死者はこの世の何処にも存在しなくなる。ならば、もし死者が私の頭の中に居なければ、どうして私は死者を想うことができるのでしょうか?」

「存在しないものを想うことができる能力が人間にはあるってだけじゃないかい? あたいだって、今此処には存在しない上司の事を想ってる。いつあたいのサボりがバレるか気が気じゃないんだ」

「そうですか……そうかもしれませんね」

 

 私の頭の中にある、存在しないもの。奇妙な感じがしたが、思えばそれは当然のものなのかもしれない。

 

 

 

 

 

「さて、淵についたよ。三途の川で一番深い場所だ」

 

 船から身を乗り出して覗き込むと、水中を遊泳している無数の魚影が目に入った。波ひとつ立たない硝子のように透き通った川の水のお陰で、まるで水槽を上から見下ろしたようだ。

 

 魚達を良く見ようとして、前のめりに身を乗り出した。カメラを置いて両手で舟の縁を掴み、限界まで水面に顔を近づける。水は透明だけれど、底なしだ。魚達を隠す闇は、光が届く限界付近の深さを表している。

 

「あんた、なにやってんだい! 危ないよ!」

 

 小町さんの声が背後からして気が付いた瞬間、私の重みでぐらりと船が傾く。

 

「あ……」

 

 

 間の抜けた声を口から漏らした直後、三途の川に真っ逆さま。

 

 

 光り輝く水面を見上げる。身体はまるで浮力がないかのように水中に沈み込む。周囲を見回すと、巨大な首長竜や私の何十倍もありそうな魚達が漂っている。距離感が狂っていて、実際にはどれくらい離れているのか、水面からどれだけ落っこちてきたのかさえ分からない。光は少しずつ弱まっていき、息苦しさがゆっくり増していった。

 この深さならば私は水圧で潰れているはずだ。浮力が働かないことと言い、三途の川はやはり普通の川ではないらしい。なんて現実逃避していると、身体の落下が止まった。ゆっくりと下を向く。鱗だ。

 

 鱗がびっしりとあった。巨大な魚に乗っかっているのだろう。ふと魔が差して、その鱗を掴み……気がつくと私は船の上だった。

 

 

 

 

 

「馬鹿だね、あんなに身を乗り出す奴がいるかい」

 

 盛大に叱られた。

 

「私が能力で助けられたから良かったが、三途の川で溺れちまったら普通は助かることはないんだ。これに懲りたら水辺では気を抜かないことだね」

 

 死神に命を救われるなんてまたとない経験だね。無言で小町さんの説教に耳を傾けていると、カメラを没収されてしまう。三途の川の上ではもう撮影禁止だと、強く言われた。

 

「なら、小町さんが写真を撮ってくれませんか?」

「あたいが? 何を撮ればいいんだい?」

「私を撮ってください。三途の川で溺れた人間なんて滅多に見れないでしょ。ましてそれで助かった人間なんてさ」

 

 びしょ濡れになっている自分を指さした。小町さんは渋々と言った様子で何枚か写真を撮ってくれる。船は穏やかに揺れながら淵を離れていった。その揺らぎがまた絶妙で、私もまた船を()ぐ。

 

 

 

 

 

「此処は……」

 

 目を覚ますと、見知らぬ部屋のベッドで横になっていた。周囲を見回してみるが、やはり見覚えがない。何故こんな部屋にいるのか皆目見当もつけられない。私は三途の川で小町さんと船に乗っていた筈なのだけど。カメラの写真を現像してみれば分かるかな?

 

 するうち、制服姿のうさ耳少女が部屋に入ってきた。ベッドから身体を起こした私と視線が合わさる。互いに無言で見つめ合うこと暫く。

 

「ようやくのお目覚めね」

 

 困惑している私を見て察したのか、彼女は事の顛末を説明し始める。

 

「此処は永遠亭よ。あなたは無縁塚で意識を失って目を覚まさないって担ぎ込まれてきたの。私の師匠が隅から隅まで調べたけど異常なし。どうにも出来ないからベッドに横にして様子を見てたってわけ。丁度丸一日寝たきりだったのよ」

「それはまた……手間と迷惑をおかけしました」

「本当にね。香霖堂の店主はかなり当惑してたわ。後で礼を言いに行ったほうが良いと思う」

「そうします」

 

 彼女、鈴仙さんのお師匠様とやらに私が目覚めた事を報告するとかで、部屋に一人残された。特にすることもなく窓の外の竹林を眺める。

 此処が噂に聞く永遠亭ならば、目に入っている竹林はかの迷いの竹林に違いない。ふと思った、是非とも撮りに行きたいなぁ。

 

 

「存外に貴女は命知らずなのね」

 

 

 声がした。視線を向けると、物陰に寄り添うようにして一人の女性の姿が見える。

 

「無縁塚で三途の川に行きたいなんて強く想ってしまったものだから、貴女の魂は彼方此方(あちこち)へゆらりふらり。それで願いは叶ったかしら?」

「はい。三途の川で写真を撮れました。といっても私の写真ですけど。いや、それよりも貴女はどちら様ですか?」

 

 

「この世のものでもあの世のものでもないものに触れたわね」

 

 

 問いかけは無視され、代わりに指差された。

 

「本来触れるはずのないもの、そういうものは触れると憑くのよ。大概は碌なことにならないのだけど、貴女の場合は大したことなさそうね。安心したわ」

「待ってください。何を仰られているのか、さっぱり分からないのです」

 

 私の言葉を全て無視した胡散臭い女性は、目の前で唐突に消え失せてしまった。幻の類いだろうと思う。最近妙なことばかりで気が参ったのだろう。布団を被り直そうとすると、手に不思議な感触があった。

 

 鱗だ。綺麗な鱗が一枚、いつの間にか私の手に握られていた。魚の鱗だ。まさか三途の川から持ってきちゃったのかな? そうだ、博麗神社の霊夢さんに頼んで御守りにでもしてもらおう。何せ私が三途の川から生きて帰った記念なのだ。大層縁起がいいに決まっている。

 

 心に決めた私は、手早く鱗をしまってベッドに身を委ねた。



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太陽の畑


夏日、過日を追う花を追う。


「暑いなぁ」

 

 真夏である。日差しがジリジリと肌を焼く中、麦わら帽子を深く被って歩を進める。目指す先は太陽の畑だ。向日葵が一面に咲き誇る光景が大層美しいという噂に釣られたのだ。

 しかし、太陽の畑はかの悪名高い風見幽香の主な活動場所であり、更には悪戯好きな妖精やら妖怪やら騒霊三姉妹やらがコンサートで騒ぎ立てていたりする危険地帯なのだ。人間の里以外に幻想郷に安全地帯なんてない? うん、それは、そう。

 

「もうちょっとで着く筈なんだけどなぁ」

 

 背負子を下ろして道端に腰掛けた。首からカメラと一緒にぶら下げていた巾着袋にふと目が向く。三途の川の巨大魚の鱗を、霊夢さんに頼んで御守りにしてもらったものだ。目にしていると少しばかり気が涼む。だが身体は火照ったままだ。暑すぎる。

 耐えられずに水筒に口をつけていると、こんな人里離れた田舎道を行く人影が見えた。一体誰だろうかと目を凝らしてみて唖然とする。素敵な日傘を指して優雅に歩く彼女は、人間の里の花屋で何度か見かけた事のある少女だった。

 

 求聞史記曰く、極高の危険度と最悪の人間友好度を併せ持つ四季のフラワーマスター、風見幽香だ。太陽の畑を目指していたのだから、彼女との遭遇も想定の範囲内だ。目を合わせないようにして立ち上がり、すぐにでもこの場を立ち去ろうと行動を始める。

 

 が、間に合わなかったらしい。

 

 

「あなた、そんなに急いで何処へ行くの?」

 

 

 直ぐ背後から声がする。いやいや、おかしいでしょ。ついさっきまで遙か彼方にいたじゃん。ワープでもしたの?

 

「私を無視するなんて随分と生意気なガキね。何処へ行くつもりかって聞いたんだけど?」

 

 呆気に取られて困惑していると、彼女は苛立ち混じりの声音になっていた。肩に手を置かれて、言うことを聞かない身体を無理矢理振り向かされる。

 

「人間? てっきり妖精かと思ってたわ。で、これで三度目よ。何処へ行くの?」

「た、太陽の畑へ行こうと思って」

「ますます気になるわね。何が目的かしら? 太陽の畑は向日葵が咲いているだけの長閑な場所よ」

 

 答える代わりに震える手でカメラを見せると、察してくれたようだ。

 

「ふぅん、あなたカメラマンさんなのね。それなら……そうね、良いことを思いついたわ。太陽の畑の写真を何枚か撮ってちょうだい。今年の向日葵たちは特に綺麗だから、ただ散ってゆくのを眺めるだけなのは惜しいと思っていたのよ」

 

 頷いて答えると、付いて来るようにと促された。選択肢は多分ない。だが願ったり叶ったりだ。意を決して彼女の後を追う事にする。

 

 

 

 

 

「何処かの鴉天狗のように記者ってわけでもないのに、幻想郷中で写真を撮ってるなんて物好きね。太陽の畑を選んだのは人間の里の噂の所為かしら?」

「はい。今年はとても美しい向日葵が見られるって噂を耳にしまして」

「その噂、私が広めたのよ。毎年花を咲かせているのに見てくれるのは風情も解さない妖怪や妖精ばかりで可哀想だから」

「仕方がありませんよ。人間の里からは遠すぎますし、何より風見さんがいますから」

 

 風見さんと雑談すること暫く。少しだけこの人の事が分かってきた気がする。彼女には強者特有の雰囲気がない。人を従えるようなカリスマが無いのだ。気さくで親しみやすく、誰にでも平等だ。何故なら、自分以外を等しく弱者だと思っているから。

 歯向かうなら叩き潰す、そうでないなら自然と接する。強大な妖怪らしい超然とした有様だ。だからこそ求聞史記にもあれだけくどく彼女の危険性が記されているのだろう。そうでなければただの親身な女性だと勘違いしてしまうだろうから。

 

「あなたは私が怖くないの?」

「怖いですよ。でも、怖がったら助かりますか?」

「肝が据わってるわね。気に入ったわ」

 

 ともあれ、歩むうちに黄金色の平原が現れる。

 

 

「ようこそ、太陽の畑へ」

 

 

 

 

 

 見渡す限り一面の向日葵畑だ。風見さんの歩みに合わせて、花々は意思があるかのように彼女を追い向きを変える。向日葵は太陽を追うように花を咲かせるはずだし、ましてそれが人を追うなんてあり得ない筈なのに。

 遠景にも目を向けると、無数の向日葵が絡まり合ってできた巨大なオブジェクトがあった。馬鹿でかい向日葵の花が一つ最高の位置にあって、太陽のように畑を見下ろしている。あれは何なのだろうか?

 

「この花たちは良い子なのよ。私によく見えるように花を向けてくれるの」

「あの花は向日葵ですか? 妖怪や化生の類ではなく?」

「当然よ」

 

 何をおかしなことを聞くのか。振り向いてそう答えた風見さんと共に、花々もまた私に一斉に振り向いた。

 

「ほら、写真」

「あ、え」

「折角この子達があなたを見てくれてるのよ。早く写真を撮りなさい」

 

 慌ててカメラを構えて、風見さんと共に向日葵たちをレンズに収める。まるで絵に描いた太陽のように、巨大な向日葵の花も写り込んだ。なんだか集合写真を撮っている気分だ。

 

「さて、何枚か撮ってちょうだい。それと……この近くに私の住まいの一つがあるの。お茶でもどうかしら?」

「ご一緒します」

 

 何処までも澄み渡る空と、何処までも続く太陽の海。柔かに微笑む風見さんが日傘を振ると、風が吹いて花々が戦ぎ、お日様の匂いが仄かに香る。向日葵に向けて手を伸ばすと、揺れる葉が私の手を撫でた。

 

 

「さようなら」

 

 

 花にも言葉が通じる気がして、口から自然と言葉が漏れた。

 

 

 

 

 

「夏の陽気が強くて、向日葵たちがとても元気なの。去年もそうだったけれど、今年ほどでは無かったはずよ」

 

 お洒落な空き家と言った風情の小屋に連れ込まれた私は、風見さんと向き合ってお茶を飲んでいた。窓の外では向日葵たちがゆらゆらと揺れている。

 

「本当に元気そうに見えます」

「ひとりでに動くほど元気なのを見るのは私も初めてだわ」

「風に揺られているのではないのですか?」

 

 問いの答えは微笑みで黙された。話題を変えるべきかな。

 

「そう言えばあなたの名前をまだ聞いていなかったわね」

「私は雲見明香と申します。空の雲を見る明るい香りです」

「あはは、なるほどねー。面白い名前だわ」

 

 けらけらと笑う風見さん。

 

「風雲、幽明境を異にしてるのね。洒落てる偶然だわ」

「えぇと、私は生きてますよ?」

「気にしないで、ただの独り言だから」

「……向日葵の写真はどうしましょう」

「私はいつも此処にいるわけではないから、此方から出向いた方が確実でしょう。受け取りに行くわ」

「現像は少し時間がかかりますが、明後日にでもお越しいただければ手渡せるかと」

 

 風見さんは季節によって、美しい花が見られる場所に居を移すのだそうだ。ここもそうした仮住まいの一つなのだと言う。幻想郷中に別荘を持っているようなものなのだろう。とても羨ましい。

 

「そう言えば、あの巨大な向日葵は何なのですか?」

「妖精達が悪戯で向日葵を絡めて遊んだのよ。何匹か住み着いたみたいで、ますます成長しているわ」

「それは凄いですね」

「でも、所詮は一夏の一幕でしかない。花は咲けば散るものだから、何れはあれも土に還るのよ。そしてまた新たな花を咲かせる。生きているものが死んでいるものに生かされているなんて、不思議な感じがするわね」

 

 そして私はとても永く生きてきたと、風見さんは呟いた。

 

「三精、四季、五行を繰り返して沢山の花が咲いては散っていくのをずっと見てきたわ。そして幾度も思う。花とはこんなにも美しかったのかと。きっと多くの花を見てきた記憶がそうさせるのでしょうね」

 

 カメラを指さして彼女は笑う。

 

「写真の花は散らないのよ。写真の中に花はないの。花を想わせるものがあるだけ。でも私はそれが好きだわ。記憶の中に花を咲かせる色彩のパターンだなんて、とても素敵だと思わないかしら?」

 

 写真は花を見せない。写真は私たちの心の中にある花を想わせる。そう風見さんは言った。ならばきっと、幻想郷中を巡る私の旅路は、私の記憶に世界を刻み、写真がそれを想起させるのだろう。

 

 ふと、ワクワクした。

 

 私が撮った写真から幻想郷を想えるのは、正にその記憶を持つ私だけなのだから。写真と記憶はワンセットなのだ。私だけが知っている、私だけが幻視できる、幻想郷の入り口。そしてそれだけではない。

 

 

 きっと私の目に映るものでさえそうなるのだ。

 

 

「とても素敵です」

 

 暖かなお茶に口をつけた。窓の外を見る。やはり向日葵は揺れていて、風は吹いていない。風見さんを見る。彼女も私をじっと見た。互いに互いを記憶に刻む。

 きっと私が撮った写真を見た時、風見さんは写真には一欠片も写っていない私のことを思い出すのだろうな。そう思うと少し嬉しかった。



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紅魔館

格好をつけよう、くどいぐらいに。そうしなければきっと、取って食われてしまうだろうから。


「雲見様、ようこそお越しくださいました」

 

 紅魔館の門前で顔馴染みのメイド長が、ひどく丁寧な口調と物腰でそう言った。その余りに事務的かつ畏まった態度は、私があくまで外様者である事を強く意識させる。

 

「それではご案内します」

 

 紅魔館を訪れるのは、もう数えるのも難儀な回数になる。始まりは私の家に小洒落た洋風の手紙が届いた事からだった。美しく流暢な日本語で、紅魔館の主からの依頼が記されていた。

 曰く、紅魔館の主の妹様の話し相手になって欲しいと。その当時私は幻想郷中を活動範囲とする手広いカメラマンとしてちょっとした有名人になっていた。きっとそうした噂も相まって私に依頼が転がり込む顛末となったのだろう。

 

「妹様は以前から雲見様とのお話を楽しみにしているようでして」

「それはありがたいこと、なのかなぁ? 話し相手なら私より長生きで物知りな射命丸さんなんかが適任かと思いますが」

「あの鳥天狗は口が軽いですし、妹様のことも記事にしてしまわれるでしょう。身内の人間をゴシップ記事のネタにさせるなどお嬢様がお許しになりませんので」

 

 妹様、フランドール・スカーレット、悪魔の妹。私の話し相手であり私が話す相手だ。少しばかり気が狂っていて、495年間紅魔館に引きこもっていたインドア派吸血鬼だ。浪漫を求めるアウトドア派カメラマンである私とは正反対の気質だろう。

 正直な話、初めて依頼の手紙を読んだ時は何の冗談かと思った。紅魔館と言えば吸血鬼の館として有名で、哀れな外来人たちを食糧にしているとか悪魔の館とか穏やかでない噂しかない。明らかに罠か何かの依頼で、ノコノコと出向かえばどうなるかは火を見るよりも明らかに思えた。

 

「本当に良く依頼を受けてくださいましたね」

「私も初めは無視する気だったのですよ」

「しかし受けて下さった。決め手はやはり例の報酬ですか?」

「カメラマンとして紅魔館の引きこもり吸血鬼が写真に写るかどうか試したかっただけですよ」

 

 報酬はワインだった。年代物の血のように紅いビンテージワインだ。かなりの高級品らしいが、あいにくと子供の私は酒に強くないし味も分からない。それに、不相応だとも思った。

 吸血鬼や悪魔の跋扈する館をか弱い人間の生身一つで訪ねて、気が狂っている魔法少女の引きこもり吸血鬼に幻想郷の広さを教える話し相手になること。報酬はワイン一瓶。普通なら首を縦に振る人間はいない。

 

「三途の川の淵から帰ってきたから、存外に怖いもの知らずになってしまったのか。或いは私はフランドールさんとは逆方向に狂ってしまっているのかもね」

 

 インドア派の気狂い吸血鬼と、アウトドア派の気狂い人間。正反対でありながら類が友を呼ぶように、私はこの依頼に『運命』を感じたのだ。

 地下室への階段の前で咲夜さんは立ち止まり、私は先へ進んだ。地下の深い暗闇はもはや馴染み深いものだ。私は暗闇の中で扉を開く。視界が光で満たされた。

 

 

「わぁ、明香ちゃん! また来てくれたのね!」

 

 

 ハイテンション吸血鬼。七色の宝石のようなものをぶら下げた翼。フランドール・スカーレットは笑顔で私の手を握った。無邪気な子供そのものだ。私も頬が綻ぶのを感じる。私というのは案外に単純な生き物で、嬉しそうな他人を見るとつい嬉しくなるものなのだ。自分がどう感じているかとは関わりなく、心は鏡のようなものだ。

 

「それで、今日はどんなお話?」

 

 

 

 

 

「今日のフランの様子はどうだったかしら?」

「何も変わりありませんよ、レミリアさん」

 

 フランドールとの対話を終えた私は、メイド長に引き留められて紅魔館の主と対面していた。できることなら一直線に帰りたかったな。レミリアさんの瞳は私の心を見透かすようで嫌いだ。

 

「引き留めてしまって済まないね。一応これでも姉だから、妹の様子は気にかかるんだよ。霊夢や魔理沙との交流でフランはようやく紅魔館の外の世界に興味を持った。でも、まだまだ幻想郷のことも人間のこともあの子は知らないからね」

 

 館には時空を操るメイド長。偶に交流がある人間は博麗の巫女と天才家出魔法使いだ。正直言ってフランドールさんの人間観はかなり狂っている。大多数の人間は空を飛べないし魔法も使えないし吸血鬼と喧嘩できないことを知るべき……なんだろうか?

 

「私としてはフランドールさんの歪な人間観に救われているところもありますけど。はっきり言いますと、彼女は馬鹿ですから」

 

 ムッとしたレミリアさんが怖いので補足しておく。

 

「馬鹿を馬鹿にしているわけではないのですよ。彼女はまるで箱入り娘のようで、私の言うことを疑うことがない。きっと誰からも嘘を吐かれない優しく美しい世界が彼女の全てだったのでしょうね」

「そんなことは無いと思うが」

「では、次来た時は庭先の蟻の写真を見せて、世にも珍しいお喋りをする蟻さんの話をしましょう」

「ははは、勘弁してくれ」

 

 初めてフランドールさんを見た時は、なんて可愛らしい少女なのだろうかと思った。嘘も知らない無邪気な女の子だ。ちょっと力が強い我儘な子供そのものだ。この世のあらゆる残酷さから離れて、495年間ずっと家族に守られてきたのだろう。

 取りも直さずそれは、彼女が495年間ずっとなんの成長もなくガキのままであったことを意味する。

 

「心中お察し致します」

「やめてくれ、胸が痛い」

 

 レミリアさんは顔を歪めた。私の言葉と態度から、言わんとするところを察したのだろう。

 

「霊夢と魔理沙のお陰でフランが外の世界に興味を持ったのは大きな前進なのよ。彼女はこれからようやく一端の吸血鬼として、一人の少女として世に出ようとしている。そのための手助けを姉として疎かにすることはできない、というだけなの」

「貴女は優しいのですね、レミリアさん」

「身内に限りだ。これでも悪い吸血鬼なんでな」

 

 495年、私からは想像もつかない時間だ。

 

「では、私は怖がりな人間なので失礼させていただきますよ」

 

 席を立ち館を去る私に背後から声がかかる。

 

「そう言えば、貴女は処女かしら?」

「……は?」

「答えによってはフランに壊されてしまった時に助ける方法が増えるから」

 

 親しき仲にも恐れあり、そう言うことなのだろう。一応はただの人間として私は彼女たちを恐れておかねばならない立場ではある。それとも本当に私の身を案じてくれているのか。

 

「仰る意味が分からない程度には純朴な少女ですよ私は」

 

 私の答えに彼女は笑った。それを見て私は無意識にシャッターを切っていた。ポカンとした様子のレミリアさんは困惑の色濃く首を傾げている。私もその行為の理由を理性が後付けするのを待つ為に一拍の時間を必要とした。

 

「レミリアさんの素敵な笑み。今度フランドールさんに見せてあげようと思いまして」

「フランとは何百年も顔を付き合わせてきたわ。笑顔だって飽き飽きする程に互いに眺めてきたのよ」

「人は人に向ける笑顔を人に合わせて選びます。きっと私に向けたレミリアさんの笑顔は彼女にとっては未知のものでしょう。それに、壊れた人形を転がしておくよりは笑顔の家族の写真がある方が彼女にとってはちょっとした救いになるでしょうから」

 

 格好を付けて部屋を後にした。とんと私らしくないが、私の癖なのだ。自分を超越していて強大なものには、格好をつけて騙し騙しでないと関われない。そうでもして自分を隠してしまわないと、いつ取って食われてしまうか怖くてたまらないから。

 

 自分は隠して秘しておくに越したことはない。秘密は多い方が良いのだ。大事なものはしっかり隠す。子供だって自分の宝物は隠すし、大人はより巧妙に隠し通す。世界にはどうでも良い上辺だけが明かされていて、秘密はいつも胸の中だ。

 

 だからこそ私はそうした秘密を写し撮りたい。悪趣味な墓暴きのような下劣な感情かもしれないが、これもまた浪漫だと言い繕う。目に見えるものなど高が知れているが、だからこそ目に見えぬものが姿を現す一瞬に価値がある。場所でも人でも物でもそれは変わらない。

 

「お帰りですか?」

「うん。出口まで案内して欲しいです。紅魔館って本当に入り組んでますよね」

 

 咲夜さんに案内してもらい、ロビーに出る。振り返るとフランドールさんが手を振っていた。引きこもりとはいえ館の中ぐらいは自由に出歩いている。彼女が世界の美しさと残酷さを知る未来もそう遠くはないだろう。

 

 私は手をふり返し、紅魔館を後にする。館の外では雨が降っていた。背後では騒がしい喧騒と破壊音がしている。どうやら紙一重で助かっていたらしい。メイド長さんの手間を思い、助かった幸運を思い、雨の道を1人行く。外に出たいだとか散歩したいだとか、そんな喧騒は雨音が掻き消してくれている。私には聞こえないね。



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天界

禁足地に足付かず。


 私は博麗神社の鳥居をくぐって、境内で立ち尽くしていた。人を待っているのだ。霊夢さんに無理を言って仲立ちを頼み、とある少女と此処で顔を合わせる予定だった。

 

「身勝手な奴だからね。約束や時間を守るような律儀さなんて期待しちゃ駄目よ」

「例えそうであっても、元来無茶な願いですから仕方ありませんよ。霊夢さんにも随分と手間をお掛けしました。礼は必ず」

「気にしないで。御百度参りなんてされちゃ張り切らずにはいられないわ」

 

 御百度参り、書いて字の如く博麗神社へ百回お参りをして祈願したのだ。私も本気である。お小遣いはもはや無くなったのでカメラマンとして写真を天狗に流したり、茶屋のお手伝いさんをしたりと難儀したが、無事に成し遂げることができた。百回目の参拝を終えてから、私は願いを告げた。

 

 つまり、比那名居天子、かの非想非非想天(ひそうひひそうてん)の娘との邂逅(かいこう)を願ったのだ。天人は天界に住まい、滅多なことでは下界に降りてくることはない。だからこそである。

 

「噂をすれば影ね」

 

 博麗神社の鳥居をくぐり、一人の少女が境内に現れた。どう見ても尋常でなく、地上のあらゆるものよりも優れたオーラを放っている。本来地に足つけることもない天上人、比那名居天子その人である。

 

 

 

 

 

「生意気にも私に会いたい地上人がいるらしいわね! 霊夢、そこにいる貧相な女の子がそうかしら?」

「そうよ。私はお茶でも淹れてくるから、あんたら二人で話してなさい」

 

 天子さんは品定めするように私を眺め回した。するうち彼女の視線は私の胸元に向く。私の御守りを凝視しているようだ。

 

「地上の娘よ、初対面だな。私は比那名居天子だ。さて、私から少し聞きたいことがある。その御守りについてだ。神仏の加護を一切感じないどころか、幽明の境が揺らいでいるように見える。呪物だな。その解呪に私の手を借りたいのか?」

「いいえ、天人様。貴女様に頼みたい願いはそうではありません」

「ほう、言ってみなさい。私は地上の下賤(げせん)な妖怪や人間とは違って寛大な心を持っているから、どんな願いでも耳に入れてあげましょう」

「どうか、私を天界に連れて行って欲しいのです」

 

 天子さんが凍りついたように動かなくなる。暫くしてから彼女は首を傾げ、顎を(さす)り、頰を掻いて腕を組んだ。それからうぅんと唸り声を漏らして、困惑して私を見つめるといったことを数回繰り返した。やがて無限とも思える沈黙を経て、淡白に彼女は言葉を捻り出す。

 

 

「さてはお前、頭がおかしいな?」

 

 

 

 

 

「天界に足を踏み入れて一体何をしようと言うの? 天界には金銀財宝も不老不死の秘儀もない。ちょっとばかし体が丈夫になるだけの味気ない桃があるだけの、限りもない何もない桃源郷、それが天界よ。争いなく悲嘆もまたなく、悪く言えば退屈で、良く言えば世に並べて事もなき世界よ。考え直しなさい。お前如きちっぽけな小娘が天に昇ろうと得られるものなど何もない」

 

 威圧的に有無を言わさず、まるで魔が差した子供を親が叱るように、天子さんは真摯(しんし)に私に説教をした。が、どうやらすこし彼女は勘違いしているように思う。

 

「違います天子様。私は天界に昇って天人になりたいだとか、不老不死になりたいだとか、そんな事を考えているのではありません」

「ならば、一体お前は何の目的があって天界を目指す?」

「写真を撮りたいのです。きっと素敵な景観でしょうから」

「写真撮影? えっと、あの、カメラで撮るやつ?」

「はい」

 

 天子さんはまたもや閉口してしまった。が、直ぐに吹き出して大笑いをした。腹を(よじ)って苦しそうにして、目から涙を滲ませている。

 

「人間が生涯をかけて厳しい修行を積み、人を超えて仙人と成り、更に修行に明け暮れ、ごく一握りの仙人のみが至れる境地、それが天道であり天界よ。お前みたいな(よわい)(とお)つと少しの地上人が写真を撮りに行く? ははは、気に入った」

 

 ひとしきり大笑いした天子さんは、私を抱きしめた。すると、地面がぐらりと揺れて浮かび上がる。驚いて足元を見ると、要石が目に入った。

 

「目を瞑っていろ、そして離れるな」

 

 ああ、以前にもこんなことがあったなぁ。あの時は真っ逆さまだった。今度は──見上げた空に落ちていく。

 

 

 

 

 

 雲を突っ切ったのだと思う。雲海が眼下にあって、屹立(きつりつ)する峰を立ち登る雲が霧のように隠していた。無数の山と見紛う要石が至る所に浮遊していて、険しい峰がさながら鋭利な破片の如く漂っている。

 天頂を見ると雲一つなく、真昼間のはずなのに星空が目に入った。あり得ない風景だと思う。青空が星空へと移り変わってゆく色彩の帯が縞瑪瑙(しまめのう)のように頭上にあった。いや、あれは星空ではなく宇宙という奴ではないのだろうか? そう思ってふと視線を向けると、月が見えた。太陽と月が空の彼方と此方で昼と夜のせめぎ合いをしている。

 

「まだだぞ。天界を撮るのだろう。世界を撮るからにはここではまだ駄目だ」

 

 天子さんは私の耳元でそう呟くと、更に高度を上げた。天頂にあった星空は私たちが高度を上げるに従って帳を下ろす。やがて極光が星空を彩り始めた。天界はもはや風景の一部になり、地上の縁が緩やかな曲線となって空と接する。掴めはしなかったが、手を伸ばすと星々に手が届いた。

 眼下では雲は地上に描かれた蠢く紋様であり、天界は空に浮かぶ要石であった。雲と極光が地と空を彩り、刻一刻と揺らめいてゆくのを見た。私は今この瞬間天に立ち、地上のもの全てが目に入った。地の色は黄色かった。

 

「地上も天界もちっぽけでしょ。こんなつまらない世界に」

「天子様、地上ってこんなにも美しかったのですね」

「……」

 

 私の眼下にある美しい景観を写真に収めた。しかし写真はあくまで一側面の一瞬を切り取ることしかできない。揺らめく極光も流れゆく雲も瞬く星々でさえ捉えることはできない。

 この目に写して脳裏に焼き付けるしかないのだ。私はそう頓悟(とんご)した。カメラを思い切り下界へ放り捨てる。未練はあったが抵抗はなかった。

 

「天子様、私はこの目に写して見せます」

 

 天子さんの目蓋に私の手のひらを重ねる。私の脳裏にある風景を、彼女にも見せたかったからだ。まるで人に夢を見せるようにその時、私は確かに私の見た風景を彼女にも見せた。

 

 

「ただの地上人、ではなかったのか。明香、こんなに綺麗な世界を見ていたなんて、(ずる)いじゃないか」




『目に写したものを見せる程度の能力』


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玄武の沢

盟友。


 私は玄武の沢にいる。妖怪の山の麓近くの辺鄙(へんぴ)な沢だ。夏場の酷い熱気に()だっていた私にとっては絶好の避暑地だった。それと同時に、沢では最近『奇妙なオブジェクト』の目撃例が相次いでいるらしい。

 

 遅くまで居座ると帰路が夜道になってしまうのが心配だが、まだ昼前で時間的に余裕がある。できる限り沢山の写真を撮っておきたかった。それと言うのも、玄武の沢には明らかに奇妙なものが満ち満ちていたからだ。

 例えば、沢の川沿いに水車がいくつも建てられていて、河原には真っ白な無数の風車が突き立てられていた。風が吹くたびにクルクルと大量の風車が回っているのは壮観だが、沢にこんな風景があるなんて聞いたこともなかった。

 それに、暫く沢を見て回って気付いたが、沢で見られる柱状節理の地形に大量のパネルが設置されていた。なんとも不気味だが、無数の直線を含む幾何学模様が描かれており、どう見ても自然物ではない。

 

 私はこうした『奇妙なもの』の写真を撮影してくるよう依頼されていた。御阿礼の子の稗田阿求様が、この玄武の沢の噂を憂慮しているのだそうだ。

 

 

 私は腰を上げて、さらに写真を撮ろうと──

 

 

「動くな!」

 

 

 周囲を見回すが声の主は見当たらない。が、何もないはずの場所から次々と作業服姿の少女達が現れた。彼女達は人間の里で見かけたことがある。河童のエンジニア達だ。

 

「玄武の沢に何の用だ」

 

 取り囲まれてしまっている。やましい事はないので、香霖堂で新調したカメラを見せて用向きを説明しようと考えた。

 

「私はカメラマンでして、玄武の沢で」

「捕まえろー!」

「えっ……え?」

 

 あれよあれよという間に河童たちに取り押さえられてしまい、手足をぐるぐるに縛られてしまう。なんで? 何故に?

 

「カメラを持ってるぞ、スパイだ! アジトの情報を盗みに来たんだろ。きっとあの烏天狗の仲間だ!」

「お願いです、ちょっと待ってください」

 

 何とか弁明しようとするが、身体が痺れて意識が遠のく。

 

 あ、これ駄目なやつだ──

 

 

 

 

 

 気がつくとゆっくりと水中に没していた。水は透き通っていたが、深さを増すにつれてその色合いは翡翠色に染まっていき、やがて薄暗がりになった。目を凝らすと、何か朧げな輪郭が写る。鱗だ。

 背を向けている巨大魚の全貌が視界に入る。尾ひれだけで私の背丈の何倍もあった。ボコボコと気泡が弾む音と、水が掻き分けられる音がして、どんどんと離れていく。私はしっかりとそれを目に写した。するうち、流線形をした小型の──それでも全長数メートルはある──魚の群れが巨大魚に襲いかかった。巨大魚は尾びれで薙ぐだけで大質量の魚群の体当たりを蹴散らしている。

 

 だが、そこに異質な存在が現れた。赤い双眸と同じく真っ赤な角を生やした女性が、着衣のまま銛を手にして巨大魚に迫っていた。魚群に指揮を下しながら、悠々と巨大魚の退路を絶っている。

 

 そうか、これは漁なのか。

 

 気付きの瞬間、私の意識は砕け散った。

 

 

 

 

 

 意識が戻ると周囲はガラクタの山だった。目を凝らすと此処が薄暗い部屋の中だと分かる。手足は縛られたままだ。耳をすますと、外からはひそひそ声が聞こえてきた。

 

「どうするんだよ。あいつ人間じゃないか」

「てっきり山の天狗の奴らかと思ったんだ」

「だからってなんで此処に連れてくるんだよ」

 

 だが、私の注意は夢見た光景に割かれていた。アレは間違いなく三途の川の巨大魚だった。胡散臭げな少女の幻が語った言葉が思い浮かぶ。『触れると憑く』そう聞こえた言葉が真ならば、私とあの巨大魚の間には何かしらの『繋がり』が出来ているのかもしれない。

 

「おい、人間。困るんだよなぁ、アジトの近くをカメラなんてもってコソコソされちゃあさ」

 

 何故そんな繋がりが、と問うことに意味はないのだろうなと思った。世界は無意味だからだ。太陽が『どのようにして』在るかを知ることはできても、『何故』在るかを知ることはできない。それは宗教の領域だ。人間の意識が意味づけるものでしかない。

 

「おーい、聞こえてるー?」

 

 ならば、自問自答をしよう。まず、どのようにして私と巨大魚はリンクしたのか。三途の川で直接接触したからだろう。これはあの少女の幻が触れると憑くと語っていたことからも導ける。

 ではどのようにしてこの繋がりは維持されているのか。巨大魚の鱗を御守りにして身につけるという行為が、直接の接触以後もリンクを維持している可能性がある。また、天子さんがこの御守りを指して『幽明の境が揺らいでいる』『呪物』などとも語っていた。少なくとも何もないと言うことはないだろう。

 

「ちょっとさあ、だんまり? 黙秘ってかい? そんなそっけない態度取られちゃカチンときちゃうなぁ」

 

 では、私はこのリンクをどうしたいのか。『私はこの繋がりが好きだ』自分が此処にありながら異なる目を持って幽明の境を幻視できると言うのならば是非もない。縛られた腕で御守りを確かめた。

 そして、河童の少女はそれを見て表情を和らげる。私が怯えているのだとでも思ったのだろう。

 

「あー。そんなに怖がらなくていいよ。取って食おうって訳じゃないんだ。たださ、そのカメラで撮られちゃ色々と困るんだ」

 

 彼女は私のカメラを開くと、フィルムを露光させる。今日一日分の撮影が全てお釈迦になってしまった。

 

「さて、ちょっと見学していくかい? ようこそ、河童の工場へ」

 

 開かれた扉から光が差し込む。そこには不可思議な内装の部屋があった。まず、窓がひとつもなかった。床も壁面も天井も真っ白で、蔓が伝う細い柱が規則的に林立している。周囲に光を放つ奇妙な管のようなものが張り巡らされていて、白色の光を放っていた。

 

 

 そして、胡瓜があった。

 

 

「ここは自慢の胡瓜工場だよ。胡瓜の栽培について記された外来本を元に可能な限り効率的に胡瓜を生産できるように試行錯誤しているんだ」

 

 その河童の少女は自身を河城と名乗り、彼女のいう『胡瓜工場』なるものについて、手足を縛られたままの私を連れながら説明を続けた。

 

「これまでは気温や害虫や病原菌、栽培に用いた土地の土壌や日照に生産性を左右されてきた。でも、ここはそうした問題を解決しようとしている最先端の工場なんだ。日照は人工の光源で、環境は各種空調や養液を用いて制御してる。地下だから外部とは隔離されてて嵐が来ようと大雨が降ろうと影響されない。地表では太陽光や水力・風力を用いた発電を行い、必要な電力を賄ってるのさ」

 

 河城さんの語った言葉の大半は理解できなかった。ただ分かったことは、彼女達が何かしら特別な方法で胡瓜を育てているということだ。

 

「私たちは人間に迷惑をかけるような事はしていない。だから、人間も私たちには迷惑をかけないでくれよな。私の言いたい事はそれだけだ」

 

 

 

 

 

 ゆっくり手を離した。稗田様は瞼を開けて溜息を吐く。

 

「胡瓜工場ですか。河童達の考えそうなことです。しかしまあ杞憂ならばそれで良かった。手間をかけましたね雲見さん、ありがとうございます」

「迷惑はかけない、だから迷惑をかけるなとだけ言付かっています」

「妖怪の言葉など当てにはなりませんが、雲見さんが目にしたことは確かでしょう。胡瓜なら好きなだけ育てて構いません。元より河童のすることに口を出せる権限など私にはないですし。もし里に害するならば手もありましたが……正直言って拍子抜けですね」

 

 言葉とは裏腹に安堵しているのだろうか。稗田様は何処か憑き物が落ちたような様子だ。

 

「それにしても便利ですねこれは。雲見さん、私の目になってみませんか?」

「ははは……」

 

 言葉を濁して答えをはぐらかした。私の意図を察してくれたようで、彼女もそれ以上は語らない。互いに茶で口も濁す。あ、美味い。流石は稗田家、茶葉まで高そうだ。なんて思っていると、部屋の隅にかけられた巻物に目を惹かれた。相当に由縁ありそうな品だ。

 

「稗田様、あの巻物は一体?」

「あれは『私家版百鬼夜行絵巻最終章補遺』よ。とある化け狸から取り戻したもので、一時保管中なの」

「少し見せてもらっても構いませんか?」

「ダメに決まってます」

「えぇと、なら今回の依頼の報酬代わりに一眼見せてください。一枚写真を撮りたいだけなので。河童にフィルムをお釈迦にされてしまってカメラマンとしての収穫がないのです。百鬼夜行絵巻ともなれば写真に収めれば大変に価値があるに違いないでしょう?」

「……それなら約束してください。写真は誰にも見せないこと。勿論、貴女の能力でも誰にも見せないこと」

 

 頷いて答えると、稗田様は渋々といった様子で絵巻を開いた。途端に、背筋が冷たくなるような妖気が放たれる。

 

「これは凄いですね」

「これでも絵巻の影鬼は退治されています。これは残滓に過ぎません」

 

 絵巻には百鬼が夜行する恐ろしい有様が描かれていた。私はカメラを手にして百鬼夜行をレンズに収める。シャッターを切った瞬間、目の前が真っ暗になった。驚いてカメラから目を離すと、視界に違和感がある。私は周囲を見回してこの違和感の正体に気が付いた。

 

 

 視界が半分欠けているのだ。

 

 

 稗田様が絶句した様子で私を見つめている。彼女は手鏡を震える手でこちらに向けた。手鏡に映った私の右目は、常闇のように真っ黒だ。彼女は百鬼夜行絵巻を片手に私の手を引き、絵巻と私を離れの蔵に押し込んだ。

 霊夢さんを呼んでくるから、じっとしているように。そう言って蔵の扉を閉じた彼女は、慌ただしい足音を響かせて去っていく。あまりの急展開に、私はただただ呆気にとられて呆然とするしかなかった。

 

 

 

 

 

 どれぐらい蔵の中でじっとしていただろうか。暗がりに目が慣れてきて、少女が目に映った。私がかつて幻視した幻の少女だ。彼女は私に近づいてくると、大きく溜息を吐く。

 

「百鬼夜行絵巻を写真に撮るなんて、呆れたお馬鹿さんね。写真とは姿形と共に、時にその魂さえ写すもの。まして貴女の目には物を写す力があるのよ。お陰で退治されて弱りきっていた影鬼の残滓が貴女の右目に写ってしまった」

「ええと、どちら様ですか?」

「その右目は影鬼が祓われるまで、光を写すことはないでしょう」

 

 なにやらブツブツと彼女は独り言を呟き始めた。

 

「参ったわね、もう神隠ししてしまいましょうか。これ以上様子を見るのは無駄かもしれない」

「あの、私は雲見明香と申しますが、どちら様でしょうか?」

 

 ガタンと音を立てて蔵の扉が開いた。目を向けると、霊夢さんが稗田様に連れられてきていた。そこに居る少女がと指差すと、彼女達は揃って首を傾げる。幻の少女はもう跡形もなく消え去っていたのだ。

 そこに少女がいて、お話をしていた。何度聞いても名さえ教えてくれない。そう伝えてみるが、二人とも私を見て表情を暗くする。

 

「しっかりしなさい。あんたの気が動転してるのはよく分かるわ。でも落ち着いて、まずはゆっくりその目を見せてちょうだい」

 

 

 暫く霊夢さんにされるがままだった。彼女は残念そうな表情を浮かべて、最後にお札で私の右目を塞いだ。どうやら様子を見るしかないらしい。右目に写った妖怪が悪さをしないようにと、予備のお札を何枚も渡されてから、蔵から出された。

 

 

 ただ、私は地に足がつかない感じだった。利き目が使えないと写真を撮るのが不便だなとか、そんな事を考えて帰路についていた。

 

 私が手にしていたカメラは手足を伸ばして転げ落ちると、そのまま茂みに姿を消してしまった。目を擦ってみるが見間違いではなさそうだ。

 

 

 うん、だめだ、疲れてるな。風呂に入ってゆっくり寝たい。しっかり疲れを取ろう。羊羹が良いな。甘いからとても美味しいんだ。里のカフェのメニューにあるようなスイーツも食べたい。甘いケーキとか、モンブランとか──



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マヨヒガ


その目に写す。


 私は囲炉裏で暖をとっていた。外の様子を見てみると、夜の真っ暗闇に真っ白な吹雪で一歩たりとも外出できそうにない。妖怪の山に押し入り大蝦蟇の池を目指していたのだが、山の天気が急変して遭難してしまったのだ。吹雪の中で遂に日が暮れかけた際には最悪の結果を覚悟していたが、天の助けか明かりの灯った民家に辿り着いた。

 

「もしかしてだけどさぁ……これってマヨヒガだよね」

 

 伸ばした手足で完全自律して私に追従するカメラは、同意するように縦に揺れた。こいつは私のカメラだったものであり、付喪神だ。私の右目に写っている影鬼はかつて百鬼夜行絵巻に憑いており、付喪神を産む力があった。霊夢さんのお札で右目は塞がれているものの、目に近づけていたカメラは付喪神になってしまったのだ。

 このカメラは付喪神になってから家出していたけど、暫くして帰ってきた。やはり道具は大事に扱うべきだなぁと痛感したものである。可愛い奴め。

 

 さて、家人が帰ってきやしないかと思っていたがそれもなさそうだ。真夜中に吹雪いているのに誰も帰宅してこないのは、この民家が完全に無人であることを強く意識させる。ついさっきまで人間が生活していたような痕跡が数多く残っているのに、人間の気配が一切ない。はっきり言ってとても不気味だ。囲炉裏に火まで入っていたのに……。

 カメラは囲炉裏の周りをグルグルと駆け出した。きっと退屈なのだろう。だが、マヨヒガは一生に一度しかお目にかかれず、二度見つけられることはないと聞く。ならば無二の撮影チャンスである。

 

「ついてきて。ちょっと探検するよ。あと、写真も何枚か撮るから」

 

 カメラは後ろから付いてきてくれたので、そのまま部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 それからと言うもの、私はこの暫定マヨヒガを隅々まで探索した。まず、この民家は屋敷と言えるほどに立派な造りで、沢山の部屋があった。それぞれの部屋にはみな、人間が生活していた痕跡がありありと残っていたが無人であった。その上、一つ懸念事項があった。

 

「何かいるよね」

 

 私が部屋を出た後、襖を閉めた後、廊下を曲がった後に、見えない場所で何かが動いている気配がするのだ。それは物音だったり、ちらりと見える影だったりした。

 明らかに何かがいる。しかも私に気付いている。私は囲炉裏の部屋まで戻り、全ての戸を閉めて火を絶やさないようにして引きこもった。

 夜が明けるまでここで凌いでマヨヒガを後にしようと思う。写真も何枚か撮ったが、ただの屋内の風景にしか見えない。正直なところ少しガッカリだ。眠気も酷くなってきた。大雪の中を必死に彷徨った為に疲労困憊なのも相まって徹夜はできそうにない。

 

「何かあったら起こしてね」

 

 カメラが縦に揺れたのを見てから、目を閉じて横になった。目が覚めれば朝になっているだろう。そうすれば後は山を降りるだけだ。

 

 

 

 

 

 目が覚める。頭にカメラがぶつかったようだ。戸を開けて外を見るが夜は明けていない。何事かと思うと、猫の鳴き声が聞こえてきた。成る程、お猫様である。猫 is 何故?

 廊下に出て見ると、暗闇に無数の目が浮かんでいた。猫の目だ。ははぁ、さては物音の正体は彼らだったのだろう。大した猫屋敷である。そうと分かれば感じていた不穏さもすっかり霧散する。化物の正体見たり枯れ尾花といった具合である。

 

 さて、猫の写真を撮ろうとしてカメラを向けると、彼らはぷいと姿を隠してしまう。しかし残念、暫定、猫屋敷の認識になってしまったからには一体何を恐れるものか。カメラを手に猫達を追いかけ回す。しかしそこは猫。身軽足軽であっという間に撒かれてしまった。

 参ったなぁ、なんて困っていると、背中に唐突に衝撃が走る。

 

「ぐうぉ」

 

 廊下の床に顔面から倒れ込む。何とか受け身をとったものの、そのまま取り押さえられてしまった。なにごと?

 

「捕まえたぞ、悪い幽霊め! よくも私の仲間を追い回したな!」

 

 私を取り押さえたのは、年端もいかない少女だった。一眼見ただけでは人間かと見紛う姿だが、猫耳が帽子から飛び出ている。

 

「……化け猫?」

「そういうお前は……妖怪の幽霊?」

「人間ですけど」

 

 沈黙の後、私の上から退いてくれたので自己紹介を。

 

「人間の里のカメラマン、雲見明香です。猫さん達の写真を撮りたかっただけで害意はないのです。驚かせてしまったなら申し訳ありません」

「私は橙。藍様の式神で化け猫だよ。仲間の猫達の住処にちょうど良さそうな家を見つけたから探索してたんだ」

 

 話を聞くと、どうやら橙ちゃんも私と同じようにマヨヒガに迷い込んだらしい。そこで怖い化物に追われていると、仲間から呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーンである。化物の正体は私だった訳だが。

 

「ほら、ちゃんと足もついてますよ」

 

 橙ちゃんは怪訝げだ。恐らく信じてくれてはいないのだろう。だがそれで構わない。私がすることは変わらないからだ。

 

「夜が明けるまで滞在しようと思ってます。大雪の中で山中を彷徨う訳にもいきませんから」

 

 びゅうびゅうと今も吹雪だ。外に出ればあっという間に遭難して凍死するだろう。化け猫が居ようとも、このマヨヒガに居座る以外の選択肢は私にはない。

 

「しりとりでも一緒にしますか?」

 

 なので、適当に一緒に暇でも潰そうと、そう私は提案したのだった。

 

 

 

 

 

「凄い……」

 

 退屈で仕方なかった橙ちゃんにせがまれて、私は彼女に沢山のものを見せていた。妖怪の山から玄武の沢まで、目に写してきたものの中でも美しかったものを彼女に見せたのだ。

 

「でしょ。この茸って食用できるかどうか何年か以前に魔理沙さんが調べてた筈だから、今度会ったときに聞いてみようかなって」

 

 だがそれでも、連続したビジョンとしての幻像はやはり、視覚以外のものに訴えることはできない。あの彼岸花から香る死臭や、向日葵畑の太陽の香りはしないのだ。夏の虫の音も、あの手に触れた葉や石の感触さえない。

 

「この太陽の畑、とても綺麗ですね」

「うん。何年前か忘れてしまったけど、少し暖気の強い夏の年だったと思う」

 

 

「揺れる向日葵たちを見ていると、畑を吹き抜ける風の音が聞こえてくるみたいです」

 

 

 予想だにしなかった言葉を食らってしまって、面食らってしまって、私は言葉に詰まってしまう。

 

「その……どんな風かな?」

「向日葵の葉っぱや花を揺らすような穏やかな風が。雲がゆっくり流れてるからきっと優しい風です」

「うん、どんな香りがするかな?」

「きっと向日葵の香りですね。それに、晴天で干した布団を取り入れたような、柔らかくてぽかぽかでふわふわした香りも」

 

 橙ちゃんはそれを皮切りに、私が見てきた風景に感じることを教えてくれた。その場にいた私の感じ方とは違っていたけれど、私が見てきた世界は橙ちゃんの中で解釈されていく。実在はしないけれど美しい風景として、記憶され補完されていく。私が見た世界から私が見たことのない世界が見出されていった。

 

「でもでも、こんなに沢山の風景を見て回ったり写真を撮ったりするなんて、本当に雲見さんって幻想郷のことが好きなんですね」

「……うん」

 

 振り返って私の行いを見た。カメラを手に世界を目に写してきた私の行いはまさにそうだろう。自分自身の行いは、自分自身の言葉よりも、自分自身の心を写すから。

 

 

「私はこの幻想郷(せかい)が──好きなんだ」

 

 

 外を見ると吹雪が止んでいた。雪化粧の風景の中、地平線から太陽が昇り始めている。真っ暗闇だった世界に光陰が矢の如く差していった。鳥達が囀っていて、肌寒く透き通った空気が心地よく肌を刺す。私は囲炉裏の火で暖をとりながら、座敷の中から写真を撮った。

 

 うん、素敵だ。今日最高の一枚だ。




頭上夢中の風。


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虹龍洞

「参ったなぁ」

 

 マヨヒガで吹雪を凌ぎ、妖怪の山を降りる為に橙ちゃんと別れて一人帰路に着いたのだが、なんと今度は大雨である。一寸先さえ見えない程の篠突く雨は、私の独り言さえ掻き消していく。

 

「きっつい」

 

 何とか雨宿りできそうな洞窟に身を寄せる。びしょ濡れの荷物を足元に手放す。気分はとっても疲労困憊だ。暫くして慌てたように付喪神のカメラが私の元に駆け寄ってきた。大きな葉っぱで風雨を凌ごうとしていたようだが、敵わなかったようだ。私の服や布切れで拭うが、水が伸びる以上の効果は無さそうなので諦めて座り込む。

 

「山の天気は変わりやすいって言うけどさ、吹雪から大雨なんて滅茶苦茶だよね。やっぱり勝手に山に深入りしたから怒られちゃったのかなぁ」

 

 ふと、洞窟に目をやる。自然な洞穴ではないようで、とても整った形状で奥底へと闇が続いている。知性あるものの手が入っている、幾何学的な直線がその証拠だ。つまり、レールとか言うものが敷き詰められているのだ。

 恐らくは坑道、それも何かしらの運搬坑道だろう。いつから山の住人は鉱石の採掘になんか手をつけていたのだろうか。そんな話はとんと聞いた事がなかったのだが。

 

「……行こうか」

 

 探究心が鎌首をもたげた。どちらにせよ大雨で下山はできないのだ。洞窟の入り口でぼうっと雨が止むのを待つよりは、風に聞こえぬ洞穴に首を突っ込む方が面白そうではないか。

 

 意を決して、不要な荷物を入り口に放置して歩を進めた。何かが私の胸をざわつかせていた。何かがある、私の勘がそう言っていて──事実それは正しかった。

 

 

 

 

 

 明らかに怪しい光の照らす坑道を進んだ。光源は見当たらず、空間を照らす光は刻一刻と色彩を変化させている。凄く目に悪い。

 

「また人間か。止まりなさい。それ以上進んではいけない」

 

 道を阻む者が現れる。格好を見るにまともな相手ではなさそうだ。

 

「此処から先は無酸素エリアよ。つまり、これ以上進むと君は死ぬことになる」

「そうなの? なんだかどうりで息苦しいなぁって。ところで此処は一体何なのかご存知ですか?」

「ここは虹龍洞とも呼ばれています。龍珠を採掘する為に掘り進められた坑道の一つです」

 

 彼女は私の名を聞いてから、玉造魅須丸と名乗った。勾玉制作職人で、勾玉の原材料として適した龍珠が悪用されないようにこの坑道を調査していたのだと言う。尤も、今やそれも終えて用はないらしい。

 するうち彼女は、じっと私の目を覗き込んだ。そうマジマジと見つめられると少し照れるが、私の眼のずっと奥を何処までも見晴るかすように観察されているように感じて、僅かばかり不思議な感じがする。

 眼はしばしば窓と結び付けられる。眼は魂の窓であるとか、口ほどに物を言う、なんて風にも言われる。つまり眼はその人間の心を覗かせる場所であるからして、見つめると言う行為はその者の心を見ることを意味する。鏡で自分の眼を見てみたいものである。

 

「すぐ引き返しなさい。ただの人間……ではないようですが。さあ、雲見くん。君が目にしなければならないものなど虹龍洞にありはしない」

「うーん、ならお土産がわりに写真でも」

「それならまさに土から産まれたものを持って行くといい」

 

 手渡されたものは、鍵とも釣り針とも取れる物体。真っ黒なそれは、太極図を無理矢理引き裂いた片割れのようでもある。勾玉だ。

 

「雲見くん、君の眼を見れば一目で分かった。君は多くの物を見てきた人間なのでしょう。しかし、君がその目に写し手にしてきたものは本来誰のものでもない。その勾玉もまた、私が君に渡した勾玉であって君の勾玉ではない」

「何を言いたいのですか?」

「つまり、丁度良い機会なのよ。引き返して空を見なさい。大雨が外では降っていたはずだから、きっと虹が掛かるはずよ。それが目印になる。虹を追いなさい」

 

 話を続けようとするが、玉造さんは取り付く島もなく私を追い返した。わざわざ危険を警告してくれるなんて、優しい人なのだろうと思う。でも、私の目を見ただけで何が分かると言うのだろうか。所詮、眼は窓にすぎない。窓から部屋に入る人間はあんまりいない。彼女もまた私の心を垣間見ただけなのだ。

 とは言え手渡された勾玉に目を通すと、何か奇妙な風景が一瞬だけ見えたような気がした。勾玉は魂を移す道具でもあると聞く。もしもこの勾玉にも何かしらの魂がこもっているのだとすれば、その世界を窓越しに見せることもあるのだろう。多分。

 

 

 魂。そう、魂だ。

 

 

 私にとって魂という言葉は、普通の人間が思っている抹香臭い意味合いでは捉えられていない。その魂を有した個体が生きて経験し感知してきた意識・無意識を問わぬ無数の情報の構造体。それが魂だと私は考えている。

 この考えのミソは、魂は情報の()()()()()()という点。本来、情報とはそれ単体ではなんら規則性も意味も有さない無秩序の権化だ。魂は情報だと断じれば即ち魂は無秩序と化す。それを回避するロジックが構造体なのだ。

 情報、即ち無秩序が、個体の生体活動(じんせい)によって秩序を見出されて構造化され蓄えられていく。魂は生きることによって構築される。生物はみな、この世界の名誉観察者なのだと思う。

 私たちは毎日、世界からの莫大な情報(むちつじょ)を受け取り、そこに秩序と意味を見出して組み合わせ、自分の中に詰め込んでいく。時には忘却(さくじょ)したり想起(ふくげん)したりしながら、自分の魂を組み替えていく。目指すところは、より美しく壮大な魂だ。

 えてして人間の脳というのは(ものがたり)を作るのが得意なのだろうね。少なくとも私は、美しい魂を持った蟻なんかに出会ったことはないしさ。

 

 

 

 

 虹龍洞の入り口まで引き返し、大雨が小雨になるまでぼうっとして景色を眺めていた。雨足が遠のけば下山の為に道を下るべきなのだが、雨上がりの虹を追って山を登るように進路を変える。

 息が上がっていて、身体が奇妙な感じだった。吹雪での遭難、マヨヒガでの探索、大雨での遭難、虹龍洞での遭遇を経て身体は疲労の限界で、明晰な思考ができているとは言い難い。

 本来はこんな状態で山を登るなどあり得ない。だが、何かが私の足を突き動かしていた。玉造さんの言葉だけではない。この山の頂きまで到達して写真を撮りたかったのだ。登山家になったわけでもないのに、素人のカメラマンが妖怪の山の登頂をめざしている。自殺志願者か何かかと、自嘲してまた息を切らす。

 

 日は既に暮れかけで、今から下山しても帰り道は真夜中になるはずだ。再びマヨヒガにでも出くわさない限りは、山中で野宿することになるだろう。

 

 僅かずつ妖怪の山の頂に近付きつつあった。植生は高山のそれになっている。高山植物が疎らに目に映るだけで、殆どが寂寥とした岩肌と荒れた土くれに覆われていた。息がますますできなくなっていく。生きて帰れるだろうかと言う漠然とした不安が胸に渦巻く。更に進むと、茜色に染まった雲が眼下となった。天気が変わることはもう無いだろうと思うと、少しだけ気が楽だ。

 ひたすら足を動かした。カメラもめげずに後について来ている。一人と一個は遅々としたペースで一つの目印に迫る。

 

 

 虹。そう、虹だ。

 

 

 虹は雨によって空中に漂う水滴が光を反射させることによって発生すると聞いたことがある。しかし、雲の上には雨は降らないというのに、私の目の前で空を横断しているこの虹は一体何なのだろうか?

 

 疑問は尽きない。体力は尽きていた。足腰がマトモに動かなくなり、その場でへたり込んでは息を整えて歩き出す。そんなことを何度も繰り返した。幻想郷中を遍歴しても、体力がついていた訳ではなかったらしい。

 日が暮れ切っても月影を頼りに虹を追い続けた。遂に山頂に辿り着いた時には、満月が空に浮かんでいて遮る雲はなく、虹が月に掛かっていた。もはや虹は、形を持った橋か何かのように目に写る。

 

 最後の力を振り絞って、月に掛かる虹を写真に写した。そのまま倒れ込んで、体を横にする。もう身体は動かなかった。朧げな意識が霧散していき、瞼が瞳を覆い隠してしまおうとするまさにその時

 

 

「虹の袂では、万物は無縁となり(かみ)に返される。さあ人間、取引をしよう」

 

 

 神様が現れた。

 

 

 

 

 

 自らを市場の神だと私に説いたその女性は、天弓千亦と名乗って取引を持ちかけた。

 

「何か手放したいものは無いか? 人にくれてやりたいもの、交換したいものはないか? 市場という名の祭場で、取引という名の儀式でもって、人ははじめて物を手放せる。さあさ、滅多に無い機会ですよ」

「手放したいもの……」

「そうすれば代わりに何かしら貴女の望む物を見繕いましょう。例えばこんなカードとか」

 

 望む物を問われた。欲しい物は沢山あるが、今この瞬間に望むことはただ一つしか思い浮かばない。

 

「神様、私はとても無茶苦茶に山を登ってきました。月も出てもう辺りはすっかり夜です。願いはたった一つです。この妖怪の山から無事に帰りたい。それだけです」

「ならばその為に何を手放せる?」

 

 勾玉を差し出した。

 

「良い勾玉です。玉造の作でしょうか。魂がこもっているかのようですね。しかし貴女の願いにはそれだけでは足りません」

 

 御守りを差し出した。

 

「これは一体何ですか。彼岸の匂い……けれどあの世の物でもない。物珍しいですがしかしこれでもまだ足りませんね。貴女の願いは貴女の命と等しい願いなのですから」

 

 右目を指差した。

 

「このお札は剥がしても構わないの? うーん、どうやったらこんな事になるのかしら、影鬼が巣食ってるじゃない。目に写す能力? 訳が分からないけど魔眼の類ね。成る程、分かったわ」

 

 天弓さんは勾玉と御守りを受け取り、剥がしたお札を私の右目に貼り直した。

 

「流石にこれは受け取れないわ。だってその目は貴女だけの物ではないようだから。ただその覚悟は買ってあげる。代わりにこの『無事かえるお守り』を貴女の物としましょう。決して振り返らず、お守りを握って真っ直ぐ山を降りなさい」

 

 手渡されたそれは、蛙の描かれた御守りだった。確か東風谷早苗さんが似たような御守りを縁日に売り出していた記憶がある。朧げな記憶は瞬間に霧散した。私の意識もまた──

 

「さようなら人間。良い取引だったわ。もし叶うならば、また取引をしましょう。今度は更に物珍しい物を期待しますよ」

 

 

 

 

 

 ふと目が覚めると、勾玉も御守りも影も形もなく、神様からもらった無事かえるお守りとやらも見当たらない。ただ分かるのは、此処が人間の里の門前だと言うことだ。門にもたれ掛かって倒れていて、体の節々が痛んで動けない。

 

 結局は門番に見つかって神隠し扱いで保護された。妖怪の山にいたというと天狗の仕業だと思われるだろうなぁ。濡れ衣を着せるのは悪いことだろうし、勝手に山に向かって遭難したと言うのも決まりが悪い。

 

 情け無くも選んだ言葉を口にする。

 

「分かりません。気がつくと此処にいたのです」




人隠れ、神明かし


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博麗神社

「そういう訳でして、妖怪の山に登った時に逢った大雨でカメラの調子が可笑しくなっちゃったみたいで困ってるのです。修理できたりしませんかね?」

「このカメラは僕の店で購入したものだろう。修理できないことは無いんだが、これを分解して修理するというのは些か忌避感がある。まさかあのカメラが付喪神になっていたなんて驚きだよ」

 

 森近さんは興味津々と言った様子で付喪神を見つめている。カメラは四肢をわちゃわちゃさせて私の手から逃れようとしていた。きっと私たちの話を聞いて分解されてしまうかもしれないと思ったのだろう。

 

「しかも君は妖怪の山に立ち入ったのかい。あそこは人間にとっては半ば禁足地だろう。よく生きて帰って来れたものだ」

「ふふふ、頂上まで行ってきましたよ。あまり余裕は無かったですが良い写真も撮れました。実に満足です」

「だがこの写真は夜空の月と虹しか映っていないじゃないか。態々大した手間を払って辿り着いたのだろうに、被写体のチョイスが奇妙だと言わざるを得ないね」

「雲海とか地上の風景を撮った方が良かったですか?」

「そっちの方が自然ではあるね」

「月と虹、そして空。これ以上に自然なものなんてないですよ」

「僕は人間の一般的な感性について話しているんだよ。君は少し変わり者だ」

 

 首を傾げて見せると呆れられてしまった。

 

「それにその眼はなんだい。霊夢から聞いたよ。百鬼夜行絵巻を自分の能力を使って直視したそうじゃないか。『目に写したものを見せる程度の能力』だろう。まさか影鬼が文字通り目に写るとは君にとっても予想外だっただろうけど、随分と軽率な事をしたね」

「確かに軽率でした」

「しかしその目があるなら写真を撮る必要など無いのでは?」

「そんな事はありませんよ。中秋の見えざる名月を思い浮かべるように、想像と記憶の中のものが現実のものより遥かに美しかったとしても、思い出は頭の中にしかありませんから」

 

 

 カメラから手を離して自由にしてやり、椅子に腰掛けた。修理ができないならば仕方がない。何処へなりとも行くがよい。あれ、何処にも行かないの? 肩に乗られるとちょっと重いのだけどなぁ。

 どうやら彼は私の肩に乗ったりぶら下がったりするのが気に入ったらしい。妖怪の山を徒歩で登ったのが相当に大変だったのだろう。

 

 

「森近さん、私って結構色んな所を見てきたんですよ」

「ああ、そうだろうね」

「でも、あと数年もすればきっと記憶も薄れていって、写真みたいに一つ二つの思い出を思い出すだけになるのだろうとも思います」

「忘れ難きこともあるだろう」

「程度の問題だと思います。全て忘れ去られていって、でも時折ふと思い出したりする、そんな思い出が私たちの過去の全てです。私たちの記憶全てがそうだとも思うのです。忘れない記憶は無い、忘れていない記憶は、思い出した記憶だけ。水の流れに呑まれて浮き沈みする笹舟のように、忘れては思い出すことを繰り返す」

「では、そうやって忘れていくとして……それに何か問題があるのかい?」

「問題など、一切ありませんよ」

 

 そう断言すると彼は面食らったようだった。

 

「てっきり君は記憶の儚さに対する嘆きを口にしているのかと思ったよ」

「私は、忘れることこそが何よりも美しいことだと思っていますから。病的でない忘却は、私たちの魂を美しく整える鑢のようなものです」

 

 多くのものを忘れられるように、ありったけの情報を頭に詰め込んできた。この幻想郷という世界のありったけを。

 

「その為には、コイツも忘れてあげないと」

 

 私は笑って右目を指差す。森近さんは察してくれたようだった。

 

「霊夢に伝えておこうかい?」

「いえ、私から口にします」

 

 彼とも別れを告げて、私は香霖堂を後にする。

 

 

 

 

 

 場所を知っているとはどう言うことを言うのかと問われれば、私はその場所への道を知っている事だと答えるだろう。博麗神社への道のりを歩みながら、ふとそんな事を思った。

 長い長い石階段を一段ずつ登るにつれて、僅かずつ彼方に見える雪の積もった鳥居が大きくなっていく。疲れからか、気の迷いからか、足が少しずつ重くなっていくのを感じる。

 

 

「本当に覚悟の上なのね?」

 

 

 目の前に一人の女性が立ち塞がった。私が度々幻視していた少女だ。

 

「貴女の目の影鬼を無理矢理に祓ってしまえば、その右目はもう光を写すことはできなくなるわよ」

「今もできていませんよ」

 

 石階段を一歩登る。

 

「私は八雲紫。ずっと貴女を見てきた。貴女がこの世界をその目に写してくれる事を期待したからよ。片目であれ貴女の目が失われる事は私にとっても損失なのよ。やめて頂戴」

 

 石階段を一歩登る。

 

「貴女に幻想郷を見て欲しかった。そして私に見せて欲しかった。この世界に住まう一人の人間としての目で見た幻想郷を。貴女の能力に気付いた時からずっと気に掛けていたわ」

 

 足を止めた。これ以上は少女が退かない限り進めない。

 

「私は全てを思い出の底に沈めて、現実が堆積していくのに任せて忘れ去ったものを、掘り起こすことを楽しみとしながら日々を過ごしたいだけです」

「忘れ去られたもの達の楽園である幻想郷に、忘れ去られたものを掘り起こすことを楽しみにする貴女だなんて、とっても素敵だと思うわ。だからこそ私がお手伝いをしましょう。貴女の右目の影鬼をあるべき場所に戻すお手伝いを」

「影鬼については霊夢さんに依頼するつもりで此処にいます」

 

 

「ならば彼女も呼べば構わないのでしょう?」

 

 

 少女は霊夢さんの名を呼び、私の右目のお札を剥がした。右目から影が漏れ出し始め、怪物の頭蓋の形をした影鬼が現れる。次いで絵巻物が宙に広がった。百鬼夜行絵巻だ。気味の悪い眼球の蠢く空間から、輪を描くようにはためき伸びている。

 

「紫!? あんた何やってんのよ!?」

 

 当惑した表情の霊夢さんが鳥居の向こうから飛んでくる。はためく百鬼夜行絵巻とお札を剥がされた右目から滲み出す影を見て、彼女は臨戦態勢に入った。

 

「霊夢、この鬼を断ちなさい」

「何を急に──どうやって!?」

 

 のっぴきならない状況で、霊夢さんは即座に少女に指示を仰いだ。恐らくは二人の間の信頼が為せる技なのだろう。

 

「影を断つにはその境目を作らなければならない。即ち光と影の境界を」

 

 少女がその手を振り下ろすと、私の目と影鬼を繋ぐ影に陽光が差す。同時に霊夢さんが寸分違わず阿吽の呼吸でお祓い棒を薙いだ。

 断たれた影はまた繋がりを求めて蠢くものの、百鬼夜行絵巻に引き摺りこまれていく。

 

「貴方にとっては百鬼夜行絵巻こそがより繋がり深いものなのよ」

「いや、ちょっと待ちなさいよ。これ阿求が保管してた筈よね」

「拝借してきましたわ、霊夢が返却しておいてくれるかしら?」

「はぁ……どうせ無断で拝借してきたんでしょ。阿求に謝っておきなさいよ。それにこの状況──大体理解したわ。人騒がせな奴ね」

「あら、それは酷い偏見だわ。私は阿求のコレクションと彼女の右目をより完璧な状態に復元するお手伝いをしただけですのに」

 

 軽口を叩き合った二人は、私に目を向けた。

 

「右目の調子はどうかしら?」

「……見えます。お二人の姿がハッキリと」

「それは本当に良かった。案外、一か八かの賭けだったのよ」

「でも存外に呆気なかったですね」

「ふふ、私は一人でも強いけど最強の助っ人まで呼んだのよ。これで呆気なくなかったら全く嘘ですわ」

「あんたねぇ……次から人を呼ぶときは前もって教えなさい。じゃないと来てあげられないわよ」

 

 

 二人の間を通って歩を進める。石階段を登り切って鳥居の真下に辿り着いた。振り向くと幻想郷の風景が一望できる。冬真っ盛りの雪景色だ。空気は冷たく澄んでいて、肌寒い風が頬を撫でる。

 田畑は真っ白に染まっていて、家屋だけでなく森や山、川にまでも雪が積もっている。夜中に吹雪いたからか、ここ最近でもかなりの積雪だ。しかし、日はしっかりと差していて厳寒というほどではない。春は未だ遠いが、雪解けはそう遠くはないだろう。

 

 

「良い景色ですね」

「お気楽な感想ね。確かに見る分にはそうだろうけど、雪掻きだって大変だし、歩きにくくて敵わないし、不便なのよ」

「でも本当に……綺麗です」

 

 ふといつもの癖でカメラを手に取って、写真を撮った。

 

「あんた、何やってんのよ?」

 

 霊夢さんに言われて、この手にカメラが無いことに気付く。ハッとして目を白黒させた。まるで体が勝手に動いたようだった。

 

「多分、いつもの癖です。美しいものを見るとつい……」

 

 霊夢さんは微笑む。

 

「よく撮れたかしら?」

 

 返答に少し窮した。少し考えてみてから、この風景が切り取られた写真を思い浮かべてみる。

 

「はい、そんな気がします」

 

 きっとそうに違いない。

 

「今度、私にも見せなさいよ」

「今、貴女にも見せますよ」

 

 私の手のひらを彼女の瞼に重ねた。彼女はふいと言葉を漏らす。

 

「見る目を変えるだけでこんなに変わるのね」

「ちょっと霊夢狡いわよ。私にも見せてくださらないかしら?」

 

 仲良く押し合いをする二人をしばらく見ていると、つい笑みが漏れた。そんな私の見た二人を見て、霊夢さんは頬を染めて境内に早足に去っていく。クスクスと、悪い顔をした八雲さんが嘯いた。

 

「あら、気にしなくて良いわよ。まだ彼女は自分を他人の目で見ることに慣れていない年頃だから」




他人の目で見るわたし。


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旧都

「すまないけど、このガキが何て言ったかもう一度教えてくれない?」

「彼女は旧都に行きたいって言ったのよ」

 

 霊夢さんの言葉を聞いた彼女は、信じられないものを見るように私を見た。彼女は伊吹萃香さん。そうは見えないが、鬼の四天王だとか言われて酒呑童子なんて名で呼ばれたこともあるらしい。

 

「つまり、あの嫌われ者達の溜まり場に行きたいって事? 一体何の為に?」

「こいつはカメラマン──()()()。まあ、観光客か何かみたいなものよ。そう言う訳で地底観光一名様ご案内よろしく頼みたいわ」

「ふーん。構わないよ。私もちょっくら地底に顔を出そうかと思っていたところだからね」

 

 存外意外にすんなりと話が通った。霊夢さんから聞いていた話だと、もう少し厄介な相手だったはずなのだけど。

 

「私はあんたの事をよく知ってるよ。幻想郷の至る所を節操もなく踏破していたね。よくこれまで無事でいられたもんだ。妖怪にとって食われるか野垂れ死ぬのがオチだと思ってたよ。放浪癖でもあるのかい?」

「まあ、そんな所です」

 

 旧都──それは幻想郷の地底世界に存在する旧い都。地上から追放された者、落伍した者、忘れ去られた者達が集う地底の明るい都。辿り着く為には、地上に空いた深い縦穴を潜らないといけなかった筈だ。

 

「忘れ去られた者達の楽園である幻想郷で、更に忘れ去られた者達の集う場所。是非ともこの目に写したくなりまして」

「ははーん、さてはあんた馬鹿だね」

「否定はしません」

「馬鹿正直だね」

「嘘をつく理由も無いですから」

「気に入った。正直者は嫌いじゃない」

 

 伊吹さんは私の肩を叩いて微笑んだ。

 

「さて、一つ聞いておきたいんだけど、あんた酒は呑めるのかい?」

「え……まあ、それなりには」

「そうかい、そりゃあ楽しみだ」

 

 嬉しそうに、彼女はにっこりとしていた。嫌な予感がして霊夢さんを見てみると、仏にするように合掌されてしまう。念仏でも聞こえてきそうなのだけど……。

 

 

 

 

 博麗神社で伊吹さんとの話を終えた私は、妖怪の山にある深い深い縦穴まで連れ去られた。

 

「私は鬼だからね。人間を地底に攫うって方が観光案内ってよりも箔がつくでしょ」

「だからってこんなぐるぐる巻きに縛らなくても……」

 

 身体中を縛られている。伊吹さん曰く、私という人間を彼女という鬼が拐ったと言う体で地底を訪ねるらしい。

 

「地底には妖怪や亡者や怨霊しか居ない。だからあんたは私の獲物だってことにしておく。そうすりゃ大概の奴は手を出さないからね」

 

 まるで散歩に連れられる犬さながらだなぁ。とは言え彼女なりの気遣いなのだろうから、殊更に口出しはしないようにしよう。

 

「さて、地底への道のりは簡単さ。ここを降りれば良い。じゃ、行くよ」

 

 なんと言う風もなく彼女は大穴に飛び降りる。つまり縄で彼女に引かれている私もまた、後を追って大穴に落下した。周囲をよく見ると、この大穴はまるでトンネルか何かのように滑らかで円形を描いている。

 

「ようこそ、地底へ繋がる幻想風穴へ。とはいえ殺風景だろ。ひたすら落下するだけだ。退屈しないように気を付けな」

「どれぐらいで地底に着きますか?」

「このまま落下しておよそ2〜3分ってとこかな」

 

 私は瞬時に計算した。自分の体重と空気抵抗、そして重力加速度を考慮して至極大雑把に落下時間から地底の深さを推し量る。

 

「それなら地底はおおよそ地下7〜8kmですね」

「へえ、そうなのかい。それはどれくらいの深さなんだ?」

「地球からしてみれば地上と見分けもつかないでしょうね」

「じゃあ浅いのか?」

「まさか、人間からしてみれば信じられない深さですよ」

 

 そんな風に言うと伊吹さんは浅いのか深いのかハッキリしろと不機嫌になってしまった。

 

「浅いとか深いとか曖昧な言葉を使うから正しい答えを得られないのだよ伊吹さん。こう言う時は結局の所、自分がその数値をどう思うかの主観に委ねるしかないのです。霊峰富士の二つ分より深く地の底に在る世界をどう思うかです」

「あの富士よりも深いのかい。そりゃ大したもんだ」

「そうですね。ならば大したものなのです」

「成る程分かりやすくていいね。だが人間、まさか地底が真っ当な尺度で測れる場所にあると勘違いしちゃいないか?」

 

 彼女がそう語り、私たち二人は地に足が付く。

 

「此処は地底、旧地獄跡地。かつてあの世だった場所。あんたが潜った大穴は尋常なもんではないんだよ」

 

 

 

 

 

 深い縦穴から地底に降り立つ。周囲は荒涼とした洞穴さながらだが、遠景には大きな都が見える。あれが旧都なのだろう。地底の旧都は暗闇の中にあって明るく、賑やかな活気に満ちているように見える。

 立派な作りの屋敷や整備された通り、碁盤の目のような区画の並びは正に都という感じである。地上の人間の里と同じかそれ以上に広大だ。

 

「明るいですね」

「そうさ。地底には日の光は差さない。本来は真っ暗闇さ。だからこそかな、明るいものがよく映えるんだ」

 

 道なりに目を向けると、旧都へ通る橋が目に入る。

 

「橋ですね。地底に川があるなんて驚きです。地下水脈か何かですか?」

「さあ、考えたこともないね。ただ、地底でも地上でも水が無いところには人も妖も住み着かないよ。水が無いと酒も作れないからね」

 

 ならば地底の泉や湖もあるのだろうか。まるで黄泉のようだなと思った。あの世は地底に在るという伝承も有る。もしここが黄泉ならば、あの縦穴は黄泉比良坂辺りだろうか。

 

「さあさ、さっさと行くよ。実は友人に頼んで宿を取ってるんだ。早いとこ休みたいだろ」

「随分と準備が良いんですね」

「言ったでしょ。元から地底には顔を出す予定だったんだよ」

「ありがたい限りです」

「礼はいらないよ。ただタイミングが良かっただけさ」

 

 縄で引かれて連れられる私。周囲を見回していると、気を利かせてか伊吹さんがガイドさながらに語ってくれる。

 

「旧都はかつては地獄の一部だったんだ。だけど経費が嵩むからって地獄をスリムにしようって話が持ち上がってね。昔のお偉いさんらは、なんと旧都一帯の地区を放棄したんだよ。だから元からある程度の施設や住居は揃ってたのさ。これ幸いと鬼達が地上からやって来て住み着いたってのが事の始まりだよ。住めば都ってのは至言だね」

「つまり、旧都はその始まりからして()()()()()()なのですね。捨てられた場所に、疎まれ忘れ去られた者達が流れ着いた。なのにあんなに華やかで美しいなんて」

 

 必要とされなくても、忘れ去られても、自分勝手に逞しく生き抜いていく。なんて強かで元気に溢れた有様だろうか。

 

「眩しく見えますね。地の底に在りながらにして底無しに」

 

 酒の香りがした。ふと見ると伊吹さんが瓢箪に口を付けている。彼女は私の手の縄を緩めて盃を勧めた。受け取ったそれを飲み干す。美禄であった。

 

「酔って行こうじゃないか。どうせ酔っ払いみたいに陽気な奴らしか居ない都だ」

「しかし、この道は随分と陰気ですね」

「当たり前だよ。地獄に向かう道が陽気でたまるものかい」

「それも過去の話ではないですか。昔はそうでも今は旧地獄なのですよね?」

「地上と地底は隔たれ、過去は今と離れていく。けれど此処は地上と過去(結ばれないもの)を結ぶ深道。時は此処では意味を成さないのさ」

 

 

 

 

 

 橋を越えて旧都に入ると、不思議な事に人通りは全くない。遠くからは賑やかに明るく見えていたのに、いざ足を踏み入れると虚しいほどに伽藍堂だ。

 

「ほらほら、あんまりキョロキョロするなよ。まるでお上りさんみたいだよ」

「そうですか。まあ、実際にはお下がりさんなのですが」

「ハハハ、そんな地理的な話をしてるんじゃないさ。だがまあ、確かにそうだね」

 

 周囲には誰もいないので、気を使う必要も無さそうなのだけど。とは言え、案内してもらっている立場であるからには大人しく彼女の言葉に従った。

 

「地底に居るのは脛に傷が有るような奴等ばかりだ。人間の目には見えぬ者も居るからね。ま、誰も他人のことを詮索したり深く知ろうとはしない。それがお互いへの礼儀に成ってるから安心しな」

「礼儀ですか」

「ああ、そうだ。あんたにも誰も詮索してはこないだろう。だからあんたもそうしな。間違っても知りたがりには成るんじゃないよ」

「それは──私にとっては難しい話ですね。ただ、郷に入っては郷に従えとも言います。少し我慢します。例えばあの大きな盃を片手に酔っ払って宿屋に大穴を開けている鬼のお姐さんとか凄い気になるのですが」

 

 私が指を差した先には、酔った赤ら顔で伊吹さんに陽気に手を振っている鬼が一人。頭を抱えた伊吹さんはちょっと困り顔をしながらも微笑んで彼女に声を掛けた。

 

 

「あー……やあ、久しいね勇儀」

「そうだねえ。先ずは酒でも飲みに行くかい? お互い積もる話もあるだろう」

「分かったよ。明香は先に宿で待っていてくれるか?」

「分かりました。ごゆっくりどうぞ」

 

 

 伊吹さんと分かれて、宿屋の妖しい主人に案内された部屋で私は寛いだ。通りに面した障子を開けると旧都の景色が目に入る。室内も中々乙な雰囲気だ。古錆びているが寂れてはおらず、よく手入れされている。

 机の上には酒瓶が山のように積まれていた。宿泊するのが鬼であることを見越したサービスなのだろうか。適当な酒瓶を一本手に取って窓辺の椅子に腰掛ける。こう見えて私は意外に酒が嫌いではない。景色を眺めながら酒を口にする。

 

 清酒特有の香りを嗅ぎつつ、昔を思い出した。酒臭かった父の思い出だ。父は酒好きだった。酒を飲むと聡明で思慮深い父は姿を消し、代わりに呪詛を呟く男が現れる。

 

「人間らしさなんて碌なもんじゃないぞ。人間が碌なものじゃないのと同じようにな。人間離れしたものほど美しく見える。いいか、決して人間らしく生きるな。神のように、いっそ妖怪のように、人の理想を自らに体現しながら生きるんだ」

 

 思うに私の父は人間が嫌いだったのだろう。自分自身が人間であることも了解した上で、この世界に集るしかない自分たちをどうしても認められなかったに違いない。その気持ちが、幻想郷中を遍歴してようやく理解できた。

 

 妖怪や神々は美しく恐ろしい。幻想郷は底無しに奥深く幽玄であり、私たちは糞便が詰まった肉袋だ。幻想郷を巡る旅で、ある感情が私の胸の内で鎌首をもたげていた。

 

 この美しい世界に在って、私たちはこんなにも醜い。

 

 そして父には、世界さえも醜く写っていた──

 

 私は頑として父のようには成らない。私たちが醜いからこそ、世界が映えるのだ。暗闇の地底に在って浮かび上がる明るい都のように、醜い私たちが跋扈するからこそ、世界は美しさを増す。その美は一層増すばかりだ。見つめる程に心が騒めいて目が渇く。

 

「ああ──何だ。居たんだ。何処から付いてきたのさ」

 

 カメラの付喪神が酒瓶の山の中で蠢いていた。酒が崩れても困るので、慎重に彼を山から掻き出して取り出す。

 

「見なよ、良い景色だ。雪も降ってきた。……雪?」

 

 地底に雪とはこれ如何に。まあ、冬だし雪だって降るだろう。

 

「あはは、地底で雪見酒なんて乙じゃないか。こういうお洒落なのは嫌いじゃないねぇ」

 

 雪見一人酒、ほろ酔い心地良い。酒なんて幾らでも呑めてしまいそうだ。

 

「あゝくそ、お前も呑むかい?」

 

 酒瓶を傾けると付喪神には慌てて逃げられてしまった。何だ、下戸だったのか。酔いが深く回り始めたようだ。旧地獄街道の景色に目を釘付けにされる。次から次へと酒を口に運びながら、旧都に降る雪が旧地獄に雪化粧を施すのをずうっと見ていた。

 

「美しきこともなき世を美しく住みなすものは心なりけるか?」

 

 ふいに酔った調子に頭の中に浮かんだ滅茶苦茶な言葉のサラダを口に出して、意識を手放す。

 

 

 

 

 

「参ったね。酒が全部無くなってるじゃないか。この娘は鬼か何かか?」

「いや、私が地上から連れて来た人間なんだけど……。もうちょっと寝かしておいてあげよう。相当潰れてるねこりゃ。寝てるんじゃなくて気絶してるんじゃないか。風呂場で裸にひん剥いて口から水でも流し込んでやろうか」

「地獄の責苦じゃないか」

「なあに、本人のためさ」




水飲め水。


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冥界


 幻想郷の全てを目に写した訳ではないが、多くの物を見てきた。けれど私の欲望は全く衰えない。何もかも全てを見晴るかし、この目に写したい。そんな事を考えながら、人間の里の団子屋で御手洗団子を口にしつつ通りの景色を眺める。私の欲深い心中とは違って、目に映る眺めは風光明媚だ。

 

「うん、綺麗だ」

 

 桜並木だ。春らしく満開の桜がその花弁を緩やかに散らしている。川には花筏が浮かび、花見酒でもしたのか赤ら顔な人が多く道を行き交っている。春の陽気に当てられて飲み過ぎてしまったのだろう。私はと言えば緑茶を飲んでいた。温かい緑茶は好きなのだ。程良い甘味と渋味が心地良い。

 

「花より団子、団子より緑茶。つまり花より緑茶って訳だね」

「何を訳の分からない事を言っているのかしら?」

「花よりも花見しながらの緑茶の方が美味しいって話だよ」

「当たり前よ。花は食べられないでしょう? ……食べないわよね?」

 

 八雲紫さんが隣に腰掛けた。以前に右目の影鬼の件で助けられて以来の邂逅だ。彼女はあまり人前に姿を晒すような人ではないので、こうして出会えるのは随分と物珍しい事である。茶柱が立つのと同じぐらい珍しいかな。そう考えるとなんだか縁起が良さそうな気がしてきたね。

 

「貴女、もう旅には出ないの?」

「実は冥界に行こうと思っています」

「そう、残念だわ。お悔やみ申し上げます」

「違います。冥界と言えば知る人ぞ知る花見の穴場スポットですよ。幽明結界が開いているらしく、お手軽に冥界で花見ができると言う噂がありまして」

「へ、へぇ〜……幽明の境が? 可笑しいわね、直した筈なのだけど……」

 

 八雲さんは小声で何かしら呟いて困り顔をした。暫くの間そのまま思考している様子だ。彼女は何かと会話するような素振りをしてから、唐突にお茶と団子を注文した。運ばれてきたお茶を啜っている彼女に、一呼吸置いてから話を切り出してみる。

 

「何かあったのですか?」

「幽明結界の確認をしていただけよ。困ったことに、確かに結界は僅かながら開いている。不思議ですわ。あの結界は滅多なことでは開かない生死の境の一つなのに」

「ちなみに単なる興味からの質問なのですが、その幽明結界はどうすれば開くのですか?」

 

 ほら、原因を知る為には結果に至る過程を知るのが近道だったりするからさ。本当に興味本位の疑問だったけれど、八雲さんは律儀に答えてくれた。

 

「妖力、霊力、神力、重力など、何かしらの莫大な力でこじ開ける。或いは幻想郷と冥界を同質にすればその境界も自ずと消滅しますわ」

「それはつまり不可能だと言うことですよね?」

「ええ。顕界と幽界を重ね合わせるが如き無謀よ。生きても死んでもいないような人間が世界中を彷徨うような──」

 

 そこまで言ってから、八雲さんは私をじっと見つめる。顔に団子のタレでも付いてたのかな?

 

「まさか……いや……貴女の所為かもしれない」

「私の所為?」

「明香。貴女がこれまで踏み越えてきた生と死の境目はどれほどかしら?」

「えーと……、賽の河原、三途の川、妖怪の山の頂、虹龍洞、無縁塚、再思の道、旧地獄、天界……」

 

 私が訪ねた生と死に纏わる土地を述べていくと、八雲さんは頭を抱えてしまう。自分で振り返ってみると、確かに私は生死の狭間を反復横跳びするような旅路を辿っていた。

 

「ここまで見事だと笑うしかないわ。それで、写真に撮ってその目に写して幻想郷中を旅していた訳ね。冥界に向かう為に準備していたのかと思うほどに緻密な道程だわ」

「しかし、私のような人間一人の生死の境が曖昧になったぐらいで、顕界と冥界を隔てる境界が開くものなのですか?」

「本来は開かないわ。けれど貴女の行動範囲とその能力、そして冥界へ向かうことを志向する願いとが複合的に絡み合った結果かもしれない」

「ならば丁度良い機会ですし、冥界に連れて行ってくれませんか?」

「貴女には冬のナマズのようにおとなしくして欲しくなったわ」

「これで手を打って頂けませんか?」

 

 鞄から取り出したアルバムを八雲さんに手渡す。受け取った彼女は目を丸くした。

 

「これは貴女が撮った写真のアルバムでしょう? 貴女の旅の集大成であり、貴女にとってとても大切な物の筈よ」

「はい、そうです」

「対価としては十分だけれど……」

 

 沈黙する八雲さん。扇子を取り出して口元を隠し、目を閉じて俯く。口も目も隠されてしまったので、その心中はサッパリ分からなくなってしまった。

 

「構わないの? この写真たちは貴女がこの世界を巡った縁となるものの筈よ」

「構いません。これまで見たものを、これから見るものの為にするのは、理にかなった事だと思いますから」

 

 八雲さんはゆっくり目を見開く。その表情は穏やかで、私の言葉に静かに耳を傾けてくれた。

 

「それに私は人間ですから、いつか死にます。しかし八雲さんは違う。貴女にこのアルバムを託せば、それを目に写すたびに貴女は私の事を思い出すかもしれない。それはきっと私がこれをずっと手にしているよりも意味のある事だろうと思うのです」

「良い答えだわ。私が想定していたどんな答えよりも」

 

 私は現実を積み重ね、深い過去に埋もれたそれを掘り起こすことを楽しみとしていた。写真を撮りアルバムを作ることも、そして幻想郷を巡ることも、掘り起こせる現実を積み重ねる行いであった。だけど、私の心は移ろいつつある。

 

「例えどれだけ現実を堆積させようとも、私が死ねばその全てが跡形もなく消え去るのだと思うと、なんだか少し怖いのです。年老いて、死んで、忘れられて、消え失せてしまった時のことを考えると恐ろしくて。私が死んでも何か遺せる物がないだろうかと思うのです」

 

 ふと、頭を撫でられる。驚いて見上げると八雲さんと目が合った。

 

「このアルバムは貴女が遺した物の一つとして、私の胸の内にしまっておきましょう。けれど、貴女の人生は長く始まったばかりよ。この世界に生きることを楽しみなさい。貴女にはまだ幾星霜もの時が遺されている」

 

 語られた言葉は私に計り知れない衝撃を与えた。この世界に生きることを楽しむこと、それだけのことをいつの間にか失念していたことに気付かされたからだ。

 死を恐れ、積み重ねた物の喪失を恐れ、不安と懸念ばかりで心を満たしていたからだろう。死も喪失も関係なく、この幻想郷を巡ることは私の楽しみだったはずなのに。彼女の言葉で我に帰って、何度も味わうようにその言葉を反芻する。

 

「有形無形問わず、私たちは世界に自分を刻み、自分に世界を刻んでいく。足を洗っても足跡は消えないのと同じようにね。死とはNothing()ではなくZero()である。そして零は存在するのよ」

 

 八雲さんは、桜が散る柄が描かれた扇子を私に見せた。風が吹き、花が散り、花弁が水面で波紋に揺らされる有様は、その寂しげな趣きから、もののあはれを感じさせる。

 

「生きている物は必ず死に全てを失う。けれど、そうして全てを失った零が壱になることもある。死して遺された零に、生きて残った者が壱を足せば良い。零と無の間には無限に近い隔たりがある。私の友人である西行寺幽々子が死して尚また私と友誼を交わしたようにね」

 

 空を仰ぎ、どこまでも透き通った青空を写す紫の瞳は、何故か物悲しそうに私には見えた。今や過ぎ去って戻らぬ過去を思う瞳をしている。

 

「だからね、死んだって──」

 

 そこまで言いかけてから、八雲さんは口を噤んだ。

 

「話を戻しましょう。貴女を冥界に連れて行く話だけれど、一緒に幽明の境まで向かいましょう。明日のこの時間にまた此処で待っているわ。声をかけて頂戴」

 

 話を終えると夢幻の如く八雲さんの姿は掻き消えた。後に遺された代金ピッタリの金銭が、彼女の人柄を想わせる。なんとまぁ神出鬼没でありながら跡を濁さない方だ。

 

「あの……お連れさんですよね? お支払いは纏めてで構わないですか?」

「ええ、それでお願いします」

 

 死後の世界が地続きに在る世界においても、死者は戻らず人は死を恐れている。生と死の境が目に見えるからこそ、より深くその断絶が浮き彫りになっているのだろう。その極北を目にする事になるのだと思うと、期待ばかりが募ってくる。

 

「楽しみだなぁ」

 

 楽しめば良い。そう思うと気が楽だ。

 

 ふと瞼を閉じれば、これ迄の旅路の風景がつぶさに蘇る。阿求さんのように全てを覚えておいたりはできないが、私自身が忘れた光景さえもこの目に写っていた。

 能力に磨きが掛かっている。かつては目に写したものを見せるだけの細やかなものだったが、今や目に写したものを想う事まで思いのままだ。昨日の夕飯の味噌汁に浮いていた油の数まで数えられる。そんなことを考えているとお腹が減ってきた。ああダメだ。絵に描いた餅には事欠かないが、それでは腹は膨れない。今日の夕食を楽しみとしよう。これもまた、生きることを楽しむことだよね。

 

 

 

 

 

「さて、それじゃあ行きましょうか。雲の上の桜花結界、幽明の境を飛び越えた向こう側へ」

 

 翌日、八雲さんは笑顔で私の手を引いた。行先を告げた彼女は心底楽しそうな様子だ。

 

「秘して封された境を供に踏み越えるなんて、とても素敵で楽しいことだと思わないかしら。ほら、楽しいピクニックのようなものよ。それとも野掛けとでも言いましょうか?」

「ピクニックですか」

 

 私自身、幻想郷の種々様々な秘境を呆れられるような理由で訪ねてきた自覚はあった。しかし、ピクニックと言われると流石の私も面食らう。

 

「楽しむ食事は用意してきませんでしたよ」

「ふふふ、花見酒と美味い肴を用意しておりますわ」

「それは……素敵ですね」

「あら、気が合いそうですわね」

「でも私は酒癖が悪いと伊吹さんからお墨付きを貰っていまして、少し心配です」

 

 地底での顛末を伝えると目を丸くされる。

 

「萃香に? 貴女それはよく──生きていられたわね」

 

 呆れではなく驚愕、そんな感情を向けられる。しかし当の私もまた、自分の変わりように驚いていた。

 

「お酒が好きなので」

 

 昔の私は写真を撮っていた、今は撮っていない。昔の私は酒が嫌いではなかった、今は好きだ。数年前に付喪神のカメラが壊れてしまってから、多くのことが変わった。

 カメラを買い直すことをせずに、ただこの目に写すだけになった。アルバムも最早手元にはない。代わりに酒を飲むようになった。それに、何故か心と身体が軽くなっていた。今の私の楽しみは、良い景色を眺めながら酒を飲む程度だろう。

 

 私が鞄から一升瓶を取り出すと、八雲さんは驚いたようだ。

 

「貴女もお酒を用意していただなんて。存外に酒呑みなのね」

「昔はそうでもなかったのですが」

 

 縁側で酒を口にしていた父を想起して、私も父に似てきたのかもしれないと感じる。そう言えば、あの付喪神は今どうしているのだろうか。アレはいつも不意に姿を表す。今回も何処かから追ってこないだろうか。そんな事を取り留めもなく想いながら、酒瓶に口をつけた。

 

「ラッパ飲みなんて品がないわよ」

 

 が、取り上げられてしまう。

 

「それに、折角の花見酒をただのお酒にしてしまうなんて、風情がないわ」

「そうですね、素直に花見まで控えます。でも、私は写真を撮るのを辞めたのです。それで、代わりに酒を飲み目に写す事を楽しみとしていまして」

「楽しそうでいい事だと思うわ。だからと言って酒はまだ返さないわよ」

「あはは、まるで墓穴みたいだと思っただけですよ。空いた穴に好きなものを埋めて弔う。どうかそのまま埋まっておいてくれと祈りながら。化けて出たりしないようにと」

「詩的な表現ね」

 

 

 酒瓶はそのまま八雲さんに預けて、私は手を引かれるままに彼女に付き従う。幻想郷の上空まで連れられて、とある異常に気が付いた。今や私たち二人は雲の上にいる。だが、桜の花びらが舞い散っていた。

 

 

「これは一体……」

「桜の花びらが雲の上から降っているだけですわ。春爛漫として美しいでしょう」

 

 尚手を引かれる。だが、私はこの桜の花びらの正体に薄々気がついていた。これはどう見ても()()()()()()()()()()のだ。

 

「八雲さん、私だって馬鹿じゃありませんよ。この花びらは地上のものでは無いですよね? 私の勘ですけど、これは多分──」

「大正解。貴女の勘は正しい。だからみなまで言わないで。ほら、目の前に答えがあるわよ」

 

 八雲さんが指さした先には、見上げるのも億劫になる程に巨大で、霞んで見える程に雄大な幽明の境が聳えていた。それは至大な、しかし目に見える生死の境であり、扉であった。そしてそれを目に写すと同時に、この幽明結界がまた桜花結界とも混同されて呼ばれる理由を私は悟る。

 

「凄い……」

 

 冥界からこの世へ向けて、桜の花弁が吹き出していた。微かに開いた幽明結界から漏れ出ているのだ。これが雲の上で舞っていた花びらの正体なのだろう。

 雲を眼下に遥か上空で冥界の桜が吹き荒ぶ。雲一つない天上が無数の花弁で彩られている様は非現実の極みであって、地に足がつかないような浮き立つ気持ちにさせられる。

 

 

 ああ、なんて──なんて幻想的な光景なのだろうか!

 

 

 八雲さんの手を振り解き、桜吹雪を掻い潜り、一人幽明結界の前に立った。背後から私を呼ぶ声がした気がするが、激しい風切り音でよく聞こえない。

 

 そっと手を触れて力を込めると、微かばかり開いていた幽明結界が大きな音を上げながら全開になった。花弁の塊が弾幕のように吹き出してきたが、やがて風は穏やかになり見通しが効くようになった。

 開き切った境の向こう側には無限遠に広がっている広大無辺な庭園があり、その一面に満開の桜の木が植っている。尋常ならざる光景だ。

 

 私は結界を超えて冥界の庭園に足を付けた。振り返ると向こう側で、幻想郷の上空に浮かびながら驚愕している八雲さんが居る。地に足をつけている私と空を飛んでいる彼女が、同じ高さにいる事に不思議な違和感を覚える。が、一先ず彼女に向けて手を伸ばした。

 

 

「ほら、八雲さん早く。閉まっちゃうよ?」

 

 

 八雲さんは我に帰ったような表情をして慌ててこちら側へ飛び込んで来た。その直後に幽明結界は轟音と共に閉じきる。間一髪で滑り込んできた彼女はポツリと言葉を漏らした。

 

「有り得ない……」

 

 互いに掛ける言葉が浮かばず、私たちは暫くの間じっと無言で見つめ合った。私たちの沈黙は、一人の少女が現れるまで続く。

 

 

「あの……八雲紫様ですよね? 何か御用がお有りなら幽々子様を呼んで参りましょうか?」

「いえ、それには及ばないわ。白玉楼まで案内を頼めるかしら?」

 

 

 

 

 八雲さんの願いに応じて、西行寺幽々子の従者であると言う魂魄妖夢さんは私たちを白玉楼へと案内してくれていた。しかし、私としては少しこの周辺を見回りたい。

 

「すみません。この冥界の庭園をもう少し見ていたいので、私は此処に残ります」

「構いませんけど……」

 

 魂魄さんは困った具合で八雲さんに目を向けた。彼女もまた頷いている。

 

「これ、返しておくわよ」

 

 酒瓶を手渡されて二人と別れた。周囲の桜は満開で、酒の肴にはもってこいだ。酒に口を付けながらふらりゆらりと冥界を彷徨う。花見酒はよく進む。ましてげに美しき冥界の桜吹雪が果てもなく見渡せるとあっては深酒も仕方がないよね。

 強かに酔って気分が良くなり、足どりが覚束なくなる。腰を落とせる場所が欲しいな。周囲に目をやると、一際目立つ巨木が見つかった。葉も花もなく、注連縄が巻かれていて御神木かとも思ったが、それにしては異様でなんだか気味が悪い。だが、その大きさから腰を落とすにはちょうど良さそうだ。

 

「枯れ木かなぁ?」

 

 試しに木の根本で座り込んで幹に背を預けると、とても心地良い。今は見る影も無さそうだが、これはとても立派な桜の木だったのだろう。もし満開であったならどれだけ美しかっただろうか。

 酒に何度も口を付け、目を瞑り往時を偲んだ。今や枯れ木同然の桜の巨木が、かつて満開の花を付けて咲き誇っていた光景を想う。

 

「うん、美しい」

 

 そのまま、心地良い酔いに任せて意識を手放した。

 

 

 

 

 

 西行寺幽々子は、八雲紫からとある少女と会うようにと頼まれていた。その少女は名を雲見明香といい、冥界を一人見回ると言ってから行方知れずになったのだと言う。

 

「多分、西行妖の近くに居ると思うわ。彼女は物珍しい物に惹かれる向きがあるから」

 

 八雲紫が月を眺めながら語った言葉を聞き、幽々子は疑念を抱いた。冥界は広大で、当てもなく彷徨って白玉楼の西行妖に辿り着ける可能性など無に等しい。

 

「紫、貴女の仕込みかしら?」

「まさか。ただ、そんな勘がしただけよ」

 

 親友はそれを否定した。故に幽々子はそれ以上の詮索を諦めた。紫が語らない事実を彼女自身の口から引き出すことが難題であることを、長年の付き合いから幽々子は理解していたからだ。

 幽々子は従者も連れずに一人で西行妖の元へと向かった。そして件の少女を目にした時、彼女は紫の意図を理解した。また同時に、意地が悪いなとも嘆息する。

 

 

「願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」

 

 

 ふいと口から漏れ出た歌が、正に眼前に体現されていた。西行妖の根元で死んだように眠る少女と一輪の花、そして春の夜空に浮かぶ満ちた月。西行妖が花を付けていることもそうであったが、それ以上に幽々子を愕然とさせたのは、その少女の有様が彼女の過去を想起させたことだ。

 

 

「まるっきり、私」

 

 

 恐る恐る近づいた幽々子は、そっと少女の胸に手を当てた。心臓の拍動と、生者の熱が亡霊のその手に伝わる。だが、少女の身体は冷え切っていた。もし幽々子が見つけるのがあと少し遅れていれば、このまま帰らぬ人となっていただろう。

 幽々子は少し惜しいなと思った。ある種の理想である死に方を少女が体現していたからだ。同時に、自身が見つける事もまた定めだったのだろうと彼女は感傷に浸る。

 

「紫、きっと貴女が()()()に見た光景そのままなのでしょうね。幾年越しの意趣返し──本当に意地の悪い」

 

 胸に手を当てて自嘲する亡霊。掘り起こされた過去が、埋められたモノを思わせる。

 

「はいはい、連れて帰るわよ紫。きっと貴女だってそうしてくれただろうから」

 

 

 少女をおぶった幽々子は、頬を伝う微温い涙を感じた。

 

 

「そう、できれば良かったのにね……」

 

 

 それは兎も角として、あの意地の悪い親友には小言の一つでもくれてやらねば気が済まぬ。幽々子はそう決意したのであった。



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夢殿大祀廟

「君の興味を惹くものが彼処にあるとは思えないが」

 

 豊聡耳様は、夢殿大祀廟への道筋を私に教えてくれた。乗り気といった様子では無いけれど、それもまあ当然だろう。自分の墓所を人に教えるというのは、どんな感じなのだろうか。

 

「まだ副葬品がいくらか残っていた筈だ。気に入ったものが有れば持ち帰って構わない。千四百年の時を経て殆どは朽ち果てていたが、必要なものは既に全て持ち出した」

 

 豊聡耳様は一度死んでから不老不死の尸解仙として蘇った。故に彼女にとって副葬品は実用品であった。蘇った彼女が死後の為の副葬品を役立てているのを思うと随分と計画的だなと思う。自分が死に、そして蘇ることを組み込んだ計画──私には想像さえ出来ない遠大さだ。

 

「千四百年……タイムスリップしたような感覚ですか?」

「そうだね。世の中は随分と様変わりしていたよ。見ていて刺激的で飽きない。しかし、やはり何時の世も人が為政者を求める事は変わらないようだ。私ならば──すまない、話が逸れた。言いたい事は別にある」

 

 笑みを浮かべて彼女は顔を近づけてきた。見る者の心を落ち着ける柔和な笑みは、彼女の渡世の深みを思わせる。生まれた時から人の上に立つことを定められた者の所作が見てとれた。所謂カリスマと言う奴だ。

 

「君、この神霊廟で修行してみないか? 私には欲を聞く耳だけでなく人を見る目もある。君とその欲を見聞きしてみたが、仙人となればその全てが叶うであろう」

「私が?」

 

 唐突な申し出に驚いていると、彼女は滔々と流暢に語り始めた。やや芝居がかった言い回しは、成る程演説家と言った具合であった。多分、態と態とらしくしているに違いない。

 

「君には、この世界をその目に映すことを渇望する欲望がある。故に私は君に問う。死して後の世をその目に写せぬ事を口惜しいとは思わないかね? 仙人となれば無限の時を生きられる」

「それは素敵な話ですね。しかし、私はあの世も見に行きたいのです。不老不死になると彼岸に行けなくなるのでしょう? それは勿体無い」

「しかし、この美しい世界にずっと生きて居たいと思わないのかい? この世が美しい程に、生に対する執着は深まるだろうに」

 

 豊聡耳様の表情は僅かに歪み、眉間に皺が寄っている。不老不死となることを否定することは、彼女にとっては理解し難いに違いない。

 

「人間が死なねばならない理由も義務もありはしない。故に永遠を生きることにもまた瑕疵はない。大地は神々の時代から変わらず、海は水を湛えている。人間もまたそれらと同じくあろうとするだけだ」

 

 

「しかし、人間は生きていますよ」

 

 

 私の言葉を最後に、永い沈黙が私たちの間に横たわった。豊聡耳様は耳を澄ませていた。十人の話を同時に聞くことが出来る程度の能力を持つ彼女は、言葉の真意を心に探ることができる。聞き耳を立てられているのだ。

 

「大地も海もただそこにあるだけのものです。しかし人間は生きている。だから死ぬのです。人間だけではありません。この世を生きるあらゆるもの達は皆、死ぬのです」

「ふむ、では生きているものは何故死ぬのだ」

「生きているという状態そのものが異常であるからです。岩は砂になり風に吹かれて行くのに対して、私たちの身体は常に一定の状態を保ち続けようとして種々の作用に抗っています。この抗いが如何に異常で勝ちの目のない抵抗であるかは、少し考えてみれば分かることでしょう?」

「生きているという状態そのものが異常……か」

 

 そう、この世において常であることは万物が流転し諸行が無常であること。対して生きていることは変わらない恒常性を保持すること。その常に対するなんと異なことか。

 

「だから死とは、私たちが生きているという異常が解決されることなのです。私たち生き物が大地や海のように移ろいながらただ其処に在るだけの物に還ることなのです。まさに豊聡耳様が仰られたように『人間もまたそれらと同じくあろうとするだけ』の事なのですよ」

 

 私はこの目で物を見てきた。故に、物と生き物の異なりがこの目には写っている。岩は砂に、水は霧に、土は泥に、形有るものは形無きものに、何もかも流転していく。それに対して生き物の、死ぬまで移ろわぬ有様は奇異と言う他ないだろう。

 

「では、全てが移り変わり流転していくことがどうして常なのだ。どうして変わらずある事が常ではないのだ」

「何故ならば、この世界に存在するものは常に何かしらの力に晒されているからです。力とは物を変える作用を持ちます。故に全ては移り変わっていくのです。とても物理的な話ですが……殴られたものが傷付くように、力に晒されたものは形を変えていきます」

「では何故、この世の万物は力に晒されているのだ?」

「それは世界が力によって生まれたからです」

 

 豊聡耳様は私の言葉を耳にして微笑んだ。

 

「それが私の問いに対する君の答えなのだね。何故人間は死なねばならないのか……それは世界が力によって生まれたからだと」

 

 問いから答えまでの道のりは破り捨てられた。それは数式と答えのようなものだ。物語は言葉から掘り出される。故にその豊かさは、どれだけの言葉が語られずに埋まっているかで決まるのだ。

 これは一種の職人芸であった。言葉足らずにならずに意味が正しく伝わり、論理に破綻をきたさずに納得を齎しつつ、最小の言葉で組み上げられるように言葉を埋め込む。

 豊聡耳様のその手際の鮮やかさたるや、舌を巻いて閉口する他ない。その美しさは私に感動さえ覚えさせた。もっともこの感動は、言葉から物語を掘り起こすだけの思慮を持つ者以外には無縁なものであろうが。

 

「世界は力によって生まれ、万物は力に晒されて流転し、私たちもまた生から死へと移ろう。成る程それは然りだ。ならば私たちもまた力によってこれに抗おう。道を極めて力を蓄え、人を超えて永遠を生きよう。さすれば不老不死は、力によって自らを取り巻く世界に対して勝利したものの証となるだろう」

 

 尊厳に満ちた瞳で胸を張る彼女の有様が、強烈な印象を伴って私の目に写る。眩く、力に溢れ、輝いている。後光が差して見えるというのは、きっとこういう光景に対して言うのだろう。

 

「しかし君の欲深さは私が耳にした以上だったようだね。この世だけではなく、あの世まで目にできなければ満足できないとは。その欲の為だけに不老不死まで蹴り飛ばして逝こうというのか」

 

 胸に手を当てて、豊聡耳様は頭を垂れた。

 

「感服したよ。貴方に無粋な勧めを口にした私をどうか許して欲しい」

 

 思わず跪かずにはいられなかった。彼女に対する強い敬服の念がそうさせたのだ。この聖人の頭が私のそれより下に降っている事に、私の心が耐えられなかった。

 

「この私が豊聡耳様を許すなどと、そんな烏滸がましい事を出来るわけがありません。寧ろ感謝しております」

「感謝?」

「貴女と語らえたこの僥倖、我が身に余る幸運故に」

「ふむ、こういう所が私の高貴さの困った所なのだが」

 

 彼女は頬を撫でてはにかんだ。

 

「畏まって欲しい訳ではないのだけどなぁ……」

 

 

 

 

 

 

「神子様の墓所でもある夢殿大祀廟はこの先ですわ」

 

 霍青娥さんはそう言って、命蓮寺の墓地深部の洞窟を指差した。

 

「この墓地の洞窟を潜っていくと夢殿大祀廟に続く扉の前まで辿り着けます。かつて神霊はか細き光の筋となり洞窟の奥を目指し、それはこの世の物とは思えない光景でした。今は見る影もありませんが、かつて此処は正に聖域だったのです」

 

 神霊廟を去った私は、霍青娥さんに引き会わされた。私に道を教えるよう依頼された彼女は、快く案内を買って出て同行してくれた。命蓮寺の墓地まで連れられたが、まさかまた洞窟とはね。

 とかく死とそれに纏わるものは土の下に埋まっているものらしい。人々は天上の世界を夢見るが、遺骸が土の下に埋められる点を鑑みるに、彼岸が地下にあるというのもあながち突飛な考えではないと思える。

 人が思うあの世には共通点があるのではないだろうか? そう私は思い始めていた。それが雲の上だろうと河の対岸であろうと海や山の向こう側であろうと或いは土の下であっても、あの世は人が踏み越えることの出来ない境界の向こう側にあるという点だ。

 生あるものが生きたままには決して目に出来ない世界。ならばそれは私たちが越えられない境の向こう側にあるという思考。なんとまあ純朴で素朴な考え方であろうか。

 

 なんて物思いに耽っていた思考を呼び戻す声がする。

 

「貴女の事は存じ上げていましたわ。雲見明香さん」

「お会いしたことがありましたっけ?」

「いいえ。でも、伝聞で耳にした事が何度かあるのよ。幻想郷中を巡り写真とその瞳に在るがままのものを写してゆく人間がいると。一時期写真が新聞に掲載されていたことがあったでしょう?」

「あの御百度参りの時の──」

 

 かつて私は参拝費用の為に写真を天狗に流していた事があった。てっきり名は伏せられていたと思っていたのだが、そうではなかったらしい。

 

「ですので、私としても貴女とご一緒できるのは楽しみですわ。夢殿大祀廟は神子様の──聖人の霊廟。今はもう棄てられて久しい場所ですが、もしかすれば貴女の目に写すべきものが見つかるかもしれません。……ところで、カメラはどちらに?」

「何処にも。写真はもう撮っていないのです」

「それは残念。理由を聞いても?」

 

 無言で答える。答えたくなかったり、理由が分からなかったからではない。無数の絡みついている理由のどれを口に出すべきか悩ましかったからだ。どう答えれば分かってもらえるだろうか?

 

「気まぐれであり、また必要性の喪失が理由でもあります。言葉にするのは難しいですが……」

「カメラを置いた気分はどうですか? 気が楽になったり、体が軽くなったりしませんでした? あるべき物が急になくなって穴が空いたような気持ちになったでしょ?」

 

 ニコニコとした青娥さん。その上機嫌さに少し不気味なものを感じた。彼女は面白くて堪らないのだとあっけらかんと口にする。大切なものを失った人間を見るのが好きなのだと彼女は私に告白した。

 

「人の心の隙間につけ込むには、穴を見つけるのが一番なのよ。貴女みたいに心に穴を開けたままブラブラとしていると、良くないものを引き寄せることになるわ。それに、穴を見ると中身が覗けるから愉快よ。そう簡単には目にできない心の奥底までよく見える」

 

 自嘲しながら茶化す青娥さんは、しかしその目までおちゃらけてはいなかった。心の奥底まで見透かされていると錯覚する程の眼力がそこにはあった。仙人として千年を越えて世界を写した真摯な瞳が私を射抜く。

 

「けれど、失ったモノの後に形を見出すことで、私たちは正しくモノの有様を見てとることができる。喪失も時に役立つ。失っては苦しみ、手にしては喜ぶ無為な心の揺れ動き。けれどそれで良いのよ。苦しい時は苦しみ、楽しい時は楽しめば良い。自我のダンスは終わらないけれど、踊ることは楽しいことだと気付けば、人生全てが喜劇なのだと思えるでしょう」

 

 楽しむことが肝要なのです。そう言って青娥さんは私の手を引いて進んでいく。上機嫌である青娥さんは仄暗い洞窟の深部まで私を連れながら語り続けた。饒舌な方だなぁと思っていると、笑顔で否定される。

 

「普段は物静かな方ですわよ? 貴女には分からないでしょうけど、1400年ぶりに期待させてくれる人間に出会えて最高に気分が良いだけなの」

 

 両手で顔を撫でられる。この上もなく優しい手つきで頬に手が添えられた。

 

「貴女には世界が刻まれている。その目に写った物がそのままに貴女を押し上げる徳になっているのよ。最早それは天運とも遜色のない領域に在る」

 

 だから貴女はこうまで恵まれながら更に世界を見て回れるのだ。彼女はそういう風なことを告げた。見晴るかしては更なる高みへと押し上げられる。そんな正の循環が私を取り巻いているのだと。

 

 

「さあ、着きました。この扉の向こう側が夢殿大祀廟ですわ」

 

 

 命蓮寺の墓地深部洞窟の最深部では、巨大な扉が洞窟の岩壁に嵌め込まれている。道教の色濃い装飾を施されたそれは、聖なる場所と俗なる場所を仕切り遮る聖俗の境界であった。

 

「穢れたる墓地と、清浄なる霊廟。死に腐る遺体と、不変の聖体。扉一つ跨ぐだけで、全てが真っ逆さま」

 

 指一本触れられずにひとりでに開いてゆく扉。その向こう側には、洞窟の内部だとは信じられない程に広大な空間が在った。一面に鏡面の様に水が張り、中央には荘厳な夢殿が聳えている。見上げるとそこには空があり、日が差し、雲が浮かんでいる。

 頭の中で形作られていた地図が破綻して、三次元の空間が捻くれていく。まるで世界を切り取って継ぎ接ぎしたかのような感覚を覚える。それは、私に一つの言葉を想起させた。

 

 

 仙境──

 

 

 

 

 

「世界は何故こうまで美しいのかなぁ」

 

 じっと目に写し、言葉が漏れた。月並みだが、美しいという言葉しか浮かばない。外の世界からそのまま其処に移ったかのような夢殿は、目にするだけでその歴史を感じさせる。美しさとは、その見た目の形ではなく物語で決まる。その物にどれだけの物語が組み込まれているか、或いはどんな物語が秘められているかで決まるのだ。

 私たちが何かを見て美を感じるとき、それはその物ではなくその物の背後にある物語を想っている。星空を見た時、私たちとは尺度の異なる永遠にも思える雄大なシステムを想像したり、朝に霜が降りた草木を目にした時にそこに至るまでの過程を想い描いたりするように。

 私はこの夢殿の辿ってきた遍歴を知らない。だが、聖人をその身に抱きながら幾年月を経た物語が脳裏に想い起こされた。それは無論、私の妄想だし空想の産物でしかない。だが、そうした物語を想わせる物であるという点で既に、これは美しいのだ。

 

「なのに引き換え私たちはこんなにも醜い」

 

 人間は醜い。私は美しい物を見る度にそう思う。人間の思わせる物語など、理不尽で生々しく醜悪で不条理に満ち満ちた下劣な物語だ。生きるだけで醜さをその身に刻んでいかねばならない生き物なのだ。例外は存在する。しかしそれは原則が正にそうであることを承知することと同義だ。

 

「私はそうは思いませんわ」

 

 しかし青娥さんはにこやかに語った。

 

「自ら望んで生まれ落ちたでもなく、この世という地獄の中で罪を犯し過ちを重ね、老いに身体を蝕まれては後悔に魂を焼かれて、苦しみ抜いてなお生きていたいと願うそのザマが、人間の一番に滑稽で美しいところではないですか」

 

 青娥さんは自信たっぷりだ。不敵な笑みで目を眇める。いや、これはウインクと言うやつだろうか?

 

「これほど見ていて笑えるものはありませんわ。私たち皆を笑顔にさせてくれるこの傑作な生き物が醜いだなんて、考えたこともありませんでしたわ。寧ろ愛おしくさえあるのに」

 

 貴方は人間を一体何だと思っているんだ、そう口に出してしまいそうになって済んでのところで呑み込んだ。考えてもみれば人間を醜悪な汚物の様に見做す私だって大概だ。人間に対する歪んだ見方という点では、彼女は私と同じぐらいイカれている。

 

「なら青娥さんには、私もそう見えているのですか?」

 

 彼女は目を丸くして言葉に詰まった。そう答えにくい事を聞いただろうかと首を傾げていると、言葉を選びながらといった様子で彼女は口を開く。

 

「雲見さん。貴女は私にとっては滑稽で傑作な生き物であり、それでいて美しい世界をその身の内に刻んでいる存在。とても愛おしく思っておりますわ」

 

 裏表の無い真剣な声音と、見るものを釘付けにする柔らかな表情。そして私は、自分の問いかけが何を意味していたのかを理解した。途端に顔が熱くなるのを感じて視線を下ろすと、水面には赤面した私が映っている。

 

「あら、恥ずかしがらないで。愛しい人」

「っ……!」

 

 揶揄うように、彼女は耳元で囁いた。堪らずに後ずさって睨みつけると、悪戯顔の青娥さんが悪どく笑っている。

 

「そうそう、そんな目も愛おしくてたまりませんわ」

「あんまり揶揄わないで下さい」

「本当の事を口にしているだけですので」

 

 彼女は人間の話をしているのだ。私の話をしているのではない。そう自分に言い聞かせる。

 

「神子様もまた貴女のように人間を唾棄しておりました」

 

 夢殿を見つめながらに、彼女は語った。

 

「死を恐れ、死なねばならぬ身を疎み、人として生まれた事を呪っておりました。そして人としての身の丈に合わぬ絶大な才能と能力を有してもいました。だから私が人を超える術を教えたのです。そして次は貴女の番だと確信しましたわ」

「私の番?」

「私が貴女に教えます。神子様にそうしたように、貴女にもまた尸解の術を教えましょう。死して後に尸解仙として蘇り不老不死となる術です」

 

 青娥さんは私に向けて手を伸ばした。魅力的な提案だ。もし彼女の語りを信用するならば、その教えを受けることは私が尸解仙になることを意味する。

 

「死して後に……つまり、一度死ぬと言うことですか?」

「その通りですわ。尸解仙となる為には先ずは人間として死ぬ必要があるのです」

「あぁ、それならば──」

「お待ちになって。そう心配することはないわ。死ぬと言うことはそれほど恐ろしいことではないのです。それに、しっかりとした手順を踏めば失敗する確率も殆どありません。如何に仙人になる為としては下位の法とはいえ、数千年を経て失われる事なく伝えられたその歴史に負うて信用の置けるものであることを私自らが保証致します。なんなら物部様や神子様といった先例もございますし、私も誠心誠意ご指導させてもらいます」

「是非とも宜しくお願いします」

「いえいえ、本当に死ぬのは怖く無いわ。ほら一瞬だから。少しチクッとするようなそんな程度でしか……もしかしたら脳味噌が腐ったりするかもしれませんが、私ならば防腐の術もお手のもので──えっ?」

 

 沈黙と静寂。凍結したかのように動かなくなった青娥さんは、少しずつ平静を取り戻し、油が切れた歯車のようにぎこちなく動き始めた。どうやら首を傾げておられるようだ。

 

「宜しくお願いします。一度死んでみたかったのです」

「は、はぁ?」

「三途の川を越えて向こう側から、帰ってくる方法が欲しかったのですよ。不老不死になるのは面倒そうですが、折角の彼岸帰航のチケットを逃すのは勿体無いからね」

「つまり不老不死の尸解仙となるのは、彼岸まで行って帰ってくる為の手段でしか無いと仰るわけですか……」

 

 私の考えを正しく悟った青娥さんは、耽美な笑みを浮かべた。

 

「死ぬ為に不老不死に至るというその倒錯。それは狂気の沙汰に他ならないわ。けれど故に面白い。やはり貴女は最高に滑稽で傑作な生き物ですわ」

 

 大いなる期待と、たっぷりの不安と共に

 

 私は彼女の手を取った。



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地獄(詳細位置の特定不能)

「さて、準備は整いましたわ。ここに横になって下さいな。それから気を楽にして下さい。緊張するのは分かりますが、気を逸らせると碌なことになりませんので」

 

 三途の川を越えて向こう側へ行き、そして帰ってくる。その為に尸解仙となる手解きを青娥から受けて早一年。あの日に彼女の手を取ってから再びの春の日に、遂にその時がやってきた。

 

「明香、貴女はこれから死にます。その後に依代に魂を移し留め、新たな尸解仙としての身体を得て蘇るのです。本来ならばそうなのですが……」

 

 尸解仙になるだけならば、青娥の言う手順で問題はないのだけれど、しかし私の我儘でその手順は捻じ曲げられていた。

 

「魂を依代に移すことはしません。貴女の魂を彼岸へ向かわせる為です。死後に貴女は魂のみとなって彼岸を回り、その後に尸解仙の身体に呼び戻されるのです。構いませんわよね?」

「充分です」

「閻魔に魂を裁かれてしまうと尸解仙として復活することはできなくなりますわ。十分に気をつけなさい。それと、少しは落ち着きなさいな」

 

 青娥は私の手を見た。それは恐怖で震えていて箸も握れそうに無い。だが、彼女は呆れた様子で冷めた視線を向けている。

 

「恐怖しているのでしょうけど、興奮と期待が入り混じって居ても立っても居られないって顔をしてるわ」

「分かるの?」

「一年間も弟子として面倒を見ていれば、見えてくるものもあるわ。さぁ、もう目を閉じて。眠っているうちに済ませてあげる。何があっても全てただの悪い夢のようなものよ」

 

 瞼を閉じて、体から力を抜く。普段そうして眠りにつくように、自然と意識は霧散していった。最後に私が目にしたものは、夢殿の古錆びた天井であった。きっと豊聡耳様もそうだったのだろうと思うと、不可思議な感情が胸で渦巻いた。

 

 

 

 

 

「あんたはいつぞやの──。今度は生身じゃないと言うことは、死んだのかい?」

「死んだようなものではあります。お久しぶりですね、小野塚小町さん」

 

 賽の河原で出会ったのは、随分昔に顔を合わせた事のある三途の川の船頭さんだ。

 

「魂だけになっても人の形を保っているなんて珍しいね。良い話し相手になりそうだ。いっちょ雑談がてら乗ってきなよ、積もる話もあるだろ?」

「はい。小町さんとはもう何年振りでしょうか。話したいことは積年山程積もっていますよ」

 

 周囲を見回すと、賽の河原も以前とはがらりと変わっている。辺りには大量の積み石が塔のように林立していて、卒塔婆があちこちに突き立てられていた。

 

「大したもんだろ。ここらの水子の霊達にリーダーができたらしくてな。無駄な単純作業も楽しくやり甲斐のあるものに変えられちまったって訳さ。もうそこらじゅうが積み石だらけだよ」

「それは凄いですね」

 

 親より早くに亡くなった子供がその罪を償うために積み上げるそれは、本来ならば鬼に打ち崩されてしまい終わらぬ無情な作業となるはずのもの。しかし、周囲に林立している積み石の塔からは、溢れんばかりの無邪気さや楽しさといったものを感じる。

 

「童遊びですね。お地蔵様がやってくるまで童は楽しく遊んでいる訳だ」

「悪いが賽の河原を子供の遊び場にして欲しくはないな」

「あはは、寂れた河原も少しは賑やかになって素敵じゃないですか」

 

 困り顔をしている小町さんも、どことなく朗らかだ。

 

「そうだな、昼寝をするにはいい場所になったさ」

 

 それはサボタージュではなかろうか? しかし、それもまた仕方がない事だろうとも思った。朽ちた卒塔婆は故人の冥福を祈る心が潰えた事を意味する。しかし、それにも関わらずに積み石は童達の明朗な有様を思わせているからだ。

 つまり、何者からも見捨てられて夭折した子供達が元気にはしゃぎ回って遊んでいるのに囲まれながら、死神の仕事なんぞ生真面目にしていられるかという訳である。

 

「私は好きですよ。小町さんのそういう所」

「馬鹿言うな。映姫様にバレれば大目玉さ。だからこうやって仕事もしっかりするのさ」

 

 船に乗せられた私は、昔の事を思い出した。以前は船から落っこちて、古代魚と彼女の世話になったのだった。今となっては昔の事だが何もかも全て懐かしい。

 

 

 

 

 

「さあ、着いたよ。彼岸へようこそ」

 

 小町さんが船を川岸に寄せる。一面に咲き誇る彼岸花が目に写った。彼岸花はその別名で曼珠沙華とも呼ばれる。それは天界に咲く赤い花であり、人の心から悪を祓う力を持つと伝承されている。天界と彼岸を結び付けるその心は死後に天を求める人の願いであろうか。しかし、死後に悪から離れても生前の罪過が変わるわけでもない。

 再思の道にある彼岸花が脳裏に浮かんだ。手遅れになってから現れて生を思わせる残酷なあの花々である。一方、彼岸の季節から外れて常しえに花を開かせているこれら不朽の曼珠沙華は、心に悪を抱えながら、その体は朽ちて果てた死者に対する痛烈な皮肉そのものであるように思う。

 

「真っ直ぐに進みな。決して振り向くんじゃないよ」

「何故ですか?」

「意味が無いからだよ。振り向いて此処まで帰ってきても、私は居ないし船も出ない。あんが帰るべき場所なんざもう無いのさ」

 

 小町さんに手を振って別れ、群生している彼岸花を掻き分けつつ進んだ。遠景にはご立派な役所然とした建物があるが、立ち寄ることなくその向こう側へ向けて歩み続ける。閻魔様に裁かれないように進まねばならなかったのだ。

 やがて鶏の鳴き声が響いてくる。夜明けなのだろう。周囲を見回して見つけた適当な岩に腰掛けて日の出を待つ事にした。彼岸の日の出は是非とも目にしておきたい。

 時間の感覚を更に失いながらぼんやりと彼岸花を眺めていると、遠くから人影が近付いてくる。あの世なのだから死人の一人や二人は居るだろうと初めは考えた。しかし、近付くにつれてその異様さが浮き彫りとなる。

 

 それは頭の上にヒヨコを乗せた少女であった。

 

 だが彼女からは、以前に妖怪の山の頂で邂逅した市場の神と同じような力を感じた。その奇抜な有様もまた一つの共通項である。

 

「えぇと、どちらの神様ですか?」

 

 恐る恐る尋ねてみると、彼女は自分の名を語った。

 

「いかにも私はこの関所の番頭神、庭渡久侘歌よ」

「関所?」

「貴女が座っているその岩は境を示す標識なの。私が番人を務める関所の一つ、つまり私の仕事場よ。という訳で、そこを退きなさい」

 

 なんと、私は神様の職場を占拠していたらしい。しかもその格好と名からして鶏の神様であるようだ。

 鶏と言えばその鳴き声で夜と朝の境目を知らせる動物である。深山幽谷の最中から響いてくる朝を告げる声。それはまるで日を呼ばうかのような知らせであり、山々はやおら明るく照らされてゆく。果たして人々は山の中から響いてくる朝を呼ぶ声の主をどのように想像したのだろうか。

 

 答えは目前にあった。

 

 しかし残酷である。かつて鶏は祭祀に用いられることを目的の一つとして家畜化され始めた。その神聖さが故に零落への道を辿る生き物など、世界を見回してもそうはいないだろう。卵かけご飯って美味しいよねー。

 

「そして此処で引き返すように警告します。この先は地獄です」

「そうなのですか。なら是非とも見てみたいのです」

 

 岩から降りて進もうとすると、庭渡様に腕を掴まれてしまう。

 

「待ちなさい。地獄に行こうというならばまずは閻魔様に裁かれなさい。それが道理というものです。貴女からは地獄に堕ちるほどの罪は感じない。罪人が天界に向かうのと同じ位に、善人が地獄に堕ちるのはあってはならないことなのです」

「しかし私は地獄を見てみたいのです」

「ならば行きなさい。貴女の意志を曲げてまで引き留めるつもりはない。死者など腐る程にいる。一人二人彷徨い歩いたところで誰も気にしないわ。建前はしっかり口にしたし行いでも示したのだから、これで充分ね。動物霊達も最近は大人しいから大丈夫でしょう」

 

 私の言葉に応じて庭渡様は腕を離した。あまりにもあっさりとしていたので少し面食らってしまう。夜と朝の境目に立つものとして、番頭神として、彼女もまた峻厳に境を別つ者であると思っていたのだけれど、そうではなかったらしい。

 

「それに地獄は絶望的なまでに広大だから、どうせ直ぐに見つかる──楽しそうね貴女」

「ふふふ、楽しいですよ。願ったって叶わないような道程を経てきましたから。生死を別ち善悪を分別する禁断の境界を暖簾をくぐるように容易く踏み越えて来たのです。禁忌を犯す背徳感が背筋を伝うのを感じます。ああ、なんて心地良い」

「不徳ね」

「下らないよ庭渡さん。私たちは善悪の彼岸に立っている。徳だの道徳だの心底下らない。私たちは生まれながらに自由で……死してなおも更に自由だったのですね」

 

 感情が昂っていた。彼岸に来てからずっと気分が良いのだよね。何というか、解放感が凄い。身体無く命無く善悪さえも無く、私の意思と魂だけがある。

 そうなると、普段から私たちはどれだけのものに縛られてきたのかがよく分かる。身体とはなんと窮屈なのか、命とはいかに脆弱なのか、善悪とはどんなに無意味なのか。

 

「死ねば全て等し並になるのですね。死後の報いという観念がどれだけ私たちを縛っていたのかがよく分かります」

「それならば早く閻魔様に裁かれてきなさいよ」

「嫌です」

「取り付く島もない」

 

 死後に報いがあるとすれば、あの世をこの目にできることであろう。少なくとも私にとっての報いとはそれに他ならない。

 

「目前の地獄を逃して引き返すなんてあり得ないですから」

「貴女は頭のネジが抜けているに違いないわ」

「頭にネジなんてありませんよ。フランケンシュタインじゃあるまいし」

「呆れた娘」

 

 私は先へと進む。彼岸の花畑には終わりが見え始めていた。後少しだ。もう少し先へ進めばこの目にできる。古来より数多の人々が思い描き夢想してきた場所が、目と花の先にあるのだ!

 

 

 

 

 

「青娥よ。彼女は息災かな?」

「あら、太子様。彼女というと明香のことでしょうか?」

「そうだ。貴方に弟子入りしていた筈だろう」

「彼女なら──死にましたよ」

「え?」

 

 霍青娥が指差した先を見て神子は硬直した。

 

「尸解の法を行ったのです」

「なるほど、彼女はあの世だという訳か。それは実に楽しみだ」

「楽しみ、ですか?」

「私は終ぞ死して彼岸へ向かったことはないからね。あの世を直に目にした人間が帰ってくるというのならば話を聞いてみたい。実に楽しみだよ」

 

  神子は明香の死体が安置された台座の前に椅子を運んで腰掛けた。青娥は首を傾げる。

 

「太子様。明香の身体は其方ではなく彼方の依代ですよ」

「青娥よ、言ったはずだぞ。人間が帰ってくるというのならば話を聞きたいとな」

「なんとまあ物好きな方。しかし彼女の魂が宿るのは」

「賭けをしないか」

 

 神子の有様は常時のそれではなかった。彼女は普段は飄々としていて切れ者であり掴みどころがなく強かだ。しかし、自らが死を恐れて人間を辞めた経緯から、兎角人の生死に対しては鋭敏であったのだ。

 

「貴方は何もするな。いや、私がさせないと言った方が適切かな。明香の魂が依代と死体のどちらに還るのか試そうじゃないか」

「何故邪魔立てしますの? この楽しみを台無しにするというなら太子様相手でも私は何をするか分かりませんよ」

「何故、か……」

 

 理由を問われ神子は黙り込んだ。彼女は顎を摩りながら宙空に目を背ける。その目に映る夢殿大祀廟の天井造りは自らが眠りに就いた時とまるで同じであった。同時に彼女はこの光景を明香も見たのだと確信した。それは死界(Dead angle)であった。人間がその命の最期に目にする光景である。だが彼女には二度目があると神子は予感していた。

 

「恐らくそれは、私が彼女に叶わなかった夢の跡を重ねているからだろう。死から逃れる為に私は人間を超越した。だがもしかすれば、もっと他の道もあったのかもしれないと思っている。私は人間を超越するのではなく、死を超越するべきだったのでは無いかと」

「太子様らしくありませんわ。どちらでも同じことです」

「それを同じと言い切るところが、青娥の青娥たる所以なのだろうね。さ、私の我儘に付き合ってくれるかな?」

「はぁ…」

 

 特大の溜息を態とらしく漏らして青娥は目を瞑る。

 

「そんな風に言われては断れません。私が貴女に惚れ込んでいる事を承知なのでしょうに。ええ、付き合いますわ。楽しみですわね。ならば彼女が帰ってくるまで退屈ですから、一献如何かしら?」

「ほう、準備が良いね」

 

 青娥がヤケになった様子でぞんざいに酒を取り出したのを見て、神子は笑いながら洋風の杯を取り出した。

 

「それは?」

「んん、祝杯というやつさ。彼女の復活祝いにね」

「目を覚ませばそうはなりますが」

 

 明香の死体の側になみなみと満たされた杯を添えて神子は言う。

 

「私たちは日々多くの事を祝うが、その根は全て私たちが生きていることを祝っているのに他ならない。これが何を意味するのか青娥には分かるかな?」

「さあ? 人間がお目出度い生き物だということですか?」

 

「生きる事よりも目出度い事はこの世に無いということだよ」

 

 

 

 

 

 死だ。

 

 死のみ在る。

 

 

 

 

 

 眼前には恐るべき風景が広がっていた。それは私が抱く死と彼岸に対するあらゆる幻想を打ち砕くものだった。

 

「なんて……なんという……」

 

 番頭神が地獄と呼んだそこは唯の荒野だった。広大無辺にして地平線の彼方まで続く骸の山を抱えた荒野である。

 

「これは……」

 

 其処には罪人も獄卒も悪鬼羅刹も在りはしなかった。刑場も針山も血の池も私たちが地獄と呼ぶあらゆるものが()()。荒れ果てた地に野晒しにされた骸達が艱難辛苦の業風に吹かれているのみである。

 

「嫌だ」

 

 責め苛まれることさえなく清算されない罪が骸と共に遺棄されている。何が地獄だ巫山戯るな。これではまるでただのゴミ捨て場じゃないか。人は死ねばゴミになると言わんばかりだ。

 風に吹かれてカラカラと骨が鳴く。転がり崩れて砕けていく白骨は皆全て人骨のそれだ。

 

「罪を犯そうとも土の下に埋まったものを何故また野晒しにするのかなぁ」

 

 かつて耳にした話が脳裏に去来した。萃香さんが教えてくれた()()()()()()()()()()()()()()()が重ね合わされて、一つの答えが導き出される。恐るべき答えだ。

 

「鬼と罪人が罪を祓うために犇き蠢く、私たちが夢想した地獄は既に棄てられて久しく、スリム化された地獄は私の眼前に広がるこれという訳だね。ははは……」

 

 乾いた笑みが漏れる。笑うしかないよね。素晴らしい効率化だよ。合理的で無駄がない。スリムでスマートだ。必要なのは魂だけなのだから、罪も骸も朽ち果てるままに棄てておこうという訳だね。

 

「心無いなぁ」

 

 真っ赤な血煙の如き暴風が吹き荒れ始めた。風の音がびゅうとして、骨が鳴る。ただそれだけが永劫に繰り返されている。こんな仕打ちを受ける程なのだから、彼らは大変な罪人に違いない。

 そう言い聞かせて自分の心を宥めようとした。如何に罪を犯した者であれここまでの扱いを受けるものだろうかと、私は憤っていた。罪人は書いて字の如く人である。だがこれは明らかに人の扱いではない。

 そして、この地獄に吹き溜まる罪は祓われることがない。風は尚色鮮やかに真紅に染まっていくだろう。地獄は際限なく虚しくなっていく。積み上げられた罪を崩す鬼は居ないのだ。

 一層暴風が強さを増し始めた。空を見上げるといつかの紅霧異変のように真っ赤だ。渦を巻く風が視界を遮る。ははぁ、成る程、血の池に見えないこともない。

 

 私は足元の半壊した頭蓋骨を一つ手にする。かつて此岸を写した瞳はもはや無いが、彼岸をその目に写した眼窩は否が応でも私の目を惹く。

 その骨の額に自らの額を重ねて目を瞑ると、浮かび上がるは地獄の光景。罪人の目に映った地獄の一部始終である。

 

「霊夢さん何やってるの……」

 

 代わり映えのない地獄にも、時に変化はあるようだ。霊夢さんが地獄の上空で弾幕ごっこをしているのが見えた。やがて視界は現在に近づいてきて、最後に私と額を合わせたところで真っ暗になる。

 

「うん、ありがとう。こんなになってもそこに居て見ているんだね」

 

 彼らは見ている、朽ち果ててゆく己の身体と共に。身動き一つできないままずっと見ている。

 

 

 

「そう、貴方は少し目が良すぎる」

 

 

 

 声に振り返ると、そこには少女がいた。だが明らかに只者では無い。その服飾、雰囲気、声音、そして瞳の全てが私たちとはかけ離れていた。まるで別次元の何かが人間の形をした端末を使って世界に干渉しているかのような、そんな感じだった。

 

「どちら様ですか。いや、貴女は一体何なのですか?」

「私? 私は四季映姫、楽園の最高裁判長。貴方が外れた道の先にあったものだと言えば分かりますか?」

 

 まずい。やばいよ。何で閻魔様が直々にこんなところまで来るのさ。

 

「おっと、顔が青いですよ。まるで死者のような土気色ですね」

「死んでますから」

「欠片もそんなつもりはない癖に、よくも舌が回るものですね」

 

 どうしよう?

 

「どうするか困窮しているようですね。教えて差し上げましょう。どうにもなりませんよ」

 

 彼女は手鏡を取り出した。そこには生前の私が映っている。

 

「浄玻璃の鏡。貴方の全てはお見通しです。死して彼岸を巡り、尸解の下法で唯一無二の道理を外れ、外道の通過を企てるものよ」

「違います。私はただ」

「黙りなさい」

 

 口が動かない。子が親に何かを禁じられるような感覚を極限まで最大化したような……禁止されるということが持つ意味を、私は初めて知った。

 

「貴方の弁明は必要ありません。私は貴方の言葉を聞くためではなく、貴方の行いを見るために此処にいるのです」

 

 地獄に向かう道程、青娥さんとの計画、私の旅路全てを彼女は浄玻璃の鏡を通して見ていた。

 

「黒です。貴方には未だ残された天寿がある。人間として生き、人間として死になさい。これが今の貴方が積める善行よ」

 

 嫌だ。

 

「分かっています。貴方は目が良すぎる。世界の美しさに目を焼かれ、人間の醜さに腐心したのでしょう? 美しいものも醜いものもよく見えたのでしょう? 貴方が旅を始めた本当の理由から目を背けるのはもうやめなさい」

 

 言葉が私の心に深く刺さる。

 

「貴方が何故幻想郷中を巡る旅を始めたのか。その生涯を映す鏡から見れば一目瞭然です。逃避ですね。貴方は人間から逃げている。自分が人間であることから目を背けている」

 

 私は自分から目を背けるために世界を見たのだと、閻魔様は言った。

 

「良いですか雲見明香、肝に銘じなさい。美しいものを見たからといって、貴方が美しくなれる訳では無いのです。貴方は世界を見る前にまず、その目で自分を見つめ直すべきだったのです」

 

 残酷なようですが、と。そう断ってから彼女は語る。

 

「自分を見なさい。四季と暦の狭間にあり、血塗れで生まれてきて、枯れ木のように老いさらばえて死ぬ自分を見なさい。日々働き汚れていく手を、皺が刻まれていく顔を、擦り切れていく心を見なさい。人を騙し騙る口を、蔑む目を、遠い耳を見なさい。悪意なき差別や装われた無知を良しとする意思を、人間の底知れない吐き気を催す劣情を、他人の不幸を希い願う性根を見なさい。殺し、奪い、犯し、騙し、食う、その穢れに満ちた歴史を見なさい。その全ての集大成として今ここにあるあらゆるものを煮詰めて合わせた自分を見なさい。それが貴方です」

 

 楽園の死者を裁き続けている彼女は、いつの間にか万感の想いが籠ったかのような声音を上げていた。

 

 

「そして見なさい!」

 

 

 両の手を広げて、彼女は叫んだ。

 

 

「飽くこともなく積み上がる人の罪を!」

 

 

 罪人の骸の山を見下ろす彼女を見て、遣る瀬無いのは閻魔も鬼も変わらないのだろうと思わされる。もし彼女の説教をまともに聞き受ける耳さえ在れば、地獄など必要さえなかったのだろうから。

 地獄のスリム化、旧地獄の放棄、地蔵の徴用、進み行く効率化と人の心無い地獄の拡大。そう、全ては人間が罪を犯しすぎるからなのだ。地獄はもう罪人で満タンで、鬼も閻魔も手一杯なのだ。

 

「だからせめて今を生きる貴方達だけは、善くありますようにと。これは説教ではありません。私の願いなのです」

 

 そういって彼女は私に頭を下げた。

 

「善く生き、善く死ぬようにと」

 

 その言葉を最後に、私の意識は霧散した。

 

 

 

 

 

 酒の匂いがする。

 

「これは驚いた。お早いお目覚めだね」

「あり得ませんわ。まだ魂を呼んですらいないのに」

 

 ぼやける視界。目の前には杯があった。酒杯だろう。身体中が酷く怠い。力を込めて身体を起こそうとすると、誰かが私を手助けしてくれた。

 

「大丈夫かい? さっきまで死んでいたのだ、そう上手くはいくまい」

「あえ? わはひわ……」

 

 口が回らない。ダメだこりゃ。上体を起こして背を支えられているままに、暫く身体の回復を待った。血が巡り始めたばかりのように、少しずつ四肢に力が戻っていく。

 

「青娥、貴方の仕業かい?」

「誓って違いますわ。私はまだ何もしておりませんので」

「しかし人間が死後に蘇るなど考え難い」

「本人に聞いてみれば宜しいのでは? 話を聞きたかったのでしょう?」

「ふむ、そうだったね。教えてくれないか? 向こうで何があったんだい?」

 

 身体が楽になり、痺れも取れて呂律が回るようになってから私は答えた。

 

「閻魔様から頼まれました」

「ほう! 地獄の閻魔から直々に頼み事か。さて、それは一体どんなことなのだい?」

「善く生き、善く死ぬようにと」

 

 私の言葉に二人は絶句した。私もまた自分を見つめて気付く。尸解仙の依代ではなく、人間の身体であるということは。

 

「私はまだ死ねるのだね……良かった」

 

 死ぬのは嫌だ。でも何故かホッとしている。結局のところ私は道を踏み外す済んでのところで踏み止まれたのだろう。

 

「人道外れ難く、私は人間として生きようと思います」

「私は天道を往く。人と道が交わることはあるまい」

「しかし豊聡耳様、そこに善はあるのですか?」

「善悪など」

「ありますよ。強弱が存在するように、善悪もまた存在します。貴方たちはただ強くあることを望み人間を超越した。私はまた善くあることを望み世界を見て回ろうと思います」

 

 善悪は存在する。それが今回の旅路で私の心中に起こった最大の変化だった。善悪は存在する、道徳もまた。それらを人を惑わすために振りかざすものが余りにも多すぎて、覆い隠されてしまっているだけなのだ。

 

「それは弱者の、敗者の理論だ。強者とは常に強くあり善悪を定めるものだ。良いかい明香、善悪と道徳は強者が弱者の群れを統率する為の道具に過ぎない」

「道具にしたのは貴方達でしょう」

「では、太子様や私がそうであるように強くあろうとは、仙人となろうとは思わないと?」

 

 死が全てを等し並にした荒野を見た瞳が、無意味だと告げる。

 

「意味がありません。強弱と善悪には何の関連もないのです。私はただ善くありたい」

「強くあらねば貫き通せぬ善もあるぞ」

「私がただ善くあるだけなのですから、誰に何を貫くというのです?」

「まるっきり奴隷か何かではないか?」

「いいえ」

 

 私は強く言い切る。

 

「貴方達は他人を支配する為に力を振るう。私は私を支配する為に力を振るう。私たちは共に支配者です。ただ力の振るい方が違うだけなのですよ」

 

 豊聡耳様は目を見開いた。刮目していると言ってもいいかもしれない。

 

「私は私を支配する。誰よりも強固に。だからこそ誰も私を支配できない」

 

 胸に手を当てて、彼女は私に酒杯を差し出す。

 

「私たちは言わば兄弟弟子のようなものだったね。天道を征く私と人道を歩む貴方。他人を支配する私と自己を支配する貴方。何から何まで逆様だが……祝福しよう、貴方の再誕を」

 

 一気に飲み干した。美酒が身に沁みる。

 

「ところで、これなのだがね。明香が眠っている間に現れたんだ」

 

 私の眼前には懐かしいものがあった。カメラである。勿論手に取った。私はもはやカメラマンではないけれど、旅の片手にはこれがある方がやはり落ち着く。

 

 実にしっくりきた。

 

 それが正義(JUSTICE)であるかのように。



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幻想郷

「やっぱり何度見ても春の桜は美しいねぇ」

 

 博麗神社の境内にて、花開く桜を愛でる人影があった。

 

「それに花見で人が集まるのも良いことだわ。どうせならお賽銭を入れてくれても良いのにね」

 

 博麗霊夢は桜を見上げながら物憂げに言う。彼女の胸中には参拝客でごった返しの境内が夢想されていた。残念ながら現実では妖怪から神霊まで魑魅魍魎がごった返す有様だ。

 酒は何処だの、肴が其れだの、喧騒騒がしい花見の只中。そんな中、数少ない人間の花見客の一人である少女は、境内でごった返す魑魅魍魎を眺めていた。

 

「おめでたいですね」

 

 また、鳥居の外に広がる春の幻想郷を一望した少女は感動した。春が深まる幻想郷は際限なく美しくなっていく。その有様は非現実的でさえあった。何処までも牧歌的で穏やかな世界があった。

 

「なんて美しい風景、光景なのでしょうか。風が吹き光差すこれは正に風光明媚と言うやつなのですね」

「あ〜、私は思うんだけどさ」

 

 霊夢にとってこの少女は謎と怪奇そのものだった。人間で空も飛べないのに幻想郷を旅しているなど理解不能だった。その上で幻想郷が美しいだの思い出作りだのと訳の分からぬ事を宣うのだから堪らない。

 

「別にそんなに美しくはないでしょ」

「え?」

 

 呆然とした少女を見て霊夢は嘆息を漏らした。美に魅せられて地に足つかずの夢遊を続ける彼女に呆れているのだ。

 

「幻想郷はただあるがままにあるだけよ。それを見るものの心の中で勝手に浮かんでくるもの、それが美醜よ。だから……」

 

 少しばかり言い淀んでから霊夢は言う。

 

「この世界を美しいと思うなら、それはあんたの心が美しいってことよ」

「褒められてます?」

「一応ね」

「私も何度かそんな風に思ったことはあります。でも閻魔様曰く、美しいものを見たところで美しくなれるわけではないと」

「それならあんた、大丈夫よ」

 

 首を傾げる少女に霊夢は辟易した。いつの間にか閻魔と面識があることもそうだが、それ以上に、こんなにも賢しい癖して簡単なことに思い至らないところに。そこまで含めて抜けていて可愛らしいことだと、年相応な少女を思って霊夢は微笑む。

 

「美ってのは見るものではなく感じるものでしょう?」

 

 少女は博麗神社の鳥居を潜り、幻想郷にカメラを向けた。

 

「はい。感じます。美しいと」

「う〜ん、酔狂だわあんた」

 

 ならばそれも良いだろうと霊夢は考えた。花見酒に酔っ払う魑魅魍魎と、幻想郷に酔っ払う人間と、そこに何の違いがあるものだろうかと。

 

 

「世界には、貴女達もいますから」

 

 

 霊夢は刮目した。少女は霊夢達を見ながら確かにそう言ったのだ。あの人間嫌いで物に目を向けることにしか目がない彼女がだ。

 

「私は人間の醜さを許せませんでした。でもそれはきっと、私が何よりも人間の美しさを望んでいたからだと思います。多分、唯の気の迷いだと思いますけどね」

「そうね、普段のあんたからすればそんな考えが浮かぶなんて気の迷いでしかないのでしょうね。でも私は良いと思うわよ。人間なんて人生一生ずっとさ迷い歩いてるようなもんなんだから」

「そうですか……」

 

 幻想郷を一望できる展望を写真に収め、少女は境外で振り向いた。互いに向き合う霊夢と少女は、鳥居を挟んで見つめ合う。少女の目には博麗神社の宴会の様子もまた写っていた。

 

 桜吹雪が視界を遮り、二人の視線が切れてから、少女は参道の階段を下って神社から去った。霊夢は溜息を吐いてから呟く。

 

「焼き付くほどに見つめるなら、混ざっていけば良いのに」

 

 しかし、背を向けて去ったということは──

 

「宴会よりも神よりも、何よりも幻想郷が好きなのね。本当に──酔狂な奴」

 

 

 

 

 

 参道を一段降るその度に、幻想郷は姿を変えた。草木が戦ぎ、花が散り、春の型をした蝶が舞っている。片手には宴会から失敬してきた酒瓶を、もう片手には何処にだって付いてくるカメラを手にした少女は、酔っ払いながら適当に世界を目に写す。

 酒の酔いも手伝って踊り出してしまいたい心を抑えながら、一段ずつ、ゆっくりと少女は降って行く。

 

 ふと半ばごろで足を止め、振り向いた。

 

「居たのですか紫さん」

「ええ、ずっと見ていたわ」

「何か御用ですか?」

「貴女に心からの愛を伝えに参りましたわ」

 

 少女は目を丸くした。しかし、八雲紫の雰囲気は真剣そのものであった。

 

 

「Love does not consist in gazing at each other, but in looking together in the same direction.」

「私は──」

 

 

 紫は少女と額を重ね、目を瞑る。今昔千年を経た幻想郷が、二人の中で交わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

fin. 2022/01/04




キャラ裏設定

○さ迷い歩くアイレコーダー
 雲見 明香(くもみ めいか)
 Kumomi Meika

 種族:人間
 能力:目に写ったものを見る・見せる程度の能力

 人間の里在住の少女です。幻想郷が大好きで度々旅に出ます。危機感は欠如気味で危険な場所にも赴くので周囲からは少し心配されてます。
 年齢の割に賢く、父親とは色々ありましたが死別しました。母子家庭ってことになりますね。

 能力は旅路の中で少しずつ磨き上げられていきました。勿論、美しい世界を見る事によってです。『もっと見たい、もっと良く見たい』という思いがそのまま形になったような力です。

 幻想郷を巡る一連の自身の行いが八雲紫に対する熱烈なlove callになることに最後まで気付かなかった人?誑しでもあります。





後書き
 四季を巡る幻想郷の旅路を描こうというのは執筆当初からの考えでした。季節感は薄くなってしまったかなぁとは思っています。また何かにつけて花との縁が多い物語になりました。
 主人公の名前然りですが、やはり季節を現すものとして花を見るという考えが私の頭の中に根付いていたからなのかもしれません。


読了、ありがとうございました。


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終わりなき季節
旧地獄温泉街


季節は巡り、終わらぬものでしょう?

またそのように巡り終わらぬものとして

この言葉は戦争を意味しますわ。

人は過ちを繰り返す。(War.. War never changes.)

終わりなき季節のように。


なんて某ゲーム風の言い回し。お話しに区切りが付きましても明香の右往左往には終わりが見えませんので、徒然なるままに書き連ねる事にします。

場所に紐付けられてラベル付けされた物語。時間ではなく空間に依拠するそれは歴史ではなく民俗の範疇に片足を踏み込むのかもしれません。何にせよ、明香が単なる流浪者に過ぎないのは相変わりません。


「ふう……」

 

 心地良く一息吐いて穏やかに寛ぐ。乳白色の湯は熱すぎもせず温くもない絶妙な加減だ。周囲に漂う特徴的な硫黄の香りはこうした場所に特有のそれで、本来は忌避すべきものだがそれもまた気持ち良かった。

 

「良い湯だね」

 

 私は旧地獄温泉を訪れていた。冬も深まり寒さに凍えていた所、地底の温泉街が人気だという知らせを天狗の新聞で目にしたからだ。文さんに話を聞く限りは鬼がこの場所の元締めらしく、ならばさぞかし良い温泉なのだろうと期待していたのだよね。鬼が我が物とせんとする温泉ならば生半なものではないだろうと思っていたけれど、期待的中で嬉しい限りだよ。

 

「それに景色も良い」

 

 実は私はこういう公衆浴場は好きではない。他人と同じ風呂に入るという行為に対して形容し難い嫌悪感があったからだ。一人きりで入る風呂というものが、どれだけ立派な温泉よりも心が安まるものだと私は思っている。

 

「でも、好きだなぁ」

 

 この温泉の利用客は私とは種族が異なる究極の他人ばかりだ。他者性も極まれば無人というものであって、皆それぞれが一人孤独を嗜んで入浴を楽しんでいる。流石は地底の住人たちである。

 見上げれば地底の天井には源泉らしき裂け目が散在しており、湯気を纏いながら瀑布の如く温泉が湧いて降っている。こうした落下の最中に冷却される事で、直接湯を取り入れるだけで人肌に丁度良い温度になっているのだろう。流水が岩に砕かれる水音が響いてきていて、雑多な物音を掻き消し個々人の孤独の深まりを助けている。他人の声や息遣いが耳に入らないということもまた私の心を癒してくれた。

 

「良い場所だ」

 

 互いに関わりなく一人一人が己の行いのみを通して心を安らげる素敵な場所。しかし、それなりに目を惹くお客さんもいる。

 例えば、白髪の中から赤色の山羊の角を伸ばしていてギザギザの歯を覗かせている少女。しかもその目は鮮血のように赤くて水平方向に伸びた四角の瞳孔をしている。これは山羊の妖怪じゃな? なんて思っていると不意に目が合ってしまった。

 目があってから視線を逸らすのってなんだかバツが悪いよね。暫くぼうっと彼女を見つめていると、向こうさんが立ち上がりこっちにやって来る。

 

「以前に会ったことでもあったかい? そんなに見つめられると気になるじゃないか」

「いえ、初対面です。雲見明香と申します。個性的な方だなと思って。その……角とか目とか歯とか」

 

 往々にして妖怪達は幻想郷では人間の形を模していた。一方地底では人間が極端に少ないこともあって妖怪の姿を色濃く現している者が多い。しかし、彼女は人間の形をしながらも獣に近い姿でもある。人間の狡猾さと獣の野蛮さを兼ね合わせたようなその有様は強く目を惹くものだ。そんな風に説明すると彼女は納得してくれたようだった。

 

「それはそうだろう。私は弱肉強食と暴力こそが正義である畜生界の住人であり、剛欲同盟の長でもある饕餮尤魔なのだからな。しかしお前も大概変だぞ。地底の住人にしてはやけに丁寧な物腰だし人間の真似も一級品じゃないか」

「え〜と……人間です」

「人間特有の仄かな香りが食欲を掻き立てて止まない訳だぜ。しかも幼くて健康的な身体じゃないか。骨まで旨そうだ」

「ここの元締めは鬼ですから、騒ぎを起こせばお互いにタダでは済まないですよ」

「安心しろ、私は無駄な争いを好まない。最低の労力で最高の結果を掻っ攫うのが一番だからな。それに今は石油で腹いっぱいだ。運が良かったな」

「石油?」

 

 その鋸のような歯を見せてニヤけた饕餮さんは、私の隣に腰掛けて語り始めた。

 

「それは世界の在り方を変える黒い水さ。この地底のもっと地下深く、今は捨てられて久しい旧血の池地獄を満たす血がそれだ。生命の恐怖、哀楽、憎悪、怨嗟の全てを煮詰めて合わせた血液だ」

「それって食べられるのですか?」

「栄養満点だし意外と美味いんだぜ」

 

 石油と聞くと香霖堂にあった石油ストーブなるものを思い出した。外の世界では燃料として広く活用されていた筈だ。その起源は生物由来のものが殆どであると言われており、血液という言い回しは秀逸だなと思う。

 結局のところ生きていた物は良く燃えるという事であり、命を糧としていることに変わりはない点で業が深い。しかしならばこそ美味いという話もそうは否定し難くて。

 

「美味しいなら食べてみたいです」

「すまん、冗談だ」

「え〜……」

 

 あらら、冗談だったかー。

 

「本気にするとは思わなかったぞ」

「でも元は生き物だったのですよね?」

「なんだ、知っていたのかHomo sapiens(賢いヒト)め。知らぬが仏だと思うがな」

「薪も炭も良く燃えます。元まで辿れどそれと似たようなものでしょう?」

「クックック、違いない」

 

 旧血の池地獄を満たす石油の海。それはとても奇特な風景なのだろう。そう思うとまた欲が渾々と湧く。

 

「血の池地獄かぁ。一目見てみたいですね」

「ほう、お前も石油の魅力に惹かれたのか?」

「いいえ。莫大な生物の死骸が積み重なり石油へと転じた海は、地獄に相応しい有様でありながら羨望の的でしょう? 死や骸を穢れと結び付けて忌み嫌いながらも、それらを燃やし糧として生きる事を厭わない。そうした人間の倒錯の一端を目にできるのではないかと期待しているのですよ」

「その期待は裏切られるぞ」

 

 饕餮さんは真白い歯の並ぶ口に指を当てながら語った。

 

「命を喰らって生きているのだから、命を燃やし糧とすることもまた同じだ。倒錯など何処にもない。強者が弱者を殺して食らうように至極自然の成り行きだ。穢れだの何だのはもっと高慢ちきな神々が気にする事さ」

「弱肉強食……しかしそれではまるっきり畜生ではないですか」

「え──?」

 

 目を白黒させた饕餮さんは呆気に取られたかのように言葉を詰まらせた。彼女は驚愕しているようであったが、私にはその理由がまるで分からなかった。何をそんなに驚いているのかと尋ねようとした時、彼女から逆に問いかけられる。

 

 

 

「いつから人間は畜生でなくなったのだ?」

 

 

 

 投げかけられたその言葉に私は絶句した。人間の醜さを何より嫌っている他ならぬこの私が、人間と畜生の狭間に幻想の境目を引いている事実を突きつけられたからだ。だが何故か、ほんの少しだけ救われたような気がした。

 

「それならば──許してしまえそうです」

「許す?」

「人間の醜さというものを」

 

 所詮は人間も畜生なのだからと、そう一拍おけばその醜さもこんなに簡単に許してしまえるようなものだったのだ。巨頭で無毛な猿に私は一体何を高望みしていたのだろう。晴れやかな心持ちで気分良く温泉の浮力に身を任せて脱力した。

 

「お前は……人間に何か酷いことでもされたのか?」

「いいえ、ただ学んだだけですよ」

 

 獣と化物の象徴である角と目をした人の形に私は語った。

 

「生まれながらにして他人を憎む者はいません。私たちは他人を憎む事を学ぶのです。同じように私は人間について学びました。人間がどのような生き物なのかという事実をです」

「だから人間の醜さとやらが許せなくなったわけか?」

「いいえ」

 

 首を傾げてしまった饕餮さんに対して、尚も言葉を連ねる。

 

「人間は他人を愛し慈しむ事ができる生き物ですし、自分を犠牲にして他者を救う事さえできる生き物ですよ。その中に悪意や醜さがあったとしてもそれに絶望するなんてナンセンスでしょう。私たちは少しずつ善く成っていると私は考えています。畜生同然だった時代から進歩して人に成って来たと思えるのです」

「ならば何故」

「だからこそです」

 

 人と獣の目が混じる。

 

「私たちは他人を愛し尊重することを学んだだけであって、この進歩は可逆性を有しているのですよ。()()()()()()()()()()()()()()。私はそれを知識と歴史の半獣から学びました。私たちは自ら学び育んだ複雑性を何度もリセットしてきたのです」

「リセットしてきた?」

 

 

 

「戦争」

 

 

 

 地底(アガルタ)の風が耳元を吹き抜けていった。此処は地の底の楽園であり地上の喧騒からは離れた世界だ。故にその言葉は余りにこの場にそぐわず浮いているようにさえ聞こえる。

 

「その度に複雑性は失われて死と骸だけが残りました。破壊と復興は須く発展の礎? 自分で壊して自分で直すマッチポンプをそう呼ぶのならばそうなのでしょう。戦争が人類の科学技術の発展に寄与してきた? そのお陰でますますリセットの規模は拡大していますよ。次の戦争ではその発展した科学技術とやらでどれだけ効率良く殺し合えるようになるのですかね?」

 

 私は人間の醜さを憎んでいたが人間を憎んでいたわけではなかった。いつからこの二つを結び付けて考えてしまうようになったのだろうか。人間以外だって存分に醜いと言うのに。

 

「そして貴方たちもですよ饕餮さん。絶えることのない抗争をいつまでも続けているから、貴方たちはずっと畜生のままなのでしょう」

 

 饕餮さんは鼻で笑った。立て膝で手を胸の前で組んで笑みを見せている。強気な様子だった。私の言葉を受け止めて、それで構わないと無言で語っていた。

 

「積み石のようなものです。積み上げては突き崩す。また一から積み直す羽目になる。その繰り返しです。私たちは人間になったり畜生になったりするのを繰り返している」

「クックック、そいつは違うぜ雲見明香」

 

 饕餮さんはその指で私の髪を解き口に運ぶ。驚愕する私を他所に彼女はそれを何度も咀嚼して嚥下しているようだ。

 

「甘いぜ。お前の言う事が正しいなら、その積み石は積み上げるほどに崩れ難くなる筈だろ。学習によって博愛を知り賢い人間様とやらに成れるなら戦争なんてとっくの昔に無くなっているさ」

「それは……」

「人間は戦争を繰り返しているぞ。そう言えば繰り返しってのは喜劇の鉄板らしいな?」

 

 意地の悪い嘲りを浮かべて饕餮さんは私の手を取り指を舐めた。ざらついた舌と獣の歯が艶かしく触れる。その感触に驚いて反射的に手を引っ込めると、軽く指が切れて真っ赤な血が滴れた。

 しかし彼女は口内の血を妖艶な表情をして味わっていた。流石に気味悪くなり距離を取ろうとするが、腰に手を回されて離れられない。非難がましく見つめるものの効果無しである。

 

「クックック、悪いな。やはり人間とは味わい深い生き物だ。不思議な事に人間は人によって味がとても違うんだよ。美味い奴もいれば不味い奴もいるから食べてみるまで分からないんだぜ」

 

 比喩的な表現ならまだしもそんな直接的に人間の味わい深さについて語られても反応に困るよ。取り敢えず怖いので離れたいのですがガッチリ腰を掴まれてます。あれ、これ私獲物扱いされてない?

 

「つまりさ、人間はどんな味にも染まれるのさ。どんな事でも学ぶ事ができると言い直すと分かりやすいかな? だから結局は何を望み学ぶかという一点なんだと思うぜ。今のところ人間は戦争に首ったけのようだがな」

 

 獣が人の味を覚えるように、人は戦争の味を覚えたのだと饕餮さんは言った。これも学びの一つだと彼女は皮肉たっぷりだ。

 

「分かるよ。戦争ってのは美味だからな」

「食べたことがあるのですか?」

「ちょっと依存性があって、定期的に腹一杯食いたくなるような味なんだ」

「度し難い」

「人の好みにケチをつけると嫌われるぜ? 因みにその度し難い私の好みによるとお前は結構珍味だったぞ」

「えぇ……」

 

 ケラケラと笑う彼女はその手の血を舐め取りながら私を離した。空を切る羽音がして、何処からかやって来た大鷲が彼女の肩に乗る。

 

「血の匂いがします。何事ですか饕餮様」

「消毒薬、それから血止め薬と包帯を持ってこい。あのお嬢ちゃんが指を切っちまったのさ」

「饕餮様、目が変です。まるで人間のようですよ」

 

 その時、饕餮さんの瞳孔が人間のそれになっている事に私は初めて気が付いた。

 

「気にするな、暫くすれば元に戻るぜ」

「悪食も程々にした方がよろしいかと。せめて食らうならばもっと力強い物にしませんか?」

「いや、良い目だぞこれは。意外な掘り出し物だ」

 

 話しぶりを聞く限り饕餮さんの部下なのだろうと思う。その大鷲は随分と彼女を慕っているようであった。素直に羨ましいと思う。自らを慕ってくれる者というのは得難いものだし、慕われるに足る者であることはそれ以上に大変な事だからだ。

 剛欲同盟の長であると言うにしては根無草か風来の獣のような自由な方だとは思っていたが、成る程この気風もまた一種のカリスマなのだろう。

 

「さて、随分と長風呂になってしまったな。此処を血の池地獄にするのも気が引ける。そろそろ上がろうじゃないか」

 

 温泉に血を垂れ流すのは確かに気が引けるし不衛生極まりない。饕餮さんの言葉に応じて立ち上がると、しかし酷い立ち眩みに襲われた。白黒の明滅と渦巻き模様が歯車のように蠢くのを目にし、大きく揺らいだ私は転倒しかけて彼女に慌てて支えられた。

 

「おいおい、危ないな。人間ならちゃんと二足歩行してくれよな」

「ははは……」

 

 私は、その痛烈な言葉に苦笑する他なかった。



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夢の世界

「めっきり眠りが浅くなって悪夢ばかり見るようになった? そんな時はこの商品がオススメ。その名もスイート安眠枕! なんと今なら一ヶ月間は全額返金保証制度付きですよ」

 

 獏の妖怪だと名乗ったドレミー・スイートさんは、自らの名が付けられた安眠枕を販促していた。最近は何故か里の人間から避けられ気味で、夢見まで悪くなってやな感じだと相談したのは私からではあるが、まさか寝具の紹介が始まるとは予想外である。

 獏なのだし、悪夢を食べるとか吉夢に変えるとか、そういう対処法かなと思ったのだけどなぁ。

 

「確かにそれでも構いませんけど、それだと私が貴方の夢に付きっきりにならないといけませんよ。分身を寄越すにしても楽じゃありませんし、その点この寝具ならば私に頼らず快適な睡眠生活を送れます」

 

 此処はドレミーさんの管理する夢の世界らしいので、私の心を読むのも朝飯前らしい。

 

「夢だけに朝飯前ですよ」

「みたいですね」

 

 私たちは西洋風の城の寝室で語らっていた。窓から外を覗くと月明かりに照らされた夜の森の風景が目に入る。まるで絵本の中のような景色で、空に浮かぶ星や月までも絵画的な有様だ。比喩でなく本当に五芒星が空に浮かんでいるので正にメルヘンチックである。ジェットコースターやメリーゴーランドなど外の世界の遊具も目につく。

 しかし、あの禍々しく捻れたジェットコースターには絶対に乗りたくないなぁ。遊具が禍々しいなんて可笑しいでしょ。いや、無邪気な子供なら気にせず楽しめる……かなぁ?

 

「素敵でしょう? 子供の頃に誰もが一度は夢見る童話的世界よ。ちょっと不気味なのはスパイスです。少し恐ろしい程度が人の記憶に残りやすいですから」

「さいですか。話は変わりますが、枕を買っても如何にして夢から持ち帰れば良いのですか?」

「貴方の枕元にお届けしますよ。代金もそこに置いておいてね。それと時々製品アンケートに答えてくれると嬉しいです」

 

 何処からともなく取り出したマグカップ片手にホットミルクを口にしながらドレミーさんは語り始めた。

 

「夢の世界の貴方にはほとほと手を焼いていました。この安眠枕で少しでも落ち着いてくれることを願いましょう」

「夢の世界の私?」

「そう、簡単に説明しますと──」

 

 またまた魔法か手品のようにホワイトボードが現れ、マジックペンを片手にドレミーさんは解説を始める。

 

「あらゆる生き物が見る夢は根底で繋がっています。故に自分が見る夢から他人の夢に移動したり、夢の中で知り得ない知識を得たりもできる。そして、これらの夢が複雑怪奇に接続されている広大無辺な領域を私は夢の世界と呼びます」

 

 気泡のように沢山の夢。それらから引かれる線が無数に交差してゆく網の目。ドレミーさんはこれらを広がりを持った円で囲む。

 

「一人の夢から無数の経路が伸びていたりバス型になっていたりもします。外の世界で言うネットワークに近しい構造です。夢が支離滅裂で突拍子もなく様々な世界を形作る事が有るのは、こうした莫大な接続によって種々の夢が衝突(コリジョン)していくからです」

「夢ってそんな構造になっていたのですね」

「知らなくて当然よ。知られないように監視して隠蔽してきたのは他ならぬ私ですから。因みにこの説明をしている夢も貴方が目覚めればしっかり処理するから何も覚えてはいられないわ」

 

 ありゃ、それは残念です。

 

「そして夢の世界には現の世界と同じように住人たちがいるのです。つまり、ざっくばらんに言うと貴方は二人いる。夢と現の貴方たちという具合にね。ただ、この夢現の二人はドッペルゲンガーのように決して出会うことはない。片方が現れればもう片方は反対側の世界に押し出されてしまうからです。そういう意味では貴方の主観的認知世界において自らはただ一人であるという認識は正しい」

 

 ドレミーさんが描いた夢現の世界にそれぞれ在る二人の私を見て違和感を覚えた。眠りに落ちた時、私は確かに夢を見る。でもそれは夢を見ている現の私であって、夢の世界にもう一人私が居るなんてことは──

 

「居ますよ。しかも現の世界の貴方たちとは違って欲望や願望に素直な住人たちが。貴方もとても素直です。素直すぎて困っているのです」

 

 困らせている?

 

「あらゆる夢は繋がっているけれど、近頃はプライバシーや個人情報保護も求められている時代ですので夢の世界のセキュリティも甘くはありません。種々の夢が衝突していくと言いましたが、それは稀な事で通常は夢見る本人の一連の夢が秩序だって現れます。それなのに夢から夢へと歩き回る覗き魔がいるのです。頼むから自分の夢でじっとしていてくれないかしら?」

 

 責められるように見つめられるものの、まるで心当たりがない事なので何とも言い難く返答に窮する。

 

「分かっているわ。現の貴方とは会うのも話すのも初めてだから、これは八つ当たりのようなものです。しかし甘んじて受け入れなさい。現の貴方がこの安眠枕を使い自らの槐安の夢に憩うことが夢の貴方を一つどころに根差させることに繋がるのです」

 

 夢はネットワーク状に接続されていて、そこでは現では現せないような欲望や感情に身を委ねている私たちの分身(アバター)が居る。そしてこれら夢現の私たちは互いに出会う事なく影響を与え合う。

 私はこうした構造を夢以外にも知っている。例えば外の世界にあるゲームやインターネットはこれらと同じ構造だろう。そこまで考えてふと不思議に思った。

 

 

 

 何故私は外の世界の事を知っている?

 

 

 

 インターネット、ゲーム、歴史、科学技術、その他諸々の万学についての朧げな知識。幻想郷の結界の内外に関わらないこれらの知識を当然の事であるかのように私は知っていた。幻想郷に流れ着く外来人や外来本の知識も少なからずあれど、それでも私は()()()()()

 

「夢は繋がっていて経路を辿れば何処にだって行ける。そして夢現の私たちは互いに影響を与え合う。もしかして──夢の私は外の世界の夢を覗き見たのですか?」

「古来より人は夢を通して多くの事を学んできました。しかし言った通り、私はそれらを悪用するものを監視しています。貴方はかなりグレーな感じです。望ましくないけれど悪しくもないと言ったところですね」

 

 だから警告の意も兼ねて現の貴方とお話をしたかった。そう語るドレミーさんの警句とは裏腹に彼女はとても優しげだ。

 

「貴方の知識に関しては妖怪の賢者譲りでしょう。夢の貴方が外の世界を認知してその経路を見出し始めたのもある日を境にしてのことです。心当たりありますよね? まあ、鶏が先か卵が先かと言った話ですが」

 

 思い当たる節が無いでもない。かつて紫さんが私に見せた光景の中には外の世界の情景が異物のように混ざり込んでいた。

 

「しかし夢であれ世界を見て回るなと私にいうのは無理というものですよ」

 

 そう、無理なのだ。私のことは私が一番良く知っている。何処にでも行ける道が開けているというのに他ならぬこの私が動かない筈がない。

 

 

「季節は巡り終わる事なく花は咲き散る事を繰り返しています。またそのように、雲は行き水は流れ万物は流転する。こうした不変の流転は私の目を魅了して止みません。現の世界がこんなにも美しいのだから、夢現共に別ち難く何れも美しいに違いないと思うのは私の勝手な妄想に過ぎないのでしょうか?」

 

 

 移ろうことだけが移ろわないこの世では、有形無形問わず全てが風化して神さびてゆく。万物を流転させる無限に等しい力が絶えずやまない風の如く世界を吹き抜けているのだ。

 例え幾たび一処を見つめても、寧ろ際立つ微細な変化が揺らぐ色彩の風として目に写るばかりであった。それはきっと私にしか見えない葬送の風なのだろうと思う。

 

 

 私にとって世界は素敵な墓場だった。

 

 

 故に私はこの世の美しさに魅せられてやまず、眼を開けながらいっそ盲目的に世界を恋しく愛している。そんな私が夢の世界を漂泊しないなどという事があろうか? いや、ない。私はどうしようもなく夢の私に共感していた。

 

「ですので、その私を止めることは私にもできませんよ。そして夢の私がそうであるという事は、夢の世界は私にとって美しいものであった証左に違いないのです」

「そんなに褒められると悪い気はしませんね。それに貴方の言葉を聞き心を読んで見る限りは……夢を悪用する類の人間ではないようですし、少しぐらいは見逃してあげましょう」

 

 ウインクをしたドレミーさんは、顔を手で覆う仕草をしてから夢の世界を片付け始めた。

 

「この世界もまた夢幻の一幕に過ぎません。けれど貴方と語らった時間は夜が明けても残存する」

 

 目覚めが近い。崩れ行く夢の中で彼女は一言を遺す。

 

「故に今宵は目を瞑りましょう」

 

 

 

 

 

 寝ぼけ眼を擦りながら布団から身体を起こした。枕元には真新しい枕が添えられていて私の財布が転がっている。あ、代金はそんな感じで持って行くのね。存外に乱暴な支払いに呆気に取られたが、それよりも夢の話を覚えている事に驚くべきなのだろう。

 

「見逃されたのかな」

 

 寝起きのお茶を作ろうと台所へ向かいつつドレミーさんとの会話を反芻した。大丈夫、しっかり委細覚えている。その最中に縁側を通り掛かった時、中庭に魔法使いが舞い降りた。

 

「よ、明香! おはよう!」

 

 和かに元気溌剌として挨拶をしてくれる魔法使い、霧雨魔理沙さんは私を見て近づいてくる。

 

「最近、夢の中でとある少女が現れるという噂話で人間の里は持ちきりなんだぜ。これは異変の予兆に違いないって話になって、霊夢と手分けして里の知り合いの元を訪ねて回ってるんだ。すると面白い事が分かってな」

「え〜と、外で立ち話も寒いでしょう。長話になるようでしたらお茶を用意するので居間で待っていてください」

「そりゃ有難い、そうさせてもらうぜ」

 

 タイムリーな話題である。すっごく心当たりがアリアリなので、きっとドレミーさんについての話なのだろうなと当たりをつける。さて、急須と湯呑みを運びながら居間につくと魔理沙さんは待ってましたとばかりに待ち構えていた。

 

「じゃ、お茶を頂くぜ。それで夢の話の続きなんだが、どうも聞き取りをしていくと誰の夢にも同じ少女が現れてはふらっと去って行くって話でな。さては悪い妖怪だなと捕まえようとして追いかけても煙のように逃げられちまうってんで、みんな記憶に残って気味悪がってるらしい」

 

 なるほどねぇ。ドレミーさんはスイート安眠枕を販促して回っていたようだし、製品アンケートとやらで購入者にもついて回っていたようだからそれもまたむべなるかな。

 

「これは何かあると踏んで似顔絵を描いてもらったんだ。まさにこの少女(This Girl)って訳なのだぜ。ただそれが……」

 

 歯切れを悪くする魔理沙さん。どうしたのかなと訝しんでいると、彼女は恐る恐る似顔絵を卓に広げた。

 

 

「まるっきり明香なんだぜ……」

 

 

 私は口に含んでいたお茶を吹き出しかけて飲み込み、それはそれは盛大に咽せた。あれ、私? ドレミーさんではなくて? 最近私が里を出歩いている時のなんか避けられてた感じはそういう……。

 

「おっと、まさかやっぱり何か知ってるのか」

「あ〜それは私です。私なのですけど私ではないといいますか」

「寝言は寝てから言えよな。知ってる事を洗いざらい吐いてもらうぜ」

 

 霊夢さんより先に真相に辿り着いたとばかりに自信満々の魔理沙さん。真実を語っても納得してもらえなさそうだし、彼女が望むような物語を語った方が都合が良さそうだと判断。

 

「その通りです。幻想郷だけでは飽き足らず全てをこの目に写さんとする私の宿願の第一歩ですよ。私は他人の夢を見ることに成功したのです。これで夢の世界もまた私の目に映る」

「だがみんな気味悪がってるぜ。もうここらで止めといた方が身のためだ。里のみんなはお前を避け始めてる。このままじゃ独りぼっちになるぜ」

 

 心優しい魔理沙さんは私を説得し始めました。その通りです、魔理沙さんの言う事は全て正しい。

 

「そうですね。魔理沙さんにもバレちゃいましたし、もう辞めます」

「お、おう。随分と潔いな」

「こういうのは引き際が肝心ですから」

 

 それからは毎夜スイート安眠枕で眠りにつくようになった。悪夢を見ることも少なくなり、夢に現れる少女の噂話も七十五日もすれば忘れ去られる。それでも時折他人の夢を見ることがあったり、絵葉書の便りのように見覚えのない異界の風景が目に写っていたことがあった。

 それは天に向かって根を伸ばす木であったり、山よりも巨大な岩であったりした。そしてこうした便りは、私の密やかな楽しみでもあった。私が目に写す幻想郷の光景も、同様に同志(わたし)への便りとなっているのだろうか?

 

 私は夢現を想い、今日も床に就く。




「明香に要らぬ知恵を与えたのですね」
「あら、嫉妬かしら? 妖怪の賢者ともあろうものが」
「嫉妬ではなく執着ですわ。私は彼女を霊夢と同じぐらい愛しておりますから」
「うわぁ……いたいけな少女達相手に二股ですか……」
「あら? 愛は何等分しても愛でしょう?」

 閉口したドレミーを前にして、紫はしたり顔で語り始める。

「彼女狡いわよねぇ。あんなにも純粋な目をして貴方の世界を愛していますだなんて、とんでもない殺し文句ですわ」

 言外にお前も絆されてしまったのだろうとニヤける紫相手に、ドレミーは何も言い返せなかった。事実、夢の世界に対する憧憬とその美に対する底知れない感動は彼女にとって眩いものだったからだ。

「そうですね。私たちが維持している世界に彼女は生きている。それは彼女がこの世界にもっと生きて居たいと心の底から願ってくれていることに他ならないのでしょう。それは──」

 言い淀んだドレミーの言葉を、紫が引き継ぐ。


「私たちに対する、最大級の賛辞に等しい」


 ドレミーもまた無言で同意した。人はいつも目先の物を求める。富、名声、そして幸福。だが彼女は自分が生きる世界そのものを何よりも求め愛する変わり種。

「こんなにも愛されているのに、愛さないだなんて、不義理ですわ」

 彼女は世界を愛している。だから世界も彼女を愛してやりたく思う。それだけの事なのだと、紫は嘯いた。


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霧の湖

完結してからの方が筆が進むのは何故なのですかね?


「うわぁ──これは良い景色ですね」

 

 霧の湖。それは妖怪の山の麓にある霧に包まれた湖である。普段は濃霧が立ち込めて視界不良なのだが、本日の早朝は比較的良好な景観に臨む事ができた。まさに絶好のシャッターチャンスであり、私は何の躊躇もなくカメラのシャッターを切っていた。

 さて、事の顛末は至極単純である。日傘を片手にぶら下げたレミリアさんに散歩に誘われたのだ。態々彼女が従者も付けずに紅魔館から我が家まで訪ねて来るなんて仰天したね。

 

「霊夢さんなら博麗神社ですよ」

「あら、そう」

「ええと、魔理沙さんなら魔法の森で」

「知ってるわ、貴方を訪ねてきたのよ」

 

 そんな頓珍漢な問答をする程度には気が動転して、玄関口で朝日が燦然と輝く中レミリアさんを暫く待たせちゃった。けどまあ何とか気を落ち着けて今に至るという訳なのです。

 

「ふふふ、そうでしょう。私も早朝の霧の湖の景色は好きなのよ」

「意外です。てっきりレミリアさんは朝日なんて目にする事さえ苦痛なのかと思っていました」

「太陽は大嫌いよ。けれど例えどれだけ大嫌いでも何百年もずっと同じものを嫌い続ける事が出来るほど私は執念深くないだけ」

「しかし、紅霧異変では霧で太陽を覆い隠していましたよね?」

「好き嫌いはさておき、無くなってしまった方が都合が良いのは確かだからね」

「それを嫌いと言うのではないでしょうか?」

 

 湖畔を朝日に照らされながら歩くレミリアさんの横顔に、私の目は釘付けになった。その端正な顔立ちと立ち振る舞いに合わせて、日を拒絶した白磁の如き肌と上質な服飾が相まうそれは、あまりに高貴で美しかった。

 

「熱烈な視線ね。太陽すら厭わない私に見惚れてしまったのかしら?」

「ええ、一目惚れですよ」

「素直ね」

「偽る必要がありますか?」

「無いわね。でも普通は恥じらわないかしら?」

「美しいものに見惚れる事を恥じなければならないなら、私は恥知らずで結構ですよ」

「あら、気障な台詞。でも本心からのようだし、褒め言葉として受け取っておくわ」

 

 ともあれ、何故レミリアさんが私を散歩に連れ出したのかは謎のままだ。聞いて仕舞えばすぐ分かるのだろうけれど、単刀直入に聞くのも無粋というものだと分かる。少なくとも彼女が纏う幽玄な雰囲気にそんな愚直な問いをぶつける気にはなれなかった。

 

「さて、霧の湖を一周する迄には伝えておきたい事があるの」

 

 レミリアさんは懐中時計を取り出して時間を確認した。霧の湖はそこまで広大ではない。周囲を一周するだけならば小一時間と言ったところだろう。

 

「貴方がフランに何を見せているのかを聞いたわ。美しい世界。彼女はそう言っていた」

「その通りです。ただフランちゃんも最近は外を出歩いているらしくて、寧ろ私が教えられたりもしています。例えば彼女は石油の海を訪れたこともあって──」

「それは重畳、嬉しい限りよ。でも少し危ういと私は考えているわ」

 

 レミリアさんが何を言わんとしているのかを推し量る事が出来ず、私は沈黙する。

 

「フランは良く外出するようになった。彼女は未知の世界に目を輝かせている。それはとても素敵な事だわ。けれど彼女は貴方のように世界の清濁を併せ呑んでいるわけではない。いつか世界の醜さを知る時が来るのよ。私はその時が恐ろしくて気が気でないわ」

「心配のしすぎですよ」

 

 レミリアさんはフランさんの事となると本当に過保護だなぁ。

 

「心配ではなく明確な懸念よ。貴方は世界の醜さを人間に押し付けて見識を保っているようだけれど、フランにはそんな器用なことはできないでしょうから」

「それは聞き捨てならないですね」

 

 おおっと、これにはちょっと異を唱えたいです。

 

「世界に醜さなんてないです」

「それよ。そういう強固な強がりがフランにもできれば」

「確かに世界には汚いものがあります。糞便や死肉や血液……しかし私はそれらを醜いとは思いません」

「それは可笑しいわ。醜いものは汚いものと結び付くのが道理でしょう」

「いいえ、美醜と清濁の間には何の関連もないのです。美しくて汚いものや、醜くて綺麗なものが世界には溢れているでしょう?」

「ふむ、言われてみればそうかもしれないわね。咲夜が淹れたトマト入りの紅茶は醜悪だけれど不衛生では無い。一方雄大な海は美しく映えるけれどその実はこの世のあらゆる穢れの吹き溜まりでもある」

 

 レミリアさんは笑みを浮かべて語りの続きを促す。好奇心を露わにする彼女が私には美しく見えた。

 

「こうした美醜と清濁の境界はその実在性に依るのだと私は思います。汚いものや綺麗なものは形を持って実在しますが、美醜はそうではありません。人間が一人残らず居なくなれば法律が存在しなくなるのと同じ事です」

「美醜は人が定めた法と言う訳ね。これを美しいのだと()()()()()()。あれが醜いのだと()()()()()()。だから美醜は法のように実在しないと」

 

 レミリアさんは私の言わんとする意図を正しく理解したようで、考えを確かめるように言葉を連ねた。

 

「人間達が世界から一人残らず死に絶えれば、それらがどれだけ美しいと謳い誉めそやしてきた春の桜であろうと、何者を感動させることさえできはしない。美醜は人間が定めたルールなのだから、人間と共に消え去り、人間以外のものには関係が無い。成程そうだわ」

 

 頬に手を添えてレミリアさんは考えを咀嚼している。

 

「では清濁はどうか? 人間が死に絶えても不衛生による病がなくなったりはしない。人の存在とは関わりなく清濁は存続して世界に影響を与えられる。成る程確かに実在しているわね」

 

 納得した様子でレミリアさんは頷く。ただ、その後にジト目で睨みつけられた。

 

「けれど私は永らく人と共に暮らし彼らの美醜()に染まってもいる。それにフランでさえ世界の美しさを貴方()から学んだ」

「だから大丈夫なのですレミリアさん。私はフランさんに世界の美しさを教えました。そして世界に醜さは実在しない。それこそ人間から学びでもしない限り彼女がその非実在の存在を知ることなど出来ないのです」

 

 私の言葉を聞き、レミリアさんは胸に手を当てて何かに想いを馳せていた。

 

「しかし美醜が人の法であるならば、それは何者が定めるのかしら?」

「毛の無い猿のアルファ個体です」

「うん? え?」

 

 こういう皮肉屋な所が私の悪い所なのだと自嘲する。

 

「つまり人間のリーダーです。法と同様に群れの中で最も権力を有する個体が定めるのですよ。おっと、法は神の名の下に於いてでしたか? まあ、神の名を騙る王が語るのですからそうでしょう?」

「貴方そのうち刺されるわよ。神様はもっと大事にしなさい。神の名の下に刺された事がある私が言うのだから間違いないわ」

 

 中々身に染みる一家言を頂いて反省していたところ、更にレミリアさんの口撃が心を抉る。

 

「それに、美が人の法であり人からのみ学び取る事ができるものだとすれば、貴方が語る世界の美しさもまた人間から学んだものなのでしょう? 確かに貴方が常々言うように人間は醜いのかもしれない」

 

 レミリアさんは私に向けた言葉を区切り、朝日を背に風に吹かれていた。彼女の言葉の続きは容易に想像がついた。だから私はどうかその言葉が耳に届かないようにと祈った。ただ神は不信心な私に応えるつもりはないようだ。

 

 

 

「けれど、世界を美しく思えるのはその醜い人間だけなのでしょう」

 

 

 

 

 

 私は胸にしこりを感じながら布団に包まった。レミリアさんの言葉が目を閉じても耳を塞いでも頭の中で反響してやまない。私は自らを宥めながら考えを巡らせる。

 

 例外だ。

 

 醜い人間の中にも世界から美を感じ取る美しい人が現れることもある。それに世界が醜悪な肥溜めであるとするよりも、一層美しく素敵な場所であるとした方が、そこに生きる人々にとっては都合が良いじゃないか。

 世界が醜悪ならば、皆がこの世を去っていくだろう。人間をできるだけ多くこの世に蔓延らせたい神々とアルファにとっても、人間が世界に美を感じるようになった方が都合が良かった。

 

 

 だからそのように美醜()を定めたのだ。

 

 

 この世は美しい。だから此処で、産めよ増えよ地に満ちよという訳だ。ふざけるな。私はむしゃくしゃして布団から飛び起き中庭沿いの縁側に腰掛けた。肌寒い夜風が身体を冷やして目が急速に醒めていく。

 見上げるとそこには冬特有の澄んだ星空があった。幾つか星座も目に留まる。確かに美しかったし感動した。心が澄み渡るような気持ちさえした。

 けれどこうして美しく感じることを何者かに定められているのだと思うと、気味が悪かった。この感情をどうにかしない限りは手放しで美に耽ることは最早できまい。

 

 私は翌日直ぐに便りを出した。分からないこと、思い悩む事があれば他人に打ち明けるのが一番なのだ。私の疑問に答えられる可能性のある人物は一人だけだった。

 

 太古のアルファであり、また人であり、神でもあり、人を支配し、法を敷き、世を治め、そして美しいもの。

 

 

 

 

 

「豊聡耳様、お話ししたいことがあるのです。人と世界とその美について」



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無名の丘

 冬が明けて春めく季節の頃に、地名と日時が記された便りが豊聡耳様から届いた。手紙に記されていた無名の丘は、春一面に咲く鈴蘭の花が繁茂する閑静な場所である。

 

「春らしくなって来てはいたけれど……」

 

 目前の光景に言葉が漏れる。青空の下に鈴蘭の花の群生地があった。そこでは目に写る淡白で美しい花々と、匂い立つ腐臭が混じり合っている。

 

 

「やっぱり陰鬱だよねぇ、此処」

 

 

 幻想郷では赤子を捨てるならば無名の丘だと暗黙的に定まっていた。その理由の一つが人間の里から程良く遠い立地だ。万が一にも他人に見つかったりする事がなく、捨てられたものが帰ることもない。人目について欲しくないものを捨てるには絶好の場所だったのだ。

 人間が此処に赤子を捨てる二つ目の理由は、鈴蘭の花の毒である。何でも手に取り口に運ぶ習性のある赤子は鈴蘭の花を口にして、そのまま土に還るという訳だ。

 

「良い土だね」

 

 無名の丘の大地は、無機的な岩石の破片と動植物の遺体を混ぜ合わせた土である。土壌とは堆積した死であり、それに根ざして美しく群生する鈴蘭の花は何処までも組織的だ。

 誤解されたくはないが、私は人間の間引きそのものについて思うことはない。幻想郷における人間の食糧生産に限りがある以上は飯にありつけない人間が生まれるのは自然な事だ。

 その一点では人間も畜生も大差ない。飯があれば生き、なければ死ぬ。何者が残るべきかを意図的に選択するという点において間引きは極めて人間的でさえある。

 けれどせっかく生まれ落ちたのに、この美しい世界を目に写すこともなく去らねばならなかった退去者達が此処には眠っている。気が付けば彼らの冥福を私は祈っていた。そして苦笑する。赤子達は今も賽の河原で石を積んでいる。哀れみも慈悲も望んでいないに違いないのだ。

 

 

「ふむ、少し待たせてしまったかな」

 

 

 豊聡耳様の声が背後から届いた。

 

 

「人と世界とその美について──だったね」

 

 

 

 

 

 豊聡耳様は小高い丘の上に腰掛けて、パノラマのように全展望を見晴るかしていた。彼女は耳当てを外して私を手招きしている。

 

「ほら、こっちに来たまえ。此処は静かだが、この距離では貴方の欲が聞こえないからね」

 

 豊聡耳様の隣まで近づくと、彼女はにっこりと微笑んだ。

 

「貴方が寄越した手紙には困らされたよ。謎かけなのかとさえ思ったのだが、十の欲望を聞いて漸く理解できた。どうやらちょっとした悩みだったようだね」

「豊聡耳様ならばご存知だろうと思ったのです」

「知っているとも。和を以て貴しとなすように、美と法の双方を扱って民衆を支配するのは私の手管だった」

 

 相互の尊重を美しく貴いことだと定めて個人間の私闘を戒める事は秩序だった社会の維持に重要なことだったのだと。そう語って豊聡耳様は説明した。

 

「真理や真実、或いは正義などというものは法にとってはどうでも良い。何故ならば、法とは第一に社会秩序の維持の為にあるからだ。例えば戦争での殺戮が許されるようにね」

 

 私は殺人を許さない。豊聡耳様はそう断った上で言葉を続けた。

 

「個人間の殺戮は社会秩序を乱すけれど、戦争での殺戮は自国の社会秩序を維持する。故に敵兵を殺す事は罪に問われない。社会は時に人間を殺す事を要請する──できる限り慈悲深く」

 

 人道に対する罪という言葉が思い浮かんだ。残酷に殺すことが罪であることに異議はないが、残酷でなければ殺しても良いのだと暗に語る秩序に空恐ろしいものを感じる。

 

「だからこそ戦争を続ける為には秩序が必要である。戦時下に厳格に民衆が管理されねばならないのは正にそこなのだよ。厭戦感情や反戦主義が蔓延り戦争によって自国の秩序が乱れるという本末転倒な結果を避ける為に、古今東西あらゆる国家は自らの戦争を自国民に対して正当化する」

「しかし正当な戦争などあり得ないでしょう」

「私もそう思うよ。どれだけ理由付けしようと所詮は人間同士の殺し合いに過ぎない」

 

 憂いを帯びた瞳が私を見つめていた。

 

「法は秩序を守る為にある。そしてこうした秩序は正義と言い換えても良い。だから戦争は無くならないのだ。誰もが自らの秩序(正義)を最大化しようとしている。行き着く先は互いの秩序の衝突だ。私はこれを戦争と呼んでいる。自らの正義(秩序)を語り、これを最大化し、地に満ち溢れさせようとする行為こそが他ならぬ戦争の下地なのだよ」

「それは……皮肉ですね」

 

 私は思わず笑ってしまった。

 

「結局強い奴が勝つのですよね?」

 

 豊聡耳様も笑った。

 

「そうだとも。最大の秩序は最強の正義だ」

 

 いっちょ殺り合って決めましょうやという訳である。餓鬼の喧嘩じゃないのだからいい加減にして欲しいなぁ。

 

「秩序は人間社会を維持する為に必須の要素だ。だけれども、社会と言うものはそこに生きる人々を幸福にする為に形作られた幻想に過ぎない。もしもその社会の為に不幸にならざるを得ない人間が生まれたとしたら、そんな幻想は解体するべきだろう」

 

 法は秩序の為にあり、秩序は社会の為にあり、社会は幸福の為にある。豊聡耳様はそのように語る。現実主義的で打算で動く彼女にしてはとても夢のような話をするものだと意外に思った。

 かつて仏法で民衆を統制し道教で超人となった彼女が言うに事欠いて人々の幸福の為に社会があるなどと、一体何枚舌なのだろうかと疑ってしまう。

 

「最大多数の最大幸福でしょう。より多くの人々が幸福になる為ならば少数の犠牲は仕方がないのでは?」

「ははは、貴方も夢想家なのだね」

 

 夢想家? かなり残酷な事を言ったつもりなのだけど。

 

「社会を見てみたまえ。最大多数の最大幸福? より大いなる幸福の為には小さな不幸は仕方がない? ふふふ、冗談はよしてくれ」

 

 笑い泣きした涙目を拭い、豊聡耳様は両手を広げて断言した。

 

「極限られた少数の人間の幸福の為に、この世を占める大多数の人間が不幸を噛み締めているこの世界でそんな夢のような事をよくも言えたものだね。貴方の言うソレは一つの理想だ。実現すらしていない理想の是非を問うなど夢想に過ぎると言わざるを得ないね」

 

 目が覚めるような心地だった。てっきり人間という残酷な畜生は大の為には躊躇わずに小を犠牲にする飄逸な利己主義者(エゴイスト)の集まりだと思っていたのに。人間の残酷さは常に私の想像の上をいく。

 

「しかし私もまた貴方のように夢想家だった。人間が幸福になれる社会を思い描き、その社会を維持できる秩序を作り、そうした秩序を守れる法を()こうとした」

「立派なことじゃないですか」

「しかし失敗した」

 

 

 無限とも思える逡巡の後に法大王(のりのおおきみ)は私に問いかける。

 

 

「戦争……戦争はどうすれば無くなるのだろうか?」

 

 

 明朗に語り、明晰に考える豊聡耳様が不意に見せた困惑。しかし彼女に分からないことが私に分かるわけがない。それでもぞんざいに答えられる問いではなかった。

 

 

「戦争は無くなりません。それは終わりなき季節のようなものです」

 

 

 豊聡耳様の目が更に深く憂愁の色に染まる。

 

「でも、もっと()()()()()にはできるかもしれません」

 

 何十万人も武器を持って互いに殺し合うよりマシな方法などいくらでもあるはずなのだ。

 

「そうですね……戦争をしたくなったらその時は、お互いの国の一番偉い人が殴り合えばいい。勝った方が勝者です」

 

 豊聡耳様は呆然としていた。まあ、きっと、呆れているのだろう。

 

「戦争なんて所詮は餓鬼の喧嘩です。だったら本当に餓鬼の喧嘩にしてやれば良いのですよ」

 

 豊聡耳様は首を傾け、目を閉じて、口元に微笑みを浮かべた。

 

 

「素敵だ。とても素敵で──なんて幻想的な提言なのだろうか。それが叶う程に人々が理知に富むことそのものがあり得ないだろうに」

「ならばそうすれば良い。世の人々皆が理知に富み賢しく自らの意思で物事を解釈し互いを尊重できる人間になればいい」

「不可能だ」

「ならば」

 

 答えは一つ。

 

「ずっと畜生として殺し合いなさい。そしてそれを受け入れなさい。奪い喰らい殺し犯すその衝動を生まれ持ったものとして諦めなさい」

「不可能だ」

「ならば」

 

 道は一つ。

 

「足掻きなさい。清らかなる人間として生まれ落ちた幻想を捨て、生まれ持った醜悪な性を克服しようとする不断の努力を続けなさい」

「可能だ。だが現実的では無いね」

「でしょうね。だって私は夢想家だから」

 

 鈴蘭の花畑に向けてカメラのシャッターを切った。これらは人間の醜悪さに根を伸ばし花を咲かせている。しかし人間の醜さと悪辣さには海のように底がない。これほどの醜悪さ、果たしてどれだけの美を産むのか? 不意に私は頓悟した。

 

 

 醜いものは()を産む。自らを縛り付けるように。故に人間は醜く、世界は()に満ちていくのだ。

 

 

「有難うございます。豊聡耳様のお陰で私の心も晴れやかです。美は醜悪な人のそれでも美しくあろうとする不断の努力の賜物だったのですね。如何に不出来であろうとも私はそれを愛おしく思います」

「明香女史、それは本心かい? それとも皮肉なのかな?」

「本心ですよ。そして本心からの皮肉でもあります」

 

 

 

 

 

 雲見明香が去った無名の丘で豊聡耳神子は立ち尽くしていた。彼女の胸中にあったのは感動だった。

 

「いつの世にもいるものだな」

 

 天から与えられた才でも、秀でた才でもない。言うならばあれは異才異能の類だと神子は結論付けた。彼女は震える手を握り締めて興奮を抑える。

 あの人間の美醜をすら愛おしく思うと語った少女の超然とした瞳が、神子の脳裏に鮮明に焼き付いて離れなかった。

 

「そしていつの世も争いか」

 

 千四百年もの長大な時を経ても戦争は変わる事なく存続している。明香の言葉が神子の心中で渦巻く。春が過ぎて夏が来るように、平和が明けて戦争が来ることは変わりがないのだと少女は説いていた。

 

「今はただ、悲しい」

 

 深い悲しみがあった。丘を越える風が吹き鈴蘭の花がゆらゆらと揺れる。この花々はいずれ散りまた咲くだろう。戦争もいずれ止みまた起きるだろう。いつまでも延々と繰り返す循環。

 

 

 まさに──

 

 終わりなき季節のように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

fin. 2022/03/11




読了、ありがとうございました。


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果てしなき世界
迷いの竹林


さあ、思いを馳せましょう。

この美しき世界の果てまで。


思うに私にとって4は区切りを表す数字です。それに、終わりと始まりを重ね合わせる癖があるようでして。
つまり、完結させたり連載させたりを繰り返すことになりそうです。全てを書き切ってスッキリ終わらせても、書きたい事がふと浮かんだりする。そういう浮かんだ物を終わっているからと言って書かないということが、どうしてもできないのです。

ともあれ、お楽しみ頂ければ幸いです。


「流石は迷いの竹林。その名に違いなしだね」

 

 為す術無く苦笑しながら空を見上げた。目に写ったものを見る程度の能力を用いてもこの竹林を抜けることは叶わず、夜空の星を当てにしてもいつの間にか同じ場所を延々と周回してしまう。参っちゃうなぁ。

 紫さん曰く、六十年目の今この時しか目にできない風景が迷いの竹林にはあるらしい。きっと面白いものが見られるはずだと、彼女は遠回しに教えてくれた。

 

「暦が還り全てが始まりに戻る。還暦とはよく言ったものね。始まりと終わりは重なっている。それはアルファでありオメガなのよ」

 

 相も変わらず幽玄で浮雲のように掴み所がない紫さんは、しかし私とは異なる視座から世界を見つめて囁く。

 

「人間が四季の巡る一年を繰り返し生きるように、私たち妖怪は暦が巡る六十年を繰り返し生きる。だから今年は私たちからすると年末年始って感じなのよね」

「スケールが違いますね。あと六十年もすれば私でも白髪混じりのお婆ちゃんですよ」

 

 故に、私にとっては一度きりしか目にできない風景になるだろうと紫さんは断言していた。

 

「困ったな。ゆっくりと迷ってはいられないのに」

 

 しかし、延々と迷い同じ風景を繰り返し目にしていたからこそ、些細な変化が目に付いた。其処には人の足跡があり、その先には明かりに照らされた人影があった。

 

 

「なんだ、迷子か」

 

 

 藤原妹紅さんが其処に居た。妖怪退治をしたり竹林で迷った人間を助けてくれる彼女は、分かりやすい人間の味方でありヒーローという奴だ。人間の里でも有名で人気がある。悪い噂は聞かない人だ。故に私は一切の躊躇いなく助けを乞う。

 

「はい。道に迷ってしまって、助けてくれませんか?」

「勿論だ、付いて来い」

 

 

 

 

 

「まあ、適当に寛いでくれ」

 

 妹紅さんは私を囲炉裏のある居間にあげて座布団を手渡してくれた。ここは彼女の竹林の中の住まいであるそうだ。

 

「もう夜も深いからな。下手に出歩くと私でも道に迷うくらいだ」

「ありがとうございます。お世話になりまして」

「いや、構わない。慣れてるからな。お前も例の場所が目当てなんだろ?」

「例の場所? 私以外にも同じように道に迷った人がいたのですか?」

「ああ、居たぜ。あれは丁度六十年前の時だった。里の花屋の娘さんだったな。いまではすっかりお婆ちゃんだが、里に降りた時に顔を合わせると思い出話に花が咲くんだ」

 

 老いることも死ぬことも無い程度の能力。正に完全な不老不死である妹紅さんは、六十年前の事をつい昨日のことのように語った。そして同時に、私を見つめて言う。

 

 

「羨ましいよ」

 

 

 感情は匂いに出ると言う人もいる。その言を借りれば、彼女からは憧憬の香りがした。

 

「限りのある生を営み、死へ向けて歩みながら自らの願いを叶え続けていく。まるで人間ってのは流れ星みたいだな。お前達みたいな奴らが生きているからこそ、この世界は美しいのだろう」

「私から言わせると人間なんて糞の詰まった肉袋ですよ」

「随分と口汚いお嬢ちゃんだな。年長者の言うことは素直に聞いておくものだぜ」

 

 妹紅さんは火の灯った囲炉裏を火かき棒で弄りながら語る。

 

「人間ってのは確かに残酷な生き物でもあるが、同時に美しくもある。それから目を背けている限りお前はへそ曲がりの餓鬼だ」

「私だって例外は認めますけど、それは原則として人間が残酷な畜生であることに同意する事と同義でしょう」

「小賢しいな」

 

 にべもなく言い捨てられる。人生経験千年を超えようかという仙人よりも長生きな妹紅さんにとっては、私の言葉を切って捨てるなど造作もないのだろう。彼女は何処かから取り出した外の世界の紙巻き煙草に火を付けて一服した。煙が緩やかに立ち昇るのを見つめながら、彼女は大きく息を吐いて言う。

 

「美しいものを、ああそうだと、認めればそれで済む話だろう」

「しかし」

「人間だ妖怪だ世界だなんて御託を並べるから煙に撒かれるんだ」

 

 妹紅さんは煙草を暖炉に放り捨てる。彼女は柄の悪い不良みたいに膝を立てて、私に鋭い目つきを向ける。しかし、その鋭さは美しかった。

 

「お前がいる、木がある、空がある、竹が生えている。世界というものはそこに属する個々の存在をひとまとめにした呼び方に過ぎない。()()()()()()()()()()()()()()()()()だ」

 

 妹紅さんはそう宣言した。私から言わせれば、そうして在るそれぞれのものが組み合わされたものもまた在るのだが、彼女が言いたいことの肝はそこではないのだろう。

 

「これは醜い、あれは美しい、そう一つずつ見定めるんだ。それをやめて全てを確かめることもせずに十把一絡げに語るのは、単なる怠慢でしかないぞ」

 

 怠慢。全てを俯瞰して分かった気になって、実際に形を持って在るものを無視してはいないか。妹紅さんは暗にそう問うていた。

 

「しかしそれをするには時間が足りません」

「私もだ。何百年、何千年も生きてきたが、それでもまだ世界の全てを見渡せてはいない」

「では尚更私には──」

「喜ばしいじゃないか、お嬢ちゃん。お前の知ることには終わりがない。それだけは確かだぜ」

 

 

 私は然りと頷いた。人間の生涯では見渡せぬ程の未知が世界には満ちている。これに不満などあるものか。私の人生には終わりがあるが、私の知ることには終わりがない。これもまた一つの永遠の形であろう。

 私が静かに感動していると、妹紅さんは今まさに思い出したかのように私の事を語り始めた。

 

「風の噂で聞いたんだが、雲見明香って名前の少女が幻想郷を見て回っているらしい。彼女はカメラの付喪神を従えているとか、酒を呑みながら歩き回る酔っ払いだとか、奇妙なお守りを持ってただとか、影鬼を目に宿してたとか……まあ、噂話に尾ビレ背ビレが付くのは常だが、兎に角話題に事欠かない少女でな」

 

 生憎と、妹紅さんが語った特徴は今の私には一切合致しない。カメラの付喪神は気まぐれな猫みたいで一緒にいる時の方が珍しいし、今は酒を呑んではいないし、御守りは神様に供えたし、影鬼は百鬼夜行絵巻の中に封じられている。

 ただ、名を問われた訳でもないのに名乗り出る気にはなれなかった。それで私は、私についての語りに他人事のように耳を傾け続けた。

 

「それで、その少女の噂話の中で私が一番気に入ってるのは、仙人に成れる機会を棒に振ったって話だ。そいつは私みたいな不老不死になって世界を見て回れるチャンスを手に入れたのに、それをふいにした。人間の里では特に有名な話だろ。あの聖徳王が言いふらしていたからな。妹弟子に逃げられたとかなんとか」

 

 わーお、豊聡耳様ったらそんな話を漏らしてたんだ。正直な所、朝から家を出て夜に帰ってくるなんて生活を続けているから、里の噂話はあまり耳に入らないのだ。

 

「それで、お前はどう思う? 私は案外好きなんだけどな。その話を聞いた途端に親近感が湧いたっていうか、そんな感じで」

 

 ああ、妹紅さんは雑談の話題を振ってくれているのか。素性も知れない人間と共通の話題を見出そうとすれば、自然と話せる内容は限られてくるからね。天気とか、有名な噂話とか、そんな類の話のネタなのだろう。

 

「う〜ん、私はその子は馬鹿だと思いますよ。不老不死ってのは人類の夢の一つです。お偉いさんから下々の人間までみんなの憧れでしょう。そのチャンスをふいにするなんて間抜けに違いありません」

「随分と辛辣だな」

「でも、きっとその少女にとってはそんなものどうでも良かったのでしょうね」

 

 ピタリと妹紅さんの腕が止まった。彼女は囲炉裏の火を見つめたまま動かない。

 

「人類の夢、だなんて言うから煙に撒かれるのですね。きっとその少女の夢は不老不死なんかじゃなくてもっと別のもので──そしてそれは叶ったに違いありません」

「へえ、詳しいんだな。実は知人か友人だったのか?」

「いえ、そんな事はないのですけど」

「そうか。だが面白い考え方だ。私は好きだな。うん、人の夢は十人十色だからな」

 

 ぼそりと呟いた妹紅さんは、再び火かき棒を弄りながら言葉を続ける。

 

「明日、どうせまた竹林を彷徨くんだろ。私が案内してやるよ。じゃなきゃまた迷っちまうだろうからな」

「しかし」

「年長者の言う事は素直に聞いておくもんだ」

「……はい、有難うございます」

「今日はもう早く寝な」

 

 部屋の隅で横になって目を閉じても、パチパチと微かな音が囲炉裏から響いていた。うつらうつらと目を開けたり閉じたりする度に、ずっと火の番をしている妹紅さんが目に写った。真っ赤な火をじっと見つめている彼女は、まるで幻影か何かのように儚げに見えた。

 

 

 

 

 

 翌日、快晴、雲一つなし。しかし、それでも迷いの竹林では容易に道に迷う。だが、今日は妹紅さんが道案内してくれていた。

 

「ほら、こっちだ。六十年毎に訪ねてるからすっかり道のりを覚えてしまっているんだ」

「六十年前だなんて、私なら忘れてしまいます」

「繰り返すことは忘れにくいんだよ」

 

 彼女は勝手知ったる庭を行くようにスイスイと進んで行く。

 

 

「さぁ、御目当ての場所は此処だろう」

 

 

 迷いの竹林の中で細い獣道を辿り、見たこともない深部へと向かう事しばらく。その開けた場所は周囲一帯を竹藪に囲われていた。妹紅さん曰く、永遠亭の輝夜さんや妖怪兎達さえ立ち入らず、一切の人の手が入っていない秘境であるのだそうだ。

 

「奇妙な──」

 

 言葉が詰まった。生まれて初めて見た竹の花が、無数に咲き誇っていたのだ。見上げた瞳に写るのは、真っ白な竹の花々だ。

 

「壮観だろ。六十年周期で花が咲くんだ。しかも特に奇妙なのは、この周囲の竹だけが花を咲かせているというところだな。多分、此処の奴らは仲間外れなんだろうさ」

 

 妹紅さんはそう語ると、私に振り向いた。

 

「良い景色だろ。私はこの景色が好きなんだ。以前ここを訪ねた時から六十年経って多くの事が変わった。見知った顔はみんな皺くちゃになったし、見知らぬ顔が沢山増えた。人間の里も見違えたしな。でもだからこそ、変わらないものが何よりも目立って見えたりもする。変わらない私、変わらない景色──」

 

 万感の思いが込められているような声音だった。

 

「そしてまた私はここに立ってこの花を見ている。相変わらずにな。凄く、生きてるって感じがするんだ」

 

 妹紅さんは、柔和に微笑みながら呟いた。

 

 

「生きているという事は、素晴らしいな」

 

 

 一切の他意なく、一欠片の含みすらなく、言葉のままの意味が全てであることに間違いないと私は確信した。

 陽に照らされて立ち尽くし、竹林の花に囲まれている妹紅さんは底無しに美しかった。六十年という時の重みが繰り返し地層のように積み重なり、縞瑪瑙もかくやと言わんばかりに研ぎ澄まされ、そして透いて見えていた。残酷で冷たく宝石のように無機質な美しさだった。

 

「不老不死に成ってからは、人の身には永すぎる命や不変の自らを憂いたこともあったが、今はそう思っている」

 

 人とは異なる時を生きてきた妹紅さんは、孤独で救われず苦しまなかったことは無いはずなのだ。それでも尚、彼女の心はこうまで人間らしく救われている。

 

 

此処(幻想郷)は私の蓬莱の地なんだ」

 

 

 気が付くと膝を付いていた。目が潤むのを感じる。私は堪らずに、背に負っていた荷物から酒瓶と盃をそれぞれ取り出した。目を丸くしている彼女を前にして、しかし何を言うべきか迷うことはない。

 

「乾杯をしませんか?」

 

 妹紅さんは煙草を咥えて火を付けた。たっぷり時間をかけて息を吸い、大きく吐くのを何回か繰り返していた。甘い香りが漂う中、彼女はやがてゆっくりと煙草を口から離すと、一言だけ問う。

 

「何にだ?」

「この美しき蓬莱の地に」

 

 

 

 

 

「ああ、そいつは──喜んで」



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秘天崖

 一歩ずつ妖怪の山嶺に分け入っていく。もう何度目かも分からぬ入山で、すっかり私はこの山に慣れ親しんでいた。しかしそれでも、山に立ち入った瞬間に変わる空気と異界感は、否応なくここが人間の居るべき場所ではない事を物語っている。

 

「さてと、後もう少し……」

 

 目指す場所は、とある人物との待ち合わせ場所であった。夏の早朝の山の中をひたすらに歩み続けると、次第に周囲の木々が開けてきて、荘厳な風景が目に入る。

 

「壮観だなぁ」

 

 額の汗を拭いながら見上げると、そこには地肌が露わになっている険しい断崖があった。ここは山に茂る深緑の木々に覆い隠されており、遠目には写らない。そしてその秘された立地故に、山童たちのアジトの一つとなっていた。

 

「秘天崖、か……」

 

 天まで届くかのような断崖絶壁の下で、腰を下ろして一息つく。どうやら私の待ち人である山城さんはまだ来ていないようだ。山奥のビジネス妖怪とも呼ばれる彼女は、河童の品や山の特産品などを取り扱う何でも屋さんである。

 しばらくの間、暇潰しに景色を楽しんだ。木々の枝葉の合間から断片的に見える風景には息を呑むばかりだ。いつの間にか背負子に乗っかっていたカメラの付喪神は、私が腰を下ろした周囲をわちゃわちゃと駆けずり回っている。あ、どっか行っちゃった。

 

「やぁ、待たせちゃったかな明香」

 

 噂をすれば影である。迷彩柄の服を着た小柄な少女が手を振っていた。

 

「いや、今ちょうど着いたところですよ」

「それは良かった」

 

 ニコニコと愛想の良い笑顔を見せている山城さんは、背に負っている木箱を下ろして商品を並べた。

 

「さあ明香、取引をしよう。その為に来たんでしょ?」

 

 私はカメラのフィルムを手に取る。環境追従迷彩クロークなるものがあって、不意に私の目を引いた。

 

「ああ、そいつはサバゲーで使ってた備品だよ。周囲の環境の色彩に溶け込む優れものだ。河童共が良く使う光学迷彩に対して隠蔽性では劣るけれど低コストで長期間の使用が可能な優れものなんだ」

 

 山城さんは実演して見せてくれた。透明人間に成れるほどではないが、あっという間に周囲の色彩に溶け込んで輪郭が無くなってしまった。凝視しなければ判別は困難だろう。

 

「で、コイツは手裏剣だ。刃は潰してあるから当たっても死にはしないよ。外の世界の忍者の道具で、敵に投げつける武器らしい」

 

 山童達の間では一時期、山中でのサバイバルゲームが流行した事があったらしい。その際に安価で河童から仕入れた備品が在庫にたっぷりあるのだという。

 

「ささ、お安くしているから買って行ってくれ。あんまり在庫を抱えていると気が休まらないんだ」

「悪いけど、サバゲーの備品には興味ないかなぁ」

 

 目に見えてガッガリした様子の山城さんを他所に、私は手頃なアウトドア用品を幾つか選んだ。高性能な水筒だったり、飯盒だったり、保存食なんかを少々。基本は日帰りだしテントは要らないなぁ──

 

 

 

 

 

 取引を終えた山城さんは、商品を片付けて私の隣に腰掛ける。

 

「人間の客は有難い。里の通貨を妖怪が得るのは特に手間だからな」

 

 彼女曰く、妖怪が里で働くわけにもいかず、人間から強奪したとしても、やり過ぎると巫女や里の退治屋なんかに目をつけられてしまうらしい。

 

「結局は交流できるだけの関係を築いて、取引で手に入れるしかないんだ。でも、妖怪と金銭的取引をしようだなんて人間は滅多に居ないからね」

「律儀だねぇ。妖怪は人間から奪い、人間は妖怪を退治する。そんな関係がこれまでずっとだったのでしょ?」

 

 私がそう言うと、山城さんは笑い出してしまった。

 

「あはは、明香ったらまるで頭が硬い天狗様みたいな事を言うんだな。そんなのは過去の話だよ。今はビジネスの時代だ。暴力だとかそんなのは古臭くっていけない」

 

 山城さんは詳しそうだが、私はビジネスに関してはさっぱり分からない。外の世界ではそれを自らの生業とするビジネスマンなる種族が存在するが、彼らの仕来たりときては巫女さんの神事より複雑怪奇で理解不能である。ある意味では本当に祭事の側面を持ってもいるのだろう。

 

「ビジネスの時代ですか。それでは私みたいな古臭い人間は蚊帳の外ですね。何せ私の頭の中ときては未だ埃を被った物々交換のシステムが健在ですから」

 

 頭を叩いて言う。

 

「私がこれをあげるから、同じだけの価値を持つものと交換しよう。そんな素朴なシステムが、私のビジネスの全てですよ」

「なら、明香が今一番欲しいものを教えてくれないか?」

 

 こりゃまた随分と難しい問いかけだ。暫く考え込んで、言葉を選んだ。

 

「世界、かな? まあ、絶対に無理なのは分かっているけどね」

「……明香には世界征服の野望があるのか」

「それは違うよ。山城さんが言っているのは社会征服。世界征服は誰にもできないよ」

 

 訳が分からないと言った様子で山城さんは顎を摩っていた。なので私はもう少し言葉を連ねる。

 

「私は世界と社会を厳格に分別する。社会は人間たちの関係性の中に生まれるものだ。対して世界は、この、これだよ。物質的な形を持って存在するもの全ての総称だ。だから世界は誰にも支配できない。単純に、概念としても物体としても大きすぎるんだ」

 

 支配とは、社会の中にある個体の間に結ばれる関係性の一種でしかない。世界を支配するという言い回しは、世界を擬人化した比喩に過ぎない。支配という概念を社会の外側のものに当てはめるとき、それは全て比喩である。

 

 人間のような世界を、支配するという比喩。

 

「それは誰もが当然として理解している暗黙の比喩ではないのか?」

 

 山城さんはズバリ言う。そして実際その通りだ。私は頷いて同意した。

 

「だから世界は誰にも支配できないし、所有もできない」

「それは違うぞ人間よ」

 

 私たちの意識外から声が届く。

 

「世界は誰のものでもない。だからこそ、誰もがそれを所有できる」

 

 顕現した彼女は、天弓千亦という名の商売と市場の神であり、私の命の恩人だった。微笑む彼女は物静かに説く。

 

「どうやら貴女は本当に、商売(ビジネス)の事を知らないようね」

 

 

 

 

 

「買う、売る、貰う、手放す、いつから人間は所有権を自由に扱えると勘違いしたのか。そもそも権利などというものは人間が社会の中で定めた決まり事に過ぎない。何度でも言います。()()()()()()()()()()()

「貴女はもっと利発な人間だと思っていたのに、随分と頭が硬いのね。確かに世界は誰のものでもないけれど、だからこそ人は所有権を持って自分の物とそれ以外の物を産み出し商売が始まった。それは否定しようのない事実であり、貴女の眼の前にある現実の一幕よ」

 

 信じられた神が形を持つように、認められたルールは形を持って現実に影響を及ぼす。その始まりが形無きものであろうと無かろうと、今や形を持って現実に影響を与えているのならば、それは実在すると言っても差し支えないだろう。千亦さんは大凡そんな風なことを言って締め括った。

 

「所有権は実在すると見做して支障ない。故に世界は所有できる。大地も空も海でさえも、人は手に入れる事ができる。そう、商売(ビジネス)ならね。実際にこの妖怪の山だって、鬼や天狗のものだった」

 

 反論することはできなかった。千亦さんは淡々と事実を語っているのみであることが、明快に理解できてしまった。

 

「ふふふ、青ざめちゃってどうしたの? 分かるわよ。自分が愛して憧れているものが、他の誰かのものになってしまうのが怖いんでしょ?」

 

 私に近付きながら千亦さんは言う。

 

「貴女の事はよく聞くわ。幻想郷を遍歴しているらしいわね。貴女はきっとこの世界が大好きなんでしょう。好きなものや愛しているものを自分のものにしたいというのは自然なことよ」

 

 千亦さんは私を背後から抱き締めて、ねっとりと、執拗にその手で私の体を弄った。彼女は私の肩に顎を乗せて、熱を帯びた吐息を感じさせながら耳元で囁く。

 

「誰かのものになってしまっているのなら、なってしまうなら、貴女が取引をして自分のものにするしかない。私には所有権を失わせる程度の能力がある。さあ、誰のものでも無くなった世界を一緒に我がものにしましょう。幻想郷を貴女のものにするのよ」

 

 私の胸に手を添えて、千亦さんは言う。

 

「ほら、自分の心に従うのよ」

 

 心臓が強く拍動しているのが分かった。身体中が熱を持ったかのように熱くて、脳裏に邪な考えが浮かんだ。これまで大それた事だと考えもしなかったし、許されざる事であるとも思う。

 

 

 でも──欲しい。

 

 

 

 

 

「おい、管狐。悪いが私のお客さんを唆すのはやめてくれないか。良い金蔓を失うのは御免なんだ」

 

 山城さんが奇妙な道具を千亦さんに突きつけていた。その形状からするに、外の世界では拳銃と呼ばれている武器だろう。困惑する私をよそに、彼女は私を抱き寄せる。私と引き離された……誰?

 

「ちっ……山童風情がしゃしゃりでやがって。隅っこでそのままガタガタ震えて縮こまってりゃ良かったものを」

「ああ? 痛い目に遭いたいのか、天狗の狗が」

「あら、目が見えないのかしら。私は狐よ」

 

 バチバチと山城さんと罵り合う彼女は、見知らぬ少女に姿を変えた。自らを狐だと語った言葉によるならば、もしかして騙されてたのかな?

 

「せっかく、その少女の命の恩人に化けてまで唆そうとしたのに全部台無しにしてくれたわね。あの高慢ちきな妖怪の賢者が悲しむところを飯綱丸様に見せられると思ったのに」

 

 山城さんは彼女の事を教えてくれた。名を菅牧典といい、ある大天狗の腹心なのだそうだ。魂の弱い所に入り込む程度の能力を持ち、人を唆しては破滅させるタチが悪い管狐なのだと言う。

 

「だいたい、あんたら山童がどうして邪魔をするの? あれかしら、ヒーローごっこって奴?」

「自分達の取引相手に横からホイホイ手を出されて狸寝入りなんざしてちゃあ商売になんないだろうが。山童のアジトの真前で私らの客を唆そうだなんて、その度胸だけは買ってやる。でも喧嘩は売ってないんだ。ほら、帰った帰った」

「あーあ、そんなこと言っちゃって良いんだ。大天狗様に告げ口してやろうかしら? ふふ、きっと山に居られなくなっちゃうよ? 山童じゃなくてただの童になっちゃうね」

「そうか、なら……」

 

 

 

「騒ぎが大きくなる前に始末しないとなぁ!」

 

 

 

 怒声と共に、山城さんがその手の引き金を引こうとした刹那、菅牧典は両手を上げて嗤った。

 

「やめてよー。ただの冗談だよ。ムキにならないでよね。私は言葉で語らってただけなのに手を出そうとするなんて信じられない。てっきりビジネスに興じる文明人だと思ってたのにガッカリだよ。山奥のビジネス妖怪だなんて言われてても所詮は野蛮人なのね」

 

 よくもまあ、ここまで人の気を逆撫でる言葉を吐けるものである。山城さんは青筋を立てて今にも引き金を引こうとすらしていたが、私が何とか引き留める。

 

「だめだよ山城さん。彼女は態とやってるんだから、唆されちゃダメ」

「……おとといきやがれ」

「ちぇっ、つまんないなぁ。釣れないやつ」

 

 菅牧典はゆっくりと私達のそばまで近付いてきて、そして私の頭に手を置いた。

 

「じゃあね明香ちゃん。そんなに怖がらないで、ちょっと揶揄っただけでしょ。妖怪風の挨拶だよ」

 

 ニッコリと笑みを浮かべて手を振りながら彼女は去っていった。しかし彼女が語った言葉が、胸に棘のように引っかかる。

 

 大地も空も海でさえも、人は手に入れる事ができる。

 

 世界が所有可能であるという事実は、一つの疑念を抱かせてならなかった。つまり、私が愛し焦がれるこの()()()()()()()()()()なのだろうか?



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後戸の国

「どうですか?」

 

 私の問いかけに、霊夢さんは首を横に振る。

 

「さっぱり分かんない。力になれなくて悪いわね」

 

 私は解かれていた包帯で目を塞ぎ直して布団に包まった。ミイラみたいだねと冗談めかして見せると、霊夢さんは黙り込んでしまう。

 ここ数日の間で、激しい能力の暴走が私の身に起きていた。視界が急にぼやけたまま治らなかったり、逆に見え過ぎてしまったりするのだ。

 

「でも何か引っかかるわ。前に似たようなことがあった気がするのよね」

 

 能力を制御できていない今の私と目が合えば、互いの視界が混ざり合ってしまう。霊夢さんは出来の悪い万華鏡(カレイドスコープ)みたいだと揶揄していた。

 その為、最近は外出も出来ずに自宅に篭りきりだった。まさか私が人目を避けないとならないなんてね。その上、目に負担を掛けないように包帯で光も遮っている。お陰でとても楽になったけど、盲目というのは凄く不便だ。

 

「あれは四季が滅茶苦茶になった時だったわ。もしそうなら此処にある筈なんだけど」

 

 霊夢さんは私の背に触れる。

 

「違ったみたい。あの時は傍迷惑な二人組のガキが手当たり次第に他人の潜在能力を引き出してたのよ。お陰で妖精達まで可笑しくなって自然のバランスが崩れていたの」

「あの四季の異変ってそんな原因だったのですね」

「首謀者もろとも全員ぎたぎたにしてやったから懲りた筈よ」

 

 全員ぎたぎたかぁ。うん、異変解決中の霊夢さんの前に立ったらそうもなろう。普段は優しい人なのだけどね。

 

「いいえ、霊夢の見立ては間違っていないわ。彼女達は懲りて、そして更に巧妙になったようね」

「変なとこから出てこないで。あんたは普通に訪ねるって事が出来ないの?」

「能力柄、一番楽な方法を選んでいるだけですわ」

 

 天井付近から紫さんの声がする。かと思うと、今度はすぐ隣から声が届く。神出鬼没の体現だなぁ。

 

「ちょっと失礼するわよ。ほら、見てなさい霊夢」

 

 上着を脱がされて背に手を置かれる感触がした。やがて、まるで酷い日焼けをしたみたいに急激に背中が熱を持つ。

 

「これはあの時と同じ──扉ね」

「私の背中に扉があるの?」

「大・正・解。全くその通りよ」

 

 どうやら誰かが勝手に勝手口を取り付けていたらしい。背中に手を伸ばしてみると、朽ちた木のような不思議な感触がする。

 

「しっかりと隠蔽されているし戸締りも万全だわ。前回の失敗から大いに学ばれたようね」

「じゃあどうすんの?」

「どうもこうも、私相手に戸締りだなんて滑稽ですわ」

「不法侵入はあんたの十八番だったわね」

 

 仲良さげに談笑している二人。紫さんは朗らかに言う。

 

「全く隠岐奈にも困ったものだわ。もっと他にやりようはあったでしょうに、目立ちたがりねぇ」

「隠岐奈?」

「そう言えば明香は知らなかったわね。まあ、嫌でも直ぐ会う羽目になると思うから気にしなくて大丈夫よ」

 

 気にしなくて良いと言われると気になるよね。でも、聞いても答えてもらえないのだろうなぁ……。

 

「仕方ない。霊夢、貴女は明香と二童子を止めに行きなさい」

「明香は空も飛べないお荷物よ。此処に置いて行くのが一番でしょ」

「彼女は隠岐奈に目を付けられているのよ。何処に居ようと、貴方の側に居るのが一番安全なのだと思わないかしら?」

 

 霊夢さんは面倒そうに溜息を吐いて報酬の交渉を持ちかけていた。今回の報酬は米一ヶ月分らしい。現物支給なのかと恨めしそうな表情をしている霊夢さんは完全に無視されていた。紫さん曰く、彼女に金を渡すと必ず身に付かないとか何とか。

 

「このスキマを使いなさい。後戸の国へ繋がっているわ。それとこれは処分しておかないといけないわね」

 

 背中の焼けるような痛みが突然治まった。振り向くと、朽ち果てた後戸を手にして紫さんが溜息を吐いている。

 

「後は任せたわよ霊夢」

 

 

 

 

 

 霊夢さんに背負われて私は後戸の国へやってきた。彼女からは絶対に目を開けないようにと言い付けられている。曰く、この国の風景はたいそう()()()()()であるらしい。

 ずっと空を飛び続けていたけれど、霊夢さんは何かを見つけたらしく声をかけていた。耳を澄ますと、聞こえてきた声は二人の少女のものだった。恐らく彼女達が二童子なのだろう。

 

「見つけたわよ。明香の目を可笑しくしたのはあんたらでしょ。今すぐやめなさい」

「うわぁビックリした。一体何処から入って来たの?」

「もー、舞ったらお師匠様の話を聞いてなかったの? 今回は八雲紫が直々に向こうの味方なのよ。何処から現れたって不思議じゃないわ」

「そうだったね里乃。じゃあ、お師匠様の指示通りに博麗の巫女を追い払おう。あ、その人間は置いて行ってね」

「全く話が通じないわね」

 

 話し合いは打ち切られ、霊夢さんは激しく飛び回っている。きっと弾幕ごっこをしているのだろうけど、霊夢さんからは激しい苛立ちが感じ取れた。時折舌打ちも聞こえて来る。

 

「あんたら私を怒らせたいの?」

「人一人背負って二対一ぐらいで丁度良いハンデでしょ。それとも不公平なのは嫌いかしら?」

「はっ! そんなハンデ大した事ないわ。ムカつくのは、あんたらが明香を狙ってることよ」

「当たり前じゃん。お師匠様の攻撃を避け切るような人間に弾が当たる訳ないでしょ」

「だから明香を狙うの? 当たったら死ぬかもしれないのよ」

「それは困ったな。お師匠様からは博麗の巫女が連れてくる人間は傷付けるなと言われてるんだ。だから──しっかり避けてね」

 

 え、当たったら死ぬの? 弾幕ごっこって弾幕の美しさを競うものだって紫さんは言ってたのだけどなぁ。花火みたいなものでしょ? でも考えてみれば花火って当たったら死ねるわ。なるほどー。

 

 

 え、何それ怖い。

 

 

「しっかり掴まってなさい明香。飛ばすわよ」

 

 更に霊夢さんは加速していく。恐らくこれまでは私を気遣っていたのだろう。風が頬を切って行く。急停止、急加速、急旋回。激しいアクロバティック飛行だ。幾たびか直ぐそこで弾が掠る(グレイズ)音さえする。

 紙一重であらゆる弾幕を躱している霊夢さんの身のこなしは正に神業なのだろう。私という重荷を背負いながらも彼女は一切の被弾を許さない。けれど一つの不運があった。

 何かが、恐らく霊夢さんが見切り躱した弾幕の一つが、私の目を隠す包帯に掠ったのだ。被弾とさえ言えないそれが形勢を流転させた。

 

「あっ……」

 

 不意に光に包まれた世界に驚き、反射的に目を隠そうとして霊夢さんにしがみ付いていた手を離してしまう。

 

「明香!」

 

 叫び声がする。見上げると、霊夢さんが真っ青な顔をして手を伸ばしていた。瞬間、互いの視界が混濁する。その致命的な隙に私たちは弾幕に取り囲まれてしまっていた。

 

「霊符『夢想桜花封印』」

 

 私が目にしたのは、桜の花弁が空間を埋め尽くしていく光景と、遠ざかって行く弾幕の応酬だった。

 

 

 

 

 

 私は落下し続けていた。ここは紫さんのスキマのような異空間であった。違いがあるとすれば浮かぶ目の代わりに無数の扉が漂っている点だろう。それらは開閉を繰り返しながら異界の風景を覗かせている。

 私はその美麗さに心を奪われた。目からは涙が溢れ出て止まらない。この後戸の国に存在する扉全ては、その一つ一つでさえ私を感動させ得る光景を写している。

 

「幻想郷のヴンダーカンマー(驚異の部屋)

 

 暴走していた能力は弱まりつつあり、何とか制御が可能だった。きっと二童子が霊夢さんに倒されたのだろう。運が良いなぁ。だってそうじゃなきゃ、きっと失明してしまう程の莫大な情報の洪水が目の前にあるからね。

 四方四季の庭どころじゃない。全方位にあらゆる光景があり、全てが一望できた。まるで神の視座だった。そしてそこには、それらの光景の主たるものが在った。

 

 

「神様?」

「如何にも」

 

 

 落ちるということは、巨大な質量が歪ませた空間の中心に向かうという事である。私は落下を続ける事で、莫大な数の扉に取り囲まれている後戸の国の中心に辿り着いていた。

 

「私は摩多羅隠岐奈、後戸の神であり、障碍の神であり、能楽の神であり、宿神であり、星神であり、この幻想郷を創った賢者の一人でもある」

 

 彼女は無数の神格を列挙した。その言葉が本当ならば信じられないほど多面的な神様なのだろう。その中の一つの肩書きに、私は耳を奪われる。幻想郷を創った──

 

「全く紫も変な人間を囲い込んだものだ。だが彼奴が見込んでいるならば、さぞかし有望なのだろうな。丁度私は使える人間を探していたところでね」

 

 荘厳な椅子に腰掛けている神様は、品定めするように私を見つめた。使える人間を探しているというからには、私がそれに適う人間かを見定めているのだろう。しかし、これは私の疑問を解決する絶好の機会だ。

 

「奇遇ですね神様。実は私も探していたところなのですよ。私の疑問に答えられる相手をね。貴女はとってもピッタリな気がするのです」

「ほう、神相手に不遜な奴だな。だが人間如きの疑問に答えられないなどと思われるのも癪だ。さあ、言ってみろ」

 

 自信たっぷりに威厳を見せながら不敵な笑みを浮かべている神様に、私は大いなる期待を抱きながら問うた。

 

「神様、この幻想郷は一体誰のものなのでしょうか?」

 

 

 

 

 

 神様は目を丸くして閉口していた。暫くして彼女は、うんうんと唸り、ひとしきり悩む素振りを見せていた。その悩ましげな姿は、答えが分からないから悩んでいるのではないと私には分かっていた。

 それは、ある道を修める専門家が全くの素人に答えを求められた時に、相手が理解できる答えを選び出そうとする、そうした悩みであろう。

 

「私達が創った幻想郷は無事に機能している。機能しすぎて、もはや誰にも制御出来ない。しかし、それも私達が望んだことだ。幻想郷は私達の手から離れ、誰のものにもなりはしない」

 

 私はその答えが信じられなかった。創造者である賢者達の一人が、あっけらかんと幻想郷は制御不能だと宣ったのだから。しかし、神様は胸を張って言う。

 

「制御不能、実に結構じゃないか。自分が創ったものが自らの手を離れて自律するなど、実に創造者冥利に尽きる話だ。だが、もしも楽園たり得ない何かがこの幻想郷に見出せたならば忌憚なく教えなさい。検討の後、善処させてもらおう」

「いいえ、そんな事はないです。私は幻想郷が大好きですから」

「それは良かった」

 

 神様は破顔して、穏やかな微笑みを浮かべる。

 

「人の手で組み上げられた時計が、人の手を離れて時を刻むように、幻想郷もまた私達の手を離れて移ろうのよ。だから私達は、時には油を差してやったり、部品を交換してやったりしながら、自分達が組み上げた楽園が楽園たり得ているかをじっと見ている」

 

 神様は愛おしそうな目付きで後戸の向こう側に広がる風景を見つめていた。彼女のそんな姿を見て、私の胸中でも同様の思いが想起される。

 

「お前の問いへの答えとしては、()()()()()()()()だ。幻想郷は完全に素敵に自律している。そもそもこの世に生きる人間は、大地を吹き抜けて行く一陣の風のようなものだ。その中途で土塊(つちくれ)を巻き上げて共に行くとしても、それで大地を手に入れたとはとても言えぬだろう。幻想郷とは人の手に負えるものではない」

 

 私はその言葉を噛み砕き、呑み込んだ。

 

「そういうものですか」

「そういうものだと、私は思っているがね。さて……では語らいも程々にして今度こそ見せてもらおうじゃないか。お前の性能を!」

 

 神様は今度こそとばかりに立ち上がった。その不敵な笑みは期待に満ち溢れている。ならば私も答えてあげないといけない。神様だって答えてくれたのだから、私が答えないのは不公平だからね。

 

「私にできることはただ、貴方を見つめることだけです」

 

 

 

 

 

「悪くは無い。悪くは無いが、何だかなぁ」

 

 私が目を拭っていると、神様はがっかりした様子で語り始めた。

 

「ミスマッチングだ人間よ。私は荒事もこなせる力を持った人間を手足としたいのだ。お前は悪くないが、少し弱過ぎるな。という訳で不合格だ。不採用だよー」

 

 お眼鏡には敵わなかったようだが、神様は急に馴れ馴れしく砕けて接してくる。

 

「でもまだちょっと聞きたいことがあるんだよねー」

「え……何ですか?」

「ちょっとした疑問さ。気を楽にして答えてね」

 

 私は困惑した。聞き間違いかと耳を疑うが、彼女は何処からか取り出したボールペンと手帳を手にずいと距離を縮めて言う。

 

「愛って何かしら?」

 

 神様はポールペンを突きつけながら、哲学的な問いを投げかけてきた。話の流れに困惑しつつも、何とか答える。

 

「人の夢は十人十色と言いますし、人の愛も同じく様々なのだと思います。その上で私のそれが何かといえば、きっとそれは眼差しでしょう。私はいつも愛するものを見つめてきました。見つめる以上に愛する方法を私は知りません」

「なるほどねー」

 

 神様は、手帳にボールペンでメモを取りながら頭を掻いていた。それで良いのか神様。貴女への畏敬の念が私の胸の中で幻想に成り果てようとしているのだけど。

 

「貴方は幻想郷を愛しているらしいけど、いつか貴方が幻想郷を愛せなくなったとしたら、その時はどうするの?」

「え?」

 

 唐突な問いかけに面食らってしまう。そもそもがあり得ない仮定から始まる問いである。それは非常に私を悩ませた。私が幻想郷に対する愛を尽かせるなど想像さえできない。ただ、そのあり得ない帰結を空想しながら答えを探し、口にする。

 

「その時は多分、この世界を愛せたその日々を愛するだろうと思います」

「……そっかー」

 

 神様はその表情をクシャクシャにした。悲しみを湛えながら、しかし笑顔だ。その目は今にも涙が溢れてしまいそうに潤んでおり、その底に優しさを秘めている。この表情は──痛惜。

 

 

「残念だよ。本当に」

 

 

 神様は目頭を押さえながら目を瞑り天を仰いだ。そのまま私に背を向けて、彼女は顔を合わせずに言う。

 

「さあ早く去ると良い。二童子も博麗の巫女にズタボロにされている頃だろうし、その目も元通りになる筈だ。貴女の部屋には上から6番目、右から23番目が良いね」

 

 神様は帰り道を教えてくれた。私の能力を暴走させた元凶として少しは警戒していたのだけど、蓋を開ければ雑談しただけでお開きであった。

 

「摩多羅様は、優しい神様なのですか?」

「いやいや、気まぐれな神様ですよー」

 

 扉が私の元へやってきた。手を伸ばして帰ろうとした瞬間、それは僅かに遠退く。

 

「おっと、すまない。一つ伝言を頼まれてくれないか?」

「なんですか?」

「八雲紫によろしく伝えてくれ」

 

 私は頷いて扉を潜る。その先は自宅の布団の上であり、後戸の国へ向かったスキマの目の前だった。

 

 

「さて、あの巫女の相手はどうしたものか……」

 

 

 摩多羅様の困り声が背後から聞こえて来る。振り向いたが、そこにはもう後戸は無かった。



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中有の道

「噂に違わず賑やかだねぇ」

 

 中有の道では、屋台が道沿いに所狭しと並びお祭り騒ぎであった。人の多い場所はあまり好きではないけれど、それでもこうした祭りの雰囲気は心地良い。そこかしこで祭りの一幕を写真に撮りながら私は見回っていた。

 

「明香じゃないか。なんでこんな所に居るんだい?」

 

 ごった返す人混みの中から声がする。振り向くと、小野塚小町さんが酒瓶片手に手を振っていた。

 

「お久しぶりです」

「久しぶりだね。でも、あんたはこんなとこに居ちゃダメじゃないか。早くあの世に帰らないと閻魔様に叱られるよ」

 

 小町さんは困り顔で私の手を掴む。しかし、彼女は驚愕の表情を浮かべてその手を握りしめた。

 

「……生きている」

 

 思えば小町さんと最後に別れたのは彼岸だった。あの時は実際に私は死んでいたのだから、彼女の驚きもむべなるかな。とはいえ何と説明すれば良いか困ってしまう。

 するうち、小町さんは人気のない道の片隅まで私の手を引いて連れ込んだ。死神の手帳を凝視しながら彼女は眉を顰めている。

 

「あんた一体どうやって生き返ったんだい?」

「えぇと、私にもよく分からないのです。なんか生きてました」

「そうか……それは良かった。生きているなら儲けもんだよ」

 

 小町さんは一転して笑顔を見せて私の背を叩いた。彼女は中有の道の人集りを指差して言う。

 

「見てみなよ。この道では生者も死者もごた混ぜだ。だけどね、人間は生きてるうちが花ってもんだし、花見にはコイツが付き物だろう?」

 

 小町さんは岩場に腰掛けてこれ見よがしに一升瓶を置く。

 

「あんたも結構イケる口だと聞いてるよ」

 

 酒瓶を開けた小町さんは、杯にそれを並々と注いで口に運ぶ。私もまた手渡されたそれに口を付けた。清酒特有の香りと味わいが口内に広がる。これは良いお酒だけど、なんだか普通のお酒とは違うような風味がする。

 

「口に合わなかったかい?」

「まさか。美味しいお酒ですね」

「それは良かった。コイツは鬼の酒なんだ」

 

 鬼の酒、それは味の良し悪しを超越している代物だ。何せ酒虫の分泌液混じりで、米の酒であるかさえ怪しい代物である。私はゆっくりと腰を下ろして酒臭い息を吐く。成る程、これは地底で飲んだ酒に似ているのだ。

 

「しかし何故そんな酒を私に?」

「酒呑みなら分かるだろ? ちょっとは利き酒してみなよ」

 

 言われてもう一度、酒を口に運び味わいを確かめる。鬼の酒らしく度が強くて乱暴だ。ざっくばらんで大らかで、個性的で雑多な味が沢山入り混じって喧嘩している。けれどそれでバラバラになることもなく均衡が保たれており、美しい味わいを醸し出していた。

 

「これはまるで──」

 

 私は途中で口を噤む。この先を言葉に出すことは無粋だと思ったからだ。ニッコリとした小町さんは、博麗神社の酒祭りに鯢呑亭が出店していた際に振る舞われた酒がこれだと教えてくれた。

 

「里の人間向けの大衆酒場にこれ程のものがあったなんて驚きです」

「知らないのかい? あの店は妖怪の──いや、忘れてくれ。何でもないよ」

 

 仄かに酔いが回るのを感じる。身体が火照って熱を持っていた。祭囃子を耳にしつつ雑踏を眺めていると、ぴゅうと冷たい風が吹いた。もうすっかり晩秋で、夜は涼しさと冷たさの狭間で私たちを翻弄している。

 夜空に浮かんだお月様を肴に二人で黙々と酒を進めた。酒を飲んでいる間は誰も口を開かぬ故に、美禄はいつも人を無口にするものだ。

 

「身体はこんなに熱いのに、頭はとても冷めていて奇妙な感じです」

「それもまた酔い方の一つさ」

 

 身体が熱をもって堪らない。こんなにも熱いのだから風がもっと吹いてくれても良いのに。私は酒瓶を取ろうとしたが、同じくそうしていた小町さんと手が重なる。

 

「あ、冷たい手」

「あんたは随分とお熱いね」

「生きる物は皆この熱に浮かされて生きているのですよ死神さん」

「そうかい、道理で死んだ奴らが浮かばれない訳だ」

 

 すっかり夜に冷やされてしまった酒を杯一杯に注いで飲み干す。続けてもう一杯飲もうとしたところ、小町さんに酒瓶をひったくられてしまった。

 

「あんた大した飲みっぷりだが、強かに酔っちまったら里まで帰れないだろう」

「まだまだ大丈夫だよ」

「酔っ払いの言う大丈夫はもう駄目だって意味さ。本当に大丈夫だってんなら立って歩いてみな」

 

 試しに立ち上がってみる。

 

「あ……」

 

 足腰が立たずに地べたにへたり込んだ。まさかここまで酔いが回っていたなんて驚きである。頭の方がまるっきり冴えていたので、酔いの深さに気付けなかったのだ。

 

「言わんこっちゃない」

 

 返す言葉も無い。バツが悪くて頭を掻く。

 

「送ってやるよ」

「大丈夫です。一人で帰れますから」

「酔わせた少女を置き去りにしてきたなんて知れたら、どんな雷が落ちるか分からないからね。あたいの上司は部下のプライベートにまで口を出すお方なのさ」

 

 ぐいと引っ張られて背負われる。他人におんぶされるなんて何時ぶりだろうか。安心感と酔いからくる心地良さに包まれて極楽な気分だ。

 

「連れて行く方向を間違えないで下さいね。私は生きてますから」

「バッカやろう、間違えるもんかい。そう言うなら六文銭寄越しな」

 

 

 

 

 

 夜道を行く間、酔っ払いらしくケラケラと笑いながら私たちは語り合った。しかし、小町さんは何故か物悲しそうな表情だ。月明かりに照らされて陰影をクッキリと現したその横顔は、何処か鋭く険しさを感じさせる。

 

「どうしたのですか小町さん。顔が暗いですよ」

「夜だからな」

 

 あらら、答えたくないみたい。詮索はせずに口を塞ぎ、夜空を茫と見る。けれど小町さんがそんな顔をしていると、何だか嫌な感じだ。

 

「そんなしょげた顔しないで下さいよ。貴方は良い人だし、私は感謝しているのですから、困った事があったら相談ぐらいしてくれても罰は当たらないのですよ」

「私が良い人?」

「だって、こうやって親切にしてくれているじゃないですか」

 

 小町さんの背から落ちてしまわぬように、ぎゅうと抱き締める。

 

「でも私は死神だからねぇ。あまり良くは思われないだろう」

「例え死神やあの世が無くとも、私たちがこの世に生まれ、そして一人残らず死んで逝くことは変わりません。貴方達は死後の水先案内人であり死者達のマエストロなのです。その生業に感謝することはあっても悪しく思うことはありませんよ」

「ありがとよ。あんたはお世辞が上手いね」

 

 小町さんは真に受けてくれなかったみたい。本心からの言葉なのだけどなぁ。しかし彼女はお返しとばかりに笑って訳を教えてくれた。

 

「あたいは、明日からの仕事が憂鬱だなと思ってただけさ」

「……心中お察し致します」

「よしな。益々辛気臭くなるじゃないか」

 

 ともあれ、月明かりが差す夜道を進む。祭りから離れた夜道は物静かで、微かな虫の音と草木のそよぐ物音がするばかりである。遠くには人間の里が見えているが、それがいっそう道のりの果てしなさを思わせる。

 

「小町さんって距離を操る程度の能力がありましたよね?」

「夜風に当たりながら歩きたい気分でね。こんなにも良い景色なんだから、すぐ里についてお終いじゃ勿体無いと思わないかい?」

 

 口笛を吹きつつ小町さんは歩いて行く。私は揺られながら幻想郷の夜景に酔いしれていた。見上げた視界一面の空に浮かぶ月と星々が、山々に囲われて広がる閉じた大地が、月影に仄かに照らされる深山幽谷が、美麗に広がっている。人間の手などまるで入っていないのに、まるで美しく整えられたジオラマか箱庭のように良く出来ていた。

 

「綺麗ですよね。まるで絵描きがそう描いたみたいに」

 

 幻想郷は結界によって切り取られ、現世からはずれた裏側の世界である。果てしなく広大な外の世界から見れば、ちっぽけな辺境でしかないだろう。けれど──

 

 

 そのものの果てしなさは、美しさとは一致しない。

 

 ちっぽけで美しいものもあり、果てしなく醜いものもある。

 

 

「私は好きです。この果てしなき世界の片隅が」

「あたいも好きだよ。この世はあの世よりも美しい。極楽や天国なんかよりもずっと素敵だ」

 

 ゾッとするほど透き通った声がする。

 

「だからあんた、黄泉帰った人よ、せめて生きている間だけは、あたいみたいにしょげた顔してサボったりしないで、しっかりその人生を楽しむんだよ」

 

 私はそれに、はいと答えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

fin. 2022/06/12




さあ、思いを馳せましょう。

この美しき世界の果てまで。

このちっぽけな世界の片隅より。


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人と獣のスキマ風
畜生界


完結したり連載したりしています。
なのでまたもや始まりました。

今回もまた彼方此方へフラフラしている明香のお話ですが、旅に道連れができたようです。彷徨う場所が場所だけあって、ちょっぴりダークになりそう。ともあれ、お楽しみ頂けると幸いです。


 自宅の縁側で胡座をかいて昼下がりの庭に目を向ける。木枯らしに晒されて落葉しきった晩秋の木々は、枯れ木と見紛う有様だ。

 

「あの木は私が物心ついた時からずっと老木なの。今年も枯れてしまわないか心配だったけれど、どうなることやら」

 

 秋は、栄えたものが潰えていく斜陽の季節である。夏に繁茂した草木達もその姿を隠して久しい。

 

「私には枯れているように見えるぞ」

「夏には葉をつけていたのだよね」

「ならば冬を越すまで分からんな」

 

 私の隣でオオワシ霊さんがお結びを啄んでいた。彼は饕餮さんに派遣されて来たらしく、私に畜生界まで足を運んで欲しいそうだ。

 

「懐かしいなぁ。旧地獄の温泉で顔を合わせて以来だね」

「饕餮様は名指しでお前をお呼びだ。今すぐ返事を頂きたい」

 

 オオワシ霊さんは私を急かすが、どうにも気が乗らない。畜生界は終わりなき季節が巡る世界だ。好き好んで足を運ぶような場所ではない。

 

「畜生界に来いだなんて急なお誘いですね。理由を教えてもらっても良いですか?」

「私も詳しくは知らぬ。だが、饕餮様は手駒にできる()()を探しておられた。お前に白羽の矢が立ったのはそういう訳だ」

 

 ただ人間ならば誰でも良かったという訳ではなさそうだ。オオワシ霊さんは続けて、私の能力も重要らしいことを教えてくれた。

 

「特にお前の目だ。饕餮様はそれを欲しておられる」

「まさか食べられたりしないよね?」

「案ずるな、私たちは争いを好まない。敵を作るより味方を作る方が何かと便利だろう。これは私たちからお前への要請であり嘆願だ。私たちの味方になってはくれないか?」

「私は誰の味方にもなりたくないなぁ。だって、誰かの味方になるってことは誰かの敵になるという事だからね」

 

 オオワシ霊さんの言うことに嘘や偽りがあるようには思えないけれど、私は首を縦には降らなかった。

 

「オオワシ霊さん、私は貴方達の仲間にはならない。その上で頼み事があるなら聞いてあげるよ」

「そうか、ありがたい」

 

 オオワシ霊さんは飛び去ったが、程なくして引き返して来た。忘れ物でもあったのかなと周囲を見回すが何もない。

 

「何をしている、早く付いてこないか」

「え、私? 今すぐ行くの?」

「そうだ」

「なら、ちょっと心の準備を」

 

 急転直下の展開であった。返事をして終いだと思っていたのに、まさか今すぐ畜生界へ向かう事になるなんて。まずは深呼吸して気を落ち着けよう。

 

「女々しいなぁ、腹を据えぬか」

 

 オオワシ霊さんは呆れ顔だ。何言ってんだお前って感じの表情だね。

 

「お前はこの幻想郷を旅したのだろう。それに比べれば畜生界など恐れることはない。ここよりずっと都会なのだぞ。むしろ良くこんな未開の地を旅できたものだ。里の外など山と森ばかりではないか」

「そう言われれば、そうかもしれませんが」

 

 オオワシ霊さんは私の肩に乗り、霧散して形を失った。すると、身体の中で野生的な力の奔流が渦巻く。狩り、食らい、生きるだけの明解至極な獣の情動。一喜一憂しては人生を踊り飽かす刹那の境地。これらに身を任せれば、それ即ち畜生なのだろう。

 一方身体の外では、背から服を突き破ってオオワシの翼が生えていた。どう見ても妖怪少女だ。霊夢さんに見つかったら退治されてしまうに違いない。

 

「さて、行こうか」

 

 身体が動かなくなって、勝手に口が動き出す。

 

「この身体を使わせてもらう。畜生界までは私に任せろ。お前に任せて道に迷ったり空から落ちれば目も当てられんからな。大船に乗ったつもりでいるといい」

 

 オオワシ霊さんは小慣れた様子で身体を動かし胸を張る。自信満々といった様子だ。そこまで自信があるなら任せてみようかな。

 

「ふむ、任された」

 

 背の翼がはためき地から足が離れてゆく。あ、本当に翼で飛ぶんだ。鳥類って感じだねぇ。

 

 

 

 

 

 三途の川を飛び越え、彼岸の空を行き、真っ赤な豪風の吹き荒れる地獄をひたすらに進んだ。するうち、視界を遮る風が次第に弱まっていく。細めていた目を開くと、そこには無数のビルが乱立している摩天楼を一望できる見晴らしがあった。

 

「ようこそ畜生界へ、だな」

 

 オオワシ霊さんは手近な屋上に着地する。外の世界の都市と瓜二つなその光景に私は絶句した。都会だとは聞いていたけれど、まさかここまでとは思いもしなかったのだ。

 重苦しい雰囲気をした淀んだ街、というのが第一印象だった。林立する暗黒のビル群は夜だというのに暗赤色の光を放っている。夜に眠るということを忘れてしまった畜生達が今もまだ働いているのだろう。

 

「察しが良いな。皆が昼夜を問わず抗争に明け暮れているのだ」

 

 空気も酷く汚れているようで、人口密集地特有の不衛生さというものが存分に滲み出ていた。あまりの異臭に耐えられず、身体の制御を奪い取って口元を押さえる。

 

「平気なの?」

「ああ、私からすると懐かしき匂いだな。幻想郷の空気はやけに澄んでいて寧ろ気味が悪かったぞ。まあ、お互い慣れるまで苦労するという事だ」

 

 通りを行き交う動物霊達は、私に物珍しげな視線を向けて通り過ぎていく。しかし、その目は一様に生気がなく濁っていた。まさに生ける屍のようだ。その実、動物霊達は既に亡くなって畜生界に堕ちているのだから生気が無いのは当然ではあるのだが。

 

「死者にしても酷い目ですね」

「皆限界だからだ。騙し合い、奪い合い、殺し合い、全て終わる事なく繰り返している。心身共に休まる時がないのだ」

「全部やめて休めばいいのに」

「それがそうもいかん」

 

 私たちは互い違いに口を使いながら会話を繋げていく。

 

「敵がいるからな。争う事を止める事は死を意味する。生きる為には戦わねばならん。例え限界であろうと止めることはできないのだ。末端の構成員達は悲惨なものだ。明日に同じ顔を拝めるかさえ定かではない」

「お偉いさんなら止められるのですか?」

「誰にも止めることはできない。偉かろうとそうでなかろうと、皆組織の歯車の一つでしかないからだ。組織が大きくなると、私たちは小さくなった。私たちが望んで始めた事なのに、もう誰の望みも叶わないのだ。皮肉な事だな……」

 

 組織とはそういうもので、一人残らず壊れるまで繰り返すのだと。オオワシ霊さんは辟易したように気怠げに屋上から飛び降りると、道端の薄汚れた壁に背を預けた。

 

「一昔前は、畜生界は弱肉強食の世界だった。互いに殺し合い、食らいあって終わりだった」

 

 オオワシ霊さんは遠い目をしてぼんやりと空を眺めている。きっと在りし日を思い出しているのだろう。

 

「今は違う。私たちは組織を起こし、一人残らず限界まで争いあって破滅するまで殺し合う。先人達の憎悪や悪意を受け継ぎ、絶えることのない敵意を育み、顔を合わせたこともない相手に殺意を向ける。ただ違う組織だからというだけでだ」

 

 畜生界では無数の巨大組織が乱立し日夜抗争を繰り返している。故に、生きる為には組織に属して戦う他なく、組織から離れては生きられない。しかし、組織に属してもいつかは限界を迎えて壊れる他ない。

 

「つまり此処はまさに地獄のどん詰まりなのだ。だが、そう悲観することでもない。争いの中で生きて最後には死ぬ。それは畜生として生まれたからには当然のことで、なんなら生前も皆そうであったろうからな」

 

 オオワシの翼を目にした何匹かの動物霊達は、明らかに敵意が込められた視線を向けていた。けれどその敵意は、何処か草臥れているように見える。

 

「そして今からお前もその争いの一端に触れるのだ。だが安心しろ。私たち剛欲同盟は争いを好まない。抗争なんて野蛮で面倒だ。喧嘩なんぞ腹が減るだけで何の利にもならん」

 

 オオワシ霊さんはやれやれと首を振る素振りをした。人を傲慢に小馬鹿にするような嫌味な仕草だ。

 

「漁夫の利こそがモットーさ。楽して腹一杯になろうじゃないか。私たちは組織の歯車ではない。剛欲同盟は皆が属する袋ではなく、個々が胸に誇るイコンなのだ。私たちは手を取り合うが支配はされず、助け合うが馴れ合いはしない。自由で、自分勝手で、剛欲な奴らばかりが集まっている」

 

 なんとも素敵な話に聞こえる。実際、オオワシ霊さんは畜生界の動物霊達と違って澄んだ目をしていた。

 

「後はそうだな……皆、饕餮様の事が大好きだ」

 

 饕餮さんファンクラブ? そんな風に思ってしまって吹き出しそうになってしまう。しかし、考えてみればそういう組織は数多い。個人のカリスマに依拠する集団には得てしてそういう側面がある。

 

「剛欲同盟は、厳格に組織化された合法的支配に則る他の畜生界の組織とは違って、カリスマ的で、なんと言うか──原始的──なのですね」

「ああそうだ。私たちの組織はこの畜生界にあって最も野生的かもしれんな。ほら、私の目にもまだ残ってはいないか? あの輝かしき弱肉強食の掟の残滓が」

 

 私の目を凝らして見る。壁面のガラスに写る私の瞳には、確かに輝きが残っていた。暴力的で生き生きとした、残酷さを孕む輝きだ。

 

「私の目であんまり変な目をしないでくださいね」

「明香よ。悪いが言ってる意味が分からん」

 

 意地悪く笑うオオワシ霊さんは、少しばかり軽やかになった足取りで動物霊達の雑踏の中へと分け入っていく。まさに、獣道を行くが如し。

 

 

 

 

 

 私たちが向かった先は、建築途中で捨て置かれた廃ビルだった。完成することもなく廃れたようで電気も通っていない。階段を使って進んでいくほかないが、道中は暗く静まり返っている。

 

「飛んでいかないのですか?」

「飛ぶと目立つ。人目につきたくない」

「何階で待ち合わせているのですか?」

「最上階だ」

 

 廃ビルの真っ暗な階段に、錆びれた窓から畜生界の夜景が差し込んでいた。登山の途中で木々が開けて目につく風景に見惚れるように、私は何度か足を止めながらも階段を登り続ける。

 今日一日オオワシ霊さんと一つの身体を使い続けたことで、私たちは無意識的に身体の制御を分担できるようになっていた。二人で意思のままに身体を動かし、しかしその意図は衝突することなく滑らかに遂行されていく。こういうのを阿吽の呼吸って言うのだろうなぁ。

 

「饕餮様、只今参りました」

 

 ふと気がつくと夜空が一面に見えていた。私が足を動かしている間に最上階に辿り着いていたのだ。野晒しのフロアから畜生界の夜景を見回したオオワシ霊さんは、一人佇む人影に向かっていく。

 

「明香……いや、オオワシ? どっちだ?」

「私です」

「そうか、ならまず明香と話したい」

 

 オオワシ霊さんと代わって、私が表に出る。

 

「お久しぶりです、饕餮さん」

「懐かしいな。お前とは初めて会って以来か。積もる話に花を咲かせるのも悪くないが、実は頼みがあってな」

 

 しかし、饕餮さんは言葉を濁した。困ったように笑みを浮かべながら、彼女は身を引いてゆく。

 

「クックック、オオワシよ、面倒な奴を連れて来たな」

「は? いえ、尾けられたりはしていない筈……!?」

 

 なんだか物騒な雰囲気になって来た。何が何やら分からずに困惑していると、急に背後から手が伸びて来て翼を鷲掴みにされてしまう。

 

「ぐぅ……誰だ!」

 

 振り向くとそこには、紫さんがいた。彼女は私の翼を引っ張ったり捏ねくり回したりして首を傾げている。いやいや、神出鬼没にも程があるでしょうに。

 

「饕餮さん。お目にかかるのは初めてかしら?」

「そうだな。噂はかねがね耳にしていたよ」

「それは重畳。けれど、これは見過ごせないわ」

「合意の上だぞ」

「不公平な情報の上でしょう」

「否定はしないが、久方ぶりの知己との語らいに横槍を入れるなんて無礼だな」

「あら、畜生に礼節を尽くすなど滑稽でしょう?」

 

 二人とも敵意剥き出しで空気が重い。私は何がなんやら分からないので、バチバチと火花を散らして睨み合っている二人の間をなんとか取り成そうと試みる。

 

「紫さん、私は饕餮さんの頼み事を聞きに来ただけですよ」

「それが駄目なのよ。貴女ったらどうして畜生達と連んでいるの?」

 

 紫さんの語気が普段よりも荒い。これはもしかすると怒ってたりするのかなぁ?

 

「熱くならないでくれ八雲紫。ほら、平和裏に行こうじゃないか」

「貴方、霊夢にもあのオオワシを使ってちょっかいをかけていたでしょう。別にそれは構わないわよ。あの子なら自分の身ぐらい自分で守れるでしょうから、存分に手を出してみなさい。彼女は最近弛んでるから良い刺激になるでしょうね」

 

 紫さんは霊夢さんに厳しいなぁ。或いはこれも一つの信用の形なのだろうけど。

 

「じゃあこいつはダメなのか」

「ええ、ダメよ。空も飛べない無知で無力な少女を畜生の都合の為に利用しようとするなんて吐き気がしますもの」

 

 私にはそういう信用はないみたい。要は目が離せない子供扱いをされているのだ。もしかして本当に目を離していなかったりするのだろうか。

 

「私はこの子が畜生界の争いに関わることを認めません」

「いやいや、本人の意思を尊重するべきじゃないか?」

 

 紫さんの眼光が増す。

 

「正誤善悪賢愚美醜全ての物にとってそんなものは関係ありませんわ。意思そのものを大切にすることではなく、正しい意思を持てるようにしてあげることこそが大切なのです」

「ひっでぇ奴だなぁ八雲紫。つまり明香の意思なんざ知るかって事かい」

「そう、この子は間違っている。だから私が止めてあげるのよ」

 

 紫さんの指が私の頬を突っつく。

 

「よく聞きなさい明香。貴方が世界を見て回る分には構わない。けれど争いに首を突っ込むのならばそれ相応の力が必要なのよ。君子危うきに近寄らずというでしょう」

「それならば私の部下が力になろう」

 

 畜生界の弓張月の下で、饕餮さんは両の手を広げて微笑んでいる。その瞳孔は怪しく人外の形に煌めいていた。

 

「そのオオワシは私の側近で忠実なボディーガードみたいなものだ。これまで何度も私を守ってくれた。この畜生界では数少ない心から信用できる奴だ」

「成る程それは、興味深い提言ね」

 

 オオワシ霊さんは饕餮さんの言葉を聞いて誇らしげに胸を張った。紫さんはそんな彼を見て微笑む。実際、実に微笑ましくて私も頬が緩んでしまう。

 

「饕餮さん、貴方を信じてみますわ。もしこの信用に瑕疵が付けば、私は貴方をdisner(ディーニー)に誘う」

「ああ、構わんぜ」

「ではまずは、丁度美酒がありますれば、この素敵な出会いを祝いましょう。実にお目出度いわ」

「そりゃ良い。最近空腹気味でね。空きっ腹に酒は最高だ」

 

 少し前まで敵意を向け合っていた筈の二人は、合意へ至った途端に友人同士かのように親しげに振る舞い始めた。これは偏見なのだけど、神や妖怪は変心が激しい。それはその神髄に、移ろい祀ろわざる自然を仮託されているからなのだろう。もっと落ち着いて欲しいと願う私の思いは極めて人間的なものに違いない。

 

「饕餮様、もう少し警戒してください……」

 

 私と同じくオオワシ霊さんも呆気に取られているみたい。しかしそれもむべなるかな。どうやら自然に振り回されるのは人も畜生も変わらぬらしい。

 

「ああ、気にすんなオオワシ。今しがた話が付いた所だからな。お前は明香と一緒に霊長園に潜入しろ」

「霊長園へ向かうならば無力な人間である彼女が最適でしょう。私が共にいても無用な警戒を招くだけですよ」

「いいや、お前は必要だ。もし何かあったときに私だと思って明香を守れ」

 

 オオワシ霊さんは何事かを言い淀み、口を固く閉ざした。その心には当惑が浮かんでいたが、彼はそれを呑み込み厳かに応える。

 

「饕餮様のお言葉であれば、是非もなく」

「いつもすまんな。今度また鱒でも食いながら酒でも飲もう。積もる話が山程あるぞ。先ずはそうだな……吸血鬼の話とか」

「ええ。楽しみにしております」

 

 一方紫さんは、まるで私が此処にいることを確かめるかのように、じっと私の目を覗き込んでくる。

 

「帰ったら貴女には説教ですわ。勝手にあの世へ行ってしまうのはやめて頂戴。本当に、心臓に悪いから」

 

 私は悟り妖怪のように紫さんの心を読んだりはできない。けれど少しばかり物覚えが良いこの瞳のお陰で、万の表情と彼女の表情を照らし合わせる事ができた。結果は──安堵、そして怒り。

 そう大層なことをしなくても、ひと目見れば分かる程度のことしか分からなかった。それがなんだか可笑しくて、謝りながらも笑顔が漏れてしまう。

 

「ごめんなさい紫さん。今度からは地獄に行く時は前もって言うよ」

「貴女、反省してないわね。次があると言っているようなものじゃない」

 

 どうやら火に油を注いでしまったようだ。怒られる前に逃げ出してしまおう。私たちは二人に手を振りながら、足早にその場を立ち去った。









「ねぇ、あの二人混ざりかけてるわよ」
「そうか、よっぽどオオワシと気が合ったんだな」
「元に戻るのでしょうね?」
「知るか。一つを二つに別けるのはお前の専売特許だろ」
「私にだって出来る事と出来ない事がありますわ」
「え? いや、嘘だろ。戻るよな? 戻らなかったらオオワシは私の物だぞ」
「……」


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霊長園

 饕餮さんの言葉に従い、私たちは霊長園へと向かっていた。オオワシ霊さんは今も翼を広げて空を飛んでくれている。

 

「なあ明香よ。そのオオワシ霊さんと言うのを止めてくれないか。そんなに行儀良い呼ばれ方をすると調子が狂う」

「分かったよオオワシ。砕けた感じで呼べば良いのね」

「そう、それで良い。そっちの方がしっくりくる」

 

 向かう先には、畜生界に似つかわしくない自然に溢れた森林が広がっていた。それは上空から見下ろすと鍵穴の形をしていて、人工的なものであることが分かる。

 

「あれが霊長園だ。元は畜生界で貧弱過ぎて絶滅の危機にあった人間霊達を保護する為の場所だった。饕餮様の狙いは分からないが、先ずは埴安神袿姫(はにやすしんけいき)を見つけないとな。霊長園の実質的な支配者である彼女に話を通せば全て上手くいくだろう」

 

 着地すると久しぶりの土の感触がした。何度も足を踏み締めて感慨に耽る。畜生界は舗装された地面ばかりで歩きやすかったけれど、やっぱりこちらの方が落ち着く。

 

「それで、何処に行けばその埴安神さんに会えるの? あ、神様なら埴安神様かな」

「様付けなど不要だぞ。彼奴は人間霊達を自らの創造物である埴輪を使って支配している邪神なのだ」

「埴輪を使って?」

「ああ、奴の埴輪は壊されても直ぐに修復し、病気知らずで休息も不要な恐るべき兵隊だ。動物霊達も皆ほとほと手を焼いている」

「私が知ってる埴輪と随分違うなぁ」

 

 ともあれ、埴安神様に会う為には彼女の端末であり手足でもある埴輪を見つけるのが一番であるらしい。私たちは霊長園に勝手に混入した異物のようなものなので、そのうち埴輪達の方から見つけてくれるのだという。

 

「詳しいのだねオオワシ」

「霊長園の埴輪達と動物霊達は人間霊の支配権を巡って激しく争っているからな。敵を知るのは戦いの基本であろう」

 

 それから暫く私たちは腰を落ち着けていた。何せ今は夜の森の中だ。夜景の眩い畜生界とは違って一寸先も仄暗い。オオワシは夜目が利くようだけれど、集めた枝葉に火を付けていた。

 

「明かりがあれば向こうも見つけやすかろう。埴輪達に見つかった後は明香に任すぞ。私は奴らと敵対しているからな」

「悪い事しようとしてる訳でもないし、悪びれずにいるのは得意だよ。大船に乗ったつもりで任せてね」

 

 オオワシは私の意識の奥深くに隠れ、背中の翼や怪しい目もすっかり形を潜めて普段の私に戻った。長い間、腰を落として揺らめく焚き火をじっと見つめていると、不意に首に冷たいものを感じる。視界の端には両刃の剣が写っていた。

 

「動くな。動けば斬れるぞ」

 

 私は微動だにせず続きの言葉を待つ。オオワシが即座に目覚めて右手で剣を打ち払おうとしていたが、私はぐっと手を抑える。

 

「よし、ゆっくり立ちなさい。それから両手を上げながら振り向いて」

 

 指示に従って振り向いた私を見て、その少女は信じられないといった表情を浮かべていた。

 

「生身の……人間?」

 

 

 

 

 

 少女は剣をしまって私と共に焚き火を囲っていた。彼女は 杖刀偶磨弓(じょうとうぐうまゆみ)と言う名で、埴輪兵団の長であるらしい。

 

「驚いたわ、まさかまた生身の人間が霊長園までやって来るなんて」

「私も驚きです。埴輪というにはあまりにも人間らしい。人間と全く見分けがつきませんよ」

 

 私たちは互いに驚きの視線を向け合いながら語り合う。

 

「どうやって霊長園まで?」

「一応は熟練のトラベラーなので」

 

 オオワシの存在については言葉を濁しつつ当たり障りのない会話を続ける。杖刀偶さんは警戒を解いて接してくれているようで、寧ろ気遣いや優しささえ感じるほどだった。彼女はひとしきり私の身の上話を聞いてから、今度は自らのことを教えてくれた。

 

「私は埴安神袿姫様に造り上げられた埴輪であり、その使命は人間霊達を守る事です。私の体もその為に造られていて、剣術、馬術、弓術、武術全てお手のものです」

「凄いですね」

「そのように造られたからね。凄いのは袿姫様なのよ。私はこの力を使ってみんなを守る。その為に、いつ動物霊共が攻めて来ても大丈夫なように見回りをしていたの」

「その埴安神様はどんな神様なのですか?」

 

 おっと、これは聞き方を間違えたかな。私が問うや否や、杖刀偶さんは滔々と言葉の濁流を放ち始めた。曰く、彼女は霊長園の守護神であり、人間霊の庇護者であり、孤立無援が誂えた造形神であり、埴輪達の生みの親であり、人間霊達の祈りに応じて彼らを救う為に顕現した救いの神であるらしい。

 

「袿姫様は動物霊共との共存すら模索しておられましたが、彼らには人間霊達を尊重する気などありませんでした。結局今も霊長園と畜生界は睨み合いの最中です」

 

 やはり敵対関係にあるだけあって、動物霊達には並々ならぬ敵意を抱いているようだ。或いは神に、そのように造られたのだろうか。私は背筋が冷えるのを感じた。戦う為に造られたのだとすれば、それはまるっきり兵器ではないのか。

 

「ねぇ、杖刀偶さん。畜生を倒すには何が必要でしたか?」

「先ずは武力ですね。力が無ければやっつけられませんから。後は……憎悪ですかね。憎んでもいないものを傷付けるなんて残酷な事は出来ないので」

「それは……そうですよね」

 

 戦う為に造った物に心を与える。それはなんと残酷な所業であろうか。埴安神袿姫という神は、ともすれば本当にオオワシが言ったように邪神なのかもしれない。

 

「そうだ! 袿姫様に会ってみませんか? 実はこの森の中にあのお方のアトリエの一つがあるんです。今はそこで埴輪を焼成されているはずです」

「へぇ、構わないのですか?」

「勿論です。新たな出会いは袿姫様の創作の糧にもなりましょう。最近は退屈されておられたので良い刺激になるのではないかなと」

 

 元々、霊長園を見て回る為に話を通そうとしていた相手なのだから是非もなく、私は二つ返事で了承した。

 

 

 

 

 

「袿姫様、御客人です」

「あら、どちら様かしら?」

 

 霊長園の森の中で、一際物静かで寂れた場所にそのアトリエは存在した。沢山の埴輪が所狭しと並べられている廊下を通り、濃厚な粘土特有の匂いが漂う一室に通される。

 開け放たれた窓からは朝日が差し込んでおり、まるで後光のように少女を照らし出していた。青い髪、エプロンと頭巾、勾玉の首飾りにポケットに一杯の彫刻道具。まるで古代の巫女さんが彫刻家に転身したようなその有様は独特な神秘性を放っている。

 

「私は埴安神袿姫。天才造形師よ。あと、ついでに神様をしているわ」

「私は雲見明香と申します。凡才カメラマンでした。あと、ついでに人間をしています」

「お互いクリエイティブね。話が合いそうだわ。でもお話の前に野暮用を済ませておきたいの。少し失礼するわね」

 

 杖刀偶さんを手招きした埴安神様は、彼女に何事かを耳打ちした。すると、彼女は畏まった様子で一礼した後に、朝日が差し込む窓から飛び出していった。

 

「磨弓の力を必要とする仕事があったの。それだけよ、気にしないで」

 

 埴安神様は造りかけの埴輪を私に見せてくれた。

 

「これはまだ造形の途中なの。それが終われば、周囲の埴輪みたいに暫く放置して乾燥させる。後は頃合いを見計らって窯で焼成すれば完成よ」

「ここの埴輪全て埴安神様お一人で造られたのですか?」

「そうよ、時には磨弓に手伝ってもらったりもするけどね」

 

 私は意を決して聞いてみる。

 

「埴安神様。貴方は埴輪兵を造っていますが、それは動物霊達を殺す為の道具としてでしょう。何故、心などを与えたのですか」

「随分と直球ね貴方。仮にも神に向かってその物言い、よっぽど畏れを知らぬと見える。けれど……」

 

 ぞわりと総毛立つ威圧を感じる。しかし、それは幾許かの沈黙の後に消失した。

 

「構わない。貴方は神としての私ではなく造形師としての私に問うているのだろうから」

 

 埴安神様は私の問いに真っ向から答えてくれた。

 

「アレに心などないわ。私はそんな機能は実装していないから。もし心あるように見えるのならそれは、 磨弓自身が不断の学習の果てに得たものよ」

 

 絶句する私を前にして、埴安神様は語る。

 

「私は埴輪兵を作っているわ。それは勿論、畜生界の動物霊達と戦うための武器、兵器としてよ。でも彼女達は私の道具である以前に作品でもある、と言えば理解できるかしら?」

「造形師としての矜持をかけて、生半な作品は造れない、ですか?」

「明答。やはり貴方はクリエイティブで知的なお嬢さんなのね」

 

 にっこりと朗らかな笑顔を見せて、彼女はアトリエの雑多なガラクタの中から手頃な椅子を引き出して来た。私に座れと言うことなのだろう。立ちっぱなしでいる理由も無いので腰を下ろすと、彼女は鉛筆を手にデッサンを始めた。

 

「私が造るものは全て私の作品よ。用途に寄らず美しくなければ、それは作品足り得ない。だから私は磨弓を造る時もそうした。精一杯精巧な人の形を、見るものに親しみを持たれるような外見を、あらゆるものを学べる空っぽの器を造った」

 

 埴安神様はデッサンを終えると粘土を手に取って造形を始めた。

 

「素晴らしい作品とはどんな作品だと思う?」

「見るものを惹きつけてやまないような、人の心を動かすような──人から愛されて(見つめられて)やまないような作品でしょうか?」

「……やっぱり貴方とは本当に気が合いそうだわ」

 

 造形されてゆく粘土は、一つの形を見せ始めていた。それは、椅子に座っている私だった。

 

「私もそう思うの。だから先ずは──」

 

 手のひらの上に乗せられた、ミニチュアサイズの私。片手間に造られたとは思えない程に精巧で写実的なそれは、正に神業を感じさせる逸品だった。

 

 

 

「自分の作品を、自分で愛せなきゃダメよ」

 

 

 

 美しい赤紫色の瞳が、宝石の如く燦然と輝いていた。埴安神様のその目に、私の目は釘付けになった。

 

「だから私は、私が造った埴輪達みんなを愛しているの。そして、どうかこの埴輪達がみんなから愛されるようにと願っているわ」

「愛されるように願う……」

「そうよ。みんなから頼りにされて、助けになって、優しくて、立派で、素敵な埴輪になれば良いなって思ってる。そうすればきっと愛されるでしょうから」

 

 閉口するほか無かった。アトリエとは名ばかりの兵器工房で、戦う為に造り出された伽藍堂の土人形達が無機質に並ぶ悍ましい有様を私は予見していた。なのにその実そこにあったのは、一人の造形師の矜持を賭した作品達だった。

 

「勿論それは造形師としての私の話よ。神としての私は、土から不滅の兵団を造り上げ、動物霊を皆殺しにして人間霊を支配し、糧となる信仰心を得なければならない。あんまり美しい話ではないけれど、どっちも私よ」

「私は造形師の埴安神様の方が好きです」

 

 私は耐えられず、口から言葉を漏らしてしまう。

 

「埴安神様には、人間や畜生なんかの争いなんて似合いませんよ。貴方はこんなくだらない事に巻き込まれてはダメな神様です。貴方は……平和なアトリエでずっと作品を造っていられるような、そんな場所に居るべきなのです」

「あら、ありがとう。そうね、なら貴方も私の作品になってみないかしら?」

「え?」

 

 唐突な話の飛躍に変な声が出てしまう。

 

「肉の体を棄てましょう。土と水とで新しい身体を作ってあげる。そうすれば飢えや病や怪我に煩わされる事も無くなるし、睡眠の必要もないわよ」

「ご遠慮させていただきます」

「理由を聞いても良いかしら? あ、アンケートにするから忌憚の無い意見でお願いね。実は人間霊達の身体も作ってみようかと思案中でアイデアが欲しかった所なのよ」

 

 埴安神様はデッサンに使った鉛筆片手に私の言葉を促していた。前にも摩多羅隠岐奈さんと話していた時にこんなやり取りになったなぁ。やっぱり神は変心が激しい。厳かで冒しがたく神秘的になったり、急に馴れ馴れしくなったりと、その心は山の天気のようでさえある。

 

「確かにその身体は便利なのでしょう。でも私はもう、この身体で長く生き過ぎました。私の身体にはこれまで生きてきた現実が堆積しています。なので私は、その現実を捨ててまで便利になろうとは思えないのです」

「その堆積とはつまり瑕疵でしょう? 老いさらばえた身体に刻まれた皺だったり、古傷だったり、痣だったりするようなものでしょう? 私はそんなものは何一つ無い方が良いと思うわ」

 

 これはもう私個人の嗜好なのですがと、そう断ってから言葉を紡ぐ。

 

「この瑕疵は全て、私が大好きな世界に刻まれたものですから、どうしても嫌いになれないのです」

「お熱いわね。嫉妬しちゃうわ」

 

 埴安神様が身を乗り出して、私の首にその手を回す。彼女はそのまま私の耳元で囁いた。

 

「私も貴方に刻みたくなったわ。大丈夫よ、痛くしないから。ちゃんと綺麗に痕が残るようにしてあげる。何度見ても私のことを思い出すように」

「っ……嫌です。離してください」

 

 

 埴安神様はもがく私を抱き止めて、そして──

 

 

「ただいま戻りました袿姫様」

 

 

 杖刀偶さんが戻ってきた。埴安神様は私から離れて笑顔を彼女に向ける。

 

「早かったわね磨弓」

「はい。畜生共を掃滅に向かいましたが、少し戦うと直ぐに奴らは逃げ出しました。狡猾な動物霊の事です、恐らくは威力偵察の類かと」

「成程、よくやったわ。立派よ磨弓」

「それでその……袿姫様は一体何をしてらしたのですか」

「創作活動に少し熱が入っただけよ」

 

 埴安神様の手に杖刀偶さんの視線が向けられていた。そこにあったのは彫刻刀。確かに彼女の創造に用いられる道具ではあるが、それが向けられていた先は粘土ではなかった。

 

「袿姫様、私は御客人を客室までご案内します」

「え、ええ。分かったわ」

 

 ひっ攫うように私の手を引き、杖刀偶さんは部屋を出た。

 

 

 

 

 

「袿姫様は悪い方ではないのです。ただ、創造に熱が入ってしまうと少し見境が無くなる方で、その……すみません」

 

 深々と頭を下げる彼女に、私まで申し訳ない気持ちに襲われて居た堪れなくなる。そもそも、もし本当に私に危害が及ぶのならばオオワシが出張っていた筈だし、あのままでも大事にはならなかったのだろうと思う。

 

「気にしないでください。大丈夫ですから」

「ありがとうございます。しかし、ああまで熱が入られるのは珍しい。きっと素晴らしい埴輪をお造りになられるに違いありません。やっぱり、貴方を連れて来られて良かった」

 

 掛け値なしの感謝を向けられてたじろいでしまう。実はオオワシに憑かれた畜生界からのスパイです、なんて知られてしまったらどうなるだろうか。

 実際、正直なところ、私は揺らいでいた。饕餮さんに与してオオワシと共に霊長園へ来たものの、埴安神様や杖刀偶さんの事も好きになってしまっている自分がいた。そこで私は、どうしようもなく甘ったれた思いを抱かずにはいられなかった。

 

 

 動物霊も人間霊も、喧嘩なんて止めてしまえばいいのに、と。



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地獄(畜生界隣接暴風区域)

(書き始めるまでが)遅(い)筆


 私は霊長園を去り、ごうごうと風が吹く地獄を彷徨っていた。どうしても、埴安神様の事を饕餮さんに伝える気になれなかったのだ。

 

「女々しいな、とは……もはや言うまい」

 

 オオワシは私を気遣って言葉を濁す。

 

「埴安神袿姫、なるほど大した神であったな。私はこれまで彼奴を打ち倒すべき恐ろしい敵だとしか思わなかった。それに私は、彼奴や埴輪兵達にとっては排除すべき畜生の一匹としか見えなんだろうしな」

 

 その声は僅かに憂いを帯びていた。きっとオオワシも知りたくなかったのだ。殺し合う相手の素敵さなど、誰が好き好んで知りたいものだろうか。

 

「見る目が変わるとこうまで変わるのか。根無草として畜生界を彷徨っていた時に出会ったのが饕餮様でなくあの神であったなら、私が饕餮様にそうしたように彼奴に仕える道もあったのだろうな」

 

 そのオオワシの言葉は、彼の表し得る最大の讃辞であろう。それきり彼は黙り込んだ。邪神だなんだと罵詈雑言を並べても、その実、彼は埴安神袿姫の事を敵としてしか知らなかったのだ。知らなかったからこそ、悪く言えたのだ。けれど、もうそれはできない。

 相手の素敵さや優しさを、信念や矜持を、決意や意思を、知った上で害す。そんな残酷なことをするのは、とても難しい。

 

「アトリエは埴安神の兵器工房だ。私たち動物霊は埴輪兵の生産拠点を血眼になって探した事もあったが遂に見つけられなかった。この情報を得れば饕餮様は争いを煽るだろう」

 

 畜生界に争いの火種が撒かれる事になるとオオワシは確信していた。だが、彼はそのことを気に病むことはないと言う。

 

「私たちの身から出た錆なのだ。手先が器用で便利な人間霊を力が弱いからと奴隷扱いして虐げてきたからな。例えお前がどんな選択をしようと、それとは関わらず畜生界と霊長園の争いは必至だ」

 

 お前の所為にはならない。そう断言したオオワシは、とても親身だ。

 

「あまり気負うな。畜生に身をやつした極悪人か、本物の畜生しか此処には居ないのだ。寧ろ全員死んでしまった方が世の為になる悪人ばかりだぞ」

「でもオオワシは優しいよ」

「ふん、饕餮様の友人に胡麻を擦っておけば覚えもめでたくなるかもしれんからな」

「嘘吐き。オオワシって悪びれるのは苦手なんだね」

「……」

 

 私が意を決して答えようとした瞬間、暴風の向こう側から翼のはためく音がした。真っ直ぐ私たちへと向かって来るそれに、オオワシは警戒を強くする。するうち、風の中から声が響いた。

 

「懐かしい匂いがするな。微かだが()()()の匂いだ」

 

 風の中に溶け込んでいた人影が顕となっていく。艶やかな黒髪、それと同じく真っ黒な翼が背から伸びていた。その装束は外の世界のカウボーイと見紛う格好であり、野生の色濃い凶悪な笑みが浮かべられている。オオワシは驚愕して硬直してしまっていたが、その少女は気にせず語りかけて来た。

 

「お前は饕餮のとこのオオワシか。それに見たところ地上の人間だな。まさかこんな地獄の暴風区域に先客がいたとはな」

 

 

 

 

 

 勁牙組(けいがぐみ)組長、驪駒早鬼(くろこまさき)。オオワシがそう呼んだ少女は、力こそが全てである勁牙組の中にあって頂点に君臨する最強の存在であるらしい。

 

「おっと、逃げるなよ。少し話をしよう」

「何を話す事がある。我らは敵同士だろう」

「オオワシにではない。その少女に言っている」

 

 驪駒さんは私を指差す。

 

「お前からは太子様の匂いがする。一体何故だ?」

「太子様?」

「豊聡耳神子様と言えば分かるか?」

 

 唐突に豊聡耳様の名が語られる。私はそれに困惑しつつ答えた。

 

「豊聡耳様には良くしてもらってるの。彼女曰く妹弟子で同志らしいけれど、私からすると畏れ多いかなぁ」

「成る程、太子様の同志ならば私の同志ともなろう」

 

 驪駒さんは私の手を取り、その甲に口付けたまま鼻息を荒くしていた。少し、くすぐったい。やがて彼女は私の手を名残惜しそうに離すと、うっとりとした上機嫌な様子で嘆息した。

 

「ああ、懐かしい香りだ。それにしてもお前はしょげた顔をしているな。悩み事でもあるなら聞いてやろうか? なんなら同志のよしみで悩みの種を粉砕してやらんこともないぞ」

 

 どうやら驪駒さんは豊聡耳様と深い縁がある方のようで、同じく彼女に縁のある私に対して態度を軟化させているようだ。

 

「畜生界は争いばかりです。どうすれば平和になるのかなぁって思ってまして」

「平和!? 待て待て、冗談じゃないぞ。そんなの良い迷惑だ」

 

 驪駒さんは慌てた様子でオロオロとする。

 

「良いか、私たちは腕っ節自慢の動物霊なんだ。吉弔の奴は頭も使うが根っこは一緒だ。つまりだな、畜生界の者はみんな争いの中でしか生きられないのだ」

 

 驪駒さんは必死だ。彼女は平和を口にした私に恐々としていた。いや、彼女は平和に恐怖していたのだ。

 

 

「私は今の畜生界が好きなんだ。争いの絶えないこのシンプルな世界が好きだ」

 

 

 驪駒さんの言葉にハッとさせられる。平和が良いものであるに違いないと思っていたけれど、それは私の正義(秩序)に過ぎなかったのだと。

 

「私は聞いた事があるぞ。平和な世界では自分より弱い奴に頭を下げたり、気に入らない奴に気を遣ったり、役立たずを養わないといけないらしいな。だが、私の勁牙組ではそうではない」

 

 胸を張って驪駒さんは誇る。

 

「私の勁牙組は完全実力主義だ! 弱い奴は下、強い奴が上だ。気に入らない奴はブン殴り、役立たずは切り捨てる。力こそが全てだ」

「力だけで生き方に誇りも無い脳筋風情がよくもまあ舌を回すものだ」

「黙れオオワシ、力こそが誇りなのだ」

 

 驪駒さんは毅然としていた。

 

「だから少女よ。私たちは欠片も平和なんて望んでいない。私たちは争いを望んでいるのだ。故にもしも畜生界を支配してしまって争いが絶えたならばその時は、地上界、地獄界にも手を伸ばして更なる争いを望むぞ。夢は広がるわね、胸が熱くなるわ」

 

 溌剌とした驪駒さんに対して、私は胸が冷たくなるのを感じる。

 

「地上にも手を出すのですか?」

「そうだ、先ずは幻想郷だな。畜生界から地獄を通じて部下を送り込める事は確認済みだ。きっと太子様もお喜びになられるだろう。実力を重視し弱者を切り捨てる方法を私は彼女から学んだのだ。今こそ教えを示す時さ」

 

 豊聡耳さん何教えてるの……。けれど考えてみれば、彼女は為政者としては世襲に囚われず実力を重視した采配が有名だった。その教えを受ければ実力主義に傾くのもむべなるかな。

 そして私は今この瞬間、明らかに驪駒さんを敵視した。私は畜生界に平和を押し付ける気はない。けれど畜生界が幻想郷に争いを齎すと言うのならば無視はできない。

 

「それはちょっとやめて欲しいなぁ」

 

 驪駒さんは私を睨む。先ほどまでの上機嫌な様子は鳴りを潜めて、鋭い獣の眼光が放たれていた。

 

「確かに争いは必要だけれど、血を流す必要はないでしょう? だから幻想郷では血が流れない決闘法を編み出したの」

「知っているぞ、弾幕ごっことかいう遊戯だろう。私はあまり好かん。力を競わない争いに何の意味がある?」

 

 苛立ちを見せ始めた驪駒さんに対して、オオワシは警戒を強める。心の中で彼はとても喚いていた。畜生界最強の暴力集団において最強の動物霊に喧嘩を売っているのだ。馬鹿らしいから止めろと彼は言う。思うところがあったとしても面と向かって言うことはないと。

 

「それでも私は今の幻想郷が好き。争いと平和や、美しさと残酷さが両立することを教えてくれる不思議な世界だから。だから、もし驪駒さんが地上に手を出すというのならその時は……弾幕ごっこに付き合ってくれたら嬉しいな」

「そうか、考えておこう。私に怖じずに物を申すその度胸に免じてな」

 

 そうとだけ言った驪駒さんは、風と共に去っていった。一人残された私は、呆然と彼女の言葉を思い起こす。争いの中でしか生きられない──畜生達について。なんて考えていると、突風に煽られて体勢を崩してしまう。ああ、考え事も考えものだなぁ。

 

 

 

 

 

 私は骸骨に埋もれて大の字で倒れていた。別に死んでいる訳ではない。ミキサーにかけられたように骸骨と一緒に暴風に攪拌され、最終的にそれらと共に埋もれてしまったのだ。骨の隙間から外が遠くに見えるが、禍々しい真紅の風を覗かせるばかりだ。

 私たちの周囲の骨はひんやりとしていて冷たく、風もそれらに遮られていて吹き込んではこない。表層からは遠く、組み上げられた骨組みは存外にしっかりしていた。

 

「骨の下って案外快適だね」

「分かったぞ。お前さては馬鹿であろう」

「いや、本当にちょっと快適でしょ」

「そんな訳が……一理あるな」

 

 オオワシも周囲を見回してから私と同じ結論に至ったようだ。

 

「しかし暴風区域で気を抜くな。命が惜しくないのか」

「大丈夫だよ。オオワシが居るから」

 

 私はオオワシの言う様に気負う事を止めることにした。郷に入っては郷に従えという。今の私は畜生界の私で、その上オオワシ憑きだ。

 

「助ける私の身にもなってくれ……」

 

 私はそこで考えた。畜生界は争いが絶えない。しかし、動物霊達は自らそれを望んでいる。その争いが水面下のものであれ、頭脳戦であれ、或いは正面切っての殴り合いであれ、どのような形であっても彼らは争いの中でしか生きられないからだ。そうした血みどろの闘争の中で生きる糧を得る彼らの生き方に善悪はない。

 

 

 理解しよう、その生き方を。共感は、できないけれど。

 

 

 大地や空が、善く、或いは悪しく在ろうとする事がないのと同じだ。神がその神髄に自然を仮託されたように、獣はその骨髄まで自然たっぷりだ。

 そして自然とは心無きものだ。ともすれば残酷にも見えるだろう。しかしそれらは、ただ在るがままに在るのみである。心は心無きものに惹かれる。自らに無いものを求めるように。そうして私たちはまず自然から、原初のSystem(神話)を見出したのだ。だからこそ思う。

 

 

 獣は人より自然に近い。驚く程にsystematic(神話的)だ。

 

 

 一際強い風が吹いた。吹き込んできた風が骨身に染みる。人と獣のスキマ風は、このようにずっと吹き止むことは無いだろう。何故なら私が──そう望むからだ。

 

 

「決めたよオオワシ。饕餮さんに会いに行こう」



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人間の里

ダークになりそうと言いました。
ダークになりました。


「ここで食い止めろ! 穢らわしい畜生どもだ!」

 

 霊長園の木々は火に包まれていく。美しく茂っていたそれらは、不完全燃焼特有の大量の黒煙を吐きながら禍々しく空を染め上げていた。

 

「私に任せて、お前達はアトリエへ行きなさい。袿姫様をお守りするのよ!」

 

 杖刀偶磨弓は剣を抜いて動物霊を切り捨てて行く。しかし、如何に相性が良く鍛錬を積んでいようとも多勢に無勢であった。彼女は右腕を砕かれ、半壊しながらも動物霊の群れを排除しつつアトリエへと後退していった。

 

 そこで彼女が見たものは、地獄だった。

 

「……袿姫様」

 

 火の手の回るアトリエと、その前で呆然と立ち尽くしている埴安神袿姫が目に入った。周囲の動物霊は皆、一様に血溜まりに沈んでいて、霊長園の豊かな土を生臭く赤茶色に染めている。埴輪兵達もまた皆砕かれてしまっていて、乱雑に撒き捨てられていた。

 

「大丈夫。大丈夫だから」

 

 譫言を漏らしながら袿姫は、動物霊の血に塗れてしまっている埴輪達の欠片を拾い集めた。彼女は自分のエプロンと彫刻道具が血で汚れてしまうことも厭わずに、それらを抱きしめてやまない。

 

「何度砕かれても、私が元通りに造り直してあげるから。みんなに愛されるような……素敵な埴輪に……」

 

  磨弓は絶句し、砕けんばかりに拳を強く握りしめる。

 

「袿姫様、また動物霊どもが来ます。霊長園の墳墓内部まで退きましょう。各地の埴輪兵達の戦力を集結できれば、奴等を退けることは難しくありません。ですからどうか」

「ダメよ」

 

 両手いっぱい、抱え切れぬ程の欠片を抱えて、袿姫は磨弓に言う。

 

「みんなを置いていけない」

「行くしかありません、袿姫様」

「でも……」

「全て置いて行くしかないのです!」

 

 ぐいと磨弓は袿姫を引っ張った。パラパラと、彼女の手から欠片が零れ落ちていく。

 

 

「残るのは、痛みだけです」

 

 

 まるで頬に涙が伝うように、磨弓も砕ける寸前だった。今、袿姫を安全な場所まで護衛できるのは自分しかいないという覚悟が、彼女を辛うじて稼働させていたのだ。そのことを察した袿姫は、彼女までも失うまいと決意し、欠片を抱き抱えていた両手を降ろした。

 

 

「ごめんなさい、みんな……」

 

 

 

 

 

 オオワシは霊長園の上空から戦場を俯瞰していた。饕餮尤魔が得た霊長園のアトリエに関する情報を元に立案された、勁牙組・鬼傑組・剛欲同盟の巨大畜生組織合同による霊長園急襲作戦は順調に進行していた。

 集まった動物霊達は嬉々として血湧き肉躍る闘争の渦の中へと身を投げ入れていく。オオワシは地上から放たれた埴輪兵達の矢の雨を掻い潜っていくが、何匹かの見知った顔はそれが出来ずに撃墜されていた。

 

「なんとまぁ、無駄な犠牲よ」

 

 オオワシは、地上から連れてきた奇妙な少女と共に過ごした事で、人間の心というものを僅かばかり理解できていた。少し前までならば、彼はこの闘争の中で生を実感し生きる糧としていただろう。

 争い合うことに辟易し、限界でありながらも、しかしそうすることでしか生きられない哀れな存在。なるほど私たちは地獄に堕とされるに相応しい畜生だとオオワシは得心しながらも倦んでいた。

 

「そもそも埴輪兵に我ら動物霊は敵わぬ。それを覆すだけの物量とは恐れ入る。饕餮様、これも貴方の謀でしょうか。この戦を終えた後に優位に立つ為の……それだけの為の?」

 

 動物霊達は皆、その牙、爪、嘴でもって埴輪兵に襲い掛かる。しかしそれは難なく躱され、防がれ、弾かれる。対して埴輪兵達の武器は容易く動物霊達の命を奪える鋭さを持っていた。

 しかし、死を恐れず戦い続ける畜生の群れは、積み上げられた骸の山と引き換えにその差異を凌駕して行く。オオワシはその様を見て恐怖した。それと同時に、あんな少女のお守りをしなければこんな恐怖も感じなかったに違いないと心中で毒づく。

 

「やっていられるか、こんな馬鹿げた戦い」

 

 オオワシは血の匂いの薄い、火の手も未だ回っていない森の中へ着地した。既に埴安神袿姫のアトリエを攻め落としたという報告を彼は耳に入れていた。これ以上戦う必要も理由も彼には無かったのだ。しかし、焼かれていく森と絶えていく命の熱の幻覚が彼の翼を煽る。

 

「暑いなぁ。全く嫌になるよ」

 

 少女の口調がうつってしまい、オオワシは辟易した。しかし彼は、少女の事を思い出す度に背に冷たいものを感じていた。それが罪悪感である事に、彼は気付かない。

 

 

 

 

 

「暑いなぁ。全く嫌になるよ」

 

 幾度目かの夏、自宅の縁側で胡座をかいて昼下がりの庭に目を向ける。冬には枯れ木のようだった老木も、今や青々と枝葉を茂らせている。人間の里は退屈なまでに何事もないけれど、こうした小さな発見がいつも私を楽しませてくれる。

 

「やっぱり枯れてなかったのだね。生きていたのだ」

 

 私はよく独り言を漏らすようになった。霊夢さんや魔理沙さんには気味悪がられたけれど、何故かやめられない。

 

「多分だけどさ、誰かが答えてくれるような気がするんだよね。例えば、オオワシとか」

 

 私がオオワシと過ごした時間は僅かだったけれど、それでも私たちは深く互いに爪痕を残していた。最後は少し残念な別れ方をしてしまったけれど、今でも彼のことを時折思い出す。

 少しの異変と弾幕ごっこ。夏空を彩る弾幕が目に付く以外には平和そのものな人間の里から、畜生界の事を思う。今もまだ彼らは争い合っているのだろうか。

 

「オオワシは優しいから、気にしているのだろうなぁ」

 

 私は祈った。どうか人と獣の間に境が造られて、その間を隙間風が吹き抜けますようにと。それぞれが望まれぬ邂逅を遂げずに幸せに生きていけますようにと。どんな神様に祈れば良いのかも、どの神社に行けば良いのかも分からなかったから、人間の里の自宅から祈っていた。

 

 

 畜生達は争いを望む。しかしその意思そのものを尊重することよりも、正しい意思を持てるようにしてやることが大切なのだ。けれど、意思を、秩序を押し付けることは争いの種にしかならない。だから私たちは──ただ平和を祈る事しかできないのだ。

 

 

 

 

 

fin. 2022/08/07




Extra 人と獣の塞の神

 ただ、偶然、彼らは出会った。

「オオワシ霊か。何故こんな所に!」

 杖刀偶磨弓は歯噛みした。埴安神袿姫を連れて墳墓内部へと向かう道中で動物霊と遭遇してしまったからだ。もしこのオオワシ霊が仲間を呼び寄せれば、度重なる戦いで半壊している磨弓は勿論、神である袿姫も無傷では済まないだろう。だが彼は何をするでもなく、ただじっと二人のことを見つめていた。

「貴方のその目には見覚えがあるわ。以前、私のアトリエを訪ねて来た人間にそっくりだもの」
「そうだ。私はあの少女の中にいた。お前達のアトリエの場所が割れたのもその所為だ」

 磨弓は剣に手をかけながら叫ぶ。

「畜生が。生身の人間と手を組んで私たちを騙したのか! あの小娘もお前も、私が始末してやる!」
「それは違うぞ。彼奴はお前達のことを饕餮様には言わなかった。私が言ったのだ。あの少女の意識を乗っ取ってな。後悔はしていない」
「ゴタゴタと訳の分からないことを。今ここでその首を」

 袿姫は逸る磨弓を抑える。彼女はオオワシの言葉を促した。

「それで貴方はどうしたいの?」
「彼奴は人と獣の間に境が造られれば良いと言っていた。獣は獣同士で争い、人は人同士で助け合い、そのお互いが望まれぬ邂逅を遂げる事なきように仕切り遮る境が在れば良いと。山と海や、天と地の狭間にあるような、人と獣を別つものが要ると」

 オオワシは二人を尚も見つめる。

「多分だが、彼奴が言っていたのはお前の事だ、埴安神袿姫。私は饕餮様に忠を尽くした。だから今度は、ただ私の友の為だけに目を瞑る」





 動物霊達は袿姫のアトリエを攻め落とすことに成功したものの、肝心の造形神を取り逃し、集結した埴輪兵によって討ち払われた。畜生界では、ほぼ全ての巨大組織が痛手を被ったことによって、皮肉にも均衡が保たれる。

 そして──





「なんだ、枯れてはいなかったのか」
「久しぶりだねオオワシ。畜生界は最近どう?」
「何も変わりない。地上の方は何かあったか?」
「何にも。驪駒さんも来ないのだよね」
「そうか。何とも気が抜ける、平和な話だな」


 すべて世は事も無し。


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無人のユートピア
アポロ経絡


地獄や畜生界に足を運び幻想郷から飛び出している明香ですが、今回もまたそうなりました。お楽しみ頂ければ幸いです。


「月面旅行ツアーのすゝめ?」

 

 原因不明の頭痛に悩まされて永遠亭を受診していた私の目に写ったのは、待合室に貼り付けられていたポスターだった。そこには、デフォルメされた玉兎と獏の可愛らしいマスコットが宇宙遊泳している絵が描かれている。注意書きには、希望者は八意永琳まで申し出るようにという旨が記されていた。

 

「鈴仙さん、すいません」

「はい、なんでしょうか?」

「このポスターについてなのですが」

「あぁ、それですか。月面旅行ツアーですよ。少し前にお師匠様が月の方達と会談して取り決めたみたいで」

 

 鈴仙さん曰く、参加者の枠が埋まれば募集を締め切るのだそうだ。しかし、枠には未だ空きがあるらしい。診察待ちの暇に偶々目に入ったのも何かの縁かもしれないと興味が湧く。

 

「パンフレットが受付の側にあった筈ですよ」

 

 言われるがままに受付に向かう。スタンドに並べられている各種健康雑誌に紛れて、月面旅行についてのパンフレットが見つかった。ざっと目を通してみると、地上と月の都を繋ぐ夢の通路を用いたツアーについて詳細に記載されていた。

 月の賢者である稀神サグメと夢の支配者であるドレミー・スイートが共同で主催したこのツアーは、八意永琳の名義で地上の民を月の都に送り込むことを目的としているらしい。

 

「うーん、すっごい胡散臭いね」

「ですよねー。なので誰も申し込んでくれないのよ」

 

 鈴仙さんは決まりが悪そうにしている。

 

「それに、主催者の情報が仰々し過ぎますよね。これじゃあ里の人間はまず怖がるし、霊夢達は面倒事の匂いを嗅ぎつけて相手にしてくれない。嘘でも竹林の兎主催とでもしておけば良いのに」

 

 そう愚痴った鈴仙さんは、他の患者さんの対応に戻った。私はパンフレットを手にしたまま考え込む。実の所、かなり興味があるのだよね。胡散臭くとも月に行けるなんて話は滅多にない。期待に浮き足立つ感覚を覚えながら、私は待合室のポスターをじっと眺めていた。

 

 

 

 

 

「あら、月面旅行ツアーの希望者?」

 

 診察を終えた後、八意さんは私の希望を聞いて目を丸くした。

 

「募り始めて半年は経っていたから忘れてしまっていたわ。なら、ツアーの説明をしなくちゃいけないわね。鈴仙に頼めるかしら」

「構いませんが、どこまで説明すれば?」

「全部よ。隠す必要もないわ」

 

 頷いた鈴仙さんは、私を永遠亭の外へ連れ出した。迷いの竹林を目にできる場所で、彼女は塀にもたれ掛かって私を手招きする。昼時の竹林は長閑で風のそよぐ音がするばかりである。日差しがポカポカとしていて心地良く、眠気を誘う程だ。

 

「ほら、ここで話しましょう。先ずは月について何か知っているかしら?」

「空に浮かぶお月様ですよね。地球の周囲を公転している衛星で、地上から凡そ38万km離れています。人類が唯一到達した地球外の天体で、とてつもなく希薄ですけど大気が存在していて、地震も観測されているのだとか。クラヴィウス・クレーターで水分子が発見されたというニュースも記憶に新しいですね。後、兎さんが餅搗きをしてます」

「く、詳しいわね……」

「鈴奈庵の外来本の受け売りですよ」

 

 意外そうな表情をした鈴仙さんは咳払い一つして語り出す。彼女が言うには、私が語った月についての知識は文字通り少しズレているらしい。

 

「明香が教えてくれたのは()()()についての話ね。でも、月面旅行ツアーでは()()()に行くの。イメージとしては幻想郷と外の世界の関係に似ているわ。幻想郷は外の世界から結界で別けられて、世界の裏側に存在する。月の都も同じく、私たちが普段観測している月からは結界で別けられていて、月面の裏側に存在するの。まるでコインの裏表のように、同一座標に在りながら位相を変えると全く異なる世界が現れるのよ」

 

 月の裏側、結界によって異相次元に存在する秘された世界。厭離穢土を極めた月人は、果てしなく低い地上から離れ、穢れなき世界に到達して境を造ったのだ。穢れに塗れた私たちと自らが、決して出会わぬように。

 

「表の月に向かう為には、外の世界の人間がしたように宇宙船を使う方法がある。けれど裏の月に向かう為には、私たち玉兎が使うような月の羽衣や、紅魔館の吸血鬼がしたような神憑り的な住吉ロケットを用いなければならない」

 

 鈴仙さんは、月の羽衣を使って地上に逃れて来た時の事を語りながら教えてくれた。しかし、今回のツアーでは裏技を使うのだそうだ。

 

「でもね、夢の世界を使えば何処にでも行けるの。本当にインチキ染みた裏技よ。文字通り何処にでも行けるなんて反則だわ」

 

 玉兎達の連絡通路として用いられている夢の通路を、夢の支配者であるドレミーさんの全面的な協力の元で活用する事によって、もはや月への経路は問題にならないのだそうだ。

 

「かくして地上人を裏の月へ送る事が可能になった訳よ」

「しかし何故地上人を月へ? 月人達は穢れた地上とそこに住まう人々を忌避しているのでしょう?」

「一つはお師匠様の為よ」

 

 鈴仙さんの師である八意さんは、かつては月の賢者であったけれど大罪人として地上に堕ちている。しかし、月には未だ彼女の味方がおり、先の異変で月の都の窮地を救った策を献じたことによってその立場も見直されつつあるのだという。

 

「具体的には稀神サグメ様や綿月姉妹の方々ね。彼女たちはお師匠様に帰って来て欲しいから、あの手この手で師匠に手柄を立てさせようとしている。今回の月面旅行もその為のものよ。サグメ様が協力関係にあるドレミーと組んで画策したのよ」

「地上人を月へ送る事が手柄になるのですか?」

「今は、ね。あまり気分の良くなる話ではないけれど、月の都は穢れ仕事ができる使い捨ての人材を探している。その供給源として地上に目がつけられた」

 

 うわぁ……。楽しい月面旅行のイメージが粉々に砕け散った。前々から紫さんから話を聞いていたけれど、あまり月の都は愉快な場所ではなさそうだ。

 

「そんな顔をしないで。月人の言う穢れとは、生きる事や死ぬ事、産まれる事や産む事、病む事や瑕疵を負う事よ。それはつまり私たち地上の者にとっては極自然で当たり前の事だから、穢れ仕事も私たちにとっては大した事じゃないわ」

 

 鈴仙さん曰く、餅を搗く為の餅米を収穫するだとか、その程度の事らしい。

 

「以前は玉兎達がそういう仕事をしていたのだけど、最近は兎達の地位が向上したり、月人と玉兎の距離が近くなったりしているからね。ほら、自分のペットには綺麗でいて欲しいでしょ。そんな感じよ」

 

 そう話を聞くと悪くなさそうに思える。しかし鈴仙さんは、心底呆れたような様子で溜息を吐いた。

 

「正直な所、私もお師匠様もぶっちゃけ月の事はどうでも良いのよ。以前の異変の献策も、月の連中が幻想郷を浄土化して遷都しようだなんて傍迷惑な計画を立てたから、それを止める為に已むを得ずそうしただけなのよね」

 

 鈴仙さんはやれやれと手を振る。彼女は気怠げな視線を空に向けて耳を垂れた。

 

「私もお師匠様も姫様も、もうみんな地上の者として生きる覚悟をしている。月の奴らがお師匠様の為に何をしようと、拒否もしないけれど肯定もしないし、突っぱねもしないし乗っかりもしない。だからこの月面旅行ツアーもそうなのよ」

 

 ポスターを貼り、話を通し、受け入れはするけれど、ただそれだけ。だから私にもその裏側にある思惑の全てを打ち明けるのだという。

 

「このツアーは、明香にとっては本当にただの旅行ツアーにしかならないわ。餅搗き体験もできるかもしれないわよ」

「それは楽しみですね」

「でしょ。月の都は潔癖過ぎて滞在するには窮屈だけれど、訪問するには素敵な場所よ。存分に楽しんできなさい。お土産もよろしくね」

 

 鈴仙さんはニヤリと笑って私の背を叩いた。それから、彼女と日程や段取りを相談した。私はらしくもなく胸がワクワクして堪らない。こんな気分は彼岸へ行く計画を青娥さんと立てた時以来だろうか。

 

 

 

 

 

 月面旅行ツアー当日、私は旅支度をして永遠亭を訪ねた。尤も、お土産を持ち帰るための背負い鞄にカメラと酒を突っ込んだだけの簡素な準備だ。気分は完全に観光客である。

 

「あら、お久しぶりです雲見さん」

 

 そこで出会ったのはドレミーさんであった。彼女は私を見て全てを察したような独特な表情を浮かべる。

 

「こんなに胡散臭くて荒唐無稽なツアーに参加するなんて何処の物好きだろうかと思っていましたが、全て得心いきました。貴方ならば成る程、そうするでしょうねぇ」

 

 ドレミーさんは微笑みながら、私へ手を伸ばす。

 

「さあ、こちらへ。案内しましょう。第四槐安(かいあん)通路、即ち月と地上を結ぶアポロ経絡へ」

 

 私がその手を取った瞬間、意識は微睡み夢の世界へと旅立った。

 

 

 

 

 

「息を止めなくても大丈夫よ。悪夢の欠片と衝突しないようにだけ気を付けなさい」

 

 待合室のポスターに描かれていた光景が脳裏に去来する。私は玉兎ではないけれど、獏のドレミーさんに手を引かれて宇宙を遊泳していた。さらに、周囲一帯の空間は明滅する光線によって格子状に区分けされている。まるで昔話とSFを混合したようなそれらは、強烈な非現実空間(夢の世界)を形成していた。

 

「アポロ経絡とは言い得て妙ですね。経脈と絡脈が縦横に交差しているみたいです。ここは無数の夢の結節点なのですね」

「理解が早いわね、その通りよ」

 

 私たちはアポロ経絡を進み続けた。するうち、一斉に世界が閃光に包まれて満月が現れる。私は宇宙を照らすその眩さに驚愕した。月とはこんなにも明るかったのかと。

 純白に輝く月は地上から見上げるよりも遥かに巨大且つ鮮明で、肉眼でそのクレーターを詳細に目視できた。普段見慣れた夜空のそれと違って無機質な物質性を思わせる有様は、その神秘を一層強烈に感じさせる。

 

「凄いなぁ。こう見ると月って岩石なんだなって思いますよね。こんなにおっきな石ころが空に浮かんでいるなんて、なんて──幻想的な話なのでしょうか!」

 

 月の岩肌をお白いのように隠しているレゴリスとクレーター群は、この衛星の辿った歴史の荒々しさを思わせる。絶えざる岩石の衝突と粉砕に次ぐ動的で熱烈な生まれと成長を繰り返して来たその跡を残しながら、しかし目前に見えるそれは神聖さを感じるほどに静謐で冷たい。そのギャップが私の心を狂わせてやまない。

 

「けれどこれは表の月です。貴方は裏の月に降り立つことになる。今から心構えをしておきなさい。見たこともないような浄土が広がっていますから」

 

 ドレミーさんの言葉が私の胸をくすぐる。目前に見える月とアポロ経絡を写真に収めて、まだ見ぬ浄土に思いを馳せた。穢れを拒絶する月の浄土は、果たして如何程の美しさなのか。胸の高鳴りを抑えながら、私は食い入るように月を見つめ続けるのだった。



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月の都

 月面に舞い降りた私の目前には、見渡す限りの海原が広がっていた。水平線上には青く輝く地球が浮かんでおり、鏡面のような水面に映り込んでいる。アポロ経絡から目にしていた荒涼とした月面とのあまりの差異に呆気に取られていると、背後から声をかけられる。

 

「ようこそ月面へ。此処は豊の海です。地上の海はあらゆる穢れが流れ着く吹き溜まりですが、この浄土にはあらゆる命が存在しません。故にこれは穢れなき海なのですよ」

「貴方は?」

「初めまして、雲見明香。私は綿月依姫(わたつきのよりひめ)です。貴方が八意様の遣わした地上人であることは分かっています。月の都まで案内するので付いて来なさい」

 

 ドレミーさんを見やると、彼女は頷いて手を振りながら姿を消してしまった。私はここまで案内してくれた彼女にお辞儀をして綿月さんに向き直る。

 

「貴方に手を貸して欲しい仕事については都で説明しましょう。さあ、此方へ」

 

 綿月さんの先導で海岸沿いの林を進んだ。林道脇には桃の実っている木々がちらほらと見当たる。手頃なものを何個かもぎ取り鞄に放り込んでから、私は浄土の木々を写真に収めた。綿月さんに怪訝げな視線を向けられたが、咎められはしなかった。

 

「仕事と言うと確か、玉兎に任せる訳にはいかない仕事ですよね」

「そうよ。玉兎達は怠け癖が酷いし、嫌な仕事からは直ぐ逃げ出そうとするからあまり信用ならないのです。清蘭や鈴瑚も職務を放棄して地上へ逃げ出してしまいましたし、鈴仙も……少し悲しくなって来ましたね」

 

 ありゃ、玉兎の地位向上とか聞いていたけれど話が違ってるなぁ。それに月人は排他的で高慢な人々だと思っていたけれど、話してみると存外普通だ。

 

「ここまで来て聞くことではないかもしれませんが、私が月面に来て問題なかったのでしょうか。その、穢れとか」

「問題ないとは言いませんが、今回はそうも言っていられない事態ですから特例です」

 

 何やら只事ではない雰囲気を感じる。物見遊山の気分だったけれど雲行きが怪しくなって来た。けれど、目に見える展望は開けて煌びやかな都の景観が現れる。

 まるで大陸の古代国家の都であるような其処は、しかし地上の其れとは全く雰囲気を異にしていた。畜生界で遭遇したような人口密集地特有の不衛生さは欠片もなく、人々が暮らしている痕跡が目に写るものの閑静で何処か殺風景だ。

 ふと、私は昔を思い出した。妖怪の山の奥深くで生活痕を残しながらも無人のマヨイガをそのまま都にしたような、そんな風情があった。

 

「地上人よ、月の都へようこそ」

 

 

 

 

 

 綿月さんの屋敷に招き入れられた私は、応接室らしき部屋で彼女と向き合っていた。私に任される穢れ仕事を始める為には彼女の姉の能力が必要らしく、肝心のその姉は現在別件で暫く手が離せないのだという。

 

「何かお聞きしたい事があれば気兼ねなくどうぞ」

「私に構っていて綿月さんは大丈夫なのですか?」

「地上人を監視なしで一人にしておくわけにもいきませんので」

 

 綿月さんの口調は丁寧そのものだ。紫さんからは、月人は地上の万物に欠片も憚る事なく、地上の命に対しても灰程の重みも感じぬ者達だと聞かされている。そう伝えると彼女は口に手を当てて逡巡していた。

 

「あの妖怪の言ですか、忌々しいですが的を得ていますね。私たちにとって地上の命は穢れそのものであり、雑菌やウイルスのような伝染し増殖する汚物そのものですから」

 

 さらっと恐ろしい事を言って退けた綿月さんは、地上の命が全て消え去れば、浄土として月人は地上で暮らせるようになるだろうと凄まじい事を口にした。

 

「ただそうしないのは、そうする必要がないだけです。私たちは月で穢れなき浄土の都を築きました。全てはこの都だけで満ち足りています。何故更なる穢れに対峙してまで果てしなく低い地上に浄土を築く必要があるでしょうか」

「月面だけで完結したアーコロジー。此処は閉じた楽園と言う訳ですか。排他的ですねぇ」

「自分達よりも程度が低く、穢れた存在と交わる必要などないでしょう」

「私はそうは思いません。貴方だってそうでしょう。でなければ此処で貴方が私と語らう事などあり得なかった」

 

 綿月さんは頷いた。あくまで彼女は月の都が地上に対して取る基本的なスタンスを表明しただけであり、彼女個人の意思が異なる場所にある事を認める。

 

「地上の者も時には役立ちます。それを否定する気はありません」

 

 私はかつて人と獣の間に境が造られる事を望んだ。互いが望まれぬ邂逅を果たさぬようにと。月の都はある意味ではその望みの極北であった。

 地上の全てを穢れとして忌み嫌い、遥か38万km離れた月に結界を貼り引き篭もった。結果として地上と月の両者は断絶し、交わることも邂逅することもなく互いを蔑視しあっている。だがそれでも両者の間に血が流れることはない。ならばそれは一つの平和の形であろう。

 

「故に私たちは貴方に会う事を望みました。貴方も月の都を訪ねる事を望んだのですから、此処には合意があります。諸々の悪感情は互いに余所にしましょう」

「同感です」

「その上で、語らいましょう。この会談が豊かなものとなる事を願います」

 

 

 

 

 

「穢れについて教えて欲しいです。認識合わせの為にも」

 

 綿月さんは了解して教えてくれた。

 

「私たち月人の言う穢れとは物理的な汚れに留まりません。命を繋ぐ為に必要な凡ゆることだと捉えてもらって構いません」

「つまり、生きる為に獲物を狩って殺したり、お肉を食べたり、歳を取ったり、子供を産んだり……」

「そう、命を繋ぐ為に必要な事全てです。それらは穢れであり瑕疵を産み寿命となって私たちを死へと向かわせます。それらから逃れる為に私たちは月に都を築き寿命を捨てたのです」

 

 私が考えていた穢れの観念と合致する事を再認して問答を続ける。

 

「月の都では皆さんどのように暮らしているのですか?」

「私は立場上、玉兎達の訓練ですね。後は侵入者の排除などですが、こちらは滅多にありません。月人は皆、与えられた務めを日々果たしています。平穏で豊かですよ。多少退屈ではありますがね」

 

 暮らしぶりを聞く限り、地上の人々と大きな違いはないようだ。けれど、月の都には外の世界を遥かに上回る技術力と永遠がある。そういう意味では月人達にとっては地上人達はある意味で理解不能の存在であるらしい。

 

「私には穢れと寿命を受け入れている地上人達が不思議でなりません」

「不思議、ですか?」

「そうです。地上の者であっても、その生涯をかけて沢山の知識や技術や経験を得て大成し、素晴らしい存在になる例を私は知っています」

「俗に言う天才という奴ですね」

「しかし、地上人には寿命がある」

 

 綿月さんは、心底理解できないと首を傾げた。

 

「その能力を美しく花開かせながら、老い衰え醜く散り果てて汚泥に沈むその損失を、何故受け入れられるのですか。もし花開いた美しき者たちが永遠であれば、世界はもっと美しく在れるのに」

「私はそうは思いません。確かに月の都には永遠があります。しかしそれは物質的な永遠です。綿月さんは老いることも死ぬこともないのでしょうが、その心は違うでしょう。人の心は移ろいやすいものです。まるで季節や神々がそうであるように、美しくなったり醜くなったりします」

「何が言いたいのですか」

「私は魂にも寿命があると言いたいのです」

 

 綿月さんは私の言葉を遮って口を開こうとしたものの、押し黙って続きを待った。彼女は話を最後まで聞き入れてから意見することにしたようだ。

 

「例え身体が不老不死になろうと、何れ魂は死んでしまうと思うのです」

「魂の死とはなんです」

「退屈、倦み、腐敗、それらによって目的やビジョンを失い、為すべき事を見失う事です。無感動に、日々彷徨い歩くだけの影になる事です」

「詩的な言い回しね。けれど言いたい事は分かったわ。月の都は穢れを拒絶し永遠となった。しかし、その永遠は未だ完全ではないと言いたいのね。私たちは不老不死で瑕疵を知らないけれど魂はそうではないと」

 

 頷く私に綿月さんは反駁した。

 

「それは違います。魂の神秘を明かしていない地上人が良く陥る誤りです。良いですか、魂というものは人間の肉体から発生しているのです。完全で瑕疵無き肉体は、完全で瑕疵無き魂を構築します。故に私たちの魂が腐る事など有り得ません」

「しかし」

「では」

 

 綿月さんは断固として言う。

 

「例えば貴方の父が死んだとして」

「……」

「貴方の魂は失意の底に沈み耐え難い苦しみで傷付き腐り果てるでしょう。どうすれば救ってやれますか?」

「それは、自分の心と折り合いを付けて少しずつ乗り越えていくしかないのだと思います」

「それは違います」

 

 正確には間違いではないけれど最適手ではないと綿月さんは指摘した。

 

「苦しむ人の魂を救うのに必要な物は、美味しい食事と暖かな寝床、美酒と素敵な世界だけでよいのです」

 

 美味しいご飯を空腹にならないだけ食べ、暖かくて快適な寝床でゆっくり眠り、時には美酒を嗜み、素敵な世界を目にすることを続ければ、それだけで魂の苦しみから救われる事ができると彼女は言う。

 

「そしてこれらは全て身体を世話してやる事でしょう。魂を救う為に必要な事は身体を救ってやることだけです」

「しかし、外の世界の人間は物質的な豊かさを享受しながらも精神的な貧困に喘いでいます。私にはあの人々の魂が救われているようには見えません」

「それは外の世界の人間が豊かさを取り違えているからです」

 

 綿月さんは憐れみを込めた瞳で語る。

 

「彼らは、物質的な豊かさなど得ていません。美味しい食事を得るには睡眠時間を減らさなければならなかったり、素敵な世界を目にする為に美酒を諦めなければならなかったりする。彼らは豊かさを切り売りして取捨選択を繰り返しているだけで、その実、自らに必要な豊かさを揃える事ができていない。そしてそれに気付いてさえいない」

 

 地上の者について語っているからか、やや辛辣で痛烈な口ぶりとなった綿月さんは断じて言い捨てる。

 

「豊かさとは、一揃いでなければならないのです。何か一つ欠けてしまえば、それはもう悲惨なのですよ。地上の者達は自らの貧しさを取り繕う方法に長けただけです。故に一向に精神的な貧困が解決しないのです」

 

 私は何も言えなかった。彼女の言葉に対する反駁を幾つか考えたが、何れも屁理屈か揚げ足取りにしかならない。私は沈黙の後に頷いた。

 

「分かりました。しかしそんな豊かさが取り揃う理想郷など──」

 

 

「此処にしかありません」

 

 

 部屋に響く声。いつの間にか綿月さんの隣に腰掛けていたその少女は名乗る。綿月豊姫(わたつきのとよひめ)、と。

 

 

 

 

 

「依姫、地上人の案内お疲れ様。後は私がお相手するから大丈夫よ」

「しかし」

「玉兎達が訓練をサボっていたわよ」

「……後は任せます」

 

 綿月さん改め紛らわしいので依姫さんは、応接室の窓から飛び出していった。豊姫さんは桃を口にしながら笑みを浮かべている。

 

「依姫は地上人には当たりが強いからねぇ。何か酷いこと言われたりしなかったかしら?」

「いえ、そんなことは」

「あら、なら良かった。さて、貴方に頼みたい仕事は……貴方が聞かされたような穢れ仕事よりも遥かに大変よ。鈴仙から伝えられたであろう餅米の収穫だとか、そんなレベルの話ではないと認識を改めて頂戴」

 

 うーん、そんな気は薄々していたけれど、嫌な予感が的中してしまったなぁ。

 

「騙すような真似をした事は悪かったと思う。けれど、嘘はついていないわよ。伝えるべき事実を語らずに真実を誤認させただけ」

「紫さんが良くするやり方ですね」

「……あの妖怪を引き合いに出されると何か釈然としないわね」

 

 ともあれ、調子を取り戻した豊姫さんは私に説明を始めた。

 

「地上人の技術の進歩には目覚ましいものがある。まずはそれが前提よ。地上の者達の中には世界が確率で出来ていることに気付いた者達もいるし、宇宙開発も進行している。彼らは表の月にまで辿り着いたし、今や地球の軌道上は人工衛星でいっぱいよ」

 

 豊姫さんは深刻な懸念を表明する。

 

「私たちは危惧している。いつか地上人が私たち程ではないにしろ、それに近しい技術力を手にして月と地上との境が暴かれることを」

 

 月と地上との間にある38万kmも、張り巡らされた結界も、いつか地上人は突破するだろうと彼女は確信していた。

 

「もちろん、それは今すぐではなくて、数百年、或いは数千年後の話でしょうけど、いつか必ず来たる未来です」

 

 そして、断絶されていた社会が出会う時に起こるのは争いである。まして互いに蔑視している間柄なのだ。深刻な出血は避けられないだろう。

 

「私たちはその邂逅を望みません。望まれぬ邂逅は双方にとって損失ですから。私たちは注意深く地上を監視しています。その上で発見された懸念事項の一つを貴方に調査して頂きたい」

 

 豊姫さんは卓上に小型端末を置く。板状のそれから空間上に三次元のモデルが投影された。それは、私が外来本で目にした事のある物体であった。

 

「これは、宇宙ステーションでしょうか?」

「その通りよ。地上人が打ち上げたこの宇宙ステーションは、現時点では月と地球のトロヤ点に位置している」

 

 通常の人工衛星であれば取り立てて問題はない。月と地球のラグランジュ・ポイントに設置されたのも理解できる。しかし最大の問題は──

 

「月の穢身探知装置が反応したのよ。続く調査でこの宇宙ステーション内部に極めて高濃度の穢れが検知された。更に、看過できない地上人の計画も明らかになったことで我々が介入せざるを得なくなったわ」

「地上人の計画?」

「そう、穢土拡張(テラフォーミング)計画よ。地上人は浄土を穢土化する技術を開発している。これは我々にとって明確な脅威だと上層部が判断したの」

 

 ああ、そっか。テラフォーミングは他の天体を地上人が生存できる環境に造り直す技術。それは生と死のない世界を穢れに満ちた世界に造り変える事を意味している。月人達にとっては無視できない計画だろうねぇ。

 

「その顔は何かしら?」

「いえ、すみません。月人も苦労されてるんだなぁって思うと親近感が湧きまして」

「本当に大変よ。地上人の動向に目を光らせないといけないし、定期的に侵攻してくる純狐に対処しなければならないし、上層部は病んで腐った性根で権力闘争を続けているし、玉兎達は使い物にならないし、八意様は帰って来てくれないし、味方はサグメ様ぐらいね」

 

 湧いて出てくる不満に面食らってしまう。

 

「依姫さんは完全で瑕疵無き肉体は、完全で瑕疵無き魂を構築すると仰っていましたが」

「あの子は真面目だからねぇ。それは建前よ。不老不死で他と隔絶した力を持つ集団内の権力者がどうなるかなんて火を見るより明らかでしょう」

 

 吐き捨てるように言う豊姫さんは、断言した。

 

「楽園はね、造るよりも維持する方が大変なのよ」

「心中お察し致します」

 

 また桃を取り出して口にする豊姫さんを見ていると、結構ストレスフルなのではなかろうかと邪推してしまう。

 

「さて、頼みたい仕事はこの宇宙ステーション内の調査だけれど、問題が一つあるの。私の能力で貴方を宇宙ステーションに機器と共に送り込むけれど、帰りの計画が無いのよ」

「え?」

 

 豊姫さんは、笑顔を見せながら言う。

 

「心配することはないわ。貴方はドレミー・スイートによって誘われた夢見る少女なのですもの。死は目覚めにしかならないわ。気兼ねなく生きて死になさい」

「成る程、だから生身の月人や玉兎ではなく、夢の通路を介してやってきた私を使うのですね。穢れても構わない地上人の、それも生身ではない夢中の私を使うなんて、無駄がないですね」

「怖いかしら?」

 

 ふと気付くと、指が震えていた。

 

「怖くないと言えば嘘になります。例え夢でも死にたくはないですよ。寝覚めが悪いですから」

「ごめんなさいね。一夜限りの悪夢だとでも思って頂戴」

 

 豊姫さんは私をお土産屋さんや物品店に案内してくれた。お土産としてはお団子やお餅が玉兎には人気らしいと聞く。私は購入した幾つかの商品を鞄に詰め込んだ。月の都の内観も幾らか写真に収める。

 更に、調査のための機器や無人機も鞄に仕舞い込んだ為、かなりの大荷物となった。山童のバックパックのように膨れたそれを背負って、私は遂にその時を迎える。

 

「では、貴方を宇宙ステーションへ送ります」

 

 豊姫さんは僅かばかりその瞳を曇らせて私を見つめていた。半ば騙して誘い込んだ相手を、自らの都合の為に使い潰すことを良く思えないのだろう。驚くほどに優しい人だなぁ。私たちは互いの目的の為に合意して利用し合っているだけなのだから、憚ることなど無いというのに。

 

 

「豊姫さん」

「何でしょうか」

「気にしないで。私も気にしないよ」

「……礼を言います」

 

 

 周囲の空間が置換されてゆく。景色は目まぐるしく移り変わり、そして目的地へと辿り着いたようだった。私はその光景を目にして納得する。

 

 

「高濃度の穢れかぁ。そっかぁ……」

 

 

 目に入ったのは──密林(ジャングル)だった。



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衛星トリフネ

 宇宙ステーション内部には、無秩序な緑の森が広がっていた。縦横無尽に張り巡らされた木々の根によって地面は覆い隠されてしまっており、絶えず水の流れる音がするものの川は見当たらない。

 

「蒸し暑いなぁ」

 

 熱気は強く、カメラのレンズが蒸気で曇ってしまう程に多湿だ。最も驚くべき点は、地球よりも微弱とは言え重力が存在する事だろう。私は鞄から取り出したうさみみとバイザーを装着して指示を待つ。

 

「人工重力ね。地上より低重力よ、バランスを崩さないように気を付けなさい」

 

 うさみみが豊姫さんからの通信をキャッチした。玉兎間の遠隔通信を利用したコミュニケーションシステムは月─地球間でも機能する。今回の宇宙ステーション調査においても、その通信機能は遺憾無く発揮されていた。宴会道具のような見た目からは想像できないハイテクだ。

 

「一先ず無人機の展開と機器の設置をお願い」

 

 鞄から取り出したあれやこれやを指示通り操作する。全ての機器の展開を終えた時点で、カメラを首から下げて探索を開始した。視界を覆うバイザーは、映像をリアルタイムで月に届ける優れものだ。豊姫さんはこれで私と視界を共有していた。

 

「そこに文字があるわ、見て頂戴」

 

 壁面の苔を取り払い、記された文字の全容を目に写す。

 

「衛星トリフネ。成程、この人工衛星の名称ね。地上人の計画にも同様の記述があったわ。閉鎖空間で完結可能な、最適化された生態系を搭載した実験船。地球そのものを対象としたテラフォーミングの実現を目標としていた」

「管理された世界にはちょっと見えないですよ」

 

 豊姫さんの言に反して、ステーション内部の自然は明らかに無秩序であり、異常に繁栄していた。樹齢も分からぬ異様な形状の巨木が立ち並び、見たこともないような異色の昆虫が飛び回っている。

 

「今確認できている動植物はほぼ全て亜種よ。生物学データベースと照合中だけれど、地上の生物とは異なる進化の道筋を辿り始めているようね」

「ちょっとピンと来ないのですけど、それって凄いことですよね」

「とんでもないことよ」

 

 豊姫さん曰く、トリフネ内の動植物は地上とは異なる低重力環境に急速に適応している最中だと考えられるらしい。

 

「なんて強力な生命力(穢れ)。このまま進化が続けば地上に数匹紛れ込んだだけで生態系に不可逆の変化を引き起こすわ」

「それで良いんだよ豊姫さん。だって地球のテラフォーミングがこの計画の骨子なんでしょ? 既存の生態系を塗り潰してでも繁栄するぐらい強力なら、きっと死の大地も緑で覆える」

 

 トリフネ内部に積み込まれた動植物は、元より生命力の強い種ばかりが選りすぐられていた。更にそれが閉じた閉鎖環境で混じり合い、混沌とした生存競争に晒されながら、限られた資源(リソース)空間(スペース)の中で自己を最大化する為に最適化を続けている。

 

「弱肉強食、適者生存の極みね。穢身探知装置が検知した値は間違いではなかった。地上人を侮っていたわ。認めましょう。この計画は素晴らしい」

 

 地球のテラフォーミングの為に生命力の強い種を産むことが目的であるならば、これ以上ない成果となるだろうと豊姫さんは断言した。

 

「やはり玉兎ではなく夢の貴方を送って良かった。種子一つ昆虫一匹でも外部に漏らす訳にはいかない」

 

 宇宙に浮かぶ緑の楽園は、驚くべき進化を続けている。行き着く先は想像もつかない。しかし一つ言えることは、彼らと地上の間にもまた境が必要だという事だ。けれど、果たしてそれは正しいのだろうか。月も地上もトリフネも幻想郷も、みんな引き篭もって互いに知らん振りだ。世界は分断され続けていく。

 これもまた、ヤマアラシのジレンマの一種なのだろう。ただ、私たちの棘は鋭くなり過ぎた。互いに触れ合えば血が流れる。どれだけ冷たさや寂しさに襲われようとも、独りきりで居る事しかできないのだ。

 

 

 

 

「少し木登りしてくれないかしら。低重力だから楽でしょう?」

 

 私は手近な木の枝に足を掛けて木登りを始める。地上よりも遥かに身軽で、簡単に木の天辺まで辿り着いた。開けた視界から周囲を見回すと一面緑だ。葉が緑色に見えるのは、光合成で用いる光の波長の内、緑色の波長の吸収効率が悪いからであると聞く。

 

「あれ、黒いわね……」

 

 豊姫さんが指摘したのは、森林の中にひっそりと混じっていた一際痩せた木だ。その葉はあらゆる光を貪欲に喰らい尽くすように真っ黒だった。

 

「そのうち枯れてしまうでしょうから、後で無人機にサンプルを採取させましょう」

「枯れるのですか?」

「あれだけ光の吸収効率が良くなると、葉の表面でしか光合成を行えなくなる。けれど、緑色光を吸収しにくい色素なら、葉の表面だけでなく裏側や内部でも光合成が行えてかえって効率が良くなるのよ」

「つまりあの黒い葉の木は」

「きっと遺伝子異常の産物ね。アルビノのようなものよ。あれでは葉の表面で光合成が光飽和に陥って、沢山の光量を得てもその殆どが熱エネルギーとして散逸してしまうわ。勿体無いわね」

 

 閉鎖環境で有害な太陽風や太陽光に囲まれているからか、ステーション内の動植物の遺伝子には瑕疵が多い事が確認できていた。結果として多様な遺伝形質が発現し、環境に合致したものが繁栄しその複製を拡大させている。

 

「あとどれくらいの時間でそうなるかは分からないけれど、異星の密林みたいに、きっと地上とは異色の世界になる。それに、細菌やウイルスも独創的な進化を経た動植物に適応するように進化しているわ」

 

 進化に目的はない。ただ偶然、環境に合致し生存に有利な形質を得た生物が繁栄する事で、繁栄を目的として進化しているように見えるだけなのだと。豊姫さんはそう前置きながら言う。

 

「生身じゃなくて本当に良かったわね。未知の細菌、謎のウイルスの嵐よ」

 

 免疫を持たない細菌やウイルスと出会った時どうなるかは、大航海時代の開拓者たちが先住民に対して示していた。人口密集地でより感染しやすく、対人間に適応する形質を獲得していたそれらにとって、未開の地の住人はさぞかし新天地であったことだろう。目に見えるものも、目に見えぬものも、触れ合った途端に争いばかりだ。

 

「夢の体なら防疫も不要ですか。凄く便利ですね」

「代わりに精神が蝕まれやすいのよ。気を付けなさい」

 

 私は見晴らしのいい木の天辺から写真を何枚か撮り、飛び降りた。低重力ならば霊夢さんの真似っこが出来そうな気がしたが、やはり空を飛ぶことは出来なくてがっかりだ。

 

 

 

 

 

「地上人にそんな信仰心が残っていたとは」

「人事を尽くして天命を待ったんでしょ」

「神には見放されたようね」

 

 トリフネ内部の探索を続けていた私たちが見つけたのは鳥居だった。密林の中に建造されていた神社を確認した豊姫さんは、それが天鳥船神社であることを教えてくれた。その社は繁茂する木々に呑まれかけているものの、未だ神聖さを感じさせるだけの神威を保っている。

 

「地上人達は皮肉にも、自らが成し得た偉業に気付かないでいる。出来ればそのままずっと気付かずにいて欲しいわ」

 

 原因不明の機械トラブルにより、衛星トリフネの制御は既に失われていた。私たちが探査で見つけたコンピュータは軒並み狂っており、正常な応答を返さなかったのだ。地上とのあらゆる通信は断絶しており、トリフネはまるで絶海の孤島だった。

 

「多分、神様は見放さなかったんだよ。衛星トリフネがずっと空に浮かんで居られるように、そうしたんじゃないかな」

「ロマンチックな考え方ね」

「私から言わせれば月人も存在そのものがロマンチックだよ」

 

 黙り込んでしまった豊姫さんをそのままにして、私は神社の賽銭箱に硬貨を投げ入れてお祈りをした。このまま素敵な楽園がずっと空に浮かんでいられますようにと。

 

「雲見明香、貴方には感謝しています」

 

 畏まった声がする。

 

「これで内部調査は十分です。八意様によろしくお伝えください。綿月は今も待っておりますと」

 

 それきり通信は途絶えた。私はバイザーとうさみみを外して神社の縁側で寛ぐ。

 

「急用がある訳でもないし、もうちょっとゆっくりしても良いよね?」

 

 独り言を漏らして、神社の縁側からトリフネ内の景観を眺めた。するうち、鳥居の向こう側から低いうなり声がする。私は怖いもの見たさと好奇心から、そのうなり声の元へと向かった。鳥居の下から周囲を見回すと、茂みの中で何かが動いている。

 

「凄い……」

 

 私は呆気に取られて放心した。茂みの中から姿を表したそれは、ライオンの頭とたてがみをしていて、山羊のように毛むくじゃらの胴体から蛇の鱗に覆われた尾を伸ばしている異形の怪物だった。その背には明らかに役目を果たさないであろう矮小な翼が生えており、その鬼形を際立たせている。

 

「キマイラ? いや、持ち込まれた動物の成れの果てかな」

 

 その怪物は私を目にしたものの、何をするでもなく目前でドローンを吐き捨てて去っていった。それは私が展開した調査機器の一つだったが、噛み砕かれてしまっていて見る影もない。

 

「ありゃ、壊れちゃってる。餌だとでも思ったのかなぁ」

 

 私が設置した機器も、何れは木々に呑まれるか動物に壊されるかのどちらかだろう。トリフネ内の熾烈な生存競争は、混入した異物を無情に排除していく。そして、人間の管理と制御から自律した無人のユートピアにおいて、最大の異物は他ならぬ(ヒト)であった。

 

「お邪魔しました」

 

 私はお辞儀をして神社を去る。勿論、参道の真ん中は通らないようにしながらね。

 

 

 

 

 

 壁面に伝う蔓や苔を取り払うと、船内に取り付けられていた丸窓が次第に露わになった。無人である事を想定している宇宙ステーションには本来不要なものだ。まぁ、それを言うと神社もそうだけど。

 

「嫌いじゃないなぁ。設計者とは馬が合いそうだよ」

 

 自立型の環境制御・生命維持システムに支えられたトリフネは、一切の外部を必要としない。空気も水も食糧も全てがこの船内で賄われており、生態系それ自体も環境を構築するモジュールの一つだ。

 正に宇宙にミニチュアの地球環境を創り出したに等しい成果であり、月人の豊姫さんをして偉業と言わしめたそれは神業である。けれどそこにあったのは、無駄を削ぎ落とした機能美と併存するお茶目な遊び心であった。

 

「外の世界の人間は無駄を楽しむ心を忘れていないのだね。常に無駄なく合理を突き詰め最適な選択を繰り返すことは簡単だ。人間は長く経験を積めば皆そうなる。だから忘れてしまうのだよ」

 

 泥に塗れ、遠回りをし、無駄に足を取られて苦悩していた若き時の心を。頑張る事も、努力する事も、苦労する事も、全て無駄になる。何故ならば、結果を得る為にそんなものを必要としなくなるだけの経験を積んでしまうからだ。

 

「不老でいるなんて簡単だ。遊び心を忘れなければいいだけ」

 

 このトリフネの粋な造形に敬意を表して、一つだけ無駄な事をしてやろうと私は決意した。背負い鞄から取り出したそれは、博麗神社で霊夢さんが作り溜めしていた梅酒である。

 酒を呑む事も酔う事も、ヒトとして生存する上では不要な無駄である。けれどだからこそ意味がある。私は、人間という生き物は無駄で出来ていると思わずにはいられないのだ。

 

「さあ、乾杯をしましょう。この無人のユートピアにおける人間(わたし)という無駄と、そしてその目覚めに」

 

 ぐぃと飲み干す。濃厚な梅の味が、気付け薬かのように身に染みた。

 

 

 

 

 

 気が付くと私は竹林の中で倒れていた。二日酔いのように身体中が怠い。トリフネで酒を口にしてからの記憶がなくなっていて、その手にはツノゼミの一種であろう謎の昆虫が掴まれていた。

 

「酔ってる間に捕まえちゃったのかな」

 

 手から離してやると、昆虫は青空に飛び立っていく。まぁ、幻想郷は全てを受け入れるのだから一匹ぐらいは構わないだろう。

 

「青い空かぁ。身近過ぎて気付かなかったけれど、こんなにも美しいものだったなんて」

 

 吸い込まれてしまいそうな程に青く澄み渡る空が広がっていた。その広大無辺な領域が、今はただただ愛おしい。




西洋タンポポ


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永遠亭

「うーん、参ったなぁ」

「身から出た錆でしょう。逃したのが迷いの竹林で良かったじゃない。ここから外に出ていないのは確かでしょうし」

 

 永遠亭の縁側に腰掛けている鈴仙さんは、呆れ顔で横になった。彼女は疲労困憊といった様子で竹筒の水筒に口を付けている。何故かと言うと、私がツノゼミを逃がしたせいで竹林の兎達が捜索に駆り出されてしまっていたからだ。

 

「竹林の兎達みんなで探してるし、そのうち見つかるわよ」

「本当に申し訳ありません……」

 

 トリフネから帰還後には色々あった。八意さんに綿月さんの伝言を届けたり、鈴仙さんと月のお土産を食べたりね。ただ、私がツノゼミを逃した話が紫さんに伝わったらしく、ここ暫くはツノゼミ捜索が続いていたのだ。

 捜索を手伝ってくれている永遠亭の皆さんに感謝の気持ちを込めて、私はお手伝いさんをさせて貰っていた。半ば騙して穢れ仕事をさせたのは私だから気にしなくて良いと八意さんには言われたものの、酔っ払って外来種を逃したのは他ならぬ私なのである。

 

 酔って正体を失えば一夜にして凡ゆる罪を犯す!

 

 本当にごめんなさい……。

 

 紫さんは地獄の閻魔様もかくやと言わんばかりの長ーいお説教をし、ツノゼミが見つからなければもう二度と飲酒させないと宣言した。その翌日には、私が溜め込んでいたお酒が一つ残らず神隠しに遭ったのだった。

 しかし、紫さんが説教の最後に見せた表情と言葉を、私は忘れる事ができない。彼女は困ったような、諦めたような笑みを浮かべつつも、その口元を哀しげに歪めながら言ったのだった。

 

 

 どれだけ目をかけても、貴方は行ってしまう。

 

 けれど目は離さない。何処まで行っても

 

 面倒見た相手には、いつまでも責任があるのよ。

 

 

 律儀な人だと思った。立場は人を形造る。真面目で律儀な者程、自らの立場に合わせた自分を創る。彼女は妖怪の賢者であり、幻想郷の面倒を見ている者である。それは律儀以外の何者でもない。

 

「しかし、地上の人間が打ち上げた人工衛星を散策してたなんて信じ難い話ね」

「あの昆虫が見つかれば信じて貰えると思いますよ。写真も撮ってますし」

「疑っている訳ではないわ。凄い所を旅したのだと思っただけ」

 

 私は鈴仙さんのお手伝いを任されていた。まあ、医学薬学の知識は無いので雑用と荷物運びぐらいしか出来ることはないのだけどね。

 

「ちょい、鈴仙。それに人間。例のツノゼミを私の手下が見つけたよ」

 

 幸運の素兎である因幡てゐさんが、ツノゼミが捕らえられた虫籠を手にしていた。それを見た鈴仙さんは目を丸くする。

 

「奇妙な見た目ね。こんな昆虫は初めて見たわ」

「でしょー。見つけた奴も若干ビビってたねありゃ。私も驚いたよ。見た目もそうだけど、この私の幸運を以ってしても見つけるのに数日かかったところが特にね」

「ありがとうございます。本当にお手間をかけました」

 

 深々と頭を下げる。すると因幡さんは私の顔を上げさせて悪どい笑みを見せた。

 

「感謝の言葉なんて要らないよ。腹が膨れるものをくれないかな?」

 

 成程、尤もである。私は手持ちの小銭から三食分ぐらいの人里のお金を支払った。因幡さんはしかし納得してくれなかったようだ。

 

「私とその部下みんなを何日も扱き使ったってのにこれっぽっちかい。感謝の気持ちが足りないんじゃないか」

 

 至極、尤もである。しかし私は子供でお金を稼げる定職に就いている訳でもない。なのでこれが現在の全財産なのだよね。困ったなぁ……。

 

「その、お金以外で何かできる事があれば喜んでそうしますので」

「ちょっとー。支払い能力も無いのに人を使うなんて信じられない。じゃあ払えない分はあんたの」

「あんまり揶揄うのはやめてあげなさい。明香が困ってるじゃない」

「ちぇっ、師弟揃って変なとこで甘いんだから」

 

 因幡さんは虫籠を私に押し付けた。

 

「ありがとうございます」

「だーかーらー。感謝の言葉は要らないって言ってるでしょー」

 

 鈴仙さんがジト目で見つめる中、因幡さんは脱兎の如く去ってしまった。

 

「あれは照れ隠しね。人から真っ直ぐ感謝されるのに慣れてないの。竹林の兎なんて悪戯をするか人に迷惑をかける事しか考えない妖精みたいなものよ。気にする事ないわ」

 

 中々辛辣な言葉であるが、実際に落とし穴なり竹槍なりで罠に嵌められたりしている鈴仙さんが言うと刺々しさが違うねぇ。

 

「兎も角、ツノゼミが見つかって良かったわね。師匠には私からも伝えておきましょう。これまでお手伝いありがとう」

「身から出た錆ですから、感謝の言葉なんて要りませんよ」

「人の感謝は素直に受け取るものよ。明香ってどこかてゐに似ているわね」

 

 鈴仙さんは私をまじまじと見つめてから言う。

 

「人に迷惑をかけるけれど、一線を越える事なく、変なところで律儀で、何故か憎めない。そんな感じだわ」

「一線は越えまくってますよ」

「地理的な話ではないわよ」

「さいですか」

 

 ともあれ、ツノゼミが見つかって良かった。私はこの名状し難き形状をした昆虫が入れられた虫籠を貰い受けて、永遠亭を後にしたのだった。

 

 

 

 

 

「永琳から話は聞いているわ。外来種を見つけられたのね」

 

 自宅に帰り着くと、なんと紫さんその人が玄関前で待ち構えていた。彼女は私が首から下げている虫籠を見て僅かばかり表情を顰める。

 

「す、凄いわね。私も見た事ない奇形だわ」

「豊姫さん曰く、低重力の閉鎖環境に適応し出した亜種で、地上とは異なる進化の道筋を辿り始めているそうです」

「……そう、ならば地上に居場所は無いわね」

「どうするのですか?」

「一番良いのは、元いた場所に送り返してあげることよ」

 

 紫さんは私から虫籠を受け取ると、そのツノゼミに憐れむような目を向けた。

 

「きっと異邦の郷に迷い込んでしまって恐ろしいのね。送り返すには明香の手助けが必要よ」

「私のですか?」

「そう。流石にトリフネにスキマを開くのは私でも大変。でも、貴方が目にして来たビジョンを頼りにすればとっても楽になるわ」

「しかし……」

 

 胸に突っかかるこの違和感を吐露してしまわねば、どうしても気が済まなかった。

 

「幻想郷は全てを受け入れるのですよね?」

「そうよ」

「ならば」

「けれど」

 

 紫さんの底知れない瞳が私を射抜いた。

 

「在るべきものは、在るべき場所に在るのが一番よ。幻想郷はね、在るべき場所を失ってしまったもの達の為の楽園なのよ」

 

 虫籠を優しく揺らして見せた紫さんは、まるで羨むような表情をしてツノゼミを見つめた。

 

「この子には在るべき場所がまだ在る。それはそれは幸福な話ですわ。そんな幸福を取り上げてしまうほど残酷な話はないわよね」

 

 

「ならば人間は、外の世界に在るべきではないのですか?」

 

 

 紫さんは私を見た。底知れなかった筈のその瞳は、悲しみを映し出していた。それでも、私の言葉がどれだけ彼女を傷付けるかを理解した上で、問わずにはいられなかった。

 

「人々を在るべき場所から神隠して囲う事は、残酷ではないでしょうか」

「ならば在るべき場所に在れるように、貴方を外の世界に送り出してあげましょうか?」

 

 今度は私が閉口する番だった。しかしその沈黙は、紫さんを笑顔にさせる。

 

「そう言う事よ。人間なんて大きな言葉を使うから形あるものを取りこぼす。少なくとも貴方は人間だけれど、幻想郷に在るべきだし、貴方自身もそれを望んでくれているわ」

 

 一転して嬉しげで、優しい手付きで紫さんは私の胸に手を当てる。彼女はそのまましなだれ掛かるように私の額に額を重ねた。互いの目が合い、離せなくなる。

 

「ほら、温かい。人間は生きていて賢いから、自らが何処に在るべきかを自分自身で決める事ができるのよ」

「しかしその判断の為には正確な情報が必要です。人間の里の人々は妖怪に怯えずに暮らしていける外の世界の事を知りません」

「それは外の世界の人間達もそうよ」

 

 敵わない。心の底からそう思う。

 

「外の世界の人間達は幻想郷を知らないし、幻想郷の人間達も外の世界を知らない。けれどみんな自分が手にしている情報を元にして自らが在るべき最適な場所を見つけ出そうと試行し続ける。私たちは全知全能ではないから、それで良いのよ」

 

 ニッコリとした紫さんは私から身を離して、取り出した扇子で虫籠を覆い隠す。次の瞬間にはまるで奇術のように籠中のツノゼミは姿を消していた。

 

「もしかしたら後数千年もしたら、人々は地球よりもずっと素敵な、自らが在るべき星を見つけたりするかもしれないでしょう?」

「でも情報は必要ですよ。外の世界も幻想郷も、互いの事をもっと知るべきです。そうすれば私たちはみんな自らが在るべき場所をより良く選べます」

「それはNoよ」

 

 頭をコツンと叩かれる。

 

「断絶された者たちが出会う時、起こるのは争いである。私は幻想郷の平和の為にもそれはできないの。これについてはごめんなさいね。でも、理解して頂戴」

 

 紫さんは扇子で口元を隠してしまった。けれど彼女の言葉は、私が畜生界でオオワシに口にした事と殆ど同じだった。平和の為には境が必要である──出会い無くして争いは無い。

 

「けれど人間の知識欲は止まらない。貴方が外の世界を知っているように、互いが互いを強く思えば知る事ができますわ。知ろうとする者は知る事ができる。その程度の塩梅で勘弁してくださいな」

 

 パチンと、小気味良い音をあげて閉じられた扇子が仕舞われる。紫さんはしかし、これまでの厳格な雰囲気を霧散させた。カランと虫籠が落ちる音がして、私は強く抱き締められる。

 

「えっ……あの、紫さん?」

「地底も彼岸も地獄も畜生界も、天界も月もトリフネも夢も外の世界も、何もかも知って尚、貴方はこの幻想郷を自らの在るべき場所に定めてくれている。これが何を意味しているか、分からぬ程に私は愚かではない」

 

 ぎゅうと力を込められる。

 

「明香、忘れないで。貴方が幻想郷を愛しているように、私が貴方という人間を愛していることを」

「……はい」

 

 

 そのまま暫く、されるがままに抱かれていると、気まずそうな声が背後から聞こえる。

 

 

「その〜あんたら、真っ昼間の軒先で何やってんのよ」

 

 紅白の巫女、霊夢さんが頭を掻きながらぼやいていた。

 

「見ていて分からないかしら、親愛のハグよ。因みに外の世界ではメジャーな挨拶でもあるわ」

「うーん、胡散臭いわねぇ。ほら、ちょっと退きなさい」

 

 霊夢さんは足元の虫籠を拾い直して言う。

 

「明香が妖怪を虫籠に入れて人間の里を練り歩いてるって聞いたんだけど?」

 

 紫さんは私を離して抗弁してくれる。

 

「あら、証拠がありませんわ」

「そのようね。はぁ、骨折り損かぁ。人間の里の妖怪退治は人気だから参拝客集めに丁度良かったのに」

 

 両手をやれやれと上げて去っていく霊夢さんに、しかし紫さんは背後から抱き付く。

 

「骨折り損ではありませんわ。此処に一人妖怪が居りますもの」

「あー、成る程ねぇ、やる気?」

「ええ、精魂尽き果てるまで付き合ってあげましょう。丁度良い鍛錬になるわ」

 

 二人して飛び上がり、人間の里上空で弾幕ごっこが繰り広げられた。私は一目見て息を呑む。それは美しさを競うだけあって、見るものの目を惹きつけてやまない。しかし私は視線を外して玄関を開く。

 遠い旅だった。終わりなく、果てしもない道のりだった。けれど私が帰ってくる場所はいつも幻想郷(此処)なのだ。

 

 

 

 

 

「ただいま」

 

 

 

 

fin. 2022/08/28




またもや完結しました。

読了ありがとうございます。

流石にもう明香が見て回る場所も中々に尽きてきましたので、また連載する事がありましてもかなりゆっくりしたものになるかもしれません。或いは不意にアイデアが湧いてきて手早く書き殴るかもしれません。結局分からないのですよね。


いつかまた何処かでお目にかかりましょう。


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当て所なき彷徨
偽天棚


どうもお久しぶりです。
またもや連載しました。

明香の行脚は止まりません。何故ならば、彼女には止まる理由が無いからです。キャラ造形的にも彼女が足を止める所が想像できないのですよね。ともあれ、お楽しみ頂ければ幸いです。

ゆっくり連載していきます。多分ペースはかなり落ちると思います。できれば月一くらいで投稿できれば良いなぁ。

因みに、東方酔華蝶第28話における萃香の最後の微笑みに胸を打たれたので創作熱が復活しました。あの無言の表情は卑怯です。酔華蝶にこれまで登場してきた伊吹萃香というキャラクターの断片が一繋ぎとなって完成した一コマでした。なんて美しい……。


 私は早朝から妖怪の山嶺に踏み入っていた。お目当ては、秘天崖で開かれるフリーマーケットだ。最近は金欠気味なので顔を出そうと思い立ち、背負い鞄に商品の写真を詰め込んで登山中なのだ。

 

「涼しいねぇ、里とは大違いだ」

 

 日が顔を出したばかりの朝方の山中はとても冷涼だ。穏やかな風が、身を撫でるように着物と肌着の間をすり抜けていく。後もう少し冷たければ、涼しさではなく肌寒さを感じさせるであろう境界線上の絶妙な塩梅だ。

 朝特有の澄んだ空気の中で、心地よく足を進めながらチラシに目を通す。山童たちが届けてくれたそれには、開かれるマーケットの概要が書かれていた。目を通した限りでは闇市に近いものに思える。

 

「さて、後少し……」

 

 辛うじて道らしく見える山道を行くこと暫く。ようやく秘天崖が遠目に見えてきた。その屹立する断崖絶壁の袂へ辿り着くと、普段は閑静なそこに沢山の妖怪達が集まっている。彼らは互いに交渉しながら物品をやり取りしていた。とても怪しい雰囲気だ。天狗や河童もいるし、山姥や化け狸まで目につく。

 

「アングラだねぇ」

 

 その怪しさと排他性に私は気圧された。市場に入ると警戒の色濃い刺々しい視線を向けられる。やがて、それは手にしていたチラシに集まってから霧散した。入り込んだ異物が内側のものとなるように、辛うじて受け入れられたようだ。

 私は彼らに混じり適当な場所で商品を並べていく。すると、見覚えのないカードが荷物に紛れ込んでいた。巨大な目玉が描かれている不気味なカードだ。そこはかとなく、不思議な力を感じる。

 

「まぁ、いっか」

 

 カードをアルバムに入れて一息つくと、周囲に煙の香りが仄かに漂っているのに気付いた。辺りを見回すが火の手は見えない。この香りは線香……いや、煙草だろうか?

 秘天崖の袂は日陰で仄暗く、漂う空気は爽やかだが陰気だ。煙草を吹かしたり酒を口にしている妖怪も少なくない。商品も里では滅多に見られない薬草や山菜だらけだ。刻み煙草なんかも並べられているので、恐らくその香りが漂っているのだろうと目星をつける。

 するうち、市場を彷徨く妖怪達と視線が重なる。しかし、彼らは目を逸らして通り過ぎていくのみである。写真も自由に見てもらっても構わないのになぁと思っていると、一人の少女に声をかけられた。

 

「もしや貴方は……人間かい?」

 

 扇子と煙管を手にした雅な少女が問うていた。彼女は目線を合わせるようにしゃがみ込み、じっと私の目を見る。

 

「どうしてこんな闇市場に来たのだ。人間が来るような場所ではないぞ」

「知人の山童からチラシを貰いまして」

「それでも不用心と言わざるを得ないな。せめて妖怪のフリをして変装ぐらいして来たらどうだい」

 

 駒草山如(こまくささんにょ)と名乗った山女郎は、その煙管から周囲に煙を振り撒いていた。しかし、不思議と煙たくはなく心が落ち着くような香りであった。

 

「良いか、妖怪の集まりに人間が顔を出せば碌なことにならない。特に山の天狗は排他的で、余所者には滅法厳しいのだ」

 

 山の天狗と聞いて思い浮かぶのは射命丸文さんだろうか。一時期写真の売買でやり取りがあったが、紳士的で素敵な方だった。但し、それは売り手と買い手という関係性が結ばれたやり取りの中であったからで、人間と妖怪としてならば話が違ってくるのだろう。

 

「しかしこの写真は、かなり珍しいものばかりだね」

 

 アルバムの写真の一つに目を向けた駒草さんは、難しそうな顔をして唸っていた。彼女が目にしていたのは、畜生界に林立するビル群の写真だ。それを手に取った彼女は、あからさまに見せびらかすようにして言う。

 

「これらの写真を撮ってこられたのならば、貴方には闇市場も大したものには写らぬのでしょうね。お見それしました。さぞや名のある神だったのでしょう」

「え?」

「かつての天弓千亦のように、零落した神は時に人間と区別がつかない。どうか不信心をお許しください。私のこの節穴では、どうしても貴方が人の子にしか見えなかったのです」

 

 駒草さんは微笑みながらウインクした。つまり、()()()()()()()()()という訳なのだろう。私が人間だと此処で認めてしまえば面倒な事になる。故に、彼女はこうして一芝居打っているのだ。

 

「お気になさらず。私は雲見明香と申します。よろしくね、駒草さん」

 

 話を合わせつつアルバムを捲って見せていくと、その最後のページを目にした駒草さんは声を上げる。

 

「へぇ、これはアビリティカードだね」

 

 

 

 

 

 私のアルバムの最後に挟んでいたそれは、いつの間にか荷物に紛れ込んでいた目玉のカードである。駒草さんはそれについて詳しく教えてくれた。なんでも、様々な妖怪や人間達の能力が込められたカードらしい。

 

「こんなカードは初めて見たわ。ふむ、本物ではあるようね」

 

 駒草さんがカードを振り翳すと、巨大な眼球が出現する。彼女は、シューティングゲームのオプションのように目玉を操って見せた。市場の妖怪達はギョッとした様子で唐突に現れた巨大眼球に目を奪われている。

 

「これを頂きたい。いくらかな?」

「値段は考えていないのです。言い値で構いませんよ」

 

 商品に値段が無いなんて、売るつもりがあるのかと疑われるかもしれない。ただ、私はアビリティカードの相場など分からぬ人間なので、相手の良心に縋る以上の方法を知らない。それに、今すぐ金が入りような訳でもないのだ。カード一枚程度ならタダで譲っても構わないしね。

 

「貴方の良心を信用(クレジット)しましょう」

「妖怪を信じるなんて奇特な」

「信じられたければ、信じることが肝要ですから」

「そのうち足を掬われるぞ」

「かもしれませんね」

 

 くつくつと、駒草さんの口元が三日月に歪む。

 

「おろかものめが。信じると言う事は騙されたがっている事と同義だぞ。そんな事すら分からないならば、ここでカモにしてやろうか?」

 

 駒草さんは懐から取り出した小銭を私の前に投げ捨ててニヤニヤと笑っている。見てみると、かなりの金額で目が丸くなってしまう。

 

「こんなに貰っても構わないので?」

 

 今度は駒草さんが目を丸くした。煙管の煙が一層濃く辺りに漂い始め、周囲の物音が疎遠になる。まるで私と彼女しか此処に居ないかのようだ。

 

「本気で言っているのか?」

「うん、だってこれだけあればお腹いっぱいご飯が食べられますよ。久しぶりに蕎麦屋さんに行きたいなぁ」

「……何故私を信用する? 龍珠から造られたアビリティカードは山でも絶好の賭けの対象だぞ。少なくともこんな端金でやり取りされるものではない」

「それは私が、貴方に信じられたいからだよ駒草さん。私は神なのだから、信じられるに越したことはないの」

 

 私は胸を押さえて俯く。

 

「かつて私たちは人と自然とその狭間にあって、人々の語りを自然へと届ける窓口でした。しかし、今や私たちは人と他人とその狭間にあって、人々の手を取り合わせる為の象徴です」

「なっ……」

 

 神様になりきって語ってみると、面食らったのか駒草さんは言葉を詰まらせて黙り込んでしまう。

 

「神が人と自然の橋渡しをやめて、人と他人の間に橋をかける時、そこに国が産まれるのです。例え見知らぬ相手であっても、同じ神を信じる者同士ならば信じ合うことができるでしょう?」

 

 私は紫さんの語り口を無意識に真似していた。その仕草、声音、全て胡散臭く聞こえているのだろうなぁ。しかし、神と妖怪の差異は人に祀られるか否かという一点のみだ。妖怪ごっこは、神様ごっこでもある。

 

「神が実在せず、神に仕えるものが在るだけであったように、国も実在せず、国に仕えるものが在るだけです。そして何よりも、神は神話において正に国の産みの親でありました。国とは神の末裔なのです」

 

 幾人かの妖怪達が私に視線を向けていた。神様の真似事はこれぐらいで十分かな? 程々にしないとボロが出てしまいそうだし。

 

「私はそれを見守りたい。神々が産み遺した(幻想郷)の行く末を見届ける為に、この世に生きて居られるだけの信仰()が欲しいのです。だからこれで十分だよ。お賽銭の金額に注文をつける神なんて居ない」

 

 話し終えた私はウインクするが、駒草さんは表情を固くしていた。方や巨大眼球は、その鏡面のような拳大の瞳孔で私たち二人を見つめてその姿を消す。

 私はその消えゆく瞳の中に、アビリティカードの元となった龍珠が存在していた世界を見た。それは、天地が創造され国が産み遺されるまでの神代の風景であった。

 どうやら、このカードは弾幕ごっこでは使えそうにない。自らが存在した時代を人に垣間見せるだけの鏡でしかなかったようだからね。

 

「っ……待って下さい!」

 

 駒草さんは私が小銭に伸ばした手を掴んだ。彼女は首を横に振って取引を取り止める。

 

「賭けをしましょう。そのアビリティカードは賭場で人気の懸物です。それは金にするものではなく、遊ぶ為の物なのです」

 

 弾幕ごっこは言わずもがな、賭けもまた遊戯である故、このカードは遊ぶ為のものであると駒草さんは言う。

 

「もし貴方が金を欲しているならば申し訳ありません。しかし、このカードの使い道はそれなのです。見たところ貴方は弾幕ごっこはできないのでしょう? ならば賭けるしかありません」

 

 駒草さんは私に向けて手を伸ばす。その仕草も言葉遣いも、何故か凄く丁寧だ。

 

「私の賭場へご案内しましょう。久しく見ぬ神よ」

 

 

 

 

 

 私は駒草さんに負ぶわれて秘天崖を飛び越した。その断崖絶壁の向こう側に辿り着いた瞬間、直立する岩肌に遮られていた視界が開けて、一面に広がる高原が目に写る。

 

「偽天棚を見るのは初めてですか?」

「いえ、山頂まで登る途中で目にした筈ですけど……悪天候で遭難してましたからねぇ」

 

 朝と昼の狭間の高原は、日差しに照らされて澄み渡っていた。そこでは、花畑と草原の丁度中間のように疎に花が咲いている。秘天崖を囲んでいたような高木は森林限界を超えている為に存在せず、地面に密着してクッションのようになった植物が繁茂していた。目に見える花々も地上の花とは違って奇異な風貌をしている。

 

「素敵な花ですね」

「地上とは一風違うでしょう? 此処で煙草を吸うと美味いのですよ」

 

 今の時節には、高原の植物は地上より短い夏の間に結実できるように、大きく彩り鮮やかな花を開かせる。まるでその美しさを競うかのように咲き誇るそれらは弾幕ごっこを彷彿とさせた。高嶺の花は比喩でなく地上のそれよりも美しい。そうでない花は、既に絶えて久しいのだ。

 

「この偽天棚に賭場があるのですか?」

「そうです。直ぐに着きます。そんなに遠くはありませんから」

 

 なだらかな高原から雄大な妖怪の山嶺を見上げると、山頂付近の積雪が目に写る。その万年雪は、此処では地上とは異なる季節が巡っている事を雄弁に物語っている。夏に積もる雪なんて、地上ではあり得ない。私は白い息を吐きながら、もう少し厚着してくるべきだったと後悔した。

 

「ちょっと寒いですけど、ゆっくり見て回りたい気分になりますね」

「私も丁度一服したい気分です。少し歩いて行きましょうか?」

 

 駒草さんは地に足をつける。彼女は私を降ろして、自らの羽織を貸してくれた。煙管を口にしながら煙を吐く彼女と、白い息を吐く私は、遠景に万年雪と険しい峰を目にしながらゆっくりと歩む。

 ちょうど良いと思い立ち、カメラを手にして写真を撮る。植生が地上と異なる高原は、目に見えて際立つ写真になるだろう。シャッターを切ろうとした瞬間、一陣の風が吹き抜けていく。

 

「あっ」

 

 これまで物静かだった高原の草花が一斉に戦ぐ。静謐から一転して動的に転回した色彩は、生き生きとして写真に写った。吹いたり止んだりする事を不定期に繰り返す突風は、その度に視界に写る風景を様変わりさせて、私の触覚に尾を引く冷たさを残していく。

 

「あぁ、好きだなぁ……」

 

 この、これだ。風景というものは生きている。この果てしなく低い地上には命が満ちていて、それはこの高山であっても変わらない。だからこそ、それは変化に富み見る者の目を惹いてやまないのだ。写真一枚にすら思い通りに写ってくれない風景は、私にその神秘を絶えず説いてくれる。

 思い通りにならない、私の手を離れた、どうしようもないスケールのものが此処には在ると。神は姿を隠して久しいが、いまだその神秘を明かそうと語りかけてくるものはある。

 

 

「まるで神々の語らいが、聞こえてくるようです」

 

 

 この尊き高原に私は頭を垂れた。此処に鳥居を建てれば、きっと様になる事は間違いなしであろう。



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鯢呑亭

月一


 鯢呑亭の卓で微睡んでいた私は、火照った身体を起こして目を軽く擦り、お猪口をぐいと口に押し付ける。酒の香りが鼻を突き抜けて行き、喉にジンジンとした灼熱感を覚えた。

 

「明香さん、程々にしないと」

「だいじょーぶ、お金ならあるからさ」

「そういう問題じゃ……」

 

 鯢呑亭の看板娘、奥野田美宵(おくのだみよい)さんが眉を顰めながら私を見つめている。とはいえ、駒草さんの賭場で勝ちを重ねた為に、私の財布はずっしりと重い。金が余ったらどうするか。酒を呑むしかないねぇ。

 

「あんまり酔い過ぎると帰れなくなりますよ!」

 

 美宵さんが困り顔をしていた。それでも、酒と肴が揃った一人酒は身に染みて旨い。その上、外からは激しい雨音が響いていた。言い訳には困りそうにないね。

 

「傘を忘れちゃったから雨宿りさせて欲しいなぁ」

「でも、ラストオーダーも過ぎてますし」

「そこを何とか。こんな大雨の中に放り出すなんて殺生です」

 

 私は両手を合わせてお願いする。頭を下げてみると、美宵さんは進退窮まったような表情だ。

 

「仕方ないですね……。まぁ、酔わせて潰せば問題ないかなぁ」

「え?」

 

 何やら呟いた美宵さんは、一転して一升瓶をガンと卓に出す。どうやら飲めという事らしい。私としては嬉しい限りなので遠慮なくいかせてもらおう。

 

 

 

 

 

「あんなに酔っていたのにまだ呑めるなんてどうして!?」

 

 美宵さんは私がどれ程の酒飲みかを見誤っていたみたいだねぇ。空になった一升瓶を横にやり、私は冷たい机に突っ伏して頬擦りをする。冷たくて気持ち良いなぁ……。

 

「あんまり呑ませすぎると身体に悪いけど、こうなればもう徹底的に呑ませるしか……」

 

 私は酒を呑んで頭が冴えていた。酔いからくる特有の全能感を冷静に嗜みつつ、疑問をぶつける。

 

「ねぇ、私がお酒で潰れないと困るの?」

「そ、そんな事ないですよ」

 

 笑って誤魔化す美宵さんは極めて怪しい。ジト目で見つめてみると、彼女はぎこちない笑みを浮かべながらも更に酒を勧めてくれる。

 

「ほら明香さん、もっとお酒はどうですか?」

「私、お酒飲むと冴えるタイプだから何か誤魔化したいなら逆効果だと思うよ」

「あはは〜誤魔化したいことなんて無いですよ〜」

 

 まあ、無理に聞き出すこともないかな。ラストオーダーを過ぎているのに店に居座らせてもらって、その上酒と肴まで頂けているのだから。例えどんな思惑が美宵さんにあっても、私からは感謝しかない。

 

「そっかぁ。なら私も気にしないよ。お酒、頂きますね」

「ひえぇ、まだ呑めるの?」

 

 するうち、背後で店の戸が開く音がする。既に鯢呑亭は閉店している時間帯で、しかも大雨だ。こんなタイミングで来客があるなんて思わずに振り向くと、そこには蛇の目傘を閉じて目を丸くしている知人が立ち尽くしていた。

 

「あやや、先客が居るなんて──明香さん?」

「あれ、なんで文さんが?」

「わぁっ、もうお終いです! 里の人間にバレて……え、知り合い?」

 

 三者三様の疑問が飛び交う。私は美宵さんに視線で説明を求めたものの、彼女は顔を青くして祈るように私たちを見つめていた。分かりやすい顔するねぇ。

 

「美宵さんは文さんを知っているのですか? 彼女は山の鴉天狗ですけど」

 

 口に出して問うてみても返事はない。そこで、文さんに向き直る。

 

「お久しぶりです文さん。鯢呑亭はもう閉店の時間ですけど、何用で来られたのですか?」

「あやや、私は当然酒を飲みに来たのですよ。蚕食鯢呑亭の開店時間はもう過ぎている筈ですが」

「蚕食鯢呑亭?」

「此処ですよ。深夜に開かれる妖怪専用酒場です。ご存じなかったので?」

 

 

 

 

 

 文さん曰く、鯢呑亭では深夜にひっそりと酒場が開かれていたらしい。私にお酒が大量に出されたのも、酔わせて潰さないとその事がバレてしまうからだったのだ。

 

「あやや、そういう事でしたか。明香さんにはバレても問題ありませんよ。彼女は私の知人です。それに彼女は名誉妖怪人間という奴です。なんなら現人神でもあるかもしれません」

「それなら安心ですね。良かった〜」

 

 胸を撫で下ろしている美宵さん。確かに私と文さんの間には親交があり、人間と妖怪という垣根を越えて語らえる数少ない理知的な相手だと私は思っていた。しかし、彼女の奇妙な言い草には目を細めざるを得ない。

 

「名誉妖怪人間? 現人神?」

「妖怪の賢者である八雲紫との度重なる逢瀬や、神として扱われて駒草の賭場を荒らしたその様から、そのように私が記事で扱ったのですよ」

 

 頭を抱える。その頭痛は酔いから来るものだけではなかろう。文さんは素知らぬ風で隣に腰掛けて酒を口にしていた。いや、そんな新聞をばら撒かれると困るのだけどなぁ。

 

「人間離れするのも程々にしないとこうなるのです。もはや貴方は人間としては許されないだけの事をした。ならば、人間でなくなるしかない。私はそのお手伝いをした迄ですよ」

 

 ゾッとする程冷たい声だ。私は冷や水を浴びせられた様に酔いが覚めていくのを感じ、それに抗うように酒を口に運ぶ。

 

「私は人間だよ」

「貴方がどう思おうと自由ですが、貴方以外がどう思うかもまた自由であることをお忘れなく」

 

 実に瀟洒に酒を煽る文さんは、私に目をやらずにそう言い捨てた。少しムッとしてつい口を尖らせてしまう。

 

「それを言えば文さんもでしょう。ルポルタージュは順調ですか? 里で人間のフリをする貴方と、山で神様のフリをした私は、共に同じ穴の狢ですよ」

「あやや、これは手厳しい」

 

 舌を出してちゃらけて見せる文さんの腹は底知れない。ともあれ、この酒場の事は胸にしまって秘密にしてあげないと、美宵さんが可哀想だね。

 

「私は酔って鯢呑亭で酔夢を見ているだけ。大丈夫だよ美宵さん。私は妖怪が里で酒を飲んでいても咎めない人間なのです」

 

 私と美宵さんは手を結んだ。文字通り握手して、酒場の事は他言無用だと合意する。さて、肴でもつまみますか。

 

「うん、美味しい。美宵さんって料理が上手なのですね」

「自慢ではないですけど、自信ならありますよ」

「私はお酒を。それと、明香さんに水を」

「へ?」

 

 首を傾げる私に文さんは言う。

 

「明香の奴が酔っ払ってたら水を呑ませろと、萃香さんから言われてましてね。一体何をやらかしたんですか?」

「その……萃香さんと勇儀さんの酒を全部呑んで潰れたことがありまして」

 

 私の言葉を聞いた瞬間、文さんは口に含んでいた酒を吹き出しかけ、勢い良く飲み込んでから咽せて机に突っ伏した。

 

「じょ……冗談でしょう。良く無事でしたね」

 

 あの時は、浴室で水責めに遭いながら意識を取り戻したのだった。あれ、もしかして私ってお酒を呑むと失敗ばかりしてないかな……。注がれた水を一杯飲み干しながら目を泳がせる。

 

「全く貴方程に妖怪を恐れない人間は珍しい」

「ちゃんと恐れてますよ。妖怪は人間が何を恐れるべきかを教えてくれます。そして、何処で生きるべきかを」

 

 幻想郷を巡る一連の旅路で分かった事は、美しい場所は恐ろしい場所だと言う事だ。それらはその美しさで人を惹きつけて離さない。文字通り帰らぬ人となる事もあろう。

 

「沢山の場所を目にしてきたけどさ、人間が生きられる場所はこの里だけだったからねぇ」

「明香さんが言うと説得力が違いますね」

「あ、ちょっと見てみますか?」

「遠慮しておきます。私の目には毒です。記者として、公平公正な視点から目を光らせねばなりませんから」

 

 幻想郷でも比類なき情報通の一人である文さんは、見る目が変われば世界が変わることを知っている。だから彼女は、私の目に写るものをそのままに受け取る事ができないのだろうね。

 

「幻想郷は客観的に見れば残酷な楽園です。だからこそ面白おかしく記事に書くのです。或る意味では読者の皆さんを騙している訳ですよ。けれど、騙すという行為そのものは善くも悪くもありません。意図こそが重要なんです。私が振るうペンは剣であり、何の為に振るわれるかが肝ですから」

 

 私は文さんの言葉が胸につかえるのを感じた。彼女の主張をそのまま鵜呑みにする事はできそうにない。

 

「人を騙すのは許されない事だと私は思うなぁ。目的が行為を正当化する事はない筈だよ。例えどんな正義に基づこうとも、その行いの罪が許される事はない。だから閻魔は銅を飲むし、私たちは手を合わせてから命を食うのですよ」

 

 人を裁くことは罪であり、命を奪う事もまた罪である。故に閻魔は罪人を裁きながら自らも責め苦を負い、人は生きる為に食らいながら手を合わせて許しを乞う。

 

「どんな理由があっても、人を騙す事は罪です」

「あやや、お堅い方ですねぇ。水清ければ魚棲まずですよ」

 

 文さんは私の胸に手を当てた。中指で心臓を指すように置かれたその手のひらは、そのまま北上して頬に添えられる。彼女の手の温かさが伝わる。まるで、人間と変わらない熱だった。

 

 

「この世には、知る必要のない痛みがあります」

 

 

 次いで、文さんの端正な顔立ちが視界一杯に広がる。彼女は身を乗り出して私を見つめていた。仄かに紅潮しているその表情は、妖しい雰囲気を醸し出している。

 

「だから、優しい騙りが必要なんです」

 

 文さんは私の口に手を当てた。それは沈黙を人に要求するサインだ。けれど、彼女自身は雄弁だ。

 

「里ではよく神隠しの噂話を聞くでしょう? 誰々が居なくなったとか、妖怪に攫われたとか」

 

 含みを持たせた言い方をしながら、文さんは嘯いた。

 

「私たちは当然それを肯定します。私たちが攫ったのだと。そうすれば人間達が妖怪を恐れてくれますから。さて、貴方たちはその神隠しの果たしてどれだけが本当に私たちの仕業なのか分かりますか?」

 

 私はゾッとする。天狗は古来より人を攫う妖怪だとされていた。それは確かに事実なのだろう。けれど、この世に遍く伝わる神隠し全てが妖怪の仕業だとするのも無理がある話だ。つまり──

 

「結果が変わらないのなら、過程は素敵な方が良いでしょう?」

 

 文さんは微笑んだ。しかしその微笑みからは、どうしようもなく人間臭い死臭が漂っているように思えてならない。私は恐れから無意識に身を引いたが、彼女は私の手を掴んで強引に引き寄せる。

 

「それとも、真実だけを知りたいですか?」

「……遠慮しておきます」

「では、人を騙す事は悪い事でしょうか?」

 

 言葉に詰まる。けれどやっぱり、答えは変わらない。

 

「はい。人を騙すのは悪い事です」

「あやや、これは全く頭のお堅い」

「でも、理解はします」

「……ハハッ」

 

 乾いた笑い声を漏らした文さんは、私の手を離して深く椅子にもたれ掛かり、胸を反らして鯢呑亭の天井を茫と見つめる。彼女は脚をぶらぶらさせながら大きく嘆息した。

 

「あ〜……好きです。私の助手になりません? お給金は弾みますよ」

「いや、今はお金には困ってないのですよ」

「そりゃ残念です。いずれご再考を」

 

 悪い笑顔を浮かべた文さんは、枡に並々注がれた清酒を一気に飲み干した。彼女は私を越えるペースで酒を口にしていて、ようやくほろ酔いであるように見える。

 

「情報を制するものが社会を制するのです。しかし、未だかつてここまで情報が不足した時代があったでしょうか? 私たちは深刻な酸欠状態のようなものです。呼吸をしようと口をパクパク開けて、その口に意図と解釈を詰め込まれる」

 

 ありゃ、文さんったら舌が回ってきたね。美宵さんの目がドン引きしているけれど、文さんは憚らずに一升瓶をラッパ飲みして笑顔を浮かべている。分かりやすい酔い方だねぇ。

 

「何処を見ても人々の意図と解釈だけがあります。外の世界の新聞を読んだことがありますか? あれを食え、ここに行け、こう思え、そう命令されているかと錯覚する程に明け透けな意図ばかりです。私たちには処理できる情報がない」

 

 文さんは指し示すかのように両手を広げて見せる。

 

「情報とは、これです」

 

 何が何やら分からずにポカンとしていると、文さんは分かりやすく言い直してくれた。

 

「吹き荒ぶ夜風に、篠突く雨が屋根を叩く音。私たちの元にやって来るこれらのものには意図がない。故に私たちが処理し、解釈し得る情報なのです。私は──」

 

 文さんは言い淀んだ。酔いに後押しされても簡単には口に出せないこともある。けれど彼女は一旦冷静さを取り戻してから、それでも尚その胸の内にある言葉を吐き出す。

 

「情報を制して、人々の目の届かない所に押しやり、世界がどう在るかではなく、私がどう思っているかを伝える。故に明香さんに言わせれば、私の行為には罪が含まれているのでしょう」

 

 けれど文さんは、まるで悪びれる事はない。

 

「その罪のお陰で里の人々がこの幻想郷を楽園と思えるならば、私はそれに胸を張りますよ」

 

 挑発的な笑みを見せながらも、文さんは誇らしげだ。彼女の新聞は私も目にした事がある。その内容は様々だが、読んだ者を一様にアンニュイな気分にさせる。幻想郷で起きる異変や珍事を取り扱うそれは、真実に付随する残酷さを虚偽を用いて薄皮一枚分包むようにして作られていた。

 よく噛み砕いて読んでみると、仄かな苦味がするような記事である。不思議な魅力があり、休日の朝方にカフェでカプチーノを口にしながら読みたいような新聞だ。文さんが自らの記事に胸を張るのも当然だろう。その行いが罪ならば、惚れ惚れする犯行だと言っても良い。

 

「でしょうね。私も文さんの新聞は好きですよ。貴方は私が知る中では最も優れた現実の二次創作者(ジャーナリスト)ですから」

「あやや……そんなに褒められると照れますねー」

 

 酒を更に口にする文さん。彼女はにっこりとして私にも枡を手渡す。目元を引き攣らせている美宵さんをよそに、私たちは浴びるように酒を飲み続けた。

 

 

 

 

 鯢呑亭で酒を飲んでからの記憶がない。あれだけあった財布の中身もない。飲み過ぎで記憶が飛んだのだろうけれど、その失われた記憶の中で何かがあったのだろう。何故なら、その日を境に文さんが新聞を届けに来るようになったからだ。

 月に2回程、彼女は決まって天気の良い日の早朝にやって来ると、私の寝室の縁側に新聞を置いて行く。私が目を覚ましていた場合には、記事の内容について他愛もない雑談をする事もある。

 

「明日は文さん来るかなぁ」

 

 カフェではないから珈琲はないけれど、渋い緑茶を口にして眠気を覚ましながら記事に目を通す事は、私の日々のささやかな楽しみとなっていた。いつの間にやら始まった文さんとの奇妙な関係は、長く細々と続いている。

 

「早起き、しないとね」



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守矢神社

テイワットを旅していたら予想より早く筆が進んだので幻想郷に帰ってきました。凡そ……月一。


「架空索道かぁ。以前に試乗会をしてたね」

 

 人間の里と守矢神社を結ぶ索道が開通し、妖怪の山の神社まで手軽に参拝できるようになったのは記憶に新しい。当時は珍しいもの見たさに多くの人が詰め掛けていた。けれど、索道の人気は一過性のものとして終わる事なく、里の人々が守矢神社へ参拝する為の足として今も重宝されている。

 

「確か今日は運休日ですけど、大丈夫なのですか?」

「勿論です。明香さんにお会いしたいと言う神奈子様たってのご希望ですから」

 

 東風谷早苗さんの話を聞く限り、以前に広められた私に関する誤情報がかなり浸透しているようだ。守矢神社の方々は私を現人神だと思っていて、何やら話があるらしい。

 

「現人神? 此奴は人間だぞ」

 

 オオワシが呆れ顔をしていた。彼は地上の視察という名目で饕餮さんに送り出されてくる事が多々ある。今日も同様であり、私と一緒にいるところを共に連れられて来ていた。

 

「そうなのですか? しかし、一先ずお越しいただかないと神奈子様が納得しませんので」

「自らの都合で周囲を動かすとは傲慢だな。用があるならば其方から足を運ぶのが筋というものだろう」

「オオワシさんは随分とその……お堅いですね。動物霊ってみんなこうなのですか?」

「う〜ん、いや、彼は結構特殊な方かなぁ」

 

 私の肩に乗ったオオワシは、早苗さんにかなり苦言を呈していた。アポもなく呼び出すなとか、早朝など非常識だろう訪ねる時間を考えろ、などなど。

 

「礼を尽くさないという事は相手を舐めているという事だ。畜生界ではそれは抗争に直結する。争いを避けたければ礼儀を重んじ、互いに尊重し合うしかない。さもなければ血が流れることになるのだ」

「ぶ、物騒過ぎないかなぁ……」

 

 あまりの畜生界の物騒さに空いた口が塞がらない。しかし、早苗さんは改まった様子で頷いていた。

 

「確かにその通りですね。礼儀は無用な争いを避けるために有効な方法です。次からは気をつけましょう」

 

 ありゃ、早苗さんって実利的な人だなぁ。相手に対する気持ちのどうこうよりも、それが齎す効果に彼女は注目しているようだった。オオワシも彼女の言葉に頷いているが、私としてはもう少し情緒的な解釈が適切だと思うのだけどなぁ。

 

「守矢神社までは飛んで行くのか? 私が憑いてやらねば明香は飛べんぞ」

「大丈夫です。このように──索道を動かせば直ぐですから」

 

 索道を動かした早苗さんは、私の手を引いて搬器に乗り込んだ。彼女は私たちの視線を外に向けるように手で指し示す。そこには、流れ行く秋の風景があった。この調子ならば程なく着きそうだ。便利になったものだねぇ。

 

 

 

 

 

 

 

「早苗さんは、外の世界から来たのですよね?」

「そうですよ。もしかして明香さんもですか? かなり外の世界に詳しいと聞きますが」

「いや、私は幻想郷生まれ幻想郷育ちですよ」

「そうなのですか……」

 

 索道で空を行きながら早苗さんと雑談していたのだが、彼女は私の答えに肩を落とした。やはり、異邦の地では同郷のものが恋しくなるのだろうか。

 

「そう言えば、天狗の新聞には()()()()()()()とありました。貴方が人間なのは、信仰を失ってしまったからでしょうか?」

 

 新聞の情報を元にした早苗さんの推察は至極妥当なものだった。流石は文さんと言うべきか、実に尤もらしい騙りを記事に練り込んだものである。惚れ惚れしちゃうなぁ……。

 

「ほう、元現人神だったとは初耳だぞ。道理で畜生界でも肝が据わっていた訳だ」

 

 オオワシも腑に落ちたような様子だ。でも、違うのだよねぇ。

 

「私は人間だし、現人神だった事もないよ」

「胡散臭いな。隠す必要もない事だろう。知られて困る事でもあるのか?」

「オオワシさん、あまり聞き込むのは悪いですよ。明香さんにも話したくない事はある筈です」

 

 わぁ、見事に信じられてないねぇ。私が語る事実よりも文さんの広めた虚偽の方が信憑性が高いなんて悲しいなぁ。とは言え、昔から私を知っている人々なら騙されないだろうけれど。

 

「もうすぐです。見えてきましたよ」

 

 架空索道からの景色に守矢神社が写り込んだ。その境内は閑静で人影もない。索道の運休日に妖怪の山まで参拝に来る人は流石に居ないのだろう。

 しかし、博麗神社と比べても立派で小綺麗だ。豪華絢爛といった訳ではないが、索道然り人々の為に隅々までしっかりと手が入っている。数ある神社に特有の厳かで近寄り難い雰囲気もなく、気軽に訪ねられるような空気だ。

 

「これは霊夢さんには手強い相手だねぇ」

 

 境内に妖怪や人外が屯している事もなく、険しい参道を行かねばならない事もない。守矢神社はまさに人と神の為の場所なのだろう。霊夢さんには悪いけれど、人間としては守矢神社の方が親しみやすいに違いない。

 

「よく言えば馴染みやすく、悪く言えば大衆的。けれど、信仰の大事さを知る神々からすれば人を遠ざける理由はないのかな?」

「勿論です。適度に畏れられる必要はありますが、神々にとっては人々からの信仰こそが要です。神社にも沢山の人が参られるに越した事はありません」

 

 索道は終点に辿り着き、その動きを止める。早苗さんは境内へと降り立った。

 

「ようこそ、守矢神社へ」

 

 

 

 

 

 私たちは先導されるままに歩を進めた。鳥居を潜って参道を行き、静謐な境内を脇目にしながら拝殿まで足を運ぶ。しかし、早苗さんは更に進み続ける。困惑して立ち止まると、彼女は振り返って私の元まで戻って来た。

 

「どうしたのですか? 付いて来てください」

 

 早苗さんは私の手を引いて拝殿の中を通り抜け、本殿の目前まで私たちを案内した。正月の初詣でも参るか分からない場所だ。

 

「あの、一体何処まで……」

 

 早苗さんはまだ止まらない。彼女は本殿の中まで上がり込む。その手は床へ向けられていた。私に此処に座れという事なのだろう。

 

「適当にお寛ぎ下さい。直ぐに来られますので」

 

 恐れ多くも本殿の中で腰を下ろすなど初めての経験だ。恐る恐る座り込むと、早苗さんは一礼をして去って行ってしまった。オオワシが私の隣に降り立ってバツが悪そうな顔をする。

 

「おい明香よ。これは居心地が悪いぞ」

「同感だね。落ち着かないよ」

 

 何とも場違いで居た堪れない。決まりの悪さに耐えきれず、この場を立ち去ろうとしたその時、剛毅で厳かな声が私を引き留めた。

 

 

「遠慮するな、招いたのは此方だ」

 

 

 その言葉は重く、立ち上がろうとしていた身体を硬直させる。ぎこちなく顔を上げて仰ぎ見ると、本殿の祭壇に豪胆に座り込んでいる一人の女性が目に入った。

 

八坂神奈子(やさかかなこ)様、ですね」

「いかにも。貴方は雲見明香ね」

 

 守矢神社の祭神である八坂様は、私が目にしてきた中で最も神様らしい神だった。本殿に差し込む朝日に照らされている彼女は、尊大に在りながらそれに足る威厳に満ちている。

 

「言ってはなんだが、幻想郷は空も飛べない無力な人間が呑気に旅をできるほど平和な場所ではない。何かあるだろうと皆が疑っていたが、まさか現人神だったとはねぇ」

 

 八坂様は祭壇から飛び降りると、私の対面までやって来て胡座をかく。

 

「ほら、そう畏まるな。如何に貴方が信仰を失っていようと、私たちは同業者みたいなものだ」

 

 砕けた調子でフランクに接してくれた八坂様のお陰で、幾分か場の空気が弛緩した。一方オオワシは私に思う所があるようだ。少しばかり考え込むような素振りをして彼は口に出す。

 

「明香よ、お前は何故信仰を失ったのだ?」

 

 実の所、私には失う信仰など元より無かったので答えに困る。下手に取り繕ったりせずに単純に答えるのが一番かなぁ。

 

「それは私が神を信じられなくなったからだよ」

 

 答えを耳にして八坂様は眉を顰める。信仰を集めていた現人神その人が神への信仰を失うとは思いも寄らなかったのだろうね。

 

「私はこうして貴方の前にいる。空に浮かぶ星々には手が届かなくとも、目前の神には触れる事ができるわよ。それでも信じられないのかしら?」

「はい。神が実在するかどうかは、神を信じるかどうかとは、私にとっては関係ないのですよ」

「それは残念。けれど、貴方が何を信仰するかは自由だから無理強いはしない」

 

 信仰を否定した私に対しても寛容に、揺らぐことのない平坦な声音で淡々と八坂様は告げる。

 

「自由とは、無数の選択肢の中から自らにとって最適なものを選び取る事よ。更に、自由は常に個人的なものだから、失敗すればその損失は自分で背負うしかない」

 

 八坂様の語った自由は、選択肢を削ぎ落とす為の技法であった。好き勝手に感情に任せて選択する事ではなく、粗悪な選択肢を排除する事を自由だと彼女は言う。

 

「だからこそ、私は信仰を捨てた貴方の選択が腑に落ちない。噂を聞く限りは相当な自由人だと思っていたのに、何故そんな選択をしたのかしら?」

「信じるという事は目を瞑る事であり、愛する事は目を向ける事です。人も神も私からすれば愛おしいものであって、信仰の対象ではありません」

「成程、赤ん坊から目を離せない親のようなものね。愛おしくて目が離せないから信じるなど以ての外だと」

 

 納得したかのように頷いた八坂様は、しかし困り顔をした。

 

「これでは貴方が信仰を取り戻すのは無理そうね。残念、全く残念だわ」

 

 確かにそれは出来ない話だった。美しいものを前にして目を瞑るなんて、私に出来る訳がないからね。

 

「信仰を失えば現人神はその力も失います。しかし、その存在はこのように、神としての権能とは異なり確かなものです。きっと八坂様もそうなのでしょう?」

 

 八坂様の手を握る。文さんの手もそうであったように、血の通う温かな手だった。妖怪も神々も、酒を飲んで共に酔っぱらえるくらいなのだ。彼らが信仰や恐れを失っただけで消えてしまうような儚い存在とは私には到底思えなかった。

 

「ほら、こんなにも確かに在るものが、人の思いなんていう曖昧なものでなくなってしまう訳がない」

「それは幻想郷で私が信仰されているからだ。そうでなければ直ぐに、無名の神霊のように掴み所のないものになるさ。だが、人間は違う」

 

 私の手に温かな手が添えられた。八坂様が私の手を握り返したのだ。

 

「信仰を捨てたのにこんなにも温かい。これが独立不撓の人間というものか。少し、羨ましくもあるな」

「けれど人間は、必要とされなくとも存在できるからこそ底無しに醜くなることだってできます」

「それは悲観的過ぎる考え方ね。もう少し人間を信じてやっても良いでしょう」

「いえ、人間は目を離せば低きに流れて怠惰に腐ります。彼らには、自らを監視して律してくれる神の視線()が必要なのです」

 

 八坂様は溜息を吐いて目を瞑った。

 

「冷たい愛ね。確かに傷口には冷たいものが良い。膿んで醜く腐らないように冷やしてやるのも大事なのかもしれない。けれど、貴方の考え方は極端過ぎる」

 

 私は少し考えてみたけれど、何処が極端なのか見当が付かなかった。首を傾げて見せると、八坂様は答え合わせを始めてくれる。

 

「傷口を冷やして、体を温めてあげる。それが優しさというものよ。貴方の愛はまるで人を丸ごと冷凍庫に放り込んでいるようなものよ。腐りはしないでしょうよ。でも、死んでしまうわ」

「それは……そうですね」

 

 言われてみれば確かに、ずっと見つめられていては息も詰まる。過ぎたるは猶及ばざるが如しと言うし、厳格な愛も考えものなのかもしれない。人を愛すると言う事は、やっぱり難しい事なのだ。

 

「八坂様、ごめんなさい。私は──もっと人間に優しく目を向けてあげるべきでした」

「そうね。分かればよろしい」

 

 私の頬に手が添えられて、無理やり笑顔を作らされる。八坂様もまた笑顔を浮かべながら言った。

 

「笑え。貴方には人に対する優しさが足りない」

 

 

 

 

「それでだな、私たちは結局何の為に呼ばれたのだ」

 

 オオワシは八坂様に単刀直入に切り込んでいく。

 

「現人神が現れたとなれば、私からすれば新手の同業者だ。信仰の奪い合いになることも視野に入れていた。敵情視察のつもりだったが、杞憂だったようで何よりだ」

 

 上機嫌で腕組みしている八坂様は、不敵な笑みを浮かべている。

 

「呼び付けた代わりと言っては何だが、何か悩みでもあれば神らしく助言してやろう」

「うーん、ちょっと思い付かないです」

「ならこの旅のお守りを持って行くといい。気休め程度の力はあるぞ。迷った時に帰り道を思い出せる程度の能力だがな」

 

 私はお守りを受け取り、八坂様と他愛もない雑談をした。それからは折角来たのだからと早苗さんに社務所に招かれたり、掃除を手伝ったり、お茶をご馳走になったりした。オオワシも私の体を使って空を飛び、手の届かない場所の掃除を器用にこなしてくれた。

 

「何故私が地上まで来て神社の掃除をせねばならんのだ」

「まぁ、そう言わずにさ。徳が積めて早く畜生界からおさらばできるかもしれないよ」

「ふん、饕餮様の元を去るつもりなどない」

 

 けれど、オオワシは私の体を使って味わった茶菓子が気に入ったらしく、お茶をしてからはかなり気分を良くしていた。

 

「オオワシさんは茶菓子を食べた事はなかったのですね」

「山の巫女よ、私はオオワシだぞ。何処の世界に緑茶を飲みながら茶菓子を啄むオオワシがいるのだ」

「オオワシさんは地上に来て日が浅いのでご存じないのですね。幻想郷では常識に囚われてはいけないのですよ」

「……そうなのか?」

 

 不安そうに私に問うオオワシに、早苗さんは自信たっぷりに答えていた。

 

「勿論です! 例えばですね、以前の異変では──」

 

 早苗さんは、空飛ぶ船や、月からやってきた兎の侵略者や、ばら撒かれた不思議なカードを端緒とした異変を語った。私もまた彼女の話を聞くうちに昔の異変を思い出していた。

 

「そう言えば、四季全ての花が咲き誇った春や、各地で四季折々の風景が楽しめた夏もあったよね。異変って私みたいな普通の人間からすると、解決する手間がないぶん楽しみでさえあるのだよね」

「確かに、眺める分には物珍しくて良いかもしれませんね。弾幕ごっこも見ている分には綺麗でしょうし」

 

 避けている方は必死なのですよと朗らかに言う早苗さんをよそに、オオワシは私たちの話を統合して一つの結論を口に出した。

 

「幻想郷とは奇妙な……不思議な場所なのだな」

「ですね。非常識の詰め合わせですよ」

「そうかな? 確かに奇天烈な異変ばかりだけど、他の世界も大概だと思うよ」

 

 畜生界からやって来たオオワシと、外の世界からやって来た早苗さんと、私。三者三様の見解が交差しつつも、私たちは一点で合意した。

 

「ただ、美しいな」

「ええ、神々が恋する程に」

「うん、愛おしくてやまないよ」

 

 どの目で見ても、同じく美しく見えるものがある。私はそう思えて、少し嬉しかった。

 

 

 

 

 

 あっという間に時間が過ぎ去り、日が暮れかけてきた守矢神社を私たちは後にした。索道まで見送りに来てくれた八坂様は、搬器に向かう私に声をかける。

 

「空飛ぶ綿毛が風の止んだ土地に根付くように、旅人はその心の風が止んだ土地に根付く。だが、風がいつ吹き止むのかは誰にも分からない」

 

 八坂様は私を真っ直ぐに指差した。

 

「流れ歩くもまた良かろう。漂泊した種はきっと最後には良い土地で花を開かせる。貴方もまた最後には美しい場所に居ることを祈っている」

 

 索道が動き出し、守矢神社から離れていった。当て所なき彷徨を続ける私への最大限の肯定を示した神は、踵を返して手を振りながら去って行く。

 

「お前といると、良く良い神に会うな」

「そうだね。オオワシといると神様に会ってばかりだ」

 

 胸に手を当てて息を吐く。心中は穏やかで爽やかだ。まるで雨後に吹く風が湿った空気を掃いていくように晴れやかだった。こんなにも忌憚なく自身の在り方を全肯定されたのはいつぶりだろうか。

 

「なんだか良い気分だね。救われた感じがする」

 

 索道から目にできる夕暮れの景色に私は息を呑む。手にしたカメラで写真を撮ってから、搬器の縁で頬杖を突いて嘆息した。

 

「昔、こういう景色を歌った詩人が居てね。たった数行の詩なのだけれど、風景が目に見えるような名句だったんだ」

 

 オオワシもまた、流れ行く景色を私の隣で目にしていた。

 

 

「『山は暮れて 野は黄昏の (すすき)かな』」

 

 

 晩秋の風が索道を吹き抜けて搬器を微かに揺らしていた。夕陽が差し込んできていて、私の顔を暖かく照らしてくれる。気分良く鼻歌を歌いながら風に合わせて揺れていると、オオワシが私をじっと見つめていた。

 

「どうしたの?」

「綺麗だなと思ってな」

「うん、綺麗な景色だよねぇ」

「……」

 

 索道が里に着いてしまうのを名残惜しく感じる。どうしていつだって、美しい時は一瞬なのだろうか。

 

「私は饕餮様の元に帰らねばならん」

「気を付けてね」

 

 オオワシは頷いて羽を広げた。

 

 

「さらばだ、我が飛べない友よ。また会おう」

 

 

 飛び立って行ったオオワシは風景の一部となった。藁の匂いも虫の音も遠退き始めていて、秋も終わりが近い。けれど、別れた友とはいつか再会するだろうし、暮れた秋もまた再帰する。そう思うと、過ぎ行く時を惜しむ事もまた楽しみだ。

 

 

「長生きしたいなぁ……」

 

 

 私の呟きは、夕暮れの空に溶けて消えていった。



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柳の運河

「白いなぁ」

 

 冬が深まり、人間の里では雪が降り積もっていた。道行く人々は厚着をして白い息を吐いている。私は澄んだ空気の中、運河沿いの道を散歩していた。道を覆う雪が踏み締めるたびに心地良い音を立てていて、爽やかな気分になれる朝である。

 

「冬だねぇ」

 

 柳の運河は里の各所に通じるように引かれた都市運河網であり、交通の要である。降雪も意に介さず多数の船が行き来しており、道ゆく人々も数多い。けれど、その絶えない往来の最中に在りながら、誰からも無視されている少女が居た。その少女は、河辺の柳の木の下で寒さに震えながら縮こまっている。

 ただ独りである事の孤独は、独り旅の中で身に染みていた。それは寂しい孤独だが、代わりに清々しく開放感のあるものだ。けれど、人々の中にある孤独は気持ちが悪い。何故ならそこには、自ら目を閉ざそうとする人の意思が必ず存在するからだ。

 

「貴方、大丈夫──ではなさそうだね」

 

 その少女は、冬だと言うのに質素な服を着ているのみで靴すら履いていなかった。私の視線に気付いた少女は、警戒の眼差しを向けながら声を上げる。

 

「じろじろ見ないでよ、あんた誰?」

「雲見明香と申します。ただの通りすがりだよ」

「ふ〜ん……あっ、待って!」

 

 少女は慌てた様子で、雪の中から欠けたお椀を掘り出した。霜焼けで真っ赤な手で握りしめたお椀を突き出して、彼女は必死に言う。

 

「恵んでよー。お腹が空いてたまらないの」

 

 物乞いをする少女は、もうずっとマトモな食事が出来ていないのだと訴えた。彼女曰く、今日は雪が食べられるから良い日らしい。

 

「助けてくれる身寄りはいないの?」

「妹がいるよ。ここで待ち合わせしてるの。私の妹はすっごいお金持ちでね、なんだって食べさせてくれるんだよ! きっと直ぐに来てくれるから……だから待ってるの」

「……」

 

 流石に信じられないなぁ。こういう時は、阿求さんに相談するべきだね。彼女は里で最も頼りにできる人の一人だ。きっと少女の助けになってくれる。

 

「私の家に来て。こんな所に居たら死んじゃうよ」

「でも、ここで待ち合わせなんだよ」

「その妹さんはいつ来てくれるの?」

「今日だよ! 美味しいもの食べさせてくれるって約束の日なの」

「そんなにお金持ちなら、どうして貴方を一人きりにしてるの?」

「それは……その、私がダメな子だから」

「そんな訳ないわ。さぁ、行きましょう」

 

 私は少女を説き伏せて、彼女の手を引き運河を離れた。彼女の言葉を信じて置き去りにすれば、嫌な事になる予感しかしなかったから。

 

 

 

 

 

「良い湯だったわ。お風呂なんて久しぶりー」

 

 依神紫苑(よりがみしおん)と名乗った少女を自宅に招き入れ、まずはお風呂に入ってもらった。彼女の服は溶けた雪を吸ってずっしりと重く、まるで氷のように冷たくなっていたからだ。

 

「紫苑さんの服は私が洗っておいたから、乾くまではその服で我慢してね」

「うん、分かった」

 

 紫苑さんの服は火鉢の近くに干している。外は雪が降ったり止んだりする事を繰り返しているので、室内にしか干せなかったのだ。

 

「これ、凄く綺麗な服ねー。私なんかが着てて良いの?」

「私のお古ですから、何なら貰ってくれても構いませんよ」

「い、良いの!?」

 

 紫苑さんの問いに頷いて見せると、手を握られて感謝されてしまった。彼女の純粋で真っ直ぐな視線から照れ臭くて目を背けていると、お腹が鳴る音が聞こえてくる。バツが悪そうに彼女は頭を掻いていた。雪で飢えを凌ぐ生活を続けていたのだから当然だね。

 

「食べ物があった筈だから、ちょっと待っててね」

 

 台所へ向かい、作り置きされていたお結びを持って来る。お盆に載せたそれを紫苑さんの前に置くと、彼女は一も二もなく完食した。しかし彼女は、操り糸が切れたように畳の上に倒れる。私は慌てたけれど、彼女はか細い声で心配要らないと告げた。

 

「ごめん……少し……眠たくて」

 

 火鉢の側で丸くなり、黒猫の縫いぐるみを抱いて紫苑さんは眠りに落ちた。とても幼気な少女の寝顔は、しかし痩せ細っていて頬がこけている。

 私は手を伸ばして紫苑さんの腕に触れてみる。それはまるで枯れ枝のように細かった。彼女は安らかに眠っているが、今にも消えてしまいそうな儚さを感じる。一体どれだけの不幸がこの少女を苦しめたのだろうか。

 

「おやすみなさい」

 

 私は胸が痛むのを感じた。この子にだって、人並みの幸せがあって然るべきだろうに。こんな幼い子供が、こんなになるまで苦しまないといけない道理なんて、この世の何処にも在りはしないのだ。

 

 

 

 

 

「久しぶりね。息災なようで何よりだわ」

「はい。稗田様もお変わりないようで何よりです」

 

 紫苑さんの件について助けを乞うために、私は阿求さんを訪ねていた。急な訪問だったけれど、彼女は書斎まで私を通して時間を取ってくれた。

 

「そう畏まらないで。私と貴女の仲でしょ。他人の目も無いし、もっと砕けた調子で構わないわよ」

 

 私がこれまで目に写してきた幻想郷を、阿求さんが幻想郷縁起に写し取る。そうした編纂作業を何度か共にした事があり、私たちは顔馴染みになっていた。

 

「しかし、あまり馴れ馴れしいのもダメかなぁと」

「お堅いこと。そう言うところが小鈴と貴女の違いね。それなら、いと貴き現人神様が相手なんだから私の方が畏まるべきかしら?」

「分かってて言ってますよね?」

 

 私に関する誤解は、結局のところ噂話らしく曖昧なまま展開していった。即ち、私と言う現人神は零落して消えてしまった神であり、今在る私はその残骸なのだと。

 

死せる幻想(ネクロファンタジア)ね。幻想郷縁起にもそう書いておきましょうか?」

「勘弁して下さい……」

 

 頭を抱えるが、阿求さんは朗らかに笑うのみだ。

 

「冗談よ。貴女が人間であることは昔から承知していますから」

 

 書斎の本棚から幻想郷縁起を取り出した阿求さんは、その表紙に手を添えた。

 

「私たちは人の同胞(はらから)、血に塗れて生まれ落ちて、枯れ木のように老いさらばえて死んでゆく。もう少しゆっくりできれば良いのにね」

 

 私は阿求さんの言葉に頷いた。人間の人生は短く、幻想郷には見るべきものが山ほどある。寝食や仕事などの日々の慣習で更に限られた時間の中で、果たしてどれだけのものを目にできるだろうか。

 でも、だからこそ私たちはそうした限られた時間を愛おしく思うのだろう。人は自らに無いものを求める生き物だ。何を求めているかを見れば、その者に何が欠けているかが分かる。

 

「稗田様も、長生きしたいのですね」

 

 阿求さんは苦笑し、話題を変えて本題に入った。

 

「身寄りのない少女を助けたいらしいわね」

「はい」

「難しくはありません。外来人が里に居着いて暮らし始めることも稀にありますし、そのように少女一人を里に迎え入れる事は可能です」

 

 阿求さんは文を取り出す。

 

「紹介状、と言うよりは口利きでしょうか。里の空き家の一軒に住まえるように手配できます。それから、団子屋が人手を探しているらしいです。お手伝いさんとして雇ってもらえるように書いておきましょう」

 

 年端も行かない少女が寺子屋にも通えずに、生きる為に働かなければならない。それでも、食うにも困るこれまでの生活からは救ってあげられる。多分、良い事なのだとは思う。

 

「子供らしく生きる事は叶わないかもしれませんが、人並みには生かしてあげられるでしょう」

「急で無茶な頼みにも関わらずご厚意を賜り、心から感謝致します」

 

 私は床に両手を付けて深く頭を下げた。頭が上がらないとは正にこういう事を言うのだろう。

 

「その感謝は素直に受け取りましょう。しかし、私は一筆認めただけです。もし恩だと感じて下さるなら、これからもその目を通して幻想郷を垣間見せてくれれば良いのです」

 

 阿求さんは全く気にした風もなく私に接してくれる。

 

「稗田家当主、そして御阿礼の子。そうした名前を使って困っている人を助けられるなら嬉しい限りです。けれど、貴女は何故そこまでしてその子を助けたいのですか?」

「面倒見た相手には、いつまでも責任があるのです。例え気まぐれや偶然からであれ手を出したのなら、最後までキッチリ見てあげないとダメですから」

 

 私の言葉を聞いた阿求さんは、目を丸くして言葉を詰まらせた。彼女は暫く額に手を当てて黙り込み、そしてただ一言だけ呟く。

 

「バラの花との約束を、貴女は守りたいのですね」

 

 阿求さんの言葉の真意が分からずに首を傾げる。すると、彼女は得心がいったように頷いた。

 

「明香さんがその言い回しを何処でお聞きになったかは知らないけれど、それはとある狐が貴公子に向けた言葉です。きっと貴女なら共感できる筈ですよ。肝心な事は、目に見えないのです」

 

 文と共に一冊の本を手渡された。素朴で童話的な挿絵のついた、外来の小説だった。私は阿求さんに礼をし、それらを受け取って稗田家の屋敷を後にしたのだった。

 

 

 

 

 

「あれ? 紫苑さん?」

 

 私が自宅に帰り着くと、紫苑さんは見知らぬ少女と庭先で話し合っていた。その少女は富豪のような立派な身なりをしていて、力強く紫苑さんを抱きしめている。

 

「このダメダメ姉さん! 本当に心配したんだからね! 柳の運河で待ち合わせだって言ったでしょ!」

「で、でも、親切な人が助けてくれて……」

「このバカ! そんな上手い話ある訳無いでしょうが! 何も変なことされてないわよね!?」

「う、うん……」

 

 私は恐る恐る二人に声をかける。紫苑さんを背に隠した少女は、威嚇するように私を睨みつけた。

 

「あんたが姉さんの言ってた明香って奴ね」

「はい。えぇと、貴方は紫苑さんの妹さんですか?」

「そうよ。私は依神女苑(よりがみじょおん)。このしみったれた根暗で貧乏臭い姉の妹よ。あんた、一体何の企みがあって姉さんに近付いたの」

「違うよ女苑。明香は私を助けてくれたの。ご飯だって食べさせてくれたんだよ。ほら、これも貰った服だよー」

「嘘言わないで……」

 

 女苑さんは、あり得ないものを見る目をする。

 

「あの姉さんが物乞いに成功するなんて信じられない」

「えへへ、でも女苑も私の事を心配してくれてたんだー。姉さん嬉しいなぁー」

「仕方がないじゃない。姉さんは私がいなきゃ何も出来ないんだから」

 

 嬉しそうに笑顔を見せる紫苑さんを見て、私は悟った。彼女の幸せには、きっと女苑さんが必要なのだ。だけれども、こんなになるまで大事な姉妹を放っておくのはいただけない。

 

「ねえ、女苑さん。貴方の姉さんは本当にお腹を空かせてて、服もボロボロだったよ。大事な家族なら、ちゃんと気にかけてあげて」

「分かってるわ。でも、姉さんと一緒にいると何もかも上手くいかないから、生活していく為には離れ離れになってからお金を稼がないといけないのよ」

 

 女苑さんはよく分からない理由を語ったけれど、その目は真剣そのものだ。自分の家族を見捨てるような人ではないのだろう。

 

「さあ、姉さん。一緒に飯でも食いにいくわよ」

「わーい!」

「それと、明香って言ったわね。私が居ない間に姉さんの世話を見てくれたのには感謝するわ。だからこそ、私たちはもう行く」

 

 足早に去っていく二人を呼び止めて、私は手持ちの財布を投げ渡した。目を丸くする紫苑さんに、ちゃんと別れの言葉を伝えておく。

 

「もし、またお腹が空いて女苑さんにも頼れない時があったら、いつでも私を頼ってきて」

「姉さんなんかの為にどうしてそこまでするの?」

「一度助けちゃったからね」

「あんた馬鹿よ。しかも救いようの無いお人好しだわ」

「こら、女苑! 悪口言ったら嫌われて食べ物が貰えなくなっちゃう!」

「この、馬鹿共が……はぁ……ありがとう」

 

 げんなりした女苑さんは溜息を吐いて肩を落とし、紫苑さんを引っ張って出ていった。その後ろ姿は苦労人の悲哀を感じさせる。けれど何処か、その背は幸せそうにも見えた。

 

 

 

 

 

「ごめんね阿求さん。必要無くなっちゃったよ」

 

 私は縁側で独りごちながら、阿求さんに認めて貰った文を眺める。この文の言葉には力がある。だから、使い道がなくなったならしっかりと処分しないといけないのだ。

 

「それに格好を付け過ぎたかな」

 

 幾らなんでも財布を丸ごとあげるなんて大胆すぎたね。頭を掻きながら文を火鉢に焚べる。パチパチと音を立てて、ゆっくりと紙が灰になっていった。

 今日のご飯だったお結びも、お気に入りだった服も、阿求さんに取り付けた口利きも、これで何もかも無くなった。けれど悪い気はしない。必要な物が、必要な時に、必要な者の手に渡れたのだ。私の元には何も残らなかったけど、清々しくて良い気分だ。

 

「……でも気分じゃ、お腹は膨れないなぁ」

 

 外は日が暮れて暗く、空は濃い紺色だ。風に乗って香ってくる人々の夕食の匂いが私の鼻をくすぐる。しかし、冬の夜風はあまりに冷たい。私は襖を軽く閉めて火鉢に当たる。

 

「あぁ、寒い」

 

 火箸を手にしてぐるぐると灰を掻いた。同じくグルグルとお腹が鳴き、空腹感で頭が冴える。眠れそうにないので、阿求さんから貰った小説を読みながらこれまでの旅路について物思いに耽った。

 私はずっと当て所なき彷徨を続けてきた。幻想郷で見るべきものを見尽くしたという自負もあった。だけれども、まだ世界には未知に満ちた魅知の旅路が残されている。

 

「そうだなぁ、紫さんか霊夢さんに聞いてみようかな」

 

 この幻想郷の、外の世界について。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

To Be Continued 外世界の憂鬱(Outer World Blues)



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外世界の憂鬱
蓮台野


筆が動いたので投稿します。月一とは何だったのか……。


 外の世界に行きたい。博麗神社で霊夢さんにそう伝える。幻想郷から外の世界に向かう為に、彼女に協力してもらおうと考えたのだ。紫さんも偶然に博麗神社に居たので一緒に話を聞いてもらったのだけど、反応は芳しくない。

 

「紫〜? 駄目ねコレ、壊れちゃったみたい」

 

 石のように固まった紫さんを無視して、霊夢さんは私に問い詰める。

 

「迷い込んだ外来人を送り返すように、明香を外の世界に送り出して欲しいって事かしら?」

「その通りです」

「つまり……何時もの放浪癖ね。どうせ外の世界を見たくなったとか言うつもりでしょ」

 

 私の心中をさとり妖怪みたいに言い当てた霊夢さんは、少し思案するような間を置いて答えてくれた。

 

「出来る出来ないで言えば出来るけれど、私にそれをする理由が無いわ。因みに、明香はお賽銭を入れてくれる敬虔な参拝客だったりするかしら?」

「今は金欠です」

「話にならないわね」

「でも、外の世界で撮った写真を文さんに流すつもりなのです。上手くいけばお金が貰えます」

「ならその儲けの半分を寄越しなさい」

「分かりました」

「物分かりがいいわね。それなら、明香が外に向かいたい日時を教えなさい」

 

 話が進んでいく中で再起動した紫さんが、血相を変えて私に詰め寄る。

 

「一体どうして外の世界に行きたいの? 彼処に見るべきものなど殆ど無いわよ。明香の目はこの幻想郷に向けられるべきだわ」

 

 断言した紫さんは、私の目を真っ直ぐに見つめる。目力に押し負けて視線を逸らすと、霊夢さんが我関せずとでも言うように茶を啜っているのが見えた。

 

「幻想郷は美しい。ならば、それを見つめていれば良いのではなくて? 手間をかけてまで外の世界に目を向ける必要など無い」

「それは違います紫さん。外の世界にもきっと美しいものがあります。私はそれを見つけに行きたいのです」

 

 取り付く島もなく、紫さんは首を横に振る。

 

「もし貴方が外の世界を旅すれば、幻想郷に帰って来れなくなる可能性もあるのよ。結界が貴方を外界の住人だと見做して排除するかもしれない」

「紫さんは、結界を越える事を許してくれないのですね」

「そうよ。けれど……こうやって頑なに否定しても逆効果でしょうね。きっと、どれだけ止めても貴方は勝手に外へ出ていってしまう。なら思い切って、私が貴方を外の世界へ連れて行くわ」

 

 今度は霊夢さんが固まる番だった。彼女は硬直し、暫くしてお茶に咽せて蹲る。けれど、紫さんは完全に無視して私を凝視していた。

 

「外の世界に用事が幾つかあるから、そのついでに連れて行ってあげる。だから、勝手に外へ行ったりはしないで」

「明香に頼まれたのは私よ。勝手に話を掻っ攫うなんて良い度胸ね。大体、人間を攫う算段をつける妖怪を私が見逃すとでも?」

「信用が無いのね。私は明香とお出かけしたいだけですのに」

「無理。胡散臭過ぎる」

 

 霊夢さんと紫さんは互いに睨み合った。そして、幻想郷の流儀に則って問題を解決する事にした。即ち、弾幕ごっこによる決闘である。

 

「本当に楽しそう。羨ましいなぁ」

 

 弾幕ごっこは決闘でありながら遊戯でもある。霊夢さんと紫さんは、真剣に戦いながら心底楽しんでいるように見えた。それはジャンケンに似ている。勝ち負けに一喜一憂するけれど、互いに傷付け合う事はない。

 

「平和だね」

 

 弾幕ごっこは互いの友誼を示す遊戯でもある。握り拳と握手はできないし、振り上げられた拳に手を差し伸べる者もいない。けれど、差し伸べられた手にチョキを突き付けて笑い合える仲が其処にはある。

 

「ほんと、仲が良いなぁ」

 

 二人の事が少し妬ましかった。私も空を飛べれば、あの遊びに混じれただろうか。ま、私にはこっちの方が向いてるね。一緒に遊ぶよりも、遊んでいる子たちを離れた所から眺める方が好きだし。

 

「早く降りてきてくれないかな」

 

 私は一人寂しくお茶をしながら、彩られる昼空を眺めたのだった。

 

 

 

 

 

「寂しい場所ですが、素敵な場所ですね」

「そうかしら? 見る限りは不気味で恐ろしい場所のはずよ」

「……皮肉ですよ紫さん」

 

 見慣れない外の世界の服装をした紫さんが、私の手を引いて案内をしてくれていた。彼女は私の言葉に頬を引き攣らせている。でも、皮肉を言いたくなる気持ちも分かってほしいなぁ。

 

「私は好きですよ。外の世界へのお出かけで墓地を選択する紫さんの感性が」

 

 一面に広がる深夜の平野には墓石が散在していた。此処は、蓮台野として知られている外の世界のオカルトスポットらしい。正直な所、墓地と言うよりは墓石のある荒野と言った方がしっくりくるね。墓には参るものもなく荒れ放題で、平野には雑草が生い茂っている。

 

「ごめんなさいね。でも、此処にはどうしても解決しておかないといけない用事があるの。許して頂戴」

「無理を言って外の世界に連れて来てもらっているのは私ですから、謝る必要なんて無いですよ」

「優しいのね。ありがとう」

 

 笑顔を見せた紫さんは、寂れた墓石に腰掛けて夜空を見上げた。彼女は何かを測るようにその目を眇めてじっと星と月を見つめている。冬の澄んだ空気と人里離れた暗闇のお陰で、夜空は見事なまでに明瞭だ。

 

「もう少し時間があるわね」

 

 スキマから取り出したマフラーを私に手渡して、紫さんは白い息を吐く。

 

「貴方には探偵さんになってもらいましょう」

 

 紫さんは卒塔婆を引き抜き、標識を突き刺し、墓を荒らし始めた。深夜の月明かりに照らされながら浮世離れした美人が卒塔婆を肩に担いでいるのはかなり現実離れした光景だ。現実離れした……盗掘者かな?

 

「墓荒らしの間違いでは?」

「なら、考古学者さんね」

「鞭とフェドーラ帽は何処でしょうか?」

 

 口元に手を当ててクスクスと微笑みながら紫さんは語り始めた。

 

「この蓮台野は、顕界と冥界が重なり合ってしまっている。昔はそうでも無かったのだけれど、お行儀の悪い人が結界を暴いてしまったのよ」

 

 紫さん曰く、この蓮台野はかつてデンデラ野などと呼ばれていたらしい。ただの墓地ではなく、生きながら死んだものとされた老人達が捨てられた姥捨山でもあったそうだ。故に、元より顕界と冥界が密接な場所であり、それに目を付けた何者かに結界を暴かれたのだと言う。

 

「結界とは、在るべき場所からずらされた世界。ずらされたものは、私たちと重なり合う事ができずにその姿を失う。けれど、その存在が失われた訳ではない。ラジオをチューニングするように、ズレを合わせてあげれば浮かび上がって来るのよ」

 

 釈迦が説法をしている。私は紫さんの有り様を見て二重の意味でそう思った。抹香臭い卒塔婆を担ぎ、スキマを弄っている彼女は、墓地についても結界についても第一人者に見える。

 

「結界を暴くために必要なのは、断絶し出会うことのない領域を結び合わせる為の手法。それは時に儀式的に伝わっていたり、あるいは単なる口頭のお呪いのようなものであったりするわ。さて、問題です。この蓮台野にあって結界を暴くためのお呪いとは何でしょうか?」

 

 流石にヒントが少なすぎて見当も付かない。首を傾げて見せると、私が首に巻いていたマフラーを奪い取られてしまう。

 

「はーい。探偵モードは終了ね」

「ちょっと、返してくださいよ紫さん」

「あら、寒い? ごめんなさいね」

 

 紫さんは悪戯げに微笑みながら、自らの首元にマフラーを巻いて見せた。私がムスッとして視線を逸らすと、不意にとある墓石が目に入る。それは、他の墓石とは異なってキッカリ4分の1回転されていた。

 

「紫さん、あの墓石が怪しいです」

「へぇ?」

 

 近付いて良く見てみると、人の手が当てられたように苔が剥がれてしまっている痕跡がある。それに、規則正しい墓石のズレは人の作為を感じさせた。

 

「やっぱり、貴方は良い目をしている」

 

 私の頭を撫でた紫さんは、胸元から取り出した古風な懐中時計と夜空を何回も見比べて目を細めていた。

 

 

「4、3、2……02時30分ジャスト」

 

 

 その瞬間、冬だと言うのに一面桜の世界が広がった。舞い散る花弁を手にしてみると、月で見た立体画像みたいに存在が希薄だ。

 

「これ、冥界の幽霊桜です」

「良く分かったわね」

「何時ぞやに白玉楼で目にした桜にそっくりです」

 

 懐中時計を懐に戻した紫さんは、取り出した扇子で桜の花弁を掬う。彼女はそのままズレた墓石に手をかけ、4分の1回転させてそのズレを直した。すると、世界は目まぐるしく様変わりし、幽霊桜は姿を消して蓮台野の景色が広がる。

 

「上手くいった。完璧よ」

 

 紫さんは扇子に目を向ける。彼女が掬っていた幽霊桜の花弁は、夢幻であったかのように跡形もなく消え失せていた。

 

「暴くのは百歩譲って構わないけれど、後片付けはしっかりして欲しいものだわ」

 

 嘆息しつつ遠い目をした紫さんは、地平線の間際にある明るい都市を見つめていた。夜だと言うのに煌々と輝くその都市は、私には冥界の桜並木よりも異界染みて見える。

 

「夢で見た事はありますけど、直に見ると違うものですね」

「感想はどうかしら?」

「中途半端ですね。畜生界程生々しくはなく、月の都ほど潔癖な訳でもない。何とも曖昧で奇妙な……紫さん好みな世界ですね」

 

 紫さんは否定も肯定もしなかった。多分、私の言葉が皮肉か否か分からなかったのだろう。外の世界には境界が形骸化した場所が数多あり、故に万物が出会う混沌の坩堝でもある。果たして紫さんは、境界と混沌のどっちをより好いているのかな。

 

「紫さんって、境界で区切り別けられた秩序だった世界と、滅茶苦茶な混沌の坩堝と何方が好きですか?」

「抽象的な質問ね。私は両方好きよ。それに、両方必要だと思ってる。肝心なのはバランスなのよ。秩序と混沌はバランス良く存在する必要がある」

 

 紫さんの答えはどっち付かずだった。それは極めて境界的(マージナル)で彼女らしい答えだ。人は、YesとNo、最高と最低、成功と失敗のように物事を二つに別けて考える事に長けている。けれど、だからこそ時にその狭間を無いものとして考えてしまう事がある。

 

「紫さんの考え方、私は好きです。まるで、人々が無いものとして見落とす物事の隙間に根差しているみたいです」

 

 紫さんの答えを得て私はカメラを構えた。向ける先は荒涼とした寂しげな平野で、その遠景に無機質で明るい混沌とした都市が写り込むようにしてシャッターを切る。

 

「あら、桜は撮らないのに荒野は撮るのね。鴉天狗みたいに撮れ高を気にしないの?」

「はい。私は人々の都市と荒れ果てた墓地の境界(ギャップ)の方が好きです。あんなにも人の手が入って整備された都市があるのに、この墓地は忘れ去られて寂れ果てています。まるで人の魂が、狭間の荒野を越えてあの明かりの元に囚われているみたいです」

 

 幻想郷は忘れ去られた者たちの楽園だから、外の世界にはそうではない者たちが暮らしているのだと私は思っていた。けれど、外の世界にも人々に忘れ去られたものはある。考えてみれば当然の事だけど、それは私を憂鬱にさせた。

 

「ねぇ、紫さん。外の世界で忘れ去られて、幻想郷にも来れなかったらどうなるの?」

「……」

 

 紫さんは何も答えなかった。或る意味ではそれが答えなのだろう。

 

「私の用事があるのは、いつもそういう場所なのよ」

 

 私の思いを感じたのか、紫さんは問いかける。

 

「外の世界からも、幻想郷からも忘れ去られた何処にもない場所を巡る事になる。それでも私に付き合ってくれる?」

「勿論です。顧みられる事も無く忘れ去られた誰の目にも留まらないもの。それは、正に私が目に写すに相応しい秘境ではないですか」

 

 微笑んだ紫さんは、私に手を差し伸べた。

 

「そうね、正にそうだわ。ならば、忘れ去られたものたちの寄る辺が密やかに在れるように、封じて秘する旅を続けましょう。私と一緒に」

 

 私はその手を、ぎゅうと掴んだ。



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バー・オールドアダム

「お酒の匂いが凄いですね……」

 

 紫さんに手を引かれて連れて来られたのは、外の世界の酒場だった。眠くなるような甘い匂いが漂う不気味な雰囲気で、鼻を効かせると仄かな煙草の匂いも混じっているように感じる。私は若干気が引けていたが、紫さんは気にする風もない。

 

「酒場ですもの。さあ、早く何か頼みましょう」

 

 隅のテーブル席に着いた紫さんは、対面の席を私に勧めてバーのマスターを呼んだ。しかし、やってきたマスターは私を見て無愛想に告げる。

 

「当店、バー・オールドアダムでは未成年に旧型酒はお出ししていません。そちらのお嬢さんはソフトドリンクで構いませんか?」

「構わないわよ。私はフォービドゥンサイダーをお願い」

 

 私の元に運ばれてきたのは林檎ジュースだった。それはとても美味しかったけれど、酒場に来て酔えないのは致命的だよねぇ。紫さんは黄色いカクテルに口を付けて申し訳無さげな表情を浮かべている。

 

「私たちの地元だと年齢は気にしなかったから失念していたわ」

「旧型酒って名前も耳にしないぐらい田舎でしたからね」

 

 周囲の目を気にしてか、紫さんは幻想郷については暈しながら話をしていた。私はそれに乗っかりながら聞き慣れない言葉について探りを入れる。彼女はウインクをして答えてくれた。

 

「今は新型酒が主流の時代なのよ。どれだけ飲んでも悪酔いしないし、身体にも比較的悪くない。おまけに安価よ。アルコールを分解する酵素が含まれているから、どんな人でも飲めるの」

「あ〜……成程、私は旧型酒の方が好きです。飲んでも酔えないお酒なんて、飲む意味無いじゃないですか」

 

 私の言葉を聞いて紫さんは微笑んだ。きっと、予想通りの答えで笑えてしまったのだろう。

 

「新型酒だって酔えない訳じゃないわ。どれだけ飲んでもほろ酔いしかできないだけよ。お酒に潰されてばかりの明香にはピッタリじゃないかしら?」

 

 ぐうの音も出ない。私は沈黙して林檎ジュースに口をつけた。紫さんはカクテルに口をつけている。羨ましいなぁ、私もお酒飲みたいなぁ……。

 

「さて、此処での用事は聞き耳を立てる事よ。このバーでは客が不思議な体験談を披露するのが常になっている。私はその中から()()の話を探しているのよ」

「それって、百物語みたいなものですか? とてもそんな事をする雰囲気には見えないのですけど」

 

 店内は不気味ではあるもののお洒落で、客も中年や初老の身なりの良い人が大半だ。好い年の紳士然とした人々が、怪談やオカルトの類の話に興じるのは奇妙な感じがする。

 

「このバーの客は情報の質的セレブなのよ。情報の量や速度ではなく質を求めている。不思議なものは希少で価値があるし、体験は経験を伴った記憶だからそれなりに確かなものよ」

「つまり、不思議な体験談はそれなりに確かな価値があるものだと言う訳ですね」

「少なくともこのバーにはそう考えている人々が集まっているわ」

 

 紫さんはこうした酒場を幾つか巡っていて、本物の話を耳にしては結界を封じて幻想にするといった事を繰り返しているのだと耳打ちしてくれた。

 

「ほら、始まるみたいよ」

 

 紫さんが指差す先では、バーの客が一人ずつ語り手となっていた。酔っ払い達の語る体験談は様々だが、一様に眉唾物に感じる。私からすると、彼らの話は慎み深過ぎるのだ。

 里の外では妖怪が跋扈し、神社には神が居る幻想郷の住人としては、妖怪はもっと大胆で目立ちたがりだし、神は自由奔放で人の目を惹く事をするものだとアドバイスしてあげたいぐらいだ。

 

「私たちが語る順番が来たら、明香に任せるわ」

「私にですか?」

「語らなくても良いわよ。見せてあげなさい。そして、本物を見た者が居ないか見ておきなさい」

 

 私の能力を使えと、そう紫さんは暗に言っていた。この用事に私が連れて来られた理由の一つなのだろう。私は目に写したものを人に見せられるし、人が目に写したものを覗き見れる。

 

「構わないのですか?」

「どうせ新手の手品か何かだと思われるだけよ」

 

 そこで私は、何を見せるべきか紫さんと相談した。曰く、怪談らしく恐ろしい話の方が受けが良いらしい。首を捻って考えた後、私は見せる風景を決めた。紫さんにも秘密にして、見てのお楽しみだと嘯く。

 

「えぇ、私も楽しみにさせてもらうわ」

 

 にっこりとした紫さんは、カクテルを飲み干して注文を重ねる。私のカウントではこれで19杯目だ。バーのマスターもグラスの回収に忙しなく往復することに疲れたのか、注文を纏めて取るようになっていた。因みに、紫さんは7杯分も纏めて注文している。冗談でしょ……。

 

 

 

 

 

「さて、そちらのお嬢さんたちの番ですよ」

 

 空のグラスがテーブルを占有し始めたタイミングで、他のお客さんが私たちに声を掛けた。曰く、私たちが体験談を語る順番なのだそうだ。紫さんは頷き、私は席を立って酔っ払いの輪に混じる。周囲からは好奇の目を向けられた。

 

「随分と可愛らしいお嬢さんだね、まだ子供じゃないか。こんな所に来て大丈夫なのかね?」

 

 実際、酔っ払い達と私の間には親子程の年の差があった。下手をすれば孫扱いされてもおかしくない程だ。

 

「友人が居ますから大丈夫ですよ。それで、私も皆さんに倣って不思議な体験談を披露しようと思います。今となっては昔の話ですが、私は一度死んだ事があります。その時に、地獄を見たのです」

 

 しんと、一瞬だけバーが静まり返った。多分、私の語ろうとしている体験談が酔っ払い達の想定外だったのだろう。見えないお友達が居るとか、お化けを見たとか、そうした話を彼らは予想していたに違いない。

 

「私の目を見てください。そうすれば見える筈です。地獄の風景が」

 

 胡散臭そうに、或いは恐る恐ると言った様子で人々が私の目を見つめる。その目を通して一連の風景を私は垣間見せた。積み石の散乱する賽の河原から始まり、広大無辺な三途の川を越えて、彼岸花の咲き誇るあの世の更に向こう側、骸の山が積み重なり暴風の吹き荒れる地獄の風景が広がる。

 

「これは……素晴らしい映像美だ」

 

 酔っ払い達は感動したように息を呑み、見惚れていた。彼らは私が目を閉じると、拍手をして応えてくれる。どうやら私の見せ物は彼らのお眼鏡に適ったらしい。しかし目立ちすぎたのか、話を終えた後の私に一人の男が赤ら顔で近付いてきた。

 

「コンタクトレンズに仕込んだ複合現実デバイスでしょう。しかし、これ程に精細な現実を他者と共有できる技術は聞いたこともない」

 

 興奮した様子の男は懐から名刺を取り出す。

 

「このような場所でこんな真似をするのは無粋でしょう。しかし、お話を詳しく伺いたい」

 

 名刺には知らない企業名が記されていた。男はデバイスの入手経路について執拗に尋ねてくる。どう答えたものか返答に窮して視線を逸らすと、周囲の客たちは呆れた表情をしていた。するうち、客の一人の老人が立ち上がって男の肩に手を置く。

 

「気持ちは分かるがね、あまりしつこいのは良くない。ほら、小さな嬢ちゃんも困っている」

「しかし……これは世に知られていない革新的な」

「ごめんなさいね、彼女は私の連れなのよ。そう言う話はお断りさせて貰ってるわ」

 

 紫さんもやって来て、私と彼を引き離す。赤ら顔の男はしょぼくれた様子でしゅんとしていたが、老人に酒を勧められて酔っ払い達の輪に戻って行った。

 

 

 

 

 

「素敵な見せ物だったわよ」

「ありがとうございます。それに、皆さん良い人ばかりですね。好奇心旺盛過ぎるのが玉に瑕ですが」

 

 紫さんはカクテルを更に飲み干していた。卓上には空のグラスが増え続けている。酒が進んでいると言う事は、きっと機嫌が良いのだね。

 

「良い店には良い客が集まるし、その逆もまた然りよ。店の良し悪しは客を見れば分かる。けれどその様子では、本物を見た者は居なかったみたいね」

「はい」

 

 紫さんは、酔いが回ったのか顔を紅くしていた。彼女は周囲に目を向け、人の目がない事を確認してから語り出す。

 

「貴方は変わったわね。丸くなったと言うべきかしら? 良い人、なんて言葉がその口から聞けるとはね」

 

 含みを持たせた言葉を漏らし、紫さんは妖しい目をして私を見つめる。かなり酔いが深いのか、その目は据わっていた。

 

「昔の貴方は、人間に対する嫌悪をもっと露わにしていたはずよ。それに、貴方が見せた彼岸の風景は尸解の法を用いた時のものでしょう。私はあの時、貴方が遂に人間を超越すると確信していたのよ。けれど、そうはならなかった。一体どうして貴方は人間でいる事を選んだの?」

 

 紫さんは私に問うけれど、あの時に何故人間として蘇ったかは私自身にも分からないのだ。過去の光景を瞼の裏に想起しながら、考えを整理して私は答えた。

 

「この世を見たら、あの世を見に行きたいからです。死ねなくなってしまったら、あの世に行けなくなってしまいますから。それに、私はもう人間の事がそこまで嫌いではありません」

「……それは本心かしら?」

 

 真っ直ぐに、紫さんの目を見つめる。

 

「本心ですよ。私は人について歴史から学びました。それはとても劇的で、読み物としても素晴らしかった。けれど、その演台に上がる僅かな奇人変人達の物語を聞いたところで、果たして人のどれだけのことが分かるでしょうか?」

 

 私は断言する。

 

「人について知りたければその中央値(凡人)について知るべきなのです。外れ値ばかり参照しても認識が歪むだけです」

「歴史の影に埋もれた者たちを見て、人に対する見方が変わったのね」

「はい。人間という生き物は、きっとそれほど善い生き物でもないし、悪い生き物でもないのだと私は思うのです。異常なものは目立ちますが、目立つものに目を奪われては、それ以外のものを見落とします」

 

 取るに足らないもの、下らないもの、詰まらないもの。そうして祀り捨てられた莫大な平凡こそが、人の歴史の殆どなのだと私は訴えた。

 

「私は目の前に在るものを見ます。里で暮らしている人々は、歴史で語られるような暴虐や虐殺とは無縁ですし、このバーの客達も気の良い大人達です。輝かしい素晴らしさもないけれど、悍ましい醜さもない、この平凡とした人々の語られ得ぬ歴史を私は愛しています(見つめています)

 

 紫さんは深く頷いた。

 

「良い答えだわ。貴方はもう人を目の敵にはしないのね」

 

 そして、身を乗り出した紫さんが私の頬を摘む。

 

「でも生意気。もっと子供っぽい理屈をこねなさいよ。可愛くないわ」

 

 グリグリと頬をこねられて、言葉にならない呻きが漏れる。紫さん、痛いです……。

 

「歴史とは堆積した現実であり、地層のように幾重にも折り重なってできている。その層理は土地によって異なるわ。だから、世界各地で過去を掘り起こして、物珍しい地層を集めて継ぎ接ぎにする。そうして私たちが普段目にする歴史ができるのよ。面白いニュースだけを集めたワイドショーのようなものね」

 

 全てのカクテルを飲み干した紫さんは、私の隣の席にやって来た。酒の香りが一層強く周囲に漂う。

 

「故に有りの儘の歴史というものは、貴方の言うように大概平凡で穏やかなものよ。けれど人は、割と困ったちゃんなのよ。こんな風にね」

 

 私の手に指を絡ませて、紫さんは私にキスをした。彼女はたっぷりと時間をかけて一方的に私の唇を貪り、肌着の中に手を這わしてくる。グラスに結露していた水分とカクテルで仄かに濡れた粘着質な指が背を這い回った。

 

「っ!」

 

 びくりと身体が跳ねて、堪らず私は紫さんから顔を逸らす。唾液が糸を引いて離れた唇を繋いでいた。酔ってもいないのに、顔が酷く熱い。

 

「驚かせてしまったかしら?」

 

 耳元で紫さんがねっとりと囁いた。

 

「顔が真っ赤よ」

「……カクテルの味がしました」

 

 言うや否や、紫さんは笑って私を離した。手離された私は、背もたれに深く沈み込み深呼吸する。脈打つ胸が少しずつ落ち着いていった。

 

「ふふふ、飲み過ぎたわね」

 

 私は唇に手を当てて、芳醇な酒の残り香を嗅ぐ。

 

「私は飲み足りないです」

「……分かったわ。けれど此処では人の目もあるし、お会計をして帰りましょう。貴方好みのお酒をたっぷり飲ませてあげる」

 

 私は目を輝かせた。酒場で酒を目前にしながら手を出せないという生殺しの目に遭ったのだから、それもむべなるかな。胸中でまだ見ぬ美酒に思いを馳せ、浮き立つような気持ちになる。

 

「それは楽しみです。約束ですよ。忘れないで下さいね」

 

 紫さんに釘を刺して、私はバーのマスターを呼んでお会計を頼んだ。上着を羽織って店の外に出ると、冬の夜風が身に沁みる。カメラを構えてバーの外観を手早く写真に収めた。

 

「早く飲みたいです。人の目が無いところに行きましょう」

 

 スキマを開いてもらう為に紫さんの手を引いて急かす。一刻も早く幻想郷に帰って彼女の秘蔵しているお酒を飲みたかった。

 

「せっかちねぇ。そう焦らないで」

 

 優し気に笑う紫さんは、人気の無い路地裏でスキマを開いてくれた。

 

「さぁ、帰りましょう。私はお酒をとって来るから、少し待っていて頂戴」

 

 私は勢い良くスキマへ飛び込んだ。深夜の路地裏から一気に景色が様変わりし、幻想郷の平野に着地する。背後を振り向くと、スキマは既に閉ざされていた。興奮冷めやらぬ胸を抑えて、私は紫さんを今か今かと待ち構えるのだった。

 

 

 

 

 

「紫様、何をお探しなのですか?」

「昔この辺りにしまったお酒を探しているの。明香から酒を飲みたいとせがまれたのよ」

「例の人間ですか……」

 

 八雲紫の式である八雲藍が、蔵を漁る主人を目にして呟く。

 

「私には、紫様があの人間に何故執着するのかまるで分かりません」

 

 棚に並べられていた酒瓶の一つを手に取って紫は目を細めた。それは酷く埃を被り、蜘蛛の巣が絡まってしまっている。藍はそれが自らの主人のお気に入りの酒だと気付いた。世の人々から忘れ去られて久しいその酒は、藍の記憶によれば凡そ100年は昔のものだ。

 

「長い時は全てを擦り減らしていく。この幻想郷を創設した当初は、私はこの郷を心から愛していたわ」

「まるで、今は違うかのような物言いですね」

 

 従者の言葉を耳にして、紫は首を横に振る。

 

「今も愛しているわ。けれど、初心忘れるべからずというでしょう」

 

 埃を被った酒瓶をゆっくりと棚に戻し、紫は嘯く。

 

「御阿礼の子は総じて短命な上、その記憶を次代へと引き継ぐ事ができない。幻想郷縁起も人の手によって編纂された書物であるからには、どうしても歴史的なものになってしまう」

 

 自嘲しつつ、紫は自らを指差した。

 

「妖怪は総じて長命だけれど、あまりにも長く生き過ぎて、摩耗と腐敗を避けられない。記憶は虫食いとなり脚色され、鮮烈な思い出しか残らなくなる。心も体も擦り減って、死ぬ事もできずにゆっくり腐っていくのよ」

 

 紫は、真新しい酒を選んでスキマにしまい込んだ。

 

「時は、認識できない小さな須臾が繋ぎ合わされてできている。永遠は時を無限に引き延ばすけれど、その引き換えに須臾の境目は際限なく綻んでいくわ」

「難解です。理解しかねます」

「あら、そう難しいことを言っている訳ではないのよ。つまりね、()()()()()()()()()()()()()()というだけの事よ」

 

 胸に手を当てて、紫は過去を思い出そうとする。しかし彼女は、自分自身が覚えている過去が氷山の一角でしかなく、莫大な日常が失われてしまっていることに気付いた。

 

「儚い時は容易く摩耗する。だから、しっかり見つめ直して誰かに覚えていてもらうのが一番よ。明香には、私が目に写して来た全てを写している。彼女は永遠の時を生きる私たちとは異なり、堅強な時をもつ人間であり、その目に天地万象を写すことができる」

 

 藍はようやく、紫が自らの最初の疑念に答えているのだと理解した。

 

「儚いものは、堅強なもので包み込む。大事なものをしまい込む時の基本ですわ」

「だから紫様は、あの人間を気にかけるのですね。ですが……人間は、死にますよ」

「それは仕方がない事よ。もし明香が死んでしまったらその時は、せめて素敵な墓場で暮らさせてあげましょう」

 

 欠伸を漏らした紫は、目を擦りながら言う。

 

「もう眠たくて堪らないわ。普段冬眠している季節に起きるのは辛いわね。明香にはまだ見せてあげたい外の世界の風景が沢山あるわ。後は藍に任せたわよ」

「私にですか?」

 

 藍は目を丸くする。

 

「藍も最近の外の世界には足を延ばしていないでしょう。見聞を広めて来なさいな。きっと良い経験になるわよ」



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卯酉東海道

「ふむ、この駅だ」

 

 藍さんは駅名を目にして言う。

 

「京都と東京を結ぶ卯酉東海道(ぼうゆうとうかいどう)の片割れ、酉京都(ゆうきょうと)駅だ。乗り込む列車は向こうのプラットフォームだな」

 

 私たちは、卯東京(ぼうとうきょう)駅行きの列車に乗り込んで席についた。四人まで座れるボックス席は空きだらけで、車両を貸切にしたみたいだ。

 

「空いてますね」

「真昼だからな。早朝だと通勤客でぎっしりだ」

「それに随分と古風な内装に加えて……窓?」

 

 卯酉新幹線ヒロシゲは、その全車両が半パノラマビューだった。つまり、天井と床以外は全て窓になっているのだ。まるでガラスの筒のように開放感溢れる作りである。

 

「何故こんな不思議な作りに?」

「それがだな、地下トンネルがスクリーンになっていて、通過する列車に映像を見せる仕掛けになっているらしい」

「それはまた大掛かりな仕掛けですね」

「この仕掛け、カレイドスクリーンには卯酉東海道最大の予算が投入されたそうだ。広告費で元が取れる想定らしいが、随分と思い切った事をしたものだ」

「うへぇ……広告ですか。風情がありませんね」

 

 朝の通勤列車に詰め込まれたサラリーマン達が、半パノラマのスクリーン全面に映る広告に照らされている様子を想像してゾッとする。

 

「その心配はいらない。カレイドスクリーンに映る風景は、歌川広重の東海道五十三次をモチーフとした京都と東京間の旅の風景だ。この時間帯は利用客も少ないから、広告枠を取る者がいないのだ」

 

 私はほっとして胸を撫で下ろした。広告視聴の旅になるかと思ったよ。

 

「東京までたった53分間の短い旅だが、楽しむといい」

 

 ヒロシゲは駅を出発して加速し、カレイドスクリーンには東海道の風景が映り始めた。藍さんは、駅の売店で売っていた新型酒に口をつけている。私も同じく購入した駅弁を口にした。

 

「不味くないけど……美味しくもない……」

「合成食品だろう。幻想郷の食事には敵わないようだな」

「バー・オールドアダムのソフトドリンクは美味しかったのですが」

「旧型酒を出すような高級バーのメニューと駅の売店を比べてやるな。それは酷というものだ」

 

 私たちは飲食しながら窓の外に目を向けた。方や見渡す限りの海岸が広がり、方や一面の平野と松林が目に入る。だが、こうしたスクリーンの風景は外の世界でもそれほど珍しくはない。

 外の世界では人口減少によって小規模な村落は消滅し、一部の都市部に人口が集中していた。結果として大部分の自然は人の手を離れて、かつての姿を取り戻している。

 

「皮肉ですよねえ。一歩でも都市から足を踏み出せば大自然を目にできるのに、通勤電車には作り物の映像だなんて」

「しかし、狐に化かされた者がその幻に心動かされるように、人間は現実と幻想を区別できないようだぞ」

「作り物か本物かは関係ないと?」

 

 スクリーンの風景は目まぐるしく転変していた。そこには、切り立つ峰の連なる山脈、青く澄んだ大海原、幾何学的な鳥居、そして旅路を行く人々が次々と映し出されていく。スクリーン全面の風景の中で小さく描かれた旅人達は、彼らが旅する道のりの遠大さを思わせた。

 私たちが椅子に腰掛けながら過ごす53分間の距離を、旅人達は徒歩で、或いは騎馬で旅したのだ。幾つもの河川と53の宿場を越える旅路の果てしなさは、どれだけの物語を生んだのだろうか。きっと彼らの人生に刻まれる旅となったに違いない。

 

「そうだ。作り物でも本物でも、重要なのは真に迫っているかどうかだ。夢でも現でも、素晴らしいものに感動し、詰まらないものに退屈する。それが心というものだろう」

「確かにそうですね」

 

 私は頷き、スクリーンに映る幻想の旅人達に想いを馳せた。

 

「私が経験してきた感動の中には、作り物の物語に依るものもあります。現実と幻想のどちらにより感動してきたかカウントしてみれば、私の心の本質がどちらなのか分かるかもしれませんね」

 

 次第に東京へと近付いていく東海道の原風景は、まるで旅人が織り成す遍歴のアルバムのようだ。花より団子とは言うけれど、私は駅弁を傍に置いてスクリーンに見惚れたのだった。

 

 

 

 

 

「そう言えば、紫さんはお元気ですか?」

「勿論だ。今は私に後を任せて冬眠中だ」

 

 藍さんは新型酒を飲み干して、深く席にもたれていた。彼女は憂鬱そうに目を細めている。

 

「紫様は矛盾したお方だ」

「矛盾、ですか?」

 

 ぼんやりと窓の外へ目を向けながら、藍さんは呟いた。

 

「矛盾とは閉じられた窓のように、真実が隠された有様だ。だから、矛盾に目を向ければ隠されたものが見えてくる。例えばだな……」

 

 藍さんは顎に手を添えて考え込む素振りをする。

 

「紫様はお前に幻想郷に居てほしいと思っている。だが、紫様はお前を外の世界へ連れ出すように仰られた。矛盾している。そこには目に見えない隠された真実が存在する訳だ」

 

 僅かに落ち込んだ様子で、藍さんは自嘲した。

 

「真実を見抜くだけの賢しさが無い者にとっては、世界はきっと矛盾に満ちているのだろうな。私もそうだ。紫様の矛盾から真実を見抜く事ができずにいる」

 

 藍さんは更に落ち込み、鞄から旧型酒──幻想郷のお酒を取り出して口にした。とても大胆な飲みっぷりだ。

 

「私は紫様に比べれば遥かに未熟だ。従者は主人を支えるものだが、私は逆に助けられてしまう事も多い。こんな様で大丈夫だろうかと不安に思う時もある」

「でも、藍さんが居るお陰で紫さんが冬眠できているのですよね? 後を任されているのも信頼の証ですよ」

「……そうだな。ありがとう明香。少し気が楽になったよ。甘えてしまってすまない。お前にも悩みがあるなら言ってみてくれ。私ばかり話しても不公平だからな」

 

 私は悩んでしまった。悩みらしい悩みが思い付かないのだよね。

 

「う〜ん、悩みが無いのが悩みですかね」

「はは、羨ましいよ」

「強いて言うならば憂鬱です。こんなにも良い風景なのに酒が飲めないなんて」

 

 藍さんは苦笑して酒を煽った。するうち、周囲が一斉に仄暗くなる。カレイドスクリーンが暗転してエンドクレジットが流れていた。53分間の旅は終わり、卯東京駅に到着した事をアナウンスが知らせる。

 

「さあ、行こうじゃないか。東京へ」

 

 

 

 

 

 私は街の通りの隅で立ち尽くし、お上りさんのように周囲を見回して確信した。東京では、京都とは正反対に時が進んでいるのだと。

 かつて栄えたこの都は、今や寂れて旧時代の姿を取り戻しつつある。未来と過去へ向かうそれぞれの都は、時を経るほどにその差異を広げ続けていくのだろう。

 

「道路はひび割れて荒れ放題。環状線は草原となって謎の花が咲き誇っている有様だ。正直、治安も良くはない。気は抜くなよ」

「でも、何故か落ち着きます」

「京都には潔癖に過ぎるきらいがある。それに比べれば多少荒れていても東京のほうが落ち着くのかもしれん」

 

 東京は精神的に未熟な都市だと、京都と比較されて揶揄されることもある。けれどそれは、裏を返せば若々しい精神が生きていると言う事である。洗練されて冷たい都市か、荒削りで熱っぽい都市か。これはもう、善し悪しではなく好みの問題だろう。

 

「さあ、紫様の指示通りに一つずつ閉ざしていこう」

 

 藍さんが手にしている地図には、山のように印が付けられていた。今時、紙媒体の地図を用いるのは珍しい。街中で屯している人々の目も集めているようだった。

 

「問題が起こりそうな結界の切れ目は……11箇所か」

「私にできる事は無さそうですね」

「いいや、しっかり手伝ってもらうぞ」

 

 私の手をぐいと引っ張って藍さんは言う。

 

「猫の手も借りたいぐらいだ。まあ、橙はまだ幼すぎるからお前の出番さ。結界の切れ目を見つけたらリボンで縛れば良い」

 

 紫さんのスキマによく付いているリボンを手渡された。かなりの束になっている。

 

「それと、これがお前の分の地図だ。印の付いている場所を頼んだ。終わったら此処で集合だ」

「分かりました。やってみます」

「身の危険を感じたら無理をする必要はない。集合後に教えてくれ。私がなんとかしよう」

 

 三時間後に集まる約束をして藍さんと別れた。時間が余れば自由にして良いとの事なので、実質的には東京現地解散での遊行である。

 

「う〜ん、ちょっと遠出してみようかな」

 

 何処を見ても懐古を誘う有様で、京都から過去の世界に迷い込んだみたいだ。人々は皆怪しい格好をしていて、あちこちで小さな騒ぎが起こっている。寂れてはいても騒がしく賑やかな街並みだった。ふと、火事と喧嘩を花とまで呼んだ太古の都市が脳裏を過ぎる。

 

「おっと、しっかりやる事はやらないとね」

 

 私はリボンで髪を纏めて気を引き締め、地図と睨めっこしながら路地裏へと向かうのだった。

 

 

 

 

 

「また無駄な事を。外の世界の結界まで気にする事はないだろう」

「そうは言っても、捨て置くわけにもいかないわ。特に人口密集地の結界は、神秘の露見の危機を伴う。出来る限り人々にはオカルトを馬鹿らしく思っていて欲しい。それは隠岐奈だって同じ考えでしょう?」

 

 布団から上半身を起こした紫は、冬眠中の自らを訪ねてきた摩多羅隠岐奈に答える。しかし、彼女は納得していないようであった。

 

「だが優先順位と言うものがある。式まで送り出してはならん。冬眠中の警護が居ないではないか。お前の身の安全が最優先だろう。私たちには敵がいる事を忘れたのか?」

「その時は、隠岐奈が私を助けてくれる──わよね?」

「ああ。だが紫の為ではないぞ。あくまで幻想郷の為にお前が必要だからだ」

「あら、冷たい」

 

 寒さに震える紫に羽織を被せて、隠岐奈は溜息を漏らした。彼女は気を削がれて、やれやれと首を振りながらジト目で紫を見つめる。

 

「全く、もう少し厚い布団を使ったらどうだ。それにその寝巻きも冬に着るには薄着だな」

「あら、寒くないと冬眠できないでしょ。それで、今日は態々私を起こしてまで何の用事かしら?」

「座敷童子の件だ。一時期、外の世界に彼女達の需要があって送り出していただろう。今は後戸の国からテレワークをしているが、そろそろ戻って欲しくてな」

「何故かしら?」

「後戸の国をいつまでも仕事場にされても困る。座敷童子は座敷に居てこそだろう」

 

 気怠げに欠伸をしてから、紫は仕方無しに気のない返事をした。だが、続く隠岐奈の言葉に彼女は雰囲気を変える。

 

「それでだ、お前の子飼いのあの人間はいつになったら喰うつもりなのだ? 私も以前に見たが、あの目はもう十分に熟れているだろう」

「食べないわよ」

 

 隠岐奈は呆れて頭を掻く。

 

「何を言っている。あの目にありったけの物を写してから手中に収めるつもりだった筈だ。紫が最近は人間を喰っていないのも、量より質を重視するようになったからだと思っていたのだが」

「……」

 

 黙して語らない紫を見て、隠岐奈は頭を抱えて悩みこむ。

 

「参ったなぁ」

 

 うんうんと唸って、隠岐奈は厳しく言い放った。

 

「紫、お前は人間側に寄り過ぎている。人と妖、その狭間こそがお前の在るべき場所だ。少しは身の振り方を考えろ」

「それなら……きっと私は妖怪の賢者失格ね。ただの一人の少女が愛おしくて堪らない。色んな理屈は考えたのよ。私のバックアップ、或いは同じものを愛する同志。けれど、この胸の重みの理由には何一つしっくりこない」

 

 乾いた笑いを漏らして隠岐奈は俯いた。彼女には紫の心中が手に取るように分かったからだ。寧ろ、共感できたとさえ言えるだろう。

 

 

「分かるよ」

 

 

 ポツリと呟かれたその言葉に、紫は刮目する。

 

「人間は、愛おしいよなぁ」

 

 隠岐奈は、自分の胸の内に何度も波のように引いては寄せるその感情が心底不思議だった。彼女はそれに折り合いをつけて愛と呼び、自らが寄り添う者達に向けるごく自然な感情だと結論付けていた。

 

「人間に惹かれて、手を伸ばして、また引っ込めて、その繰り返しだ。私もお前もずっとそうだ。博麗の巫女も二童子も、私たちが人間から離れられずにいる証拠みたいなものさ。まるで不治の病だな」

 

 紫とは違い、隠岐奈は人間であった二童子を配下に加えている。その上彼女は、障碍を負い嘲笑と差別を受ける者たちの傍に在り続けた被差別部落民の神でもある。彼女もまた紫と同じく、ともすればそれ以上に人間に惹かれていたのだ。

 

「隠岐奈と一緒にしないで頂戴。私は人類種云々の話をしている訳ではないわ。もっと個人的な対象への愛についての話よ」

「ならば、お手上げだ」

 

 隠岐奈は両手を上げて降参のポーズをする。これ以上話を進めるなら、苦虫でも噛み潰さないと聞いていられないと彼女は判断したのだ。

 

「お前は変わったな、八雲紫。まるで人間みたいだ」

「貴方も見てきたでしょう、摩多羅隠岐奈。堅固な岩が風雨に晒されてその形を変えるように、幻想郷は少しずつ変わってきた」

 

 隠岐奈は、口元を緩めて笑みを浮かべた。馬鹿にするでもなく、面白がるでもない、悲しい笑みであった。

 

「世界でさえ変わるのよ。私たちが変わらずに居られるなんて幻想、馬鹿らしいとは思わないかしら?」

 

 隠岐奈は目を伏せ、冬風が吹く庭先を障子の隙間越しに見る。

 

「それは少し、寂しいな。まるで自分が見知っていたものが無くなってしまったみたいだ」

「過ぎ去ったものを偲ぶ心があれば十分。頬を撫でた風に手を伸ばしても二度とは触れられない。仕方がない事よ」

「そうか……」

「因みに、今の私の事を隠岐奈はどう思う?」

「良いんじゃないか? 昔のお前よりは可愛げがある」

「あら、酷い言い草。私は昔から可愛らしいわよ」

 

 

 二人は顔を見合わせて、吹き出して笑った。



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緑のサナトリウム

「これは運命ね!」

 

 目を輝かせて少女は笑顔を見せていた。しかし、私は全く状況が飲み込めない。東京で結界の切れ目を閉ざそうと悪戦苦闘していた私は、うっかり境目に落ちて地面に投げ出された。そして、顔を上げてみると一面ジャングルの光景が広がっていたのだ。

 

「あの、此処は何処ですか? 私はさっきまで東京に居たのですが」

「此処は信州のサナトリウム(療養所)よ。私はマエリベリー・ハーン。言いにくければメリーと呼んで構わないわ」

 

 メリーさんは、興奮冷めやらぬ様子で捲し立てる。

 

「私はサナトリウムで療養していたの。でも、何もない山奥に隔離されて退屈で堪らなかったから、気晴らしも兼ねて脱……散歩をしていたら貴女が降ってきたって訳よ」

「えぇと、私は雲見明香と申します。東京観光をしていたら迷ってしまいました。信州だなんて、凄い遠くまで来ちゃったなぁ」

 

 私の言葉に頷き、メリーさんは訳知り顔をして教えてくれた。

 

「それはね、明香ちゃんが結界の境目に触れてしまったからよ」

「えっ?」

 

 メリーさんは疑われていると思ったのか、自信たっぷりに胸を張って断言する。

 

「明香ちゃんが境目から落ちてきたのをしっかり見たもん。私の目はそういうのが見えるのよ」

 

 話を聞くと、メリーさんはオカルトスポット巡りや結界暴きをしていて、こうした不思議現象にも慣れたものらしい。結界を暴き回る彼女と、結界を封じて回る私の邂逅には、彼女が言うように確かに運命的なものを感じる。

 

「此処がサナトリウムですか? どう見ても森の中ですよ?」

「此処は一面緑だから、緑のサナトリウムって呼ばれているのよ。でも、天然の植物は一つもない人工のジャングルなの。行き過ぎた環境保護主義の末路だわ。気軽に散歩出来るけれど、刺激もなくて退屈よ」

 

 人工のジャングルと聞き、私は成る程と納得した。此処に広がっている風景が、工業製品のように規格に則った無機質な有様だったからだ。

 かつて訪ねた鳥船では、人の手を離れた動植物が栄華を極めていた。しかし此処では、あらゆるものに人の手が入っている。木立は等間隔に植えられていて、枝葉の間から日が差すように枝打ちされていた。地面は歩きやすく岩や石が除かれていて、雑草も生えていない。

 

「確かに退屈ですね。あからさまに作り物である事を見せつけるような風景は……風情がないです」

「でも、明香ちゃんが此処では一番不自然よ。さて、お話をしましょう。隠し事はなしよ。()()()()()()()()

 

 隠しても無駄だと言わんばかりに、メリーさんは私のリボンを指差した。彼女はこれが尋常な品ではない事に勘付いているのだろうか? 好奇心に満ちた瞳が私を貫いていた。

 

「何が望みですか?」

「先ずは、明香ちゃんが空から降ってきた顛末を知りたいわ」

「もし嫌だって言ったら?」

「私は結界の境目が見える。だから、そこにある境目を開いて明香ちゃんが元居た場所に帰してあげられるわ。けれど、話したくないなら仕方がない。私は退屈な散歩に戻るとしましょう」

 

 意地悪い笑みを浮かべたメリーさんは、態とらしくゆっくりと踵を返した。仕方なく私は、彼女を呼び止めて東京での一部始終を語る。でも、私が幻想郷出身な事はバレないようにしないとね。

 

 

 

 

 

「ふーん、成る程ねぇ」

 

 私たちは、二人して木陰に座って雑談に興じていた。話を聞き終えたメリーさんは思索に耽り、耳にした情報を端的に纏めて語る。

 

「つまり、明香ちゃんは結界を封じて回っているのね。まるで物語の主人公みたいだわ。神社の巫女さんだったりするのかしら?」

「フリーのアマチュアカメラマンですよ」

「わぁ、骨董品」

 

 私が取り出したカメラを見て、メリーさんは驚いたようだ。彼女は興味深そうにそれを目にしている。

 

「レトロなカメラねぇ」

「えっと、そういう趣味でして。メリーさんは療養中と聞きましたが、病気なのですか?」

「そうよ。ウイルス性の譫妄(せんもう)らしいわ。地球上には存在しない未知のウイルスなんだって」

「……」

 

 私は無言で距離を取った。けれど、それを見たメリーさんは大笑いする。

 

「ふふふ、そんなにあからさまに避けられると悲しくなるわ。でも、私はこの病気が好きよ。見たこともない素敵な風景の幻を沢山見せてくれるの。明香ちゃんも感染してみない?」

 

 ずいと近付いてきたメリーさんは、私の目を覗き込むようにして顔を近付けてきた。彼女の言葉にはとっても興味を惹かれるけど、病気にはなりたくないなぁ。

 

「遠慮しておきます」

「残念。それじゃ離れておきましょう。ソーシャルディスタンスって奴ね。明香ちゃんと私の境目はこれぐらいかしら」

 

 身を引いて離れてくれたメリーさんは、憂鬱げに愚痴を漏らした。彼女は病人とは思えない程に元気で、だからこそサナトリウムでの生活がとても退屈なのだろう。

 

「病気になるとする事が無くて暇よね。体調は絶好調なのにずっと隔離されて発狂してしまいそうだわ」

「私なら本を読むか外の景色を楽しみますよ」

「私物は持ち込み禁止だから本は読めないわ。この作り物の退屈な景色を楽しむのも少し難易度が高いわね」

「それなら、私の目を見てみますか?」

 

 バー・オールドアダムでそうしたように、私の能力を使えばメリーさんの退屈を潰せるかもしれない。私は自らの目を指差し、屋台が立ち並ぶ中有の道のお祭り騒ぎを彼女に見せた。彼女は暫く硬直していたが、やがて悩ましげに唸って言い切る。

 

「白昼夢ここに極まりって感じね。まさか、こんなにも素敵な幻覚を見ちゃうなんて重症だわ」

「えっ?」

 

 メリーさんはその風景を幻覚だと結論したみたいだ。私にとっては都合が良い勘違いだけれど、目にしてきたものを空想の産物のように扱われるのは少し寂しい。

 

「よくできてるわね。まるで明晰夢みたい。蓮子に良い土産話ができたわ」

 

 彼女は空間を抱きしめるように両手を伸ばした。まるで精巧な人形やぬいぐるみを撫で回すような仕草である。

 

「えぇと……」

「あら、そう困る必要はないわよ。私にとっては現実も幻想も共に目に見えるもの。例え幻の存在であっても対応は変わらないわ」

「でも、幻じゃないです。この風景は私がこの目で写した形在る本物なのです」

「縁日のお祭りなんて直に見たのは初めてだわ。資料として記録は残っているけれど、今や廃れているものね。私はこの風景が好きよ。みんな生き生きとしていて、屋台の店主も商魂逞しそうだわ。きっと商品もお祭りらしくボッタクリ価格だったりするのかしら?」

「……」

 

 にこやかなメリーさんは、イマジナリーフレンドを相手にするかのような気安さで優しく言う。

 

「明香ちゃんが東京から此処に迷い込んだ理由が分かる気がするわ。貴方は異物なのよ。社会は不思議なものを認めない。貴方は排除されて此処に流れ着いたのだわ。社会の管理外にある不思議を集めた此処にね」

 

 同時に、メリーさんは物憂げな様子でもあった。憂いと喜びが入り混じったように揺らめく瞳が私へと注がれる。

 

「貴方はきっと素敵な世界に居たのね。どんな不思議も受け入れられる寛容な世界に違いないわ。此処はね、窮屈なのよ。私が生まれ持った力は否定され続けてきたし、結界を暴く事も許されない」

「私もあんまり暴いて欲しくはないのですが……」

「私には普通に見えて触れられるものが、普通ではないらしいわ。だから隔離療養ですって。笑えるわよね」

「笑えませんよ」

「ええ、ちっとも」

 

 額に手を当ててメリーさんは俯く。その陰鬱な有様を見るに、彼女は隔離されたサナトリウムでの生活で精神的に参っているようだ。何とか元気付けてあげたいな。気が滅入って良いことなんて一つもないからね。

 

異物(わたし)は排除される──この世界から」

「そうでしょうか? メリーさんは私を排除された異物だと言いました。けれど私には、寧ろ手を引いて招かれたようにも思えます」

 

 顔を上げたメリーさんは苦笑していた。

 

「ロマンチックな考え方ね」

「だって、私は貴方に会えて嬉しかったですから。境目に落ちて迷い込んだ異界で、同じ人間の、それも私を送り返せる能力者と遭遇するなんて奇跡でしょう?」

「それなら、サナトリウムを抜け出した山中で、結界から落ちてきた女の子に異界の風景を見せてもらえるのも奇跡的だわ」

 

 メリーさんは、私に身を寄せて手を握る。しかし、手に込められたその力はやや暴力的だ。逃さないって事かな?

 

「そうよ。この出会いは奇跡的だわ。はいサヨナラなんて勿体無い。秘封倶楽部のメリーさんとしては、貴方の秘密を暴きたいわね」

「それは困ります。誰だって人に知られたくない秘密はあるでしょう?」

「悪いけど、隠された秘密を暴くのが私らのやり方なのよ。明香ちゃんを元の場所に帰す駄賃代わりとでも思って、質問にいくつか答えてね」

 

 メリーさんは興味津々と言った様子で多様な質問を投げかける。その中には、秘密の核心を突くものもあった。

 

「明香ちゃんの故郷は何処?」

「此処ですよ。この惑星、その島国。天文学的尺度で見れば凡ゆる土地が近隣であり故郷なのです」

「なるほど、答えたくないって事ね」

「……」

 

 答えられない問いには、言葉を濁しつつやり過ごす。けれど、答えをはぐらかす度に目付きが鋭くなるメリーさんを見るに、誤魔化すだけ無駄かもしれないなぁ。

 

「その、あんまり困る質問はやめて下さいね」

 

 

 

 

 

「うぅ……」

 

 結界を越えると、そこは東京の寂れた広場だった。私は呆然として地面を踏み締める。戻って来れた事への驚き半分、メリーさんの能力への嫉妬半分だね。あれではまるで結界を操る妖怪だ。

 

「羨ましいなぁ」

 

 妬まずにはいられなかった。メリーさんの能力は、時代が違えば崇拝の対象になっても可笑しくないものだ。幻想郷でも、彼女はユニークな人間の一人として人の目を引く存在になっただろう。

 

「異能だなぁ」

 

 メリーさんは社会に受け入れられず、サナトリウムに隔離された。けれど彼女は、結界の境目を操作する力を持ちながら、それでも外の世界で生きる事を選択している。その自由な選択も、私は素敵だと思った。

 私たちは生まれを選ぶ事はできない。けれど、生き方を選ぶ事ならできる。メリーさんが選んだ生き方は、自分の能力を使って精一杯この世界を楽しんで生きる事だ。境目が見えるのだから、触れて暴いて何が悪い。向こう側を垣間見るのはとっても面白いのだと、彼女は笑って言っていた。

 

「分かるなぁ、その気持ち」

 

 人の気持ちを分かったつもりになるのは好きじゃない。それでも、メリーさんの思いに共感してしまう。私も多分、彼女の同類に違いない。この目にこの世を写す事、それが私の生き方だから。

 

「さて、此処は東京の何処なのかな?」

 

 地図を広げて首を傾げる。紙の地図では、目立つランドマークから現在地を割り出すしかない。途方に暮れて空を見上げた時、背筋にゾクリと何かが走った。

 

「15時32分19秒。北緯35度39分29秒15、東経139度44分28秒88?」

 

 青空なのに、天球全面に星と月を結節点とした幾何学模様が浮かび上がって見える。

 

「わぁ、便利」

 

 頭痛が酷く、額が熱っぽいけど、何はともあれ上手くいった。饒舌に語りかけてくるようになった空を見ていると、旧友の意外な一面を見たような気持ちになる。

 

「空って、こんなに雄弁だったのね」

 

 倶に天を戴く限り、メリーさんと私は同じ空の下にいる。幻想郷と外世界もまたそうなのだろう。この多弁な空は、何処にいようと私たちに寄り添っているのだ。彼女の問いをはぐらかした私の答えは、或る意味では私の真意でもあったのかな。

 

「世界は一つだ。だから私たちは線を引く」

 

 手に持ったリボンで、私を通したスキマを縛り付けた。まるで、傷口が縫合されて治癒していく過程を目にするみたいだ。リボンを抜糸すると、後には何も残らなかった。うん、これで良い。万事疎漏無い。

 

 

 

 

 

fin. 2023/01/22




Extra 外世界の青(Outer World Blue)

「それでね、これが彼女のリボンよ」

 蓮子は、サナトリウムから退院してきたメリーの体験談に目を丸くする。

「羨ましい。異世界からの迷子だなんて、私も話してみたかったわ」

 蓮子は少し寂しかった。メリーだけが遠くへ行ってしまったような、先を越されてしまったような、複雑な思いをかき混ぜた感情が彼女の胸中に渦巻いていたからだ。

「あら、案外普通の女の子だったわよ。格好も普通だったし、話し方も丁寧な日本語だったわ。でも……」
「でも?」
「とても綺麗な目だったわ。彼女がその目に写していた光景の奔流は、ヒロシゲで見たカレイドスクリーンの何倍も美しかった」
「あぁ、妬ましい! 私にも見せなさいよそれ! メリーだけ狡いわ!」

 子供のように駄々を捏ねる蓮子を見て、メリーはくすくすと笑いながら思案した。暫くして、明香がビジョンを共有した方法を見様見真似で模倣して、メリーは蓮子の頬に手を添えてその瞳を凝視する。

「何、メリー? ちょっと、そんなに見つめられると恥ず……」

 蓮子は言葉を失った。メリーの瞳が揺らめく度に形を変える天地万象の風景の数々は、正しく幻想のファンタズマゴリアだった。その圧倒的なまでの情報の洪水は、蓮子の思考を完全に停止させる。


「あ、できた」


 ぽつりと漏れたメリーの言葉は、動かなくなってしまった蓮子の耳を右から左へと流れていったのだった。





「うぅ、隔離入院だなんて酷いです。ちょっと熱が出ただけじゃないですか」
「あんたねぇ、一体何処をほっつき歩いたらそんな起源不明の謎ウイルスに感染できるのよ……」

 防護服を着用している鈴仙さんが、困惑を感じさせる声音で言う。永遠亭に入院した私は、厳重な隔離措置を受けていた。病室から一歩出る事さえ御法度である。

「師匠が特効薬を作るまで退院は無理ね。さて、具合はどうかしら? 体温は平熱、目立った症状もなし、健康そのものに見えるけど」
「はい、元気ですよ。最近は病室の窓から見える空がとてもお喋りさんで、見ていて飽きないのですよ」
「……空がお喋り?」
「ほら、見て下さいよあれ」

 私は、陰圧の隔離病室ユニット越しに窓ガラスの向こう側を指差した。そこに広がっていたのは、外の世界と変わらぬ色彩と雄弁さでもって地上の時空を語り明かす空模様である。

「知ってますか? 外の世界でも幻想郷でも、空は青色なのですよ。月とは大違いですね」

 頭を抱えた鈴仙さんは、簡単な診察を済ませて退出していった。私は日がな一日中、移り変わる空模様を眺めるしかない。けれど、空を見つめる程にこの譫妄は洗練されていくように感じる。見上げた空は、星座の早見盤を遥かに精細にしたように無数の経絡が張り巡らされていた。

「っ……」

 じっと見ていると頭痛を誘う。私は視線を外して天井を見つめるように心がけた。病室の窓も、今度鈴仙さんに頼んでカーテンを閉め切ってもらおう。

「早く治して、空を見れるようになりたいな……」

 しかし、瞼を閉じればその裏で無数の幻が目に写る。脈絡なく立ち現れては消えるそれらの幻は、一つの一貫性を持っていた。そのいずれもが、()()()()()()()()()の下にある──まるで、遠く離れた故郷を思う郷愁の夢のように。





「私が付いていながら、申し訳ございません」

 八雲紫は、頭を下げる藍を慰めて言う。

「藍は悪くないわ。運が悪かったのよ。まさか病気に罹ってしまうなんて驚きだわ」
「二手に別れて作業していた際に、異界に迷い込んでいたようでして」
「藍は大丈夫?」
「はい、永遠亭で検査を受けました。問題ないとの事です」

 藍の言葉を聞き、紫は顎に手を添えて考え込んだ。特に危険な結界は紫自らが閉ざしており、今回の結界の切れ目は全て緊急性はあれど危険性はないものだった。少なくとも藍が居たならば、最悪裂け目に呑まれても容易に救出可能である。
 そう考えると、迷い込んだ先で地球上に存在しないウイルスに感染するなど、紫には信じられなかった。

「まさか異星にでも迷い込んだのかしら? 明香に話を聞くしかないわね」
「それが、面会謝絶の上に特効薬がいつできるかも如何とも言えないらしく……」
「気長に待つしかないわねー。直ぐにでも話を聞きたかったのに残念だわ。けれど、果報は寝て待てとも言う。私は冬眠に戻るから進展があったら起こして頂戴」

 夢の中で獏にも話を聞いてみようかと思案しつつ、紫は布団に身を横たえた。藍は退出し、縁側の廊下を歩みながら憂鬱な面持ちで空を見上げる。冬、青々しく澄み切った寒天であった。


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所在なき好日
鈴奈庵


「いらっしゃいませー。あ、お久しぶりです明香さん!」

 

 扉を開くと、店番をしていた本居小鈴さんが笑顔を見せてくれる。彼女は手にしていた本を閉じて、鼻にちょこんと乗っている丸眼鏡のズレを直した。店内は古書と木の香りが満ちていて、真昼の里の通りとは対照的に仄暗く密やかだ。

 

「どんな本をお探しですか?」

「暇な時に手軽に読める本を。今人気の本があれば有難いのですが」

「流行りなのは娯楽小説ですね。『目が覚めたら博麗の巫女になっていた件』みたいに、簡単に読めて面白いものが人気です。王道のBoy Meets Girl(ボーイ・ミーツ・ガール)や恋愛小説も流行りですよ」

「へぇ、小説が人気なのですね。私はすっかりそういうのとは縁遠くなってしまって」

 

 小説を最後に読んだのはいつだっただろうか。昔を思い出してみると、阿求さんから頂いた小説を読んだ時な気がする。

 

「それは勿体無い。世の中には面白い本が沢山あります。明香さんはどんな本が好きですか?」

「私? 私は……図鑑とか好きだよ。読めば読むほど見識を広められるからね。なんなら、自分の本棚にしまっておくだけで満足しちゃうかも」

「でもそれは、借りるのではなく買わなければダメな感じですね」

「うん。外付け記憶としての本だから、常に本棚に入ってないとダメだね」

「残念です。鈴奈庵は貸本屋ですから、書籍の販売は──」

 

 小鈴さんは、言いかけた言葉を飲み込んで私に詰め寄る。

 

「ちょっと待って下さい。明香さんの能力があれば外付け記憶は要らないですよね? 図鑑に目を通せば阿求みたいに全部覚えられません?」

「そんなに便利な能力じゃないですよ。図鑑を手に取って索引を引くのと、これまで目に写してきた全てから図鑑の一頁を見つけ出すのと、何方が楽かなって話です」

「あー、なるほど」

 

 小鈴さんは頷いて理解を示してくれた。

 

「だから、私の能力で読書の楽しみが損なわれる事はないよ」

「それなら、図鑑以外で好きな本はありますか?」

「『船医から始まり後に複数の船の船長となったレミュエル・ガリヴァーによる、世界の諸僻地への旅行記四篇』 みたいなのも好きかな」

「まるでライトノベルのタイトルみたいですね」

 

 クスクスと笑って、小鈴さんはガリヴァー旅行記を手に取った。

 

「明香さんの好みは心躍る冒険譚か、それとも皮肉と風刺の塊か。悩ましいです」

 

 暫くして、小鈴さんは幾つかの冒険小説と風刺小説を見繕ってくれた。今日は何の予定もないので、本を借りて店内で読書しようと思う。穏やかな哀愁漂うフォークソングが卓上の蓄音機から流れていたが、私が本を開くと小鈴さんは気を遣って音楽を止めてくれた。

 

「お邪魔しまーす。わぁ、スッゴイ古風な店ねー」

 

 頁を捲る音だけが聞こえる店内に快活な少女の声が響く。目を向けると見知らぬ少女がいた。彼女は外の世界の衣服を着こなしていて、一目で外来人だと分かる。

 

「此処に雲見明香って人が居るってレイムッチに聞いたんだけど?」

 

 

 

 

 

 少女は私を探しているようだ。どうしようかなと考える。面倒事の予感がするのだよね。

 

「えぇと、明香さんなら──」

 

 小鈴さんがチラリと目配せをした。私の事を伝えて良いか迷ってくれているみたい。私は頷き、少女に答える事で応えた。

 

「うん。私だよ。貴方と面識はない筈だけど、何か用なのかな?」

「初めまして、私は宇佐見菫子(うさみすみれこ)。貴方達の言う外の世界の住人で、東深見高校一年の女子高生よ。幻想郷を案内して欲しいってレイムッチに頼んだら貴方を紹介されたの」

「レイムッチ?」

「ほら、博麗霊夢さんの事。貴方は外の世界にも詳しいらしいわね」

 

 霊夢さんの魂胆が透けて見えた。きっと、宇佐見さんの相手を私に丸投げしたかったのだろう。実際、幻想郷の案内なら私を紹介するのは妥当な判断ではある。一番は紫さんだけど、彼女は滅多に捕まらないからねぇ。

 

「話は分かったよ。でも、幻想郷は危ないから出歩くのはオススメできないかな」

「私は超能力者よ。色々と役に立てると思うし、自分の身は自分で守れるわ」

 

 宇佐見さんは宙に浮いたり、帽子から鳩を出したり、スプーン曲げを披露したりした。小鈴さんは目を輝かせて拍手していて、私も驚きから言葉を失う。私たちの反応に満足げな宇佐見さんは、いつの間にか羽織っていたマントをはためかせて奇術師のように礼をしていた。

 

「どう? 凄いでしょ!」

 

 確かに宇佐見さんは本物の超能力者のようで、彼女の話によると霊夢さんと戦った経験もあるそうだ。

 

「なら、私が案内役になってあげる。でも、もし危ない目に遭っても自己責任だよ?」

「構わないわよ。寧ろ、いざという時には私が明香ちゃんを助けてあげるわ」

 

 宇佐見さんはとても自信満々だった。幻想郷では超能力を十全に披露しても大丈夫だから有頂天なのだろうね。外の世界はメリーさん曰く()()らしいし。

 

「それは良かった。よろしくね宇佐見さん」

「勿論よ。よろしくねメイカッチ」

「……まるでサスカッチみたいでなんか好かないなぁ」

「あの毛むくじゃらのUMAの事ね。こう見えてオカルトサークルの会長だからUMAには詳しいわよ。幻想郷にはネッシーとかいないのかな? 居たら写真を撮ってSNSにアップしたいわ」

「霧の湖にそんな噂が立った事もありましたけれど、所詮は都市伝説ですよ」

 

 オカルトサークルの会長と聞き、私は興味を惹かれた。宇佐見さんが暴いてきた秘密(オカルト)はどんなものなのだろう?

 

「う〜ん……幻想郷でもUMAは見つからないのね」

「外の世界ではどんなオカルトが見つかるのですか?」

「有名所やSNSで流行りのオカルトなら話せるけれど、多分そういうのは明香ちゃんも知ってると思うわ。それ以外となると、身近で小さなオカルトについてね。例えば、子供が夜のトイレに行く途中に現れる黒い鳥みたいな話」

 

 随分と身近な話で、オカルトではなく身の上話みたいだと思った。そう言うと、まさにそうだと宇佐見さんは教えてくれる。

 

「オカルトはね、いつだって身の上話から始まるのよ。沢山の人々の不思議な体験談の積み重ねが、やがてまとめ上げられて語られるようなオカルトになる。オカルトを知る為には、市井に暮らす無数無名の人々の事を知らなきゃならない」

 

 七十五日で消えてしまうような風の噂、子が親にしか話さないような恐怖体験、語られず忘れ去られるような悪夢。そうしたモノからオカルトが生まれるのだと宇佐見さんは言う。

 

「オカルトは、身近で些細な不思議の継ぎ接ぎで出来ている。だから究極的には、オカルトサークルは自分が経験した些細な不思議を語り合う雑談の場になるのよ。部員は私一人だけど……」

 

 宇佐見さんは目に見えてしょぼくれてしまった。たった一人のオカルトサークルで何ができると昔の私は考えていたのだろう。そう彼女は嘆いた。

 

「少し前までは、友達なんて要らないって思ってたのよ。オカルトサークルを立ち上げたのも、私に興味を持った人間を集めて追い払う為だった」

「賢いやり方ですね」

 

 興味の対象に期待を裏切られた時に、人は最も関心を失うからね。人払いの為に人を集めるなんて、宇佐見さんはとても行動力のある人なのだろう。

 

「昔の私は、友達になろうと手を差し伸べてくる人間が怖かった。まるで、有象無象の人間が超能力者の私を同類に引き摺り下ろそうとしているように感じたの」

「今は違うのですか?」

「幻想郷に来れば、レイムッチやマリサッチみたいに凄い人間が沢山いた。人間にも色んな人がいる。だから、普通の人間と友達になるのも悪くないかなって」

 

 幻想郷に来た事で、宇佐見さんの中で人間という言葉の指す範囲が広がったのだろう。お陰で彼女は、身の回りの人々を同じ人間だと見做せるようになったのだろうね。

 

「それなら、些細な不思議について語るぐらいしかできませんが、私とも友達になりませんか?」

「良いの? 勿論よ!」

 

 宇佐見さんは、明るい笑顔を見せて頷いてくれた。嬉しそうにしている彼女を見ていると、私も嬉しくなって頬が緩む。

 

「そうなると、宇佐見さんに語る不思議を探さないといけませんね」

「宇佐見さんなんて他人行儀な呼び方ね。友達なら菫子って呼んでくれない?」

「分かりました菫子さん。では、幻想郷の何処に案内して欲しいですか?」

「それは明香ちゃんに任せるわ。お任せの方がワクワクするでしょ?」

「う〜ん、何処にするか迷いますね……」

 

 菫子さんは、小鈴さんと談笑してスマートフォンで店内の写真を撮っていた。私はどうしたものかと悩み込む。どんな場所に案内すれば彼女は喜んでくれるだろうか?

 

「ガリヴァー旅行記? 懐かしいわね、小学校の図書館で読んで以来だわ」

 

 私は頭を捻った。これまでは自分が行きたい場所を決めてきたけれど、人を案内するとなると話が変わる。試しにどんな場所が好きか聞いてみると、SNS映えするなら何処でも良いと言われてしまった。

 

「参ったなぁ」

「ほらほら、見て明香ちゃん! 小人の国の挿絵よ。そう言えば幻想郷にも小人族の子が居たわよね?」

 

 本の挿絵を私に見せる菫子さんは、しかし急に落ち着いて頭を掻く。彼女は深く溜息を漏らして、はしゃいでいた様子は鳴りを潜めた。

 

「はぁ〜……もうそろそろね」

「そろそろ?」

「ほら、私って外の世界で眠っている間に幻想郷に来てるの。だから、もう目が覚めそうな感じなのよ」

 

 名残惜しそうな表情をしながらも、菫子さんは手を振って別れの挨拶をした。彼女はそれから、まるで日に当たった影が消えるように、跡形も無くなってしまう。私は目を丸くした。人間が消えてなくなるのを見たのは初めてかもしれない。

 

「わぁ、宇佐見さん消えちゃいましたね」

 

 小鈴さんも驚いた様子で、先程まで菫子さんが手にしていた本を拾い上げている。外の世界の超能力者の女学生がやって来て、友達になったと思ったら急に消えてしまった。そう振り返ってみると全く不思議で、今日という日は私にとってオカルティックな一日だったと言えるかもしれない。

 

「次までには、案内する場所を決めておかないとね」

 

 借りた本を鞄にしまい、私は鈴奈庵を後にした。



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神霊廟

 すべては変わっていく。

 

「豊聡耳様。貴方にお願いがあります」

「それはまた、一体どんなお願いかな?」

 

 私も変わらずにはいられない。

 

 

 

 

 

 私は、豊聡耳様が創造した神霊廟を訪ねていた。仙人が形造る穏やかな仙界には、凍えるような冬も茹だるような夏もない。長閑な春の如き時候が永遠に続く快適な世界だ。空模様は常に晴れやかで、まるでスカイドームのようだ。

 

「明香女史、貴方の願いは分かった。しかし、賛同しかねる。貴方の案はあまりに性急だ。人を集めて一気に目を覗くとはいうが、そんな事をして貴方は大丈夫なのかい? 私だって能力を使う相手は同時に十人くらいが限度だぞ?」

 

 外では、豊聡耳様に弟子入りした門弟達が修行をしていた。神霊廟の中まで気合いの入った稽古の掛け声が届いている。

 

「里の住人達の目を覗き見たいなら、一人ずつ訪ねれば良いだろう」

「それでは間に合いません。私の友人が幻想郷を再訪するまでに、無数無名の市井の人々が見た幻想郷を知りたいのです」

 

 じっと押し黙り、豊聡耳様はイヤーマフを外して耳を澄ました。

 

「人集めは、かつて為政者であった豊聡耳様の得意とする所ではないでしょうか。叶うならば、手を貸して頂きたく」

「なるほど……」

 

 私の欲を聞き届けたであろう豊聡耳様は、頷いて目を閉じている。

 

「明香女史の中にあった人間への嫌悪が聞こえない。代わりに尽きせぬ興味が聞こえる。人間の心とは移ろうものだねぇ。これまで目を背けていた人間が、貴方の最後の興味の対象になった訳だ」

 

 全てを理解した豊聡耳様は、悩ましげに唸ってから口を開いた。

 

「他人の目で見た幻想郷を知りたいのだね。それは貴方を傷付ける針の筵かもしれないと承知の上かな? 美しい風景ばかりでなく、残酷で暗澹としたこの世の汚泥を目にする事にもなる」

 

 私は目にするものを選んできた。しかし、他人は違うと豊聡耳様は言う。

 

「この世には、知るべき事があり、知るべきでない事がある。しかし、大衆とは困ったものでね」

 

 吐き捨てるように言う豊聡耳様の態度から、きっと体験談なのだろうなぁと思った。刺々しい口調からは僅かに怨嗟の思いすら滲んでいるように感じる。

 

「知るべきでない事を知りたがり、知るべき事を無視するような者どもだよ。そんな者達が目に写してきた肥溜めのような風景など、貴方が目にするに値するものだとは思えない」

「ふむ、そこまで酷く言う事もありますまい。野には遺賢有るものですぞ太子様」

「布都、私は期待する相手は選ぶ方だよ。それに、想定は常に最悪に合わせる方がやり易い」

 

 物部布都(もののべのふと)さんが茶を盆に入れて応接室に入ってきた。豊聡耳様はジト目をして彼女を睨みつける。

 

「盗み聞きは感心しないな」

「いえいえ、茶を運んでおる時に聞こえてきた断片的な会話から推測しただけですぞ。太子様の会話を盗み聞きなど、そのような事はとてもとても……」

 

 笑顔を見せた物部さんは、私と豊聡耳様の間に座り込んでお茶を啜った。

 

「同席しても構いませんかな?」

「構わない。そう言えば青娥は何処かな?」

「此処ですわ」

 

 ぬるりと、そんな擬音が聞こえてきそうな仕草で空いた穴から青娥が這い出てきた。

 

「ほら、太子様。こういうのが盗み聞きでは?」

「興味がある話に聞き耳を立てていただけですわ。師が愛弟子達の会話に耳を惹かれてはいけないのかしら?」

「参ったな。壁に耳あり障子に目ありとは言うが、まさかここまでとは」

 

 随分と騒がしくなった部屋で、皆が湯呑みで茶を啜り一呼吸を置いた。仙人が三人も集まって姦しくなった空間で会話は尚も続いていく。

 

 

 

 

 

「私は構わないと思いますぞ。人として生まれたからには、知識欲に突き動かされるのもまた道理。ましてそれを叶えられる能力があるのならば、大いに覗き見てやれば良いではないですか」

「確かに欲は生きる為の原動力だが、力は制御されてこそ意味ある働きを成せるものだよ」

「あらあら、神子様ったら明香の前だからって聖徳王モードなのね。随分とお堅いわ。妹弟子に良い所を見せたいのかしら?」

 

 私をそっちのけにして、私の提案について御三方は談笑を続けていた。けれど、青娥は私を見て表情を翳らせる。

 

「本当に、仙人になる修行はやめてしまったのね。慚愧にたえないわ。もし私の教えをこなせば、今頃貴女は不老不死の仙人だったのに。才あるものが潰えていくのを見るのは胸が痛むわ」

「青娥、それが明香の意志であり選択だ。外野がとやかく言う事ではないよ」

「外野ではなく、一応師匠ですわ」

「それはさぞや胸が痛むであろうな」

 

 しんと、布都さんの冷たい声で場が凍る。

 

「青娥殿は、面白可笑しく見ていられる滑稽で傑作な玩具を無くされて沈痛の模様だ」

「あらあら、布都様ったら酷いわ。こんなにも私が苦悩しておりますのに虐めるなんて」

「明香殿、死後の葬送は火葬をお勧めしますぞ」

「……」

「ほらほら、二人ともそう喧嘩しない。和を以て貴しと為すだよ」

 

 き、気まずい……。例えるならば、友人の家に遊びに行った時に両親の喧嘩の声が聞こえてくるような気まずさだ。豊聡耳様は二人の間を取りなしていたが、険悪な雰囲気が漂う。

 

「なんだ、荒れてんなぁ? 喧嘩か?」

「そうなのよ屠自古。青娥と布都が喧嘩しちゃって……」

 

 普段の毅然とした態度が崩れて、一少女のように困りきった様子の豊聡耳様を見て、やってきた少女は雷を纏って叫んだ。

 

「おい、お前ら喧嘩すんなら表でやりな! 今は客人の前だろうが!」

「あわわ、屠自古よ、少し待て。我の話も聞いてから」

「屠自古様、私は喧嘩だなんて」

「じゃあかしい! 外でやれ、話は後で聞く!」

 

 文字通り雷が落ちて、猫のように首根っこを掴まれた二人は部屋の外に追い出されてしまった。

 

「お見苦しい所をお見せしました。私は蘇我屠自古(そがのとじこ)。お会いしたのは初めてですかね、雲見明香さん」

「はい。ご丁寧にどうもありがとうございます」

「太子からは、手の掛からない妹のようだと聞いております。そして、我らとは真逆の道を行く者でもあると」

 

 鋭い眼光を見せる瞳が、見定めるように私を見つめる。

 

「青娥のように太子に変な事を吹き込まない限りは、歓迎します」

「こら、屠自古。青娥は私の願いを叶える献策をしてくれるだけよ」

「それに、布都のように太子に迷惑をかけない限りは、歓待します」

「布都は私の我儘の後始末をしてくれているのよ。迷惑なんてないわ」

 

 屠自古さんは、口では刺々しい言葉を吐いている。けれど、それは互いを深く理解している証なのだと思う。それに、身内が集まる神霊廟だから、豊聡耳様も素が出ているのだろうか。天資英邁の仙人然とした超然さはすっかり霧散していた。

 

「はぁ、格好が付かないね」

「何と言うか、意外な一面を見た感じです」

「太子はこういうのが素ですよ。里の人間や外様に向けた体裁もありますが、本質は優しい方です」

「優しい……か」

 

 豊聡耳様は、何処か遠い目をしてポツリと呟いた。

 

「優しさは、他人の機嫌をとる以外で役に立つ事はない。甘やかされて大成した者が居ないように、人は常に苦難を乗り越える事で成長する」

 

 何か言いたげな屠自古さんは、しかし口を閉ざして豊聡耳様の言葉の続きを待っていた。

 

「それでも、大切な人にはふと優しくあろうとしてしまう。機嫌を取りたいからかな。相手の為を思うよりも、相手に好かれたいと思ってしまうからなのかな、屠自古?」

「それは、私に聞かれましても……。そういう人間の心の機微には太子の方がお詳しいでしょう。ただ、一つ言える事はあります」

 

 屠自古さんは儚い瞳をして、応接室から見える外観を見据える。

 

「太子が優しくしようとしなかろうと、常に世界は厳しいものです。態々心を鬼にしてまで大切な相手に厳しく接しなくても、誰にも優しくない世界が勝手に鍛えてくれますよ。それとも、自分で鍛えないと不安ですか?」

「勿論、不安さ。世界の厳しさは加減を知らないからね。私なら加減して厳しくしてあげられるよ?」

「まるで夫婦の子育て相談みたいですね」

「ふ、夫婦!?」

「……ぷふっ。屠自古ったら、顔が赤いよ」

 

 二人して笑った。揶揄われていると思われたのか、屠自古さんが顔を赤くして雷をゴロゴロさせ始めたものだからさぁ大変。二人して彼女を宥めつつ話を変えたのだった。

 

 

 

 

 

「お邪魔しました」

「いや、此方こそ手を貸せなくて済まないね」

 

 神霊廟で稽古をしていた門弟達も既に姿なく、日は黄昏ている。私は仙界から去るゲートを前にして豊聡耳様に見送られていた。

 

「お詫びと言ってはなんだが、私の目を貸そう」

「え?」

 

 豊聡耳様が私を引き寄せて顔を近づける。彼女の澄んだ琥珀色の瞳が私の目を捉えて離さない。

 

「明香に見せられるものはそう多くない。何せ、千四百年も眠りこけていたからね。ただ、貴方に覚えていて欲しいんだ。私がかつて生きていた世界を目に出来るのはもう貴方だけだからね」

 

 黄昏の斜陽に照らされて、輝くように美しい豊聡耳様の尊顔に見惚れてしまう。仙界らしく穏やかなそよ風が吹いていて、彼女の髪がふわふわと戦いでいる。だが、琥珀と見紛う目は揺らぐことさえなく、それが含有する過去を夢幻の泡影かのように垣間見せる。

 

「どうかな、何か見えたかい?」

「はい。しっかりと見えました」

 

 遥かな飛鳥の時代、豊聡耳様が人の身で目にした世界が目に写る。布都さんや屠自古さんとの日々や、彼女が見て回った当時の民草達の生きる都市や、或いは絢爛豪華な朝廷の内実や争いも。

 

「きっと、美しいものばかりではなかったろう?」

「はい……」

 

 当時の血生臭い戦乱や権力争い、そうした人間の欲望が結実した因果の果実は、美しさと醜さを併せ持つ。しかし、それら全てを見届けて飲み込み、我が物として見せた英傑が目前にいた。私も、負けてはいられないと思う。

 

「以前、人の争いは終わらないと私は言いました。雨が降り、風が吹き、人が争い、血が流れる。全ては自然の成り行きで、永遠に繰り返す終わりなき季節なのだと。だからこそ──私は見届けます。何故なら、風が岩を削るように、川が谷を作るように、人間もずっと自然の一部で、この世界に自らの歴史を刻み続けているのですから」

 

 私の言葉に、琥珀色の瞳が揺らぐ。

 

「私は決して目を背けたりはしません。それが私なりの、この世界に対する愛の形であり、眼差しです」

「ふむ、ならば……」

 

 豊聡耳様は私に手紙を手渡した。

 

「それは命蓮寺の白蓮への手紙だ。実は、彼女に縁日の手伝いを頼まれたりもしていてね。普段は適当に門弟達を労働力として送り込んでいたのだが、今回は明香にも行ってもらう」

「私が縁日のお手伝いさんに、ですか?」

「そうだ。彼処は里から最も近い寺院で、縁日には里の人間も多く足を運ぶ。人の目を集めるにはもってこいだろう。つまりだな、明香女史に見世物になってもらおうという訳さ」

 

 いまいち話が飲み込めずに首を傾げていると、豊聡耳様は笑い出してしまった。

 

「ふふふ、灯台下暗しという奴かな。明香の能力はそれなり以上に物珍しいぞ? 幻想郷中の秘境を目にしてきたのだから、それをダシにして人を集めてしまえばいいとは思わなかったのかい?」

 

 私は暫く呆然としてから我に返った。つまり、紫さんがバー・オールドアダムで私にさせたやり方をもっと派手にした形である。

 

「白蓮も縁日に人を集められるし、私は彼女に恩を売れるし、明香は人の目を集められる。皆にとって利があるわけだ。まぁ、貴方の能力がどれだけの人数を相手できるかは知らないが、目を背けたりはしないのだろう?」

 

 手厳しいなぁ。私は頭を掻きながら苦笑した。

 

「この厳しさは、明香の為になるものだぞ」

「う〜ん、世界には確実に優しさが足りないように思うのですけど?」

「はははっ、違いない!」

 

 豊聡耳様は豪胆に笑って見せた。その傍若無人な覇気に充てられて、私はある人物を思い出す。

 

 

「そう言えば、畜生界で驪駒さんが──」



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命蓮寺

「あっはっは! 似合わないぜ!」

 

 命蓮寺を訪ねてきていた魔理沙さんが、私を指差して笑っていた。どうやら、彼女は尼さんの格好をした私が可笑しくて堪らないようだ。

 

「いつの間に出家したんだ?」

「してないですよ。次の縁日まで修行体験しないかって白蓮さんに勧められたのです」

「それを出家って言うんじゃないか?」

「期間限定ですからノーカウントです」

「それじゃあ、私も生きてない事になっちまうぜ。私の人生だって期間限定だからな」

 

 魔理沙さんは、休憩していた私に詰め寄って隣に腰掛ける。そのうえ、彼女は興味津々と言った様子だ。

 

「それで、どんな修行をしてるんだ?」

「掃除や炊事です。買い出しやゴミ捨てもしますね」

「メイドみたいだな。程の良い使い走りじゃないか」

「でも、ご飯も宿泊代もタダですよ」

「賃金は?」

「ありません。生きる事そのものが即ち修行であり、生きる為のあらゆる行いもまた修行らしいです」

「何と言うか……雑用を扱き使う方便みたいだぜ」

「正直、私はお邪魔しているだけですよ。聖さんなんて、私が雑巾を絞っている間に掃除を終わらせてしまうような手際ですし」

「身体強化の魔法でも使ってるのかもしれないぜ。魔法ってのは日常生活でも色々と便利だからな。そう言えば、明香は縁日で出店するんだろ? 里では結構話題だぜ」

 

 幻想郷内外の風景を見世物にする話が、それなりに噂になっているようだった。そもそも、私はカメラマンとしても、家出ばかりする放蕩娘としても有名だからね。

 

「その為に聖さんに頼み込みましたから。境内の一角を借りられたので、そこで座っていようかなと。ほら、要るのは目だけですし」

「上手くいけば良いな。応援してるぜ。さて、こいつが頼まれてたキノコだ。聖によろしくな」

 

 魔理沙さんは、キノコの入ったバスケットを置いて飛び去っていく。彼女が置いていったバスケットを手にして、私は聖さんを探しに腰を上げた。

 

 

 

 

 

 賑やかなりしは黄昏の、縁日を行く童かな。

 

「なんて、洒落た事を考えてみる訳ですよ」

 

 縁日当日の命蓮寺の境内には露店が立ち並び、里の大通りのように人々が往来していた。子供特有の甲高いはしゃぎ声や、客引きの声が混じり合った祭囃子が聞こえて来る。

 

「まだ始まったばかりなのに大した賑わいよねー」

 

 霊夢さんは妬ましげに人波を眺めていた。するうち、私の元にやって来る人々を見て彼女は言う。

 

「本当にお金取らなくて良いの? 勿体無くないかしら?」

「良いのですよ。ちゃんと対価は頂いてますから」

 

 肩を竦めて見せた霊夢さんは、縁日の露店で購入したであろう一升瓶を手にして、私が用意していた椅子に腰を降ろした。他に行く先もないのか、彼女は私のスペースを休憩場所に選んだみたいだ。

 

「おう、雲見の嬢ちゃん。俺は妖怪の山にあるっていうマヨヒガを見たいんだ」

「はい、大丈夫ですよ」

 

 やって来た男と目を合わせると、彼は感嘆の声を上げて目を輝かせた。その有様は側から見るとかなり奇異で、霊夢さんは少し引いている。彼女は小声で私に耳打ちした。

 

「何と言うか、目に見えない物を相手にしている人間って不気味よね」

「妖怪退治を生業とする巫女さんとは思えない感想ですね」

「妖怪は目に見えるでしょ。あ、見えない奴も居るには居るわね」

 

 歯切れの悪い霊夢さんをよそに、私はひたすら人々の目を覗き続けた。さっきの男の人は建築解体業に携わっていたようで、解体されつつある家屋の棟から見た人里の景色をその目に写していた。

 

「見る目が変われば世界が変わる。やっぱり、人々の目を集めようと思ったのは正解でした」

「何か面白いものでも見えたの?」

「見えましたよ。ほら」

 

 霊夢さんにも同じ風景を見せてみると、彼女は目を丸くした。

 

「この家、取り壊される前に私がお祓いしたのよ。世界は狭いわねぇ」

 

 人々から写し取った風景は、人里に対する私の印象を変えるものばかりだった。退屈な程に何事も無いように見える里は、しかし他人の目を通して見ると変化に満ちている。

 

「時は幾かえりも同じ処を眺めている者にのみ神秘を説く……。思えば私は、里にしっかりと目を向けた事はありませんでした。退屈だからと外に飛び出してばかりだったのです」

「ふ〜ん、つまりあんたにとって人里は新鮮って事ね」

 

 全ては変わっていく。家屋が建ち、空き家が取り壊され、店頭に新商品が並び、古い商品が姿を消していく。道は踏み固められ、時には雑草が茂り野花が蕾を開かせる。人々の目には、一見して不変であるものの移ろいが写り込んでいた。

 

「とっても新鮮ですよ。ほら、見てくださいよこの桜の花!」

 

 里の桜並木は、春が巡る度に沢山の花見客を集めていた。しかし、どうせ毎年同じだからと、私は花見に行かなくなって随分と長い。

 

「花も毎年、少し違って咲くのですね」

 

 噂が噂を呼んで、人集りが私の元に出来ていた。縁日が始まってからずっと長蛇の列ができていたので、此処らでしっかり捌かないとね。

 

「ふふふ、少し気分がのって来ました。祭囃子に当てられちゃったみたいです。さあさ、皆さんご覧下さい。これぞホントのShowtime(ショータイム)です!」

 

 霊夢さんに肩車してもらって目線を上げ、祭りの喧騒を押し退けるように声を張り上げた。博麗の巫女に担がれた私は、それなりに目立って好奇の目を集める。そうして、私に注がれた無数の双眸から集まった風景は、継ぎ接ぎになって視界を形作っていった。

 私は夏空と秋空の下で、夕立に晒されながら紅葉に手を伸ばし、軒先の風鈴が風に揺れているのを見ながら街道の落ち葉を踏み締める。まるで打ち寄せる波のように、人々の人生が押し寄せた。

 

「う〜ん、困ったなぁ……」

「どうしたの?」

「胸が熱くて、ジリジリ痛むの」

「大丈夫?」

 

 心配してくれているのか、霊夢さんはゆっくりと肩車から私を降ろしてくれた。けど、体調が悪い訳じゃないのよね。

 

「うん。これは──焼かれた心が焦がれる痛みだよ。好きなものを見ると胸が熱くなるでしょう?」

「情熱的ねー。何が見えたのかしら?」

 

 私は両手を広げて、この世を抱きしめて見せる。

 

「沢山ありすぎて、言葉にできません」

「そっかー」

 

 苦笑した霊夢さんが、椅子にどかりと腰を下ろした。私の目を通して森羅万象を目にした群衆が熱く沸き立つ中、彼女は凛として冷たい声音で言う。

 

「ただ、あまり変なものは見せないでよ。例えば外の世界の風景とか」

「大丈夫です。そこらへんの分別は付いてますから」

 

 私に釘を刺して霊夢さんは酒を煽る。暫くすると、彼女は酒の肴が欲しいと周囲に目を向け始めた。

 

「そう言えば、三途の河の巨大魚を売り捌いていた露店がありましたよ。刺身もあったような覚えがあります」

「刺身かぁ、酒の肴にピッタリね」

 

 露店の場所を教えてあげると、霊夢さんは祭りの雑踏の中へと分け入って姿を消した。千鳥足だったけど、大丈夫かなぁ?

 

 

 

 

「大盛況でしたね」

「お陰様で。ようやく余裕が出来て、今は暇をしてた所です」

 

 聖白蓮(ひじりびゃくれん)さんが私の元を訪ねてきた。丁度良い機会なので、縁日で気になった事を聞いてみる。

 

「妖怪や神様が縁日に来てました。いつもこうなのですか?」

 

 私が目を見た人々の中には、人間に変装した妖怪や神様が居た。彼らは人間のお祭りに混じっても大丈夫なのかな?

 

「ええ、いつもこうです。人も神も妖怪も、みんな根っこは同じです。祭りを楽しみとする者たち同士、この囃子の音頭のように共に手を叩いて笑い合っているのですよ」

 

 聖さんは、あらゆる者を分け隔てなく捉える平等主義者だった。彼女からすれば、人間は刹那で消える儚い生き物であり、妖怪は忘失されていく幻想であり、神々は信仰なくして成立しない無名の靄であるらしい。諸行は無常である。それが彼女の見解だ。人も神も妖もみな無常であり、故に彼女はそのいずれでもない魔法使いになった。

 

「やっぱり、聖さんは豊聡耳様と似てますね」

「私が彼女と? 否定はしませんが、否定したいですね」

「聖さんも死ぬのが怖くて人間を超越したのだと聞きます。豊聡耳様は聖さんみたいな平等主義者ではないですけど、何処か雰囲気が似ている気がするのです」

「誰だって死は恐ろしいでしょう。私たちには、それを乗り越える力があっただけです」

 

 聖さんは、私を見て言い淀みながら口を開いた。

 

「その……私には明香さんの事が理解できません。仙人に成れる素養があったのに棒に振ったと神子が言っていました。死ぬのが怖くないのですか?」

「怖いですよ。ただ、沢山の死後の世界を私は見て来ました。死が終わりではなく、河岸を変える事であるならば、受け入れられます」

「……私にはやはり理解できません」

「私は聖さんの事が理解できるよ」

 

 表情を曇らせてしまっている聖さんを励まそうと、私は言葉を選んだ。折角みんなが笑顔のお祭りで、悲しい顔をするなんてダメだからね。

 

「死にたくないって事は、この世が好きって事です。私もこの世界が大好きだから、ずっと長生きして見ていたいって思います」

「ならば何故!」

「私はただ、同じぐらいあの世も好きだからね。地底の温泉街とか風情があって素敵だったし、畜生界は……まあ、自由に生きてみたいなら悪くないかも」

 

 子供の笑い声がする。縁日の屋台で金魚掬いをしているようだ。射的の屋台では、鉢巻をした男が腕を捲って狙いをつけていた。焼きそばや、りんご飴の匂いが漂ってくる。奇妙な小物屋やお土産屋さんまで盛りだくさんだ。

 

「ほら、見てくださいよ聖さん」

 

 縁日の境内を指して私は言う。

 

「みんな限りある命なのに、こんなにも幸せそうにお祭りを楽しんでいます。もしかすれば、明日死ぬ身かもしれないのにね」

 

 聖さんは、黙して答えない。

 

「一分一秒を、愛しんで生きているのです。私はそういう生き方が好きです。時には須臾には永遠にも勝るとも劣らない価値があると思わせてくれますから」

 

 にっこりと、私は笑顔を見せた。聖さんも縁日の様子を見て、私が言わんとしている事を理解してくれたのだろう。もう、彼女の表情に翳りは無かった。

 

「だから聖さんも、人や世を儚む必要はないよ。全ては変わっていき、諸行は無常だけれど、私たちは幸せで、世界は美しい」

「羨ましいです。明香さんは幸せ者なのですね」

「うん。それもとびっきりだよ」

 

 月明かりと提灯で照らされた縁日は、夜が深まるにつれてその賑わいを増していく。恐らくは、数百年もすればこの縁日の事を覚えている者など誰も居なくなるだろう。人間は言わずもがな、妖怪や神も久しからず。けれど幸せはこの瞬間にあって、それは間違いなく確かなのだ。

 

「やはり明香さんは仙人になるべきですよ。貴女の能力があれば、こうして夢幻のように時に押し流されてしまう須臾を、いつまでも残しておけるのでしょう?」

「それは……そうですが」

「ほら、妖怪住職が絡んで困らせてんじゃないわよ」

「霊夢さん?」

 

 酔いで顔を真っ赤にした霊夢さんが、魚の燻製を齧りながら声をかけて来た。

 

「アッチに上手い屋台が出てるわよ。八目鰻の蒲焼きが絶品だったわ。ほら、酒を呑みにいきましょ」

 

 私たちの手を引いて、霊夢さんが誘ってくれた。

 

「ありがとう霊夢さん。でも手持ちが……」

「あぁ? だからお金を取っておけって言ったじゃない。仕方ないわね、私が奢ってあげるから呑みに来なさい」

「私は宗教上の理由で飲酒はできません」

「それなら酒を呑まなきゃ良いでしょ。蒲焼きが美味いし、肉食もダメなら酒の肴の枝豆もあるわよ」

 

 ぐいぐい来る霊夢さん。私は聖さんと顔を見合わせ、ウインクをした。彼女は困ったように笑顔を見せながら頷いてくれる。

 

「分かりました。ご一緒しましょう」

 

 霊夢さんに連れられて屋台に入ると、人間の格好をした夜雀のミスティアさんがいた。どうやら彼女が屋台を切り盛りしているようだ。私と彼女は初対面だけれど、迷いの竹林でそのような屋台があると鈴仙さんに教えてもらった事があった。

 

「私はもう一合。明香も一緒で良い?」

「はい、霊夢さんの奢りですから」

「私はお冷を。いえ、お酒ではなくて水でお願いします」

 

 私はそっと財布の中身を確認し、強かに酔っている霊夢さんの懐に忍ばせた。蒲焼きが焼かれる匂いと、屋台にぶら下げられた提灯と電球の明かりが心地良く、穏やかだ。

 

「じゃあ、乾杯!」

 

 カチンと、密やかな音が立つ。月下縁日の屋台であった。



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寺子屋

「態々すまないね。お陰で助かったよ」

 上白沢慧音(かみしらさわけいね)さんは、私に湯呑みを差し出した。

「貴重な歴史を見られたのですから、礼を言うのは私の方です」

 慧音さんの依頼を受けて、私は寺子屋を訪ねていた。依頼の内容は、彼女が見てきた歴史を子供達に見せる事だ。それというのも、子供たちに歴史を学ばせようと苦心していた彼女が、縁日の件で私の能力に目を付けたからだ。

「百聞は一見に如かずという。子供たちは、語られる歴史よりも目に見える歴史に興味津々だった。普段からあれぐらい興味を持ってくれると助かるのだが」
「子供は移り気ですからね。それに、金言耳に逆らうとも言います」
「そうだな。だが、過去から今までの繋がりを知る事は、今をより良い未来に繋げる為に大事な事だ」
「まるで教師みたいですね」
「教師だぞ。正真正銘のな」

 寺子屋で授業を受けていた子供たちは、みんな元気溌剌としていた。些細な事で笑い、叫び、騒いで暴れる子供というものは、見ていられる分にはとても微笑ましい。世話をするとなったら話は別だけれどね。

「子供たちにとっては、世界は謎に満ちているのですよ。全てが興味の対象たり得るのですから、歴史だけに目を向けるだなんて無理でしょうね」
「とは言え、教室に蝶が一匹入り込んだだけで授業が進まなくなるのは困りものだな。やはり、子供の感受性は何を捉えるか分からない」

 慧音さんは疲労の色濃く溜息を吐いた。その苦労は計り知れない。教師は他人を学ばせる者だが、子供は兎角勝手に学びたがる。故に彼女は、好奇のままに未知に伸ばされる童の手を引いて、その手の伸ばし方から教えなければならない。それはそれは大変な話である。

「心中お察しします。子供たちの興味は熱しやすく冷めやすい。だからこそ、熱いうちに一杯学ばせてあげたいですよね。でも、興味があるからと言って何でも学ばせて良いわけではない」
「ああ、時間は有限だからな。蝶について詳しくなっても里で飯は食えない。先ずは生きる為の学びを修めてから、世界に手を伸ばして欲しい」

 慧音さんは、茶菓子の落雁を振る舞ってくれた。一つ二つ手にとって口をつけると、特徴的な粘り気と強い粉砂糖の甘みが緑茶の渋味と調和する。舌鼓を打つ私を、彼女は和かに眺めていた。

「だが、人は学舎でなければ学べない訳でもない。私はね、子供たちに勉強の方法を教えたいんだ。そうすれば後は、私が教えきれなかったことも自分で学んでくれる」
「人に授けるに魚を以ってするは、漁を以ってするに如かずと」
「明香とは話が合うね。君は少し老成し過ぎだな。もっと子供らしくしてみないか?」

 苦笑した慧音さんは、緑茶に口をつけて一服した。するうち、彼女は寛ぐ私に話を切り出す。

「しかし、明香には()()()()()まで見えなかったかな? つまり、その……幻想郷で人間とそれ以外が融和的な関係を築けたのは最近の話だろう? かつては口にするのも憚られる事件が沢山あってね」
「確かに刺激が強いものもありましたね」
「それは──悪い事をしてしまった。申し訳ない」

 慧音さんは頭を下げて謝罪を始めた。あらら、随分と優しい人だなぁ。まさか、そんな事を悪いと思ってくれるなんて。

「お気になさらず。依頼を受けたのは私ですし、慧音さんの目から何が見えたとしても気を悪くする事はありません。それに、見慣れてますから」
「なんとも……逞しいな」

 頬を掻いて慧音さんは沈黙した。かなり彼女は気まずそうだ。多分、私が無理をして強がっていないか心配しているのだろう。ただ、それは杞憂というものだ。

「だって、妖怪や神様の目を覗くともっと凄いですもん。慧音さんは人間の目をしてますよ。きっと、人間と寄り添って生きてきたからですね」

 いや、本当に。妖怪とか下手したら食事シーンとか見えるからね。里の人々と共に人間の生活をしている慧音さんとは比べるべくもない。

「確かに、長らく人と共に生きてきた。だからきっと、人間の生き方に染まったのだろうな」

 慧音さんは、複雑そうな表情を浮かべていた。

「だがな、人間と共に暮らすほど、私が人間ではないことを思い知らされる。実は昨日、私の教え子が死んだんだ。老衰だったらしい」
「それは……」
「子供の頃は私に肩車をせがむような活発な少女だったが……大人になってからは物静かで温和になったらしい。老いてからは時折、孫に肩車をせがまれて困っていたそうだ。ふふ、因果だな」

 何も言えずにいると、慧音さんは私の額を優しく小突いた。

「そういう訳だ。人に寄り添って生きても、だからこそ、互いの違いが浮き彫りになるばかり。朱に交わっても赤くはなれない。生き方を真似れば真似るほど、似せられないものが見えてくる」

 その言葉とは裏腹に、慧音さんは穏やかで爽やかな面持ちをしていた。まるで自らを誇るように、彼女は言う。

「それが私だ。人の間に在る者さ」
「慧音さん、人はそれを……人間というのです」

 慧音さんは私の目をじっと見つめる。差し伸ばされた手が、私の皿の上の落雁を摘んだ。

「存外、甘いな」
「そうですか?」
「ああ。私を人間だなんて大甘だ。幻想郷において人間とそれ以外は峻厳な境界で別たれている。だがそれも、もはや過去の歴史でしかないのかもしれんな」

 慧音さんは、頬杖を突いて首を傾けた。彼女は、手に摘んだ落雁を弄びながら、じっと眺めている。

「今や、人間も妖怪も神々も混じり合い、何もかもが隣り合っている。里の通りを行けば、妖怪とすれ違い、祭りへ行けば、はしゃぐ神々が童の袖を引く。一つの世界に押し込まれて暮らす者たち同士が、いつまでも他人同士でいるなど不可能なんだ」

 幻想郷は少しずつ変わってきた。そして、これからも変わっていくだろう。慧音さんはそう断ってから、落雁を口にして笑顔を見せた。

「それはそれは素敵な話だろう?」
「慧音さんこそ、甘いじゃないですか」
「私は甘党なんだよ。苦い歴史ばかり食い過ぎたからね」

 何処か諦めたような様子で、手の掛かる悪戯っ子を宥めて仕方なしに許すように、慧音さんは穏やかに言い放った。

「これからの歴史は、もっと甘くなってほしい。耳にする度に胸焼けして、コーヒーを飲みたくなるぐらいに。そうだな、アイスクリームは知っているか? 冷たさと痛みを伴っても、最後には甘みが勝るんだ」
「うん、私も好きですよ。でも、痛みは病の所為でしょう?」

 目を丸くした慧音さんは、乾いた笑い声を漏らす。


「歯医者にでも行こうかな?」










fin. 2023/04/16


Extra 返らぬ者

 

「その……明香ちゃんって嫌われてるの?」

 

 宇佐見菫子さんと共に目的地へ向かう道すがら、彼女は言いにくそうな様子で問いかけてきた。

 

「だって、里の人たちが変な目を向けてたし。なんだろアレ? なんか、そう、悪い感情ではなさそうなんだけど……。まるで怖がってるみたいな、いや、ちょっと違うなぁ」

 

 うんうんと唸りながら頭を捻っている菫子さん。きっと、滅多に無い扱われ方だから言葉にし難いのだろうね。

 

「何となく分かりそうなんだよね。もう喉元まで来てる感じなんだけど……」

 

 私は黙って菫子さんの言葉を待つ。疑問の答えは、本人の口から吐き出させてあげた方がスッキリするだろうし。

 

「遠巻きにされて、でも邪険にはされていない。尊重されてるけど近寄り難いみたいな。そうねえ、畏怖かな?」

 

 結論に達して菫子さんは私に目を向けた。そこで、私はこれまでの経緯を彼女に伝える。妖怪の山で神様のフリをして賭場を荒らした事や、天狗の新聞で妖怪人間や現人神として扱われた事。そして、縁日で里の人々に能力を派手に披露した事などなど。

 

「思ったより明香ちゃんって破天荒ね」

「自分が好きなように生きてるだけだよ」

「他人とは思えないわ。まるで私を相手にしてるみたい」

 

 嬉しそうに菫子さんは笑顔を見せた。ただ、私は口を尖らせて胡散臭い忠告をしておく。

 

「私は私の道を行く。けれど、それはみんなそう。だから、時に道は交差して、誰かとバッタリ出会う。そうなるとね、互いに前に進めなくなってしまうの」

「あ〜それは良くある。好きな事をしようとすると兎角邪魔が入るよねー」

 

 頷いて同意してくれた菫子さんは、オカルトボールを用いた異変とその後の顛末を教えてくれた。それは、彼女の野心にどれだけの壁が立ち塞がったかを雄弁に語るお話だった。

 

「そう言う時、明香ちゃんならどうするの?」

「私なら、道を譲って座り込んで、景色を眺めながら休憩するかな」

「のんびりさんねぇ。まるで東北人並だわ」

 

 里を出てから野道を歩き続けて、ようやく彼女を案内したかった場所まで辿り着いた。そこは、魔法の森の周縁だ。寂れた祠が祀られた辻で、森と草原の境目でもあった。

 

 

 

 

 

「ほら、あそこ。あの祠の側の石が座り心地が良くてね。特に晴れた日は、一日中ぽかぽかした石の上で横になって雲を見てたりしたんだよ」

「里の外で危なくなかったの?」

「あの時の私は子供だったからね。祠の側なら神様がいるから大丈夫だって思ってたの。実際、無事でいられた訳だし()()居たのかもしれないね」

 

 石を腰掛けにして、菫子さんと駄弁っていた。天気は晴々しく、真白い雲が青い空に浮かんでいる。風は草木と髪を戦がせて、土の匂いを運んでくる。

 

「外の世界でも見れなくはない風景だけれど、悪くない場所ね」

「でしょ。其処にいる事が心地良い場所ってのは、風景も良く見えるものだからね。それに、この祠は私にとって細やかなオカルトなの」

 

 何故、幼かった私が何度もここを訪ねて無事でいられたのか。今ならば暴いてしまえると菫子さんに伝えた。

 

「ほら、錠が錆びて外れかけてるでしょ。昔はもうちょっとしっかりしてたのよ。今なら少し力を込めれば──」

「ちょっと明香ちゃん、それめっちゃ罰当たりっしょ!」

 

 バキリと、そう音を立てて錠で閉ざされていた扉が外れる。祠の中身にあったのは、古びた石ころ一つだった。だが、私はそれを見て納得する。

 

「見て菫子さん。伊弉諾物質の御神体だよ。こんな所にも神代の遺物があったんだね」

「あ、オカルトボールの原材料じゃん。う〜ん、明香ちゃんってヤバいよね。その、忌避感とかないの?」

「だって、このまま朽ちていく忘れ去られた祠なんだから、最期くらい私が看取ってあげなきゃダメでしょ?」

「看取る?」

 

 伊弉諾物質に目を向けた。かつて妖怪の山で目にしたアビリティカードのように、それは神代の風景を垣間見せる。けれど、酷く朧げで不明瞭なそのビジョンは、亡失された時の摩耗を色濃く反映していた。

 

「これは……」

 

 私の手中で、伊弉諾物質は塵に還っていく。

 

「あわわ、消えちゃったけど!?」

「寿命だねぇ。ちょっと来るのが遅かった。残念」

 

 風に吹かれて跡形もなくなったそれの形を、脳裏で思い起こす。

 

「こうやってね、過去は、ある時点を境に形を失っていくんだよ。隠されたものを暴く事ができても、失われたものを暴く事はできない。けれど、形を失っても残るものはある」

 

 私は自らの目を指差して示す。

 

「私たちは毎日多くの事を忘れて、世界からは毎日多くのものが失われていく。美しいものも、醜いものも一期一会で──二度とは返らぬ時の中で──」

 

 

 私は自らの、胸に手を当てる。

 

 

 

 

 

「生きている」




Phantasm 愛する者

 菫子さんは夢から目覚め、私は一人で横になって雲を見ていた。けれど、長閑な午後の青空が唐突に遮られる。キスだった。虚空から現れた八雲紫さんが、私の唇を奪っている。

「あら、こんにちは」

 唇を離してそう言った紫さんは、私を抱き起こして隣に座らせる。正直、その神出鬼没さとスキンシップの激しさには慣れていたのもあって、私は極自然体でいられた。と思う。

「眠り姫様を起こしてあげようと思ったのだけれど、連れないわね」
「いい加減キスには慣れましたよ」
「なら、それから先に進んでみましょうか?」
「冗談はよしてください。それで、何の用ですか?」

 クスクスと揶揄うように笑う素振りを態とらしく見せながら、紫さんは祠を指差した。

「明香、貴女、やったわね」
「はい。私がやりましたよ。何せもう古錆びていましたから」
「まぁ、明香なら──良いわ。きっとアレも最期に貴女に見てもらえて本望でしょう。何やら古くからの縁もあったようですし」

 私の手に手を重ねて、紫さんは空を見上げた。冷たくなり始めた風が頬を撫で、重ねられた手の熱が伝わる。空は夕暮れ始めていた。もうじきに夜が降りてくる。早く里に帰るべきだろう。

「紫さん、私は」
「私は、明香に告白しないといけない事があるの」

 帰らないといけない。そう伝えようとした私の言葉を遮って、紫さんは真剣な面持ちで私を見つめた。



「私は──明香を殺そうと思っていた」



 その言葉には、普段の飄々とした紫さんの軽薄さはなかった。一言一句重みを持った、滅多に無い彼女の真意を背負う言葉なのだと思う。

「明香の能力に目を付けて、頃合いを見計らって貴女を殺して目を奪おうと思っていた。だから、ずっと監視していたのよ」

 言葉の意味を理解するうち、打ち付けられた痛みが遅れてやってくるように、恐怖とそれ以上の困惑がやってきた。微かに手が震えて、それを感じ取ったであろう紫さんが手を離す。

「家畜を肥え太らせるように、明香がより多くのものを見られるように裏から手を回していたわ」
「……」

 聞きたい事は幾らでも浮かんだ。それでも、すぐには口が開かなかった。

「けれど、そうやって明香を見れば見るほど、貴女は私の中でどんどん大きな存在になっていった。いつからかしら……私は貴女を殺せなくなった」
「……どうして? だって、紫さんの目を見た時、ずっと私を見守ってくれてて、それで、私を助ける為に手を尽くしていたのが見えて、だから私は……私は紫さんが」
「何故なら、見る見る美しくなっていく貴女の瞳を、もっと見ていたくなったからよ。そしてその目が、私が愛するものを愛おしむようになった時に、私は負けたのよ」

 紫さんは、嘘偽りを感じさせる事のない目で私を見ていた。

「雲見明香、貴女は史上唯一私という妖怪を退治した人間よ」
「それが……紫さんの告白ですか?」

 無限にも思えるほどの沈黙と、逡巡があった。紫さんには、こんな秘密を私に伝える理由は無かったはずだ。黙っている事だってできた筈だし、そうすれば私はそんな事に気付くことは一生なかっただろう。

 一体なぜ?

 恐怖と困惑と疑問で震える心と体が、紫さんから離れようとした時、彼女は私の手を握り直した。

「愛しています。だから、秘密を貴女に打ち明けたかった。貴女に黙っている事に、きっと私が耐えられないから」

 紫さんの手が震えていた。彼女の恐怖が伝わり、私は我に返る。ああ、何ということもないのだ。私が人間で彼女が妖怪だからややこしくなってしまっているだけで、彼女は私に黙っていた疾しい秘密に耐えられなくなっただけなのだろう。


「紫さん、私は貴女に感謝しています」


 紫さんの震えが止まった。それだけでなく、彼女は時が止まったかのように動かなくなっていた。


「紫さんの思惑がなんであっても、貴女は私を助けてくれた人です。貴女に助けてもらえた時、私は本当に嬉しかった」


 また、永遠にも思える静寂が訪れた。鮮やかな黄昏の光が、私たちの間に差し込む。私は、夕陽に照らされた紫さんを抱きしめた。彼女の冷たい身体に熱が伝わって、石のように硬くなってしまっていたその体が柔らかくなるまで、茫然自失していた紫さんを私はただぎゅうと抱きしめ続けた。


「私は、貴女という存在が好きです。いや……」


 それは、正しくない。私は言い直した。





「私は、貴女を愛しています」


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世界は愛しく出来ている
旧地獄街道


完結していましたが、またもや始まりました。
終わってる場合じゃない、見に行くよ。
そんな風に明香に引っ張られた物語でもあります。

ともあれ、お楽しみ頂ければ幸いです。


 朝日が昇る寒々とした早朝に、私は縁側で火鉢に当たって暖を取っていた。文々。新聞の朝刊片手に庭先を眺めていると、有明の月が浮かぶ空からオオワシが舞い降りて来る。意外な来訪者に、自然と顔がほころんだ。

 

「久しぶり。元気にしてた? 最近顔を見ないから、ちょっと心配してたんだよ?」

「元気だったぞ。近頃はめっきり寒くなって調子が狂うがな。上空に行ってみろ。嘴が凍りついて開かなくなる」

「例え地に足つけていても、火に当たらないと凍えそうだよ」

「ははは、飛べない友よ、お前も私みたいに羽毛を生やしてみたらどうだ?」

 

 私は、淹れたての緑茶をオオワシに差し出す。次いで、彼に見えるように朝刊を床に広げて、他愛のない世間話を二三した。彼は、剛欲同盟での最近の活動や、饕餮さんの不健康な食生活について楽しげに私に愚痴っていた。しかし、やがて彼は真剣な面持ちで口を開く。

 

 

「近いうちに、地上で動物霊達の戦争が起こる」

 

 

 私はその言葉を聞いて溜息を吐いた。畜生達が争いを望む事は知っている。戦争は畜生にとって無上の喜びだ。それはもう構わない。動物霊達のそうした性分を私は理解している。共感は出来ないけどね。問題なのは、その戦場が畜生界から地上になる一点だ。

 

「私は平和を祈ってる。でも、畜生界のみんなに平和を押し付けたりはしないよ。争いになっちゃうからね」

「賢明だ」

「なのに幻想郷で戦争するの?」

「そうだ」

 

 私は再び溜息を吐いて目頭を抑えた。オオワシも気不味そうにして目を逸らしている。多分、彼も悩ましいのだろう。

 

「饕餮様に忠を尽くす事に変わりはないが、正面切っての戦争は御免だ。故に、無血で勝利を収める策が無いか考えていた。明香よ、知恵を貸してくれないか? 人間は賢いのが売りだろう?」

「私も初耳だからね。これまでの経緯を教えてくれないかな?」

 

 頷いたオオワシは、事の顛末を教えてくれた。曰く、無主物の神である天弓千亦が開いていた市場の影響で、幻想郷の古の土地の所有権が無に帰したらしい。これ幸いと、無主物(あるじなきもの)となった土地を手に入れようと勁牙組・鬼傑組・剛欲同盟が地上進出を画策したのだと言う。

 

「それで、思惑のぶつかった組織が睨み合ってる訳かぁ」

 

 私は更に頭を抱えた。流石は畜生、争う理由も至極単純である。あまりにも単純過ぎて、どうにもしようがない。

 

「お手上げだね。饕餮さんが無血で一人勝ちってのは無理だよ。争いの理由と目的が単純過ぎて、交渉や取引の余地がない。欲しいものがあって、それを奪い合うだけだなんて」

 

 悩ましげに沈黙するオオワシ。畜生の身でありながら争いを好まず、戦争に頭を悩ませるなんて、まるで動物霊らしくなかった。彼が優しい事は知っている。けれど、随分甘くなったものだと揶揄うと、彼は口を尖らせた。

 

「それを言うなら、お前も人間らしくないではないか」

「それは……そっか」

「戦争が起これば、敵味方問わず多くの者が死ぬだろう。それに見合うだけの物が得られるならば構わん。だが、そんな物は無い。よって割に合わん。割に合わん事をするのは、剛欲同盟のモットーに沿わん」

「えぇと、モットーは『漁夫の利』だったかな」

「その通りだ。正直な話、饕餮様もアホくさいと思っておられるかもしれん」

 

 今回の戦争には利が無い。オオワシはそう判断していた。畜生界を牛耳る三大組織が全面戦争をして、幻想郷を火の海にして死体が山積みの荒野を手に入れたとして、何処に利があると言うのか。或いは畜生達にとっては、戦争そのものが目的そのものかもしれないが。

 

「ならさ、戦争止めにしない?」

「な……に?」

 

 目を丸くしたオオワシに、私は説明した。今の話を纏める限り、私もオオワシも今回の戦争を良く思っていないのだから、戦争に行くのなんて止めてしまえば良いと。

 

「しかし、それでは饕餮様に顔向けできん」

「良いじゃん。剛欲同盟はみんな、饕餮さんみたいに好き勝手するんでしょ? 大体さ、戦争なんて行かずに安心安全でいる事が何よりの漁夫の利だと思うけど」

「一理あるな……」

 

 オオワシは、更に悩み込んでしまった。私は冷たく透き通った青空を見上げて思う。どうか行かないで欲しいと。彼は私の友人だ。何処の世界に、友人が戦争で殺し殺される事を望む者がいるだろうか。

 

「一緒に逃げよう。畜生達の戦争に巻き込まれない所に。幻想郷には詳しいから、逃げ場所には困らない筈だよ」

 

 私はオオワシをじっと見つめた。心配する事など何も無いと、努めて安心させるように微笑みを浮かべる。しかし、彼は首を横に振った。

 

「その気遣いには感謝する。だが、私は饕餮様の元に向かわねばならん。饕餮様に仕えることは、私が自らの意思で定めた誓いだからな」

「そっか……」

「逃げ場所に困らないのなら良かった。戦争が終わるまで明香は逃げろ。安全な場所に身を隠せ」

 

 オオワシの警告を聞いて、簡単に思い浮かぶ逃げ場所を考えてみた。やっぱり博麗神社かな。食べ物を数日分と幾らかのお賽銭があれば、きっと霊夢さんなら神社の隅に匿うぐらいはしてくれるだろうし。

 

 

「何やら、肝心なお話をしているようね」

 

 

 私が思索に耽っていると、唐突に横合いから声を掛けられた。目を向けると、まるで初めから其処に居たと言わんばかりに、紫さんが火箸を手にして火鉢の灰を弄んでいる。

 

「いつから居たんですか?」

 

 彼女は答えず、代わりに微笑みを返した。

 

 

 

 

 

 相変わらず神出鬼没な紫さんは、朝刊に目を通して寛いでいる。彼女は、幻想郷が畜生達の戦場に成りかねない現状にも関わらず、普段の余裕を崩さずにいた。

 詰まる所、紫さんは今回の畜生達の大騒ぎにも既に一枚噛んでいるのだろう。彼女は、もう解決策や落とし所を見出していて、後は成り行きを見守るだけの心積もりなのかもしれない。私はそう見当をつけて、話を切り出してみた。

 

「幻想郷で畜生達が戦争をするって言うのに、紫さんが何も知り得ないなんて、あり得ないって思ってました」

「勿論よ。だから私は明香に会いに来たの。貴女には、日白(にっぱく)残無(ざんむ)に会ってほしい」

「どちら様で?」

「そうねえ……説明が難しいのだけれど、簡単に言うと今の地獄を創った鬼よ」

「今の地獄を創った?」

「そう。けれど、彼女が何処に居るかは分からない。だから先ずは、旧地獄の地霊殿を訪ねるしかない。古明地さとりならば、私よりも彼女に詳しい筈よ」

「鬼なら萃香さんの方が──」

 

 私がふと思い付いた名を出すと、紫さんは首を横に振った。萃香さんは、故なく煙る霧雨のように捉え所がないのだと。つまり、行方知れずらしい。

 

「お使いなら藍さんの方が適任ですよ」

「地上と地底の妖怪は不可侵の間柄。勿論、いざと言う時はなりふり構っていられないけれど、事態はまだお行儀良くルールを守っていられる範疇よ」

 

 紫さんは、火箸を深々と灰に突き刺した。その所作は、その言葉とは裏腹に、お行儀良くは見えない乱暴さを孕んでいる。意外と怒ってる……のかな?

 

「それに、残無と会うのは明香でなければならない。貴女の目で、彼女に今の幻想郷を見せてあげて欲しい。それが、今回の馬鹿騒ぎを最も穏便に済ませる方法よ」

 

 紫さんは、私に向けて殺し文句を突き付けた。

 

 

「幻想郷の為に、力を貸して頂戴」

 

 

 そんな頼み方をされては断れない。それに、戦争なんて無くなれば良いと私が祈っていた事も、紫さんにはお見通しだったのだろう。強かだなあと思って、思わず笑みが漏れる。

 

「構いませんよ。私は幻想郷が大好きですから」

「ありがとう。きっと幻想郷も貴女が大好きよ」

 

 ああ、なんてお茶目な人なのだろうか。既知に無知を装うアイロニー。それは、否定される事を目的とした言い回し。けれど、そうした会話が成り立つと思われている事は、一種の信頼でもある。私は少し嬉しく思った。

 

「そんな世辞は通じないって、紫さんなら分かってるでしょ? 私が愛してやまない世界は、何者も、何物も愛さない」

「「ただ一人の例外を除いて」」

 

 私と紫さんの言葉が、不意に重なった。私達は顔を見合わせて笑い合う。オオワシは理解不能だと言わんばかりに私達から離れたが、目敏い紫さんに見つかってしまった。

 

「できる事なら霊夢と一緒に向かわせたいけれど、彼女は最短最速の方法で物事を解決してしまうから今回は不向きなのよ。困ったわね……あら? 丁度良い所にオオワシ霊がいらっしゃる」

 

 紫さんは、態とらしくオオワシに目を向けて朗らかに笑った。彼は、ゲンナリした表情を浮かべて私の影に隠れる。

 

「八雲紫よ。悪いが私は饕餮様から下された任務を遂行中だ。お前の指図は受けぬ」

「それは残念」

 

 紫さんは、扇子をスキマから取り出して口元を隠した。彼女は、可愛らしく首を傾けて目を細めている。その表情は、態とらしく芝居がかっていた。

 

「つまり、私は貴方の友人を怨霊蔓延る地底へと送らなければならないのね。それもたった一人で」

「それは脅しか?」

「いいえ、単なる事実ですわ」

「明香は、お前にとっても友ではなかったのか」

「……」

「私なら、自らの友人を危地に追いやったりはせぬ。つまり──お前の思い通りか」

 

 してやられたように、オオワシは苦々しげな表情だ。

 

「良かろう。私が明香に付き添う」

「感謝致します」

 

 扇子を閉じて丁寧に頭を下げた紫さんは、一転して柔和で優しい口調になった。

 

「貴方にとって明香は紛れもなく友人なのね。私、動物霊は信用していないのだけれど安心したわ」

「抜かせ。お前のような類いの者は、元より何者も信用せぬだろう」

「それは誤解ですわ。ちゃんと信じて、ちゃんと疑ってあげる事。それが大切な事でしょう? 信じ過ぎたり疑い過ぎたりしないように、日々苦心しておりますのに」

「明香よ。此奴胡散臭いぞ」

 

 くすくすと、紫さんと二人して笑う。煙に巻かれてしまっているオオワシを見ると、可笑しくて堪らなかったのだ。紫さんを相手にするのに、そんな真面目に臨んじゃったらお手玉にされちゃうよ?

 

「兎も角、久しぶりの地底旅行だね」

 

 昔に地底へ向かった時は冬で、雪見酒ができた。今は秋だから、地底の彼岸花が──残念、少し季節外れかな。もう花は過ぎて木枯らしの季節だね。

 

「楽しみです」

 

 胸を押さえてみると、久しぶりの遠出に心が躍っていた。カメラを引っ張り出して、お酒と肴を鞄に詰めて、後は旅装にお着替えしなければ。見たいものは尽きせずあるのだ。足を止める理由なんて、見惚れる以外にあるものか。

 

 

 

 

 

「以前は萃香さんと一緒だったんだよ」

「鬼と二人旅とは命知らずだな」

 

 オオワシと駄弁りながら、私は旧都の街道を歩んでいた。昔に訪ねた時とは違って、沢山の妖怪や怨霊達が古風な街並みを彩っている。

 

「う〜ん、前は伽藍堂だったんだけど」

「その萃香という鬼が余程恐れられていたのだろう。お前が温泉にいた時も賑やかな有様だったじゃないか」

 

 言われてみればそうである。或いは、今の私がオオワシ憑きで人間には見えない事も関係しているのかもしれない。私は歩を進めながら空を見上げた。地底だけあって、夜のような真っ暗闇が広がっている。

 

「いや、それでもやっぱり伽藍堂ではあるんだよ」

 

 如何に賑やかであろうと、街道の大通りから入り組んだ路地裏に目を向ければ、暗く密やかな街並みが広がっている。常しえに暗がりの中にある事を際立たせるかのように、吊り下げられた提灯や行き交う鬼火が、精一杯の抵抗を見せてはいるが。

 

「ほら、日が暮れて寂れた見知らぬ繁華街を行く気分だよ。賑やかだけれど何処か寂しげで、暖かいけど身を寄せる事はできなくて、足を止めずに過ぎ去っていくことしかできない場所だ」

「そうだな。私もお前も、此処では余所者だからだ」

「それなら──」

 

 私は、街道を抜けた先の遠景を見晴かす。すると、暗闇の中で朱に染められた橋が、鳥居のように川にかかっていた。

 

「あっちに行こう。そっちの方が、多分落ち着くだろうから」

 

 私達のような余所者は、誰かの場所にいる事に耐えられない。だから、何処でもない場所が何より落ち着ける場所なのだ。

 

「嬢ちゃん、見たとこ素面だな。酒はどうだい?」

 

 するうち、道沿いの酒屋から声が掛かった。目を向けると、鬼の店員が豪快に酒を煽っている。店内には、これでもかと酒瓶や通い徳利が並べられていた。私は地底の酒に興味を惹かれて立ち止まる。地上では口にする機会のないものだからね。

 

「これ、全部売り物なの?」

「勿論だ。うん? 地上の酒臭いな。ウチじゃ取り扱ってない筈だが……」

 

 鬼が首を傾げる。そこで私は、手持ちの酒と交換してもらえる商品がないか問い合わせた。怪しげに私の酒に目を通した彼は、頷いて店頭の商品を見繕い始める。その間、私は店先の腰掛けに座り込んで結果を待った。余所者は、呼ばれると客人に変わるのだ。

 

「中々どうして、変わって見えるもんだね」

 

 さっきまでの刺々しくて重苦しい空気は霧散して、周囲の景色がずっと身近になった。私もまた、この風景の一部に成れたように感じる。

 

「酒屋か。何処にでもあるものだな」

「都だからね。大抵の店は揃ってるんじゃないかな?」

 

 旧都は、地上の人間の里と同じか、或いはそれ以上に繁盛している。街道や大通り沿いには、風呂屋に飯屋、茶屋に呉服屋までなんでもござれだ。花火屋まであるんじゃなかろうか? 屋台や露店にも、沢山の妖怪達で人集りができている。

 

「畜生界の方が都会だがな」

「変なとこで張り合うね」

「件の鬼について店員に聞いてみたらどうだ」

 

 オオワシの言葉に頷き、日白残無という鬼を知っているか聞いてみると、鬼は露骨に表情を歪めた。彼は吐き捨てるように言う。

 

「地底でその名を知らない奴はいない。だが、敢えて口に出す奴もいない」

「どういう事?」

 

 鬼の表情は不思議を極めていた。そこには嫌悪や軽蔑は無く、尊敬や憧憬を映す目がある。しかし、彼は侘しい面持ちをして困ったように微笑んでいた。その感情を量りかねて沈黙する私に、彼は選び抜いた商品を黙々と手渡す。

 

「誰も話したがらないって事さ。久しぶりだね。あんたは確か、萃香が攫ってた人間……人間?」

 

 盃片手に赤ら顔の星熊勇儀さんが、目を擦って私を見返していた。彼女の目には、私の背中のオオワシの翼が写っている。

 

「いやあ、萃香の酒を飲み潰したぐらいだ。ただの人間とは思ってなかったが、やっぱり妖怪だったのかい」

 

 ニッコリと笑って、勇儀さんは私の背中を叩いた。旧友にするかのように親しげに、彼女は私の隣に腰掛けて酒を勧めてくる。断る理由も無いので、口を付けてみると美酒であった。美味いねえ。

 

「久しく見なかったが、今日はどうしたんだい? 地上から来るなんて悪い奴だな。ほら、不可侵だってさとりの奴が煩くなるぞ」

「ええと、正にその古明地さとりさんに会いに来たんです」

「さとりに? そりゃ珍しい。あいつは嫌われ者だからな。訪問者なんていつぶりかね」

「霊夢さんとかは」

「ありゃあ訪問者って言うより襲撃者だろ?」

 

 あまりにあんまりな物言いだけれど、見事に的を得ていて笑ってしまった。苦笑する私に更に酒を勧めながら、勇儀さんは酒屋の鬼から追加の酒を購入している。

 

「奇縁のよしみだ。私が地霊殿まで案内してやるよ。あんた、名前は何だった?」

「雲見明香です。以後にもよしみがあればよろしく願います」

「ああ、覚えとくよ」

 

 

 

 

 

 勇儀さんに連れられて、私達は一路地霊殿へと向かった。余所者だなんだと言っても、過ぎ去ってしまえば名残り惜しくなるのが私と言う者。旧地獄街道に振り向いて、目を眇めて独りごちる。

 

「やっぱり良い街だ。また来たいね」

「また来れば良かろう」

 

 なんて事もないように、簡単に言ってくれるオオワシ。しかし、これについては勇儀さんも彼と同意見のようだった。

 

「さとりの奴に聞いてみなよ。構わないなら、好きにすりゃあ良いさ。いつでも歓迎するよ。私が元締めの街なんだが、温泉街もオススメだぞ」

「それは──知ってます。温泉、気持ち良いですよね」

「なんだい、お得意様だったのかい」

 

 豪快に笑う勇儀さん。しかし、付け加えるようにして彼女はこそりと呟いた。

 

「その……独り言は止めた方が良いぞ。気味が悪いからな」

 

 あー……そっか、私とオオワシの会話は、側から見れば独り言だったね。

 

「すみません……独り言が癖になってて」

「悪癖だねえ」

「いや、その──誰かが答えてくれるような気がして」

「気を付けな。下手に言葉を吐いてたら、変な奴が憑いて来るよ」

 

 正に、憑かれてます、とも言えず。私は苦笑して言葉を濁し、カメラを構えた。狙いは旧地獄街道だ。

 

「上手く撮れたかい?」

「現像して見るまでは何とも。でもきっと、良い景色ですから、良く撮れてますよ」

「そりゃ良かった。文の奴とは大違いだ。あいつは守秘義務だのネタがなんだので、撮った写真の一つも教えてくれなくてね」

「文さんをご存知なんですか?」

 

 思わぬ共通の知人に話が膨らむ。私達は、鬼火や怨霊達が行き交う中、談笑しながら旧地獄の中心へと進み続けた。目的地の地霊殿がどんな場所か勇儀さんに聞いてみると、彼女は頬を掻く。

 

「動物園、かな?」

 

 オオワシが、険しい目付きで警戒心を露わにした。畜生同士縄張り争いなんてしないでね。そう宥めると、当然だ、任せておけと彼は自信満々だ。いや、任せるって──何を? 不安だなあ……。



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地霊殿

残無が人鬼で……その元ネタが残夢で……主人公が霊夢で……予測変換が──使おう、ユーザ辞書!


 勇儀さんに連れられて辿り着いた地霊殿は、西洋風のカントリー・ハウスのような邸宅だった。彼女に別れを告げて邸内に足を踏み入れると、おとぎ話然とした古典的な空間が私達を出迎える。

 

「これは──」

 

 私達が立ち尽くす玄関ホールでは、真っ先に巨大な階段が目に入った。更に、複数階を占有する広大な吹き抜けのような此処では、見上げた天井の高さに吸い込まれるような錯覚を感じる。各所に取り付けられたステンドグラスの大窓からは、仄暗い光が差し込んでいた。その上、彫刻の施された床や柱、アンティークと言える程に古めかしい家具が厳かな雰囲気を醸し出している。だが──

 

「独創的な……領域だな」

 

 オオワシは反応に困っていた。昔話の領主様でも現れそうな内装の玄関ホールに、野生溢れる動物達が寛いでいたからである。ざっと見ただけでも、犬猫から豹やライオン、見た事のない鳥類までもが自然溢れる密林のように犇いていた。

 

「あら、貴女は?」

 

 私達が異界極まる光景に釘付けにされていると、階段の上層から一人の少女が降りてくる。彼女の胸元には、無数の管に繋がれた異形の瞳があった。明らかに人間ではない。彼女は私を見て目を輝かせたが、次の瞬間にはすんとして平静を取り戻していた。

 

「失礼、お客さんでしたか。てっきり、私のペットが成長して人の形を手に入れたものかと」

「ペット?」

「そうです。ほら、此処に居るみんな、私の可愛いペットです。おっと、自己紹介が遅れました。私は古明地さとり。この地霊殿の主です」

 

 どうやら、彼女が私の探していた古明地さとりさん当人であるらしい。私も自己紹介しようとしたが、彼女はそれを制止した。

 

「いえ、不要です。私は覚妖怪ですから、貴女の心を見通せるのです。雲見明香さん」

 

 ならば、私が地霊殿を訪ねた目的についても説明不要なのだろうか。沈黙して佇んでいると、古明地さんは探偵のように何もかもを言い当てて見せた。

 

「一つの身体に二つの心が見えます。雲見さんは──動物霊と一緒なのですね。ふむ、日白残無の事を聞きに来たと」

 

 古明地さんは頷き、私を手招きする。

 

「ついて来てください。図書室で話しましょう。実は読書中でして」

 

 

 

 

 

 古明地さんの後に続いて暫く。舞踏会を開催できそうな広場や、抽象的な絵画や彫刻が所狭しと並べられた画廊を通り抜け、沢山の動物達の合間を縫うように進んで漸く、私達は図書室に辿り着いた。

 

「どうぞ、気兼ねなく寛いでください」

 

 図書室では、壁沿いに書架が設置されていた。その周囲には、高い位置の本を手に取る為の踏み台が配置されている。団欒の為か、ふかふかのソファーや心地良さげな腰掛けがあり、その内の一つに私は腰を落とした。古明地さんも安楽椅子に揺れている。

 

「適当な書籍を読まれても構いませんよ。読書はお好きで? 気が合いますね。私もです」

 

 古明地さんは、私の返事を先読みして会話を進めていた。何も言わなくて良いのは便利だけれど、普段とは一風変わった会話の形式には中々慣れない。

 

「心を読まれながら会話するなど滅多に無い機会でしょうし、当然です」

 

 いや、本来なら絶無な機会ですよ。

 

「もう小慣れてきたのでは?」

 

 それなりに。とは言え、古明地さんは親切ですね。アポもない訪問でしたから、門前払いも覚悟していました。まさか、客人のように扱ってもらえるなんて。

 

「私の可愛いペットを蹴散らしながらやって来る乱暴者なら話は別でした。そう、雲見さんの想像通り博麗の巫女の事です」

 

 残念そうな表情を浮かべて、古明地さんは言葉を続ける。

 

「本当に残念です。お空やお燐──私の自慢のペット達にも会わせてあげたかったのですが、丁度今は仕事を任せている所なのです。こいしは……何処をほっつき歩いているのやら」

 

 灼熱地獄跡地の温度管理や怨霊達の制御など、多くの仕事をペット達に任せているのだと古明地さんは教えてくれた。一方、こいしなる人物について彼女は言及しない。しかし、誰だって話したくない事はあるだろう。故に私は、詮索せずに聞き流した。

 

「お心遣いありがとうございます。こいしの事となると心労が絶えないもので。私の妹なんですが、本当に心配で──失礼、残無の事でしたね」

 

 古明地さんは、逸れかけた話を戻した。彼女は、木の軋む音を立てながら安楽椅子で幾たびか揺蕩う。

 

「ただ、そう急く事もないでしょう。折角の機会ですし、少しお話しに付き合ってくれませんか?」

 

 オオワシが口を開こうとする。彼は、出来る限り手早く目当ての情報を得たいようだ。しかし、古明地さんは先んじて答える。

 

「ではこうお考え下さい。貴方達は知りたい情報を手に入れて、私は話し相手を得ると。何事にも対価は必要でしょう?」

 

 オオワシが渋々頷くと、古明地さんは上機嫌そうな笑顔を見せた。図書室には暖かい光が差し込んでいて、微かな粒子が宙を舞っている。寛いで深呼吸すると、本特有の紙の香りがした。獣の匂いに満ちていた玄関ホールや画廊とはえらい違いである。

 

「図書室には入らないように、私のペット達に言い付けているんです。何せ、本は簡単に傷付きますから。それに、大半のペット達はまだ字が読めません。彼らには無用な部屋です」

 

 古明地さんは本を脇に寄せ、私を凝視していた。その眼差しから窺い知れるのは、深い好奇だけだ。

 

「雲見さんの心からは、貴女が巡って来た幻想郷の光景が見えます。人の心からこれほど美しいものを見たのは久しぶりです」

 

 古明地さんは、額に手を当てて俯いた。彼女は、第三の目でじっと私を見つめ続けている。

 

「目を奪われます。残無にもこの光景を見せるのが目的ですか。成る程、あの胡散臭い妖怪の差し金だったとは」

 

 古明地さんは、何度も納得したかのように頷き、瞬きを繰り返す第三の目を抱きしめる。

 

「地底はどうでした? これで三度目の訪問でしょう?」

「少し陰鬱ですけれど、賑やかで、寂しげで……暖かい場所です。きっと地底に身を寄せる妖怪達は、追いやられて流れ着いた此処を初めは疎んでいたのだと思います」

「よく分かったわね。その目で私を覗いたのかしら?」

「けれど、次第に落着き、段々と馴染み、最後には好くようになった──ですよね?」

 

 安楽椅子が、ギイと大きな音を立てた。古明地さんが、目を細めて口元を歪め、しかし頬を緩めている。沢山の感情が、絵の具のようにかき混ぜられて、何とも言えない絶妙な色合いになっているようであった。

 

「私は地上なんてどうなっても良いと思っています。ですが、雲見さんを見ていると心が揺らぎそうになる。きっと日白残無もそうでしょう。八雲紫は、だから貴女を使ったのね」

 

 古明地さんは深い溜息を吐いた。彼女は心の整理を付けるように、目を閉じて暫く沈黙する。やがて、彼女は安楽椅子から立ち上がり、窓辺に立った。そこでは、窓を通して地底の旧都が一望のもとに眺められる。

 

「私は嫌われ者です。地底の民達からは心底疎まれています。私は恐れられている訳です。いや、不満はありませんよ? 恐れられる事は妖怪にとって本望ですから」

 

 強がり──ではないのだろう。しっかりとした、揺らぐことの無い口調である。

 

「私は、私を忌み嫌い、恐れてくれる皆が好きです。この仄暗い陰鬱でちゃらんぽらんな能無しどもが屯する地底が好きです」

 

 その言葉とは裏腹に、とても優しい声音だった。

 

「書店が好きです。私が来店する度に店員が苦手そうな表情をしてくれます。温泉が好きです。私が湯に入るとみんなスペースを譲ってくれます。街道も好きです。私が通りを行くと、誰も彼も道を開けてくれます」

 

 なんと返せば良いのか……。妖怪である事の本質を知り、私は言葉を失う。しかし、彼女は私に背を向けたまま首を横に振る。

 

「此処は心地良い。本当です。こんなに妖怪冥利に尽きる場所は無いでしょう。私はこの地底を守る為なら、家族とペット以外は賭けてしまえるでしょうね」

 

 窓辺に肘を掛けて、古明地さんは振り向いた。彼女は、同類を見る目をして私に微笑んでいる。

 

「雲見さんもそうでしょう? だから貴女は此処に居る。畜生達の戦争から幻想郷を守る為に」

 

 私は頷いた。私達は、確かに似た者同士かもしれないと。

 

「出来るなら、またいつか訪ねてください。その時は、茶菓子を用意して楽しみにしています。雲見さんがどうやって世界を救ったのか、後学のために教えてもらいましょう」

 

 古明地さんから差し出された右手を、私は握り返す。少しの間を置いて、彼女は名残惜しげに手を離した。やがて、卓上の本を書架に直しながら彼女は言う。

 

「日白残無は、かつてこの旧地獄を切り離し、新地獄を創ると提言した鬼でした。彼女は賢く、口の回る、所謂インテリという奴です」

 

 萃香さんや勇儀さんを思うと、インテリな鬼とは中々想像し難い。鬼というのは、剛毅で愚直な酒呑み達だと思っていたのだけれど。

 

「確かに貴女の想像は正しい。鬼とはそういう妖怪です。しかし残無は、かつて人間だった鬼です。彼女は、その賢しさ故に鬼に転じた元僧侶でもあります。雲見さんとは気が合うかもしれませんね」

 

 私は幾許かの驚きをもって、その言葉を受け止めた。元人間のインテリ鬼とは、なんとまあ常識外れな存在だろうかと。そもそも、鬼とは地上の幻想郷からも忘れ去られた種族である。そんな、あらゆるものから忘れられた種族に転じていた人間がいようとは。

 

「残無は──本当に貴女に似ています。彼女はかつて、戦乱の絶えない時代の最中に生き、この世の無情と矛盾、そして人間、いや、凡ゆる畜生の生き汚いしぶとさを目の当たりにしました」

 

 古明地さんは、手に取った書籍を私に突き付けるようにして、劇的な所作で語り始めた。

 

「文学とは、インテリをこの世の苦悩で殴り付けて生じる、一種の呻き声であるという者も居ます。そういう意味では、残無は文学的な鬼でもあるのかもしれません」

 

 文学的な鬼──全く、なんと不思議を極めた鬼であろうか。私の内心の驚嘆を読み取り、私が十分に平静を取り戻すまで待ってから古明地さんは口を開いた。

 

「残無の事を慕う黄泉醜女が、灼熱地獄跡地を彷徨っているとお燐から聞きました。今から向かえば、残無の居場所を聞き出せるかもしれません」

 

 礼を言って、私は図書室を後にする。背後からは、古明地さんの声がした。

 

「お熱いですよ。お気を付けて」



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灼熱地獄跡

「熱すぎる……」

「灼熱地獄の跡地だぞ。当然だろう」

 

 オオワシは呆れた様子で言う。実際、彼が居なければ私は骨まで灰になっていただろう。周囲は見渡す限り火の海だ。景観も何もあったものではない。だが、だからこそ──

 

「これもまた、壮観だ」

 

 私は、身の丈を越えるような炎を間近で見た事はなかった。けれど此処では、山を越えるようなサイズの炎が、生き物のように揺らめいている。全てを飲み込んで尚余りある大火は、しかし今や何物を焼く事もなく煤の匂いを漂わせていた。

 

「こんなに大きな炎は初めて見たよ」

「かつては罪人を山程焼いておったのだろうな」

 

 灼熱地獄と言えば、五戒を破った邪見の者が堕ちる先だと聖さんから聞いたことがある。此処では盆地のように四方が火に囲まれており、私達は火中で立ち往生した。跡地であってもこの始末とは、地獄の業火の絶えざる事、斯くの如しか。

 

「ねえオオワシ。これ、私焼かれてないかな?」

「不殺生、不妄語、不飲酒は破っておるな。それに、物の見方も随分と邪見ではないか?」

「それでも灼熱地獄に堕ちる程じゃないよ」

「ならば早く黄泉醜女を探さんとな。名前は確か、豫母都日狭美(よもつひさみ)だったか」

 

 目を凝らして人影を探す。何処もかしこも炎だらけだからこそ、人も探しやすいだろうと呑気に考えていた。けれど、どうやら当てが外れたみたいだ。写真を撮りながらカメラ越しに見回すが、何にも見当たらない。

 

「気長に探すしかあるまい。もう少し高く飛ぼう」

 

 オオワシは飛び上がり、高度を上げて見渡す。しかし、地平線の彼方まで変わらず火の海で、本当に地下なのかと疑わしくなる光景だ。果たして、何を燃やせばこんな火が起こるのだろうか?

 

「覆水盆に返らぬように、焼かれた物は二度と元に戻らない。故に、この灼熱地獄は罪人の無尽の罪咎を薪にしていた。だが今は、怨念渦巻く呪われた血がその糧よ」

 

 私はふと、この土地の地理を思い出した。地上から遠い地底、その更に地下の灼熱地獄跡の、その底に何があったのか。

 

「成る程、旧血の池地獄の──」

「追いつきましたよ残無様!」

 

 唐突に、何者かが頭上から飛びかかって来た。オオワシが翼で振り払うと、落胆した声がする。

 

「あら、人違い? あ〜……失礼しました」

「いやいや、待て待て」

 

 一瞬で踵を返して去ろうとする女性を、オオワシが呼び留めた。ロベリアの巨大な花弁で目を隠している彼女は、葡萄の蔓や果実があしらわれた深紫色のチャイナドレスを身に付けている。個性的な外見だが、何よりその目隠しが私の目に付いた。

 

「お前は何者だ」

「私? 私は豫母都日狭美よ。悪いけれど、今は残無様を捜すのに忙しいから構っていられる時間はないわ」

「私たちも日白残無を探している」

「ほほう? なら、一緒に捜しましょう。人手は多いに越した事はありません。もし残無様を見かければ教えて下さいませ。さもなければ、地獄の底まで追いかけます」

 

 日狭美さんは、捜索の為に残無さんの特徴を教えてくれた。主観的な表現の多い説明だったが、古明地さんから聞いた話と齟齬は無い。残無さんは、頭部に鬼の角を生やし、黄色の肌着の上から灰色がかった緑褐色の上着と青色のズボンを身につけているらしい。彼女は、この灼熱地獄跡を丁度訪ねているのだという。

 

「そう言えば、貴方はどうして残無様を捜しているの?」

「畜生界の動物霊達が地上進出を企てている件で、残無さんと話したいのです」

「ふ〜ん、詰まらない話ですね」

 

 全く退屈で、下らない、仕様もない話だと私は同意した。戦争の話など、誰が好き好んでしたいだろうか。そう話すと、日狭美さんは首を横に振った。

 

「そう言う意味ではないわ。だって、動物霊達が地上に出た所で、地獄の鬼達に叩き潰されますから。勝敗の決まり切った話なんて面白みがないでしょう?」

「地獄の鬼達に? どう言う意味だ!?」

 

 オオワシは驚愕して問い詰める。剛欲同盟の仲間や饕餮さんにも関わる話だから、彼は真剣そのものだ。

 

「そのままの意味よ。畜生界の動向は、地獄の鬼達に察知されている。彼らは、地上に侵攻した動物霊達を殲滅するつもりです。けれど、鬼と争って死ねるなんて、畜生冥利に尽きる話でしょう? 動物霊にとっては喜ばしい事の筈よ」

「地上で鬼と畜生が戦争なんてしたら地獄絵図だよ。地上に出る前にもやりようはあるでしょ?」

「貴方、二重人格? 情緒不安定ね〜」

 

 私たちの様子に、日狭美さんは若干身を引きながら答える。曰く、罪を犯す前にしょっぴく警吏が何処にいようか、と。地上に進出して幻想郷の土地を占拠するのが罪ならば、それを犯すまでは静観するのが鬼達だと。

 

「どうやら畜生は馬鹿騒ぎし過ぎたようだ。地獄の鬼に目を付けられていたとは。明香よ、私は直ぐにでも饕餮様の元に向かわねばならん」

「その必要はない」

 

 オオワシの言葉を遮り、少女が現れた。すると日狭美さんは、その口元を三日月に歪めて喜色を湛える。彼女は、業火にも負けず劣らず熱っぽい声をあげた。

 

「残無様!」

 

 その少女は、日狭美さんから聞いた日白残無その人だった。彼女は、日狭美さんを見て苦笑しながら諭すように請う。

 

「日狭美よ。お前は席を外してくれぬか?」

「嫌です。折角残無様を見つけたのに」

 

 不満げに言い募る日狭美さんを、残無さんは鋭く睨み付けた。有無を言わせぬ脅迫的な瞳である。しかし、何故か嬉々として日狭美さんは頷いた。

 

「うう……終わったら呼んで下さいませ」

 

 

 

 

 

「儂は日白残無じゃ。お前は儂を探しておったようだが、どちら様かのう? 見覚えがなくてな」

「お初にお目にかかります。地上の人間、雲見明香です」

「人間?」

 

 残無さんは目を擦る素振りをした。確かに、一目見ただけでは人間には見えないだろう。そこで、私はオオワシを紹介した。すると、残無さんは言葉を選びながら慎重に問いかけてくる。

 

「ならば、お前達はどちらの味方なのじゃ?」

「どちらの?」

「つまり、畜生界の饕餮の手先なのか、或いは地上の人間なのかじゃ。どちらかによって、儂も相手の仕方を選ばねばならん」

 

 残無さんの問いかけに、私たちは即答した。

 

「私は饕餮様の部下で、明香の友だ」

「私は、地上の平和を祈ってる人間だよ」

 

 残無さんは、悩ましげに腕組みをして黙り込む。佇む私たちは、黄色い色調の炎と黒煙に暫し燻された。地獄らしく、火山のような硫黄の匂いも漂っている。旧血の池地獄の、硫黄混じりの原油が不完全に燃焼した結果だろう。するうち、残無さんは私の懸念に当てをつけた。

 

「ならば、無主物の土地を巡る畜生の騒乱が気掛かりなのじゃろう? 心配する必要は無い。幻想郷が畜生達のものになるなど、あり得んからじゃ」

 

 幻想郷の古の土地は、開かれた市場の影響で無主物となった。だが、時間さえ経てば自然と霊達が土地に取り憑く。故に畜生達は、争い合う間に奪うべき土地を失った事に気付くだろう。そう、日白残無は滔々と明かした。

 

「必要なのは時間だけじゃ。よって、儂は地獄の鬼達を止めて、争いを煽る為に畜生達の組織にスパイを送り込んだ。争いが平和の礎になるとは、皮肉な事じゃな」

「けれど、既にこの異変を察知している人達がいます。例え鬼畜の戦争で地上が地獄絵図にならなかったとしても、霊夢さんは争いを煽った残無さんを突き止めますよ」

「霊夢? 博麗の巫女の事か。ならば、そうでなくては儂が困る」

 

 残無さんは、余裕綽々として語る。畜生達が争い、それを煽った黒幕が博麗の巫女に退治される。そうしてこの馬鹿騒ぎは、幻想郷では異変と呼ばれる自然な現象の範疇になるだろうと。

 

「良い事尽くしじゃ。全て儂の掌の上よ」

「何故、そんな計画を?」

 

 地獄に君臨する残無さんが、どうして地上の一端でしかない幻想郷の為に動くのか。私の問いに、彼女はふと思いついた不満を愚痴るように答えた。

 

「儂は、これまで山程の戦乱を見てきた。無常な浮世の浮生は、矛盾に満ちている。人々は、殺生を悪として禁じながら、戦で殺めた数を誇り、死して尚も鬼畜に悪鬼羅刹と化して血で血を洗う。のう、オオワシの動物霊よ」

 

 残無さんは、悪びれる事なく肩を竦めてみせる。

 

「せめて死後にまで相争わぬように、死した動物霊や幽霊達を儂は喰ろうてやった。すると、儂はいつの間にか鬼になっておった。殺生もせず、死したる鬼畜共を喰っていただけなのにじゃ。儂は地獄に堕ちると悟り、自ら地獄へ下って鬼達を話術で纏め上げた」

 

 私は、残無さんの目を見て怯えた。虚無の瞳だ。彼女の瞳には、この世の悲惨と地獄しか写っていなかった。しかし、その暗澹たる風景の先から、一筋の光が差し込んでくる。

 

 

「儂は、争いを好まぬ」

 

 

 それは、私が見慣れた世界だった。戦争とは無縁で、争いは遊戯に取って代わられた、牧歌的な幻想郷だ。私は我に返り、残無さんの想いを理解した。つまり、あゝ、彼女は私と同じものが好きだったのか。すとんと全てが腑に落ちた。しかし、彼女は敵意を露わにする。

 

「さて、オオワシ霊よ。お前は今の話を饕餮に伝えるじゃろう?」

 

 仁王立ちをして、残無さんは私たちの前に立ち塞がった。しかし、オオワシは迷いなく答える。

 

「ああ、伝える。饕餮様に隠し立てはできぬ。さすれば、動物霊達は我先に地上へ侵攻するだろう。幻想郷は獣王達の園となる」

「馬鹿正直じゃのう。儂が目の前におるのに、全く──嫌いでは無い。ふむ、儂の少しばかり鬼らしい機微じゃの」

 

 残無さんは苦笑し、態度を軟化させて提案した。

 

「ならばオオワシ霊よ、今の話を内密にすれば、饕餮に義理を立てられる方法を一つ教えよう」

「なんだと?」

「実はだな、この灼熱地獄跡の地下深く、旧血の池地獄に引き篭もっている天火人がおる。奴を饕餮と引き合わせてみよ。新しい傘下を得られるじゃろう」

 

 オオワシは考え込んだ。新しい仲間と、無主物の土地、何れが饕餮さんの利になるか。やがて、彼は決心したようだった。

 

「よかろう。私は嘴を閉じておく」

 

 残無さんは、得意顔をして胸を張る。

 

「ならば、旧血の池地獄へ向かうと良い。此処から炎を突っ切って底へ向かうのじゃ」

「残無さん、私からも一つ」

 

 私は、残無さんに向けて深く頭を下げる。何故なら、他ならぬ彼女の手によって、幻想郷は救われるからだ。例え彼女にどんな思惑があったとしても、その行為には見返りがあって然るべきだろう。でなければ、不義理ですよね、紫さん。

 

「何の真似──」

 

 私は、顔を上げて残無さんと目を合わせた。彼女に何を見せるべきか、私はもう知っている。目を丸くして立ち尽くす彼女に、私は捨て台詞を残して飛び去った。

 

 

「全てが終わったら、宴会で会いましょう」

 

 

 この争乱が異変になるなら、きっと呆れるほど平和な宴が、その後に続くはずだから。



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旧血の池地獄

 火の海の只中で、私たちは真っ逆さまに落下していた。見上げた先では、炎の海溝のように底知れない深みが口を開けている。しかし、こうした地獄絵図に相応しい光景の中にありながら、私は胸を撫で下ろしていた。

 

「残無さんが、幻想郷を守ってくれる。動物霊達の争乱は、畜生界や地獄で留められて地上に至る事はない。それなら──良かった」

 

 勿論、好意や善意だけではなくて、打算的な思惑も残無さんにはあるに違いない。けれど、例えどんな思惑があろうとも、それで幻想郷が救われるならば、私は構わない。

 

「しかしだな、何もせずとも残無が手を回していたのなら、この旅路は無駄骨ではないか?」

「悲しい事言うねえ。私は、楽しかったけどなあ」

 

 残無さんに会うだけではなくて、旧地獄街道を散策したり、地霊殿を訪ねたり、灼熱地獄跡に堕ちたりした。そうして多くの場所を見取る事が出来たのは、この上もない僥倖である。

 

「身も心も、焦がれているんだよ、この旅路に」

「違いない。地上に戻ったら、軟膏でも塗ってくれんか?」

 

 オオワシの翼は、火と風に煽られて傷んでしまっていた。私の身体も、チラホラと火傷が見て取れる。これまでの疲労も祟って、限界が近そうだ。暫くはまた、永遠亭通いだろう。

 

「熱そうだね。焦げちゃってる」

「他人事ではないぞ。早く抜けねば、火達磨だ」

 

 オオワシは、それきり沈愁する。彼は、火の手の薄いルートを見極めて、炎を躱し続けていた。しかし私は、それでも尚身体中が火照るのを感じる。鞄に入れていたお酒は、熱燗になっているだろう。カメラも危ういかもしれない。

 

「そろそろか」

 

 身につけていた旅装に回る火を振り払い、焼け落ちた鞄を脇目に、私たちは火中を切り抜けた。一気に開けた視界には、水平線の果てまで広がる石油の海が写る。

 

「地の底の底の底──」

 

 本来は一縷の光明すらない深部の筈だが、水平線から日の出のように明かりが差し込んでいた。恐らくはずっと遠くで、日のように燃えている炎だ。

 

「旧血の池地獄へようこそ、だな」

 

 

 

 

 

 私が着水した其処は、広大な海だった。見渡す限りの原油は、どれだけの埋蔵量を誇るか見当も付かない。河童や守矢神社の皆さんは、新時代のエネルギーとの触れ込みで核融合炉を研究していたが、そんな必要さえ無くなる程だ。

 

「まさか、地下にこれだけの化石燃料があるなんて皮肉だね。旧時代の資源は、向こう未来まで尽きせずありそうだ」

 

 あともう少し地の底まで掘れば、それだけで良かったのに。賢しくしようと難事に手を付けたせいで、却って明快な答えから離れてしまったのだ。良くある曲折である。

 

「あの神社の祭神は新しい物好きだからな。先進的というべきか。重要なのは旧時代の資源から手を引く事だと知っているのだろう」

「なんだよ、奇妙な話してんなぁ」

 

 億劫そうな様子で、寝起きのようにおっとりした少女が現れた。彼女は、私たちを咎めるように言う。

 

「この血はなー、私のご飯なんだぜ。勝手に燃やされちゃ困る。他人様の飯を燃料にしないでくれよな」

「そうなの? ごめんなさい」

 

 私は軽く謝罪した。しかし、彼女は特徴的な一本角を生やした頭を気怠げに掻きながら、大蛇のような尾をくねらせて口を尖らせる。

 

「う〜ん、取り敢えず、誰すか?」

「地上の人間、雲見明香です。天火人ちやりさんを探しに来ました」

「こりゃご丁寧に。面倒の臭いがしてきたな」

 

 げっそりした表情で、少女は溜め息を吐く。

 

「なんだ、随分と不機嫌だな。元よりそういう性分なのか?」

 

 オオワシが問うが、少女は肩を竦めてみせる。

 

「空から降ってきた畜生みたいな人間がよ、私を探しに来たって火傷だらけで言ってんだぜ。嫌な予感しかしない」

 

 少女改め天火人さんは、腰からぶら下げている注射器を手に取り、血を吸った。彼女にとっては、水筒のような道具扱いなのだろうか。血がご飯と聞くと、吸血鬼を思い出す。

 

「ならば、その予感は当てにならんな。この血の池地獄にやって来た新たな管理人を知っているか?」

「あ〜? あの饕餮尤魔とか言う奴の事か?」

「そうだ。近頃キナ臭いのは知っているだろう。地上を巡る抗争で剛欲同盟は同盟員を募集中だ。興味があるなら、顔を合わせてみないか?」

「ああ、おたくはアレか。残無の遣いか」

 

 オオワシは、表情を露骨に歪めて首を横に振る。

 

「いや、私は饕餮様の部下だ」

「どっちでも良いさ。その饕餮とやらに会わせてくれるんだろ? 残無から言われちゃいたが、行く当てがなかったからな。案内人を待ってたとこだ」

 

 最高に目立つ登場の仕方だったと、天火人さんは言う。

 

「流れ星みたいだったぜ。次いでに私の願いも叶えてくれよな」

「お互い、願ったり叶ったりだな」

 

 オオワシは、天火人さんと握手して笑顔を浮かべた。どちらかと言うと悪巧みしている悪人面の二人だが、実際その通りなので、さもありなん。

 

「さあ、世界で最も頼りになるお方の元へ行こう」

 

 天火人さんの手を引いて、オオワシは旧血の池地獄を駆けた。饕餮さんが何処にいるかは、彼にとっては自明の事であるようだ。私は周囲の光景を目に焼き付け、火傷と疲労で限界の身体に鞭打つ。

 

「直ぐ近くだ。少し辛抱せよ」

 

 忙しない駆け足に合わせて、ぴちゃぴちゃと血の池の油が飛び散る音がした。ピリピリするケミカルで強烈な香りが漂う。揮発した原油の匂いだ。

 

「泥んこ遊びを思い出すね」

 

 比較的軽質な原油なのだろうそれは、水気の多い泥のように私の足を染めた。そう言えば、饕餮さんも天火人さんもコレを食べた事があるのだったね。

 

「これ、美味しいの?」

「スイートだぞ。サラサラとして飲みやすく、口当たりも良い」

「でも、硫黄の匂いもしたよ。サワーじゃない?」

「そりゃあ、この量だぞ。含有率が僅かでも総量は大した事になる」

 

 天火人さんは詳しく教えてくれた。まるで原油ソムリエだ。饕餮さんとは、さぞや話が合うだろうなあ。

 

「饕餮さんも、これが好物らしいよ」

「へえ、そいつは趣味が良いな。馬が合いそうだ」

 

 天火人さんは、上機嫌になって足を弾ませた。やがて、オオワシは水平線に見知った人影を見出す。背丈程はある巨大スプーンで、原油を掘り起こして啜る饕餮さんだ。

 

「原油は、飲み過ぎたらダメなんだよね?」

「喰らったものを身に付けるかは饕餮様次第だ」

 

 オオワシは、誇らしげに大声をあげる。彼は、羽をパタパタと動かして嬉しそうに手を振っていた。まるで、主人に再会した飼い犬みたいだ。

 

「饕餮様、新しい同盟員を連れて来ましたぞ!」

 

 

 

 

 

「ども。よろしくっす」

 

 目を丸くして言葉に詰まった饕餮さんは、暫し硬直してから苦笑した。思わぬ来訪に、面食らってしまったのだろう。

 

「聞きたい事が山程あるが、良くやったぞオオワシ。仲間はいつでも歓迎だ」

「あざっす。人手不足なんすか?」

「剛欲を掲げているからな。底無しに人手不足さ。足るを知らぬって奴だ。明香も仲間になるなら歓迎するぞ?」

「私は地上に帰らないといけないので」

「なら、地上を支配した暁には剛欲同盟の地上支部で雇用しようか?」

 

 そうさせない為に私が来た。そう知れば饕餮さんは、動じずに全てを飲み込むのだろうな。そんな風に、私は彼女の事を理解し始めていた。ともあれ、これで私たちの旅路は一区切りが付く。家に帰って緑茶でも啜りたい気分だけれど、その前にお風呂に──いや、永遠亭が先かな?

 

「饕餮様、私は明香を地上まで」

「送れるか? 見たところ限界そうだぞ。灼熱地獄跡を越えられるようには見えん」

「それは私が請け負おう」

「これはこれは──」

 

 饕餮さんが、不敵な笑みを浮かべて手を叩く。私は、背後から聞こえてきた声に振り向こうとした。しかし、死角から私を捕まえて離さないそれは、頬擦りするように顔を近付けてくる。その端正な顔立ちには覚えがあった。

 

「摩多羅隠岐奈殿」

 

 しかし、摩多羅様は饕餮さんを無視して、私の火傷に指を這わして弄ぶ。肌を這うそれに堪らず呻き声をあげると、彼女は態とらしく手を放した。

 

「おっと、すまん。障碍を乗り越え身に刻まれたその瑕疵は、ある種の聖痕だからな。つい、触れてしまった。なんなら、障碍の神でもある私が、祝福をくれてやろうか?」

「ほう、お前に祝福されるとどうなるのだ?」

 

 オオワシの問いかけに、摩多羅様は自慢げに胸を張って答えた。

 

「当然、障碍に恵まれるぞ」

「ご遠慮致します」

「ははは、振られてしまったな」

 

 ともあれ、摩多羅様は後戸の国を介して私を地上へ帰すつもりらしい。彼女は喜色満面の笑みだ。こんなにも感情豊かな人だっただろうか?

 

「随分と上機嫌だな摩多羅殿。何か良い事でもあったのか?」

 

 饕餮さんは訝しむが、摩多羅様は笑みを湛えたまま黙して語らない。仕方ないと、饕餮さんは追及をやんわりと諦めた。

 

「さあ、帰ろうか雲見明香」

「オオワシも一緒に。彼も、火傷を見てもらわないと」

「饕餮、構わんか?」

「ああ、私は新入りと話があるからな。オオワシも静養しておけ。剛欲も時には休まる」

 

 饕餮さんからお休みを貰えたオオワシは、目を点にした。そんなに驚く様な事……なのだね。

 

「静養? 休まる? 剛欲が?」

 

 壊れたラジオみたいに飛び飛びに単語を吐き出すのみになってしまったオオワシ。それを見て天火人さんは眉を顰めた。

 

「もしかして、与する相手間違えました?」

「お前は何も間違えていない。さあ、先ずは剛欲同盟について教えてやろう。それから、雇用の契約書も用意しないとな。朱肉と判子はあるか? 血判でも構わんぞ」

「あ、結構しっかりしてるんすね」

「組織を成立させるのに便利なやり方だからな。自ずから誓わせ、契約の元で協働させる。そうして、自分達が組織の名を背負っている事を意識させるのさ。だが──」

 

 饕餮さんは、皺くちゃでペラペラの用紙を取り出して天火人さんに手渡す。彼女は、受け取ったそれを目にして物臭に頭を掻いた。しかし、饕餮さんは石油をインクがわりにしたペンを彼女に突き付ける。

 

「私達は組織の元に集うんじゃない。組織に尽くすでも、組織に囲われるでもない。私は、私が良いと思った生き方に名付けて掲げ、共に同じ様に生きないかと畜生達に問う」

 

 ペンを受け取り、契約書に目を通して天火人さんは沈黙する。饕餮さんは、その胸を張って旨を伝えた。

 

「私は、大局的に物を見る。目先の利害に囚われず万物を俯瞰して観察し、最小の労力で最大の利益を得る。争いを避けて敵を作らず、相応の相手には敬意と警戒を持って手を結び、渦中から離れて漁夫の利を得る。他人の指示や意見に頼らずとも、自分の頭で考えて最適な行動を取る。そんな生き方に、私は名前を付けた」

 

 沈黙を守る天火人さんに向けて、饕餮さんは手を差し伸べる。

 

 

「私は()()()()()()()()()だ。お前はどうする?」

 

 

 顔を上げた天火人さんは、笑顔で答えた。

 

「良いっすね。私も、面倒や争いはゴメンで、他人から指図されるのも鬱陶しい。できるなら、美味いもんだけ食っていたいっす」

「その剛欲──気に入った」

 

 

 

 

 

 手を振り、饕餮さん達に別れの挨拶をしてから後戸に足を踏み入れた。摩多羅様は、暗闇の中で私を手招きしている。五次元立方体格子もかくやという異次元には、幻想郷の各所へと通じるゲートが遍在していた。私の家の戸はどれだろうか?

 

「雲見明香、お前は合格だ」

 

 摩多羅様は、気さくな笑顔を浮かべて私の肩を叩いた。彼女は、私の旅路を後戸から見ていたと語る。紫さんに、私を監視するよう頼まれていたらしい。

 

「八雲紫にとっては、全てが再評価の対象だ。評価の結果は流動的で、常に移ろう。例え信用し重用していたものであっても、時には疑いの目を向けて排除する」

 

 私の翼に目をやって、摩多羅様は口を開く。

 

「紫は、お前とその動物霊のオオワシが真に友だと悟った。故に、お前を疑ったのだ。ともすれば、畜生達の仲間ではないかと。何せお前は、饕餮にまで顔が効くからな」

「疑いは晴れたのかな?」

「一点の曇りもなく。お前は指示通り残無を訪ねて、その真意を知った。その上で、平和の為の陰謀が破れぬように、その身を焼いてまで旧血の池地獄に堕ちた。紫には既に知らせてある」

 

 私の手を握り、摩多羅様は早足で異次元を渡り歩く。虚無の空間の中で、神さびた後戸が万華鏡の模様のように堆積し、回転しながら捻くれていくのが見えた。これは、あらゆる地点への接続先を一箇所に集めた事によって発生した、空間の歪みだ。

 二次元の地図に記した複数地点を繋げる為に、地図そのものを折り紙の様に畳んだり重ね合わせて皺くちゃにした状態の、三次元版である。

 

「でも、どうして紫さんじゃなくて摩多羅様が私の監視を?」

「紫の奴は冬眠の時期だからな。滅多な事では布団から出てこない。私が抜擢されたのは、奴に借りがあるからだ」

「借り?」

「少し前、地上に石油が漏れ出した事があっただろう?」

「ありましたね。至る所で騒ぎになってましたよ。山の河童達とか、かなり怒ってましたけど」

「アレは私の仕業だ。それで、紫を少し怒らせてしまった」

「あー……それは……なるほど」

 

 幻想郷を石油塗れにされた紫さんの心中や如何に。とは言え、摩多羅様の真意は幻想郷の為であったらしい。結果として、やり切れない行き場を失った紫さんの思いが、彼女個人に降りかかったのだろう。

 

「ともあれ、お前は責務を果たした」

 

 摩多羅様は、立ち止まって見知らぬ襖を指差す。

 

「今は、ゆっくり休むといい」

 

 

 

 

 

 私は、永遠亭の病室で横になっていた。鈴仙さんは、もはや呆れ顔で入院患者の私と接している。一度目は原因不明の意識障害。二度目は由来不明のウイルス感染。そして今回は、成因不明の熱傷だ。彼女は、両手を上げて匙を投げた。

 

「明香って、ミステリアスね。どうやったら、地獄の業火に焼かれる目に遭うの?」

「地獄に堕ちたので」

「死んでんじゃん」

「生きたまま」

「マジ謎だわー」

 

 火傷は全身の広範囲に渡っていたが、オオワシのお陰でその程度は軽いものだった。その為、入院の理由は熱傷ではない。

 

「師匠が気にしたのは、熱傷の程度ではなくてその成因よ。地獄の業火は、あらゆる穢れを含んだ生命の炎。果たしてその熱傷は尋常なものなのか謎だったけれど……」

「大事なかったね。だから言ったでしょ。地獄の業火は怨念渦巻く呪われた血を糧にしていた。だから寧ろ、私たちには良く馴染むんだよ」

 

 オオワシは、貧弱な私とは違って頑強そのもので、確固たる肉体を持たないが故に物理的な障碍に強かった。彼は私よりも一足早く退院して、休日を持て余して幻想郷をぶらぶらと飛び回っている。

 

「で、今日は八雲紫が見舞いに来るんだって? 私、あの妖怪は苦手なのよね。気味が悪くって」

「あらあら、それはありがとう」

 

 噂をすれば影である。紫さんが病室の扉を開けて入室して来た。彼女は鈴仙さんに会釈して微笑みかける。

 

「妖怪冥利に尽きますわ。存分に気味悪がってくださいませ」

「紫さんって、さとりさんに似てますよね」

「へえ? どんな所が?」

「自信家で、身の回りの世界と家族を愛していて、他を顧みない強固な自己がある所が」

 

 紫さんは、笑顔を浮かべたまま私の言葉を受け流し、病床の側に椅子を用意して腰掛けた。やがて、彼女はスキマから徐に酒瓶を取り出す。

 

「ちょっと、病室で飲酒は──」

 

 鈴仙さんは咎めたが、彼女はその酒瓶を注視して言葉を詰まらせる。それは、ドロリと溶けて不恰好な飴細工のように奇天烈な形になった、地底の酒瓶だった。私が旧地獄街道の酒屋で手に入れたものだ。

 

「面白い形よね。閉じた金魚鉢みたい。或いはスノードームかしら?」

 

 もはや、明らかに内部の酒を取り出せそうにないオブジェクトである。灼熱地獄跡ですっかり溶け出して、固まってしまったのだろう。鞄が焼け落ちてカメラ毎紛失したと思っていたのだけれど。

 

「お土産か、記念品にでもなるかしら? お家にでも飾っておけば箔がつくでしょう」

「カメラは?」

 

 またもや、紫さんは無言で私の言葉を受け流した。まあ、答えは言わずもがなだからね。

 

「畜生界の大物達や残無が、博麗神社で宴会をしているの」

「異変になったんですね」

「いえ、霊夢が機転を効かせたわ。どうやら、残無の思い通りにはいかなかったみたいよ」

 

 霊夢さんは、残無さんの掌の上からも飛んだのか。改めて、博麗霊夢という存在の異質さを思い知らされる。彼女は、本当に不思議な人だ。

 

「ともあれ、残無の計画以上に、幻想郷にとって良い方に事態は転がった。勿論、明香やオオワシの尽力にも感謝してるわ」

「それは──どういたしまして?」

「もっと胸を張りなさいな。貴女が元気なら、一緒に宴会で乾杯したいぐらいの気分よ。退院したら教えて頂戴。素敵な居酒屋を知ってるの。地底にあるのだけれど、さとりに話を通せば問題ないわ」

「なら、さとりさんも呼びましょう。彼女も、この一件の顛末を知りたがっていました。それに、地上が如何にして救われたかも」

 

 紫さんは、意外そうな表情をして言葉を詰まらせる。けれど、彼女は頷いて同意してくれた。するうち、鈴仙さんから入院期間を聞き出した彼女は、頬杖を突いて私の名を呼ぶ。

 

「明香」

 

 少しの間を開けて、変哲のない言葉が届いた。

 

 

「ありがとう」

 

 

 紫さんは、博識で舌も回る。美辞麗句や、飾り立てた劇的な言葉も、いくらだって吐ける筈なのだ。なのに彼女は、童でも当然のように口に出来る、身近で素朴な言葉を選んだ。ならば私も、それに倣おう。

 

 

「どういたしまして」

 

 

 胸を張って、私は確と答えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

fin. 2023/12/25




またもや完結しました。
もはや一体、何度目の完結なのか……。

今回は本当に、明香に引っ張られたお話でした。本当に彼女は止まりません。後は獣王園のBGMですね。霊夢のテーマ曲の「世界は可愛く出来ている」について山のように思う所がありますが、一先ず黙しておかねば早口オタクトークになってしまうので沈黙を守ります。

また、いつか何処かでお会いしましょう。


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